中国・戦略的互恵関係

戦略的互恵関係復交三原則共同声明1972条約1972友好宣言1988
黒字倒産しそうな中国ノーベル平和賞互恵関係の終焉中国人「大げさ」なものを言い中国人「自己中心」中日関係と相互理解中国から見た日本中国政治の統治文化共産党4世代指導者毛沢東情結 と北京情結中国対外経済政策江沢民と胡錦濤中国の光と影中日の政治文化 と国際戦略習時代の日中関係島嶼化する日本・・・
尖閣諸島・・・
 

雑学の世界・補考   

「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明

胡錦濤中華人民共和国主席は、日本国政府の招待に応じ、2008年5月6日から10日まで国賓として日本国を公式訪問した。胡錦濤主席は、日本国滞在中、天皇陛下と会見した。また、福田康夫内閣総理大臣と会談を行い、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関し、多くの共通認識に達し、以下のとおり共同声明を発出した。
1.双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであり、今や日中両国が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っているとの認識で一致した。また、双方は、長期にわたる平和及び友好のための協力が日中両国にとって唯一の選択であるとの認識で一致した。双方は、「戦略的互恵関係」を包括的に推進し、また、日中両国の平和共存、世代友好、互恵協力、共同発展という崇高な目標を実現していくことを決意した。
2.双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明、1978年8月12日に署名された日中平和友好条約及び1998年11月26日に発表された日中共同宣言が、日中関係を安定的に発展させ、未来を切り開く政治的基礎であることを改めて表明し、三つの文書の諸原則を引き続き遵守することを確認した。また、双方は、2006年10月8日及び2007年4月11日の日中共同プレス発表にある共通認識を引き続き堅持し、全面的に実施することを確認した。
3.双方は、歴史を直視し、未来に向かい、日中「戦略的互恵関係」の新たな局面を絶えず切り開くことを決意し、将来にわたり、絶えず相互理解を深め、相互信頼を築き、互恵協力を拡大しつつ、日中関係を世界の潮流に沿って方向付け、アジア太平洋及び世界の良き未来を共に創り上げていくことを宣言した。
4.双方は、互いに協力のパートナーであり、互いに脅威とならないことを確認した。双方は、互いの平和的な発展を支持することを改めて表明し、平和的な発展を堅持する日本と中国が、アジアや世界に大きなチャンスと利益をもたらすとの確信を共有した。
(1)日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。
(2)中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した。双方は、国際連合改革問題について対話と意思疎通を強化し、共通認識を増やすべく努力することで一致した。中国側は、日本の国際連合における地位と役割を重視し、日本が国際社会で一層大きな建設的役割を果たすことを望んでいる。
(3)双方は、協議及び交渉を通じて、両国間の問題を解決していくことを表明した。
5.台湾問題に関し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を引き続き堅持する旨改めて表明した。
6.双方は、以下の五つの柱に沿って、対話と協力の枠組みを構築しつつ、協力していくことを決意した。
(1)政治的相互信頼の増進
双方は、政治及び安全保障分野における相互信頼を増進することが日中「戦略的互恵関係」構築に対し重要な意義を有することを確認するとともに、以下を決定した。
両国首脳の定期的相互訪問のメカニズムを構築し、原則として、毎年どちらか一方の首脳が他方の国を訪問することとし、国際会議の場も含め首脳会談を頻繁に行い、政府、議会及び政党間の交流並びに戦略的な対話のメカニズムを強化し、二国間関係、それぞれの国の国内外の政策及び国際情勢についての意思疎通を強化し、その政策の透明性の向上に努める。
安全保障分野におけるハイレベル相互訪問を強化し、様々な対話及び交流を促進し、相互理解と信頼関係を一層強化していく。
国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力するとともに、長い交流の中で互いに培い、共有してきた文化について改めて理解を深める。
(2)人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進
双方は、両国民、特に青少年の間の相互理解及び友好感情を絶えず増進することが、日中両国の世々代々にわたる友好と協力の基礎の強化に資することを確認するとともに、以下を決定した。
両国のメディア、友好都市、スポーツ、民間団体の間の交流を幅広く展開し、多種多様な文化交流及び知的交流を実施していく。
青少年交流を継続的に実施する。
(3)互恵協力の強化
双方は、世界経済に重要な影響力を有する日中両国が、世界経済の持続的成長に貢献していくため、以下のような協力に特に取り組んでいくことを決定した。
エネルギー、環境分野における協力が、我々の子孫と国際社会に対する責務であるとの認識に基づき、この分野で特に重点的に協力を行っていく。
貿易、投資、情報通信技術、金融、食品・製品の安全、知的財産権保護、ビジネス環境、農林水産業、交通運輸・観光、水、医療等の幅広い分野での互恵協力を進め、共通利益を拡大していく。
日中ハイレベル経済対話を戦略的かつ実効的に活用していく。
共に努力して、東シナ海を平和・協力・友好の海とする。
(4)アジア太平洋への貢献
双方は、日中両国がアジア太平洋の重要な国として、この地域の諸問題において、緊密な意思疎通を維持し、協調と協力を強化していくことで一致するとともに、以下のような協力を重点的に展開することを決定した。
北東アジア地域の平和と安定の維持のために共に力を尽くし、六者会合のプロセスを共に推進する。また、双方は、日朝国交正常化が北東アジア地域の平和と安定にとって重要な意義を有しているとの認識を共有した。中国側は、日朝が諸懸案を解決し国交正常化を実現することを歓迎し、支持する。
開放性、透明性、包含性の三つの原則に基づき東アジアの地域協力を推進し、アジアの平和、繁栄、安定、開放の実現を共に推進する。
(5)グローバルな課題への貢献
双方は、日中両国が、21世紀の世界の平和と発展に対し、より大きな責任を担っており、重要な国際問題において協調を強化し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築を共に推進していくことで一致するとともに、以下のような協力に取り組んでいくことを決定した。
「気候変動に関する国際連合枠組条約」の枠組みの下で、「共通に有しているが差異のある責任及び各国の能力」原則に基づき、バリ行動計画に基づき2013年以降の実効的な気候変動の国際枠組みの構築に積極的に参加する。
エネルギー安全保障、環境保護、貧困や感染症等のグローバルな問題は、双方が直面する共通の挑戦であり、双方は、戦略的に有効な協力を展開し、上述の問題の解決を推進するために然るべき貢献を共に行う。
日本国内閣総理大臣/福田康夫  中華人民共和国主席/胡錦濤  2008年5月7日東京  
戦略的互恵関係 (外務省説明)
「日中両国がアジア及び世界に対して厳粛な責任を負うとの認識の下、アジア及び世界に共に貢献する中で、お互い利益を得て共通利益を拡大し、日中関係を発展させること」である。具体例として以下の点が、「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明の中で示されている。
1.政治的相互信頼の増進
2.人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進
3.互恵協力の強化
4.アジア太平洋への貢献
5.グローバルな課題への貢献  
戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明
08年5月7日、胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席(洪沢民国家主席〔当時〕以来10年ぶりの来日)と福田首相との首脳会談で合意した共同文書「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が出された。同声明は、未来志向の表現が目立つ、今後の日中関係の基本原則を示している。反面、個別問題で踏み込んだ表現を避けてはいる。
72年の国交正常化以降、日中間で合意した一連の文書で国家主席と日本の首相が署名したのは初めて。
「共同声明」の骨格は、06年10月に安倍前首相が訪中した際に首脳会談で合意した日中双方の利益の拡大を目指す「戦略的互恵関係という考え方を押し広げた内容。
今回の事前協議では文書作りの際には中国側から必ずと言ってよいほど提起されてきたテーマだった日中関係の歴史問題はほとんど議題にのぼらなかったばかりか、文書では「歴史を直視し、未来に向かい」との表現が使われた。
また、両国関係を確認する項目で、中国側が「平和的手段で世界の平和と安定に貢献していることを積極的に評価した」と表現し、戦後日本の平和国家の歩みを積極的にとらえた内容が盛り込まれた。これも06年の共同プレス発表にもあったが、さらに評価する表現を加えられた。
一方、中国側の「核心的利益」である台湾問題については従来通りの日中共同声明での立場を引き続き堅持するとの表現となっている。
今回新たに登場した「国際社会がともに認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」という表現は、チベット問題を念頭に人権などへの配慮に間接的に言及したもので、「チベット」や「人権」という文言こそないが、責任を負うようになった日中にとって、重要な内容だと強調している。  
戦略的互恵関係 (2010/10/05)
日中両国が社会体制や価値観などの相違を乗り越え、地域の安全保障や経済、環境、エネルギーなど幅広い分野で共通の利益を目指す考え方。2006年10月、当時の安倍晋三首相が小泉純一郎元首相の靖国神社参拝で冷え込んだ両国関係を立て直すため、就任後初の外遊先に中国を選び、胡錦濤国家主席との首脳会談で合意した。
昨年の政権交代後も民主党政権に引き継がれ、菅直人首相は1日の所信表明演説で「大局的観点から戦略的互恵関係を深める努力が不可欠」と強調した。  
 
復交三原則

(1972年4月13日「民社党訪中代表団と中日友好協会代表団との共同声明」より)
民社党側は次のように声明した。1日もはやく両国間の戦争状態を終結させ、平和条約を締結し、国交を回復するためには、まずつぎの基本的原則を認めなければならない。
1 世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」など荒唐無稽な主張に断固反対する。
2 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。「台湾地位未定」論と「台湾独立」を画策する陰謀に断固反対する。
3 「日台条約」は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。
双方は、上記の諸原則は中日国交回復の前提であり、断固として貫徹しなければばらないと認めた。  
 
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)

日本国内閣総理大臣田中角榮は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。
毛沢東主席は、9月27日に田中角榮総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。
田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終止、友好的な雰囲気の中で真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。
日中両国は、一衣帯水(いちいたいすい〔「衣帯」は帯の意〕一筋の帯のように狭い川。また、海や川によって隔てられているが、近いこと))の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな1ページを開くこととなろう。
日本側は、過去において日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。
1 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
2 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
3 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基く立場を堅持する。
4 日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務の遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
5 中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
6 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
7 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
8 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
9 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業などの事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
日本国内閣総理大臣/田中角榮 日本国外務大臣/大平正芳
中華人民共和国国務院総理/周恩来 中華人民共和国外交部長/姫鵬飛
1972年9月29日北京   
 
日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(日中平和友好条約)

日本国と中華人民共和国は、1972年9月29日に北京で日本国政府及び中華人民共和国政府が共同声明を発出して以来、両国政府及び両国民の間の友好関係が新しい基礎の上に大きな発展を遂げていることを満足の意をもつて回顧し、前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、国際連合憲章の原則が十分に遵守されるべきことを確認し、アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。
日本国外務大臣/園田 直
中華人民共和国外交部長/黄 華
これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。
第1条
1 両締約国は、日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第2条
両締約国は、いずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇(は)権を求めるべきではなく、また、このような覇(は)権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第3条
両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第4条
1 この条約は、批准されるものとし、東京で行われる批准書交換の日に効力を生ずる。この条約は、10年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによって終了するまで効力を存続する。
2 いずれの一方の締約国も、1年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の10年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。
以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。19778年8月12日に北京で、ひとしく正文である日本語及び中国語により本書2通を作成した。
日本国のために 園田 直   中華人民共和国のために 黄 華  
 
平和と発展のための友好協力パートナーシップ構築に関する日中共同宣言

日本国政府の招待に応じ、江沢民中華人民共和国主席は、1998年11月25日から30日まで国賓として(中国国家主席として初めて)日本国を公式訪問した。江沢民主席は、天皇陛下と会見するとともに、1988年11月26午後、小渕恵三首相と東京・元赤坂の迎賓館で首脳会談を行い、歴史認識など過去の日中関係を総括するとともに21世紀へ向けた未来志向の友好協力関係を目指す「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を発表した。
焦点の歴史認識では、日中間の外交文書の中で初めて日中戦争を日本による「侵略」と認めた上で、日本側の「深い反省」を明記したが、中国側が強く求めていた「おわび」については首相が口頭で主席に表明したにとどまった。
また台湾問題では、「台湾は中国の一部とする中国政府の主張を理解し尊重する」とした日中共同声明(1972年)の立場をあらためて確認した。さらに両首脳は、政治、経済、貿易・投資、環境など広範な分野に及ぶ協力項目の推進で合意。共同宣言を肉付けする行動計画として発表した。 宣言全文は以下の通り 
1 双方は、冷戦終了後、世界が新たな国際秩序形成に向けて大きな変化を遂げつつある中で、経済の一層のグローバル化に伴い、相互依存関係は深化し、また安全保障に関する対話と協力も絶えず進展しているとの認識で一致した。平和と発展は依然として人類社会が直面する主要な課題である。公正で合理的な国際政治・経済の新たな秩序を構築し、21世紀における一層揺るぎのない平和な国際環境を追求することは、国際社会共通の願いである。
双方は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵、平和共存の諸原則並びに国際連合憲章の原則が、国家間の関係を処理する基本準則であることを確認した。
双方は、国際連合が世界の平和を守り、世界の経済及び社会の発展を促していく上で払っている努力を積極的に評価し、国際連合が国際新秩序を構築し維持する上で重要な役割を果たすべきであると考える。双方は、国際連合が、その活動及び政策決定プロセスにおいて全加盟国の共通の願望と全体の意思をよりよく体現するために、安全保障理事会を含めた改革を行うことに賛成する。
双方は、核兵器の究極的廃絶を主張し、いかなる形の核兵器の拡散にも反対する。また、アジア地域及び世界の平和と安定に資するよう、関係国に一切の核実験と核軍備競争の停止を強く呼びかける。
双方は、日中両国がアジア地域及び世界に影響力を有する国家として、平和を守り、発展を促していく上で重要な責任を負っていると考える。双方は、日中両国が国際政治・経済、地球規模の問題等の分野における協調と協力を強化し、世界の平和と発展ひいては人類の進歩という事業のために積極的な貢献を行っていく。
2 双方は、冷戦後、アジア地域の情勢は引き続き安定の方向に向かっており、域内の協力も一層深まっていると考える。そして、双方は、この地域が国際政治・経済及び安全保障に対して及ぼす影響力は更に拡大し、来世紀においても引き続き重要な役割を果たすであろうと確信する。
双方は、この地域の平和を維持し、発展を促進することが、両国の揺るぎない基本方針であること、また、アジア地域における覇権はこれを求めることなく、武力又は武力による威嚇に訴えず、すべての紛争は平和的手段により解決すべきであることを改めて表明した。
双方は、現在の東アジア金融危機及びそれがアジア経済にもたらした困難に対して大きな関心を表明した。同時に、双方は、この地域の経済の基礎は強固なものであると認識しており、経験を踏まえた合理的な調整と改革の推進並びに域内及び国際的な協調と協力の強化を通じて、アジア経済は必ずや困難を克服し、引き続き発展できるものと確信する。双方は、積極的な姿勢で直面する各種の挑戦に立ち向かい、この地域の経済発展を促すためそれぞれできる限りの努力を行うことで一致した。
双方は、アジア太平洋地域の主要国間の安定的な関係は、この地域の平和と安定に極めて重要であると考える。双方は、ASEAN地域フォーラム等のこの地域におけるあらゆる多国間の活動に積極的に参画し、かつ協調と協力を進め、理解の増進と信頼の強化に努めるすべての措置を支持することで意見の一致をみた。
3 双方は、日中国交正常化以来の両国関係を回顧し、政治、経済、文化、人の往来等の各分野で目を見張るほどの発展を遂げたことに満足の意を表明した。また、双方は、目下の情勢において、両国間の協力の重要性は一層増していること、及び両国間の友好協力を更に強固にし発展させることは、両国国民の根本的な利益に合致するのみならず、アジア太平洋地域ひいては世界の平和と発展にとって積極的に貢献するものであることにつき認識の一致をみた。双方は、日中関係が両国のいずれにとっても最も重要な二国間関係の一つであることを確認するとともに、平和と発展のための両国の役割と責任を深く認識し、21世紀に向け、平和と発展のための友好協力パートナーシップの確立を宣言した。
双方は、1972年9月29日に発表された日中共同声明及び1978年8月12日に署名された日中平和友好条約の諸原則を遵守することを改めて表明し、上記の文書は今後とも両国関係の最も重要な基礎であることを確認した。
双方は、日中両国は二千年余りにわたる友好交流の歴史と共通の文化的背景を有しており、このような友好の伝統を受け継ぎ、更なる互恵協力を発展させることが両国国民の共通の願いであるとの認識で一致した。
双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。
双方は、両国間の人的往来を強化することが、相互理解の増進及び相互信頼の強化に極めて重要であるとの認識で一致した。
双方は、毎年いずれか一方の国の指導者が相手国を訪問すること、東京と北京に両政府間のホットラインを設置すること、また、両国の各層、特に両国の未来の発展という重責を担う青少年の間における交流を、更に強化していくことを確認した。
双方は、平等互恵の基礎の上に立って、長期安定的な経済貿易協力関係を打ち立て、ハイテク、情報、環境保護、農業、インフラ等の分野での協力を更に拡大することで意見の一致をみた。日本側は、安定し開放され発展する中国はアジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対し重要な意義を有しており、引き続き中国の経済開発に対し協力と支援を行っていくとの方針を改めて表明した。中国側は、日本がこれまで中国に対して行ってきた経済協力に感謝の意を表明した。日本側は、中国がWTOへの早期加盟実現に向けて払っている努力を引き続き支持していくことを重ねて表明した。
双方は、両国の安全保障対話が相互理解の増進に有益な役割を果たしていることを積極的に評価し、この対話メカニズムを更に強化することにつき意見の一致をみた。
日本側は、日本が日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明する。日本は、引き続き台湾と民間及び地域的な往来を維持する。
双方は、日中共同声明及び日中平和友好条約の諸原則に基づき、また、小異を残し大同に就くとの精神に則り、共通の利益を最大限に拡大し、相違点を縮小するとともに、友好的な協議を通じて、両国間に存在する、そして今後出現するかもしれない問題、意見の相違、争いを適切に処理し、もって両国の友好関係の発展が妨げられ、阻害されることを回避していくことで意見の一致をみた。
双方は、両国が平和と発展のための友好協力パートナーシップを確立することにより、両国関係は新たな発展の段階に入ると考える。そのためには、両政府のみならず、両国国民の広範な参加とたゆまぬ努力が必要である。双方は、両国国民が、共に手を携えて、この宣言に示された精神を余すところなく発揮していけば、両国国民の世々代々にわたる友好に資するのみならず、アジア太平洋地域及び世界の平和と発展に対しても必ずや重要な貢献を行うであろうと固く信じる。  
 
黒字倒産しそうな中国

 

相変わらず「中国経済バラ色」論をふりまく人たちがいる。これも無理はない。公式に発表される数字は、どれも目を剥くようなものばかりである。
中国紙「中国経済時報」によると、中国・国家外貨管理局幹部は、中国の外貨準備高が9月中に1兆ドルを超えるとの見通しを示した(ちなみに、日本の8月末の外貨準備高は8,787億ドル)。
また、同局幹部は、2006年の貿易黒字が1,200億ドル超となる見通しも併せて示している(前年の貿易黒字は、1,019億ドル)。
つまり、外貨準備高、貿易黒字とも依然として高い伸びを示しており、いずれもダントツの世界一であるということだ。
経済成長も高い水準を持続している。
アジア開発銀行(ADB)が6日に北京で発表した改訂版「2006年アジア発展展望」では、投資と輸出の急増によって、今年の中国の経済成長は10.4%に達すると指摘されている。
これらの数字を見れば、中国・国家統計局の邱暁華局長が北京大学の学生たちを前にして「2010年までに中国のGDPは、おそらくドイツに追いつくだろう」「15年後の2021年には、おおむね日本に追いつく」などと豪語するのもうなづける。
が、邱局長は聴衆である学生たちに対して、「中国経済は急速に発展する条件を備えている。皆さんは、経済の前途を信じなければならない」と強調する一方で、「経済発展のマイナス要因になるものは資源と環境だ」とし、「中国は多くの重要な資源がない国だ。資源問題はこれまで以上に中国経済にとって大きな制約になる」とも述べている。
つまり中共幹部も、「中国経済バラ色」論をふりまきながら、本音の部分では資源的制約と環境的制約が中国経済の足枷になっていることを認めているわけだ。
中国の環境がいかにひどい状況にあるかは、中国食品薬品監督管理局の内部資料がその一端を明らかにしている。中国全土の河川の6割が水銀など危険な重金属や農薬で汚染され、こうした水質悪化が疾病の8割、さらには病死の3割に関係していたと指摘。汚染危険地域は、中国経済を牽引する@北京、天津などの環渤海湾地域、A上海、南京などの長江デルタ地域、B広州、深圳などの珠江デルタ地域−の三大工業地帯に集中し、汚染面積は2,000km2に及んでいるという。
これは、ほぼ東京都の面積に匹敵する。
大気汚染や砂漠化も深刻である。
中国・国家環境保護総局によると、中国では都市住民のおよそ3分の1が汚染度2級以上の都市で、1億1,600万人が汚染度3級の都市で生活しているとされる。汚染度2級は「人の健康に悪影響を及ぼす程度」、3級は「非常に危険な程度」。
世界銀行では「中国では年間約40万人が、肺炎や心臓病など大気汚染が原因とされる疾病にかかり死亡している」との報告を行っている。
国土の砂漠化も深刻で、中国全土のおよそ28%が既に砂漠化しており、それは北京近郊にまで押し寄せている。大都市近郊まで砂漠化が進んでいるということは、飲料水の確保さえ難しいということだ。
昨年9月には、中国共産党政治局員も兼任する張徳江・広東省党委員会書記が、次のように嘆いている。
「広東省は中国の経済改革の先駆的存在であり、急激な経済成長などの奇跡を達成したと思われているが、実際の広東省の運営は綱渡りの状態だ」 「急激な経済開発に伴い、耕作可能な土地が減少し、水質や大気の汚染が極度に悪化。飲食物の安全を確保できない状態だ」 まさに危機感を露わにした発言である。
ちなみに、広東省の中核は、上海と並んで「中国経済の双頭の龍」と言われる珠江デルタ地域そのものである。
環境問題と並んで資源問題も深刻である。
中国は、既に米国に次いで世界第2位の石油消費国である。国内総生産(GDP)は米国の約15%、日本の約38%に過ぎないのに、この状況なのである。しかも、エネルギー消費の約6割を石炭が占めているにもかかわらず、膨大な量の石油を必要としている。
なぜか?その理由を、今月初頭に中国を訪れた御手洗冨士夫・日本経団連会長らの日中経済協会訪中代表団が明らかにしている。代表団の一員である今井敬・特別顧問(新日鉄名誉会長)は、独自に調べた資料に基づき、中国の国内総生産(GDP)ベースの一次エネルギー消費は日本の約8倍に達していることを明らかにした。そして、これは中国の発展の制約要因となると警告を発した。 つまり、中国の経済成長は、資源の大量浪費と背中合わせなのである。だから、「資源パラノイア(偏執狂)」と揶揄されても、石油を始めとする世界中の資源を買い漁らざるをえない。
深刻な環境問題と資源問題、この二つが中国経済が成長を続ける上での桎梏になりつつあることは、中共当局も解っている。だから、今年からスタートした「第11次5か年計画」では、@エネルギーの消費効率を改善する、Aリサイクル経済を発展させる、B環境問題を解決する、の3点を、農民・農村問題や格差問題の解消とともに重点目標として掲げている。 が、現実は一向に改善されない。
中央政府が何と言おうと、中共トップがどういう方針を出そうと、既に現場は「カネが第一」、「儲かりさえすればよい」という思想に骨の髄まで侵されているからだ。
環境保護や省エネなど、金儲けにとっては障害物でしかない。第一、国有企業の大半は赤字で、そんな余裕はどこにもない。それが中国の現実なのだ。
だから、張徳江・広東省党委員会書記のような「嘆き節」が聞こえてくる。
実は、世界一の外貨準備高、世界一の貿易黒字も、一皮むけば中国経済のいびつな姿の象徴でしかない。
外貨準備高の急増は、輸出がしにくくなる「元高ドル安」の進行を防ぐため、外国為替市場(上海)で中国当局が「元売りドル買い」の為替介入を繰り返した結果である。
その結果、市場に大量の人民元が放出される。このあふれる人民元が過剰流動性を生み出し、バブルに繋がっているのだ。
貿易黒字も、この中国当局による為替操作の恩恵という側面が強い。が、経済の実勢を反映しない為替相場は、世界中からバッシングを受けている。
この状況を変えるには、輸出牽引型から内需主導型に経済構造を転換しなければならない。中国人民銀行(中央銀行)の総裁も「貿易黒字縮小のため内需拡大を急ぐ必要がある」と指摘している。が、そんなにうまく行くはずがない。
内需を拡大するには、まず一般国民の所得を向上させ、中間層の比率を高めなければならない。ところが、中国の魅力は、何といっても「安い人件費」なのだ。
中国経済は、一言で言えば「外資依存型経済」である。中国の貿易総額はGDP(国内総生産)の約70%を占め、そのうち外資系企業が輸出の約60%を担っている。
そして、この外資系輸出企業にとって、中国の生産コストの安さが最大の魅力なのである。しかも、そのような外資系企業は労働集約型の産業が多い。
もし、内需を拡大させるために大幅な賃上げを行うような事態になれば、外資系輸出企業は一気に中国を逃げ出す。その結果、輸出は減り、貿易黒字も縮小するかもしれないが、それ以上に失業者が発生し、内需も拡大しない。
中国の公式統計では、金融機関が抱える不良債権額は今年3月末時点で1兆3,100億元(約1,640億ドル)、不良債権比率は8%(中国銀行業監督管理委員会)。
ところが、英Financial Timesによると、世界4大会計事務所のひとつ、アーンスト・アンド・ヤング(E&Y)は、5月に発表した「世界の不良債権(NPL)に関するリポート」の中で「中国の不良債権は控えめに見積もっても9,000億ドル以上で外貨準備を上回る規模」との見込みを示した。
実に公式統計の5.5倍。不良債権比率は40%を超えることになる。
このような状況下では、輸出企業に打撃を与えるような人民元の大幅な切り上げも、内需拡大のための大幅な賃上げもできない。
輸出と経済成長が現体制の命綱である限り、経済成長に即効的な効果が見込めない環境保護や省エネに巨額の投資を行うことはできない。なにより、「カネが第一」、「儲かりさえすればよい」という思想に骨の髄まで侵されている現場が、そんなことをするわけがない。
軍備の拡張や有人月面探査計画に費やしている巨額の費用を環境保護や省エネに回せばよいのだが、安全保障や国威発揚を考えれば、それもできない。
つまり今の中国は、外貨を貯めこみ、黒字を稼ぎ、環境を破壊し、世界中の資源を浪費し続ける体制を継続するしかない。そこから脱皮しなければ明日がないというのは、頭では解っているのだが、肝腎の手足が思いどおりに動かない。
もう黒字倒産しか残された道がない、それが今の中国である。 (2006/ )  
 
ノーベル平和賞に中国民主活動家の劉氏

 

ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、2010年のノーベル平和賞を、中国の著名な民主活動家、劉暁波氏(54)(国家政権転覆扇動罪で服役中)に授与すると発表した。「長年、中国で基本的人権(の確立)のため非暴力的な手段で闘ってきた」ことが授賞理由。国内に住む中国人がノーベル平和賞を受賞するのは初。受刑者への授与も異例だ。
同委員会は劉氏が1989年の天安門事件に参加し、共産党一党独裁体制の廃止などを訴えた2008年の「08憲章」の起草を主導したことに言及。中国に「世界第2の経済大国として、一層の責任を持たなければならない」と人権状況の改善を強く迫った。
昨年の受賞者であるオバマ米大統領は同日、劉氏の受賞決定を歓迎し、劉氏の即時釈放を求める声明を発表した。劉氏の妻、劉霞さん(49)は、「中国で民主化運動に携わる友人らへの励みになる」と喜びを語った。
一方、中国政府は同日、駐中国ノルウェー大使を呼び、正式に抗議。中国外務省報道局長は談話で、劉氏を「犯罪者」と批判したうえで、平和賞授与は「賞の趣旨に完全に背いており、平和賞に対する冒涜だ」と強く反発した。
中国の人権問題に絡む受賞は、89年のチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世以来。中国政府高官が今年6月、劉氏に賞を与えないよう、同委周辺に圧力をかけたことも明らかになっている。
天安門事件の際、北京師範大学講師だった劉氏は、戒厳令に抗議してハンストを実行。同事件後に「反革命宣伝扇動罪」で逮捕された。しかしその後も一貫して北京にとどまり、共産党批判や民主化への活動を続けた。
2008年12月には、世界人権宣言60周年に合わせ、「08憲章」を303人の連名で発表。これまで1万人以上が賛同の署名をしている。
中国当局は憲章発表の数日前に劉氏の身柄を再び拘束。裁判所は09年12月に懲役11年、政治的権利はく奪2年の実刑判決を言い渡し、今年2月に実刑が確定した。米政府や欧米の人権擁護組織は即時釈放を求めている。
授賞式は12月10日にオスロで開催。賞金1000万スウェーデンクローナ(約1億2000万円)が贈られることになっている。同委は「家族の誰かが賞を受け取りに来てくれるよう望んでいる」としている。 (2010/10/8)
当局が拘束中の人物の受賞は、ミャンマーの民主化運動指導者、アウン・サン・スーチーさんに次いで2人目となる。  
中国反体制作家、劉暁波氏の懲役11年確定 欧米諸国は反発
中国共産党の独裁体制廃止など政治改革を呼び掛けた政治文書「08憲章」を起草したとして、国家政権転覆扇動罪に問われた中国の反体制作家、劉暁波氏(54)の控訴審で11日、北京市高級人民法院(高裁)は1審判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。中国の刑事裁判は2審制で、懲役11年、政治権利はく奪2年の判決が確定した。
米政府、欧州連合(EU)は即日、判決を強く非難し、劉氏の即時釈放を求めた。特に米政府は「政治的見解を表現する個人に対する迫害」と表現し、国際的な人権基準に著しくそぐわない、と激しく批判した。
1989年の天安門での民主化デモの際にも投獄された経験がある作家の劉氏は、インターネット上でも反体制的な執筆活動を展開、「08憲章」を共同執筆したとして08年12月に拘束された。
今年1月に下された1審判決には国際社会はもとより、中国国内からも批判が起こり、1月には異例にも中国共産党の元幹部らが連名で、劉氏に対する有罪判決は自分たちが戦いの指針としてきた理念に反するとして、裁判の見直しを求める公開書簡を政府宛てに発表した。 中国の「国家政権転覆扇動罪」は、中国共産党に異議を唱える人物に対して適用されることが多い。
一方11日、判決確定後に劉氏との面会を許された妻の劉霞さんは、裁判所前で「覚悟はできていた」と述べ、判決に驚きはないと語った。面会では裁判については2人とも触れず、春節(旧正月)にどのように過ごすかといった話をしたという。 (2010/2/11)  
 
日中「戦略的互恵関係」の終焉

 

06年に小泉純一郎が首相を退いて安倍晋三政権が誕生して以来、日本の対中政策は「戦略的互恵関係」の推進を目指してきた。東アジアの平和と安定のために日中関係が重要であるという認識の下、日中両国政府は、政治的相互信頼の増進、人的・文化的交流の促進、経済における互恵協力の強化、開放性・透明性・包含性という3つの原則に基く東アジアの地域協力の推進で合意した。
いま日中関係は、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で日本が逮捕した中国人船長の身柄をめぐって、緊張が高まっている。06年以降の日中関係の「雪解け」は、なんらかの実質的な成果を生んだと言えるのか。関係改善のプロセスは、今回の対立を乗り越えて続くのか。それとも、日中関係に新たな不安定の時代が始まるのか。
今回の対立の過程で次第に明らかになってきたのは、06年以降の日中の「雪解け」が大した成果を生んでいないという事実だ。なるほど両国首脳は、互いに相手国を公式訪問したし、以前より頻繁に会談するようになった。日本の指導者は、第2次大戦の記憶に関して意図的に中国を挑発する振る舞いを避けてきた。一方、中国の指導者もことあるごとに、第2次大戦後に平和的発展を遂げた日本を称賛した。
しかし、日中関係を脅かしかねない本当の重要問題に関しては、解決に向けた前進がほとんどなかったと言っていいだろう。尖閣問題は、そうした波乱要因の1つだ。
経済は政治問題を解決しない
では、今後も「戦略的互恵関係」の構築を推し進めれば、日中間に相互信頼が育まれて、今回のような問題がもっと重大な危機に発展するのを予防できるのか。
中国国内の反日感情が和らがない限り、中国指導部としては、日本との対立が持ち上がれば強硬な姿勢を取るのが得策だ。それに、中国の政策決定過程が透明化されなければ、中国政府の真意は分かりづらいままだ。その上、中国は、国のプライドに関わる問題に対して敏感に反応し続けるだろう。そう考えると、日本と中国の政治的関係の基本的な力学が変わるとは考えにくい。
日中の経済的な関係が重要であることは、今後も変わらない。その点は間違いないが、経済的な相互依存関係が政治に波及するとは、日本でも中国でも考えにくい。
日本は中国と喧嘩できる立場にないと、ビジネスウィーク誌でブルース・アインホーンは指摘したが、タフツ大学のダニエル・ドレズナー教授が述べているように、中国が経済関係をテコに日本に圧力を掛ければ逆効果になり、日本政府が態度を硬化させる可能性がある。つまり、日中の経済関係の緊密化が政治的関係に及ぼす影響は、おそらくほとんどない。
もし政治に影響があるとすれば、それは悪い影響だろう。経済的な関係が深いがゆえに、日本に対して強い態度で出られると、中国が思いかねない。
菅内閣はすぐに再び対話路線へ
今回の事件に対する菅内閣の対応は、どう評価すべきだろうか。菅直人首相、仙谷由人官房長官、前原誠司外相はいずれも、中国が圧力を強めても過激な言葉で応じることを避けている。ここからうかがえるように、菅内閣は中国との「戦略的互恵関係」路線を捨てていない。日本が辛抱強く振る舞えば、やがて中国が隣人を信頼するようになると考えているように見える。
今回の漁船衝突問題が一段落すれば、菅内閣は再び中国との間に建設的な協力関係を築く路線に戻る可能性が高い。すぐに目に見える成果が手に入らないにしても、である。しかも国内のタカ派政治家は、「国際政治を理解していない」と民主党を非難するに違いない。それでも、日本政府が外交方針を変えるとは考えにくい。
日本の対中政策を考える上で、見落としてはならない点がある。確かに日本の国民は、中国に対してもっと強い姿勢で臨むことを政府に望んでいる。しかし日本国民は、中国の軍備近代化に対抗して防衛予算を増額せよとは言っていないし、中国の国際的影響力を封じ込めるためにもっと喧嘩腰で外交を展開せよとも言っていない。
こうした状況下で、菅内閣は今回の事件に対して、これまでの方針を転換するのではなく、09年9月に民主党が政権を握って以来の路線をそのまま踏襲している。
強硬路線は自殺行為に等しい
菅内閣にとっては1つの賭けだ。将来的に関与政策が効果を発揮することに、日本政府は賭けた形になる。06年以降の「雪解け」期間に日中関係に実質的な成果がほとんどなかったことを考えれば、勝算のある賭けとは言いがたい。しかし日本政府にとって、これよりましな選択肢はない。
日中の経済的相互関係が深まった結果、両国間に政治的な協力関係が自然に生まれるわけではないが、日本政府にとって中国と対話を絶やしたくない状況が生まれた。
日本の歴代政権が06年以降取ってきたアプローチは、ひとことで言えば、日中関係を「保留」状態にしておこうというものだ。協力できる領域では協力しつつ、東シナ海における領有権問題などでは現状を維持しようとしてきた。そうやって時間を稼ぐうちに、中国が現状に満足するなり、現状の変更をごり押ししなくなるなりするのではないかと、期待しているのだろう。
馬鹿げたギャンブルに見えるかもしれない。しかし、それ以外の選択肢---中国の脅威に対抗するために東アジア版のNATO(北大西洋条約機構)のような同盟関係を築く戦略---を採用すれば、これよりはるかに悪い結果を招く。敵に包囲されていると中国の強硬派が感じるようになり、中国の行動が海上での小規模な挑発行為にとどまらなくなることはほぼ確実だ。
敵の脅威に対抗するために軍事的に先手を打つ戦略には、このような落とし穴がある。それは、19世紀後半のドイツの「鉄血宰相」ビスマルクの言葉を借りれば、「死を恐れるあまり、自殺を図る」に等しい。中国と「戦略的互恵関係」を推進する路線は、日本にとって理想的な選択肢とはとうてい言えないが、これ以外に道はないのかもしれない。 (2010/9/27)  
 
中国人はなぜ「大げさ」にものを言うのか

 

中国語コミュニケーションのメカニズム
大演説をぶつ中国人
以前、ある日中関係の国際会議に参加した。構成は日本人が4割、中国人が6割ぐらい。壇上で発言するスピーカーの比率はほぼ半々だ。発表者の発言には同時通訳がつくので、一般参加者はヘッドセットをつけて、すべての発言を自国語で聞ける。同時通訳者のレベルは高いので、どちらか一方の言葉で聞いている限りほとんど違和感はない。しかし双方の発言を原語で聞いていると、そのギャップの大きさに驚かされる。
日本人がマイクの前に立つと、まず10人中8人までがこんな調子だ。 「諸先輩方を差し置いて私のような若輩者が高いところから失礼ではございますが…」 「本日はわたくし、非常に準備不足でございまして、お聞き苦しいところもあるかと存じますが、ひとつご容赦のうえ…」 「ご指名を頂戴いたしましたが、実はこの分野はわたくし専門外でございまして、どれだけお役に立つお話ができますか少々心もとないのですけれども…」。
謙遜であることはわかっている。ある意味、正直といえば正直なのだろうが、外国人とのつきあいが長いすれっからしの身からすると、誠にじれったい。本当に自分の話に中身がないと思っているのなら出てこなければいい。出てくるのなら、こんな前置きをしたところで意味はない。さっさと自分のベストを尽くして、後は聴衆の評価を待つしかあるまい。
一方、中国人スピーカーの発言は様子が全く違う。 「私はこのテーマの専門家であって、この問題を過去○年も専門的に研究してきた。その成果は世界的な○○学会で認められている」 「今日の会議のために私は米国○○研究所の友人に問い合わせて最新のデータを用意してきた。本日ご来場の皆さんにだけ特別にご紹介する」 「今日の私の話の中には、皆さんのビジネスの役に立つ内容がきっとあると確信する。最後まで聞いた方がお得ですよ」。
出てくる人が例外なく堂々たる大演説をぶつ。とはいえ実のところ口上は立派だが、さほど周到な準備をしている人ばかりでもないし、目を見張るほどの専門性がある人ばかりでもないことは、中身を聞けば分かる。逆に口では卑下している日本人の発表が、それほど価値のないものだったり、準備不足だったりするとも限らない。
要するにこれは中身の問題ではなく、プレゼンテーションの方法の問題であり、自己表現の仕方についての習慣の問題である。同じ習慣を共有した仲間内でのコミュニケーションなら不都合はないが、習慣の違う人々の間で意思疎通をしようとすると、これは結構難しい問題になってくる。
現代に生きる「白髪三千丈」
最近、中国人でも海外旅行に行く人が増えている。私の周囲でも世界のさまざまなところに出掛ける友人・知人がいる。旅行から戻ってきた時に土産話を聞くのが楽しみでもあるのだが、この話のパターンが興味深い。海外の事物をどのように受け止め、それをどのように表現するか、そこにある種の法則というか、クセのようなものがあるのである。
先年、ある友人が日本に旅行に行き、紅葉の時期に中尊寺を訪れたのだが、例えばこんな調子だ。
「いやあ、綺麗のなんのって言葉ではとても言い表せないね。日本の空気は澄んでいるから、一面の透き通るような青空に紅や黄色の紅葉が照り映えてまるで錦を散りばめたようだ。その中に全面が金でできた金色堂の宮殿がキラキラと輝いて、当時の日本の国王がその財をすべて注ぎ込んで作ったものだと言うけど、さすがに豪華絢爛、まるでおとぎ話の世界に来たみたいだったよ。マルコポーロが黄金の国と驚いたというのも当然だね」
日本語で書くと、読むのも気恥ずかしくなるようなものだが、中国語で言うと別にさほど違和感はない。中尊寺に行ったことがある方はご存じと思うが、中尊寺金色堂は一辺が約5.5メートルの小ぶりなお堂である。どう見ても「宮殿」ではない。貴重な国宝だから室内のガラスケースに収められていて、残念ながら「紅葉に照り映え」ることはできない。マルコポーロは実際に日本に来たことはないから、「黄金の国」が金色堂を指すのかも定かではない。
この友人の土産話は明らかに事実とは異なるのだが、中国社会では、こんな感じで話すのが、いわば世間で共有されている「ルール」である。日本人から見ればやたらと大げさなこういう話を聞いて、周囲の人々は「そりゃすごいね。ぜひ一度は行ってみたいものだ」「世界にはそんなに美しいところがあるんだねえ」と感嘆し、そういうところを旅行先に選んだ話し手の選択眼を称賛し、羨ましがってみせる。話し手のほうも「どんなもんだい」という幾分の自慢も含みつつ、周囲の人々を楽しませようと精一杯にこれ努める。そして「そんな大量の金(きん)をどこから持ってきたんだ」とか「メッキじゃないのか」などと、どうでもいい茶々を入れながらやかましく議論をして盛り上がるのが中国流のコミュニケーションである。こういうところで「金色堂は一辺が5.5メートルの……」などと言い出すと、中国ではだんだん人が寄りつかなくなる。
こうした状況が見られるのは海外旅行の土産話だけではない。同様の構造は日常的にも頻繁に発生する。例えば、
「焼き肉に使う厚手のフライパンを買いたいんだけど、どこかいいものを売っている店を知らないか?」
「大丈夫。○○路の○○スーパーに行けば、店内のひとつの壁一面が全部ナベで埋まっているよ。何でもある」
「誰か税務局にコネのある会計士を知らないか?」
「○○先生は、もと税務局の幹部で、市政府でも税務局も全部知り合いだ。外資系の○○社も日系○○社の問題も、まとめて彼が解決したんだ。紹介してあげるよ」
で、実際そのスーパーに行ってみれば、確かにナベの種類はやや多いかもしれないが、「壁一面がナベで埋まっている」などということはなく、ちょっとしたコーナーがあるだけである。「もと税務局の幹部」先生も、確かに税務局に勤めていたことは事実だが、「全て知り合い」というほどの顔役でもない。この手のことは中国で生活をしたことのある方は、おそらく幾度も経験したことがあると思う。
こういう体験をすると、日本人は「中国人はいい加減だ」とか「口ばかりで信用できない」といった印象を持つ。昔から中国は「白髪三千丈」(唐の詩人・李白の「秋浦歌」冒頭の一句。三千丈は約9q)で、何でも大げさに言うという話は日本でも広く伝えられていて、確かにそれはそうなのだが、それでも中国社会はそれなりに回っている。中国人どうしの間では、「あいつは大ボラ吹きだ」とか「いい加減だ」といった話はあまり聞かない。
それはどうしてなのかというと、中国人の間ではこうした表現習慣が当然のものとして定着しているために、他人の話を聞く時に自然と割り引いて聞くように、自動的に「減圧装置」が機能しているからである。
他人の話をそのまま信じない
中国社会でのコミュニケーションを見ていると、他人が言ったことをそのまま信じている人はほとんどいない。もちろん対応に個人差はあるが、他人の表現したことをストレートに「事実」と認識するのではなく、「その人が言っていること」として受け止め、その場では適当に同意したり、反論を試みたりして、「確からしさ」を値踏みする。その上でどの程度の「事実」が含まれているのかを判断し、その上で行動しているようなところがある。
例えば、先に例に挙げた旅行の土産話などの場合も、その場ではああでもない、こうでもないと盛り上がって楽しむが、誰も中尊寺金色堂が本当にそういうところだと思っているわけではない。自然に「減圧装置」が働いて、「まあこれだけ言うんだから美しいところなんだろう」ぐらいの感覚で認識している。だから仮にその話を聞いた人が後年、実際に中尊寺に行って、聞いていたほど美しいところでなくても、誰も文句は言わない。
ナベの売場を尋ねる話にしても、会計士先生の話にしても、相手の話を「事実」と受け止めるのではなくて、自動的に減圧して「その話し手の認識」として聞いている。「相手はその店でナベをたくさん売っていると思っている」ことは受け入れるが、そこに本当に「壁一面がナベで埋まっている」とは思わない。「話し手はその会計士が力のある人だ」と思っていることは理解するが、本当に「市政府や税務局の人をほとんど知っている」とは思わない。要するに、人の話をすべからく自動的に割り引いて聞くことが無意識のうちに養成された習慣になっているのである。
日本では「増幅装置」が必要
このように文章で書くと非常にまどろっこしくて、そんなことで日常のコミュニケーションが成り立つのかと思うかもしれないが、実は中国人から見れば、日本でも同じことをやっている。ただ、日本では中国と逆で、表現がことごとく控えめなので、話を自動的に増幅して聞かなければならない。これは日本人なら誰でも子供の頃から気がつかないうちにやっていることである。
例えば、冒頭の国際会議の日本人発言者の前置きを聞けば、日本人なら誰でも「ああは言っているけれども、それは事実ではなく、ただの謙遜だから増幅して聞こう」という処理を自動的に行っている。それが当然だから意識しないだけである。
しかし中国人が「えー、本日はわたくし、非常に準備不足でございまして……」という日本人の発言を聞けば、「ああ、この人は前夜まで本当に忙しくて、何の準備もできないまま壇上に立たなければならなかったのだろう。大変だなあ。可哀相になあ」と同情するかもしれない。ところが発表を聞いたらきちんとスライドは完璧に準備されているし、プレゼンテーションは立て板に水だった。「何だ、この人の言うことはウソじゃないのか。不誠実だ」と思うかもしれない。
つまり、大げさに表現されているか、控えめに表現されているかの違いはあるが、要するに話がそのまま「事実」ではなく、そこに社会で共有された「減圧」もしくは「増幅」の装置を機能させることが不可欠だという点では、日本社会も中国社会も変わらないのである。
この「減圧」と「増幅」のメカニズムは非常に大事なことである。例えば日本人が中国語で何かを話す時は、日本語を単に翻訳するだけでなく、内容を意図的に増幅して話さないと、中国人にグッと来る話にならない。中国人は、もともと控えめな日本人の話を、そこからさらに減圧して聞いてしまうからである。
逆に中国語を日本語にして伝える時は、意識して内容を減圧して話さないと、日本人には刺激が強すぎるか、表現が大仰すぎてウソっぽい話にしか聞こえない。日本人は他人の話を無意識のうちに増幅するか、少なくともそのまま事実として受け止めてしまうことが習慣になっているからである。
「情報の信用度」が低い中国社会
こうした他人の話に対する「受け止め方の違い」は、人々の行動にも影響してくる。
日本人は話し手の言うことを増幅して聞くのが習慣になっているので、常に相手のことを深読みするクセがある。「一を聞いて十を知る」ことが優秀な人物の証左であると広く認識されているように、常に少ない情報から相手の真意を忖度し、周囲の反応を伺いつつ先を読んで行動する。こういうことができない人は、最近の言葉では「KY(空気が読めない)」と言われてしまうだろう。
それはもちろん素晴らしい習慣であって、日本企業の精緻な製品とか、細やかなサービスといったものは、この習慣に基づくものである。しかし一方で、時として乏しい情報から深読みをしすぎて、いらぬ心配をしてしまったり、そもそも相手にそんな気はないのに過剰反応してしまったりすることも起きる。さっさと腹を割って話をすれば片づくものが、自分1人でどんどん深読み、先読みをして疑心暗鬼に陥る。こういうことは日本社会では頻繁に発生することである。日本社会がどちらかと言えば全体的に悲観的傾向が強く、危機感をテコに前に進んでいく社会だと言われるのも、こうした習慣と関係がある。
一方、中国人は話し手の言うことを減圧して聞くことが習慣になっているので、常に相手の言うことを真に受けず、軽く受け流すクセがある。「一を聞いて十を知る」どころか、「一を聞いても0.5しか信じない」みたいなところがある。そのため中国人に物事を伝えようとすると、話の中身を大仰にするだけでなく、何回も同じことを繰り返し、しつこいぐらいに言わないと、なかなか受け入れてもらえない。だから中国人どうしの議論は、良く言えば情報量の流通量が非常に多い。悪く言えば単にやかましく、中身が薄い。
そして、他者からの情報を割り引いて受け止める傾向が強いために、先を深く読もうという意識が薄い。それは政府やメディアなどから発信される情報に対しても、目の前の個人が発する情報に対してもそうである。社会における情報の信用度が低いという言い方もできるかもしれない。「深読み→過剰反応」になりがちな日本社会と逆に、「情報に対する反応の鈍さ→対応不足」のパターンになりやすい。中国社会が一般に「なんとかなるよ」という楽観的傾向が強いのは、ここに関係がある。
その結果として、日本国内にはどうしても中国を良い面でも悪い面でも過大に評価する傾向が生まれ、中国では逆に日本を過小評価する傾向が強くなる。
こうした表現習慣の違いによる誤解やトラブル、不愉快な思いが、日本人と中国人、日本企業と中国企業、日本政府と中国政府など、さまざまな段階で発生している。1980年代ぐらいまで、私の若い頃の日中関係は特殊な世界で、そこに携わっている人は日中ともにその辺の呼吸を心得た人が多かったので、あまり大きな問題にもならなかった。しかし日中関係が飛躍的に拡大し、間口が広がったこととで、そのあたりを的確に「通訳」する人が得にくくなり、摩擦が増大しやすい状況が生まれている。
この場で政治的な議論をするつもりはないが、先の尖閣諸島の事件に関しても、双方の関係者が互いの認識と行動のパターン(クセと言ってもいい)に疎くなってしまっていたことが、事態を複雑にし、エスカレートさせた背景にあるように思う。国民全般の受け止め方も、日本国民は相当に広範囲の人々がこの問題を非常に深刻にとらえ、行く末を深く憂慮しているのに対し、多くの中国国民は「政府がまた日本の悪口を言っている」程度にしか思っていない。そこにはもちろん中国国内のメディアがこの問題を積極的には報道していないという背景もある。しかし仮に報道量が増えたとしても本質的には変わらない。政府の言うことを国民は自動的に割り引いて聞いているからである。政府の発表を真に受けて熱くなっているのは一部の人々に過ぎない。
前段で述べたような情報の適正な「増幅率」「減圧率」の勘どころは、中国人とのコミュニケーションの場数を踏む中から会得するしかない。これまでも日本政府と中国政府、日本企業と中国企業の交渉はたくさんあった。しかし日本社会と中国社会、日本の人々と中国の人々の本格的なつきあいはまだ始まったばかりで、これからが本番である。双方のクセを理解した人材の養成がお互いにとって急務であり、多少のことに一喜一憂しない、一歩引いた冷静な姿勢が大切なように思う。 (2010/11/29)
 
中国人の「自己中心」はなぜ起こるか

 

「仕組み化」はビジネスの定石
先月、中国の表玄関、北京の天安門広場のすぐ前に高さ9.5mもある巨大な孔子像が建立された。同広場には従来から中華人民共和国建国の祖ともいうべき毛沢東の遺体を安置した毛主席記念堂があるが、孔子様はそれに近い待遇を得ることになったわけだ。孔子自身や、その教えを後世になって体系化したものとされる儒教が現代の中国社会でも大きな意味を持っていることが、このことからもうかがえる。
それにしても、なぜ今になっていきなり孔子様なのか。その背景には、中国の歴史的な道徳観念と、現代中国社会の複雑な事情が入り交じっている。
孔子様や儒教の話を始める前に、宗教や道徳規範といったものが人々の暮らしや生活に持つ意味について、少し考えてみたい。
ビジネスの世界に「仕組み化」という言葉がある。物事を進める時に、個人の力量に頼るのではなく、マニュアルや確立された制度、システムなど、「仕組み」に依拠して取り組む。そうすることで成果を出すスピードを早めたり、アウトプットのバラつきをなくしたり、個人の成長速度を速めたりすることができる。仮に未経験の人材がその仕事を担当しても、最小限の時間でその業務ができるようになる。別の言い方をすれば「仕組み化」とは、飛び抜けて優秀ではない「平凡な人」であっても、かなりのレベルの仕事ができるようにすることであると言えるかもしれない。
中国でビジネスをしている外国人のみならず中国人の経営者もしばしば嘆くのが、中国の人々がこの「仕組み化」に馴染みにくいことである。
この連載の第13回−「手先が器用とはどういうことか〜中国人のモチベーションの在り処」で述べたように、中国の人々は「自分の力が認められること」に異様なまでの強い執着を持つ。「自分に力があること」が明らかになる仕組みであればパワーが出るが、そうでないと途端にやる気がなくなる。「誰の手柄かわからない」「ミスをしたのが誰かもわからない」状態では、力が入らない。要するに自分という「個」が他人からどう評価されるかが行動を大きく左右する。好結果はあくまで自分の力でもたらされたのでなければならない。「仕組み」のおかげで仕事がうまくいったのではダメなのだ。それが中国で「仕組み化」が進めにくい根本的な理由である。
「自己管理できない人間はロクなものではない」
どうしてこのような発想になるのか、その根底には中国社会を深く貫く価値観がある。それは「自分のことを自分で管理できないような人間はロクなものではない」という考え方である。この考え方自体は極めてまっとうで、その通りにちがいない。しかし、この価値観があまりに根深いために、中国社会では「仕組み」に依拠してものごとを進めることが否定的にとらえられてしまうという傾向が発生する。「仕組み」や「制度」がなければ仕事ができないようではダメだ――と感じる。そのために「マニュアル」や「制度」「法律」「システム」といった「仕組み」に依存して物事を進める発想が根付きにくいのである。
このことを少し角度を変えて説明しよう。
西洋の市民社会がキリスト教を基盤に確立されてきたものであり、特に宗教改革以降の西洋社会の飛躍的な経済発展が、キリスト教の価値観と密接に結びついていることに異論のある人はいないだろう。私の理解するところでは、西洋社会でキリスト教の果たしてきた役割とは、神という存在が人々の行動を律することにあった。「世の中の全てのことは神が設計されたものであり、全ての人は神に用いられているのであるから、そのことに深く感謝し、自分に与えられた役割を果せ」というのがその基本的な考え方である。
これは言うならば、宗教という規範の体系に依存して人の行動を管理し、物事を円滑に進める方法である。つまり人は自分の意志で好き勝手に行動するのではなく、神の意向に従うべきだというのである。こういう考え方が共有されることで社会的な役割分担(時に身分格差も含む)が肯定され、さまざまな社会的資源の活用効率が高くなる。こうした考え方に対して、善悪好悪、さまざまな意見があるだろうが、このように「人」そのものではなく、外部的な力を借りて人の行動を律してきたことが、西洋社会の高度な資本主義経済の誕生と発展に貢献した。
日本社会では、本来の意味の宗教はあまり普及しなかったが、その代わりに「世間様」という全能の神様がいて、常に個人の行動を監視している。子供の頃から人は「そんなことをすると世間様に笑われるよ」と叱られ、悪人は「そんなことをしても世間様はお見通しだ」と言われる。これも外部的な仕組みの力で人の行動を管理する発想である。
「仕組みに頼らない」のが立派な生き方
一方、中国ではどうだったか。中国社会に生きる人々、特に支配階層の意識を大きく規定してきたのは儒教である。中国における儒教の持つ意味は、前述した西洋の「神」や日本の「世間様」とは大きく違う。
儒教とはざっくばらんに言ってしまえば、「自己修養の教え」である。つまり人は自らを厳格に律して、深く修養し、「立派な人」にならなければならない。極端に言えば、世の中の全ての人が「立派な人」になれば、世の中は丸く収まる。そういう社会を目指すべきだ――というのが儒教の基本的な考え方である。ある意味で極めて人間的であり、人間中心、人というものの可能性に賭けた考え方といえる。これは、人間とはもともと罪深いもので、神などの絶対的な存在に頼らなければ、人は立派に生きることはできないと考えるキリスト教的な人間観とは根本的に異なっている。
つまり伝統的な中国社会の観念では、人は自らの力によって、自ら立派な人になるべきであって、それができる人こそが立派な人である。第三者の力や「仕組み(神や仏も含む)」に依存することで自らを律しなければならないようでは、それは本当の立派な人ではない――ということになる。
儒教には古くから「正心、修身、斉家、治国、平天下」という言い方がある。漢文とか世界史の授業で習った人も多いだろう。これは「まず自分が心をしっかりと定め、修養を重ね、家を栄えさせ、国(郷土)を治めて、そして天下(世界)を平らかにする」という意味で、要するに全てのことは「自分の心を正しく持って、自ら修養する」ことからスタートする。「仕組み」に依拠するのではなく、あくまで自分の力で己を律して、自ら立派な人にならないといけないのである。
こうした価値観の下で、人々はどういう行動を取るようになるだろうか。当然ながら、全ての人が「私は自分で自らを律することができる人間である」ことを示そうとするだろう。それは人々の間に「仕組み」とか「システム」の力を借りることを潔しとしない気風を生む。要するに、「私はマニュアルなどなくてもきちんと挨拶ができる」「私は人に指図されなくても、ちゃんと結果を出せる」ことが、「立派な人」の条件であると考えるようになるのである。
中国の人々が一般に「ルールを尊重しない」「組織プレーが苦手」「自分の都合で物事を判断する」といった行動が多くなりがちな根底にはこうした感覚がある。「仕組み化」の発想を中国人が受け入れにくいのは当然と言うべきだろう。冒頭に述べたように、「仕組み化」の目的は「平凡な人でも、かなりのレベルの仕事ができるようにする」ことにあるのだから、そういう仕組みに乗って自分が成果を出せば、「私は平凡な人です」と宣言しているに等しい。だから話に乗りたくないのである。
でも、「自己管理」できる人は少ない
ここまで読まれて、皆さんは疑問をお持ちになると思う。「中国の人々が、それほどまでに自らを律することに熱心なのであれば、どうして(現状のように)マナー意識の薄い社会になるのか?」と。
それは当然の疑問であるが、その答えは実は簡単である。儒教的考え方を背景にした、この「全ての人が立派な人になれば、善き社会が実現する」という発想の致命的な弱点は、この「立派さ」を評価するのも自分自身だという点にある。「中国的自己修養」の考え方によれば「自分を律する」ことには自己評価も含まれる。常に自分の身を謙虚に振り返って、足らざるところを反省し、さらに精進する。このサイクルを自己完結で行なうことができる人が立派な人なのである。
しかしながら、こんなことができる人は少数である。他者に管理監督されることなく、自己修養を積み続けられる人などそうそういういるものではない。自己評価は常に甘くなる。自己正当化を図る。何か都合のよい理由を見つけてきては「自分のせいではない」と思う。「中国的自己修養」の教えの限界はここにある。中国の人々は――やや誇張して言えば――大半が「自分は自己管理のしっかりできた、自らを律することのできる立派な人間である」と評価しているのである。だから自分の行動を変える必要があると感じない。
これはなかなか厄介な状況である。「神」や「世間様」など第三者的な仕組みによる統一的な基準が存在すれば、それに外れた行為は「悪い」と判断することができる。ところが中国社会では、社会をより善いものにする原動力を個人の自己規律や自己修養に求めてしまっている。そのため、社会の構成員の全てが「自分は自己規律がある」と自己評価していると、その行動を修正するのは非常に難しい。
誰もが「自分だけは違う」
中国の友人たちと話していると、いつも面白いと思うことがある。「中国人論」が話題になると、会話はいつも以下のようなパターンになる。
田中「中国社会のマナーはなっていない。列には割り込むし、ゴミはあちこち捨てるし、他人の立場を少しも考えない。困ったものだ」
友人A「田中先生のおっしゃる通りだ。中国人は本当に身勝手だ。私も中国人だが、困ったものだと思っている。(でも、私は違う)」。
田中「賄賂がはびこる中国の現状は深刻だ。これはいまに始まったことではない。社会に奉仕すべきエリートが、私利私欲しか頭にない。困ったものだ」
友人B「まことに田中先生のおっしゃる通りだ。中国人は本当に自分のことしか考えていない。私も困ったものだと思っている。(でも、私は違う)」
まあこれは冗談だが、要するに誰もが問題は認識しているが、「自分は違う」と思っている。要するに自己評価が甘いのである。そこに全く悪意はなく、格好をつけているわけでもない。ただ天真爛漫に「私はきちんと自分を律している」と思っているだけである。
中国でマネジメント経験のある方は同意していただけると思うが、人事評価で最も困るのは、社員の自己認識能力の弱さである。とにかく自分を客観的に見るのが苦手だ。座標軸の上に自分の位置を正確にプロットすることができない。そのためフィードバック面談で話が噛み合わない。
以前、あるジャーナリストのインタビューを受けた時に、中国人とは「GPSを搭載していない戦闘機のようなものだ」と話したことがある。ご承知のように、GPSとは、常に固定した位置にいる(地球の自転と同じ速度で動いている)複数の衛星との間で通信することで、自らの位置を正確に計測する装置である。携帯電話と基地局との間のやりとりも同じで、要するに「自分」とは違う次元にある客観的な体系を構築し、そことの距離を常に測ることで自らを客観化する仕組みであるといえる。
中国社会には、この例え話で言うところの「衛星」や「基地局」に相当する普遍的な体系が欠けている。だから誰もが周囲の意向と無関係に、自分の思った通りに行動する。「GPSのない戦闘機」とはそういう意味である。決断が速く、行動は臨機応変だが、重複や無駄が発生しやすく、常に衝突の危険がある。「誰もが自己評価しかしていない社会」とはそういうことである。社会全体に共有された枠組みによって人々の行動を管理しようという動機が薄い。
そう考えてみると、中国人と米国人の行動原理の違いが明らかとなる。中国人と接点を持った日本人から、しばしば「中国人は(日本人よりも)米国人に似ている」という感想を聞くことがある。「個人主義」という点では、それはそうではあるのだが、そこには大きな違いがある。米国人の個人主義は人間とは別の次元にある体系やシステムによってコントロールされた個人主義である。一方、中国人の個人主義は、まさに人間が自分で自分を管理する(つまり事実上、管理が困難な)個人主義である。
国家の強制力が強まる背景に
「神」とか宗教を例えに話をしてきたが、「仕組み」に依拠したがらないという点では、「国家」や「法律」に対しても同じである。誰もが自分で自分を管理し(ていると思い込み)、自己肯定して、思い通りに動く。国家としてはそれでは秩序が保てず、効率が悪くて仕方ないので、当初は「思想」という体系でなんとかしようとしたが、失敗した。現在は最も即効性のある「実力(強制力)」で押さえ込んでいるという面が強い。
最近は中国でも次第に個人の持つパワーが強くなってきたので、国家のほうも一段と力による管理を強めつつある。しかし経済や社会の構造が高度化し、グローバル化しつつある現在、力で抑えるだけでは無理がある。なんとか力に代わる行動規範を定着させたい。多少なりとも個人の自己規律を高めたい。そんな思いの一つの表れが天安門広場の孔子像なのである。
しかし、儒教的な発想は、自らを厳しく律することができる一部の人々には影響力を及ぼし得ても、同様のことを社会全般に期待するのは難しいだろう。それは歴史が示してきたことである。中国の「立派な人」はとてつもなく立派だが、そういう人は常に限られた層でしかない。それらの人たちは実に立派な仕事をするが、そうでない人の方が圧倒的に多い。そしてそうした「立派な人」たちが地位や権力、富をすべて得る。どうしても格差の大きい社会になってしまう。
そう考えると、「神様」や「世間様」など第三者的なシステムの力を借りて、「平凡な人でも、かなりのレベルの仕事ができるようにする」仕組みとは、実に偉大なものであったと改めて思うのである。 (2011/2/2)
 
中日関係と相互理解

 

話題になった相互理解
一、国交正常化と中日関係の発展
一九七二年九月二十九日は、戦後の中日関係史上において非常に重要な一日である。この日、中国の周恩来総理と日本の田中首相が両国政府を代表して、北京で共同声明を発表し、国交正常化を宣言した。二〇〇〇年に及ぶ交流の歴史がある中日両国関係は新しい一ページを開いたと言えよう。
中日国交正常化に対し、中日両国とも高く評価した。周恩来総理は田中首相の催した答礼宴において次のように述べている。「戦争状態の終結と中日国交正常化という中日両国民のこの間の願望の実現は、両国の関係に新たな一章を開き、アジアの緊張情勢の緩和と世界平和の擁護に積極的な貢献をなすでしょう」と[1]。田中首相は第七〇回国会において「多年の懸案であった日中両国の国交が正常化され、善隣友好関係の基礎ができたのでありますが、日中問題が解決できたのは、時代の流れの中にあって、国民世論の強力な支持があったからであります。私はこのような国際情勢の変化と過去半世紀に及んだ日中両国の不幸な関係を熟慮した上で、国交正常化を決断したのであります」。「日中国交正常化によって、わが国の外交は世界的な広がりを持つにいたったのでありますが、このことは、同時にわが国の国際社会における責任が一段と加わり、世界の平和と繁栄にさらに貢献すべき義務を負うに至ったことを意味するものであります」と所信演説をした[2]。
それ以来、長い間中日両国民が切望してきた交流は噴き出すように開始されたのである。「中日友好」「一衣帯水の隣国」「中日両国民は世世代代仲良くしていこう」などは、その当時、中日両国民の付き合う場合に最も使用頻度の高い言葉であった。
しかし、中日関係の発展と両国民の大規模な交流は中国の改革開放以後である。一九七八年中国共産党十一回三中総は四つの現代化路線を確立し、改革開放策を実施することにした。これをきっかけに、中国は全世界に扉を開き、外国の先進設備、技術、管理経験などを導入し始めた。日本政府は中国の現代化建設に協力する方針を打ち立てた。それ以来、両国首脳の相互訪問だけでなく、両国民は政治、経済、文化、スポーツなど広範囲な交流を行ってきた。
一九七九年、大平首相の訪中を始めとして、中日外交当局間で継続的に協議を実施することが合意された。一九八〇年から毎年一回交互に外交当局間の高級事務レベル協議が開かれ、両国関係と国際情勢についての意見交換の場として発展してきた。一九九六年までにのべ十六回協議が持たれた。それと並行して、必要に応じて中日閣僚会議も開かれている。一九八〇年の初会合は北京で開催された。出席した閣僚は外務、大蔵、農林、通産、運輸、経済企画の各大臣であったが、第四回以降は科学技術庁長官が加わった。そして、両国首脳の合意により、一九八四年から「中日友好二十一世紀委員会」を設立した。これは中日双方から推薦した有識者から構成され、二十一世紀の善隣友好関係を安定的に発展させていくための方途につき、政治、経済、文化、科学技術など広範囲な角度から検討し、その結果を両国政府に提言、報告を行うことを目的としている。初会合は八四年東京で開催され、その後一年ごとに両国交互に行った。それとともに、一九八〇年からは中日間の防衛交流も始まった。国防部長と防衛庁長官の相互訪問により、両国防衛当局間の次官級対話が実現した。
経済交流の面では、一九七二年の国交正常化直後、中日間の貿易総額は十一億ドルにとどまったが、二〇〇〇年には八五七・三億ドルを超えて、約七七倍に増えた[3]。中国の貿易相手国として、日本は第一位であるが、日本にとって、中国はアメリカに次いで第二位であった。中日間の貿易構造は、従来の、主として日本から製品を、中国から原料をそれぞれ輸出するという垂直的な関係から、近年の中国製品の輸入が増大することにより、水平的な関係へと変化している。一九七九年に日本は対中直接投資を開始したが、一九九八年末までに対中投資は一七、六〇二件に達し、金額は二一九億ドルに達した。従来は労働コスト低下を目的とする委託加工輸出型が多かったが、近年は中国国内市場の開拓を目的とするものにシフトしている。その同じ頃から、日本は対中経済協力(ODA)を開始したが、一九九七年度末の統計によると、対中ODA総額は二二五八四億円に達した。中国は日本ODAの最大の受援国になった。
人的交流においては、一九七二年当時、中国から日本に行った人は僅か九九四名であったのに対し、訪中した日本人は八、〇五二人であった。一九八〇年では、八、三三六人と七一、四七三人にそれぞれ増え、一九九七年になると、二八三、四六七人と一、〇四〇、四五五人にさらに増えた。増加率でいえば、二十五年間では、中国は一二八倍、日本は二八四倍の増加を見せた。毎年中国に来る外国人では日本人が一番多く、そして終始一貫トップである。二〇〇〇年から中国人は自由に日本へ旅行できるようになった。一九八四年九月、中国側の招待で日本青年三、〇〇〇人が訪中し、北京、上海と西安で中国の青年と交歓した。これは現代史において中日両国青年間の最大規模の交流であると言われるほどであった。一方、在日外国人留学生では中国人が一番多く、二〇〇一年には四四、〇一四人に達し、在日外国人留学生全体の五五・八%を占めている。一九九七年、在中日本人留学生の数は一四、五二四人で、在中外国人留学生の三三・二%を占め、トップである。中央政府の他に、地方政府、自治体間の交流も盛んに行われてきている。現在、中日両国の一九三の自治体と地方都市が友好省県、友好都市に結ばれ、多方面の交流を展開している。
二、話題になった相互理解
国交正常化直後、中国人の日本認識はある意味で日本の商品から始まったと言っても過言ではなかろう。七〇年代末頃、都市部ではかなりの家庭で短期間に日本製12インチの白黒テレビを買った。その後、日本製家電製品は洪水のように中国市場に入り込んできた。松下、東芝、日立、ソニー、三洋、シャープ、カシオなどの家電製品はコマーシャルと新聞広告とともに民家に飛び込んだ。日本家電製品は良いデザイン、高度な品質で、中国の消費者に誉められ愛用された。その時、日本家電製品を買ったとすれば、自分が嬉しいだけでなく、他人も羨ましいことであった。日本に行く機会があれば、何よりもまず家電製品を買おうと思う人が多かった。
家電製品の次は車である。「車到山前必有路有路必有豊田車=車が山の前に着くと、必ず道があり、道があればトヨタの車があるに違いない」「有朋自遠方来請坐三菱牌=遠方から友人が来たら、三菱の車に乗ろう」。これは中国の諺を巧みに利用して、子供でさえよく知っているコマーシャルであった。最も中国人の心をひくのは「四つの現代化」「日中友好」と関連する広告である。例えば、「中華人民共和国成立三十二周年を慶祝する――三菱自動車」「中国と五十鈴自動車会社との共同の言葉――友好」「JVCの先進優秀技術が中国の現代化に奉仕する」「三菱銀行が中日経済交流に貢献する」などは、その例である。真鍋一史の研究によると、その時、使用頻度の高い広告用語は「貢献」「四つの現代化」「中日友好」「祝賀」などであった[4]。こうして、日本のメーカーは現代化実現の期待と中国文化を巧みに利用し、中国人の消費心理をしっかり掴んだのである。
中国は伝統文化をしっかり守る国である。中国人の多くは先祖伝来の諺を信じる。昔から「物似其人=作られた物はその製造者に似る」という諺があり、彼らは日本人の作った製品は現代日本人と同じではないかと思って、そして日本人の勤勉さ、礼儀正しさに敬服し、対日好感度は予想以上に高まった。「日本へ行きたい」「新しい技術を勉強したい」というのが一時若い世代の追い求めるものとなった。
一方、日本人の中国認識は、人により異なるが、およそ中国人心の広さへの感動、古い歴史のある中華文明への敬意、数多くの名所旧跡と風光明媚への憧れ、そして友好使者としての可愛いパンダ、などによるだろうと思われる。
「中日友好ブーム」「パンダブーム」「家電ブーム」「留学ブーム」、両国民は中日友好の波に次から次へと巻き込まれたのであった。
しかし、空模様はいつも晴れではなく、時には雨が降るように、中日関係の発展はいつもブームや雰囲気に恵まれ、スムーズに発展しているわけではなく、八〇年代初期に入ると、状況は一変した。
最初に問題になったのは教科書事件である。一九八二年七月、文部省が小中学校教科書検定において、中国侵略の事実を歪曲する記述を認めた。中国側はこれに厳しい反対と抗議を行った。二ヶ月間余りの交渉を経て、日本政府は是正を約束した。しかし、その後も、中日両国は歴史認識、台湾問題、貿易関係などを巡ってギクシャクし、幾度も摩擦が発生した。「光華寮事件」、大臣の「失言」、台湾要人の来日、繊維製品の摩擦、核実験、日米安保再定義などがその例である。一九九六年三月、中国軍隊が台湾海峡で大規模な軍事演習を行い、李登輝を代表とする台独勢力を牽制した際に、日本側からの猛烈な反発を招いた。そして核実験に反対する日本は円借款を停止すると脅した。中日関係は急に冷却化し、一時国交正常化以来の最悪期を迎えた。その後の中日関係は、両国が修復に励み、じょじょに回復した。二〇〇一年四月、李登輝の来日、八月、小泉首相は靖国神社公式参拝の動きに対し中国側から強い反対を受けたにもかかわらず、断固として実行した。このことは中日関係に非常にマイナスの影響を与えたのである。
中日関係は以上のように「熱」から「冷」になり、そして「冷」から「熱」に戻るという循環の中で発展してきたのである。しかし、「熱」から「冷」になるのは簡単であるが、「冷」から「熱」に回復することは難しい。ことに両国民の認識ギャップの縮小、心に残された傷を回復するのは非常に困難である。一旦中日関係が回復したとしても、その前の最高の時期には容易に戻れないであろう。以上の影響を受けて、中日両国民の相互イメージ、相互信頼感は下がる一方である。一体、両国民はどうすれば相互理解、相互信頼を深めうるかは人々の関心を集める話題となった。
ここで、二つの世論調査を紹介しよう。一つは、一九八八年八月に中国社会調査系統・読売新聞が実施した「中日共同世論調査」、もう一つは同じ年の十二月に吉林大学と関西学院大学が実施した「中日イメージ共同世論調査」である。二つの調査は時間が少し前後するが、国交正常化以来の初めての共同世論調査であり、国民レベルで相手国のイメージ、相互認識に関する広範囲なデータを得た。調査結果の発表直後、各方面から驚くほどの反響が生じた。前駐中国大使中江要介は「日中相互理解が不十分であり、相互信頼がまだ確立していない『現実』を率直に認め、巧言令色でごまかさない」と指摘した[5]。アジア調査会長で、元外務大臣の大来佐武郎は「はじめての日中共同イメージ調査は実際に近い関連データを得た。この中にはしっかり考えなければならないことがたくさんある。日中間の相互理解はまだ不十分である」「これから、さらに情報交換と交流をして、相互理解を増進すべきである」と述べた[6]。
一九九〇年二月、中国最大の日本研究学術団体である「中華日本学会」設立大会が北京で開かれた。この席上、著名な日本研究家である夏衍が名誉会長に選ばれた。氏は若い頃日本に留学した経験があり、日本文化の理解、日本人との付き合いは深く、新中国成立後、長年にわたり中国の文化芸術関係と対外文化交流の重責を担当し、中日友好協会会長も歴任した人物である。九〇歳の高齢にもかかわらず、氏は車椅子で、会場に現れた。スピーチの中で、日本留学、そして日本人との付き合いの経験に言及した。如何に日本研究をするかに関して、「いま存在する問題点といえば、中国人は日本を理解していないが、日本人も中国人を理解していないということである」と、率直に語った。
当時、中国の日本研究はブームの波に乗っていた。旧来の、大学に所属する幾つかの日本研究所以外に、社会科学院と他の大学にも新しい日本研究所と研究センターが相次いで設立された。統計によると、中国は世界中で、日本研究機関と研究者の一番多い国と言われる[7]。研究者は日本政治、経済、歴史、文化、勿論中日関係の問題点を含む多方面の研究を展開している。しかし、中日両国民の相互理解についての研究はほとんど行われず、さらに両国民の相互理解が不十分であると明確に提起した人もいなかった。夏氏はひと言で真実をずばり言ってのけたのである。
前述の中江、大来両氏の文章を読んで、この点についての有識者の認識が共通であることは印象的である。中国の諺にあるように「優れた人の所見は同じもの」であった。
それ以来、中日両国民の相手国に対する親近感や好感度が下がるにつれて、「相互理解が不十分」との議論が両国で提起されてきた。
一九九二年九月、中日国交正常化二十周年を迎えた。両国は早くから記念行事の準備を始めた。四月二十七日の朝日新聞は「日中の交流をどう深めるか」との社説を発表し、冒頭で次のように言っている。「ゴールデンウィークが近づいた。最近の海外旅行専門誌に掲載された一万人調査によると、『行きたい都市』は三年連続でニューヨーク、パリ、ロンドンの順だった。隣国の社会主義中国は桂林が今年、やっと二九位に顔を出したに過ぎない。今年は日中国交正常化二十周年の節目にあたる。振り返ってみると、当時の中国ブームがすっかり冷え切っている。今後の日中関係を考えるとき、これはまことに不幸なことだ。日中交流の再活性化も考えねばならない」。「知識層から庶民レベルと交流の幅を広げることは、相互理解の厚みを増すことになる」[8]。
「友好は易いが、理解は難しい」、「住みは近いが、心は遠い」という声をよく耳にする。
一九九七年四月、中国社会科学院日本研究所の主催する「中日青年フォーラム:二十一世紀に直面する中日関係」学術シンポジウムが北京で開かれた。年齢四十五歳以下、数十名の中日両国の学者が出席した。席上、中日関係の多方面の問題を議論したが、その中で一番多いのは相互理解の問題であった[9]。
「相互理解不十分」の認識は学者に止まらず、両国政府、首脳レベルや民間人にも共有され始めたのである。
一九九九年七月、小渕首相が訪中した際、朝日新聞は「何より大事な信頼関係」との社説を発表し、「日中間の信頼関係が不可欠だ。今回の首脳会談をそのことを再確認する場としなければならない」と強調した[10]。
二〇〇〇年十月、朱鎔基総理が訪日した際、首脳会談以外に、TBSの番組に出演し、市民と直接対話した。「首脳間で日中両国間の相互理解の増進及び信頼醸成の重要性を確認し、今後更に協力関係を確立していくことで意見の一致を見た。朱総理は対日関係重視の観点から、本邦各界、一般国民にも幅広く接し、日本国民の対中好感度増進に努める姿勢を見せた」[11]と日本側は評価した。中国側は、「今回の訪日の結果は『増信釈疑、促進協力』で表すことができるであろう。即ち信頼を増やし、疑いについて説明し、協力を促進するということである」と発言した[12]。中日双方とも両国民の相互理解、相互信頼を増進させる意向を表したのである。
二〇〇一年一月、日中友好関連団体の代表が訪中し、北京で中国側と「新世紀の日中民間友好宣言」を発表し、中日関係に重要な役割を果たしてきた民間交流をさらに推し進めていくことを誓った。宣言に加わったのは日本側が日中友好協会、日本国際貿易促進会、日本中国文化交流協会、日中友好議員連盟、日中経済協会、日中友好会館、中国側が中日友好協会など計十七の民間団体であった。翌二〇〇二年一月、中日両国の友好関連団体、中国側が三十団体、日本側が二十三団体計五十三団体は北京で会議を開き、前年の「友好宣言」を基礎に国交正常化三十周年を新たなきっかけとして、新世紀の中日関係を発展させるための「アピール」を採択した。その中で、「政治、経済、科学技術、文化、スポーツ、教育、観光、女性、地方自治体交流などあらゆる分野で、豊富で多彩な交流活動を行い、両国民の相互理解と相互信頼を増進し、誤解や不信を取り除き、中日両国間に長期的かつ安定した善隣友好関係を築いて、子々孫々までの中日両国民の友好を実現しよう。」「中日両国の共同繁栄及びアジア太平洋地域の平和と発展に寄与しよう」と強調した[13]。
二〇〇二年九月、中日国交正常化三十周年を迎える。これを記念するために、中日両国は相互に「日本年」「中国年」という大規模な交流活動を行う予定である。この交流活動は一九九八年の江沢民主席訪日の際に、中日間で合意した三十三項目の協力事項の一つである。そして、それは二〇〇〇年の朱鎔基総理訪日の際、首脳会談において具体化され、二〇〇二年を「日本年」「中国年」と定めたのである。さらに二〇〇一年小泉首相訪中の際、中日双方より国交正常化三十周年を盛り上げていきたいとの発言があった。その狙いは諸事業を通じて、両国民の相互理解を飛躍的に高めることを期待するという[14]。
[1]1972年9月29日付「人民日報」。
[2]1972年10月28日付「朝日新聞」。
[3]「日中貿易額の推移(通関実績)」www.mofa.go.jpによる。
[4]真鍋一史『国際イメージと広告』日経広告研究所1998年版第93頁。
[5]1988年9月24日付「読売新聞」。
[6]1989年1月30日付「毎日新聞」。
[7]中国的日本研究』(北京外国語大学・中国社会科学院日本研究所編世界知識出版社1997年)を参照。
[8]1992年4月27日付「朝日新聞」。
[9]蒋立峰主編『中日青年フォーラム論文集』世界知識出版社1998年。
[10]1999年7月8日付「朝日新聞」。
[11]外務省www.mofa.go.jp/kaidan/yojinによる。
[12]2000年10月14日付「朝日新聞」。
[13]2000年1月29日付「人民日報」。
[14]www.mofa.go.jp/gaikou参照。 
相互理解の実態

 

近年来、中日両国民の相互イメージ、相互信頼感が低下しているとの説をよく耳にするが、一体両国民の相互理解の現状はどうであるか、理解不十分の「溝」はどこにあるのか、これは筆者が一貫して研究してきた課題である。この課題に答えるために、先ず世論調査の分析を試みた。 
一、世論調査の概況
世論調査は、日本では頻繁に実施されているが、改革開放前の中国ではほとんど行われなかった。八〇年代以後、中日関係の発展と学術交流の進展に伴って、中日関係に関する世論調査が両国で数多く実施された。筆者の手元にあるだけでも、年月順で下記の資料がある。
(1)「外交に関する世論調査」[1]総理府毎年10月
(2)「中日経済協力アンケート調査」[2]中国対外経済貿易諮詢公司1984年9月
(3)「『日本人の国際感覚』世論調査」[3]NHK世論調査部1978年10月
(4)「中日共同世論調査」[4]中国社会調査系統と読売新聞1988年8月
(5)「中日イメージ共同世論調査」[5]吉林大学政治研究会と関西学院大学世論研究会1988年12月
(6)「『国際社会の中の日本人――九〇年代の選択』世論調査」[6]NHK世論調査部1990年9月
(7)「読売全国世論調査」[7]読売新聞社1992年8月
(8)「第二次中日イメージ共同世論調査」[8]中国国情研究会社会調査部と中央調査社1992年11月
(9)「北京・天津市民の対日意識調査」[9]天津社会科学院日本研究所1993年6月
(10)「青島・大連市民の対日意識調査」[10]中国人民大学世論研究所1993年8月
(11)「村山新内閣、日本人のアジア観、サッカーくじに関する世論調査」[11]朝日新聞社1994年7月
(12)「日本・米国・中国における世論とマスメディアに関する調査」[12]劉志明、真鍋一史、三上俊治、LeeB.Becker,JerryKosicki1993年10月
(13)「中国における日本留学帰国者調査」[13]中国人民大学世論研究所と国立国語研究所1995年3月
(14)「読売・ギャラップ共同世論調査」[14]ギャラップ・チャイナ社と読売新聞社1995年3月
(15)「読売全国世論調査」[15]読売新聞社1996年6月
(16)「日本人のアジア観」[16]朝日新聞社1996年9月
(17)「中国青年の対日意識調査」[17]中国青年報1996年12月
(18)「アジア六都市対日意識調査」[18]朝日新聞社1997年3月
(19)「中日共同世論調査」[19]中国人民大学と朝日新聞社1997年7月
(20)「北京大学生の日本観調査」[20]鈴木英司1999年4月
(21)「読売全国世論調査」[21]読売新聞社1999年8月
(22)「中日共同世論調査」[22]読売新聞社とギャラップ社1999年8月
(23)「大学院生の対日意識調査」魯義1992‐1999年
以上の世論調査を分類して、概況を見よう。
(一)全部で二十三件の世論調査であるが、実施別から見れば、三つのタイプに分けられる。
(1)中国での調査が八件、全体の三四・八%、
(2)日本での調査が八件、三四・八%、
(3)中日共同調査が七件、三〇・四%を占め、ちょうどバランスが取れている。
(二)調査時期別に見ると、一九八四年から二〇〇〇年にかけて、ほぼまんべんなく十七年間に渉っている。調査時期には国交正常化以後の最初の十年、即ち中日関係のブーム期を含まない一方、中日関係がぎくしゃくした時期を含む。この期間の調査を用いることは両国民の相手国への認識を捉えるにはもっとも適当であると思われる。
(三)調査対象を分析すると、両国の一般成人ばかりでなく、各分野の人々を含んでいる。ことに中国側の調査対象は広範囲で、一般社会人、青年層、在学中の日本語科学生や日本研究専門の大学院生、日本留学帰国者などが含まれていた。(四)調査内容については、中日間相互イメージ、中日関係を始め相互理解の多方面に及んでいた。調査手法は三種類に分けられ、多元的に展開された。三種類とは、
(1)二国間単純型 / 専ら一つの相手国を絞る。つまり中国での調査は日本指向で、対日イメージ、信頼感などを調査するが、日本での調査は中国指向で、対中イメージ、信頼感などを調査する。第三国とは関連しないのである。
(2)多国間関連型 / 調査の相手国は中国或いは日本だけでなく、アジア諸国ないし世界各国である。アジア諸国ないし世界全体の中において、対中認識或いは対日認識を比較し分析する。
(3)多様抽出型 / これは専ら国際関係についての専門調査だけではなく、多種多様な調査結果の中から中日関係の関連データを抽出して利用する。
以上から、これらの調査を概観することで、ほぼ二十年来の中日両国民の相互認識、相互理解の変遷と現況、及び中日関係の問題点などが把握できると考えられる。
二、世論調査の結果
以上のように、多種多様な世論調査が行われ、たくさんのデータが得られた。その中には両国民にほぼ共通の認識もあれば、まったく食い違った認識もある。ここでは、興味深く注目すべき点だけを取り上げて見たい。
(一)相手国へのイメージ。これは「中日イメージ調査」と「第二次中日イメージ調査」に集中的に現れた。中国人の日本に対するイメージは上位から、「豊か」(一九八八年と一九九二年はそれぞれ九三%と九五%)、「現代化」(八八%と九三%)、「信頼できない」(三四%と三九%)の順である。日本人の中国に対するイメージは「貧しい」(六九%と六六%)、「伝統的」(七二%と七五%)、「信頼できる」(五〇%と三一%)である。日本人の六〇%が中国人は「心が広い」と認めたのに対し、中国成人の三二%、学生の六〇%が日本人は「心が狭い」と考えた。
一九九七年「中日共同世論調査」では、中国人の日本に対するイメージは「侵略」(二九%)、「発展」(二九%)と「統制」(七%)であるが、日本人の中国に対するイメージでは「伝統」(二三%)、「統制」(一七%)と「発展」(一七%)であった。
(二)相手国に対する好感度。中国人の「日本が好き」は一九八八年三一%(「日本が嫌い」三六%)で、一九九二年「第二次中日イメージ調査」では四〇%(「日本が嫌い」二八%)に増え、最高であったが、一九九五年「読売・ギャラップ共同世論調査」になると、二三%(「日本が嫌い」三三%)に、一九九六年「中国青年の対日意識調査」では、「好+很好」一四・五%(「不好+很不好」は四一・五%)に、一九九七年「中日共同世論調査」では一〇%(「日本が嫌い」三四%)に下がった。要するに、「日本が好き」より、「日本が嫌い」の中国人が一貫して多かった。
以上と大体同じ時期に、日本人の中国に対する好感度も下がり、落ちる一方である。毎年総理府が行った「外交に関する世論調査」の結果によると、「中国に親しみを感じる」人は一九八〇年の七九%から、一九八六年六八・六%、一九九〇年五二・三%、一九九五年四八・四%、一九九九年四九・六%と下がったのに対し、「親しみを感じない」人は一九八〇年の二四・八%から一九九九年には四六・二%に増加した。一九九九年「読売全国世論調査」では、中国に「良い印象を持っている」人が四七%であるのに対し、「悪い印象を持っている」人は四五・九%であった。現在、日本人の対中感情は「好き」「嫌い」がほぼ二分している。また相手国に好感を持っていない人の比率は両国とも大体同じである。
ここで留意しなければならないのは、各時点の調査では、相手国の「国」と「人」に対するイメージには微妙な差があるということである。調査結果を見ると、中日両国とも「人が好き」より、「国が好き」の方が少し多い。個個の人間より全体としての国の方に少し良いイメージを持っているようである。
(三)両国民の相互信頼度の低下傾向。日本のイメージについて、「信頼できない」とする中国人の割合は一九八八年(中日イメージ調査)の三十四%から一九九二年の三九%に増え、「信頼できる」の二六%よりはるかに高い。一九九九年「北京大学生の日本観調査」では、「信頼できる」は一四%に対し、「信頼できない」比率は遥かに高く、六一%に達した。
これと同時に、中国に対し、「信頼できる」と思う日本人の数も減少してきている。この調査では、一九八八年の五〇%から一九九二年の三一%に減った。一九九六年「読売全国世論調査」では、「信頼できる」人が四六・二%で、「信頼できない」人が四四・九%であった。相互信頼の弱体化、或いは相互不信の増加という現象は、好感度の低下とともに両国民にも表れた。
(四)中日関係の現況に対する評価。これは調査時点と場所により多少の差があるが、全体的に見れば、プラス評価は減少する傾向が見られた。各年次の「外交に関する世論調査」の結果を見ると、「現在日本と中国の関係は良好だと思うか」に対し、「良好と思う」人は一九八六年の七六・一%から、一九九〇年五一・五%、一九九五年四五・二%、一九九九年四四・五%と下がったが、「良好と思わない」人は一九八六年の一四・一%から、一九九〇年三六・五%、一九九五年四五・七%、一九九九年四六・六%に増えた。一九九七年「中日共同世論調査」では、「中国と日本が国交を回復してから二十五年経った。中国と日本との関係は今うまくいっていると思うか」に対し、中国と日本の「思う」人はそれぞれ四〇%と四四%で、「思わない」人は二九%と四〇%であった。
(五)中日関係にマイナスな要因。中国側で列挙された理由は焦点が絞られ、日本の歴史問題に関する認識が終始一貫第一位を占めている。「中国青年の対日意識調査」では、「日本の侵略歴史に対する態度」が九三・三%である。「中日両国が世世代代の友好をするには」の問いに対し、「歴史問題を正しく解決する」と答えた人が八五・五%あった。一九九七年「中日共同世論調査」には、「日本は中国に対して戦争など過去の問題についての償いを十分してきたと思うか」の問いがあるが、中国人回答者で「十分してきた」は僅か四%に対し、「まだ不十分」は八六%であった。日本人回答者の場合にも、「十分してきた」が二六%に対し、「まだ不十分」が五八%で、高い比率を見せた。
焦点を絞った中国側の理由と反対に、日本側で列挙された理由は天安門事件、核実験、尖閣諸島、歴史問題、密入国などわりあい分散的であったが、調査時前に発生した事件と密接な関連があると見られる。
(六)中日関係の将来について。これは好感度や信頼度の減少とは対照的に、楽観視する人が非常に多い。一九八八年と一九九二年の「中日イメージ調査」では、「中日関係は今後五年間に良い方向に進むと思うか」に対して、肯定する回答が中国は五〇%と六九%、日本は八〇%と六五%であった。「国際交流は盛んにすべきだ」と思う両国民は、調査時点と場所を問わず、中日関係が冷え込んだ時期でも、圧倒的に高い比率を見せた。「中国青年の対日意識調査」では、「中日両国の友好協力関係を維持することは中国およびアジアに重要だ」との答は九五・八%であった。
言うまでもなく、今回取り上げた諸調査も、すべての世論調査と同じように、調査者の意向、問題の設定、調査時点の選択、被調査者の職業、学歴、年齢などにより、その結果は異なる。そして同じ調査内容でも、それぞれの時点、それぞれの被調査者を対象に違った結果が出るのは当然である。にもかかわらず、以上に挙げた六つの項目は中日相互認識・相互理解において代表的な問題であり、各年次の調査ではおおむね同じ結果が出たことを指摘しなければならない。 
[1]内閣総理大臣官房広報室『世論調査年鑑』、各年度。
[2]1985年2月11日付「朝日新聞」。
[3]NHK世論調査部『世論調査資料集第五集』1989年版第1084頁。
[4]1988年9月24日付「読売新聞」。
[5]1989年1月30日付「毎日新聞」。
[6]NHK放送文化研究所・世論調査部『世論調査資料集第六集』1993年版第13頁。
[7]内閣総理大臣官房広報室『世論調査年鑑』平成五年版第427頁。
[8]1992年12月23日付「毎日新聞」。
[9]1993年8月12日付「毎日新聞」。
[10]1993年11月6日付「毎日新聞」。
[11]内閣総理大臣官房広報室『世論調査年鑑』平成七年版第482頁。
[12]真鍋一史『国際イメージと広告』日経広告研究所1998年第258頁。
[13]劉志明『中国のマスメディアと日本イメージ』株式会社エピック1998年第190頁。
[14]1995年6月1日付「読売新聞」。
[15]内閣総理大臣官房広報室『世論調査年鑑』平成九年版第514頁。
[16]1996年11月9日付「朝日新聞」。
[17]1997年2月15日付「中国青年報」。
[18]1997年6月9日付「朝日新聞」。
[19]1997年9月22日付「朝日新聞」。
[20]蒋立峰主編『中日青年フォーラム論文集』世界知識出版社2000年。
[21]内閣総理大臣官房広報室『世論調査年鑑』平成十二年版第490頁。
[22]1999年9月30日付「読売新聞」。 
相互理解の「溝」

 

一、日本の中国侵略について
1中国側の態度と措置
中国政府の発表によると、日本の十四年間に及ぶ侵略戦争により、中国人死傷者は三五〇〇余万人にのぼり、経済の直接損失は六〇〇〇億ドルに達した[1]。中国近代史上において、列強諸国は相次いで中国を侵略したが、その中で、日本は侵略した期間がもっとも長く、加害が最も酷かった。これに対し、中国側はどのように考えて、どのように対応したのであろうか。歴代指導者の談話と中国政府の関連資料から、引用して見よう。
政府関係者:「日本軍国主義政府の過去八年間に亘る中国侵略戦争は、わが国の人民に対して忘れることのできない極悪非道の罪悪行為を現出した。しかしわが国の人民は、日本軍国主義者がかつてわが国の敵であったし、将来もまたそうであるということ、それにもかかわらず日本人民は、われわれの友人であるということをはっきり知っている。だから、わが国人民は中国において法律を守っている日本居留民に対して、友好的な態度でこれに接している。これらの人々は、法律を守っているすべての外国居留民と同じように、わが人民政府の保護を受けている。それに、わが国の国営や個人経営の企業で仕事している日本居留民の従業員はわが国の労働法令の保護と労働保険の待遇を受けている[2]」。
周恩来総理:「日本軍国主義者の対外侵略の罪悪行為は、中国人民及び極東各国人民に大きな損失を受けさせたばかりでなく、同時に日本人民にもかつてなかった程の災害を蒙らせました。わたしは、日本の平和を愛好する人民がこの歴史的教訓を汲み取り、日本が再度軍国主義化し再度対外侵略をするようなことを許さず、もって日本が再び過去及び現在に比べより大きな災難を蒙るようなことを避けさせるであろうと信じています[3]」。
毛沢東主席:「過去の戦争は独占資本の政府や軍国主義者たちが責任を負うべきであって、日本の人民が責任を負うべきものではありません。人民がなぜ責任を負わねばならぬ必要がありましょうか。もし負わねばならぬものとするなら、みんなが日本人民に対して反対しなければならなくなってしまう。これはとんでもないことです。過去の戦争は事実上独占資本の政府が第一に人民の意思に反し、第二に人民をだまし、第三に人民を脅迫して、肉弾として駆りたてた戦争だったからです[4]」。
周恩来総理:「われわれ両国の歴史には、二千年の友好往来と文化交流があり、両国人民は深いよしみを結んできました。われわれはこれを大切にすべきです。しかし、一九八四年から半世紀にわたって、日本軍国主義者の中国侵略により、中国人民は極めてひどい災難を蒙り、日本人民も大きな損害を受けました。前のことを忘れることなく、後の戒めとするといいますが、われわれはこのような経験と教訓をしっかり銘記しておかなければなりません。中国人民は毛沢東主席の教えに従って、ごく少数の軍国主義分子と広範な日本人民とを厳格に区別して来ました。したがって、中華人民共和国成立後、中日両国の間で戦争状態の終結が公表されていないにもかかわらず、両国人民の友好往来と貿易関係は絶えなかったばかりか、絶えず発展してきました[5]」。
ケ小平副総理:「中日両国には二千年の友好往来の歴史がある。両国間にはかつて一時期、不幸な歴史があり、そのため中国人民は大きな災難を蒙り、日本人民も少なからぬ損害を受けた。しかし二千余年の友好に比べれば、それは短期間のもので、わたしたちは未来に目を向け、子々孫々の友好のために努力しなければならない[6]」。
外交部スポークスマン:「日本の軍国主義がかつて発動した侵略戦争は中国人民とアジア各国の人民に巨大な災害をもたらしたが、その不幸な歴史を歪曲し、否定する人のいることをわれわれは容認できない。戦争の性格をあいまいにし、戦争の責任を回避しようといういかなる言動もすべて中日共同声明及び中日平和友好条約の原則と精神に反するもので、必ず戦争の被害を受けた中国及びアジアその他の国の人民の感情を傷つけ、結局は日本にとっても非常に不利になる。この重大な原則問題において、日本当局は歴史の事実を尊重する正しい態度を取るべきである[7]」。
江沢民総書記:「日本軍国主義によって、中国人民は大きな災難を蒙り、日本国民もその害を深く受けました。前事を忘れることなく、後の戒めとすべきであります。われわれは、中日関係史に於けるプラス面とマイナス面の経験と教訓をしっかりと汲み取るべきであります。中日両国が世世代代にわたる友好的な協力を堅持して始めて明るい未来を有し、それこそ双方の共通利益の所在であります[8]」。
楊尚昆国家主席:「遺憾なことに、近代の歴史において、中日関係に不幸な一時期があったため、中国国民は大きな災難を蒙りました。前のことを忘れず、後の戒めとし、歴史の教訓を銘記することは両国国民の根本的利益に合致することであります。中日双方の共通の努力によって、我々両国が二十年前に国交正常化を実現し、その後、また中日平和友好条約を締結し、善隣友好協力の広々とした見通しを切り開きました[9]」。
江沢民主席:「中日の間には二千年の交流の歴史がある。しかし最近の百年では中国は日本の軍国主義で強い損害を受けたことがある。日本国民も軍国主義の被害者と考えるべきで、その認識にたっての日本との善隣友好的な関係が中国の重要な国策だ。一九七二年の国交正常化後、中日関係は各分野で発展を遂げた。夏以来、中日間に一連の問題が生じ、こうした問題に十分注意を払い、適時、適切に対処する必要がある。中日両国は歴史を重視、未来を切り開くべきだと考えている。日本は軍事大国にならないことを希望している[10]」。
朱鎔基総理:「日本の軍国主義で(中国人民は)大きな災難を被ったが、日本人民も被害者で、人民は責任を負うものではない」。(「日本はいつまで謝罪を続けなければならないのか」という質問に対し)「今回、謝罪は求めていない。だが、一つだけ注意してほしいのは、日本はすべての公式文書の中で一度も中国に謝罪していないことである。中国はいつまでも謝罪を求めないが、謝罪するかどうかは日本人自身の問題だ」。[11]
以上、各時期における中国側の代表的な発言を概観的に見れば、日本の侵略戦争に対し、中国政府の態度は下記の三点をまとめることができると思う。(1)日本の侵略戦争により、中国人民はかつてない大きな損害を蒙った。その責任を一握りの軍国主義者が負わなければならない。広範な日本国民は戦争の被害者である。(2)前向きの姿勢で歴史問題を処理する。「前のことを忘れず、後の戒め」、「歴史を鑑として、未来を拓く」として、両国民の世世代代友好と新しい時代の中日関係を発展させようとする。(3)歴史問題を正しく認識することが、中日関係を発展させる重要な基礎であると位置づけ、侵略事実を歪曲、否定しようとするいかなる行為にも断固反対する。 
2日本側の認識と行動
侵略戦争について、日本政府には時として分裂した認識が現れる。即ち、政府が公式見解を示しているのに、政府の閣僚が政府とは全く違った見解を表明するのである。
日本政府の公式見解
中日両国政府間で調印した関連文書や日本側が発表した文書には、戦争に関する日本政府の見解は明確に記されている。
中日間における重要な文書の一つとして、一九七二年の国交正常化の際に調印された「中日共同声明」には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」との日本政府の態度が明確に記されている。その後、一九七八年の「中日平和友好条約」には、「中日共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」とある。後者には、直接「あの戦争」に関する文言はないけれども、諸原則の遵守を確認する以上、日本側の認識は変わっていないことになるはずである。
一九九五年は、戦後五十年の節目にあたり、六月九日に衆議院が採択した「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」には、「世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、わが国は過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いて行かなければならない」と指摘した。
同じ年の八月十五日、村山首相が談話を発表し、戦争について次のように述べている。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」。これは、後に「村山談話」と呼ばれ、歴史問題を問われると、日本政府はよく引用している。
一九九八年十一月、江沢民主席が訪日した。双方が発表した「中日共同宣言」には歴史問題に触れ、「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、中日関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、一九七二年の日中共同声明及び一九九五年八月十五日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる」と明記している。
以上の内容から日本政府の歴史認識を纏めると、ポイントが三つあると言えよう。(1)戦争の性質について:「戦争」、「こうした(侵略)行為」、「侵略」、「中国への侵略」と認めた。(2)戦争の責任について:「中国国民に重大な損害」、「苦痛」、「多大の損害と苦痛」、「多大な災難と損害」を与えた責任を痛感した。(3)これへの対応:「深く反省する」、「深い反省の念を表明する」、「痛切な反省の意を表し」、「深い反省を表明した」などの表現がある。田中内閣から小渕内閣にかけての二十六年間、日本側の公式見解の表現には多少の差があるけれども、最後に小渕内閣が「過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した」との表現で定着したといってよかろう。
閣僚「失言」と中日間の対応
以上の日本政府の公式見解は関連文書に明記されたので、日本側は厳守すべきである。ところが、政府見解と違った言い方や論調などが時折現れる。その中でもっとも奇異なのは現職の内閣国務大臣でありながら、その論調の波に乗った人もいたことである。
一九八六年九月五日、「文芸春秋」は藤尾正行文相の談話を載せた。氏は「侵略、侵略というが、果たして日本だけが侵略という悪業をやり、戦争の惨禍を世界中に撒き散らしたんだろうか」、「いわゆる日本の犯した罪、例えば南京虐殺事件が今度の戦争のティピカルな、日本の侵略の一番悪いところだと盛んに言われているのはいかがなものか」、「仮に侵略があったとして、侵略を受けた側にもいろいろと考えるべき問題があると私は思うんですよ」、(日韓併合)「形式的にも事実の上でも両国の合意の上で成立している。韓国側にもやはりいくらかの責任なり、考えるべき点はあると思う」と発言した[12]。これに対し、九月二十二日ニューヨークにいた呉学謙外交部長は「文相の突然の発言には非常に驚き、率直に言って怒りを感じた」、「中曽根総理の適切な処置によって、中国側としては自制の態度をもって見守っている」と非難した。韓国側も厳しく非難した。八日、藤尾文相は罷免され、二十日、中曽根首相が韓国大統領に陳謝した。
奥野誠亮国土庁長官は一九八八年四月二十二日、記者の質問に答え「白色人種がアジアを植民地にしていた。それが日本だけが悪いことにされた。だれが侵略国家か、白色人種だ。何が日本が侵略国家か、軍国主義か」、五月九日衆院決算委員会において「東京裁判は勝者が敗者に加えた懲罰だと理解している」「侵略という言葉の『略』には、侵入して土地を奪い取る、財産を奪い取る意味が含まれている。(中略)あの当時日本にはそういう意図はなかったと考えている」と発言した[13]。その後、中国からの厳しい批判を受けた。四月二十六日竹下首相は「日本政府が日中共同声明で表明した過去の歴史に対する認識に変化はない」と表明した。そして、その翌日、参院本会議で「戦前のわが国の行為が国際的には侵略だとの厳しい批判があることを十分に踏まえ、日中共同声明に述べられた歴史の認識は変わらない」と改めて表明した[14]。五月十三日に奥野は辞任した。五月十四日の北京放送は「歴史を歪曲するものは罰せられる」との奥野氏辞任に関する論評を報道し、五月二十三日の中国の有力週刊誌「瞭望(海外版)」は「奥野が侵略を弁護した背景」の論文を掲載した。六月十日、中日友好協会会長孫平化は「中日関係はなぜぎくしゃくするのか」の談話を発表し、奥野の発言を批判した[15]。
一九九四年五月四日、「侵略戦争という定義付けは、今でも間違っている。日本がつぶされそうになったから、生きるために立ち上がった」、「植民地を解放する大東亜共栄圏を確立することをまじめに考えた」、「南京大虐殺など、でっちあげだ」[16]との永野茂門法相の談話が「毎日新聞」に報道された。中国側の厳しい批判で、七日に永野は辞表を提出した。九日に羽田首相は所信表明演説で永野発言への「遺憾の意」と「侵略行為と植民地支配」への「反省」を表明した。十七日の北京週報には「日本は侵略の歴史に正しく対処すべきだ」の論文を掲載した。
一九九四年八月十二日、桜井新環境庁長官は記者会見において「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」、「アジアはそのおかげで、戦後ヨーロッパの植民地支配から独立し」、「むしろ民族の活性化につながったと思う」と発言した[17]。中国外交部スポークスマンが遺憾の意を表明し、十四日に桜井は辞任した。
一九九五年八月九日、島村宜伸文相は記者会見で「戦争を全く知らないような時代になってきておるのに、いちいち謝罪していくというやり方がいいのか」、「侵略か、侵略でないかというのは、考え方の問題ですからね」と発言した[18]。中国側は遺憾の意を表明した。十日に樽井澄夫駐中国公使が中国側に対し、島村文相の発言に関する日本政府の立場を正式に説明した。島村は陳謝の意を表した。十二日の「人民日報」は「日本の侵略の歴史を覆い隠すことは決して許されない」との評論を載せた。
一九九五年十月十一日、江藤隆美総務長官は韓国併合条約について「あれは無効だといい始めたら、国際協定は成り立たない」、「強い国と弱い国、他に方法がないわけだから、心理的圧迫、政治的圧迫があって結ばざるを得ない。あの時は自分の国が弱くてやられたのだから、仕方なかった」、「(植民支配の中で)日本はいいこともした」と発言した[19]。十月十四日、中韓首脳会談後の記者会見で、江沢民主席は氏の発言にふれ、日本の誤った歴史認識を批判した。
一九九五年十月二十四日、橋本龍太郎通産相は国会答弁において、かつて日本が起こした戦争について「侵略であったのかと言われれば、言葉の定義の問題として、必ずしも侵略であったかどうか、なかなか微妙な部分になる」[20]と述べた。二十七日に中国外交部スポークスマンは侵略戦争の歴史を歪曲したと批判した。
以上のように、日本の閣僚や政治家に侵略戦争の美化・否認などの「失言」が相次いで現れた。それによって、両国関係は常に歴史問題に焦点が絞られ、それについての交渉は「失言―批判―釈明―再失言―再批判―再釈明」という悪循環を繰り返した。 
3結び
歴史問題に関して、中日間の認識と行動には、数多くの不一致が存在している。そして、しばしば外交問題の種となった。
(1)中国は日本の侵略により大きな被害を受けた。それにもかかわらず、中国政府は広範な日本国民と一握りの軍国主義者とを区別し、前向きの姿勢で中日関係を発展させている。その政策は国交正常化以前も国交正常化以後も終始一貫してきた。アンケート調査に現れた「中国人の心が広い」は日本人がこの事実に納得した結果と言えよう。それに反し、日本側の認識は国際文書である二国間共同声明と政府見解があるにもかかわらず、人により千差万別である。前述した失言閣僚ばかりでなく、侵略事実を美化、否定しようとする政治家、団体と民間人がいる。
(2)あの戦争に関する同じ文書内容に対し、中日両国の理解は違う場合があるかも知れない。一九七二年に調印された「中日共同声明」には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と書いてある。これに対し、中日双方はそれぞれどう理解したのであろうか。今振り返って見れば、研究の余地があるといわざるを得ない。中国側の理解では、ここには「侵略戦争」と直接書いていないけれども、日本の中国侵略の事実は言うまでもなく、自明なことであり、誰も否定できないものである。そして、国際社会も認めたものであった。日本側は「責任を痛感し、深く反省する」の意を表明したことに鑑み、中国側は「中日両国国民の友好のために、日本に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したわけである。
一方、日本側は「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という文言で表現した。ここには、ただ「戦争」という言葉を使って、あの「戦争」が侵略戦争かどうかは明言していなかった。国交正常化の交渉に参加し「中日共同声明」に署名した田中首相は、一九七三年二月二日に衆議院予算委員会で質問に答え、「侵略であったかなかったかという端的なお答えは、後世史家が評価するものであるということ以外にはお答えできません」[21]と言って、あの「戦争」が侵略戦争とは認めないことを明らかにした。これは、田中本人の認識を示したばかりでなく、日本社会における一部の人びとの考えを代表したと言えよう。田中から現職の小泉までの歴代首相十七人の中で、中曽根、細川、羽田、村山、小渕と小泉氏は表現が違ったけれども、「侵略事実」、「侵略行為」、「侵略戦争」と認めたが、他の首相は直接には認めなかった。
(3)言葉の表現について両国の理解が違う。ここで言葉の表現と理解とは、日本側は「あの場合に」自分の意図を表す言葉で表現した。けれども、中国側が受け止めた意味は日本側の表現したいものとはかなりの隔たりがある、ということである。これは国交正常化の交渉から現れた。北京に到着した日、田中首相は歓迎宴のスピーチの中で、戦争中、「中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて深い反省の念を表明する」と挨拶した。しかも「多大なご迷惑をおかけした」を「添了很大的麻煩」と中国語に訳したところ、在席の中国人は非常に不快になった。翌日、周恩来総理は会談の場で「これは道路で水をまいていたら通行人のスカートに水がかかった時に言う程度の謝罪」と怒った。「これは日本語での最高の表現」と、田中首相は反論した。その後の毛沢東主席と面会した時、毛主席が最初の言葉として、「もうけんかは済みましたか」と田中総理に聞いたという話がある。
中日共同声明に日本側は「責任を痛感し深く反省する」と明記、そして一九九二年十月の天皇訪中の際、「この両国の関係の長きにわたる歴史において、わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」との晩餐会での「お言葉」があった。あれは「実に外交上の謝罪だ」と一部の日本人は見なしているようである。専修大学教授で、日中二十一世紀委員会日本側座長を務めた岡部達味は「ここには確かに『謝罪』とか『お詫び』とか言う字句はないが、この日本語は極めて真摯な謝罪と反省を表す言葉である」、天皇の「最大限の真情の吐露である」のに、「日本語と中国語のニュアンスの違いが相互によく分かっていない」から、日本側の「謝罪の言葉」は中国側に「無視された」と主張している[22]。
ここで、日本語の「反省」は、「極めて真摯な謝罪と反省を表す言葉」という意味になるが、中国人にとってはそう思えない。日本語の辞書を開いて見たら、反省とは「自分の行為をかえりみる[23]」、お詫びとは「あやまること。謝罪すること[24]」である。中国人にとって、「反省」はただ反省の意味で、「謝罪」や「お詫び」の意味として受け止めていない。従って、江沢民は訪日中、日本側に「お詫び」を要求したし、朱熔基は「日本は公式文書の中で一度も中国に謝罪していない」と発言したわけである。中日双方は言葉表現の面でも理解の違うところが国交正常化交渉当時からあったのではないかと思われる。
(4)日本の侵略戦争により中国人は大きな被害を受けた。その辛さと悲しさは中国人の心に残る傷口である。本来、国交正常化をきっかけとして、昔の不幸な歴史を区切って、前向きで新しい関係を発展させようと中日双方は思っている。ところが、日本側には侵略戦争を美化したり、侵略事実を歪曲したりする言論が繰り返し現れた。これはまるで中国人の傷口に針を刺すような行為である。中国側が侵略事実を歪曲するいかなる言論と行動にも反対、批判するのはそのためである。歴史問題を正しく認識することを中国側は最重要視して、妥協できない立場を堅持している。もし、日本側には上記のような言論がなかったならば、中日関係はより順調に発展したと考えられる。 
二、靖国神社公式参拝について
1靖国神社と公式参拝
明治維新直後、日本新政府はその政権樹立の過程において亡くなった軍人の英霊を祀るために、一八六八年に京都に東山祠を建て、翌年、東京九段に招魂社を建てた。これをきっかけに、このような神社が全国にあいついで建てられた。一八七九年、招魂社は靖国神社と改称した。創設された当時、靖国神社は他の神社と変わる所がなかった。ところが、侵略戦争の拡大につれて、靖国の地位がだんだん高まってきた。庶民を祀る神社から「別格官弊社」という高い社格と、社領一万石という、国家神道の総本山伊勢神宮に次ぐ待遇を得た。その管理は陸海軍省の管轄下に置かれ、宮司は元陸海軍大将でなければならない。戦死者を合祀する臨時大祭には、政界軍界の要人が揃ったばかりでなく、天皇が自ら参拝するという、いわば天皇と軍隊と神社が完全に一体になった軍事的宗教施設[25]として、対外戦争に特別な役割を果たした。「おい、靖国神社で会おうぜ」という言葉は、死後の誇りとして当時軍隊で流行した挨拶である。
戦後、GHQの「神道指令」と「憲法」の政教分離の規定に従って、靖国神社の地位はすっかり変わって、他の神社と同じように宗教法人の一つとなった。しかし、社内には依然として、明治維新から第二次世界大戦終戦までに戦没した二五〇万余人を合祀している。ただし、遺骨があるわけではなく、「霊璽簿」への記名によって戦没者は「神」になる。神社側の発表によると、御祭神(戦没者)の内訳は次の通りである。明治維新七、七五一柱、西南戦役六、九七一柱、日清戦役一三、六一九柱、台湾征討一、一三〇柱、北清事変一、二五六柱、日露戦役八八、四二九柱、第一次世界大戦四、八五〇柱、済南事変一七、一七五柱、支那事変一九一、二一八柱、第二次世界大戦二、一三三、七七八柱、その他を含め合計二、四六六、三六四柱である[26]。その内に、東条英機等A級戦犯七人とその他の戦犯七人、延べ一四人を含んでいる。
今日の靖国神社は東京名所の一つになったが、境内に立ち入ると、気持ちが一変する。記念石碑、記念灯台、記念植樹などの戦争関連記念物がいっぱい目に付く。拝殿に向かって、右手奥の遊就館には戦死した軍人が使った武器、身の回り品、その事跡と写真、模型などが数多く展示されている。その中に、対外戦争ことに中国侵略と関連あるものがたくさんある。始めから終わりまで見ると、「侵略」や「対外侵略」の印象がまったくなく、まるで英雄業績記念館のような気がする。
むろん靖国神社が内外で問題になったのはその展示品ではなく、首相の公式参拝から始まったのである。前述したように、戦後初期、GHQの神道指令と憲法の政教分離の規定に沿って、靖国参拝に行く首相はいなかった。一九五一年九月、サンフランシスコ対日講和条約と日米安保条約が調印され、十月、戦後初めての靖国神社秋季例大祭に、吉田首相、衆参両院議長らが初めて参拝した。その後、七〇年代までに、鳩山と石橋両首相以外は、全ての首相が靖国春秋例大祭に行った。ただし、当時の参拝はただ毎年四月と十月の春秋例大祭に止まり、八・十五終戦日に参拝することはなかった。七〇年代に入り、国際情勢が激動する一方、自民党は靖国法案を国会に何回提出しても最後に廃案となり、やむをえず断念した。そこで方針転換の一つとして、「国家護持」から「公式参拝」への転換を模索した。一九七五年八月十五日、即ち敗戦三〇周年の日、三木首相は「私人」として靖国神社に参拝した。「私人格」を表すために、三木は<1>公用車を使用しない。首相車の代わりに、自民党総裁車に乗った。<2>肩書きをつけない。記帳の際には内閣総理大臣の肩書きなしで、ただ三木武夫と書いた。<3>玉串料は公費から支出しない。ボケットマネーで出した。<4>公職者を随行させない、というふうに慎重に取り扱った。こうして、終戦記念日に初めて首相の靖国参拝を実現した。一九七八年八月十五日、福田首相の参拝はやはり「私人」とされたけれども、首相乗用車に乗って、内閣総理大臣福田赳夫と記帳した。一九八二年八月十五日、鈴木首相は閣僚全員を率いて、「公私の区別を答えない」方針に従い大挙して参拝した。「公私の区別を答えない」と言えども、事実上の公式参拝を実現し、政府のもくろみはさらに一歩前進したとマスコミは指摘した。
一九八五年八月十五日、敗戦四十周年を迎えた。中曽根首相は「戦後政治の総決算」の一環として、戦後初めて「首相格」として靖国神社に公式参拝した。この行動は中国や韓国などアジア諸国から強い批判を受けた。一九九六年七月二十九日、外交事情を考え、橋本首相は早めに靖国参拝した。「私人」としながらも、内閣総理大臣と記帳した。二〇〇一年四月、自民党総裁選の際、小泉純一郎は八月十五日にいかなる批判があろうと必ず参拝すると明言した。首相になってから、彼は何度も同じ内容の話を繰り返したが、中韓諸国からの予想以上の反対と批判を受けた。八月に入って、靖国参拝は一時内外の焦点となった。結局、「熟慮」の末に、小泉は公表した参拝日を前倒しするという形で、八月十三日に参拝の足を踏み出した。今年の四月二十一日、「一年一度」ということで、小泉首相はもう一度靖国神社を参拝した。以前の首相参拝と比べると、私的参拝か公式参拝かの議論はもはや意味を失った。それにしても靖国参拝を自民党総裁選中で明言し、参拝を恒例化しようとする動きは異例である。 
2首相の心境と日本国内の反応
なぜ、八月十五日に首相は靖国参拝をしなければならないのか。首相本人はどう考えたのか。首相の本音を捉えるのは相当難しいので、とりあえず新聞などに載った発言と記事から分析して見よう。
一九八五年、中曽根の公式参拝の前日、藤波官房長官はこれについて談話を発表し、次のように述べた。「明日八月十五日は、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』であり、戦後四十年にあたる記念すべき日である。この日、内閣総理大臣は靖国神社に内閣総理大臣としての資格で参拝を行う。これは、国民や遺族の方々の多くが、靖国神社をわが国の戦没者追悼の中心的施設であるとし、同神社において公式参拝が実施されることを強く望んでいるという事情を踏まえたものであり、その目的は、あくまでも、祖国や同胞等を守るために尊い一命を捧げられた戦没者の追悼を行うことにあり、それはまた、併せてわが国と世界平和への決意を新たにすることでもある[27]」。ところが、十年後、靖国参拝した当時の気持ちを振り返って、中曽根本人はこう語った。「英霊たちは、靖国神社以外に先ず帰ってくる場所がないわけで、一度ここに戻って、それからそれぞれの家のお墓に入るわけです。キリスト教徒であっても、神道に帰依するものであっても、それは一緒です。それなのに国家の行政権の長である総理大臣が来ない。ひと言、『ご苦労さま』というべきなのに、それをしない。国家として、これは契約違反ではないか。マッカーサーが日本にいる間はしょうがなかったとしても、もういないんだから、一回くらいお参りしたらどうなのだ。英霊たちはそう思っているに違いないと、私は感じていたわけです。国家は、彼らが戦死したら靖国神社に祀ると約束したのですからね。そんなふうに考えていたものですから、総理になって、ちょうど戦後四〇年の節目の年、昭和六〇年に、総理として堂々と参拝したいと思い、懇談会を作り答申を求めた。公式参拝違憲にあらずということをはっきりさせてから行きたかったのです[28]」。
次の年、即ち一九八六年八月になると、周辺諸国の強い反対に鑑み、今年、首相が靖国参拝するかどうかは、再び内外の関心事となった。これについて、八月十四日に後藤田内閣官房長官は談話を発表し、「昨年実施した公式参拝は、過去におけるわが国の行為により多大の苦痛と損害を蒙った近隣諸国の国民の間に、そのようなわが国の行為に責任を有するA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては、わが国がさまざまな機会に表明してきた過去の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある」。「政府としては、これらの諸般の事情を総合的に考慮し、慎重かつ自主的に検討した結果、明八月十五日には、内閣総理大臣の靖国神社への公式参拝は差し控えることとした」。しかし「今回の措置が、公式参拝自体を否定ないし廃止しようとするものでないことは当然である」と言った。
けれども、中曽根本人の考えは以上の公式談話内容と随分ずれていたようである。
一九九六年、中曽根は「中国の要人を守るため参拝を断念」したと強調し、次のように述べている。「本当のことを言うと、この年に靖国神社に参拝しなかったのは、胡耀邦のためだった。胡耀邦が追放される危険があるから、彼をまもるためにいかなかったのです[29]」。
一九九六年六月、インタビューを受けた中曽根は、次のように述べている。「戦前は戦死したら靖国神社に祭られるというのが、ある意味において国家の約束事でした。(それなのに)戦後は総理大臣が公式参拝できないのは契約違反ではないか、と。一回はお参りしないと申し訳ない。それで戦争が終わって四〇年の節目に実行したんです」。「ところが、中国側の反応が激しくなって、外交関係を考えてしばらく休もう、となった。もう一つ、胡耀邦が(中曽根の靖国参拝で)保守派から弾劾されて地位が危ないという情報が入ってきて、進退に及ぶのではよくないということもあってやめたのです」。「A級戦犯が合祀されていることを、その当時、我々は知らなかったんです[30]」。
二〇〇二年、靖国参拝について、中曽根はもう一度繰り返して次のように語った。「わたしは一九八五年靖国神社に参拝して翌年止めたのは、胡耀邦が危ないというのなら、止めたほうがいい。それが実は私の動機にあったんです[31]」。
以上の話をまとめてみると、中曽根の当時の心境は<1>総理大臣で靖国参拝しないことは、国として契約違反である。<2>A級戦犯を合祀していることは知らなかった。<3>翌年やめた理由は胡耀邦を守るためである。
さて、小泉の考えはどうだろうか。二〇〇一年八月までの発言を聞いて見よう。
「戦没者たちに敬意と感謝の誠をささげるのが政治家として当然。まして、首相に就任したら、八月十五日にいかなる批判があろうと必ず参拝する[32]」。
「総理大臣として靖国神社に参拝するつもりだ。日本人としてのこの気持ちは、自然な人間の気持ちではないか[33]」。
「靖国参拝は軍国主義を賛美するとかいうのは誤解や偏見に基づいている。日本人というのは、敵味方にこだわらずに死者を悼む気持ちを持っている[34]」。
「八月十五日は日本国民にとって大事な日だ。中国にしても韓国にしても、何か不快な念を持たれるのだったならば、不快な念を取り除くような相互理解と友好関係の改善を図っていく[35]」。
「心からの哀悼の誠を捧げる行為が憲法違反になるとは思わない。首相として参拝する必要がある」。「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。一握りのA級戦犯が合祀されているということだけで、死者に対してそれほど選別しなきゃならないんだろうか[36]」。
「参拝してから、どういう改善方法があるかを考える。幅広く冷静に対処したい[37]」。以上の話を聞いて、小泉の参拝立場と決心が如何に固いかは、誰でも見ることができるだろうと思われる。ところが、内外の情勢を「熟慮」した後、八月十三日に突然前倒しして参拝した。
これに対し、小泉は「首相の談話」の中でこう説明した。「終戦記念日が近づくにつれて、内外で私の靖国参拝是非論が声高に交わされるようになりました。その中で、国内からのみならず、国外からも、参拝自体の中止を求める声がありました。このような状況の下、終戦記念日における私の靖国参拝が、私の意図とは異なり、国内外の人々に対し、戦争を排し平和を重んずるというわが国の基本的な考えに疑念を抱かせかねないということであるならば、それは決して私の望むところではありません。私はこのような国内外の状況を真摯に受け止め、この際、私自らの決断として、同日の参拝は差し控え、日を選んで参拝を果たしたいと思っています。総理として一旦行った発言を撤回することは、慙愧の念に堪えません。しかしながら、靖国参拝に対する私の持論は持論としても、現在の私は、幅広い国益を踏まえ、一身を投げ出して内閣総理大臣としての職責を果たし、諸課題の解決にあたらなければならない立場にあります[38]」。
後日、小泉は「私の内閣の最大の役割は経済再生、構造改革だから、それに全力を振り向ける環境をどう整えるかという判断もあった」と述べた。もし、十五日参拝を強行すれば政権の運営、ひいては改革路線に悪影響を与えるため回避したとの認識を明らかにした[39]。
さて、首相の靖国参拝に関して、日本国内はどう反応したのであろうか。大体、賛否両論がある。賛成論者には、主に自民党、保守系議員を主とする政治勢力、「日本遺族会」、「英霊にこたえる会」を中心とする団体や民間人などがある。廃案になった「靖国神社法案」第一条には、「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊敬の念を表すため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事などを行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」とあり、その主張を代表するものであろう。
反対の側は、一部の野党、宗教団体を含め、主に民間人であり、政治勢力としては弱い。反対側の主張は多種多様であるが、大体五つのタイプに分けられると思う。<1>憲法違反論。憲法第二十条「いかなる宗教団体も国から特権を受けてはならない」との政教分離の原則に違反すると主張する。ここ十年、首相靖国参拝と政教分離をめぐる訴訟が相次いで起こり、「違憲」、「違憲の疑い」の判断が出た。一九九一年一月、仙台高裁が首相らの公式参拝について、「宗教的意義をもち靖国神社の活動を援助する効果がある」と、初めての違憲判断を出した。一九九二年七月、大阪高裁は「宗教的活動にあたる疑いが強く、憲法違反の疑いがある」。一九九七年四月、最高裁は玉ぐし料の「公費支出は憲法が禁止した宗教的活動にあたる」と判断した。二〇〇一年十一月、国と首相、靖国神社を相手に参拝が違憲であるとの確認、今後の参拝差し止めを求める訴訟が大阪、松山両地裁で起された。原告の中には、かつて日本の植民地支配下にあった韓国から来た旧日本軍人の遺族らもいる点が注目される[40]。<2>旧役割復活反対論。靖国は普通の神社と異なり、戦争中、精神面において特別な役割を果たした。六十八歳の広島被爆者団体連絡会議の近藤幸四郎事務局長は「国民を戦場に駆り立てた精神的シンボルとしての靖国神社の性格は、変わっていない。その指摘に答えることなしに参拝を断行したことは、将来に大きな禍根を残す」。「若い人の中には、原爆慰霊碑への参拝も靖国神社への参拝も、死者への弔いでは同じことだと考えている人がいるが、戦意高揚のための施設である靖国と慰霊碑とでは、その性格はまったく違う。私らの世代は肌で分かっているが、そのことを教えられていない若い人たちがたくさんいる」。七十三歳の長崎平和推進協議会継承部の川原竹一は「私は陸軍少年航空兵で、戦死して靖国神社にまつられるのは名誉と教えられたが、参拝にはそうしたかつての靖国神社の役割を復活させようという狙いがあるのではないか」と批判した[41]。<3>侵略戦争論。中江要介は一九八四年から一九八七年にかけて中国大使を務め、現在では日中友好協会全国本部副会長、日中関係学会会長を担当し、日本では有数な知中派の一人であるといわれる。二〇〇一年八月十五日を前に、氏は「総理は靖国公式参拝を決行すべきではない」。「これは政教分離といったレベルの問題でなく、日中間の外交問題として、極めて微妙な問題であることを知らなければならないのですが、日本の政府首脳はそのことがまだ分かっていないようです」。「首相が公式参拝することで、A級戦犯まで戦争に殉じた人々としてその名誉を回復することを国民に示したとなると、何もあの戦争は悪い戦争ではなかったということを国民に納得させようとしている」とはっきり言明した[42]。日本共産党も首相の靖国参拝に反対した。八月一日の声明には「A級戦犯を『昭和殉難者』としてあたかも戦争犠牲者として合祀している靖国神社への参拝は、政府が侵略戦争を肯定する立場を公然と内外に表明することを意味する」と指摘した[43]。<4>梅原「二元論」。京都市立芸術大学長、国際日本文化研究センター所長などを歴任し、大佛次郎賞、文化功労者を受賞した梅原猛は、中曽根首相時代、「閣僚の靖国参拝問題に関する懇談会」のメンバーであったが、反対者の立場で存在した人である。彼は学者として、「学問的懐疑と政治的配慮」の次元から、靖国参拝に反対した。「靖国神道は、明治以後に生まれたものです。つまり古事記神道と違う。古事記神道を簡単に言うと、伊勢神宮とともに出雲大社を手厚く祀れということです。ところが出雲大社は皇室の祖先であるニニギノミコトがこの国来る以前に、この国を支配していたオオクニヌシ一族を祀っている。いわば皇族の敵です。いまの皇室の祖先が自分たちが倒し征服した前の王朝を出雲に祭って、自分たちの本拠地である伊勢よりも大きな神社を建てた。日本の在来の神道では、このように、神社というのは自分の祖先を祭るものもありますが、自分たちが征服し倒した相手の鎮魂のために建てたものも多い。伊勢と出雲というのは、祖先神と敵方を共に祀れということです。ところが靖国神道は、その日本在来の神道とは違う。それは味方だけを祀って敵を祀らない。私は前前から靖国神道は伝統の神道に明治以後のヨーロッパから学んだ国家主義の影響が強く加わったものではないかと思っていたのです。それが公式参拝に全面的に賛成できない第一の理由です。もう一つの理由として、総理大臣が公式参拝すると、韓国や中国がクレームをつけるに違いないという政治的心配がありました。クレームをつけられて、参拝を止めるとなると、国の権威が傷つけられる[44]」と述べた。<5>参拝時期論。参拝自体には反対しないが、ただ国政の事情を考えると、八月十五日その日の参拝には反対する。自民党幹部と野党議員の一部はそのタイプに属する。
二〇〇一年六月、毎日新聞の全国世論調査では、八月十五日の首相参拝について、「参拝してよい」が六十九%に対し、「すべきでない」が二十一%で、国民の高い支持率を見せた。ところが、前倒し参拝してから、八月十八日、同じく毎日新聞の全国世論調査では、「八月十五日でなく十三日靖国神社を参拝した小泉首相の判断は」と聞いたところ、「よかった」との回答が六十五%を占め、「悪かった」の二十八%を大きく上回った。「よかった」と考える理由は、「中国や韓国などに配慮している」が三十九%と最も多く、「首相の柔軟な姿勢が評価できる」三十一%、「国のために亡くなった人たちを慰霊できる」二十九%の順だった。「悪かった」と考える理由は、「中国や韓国などの圧力に結局屈している」が三十三%と最も多く、「靖国参拝は政教分離に反し、憲法違反の疑いがぬぐえない」と「小泉首相が周囲に妥協し過ぎている」が同じ三十二%である。中国や韓国の参拝中止要求について「理解できる」との回答も四十五%に上っており、国内外から反発の強かった終戦記念日の参拝を避けたことが、高い評価につながったとみられる[45]。
東京大学大学院情報学環教授田中明彦は小泉の参拝を「拙劣な靖国参拝」と評価し、「靖国神社に公式参拝すれば、中国と韓国の関係は決定的に悪化するかもしれないと危惧され、また、参拝を取りやめれば、有言実行という小泉首相のイメージは地に落ちると思われた。結局、小泉首相の取った選択は『足して二で割る』と言う典型的な政治的妥協」であった。従って、「世界的な各種メディアの報道で、小泉首相の行動が正しいとした意見はほとんどなく、通常は日本に対して同情的なメディアでも、おおむね批判的な見解ばかりであった[46]」と指摘した。 
3中国側の態度
靖国公式参拝に対し、中国側は終始一貫反対している。一九八五年八月十四日、中国外交部スポークスマンは「中曽根総理など日本の閣僚がもし靖国神社に参拝すれば、世界各国人民、特に軍国主義の大きな被害を蒙った中日両国人民を含むアジア各国人民の感情を傷つけることとなろう」と発言した。公式参拝してからの八月二十二日、新華通信社は「侵略戦争の性質を曖昧にできない」の論評を出し、閣僚の靖国公式参拝を厳しく非難した。九月十九日、同スポークスマンは「九・一八事変の談話」で、A級戦犯が合祀されている靖国神社を日本の首相、閣僚が公式参拝して、「中国人民の感情を著しく傷つけた」と強く反発した。これをきっかけに、中国側は日本軍国主義への警戒心を高めてきた。八月二十九日、小平が北京で田辺社会党書記長と会見し、「われわれが心配しているのは日本の軍国主義分子の動向である」と言明した。九月三日、彭真全人代委員長は北京の抗日戦争反ファシズム戦争勝利四十周年記念式典において、「日本では、少数の者が軍国主義の復活をたくらんで策動していますが、これは中日両国人民の念願に背くもので、中日友好と世界平和に不利であります」と同じ内容を指摘した。九月十八日、北京大学の学生約一、〇〇〇人が天安門広場で反日デモを行ない、「日本軍国主義の復活と経済侵略反対」を呼びかけた。
一九九六年七月二十九日、橋本首相は靖国参拝をした。七月三十一日の「人民日報」には「日本政界要員は補習しなければならない」と題する論文を掲載し厳しく批判した。
二〇〇一年四月、小泉は橋本と麻生両氏を破り、自民党総裁になった。小泉が何度も靖国参拝と発言したことに対し、中国側は非常に不満で、批判するばかりか、阻止しようとする姿勢も見せた。五月に訪中した田中外相と会談した唐家旋外交部長は、「これまで八〇年代と九〇年代に二回ほど同様の問題が発生した。靖国公式参拝は日本のイメージに極めて消極的な影響をもたらした。仮に首相の身分で公式参拝になれば、中日関係に重大な影響をもたらすであろう。中国の諺に言う『雪に霜を加える=泣き面にハチ』になろう。日本側として、被害者の感情を考慮し国際協調の精神に則り、これまで行ってきた約束を守ってほしい」と述べた。
八月十三日、小泉が靖国参拝したことに対し、中国側はこれまでになかった厳しさで批判した。十三日午後、王毅外交部副部長は阿南日本大使と緊急会見して、中国側の強烈な不満と憤慨を表明するとともに、中日関係の政治基礎を害し、中国人民とアジア被害国人民の感情を傷つけ、今後の中日関係の発展にマイナスの影響を及ぼすに違いないと指摘した[47]。教科書問題、李登輝来日とセットして、中国国内には抗議のキャンペーンと小泉批判の気運が一段と盛り上がった。対抗措置として、一時、在日中国大使を引き上げるなどの報道さえ流された。中日関係は一時「一九九六年の最悪期より最悪」になったと言われるほどであった。
ところが、十月八日小泉首相は急に「日帰り」で訪中し、中国人民抗日戦争記念館を訪れ、「戦争の悲惨さ、中国人の悲痛さを見て取れた、お詫びと哀悼の気持ちを持って展示を見た、過去の反省に立って教訓を生かさなければならない」と述べ、中国側の納得を得て、事態を収拾したのである。
事態が回復したかに見えた半年後、二〇〇二年四月二十一日午前中、小泉首相は突然「一年一度」の靖国参拝をした。中国側は直ちに「いかなる形式、時間であれ、日本の指導者がA級戦犯の祀られている靖国神社に参拝することに断固反対する」との談話を発表し、阿南駐中国大使を呼び抗議した[48]。 
4結び
首相の靖国公式参拝について分析する場合、参拝の事実のみを取り上げて、両国民の心中にある思想、文化、伝統などに触れなければ、十分な説明とは言えないだろう。ところが、これを理解するのは相当困難である。
(1)日本では人が生きている時に、あの人はいい人だ、あの人は悪い人だとよく評価する。ところが、人が亡くなった後で、こういう議論は一時的に聞かなくなるのである。なぜかと質問すると、死者についての悪い話をするのは良くないことであるとの伝統があるという。昭和天皇の在位中、日本社会では天皇の戦争責任についてさかんに議論されたが、亡くなってから、その議論が急に止まったようである。「自粛」の一言の前に全ての言論が沈黙した感すらあった。また小渕首相は在任中、与野党からの攻撃、国民からの不満の声を数多く受けたけれども、彼が急に倒れてしまうと、そうした声が突然消えた。大平元首相の死と同じように、意外なほど国民の同情を得た。日本では人が亡くなると、すべて仏様になるという。これと反対に、中国では人への評価は、生死とは関係がない。いい人なら、亡くなったとしても、いい人だ。その業績は「彪柄千秋=功績もいつまでも残す」である。悪い人なら、亡くなっても、悪い人間の評価は変わらない。このような人は「遺臭万年=悪名を後世に残す」である。東条英機らの戦犯は侵略戦争を起こし、それにより、数多くの罪のない人の命を奪ったから、「遺臭万年」の悪い人である。彼らに対し、歴史の指弾以外はないと思われる。中国の杭州には岳王廟がある。岳飛の墓とその墓前の秦檜夫妻の縛られた鉄像を見れば、中国人の「愛」「憎」の伝統文化が分かろうかと思う。
(2)日本の侵略により、中国人は大きな被害を蒙ったが、日本国民も災難を蒙ったし、約三〇〇万人の死者を出した。この数字はもちろん中国側の死傷者の数とは比べものにならないほどのものである。それにもかかわらず、中国側はその遺族の気持ちと悼み心を理解している。従って、中国側の靖国参拝反対は遺族一人一人の参拝に対してのではなく、首相が国を代表して行う公式参拝に反対するのである。
(3)A級戦犯が合祀されて以来、首相の靖国参拝はすべての首相が行ったのではない。そして八月十五日前後に公式参拝した首相はただ二人しかいなかった。八月十五日は日本軍国主義敗戦の日であるが、中国、朝鮮、韓国の人々にとって「十四年間にわたる抗日戦争勝利」の日、「祖国光復」の日でもある。軍国主義敗戦の日に、戦争時代の精神的なシンボルで、戦犯を合祀している靖国神社を公式参拝することは何を意味するか。中国人の理解では、靖国神社には東条英機らA級戦犯を合祀しているから、首相の公式参拝は――彼らを記念し――侵略戦争を肯定し――侵略事実を美化・歪曲する、ということを意味する。従って、断固として反対すべきである。「日本人と連想すると東条英機」、「日本と言えば抗日戦争」。アンケート調査から見たように、日本の侵略は中国人の心に悲惨な傷跡を残した。首相の公式参拝と聞くと、非常に憤慨するのである。その心情は被害者でないと理解できないだろう。従って日本の侵略と植民地支配下にあった中国・韓国を含めアジア諸国からの反発を招いたのは当然である。この点に関しては、中江要介が言ったように、中国人にとっては「靖国神社に参拝することが問題ではなく、A級戦犯が合祀されていることが問題[49]」なのであり、中国の事情が理解でき、問題の急所を突いている。最近の新聞によると、古賀誠は日本遺族会長になってまもなく、四月二日、わざわざ訪韓し、靖国問題について遺族会の立場を説明し韓国側の理解を求めたが、「韓国側の理解が得られない」まま帰国したという[50]。 
三、対中ODAについて
1対中ODAの経緯と実績
中日国交正常化以来、日本政府は中国に多額な経済協力を供与し、中国現代化建設の協力に力を入れた。中日両国民によく知られる対中ODA(政府開発援助)がそれである。対中ODAは大平内閣時代から始まったものである。
一九七九年十二月、大平首相が訪中し、中国の華国鋒総理と会談した。大平訪中最大の成果といえば、両国首脳が中日関係と国際関係について意見を交換したこととともに、中日文化交流協定の調印と対中経済協力の合意であった。
会談の様子について、中国のマスコミは「会談は終始穏やかな雰囲気の中で行われ、円満に成功をおさめた。会談が終わると、双方の参加者は熱烈な拍手をした」と報道された[51]。会談で大平首相は中国の現代化努力に対し、日本として、できる限りの協力をすることを表明した。会談が終わった十二月七日、大平首相は全国政協講堂で「新世紀を目指す日中関係――深さと広がりを求めて」と題する講演を行った。氏は文化交流と経済協力について次のように述べている。「世界の国々が貴国の近代化政策を祝福すべきものとして受け止めているのは、この政策に国際協調の心棒が通っており、より豊かな中国の出現がよりよき世界に係わるとの期待が持てるからに他なりません。わが国が中国の近代化に協力するとの方針を強く打ち出した所以も、わが国独自の考え方に加えて、このような世界の期待に裏打ちされているからであります。この立場に立って、私は、貴国の努力に対して、わが国が積極的な協力を惜しむものではないことを、ここに皆様にお約束いたします。このたび、私は、わが国は貴国の要請に応え、貴国におけるいくつかの優先度の高い港湾、鉄道、水力発電などの基本建設プロジェクトに対し、政府ベースの借款を供与することを表明いたしました。これは、日中間の新たな側面での協力がその第一歩を踏み出したものとして極めて意義あることと考えます。さらに私は、貴国の指導者に対して、わが国が技術協力、あるいは留学生の受け入れを始めとする文化学術面などにおいて、貴国の人造りに積極的に協力していく用意があることを表明いたしました[52]」。
その後、日本政府は対中ODA「基本方針」と「三原則」をまとめて発表した。基本方針には「(イ)中国は、我が国と地理的に隣接し、政治的、歴史的、文化的に密接な関係にあること、(ロ)我が国と中国との安定した友好関係の維持・発展が、アジア太平洋地域ひいては世界の平和と繁栄につながること、(ハ)経済関係において、二国間政府ベースの経済協力、民間の投資・貿易、資源開発協力等を含む幅広い分野にわたって、その深さと広がりを増して発展してきていること、(ニ)中国は、経済の近代化を最優先課題として位置付け、対外開放政策及び経済改革を進めていること、(ホ)広大な国土面積と多数の人口を有し、一人当たりGNPが低く、援助需要が高いこと、等を踏まえ、中国の改革・開放政策に基づく近代化努力に対し、できる限りの協力を行うとの方針の下、中国の自主的な経済開発、民生向上に向けた努力に対し支援を行っている」との内容がある。三原則とは、<1>西側諸国と協調すること、<2>他のアジア諸国、とりわけASEAN諸国とのバランスを考慮すること、<3>軍事面の協力を行わないことにするということである。大平訪中をきっかけに、日本政府は対中ODAを定め、中国への経済協力は本格的にスタートした。
対中ODAは有償資金協力、無償資金協力と技術協力で構成される。有償資金援助は円借款とも称するが、対中ODA全体の大半を占めている。円借款は主に運輸、通信、電力などのインフラの整備、省エネルギー、大気汚染の防止についての環境保全、農業技術開発などの大型プロジェクトの建設資金として使われる。一九九九年度まで、中国はのべ四回円借款を利用し、累計総額は二四、七〇七億円に達した[53]。これは世界各国の対中借款総額の四〇%以上にあたる。改革開放以来、中国で建設された大型プロジェクトには円借款が供与され、その項目は一一二件にのぼる。例えば、京秦鉄道、南昆鉄道、上海浦東空港、武漢長江二橋、北京汚水処理場、重慶、大連、貴州三都市の環境保護項目、北京地下鉄二期工事、北京空港ターミナルなどの建設費用の1/4ないし1/3ほどが円借款で支えられている。
無償資金協力の利用は主に農業、医療保健、教育、環境保全など国民の日常生活と密接に関わる項目に限定する。一九九九年度までの対中無償資金協力の累計総額は一、一八六億円に達し、世界の対中無償資金協力総額の約二十五%を占めている。中日青年交流センター、中日友好環境保全センター、中日友好病院などが無償資金で建設されたのである。
技術協力は以上の資金提供や借款と異なって、文字どおり技術面での援助である。これは中国技術者の来日研修と日本専門家、青年海外協力隊員の中国派遣に分かれている。技術援助と協力は医療、教育、農業栽培、コンピュータ、法律関係などの多分野に及んでいる。同じく一九九九年度までの統計によると、中国から日本への研修生は九、七二七人、日本が中国に派遣した専門家は四、一五九人、調査団は一〇、四二二人、青年海外協力隊員は三八二人、開発調査は一七一件、プロジェクト技術協力四十六件、機材供与は日本円で二〇一・五億円相当、技術協力総額は一、一六二億円にのぼった[54]。中国に派遣された人は勤勉に働き、中国人同僚の好評を得た。中には、中国政府の外国人向けの最高賞である「長城友誼賞」を受賞した人もいる。
そして、一九八九年から、対中無償資金協力には「草の根無償資金協力」(中国では利民工程無償援助と呼ぶ)という新しい形が加わった。これは援助規模が小さい代わり、実行が早く、受け手の生活に役立つという特徴がある。その資金は項目ごとに一、〇〇〇万円を限度として、在中国日本大使館が定められる。二〇〇一年一月までの統計では、在中国日本大使館はのべ一四四項目を実行し、金額で一、〇一四万ドルに達した。広州、上海と瀋陽の各総領事館の行った事業を含めると、三五〇項目にのぼった[55]。草の根無償資金協力は交通不便な農山村を中心に、主に飲水施設、用水路、学校の建設や農業技術者養成センターへの関連設備の供与などの事業を行った。
以上のように、日本は対中ODA供与額の一番多い国で、世界各国の対中ODA全体の2/3ほどを占めている。改革開放以来、中国はインフラの整備や国民生活と関連ある施設が数多く作られ、国民経済を急速に発展させた。その中における日本の対中ODAの役割は見逃すことができない。 
2中国側の評価と対応
対中ODAに関し、中国の研究者は知識を持っており、マスコミにも報道された。報道内容をおおざっぱに分けて見れば、八〇年代には無償資金協力に関する報道が多少多いようであるが、円借款については、両国政府間の文書交換を記事とするに止まった。一九八九年から、円借款に関する報道や記事の本数は以前より明らかに多くなったばかりか、その役割を強調し高く評価した。周知のとおり、「人民日報」は中国共産党の機関紙で、中国における最も権威のある、影響力の大きい新聞である。統計によると、一九八〇年から一九九四年にかけて、同紙には日本の対中ODAの関連報道が八十七本ある。その内、円借款関連三十五本、無償資金協力と技術協力関係が五十二本であった[56]。一九九三年一月八日、一九九四年二月五日付「人民日報」には円借款と無償資金協力により展開している建設事業の考察紀行文を載せて、対中ODAは中国の経済発展と国民生活の改善に大きな貢献をしたと指摘した。そして、一九九五年一月十一日同紙には「共同の明日を目指して―中日経済協力プロジェクトの考察について」の文章を載せ、中日経済協力プロジェクトを詳細に紹介するとともに、対中ODAを高く評価した。その他、地方紙と専門紙には、地方別、専門別ごとのODA事業の紹介記事と文章が掲載された。
それと同時に、中国の研究者にも対中ODAについての研究を行った人が何人かいる。筆者の手許にある資料では、『日本対外援助政策研究』、『日本政府開発援助[57]』などの著作がある。その他にも関連する著作と論文は少なくない。
中国側は対中ODAの供与に感謝している。双方の協定に従って、中国側はODA事業が完成するごとに、「本事業は日本ODAの協力により建設された」と、銘板に明記しなければならない。例えば、中国西部のある地域で、草の根無償資金協力で水道施設ができた。長年の水供給不足の悩みが解決されたので、地元の住民は非常に喜んでいた。感謝の気持ちを表すために、銘板には「利民工程無償援助項目」の他に、「吃水不忘井人=水を飲むには、井戸を掘る人を忘れず」と記されている。
中国政府も対中ODAに対し、高く評価している。一九九八年十一月に江沢民主席が訪日した際、話の中で、何度も対中ODAに触れて、中国経済建設における役割を高く評価した。双方が発表した「中日共同宣言」には「中国側は、日本がこれまで中国に対して行ってきた経済協力に感謝の意を表明した」と明記してある。
近年来、日本国内に起こった「中国側の対中ODA広報不足」の議論や不満の声に対し、中国政府は非常に重視し、日本側の要請に応じるような行動を見せた。
二〇〇〇年五月、唐家旋外交部長が訪日し記者会見した際、対中ODAに感謝の意を表明した。十月八日、中国政府は「中日経済協力二十周年記念式典」を北京で盛大に開催し、対外経済担当の呉儀国務委員、日本からは野中広務特派大使らが出席した。席上、呉氏は日本の経済協力の実績を高く評価し、感謝の言葉を述べた。谷野駐中国大使はこの記念式典に出席した。当時の状況について、氏は「これはまさに日本に対する感謝祭でした。中国の副首相クラスや関係大臣がみんな出てきて、『感謝、感謝』と耳にたこができるくらいでした」と語った[58]。
さらに、十月に訪日した朱鎔基総理は首脳会談の場で、対中ODAを高く評価し、感謝の意を述べるとともに、今後は広報を強化する旨を表明した。 
3日本国内の反応と議論
近年来、対中ODAについて、日本国内にはいろいろな議論があり、新聞や雑誌に掲載されたものも少なくなかった。その中には不満と批判の声がかなり厳しい。代表的な主張を整理すると、以下の四つである。
(1)対中ODAに対し、中国側は広報不足で、ごく少数の関係者と研究者が知っている以外に一般国民はほとんど知らなかった。ましてや、円借款により行った事業が終わってから、その完成式典では日本の経済協力など一切触れなかった。中国政府はその事実を知らせようとしないからである[59]。ODAは日本国民の税金で賄われるものである。日本が巨額の協力を出したにもかかわらず、受け手の国民の理解を得なかった状況を変えなければならない。中国側は日本の協力に感謝すべきである。
(2)今現在の中国経済事情は八〇年代初頭の状況とまったく異なっている。中国経済は早いスピードで発展し、実力は大いに増強した。ところが、中国は日本からの巨額を受けながら、パキスタン、ミャンマー、ベトナムなど近隣諸国と第三世界の国々に借款を供与している。一方、日本は経済不振で、財政事情は苦しい。この背景の下に対中ODAをいつまで続けるのか。
(3)対中ODAは中国側の主導で、中国側の求める分野に、日本側の自主性がほとんど発揮されないまま巨額を供与した。そして中国側は円借款を自国の国民経済発展計画と組んで編成し、経済インフラの整備と基礎産業に投入し、最優先経済プロジェクトへの資金負担を軽くさせて、軍事力増強と宇宙船打ち上げの支出へのゆとりを与えた。軍事力を増強している中国に引き続き供与することは、日本自身の首を絞めるものである。
(4)日本の対中協力目的の一つは「日中両国の友好」である。しかし、二十年間の経済協力が「中国側の対日友好を増したという証拠はどこにもない。中国社会では日本も日本人も相変わらず悪役である。中国政府は日本に対し高所からの説教を繰り返す。官営マスコミは反日の記事や漫画を頻繁に掲げる」。「援助による友好も生まれようがない。『人民の心へのアピール』も空論に終わってしまう」。従って、「間違いだらけの中国援助」なのである[60]。
以上の議論は、筆者自身が日本人学者や対中関係者と話した時に、公私の場ともに肌で感じた。二〇〇〇年八月に中国社会科学院日本研究所の主催する「新しい世紀における中日関係」シンポジウムが北京で開かれ、中日両国の知名人と研究者が三十名ほど出席し、中日関係の現状と問題点を率直に議論した。その中で対中ODAの話に触れると、日本側の一人の年輩の方が突然立ちあがり、自分の考えを述べて、最後に「日本は中国からの高い評価は要らない、感謝がほしい」と声高らかに語ったことが、印象的であった。
ところが、最近、拓殖大学国際開発学部長であり、外務大臣の諮問機関である第二次ODA改革懇談会の座長を務めている渡辺利夫の文章を読んで、以上とは違った見解が伺われた。氏は学者としての見方で、対中ODAの実績と現状を冷静に分析し、独自の見解を述べた。文章は長いが、要点だけを引用しておこう。<1>対中ODAは必要である。「中国の経済規模は拡大したものの、一人あたりの所得水準はまだ千ドルに満たない開発途上国です。中国がODAを必要とする段階にあるのはまぎれもありません」。<2>対中ODAには長い展望が必要である。「中国全体の所得水準が上昇していけば、国民心理にも変化が生じていくと考えられます。人間というものは、発展に成功すれば、なぜ自国は豊かになったかという問いを発しますし、逆に低迷をつづければ、なぜこう貧しいのかと問います。発展に成功すれば、その時点で日本の貢献を実感するのではないか」。「今を耐えて将来の展望を開くために、中国に対してODAを供与しつづけることは日本の国益の将来を考えてやはり重要なことじゃないでしょうか」。<3>日中関係に重要である。「財政が苦しいから、嫌中感情が強まってきたから、対中ODA削減というのではまったく外交がなりたたないし、ODAを通じてこれまで長年にわたって築いてきた信頼の基盤も崩れてしまいかねません」。「ODAは日中関係の将来を拓くものとして供与されねばならないものです」。<4>外交カードとしての使用は賛成しない。「短期的な外交課題を解決カードとしてのODAはそれほど有用ではないでしょうね。一国の経済発展にとって決定的に重要なのはやはり国内努力であって、ODAは副次的な重要性をもつに過ぎません。ODAをストップしたからといって、その国の経済開発までがストップしてしまうわけでもありません。軍事力と同じような外交力をもともとODAに期待してはまずい。相手が中国やインドといった大きな国になると、日本のODAのプレゼンスは相当小さい。日本が単独でODAを停止しても、それで相手国が政策、核開発、人権抑圧などを変更するというほど簡単ではない」。「ODAはODAのみで強力な外交カードとなりえない」。<5>対中ODAを見直すべきである。「ひもなし、超低利、賠償まがいの対中ODAは意味がありません」。「戦略的ODAを再構築しましょう」。「今後、日本が主体的意志をもって環境保全や貧困解消に乗り出して、要請主義の原則を変更していかなければならない」と主張している[61]。
言うまでもなく、このような見解を持っている人は渡辺だけではない。村山内閣時代の経済企画庁長官だった宮崎勇は、二〇〇一年二月のインタビューの中で、同じ見解を次のように述べた。対中ODAは「当時の大平首相が中国の現代化を進めて発展の基礎をつくるのに協力をしようという意図から始まったもので、その精神はこれからも継承していくべきだと思います。ただ、そのやり方については、中国側の環境も変わってきたし、日本側も環境が変わってきているので見直しをしようというものです」。軍備増強と関連して、対中ODAを議論するのは「論理的にも感情的にも間違いだと思います」。「ODAの対象をどういうふうに日中双方の時代の変化に応じて変えていくかということであって、総量を増やすか減らすかという問題ではありません[62]」。
以上のように、日本国内には対中ODAにきわめて批判的な見解もあれば、積極的にその役割を評価しようとする見解も混在している。 
4結び
(1)ODAは日本国民の税金で賄われたものである。二十年来、日本政府は巨額な対中ODAを供与してきた。それによって展開された事業とプロジェクトは、経済インフラから生活基盤、環境保全、医療衛生施設、教育と人材づくりまでの多分野にわたり、中国の経済発展と国民生活の改善に大きな役割を果たした。そして、ODAを通じて、中日両国の経済、技術、人的交流が一層緊密になった。これに対し、中国政府は高く評価し感謝の言葉を述べた。「滴水之恩、涌泉相報=滴水の恩まさに涌泉以って報うべし」という諺があるように、ODAの恩恵を受けた中国人はそれを忘れることはないであろう。筆者は渡辺の見解に賛成する。長い年月が経ち、そして中国が発展し国民の生活が豊かになったとすれば、その発展過程を振り返って、現代化実現の過程において日本のODAが重要な役割を果たしたと認めるに違いないだろう。この場合、ODAはただ単純なODAではなくて、中日両国民友好の絆として位置づけなければならない。
(2)対中ODAについて、日本側の批判の一つの焦点として、中国側が「広報不足」或いは「宣伝しようとしない」と言っている。客観的に言って、これは事実だと思わざるをえない。では、なぜ中国側は「広報不足」或いは「宣伝しようとしない」のか。その裏には何か理由があるのではないかと考えなければならない。これは日本の研究者とマスコミが触れなかった点である。アンケートの結果を分析して見ると、中国側の被調査者の考えは次の通りである。<1>日本の侵略戦争において、中国人は大きな被害を受けた。国交回復の際、中国側は日本への賠償請求を放棄した。日本の対中経済協力は巨額であるけれども、中国人の物質や精神面での被害をとうてい償えるものではないか。対中ODAを戦争賠償と直接リンクするつもりはないが、中国人の心の中には、日本側が戦争の被害に何らかの形で補償することは、むしろあたりまえだとの考えが潜んでいることは否定できない。<2>閣僚失言と日本社会にある侵略戦争美化論との関連がある。首相の靖国参拝、閣僚失言や教科書問題などの侵略戦争と関連する「事件」があいついで発生し、中国の国民感情を傷つけ、中国側の不満と批判を招いた。この背景があるために、対中ODAの評価にもマイナスの影響が及んだ。<3>対中ODAは単にODAで、これを日本が外交カードとして活用し、或いは中国政治、軍事と結びつけることは、中国人が納得しないし、ひいては反感を招くに違いない。一九九五年八月、日本は中国の核実験に抗議すると同時に、一部の人道支援を除く一九九五年度の対中無償資金協力を凍結した。一九九六年以降についても、中国核実験の停止が明らかにならない限り、対中援助を事実上停止させた。中国側から強い反発を招いたのはその例である。中日関係には以上のようなぎくしゃくした背景が存在したため、中国政府はODAを広報するには国民感情や国内世論に配慮しなければならなかったと思われる。
(3)実際に、中国の学界にはODAに関する議論があった。ODAと侵略戦争とはまったく別のことで、区別して対応しなければならない。対中ODAの実績を正確に広報すべきであると同時に、日本社会に侵略戦争を美化する言行があれば、批判すべきである。しかしながら、侵略戦争を美化する言行を批判することと引きかえに、対中ODAの実績を過小広報するということは相応しくない、との主張がある。 
四、安全保障について
1日本における「中国脅威論」
八〇年代半ばから、日本国内には中国脅威論が台頭し始めた。一九九五年二月、アメリカ国防総省は、中国国防予算は過去五年間で二倍に増え、アジア諸国に備える必要を感じているとの報告書が発表されてから、日本国内の中国脅威論の宣伝は高まり、そして中国の核実験、ミサイル発射や海洋調査船などとあわせて、一段と高まった。
政府刊行物から見た「中国脅威論」
『防衛白書』平成十二年版には中国軍事力に関して、次のように記している。「軍事力について、量から質への転換を企図している。経済建設を当面の最重要課題としていることから、中国の軍事力の近代化は漸進的に進むものと見られるが、核戦力や海・空軍力の近代化の推進や海洋活動範囲の拡大などについて、今後とも注目していく必要がある[63]」。
平成十三年版には、中国の「国防費については八九年度以降、十二年連続で対前年度比十%以上の伸びを示しており、本年度は約十五%であった。弾道ミサイルについては、現在、弾道ミサイル(ICBM)を若干基保有するほか、新型ICBM及び潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)などの開発も進めており、九九年八月には自国内で新型ICBMである東風三十一と考えられる長距離地対地ミサイルの発射実験を行った。また中距離弾道ミサイルについては、日本を含むアジア地域を射程に収めるミサイルを合計七十基保有しており、新型の東風二十一への転換が進みつつある」。「日本の近海において、近年、中国の海洋調査船により、海洋調査と見られる活動が行われている。中国の海軍艦艇の航行も増加している」。「さらに二〇〇〇年五月には、海軍に所属する砕氷艦兼情報収集艦がわが国を周回し、その間、対馬海峡及び津軽海峡では反復運動を行っていることが確認された。このような最近の中国海軍艦艇のわが国周辺における活動の活発化については、その動向に注目していく必要がある[64]」と記している。
白書は、中国からの脅威として、日本を含むアジア地域を中国の中距離弾道ミサイルの射程に収め、中国軍艦が日本周辺で活発に活動していると指摘した。
『警察白書』平成七年版には「国際情勢の新たな展開の中の対日諸工作」というタイトルの下で、「中国のわが国への働きかけ」を小見出しとして、次のように指摘している。「平成六年三月、中国向けココム違反事件が検挙され、依然として日本の高度先端科学技術導入に向けた活動が、活発に展開されていることが明らかになった。中国は今後ともハイテク兵器の装備、開発に必要な高度科学技術などを導入するため、活発な働きかけを行うことが予想される[65]」。これは、警察白書として初めて対日諸工作の関連内容を書いた白書である。そして、中国は北朝鮮とロシアに続く「対日工作」三番目の国として取り上げられた。
さらに、平成八年版は「対日有害活動」というタイトルに変えて、小見出しも「中国による対日工作」に変えた。「中国は今後とも自国に有利な政治環境つくりを指向し軍事転用可能な高度科学技術の導入に向け、わが国各界関係者に対する多面的かつ活発な働きかけを行うことが予想される」と指摘している。今度、中国を「対日有害活動」の国として、ロシアに続く二番目に位置づけ、北朝鮮は三番目となった[66]。
平成九年版は、タイトルは変わらないけれども、中国を北朝鮮とロシアに続く第三位の「対日有害活動」の国と見なした。「中国は軍の近代化及び経済建設のためには、我が国からの技術移転が必要不可欠との認識に立ち、多数の学者、技術者、及び留学生や代表団などをわが国に派遣し、技術の習得に当たらせている。また、在日公館員はもとより、これらの来日中国人などを介し、特に軍事転用可能な科学技術を重点に、多面かつ活発な情報収集活動を行うとともに、政財界要人のほか、先端企業関係者などへの幅広い働きかけを強めている[67]」と書いている。
平成十三年版は、あいかわらず「中国は軍需工業その他の産業のハイテク化を図るため、わが国に対して、多数の研究者、技術者、留学生、代表団などを派遣し、技術、知識の習得に当たらせているほか、在日公館員などを介して先端企業関係者に対する幅広い働きかけを行うなど、多様な手段により技術情報の収集を行っている[68]」と書いている。
以上のように、平成八年版以後、内容は大体同じで、中国を北朝鮮とロシアに続く第三位の「対日有害活動」国とみなす見解が定着し、日本の公安維持の対象国となった。
学者の立場から見た「中国脅威論」
政府刊行物の曖昧な書き方と違って、学者の言い方は比較的率直である。以下では、専門のレベルを代表することができる学者が編集した社会人向け書籍や、よく利用される書物の関連内容を引用して見たい。
『イミダス』九六年版は中国軍事について以下のように記している。「専門家の間では、公表された国防費は政府が支出する国防関連費用の一部に過ぎず、公開されない『第二の国防費』の存在を指摘する。そして実際の国防支出総額は公表された分の約三倍に達すると見る。英国際戦略研究所の『ミリタリー・バランス一九九五―九六』は、九四年度の推定国防予算は六十三億ドルと発表されたが、実際の総額は二八〇億ドル以上と推定している。公表される国防費は兵士の給与、糧食費、修理費、訓練費などの軍の維持・管理的な経費が主で、兵器や装備の製造、調達経費などは含まれておらず、『経済建設費』、『文教社会費』など他のさまざまな費目の中に隠されており、増額分は海・空中心の現代化に使われていると見る。こうした不透明性がある限り、中国の軍拡に対する周辺諸国の脅威感を拭うのは難しい[69]」。
『現代用語の基礎知識』二〇〇一年版は、「わが国周辺すなわち東アジアから東南アジアにかけての地域に予想される国際情勢の変化は大きく、かつ危険を伴っているように思われる」。「ことに政治大国・中国の最近の動向がこの事態を加速させており、新たな地域覇権国家の出現を押さえようとする唯一の超大国アメリカとの間に緊張を生んでいる」。「以下のような事例は、わが国周辺で行われている事実である。<1>北朝鮮が核兵器開発疑惑などを各国からの援助資金獲得行動のかけひき材料に用いている。<2>一九九六年の台湾初代総統選挙の時、台湾独立派拡大を封じ込めるために中国が恫喝的大演習を行った。<3>その大演習をストップさせたのは、ほかならぬ米国二個空母群の台湾海峡進出であった。<4>中国と台湾は競争的に軍備増強している。このような東アジアの緊迫と極めて近い距離にある経済大国・日本は、『国の安全確保』のため、大きな危険とその可能性に注意を払うべきであろう。当面の危険は北朝鮮の動向。中期時点の危険は中国による南シナ海及び東シナ海の支配、周辺諸国との摩擦(南沙諸島の領有権、台湾問題、尖閣諸島問題など)。長期時点の危険は上記の中期問題解決が失敗した時の米中衝突及び経済低迷から国力回復したロシアの動向である。この中でとくに中期時点の危険に着目すべきであろう[70]」と書いている。
ここで、著者は中国を中期時点危険の発動国として取り上げた。そして、この危険は「夢物語ではなく」、一旦、この危険が現実になれば、「<1>直ちにわが国民の日常生活に影響を及ぼす。<2>アジア経済危機が発生する。<3>海外邦人へ戦禍が及ぶ。<4>八重山諸島が戦禍に巻き込まれる。ひいては、わが国の領域と主権が侵犯されるおそれがある[71]」とさらに強調した。
中国研究家と言われる東京外国語大学前学長中嶋嶺雄は、二〇〇一年七月、「台湾海峡両岸関係と日米安全保障」シンポジウムにおいて、中国の軍事力に関して次のように講演した。「なぜ、中国は現在、これほどまでに軍事力を増強するのでしょうか。今世界の中で中国を攻めようとする国がありますでしょうか、何処にもありません。にもかかわらず、表向き国家予算の中で出てくる国防予算は毎年二桁の増大。一番多い時で二二・七%も増えています。天安門事件以後、ここ十二年毎年増強している。しかもミサイルを開発したり、ロシアから最新の兵器を買ったりするのは、あの全国人民代表大会に提出される国家予算の国防費の中には含まれていませんから、中国の軍事力の増加は国防費の数倍がある。四―五倍と見る世界の専門家が多いのですが、なかには十一倍に近いと見る専門家もいます。中国の軍事費は全く不透明で、その実態は本当のところよく分かりませんけど、なぜ中国がそんなに軍事力を増強するのでしょうか。この軍事力の増強は、一つには国内の治安維持のために行われています」。「国内の治安、或いは少しでも民主化を求めているような雰囲気があれば徹底的に抑圧する。少しでも民族主義的な分離独立の要素があれば、徹底的に弾圧するという、まさに独裁国家による治安維持であることは間違いありません。もちろんそれだけではありません。民主的な選挙をやるというのに、台湾海峡で大軍事演習をやったり、ミサイルを飛ばしたり、そして今はアメリカの本土ミサイル防衛構想に対抗して米全土に届くミサイル開発を一生懸命やろうとしている。従いまして、日本も台湾海峡の安全は国益上不可欠ですし、こういう状況を考えますと、まさに時代は『新冷戦』だと言えます。つまり中国は共産主義を捨て、自由な民主社会になるまで、アジアにはなお冷戦が存在するという基本認識を是非しっかり持っていて下さい」。「それまでは決して油断してはいけないと申し上げます[72]」。
核実験に関する日本側の反応と対中交渉
中国は一九六四年に最初の原爆が成功してから、一九九六年七月全面禁止条約の発効までに、のべ四十五回ほど核実験をした[73]。八〇年代以前は地上実験であったが、一九八六年三月に北京で開催された国際平和記念集会で、趙紫陽総理が演説の中で、中国は大気中の核実験停止を公式に表明した後、地下実験になった。
一九九三年十月五日、中国は地下核実験を実施し、斎藤邦彦外務事務次官は中国大使に抗議した。
一九九四年六月十日と十月七日、中国は地下核実験を二回実施した。十月七日、斎藤邦彦外務次官は中国大使に中国側のやり方はODA大綱と抵触すると抗議した。河野外相は遺憾の意を述べるとともに、第四次円借款について「ODAの原則に照らして検討しないといけない」と表明した。そして、予定していた訪中を延期した。十七日に斎藤外務次官は今後も中国が核実験を凍結しないと、対中経済協力に影響がありうると指摘した。
一九九五年五月十五日、中国は地下核実験を実施し、日本政府は中国臨時大使に遺憾の意を表明するとともに、外務報道官は次の談話を発表した。「中国が核実験を行ったことは極めて遺憾である。わが国は、従来より核実験禁止問題を核軍縮分野における最重要課題の一つとして重視しており、わが国からの再三の核実験停止申し入れにもかかわらず、本日、中国が核実験を行ったことを重大に受け止めている。中国が今後核実験を繰り返さないことを強く求める」。続いて八月十七日、中国が地下核実験を実施したことに対し、河野外相は中国大使に抗議した。そして官房長官は談話を発表し、このように述べた。「五月に続き、中国がまたもや核実験を強行したことは極めて遺憾である。わが国は、核実験の禁止を核軍縮分野における最重要課題の一つとして重視しており、わが国からの再三の核実験停止申し入れにもかかわらず、中国が核実験を再び行ったことを重大に受け止めている。中国が今後核実験を繰り返さないことを強く求める」。「ODA大綱の視点からも遺憾であり、対中経済協力については、総合的判断の一環として、今回の経緯をも踏まえ、抑制約に対応することになる」。八月二十九日、日本政府は一部の人道支援を除く九五年度の対中無償資金協力を原則的に凍結すると発表した。三〇日、林外務次官は中国大使にその方針を伝達した。
一九九六年六月三日、武大偉中国臨時代理大使は日本記者クラブで記者会見し、核実験全面禁止条約が発効すれば、中国は直ちに核実験を停止する。中国は核保有国である一方で、核の脅威を受ける被害国である。核実験はあくまで自衛のためである。中国の核実験は終わりの段階に入っている。核実験と経済協力をリンクするのは短視的な考えだと述べた。
六月八日、中国は核実験をした。外交部は声明を発表し、「国と民族の最高利益を保護するために、中国は必要な最小の核実験を行わざるを得ないのである。我々は核実験を行う面で一貫して極めて抑制のある態度を取っており、実験の回数も極めて限られたものである」。「中国政府は今年の九月以前に、中国の核兵器の安全性をチエックするためにもう一度核実験を行う。それ以降、中国は核実験を一時停止することを明らかにするものである」と表明した。十日、橋本首相は中国核実験に遺憾の意を表明した。阿南駐中国臨時大使は中国側に抗議するとともに、昨年八月から実施している無償資金協力を引き続き凍結すると通告した。その後、日本の衆参両院では中国の核実験停止を求める決議を採択した。
七月二十九日、中国は再び核実験をした。それと同時に、「中国は一九九六年七月三〇日より核実験を一時停止する」との政府声明を発表した。池田行彦外相は中国大使に抗議した。 
2中国における「日本軍事大国化」への懸念
日本側が中国脅威論を宣伝するのと大体同じ頃から、日本の軍事費増大と軍事動向に関して、中国側は注目し懸念した。
一九八七年、日本の軍事費は三木内閣以来の慣例を破って、国民総生産の一%枠を突破した。それ以来、日本経済の発展につれて、軍事費がだんだん増え、いまではアメリカに続き、世界第二位の軍費大国になった。一九八七年一月二日、外交部スポークスマンは記者会見で、一%枠突破について関心を表明した。十一日、竹下自民党幹事長が訪中し、中国要人と会見した際、呉学謙外交部長は「日本の防衛力に一定の限度が必要で、周辺国の気持ちを良く考えてもらいたい」、小平中央顧問委主任は「中国人民は敏感であり、額は少ないが、突破したことに注目している」とそれぞれ発言した。
一九八七年五月二十九日、栗原防衛庁長官が長官として初めて訪中し、張愛萍国防部長は「日本の中には日本を軍事大国にしようとしている人間が若干いる」、万里副総理は「日本に軍国主義を主張する少数の人がいるので、警戒しなければならない」と、会見の際に強調した。
一九九一年一月、湾岸戦争が勃発してから、日本政府はアメリカとイギリスを中心とする多国籍軍に巨額資金を出す一方、「国連平和協力法案」を審議し、自衛隊の海外派遣を実現しようと動いたが、与野党の国会内の論争が白熱化状態に達した。法案審議中、中国側は非常に関心を寄せていた。十月二十日、外交部の責任者は、「日本国会はいま日本政府がとりまとめた『国連平和協力法案』を審議している。この法案が解決しようとする核心の問題は日本の戦後四五年来海外派兵ができないという禁制を突破することである。この問題は日本国内で不満を買ったし、アジアの隣国でも不安を引き起こした。中国政府はすでに繰り返し日本政府が十分に考慮し、慎重に進めるよう希望することを表明した[74]」との談話を発表した。二十六日、楊尚昆国家主席は日中友好協会訪中団との会見席上、国連平和協力法案に懸念を表明した。二十七日、斉懐遠外交副部長は橋本大使と会見し、「中国政府と中国人民はこの法案に大きな関心を寄せている」、「日本が海外に自衛隊を派遣することは、国連の要請ではなく、アジア諸国の要請でもない。中国政府は、これは日本政府が戦後実行してきた軍事政策を打ち破る面で取っている重大な措置であると見ている。一旦それが採択されると、必ずや日本軍国主義の侵略を受けたことのある中国とアジア各国人民の強い反応を引き起こすことになろう[75]」と発言した。
野党側の強い反対により、結果として「国連平和協力法案」は廃案になった。しかしながら、日本政府は関連規定を改正し、湾岸戦争が終わった直後、掃海艇と自衛隊員五〇〇人をペルシア湾に派遣した。これに対し、一九九一年四月二十五日外交部スポークスマンは記者会見で、「派兵の問題は日本国内においても、アジアにおいても、また過去であろうとも現在であろうとも、いずれもとても敏感な問題である。われわれはこの敏感な問題で慎重にことを運ぶよう日本政府に要望する」と指摘した。
一九九二年六月十五日、日本政府の提出した「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法案」(PKO協力法と称する)が、野党側の強い反対にもかかわらず、国会で強行採決された。PKO活動に参加するには、「派遣五原則」を前提とする。即ち<1>停戦合意、<2>紛争当事者の受け入れ同意、<3>中立、<4>独立判断による撤退、<5>生命、身体の保護に限定した武器の使用を規定するけれども、平和憲法の枠組を破って、戦後政治と軍事面において最重要な一歩を踏み切ったと見られる。これ以降、国連平和活動を維持する名目で、自衛隊は海外派遣がいつでも可能になった。それ以来、九二年にカンボジア、九三年にモザンビーク、九四年にザイール、九六年に中東ゴラン高原、九九年に東チモールに自衛隊が派遣された。PKO協力法は採択当時、日本国内外で大きな反響を呼んだ。外交部スポークスマンは「歴史的要因により、日本の海外派兵は非常に敏感な問題である。中国側は日本政府がこの問題で慎重を期するよう一貫して望んでいる」と発言した。
一九九六年四月十七日、橋本首相とクリントン大統領は会談し、「日米安全保障共同宣言――二十一世紀に向けての同盟」(日米安保共同宣言)を発表した。それには、日米安保関係は二十一世紀へのアジア太平洋地域の安定と繁栄を維持する基礎であると再確認し、日米防衛協力ガイドラインの見直し、沖縄県内の米軍基地を整理、統合、縮小し、さらに同盟関係の範囲を従来の「極東」と言う表現を使わずに、「アジア太平洋地域」に拡大し、極東有事の際に防衛協力の緊密化、などの内容がある。中国側は日米安保再定義と安保体制の拡大に関心をはらっている。四月十八日に外交部スポークスマンは、共同宣言が「他国の利益に影響を及ぼすなら、新たな複雑な要因をもたらすことになる」と発言し、六月十八日、唐家旋外交副部長は安保再定義を「過ぎ去った冷戦時代の発想の後遺症」と批判した。
一九九七年九月、「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)が日米両国政府により策定された。日本有事における共同作戦計画と日本周辺有事における相互協力計画の作成が確約された。一九九九年五月、周辺事態への対応を定めた「周辺事態措置法」、「在外邦人救出に自衛隊艦船派遣を認める改正自衛隊法」、「平時を想定した日米物品役務相互提供協定を周辺事態にも適用するための改定」の二法一協定からなる「日米防衛指針関連法」が成立し、二〇〇〇年十一月には日本周辺有事を想定した「船舶検査活動法」が成立した。冷戦時代には、日本の防衛政策は事実上旧ソ連を仮想敵国として、旧ソ連の武力侵攻に備えるための防衛力整備を行ったが、一九九〇年以降、主に朝鮮半島、台湾海峡での予想武力衝突に移行している。
新ガイドラインの作業中、中国側は防衛体制の拡大に懸念している。九七年一月、「人民日報」の論評は「軍事同盟の強化は時代の潮流に会わない」と批判した[76]。四月二十五日、外交部スポークスマンは「日米の安保協力は二国間の範囲を越えてはならない」と警告した。
さらに、周辺事態について、八月十七日に梶山官房長官が「周辺事態の地理的範囲は台湾海峡が含まれる」と発言したので、問題になった。中国側は非常に不満で、台湾海峡を含めるかどうかを日本政府に明らかにするよう強く要求した。二十三日、李鵬総理は訪問先のマレーシアで、梶山発言は「内政干渉」と表明した。九月二十四日、外交スポークスマンは「台湾海峡を日米安全協力の範囲に組み入れることは、中国の主権に対する侵犯、干渉であり、中国政府と人民は決して受け入れることができない」と強調した。翌日、人民日報は「何を『周辺有事』と言うのか」の評論、十月八日に新華社は「曖昧な指針、明らかな意図」の評論を発表し、新ガイドラインを強く批判した。日本側は新ガイドラインを説明するために、丹波実外務審議官を北京に派遣し、中国側と会談した。外交部スポークスマンがその後の発言で、「日本側の周辺事態に関する説明は、依然として曖昧かつ不明瞭であり、納得することができない」と述べた。
アメリカの同時多発テロ事件を背景に、二〇〇一年十月、衆参両院は「テロ対策特措法」を成立させた。それによって、自衛隊の活動は<1>米軍などの後方支援として武器、弾薬を含む物資の輸送や燃料の補給、野戦病院での医療などをする「協力支援活動」、<2>戦闘で遭難した米軍兵士などの捜索や救助をする「捜索救助活動」、<3>テント、毛布などの輸送や難民キャンプでの医療をする「被災民救援活動」などを含める。活動領域は周辺事態法より拡大され、相手国の同意を前提に外国の領域まで広げた。また武器使用については、保護の対象をPKO法などの本人や本人と一緒に活動する隊員などに加え、「自己の管理の下に入ったもの」まで拡大した。これで戦時に自衛隊を海外派遣することができるようになり、日本の安全保障政策の大きな転換点と見なさなければならない。中国側は非常に関心を示し、「日本が専守防衛政策を厳格に守り、平和と発展の道を進むことを希望する」とスポークスマンは発言した。 
3安保交流から見た中日間の相違点
二〇〇一年十二月、中国国際友好連絡会と笹川平和財団が主催する「北東アジア安全情勢フォーラム」が北京で開かれた。中国側の参加者は国防大学戦略研究所、中国国際戦略学会、軍事科学院等の幹部と研究員ら約六〇人、その中には解放軍の元少将や、現職の少将、上級大佐ら十人近くも含まれた。日本側の参加者には秋山昌広(元防衛事務次官)、石破茂(自民党)、遠藤乙彦(公明党)、伊藤英成(民主党)の各衆院議員の他、防衛庁内局の幹部、防衛研究所、防衛大学校の教官、統合幕僚会議や陸海空自衛隊の一佐四人を含む計二十人であった。これまでも中日間の安保交流はあるが、双方の実務者と研究者を揃えて、二日間にわたり安保対話をすることは今回がはじめてであると言えよう。中日双方の相違点は発言の要点を取って見れば明確である。
(1)日米安保体制について。日米安保共同宣言、周辺事態安全確保法に関連して、中国側から厳しい見方が相次いだ。「日米同盟は旧ソ連に対する防衛・抑制から東アジア地域問題への介入に役割を拡大した。日米同盟は透明性に欠け、中日友好協力の障害になっている」、「すでに日米同盟は存在基盤を失い、存在意義もない」などと発言した。日本側は「日米同盟に対する中国側の見方は古くて冷戦的だ。日米同盟は特定の敵を見つけて、それに対抗するためのものではない。東アジアの地域の秩序を支えるためのメカニズムだと考えるべきだ」と反論した。
(2)台湾問題について。中国側は「周辺事態安全確保法の対象に台湾が含まれるかどうかに関する日本の政治家や官僚の発言は矛盾だらけだ」、「台湾の独立は認めない。中国は対話による平和的統一を目指すが、武力行使を含めあらゆる手段を放棄するものではない」、「日本の政治家がこっそりと台湾との関係を進めようと動いている。それがなければ統一は早く進むはずだ」と主張する。日本の政治家側からは「周辺事態法の対象に台湾が含まれるかどうかについて日本は曖昧戦略をとっている」、「そうではない。台湾で武力紛争があれば周辺事態法の対象になることは明白だ」という二つの意見が出された。中国側は「曖昧戦略など認められない」、「日本は米国の弟ではないはずだ。日本独自の意見を持つべきだ。日本は台湾に対して平和統一を急げと言ってほしい」と、日米同盟問題以上に議論が白熱した。
(3)両国の防衛政策について。中国国防政策の透明性に関し、日本側は「日本の防衛政策の透明性は誇るべきものだと考えている。中国も見習ってほしい。中国の国防費の中にはミサイルの研究開発、製造、調達、配備費用は含まれているのか。第四世代の戦闘機の購入費用はどうか」の質問に対し、中国側は「透明性は国によって違うものではないだろうか。中国はここ二、三年かなり努力している」、「いかなる軍隊も一〇〇%透明ということはありえない。透明性確保のために自国の安全が損なわれては困る」と反論した[77]。 
4結び
(1)日本は海に恵まれる島国である。生産能力の過大と資源・エネルギー不足のため、産業構造の面では対外依存度の高い国である。統計によると、鉄鉱石の一〇〇%、原油の九九・七%、石炭の九七%、木材の八〇%を輸入に頼らなければならず、一方、生産した製品もかなりの部分が輸出に頼らなければならない。産業構造ばかりでなく、地理の面でも、日本国土の全体は細長いから、このような地理構成は現代戦争において非常に不利である。従って、日本はその周辺の安全、ことにその資源と製品の輸出入に関する海上運輸通路の安全性に非常に関心を持つのは当然である。日本は安全の面で過敏である。世界中のどこかに動乱や戦争があれば、二つの国が特別関心を寄せるに違いないだろう。一つはアメリカ、もう一つは日本である。アメリカの関心はその国の世界における利益であるが、日本の関心は自国の海上運輸線の安全かどうかとのことである。七〇年代の中東戦争、石油ショックを経験したあの頃の日本人の生活状況を、もう三十年過ぎたが、はっきり覚えている人はたくさんいるという。日本人の安全面での過敏さ、日本の自国の利益を守るための限度ある防衛力増強に、その気持ちとやり方に対し、中国側は理解できると思う。
(2)日本の軍事費増大と一連の軍事動向に関しては、中国人も敏感で、中国側はずっと懸念を持っている。なぜならば、歴史上、日本の軍事力が増大すると、何度も中国を侵略し、中国人はひどい目を受けたからである。日本政府は軍事大国にならないと言いながら、日本には昔の軍国主義の道を歩もうとする政治団体や右翼勢力があるからである。最近、日本国内の一部では、「国際貢献」の名の下で、集団的自衛権の行使、海外派兵という声が高まって、周辺諸国からの不信と懸念を招いた。中日両国首脳会談の場において、「平和主義を堅持し、軍事大国にならない」と日本側は何度も表明したが、アンケート調査の結果から見たように、中国の年輩の人々はかなりの部分が「日本が平和主義の道を歩む」ことを信じない。歴史の経験から見れば、日本は軍事勢力が拡張すれば、最初に被害を受けるのは隣国の中国や朝鮮に違いないと思う人はたくさんいる。中国側は日本が自国の利益を守るための限度のある防衛力増強を理解できると前に指摘したが、ここでとくに強調しなければならないのは「自国の利益を守る」と「限度のある防衛力増強」である。もし他国の利益を侵害し、或いは防衛力増強が限度を越えると、中国側の反撥を招きかねない。台湾は中国の領土である。中日共同声明で日本政府は中国の立場を「十分理解し尊重し、ボツダム宣言第八条に基づく立場を堅持する」と書いてある。従って、日本が周辺有事の範囲に台湾を含めることに、中国側は断固反対するのである。
(3)日本は世界唯一の被爆国である。一九四五年八月六日と九日、広島と長崎で一瞬にして十何万人の命が奪われた。毎年のその日、両地はそれぞれ原爆反対を主とする大規模な記念集会を主催する。何十年来、日本人の原爆反対運動は継続しており、その精神は世界の人々を感銘させるほどである。ところが、これと関連して、少なくとも二つの問題を多くの日本人がよく考えていないようである。一つは、なぜ日本に原爆が投下されたのか。侵略戦争を起こさなければ、日本は原爆を投下されたのであろうか。二つ目は日米安保条約により、同盟国の日本はアメリカの核の傘下に保護されている。この意味から言えば、日本の「反核」はアメリカの核の保護下にあって反核をいうのであると言われてもしかたがなかろう。中国は核兵器を保有する国である。保有の数は少なく、アメリカやロシアと比べられないが、核兵器の全面禁止と完全廃棄をいつも主張している。「中国は、いかなる時、いかなる状況のもとでも、一方的に核兵器を先制使用しないことを承諾し、また、いかなる非核保有国または非核地帯に対しても、核兵器の使用または使用の威嚇を行わない義務を担っている[78]」と終始一貫世界中に表明している。これは世界唯一であろう。中国は世界中のどの国とも同盟関係を結んでいないから、中国の安全と国民の利益を守るには自分の力に頼らなければならない。中国の核兵器はまったく自衛のためのものであり、自分の国土と国民を広島と長崎のような被害を受けさせないためである。(4)今現在の国際情勢と中日両国内の状況から分析して見れば、日本には日本国憲法と関係法律の制限があり、そして政治世界における与野党の抗争、国民とマスコミの牽制があるから、さらに軍備費の増大と軍事面での枠組を突破し、軍事大国に前進する可能性はあるけれども、一部の中国人が心配する戦前の軍国主義への道を歩む可能性はなかろう。一方、改革開放以来、中国は四つの現代化の実現に全力をあげている。中国経済が発展し国防が増強すればするほど、国内情勢がもっと安定する。また大陸と台湾との平和統一に有利である。従って、日本側の心配している動乱や難民流出、食料供給不足などの事情はありえない。今の中国は日本に脅威を与えないが、将来も脅威を与えないであろう。両国民間における「脅威感」と「懸念」は歴史問題の認識、情報交換の欠如、相互理解の不足などによるものであろう。 
[1]1995年9月3三日付「人民日報」。
[2]「中国残留邦人の引揚問題に関する中央人民政府関係者の談話」1952年12月1日。霞山会編『日中関係基本資料集』(1949・1997)1998年第47頁。
[3]「日中関係に関する周恩来総理の大山郁夫教授に対する談話」1953年9月28日。霞山会編『日中関係基本資料集』(1949・1997)1998年第50頁。
[4]「毛沢東主席の黒田寿男社会党議員などに対する談話」1961年1月24日。霞山会編『日中関係基本資料集』(1949・1997)1998年第188頁。
[5]1972年9月25日田中総理歓迎の宴会における周恩来総理の挨拶。『中日関係史の新たな一章』外文出版社1972年。
[6]1978年10月26日付「朝日新聞」。
[7]「外交部スポークスマンの談話」1989年2月23日付「人民日報」。
[8]「江沢民総書記のNHKホールにおける記念講演」1992年4月7日。
[9]1992年10月23日天皇皇后両陛下歓迎宴における楊尚昆国家主席の挨拶。霞山会編『日中関係基本資料集』(1949・1997)1998年第792頁。
[10]「橋本総理と江沢民主席の会談における江沢民主席の発言」1996年11月25日付「毎日新聞」。
[11]中国研究所編『中国年鑑』2001年版第117頁。
[12]『文芸春秋』1986年10月号を参照。
[13]「歴史問題関連年表・資料」『世界』2002年別冊第190頁。
[14]1988年4月27日付「朝日新聞」。
[15]「半月談」1988年第11期。
[16]1994年5月4日付「毎日新聞」。
[17]1994年8月13日付「朝日新聞」。
[18]1995年8月10日付「朝日新聞」。
[19]『政治経済総覧』「前衛」1996年5月臨時増刊第37頁。
[20]「歴史問題関連年表・資料」『世界』2002年別冊第195頁。
[21]『政治経済総覧』「前衛」1996年5月臨時増刊第36頁。
[22]岡部達味「日中関係の過去と将来」『外交フォーラム』2001年2月号。
[23]『日本国語大事典』小学館2001年10月第12版。
[24]『日本国語大事典』小学館2001年10月第12版。
[25]土方美雄『靖国神社国家神道は甦るか』社会評論社1985年第3頁。
[26]靖国神社2001年10月17日の統計による。
[27]1985年8月14日付「毎日新聞」。
[28]中曽根康弘・梅原猛『政治と哲学』PHP研究所1996年第87頁。
[29]中曽根康弘・梅原猛『政治と哲学』PHP研究所1996年第92頁。
[30]1999年6月7日付「毎日新聞」。
[31]日本外交インタビューシリーズ2:中曽根康弘――自立と世界外交を求めて『国際問題研究』2002年1月号第75頁。
[32]4月18日、自民党総裁選の討論会。
[33]5月14日、衆院予算委員会。
[34]5月24日、CNNのインタビュー。
[35]5月30日、参院予算委員会。
[36]7月11日、日本記者クラブ討論会。
[37]7月21日、ジェノバで記者団に。
[38]2001年8月14日付「毎日新聞」。
[39]2001年8月18日付「毎日新聞」。
[40]2001年11月1日付「朝日新聞」。
[41]2001年8月14日付「毎日新聞」。
[42]中江要介「総理は靖国公式参拝を決行すべきではない」『世界』2001年9月号。
[43]2001年8月2日付「毎日新聞」。
[44]中曽根康弘梅原猛『政治と哲学』PHP研究所1996年版第88頁。
[45]2001年8月20日付「毎日新聞」。
[46]田中明彦「東アジア外交をいかに再構築するか」『中央公論』2001年10月号。
[47]2001年8月14日付「人民日報」。
[48]2002年4月22日付「人民日報」。
[49]中江要介「総理は靖国公式参拝を決行すべきではない」『世界』2001年9月号。
[50]2002年4月9日付「毎日新聞」。
[51]一九七九年十二月六日付「人民日報」。
[52]霞山会編『日中関係基本資料集(1949―1997)』1998年第539頁。
[53]外務省経済協力局編『わが国の政府開発援助』2000年下巻第87頁。
[54]外務省経済協力局編『わが国の政府開発援助』2000年下巻第87頁。
[55]金煕徳「日本対華ODA中的『利民工程無償援助』」『日本学刊』2001年第三期。
[56]劉志明『中国のマスメディアと日本イメージ』株式会社エピック1998年第49頁。
[57]『日本対外援助政策研究』の著者は張光天津人民出版社1996年・『日本政府開発援助』の著者は金煕徳中国社会科学出版社2000年。
[58]座談会「日本にとってODAが重要な理由」『外交フォーラム』2002年5月号。
[59]古森義久「間違いだらけの中国援助」『中央公論』2000年3月号。
[60]古森義久「間違いだらけの中国援助」『中央公論』2000年3月号。
[61]渡辺利夫「対中ODAを見直そう」『諸君』2001年11月号。
[62]宮崎勇「私たちは中国の今を正しくとらえているか」『世界』2001年3月号。
[63]清文社編『日本の白書』平成12年版第134頁。
[64]清文社編『日本の白書』平成13年版第162頁。
[65]警察庁編『警察白書』平成7年版第269頁。
[66]警察庁編『警察白書』平成8年版第279頁。
[67]警察庁編『警察白書』平成9年版第210頁。
[68]警察庁編『警察白書』平成13年版第185頁。
[69]『イミダス』1996年版第925頁。
[70]亀井浩太郎「地図から読める日本周辺の緊張と危険度」『現代用語の基礎知識』2001年版世界事典。
[71]亀井浩太郎「地図から読める日本周辺の緊張と危険度」『現代用語の基礎知識』2001年版世界事典。
[72]中嶋嶺雄「中華世界の変動と日本」『自由』2001年10月号。
[73]霞山会編『日中関係基本資料集(1949―1997)』1998年第1287頁。
[74]1990年10月20日付「人民日報」。
[75]1990年10月27日付「人民日報」。
[76]1997年1月31日付「人民日報」。
[77]仮野忠男「国交正常化三十周年日中軍事面での新潮流」『官界』2001年2月号参照。
[78]1995年8月17日付「人民日報」。 
相互理解の道を探ろう

 

中日両国民の相互理解を増進するために、当面両国民がともにしなければならないことはたくさんある。以下の諸点が両国民の相互理解において非常に重要で、うまくすると、相互理解の増進ひいては中日関係の改善を一歩前進させるに違いないと思われる。 
一、新しい時代を前にして
中日両国関係を発展させるには両国民が新しい時代を前にして、新しい関係を構築しなければならない。中日両国は共に悠久たる歴史と誇りを持つ国である。両国交流の歴史は二千年余りに及ぶ。二千年来の中日関係史を振り返ってみると、両国関係は大体「一強一弱」のパターンを基本としてきた。即ち、一つの国が強く、もう一つの国が弱く、両国関係は対等でなく、強国側がリードしてきた。古代の中国は強大で、四大発明を代表する中華文明は世界文明史に輝かしく刻まれた。中国の隋、唐時代に、日本は遣隋使、遣唐使を派遣し、中国政治、法律制度、文化と技術などを全面的に学び、日本の国づくりと社会発展に大きな役割を果たした。日本の名所旧跡を訪ねると、中国文明の影響はどこでも見られる。当時の両国関係は言うまでもなく友好関係であったが、一方的な中国主導であった。近代になって、状況は一変した。アヘン戦争を発端として、清朝の政治腐敗と無能によって、中国の国勢が段々衰えてきた。列強の侵略を受け、半封建半植民地の国に転落した。一方、日本は明治維新後、欧米に目を向け、新しい制度と技術を導入し、富国強兵策を実施し、じょじょに欧米列強と肩を並べるほどの強国に発展してきた。この間、中日間の国力は逆転し、重心は日本側に傾いた。その後日本は対外拡張の道を選び、その矛先をかつて学んだ中国に向けた。日清戦争、第一次世界大戦の「対華二十一条」、柳条湖事件、日中戦争などが立て続けに起こった。この時代は、日本が強く、中国は弱くて、両国関係は侵略と抵抗の関係であった。日強中弱の局面は日本敗戦まで続いた。二十世紀終わりごろになると、中国は改革開放路線を二十年余り実行し、経済が発展し国力が著しく伸びた。ところが、日本はバブル崩壊後、停滞の十年と言われるほど、経済事情が厳しく、発展スピードが遅くなってきた。両国の実力差は縮まっている。今の両国は世界において重要な国、アジア地域に重要な影響力のある大国として存在している。両国関係は史上初めて「強対強」の局面を迎えた。「一強一弱」に比べると、「強対強」は両国関係において勿論進歩的であり、発展的であるが、当然新しい問題が来る。その表れとして、<1>経済貿易面での摩擦、安全保障面での「中国脅威論」「日本軍事大国化」に代表される相手国への不安感。<2>中日両国とも、自国利益の極大化を目指している一方、両国関係の親密化の努力を払っている。両国関係はかつてない不安定な時期にある。しかし、この不安定さは双方の容認する限度を越えない。<3>両国関係は両国自身のことだけでなく、国際情勢の変化或いはその他の大国の動向に非常に強く影響される。国際社会全体との連帯感が一層緊密になった。これは新しい時代における「強対強」の両国関係の特徴である。新しい中日関係を新しい仕方で発展させなければならない。この方法は一九九八年中日双方が発表した「中日共同宣言」に書いてあるように「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築」である。 
二、歴史問題の処理
中日間の諸問題の中で、歴史問題に関する認識と処理は、発生頻度が一番高く、そして国民感情と強く結びついており、簡単には解決できない問題である。二十年来、中日関係に何か問題があれば、必ず歴史問題と関連する。中国側は歴史問題を忘れていないが、日本の一部分の人は侵略事実を認めない。このギャップは国交正常化以来縮小していないばかりか、時にはエスカレートした。歴史問題の処理は、何よりも先ず歴史事実を尊重しなければならない。中日両国は共に歴史と伝統を重視する国であり、そして歴史教育に力を入れる国であると言われる。中国の学校教育は古代史から現代史まで細かく講義するが、勿論その中に日本の侵略歴史を含む。その教育を受けた中国人は幼い頃から日本の侵略事実を知っている。日本の学校教育も古代史から現代史まで細かく、ことに古代文明、戦後の復興と経済発展は細かく教えるけれども、中国を含むアジア諸国を侵略したことについての内容が少ない。もっとひどいものは日本政界の要人が繰り返した侵略戦争の否認・美化の「失言」である。彼らは高いポストにつき、社会全体から尊敬される人間であるから、その「失言」が侵略歴史を知らない人、ひいては日本社会全体の歴史認識にどれほどの悪影響をもたらすかは、言うまでもないことである。今、日本の人口は六〇%以上が戦後生まれである。この点を考えると、正確な歴史教育をすることがもっと重要であろう。次に、歴史問題に対し、加害者と被害者の理解は違う。日本では、中国人が歴史問題を「外交カードとして使う」とか、「いつも口にする」とかの言説をよく耳にする。外交カードとして使ったかどうかは別にして、「いつも口にする」ことは事実である。なぜ「いつも口にする」のかというと、被害が酷くて、忘れられないからである。これは日本人が広島、長崎の原爆をいつも口にすることと同じではないだろうかと。同じことに対しても、加害者と被害者の立場が異なるから、その理解も違う。例えば、何かの事件が発生し、五年十年経つと、加害者側は忘れがちになるが、被害者側ははっきり覚えている。先の中国侵略と広島長崎原爆の例と関連すると、もう五十七年間経って、加害者としての日本とアメリカは具体的な経過を忘れたかも知れないが、被害者側の中国と広島、長崎はその被害をいつまでも忘れられないから、いつも訴える。日本の侵略について、中曽根康弘は「こういう怨恨は一〇〇年は消しえないだろう。三世代は変わらないだろう」と言った[1]。従って、歴史問題を処理するには、被害を受けた側の立場と国民感情を理解し十分配慮するならば、解決しやすくなるだろう。三つ目は、歴史問題を処理するには、中日双方がともに努力する必要がある。一九九五年五月、村山首相が訪中した際、「中国人民抗日戦争記念館」を訪れ、戦後首相として初めて、中国の戦争関連記念施設に足を踏み入れた。それ以来、瀋陽の「九一八事変記念館」、北京の抗日戦争記念館に橋本首相と小泉首相が姿を見せ、中国側の好評を得た。一九九四年八月、日本政府は戦後五十年に向けて、アジア近隣諸国などとの歴史を直視し、これら諸国との相互理解を一層増進するため、平和友好交流計画を実施することを決定した。その内の一つとして、日中平和友好交流計画は双方の小・中・高校教師と教育関係者の招聘・派遣、歴史研究と出版の助成を行う。教育関係者の交流は毎年相互訪問を行っている。日本の教育者は中国訪問ことに関連記念館と被害地の見学によって、歴史を実感して、教学の面に活用している。歴史研究については、中日双方には中日歴史研究センターをそれぞれ開設し、研究と助成事業の審査を担当する。窓口機関として、日本は日中友好会館、中国は中国社会科学院が担当している。毎年、日本人研究者十―十五名、中国人研究者二十名の研究を助成する。今まで、中日双方は多くの研究成果を出した。しかし、研究成果の相当の部分は個人研究で、中日共同研究は少ないようである。また研究成果の広報・活用、さらに教科書に適当な部分を利用する面では、もっと力を入れる余地がある。歴史は今日の過去である。「過去から教訓を学ばない民族は発展できず、過去に縛られて前進できない民族も発展しない[2]」。歴史問題を正しく認識することは中日関係発展の基礎である。正しく認識しなければ、中日関係の発展はできないと中日両国は認めたし、努力を払っている。繰り返し指摘したように、日本側の侵略戦争否定・美化論がなかったなら、これまで発生したそれに関わる「事件」もなかったであろう。この点から言えば、日本側の努力がもっと必要である。「中日関係が発展できるかどうかの大きな決定的な鍵は、私たち自身の歴史認識のあり方にあるのだ[3]」、「毅然とした決意で、戦争責任を認め、国会が改めて誠意ある謝罪をすべきである[4]」、「相互不信を縮小するには、正しい歴史を伝えて相互理解を求めるしかない[5]」、との見解を持っている日本人学者は少なくない。 
三、全面的な情報を伝え
現代社会において、科学技術の発達により、テレビや新聞を代表とする「第四権力機関」といわれるマスコミはかつてないほど身近なものになり、人々の考えと行動様式に強く影響している。アンケート調査の結果から見たように、相手国への理解の情報源として、マスコミへの依存度が絶対的に高い。八〇年代初め頃の日本側の統計によると、日本の「国際ニュース」報道の「発信国」と「言及国」の順位はアメリカが群を抜いて多く、中国は第二位で、その後はイギリス、ソ連、フランスの順である[6]。中国側の国際報道にも日本とアメリカ関連のものが一番多いと言われる。従って、国民にどのような情報を発信するかは、中日両国民の相互理解に大きく関わっている。国交正常化以来、両国のマスコミ関係者は相手国の事情を数多く報道し、両国民の相互理解の増進に力を尽くしてきた。にもかかわらず、情報不足或いは正確な情報でない面があることは否定できないだろう。中国の例をとって見れば、中日友好ブーム時代には、テレビや新聞で日本の特集と記事では、技術の発達、国民生活の豊かさ、自家用車と家電製品、スーパーにある豊富な商品などの物質面の発展が強調されがちであった。一方で、日本人の勤勉、仕事ぶりの真剣さや長時間労働に伴う疲労問題、さらに社会治安、強盗殺人事件などを取り上げることは極めてまれである。まして日本人の本音、歴史観と侵略戦争についての認識などにはほとんど触れなかった。マスコミだけでなく、留学生自身にもそういう面が多少ある。彼らが中国に帰国すると、周りの人は留学生の持ち帰った家電製品などに関心を寄せ、彼らが日本留学中、学習面、金銭面でどれほど苦労し消耗したのかは知らなかった。また留学生本人も自分の面子から、それを語ろうとはしない。多くの人は日本に行けば金持ちになれると短絡的に考えた。「将来の夢」を実現するために、日本に行きたがり、極端な例では密入国で逮捕されたり、命を失ったりした人さえ出た。せっかく日本に辿り着いて見ると、自分の考えていた日本と現実の日本社会との落差に直面し、精神が不安定になり、その直接的な結果として、相手国へのイメージはマイナスになる。一方、情報大国の日本はどうだろうか。実は日本でも同様の傾向があると言われた。日中友好ブーム時代には、中国はきれいな国で、「蝿が一匹もいないほど」と書いた記事があった。八〇年代始めごろ、日本の観光客に「中国には泥棒がいるか?」と聞かれて、「いる」、「殺人事件があるかね?」「ある」と答えると、信じられないという表情が現れた。ところが、九〇年代に入ると、日本の新聞とテレビ番組には中国関連の報道の中に、核実験批判、密入国、中国人の犯罪、社会転換期における社会秩序の欠如、治安悪化、交通混乱など中国のマイナス面を強調したものが多くなった。筆者は客員教授として来日中、中国留学生と交流する機会があったが、彼らから、「ニュース番組に中国関連のものが出ると、良いものはない」との話さえ出て、それは極端な言い方ではないかと尋ねると、「いいえ、本当です」と答えられ、印象に残った。両国の実情を正確に伝えることはマスコミ関係者の本来の役目であり、メディアこそ両国民相互理解の基本的情報源である。両国民は相手国の真実を知りたいと考えている。 
四、交流と協力の強化
さらに、中日両国民の相互理解には交流と協力が不可欠である。摩擦があれば、交流と協力によって解決する以外ない。もちろん、交流と協力の形は多種多様であるが、世論調査の結果を見ると、両国民の心と心との交流が何よりも重要であることが分かった。「中日双方が、お互いにもっとも魅力を感じる対象の上位に、それぞれ『日本人の人柄』と『中国人の人柄』が来た時に、中日関係は真に揺れないものとなるのではなかろうか[7]」。しかし、これを実現するには、ずいぶん時間がかかるであろうから、今の段階では、将来性を考えると、先ず下記の諸点に力をいれて、成果を積み上げていけば良いのではなかろうか。(1)国と国の間になんの問題もないことはありえない。問題と摩擦があれば、感情論に走らず、冷静に分析し、国際間に通用するルールで解決する。中日間にはかつて不愉快な歴史が存在したから、何かあれば、すぐ昔のことが想起され、国民感情は動揺する。ことに被害者側はより過敏である。日航機中国人乗客事件はその例であろう。二〇〇一年一月二十七日、北京から成田経由でアメリカへ行こうとする中国人乗客が乗っている日航機が、大雪で大阪空港に着陸した。夜になっても日航側からは何の説明もなく、宿泊の手配をしないばかりでなく、食事、飲み物などを提供しないままに、中国人乗客九十五人が老若男女を問わず、空港待合室の椅子や廊下で一晩を過ごした。ところが、同じ便に乗った欧米人や台湾人の乗客にはホテルが用意されていた。中国人乗客は激怒し、中国人蔑視であり、差別待遇されたとの理由で、日航側にお詫びと損害賠償を請求しようとした。これがマスコミに報道されると、中国全土で大きな反響を呼んだ。「中国人蔑視」「日航は謝罪せよ」などのメッセージが一時殺到して、人々の関心事となった。そのあと、何ヶ月間の交渉を経て、日航の責任者は北京に行って、中国人乗客に謝罪した。最終的には「中国人蔑視や差別待遇」ではなく、「サービスミス」であったとして、中国人乗客に謝罪と損害賠償をして、双方が和解し事態が収拾した。本来、これは一般的な商業行為であり、規定のルールで解決することは簡単である。ところが、国民感情そして政治要因とリンクすると、予想以上の問題に発展し、簡単に解決できる問題が複雑化する。国際関係史で証明されたように、歴史上葛籐がある国々で現実の問題を処理する時に国民感情と歴史問題の連係がよく出ることは一般的である。(2)学術交流を強化し、多数の「知日派」と「知中派」を養成し、政府の政策決定過程において役割を果たせるようにする。中日両国で数多くの大学、研究機関同士が交流協定を結び、多分野の交流を行っている。学術交流は中日間において盛んに展開している分野と言えよう。学術交流の際だったところは、物の見方が感情的でなく、客観的である点だろう。世論調査に現れたように、留学経験者は相手国へのイメージと理解が一般の人々より高いとの結果が出た。これらの人々は各部門の中堅となり、高いポストにつく人も少なくない。彼らは両国民の相互理解の重い役割を担っている。(3)政治家ないし行政官個人の相互理解関係を確立すべきである。世界中の何処でも同じように、国家関係の運営はつまるところ国民を代表する政治家と具体的な事務を担当する行政官に頼らなければならない。中日両国の政治家・行政官の相互理解は両国関係の発展に非常に重要である。国交正常化前後、日本与野党の多くの国会議員は中国の指導者や関係者と相互理解し、良好な個人関係を持った。彼らは相手の事情を理解し、本音の話を十分にすることができた。そのお蔭で中日関係はあの時期の困難を乗り越えて発展してきた。しかし、昨今の事情は三〇年前とずいぶん変わり、両国共に昔の相互理解できた政治家は年を取ったり、世を去ったりした。新しい世代の政治家、行政官個人の相互理解関係はまだ樹立されていない。二〇〇一年八月、日中友好会館会長、元副総理である後藤田正晴が中国教育部関係者訪日団と会見した際、現在、日本の友好人士の第一世代にあたる人たちはすでに年老いて、次第に歴史の舞台から退きつつある。若い世代はこれまでの両国間の歴史を理解しておらず、両国関係の重要性に対してもあまり深い認識がない。双方は両国の友好と相互理解をさらに進めるため共に努力すべきだと言及した[8]。全くそのとおりで、中日関係には新しい世代の相互理解が必要である。 
五、アメリカの影響
中日関係は今日までアメリカの影響を受けている。率直に言って、戦後日本の対外政策は対米一辺倒であった。一九五二年、アメリカの意向を受け、新中国を敵とみなして台湾と国交を結んだ。七〇年代初頭まで、中国の国連復帰に対し、アメリカと共に強く反対した。一九七一年七月、ニクソン米大統領が突然「翌年中国を訪問する」と声明した。その頭越し外交のショックを受け、日本は対中外交を調整しなければならない時期が来たと認識した。その結果として、田中内閣時代の初めの七二年九月、中日国交正常化が実現したのである。冷戦崩壊後、経済のグローバル化により世界政治構造と国家関係は一変した。超大国であるアメリカは世界の最強国として存在するが、中日両国も世界ことにアジアにおいて多大な影響力を持つ国である。ところが、中日関係の発展は日米関係と米中関係に制約される。言い換えれば、中米関係の改善と発展は中日関係にとってプラスになるが、中日関係の発展は米日関係の枠内に制限される。仮に米日中三ヵ国関係を三角形だとすれば、米日中三国はそれぞれ一つの点であるが、アメリカという点が大きく、実際には、米日中三ヵ国関係はアメリカを中心点とする不等辺の三角形であろう。この不等辺三角形の各辺の長短はその二国関係の遠近を表す。その長短は国際情勢と自国情勢の変化により変動する。米日両国は同盟国関係であるから、この辺は短くて、関係が親密である。これと比して、米中関係は「戦略的協力パートナーシップ」関係であり、日中関係は「平和と発展のための友好的協力パートナーシップ」関係であるに過ぎない。言うまでもなく、「協力パートナーシップ」関係は「同盟国」関係には及ばない。況や米中、日中間の協力パートナーシップ関係は今では完成の域に達せず、「構築中」の段階にある。従って、米中と日中の二つの辺が長く、その関係は遠い。日米同盟関係がますます強化されている今日、中日関係の改善はアメリカからの影響が非常に強い。中日間の問題、例えば台湾問題について、アメリカの意図と動向が日本へ即応に影響する。アメリカの国会が「台湾関係法」を採決した後、日本でも類似の法案を提出しようとする動きがあった。一九九七年九月、李登輝は総統在任中、アメリカを訪問した。その後、日本の政界と学界に李登輝招聘の計画が現れた。クリントン大統領時代、アメリカは中国に対して「三つのノー」を承諾した。即ち、アメリカは台湾独立や「二つの中国」・「一つの中国、一つの台湾」を支持せず、主権国家で構成される国際組織への台湾の加盟を支持しないと表明した。もしアメリカが承諾した通り、一つの中国の政策を誠実に守っていたならば、日本では以上のような動きは現れにくかったと考えられる。中米関係を大幅に改善するならば、中日関係の発展にさらに有利に働くであろう。最後に日米同盟関係について、一言付け加えたい。同盟関係とは一体どのような性格のものだろうか。ドイツも韓国もアメリカと同盟関係にある。また戦後ドイツの状況は日本と共通する点が多いが、対外関係においてはドイツ独自の行動をとっている。韓国も同様である。金大中政権はアメリカ側の意図に従わず、TMDに参加しないばかりか、北朝鮮制裁に反対し、南北緊張緩和と交流に専念した。ドイツや韓国のように独立した国家は、当然その国独自の対外政策を模索すべきであろう。厳しい評価になるが、戦後日本の対外政策を見ると、アメリカの思惑に従順であり、外交面で独自の行動は数えるほどしかなかったといえるのではなかろうか。アメリカの意図や政策が常に正しいのではないとするならば、日本はそろそろ独自の対外政策を構築すべき時期に来ているのではなかろうか。 
[1]日本外交インタビューシリーズ2「中曽根康弘――自立と世界外交を求めて」『国際問題研究』2002年1月号。
[2]2002年4月30日付「朝日新聞」。
[3]『中国年鑑一九九五』浅井基文の文章を参照。
[4]横山宏章「先ず戦争責任を認めNOと言える関係を」1997年2月24日付「朝日新聞」。
[5]小島朋之「青年の不信解く情報可能性や実績検証を」1997年6月24日付「朝日新聞」。
[6]NHK世論調査部『世論調査資料集第五集』1989年版第1099頁。
[7]國分良成の文章を参照。1992年9月13日付「読売新聞」。
[8]http/www.jcfc.or.jp/cgi-bin/katsudo2001年12月参照。
 
中国から見た日本・雑話

 

日本の若者の間で論語が流行
中国新聞網に2009年12月31日、日本人の読書に論語が深い影響を与えているという内容の記事が掲載された。09年、世界第2位の経済大国の日本は大波の中を浮いたり沈んだりする小船のようだった。経済学者は日本の90年代は「失われた10年」だったと言うが、今はこの10年を加えて「空白の20年」になった。チャイナネットが報じた。
一番同情するのは2010年に新成人を迎えた日本の若者たちで、生まれてから今までに1日も日本の良い時期を経験したことがない。こうした厳しい環境の中で、再び古典を紐解き、そこから生き方や教育の方法を探ろうとする日本人が増えている。そして日本人たちは中国の論語に「安全な港」を見つけたのだろう。
東京文京区にある論語教室では、講師と一緒に子どもたちが「子曰く、学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」と朗読している。子どもたちは小学校低学年で、その親の多くは30歳から40歳。たまに祖父母がやって来ることもある。講師は子どもたちに中国の先賢の哲理をこう教える。「ただ知識があっても仁がなければ社会ではやっていけない」
今、日本では論語の本がよく売れているという。出版関係者によると、不景気の時には古典の本も影響を受けるが、最近では論語が好調で、まさに世を救うバイブルだという。
では中国の若者は何を読んでいるのだろうか。以前には一部の地方の青少年が国学などの古典を読んでいると報道されたこともあったが、こうしたものはメディアの大げさな報道で、伝統文化に触れる読書のイベントは、最終的に浅はかでにぎやかなだけのパフォーマンスになってしまうことが多い。
最近発表された「2009年中国作家富豪ランキング」では、若者をターゲットとした鄭淵潔や郭敬明、楊紅桜の3人が上位を占めた。3人の作品には多くの読者がいて、もちろんベストセラーにもなっている。若い読者が海外の優秀な若者向けの本を読んでいるにしても、それは「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリー・ポッター」などに過ぎず、深くもなく視野も狭い。危機の時に心を救い、智恵を授けるという立派な本への渇望や衝動がないのだろう。
鄭淵潔の本だけでは中国の若者の「読書」を満足させることはできない。青少年の読書は意義深い文化プロジェクトであり、その重要な意義は母語に親しみ、自分たち民族自身の文化と文学に親しむことだ。 
遠慮なく言えば中国のコスプレが世界一
チャイナネットによると、広東省東莞市で行われた国際アニメ版権交易会において、最も観客に注目されたのは「コスプレ」だった。「遠慮なく言えば、中国のコスプレは日本を上回っている」と話すのは、漫画・アニメ専門誌「漫友」の編集者で、金竜賞コスプレ全国コンテスト企画者の余琳氏だ。
中国のコスプレはグループがメイン
第1回国際アニメ版権交易会で契約された版権は約1億元(約13億3000万円)を上回り、合わせて120本の版権取引額は82億元(約1090億円)に達している。アニメ公演産業の一部として、ファッショナブルなコスプレはますます欠かせない一部である。
上海CGAや杭州のアニメ祭、金竜賞など国内の大規模なコスプレコンテストで司会者をしていた蒋慧氏は、世界の大会で各国のコスプレを見たことがあるが、グループをメインにした中国のコスプレは、欧米や日韓より優れていると感じているという。しかし「個人のパフォーマンスでは欧米のコスプレイヤーのほうが国内よりも優れていて、日本と韓国は化粧やヘアスタイルに抜きん出ている」と語る。
この違いについて蒋氏は、各国の文化の違いによることが大きいと考えている。他の国のコスプレグループは、数十人が一緒に舞台に上がることはほとんどない。欧米は単独の行動が多く、日本はグループでも2人か3人で、韓国でも多くても10人以下だ。こうした数は国内のグループでは最小の中に入る。
中国に来てコスプレを見る日本人
コスプレは欧米が起源で、日本アニメの急成長で日本で大々的に広まった。中国に入ってきたのは1993年。最初は香港で、漫画同人グループがアニメ「銀河英雄伝説」に出てくる同盟軍の制服を自分で作って着たのが国内最初のコスプレイヤーだ。
2年後にはこうした形で台湾に入ったが、コスプレの対象はゲームの中のキャラクターが主だった。大陸部に入ってきたのはそれより遅く、98年に大陸部でアニメ展が開催されてから、個人のコスプレショーがたまに行われていた。
今では大陸部のコスプレグループはいたるところに出現している。人数の多い団体は数十あり、西南漫画連合会のように団員がいくつかの省にまたがっていて数千人に上るものもある。しかし香港や台湾のコスプレは当初の個人の楽しみにとどまり、ファッションや道具、パフォーマンスのレベルは大陸部より低く人数も少ない。
大陸部のコスプレがこれほど発展したのは、さまざまなコスプレコンテストのためだと余琳氏は感じている。大陸部のコスプレコンテストは2000年に始まり、アニメやゲームの会社が主催した。その後は上海や広州、杭州、北京の各地で頻繁にアニメ展が開かれる度にコスプレコンテストが開催され、コスプレグループが急激に増えた。余琳氏は、コスプレコンテストを見るために中国にわざわざ来る日本人もいるほどだと話す。
中国アニメもコスプレの対象に
大陸部のコスプレイヤーたちのモチーフも、日本のアニメやゲームだけではなくなっている。08年初めに「漫友」雑誌社が主催した第4回「金竜賞」の全国コスプレコンテストでは、中国アニメを対象にしたチームに3万元の賞金が送られるオリジナル・アニメ賞が特に設けられた。余氏は「『長安幻夜』や『零紀年』は、キャラクターがきれいでファッションが細かいため、多くの団体がコスプレしました」と当時を振り返る。「長安幻夜」と「零紀年」は「漫友」の中国人漫画家のオリジナル作品だ。 
曹操の墓の真偽論争に日本人も興奮
「曹操の墓」が発見されて以来、中国では本物かニセ物かといった議論が盛んに繰り広げられている。こうした「曹操の墓」に対する高い関心が、隣国の日本にも飛び火したようだ。チャイナネットが報じた。
NHKや朝日新聞、毎日新聞などの日本のメディアは「曹操の墓」発掘の詳しい経過や激しい真偽の論争などを大々的に取り上げ、日本人たちの間でも「曹操の墓」についての討論が巻き起こっている。
日本最大のネット掲示板2ちゃんねるの「曹操の墓」に関する掲示板では、「テレビで『曹操の墓』発見のニュースを見て非常に興奮した。まず一杯飲んで祝おう!」「いつ劉備や孫権の墓も発見されるのだろうか」「曹操は本当に小柄な男性だったのか」「曹操の墓がこんなに簡素なものだとは思わなかった。中国に行ってこの目で見てみたい」と非常に活気を帯びている。
今世紀の大発見と書き込むネット利用者がいる一方で、「もっと有力な証拠を出してほしい」「もしニセ物だったら非常に残念」「中国は曹操の墓と断定するのをあせりすぎていないか」という声も少なくない。
こうした日本人の熱を帯びた反応は、日本人の中に「三国志」ファンたちが多くいるためだ。日本では毎年、「三国志」の事実の考証や謎の解明、名言の収録、地図、辞典など、「三国志」関連の書籍が多く出版され、ゲームや漫画も若者に人気がある。大学では「三国志」研究会があり、各大手企業の社長も、「三国志」の物語から経営術や処世術を学んでいるそうだ。松下電器の創始者である松下幸之助氏もかつて「『三国志」に登場する人物の知恵は私の最も良い先生」だと語っている。
また中国文化部と国家文物局が2009年に日本で開催した「大三国志展」には100万人以上が訪れ、「最も読む価値のある本」というアンケートでは、「三国志」が処世術を学ぶことができるという理由で2年連続でトップ3にランクインした。
日本人の「三国志」への理解は驚くほど深い。日本に長年暮らしている男性は「もし『三国志』に詳しくないなら、日本人と話をする時に絶対それを話題にしないほうがいいです。そうでなければしつこくいろいろ聞かれますから。もし『三国志』に詳しければ、『三国志』ファンに尊敬されます」と話す。
実は中国人が愛読する「三国演義」と日本人が愛読する「三国志」とはかなり違う。「三国演義」では、「劉備を称え、曹操をけなす」という傾向に対し、吉川英治が書いた「三国志」では曹操が英雄として描かれている。中国で仕事をしている中古さんは「中国の歴史では政権の更迭が非常に多いので、日本人は誰が正統な皇室なのかを気にしません。日本人は曹操は劉備や孫権と同じように英雄で、劉備よりも率直な人だと考えています。曹操は物語を牽引する重要な人物です」と言う。
ますます激しくなっている「曹操の墓」の真偽論争は、日本人に藤村新一氏の考古学スキャンダルを思い起こさせたかもしれない。「曹操の墓」に関しては些細なことでも中国国内だけでなく全世界に報道されて世界中の注目を浴びるため、慎重に判断しなければならない。 
平和憲法から離れ、軍備拡張に尽力
世界を巻き込んだ金融危機により、2009年は米国の軍事戦略の調整が加速し、アジアでも一連の大きな軍事関連の出来事が起こった。米国のイラクからの撤退、海賊対策でソマリア沖に艦艇を派遣した日本の軍備拡張の話題、南シナ海での紛糾、中印国境紛争、アフガニスタンの対テロ戦争、非常に入り組んだイランと北朝鮮の核問題は、いずれもその背後に米国と関わりがある。チャイナネットが報じた。
軍備拡張の道を開きたい日本
しだいに平和憲法から離れている日本は、攻撃武器を保有し、海上自衛隊だけでもヘリコプター搭載駆逐艦「日向」、重巡洋艦「あたご」など世界先端の軍艦を配置しているほかにも、米国の最新鋭戦闘機F−35Bの購入を予定しており、右翼の政界人は地域間や世界的な問題で重要な役割を求めて軍備拡張に尽力している。
09年は日本の軍事動向が活発だった1年だ。3月14日にはソマリア沖の海賊対策という名目で、2隻の護衛艦「さざなみ」と「さみだれ」が派遣された。そして最新の「海賊対処法案」により保護対象を外国船舶にも拡大している。
5月25日には北朝鮮の核問題を口実に、盛んに核保有論を繰り返し、武器輸出禁止の緩和を企図して、海外での軍事協力を求めた。7月31日には『ジャパンタイムス』が、日本はソマリアの隣国のジブチに基地を建て、海賊対策を実施する自衛隊の隊員とP−3C哨戒機を駐屯すると報道。
9月前には明らかに日本の軍事政策に危険な拡張傾向が表れ、日本はアジア版の北大西洋条約機構(NATO)の主要メンバーの役割を演じて、米国が中国を封じ込める手先になった。
鳩山政権になった9月以後は、積極的に隣国との関係改善に取り組み、沖縄の米軍普天間基地の移設問題については、北沢俊美防衛大臣も前任の浜田靖一氏の軍事冒険路線を変えて、少なからず慎重で自制の様子が見られた。しかし鳩山政権の新政策がいつまで続くかは、国内の年金や医療、就業などの問題を解決する能力を見る必要がある。国内問題を上手く解決することができなければ、鳩山政権の対外政策ははかない終りを迎えるだろう。
日本の軍事政策は大国関係に影響を受けている。その上、日中の地理的利益ラインはもともと重なっており、日本がアジアに戻るのであれば、短期的には両国の地域問題では抵抗より協力が多いが、長期的に見れば2つの強国の競争には常に摩擦が絶えず、日本の軍備拡張の勢が弱まることはないだろう。 
日本の出口戦略は時期尚早か
チャイナネットによると、日本政府は12月8日、財政支出額を7兆2000億円とする予算案を含む景気刺激策を発表した。これは鳩山内閣の発足後に出された最初の刺激策で、日本が2008年8月以降に出した第4次景気刺激策である。これにより、日本が発表した財政支出額は総額3260億ドルに達した。
中国と米国が打ち出したそれぞれ2860億ドルと7870億ドルの刺激策と比べると、世界第2位の経済体である日本の支出額は不足しているように思える。モルガン・スタンレー・アジアのスティーブン・S・ローチ会長は、「7兆2000億円の景気刺激策は雀の涙ほどだ」と指摘し、日本政府の景気刺激策は世界経済の回復への道が順調でなく、出口戦略を行うのにふさわしい時期ではないことを示している。
実際、米国や日本、EU諸国の状況を見ると、世界経済の回復見通しは決して楽観的ではない。米国の第3四半期のGDPは1年以上ぶりにプラス成長に転じたが、米国経済が持続可能な回復を実現できるかどうか、市場で再び懸念が高まっている。多くの専門家は、失業率が高止まりし、米国経済の持続可能な回復の見通しは明るくないと指摘する。オバマ米大統領は、「経済を回復させるにはまだ長い道を歩む必要があり、経済が真の回復を実現するまで、政府がより多くの就業のチャンスを作り出すことは難しい」と述べている。
ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ教授も「第3四半期、米国の経済データは好転したがこの状況は長くは続かない。経済は高失業率という試練に直面している。世界範囲で見ると、現在、景気刺激策を撤回するのは時期尚早だ」と話す。
日本の景気刺激策は、中国が最新の経済政策を打ち出す必要があることを別の側面から証明している。中央経済活動会議では、経済政策の持続性と安定性を維持し、積極的な財政政策と適度な通貨緩和政策を引き続き実施することが明確にされた。しかし、政策の着目点は「投資のけん引」から「構造調整」へと変化している。 
日本政府が円高を黙認する理由
2009年、円高が続いているが、中国国際関係研究院世界経済研究所の陳鳳英所長は円高の原因について、ドル安と日本政府の黙認、国際環境の影響と日本政府の干渉能力に限りがあるため、という3つが原因だと考えている。チャイナネットが伝えた。
陳所長は「ドルが下落していることが円高の直接的要因だ。これは今後も円高進行の余地がある、あるいは日本経済が強気になる余地があると理解すべきではない」と話すが、ドルの下落はコントロールでき、仮に2010年に米国の経済が好転すれば、円高傾向は減少すると考えている。
そのほかにも民主党は円高を黙認するかのように、干渉を行っていない。ドルという「覇者」の地位が揺らぎつつある今、円を上昇させ、国際化に向かって進むことが民主党の重要な国際戦略であろう。
陳所長によると、日本の輸出業が苦戦を強いられているのは全てが円高によるものではなく、世界金融危機の中で世界での日本の影響力が下がり、日本政府の経済への干渉能力が従来比で相対的に低下したという国際的な環境に関係があるという。
日本政府にとって最も肝心なことは、いかに経済の成長を促進するかということだ。日本銀行は日本経済がデフレの状況にあるという認識を初めて示し、経済刺激策を講じることを示唆しているが、「日銀はさらに金融緩和をし、株式市場や不動産市場の回復を刺激して経済成長の雰囲気を作るだろう」と陳所長は予想している。 
ステルス戦闘機の購入は中国への対抗
日本のメディアは23日、日本防衛省は次期主力戦闘機(FX)に、レーダーに捕捉されにくいステルス性に優れたF35を採用する方向で調整に入ったと報道した。
これについて、中国では「日本の対応は中国の航空戦力が太平洋海域に展開し、東北アジアでは比較優位にあることを暗に示すものであり、中国が現在開発中の第四世代戦闘機の公表に対する日本側の緊急対応だ」と考えられているという。チャイナネットが報じた。
中国軍事戦略学者の戴旭氏は「環球時報」の取材に応じ、「F35は第三世代戦闘機より20年から30年ほど進んでいる。ステルス能力という点では、F22をガラス球だとすると、F35はサッカーボールだ。第四代戦闘機の中でF35の性能はF22の8割ほどだが、東アジアにとってF35は唯一無二で、東アジアの従来の軍事力バランスをひっくり返すことも可能だ」と話す。
「日本は中国を口実にしているが、中国は日本に対して優位とはならない」と戴旭氏は語る。
続けて、「オーストラリアは100機を購入予定で、シンガポールもこの戦闘機を気に入っているようだ。またインドも最近は米国の戦闘機ばかりを選んで購入している。日本がF35を購入すれば、韓国なども続いて主力戦闘機を購入することになり、東アジアの空軍戦闘機は総入れ替えとなるだろう。そうなれば、東アジアのそのほかの国の第三世代戦闘機と、それに関連する防空システムは過去のものとなり、中国は今後F35にとり囲まれることになる。これは中国にとって厳しい挑戦であり、ステルス戦闘機の脅威だ」と語った。 
日本企業の中国投資戦略に注目
11月24日、「第1回中日青年経済リーダー対話・日中企業家高峰フォーラム」が北京で開催された。フォーラムにおいて、日本の企業家たちは、中国製品の輸出制限、中国での企業設立、製品の生産・販売及び送金に関する制限などを緩和するよう中国側に要望し、これはグローバル時代に世界で通用する制度や基準を構築する上で非常に大切であると述べた。チャイナネットが伝えた。
日本の対外投資、日中両国間貿易、日本の対中政府開発援助(ODA)は日中経済関係の3本柱と呼ばれている。
日本の対中投資は日中戦略互恵関係の重要な一部であるが、日本の対中政府開発援助(ODA)は2008年に終了した。ポストODAの時代の日中経済関係は、双方の経済協力の対等性が強まることを意味している。政府間の資金協力は終わったため、日本の民間企業による対中投資の役割はさらに増大するだろう。
だが、06年以降、日本の対中国(製造業)直接投資は減少し、不安定な状態にある。06年には29.6%減少し、07年にはさらに22.0%減少、08年にやっと1.7%のプラス成長に回復したが、金融危機の影響で09年1−6月は前年同期比で6.1%減少した。
それと同時に、日本の対インド投資は対中投資を上回るようになった。日本財務省の統計データによると、08年、日本の対中(全産業)投資は前年同期比3.2%減の6793億円で、対インド投資は4.2倍増の8090億円となった。ベトナム、マレーシア、タイなどへの投資も拡大している。
日中経済協会の清川佑二理事長は、「日本企業界の対中投資戦略を知るためには、両国企業間の直接対話のチャンスを増やさなければならない。世界各国の企業の経営者たちは、世界的な金融危機、市場の縮小、資源及びエネルギー面の圧力、産業構造面の変革などの問題に直面している。経営者たちが、これらの問題について率直な交流を行えば、問題を解決できる方法や新たなビジネスチャンスを見出せるかもしれない。特に日中両国の企業の経営者の間で、これまで直接的な交流はあまり行われておらず、今回のフォーラムのような率直に意見を交わす場は非常に大切である」と語った。
同フォーラムでは、大連東軟、如意、恒源祥、都市建設第5工程局などの中国企業のリーダーや、パナソニック、DOWA、西武などの日本企業のリーダーたちがスピーチを行い、さまざまな角度から日中経済交流の実態を紹介した。 
日米同盟に隙間が生じた
チャイナネットによると、日本の沖縄県宜野湾市で8日、大規模な集会があり、与党の国会議員や平和組織、一般市民を含め約2万1000人が参加した。集会の目的は政府に、米軍基地の普天間飛行場を同県名護市辺野古に移設するという現在の計画の取り消しを求めることだった。
沖縄県の面積は日本国土のわずか約0.6%だが、その半数以上が米軍基地となっている。長年にわたり、地元住民は米軍駐留がもたらす環境、事件、安全などをめぐる問題に対し大きな憤りを感じてきた。
岡田克也外相は8日、鳩山由紀夫首相がオバマ米大統領の訪日中に普天間飛行場の移設問題について協議することはなく、「米軍基地の移転問題はより長い時間をかけて解決する必要がある」との考えを表明した。
鳩山氏が総選挙に勝利した後、オバマ大統領は電話で祝意を表し、日米関係のさらなる強化に期待を示したが、鳩山氏は就任後、自民党とまったく異なる外交政策を推し進め、とくに沖縄の基地問題に関しては、一貫して普天間基地を沖縄県外に移すよう求めている。また、日本はアジアへの再回帰や、日米同盟関係で「対等」の地位を求めるなど米国を深く憂慮させる情報を頻繁に発している。
鳩山首相は自らの論文で、アジアとしての身分を忘れることはできないと述べた。民主党は政権に就いた後、「核密約」を徹底的に調査し、鳩山首相はイラク戦争に反対する姿勢を明確に示した。日本政府は9日にインドに向け2隻の海上自衛艦を派遣したが、これが恐らく給油活動に参加する最後の艦艇になるのではないだろうか。
これは米国のメンツを失わせることになろう。5日にフォートフッド基地で発生した銃乱射事件は、オバマ大統領に日本への不満を表す格好の口実を与えることになった。米国政府は7日、オバマ大統領は銃乱射事件の追悼式に参加するため、従来の訪日日程を1日延ばしたい、と日本に伝えてきた。
日本の新政権が昔からのパートナーに示した冷淡さは、それなりに道理のあることだ。鳩山首相はかつて、日本の民衆の財布を膨らませねばならないと語ったことがある。だが金融危機以来、米国は自らを顧みる暇さえない状態だ。
回復への展望の暗い欧米に比べ、日本の「アジアの隣国」は発展の勢いを見せている。2009年上半期の日本の対中輸出額は初めて米国を上回り、中国が輸出入両面でいずれも日本最大の貿易パートナーとなった。日本の新政権がマニフェストを実現し、米国との対等な関係を確立するにはまず、経済面で米国への依存を減らし、アジア各国に姿勢を転じるべきである。結局、「日本が経済困難を突破する唯一の希望はアジアにある」からだ。
だが、日米同盟は本当に危機に陥ったのか。
まず、核の傘への誘惑から日本が短期間に米国から離れることはないだろう。過去50数年来、日米同盟が一貫して日本の外交政策の基礎となってきた。米国は日本をグローバル戦略計画で重要な基地に据えてきた。日本の反米寄り指導者には「宿命」とも言える苦しみがある。比較的「反米」色の強い小沢一郎氏は、政権奪取前の重要な時期に政治献金で足をすくわれた。「反米」田中派の教祖である田中角栄氏は収賄で首相の座から下ろされた。こうした前例を踏まえれば、鳩山政権がその基盤がまだ固まらない状況のなか、日米同盟を徹底的に分解し、本当の意味で「アジアに戻る」ことはないだろう。 
国宝流失に『中国に及ばず』と嘆き
チャイナネットによると、香港誌「亜洲周刊」が「フランスのパリでは最近、250点の江戸時代の国宝級の浮世絵が約380万ドルで競り落とされたが、買い手の身元は謎で、作品の行き先も分からず、日本人の反発を買っている。そして不景気な中でナショナリズムが再燃し、日本は中国にも及ばず、海外に流失した文化遺産への対策もないと考えるネット利用者もいる」と報道した。掲載された文章の要約は次の通り。
日本の貴重な文化遺産「浮世絵」250点がパリで高値で落札された件は日本で大きな話題となっており、ネットの掲示板では熱い議論がかわされ、不景気な中で再燃した日本の「ナショナリズム気分」に火をつけた。
かつて景気がよかった時に世界中の名画を大々的に買いあさっていた日本が、今は海外に流失した浮世絵を買い戻す人も現れないというは、なんともたまらないことだろう。
10月17日には日本文化チャンネル桜などの民間団体が開催する「守るぞ日本」という国民総決起集会が開かれ、平沼糾夫氏や下村博文氏、山谷えり子氏、中山成彬氏、西村真悟氏などの政治家が参加し、政府は全面的に愛国主義教育を強化し、日本の伝統文化や政治、「大和民族の魂」を守るべきだと主張した。
オークション会社ピアザによる浮世絵のオークションは10月16日にパリで開かれ、江戸時代の最も主要な文化遺産である250点の浮世絵が、3億5100万円(約381万ドル)の高値で謎の収集家に競り落とされた。
その中の「嵐竜蔵の金貸石部金吉」は、六大浮世絵氏の一人である東洲斎写楽によるもので、落札価格は史上最高の5350万円(58万ドル)。歌舞伎に登場する貪欲で悪賢い高利貸しを描いたこの役者絵は、現存する142枚の東洲斎写楽の浮世絵でも貴重な一枚だ。
この浮世絵がどういうルートで海外に流失したのかはまだ分かっていない。オークション会社はもともと予想落札価格を約600万円と考えていたが、結果は思いがけない5300万円。10倍ほどにも跳ね上がった落札価格で、日本の浮世絵に期待の目が注がれた。 
エネルギー輸出大国となる可能性
中国は経済発展を続ける中でエネルギーの制約問題に直面しており、新エネルギーの発展がエネルギー問題を解決する一つの方法と見られている。『第11次五カ年計画に関する提案』では、風力エネルギー、太陽エネルギー、バイオエネルギーなどの再生可能エネルギーの発展を加速することが明確にされた。チャイナネットが報じた。
『新エネルギー振興計画』に基づくと、中国は2020年までに総額3兆元超を同分野に投資する。世界経済の発展を見てみると、中国は新エネルギー発展に最も早く着手した国ではなく、欧米など西側の先進国は早くから新エネルギー戦略を実施している。特に日本は後発であるにもかかわらずに他を先行しており、中国の新エネルギー発展の参考にする価値がある。
資源小国のエネルギー戦略
2008年の日本のGDPは4兆8020億ドルで、世界第2位の経済体の座についている。同時に、日本はエネルギー消費大国であるが、資源が不足しているため輸入に頼っている。近年、日本は代替エネルギーの研究に力を入れ、エネルギー源の多様化を追求しており、工業分野の急成長に順応するため、日本はエネルギー貯蓄、自主開発、エネルギー輸出国との協力などの面で効果的かつ高効率な政策をとっている。
日本のエネルギー政策の目標はエネルギー安全保障、経済成長及び環境保護(3ES)の同時達成である。3ESの3つの要素はどれも重要でおろそかにすることはできない。まとめてみると、日本のエネルギー政策には石油安全保障、石油備蓄、石油代替、省エネ、環境保護などが含まれる。
石油安全保障
戦略石油備蓄は日本の基本国策の一つで、1970年代初め、日本は石油と天然ガスの備蓄法令を制定し、戦略備蓄制度を確立し、国と企業は備蓄を行った。日本の石油備蓄は民間と政府が主体となっている。国の石油備蓄は政府が直接管理し、国家石油備蓄基地や民間から借り入れたタンクで備蓄する。民間備蓄は流通在庫と義務備蓄を分ける必要がなく、量さえあれば備蓄種類や備蓄方式は要求されない。国家備蓄量は90日分と規定されており、実際の備蓄量は91日分、100%が原油備蓄である。民間石油企業の義務備蓄量は70日分、うち石油製品が55%、原油が45%となっている。

中国は経済発展を続ける中でエネルギーの制約問題に直面しており、新エネルギーの発展がエネルギー問題を解決する一つの方法と見られている。『第11次五カ年計画に関する提案』では、風力エネルギー、太陽エネルギー、バイオエネルギーなどの再生可能エネルギーの発展を加速することが明確にされた。チャイナネットが報じた。
『新エネルギー振興計画』に基づくと、中国は2020年までに総額3兆元超を同分野に投資する。世界経済の発展を見てみると、中国は新エネルギー発展に最も早く着手した国ではなく、欧米など西側の先進国は早くから新エネルギー戦略を実施している。特に日本は後発であるにもかかわらずに他を先行しており、中国の新エネルギー発展の参考にする価値がある。
省エネ政策
企業と社会全体の省エネを奨励するため、日本は多くの財政・税務政策を実施した。
まず1つ目は税制改革である。指定の省エネ設備を使用した場合、設備の取得価額の30%の特別償却または7%の税額控除を受けることができる(中小企業に適用)。
2つ目は補助金制度。省エネ設備の導入や省エネ技術改造を行った企業に対し総投資額の3分の1から2分の1に当たる補助金を支給し、高効率給湯器を導入した企業や家庭に対し一定額の補助金を支給し、高効率エネルギーシステムを導入した住宅や建物に対し総投資額の3分の1に当たる補助金を支給する。
3つ目は会計制度。経済産業省が実施する企業のエネルギー支援と省エネ技術研究開発などの予算は「エネルギー需給勘定」に組み込まれ、主に国が徴収する石油石炭税から拠出される。
石油代替政策
石油、石炭、原子力、天然ガスは日本の主な一次エネルギーである。日本は新エネルギーの奨励を主な発展方向としており、新エネルギーの一次エネルギーに占める割合の向上、エネルギーの有効利用の実現に努めている。日本政府は新エネルギーの開発を大々的に推進している。新エネルギー開発計画ではソーラーエネルギーの開発利用に力を入れ、地熱エネルギーの開発、石炭液化と気化技術、風力発電と大型風力発電機の研究開発、海洋エネルギー開発と海外クリーンエネルギーの輸送技術を進めている。
近年、日本の省エネ技術はエネルギーの利用効率を大幅に高めており、特に新エネルギーの開発利用により日本経済のリスク対応能力は大いに向上した。また、従来型エネルギーに対する依存度は低下し、一部の新エネルギー企業は海外市場に進出している。長年の発展を経て、ソーラーエネルギーは日本で徐々に普及し、多くの家庭がソーラーパネルを購入した。2000年以降、日本は太陽光発電、太陽電池の生産量において世界トップを維持し、世界の総生産量の約半分を生産している。
日本は風力発電においても急速な発展を遂げ、発電量は2004年度に100万キロワットに達し、世界3位となった。専門家は、2010年までに発電量は300万キロワットに達すると見込んでいる。そのほか、日本は燃料電池、バイオマス発電、ごみ発電など新エネルギーを利用した発電方法を開発している。
これらの開発により、日本の国内経済の石油への依存度は1970年代の71.9%から現在は50%以下まで低下している。日本政府は新エネルギーの割合を高め、石油への依存度を現在の50%から2030年には40%まで引き下げることを目標としている。近い将来、日本がエネルギー輸入大国からエネルギー輸出大国となるのも夢ではないかもしれない。 
日本は不景気から必ず復活する
日本の2008年第4四半期のGDP成長率は、年率換算で12.7%減となった。3四半期連続のマイナス成長となり、下落幅は過去35年間で最大だという。日本経済は再び復活することができるのだろうか。
米国の金融危機に端を発した世界的な景気後退と需要低迷の日本経済への影響は日に日に深刻化しており、輸出が大幅に減少しているだけでなく、個人消費も不振にあえいでいる。このような兆しから、日本経済が深刻な不景気に陥っていることは明らかで、短期間でこの苦境から抜け出すことは難しいと見られる。
円高によって輸出主導の自動車産業は巨大な損失をこうむり、日産自動車は2万人の人員削減を発表した。日本の実体経済が受けたダメージは欧米諸国より深刻である。ここから、外需依存の弱点が長年改善されず、内需主導型の経済構造に転換するという目標は実現できなかったことが明らかである。政府高官は、日本は戦後最大の経済危機に直面しているとの認識を示した。
1945年、日本は多くのものを失い、半死状態となった。310万人が亡くなり、650万の軍人が帰国し、1300人が職を失い、国富の40%を失い、工業生産高は1936年の28%だった。自民党の鳩山一郎総裁が貴賓を招宴した際に出したのはサツマイモ、公園の中には「自殺禁止」の看板が立てられていた。航空機や戦車を製造していた軍需工場が鍋やスコップ、包丁など生活用品を作るようになった。支那派遣軍総司令官の岡村寧次は降伏文書に調印した後、「日本よ、どこへ向かうのか?」と泣いたという。しかしソ連のスターリンは大胆にも、「日本は最後にはまた這い上がってくる」と予言した。

1946年春、日本の新聞は紙面を大きく割いて、「世界中の視線が我々に集まっている」「失意の中から立ち上がろう」と報道した。昭和天皇も「十年生聚し、十年教訓す」という越王勾践の精神で国民を鼓舞し、恥を忍んで重責を担い、臥薪嘗胆するよう呼びかけた。皇族や政治家から庶民まで誰もが、「飢え死にするか、それとも一生懸命働くか」と士気を高めた。
1959年、中国は「英米に追いつけ追い越せ」の精神でいたが、敗戦国の日本はまるっきり視野になかった。しかし20年余りの努力の結果、日本はどん底から這い上がった。まさに「英米に追いつけ追い越せ」の状態になり、最終的には米国以外のすべての国を追い越して、経済力は世界第二位に躍進し、先進国となった。
日本の現在の景気後退は敗戦後のあの一時期の深刻な状況とは比べ物にならない。1973年以来、中国をはじめ多くの国は、日本の奇跡的な成長はまもなく終わると何度も予言してきた。特に、1973年と1979年のオイルショック、1986年の円高、1990年代末の不景気の際に。しかし、日本の経済は危機を乗り越えるたびにより強くなって適応力が増し、80年代、90年代でさえ経済競争力は8年連続で世界トップだった。
日本の実体経済は欧米諸国よりも深刻なダメージを受けたが、金融機関が受けた傷はさほど大きくない。日本政府は外部環境を変えることが困難な状況において、日本経済を危機から脱却させるためには、個人消費を刺激し内需を拡大するしかないと認識している。
したがって、08年以降3回にわたって総額75兆円の経済対策を打ち出し、国民生活、中小企業の融資、金融市場の安定、就業の拡大などの問題を解決することで、海外市場に過度に依存している経済を一刻も早く谷底から引き上げたいとしている。米国の学者は、経済危機だからといって日本経済の強大な実力を無視、ひいては否定することはできないと指摘する。ある程度時間が過ぎれば、日本はより強大な実力と競争力をみせるだろう。

中国の7割近くの国民は「保八」(成長率8%維持)に自信を持っている。一方、日本人は「居安思危」、危機になくても危機感を抱き、最悪の状況を想定して早くから準備を進める。中国の古典の名言「憂いから国の興隆をもたらす」である。日本の温順な企業戦士は、欧米や韓国のように大々的なストライキを起すことは少ない。
ある専門家は21世紀は海面が上昇して日本列島は埋没し、「日本沈没」が現実のものになるかもしれないと予測する。しかし、地理的な意味での「沈没」だろうが、国家や国民の危機という意味での「沈没」だろうが、日本は決して「沈没」に甘んじることはないと言い切れる。
今回の景気後退は日本国民の危機意識を強化し、日本が再び復活するきっかけとなるだろう。日本の作家の渡辺淳一氏はエッセイで「比較してみれば分かるが、今の経済危機は物質的に非常に豊かである中での危機であり、飢えて街中で倒れるといった人がいない危機である。贅沢の危機と言ってもいいかもしれない。この危機はプレッシャーであると同時にチャレンジでもあり、変革の原動力でもある」と指摘しているのである。 
中国は日本の景気後退から何を学ぶべきか
世界的な金融危機のなか、日本は未だ厳しい状況から抜け出せないでいる。2008年第4四半期の輸出は過去最大の下げ幅を記録し、国内総生産(GDP)の大幅な落ち込みにつながった。日本政府のある閣僚は日本経済の現状について「戦後最大の経済危機だ」と述べた。日中両国間の経済における相互依存関係は緊密さを増しているが、中国は今回の日本の景気後退からどのような教訓を得られるのだろうか。
日本の内閣府が16日に発表したデータによると、2008年第4四半期の実質GDPは年率換算で12.7%減と、35年ぶりの大幅な落ち込みを記録。また、同期の実質GDP内訳では、輸出が13.9%減、企業設備投資が5.3%減、個人消費が0.4%減となった。こうした急落により、2008年通年の実質GDPは前年比0.7%減と、1999年以来9年ぶりにマイナス成長に転じたという。
共同通信社の分析によると、日本経済が金融危機の震源地よりも大幅なマイナス成長を記録した原因は、主に解決不能となっているその構造的な矛盾にあるという。この矛盾とは、経済構造が長期にわたり輸出に依存し、内需主導型経済への転換が遅々として進まない状況を指している。
日本経済は欧米市場に過度に依存しているため、金融危機発生後間もなく、大きな痛手を受けることになった。統計によるとアジア製品の60%が最終的に欧米市場で販売されており、金融危機により欧米市場における日本のハイエンド製品に対する需要が大幅に落ち込んだことから、日本の輸出が急激に減少する結果となった。
フランスのある経済学者は、日本が今回の危機のなかで最も深い傷を負った原因は、その輸出構造にもあると指摘する。自動車や電気製品などの高価な耐久消費財が、日本の輸出製品の大部分を占めているが、これらの販売量は信用貸付を取り巻く環境から影響を受けやすい。金融危機発生後、全世界、特に先進国における信用収縮は消費に大きな影響を与えている。
日本企業のリスク対処法
日本の大手家電メーカーはいずれも数年ぶりの赤字に転落する見通しであるが、グローバル展開の歩みは決して衰えていない。業界アナリストは、日本メーカーの業績不振は一時的なものであると指摘する。
彼らは数十年の発展の中で、さまざまな市場環境や経済状況に対応する経験を積んできた。こういった経験により、今回の不況にも上手く対応することができるだろう。日本メーカーはこの局面を利用して、中国やアフリカなどの振興市場に新たな布石を敷く可能性もあるという。
注目したいのは、日本メーカーは赤字予想の発表とともに、この赤字や業績悪化の対応策も打ち出していることである。パナソニックは家電事業の価格下落と売上減少の影響を受けて、マレーシアとフィリピンの電池工場を閉鎖すると同時に、三洋電機を傘下に納め、今後はリチウムイオン電池や太陽電池など環境配慮型製品に力を入れる予定である。NECも、2010年3月末までに従業員を2万人削減すると発表している。
ある日本メーカーの責任者は、現段階では多くの企業が「単独で戦う」ことは不可能であり、「他社と協力する」という新戦略を展開する必要があると語る。東芝とNECは半導体事業の統合に向けて交渉に入っており、ここに富士通も参加する可能性がある。
この危機の中で、日本の大手メーカーは新たな統合と再編の幕を開こうとしている。これによって最終的にはさらに大きなメーカーが誕生し、世界各地域の経済リスクにより良く対応することができるようになる。
日本の英文月刊誌「JARN」の何継承社長も、人員削減や関連事業の再編、振興市場への投資拡大は経済や市場が衰退しているときの日本企業の主要手段であると指摘する。これは日本企業が長年にわたって積み重ねてきた経験なのだ。人員削減や海外工場の閉鎖といった一連の対策はすべて計画的に実施され、最終的には企業の正常かつ安定した発展を保証するのである。 
追いつき追い越せ型経済は限界
日本の内閣府が発表した最新データによると、日本経済は1970年代のオイルショック以来最も深刻な低迷局面に直面している。2008年第4四半期の実質国内総生産(GDP)は前期比3.3%減と、第2、3四半期の0.9%および0.6%を大きく上回る減少率を記録した。これにより、2008年末まで3四半期連続のマイナス成長となった。
日本経済の動向を楽観視していたわけではないが、こうした状況まで景気が後退するとは当初予想しなかった。日本経済は2001年に「失われた10年」から抜け出し、短命で微弱ながらも景気が回復した。
だが、世界的な金融危機の衝撃を受け、外需の落ち込みにより日本経済は再び苦境に陥った。2008年第4四半期のデータを分析すると、その実態をより鮮明に把握することができる。
まず民需は、GDPに対する寄与度が0.5ポイントのマイナスとなったが、著しい構造的特徴が現れている。民間消費支出と設備投資のGDPに対する寄与度が、それぞれ0.2ポイントと0.8ポイントのマイナスとなる一方で、住宅投資と在庫の伸びは0.2ポイントと0.4ポイントのプラスを記録した。住宅投資の寄与度がプラスとなった原因は容易に理解できる。改正建築基準法の影響が一服したことを受け、住宅投資は増加したと見られるが、これは必ずしも転換期の特徴ではない。
注目すべき点は在庫の伸びの変化である。企業の在庫の伸びはプラス0.4ポイントとGDPの押し上げに寄与したが、この点から輸出の落ち込みが民間部門の予測を遥かに上回ったことが分かる。実際、日本企業は2008年初頭から設備投資を大幅に縮小し、慎重に在庫を維持してきたが、それにもかかわらず在庫がこのような大幅な伸びを記録した。これらから、外需が日本企業の予想を上回る速さと規模で落ち込んだことがうかがえる。
次に公需では、公的部門の投資と在庫の伸びのGDPに対する寄与度が、いずれもゼロに近いマイナスとなった。また、政府の消費支出がプラス0.2ポイントとGDPの押し上げに寄与した点から、非常に限定的であるものの政府の打ち出した景気刺激策は効果があったと言える。
このほか、外需悪化が第4四半期の景気後退の要因となり、米国の金融危機発生後、日本経済に直接的な打撃を与えたと言える。同四半期、輸出が13.9%減少し、輸入が2.9%増加したことで、GDPに対する寄与度はそれぞれ2.6ポイントと0.5ポイントのマイナスとなり、これらを合計した結果、外需の寄与度は3.1ポイントのマイナスとなった。
内需低迷は長期にわたり日本経済の難題となっていたが、外需は今回の金融危機が発生するまで、日本経済を悩ます最大の問題ではなかった。また、外需は経済成長の主要な牽引力としての役割を果たさなかったが、経済成長を妨げることもなかった。2001年以降の最近の景気回復で、主な牽引役となったのは消費と投資で、輸出の貢献度は最も低かった。
今回の金融危機で、アジア経済は初めて外需低迷の問題に直面したが、これはアジアの主要輸出国にとって貴重な教訓を得る機会となった。つまり、日本の教訓を通じ、外需牽引型の経済のより実質的な面と、金融危機が貿易に与えた新たなチャネルを理解することができた。 
漢字ビジネスは「金の生る木」
日本の著名な作家である柳田邦男氏はかつて、「漢字のリズム感と優雅な文体は永遠に美しい」と述べた。春節(旧正月)以降、日本最大の書店である紀伊国屋の売り上げランキングで、『読めそうで読めない間違いやすい漢字』がトップの座についた。刊行からわずか1年で売り上げ60万部に達した同書が、米国のオバマ新大統領の関書籍を2、3位に追いやる結果となった。
出版業界で漢字関連書籍が流行しているだけでなく、テレビ業界でも漢字関連の番組が高視聴率を記録。「クイズプレゼンバラエティQさま!!」と「クイズ!ヘキサゴン2」の放送時間はいずれもゴールデンタイムで、最高視聴率は19.4%に達した。こうした現象について、日本のあるメディアは、「トヨタでさえ赤字に転落した日本で、漢字関連のビジネスだけが唯一利益を上げている」と伝えた。
若者から高齢者まで、各世代に漢字学習の目的がある
『読めそうで読めない間違いやすい漢字』のヒットの背景には、多くの日本人が感じる「漢字のレベルが低いとからかわれるかもしれない」という焦りがある。同書の担当編集者の多田勝利氏によると、左ページに誤読しやすい漢字の問題、その裏の右ページに回答を載せ、クイズ形式にしたことで、家族や友達が一緒にゲーム感覚で楽しむという形で受け入れられたという。
また、同書の持ち歩きに便利な軽装版というスタイルや、500円という値段の安さ(日本で単行本は1000円以上が一般的)が学生に受けた一方、見やすい大きな活字は高齢者に好評だった。誤読しやすい漢字1800語のほかに、同音異義語や動植物、地理、歴史関連の漢字も収録されている。写真は書道コンテストに参加する日本の小学生たち。 
グローバル化の時代に育った日本人
グローバル化の時代に育った日本人は、国際社会で他の国との交流を維持し、その発展をサポートすることは、日本の責務であると考えている。
『ソフトパワースーパーパワーズ』の編著者である渡辺靖慶応義塾大学教授は、「日本人には、60年前、他国の援助により復興を成し遂げたので、今度は自分たちが同様に高尚なことをすべきだという思いがある」指摘する。
2004年に海外の大学に留学した日本人は約8万3000人に達し、1990年の3倍にもなる。国連で働く日本人専門職員は、7年前は500人にも満たなかったが、今では約700人に上る。
また、大西健丞氏が留学から帰国後の1996年に設立した「ピースウィンズ・ジャパン」は、日本最大の非政府組織(NGO)の1つに成長した。
大西氏によると、対外援助およびその活動を通じて、世界に日本の価値観を広めることを責務と考える日本人が、次第に増えているという。
こうした考え方に刺激を受け、青年海外協力協会のボランティア事業に参加する人が増加している。同協会は1965年以来、70余りの国々に3万人を上回るボランティアを派遣してきた。現在、ボランティアの主力は、女性と退職後に新たな生きがいを求めるシニア世代。彼らの海外での活動も非常に「日本的」といえる。例えば、寒さに強い品種の米栽培、環境保護研修、数学・自然科学教育だ。
日本人の海外に飛び出し、世界を理解したいという思いは非常に強い。現在41歳の大西氏は、「かつて東京の有名大学2校で客員講師を務めることになった際、世界の遥か遠くの地の話を聴きに来る学生はいるだろうかと心配した」と振り返る。しかし、実際、大西氏の講義が始まると、教室はいつも満員となり、席がなくても立ったまま聴講する、熱心な学生も少なくなかったという。 
日本の金融危機
ホームレスが増加
このほど中国紙『東方時報』は、金融危機による景気減速が日本社会にもたらした変化についての記事を掲載した。以下はその記事より。
「新年派遣村」は2009年の日本の新年における最も人目を引くシーンとなり、 1月4日の夜、それぞれ270人と219人が厚生労動省のホールと日比谷公園内のテントの中で一夜を過ごした。
5日午前、ホールの清掃が始まり、ここで一夜を過ごした失業者および彼らを援助した労働組合の関係者ら約600人が日比谷公園を出発してデモ行進を行い、人々は「大企業の派遣労働者解雇は許せない」、「意欲のある人たちに就業の機会を提供せよ!」などという横断幕を高くかかげて国会議事堂に向って前進した。
事実、ホームレスの人たちはとてもこれくらいの人数ではなく、いくつかのインターネット喫茶も仕事を失った者、ホームレスの人々が一夜を過ごすところとなっている。日本では、一定の住所がなければ企業に雇用されないため、日本のいくつかのインターネット喫茶店はホームレスの人々に援助の手を差し伸べたのである。
インターネット喫茶は通常のインターネット接続、アニメ観賞および飲み物の飲み放題のサービスを提供しているほか、失業者や仕事を探している人たちに長期の宿泊サービスや正式の宛先サービスを提供している。
宛先サービスはインターネット喫茶店が最近になって売り出したサービスであり、これは仕事を探している多くの人たちにとって非常に役立つ。なぜなら企業は正式の宛先のないものを雇うことはあり得ないからである。インターネット喫茶店の宛先サービスはホームレスの人々にとっては大助かりであり、彼らはここで再出発の望みを見つけることもできる訳である。
自ら進んで倹約
このほど中国紙『東方時報』は、金融危機による景気減速が日本社会にもたらした変化についての記事を掲載した。
金融危機の下で、ホームレスの人たちがなぜ急増しているのか。これは疑いなく多くの日本人が「目先の快楽におぼれる」消費習慣と関連がある。仕事を失った人々は、貯金がない状況のもとで一文無しになった。
金融危機によって日本人が汲み取った非常に重要な教訓は、ふだん貯蓄を重視することが非常に必要ということである。最新の世論調査によると、52%の日本人は10年後には生活はさらに悪化すると見ており、好転があり得ると見ている人はわずか12%で、5年前の前回の調査のデータと比べて、将来の生活に対する不安が大幅に上昇したことをはっきりと示している。
生活が悪化すると見ている主要な理由を順番にあげると、税金と社会保険費用の増加、収入減、社会福祉の悪化である。回答者の80%は自分たちは倹約派に属すると言い、景気の不振に直面している大多数の日本の民衆は倹約を主とすることで生活防衛に力を入れていることが示されている。
インターネット利用者はインターネットで家庭支出の倹約のノウハウをさかんに交流しており、たとえば、洗濯後の水を利用して床板を拭くこと、子供たちにおやつを買わないこと、男性は酒をやめ、小遣いを減らすこと、入浴は浴槽に入ることではなく、シャワーで済ませること、自動販売機で飲み物を買うのではなく、安いスーパーマーケットで買うこと(前者の方が少し高いからである)、レジャー娯楽の支出を減らし、映画を見ることもやめ、カラオケショップに行かないこと、家電のスイッチを切る際に電源のスイッチも切ること、できるだけ社交活動に参加しないこと、できるだけ高価な商品を買わないことなど……がそれであるという。
共産党に期待し始めた日本人
このほど中国紙『東方時報』は、金融危機による景気減速が日本社会にもたらした変化についての記事を掲載した。
毎日のように企業が破産し、従業員が解雇され、給料の引き下げが記録を更新するなどの悪いニュースが耳に入ってくるようになった。このような社会状況のもとで、一時期粗末に扱われた、「人々を苦しみから救い出す」ことをモットーとする日本共産党の人気が急上昇している。
2007年9月から、日本共産党への入党を申し出た人はすでに1万3000人に達し、そのうち20−30歳の若者が20%を占め、40−50歳の中年の人たちが60%を占め、60歳以上の人が20%を占めている。
日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』の読者も、08年のわずか半年間に1万8000人も拡大した。日本共産党は40万人の党員を擁し、日本の国会でも16人の議員がいる。日本共産党は国民の税金を政党活動の資金とすることに反対しており、そのため、日本の各政党の中で唯一の政府から政党補助金をもらうことを拒否している党となっている。
日本の雇用情勢が厳しい状況の下で、日本共産党は雇用を確保することを主張し、失業者の抗議集会の組織に積極的に取り組んでいる。昨年末、日本共産党中央委員会委員長の志位和夫氏は日本経済団体連合会に企業の臨時従業員の解雇を停止することを要求し、弱者層から歓迎された。
プロレタリア小説が人気
このほど中国紙『東方時報』は、金融危機による景気減速が日本社会にもたらした変化についての記事を掲載した。
日本東方出版社が出版したマルクスの『資本論』をもとに改作された漫画は歳末と年初の飛ぶように売れる本となった。東方出版社はこの本の読者を30歳以上の人と位置付けした。今回の金融危機による打撃はターゲットの人々にとって最も大きいからである。この本は初版は2万5000冊を印刷され、市場に出回ってから10日以内に売り切れとなり、しかもベストセラーと見なされるに至った。
この漫画が描いているのは19世紀のあるチーズ工場のストーリーである。資本家のロビンはこの企業の経営者であり、彼は利益のみを追求していたが、厳しいビジネス競争の中で苦しい立場に立たされた。ロビンは剰余価値を追求することと搾取される従業員に同情を寄せることの間で苦痛に感じ、気持ちの上でもあがいていた。
『資本論』だけでなく、かつてのプロレタリア文学の名作『蟹工船』もまた注目されるようになった。プロレタリア文学の代表的作家と見なされた著名な作家小林多喜二の小説『蟹工船』は1929年に上梓され、約80年間経って小林多喜二の死去75年後の今日、この小説は日本で再度人々に注目されることになった。
この小説を出版、発行した新潮社の統計データによると、08年来、この本の販売部数は急増し、4月に7000冊を再版し、その後また5万冊を追加印刷し、聞くところによると引き続き追加印刷する可能性がある。このほか、昨年出版社2社が小説の漫画を出版した。
「『蟹工船』ブーム」という言葉は2008年の日本の十大流行語に入選した。解雇の危機に直面している企業の従業員は往々にして自分の境遇を『蟹工船』の中のシーンと対比し、同感しているのである。09年、映画『蟹工船』も公開上映されることになっている。長野県には『資本論』勉強会があり、もっぱらマルクス主義の理論を学ぶことを模索しており、最近彼らはまた時事と結び付けて、「世界的恐荒の勃発と金融資本主義の破産」などのテーマについての討論をくり広げている。 
日本のODA「世界の人々は日本の努力知らない」
麻生太郎首相は積極的な政府開発援助(ODA)推進者で、途上国に対する援助について、「日本文化輸出の原動力となり、日本の価値観を広める重要な手段」とみている。日本は1990年代初め、世界最大のODA拠出国であった。しかし、この10年で、ODA予算は急激に減少し、世界5位に後退した。
こうした状況を受け、外務省は2008年8月、2009年度予算の概算要求で、前年度比13.6%増のODA予算を求める方針を固めた。また、政府は同年10月、インドと過去最大となる45億ドルの円借款供与で合意に達した。この5カ月前には、2012年までにアフリカに対するODAを倍増すると表明。さらに、アフリカ大陸に大使館を3カ所新設した。
もちろん、ODAは拠出国の利益と全く関係ないとはいえない。日本企業はODA関連の大口受注から利益を得てきた。しかし、ODAは単に日本企業に莫大な利益をもたらすためのものではない。この事業により、次第に多くの日本人が、世界で自分たちの理念を広めたいと考えるようになった。
緒方貞子前国連難民高等弁務官は現在、国際協力機構で理事長を務めている。同機構は2008年、大規模な組織改編を行い、運営資金100億ドルを有する、世界最大の途上国援助組織となった。今年82歳になる緒方理事長は、日本のODA事業の紹介に努めている。緒方理事長によると、日本はODAで何を行ったかを広く伝えたいわけでないが、こうした日本の沈黙と謙虚さが原因で、世界の人々は日本が払ってきた努力を知らないでいるという。 
国に親しみを感じる日本人が過去最低、中国人は?
日本の内閣府がこのほど発表した「外交に関する世論調査」によると、中国に「親しみを感じる」日本人は、昨年より2.2ポイント減の31.8%となり、1978年に調査を実施して以来最低を記録し、「親しみを感じない」は昨年より3.1ポイント増の66.6%で史上最高となった。
一部の中国のメディアは、「親しみを感じない」ことは反中の表れだとするが、この見方は少し偏っているように思える。日中両国の国民が互いに反感を抱いている場合、今後の日中関係の発展に暗い影を落すに違いない。
2008年は「日中平和友好条約」締結30周年にあたり、日中両国首脳の相互訪問も順調に行われ、「戦略的互恵関係」を構築する方針も両国関係の改善に役立っている。しかし両国国民の感情はそれに呼応して深まってはいない。
最も大きな理由は中国の食品安全問題だろう。07年に発生した「毒ギョウザ事件」が日本で報道されて以来、日本の社会にパニックを引き起こし、中国企業や中国産食品を信頼できないとする日本人が増加。そして北京オリンピック閉幕後に発生した「メラミン事件」等の商品安全問題は、日本だけでなく世界においても中国のイメージを傷つけ、深刻なマイナス影響をもたらした。
実際、日本の各界は日中両国の交流促進に努力してきた。5月12日の四川大地震では、日本の救援隊が初めて国際救援隊として被災地に赴き救援活動を繰り広げ、中国人の日本に対する評価を変えた。北京オリンピック開幕式では、日本代表チームが日中両国の国旗を持ち行進、そしてシンクロナイズドスイミングの井村雅代コーチも中国の成績向上に力を尽くし、日中両国の女子サッカーでは「友好的な試合」で日中関係改善の手本になった。
もちろん日中交流の中で全く不調和音がなかったわけではない。8月13日に行われた北京オリンピック男子サッカーでは、日本とオランダが対戦し、オランダチームはホームグランドの待遇だったが、日本チームは中国のサッカーファンたちからブーイング受けた。これは日本人の不満や反感を買い、一部の日本のメディアも一層あおり立て、中国は危険な国だというイメージを強めた。
「己れの欲せざるところ人に施すなかれ」。66.6%の日本人が中国に親しみを持っていないことに対して中国人は冷静に受け止め、理性的に対応すべきだろう。 
 
「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化

 

1.「下海」熱:「文革」後の政治→経済の転換 
『文学』(岩波書店)1989年3月号に掲載した『「文革」後の中国文学と日本の戦後文学―相互参照の試み』は謀らずも、其の5年前に始まった筆者の20世紀日・中文学の研究・評論の決算と成った。論文が世に出た直後の天安門事件で文学の限界を痛感した結果、研究領域を比較文学から比較文化に移し、言語・風習乃至政治・経済・社会・歴史の多角から両国の異同を掘り下げる方向性が出来た。
其の論考の範囲は日本の1945〜55年、中国の76〜86年に絞った。敗戦11年目の『経済白書』の「もはや“戦後”ではない」宣言ほど明確でないにせよ、「文革」終結10年後の「“文革”後」から「後“文革”」への移行は顕著だ。改革・開放の急先鋒―胡耀邦総書記が87年初めに失脚した一幕は、中国が戦後日本並みに経済成長に専念する事の困難さを示したが、彼が其の前に新時代の転形を形容した「脱毛」(脱皮)は、字面が含む隠れ味の脱毛沢東と共に不可逆の帰趨だ1)。
官僚・文化人・体育選手等の経済界への転職を言う流行語の「下海」2)に、其の変化は端的に現われる。20世紀前半に生まれた此の俗語は、素人役者の職業ロ入りを海へ出る事に譬えるのが原義だ3)。未知の舞台に投身し可能性を追求する「下海」は、「風険」(不確実な危険)を冒す点で、全国最大の経済特区として88年に新設した海南省への転職・移住(俗称は地名に引っ掛けた「下海」4))熱や、同時期に急増した留学生や経済難民の海外進出と重なる。此等の行動は其々改革・開放の域に入るが、最後の方の美称―「世界大串聯」は各地に赴き連携を求める紅衛兵の「串聯」を擬った物だ5)。其の毛沢東時代からの反転と共産党時代以前の「下海」の変形復活は、「脱毛」の時流を映し出す。
87、89年の「反資産階級自由化」、天安門事件は「脱毛」の陣痛とも思えるが、「政治風波」は字・義とも改革・開放の「風険」に暗合する。「反革命動乱」の断罪に代った此の朧化表現は、中性的な「学潮」(学生運動)の呼称への許容と共に、中国流の糊塗工作6)の好例だ。文芸技法の「淡化」(稀釈化)が政治手法に転用された事7)は、中国の政治と文芸の同根性を窺わせるが、発信源の文学はやがて稀薄化・退潮を強いられた。
上記の論考で「“文革”前世代」と分類した文学者の中で、85年に中国作家協会副主席に選ばれた3人の其の後の歩みは、其々「淡化」・「世界大串聯」・「下海」に見える。武力鎮圧後に文化相を解任された王蒙は、現実への超然たる諷刺を含む創作に専念した。一党独裁への批判で87年に党籍を剥奪された劉賓雁は、今度は米国に亡命し体制と訣別した。蘇州文人の美意識で名高い陸文夫は政治と距離を保ちつつ、マルクス主義への眷恋を創作の種にした同世代の小説家・張賢亮の後を追う様に、後に会社経営に乗り出した8)。
「文革」後文学の最初の10年は、「傷痕・反思(反省)・尋根(ルーツ探し)」の3期に分けられる。天安門事件で新たな傷痕が出来たが、其を癒すのは前回の精神の昇華と対蹠の商魂だ。
筆者は胡耀邦・劉賓雁批判の激震の最中、創作の自由を抑える政治規制と表現を腐蝕する商業化の恐さを警告し、文学の悲観的な見通しを示した9)が、予言は遂に現実と成った。両面の大敵に由る破壊の例は、作家協会主席・巴金の「文革博物館」の構想の頓挫10)、氏が主宰し其の娘が仕切る名門文学誌・『収穫』の財政難に因る廃刊危機の頻発だ。
但し、禍福は糾える縄の如し。武力鎮圧が招いた反発は逆に歴史の前進を加速し、完全引退の小平の「南巡」講話(1992)は超法規的ながら改革・開放の再点火に成功した。事実上の一党独裁の維持は結果的に、亜細亜4「小龍」の中の韓国・台湾・新嘉坡の様な独裁開発型の高成長を可能にした。文学の低調は同じ傷痕→商魂の変貌を遂げた昭和30年代以降の日本と一緒だが、社会がより求める経済の繁栄の代償とも割り切れる。
前述論文で明治維新と「百日維新」(1898)以降の両国間の30年程の発展時差を指摘したが、中国は光緒帝の失脚で失敗った戊戌変法以来の百年間、力関係が逆転した抗日戦争勝利後の一時期を除いて、日本を近代化の手本と競争相手にして来た。日本の昇竜めく成長は儒教的な資本主義の成功に帰せ、其の勝因には「儒・教」の文字通りの道徳・教育に対する重視、「資本・主義」の二元に対応する『論語』+算盤の二刀流が大きい。
毛沢東時代の末期は道徳・教育とも崩壊し、資本主義に対する完全否定も手伝って、貧困な社会主義への暴走が政治・経済を破綻させ、物心両面の劣化をもたらした。「文革」終了時の中国は31年前の敗戦時の日本の様な焼け野原こそ無いが、負の遺産と内面の廃墟を抱える非道い状況だった。60年の安保闘争・池田内閣の国民所得倍増計画宣言と89年の天安門事件・92年の小平「南巡」との間隔11)も、上記の発展時差と合致する。
安保動乱の数ヵ月後に世に出た国民所得(国民総生産)10年倍増計画は、民心修復・政権維持の狙いを秘めていた12)。「文革」後の「信仰(共産党への信任)危機」が強まる80年代に中共が打ち出した国民総生産倍増、倍倍増計画13)、人心の離散を招いた天安門事件の数ヵ月後にが踏み切った完全引退・権力譲渡も、政治的な意図に由る政治から経済への転換だ。共産党中国は同時代の日本と違って「経済動物」に成り切れぬが、経済が政治と対等な両輪たり得る事は、2代目の領袖・の特質と共に、彼を含む実務派が優位を占める「文革」前の56年体制14)や、其の崩壊後も彼を乱世収拾の切札として温存し活用した「政治動物」・毛沢東の深謀15)が示した様な、中共の現実主義が根底に有る。 

1)熟語の「羽毛未豊」(羽が未だ十分に生えていない。若年や未熟で実力が不十分な事の譬え)や「翅膀長硬」(翅が硬く成る。一人前に成って自立する事の譬え)の様に、中国人は好く鳥獣の羽根の生え具合を人間の成長の見立てにする。胡耀邦が80年代中期の演説の中で使った「脱毛」(鳥獣が春・秋に毛が抜け換る事)の比喩も、自らの独立志向の隠喩の匂いがする。言葉尻を取る「文字獄」の悪習が残った其の後の胡耀邦批判でも此が罪名に成らなかったのは、実質的な脅威が無い事と共に中国語の隠微も一因か。
2)多くの新語辞典に見当らず初出は判らなく、92年小平南巡の後に蘇った語とする説も有る(天児慧他編『岩波現代中国事典』、岩波書店、1999、427頁)。80年代後期の流行を推定する根拠は、3年余ぶり復活した年初来の商売熱を論う88年8月4日『経済日報』の本紙評論員・馮並の『冷静評価第2次「経商熱」』だ。「工農兵学商、一起来経商」(労働者も農民も兵隊も知識人も商人も、一緒に商売に乗り出す)も、後に締め付けられ沈静化した84年前後の初回「経商熱」の中の流行語だ、と同文は言う。
3)辞海編輯委員会編『辞海』(上海辞書出版社)1989年版では、「下海」(454頁)は「旧時戯劇界称非職業演員転為職業演員」(旧時の演劇界で素人俳優がプロ俳優に成る事を称した)との一義だ。
1999年版(488頁)では此の解は「旧時」を取って2と成り、「1到海里去。如:下海捕魚」(海に出る。例:海に出て魚を捕る)、「3指当娼妓或妓女第一次接客陪宿」(娼婦に成る事や娼婦が1回目に客を取る事を指す)、「4指放棄原職業而従商」(本来の職業を放棄して商売に従事する事を指す)が添加された。1の「捕魚」は小平の「抓耗子」(鼠捕り)と結び付けば興味深いが、余裕・余禄の「余」との同音に因り縁起物とされる魚も、4の利益追求と関わりを持つ。改革・開放後に売春も含む旧習が復活した(深経済特別区の資本主義化を見た古参の共産党員が衝撃の余り、「辛辛苦苦幾十年、一夜回到解放前」[数十年苦労を尽くして頑張って来たのに、一夜にして建国前に逆戻りした]と怨嗟を吐いた)事や、民衆が抱く商人の固定形象に娼婦並みの非道徳・無節操が有る(俗諺に「無商不奸」[商人には狡賢くない者は居ない]と有る)事を考えれば、2の「旧時」の削除や3の追加に隠れ味を感じる。
4)熊忠武主編『当代中国流行語辞典』、吉林文史出版社、1992、433〜434頁。建国後の約40年(1949〜88)の流行語を網羅した此の文献では、此の語は1988年の部に入り、「人們戯称一現象為“各路精英、紛紛〜”」(人々は此の現象を“各方面の精英が続々と海に出る”とからかって呼んだ)と解された(文例の出所・年代不明)。「精英」の賛辞と「下海」の皮肉はちぐはぐの様だが、物凄い人材流入と海南島を舞台にした大型経済疑獄(84〜85年、準経済特区の同島の開発の為に国家が与えた外貨管理上の輸入物資制限の緩和優遇を利用して、官民ぐるみで必要以上の物資を輸入し島外に転売し暴利を得た事件)の明・暗に妙に符合する。海南省設立決定の1年後の同じ4月中旬の胡耀邦の急逝が誘発した天安門事件でも、自他とも「精英」と認めた知識人たちが活躍したが、運動の挫折後「精英」は当局の揶揄と当事者の自嘲の対象と成った。
5)俗称・「革命大串聯」は、各地間の紅衛兵同士の「経験大交流」だ。党中央・国務院の1966年9月5日の通達で、運賃・食費・宿賃の全額国費支出を宣言した。個人負担免除の支援策に促された活発化の結果、鉄道輸送と各地の社会生活が大混乱に陥った。上記機関は11月16日の通達で、暫く中止し翌年4月に再開する方針を打ち出した。結局、67年3、4月に引き続き見送る通告を2度出す破目めと成った。其の喜劇は次の諸点に於いて、「文革」の実相や中国人の心性の絡繰を示現した。
1 毛沢東と極左派は「大鳴・大放(鳴・放=意見・異論の主張)・大字報(壁新聞)・大弁論」に次ぐ此の5番目の「大」を、国際共産主義運動史上の空前の試みとして自賛したが、革命の理想も遂に台所事情に勝てなかった。
2 採算無視の大盤振舞は毛の浪漫主義と共産党中国の全体主義の所産だが、原型なる若き毛の無銭旅行の「身無分文、心憂天下」(鐚一文も無いが、心に天下を憂慮する)の志は、「大串聯」の中盤以降は少数の者しか貫かなかった。物見遊山に化した実態と紅衛兵の俗物性を見抜いた周恩来は、祖国の素晴らしい山河を遊覧するのは好いが、全ての地方に批判対象が居るとは限らぬとし、移動を全て徒歩で行なうよう牽制したが、自腹が痛まぬ列車の利用を止める変化は出なかった。禁欲・自己犠牲の上に立つ原理主義が中国で成立し難いのは、此の様な苦行を嫌う現世享楽志向が要因か。『立命館言語文化研究』に連載中の拙論・『日本的中空・「頂空」(頂点の空虚)と中国的「中控・頂控」(中心・頂点に由る支配)』と関連するが、中国の強権統治は孫文が嘆いた中国人の「一盤散沙」(散り散りバラバラの砂)の裏返しだ。
3 曾て皇帝の言葉が「金言玉口」と言われた(此の熟語は本論考の財宝見立ての例なり得る)様に、領袖の決定は絶対的で撤回できぬとの固定観念が根強いだけに、再開の予告が御破算に成った結果は当局の信用失墜を意味する。毛はニクソンに対して自らの壮語や号令を「空砲」と自嘲し、此の一幕も実弾が尽きた故の「空砲」の破綻と観て能いが、錯誤に対する強制修正は
権威の正当行使とも思える。浪費の膨脹に終止符を打つ決断は、孔子の「過則勿憚改」(過ちが有れば改正を憚るな)、孟子の「大人者、言不必信、行不必果」(大人たる者は、約束は必ずしも守らなくても能く、行動は必ずしも果さなくても能い)で正当化できるが、度重なる食言が招いた当局の公約への不信は後の「信仰危機」の一因だ。鼠が捕れるなら黒い猫も好いと言う小平の論断は、正当な目的の為に手段を選ばぬ主義だが、其の清濁併せて呑む逆説は正論の部類には入らぬ。至上命題の社会安定の為に武力鎮圧の禁じ手を使った天安門事件の後の民心の離散は、黒い覇道・「詭道」の限界を示した。孔子は「民無信不立」(民衆の信任が無ければ国家は成り立たぬ)と断じた(『論語・顔淵』の此の5字語録は、上の句の「自古皆有死」と共に『名賢集』に出ている)が、中国語でも同音の「信・心」の維持こそ王道だ。「文革」後も当局の朝令暮改が繰り返され、政策変更を恐れる民衆は相場の波乱を懸念する日計り投資者の様に、刹那的な利益追求−確定に走りがちだ。其を防ぐ為の損失補填の空手形の類の弥縫策は悪循環を加速するだけで、長期安定に不可欠な信任・権威の回復も「徳治」の課題に成ろう。
泡沫経済末期の日本の「ふるさと創生」支援は、金満の余裕を頼りに気前好く財富をばら撒く愚行として歴史に残ったが、国民総生産が負成長に突入して行く「文革」元年の無料・無量「串聯」は、無い袖を振る金欠国の気負いだから遥かに可笑しい。他界前の池田勇人は国民を甘やかした政治を自省したが、此の全額おんぶの様に毛沢東の甘やかし方も半端ではない。半面、為政者と民衆の相互利用の構図も見え隠れする。毛は紅衛兵を政争の点火役に利用し天下大乱の責任を政敵に転嫁し、周恩来は赤軍を気取る「徒歩串聯長征隊」の出現を利用して列車乗用の中止を求め暴走の終息に仕向け、若者は千載一遇の好機を利用して社会・自然を「飽覧」し見聞を拡げた。
日本語に無い「飽覧」(飽きる程[目一杯]観る)が示唆する中国的な貪欲は、「文革」後の「世界大串聯」でも爆発した。「世界」を冠する此の新語の由来は、天安門事件の前年の報告文学(胡平・張勝友、『当代』1988年1号)の題だ。後に海外への出稼ぎを揶揄する流行語の「洋挿隊」も出たが、「挿隊」(人民公社の生産隊への編入)は毛が紅衛兵を切り捨て、「知識青年への再教育」の大義名分で農村に放り込む手段だった。20年後の「洋」(西洋。海外)への進出は、官民の相互信頼も相互利用も出来なくなった時代の出来事だ。「革命大串聯」の児戯と違って、自己責任を負う「洋串聯」は文字通りの「下海」と言えるが、泡沫経済の宴に耽り
やがて物心とも萎縮して行く同時代の日本との対比は興味津々だ。
6)侵略戦争を謝る田中首相の「多大な迷惑を掛けた」の中国語訳―「添了很大的麻煩」(「麻煩」=面倒)は、軽い言辞として周恩来の抗議を招いたが、周は「軽描淡写」(軽い表現で淡化すこと)に由る「大事化小、小事化了」(大事を小事に化し、小事を了に化すこと)の名手だからこそ、激しく反応した節も有ろう。1967年2月、「文革」の極左路線に対する数人の老革命家の抗議が毛沢東の逆鱗に触れ、「二月逆流」と断罪されたが、彼は「二月的乱子」(二月のトラブル[騒ぎ])の言い回しで矮小化を図った(南山・南哲主編『周恩来生平』、吉林人民出版社、1997、1360頁)。今回の「動乱」→「風波」の修正の経緯は霧に包まれる儘だが、最大限の軟化・糊塗に違いない。周の苦心は当時毛の威光と反対勢力の圧力に抗じ切れなかったが、林彪事件後の毛は老革命家グループを活用する必要から、自ら謝り「逆流」の断罪を撤回した。89年の天安門事件は何れ前回(76年)と同様に否定されようとの観測が絶えないが、玉虫色の「風波」は当事者双方に居心地が悪くないだけに、皮肉にも再評価を遅くする公算が高い。
[補記:張良編『天安門文書』の日本語版(文芸春秋、2001)の訳者・山田耕介は「後書き・解説」(477頁)の中で、中国語版(同年)の中の「学潮」は英語版(同年)で複数の訳者に由って、“Protest”と“student movement”と訳され、中国語版入手前に其に基づいて出来た日本語版では前者は「学潮」、後者は「学生運動」と訳した、と断った。「運動」は毛時代の後遺症で大衆を動員する政治運動の強い含みも有る、と言う中国人の教示も并記されたが、「運動」は共産党の用語として肯定的な響きも強い。一方の「学潮」は、勢いを強調する肯定的な意味も有り、一過性を見縊る冷笑的な用法も有るが、基本的には中性的な表現だ。武力鎮圧派も秘密会議等で此を使っていたとする当該文献が本物であるなら、本音を吐く際に型張った断罪語に拘らぬ姿勢が感じ取れるが、其れ以上の深読みは余り意味が無い。本論で問題にしたのは、事件後の公式論調でも敢えて断罪の意が殆ど無い「学潮」を選んだ懐柔の意図だ。]
7)『辞海』の1989、99年版に見当らぬ「淡化」は、a上記註4文献;b李行健等主編『新詞新語詞典』(語文出版社、’93);c李達仁等主編『漢語新語詞典』(商務図書館、’93)に拠ると、海水の淡水化を指す原義から文学の新理論に転義(=実生活から遊離し人為的に物語や対立を造る創作方法に対して、作為を排除し自然化・生活化を目指す効果に言う[b80頁、語釈2「文学上的一種新理論、是針対人為地編造情節、脱離生活、製造矛盾而提出的。即除去造作、倣帰自然、追求生活化的効果。」]。用例に「〜主題」「〜情節(=筋)」「〜人物」等[a382頁])、更に「強化」の対概念として一般化し、「使淡薄、削弱或減少」(漸次[逐次]淡く薄くし、弱化させ、或いは減少させる。c85頁)の意に使う。
大東文化大学中国語大辞典編纂室(編集主幹・香坂順一)編『中国語大辞典』(角川書店、’95)の「淡化」(626頁)の2の語釈―「(味・表現・対立した関係などを)やわらかくする。弱める。軟化させる」は妥当だが、文例と訳には異和を感じる。「〈〜家庭〉家庭の結び付きが希薄に成る」では自動詞と解したが、上記のcの語釈の「使〜」(〜させる)やbの「3指削弱和降低作用」(働き[役割]を弱める、引き下げる事を指す)の通り、此の言葉は他動詞であり、「〜家庭」は家庭の重み・位置を下げる意が強い。次の「〈〜当官心理〉官僚主義を克服する」は二重の誤訳で、先ず「当官心理」は官僚に成りたい出世願望なのだ。此処の「淡化」は克服ならぬ抑制・希薄化を表わし、aの語釈の中の「不刻意追求」(敢えて苦心して追求せぬ)に近い。最後の「〈用浪漫手法将故事〜〉ロマンチズムによって物語をやわらかくする」も、味の淡白化や作品の自然化の旨に照らせば典型例とは言え難い。90年代前後の此の国の最大・最新の中国語辞典だけに残念な水準だが、現代日本に於ける中国や中国語への理解の浅薄化・退化には似合う。
aの「〜意識」(意識を弱める)の用例にも、「〜“当官心理”」(『人民日報』1985年8月5日)が有る。「淡化」は此の文献で1985年の処に分類されたが、cに拠れば原義の科学用語は83年の文献に出ており、「浄化」と同じ常用語彙と見做す記述が86年に有った。bcの文例―「必須防止〜党的領導的傾向」(党の指導を弱める傾向は防げば成らぬ)、「党的観念不能〜」(党の観念は希薄にしては成らぬ)の様に、政治の領分での応用は其の頃にも始まったが、90年代に為政者の立場から好く語られたのは「〜矛盾」(対立を緩和する)だ。天安門事件後の対立は人為的に激化された側面が強く、其の緩和策として「淡化」が唱えられたわけだ。cの文例―「由淡化到逐歩消除“近親共事” 一社会現象」(内輪の仲良しグループが共に仕事するという社会現象を抑制し乃至逐次解消する)が示す様に、「淡化」は常に解消を最終目的とする。「政治風波」はaの語釈―「不表現直白」(露骨に表現しない)の通りの「淡化」で、「淡忘」(風化。忘却)の狙いも感じ取れる。「動乱」が此に取って代られたのは小平健在の90年代前期の事だが、其の頃の彼の統治手腕は息子・朴方から「炉火純青」と形容された(ニューヨーク『世界日報』93年5月1日。楊炳章[ベンジャミン・ヤン]著/加藤千洋・優子訳『小平 政治的伝記』、朝日新聞社、1999[原典=M.E.Sharpe、Inc、1998]、第3章『垂簾の治者―富強中国の夢』の「6 名人の域に達する[1994−96年]」、304頁より)。名人芸を言う此の熟語は完全燃焼の火の限り無く透明に近い淡い青に見立てた比喩だが、老子流の「為無為、事無事、味無味」(無為を為し[為とし]、無事[関わらぬ事]を事とし、無味を味わう[味とす])に通じる「淡化」の自然体も、彼の「外儒内道」や「行方思円」(註37参照)の証だ。「淡」は『道徳経』に2ヵ所しか無い(「兵者、不祥之器、非君子之器、不得巳而用之、恬淡者為上」;泰平に繋がる道の表出を形容する「淡乎其無味」)が、老子の神髄と言って能い。同書の「万物之母」に引っ掛けて言えば、 小平の母親の姓は奇しくも中国で珍しい「淡」だ。
8)倶に「反右闘争」(1957)の標的と成った劉・陸・王・張は、其々1925・28・34・36年の生まれだ。朱鎔基の年齢層(1928〜 )や「右派分子」にされた受難の経歴との符合が興味を引く。註6の論評を補足すれば、「反右闘争」は陣頭指揮者・小平の存命中、遂に完全否定に至らなかった。55万人余の「右派分子」の99%以上を冤罪と認定し、王蒙の文化相就任や朱鎔基の首相就任への道を開く一方、僅か一部の野党関係者等への断罪を維持し、当時の思想弾圧を正当化して譲らぬの姿勢は、体面に拘る意地を超えた施政の判断だ。其の無理気味の総論肯定・各論否定は、中国人社会の建前と現実との必要な不条理の乖離の典型だ。今回の天安門事件に対する次世代体制の評価も、左様な苦肉の策を踏襲する先送りが予想される。
9)胡耀邦の解任・劉賓雁の党籍剥奪が行われた1987年1月に執筆した『炉辺閑話:1986年小説品格批評』(『当代作家評論』1987年第2号)は、文末の「罷筆」(筆を擱く。筆を罷める)で屈折に表わした様に、同時代の中国文学に関する筆者の評論活動の絶筆宣言だ。同じ号に並んで掲載された文芸評論家・呉亮の論文は、新しい年の文学に薔薇色の見通しを示した。86年の百花斉放を考えれば不思議ではないが、ほぼ楽観論一色の空気は文学の繁栄が反落寸前の頂点に達した状況の現われだ。
10)巴金は「文革」を広島への核爆撃と同列にし、過ちを繰り返さぬ為「文革博物館」の設立を提言したが、黙殺の形で潰された。其の『“文革”博物館―随想録145』(1986)は、巴金『講真話的書』(四川文芸出版社、1990)に収録された際、目次に「(存目)」(目次に保存)の形を取り、当該箇所の1026頁は題のみ出て以下が真っ白だ。「政治風波」後の自粛と思われる其の処置にも、傷痕・商魂の重層が感じ取れる。被虐的な様に映る題名保留・本文削除は、武田泰淳が賛嘆した中華民族の「無抵抗の抵抗」(出所=註29)を秘める物だった。曾て国民党の規制に反発する進歩的な知識人は、検閲で削除された記事や文言の差し替えをせず、敢えて空白の穴が開く形で出版物を出した。俗に「開天窓」(天窓を開ける)と言う其の意地悪は、此の件も含めて天安門事件の前後に現われた。87年、劉賓雁論文を載せる『文学評論』(中国社会科学院[国務院直属のシンクタンク]文学研究所の雑誌)が検閲に引っ掛かった際、当該頁を空白にする処置案が浮上した。国民党に対する共産党の嫌がらせ方で共産党を逆襲する気か、と上層部に一喝されて不発に終ったが、左様な反抗は年率20%台の通貨膨脹や国民党も踏み切れなかった大衆への発砲と合わせて、末期政権の様相の現われと観て能い。小平が其の後改革・開放の梃子入れを急いだのは、解党・亡国の危機が背景に有る。其の効果は数年後現われたが、或る『文学評論』関係者が印刷済みの問題の号を密かに筆者に渡した時、気の無い手付きで劉論文の処に×を付けながら、10年後の評価は逆転するだろうと呟いた。癌の治療で入院した最晩年の周恩来は医療関係者に、私が死んだ後は写真の顔に×を付けないで欲しいと願った。極左勢力の誹謗に因る名誉失墜を想定した言葉だが、保身の為に不本意な罰印を付けざるを得ない一般人の立場への洞察は、此の一齣にも裏付けられた。自分の安全を確保した上で冤罪の人々を救う周に通じる様な、自身と活字の両方の保全を図る苦心、及び10年後を見通す視野が此の逸話の妙味だ。件の『“文革”博物館』の編集の仕方を穿って考えれば、伝説的な「開天窓」の裏技の借用は意図の如何に関わらず、編者の将来の声価の向上に繋がり、奇貨可居の効果を狙う奇手にも成る。
11)第1次安保闘争と第2次天安門事件の間に、幾つかの時期の暗合が見られる。前者の導火線は5月20日の自民党単独に由る衆議院の新安保条約の可決で、後者の戒厳令発布も5月20日だ。前者の安保改定阻止第1次実力行使(全国で560万人参加)は、後者の武力鎮圧と同じ6月4日の事だ。全学連主流派が国会に突入し警察との激突で女子大生が死亡した事件(6月15日)の後、7月の岸内閣総辞職・池田内閣誕生を経て、12月27日の閣議は「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」(経済審議会11月1日答申)を了承した。一方、89年の天安門事件後、6月に江沢民政権が誕生し、11月に小平が完全引退を宣言し、92年1月には改革・開放を促す為に南方を視察した。
12)「岸内閣に代って成立した池田内閣は、所得倍増というバラ色の夢を掲げて人心を取り戻そうとした。それは“政治の季節”から“経済の季節”への転換を図ろうとするものだった。総選挙の最中に答申が出たのも、選挙の争点を経済政策にすり替えようとするこの計画の真の目的を暗示している。」(宇野俊一他編『日本全史』、講談社、1991、1120頁)
13)1982年の中共第12期全国代表大会は、1980〜20世紀末の国民総生産「翻両番」(3倍増)計画を打ち出し、87年の13期大会は更に「三歩走」(3段構え)構想を提起した。第1段階の目標は180年代末までのGNPの倍増、2「温飽(衣食)問題」の基本的な解決であり、前者は88年で2年繰り上げて実現した。第2段階の目標は190年代を通してのGNPの更なる倍増、2国民生活の「小康水平」(まずまずの水準)の実現であり、前者は国民経済・社会発展第8次5ヵ年・10ヵ年計画(91年)の上方修正で97年に繰り上げられ、実際は96年頃にほぼ達成した。21世紀の中葉までにGNPの中進国水準の達成、比較的に豊かな国民生活の実現を目指す第3段階は、既に始まっている。
此の論考の主旨に即して考えれば、一連の経緯の次の諸点が目を引く。
1 其々−胡耀邦、 −趙紫陽体制の発足(80年末、87年初)の直後に、 の意向を受けた2回の構想提起は、中共の信任危機の克服と新体制の基盤強化の狙いを秘めた。
2 は自分の権力・路線への脅威を感じて胡を斬ったが、8ヵ月後の党大会で打ち出す経済発展の目標を堅持した点で、意識形態一本槍の左派と一線を劃す複眼が見られる。
3 期間中の各年度国内総生産(GDP)成長率(80年=7.8%;81年=5.2%;82年=9.1%;83年=10.9%;84年=15.2%;85年=13.5%;86年=8.5%;87年=11.6%;88年=11.3%;89年=4.1%;90年=3.8%;91年=9.2%;92年=14.2%;93年=13.5%;94年=12.6%;95年=10.5%;96年=9.6%;97年=8.8%;98年=7.8%;99年=7.1%[出所=国家統計局編『中国統計年鑑』、中国統計出版社])から、経済成長と共産党への国民支持度との相関、政治規制と経済成長との逆相関が窺える。が84年の建国祝典で大衆の衷心の歓迎を受け、92年「南巡」後に人気を取り戻したのは、長足の経済向上に負う処が大きい。
4 80、90年代のGDP成長平均年率は其々9.72%と9.71%で、波動の凹凸を超えた均整は中国の歴史発展の息の長さ、「放+収」(緩和・加速+緊縮・調整)の操作の効果を感じさせる。が「第2歩」の繰り上げ完了後に逝った事は、負の精神遺産を残した毛と逆に物的な財富を遺した貢献の象徴だが、彼の逝去と香港返還が有った97年以降の減速は時代の転換に相応しい。複利増殖の「72の法則」(72÷金利[逓増年率]=元本倍増に掛かる年数)に当て嵌めれば、数年来の7〜8%の成長率は正に10年で倍増の標準的な速度だ。東京五輪前後の日本も此の速度に落ち着いたが、北京五輪の決定〜開催(2001〜08)前後の中国も、此の調子で安定社会へと脱皮しつつあろう。
「もはや戦後ではない」1956年からの20年間、日本の国内総生産(実質)対前年増加率は、56年=6.3%;57年=7.5%;58年=6.3%;59年=8.6%;60年=11.5%;61年=10.3%;62年=6.7%;63年=7.8%;64年=9.6%;65年=5.3%;66年=9.9%;67年=10.7%;68年=10.8%;69年=11.9%;70年=10.4%;71年=4.7%;72年=8.7%;73年=8.3%;74年=−1.7%;75年=2.5%だ(経済企画庁経済研究所編『長期遡及主要系列 国民経済計算報告』、大蔵省印刷局、1991、442〜446頁)。前と次の10年の其々の平均値―8%と7.6%は、やはり各年間の乖離を超えた見事な平準化だ。20年の平均値(7.8%)が7%台に収斂したのは、東京五輪前後の日本経済と北京五輪前後の中国経済の類似性や、安定的な高成長速度の普遍的な相場を示唆する事か。統計方法等の違いで同じ指標でも単純比較は難しいが、中国は1953年以降の半世紀に亘って、通算ベースで東京五輪前後の日本経済の成長速度を保って来ており、更に暫く維持して行きそうだと考えられる。
馬立三『中国経済がわかる事典―改革・開放のなかみを読む』に拠ると、「建国後の復興期が終わった53〜94年の間、国内総生産の年平均成長率は7.3%と推定されいる」(ダイヤモンド社、1995、12頁)。「72の法則」で単純化すれば、10年単位の倍々ゲームが数十年も続いた計算に成る。社会学者の金観涛・劉青峰夫婦は『歴史の表象の背後に―中国社会の超安定構造の探求』(四川人民出版社、1983)の中で、停滞と反乱に因る王朝の周期的な交替を超えた中国封建社会の長期的な持続の法則を分析したが、此の平準化した数値も体制の変動に関わらぬ超安定構造の経済面の裏付けか。
半面、同時期の年平均経済成長率(78年の前と後は其々国民収入指数とGDP指数)の推移―53〜60年=9%;61〜70年=4%;71〜78年=5.5%;79〜94年=9.4%(同上。出所=『中国経済年鑑』94年版、『中国統計摘要』95年版)は、各時期の浮沈の大きさを如実に示す。
国家運営の巧拙と連動する劇的な変化を物語る様に、天災・人災に因る「3年経済困難」や「文革」が続いた1961〜78年の加重平均の4.6%は、53〜60年及び79〜94年の同9.2%の恰度半分に当る。上記の同時期日本の経済成長率に比べても、「失われた10年」の非道さが判る。一方、50年代と改革・開放期の9%台の合致は、56年体制と78年体制の非連続の連続の証だ。
5 2000年、第9期全国人民代表大会が承認した国民経済・社会発展第10次5ヵ年計画は、同年〜2010年までのGDP倍増を目指して期間中の経済成長率を7%前後とした。例の国民所得倍増計画の様な中期構想が消え、単年度主義が顕著な昨今の日本経済に対して、共産党中国は建国以来の国民経済5ヵ年計画の他、91年から上記の10ヵ年計画も導入した。建国百年(2149)を目的地とする「第3歩」は中国らしい気宇壮大な物だが、第1、2段階の繰り上げ実現が証した通り具体性と勝算が有る。同じ91年に泡沫
経済が崩壊した日本では、対照的に国家戦略不在の儘の迷走が続いて来た。
因みに、次の日本のGNP(1970〜80年はGDP)成長率の起伏にも、戦争・不況の爪痕や昇龍の盛衰の足跡が鮮明に見て取れる:1913〜29年=3.9%;29〜50年=0.6%;50〜60年=8.2%;60〜70年=11.1%;70〜80年=4.9%(小松左京・堺屋太一・立花隆編『20世紀全記録 1900-1986』、講談社、1987年、1312頁。原典=1960年代までは《Historical Statistics of the UnitedStates》、其以降は《Statistics Abstract of the United States》[1986年])
14)第8期全国代表大会(1956)で確立した中共の最高指導部は、主席=毛沢東、副主席=劉少奇・周恩来・朱徳・陳雲、総書記= 小平だ。此の6人から成る政治局常務委員会に、同じ55年に政治局委員に選出された林彪よりが一足早く入った躍進は、韓文甫『小平伝・革命篇』(台湾・時報出版文化企業有限公司、1993)第16章・「小平在“高饒事件”中得益」の指摘の通り、高崗・饒漱石粛清(1954)での手柄が大きい。此の著書の原型・『小平評伝』(香港・東西文化事業公司、1984、88新版)を基にした寒山碧(韓の筆名)著・伊藤潔訳編『小平伝』(中公新書、1988)では、事件の処理を通じて事務と組織能力に長じるとの評価が一層強まったと記される(52頁)。『小平伝・革命篇』の「組織才幹」(245頁)と若干ずれるが、52年に副総理に就任し、翌年に財政相を兼任し党中央秘書長(幹事長)の儘で中央組織部長を兼任したの経歴を観ても、其の政・党の職務は正に実務・統率能力を高度に要す物と言える。彼が重宝された事は究極の処、中国に於ける実務家・統率者への需要の高さを示す。経済の大御所・陳雲のNo.5の位置は、建国初期の「経済戦線」の優位の証だ。58年に林彪が副主席・常務委員に抜擢された事は、政治・軍事へ傾斜する動意の現われで、其の布石は56年体制解体の時限爆弾に成った。
15)1973年、 が6年余ぶり復活し国宴(国賓を遇す国家主催の宴会)に姿を現わし内外を驚かせた。
「“副総理”の職を剥奪されていなかった事が、此の席で初めて判明したのである。なるほど同じ失脚でも、 の処遇が他の指導者と違っても不思議ではない」、と寒山碧は観た(伊藤潔訳編『小平伝』[註14参照]、112頁。韓文甫『小平伝・治国篇』[出版社・刊行年代=註14既出『革命篇』]の該当箇所[477頁]には、其の記述の代りに、此は彼の唯一正式に剥奪されなかった職位だと書かれた)。劉少奇も国家主席の職位を持つ儘監禁されたので、「無法無天」の超法規的な現象とも解せるが、毛がを一貫して特別視したらしい事は寒山碧が言う通りで、此の論考で後に其の要因なる毛の人材観に迫りたい。  
2.「儒商」の新概念:改革・開放時代の『論語』+算盤の結合 

 

毛とは価値の重点の置き方が異なったが、社会主義制度下の繁栄への追求は同じだ。社会主義・繁栄の理想・現実の二極は、もはや「文革」ではない80年代末に流行り出した「儒商」16)に同居する。儒教的な道徳や素養を持つ商売・商人に言う此の新語は、「日本資本主義の父」・渋沢栄一の「片手に『論語』、片手に算盤」17)に通じる。周恩来と小平は「文革」の極左派から其々「当代の大儒」、「資本主義の道を歩む実権派」と断罪されたが、其の儒・資本主義も毛沢東以後の中国の「双軌」(複線)の一部に成った。
『論語』・算盤即ち義・利の両手・二極は、「手心・手背」(掌・手の甲)の如く表裏一体なり得る。「君子喩於義、小人喩於利」(君子は義に明るく、小人は利に明るい)と孔子は言ったが、日本語の「聖人君子」と違う中国語の「正人君子」が示す様に、彼の儒教の始祖にも人間臭い俗物性が多々有った。「聞韶楽、三月不知肉味」(韶の音楽を聞いて、[感動の余り]3ヵ月も肉の旨味も判らなかった)との賛嘆は、文化的な香りの深層に肉が価値の尺度と成る発想を隠し持つ。同じ『論語・述而』の「自行束脩以上、吾未嘗無誨焉」(乾し肉1束を持って来た以上、どんな人でも私は教えなかった事は無い)は、謝礼の肉と知識との取引を意味する。
感情の内に勘定を仕組んだ孔子の精神構造は、「季氏」篇の「益者三友、損者三友」(有益な友達が3種、有害な友達が3種)、「益者三楽、損者三楽」(有益な楽しみが3種、有害な楽しみが3種)の価値判断にも見て取れる。
儒教の此の経典は世間の定見と逆に、実に多くの算盤を内蔵している。例えば、「子張学干禄。子曰:“……言寡尤、行寡悔、禄在其中矣。”」(子張は俸禄を取る要領を学ぼうとした。孔子曰く、「(略)言葉に非が寡なく、行動に後悔が寡なければ、俸禄は自ずと得られよう。」)の件で、師弟とも俸禄への追求を否定しない。「子貢曰:“有美玉於斯、 匱而蔵諸?求善賈而沽諸?”子曰:“沽之哉、沽之哉、我待賈者也。”」(子貢曰く、「此処に美玉が有るとします。
匱にしまい込んで置くべきでしょうか、真価が判る善き商人を探して売るべきでしょうか?」孔子曰く、「売ろうよ、売ろうよ、私なら買い手を待つのだ。」)には、有利な時機・条件で自分を売り込む打算・魂胆が見え隠れする。
竹内実の「華人」の定義には漢字の示す概念で思考する事が有り18)、幸田露伴は中国人の心性の研究材料に俗諺を挙げた19)が、中国人の発想や行動文法を左右する中国の言葉や熟語には、和製漢語の「商魂」に因んで言えば、商・魂の渾然一体の観が強い。成語の「待価而沽」(良い買値の提示を待って売る。転じて、良い待遇の提示を待って自分を売り出す)の由来と成る上記の孔子語録の中の同音の「賈・沽」を例にすれば、賢者が学徳を隠して衒わぬ事に譬える「良賈深蔵若虚」(良賈は深く蔵して虚しきが若し)の様に、商を以て魂を表わし計算が道徳の物差しを成す表現が多い。『史記・老子伝』に出た此の成句と、下の「君子盛徳容貌若愚」(君子は人徳が優れても[顕示せぬ故]外見は愚者の若し)とは、内容的に商・儒(魂)の対に成る。
丸百年前に他界した思想家・教育家の福沢諭吉の名著に絡んで言えば、中国では学問の勧めは伝統的に発達しており、其の特質には学徳志向と功利主義の一体化が有る。人口に膾炙する伝・宋真宗(趙恒)の『勧学詩』は、「書中自有顔如玉」(書物の中には自ずと美玉の如き麗人の顔が有る[学業に励めば何れ美人と結ばれる])、「書中自有千種粟」(書物の中には自ずと千種類の粟が有る[学業に励めば何れ豊富な俸禄が獲れる])、「書中自有黄金屋」(書物の中には自ずと黄金の家屋が有る[学業に励めば何れ豪邸に住める])、「書中車馬多如簇」(書物の中には自ずと馬車が多く群れを成すが如し[学業に励めば何れ顕貴の徴の馬車の群れを所有できる])と言う。国民平等・独立自尊を謳う『学問の勧め』は、冒頭で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と宣言したが、中国では「吃得苦中苦、正為人上人」の発想が今だに根強い。
勧善懲悪を標榜する大衆小説家・曲亭馬琴の『椿説弓張月』(1811)の台詞には、「世の常言に、苦中の苦を喫し得て方に人の上の人と成るべしと云へり」と有る。其の熟語も「常言」も日本語から消えたが、中国の「常言」(世に好く言われる常識)を重視したい。『学問の勧め』の思想啓蒙の役割は明治以降には続かなかったが、昔の中国の児童啓蒙教材―『三字経』20)、『千字文』21)、『名賢集』22)、『弟子規』23)、『神童詩』24)、『小児語』25)、『増広賢文』26)等は、時代や体制に拘らず不易の影響を持つ。

16)「儒商」は『辞海』の1989、99年版は勿論、註4、7で引いた流行語・新語辞典にも無く、其ほど歴史が浅く定義も曖昧だ。天安門事件前に流行った確証は見当らぬが、90年代の前半に広く流布したのは確かだ。賀雄飛主編『儒商時代―中国人的第5次発財機遇(儒商の時代―中国人の5回目の金儲けの機会)』(遠方出版社、1996)でも、語源が不明とされるが、此の新概念の誕生の背景と中身に就いて後に詳解したい。
17)色々な形で語られた此の命題の詳説は、渋沢栄一『論語と算盤』(東亜堂書房、1916[直近の刊本=国書刊行会・大和出版、1985])だ。
18)竹内実『文化問題としての日中関係』、竹内実編『日中国交基本文献』下巻、蒼蒼社、1993年、328頁。
19)幸田露伴『潮待ち草』(1905)「46 諺」・「47 支那の諺」(蝸牛会編『露伴全集』、31巻、1956、156〜162、162〜170頁)。「基督教の金粉銀粉を以て塗抹せられたる幾幅の大写真画よりも如何にも有力なる」、「真情真態」・「国民の性質習慣及び社会組織の実相を示す」「小写真画」として例示された中国の諺は、「銭是力也」「銭是人之胆」だ。「48 元の時の諺」(同171〜180頁)の中で講釈した「不レ受ニ苦中苦一、難レ為ニ人上人一」、「十年窓下無ニ人聞一、一挙成レ名天下知」、「是非只為ニ多開−レ口、煩悩皆因ニ強出−レ頭」、「人無ニ千日好一、花無ニ百日紅一」、「養レ児代レ老、積レ穀防レ飢」等の数々の諺は、此の論考で取り上げた児童啓蒙教材に入る。
20)『辞海』1989年版(45頁)、99年版(48頁)では、「中国旧時的蒙学課本」(中国の旧時の啓蒙教育教材)で、内容は道徳教育に重みを置く;宋の(学者)王応麟(一説に区適子)が著したと伝えられ、明・清の学者の断続的な補足を経て、1928年、革命家・思想家の章炳麟(太炎)が再訂した;3言韻文で暗記し易く、後に種々の『三字経』の名が付く教材が有る、と解された。99年版で「革命家・思想家」が消え、「側重道徳教育」「便於背誦」が追加されたのは、観念形態「淡化」の時流と道徳教育普及の動きを映す改訂だ。
21)中国の旧時の啓蒙教育教材・『千字文』は、南朝・梁の周興嗣が王羲之の遺書から其々違う千文字を取って編撰し、自然・社会・歴史・倫理・教育等の知識を述べるた4言韻文だ。隋から流行し始め、続編・改編版が多数有る。(『辞海』99年版328頁)
22)撰者未詳の『名賢集』は南宋以降の儒学者が編集した物と見られ、孔子・孟子等の先賢の語録や処世・修身等に関する民間の格言から成る4、5、7言韻文だ(夏初・恵玲校釈『蒙学十篇』[北京師範大学出版社、1990]に拠る)。次の『弟子規』『小児語』『増広賢文』と共に『辞海』1989、99年版に出ないのは、正統な『三字経』『千字文』と違う傍流の性質の証だ。
23)[清]李毓秀撰集『訓蒙文』を賈有訓が修訂・改称した『弟子規』は、『論語』『孟子』『礼記』『孝経』や朱子等の語録を集め、学徒規則の形式を取った学習指導・道徳修養の教材で、影響力は一時同じ3言韻文の『三字経』を上回る程だった(同上)。
24)『辞海』1999年版の「神童詩」の解は、「別名・『幼学詩』。中国の旧時の啓蒙教育教材。北宋汪洙撰。内容の大半は勉学・出世に対する称賛だ。初めは僅か56首で、全て汪洙の創作ではない。後に数千首にまで増補され、皆他者の作品を採り交じって敷延した物。巷に刻本(民間の書店から刊行した書物)が非常に広く流布した」、と言う(4513頁)。89年版に無く99年版に追加した事は、同書の『三字経』『千字文』に敵わぬながら絶大な影響度の証と共に、90年代の出世欲の高揚を物語る現象か。他者の作品に対する「雑採」で56首から数千首まで膨らんだのは、時代を超える共鳴の強さを窺わせ、中国の伝説の形成の典型とも言える。註22文献では本体の34首+巻首の28首と成り、宋の大学士・汪洙や南朝陳国の末代皇帝・陳叔宝、李白等の詩の寄せ集めと解された。
25)『小児語』は明の呂得勝・呂坤父子が編纂した倫理教育の格言・警句集で、4言・6言韻文が主と成る(同註22)。
26)『増広賢文』(全称・『増広昔時賢文』)は編者未詳で、明・清に流行した(同上)。 
3.「蒙学課本」に見る中国的な思考

 

−志向の陰陽混成の糾構造此等の文献は人生開眼の契機として、中国人の思考−志向に色濃く投影して来たが、此の文脈の中で注目すべき傾向は数点有る。
1.強烈な立志出世願望の宣揚。
例えば、34首の五絶詩から成る『神童詩』の最初の14首の題は『勧学』の一色で、2首目は斯かく云う。「少小須勤学、文章可立身。満朝朱紫貴、尽是読書人。」(幼少から勉学に励むべきで、文章を以て身が立てられる。朱・紫[4〜5品・3品の官服]を着る朝廷の権貴は、悉く知識人なのだ。)『学問の勧め』の刊行終了の1876年に開校した札幌学校の米国人教師は、翌年に日本を去る際“Boys、 be ambition”と激励の名言を残したが、大志を抱けと少年たちに唱え続ける中国の家庭・学校の教育は、米国人に勝つとも劣らぬ「個人英雄主義」の基盤を造って来た。
2.自強意識と富強意識の連結・連動。
『神童詩』の「将相本無種、男児当自強」(将軍・宰相は元より世襲する者ではなく、男児は自ら励むべきだ)は『名賢集』にも有るが、『神童詩』の最後の15首の『早春』……『除夜』の苦学→収穫の精神的な色彩の強さに対して、「朱紫貴」に露われた権力・財力への渇望は『名賢集』『増広賢文』の中で前面に出る。両方に入る「人貧志短、馬痩毛長」(馬は痩せれば毛が長く[貧相に見え]、人は貧しければ志が卑しく成る[貧すれば鈍する])や、後者の「馬行無力皆因痩、人不風流只為貧」(馬に気力が無いのは痩せの為で、人に生彩が無いのは貧困の故だ)の様な、向上心と経済力の窮乏に対する蔑視が随所見られる。
3.自己本位・利益追求の利己主義の一部の露出。
戦国初期に一頃風靡した哲学者・楊朱の言論が殆ど残らぬのは、孟子等に貶された「重己」(己れを重んじる)、「取為我」(我の為を旨とする)、「抜一毛而利天下不為也」(一本の毛を抜いて天下を利す事も為さぬ)等の「極端個人主義」(毛沢東時代の断罪用語)が嫌われた所為と思える27)が、『名賢集』『増広賢文』に出た「人為財死、鳥為食亡」(鳥は餌の為に亡び、[同様に]人は財の為に死ぬ)や、後者の中の「人無横財不富、馬無夜草不肥」(馬は夜食が無ければ肥えず、[同様に]人は[不正な]副収入が無ければ富まぬ)は、蓄財・副業や横領・汚職への暴走の根拠にも用いる露悪主義の代表格だ。
4.清・濁の混在、高潔・強靱への同時追求。
極端な個人主義への排斥は個人主義に対する容認の裏返しであり、楊朱の犯さず犯されず主義は今も中国の社会生活や外交等で生きている。『名賢集』の「量小非君子、無毒不丈夫」(器量が小さければ君子に非ず、非情さが無ければ男子ではない)、『増広賢文』の「人善被人欺、馬善被人騎」(馬は大人しければ人に騎られ、[同様に]人はお人好しだと他人に舐められる)は、綺麗事ばかりではない。先賢の語録と民間の処世哲学の俗諺から成る『名賢集』28)は、大人の風格と対人の機微を説く物だ。此の2つの文献や『小児語』は修身指南の『弟子規』と違って、成人の「複雑な成熟した情欲」(滅亡体験から育まれた中華民族の叡知を形容した武田泰淳の言29))に満ちている。
5.論理・構造の混沌・飛躍。
教養の育成と歴史の教育を主眼とする『三字経』『千字文』の理路整然に対して、『名賢集』『増広賢文』は雑多な語録の恣意の羅列の観が強い。例えば、「人為財死、鳥為食亡」と上の句の「順天者存、逆天者亡」(天に順う者は存続し、天に逆らう者は滅亡する)、下の句の「得人一牛、還人一馬」(人から一頭の牛を得れば、[より価値の高い]一匹の馬を返さねば成らぬ)との間には、直接な関連が無い。但し、似た形態を持つ『論語』と同じく、無秩序・非連続の中の秩序・連続も見て取れる。「人為財死、鳥為食亡」を一種の天理と見る場合は、「順天者存、逆天者亡」との相関が浮上して来る。
6.矛盾する命題の同居。
『名賢集』の「財高語壮、勢大欺人」(財力が強ければ鼻息が荒く成りがちで、勢力が大きければ人を舐めがちだ)は、資産家・権力者の発言への圧迫・不快を表わすが、『増広賢文』の「有銭道真語、無銭語不真」(金持ちは[余裕が有る故]本当の事を言い、貧乏人は[憚りが多い故]偽りの事を言う)は、財力を持つ者の発言を真実として肯定する。『増広賢文』の「明知山有虎、偏向虎山行」(山に虎が居るのを承知で、敢えて虎の山[危険]に向う)は進取精神を唱え、「近来学得烏亀法、得縮頭時且縮頭」(近来亀の流儀を学び取り、首を引っ込めるべき時は首を引っ込める)は韜晦を勧める。其処から読み取れるのは、中国人の価値判断の相対性や使い分け、二極の相剋相生・「相補相成」(相互補完)の対立・統一、雅と俗(上品と下品)、淑やかな恬淡と戦闘的な激情……を一切合切(財)包容してしまう懐の深さだ。
7.命題内部の自己撞着。
善悪・是非・美醜・損益・利徳の相互内包と価値尺度の複線は、命題の内部にも現われる。『名賢集』『増広賢文』の両方に出た「黄金未為貴、安楽値銭多」(黄金は必ず貴重ではなく、安楽こそ金銭に換算すれば価値が高い)、『増広賢文』の「銭財如糞土、仁義値千金」(銭・財は糞土の如く見るべきで、仁義こそ千金に値する)は、金銭至上主義を否定しつつ金銭を至上の物差しに用いる。禁欲を以て大欲を目指す「大欲は無欲に似たり」30)等の逆説的な正論と通じて、多くの金言は和製漢語の「鷹揚」の字面と語義に吻合する様に、悠然たる螺旋状の昇華・下降が見られる。此の一連の啓蒙学習の指針から、中国思想の複雑−単純系の特色が幾つか見える。
a.黒・白が内包し合う「陰陽魚」・糾・「怪圏」(メビウスの環)構造。
大雑把に映りがちの中国思想は、陰陽原理の祖型―「陰陽魚」の図式31)に帰着でき、紙一重の差で常に変幻・転形し得る虚実皮膜の融通無碍も持つ。「将相本無種」と同じく『史記』が出典の「吉凶(禍福)は糾の如し」に即して言えば、糾(2筋、3筋縒り合わせた縄)めく「纏繞」(纏い付く。絡み合う)状の重層が多い。「黒猫・白猫」( 小平の「黒い猫でも白い猫でも、鼠が捕れる猫が好い猫だ」)、「一切向前看・一切向銭看」(共産党の標語の「[“文革”の怨念に拘らず]一切合切前向きに」と民衆の本音の「一切合財金儲けを目指す」32))、「一(個)国(家)両(種)制(度)」33)(大陸の社会主義と香港の資本主義)等の複線は、天衣無縫(無邪気+完璧)に隣り合う。「陰陽魚」「怪圏」
b.冷静な現実主義と強固な主我志向。
中国人は駒田信二が指摘した様に、是非や善悪の判断に当って両者を対等的に眺める傾向が有る34)。児童啓蒙教材に「人為財死、鳥為食亡」「財高語壮」等が善悪不明の形で登場したのも、等距離の複眼の現われである。囲碁テレビ中継の対局者の配置は、日本では上下、中国・韓国では左右と成る。日本式は観客の感情が移入し易い流儀だとする見方35)は、日本人の過剰な情緒や判官贔屓の傾向を言い当てた。中国式は文字通りの「客観」だが、対局者から完全に独立した主我堅持の立場は「主観」の要素も強い。日本囲碁の高潔な芸道志向と対照的な中・韓囲碁の強靱な実利主義も、主我的な現実主義の一例か。
c.情理・理想を尊ぶ思考−志向の優位。
中国人は駒田信二の直観の通り、善悪の対の二極から其々又善と悪を見出し、其の二極から其々更に善と悪を見出して行く習性を持つ36)が、左様な追求は永遠に完結しないとは限らぬ。
中国的な対立・統一は状況の変化に因り主・従の転換が有り得るが、主従の対の存在自体は不易な物だ。一刀両断が無理な乱麻や複線の中にも「主線」(主たる糸口。本筋)が有り、複眼の場合でも常に何方の片方が主眼と成るわけだ。『名賢集』『増広賢文』等には赤誠と赤裸々、克己と利己、富貴と風紀……等の二極が同居するが、先発の黒が不利を負う囲碁の規則が象徴する様に、善善悪悪、是是非非の価値判断が根底を成す。俗物的な本音はあくまでも傍流に過ぎず、主流たる「孔孟之道」の建前の優位は明らかだ。

27)『辞海』の「楊朱」の解に拠ると、楊朱の学説は戦国初期に流行したが、本人は著書を遺さず、『孟子』『荘子』『韓非子』『呂氏春秋』等に史料が散見される程度で、『列子』の中の『楊朱篇』も必ずしも信頼できず、晋の人に由る偽作の説も有る(1999年版、570頁)。楊朱著書抹殺説は筆者の単なる直観だが、唯我主義や現世享楽願望を露骨に宣揚する『楊朱篇』が『列子』の8篇(『天瑞第1』『黄帝第2』『周穆王第3』『仲尼第4』『湯問第5』『力命第6』『楊朱第7』『説符第8』)の1つとして長く伝わって来た事は、著者の真偽はともかく楊朱の生命力の現われだ。
20世紀前半の李宗吾の「厚黒学」が90年代前期に再び流行した事(後述)は其と二重写しの様に、中国的な「大快楽主義」(後述)の広い「市場」(市民権)を思い知らせる(「市場」が市民権を表わす処も中国人の商人的な気質[後述]の証)。
28)次の段落の中の引用を例に拾うと、「人為財死、鳥為食亡」は俗語であり、『名賢集』で其の直ぐ後に出る「得人一馬、還人一牛」は、唐の『太公家教』の「得人一馬、還人一牛。往而不来、非成礼也」が出典だ。
29)武田泰淳『滅亡について』(『花』第8号、1948)、『新編 人間・文学・歴史』(築摩書房、1966)、9頁。
30)此の熟語は『広辞苑』の解で、「1遠大な望みを持つ者は小さな利益などを顧みないから、欲が無いように見える。2大欲の者はとかく欲の為に心がくらんで損を招き易く、結局は無欲と同様の結果に成る」との両義を持つ。後者の古例は『徒然草』の「究竟は理即に等し。−」で、出所不明の前者は中国の文献には見当らないが、両方とも中国の発想に合う。
31)「陰陽魚」は宋の頃に現われた太極図の俗称。S状曲線で分けた左右が魚(胎児や雲気の説も有る)の形を成し、陰陽の相互内包の表徴として白・黒の半分の中に其々反対側の色の小さい円(目玉)が含まれる。
32)註4文献で1979年の部に入る「一切向前看」は、79〜80年に多用され、「文革」の怨念から脱却する建設的な態度が原義で、「文革」批判を嫌う保守派にも利用された(308〜309頁)。同音の「一切向銭看」は出所不明だが、流行が其の直後の事と思われる。同文献の1983年の部に、「抬頭向前看、低頭向銭看。只有向銭看、才能向前看。」(仰向いて前を看、俯いて金を看る。金を看てこそ、前向きが出来る。)と有る。共産主義の理想へ向いながら現実にも正視すべきで、現実的な利益を積み重ねてこそ歴史の進歩を加速し、人類の理想の実現を早める事が出来る、という主旨の此の俗諺は批判された(365頁)。「一切向前看」の正論が政治的に悪用された事と通じるが、金銭一辺倒の「一切向銭看」ならぬ「抬頭向前看、低頭向銭看」は、一刀両断で白黒を付け切るのが難しい。体制の標語が屡々こんな戯れ詞に改編される現象は、中国社会の表裏両面や「上有政策、下有対策」(上に政策有り、下に対策有る)と言う民衆の強かさを映す。影の添加に由って筋を膨らませる大衆文芸の常套や対の発想の習性は此処にも現われるが、李白『静夜思』の「挙頭望明月、低頭思故郷」を擬った処も妙味だ。
33)発案者と初出は定かでないが、『辞海』1989年では中国共産党が11期3中総会(1978)後に提起し、香港・澳門問題の解決(同84、87)に寄与したと解し(8頁)、99年版では同じ「一国両制」の項で小平に由る構想とし、新設の「一個国家、両種制度」の項(1=1国2制度。2=小平の1984年の談話の題)の中でも同じ主張をした。
34)36)駒田信二『対の思想―あるいは影の部分について』、『対の思想―中国文学と日本文学』(勁草書房、1969)所収、19頁。
35)1990年代中期、囲碁棋士・小川誠子(当時5段)の指摘。 
4.儒教と中国の理念・情念の多元・多様・多角・多彩・多岐の複雑系

 

多くの日本人が抱く「伝統の中国=儒教・礼儀の邦」の固定観念は、物事の単純化・理想化を好む思考様式に由来したろうが、実態は「套盒」(入れ子)風の複雑系だ。中国思想は儒・道・陰陽・法・名・墨・縦横・雑・農の9流を始め、数々の流派や多元・多様・多角・多彩・多岐の特徴を持つ。同じ「儒」でも、孔子の儒教(『辞海』の「儒教」の定義は「即“孔教”」)と彼を尊崇した後世の儒家と大別でき、後者は『韓非子・顕学』の「有子張之儒、有子思之儒、有顔氏之儒、有孟氏(孟子)之儒、有漆雕氏之儒、有仲良氏之儒、有孫氏(荀子)之儒、有楽正氏之儒」の通り、遠い昔にも儒家8派に分かれた。「外儒内道」37)の類の複眼的な分析でも、込み入った多重基準を包括し切れない。
「入世」(世に進出・関与すること)と「出世」(世から退散・隠遁すること)は、儒教(家)の有為と道教(家)の無為の対に見えるが、孔子の「賢者避世」(賢者は[動乱の際は]世を避ける)の警句の通り、儒教(家)も乱世なら「出世」、平時なら「入世」と使い分ける。『大学』の「修身、斉家、治国、平天下」(身を修め、家を整え、国を治め、天下を平定させる)は、儒家の不易な理想として継承されて来たが、孟子の「窮則独善其身、達則兼善天下」(窮乏の時は我が身だけを善くし、出世すれば天下の人々をも善くする)の様な、現実と理想、保身と進取の二段構えが深層に有る。孔子の南容(妻の叔父)評―「邦有道不廃、邦無道免於刑戮」(国に道
が有る時は登用され、道が無い時にも処刑が免れられる)も、「窮・達」の両方とも凌げる適応力・競争力への称賛だ。
中国の長年の悲願なる世界貿易機関への加盟は、好く「入世」(「加入世界貿易組織」の縮語)で表わすが、「入世・出世」の変幻は中国の政治・外交でも屡々見られる。天安門事件後の国際社会での孤立化を乗り切るべく、 小平が命じた「韜光養晦、決不当頭」(忍耐・韜晦に徹し、決して先頭に立たぬ)の心得は、前出の「近来学得烏亀法、得縮頭時且縮頭」を踏襲した陰・柔の自重だ。失脚の故に失意した赤軍時代の毛沢東の仮名―「楊引之」は、引退・隠遁を含む「引」+「揚」と同音の「楊」38)の合成だ。抗日戦争後の転戦中の仮名・「李得勝」は、「離得勝」(離れて勝利を得る)の寓意だが、「以退為進」(退を以て進と為す)の両者とも、「出世→入世」の二刀流に他ならない。
孔子の「言寡尤、行寡悔、禄在其中矣」が出た『論語』の篇名は「為政」だが、『孟子』の冒頭の「孟子見梁恵王」(孟子が梁の恵王に面会した)は、政治に深く関与した儒家の為政志向39)を浮き彫りにした。王の「叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎?」(先生は千里もの遠路を厭わず来てくれたのは、[他の人々と同じく]我が国に有益な提言をしてくれる事か)は、為政者の「極端功利主義」の発露と言えるが、孟子の「王何必言利!亦有仁義而巳矣」(王は何故利ばかり言うのだろう。仁義だけ行なえば好いのだ)は、一見正反対の高邁な主張の様だが、至高の理を利の実現の近道とする逆説に捉えれば、両者の遣り取りは同工異曲の物とも思える。
管子・荀子の王道志向+市場原理の「双管斉下」(複線の同時進行)には、其の儒・商の両極は巧く融合している。儒家の中で最も影響力の強い孟子と荀子は、其々『論語』と算盤に力点に置いた観が有るが、『孟子・梁恵王上』の第2段落の「先利後義」に対する批判40)は、其の約60年後の荀子の「先義後利」と共通する。義の先行で利が自然に附いて来るとは、利への追求を最初から放棄する事を意味しない。同じ「梁恵王上」に出た「楽歳終身飽、凶年免於死亡」(豊年には長く飽き足り、凶年には死亡を免れる)は、孔子の「邦有道不廃、邦無道免於刑戮」と重なるが、民衆の安全・安楽を指標とする其の治世の理想の実現の為に、孟子は「不違農時」(農時を違えず)等の実務の提言をした。
『名賢集』に出た「為富不仁矣、為仁不富矣」(富まそうとすれば仁に適わず、仁を成そうとすれば富めぬ)は、『孟子』で引かれた陽虎(陽貨。魯の季氏の家臣)の言葉だ。『論語・陽貨』の記載の通り、孔子は面会を謝絶した上で、豚を贈られたお礼の挨拶もわざと相手の留守を狙って行った程、主家を抑えて国政を握る此の男を毛嫌いした41)。季氏も家老の分際で魯の君の先祖・周公より富裕である事や、他国への武力侵攻等に因って、孔子の酷評を浴びた42)。
季氏の富みを増やす為に租税の取り立てを手助けした冉求への痛恨と合わせて、其の一味に対して「鳴鼓而攻之可也」(太鼓を鳴らして攻めろ)と弟子に呼び掛けたが、悪との対決を辞さぬ正義感と共に、孔子の戦闘的な一面も垣間見れる。
陽虎の「為富不仁矣、為仁不富矣」は、租税の取り立ての際に利益と人情が両立しない意も有る。可も不可も無く此を引いた孟子の立場は、「無毒不丈夫」に対する『名賢集』の首肯と合致する。『論語・子罕』の最初の句―「子罕言利與命與仁」(孔子は滅多に利益・運命・仁義の事を言わなかった)は、前半は孟子の「王何必言利」と重なるが、孟子が力説した仁義も余り語るまいのは、範囲が広過ぎて要約し難い事も一因か。運命の話題に触れぬのは神秘な故の忌憚と考えられるが、利益への言及が少ないのは下品を嫌う気分よりも、微妙な事柄につき誤解を避けたい思慮も有ろう。陽虎の例の命題は富と仁の両立を不可能とする論拠に好く用いられるが、仁義無き富みには否定的な孔子は仁・富の両立どころか、先に富まし後で教化する「先富後仁」の青写真さえ持っていた(後述)。
他者の言説が混線の形で「孔孟之道」と誤認され、且つ孔・孟の理念の根底に繋がる別の例として、抗日戦争勝利の際の演説で敵への寛容を求める蒋介石が根拠に挙げた民族の高くて貴い徳性―「不念旧悪」(旧悪を念わず)・「與人為善」(人に善を為す)は、後に「以徳報怨」(徳を以て怨みに報いよ)に変形した事も挙げられる。儒教の美徳として独り歩きした此の成句は、実は他者が孔子に当否を訊ねた見方だ。孔子の答え―「以直報怨」(正直を以て怨みに報いよ)は、誠心誠意の応対だけでなく「以眼還眼、以牙還牙」(目には目を、歯には歯を)の含みも有る。其の「以徳報怨・以直報怨」は其々、「量小非君子・無毒不丈夫」と対応する。
若き毛沢東の字・「詠芝」(「潤芝・潤之」の語呂合わせ)は、「芝蘭生於深林、不以無人而不芳」(芝蘭が林の深い奥に生えるが、人が居ない為に芳香を持たぬ事は無い)の寓意43)だ。長寿促進の薬草―霊芝と観賞価値の高い蘭で道徳や才能の優れた人に譬えるのは、如何にも中国的な繁・栄(繁盛・栄光)志向の発露だ。『孔子家語・在厄』此の成句は、孔子の「徳不孤、必有隣」(道徳の持ち主は孤立に成らず、必ず隣人[理解者]が出来る)とも通じるが、土着性を貶す「山溝里的馬列主義者(山奥のマルクス−レーニン主義者)」の揶揄を逆手に取り、毛沢東は「山溝大学」の出身者と自称しただけに、此の山奥の陰翳に注目したい。
「先進」の語源と成る『論語・先進』の中で、孔子は門人の尊敬を得ない弟子・子路に就いて、「昇堂矣、未入於室」(堂には昇っており、ただ部屋には入っていない)と評した。終点までは後一歩残しながらも相当な水準に達しているという弁護だが、其に由来した「昇堂入室」(堂に昇り室に入る)は、高明・正大な学徳→精微・深奥な学術という学問の境地の進化を表わす熟語だ。儒家や中国思想に対する多くの現代人の認識は此に即して思えば、「膚浅」(皮相)と言わずとも、表座敷の「堂」に止まり奥座敷の「室」には至っていない観が強い。
子貢の次の比喩には、孔子の門外不出の奥秘が出ている。「譬之宮墻、賜之墻也及肩、窺見室家之好。夫子之墻数仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富。」(屋敷の塀に譬えるなら、私の塀の方は肩に及ぶ高さなので、室内の小綺麗な様子が窺えるが、先生の塀の方は数仞[1仞≒7尺]も有るから、其の門を見付けて入らねば、宗廟の華美や官吏の富貴44)は見えない。)自らの「身価」(沽券)を美玉に見立てて、売り出し方に就いて師の助言を乞ったのも子貢だ。彼が孔門の境地の奥底の「美・富」は、「顔如玉・黄金屋」と通じるが、仁と富(権勢)、功(名)と利は中国人の究極の価値追求と言える。
『神童詩・四喜』の「久旱逢甘雨、他郷遇故知、洞房華燭夜、金榜掛名時」(長い旱魃の後に慈雨が降り、異郷で故知に遇い、新婚の寝室に華燭を点し、科挙の合格発表に名が出る)は、中国人の最高の幸福の集大成と言える。経営に於ける人間の動機付けや産業心理学に大きな影響を与えた米国心理学者・マズローの欲求階層説(1943)は、人間の基本的な願望を低次→高次の順で、1生理的な欲求;2安全への欲求;3所属と愛情への欲求;4自尊への欲求;5自己実現の欲求と分類した45)が、此の人生の4大快事も生存・安全本能に始まり、所属・愛情への期待を経て、理想・可能性の達成を極致とする。
「沽」(売る)の熟語の「待賈而沽」は褒・貶の両方に使え、「沽名釣誉」(名を売り誉れを求める)は悪い語義だが、売名と違って奨励される「争光」(栄光を勝ち取る事)の様に、名誉への堂々たる追求は中国では堂々と肯定される。名誉・声誉と声価・「身価」から、「生・声」と「命・名」の対を連想する。『名賢集』の「有銭便使用、死後一場空」(死後は全て無に成るから、金は有る内にさっさと使おう)には、『韓非子』に記された楊朱の「軽物重生」(物を軽んじ生を重じる)主義の投影が有る。左様な現世至上主義が庶民の間に根強い反面、「人過留名、雁過留声」(雁は通過し声を留め[るのと同様に]、人は通過して名を遺す)、「虎死留皮、人死留名」(虎は死して皮を留め、人は死して名を遺す)の理想も市民権を得ている。 

37)佐々淳行『危機管理のノウハウPART1』(PHP文庫、1984)第3章・「交渉力」に、「外儒内道―中国式本音と建前」の1節が有る。警察官僚の著者が「文革」中に領事として香港に出向した頃、元国民党将軍から伝統的な「中国式のノウ・バット」交渉術を教わった。相手は「外儒内道」と書き(著者は「(Wai Ju NeiTao=ワイルー・ネエイタオ)」の発音表記を付けたが、第2、4字の「漢語音」[現代漢語の発音標記]は其々Ru、Daoが正しい)、「英語で言えば“Squareoutside、 Round inside(外方内円)”とでも言うかな」と付け加えた。(167頁)中国の辞書には「外方内円」は見当らぬが、韓文甫が小平の特質を言う「行方思円」(出所同註14、15頁)と共に、此の論考の主旨の鍵言葉たり得る(後述)。
38)1929年、赤軍第4軍の指導部から外された毛は憂欝の故に胃腸を患い、「楊引之」の仮名で田舎に静養した。「楊」は遠隔地に居る愛妻・楊開慧への眷恋の発露で、「引」は「隠」に通じ抗議の為の引退・隠退の意志表示だ、との講釈が有る(出所同註43、9頁)。楊は翌年に国民党に処刑されたが、毛は彼女の戦死説を信じて28年から賀子珍と同棲を始めた(暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992、142頁)から、疑わしい感じもするが、毛が賀に次ぐ3番目の夫人・江青の嫉妬を無視して、『蝶恋花・答李淑一』(1957)の中で楊を偲んだ事からすれば、有り得る未練とも思える。其の寓意が真実であるなら、現代社会の病理と同じ失意に因る胃腸の不調と共に人間臭さを感じるが、「楊・揚」の相関に注目したい。上記の詞の冒頭の「我失驕楊君失柳」(我は驕楊を失い君は柳を失う。竹内実訳[武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、文芸春秋新社、1965、304頁]、以下同)は、亡妻と古き戦友・柳直荀(李淑一の亡夫)に対する痛惜だ(『詩刊』誌[詩刊社、中国作家協会主管]は58年1月号に掲載する際に江青への配慮からか、「編者註」の中で「“驕楊”是指楊開慧烈士」とし、毛との関係に就いての明言を避けた)。
次の「楊柳軽直上重宵九」(楊柳軽くまいあがり直ちに重き宵の九に上る)は、故人の昇天を理想化した句だが、「ヤン」は「揚」と同音で「飄揚」の意(中共中央文献研究室編『毛沢東詩詞集』[中央文献出版社、1996]の語釈[102頁])だ。人の姓と樹の名に引っ掛けた「楊柳」も楊樹の姿に似合う「軽揚」も漢語の奥妙の所産だが、「楊引之」の裏の「隠」の更なる裏に有る「飄揚」の飄逸・高揚は、「以退為進」(退を以て進と為す)の韜晦の指向性か。
39)先秦〜明の名文222篇を収録した旧時の啓蒙読本・『古文観止』([清]呉楚材・呉調候編)にも入る蘇軾の『賈誼論』には、孔・孟の政治関与の意欲を窺わせる逸話が有る。曰く、聖人・孔子は方々遊説し余程非道い国でない限り自分の理想を実行させるべく極力助言し、楚に赴く前に弟子の 冉求を打診させ子夏に意見の開陳に行かせた。孟子は斉を去る際に国境の宿に3泊し斉王の呼び戻しを待ち、今の世の中は王道を行なうには自分を除けば誰が出来ようと語った。召還への期待が外れた孟子は「方今天下、捨我其誰哉?」に続いて、(其の重みを持つ自分は此の程度の事で)不愉快には成るまいと付け加えたが、「君子之愛其身、如此其至也」(其の身を自愛する君子は此程周到なのだ)と言う蘇軾の論評は、身を天下・国家への寄与の本とする価値観の所産だ。因みに、上記の孔子の行動に対する蘇軾の論評は、「君子之欲得其君如此其勤也」(君の信任を得ようとする君子は此程勤めるのだ)と言う。
40)「苟為後義而先利、不奪不。」(仮に義を後回しにし利を優先するなら、何でも奪ってしまわないと満足できぬ事に成る。)
41)「陽貨欲見孔子、孔子不見、帰孔子豚。孔子時其亡也、而往拝之。」
42)後に詳解する『論語・先進』の「季氏富於周公、而求也為之聚斂而附益之。子曰:“非吾徒也、小子鳴鼓而攻之、可也。”」は、孔子の最も激烈な糾弾に数えられる。季氏の対外侵略への憂慮を吐露する「季氏」篇の冒頭の言説は、通常の語録の10倍前後に当る277字で、『論語』の2番目に成る文の長さは、孔子の懸念の程を窺わせる。
43)尹高朝編著『毛沢東的老師們』、甘粛人民出版社、1996、8頁。
44)楊伯峻は『論語訳註』(中華書局、1980)の中で、「百官之富」を「房舎的多種多様」(房舎の多種多様)と現代語に訳し、兪『群経平議』巻3と遇夫先生『積微居小学金石論叢』巻1の説を基に、「官」は房舎が原義で官職が転義なので、此処で房舎をも指すとした(204〜205頁)。其の結論は傍点が示す様に他の解釈を排除しないが、孔門の「学而優則仕」の伝統等とも併せ考えて通説に従った。
45)小川一夫監修『改訂新版 社会心理学用語辞典』、北大路書房、1995、339頁。 
5.中国の価値体系の基軸と重層:理・礼・力・利 

 

書家・評論家の石川九楊は『二重言語国家・日本』の中で、日本は日本語が構造的に孕む駄洒落から生まれた国だと断じた46)。毛沢東の仮名の絡繰47)が示す様に、中国人の思考回路でも「諧音」(語呂合わせ)は重要な役割を果たす。「生・声」や「命・名」の切り口も、孔子の「政者、正也」(政[治]とは、正[しく行う事]也)、孟子の「仁也者、人也」(仁とは、人[徳]也)の命題と同じく、音通の示唆の所産に他ならない48)。蒋介石は清の文字訓詁学者・段玉裁の『説文解字註』を息子・経国の少年期教育の教材にし、1日10 字ずつ3年掛けて覚えるよう命じたが、其の「一生受用不尽」(生涯に尽せぬ受益が出来る)の期待49)の通り、漢字の「教益」(教示に因る受益)と生産性・再生産力は絶大だ。
中国人は「四喜」の様に対+対の二重複合を好むが、中国の価値体系の基軸を4点に収斂するなら、同音の「理・礼・力・利」が思い当る。此の4要諦は大雑把に概括すれば、「理」は理念・道理・論理・理想等、「礼」は礼儀・礼義等、「力」は実力・武力・権力・勢力等、「利」は利益・利害・功利等だ。何れの要諦も低次と高次、狭義と広義の2元を持ち、他の要諦に接点を持つ事も多い。例えば、理には「小道理」(具体的・局地的な各論)と「大道理」(抽象的・全体的な総論)が有り、礼には小我(個人・家族)の「修身・斉家」と大我(集団・社会)の「治国・平天下」が有る。マナー・エチケットの礼儀に対して、人間・世間の正しい道なる礼義は礼・理に跨がり、功利は力・利に跨がる。
中国思想の複雑系は単純化すると、此等の要諦の複合・錯綜に帰せよう。例の「得人一牛、還人一馬」は理+礼+利の組み合わせで、『名賢集』の前文の「人為財死、鳥為食亡」の利+理(摂理・法則)に繋がる。共産党中国の合い言葉─「富強」(富裕・強大)の利+力は、国是の「社会主義道路」(社会主義の道)の理(観念形態・建前)、理想の「精神文明」の礼と重層を成す。春秋・戦国時代の諸子百家から20 世紀の国民党・共産党まで、権力者・学識経験者にしろ庶民にしろ、中国人の志向・思考の基軸は煎じ詰めれば、礼・理・力・利に集約し切れる。
1917 年から30 年間も上海で内山書店を経営した内山完造は、魯迅との親交が象徴する様に「儒商」の資質を持った人物だ。中国人社会の表門・裏門の二面性を見破った彼の直観50)は、商売・生活の豊富な経験に裏打ちされた見識だ。「得人一牛、還人一馬」と「人為財死、鳥為食亡」の隣接の合理性を証すかの如く、毛沢東は他者への謝恩で前者を実践し、部下の勤務評定に当って後者を本能として肯定した51)。孟子の「此一時也、彼一時也」(此の時は此の時、彼かの時は彼の時)52)、庄子の「是亦彼也、彼亦是也。彼亦一是非、此亦一是非」(是も亦彼なり、彼も亦是なり。此も亦一理有り、彼も亦一理有る)、及び後者の変転の環を支配する「道枢」53)は、此等の相剋相生の相関の整合に役立つ。
其の枢めく道の中核の見立てを鍵概念に学問的に整理すれば、表門+裏門の様な重層・複合は、中空めく玄妙な枢軸を巡る回転扉風の機関に思える。静的な平面形象図に於いては、道徳的に高く評価されがちの顕教的な理・礼は円の左側に在り、低く評価されがちの密教的な力・利は其の対蹠に在る。片方の理は高邁な故に上段に構え、礼は自制の故に下方に控えるが、反対側の力は強烈な故に上方に出て、利は隠蔽の故に下方に位置する。
力・利は実力・実利の様に実の性質が強く、右の実と左の虚(理・礼)は対に成る。一方、「礼義・礼儀・利益」の同音は「理・礼・利」の相関の表徴と思える。虚の中に実が有り実の中に虚が有る其の繋がりも「陰陽魚」の変種だが、道徳的な評価で陰の部類に入る。右の力・利は、又其々陰・陽の2極を持ち併せる。其の2面は即ち、歴史の前進に寄与する生産力・技術力・行動力・発信力や功利・効率と、進歩を妨げる乱暴な武力や邪悪な私利だ。負の後者に対して、利は公利や合理の部分に於いて理と連環を成し、実力は繁栄・平和の実現に欠かせない。
儒教の身→家→国→天下の4「層次」(次元)に対応して、力には人力・民力・国力の多元が有る。力・利は個我の次元で労働・収穫の意味も併せ持ち、共産党の中国人自慢の「勤労、理礼、勇敢、智恵」(勤勉、勇敢、智恵に富む)の3美徳は、前の2項と最後の方は其々力・利の範疇だ。「道理」(人倫)に則り規矩を踏まえ努力を払い報いを得るという儒教の人生哲学の指向は、正しく理→礼→力→利の展開である。
利は日本語で同音の「鋭利・営利」の両面を備え、「禾+ (刀)」の字形は力との共通を示唆する。共産党中国の国徽(国家の記章)54)の意匠に出る歯車・稲穂は、他ならぬ労働・収穫の表徴だ。中共の党旗の意匠─斧・鎌の交叉55)は、戦闘精神・実利志向の力・利の突出の様に映る。4つの小さい星が共産党の象徴─大きい星に向って其の周りに分布する共産党中国の国旗の意匠は、『論語・為政篇第2』の篇名の由来─孔子の「為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星拱之」(道徳を以て政治を為せば、北斗が自分の場所に居て、多くの星が此に向って敬礼する様に成る)の通り、理・礼の支配・尊崇の観念形態の表現だ。
此の様に理・礼・力・利は到る処に在り、各々の内部や相互間の陽陰、清濁、明暗の組み合わせは動的な複合・旋回を展開して行く。5星紅旗の4極+中心は陰陽5行に沿う図式だが、理・礼・力・利4諦の流動は万華鏡の様に中心が明確な形態を現わさぬ。中国と共に古代の4大文明の半分を占めた印度でも形而上の要諦が大事にされるが、醍醐味が最高と成る印度の5味は乾酪を敬遠しがちの中国人には馴染まない56)。中国の5味─甜・酸・苦・辣・鹹(塩辛い)は俗世の匂いが強く、理想的な1極に由る支配は成り立つまい。80 年代の時代精神を映す文学界の新語─「折光」・「雑色」57)は、中国的な心性の屈折・複雑さの形容たり得るが、「雑味」の隠し味を吟味したい。 

46)石川九楊『二重言語国家・日本』、日本放送出版協会、1999 年、154 頁。
47)対日戦勝後の内戦で本拠地・延安からの撤退を余儀無くされた毛沢東は自ら暗号名・「李徳勝を付けたが、「離得勝」(離れて勝利を勝ち取る)の語呂合わせとされる(暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、1992 年、66 〜 67 頁)。
48)出所は其々『論語・顔淵篇第12』と『孟子・尽心章句下』。「政者、正也」は「季康子問政」に対する答えだが、同じ篇の中の「司馬牛問仁。子曰:“仁者、其言也。”」(司馬牛が仁の事を訊ねた。孔子は言った、「仁[者]とは、其の言葉が遅鈍[控え目]だ)も、同音の「仁・レン」が繋ぎ目と成る。
49)蒋経国『風雨の中の静けさ』(台湾・黎明社)、江南著・川上奈穂訳『蒋経国伝』(同成社、1989年[原典=’84 年])より(12 頁)。『説文解字』は東漢の文字学者、経学者・許慎に由る漢字字解の不朽の名著だが、其に対する講釈が無いと普及し難いのが難点だ。10 歳の息子に段玉裁註を読ませたのは合理的な教材選びだが、蒋介石が設定した日課は期間と総量が見処だ。3年掛けて1万字余りを習得させる数値目標は、中国の早期英才教育や帝王学の真髄を窺わせる。民族の精神・文化の神髄を心髄へ注入する作業は、生涯の学識・人格の中核を形成させる基礎造りだ。孟子の「有恒産者有恒心」(恒産有る者は恒心有り)、及び逆の「有恒心者有恒産」(本稿筆者の造語。持続する精神が有れば安定した資産が有る)は、此の学習・受益の過程に当て嵌まる。毛沢東の「精神変物質」(精神が物質に転化する[意志が収穫を産む])も、恒心自体も恒産たり得る原理と一緒だが、孟子が「心・産」を対等に扱った事も意味深長だ。
其の時間・数量の「恒」に現われる中国的な「物量主義」(註68 参照)は、党の幹部に活字を年間1億字(一説に2億字)読めと言う胡耀邦総書記の呼び掛けにも窺える。1日の平均量(27. 4 万字)は約350 頁の本に相当するから、同じ桁違いの日課に違いないが、質を問わぬ点では杜撰な一面も有る。中国では「為尊者諱、為親者諱、為賢者諱」(尊敬する者・親しい者・賢者[の名誉]の為に其の欠点を隠す。『春秋』の特色を言う『公羊伝・閔公元年』の言)の伝統は今だに根強いが、自称・「粗人」(野人)の彼の賢明でない部分も指摘して置きたい。因みに、彼の姓は「胡説」(出鱈目)等の様に、北方の「蛮族」を指す蔑称でもある。
50)76)内山完造『表門と裏門』(初出=『おなじ血の流れの友よ』、中国文化協会、1948 年)、『中国人の生活風景 内山完造漫語』(東方書店、1979 年)所収、10 〜 13 頁。
51)毛沢東は1959 年に側近との懇談で、所管地の経済建設の成績を謳う各地方自治体首長の心情に理解を示し、「人為財死、鳥為食亡」を引いた上で、人間は誰もが自分の労働成果を護る本能が有ると語った(李鋭『関於毛沢東功過是非的一些看法』[1980 年]。李鋭『毛沢東的功過是非』[台湾・新鋭出版社、1994 年]、162 頁)。
52)『孟子・公孫下』。
53)『荘子・内篇・斉物論第2』。
54)大東文化大学中国語大辞典編纂室(主幹・香坂順一)編『中国語大辞典』(角川書店、1994 年)では、「国徽」を「国章」と訳したが、此の2つの語彙とも『広辞苑』等には見当らぬ。用語が無い事は往々にして概念の不在を意味するが、そもそも日本は厳密に言えば国徽を有しない。中国百科大辞典編輯委員会編『中国百科大辞典』第10 巻(中国大百科全書出版社、1999 年)の付録1・『各国国旗国徽』では、多くの国の場合は国旗と国徽が別々有るが、日本は国旗=日の丸、国徽=「皇徽」(皇室の紋章)と成っている(43 頁)。国徽の無い国もアフガニスタンやブルガリア等一部有るが、会社人や代議士、法曹関係者等が記章を常時付ける日本の「バッジ社会」の様相を考えれば、国旗・国徽・首都に関する規定を憲法に盛り込んだ共産党中国とは対照的な中空が改めて感じられる。
55)ソ共党旗から転用した中共党旗の鎌・斧交叉の図柄は生産・統治の利器の複合と取れるが、統治の機能を軸に見詰め直せば、「万字」の功徳円満の意から吉祥万徳の相として仏像の胸に描く右旋の卍と逆のナチス独逸の左旋のの徴やファシズムが連想される。『広辞苑』に拠れば、ラテン語のfasces(古代ローマの儀式用の棒束、転じて団結の意)を語源とするファシズムは、狭義では伊太利のファシスト党の運動・理念・政権を指し、広義では第1次世界大戦後、日本を含む多くの資本主義国家に出現した全体主義・権威主義・国粋主義的な運動や支配体制を指す。共産党中国の長年の事実上の1党独裁は其の範囲に入らないが、団結維持の大義名分の下で棍棒で天安門広場の民衆を弾圧した毛沢東時代の末期政権は其への変質の危険も孕んでいた。当時の『人民日報』編集長は匿名投書で「戈培爾」(ヒトラー政権の宣伝責任者・ゲッベルス)と名付けられ、第1、2次天安門事件の武力鎮圧を受けた民衆から「法西斯」(ファシスト)の罵声が上がった。
56)乾酪に対する中国人の敬遠は邱永漢の指摘(『中国人と日本人』、中央公論社、1993 年、39 頁)の通りだが、醍醐を精髄とする酪酥は中国で、内林政夫『右の文化と左の文化 中国・日本おもしろ考』(紀伊国屋書店、1998 年)にも出た(35 頁)様に、「龍肝・鳳髄・兎胎・鯉尾・鶚灸・猩脣・熊掌」と並ぶ「八珍」(8種の珍味)だ。
57)「折光」(屈折した光)は客観的な写実を否定し、作家の主観の屈折した投影を重んじる流派の名で、王蒙・高行健(2000年ノーベル文学賞受賞者)が中心。「雑色」は王蒙の小説(1981年)の題。 
6.「礼義之邦」の伝統と「経済動物」の根性 

 

中共の社会主義に於ける「中国特色」の比重や中国の伝統の根の深さは、海外でも国内の一部でも充分に認識されていない。『聖書・ヨハネに由る福音書』の冒頭の「始めに言葉有りき」の中国語訳─「太初有道」58)は、老子が言う「常道」(普遍的な道理)の「衆妙之門」(諸々の奥妙が集まる門)に当る原理の根幹を示唆する。本稿の題の中の掛け言葉─「道」(みち/どう)に絡むが、「社会主義道路」も中国人社会の物事の裁断基準の「道理」も、無形にして不可欠な空気めく言語に由って規定される処が多い。
邱永漢の台湾脱出→日本への亡命も直木賞受賞後の実業界への転身も、危険に挑む「下海」の挙動と言える。「金儲けの神様」の異名を持つ彼は文筆活動だけでなく、東洋の道徳を重んじる点でも「儒商」と見做せよう。自らの体験に裏打ちされた其の「日本人=職人的;中国人=商人的」59)説の通り、一般論として相対的に考えれば漢民族は根から商魂逞しい人種だ。
其の根性を掴める手掛りには、言語の投影と言語への投影が有る。
「待価而沽」と関連して、「評価」や「估計・估量」(見積もる。見通す)、「衡量・権衡」(軽重・得失を天秤に掛ける。斟酌する)、「商量」(相談)、「打算」(心算)等の字面と発想に、漢民族の計算高さが現われる。高い評価を表わす日本語の「買う」も商人的な承認の意だが、中国語の「賞識」は上品ながら語義が一緒だ。両国の言語に於ける利得の色合いの濃淡を象徴する様に、儒・商複合の「教益」は日本語には無く、「人民」を冠した上で国民党時代の名称を踏襲した共産党中国の政治協商会議(下院相当)の「協商」も日本語では未発達の儘だ。
中国に関する日本人のもう1つの固定観念は、「共産党(特に毛沢東)時代=革命の観念形態・独裁の一枚岩」だ。日本では無条件で理想化されがちの儒教に対して、毛沢東時代は曾て一部の知識人に美化された後、昨今は全面的に「醜化」(「美化」の反対語)されがちだが、2つの極端とも単純過ぎる。中共の「外毛内周」の重層を指摘した識者の見方60)も、深く考えれば一面的に過ぎない。理想主義者に映る毛沢東は現実主義の側面も強く、現実主義者に映る周恩来は理想主義の側面も持つ。一方、「文化大革命」は理(原理)・力(実力)へ一辺倒の様相が強かったが、礼の顕在と利の健在も見過ごせない。
「無法無天」の中にも礼儀が有った例として、演説や文書等の常套句の「致以革命的敬礼」(革命的な敬礼を致す)が挙げられる。序列の規定に腐心する「排名学」(リスト編成学[芸当])の発達61)は、礼の一掃どころか一層の厳格化を証した。官民から「敬祝〜」(謹んで〜祝福します)の祈りを捧げられた毛沢東は、恩師等に律儀な恩返しや気配りを続けた62)。林彪は毛宛ての請訓報告で最上級敬語の「呈〜」を使い63)、集会の際に主席より早く着くよう随員に厳命した64)。林彪一味は周恩来の均衡感覚を狡賢い保身と取ったが、彼も五十歩百歩であった。毛も賛同した孔子の「毎事問」(事毎に一々訊ねる)の由来は、周公の廟で作法を逐一確認した故事である65)が、武人の野心家・林も大事な儀礼に関しては、孔子の弟子・曾子が感銘し66)「当代周公」・恩来が体現した『詩経』の「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」(戦戦兢兢にして、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し)を心得ていた訳だ。
曾て訪ソの毛沢東は共同声明を巡る協議で、構えが立派で内実も伴う理想的な形を「好看又好吃」(見栄が好くて美味しい)と表現した。虚の理・礼と実の力・利の「兼顧」(兼備。両立)の狙いを言い得て妙だが、中国側の通訳はスターリンが解せなかった此の比喩を、「好看」を「官(冠)冕堂皇」と講釈した。67)今や上辺だけが立派で内容を伴わぬ言辞の意に転義した此の熟語は、荘厳で堂々たる建物の外観が原義だ。「満朝朱紫貴」の「顕赫」([権勢・名声等が]赫々たる様)とも重なるが、人民大会堂の立派さ等を形容する「富麗堂皇」(華麗で堂々たる様)と共に、「宗廟之美、百官之富」に符合する。
中国語との微妙で本質的な懸隔を映して、「官(冠)冕堂皇」も「富麗堂皇」も日本語には無いが、2つの熟語に即して考えると、「美好前景」(素晴らしい未来)や「壮麗山河」(壮麗な山河)等の美辞麗句が踊る「文革」中、『毛主席語録』や毛沢東思想への礼賛には「富・宝」が目立った。「紅(赤い)宝書」や「巨大的精神財富・無尽的宝庫(宝蔵)」(「的」=連体修飾語)云々には、官民の巨富願望が読み取れる。翻って思えば、「估量・商量・衡量」には商人的な計算と共に、中国的な「物量主義」68)の妙味も有ろう。量に物を言わせる側面と物事の均衡を量る側面は、「物量」の力・利の2面を成す。
中国最古の王朝の名─「夏」「商」は、単語として其々「盛大・華麗」「買売・商量」の意を持ち69)、日本語に無い「富強」の2極は其の複合に織り込んである。民衆に「無商不奸」(商人には腹黒く[狡く]ない者は居ない)との偏見が根強い反面、中国人の自称の「夏」の出典が『書経・舜典』の「蛮夷猾夏」(野蛮な夷[北方の少数民族]と狡猾な夏[中華民族])であり、「商」が中国民族の先祖が世界に誇る文明大国の称号と成ったのは、共産党中国の第2世代領袖の指導の下で拝金主義の蔓延を伴って強盛に成って行く変貌と併せ考えれば興味深い。近代化への助言を外賓に吸い上げる小平や第3世代の指導者・朱鎔基の貪欲70)は、梁恵王の直線的な功利願望を彷彿とさせるが、中共及び其の主体なる工人(労働者)階級の「共・工」は「功」と同音だ。「功」は字形通り4要諦の中で「力」の範疇に属するが、中共の党旗の斧・鎌の意匠が象徴する様に、功利願望は何時も中国の歴史の推進力だ。 

58)2者の訳の違いと中国語訳の妙味に最初に着目した研究者は竹内実か。其の『〈中国論〉之11 老子・荘子・素粒子─中国古典と関西的なるもの』(『あうろーら』、21 世紀の関西を考える会、1998 年夏季号)の中で、日本語訳の「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と中国語訳の「太初有道、道與上帝同在、道就是上帝。」との比較が有る(166 頁)。
59)邱永漢『中国人と日本人』、中央公論社、1993 年、64 頁。
60)「外儒内道」を擬った佐々淳行の見解、出所同註37。
61)1969 年、毛沢東の決裁で新しい政治局の候補者名簿が作成され、第9期党中央第1回総会で可決された。同じ活字を用い得票順で並べる通例と違って、原案の格式の儘で新聞に公表されたリストでは、毛沢東・林彪の名前を1号活字で一番上に置き、少し間隔を開く下に周恩来・陳伯達・康生の名前を3号活字で刷り、上記5人の常務委員と区別して平の委員・委員候補は4号活字で姓の画数順で出た。林彪の秘書も含めて当時の人々には異様な印象を与えた(張雲生著・横山義一訳『私は林彪の秘書だった』、徳間書店、1989 年[原典=『毛家湾紀実─林彪秘書回憶録』、春秋出版社、1988 年]、175 頁)が、此の手の均衡が得意芸の周恩来の点検と毛沢東の認可を得ただけに興味深い。林彪夫人・葉群は「葉」の簡略字・「叶」の画数のお陰で第3序列群の筆頭に踊り出て、本人は舞い上がった(同176 頁)が、「正・副統帥」の夫人への配慮と勘繰られても、邪推とは言い切れぬ節が有ろう。江青も同じ理由で前の方に出たが、此の様に中国人の「争先」(先を争う)願望は色々な形で現われる。
62)一例を挙げると、毛は1920 年に建党や革命運動の資金集めを章士に依頼し、章の尽力で各界名流から銀貨2万元が集まったが、’63 年から自分の原稿料から毎年2千元を章への「債務返済」に当て、決まって「年初2」(旧暦1月2日)に秘書に届けさせた。実質的には生活補助なのだが、明言すれば相手は受け取らぬので「還債」の名義にしたわけだ。累積額が2万元に達した’72 年から秘書は打ち切ったが、此の金は老先生への手当てだから額面通りに10 年完済と言う訳には行かぬとして、毛は今年から利息返済の名目で続けるよう命じた。50 年の利息の妥当額は判らぬが、とにかく「行老」(「行」は章の字・行厳の略、「老」は尊称)の存命中に返済して行こう、と言った。(章含之『我與父親章士』。戴晴・鄭直淑・章含之『梁漱溟、章士與毛沢東』[香港達芸出版社、1988 年]所収、71 〜 73 頁)章は北洋軍閥・段瑞の内閣で司法総長兼教育総長を務め、毛が好きな魯迅に批判された事が有り、魯迅が「民国成立以来最も暗黒な日」とした1926 年3月18 日の惨事(国務院への侵入をしようとしたデモ隊が政府の武力鎮圧で47 人の死者を出した事件)で章が民衆の非難を浴び、共産党の要人・李大の逮捕命令を起草した(後に李は避難先のソ連大使館から強行に連行され処刑された)事も有るが、毛は全く意に介しなかった。
時間や意識形態・利害を超越する中国人の「報恩」(恩返し)観念は、此の逸話に好く現われる。一般的に学者や政治家経験者と認識される章は、『辞海』の項も属性の規定や評価を避けた程の「雑色」人物で、毛沢東時代では忌避すべき「歴史(経歴)複雑」の部類に入るはずだったが、魯迅と心が通じ合うと自称する傍ら魯迅が敵視した章の恩義を忘れずにいたのは、「一日為師、終身為(是)父」(1日でも師を為した人は終身、教え子から父親並みの尊敬を受ける)と言う様に、一旦生じた恩義及び其への返報義務は時効が無い故だ。恩師・徐特立(建国前後の党中央宣伝部次長)を敬う理由に毛が此の成句を挙げた(註43 文献、516 頁)のは、マルクス−レーニン主義と無関係の中国の常識の拘束力の証だ。毛の内実の多くは儒教を含む中国の古層に帰せると言う指摘は、階級闘争の教義に偏る西欧の共産主義原理に於ける個我の身の処し方の欠落を考えれば仕方が無い。
「仕方」は日本語独特の当て字なのだが、仕途に就く方法も含んだ孔門の教・学内容と妙に符合する。因みに、謝恩の完済を忌み嫌う傾向は日本でも見られる。田中角栄の支持で首相に成った中曽根康宏は然るべき政治的な見返りをし後、此で借りは返せたと漏らした処、帳消しと取った田中角栄に不快を表わされた。20 世紀前半の中国では日本人は中性的な異称の「東洋人」とも呼ばれたが、此の例を引き合いに出すまでもなく毛の本質は間違い無く広義の東洋人だ。相手の面子と実利を勘案しつつ以心伝心で寸志を供与したのも、中・日共通の気配りの芸当である。
此の美談を裏読みすれば、毛や中国人社会の色々な機微に気付く。第1、恩返しに関する中国の代表的な格言─「滴水之恩、当湧泉相報」(一滴の水の[様な小さい]恩に対して、湧く泉[の様な大きな返し]を以て報いるべし)は、百倍や千倍、万倍の返報を理想とする点で中国的な規模を感じさせるが、上記の謝恩は故郷の山中に建てた毛の別荘の名・「滴水洞」とも通じて、「滴水之恩」に対する「滴水之報」と言うべきか。毛主席の言葉は「1句頂1万句」(1言は万言に値する)と言う林彪の誉め殺しに憤慨して、彼は1言は1万言に成る訳が無いと言った。1は飽くまでも1だと言う等身大の現実主義は、秘書が理解した同額面の返済予定額の根底に有ったろう。何故より早くより多い返済が出来なかったかも、併せ考えて置きたい。
毎年元本額面の1割ずつ返済する方式は一括完済に比べて、儀礼面だけでなく実益の点でも合理性が高い。「細水長流、吃穿不愁(常有)」(細い水が長く流れる風に倹約すれば、衣食に愁い無し[常に有る])の法則で量れば、吝嗇の観も有る「涓涓細流」(涓涓たる細流)めく分割払いは先方にとって有り難いはずだ。同音の「施恵」(恩恵を施す)と「実恵」(経済的)は此処で、奇妙にも意味の連環を見せる。43 年も経った後に始めた返済も間が抜けた様だが、此の格言を裏返せば補助の必要の発生と言う契機をより実感できる。寄付は中国流の「義捐」の字面通り、義侠心に基づく喜捨であり本来は返済を期待せぬ物だ。章の暮らしに困難が無ければ抛って置いて好く、寧ろ其の方が相手の自尊心や満足感を満たすわけだ。起因は章の家計の個別問題かも知れないが、援助が「3年困難時期」の直後に始まり「文革」後期まで続いた事は、’60 年代初期の失政や後に林彪一味が秘密政変綱領の中で非難した人民生活水準の実質的な低下と結び付けば象徴的だ。
反面、10 年間の均等返済は毛沢東時代の貨幣価値の安定の裏付けとも取れる。更に大きな枠組みの中で振り返れば、高水準の通貨膨脹が儘有った20 世紀前半も含めた中国貨幣の意外な一面も目に付く(D.ウィルソンは周恩来伝記[註92 文献]の中の「何十年も後に成って首相の座に就いていた周は、かなり厳しい調子で父親を追憶して“月給30 元にも満たない官吏”だったと言っている」の件に、「当時の米ドルにして30 ドルぐらい。周の生涯を通して大体に於いて中国元と米ドルは同じだった」との脚註を付けた[日本語版、2頁])。とは言え、実質購買力の対比もせず銀貨と人民幣を同値扱いにしたのは、大雑把な「糊塗帳」(丼勘定)の印象は免れない。然しながら、利息の観念を持ち出した処には、貨幣に触りたがらぬ毛の確りした経済観念が窺える。
因みに、章は継続決定の翌年に92 歳で逝去したが、老先生の存命中に支払い続けろと言う指示には、多寡が知れているとの計算も或いは有った事か。但し、債務返済も1代限りとは合理的な考えでもある。理・礼・力・利は此の事例に於いても、多様な相関や価値判断の可能性を見せている。
毛は「還債」開始直前の’62 年末、自分の70 歳誕生日の祝宴に4人の湖南同郷と子女各1名を招き、其の中に章士や若い頃の自分の学費負担者兼「保護人」(後見人)を買って出た従兄・王季範が居た。其の際に連れられた章の娘・含之と王の孫・海容は、「文革」中に前者が毛の英語通訳と外務省亜細亜局副局長と成り、「編外家庭成員」(編制外の準家庭構成員)たる後者が副外相まで抜擢された(註43 文献、469 〜 471 頁)。章士への経済的な恩返しが子女まで及ばぬのは理に適うが、其の娘の出世に貸した力は其を上回る恩沢だ。2001 年の日本外務省は田中真紀子外相に「伏魔殿」と糾弾されたが、4半世紀前の中国外交部が外相・喬冠華と夫人・章含之、王海容等で固まったのも不正常の状態と言うべきだ(「4人組」に寄り過ぎた喬夫妻は「文革」直後に失脚)。
毛が最晩年に王海容を自分と中央政治局の間の連絡員にしたのは、周恩来・小平と「4人組」の双方とも信用仕切れぬ故の措置だが、身内に対する重用は党の私物化と批判されても仕方が無い。「文革」開始時の章士の職務─中央文史館館長も毛の斡旋かどうかは不明だが、もう1つの公私混同を指摘するなら、其の義挙の財源と成る原稿料の「湧泉」じみた無尽蔵ぶりは、「文革」中の組織動員に依る大量販売の結果であった。
更に陰の部分を突くなら、知人への謝恩や救済には吝かでない反面、戦争中庇護を受けた「革命の揺り籃」・延安には建国後に1回も行かず、周恩来が’70 年代初めに仏大統領に御供して訪れた際に、涙ながら地元の関係者に反省した程の貧困ぶりを長年放置したのは、不義理としか言い様が無い。「還人一馬」どころか「一毛不抜」の誹りも免れないが、毛は故郷の湖南省に対する国家の財政支援をも控えさせていたと言う。尤も、湖南は元々援助の必要が少なく寧ろ全国に寄与する豊かな地域だし、地元利益誘導型の日本政治家と正反対の毛の姿勢は天下を重んじると言う評判にも繋がる。
63)註47 文献、104 頁。
64)「文革」元年の国慶節祝典の際に、林彪は毛沢東より1分余り遅れて天安門に到着したが、葉群夫人は「政治的事故」と見て随員を叱咤し、首長(林)は主席より半歩でも先に城楼に上っては行けず、主席より30 秒でも遅れては行けず、1〜2分早く着きエレベーターの処で主席を待つのだ、という「最大の政治」なる原則を決めた。其の為に随員は警備部門の協力を取り、毛が出発する直前に連絡を得て林を送り出す事にした。(張雲生『私は林彪の秘書だった』[註61 文献]、157 〜 158 頁)其の苦心の先着の時機も此の逸話のミソであり、徒に早く着くのもNo.2の矜持を損ねると思われた事か。
因みに、東大法学部卒、国立図書館調査立法考査局政治議会課長を経て'93 年に細川護熙首相の主席秘書官を勤め、2年後に駿河台大学法学部教授(日本政治論・比較政治)に成った成田憲彦の準実録小説・『官邸』(講談社、2002 年)の中の、「連立政権の最大の実力者と自他ともに認める」(上、13 頁)・財部一郎( 田中角栄と思われる角田茂男[「茂男」は田中角栄の筆頭秘書・早坂茂三の名から取った物か]元首相の秘蔵っ子、「民自党幹事長」経験者との設定等から推せば、小沢一郎が原型か)と首相が密会する場面で、先着しホテルの1室に待つ財部は首相首席秘書官・風見(作者の分身なる主人公)に、「総理のお召しだから、張り切って来たよ」と冗談めく言い、後から来て恐縮の意を示した首相の「お待たせしたのではありませんか」に対して、「根がせっかちな者ですから、勝手に早く来ただけです」と応えたが、「秘書が付いて定刻通り姿を現す大物政治家の多い永田町では、財部は確かにせっかちな方だった。個々の政治家が時間に就いてどういう感覚を持っているかは、秘書官にとっては意外に重要な情報だという事を、風見は其の後も学んだ。」(上、87 頁)礼を尽くす意思表示をしながら卑屈に成らぬ鷹揚さを保つ財部の振る舞いは、林彪と何処と無く通じ合いより高次の大物の風格が漂う。
竹中昇元首相が総理と密会する場面(上、409 頁)でも、「3時きっかりに(ホテルの)喜多課長の案内で、(略)11 階に姿を現した。これだけ時間に正確なのは、やはり大物の証拠である。
一般に永田町は時間に正確で、霞ヶ関はルーズである。霞ヶ関の役人たちが時間にルーズなのは、人に待たす事に慣れているからだが、それは本当に権力を持つ者のやり方ではない。」と有る。
原型は紛れも無く気配りが永田町随一の竹下登だが、其の礼法の極意─間の均衡感覚(中国流で言う「分寸感」は、次の件にも示現された。「“わざわざご足労いただき、有難うございます。さあどうぞ”/総理は、卑屈には成らず、然し折り目正しく竹中を招き入れた。」
65)出所は『論語・八篇第3』の「子入太廟、毎事問。或日:“孰謂人之子知礼乎?入太廟、毎事問。”子聞之、曰:“是礼也。”」(太廟[周公の廟]に入った孔子は、作法を一々訊ねた。或る人が「の役人の子供「孔子」は礼を知っていると誰が言ったのだろう。太廟の中で作法を一々訊ねている[のではないか]」と言った。其を聞いて孔子は、「此[慎重な確認]こそ礼なのだ」と言った。)金谷治訳註『論語』(岩波文庫、1963 年)では、「太廟」ならぬ「大廟」と成る。「始祖の霊廟」の解(46 頁)は正しいが、中国の版本で一般的な「太廟」は「太祖」や「太初有道」(註58 参照)を連想させる点でも違和感が少ない。
66)「曾子有疾、召門弟子曰:“啓予足!啓予手!『詩』云:‘戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷。’而今而後、吾知免夫!小子!」(曾子が病気に罹った時、門人を呼んで言った。「我が足を看よ。我が手を看よ。『詩経』曰く、‘戦戦兢兢にして慎み、深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如く。’私は今後もう其の心配は無いね、諸君。」)『論語・泰伯篇第8』の此の1節は、『孝経』の「身体髪膚、受之父母。弗敢毀傷、孝之始也」(身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり)の教義に沿って、小心翼翼に維持した肉体の完全さを門人に示した、と言うのが普通の解である。
李沢厚は『論語今読』(安黴文芸出版社、1998 年)の中で、従来の訳に多い「看我的脚、看我的手」を牽強付会・意味不明として退き、「正我的脚、 正我的手」( 正=正しく置く。きちんと並べる)と訳した(199 頁)。金谷治訳註『論語』(岩波文庫、1963 年)の講釈に、「“啓”は布団を開く事とするのが通説であるが、“ ”の意味で解した」(107 頁)と有るが、中国では「視」と解す向きが多い。楊伯峻『論語訳註』(中華書局、1980 年)の講釈は王念孫『広雅・疏証(釈詰)』説を引いて、此の「啓」は『説文解字』の「」(=視)だと言う(79 頁)。「啓」の「開」の意から忖度したと言う李の論断は表題通り今風の読解だが、倶に漢字の思惟の経路を辿った点で2方とも恣意性は感じられぬ。此処で中国の通説に従った理由の1つは、身体の保全に関わる周恩来の痛切な心情とも絡み合う事だ。
1925 年、21 歳の穎超が党の仕事の負担を案じた末、遠征中の夫・周恩来に無断で中絶した。
滅多に怒らぬ周(註92 参照)は白状を聞いて激怒し、「革命第1、事業(仕事)第1」の観念に囚われぬ其の単純さを激烈に責めた。曰く、「出産と革命を対立させるのは“形而上学”(観念論)であり、子供は個人の私有財産ではなく国家・社会に属する者だから、其(原文=他[彼])を勝手に抹殺する権利はお前には無い;而も軽率に自分の身体を台無しにする(原文=糟)とは全くの無責任だ。身体は革命の資本であり、お前自身に専属し意の儘で扱える物ではない。必要な時には我々は何時でも革命の為に血を流す用意が有るが、自らの身体を軽々しく傷付ける事は決して許せない。」相談もせず独断した(原文=自作主張)軽率さをも叱られた夫人は、幼稚・軽率を認め寛怒を乞ったが、子供を失った不幸は夫婦に一生補えぬ損失を与えた。(南山・南哲主編『周恩来生平』、吉林人民出版社、1998 年、137 〜 139 頁)「形而上学」を「唯物弁証法」の対概念とし観念的な空論の代名詞に使う中共の用法は、唯物主義を哲学・史観の基礎に位置付ける党の理念や、印度哲学を空言の塊と貶した毛沢東の価値判断(註89 参照)と一致する。上記の「正」は状態を正すか関係を正常化する意も有るから、李沢厚の「啓」の解は哲学者らしい形而上の妙味を持つ。次の段落で臨終の曾子は「君子所貴乎道者三」(君子が尊ぶ心得は3つ有る)、即ち「動容貌」(容貌を厳粛にする)・「正顔色」(表情・態度を端正にする)・「出辞気」(言辞・語気を留意する)と説くので、手足の位置を正す→身を正すと言う「正」説は、『論語』の脈絡と主旨に沿ってはいるが、「当代大儒」・周恩来の即物的な側面に照らせば、書斎派の「形而上学」の嫌いも否めない。
身体を革命の資本とした周の命題は「革命」の修飾語が付くが、「資本」(毛が愛用したのは「本銭」「元金」)で唱えた其の主義は資本主義的な損得勘定が根底に有る。勝手・軽率を咎める原文の3カ所の「随随便便」は、中国人の国民性の「馬馬虎虎」(いい加減)の同義語だが、肉体への損傷に対する中国人の敏感は、破壊・毀損を表わし強姦の含みも持つ「糟」(台無しにする)の強烈さに窺える。
性別不詳の胎児を「他」(彼)と記したのは、同音の「」(彼女)との併記が面倒な故の便法だが、男児を好む潜在意識が執筆者乃至当事者に有ったかも知れぬ。韓素音は周恩来の性格や指導部での位置に因んで、其の伝記に『長男』の題を付けた(ELDEST SON─Zhou Enlai and Making of Modern China、 1898-1976。日本語版題=『長兄』、註92 参照)が、家系の視座から此の挿話を味わえば、周の異例な激昂は遂に子供が無い儘で終った夫婦の将来への予知さえ感じ取れる。『孟子・離婁章句上』の「不孝有三、無後為大」(不孝は3つ有り、其の中で後裔が無い[家が絶える]のが最大と為る)は、旧い固定観念として其の時代にも引き摺っていたが、周家の子孫繁盛に対する責任感が彼の脳裏を過ったか否かも興味を引く。其の遺恨に於ける言外の含みの有無は窺い知れぬが、身体は個人の私有財産でなく孝行の根本だと言う儒家の理念は、個人主義の隠れ蓑たり得る。
隠れ蓑は「啓」の語訳に出た布団と繋がるが、日本語の「布団・蒲団」と中国語の「棉被・被子」の違いも気掛りだ。「蒲団」は官能小説・『肉蒲団』の題が示す様に昔の中国でも有ったが、今2国の表記は完全に無関係な物だ。「主動」の反対語の「被動」も入れず和製漢語の「受動」を使う処と合わせて、被害等の負の形象が付く所為か「被」を好まぬ日本的な感覚に因る現象だ。
「被服」は『広辞苑』で「着物を着ること。又、着物。“─厰”“─費”」と解されたが、中国語では動詞の用法は無く布団・衣服を指す。2者の共通する機能の「包身」(身を包む)は、巡り巡って同音の「保身」の文脈に通じる。
更に件の曾子語録と日本語訳の表記のずれを追及するなら、原文の驚嘆符の「!」が「、」「。」と成るのも面白い。形式を内面の発露と見做せば、激情が好く噴出する中国語的な表現と、穏やかな緩衝の間や丸い収まりを好む日本的な情緒との対極が浮上する。引用符の前の「:」は日本では通常の縦書き書式「‥」と処理せざるを得ぬ程馴染まないが、中国では西洋並みに定着している。「冒号」(号=符)の名称の「敢えて。冒す」の含みは、被引用者への忌憚とも解せるが、字面に戦闘的な響きが漂うのも事実だ。
67)師哲・李海文著、劉俊南・横澤泰夫訳『毛沢東側近回想録』、新潮社、1995 年(原典=師哲・李海文著『在歴史巨人身辺 師哲回憶録』、中央文献出版社、1991 年)、269 〜 270 頁。
68)井波律子は『酒池肉林』(講談社現代新書、1993 年)の中で、「歴代皇帝の物量主義」(14 頁)を考察したが、同氏の「中国的大快楽主義」(論文集[作品社、1998 年]の題)と共に、示唆に富む命題である。
69)『辞海』の「夏」の語釈に、「2中国人自称。『書経・舜典』:“蛮夷猾夏。”孔伝:“夏、華夏。”孔穎達疏:“夏訓大也。中国有文章光華礼義大。”」「5華彩。『周礼・天官・染人』:“秋染夏。”賈公彦疏:“秋染夏者、夏謂五色、至秋気涼可染五色也。”」と有る。「商」の1は「販売貨物。如:経商。也指従事商業的人。如:小商小販。参見“商賈”」、2は「商量。如:有事面商。『後漢書・宦者伝論』:“成敗之来、先史商之久矣。”李賢注:“商謂商略也。”」其の「五色」は本稿の「五味」「雑色」と結び付けば面白い。
70)日本絡みの例を挙げると、曾て小平は松下幸之助に経済運営の助言を求め、朱鎔基は逆に儀礼的な性質が多過ぎるとして日本の経財界訪中団との会見を嫌ったと言われる。 
7.「儒将→儒商」「王覇→徳治」を貫く功利主義 

 

改革・開放の抵抗勢力の「姓(性質)は無産階級か資産階級か」の疑問は小平の激怒を買った71)が、各階層を象徴する国旗の4つの小さな星の当初の意図─ 工人・農民・小資産階級・民族資産階級72)は、「姓“無”」「姓“資”」が半々を占める具合だから、其を認めた毛沢東の時代でも決着が付いた事に成る。斧・鎌で模る労働者・農民に対する中共の尊重は、別に商人への排斥を意味しない。共産党中国が社会の主体とした階層の「工農兵学商」73)の中で、「学」(学生・知識人)の次に「商」が出る。封建時代の「士農工商」と同じく商人・接客業等は末席に置かれるが、存在の価値は十分に認められている。1958 年、毛の元政治秘書の中
央政治局委員候補・陳伯達が鼓吹した人民公社の構想には、商品経済を否定する当人の極左思潮とは裏腹に「工農商学兵」が有った74)。
文人理論家の彼は後に「中共中央文化革命領導小組」の長を経て党のNo.4 まで昇進したが、其の意外な「商」の高い位置付けは「文革」の裏面を窺わせる。紅衛兵が言う「党政財文大権」も、財政は文教の前に出た。「財政」も深読みすれば妙な語順だが、其の4権の中で通常党・政に次ぐ軍が抜けたのは、筆を武器とした「衛兵」の本物の銃を握る兵に抱く忌憚か。毛沢東逝去の際の『告全党・全軍・全国各族人民書』(全党・全軍・全国各民族人民に告ぐ書)の順位でも、建国に決定的な寄与をした軍・力の聖域たる存在が示唆された。毛に対する林の礼賛は竹内実の洞察の通り、権力再分配を求める「勘定書」の魂胆が有った75)。其の「表礼裏利」の二面性はさて置き、兵・力に対する執着は毛・林の同根性だ。
周恩来を「当代大儒」とし其の失脚を狙う極左派は1974 年、「批林批孔」(林彪・孔子批判)と「評儒研法」(儒家の批評・法家の研究)の「運動」(キャンペーン)を張った。法家への肯定は共産党中国の専制体制を裏付けたが、法家と並んで儒家の対蹠に在るのは兵家だ。中国人の対内・対外交渉の常套手段には、「先礼後兵」(先ず礼を尽くして、効かぬ場合は強硬策に出る)と有るが、孔子と毛・林は正に礼と兵の両極だ。林彪一味は毛の「封建的社会主義」を攻撃したが、前近代的な伝統は毛・林の両方に見られる。
内山完造は中国人社会の表裏の例に、儀礼的な宴会に続く商談の真剣勝負を挙げた76)が、此の流儀も「先礼後兵」の変種と言える。儒の礼儀作法と儒・法混合の礼義−統治の両義を持つ「礼法」は、『荀子』の『王制』『王覇』篇が出典であるが、「王覇」は王道・覇道の複線を示唆する。「共・工」の接点から古代神話の中の部落首領・共工氏が連想されるが、「工農紅軍」(労農赤軍)時代の毛が礼賛した77)彼は、敗戦の悔恨で頭を不周山にぶつけ天柱を崩した一幕の様に、「争強好勝」(勝ち気が強い。負けず嫌い)までの熾烈な闘争・反逆心の権化だ。「商量」と部分的に重なり値踏みの含みも有る「打量」([外観を]観察する。推量する)の様に、中国の言語・観念には力+利の複合が多い。
「儒商」は「儒將」(儒者の風格を持つ将帥や文官出身の将帥78))を擬った言葉と思われるが、儒・兵は同じく4要諦図の左・右に在る儒・商と同様に隣接し、兵・商も縦軸に於いて隣り合う。山本七平は旧日本軍の精神主義への反省を踏まえて、『孫子兵法』の徹底的な現実主義に畏敬の念を表わした79)。『広辞苑』の「兵家」の語釈に「用兵・戦術などを説いた」と有るが、欠落した「用人」(人を使うこと)戦略の神髄は、理・礼・力・利の原理を駆使する操作だ。『実践論』『矛盾論』(倶に1937 年)と共に毛沢東の主著に入る『論持久戦』(’38 年)等の戦法論は、現代の兵家の傑作と言える。其の変名の「得勝」80)の「勝」は「生・盛」と音通だが、生存・強盛─日本語でも音通の「得・徳」には、2国共通の義・利の相互内包の素地が現われる。
「理」は「王」偏が象徴する様に、中身はともあれ中国では永遠の王道とされる。毛沢東に煽てられた紅衛兵の「造反有理」は中身が理不尽だが、「有理」を以て正当化しようとした処は理の不尽の優位の証だ。「文革」の暴走も含む毛沢東の闘争は孫子と同じく、道理・原理を基軸とする治世・知性が目立つ。毛は自らの気質を主たる「虎気」(虎の気質。勇猛・非情等)と副次的な「猴気」(猿の気質。元気・反逆等)の複合と規定した81)が、後者の由来─「造反衛兵」の元祖・孫悟空を始め、古典文学は現代中国の傑物の内面を透視し社会の裏面を照射する光源と成る。
内山完造は桃太郎物語と『西遊記』とを比較し、余所への征伐や財宝の掠奪が出た前者の軍国主義的な匂いを指摘し、仏教経典貰いを目的とする後者の文化的な香りを評価した82)が、『西遊記』に於ける力・利の要素も看過できない。彼が喝破した表門・裏門の2重基準を証す様に、釈尊の10 大弟子の1人の名を借りた仏・道糅合の虚構人物83)・須菩提祖師が、抜群な門人・孫悟空に「開方便之門」(好都合の方途を提供する。便宜を与える)の心算で裏門を暗に開けて置いた84)。其の使い分けと利益の提供は俗物的な贔屓とも取れるし、1日に千里も走る駿馬に特別メニューを与える伯楽の苦心85)とも思える。
一方、安価を意味する中国語の「便宜」に絡むが、唐三蔵に対し経典の無償譲渡を渋り謝礼を無心した2尊者を如来菩薩が弁護する1齣86)は、子孫の為に安売りしまい発想と共に、中国的な現実主義を映し出す。曽て党幹部への賄賂を拒んだ主治医を世間知らずとして毛沢東がからかったのも、其の西方浄土の不純な側面の造形の背景を示す態度だ。87)無邪気な孫悟空も無垢なはずの如来の打算と対を成す様に、長生術の伝授でないと祖師の説法も聞かぬ実用志向を露出した88)。孫悟空気取りの毛はキッシンジャーとの会見で印度哲学は空言の塊として貶した89)が、談義の相手の遺伝因子に有るユダヤ人気質との共通性は、印度仏教の代表格に対する『西遊記』の恣意の改編にも窺われる。意味深長な事に、著者・呉承恩は周恩来と同じ江蘇省淮安県の人であり、此の伝奇小説で多用された江蘇北部の方言90)は周恩来と江沢民の郷音だ。

71)最も劇的な1幕は1991 年8月31 日、夜10 時に中央テレビで放送された翌日の『人民日報』社説の中の「改革・開放政策の遂行に当り、4つの基本原則を堅持し、姓は“社”か“資”かの区別を忘れては成らぬ」を聞いた が削除を命じ、11 時の放送及び翌日の紙面から其の1文が消えた事だ( 楊炳章『小平 政治的伝記』[註7参照]、297 〜 298 頁。楊の註[349 頁]に拠れば、当初の放送と紙面のずれは事実で、 の指示は非公式筋の情報)。
72)設計者・曾聯松は意匠の説明文の中で、大きな星は中国共産党、4つの小さい星は労働者・農民・小資産階級・民族資産階級の表徴だと記した。審査委員会では4階級を表わす構想に反対する意見も出たが、毛沢東は此の案に支持し、中国革命の勝利は正に共産党の指導の下で労働者・農民を基礎とし小資産階級・民族資産階級と連合し共に闘争した結果だと述べた。(原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、中国文史出版社、1996 年、271 〜 272 頁)但し、『辞海』の「中華人民共和国国旗」及び「5星紅旗」の解では、「旗上的5顆5角星及其相互関係象徴共産党領導下的革命大団結」(旗上の5つの5星及び其の相互関係は共産党の領導の下での革命的な大団結を象徴する物だ)と言う新華社の趣旨説明('49 年11 月15 日)中の抽象的な件(同274 頁)を踏襲した。'50 年代の「社会主義改造運動」に因る民族資産階級の消滅も、4階級説の蒸発の1因か。『中国百科大辞典』(註54 参照)の中国国旗の説明では、「4顆小星代表着中華人民共和国建国時4個階級─工人階級、農民階級、小資産階級和民族資産階級」(中華人民共和国建国時の4つの階級─労働者階級・農民階級・小資産階級・民族資産階級を代表している)と成る(64頁)が、持続を表わす「〜着」は何時まで有効かは曖昧だ。
73)此の成句の出典は不明だが、抗日戦争中に既に「工農兵学商、大家来救亡」(労・農・兵・学・商、皆で滅亡の危機から国を救おう)との合い言葉が有った。
74)林克・凌星光訳『毛沢東の人間像 虎気質と猿気質の矛盾』、サイマル出版会、1994 年、176 頁。
75)竹内実『毛沢東』、中公新書、1989 年、185 頁。
77)毛沢東は1931 年の詞・『漁家傲・反第1次大「囲剿」』(反第1回大「包囲掃討」)の後に、共工が怒って頭で不周山に触れた神話の1『淮南子・天文訓』2『国語・周語』3『史記』司馬貞補「3皇本紀」の諸説を挙げ、自分は1の方を取り共工を勝利の英雄と見做す、と記した(日本語文献として武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』[文芸春秋新社、1965 年]129 〜 132 頁参照)
78)『辞海』の「儒将」の定義は「指有儒者風度或文官出身的将師」。
79)山本七平『参謀学「孫子」の読み方』、日本経済新聞社、1986 年、1〜4頁。
80)註47 参照。
81)「在我身上有些虎気、是為主、也有些猴気、是為副。」(江青宛ての手紙、1966 年7月8日)82)内山完造『忘れ物3つ』(初出=『中国40 年』、羽田書店、1946 年)、註50 文献所収、52 頁。
83)呉承恩『西遊記』(人民文学出版社、1992 年)註、6頁。
84)『西遊記』第2回『悟徹菩提真妙理 断魔帰本合元神』(菩提真妙の理を悟徹し 魔を断じ本に帰し元神に合す)の中で、須菩提(釈迦の10 大弟子の1人)祖師の門下で数年修行した孫悟空は或る日、皆の前で長生の術の伝授を乞ったが、祖師は其の生意気を叱り彼の頭を3回敲き、2手を後ろに回して奥に入り中門を閉ざした。周りは驚き説法の中断を悔やんだが、彼は3更(真夜中)に裏門から入るよう暗示する仕草と取った。深夜に行って見ると、其の悟性の天資を喜ぶ師祖は望み通り秘訣を教えてくれた。
孫悟空は「打破盤中暗謎」(奥底の謎を解き破る)の際に、「従後門里伝我道理」(裏門の内で私に道理を伝授なさる)と師祖の意図を解した。「文革」後期から社会的な現象と成った「走後門」(裏口経由[入学・入隊・入社])は、其処に1つの祖型が見られる。特権を利用し子女に便宜を与えたとして極左派が葉剣英元帥等の古参革命家を非難した時に、裏口で行く(入った)人は必ずしも悪い人とは限らず、裏口で行かぬ人は必ずしも好い人とは限らぬと毛は言った。私生活で廉潔な人でも失政しない保証は無く、多少の私欲を働いても貢献の方が大きい事も有るので、尤もな相対評価とも思える。毛は孫悟空的な「猴気」の持ち主と自己規定した(註81 参照)が、「走後門」への弁護も屈折ながら彼の「猴王」と通じ合う。
件の謎の出題は典型的な「謎」(無言の謎)だが、其の禅問答と関連して「方便之門」の出典の1つは『景徳伝灯録28』だ。因みに、「方便」の「1〔仏〕(梵語upa-ya)衆生を教え導く巧みな手段。真実の教法に誘い入れる為に仮に設けた教え。2目的の為に利用する便宜の手段」(『広辞苑』)も、「導師」・毛沢東の2面に対応できる。猶、単純な2元構図では片付けられぬ中国の言語・思想の多角性を映して、『辞海』の「方便」は次の多義を持つ。「1仏教では権宜を表わし、「権」に同じ。水準が違う各種の人々に対して違う伝道方法を以て信仰させる事に謂う。
2方法。遺り方。3機会。4便利。5用便(原文=解手)。」「権宜」(=臨機に事を取り計らう事。便宜の措置。機宜。『広辞苑』)は日本では馴染みが薄いが、字面が「力・利」の2極に当て嵌まるのは面白い。仏教色が薄れた現代日本語の「方便」は『辞海』1の其の原点と繋がるが、建前を重んじる故「嘘も方便」の諺に違和感を抱く中国人は一方、排泄行為の隠語に用いる処に実用主義を窺わせる。「開後門」ならぬ「開下門」を指す中国独特の尾籠な語義は、天界の柱に放尿する心算で如来の掌の中で孫悟空が遣った悪戯を思い起せば、又『西遊記』や仏教との接点が見える。
85)「世有伯楽、然後有千里馬」(世の中に伯楽が居て、始めて千里の馬が育つのだ)で始まる韓愈の『雑説』は、「馬之千里者、1食或尽粟1石」(千里を走る馬は、1食に1石の穀物を平らげる事も有る)と言う。
86)『西遊記』第98 回『猿熟馬馴方脱殻 功成行満見真如』(猿馬が馴れて方めて殻を脱する 功行が満ちたれば真に見ゆる)の話:西方の仏祖の地に到頭辿り着いた唐三蔵一行は如来至尊釈迦牟尼文仏に謁見した後、阿儺・伽葉2尊者に宝閣に案内され一部の経典を授与された。「教他伝流東土、永注洪恩」(彼等に此を東土に流布させ、我が洪恩を永遠に注がせよう)と言う如来の指示とは裏腹に、2尊者は見返りの贈与を要求した。進物の用意が無いと聞いて、「白手伝経継世、後人当餓死矣!」(手ぶらの方にお経を渡し世に伝えて行ったら、我々の後裔は飢え死にして了うよ)と笑った。如来に直訴するぞと孫悟空が脅かすと一応渡したが、其は字が書いてない白紙であった。帰路で気付いた一行は戻って如来に抗議したが、仏祖は笑って宥めた。曰く、「2人の要求は知っているが、経は軽々しく伝え、又手ぶらで受ける物ではない。曾て比丘聖僧たちが舎衛国の趙長者の家に下り、生者の安全と死者の解脱を保証すべく此の経を一通り読んでやったが、貰った布施は只3斗3升の米と幾許の黄金だけだった。余りの安売りでは後々子孫は無一文に成ろうと、私は彼等を咎めた(原文=我還説他們売賤了、教後代子孫没銭使用)。そんな訳で、手ぶらの貴方に白紙の経を与えたのだ」、云々。
中国茶は一般的に1杯目より2杯目、3杯目が美味しいが、『西遊記』の此の話の面白みも順次増す物だ。如来は釈明の上で有字の経を与えるよう2尊者に命じたが、彼等は珍楼宝閣で又もや進物を無心した。唐三蔵は唐の帝が下賜した紫金の鉢盂を差し出して、「聊表寸心」(寸志に代えさせて頂きます)と口上を述べ、帰国後改めて厚い謝礼を弾むよう約束して、漸く本物の経典を交付された。更に面白い事に、阿儺は下の者たちに「不羞」(恥知らず)と嘲笑われて、一瞬恥じらって顔を皺だらけにしたものの、受けた進物は確り抱え込んだ儘だ。羞恥心の呵責を感じつつも既得利益を手放さぬ其の忸怩たる「厚臉皮」(鉄面皮)は、滑稽ながら理・利の葛藤を表出する物だ。賓客に対する如来と現場責任者の態度は、礼・力2極の乖離にも見える。
87)毛の長年の主治医・李志綏に拠れば、彼は建国直前に新中国への夢を膨らませて米国から帰国しようとした際、香港の友人から知識人徴募役の党幹部に対して、好い就職先の斡旋と引き替えにロレックスの腕時計を贈るよう勧められ、共産党の清廉を疑わぬ彼は断ったが、7年後に其の経緯を話すと毛は哄笑して「本当に世間知らずだな」とからかい、「水清ければ魚棲まず」の諺を以て人間関係の情理や贈答の正当性を諭した。(李志綏著、A.サーストン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』、文芸春秋、1994 年[原典同]、上61 〜 62 頁)如来の笑いと弁護に照らせば、証言の信憑性を益々感じる。
『文選・東方朔・答客難』の「水至清則無魚」(水は至りて清ければ則ち魚無し)や『後漢書・班超伝』の「水清無大魚」が出典の件の格言は、裏門工作を全面的に否定せぬ毛の観方(註84 参照)の根底にも有ったろう。やがて贈与を断った事を後悔するに至った李の心境の変化(91頁)は、過度の純粋の負面を突く其の古来の格言を裏付けたが、初心な初心に対する全面否定は堕落や腐敗にも繋がる。南京大学の学生が裏口入学を白状し退学を決意した事から起った「走後門」批判の中で、毛は古参革命家を庇う政治的な意図から無条件の非難を退いた(註84 参照)が、結果的には党風刷新を望む大衆に水を差した。「是々非々」とは違う其の灰色の糊塗は特権行使の口実に援引され、「不正之風」の蔓延の遠因とも成った。『析子・無厚』の「水濁則無掉尾之魚」(水濁れば即ち尾を掉う魚無し)や『韓詩外伝1』の「水濁則魚」(水濁れば即ち魚う)は、政治を正しく行なわねば民衆が窮屈に成る事の比喩だが、「水(至)清〜」の逆説に対する反命題とも思える正論の存在は、表と裏、光と影が隣り合う中国思想の特色を窺わせる。
器官の無い顔に7つの穴を開けられた中央の帝・渾沌の即死の寓話(『荘子・内篇・応帝王第7』)は、「水至清則無魚」の後の「人至察則無徒」(人は至りて察すれば則ち徒[仲間]無し)にも通じる逆説だが、曖昧糊塗は無条件で認める訳には行かない。「水・濁・渾」に引っ掛けて言えば、日本語の「お茶を濁す」と誤魔化しの意を共有する「把水攪渾」(水を掻き回して濁す)は、境界線や論理の刷り換え等を表わすが、李を諭す毛の言い回しも無邪気な「攪渾」が有った。
彼は抗日戦争勝利後の国・共重慶談判の際に郭沫若から腕時計を贈られた例で贈与を正当化したが、高名な文学者からの無償の敬意の表示(因みに、中国語の「表」は「手表」[腕時計]の略)と、返報を期待する求職者の贈与との混同は不条理も甚だしい。尤も、左様な「至察」ならぬ融通無碍も大国の領袖の条件か。
但し、凡そ如来に相応しくない「売賤」(安売り)云々と同じく、金品の供与や無心を肯定する毛の話自体は清濁2面を示す象徴性が有る。『西遊記』の原文の中の進物を表わす「人事」も、現代では其の意を失ったものの示唆に富む。返報の義務を伴う義理に言う「人情」と共に、人間関係の基本事項や人情の常と成る贈与の性質を思い知らせる表現だ。
「人事」の通常の語義に絡むが、件の党幹部は実は党中央調査部(情報部)の1員で、後に全国政治協商会議の多くの代議士と同様に某「各民主党派」(諸野党団体)の指導者として再浮上した、と李は言う(62 頁)。共産党員の身分を隠して野党の要職を占める絡繰は、人気挽回を狙う中共が影響力や徳望を顕示すべく公表に踏み切る’80 年代までには、1党独裁の形象を忌避する為に伏せられていたが、関係者の間では公然の秘密でいた其の裏工作と2重の顔の一体は、「公・秘」「表・裏」の虚実皮膜として特筆すべきだ。
88)孫悟空は師祖が提示した「“術”字門の道」(吉凶を知る占術等)、「“流”字門の道」(儒・釈・道・陰陽・墨・医諸家や仏教・道教等)、「“静”字門の道」(座禅等に由る禁欲等)、「“動”字門の道」(不老の秘薬の錬製等)の伝授を、其々長生の保障が無いか期間の不十分、或いは玄妙過ぎるとして断った。師祖は第2、4の道の特色として、其々「壁里安柱」(壁の中に柱を立てる)、「水中撈月」(水中に月を掬う)の譬えを使った。(『西遊記』第2回)中国人の志には社会の棟梁を成す事が有るが、壁を支える柱も大厦の傾きと共に朽てて了うと言う師祖の予告は正直だ。一方、共産主義への憧れが共産党中国でやがて薄れたのも、水中の月めく幻影と感じる人が多い故だ。
89)1973 年11 月12 日、毛沢東はキッシンジャーとの会見で、孔子を軽蔑し老子に敬意を表し印度の仏教哲学を最も讃えたヘーゲルの価値判断に言及し、最後の方の非常に受動的な哲学を評価した彼には賛成しかねると言う相手の論評に同調した。続いて米国務長官は「西洋の知識人は印度に恋い焦がれますが、此は印度の人生哲学を完全に読み間違えている事から来ています。印度哲学には、現実に適用しようとの意図は全く有りません」と述べ、毛は「空虚な言葉の塊ですね」と相槌をした。(W.バー編、鈴木主税・浅岡政子訳『キッシンジャー「最高機密」会話録』、毎日新聞社、1999 年[原典同]、237 頁)
90)呉承恩『西遊記』(人民文学出版社、1992 年)「前言」(華東師範大学古典文学教研室 郭豫適・簡茂森)、17 頁。
8.仁義無き実用主義と仁義重視の理想志向の表裏一体

 

1975 年、極左派は毛の『水滸伝』論評を受けて、周恩来を「投降派」・宋江に見立て攻撃した91)が、宋を参照物として眺めれば周の別の側面が目に付く。日本人の周恩来観には儒教の固定形象と同じ理想化の傾向が強いが、革命の為なら妾や娼婦に成るのも辞さぬと言う内戦時代の彼の決意92)は、 の「黒猫・白猫」論よりも凄い現実主義だ。「文革」中に領袖に追随しつつ其の失政を食い止めようとした彼の在り方は、正しく左様な実践である。「文革」の嵐に耐える庶民の強かな生き方を描く映画・『芙蓉鎮』(小説原作=古華、監督=謝晋。1986 年)の名台詞─「像牲口一様活下去」(家畜の様に生き抜け)93)の生存本能と違って、「為革命」の目的が前提を成す臨機応変・無節操は、理想・信念の為の忍従・韜晦で高次の理・利なのだ。
駒田信二は忠臣・豪傑の負面を暴露する『水滸伝』から、影の部分の添加に由って話を膨らませる中国の表現様式を見出し、武士道の理想像を儒教道徳に拠って統制し勧懲小説の趣意を貫く馬琴の読本から、影の部分を排す日本的な発想を読み取った94)。愛人殺害の罪で服役中の宋江が反逆の詩作に因る罰を逃がす為に屎尿に塗れて瘋癲を偽装した挙動等は、確かに格好が悪いが、行為・造形の2方とも勇気が要る。玉皇大帝の婿と自称し10 万の天兵を率いてお前を遣っ付けると叫ぶ瘋癲の演技95)は、穿って観れば英雄主義の発露と思えるが、英雄の首領に敢えて汚点を付ける発想は凄い。『椿説弓張月』の「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるのあやまちなり」は、自民族固有の精神の負面を窺わせる。勇猛で潔い「大和魂」や優しくて柔らぐ「大和心」に対して、中国人が自賛する国民の美徳の「勤勉・智恵・勇敢」には、高潔・柔和は入らない。
俗語の「笑貧不笑娼」(貧乏[人]を笑うが[軽蔑しても]売春[婦]を笑わぬ[軽蔑しない])は、革命の為なら妾や娼婦に成っても構わぬ周の心構えとの「黒猫・白猫」「先富」論の裏付けに成る。あらゆる手段や代償で生活の向上を求める中国人の願望は、「万悪首」(諸悪の頭)たる「淫」以上に罪深い淫売よりも貧困と其の甘受を軽蔑する此の逆説に端的に出る。
『増広賢文』の「貧居閙市無人識、富在深山有遠親」(貧乏人は繁華街に居ても誰も相手にせず、金持ちは山奥に居ても縁戚[と自称して近寄る者]が有る)は、善悪を超える現実として富強の悲願の根底に有る。第2次国・共戦争の際に林彪の膝元・東北で生まれた中共空軍の草創期に、旧日本軍の教官が指南役を果たした96)が、「敵ながら天晴」の発想を持つまい97)中国人は、自強の為なら相手を選ばぬ「拿来(持って来い)主義」98)も遣る。
「文革」中の毛沢東賛美の修飾語で本人が唯1つ認めたのは、若い頃の教師体験に合致する「偉大的導師(教師。教官。教祖)」だが、内戦で勝利した中共軍は軍事理論の補強の為に、敗軍・国民党軍の将軍・教官の講義を受けた事99)は、偉大な存在に成る為に如何なる教官も受け入れる実用主義の典型だ。蒋介石は中共と死闘を交わす大陸時代と台湾時代に、曾ての日本侵略軍の司令官を軍事顧問や高級教官に起用した100)。周恩来は開国祝典の天安門城楼を飾る目玉─巨大な朱色の「宮灯」([昔宮廷用の]丸く膨らんだ灯籠)の設計を、中共軍に従軍した元日本軍人への一任を許可した101)。大事な理論武装・礼法装飾・武力対決に絡む此の3つの例は、利害を重視する中国的な心性の柔軟性・雑種性の現われだ。
孔子の「小子鳴鼓而撃之、可也」の矛先は、「富於周公」の季氏と其の家宰(封地の取締)・冉求の2方に向いた。冉は「為之聚斂而附益之」(季氏の為に租税を取り立て其の富を増やした)故に、主と共に孔子から「非吾徒也」(私の徒党[仲間]ではない)と一蹴されたが、彼は孔門10 哲の内にも入る。徳行では顔淵・閔子・冉伯・牛仲弓、言語では宰我・子貢、政事では冉有(冉求)・季路、文学では子遊・子夏、という孔子の4科10 哲評102)も同じ『論語・先進篇第11』に出たが、此の褒貶は同篇の「昇堂入室」の奥義の一端を窺わせる。
堂に昇ったものの室には未だ入っていないとされた子路は、『公冶長篇第5』でも師の相対評価を受ける。其の「千乗之国、可使治其賦也、不知其仁也」(千輛の兵車を擁す[大きな]国なら、彼を兵役や軍政を統括させる事は出来るが、其の[彼は]仁か否かは判らない103)には、仁を究極の境地とし且つ統治能力を重宝する価値観が読み取れる。次の「千室之邑、百乗之家、可使為之宰也、不知其仁也」(千戸規模の町や兵車百輛規模の大夫の領地なら彼を主管に遣らせる事が出来るが、其の[彼は]仁か否かは判らない)は、他ならぬ孔子の冉求評である。
『辞海』の「冉求」の解では、「不知其仁也」を除く此の能力鑑定と「聚斂而附益之」の非難を併記した。評価と不評の同居は陰陽混在の中国の複雑系らしいが、公の財政の為の子路の行政管理と小集団の利益の為の冉求の租税回収は、性質の正・負の違いを超えて経営実務だ。
役職に由る不義と切り離して冉求の主宰の力量を認め、「仁」の資格交付を躊躇しつつ子路・冉求の行政手腕を買う処は、孔子の「黒猫・白猫」への同時容認や力・利重視の一面を示した。
同じ孔門10 哲の冉求と子路(季路)は政事の主力を成したが、徳行・言語・政事・文学の領分は党・政・財・文の序列と考え併せると面白い。
続く孔子の赤(子華)評は、「束帯立於朝、可使與賓客言也、不知其仁也」(礼服を着けて朝廷に立って、賓客に応対させる事が出来るが、其の[彼は]仁か否かは判らない)だ。子路・冉求・子華は其々内政と外交に長けたが、「文革」中に自らが「資本主義の道を歩む実権派」の罪名で倒した小平を難局克服の切札として再起させ、自分の姪・王海容を外交部礼賓司長(外務省典礼局長)→同副部長(副外相)への抜擢を認可した毛沢東も、孔子の其の価値判断に近い傾向を持った。例の3弟子は孔子より其々9、29、42 歳若いが、毛より其々10、32、49 歳若い小平、江沢民、胡錦涛の年齢を思い起せば、毛以後の「儒商」や「徳(礼・文)治」時代の指導者の特質との接点も興味を引く。 

91)毛は1975 年8月14 日、北京大学中文系(中国語言文学学部)講師・盧狄との談話で斯く語った。「『水滸伝』の妙味は“投降”に在り、人民に投降派を知らせる反面教材だ。『水滸伝』は汚職官吏のみに反対し、皇帝には反対しない。晁蓋を108 人から除外した。宋江は投降して修正主義を行い、晁蓋の“聚義堂”を“忠義堂”に改名し、人々を(朝廷に)帰順させた。」其を伝聞で知った宣伝部門の責任者・姚文元は毛に上書し、今世紀と来世紀に於いて修正主義に反対しマルクス主義と毛主席の革命路線を堅持して行く為に重要且つ実質的な意義を持つ指示として、公表を要請し了承を得た。
毛の論評は姚が急先鋒とする極左派に周恩来・小平への攻撃に利用されたと言われるが、彼が批准せねば公に成る事も無かったので責任は逃れられぬ。笠井孝之は『毛沢東と林彪─文革の謎 林彪事件に迫る(日中出版、2002 年)の中で、劉少奇の獄死に対する毛の責任に就いて、「文革中のどんな事も、毛沢東の支持、黙認が無ければ絶対不可能だった」という陳伯達の証言を引いた(54 頁。原典=師東兵『政壇秘聞録』、香港・港龍出版社、1998 年、295 頁)が、其の通りである。
周の絶大な人気との強烈な「文革」路線是正に対する警戒や反発を秘めていたとすれば、梁山泊の元首領・晁蓋に対する宋江の「架空」(棚上げ。除外)や「修正」云々は、「影射」(甲を借りて乙を暗に指[射]す。当て擦る)や「授意」(意を告げて遣らせる。入れ知恵する)の容疑さえ出て来こう。談話の時期と方式から推測すれば其程の深謀遠慮は考え難いが、政治との不可分は中国文学の宿命であり、1字1句の重みは中国の君主の言説の特徴である。
江沢民・朱鎔基が統治術の参考とした二月河の「清帝系列」小説の中で、軍機大臣・于敏中が宦官を買収し乾隆帝の読書傾向等の情報を掴もうとし、発覚後に不興を買い失脚したとの1齣が有る(『乾隆皇帝』第6巻『秋声紫苑』、河南文芸出版社、1999 年、第13 回『理宮務皇帝振乾綱清君側敏中遭黜貶』、236 〜 250 頁)。毛と国防相・彭徳懐が激突した1959 年の盧山会議でも、毛の政治秘書・田家英が機密秘書、英文秘書、警備官等の「内線」(内部の情報源)から其の動向を探り、『阿Q正伝』を配布する予定等を聞き出した(李鋭『関於毛沢東功過是非的一些看法』、註51 文献、163 頁)。
小説を利用して反党活動を行うのは一大発明だと言う、’62 年の小説・『劉志丹』批判の際の康生(理論家・元情報工作責任者)の論断は、中央総会で毛が其のメモを読み上げた事(張涛之著、伏見茂・陳栄芳訳『中華人民共和国演義』第3巻『粛清の始まり』、冒険社、1996 年[原典=作家出版社、同年]、290 頁)から毛の語録として流布したが、魯迅の小説を以て中央委員会を洗脳するとは、統治・文化一体化の伝統に沿った古典的な行動と言える。「4人組」は毛の『水滸伝』の感想を第1級の情報と武器に利用したが、政治的な利用を承知で毛は彼等の野心を政治的に利用した節も有ろう。「大串聯」に於ける毛と紅衛兵の相互利用を註5の論評で指摘したが、大衆は『水滸伝』論評・「投降派」批判を横目に、古典名作の発禁の中で「反面教材」として市販した此の作品の70 回版や百回版を入手し抜け目無く楽しんだ。
姚文元の「本世紀・下世紀」云々は4半世紀後の世紀の交を睨む気宇壮大な表現だが、暗に毛の「百年之後」(逝去後)を仄めかして其の心の琴線に触れようとの魂胆も見え隠れする。晁蓋が108 人に入らぬのは戦死の為で筋が通るはずだが、歴史の舞台から消えた彼に注目し人為的な排除と邪推した毛の深読みは、没後の自分と中国の運命に対する懸念の強さを姚に再認識させたのか。他界の陰影を手掛りに振り返れば、死去の1年前に「御進講」を受け文学談義に耽る毛が再び少年の時の愛読書に接し、而も武勇譚の裏の権謀に着目したのは、毛の変貌と中国思想の複雑系及び両方の影の部分を物語る事だ。
曾子の「君子所貴乎道者三」(註66 参照)は見舞いに来た孟敬子に述べた言葉だが、先立って彼は「鳥之将死、其鳴也哀;人之将死、其言也善」(鳥が死のうとする時は其の鳴き声も哀しく、人が死のうとする時は其の言葉も立派だ)と言い、命の果ての箴言の重みを強調した。其に当る周恩来の真情の吐露は正に『水滸伝』論評・「投降派」批判の開始直後、余命が4ヵ月も無い頃に病院で関係者に発した物だ。「動容貌・正顔色・出辞気」の模範と言える彼は珍しく忿懣を顕わにし、彼等(極左派)の矛先は明らか(に自分を向ける物)で余りにも酷いと断じた。やがて大手術に臨む彼は、政敵に蒸し返されかねぬ無実の「叛徒」容疑を否定する数年前の自分の談話の録音記録稿を取り寄せ、担架車の上で丁重に「周恩来 於進入手術室(前)」(於・手術室入り[“前”の1字脱落])と記し、「私は党・人民に忠誠を尽くすのです。私は投降派ではありません!」と渾身の力を振り絞って絶叫した。(『周恩来生平』[註66 文献]、1579 〜 1580 頁)「戦戦兢兢、如臨深淵、如履薄氷」の警句を引き手足の保全を門人に見せた重病の曾子の姿(註66 参照)、次の段落の「人之将死、其言也善」「君子所貴乎道者三」、及び周の件の言行とを相互に参照すれば、曾子の挙動はやはり孝行たり得る完膚の維持の誇示と解すのが順当で、周の至高な保身の対象は高次の身体・髪膚とも言える名声・形象に思える。強姦の含みも有る「糟」(註66 参照)と関わるが、「保身」の反対語の「失身・破身」は貞操の喪失を意味する。周は革
命の為なら妾や娼婦に成るのも辞さぬと言った(註92 参照)が、其の止むを得ない究極の献身は可能な限りの保身の裏返しに他ならぬ。
92)中国で余り知られざる此の台詞は海外で好く引き合いに出されており、本稿の「中国複雑系」の論題に即して日本語訳文献を挙げれば、先ず城山三郎の『総理の死』(『サンデー毎日』1978 年7月16 日号)の次の件が思い浮かぶ。「周恩来の魅力は、何処に在ったのか。/司馬長風著『周恩来評伝』(竹内実訳、太平出版社刊)は、かなり批判的と思われる本だか、其の中から拾い上げると、先ず第1に、“人の能く忍べぬ事を忍ぶ─近代中国の政治人物の中で忍という点を論じるとすれば、周恩来を先ず第1に数えなければ成らない”とし、周恩来が語ったと言う言葉を伝えている。/“唯‘忍’の1字有るのみだ。革命の為には、噛み締めた歯が砕けたなら、血と共に呑み込まなければ成らない。革命の為なら、我々は妾に成らなくては成らない。必要とあらば、娼婦にだって成らなくては成らない”」(『中国 激動の世の生き方』、文春文庫、1984 年、20 頁)韓素音著、川口洋・美樹子訳『長兄─周恩来の生涯』(新潮社、1996 年[原典=’94 年])に、其の経緯は次の様に紹介された。「(1927 年)湖南省の長沙で、市を支配していた国民党軍の師団長に由って、百人の共産党員が公衆の面前で斬首された。師団の政治委員は仰天して、其の残虐行為を糾弾しに武漢の周のもとに急行した。だが、血に飢えた師団長は汪精衛の友人だったし、国共合作は有名無実に成っていたとは言え、建前としてはまだ支持されなければ成らなかった。
其がコミンテルンの命令だった。“我々は黙っていなければ成らない。抗議するわけには行かないのだ”と周恩来は言った。“何故です?叩かれても殺されても文句が言えないなんて、我々は囲い者なのですか?娼婦なのですか?”“そうだよ、同志”と周は答えた。“革命の為なら、我々は囲い者の役も、娼婦の役さえ演じなければ成らないのだ”」(81 頁)韓素音が参考にしたディック.ウィルソン著『CHOU: The Story of Zhou Enlai 1898-1976』(1984 年)の記述も、政治委員の実名(柳寧)を出す処、上記の下線の部分が「唾を吐き掛けられ敲かれても」と成る処(田中恭子・立花丈平訳『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、時事通信社、1987 年、84 頁)を除けば大同小異だ。尤も、同書第8章の「妾の娼婦も務めよう、必要なら娼婦にも成ろう」(84 頁)は、前半は上記の「〜の役さえ演じなければ成らない」とは微妙に違い、後者は同書「結び」の中の「売春婦の真似をする覚悟も必要だ」(318 頁)とは不統一だ。
ウィルソンが註記(350 頁)で挙げた此の逸話の出所は、1 1976 年1月23 日『朝日新聞』の松野谷夫の署名記事;2西河毅『周恩来の道』(徳間書店、1976 年);3 Hsu Kai-yu(許芥)『Chou En-lai、 China's Gray Eminence』(Doubleday New York、 1968。日本語版=高山林太郎訳『周恩来─中国の陰の傑物』、刀江書院、1971 年);4 Li Tien-ming(李天民)『Chou En-lai』(Institute of International Relations、 Taipei、 1970。日本語版=桑原寿二訳『周恩来』、実業の世界社、1973 年)だ。正真正銘の初出に辿り着くのは所詮無理だが、中共以外の経路で発信された事は間違い無い。
ウィルソンが参考資料一覧の冒頭で論評した通り、中共の長年の指導者情報非公開の慣習及び個人崇拝を恐れる本人の配慮に因り、大陸で周の伝記が無い状態は長らく続き、刊行解禁後も事実関係には矛盾点が多い(364 頁)。此の逸話は今後も恐らく最後の禁域の内に封印されて行こうが、隠匿に因り憶測が却って独り歩きし易いのは皮肉だ。興味深い事に、域外の著者は其の赤裸々な現実主義には余り反感を示していない。ウィルソンは許と李の著書に就いて、2人は共産主義を敵視する反面、中国人として周の長所を誇張する処が多いと述べた(361 頁)。本土の中国人の反応も其処から類推し得るが、「子(小老婆)養的」(淫売女[妾]の子め)が最大級の侮辱語に入る中国の精神風土への理解が高い程共鳴も強く涌く。「噛み締めた歯が砕けても、血と共に呑み込まねば成らぬ」(咬砕牙往肚里咽)も、中国独特の決意の表わし方だけに中国人の心を震撼し易い。
其々の文献は一長一短が有るが、事実・本質2面の信憑性の高い物として韓の労作を推したい。
日本語版の訳者が後書きで言及した通り、1956 年以降の約4半世紀の間に約60 回も訪中し、周恩来・穎超への長時間取材は其々9回、6回重ね、関係者への聞き取りも綿密に行なったのが何よりの強みだ(401 頁)。「周恩来党の1人」と自称した(400 頁)一方、本書は周恩来の失敗や短所を探し其等を書き記した物だと自ら語った(著者前書き、1頁)処は、可成り批判的な印象が付き纏いながら韓の同業者(作家)・城山三郎が周の魅力の例証として引いた司馬長風(本名=厳静文)の上記著書(原典= Biography of Zhou Enlai、 香港・波文書店、1974。日本語版=翌年)に通じる。周は「評『水滸』、批(判)投降派」運動(註91 参照)で「当代宋江」と擬されたが、負面を持ちつつ人望が集まった宋江や影の部分の添加に由る『水滸伝』の造形法(註94 文献参照)と重なって観れば、複雑系の妙味は又滲み出る。
『長兄』は日本語訳者の評の通り、客観的な事実の記述に重点を置いた第3者的な観点からする伝記ではなく、寧ろ周への賛歌や恋文と成っている(400 頁)。映画化したメロドラマ(H.キング監督。1955 年度アカデミー主題歌賞・衣裳賞)で名高い韓の出世作の自叙伝的な小説(’52年)の題(A Many Splendored Thing)の日本語訳─『慕情』(中国語訳=『愛情至上』)は此処でも適応できるが、演歌・『雨の慕情』(阿久悠作詞)の「憎い 恋しい/憎い 恋しい/巡り巡って 今は恋しい」を思い浮かべれば、正・負の感情・評価の対立・転化も回転扉に見えて来る。再び本稿の主旨に戻るが、蒋介石と対抗すべく連盟を結んだ汪精衛の武漢政権との関係や、共産国際の指導を尊重する立場の制限に因り、不義理・不条理を覚悟した周の非常時の非情な態度にも、理・礼・力・利諸要素の葛藤が見られ、其の割り切り方は原則や利害を配慮した理外の理だ。尤も、其の5月21 日の粛清に続いて長沙一帯で1万人強の革命群衆が殺され、其の後7月15 日に汪精衛は共産党と決裂したから、周の忍耐は結果的に無為の犠牲に繋がったとの観方も成り立とう。元より一種の板挟み状態と成る回転扉を通る事は、周旋の余地と共に怪我の危険も大きい。
韓は件の場面の後に、「そう言った時、周は、ごろつきの前で這って見せた韓信の故事を思い出していたのだろうか?」と付け加えた。実録の枠組みからはみ出した此の推論は、流石に中国人の父とベルギー人の母との間に中国に生まれ、香港を含む華人圏で長い年月を過ごした文学者の踏み込み方だが、自分と姓を共有した彼の淮陰候の故郷と周の故郷・淮安が隣り合う事(本稿後述)を意識した跡が無い処に、中国に関する土地勘・「歴史勘」(「土地勘」を擬った筆者の造語、歴史に対する熟知度の意)の不足も感じる。「師団長は汪精衛の友人」云々は2人の当事者の地位や関係とは微妙にずれるが、中国から遠ざかった経歴を考えれば無理も無い。「師団長」の用語にも著者か訳者の「言語勘」や「観念勘」の弱さが出た。『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』では「国民党左派の指揮官(許克祥)」と成るが、許の当時の職務・「団長」は「聯隊長」が正しい(「師団長」は中国の「師長」相当)。
因みに、『長兄』の訳者後記の中の韓素音の経歴も簡単過ぎて、印度の軍医と結婚し米国で医学を修めた後’42 年に25 歳で娘を連れて渡英した件は、周南京主編『世界華僑人物辞典』(北京大学出版社、1993 年)の記述と若干違う。後者に拠ると、祖籍が広東で河南で生まれた韓の本名は周月賓(父親の名は周英東)、幼年から北京で就学し、北京大学医科を経て’35 年にベルギーに赴き医学の勉強を続け、’37 年に中国に戻り抗日救国活動に参加し、’42 年に「韓素音」の筆名で処女作を発表し、同年に渡米し、’44 年から4年間医学を修めた後、ロンドンで医者を1年間務め、’49年に香港に着き英国籍を取得し、’50 年代初めに香港・マレーシア・新嘉坡で医者を務めた。(77頁)さて置き、其の事件が中国で「馬日事変」と呼ばれるのは、当時の電文に於いて21 日は略語の「馬」で表わされた事に因るが、今の中国でも事変自体も含めて歴史知識の風化は進んでいる(日付を表わす1字の略語は、『辞海』の『中国歴史紀年表』の「附[録]3 音句目代日表」で列挙してあるが、其の流儀自体は廃止されて久しい)。「理・礼・力・利」を始めとする本稿の文字遊戯風の連想を飛躍させると、同志を落胆させた周の返答は「韓信」と同音の「寒心」(失望して心を痛める。慄然とする)の2方に関わり、股の下を潜る韓信の「胯下之辱」の「胯」の「肉・夸」の字形は、巡り巡って曾子の肉体保全の誇示の話と繋がる(「夸」は中国語で「誇」の簡略字)。
93)日本で一般的に流布される「豚の様に生き抜け」は、怠惰・不潔の形象の強い動物を前面に出す点で迫力の有る名訳と言えるが、原文の「牲口」も捨て難い滋味を持つ。「牲」は祭祀の備え物の羊が原義で犠牲や「沈黙の羊たち」を連想させ(「綿羊」は中国で柔弱・従順の性格の代名詞)、「・生」の字形は動物的な生存本能の表徴に映る。卑俗な「牲口」の標準的な言い方は「家畜」だが、「畜」は鬼畜・人非人を言う中国の侮辱語の「畜生」と重なる。漢の都・長安に近い台地に建設された隋の新都・大興城の碁盤状の街路で区切られた百8の区画・「坊」の「家畜の檻の発想」の所産とし、統一国家・隋の統治思想の原点を遊牧民族の家畜の統率に求める千葉大学教授・大室幹雄の直観的な仮説(陳舜臣・鎌田茂雄・NHK取材班『NHKスペシャル 故宮 至宝が語る中華5千年』第2巻、日本放送出版協会、1996 年、200 〜 201 頁)と結び付ければ、更に象徴的な余韻が漂う。因みに、隋が江南の漢民族の国・陳を制圧し中国を統一したのは、天安門事件の武力平定の恰度千4百年前の589 年の事だ。
94)文献34、9〜 19 頁。
95)我こそ玉皇の婿君で、舅殿から10 万の天兵を授かり、貴様等江洲の奴等を遣っ付けに来た;閻魔大王が先駆け、5道将軍が後詰め;授かった金印は重さ百余斤、云々。(『水滸伝』第39 回『潯陽楼宋江題反詩 梁山泊戴宗伝假信』[潯陽楼に宋江は反詩を題じ 梁山泊に戴宗は假信を伝う])。玉皇の婿と自称した処は、宋江の権力志向と「只反貪官、不反皇帝」(註91 参照)の傾向の反映か。
96)アジア政経学会西日本部会2001 年度大会第5分科会(歴史関係部会)で、水谷尚子(日本女子大学院生)が『建設期の中国人民解放軍空軍─東北航空学校(東北老航校)と日本人教官』の題で発表した研究報告は、中国の公刊・内部資料を駆使して、林彪の意志に由り関東軍「林飛行隊」が敗戦の翌年から中共空軍の創設に尽力した経緯を回顧・分析した。中で特に注目を引く事実は、「開国大典」(建国式典)で天安門広場の30 万人の観衆が見上げる空に華麗な編成飛行を披露した17 機の操縦士に、林弥一郎隊長等が直接指導した者が含まれた事だ。留用日本兵の関与の事実公開の解禁は’84 〜’85 年頃の事と報告されたが、思うに、此の年の建国35 周年記念日に林彪事件後に13 年ぶりに祝賀行事が再開され、編成飛行を含む盛大な閲兵式が行なわれたのは、彼等の教え子・王海(’49 年東北航空学校卒)が’85 年に空軍司令官に成った事と共に、歴史の年輪を感じさせる暗合だ。其の関東軍飛行隊と東北解放軍の総司令の姓は同じ漢字の「林」だったが、朝鮮戦争で発揮した王海等の挑戦精神と日本人教官の特攻隊精神の類通と合わせて、曾ての敵同士の同根性を窺わせる。
97)前出の囲碁観戦の話に繋がるが、精々「棋逢対手」(将棋・囲碁で好敵手に巡り逢う)と言う。此の4字熟語の後に好く続く「将遇良才(材)」(対戦で俊才の将軍に巡り遇う)も、評価の意が有るので敵側を形容する場合には馴染まない。
98)魯迅『拿来主義』(1934 年、『且介亭雑文』[同年]所収)。
99)1950 年、中国人民解放軍軍事学院の創設に当って、院長予定者・劉伯承は軍内の教官適格者の不足を鑑みて、中共に鞍替えしたか俘虜と成った一部の旧国民党軍将校の起用を提案した。国民党陸軍大学の教官も含む彼等の文化水準と軍事知識を買う劉の考えに、周恩来は即座に賛成した。(南山・南哲主編『周恩来生平』[註66 文献]、670 頁)後に元帥と成った劉伯承は小平の長年の相棒で、黒い猫でも白い猫でも鼠が獲れる猫は好い猫だと言うの「黒猫・白猫(当初は「黄猫」=茶色の猫)」論は、他ならぬ彼が戦争中好く使った言葉だから、興味深い事実である。
100)『辞海』の「岡村寧次」(1884 〜 1966)の経歴には、陸軍大学卒→ 1925 年に直(河北)系軍閥・孫伝芳の軍事顧問→’28 年に日本軍歩兵聯隊長、済南惨事の元凶→(略)中国派遣軍総司令(最終軍歴)、「三光」政策を実施→日本投降後に蒋介石の秘密軍事顧問→’49 年1月に国民党政府に由る「無罪」判決→’50 年に台湾「革命実践研究院」高級教官に招聘→日本に死去、と有る。最後の勤務先の名称は、周恩来の「革命の為なら」論(註92 参照)を思い起せば興味深い。朝日新聞社編『現代日本朝日人物事典』(朝日新聞社、1990 年)では、孫伝芳の軍事顧問の件も出ず、陸軍大将・支那派遣軍総司令として降伏を迎えた後の記述も、「戦後、中国の戦犯裁判で無罪と成り、以後、蒋介石政権の支援運動に努めた」に止まった(373 頁。執筆者=林博史)が、判決時期の国民党大陸敗退直前に当る’49 年1月と漠然とした「戦後」とでは意味が大きく異なる。
一方、’49 年10 月下旬、解放軍華東野戦軍第10 兵団(司令=葉飛)の3個団(聯隊)9千人余が福建近海の金門島を猛攻したが、上陸作戦の不慣れと敵の頑強な抵抗で全滅した。万人単位の部隊全滅は中共軍史上滅多に無かったので衝撃的な出来事だが、国民党軍は精鋭の胡兵団を投入し、蒋介石の寵愛を受けた湯恩伯上将と顧問の「日本侵華重要戦犯、原華北方面軍司令官」・根本博が指揮に当った(原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』[註72 文献]、338 〜 346 頁)。
根本博(1891 〜 1966)は『辞海』では取り上げてないが、『朝日人物事典』の項(1236 頁。執筆者=小林元裕)には次の記述が有る。「44 年駐蒙軍司令官。45 年終戦直後に北支那方面軍司令官を兼任して敗戦処理に当る。46 年に復員するが49 年から台湾に密航し、国民政府軍の対中国共産党軍作戦を支援した。52 年帰国。」49 年の密航は国民党側の要請に由ったと思われるが、 小平の名言と日本の諺に引っ掛けて言えば、黒い猫の手も借りて了うほど蒋介石は窮鼠の境地に陥った事か。金門の安泰を確保した後の帰国は言わば臨時雇用の性質を裏付けるが、岡村寧次の帰国時期の明記は上記の日・中の辞(事)典とも欠落している。
猶、『朝日新聞』は好く親共産党中国として国内で敲かれるが、同社編の此の事典の記述の中の「国民政府軍」対「中国共産党軍」は、共産党中国建国後の事にも関わらず国民党政権の権威を認めた物だ。因みに、1文の中の「終戦・敗戦」の併用も奇妙に思う。
101)『毛沢東入主中南海前後』(註72 文献)、297 〜 301 頁。筆者は『失われた祖型を求めて─日中礼法の研究:序説(中)』の中で此の象徴的な事実を取り上げた事が有る(『立命館言語文化研究』10 巻4号、1999 年、126 頁)が、註96 の水谷報告の冒頭でも「林飛行隊」と共に建国式典を彩った2組の日本人の1組として言及された。其の2組の帰心や貢献の経緯及び其の後の中国側の謝恩の濃淡は、本稿の論旨と関わり裏付けにも成る興味深い事象だ。当初は此の註に入れる形で詳細な論考を試みたが、多面に渉る内容につき遂に2万字近くの物と成って了った。掲載誌の総量規制と共に本文との均衡関係も有るので、此処では割愛し後日1篇の小論として改めて出したい。
102)原文は「徳行:顔淵、閔子、冉伯牛、仲弓;言語:宰我、子貢;政事:冉有、季路;文学:子遊、子夏。」(『論語・先進篇第11』)
103)「賦」は金谷治訳では「軍用の収入」と成るが、楊伯峻訳でも李沢厚訳でも「兵役、軍政」と成る(倶に註66 文献、其々65、44、127 頁)。筆者が中国の通説を取った理由の1つは、兵隊の徴収・統治こそ至難の業である故だ。 
9.政治統治の指南―『論語』に見る中国人の「政治動物」性 

 

毛は1969 年の党大会の壇上で、得意絶頂の「文革」派を自分の左側に坐らせ、周恩来や失意の古参幹部を右側に坐らせた。「左派」を尊び「右派」を卑しむ当時の意識形態イデオロギーに合う形で、実務派は下座に配置されたわけだが、其の直後に彼は右の4人の老元帥に国際戦略新構想の策定を委託し、其の結果、対米接近の筋書きが出来た。左手に『毛主席語録』を持ち右手で算盤を弾く「両手」(二刀流)は、林彪や周恩来だけでなく当の毛にも有った。其の「務虚」(理念の確立)と「務実」(実務の遂行)の使い分けや、門下の10 哲及び子華に対する孔子の評価は、左側の理・礼と右側の力・利から成る4要諦図と妙に符合する。
冉求も子路も曾て季氏の家臣を務め、諌める勇気が無いとの理由で孔子から頭数だけの臣とされた104)が、槍玉に上がった2人は熱心な求道も見せた105)。両面具有の彼等及び『論語』は分裂の観も有るが、不義を改めて仁義に就く帰化106)と解せば、中国人の複雑さや孔子の感化力、孔門の包容力の証として不自然ではない。2人が具備し切れなかった賢臣の条件として、「大臣者、以道事君、不可則止」(優れた臣とは、道を以て君に仕え、其が無理なら身を引く)と孔子は言った107)。「出世・入世」の変種とも言える此の複線に通じて、陰陽の変幻自在や清濁合わせて呑む受容は、当事者と傍観者、社会と歴史の常道だ。
孔子及び門弟の語録集・『論語』は元々、時系列に沿って編集された物ではないので、冉求や子路に関して仁義の形象が突出か先行し不徳の陰影が目立たぬか後に出る展開108)は、主要な側面や最終の結果を重視した逆遠近法に思える。其の副次的な「前科」が突如触れられた後、再び好意的な評価が付け加えられるのは、前出の学童啓蒙教材にも見た「怪圏メビウスのわ」めく交錯・変異か。自らの廟の庭で天子の舞を舞わせた非礼が孔子の最大な憤怒を買った季氏と子路・冉求と孔子との間に、是非・善悪が流動する三角の巡り合わせが見られる。
季氏は周公や天子への僭越を見せた一方、「三思而後行」(3度思慮して後行なう)の習性の持ち主だ。孔子は「再思斯可矣」(2度思慮すれば好い)109)と、其の過度な慎重さに異論を挟んだが、『増広賢文』の「三思而行、再思可矣」では、対立の両者は同等の扱いを受けた。『名賢集』の「事要三思、免労後悔」(後悔を免れる為に、事に当っては3度の思慮が要る)の様に、後世の人々の記憶に残るのは「三思」の方だ。数学の定理も人間の利益に抵触すれば修正されようと言うレーニンの論断の通り、孔子の言が埋没したのは中国人の実事求是の選好110)だ。只、「免労後悔」の主旨は「寡悔、禄在其中矣」と一致する。
孔子は季氏の驕傲・奢侈を痛恨しつつ、相手に心情・信条を開陳した。「弟子孰為好学」(お弟子の中で誰が学問好きと言えるか)と言う季氏の質問は、最愛の顔淵の若死に対する彼の痛惜を触発した。其の『先進篇』の次の『顔淵篇』に出た「政者正也」も、他ならぬ政治に関する季氏の質問への答えだ。此の「季康子問政於孔子」の件の後に、「季康子患盗、問於孔子」(季康子[季氏]は盗賊の事を懸念して、孔子に訊ねた)、「季康子問政於孔子、曰:“如殺無道以就有道、何如?”」(季康子は政治の事を孔子に訊ねて言った、「道を逸れた者を殺して道に沿う者を造る様にすれば、如何だろうか」)と続いた。
孔子の助言111)に拘らず我が道を行き同時に彼を尊重した季氏の2面は、「陰陽魚」の対立・統一の様に映る。孔子の政務顧問なる役目・資質・影響力も、刮目して見るべき物だ。季氏が子路・子貢・冉求の「従政」(政治に従事する事)の可能性を打診した処、孔子は其々の「果」(果断)、「達」(賢明)、「芸」(才覚)を挙げて首肯した112)。其のお墨付きを得た冉求が季氏の征伐の是非に就いて孔子の判断を仰いだ113)事は、孔子の経世済民114)志向と季氏の覇道に対する王道の浸透を浮き彫りにした。季氏の家宰と成った門人・仲弓の「問政」に対する孔子の答え―「先有司、赦小過、挙賢才」(先ず役人の活用を考え、小過を赦るし、人材を重用する)は、今の中国と世界に於いても有効性を持つ。
質疑応答が多い『論語』の特色は「学問」の字面と精神の体現だが、「問政」の頻出115)は孔門の関心事の所在を示唆する。宋の初代と2代目の帝―太祖・太宗を補佐した宰相・趙普の「半部『論語』治天下」(半冊の『論語』を以て天下を治める)の通り、此の高次「蒙学」教典は政治統治の助言・要諦・指南だ。『論語』に秘めた「算盤」の例に「益者3友、損者3友」を挙げたが、出所の篇名・『季氏』は経済・経営を凌ぐ政治・治世の比重を思い知らせる。其の『論語』+「算盤」の政経一体には、中国人の「政治動物+経済動物」性も窺い知れる。
「大臣者、以道事君、不可則止」の基準を示した上での孔子の子路・冉求評は、季氏一門の季子然の「仲由冉求、可謂大臣輿」(仲由[子路]と冉求は優れた臣と言えるね)への反論だ。
「吾以子為異之問、曾由輿求之問」(私はもっと貴方が別の事を訊ねると思ったが、何と由と求の事か)と言う孔子の落胆は、梁恵王に対する孟子の「王何必言利」を想起させるが、季氏の「弟子孰為好学」の質問と季子然の賢臣評は、孔門10 哲の末席の子夏の「学而優則仕」の指向性に通じる。
『論語・八第3篇』は、天子の舞―8列・64 人の八を自分の庭で舞わせた季氏の非礼を、「是可忍、孰不可忍也」(是が我慢できるなら、もう我慢できぬ事は無かろう)と言う孔子の叱咤で始まるが、前篇の『為政』には季氏の真面目な諮問が有る。「使民敬忠以勤、如之何?」(人民が敬虔・忠誠を以て仕事に励む様にするには、如何にすれば能かろうか。)2節前の孔門10 哲に無い子張の俸禄取りの学び方に関する質問や、開口一番孟子の治世方策を問う梁恵王の欲求と同じく、強烈な功利主義は否めないが、人民の忠誠・意欲の喚起に掛けた小平の苦心を思い起せば、為政者の使命・宿命も感じる。
生産力の向上を特に重視したの追求は、有力な臣下を欲す季氏の執心と重なる。人の生産性の借用を狙う統治者の「用人之道」は、「仁者、人也」に別の含みを持たせる。主・季氏と師・孔子との間の冉求等の転形は、「不事二君」(2君に事えぬ)116)の忠節の非現実性を浮き彫りにする。『三国演義』の中の黄忠は、降伏先の蜀への献身に因り忠臣の誉れを得た。尤も、彼の変則的な英雄を造ったのは中国的な現実主義だ。同じ敗将の魏延を傘下に収めた孔明は其の反骨を知りつつも、自分の死後に反逆を起すまで泳がせ続け精一杯利用した。文書偽造の特殊任務を負う書法家が梁山泊で上位に入った117)のも同じ原理だが、敵対同士が同居し諸説・異説が併記された『論語』118)には、中国の人種・観念の坩堝の真髄が見える。
宋江の醜(上記の醜聞・醜態)・弱(文弱・優柔不断)は彼の副次的な側面であり、立派な形象イメージの美+厚い人望の強こそが英雄(主人公)たる条件だ。民衆の「久旱逢甘雨」の欲求に応える「及時雨」(恵みの雨)の美称には、劉備と共通した彼の指導者の資質が集約される。孔子の故郷、孔門及び梁山泊好漢の本拠地・山東は、忠節と反逆の精神が共に旺盛である点に於いて、中国人の2重性が好く現われる土地だ。一方、『三国演義』の北(魏)・南(呉)・西南(蜀)の3極は、現代中国の権力構造の特質を分析する視座なり得る。 

104)後出の「大臣者、以道事君、不可則止。」(出所=註107)に続いて、「今由與求也、可謂具臣也。」(此の冉求と子路は、頭数だけの臣と謂うべきだ)と有る。
105)師に教示を請ったり師と論議を交わしたりする2人の求道ぶりは、『論語』の次の個所に現われる(紙幅の都合で引用は割愛する。括弧内の漢字数字は篇の番号、アラビア数字は篇内の語録番号。番号は楊伯峻『論語訳註』に従い、金谷治訳註『論語』と若干ずれる場合も有る。以下註108、115、118 も同様)。
106)「帰化」は『広辞苑』で、「1イ[論衡程材“帰レ化慕レ義”]君主の徳化に帰服すること。ロ[後漢書循吏伝・童侠]他の地方の人がその土地に移って来て定着すること。2(naturalization)イ志望して他の国籍を取得し、その国の国民となること。ロ〔生〕人間の媒介で渡来した生物が、その土地の気候・風土に馴染み、自生・繁殖する様に成ること。」と解されたが、『辞海』の「1旧謂帰服於教化。《論均・程材》:“故習善儒路、帰化慕義、志操則励、変従高明。”引申為帰順。《三国志・魏志・艾伝》:“作舟船、豫順流之事、然後発使、告以利害、呉必帰化、可不征而定也。”2“入籍”的旧称。」の通り、「帰化」は中国では差別語として今や使わない。
「徳治」の究極の目的は王道を以て民衆を帰服させる事だが、「中華思想」の悪評の付き纏う中国が「天下帰心」の願望を捨て、逆に島国の日本が其の名残りを引き継いだのは、興味を引く現象である。平均的な中国人の感覚では、日本の傲慢を感じ取り曾ての「王道楽土」の合い言葉を連想しかねない。
107)『論語・先進篇第11』
108)冉求は季氏への協力の為に孔子の譴責を受け(三6、十一P)、季氏の征伐の是非を孔子に訊ねる彼と子路は制止せぬ無作為で叱咤された(十六1)が、2人は揃って孔子に能力を認められ(五8、六8、十一2@4)、子路は勇・智等に因って孔子の賞讃を受け(五7M、九@7、十一K)。
109)『論語・公冶長篇第5』:「季文子三思而行。子聞之曰:“再思斯可矣。”」毛沢東は『反対党八股』(1942 年)の中で、孔子の「再思」を肯定的に取り上げた。
110)「選好」は昨今の経済報道等に「投資家の−」等の用法で割と好く出るが、「国語辞典+大百科事典の最高峰」と自讃した『広辞苑』第5版(1998 年)には勿論、『講談社カラー版 日本語大辞典』第2版(梅棹忠夫・金田一春彦・阪倉篤義・日野原野明監修、講談社、1995 年)や、語釈の個性を以て『広辞苑』並みの人気を博した『新明解国語辞典』(三省堂)の第5版(金田一京助・山田忠雄[主幹]他編、1997 年)、乃至大容量を誇る『日本国語大辞典』(日本国語大辞典第2版編集委員会・小学館辞典編集部編、小学館、2002 年、全13 巻)等にも見当らぬ。珍しく此を収録した『大辞林』第2版(松村明編、三省堂、1995 年)の項は、「他よりも或るものを好む事。
“国民生活−度調査”」と解す。「経済動物」の渾名が付いた世界第2の経済大国の権威有る国語辞典に此の用語が入らぬ事は、中国語に比べて「算盤」志向が薄い日本語の特質を垣間見せる。
111)本系列論文の続篇に当る別の系列論考で詳述する予定。
112)『論語・雍也篇第6』の「季康子問:“仲由可使従政也與?”子曰:“由也果、於従政乎何有?”問:“賜可使従政也與?”子曰:“賜也達、於従政乎何有?”曰:“求可使従政也與?” 子曰:“求也芸、於従政乎何有?”(季康子が訊ねた、「仲由[子路]は政治を遣らせる事が出来ますか。」孔子は言った、「由は果断なので、政治を遣らせても問題は有りません。」「賜[子貢]は政治を遣らせる事が出来ますか。」「賜は賢明なので、政治を遣らせても問題は有りません。」「求[冉求]は政治を遣らせる事が出来ますか。」「求は才覚が有るので、政治を遣らせても問題は有りません。」)
113)『論語・季氏篇第16』(註108 で触れた十六1)
114)「経済」の語源と成る「経世済民」は、現代にも生きる中国古代の『論語』+「算盤」の概念として、本系列論文の続篇に当る別の系列論考で詳述する予定。
115)『論語』に於ける「〇〇(聞き手の名)問〇〇(概念。用件)」の問答の中で、「問政」の回数は最多の8回に上る。本稿筆者が検索した結果、他の16 種と合わせて35 個所の当該表現は、次の通り分類できる(出現頻度の高い順で配置。頻度が同じ場合は篇・節順[括弧内の漢語・アラビア数字が番号]。質問の受け手は特記の無い場合は孔子)。
「問政」8回(十二7JMPR、十三12O)、聞き手=子貢、斉景公、子張、季康子、季康子、子路、仲弓、葉公
「問仁」7回(十二123@2、十三R、十五I、十七6)、聞き手=顔淵、仲弓、司馬牛、樊遅、樊遅、子貢、子張
「問孝」4回(二5678)、聞き手=孟懿子、孟武伯、子遊、子夏
「問君子(=君子の条件)」3回(二L、十二4、十四$2)、聞き手=子貢、司馬牛、子路
「問知(=知性)」1回(六@2)、聞き手=樊遅
「問事鬼神(=神霊に事える事)」1回(十一K)、聞き手=季路(子路)
「問善人道(=善人の在り方)」1回(十一S)、聞き手=子張
「問明(=聡明)」1回(十二6)、聞き手=子張
「問崇徳弁惑(=徳を高め迷いを除く事)」1回(十二I)、聞き手=子張
「問友(=交友)」1回(十二@3)、聞き手=子貢
「問恥(=廉恥)」1回(十四1)、聞き手=原憲
「問成人(=人格の完成)」1回(十四K)、聞き手=子路
「問事君(=君主に事える事)」1回(十四@2)、聞き手=子路
「問陳(=戦陣)」1回(十五1)、聞き手=衛霊公
「問行(=行ないが通用する条件)」1回(十五6)、聞き手=子張
「問為邦(=治国)」1回(十五J)、聞き手=顔淵
「問交(=交際)」1回(十九3)、聞き手=子張の門人、受け手=子張
聞き手別で集計すると、出現頻度の上位3人は子張(6回)、子路(5回)、子貢(4回)、以下は3回の樊遅、2回の顔淵・司馬牛・季康子・仲弓が続く(1回は略)。子張が唯1人質問を受ける番に回ったのは、師の教示を請う彼の熱心さを考えれば頷ける。
猶、最も頻度の高い聞き手に由る最も関心が高い質問を調べた処、「子張問政。子曰:“居之無倦、行之以忠。”」(子張が政治の事を問うた。孔子曰く、「位に居て倦む事が無く、忠誠を以て之を行なうのだ。」)に当った。余りにも知名度が低いので些か拍子抜けしたが、周恩来が模範的に実践した左様な淡々・粛々たる流儀こそ、平凡な偉大とも言うべき孔子の極意かも知れない。
因みに、此の語録が入った『顔淵篇第12』は、孔子の最愛の弟子・顔淵の名を冠する物だ。
116)『史記・田単伝』:「忠臣不事二君、貞女不更二夫」(忠臣は2君に事えず、貞女は2夫を更えぬ)。
117)108 名の梁山泊好漢の最終的な序列では、其の「地文星聖手書生」・蕭譲は第46 位。同じ文書偽( 209 ) 53
「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)造作戦で篆刻の腕前を揮った「地巧星玉臂匠」・金大堅は第66 位(『水滸伝』第71 回・『忠義堂石碣受天文 梁山泊英雄排座次』)。宋江救出の為に軍師・呉用が計謀を弄じて2人を梁山泊を誘い込んだのは、他ならぬ第39 回・『潯陽楼宋江題反詩 梁山泊戴宗伝假信』(註96 参照)の話だ。
118)『辞海』の「子路」の事績に、「性直爽勇敢、曾対孔子的“正名”主張表示懐疑」(性格が率直・勇敢。孔子の「正名」の主張に懐疑を表わした事が有る)と有る。件の衝突は『論語・子路篇』の「子路曰:“衛君待子而為政、子将奚先?”子曰:“必也正名乎!”子路曰:“有是哉、子之迂也!奚其正?”子曰:“野哉、由也!君子於其所不知、蓋闕如也。”」(子路が訊ねた、「衛の君は先生に由る治世を期待していますが、先生は何を優先されますか。」孔子は言った、「勿論名分を正す事だね。」子路は言った、「是ですから先生は愚直ですね。[不急なのに]何故其を正すのですか。」孔子は言った、「乱暴だね、君は。君子は自分の解らぬ事では意見を控える者だ。」)続く孔子の「名不正、則言不順;言不順、則事不成」(名分が正しくなければ言葉も順当でなく、言葉が順当でなければ仕事は成功しない)は、中国人社会の常識として人口に膾炙するが、其の前に上記の不穏な言説が出るのは愉快だ。
猶、子路と孔子の意見が相異した場面は他にも有る。 
10.「互聯合衆国」の域内「文化溝カルチャー・ギャップ」
 及び国家統治への投影 

 

毛沢東は自分はマルクス主義者に成る前にも成った後でも中国人だと言い119)、 小平は「具有中国特色的社会主義道路」(中国の特色を持つ社会主義の道)を提唱した。何れの主張でも舶来の理想に対して中国が主体を成すが、中国は帝国・民国・共和国の形態に拘らず、民族融和共同体や「互聯」合衆国120)の観が強く、「中国特色」は更に「民族」(11民族=集合的な「中華民族」;2多民族=中華民族の主体―漢族、及び55 の少数民族)特色」や「地方特色」に細分化できる。
人間の性分に影響を与え民族の表徴と成る食は、其の肉迫の切り口として有効的である。
『広辞苑』の「中国(中華)料理」の語釈は、北・南の2系統と大別し其々の代表に炒め・揚げ料理と煮込み・蒸し料理を挙げた。此等の流儀は火を通す点で共通し、素材の持ち味に拘る「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)
日本料理121)と対照的な人工性・征服志向が中国的な性質と考えられるが、火の加減と使用時間に於いて炒・炸と煮・蒸の間に、『漢書・地理志』の「域分」(地域の気質の違い)の5類型―「剛・柔・緩・急・声」122)の最初の2対の相異が見られる。
楊東平に由る北京と上海の比較文化論の序説123)に、「南豆腐・北豆腐」を始め124)南北の様々な違いが取り上げられた。性格の「南柔北剛」、料理の「南甜北鹹」、交通の「南船北馬」、武術の「南拳北腿」、美意識の「北=壮烈・古道西風;南=艶麗・杏花春雨」125)、経済の「南富北貧」、政治の「南=革命;北=保守」126)等は常識的な図式であり、哲学・文学の「南道北儒」も前出の「外儒内道」の支援材料に成るが、「“京派”(北京流)と“海派”(上海派)」の2極対峙」127)に拘り過ぎると、東西の対を圏外に置く恐れが有る。
例えば、南の人が甘い物を好み北の人が塩辛い物を好むとは一面に過ぎない。唐辛子に目が無い湖南の毛沢東や四川の小平128)の様に、同じ南方でも甘(甜)と逆の辣(辛)が大好物たり得る。此の2省からの中共の党・軍の指導者の輩出は、毛の「不辣不革命」(辛い物が好きでない者は革命者とは言えぬ)の断言の証左だが、同じ南の江蘇出身の周恩来は北で10歳代を過ごしたにも関わらず、唐辛子には遂に馴染み切れなかった129)。葉剣英も広東人の清楚・淡泊な味覚の所為で、毛の基準を満たさなかったはずである。
諺の「味覚は3代」の通り食の好悪は人間の根性の奥底の問題で、過激な故の「辣=革命」の相関の様に其の嗜好は志向とも無関係ではない。韓文甫は出生・成育の環境が小平に与えた影響を分析する際に、正に上記の4省を地域の特性の典型に挙げた。曰く、江蘇の人は周恩来の様に「怜悧乖巧、温文恭順」(八方美人・温和恭順)、湖南の人は「剽悍勇猛、騾子脾気」(剽悍勇猛・天の邪鬼)、四川の人は移民の天国なる土地柄に相応しく余所者を上手く包容し、広東の人の強烈な排他性と著しい対照を成す130)。
盆地ながら閉鎖せず米国の様な人種の坩堝の観が有ると言う故郷131)は、或いはの開放路線の母胎かも知れぬ。一方、広東の葉剣英も開放の推進派だった。客家(「客」の字面通り移民132))の血統、西欧留学の経歴と豊かな文芸素養133)等の個人的な要素も大きいが、広東は言語の壁で華南以外の全国と距離を保つ134)反面、海外との交流は盛んである。中国語の「域・宇」の同音・類義(『辞海』の「域中」の定義=「宇内;天下」135))が象徴する様に、多地域連合体の中国は擬似国際社会と見て取れ、其処にも対外開放の必然性が有ろう。
『広辞苑』の「中国料理」の「大きくは北京料理・広東料理の南北2系統に分れ、前者は濃厚で、炒菜(炒め物)・炸菜(揚げ物)が特色。後者は淡泊で、蒸菜(蒸し物)・焼菜(煮込み物)が特色。このほか、南京料理・四川料理なども有名。」は、四川料理の鮮烈を観ても明らかに不完全だ。『辞海』に「中国菜(料理)」の項が無いのは、一口で概括し切れぬ多様性も要因と思える。古典小説の4大奇書136)や現代京劇の4大名優137)から、人民元新札を飾る4大領袖138)等まで、中国人は芸道等の頂点の傑物を対の2乗で並べる習性が有るが、中国料理を代表する4大流派の定説は内紛を恐れる所為か無い139)。
中国料理の豪華さを端的に物語る満漢全席の異族混合140)が好例の様に、単一の「中国特色」は有り得なく重層的な其は有り得る。『広辞苑』が説いた南北料理の濃淡は重要な基軸だが、補足に挙げた南の中の東・西の対(南京・四川)と合わせてこそ、海内の四方が一応揃う形に成る。専ら南北の最大な2都に在る東部沿海へ目を注ぐ楊東平は、中国文化を中原文化・江南文化・嶺南文化(珠江流域)と3分した141)が、「民族」の概念を最初に使った梁啓超の黄河・長江・珠江3分法142)がより全面的だ。其々広域の中原143)、長江の上・下流と珠江に位置する北京、四川・南京と広東は、文化「域分」の典型の価値が高い。
長江中流の湖南・湖北は其処に欠落したが、「両湖」の様な「魚米之郷」(魚・米の産地)や料理が名高い長江・珠江流域に、20 世紀の中国を動かした孫文(広東)・蒋介石(長江下流の浙江)・毛沢東・小平が生まれた事は、食生活や物産の豊かさと文化の成熟との相関、文化の成熟と傑物の輩出との相関を示唆する。此の3人に対して辛亥革命前の皇帝は北方の漢・満や他の民族が殆どだったが、北京・四川・南京・広東の菱形+南北・東西の交差点に当る華中は、権力中枢の色合いや指向性を窺わせる左右・上下対称の5極を成す。
人間の存在は人間の意識を決定すると言うマルクスの論断は、色々な面で有効性を持つ。儒教は「修身・斉家・治国・平天下」を人格完成の4段階とし、個我の身を全ての資本・基礎と規定した。精神主義の外観とは裏腹の此の物の観方は儒教の現実主義の本質の証だが、身→家→国→天下と言う拡大対応の図式に即して思えば、地域は身・家と国・天下の繋ぎ目に当る。
「国家」の字面は2つの対に跨がる家・国の複合だが、日本語の「国」の家郷の意味合いの通り、地域は国家の基本的な構成単位として重要で重層的な存在だ。光栄にも中華民族の一員の資格を以て世界公民と成った自分は、中国人民の息子であり自分の祖国と人民を深く愛している、と晩年の小平は述懐した144)が、此の「国家(中国)・世界」を「家郷(四川)・国家」と読み換えても、似た帰属意識や愛着は成り立とう。

119)権延赤『走下神壇的毛沢東』、中外文化出版公司、1989 年、201 頁。猶、ニクソン・元米大統領の『指導者とは』(徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986 年[原典= 1982 年])に拠ると、「或る時、1人の記者が周(恩来)に、貴方は中国の共産主義者か共産主義の中国人かと問うた事が有る。答えは“私は共産主義者であるより先に中国人だ”であった。」(254 〜 255 頁)
120)internet の正式な中国語訳名―「国際互聯網」に因んだ表現。「互聯」は相互連絡の意。実際にも、中央人民広播電台(中央ラジオ放送局)の「文革」を挟んだ長年の夜の黄金時間帯のニュース番組の名称は、「各地人民広播電台聯播節目」(聯播=連合放送。節目=番組)。
121)『広辞苑』の「日本料理」の解:「日本で発達した伝統的な料理。その特色は材料の持味を生かし、季節感を重んじる。」
122)123)124)125)126)楊東平著、趙宏偉・青木まさこ編訳『北京人と上海人―攻防と葛藤の20世紀』(日本放送出版協会、1997 年。原典=『城市季風―北京和上海的文化精神』、1994 年)、28 〜 36 頁。
127)註122 文献、第2章題、51頁。
128)唐辛子を沢山入れた料理に目が無い毛沢東の辛い物好きは好く知られるが、 小平の嗜好も相当な物だ。例えば、内戦中に江西根拠地の視察先で豚肉をご馳走に成った時、「1つ足りない物が有る」と無遠慮に唐辛子を要求した。接待側が新しい唐辛子を1把探して来たが、彼は早速口に放り込んで、「余り辛くないが、まあまあだ」と言って楽しんだ(毛毛著、長堀裕造他訳『我が父・小平T 若き革命家の肖像』、徳間書店、1994 年[原典= 1993 年]、379 〜 380 頁)。
129)戦争中に毛が唐辛子を美味しそうに大量に食べており、傍で周が勉めて食べようとしたが、辛さで涙が出て遂に多く食べられなかった、と言う逸話が有る。人間同士が社会・心理・生理の3次元で倶に馬が合う事は、斯くして至難の業である。趙峻防・紀希晨『2月逆流―中国・1967 年紀事』(春風文芸出版社、1986 年)に拠ると、毛が1967 年元旦「中央文革小組」の面々を食事に招待した時、姚文元・戚本禹に唐辛子を勧め、君等江南の秀才にも此の革命的な味を覚えて欲しいと言った。2人は余りの辛さで汗が出たが、無理して美味しそうに食べた。次に勧められた張春橋は惑わず一番大きい物を口に入れ、「若い頃『西行漫記』(E.スノー『中国の赤い星』)を読み、唐辛子を食べ始めました。意志を鍛え、主席に従って革命をして来たのです」と言った。毛は笑って曰く、「古来より斉魯(山東)に豪傑多し。春橋、流石に斉魯の風格を失わずだな」。
(立花丈平・斎藤匡史訳『2月逆流「中国文化大革命」1967 年』、時事通信社、1988 年、15 頁)戚本禹も山東の人(註148 参照)であり毛は勘違いしたのだが、張も毛の影響で唐辛子に挑戦した事は、同じ山東の江青が毛の此の嗜好に馴染み切れなかった事(暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、162 頁)と共に、唐辛子選好圏と非選好圏との断層を物語る事象だ。毛が姚文元や同じ浙江の周(註153 参照)より、心情的に張春橋や江青を好んだのも頷ける。因みに、中国語の「対味」は「口に合う」と「好みに合う。気に入る」の2義を持ち、後者は否定形の用法が多い。
唐辛子に弱い周は酒豪で毛は逆に強い酒は受け付けぬ体質だったが、酒の味も中国語で「辣」と言うだけに、個人差だけでなく同じ生理の次元に於いても領分の差が有るわけだ。「詩仙・酒仙」の李白に心酔しつつ酒を嗜めぬのも、毛の2面性の1つに数えられるが、周が余り水泳できぬ事も運命の悪戯だ。唐辛子の場合と同様に、無理に毛に合わせようとしてもどうにも成らなく、毛が避暑地の海で泳ぎ大波が襲来した時も、彼は海岸に立って大声で呼び戻すのが精一杯だった(程華『周恩来和他的秘書們』、中国広播電視出版社、1992 年、401 頁)。
南方の人は水泳が得意で北方の人に「旱鴨子」(陸地の家鴨[水に入れぬ・泳げぬ人の比喩。
“旱”は“旱地”の略で“水”即ち河・海の対概念])が多い、と言う相場は其処で崩れる。周が建国後一流の選手に教わっても上達せず遂に諦めたのは、馬からの転落に由る腕の不自由が理由だ(南山・南哲主編『周恩来生平』、上、414 〜 416 頁)が、「南船北馬」の図式で考えれば彼の北方的な体質も強く感じられる。因みに、彼は体の頑丈さの秘密の一端として、若い頃に東北で高粱の飯で鍛えられ「底子」(基礎)が出来た事を挙げ、建国後も定期的に雑穀を食べていた(程華『周恩来和他的秘書們』、295 頁)。
上記の周の水泳習いの経緯にも、興味を引く点が幾つか有る。日本の諺の「六十の手習い」の通り、其は63 歳の1960 年の事だった。生まれて初めて水中で浮力原理を体験した時の彼の興奮は、同じ年に劉少奇、朱徳、陳雲が水泳を習った事と共に、「南方人=水泳得意」の固定観念を打ち破る事象だ。全国的な規模の大飢饉が発生した時期だけに、「中央首長」の生活の余裕も垣間見られるが、周が腕の不自由を顧みず水泳に挑戦した動機も注目に値する。他の指導者たちが皆泳げるのを見て羨んだのが起因だと当時の教練が証言したが、仲間外れに甘んじたくない横並び意識と共に負けず嫌いの心理も読み取れる。
其の「眼熱」(羨望)は人に因っては、「眼紅」(嫉妬。血眼に成る事)と紙一重の差しか無い。
水泳が「狗爬式」(犬掻き式)しか出来ぬ江青は、泳ぎ上手な王光美(劉少奇夫人)が居るプールには決して入らなかった(H.E.ソールズベリー著、天児慧監訳『ニュー・エンペラー―毛沢東と小平の中国』、福武書店、1993 年[原典= 1992 年]、71 頁)が、王の学歴(北京・輔仁大学卒)、容姿、教養・能力等に対する彼女の嫉妬は、「文革」中の劉少奇夫妻への迫害の遠因とも見られる。
件の事故は同行の江青の馬の暴走を避ける為に起きたのだが、江青の故郷―山東は同じ省の莫言の小説・『赤い高粱』(1986 年)の通り高粱が多く、東北の人には山東からの移民が大勢居た。江が傾倒していた女帝・武則天(山西の出身)は、臣下たちに威勢を顕示すべく暴れ馬を征服して見せたが、彼女に魅了され後に暴走を許した事は毛の南北交合と言うべきか。天津の実業家の家庭で生まれた王光美に劉少奇が魅せられたのは、別の意味の南北結合とも言えよう。
「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)江青は車や飛行機を操縦する外国要人の余暇の楽しみ方に倣って、1969 年に周囲の反対を顧みず自動車運転の練習に取り組んだ(楊銀禄著、莫邦富・鈴木博・廣江祥子訳『毛沢東夫人 江青の真実』、海竜社、2001 年[原典=『我給江青当秘書』、2000 年]、64 〜 66 頁)。国際社会での落伍を嫌う心理の反映としても興味深いが、「文革」の最中に極左派の旗手が「西方資産階級生活方式」に秘かに憧れていた事は、国内の階級闘争と国際情勢の緊迫に因り運転手や護衛が移動途中で敵に殺された場合、自ら運転して危険から脱出できると言う建前の理由と合わせて面白い。
猶、「旱鴨子」は日本流で「金鎚」と言うが、中国語の「錘(鎚)子」(ハンマー)は短小な男性性器を指す隠語として、四川では男性に対する最大な侮辱語と成る。因みに、昨今の大陸ではMicrosoft の訳語―「微軟」は、男性の短小・勃起不全を揶揄する隠語にも使われるが、情報技術革命の発祥地と王者―米国へのコンプレックスの裏返しを窺わせる現象だ。
130)韓文甫『小平伝 革命篇』、39 頁。
131)米国人は人に対して、どの国から来たかは訊かず、何時米国に来たかを訊くが、四川の人も同様に、余所者に対してどの省の出身かは訊かず、何時四川に来たかを訊く、と韓文甫は言う(『小平伝 革命篇』、40 頁)。
132)『辞海』の「客家」の解に拠ると、漢語の広東方言で「哈」(Hakka)と言う此の言葉は、「客而家焉」(移住、後に定住)或いは「客戸」(移民)の意だ。最初は西晋(4世紀初め)に黄河流域の一部の漢人が戦乱の為に南下し、更に唐末と南宋末(其々9、13 世紀末)に大量に長江以南の江西・福建・広東に移った。「当地原来的居民」(現地の原住民)と区別する為「客家」の名称が生じたが、漢人の此の支系は広東の梅県等に最も集中し、広西・四川・湖南・台湾・海南島等の一部の地域や海外の南洋一帯にも一部分布している;客家話を操り、女性の地位は高く、纏足せず労働に参加し、封建的な陋習の束縛を受けなかった、と言う。
此の客家の由来・特質で注目すべき点は、1中原から避難の為に遷移した漢人の後裔である事、2中華民族の揺り籠から離脱後に開放的な気風が出来た事だ。中国人共有の生存安全保障意識の他に、亜熱帯に在り南洋に近い環境も一因と思える全国平均以上の開放志向は、其の帰属意識と種族自覚の根幹を成すわけだ。
客家が最も集中する梅県は葉剣英の故郷だから、広東の孫文が辛亥革命を指導した事や、広西軍閥・李宗仁が蒋介石と互角に張り合った事、客家と言われる李登輝が国民党と台湾を変質させた事と併せて、現代史に於ける客家人・客家圏の役割の大きさが確認できる。小平を客家人とする向きも多い(一例はソールズベリー『ニュー・エンペラー―毛沢東と小平の中国』、37頁)が、客家語が出来なければ精々後裔と言うべきだろう。
娘・蕭榕( 榕。筆名=毛毛)は彼の伝記の中で、祖先を湖北からの移民や広東の客家とする俗説に触れ、何れにも否定的な立場を取った(毛毛著、長堀祐造訳『我が父・小平T 若き革命家の肖像』、48 頁)。信憑性の高い其の記述に拠ると、 家の1世・鶴軒は江西省吉安の人で、明初の洪武13 年(1380)に兵部員外郎として蜀に入り、以後の子孫は主に四川に在住し広東当にも赴任した(49 〜 57 頁)。
一族は其の足跡に因って客家と見られようが、此の文脈で「客」の観念が重要だ。余所の土地に居住する事は「客居」「僑居」と言うが、「海外僑胞」―華僑に対して国内移民は「海内僑胞」の概念も有り得ろう。春秋・戦国時代に多かった「客卿」(外国顧問)も、実質的には中華民族の内部の人材流動なのだ。今や上記の『辞海』の語釈の中の「客戸」は取引先の顧客の意に転じ、「客卿」も死語に化したが、中国人が外国や外地(国内の余所の土地)の顧問・専門家・教練の招聘に違和感を持たぬのは、其の広義の「好客」(客好き)の伝統が根底に有る。
昨今、「海外軍団」と呼ばれる多くの元中国選手・監督が外国で活躍しているが、建国当初は逆に多くの華僑が共産党の仁徳を慕って帰国した。周恩来に水泳を教えた国家チームの若い女性選手もインドネシアから帰来した華僑だし、1960 年代前半に世界女子卓球チャンピオンを獲った林慧卿選手も元在インドネシア華僑だから、華僑及び中の客家の活躍・寄与は実に大きい。
133)詩作好きの点は他の数人の元帥と一緒だが、葉剣英は其の世代の将帥の中で珍しくピアノを嗜み、娘婿・劉詩昆も著名なピアニスト。紅衛兵の悪戯で金鎚で手の指の骨が砕かされたと噂された劉は、「文革」後期に再び舞台に戻ったので、真相は判らないが、長男が紅衛兵の迫害で永久に半身不随と成った小平と同じ公私2面の「文革」嫌悪は、葉に有ったとしても不思議ではない。
趙峻防・紀希晨『2月逆流』に拠ると、康生の意志と謝富治の命令で1967 年に公安部が劉詩昆を逮捕したが、葉は「ソ連間諜」「反革命現行犯」等の罪名を記した逮捕状を破り棄てたものの、挑発に乗らず抗議も釈放の要求もしなかった(日本語版、126 〜 127 頁)。范碩『葉剣英在非常時期 1966-1976』(華文出版社、2002 年)に、江青等が葉の「罪状」を集める為に其の子女7人と女中を逮捕した、との記述が有る(232 頁)。実名で記された4人には劉が無いが、長男・葉選平と婿・ 家華は「文革」後、其々広東省省長→全国政治協商会議常務委員会第1副主席、副総理→全国人民代表大会常務委員会副委員長に成った。
『二月逆流』には、葉は京西賓館の会議で極左派と対決する際、テーブルを激しく敲いて手に血が出た、との場面も有る(138 頁)が、掌の骨に皹が入ったのが定説である(同上范碩著書、156 頁。他文献多数)。
猶、ピアノ好きの次世代指導者は他ならぬ江沢民。高新に拠れば、1989 年5月末に彼が北京・中南海入りした後、上海に暫く止まった夫人・王冶坪は、上海市党委員会弁公庁(事務局)に特別に要請し、購入したばかりの〈聶耳〉印縦型ピアノを夫の処へ送らせた。夫が経験するだろう苦悩や圧力を好く承知した故に、夜静かに1人でピアノを弾いてストレスを発散する様にという心遣いからであった、との事。(高新著、田口佐紀子訳『中国高級幹部人脈・経歴事典』、講談社、2001 年[原典=『中共権貴関係事典 高幹档案』、台湾・新新聞週刊、1993 年]、38 頁)件の聶耳は『義勇軍行進曲』(後に中華人民共和国国歌)の作曲家だから、江の余興にも政治的な色彩が多少染まるが、雲南出身で上海で活躍した聶耳が1935 年にソ連に行く途中、準敵国の日本で水泳中に事故死した(享年23)のは、皮肉な巡り合わせだ。此の事象で2国の比較をすれば、日本共産党の志位和夫委員長が目に付くが、彼もピアノが好きでストレス発散の手段に用いている。其が日本で意外な素顏と見られるのは、ピアノは西洋の資産階級文化の所産で共産党に似合わぬ、と言う固定観念の所為か。然し、ピアノと無縁の毛沢東も曾て、党委員会の指導者の芸当を「弾鋼琴」(ピアノを弾く事)に見立てた。
134)広東人は国語を話さず、国語を話す余所者を相手にせぬか騙す傾向が有る、と韓文甫は言う(『小平伝 革命篇』、40 〜 41 頁)。
135)『辞海』の「域中」の語釈は、「宇内;天下。老子《道徳経》:“域中有四大、而王居其一焉。”駱賓王《代徐敬業討武氏檄》:“請看今日之域中、竟是誰家之天下。”」
136)「4大奇書」は古典小説の4大名作を指し、『西遊記』・『三国演義』・『水滸伝』・『金瓶梅』(或いは『紅楼夢』)等諸説が有るが、不統一ながら4に拘るのが中国的だ。
137)1927 年、『順天時報』が主催した全国規模の人気投票で、梅蘭芳・尚小雲・程硯秋・荀慧生が「4大名旦」に選ばれた。京劇の名優は清末の「同(治)光(緒)13 絶」や「劇3鼎京甲(3傑)」、「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)清末民国初の「新劇3鼎京甲(3傑)」等、奇数群も有ったが、民国初の「4大須生」(余叔岩・馬連良・言菊朋・高慶奎)や「新4大須生」(譚富英・楊宝森・奚嘯伯・馬連良)や「4大名旦」(「須生」も「旦」も京劇の役柄名)の様に、現代では4人組の方が親しまれる。
138)中国人民銀行が1988 年に発行した人民幣第4系列1980 年版(発行の遅れは通貨膨脹への懸念に由る)の百元券(最大額面)に、毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳の肖像が描かれている。4大領袖の通常の序列―毛・劉・周・朱との微妙な出入りが興味を引くが、建国後1度もNo.2の地位に就かなかった周が、党の筆頭副主席・国家主席だった劉少奇の前に出るのは、民衆の間に毛
以上の人気を博した事と共に、「文革」中に失脚した劉を上回る貢献度も要因に思える。曾て赤軍総司令として毛と並んだ朱徳も、建国後は半ば過去の人に化し色褪せに成ったわけだ。歴史人物に対する中国人の価値判断は、此の様に即物的な実績主義が実に強いが、本稿の論旨に即して我田引水の観方をすれば、件の構図は指導部頂点の長江上−中流から同中−下流への「重心移転」にも符合する。
139)勝見洋一は『中国料理の迷宮』(講談社現代新書、2000 年)の中で、中国の4大料理は北京・広東・上海・四川として分類して説明される事が多いとした(28 頁)一方、北京・上海・山東・広東料理を並列し(27 頁)、山東料理を4大料理の1方と見做し(222 頁)、詳細な講釈を行なった。
中国側の文献と自らの見聞を多数盛り込んだ書物だけに、『広辞苑』の「中国料理」の規定よりも説得力が強いが、中国人の実感に近いながら四川料理の出番が余り無いのは、「4大」図式の限界が先ず感じられる。著書が言った通り、「実際には8大料理、16 大料理の分類も可能であ」る(28 頁)。同時に、定説の不在も要因に挙げられよう。
同書では料理を巡る各地方の中傷合戦にも言及した(226 頁)が、定説の不在は其の張り合いにも帰せる。中傷合戦の代表例に挙げられた四川と広東、蘇州と杭州、山東と上海の対立(同上)も、掘り下げれば興味津々である。蘇州と杭州は「上有天堂、下有蘇杭」(上に天国有り、下に蘇州・杭州有る)と言う様に、倶に風光明媚な観光名勝地であるだけに、互いに相手のお株を奪う敵愾心も強かろう。四川と広東は料理の濃淡で大いに異なるが、首都に遠く離れた在野の立場に似合う野味が共通点だ。西南の四川−華南の広東の下方斜線軸は、東部沿海地域の北京−山東−上海の縦軸と対蹠を成す。
「文革」後の小平−葉剣英は正に四川と広東の2極で、「文革」派の山東−上海「4人幇(組)」の失脚と併せれば象徴性を感じる。「文革」は山東料理と四川料理の一騎打ちだったと勝見洋一は言う(233 頁)が、料理の流派を言う「幇」も其の派閥の意だから滋味の深い斬り方だ。
蘇州・杭州料理が上海料理に併合され事(27 頁)や、南下中共軍の占領に伴う上海料理の山東化(224 頁)、北京料理に於ける山東料理の内包(27 頁)は、中国の対立・統一の縮図に見える。
勝見洋一が指摘した通り、北京料理も上海料理も元々は独自性が無く、周辺地域の料理の特色を吸収した物だ(224 頁)。其の「中空」「雑色」性は中華文化の祖型にも通じるが、上海料理を蘇州・杭州・揚州・無錫・寧波料理の結晶体とした観方(224 頁)は、寧波料理に親しんだ蒋介石と同じ広域の淮(淮河流域の安徽・江蘇北部)・揚(揚州)料理に親しんだ周恩来・江沢民との同根性を浮き彫りにする。中共建国の際の国宴で周恩来の演出で江蘇料理が基調と成った一幕も、南京から北京への遷都と併せ考えれば国・共の同根性を益々感じる。
其の意表を衝く演出には勝見洋一の講釈の通り、材料の確保で江南への支配力を誇示する意図や、中共指導者に多い南方人が自分の土俵で勝負したい心理が見え隠れする(『中国料理の迷宮』、168 〜 169 頁)。前者は中国古来の「坐北制南」(北に鎮座し南を制す)の統治様式に通じ、後者は建国初年の党中央のスターリンへの誕生日贈り物の第1候補として江青が山東の白菜・葱・大根を提案した事(師哲・李海文『毛沢東側近回想録』、266 〜 267 頁)にも裏付けられる。一方、周恩来が毛沢東の家郷への配慮からか、得意中の得意なる「紅焼獅子頭」(「最」の形容を滅多に使わぬ彼は、此の1品を自分の「最拿手的菜」[最も得意な料理]とした。『中国料理の迷宮』、174頁)を建国国宴に出し、且つ其を湖南風に改編した事は、南−北競合と交差する南−南「文化溝」を示現させた。江蘇を主体とし湖南を加味した其の采配は謀らずも、建国半世紀後の党領袖と政府首脳の組み合わせと主従関係を予見した妙が有る。
勝見洋一が四川料理の定評を尊重しつつ山東料理に傾いたのは、激辛を敬遠する日本人の感覚の反映とも思えるが、其の2方とも個人的に好む本稿筆者の私見では、4大料理に文句無く入るのは北京・上海(含む江蘇・浙江)・広東の3派で、残りの方は北京・上海の2方に融合した山東料理よりも、東部沿海や珠江流域の此等4派とも鮮明に異なる四川料理が代表格の1角を成す方が、地域のカバー率や中国の複雑系の多彩の体現に於いても好ましい。1970 年代の山東閥と小平の死闘及び後者の勝利は、此の視角から眺めても示唆的だ。
勿論、山東料理の重みも看過できない。勝見洋一は毛・周等が贔屓にした名店〈豊沢園〉を典型に、北京に於ける山東料理の根強い人気を紹介した(208 〜 219 頁)が、毛の邸宅の名も乾隆帝の揮毫に由る「豊沢園」である事に気付かされた。山東料理の求心力は、山東の地の利と儒教の教祖の生地に相応しい文化の高さの証だ。周恩来の遺骨が北京・天津の他に山東省の黄河河口に撒かれた事も、ヘリコプターの飛行半径(多くの回想録に出た此の3ヶ所はほぼ同じ直線に位置し、中間の天津は起点・終点の2地とほぼ等距離)や、中華民族の揺り籠への帰属意識を考えれば自然な帰着だ。
猶、ウィルソンは「周は台湾さえも忘れず、灰の一部が台湾海峡にも撒かれた」と述べた(『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、315 頁)が、対台湾の懐柔に腐心する中国側の文献には見当らぬ。
代りに、周の祖国統一の宿願を考慮して遺骨が散骨の前夜に人民大会堂の台湾庁(台湾の間)に安置された、との証言が有る(顧保孜『紅墻里的瞬間』、解放軍文芸出版社、1992 年、270 頁)。全国各地に1間ずつ割り当てた人民大会堂の配置の政治的な象徴性を思い知らせる此の事実は、遺骨が台湾海峡まで届かなかった事の裏返しだ。
ジャーナリストや中国研究専門誌の編集者を長年務めた割には、ウィルソンの此の記述は出所の明記も無いので信憑性が低い。此の件が入った「エピローグ」の参考文献は主に、「周恩来死後の最も信用の置ける目撃者の記述」として、Roger Garside 著“Coming Alive、China AfterMao”(Deutsch、London、1981)が挙げられた(330 頁)が、中国・中国語の圏外に身を置く英国人と論考対象との巨大な距離、外側の観察者と内側の当事者との間の本質的な情報格差を感じずにはいられぬ。対して、実際に散骨を執行した周恩来のスタッフの回想録(南山・南哲主編『周恩来生平』、1589 〜 1593 頁。原典=高振普『最後的使命』)は、当然ながら時間や経路が正確な上で、高空の寒さに震えた等の細部まで臨場感が強い。
尤も、圏内の当事者の証言も鵜呑みには出来まい。例えば、周逝去後の新華社通信の公式発表の「撒在祖国的江河大地上」が脳裏に刻み込まれており、散骨の執行者の回想にも湖や海が出ていない故、ウィルソンの「最後に行なわれたのは周の遺言に従って、遺灰を中国中の川、湖、海、陸地の上に撒く事だった」(315 頁)に引っかかったが、精査した処、数多くの齟齬にぶつかって了った。例えば、上記の高振普『最後的使命』の抜粋で構成した『周恩来生平』の最終章の表題は『骨灰撒向江河大海』(1589 頁)だが、文中に「江河大地」の表現も有る(1592 頁)。別の証言「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)に基づいた同じ『周恩来生平』の前の章には、周恩来の希望の散骨先は「祖国的大好(=素晴らしい)河山」(1585 頁)とされた。一方、顧保孜『紅墻里的瞬間』では「山川江河」(271 頁)と言い、李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』(中共中央党校出版社、1997 年)に至っては、「祖国的江河湖泊、高山深谷之中」(206 頁)と大幅に飛躍した。
此等の回想録は作家が取材に基づいて構成した物が多いので、「筆下生花」(筆の下に花が咲く。
文章の素晴らしさを誉めるか、逆に文章の誇張を皮肉る比喩)の通り、事実より奇抜を狙う表現心理から想像を逞しく膨らませ、言辞に華麗な虚飾を加える事も有ったろう。斯くして歴史の証言は当事者の思い入れや言葉の綾の独り歩きに因り、時間が経過し記録経路が複雑なほど変形し易い。但し、小異を超えて大同を求めるなら、上記の散骨先の記述が全て4字熟語を用い、対の発想の枠内に在る事に気付く。8字の「江河湖泊、高山深谷」は、「江・河」「湖」「山」「谷」の敷衍で、此の4組は更に「江湖」「山谷」の対に収斂できる。此の派生を観ても判る様に、上記の勝見洋一の「4大料理」→「8大料理」→「16 大料理」は、中国的な発想の回路に沿った推論だ。新華社通信が言った「江河大地」も、陰陽5行の中で相克関係に在る水・土の2元から成る。
水の有る処に撒くのを夫人が望んだ事も有って、党中央が決めた北京・密雲水庫(貯水池)と山東の「黄河入海処」(黄河が海に入る処)は、一応湖、江河、海と解釈できるから、上記の表現は撞着し合いながらも全て許容の範囲内だ。
其にしても、関連文献には大雑把さや杜撰さが目に余る。例えば、『周恩来生平』の『骨灰撒向江河大海』は、散骨の飛行機が1月12 日に飛び立つ場面から始まり、後半に4時間半の飛行を終えて16 日0時45 分頃に任務完遂と記された。1回限りの飛行だから3日間ものブレも生じたし、周の遺骨は15 日の追悼会の後に撒かれたのが、同章の後半でも言及された事実だ。冒頭の上記部分の直ぐ後に、12 日に周恩来夫人が高振普等たちに散骨先の調査を依頼する場面が出たが、編集の際に原作の此の導入部の時間を本番の時間と混同したとしか思えない。
此処で浮上した問題点は第1、事実の確認や表現の整合性に鷹揚な国民性だ。曾て周恩来から「49 +3=?」と問われた秘書は、困惑しながら「当然52 です」と答えたが、周は空かさず相手が作成した統計を示し、此処では何故53 と成ったのかと詰問した(程華『周恩来和他的秘書們』、206 頁)。交渉相手のソ連政府に渡す資料で3重の点検がされた物なので、「数拠」(データ)に対する不注意も甚だしい。周の秘書もこんな有様だから、平均的な水準は推して知るべし。
第2、原作者の点検が無かったのも一因に思える。此の本の場合はさて置き、昨今の中国では恣意の改編が多過ぎる。『秘密専機上的領袖們』も『武漢晩報』での連載を経て、1992 年全国都市新聞連載作品特等賞を獲った後、全国の20 数紙・誌に転載されたが、著者は単行本の序文で、『版権法』の制定にも拘らず、「3不」(著者に謝礼を出さず、出版物を送らず、著者の名前を明記せず)主義が横行して止まぬ実態を嘆いた(4〜5頁)。
もう1例を挙げると、青野・方雷著『小平在1976』上巻『天安門事件』(春風文芸出版社、1993 年)の記述(31 〜 32 頁)は、操縦士の実名(胥従煥)まで出し、北京・通県の空港とソ連製安(アントノフ)−2小型飛行機を使い、飛行時間が4時間半に及んだ点も他の文献と一致するが、開始時間を16 日未明とした点や、〈北京〉ジープで市内から駆け付けた6人の軍人が周の遺骨を一部ずつ持って搭載した件は、上記の高振普説と食い違う。信憑性の高い後者に拠ると、立会いの夫人・頴超が其の秘書・医師・看護婦の付き添いで、周恩来愛用のソ連製〈吉姆〉(ジム)自動車で、夜8時過ぎに通県空港に到着し、同行の周の護衛・高振普と張樹迎が飛行機に乗り散骨を執行したのだ。張佐良『周恩来的最後10 年』(上海文化出版社、1997 年)に拠ると、遺骨は3つの袋に分けられた(早坂義征訳『周恩来・最後の10 年 ある主治医の回想録』、日本経済新聞社、1999 年、306 頁)。
周が部下の報告で一番苛立ったのは「大概」(多分)の類いだ(『周総理和他的秘書們』、59 頁)が、彼の同郷・魯迅も貶した国民性の「馬馬虎虎」(いい加減)は、上記の事象にも感じ取れる。
此の熟語の見立てと成る2種類の大柄な動物は、其の気質の拙速・横柄の処を言い得て妙だが、周恩来にも影響を与えた中国の演義小説の大雑把・誇張も背景に有ろう。但し、註145 で紀実小説・『小平在1976』に投げ掛けた疑念とも関わるが、左様な粗忽は自ら信頼性を下げるのだ。
山東料理に絡んで周恩来の散骨先を引き合いに出し、其の史実や講釈や関連文献に就いての論評で寄り道をして了ったが、新出文献を以て此の註の主旨に戻ろう。李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』に拠ると、毛沢東は地方視察で好く各地の首長から「地方風味菜」(地域の特色を持つ料理)で接待されたが、彼は誉めもせず貶しもしなかった(11 頁)。昭和天皇が決して好きな相撲力士やテレビ番組の名を明かさなかったのと同様に、公平を常に重んじねば成らぬ君主の風格と宿命が感じられるが、権威有る筋ほど料理の善悪、格付けに口を噤むのは良識とも言える。
尤も、毛は「内賓」(国内の賓客)を自宅に招待する時、何時も家郷(湖南)料理を出した様だから、他郷と一線を劃す距離も一因に考え得る。
140)『辞海』には何故か「満漢全席」の項は無いが、勝見洋一『中国料理の迷宮』でも言及された様に、当初は漢族官吏が満族官吏を接待する為に考案された宴席で、後に乾隆帝の揚州巡幸の頃「北菜・南菜」(満・漢族の得意な料理)各54品、満族の点心44 種が加わる形に定着した(87頁)。本稿の論旨に即して言えば、中華料理の贅沢さの表徴たる満漢全席は、先ず国内の民族の対立・融合の産物と取れる。料理数の合計―108 は梁山泊好漢の人数と妙に吻合するが、此の主たる部分の双方の完全対等と食後のお負けの部類での漢族の負けは、競合の2民族の文化と統治に於ける其々の優劣に合う微妙な均衡を感じさせる。猶、満族王朝が廃れた後も名称が満・漢の順の儘でいる事は、数量の多寡を思えば妙に納得が行くが、声調順(「満」は第3声、「漢」は第4声)も要因だとすれば、食・言に跨がる口の重要性は改めて認識させられる。
141)註122 文献、35 頁。
142)梁啓超『中国地理大勢論』(中華書局、1926 年)、註122 文献、36 頁より。
143)『辞海』の「中原」の解に拠ると、「中原」は辺境地帯の対概念として、狭義的には今の河南省辺りを指す。先秦時代に既に維邑(今の河南省・洛陽)と陶(今の山東省・定陶)が天下の中心だとする観方が有り、華夏族の活動範囲が拡大した後も、古豫州は依然として9州の中央の中州(中原)と見做された。広義の「中原」は黄河の中・下流地域か、黄河流域全体を指し、南北分裂の時代では好く此を「江東」の対概念に使っていた、と言う。
144)「我栄幸地以中華民族一員的資格、而成為世界公民。我是中国人民的児子。我深情的愛著我的祖国和人民。」(原典不詳。韓文甫『小平伝 治国篇』、627 頁より。猶、文中の「深情的愛著」は大陸の表記では「深情地愛着」と成る。)
11.指導者の出身地に見る共産党中国の理・礼・力・利の「重心移転」

 

辛味に対する毛・と周・葉の嗜好度の違いは、其の政治手法の持ち味にも投影された145)。
毛と、周と葉の共通は西南と華中、華東と華南の類似を示唆するが、論題の4要諦と結び付けて、西南・華中→力、華東・華南→利、北方→理+礼、という地域別の価値指向の仮説を立てたい。「文革」後の階級闘争から経済建設への路線転換は、「工作重点転移」(仕事の重点の転換)と命名されたが、共産党中国の半世紀の歩みには、指導者の地域特色を映す移り変りが見受けられる。指導部に於ける構成員の特質形成の母体―出身地の比重の変動は、理・礼・力・利の間の価値基準の「重点転移」の軌跡と重なる。北方/華東・華南/西南・華中の「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)(夏)「3軸5方」146)は、此の現象に基づく実事求是の観方だ。其の「実事」(事象。事実。実情)と「是」(真理。原理。結論)は、時系列で整理すれば次の通りである。
「文革」前の7巨頭の中で、5人が華中/西南(毛沢東・劉少奇=湖南;林彪=湖北/朱徳・小平=四川)、2人が華東(周恩来=江蘇;陳雲=上海)の出身だが、此の体制の志向と実績は主たる「力治」+副次的な「利治」に他ならない。
「文革」中に毛・林・周と共に権力の中枢を成した「5人組」は、華東の姚文元(浙江)を除く全員が北方の人(江青・張春橋・康生=山東;王洪文=吉林)だが、意識形態イデオロギーへの傾斜を伴う「力治・理治」の肥大化と「利治」の無力化に符合する。
「文革」後〜天安門事件の歴代指導部は、 小平・楊尚昆(四川)/胡耀邦(湖南)・李先念(湖北)が西南/華中、葉剣英(広東)/陳雲が華南/華東、華国鋒(山西)・趙紫陽(河南)・万里(山東)が北方、李鵬が南北混合(上海生まれ、四川・陝西等育ち147))で、「力治・利治・理治」の重層に吻合する組成だ。
天安門事件後は、江沢民(江蘇)・喬石(浙江)・胡錦涛(安徽)が華東、朱鎔基(湖南)が華中、李瑞環(河北)が北方、李鵬が南北混合だ。西南の出身者が頂点から消えた事は、「力治」の後退と安定社会への移行の表徴に思えるが、新指導部の色合いは本格的な「儒商」時代に相応しい「利治・理治」の複合だ。
「文革」中も天安門事件後も「上海幇(閥)」が槍玉に上がったが、上海に基盤を置いた「4人組」は1人も地元の出身者ではない。総書記就任後の江沢民は上海時代の側近を多く重用し「新上海閥」の批判を招いたが、彼と上海の縁も大学時代が起点なのだ。「文革」中の「山東閥」の跳梁148)は梁山泊の故事を思い起こせば必然性も感じるが、揚州の人・江沢民が改革・開放時代に最高位に就く最長記録を創ったのも運命の悪戯ではない。揚州の歴史に見る次の3点の「中国特色」は、其の選択の天意の正当化の材料に挙げられる。
1 春秋末期に一部が出来上がった運河が北京−杭州を連結する大運河(全長1794 キロ)に成ったのは、隋・元の拡張の結果であるが、最初の再建の契機は揚州の景観を見たいと言う隋煬帝の願望だったとされる149)。威勢を顕示する為の其の巡幸の規模と贅沢は、中国的な「物量主義・大快楽主義」の見本だ。
2 物量・享楽志向は結果的に東部沿海地域の南北交通枢紐を築き上げ、明・清時代の全国最大の産額を誇る両淮(江蘇・安徽)塩「集散地」(流通の中継根拠地)・揚州の産業の発達を促し、塩商の協賛に由る清初の文化の爛熟に寄与したが、欲望と生産性の連動も利得と文化の両立も中国的な大欲だ。
3 50 歳の隋煬帝が南巡中に揚州で家臣の禁軍首領等に暗殺され統一帝国が終焉し(618 年)、千年余り後に清軍が揚州を陥落させ無数の民衆を虐殺した(1645 年の「揚州10 日」事件)。内乱や異民族の侵略に因る被害は、建設・繁栄の光の裏に破壊・滅亡の影を落とすが、江沢民時代の合い言葉―「徳治」は、受難・繁盛の歴史から来た故郷の安泰志向・「儒商」伝統に合致する。
江蘇北部の人間は曾て銭湯・散髪等の職業の出稼ぎ労働者が多く出た土地柄の所為で、主な出稼ぎ先―上海では卑賤の形象が付き纏い、有形無形の差別を受け続け今日に至った。其の江北・蘇北の出身者の江沢民が上海市長を務め更に全国の領袖に成り上がった変貌は、類似業種の出稼ぎ労働者が東京で差別された新潟の人・田中角栄が首相に成った日本の高度成長と二重写しに成る150)。新潟の温泉宿を舞台とし東京の男と地元の笑婦の触れ合いを描いた川端康成の『雪国』(1935 〜 47 年)にも、「笑貧不笑娼」の匂いが嗅ぎ取れるが、貧困脱出の欲求が原動力を成す中共の領袖には江は意外と相応しい151)。劉邦・項羽と同じ江蘇北部の生まれ152)で没落官僚の父親を持った周恩来も、『易経』の「窮則変」(窮すれば変ず)を擬った毛沢東の「窮則思変」(窮乏すれば変化を志す)の好例だ。
此の「思変」は動詞+目的語の構造であるが、名詞+述語の「思変」(考えが変る)は此の文脈で、「江南の橘、江北の枳」を連想させる。『広辞苑』で「揚子江の南岸に生えている橘を、北岸に移し植えると枳殻に変化する。人も境遇に因って性質が変る事の譬え」と解された此の熟語は、『淮南子・原道訓』が出典なのに中国では余り聞かない。「江北人」に対する差別の裏返しとも思えるが、存在が意識を決定し其の意識が又存在に影響を及ぼすと言う双方向の相関は、江北の南・北に跨がった周恩来の経歴にも見られる。彼は江南の祖籍(浙江省紹興)153)と江北の出身地の複合の上、10 歳代を瀋陽・天津で過ごし日・仏にも留学し、南と北、海内と海外の重層を重ねた。
南の陰・柔と北の陽・剛の兼備を好む中国人は、「南人北相、北人南相」(北方人の[豪放な]相貌を持つ南方人、南方人の[繊細な]相貌を持つ北方人)を尊ぶ。毛沢東・周恩来の神格化の要素とも成った「男人女相」(女性の相貌を持つ男性)154)は、「陰陽魚」のの対立・統一構図の端的な体現と言える。「南・男」の同音と関わって、「南人北相」は毛・周・・朱鎔基の共通項だが、境遇の変化に伴った彼等の内面や規模の変化は、「江南の橘、江北の枳」の次元を超える。高等教育に縁が無かった3指導者の若い頃には、周・は可能性を求めて海外に飛び出、毛は北京大学で図書館員を務めた。朱は同じ北京の最高学府・清華大学に、江沢民は同じ理工科の名門―上海交通大学に入った155)。何れの移動も「人往高処走、水往低処流」(人は高い処に行き、水は低い処に流れる)の道理に合うが、曾て清華大学を目指した事の有る周156)の江北→瀋陽→天津→日・仏の足跡は、別の上昇志向と「域分」を感じさせる。 

145)毛・は1976、89 年の天安門事件で武力鎮圧を決断したが、周・葉には左様な真似は出来まい。青野・方雷著『小平在1976』上巻『天安門事件』に拠れば、毛は天安門広場で群衆が公安警察と衝突し車に放火したとの報告を聞いて、「階級闘争は元より民主に拘る事は無い。蒋介石も我々に民主を与えず、我々の人を沢山殺したから、我々も彼の人を殺し返した。其の人の道を以て其の人の身に返すのだ」「君子は口も使うし手も出す」と述べて、武力行使を許可した、と言う(218 〜 219 頁)。「文革」後期に毛の寵愛を一身に集めた秘書・張玉鳳の回想では、何故こんな素晴らしい周総理を後継者にしないかと彼女が訊くと、毛は刀で斬り落とす仕草を1回して、「総理は好いのは好いが、此が足りない」と答えた(48 頁)。周恩来逝去後の後任総理に就いても彼は、李先念を「好い人だが、軟弱過ぎる、温和派」と否定した(34 〜 35 頁)。
中国側の大量な文献を基に構成した『毛沢東秘録』(産経新聞「毛沢東秘録」取材班、産経新聞社、1999 年)にも出た史実だが、1968 年7月27 日、毛の指示で首都労働者・解放軍「毛沢東思想宣伝隊」約1万人が清華大学への進駐を試み、紅衛兵組織の武装抵抗で5人が死亡し数百人が負傷した。毛は緊急に首都紅衛兵の「5大領袖」を召集し、紅衛兵を鎮圧した「黒手」(黒幕)ぱ自分だと啖呵を切り、武闘を直ちに止めるよう厳命した。激昂の彼は腕を振り上げるとどすんと振り下ろし、其でも頑固に抵抗を続けるのなら殲滅する、と声を荒げた。(下、56 〜 59 頁)目下の多くの中共指導者の出身校が3分の1世紀前に左様な形で全国の台風の目と成った事は、歴史の走馬灯の目まぐるしさと「熱点」の1極集中の習性を物語っている。「占領上層建築」(上部構造占拠)」に挑む労働者・軍人は敢えて武器の使用を自粛したが、毛の警告の仕草は真剣を抜いて斬り付ける真剣味が有った。因みに、清華の「清」は天安門事件の際の「清場」(広場の清掃・整除)の様に、粛清の殺気を秘めた語彙でもある。林彪事件後の毛が先ず王洪文、続いて華国鋒を後継者に選んだのは、2人が其々上海労働者造反総司令部総指揮と公安相として、反対勢力を弾圧する実績・度胸が証明済みだとの要素も有ろう。
『毛沢東秘録』では出所が明記された(例えば、上記の場面は李健編著『紅船交響曲』[中共党史出版社、1998 年]、陳長江[毛の警備聯隊長]等著『毛沢東の最後の10 年』[中共中央党校出版社、1998 年]に拠る)が、紀実小説・『崛起』之3―『小平在1976』は、出所が全て不明の儘だから信憑性は未知数だ。此の手の紀実小説の受け止め方として、毛沢東や其の時代の格言の通り、「不可不信、不可全信」(全く信用しないのも駄目、全て信用するのも駄目)、「与其信其無、不如信其有」(無いと思うよりも、有ると思うべきだ)が宜しい。
少なくとも、張玉鳳の回想と断った上で引いた毛の周恩来評は、出所不明を形式上の不備として目を瞑り信用して能い。台湾問題で米国に複数の選択肢を提示した周に業を煮やし、毛が1973年に猛烈な批判を執拗に加えた一齣も、傍証に挙げられよう。「台湾を流血の地にする事を望まない」と言う周が1年前に米国在住の台湾華商代表団に表明した見解を念頭に、毛は「内戦が恐いか?攻撃の必要が有れば攻撃するだけだ」と放言し(『毛沢東秘録』、下、226 頁)、強硬姿勢を顕わにした。周が反省を繰り返した末に漸く放免された其の「軟弱外交」は、他ならぬ葉剣英と共にキッシンジャーと会談した時の出来事だ。註130 で劉少奇夫人・王光美の英語堪能に触れたが、抗日戦争後の米国に由る国・共軍事調停で彼女が通訳を務めた中共代表団は、他ならぬ周・葉が責任者である。劉少奇夫妻の打倒を命じた毛が周・葉に距離を感じたのは、別に不思議ではない。後任総理の候補として毛の眼鏡に適わなかった李先念は、其の際に毛の迸りを食った葉の推薦だから、対象外として一蹴されたのは当り前の成り行きだ。
毛に「君子動口也動手」と茶化された元の格言は、「君子動口不動手」(君子は口を使うが手は出さぬ[言葉・論理に訴えるが腕力に訴えぬ])と言う。歴史はi f の仮説を許さないから、周と葉が其々第1次、第2次天安門事件の際に生きていたなら武力鎮圧に同調したか否かは何とも言えぬ。1989 年に徐向前・聶栄元帥が軍の発砲に反対し、逆に李先念と頴超(周恩来夫人)が弾圧側に回った事を考えても、人心は天のみぞ知る。但し、「文革」中に周は乱麻を快刀で斬らず忍耐強く解し続けた事や、国防省への闖入を試みる紅衛兵に対して発砲も辞さぬ姿勢を示した一方、「人民内部矛盾(対立)」に寛容で民衆に優しい葉の姿から推断すれば、本物の「君子」の部類に入れて間違い無い。
中国語の「軟弱・無力」や「天真」(無邪気。無防備)で対応する日本語の「甘い」から、辛党・毛と甘党・周の対極が連想される。勝見洋一の『中国料理の迷宮』にも、唐辛子の辛味が好きな毛と対照的に、「腹が空いたら砂糖も好い食べ物に成る」と言う周の感覚や、朝鮮戦争中に彼が激務の精神的緊張を解消すべく、自ら厨房を訪れ料理人に大好物の「氷糖肘子」を作らせた(材料・作り方とも日本人に馴染みの無い此の料理は、「氷砂糖入り豚の骨付き肉の炒め物」と解されたが、同じ「肘子」を好む上海出身の本稿筆者の固定観念では、炒め料理ならぬ「清」[醤油抜きの煮込み]が思い浮かぶ)との逸話が紹介された(175 頁)が、周知の通り江南料理の特徴には甘味が有る。
「激辛好きの毛=鷹派」「甘味好きの周=鳩派」の図式が成り立つなら、味覚を原点とする生理的な感覚の人間性・社会性への影響の論拠に成るが、人間と言う名の複雑系は簡単に割り切れない。何しろ、「資産階級自由化」や学生運動に対する「軟弱」で小平の不興を買った胡耀邦も、民衆への武力行使に否定的な朱鎔基も、毛の同郷なのである。唐家外相は国内で一部「軟弱外交」の誹りを受けた様だが、 の賞讃を得た前任の銭其と同じ上海の人だから、地域差は余り関係が無い。アイスクリームに茅台酒を数滴掛けて食べる独特の流儀(程華『周恩来和他的秘書們』、230 頁)が象徴する様に、周は甘・辛の2面を持ち併せた。筆者が少年時代を過ごした「文革」中の上海では、「酒心巧克力」(リキュール入りチョークレート)が流行っていたが、振り返れば「陰陽魚」の哲学さえ感じる。
逆に、辛党・毛は甘党を包容する一面も有った。彼は71 歳誕生日の内輪の小宴で、傍に坐らせた山西の陳永貴等が激辛に慣れぬ恐れを承知で湖南料理を出した一方、客の着席と共に煙草と飴を勧めた(呉思『陳永貴沈浮中南海』、花城出版社、1993 年、7頁)。米中国交正常化の交渉の為に訪中した米政府高官が泊まる国賓館の部屋に置いた飴が毎日「蒸発」しているとの報告を受けて、彼は全国最高級の上海製〈大白兎〉飴を1人5キロずつ贈るよう指示し相手を喜ばせた(陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』、崑崙出版社、1988 年、269 頁)。
勝見洋一は上海料理の甘味に絡んで、「甘い物は高級」とは農民の感覚だと喝破した(『中国料理の迷宮』、227 頁)。毛が上海製の飴を米国人の接待に使った一幕は、田舎出身の毛と田舎から国際都市や超大国に成り上がった上海と米国の類通を思えば面白い。他方、来客に飴を勧める毛沢東時代の習慣も上記文献の触発で思い起したが、今や其がほぼ消えたのは感覚の洗練化と言うよりも、肉や卵、油等の配給制の廃止に伴って栄養代用品としての飴の出番が無くなった事だ。
146)所謂「3国4方」を擬った本稿筆者の造語。林彪・「4人組」裁判(1980 年)の起訴状に拠れば、1971 年3月31 日夜から翌日未明に掛けて、林彪の息子・林立果(空軍作戦部副部長)が上海で、江騰蛟(南京軍区空軍政治委員)・周建平(同副司令)・王維国(空4軍政治委員)・陳励耘(空5軍政治委員)を集めて、政変計画の役割分担を決め、王、陳、周を其々の駐在地―上海、杭州、南京の責任者とし、江を総責任者とした。インドシナ3国4方会議(同年4月に広州で開催された北越・南越民族解放戦線・ラオス・カンボジアの首脳会議)に因んだ江の命名で、「3国4方会議」と呼ばれた。
此の名称で興味深いのは、同じ南京(華東広域)軍区に属する4人の当事者たちは其々1国1城の主と自任し、倶に同司令部の江・周は「2方」と計上された事だ。本稿の論旨に関して言えば、長江三角洲の江蘇・浙江・上海の「3国」は、同地域の呉が一角と成った古代の三国と結び付ければ面白い。中国は国の中に独立王国が有り、現代史は『三国演義』の延長・変種の観が強いが、此の挿話も些細な表徴に成ろう。
一介の少将に過ぎず党内の序列が中央委員候補の王・陳以下だった江は其の裁判で、林彪の「4大金剛」(4天王)―倶に党中央政治局委員だった黄永勝(総参謀長、上将)・呉法憲(空軍司令、中将)・李作鵬(海軍政治委員、中将)・邱会作(軍総後勤部長、中将)と並んで、林彪集団の軍人5主犯の1人とされ、黄と同じ懲役18 年の刑罰も呉・李の17 年、邱の16 年を上回った。毛沢東暗殺に関わったとの罪名が主な要因に思えるが、軍関係の作家・張聶爾著『中国1971―9.13 風雲』(解放軍文芸出版社、1999 年)で明らかと成った釈放後の陳・周等の証言は、其の集まりは実は当事者たちの感情・利害の対立の調整が目的で、共同作戦会議云々は紙上の虚構に過ぎないと言う(笠井孝之『毛沢東と林彪―文革の謎 林彪事件に迫る』、296 〜 303 頁)。
其の会合終了の日は西洋で「4月馬鹿」(中国語訳は「愚人節」)だが、気宇壮大な当意即妙を発した江が馬鹿を見たのは、中国人好みの気取りの大言癖の命取りに成りかねぬ危険性、及び中国の「初めに言葉有りき」の伝統を思い知らせる。呉法憲が法廷での偽証を告白した(図們[林彪・「4人組」裁判の副裁判長]・肖思科『震撼世界的77 天』[中共中央党校出版社、1995 年]。
笠井孝之『毛沢東と林彪』、42 頁より)等、初めに有った図式や言葉で紡ぎ出された領袖暗殺・武装政変の真偽はともかく、此の一幕では江騰蛟の運命に注目したい。
毛沢東の不評で昇進の道が閉ざされた上で、軍事法廷で実力以上の「特殊待遇」を受けた彼は、最も不運な軍幹部の1人に挙げられるが、毛の「此人不得重用」(此の人は重用しては成らぬ)の指示にも拘らず、林彪に重用されたのは、気配りの芸当に負う処が大きい様だ。曾て林彪夫人・葉群が「農村社会主義教育運動」に参加する際、皆と同じ肉料理の乏しい食事を強いられた時、彼はこっそりとご飯の底に鶏の腿肉(大衆料理の贅沢品)を埋めて差し入れ歓心を買った、と言う。尤も、其の抜擢は後の失脚を招いたので、やはり禍福は糾える縄の如し。
此の話は4要諦図の「下半球」の礼・利の相互転換の可能性を示唆するが、「右半球」の力・利に絡んだ次の証言も吟味の価値が有る。上記裁判で懲役10 年を食った元空軍作戦部部長・魯は「3国4方会議」の背景として、南京空軍、空4軍、空5軍の齟齬を披露した。「江騰蛟は空4軍政治委員当時に“林彪は出費が嵩み、林彪・葉群夫妻だけの給料では不十分だから、4軍で林彪に資金を融通してやってくれ”と上層から言われ、毎年5千元を林彪に渡していた。江騰蛟が南空政治委員に転出し、王維国が引き継いだ後も、葉群が薬を買う等と言う時は、何時も空4軍が金を出していた。然し或る種の薬は外貨兌換券(外匯)が必要だ。空4軍は外匯を持たない。上海市革命委に王国維名義で取得を要求しなければ成らない。王は困って、1度は支出を断った。江への補助も差し止めた。王は空軍司令の呉法憲に、林彪への支出はどうすべきかを訊ねたが、呉は林彪の処が要る物は提供してやれば好いと答えた。江は王を恨んで、引きずり下ろそうと考えた。」(笠井孝之『毛沢東と林彪』、301 頁。原典=上記張聶爾著書)此の逸話で興味深いのは先ず、天下の林彪夫妻もみみっちい裏金作りの必要が有った事だ。毛沢東時代では貧富の格差を縮める為に、党・政府の要人の給与は低く抑えられたが、諸々の便宜が得られる特権に因り実質給与は遥かに高い。其の力→利の転化は本稿の4要諦図の右半分の黒地・白抜きの形象に因んで言えば、李登輝時代まで残っていた国民党の「黒金」(黒社会[暗黒街。極道]との癒着、不明朗な金脈)とは別の「黒金」の闇に気付く。此の「黒」は出稼ぎや無計画出産に因る不法滞在者・無戸籍者を言う俗語の「黒戸口」「黒人」「黒孩子」の様に、闇・地下・非合法の意である。先進国でも地下経済の規模が国民総生産の数%を占める等、「水至清、無大魚」の逆説も世の中の現実や常識と成るが、陰陽哲学の複眼で眺めれば裏の裏も目に付く。
「文革」後に民衆が体制に不信感を深めたのは、此の絡繰が暴かれた事も一因だが、更に一皮剥けば、清濁合わせた池の中の「大魚」も全て、「自来水」(水道水)並みに無尽蔵の財源に恵まれるわけではないので、酸欠病ならぬ金欠状態に陥る事も儘有ろう。
註62 で毛沢東の謝恩・喜捨の尽きぬ財源―原稿料に焦点を当てたが、彼の71 歳誕生日祝宴の挿話(呉思『陳永貴沈浮中南海』、7頁)に、其の2面性が垣間見られる。彼は建国後に自分も含む党の指導者の為の誕生日祝いを禁じた為、「文革」後に明らかと成った自らの「祝寿」の事実は、神話の崩壊にも多少繋がった。尤も、其の何れの祝宴は極く内輪で、而も生への執着が強まった70 歳代の場合が多いので、人間性を疑う程の不信は生じまい。件の1964 年12 月26 日の祝宴は第3期全国人民代表大会の開催中に当り、其の1ヵ月後に彼は劉少奇打倒を秘から決意したから、公安・警備部門の責任者(軍総参謀長・羅瑞卿、公安相・謝富治、中央弁公庁主任・汪東興)や中国の「原子爆弾の父」・銭学森、数人の「全国労働模範」なる農民を主賓席に就かせた其の宴は、安全を確保した上で威力を顕示し、「以農村包囲城市」(農村を以て都市を包囲する)戦法で思想闘争を仕掛ける前奏曲と思えよう。紅衛兵は彼の「革命不是請客吃飯」(革命は招宴ではない)云々を信奉したが、招宴も革命の一環と成り得る。
共産党中国の不惑の歳までの激しい浮沈を映す様に、同席者の中で羅瑞卿は「文革」の最初の標的とされ、陶鋳(党の中南局・広東省第1書記)は遠交近攻で一躍No.4に抜擢され又直ぐ下ろされ、後に中央政治局入りした謝富治・汪東興・陳永貴(山西省昔陽県大寨人民公社党支部書記)も「文革」後に失脚した。銭学森が例外的に名誉を失わずに済んだ事は、周恩来が全人代で提起した「4個現代化」に於ける国防の近代化と科学・技術の近代化の重要性や、「文革」中に否定された「知識就是力量」(知識は力なり)の正しさを立証した。さて置き、席上毛は珍しく茅台酒を3杯飲んで、「銭学森不要稿費、私事不坐公車、這很好!」(銭学森は原稿料を取らず、私用で公の車を使わない。此は大変好い!)と激賞した。私心に克てと言う「文革」時代の毛の呼び掛けを先取りした発言だが、原稿料が「資産階級の権利」として廃止された「文革」中、全国で彼1人だけ原稿料を貰い続けた。中国人は「酒後吐真言」(酒の後に人間は本音を吐く)と言うが、論理性を薄める酒の危険性にも此処で気付かれる。原稿料の廃止は「文革」前の’65 年から11 年も続いたが、主席の酒席上の1言が発端だとすれば言語道断である。
1回で数千、数万元に上る夫人の小遣いの要求に毛が応じた話は、「私房銭」(臍繰り)や「自留銭」(彼が禁じた「自留地」[農業協同制の下での一部限定の農民自家用農地]を擬った本稿筆者の造語)の確保の必要性を裏付ける。江青が大金をねだった使途は道楽の写真や、毛死後の生活保障等と伝えられた。前者は贅沢と言えば其までであるが、支払い方の吝嗇ぶり(楊銀禄『江青の真実』、66 〜 70 頁)から、中央首長の特権も無限大ではない実態(奢ると言ってスタッフたちを食事に招いた後に食糧配給券を徴収した一齣は情理に逸れながら、全ての人々が配給制限の枠内に在った事を示す)、其の老後の心配も杞憂でない境遇等が判る。
最近の某高官が汚職で逮捕された後、周恩来の秘書を務めた父親を養う為に金が要ると弁解した、と言う噂が巷に流れている。社会全体の生活水準の向上、欲望の膨脹と老人福祉保障の低下、公務員給与の少なさを考えれば、真偽はともかく同情を誘い易い話ではある。周恩来も曾て役人の父親を追憶した時、「父親が賄賂を取っていたに違いないとも言い、“賄賂を取らなければ長衣(支配階級の男子の着る上衣)や家を買う金など無かったはずだ”と認めている。」(ウィルソン『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、2頁)懐が不如意ながら交際の支出を惜しまなかった父親の見栄っ張りを周は酷評したが、使途の衣・住の装い・構えは倶に面子に関わるので、其の収賄は善悪を超えて、人脈を重視する価値観と共に中国人社会の情理に適う。林彪夫妻の金銭面の欲求にも恐らく、交際費が大きな比重を占めたのだろう。何しろ人心収攬を言う中国語は、字面に買収が出る「収買人心」だ。但し、露骨な金配りに関しては、日本自民党派閥領袖の「軍資金」提供や「餅代」配布の方が凄い。石川達三の小説・『金環蝕』(1966 年)に拠る映画(監督=山本薩夫。1975 年)が「文革」直後の中国で上映された際、実在の九頭竜川ダム建設汚職事件(未摘発)を基にした作中の首相・閣僚の腐敗ぶりは、近代化の手本・日本への憧れに水を注す程の衝撃を観客に与えた。翻って思えば、当時の中国の相対的な清廉さの証と取れる。
毛沢東時代では横領の死刑判決の目処は1万元程度だったが、其の千倍、万倍にも上る昨今の汚職の横行は、通貨膨脹に因る貨幣の目減りを考慮しても隔世の観が強い。其の時代でも行政の厳禁に拘らず、「小金庫」(企業等が国家に上納せず内部蓄積に回す裏金)や「両本帳」(2重帳簿)は陰で存在していたが、林彪・「4人組」摘発の際に不正蓄財の話は余り出なかった。営利目的の誘拐犯罪も聞かず其を裁く法律も無かった事は、全民低所得の故に身代金が期待できぬ事情が大きいが、「4人組」が意地で唱えた「窮乏の社会主義」は現実其の物だ。泡沫経済崩壊後の日本では心の均衡を望む大衆心理も有って「清貧」論が流行ったが、中国語の「清」は「綺麗さっぱり」の意も有るから、毛沢東時代の清貧は高邁な志に由る部分と、無い袖は振れぬ故の部分が混じり合ったのだ。同じ様態を表わす副詞の「浄」「光」は、其の頃の「清純」「光明」の裏面を映し出す。
葉群の逼迫状態の中身も興味を引くが、林彪一味がソ連へ亡命する際に人民元・米ドルを一部持ち出した事と合わせて、外貨不足の実態が先ず浮かび上がる。「文革」後に一部の要人や其の子女の海外秘密口座の噂が取り沙汰されたが、部下に当座の外貨を調達させた林夫妻には其は無かったろう。使途の薬品購入も林が健康法の要訣や漢方薬名を写してベッドの許に貼り付けた事実と共に、彼等の長生願望を覗かせる。曾て林彪に曹操の詩・『亀雖寿』を揮毫して贈り養生を勧めた毛沢東は、自らが長寿祈願を込めて71 歳誕生日を祝った1964 年に、保健の仕事を修正主義と断じ党中央保健局をソ連の真似として撤廃させ、代りに中央首長の健康管理・治療を担当する部署が北京医院内で出来た時も、毛が「保健」の名を嫌った故に「総値班室」(総当直室)と称した(程華『周恩来和他的秘書們』、517 〜 518 頁)が、健康維持に掛ける中共の要人たちの関心は衰えまい。
胡耀邦元総書記は「天安門事件」直前の政治局会議で不正を糾弾し、海外に口座を持たぬ指導者は自分と頴超だけだと断じた、と言う風説が有る。真偽はともかく、周恩来夫人は其ほど特別な存在だ。其の彼女の母親は漢方医であり、赤軍総司令部で医者を務めた事が有り(南山・南哲主編『周恩来生平』、530 頁)、彼女自身も結核や腎臓病等の持病を抱えた所為で健康に人1倍に気を遣っていた。中国では恥部の露出を潔しとせぬ意識から、日本の「私小説」に好く見かける闘病記は従来少ないが、毛沢東時代で特に珍しかった闘病記には、 頴超の『以革命的意志戦勝疾病』(革命の意志を以て疾病に打ち勝つむ)が有る。本稿筆者は元検事総長・伊藤栄樹の『人は死ねばゴミに成る―私の癌との闘い』(新潮社、1988 年)を読んで、人工肛門を付けた等の闘病生活の赤裸々な描出に強い違和感を覚えたが、小さい頃に自宅に有った此の薄い本(発行先は人民衛生出版社か。出版年代も失念)が思い出されて考え直した。
周恩来の最後の主治医を10 年間務めた張佐良が1965 年に赴任の時、 頴超から健身養生の書・『八段錦』が贈られた(程華『周恩来和他的秘書們』、519 頁)。一種の気功なる健康法―「八段錦」は「文革」後期に都市部で流行ったが、「文革」前の指導部に源が遡れるのは愉快な話だ。江沢民時代に「法輪功」が中共党員数と比肩する一大勢力に成ったのも、大衆が意識形態より健康法に飛び込み、上層部にも流行の健康法の受益者が居た点で、其の4半世紀前の歴史の再演と言える。更に言うなら、医療保険の国家負担率の下降、自己負担率の上昇の中で出費軽減の代替手段を求める風潮や、一般人も党幹部も外貨貯金に興味を持ち、軍隊が営利に精を出す傾向は、中国人の伝統的な保健・保険・財成観念の延長線に在りながら、「文革」中の「副統帥」夫妻の俗人的な欲求・行動にも通じる。
毛沢東は「文革」中、知識青年は農村に行って貧農、下・中層農民の再教育を受けるべし、と呼び掛けた。闘争対象の地主・富農に対する「貧下中農」の名称は、「社会主義初級段階」の生産力の低水準や階級社会の厳然たる階層の存在を窺わせるが、其より可笑しかったのは、深刻な問題は農民の教育だと言う建国初期の自説との不整合だ。農民の守旧性を見抜いた其の論断を裏付ける様に、毛の号令で上海から黒龍江省に行かされた本稿筆者が営林所や電力建設会社で、農民・小市民出身の労働者や幹部から受けた「再教育」は、宣伝媒介が唱える立派な革命原理とは凡そ無関係の「大実話」(本音)が殆どだ。此の文脈で思い出した例は、「缺什麼都別缺銭、得什麼都別得病」(どんな物が不足でも構わないが、金だけは不足に成るな。どんな物も貰って好いが、病気だけは貰うな)だ。
解放戦争中に林彪の野戦軍の勢力圏内だった東北で聞いた此の格言は、中国人の日常的な損得勘定(「缺」=欠損)の1つの究極の判断を示す。大学者・銭鐘書の小説・『囲城』(1947 年。日本語版=荒井健・中島長文・中島みどり訳『結婚狂詩曲』、岩波文庫、1988 年)に、「真理是赤裸々的」(真理は赤裸々である)と言う台詞が有り、一糸も纏わぬとまでは行かないながら肉体の露出度の高い女性が「局部真理」(部分的真理)との綽名が付けられた。真理の性質を言い得て妙であるが、本稿で挙げた多くの民間の格言は左様な物だ。「衣食住」の語順に体面意識を読み取った本稿筆者の観方は、此処でも支援材料を得たが、表原理と裏原理の回転扉を潜って更に翻って思えば、服を纏わぬのが人間の本来の姿だ。紅衛兵「5大領袖」に対する毛の脅かし(註145 参照)は、味も素っ気も無く乱暴とさえ思えるが、暴走の歯止めに成った結果は評価できる。
葉群の金の無心は熟語の「背に腹は替えられぬ」の通りだが、輸入薬品の高価も一因と考えられよう。江青も新華社通信に立て替えにさせた輸入フィルムを清算する際に、担当者の配慮で原価分のみ請求されたのに、予想外の数千元にも上ったので、渋々払いながらも立腹し、毛に千元ほどの援助をねだった(楊銀禄『毛沢東夫人 江青の真実』、69 〜 70 頁)。医療保障の梯子を外された今の中国では、人々が最も危惧する事態の1つは、高価な外国薬品の投入が必要な難病・奇病を患う事だ。昔の貧乏人は強盗や匪賊に「要銭、還是要命?」(金を取るか、命を取るか)と迫られた時、「要銭没有、要命有一条!」(金は無い。命なら有る)と言う開き直り方が有ったが、命が惜しくても金が無いとは気の毒な話である。
先進国との科学技術や所得水準、貨幣価値の差を実感させる事象だが、健康の維持に人1倍の必要と努力が強いられる要人に成ると、其の原因に因る金欠は尚更理解できる。但し、林彪の私邸が軍費で1万余り平米まで建増しされ、3千万元を費やして杭州で別荘が造られ、高価な紫外線防止ガラスが西独から輸入された(林青山『林彪伝』、台湾・大村文化出版、1995 年、2〜7頁)等の例の様に、中央首長は余り困るまいはずなので、葉群の集りは別の側面でも不審を抱かせる。一番尤もらしい口実で金を吸い上げ実際は別途に流用する可能性も思い付くが、申告できぬ治療の故の不明朗も考え得る。林が毛に長生を勧められた契機は阿片常用の悪習であるが、其の醜聞は特段の禁忌として厳重に封印されていた。重要な行事で元気が出る為に彼は阿片の注射を受けていたが、「或る種の薬」とは阿片の治療薬か阿片かも知れず、何れも忌避の対象か域内では発売禁止のはずだ。
禁断の果実と言えば、1986 年の文化部副部長(副大臣)・周而復(上海の作家)解任事件が思い出される。前年訪日中の「国家の尊厳、党の道徳紀律を著しく傷付けた」行為が罪名とされたが、靖国神社見学を除いて詳細は未公表の為に憶測を呼んだ。日本の新聞でもポルノショップに立ち寄ったとの風説が伝えられた(『朝日新聞』同年3月3日。同紙で2月7日に伝えたAPP電の買春説は、此の報道では消えた)が、中央首長の為に回春剤を購入した云々の噂が中国で広がった。彼を起用した胡耀邦総書記への当て擦りの疑いも有る失脚の真相は未だに闇の中だが、大衆の想像は現実を屈折ながら映した。現に、毛も主治医に拠れば催淫剤の注射を受け、ルーマニア女医が開発した強精−長寿薬に関心を寄せた(李志綏『毛沢東の私生活』、上、143 〜 145 頁)。
楊銀禄『江青の真実』の中で最も衝撃的な事実は、江青が若返りの為に黄永勝・邱会作を真似し兵隊の血を自分の体内に注入させた事(70 〜 76 頁)だ。吸血鬼じみた行為で職権濫用も甚だしいが、嬉々として毛に報告した彼女の無邪気は2つの常識を浮き彫りにする。本稿筆者は「文革」中に中学の同級生から、高級将領が健康促進の為に兵隊の骨髄を自分に移植させ兵隊が廃人に成った話を聞いた。事実無根だとしても黄・邱等の実話を考えれば、風説の流布自体は真実を示唆する現象だ。其の噂の伝え手も聞き手も残忍さを感じつつ有り得る事と割り切ったのは、人権感覚の薄さと共に要人の特権に対する諦観が大きい。毛は流石に彼女を叱り止めさせたものの、人権侵害を重く視ず自然の摂理に沿って生きようとの一般論を述べただけだ。毛自身はそんな事はしなかったが、道教の性の指南―『素女経』等を熱心に研究し、女体から活力を吸収する「採陰補陽」の術を実践した、と言う(李志綏『毛沢東の私生活』、下、68 〜 69 頁)。
採補の対象と受益者こそ違うが、長生不老の悲願は古来の権力者の不易な心理である。毛沢東時代も昔の「統治(支配)階級」の習性と訣別し切れなかったが、江青が献血した2人の護衛を質素ながら食事で遇した事は、野蛮な搾取・略奪と一線を劃している。輸血の事実を口外せぬよう願った忸怩たる思いと合わせて、私利の算盤の中にも『論語』の礼儀が有ったわけだ。彼女が上記の私用フィルム代の請求額に立腹したのは確かに筋違いの話だが、数年分の立て替えを1969年党大会の後に清算しようとした事は評価して能い。毛の誕生日祝宴は自らの「祝寿」禁則に抵触したとも見られるが、権力者の誕生日祝いが贈収賄の格好な口実だった旧中国の実態と見比べるまでも無く、人畜無害の愛嬌話として受け止めたい。建前と裏原理の2方から交互に眺めれば、此の様に相反する観方が同時に出来る。
件の王維国の逸話で最後に注目したい点は、服従を天職とする軍隊や「副統帥」の権勢が絶大な「文革」時代に於いても、林彪への上納が無条件で行なわれたわけではない事だ。王は林彪の為に拳銃を持って自ら毛沢東暗殺の機会を窺ったとされたが、外貨調達の様な安い御用も渋ったので、果たして「死党」(死も辞さぬ程の忠誠心を持つ私党)と言えるかは疑問だ。其の真偽の判断はさて置き、慣例を顧みぬ其の抗命の動機を掘り下げよう。「不辱君命」(君主の命令を辱しめぬ[損わぬ])を第1級の士の条件に挙げた孔子の命題(『論語・子路篇』)に対して、孫子は「将在外、君命有所不受」(将軍は外に在っては、君主の命令を受けぬ場合も有る)と言った。後者は戦場での臨機応変の必要性が理由だが、王の独自な判断は在外の将軍が自らの恥辱を避ける為に主の命令を敢えて撥ね返した節も有ろう。
青野・方雷『小平在1976 天安門事件』に拠れば、1976 年の天安門事件の際に、武力行使を許可する毛の指示を受けて政治局が具体策を検討した時、江青・張春橋の軍隊出動・発砲弾圧の強硬論に対して、同じ「4人組」の王洪文は、「要帯武器可以呀!要開槍也可以呀!反正我王某人不担這個罪名。們誰敢下這道命令、現在就請字。」(武器の携帯を認めたいなら構わないよ。発砲を認めたいなら其も構わないよ。然しとにかく此の私は其の罪名を被らない。あんたたちの誰かが此の命令を下す度胸が有るなら、今此処で署名するが好い)、と一喝して皆を黙らせた。(197 頁)
上海で鉄棒等を用いる武闘を指揮した事が有るだけに、彼が反対に回ったのは興味深い。地方の「造反司令」から党中央副主席に昇進した後の保身とも取れるが、汚名を忌む拒絶反応は中国人の栄辱意識の素直な発露だ。王維国も自己名義で外貨を申請する事に抵抗を覚えたのだろうが、「文革」派に山東に次いで河北の人が多かったと言う勝見洋一の指摘(『中国料理の迷宮』、232 頁)と結び付ければ、同じ山東以北の河北の王維国と吉林の王洪文の態度は吟味に値する。我田引水に考えれば、北方の理・礼優先と言う仮説の支援材料にも成ろう。西安の労働者を経て当時唯1人の女性副総理に成った呉桂賢も席上、道義上の理由で軍隊の出動に反対した。
革命は道義を重んじる必要が無く本日の議題は福祉ではないと主張した張春橋は、「暴発戸」(成り上がり)の王洪文と違って享楽を貪らぬ点に於いて、同じ名誉重視の志向を窺わせた。
1989年の天安門事件の際に、河北省・保定に駐屯する38 軍の軍団長が弾圧命令を拒み処分を受けた様だが、張良編『天安門文書』には、楊尚昆が問題の徐勤先を徐海東大将の息子とし、徐海東の息子でも不服従は許されぬと小平が語った場面が有り、中国語版の原註として2人は親子ではないとも記された(230 頁)。故装甲兵司令・許光達上将の息子とも一時噂されたが、事実誤認にも関わらず上記の会話が成されたとすれば、親と自分の声価を強く意識する中国人の行動原理が窺える。姓を自称に用いた「我王某人」云々は、一族の名誉を連想させる意味深の表現だ。当軍は朝鮮戦争で大善戦に因り、志願軍司令・彭徳懐の表彰電報で、“38 軍万歳!”と言う中共軍史上空前の礼讃を受けた(王樹増『中国人民志願軍征戦紀実』、解放軍文芸出版社、2000 年、353〜 354 頁。内外の一部の文献では毛沢東の言としたが、伝説の自己増幅と思われる)から、集団の名誉も徐軍団長の胸中に去来したのかも知れない。
猶、武器の使用に就いて多くの部隊が署名付きの命令に拘ったのも、其の13 年前の王洪文の啖呵を思い浮かべれば頷ける。王維国の抗命に林彪夫妻がどう仕様も無かったのは、超法規的な命令は撥ね返しても能いと言う理の優位性の証だ。
147)原籍(父親の出身地)が四川省高県と成り上海で生まれた李鵬は、3歳で重慶に送られ、12 歳で陝西省・延安に送られ、17 歳以降は河北省や東北3省・北京で勤務したので、長江下流地域との実質的な縁は薄い。
148)江青・張春橋・康生の他、山東省出身の主な「文革」派急先鋒には、関鋒・戚本禹(「中共中央文革領導小組」構成員)、于会泳(文化相)、遅群(清華大学革命委員会主任)、魯瑛(『人民日報』編集長)、王効禹(山東省革命委員会主任)、劉結挺(過激武闘派として有名な四川省革命委員会副主任)等が居た。康生夫人・曹軼欧(党中央委員、康生弁公室[事務所]主任)も山東の人。
党中央警備師団に山東の人が多かった事を裏付ける様に、遅群は「文革」前は8341 部隊の政治部宣伝科副課長で、戚本禹も党中央弁公庁の中堅幹部だった。戚本禹と王効禹の名前の共通項―「禹」は、黄河を治める事で有名な歴史人物だから、黄河の下流に当り水害に見舞われ易い土地柄に似合う。江青の水泳下手の話(註129 参照)と絡むが、彼女が公開の場で自分の後継者の筆頭とした于の名前―「会泳」は、「水泳が出来る」意である。
林彪一味と「4人組」は「文革」後の合同裁判の様に好く一緒にされるが、山東閥は大体「4人組」の方で固まり、林彪集団は湖北・江西等華中・華南・西南の出身者が多く(少数の山東人の1人は空軍副参謀長・胡萍)、「中央文革小組」組長・陳伯達も福建同郷の葉群の夫・林彪の方に付いた。梁山泊好漢を生み出した土地の反逆者が今回は殆ど文官だった事と合わせて、興味深い棲み分けである。
勝見洋一は山東料理と上海料理の話に絡んで、「文革」派要人に於ける山東出身者の高い比重を取り上げた(『中国料理の迷宮』、230 〜 233 頁)。典型例として、1967 年2月に中南海・懐仁堂で開かれた打ち合わせ会(所謂「2月逆流」「大閙懐仁堂」事件)の顔触れが挙げられ、議長・周恩来の2側に座り向き合う形で激突した古参幹部と「文革」派の氏名と出身地は、次の席次表で整理された。
片方―陳毅(四川)・葉剣英(広東)・聶栄(四川)・徐向前(山西)・李富春(湖南)・李先念(湖北)・譚震林(湖南)・余秋里(湖西)・谷牧反対側―江青(山東)・陳伯達(福建)・康生(山東)・張春橋(山東)・姚文元(浙江)・王力(江蘇)・関鋒(山東)・戚本禹(山東)斯く直観的に示すと確かに説得力が有るが、「上海組」と呼ばれた「文革」派に山東人が多かった事に今の中国人も驚く云々は、事実誤認か論旨を主張する為の誇張と思われる。図表の中の谷牧の出身地の欠落も同様に、著者の情報不足か情報操作かが判らない。隣の余秋里の「湖西」は明らかな誤謬(正しくは江西)で、中国に関する著者や編集者の土地勘と「歴史勘」(本稿筆者の造語。註92 参照)の不十分を露呈した。何しろ、中国の省には「湖西」は無いし、江西は中共の指導者を輩出した地域として名高い(因みに、「独臂将軍」の異名で知られ、解放軍総財務部長、石油工業相を経て小平時代に軍総政治部主任、副総理と成った余の故郷―吉安県は、註132 で触れた小平の第1代先祖と同じ土地だ)。猶、王維国(註146 参照)を「空軍第1政治委員」とした(232 頁)のも誤記だ。
明記されなかった谷牧の出身地は実は山東なのだが、余秋里と同じ経済担当の閣僚で知名度も大差が無いので、調べが簡単に付くはずなのに、空白の儘で処理されたのは変哲だ。山東出身の「文革」派対非山東人の反「文革」派の図式を維持する為の朧化ぼかしだとすれば、客観的な事実と本質の真実の2方に抵触する嫌いが有る。黒・白相互内包の「陰陽魚」の原理で考えれば、対立陣営に同じ地方の人間が居ても普通な事だ。現に、周恩来は出身地に拠って江蘇の人だとしても原籍に拠って浙江の人だとしても、「文革」派の王力・姚文元と共通項を持つ。林彪事件後に再起した小平の下で「文革」派と闘った万里も、他ならぬ山東の出身である。此の様に、明快で意外性の有る図式ほど独走・膨脹・変形の危険が高い。
司任『魯瑛与「文革」時期的〈人民日報〉』にも、山東出身の「文革」派要人の多さが言及された(司任主編『「文化大革命」風雲人物訪談録』、中央民族出版社、1993 年、357 〜 358 頁)が、本稿筆者は其の特定の時期の特殊な事象に注目しつつも地域性を絶対視しない。現に、首都紅衛兵の「5大領袖」(註145 参照)の出身地には、山東は皆無(聶元梓は河南、大富・韓愛晶は江蘇、譚厚蘭は湖南、王大賓は四川)だし、周恩来の原籍・紹興で生まれた銭浩亮・陳阿大とも悪名高い「文革」派だ。江青の寵愛を受けて文化部次官に成った銭は京劇俳優だからまだましだが、上海労働者造反組織のボスの1人・陳は武闘と放蕩しか能が無く、故郷の『論語』+「算盤」の伝統に泥を塗る無恥・無知な男だ。註145 で上海出身の2人の外相―銭其と唐家を比較したが、周恩来の逝去後に江青寄りの為に失脚した外相・喬冠華(註62 参照)と、同じ江蘇北部の塩城の人・胡喬木(毛沢東の政治秘書を経て党中央宣伝部門の長年の責任者)とは、名前の中の漢字の共有まで共通項が有るだけに別々の歩みは示唆的だ。
山東人の名誉の為に反「文革」の英雄も取り上げて置きたいが、代表格は何と言っても全国総工会(労働者組合総本部)副主席・陳少敏だ。1968 年の党中央総会で劉少奇の党籍剥奪が可決されたが、公式発表の「満場一致」に反して1人だけ不賛成に回ったのが彼女だ(日本語訳の文献で其の経緯が詳細に出たのは、張涛之著、伏見茂・陳栄芳・沈宝慶訳『中華人民共和国演義4文化大革命』、冒険社、1996 年[原典=花城出版社、同年]、287 〜 290 頁)。同郷の康生に同意を迫られても曲げず其の日に逮捕された彼女は、後に多くの中央委員から敬服・慙愧の念が持たれたが、毛の威勢も顧みぬ処が凄い。
挙手採決の際に右手を胸に当てて体をテーブルに伏せた其の意思表示は、武田泰淳が讃えた中華民族の無抵抗の抵抗とも言える。泰淳が『淫女と豪傑―《金瓶梅》と《水滸伝》』(1947 年)の中で引いた山東好漢の快挙―殺人現場に「殺人者打虎武松也!」(人を殺す者は虎を殺す武松也)の宣言を堂々と書き残す事の大胆不敵は、此の現代女傑伝説にも現われた。尤も、江青・康生等の野望は逆方向の反逆とも見受けられる。
註129 で江青の武則天への心酔に言及したが、彼の女帝の出身地―今の山西省文水県は、奇しくも中共の女傑・劉胡蘭の家郷だ。劉は1947 年に15 歳で入党し、同年に国民党軍の掃蕩で公開処刑された。毛沢東は其の健気な成長と壮絶な献身を、「生的偉大、死的光栄」(偉大な生、栄光有る死)と讃えた。彼女の事績は新中国の思想教育の手本と成り、筆者も幼い頃から其の英雄伝説を聞かされた。本稿の執筆に当って武則天との地縁上の接点に初めて気付いたが、陰陽の相互内包原理で考えれば別に驚くまい。権力の頂点で辣腕を揮った武と在野の闘争で従容と死に赴いた劉が、倶に男勝りの強烈な剛毅さを持ち、同じ土地で生まれ毛・江夫妻を媒介に繋がる事は、本稿の論旨の格好な裏付けに成る。
149)陳舜臣は曰く、「中国人なら、大抵の人は煬帝を知っている。そして百人の内99 人は“自らの楽しみの為に国を滅ぼした皇帝”として知っている。(略)西の乾燥地帯に近い大興城より中原の洛陽の方が確かに気候も穏やかで過ごし易い。江南は更に温暖で、穀倉の為食事も格段に美味い。
まして当時は北方から独立した形で漢民族が文化を花開かせた先進地であった為、北の草原に育った煬帝が憧れたのも無理は無い。煬帝が愛した江南の中心地揚州には、春、煬帝が愛した瓊花という白い可憐な花が咲く。煬帝は此の花を見る為に運河を造り、船を浮かべて揚州までやって来たのだという伝説が地元には残されている。/(略)然し此の話、幼い頃から煬帝伝説を何度も聞かされて来た中国人ならともかく、私の様に疑り深い性格の者には逆に一種の気味悪さを感じさせるのだ。(略)話が出来過ぎていて、何か“口裏を合わせた様な”胡散臭さを感じるのである。幾らスケールの違う中国とは言え、仮にも歴史に大きな足跡を残した大皇帝が楽しみの為だけにこんな事をするだろうか。」(陳舜臣・鎌田茂雄・NHK取材班著『NHKスペシャル 故宮至宝が語る中華5千年』第2巻、202 頁)中国に関する深い洞察で有名な華人作家の此の観方は、常識の裏を鋭く衝いた物であるが、懐疑精神がもっと強いはずの中国人が信じ込む理由が考えさせられる。井波律子は曰く、「煬帝の場合は、大運河の開鑿さえ、華北から風光明媚な江南に直接賑々しく乗り込みたいという、極く個人的な欲望の充足を目指す物であった様に、其の奢侈は徹頭徹尾、現世的快楽志向に基づいていた事である。」(『酒池肉林』、46 頁)其の命題の通り「物量主義・大快楽主義」(註68 参照)を中国の君主の普遍的な願望として認めれば、深層の真相は明快に見えて来る。
杜牧の「長安廻望繍成堆、山頂千門次第開。一騎紅塵妃子笑、無人知是茘枝来。」(『過華宮絶句3首』1)は、楊貴妃の歓心を買う為に皇帝が馬を連日に交替で走らせ、新鮮な茘枝を南方から取り寄せたとの伝説から生まれた名句だ。同じ「直ぐ」を言う中国語の中で「立刻」(即刻)が緊迫性が最も高く、「馬上」や「快」は幅が有るが、正に馬の上に騎って「快」(速く)「」(急ぐ)と言う其の過程を考えても納得する。建国国宴の江蘇料理採用の調達力誇示の意図に関する勝見洋一の直観(註139)と結び付いても興味津々だが、毛沢東時代の空軍が中央首長の為に特別機で「時鮮」(旬の食べ物)を運んでいた事から推せば、其の茘枝伝説は大権を活用して大欲を達成した事実と観て間違い無い。
江青が自己正当化の為に引いた熟語の「大臣出巡、地動山揺」(大臣が都を出れば、地が動き山が揺れる。中央の高官を接待する為に地方の関係者が大騒ぐする事の比喩)は、好からぬ特権階級の威張りとして毛・周に戒められたが、江青の場合に顕著だった(楊銀禄『江青の真実』、83 頁)此の傾向は彼等にも有った。何しろ2人の特別機の飛行中、周の場合は沿線の空域、毛の場合は全国の空域で総ての飛行が禁じられていた(李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』、122頁)。毛の専用列車が走行中、彼の気儘な散策の為の臨時停車で広域の運行が好く大幅に乱れた事も広く知れ渡るが、「天下大乱」の字面に合う其の乱心は独裁統治の威勢を思わせる。
3年に亘る全国的な大飢饉の最中の1960 年から3年掛けて、毛の故郷に巨額の国家予算を投じて彼の別荘が建てられたのは、外ならぬ毛が「3年困難時期」の初年に出した要求が発端だ(金振林著、竹内実監訳、松本英紀・李潔訳『毛沢東・謎の12 日間―文化大革命発動の真相』、悠思社、1992 年[原典=『毛沢東隠踪之謎』、『花地』1989 年5月号所収]、104 〜 118 頁)。江青の我が儘は権限に正比例して規模が彼には及ばないが、休養先で騒音を嫌って附近の工場に操業停止を命じたり、突貫工事でプールを造らせて置きながら1度も行かなかったり、気晴らしで空軍の大型輸送機4機を使って杭州の名茶を北京に移植させたりした(楊銀禄『江青の真実』、60 〜63 頁)等の振る舞いは、往年の女帝の威風を連想させるのに充分だ。最後の方の遊びは風土の違いで移植が失敗し、「江南の橘、江北の枳と成る」にも至らず、文字通り無茶な実験に終ったが、此の挿話の中の杭州に対する憧れも興味を引く。金の首領・完顔亮が江南への侵攻を決意した契機は、柳永の詞・『望海潮』で杭州の素晴らしさに憧れた事だと言われる。周恩来が愛読した(後述)『宋詞選』(胡雲翼選註。上海古籍出版社、1962 年)の講釈(42 頁)も、銭塘江の壮観、西湖の秀麗、杭州の繁栄を謳歌した此の名作は思わぬ災禍を招来した、と言う古人の説を引いた(「羅大経《鶴林玉露》説:“此詞流播、金主亮聞歌、欣然有慕於‘三秋桂子、十里荷花’、遂起投鞭渡江之志。”」更に、「金主送死之媒」と捉える羅の観方も引用された。)「文革」直後の大学文科教材―遊国恩・王起・蕭滌非・季鎮淮・費振剛主編『中国文学史』3(人民文学出版社、1979 年)は、「相伝金主完顔亮因此“起投鞭渡江之志”(見《鶴林玉露》)、雖不可靠、却可以想見它的社会影響。」と言う(40 頁)。信用し切れぬと断った上で風説を記さねば成らなかった処に、時代を超える伝説の絶大な影響力が窺われる。
地方長官の「政績」(統治の実績)を礼賛する為に書いた此の作品は、当時の都市の繁華と民衆の平和な生活を美化し過ぎた嫌いが有る、と上記の『中国文学史』は断じたが、其の所為で羨望の故の侵略を招いたとすれば運命の悪戯としか言い様が無い。但し、毛沢東の詞・『沁園春・雪』(1936 年)を吟味しても、素晴らしい山河が征服欲を刺激し得る事が解る。史上の5大帝王(秦始皇・漢武帝・唐太宗・宋太祖・成吉思汗)を礼讃する有名な件の前に、「江山如此多嬌、引無数英雄競争折腰。」(江山かくのごと多いたく嬌かしく、無数の英雄を引て競に折腰をせしめぬ。竹内実訳。武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、216 頁)、と言う。
此の2句の前の「須晴日、看紅装素裹、分外妖。」(紅の装と素き裹を見れば、殊の外妖しくなまめかしからん)は、秦(陜西)晋(山西)高原の雪の壮麗さを詠む物だが、熟語の「英雄難過美人関」(英雄も美人の魅力に抗し難い)が想起される。蘇軾の「水光瀲晴方好、山色空濛雨亦奇。欲把西湖比西子、淡粧濃抹総相宜。」も、自然の絶勝・西湖を同じ越の絶世の佳人・西施に見立て其の魅力を讃えた秀作だ。其の千古麗人並みの江南の景勝地が北方の狩猟民族の首領の心を動かしたとは、充分に有り得る話なのである。現に、秦晋高原の陜西北部根拠地での雌伏・遊撃を10 年余り強いられた毛は、建国後多くの地方に別荘を持ったが、珍しい1地2別荘は杭州の〈劉荘〉と〈汪荘〉であった。
其の両方とも昔の茶の商人の別荘(〈劉荘〉の由来は李志綏『毛沢東の私生活』にも出ている[上、286 頁])だから、同じ商売が盛んで水墨画的な景色が多い点で、胡錦涛の原籍―安徽との接点が浮上する。其の「利」と「力」の連環に符合して、杭州滞在中に代る代る2ヶ所に泊まると言う安全上の理由も有った様だが、複数の別荘と頻繁な滞在は杭州への偏愛を窺わせる。中共中央文献室編『毛沢東詩詞集』(1996 年)も傍証に挙げられるが、毛の生前に大半が発表された「正編」42 首と死後公開の「副編」25 首は、傑出と凡庸、公と私の両面を見せている。後者には杭州絡みの作品は、2割弱の4首も占めている(1955 年の『五律・看山』、『七絶・五雲山』、『七絶・莫干山』と’57 年の『七絶・観潮』。最初の2首は固有名詞の「杭州」が登場し杭州の景勝を詠む物であり、後の2首は杭州近辺の銭塘江の潮の観想である)。
上記の蘇軾『飲湖上 初晴後雨2首』(1073 年)のほぼ丸9百年後、国交正常化の為に訪中するニクソン大統領は北京・上海の次に、杭州まで案内され〈劉荘〉に宿泊した(陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』、319 頁)。其の最高な訪問地・宿泊先の選定は中国側の接待の意気込み、及び官・民感覚の重層を感じさせる。何しろ「上有天堂、下有蘇杭」(註139 参照)と言う様に、杭州は地上楽園の代名詞と成り、新婚旅行の候補地としても常に一番の人気を集めている。
註139 で触れた党中央のスターリンへの誕生日贈り物を再び引き合いに出すが、江青は故郷・山東省の野菜に続いて、湖南刺繍のスターリン像、景徳鎮の陶磁器、浙江省の龍井茶、安徽省の祁門紅茶、江西省の竹の子、福建省の漆器、杭州の紡績品と刺繍等を提案した(出所同前)。毛の故郷・湖南が2番目に出たのは、周恩来に由る建国国宴の江蘇料理の湖南風改編と同工異曲だが、杭州の特殊な位置は此の選定でも好く判る。浙江省の特産と分類された龍井茶は、他ならぬ杭州が最も有名な産地である。毛は龍井茶を格別に好み、子女に飲ませぬ程の高級品に拘り(李敏著、多田宏敏訳『我が父 毛沢東』、近代文芸社、2001 年[原典=『我的父親毛沢東』、遼寧文芸出版社、2000 年]、362 〜 363 頁)、大飢饉の年代に肉料理を止めても其の贅沢を止めた話は聞かぬから、彼の物質・精神の生活に対する杭州の寄与と影響は実に高い。
国情の体現度を選定の物差しとした江青の発案は農産物と手工芸品の組み合わせも妙だが、茶と竹は昔の文人が肉料理より高次の享受の対象としたので尚更妙味が有る。工芸品の産地―浙江・安徽・江西、福建は、正に本稿で焦点を当てた華東沿海文化圏だが、江西に在る景徳鎮は「文革」中の小平の逸話を想起させる。彼は江西での軟禁生活を終えた際わさわざ景徳鎮に赴き、内外で有名な陶磁器工場で制作の全過程を見物し、其処で贈呈された花瓶を北京に持ち帰り大事に収蔵したが、娘が旺盛な好奇心の表現とした此の一齣(毛毛著、藤野彰・鐙屋一他訳『我が父・小平 「文革」歳月』、中央公論社、2002 年[原典=『我的父親・小平「文革」歳月』、中央文献出版社、2000 年]、上、384 〜 387 頁)は、優れた物産・景観・文化に対する傑物の「慕名」(名声を慕う事)・宿願の程を示唆する。
当時のも建国当初の江青も権勢が無かったので庶民的な選好と言えるが、江が選んだ工芸品は知名度からすれば順当だ。其処で毛と杭州の接点に刺繍が現われ、「湘(湖南)繍」の声価を改めて思い知った。「革命不是請客吃飯、不是絵画繍花」(革命は招宴でもなく、絵画・刺繍でもない)と彼は断じたが、前半は飲食接待の伝統の根強さの裏返しで、後半は故郷の工芸の発達が根底に有った事か。同じ有名な「蘇繍」が江青の案に無いのは、杭州と蘇州の格差の反映と思われる。「上有天堂、下有蘇杭」の2地の順は別に「蘇高杭低」を意味せず、「杭」が「堂」と同じ韻を踏む事や声調順(「蘇」「杭」は其々第1、2声)に由るが、2地とも刺繍の名産地であるから、成語の「錦繍山河」(錦で刺繍された様な麗しい山河)の代表格に相応しい。
金の首領が杭州の景色に傾倒したのも、中華民族の古今の王・民の大欲を考えれば頷ける。隋煬帝の享楽目的の大運河開鑿の伝説を民衆が疑わぬのは、祖国の山河の抗し難い魅力に対する自慢が一因に挙げられる。人民大会堂を飾る美術品の最大な目玉の中国画の題は、正に毛の祖国礼讃を用いた『江山如此多嬌』である。天下一の秀麗さが災いした杭州の遭難は、「出る杭は打たれる」の字面と語義を体現した。武田泰淳は滅亡体験に因る中華民族の叡智を、複雑で成熟した情欲を育まれた女体に見立てたが、戦争中の多くの中国女性は操と命を守る為に、故意に顔を汚しボロボロの服で魅力を隠すよう心掛けていた。其でも強姦を逃れ切れぬ場合も有るから、「紅顔」と「薄命」の相関も相対的である。
『江山如此多嬌』は「文革」中、作者の傅抱石(江西出身、江蘇省国画院院長。「文革」直前に逝去)・関山月(広東出身、広東省国画院院長)の冤罪に因り外され、「文革」後復活したが、国会議事堂の画竜点睛を成す象徴性には、国土に対する英雄や権力の征服欲と占有権の表出が有る。「王道楽土」の理想に因んで言えば、君主が国土を享楽に使う伝統は昔から有った。註146 のみみっちい裏金作りの話と矛盾する様だが、林彪は権勢を利用して大量な国土を軍事用の名目で占有し、保養地として部下に与え人心を収攬した(林青山『林彪伝』、7頁)。彼等は陰で毛の「封建的社会主義」を非難したが、所詮五十歩百歩なのである。「文革」中期に戦備の為に中央要人が全国各地に疎開したが、林彪が蘇州に落ち着いたのは意味深長だ。小林秀雄は『蘇州』(1938 年)の中で、中国の庭園は阿片を吸い美女を抱く富豪の退廃的な享楽欲求に合うと喝破したが、林・毛の私生活の不健康・不道徳の噂と結び付ければ合点が行く。左様な道楽を王の特権として容認する意識が毛の時代にも残った事は、人民を国家の主人公とする建前と抵触するが、自分も其の地位に就けば同じ事をしたい大衆の願望が窺える。隋煬帝南巡に伴う大運河開鑿の伝説の市民権は、似た追体験の潜在意識に支えられる物か。
隋煬帝の恣意的な大運河開鑿が結果的に南北の交通を便利にしたのは、是と非、善と悪等が相互転化する「怪圏」(メビウスの帯)めく現象だ。酒池肉林の退廃を極め、大勢の美女に絹紐で行楽用の船を流れに逆らって曳航させ、大運河の開鑿で夥しい人命を失わせた隋煬帝は、民衆には極悪人と見られるのに、国家を南北に直結させた偉大な統一家として毛に高く評価された、と李志綏は批判的に述べた(『毛沢東の私生活』、上、169 頁)が、建国初めに北京・頤和園を観覧した際の感想と併せ考えれば一理を感じる。同行の柳亜子(詩人、宋慶齢・何香凝と並ぶ「国民党3賢」の1人)は、民衆の血と汗で自分の楽園を建造させた西太后を「可恥」(恥じるべし)と指弾したが、毛は曰く、彼女が海軍予算を流用した事は当時では犯罪だったが、今から観れば、仮に海軍を建設しても帝国主義への土産に成るのが落ちで、頤和園は帝国主義に持って行かれる事が無く、人民に享受できるから、彼等が贅沢な無駄遣いをしたのよりはましだ。(彬子編『毛沢東的感情世界』、吉林人民出版社、1990 年、186 頁)黒い猫でも鼠が獲れれば好い猫だとする結果主義、「此一時也、彼一時也。此亦一是非、彼亦一是非」の相対原理は、此処でも面目躍如たる処だった。更に逆説的に思えば、君主の行楽用の工程は費用の多寡が知れるし、後ろ目痛さに因る歯止めが掛り易い。危険なのは寧ろ「大躍進」の類いの、大真面目な国家建設の工程である。昨今推進されて来た三峡ダム建設や「南水北調」「西(天然)気東送」は、毛の生前から青写真が出来ただけに、秦始皇や隋煬帝の気宇壮大な統一・建設に心酔した雑念、及び其故の思慮の雑さが無かったのか気に懸かる。
陳舜臣の文に出た揚州の可憐な瓊花は、映画・『紅色娘子軍連』(赤い女性中隊)の主人公―呉瓊花を連想させる。海南島・瓊崖地区の赤軍女性中隊の事績を基にした此の作品(1960 年)は、人気投票に由る《百花奨》を獲った。「瓊花」は「瓊崖」に因んだ名前と思われるが、「文革」前の映画の最高栄誉の獲得は隋煬帝を魅了した瓊花伝説と結び付ければ面白い。奇しくも海南島は本稿冒頭の「下海」の「熱点」であり、上海出身の監督・謝晋の「文革」後の『芙蓉鎮』も、「家畜の様に活き抜け」の名台詞を介して陳舜臣の中国観と関わる(註93 参照)。
「文革」中に革命現代バレーに改編された『紅色娘子軍』は、ニクソン訪中時の政府主催文芸夕べの目玉にも成った。国民党軍を負かす話の政治的な意図と共に、「文化革命」の旗手・江青の自己顕示の欲求も見え隠れしたが、江の意向で「瓊花」が「清華」に改名された事は興味深い。
「呉」に難癖が付かなかったのは、無産階級の「無」との同音のお陰だと思えるが、元の名前は「窮花」と同音で貧しい女性の表徴たり得るのに、江は「花」の可憐な形象を嫌った事か。其の正統な意識形態に基づいて工夫された「清華」は、朱鎔基の母校と周恩来の進学希望先の最高学府(註156参照)の名と重なり、江の低学歴の劣等感を映し出す。
尤も、江沢民時代の党中央軍事委員会副主席・劉華清や、上記の杜牧の詩の題に出た「華宮」即ち華清宮、楊貴妃の入浴で有名な華清池の名を思い起こせば、「清」に対する選好や「華」と連用する傾向も解る。巡り巡って、杜牧の多くの名作は任官地の揚州で生まれた物で、同地出身の江沢民の持ち歌―江蘇民謡・『好一朶茉莉花』(素敵な茉莉花)も、可憐な花を歌う内容である。
150)田中角栄首相訪中の2ヶ月前の1972 年7月、周恩来と公明党委員長・竹入義勝の会談でこんな問答が有った。「周 田中さんは佐々木(更三・社会党委員長)さんと同じ県の出身ですか。/竹入 首相は新潟県で、佐々木さんは宮城県です。/周 同じ東北です。ズウズウ弁が入っていますか。/竹入 首相はズウズウ弁ではありません。」(『日中国交正常化交渉の記録 外務省開示文書から』、『読売新聞』2001 年6月23 日)。
本稿筆者を含む多くの中国人が「ズーズー弁」を知った契機は、「文革」直後に上映され映画・『砂の器』(監督=野村芳太郎。1974 年)だ。松本清張の原作小説(1961 年)を読み返すと、日本に於ける「ズーズー弁=東北訛り」の認識や「ズーズー弁」への差別が出ている。作中に登場した研究著書・『出雲奥地に於ける方言の研究』は曰く、「出雲は越後並びに東北地方と同じ様に、ズーズー弁が使われている。世に此を“出雲弁”と出雲訛り或いはズーズー弁と称えられて判らない発音として軽蔑されている。」(新潮文庫、1990 年、上、264 頁)其の差別は高度成長期の日本の神話の影に映ったが、前大臣の娘と婚約した新進作曲家が貧困の出自と家族の病史を忌避し、戦後の混乱に乗じて大阪出身の戸籍を偽造し過去の知人を抹殺した。其の忌々しい事件の犯人が意外に理解され易かったのは、中国でも「麻瘋病」( 病)や貧困への偏見が強い故だ。本稿の「笑貧不笑娼」の例示とも繋がるが、上記の越後は田中角栄の故郷と『雪国』の舞台―新潟を含む。一方、出雲が在る島根県は竹下登元首相の故郷で、東京との1票の格差の断突の大きさや選挙傾向が示す様に有数な過疎地帯と保守王国だ。
犯人と同じ若手文芸家集団の評論家も、東京で山形出身のタクシー運転手から秋田方言を指摘されて不機嫌に成った(同上、148 頁)。「蘇北話」も上海で似た響きがするので、周は理解を込めて「ズーズー弁」に言及したのかも知れぬ。尤も、周の発音は周りから単に「南方口音」(南方訛り)と捉えられた(程華『周恩来和他的秘書們』、59、336 頁。「三原則」が「三原之」に聞こえたと言う例[336 頁]は、厳密に言えば江蘇北部の訛り)。国土の広い幅に因り物理的に差別し切れぬ事から、特定地域に対する差別は皮肉にも成り立ち難いわけだ。
英・米等では発音・声調を以て人の階層を判別し差別する傾向が有る様だが、中国では標準語は必ずしも教養の条件には成らず、逆に標準語の基盤―北京と東北の発音も、天津・上海・広東等の訛りと同様に漫才のネタとされる。漢語のあらゆる方言がお笑い芸人の射程内に在り、槍玉に上がった地域の人間も割り切って其の茶化を楽しむ状況は、考えて観れば奇異な気もするが、2つの逆説に気付かされる。第1、米国並みの人種の坩堝だから皆が平気でいられる。第2、嘲笑の対象たり得る事自体が安心材料だ。少数民族の言葉が余り風刺の標的にされぬのは、穿って考えるなら、尊重の現われと共に軽視や異端視の裏返しでもある。
猶、李鵬、江沢民が周恩来と二重写しに成る為か、江蘇北部の訛りを敢えて使う事も面白い。
151)「家畜に成っても活き抜け」や家畜管理→国家統治の話(註93 参照)とも絡むが、江沢民の懐刀と言われる曾慶紅の父親―毛沢東時代に交通工作部長(交通相。部長=大臣)、紡績工業部長、商業部長、内務部長を歴任した曾山は、高新に拠れば、私塾で学んだ後に屠畜業者と成り、自分の店を持ち豚を殺して肉を売っていたが、土地のボスの弾圧で商売を中止せざるを得なくなり、其処から社会への反逆精神を持つ様に成った(『中国高級幹部人脈・経歴事典』、174 頁)。
屠畜業は中国でも卑しい職種と見られていたが、毛の「卑賤者最光栄、高貴者最愚蠢」(卑賤な者は最も栄光有り、高貴な者は最も愚かだ)の様に、共産党時代では逆に労働階級の「政治資本」なり得る(政治的な点数稼ぎの材料を言う此の熟語は、「政治動物+経済動物」の複合性格を感じさせる)。本稿筆者は「文革」前に上海の小学校の社会科授業で、労働尊重の意識を深める教育として、大学宿舎構内の食堂飼育場で豚の屠宰を見学した事が有る。容赦無く斬られた豚が血塗れの姿と憐れな表情でもがき絶命に至った過程は、振り返ると其の時代の一部の死刑公開執行と同じく非情で刺激が強過ぎるが、「執行人」は結構誇り高く腕前を真剣に披露し、生徒も大真面目に見入っていた。翻って思えば、荘子の「庖丁解牛」も君主が職人の爛熟した屠宰技術を見学し、帝王学の手本を得た寓話である。
中共は蒋介石を「屠夫」「子手」(屠宰人。殺し屋)呼ばわりしたが、巡り巡って建国後の第3世代領袖の懐刀の父親の職業・事績も其の渾名と似通う。革命に投身した後の曾山は土地のボスを人民裁判で処刑し(高新。同上)、屠宰の対象は「階級の敵」にも及んだわけだ。家郷の江西が中共軍の発祥地と初期の本拠地である事は其の「屠刀」に合致するが、党中央弁公庁主任(事務総長。幹事長)・党中央組織部長の要職に昇り詰めた息子の歩みは、毛沢東時代の党中央弁公庁主任を経て華国鋒時代に政治局常務委員に昇進した江西の人・汪東興と重なる。
曾山は毛沢東時代に先ず中共華東軍政委員会副主任兼財経委員会主任、上海市副市長を始め、一連の「経済戦線」の要職を経て内務部長を務めた。最後の方は中央要人の情報を握る枢密の要に当るが、「経済戦線」の字面通り其の経歴は利+力の2元に跨がる。「利」「力」は字形に「刀」を共有するが、早年に営んだ屠畜業も刀と算盤、力と利の複合性格を持つ。息子が同じ商都から同じ内政畑で頭角を顕わしたのは、「儒商・徳治」時代の天の采配とも言うべきか。
周・毛の最後の主治医を観ると、張佐良は浮浪児の出自で政治的に信頼できるとされ(程華『周恩来和他的秘書們』、517 頁)、逆に5世代に亘る医師の家系と同治帝の侍医を務めた曾祖父を持ち、若い頃に国民党の外郭団体に入った事の有る李志綏も信任を受けた(『毛沢東の私生活』、上、26 〜 27、98 〜 99 頁)。「出身貧苦」「歴史清白」を貴ぶ毛沢東時代でも、絶対の基準は無く清濁合わせて人を用いる側面が有った。曾山の経歴・系譜は更に、同じ人や家系に於ける変易・転変の可能性と振幅を示唆する。彼は肉体労働と商売から出発し末に高官の地位に就いたが、父親は清末の秀才(科挙院試合格者)で後に家運が傾いた(同上)。
小平の娘は族譜を点検する際に、数多くの高官経験者を誇示する一方、動乱の為に一時乞食をした第1 代祖先の足跡をも披露した(毛毛『我が父・小平 T若き革命家の肖像』、55頁)。小平の波瀾万丈の人生と結び付くまでも無く、中国では栄枯盛衰や「高低貴賎」は常に相対的な物である。其の氏1 族の開祖が高官として蜀に入った1380 年(註132 参照)は、 小平の改革・開放元年(1979 年)との間に、干支の10 巡り(60 年× 10)や恰度6 世紀に限り無く近い連環が見られるが、歴史の連続と非連続を吟味すれば別の発見も出る。
註148 で氏1族の開祖と「独臂将軍」・余秋里の同郷関係に触れたが、曾山も同じ江西省吉安の人で、長征に参加した少数の女性赤軍の1人なる妻の名― 六金は、 と其の赤軍時代の妻・金維映と繋がる(金は失脚のと別れて李維漢と結婚し、息子・李鉄映は小平時代に政治局に入った)。曾慶紅は父親が「文革」中に病死した後、同郷・戦友の誼に由る余の面倒見を受け、余の秘書を務め出世の端緒を掴めた。母親が中共華東局保育院(幹部・烈士の子女を預ける施設)の院長を務めた事も彼の人脈形成に寄与した様だ(高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、176 〜 181 頁)が、 小平以後の領袖の腹心が小平の先祖や忠実な部下・余と接点や絆を持つ人物である事も、或いは天の采配と言えよう。
「文革」後逸早くを見舞いに行ったのが余秋里だが、戦争中片腕を失った彼に対しての子女は、「4 人組」失脚の伝達を聞いて1人だけ拍手しなかったのが余叔父さんだと皆が言っている、と無遠慮に冗談を飛ばした。余は大笑しながら、「彼奴等は無闇に儂をからかって面白がっているのだ!片手じゃ拍手しようにも仕様が無いじゃないか。然し、儂にだって遣り方が有る!片手で机を敲いたぞ!」、と応じ一同の爆笑を誘った。(毛毛『我が父・小平 「文革」歳月』、下、354 〜 355 頁)同時代の日本人から観れば質の悪い笑い話だろうが、曾慶紅と同じ「太子党」の1員なるの長男・朴方も、「文革」中の自殺未遂で永久に半身不随と成ったから、他者の苦痛を己れの幸福の確認材料にする意識は無かったはずだ。但し、現実を客観的に受け止める達観も感じ取れる其の遣り取りは、身体障害者を表わす毛沢東時代の「残廃」と同じく、配慮の不足も否めるまい。小平時代に「残疾人」と改称したのは時代の進歩と言うべきだが、「片手落ち」や「皮切り」まで差別語扱いにする当世日本の風習は、毛沢東時代の無神経と対極に神経質の観も有る。
家畜屠宰業や差別の話に絡んで、『辞海』第4版(1989 年)の「部落民」の次の解を引き合いに出そう。「日本中世期“賎民”的後裔。原被加以“穢多”、“非人”等辱称、明治維新後改称“新平民”或“平民”。現汎称“部落民”、意指“特殊部落”的“公民”、居社会最低階層。約200万人(1975 年)、分布全国各地、多集中居住在近畿、四国等地方。在城市従事屠宰、製革、竹木手工芸以及街道清掃、土木建築、搬運等所謂“賎業”;在農村則務農、捕魚。備受圧迫和岐視、曾進行長期闘争。1918 年積極参加了“米騒動”。第二次世界大戦後、掀起群衆性運動、並成立了“部落解放同盟”。」昨今の日本に於ける差別語自粛や差別語狩りの徹底ぶり(例えば、本稿筆者が使っていた某大手メーカーの1988 年製のワープロの日本語ソフトには、「部落」や「賎民」等の語彙は最初から無い)を考えるまでもなく、現在の汎称に関する記述は事実誤認に近く、社会の最下層に居るとの位置付けや代表的な職種・居住区の例示も、其を禁句とする同時代の日本人には憚かれる物だ(同時期の『広辞苑』第4版[1991 年]の「部落」の解は、「身分的・社会的に強い差別待遇を受けて来た人々が集団的に住む地域。江戸時代に形成され、其の住民は1871 年(明治4)法制上は身分を解放されたが、社会的差別は現在なお完全には根絶されていない」に止まる)が、被抑圧階級や泥臭い仕事を差別しない中共の理念に沿った邪気の無い扱い方と思える。
尤も、職業には高低・貴賎の差は無いと中共が唱え続けたのは、日本ほど酷くないにせよ職業差別が一部存在する現実の裏返しだ。特定地域に対する職業絡みの差別が相対的に少ないのも、所謂「賎業」や従事する人が特定の地域に固まっていない事と共に、「笑貧不笑娼」の熟語が示す様に、技能で生計を立てる事や生計の為に手段を問わぬ事を肯定する常識も一因だ。江蘇北部の人間が上海で受けた差別も、突き詰めれば2地の際立った貧富の格差が最大な要因だ。
胡鞍鋼の国内の「4つの世界」(後述)の論理に即して穿って考えれば、相対的に豊かな「第2世界」の人間もより豊かな「第1世界」から見下されかねないし、最も貧しい「第4世界」は全人口の半数も占める。他の地域を威張って差別し得る地域は全人口の2%しか無い北京や上海に限られ、逆に貧困の故に差別されても可笑しくない地域は膨大な範囲の為に差別し切れず、或いは豊かな地域や階層と関わる機会さえ無い事で、結果的に余り差別が生じない節も有る。
小平は毛沢東時代の「貧困な社会主義」を打破すべく「先富」を提唱したが、其の対概念として本稿筆者が思い付いた造語の「共貧」は、「共に貧困な状態」と「共産党時代の貧困な共産主義」の2義に引っ掛ける。中共を象徴する赤は極貧の形容詞でもあるが、旧中国の赤貧を変えなければ「赤化」は意味が無い。「親方日の丸」に因んで日本人が名付けた毛沢東時代の「親方5星紅旗」は、中国流で「吃大鍋飯」(大きな釜で[一律均等の]飯を食う)と言う。振り返って観ると、経済格差を人為的に無視した其の悪平等は、経済的な貢献度の高い地域の意欲を削ぐだけでなく、貧困地域にとっても万年窮乏に甘んじる微温湯と成るから好くない。
上記の論評は本稿の本筋から逸れた様だが、中国の多面性や共産党時代の暗部の解明に繋がる。
「第1世界」の上海の中でも、裕福な階層が多く住む中心部は「上只角」(上の界隈)、肉体労働者が多く住む周辺区域は「下只角」(下の界隈)と呼ばれる。阪神大震災の時に芦屋市と神戸市長田区の被害の対照的な軽重で、貧富の格差は此処でも不公平な待遇に繋がるとの嘆きが有った(佐野眞一『世紀末の光景』、『文芸春秋』1995 年3月号、124 頁)が、1937 年8月13 日の日本軍空爆で閘北区が最も犠牲と成った事も類似の現象だ。張佐良の経歴にも8.13 空爆の被害が有り(程華『周恩来和他的秘書們』、517 頁)、其の「出身很苦」(大変困苦の家庭の出身)は周恩来の主治医に抜擢された要因でもあるが、共産党時代でも当該地域の人間が過去の固定形象で差別を長らく受け続けた。
輿信所を使う日本流の身上調査と違って、中国では職場や当人への問い合わせで個人情報を聞き出すのが普通だ。其処で明らかに成った出自に因って差別が生じるのは、日本の同和問題にも似通うが、差別は雇用では見られず結婚の面に集中した。本稿筆者の親戚(原籍は上海、出身地は南京)も約10 年前、上海閘北区出身の大学の同級生に嫁ぐ際、一部の関係者に多少の違和感を持たれた。但し、改革・開放がもたらした意識の変化や職・住の流動性に因り、左様な観念は日増しに稀薄に成って来ており、此の2人も米国に移住し子供まで米国籍を取った。
3代で原籍が変る制度の有為転変を促す妙に此処で気付くが、中国は巨視的な時空や高次元から眺めれば、やはり変易の可能性を豊富に孕んだ人種の坩堝である。江蘇北部の人間への差別が根強い上海に江沢民が根を下ろし、上海の女性と結婚した(夫人・王冶坪は江の上海出身の継母・王者蘭の姪。高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、29、36 頁)のは、故郷・揚州は商業・文化の繁盛を誇る都会であると共に、上海人の「聡明、素質好」(註153 参照)に勝つとも劣らぬ彼の才覚に負う処が大きい。孟子は「天・地・人」3才の価値順位を、「天時不如地利、地利不如人和」としたが、個人の才覚を重んじる人本主義は中国の常識だ。
152)周恩来の出身地は江蘇省北部の淮安県。劉邦の故郷・沛県、項羽の故郷・下相(今の宿遷県)も江蘇の北部に在り、倶に「兵家必争之地」(戦争の双方が必ず争奪し合う地)・徐州の附近で、北の山東や西の安徽に近い。因みに、淮陰候・項羽の蜂起と戦死の地―呉と烏江は、其々江蘇省蘇州市と安徽省和県に当る。
153)出身地や訛りに基づいて、周を江蘇省淮安の人と認識する向きが中国に多いが、『辞海』の「周恩来」の項は「浙江紹興人、生於江蘇淮安」と言う。彼が1946 年に或る米国記者に3回に亘って語り、1982 年に夫人の校閲で内部刊行物に発表された経歴は、分量が少ない(1万字程度)ながら最も詳細な自叙伝とされる(南山・南哲主編『周恩来生平』、上、523 〜 533 頁)。其の中でも彼は曰く、「我的祖父叫周殿魁、生在浙江紹興。按中国的習慣伝統、籍貫従祖代算起、因此、我算是浙江紹興人。」(私の祖父は周殿魁と言い、浙江・紹興で生まれた。中国の習慣的な伝統に従って、本籍は祖父の代から数えるので、此に因り私は浙江・紹興の人と成る。)
戸籍の一貫性を連想させる「籍貫」(本籍)の字面と裏腹に、周の出自は2地に跨がった背景には、可能性を追う中国人の流動性の高さが有る。周の述懐の通り、紹興の中・上層を占めたのは知識人と商人で、倶に外への進出が特徴である。此の2つの群の『論語』と「算盤」は、周の「礼・利」の重層の根底を成した様に思え、4要諦図の「下半球」に当る此の2元の位置は、周の低姿勢に符合する。
本稿で掘り下げた昔の中国人の究極の夢―「金榜題名時」と関わるが、周の祖父の名・「殿魁」は科挙試験での「奪魁」(優勝を勝ち取る事)、皇帝に由る「殿試」(皇居宮殿での面接)に臨む願望を織り込めた物か(祖父の名は「攀龍」の説も有る[ウィルソン『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、3頁]が、天へ登り詰める上昇志向は其と一緒だ)。周も言及した様に、紹興は「師爺」(幕僚)の産地として有名だが、此の職種の資格は他ならぬ『論語』+算盤だ。
周は祖父までの数代も江西省・南昌出身の母方の祖父も「師爺」だから、中共最大の智嚢と成ったのは宿命を感じさせる。2家が結合した契機は周の祖父の代で江蘇の淮陰と淮安に赴任した事だが、周の文武両道の地下水脈を示唆する様に、紹興は古代の「書聖」・王羲之に続いて現代の文豪・魯迅を中国の文化に貢献し、南昌は周が指揮した蜂起で中共軍の発祥地と成った。
中国の研究者の最近の調査に拠れば周は魯迅の遠い親戚に当るが、2人とも没落官僚の家庭で生まれた事は興味深い。周は父親の世代で家運が傾いた要因に、資産は家屋のみで土地を持たぬ事と見栄を張る事を挙げた(ウィルソン『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、2頁)が、総理として国家の資産形成に腐心し(一例は金相場の安い時に輸入を増やし準備高を高めた事)、私生活於いても倹約を貫いた事は、先代の教訓を汲み取った節も有ろう。因みに、父親の名・「貽能」と省政府財務部職員の務めは、超能吏・周恩来の誕生の母体として意味深長だ。其の所属部署は算盤が必要と成る点で、胡錦涛の父親の仕事―雑貨店の会計(経理)と通じる。
ウィルソンに拠ると、周は曾て兄弟や従兄弟たちと共に毎年、紹興に在る祖父の先祖代々の邸へ行き、先祖の位牌に礼拝した(『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、3頁)。何時から何時までの「毎年」かの明記が無いのは瑕疵だが、其の旧家詣では中共の指導者も脱出できぬ中国の旧習の根強さの証だ。思うに、共産党時代にも生きて来た原籍の概念規定と位置付けは、血統・文化の2面で先祖との連続性を認識させる帰属意識の産出−維持装置に思える。
此の制度は否応無しに中国人社会の求心力に寄与した反面、高い流動性の裏返しでありながら流動性を否める要素も含まれる。本稿筆者の例を挙げれば、父親の出身地に随って戸籍上の原籍は四川省・合江県と成っているが、当の父親は若い頃に上海の大学に進学した後1度も故郷に帰らず、筆者も其処を訪ねる事は永久に無かろうから、前近代的な不条理も感じる。毛沢東時代では原籍は管制対象の強制送還先や勤務の配属先等に好く選ばれたので、不都合を避ける為に筆者は成人後、履歴書の「原籍」「出生地」の欄に倶に「上海」と記す事にした。生後の個人情報を在職中ずっと保管する職場の人事部門は、原本と照合する等して記載の不整合に厳格なはずなのに、数回の転職先では全然疑念が持たれなかった。
此の個人的な体験は直ちに建前と現実の乖離や原籍意識の有名無実の結論を導くまいが、筆者自身は四川+上海の重層が出来た上で後者に重みを置くのが事実だ。同じ地縁の中でも血(血統)より水(風土。暮らし)が勝る其の順位優先は、生活歴に拠る実際の絆の深さの他に、「天府之国」の美名が物語る様に一部の富裕地域も有る四川の中の田舎町が比べ物に成らぬ程の、曾て「東方の巴里」と呼ばれた中国最大の国際都市の見栄の好さも無くは無い。
小平は「南巡講話」で上海の「人材優勢」を讃え、「上海人聡明、素質好」と持ち上げた(『視察上海時的談話』[1991 年1月28 日〜2月18 日]、『小平文選』、第3巻、366 頁)が、上海人として誇りを感じる傍ら四川人としての偉業に共鳴を覚えたのは、筆者の御都合主義を超えて中国的な「1身2籍」(「1国2制度」を擬った筆者の造語)の幅の所以だ。
「都合」は字面に「倶に合う」意を含み、語義に「合計する」と有るが、周の原籍と出身地も倶に筋に合い、而も相乗の影響を持ち合った。彼が紹興を原点として強調したのは、文化面の優位に因る価値判断も有ったかも知れぬ。因みに、彼は上記の会見で母親の事を語る際に開口一番、「我的母親長得很漂亮、為人善良」(私の母親は大変な美人で、人にも優しかった)と、先ず外見の好さを誇った。
父方・母方の祖父及び父親の件と此の母親の件との間に、周は母方の祖母を淮陰の農村の女性として紹介し、其の存在に因り自分の血には農民の成分も有ると語った。紹興の官僚とは対極に見えるが、中共の価値観では革命の主力軍なる農民は知識人より高い「家庭出身」とされたので、同工異曲の誇示とも思われる。物理的に遠い紹興を尊びつつ淮安の窮乏を評価の材料に転化した姿勢と効果は、別の意味で『増広賢文』の「窮在閙市無人識、富在深山有遠親」を連想させる。
周を「浙江紹興人、生於江蘇淮安」と記した『辞海』では、「淮安」の項に「為周恩来同志故郷(周恩来同志の故郷と為り)、有“周恩来同志故居”」と有り、「紹興」の記述は「有魯迅、秋瑾故居和(=並びに)周恩来祖居」に止まる。2地の事実上の親疎は此処ではっきりするが、註149 の陳少敏・劉胡蘭・武則天の生地の話と関連して、倶に女傑所縁の地である点が面白い。反清の恐怖活動で処刑された秋瑾は、「絶命詞」(辞世の句)の「秋風秋雨愁殺人」(武田泰淳に由る伝記[1968 年]の題)と共に名高い。『辞海』の「淮安」に其の祠(霊廟)の所在が記された梁紅玉は、同辞書の「梁紅玉」「梁夫人」の通り、夫・韓世忠と共に金に抵抗した南宋の将軍だ。
史書に記載が無い彼女は、秋瑾と別の意味で伝説的な人物と言えるが、周の英雄志向の形成に対する2人の影響は一考の価値が有る。
周の自己規定や体制の正式な見解に関わらず、彼が江蘇・淮安の人として広く認識されて来たのも、興味を引く事象である。理由の「口音」(訛り)と「口味」(味覚の好み)は何れも口と関わるから、「名」の字形に含まれる事も含めて「初めに口有りき」の原理も成り立とう。其の「蘇北口音」は放送媒体の伝播で知れ渡ったが、複数の秘書は「家郷菜」(故郷の料理)の「淮陽菜」に対する彼の愛着を証言した(程華『周恩来和他的秘書們』、289、294 頁。「淮陽」は「淮揚」[註139 参照]の誤りか。『辞海』の解の通り、「淮陽」は河南省の地域名)。
夫人が故郷・河南の食べ物を好んだ事(同、295 頁)と同様に、人間の生理的な素地の強固さが思い知らされるが、周が好きな「獅子頭」(同、294 頁)は江沢民の故郷の揚州料理の代表格でもある。「肉末」(ミンチ)で作るでかい肉団子を「百獣之王」の頭と名付けるのは、如何にも中国的な覇気の表現だ。興味深い事に、 小平も周と同様「獅子頭」を作るのが得意だった(毛毛『我が父・小平 「文革」嵐月』、上、332 頁)。味・色の淡白さを特徴とする広東料理も、名物の「龍虎闘」の名と材料(蛇肉と猫肉)の様に、人を食う奇抜さが一面に有る。因みに、毛が周の「保守性」を非難した1958 年の南寧(広西壮族自治区)会議の際、会食に出た此の珍味は脂濃い故に、大勢の参加者は食べ難かったが、毛だけは舌鼓を打った、と言う(李志綏『毛沢東の私生活』、上、320 頁)。
猶、周は唐辛子を好まぬ点で毛と違うが、気分高揚の時に「紅焼肉」(豚肉の醤油煮込み)を切望した(程華『周恩来和他的秘書們』、294 頁)習性は一緒だ。
154)12 歳の毛沢東が通った私塾の師・郭伯勲が彼の大成を予感した理由は、勉学の才能や資質の他に女性の様な相貌や発声が有った。留候・張良に対する太史公・司馬遷の賞讃―「余以為其人必魁梧奇偉、至見其図、状貌如婦人好女」が思い浮かんだ、と言う。(尹高朝編著『毛沢東的老師們』、36 頁)
一方、周恩来は端正な顔立ちや甲高い声の故に、中学で常に女役として舞台に立っていた。其を自慢する彼に対して、女々しいとか倒錯と捉える友人も居たし、或る米国学者は潜在的な同性愛の示唆とさえ見たが、此の史実と反応を取り上げたウィルソンの観方の通り、其の女役に就いて深く詮索する必要は無く、其の成功は単に芝居が大好きで、順応性に富み、人をうっとりさせる魅力を備えていただけの事だ。(『周恩来 不倒翁波瀾の生涯』、14 頁)付け加えれば、完全な虚構か現実の脚色の要素の強い演劇で異性を巧く扮した事は、太極図の黒・白の相互内包を引き合いに出すまでもなく、2重の高次な複合能力・魅力と言うべきだ。
更に付け加えるなら、2人とも「男人女相」の一面を持ちながら、男の中の男の名に恥じない。
「美男子」「貴公子」の美称が付く周の相貌の特徴は他ならぬ剛毅であり、林彪と同じ濃い眉も男性的な特徴だ。毛の学生時代の異名―「毛奇」は、抜群の身長を形容する上記の「魁梧奇偉」にも吻合するが、其の頑丈な長身は「南人北相」の観も有る。竹内実は毛沢東の会見記で、次の通り記した。「(略)背が高い。肩幅も広い。しかも堅牢な感じがした。/よく中国の絵に描かれている猛虎を思い出した。ぐっと張った両肩は、そのような絵の虎にそっくりだった。全体に骨太で、南方の中国人特有の柔軟さは無かった。」(『動よりは静の人 毛沢東―忘れ得ぬ人』。
『文芸春秋』2000 年2月臨時増刊号『私たちが生きた20 世紀』、221 頁) 小平と対照的に背が高い江沢民も北方の華国鋒並みに見栄が好いが、身長に反比例する華・の実力や貢献度は、見栄と内実の乖離を思い知らせる点でも陰陽原理と繋がる。
155)江沢民が上海交通大学を卒業した1947 年、朱鎔基は清華大学に入ったが、彼は上海交通大学を同時に受験し2方合格した(高新『中国高級幹部人脈・経歴事典』、48 頁)。
156)周恩来が進学した天津・南開中学は実は第2希望で、第1希望の清華中学(清華大学の前身)が不合格と成ったのは、合格判定で各地域出身者の均衡を配慮する学校の方針に因り、学力と競争率の高い長江流域の受講者が不利を蒙った故だ、と言う(ウィルソン『周恩来―不倒翁波瀾の生涯』、11 頁)。 
 
共産党中国の4世代指導者の「順時針演変(時計廻り的移行)」
 理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論

 

1.金字塔型の経済・文化格差と政治支配の構造 「文革」の後期に毛沢東が唱えた「3個世界」論では、米・ソ2超大国の「第1世界」と先進国・中進国の「第2世界」に対して、中国は「第3世界」の途上国と分類された。ソ連の解体に因り元の「第1世界」は成り立たなく成ったが、中国は「第3世界」の1員としての自己規定を変えていない。21 世紀の中葉に国民生活が中進国の水準に達すると言う目標は、先進国・中進国・途上国の3階層構図の上に立つ。一方、朱首相の智嚢と目される経済学者・胡鞍鋼(中国科学院+清華大学国情研究中心主任〔首席〕・清華大学教授)は、『地域と発展:西部開発新戦略』(2001年)の中で、経済力に拠る国内の「4つの世界」の区分を提起した。
其の「第1世界」は上海・北京・深経済特別区等の高所得発達地域で、直近の1人当り域内総生産が世界の所得上位中級の国・地域よりも高い;「第2世界」は天津・広東・浙江・江蘇・福建・遼寧等の大・中都市、沿海の所得上位中級地域で、同数値が世界の下位中級より高く上位中級には及ばぬ;「第3世界」は沿海地域の内の河北・東北・華北中部の一部を含む所得下位中級地域で、同数値が世界の下位中級の平均を下回り世界の第100 〜 139 位の間に位置する;「第4世界」は中・西部の貧困地域・少数民族地域・農村・辺境地域等の低所得地域で、同数値が世界の第140 位以下の水準と成る。全人口に占める4地域群の比率は、其々2%強、22 %弱、26%と約半分である1)。
此の分析は大陸のみで台湾は含まれないが、上記指標が世界の上位に入る台湾の現状を考えても、海峡両岸の合体の困難さは好く解る。「1国2制度」に由る祖国統一を促す大陸は1981年の提案の中で、台湾省が財政難に陥った場合は中央政府は援助するとの餌を撒いたが、無知と指摘された2)のは仕方が無い。政治・外交・軍事等の総合的な国力に頼る大陸と、大陸時代の蓄財を底力とした経済が強みを成す台湾は、其々「力」と「利」に重みが置かれ優位が在る。
台湾の地位の安泰が示唆する「利=力」(経済力即実力)の等式は、生産力の向上を国家の至上命題や指導者に対する究極の評価基準とした小平の持論3)の根底にも有ろう。
香港の中国返還後は香港の大陸化よりも大陸の香港化が起きるとの観測が有り、其が半ば現実に成りつつある事は、「人往高処走」(人は高き処に行く)と同じ理屈だ。大陸と台湾の拮抗は経済格差に因る処が大きいが、同様に縮み難い大陸内部の貧富の差は民衆や地方・少数民族の離反を招きかねない。’99 年に発足した国家的な工程―「大西部開発」は、此の火種が一刻も放置できぬ極限状況の結果であるが、毛・時代の西部開発支援は何れも高揚が長続きしなかった。理想主義の気炎が盛んで政治的な統制が厳しい毛沢東時代の末期にも、「天南海北我都去、就是不去新西蘭」(天[津]・南[京]・[上]海・北[京]の何れにも行くが、新[疆]・西[蔵]・蘭[州]だけは御免だ)と言う戯れ詞が若者の間に流行っていた。
「天南海北」は元より中国全土を指し、「新西蘭」(Newzlandの意訳+音訳)は地理的に世界の中の「辺遠地区」(中央から遠く離れた辺境地帯)の観が有るから、第2世界(先進国)のニュージーランドと第3世界(途上国)の中国との落差と結び付け、地球の反対側の彼の島国の特産―羊毛が新疆・内蒙古と通じ合う事を思い浮かべれば、実に辛辣な妙味を持つ皮肉と言える。
広義の「大西北」は面積が国土の約半分を占めるにも関わらず、人口の比率が僅か5%程度に止まる状況が百年も変るまい4)事は、「貧弱=遠心力・不安定要素」「富強=求心力・安定装置」の原理を裏付けている。
高所得地域の加速度的な成長に因り国内の2極化は益々拡大し、世界の先進国と途上国の場合よりも歩み寄り難い、と言う悲観的な展望は現実味を増す一方である。国家統治の重荷と成る此の断層は、政治文化に於ける不均衡の問題にも繋がる。即ち、人口の相当数を占める貧困地域・貧困層からは、国家指導者は殆ど出ていない5)。偉大な人物・偉大な国家・偉大な機会を偉大な指導者の条件とした元米大統領・ニクソンの命題6)を用いれば、「窮則思変」(窮乏すれば変革を考える)の革命原理との不整合は説明し易いが、別の矛盾も派生して来る。
「第1世界」と「第4世界」の人口や所得水準の巨大な開きは、中国の社会・地域の金字塔型構造を浮き彫りにしている。同じ古代の世界4大文明の結晶として万里の長城と並ぶ埃及の金字塔は、縦社会に於ける頂点の強力な支配、及び天と底の絶望的な隔たりを象徴し、途上国の砂漠の真っ只中に聳え立つ形象も加わって、老大国・中国の基礎的な条件や統治の構図の絶好な見立てに成るが、対の観念を以て更に掘り下げれば、頂上の両雄(深は上海と共に北京に無い証券取引所を有しながらも、政治力や規模の点で雄を称えるには程遠い)の間の高次な相異も気に掛かる。
天安門事件の際の知識人が自任した「精英」(英才の精粋)は俗に「尖子」と言うが、「小」が「大」を凌ぐ「尖」の字形は件の金字塔
構造の表徴としても妙味が有る。頂点に在る北京と上海は人口比が其々1%程であるが、局地ながら片方が政治の最高峰、片方が経済の選手権者という性質に因り、太極図の「陰陽魚」の両目めく全国の焦点を成す。「画龍点睛」の寓話に因んで言えば、「巨龍」の片目に当る北京こそが、偉大な環境や機会に最も恵まれている処なのに、辛亥革命以降の約1世紀以来、北京出身の国家指導者は不思議にも皆無に近い。
毛沢東時代から人材・資金等が全国から北京へ吸い上げられ、上海と北京の出版社・新聞社数が逆転した結果7)が示す様に、文化の尖端も結局は政治の中心に敵うまい。にも関わらず北京が国家指導者を生み出さずにいる事は、政治と経済・文化・精神風土等との乖離を示唆する。
意味深長な事に、毛は中共指導者に多大な影響力を持つ『辞海』の改訂という国家的な文化事業を上海の専門家集団に委ね8)、 は権力の中心に遠く離れた上海から江沢民、朱鎔基を其々自分の後継者、周恩来の膝元で育った李鵬首相の後任に起用した。
天安門事件後のは指導部の中の武力鎮圧の功臣を昇進させぬばかりか、楊尚昆(国家主席・党中央軍事委員会第1〔筆頭〕副主席)・楊白氷(中央軍委秘書長・軍総政治部主任)兄弟の実権を取り上げた。逆に、上海で『世界経済導報』を停刊させ急進的な知識人に鉄槌を下しつつ武力行使を拒んだ江、上海市民向けのテレビ演説で北京の武力鎮圧に態度を保留した朱に軍配を上げた。同じ四川出身で親交の深い楊尚昆を自ら切ったのは一見、自ら決断した武力鎮圧を否定する不条理、地縁−「人縁」(人脉)社会の伝統に背く不人情の様だが、「力治」志向の後退の表徴―指導部頂点からの西南出身者の消失は、次世代の脱意識形態・非軍事的な治国を望むの一種の禅譲とも言えなくない。
「此一時也、彼一時也」や「彼亦一是非、此亦一是非」に照らせば、其の「順天応人」(天意に従い民意に応じる)の有為転変として納得が行くが、孫文も賛同した『易経』の此の4字格言9)は此の1件に於いて、時代の要請に応え人材の実状に合わせた選択とも合致する。「1国2制度」を唱えたは権力譲渡に於いても「双軌」(複線)を見せたが、茅台酒の酒精含量の2本化も似た時流の変化の表現に成る。赤軍の長征の途中で周恩来が偶然に口にした事が契機で共産党時代に言わば「国酒」の声価を得た茅台は、海外市場の需要や国内消費者の嗜好の国際基準との「接軌」(軌道の接続。規格・基準同一化の譬え)に随って、従来の53 度を維持する一方43、38度物も創出された10)。
其の濃烈・淡麗の同居は伝統と時流の共生と解釈できるが、南部亜熱帯の貴州や四川の酒の強烈さは料理の「南淡北濃」と併せて、国内「文化溝」の超克・融合の先天的な可能性を示す物だ。「北人南相・南人北相」の混血・相乗りを「理・礼」と「力・利」の論座に当て嵌め、「是亦彼也、彼亦是也」の複眼で観れば、対立の末の統一が又も見えて来る。が経済成長を政治戦略の中核に位置付け、政治的な野心の薄い江が天安門事件で漁夫の利を得た事は、北京の『論語』の中に「算盤」が包まれ、上海の「算盤」の中に『論語』が含まれる仕組みを立証した。 
2.孔子の「庶→富→教」と共産党中国の4世代指導者の「順時針」移行
改めて『論語』の中の「算盤」を点検すると、正統な礼教が敢えて光を当てなかった次の語録が目に付く。「子適衛、冉有僕。子曰:“庶矣哉!”冉有曰:“既庶矣、又何加焉?”曰:“富之。”曰:“既富矣、又何加焉?”曰:“教之。”」(孔子が衛に行った時、冉有が馬車を御した。孔子が「(此の国は)人口が多いね」と言うと、冉有は「人口が十分に多い場合は、何をすべきでしょう」と訊ねた。孔子が「富ます」と答えると、冉有は「富裕に成った場合は、何をすべきでしょう」と訊ねた。孔子は「教育する」と答えた。)11)
此は個人の損得とは次元が異なる国家の『論語』+「算盤」の話と言えるが、荀子の「先義後利」と対照的な「先富後教」論は、「聖人」・教育家の孔子の精神重視の固定形象とずれた様でありながら、中共が信奉するマルクスの唯物主義とも合う常識的な原理なのだ。管子の「凡治国之道、必先富民」(凡そ治国の道は、必ず先ず民を富ますのだ)12)、「倉廩実則知礼節、衣食足則知栄辱」(倉廩が実れば即ち礼節を知り、衣食足りれば即ち栄辱を知る)13)を思い起こせば、実務志向に富んだ儒教の本来の姿は再び確認し得る。
漢字が示す概念で思考する習性を華人の特質とした竹内実の命題を発展させるなら、中国の歩みも漢籍の道筋に沿う処が多いと思える。反「孔教」の新文化運動の潮流から生まれた中共14)も、建国後の半世紀に於いて謀らずも孔子の青写真通りの展開を見せた。「人口衆多」を最大な資本に強盛志向を貫く毛沢東時代15)→数の力より生産力・生活水準の向上を目指す小平時代→貧困から脱出した後に精神の豊かさを追求する江沢民時代、という変遷は正に「庶矣」→「富之」→「教之」の3段階である。
一部の人や地域が先に豊かに成る事を奨励するの「先富」政策は、期待通り他の人や地域への波及効果を以て国全体の発展を促したが、孔子の「先富後教」も同工異曲の「先富」論と看て能い。は自ら舵を取る改革・開放に於いて、’78年末に政治から経済への「工作重点転移」に踏み切った後、’80年に「社会主義精神文明建設」を打ち出し、’86年に運動で此を推進したが、此も一種の「先富後教」に当る。其の戦略の実現の為’80年に首相に起用された趙紫陽は、奇しくも件の衛国の都―河南省滑県の生まれである。
人口が多い程1人当りの国富が稀薄化し、豊かに成れば道徳低下の可能性も高まる。大所帯や富裕の其の落とし穴に対する孔子の洞察は、共産党中国の道程でも証明された。河南の一隅に在った衛国が比べられぬ規模の老大国に於いて、「庶」→「富」→「教」の2段飛びを一気に敢行したのは、大変な偉業と言わざるを得ない。物心2面の理想の高さや現実との乖離の大きさ、2兎をほぼ同時に追わねば行けぬ故の2刀流に因って、様々な混乱、混沌、動揺、自家撞着が起きたが、転換期特有の止揚や渦巻きと受け止めれば当然な事である。
大鉈を揮う荒業が強いられた方向転換は、短期間で大幅に修正しないと決定的に転落して了う様な状況の所以だ。末期も含む毛沢東時代の隠れた「礼・利」16)の反面、「理・力」の肥大が著しい傾斜を招いた事実も否めない。其の時代の「革命+強大」の理想は複眼に見えつつ、覇道の一極に尽きようとも思われる。其と対蹠を成す江沢民時代の「徳治」は逆に、単眼的な観も有りつつ実力の増強・行使の含みを持つ。覇道から王道へ転化する途上の「儒商」は、礼義の保障たる富裕の実現を目指す「富・教」志向の複合として必然性を持つ。
毛沢東時代の意識形態+軍事独裁は「理+力」の組み合わせの様に思えるが、4要諦の概念図17)では上陽・上陰の2元に当て嵌まる。倶に上部に在る「理」の高邁・光明と「力」の高圧・暗黒は、白地と黒地で表わす陽・陰の2極を成す。人口の数を資本とし実力の増強や利益の獲得を図った毛沢東時代は、内実に於いて「力・利」に偏る側面も有った。4諦図の右側の此の2項は左側の「理・礼」と乖離し、立派な建前と対極に在る意味では陰の部類に入る。其の時代の壮麗・明朗の外観の裏の陰湿・混沌は、巡り巡って此の2者の黒地+白抜きの形象に合う。
第9回党大会の「主席台」(雛壇)で毛の左側に坐った「文革」派は後に失脚し、右側の実務派・老元帥集団の系統は小平時代の治国の主宰と成った18)。英語のleft の「左」「急進的」「弱い。無価値」(古英語の意)とright の「右」「正しい」「権利」の多義は、其の左・右の2翼の特質に妙に符合するが、「文革」後の変革は「左半脳」の「理・礼」から「右半脳」の「力・利」への「重点転移」に見える。共産党中国の歴史と将来像を4要諦図に即して考えれば、4極の間を価値順位が「順時針」(時計廻り)方向に沿って回転・流動する軌跡・指向性に気付く。
[ 4要諦を軸とする4世代指導者「順時針(時計廻り)」移行の概念図 ]
毛の時代では建前は「理+礼」で、裏に「力+利」の側面も有り、2つの対の間の「理+力」が本質と思え、対蹠の「礼+利」の結合は著しく欠けていた。其の重心は「理+礼」「理+力」「力+利」の3つの対の加重平均―「理」と「力」の中間に当り、頂点の中央なる位置は「太陽」・毛の垂直支配に似合う。
時代では上代の「理+力」は継承され、裏だった「力+利」は建前に近い重みを持ち、「儒商」が象徴する「礼+利」の結合が新たな特徴と成り、逆に毛の時代の建前―「理+礼」は少し欠けていた。其の重心は3つの対の加重平均―「力」と「利」の中間に当り、右寄りの中庸の位置は象徴的である。
江の時代では「理+力」の軸は意識形態や軍事独裁の稀薄化に伴って後退し、「利+礼」の軸に立脚しつつ、「力+利」の軸から「徳治」が象徴する「理+礼」の軸へ重心を移して行く。3つの対の加重平均―「利」と「礼」の間に位置する重心は、指導者の低姿勢や社会の泥臭さに相応しい。
此の3世代の指導部の重心と成った複合次元に跨がる連結の線は、毛の時代の→ の時代の→江の時代のという変遷を見せる。天が地を蓋うと地に足が着くは、同じ縦軸で凸型と凹型の対を成す。毛沢東時代の27年の激震・多難と逆に、其の半分の13年半に亘った江沢民時代は高成長・多幸が目立ったが、対蹠に在りながら基軸を共有する点は、中国思想の対立・統一原理に符合する。領袖の権威を樹立すべく躍起に成った江の健気さは、弱体の自信不足に因る神格化の強迫観念が薄かった毛19)の裏返しと思える。
毛は「文革」で「自下而上」の造反を煽てたが、下から突き上げる大衆運動に対する彼の制御は、逆の「自上而下」(上から下ろす。トップ・ダウン)である。上山春平は日本の凹型文化の理論的根拠を道教の逆説から見付けたが、其の女陰の見立て―谷の窪み・穢れの故の生産・増殖の可能性20)は、江の「虚懐若谷」(虚心坦懐、谷の如し)の一面にも見られる。一方、「谷」の字の上部の空へ向い天を衝く形は、ボトル・アップ故の下剋上の野望を漂わせるが、其の上昇願望と背伸びと対照的に、 小平は名前通り水平軸に腰を据えていた。
天安門事件後の国際社会での孤立化を凌ぐ為に16字方針を決め、中の「韜光養晦、決不当頭」(韜晦・雌伏に徹し、決して頭に成らぬ)は、権力の頂点を極めた前後の彼及び胡錦涛の共通点と言える。最高位の獲得に関する2人の淡白さは実務志向にも因るが、2人の指向性と個性の濃淡は上記の図式の通り対極を成す。小平時代の右に立って左へ向うは、資本主義を導入しつつ社会主義の堅持に力点を置く姿勢の表徴に見え、胡錦涛時代の左に立って右へ向うは、社会主義の旗を掲げつつ「全球化」経済を進める路線に符合する。
4世代の指導者の奇数組と偶数組の対立・統一は、90 度ずつの「順時針」の右廻りの正転回を経て、慣性を以て連続の円環の完成へ向かっている観が有る。作為的で恣意に描いた図式と思われようが、正→反→合の弁証法、漢文の起承転結、漢詩の平仄抑揚、漢語の4声調、漢字おおの「方塊」(方形の塊)構造、中国人好みの左右対称、陰陽原理の四方・四季の循環、在庫循環を示す「在庫時計」「景気時計」21)を思い浮かべれば、律儀な秩序有る展開は意外と多い。経済法則を治世の梃子とした管子も、陰陽の相剋相生を万物の発展の摂理と捉えた22)。 
3.「波浪式前進・螺旋形上昇」と4要諦・4段階の内なる変容
「無産階級専政(独裁)」を謳歌した毛の「力治」→市場経済原理を駆使したの「利治」→伝統の再生産力を活用した江の「礼治」の延長線に、次世代の「理治」の指向性が見えて来る。4諦図の下の「礼+利」に当る「儒商」は、礼教の成熟の故の謙遜や中共が信奉する唯物主義の土台―下部構造への重視に合致するが、時計廻りの次の区間―「礼+理」は他ならぬ哲学的な意味の上部構造だ。一方、上方の「理+力」は王道と覇道の複合を持つ「自上而下」の高圧性が有る。天安門事件より先に建国後初の戒厳令が敷かれた西蔵の「暴乱平定」を指揮した胡錦涛が次世代の頭に選ばれた事には、2巡目の循環の最初の「理+力」の複合の複線が敷かれている。
今次党大会は建党81周年の後に開催されたが、此ほど総決算と新出発に似合う節目は珍しい。
横・縦各9個で並ぶ天安門の装飾用のお碗状の大きな釘が象徴する様に、1桁の最大の数の9の2乗―― 81 は神秘な極致の意を持つ。『西遊記』の中の経典貰いの為の印度への旅は、江沢民の執政期間とほぼ同じ14 年近く(5048 日)の間の、81 回に亘る受難と10 万8千里に上る道程を経て漸く成し遂げたが、其の試練は戦争中の「万里長征」と「社会主義新長征」にも通じる。清王朝が香港を99年の租借期間で英国に譲渡したのは、2桁の枠内でギリギリ収めようという苦心の他、「久久」(長久)との同音も一因と言われたが、直近の返還は81 に含まれる「九九帰一」の法則の体現とも言える。
「九九訣」(九九)の「九九八十一」(9×9= 81)も、略して「九九帰一」と言う。2千数百年以上の歴史を有す此の掛け算の要訣は、春秋時代では「九九八十一」が冒頭に出た23)が、今は「一一得一」(1×1は1)で始まる。基礎的な算段から終点へ導く運びは、『西遊記』の「西天取経」(西天へ経典を取りに行く)物語の過程重視と通じ、結果を「得」と表わす処は結果・利得重視の傾向を反映するが、中国の「九九」は時間の次元でも玄妙な数を成す。1つは夏至と冬至からの9日×9の区切りで、今や冬を指す場合が多い。第3、4節の「三九・四九」(1月中旬前後)は厳寒の代名詞とも成り、81 日後の3月中旬の陽春は熟語で「九九艶陽天」(九九[明け]の麗かな春の日)と言う。
もう1つは旧暦9月9日の重陽節であるが、此も西暦とは別の時間体系を浮き彫りにする。毛は1929年の『采桑子・重陽』で、毎年の此の節句と共に老いて行く人生の寂寥、及び自然・革命の永遠を詠んだ。西暦10月に書いた此の詞の複雑な心境は、秋の開催が多い昨今の党大会に於ける世代交替と重なれば興味深い。一方、毛と彼の時代の二重時間と「天数」を表わして、彼が指揮した中共軍草創期の「秋収起義」(秋の収穫期の蜂起)は、’27年の西暦9月9日の事である24)。「陽数」(奇数)の9の限りを尽くした様に、其の「陽寿」(天寿)は49 年後の同じ日に終った。仏教で忌引きの重要な節目と成る49は、1桁の「陽数」で2番目に大きい7の2乗だが、9月9日は夏至の6月22日からの「夏九九」の終点に近い。
孔子・孟子の没年に由来した中国人の厄年―73、84歳は、晩年の毛に気を揉ませる不吉の暗示と成った25)。民衆から「万寿無疆」(長寿無限)の祈願が捧げられた彼は83 歳未満(数え歳84)で逝り、国際共産主義運動の長年の旗手・ソ共が築き上げた超大国も74年の歴史に幕を閉じた。第2の「鬼門」に差し掛かった目下の中共も、物理的な高齢や命運の限界を憂慮する時期に在ろう。第1回党大会の13 人の出席者は全国の53 名の党員を代表したが、建国53 年後の党員総数(6千6百万人)は其の125 万倍にも膨らんだから、歴史・規模とも老大国(和製漢語の「老大家」を擬った筆者の造語)・中国の「老大党」と言える。
「老大」(長兄)と自任し「兄弟党」に威張ったソ共に毛は反撥したが、「蘇東波」(「蘇東坡」の語呂合わせで、蘇連・東欧[社会陣営崩壊]の衝撃波を言う1昔前の流行語)の後は、頭数が英・仏・伊の人口(其々6千万弱)に匹敵する世界最大の政党として、中共は否応無く西側に対抗する勢力の先頭に立たざるを得ない。今大会開幕日の11月8日が露西亜革命85周年の翌日であった事は、別に意図が無かったとしても象徴性を感じさせる。今後も西暦の最後の桁が2、7の年の開催なら、後3回目は其の人類史上初の社会主義革命の百周年での開催と成る。
70歳定年の直前まで胡総書記が2期務める場合は、次世代領袖が誕生する10年後の大会は中華民国建国百周年に当る。
変易に満ちた歴史は恰度百年で周期的な変動が起きるほど律儀ではないが、西暦の世紀と同じ長さで天寿の上限と見られる此の3桁の時間単位は、巨視的な回顧や展望には便宜的で有効な視圏に成る。社会主義革命や近代国家建設も超長期の歩みを見詰め直す事に由り、見失った方向性や衰えた志気を取り戻せる。但し、原点を振り返り初心を温めるのは復旧や退嬰を意味しない。毛はレーニン流の「波浪式の前進、螺旋形の上昇」で革命や歴史の紆余曲折を形容したが、横軸に沿う起伏も縦軸を巡る旋回も、同じ軸の延長線で過去の軌跡と距離を置いた合致が有り得ても、元の地点に戻る様な完全の吻合は不可能である。
『紅楼夢』の人物は貴族権力者の大家族の衰微後も表面的な繁栄を保てる貫禄を、「百足之虫、死而不僵」(百本足の虫[馬陸・蜈]は、死んでも僵れない)と形容した26)。毛も引いた事の有る此の熟語は、「痩死的駱駝比馬大」(痩せて死んだ駱駝は馬よりでかい。腐っても鯛)と通じる。旧ソ連解体後の露西亜では今も諜報幹部出身の大統領が恐怖政治の流れを汲んでおり、封建王朝崩壊後の中国では最近まで皇帝型専制が残り続けて来たのは、頑固な慣習が引き摺った結果である。党が「知天命之年」(50歳)を迎える前に毛が新陳代謝を促したのも、肥大化や「僵化」(硬直化)に迫られた自己更新であり、「百足虫」の壊死の足の切断や移植、再生である。
江の「法治・徳治」と国民政党への脱皮は、毛の「封建的な社会主義」の独裁政治と訣別し、前現代(「前近代」に因んだ筆者の造語。post−modernの「後現代」の対概念。政治的には第1次世界大戦・露西亜革命〜越南戦争・中国「文革」終結の約60年間を指す)の世界と中国の共産主義運動の偏狭を修正する動きだ。「文革」中の毛は党の刷新を二酸化炭素の吐き出しと新鮮な血液の注入に譬えた27)が、其の「吐故納新」は部分継承・部分更新の累進作業である。体躯が維持した儘で体内の変化に由り生命が営まれて行く過程とも通じて、歴史の進化・展開は時間・空間・人間・観念の要素の添加に伴う転化の連続なのだ。
「人生易老天難老、歳々重陽。今又重陽、戦地黄花分外香。」(人の生は老い易く天老い難し、歳々に重陽のめぐりきて。今又も重陽、戦地の黄花の分外香るんな28)。)毛の『重陽』の前半の此の詠嘆は、初唐の劉廷芝の「年々歳々花相似、歳々年々人不同」(年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず)が下敷きに有った。孟浩然の「人事有代謝、往来成古今」(人事代謝有り、往来古今を成す)と結び付けて、今秋の人事刷新から古今の「人」(指導者や体制)と「花」(指導原理)の変遷を見渡すと、「理・礼・力・利」4要諦、此等を用いる統治という「天」の変容・不易の重層・漸進・累進性が目に付く。
例えば、「理治」の「理」は、(0)旧中国(封建社会と半封建・半植民地的な国民党時代)の統治者を代弁する「天理」→(1)毛沢東時代の革命の原理・理想→(2) 小平時代の科学的な合理精神→(3)江沢民時代の民主・科学精神の一層の発揚;「礼治」の「礼」は、(0)「封建的な礼教」→(1)「共産主義倫理道徳」→(2)「社会主義精神文明」→(3)「弘揚中国伝統文化」;「力治」の「力」は、(0)独裁統治→(1)軍事力を盾とする実力→(2)生産力+軍事力の綜合的国力→(3)総合的国力+精神力;「利治」の「利」は、(0)寡占経済や買弁経済→(1)計画(国家管理)経済→(2)経済中心路線・市場経済原理→(3)「実恵」(実益)重視・利欲肯定、という止揚・昇華の軌跡を呈している。
封建社会→買弁資本主義・民族資本主義が盛んな半封建・半植民地→資本主義を排除した「封建的な社会主義」→外国資本を導入した「社会主義の初級段階」→資本家入党の許可を含め資本主義的な要素を更に認めた「全民小康社会」、という展開は相剋相生の性質の他に、超克された旧い方が新しい方の土台や肥料を成し、「旧」の養分を吸収した「新」が部分的な回帰の形も含めて母胎を改良して行くのも特徴だ。江沢民時代の「法治・徳治」は、「王法・宗法」の忠孝思想と儒教の倫理主義を保留した毛沢東時代の法家的な家長制+革命的な道徳律を経て、小平時代に芽生えた現代的な法精神や「精神文明」を発展させた物だ。 
4.「理治・治理」の反転一体と「理治×利治」「力治×礼治」の交錯・相乗
「徳治」が封建時代の用語を踏まえた事は、「理」の「王+里」の字形に通じて王道の奥義と言える(中国語の「里」は「内」の意)。江が唱えた清廉や全民富裕の志向は、朱鎔基の異名・「経済皇帝」の原型―雍正帝の「正大光明」、『礼記』を踏襲した孫文の「天下為公」(天下を公のものと為す)、毛沢東の「為人民服務」(人民に奉仕する)29)の延長だ。毛は封建時代の階級抑制・不平等に対して、階級差別(支配階級の労・農の被支配階級の地主・資本家に対する抑圧、中間階級の知識人・商人に対する優位)を保つ一方、官民の平等を謳い所得平準化を謀った。労・農と学・商の地位が接近したの時代の機会の平等と結果の不平等を経て、資本家も社会の主人公たり得る江の時代の機会と結果の相対的な平等を目指すに至ったが、原始的な大同理想を基にした毛の素朴な平等の始原的な貢献も否めない。
天安門事件の前に著名知識人が政治犯の釈放を求めてに書簡を送り、5.4運動70周年、建国40周年と仏大革命2百周年の節目を出しに、民主・自由・平等・博愛の実現を促した30)。彼の西欧資本主義革命の発祥地の滞在中に入党したに対する揶揄も有ったろうが、欧米より各方面で大幅に遅れているのは中国の実情だし、実事求是の現状認識と発奮志向の結果、「最後の皇帝」31)の退場後に変革が一気に進展したのも否めない。政治的な規制を行ないつつ競争原理で経済を活性化するの「鳥籠統治」の結果、江の時代では言論管制の緩和や政治処遇の「仁慈化」等、自由・博愛の雰囲気が高まったが、其の素地は毛や孫文、乃至昔の諸子百家の一部の平等観念にまで遡及できる。
「法輪功」を邪教として容赦無く取り締まった江は、中国の精神風土に合った仏教を肯定していると言う32)。対敵闘争での「心慈手軟」(心優しく手緩い。慈悲・軟弱)を否定する毛も、実生活に寄与する仏を祀る農民の現金主義に共感した33)。独裁政治・武力鎮圧への反動として生まれた博愛精神は、実は無慈悲な「虎気」の持ち主と自認した毛にも内蔵されていた。「夢里依稀慈母涙、城頭変幻大王旗。」(夢里依稀たり慈母の涙、城頭に変幻す大王の旗。)34)魯迅は乱世の中の心の支えを斯く吐露したが、「慈母・大王」は対立・統一の対であり得る。城頭の旗が再度変った後の指導者―毛・周は、共に孝行を忠実に実践し堂々と提唱した35)。
毛は人民に奉仕する「全心全意」(全身全霊)を要求し、林彪等「文革」派は「霊魂深処私心一閃念」(精神の奥底の一瞬の私心の閃き)を戒めたが、中共指導者の複雑系には心底の「一心多念」も有る。伝統観念の影響は父母への孝行に因んで言えば、其の「孝・母」と同音の「酵母」に見立てられるが、「酉」の「酒」と「醒」に跨がる重層性も滋味が深い。冷静な理性の「清醒」、清楚な味の「清淡」への選好を映す茅台酒の「淡化」は、痩せの貧相を無くすべく豊満の「富態」(「貧相」の反対語。貫禄)を目指し、実現後に「減肥」(痩身)を始める変容と重なるが、其の貧弱→豊饒→洗練の流れは「庶→富→教」に合致する。
「毛沢東思想」の概念を発明した王稼祥36)の夫人・朱仲麗は、初代駐ソ大使の夫と共に赴任した後、フルシチョフから華奢さを誉められた。中国では地主の女房だけが肥っているのかと訊かれた時に、金持ちは美食に恵まれ好く眠れるから当然肥るのだと答えた37)。前現代的な価値観を映す其の見方は今や時代遅れの嫌いが有り、功を焦る事を戒める比喩の「一口吃不成胖子」(一口食べただけでは肥るまい)も聞こえ無く成った。象徴的な事に、毛の「紅焼肉」(豚肉の醤油煮込み)に対する拘りや劉伯承元帥の「肥肉」(脂身・膏肉)飽食に見立てた貪欲38)と対照的に、周恩来と同じく故郷の料理の代表格に「紅焼獅子頭」(醤油煮込みの肉団子)が有る江沢民は、肉は余り食べず周や蒋介石と同様に粥を好むらしい39)。
広義な肉の枠内で「肥肉」と対蹠に在る嗜好の象徴として、粥と共に食べる肉松(肉のでんぶ。干した肉の細かくした物)が思い浮かぶ。長時間炒めた末に肉の形も油も消し切って出来た肉松は、乾き切った枯淡さと糸状の繊細さ、粥並みの柔軟さを併せ持つ物だ。指導者の味覚の個人差も「肥肉」好みの四川―湖南―山東―東北ラインの後退を印象付けるが、肉を価値の尺度や享楽の目標とした孔子や梁山泊好漢の影が薄れた時流も感じる。一方、江は最近外賓との会見で「一口吃不成胖子」の代りに、「一鍬不出一口井」(一回鍬を入れただけで井戸は掘れられぬ。大きな仕事は一気に完遂し得ぬ事の譬え)の諺を使った。毛沢東時代から愛用されて来た謝恩の格言―「吃水不忘掘井人」(水を飲む時は井戸を掘ってくれた人を忘れぬ)と共に、飽食への追求よりも基本的な飲水の課題が浮き彫りに成る。
毛沢東・江沢民・胡錦涛の名が倶に「水」偏を内包した事は、常に旱魃に悩まされ飢渇精神の強い国柄らしい姓名選好を映し出す。・江の時代に跨がった首相・李鵬と同じ水利発電が専門で、黄河上流の建設現場で長年働いた胡の総書記就任は、水利資源と工業化・情報化の社会基盤が乏しい西部の開発に取り組む国家戦略にも合うが、黄河の「治理」(制御・管理)を君主の治国能力の試金石とした古の常識40)から観ても頷ける。日本人は此の頃governance の合い言葉を導入し41)つつ、「統治」の語感への拒否反応も有って中性・無色の片仮名で表記しがちだが、中国流の瀟洒な訳し方の「治理」42)は此の文脈と事例にぴったりである。
今次党大会開幕の2日前に長江三峡ダム工事の堰止どめは、党内序列第2位の全人代委員長・李鵬の花道と成った。第8回党大会の前に毛が詞で詠んだ三峡ダム建設の構想43)は、住民の強制遷移や自然環境・文化遺産の毀損等の弊害に因り反対が強かったが、近代化建設の糧なる電力の供給不足を解消し、国・民の財産・生命を洪水から守る事の優先順位を考えれば、合理的な「両害之中取其軽」(2つの害の中から軽い方を取る)44)と言えよう。4世代指導者の隔世遺伝めく継承−展開と連動する様に、温家宝が李鵬の次の次の首相の最有力候補として期待を集めた材料は、副総理就任直後の’98 年夏、長江流域と東北嫩江・松花江流域の百年来の大洪水(被災者数約1.2億、死者3千人余り)の際に、国家防抗旱総指揮部総指揮(水害干害対策本部長)を兼任し陣頭指揮に当たった事だ。
専攻の地質畑で現場経験と学術論文の業績に富んだ彼は、自らの専門知識と政治的な決断力を以て、武漢防衛の為の或る堤防の人工決壊を止めさせ多くの損失を回避できた。干支の1大巡り前の’38 年に蒋介石は日本軍の攻勢を阻止すべく、河南の湯恩伯部隊に鄭州附近の黄河大堤防を爆破させたが、回天の奇跡が起きず絶大な犠牲(被災者約1、250 万人、内死亡・不明者90万弱)で遺恨を招いた。建国半世紀来の比類の無い此の快挙は、其の愚挙に比べるまでもなく、新世紀に相応しい新型の指導者と統治法の誕生の兆しと思える。民を犠牲にした蒋の軍事目的の洪水造成と対照的に、平和目的の洪水制御に於いて軍が文民統制(中国流では「文官掌〔官〕軍〔文官が軍を掌管する〕)の下で防災の主力として活躍した。軍事演習の恫喝を除く軍事力の行使が無い事も、江の時代と先代の違いである。
洪水征服で揮った温の手腕も今大会で誕生した新指導部の陣営も、「3達徳」の標準的な順位―「智・仁・勇」に合致する。儒教が唱えた此の3つの普遍的な徳目は、「智・勇・仁」「仁・智・勇」「仁・勇・智」「勇・智・仁」「勇・仁・智」等の組み合わせも有り得る。様々な変型や長い曲折を経て再び原型に戻ったのは、1回りの完結へ向かう4諦図の「重点転移」とも通じる。量的な変化が質的な変化を起す法則に関する毛の論断への敷延に成るが、「理治・力治・利治・礼治」4区間の質的な変化は、時間や結果の量的な累積に因り異質な質的変化を招く。次の回転は枠組みを維持しつつも、4諦の変容や再編が予想される。
例えば、胡の専門と温の功績の接点と成る水利は、河川・国家の「治理」と併せて別の「利治」の可能性を示唆する。新政治局常務委員が全て理科の出身である事は、「理」の科学の利器の側面を浮上させる。中国現代史の起点―新文化運動の「民主・科学」志向45)は、83年後の今次党大会の「政治文明」宣言と指導部の建設専門家集団化に因り、漸く前現代との徹底的な訣別に近付いたが、「民主治世=礼治+理治」「科学立国=力治+利治」の図式と共に、民主・科学とも「理」に収まる帰趨も強まった。胡錦涛時代の軸足が移った「理」の新意を起点に、「理治」と表裏一体の「治理」から新しい回転を始める公算が高い。
「理治」→「治理」の裏返しはフィルムの反転の様であり、陰陽原理の対立・統一にも通じる。左・右2側が其々黒・白と成る「怪圏」(メビウスの環)の中でも、片方の黒の区間内を真直ぐに進むと、途中で環自体の反転に因り同じ側でありながら白の区間に入って了う。胡錦涛時代に於ける「4諦図」の完結も単純に回帰を果たし循環を迎えるのではなく、4徳目の中身と枠組みの再構成に伴う物である。其の質的な変化は既に小平時代から起きており、例えば「理」は意識形態の「淡化」の結果、天理・道理・合理・倫理・「治理」へ変容し、「力」の域でも武力が表面から後退し生産力が頂点に上昇する反転が見られた。温家宝の洪水退治の快挙と名の寓意に即して言えば、決断・実行力や知力も此の次元で主な伝家の宝刀と成ろう。
其だけでなく、4諦の位置も新しい組み合わせが出来る。例えば、本来「礼・理」の範疇にイデオロギー跨がる「徳治」は、「徳・得」の同音も有って「利」により関わって行く。最近打ち出された党の3つの代表性―中国の先進的な生産力の発展の要求、中国の高度な文化の前進の方向、中国の最も広範な人民の根本的な利益は、 小平時代の「力+利」と江沢民時代の「利+礼」が重畳する「利・礼・力」の複合だが、「儒商・徳治」の両方が含む「礼」の次元に属する文化も、対極に在る武力への優位や生産力との結合に因り「力」の性質が増す。斯くして「理→力→利→礼」の順次展開の他、「理治×利治」や「礼治×力治」の襷状の相互参入や相乗も生じよう。 
5.国・共の「鉄窓統治→鳥籠統治」の同根と中・台の「有序輪替」の同時・同方向
中国の歴史は対の発想を反映して、「春秋・戦国」「秦・漢」「唐・宋」「金・元」「明・清」等、対と成る時代や区分が多い。中華民国と中華人民共和国も一対と成り、後者の勢いが前者を上回っているのは前の諸対に合致する。左様な2分法は時代の内部にも有り、例えば「初唐・中唐・盛唐・晩唐」は対の2乗であり、最盛を記録した宋は更に北宋の盛と南宋の衰を含んでいる。此の2つの時代の事象間の対として、整然たる唐詩と不揃いの宋詞、其々豊満と痩身を女性美とした唐と宋の観念が思い浮かぶ。共産党中国の歩みは唐→宋や北宋→南宋と反転の暗→明に見え、「富態→減肥」の変化は逆に「肥唐→痩宋」と重なる。
「有銭難買老来痩」(金が有っても老来の痩せは買えぬ)の養生訓で、豊饒→洗練の価値追求の帰趨は説明が付く。「台湾の魯迅」・柏楊は中国の伝統を「醤缸(漬物甕)文化」と名付け46)、守旧性に対する其の批判は胡耀邦の共鳴を得て中共の保守派の反撥を招いた。大陸で「文革」の全面内戦が頂点に達した’68 年、同じ一党独裁の孤島で彼の作家・評論家は、親子が小島を
買って順番で大統領に成ったと言う漫画の説明を書いた事に因り、「国家元首侮辱罪」で12 年の懲役に処された。’85年に台湾で刊行した『醜陋的中国人』(醜い中国人)は翌年に大陸に上陸し、旋風を起こして間も無くの思想管制の下で発禁と成ったが、一連の「台風」の爪跡は「政治文明」実現前の国・共2党の同根・「同歩」(同時進行)性を窺わせる。其の善悪は別として、老大国の文化・歴史・哲学の超長期の蓄積は、練達の爛熟と腐敗の糜爛を同時に生み出す。
熟年を過ぎて枯淡の境地へ向かって行くのも、人間の身心の自然な法則である。絢爛たる極色彩から次第に老練・淡白に変わった蘇軾の文学は、彼が考案した「東坡肉」(「文火」と醤油で煮込む骨・皮付き豚肉)の熟成とも通じるが、其の「五色絢爛」→「漸老漸淡」(次第に老成し次第に枯淡に成る)47)は肉松の本質に通じる。毛は死去の丸15 年前の9月9日の詩で、栄光有る孤立の象徴として「勁松」(勁い松)を讃えた48)が、植物の松の屈強・不抜と対照的に、「松」は形容詞として弛緩・余裕・脆弱・開放の様を表わす。其の意から名詞の「肉松」が生まれたのも漢語の妙だが、毛以後の中国の政治的な「寛松」(寛容・緩和)に対する社会の要望49)や、当局の「外松内緊」(外には緩めの印象を与え内では引き締める)の統治法は、「肉松」と「内松」の字形の近似も有って此の見立てと繋がる。
蒋経国は逝去の半年前の’87年夏に万年戒厳令を解き台湾の民主化を進め、其で先代の負の遺産の清算と遺産の運用主体の退場の複線が敷かれたが、ソ連留学時代の同窓・は2年後建国来初の戒厳令を西蔵と北京で矢継ぎ早に発動した。東欧共産圏解体寸前の世界的な「寛松」に対する逆行の様だが、独裁開発途上の経過措置として必然性を持つ。首都戒厳令発布の5月20日が台湾戒厳実施開始の恰度40周年に当る事は、建国来の相対的な治安強固と今次の空前の危機、及び国・共2党の共通な宿命を浮き彫りにした。蒋介石政権と同工異曲の毛沢東時代後期の「鉄窓」(鉄格子の嵌まった窓。牢獄の表徴)統治が「鳥籠」統治50)に取って代わられ、其の小平時代の「放+収」(開放+規制)の二刀流が屡々「緊」に傾き、「松」の失速への制御が時々窒息を惹き起こしたのは、先代の低成長・高緊張から高成長・高緊張へ移行したという背景及び指向で正当化できる。
’89 年の「開殺戒」(殺人の戒律の打破)で保った安定に支えられ、開発は独裁の助力が要らぬ程まで進んで来た。江沢民時代の高成長・中緊張を経て、胡錦涛時代は中成長・中緊張が予想される。其の武力鎮圧後は大乱が消え、辺境の少数民族分裂運動や「死党」(死を恐れぬ徒党)の寡ない「邪教」、不意な天災が最大な内患へと上昇した状況は、天下大乱を起こした毛が夢見た「天下大治」51)が現実味を帯び始めた事を意味する。「治」の「+台」の字形と重なる台湾も、経済の頭打ちや大陸の脅威の強さと進攻の確率の低さに因り、成長・緊張とも「中」の小康状態に在る。類似の水準で展開する胡錦涛時代には、先発組との差は更に縮まろう。
其の延長で高成長・低緊張が実現できれば、毛の時代の低成長・高緊張と反転を成す最高の展開と言えよう。途上国→中進国→先進国の変貌が出来ると、今日の「発達世界」(先進国−地域)並みの中成長・低緊張→低成長・低緊張が最終の帰着に成りそうだ。共産党中国の初代の激動に因る高緊張は其の安定故の低緊張と対蹠に在り、通算ベースの低成長も発射台の高低や土俵の大小の差の為に、高位を保つ新時代の表面上の低成長とは同日に論じ得ぬ。不透明な新世紀に成長・緊張の度合いは増幅するだろうが、上記の方向性は人類社会の不易な成り行きであり、胡錦涛時代は新たな転回・展開の前奏曲と看て能い。
毛の秋収起義と他界の日付の9・9は、運命の「輪回」(巡回。巡り)の始まりとされた52)。
今次の総書記交替は香港の媒体で、「開啓了中共歴史上領導人有序輪替的先河」(中共史上の指導者の秩序有る交替の端緒を開いた)と讃えられた53)。両者の接点の「輪」は動詞として「回る」「順番に従う」の意だが、同音の「倫」も輪に似た波紋状の分際の重層が原義54)で、儒教の人倫・倫理の真髄は人の序列や事の次第に他ならぬ。「倫」の字形も人倫の含みを内包しているが、中華民族の聖山・昆侖の「侖」の概念を生む表徴性が此処で顕われる。「言」偏が付く「論」も「倫」と同音であり、「倫理」は「論理」(中国語では「道理を主張する」の意)の論拠と成る。
「水」偏が付く「淪」は、中国語の「輪回」が兼ねた「輪廻」の沈淪と繋がる。水は渇きを癒す事も溺死させる事も出来、船を載せる事も覆す事も出来る諸刃の剣だ。「倫」の字源の波紋も水の平穏が破れた撹乱と、順次広がって行く秩序の両面を持つ。私欲の存在の必然性を認めた上で其の氾濫を制御する儒教の原理は、「倫」の原風景に凝縮された「放+収」並存の「鳥籠統治」だ。「治」の「水」偏は水の清浄作用と共に、「輪流」(順次交替する)の字面・語義・発想の様に、「倫」の道筋も暗喩的に含めている。其の流動は孔子の「智者楽水」を連想させるが、中国語の「治・智」の同音・同声調も儒家の志向を映し出す。
「理治」の本質は「理智」との同音にも窺えるが、「治理」(zhili)の発音が「治療」(zhiliao)に内包される事も意味深だ。先賢の「上医医国」(上医は国を医す)の格言55)の通り、「治」は医療行為でもある。「統治」の字面と重なる統括的な治療の意や、此の2字の「糸」偏と「水」偏は、中国医学の神髄に他ならない。江沢民が長男・次男に付けた「綿恒・綿康」の名も、姓の部首と共に「糸+水」の組み合わせを成す。「細水長流、吃穿不愁」(細い水が長く流れる[様に支出を抑えれば]、衣食の愁いは無し)は、正に「糸+水」に由る安康(安泰+小康[余裕])を言う。2人の名が合成した「恒康」を「細水長流」の浸透で築くのが、中国医学の得意技である。
目下の中・日の合い言葉─「徳治」と「癒し」は合成すれば「治癒」に成り、両者の治療対象─精神は「恒」の「」偏(中国流で「竪心旁」)と通じる。治癒の「全治」の意は字面で「総統」と対を成すが、西洋医学の対症療法の局地的な即効性に対して、病根を抜本的に除く「治本」法は治世の極致であり得る。体内の停滞や悪循環を食い止め好循環を促す漢方医の「理順」(整理。理に由って整える)は、河川や社会の「治理」でも好く踏まれる手順なのだ。
「順」の「川+頁」の字形は「輪流」交替に因る歴史の新たな頁の示現や、 に遡れる「有序輪替」の「先河」が出来た後の川上(四川・上代)→川下(長江下流出身者・次世代)への権力譲渡の順調な実現に吻合する。
混乱・不条理を是正する使命から、「文革」後に「治理・理順」が好く統治の鍵言葉に使われて来た。’89 年11 月の第13 期党中央第5回総会では、 の完全引退と江の軍委主席就任で世代交替は一応の区切りが付いた(「第2世代と第3世代の中央指導グループの引き継ぎ完了」の宣言は、建国45 周年の’94 年国慶節の直前の14 期4中全会の決議として、「4人組」逮捕18 周年の同10 月6日に公表された)が、新旧指導部の間の最重要な「交代」(引継ぎ)事項は、採択された『関於進一歩治理整頓和深化改革的決定』(改革の一層の制御・整頓・深化に関する決議)の題に集約された。の前年の『理順物価、加速改革』(物価を整理し、改革を加速する)56)は、其の至上命題の中の其々手段・目的を表わす2組の4字成句と対応する。条理を以て整える意の「理順」は、「治理・整頓」の相関に合致する。
其の「理」は「治理」と重なり、「順」は「頓」と「頁」偏を共有する。「頁」は文・書を連想させるが、「頓」と連用する「整」の構成要素―「攵」は、「文」と似て非なる形から中国流で「反文旁」(逆「文」偏)と言い、鞭の含みも有る。「整」の「束+攵+正」の字形は、鞭を使う「管束」(管理・拘束)で正す意を隠し持つ57)。「管束」は日本語で「維管束」の略でしか無い58)が、其の繊細な植物組織の意味・形象と対照的に、中国語では強力な支配を表わす動詞が基本的な用法である。蒋介石が西安事変の「領袖監禁」を咎めて張学良を軟禁に処した際も、軍事委員会に引渡し厳重な「管束」を加えるとの文言を使った。 
6.先代・先々代の「人治」から今・次世代の「仁治」への脱皮
懲役10年赦免の但し書きの「交軍事委員会厳加管束」で、張は「鳥籠」生活を半世紀余り強いられた。自由剥奪の期間が恩赦刑期の数倍にも及んだのは余りにも理不尽だが、其の「此恨綿々無絶期」(此の恨み綿々として絶ゆる期無し)に因んで、白居易の『長恨歌』の「連理枝」(連理の枝)は国・共の「1樹2枝」をも形容できよう。張の名誉回復は蒋家父子の目の黒い内には遂に実現できなかったが、「鳥籠」が次第に「寛松」に成り李登輝時代の暁に漸く取り除かれた59)。台湾の民主化に逆行する形で、同じ頃の趙紫陽は総書記解任後に党籍保留の寛大措置を受けつつ、「鳥籠」に入れられ江体制任期満了の今日に至った。趙の故郷・河南で獄死した劉少奇よりましだとは言え、超法規的な処置の不条理は否めない。
劉の幽閉・他界の地・開封で生まれた柏楊が劉の党籍剥奪と同年に、運命を共にする心算で随いて台湾に渡った国民党政権に由って投獄された事は、国・共双方の初代本格政権の誤謬を端的に現わした。曾て毛は或る実務的な定例会議への出席を要請されなかった事に立腹し、党規約と憲法を持ち出して発言権を主張し劉を叱ったが、「文革」中の劉が憲法を依拠に国家主席の儘での自由喪失に抗議しても無駄だった60)。共に憲法を武器に用いた処は「理」の建前としての至高の地位の証であるが、憲法も暴力に対して無力であった結果は、其の時代の「力治」の優位を裏付けている。お前を小指1本で潰せるぞという「文革」前の毛が劉に発した暴言61)は、2人の巨頭の力関係と職位の軽重を考えれば一面の真理も感じる。
毛が国家主席を途中で劉に委ねた事に因る2主席並立の体制は、古来の「天無2日、国無2主」の原理に反した故に劉の破滅を招いた、という観方は一理が有る。江の党総書記・国家主席・軍委主席の兼任は、其の教訓を汲んだ「内耗」(内部の摩擦に因る消耗)防止の役割が評価できる。其は措て置き、毛・劉の対立は厳密に言うなら、党中央主席兼軍委主席vs.国家主席の2主席対1主席なのだ。個人の声望・力量の以前の問題として、国に対する党・軍の優位だけで勝負は最初から付いた。大陸政権末期の蒋介石が総統を李宗仁に代理させた後、下野先で党・政・軍を自在に動かした一幕にも、似た構図が見られる。
毛はニクソンとの会見で「我々の共通の旧友の蒋委員長」と言った62)が、其の肩書きは国民政府軍事委員会委員長なのだ。党総裁や「中華民国総統」よりも「委員長」の馴染み度が高いのは、蒋・毛2人の軍事独裁体制の実情に合う。張学良の最終処分が軍事委員会の「管束」であった事は、「党紀・国法」の拘束をも超越した其の機関の権勢を窺わせる。桂(広西)系軍閥・李宗仁が到底蒋に敵わなかった原因は、極言すれば軍委の長に成り得なかった弱さに尽きる。周恩来がニクソンに紹介した通り、毛の時代では国・共2党は「匪」と呼び合ったが、政権を生み出した鉄砲に対する双方の最重要視は寸分も違わなかった。
大陸時代の最後の正・副総統就任式で、蒋は2の李宗仁に軍服の着用を指示した一方、自分は民族衣装の「長袍馬褂」(長衣に詰め襟の羽織)の姿で登場した。李は蒋の護衛の様に映り屈辱を感じた63)が、「武」に軸足を置き尚「文」に建前上の優位を与える統治文化は、蒋の時代に継承されたわけである。対照的に、毛は紅衛兵大集会に臨む直前に軍服の着用を思い付き64)、林彪事件までの数年間は「副統帥」と同じ軍服姿が多かった。周恩来まで付き合った軍服姿は「時装」(ファッション)並みの憧れを集め、軍人は特に優遇される事も有って人気一番の進路と成ったが、一連の風潮は「力治」の重点を映し出す。
張学良に対する国民党政府軍事委員会の無期「厳管」と台湾の長期戒厳は、蒋介石の宿敵・毛の時代にも「変相」(形を変える変種)の形で有った。建国時に敷かれ「文革」中再び猛威を揮った軍事管制は、戒厳令無き厳戒と言って能い。行政・治安当局の省政府・警備司令部が発布した台湾戒厳令に対して、共産党政権の軍事管制の主体は党中央軍委管轄下の軍隊に他ならなかった。「文革」中地方政府に代った「革命委員会」の長に大体「軍区」(広域部隊)首長が据わったのも、「軍管」に因る「軍・官」複合である。整頓の「頓」の「屯」や駐屯の「駐」の「馬+主」の字形は、駐屯地に対する軍の主導には妙に符合する。毛の後継者・華国鋒が首相代理→首相→党首兼軍委主席に昇格後も公安相を兼任した(’77年3月まで)事も、軍事─警察国家の実態を端的に物語っている。
江沢民時代にも続いた「外松内緊」は、張学良に対する蒋氏父子の軟禁や毛沢東時代の隠れた戒厳体制の延長とも思える。小平時代末期の物価騒乱・政治動乱は、国家の意志や武力の封殺で維持された表面的な物価安定・秩序安泰の破綻という側面を持つ。「文革」前の中共は世界革命の好機に対する期待を込めて、国際社会の「大動蕩(激動)・大分化・大改組」を指摘したが、其の激震・変易は初代指導部にも当て嵌まる。「紅太陽」・毛の不落と大黒柱・周の不動は、「通期運用」の安定感の錯覚を誘いがちだが、其の後の激変の大衆化・表面化には、「絶対権威」の自壊と「力治」の自粛に因る「厳管」の箍の緩みが大きい。
軍を盾に政争に挑み軍に由る粛清(天安門広場の「清場」〔清掃。滞留者を退場させる整理〕)を敢行し、軍政治部機関紙・『解放軍報』を使って「資産階級自由化」を攻撃した65)が、林彪事件後に軍閥割拠の危険を指摘し、毛が許可した8大軍区司令官の相互異動66)に由る軍の制御を其の後も進め、軍・政の分断を成し遂げた。其の結果、『解放軍報』は「文革」中の「天声」を伝える「2報1刊」(2紙1誌)の一角の重みを失い、党中央や政治局に於ける軍人の比率は「文革」中の異常な高水準が引き下げられた。彼が江沢民を支える為に軍委第1副主席、軍委秘書長兼総政治部主任に据えた楊尚昆・白氷が、新体制の基盤が固まった途端に失職したのは、其の集大成の総仕上げと見られる。
江沢民への国家主席の譲渡は1人への集権に見えるが、軍に影響力を持つ長老から文官への「平和過渡」(平和的過渡・移行)とも言える。斯くして裏読みは負・暗から正・明を見出す事も儘有るが、完全引退後の隠然たる力で「楊家将」を下ろしたのは、年功に物を言わせる「太君」の裁断67)の様でありながら、統治は結果が全てなので其の人治的な政治も正しい「仁治」と成り得る。軍委主席の権限はの党・国を凌ぐ超法規性を助長したが、其の椅子の主が彼でなければ、百万人の軍縮も出来なかったろう。「文革」後の国防予算逓増の恒常化は域外の懸念を引き起こしたが、軍の肥大化の抑制に繋がる兵員の削減は拡張の脅威と相殺し得る。
軍事力より経済性を優先する転換を政治力に頼って断行した大「裁軍」(軍縮)は、 の真骨頂を窺わせ毛の流儀の特質を浮き彫りにした。「2報1刊」で『人民日報』に次ぐ『紅旗』『解放軍報』は、 の時代に前者は改刊させられ後者は軍内向けの本来の姿に戻された。解体や分離の対象と成った其の党の理論誌と軍の機関紙は、正に先代の「理治+力治」の象徴である。の「力治+利治」は其と一部重なる様だが、毛との二刀流の要は其々「力」と「利」に在った。2本立ての基軸の重心も「順時針」の移行をしたわけだが、「理」を以て「力」を通す毛の統治から脱出し、 は「利」を以て「力」を建設的な方向へ誘導した。
中共指導者が愛用して来た「因勢利導」(情勢に応じて有利に導く。勢いに従って理想的な方向に導く。有利な情勢を巧みに利用する)は、出典の『史記・孫子列伝』と語義が示す様に「力・利」の結合である。の「力治+利治」は此の格言に因んで言えば、「以利導勢」(利を以て勢いや情勢を有利に導く)の特徴が鮮明だった。「勢」の「執+力」と簡略字の「」の「(手)+丸+力」の字形は、其の実力・武力の行使と抑制の両面の表徴たり得る。毛の「有理・有利・有節」(道理が有り、有利に成り、節度を持つ)も孫子流の智慧だが、「理・利・礼」を跨ぐ此の対敵闘争の要訣は他ならぬ「力」の勝利を目指すのだ。
70歳を過ぎた毛が黄河考察の為に騎馬の特訓を受けた事68)は、「馬上打天下」(馬に騎って天下を取る)の熟語に即して考えると、人海戦術に頼る経済建設と同じ軍事家の本質を印象付ける。戦時体制の下で一挙に共産主義に突入しようとした「軍事共産主義」の志向は、4諦図の「上半球」に似合う高圧と「浮躁」(軽率・焦燥)を見せた。対しての経済専念の「初級社会主義」は、政権奪取後の維持に譬える「坐天下」(天下を睨み鎮座する)の通り、足が地に着き腰が据わった姿勢である。「力治」の共通項を持ちつつも毛の対外的な覇権を唱えぬ軍国志向の土台を徐々に崩したのが、 の1歩後退、2歩前進の結果だ。 
7.台湾海峡両岸の「同軌・同倫」
天安門事件の転換点には、趙紫陽がゴルバチョフ書記長との会談での院政を暴露し、「皇帝」打倒の声を誘発した事が有る。歴史的な中ソ和解の儀式が5月16日に行なわれたのは、13年前の同じ日の党中央通達に由る「文革」の点火を意識した設定に見えるが、翌年の同じ日に台湾各地の大学生が台北の蒋介石記念堂前の広場で座り込み、「万年代表」の鎮座で塞がっている「国民大会」の解散、『反乱鎮定動員時期臨時条項』の廃止、政治改革促進の為の国是会議の招集を要求した。19 日に一部の参加者が断食に突入し、翌日に請願の座り込みが高雄に波及したが、此は奇しくも曾ての台湾・北京戒厳令の発布日と吻合する。
其の1年の時差や一連の暗合で浮上した双方の相関は、更に大陸と台湾の4世代指導者の交代の類似に気付かせる。蒋介石の他界の翌年に毛沢東・周恩来が逝去し、蒋経国の死去の翌年に小平が完全引退し、李登輝の「総統」退任の翌々年に江沢民が総書記を禅譲した。民進党政権の誕生で国・共の相克・共生の構図が崩れたが、共産党中国と似通う「順時針」移行は海峡の対岸にも見られた。陳水扁の「総統」就任演説から「国父」・孫文の名が出なかった事と、胡錦涛時代の暁に党規約から『共産党宣言』の文言が消えた事とは、「党易国存」と「党国倶存」の違いが有りながら、初代と大きく乖離した変容は似通わなくもない。
台湾の学生運動は断食当日の政府の譲歩で平和裏に収まり、鎮圧に対する海外の憂慮は杞憂に終わった。天安門事件との比較は政府と学生への侮辱だと当局は言い放ったが、民意を変革の外圧に利用する李登輝の魂胆を思えば、若者の初心さが政争の具にされた北京の例との類似も感じる。学生の退散は識者の指摘の通り、台湾の一定の成熟を示した賢明な選択と言える69)が、「物極必反」(物事が極端に達すると必ず反転する)の法則の通り、未熟を無残に露呈した大陸も急速に成熟へ向かった。台湾の民主化も世代交替と同じ大陸より1歩早いが、 の長寿と対照的な蒋家父子の「先生先死」70)は先行の負の面を思わせる。
台湾の経済成長と政治改革の「領先」(先行)の要因は、「天時・地利・人和」の多面に渉る。
進攻され難い孤島と米国の支持という天然・人工の「屏障」(屏風の様な障壁)、及び大陸時代の含み益の「老本」(旧い資本)が先ず目に付く。亜細亜の雁行型成長の先頭を飛んだ「頭竜・騰竜」71)の日本や、次発の台湾・香港・新嘉坡も、孤島か「孤城」(孤立した都市)72)である。
同じ「4小龍」の韓国は半島の一部だが、米国の保護下に置かれる処が台湾と一緒だ。老子の「小国寡民」の理想には程遠いが、統治し易い規模の利点は看過できない。逆に、「庶→富→教」の大変さは人口の多い大陸の後発の必然性に数えられる。
徒手空拳の一般人に対する中共軍の武力鎮圧は、「殺鶏用牛刀」と見られても仕方が無いが、民の寡ない小国の「鶏犬之声相聞、民至老死不相往来」(鶏犬の声相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往来せず)とは異次元の話だから、過剰な反応は蓋然性も持つ。其を暴挙として糾弾した台湾当局も僅か5年前に、軍情報局と極道に由る『蒋経国伝』の著者・江南の暗殺で、鶏を殺すのに牛を割く刀を用いる愚行を演じたばかりだ。毛沢東時代では’55 年に文学者・胡風が投獄されたが、作家の処刑は無かった73)し、江南暗殺の’84 年頃には言論統制は命を脅かす物ではなかったので、五十歩百歩の双方の優劣は常に入れ替るわけだ。
国・共間の「匪」云々の罵り合いが休戦した後、’94年の台湾観光団惨殺事件で大陸は李登輝に「土匪」(匪賊)と貶された74)。余りの蛮行で言い返し難い大陸の泣き処は、開化度に於ける台湾の一日の長を思わせた。但し、同じ世紀の前半に目を転じれば、国民党政権が東南の一隅に固まった起因は、そもそも悪政で民心を失い大陸から敗退した事だ。中共政権の信認危機を招いた失政は大陸の為政者の宿命かも知れぬが、遅行ながら変革を断行したのも両岸政権の同根性の現われだ。李登輝は「儒教圏繁栄論」に就いて植民地経験を「4頭の龍」の共通点に挙げた75)が、共産党中国も「文革」や天安門事件後の孤立で党・国滅亡、「地球籍」(国際社会構成員の資格)喪失の危機を覚えた。儒教の上昇志向と内外の圧迫が奮起を促した結果は、江南の居住先・米国からの圧力が促した蒋経国の心機一転と一緒だ。
大陸に不都合な観点の所為で’00年秋に香港の媒体から追われた中国観察家・林和正は、『新皇帝・胡錦涛の正体―中国第4世代指導者の素顔と野心』の最後に、蒋経国とゴルバチョフの様な民主化断行の期待を胡に掛けた76)。終章の題・『ゴルバチョフかプーチンか』で、独裁政治と訣別した一方ソ連の解体とソ共の弱化を招いた開明派と、新世紀に国力を回復すべく鉄腕を揮う新独裁者との対が考えさせられた。2人を其々極端な理想主義者と現実主義者と捉えるなら、共産党中国の4世代指導者の「順時針」移行は此の座標で、理想主義→現実主義→現実的な理想主義→理想を目指す現実主義という軌跡を現わそう。
胡は未知数なので予断できないが、前の3代とも域外の3人とも異なるはずだ。ゴルバチョフに該当する人物は寧ろ、「新権威」を以て民主化を仕掛けた趙紫陽77)かも知れない。「因勢利導」の手腕の欠如にも帰せられる失敗も2人の共通点だが、林彪・「4人組」等の「身敗名裂」(身〔地位〕が滅び名が廃れる)に因んで言えば、趙の「身廃名存」とゴ氏の「身退名廃」は悲劇的な結末の岐れと思える。一方、青年団が出世の基盤と成った接点が有るとは言え、胡と蒋経国の関連付けにも違和感を覚える。蒋の面影や指向性は巡り巡って、ソ連留学、ソ連人との結婚及び特務機関掌握の経歴で、胡と世代が近いKGB出身の露大統領に繋がる。
其の最期の転換の決断は声価を高めたが、所謂「蓋棺論定」(棺を蓋って評価が定まる)は、掉尾の一振りで全体を判断するわけでもない。最晩年の毛は死後「文革」が否定されるのを懸念し、党中央決議の形で「3分錯誤、7分成績」(誤りが3割、功績が7割)の評価を下そうとした。踏絵と成る其の起草の委託を謝絶したは失脚した78)が、毛が秘かに心配していた自身への公式評価は、 の時代でも其の「3・7開」であった。は自分に関しては「対半開」(5分5分)で満足すると語った79)が、其の控え目な自己採点か、巷で囁かれている毛の「倒三七開」(正の評価が3割、負の評価が7割の逆3分・7分)は、蒋経国にも当て嵌まるのかも知れない。
李登輝は蒋経国15周年忌前に其の多くの指示を公開し、彼の礼讃者は恐怖政治の内情を知らぬ人ばかりだと揶揄した80)。確信犯的に台湾独立派に政権を渡し国民党と縁を切った李は、中共から離脱した過去と併せて不義理な変り身が目立つ81)が、「政治文明」に踏み切る前の2党に不徳が多かったのも事実だ。民心が民進党に傾き国民党体制が終焉した最大な要因は「黒金」への嫌悪だが、其の「黒社会」(極道)との癒着も金権政治も蒋氏父子の負の遺産に他ならない。
蒋経国時代の台湾に米国並みの政治の民主と効率化を感じ、日本の手本に挙げた松下幸之助82)も、表面的な開明・繁栄しか見ていなかった恐れが有る。
但し、縦令い一面的であったとしても、経済成長を支える政治の効率化に着目した点で、其の頃の台湾の「利治」の本質を掴んでいた。早年に上海で極道組織の構成員と証券品物交易所の経紀人を務めた蒋介石の経歴83)は正に「黒・金」であり、其の黒い利欲が根底を成した「力治+利治」は必然的に腐敗を生む物だった。蒋は辛亥革命の翌年に親分の政敵を暗殺し、其の「武勇譚」は長らく最大な禁忌として封印され続けた。72年後に彼の長男の暗部を暴いた作家が諜報機関の指図で極道に暗殺され、醜聞の発覚が高齢の当人の急激な歴史清算を決意させたのは、時代の反転を感じさせた歴史の因縁としか言い様が無い。
其の急転直下はの天安門事件後の南巡と重なるが、共に「力治」の行き過ぎや逆効果への反省が衝撃療法の針金と成った。先代及び自分への否定なので激痛が想像し得るが、憂患が我慢の限界を超えた結果と言える。「文革」の評価は紅衛兵の熱狂な賛美→終盤の毛の「誤り3割」の譲歩→華国鋒の曖昧糊塗→ の全面否定、と段階的ながら遂に正反対に至ったが、此も正しく「物極必反」の帰着である。第2次天安門事件の再評価が第1次に比べて進まぬのは、「動乱」の断罪が「風波」に取って代わられた暗黙の軌道修正や、大衆への実利提供に因る補填で創傷が和らいだ事を考えれば、正当性は別として合理性を感じる。 

1)中国社会科学院+清華大学国情研究中心編、胡鞍鋼主編『地区与発展:西部開発新戦略』(中国計劃出版社、2001 年)、6頁。胡は朱首相の智嚢として日本でも名高いが、其の観点及び政策決定への影響に対する論証は、中国経済への関心度が高い割には日本では少ない(注4参照)。此の「4個世界」論の注目度は更に低く、田中修『中国第10 次5ヵ年計画―中国経済をどう読むか』(蒼蒼社、’01 年)等、極く少数の文献で紹介された程度に止まる。
2)1981 年9月30 日、全人代委員長・葉剣英の名義で発せられた対台湾の平和的な統一に関する9項建議の中に、「台湾地方政府遇到困難時、可由中央政府酌情補助」と有った。韓文甫は此を「笑話」(笑い種)とし、「文革」の所為で大陸の台湾研究が’60 年代の水準に止まり、未だ彼岸は貧困・落後の状態に在ると誤認した事に原因を帰した。(『小平伝 治国篇』、台湾・明報出版社、’93 年、648 〜 649 頁)其の時点の双方の経済力に関して言えば、大陸の夜郎自大と見られても仕方が無いが、同じ「亜細亜の4小龍」の一員の香港が’97 年の亜細亜金融危機で、台湾並みの外貨準備高を擁しながら域外の機関投機家(「機関投資家」を擬った筆者の造語)の仕掛けで危機に陥り、必死な介入防衛と共に中国の政治力を借りた(と噂される)末、漸く凌いだ一幕を思い起こせば、台湾も未来永劫に全ての経済危機を自力で乗り切れるとは限らぬ。
件の提言は共産党中国の建国32 周年記念日の前夜に打ち出されたのだが、中華民国設立70 周年(10 月10 日)の直前に当る時期も興味深い。台湾が其の頃に大陸に負けぬ経済力を持ったのは、「腐っても鯛」と言う通りかも知れない。但し、腐った鯛は何時までも優位が保てる保証が無い。
共産党中国の建国70 周年は奇しくも、中国現代史の幕開け― 5.4 新文化運動、「新民主主義革命」の百周年に当るが、其の頃には両岸の力関係は決定的な逆転に至っているはずで、仮に分裂が続いていく場合は、中央政府が情状酌量で台湾に援助を与える事も冗談ではなく成ろう。
3)『小平文選』に収録された言説には、生産力向上への寄与を直ちに指導者の評価基準とする論断は意外と少ない。「黒い猫でも、白い猫でも、鼠が獲れる猫は好い猫だ」という「文革」前の激論(’62 年7月7日、共産主義青年団第3期7中全会代表に対する講話。『怎様恢復農業生産』、『小平文選』第1巻第2版、人民出版社、’94 年、323 頁)を思い起せば、不思議な気もするが、最晩年の毛沢東が其を蒸し返して批判した記憶の新しさや、毛死後の守旧勢力の抵抗の根強さを考えると、建前の更新に慎重な姿勢として頷ける。一方、生産力の向上を国家や共産党政権の使命とした明言は、『高挙毛沢東思想旗幟、堅持実事求是的原則』(’78 年9月16 日。『小平文選』第2巻、人民出版社、’83 年、128 頁)を始め、数度出ている。集中的な言及は、 ’80 年4〜5月の4回の談話(『社会主義首先要発展生産力』、同上、311 〜 314 頁)である。
4)人口地理学者・胡煥庸が1930 年代に、人口分布の地理分界線の「愛琿−騰衝線」を発見した。胡氏の研究に拠ると、中国地図をほぼ45 度の斜線で右上の黒龍江省愛琿と左下の雲南省騰衝を繋ぐと、斜線以西は全国土面積の52 %を占めるのに人口は5%に過ぎず、逆に面積が48 %の以西の人口は95 %にも上る。此の分布構造は百年来殆ど変わっていない、と言う。(朱建栄『中国2020年への道』、日本放送出版協会、1998 年、73 〜 74 頁。本稿筆者註:旧い地名の「愛琿」は『辞海』の解の通り、正しくは「琿」、1956 年に「愛輝」に改称、1983 年に同県は黒河市への編入に伴い解消。)
朱建栄も編者の1員である『岩波現代中国事典』の「“黒河−衝騰”線」の項(若林敬子執筆)では、提起当初(1933 年)の胡煥庸学説から外蒙古を除いた1981 年の数値が示されている。斜線の以東と以西の面積は上記の調整で42.9 %対57.1 %と成ったが、建国後の辺境開発支援に因る漢人の西部移住にも関わらず、94.2 %対5.8 %の比率は当初の96 %対4%(上記朱建栄の記述と異なる)と大きく変っていない、と言う(327 〜 328 頁)。本稿筆者は続編の系列論考で他のデータと併せて、中国の物心両面の風土の不易性を検証する予定だが、本稿で指摘した建国後の西部開発の効果の乏しさは此の数字でも裏付けられる。
胡錦涛の時代では東西の格差は一層重石と成り、「大西部開発」の重要性は益々増して行くが、「大西北」と「大東南」(本稿筆者の造語)の人口疎密の「地理−国勢溝」(筆者の造語)を発見した胡煥庸(1901 − 98)と、其の生誕百周年に経済格差で国内の「4個世界」の区分を唱えた胡鞍鋼と、歴史的・今日的な課題の解決の重任が与えられた胡錦涛とは、同じ姓の連環で繋がっている。因みに、1953 年に遼寧省鞍山市で生まれた胡鞍鋼の名前は、毛・時代の国内最大の製鉄所―鞍山鋼鉄公司の略称である。名称が似通い同じ国内10 大製鉄所に入る馬鞍山鋼鉄公司は、他ならぬ胡錦涛の本籍地・安徽省に在る。
鉄鋼工業を経済発展の「元帥」と位置付けた毛の時代では、鞍山製鉄所の典範の役割は絶大であった。其の象徴には『鞍鋼憲法』が挙げられるが、’60 年頃に毛が賞讃した其の企業管理原則は、ソ連の『馬鋼憲法』に対抗する物である。「馬鋼」はマゲニトゴルスクコンビナートの中国流略語だが、同じ略称を持つ馬鞍山製鉄所は、『鞍鋼憲法』の精神主義が「文革」後に否定され、鞍山製鉄所の生産高の首座が上海宝山製鉄所、首都製鉄所に奪われる直前の’93 年、業界初の株式会社化を経て馬鞍山製鉄所が香港で株式上場を果たした。百年来の中国近代化の日本→ソ連→新嘉坡→米国の移行に関する別の論考でも、此の事象を取り上げたいが、製鉄所の株式会社化で安徽が先陣を切った事は本稿で象徴性を持つ。因みに、胡錦涛と同じ安徽出身で新指導部で序列2位の呉邦国の古巣―上海電子真空管工場も、上海株式市場に最も早く上場した企業である。
企業統治の準則を「憲法」と名付ける処は、本稿筆者が複数の系列論文で考察して行く政治と企業の統治(註41、42 の「ガバナンス」語釈参照)の相関と関わる。志向が微妙に違う南北2「鞍鋼」と「憲法」は、’60 年代の2主席が政治闘争で憲法を矛か盾にした一幕(註60 参照)を連想させる。「矛盾」(対立。衝突)の双方の毛と劉少奇の生家が至近距離に在る事は、江沢民の故郷と胡錦涛の第2の故郷(泰州)の至近距離と共に、中共指導部や中国歴史の「演変」の枢軸の「数軸」(本稿筆者の造語。「数本の軸」「天数の軸」の両義。猶、中国語の「枢」「数」は同音)集中の傾向を物語っている(後述)。
朱鎔基の最初の仕事場― ’52 年の東北の重工業畑は、正に胡鞍鋼の出生の時期・地域と重なる。巡り巡って其の胡は朱の智嚢に成り、所属の清華大学公共管理学院も、朱総理が長らく兼任していた同大学経済管理学院(公務繁忙の為2001 年に辞任)と密接な関係に在る。朱は建国初期の「東北王」・高崗の失脚後に、上司・馬洪の連座と自身の「右派」舌禍に因り、20 年余りの不
遇を強いられた。毛に退けられの時代に経済改革の主要立案者として活躍した馬は、「文革」終了の翌年に中国社会科学院副院長に就任した(’82 〜 85 年に院長)が、胡鞍鋼が主任(首席)を務める国情研究中心の母体の1つが同院(清華大学と提携運営)であり、朱も曾て’78 年に同院工業経済研究所(所長は馬洪兼任)工業経済研究室主任を務めた。改革・開放元年に漸く党籍が復活した朱の「右派」体験は、方励之・王蒙・白樺・劉賓雁(註30、39、65、73 参照)と共通するが、高崗と同じ陜西出身の胡啓立(註5参照)から本稿の別の切り口が生じる。・江時代の党指導部の頂点に於ける共青団出身の「三胡」(胡耀邦・胡啓立・胡錦涛)に就いて、後に地政−「人縁」に絡んで政治「関係」(相関。人脈)学の角度から論考するが、現代史と地域発展の文脈で此の変則の「三胡」にも着眼したい。’02 年の訪米で“Who is Hu?”と揶揄されたが、後に詳述する此の「胡は誰?」の疑問は胡鞍鋼と胡煥庸にも通じる。紙幅の関係も有り2人の点描は、其の業績の注目点や歴史背景・時代精神、及び「三胡」の接点に絡んで後の本論に譲るが、『辞海』’99 年版で中国の地理人口学の「奠基人」(創設者)とされた胡煥庸の視圏・論座と、本稿註15 で言及した経済・国力に於ける地理・人口の重要性との関連を強調して置きたい。
5)例外的に、陜西出身の高崗が抗日戦争中の党中央所在地―陜西北部根拠地の建設の功労も有って、党・国家の副主席に成ったが、建国の数年後に政争に敗れ自決し、更に数年後に陜西組の習仲勲副総理も粛清された。陜西出身の胡啓立の浮沈は本稿か次の系列論考の考察に譲るが、歴代の国家主席・副主席の顔触れを観ても、高崗と蒙古族の烏蘭夫(1983 〜 88 年在任)を除いて、極貧地域の出身者は余り見当らない。少数民族優遇策の一環と考えられる烏蘭夫の就任は、極貧地域から指導者が稀に出ない現実の裏返しとも取れよう。「第4世界」の出身者も極貧家庭の生まれとは限らぬので、極貧層から国家指導者が出た比率は益々低い。
6)R.ニクソン著、徳岡孝夫訳『指導者とは』、文芸春秋、1986 年[原典= LEADERS、’82 年]、9頁。7)行政命令に由る建国後の文化事業の調整の結果、全国から北京に人材・資源が無制限に集まったのは周知の事実だが、上海で生まれ育ち来日前に首都の政府「智庫」・中国社会科学院に勤務した本稿筆者が些か驚いたのは、楊東平が『北京人と上海人―攻防と葛藤の20 世紀』(趙宏偉・青木まさこ編訳、NHK 出版、’97 年。原典=『城市季風―北京和上海的文化精神』、’94 年)の中で挙げた南北2大都会の劇的な逆転―大学数は’48 年の上海36 対北京13 →4年後の上海15 対北京26、出版社数は上海321(’52 年)対北京3(’49 年)→上海33(’89 年)対北京320(’87 年)、新聞社数は’48 年の上海200 余り対北京82 →’91 年の上海82 対北京の159、雑誌数も同上の上海88 対北京27 →上海159 対北京945(95 〜 96 頁)。
8)其々1897、1912 年に創設した商務印書館、中華書局、及び三聯書店が建国後に北京に移った(楊東平『北京人と上海人』、96 頁)が、毛沢東は1957 年に愛読の『辞海』の改訂を上海の学者集団に委託した(毛の図書係を長年務め小平時代に中共中央文献研究室主任に成った先知も『毛沢東の読書生活』の中で、「間も無く上海に大勢の優秀な学者が集まり、膨大な再編集の作業が始まった」と述べた。日本語版[竹内実・浅野純一訳、サイマル出版会、’95 年。原典= 育之・先知・石仲泉『毛沢東的読書生活』、三聯書店、’86 年]、12 頁)。因って、’30 年代に商務印書館から出た此の権威有る大辞典は、上海辞書出版社の「専利」(特許)と成った。周恩来の執務室や林彪の応接間にも『辞海』が置かれていた事は、中共の首脳部に対する上海の頭脳の影響の証だ。
『辞海』の改訂責任者の1人に指名された陳望道は、他ならぬ『共産党宣言』の最初の中国語全訳(1920 年)の訳者だ。彼
かの教育家・言語学者・社会思想家は浙江の出身であるが、’20 年に陳独秀等と共に上海共産主義小組を創設し、翌年に建党した中共の上海地区委員会初代書記に就任し、建国後は上海随一の文科大学・復旦大学の学長を務めたから、半分以上の上海人と観て差し支えない。彼は’23 年に陳総書記の家長的な独裁に堪えられず脱党し、’57 年に再び入党したが、其の年に毛の家長制独裁が台頭したのは皮肉な事だ。彼は’58 年に『辞海』副主編(副主幹)、2年後に逝去した舒新城に代わって主編に就任したが、共に毛に影響を与えた『共産党宣言』と『辞海』の対は興味深い。最新の党規約から『共産党宣言』の文言が消えたが、陳の代表作・『修辞学発凡』に因んで言えば、マルクス主義は後退しても漢語は不滅である事か。
猶、建国後の毛が特に愛読した新聞には、上海の知識人向けの『文匯報』が有り、特に其の「副刊」(文学作品や学術論考等を掲載する学芸欄)が気に入った( ’57 年の「反右派」で彼が最初に此の新聞を槍玉に上げたのも運命の悪戯だが、後述に譲る)。最晩年の周恩来が枕元に常に置いていた本は、上海古籍出版社刊行の『宋詞選』である(張佐良著、早坂義征訳『周恩来・最後の10 年 或る主治医の回想録』、日本経済新聞社、’99 年[原典=’97 年]、376 頁)。彼が初代国産品の上海製腕時計を逝去まで愛用し続けた事(程華編著『周恩来和他的秘書們』、中国広播電視出版社、’92 年、434 〜 435 頁)と合わせて、上海の「士+工+商」の総合的な実力が窺われる。
9)孫文は『在桂林学会歓迎会的演説』(1922 年)の中で、「順乎天応乎人」を2度引いた(中山大学歴史系孫中山研究室・広東省社会科学院歴史研究所・中国社会科学院近代史研究所中華民国史研究室合編『孫中山全集』第6巻、中華書局、’85 年、68、72 頁)。此の成句の出所は、『易経・兌卦第58』の「剛中而柔外、説以利貞。是以順乎天而応乎人。」
10)「低度茅台酒」の初出時期は不詳であるが、少なくとも此の2種類が出回っている。中国酒に造詣の深い小泉武夫の『銘酒誕生』(講談社現代新書、’96 年)にも、53 度〜 60 度の本格的な白酒を敬遠する若年層の出現で、40 度や30 度の物が出回る様に成ったソフト化が言及された(60 〜 61頁)。同書では茅台酒は53 〜 65 度と記された(114 頁)が、共に中国の銘酒の筆頭を成す瀘州(四川)老窖特曲酒に就いては、60 度と55 度(輸出用)が有ると紹介された(87 頁)。
11)『論語・子路篇第13』。
12)『管子・治国第48』の冒頭の言:「凡治国之道、必先富民。民富則易治也、民窮則難治也。(略)民富則安郷重家、安郷重家則敬上畏罪、敬上畏罪則易治也。民貧則危郷軽家、危郷軽家則敢陵上犯禁、陵上犯禁則難治也。故治国常富、而乱国常貧。是以善為国者、必先富民、然後治之。」13)『管子・牧民第1』の冒頭の段落の言。「倉廩実則知礼節」は『管子・事語第71』でも繰り返された。猶、『管子』の巻頭の篇名―『牧民』には、民衆を牧養する事を治世の本質とした管子の政治観念が窺えるが、隋の新都・大興の碁盤状の街路の区画を「家畜の檻の発想」の産物とし、統一国家・隋の統治思想の原点を遊牧民族の家畜統率に求めた大室幹雄(千葉大学教授)の仮説(夏剛『「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)』[本誌15 巻1号、2000 年]註93 参照)と併せ考えれば興味深い。
14)45)66)夏剛『現代中国の統治・祭祀の「冷眼・熱風」に対する「冷看・熱読」―「迎接新千年」盛典を巡る首脳と「喉舌」の2重奏と其の底流の謎解き(2)』(『立命館言語文化研究』14巻3号、2002 年)参照。
15)世の中の万物の中で最も貴重な存在は人間であり、共産党の指導の下で人間こそ居れば如何なる奇跡も造れるとか、人が多ければ遣る気が盛り上がるとか言う毛の建国後の論調は、人間の能動性を絶対視する嫌いが有った。其の時代の中国の自慢の成句―「地大物博、人口衆多」(国土が広大で物産が豊富で、人口が多い)は、彼の死後に1人当りの物産の貧弱に繋がる大所帯の負の面が指摘された。「多勢に無勢」の論理に即して言えば、大勢の人口は総合的な国力の増強への寄与も否めないが、分母の大きさに伴う自己資本率や収益率の稀薄化も看過できぬ。此の8字熟語の字面にも出た物量主義は、毛の時代に限らぬ建設・戦争の人海戦術の根底に有ったが、「人多好干活、人少好吃飯」(人が多い方が仕事は遣り易く、人が少ない方が飯を食い易い)という諺の通り、人数と利益配分の満足度は反比例に成る。人の質や連携の問題を考えれば、「人多好干活」の前提まで疑わしい。
16)17)夏剛『「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)』参照。
18)李文卿『近看許世友(1967 − 1985)』(解放軍文芸出版社、2002 年)に拠ると、「左派」と「右派」の席が其々毛の左側と右側に成ったのは、林彪・「4人組」が考えた意地悪な配置である(151頁)。毛は党大会の半年前の中央総会で、陳毅は右派を代表する資格が有ると語ったから、毛の意思とも取れなくはない。但し毛の発言は、老元帥・実務派等に雛壇の最前列の席を与える口実とも裏読みできる。実際にも、「右派」代表が毛と肩を並べて坐った場面は、徐海東大将が毛の計らいで酸素吸入装置を付けた儘「主席台」の一隅に登場した光景と共に、「文革」の批判対象の人々には一縷の希望を覚えさせた。毛は人間の両手を以て左右両派の存在の合理性を説き、社会を左・中・右と分けたが、左右両方に擁される形で真ん中に構えた彼の位置は、中国や中央の「中」の真髄を体現した物である。
19)1967 年11 月3日の『人民日報』に、『大樹特樹毛主席的絶対権威』(毛主席の絶対的な権威を大いに樹立し特に樹立しよう)と題する論文が掲載された。「総参謀部無産階級造反派」が執筆し、陳伯達が毛の機嫌を取る為に発表を許可し、林彪の意思で総参謀長代理・楊成武の名義に変わった。毛は事前に楊から決裁を仰がれた時に適当に処理せよと言ったが、新聞を見ると「標題から間違っている」と激怒した。権威の樹立は自然に出来る物で人工的には無理だ、と彼は12 月26日(74 歳誕生日)に異論を再度表明した(産経新聞「毛沢東秘録」取材班編著『毛沢東秘録』下、産経新聞社、’99 年、40 〜 44 頁)が、権威が未だ不十分で樹立の必要が有るとの含みも逆鱗に触れたと思われる。
猶、此の一齣は毛の我が儘を如実に現わした。楊は数ヵ月後に毛の支持を失い失脚したが、彼を敵視した林彪の署名変更の提案に仕掛けられた結果だとすれば、林の毛に対する洞察と詭計の巧妙さは誠に恐ろしい。
20)上山春平『神々の体系―深層文化の試掘』、中公新書、1972 年、53 〜 55 頁。
21)「在庫時計」は別称の「景気時計」と共に、各種の国語辞典には見当らず(「百科全書+国語辞典の最高峰」と自讃した『広辞苑』でも、「在庫」の関連語彙は「〜循環」「〜投資」のみ、「景気」の関連語彙は「〜循環」「〜指標」「〜変動」のみ)、多くの経済学辞典や解説書にも単独の項と成っていない。本稿筆者が依拠したのは、’85 年以来のロングセラー・『ゼミナール日本経済入門』(日本経済新聞社)である。
’96 年版(日本経済新聞社編)の解説に拠ると、’89 〜 92 年に掛けて「エコノミストの間で「景気時計」作りがブームに成り、’90 年夏に「景気時計」論争が白熱した。火付け役の1人・田原昭四(南山大学教授)は論文・『新いざなみ景気論は幻想である』の中で、田原式「景気時計」を紹介し、景気は既に’90 年1〜3月期にピークを打ち下降局面に向かっている、との景気午後6時論を展開した。田原式「景気時計」とは、グラフの横軸に製品在庫の前年比伸び率、縦軸に鉱工業出荷の同伸び率を取った物で、実は在庫循環をグラフにした物に他ならない。(36 〜 37 頁)其の田原論文(『エコノミスト』誌’90 年5月22 日号)を検索すると、件の「出荷と在庫の相関図」(29 頁)は、正に「今回の在庫調整の特徴」と自覚した物である。
田原論文は此の図に就いて、次の様に説明している。「出荷指数と在庫指数の関係を示した物で、景気判断材料として広く利用されている。景気の谷を基準にすると、両者は景気の山に向かって時計回りの円形の循環図を描くのが従来から共通した現象である。景気の1周期を回復期、拡張期、成熟期、不況初期、不況後期の5局面に分けると、出荷と在庫は此等の局面に沿って次の様に変化する。出荷は増加→増勢加速→増勢鈍化→伸び悩み→停滞、在庫は減勢加速→増加、増勢加速→増勢鈍化→減少、という順序である。従って、在庫は出荷より1局面遅れて変動する。」「過去の例に拠ると、需給バランスの目安である45 度線の右下にカーブが移動すると、景気は間も無く山場を迎える。其の後は出荷が伸び悩み、累増した在庫の調整が進む為不況局面に移行する。現在は正にそういう局面に位置している。」(29 頁)『ゼミナール日本経済入門』’96 年版は其の見解に対して、「在庫循環を表す景気時計」の図式を付けて斯く論評した。「だが、平成景気は単純な景気時計通りには動かなかった。右上方に来た後、再び左上方に向かって回転を始めたのである。然し、此の回転は途中で挫折して了う。90年10 〜 12 月まで左上方に上がった後、突如、右下方に向かって落ちて来る。91 年1〜3月でピークを打ち、下降に転じた事を物語っている様に見える。/平成景気の判断が難しかった1つの要因が此の景気時計に表れている。従来の在庫循環と違ってしぶとく“二枚腰”を見せたからだ。
だから次の回復への判断も一筋縄では行かないかも知れない。景気時計の下半分を彷徨うエコノミスト泣かせの展開に成る可能性も十分有る。」(36 〜 37 頁)田原論文の図式は均斉な円弧を描いただけに説得力が自ずと有ったが、其の後の展開に照合するまでもなく、余りにも綺麗な図式や整然たる結論ほど、読者の警戒と研究者の自戒が必要であろう。本稿も4世代指導者の「順時針」移行を便宜上、均等の4区分概念図で示したが、実際は決して一筋縄で行く物でない事を断って置こう。特に精密計量が不可能な統治文化の分野では、「鳥籠統治」の略語の「籠統」(概略的。大雑把)の方が似合うのかも知れない。田原論文の余りに好都合な図式例示以上に、本稿の「時計循環」の図式と概括は「御都合主義」の批判を招き易い。「都合」の中国語の語義に即して言えば、「全て合う」様に成らなくても「合計。引っ包めて」の正しい把握が出来れば十分だ。
「在庫時計」の観方に注目した理由は先ず、在庫調整の売り残りに因る在庫増大→在庫削減→過剰削減→在庫積み増しは、其の4段階の展開も消長・回帰の原理も「対の思想」に符合する為だ。景気の山に向かって時計回りの円形の循環を描く上記の図式の中で、経済の浮沈を示す山・谷の高低と共に示唆的なのは、@全体の流れの起点に当る時計の原点の存在、A別に0時恰度の処に位置せぬ其の原点の実事求是の在り方、B明暗を分ける45 度斜線の区分である。「午後6時」の規定も本稿後出の「朝8、9時の太陽」と関わるが、本稿の4区分時計循環図も陰陽の対の2乗から成るが、陽の極みに当る右上は『易経』の言う「上九、亢龍有悔」(上九〔の相〕、亢龍悔有り)の様に寧ろ要注意で、逆に左下の方は「太陰」と同じく逆説的な価値優位を持つ。
『ゼミナール日本経済〈2002 年版〉』(三橋規宏・内田茂男・池田吉紀、’02 年)の図表・「在庫時計が刻む景気循環」(44 頁)も併せて転載させて貰うが、第2章『景気の謎を解く』の「夜明け前指す“在庫時計”」の1節の講釈では、「在庫時計」は即ち「横軸に在庫の前年比伸び率、横軸に出荷の前年比伸び率を取ったグラフ」で、「在庫と出荷のポジションがピーク時には右上方に在るが、次第に時計方向に動き、ボトム(底)では左下方に位置し、景気上昇と共に右上方に上がって来る。此の一連の動きが時計の針の動きに似ているので“景気時計”と呼ばれる様に成った。」(43 頁)
次の「景気の“山”と“谷”」の図(第一勧銀総合研究所編著『経済用語の基礎知識』、ダイヤモンド社、’02 年、11 頁)の様に、景気循環の高低は一般的に平面図で表示する事が多い。現代中国の歩みも好く単に縦軸か横軸に沿う図式で描かれ(紙幅の制限で割愛)、中軸の両側を揺れ動く円弧は紆余曲折を直観的に展示する効果が強いが、本稿筆者は其の平面的な時系列での「波浪
式的前進」に止まらず、対の発想に基づく縦軸+横軸の複合の上に立って、「螺旋形的上昇」の断面を時計風の循環図で追求したい。
猶、経済分野には様々な時計循環図が有る。『ゼミナール日本経済』’96 年版の第2章・『景気を読む』の上記の「A在庫調整」の後、「C耐久消費財調整」の部分で、「横軸に耐久消費財ストックの伸び、縦軸に実質耐久財消費の伸びを取り、4半期毎の動きを図に書いてみよう。先ほどの在庫調整の景気時計に似た時計回りの軌道が描かれる。」(37 〜 38 頁)一方、株式市場の盛衰・消長を捉える時計風循環図では、株価と出来高を其々縦軸と横軸に取り、25 営業日の移動平均線に拠る日々の交点を結んだ線は、時計と反対の左廻りの曲線に成る事が多い故「逆ウォッチ曲線」と呼ぶ(紙幅の関係で図式は割愛し、続篇の系列論考で取り上げる予定)。
22)「法出於礼、礼出於治。治礼道也。万物待治礼、而後定。凡万物、陰陽両生而参視(礼)。」(『管子・枢言第12』)
23)『辞海』の「九九」の解。
24)毛に関する一部の年表等では、「秋収起義」は8月18 日と記されているが、此の日は毛が中央特派員として蜂起準備の会議に参加した日で、実際に蜂起が起きたのは9月9日の事である(暁峰・明軍編『毛沢東之謎』、中国人民大学出版社、’92 年、88 〜 90 頁)。49 年後の毛の死去と同じく必然性が無いだけに、天意を感じさせた偶然の一致である。
25)「七十三、八十四、閻王不招自己去」(73、84 歳に成ると、閻魔大王[死神]が招かなくても自ずと行く)という諺を、毛は晩年に何度も外賓や周囲に聞かせた。筆者は『「了却天下事・贏得身後名」「只争朝夕・常懐千歳憂」:指導者の自意識と強迫観念(T)』(本誌13 巻1号、’00 年)で論考した事が有るが、本稿の主旨に即して注目したい事象は、諸文献に出た最初の言及の時期、相手と内容である。’61 年9月に武漢で英国のモンゴメリー元帥と会見した際、彼は此の熟語を引いて余生幾許の心境を吐露し、マルクスに会いに行く(彼の世に逝く)為の4ヵ年計画を立てていると言った。劉少奇が後継者であると初めて明言したのも同じ席上(暁峰・明軍編『毛沢東之謎』、56 頁)だから重みが有るが、満68 歳前の年齢を考えれば彼の慣用の政治的な煙幕の匂いもする。「史上最大の作戦」を指揮した第2次世界大戦の老兵に語った処には、寧ろ「老当益壮」(老いて益々盛ん)の雄心も秘めていた様な気もするが、反面、「3年自然災害」の真っ最中の鬱勃さも混じっていたろう。同年9月9日に書いた「無限風光在険峰」に、本稿筆者は冬に近い「悲涼」の気配を感じ取った(後述)が、初めて死神の足音に触れた時期との符合でも裏付けられよう。
26)『紅楼夢』第2回の中の冷子興の台詞:「是進士出身、原来不通! 古人有云:‘百足之虫、死而不僵。’」(進士出身のお方なのに、案外お解りでないのね。古人が云うには、「百本足の虫は、死んでも僵れず。」)人民文学出版社1990 年版(中国芸術研究院紅楼夢研究所校註)の注釈では、三国時代の魏の曹冏の『六代論』の「故語曰:‘百足之虫、死而不僵’、扶之者衆也。」を出所に挙げ、其の依拠と成る最初の原典は未詳の儘である。戦国時代の魯仲連の言葉が語源とも言われるが、理論上、「語曰」の語り手が引用者の曹冏自身の可能性も排除し切れない。「〜と思われる」「〜と言われる」の形で自らの考えを表わす日本流と通じて、中国でも言わば「没我的な主我」(筆者の命題)の表現が有る。
人民文学出版社刊本では此の8字成句の語釈は、「大貴族官僚家庭が衰微していても或る種の表面的な繁栄を維持できる事の比喩」と成っている。第2回(話)の題―『賈夫人仙逝揚州城冷子興演説栄国府』(賈夫人、揚州の城にて他界し 冷子興、栄家の史を講釈す)に出た揚州は、満州族高級官僚の家庭で生まれた著者・曹雪芹と同じく、清王朝の栄枯盛衰を先取りして衰微へ滑ったのである。
直接の関係は無いものの、其の題と重なる様に江沢民は揚州の人で演説好きが有名だ。本稿は江の文化的な背景として出身地に光を当て、『立命館言語文化研究』14 巻2〜3号(2002 年)連載中の『現代中国の統治・祭祀の「冷眼・熱風」に対する「冷看・熱読」―「迎接新千年」盛典を巡る首脳と「喉舌」の2重奏と其の底流の謎解き』は、其の演説が契機及び材料と成る。
其々党・国の軌跡と領袖の「心跡」を掘り下げる2つの系列論考は、又毛の詩歌で繋がっている。
27)第8期党中央第12 回総会開幕の3日後の1968 年10 月16 日、『紅旗』誌の社説・『無産階級の新鮮な血液を吸収しよう』の中で、毛の「吐故納新」に由る党の整頓の指示が伝達された。人体の摂理を用いた毛の比喩は流石に巧みで、彼の党中央理論誌の社説の題も立派な正論だが、総会で毛が王洪文等の造反派を顕彰し劉少奇の党籍を剥奪した事は、其の「吐故納新」の質の悪さを物語っている。
28)竹内実訳。武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩歌と人生』、文芸春秋新社、1965 年、100 頁。
29)「正大光明」は乾清宮の正面に掲げられている扁額に書かれた熟語として有名。康煕の住まいだった此の場所は、雍正の時代には紫禁城内廷の最大な聖域と成った。雍正元年に、第4皇子・弘暦を世継ぎとする密書が扁額の裏側に隠し置かれた。生前に皇太子を立てる事の廃止は、内紛を避ける為の清朝独特の方策なのだ。最初の考案者・雍正帝が57 歳で急死した際に、此の仕組みのお蔭で次世代(乾隆帝)への権力譲渡は順調に行なわれた。紫禁城の外向けの中心―太和殿と一対の聖域・禁域を成したが、陰・裏に当る此方の画龍点睛―「正大光明」は陽・表の性質を持ち、其の文面とは裏腹に密封の遺言が裏に秘蔵されたのは、中国の複雑系らしい絡繰である。林彪集団の粛清を狙う毛は、「要光明正大、不要陰謀詭計」(光明正大であるべきで、陰謀詭計を弄じるな)と警告を発したが、其の時代の数々の密室政治や権謀術数は此の正論とずれている。
又、孫文が揮毫した「天下為公」は南京中山陵の陵門等、毛沢東自筆の「為人民服務」は中南海の正門―新華門に掲げられる言葉だ。『礼記・礼運篇第9』の「天下為公」は、天下は公有物であり天子の私有物ではなく、天子の位は天が誰に授けられると言う意味だが、聖域の主眼と成る以上の3点は、共に帝王思想の裏返しと見られる節が有る。
30)天文物理学者・方励之が1989 年1月6日に小平に書簡を送り、5.4運動70 周年、建国40 周年と仏蘭西革命2百周年の節目を引き合いに出し、魏京生(反体制運動・「北京の春」の思想的な指導者)等の政治犯の恩赦を求めた。其に触発されて2月中旬〜3月中旬、知識人33 人、科学者42 人、文化人43 人が其々同じ主旨の公開書簡を党中央や全人代に送り、天安門事件の遠因と成った。
方は2年前の同じ1月に「資産階級自由化」の鼓吹を理由に、 の指示で党籍剥奪・公職追放の処分を受けたが、’84 年に中国科学技術大学第1副校長(筆頭副学長)に就任して間も無く、30年前の「反右派運動」に次ぐ2度目の除名・解雇を喫した事は、曾’57 年「反右派」の陣頭指揮を執ったの「思想解放」の限界を露呈させた。方は翌2月に訪中のブッシュ米大統領のレセプションに招待されながら当局に出席を阻止され、天安門事件の翌日に夫人・李淑嫻(北京大学物理学部助教授)と共に北京の米大使館に避難し、翌年6月下旬に米中の取引で渡米が実現した。
相馬勝『中国共産党に消された人々』(小学館、’02 年)の第3章・『吼える改革者・方励之』には、中国人保護の前例が無く特例は作れぬ事を理由に、米大使館が方夫婦の避難を断り退去を求め、方が涙を流して5時間も粘った末に大使の判断で受け入れられた、との経緯が記されている(59 頁)。米国の人権は此の様に無制限ではなく、自由も此の際は特別扱いを許さぬ平等精神と対立するわけだが、国益を軸に可・不可の判断を下し、必死の亡命希望者を追い返す事も辞さぬ米国の姿勢は、’02 年の瀋陽日本総領事館から中国側が「脱北(朝鮮)者」を連行した事件と結び付ければ興味深い。
其にしても、声涙倶に下った粘りで米国側を説き伏せた経緯は、強かな中国人らしい。武力鎮圧の直前に相馬の取材に応じたのは、事件中の西側向けの最後の発言と成った。其の時さんざん共産党と小平の悪口を言って了い、必ず問題に成ると思って米大使館に逃げ込んだのだ、と彼は2年後に相馬に述懐した。「冗談とも本気とも付かない感じで、大笑いをしていたのが印象的だった。だが、私は其の発言の真意を聞き漏らしてしまった。」と相馬は言う(74 頁)が、問い詰めても真意は教えて貰えるとは限らないし、当人にも表現や把握が難しい複数の真意の有り得る虚実皮膜も考えられよう。方は民主化運動の指導者たちの中で最も純粋と見られ、其の言動には科学者らしい無垢さが感じられる(G.トーマス著、吉田晋一郎訳『北京の長夜―ドキュメント天安門事件』、並木書房、’93 年[原典= ’91 年]に拠ると、米国中央情報局が訪中前のブッシュ大統領に出した報告書では、方は「中国のサハロフ」と描写され、「陽気で悪智慧が無い」事が特徴に挙げられた[171 頁]が、其の通りであろう)。故に、亡命の根拠作りを見込んだ言行と勘繰る余地は無さそうだが、極限状況下の此の一幕は別の一面を現わした。
渡米後の方励之は自宅で域外の報道関係者の取材を受ける最中に、原稿料の振込先を訊ねる電話に出て淀み無く口座番号を伝え、傍の取材者に違和感を与えた事が報じられているが、中国的な複眼から観れば何も2重人格ではなく、理想主義と現実主義、人格者と生活者の同居に過ぎない。中国政府は許可の理由として、夫婦の病気治療の為の懇願、反体制活動に対する改悛の意思表示、出国後反中国の活動をしない誓約を公表したが、必要に迫られた2人の譲歩も現実主義の見本と思える。そもそも「悔改之意」は志向や目標への自己否定とは限らず、戦略や戦術に関する自省とも取れるし、反中共≠「反華」(反中国)と開き直る余地も有った。
各方面の建前と本音の乖離が否応無しに顕れた事は、方の亡命劇の見処の1つである。当局は駆け込み劇の7日後に彼を「反革命煽動宣伝罪」の刑事犯として指名手配したが、犯罪者庇護の罪名を米国に被らせようとの魂胆が見え見えだった。中国が法治の原則を武器としたのは如何にも奇妙であるが、米国が1年ほど方を大使館内に隠匿し続けたのは、著名人の特別扱いも含めて超法規的な性質が強い。他方、方夫妻の出国は米中双方の「お荷物」の善処と言えるが、「政治文明」の兆しの様にも思われる。何しろ1927 年の北京では、ソ連大使館西館の旧露西亜兵営に1年以上潜伏していた中共北方責任者・李大(38 歳)が、張作霖の突入命令で無理矢理に他の国・共幹部60 名余りと共に連れ出されて、22 日後の4月28 日に絞首刑に処された。張の本拠地だった瀋陽の日本総領事館で去年亡命者連行事件が起き、張が翌年に瀋陽郊外で日本軍に爆死され、其の6月4日未明が息子・学良の27 歳誕生日の翌日で、方励之を追い詰めた武力鎮圧の日と重なる事も、本稿の論旨に絡んだ不思議な「天数」である。
世界最強を誇る米国の在外使館の警備に比べて、奉(奉天=瀋陽)系軍閥の闖入・連行を許したソ連の非力は些か情けない。『辞海』の「李大」の項で此の経緯に触れていないのは、当てに成らぬ相手に命を預けた故人の甘さを曝したくない節も多少有ろう。中共がソ連を心底から信用していなかったのは、其の衝撃と創傷も一因と考えられる。但し、李の挙動が方の政治避難の正当化の根拠に用いられたのも、歴史の面白い連環である。
共産党中国の現代化の典範はソ連→日本→新嘉坡→米国へと移行して来ており、其の「順時針」移行を別の系列論文で考察する予定だが、陳独秀と共に中共を創設した李大の結末や、「新文化運動」80 周年の際の民主化運動の指導者の亡命先を観ても、其の歴史の流れは確認できる。李の早稲田大学政治経済学科留学→北京大学経済学部教授兼図書館主任(館長)の経歴は、今の新指導部の面々と比べてやはり隔世の観が有る。
措て置き、方励之は斯くして「中国のサハロフ」の異名通り国際的に注目を浴びたが、体制内や国内での基盤を失った民主化運動の無力や、其の無力化を狙った当局の「寛大措置」の老獪も、彼の歩みで明らかに成った。偽「満州国」皇帝・溥儀等の戦犯に対する恩赦は、好く中共政権の懐の深さの例示に挙げられるが、既に改悛・帰心・「去勢」と成った無害の遺物へ与えた寛大は、反体制活動家の「現行犯」(註73 参照)には適用されないわけだ。
猶、本稿と関連する方励之の経歴の注目点は、北京大学物理学部卒後に籍を置き、後に胡耀邦時代の学生運動の震源地と成った中国科学技術大学は、「新文化運動」の先鋒―北京大学教授の陳独秀・胡適、及び胡適と同族の胡錦涛の故郷―安徽に在る事だ。因みに、陳独秀・胡適と共に『新青年』誌を編集し、北大図書館管理員だった毛沢東の上司に当る李大は、1918 年頃に毛に最も影響を与えマルクス主義の道へ導いた(金沖及主編、村田忠禧・黄辛監訳『毛沢東伝1893 − 1949』、みすず書房、’99 年、[原典=中央文献出版社、’96 年]、上、42、49、54、57 頁)。後年の「偉大的導師(教官。グル)」の早期の「導師」たる彼の其の長男・李葆華は、’58 年に水利電力部次官兼党組書記、’61 年に安徽省党委書記、’73 年に貴州省党委第2書記を務めたが、何れも胡錦涛の経歴と接点を持つ。此の様に広大な中国では、「人縁」の世界は意外と狭い。早年の毛と晩年の蒋経国に与えた胡適の影響も、胡錦涛時代の幕開けの際に振り返れば興味津津だが、詳論は後に譲る。
31)天安門事件の中で厳家其(中国社会科学院政治学研究所所長)・包遵信(中国社会科学院歴史研究所研究員)が起草した『5.17 宣言』は、 小平を76 年(正しくは77 年)前に崩壊した封建王朝の皇帝に比した。
32)朱建栄が『中国 第3の革命―ポスト江沢民時代の読み方』(中公新書、’02 年)の冒頭(iv 頁)で引いた香港『明報』’02 年6月20 日の報道に拠れば、江は’01 年11 月に河北省の柏林禅寺を訪れた時に、自ら仏教と関わりが深い事を認め、座禅を組んで胃潰瘍が治った経験が有り、今も仏典の『金剛経』(弘法大師著)を読んでいると披露し、仏教を「我々中国人が最も受け入れ易い信仰である」とも語った。註33 の毛の五台山観覧と関わるが、香港『開放』誌’02 年1月号の報道に拠れば、江は’01 年夏の北戴河会議の後、長男・綿恒のお供で五台山を登り仏像を前に敬虔な祈りを捧げたと言う(宮崎正弘『胡錦涛・中国の新覇権戦略』、KKベストセラーズ、’02 年、111頁)。何れも真偽は判らないが、仏教に理解を示し其の聖山や仏像に敬意を払う事は、中共指導
者と雖も不思議ではない。思うに、仏教に対する体制の全面否定は「文革」を除いて、共産党時代も含めて中国の歴史上は余り無かった。慈悲を唱える仏教は其ほど反対や警戒を招き難いが、「法輪功」の「真善忍」の理念に利用されたのも大衆受けの好さの証だ。
33)毛は建国の前年に仏教の名山・五台山を遊覧した時に、或る廟の仏像の胸に大きな穴が空いているのを見た。中に黄金が内蔵されているとの噂を信じた農民が突き破ったと聞いて、其の物欲や破壊行為を咎める事も無く頷けた。別の廟で雨水祈願の為の龍王像の処に焼香が絶えぬのを見て、自らの利益との相関度に拠って待遇を使い分ける農民の考え方に理解を示した。(暁峰・明軍編『毛沢東之謎』、296 〜 297 頁、原典=師哲『随毛主席従延安到北平』)猶、’02 年12 月29 日、比律賓で元大統領マルクスの巨大な胸像が爆破され、当局は財宝を狙うマニアの犯行と見た(同30 日『読売新聞』)が、故人が禁断の場所に財宝を隠したと疑い敢えて破壊した暴挙は、此の五台山の逸話と通じる。今次の出来事が興味を引くのは、第1、毛沢東、蒋介石の雕塑が大陸と台湾で続々と撤去されたのに対して、’65 〜 86 年に独裁者として君臨したマルクスの像が尚健在でいた点だ。在任中に礼讃の為に整備された其の「マルクス公園」が首都でなく、北部のルソン島に在る事も、中国流の神格化から観れば奇異に思われる。ほぼ同時期に独裁者に成った毛とマルクスの接点として、毛が逝去2年前の’74 年9月に長沙の別荘でマルクス夫人・イメルダ(44 歳)と会見した際、相手が西洋式の儀礼で胸の前に差し伸べて来た手を掴んで軽く接吻した、との一幕(顧保孜『紅墻里的瞬間』、解放軍文芸出版社、’92 年、211 〜 212 頁)が思い起される。老人の気紛れや「異性相吸」(性質の異なる電気[異性同士]が互いに引き合う。性質が同じの電気[同性の人間]が互いに排斥・反撥し合う「同性相斥」の反対)のセックス・アピールを超えて、政治的な同族親近とも思えて来る。
34)魯迅の『悼柔石』(1933 年)の第2聯。本稿で用いた日本語訳の訳者・高田淳は、『魯迅詩話』(中公新書、’71 年)の中で此の七律詩の講釈(65 〜 81 頁)に当って、「城頭変幻大王旗」を党内路線闘争に関連付けた竹内実『魯迅と柔石』(’69 年)の説を引き、’67 年に訪中した武田泰淳が或る展示の見学の感想として此の句を記した処、郭沫若が「大王」とは劉少奇だと言った事にも触れた。郭を中国の「歌徳」(ゲーテ)と崇める向きも有ったが、此の類の権力を奉迎する「歌徳」(徳政を称揚すること)の所為いで、彼は知識人の間で道徳的に評価が低い。彼の風見鶏ぶりや中国語の融通無碍に因り、此の発言は必ずしも劉を貶す物ではないとの取り方も出来ようが、其の真意や魯迅の原義はともあれ、「文革」が国民党時代の内乱や中共早期の内争と三重映しに成った処が示唆的だ。
35)晩年の帰郷の際の墓参り等、毛の孝行に就いては前の系列論考で言及した(夏剛『「儒商・徳治」:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)』参照)が、周の孝行で最も印象的な史実は、1942 年夏に重慶で手術を受けた後、父親の訃報に接した時に床に崩れ落ちた儘で号泣した事だ。其の体調を配慮して夫人等関係者が暫らく情報を封鎖した事に立腹した彼は、マルクス主義も孝行を否定せず、不忠不孝では共産党員とは言えないと断じた。『走下聖壇的周恩来』(聖壇から降りた周恩来)等に出た此の逸話は、非凡な彼の常人の一面と中共指導者の「1身2念」を端的に示している。
36)王稼祥が最初に「毛沢東思想」の概念を提起したのは、広く知れ渡った事実である。遵義会議で彼の1票で毛が党首就任への道が開かれた事も、「文革」中に巷の話題と成った。観方に拠れば毛の絶対的な神格性の固定形象とは微妙にずれるが、僅差で多数を勝ち取った事も大任を与えた天の試練の光環をもたらし得る。王は「文革」中に毛の庇護で無傷で済んだが、旧恩を忘れぬ事が毛の神話の一部と成ったのは、「理治」の中の革命の大義と私情の義理の重層を示唆する。曾ての支持者に対する礼遇は、今後の支持者を釣り出す「利治」の働きをも持つ。其の仁義無き闘いの中の仁義の反面、王の功績を強調する事に由って、毛沢東思想の地位の確立に対する劉少奇の貢献を抹殺しようとの魂胆も秘められた。更に突き詰めれば、王の安泰は淑やかな恬淡が幸いし、劉の破滅は戦闘的な激情が禍した処が大きい。
因みに、陳伯達も自分こそ「毛沢東思想」の概念の発明権、乃至『毛沢東思想』の初版の著作権を主張した(王光美・劉源等著、吉田富夫・萩野脩二訳『消された国家主席 劉少奇』、NHK出版、2002 年[原典=王光美・劉源等著、郭家寛編『所不知道的劉少奇』、河南人民出版社、’02 年]、30 頁)。毛沢東時代以降も引き摺った知的所有権保護の不十分に照らせば意外な感じもするが、「“名”の文化」の伝統を思い起せば不思議ではない。本稿で引き合いにした「年々歳々花相似、歳々年々人不同」の作者は、名声欲しさで自作にして貰おうと切望した縁戚の官僚に一旦譲った後、後悔し約束を破った故に逆恨みを買い殺されたが、其ほど言説の発明権を巡る執念は凄まじい。名への拘りの様な寂寞に甘んじまい性格も、陳が毛の不興を招き失脚に至った一因と看て能い。
37)原非・張慶編著『毛沢東入主中南海』、中国文史出版社、1996 年、380 頁。
38)夏剛『「了却天下事・贏得身後名」「只争朝夕・常懐千歳憂」:指導者の自意識と強迫観念(T)』参照。猶、註36 文献の記述では、抗日戦争勝利後に勢力圏を国民党に譲りたがらぬ中共中央東北局指導者の心理は、口に銜えた「肥肉」を吐きたがらなかったと言う風に表現された(46 頁)。
39)王健民『江沢民全退決策過程内幕』に拠ると、江は普段ほぼ肉を食べず粥を毎食食べており、中南海小食堂で友人を招待する時も「炒花菜」(カリフラワーの炒め物)や、「豆腐肉末」(豆腐にミンチの炒め物)等を好く注文する(香港『亜洲週刊』2002 年11 月18 − 24 日号、29 頁)。周恩来と蒋介石の粥好きは証言が多数有る(程華編著『周恩来和他的秘書們』、294 頁;何虎生主編『蒋介石宋美齢在台湾的日子』、華文出版社、1999 年、下549 〜 551 頁)が、毛に関する証言には肉好きの話が多い反面、粥好きの話は見当らない。晩年の蒋介石が朝食も夕食も粥を食べた、「晩上吃少」(晩は少食)や「八分飽」(腹8分)の格言に基づく養生の他に、歯が好くない事も要因と思える。胡耀邦時代の文化相を務めた小説家・王蒙は、天安門事件後に辞任した’89 年に短篇・『堅硬的稀粥』(硬いお粥)を発表し、老人治国や家長制への諷刺と取られ体制側の非難を招いた。「反右派運動」で毛の批判を招いた彼の筆禍の再来とも言えるが、作品の意図は案外為政者への皮肉なのかも知れない。彼に対する批判は如何にも針小棒大で滑稽な印象も受けたが、粥好きの江沢民と「右派分子」出身の朱鎔基が以後の時代の体制を担ったのは、指導部の高齢化+指導者の淡泊化、及び「脱毛」(毛沢東の呪縛からの脱出)の進展を象徴する事象だ。
40)後藤多聞『二つの故宮』(NHK出版、’99 年)第10 章・『朕は中華帝国の覇者なり―康熙と雍正と乾隆と清朝皇帝たちの「正大光明」の時代』の第9節の題・「黄河を制する者は中華を制す」は、「治(制)水者治(制)天下」(水を治す[制す]者は天下を治す[制す])と共に、今も官民に脳裡に根付いている古来の常識だ。’50 年代後期に水利電力省次官在任中に毛の秘書を兼任した李鋭は曰く、黄河の治水は長江よりも遥かに緊急性が高く重要度も強く、中華民族の生存は何時の時代にも治水と深く関わっており、治水事業は大禹以来絶えず史書に現われて来ている(戴晴編、鷲見一夫・胡訳『三峡ダム―建設の是非を巡っての論争』、築地書館、’96 年[原典=『長江!長江!―三峡工程論争』、’89 年、貴州人民出版社;“Yangtze! Yangtze!― Debate Over the Three Gorges Project”、1994]、194 頁)。
41)1〜2年来屡々新聞に踊り出ている「ガバナンス」(governance)は、『広辞苑』第5版(1999 年)を含めて、多くの日本語辞書には項目として出ていない。其の代りに『大辞泉 増補・新装版』(松村明監修、小学館「大辞泉」編集部編、’98 年)や、講談社カラー版『日本語大辞典』第2版(梅棹忠夫・金田一春彦・阪倉篤義・日野原重明監修、講談社、’95 年)には、「ガバナビリティー(governability)@国民が自主的に統治されうる能力。被統治能力。A統治能力。統率力。日本での誤った用法」と有る。被統治能力を統治能力として誤用するとは、如何にも統治理論や外来概念が曖昧に成りがちな日本らしいが、『広辞苑』には此の語彙さえ無いので、統治文化論の市場の規模拡張の困難さを感じて成らない。
42)「ガバナンス」の訳語の「統治」に対する日本人の違和感を聞いて、中国の或る大学教授が「治理」を考え付いたが、折角の案も日本では定着しそうにない、との話を此の間の日本の全国紙のコラムで読んだ。中国では30 年前の「文革」中の「内部発行」の『日語外来語新辞典』(「日語外来語新辞典」編輯組編、商務印書館、’73 年)には、「ガバナンス」の項(151 頁)が有り、其の「統治、支配」の訳も定着して来たが、「治理」の代案は感心させられる。
「治理」が日本語に無いのは、語義や語感よりも馴染み度の低さが大きいと思う。本稿筆者は『日本的中空・「頂空」(頂点の空虚)と中国的「中控・頂控」(中心・頂点に由る支配)―〈日本礼法入門〉を手掛りとする両国の言説・観念の一比較(1〜3)』(『立命館言語文化研究』13巻2〜4号、’01 〜 02 年)で、中国の多くの抽象語彙が日本で受容されぬ「文化溝」を論じたが、連載2回目では『漢書・趙広漢伝』が出典の「治理」の語義、及び「智力・致力・至理」との同音や治世の文脈に繋がる接点を取り上げた(同3号、186 頁)。
猶、’02 年後半以来、意味不明の外来語を漢語で対応する動きが俄かに高まって来た。『日本経済新聞』’03 年1月29 日第1版の見出し―『ソニー 米国型統治に』等、「統治」も定着しつつある様だ。
43)『水調歌頭・遊泳』(1956 年6月):「更立西江石壁、截断巫山雲雨、高峡出平湖。神女応無恙、当驚世界殊。」(更に西のかた江に石の壁を立て、巫山の雲雨截ち断りて、高き峡に平なる湖を出せ。神女応恙無からんも、当に世界の殊なれるを驚くべし。竹内実訳。『毛沢東 その詩歌と人生』、289 頁)。
44)中国人が決断の時に此の熟語を使う例は多数有る。毛はニクソンに対して、民主党よりも共和党が好きで、前回の大統領選挙では私は貴方に一票を入れましたよと言い、ニクソンは、「2人の悪玉の内、より悪くない方に投票したわけですね」と応えた(引用符の中の訳は、R.ニクソン著、松尾文夫・斎田一路訳『ニクソン回顧録第1部 栄光の日々』、小学館、1978 年[原典=NIXON'S MEMOIRS、 1978]、329 頁)が、其の返事は中国流で「両害之中取其軽」と訳された(陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』、昆侖出版社、’88 年、292 頁。猶、産経新聞「毛沢東秘録」取材班編著『毛沢東秘録』では、此の文献を解放軍文芸出版社’97 年版とした[下、108 頁]が、初版は其の9年前のはず)。
46)柏楊の「醤缸文化」説は有名過ぎるが、其の文筆活動を時系列で振り返れば、大陸との「同歩」(同時進行)性が目に付く。彼は’51 年(31 歳)に小説の執筆を始め、’59 年に青年反共救国団を退職し『自立晩報』副刊編集者に成り、’60 年以降は『倚窓閑話』『西窓随筆』等の随筆を発表し、体制への批判で’68 年の投獄を招いたが、其の年に武闘が頂点に達した「文革」の最初の「文字獄」にも、’60 年代前半の雑文―『燕山夜話』『三家村札記』が有る。前者は北京市党委員会書記・拓が「馬南邨」の筆名で’61 年3月〜翌年9月に、『北京晩報』(夕刊紙)に連載した153編で、後者は拓・呉(北京市副市長、作家)・廖沫沙(北京市党委員会統一戦線工作部長)の交替執筆に由り、呉・「馬南邨」( 拓)・「繁星」(廖沫沙の筆名)から1字取った筆名・「呉南星」で、’61 年10 月〜 ’64 年7月に北京市党委員会機関誌・『前線』(編集長= 拓)に連載した67 編だ。「文革」の批判で拓と呉は自殺か「非正常死亡」を強いられたが、本名・郭衣洞の柏楊の別の筆名・「克保」を連想すれば暗合を感じる。雑文の諷喩に対する当局の敏感は魯迅に対する国民党の態度と一緒だが、一連の問題作が北京市党委員会機関誌に一種のおまけとして掲載されていた事は、毛がいう「党内有派」(党内に派閥有り)の実態を思わせ、毛も好んだ「副刊」(注8参照)の利用価値の高さを窺わせる。柏楊は’77 年に出獄した後に執筆を再開し、’85年の『醜陋的中国人』や’89 年の『家園』(『醜い中国人』『絶望の中国人』の題で日本語訳有り[張宗澤・宗像隆幸訳、光文社])で、政治・社会の弊害の根源として国民性への批判を展開したが、同じ頃の大陸でも民族文化の根を尋ねる文学運動の反面、国民性への「反思」(反省)の機運が思想界で高まり、代表作の『河殤』(後述)の矛先は巡り巡って、柏楊の故郷も含む黄河流域の文化伝統を指したのである。
47)「五色絢爛、漸老漸淡」は蘇軾の文学に対する古人の評語。「東坡肉」は蘇が任官先の杭州で考案したと伝えられるが、地上の天国と言われる蘇(州)・杭(州)の対(夏剛『「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)』註149 参照)は、西湖の整備を進め蘇堤の形成と名称の由来に成った蘇軾と杭州の対とも絡む。
48)『七律・為李進同志題所撮盧山仙人洞照』:「暮色蒼茫看勁松、乱雲飛渡仍従容。天生一個仙人洞、無限風光在険峰。」
49)政治的な「寛松」への要請の高まりは、’80 年代中期の事である。胡錦涛の前任に当る貴州省党第1書記を僅か4カ月担当後、’85 年に党中央宣伝部長に抜擢された朱沢厚の’87 年の失脚は、其に共鳴した姿勢も一因である。江沢民体制発足後の’89 年末に、朱は中華全国総工会(労働組合)副主席兼党第1書記を解任され、以後も活躍の場が与えられなかったが、 小平時代との連続性を窺わせる浮沈だった。猶、緩やかな自由化を唱え小平時代の思想界の「4大領袖」の1人・李沢厚(美学家・哲学者・中国思想史研究家)との同名は、毛沢東・江沢民の名に即した本稿の命名選好論の例証に成る。
50)「“鳥籠”統治」は「“鳥籠”経済」を擬った筆者の造語。中共の長年の経済運営責任者・陳雲は’82 年末、「鳥籠」の比喩を以て経済に一定の制限と適度な自由を与えるよう唱えた。其の計画(管理)経済+市場経済も、「鳥籠」統治の一環と看て能い。 
51)毛は’66 年7月8日に江青宛ての書簡で「文革」発動の決意を述べ、「天下大乱、達到天下大治」(天下大乱は、天下が大いに治るに到る)との青写真も描いた。
52)暁峰・明軍主編『毛沢東之謎』、87頁。
53)王健民『江沢民全退決策過程内幕』。
54)劉再復・林崗は『伝統与中国人―関於「五四」新文化運動若干基本主題的再反省与再批評』(三聯書店、’88 年)の中で、『爾雅』の此の解釈を手掛りに儒教の倫理を分析した(278 頁)。蒋介石は長男に対する帝王学の基礎として、其の10 歳代前半に『説文解字』と『爾雅』を読ませた(江南著、川上奈穂訳『蒋経国伝』、同成社、’89 年〔原典=’84 年〕、12 頁)。天安門事件前の思想界「4大領袖」の1人・劉が共著し、蒋経国逝去の’88 年に刊行した近代思想・伝統文化への反省の中に、『爾雅』の字解が登場したのは、文化と統治の相関を示唆している。
55)『国語・晋語八』:「上医医国、其次疾人。」猶、同章の「言立於後世、此之謂死而不朽」の故事は、『左伝』にも出ており、本稿筆者の『現代中国の統治・祭祀の「冷眼・熱風」に対する「冷看・熱読」―「迎接新千年」盛典を巡る首脳と「喉舌」の2重奏と其の底流の謎解き』の切り口と成った。
56)『理順物価、加速改革』(1988 年5月19 日)は、『小平文選』第3巻所収、263 〜 264 頁。
57)筆者の独自の字解の多くは言語学の正道から外れているが、『日本的中空・「頂空」(頂点の空虚)と中国的「中控・頂控」(中心・頂点に由る支配)―「日本礼法入門」を手掛りとする両国の言語・観念の一比較(1〜3)』等で既に実験し、今後の関連論考で改めて動機を開陳し仮説を展開して行く様に、恣意性を自戒しつつも敢えて新たな切り口を求めたいわけだ。
58)『広辞苑』。猶、同辞書の「維管束」の語釈は、「シダ植物と種子植物とにある重要な組織。茎・葉・根などを条束状に貫いている。篩部と木部とから成り、篩部は同化物質その他体内物質の通路、木部は水の上昇路。」
59)蒋介石は西安事変の22 年余り後の’59 年頃、張学良が自由を回復した事を口頭で告げたが、張は’75 年の蒋の葬儀や’79 年の建国記念日に参列したものの、始めて堂々と公の場に出たのは’90 年6月1日、数え歳90 歳の公開誕生会である。名誉回復を意味する其の集いには、行政院長経験者・張群や行政院長・柏村等が出席した。(文献多数。日本語文献の一例は、古野直也『張家3代の興亡―孝文・作霖・学良の「見果てぬ夢」』、芙蓉書房、’99 年、248 〜 251 頁)蒋介石より1歳年下(1888 年生まれ)の張群は、6ヵ月後101 歳で逝去した。共に2001 年に全うした張学良と陳立夫の天寿も、其々100 歳と101 歳に上った。陳は蒋の親友で大陸時代の国を牛耳る蒋・宋・孔・陳「4大家族」の1員だが、陳と同じ1901 年生まれの宋家の宋美齢は今も存命中である。健康法や達観で長寿を保つ中国人の生に対する執念の強さ、及び体を保つ心・技の充実さは、実に驚嘆すべきである(海峡両岸の指導者の生き方・在り方と絡んで、後に詳述)。
古野直也と共に最晩年の張学良を訪ねた西村成雄(大阪外国語大学教授)は、『張学良―日中の覇権と「満州」』(岩波書店、’96 年)の中の「張学良数え90 歳の公開誕生会」の件で、「主催者の103 歳に成る国民党元老の張群」と記した(252 頁)。両方とも数え歳との前提だから理に適うが、現代中国研究所編『中国年鑑2002』(創土社、’02 年)の’01 年年表では、「2月7日 蒋介石の元側近、陳立夫、台中で死去(103)」(28 頁)と、「10 月14 日“西安事変”の主役、張学良死去(100)」(44 頁)との間に、享年の計算基準の齟齬が見られる。日本的な緻密さを生かせなかった左様な混乱は、元を糾せば中国的な「1人2齢」制の所為である。本稿筆者は本籍地と出身地の使い分けから中国人の帰属意識と自己主張を探った(『「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)』註153 参照)が、「虚歳」(数え歳)の水増しで虚勢を造る習性と合わせて、自己規定の時空軸の虚実の重層を後に掘り下げたい。
猶、筆者は「求実」(真実を求める)、「実事求是」(事実から真理を求める)の精神から、論考対象の年齢を「実歳」(満年齢)で統一している。例えば、雍正帝(1678 〜 1735)の享年は、58歳と記す文献も散見される(後藤多聞『ふたつの故宮』[下]、305 頁)が、本稿註29 の記述では57 歳とした。
60)’64 年12 月15 日〜翌年1月14 日の全国工作会議(党中央が招集し、農村社会主義教育運動が主な議題)で、毛は劉に対して何度も不満を爆発させた。が一般的な意見交換・総括の会議と考えて、毛主席は体が好くないから出席しなくても構わないと言った事も、毛の激怒を招いた。彼は劉と政策を巡って論争した後、片手に『党章』(党規約)を持ち片手に『憲法』を持って、会場に着くなり自分に対する2人の「封殺」を非難した。一方、劉・打倒を呼び掛ける毛の『砲打司令部―我的一張大字報』(司令部を砲撃せよ―私の壁新聞)が、1周年の’67 年8月5日に公表されたのに合わせて、劉は中南海内の「批闘」(吊るし上げ)大会に引き摺りだされたが、執務室に戻ると『憲法』を取り出し、国家主席の尊厳と公民の権利を主張し、自分はまだ罷免されておらず解職は全人代の議決が必要で、憲法を破った者は厳罰を受ける事に成るぞ、と怒鳴った。(王光美・劉源等『消された国家主席・劉少奇』、260、70 〜 71 頁)。何れも有名な史実であるが、本稿の「2主席」対「1主席」の観方に即して吟味すれば、党規約・国家憲法を両手に持った毛に対して、片方しか持たぬ劉の「不平則鳴」(不平を覚えれば大声で叫ぶ)の抗議が空しく響いたのは、孤立無援を形容する「孤掌難鳴」(片手では[もう一方の手の呼応が無い故に拍手できず]音を立てられぬ)の通りだ。一方の毛は「左右開弓」(両面から進撃する譬え)、「左右逢源」(方々から応援を得る)の観が有った。因みに、「不平則鳴」「孤掌難鳴」「左右逢源」は其々、韓愈の『送孟東野序』、『韓非子・功名』、『孟子・離下』が出典である。 
61)註60 と同じ場面で毛は劉に対して、「君は何様と思っているのだ。儂が小指1本動かせば、君を打倒できるのだぞ!」と勃然と怒った(王光美・劉源等『消された国家主席・劉少奇』、260 頁)。多くの要人に目撃された此の光景と暴言は、毛の独裁ぶりを端的に露呈しているが、実際に其の権勢が有るだけに恐ろしい。石炭部や冶全部など何処が「資本主義の道を歩む実権派」なのですかと劉が質すと、彼は即座に張霖之(石炭工業相)を名指した(257 〜 258 頁)が、「文革」で造反派の虐待で真っ先に命を落とした大臣が他ならぬ其の男だ。劉が其の場で詰問を止めたのは、殺気を嗅ぎ取り他の幹部に累が及ぶ事を恐れた所以である。猶、註60 の憲法と註73 の最高会議に絡むが、憲法の規定で国家主席が召集する最高国務会議は、党指導部の決定の追認・発表の機能しか持たず、毛の国家主席辞任後も彼の言い放題の場でいた。’64 年12 月30 日を最後に其の虚飾の活動さえ停止した(天児慧等編『岩波 現代中国事典』、392 頁)のは、「人治」に因る劉の衰微の証と思える。因みに、国・共の同根性を象徴する様に、此の機構の名称と性質は蒋介石政権の最高国務会議に原型が在る。
62)『ニクソン回顧録』(註44 参照)を始め、米国側文献の日本語訳はほぼ全て此の「委員長」を「総統」としているが、建国後の中共は国民党政権を台湾省の地方政府としか容認しないので、左様な呼び方は西側の思い込みに因る物か。我々と蒋介石の付き合いは貴方たちとの付き合いより長い、と言った毛の言葉は其の辺の理解の深浅にも当て嵌まろう。
63)多数の中国側文献を駆使した吉田荘人の『蒋介石秘話』(かもがわ出版、’01 年)の記述では、’48年に蒋の意に反して副総統に当選した李宗仁が、正・副総統就任式の前に式典の服装に就いて蒋の指示を仰いだ処、洋装礼服の着用を言われた。李は民族衣装好きの蒋らしくないと訝りながら、シルクハットと燕尾服1式を誂えたが、前日の夕方に軍服への変更を命じられた。其の通り式典に臨むと、数百の文武官員も外国の使節も礼服姿で、蒋は民族衣装を着け、李だけが軍服姿で厳粛な式典には調和せず孤立して了った。李は内心蒋を恐ろしく思ったが、列席者は彼が姦計に嵌められた事を知る由も無かった。(148 〜 149 頁)
同書には出ていないが、中国人にとって此の一齣のミソは、軍服姿に因って李が蒋を護衛する形象が付いた処に在る。何虎生主編『蒋介石宋美齢在台湾的日子』、(華文出版社、’99 年)では、「軍便服」を着用させられた李は恰も蒋に附随する「大副官」の様で恰好が悪かった、と言った(30 頁)。「好男不当兵、好鉄不打釘」(好い男は兵隊に成らず、好い鉄は釘にしない)と言う大衆の価値観は、鉄砲(軍隊)を政権の生みの親として尊ぶ中共政権の誕生までは根強く有った。蒋の指示は吉田文献では2回とも侍従経由の伝言で、何文献では2回目は「手諭」(指示メモ)を出したとするが、二転三転して李を翻弄した小細工は、蒋の狡賢い政治手法を端的に顕わしている。彼の脳味噌は此の手の暗闘で相当消耗されたから、日本軍にも共産党にも負けたわけだ。
蒋の民族衣装好きや、洋装・軍服に対する当時の民族衣装の優位を浮き彫りにした点でも、此の逸話は興味深い。蒋は夫人に従って基督教に帰依し、国民党は共産党より西洋化を奨励したが、大陸時代の末期にも元首の洋装着用が珍しかったのは、中共と同じ土着性を思わせる(因みに、台湾時代でも少なくとも’54 年5月20 日の「総統」就任式では「藍袍黒馬褂大礼服」を着た[何虎生主編『蒋介石宋美齢在台湾的日子』、652 頁])。恰度半世紀後の’98 年、江沢民主席が民族服装を着て天皇主催の晩餐会に臨んだ事は、日本で一部非難を招いたが、民族衣装を正装とする同時代中国の観念や、日本側が要請した洋式礼服の着用が未だに大陸の対内・対外の典礼で馴染まれていない実情を斟酌すれば、政治・文化両面の誤解と言わざるを得ない。
猶、件の式典は’48 年5月20 日に行なわれたが、本稿で取り上げた台湾民主化示威の要請回答の締め切りの’90 年5月20 日も「総統」就任式の日で、’00 年の陳水扁「総統」就任も同じ日であった。本稿筆者は『中国、中華民族、中国人の国家観念・民族意識・国民自覚』(中谷猛・川上勉・高橋秀寿編『ナショナル・アイデンティティ論の現在―その理論と実証の試み』[晃洋社、’03 年]所収)で、国民党と民進党の隠れた同根性、世界の変易の中の中華の不易を論じたが、其の式典の日が数十年1日の如く守られて来た事は、時計並みの律儀さを以て其の裏付けと成る。
本稿では同じ5月20 日で結ばれる台湾・北京の戒厳令の接点に着目したが、『現代中国の統治・祭祀の「冷眼・熱風」に対する「冷看・熱読」―「迎接新千年」盛典を巡る首脳と「喉舌」の2重奏と其の底流の謎解き』の冒頭で引き合いに出した「副統帥」・林彪の失態は、’70 年の50万人大衆集会で毛の『5.20 声明』を読み上げた際の出来事だ。盛典に於ける蒋と毛(註64 参照)の服装の演出は、正に統治・祭祀の「表演」(パフォーマンス)であるが、因縁の日が歴史の連環を成し得る事は、本稿も含めて筆者が近年来の論考で再三検証して来た。因みに、陳水扁「総統」就任の干支の1小巡り前の’88 年5月20 日、民進党の陣頭指揮で台湾各地の農民数千人が台北で利益保障の為の請願をし、立法院構内での小便を拒否された事から当局と衝突し、負傷・逮捕者が多数出た。柏楊の『家園』(日本語版題=『絶望の中国人』、註46 参照)の刊行日は其の流血事件の丸1年後、奇しくも北京戒厳令発動の日とぶつかった。
64)毛は朝7時半に始まる紅衛兵百万人集会の前日の深夜、「軍装を着る」と突然言い出したが、大柄で恰幅の好い彼に合う軍服は手近には無く、軍の総後勤(軍需)部の担当者も不在だったので、毛の体形に似た中央警備部隊の中隊幹部の物を取り寄せ、毛は早速試着し気に入った( 経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上、175 頁。原典=陳長江等『毛沢東的最後10 年』、中共中央党校出版社、’98 年)此の逸話の興味深い処として、次の数点が挙げられる。@「衣食住行(交通・行動)」に於ける冒頭の位置の通り、服装は象徴的な重要性を持つ;A軍服は「文革」中の毛の神格化に画龍点睛の役割を果たした;B裏を返せば、建国後の毛に軍服着用の習慣が無かった;C調達の経緯は毛の体躯の大きさを裏付けた;D他者の物の借用に無頓着な処は毛の鷹揚さと共に、服装を記号として割り切った感覚にも因ろう。
65)’81 年4月、『解放軍報』に映画脚本・『苦恋』(白樺・彭寧、’79 年)を批判する「特約評論員」の論文が掲載され、間も無く『紅旗』『人民日報』も追随した。上層部の背景を仰々しく仄めかす署名も、軍部が口火を切って党の「喉舌」が参戦した処も、映画を「思想闘争」の突破口にした手法も、毛沢東時代の名残りを感じさせた。何しろ毛自身も左様な覆面論評を書いた事が有り、「文革」中の『人民日報』第1版の真上に毎日載った「最高指示」は軍総政治部編『毛主席語録』が元祖であり、「文革」の前哨戦には「林彪同志が江青同志に委託して開催した部隊文芸工作座談会」(’66 年2月)が有り、「文革」初期の「三家村」批判(註46 参照)の第1弾、’66 年5月8日『解放軍報』に掲載された『向反党反社会主義黒線開砲』(反党反社会主義の黒い線を砲撃する)であった。署名の「高炬」は「高挙」(高く掲げる)の語呂合わせで、実質的な筆者は江青と其の側近なのだが、建国後の「文芸戦線」の最初の粛清運動は、恰度30 年前の’51 年2月に、党中央宣伝部映画処(科)副処長・政務院映画指導委員会委員の江青が仕掛け夫君の威勢を借りた映画・『武訓伝』の批判だ。
尤も、軍部の媒体が論陣を張ったのは、当時白樺が軍の専属作家であった事にも因る。曾て賀龍に近かった白は昆明軍区在籍中「右派分子」として党籍・軍籍が剥奪された後、やがて復活し武漢軍区に移り、「文革」後期に胡耀邦の別働隊として反江青の秘密活動に携わったが、軍人作家に由って「反4項基本原則」の問題作が創られたのは、政府「智庫」の中国社会科学院のマル
クス−レーニン主義研究所所長・蘇紹智が「異端」言動の為、’87 年の「反資産階級自由化」で所長解任・党籍剥奪の処分を受けた事と同じく、共産党支配が一枚岩でない実態を象徴している。
猶、同年暮れに白樺の『解放軍報』『文芸報』宛ての公開状で自己批判を行なった形で一件落着と成った。秋の党大会での胡耀邦の党首就任を妨害する意図が批判の裏に有った、等の憶測が飛び交ったが、各方面の妥協には練達の平衡感覚が看て取れる。本稿筆者は其の数年後、胡耀邦の応援の下で『大地の子』の取材を進める小説家・山崎豊子の随行通訳として、筆禍後間も無く上海作家協会に移籍した白の自宅への訪問をお供したが、良心を曲げる事無く且つ無難な表現で微妙な質問を躱した其の対応には、感銘を受けると同時に其の世代(白は1931 年生まれ、建国時に恰度成人に成った)の一典型を観た。
『苦恋』は長春映画製作所に由り『太陽与人』(太陽と人間)の題で映画化したが、公開禁止につき幻の作品と成った。胡耀邦失脚前に関係部門の好意と上層部の決裁で山崎豊子の特別観覧が許可され、筆者は北京某所のがらんとした小ホールで同時通訳に当った。や軍部の不興を買った割には余り煽動力を感じず拍子抜けした。尤も、当事者の信条・心情・立場を考慮すれば、針小棒大の過剰反応とも思わない。特に槍玉に上がった2ヵ所―代々の大衆拝観のお香の煙で黒く成った仏像と「人」の字形を成して飛ぶ雁の群れは、本稿で論じた毛沢東時代の「造神」(註32 参照)、「文革」後の人道主義の台頭、及び内外の雁行型発展への移行と結び付ければ、未だに今日的な意味を持っている。新中国を慕って海外から帰国した画家が「文革」中迫害を受け、’76 年の天安門事件後に国内逃亡を強いられるとの物語は、第2次天安門事件後の反体制知識人の国外亡命と比べれば、毛沢東時代と小平時代の反転が看て取れる。
67) 太君は『辞海』で単独の項が有り、次の様に解説されている。「『楊家将』の中の人物で、北宋の名将・楊継栄の妻。韜略に精通。其の8人の子供と1人の孫は多く国に殉じた。西夏の侵犯に対して、百歳の高齢を以て元帥の印を携帯し、楊家12 人の寡婦を率いて西部を征伐し、楊家将の愛国精神を集中的に体現した。一老婦人でありながら高度の威望(威信・人望)を持つとは、古典文学の中の稀に見る人物である。」人口に膾炙する『楊家将』の物語には、 太君の訓示を拝聴し服従する場面が好く出る。本稿
筆者は『中国、中華民族、中国人の国家観念・民族意識・国民自覚』や、『中国的な国家・民族自覚を巡って(上・中)』(『立命館言語文化研究』11 巻4号、12 巻2号、’00 年)の中で、老母の命に拠って親への孝より国・主への忠を一層自覚した岳飛や徐庶の物語を例に、中国に於ける家の国に勝る重みを論じたが、其の英雄・賢人の恭順は此処で母権の強さや陰・柔の究極の優位を示唆する。猶、曾て日本の軍人は占領下の中国人から「太君」と呼ばれた。漢奸が敬虔に勘案した尊称なのか民衆の不本意な奉迎なのか不明だが、「太君」や『西遊記』の「太上老君」とだぶる大変な立て方なのだ。其の神聖なる呼び名も殆ど真正の気持ちを伴わなかったので、「‘名’の文化」の反面の「‘仮名’の制度」に気付かされる。
68)朱建栄『毛沢東のベトナム戦争―中国外交の大転換と文化大革命の起源』(東京大学出版会、2001 年)には、李志綏『毛沢東の私生活』、陳晋『毛沢東之魂』(吉林人民出版社、’93 年)、中共中央文献研究室編『建国以来毛沢東文稿』第6巻に基づた経緯の記述が有る(118 頁。出所註は147 頁)。毛は西北地域を考察する為に北京西山と北戴河で騎馬の訓練を受け写真も撮り、内蒙古・寧夏から馬の調達が済み、歴史学者・地質学者・土木建築学者の同行も決まったが、米軍が越南戦争に直接介入したとの急報が’64 年8月5日に入った事で、10 日の出発予定は急遽取り消された、と言う。
戦争中の毛は好く一身の安危を顧みぬ我が儘な行動を取ったが、建国後流石に出来なく成った事は天下取りと政権維持の違いを思わせる。「老夫聊発少年狂。左牽黄、右蒼、(略)千騎巻平岡。親射虎、看孫郎。酒酣胸胆尚開張。鬢微霜、又何妨!(略)会挽雕弓如満月、西北望、射天狼。」蘇軾の『江城子・密州出猟』の此の情景を連想させる彼の夢は幻と成ったが、2年後の同じ8月5日に『砲打司令部』の号令(註60 参照)で「老夫」の「少年狂」を見せたのは、一種の代償行為なのかも知れない。一方、「文革」は「老夫」・毛が煽てた造反派の「少年狂」とも言えよう。本稿の論考と結び付けて考えれば、西北・地質学者・騎馬と温家宝の勤務地・専門・特技と重なる事(後述)も意味深長だ。
上記の朱建栄著書には、李志綏『毛沢東の私生活』も含めて一部の文献に就いて「邦訳」の記し方が成されているが、本稿筆者も曾て『「文革」後の中国文学と日本の戦後文学―相互参照の試み』(岩波書店『文学』’89 年3月号)の原稿で「邦訳有り」と書いた処、「邦訳」は本邦訳の意なので記述者が中国人である場合は不適切だ、と校閲者の竹内実先生から指摘され、以来ずっと「日本語訳」として来た。朱氏の好著に難癖を付ける心算は全く無いが、思考・表現の盲点として触れて置きたい。
69)若林正丈『蒋経国と李登輝―「大陸国家」からの離陸?』、岩波書店、’97 年、198 頁。
70)何虎生主編『蒋介石宋美齢在台湾的日子』の第13 章(683 〜 746 頁)の題。小平時代では懐柔策として蒋介石を「蒋先生」で呼ぶ場合が多く成ったが、其の尊称が「先死」(先に死ぬ)の揶揄と表裏一体と成り得るのは、中国語と中国的な思考の恐さである。蒋介石とフルシチョフの逝去を伝えた『人民日報』の報道は、「〜死了」(〜死んだ)と言う嫌味の見出しを付けた。敵対心理を映した素直な表現と言えるが、些か大人の風格に欠ける。中国語の「逝世」(逝去)、「去世」(他界)に比べて、日本流の「死去」も粗雑な語感がするが、せめて「死去」ぐらいを使った方が宜しかろう。尤も、蒋介石を語呂合わせで「蒋該死」(「該死」=死ぬべし)と呪う毛沢東時代の感覚に比べれば、「死了」は寧ろ遠慮の部類に入るのだ。 
71)司馬遼太郎は亜細亜の「4頭の竜」の先頭を導く日本を「親竜」と表わした(『儒教三千年』、朝日新聞社、’92 年、213 頁)が、ソ共の「老子党」(親父党)気取りに対する毛沢東の反撥が示した通り、中国人の民族自尊心は此の「親」を受け付け難い物だ。本稿筆者は雌伏→雄飛の過程を思い浮かべる「昇龍」か「騰竜」を好むが、日本の牽引役をより鮮明に出す比喩として、「頭雁」か「頭龍」が好かろう。雁の群れの引率役を言う前者は亜細亜経済発展の雁行型様式にぴったり合い、「頭羊」(ボス羊)を擬った後者は字面で日本の竜頭蛇尾(中国流では「虎頭蛇尾」)と重なり、其々妙味が有る。
72)戦争中まだ日本軍に占領されなかった頃の香港や日本占領下の上海の中の西洋列強の租界は、孤立と安全・繁栄の両義で「孤島」と呼ばれた。「孤城」は「4小龍」の植民地体験(註75 参照)に繋がる其の形容と、王之渙の「黄河遠上白雲間、一片孤城万仞山」とをだぶらせた表現である。
唐の辺塞詩の最高傑作に入る此の『涼州詞』は、最初の句は本稿の黄河「治理」の文脈と関わり、後半の「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」は、玉門関以西の甘粛の黄河流域水利発電所建設現場で長年辛抱した胡錦涛の経歴と重なる。
宮崎正弘の『胡錦涛・中国の新覇権戦略』の政治的な色眼鏡に因る一部の偏頗を感じつつも、次の喝破には共鳴を覚えた。曰く、軍隊経験が皆無で狡智な中国人を知らぬ日本の新しい世代の中国観察家は、米国留学仕込みのデータ偏重の分析法に頼り、人間性の読解を疎かにし全体像を見誤りがちである(72 〜 73 頁)。曰く、日本の中国報道は経済関係に偏り、而も繁栄の片側は報じても暗部を詳細に凝視する態度は乏しく、漢字文化の利点を生かしていない;日本人が中国を誤解する要因は儒教や漢字の他に、唐詩の優雅・雄大・浪漫も有るが、現代中国には日本的な甘い情緒的は通用しない(248 〜 249 頁)。
比較文学から出発し比較文化に研究基盤を移した本稿筆者は、両国の政治・社会や思考−行動原理を比較し、日本人の中国観や言説全般に接する際に、漢字・漢籍との本質的な「文化溝」を痛感せずにはいられない。詩歌とは別世界の生臭い・血腥い現実や、其の現実を反映した唐詩の中の「悲涼」(悲愴・凄愴)の一面に目を向ければ、安易に唐詩の形式美の虜に成って了う心理は、断層の彼岸の部外者の片思いとしか思えない。戦乱を背景にした辺塞詩が日本で馴染み難いのも其の証だが、宮崎が魔力の例示に挙げた「国破山河在、城春草木深」自体は、典雅や優美には程遠い血と涙に由る悲壮な滅亡の表現であり、皮相な感情移入を拒絶する物である。
73)「トロツキスト分子・国民党特務・反党集団頭目」の罪名で、’47 年3月に41 歳の王実味が銃殺されたのは、中共が文学者に処した極刑の例外である。戴晴は報告文学・『王実味と「野の百合花」』(’88 年。田畑佐和子訳『毛沢東と中国知識人―延安整風から反右派闘争へ』[東方書店、’90 年]所収、7〜 92 頁)の中で、其の不当批判・逮捕・処刑の全容を容赦無く暴いたが、本稿の論考範囲に関連する次の諸点に注目したい。@処刑を知った毛は激昂の余り弁償して還せと言い、建国後も此の事を何度も蒸し返し、当初の党中央社会部長・李克農を酷く落ち込ませ其の若死(享年63)を誘発した。A戦時下の非常事態という弁解の余地が有りながら、最終決裁者と見られる賀龍は責任を認めず毛も彼を咎めなかった。B王を監禁に追い込んだ契機は他ならぬ毛の批判で、彼は王の名誉回復を謀らぬばかりでなく、李克農が脳溢血で急逝した’62 年(戴が記した没年の「50 年代末期」は憶え違い)、最高会議で王の「毒草」(有害な作品)を挙げて王への非難を繰り返した。王の名誉回復は死後45 年も経ち、延安時代の柵が漸く崩れた江沢民時代の’92 年に漸く実現された。
後の2点は中共の長年の「人治」主義、加害者でありながら謝罪せぬ体質、「算歴史旧帳」(旧い勘定を清算する。昔の事を蒸し返して追究する。積年の怨念を晴らす)の習性を現わしたが、被害者・弱者が謝罪を拒む事の危険性も此の事例で思い知らされた。戴晴は王の死の要因を保身術が欠如した初心さにも求めたが、多くの知識人が毛沢東の独裁に屈したのは、其の鑑を思い出せば合理的な行動と言えよう。一方、周恩来の下で情報部門を長年司った李も、上命に忠誠を尽くす純粋さの故に身を全うし得なかった。反面、王の処刑→毛の憤怒→李の悶死という負の連鎖は、皮肉にも悲劇の再演の歯止めと成った。
「文革」中の張春橋は、銃殺しない事が巴金に対する寛大な待遇だと講演で言った(巴金『一封信』、’77 年。『講真話的書』[四川人民出版社、’90 年]所収、4頁。原文=「不槍就是落実政策」)が、王実味の様な死刑がもはや出来ぬ事の裏付けと思える。尤も、口惜しい虚勢だと理屈で判っていても、極刑を散ら付かせる威嚇は知識人にはやはり効果覿面だった。何しろ「文革」初期に、巴金と同年代で同じく張春橋・江青等の若い頃の暗部を知っていた上海交響楽団指揮者・陸洪恩が、「反革命現行犯」として逮捕され高齢にも拘らず処刑された。(陸の冤罪は日本では報じられていない様で、中国でも「文革」後の暴露には余り見当らなかったが、音楽好きで多感な年頃だった当時の本稿筆者には、強烈な衝撃を与えた。)註40 で挙げた戴晴編の問題作と李鋭に絡むが、『三峡ダム―建設の是非を巡っての論争』にも「現行反革命」に纏わる秘話が出ている。『過去4年間(1989 〜 1993 年)の経緯』(執筆=史禾)の記述に拠ると、’91 年新春、三峡ダム建設の議論が進まぬ状況に苛立った2人の長老指導者―83 歳の国家副主席・王震と75 歳の全国政治協商会議副主席・王任重が、広州で専門家座談会を招集し推進の気勢を盛り上げようとした。彼等は所管でもないのに、当工程は’92 年下半期での着工を目指し、今世紀末と来世紀初頭には便益が現われるよう奮闘し、2010 年には全部完成する、と言う号令を「紀要」(議事録)に盛り込み、建設急進派の銭正英女史(全国政協副主席。元水利電力相)等を元気付けた。王震は慎重派の代表格を名指して糾弾し、「三峡工程に反対する李鋭は、湖南人の恥曝しであり、反革命の現行犯である!」と放言した。
其の評語は議事録には記載されなかったものの、口伝えで北京にまで届いたが、李鋭は動ずるどころか、「私が反革命の現行犯ですって?其ならば、私を逮捕すれば好いじゃないですか」と平然として述べた。(75 頁)本稿筆者が通常の日本流に従って「反革命の現行犯」と直した処は、中国語版・英語版に基づき日・中の訳者に由る日本語訳では、「現今の反革命」と成っている。王の恫喝は李の応酬から窺われる様に、現行犯逮捕の要件を構成し得るとの含みが有るが、「現今の〜」では刑事処罰に直結せず迫力が全然違う。因みに、「概要」と訳された座談会の「紀要」は、中国語では公式会議等の議事録を表わす(注66 で触れた「林彪同志委托江青同志召開的部隊文芸工作座談会」の決議に準ずる議事録も、「紀要」の名称を使った。因みに、日本の大学の紀要は中国流で「学報」が普通)。問題の広州座談会の「紀要」を掲載した新華社の『国内動態清様』は、日本語版で原文の儘と成っているが、日本語に無い「清様」は意訳か注解が必要だろう。此の語彙は最終校正を終えた「校様」(校正原稿)に言うので、直訳なら「校了稿」(中国流では「校定稿」)や「校了紙」が考えられる。政策決定の為の情報提供を目的とする此の種の内部発行物には、「未定稿」等の名称も付いたりするが、情報管制の「鳥籠」の「柵」の形態として何れも妙味が有る。
本稿の論旨に即して此の逸話の興味深い点を挙げると、王震の断罪に故郷の名誉が革命の理念より先に出る処が第1注目を引く。自分はマルクス主義者に成る前にも成った後も中国人だ、と言った毛の自己規定にも合致するが、筆者が本稿及び関連の論考で国家指導者の心性の根を出身地域に求めたのは、此の様に当事者の自意識に拠る事である。猶、此の「2王」の家郷の「両湖」(湖南・湖北)は前述・後述の通り、昨今の指導部で「両江」(江蘇・浙江)に優位を譲った。註63 で広西軍閥・李宗仁を取り上げたが、 小平時代では葉剣英父子や韋国清(広西壮族の出身。1929年に小平と共に広西で蜂起を指揮。建国後’61 ─ 75 年に広西の長官を務め、’73 ─ 85 年に党中央政治局委員、’77 ─ 82 年に軍総政治部主任、天安門事件の10 日後に逝去)等の後退等、「両広」(広東・広西)の衰微も目立った。一方、所管外の土俵に手を伸ばした王震の勇み足は、中国人の最大で最後の厄年―84 歳が迫っていた事を思えば、片足が棺桶に懸かった老革命家の最後の闘争とも思える。2010 年竣工の目標も、翌年の辛亥革命百周年を意識した浪漫の色彩が濃いのか。
話の落ちである李鋭の落ち着きと開き直りは、4世代指導者の「順時針」移行を裏付けている。
「文革」の点火が上層部に止まっていた初期に、曾て同じ毛の秘書を務めた先輩の拓と同輩の田家英が相継いで自殺したが、4半世紀後の堂々たる反応は隔世の観が強い。但し、李の度胸は殉道の気概と言うよりも、危害が及ぶまいと見抜いた冷静な判断であろう。王震は天安門事件の武力鎮圧でも鷹派の面目を露わしたが、自ら開けた「禍匣」(パンドラの箱)から飛び出た劇薬は、鎮圧側の度肝をも抜かせた様である。第1次天安門事件の民兵に由る準武力鎮圧を指揮した華国鋒(首相代理・公安相)と、第2次天安門事件の学生領袖の1人・封従徳の氏名に引っ掛けて言えば、「鋒・封」の対は刃物に由る封殺を経て、返り血を浴びた刃物の「封存」(封印・保存)に至った観が有る。
敢えて本筋から逸れるが、学生の天安門広場防衛指揮部の総指揮・柴玲と3人の副総指揮の1人・封従徳が夫婦であった事は、「文革」中の毛・江「夫妻店」の夫唱婦随の反転に見えなくもない。其の結婚は奇しくも戒厳令発動の丸1年前の’88 年5月20 日の事だが、本稿に於ける此の日付の因縁の意味は註63 で述べた。猶、’90 年末2人は亡命先の米国で突如離婚を宣言し人々を驚かせた。譚美は『「天安門」10 年の夢』(新潮社、’99 年)の終章・『「民主の女神」との10 年』の中で、「以前からの性格の不一致と、逃亡後の新たな環境と将来への選択及び役割の転換に因って、両者は互いに異なる命であると実感した」云々の理由の裏の生臭い内情を覗かせたが、本稿の論旨に即して2点を指摘して置きたい。
第1、武田泰淳は中国人の叡智の根源を「数度の姦淫、数度の離縁」の歴史に帰着したが、彼等の受難と離縁も民族の宿命の象徴の如く映る。因みに、本稿筆者は毛・の数度に亘る結婚歴を他の論考で取り上げた事が有るが、劉少奇の結婚歴も6回に上った(『消された国家主席・劉少奇』に詳述有り、78〜86頁)。乱世から平時への転換を反映して、江沢民も胡錦涛も離婚歴が無い。
柴玲と封従徳は文科系と理科系の違い(柴は児童心理学が専攻で、封は北京大学遥感控制[遠隔感知・制御]研究所院生)も有り、亡命後の滞在先も片方が米国で片方が仏蘭西だったし、元より結婚3年目は夫婦の最初の危機と言われるので、別れ自体は別に不思議ではない。夫婦の絆は「異性相吸」(註33 参照)の故に強固な一面も大きいが、結婚には実生活の要素が多い以上、境遇の変化や新しい可能性の出現等に因って、選択や変更が出来ぬ血縁関係に比べて脆弱な場合も儘有る。儒教が夫婦の和合を大家族の円満の中核に据えたのは、個人主義の現代の核家族重視とは異・同の両面が有り、其の個我同士和合こそが至難の業と見做した所以であろう。
「夫妻本是同林鳥、大限臨頭各自飛」(夫婦は本来同じ林に棲む鳥で、命運の限りが来れば別々に飛んで行くものだ)、という身も蓋も無い諺は、此の事例でも証明された様に思える。漢語の「国家」は語源の『易経・繋辞』の「身安而国家可保也」(身の安泰、乃至国・家の安定が保てる)の通り、元より国・家の両面を合わせ持つ概念だが、国家の「鳥籠統治」(註50 参照)も「同林鳥」の夫婦の契りの維持に通じよう。此の若い2人の「大限」は極限状況と解したいが、格言の中では寿命を含む命運の限界を指す。此の格言の宿命論的な色彩は、前半・後半の「同林・大限」の「宿・命」の意にも現われる。新文化運動と中共の揺り籠だった最高学府で育った学生領袖、民主化運動の急先鋒が離婚の理由に挙げた「環境・命」も、同じ「宿・命」に他ならない。「揺籃・鳥籠」に引っ掛けて言うなら、彼等や中国人は如何に揺れ動こうと、最終的には伝統観念の「鳥籠」の羈絆から脱し切れず、寧ろ其の母体に回帰して行く宿命を負っている。
譚は「“異なる命”という、聞き慣れぬ言葉に引っ掛かった。/中国でも日本と同じ様に、20代の若者たちは語彙の不足に因って、陳腐な表現しか“命”の重みを実感した彼等が作り出した、独特の言い回しなのだろうか。/後の事だが、此の漠然とした表現は、柴玲が好んで感覚的な言葉の1つだと、気が付いた。そして何時しか私は、彼女の意味する処を瞬時に理解し、深く納得する様に成って行った。/彼女は“命”という言葉を、“浄化された魂”或いは“崇高で真実の願望”等と言う意味で使ったり、時には“繊細でいとおしい心の綾”等と捉えているのだ。」と述べた(187 頁)。本稿筆者は著者の仕事と姿勢に感銘・教示を受ける処が多く、取り分け此の渾身の追跡報告に多大な興味を持ったが、此処だけ異和と不満を覚えた。
中共長老の後裔である著者は海外で活躍していながら、母語の中国語が自在に操れ中国的な発想への理解も深い。柴が米国で“take care”の心算で言った「請多保重」(ご自愛[静養]下さい)を奇異に感じ(195 〜 196 頁)、米国記録映画・『天安門』( ’95 年、カーマ・ヒントン監督)の英語題・《The Gate of Heavenly Peace 》(天国の平和の門)を誤解と断じ、「天安門とは“天子が安泰であり、無事に天下を治める事を祈願する門”」で、故に天子が威光を示す此の聖域での学生の示威は不敬・反逆と捉えられるのだ、と看破した(232 〜 234 頁)処は、実に感心させられる。折角其だけ鋭敏な洞察を見せたのに、「命」云々への違和感が先行し伝統の求心力に留意しなかったのは些か残念だ。
本稿筆者は近年来の一連の指導者論の基軸に「命・名」を据え、統治の要諦を「理・礼・力・利」の4字に帰結したのも、中国人の心性や社会原理の究極の奥義が往々にして、単純そうな漢字に組み込まれている故である。『天安門』の中の戒厳令下(5月28日)の涙声に満ち泥酔状態に近い告白は柴にとって抹消したい物だと譚は推測した(232頁)が、其の不如意の根源は本稿の4諦図に当て嵌まれば「理・利」の欠如に帰せられる。逆に、離婚は声明で強調した通り、理性的な決断であり有利な選択であろう。本稿では新時代に於ける「理×利」の襷状の相乗を希望も込めて予言したが、振り返れば天安門事件の学生運動では、断食の実力行使や請願書の受理を求めるべく人民大会堂の玄関に跪いて見せた演技の様に、反対の「力×礼」の組み合わせが見られた。
他方、事件の最中「(民衆を目覚めさせる)流血を期待するが、私は逃げる」と外国人に語った事が、’95 年4月下旬に台湾・米国で報じられ、柴の形象が打撃を受け「利己的」と見られた。
本人は抗議し譚も『天安門』の強引な編集を指摘した(230 〜 232 頁)が、譚が柴に随いて行けず到頭袂を分ったのは、他ならぬ柴の公私両面の自己本位の所為なので、其だけに柴が言う「命」に対する譚の解し方は甘い感じがする。柴の児童心理研究を志した過去を考えても、上記の純粋な意味は一面では真実だろうが、影の部分が果たして無いのか疑問である。其処で譚の女性らしい優しさが先ず思い当るが、『天安門』の監督も女性だから何とも言えない。
其の監督の手法及び柴の件の発言の重要性に疑念を呈しつつ、譚は次の批判と自嘲を吐露した。
「支離滅裂とも表現できそうなテープから、几帳面にもたった一言を掬い上げて、センセーションを巻き起こす歴史映画に仕立て上げるのは、余程の力量と執念が要る。して見ると、私は逆に、ジャーナリストとしての素養はまるで無さそうだ。」(232 頁)歴史の再現・操作の問題は本稿の範囲を超えているが、論旨に即して言えば、孫文と同じ広東人の鋭さ・純真さの同居を感じずにはいられない。『「徳治・儒商」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)』の註139 で、広東料理の淡白と山東料理の濃厚を2地域の人間の気質に関連付けたが、譚と柴の断層は広東と山東(柴は山東日照県の人)の「文化溝」と重ねれば興味深い。
柴玲の流血期待論が暴露された後は中国人社会で非難が殺到し、過激派の彼女さえ居なければ天安門事件は起きなかったのではという声まで上がった(230 頁)。江青さえ居なければ「文革」は起きなかったろう、と言う類いの怨嗟と同様に無意味であるが、『天安門』の女性映画監督に絡めて言えば、改めて共産党中国の歴史に於ける山東女性の活躍が再認識させられる。’67 年8月5日の劉少奇夫妻吊るし上げ大会(註60)では、「4人組」の黒幕・康生の妻・曹軼欧が「中央文革小組」特派員の身分で、記録映画の撮影を指揮した(『消された国家主席・劉少奇』、70 頁)。
秘密情報・意識形態工作の総締め・康と同じ山東閥の江青と曹軼欧は、三流女優と素人監督の奇妙な組み合わせを成した。其の日は毛の「私の壁新聞」の執筆1周年と正式公表の日だったが、毛が「文革」初期「全国初のマルクス−レーニン主義の壁新聞」と讃えた「爆弾」は、曹の画策で柴玲の母校・北京大学から飛び出た物(執筆者は哲学学部女性講師・聶元梓)だ(『毛沢東秘録』上、124 頁)。
其は其として、柴の流血期待論は再編集の産物にせよ、重要な価値は否めない。失望の末に柴との訣別を決意した譚は、天安門事件は貴女にとって何だったのかと訊き、神から与えられた役割を果たしたまでだと言う返答に唖然とした(257 頁)。指導者の「歴史責任感」と「演変」(移行)に絡んで後の論考に譲るが、両者が噛み合わぬ此の一件には本土の中国人と海外の華人との波長やチャンネルのずれを感じた。チャンネルを表わす中国語の「頻道」は字面に、「頻繁に道う」「頻繁に使う道」を連想させる。曾て曲亭馬琴が使った「常言」(好く言う。熟語)が日本語から消えた事を、本稿筆者は日・中の「文化溝」の拡大の事例として、老子の「常道」(恒常の真理)と絡めて、前篇系列論考(『「儒商・徳治」の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(1〜2)』)で取り上げたが、「常言・常道・頻道」の常時接続をして置かないと土地鑑・歴史勘・文化勘が鈍く成りかねない事を、同じ海外に身を置く本稿筆者も自戒しなければ行けない。更に、母国への眷恋や「情結」(愛憎が混じり合った感情の葛藤。コンプレックス。拘り)が微妙に贔屓を誘発し易い危険も、中国の諸相と向き合う際に自覚する必要が有ろう。
次に軍医の両親を持ち16 歳で全国最優秀学生2百名の1員に選ばれ、北京大学心理学部→北京師範大学大学院心理学部の超英才コースを辿り、北大学生自治会と北京学生運動領袖を務めた柴玲は、プリンストン大修士課程卒業後ボストンのコンサルティング会社に就職し、ハーバード大ビジネススクールでMBA を取得した。亡命後の進路は時流を抜け目無く掴む彼女の機敏さと共に、新しい世代の選好と新しい潮流を映し出す。ハーバード大の卒業式の’98 年6月4日が天安門事件9周年に当るという奇妙な符合を譚は指摘した(174 頁)が、’89 → ’98 の反転は本稿の「理治」→「治理」の表裏一体にも吻合する。「文革」勃発の’66 年に生まれた柴が、23 歳誕生日の’89 年4月15 日の胡耀邦急逝が契機で、一躍に政治の中心に踊り出たのも不思議な因縁である。
歴史の連環に即して考えれば、日本留学組で経済専門の李大(註30 参照)が創始者の1人と成った中共は、李の死後75 年後の今は清華大学等の理工科出身者が最高指導部を固める様に至り、同じ日本留学組(中央大学法学科在籍)の陳望道が日本語版から最初に全訳した『共産党宣言』(注8参照)の文言が党規約から蒸発したが、更に4半世紀後の建党百周年には恐らく、米国留学組の経済・経営専門家が頂点に入っているだろう。此の「順時針」移行に就いて後に改めて予測するが、Harvard の中国語訳―「哈佛」の「笑む佛」の形象と、ノーベル平和賞にノミネートされた柴玲が其の「佛門」を潜った事、そして「天国の平和の門」に絡んで言えば、経済志向の実用主義は政治の仁慈化と共に新世紀の平和への近道に成ろう。猶、微笑ましい「哈佛」は中国流の意味深の音訳の傑作に数えられるが、其の発想の深層から滲み出る米国への好感は、中国の近代化モデルの移行を取り上げる別論考(註4、30 参照)の裏付けに成る。
元に戻るが、王震も流石に李鋭を裁く術が無く「空砲」の発射に止まったが、 小平時代の末期が毛の晩年と一部だぶった事の証として、天安門事件後に作家・鄭義が指名手配を受けた事が思い当る。公安部’89 年第100 号全国指名手配命令(9月1日)では、山西省文聯(文芸家連合会)映画界協会副主席・鄭義は動乱期間に重大な罪を犯したとのみ記し、罪名の欠落は其の時代の法治の不備を思わせた。長い潜伏逃亡の末に国内脱出(’92 年3月に香港到着、翌年1月に渡米)を果たした鄭は、毛の恐怖政治の事象と本質を冷徹に暴く『紅色記念碑』(台湾・華視文化公司、’93 年)等で、「中国のソルジェニーツィン」の印象を強めたが、紅衛兵の発祥地・清華大学付属中学の「文革」初期の学生領袖の1人だった彼に対する危惧は、当局の洞察と言うべきであろう。
彼は『歴史的一部分―永遠寄不出的十一封信』(台湾・万象図書股有限公司、’93 年)の中で、天安門事件の中の戴晴の消極的な態度を貶した(50 頁。藤井省三監訳、加藤三由紀・櫻庭ゆみ子訳『中国の地の底で』[朝日新聞社、93年]は、残念ながら原書の半分弱を落とした抄訳で、渦中の人間模様を記した此の1通目の手紙も丸っ切り抜けている)が、戴晴も’89 年7月14 日〜 90年5月9日の投獄が示す様に当局に睨まれていた。『長江!長江!』(註40 参照)の発禁処分(大陸版の直後に香港三聯書店から『長江三峡工程応否興建―学者論争文集』の題で刊行。大陸版発禁後’92 年に台湾の新地社から『長江 長江―三峡工程論争』の題で刊行)と共に、王実味事件に対する彼女の追究を観ても、忌み嫌われた理由は好く解る。賀龍の責任に踏み込んだ上で其の「文革」の冤罪と獄死を因果報応の如く捉えた例証と冷笑は、中共の開国世代の神経に触る刺激が強過ぎた。
『王実味和〈野百合花〉』が上海『文匯月刊』’88 年5月号に発表された事は、振り返れば二重の示唆を持つ。小平が経済運営の穏健派の慎重論を一蹴して、物価の構造改革の難関への強行突破を言い出したのも同じ月の事(註56 参照)だから、其の暴露は政治・経済の「失控」(制御不能)に直面させられた為政者の緊張と焦燥を思わせる。一方、上海在任中に『世界経済導報』を封殺した江沢民の時代の作家の安泰が浮き彫りに成り、軍から籍を抜いた白樺が上海作家協会に避難の場を見付けた事(註66 参照)と合わせて、「北厳南寛」の構図も見えて来る。
戴は取り調べの為の拘禁を1年近く強いられたが、当局は謀らずも文筆家の貴重な素材と成る受難体験を提供し、彼女の声価を高める「箔」を付けた。其の秦城監獄は江青の収監場所(夏剛『現代中国の統治・祭祀の「冷眼・熱風」に対する「冷看・熟読」(2)』註74 参照)だから、大物でなければ元々体験できない。尤も、香港『明報』に寄稿した獄中手記(日本語訳は田畑佐和子に由る『私の入獄』、『中国研究月報』’90 年5月号)は、法治時代への移行初期の制裁側と被制裁側の攻防や内面を覗かせた貴重な記録だが、’92 年初めの経済専念への本格的な移行の結果、政治・思想の是非乃至領域自体までが人々の関心を失った。方励之の海外追放に由る天安門事件後の火種除きやガス抜きと共に、 の南巡は一層の「転移視線」(注目・関心を逸すこと)を促した。
本稿か続篇では建国来の53 年を4等分に、13 年強を1単位に党・国の「順時針」移行を論考する予定だが、戴晴の入獄から恰度13 年後の’02 年の同じ7月の24 日、 小平時代に女優から実業家に転身した劉暁慶が逮捕された。「儒商→徳治」の昇華を象徴する事として後述に譲るが、大物にも関わらず大方の予想に反して秦城監獄以外の処に入れられた事も、容疑の脱税と同じく脱政治の時代精神を物語っている。
尤も、戴晴の疑獄は思想犯なので両者は同日に論じ難い。譚美『「天安門」10 年の夢』にも、天安門事件の最中の彼女に関する興味深い逸話が有る。方励之と共に小平の意志で除名された記録文学作家・劉賓雁は、政府と学生のパイプ役を務めた彼女を「彼奴は特務だ」と陰口を叩き、知識人の間でも彼女は国家安全部の為に働いていると言う噂が実しやかに流れていた(70 頁)。
「文人相軽」(文人は相軽んじる)や「同行是冤家」(同業者は敵)の常識や、有名人を利用する中共の情報戦の伝統を思い起せば、其ほど不思議な非難や風説とも思えない。上村幸治は中国語文献と本人への取材に基づいて、軍総参謀部情報機関の命で中国作家協会に潜伏した戴の過去に言及した(『中国 権力核心』、文芸春秋、’00 年、239 頁)。
戴晴の投獄は皮肉にも間諜の容疑を打ち消す結果と成ったが、趙紫陽の懐刀・鮑(中央委員、中央政治局常務委員会秘書、党中央政治体系改革研究室主任、国家経済体系改革委員会副主任)の刑罰(武力鎮圧の直前に拘束、’92 年1月に機密漏洩罪で党籍剥奪、懲役7年に処され)の様に、政争絡みの監禁も有り得る。斯くして中国政治の奇奇怪怪は、戴晴の「背景複雑」と同じく断言して能い。葉剣英の養女であるだけに、彼女の脱党は党の信認危機の深刻さを窺わせる。猶、戴晴は毛遠新と同じハルビン軍事工程学院の出身で、戦略導弾の開発・製造にも携わる第7機械工業部(宇宙航空工業省)に勤務した経歴も有り、本稿筆者は中国脅威論に関する系列論考で、葉剣英や「第2砲兵」(戦略導弾部隊)に絡んで触れる予定だ。本稿筆者は劉賓雁を尊敬する一方、『河殤』の作者・蘇暁康と同様に戴晴に好意的な観方を持つ(蘇の態度は同上70 頁参照)。「夫妻本是同林鳥」に即して思えば、「同行」(同業)と「同行」(同行)の音異・意通が興味を引く。
中共は好く準同志の盟友を「同路人」(同じ路を歩む人)と呼ぶが、「路」の「足+各」の字形は、「大路朝天、各走半辺」(大道は天に向かって、行人は各々左右両側を行く。人生の道は開かれており、各自が我が道を行く)の原理を示唆する。天安門事件の際の知識人集団も結局「一盤散沙」に過ぎなかったが、劉賓雁と戴晴を同時に評価する本稿筆者の複眼の様に、友の敵も友と成り得るのである。翻って、鄭義が戴晴の消極性に不満を覚えたのは、王実味冤罪の暴露との落差が要因なので、毛沢東時代の暗部に対する戴の告発はやはり「寸鉄殺人」の力が有った。彼女は鄭と学生運動の一気に10 歩も跳ぼうとする性急さを指摘したが、急進の頓挫を観れば一面では当っている。
天安門事件1周年の’90 年6月4日を前後に、戴晴が釈放され方励之夫妻の国外追放(註30 参照)が許可された。方励之は「文革」中の’68年に1年ほど拘禁されたが、同じ年に投獄された柏楊の大陸訪問は、前の’88 年10 月に実現したので、やはり台湾の民主化は一歩先行したと言えよう。尤も、「文革」後に方の党籍が復活した’79 年に、 の「北京の春」への抑制以上の鎮圧として、蒋経国政権が美麗島事件で作家を含む数十名の反体制活動家を投獄したから、海峡両岸は分断後やはり五十歩百歩の時期が長かった。張学良が’90 年6月1日に漸く晴れて名誉回復に成った事(註59 参照)は、此処では別の意味を持って来る。柴玲・封従徳の関係の清算も同じ年の暮れ(米国の中国系新聞『世界日報』に離婚宣言を発表したのは12 月30 日の事)なので、東欧共産圏崩壊・冷戦終結の翌年の’90 年は、1月11 日の北京戒厳令解除を始め、中国でも過去の清算と未来への再出発の節目と成った様だ。意味深長な事に、方励之夫妻の出国が公表された6月25 日は、江沢民時代が2年目に入った時点に当る(江の総書記就任は前年の6月24 日)。因みに、其の日は朝鮮戦争勃発40 周年でもあったが、方夫妻が米軍機で英国に赴いた事は、曾ての敵同士の歩み寄りと時代の「平和演変」(平和的な変容)の象徴と言える。
江沢民時代に一部の著名政治犯の海外追放と汚職高官の厳罰は、生活面の腐敗や政治面の専制への批判で王実味、胡風が粛清に遭った毛の時代と対極を成す。王の筆禍作の『三八節有感』の3.8国際婦人デーは、巡り巡って建国後初の戒厳令発動の日でもある。王の享年とほぼ同じ41年経ち其の処刑と同じ3月に、胡錦涛が西蔵の長官として「暴乱平定」の最前線に立ったが、彼の時代に於ける思想・言論の自由度は、其の特異な経歴が有るだけに中共の「政治文明」の試金石に成ろう。「順時針」の垂直軸では胡の時代は毛の時代に向かって行く様だが、螺旋状の上昇の故に立体的に大きな開きが有り、時計の逆行はもはや不可能と観て能い。
平面座標系で近付いて来た毛の時代を見詰め直すと、反体制知識人に対する生き埋めや暗殺が無い点では、確かに秦始皇や蒋氏父子よりましである。註34 で取り上げた魯迅の『柔石を悼む』は、蒋介石政権が’31 年2月7日に上海で中国左翼作家連盟の文学者5人を秘密裏に処刑した事に触発された詩作だ。同日に処刑された18 人の中共活動家の中に、林彪(本名・林育容)の実弟・林育南も含まれた事は、国・共政権の初代指導者の不倶戴天の関係の証だ。’46 年7月11、15日、野党・民主同盟の中央委員――李公朴・聞一多が相継いで国民党の特務に暗殺された。41 年後の同じ7月15 日の台湾戒厳令解除は蒋経国の英断に違い無いが、周恩来を慟哭させ学者・詩人の聞一多への暗殺は「蒋家王朝」の大きな汚点だ。翻って、胡風に政治的な死刑を下し廃人同然の発狂に追い込ませ、老舎を自殺に追い遣った迫害は、五十歩百歩の同罪である。張春橋は「新文史館」を造って巴金を収容して遣ろうとも言ったが、巴金が見抜いた通り優遇を装う生き埋めに他ならない(巴金『第二次解放』、’77 年。『講真話的書』、16 頁)。巴金は「文革」中ツルゲーネフの作品の翻訳が許されたが、刊行の禁止は彼が言う様に刀を使わぬ殺し屋の仕業だ(同上)。
猶、『広辞苑』の「胡風」の項は建国後の事蹟に就いて、「53 年に批判されて失脚」と記したが、’55 年の投獄に触れぬ処は核心を衝いていない。「文化大革命後、名誉回復」は其の通りだが、’80 年の部分的な名誉回復を経て死後3年目の’88 年に漸く完全な名誉回復に至ったのは、王実味の事例と同じく体制の自省の困難さ、及び歴史清算の転換期を示唆する。
74)’94 年4月1日朝、安徽に近い浙江省内の千鳥湖で行方不明と成った小型観光船「海瑞号」が見付かり、台湾の黄山・三峡観光団一行24 人と現地の船員・ガイド合計32 人が焼死体で発見された。
大陸側は当初厳重な情報管制を敷き火災事故として処理しようとしたが、やがて強盗殺人・放火の事実が判明し、李鵬総理が哀悼の意を表す破目に成った。6月19 日に犯人として処刑された3人の若者は、モーターボート遊覧の経営不振で一攫千金の冒険に走ったと言うが、「先富」風潮の陰影と危険を浮き彫りにした事件である。
李登輝は事件及び初期対応に憤慨し、大陸を「土匪」(匪賊)と罵倒した。大陸が台湾に対して「匪」の蔑称を止めた後だけに屈辱的だが、「文革」の「無法無天」とは別の物騒な現状を考えると反省せざるを得ない。何しろ「政治風波平定」後の大陸では、政治と無関係で且つ政治の安定を脅かす犯罪事件の続発が目に余った。李の「土匪」論に「砲弾」(支援材料の譬え)を立て続け提供するかの如く、’96 年2月に全人代副委員長・李沛瑶(63 歳)が北京の自宅で金品物色中の若い警備員に殺され、8月に小説家・戴厚英(58 歳)も上海の自宅で、金品及び同居人の若い女性を狙った郷里(安徽)の若い男に惨殺された。李克農と同じ享年(註73 参照)で逝った李沛瑶の父親・李済深は、蒋介石の参謀総長を務めた後に蒋に監禁され、’33 年で反蒋の中華共和国人民革命政府を創り自ら主席と成り、’48 年に国民党革命委員会を結成し党首を務め、共産党政権の初代中央人民政府副主席にも成った(6人の副主席の中で、朱徳・劉少奇・宋慶齢に次ぐ4番目。以下は張瀾・高崗〔註5参照〕)。李沛瑶の全人代副委員長と民革中央主席は父親の衣鉢を継承した物だが、建国後純刑事犯罪で命を落とした最高位の要人が選りに選って、中共の対台湾「統一戦線」工作の重要な組織の長であり、而も下手人は警備担当者だったとは、此の上無い強烈な皮肉と打撃としか言い様が無い。王実味の「実」と「味」の「口」偏に引っ掛けて言うと、正に敵に口実を与えた失態であるが、王が中共を敵に回したのは元を糾せば、暗部の告発が国民党に利用された所為でもある。一方の戴厚英は、長篇・『人!人』(’80 年。日本語版=大石智良訳『ああ、人間よ』、サイマル出版会、’88 年)で毛沢東時代の暗黒を暴露し、其の人道主義に由ってマルクス主義を超克する志向は、3年後の「精神汚染清除」の標的と成った。彼女が『詩人之死』(’82 年)で偲んだ詩人・聞捷は、「文革」中2人の恋愛を許さぬ党組織に抗議し自殺した(’71 年、享年47)が、彼女は皮肉にも政治と最も無縁の相手や動機に由って命を失った。首をほぼ切り落とした程の犯行は、「土匪」の「土」の野蛮の含みを端的に体現した。
但し、大陸の治安悪化を攻撃する台湾も弱みを抱えている。大陸で『人間よ、人間!』が刊行された’80 年、美麗島事件(註73 参照)公判開始の直前の2月28 日、当局は起訴された無党派勢力の指導者、省議員・林義雄(38 歳)の自宅を監視下に置いたにも拘らず、強盗の侵入と其の母親と双生児の娘(5歳)の3人に対する惨殺(長女も重態)を許して了った。国民党軍が住民を弾圧した2.28 事件の33 周年に当る時期も、林が反乱罪で12 年前の柏楊と同じ12 年懲役に処された結果も、時代の推移の中の不易を感じさせる。李登輝時代でも千鳥湖事件の2年後の’97 年4月14 日に、著名歌手・白氷氷と元夫・戯画作家の梶原一騎の間の独り娘・白暁燕(17 歳)が誘拐され、犯人が5百万ドルの身代金を要求した上で凌辱・殺害をした。「副総統」・連戦が初の改憲に合わせて行政院長の辞任で引責した事は、李沛瑶事件後の武装警察指導部の更迭以上の良心を感じさせるが、犯罪集団の野放図に非力だった点は結局五十歩百歩だ。因みに、’98 年7月に台湾の女性市議員が大連で誘拐・殺害された事で、悪い方向でより先行の「百歩」が大陸の方に回ったが、今後の番付けは予断できない。
李登輝は抗議として観光・投資・商談を含む大陸との交流の凍結を決定したが、間も無く再開と成った展開は、陳水扁時代の大陸への高科学技術産業の投資・移転の解禁と同じく、「理・礼」で勝っても「力」に怯え「利」の誘惑に負ける台湾の姿、及び4諦図の右半球の強味を思わせた。『産経新聞』’03 年1月26 日の上海発報告(『点撃上海 国有企業に「洗練」無し デパート店員は昼寝/予約意味無いレストラン/味、価格は安定』)で、記者はレストランの奉仕の悪さを酷評しながら、悔しい事に料理は全て美味しかったと付け加えたが、全国最大の国立森林公園に指定され観光の黄金資源と言われる千鳥湖一帯、及び大陸全体も左様な魔力を持つ。
猶、「土匪」は日本で「土着の匪賊」とも訳されたが、単に「匪賊」か「山賊」で好かろう。日本は湾岸戦争中に閣僚が国会答弁で中東関係国を「山賊」云々で表現し問題に成ったが、中国流の「匪」は外国の敵には使わない。其の意味では「土着」に符合するが、中国人の「内外有別」(内外に分別が有る)の感覚の現われと捉えたい。中共が蒋介石等を貶すのに使った「匪幇」の2字は、20 世紀中国史の解明の手掛りに成るが、詳論は本稿の連載2回目に譲る。
75)司馬遼太郎『儒教三千年』、215 頁。
76)ウィリー・ラム(林和正)著、相馬勝訳『新皇帝・胡錦涛の正体――中国第4世代指導者の素顔と野心』(日本語版が原書)、小学館、’02 年、186 〜 194 頁。猶、胡錦涛を中国のプーチン大統領としたのは、『ニューヨーク・タイムズ』コラムニストのウィリアム・サフィアの論断(186頁)。
77)趙紫陽と「新権威主義」の相関に対する検証は、本稿の主旨と筆者の守備範囲を超えているが、其の改革と連動した’87 〜 88 年の「新権威主義」を巡る論争は、中国に於ける独裁開発の可能性と問題点を提示した意味でも興味深い。日本では余り詳解が見当らないが、加々美光行編、村田雄二郎監訳『天安門の渦潮』(岩波書店、’89 年、75 〜 78 頁)に概略の紹介が有り、岡部達味・天児慧『原典中国現代史第2巻 政治(下)』、岩波書店、’95 年)に其の抜粋が有る(240 〜 241 頁)。「新権威主義」に対する小平の見地を窺わせる文献として、『中央要有権威』(『小平文選』第3巻、277 〜 278 頁)に注目したい。物価・給与の構造改革の原案報告に対する’88 年9月12 日の此の談話で、中央は権威を持つべきだと彼は力説したが、通貨膨脹や人心不安への予感が根底に有ろう。
78)毛は死去の9ヶ月強前の’75 年11 月に迫ったが、20 日の政治局会議で陶淵明『桃花源記』の典故を持ち出したの謝絶(『毛沢東秘録』上289 頁等、文献多数)に就いて、他の論考で詳述したい。
79)『答意大利記者奥琳埃娜・法拉奇問』(’80 年8月21、23 日)、『小平文選』第2巻、353 頁。鋭い取材で有名な伊太利女性記者のオリアナ・ファナチとの丁々発々の攻防で、毛と「4人組」、自分に歴史的な評価を下した彼の答えは、世界と後世の評価を重んじる国民性を反映して流石に見事だ。76 歳誕生日の8月22 日を挟んだ時機も気合いの入れ様を窺わせるが、本稿筆者は彼の類似談話の中の白眉として、此の長い会見記を本学国際関係学科の中国語文献講読科目の教材の一部に指定して来た。
80)『読売新聞』’03 年11 月4日記事・『李登輝氏の残像消したい? 連戦・国民党主席 「親日姿勢」を批判』。 
81)戴国×王作栄対談、陳鵬仁訳『李登輝・その虚像と実像』(草風社、’02年。原典=『愛憎李登輝』、’01 年)等、李登輝の二面性を論じる言説が多い。元中央委員・許家屯( ’59 年に全国最年少の43歳で省[江蘇]党委員会書記に就任し、第1書記昇任後の’77 〜 83 年に同省の工・農業生産を全国首位に導いた実力者。香港回収工作担当中に天安門事件後の新指導部への不満から、’90 年5月に米国へ脱出)は、江沢民は李登輝の老獪に敵わぬと論評したが、李の経歴の複雑さを考えても頷ける。毛の時代で「歴史(経歴)複雑」が要警戒対象と成ったのは、一理有る様な気がして来た。何れにせよ、李と江は興味深い一対と言える。中台対立が高まる中で彼等が密使(中共側は曾慶紅)を通じて接触していた事は、註73 の「頻道」(チャンネル)の妙味を体現している。
82)松下幸之助『優れた国民性を生かそう』(’77 年1月25 日)、PHP総合研究所研究本部「松下幸之助発言集」編纂室編『松下幸之助発言集』第4巻、PHP研究所、’91 年、339 〜 341 頁。京都経済同友会新春臨時総会で行なわれた此の講演は、末席取締役の山下俊彦を社長に抜擢した人事の8日後の事だけに注目に値するが、「権威が必要」「派閥が有る方が効率が好い」「神こそ人間だ」等の観点は、昨今の中国にも示唆的である。猶、其の頃の台湾の「総統」は厳家淦(蒋経国の「総統」就任は’78 年3月)であったが、松下が言った通り行政院長の蒋経国が「社長」に当る実権派なのだ。
83)蒋介石の早年の極道組織構成員の経歴は、広く知れ渡っている故に多数の文献の引用は省く。1920 年前後に投機に従事した経歴に就いて、様々な説が飛び交って来たが、日本語文献を拾えば、楊逸舟著『蒋介石評伝・上巻 覇権への道』(共栄書房、’79 年)の第3章・「蒋介石の粉飾された10 年の境涯」(197 〜 200 頁)に、小見出しの通り「投機師としての蒋介石」、「株屋で一攫千金」、「官職を買う為の百万元献金」、「上海での交友と国民党の投機性」等の暴露が有る。株の売買で巨富を掴んだ一幕は曾て秦痩鴎著『蒋介石伝』に記され、対日戦勝後は同書から削除されたと言うが、蒋の醜聞の暴露に力を注いだ共産党側が此の件を余り突かないのは不思議だ。猶、生涯に亘って運勢・迷信に凝っていた蒋の性向と其の投機の経歴・嗜好との関連を著者は指摘したが、本稿の主旨に即して考えれば、占術の書・『易経』が中国思想の祖型中の祖型と成った事は、相場の乱高下並みに変幻し易い社会の激動や投機志向が強い国民性の証と思える。 
 
「毛沢東情結」と「北京情結」
 当代中国の政治文化の根底の基本線・中軸線

 

20世紀中国の四半世紀毎ごとの歴史的な転換に伴う
 政治・地縁的な勢力地図の変化
21 世紀初頭に英国の『オックスフォード辞典』(同大学出版局)が実施した使用頻度の分析1)に拠ると、新聞・雑誌・ブログ・小説等に使われた英語の名詞の中で、1 位と2 位を占めたのはtime とperson である。人間が時間の制約を受けるという現実が浮き彫りに成った興味深い結果は、言語と意識の相互反映・対応の関係を示唆する。人間関連の名詞群に於けるman、child、woman の順(其それぞれ々7 位、12 位、14 位)は、男女平等が世界で未まだ普遍的な実現には程遠い現実と暗合する。「history = his story」(歴史=彼の物語)という民間語源説が示す男性上位の伝統は、謀らずも根強さを改めて顕わしている。
person の通常の複数形のpeople が上位に見当らないのも、集団の時代から個人の時代への変容の証と取れる反面、孟子が言う「天下之本在国、国之本在家、家之本在身」(天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在る)と妙に符合する。身を究極の本とする自己本位・唯物論の発想は、身体のpart(11 位)のhand、eye の上位(10 位、13 位)が示す様に、英語や英語圏文化の深層にも見受けられるわけである。この2 語と交錯するman、woman の産物であるchild は家の後裔に他ならないが、身パーツ体部位の後に出て国家の前に来る位置は儒教の亜聖の命題と吻合する。
社会の集団・組織・機構関連の名詞で上位25 位に入ったのは、government、company とgroup(20位、21位、23位)である。国家と会社の通底や政治支配と企業統治の同根性を思わせるこの群の中で、企業も集団・仲間も政府の後に来るのは、world(8 位)の基本単位を成す国家の存在・権勢の大きさを窺わせる。1−100 位の他の3 / 4 の語彙を見渡すと、war が49 位に在りpeace が無いのも時代の縮図の様に映り、戦争の陰影が濃く残っており平和への道程が遠いという状況を如実に物語っている。
上位1/4 の中のtime の関連語は、3位のyear、5位のday と17 位のweek である。年、日の次が歳月・月日の基幹の月(month)ならぬ週であるのは、金銭を表わす色々な語彙(cash等)の存在に因り、「時は金なり」(Time is money)の等式に有るmoney が65 位に過ぎないのとも通じようが、隣接の16 位のwork 及び9 位のlife の常用周期が思い当る。一方、hourとminute の順位の相対的な低さは、時に分刻みまで拘る日本的な律儀さの強迫観念とは対照的な、交通機関も余り定刻を厳守しない英語圏社会の大らかさに似合う。秒を指すsecond はsecond minute(第2 の分)に由来したが、分も此処で二の次の部類に入るわけである。
time の時・時代の両義(後者は通例複合語で、屡々〜 s の形)は、中・日で別々の言葉に成るが、時間の数え方の相違は中国と日本の間でも見られる。例えば、hour に当る日本語の「時間」はtime の対応でもあるが、中国語の「小時」に比べて時間観念の規模の差が感じられる。
或いは、half an hour や該当の中国語の「半小時」を言う「半時間」は、二葉亭四迷訳「あいびき」(1888。[露西亜]ツルゲーネフ『猟人日記』[1847−52]所収の短編小説)等に出たものの、遂に定着せず『広辞苑』(新村出編、岩波書店、1955− )にも載っていない2)。更に、quarter も日本語で「15 分」と訳され、中国語の「一刻(鐘)」の様な単位には至っていない。
日本流の時間の中で分は言わばsecond hour の性質を持ち、逆に中国では15分、30分を小さな刻み、半端な長さと捉えがちである。漏刻(水時計)の漏壺内の箭に施した刻みから来た「刻」は時間の単位やその基準として、元来1昼夜の1/48を指し1刻は1いっとき時の1/4を表わす(日本では又、1 刻は昔1ひととき時[約2時間]の1/4)。4刻で1いっとき時と成る発想から中国では今も「○点3 刻」(○時30−45分)の言い方が有り、quarter の「毎正時前・後の15分」よりも行き届いている。欧州では13世紀末に機械時計が出現し、16世紀末には15分毎及び1時間毎に鳴る仕掛けが出来た3)が、時が刻一刻と過ぎて行くのを告げるstrike the quarters([時計が]15分を打つ)は、中国でも同様であり「刻= second hour」の見方が裏付けられる。
日本の時刻制度は平安時代が「定時法」(使用は宮城内とその周辺に限られた)、時計の管理も出来ない戦国時代には乱れて了しまい、江戸時代には「不定時法」に変り、明治時代には太陽暦の導入に伴う「定時法」が定着した4)。17 世紀中期から18 世紀の徳川の泰平の世に全国で数万箇所の時鐘に由る時報体システム系が構築された5)が、1872 年9 月12 日(西暦= 10 月14 日)の鉄道開通(新橋─横浜間)、及び同年12 日3 日(西暦= 1873 年元旦)からの新暦実施で分単位の時間感覚が普及したが、その前に人々が慣れていた時間単位の軸は大雑把な「1 いっとき刻」(約[本段落で以下同]2 時間)である6)。昼(日の出─日没)・夜(日没─日の出)の其それぞれ々6 等分の1に当り、季節に由って長さが違うこの概念を基とした時間の割り方では、「半はんとき刻」(1 時間)、「小こはんとき半刻」(30 分)に次ぐのは「四しはんとき半刻」(15 分)だった。
1年の1/4を指すquarter は中国と日本では其々、「季度」と「四半年/ 期・一季/ 期」の対応が付く。『広辞苑』第1 版の「四半」には「─年」「─期」等の複合語が有り、第4 版(1991)から「─斤」が消え「─世紀」が登場し、「四半世紀」は第6 版(2008)で単独の項と成った(小学館『日本国語大辞典』第2 版第6 巻[2001]にも、第1 版第10 卷[1974]に無い[“ 四半・織半” の項にも用例が出ない]この項が設けられたが、出典の記載や用例は無い)。a quarter of a century の日本語訳の定着に比べて、中国語訳の「4 分之1 世紀」は普及の歴史も馴染み度もやや浅い。「半世紀」の概念を共有する両国のこの差は、10 年毎の年代を100 年の中の区切りとし、1 世紀を精々2 つに分ける中国的な感覚に帰せよう。因みに、中国語から日本語に入った「半百」(百の半分。50[歳])も、平安─江戸時代の用例を数々残していながらも、何いつ時の間にか死語と化した7)。
「半百」の半分に当る25 年間の一纏まりの概念の滲透は、日本的な「“ 縮小・凝縮・濃縮”志向」8)と波長が合う節も有るかも知れず、中国語で「一半」と言う和製語彙の「半分」にも細分化の習性が投影されている9)。対して、中国の熟語の「年過半百」(幕末の「狂歌・近世商賈尽狂歌合」[1852]に出た「年は半百に過たり」)は、死後を婉曲に表わす雅語「百年之後」(百年の後)と合わせて、限界寿命の100 歳までの長生を願う「肉食系」的な貪欲さが根底に漂う。[漢代]無名氏の「生年不満百、常懐千歳憂」(生年は百に満たず、常に千歳の憂いを懐く)や、杜甫の「万里悲秋常作客、百年多病独登台」(万里悲秋 常に客と作なり、百年多病 独り台に登る)にも、広漠たる風土や悠久な歴史に根付く中国的な人生観・世界観の開闊さ・壮大さが窺える。
100 歳以上の超長寿老人の白骨遺体の露見や戸籍上の虚偽「存命」等が続々と報じられた2010 年の夏、終戦65 周年の日の『読売新聞』に宗教思想家・山折哲雄の時評が掲載された。
その中で恰度100 年前に刊行された民俗学者・柳田国男の『遠野物語』を持ち合いに出して岩手県遠野に伝えられた神話・伝承・民話・口碑を集めたこの作品の中の「神隠し」を取り上げ、少年や老人等が何者かに攫さらわれて村から姿を消した異常現象を今度の変事と二重映しにした。
更に、平成の高齢社会の「人生80 年」の死生観と昭和後期までの「人生50 年」の生活感覚を比較し、織田信長が「人間五十年、下天の内をくらぶれば」と言って自刃して以来、約4 世紀の間に人生50 年で万事済ませて来たが、現在の人口学の知見では江戸時代後期の平均寿命はほぼ50 年だったとも言う、と述べた10)。
小泉純一郎は慶応大学在学中の1965 年(23 歳)に文集に発表した随筆「死のうは一定!」の中で、「人間五十年/ 化けてん転の内をくらぶれば/ 夢幻の如くなり/ 一度生を得て/ 滅せぬ者のあるべきか」という幸こうわかまい若舞「敦あつもり盛」の1 節を謳った織田信長の、乾坤一擲の見事な気魄・凄絶な雄々しい感情・男らしい爽快さに強く魅せられたと綴った11)が、40 年後の夏の郵政民営化を巡る「我が闘争」で顕示した山ギャンブラー師ぶりにもその心象風景が投影された。平成の首相の頻繁な交代(鳩山由紀夫[2009 年9 月16 日−10 年6 月8 日在任]までの21 年半弱は15 人)も、和製漢字の「儚」の字形・語義の通り「人生は夢幻」の無常を地で行っている様だ。
衆議院解散時に議長が詔書を読み上げ解散を宣言した瞬間に議員が総立ちに成り万歳三唱する慣例は、天皇及びその国事行為への敬意の他に失職の自暴自棄や選挙戦突入の気合い・縁起担ぎが理外の理である。英語に有る極少数の日本由来の外来語の1 つであるbanzai は「万歳」の本来の意味以外に、大戦末期の日本軍の自殺的な「万バンザイ・アタック歳突撃」に因んで形容詞として「無謀な」の使い方も有る。長寿を祈る「天皇陛下万歳」の略が軍国主義時代に万死を辞さぬ千万の将兵の玉砕の絶叫に使われたのは、奇妙にも中国語の「万歳・万砕」の同音(wansui)に暗合する満開・虚無の同居を思わせる。
中国流の「長命百歳」(百歳まで長生きするよう)の祝辞が日本で流行らないのも合点が行くが、その固定観念の遺D N A 伝子を植え付けた江戸時代の265 年はこの文脈で「四半千年」と思えて来る。中国史の途轍も無く長い回廊に於けるquarter の道標として、先ず千年の1 / 4 の250年が思い浮かぶ。最も長く維持した唐、明、清3 王朝の寿命(290 年、277 年、276 年)は、千年の1/4−1/3 の中点(291 年)に近い。その超長期の視野から四半世紀の単位を見ると、正に1 時間の1 / 4 の「1 刻」の観も無くはない。但し、25 年を節目に20 世紀の中国を振り返れば、ほぼ四半世紀毎に起きた大きな転換を再認識できる。
初めに、世紀の交の1900 年、8 ヵ国聯軍の侵攻で北京が陥落し皇帝・朝廷が西安まで逃走し、翌年に11 ヵ国との不平等条約を呑まされ、2 度の鴉片戦争敗北(1842、60)以来の最大の国辱を喫した。
次に、中華民国「国父」・孫文の逝去(1925)を経て、1927 年に国民革命軍総司令・蒋介石が上海で共産党粛清の軍事政変を起こし、南京で国民党政権を発足させた。
更に、1949 年に北京で中華人民共和国が成立し、翌年に共産党政権が朝鮮戦争への参戦に踏み切り、政治・軍事優先の針路を決定付け、経済建設の落後と国際社会での孤立を招いた。
続いて、建国26 周年を過ぎた1976 年に、周恩来・朱徳・毛沢東が1−9 月に相継いで逝き、4 月の天安門事件の大衆鎮圧に対する反転の様に、10 月に「4 人組」が逮捕され「文革」が終焉を迎えた。
最後に、新千年の直前の1999 年に、ケ小平逝去(97 年2 月18 日)直後の香港返還(7 月1 日)に続いて、澳門の返還を以て世紀単位(99 年、442 年)の雪辱を果たし、平和的な勃興への道を一層拡げた。
「天時不如地利、地利不如人和」(天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず)、という孟子の名言は人、地、時の優位順を説いたが、上記の英語名詞の使用頻度では先ず時、人が出て地が後に付く。4 位のway の空間的な要素に即して(以下の括弧の中のnumber[22 位]は順位)、各case(18)のplace(15)に注目し、thing(7)のpoint(19)を整理すると、様々なfact(25)、problem(24)に気が付く(上位25 語はこれで出尽くした)。
1911年の辛亥革命に由って大清帝国は忽ち崩壊したが、8 ヵ国聯軍の最大の標的と成った古都・北京は、中華民国の初期にも政治の中心であり続けた。臨時首都・南京に居た臨時大統領・孫文の妥協で、政権は勢力基盤の北京に都を構える袁世凱に譲渡され、北洋軍閥の支配下の北京政府は1928 年に始めて消滅した。
共産党の見解では中国の現代史の起点は1919 年に北京で起きた「5.4 運動」とされるが、同年のもう1 つの重要な転換点は、孫文が10 月10 日(建国記念日)に国民党を創建した事である。
2年後に同じ広州で樹立した革命政府は1926 年、国共合作の下で北伐を開始したが、中共誕生(1921)の地・上海での1927 年「4.12 反共政変」の6 日後に南京で国民政府が成立し、1 月に広東から辛亥革命の地・湖北省武昌に移った政府を8 月に合併・吸収した。北京落城・北伐完了と全国統一を遂げた翌年の6 月−12 月の間に、前年に首都と定めた南京で国民政府が10 月に治国の大権の総攬を宣言し、行政・立法・司法・考試(人事)・監察5 院から成る政府の主席に蒋介石が就任した。皮肉にも北京で他界した孫文の遺恨はこの回転で漸く晴れたが、蒋政権が依拠する財閥や英米の実力・影響力が江蘇・上海・浙江で強い事も大きい。
南京は1368 年に太祖・朱元璋の意思で明の初代の首都と成ったが、靖難の変を制した朱棣が永楽帝として即位した翌年(1403)、国都は北平に改められた(実際の遷都は1421 年)。割拠時代も含む史上歴代の南京政権はほぼ短命に終ったが、蒋介石もこの「魔呪」(ジンクス)を打破できなかった。1949 年に共産党が北京を都に選んだのは、長命王朝の伝統の遺伝子と盟友・ソ連に近い利点が要因であった12)。奇しくも抗日戦争中の党中央が駐在した陝西省延安地区から、李自成が農民反乱軍を率いて1644 年に北京を占領し「大順国皇帝」を41 日間務めたが、人類の1 / 4 を占める中国人民の立ち上がりを毛沢東が宣言した開国大典は、国体・首都変更の意味でも時計の振り子の揺れ戻しや歴史の螺旋状の上昇の徴しるしと思える。
明、清の1 割相当の27 年に及んだ毛の治国の終結後、紫禁城内の中南海で「4 人組」が電撃逮捕された。春の「4.5 運動」に対する首都民兵の血腥い痛撃とは逆に、「宮廷政変」の謗りを受けたこの荒療治は無血で済んだが、「4 人組」の本拠地・上海で大権を握る徒党や「第2 の武装」・民兵が反逆しなかったのは奇跡に近い。上海は1927 年に激動の「台風の目」と成って以来、第2 の中心として再び存在感を高めた。
「4 人幇(組)」の別称・「上海幇(閥)」は巡り巡って、世紀の交こうの2000 年前後に新種が現れた。1989 年「6.4 事変」後から2002 年の第16 回全国党大会まで総書記を務めた江沢民は、上海市党委員会書記から大抜擢されたのである。時の上海市長・朱鎔基は1992 年に3 階級特進で党中央候補委員から政治局常務委員に昇進し、1998−2003 年に国務院総理を務めた。上海で大出世を果たした江と朱は江蘇省揚州市、湖南省長沙市の出身であるが、朱の前任総理(1987−98)・李鵬も江の後任総書記・胡錦涛も、他ならぬ上海の生まれ(原籍13)は其々重慶市と安徽省績渓県)である。江の上海時代の部下で中央入りした「新上海閥」は、世界の一大成長地区に躍進した上海の実力に相応しい権勢を江の引退後も保って来た。
建国から2012 年の第18 回党大会までの指導部は、其々毛・ケ・江・が頭かしらを成す4 世代に分けられている。第2 →第3 世代の権力移行の完遂を宣言した第14 期第4 回中央総会(1994 年9 月)の翌年、域外14)で「北京閥」と呼ばれる政治勢力は壊滅的な打撃を受けた。2 月に摘発された汚職事件を契機に、先ず周冠五(首都鋼鉄総公司[集グループ団]の長年の党・行政総帥、冶金工業部副部長[次官]等を歴任)と息子・周北方(首都鋼鉄総公司助理総経理[社長補佐]、中国首鋼国際貿易工程公司総経理[社長]、首長国際企業有限公司15)理事会主席[会長])が失脚し(前者は定年離職の形で体面を保ち、後者は96 年に収賄罪等で死刑[猶予2 年付き]に処された)、4 月に北京市常務副市長・王宝森(60 歳)が法の裁きを畏れて拳銃自殺を遂げ(口封じの為に強制された説も有り16))、北京市党委書記・陳希同は辞任に追い込まれた上で公職・党籍を剥奪され、汚職・瀆職の罪で98 年に懲役16 年の刑が下された。周は全国優秀企業家として経営請負制の導入と首都の改革・開放を推進しケ小平の厚い信頼を受けたが、ケの次男・質方(首長四方[集団]有限公司総裁17))も巻き込まれて表舞台から姿を消し、ケ一族の威光は急速に衰えた。
政治局委員が法的に断罪・投獄された結末は、1981 年の林彪・江青「反革命集団」特別裁判以来の事であるが、横領・女色絡みの醜聞が裁判沙汰に成ったのは前代未聞である。綱紀粛正の大義名分の下で前代首領の影響力を削ぐ処理は、江沢民の中央軍事委員会主席退任・完全引退(2003)の3 年後に反転の形で再演された。「上海閥」の急先鋒・陳良宇(上海市党委書記)が同市社会保険基金事件で免職され、隔離審査(軟禁)を経て翌07 年に収賄・職権濫用の容疑で逮捕され、08 年に懲役18 年を言い渡された。奇妙な事に、この司法審理は天津市党委政法委員会の主導の下で、北京・上海に次ぐ第3 の直轄市・天津の第2 中級人民法院(地方裁判所)で進めたのであり、経済疑獄の舞台と成る上海の数人の高官や企業家は吉林の省都・長春市で裁かれた。中央は上海に対する整頓・改組の「大手術」の一環として、陝西・江蘇から武装警察部隊を派遣し盤根錯節の当地人脈の結託に手メス術刀を入れたが、陳の後任に充てられた習近平の原籍も陝西省の富平県である。
習の浙江省党委書記・省長代理からの転任は横滑りではなく、政治局常務委員会入りへの2段跳びの助走であった。2007 年10 月の第17 回党大会で第5 世代の首領の最有力候補として、15 年前の朱鎔基と同じく登龍門・上海から一躍「昇天」したが、8 月の陳良宇逮捕の前の6 月に「上海閥」の重鎮・黄菊が病死した。彼は朱の後任の上海市長(1991−95)、陳の前任の市党委書記(1994−2002)を経て、政治局常務委員・筆頭副総理の座に就いたが、その消失は江の上海時代からの懐刀・曾慶紅(政治局常務委員・国家副主席)の引退と共に、物理的な基地から遊離した「上海閥」の勢力の退潮を意味する。9 人体制を維持した新しい政治局常務委員会の面々には、江派の「上海閥」対胡派の「共青(共産主義青年団)閥」の拮抗が相変らず取り沙汰されているが、権力地図の塗り替えの反面に意外な虚実や異同が見て取れる。 

1)「使用頻度が最高の英語名詞は“time” オックスフォードより」、時事通信/CNN.co.jp、2006 年6 月22 日。「最もよく使う英単語は“TIME” オックスフォード大調査」、共同通信、同23 日。
2)小学館『日本国語大辞典』第2 版第11 巻(2001 年)には、「半時間」の項が有り、用例は次の通りである。「*彼日氏教授論(1876)〈ファン= カステール訳〉一五・附録“ 既にして面晤すること僅に半時間、ポットル深く其動作言談に服し” *あひゞき〈二葉亭四迷訳〉“ 日没にはまだ半時間も有らうに”」
3)角山栄『時計の社会史』、中公新書、1984 年、6、13 頁。
4)織田一朗『日本人はいつから〈せっかち〉になったか』(PHP 新書、1997 年)、第T章「日本の“ 時”の始まりから江戸時代」、第U章「明治の改暦」。
5)「時鐘」は中国語では[掛け・置き]時計や時報の意として好く使われ、「─控制」(時タイマー・コントロール刻制御)等の複合語・用法が色々有るが、日本では今や使用頻度が低く、辞書に載っている「─番兵」(軍艦等で時刻報知の鐘を打つ任務の兵)も、帆船時代から艦艇の象徴と看做されて来た時鐘を打って艦内に時を「毛沢東情コンプレックス結」と「北京情コンプレックス結」―当代告げる仕組みの形骸化に伴って、実用的な使途が殆ど無くなった艦船の時鐘と同じく、歴史の遺物や記念物に化した観が有る。船シーマンシップ乗りとしての心・技・体を養う意味で今でも所定の時間に鳴らす練習艦も有ると言うが、興味深い事に、甲板時計に基づいて30 分毎に打つ従来の流儀は、0 時30 分の1 点鐘に始まって8 点鐘で1 巡し、1 日で6 巡するものだが、「○点鐘」は中国語で毎正時を表わす言い方である。一方、日本語の「時報」は『広辞苑』第6 版(2008 年)の語釈の通り、「@その時々の出来事などの報知。また、それを掲載する雑誌類。“ 株式─ ” A正確な時刻を放送その他で広く知らせること。“ 正午の─ ”」の両義だが、Aは中国語で「報時」(時刻を報知する)と言い、中国語の「時報」は@に近いながら新聞(「報紙」)類に用いる(例えばThe New York Times は『紐約時報』)。
6)三戸裕子『定刻発車─日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?』、新潮文庫、2005 年、54−55 頁。
7)小学館『日本国語大辞典』(同上)には「半百」は有り、日本の用例として先ず「*菅家文章(900 頃)六・北堂文選竟宴、各詠史得乗月弄潺湲“ 半百行年老 尚書庶務繁”」が出て、最後に「*狂歌・近世商賈尽狂歌合(1852)“ としは半百に過たり”」と有り、続いて「*白居易‐戊申歳暮詠懐詩“ 窮冬月末両三日、半百年過六七時”」と漢籍の例が挙げられた。
8)[韓国]李御寧の『“ 縮み” 志向の日本人』(学生社、1982 年)の中国語版は、『日本人的縮小意識』(張乃麗訳、山東人民出版社、2003 年)であるが、本稿筆者の訳語の選択肢には「凝縮」「濃縮」も有り、凝り性的な拘りが字面に出る前者を選好する。
9)日本語にも「一半」が有る(『広辞苑』第6 版の語釈は「二分したものの一方。なかば。“ ─の責任は当方にある”」)が、同じ意味の「半分」を好む処が日本的である。
10)山折哲雄「“ 人生80 年” 死生観見失う 病と老いに振り回され」、『読売新聞』、2010 年8 月15 日。
11)松田賢弥『無情の宰相 小泉純一郎』、講談社、2004 年、20−23 頁。
12)毛沢東は1949 年初めに党中央城市(都市)工作部長・王稼祥に首都選定に就いて相談し、上記の見解を聞いて我が意を得た思いで賛同した。(原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、中国文史出版社、1996 年、281−282 頁)王は赤軍長征中の1935 年1 月の政治局拡大会議(貴州省遵義)で毛沢東・周恩来と並ぶ3 人軍事指揮小組(グループ、執行部)の一員であり、建国後は初代駐ソ連大使、外交部副部長、党中央対外連絡部長を歴任した。
13)「原籍」は先祖が籍を置いていた処を指し、「寄籍・客籍」(寄留先・寄寓先の籍)と区別する概念である。日本の「本籍」は現実の住所と関係無しに、何処に定めても構わず、変更(転籍)も可能であるが、中国の「原籍」は自動的に「祖籍」で決まり、恣意の指定・変更は出来ない。但し、居住地での「寄籍」は子女の「原籍」と成る傾向が有る。
14)「域外」は中国語の「境外」に対応する言葉として、本土以外を指し「国外」とは微妙に違い、範疇は外国の他に台湾・香港・澳門も含む。北京五輪聖火中リレー継の「境外」行コース路の5 大陸1 巡の終点も、既に中国に返還された香港・澳門である。3 地域に対する主権への意志・敏感の強さを思えば不思議な気もするが、「境」は川端康成の『雪国』の冒頭の群馬─新潟間の「国くにざかい境」の様に、国境ならぬ国内行政区の境界線とも取れる。因みに、広東省と地続きの2 特別行政区の「境外」扱いを考慮して、本稿筆者は「中国大陸」を政治的な文脈に於いて「中国本土」と記す。
15)首都鋼鉄集グループ団の子会社で、主として鋼材の生産・貿易に従事する。1985 年に設立し、91 年に香港証券取引所に上場し、97 年に新設した恒生香港中資企業(紅籌股=レッドチップ)指数の代表銘柄に採用された。
16)眉間に向けて撃った銃弾が頭を貫通して真っ直ぐ後頭部へ抜けた弾道は、かなり不自然な体勢を示唆し、一部で他殺説が流れた。4 月10 日付の『北京青年報』の記事は、屈原は自殺ではなく政敵の放った刺客に殺されたとの仮説を以て、王の死は謀殺や追い込まれた結果かと暗示した。(上村幸治『中国権力核心』、文芸春秋、2000 年、261−262 頁)
『華人世界』誌(党中央統一戦線部主管)編集長等を歴任した作家・陳放は、首都首脳汚職事件の内幕を衝く実録風小説『天怒─市長要案』([香港]太平洋世紀研究所、1997 年)の中で、常務副市長・何啓章がホテル社長・焦東方とその身ボティ― ガード辺警護人の強制で拳銃自殺をさせられる、という疑惑説に基づく場面を迫真に描いた。(507−511 頁。日本語版[訳者名未記載、構成=青木隆、リベロ、1998 年]、下巻454−461 頁)1995 年5 月3 日の設定は実在の4 月4 日に近く、焦の父・鵬遠(市党委書記)は陳希同を原型にしたので、問題作として刊行直後に発禁処分を受けた。
17)首都鋼鉄集団傘下の香港上場企業4 社の1 社で、1991 年に上場し、主な事業は不動産賃貸・金融賃貸・映像制作である。天児慧・石原享一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎編『岩波 現代中国辞典』(岩波書店、1999 年)の「ケ質方」では、「94 年には香港の上場不動産会社の首長四方集団の総裁に就任」と有る(938 頁)が、上村幸治『中国権力核心』に曰く、「周北方は首鋼の香港子会社“ 首長国際”“首長四方集団” の会長も兼務していた。さらに、四方集団はケ小平の次男ケ質方と取引があった。」(255頁)ケ質方は上海四方集団の会長として首都鋼鉄等と連携して、香港の上場企業「開達投資」を買収し「首長四方」に改称したとされる。 
「太子党 vs 共青閥」の構図と
 「上海閥・北京閥・山東閥」の通説の幻影と正体

 

マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』(1848)の冒頭に曰く、「欧州には幽霊が出没している―共産主義の幽霊が。古い欧州の全ての権力が、この幽霊を退治する為に神聖な同盟を結成している。」101 年後に建国した中共政権に関しても、疑心暗鬼や過剰反応を招き易い「閥」の幻影の独り歩きが儘有る。「新上海閥」の喧騒で取り上げられた諸公を点検すると、一枚岩の神聖な同盟でない事は明白であり、域外で訝られた曾慶紅の胡錦濤側への「寝返り」も不思議ではない。江沢民寄りとされる上海時代の腹心と中央入り後の「忠臣」には、上海勤務経験の有無に関らず上海出身の者は滅多にいない(曽慶紅=江西、呉邦国=安徽、黄菊・陳良宇=浙江、賈慶林=河北、李長春=遼寧、周永康=江蘇、劉雲山=山西、陳至立=福建)。「北京閥」の陳希同もケ小平と同じ四川の人で、疑獄の渦に引っ掛かった周冠五は建国後ずっと首都に在籍したが、出身は山東なのである。強いて言うなら、1953 年生まれの周北方は多くの建国後出生の「太子党」(高級幹部の子弟)の様に、居住・勤務地とも親に従って首都だと思われる18)故に、純粋な意味で「北京閥」の名が適用するかも知れない。
「新」を冠した「上海閥」は「4 人組」の最初の名称に他ならず、語源は1974 年7 月17 日の在京政治局委員会議に於ける毛沢東の言葉であった。江青を「上海幇」の一員として批判し、君等は「4 人小宗派」に成らぬよう注意せよと諭したが、警告された王洪文・張春橋・江青・姚文元が悪名高い「4 人組」である。1968 年7 月27 日、毛は「首都労働者毛沢東思想宣伝隊」等を出動させ清華大学を占領し紅衛兵の暴走を止めたが、「文革」の飛び火に助長された日本の第2 次反安保闘争は逆に過激派学生の武闘が日増しに熾烈に成った。翌年1 月18−20 日の東京大学安田講堂攻防で機動隊を阻止する要塞・工学部陳品館の正門には、大きな毛沢東の肖像と「造反有理」と大書した標プラカード語看板等が針金で括り付けてあった19)が、落城後の極左「革命」運動の弱体化・撲滅の末に「造反有理」も風と共に去ったものの、同じ中国から輸入した「造反」「武闘」は今でも組織内の反乱や政治家の蛮勇等の形容に使われている20)。毛沢東の死去から1 / 3 世紀経った後もその「背後霊」めく亡霊が日本の言説空間を彷さまよ徨っており、別の例は彼と共に国交回復の扉を開けた田中角栄の秘蔵っ子・小沢一郎が政争の場で口走った「4 人組」である。
小沢が西松建設偽装献金事件で追い込まれて民主党代表を辞任した翌日の2009 年5 月12 日、代表選挙の日程・手順を巡って党役員会で衝突が起きた時、彼は異論を唱えた非小沢系の4 人を睨み付けて1 人1 人を指差して捲し立てた。「福山、長妻、安住、野田、この4 人組。お前ら何いつ時も反対反対と。最後くらい言うことを聞け!」記ノンフィクション録文学作家・大下英治著『民主党政権』(ベストセラーズ、2009)はこの臨場感溢れる逸話を伝え、党内で「まるで“4 人組” だな」との声が駆け巡った波紋に就いてこう解説した。「中国で文化大革命を主導し権勢を誇ったが、毛沢東国家主席の死後は失脚した“4 人組” になぞえられたものだ。」21)評論家・立花隆は民主党政権誕生(9 月16 日)の直後に書いた「小沢一郎 “ 新闇将軍” の研究」の中で、党幹事長として陰の最高権力者に返り咲いた当人の力パワーの根源に迫るこの場面を取り上げて、攻撃性に満ち満ちた言葉を使って決定的な場面で空気を一瞬にして変えて了しまうその政治力は、幾度も自民党や派閥の会合で激烈な演説をやることで集団を引き摺った師匠・田中角栄譲りのものだ、と述べた。曰く、俱ともに人並み外れた存在感を持つ2 人の口から火を吹くような凄まじい勢いで激しい言葉が飛び出ると、大抵の人は黙り込んで彼等に対して面おもてを冒して物を言う人がいなく成って了うのだ22)。
先代「闇将軍」の誕生の契機は他ならぬ立花の追及に因る首相退陣と後の院政支配であったが、一介の自フリーライター由契約著述家及び『文芸春秋』取材班の告発報レポート告『田中角栄研究 その金脈と人脈』(同誌1974 年10 月号)は、綿密な資料と大量の取材に裏打ちされた的確な解剖で検証対象の病巣を抉り出し病理を突き止め、絶大な勢力を誇る最高権力者を忽ち追い落とした戦果は「筆ペンは剣より強い」威力を鮮烈に顕わした。「知の巨人」の名声を欲しい儘にした彼が35 年後の同誌11 月号で発表した上記の論説は、紙背を徹する眼光に満ちていながら引用文の中の事実誤認を見落とした様である。『民主党政権』の発売日(9 月9 日)の恰度33 年前に逝った毛沢東は、1954 年に初代で就任した国家主席を59 年に辞めて党中央と中央軍事委員会の主席に専任した。
後任の劉少奇が「文革」で失脚し軟禁中に非業の死を遂げた後も彼はこの職位の復活を認めず、毛沢東時代の党・軍優位を物語る様に国家主席は1983 年までは空席の儘で、その17 年間は建国から「文革」開始までの年数に匹敵する。
憲法が定めた元首の長期的な不在と1975 年の新憲法に於ける国家主席の空位の明確化は、「中空」ならぬ「中控」(党中央及びその主席に由る「控制」[制御])の結果である。朝鮮では原則5 年に1 度開催するはずの労働党大会は1980 年以来開かれておらず、最後と成った第6回(10 月10−14 日)も突き詰めれば金キム・ジョンイル正日の党中央書記・政治委員会常務委員・軍事委員就任の為に設定されたのだ。彼は1974 年2 月13 日の党中央第5 期第8 回総会で政治委員会委員・秘書(党・政・軍担当)に選出され、翌日に空すかさず金キム・イルソン日成の後継者に「推戴」されたが、既に1972 年12 月22 日の党中央第5 期第6 回総会で「唯一後継者」とする秘密決定が行われていたと言う。満30 歳(1972 年2 月16 日)の後の大出世も孔子が言う「三十而立」(30 にして立つ)に数えられるが、長らく公表せず次世代領袖予定者が「党中央」の呼称でのみ表現されたのは、如何にも党・国・軍を私物化する家長制らしい異常で且つ理に適う状況である。「父王」の急逝(1994 年7 月8 日)と建国世代の元帥・呉オ・ジンウ振宇人民武力部長(国防相)の病死(翌年2月25 日)後、世襲の「太子」が唯一の常務委員として政治局とを主宰する独裁体制は2010 年9 月28 日、新「太子」・金キム・ジョンウン正恩(3 男、26 歳)への世界史上稀有の第3 代世襲の布石として44年ぶりに党代表者会議が招集されるまで続いた。
金正日は1997 年10 月8 日に、党大会や党中央総会を経ずに全国各地や軍単位で開かれた党代表会で党中央総書記に「推戴」された。翌年9 月5 日の最高人民会議第10 期第1 回会議で又、廃止と成る共和国主席の代りの国家の最高職責・共和国国防委員会委員長に選出された。同職の初就任(同第9 期第5 回、1993 年4 月9 日)の前の1991 年12 月24 日の第19 回党中央総会で人民軍最高司令官に「推戴」された人事は、翌日のゴルバチョフ大統領辞任・ソ連解体に象徴される時流に逆行した「先軍政治」の起爆装置と成った。1972 年12 月27 日に最高人民会議第10 期第1 回会議が採択した朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、軍最高司令官・国防委員長俱に新設(金日成就任)の国家主席が兼務すると成っていたが、1992 年4 月9 日の改正に由って軍の統帥権は国家主席から国防委員長に委譲された。軍の統帥権を掌握した後に党首の座に上のぼったのは毛沢東と同じ「先軍」の経路に見えるが、国家主席を空席にした儘で我が儘の治国を行うのも大同小異である。朝鮮中央放送等で使われる100 以上もの金正日賛美の呼称の中の「百戦百勝の鋼鉄の霊将」は、「文革」中に毛とその思想に捧げられた「偉大な統帥」と「戦無不勝」23)を彷彿とさせるが、「党中央=金正日」と「毛主席=党中央・軍委主席」の等式は「朕即国家」(朕は国家なり)の本質を共有する。
毛沢東が領袖の地位を固めた利器は銃(軍事力)と筆(言説力)で、鋭利で奥深い修レトリック辞で人心を掴め集団を従わせるのは彼の必殺技である。田中角栄や小沢一郎以上の凄い剣幕で瞬時に流れを変えた数々の難関の乗り越え方は、「偉大な導師(教官)」「偉大な舵取り」の賛辞に相応しい。日本人が最も怖れる「地震・雷・火事・親父」の相関・相乗を思わせる名場面として、
「文革」前夜の1964 年末の会議で自分に対して対等的に異論を挟んだ劉少奇に激怒し、「君は何様だと思っているのだ。儂が小指1 本動かせば、君を打倒できるのだぞ!」と恫喝した24)。
唯我独尊の君臨を維持する為の「無頼」調の宣戦布告は上層部で激震を走らせ、「党国」全体を巻き込む「革命無罪・造反有理」の動乱の発火点に成った。中国語の「発火」は日本語と同じ「火を発する」「(火薬を)発射する」の他に、「発怒」「発脾気」「生気」と同様の「怒る」意も有る。怒気を爆発させた毛の「雷」は「神かみ成な り」(日本語の「雷・神かみなり鳴」の音・意に因んで神格形成を言う造語)の仕掛けの効用を持ったが、その治下の「宮中」政争に自身の内紛劇を擬えた民主党関係者の呟きは毛の遠雷の木こだま霊と重なる。
初代内閣安全保障室長(1986−89)・佐々淳行は曾て警視庁警備部・警備第1 課長として、「東大落城 安田講堂攻防72 時間」の陣頭指揮に当ったが、同題の回想録(文芸春秋、1993)の中で学園紛争の起因と治安当局の内幕を振り返って、日本大学の商業主義・放漫経営や東京大学の権威主義・陳腐空疎に対して、学生側が怒って騒ぐのも無理が無く「造反有理」だった一面も有り、警視庁は当初秘かに学園民主化運動に理解を示していた、と語った25)。中国でも「文革」初頭の造反は官僚主義等への鬱憤が溜まっていた大衆の共鳴を得た節が有るので、日本に於けるこの4 字新語の受容への理解に役立つ。佐々は3 年後の2 月19−28 日の「連合赤軍“ あさま山荘” 事件」の際にも、警察庁が現地に派遣した指揮幕僚団の事実上の責任者を務めたが、同題の回想録(文芸春秋、1996)の最後で「背後霊」に触れた処は歴史の深層・暗部の「霊りょういき域」を鋭く衝いている(本稿筆者の造語である「霊りょういき域」は、神仏等を祀った神聖な地域を言う「霊れいいき域」に因みつつ、字面の通り「死霊・怨霊」が彷さまよ徨う「聖域・禁域」を指し、「霊りょういき異記」や中国語でも「霊域」と同音の「領域」[lingyu]にも引っ掛けたものである)。
連合赤軍の集団私リンチ刑で14 名の「総括」対象が同志に殺され埋められたことが、籠城突破・人質救出作戦の終了後に白日の下に曝され国民の白眼視を招き、過激派は完全に世論の支持を失い急速に衰退して行ったが、日本社会運動史上画エポック・メイキング期的な歴史の曲り角の大事件として位置付けた佐々は、句読点を入れぬ89 文字26)もの長文も含めて、息詰まった口調でこう述懐する。
「“ あさま山荘” を包囲している間、私たちが感じ続けていた、あの得体の知れない不気味さは後から思えばこの血塗れの集団リンチ殺人事件の犠牲者たちの死霊が犯人たちの“ 背後霊” となって魔界から怨みをこめて一部始終をジッと凝視していたせいかも知れない。/ そう思うと思わずゾッと背筋が寒くなる。十日間彼らが呼びかけても応ぜず、アジ演説もせず、要求も出さず薄気味悪く沈黙していたのも、死霊にとり憑かれていたためだったのだろうか。」27)『東大落城』は「蛮族来タリテ羅ローマ馬滅ビタルヤ、非ズ、羅馬自ラ滅ビタリ」という、英国の歴史家・ギボシ著『羅馬帝国衰亡史』(初版全6 巻、1776−88)の名言を引いた28)が、「破山中賊易、破心中賊難」(山中の賊を破るのは易く、心中の賊を破るのは難し)という王陽明の逆説と結び付ければ、潜伏先の冬の長野の山中で民間人の命を盾に銃撃戦を繰り拡げた「賊」(罪人)29)は、窮極の処は自らの心中に潜んだ冷酷非道な「賊」(邪悪)に腐蝕されて自滅へと狂奔したわけだ。神出鬼没に跳梁跋扈した「共産主義闘士」別働隊は「幽霊退治」の「神聖同盟」の権力に潰される前に、内訌で粛清された戦友の遺恨が化した不可視の呪縛で集団自爆を誘発されたのである。「文革」後の中国では共産党・社会主義・マルクス−レーニン主義への信任は著しく低下したが、その「信仰危機」の根源も政争・武闘の破壊と林彪粛清の衝撃に由る毛沢東神話の破綻・崩壊に遡れる。
体制の正統性・正当性を内外に印象付けるように毛の肖像は今も天安門城楼の真ん中に掛かっており、世界の都市の広場の中で最大の面積を誇る此処に遺体を永久に保存する毛主席記念堂が建てられたが、広場及び周辺の市街で冷戦終結・東欧社会主義陣営消滅の年に学生・市民への武力弾圧が強行されたのは、垂死の毛が最終的に決断した民兵に由る大衆鎮圧の「4.5惨劇」の祟りも感じられる30)。「清明時節雨紛紛、路上行人欲断魂」(清明の時節 雨紛紛、路上の行人 魂を断たんと欲す)という杜牧の「七絶・清明」の通り、墓参りをし祖先の冥福を祈る清明節(4 月5 日)は魂の断ち切れるほど痛ましい心境に成り易い時節だが、「霊りょういき域」に因んで「霊異記」(平安初期の仏教説話集『日本国現報善悪霊異記』)の因果報応が連想される。
最晩年の毛沢東は衰弱・悲観の故に世界中の「落らくはく魄の王」に尋常ならぬ親近感を抱き、特に1974 年に8 月9 日に米国史上初で大統領在任中に辞任したニクソンに就いて、民主党全国委員会事オフィス務所への侵入・盗聴に関与した為の失脚に怪訝と同情を表明し、1976 年2 月に落おちぶ魄れた彼を中国に招待して私的な会見で別れを告げた。毛が林彪事件(1971 年9 月13 日)後10 月8 日に初めて会った外賓のエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝も、1974 年に不正が発覚し9 月2 日に軍事政変で逮捕され、44 年間に亘る在位が廃止された上で命まで落とした(拘禁中の翌年8月27 日に病死したという公式発表に対して、秘密処刑や廃位直後の射殺等の説も有る)が、毛は彼我の個人的な絆や両国の公的な関係の薄さにも関らずその最期を惜しんだ、とも言う31)。自分より1 歳年上(廃位時82 歳)の相手への感情移入も自己愛の屈折した表出と思われるが、同じく超カリスマせい人的な資質が地に堕ちた偶像の田中首相の下野に対する毛の反応は不明である。受託収賄罪等の容疑に由る角栄逮捕の翌日(1976 年7 月28 日)に唐山大地震が起き、寝たきりの儘で43 日後に他界した毛の最後の読書は三木武夫の伝記だった。死を1 日余り後に控えて発声も不明瞭の状況下で要望を伝えようとして、彼は苦労して3 本の横線を書き病床の木枠に3 回弱々しく触れた32)が、巡り巡って清廉の形イメージ象を以て田中の後任を務めた三木は党内の反対勢力から下ろされようとしていた。
ニクソン、ハイレ・セラシエと田中角栄が次々と権力の座から転落した1974 年は、共和国成立25 周年の節目に相応しく「批林批孔」(林彪批判・孔子批判)運キャンペーン動で始まった。実務志向の周恩来・ケ小平に仕掛けた「4 人組」の攻撃は半年近く続き、国民経済の発展と権力構造の均衡に重大な支障を来たした処、毛沢東は7 月17 日に在京の政治局委員を集めて反乱の「洪水」の氾濫を止とめようとした。「洪水」は本稿の比喩として王洪文と江青の氏名の文字や部首に引っ掛けたものであるが、席上2 人と張春橋・姚文元が次々と総理を非難した怪気炎は正に中国人が最も怖がる「洪水・猛獣」の勢いだ。半年ぶりに招集した会議で毛は夫人に対して誰もが予期せぬ名指し批判を加え、「彼女は“ 上海幇(閥)” の一員だ」と言って張・王・姚に向って、「お前たち注意しなさい。4 人の“ 小宗派”(小派閥)を作っては成らない」と警鐘を鳴らした33)。
彼はその年に難病の筋萎縮性側索硬化症で呂律が余り回らなく成り手足に運動障害が起き、老年性白内障で殆ど両目失明の状態に成ったが、2 言3 言の1 発で歴史の歯車を止め且つ逆回転させて了う迫力に君主の貫禄が顕れた。
泣く子を即座に大人しくさせる様な「親父」の「雷」の効き目は申し子の「4 人組」に限らず、戦場の鉄人なる将帥や政治の達人なる総理もその一喝で震え上がらざるを得なかった。「文革」当初の1966 年7 月8 日に毛は政治的な遺書の心つもり算で夫人宛ての私信を書き、中で自らの性格を「虎の気質」(勇猛・非情)と「猴の気質」(躍動・反あまのじゃく逆)の複合と分析した。副次的な「猴気」を凌ぐ主なる「虎気」は恰度18 年後に逝った金日成の国では「山神」と尊ばれているが、「神隠し」と言い慣わした村共同体の伝承の背後に拉致や誘拐、時に殺害の気配までが立ち上って来る、という山折哲雄の見方34)を「金家王朝」(「蒋[介石]家王朝」を捩もじった称呼)に由る日本人拉致事件と結び付ければ、急に行方不明に成る「人間蒸発」を天狗や山の神の仕業とした日本古来の発想との繋がりに驚く。
『春秋左氏伝・襄公24 年』が初出の「立徳・立功・立言」(仁徳・功績・言説を立てる)の「3不朽」も、「虎死留皮、人死留名」(虎は死して皮を留とどめ、人は死して名を留とどむ)と言う通り「虎気」が原動力に成り得る。「3 立」論が発せられた紀元前549 年から中共建国までの2498 年は奇しくも1 万年の1 / 4 に当るが、初訪中のニクソンが歓迎宴会での挨拶や本人との会見で敬意を込めて引いた毛沢東の詞うたは、「一万年太久、只争朝夕」(一万年は太あまりに久しければ、只朝ちょうせき夕を争わん)35)と言う。元の言い方の「豹死留皮、人死留名」の原典『新五代史・王彦章伝』の著者・欧陽修の死後900 年、国交正常化の為にニクソンと田中角栄が訪中したことで毛沢東は功名を遺した。浅間山荘奪還の時機は米・中接近の成功から国民の視線を逸らさせる狙いも有ったと疑われた36)が、「上海共コミュニケーション同声明」の発表・ニクソンの帰国と重なったその日は世界と日本の歴史上、紛れも無く虎・豹の皮の如く鮮烈な「亮点」(注目を集める焦点)として刻まれている。
中国の豪語には「虎死雄風猶在」(虎は死して威風は健在だ)も有るが、片足が棺桶に入った毛の上記の鶴の一声(中国流で「一声令下」「一言堂」)は、「人之将死、其言也善」(人の将まさに死なんとするや、其の言うこと善し)という曾子の言(『論語・泰伯』)を捩もじって、「虎将死、其雄風愈烈」(虎の将に死なんとするや、其の威風は益々凄し)と言えよう。内心の「蛮賊」に由る自滅を喝破した『羅馬帝国衰亡史』第1 巻初版刊行の200 年後に、失政を重ねた毛の死去で世界最多の人口を擁する赤い「帝国」は経済破綻・国際孤立の窮地に立たされた。「中華振興」の「中興の祖」・ケ小平の改革・開放路線で強国に返り咲いた頃、毛の徽バッジ章を運転の守おまもり護神にする迷信の全国的な流行は振り子原理の妙を現わしたが、負の過去が引き摺る浮遊霊と前向きに援助する守護霊を兼ねる背後霊の様な存在は、功罪の評価や世間の愛憎を超えて毛の心霊・言霊の「遺力」の強烈・恒久を思わせる(「遺力」は「遺産」「遺恨」と「余力」「底力」等を合成し、「威力」との同音に因んだ造語)。小沢一郎が取り憑かれた田中角栄の亡霊は古い政治の呪縛として未いまだに幽かに出没を見せたりしているが、「4 人組」を叱咤する「落雷」が1年前の四川大地震並みに瞬時人々を無力化にして了ったのは、「A 級戦犯」の比喩と同様に呼称自体が血腥い魔力が込められている所以でもある。
「4 人組」の英訳は通常のa group(team)of four people、a quartet(te)とa foursomeの他、「文革」所産の固有名詞としてthe Gang of Four も有る37)が、この新概念の名付け親も毛である。彼は1975 年5 月3 日に最後に政治局(在京委員)会議に臨席した際、主宰者として「4 人幇」を組むのは止めろと改めて厳重に釘を刺した。1966 年末の上層部会議で賀龍元帥を打倒すべきだと唐突に言い出した江青は毛の制止を無視して、不遜にも「主席、大衆の決起を許さないなら、私は貴方に造反しますよ!」と発ヒステリー作的に吠えたが、「上海幇」の結託を叱られた前年の場合も「公開遺言」じみた訓示を垂らされた今回は流さすが石に黙り込んで、1 度も毛に謝らなかった林彪並みの自尊心を撲なぐり捨てて空前絶後の反省文提出で恭順の意を示した。「上海幇」の言い方を変えたのは、2 つの語弊を考えれば明察と言えよう。第1、勤務地で分類すると上海の幹部は皆同類にされて了い、「北京幇」「山東幇」「広東幇」等の紛らわしい概念も派生しかねない。第2、この4 人は上海に於ける仕事・生活の経歴が有るものの、純粋な上海人は1 人もいなく姚以外の者は上海語を1 言も話せない38)。
上海で生まれ育った姚は浙江が原籍で、半分の上海人としか言えない。江蘇省淮安出身の周恩来の気質を見ても、「師爺」(明・清の地方長官の幕僚[顧問・補佐])輩出の原籍・浙江省紹興の遺伝子が多い。物事の根本を忘れることや自国の歴史を知らないことの譬えとして、「数典忘祖」(典籍を数え並べる時に祖先が「司典」であることを忘れる)という成語が有るが、それを忌む意識から中国人は父系の「祖籍」(原籍)を強調しがちで、周は一再ならず紹興人であると自称した。自ら帰属により多く言及した淮安との争いを避ける為に「江浙人」の折衷も使った39)が、魯迅逝去2 周忌の記念集会(1938 年10 月19 日)で彼は、血統上は同じ紹興出身の魯迅先生の「本家」(父方の祖先を同じくする同族)かも知れないと語ったし、彼自身の遺体告別式・追悼大会に参列した両地所在の省の責任者の氏名の公式発表順も浙江、江蘇である。
長春出身の王洪文に対して張春橋と江青は山東省の巨野と諸城の人で、山東籍の比率は「中央文化革命小組(グループ)」では一層高い。この「文革」指導本部は1967 年2 月から中央政治局・書記処に取って代り、党・国を牛耳る第2 の権力中枢と化したが、旗艦気取りのこの機関の奇観として、最盛期の8 人中の顧問・康生、筆頭副組長・江青、副組長・張春橋、組員(構成員)・関鋒と戚本禹の故郷が山東(組長・陳伯達は福建、姚文元と同じ組員の王力は周恩来の淮安同郷)である。同工異曲の共和国の伝説は湖北省紅安(旧称・黄安)の「将軍県」で、開国将軍の中で全国最多の61 名を占め、且つ2 人の国家主席(董必武[代行]・李先念)を出した。「造反総司令部」に山東人が異常に多かったのも、反逆の物語・『水滸伝』の舞台を思えば頷ける。
紅安に次ぐ「将軍県」の安徽省金寨(55 人)、江西省興国(54 人)、湖南省平江(52 人)、江西省吉安(46 人)、同省永新(41 人)、湖北省大悟(37 人)、河南省新県(35 人)、安徽省六安(34人)、湖南省瀏陽(30 人)40)は、地続きの5 省の内に密集した点在を呈する。何いずれの地も「窮則思変」(窮[乏]すれば変化を求める)の気風が強かったが、「人往高処走」(人は高きに赴く)の原理は、1930 年代半ばに上海で新劇・映画の俳優として頭角を現わした江青や、同じ頃に上海で校正係から文筆家に転身した張春橋にも貫かれた。姚文元が市党委宣伝部副部長・張春橋の紹介で文芸誌の編集者に成り、評論家・理論家への道を歩み始めた1956 年に、兵役を終えた王洪文が上海綿紡績第17 工場に入り、労働者から保安課勤務に昇進し臨時工の保母・崔根娣(原籍・淮安、上海出生)と結婚した。1967 年8 月、翌年1 月に「中央文革」の王力・関鋒、戚本禹が相継いで犠スケープゴート牲山羊として失脚後、姚は唯一の組員として宣伝・報道機関を司り、王洪文は1973 年の第10 回党大会で毛の後継者の一歩手前まで行ったが、2 人とも上海で異例の大出世の端緒を掴んだ必然性が有る。
党中央弁公庁(事務局)の秘書、信訪(投書・陳情処理)課長を歴任し、毛の信任と江の寵愛を得て「文革」の急先鋒と成った戚本禹も、1931 年に山東・威海で生まれ1942 年に父親の勤め先・上海に行き、建国の年から移った北京には1986 年の出獄後は政治的な理由で住めなく成った故、希望通り再び妻子が居る上海に定住し市図書館に勤務した。太平天国の将領・「忠王」李秀成を裏切り者と断罪する歴史研究論文(1963)が理論家として出世した起点だが、軍内の造反・奪権を煽動した極左的な武闘・破壊志向は「魯風」(「魯」は孔子の故国[今の山東]の名、又「粗魯」[粗野]「魯莽」[軽率。向う見ず]の略)で、目覚ましい文才は中央共青団学校へ入る前に上海の中学・高校で基礎が出来たものである。彼は首都のその幹部養成学校に1 年ほど在籍した後に選抜で中央弁公庁に派遣されたが、建国後、再び政治の中心と成った北京は文化の中心への復活を目指して、最大の文化基地・移民都市の上海から教育・出版・文芸関係の機関・人材を行政の力で大量に吸い上げた41)。
得意の絶頂から失意の地獄へ転落した致命傷は建国前の江青の醜スキャンダル聞に絡む資料の処理を誤った事だが、迂闊に触って酷く祟った元ファースト・レディー首夫人の古傷と関連の書簡・報道・写真の出所も往年の「魔都」・上海が多い42)。2 ヵ月後の3 月22 日の北京衛戍区司令・傅崇碧の突如逮捕にも「魔界」の背後霊が散ら付くが、許広平が前年1 月に戚が公務で文化部から持ち出した亡夫・魯迅の原稿等の行方不明に焦慮した余り、手紙で周恩来に調査・善処を要請した翌日の3 月3 日に心臓発作で急逝し(享年70 歳)、傅は中央文革弁事組(事務局)の保密室に在ると突き止め8 日に部下を連れて江青に報告しに行くと、罠に掛かって「武装闖入」「首長殴打」等の無実の罪名を着せられた次第で、禍根と成った文豪・魯迅の居住・発信の地も晩年には文化人の精鋭が集結した磁場の上海である。
「文革」発動に関する1966 年5 月16 日の党中央通達は、10 年余り続く大災厄の幕開けと成ったが、「継続革命」の名で展開した「死の行進」めく権力闘争の最初の「消音口くちび火」は1965 年11 月10 日、上海の『文匯報』に姚文元の論文「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が発表された事である。歴史学者・呉ヨの脚本に由るこの京劇が思想・人事粛清の突破口に選ばれたのは、「大躍進」に異論を唱え1959 年に失脚した元国防部長(国防相)・彭徳懐元帥への同情が読み取られ、呉が副市長を務める北京の指導部は毛沢東から「独立王国」と嫌われた所以である。
毛の戦略に沿って自分の秘書に過ぎぬ「閑人」の江青43)が秘密作戦を指揮し、上海市党委宣伝部長・張春橋と連携して姚文元に狼のろし煙を点けさせた。陰謀の産物は進行・意図俱に劉少奇・周恩来等に察知されなかったが、北京市党委機関紙『北京日報』は毛の干渉で不転載の方針を変えさせられたが、国家主席打倒の先鞭として市委書記・市長・党中央政治局員・書記処書記の彭真が間も無く更迭された。
毛沢東時代に失脚率が突出した要職は国防部長、軍総参謀長の他に、首都の党・政府責任者と『人民日報』社長も有る。陳希同事件や重S A R S 症急性呼吸器症候群禍に因る北京市党委書記・孟学農の解任(2003)と共に、「文革」初頭の首都党委の全面改組は「天子のお膝元」の地政学的な危リスク険を示した。党中央機関紙の責任者に格別の重圧が掛けられるのは、剣(軍・警察・公安)に勝つとも劣らぬ筆(宣伝・報道機関)の威力の為である。毛は初の『毛沢東選集』(1944)の編集責任者・ケ拓に建国後の『人民日報』を委ねたが、自分の講話の広報に対する鈍感への苛立ちから1957 年6 月7 日に交代を命じた。毛が自ら添削した翌日の同紙社説「これはどういう事か」は「反右派闘争」の進軍喇叭と成ったが、後任社長・呉冷西も毛への追随の不十分で「文革」で二の舞いに成った。北京市党委宣伝部長に左遷したケは「5.16 通知」の2 日後に迫害に抗議し自殺したが、首都の「心臓」+宣伝の「喉・舌」の二重の重要性も死に追い込んだ要因に思える。
「易帥」(総帥交代)直後の6 月14 日の『人民日報』に、編集部の名義に由る毛の評論「文匯報の一時期の資ブルジョア産階級的な方向」が、10 日の『文匯報』初出の姚文元の「備考録─新聞読後随想」の転載と共に発表された。姚の雑文は毛の5 月25 日の談話に対する『解放日報』(上海市党委機関紙) の大々的な最トップ上段の首位扱いと見比べて、『文匯報』の下べた方に載る1 段分だけの記事並みの小さい扱いを槍玉に上げたが、毛はこの「棍棒」を拾って党外の『文匯報』『光明日報』の共産党軽視の傾向を糾弾した。2 月10 日付けの『文匯報』に載った姚の「教条と原則─姚雪垠先生と討議する」も、主要な新聞・雑誌を大量・丹念に読む毛の目に止まり同17 日の談話で褒められた44)。『文匯報』第3 面の副刊(文芸・学芸欄)「筆会」(文芸社サロン交集会)の右下隅の25 歳の無名な文学青年の雑感を発見・利用したのは、読書家・政治家の鋭敏な嗅覚と強したたかな計算が面目躍如たる処であったが、姚の投機的な狡知の賢さと上海の民間新聞、乃至上海の発信力の強さも窺い知れた。
『人民日報』1958 年元旦社説の題「乗風破浪」(追い風に乗り浪を蹴って進もう。果敢に前進せよ)は、直前の12 月25 日の上海市第1 期第2 回党大会での第1 書記・柯慶施の報告から取ったのだ。数時間も読み上げた大演説(題の後半は「加速建設社会主義的新上海!」[社会主義の新しい上海の建設を加速せよ]と続く)は、張春橋が柯から聞いた毛の思想的な動向に基づいて起草し、毛の認可及び修正を得た物である45)。1954 年から65 年の急死まで市党委の責任者であり続けた柯(安徽省歙県の人)は、「文革」前の「左王」(左派の精神的な首領)で「4人組」の「上海閥」の元祖とも言えるが、党中央機関紙の逆「本歌取り」は毛の激賞に由来した。
1958 年1 月に南寧で開かれた中央指導者と一部の地方責任者の合同会議で、毛は泡バブル沫的な経済建設の「冒進」(猪突猛進)に抵抗した周恩来を叱咤し、「恩来、貴方は総理だが、この文章は書けるかね」と挑発的な質問を投げた。周は「書けません」と屈辱的な答えを余儀なくされ、総理を柯に乗り換えようとする毛の魂胆を悟った。
不本意な進退伺いを出した周は6 月9 日の政治局常務委員会で慰留されたものの、国政に関する決定権を失い重大な事柄は中央書記処に指示を仰ぐ従属的な立場に置かれた46)。柯は11月から市長を兼務するのに止まり毛の目論みは不発に終ったが、死去直前の年頭に第3 期全国人民代表大会第1 回会議で序列第5 位の副総理にも成った。恰度10 年後の1975 年1 月の第4期全人代第1 回会議で、愛弟子の張春橋がケ小平に次ぐ第2 副総理の座を射止めた。毛は張を自分の思想の最大の理解者として寵愛し、第9 回党大会(1969)の後わざわざ連れて蘇州に赴き、毛の後継者であることが明記されたばかりの林彪に張への禅譲の意思の有無を打診した47)。翌年の9 期2 中総会(江西省盧山)でも張春橋を守るべく非情に陳伯達を斬り林彪一味と袂たもとを分かったが、南寧会議で柯の報告を讃えた毛の言葉には別格扱いの秘密の一端が見え隠れする。「上海は工業総生産が全国の5 分の1 を占め、100 万人の無プロレタリア産階級がいて、資産階級の集中する処でもある。資本主義は先ず上海で生まれ、歴史は最も長く、階級闘争は最も先鋭化している。こんな処だからこそ、こんな文章が生まれたのだ。こんな文章は、北京では無くはないが、多くないのだ。」48)
姚文元が「資産階級司令部」へ「爆弾」を投げた1 周年の1966 年11 月10 日、「上海工人革命造反総司令部」の2 千人の闘士が「司令」・王洪文の引率で、当該組織の合法性を承認しない市党委に抗議すべく北京への陳情に発った。列車は上海当局の指示で郊外の安亭駅に止められた為、一行は軌レール条に座り込み上海―南京間の運行を20 時間中断させた。中央文革小組副組長・上海市党委書記の張春橋が談判に臨みその要求を受け入れ、毛の支持を取り付けて市党委第1書記を屈服させた。後に毛が後継者に育てようとし(やがて挫折し)た王はこの「奇功」に続いて、翌年の8 月4 日に20 万人の労働者を指揮して上海重ディーぜル油機関発エンジン動機工場の敵対組織を鎮圧した。折しも上海滞在中の毛に与えた強烈な印象は、1968 年7 月27 日の首都労働者毛沢東思想宣伝隊の大軍に由る清華大学紅衛兵への落城攻撃や、同じく毛が命じた1976 年の群衆運動への首都民兵の武力「清場」(広場清掃)にも投影された。巡り巡って「4.5 惨劇」の指揮官の1 人が党副主席・王洪文であったが、上海発の下剋上は又も領袖の容認で中央への進出を果し正統に化した。
「8.4 武闘」の際に毛が同市に居合わせたのは、武漢「7.20 事変」に遭遇した後の緊急避難の延長である。彼は武漢の造反派・軍人が滞在先の賓館の敷地内で王力を殴打・拉致した暴挙に驚愕し、安全上の考慮で9 年も使わなかった飛行機49)で脱出した。北京に戻らず武漢と同じ灼熱地獄の上海に直行したのは、安全圏と見做し「文革」の新しい仕掛けを思案する為であったろう。8 月4 日に彼は江青への手紙で各地の左派の大量な武装化と群衆に由る専制を提唱し50)、前年12 月26 日の73 歳誕生日の祝宴で祈願した「全国の全面内戦(全面的な階級闘争)」51)の火に油を注いだ。南寧会議で彼の上記講話の要点筆メモ記に真っ先に「1 上海報告」と有った52)が、「天下大乱」を起して後のちに「天下大治」へ導く彼の「文革」構想53)の具体化は、上海の実験や経験・教訓を基にした部分が少なくない。毛沢東時代の「歴史(history)=彼の物語(his story)」を体現する様に、国慶節の天安門広場で催された盛大な群衆祝パレード賀行進の先頭に立つ労働者集団には、「毛沢東号」機関車(1946 年に命名)の機関士長が点睛の「顔」を成した事も有るが、文武両輪を駆動した張春橋・姚文元と王洪文は「偉大な舵取り」を補佐する「大副・二副・三副」(1 等・2 等・3 等航海士)に近い。
毛が38 歳の王を後継者の位置に就けたのは、農家出身と軍人・労働者の経歴が大きい。革命の主力とされる「労・農・兵」が一身に集まる符号的な意義は、無産階級が最も多い上海の産業労働者の基盤で増幅した。血縁関係を重んじる毛は最晩年に政治局との連絡を甥・遠新(遼寧省党委書記)に任せたが、准後継者並みの彼は毛夫妻の意向に沿って王洪文の紹介で上海綿紡績17 工場の女工を娶った54)。張春橋の3 女も王の妻が紹介した古巣の同工場の労働者に嫁いだ55)が、産業労働者・上海を特別視した毛・張の「情結」(潜在的な強い複合感情[例えば敬・畏、愛・憎混交]。コンプレックス)は、中共の観イデオロギー念形態やその政権の価値体系と一致する。
王が上海最大の労働者造反組織の首領に推されたのは、「総司令部」の中の僅少な党員の1 人である事が決め手と成った56)が、巨大な新「梁山泊」の頂点で彼が獲得・活用した金箔と資本には、「産業大軍」に対する社会の畏敬と上海の「硬実力」(hard power)に対する中央の顧慮が有った。安亭駅での恐喝の奏功は王・張の上海市党委転覆の思惑との合致だけでなく、経済の動脈を押さえた急所一撃の威力にも因る。 

18)王宝森の出身地も周北方の生地も、各種の人名辞典どころか国インターネット際電脳網情報にも見当らない。今後も引き続き調査するが、後者に関しては父親の当時の勤務地や同年代の類似の場合から北京生まれと推測できる。
19)枚挙に暇が無いが、例えば高杉良の実録小説『大脱走─石川島播磨重工に造反した80 人のサムライたち』(番町書房、1983 年)や、2005 年7 月5 日、8 月8 日の衆、参議院採決で党議拘束を顧みず郵政民営化法案に反対に回った大量の自民党議員の「造反組」が有る。一方、満82 歳目前の2010 年8月10 日に背任容疑で逮捕された元衆院議員(自民党所属)・浜田幸一は、曾て「元ヤクザ」の自称らしい「政界の暴れん坊」ぶりを発揮し国会の「武闘派」の異名が付いた。彼は「任侠」稲川会の初代会長・稲川聖城への尊敬を公言して憚らなかったが、「武闘派」は暴力団や暴走族の抗争指向にも当然使える。
20)佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』、文芸春秋、1993 年、147 頁。
21)大下英治『民主党政権』、KK ベストセラーズ、2009 年、107−108 頁。名指しで叱咤された4 人衆は、広報委員長・野田佳彦、国会対策委員長代理・安住淳、政務調査会長代理・長妻昭、同・福山哲郎。
22)立花隆「小沢一郎 “ 新闇将軍” の研究」、『文芸春秋』2009 年11 月号、105−107 頁。
23)党中央・国務院の所在地・中南海の表玄関・新華門の両側に1967 年から、「偉大的中国共産党万歳」「戦無不勝的(百戦百勝の)毛沢東思想万歳」という標語が掲げられたが、胡錦涛時代に成っても一部の知識人の違和感にも関らず撤去や更新の気配は無い。
24)王光美・劉源等著、郭家寛編『你所不知道的劉少奇』(河南人民出版社、2000 年)、日本語版(吉田富夫・萩野脩二訳『消された国家主席 劉少奇』、日本放送出版協会、2002 年)、260 頁。
25)佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』、124−127、26 頁。
26)佐々が語った「背後霊」を感じさせる様に、89 は奇しくも昭和の終焉と彼が「大葬の礼」の警備の指揮を最後に退官した西暦年の下2 桁である。
27)佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』、文芸春秋、1996 年、294 頁。
28)佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』、104 頁。
29)「賊」に纏わる逸話として、1971 年6 月に訪中した公明党代表団と中国側の共同声明起草委員会の議論で、公明党側は「蒋介石傀儡一味」という表現を拒絶し、政治的な文書に「傀儡一味」と書くのは山賊みたいなもので品が無いと主張したが、論戦は「山賊」の概念定義に飛び火して、侃々諤諤、深夜から明け方に及び、埒らちが明かないと見た中国側は『言海』『広辞苑』を開いて指し示し、「お国の辞書にもちゃんと書いてある」と言って日本側を閉口させた。(毎日新聞政治部『安保─迷走する革新』、角川文庫、1987 年、75−76 頁)
一方の「罪人」に関しては、世界中の共産主義者が愛唱する「国インターナショナル際歌」の早期の中国語版(蕭三・陳延年訳、1923)の冒頭は、「起来、飢寒交迫的奴隷!起来、全世界上的罪人!」(起て、飢寒に苛さいなまれた奴隷たちよ!起て、全世界の罪人たちよ!)で、1962 年に専門家集団が修訂した現行版では「罪人」は「受苦的人」(虐しいたげられた人々)に直された。日本では初期版(小牧近江訳、1922)は「起て!呪われし者!起て!飢えたる者!」とし、最も広く流布する佐々木孝丸・佐野碩訳では、「立て飢えたる者よ 今ぞ日は近し!」と成る。
30)同じ流血を招いた「鎮圧」と「弾圧」の使い分けは、第1 次天安門事件の民兵に由る角材等での殴打と、第2 次天安門事件の軍隊に由る実弾発砲と字面で対応する為である。
31)ユン・チャン(張戎)+ジョン・ハリデイMAO(2005)、日本語版(土屋京子訳『マオ 誰も知らなかった毛沢東』、講談社、2005 年)下卷505−508 頁。
32)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、中央文献出版社、2003 年、下卷154 頁。
33)産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』、産経新聞ニュースサービス、1999 年、下卷247−250 頁。
34)注10 に同じ。
35)「満江紅・和郭沫若同志(郭沫若同志に和す)」(1963 年1 月9 日)、竹内実訳(武田泰淳・竹内実『毛沢東 その詩と人生』、文芸春秋、1965 年、386 頁)。
36)実際は警察庁が27 日の決行予定を28 日に延期した後又1 日延ばそうとした処、閏年の2 月29 日に当るので殉職者が出たら4 年に1 回しか命日は来ないという佐々淳行の反対で断念した。(佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』、213 頁)
37)此処で[悪漢等の]一団・一味、暴力団を指すgang は、[囚人・奴隷・労働者等の]群れ・仲間の意も有り、巡り巡って「国インターナショナル際歌」の中国語訳の中の「奴隷・罪人」(注29 参照)や、中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲」の冒頭の「起来!不願做奴隷的人們!」(立て!奴隷に成りたくない人々よ!)と繋がる。
38)葉永烈『「四人幇」興亡』、人民日報出版社、2009 年、上巻5 頁。原籍・浙江の姚文元は出生・居住から半分の上海人と言えるので、上海人は1 人もいないという著者の断言は、0.5 人は有るという含みが無いなら疑問である。本稿では「純粋な上海人は1 人もいない」と無難な限定を加えて、原籍も生地も上海という生粋の者の皆無を表わす。
39)荀徳麟「試論淮陰郷土文化対周恩来的影響」、『淮陰師範学院学報』1998 年第3 期。
40)徐平『新中国首次軍銜制実録:1955−1965』(修訂版)、金城出版社、2007 年、89 頁。
41)楊東平『城市季風─北京和上海的文化精神』(東方出版社、1994 年)、日本語版(趙宏偉・青木まさこ編訳『北京人と上海人 攻防と葛藤の20 世紀』、日本放送出版協会、1997 年)95−96 頁。
42)江青は魯迅の原稿の持ち出しの件で戚本禹の罪は銃殺処刑に値すると口走ったが、気を揉んだ要因は1930 年代の上海での不名誉な過去の暴露に繋がる事への懸念だとされる。昔の醜聞を隠滅するようという彼女の指図で「文革」初期の上海で、映画監督・鄭君里、男優・趙丹等が家宅捜査・監禁をされた。
43)江青は建国初めに党中央宣伝部電影(映画)処長(局長と課長の間の役職)に就任し、1956 年に更に党主席秘書(生活担当)に任命され副部長相当の待遇を得たが、同職の中でも其の党内の経歴・地位・権限等は、政治担当の陳伯達・胡喬木や機要(機密)担当の葉子龍、日常担当の田家英の比ではなく、公の活動も結婚当初から党中央の取り決めで厳しく制限された(1962 年に劉少奇夫人・王光美への対抗心から毛に強ねだ請り、共にインドネシア大統領夫妻と会見し報道・写真を新聞に載せて、漸く表舞台に進出し公衆の注目を引くに至った)。1974 年11 月19 日に江は毛宛ての手紙で、第9 回党大会後の数年間に自分はほぼ「閑人」で任務を与えられていない、と暗に権限の増大を要請し毛に撥ね返されたが、政治局委員に成った当時に比べて「文革」前は「閑人」と言えよう。
44)葉永烈『「四人幇」興亡』、上巻440−445 頁。
45)同上、478−479 頁。
46)力平『開国総理周恩来』、中共中央党校出版社、1994 年、362 頁;中共中央文献研究室編、金沖及主編『周恩来伝(1949−1976)』上巻、中央文献出版社、1998 年、438 頁;周秉徳『我的伯父周恩来』、遼寧人民出版社、2001 年、206 頁。
47)高文謙『晩年周恩来』([紐育]明鏡公司、2003 年)、日本語版(上村幸治訳『周恩来秘録─党機密文書は語る』、文芸春秋、2007 年)、上巻335 頁。
48)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、上卷771 頁。
49)同上、下卷1496 頁。
50)高文謙『晩年周恩来』、日本語版、上卷281 頁。建国後に珍しく使う「毛潤之」で署名した事が特筆すべきで、内戦時代の闘志の再燃が感じ取れる。(「潤之」は毛の字あざな[男子が成年後実名の他に付ける別名]。元毎日新聞中国総局長の獨協大学教授に由る日本語版で「幼名」と訳したのは、元服前の「小字・小名」と誤認した事か)。
51)同席した関鋒・姚文元に拠れば、毛は「為開展全国全面的内戦乾杯!」(全国の全面的な内戦を展開する為に乾杯!)と啖呵を切った。(閻長貴「毛沢東号召“ 開展全国全面的階級闘争”」、『炎黄春秋』[中国炎黄文化研究会主編]2008 年第5 期)公式の記載は『王力反思録』([香港]北星出版社、2001 年)の回想に基づいて、「内戦」ならぬ「階級闘争」とする。中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』では、「祝全国全面的階級闘争!」と成っている(下卷1462 頁)。
52)葉永烈『「四人幇」興亡』、上巻480 頁。
53)毛沢東は1966 年7 月8 日に江青宛ての書簡で、「文革」発動の意図と展望を述べ、「天下大乱(を経て)、天下大治に至る」という青写真を描いた。
54)葉永烈『「四人幇」興亡』、上巻1210−1213 頁。
55)同上、下巻1350 頁。
56)同上、中巻668−669 頁。 
抗争・発展の中の南北二都物語と
 相剋相生の「南人北相、北人南相」の理想

 

首都建国記念祝パレード賀行進に於ける鉄道労働者の先導の寓意も、1923 年2 月の北京─武漢鉄道の同ストライキ盟罷工の殊勲に由来した。鄭州で1 日に開かれた京漢鉄道労働組合成立大会が軍閥・呉佩孚に禁じられた末、7 日に武漢・北京等で武力鎮圧に由る流血の惨禍が起きた。「2.7 大罷工」は共産党が指導した労働者運動の先駆として知られ、2 年前の中共創設大会の代表の1 / 4 に当る3 人(張国焘・陳潭秋・包恵僧)が関与した。示唆に富む逆説的な事象として、中華文化の発祥地の中原の河南の省都・鄭州は発火源であったが、同市はこの歴史的な事件でも経済力・文化力の劣勢に似合って影がやや薄い。対照的に、軍・警察が大々的に虐殺を遣った武漢と北京は地政学的な重みが際立った。興味深い歴史の連環として、武漢は辛亥革命が勃発した地であり、それを省都とする湖北から中共第1 回党大会の代表の4 割弱の5 人(上記の陳・包と董必武・李漢俊・劉仁静)が出た。一方の北京は1919 年「5.4 運動」の主戦場であり、中共建党の前後に主な創設者・陳独秀と李大サが活動・生活していた都市である。
中共の建国は「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東の命題の通りであったが、「書誌から革命が生まれる」とも言えなくない。何しろ建党初期の思想的な領袖・陳独秀と李大サは北京大学教授であり、毛は李が館長であるこの最高学府の図書館で助理員を務めた時期が有る。
同時に重要な事は、初回党大会は上海で開催されたのである(途中で浙江省嘉興に移動)。その代表の人数は党史専門家等の長年の探求を経て、都市や滞在国の順に依る次の表記が定説と成った57)が、上海が2 番目の北京の前に在るのは意味深長である。更に括弧の中に本稿筆者が付記した出身地を見ると、南北のこの2 大都会とも地元の者を出さなかった。「上海 李達(湖南人)・李漢俊(湖北人)/ 北京 張国焘(江西人)・劉仁静(湖北人)/ 長沙 毛沢東・何叔衡(俱に湖南人)/ 武漢 董必武・陳潭秋(俱に湖北人)/ 済南 王尽美(山東人)・ケ恩銘(貴州人)/ 広州 陳公博(広東人)・包恵僧(湖北人)/ 日本 周仏海(湖南人)」の中に、湖北5、湖南4、江西・広東・山東・貴州各1 という構成は、「両湖」の人の気質の激越と革命家の輩出との相関を示唆する。
毛沢東が言った上海の「歴史は最も長い」とは無プロレタリア産階級と資ブルジョア産階級の闘争を指すと解かいすべきで、その「最も先鋭化」も紛れもない事実である。1919 年の巴里講和会議で国益を損なう妥協に傾いた北洋政府に抗議して、5 月4 日に3 千人の学生が天安門前で示威集会・行進を行い、鎮圧に遭って直ぐ北京全市の学生が同ストライキ盟休校を敢行した。6 月3、4 日に当局が千人近くの学生を逮捕した事態の拡大で、上海を初め多くの主要都市で操業・営業停止の抗議行動が連鎖的に起きた。北京の学生が中心を成す「5.4 運動」は上海の労働者・商人・知識人等が主体と成る「6.5運動」に発展した。10 日に政府は学生の釈放、軟弱外交の責任者の解任を発表し、28 日に講和条約の調印を拒否するなど譲歩したが、新しい台風の目の上海は現代史の序幕で主役として躍り出たわけである。中共の母体と前身は創設大会に参加した各地の共産主義小組であるが、先駆者は1920 年6 月に上海で成立し「中国共産党宣言」を起草した上海共産主義小組に他ならない。書記・陳独秀と李漢俊・李達の他に『共産党宣言』の訳者・陳望道も入ったが、後に上海復旦大学教授に成った彼と同じ浙江省出身の創設成員・兪秀松は、姚文元の原籍と同じ諸曁の人である。
王尽美と江青の諸城同郷の奇縁は「4 人組」の妙な由緒を思わせるが、第1 回党大会代表の中で王は唯1 人の北方出身者である。出席の6 都市の共産主義小組の中で山東の省会・済南は北京と共に北方に在るが、南方の上海・長沙・武漢・広州はその倍の数と成る。「文革閥」の内の山東籍の多さ58)は益々異様に映るが、中国の4 大料理の中で唯一北方籍の山東料理が清の宮廷で主流を成した事も面白い。1421 年の北京建都の恰度500 年後に巡り巡って、北京政府へ対抗する広州革命政府が成立し、安徽籍の北京大学教授を頭かしらとする共産党が上海で創設された。蒙モンゴル古で専用機が墜落し変死を遂げた林彪と妻子は毛との政争に敗れた後、第2 の中央を樹立する為に広州へ亡命する計画も有ったとされるが、国民革命軍が北伐を始めた広州も、革命派新軍が辛亥革命を起した武漢も、戦略的な要地でありながら政治的な中心に成り得なかった。
鴉片戦争の矛先が広州から北上し天津・北京を目指したのも、毛沢東・ケ小平の最後の闘争と成る北京からの「南巡」(1971、92)は、揃って先ず武漢で最初の訓示を行い最後は上海で締め括った。武漢蜂起→民国成立→北京支配→上海政変→南京建都も、似た地政学的な重心の自然な移転と思われて来る。
1894 年に孫文(広東人)が布ハワイ哇で最初の資産階級革命団体・興中会を創り、翌年に香港輔仁文社と合併し同社の楊衢雲(福建人)を会長兼合衆政府大統領に選出したが、10 月10 日の広州蜂起は頓挫した。1903 年に黄興(湖南人)が長沙で華興会を立ち上げ、翌年に蔡元培(浙江人)が上海で光復会を結成し、興中会と共に05 年に東京で成立した中華同盟会に加盟した。
辛亥革命は南方の政治家・革命団体及びその影響下の軍隊が発動し、東北の満族を中核とし北京に枢軸を置く王朝を打倒したのである。「北極熊」に対抗する力の無い孫は臨時大統領を辞任したが、北京(北洋軍閥)政府の歴代首脳(大統領や大統領代理、臨時執政、海陸軍大元帥)の出身地を見ても、袁世凱(河南)、黎元洪(吉林)、馮国璋(河北)、徐世昌([当時・河北]天津)、曹錕(同)、段祺瑞(安徽)、張作霖(遼寧)と、段を除いて大清帝国の皇帝と同じく北方人一色であり、呉佩孚の山東籍も「軍閥首領=北方人」の相場を印象付けた。対して、北伐の勝利を収めた国民党政権の「4 大家族」は3 位の孔祥熙だけが北方(山西)で、蒋介石と陳果夫・立夫兄弟は浙江で、宋子文・宋藹齢(孔夫人)・宋美齢(蒋夫人)兄妹は上海で生まれ育った(原籍は海南)。
上海「4.12 政変」後の中共第5、6 回党大会(1927 年4 月27 日−5 月9 日、翌年6 月18 日−7 月11 日)は、蒋介石の魔手が届かぬ武漢、モスクワで開催されたが、党中央は1933 年初頭まで敢えて摘発の危険を冒して上海に留まった。政治局候補委員・顧順章と総書記・向忠発、政治局常務委員・盧福坦(山東)の裏切りに因る壊滅の危機で、江西省瑞金の赤軍根拠地に移り長征を経て1935 年10 月に陝西北部に到着し、その後ずっと北方に根を下ろして来た。にも関らず、歴代の党首(含む事実上の最高実力者)には、南方の人が圧倒的に多く統治期間に占める比率も非常に高い。陳独秀(安徽)、瞿秋白(江蘇)、李立三(湖南)、向忠発(湖北)、王明(安徽)、博古(江蘇)、張聞天(上海59))、毛沢東(湖南)を経て、漸く北方出身の華国鋒(山西)が浮上したが、同じ北方出身の前の次期党首筆頭候補・王洪文(吉林)と共に政治生命が短く、任期半ばで彼を辞任に追い込んだケ小平(四川)の支配の下で、胡耀邦(湖南)に続いて2 人目の北方人・趙紫陽(河南)も2 年余りで総書記の座から下ろされた。世代交代は江沢民(江蘇)、胡錦涛(原籍安徽、上海出生)へと、又も南方出身者同士の間で行われた。
次期党首の候補として下馬評が高かった李克強も、陳独秀・王明・胡錦涛(原籍)と同じ安徽の人である。胡耀邦・胡錦涛と同じ団中央第1 書記を担当した「団派」(共青閥)が政治力学の要素で控えた故か、第17 回党大会で誕生した指導部の中で「太子党」の習近平が最有力候補の座に就いた。彼の原籍は父・習仲勲(副総理経験者)の故郷・陝西省富平県であるが、父の党中央宣伝部長在任中の1953 年に北京で生まれた。「陝西は根、延安は魂」と自称した帰属意識は共青団的な情熱にも負けないが、69 年から6 年間も陝西の延川県の農村で思想改造の為の労働・定住をさせられた体験も背景に有る。75 年の清華大学化学工程学部入学は生地及び正常な人生への帰還と言えるが、国務院・中央軍事委員会の弁公庁で耿飈(湖南人。78 年3 月−82 年5 月副総理、79 年1 月−81 年7 月軍委秘書長)の秘書(79−82)を務めた後、志願で河北省正定県の党委責任者に成った。型破りの志向は「大欲は無欲に似たり」と言う様に、福建省→浙江→上海→中央という東南沿海の北上・昇進を導いたが、対抗馬と照らし合わせれば興味津津の共通点が目に付く。
李克強は1978 年北京大学法学部に入り習と其々2 大最高学府に在籍したが、団中央第1 書記(93−98)の後の地方責任者としての勤務地は河南、遼寧であった。南方出身者が北方の2つの重要な省を治め、原籍・生地とも北方の習は東南の富裕地域の長に任命されたのは、人間的な厚みを生かし且つ増やす交たすき差人事と思える。対立・統一の陰陽調和を尊ぶ中国では、「男人女相・女人男相」(男の人は女の相貌を持ち、女の人は男の相貌を持つ)と共に、「南人北相、北人南相」(南方人は北方人の風貌を持ち、北方人は南方人の風貌を持つ)が理想的とされる。
貴人に多い「男人女相」の典型と言える毛沢東・周恩来は、朱鎔基の様相や気質に見える「南人北相」の観も有り、気性が荒い故に同志から「独裁者」と酷評された陳独秀も北方的な激しさが目立った。党首・準党首の中の元々少ない北方人の稀に見る「南相」の例として、武骨・磊落の父親と対照的な温厚・含蓄の風格が漂う習近平が思い浮かぶ。毛が自分の故郷・韶山県そして湖南省の党委書記を務めた華国鋒に後継させたのは、前の王洪文の場合と同じく南北に跨る幅広さへの期待も潜んだのかも知れないが、彼の嘱託に背いた2 人の限界は内面まで「北人北相」に留とどまった処にも有ろう。
江沢民も朱鎔基と同様の東北、北京での長い勤務経験が無ければ、大抜擢及び13 年に亘った在位は果たして有り得ろうか。胡錦涛は団中央から転出し最も貧困な貴州省と最も厄介な西チベット藏自治区に赴任したが、辺境・少数民族・窮乏という困難が重なる貧乏籤が逆に大出世に繋がった。江の後継者として彼の政治局常務委員会入りを指示したケ小平は、師・胡耀邦への義理堅さや拉ラサ薩暴動鎮圧(1989 年3 月)の果敢さに見る品格・統治力を評価した60)が、清華大学在学・勤務(1959−68)後に北方の極貧地域・甘粛省の􄔛ダム堤建設現場で鍛えた「南人北相」の賜物とも取れる。誕生日が「6.1」国際児童節に当る習近平に対して、胡錦涛は1942 年の降クリスマス誕節(12 月25 日)に生まれたが、当局が公表したこの2 人の公式の履歴には誕生日も出生地も伏せてある61)。毛、ケ、江、胡の出身地の第1、2 世代の湖南・四川と第3、4 世代の江蘇、安徽/ 上海は、党首・元老が輩出した中南─西南と華東の2 大地域群に当て嵌まった天の采配である。胡錦涛の原籍と生地は陳独秀の出身地と中共の発祥地に吻合するが、上海出身や上海所ゆかり縁の党首の在任期間の合計の長さが感じられる。
張聞天は長征途中の1935 年1 月の政治局拡大会議(於・貴州省遵義)で最高責任者に推され、43 年3 月の毛沢東の党主席就任までその座に居たが、38 年11 月に共コミンテルン産主義国際の意思に従って主宰の大権を毛に秘密裏に譲渡したので、名義上の8 年ではなく実質的な3 年と看做そう。
胡錦涛は上海で生まれたものの、公式略歴では原籍の安徽の人とされるし、4 歳から大学進学まで江蘇省泰州市で多感な年頃を過ごしたので、2 期10 年の「上海元素」の含量を1 / 3 弱の3 年分としよう。江沢民は正真正銘の揚州の人であり、第15 期中央(1997−2002)政治局常務委員会の7 人の中で、党首の生家と次期党首の曾ての居住地・泰州と李嵐清の故郷・江蘇省鎮江市は、互いに約25−50`しか離れていない小さな三角を成すが、この地縁と関連する「史縁」(歴史・経歴の所縁を言う造語)として、江沢民は上海交通大学卒業(1947)後に上海で工場等の管理職等を担当し、長春第1 自動車製造工場への転勤(56−62)を経て再び上海に戻り、「文革」初期に中央官庁に入り更に北京から上海市党委書記に赴任した。江が執政した13 年間の上海所縁分をその足跡に応じて1 / 3 弱の4 年とすれば、上記の割引計算で約10 年という結果に成る。全国に占める上海の面積・人口の微々たる比率(0.066%、約1.05%−1.4%[2004 年の戸籍人口─常住人口比])を考えれば、胡退任の時点で91 年に及ぶ党史の中の重みが認められよう。而しかもこの3 人は党内の毛時代の助走段階と、建国第3、4 世代という重要な時期に在任した。 

57)葉永烈『紅色的起点』、安徽教育出版社、2009 年、201−203 頁。
58)本文で取り上げた面々の他、山東出身の「文革」派の要人には、于会泳(文化部長)、遅群(清華大学革命委員会主任)、魯瑛(『人民日報』編集長)、王効禹(山東省革命委員会主任)、劉結挺(過激武闘派として悪名高い四川省革命委員会副主任)等がいた。康生夫人・曹軼欧(党中央委員、康生弁公室[事務所]主任)も山東の人である。
59)張聞天は1900 年に江蘇省南匯県で生まれたが、今所轄の上海を出身地とする。『ケ小平文選』第2 巻(人民出版社、1994 年)の注釈にも、「陳雲、一九〇五年生、江蘇青浦(今属上海)人」と有る(431 頁)。
60)文思詠・任知初『胡錦涛伝』第2 版([香港]明鏡出版社、2002 年)に拠ると、ケは1992 年党大会人事で胡の大抜擢を江沢民に納得させ、評価の理由の第1 が「品格が有り胡耀邦に対して情も義も有った」である。胡耀邦失脚を不公平に感じ批判に同調しなかった事が、解任劇の黒幕のケを逆に好感させた(伊藤正『ケ小平秘録』、産経新聞出版、2008 年、下巻223−224 頁)が、これも中国政治の複雑系の奇妙な現象である。2 点目が「原則が有り、西藏分裂活動に対して容赦しない」、更に幅広い仕事の経験、西部に対する熟知、若さを挙げたと言う。又、国務院に先んじて自治区政府が戒厳令を敷き、胡が鉄ヘルメット兜を被って装甲車両に乗り鎮圧の陣頭に立った事を聞いて、ケは「中国に必要なのはこの様な人物だ」と絶賛した。(清水美和『「中国問題」の核心』、ちくま新書、2009 年、103 頁)
61)当局発表の胡錦涛の略歴は、「1942 年12 月生、安徽績渓人」と言う。『フリー百科事典 ウィキペディア』(Wikipedia 日本版)、『維基百科、自由的百科全書』(同中国版)の「胡錦涛」には、「出生:1942年12 月21 日 江蘇省」「上海に生まれ、江蘇省姜堰市で育つ」という、矛盾し且つ不正確と思われる記述が有る。(本稿執筆中[2009 年10 月4−22 日]、校正・補筆時[10 年9 月15−22 日]閲覧。以下、国インターネット際電脳網情報は同じ)自由編纂者たちが気付いていない権威有る情報として、2007 年12 月25 日付『産経新聞』に「金総書記、胡主席に祝電」との題で共同通信社電(北京)が報じられた。「北朝鮮の朝鮮中央通信によると、金正日総書記は24 日、中国の胡錦涛国家主席(共産党総書記)の65 歳の誕生日に際して、祝電を送った。」金は65 歳に成る胡に対して初めてこの類たぐいの祝電を送ったが、朝鮮当局の発表は間違うはずが無い。習近平の誕生日はWikipedia の日本版・中国版に拠るが、公式発表は「1953 年6 月」のみと成る。  
「将軍県」を生んだ「窮則思変」の原理と
 世襲人事が孕む「ベルサイユ化」の危険

 

中華人民共和国の歴史を振り返れば、末尾が9 の西暦年には好く事変や大転換が起きた。
1959 年の西蔵動乱・中ソ決裂・彭徳懐粛清、69 年の中ソ国境戦争・林彪の次期領袖の地位確定、79 年の改革・開放発足と中越国境戦争、89 年の拉薩戒厳・天安門事件、99 年の澳マカオ門帰還・初の宇宙飛行船打ち上げ成功、といった展開には非連続的な連続が見て取れる。2008 年北京五輪と2010 年上海万博の間の2009 年も、建国の還暦であるだけに節目の意味を持つが、1 桁の数の中の最大で「久」と同音(中国語でjiu)の9 の年が乱を呼ぶという「魔ジンクス呪」は、7 月5 日の烏ウルムチ魯木斉(新疆維ウイグル吾爾族自治区首府)騒乱で霊験を見せた。米国で「中国脅威論」の裏返しの「米中二強(G2)」提携が囃はやされる程、中国は世界が刮目して見る政治・経済・軍事の大国として、繁栄・強盛の「高速新幹線」で快進撃を続けているが、国慶節に天安門広場が核誘ミサイル導弾等の最新鋭国産兵器の展示場と成り、閲兵式と群衆祝パレード賀行進を成功させるべく全国から150 万もの軍人・警察・志ボランティア願者等が動員されたのも、未来へ投げられた陰影を払拭させる意志が秘めてあった。
10 月の17 期4 中総会で国家副主席・習近平の中央軍委副主席就任は見送られたが、次世代の軍・国・党の権力構図の方向性の一端を占う動向として、新疆暴動の半月後に軍委主席・胡錦涛が3 人の「太子党」を上将に任命した。5 人の有資格者の中で現行の最高位階級への昇格が決まったのは、副総参謀長・馬暁天、軍事科学院委員・劉源と成都軍区政治委員・張海陽である。1949 年7 月、8 月に生まれた張、馬は共和国の「同齢人」(同じ歳/ 年代の者)で、1951年生まれの劉と共に鋭意推進中の軍幹部若返りの流れに合うが、「網ネチズン民」等の在野世論や域外の報道機関では世襲批判が起きた。馬は空軍副司令(新階級も空軍上将)、解放軍国防大学校長を歴任し「軍の外交部長」の異名が有るが、父・馬載尭は解放軍政治学院教務長を務めた大校(上級大佐)で、岳父・張少華(中将)は軍委紀律検査委員会副書記経験者である。河南省副省長、武装警察部隊副政治委員、解放軍総後勤部同職を経た劉は、41 歳で軍歴を始めて持ったにも拘らず異例の昇進を遂げたのは、故国家主席・劉少奇の末の息子である事と無関係ではない。前職が北京軍区副政治委員に過ぎなかった張の父・張震上将は、1952 年に総参謀部作戦部長、78 年に総後勤部長、85 年に国防大学の初代校長、92 年に軍委副主席に就任したが、華麗な経歴の中でも軍学校や軍委時代の人脈が97 年の引退後も健在で、馬載尭が育成した高官群と同じく2 世に恩恵を浴びせたと言う。
馬、劉、馬の公式発表の略歴では、河南􄒳義、湖南寧郷、湖南平江の人と成っている。上代の故郷の両省は正に中共党・軍の高級幹部の産地であるが、戦争から平和への過渡期にこの世に遣って来た3 人とも、父親の従軍や勤務の居場所であった生地は原籍から遠く離れた。馬暁天は名前の「天津解放の暁」の意の通り天津落城(1 月15 日)の後に同市で生まれ、馬載堯が団(連隊)政治工作幹部を務めていた第4 野戦軍49 軍145 師は天津戦役の主力であった62)。
全国第4 の「将軍県」・湖南平江の今迄の延べ64 名の将軍の中で、張海陽は父親に次ぐ5 番目の上将と成ったが、張震が彼に付けた名前は上海に射す新中国の陽光を意味する。第3 野戦軍参謀長として上海攻略の勝利(5 月27 日)に貢献した後、過労を癒す為に市内の療養院に入っていた彼は、7 月16 日に夫人から電話で息子誕生の朗報を受け、咄嗟に出生地に因んだこの名を言った63)。建国後に生まれた劉源は当然ながら北京が生家であるが、人生の歩みを共和国とほぼ共にして来た3 人の生まれは、奇しくも重慶の昇格(1997)まで3 つしか無かった中央直轄市である。
元経済企画庁長官(1998 年7 月−2000 年12 月、小渕・森内閣)の作家・堺屋太一は2007年8 月、翌月に1 年未満の勤務を投げ出す結末に成った安倍晋三政権の体質的な欠点を、巴里から22`離れた宮殿に因んで「ベルサイユ化」と表現した。曰く、1626 年にルイ13 世が建てたこの狩猟用の別荘には、16 世の時代に国王と取り巻きの貴族や官僚が集まり、優雅に暮らす余り庶民への関心を失ったが、今の閣僚も2 世、3 世議員が多く、その殆どが東京で生まれ育ち、住んだことも無い父親の選挙地盤を継いで政界や国会に進出し、恵まれた東京に居て地方都市の厳しい状況の実感が持てない。本当の政治を行う為には「ベルサイユ」から出て、地方の本当の姿を見る必要が有ると力説した64)が、同時代中国の党・政・軍・企業でも2 世の躍進が目覚ましく、首都を初め大都会で出生・成長し原籍の地方都市や農村との絆が弱い輩が多い。
但し、毛沢東時代の多難な経験に因って今は未だ「ベルサイユ化」に至る程ではない。親の威光で順調に出世街道を走り抜けたと見られがちのこの3 上将も、「文革」の苦渋な試練や軍隊での辛い「下放鍛錬」(下積み修業)等の洗礼を受けた。
相対的に順風満帆だった馬暁天は満16 歳直前の入隊から空軍畑一筋で、「文革」中に最年少の飛行団副団長と成り時代の寵児の観さえ有った。中央電視台(CCTV)で「共和国の同齢人」が主題と成る系シリーズ列番組を制作し、労働者・農民・軍人・学生等各界の代表が主役としてテレビで脚光を浴びたが、彼は軍の希望の星として選ばれ特集の名も「管制塔の児童団」であった。
それでも航空学校教官、部隊や軍区の長への叩き上げは、肉体的・政治的な危険が付き纏う棘の道であった。空軍操パイロット縦士は蒋介石時代と同じく「天之驕子」(天の寵児)と言って能いが、厚遇を受ける身分に成る前の大飢饉の記憶は彼の「ベルサイユ化」を拒む力が有る。「良将方能育虎子」(良き将軍こそ虎の[如く立派な]子を育成できる)と題する馬載堯の戦友の回想に拠ると、1960 年代初め上京の際に海軍後勤部の戦友に御馳走を手配させ馬一家を奢った時、親子7 人とも栄養不良に陥り子供たちは珍しく豊富な食事を前に待ち切れぬ様子であったが、礼儀正しく大人が箸をつけてから箸を伸ばした。その瞬間、僅か11−12 歳の暁天は突然、「楊伯父さん、今日は腹一杯食べても能いですか」と訊ねた。
当の姚天成(広州軍区砲兵政治部主任等を歴任)が感涙を溢こぼしそうに成ったこの逸話65)は、建国世代とその子女たちの苦労人の宿命を感じさせる。ケ小平・江沢民・胡錦涛が閲兵の際に放った掛け声の「同志們、辛苦了!」(同志諸君、ご苦労さま)は、慰労の常套句でありながら現実の辛酸・苦渋を言い得て妙である。馬の原籍・􄒳義市は省都・鄭州と洛陽の間に在り、1990 年代以降は河南及び中・西部地域の県・市の総合的な実力順ランキング位で常に最上位に出たが、1959 年後半から3 年続いた「国民経済困難時期」に河南の信陽地区で100 万人以上も餓死した。
同省は安徽省と並ぶ全国最大級の「重災区」(被災甚大地域)であるが、10 大「将軍県」の江西3、湖北・湖南・安徽各2、河南1 はこの文脈でも妙に納得する。
100 人以上の将軍が輩出した民国の「将軍県」は、浙江省諸曁・湖南省醴陵・安徽省合肥と言われる66)。共産党の「将軍県」とは湖南・安徽2 省が重なるものの県(市)が違い、蒋介石の故郷・浙江に1 県も無い事も興味深い。諸曁の突出ぶりは同省人を重用する蒋の選好が有る一方、北方からの移民が多い土地柄に因る武勇の遺伝子の所産でもあると言い67)、梁山泊好漢と同数の108 人68)は山東の武人多出の伝統を連想させる。紹興市管下の同県(1989 年に市に昇格)は春秋時代の越国の都で、中国史上の伝説的な「4 大美人」の筆頭・西施の故郷としても知られる。姚文元の父親・姚篷子(作家・出版社経営)もその地の人文的な香りの薫陶を受けたが、彼の投機的な処世術や粗野な気性69)は上海生まれの息子にも継がれた。1972 年に江青の伝記の取材の為に訪中した米国の歴史研究者・ウィトケ准教授は、宴席で姚が箸で鴨の舌を撮つまみ強引に彼女の口に運んだ無作法に驚愕と不快を覚えた70)。極左思潮を鼓吹する姚文元の怪気炎は同じ諸曁出身の兪秀松にも見られ、上海共産主義小組の創設成員の中で兪は暴力を鼓吹する力説が目立った。
「5.4 運動」の際に杭州第1 師範学校に在学中の彼は杭州の学生運動の領袖と成り、1920 年に北京大学哲学学部での聴講を経て李大サの推薦で上海に赴き、上海共産主義小組成立の翌々月(同年8 月)に上海社会主義青年団を結成し書記を務めた。25 年に成立した中国共産主義青年団の前身は22 年に同団から派生した中国社会主義青年団なので、兪は「共青閥」の初代領袖と「上海閥」の大先輩と言っても過言ではない。現に、25 年に共青団総書記に就任し建国直前に団中央名誉主席に推挙された任弼時(党内序列第5)は、20 年9 月に上海共産主義小組が社青団臨時中央事務所の所在地で創った上海外国語学社(学習塾)の第1 期学生に成り、準備段階に在った中共のこの最初の幹部養成学校の秘書を務める兪の紹介で社青団に入った。無政府主義者からマルクス主義者に転じた兪は学者に成る夢を捨てて、世間から唾棄・罵倒されても構わず革命家の道を選ぶと宣言した。社会改造の最良の方法は最大限に混乱に陥らせることだという彼の主張は、安定志向の強い上海では共鳴を呼び難く、資産階級・中産階級の子女の多い復旦大学では「学生政治暴動」への反発が起きた。隣省や他郷から来た外来の学生等の強烈な反逆精神や過激傾向は上海人の差別意識にも因ったと言う71)が、出身地や原籍が「外地人」(余所者)ばかりの「4 人組」の上海での猪突猛進も似た要素が有ろう。
同小組の陳望道(後に復旦大学の教授と建国後の初代学長)も浙江(義烏)人で、中共上海地方委員会初代書記を務めながら陳独秀と決裂し脱党(1923)に至ったのは、「紅頭火柴」(頭の赤いマッチ)という渾あだな名が示す強烈な個性の衝突に起因した72)。仲の悪い者同士が同じ場所に居合せる事や敵・味方が共通の困難や利害に対して協力する事に言う「呉越同舟」は、『孫子兵法・九地』の「呉人与越人相悪」(呉の国の人と越の国の人は互いに憎しみ合う)に由来したが、呉(江蘇)と越(浙江)の相異は前者の柔軟と後者の文字通りの激越にも有ろう。「七山一水二分田」(7 割までが山地、1 割が水[川や湖]、2 割が平地)と言われた昔の浙江は今ほど富裕ではなかったが、秦始皇25 年(紀元前222)に県が設立した諸曁は農業等の発達に因り、民国時代に同省の「1 等県」と位置付けられた。歴代の傑出した人物には軍人も文人も科学者も多い73)。中共の「将軍県」の著名人には武人が文人より目立ち、窮乏の故に闘争心・戦闘力が強い傾向が見て取れるが、最終的には湖北黄(紅)安を最大の「将軍県」とする中共軍が天下を取った。興味深い事に、民国の3 ヵ所は孫文が言った中国的な個人主義の特質である「散沙」(バラバラな砂)の分布にやや似ており、中共軍の場合は地続きの数省と「元帥省」の四川を含めて強い結束の形態を成す。
元より中共の開国将軍の最低の資格である副軍団長は、民国の場合の旅団長より2 級(副師団長・師団長)上に当り、戦歴の量(期間)・質(熾烈度)も同日に論じ難い74)が、文の要素の薄い「将軍県」群の鉄砲の政権誕生に対する貢献度も格別に高い。民国と共和国の将軍の主な揺籠が同居する安徽は中共初代党首の故郷であり、陳独秀は机を敲いて人を罵る「発火」(怒り出す)の癖で同志から敬遠され75)、陳望道と好一対の「紅頭火柴」とも言えるが、硝煙が消えた戦後でも同省では決死の変革に挺身する血脈が続いた。朱鎔基の直系18 代先祖と言われる朱元璋76)の出身地・安徽省鳳陽も乞食が多い赤貧県で、反旗を翻し天下を取った明太祖の故郷で1978 年末に全国農村初の生産責任請負制の実験が血判状の誓いを以て敢行された77)のも、窮乏が変革を招き逆境が奮起を促す原理に合致する。
国難が重く圧のし掛かった河南・安徽は奇しくも、1955 年7 月に安徽省都・合肥で生まれた(原籍は同省定遠県)李克強で結ばれる。彼は父・李鳳三が50 年代に県長を務めた鳳陽の人民公社で4 年間(1974−78)労働に従事し、1998−2003 年に河南で副→正省長・党委書記を歴任し、「三農」(農業・農村・農民)問題や経済成長の難題に挑んだ。彼は43 歳を以て共和国史上最年少で唯一博士号(経済学、1995 年取得)を持つ省長に成ったが、劉源の同省副省長就任(1988)は全国最年少の記録を作り、少将(武装警察)付与の41 歳も階級制度導入(1955)の初回対象者を除く記録的な若さである78)(唯一並ぶのは前年の1991 年の許其亮[山東人、2007 年に上将・空軍司令に昇進])。李は2000 年の洛陽の商業高ビル層建築物・焦作の映画館の火災(其々309 人、74 人死亡)、03 年の輸血起因の後エイズ天性免疫不全症候群感染、04 年の鄭州大平炭鉱瓦ガス斯爆発(148 人死亡)等の事故で、幸運にも問責の危機を乗り切ったが、多難な土地柄が改めて浮き彫りに成った。
劉源は逆に災厄の歴史を承知で河南に赴任したのであり、何しろ父・劉少奇が1969 年に監禁の身で開封に移送され間も無く悲惨な死を遂げた。国家主席の息子として彼は中南海で育ち、「文革」元年の国慶節に国旗護衛隊の一員として閲兵式に参加したが、その時に既に10 年動乱の間の同世代の中の最大級の転落が足音を忍ばせて近付いて来た。父に党籍剥奪・公職追放の厳罰が下された68 年に彼は一旦服役したが、忽ち除隊され山西省山陰県の農村で思想改造的な労働・定住を強いられた。82 年に北京師範学院歴史学部を卒業した後も河南を勤務地に選び、新郷県七里営人民公社副主任を経て同県副県長、県長へと経キャリア歴を積んだが、進んで中央官庁から華北の農村に「下放」を志願した習近平の決断と似通う。
毛沢東の「人民戦争」の原理には「農村から都市を包囲する」と有り、この2 人と李克強の出世も農村での統治経験の中央入りへの寄与を物語っている。それにしても、劉源の「新長征」の起点は時機・場所とも意表を突いた。七里営は毛が1958 年8 月6 日に全国で最初に視察した人民公社であり、「人民公社好」(人民公社は素晴らしい)という激励で各地の公社設立熱ブームを煽った地に他ならない。改革・開放後は政策転換に伴って人民公社は実質的に機能しなくなり、82 年の憲法改定に由り政社分離の方向で解体に向い、第8 条に出た「人民公社」も93 年憲法から消えた。言わば風前の灯に飛び付いた挙動は時代遅れや逆行の印象が持たれる上で、父親の名誉回復の翌々年、毛の一連の失政を否定する党中央決議が公表された翌年に、敢えて毛所縁の経済「盲進」(盲目的な猛進)の原点に拘ったのも摩訶不思議である。何故なら、毛はその号令を発した8 年後の1966 年8 月5 日(8 期12 中総会期間中)、「砲打司令部─我的一張大字報」(司令部を砲撃せよ─私の大字報[壁新聞])という劉少奇打倒の宣言を公表した。
劉の未亡人・王光美は2004 年に子女一同と毛の子女・親族との懇親を設定し、同年の日露戦争勃発100 周年の際の過去の敵同士の後裔の交流と同じく、恩讐を超える歴史的な和解を世間に演出したが、38 年に亘る不仲・断絶が逆に映し出された。
毛と湖南同郷の初代後継予定者・劉は其々4 回、6 回結婚したが、前者が1938 年に延安で、後者が47 年に河北省平山県で娶った最後の妻は、揃って彼等が目指した政権基盤地域の出身である。劉夫妻の受難の陰には江青の陰湿な嫉妬が有り、山東の小さな町で小学5 年を以て学歴に終止符を打った彼女は、上海での女優活動を自慢できても、北京生まれで高官の父や実業家の兄を持ち語学堪能の王光美には敵わない。国際化時代を先取りした王の洗練された知性は、新しい首都の文化的な奥深さを感じさせる。朝鮮半島の「南男北女」(南には美男が多く、北には美女が多い)と別の意味の「南男+北女」は、周恩来とケ頴超(河南人)、胡錦涛と劉永清(北京人)の組み合わせも同様である。劉永清は重慶の高中を卒業後に清華大学に入り級友の胡と結ばれたが、王光美も北京の名門大学を出た才媛である。夫・劉が迫害で逝った後も彼女は開国総理並みの忠誠を以て「毛主席の学生」と自称した79)が、劉源の七里営公社行きと通じる「毛沢東情コンプレックス結」や毛自身も持った「北京情コンプレックス結」は、過去・現在・将来の中国の政治文化を探求する鍵言葉に成って来る。 

62)「新科上将馬暁天的父親馬載堯」(『北京青年報』報道)、博訊新聞網2009 年7 月21 日転載。
63)凌輝「平江籍上将张海􄧈的桑梓情」、平江県政府網2009 年7 月24 日転載(『長江信息報』より)。当県から出た上将は張氏親子の前に、蘇振華・傅秋涛・鐘期光がいた。
64)「なるか再生1 堺屋太一氏 ベルサイユ化抜け出せ」、『読売新聞』、2007 年8 月17 日。
65)姚天成「良将方能育虎子」、姚天成的博客(BLOG)、2007 年1 月14 日。当ブログ(blog.sina.com.cn/yaotiancheng)は故人逝去(1995)後、遺族等が開設し生前の回想・資料等を公開するものである。
66)motion724「民国三大将軍県」、motion724 的主頁、2007 年7 月24 日。浙江省青田にも90 名の民国将軍が出たという附言に対して、俊如2006(ブログは現存せず)の書き込みは広西容県の77 名を付け加え、図毒客は醴陵の百名は国民党と共産党が半々を占めると指摘した。
67)本稿筆者が立命館孔子学院副学院長を兼務中の2009 年10 月20 日、学院を訪問した諸曁出身の兪可平教授(中共中央編訳局副局長・北京大学中国政府創イノベーション新研究中センター心主任)に「将軍県」の理由を訊ね、上記の教示を得た。
68)陳侃章・何徳康編の諸曁籍国民党将領群の小伝が『浙江省文史資料選輯』第47 輯(中国人民政治協商会議浙江省委員会文史資料研究委員会、1992 年)に掲載された際、浙江人民出版社の編集部は「梁山泊108 将」の連想を避ける為に2 人分を削除し106 人にした。93 年の『国民党九千将領伝』(劉国銘主編、中華工商聯合出版社)には、108 人分の完全収録が出来た。(楼祖民「明源詳流 去実存真─読『中国国民党諸曁籍百卅将領録』」、聯誼報[浙江省人民政府新聞弁公室]電子版、2007 年9 月8 日。陳侃章「書稿的故事:『諸曁籍国民党将領伝』来龍去脈」、浙江在線新聞網站、2009 年2 月20 日])
69)葉永烈『「四人幇」興亡』、上巻417−421 頁。
70)殷天展「文革四十周年 才見紅都女皇」、[香港]『亜洲週刊』2006 年4 月30 日号、45 頁。
71)楊東平『城市季風─北京和上海的文化精神』(修訂本)、新星出版社、2006 年、116−117 頁。同書の初版は日本語版(注40 参照)が有るが、紙幅の制限に因る大幅な割愛で、第2 章「“ 京派” と“ 海派”の二極対峙」にはこの件くだんは見当らない。
72)散木「陳独秀“ 家長制” 作風与建党初期多人退党的考察」、『党史博覧』(中共河南省委党史研究室主管、月刊)2008 年第5 期。
73)葉永烈『「四人幇」興亡』、上巻365 頁。
74)注66 に同じ。
75)注72 に同じ。
76)「媒体披露朱鎔基伝奇身世 乃朱元璋十八世孫」、星島環球網、2008 年1 月25 日。
77)1978 年11 月24 日、曽て不作や貧困で餓死・脱出者が多く出た鳳陽県小崗村で、18 の農家の協議で秘密裏に国有の耕地・生産用具等の生産手段を全世帯に分け生産責任(戸別経営)請負制を導入する事を決め、投獄覚悟で書いた血判誓約書は後に中国革命博物館に展示された。
78)元国家主席・楊尚昆が劉源の少将授与を喜んで、「中国最年少の将軍と記念写真を取ろう」と提案した。(「劉少奇之子劉源憶楊尚昆:做好人才能做好官」、伝記網、2007 年8 月3 日)79)1983 年に毛沢東の生家旧居を拝観した後、「深く毛主席を追懐する 学生・王光美」と題辞した彼女は、評劇女優・新鳳霞に「私たちは皆毛主席の好い学生」と言ったが、旦那さんが毛主席に死に追い込まれたのに、こんなことを言って好くない、と反発された。(蔡詠梅「呉祖光一生的遺憾」、[香港]『開放』誌2003 年5 月号) 
日本の「表徴の帝国」の根底の「中空」と
 中国の「帝国の表徴」の基点の「中控」

 

「文革」勃発の1966 年に仏フランス蘭西の文化使節として哲学者ロラン・バルトが訪日し、記号論の観点に由る印象を『表徴の帝国』(1970)に記述した。精神世界が記号を意味で満たす西洋の「意味の帝国」に対して、日本は意味の欠如を伴うか意味で満たすことを拒む記号が存在する「表徴の帝国」とされた。森と濠ほりに囲まれた皇居が忙しく動く大都会・東京の空虚な中心を成すという逆説を以て、官庁・教会・広場等を設ける欧州の同心円的な都市の中心と較べる処は、河合隼雄が論究した「日本の深層」の「中空構造」80)と考え合わせれば合点が行く。鋭く掘り下げた『古事記』神話の中空・均衡構造は西欧型の中心統合構造と対極に在り、日本人の心性の胎盤や遺伝子を解明する手掛りと思えるが、「中空」に因んで中国の表層・深層の形態・本質を類似の概念で概括するなら、中国語で同音(zhongkong)の「中控」(中央支配。控=控制[制御])が思い付く81)。『表徴の帝国』の中国語訳題「符号帝国」を借りて言えば、中国的な「中控構造」を体現する「帝国符号」(帝国の表徴)は、文字通りの「意識形態」(ideology の中国語訳)として目に付く。
小林秀雄は1938 年3 月に『文芸春秋』従軍記者として渡中し、明治大学教授昇格の6 月に「蘇州」を同誌に発表した。内務省に一部削除を命じられたこの紀行風の文化考察の中で、日本の近代批評の確立者とされる「知の巨人」は珍しく毒舌を巻き捲り、干支1 巡(60 年)後に世界遺産に成った蘇州の庭園群を荒廃・頽廃の「廃園」と呼び、鴉片を吸い若い女を抱いて極楽の夢を楽しむ欲求に合う代物として「俗悪な」「奇岩怪石」を斬り、明確な企図を隠した完全で奇妙な構図を拵こしらえ上げた馬鹿馬鹿しい大真面目さを貶した。日本の古典に造詣が深く西欧の教養も高い彼の審美眼から見れば、簡素で含蓄に富む京都・龍安寺の石庭に比べて中国の庭園は難解・退屈で詰らないわけである。蘇州は水郷都市につき「東洋のベニス」の美称が有り、内外とも名高い名園の塊の様な感じは世界遺産の最も多い国・伊イタリア太利とも、世界遺産の寺院を多数(龍安寺も含む17 ヵ所)持つ京都とも通じる。1845 年に訪れた仏蘭西調査団員が「世界最大の都市」と折紙を付けた蘇州82)は、文明の厚みに於いて千年の古都・京都と同日に論じ得ない事は無い。小林の蘇州庭園・中国文化観の「高慢と偏見」([英国]オースティンの小説[1813]の題)は、意味で記号を満たす精神世界の構築への拒絶にも由来したのかも知れないが、中国では「中控(中心統合)構造」の意図は好く大真面目に施され、確かに馬鹿馬鹿しく映る場合も有る。
「毛沢東号」機関車乗務員組が首都国慶節祝パレード賀行進を先導する慣習と対を成して、鉄道部が「文革」中に定めた全国の特急列車の1 番、2 番は北京−韶山間である。湖南の小さな市が特急汽車の終点と成った事自体は毛沢東崇拝の産物に他ならず、有権者を囲い込む為に地元へ新幹線を誘致する日本の政治家の要求も精々停車駅に止とどまった。北京五輪聖火中リレー継の国内行コース路の112の挙行地に毛、ケ、江、胡の故郷(湖南省韶山、四川省広安、江蘇省揚州、安徽省績渓)が入ったのも、成果の精華を顕示し声価を高める建国記念閲兵・祝賀行進の狙いを上回る露骨な「洗脳」と言える。福建省龍岩、江西省瑞金・井崗山、浙江省嘉興、広西壮族自治区百色、貴州省遵義、陝西省延安等、革命の発祥地・根拠地を随所に組み入れた「紅色旅遊」(革命所ゆかり縁の地の観光)的な設定は、4 世代の生家や原籍の地で「history = his story」の英雄史観・人治思想を露呈させた。翻って東京五輪聖火の在り方を味わうと、国内中リレー継は鹿児島・宮崎・千歳3市から始まった時点から意味性が曖昧であった。広島原爆被災の1945 年8 月6 日に広島県三次市で生まれた坂井義則が最終走者に選ばれたのは、日本にしては明確で強烈な世界への平和祈願の発信であるが、その早稲田大学競走部所属の裏に首相を輩出した名門学府の隠然たる影響力が散ら付いたものの、首脳の故里まで強い光を当てて大写しする流儀とは次元が違う。
1969 年10 月、ソ連の急襲や爆撃に備えて党中央が要人の緊急疎開を決定した。劉少奇の開封行きもその一環であったが、毛沢東は先駆けで四方の国境から遠く離れる華中の重鎮・武漢に行き、2 日後の17 日に林彪は上海−南京の間の蘇州に移り、首都に駐留する周恩来は郊外の玉泉山の地下の中央軍委戦時指揮中センター心で執務することに成った。言わば臨時準大本営は世界遺産・頣和園の構内に在るのは人を食う感じも無くはないが、国防部長が蘇州に身を潜め其処から「林副主席指示(第1 個号令)」を発したのは、『孫子兵法』を生んだ秀麗・高雅な文化都市の別の側面を覗かせる。第5 世代の中堅の一角と目される蘇州出身・所縁の新鋭の台頭が報じられた83)が、「食在広州」(食は広州に在り)を3 番目とする4 句の4 字熟語の冒頭の「生在蘇州」に暗合する。生まれるなら蘇州でと言うのは子供の誕生百日祝いの格別な盛大さに因るが、「住在杭州」は毛が「第2 の故郷」と称した同市での2 ヵ所の別荘を「第2 の中南海」として愛用した84)事でも頷ける。一説の「住」ならぬ「穿」(衣)は杭州産の上質な絹に因んだが、結びの「死在柳州」は広西・柳州特産の上等な材木が棺桶の材料として最高だからである。生死や衣食住を網羅した「理想郷」群の俗諺に倣って言うなら、第5 世代の党首には多分「生在北京、住在北京、死在北京」の天命が待っているだろう。北京五輪開会式で元「体操王子」の実業家・李寧が最終走ランナー者として聖火台に点火したが、選よりに選よって彼が出身民族・壮族の自治区に在る柳州で生まれた事は興味深い。
日本語の「上京」(東京へ行く)と「下阪」(東京から大阪へ行く)は、商都・大阪までが下位に甘んじる東京の優位を誇る差別的な表現である。曾て京都は中国の都・洛陽に擬なぞらえて「洛陽」とも呼ばれたことから、地方からこの古都へ赴くことは「上洛」と言い、対義語の「下洛」は京を離れて地方に行くことを指した。今でも国賓や観光客等の京都訪問を言う「入洛」は、(特に貴人が)京都に入る意で昔から有った言葉であるが、現在の首都との上・下関係を避けつつ矜持を保つ京都的な知恵に唸うならせられる。中国では各地域の自尊心が「上京」や「下○」の言い方を許さず、「入洛」に似た「進京」(北京入り)が首都・地方の人とも許容される。「進京上訪」(北京に行って陳情する)の熟語はお上(首都の官庁)への人的な畏敬を帯びる(役所側の言い回しの「来訪」は寧ろ対等的な感じがする)が、首都の上位を明文化で表示する制度・言語として、「上行/ 下行列車」は原則的に北京方面へ向う/ 北京から遠ざかるものである。
日本の「上り/ 下り」の概念は場合や時代に因って異なり、例えば国道では其々起点/ 終点に向って行くのを指すが、大正時代の起点は全て東京(道路元標は日本橋)であり、現在は重要都市や人口10 万以上の市、特定重要港湾、重要な飛行場又は国際観光上重要な地等などが該当し、其等と連絡する高速自動車国道等が一般的に終点と成る85)。鉄道では都市間輸送の新幹線等の場合は、原則的に東京方面に向うのを「上り」とする。従って対岸同士を結ぶ路線は、本州では太平洋岸や瀬戸内海岸に向うのが「上り」、日本海岸に向うのが「下り」と成り、四国では瀬戸内海岸に向うのが「上り」、太平洋岸に向うのが「下り」と成る路線が多い。都市郊外と都市部を結ぶ鉄道に於ける「上り/ 下り」は、主に郊外から都市方面に向うこと/ その逆方向に言うが、『鉄道要覧』等に掲載された戸籍・登記上や建設・開業時の始点を上り・下りの基準とする場合も有って、必ずしも統一的な尺度は無い86)。東京メトロ(地下鉄)では都市部を走る為に全路線で「上り/ 下り」の表現を用いない87)が、都区部の中心駅である東京駅がこの場合に起点と成らない首都の内部の「中空」は、往年の全国への「中控」の弛緩化と結び付ければ興味深い。
中国の「上行/ 下行」の概念は鉄道・高速道路の両方に有るが、鉄道では列車の運行方向に就いて明快な規則が設けてある。即ち、全国各線と枢紐地区の場合は其々鉄道部と各鉄道局の規定を基準とする。前者の原則は北京方面へ向うか否かが要点であるが、南北走向に比べて決め難い東西走向で北京から遠く離れる区間に於いても、北京は暗黙の線引きの基点を成す傾向が見られる。例えば、甘粛−陝西−河南−安徽−江蘇5 省を貫く隴海線では、西の起/ 終点の蘭州から徐州に向うのは「上行」、徐州から同じ江蘇北部の海沿いの起/ 終点・連雲港に行くのが「下行」と成る。蘭州−青島間の場合も蘭州から済南に向うのが「上行」、山東の青島から同省都・済南に向うのが「下行」である88)が、北京と徐州、済南との経度の接近(東経116度23 分[天安門所在地]と同22 分、58 分)が要因と考えられる(蘭州は103 度48 分、連雲港は119 度6 分、青島は120 度15 分)。或いは別の割り切り方として、北京との直線距離が縮小して行くのを「上行」とし、起点が終点より北京との距離が長い場合も北京に向う「上行」と看做す。
其の仕組みは古今一貫の「一統天下」(天下統一)の国家意志を地で行く様であるが、日本の鉄道に対する首都の「中控」は同心円の焦点に程遠い。環状運転や東京駅方面が中間に位置する場合、複数の路線を跨ぐ運行の運転系統に於いては、「上り/ 下り」の言い方を避け、「北行/ 南行」「東行/ 西行」や「外回り/ 内回り」「右回り/ 左回り」(英語ではclockwise/counterclockwise[時計計回/ 反時計回り])と称する場合が有る。都心部を貫通する路線の多い東京地下鉄では、銀座線・丸ノ内線を除いて開業時の起点から終点へ向う方/ 其の逆方向を「A線/B 線」と表現する。又、駅番ナンバリング号制はこれとは無関係に南西方向から北東方向へ向けて定められている89)。進行方向の上/ 下の規定に厳格な中国では、上り列車に奇数、下り列車に偶数の番号を付けるのも、首都の権威と求心力を強調する仕組みと思える。
1 番/2 番は北京→韶山/ 韶山→北京と成ったのは、北京が全国の起点・基点であることの象徴と捉えられる。3 番/4 番は北京−モスクワ、5 番/6 番は北京−河ハノイ内、7 番/8 番は北京−成都、9 番/10 番は北京−重慶であるが、北や南の建国初期や毛沢東時代の同盟国に続いて、冷戦時代の後方基地の四川の省都と大都市が来るのは、俱に政治的な寓意が込められている。1 番/2番は毛の死後に韶山を訪れる者の激減に因り南端は長沙に変ったが、1 番が北京発で「建国の父」の故郷の近くの湖南省都へ向うのは、天安門城楼に毛の肖像画が掛り続ける不易と一緒である。個人崇拝の時代では「赤い太陽」の生家・韶山も居住地・北京も聖地化したが、首都の主座はその権勢と同じく磐石の如く動かない。
1959 年6 月に錦を飾って32 年ぶりで故郷に還った毛は、山の中に退職後養老用の「草棚」(茅葺きの小屋)を作ってもらおうと省党委第1 書記・周小舟に頼んだ。望み通り出来た別荘「滴水洞」は彼の心の拠り所の一部と成り、病死の先月には其処に帰って療養しようとし其処での他界・埋葬を望んだ。党中央は毛が帰郷し天寿を全うする為に9 月15 日に手配を始め、省党委第2 書記・張平化が電話で「行宮」に接待業務の検査を予告した翌日に毛は逝った90)。長距離の移動が物理的に耐え難い91)にも拘らぬ敢行の計画は、集権国家のhistory(歴史)は独裁者のhis story(彼の物語)に尽きる事を物語っている。ところが、毛の領袖の独断専行と詩人の豪放飄逸を以ても、「葉落帰根」(葉落ちて根に帰る。他郷に流離う者も落ち着く先は結局故郷であるとの譬え)の筋書き(story)は幻と化した。
ソ連解体の恰度65 年前の1926 年降クリスマス誕節の改元で始まった昭和は、1970 年に先先代の明治と並んで史上最長のと成った。その節目で69 歳の天皇は最も印象深い思い出に就いて訊ねられた際、大戦前後の苦労よりも若い時の欧州旅行を先ず挙げた。彼は1921 年2 月28 日の東宮御学問所修了後した後3 月3 日から9 月3 日まで、大正天皇の病状悪化の中で戦艦「香取」で英国・仏蘭西・白ベルギー耳義・和蘭・伊太利を歴訪した。同年11 月25 日に弱冠20 歳で摂政に就任する前の言わば「卒業・修業外遊」が至福の体験に成ったのは、「籠の鳥」の様な生活から抜け出して自由を味わえた92)解放感の大きさを思わせる。平成の皇太子妃も不適応の末に鬱病を患った現実93)は、『表徴の帝国』で喝破され東京の形而上的な中空に頷けさせる反面、空虚な中心と成る皇居の奥の宮廷の「中控」に気付かせる。
毛沢東は好く地方(特に南方)に滞在し重要な会議を招集し重大な決断をしたが、首都を離れたい心理は全国の実情を把握し制御する為94)だけでなく、南方人の故に北京の気候の乾燥・寒冷に馴染み切れず、且つ政治的な「鳥籠」を嫌う節も有ったろう。江青等を「上海幇(組)」「4人小宗派」と叱咤した1974 年7 月17 日の夜に彼は武漢に行き、長期滞在後10 月13 日から翌年の2 月3 日(旧暦臘月[12 月]23 日)に長沙で静養し、更に江西省南昌での暫しばしの憩いこいを経て同8 日から4 月13 日まで杭州の別荘に引き籠もった95)。最後の「内遊」(日本語の「外遊」を捩もじった造語)に於ける故郷の省都及び「第2 故郷」での滞在の長さは、風土・気候・政治的な雰囲気等を含む総合的な環境の馴染み深さや凌ぎ易さを考えれば情理に適う。彼は武漢「7.20事変」の翌日未明2 時頃に東湖賓館から空軍基地へ急行し11 時頃に上海に着いたが、危地の騒乱の渦中から脱出すると忽ち冷静に成った96)とは「傍観者清」(岡目八目)の通りである。
建国20 周年の直後の要人緊急疎開で毛沢東と林彪は武漢と蘇州に移り周恩来は首都に鎮座したが、主席が国の中腹から「副統帥」と「大管家」(大番頭)を「遥リモート・コントロール控」したのは正に「中控」の典型と言える。1974 年9 月4 日−10 月6 日の間の国賓との5 回の会見も相手が武漢に出向いた97)「朝貢」の形であるが、翌年の最も秀麗な季節に西湖の畔から帰京したのは翌日の金日成との会見に合わせた措置だと言われる。金の杭州行きの予定を変えた毛の決定という説98)は特殊な友情の体現と捉える公式見解99)を裏付けるが、建国後の57 回に及ぶ地方滞在の中で例外的に会議・視察が一切無かった270 日間もの長期休養100)は、首都圏を含む広域で74、75年に大地震が起きる危険を専門家が警告し国務院が6 月29 日に通達した事に一因が有り、翌2 月4 日の遼寧省海城烈震(マグニチュード7.3)の予報成功とその後の北京地区の地震予報は、1 級行政区の中で有数の強震僅少の浙江省101)に2 ヵ月余り居続けた合理性の説明にも成れよう102)。結局は国事の為に急遽帰京し翌年7 月28 日の唐山大地震(同7.8)で安全な施設への移送を強いられた103)が、不本意にも中南海で天に召された事は昔の帝王の運命を辿り歴史の「天網」を浮き彫りにした。北京占領の当初にも彼は第2 の李自成の結末に対する忌避から紫禁城内への移住を拒んだものの、周恩来等の説得で中国の政治文化の伝統の根に帰り104)「帝国の表徴」を務めるに至った。中国では昔も今も君主の終の住み処も辞世の地も首都が好ましいわけであるが、歴史研究で許されないif(若し)を以て北京以外での逝去を仮想すれば興味深い。
1953 年に設立し中南海等の要地の警備を担当する中央警衛団(連隊)の部隊番号「8341」は、毛の享年83(数え年)及び軍・党の統帥の在任41 年(1935−76)との偶然の一致で謎を呼んだ。
李自成の「皇帝」在位日数の41 と中央の警備を司った初代公安部長(1949−59)・羅瑞卿の「83」は、北京に纏わる別の天数の連環に成る。毛は1965 年末に林彪との政治的な取引で総参謀長・羅を失脚させ、羅は抗議の跳び下り自殺で「失脚」の文字通り左足の機能を失ったが、中央軍委秘書長就任の翌1978 年に人工股関節置換の為に西独に赴き、手術の成功から1 日も経たない内に心臓発作で8 月3 日の未明2 時40 分に生涯を閉じた。ハイデルベルク大学整形外科病院に入院中の変名「呉生傑」は、同音の「無生結」(wushengjie)が含む「生きること無き結末」と暗合する不吉な暗示に成った。積極治療を勧め出国を許可したケ小平が激しく後悔した痛恨の悲劇105)の後、8 月9 日の『人民日報』に載った訃報は、心臓病の治療の甲斐無く8 月3 日午前9 時40 分に不幸に逝去し、終年73 歳であると報じ、12 日の追悼会でのケ小平の弔辞も現地時間に当る北京時間を以て、羅瑞卿同志の心臓が止まったと述べ逝去の場所を抜きにした。
ところが、『辞海』(上海辞書出版社)1989 年版の「羅瑞卿」の項は、不可解にも「1978 年8月3 日在北京病逝」と記した。
この百科事典的な国語大辞典は1915 年に中華書局(北京)の創設者・費陸逵が推進し始め、1936 年に同社から出版され、同じ21 年経った後に毛沢東が改訂を命じた。翌1958 年に上海で編集所が立ち上がった後に更に21 年経過して、漸く建国後初の完全版が世に出て、以後は末尾が9 の年(建国40、50、60 周年)に新版が発行されて来た。1979 年版の主編(編集責任者)の舒新城(1928 年就任の初代主編)・陳望道・夏征農は、共産党政権に近い知識人の中核的な役割を示す組み合わせである。湖南省第1 師範学院で毛沢東と同期だった学者・舒、中共の創設成員で1957 年に再入党した陳の死去(1960、77)後、大型辞書主編の世界最年長記録を作った夏は2008 年に104 歳で逝ったが、2009 年版の主編は彼と共に名を連ねた陳至立(同年新任)は、曽て陳望道が学長(1952−77)、夏征農が党委第1 書記(78−79)を務めた復旦大学の出身(59−64)で、上海市党委宣伝部長(1984−91)の経歴も夏の「文革」前、後の中共華東局宣伝部長(62−66)、上海市委書記(79−82)と似通う。教育部長(1998−2003)、国務委員(03−08)を歴任した全人代副委員長の主編就任は、この国家的な文化事業の半官半民の性質に一層官制の色彩を加えた。1989 年9 月発行の新版の題名を新総書記・江沢民が揮毫したのもその傾向の前兆であるが、『人民日報』の意図的な曖昧・糊塗を超えて、偽装・捏造の謗りを免れない「北京にて逝去」と明記したのは、朝野のお墨付きを裏切った瑕疵と言えよう。
周恩来は逝去の3 ヵ月前の1975 年10 月7 日に昏睡から意識を取り戻すと、『辞海』の修訂では中国近代の歴史人物を客観的に・公平に評価すべきだと秘書に語り、清朝末期・民国初期の政治家・楊度が1929 年に上海で共産党に秘密裏に加わった事跡を記載するよう手配させた。
作家・夏衍を通じた単独指導の下での隠れた功績が歴史の闇に埋もれないようにという配慮106)は、現政権の公式見解・評価を忠実に反映する『辞海』の特殊な権威を浮き彫りにした。恰度100 年前の1875 年107)に毛沢東の故郷・湖南省湘潭で生まれたかの政界奇人は、周の遺志に沿って『辞海』で項が立てられ上記の事実が記され、「在白色恐怖下堅持党的工作」(白色恐テロ怖統治[反体制運動・革命運動に対する為政者の激しい弾圧]の下で党の仕事を頑張り通した)と評価された。『中国大百科全書』(総編集委員会主任・胡喬木、中国大百科全書出版社)の『軍事T』(1989)の「林彪」の項も、陳雲・黄克誠(大将、1954−59 年に軍委秘書長・総参謀長歴任)・楊尚昆等の要人の介入に由り、歴史を忠実に伝えるべく「軍事家」と定義し「文革」中の「大罪」の前に戦争時代の功績を認したためた108)。
因みに、この卷の「羅瑞卿」の項の死去に関する記述は4 月後に刊行された『辞海』と違って、「1978 年8 月3 日因病逝世」と無難に言う。共同執筆者の1 人、「軍内一支筆」(軍内随一の文筆家)の誉れが高い姚遠方は、「文革」前・後の総政治部主任弁公室主任(事務局長)、『解放軍報』副社長等の在任中に、聶栄臻・葉剣英元帥や羅瑞卿等の軍委高官の為に文書を起草し、85 年末に定年退職した後も劉伯承・葉剣英・徐向前(86 年10 月7 日、同22 日、90 年9 月21日逝去)等数人の元帥の弔辞の作成にも参与した。改革・開放を決定した第11 期3 中総会の閉幕の翌日(78 年12 月23 日)に彭徳懐・陶鋳の追悼大会が行われ、「文革」の迫害で74 年11 月29 日、69 年11 月30 日に死去した2 人の名誉回復に成ったが、時の党中央副主席・ケ小平が述べた彭元帥の弔辞は党内の対立で起草の過程で二転三転した。毛沢東の粛清を正当化する為に故人の「欠点」を書くようという意向に姚は抵抗し109)気骨を示したが、羅瑞卿に対する「蓋棺論定」(棺を覆いて事定まる)の記述で不都合な真実に蓋をしたのは限界を思わせる。
『辞海』1979 年版は1965 年刊行の「未定稿」版を大幅に改訂した物であるが、北京の関係部門の審査・修正を経た「林伯渠」の項の分量の少なさと評価の低さに対する疑問から、担当者が78 年5 月に上京し再調査を行ったところ、中央人民政府委員会秘書長として開国大典を司会したこの中共の創設成員に関して、然るべき指導者から初耳の上層部の機密情報を得て当初の原稿の杜撰さを指摘された110)。この紆余曲折は「竹の幕」の不透明さや北京の政・官界と上海の知識人の決定的な距離を思わせるが、真相未公開の時代の執筆者の「中央の要人の死に場所=首都」の刷り込みに因る思い込みが推察される。現に、毛・ケの死を公表する当局の「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐ書」は、現に、常識に沿って「北京にて逝去」と明記した。
99 年版は実事求是の精神に基づいて思い切った修正を随所に行い、例えば「朝鮮祖国解放戦争」の項の語釈を「亦称“ 朝鮮戦争”」(別称「朝鮮戦争」)のみとし、新設の親項目の「朝鮮戦争」では朝鮮の先制攻撃を暗示し(6 月25 日に勃発、10 月1 日に米・南朝鮮軍「北犯」と言う)、米国の「侵略」云々を削除した。「羅瑞卿」の説明からも死因や逝去の日時・場所が消えたが、西独で術後に急死したという報道済みの事実は伏せた儘である。
「陳独秀」の項で「右傾投降主義」を非難する旧態依然は党史研究の限界を感じさせた111)が、不都合な真実に対する粉飾・隠蔽の旧弊は未だに経済統計等に残っている。「幾何学の公理が人々の利害と衝突するなら、其はきっと論駁されるであろう、という有名な格言が有る。」レーニンの「マルクス主義と修正主義」(1908)の冒頭のこの説112)を証明する様に、1970 年12 月17 日に譚甫仁(雲南省革命委員会主任・昆明軍区政治委員)が不満分子の凶弾で斃れた(享年60 歳)113)のに、24 日の『人民日報』の訃報は「18 日在昆明不幸逝去」と日付を改め死因に触れずに伝えた。雲南と接壌する越ベトナム南で前年の9 月2 日に胡ホー・チミン志明が逝去した(享年79 歳)が、「国父」の命日は独立・建国記念日と重なる為に、当局は対南・対米戦争の中の民心の動揺を防ぐ意図も有って9 月3 日と発表した。瓦解の危機に瀕した社会主義陣営の透明度向上の新しい志向を体現する様に、1989 年に越南共産党中央政治局は真相を説明し遺書の全文を開示した。故主席は北部・中部・南部での分骨埋葬と戦勝後1 年間の農業税免除を希望したが、実行できないとして当初の公表から削除された。20 年後の是正も農業税減免に就いて政府に提議する事に止まったが、其の実務的な人治は体制の「中控」に因る元領袖の意外な「中空」を浮き彫りにした。「雲南王」の死期を同じく1 日遅らせて発表した中国では、事件の全容が公に成った後も偽りの理由の釈明や訂正は無い。『辞海』1989 年版の「羅瑞卿」の記載は同年の越南の情報解禁と正反対で時流に逆行したが、西独での逝去が『辞海』に載る日は今後も無さそうである。
周恩来は癌で13 回も手術を受け体重が30`しか無くなったが、耐え難い苦痛に耐える闘病の原動力は党の要求に応える為であった。彼の1 日でも長い生き延びを望むケ小平等の祈願には、存命自体が民心の安定や政局の均衡に繋がるという現実的な判断も有った114)。後に全人代常務委員会副委員長に成った夫人・ケ頴超は1988 年1 月22 日、中央人民広播電台(放送局)の番組への投書で安楽死に賛成する考えを公表した。安楽死を認めぬ国家の政策に疑問を呈す主張は世間を驚かせたが、「帝国の表徴」の維持に否応無しに協力した夫の悲壮な犠牲に刺激された結果に他ならない。自分の命の果てには人力・費用節約の為に延命の救急治療を望まない、という1989 年10 月16 日付の李鵬総理(周夫妻の養子)への意思表示も、徹底的な唯物主義の精神や高度な共産主義の自覚として江沢民に称賛されたものの、実際には許可されるはずが無かった115)。文豪・巴金も「長寿は懲罰」の持論と「皆の為に生きる」信念の間で板挟みに成り、救急治療が数年も間歇的に続く中で強まった安楽死の切望も実行できず、2004 年11 月25 日に挙国待望の百歳を不本意に迎えた116)後、翌年10 月17 日に他界し社会の負担に成るまいとの心願を漸く遂げた。
折しも当日に第2 の有人宇宙船「神舟6 号」が無事帰還したが、同じ日の小泉首相靖国神社参拝に抗議する駐日中国大使・王毅の談話は、宇宙進出の快挙を喜ぶ「全中国人民への重大な挑発」を譴責した。中・韓への挑発の要素が無くもない「変人宰相」の挙動は、秋季例大祭の初日を選んだ点では寧ろ日本の慣習に適うので、糾弾の件の理由は自己中心の言い掛りとして日本で失笑・顰蹙を買った117)。その的変哲の一言は同時に符号の意味性への拘りを示し、両国で「花火」や火花が派手に上がったその日に悄然と死去した巴金も、中国人の「長命百歳」の強迫観念や世界で無類の百歳作家の出現達成に対する期待に駆られて、大往生と言い切れない人生の閉幕に至ったのである。世紀の変化が享年3 桁の作家に完全に集合した奇跡の価値を唱えた作家・余秋雨118)は浙江省余姚の人で、同県では王陽明・朱舜水・黄宗羲(俱に明・清の思想家)、蒋夢麟(北京大学学長、南京国民政府初代教育部長を歴任)等の思想家・大学者が多く出たが、彼は11 歳から上海に定住し今に至った。四川生まれの巴金も正に余の出生の年(1946)に上海に移住し、原籍の浙江・嘉興と同じ中共初回党大会の開催地であるこの地に余生を過ごしたが、「傍観者」の余も当事者の巴もこの点で在野の立場や脱俗の思想を貫けなかったのは、伝統観念・中央統合の「中控」の強さを窺わせる。 

80)河合隼雄『中空構造日本の深層』(中央公論社、1982 年)。
81)本稿筆者の独創の概念。初出は夏剛「日本的中空・“ 頂空”(頂点の空虚)と中国的“ 中控・頂控”(中心・頂点に由る支配)――『日本礼法入門』を手掛りとする両国の言語・概念の一比較」(『立命館言語文化研究』第13 巻2 号、3 号[2001 年]、4 号[02 年]に連載[71−84 頁、185−196 頁、211−222頁])。
82)Hedde『万物解』(1848)の言、宮崎市定「明清時代の蘇州と軽工業の発展」(1951)より(『宮崎市定全集』第13 巻、岩波書店、1992 年、83−84 頁)。
83)桃井裕里「中国指導部に新登竜門 共青団や蘇州閥が台頭」、『日本経済新聞』2005 年2 月7 日。
84)建国後好く南方に行く毛は特に「第二の故郷」と称した浙江を好み、杭州には合計40 数回、延べ800日余り滞在した。(陳晋『独領風騒――毛沢東心路解読』、万巻出版公司、2004 年、218 頁)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』に、「杭州は私の第二の故郷」という語録が有る。(下巻1719 頁)
85)国土交通省道路局ウェブサイト、「道の相談室 道路についての定義・用語」。
86)『フリー百科事典 ウィキペディア』、「ダイヤグラム」。
87)日本民営鉄道協会ウェブサイト、「Q&A 鉄道の“ 上り”“ 下り” って何ですか?」。
88)長江鉄路網、「列車所謂的“ 上行” 和“ 下行” 是以什么為参照物的?」回答(2005 年2 月5 日);百度網「百度知道 従連雲港到烏魯木斉是上行還是下行?為什么?」回答(2007 年3 月28 日);「百度知道 鉄路的上行線和下行線怎么区分􄏆?」回答(2008 年4 月29 日);鉄路門戸網、「鉄路知道 什么是上行、下行?」回答(同年7 月19 日)。
89)『フリー百科事典 ウィキペディア』、「ダイヤグラム」。
90)金振林「毛沢東隠踪之謎(1966.6.17−28)」([広州]『花地』月刊1989 年第5 期)、日本語版(松本英紀・李潔訳『毛沢東 謎の十二日間――文化大革命発動の真相』、悠思社、1992 年)、108−109、273−275 頁。中の「一九七六年九月八日、張平化省党委第一書記」(275 頁)は、張が周小舟失脚の1959 年廬山会議の直後から「文革」初期まで務めた職位と混同した。省党委第1 書記は70 年11 月から華国鋒と成り、党主席就任の翌77 年に漸く解かれた。
91)金振林「毛沢東隠踪之謎」に拠ると、重病の毛は6 月に故郷に思いを馳せ、其の為にバイカウントが長沙―北京間を何度も試験飛行をし、8 月に毛は自動車で南下し滴水洞に療養することを望んだ。(日本語版、273 頁)バイカウントは英国製の世界初の実用大型ターボプロット機で、排気瓦ガス斯を再利用して発エンジン動機の駆動力を高めるターボプロット機は推プロペラ進機回転時の騒音が高い、と同書の注(279 頁)は言うが、移動手段の快適か否か以前の問題として、1000`以上の距離が決定的な障害であった。
1974 年12 月23 日に周恩来が飛行機で長沙へ毛に組閣等に就いて訓示を仰ぎに行った時も、決死の決意で医師の特別許可を得て最後の気力を振り絞ったのである。(張佐良『周恩来保健医生回憶録』、上海人民出版社、2008 年、263−265 頁[同書1998 年初版『周恩来的最後十年』、日本語版〈早坂義征訳『周恩来・最後の十年 ある主治医の回想録』、日本経済新聞社、1999 年〉333−336 頁]、楊扶真「周恩来扶病飛長沙」[李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』、中共中央党校出版社、1997 年、199−211 頁]等)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』の記述では、政治局は毛が7−8 月に出した故郷での療養の要求に同意せず、理由は如何なる移動でも生命を脅かしかねないことである。(下卷1784 頁)長距離移動が健康上耐え難い状況下での飛行機手配は、安全上の理由で毛の空路利用を原則的に禁じる党中央の内規を考えれば非常措置と言える。
興味深い事に、Vickers Viscount の中国語名「子爵号」は林彪夫人・葉群の私党一味内での暗号名で、林彪夫妻が1969 年10 月初旬に河北・張家口の軍事基地への視察に赴く時も、安全性の高さで当時の中国では最良とされ2 機しか輸入していなかった同種の特別機に乗った。(張雲生『毛家湾紀実 林彪秘書回憶録』[春秋出版社、1988 年]308−309 頁。日本語版[横山義一訳『私は林彪の秘書だった』、徳間書店、1989 年]では割愛されたが、1969 年夏に江西省井岡山を再訪した時の林彪専用機「子バイカウント爵号」の使用が記されている。)中国語の「子爵」は「自決」(自ら決める)・「自絶」(@自ら進んで関係を断つ。A自殺/ 自滅する)と同音(zijue)で、3 語とも奇しくも林彪夫妻・息子の亡命・自爆の顛末に暗合した。『広辞苑』の「自決」の語釈は、「@みずから決断して自分の生命を絶つこと。自裁。“ 引責− ” A(self-determination)他人の指図を受けず自分で自分のことをきめること。“ 民族− ”」と成るが、中国語の語義に無い@は些か日本的な自虐・過激の感じがし、日本語に無い中国語の「自絶」の意味を兼ねる点は日本的な「凝縮志向」(注8 参照)の体現とも思えるが、毛沢東と訣別した林彪の離反・出奔は正に自殺的な自滅である。
林の国外逃亡の深層的な真相は依然として「黒匣子(黒箱)」(blackbox)の中で封印されているが、「子爵号」(葉)と共にTrident(中国語=「三叉戟」)に搭乗したのは事実だと考えて能よい。中央首長特別機の機長を務めた元空軍副参謀長兼師団長・楊扶真の回想では、周恩来の最後の空路利用に際して葉剣英(党中央・軍委副主席)は衰弱し切った病体を配慮して、騒音の小さい「三さんさげき叉戟」を指定し発エンジン動機の好い1 機を選ぶようにと指示し(李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』、201 頁)、周は「長沙詣で」(本稿筆者のこの表現は「詣でる」の「参上する(謙譲語)」「神仏の礼拝に参る」の両義に引っ掛け、その和製語義が無い漢字の「詣」(中国語では「行く。訪れる」「到達する」の意)の「言+旨」の組み合わせに即して、旨い言説を駆使して君主の言質や「聖旨」を取るという周の駆け引きを字面に反映するもの)の飛行中、「三さんさげき叉戟」は飛行が平穏で震動が小さく而も速い、今後もこの機種を利用したいと称賛の言葉を発した(同、206 頁)。1970、71 年にパキスタンから輸入した4 機の英国製Trident が、中国唯一の同機種に由る空軍中隊を成し、中で性能が最も良い256 号機が林彪の特別機と成った。
「9.13 事件」の衝撃を受けた毛沢東は杜牧の「七絶・赤壁」を借りて万感を表わした(中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下卷1604 頁)が、冒頭の「折戟沈沙」は「三叉戟」の翼が折れて蒙モンゴル古の沙漠に沈んだ末路の絶妙な点描に成る。詩の全文は「折戟沈沙鉄未銷、自将磨洗認前朝。東風不与周郎便、銅雀春深鎖二喬。」であるが、[清]􄋍塘退士編・目加田誠訳注『唐詩三百首 3』(平凡社、1975 年)では、中国で一般的な「銷」は「消」とされ訳(95−96 頁)はこう成っている。「折戟沙に沈んで鉄未だ消せず、自から磨洗を将って前朝を認む。東風 周郎の与ために便せずんば、銅雀 春深こうして 二喬を鎖さん。」
『広辞苑』の「消魂・銷魂」(@驚き悲しんで元気を失うこと。Aわれを忘れて耽ること。精神を奪われること)の通り、日本語では「消・銷」は同じく同音の中国語と一緒で同義の場合が有るが、『広辞苑』の「消魂窟」(いろまち。遊里)でも示す様に「消」の方が一般的に使われる。中国語では逆に「銷魂」(過度の刺激で放心状態に陥り、恰も魂[人の精霊]が体から離脱して行く様な状態。悲哀・憂愁の情況・心境や男女の恋心・快楽の形容)が規範的で、文語的な要素が比較的薄く漢字の難易度も低い「消魂」は便宜的な表記に過ぎない。『辞海』の「銷魂」の項には「亦作“ 消魂”」(亦「消魂」とも書く)と有るが、この大辞典+大事典は「消魂」の項を設けていない。
1954 年10 月に毛沢東は訪中の印度初代首相ネルーを歓送する宴会で挨拶し、その中で「中国のある古人に曰く」の形で先賢の古文を引用した。出席した胡耀邦が後に紙切れに「暗然消魂者、惟別而已矣!」と書いて秘書に詳細を訊ねたところ、出典は南朝・梁の江淹の「別賦」の文句で「暗」と「消」は其々「黯」と「銷」が正しいと言われた。(『秘書工作』雑誌社主編『高層秘書――55 位党政軍領導親歴』、中共党史出版社、2010 年、105 頁)江淹は若い頃に才気煥発で名を揚げながら晩年は詩文に佳作が無かったことから、「江郎、才尽く」の故事([特に文筆の]才能が衰えることの比喩)を遺した。胡が初出と著者を知ると即座にあの「江郎才尽」の人だねと反応したのは努力家・読書家の彼らしいが、「暗」「消」は孔子が学に志した15 歳で職業的な革命家に成り学歴が中学2 年で終ったその教養の限界を物語っている。何しろ、「別賦」のこの句に対して『文選』の[唐]呂向に由る注で「黯然、失色貌」(暗然とは、色を失う様)と講釈し、それに由来した成語の「黯然失色」(暗然として色を失う)は知識人にとって難しくないはずだ。
中国語の「黯淡(澹)」は「暗淡」とも書き(『辞海』の同項目[1999 年版から項目名の中の“(澹)”を削除した]は、「同“ 暗淡”」[“ 暗淡” に同じ]とする)、「不明亮」(明るくない)、「不鮮明」の意である(『辞海』の語釈、古代の用例として呉融の詩「東帰望華山」の「不奈春煙籠黯淡、可堪秋雨洗分明」)。対照的に日本語では「暗澹」(『広辞苑』の語釈=@暗くて静かなさま。Aうす暗く、ものすごいさま。B将来への希望などを失って暗い気持でいるさま。見通しがつかず悲観的なさま)が標準的な表記で、「暗淡」の書き方は何故か「淡泊・淡麗」を好む国民性とは裏腹に無い(但し、小学館『日本国語大辞典』第2 版第1 巻[2000 年]には、「黯澹」とは別の項で『広辞苑』に無い「黯淡」が有る[語釈=薄暗いさま])。中国語の「黯然」(『辞海』の語釈=@「黒貌」[黒い様]、A「頽喪貌」[沈み込む様。落胆する様])は通常「暗然」と書かないが、日本語では「暗然・黯然」は同じ語彙である(『広辞苑』の語釈=@暗いさま。また、黒いさま。A悲しくて心のふさぐさま)。
江淹の「―銷魂」と同じ「黯然」Aの意の成語「黯然神傷」は日本語には無いが、「暗然として意気消沈する」という標準的な訳し方から、「黯」ならぬ「暗」で「黒」を忌み嫌う潜在意識が読み取れる。「消沈」と「折戟沈沙鉄未消」の部分的な吻合も吟味に値するが、使用頻度が特に低くないのに『辞海』に於いて項を立てていない「消沈」は、『広辞苑』の項で「消沈・銷沈」と表記し(語釈は「きえうせること。衰えてしまうこと」)、杜牧の七絶詩「登楽遊原」(楽遊原に登る)にも「長空澹澹孤鳥没、万古銷沈向此中」と有る(市野澤寅雄『漢詩大系14 杜牧』[集英社、1965 年]の訳=「長空澹澹孤鳥没す、万古銷沈此この中に向う」、201−202 頁)。
専門家に由る「折戟沈沙鉄未銷」の日本語訳には、「銷」の儘であるのも儘有る(1 例が市野澤寅雄『漢詩大系14 杜牧』の原作・訳文[207 頁])。目加田誠訳の「未消」は「磨洗」と合わせれば両国の言語が共有する「消磨」と重なり、歴史の風化・流転・消長を表現するのに相応しい風流な処理とも思えるが、「消」より「銷」の方が同じ「金」偏の「鉄」に似合うと見るのも自然であろう。日本的な「水(氵)」偏選好と中国的な「金」偏選好は陰陽5 行の中のこの2 元素の対立・統一を示唆するが、老子『道徳経』第43 章の「天下之至柔、馳聘天下之至堅」(天下の至柔は、天下の至堅を馳聘す)に沿って考えると、水が途轍も無く長い時間を掛けて徐々に金属を腐蝕する意の「鉄消」(消=消磨・磨滅)も有り得る。「赤壁」詩の中で「消」は同じ「氵(水)」偏の「沈沙」「洗」「深」と妙に呼応するが、その「水脈」は日本の「水に流す」文化の根強さを思わせる。
「消磨」は『広辞苑』で「@すりへること。すれてなくなること。磨滅。Aすり消すこと。消してなくすること」の両義だが、『辞海』では@「逐漸消耗;消除或消滅」(次第に消耗する。除去する、或いは消滅する)、A「消遣時間」(暇潰し[退屈凌ぎ]をする)で、古典の用例として@には白居易の詩「夢旧」の「平生憶念消磨尽、昨夜因何入夢来?」、辛棄疾の詞うた「江城子・侍者請先生賦詞自寿」の「人生今古不消磨」が有り、Aには黄庚の詩「龍江館舎」の「書冊消磨白日閑」が有る。「亦作“ 銷磨”」(亦「銷磨」とも書く)という「1 語2 形」の中で「銷」は副次的な位置に在るが、「銷磨」が無い日本語に比べて中国語の硬派的な特色が浮き彫りに成る。
『道徳経』第28 章の「知其雄、守其雌」(其の雄を知り、其の雌を守る)を捩もじって言えば、中国語や中国的な発想は日本語や日本的な発想に対して「知其雌、守其雄」の傾向が強い。「肖」を共有する「消」と同音の「銷」は「立刀」偏が象徴する「削」の人工的・能動的な性格の故に好まれ、中国語独特の「吊銷」([証明書・免許等を]没収し無効にする)や「撤銷」(撤回する。取り消す。効力を消す)が有るわけだ。『辞海』に項が有る「撤銷」は「撤消」の表記も有り得る(漢語大辞典編集委員会・編纂処編『漢語大辞典』第6 巻[漢語大辞典出版社、1990 年]の「撤銷」の項には、「亦作“ 撤消”」と有る)が、「破毀(破棄)院」と和訳される仏蘭西の最高裁判所の中国語名は「撤銷法院」と言う。「撤銷」と和製漢語の「破毀」で合成した様な中国語の「銷毀」は、「熔解する。焼却する。廃棄する。処分する」という多義を持つが、金属を鋳潰す「熔解」を液体に溶ける意の「溶解」で表わしがちの日本語の感覚は、やはり孔子が言う「知者楽水」(知者は水を楽しむ)の源流に近い。因みに、[東京]東方書店・[北京]商務印書館共同編集、相原茂・荒川清秀・大川完三郎主編『東方中国語辞典』(東方書店、2004 年)では、項目名は「撤消」で「“ 撤銷” とも書く」と記されている。
その自然・柔軟な「水+容」の「溶」に対して朱鎔基の名前の中の「金+容」の字は人工・峻厳な形イメージ象が際立つが、彼の湖南同郷・胡耀邦が毛沢東の挨拶を聴いて書き記した「惟別而已矣」に感嘆符を付けたのも、河南の人・江淹の原文のこの件くだんは無い「戦闘的な激情」(注127 参照)の発露と言えよう。因みに、『辞海』の「黯然」「銷魂」の2 項で引用される「惟別而已矣」は句点で締めるもので、権威有る日本語訳も「しめやかな恬淡」の滋味を帯びる(例えば、高橋忠彦『文選(賦篇)下』[明治書院『新釈漢文大系 81』、2001 年]に有る「黯然として魂を銷けす者は、惟別れのみ」[236 頁])。猶、「銷」は熔解・破棄の反面「金」の貨幣の意味に由来する価値創造の側面も有り、「銷售」(販売する)、「推銷」(販路を広げる。売り捌く)、「傾銷」(不ダンピング当廉売する。投げ売りする)が例に挙げられる。
92)1970 年9 月16 日に記者に語ったこの感想は、訪欧中に英国から弟・秩父宮に送った手紙にも記された。(高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます 記者会見全記録と人間天皇の軌跡』、文春文庫、1988 年、143 頁)
93)佐野眞一曰く、「“ お痛みですか” と侍医に問われ、“ 痛いとはどういうことか” と問い返した昭和天皇が、平成のいま、“ 心の病” に苦しむ雅子妃を見たらどんな言葉をかけるのだろうか。」(『ドキュメント 昭和が終わった日』、文芸春秋、2009 年、64 頁)
94)陳晋『独領風騒――毛沢東心路解読』、217 頁。
95)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下巻1694−1729 頁。
96)同上、下卷1496 頁。
97)同上、下卷1694 頁。会見の相手はトーゴ大統領、ナイジェリア軍事政権首脳、モーリタニア大統領、比律賓大統領夫人、ガボン大統領で、俱に途上国から来た。
98)翟華「1974−1975:暮年毛沢東何以離京270 天」、「東方文化西方語」(翟華博客[ブログ]、blog.sina. com.cn/s/blog_48670cb20100ihub.html?tj=1)、2010 年5 月24 日。
99)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下卷1729 頁。
100)同注98。
101)20 世紀の中国でマグニチュード6 以上の地震が800 回以上起きたが、1 級行政区の中では浙江・貴州2 省と澳門だけが免れた。(中国科学院数データ・センター据中心「強震発生重災図」、中国公共科技網)
102)同注98。
103)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下巻1783 頁。
104)原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、115−116 頁。
105)手術・急死に至った一連の経緯は、羅瑞卿伝編写組『羅瑞卿伝』(当代中国出版社、2007 年)に詳しい。ケ小平の後悔に関する言及は、羅元生「羅瑞卿客死他郷的前前後後」(『党史文匯』[山西省史志研究院主管、月刊]2003 年第2 期)にも有る。
106)王冶秋「難忘的記憶」、『人民日報』1978 年7 月30 日。
107)徐友春主編『民国人物大辞典』(河北人民出版社、1991 年)及び増訂版(2007 年)では、1874 年([清]同治13 年)生まれとされているが、本稿は『辞海』の1875 年説に従う。
108)少華・遊胡『林彪这一生』、湖北人民出版社、2003 年、420−425 頁。
109)「彭徳懐平反一波三折」(著者不詳)、『党史博采』(中共河北省委員会党史研究室主管、半月刊)2005年第11 期。
110)曽彦修「対新版『辞海』的印象」、『書屋』月刊2000 年第7 期。
111)同上。
112)ソ同盟共産党中央委員会附属マルクス=エンゲルス=レーニン主義研究所編、マルクス=レーニン主義研究所訳『レーニン全集』第15 巻、1956 年、14 頁。拙稿「“ 儒商・徳治” の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)」(『立命館国際研究』15 巻2 号、2002 年)の中で、「数学の定理も人間の利益に抵触すれば修正されようと言うレーニンの論断」と書いた(46 頁)が、発表後の精査で判明した正確な記述を以て此処で其の不備を訂正する。
113)譚夫妻が軍区政治部保衛副課長・王自正に刺殺された経緯は、王広沂「春城槍声――譚甫仁将軍被害案偵破始末」(『人民公安』2003 年第12 期)に詳しい。劉慶栄「神秘的新中国首例高級将領被謀殺案」(『文史精華』[中国人民政治協商会議河北省委員会文史資料委員会主管、月刊]2003 年第11 期)も国インターネット際電脳網で流布しているが、文中の訃報の新聞掲載日(12 月23 日)は追悼会の日と混同した誤認である。
114)高文謙『晩年周恩来』、日本語版、下卷321−322、332 頁。
115)趙煒『西花庁歳月――我在周恩来ケ頴超身辺三十七年』、社会科学文献出版社、2009 年、345−347 頁。
116)鄭葉・陶瀾「“ 長寿是一種懲罰”“ 我要為大家活着”」、『中国青年報』2004 年11 月24 日。
117)桜井よしこは参拝直後の論評「首相よ、衣を整え闘いに臨め」の中で、「笑止である。靖国神社と戦没者遺族会にとって最重要の秋の例大祭の日に首相が参拝し、その日が偶然、神舟帰還の日にぶつかったにすぎず、声明は言いがかりである」と書いた(『異形の大国 中国――彼らに心を許してはならない』、新潮社、2008 年、75 頁)。但し、城山英巳『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書、2009 年)には、次の客観的な記述が有る。「小泉参拝のこの日は、中国にとって〇三年に続く有人宇宙船“ 神舟六号” が帰還した日。中国国民が歓喜であふれる中、靖国参拝は明らかに水を差すものだった。」(222頁)
118)「巴金病逝 来自病榻的震撼:“ 長寿是一種懲罰”」、『天府早報』2005 年10 月18 日。 
要人の生殺与奪まで握る「極権」体制の執念と
 「神壇」伝説の呪縛

 

2006 年2 月に舌癌と宣告された吉村昭は翌1 年後に別の癌で膵臓全摘の手術を受けた後、原稿依頼に応じられない衰弱化の中で、遺言状に明記した「延命治療はしない」意思を決行し、7 月30 日の夜に点滴の管と首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートを自ら抜き、看病中の長女に「死ぬよ」と告げ、数時間後に79 歳の人生を終えた。奇しくも明治天皇、幸田露伴、谷崎潤一郎の命日(1925、47、65 年に死去)に当る日の最期の究極の選択は、「自決」を目撃した同じ作家の妻・津村節子も認めた「尊厳死」の美談119)に成った。対照的な中国の著名人の延命治療の強制終了は胡ホー・チミン志明の死期の欺瞞発表の不条理の「条理」と通じるが、台湾の病院で気息奄奄として余命1 日も無さそうな国民党元老・􄬗稚晖に対して「総統府」側は、蔣介石の66歳誕生日の「挙島」(「挙党」に擬えた造語、「島」=台湾)祝賀に水を差すことへの懸念から、圧力を掛けて前日(1953 年10 月30 日)の夜11 時台に酸素管ホースを外させ同28 分に死なせ、「搶救無効」(救急治療の甲斐無く)死去した訃報が具合好く11 月1 日に発表される結末と成った120)。
意志と体質を過信し治療を嫌う毛沢東もニクソン訪中直前の1972 年2 月12 日(78 歳、年末に満79 歳)、不整脈に因る重度の意識・呼吸障害に陥り生死の境を20 分以上彷徨った。緊急治療から蘇生した彼は深刻さが判らない儘で酸素吸入マスクを取り外し、左腕の点滴静脈注射用管チュープをも引き抜こうとした。其を制止したと言う長年の保健医・李志綏121)は後に移住先の米国で毛の裏の顔を暴露したが、回想録に拠れば毛の臨終前の最後の言葉は、秘書・張玉鳳を通じて彼に訊ねた「還有救􄆩?」(まだ望みが有るのか)である122)(当局が認める看護婦・孟錦雲の証言では、彼女に言った「我很難受、叫医生来」[とても気分が悪い、医者を呼んでくれ]と成る123))。桜の刹那的な儚さを好む日本人と梅の孤高・耐久を尊ぶ中国人は死生観も自ずと異なるが、「極権主義」(全体主義を言う中国語)国家の生殺与奪を握る「極権」(絶対権力)は更に、「老兵は死なず」の貪欲さに輪に掛けて「老兵を死なせず」の執念を生み出し、「只消え去る/ 消すのみ」の敵に対しても非業の末路へと導く悪意の延命を施す時が有る。
劉少奇は軟禁が続く1968 年の夏に肺炎に罹ったが、党中央弁公庁の責任者は救急治療を命じる際に、存命中に党籍剥奪の処分を知らせ党大会の為に活きた標的を残そうと言った124)。8期12 中拡大総会閉幕の10 月31 日に党籍剥奪が決定されたが、新聞や放送に接する権利を奪われた彼に対して当局は選りに選って翌月24 日、其の70 歳の誕生日に政治的な処刑を通告した。注射で完膚無きの程に成り管チューブ挿入の鼻腔栄養法で生命を維持中の劉は、激しい嘔吐と体温・血圧の急上昇に見舞われ、死まで1 年間も完全に失語した。「残忍」の字面通りの残存・堪忍を強いられた悲劇は、莫言の長篇小説『白檀の刑』(2001)に出た一世一代の極刑を連想させる。清末の山東長官は民衆を組織して独逸軍へ抵抗した罪人の死刑に就いて、可能な限り残虐で幾日も死なず苦痛を味わわせる方法を処刑人に注文した。自らの名声と命を賭けて考案された遣り方は、細く削った白檀の棒を肛門から首に掛けて突き通し其の儘で磔はりつけにする事である。悶もだえ苦しむ受刑者の命を保つ為に特製の朝鮮人参汁スープ物を飲ませた処に、1905 年に廃止された古来の最も陰惨な「凌遅」(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし長時間苦しませた上で死に至らす)処刑の極意が窺える。
坂口安吾は「日本文化史観」(1942)の中で京都・祇園の芸者の中途半端さを酷評し、中国の「盲妹」(貧しい親に目を潰され演芸を習得して身を立てる娘)の才覚と色気を例に、中国的な「徹底的・あくどさ」を肯定的に論じた。「4 人組」を生んだ山東が舞台と成る同省出身の莫言の残酷物語の中で、独逸軍が敷設を取り仕切った鉄道の開通式に合わせて絶命させる趣向もこの性格を帯びる。共和国の式典の一糸乱れぬ演出・出演も好く域外から「悪趣味」として敬遠されがちで、心憎い程の徹底さで意志の勝利を誇示する究極の事例は、北京五輪開会式や建国60 周年閲兵・祝パレード賀行進の為の首都一円の人工消雨作戦である。露西亜祖国防衛戦争・欧州反ファシズム(旧連合国対独逸)戦勝60 周年記念式典(モスクワ、2005 年5 月9 日)や、2006 年主要国首脳会議(G8 サミット)開会(サンクトペテルブルク、7 月15 日)の為のプーチン政権の措置の真似は、過去の超大国と未来の超大国が共通する中心統合型の思考・行動様式に基づいた。東京五輪開会式は「世界中の秋晴れを集めた様な」125)好天に恵まれたが、幸福を射止める人事も尽くさず天命を待つ射幸心が幸運に当ったのが実態である。F86F 戦闘機群が空中で旋回し5 色の煙を吐き出して5 つの輪を見事に描いたが、五輪史上初のテレビ宇宙中継で世界中を魅了したこの1 齣の裏にも「中空」が有った。1 度だけの全5 機が白い煙を出す演習も成功しなかった儘で本番を迎え、而も前日の東京地方の土砂降りの豪雨で明日も飛行は無理で、中止に成ろうという隊長の思い込みで全員が痛飲し、翌朝8 時に閉め忘れた窓カーテン掛から差し込む眩しい日光で目覚めて慌てて基地に駆け付け、2 時半の離陸の際に2 日酔いを治す為に過換気症候群を顧慮する余裕も無く100%の酸素を吸った126)。
莫言を総参謀部専属作家として抱えた解放軍は、熱戦・冷戦時代を貫いた常在戦場の根性が強く左様な弛緩は想像し難い。日本流の天気予報の推量形は予言の困難さからすれば理屈に合うが、責任回避の逃げ道を用意して置く狡賢さの匂いもする。中国流の断定形は専門家の自負の表出として国民性に似合い127)、局地の天候を意の儘で制御する消雨作戦は「中控」の極み付けと言えよう。食材の持ち味・季節性を重んじる日本料理の自然尊重の指向性と、盛大に火を通し複雑に形を弄いじり濃厚な味を付け華麗に色を添えがちの中華料理の人工征服の志向性も、日本的な「しめやか・恬淡」と中国的な「戦闘的・激情」128)の違いを具現する。東京五輪開会の1964 年10 月10 日の朝、東京都知事・国際五輪委員会委員の東龍太郎が恐る恐る窓カーテン掛の隙間から外の様子を覗き込むと、天気予報を無視する絶好の青空を目にして子供の如く「万歳」と叫んだ129)が、北京五輪開会式の会場・国家体育場辺りの平年8 月8 日夜8 時頃の降水確率が約5 割と高く、当日局地的な豪雨の発生も予測されたが、望外の天の恵みに頼らず雨雲の接近を妨害する自助で安心感を勝ち取った。
午後4 時から8 時間弱の間に気象当局は21 ヵ所でロケットを1104 発も打ち上げ、沃化銀を雲に打ち込む大作戦は強固な意志と科学的な裏付けで奏功した。建国60 周年祝典の安全と快適を保障する為の大挙の治安部隊配置と人工消雨作戦は、国家目標の「4 つの近代化」の中の工業・農業に続く国防・科学技術の両輪の威力を見せ付けた。1971 年9 月13 日未明、林彪が妻子と共に河北・遼寧の省境に近い山海関の海軍航空兵基地から飛び立った。異状の第1 報を受けた周恩来は林の死党の逃亡や攻撃を防ぐ為、直ちに全国の軍隊・民間に対して「禁空(全域飛行禁止)令」を発し、毛沢東を中南海から空襲や砲撃に強い人民大会堂に移動させた。30年後の紐育・華盛頓で「9.11」同時多発恐テロ怖襲撃が起きた際も、連邦航空局が間も無く全米で飛行を禁止したが、大統領・副大統領は危険を避けるべく首都以外の別々の場所に秘密裏に移った。中国の「中控」を端的に示した両巨頭の中枢鎮座・1 元指揮で、蒙モンゴル古との国境の手前まで進んだ専用機に対して誘ミサイル導弾に由る撃墜の可否が問われたが、毛は「天要落雨、娘要嫁人、譲他去吧」(雨は降るもの、寡婦は再婚したがる[娘は人に嫁ぐ]130)もの[どうしようも無い]。好きにさせるがいい)と言った。自然の成り行きで仕方が無いという諦観は大国の領袖に相応しいが、勝手な降雨を許すまい第4 世代は彼よりも強硬である。
1956 年6 月4 日、毛の専用機は武漢から帰京の途中で雷雨の影響で地面との連絡が40 分間途絶えた。其の後安全の為に党中央は彼の飛行機乗りを原則的に禁じたが、この逸話で注目すべき点は、当時彼の専用機が空に居る限り、護衛の戦闘機を除いて本土全域で1 機なりとも飛べなかった事131)である。米大統領が権勢の強大さも警備の厳重さも世界1 とされるが、面積が米国と大体同じの広大な領土で罷り通ったその過剰ぶりは、独裁体制の故の「history = his story」を絵に描いた観が有る。その気に成ればナポレオンの豪語の如く辞書に「不可能」は無いわけであるが、1984 年の国慶閲兵式では天安門の上空を通る戦闘機の編隊飛行は曇り空の中から姿が余り見えなかった132)。北京五輪以降その遺憾を補えるに至ったのは技術の進歩の賜物に違いないが、仕掛けの用意を促し使用を決めた政治的な判断が大きい。
五輪聖火の国内中リレー継では地球上最高(8844.43b)の珠チョモランマ穆朗瑪峰への登頂も万能の顕示に他ならないが、起点を海南省三亜と定めたのは、中央統合への求心力を高める現実的・観念的な意図が明確に見える。天涯の果ての景勝地が有る海南島の南端のこの都市は美称「鳳凰(の)城」で、別称「鳥(の)巣」の国家体育場へ目指す出発地として、「鳳還巣」(鳳凰が巣に還る)の大団円を成す縁起が良い。三亜は海軍の4 大艦隊の一角の南海艦隊の原子力潜水艦基地であり、2009 年から建設開始予定の第4 の人工衛星発射基地(甘粛省酒泉、四川省西昌、山西省苛嵐に続く海南省文昌)にも近い。「鉄砲から政権が生まれる」伝説はこの起点にも投影したが、終点の「巣」の中の偉人の「帰天」(天に帰る)も軍の影が付き添いがちである。
中共中央・全人代常務委員会・国務院・中共中央軍委が発布した毛沢東の訃報は、「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐ書」の題に「先軍」の性質を映した。毛の肩書は「中国共産党中央委員会主席・中国共産党中央軍事委員会主席・中国人民政治協商会議全国委員会名誉主席」と成っているが、中共中央軍委とは2 枚看板を出しながら実質的に一体を成す共和国国防委員会(1983 年以降は同中央軍事委員会)も、憲法の建前上で国家の最高の意志決定機構である全人代とほぼ同格の国政助言機関の全国政協も、「文革」中は名存実亡を超えて名実俱に蒸発した儘であった。1975、78 年の憲法では全国の武装力(解放軍・民兵)は党が指導し党中央主席が統率すると定めたが、共和国中央軍事委員会が同統率権を持ち全人代に責任を負うとする現行の82 年憲法の規定に照らすまでもなく、「国家機器」(国家統治の法律・制度・執行機構)を恣ほしいままに破壊した毛の超法規的な絶対凌駕の産物・遺物に他ならない。毛は1954 年に中央人民政府人民軍事委員会の解消でその主席から国防委員会主席の椅子に移ったが、5 年後に同職を兼任した劉少奇の失脚で空席に成った国家主席の職位は、自分の就任をも林彪への譲渡をも拒否した毛の「中控」志向の所せい為で、1975 年の新憲法でも外され元首欠落の中空を遺した。1957年の「反右派闘争」以降は1 党独裁の虚飾に過ぎなかった翼賛野党の諸「民主党派」も、党外の党や党内の派を許容せぬ非民主・反民主の体制の抑圧の下で形骸化した。
毛は余命1 年を切った1975 年10 月21 日にキッシンジャー米国務長官と会見した際、健康状況の悪化を白状した上で「私は訪問客の為に用意される展示品なのです」と自嘲した133)。
その時代の全人代は党の決定を追認する「護ゴム謨判」として「お祭り国会」「しゃんしゃん総会」の観が強かったが、政治協商会議に至っては赤裸々な専制統治を隠す不アリバイ在証明の為の陳列品に近かった。日本でも参議院は「良識の府」としての機能の発揮が不充分な故「参議院の炭カーボンコピー素紙復写」と揶揄され続けたが、政協会議の虚飾性・無力化は同じ民主主義議会の範疇内の参議院の「衆議院化」の比ではなかった。自ら名誉主席の座に据わるその観賞用の「帝国の表徴」の形まで骸(死に体)にしたのは、協商の装いを惜しみ無く捨てる「極権」管掌・絶対完勝願望の結果としか言い様が無い。「朕即国家」の権威及び「臣民」の畏敬の「維系」(維持)の為の異系排除は、数千年の歴史を持つ老大国と数千万人の党員を擁す超大党の異形・異型の負の面の極致である。中南海・新華門の入口に今も掲げている標語の「戦無不勝的(百戦百勝の)毛沢東思想万歳」は、全軍の統帥を経て党首と成り国家に君臨した「家長」の名残の様に映る。
2008 年に北方工業大学(北京)法律学部4 回生・趙􄆽天(女子)が胡錦涛・温家宝・李長春・習近平等に投書し、「文革」式の「戦無不勝」と封建的な「万歳」を含むこの非科学的で時代遅れの標語の刷新を大胆に提言したが、政治局は慎重に討議した134)ものの「神」に触るまい従来の姿勢を踏襲し今日に至った。
毛は自己中心的な性格に相応しく中南海の公邸兼私邸内の臨時集中治療室で逝ったが、専属保健医・李志綏は解放軍305 医院の院長を務め(1970 年末就任、79 年末辞任)、周恩来が逝去まで1 年半に亘って闘病した場所が中南海の北側の近隣の同病院135)である。毛の後継者・华国锋も北京五輪閉幕直前の8 月20 日に同病院で87 歳の天寿を全うしたが、競ライバル合相手のケ小平(巴金と同年齢)は1997 年2 月19 日に解放軍総医院(301 医院)で亡くなり、その未亡人・卓琳も2009 年7 月29 日に同じ享年(93 歳)136)で此処から亡夫に会いに行った。意味深長な事に、譚甫仁、羅瑞卿の「不幸逝去」を伝える訃報の「終年六十歳」「終年七十二歳」に対して、ケ小平逝去の際の中国共産党中央委員会・中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会・中華人民共和国国務院・中国人民政治協商会議全国委員会・中国共産党及び中華人民共和国中央軍事委員会の「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐ書」では、「享年九十三歳」と記した。中国人の最初の厄年の73 歳にも満たない譚中将・羅大将の不本意な死の「終年」と違って、2 番目で且つ最後の厄年の84 歳を超えたケの「享年」は天寿を全うした大往生の意が有ろう。
「告全党全軍全国各族人民書」は建国後2 度だけ出されたが、1 回目の「極其悲痛地向全党全軍全国各族人民宣告」(この上無く悲痛な心情を以て、全党・全軍・全国各民族の人民に宣告する)は、2 回目では「宣告」ならぬ「通告」に変えた。政協全国委員会・国家中央軍委の連名が示す法制の健全化と連動して、今回は神カリスマ格性を稀薄化し情報公開に踏み切った。「我々の敬愛なるケ小平同志は晩期パーキンソン病を患い、肺感染症を併発し、呼吸・循環機能の衰弱に因り、救急治療の甲斐無く、一九九七年二月十九日二十一時零八分に北京で逝去し、享年九十三歳。」以下は改行して、2 段落目として次の称賛が続く。「ケ小平同志は我が党・我が軍・我が国の各民族の人民が一致して認める崇高な威望を持つ卓越した指導者であり、偉大なマルクス主義者であり、偉大な無産階級革命家・政治家・軍事家・外交家であり、長期に亘る試練を乗り越えた共産主義の戦士であり、我が国の社会主義の改革・開放と現代化建設の総設計師であり、中国特色の有る社会主義を建設する理論の創立者である。」次に12 の段落で偉業を詳述した上で「光輝一生」(輝かしい一生)を総括し、故人の自己規定に即して「他不愧是中国人民的偉大児子」(彼は中国人民の偉大な息子の名に愧はじない)と讃え、「他深情地愛着自己的祖国和人民、祖国人民也深情地愛戴他」(彼は自分の祖国と人民を深く愛し、祖国・人民も彼を深く敬愛している)、という情の絆で結ぶ「ケ小平情コンプレックス結」を織り成した。
毛沢東の死因を述べる「告全党全軍全国各族人民書」の表現は、「在患病後経過多方精心治療、終因病情悪化、医治無効」(病気中、手厚い治療を受けた。にも関らず、遂に病状は悪化し、手の施しようが無かった)と言う。彼が最後に送った花輪は76 年7 月7 日に逝った福州軍区司令・皮定均中将への弔意表示であるが、新華社発の訃報はヘリコプター墜落に由る事故死を報じず単に「不幸殉職、終年62 歳」と伝えた。其の前日に他界した朱徳の訃報は「不幸」は無く「終年九十歳」と記したが、中共中央文献研究室編『毛沢東伝(1949−1976)』(2003)では「享年九十歳」と有る一方、この「不幸消息」(不幸な知らせ)を聞いた毛の反応を述べた137)。
華国鋒から第一報を受けた彼は病名を訊ね、「どうしてこんなに早く……」と呟いた138)が、遺族も容体の急変に覚悟が無かった意外性も「円満辞世」の「享」には成らない深層意識の一因かも知れない。
毛沢東を礼賛し「文革」中の事実上の国歌に成った「東方紅」(李有源作詞、1943)の歌詞を借りて言えば、翌々月の毛の逝去は「為人民謀幸福」(人民の為に幸福を謀る)の「大救星」(救いの巨星)の墜落にも関らず、彼の統治下で多かった「非正常死亡」(大飢饉や「文革」の迫害等に因る死)と違って、訃報は当然ながら「不幸」の文言が無く正常な死亡として扱った。
国賓会見の写真・映像報道が曝け出した末期的な衰弱で国民の想定範囲の内だった事も大きいが、主病名の筋萎縮性側索硬化症と周恩来の膀胱癌が訃報で伏せられた(後者の場合は「因患癌症」)のは、鎖国時代の情報管制らしく「隠私」(私プライバシー生活上の秘密)保護とは異なる「恥部」隠蔽の伝統に沿うことだ。
朱徳の訃報も「因病医治無効」(病気治療も効果が無く)という常套句で死因を糊塗したが、6 月21 日に濠オーストラリア太剌利首相と会見した後の風邪・咳が心臓病・糖尿病を悪化させた劇変は、外交部担当者の不手際で時間変更の連絡が無く冷房の効き過ぎた広間で長時間待たされた経緯が有る139)。ある意味では古い部下の皮定均の翌日の悲劇にも似通う不慮の事故死と言えるが、不都合な真実が含まれた死因の未公表は他の指導者の訃報との整合性を考慮した節が有ろう。彼は1975 年1 月に全人代委員長に選出された後、重病の周・毛の負担を軽減させるべく外交儀礼の国事活動を頻繁にこなしたが、身代りの心算の奉仕の末に同じ「訪問客の為に用意される展示品」として文字通り捨身の代償を払った。
毛はニクソンに対して自らの体調を「外強中干」(見掛けは強そうだが内実は脆くて弱い)と自嘲し、曾て彼が「米帝国主義」の原子爆弾を蔑称した「紙老虎」(張り子の虎)の様相も無くはなかったが、日本語に無い中国語の「唬」([虚勢を張ったり事実を大袈裟に言ったりして]脅かす。誤魔化す)の字形・語義は、執務能力を失い掛けた「中空」に見えても「中控」を確り保ち続けた「紙」ならぬ「神」の威力に吻合する。現に、1976 年の春に彼は病弱で引き籠り状態に陥り外部の情報に疎く成り、身心俱に閉塞気味の中で意味深長に「私は展覧用の偶像だ」と繰り返して愚痴を零こぼしたが、「首都」「天安門」「焼・打」(首都の天安門で起きた焼き
打ち事件)を容認できないとして、有無を言わせぬ「天声」で「4.5 運動」への弾圧を許可し異論を封じた140)。
毛は「万寿無疆」(幾いくひさ久しく長寿を保たれますように)という昔の君主へ捧げる祈願を全国民から受けたが、その訃報に享年の記載が無いのは個人崇拝の迷信に由る虚像・幻想との乖離が大き過ぎた故でもあろう。彼は1961 年3 月(67 歳)に英国の陸軍元帥・モントゴメリー子爵(73 歳)との懇談で、「七十三、八十四、閻王不叫自己去」(73 歳と84 歳[は厄年で]、閻魔様が呼ばなくても自分があの世に行く)という諺を引いて、若しこの2 つの関門(孔子、孟子の享年[数え年]に由来した中国人の男女共通の厄年)を突破できれば、人間は100 歳まで生きられるだろうと語った。享年の満82 歳、数え年84 歳は第2 の「坎」(勘所。鬼門)の手前で鬼籍に入った計算に成るが、数え年を指す「虚歳」の「虚」は大往生の享年を享受し得なかった毛・周の帰着に暗合する。1887 年11 月17 日に生まれたモントゴメリーは奇しくも周・朱・毛と同じ年の3 月24 日に88 歳で逝ったが、彼より1 歳年上(前年12 月1 日に誕生)の朱徳の享年も満90 歳の大台に届かなかった。『戦国策・秦策五』が出典の警句は「行百里者半九十」(100 里を行く者は90 里を半ばとす)と言うが、「長命百歳」の目標に当て嵌まれば90歳が「半百」に当る事は2 人や呉稚暉・蔣介石の享年(88、87 歳)で裏付けられた。若き毛沢東は「自信人生二百年」(自ら信ず 人生二百年)という句で長寿への執念を詠んだが、彼の実人生はその物理的な半分(100 年)の内の哲理的な半分(90 年)に照らせば、理想の「長征」の全フルコース行程の1/4(quarter)にも達しない儘で道半ば命尽きたということに成る。
ケ頴超は1982 年7 月11 日に周恩来の甥・姪に対して、無意味な延命治療に因る夫の最期の苦痛への不憫を吐露し、自分が重病で死を迎える際には絶対に二の舞いに成りたくないと遺言を述べた141)が、恰度10 年後の同じ日に彼女は88 歳で辞世した。更に17 年後の卓琳逝去の18 日前の7 月11 日に、301 医院で大学者・季羨林が満98 歳を目前に世を去り、2003 年に入院以来5 回も見舞いに訪れた温総理が直ぐ駆け付け、8 月6 日の誕生日祝いと其の時の討論の材ネタ料を準備していたのにと遺体に悔みの言葉を掛けた142)。季は言語・文化・歴史・印度研究・比較文学の分野で碩学として名高く、翻訳・随筆の業績も加えて「国学の大師(巨匠)」「学界の泰斗」「国宝」と呼ばれた。同日に中国の宗教学・哲学史の第1 人者で国家図書館名誉館長の任継愈(93)も急逝し、2 人の最高の頭脳を1 日で失った事は社会に衝撃を与えた。季・任とも河北省に近い山東省西北部の出身で、故郷の臨清市と平原県の距離は僅か70`である。任は「儒教は宗教である」という概念を定着させたが、孔子の生地と儒家の発祥地・山東は文化人を多産する土壌が有る。建国後に毛沢東の詩歌を始めて公表した『詩刊』誌の編集長・臧克家(1905−2004)も、江青と同じ諸城生まれで江が図書館職員を務めた(1931−33)国立青島大学で就学した(1930−34)後に臨清の中学で教鞭を執った。季・任は北京大学で長年教壇に立った旧知でもあるが、任は自宅で平静な大往生を遂げ、季は世間の注目を浴びつつも巴金並みの長寿に至らなかった。それでも、格別の声価を持つ至宝に上等な病室・医療を約2 千日も提供した301 医院は、再び至高の地位を内外に示した。
賀龍元帥は林彪等の迫害で1967 年1 月から2 年余り監禁され、飲用水の極度の一時制限をはじめ、開国元勲に対して余りにも理不尽の非人道的な扱いが平然と成されたが、69 年4 月の党大会まで「活きた標的」として生命の維持は許された。6 月8 日に糖尿病中毒の症状が現れると、危険な葡萄糖輸液が不可解にも施された。翌朝に301 医院に強制搬入されたものの迅速な対応が得られず、6 時間後に厄年の73 歳で人生の終止符を打たれた。死後に遺族が呼び出され遺体と対面した病室の番号「14」143)はyaosi、yisi とも読むので、「要ヤオスー死」(死にたい。いよいよ死ぬ)、「已イースー死」(既に死亡)の語呂合わせで意地悪さすら漂った。林彪「自爆」後の名誉回復を経てその6 周忌に遺骨安置儀式が厳かに執り行われ、余命幾いくばく許も無い周恩来は戦友を守り切れなかった後ろ目痛さの罪滅ぼしとして、風前の灯の様な病体で無理矢理に出席し涙ながら弔詞を述べ、お辞儀で哀悼を表わす際に通例の3 回を超えて立て続け7 回もして人々を感動させた。
当初「王玉」の偽名で平民用の納骨堂の地下室にひっそりと紛れ込まれていた納骨壺は、北京の八宝山革命公墓遺骨堂第1 室の81 号(1 号室の81 番)の場所に置かれた144)が、「8.1」建軍節(由来は周・賀等に由る1927 年8 月1 日の南昌蜂起)との暗合は意味深長な礼遇と言える。
ともあれ、最精鋭の専門家・設備を揃えた解放軍総医院が最上の死に場所であり、八宝山革命公墓遺骨堂第1 室が最高の遺骨安置所である、という相場がこの物語でも証明された。引退後の江沢民は現指導部と距離を置き居住地・上海で隠然たる勢力を保ち、其処の華東病院を好んで利用するのは元軍委主席でありながら軍総病院を信用せず、不測の事態を防ぐ為に北京行きを避けたがる可能性が有る、と報じられた145)が、「新上海閥」の大将・黄菊は膵臓癌で2007年6 月2 日に301 医院で死去し(享年68 歳)、前日に満54 歳を迎えた習近平の台頭との対照が興味深い連環を成す。軍の病院は現役の最上級要人の指定進コース路の観が有るが、終身制の廃止で今後は中央首長も70 歳で定年に成るので、臨終の場所も遺体の処置も自分の希望が通らなかった毛沢東の様な悲喜劇はもはや考え難い。
毛と親密な関係を保った越南の建国の父の遺体は、全国民(特に生前に会えなかった南部の人民)の為にレーニンに倣う永久保存が決定された。内戦終結(1975 年4 月30 日)と南北統一(翌年7 月2 日)の間の75 年8 月29 日、30 年前の9 月2 日に独立宣言が行われた河ハノイ内のバディン広場に胡ホー・チミン志明廟が落成し、ソ連の専門家に由る科学的な処置が施され水晶棺に納まった遺体が「帝国の表徴」として展示された。火葬に付した上で遺灰を3 地域の丘陵に埋め、石碑や銅像を建てず記念に植樹して欲しいという遺志は完全に無視された。中国の列車の1 番/2 番、3 番/4 番、5 番/6 番の北京−韶山(長沙)、北京−モスクワ、北京−河ハノイ内の順と暗合して、胡ホー・チミン志明の国葬の恰度7 年後の9 月9 日に死去した中国人民の「亡父」の防腐は、ソ連との冷戦状態に因り同盟国・越南の専門家からソ連直伝の技術で応援を得た146)。
建国後に火葬の制度化を推奨した毛沢東は自分の遺骨に就いて、生前魚を沢山食べた事の罪滅ぼしを兼ねて長江に撒き、其の魚が又誰かに食べられて人民への奉仕に成る、と満70 歳の直前に語った147)。1956 年4 月27 日の中央工作会議で率先して要人等151 名連名の火葬発議書に署名した快挙も空しく、特殊な局面に於ける政治局の政治的な配慮でレーニンと同様に永久保存することと成った。遺体安置の為に天安門広場の真ん中に建設された毛主席記念堂は、胡ホー・チミン志明廟の工期の半分に当る1 年未満で1 周祭の日に完成した。当時の北京市建設委員会副主任・李瑞環が工プロジェクト程現場総指揮として脚光を浴び、1987、89 年の政治局委員、常務委員への昇格も「神壇」祭祀の重要性の証あかしに成った。彼が大工青年突撃隊隊長として工事に携わった人民大会堂等の建国10 周年記念の建築物群の設計段階で、周恩来は既に主席の「百年之後」の記念堂建設の用地としてこの場所を押えた148)。真ん中に人民英雄記念碑しか無い広場の長年の「中空」は、「帝国の表徴」の出現で忽然と「中控」の伏線が浮上したわけである。
当の周の遺骨は死後の汚辱を防ぐ意図も有って149)、遺言に沿って北京郊外の密雲貯水池、天津の海河と山東墾利県黄河口(黄河が渤海に入る処)に撒かれ150)、ケ小平も彼やエンゲルスの例に倣って海に散骨され、故郷や所縁の戦場・勤務地への安置や散骨を希望する者も少なくないので、元々「生在蘇州」の対句として無理気味の有る「死在柳州」は益々死語に化した。
但し、八宝山革命公墓遺骨堂の「聖域・禁域」の性質も、11 室の中の1 号室(特に中央正面の区画)の「神壇」151)の地位も、第16 回党大会の標語「与時俱進」(時代と共に前進・変容する)ではなく、「与時俱存」の不易を呈し続けている。  

119)津村節子「《お別れの会挨拶》全文――吉村 昭氏の最期」、『文芸春秋』2006 年10 月号、132−137 頁。
120)汪幸福「􄬗稚晖:ー在蔣介石生日前去世」、『文史博覧』(中国人民政治協商会議湖南省委員会主管、月刊)2009 年第7 期。本稿で記した当時の蔣・呉の歳・享年は俱に満年齢。
121)李志綏『毛沢東私人医生回憶録』、[台北]時報出版、1994 年、536−537 頁(英語版に拠る日本語版[新荘哲夫訳『毛沢東の私生活』、文芸春秋、1994 年]、下巻340−341 頁)。明記されなかった日付や病因等は、中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』下巻1615−1616 頁に拠る。
毛を蘇生させるべく胡旭東医師が拳でその左側の胸部を強く敲き続け、その措置は驚いて度を失う嫌いの有る危険なものだったと李志綏は言うが、『毛沢東伝』で引用された張玉鳳「毛沢東、周恩来晩年二三事」(『炎黄子孫』[春秋出版社、隔月刊]1989 年第1 期)は、心臓病専門家の胡医師が背部を敲いたとし、時の中央警備団団長(連隊長)も『張耀祠回憶録――在毛主席身辺的日子』(中央党史出版社、2008 年)の中で、右手で背部を敲いたその救命措置は妥当で且つ強力なもので胡は党・人民に手柄を立てたと擁護した。張耀祠はこの一幕(222−224 頁)を2 月上旬のある日の事と記述し、舒雲「百問九一三(3)」(舒雲探訪九一三事件、2009 年9 月12 日)に出た張耀祠の証言では、記録することは制度上許されず自分も書き留める勇気が無かった為、歳月が経つに連れて忘れて了ったが、9 日か10 日だったのはずだ、と語った(時系列で展開した『張耀祠回憶録』では、2 月6 日の出来事の後に位置する)。他方、張佐良『周恩来保健医生回憶録』の詳述(190−193 頁。日本語版220−225 頁)では、時期は71 年11 月中旬のある夜と成っている。この様に関係者の証言は記憶の曖昧さの所為か日付・病状・緊急治療の様子に食い違いが大きく、史実の確認の困難さを窺わせる。
122)李志綏『毛沢東私人医生回憶録』、6 頁(日本語版、上巻14 頁)。
123)郭金栄『走進毛沢東的最後歳月』、中共党史出版社、2009 年、206 頁。張ユン・チャン戎+ジョン・ハリデイ『毛』もこの説を取っている(日本語版、下卷511 頁)。
124)劉少奇は軟禁が続く1968 年の夏に肺炎に罹ったが、党中央弁公庁の責任者は救急治療を命じる際に、存命中に党籍剥奪の処分を知らせ(翌年の)党大会の為に活き標的を残そうと言った。
125)開会の定刻の50 分前の後午1 時20 分から始まったNHK テレビの中継で、実況担当の北出清一郎アナウンサーの第一声は、「世界中の秋晴れを集めた様な、今日の東京の青空です……」。
126)中塚聡「“ 東京五輪” 秘話 “ 開会式パイロット” は離陸まで二日酔いだった」、『週刊新潮』2008 年7月30 日号、52−54 頁。
127)中国語教育の権威者として名高い相原茂は、「断定する中国の天気予報:日中“ 天気” 比較」(「MAO的コラム 中国語から考える」第56 回、公式ホームページ「MAO 的小屋 相原茂の隠れ部屋」2008年6 月13 日)の中で、「日本と中国の天気予報の比較をした人はいるだろうか」と問い掛け、決して断定はしない日本流と確率や可能性への配慮が殆ど無い中国流とを比較して、予報と割り切って外れに無頓着で自然の変化にもラフな中国人の特質を指摘し、中国では天気予報は官から民への情報伝達で疑義を差し挟む余地は無く、権威に異議申し立て等は以ての外という気配が有る、という日本人の天候への繊細さに似合う穿った見方も提示した。
両国の天気予報を比較した人は他にいるか否かは寡聞にして知らないが、この違いに着目した本稿筆者の分析はその15 年前からもう複数回で世に出ていた。先ず「失題:バベルの塔の廃墟に立って」(論説、『立命館国際研究』6 巻3 号「1993 年12 月」)の中で、1 つの段落を使って次の様に思弁を展開した。「私が日本で覚えた最初の“ 言語衝撃” は、“ 明日は晴れるでしょう(晴れる見込みです)” という、放送メディアの天気予報の推量形であった。中国は勿論、英国を除く多くの国では、自信が無いように聞こえるのを嫌う心理からか、“ 明日は晴れだ” の断定形が普通のようだ。“ 日本の常識は世界の非常識”とよく言われるが、島国の気候の変わり易さや人間を凌駕する“ 天” の測り知れなさを考えれば、世界の常識と日本の常識は、一体どちらが理に適うだろう。但し、その推量形の天気予報も実は、大正時代のラジオ放送に伴う新しい言語現象なのだ。“ 明日は晴れるはずだ” の言い方に慣れていた明治の人々も、私以上に推量形の表現に驚いた、という。だが、更に翻って、成立の経緯の如何に拘らず、この表現様式の存在は紛れも無く、日本語の内的な秩序と可能性を物語っている。」(196 頁)
又、「生活風景の中の“ 文カルチャー・ギャップ化溝”――衣・食・住・行における日中文化の比較」(第2612 回立命館土曜講座[2002 年9 月21 日]での講演)の冒頭で、比較文化への興味が涌き研究領域を其処に移す契機と成った体験・所見をこう語った。「33 歳で来日した時は、中国政府のシンクタンクで日本文学の研究をやっていましたが、日本で色々な“ 文カルチャー・ギャップ化溝” に遇いました。最初の例を挙げますと、来日した日に観たテレビの天気予報は、“ 明日は晴れるでしょう” と言いました。単純な現象ではありますが、中国流の“ 明日、晴” に慣れていた私には新鮮でした。/ 後に聞いた処に拠れば、世界では断定形が主流で、日本は英国と共に少数派だそうです。共に天気が変り易い島国の環境や、彼か の西洋の“ 紳士の国”とこの東洋の“ 君子の国” の国民性の類似で、解釈が付くかも知れませんが、色々と考えさせられました。例えば、中国人が断定形を使うのは、自信が無い印象を避けたい意識が見え隠れしますが、不確かな天気の予言には推量形が理に適うとも思えますから、中国流は一種の強がりではないかと疑念を抱き始めました。」(立命館大学人文科学研究所編「立命館土曜講座シリーズ 14 日中国交回復30周年 ――日中の過去・現在・未来――」、2002 年12 月、55−56 頁)
128)和辻哲郎は『風土――人間学的考察』(岩波書店、1935 年)の中で、風土の特殊性に由る「日本の国民的性格」として「し・め・や・か・な・激・情・、戦・闘・的・な・恬・淡・」(原文に傍点)を挙げ(138 頁)、注で次の様に説明した。「愛情を“ しめやか” という言葉で形容するのは、ただ日本人のみである。そこには濃やかな感情の静・か・な・(原文に傍点)調和的な融合が言い現わされている。“ しめやかな激情” とは、しめやかでありつつも突如激情に転じ得るごとき感情である。すなわち熱帯的な感情の横溢のように、単調な激情をつづけて感傷的に堕するものでもなければ、また湿っぽく沈んで湧き立たない感情でもない。」(154 頁)中国語では「しめやか」に当る「粛穆」「冷清」は確かに愛情の形容には使えず、日本的な「物の哀れ」や淡泊さもこの2 語からの逆照射で「日本的な気質」(138 頁)として確認できようが、本稿ではその逆説的な命題を通常の組み合わせに変えて、日中の国民性の傾向の一端を表わす。129)財団法人日本オリンピック委員会監修『近代オリンピック100 年の歩み』、ベースボール・マガジン社、1994 年、169 頁。
130)筧文生は「雨は空から降る」の中で「天要落雨、娘要嫁人」を王有光『呉ごかげんれん下諺聯』(1820)に見える俗諺として、「雨は空から降る、未亡人は再婚したがる」という早坂義征訳『周恩来・最後の十年』の訳を支持し、産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』下卷の「雨は降るもの、娘は嫁に行くもの」を誤訳とした。(一海知義・筧久美子・筧文生『漢語いろいろ』、岩波書店、2006 年、76−77 頁)但し一方、『呉下俗聯』で言う「娘、孤陰無陽、要嫁人則陰之求陽也」の「娘」は少女を指す、という説も有る。(百度百科「天要下雨、娘要嫁人」)
131)李克菲・彭東海『秘密専機上的領袖們』、103−104 頁。
132)詠康『13 次新中国三軍大閲兵 掲秘共和国十三次大閲兵内幕』(黄河出版社、2008 年)の記述では、「呼嘯着飛馳過布満雲霧的天安門上空」(鋭くて長い爆音を立てながら、雲霧が一面に行き渡った天安門の上空を疾駆して通過した)と言い(216 頁)、他の年の好天候・視界良好との違いが際立つ。
133)孟紅「毛沢東笑談生死」(『党史縦覧』[中共安徽省委党史研究室主管、月刊]2007 年第5 期)に拠ると、原文は「我是為来訪者準備的一件陳列品」。ウィリアム・バー編THE KISSINGER TRANSCRIPTS The Top Secret with Beijing and Moscow(1999)、鈴木主税+浅岡政子訳『キッシンジャー「最高機密」会話録』(毎日新聞社、同年)では、「私は訪問客向けの展示品なのです」と訳されている(455 頁)。
134)「女大学生上書 促換新華門標語」、[台湾]連合早報網、2008 年4 月8 日。香港『明報』が情報源と成る記事に拠ると、趙は中国の平和・統一の為に天安門城楼に孫文と毛沢東の肖像を同列に掲げることを提案した。新華門の入口の両側の標語の由来は、本稿注23 で言及している。
135)李志綏『毛沢東私人医生回憶録』の「一九七〇年代作者所認識的中南海」図(目次の次)、日本語版・上巻の「北京市・中南海要図(1950 〜 70 年代当時)」(巻末)には、中南海の西北隅の周恩来邸と塀及び道1 本隔てただけの第305 病院の至近距離が一目瞭然である。因みに、周邸の名称「西花庁」は両方とも「西華庁」と誤記し、中国語版の不純(著者以外の参与者の加工)と日本の訳者・出版社の不案内を思わせる。
136)公式発表ではケ小平夫妻の享年は同じ93 歳とされるが、卓琳の1916 年4 月6 日−2009 年7 月29 日は満93 歳に達したのに対して、ケの1904 年8 月22 日−97 年2 月19 日は数え歳の93 である。
137)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下卷1783 頁。
138)尹家民「朱徳元帥最後的軍礼」、『党史博覧』2002 年第4 期。
139)同上。
140)張玉鳳「回憶毛主席去世前的一些情況」(未刊稿[未発表原稿])、「毛沢東聴取毛遠新関於天安門事件情況匯報時的談話(毛遠新筆記、1976 年4 月7 日)」(中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、下卷1775−1777 頁)
141)周秉徳『我的伯父周恩来』、318−319 頁。
142)中国新聞網2007 年7 月11 日電(北京)「温家宝ー往医院 原準備在8 月為季羨林祝賀生日」。なお、公式発表の季の享年98 は数え歳を指す。
143)程世剛「賀龍骨灰安放的曲折経過」、『党史博采』2007 年第11 期。
144)同上。著者は周の7 回ものお辞儀の礼に就いて、未亡人の8 回説を取り上げ且つ支持した。
145)「江沢民氏、心臓病で入院か 香港誌報じる」、『産経新聞』2009 年8 月8 日(情報源は香港『開放』誌8 月号)。
146)「歴史解密:越南領袖胡志明遺体保存秘聞」、新浪網国際在線、2004 年12 月21 日。
147)孟紅「毛沢東笑談生死」。1956 年4 月27 日に毛が署名した火葬発議書の連名者数は、文中136 名と記したが、151 名が正しい(「民政部長多吉才譲在記念毛沢東等老一代無産階級革命家簽名倡導火葬40周年座談会上的講話」、1956 年4 月26 日)。
148)「安佑忠:毛沢東遺体怎么移進水晶棺仍是謎」、捜狐新聞網2006 年9 月6 日。
149)周は逝去の半年前の1975 年7 月1 日に病院で関係者との最後の記念撮影に臨む際、「後で私の顔の上に×を付けないでくれ」と言って、死後に批判され政治的に抹殺される事への懸念を吐露した。(高文謙『晩年周恩来』日本語版、下卷297−298 頁)73 年に受けた毛の悪辣な敲バッシングきの後遺症が見受けられるが、隣に立つ外交部副部長・喬冠華も当時、保身の為に周の「投降(軟弱)外交」への非難に加担した。72 年、75 年に逝った「文革派」の康生・謝富治は80 年に党籍を剥奪され、遺骨も八宝山革命公墓から追放されたので、周の内心の陰影は杞憂とは言えない。
150)遺骨は全て撒くようにという周の遺言に沿って、生前所属の中南海西花庁党支部の構成員等が検討し夫人の同意を得て、故人と所縁の深く政治・文化的な符号の意味を持つ3 ヵ所への散骨が決定され、周の副護衛長等と葬儀委員会の代表に由って執行された。本稿筆者は「“ 儒商・徳治” の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)」の注139 で、散骨の経緯を語る中国側の複数の証言・文献を点検し、一部の不正確・不整合の記述を指摘した(『立命館国際研究』15 巻2 号、59−61 頁)が、日
本の刊行物の誤訳にも触れたい。張佐良著、早坂義征訳『周恩来・最後の十年』に、「天津の海と河」と出た(396 頁[上記拙文では306 頁と誤記した])が、海河は河川名である。
151)1989 年に中外文化出版公司より刊行された権延赤著『走下神壇的毛沢東』(神壇[神の座]から歩み降りた毛沢東)は、元護衛長・李銀橋の回想に基づいて毛の人間臭い素顔を活写した。個人崇拝の祭壇を形容する「神壇」と同じ聖化された禁域の意味で、同作者は4 年後『走下聖壇的周恩来』(中共中央党校出版社)を出した。 
12億、13億人目の国民の誕生劇に見る
 次世代領袖の「生・住・死在北京」の天命

 

日本の「いろは歌」と同じく文字の順序を表わす中国の様式には、古代の識字教材「千字文」の冒頭部分が有る。首句の「天地玄黄」の第1 字から「天字第1 号」という熟語が生じ、類の中の第1(いの1 番)の意に用いられ、転じて最高・最強・無類・飛び切り等を指す。昔の中国の一部の国語教科書の入門段階に出る漢字の定番には、画数が少なく使用頻度が高い「人・手・刀・口・牛・羊」が有った152)が、この詩体の言語・文化・倫理・歴史の啓蒙書が「天地」で始まるのは、「頂天立地」(天を背負い大地に立つ。天下を背負う)という英雄の気概の形容の発想に合致する。天下第1 を目指すか羨ましがる「1 番情コンプレックス結」は中国で様々な形で現れており、例えば毛沢東が中南海の主と成った翌年に党中央事務局から「甲字第1 号」番の拳銃所持許可書が与えられ153)、北京図書館で1958 年に貸出証を更新する際に敬意を込めて毛に第1 号(001)を差し上げ154)、1974 年の国連総会に参加するケ小平の旅券の番号も00001 であった155)。
翻って、日本の名門ゴルフ場・スリーハンドレッド倶楽部でも創立からの鍵ロッカー付き戸棚番号に序列が厳然と存在し、筆頭の創建者・五島昇(東急集グループ団総帥)に次いで財界の大御所・実力者が続いた156)。屈折的な自己顕示欲の強い小渕恵三も「寅次郎ファン倶楽部」会員の1 番の名誉を嬉々とした157)が、その提唱に由る沖縄G7 開催と沖縄・千年紀に因んだ2 千円札が実現する前に急逝した(享年62 歳)彼を記念して、政府が遺族に通し番号3 番の新札を贈呈した。
1 番が日本銀行、2 番が沖縄県であった事は法治・気配りの国柄らしいが、「天」の字形の根幹を成す「人」が隠れた「天字第1 号」と成る中国の裏原理が逆に見えて来る。1987−2005 年に任継愈が館長を務めた北京図書館は1999 年に中国国家図書館と改称したが、元より「中国」の最初の意は「京師」(首都)であった。北京は中国の「顔」として「天字第1 号」の大きな顔をし、「上京」の差別語を容認しない地方からも常に畏敬の念が持たれる。
毛沢東は北京大学で一介の図書館助理員に過ぎなかっただけに、高学歴への反発の裏返しの「名門学府情コンプレックス結」が強く、甥・遠新には北京大学か清華大学への入学を勧めた158)。江沢民時代後期の政治局常務委員会は胡錦涛・朱鎔基等の「清華閥」が目立った159)が、五輪聖火の主会場外の最終走ランナー者は北京大学学長・許智宏であり、副学長経験者・季羨林の別格扱いも朝野の「北大情コンプレックス結」と関係が有ろう。意味深長な事に、首都地区中リレー継3 日目に胡錦涛と同じ1942 年生まれの許学長が走った終点は、8 ヵ国聯軍の略奪・放火で破壊された円明園の遺跡に在る北京101 中学である。其の前身は1946−49 年の晋察冀辺区(山西・察哈爾・河北3 省に跨る革命根拠地)聯合中学で、共産党が戦争中に創設し建国後に北京に移転させた唯一の中学として特別の由緒が有る。
毛遠新や劉少奇の息子を始め要人の子弟が多く入り160)、卒業生の李鉄映(ケ小平の前妻・金維映と元党中央統一戦線部長・李維漢との間の子)はケ小平〜江沢民時代の政治局委員(1987−2002)、曽慶紅(元内務部長・曽山の息子)は胡錦涛時代の政治局常務委員(02−07)・国家副主席(03−08)を務めた。2000 年北京五オリンピック輪招致委員会主席・伍紹祖(1988 年に国防科学技術工業委員会政治委員[少将]から国家体育委員会主任に転任、2004 年まで国家体育総局局長[官庁再編に伴う前職の改称]、中国五輪委員会主席を歴任)の他に、今大会組織委員長・劉淇(政治局委員・北京市党委書記)も他ならぬ当校の出身なので、首都の中央の「中控」主導が次第に強まる中での「太子党」の揺籠への帰着は、次世代への期待を込めた火種の伝送・集約とも言えよう。因みに、北京師範大学附属中学2 部から改名した1955 年に、校名を揮毫した文豪・郭沫若は101 の寓意を、「百尺竿頭、更進一歩」(百尺竿頭に一歩を進む)と講釈した。
毛より2 ヵ月前に逝った筆頭元帥・朱徳の遺骨も八宝山公墓第1 室に納まったが、番号「101」161)は奇しくも唯一遺骨が国内に安置できぬ元帥・林彪の「101(首長)」の暗号名162)と同じであり、下2 桁が一緒の301 医院と共に「天字第1 号」への憧憬の変種の「01 情コンプレックス結」を窺わせる。中南海の警備を担当する中央警衛団は設立の1953 年に総参謀部から「総字001」の番号を与えられ、50 年代末から「3747 部隊」に変更し、64 年前後から「8341」を使用し始めた。総参謀部所管の某軍用倉庫の廃止後の転用と言われるこの番号は、後に「御林軍」([天子の宮城を守る]禁衛軍)の代名詞と成った。71 年の林彪事件後に保秘強化と全軍部隊番号の5 桁化の為「57001」に改められたが、間も無く元の番号に戻り、毛の死去直後は又「57003」に変更した(2000 年以降は「61889」)163)。林彪一味の党・国家への反逆の裏付けとして政変構想手メ モ記が発覚し、題の「“571 工程” 紀要」(「571」は同じwuqiyi と読む「武起義」の語呂合わせで、武装蜂起の意)と重なる事が忌み嫌われたのだ164)。短命の「57001」の上2 桁の由来は毛の「5.7 指示」(軍隊の農業・副業生産の促進に関する1966 年5 月7 日付の林彪宛ての手紙)かも知れないし、建国時の毛の数え歳(満56 歳の直前)でもあるが、初代の「001」への回帰を以て再び「1 番情コンプレックス結」の根強さを示した。
「8341」は毛の死後に呪縛解除の様に抹消され正式名称の「中央警衛団」に取って代られたが、ケ小平時代の末期に巷間で実まことしやかに噂された其の「言ことだま霊神話」は、「表徴の帝国」の様々な表徴の深層を照射する契機に成り得る。無作為に振られた可能性の高い「3747」も歴史の座標から対応を探せば、抗日戦争勃発の1937 年と陝西北部転戦の1947 年の組み合わせと思えて来る。「文革」初頭に毛沢東が天安門城楼で文革祝賀集会の群衆百万人を接見した1966 年「8.18」の恰ちょうど度19 年前、毛と党中央機関が黄河の岸辺で国民党の大軍に追い詰められ壊滅の危機に直面した165)。建国の際に毛・周は「居安思危」(治に居て乱を忘れず)意識を以て、抗日戦歌「義勇軍行進曲」を代(暫定)国歌とする提案に賛同した166)が、「中華民族到了最危険的時候」(中華民族に最大の危機が迫る)という「最後的吼声」(最後の雄叫び)は、足して中国人の最後の厄年の84 に等しい37+47 の組み合わせの様にも読み取れる。
伝説的な中国製育毛・発毛剤「101」は林彪の禿げを思い起こせば皮肉の巡り合いも感じるが、80 年代後半に留学先の日本でその「生発水」を転売し一儲けした上海出身の留学生・周正毅は、後に株式・不動産等の投資で巨富を築き上海「首富」(最大の富豪)の声価を手に入れた。
2002 年に米経済誌『フォーブス』の中国長者番付で11 位に躍り出た直後に転落し、「上海閥」の凋落と連動するかの如く経済犯罪で03 年9 月、07 年1 月に2 度逮捕され、其々3 年、16 年の懲役に処され42−61 歳の人生を監獄で過ごすことに成った。内縁(未結婚登録[入籍])の妻・毛玉萍(上海地産控ホールディング股有限公司総経理[社長])も株価操作等の罪を問われて、06 年1月に香港で懲役3 年半が言い渡された(夫妻が02 年に香港の上場会社2 社を買収した際に約20 億香港ドルの不正融資を行ったとして、中国銀行副会長兼香港支店[有限公司]総裁・劉金宝が04 年2 月に解任され、翌年8 月に長春市中級人民法院[地方裁判所]で執行猶予2 年付きの死刑判決を受けた)が、1994 年に上海の繁華街で開き後に系チェーン列店舗化を展開した居酒屋「阿毛􅖣品」(「􅖣品」は鳥モツ獣内臓煮込み等)が、俱に上海出身の2 人の本土に於ける大成功の起点であった。
巡り巡って、「101 首長」林彪の邸宅も領袖の姓が付く北京西四北大街前毛家湾1 号である。
林彪「自爆」後は中共中央文献研究室・中央文献出版社の所在地に転用されたが、第8 期8 中総会(1959 年8 月2 日−16 日)開催中の毛・江夫妻が宿泊した江西・廬山河東路180 号(番地名)も、昔の蔣介石・宋美齢夫妻の避暑用の「美盧」別荘であった。1930 年代に英国人女性が宋美齢に贈与したこの贅沢な施設の「美」の名は、廬山への礼賛と元ファースト・レディ首夫人の所有の表示の両義が考えられるが、1960 年から1 年掛けて其の近くに建設された毛専用の別の別荘は「盧林1 号」と名付けられた167)。森林の中の園林に因んだ名の「林」は、奇しくも廬山会議後に失脚の彭徳懐に代って国防部長に就任した林彪の姓である。住居の地名に「毛家」が有る林と毛の相剋相生を現わすかの如く、1970 年8 月23 日−9 月6 日の廬山会議(第9 期2 中総会)で統帥と副統帥が激突し決裂に向った。
毛が内戦時代の最大の敵の別荘を当然の様に享受したのは征服欲にも因った事であろうが、陰気臭い林彪旧居の新たな主が中共中央文献研究室・中央文献出版社に成ったのは、「残酷闘争・無情打撃」と権謀術数・陰謀詭計で織り成した党史の熾烈竣厳・複雑怪奇な裏・闇に似合う。「美盧」の180 号から「盧林」の1 号への飛躍も全てを凌駕する「帝王の表徴」と見て取れるが、中南海の毛沢東邸の名称の変遷もこの文脈で面白い発見が有る。「文革」後に豊沢園内の菊香書屋から引っ越したのは恰も経済停滞・文化破壊の帰趨を暗示し、新居の「遊泳池」(室内プールを改造した由来に因る別称)は政治的な風波の試練を水泳に譬えた彼の情念に通じる。逝去の先々月の唐山大地震が北京を直撃した翌日に耐震性のより高い「202」棟に移された168)が、林彪の暗号名「101」の倍に当るのは屋上屋の君臨の暗号と解釈すれば意味深長である。
1969 年10 月18 日、林彪が蘇州から総参謀長・黄永勝に電話で「戦備を強化し敵の急襲に備える緊急指示」を下し、当夜に副総参謀長・閻仲川の業務上の判断で「林副主席指示(第1 号命令)」として全軍に通達されたが、武漢滞在中の毛は19 日に電話記録で報告を受けると苛立って自らマッチで其の紙を燃やした。林の指令は軍事的に合理性が有り毛も其の内容と実施には異論が無かったが、異様な反応は勝手に大軍を動かした独断と個人名を冠す「第1 号命令」の不遜に対する激昂であった169)。毛の猜疑・排斥から逃れようと異国の沙漠に墜落・変死する破目に成った林の悲劇は、中国語の「姓名」と「性命」(生命)の同音(xingming)の妙味と隠し味を思わせる。西洋の「罪の文化」と日本の「恥の文化」と異なり、且つ両者に跨る中国の「名の文化」の位置と特質にも目を向けさせられる。
北京地区聖火中リレー継2 日目の八達嶺の万里の長城−地壇行コース路の終点は、海軍政治部文芸工作団副団長の歌手・宋祖英少将(1966− )で飾った。五輪閉幕式で伊太利のドミンゴと「愛の炎」の二重唱を熱演した彼女は、湖南省の苗族出身らしい風情の持ち主で江沢民時代の寵児として知られるが、次期党首の最有力候補・習近平が娶った歌手・彭麗媛(1962− )も解放軍総政治部歌舞団の少将で、建国初代領袖の「第1 夫人」と同じ山東の出身である。これらの連環は「解放軍情結」や「山東情結」をも連想させるが、北京出身の「第1 夫人」を持つ胡錦涛には独特の「北京情結」と「西北情結」が見られる。彼も温家宝や習近平・李克強と同様に北京の最高学府で思想・人格の骨格が形成され、且つ甘粛の「大熔炉」で試練を受けた。何よりも首都という政治・権力の中心の磁場に長く居て、温和・怜悧の「南人」も重厚な帝王的な貫禄の「北相」が付いて来る。生地にせよ精神的な揺籠にせよ、領袖・首脳は北京から生まれるという新しい伝統が出来つつある。
1989 年4 月15 日、胡耀邦元総書記(73)の急逝で天安門事件の導火線が点けられたが、前日は中国初の「人口日」として社会発展の目立たぬ道標であった。改革・開放元年(1979)に始まった厳格な独りっ子政策で産児制限が強力に進められたが、国家統計局の推計でこの日で本土の総人口が11 億に達した。「中国12 億人口日」の1995 年2 月15 日は、其の年の元宵節(旧暦1 月15 日)及び元宵節の性格の一部に合う西洋伝来の「情人節」(バレンタイン・デー)の翌日に当るが、0 時過ぎに12 億番目の国民とされる男の子・趙旭が北京産婦人科病院で生まれ、空かさず国務委員兼国家計画生育委員会主任・彭珮雲に抱き上げられ報道写カメラ真機の閃フラッシュ光を浴びた170)。更に10 年近く後の2005 年1 月6 日0 時2 分、同病院で13 億人目とされる男の子・張亦弛が誕生し、国家人口・計画生育委員会主任・張維慶が病院を訪れ名誉証書と贈り物を渡した。節目の基準は0 時直後の純粋な自然分娩に由る最初の嬰児と定められたが、同じ病院で体重まで酷似(3700c、3660c)の同性の子が都合好く出産され、13 億人目は北京でこの世に遣って来ると数日前から報道機関に断言されたのは、如何にも胡散臭くて一部の民間世論の失笑や不審、不平を招いた。
2004 年の本土(帰還済みの香港・澳門を含まぬ「内地」171))の人口は、推計に拠ると毎日平均して2.08 万人純増し、年末に12 億9988 万人に達したので、年明けの6 日が大台突破の日として割り出されたわけである172)。単純計算で4.15 秒毎に1 人増加(嬰児出生は1.58 秒)の速度173)を考えれば、0 時過ぎの最初の自然分娩は北京以外で行われた方が遥かに自然的である。況まして12 億人目も13 億人目も同じ病院で生まれたのは、犯罪の絡からくり繰を暴く松本清張の推理小説『十万分の一の偶然』(1981)に因んで言えなら、10 億分の1 にも成らない超低確率の上に立つ作為と受け止めざるを得ない。何故雲南、青海、黒龍江省等の地域の辺鄙な村がその舞台に成り得ないのか、と機会均等の原理や人権・地域平等の理念に基づく疑問の声が多く上がった。新華社(国家通信社)主管の『瞭望新聞週刊』同年第2 号でも即時に大きく取り上げ、選定・報道の信憑性を疑う上海の外資系企業の複数の従業員の辛辣な異論を報じ、上海の大学や市社会科学院(政府系「智シンクタンク庫」)の人口・社会発展戦略・報道問題の専門家の中立的な所見を添えた。
学者と当局の説明の共通項として、13 億人目は精密に確定し難い概数や符号に過ぎず、北京婦人産科病院が連続して当ったのは儀式の為の方便であり、人口の大台更新を告げる儀セレモニー式は警鐘を鳴らす象徴的な意義が有る、と言う。巨視的な概念・曖昧な数値と具体的な特定の嬰児との間の矛盾を指摘し、同時に出生した1 群の1 人として国家から大台の代表に選ばれたという限定的な注釈を勧めた学者もいる174)が、現実の世界を反映しつつも微妙にずれる疑似空間の文化的な寓意が興味を引く。復旦大学人口研究所副(准)教授・任遠は同誌の取材に対して、国家の人口発展戦略が数量と共に素質や構造にも留意し、社会が人口の発展に均等な機会を提供する事の重要性を強調した。曰く、同じ時刻に貧しい町で呱こ呱こ の声を上げた新生児は名前が世に知られる事も無いが、報道機関が狙いを定めた北京で生まれた嬰児は衆人嘱目の焦点と成り、人口大台の符号として歴史に残る故に展示上の必要から重視され、当人が幸運に恵まれ家庭も満足する可能性が高い。曰く、多くの子供は北京出身のお陰で「符号資源」(表徴としての価値)を含む多くの資源(資本)を得る機会が多く、大都会の充実した物質的・文化的な支えに因り順調に成長し易いが、田舎の診療所や出稼ぎ労働者の「黒戸」(無戸籍)子女は環境の辺鄙や悪劣の所せい為で社会に忘れられがちである175)。
趙旭の母親・李印花(年齢未詳)は出産直後の12 億人目の認定式に於いて、子供の名は「旭日東昇」(東の空に朝日が昇る)の「旭」だと披露した176)。勢いが盛んな様さまを形容するこの成句から連想させられるのは、領袖賛歌の冒頭の「東方紅、太陽昇」(東の空が赤く染まり、太陽が昇る)だ。続いて「中国出了個毛沢東」(中国に毛沢東が現れた)と謳うが、11 億人台の最終日の3/4 世紀前の1930 年1 月5 日、彼か の「救世の巨星」は林彪宛ての書簡で革命の将来に対する悲観論を宥めた。後に「星星之火、可以燎原」(小さな火花でも広野を焼き尽くす)との題が付いたこの文は、結びの予言が『毛沢東選集』の中でも有数な名文として知られる。
間も無く到来する中国革命の高潮の形容として、東の彼方で光芒を四方に放ちながら海から昇ろうとする朝日を高山の頂上に立って眺望する様ようであり、母親の胎内でせわしく動き成熟を迎えようとする嬰児の様ようであると言った比喩は、巡り巡って12 億人目の符号・趙旭の名前と符合する。
「趙」も「百家姓」の中の1 番目として謀らずも先導の寓意を帯びるが、任博士の一般論的な「農村・地方=日陰」「首都=日向」の図式に反して、幼時の病弱が改善したものの13 億人目誕生の日には熱で寝込んでおり、バス車掌の父と骸コークス炭化工場労働者(出産時と同様)の母の月収合計は貧困層に当る2 千元未満で、3 人は11 平米の家で窮乏の暮らしに甘んじていた177)。
もっとも、中国の神話では「三皇」の1 人・女媧が丁寧に黄土を捏ねて貴人を作り、数を増やす為に縄で泥を跳ね上げた飛沫が凡人と成ったので、別の意味の大雑把な人間創造で身分の差が先天的に付くのも伝統の宿命かも知れない。「旭」の「九+日」の字形は、堯の時代に一遍に空に現れる10 の太陽の中の9 つを后こうげい羿が射落とした神話を連想させるが、最後の太陽が規則正しく出没するように成ったという魔物退治の「救星」の偉業は、灼熱地獄と不毛・不作に散々苦しませられた民衆の受難の宿命の裏返しでもある。
「百家姓」は当初「国姓」を尊ぶ為に「趙」を頭に据えたが、明の『皇家千家姓』では同じ発想で「朱」が最初に出たが、清の『御姓百家姓』は「孔」が首位に変った。明王朝を創った洪武帝・朱元璋の後裔と言われる朱鎔基は、巡り巡ってその21 歳の誕生日に成立した共和国の20−21 世紀に跨る首相と成ったが、彼は生まれる前と10 歳の頃に相継いで父親と母親を失った苦境で育ち、玩具を買ってもらった記憶が無いと言う178)。趙旭の誕生後に病院側は家族宿泊可の病室の無料提供や母子への特別看護を施し、生花を盛った籠や亥いどし年に因んだ「吉祥猪」(縁起物の豚[日本流の猪いのししと異なる])の縫い包みを贈った179)が、その優遇措置や甘美な思い出と10 年後の親子のほろ苦い境遇との落差が大きい。小学4 年生に成った息子は車の玩具を好むと母親は語ったが、記者が玩具の詳細を訊くと「買ったことが有る」とだけ言って言葉が詰まった。苦しい家計から1200 元(同年の北京市都市住民の平均所得は、全国2 番目に高いながら月1665 元程度)も捻出して英語と数学五オリンピック輪の塾に通わせた180)のは、中国の親の「望子成龍」(子供が龍[の様な立派な人間]に成る)の欲求の現れである。
警察の仕事に憧れた趙旭と両親の窮態依然(「旧態依然」に擬らえた造語)は、「温飽問題」(基本的な衣食の保障)が未だ解決の途上に在った時代の所産として象徴性が高い。奇しくも誕生の日に首都製鉄所の大御所・周冠五の引退で「北京閥」の転落が始まったが、当時同社の鉄合金工場の労働者だった父親・趙彦春は数年後人リストラ員整理に遭い今も臨時工の儘である。対して、「小康(一応の余裕が有る)社会」へ進む中で13 億人目の国民に選ばれた嬰児は、市場経済・国際化の潮流の縮図の様に、父・張彤(37)が中国国際航空公司の空中勤務者(「空勤」。一説は「空警」即ち航空保安官181))、母・藍慧(31)が殻牌(シェル[和オランダ蘭系大手石油・エネルギー企業])中国有限公司(和蘭系企業)の職員であり、生後13 日で父親が法定後見人として最南端のの省の海南欣龍公司と結んだ契約に由り、「“ 潔之夢” 柔湿面巾」(「清潔の夢」ウェットティッシュ)の「代言人」(代弁者。転じて「形イメージ・キャラクター象代言人」)に成り、世界最年少のイメージ・キャラクターの記録として報じられた182)。
1929 年10 月24 日、87 年10 月19 日の大暴落で米国株式市場の「暗黒の10 月」の「魔ジンクス呪」が出来たが、2007 年には信サブプライム用力の低い個人向けの住宅融資問題で起きた夏の欧米発の金融危機が一旦沈静化した後、米・中を始め世界的な株高が「新興国・資源関連銘柄泡バブル沫」の煽りも有って久々の天井に達し又急落した。2006 年10 月にも米国経済の軟着陸への期待から紐ニューヨーク・ダウ育工業株30 種平均株価が連日最高値を更新したが、その月の17 日の米国東部夏時間午前7時46 分頃、統計上約11 秒間で1 人が増え続ける米国の総人口が3 億を突破した。桑サンフランシスコ港の新聞やペンシルベニア州の放送局等が当地での3 億人目の誕生を競って主張し、国勢調査局は身元究明を行わないと表明したが、人口統計学者のウィリアム・フレイは移民増加の傾向とヒスパニック系の高い出生率に基づいて、羅ロサンゼルス府で生まれるラテン系の男の子であろうと予言していた。1915 年に1 億に達した同国の人口は1967 年に2 億の大台に届き、『ライフ』誌はジョージア州アトランタ出生の中国系米国人のロバート・ウーが2 億人目に当ると報じた183)。11 月20日午前11 時前に商務省中央広ロビー間に在る「国勢調査時計」が歴史的な瞬間を告げ、同省長官はこの「画期的な出来事」に就いて祝賀と反省の必要性を述べ、急速な人口増加がこの儘続けば33 年後に米国人口は3 億に達するので、家族計画科学を真剣に考慮すべきだと語った184)。
北京五輪開催の年に羅ロサンゼルス府を舞台とする米国の恐ホラー怖映画Mutant Vampire Zombies from the’Hood!の中で、亜細亜系暴ギャング力団の親ボス分の名も現実の中で不惑の年を過ぎたあの移民国家の節目の符号と同じロバート・ウーだが、太陽の異変で其処等中の人間が呪ゾンビ術に由って生き返った死体に変異するという物語の怪奇よりも恐ろしいのは、Wu に当る中国語と思われる「呉」185)の簡略字「􄬗」の「口+天」の字形に含まれた不気味な黙示である。北宋に銭塘(杭州)の無名の読書ミュータント・ヴァンパイア・フロム・人が作り441 の名字を収めた啓蒙教材「百家姓」では、時の皇帝の姓である故に首位に出る「趙」と「銭・孫・李・周」の次(「銭」を含む考案者の居住地を中心とする浙江と隣接の江蘇という「呉越」の対も興味深い)、「鄭・王・馮・陳」の前に在る6 番目に位置する。今や「李・王・張・劉・陳・楊・黄・趙・周」に次ぐ使用人口が10 番目に多い姓の「呉」は、「口・天」の組み合わせや中国語の「無」との同音に由りこの文脈で人口問題の「天大」(絶大さ)を思わせる。
奇しくもかのRobert Wu が誕生した日に米ドル弱体化の懸念から紐育・東京・倫敦で株価が暴落し、巴里・チューリヒでの金の買いの殺到と共に21 世紀の世界の金融動乱・資源危機を占う激変と成り、越ベトナム南戦争の泥沼に嵌り込んだ世界1 の覇権国家の商務長官の喜憂半々の論評の切実な真実味を感じさせた。
その危機感と対策の効果で大台突破は当初の予想より6 年遅延したが、中国の長年の産児制限も本国の「13 億人口日」と世界の「60 億人の日」を共に約4 年間遅らせた186)。後者の超大台突破の時間と場所は、1999 年10 月12 日午前0 時3 分(現地時間。グリニッジ標準時では前日の22 時3 分)、新・旧ボスニア・ヘルツェゴビナの首都・サラエボのクリニカルセンター大学病院であった。1 分間で世界中に約140 人増えている中で其の3550cの男の新生児が節目の「地球市民」とされたのは、国連事務総長・アナンの同市訪問に合わせて認定した国連人口基金の思惑に拠る事である187)。サラエボは1914 年6 月28 日の墺オーストリア太利=匈ハンガリー牙利帝国皇太子夫妻暗殺事件で第1 次世界大戦の引火点に成り、ユーゴスラビア崩壊(1991)後のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92−95)で千人以上の子供が犠牲した。「欧州の火薬庫」の大病院で7 時間も掛かった出産188)は、戦争と平和の葛藤や暴力と革命の交錯が続いた20 世紀の遺伝子の登パフォーマンス場の様にも見える。
ピューリッツァー賞を3 度(1983、88 年[国際報道部門]、2002 年[評論部門])獲ったトーマス・フリードマンは、99 年4 月刊行の『レクサスとオリーブの木』の中で「紛争防止の黄金のM 型拱アーチ理論」を提唱した。マクドナルドを有する任意の2 国は其々に当該企業が出来て以来互いに戦争をした事が無いという現象に着目し、ある国の経済が、マクドナルドの店チェーン舗経営の系列展開を支え得るほど大勢の中流階級が現れる水準まで発展すると、その国の国民はもはや戦争をしたがらず、寧ろハンバーガーを求めて列に並ぶ方を選ぶ、とかの米国の媒ジャーナリスト体寄稿者は言うが、初版が世に出た途端「マクドナルドの国」同士は交戦せぬとの主張は根底から現実の挑戦を受けた。米国を主体とする19 の北大西洋条約機構(NATO)加盟国がコソボからセルビア人勢力を一掃する為、3 月22 日−6 月11 日にマクドナルドの支店が有るセルビアに対して執拗で猛烈な爆撃を実施し、標的は旧ユーゴ共産主義者同盟中央委員会が置かれて今の与党・社会党本部が入っている高ビル層建築物(4 月23 日)に及び、ベオグラードの中国大使館も「誤爆」で死者が出て(5 月7 日)中国人の愛国意識・嫌米感情を刺激した。
著者は批判者の否定論に対して「NATO は国ではない」「コソボ紛争は本物の戦争ではない」と反駁し、元々「黄金のM 型拱アーチ理論」は内戦には適用しないし未来を予言するものではないと強調した。曰く、送電系統と経済を封鎖されたベオグラードの市民が直ちに戦争の終結を要求した動きは、マクドナルドを再び開店させる方がコソボを再び占領するよりも遥かに望ましいことを意味するので、今の1 つの例外は一般的な原理の強力さを証明したに過ぎず、戦争よりもハンバーガーを求める「マクドナルドの国」の群衆心理に関する自説は、「これを無視する指導者や国民は、自分が思ったよりも遥かに高い代償を払うことに成る」と補足すれば好い189)。その前も1995 年8 月30 日−9 月20 日にNATO15 ヵ国がボスニア領内のセルビア軍に対して空爆を加えたが、例の即ファースト・フード成洋風軽食大手企業の国際展開は未だボスニア・ヘルツェゴビナに及んでいないので、店舗の半分近くが集中している本拠・米国で考案された所謂「マクドナルド理論」の妨げには成らない。旧ユーゴの内に人種構成が特に複雑で内戦が長く最後に独立が承認されたボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴの中で唯一マクドナルドと高速道路が無い190)点も吟味に値する。
フリードマンはトヨタの高級乗用車と土地・文化・民族の象徴たる木を鍵に「地球化の読解」(副題)をし、国境を越えた新技術の集結と従来の伝統的な価値への拘泥の対立・統一から世紀の交の世界を描き出した。高速道路の未整備はLexus の「凌志」(音訳の「雷克薩斯」[Leikesasi]と並行する中国語の意訳)には程遠く、オリーブの枝・葉が西洋で意味する平和・充実191)という凌雲の志も烽のろし火が絶えぬこの地域では遂行し難い。千年紀の分水嶺に於いてマクドナルドを擁しない欧州国家は他にアルバニアとアルメニアしか無かったが、アルバニアは中国が「文革」中に欧州での唯一の盟友とし又1978、79 年に経済援助、交流を打ち切った国だ。
改革・開放が10 年続いた後90 年にマクドナルドは深圳で中国上陸の橋頭堡を作り92 年に北京に進出したが、革命の「出口」(輸出)よりも外食の「進口」(輸入)を望む共産党政権の新思考と中国人固有の価値観は、子供の養育よりも自分の生活を優先する傾向の台頭で人口「爆増」を抑制する効果が有る。アルバニア人勢力がユーゴ軍との戦闘を続けた99 年コソボ紛争と95 年ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、「紛争防止の黄金のM 型拱アーチ理論」の圏外の非「マクドナルドの国」と「マクドナルドの国」の例外が現れたが、選りに拠って「地球化」未達成の隅で新千年の前夜に60 億人目の「地球村住民」が生まれたとする演出は、人口増加と食糧・資源減少がもたらす人間安全保障の問題を人々に考えさせる仕掛けと成った。
13 億人目の中国(本土)国民の母親の出産時の31 歳は、「晩婚・晩育」(遅く結婚し遅く生育する)推奨の国策にも合致する。60 億人目の「世界公民」(地球市民を指す中国語)の母親の同29 歳は、中国・日本で結婚適齢期の上限の目安と思われがちの30 歳の節目の直前に当る微妙な年齢だ。随筆家・白石公子の『もう29 才、まだ29 才―今どきの“ 女ごころ” はややこしい』(1990)192)と共に連想されるのは、「男過四十一枝花、女過三十豆腐渣」(男は40 過ぎが華、女は30 過ぎがオカラ)という中国の俗諺である。大晦日に因んだ「年越し蕎麦」の比喩で30 歳以上の「売れ残り」を揶揄・自嘲する日本語と同じく、「賞味期限」で女性の価値を決める侮蔑的な響きは否めないが、「吃青春飯」(青春で飯を食う。若い内に若さに頼って目一杯得をする)の甘えを戒め、中年以降も通用する能力や品格の向上を促す警句とも思える。
香港と似て平均寿命の世界最高水準に反して性交頻度も出産率も世界の最下位に近い日本193)では、恋愛・結婚・出産に消極的な「草食系」乃至「装飾系」(本稿筆者の造語)の増加が目に余るが、子供を作りたがらない同世代の中・韓の都会人に通じる「産まん族」(woman の発音に引っ掛けた同造語)には、其の29 歳の出産に対する「人類大家庭」の代表の祝福は、開発途上国の人口安定化と表裏一体の先進国・地域の少子化解消の課題を突き付けている。
60 億人目の新生児の両親のヤスミンコ・ネビッチ夫妻(当時の職業不詳)は、同市の西北の町・ビソコに住むモスレム人である194)。子供がイスラム教徒の普通の男子名・アドナンと名付けられたのは、アナン事務総長に因んだ節ふしも推測される195)。アナンの出身国・ガーナの首都・アクラは東経・西経0 度に近く、等時帯も子午線通過地域のグリニッジ標準時と同一であり、その第7 代国連事務総長就任は途上国群の台頭と国際基準普及の「全地球化」の表徴とも取れる。在任中(1997 年1 月−2006 年12 月)の世界、中国、米国の人口の60 億、13 億、3 億人突破は、社会の発展に必要で且つ過不足が其の障害を成す人口の制御の難題の不変性・緊急性を容赦無く示した。人口の増加は社会の活性化と経済発展に繋がる反面、地球環境・持続成長の限界に因る21 世紀の人類の生存を脅かす諸刃の剣とも成っている。 

152)毛沢東が「延安の文芸座談会に於ける講話」(1942)で言及したこの6 文字は、画数が少ない故に、昔の一部の国語教科書では第1 冊の最初の数課に出された。
153)陳晋『独領風騒―毛沢東心路解読』、147 頁。
154)􄶮先知「博覧群書的革命家――毛沢東読書生活我見我聞」、龔育之・􄶮先知・石仲泉『毛沢東的読書生活』(生活・読書・新知三聯書店、1986 年。2010 年版、3 頁);中国国家図書館ウェブサイト「中外名家与図書館」。
155)米国中央情報局北京事務所長として当時入ビザ国査証発行に関わったジェームズ・R・リリー(1989 −91 年に駐中国大使)は、ケの大出世を予感した。(『チャイナハンズ』[2004]、日本語版[西倉一喜訳、草思社、2006 年]、182 頁)
156)中川一徳『メディアの支配者』、講談社、2005 年、上巻57 − 58 頁。
157)小渕恵三の屈折的な自己顕示欲と寅次郎(映画『男はつらいよ』の主役)への傾倒は、佐野眞一『凡宰伝』(文芸春秋、2000 年)に詳しい。
158)葉永烈『「四人幇」興亡』、下巻1212 頁。
159)1997 年党大会の後にその事を否応無しに意識した江沢民は、清華大学の教職員・学生との座談会で「上海の指導者は皆清華閥だよ」と口を滑らせた。慌てて「今のは冗談だけど」と付け加えたが、一瞬の本心を窺わせる逸話と言える。(祁英力著・おうちすえたけ編訳『胡錦涛体制の挑戦』、勉誠出版、2003 年、158 頁)
160)藍英年「􄘷沱河之歌」(傅国涌編『過去的中国』[長江文芸出版社、2006 年]所収);葉永烈『「四人幇」興亡』、下巻1212 頁。「百度百科 北京101 中学」の「著名校友」一覧には、劉少奇の息子も毛遠新も入っていない。
161)舒雲「十大元帥不同的葬礼」、『党史博覧』月刊2007 年第12 期。
162)林の秘書(1966−70)の回想にも、夫人・葉群が面と向って「101」と呼ぶ習慣が書いてある。(張雲生『毛家湾紀実 林彪秘書回憶録』10 頁、日本語版23 頁)
163)馮立忠「我所知道的8341 部隊」、『党史縦横』(中共遼寧省委員会党史研究室主管、月刊)2005 年第12 期。
164)「神奇故事:毛沢東活83 年執政41 載和神秘数字8341」、中国台湾網2008 年11 月7 日(人民網より転載)。
165)権延赤『走下神壇的毛沢東』、中外文化出版公司、1989 年、3−5 頁。
166)原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、284−288 頁。
167)「美盧」と「盧林1 号」の由来、概況及び毛の利用状況は、蘇暁康・羅時叙・陳政『“ 烏托邦” 祭―一九五九年廬山之夏』(中国新聞出版社、1988 年。日本語版=辻康吾監修『廬山会議――中国の運命を定めた日』、毎日新聞社、1992 年)に詳しい。
168)郭金栄「走進毛沢東的最後歳月」、中共党史出版社、2009 年、139−141 頁。
169)中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』、汪東興『毛沢東与林彪反党集団的闘争』(当代中国出版社、1997 年)等に詳しい。
170)王潔「第12 個小公民」、『人民日報』1995 年2 月15 日。
171)「内地第13 億名公民降生 30 年後中国人口達極限」、『京華時報』2005 年1 月6 日。一方、2005 年1月6 日中国新聞網電(北京)の題は、語弊の有る「中国第13 億個公民今日在北京婦産医院誕生」と成る。「第十三億個小公民誕生 我国13 億人口日推遅4 年到来」(『人民日報』2005 年1 月6 日)では、「我国大陸総人口」の表現を使っており、1989、95 年の大台突破日の統計基準との整合性を思わせる。
172)復華「老百姓:不可思議 第13 億個公民為何誕生在北京?」、新華網、2005 年1 月10 日。
173)百度網「百度知道 中国毎天有多少人出生」等。因みに、米国では国勢調査局の調査に拠ると、10秒に1 人の割合で人口が増加し、子供は7 秒に1 人生まれている。(「米、人口3 億到達 移民流入や高い出生率 39 年で1 億人増加」、『日本経済新聞』2006 年10 月18 日)
174)同注172。
175)同注172。
176)同注170。
177)「関注中国13 億人口日:回訪両個小男孩的家庭」、『新京報』2005 年1 月7 日。報道の中で2 月14 日出生と記したのは誤りで、母親が振り返った病室入りの時点と混同したらしい(前日の『京華時報』の報道[注170 文献]では、母親は15 日と語った)。母の仕事は食事作りという本人談から、炊事係かと推測される。
178)楊中美『朱鎔基伝』([台湾]時報文化出版社)等。
179)同注170。
180)「内地第13 億名公民降生 30 年後中国人口達極限」、『京華時報』2005 年1 月6 日。
181)同注169 文献や「第十三億個小公民誕生 我国13 億人口日推遅4 年到来」(『人民日報』2005 年1 月6 日)では、「空勤」とした。「空警」説は中国新聞網同日電(北京)「中国第13 億個公民在北京婦産科医院誕生」(情報源は人民網電、『京華日報』報道)等に有った。
182)「我国第13 億公民成揺銭金童 出生就成代言人」、中国新聞網電(北京)、2005 年1 月13 日。
183)「米マスコミ、3 億人目の赤ちゃん探しに躍起」、ロイター通信電(華盛頓)、2006 年10 月18 日。
184)「米国の人口 2 億を突破」、『毎日新聞』1967 年11 月21 日夕刊。
185)Wu で表記する中国人の姓は「呉」の他に「􄶾」も有り、周恩来が逝去の5 日前に全身の力を振り絞って「釣魚台のWu……」を呼びたいと言った。側近はその国賓館の警備責任者・􄶾吉成(中央警備団副団長)と理解して呼び付けたが、到着後に周は昏睡に陥っていた。(􄶾吉成・王凡『紅色警備』、中国青年出版社、2009 年、284−286 頁)ところが逝去の前日に、釣魚台国賓館の呉家安副料理長が作る「獅子頭」(特大の挽肉団子)が食べたいと言い出した(劉一達『凭市臨風』[中国社会出版社、1998 年]、産経新聞外信部編『食の政治学』[産経新聞出版、2005 年])ので、前出のWu も珍しい姓の「􄶾」ではなかった可能性が有る。
186)「第十三億個小公民誕生 我国13 億人口日推遅4 年到来」、『人民日報』2005 年1 月6 日。
187)漆原次郎「世界人口、60 億を超える“ サラエボ大学病院”―sei-tech 世界地図(4)」、科学技術のアネクドート(sei-tech.jugem.jp)2007 年8 月27 日。
188)「世界の人口60 億人突破」 1999 年10 月12 日。
189)トーマス・フリードマンTHE LEXUS AND THE OLIVE TREE:Understanding Globalization (1999)、日本語版(東江一紀・服部清美訳『レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体』、草思社、2000 年)下卷8−16 頁。
190)「戦火の傷跡はどこまでも続く(サラエボ〜ドブロブニク)」、「たるの旅日記」(taruyafufu)、2002 年12 月4 日(当日、旅先で日本大使館の者から聞いた話として記述)。
191)『広辞苑』の「オリーブ」の語釈が言うには、「枝はヨーロッパでは平和と充実の象徴。古くホルトの樹と称。“ 橄欖” と訳すことがあるが、別種。」小学館『日本国語大辞典』第2 版第3 巻(2001 年)の説明は、「葉は平和や実りのシンボルとして装飾用に用いられ、また図案などに表わされる。橄欖(かんらん)とするのは誤称。」小学館『日本大百科事典』第4 卷(1985 年)の「オリーブ」の項でも、「全く別種」の「橄欖」とするのを「誤訳」と断じた。中国語ではオリーブは「橄欖」と区別して「油橄欖」と言うが、西洋で平和の象徴とされるオリーブの枝は「橄欖枝」と訳され、ララグビー式蹴球は楕円形が橄欖の実(別称「青果」)に似ている処から「橄欖球」と称する。
192)大和出版より刊行。1993 年新潮文庫版では副題は削除された。
193)英国の男コンドーム性避妊具大手のデュレックス社が2007 年に世界主要26 ヵ国・地域で性生活を調査した結果、最少と成る日本の年間48 回は1 位の希臘(164 回)、8 位の中国(122 回)等を遥かに下回り、25 位の香港(82 回)にも遠く及ばず「性弱国」ぶりが突出した。(「大研究 日本人のセックス 日本人はなぜSEX をしなくなったのか 世界最下位、しない夫婦が37 パーセント」、『週刊現代』2009 年11 月28 日号、175 頁)
194)「世界人口60 億突破、今世紀初頭の4 倍に」、『毎日新聞』1999 年10 月12 日夕刊。「国連公認60 人目 サラエボで誕生」、『朝日新聞』同13 日。
195)「(新)ボスニアのかけら 選ばれたのには訳がある!〜 50 億人目& 60 億人目のベビー〜」、bhkakeramico.blog57.fc2.com/?mode=m&no=284、2009 年10 月25 日。 
50億、60億人目の「地球村民」の旧ユーゴ所産と
 「黄金のM 型拱アーチ理論」の相関

 

「文明の衝突」の時限爆弾は千年紀祝賀の余韻が冷めなかった内に2001 年「9.11」恐テロ怖襲撃で炸裂したが、巡り巡って国連本部の在る紐育で凶暴な大規模無差別殺傷・破壊を敢行したのはイスラム原理主義者で、人類初の総力戦の導火線と成った墺=匈帝位継承者暗殺の地・サラエボは欧州で最もイスラム的な都市だ。犯人はボスニア出身のセルビア人で南スラブ人の解放を唱える「青年ボスニア党」の構成員だったが、1 ヵ月後の墺=匈対セルビア宣戦を惹き起した民族主義情緒の暴走は数年、数十年前に伏線が敷かれていた。1875 年のボスニア蜂起で触発された露土(露西亜帝国対オスマン帝国)戦争が終結後の78 年、墺=匈帝国はボスニア・ヘルツェゴビナのオスマン帝国主権下の施政権を獲得し、1908 年10 月6 日に更に両地域の併合を宣言した。列強競合の強引さで刺激されたセルビアの大セルビア主義や汎スラブ主義が大戦の火種と成ったが、この様に世紀の0 年代の流れは往々にして100 年間の趨勢を示唆するものである。
同じ2003 年春の米・英聯軍に由る「反恐テロリズム怖主義」の大義名分の下でのイラク侵攻に対して、中国発の非典型肺炎(重S A R S 症急性呼吸器症候群)に対する退治は「硝煙無き戦争」と呼ばれたが、21 世紀0 年代の世界を一再ならず襲った金融・経済危機もその形容に当て嵌まる処が多い。「60億人の日」10 周年から2 週間経った2009 年10 月26 日にマクドナルドは氷アイスランド島からの撤退を発表し、既存の3 店舗を閉鎖し将来戻る計画は無いという決断の理由として挙げられたのは、非常に厳しい経済環境と北極圏の端に在る人口僅少(30 万)の島国として営業上の特殊な複雑さである。「金融立国」の目論見の破綻に因る通貨急落で材料輸入の原コスト価が倍増し、仮に堪え難い負担を消費者へ転嫁する為に最小限に近い2 割程の値上げに踏み切れば、ビッグマックの価格が世界最高の瑞西(1 個5.75j[米ドル、以下同])を大きく上回る状況に成った196)。
氷島の同年の1 人当りGDP(37991j)は世界第19 位(国際通貨基金[IMF]発表、以下、特に断る処以外は同じ)で、米国(45934j、8 位)や日本(39740j、17 位)に比べても余り遜色が無いが、前年の53108jに比べて28.5%減少し(順位は一気に10 位も下がり)、史上最高の07 年の64548j(3 位)からの下落率は41.2%にも及んだ。面積が北海道と四国の合計(9.73万平方`)より少し大きい(10.3 万)同国は、水産物が数十年も輸出総額の3 / 4 強を占め続け漁業以外に余り産業が無く食糧・燃料も自足できないが、高金利で外部遊資を釣って融資で稼いだり海外の資産を買い漁ったりする投資的な自転車操業に乗り出した末、「金漁」(中国語の「漁・余」の同音[yu]に引っ掛け、金余りを利用して暴利を漁ることを形容する造語)の猛もさ者・亡もうじゃ者に化した。市場原理の特大津波に由る「100 年に1 度」の世界金融危機の打撃で急激な「熱ホット・マネー銭」流出に見舞われ、実業・虚業が俱に空洞化に陥った結果として08 年10 月に3大銀行が国有化され「虚星」が地に墜ちた。
2000 年の30824jは3 − 5 位の日本、瑞スイス西・米国(36811j、34802j、34774j)に肉迫した6 位だが、高速膨脹の起点と成った03 年の水準(37744j、7 位)へ逆戻りを余儀無くされた09 年の氷島は、皮肉にもボスニア・ヘルツェゴビナ(4365j、90 位)やアルバニア(3837j、100 位)と同様に、マクドナルドに見限られて地グローバル球化経済の辺境・離島に追い遣られた。資産の毀損で「上流」も「中流」へと衰退し乃至「下流」まで凋落しかねないが、アルバニアと中国([香港・澳門・台湾を含まず、以下同]3735j、101 位)の比隣(世界銀行の統計でも103、105 位と接近[アンゴラを挟む])、及び米国中央情報局(CIA)調べのボスニア・ヘルツェゴビナと中国(101、103 位)のほぼ比肩(間に在るのはエクサルバルト)が興味深い(国際通貨基金の統計に見当らぬ澳門は世界銀行と米国中央情報局の調べでは、其々28 位の34570jと21 位の38911jと成っており、前者は24 位の氷島[38034j]より低く、後者は22 位の同国[38587j]より高く、国際通貨基金の番付では18 位の加カナダ奈陀[39669j]の次に該当すると推測される。
世界銀行・CIA の調査結果と整合性を考慮するなら、本稿で記したIMF の順位は19 位の氷島から全て1 位繰り下げるのが妥当であろうが、その調整で中国は102、103、105 番目という範囲に落ち着く)。
アルバニアと中央欧亜に位置する(中国では亜細亜域内とされる)旧ソ連加盟国(91 年8 月23 日に主権宣言、翌月23 日に独立)のアルメニアの間にも、面積の近似(2.87 万、2.98 万平方`)とマクドナルドの未出店という隣接・共通点が有る。英語で俱にA で始まる国名が日本語の50 音順で隣り合う両国の連環に暗合して、1 人当りGDP が長年の「欧州最貧」・アルバニアにも大きく劣るアルメニア(2615j、115 位)は、アルメニア住民が約3 / 4 を占め92 年1 月7 日に独立を宣言したナゴルノ・カラバフ(4400 平方`)の帰属を巡って、同地域が旧ソ連時代に自治州として所属していたアゼルバイジャン(91 年8 月30 日に独立)と交戦し(94年停戦)、又アルメニア人に対する大規模の迫害・虐殺事件(1894−96、1915−16)が起因で、国土の3%が欧州に在る隣国の土耳古との間に100 年を超えた怨念や歴史認識を巡る対立が続いているが、この様に非「マクドナルドの国」は経済の落後と紛争の危険の複合性格が多いかも知れない。
欧州のもう1 つのマクドナルド未踏の「処女地」であるボスニア・ヘルツェゴビナは、氷島の半分に当る5.1 万平方`の面積がその東/ 北部と接壌するクロアチアの5.65 万平方`に近い。
世界順位でも隣り合う(123、124 位)2 国は10 億人単位の世界人口大台更新の通過儀礼に於いて、言わば宝籤連番1 等の的中の様な奇跡的な連続登場を演じた。各大陸の内では2 回続いて開催しないという平和の盛典・五輪の暗黙の均衡法則とは違って、国連が認定した50 億人目の「地球村民」は1987 年7 月11 日19 時23 分47 秒(紐育の夏季時間)、奇しくも同じ旧ユーゴの一角のクロアチアの首都の病院で産声を上げた。ザグレブが「世界50 億人の日」の地に選ばれた理由は国ユニバーシアード際大学生競技大会開催中であるが、電気技師の父と看護婦の母の間に生まれたマテイ(男の子、3600c)の処に、第5 代国連事務総長・クエヤル(ペルー人)が駆け付けて人口増加の抑制の為に国際協力を呼び掛けた197)。
7 月11 日は国連人口基金の提案で1990 年に「世界人口日」に成ったが、翌年6 月25 日にスロベニア・クロアチアはユーゴからの独立を宣言し2 日後に「10 日戦争」が起きた。スロベニアはセルビア主導でスロベニア人が司令官と成る連邦軍の侵攻に勝ち分離・独立の趨勢を強め、前年「社会主義」を国名から外したマケドニア共和国も鼓舞されて翌々月の9 月8 日に連邦から離脱した。更に92 年3 月のボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言を契機に、独立反対派のセルビア人と賛成派のクロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の対立が翌月に武力衝突に発展した。「7 つの隣国、6 つの共和国、5 つの民族、4 つの言語、3 つの宗教、2 つの文字に由り構成される1 つの国」と言う様な、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の統治の困難は分解後の「民族の浄化」征伐でも顕れたが、世界の50 億人目・60 億人目ともその厄介な土地で生まれた事は世紀末らしい多難の宿命を思わせる。
1988 年の国家長期成長戦略の策定で民間の知恵袋として中核的な役割を担った経済学者・胡鞍鋼は、新世紀初頭の「地域と発展:西部開発新戦略」の政策提言で国内の地域間の経済格差に警鐘を鳴らし、旧ユーゴの国・地域間の最大格差が65 年の5 倍から88 年の7.5 倍に上がった事に連邦解体の要因を求めた198)。2 極化の典型として例示された最も富裕なスロベニア共和国と最も貧困なコソボ自治州との格差は、世紀末の紛争の10 年後に更に8.1 倍まで拡大した(2009 年の1 人当りGDP は24111j対2984j[世界第31、108 位])。毛沢東は『易経・繋辞下』の「窮則変、変則通」(窮すれば則すなわち変じ、変ずれば則ち通じ)を敷衍して、「窮則思変」(困窮すれば変革を思う)という命題を「大躍進」の最中の1958 年4 月に打ち出した。1 / 3 世紀後に連邦内で経済の貧弱が突出したマケドニアが独立を追随したのもその原理で説明できるが、経済水準が高いスロベニア・クロアチアが逸早く「主人」に離縁を言い渡したのは逆に考えさせられる。
スロベニアは主体民族が人口の9 割を占め旧ユーゴ構成国の中の最も高い民族の均一性も独立志向の根底を成し、窮乏度が近似の近隣同士であるマケドニア・コソボと一緒の「近隣窮乏」の共倒れを避ける意志も有ったろう。念願の完全主権を勝ち取ったスロベニアは1999 年に先進国の目安とされる1 人当りGDP の1 万jを突破し199)、2004 年に又も旧ユーゴ構成国の先陣を切って欧州連合(EU)に加盟したが、独立の際に共に率先したクロアチは05 年10 月に加盟交渉を開始したものの、他の旧ユーゴ構成国と同じく07 年1 月のEU 第5 次拡大には乗らなかった。国内のクロアチア人が約3 / 4 を占める民族構成も常に1 番手に成り難い事情を示唆するが、クロアチアの1 人当りGDP は09 年に15284jで堂々たる世界第42 位である。
旧ユーゴの最西・北端のスロベニアと東隣のクロアチアの経済的な豊かさと社会の変貌の速さは、俱にアルバニアと接壌する西南の隅のコソボ・マケドニア(緯度の高→低順)の落後・動乱と対照的で、中国の人口地理分布構造を示す黒河−騰衝線の両側の「東南高/ 西北低」とは逆の「西北高/ 東南低」を呈する。
クロアチアは西のアドリア海に接する細長い沿岸部と東のセルビアに繋がる内陸部から成り、ザグレブは東南−西北を貫く前者と北部に横に広がる後者の結合部に在りスロベニアに近いが、建国当初ソ連を後ろ盾にする意図も込めて首都に選ばれた北京の位置・指向性と重なる(両地の北緯46 度対40 度は同じ広域帯に同居し、東経16 度対116 度の100 度差も興味深い)。
周辺を引き付ける「首富(最富裕)国」の影響力・求心力の磁場も此処で感じられるが、「次富(2 番目に豊かな)国」の首都・ザグレブが50 億人目の「世界市民」の生地に選ばれたのは、経済水準の座標系から眺めれば「地球総中流」の願望の屈折した発露の様にも捉えられる。クロアチアは1996 年のマクドナルド開店200)で中産階級の台頭・消費需要の向上を印象付け、2007 年には1 人当りGDP の1 万j突破(11559j)201)で先進国入りの次元まで大きな跳躍を遂げた。
世代収入1 日20−50jで生活している者(購買力平価で換算後、以下同)の人口比の世界順位は、2004 年のクロアチアはスロバキア、ハンガリー、チェコ(67%、66%、65%)に次ぐ4位(55%)だが、絶対数で中国、米国、露西亜が1 位−3 位(1.92 億人、8000 万人、4100 万人)と成ったこの層は、東欧・西欧に於ける対人口比が世界の中で突出し正に一応の余裕を持つ「小康」(中流)である(因みに、西欧ではより裕福に暮らす世代収入1 日50−100jでの生活者の比率がこれを上回り、逆に東欧ではこの群体は下の10−20j層の比率を下回る202))。同じ国連開発計画『人間開発報告書2004』に拠る同年の世代収入1 日10−20jでの生活者の比率は、ボスニア・ヘルツェゴビナが最高(55%)で次のアルバニアとマケドニアは48%だった。この区分は貧困国では比較的高所得に成り、先進国では低所得層である為に俱に低いが、人口の26%に占める中国の3.32 億人が際立って多く203)、上位御3 家は巡り巡って中国の往年の盟友を含みその一帯に集中していた。
「地球村」の第50 億、60 億人目は奇しくも隣接の2 ヵ国の280`しか離れていない首都で生まれたが、独立が第2 波のマケドニアよりも遅れたボスニア・ヘルツェゴビナはスロベニアとクロアチアに対して、2009 年の1 人当りGDP はIMF の調べで其々1 / 5.5 と1 / 3.5 に過ぎず順位も60 位、50 位ほど低い。マクドナルドの規模が世界人口100 万人当り5 店と成った2004年には、未だ「国際大家庭」構成員の総数の半数強に当る102 の国にはマクドナルドの店舗が無かった204)が、旧ユーゴ域内の唯一の空白区と欧州の中の例外的な非「マクドナルドの国」・アルバニアの上位隣接は、世代収入1 日10−20jでの生活者及び比率の高い国の「中流未満・下流辺境」の位置が確認できよう。連邦構成国間の貧富格差が危険水域の7.5 倍に差し掛かった頃のザグレブで50 億人目が誕生し、次の10 億人累積の大台乗せの舞台が干支の1 小周り後のコソボ紛争後のサラエボに回った事は、「人往高処走」(人は高きに上のぼる)の理想に逆行する「水往低処流」(水は低きに流れる)の観が有る。
上記のアルバニアと中国の1 人当りGDP の世界順位の「比隣」は、毛沢東が王勃の「天涯若比隣」(天涯 比隣の若し)を借りて両国の絆を讃えた事に因む。アルバニアの首都・ティラナの北緯41 度20 分と北京の僅差も考え様に由っては、上の句の「海内存知己」(海内 知己存す)の形容に使っても能よさそうである。結びの「無為在岐路、児女共沾巾」(岐路に在って、児女と共に巾を沾を為す無れ)205)を捩もじって言えば、毛が欧州の社会主義の「明灯」(明るい灯火。正しい方向に導く灯台・道標)に譬えたアルバニアは、毛の死後に中国の改革・開放路線への転換を「修正主義」と批判し自ら無為の儘で岐路に自閉し続けた。欧州一の最貧国と揶揄された1980 年代を経て1 党独裁の放棄、市場経済の導入・対外開放に踏み切り、国名から「社会主義人民」を削除して「共和国」のみ残した翌92 年の総選挙では、長年の与党は「労働党」から「社会党」を改名した甲斐も無く大敗し戦後初の非共産政権が誕生した。
正真正銘の「比隣圏」内の柬カンボジア埔寨は中国が「近攻」の為に「遠交」を結んだアルバニアと好一対の鬼子で、1975 年に成立したポル・ポト政権は垂死の毛の首肯で「文革」よりも残忍な闘争と野蛮な虐殺を断行し、中国が「継続革命」の呪縛と訣別した78 年にかの「迫害狂」は原始共産主義に駆られて通貨を全廃した。翌年の同政権の崩壊と89 年の越南軍撤退を経て92 年から国連柬カンボジア埔寨暫定統治機構に由る統治が始まったが、未だに東亜細亜で最貧困の部類に属する(2009 年の1 人当りGDP は768jで、世界順位は152 番目)。アルバニアと同様92 年に健全な方向へ大きく転換したのは同年のユーゴ解体と結び付ければ興味深いが、前年末のソ連解体に刺激され意味深げに湾岸戦争1 周年の1 月17 日かに始まったケ小平の「南巡」も、改革・開放の尖兵・深圳の成功を踏まえて上海の浦東開発を決断し経済大国化への第2 段の飛躍を始めた。
広東の深圳・珠海・汕頭と福建の厦門で1980−81 年に設置した経済特区は88 年に海南省全域に広がり、南部沿海地域に散り嵌められたこれらの「金剛鑽」(金剛石)の前衛的な創イノベーション新・開拓の牽引が奏効して、中国は21 世紀の最有力新興国のBRICs(国名の頭文字で伯ブラジル剌西爾・露西亜・印度・中国を指す)の中で、最大の「金磚」(金塊。BRICs が引っ掛けたbrick[煉瓦]を生かす中国語訳は「金磚4 国」)と成った。新興国台頭の象徴として囃はやし出されたこの新概念は、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメントのジム・オニール会長が2001 年に発案したものだ206)が、米国の最大手投資銀行であるゴールドマン・サックスの中国語表記「高盛」と暗合して、中国は改革・開放の30 年後に高度成長の隆盛を呈し2008 年に1 人当りGDP が3000jを突破した。消費の活発化や社会の安定化に繋がるこの転換点に日本が到達したのは高度成長期の最中の1973 年なので、明治維新(1867−68 開始)と戊戌(1898)変法(百日維新)以降の両国間の30−40 年の発展時差207)は見事に示された。
日本の平均GDP の3000j突破は東京五輪(1964)→大阪万博(70)の展開の延長線に在ったが、中国は新興大国の登龍門に相応しく北京五輪の開催年(2008)に同指標を達成した。韓国は漢ソウル城五輪の直前の「民主化元年」(1987)に3000jを超え、日本初主催の五輪と万博の時間差より1 年短い間隔で93 年に大テジョン田万博を開催したが、ケ小平「南巡」の翌年に大規模開発
が本格的に始動し後に爆発的に変貌した上海は、北京五輪の僅か2 年後に中国初主催の万博で実力と存在感を示した。2007 年11 月に韓国の麗ヨス水市が2012 年万博の開催権を獲得したのは、成長速度を巡る東北亜細亜3 強の競争の新展開を思わせるが、上海万博開幕の翌6 月にGDPが満を持して世界2 位と成った中国の勢いは容易に追随を許さない。
日本の経済規模は西独を抜いた1968 年から世界2 位の座を42 年間守り続け、2010 年には名目GDP(米ドル換算)が到頭中国を下回ったが、東京五輪と北京五輪、大阪万博と上海万博の間隔(44 年、40 年)の中間に当るこの発展時差は意味深長だ。日本の平均GDP の3000j超えは第1 次石油危機と円の変動相場制への移行の節目に実現したが、中国も北京五輪の翌9 月のリーマン・ブラザーズ(米国の名門投資銀行)の経営破綻で世界的な金融危機の洗礼を受けたし、2005 年7 月の人民元の対米ドル固定相場制から管理変動制への移行は32 年半前の日本の足跡を踏んだ様に見える。日本は1973 年2 月14 日に1j= 308 円の固定相場を放棄し1j= 277 円からの完全変動に踏み切ったが、「情バレンタイン・デ― 人節」に片思いの相手(米国)に土産を贈る観の有ったこの措置を発展時差の座標で参照すれば、上限の40 数年後の2010 年代半ばまでに人民元の大幅な切り上げが有っても然るべきかも知れない(聖バレンタインの記念日は日本では1958 年頃から流行したが、中国本土に入り徐々に市民権獲得に至ったのはやはり約30 年後の事である208))。
中国のGDP は改革・開放初期の1980 年に日本の1 / 5 程度に過ぎなかったが、2005 年に日本の約半分と成って僅か5 年で逆転した。日本内閣府の試算数値発表で世界2 位の座を明け渡すことが確定した2011 年2 月14 日は、巡り巡って38 年前の日本円の固定相場放棄と同じ「情バレンタイン・デ― 人節」に当る。人民元の管理変動制へ移行した年は日本とのGDP の半分の差を埋め尽くす最後の跳躍の起点と成ったが、その10 年前の「情バレンタイン・デ― 人節」の翌日に中国で12 億人目が誕生したのは助走の一環とも思えて来る。北京五輪と上海万博の間隔は東京五輪と大阪万博のそれの1 / 3 に当り、改革・開放から上海万博までの31 年も3 倍速「快進播放」(早送り再生)の様な全ダッシュ力疾走を以て、明治維新から東京五輪・大阪万博までの約100 年の成長・復興・飛躍を凝縮した。
両国とも「錦上添花」(錦に花を添える)と言う様に首都での五輪開催を経て昔か今の商都で万博を開催したが、政治・経済の中心が1 極に集中する東京と異なって北京・上海の「政・経分担」の違いが鮮明で、北京は寧ろ広東・福建→上海・長江三デルタ角洲→首都圏(含む天津・唐山)の「3 段跳び」の到達点に当る。広州発・東部沿海地域経由発の国民革命軍の北伐や上海で誕生した共産党の天下取りは最後に北京を制したが、「文革」後の経済建設の「新しい長征」でも南方が出発点・根拠地と成った。経済学者・胡鞍鋼等の国情分析専門家集団は1989 年に『生存と発展』と題する提言報告書を刊行し、人口増加の天井と見られる2020 年頃まで持続的な高成長を進める国家戦略の確立に大きな影響を与えたが、青写真の絵巻物の果ての西暦年と深圳経済特区の面積(2020 平方`)の吻合は不思議な暗示を感じさせる。中共建党99 周年に当る2020 年は抗日戦争の勃発と改革・開放の発足の其々83 年、41 年の後なので、毛沢東の「帝国の表徴」の「言霊神話」を成す「8341」とも「天数」の奇縁で繋がる。
孫文を頭かしらとする広東軍政府は北洋軍閥を打倒すべく1924 年9 月18 日に「北伐宣言」を発表し、翌月23 日に北京政府内の馮玉祥が首都で政変を起こした後、平和的な統一の為の孫文の北京入りで北上討伐は消えたが、孫の北京での客死(翌年3 月12 日)後の広東国民政府は設立1 周年の26 年7 月1 日、軍事委員会に由り「北伐動員令」を頒布した。国民革命軍は破竹の勢いで10 月10 日に恰度15 年前に辛亥革命が勃発した武昌を攻め落とし、江西・福建・浙江を制した後の翌年4 月12 日に蒋介石総司令が上海で中共粛清の政変を行い、国共合作の破綻・決別と南京(右派)・武漢(左派)の両国民政府の分裂→合流(前者に由る併合)を経て、一旦停滞した北伐は28 年4 月8 日に再開した。山東・済南で日本軍と武力衝突した後は北洋軍の閻錫山・馮玉祥の部隊を傘下に加え進撃し、遂に奉天系軍閥・張作霖を北京から追い出し首都制覇を果した。本拠地へ退却中の張「大帥」(総帥)は6 月4 日未明に瀋陽近郊の皇姑屯で関東軍に爆殺されたが、満23 歳の翌日に当るこの日に亡き父の後を継いだ「少帥」(若総帥)張学良は12 月29 日に国民政府への服属を表明し、東北で北洋政府の5 色旗から「青天白日満地紅旗」に換える「易幟」で北伐に由る全国統一は完了した。「北伐宣言」の満7 年後に「9.18満州事変」(関東軍に由る瀋陽郊外の柳条溝[湖]鉄道爆破)が起き、「北伐動員令」は奇しくも5 年前に成立した中共の建党記念日209)に当るが、「満州某重大事件」(張作霖爆殺を隠蔽する為の当時の日本政府の言い回し)の恰度58 年後、歴史の年輪を縦横に貫く「天数」の数珠繋ぎの一環として北京で血腥い「共和国某重大事件」が起きた。
マクドナルドは「6.4」武力鎮圧の翌年に深圳で上陸し2 年後に首都攻略を果したが、ケ小平の最後の闘争と成った同年初頭の「南巡」も遠交近攻の「北伐」に他ならない。毛沢東は恐らくあの世から生誕99 年(1992)の首都のこの変容を、帝国主義の「文化滲透」作戦に由る「平和演変」(平和的な変質)と見たのかも知れない。生誕も共産党への入党も自分より1 年早いチトーを彼は1948 年から「文革」の直前まで数度も批判したが、「資本主義を復活させた」という罪名はマクドナルドの進出の有無・早晩を見ても無実なのである。何しろスターリン死去の直前(53 年1 月13 日)に始まったチトー独裁の終焉(80 年5 月4 日)から20 年以上経っても、ボスニア・ヘルツェゴビナは依然として西側の生活様式の見本の様なマクドナルドに見放された儘である。クロアチアでの出店が1 人当りGDP の低い北京より4 年遅かったのも皮肉な顛あべこべ倒の様に思われるが、後継者を定めなかったチトーの他界の3 ヵ月後にクロアチア・セルビアで大規模な独立暴動が起きた事は、中国流で言う「趨利避害」(利に赴き害を避ける。
有害なものを避け有利な方に向う)指向が読み取れるマクドナルドの選択の説明に成る。
多国展開の故「脱国籍」の評が有るマクドナルドはやはり世界の「首富国」( 首トップクラス位の富ゆたかなくに国)の超弩級企業であり、その海外開拓の意思決定には「国際警察」・米国の「普遍的な価値観」に沿う取捨も見え隠れする。「亜細亜“4 小龍”」の中で人口・経済総量とも1 番の韓国への進出が最も遅い1988 年だったのも、前年の大統領候補・盧泰愚に由る「6.29 民主化宣言」と同年の漢ソウル城五輪開催(9 月17 日−10 月2 日)を考えれば、政治的な保険を掛け「漢江の奇跡」と謳われる経済強国の台頭に見合う意味では理に適う時期と言えよう。16 年ぶりの選挙(初の直接選挙)で号・「庸堂」の盧が最後の軍人出身の大統領に選ばれ第6 共和国が発足した背景には、24 年前の東京に次ぐ亜細亜での2 回目の夏季五輪を成功させねば成らぬ国益・民意の至上命題化が大きい。中央情報部長に由る朴正煕大統領暗殺(79 年10 月26 日)で幕を開けた第5 共和国は軍部の主導の下で、翌年に全国規模の「5.17 非常戒厳令拡大措置」を発動し18−27日に光州で民主化運動を武力で弾圧したが、同時代の台湾海峡両岸の「小龍」と「巨龍」の党・軍独裁の伝統及び「君子豹変」の脱皮と照合すれば興味深い。
台湾では1947 年「2.28 白色恐テロ怖」と呼ばれる民衆弾圧の際に戒厳令が敷かれ、4 月22 日に国民党政権が行政長官公署の廃止(陳儀行政長官が引責辞職)、省政府の設置を決定し、5 月16 日に魏道明がを主席とする省政府が成立し翌日からの戒厳令解除を宣言した。翌年末に蔣介石の腹心(後54−65 年に「中華民国副総統」)・陳誠が省主席兼警備総司令官に任命され、南京「落城」の1 ヵ月後と上海「陥落」の1 週間前の49 年5 月20 日に台湾全域で再び戒厳令が布告された。台湾で国民党省委員会主任委員、「国防部」総政治部主任、「国防部長」「行政院長」等を歴任した蒋経国は、87 年7 月14 日に「総統」(78 年5 月20 日−88 年1 月13 日)として、世界最長の38 年余りを記録した全省戒厳令を翌日から解除すると発表した。「太子党」の筆頭として「蔣家王朝」の最高位を世襲した彼の決断の発端は巡り巡って、不都合な内幕を暴露した『蒋経国伝』(84)の著者・江南(本名・劉宜良)が国籍取得先の米国で暗殺された事だ。
蒋経国の次男・蒋孝武の指図と「国防部」情報局長・汪希苓の派遣で、台湾最大の暴力団組織「竹聯幇」の首領・陳啓礼等が渡航して84 年10 月15 日に手を下したが、「白色恐テロ怖」の戒厳令下だったこの年の台湾へのマクドナルド進出は韓国の場合に比べて勇気が要る事であろう。
1948 年以降の60 年に亘って「中華民国総統」就任式は5 月20 日に行うのが通例に成って来た(不規則の例外は大陸時代の蔣介石の下野[レーニン死去の恰度四半世紀後の49 年1 月21日]、彼と蔣経国の死去[其々75 年の清明節〈4 月5 日〉とチトー時代の幕開けの35 周年]に伴った3 回)が、「非常・非情」戒厳の烙印が付く宿命的な「5.20」は奇しくも89 年の北京部分地区戒厳令の開始日と成った。「2.28」戒厳終結42 周年と光州戒厳令発動9 周年の日に中国の急進改革派知識人集団が「5.17 宣言」を作成し、ケ小平を「皇帝の肩書の無い皇帝」「老い耄れた独裁者」として痛烈に糾弾し、その代償として過激な民主化運動は「糾弾」の文字通り当局の銃弾で糾される破目に陥って了った。「6.4 事変」の世界に与えた衝撃は光州事件を遥かに上回り中国は国際社会で一時孤立を余儀無くされたが、マクドナルドが翌年と3 年後に深圳と北京に相継いで店舗を開設したのは、民主化を先取りした台湾進出とも似て中国本土の「窮→変→通」を見通した事と思われる。
1955 年創業のマクドナルドは71 年に日本で亜細亜の1 号店を開業した後、香港への「登龍」(「小龍」への「登陸」[上陸])を果した翌76 年から、モスクワ五輪開催の80 年にソ連で事業を始めるよう交渉を進めたが、新嘉坡進出の79 年の降クリスマス・イブ誕祭の宵祭(12 月24 日)のソ連軍に由るアフガニスタン侵攻で暗礁に乗り上げた。中国も含む大勢の国のモスクワ五輪参ボイコット加拒否から9 年半経って、90 年1 月30 日に漸くモスクワでの第1 号開店に漕ぎ着けたが、前年のアフガニスタンからのソ連撤兵終了(「中国12 億人口日」と同様「情バレンタイン・デ― 人節」の翌日)を待った上での慎重さは、西側企業の「鉄の窓カーテン掛」への歴史的な突破の先駆に相応しい。1959 年7 月23 日にニクソン副大統領が米国博覧会の開会式に出席する為にモスクワを訪れ、翌朝に会場の台所展示場等で共産主義と資本主義の優劣等を巡ってフルシチョフと論戦を繰り広げたが、その「厨房論争」に決着を付けるかの如く30 年後のマクドナルドのモスクワ1 号店の始業の際に、当地では高級料レストラン理店並みの料金にも関らず夜明け前から長蛇の列が出来て初日の来客は3 万人を超した210)。米国の食文化に魅せられた大衆の傾倒はソ連解体への傾斜と同じ方向で連動した観が有るが、資本主義のこの勝利は東側超大国に対抗する西側超大国の執念の結果だったとも言えよう。
世界覇権2 強の首脳の「唇槍舌剣」(唇は槍、舌は剣。舌端火を吐く。激しく論争・応酬する様)の前日の7 月23 日、毛沢東は政治局拡大会議(廬山)で彭徳懐批判の口火を切って党・国を更に左旋回の迷走へ導いたが、中共第1 回党大会開幕38 周年のこの日の「逆噴射」は20年後に否定された。五輪誘致の雲行きが危うい中でマクドナルドはモスクワや漢ソウル城の場合と違って迷わず北京に足場を築いたが、先陣の深圳で証明済みの改革・開放の実績への揺ぎ無い信頼と将来性への洞察に拠る処が大きいだろう。ソ連解体後も「腐っても鯛」(中国流では「痩死的駱駝比馬大」[痩せて死んだ馬は駱駝より大きい])と言う様に、露西亜は往年の栄光に余り恥じぬ経済水準を保っている(2009 年の1 人当りGDP は世界60 位の8694j)が、成長の速度では中国の後塵を拝し続け09 年の経済総量は中国(4.91 兆j)の1/4(1.23 兆j)しか無く、順位も同じBRICs の伯ブラジル剌西爾(8 位の1.57 兆j)と印度(11 位、露より70 億j多い)の下の12 番に甘んじた。同年の韓国の平均GDP の38 位(17074j)とGDP 総額の15 位(8325億j)や、韓国と隣り合う台湾の平均GDP(39 位の16392j。GDP 総額は25 位の3790 億j)を見ても、四半世紀前から冷戦終結の直後までの台湾→韓国→ソ連・中国でのマクドナルド出店は自然な流れと思える。
1990 年代の初頭にソ・中への進出を成し遂げた事は最後に残った超大国の立場からすれば、20 世紀の抗争に対する「了結」(けじめ)と21 世紀の競合に纏わる「情結」(複コンプレックス雑な感情)が感じられるが、中国を制すれば世界最大の「爆食巨龍」の胃袋を掴むことに成るのは火を見るよりも明らかである。北京市の常住人口の1 人当りGDP は五輪開催の翌年に10070jと初の5桁大台に乗り、市の政府筋は世界銀行の基準に基づいて「中等富裕都市」と自己規定したが、同年の10.1%増の速度が維持でき且つ人民元対米ドル相場が堅調に推移するならば、翌10 年には先進国・地域の水準を意味する1.1 万jに達成する見込みである211)。「万元戸」(改革・開放初期の金持ちの代名詞、年収1 万元の者)を超えて「万美元戸」(美元=米ドル)と成ったのは、旧ユーゴの中の最富裕のスロベニアより10 年も遅いが、2 年早く達成したクロアチアの4 年前にマクドナルドを受け入れた事は「中国情結」の強さを窺わせ、首都を攻略しておけば本土を掌中に収められるという「北京情結」の合理性・生産性も再確認できよう。  

196)「アイスランドからビッグマックが消える―金融危機の余波で利益圧迫」、[英国]『フィナンシャル・タイムズ』紙2009 年10 月27 日、JBpress(日本ビジネスプレス)同28 日。
197)「明日朝8 時 人類50 億人」(『朝日新聞』1987 年7 月11 日夕刊)、「“50 億人目の赤ちゃん” 国連が認定 11 日午後3 時35 分ユーゴで誕生、マテイちゃん」(『毎日新聞』1987 年7 月12 日)、「50 億人地球号の“ 時限爆弾” 世界人口 このアンバランス 出産奨励、必死の欧州」(『朝日新聞』1987 年7月12 日)。
198)中国社会科学院・清華大学国情研究中心編、胡鞍鋼主編『地域与発展:西部開発新戦略』、中国計劃出版社、2001 年、16−17 頁。
199)スロベニアの1 人当りGDP は1999 年に10076jに達し、同年の1 人当り国民総所得(GNI)は恰度1 万j。([財団法人]矢野恒太記念館編集・発行『世界国勢図会』第12 版[2001 / 02、2001]、出所は1 人当りGDP =世界銀行、1 人当りGNI =国連のデータベース)
200)「各国のマクドナルドのオープン年次」、ジェームズ・ワトソン編GOLDEN ARCHES EAST McDonald’s in East Asia(1997)、日本語版(前川啓治・竹内恵行・岡部曜子訳『マクドナルドはグローバルか 東アジアのファーストフード』、新曜社、2003 年)38 頁。
201)クロアチアの1 人当りGNI は2006 年に1 万j突破(10684j)と成ったが、同年の1 人当りGDPは9665j。(『世界国勢図会』第19 版[2008 / 09、2008]、20 版[2009 / 10、2009])
202)ダニエル・ドーリング/ マーク・ニューマン/ アンナ・バーフォードTHE ATLAS OF REAL WORLD Mapping the Way We Live(2008)、日本版(猪口孝監修『世界の中の日本がわかる グローバル統計地図』、東洋書林、2009 年)176 頁。
203)同上、175 頁。
204)同上、93 頁。出所はマクドナルド社「各国の店舗数」(2006 年)。
205)「杜少府之任蜀府」(杜少府、任に蜀府に之ゆく)と題する五言律詩、􄋍塘退士編・目加田誠訳注『唐詩三百首 2』(平凡社、1975 年)、8 頁。
206)発案者と提起時期に就いて複数の説が有り、本稿の根拠は「極なき時代 マネー漂流 米集中に変調の兆し」(『日本経済新聞』2011 年2 月2 日、特集「不均衡な世界」第1 部「成長と停滞と」上)。
207)本稿筆者は「“ 文革” 後の中国文学と日本の戦後文学―相互参照の試み」(岩波書店『文学』1989年第3 号)の中で、中国の「文革」後文学(1978−86)と日本の戦後文学(1945−55)の類似の現象・問題を系統的に比較したが、其々の「第1 の波」「第2 の波」「第3 の波」を対照する視座の前提として次の対応関係を指摘した。「両者の時間のずれ(31 年)は、明治維新(1886)と“ 百日維新”(1898)、日、中近代文学の発端である『浮雲』(二葉亭四迷、1887)と『狂人日記』(魯迅、1918)の時差、そして、それ以降の両国の社会や文学の発展における30 年ほどの落差とほぼ一致しており、そこから共時性的パラダイムが成立する。」(38 頁)更に2 つの論考対象の年表(59−63 頁)で、其々’76 年と’45 年を「原点」とし、’77−’86 年と’46−’55 年を「1 年目」……「10 年目」とし、各々動きを時系列で示し且つ同列に並べた。
上記引用文の中の明治維新の年代は言うまでもなく1868 の誤植で、筆者・編集部・印刷所の3 方とも見落としたこの瑕疵の他にも、「悔其少作」(其の若い頃の作品を後悔する)という文筆家の人情の常の通り反省点が幾つか有る。例えば、題名は「中国の“ 文革” 後文学と日本の戦後文学」とした方が、「文革」を形容する「浩劫」(大災禍)に因んだ筆者独創の「劫後文学」の名称に相応しい。或いは、前者の範囲は「傷痕文学」の代表作・『傷痕』(盧新華)の発表年(1978)に拘らず、後者と対応する年表の通り「文革」終結の1976 年からの10 年間にすれば、整合性も取れるし1966−76 年の「10 年浩劫」とも対照に成る。更に、明治初期・清朝末期からの両国社会の発展の時タイム・ラグ間差の30 年程度の説も、筆者が後の論説で展開した様に約30−40 年と言う方がより実態に合う。
将来の業績集成に備えて訂正・修正の意向を此処に書き留めて置くが、90 年代以降の日本の言説空間で現れ今もはや常識化した両国間の30−40 年程の発展の時間差を、経済等から遠く離れた比較文学の研究分野からではあるが逸早く提起した、という事の意義には相変らず自負を持っており、且つ「自負」の字面に似合う様に当該現象の一層の立証・解明の責務を自ら負って行きたい考えである。
208)聖バレンタインの記念日が日本で1958 年頃から流行したとは、『広辞苑』の「バレンタイン・デー」の説明にも記された定説である。中国では「情人節」(バレンタイン)は今や「聖誕節」(降クリスマス誕節)に次いで、2 番目に市民権が普及する「洋節」(西洋[伝来]の祝祭日)と成っている(舎禾「西方聖誕節PK 中国新春節?」[『麦種』[基督教関係者が2006 年に創刊した季刊誌]第4 期、同年]に拠ると、武漢の某大学の社団[学生団体]が大学生を対象に行なった祝祭日意識調査の結果、知っている西洋[伝来]の祝祭日の1 位は「聖誕節」[96.8%]、2 位が「情人節」[91.6%]で、次の「母親節」[母の日]も86.7%と比率が高い。因みに4 位[70.3%]は「愚人節」[四エイプリルフール月馬鹿]だ)が、改革・開放後の中国本土に入った時期は考証困難で、80 年代前半の「聖誕節」の上陸に続く同後半の事か思われる。
東京五輪と北京五輪の44 年の時間差に当て嵌まれば、日本で流行し始めた43 年後の2001 年の2 月14 日の中国新聞社の報道に拠ると、同社の無作為電話調査に応じた北京・上海・広州の15−44 歳の市民には、54.6%の人が物を買って「情人節」に他者に贈る心算だった。(「調査顕示:中国城市青年歓度情人節不􄭧浪漫」)中国の「後来居上」(後の者が前の者を追い越す)を物語る様に、更に5 年後の上海では3.5 万元(約51.4 万円)もする「情人節」贈り物が発注され、999 本の黒い薔薇(輸入品)で束ねたその「花球」(花はなボール球)の「天価」(天[極限]に届くような/ 破天荒の超高価)は世間を瞠目させた。(劉元旭・張建松「拿什么来愛你、伝統節日」、『文匯報』2006 年2 月12 日)209)1921 年の中共第1 回党大会の開催時期に就いて、時間の経過及び陰暦の混在の所為で出席者の記憶は10 数年後には完全に曖昧に成った。創設17 周年を祝う為に確定を要請された毛沢東・董必武は止むを得ず、便宜的に7 月の初日を建党記念日に定めた。毛が実質的な党首を務めた時期と同じ41 年半経った後、『中国社会科学』1980 年第1 期に掲載された邵維正の論文「中国共産党第一次全国代表大会召開日期和出席人数的考証」に由って、7 月23 日に開幕し31 日に閉会したことが断定された。(葉永烈『紅色的起点』、207−211 頁)但し、「7.1」を党の「誕生日」とする慣習に対しては、実事求是の原則に則のっとる是正は未だに成されておらず、判明から奇しくも同じ41 年半後の建党100 周年の際にも前例は踏襲されるだろう。
210)内畠嗣雅「マックがロシアにできた日」、『SANKEI EXPRESS』2010 年2 月8 日。
211)蔣彦鑫「北京人均GDP 破10000 美元」、『新京報』2010 年1 月22 日。その10070jが世界銀行の基準に拠る計算かどうかは未詳である。 
非「教父」の胡錦涛の世界影響力1 位が物語る域外の
 驚異+脅威の「中国情結」

 

米誌『フォーブス』は2010 年11 月4 日に恒例の本年度「世界影響力番ランキング付」を発表し、世界で最も影響力の有る人物の第1 位は前回のオバマに代って胡錦涛を選んだ。米国大統領の第2位への下落は2 日前の中間選挙での民主党の歴史的な大敗が要因と成っており、一方の中国国家主席は世界人口の1 / 5 に当る13 億人の国民をほぼ独裁的に支配していると言う。サウジ亜アラビア剌比亜国王の第3 位はマクドナルドの同国進出の遅さ(1994)を思えば奇妙な感じもするが、第4 位の露西亜首相と同じく資源大国の実力の体現として受け止めれば頷ける。次の羅馬法王も世界最小(東京ディズニーランドの0.49 平方`にも及ばぬ0.44 平方`)の市国に居ながら、中・印国民の13 億、12 億に次ぐ11 億人もの旧カトリック教信徒の総教祖として大国元首並みの位置付けも当然である。
バチカンの人口は1988 年の770 人から2005 年557 人を経て09 年には784 人であるが、人口密度の1875 人/ 平方`は上位4 人の国の同140 人、34 人、12.8 人、8 人の13 倍強−230 倍強に当る。毎週水曜日の羅ローマ馬法王の一般謁えっけん見で世界から来た数万人の信者が広場で拝観・拝聴する儀式は、「全ての道は羅馬に通じる」(中国語=「条条大路通羅馬」)とは別種の「羅馬情結」を感じさせる。英語のAll roads lead to Rome のlead(導く)と法王を表わす中国語の「教皇」に引っ掛ければ、「偉大な」を冠する賛辞の「導師・領袖・統帥・舵手(舵取り)」の1 番目だけを認めた毛沢東が思い浮かぶ。若い頃の教員担当歴と「現役教員」の自任を理由に首肯した「導師」は教師(teacher)の心つもり算でいた212)が、中国語で指導教官をも指す「導師」は日本語で仏・菩薩の敬称(仏道を説いて衆生を悟りに導く者の意)で、対応の英語は寧ろguru([ヒンドゥー教・シク教の]導師・教師、[運動・思想・宗教等の]超カリスマ人的な指導者・権威者・専門家)で、毛に対する「文革」中の個人崇拝は「導師」以上の「教祖」や「教父」(グッド・ファーザー)の域に入った。
天安門広場で彼の姿を拝見する為に百万人も犇ひしめいた紅衛兵の物理的な超過密と心理的な超熱狂は、同じ44 万平方b(広場の南北、東西の幅が880b、500b)のバチカンでの信者集合よりも凄い。世界最大の広場と最小の市国の同面積の「帝国の表徴」と「表徴の帝国」の対の象徴として意味深長だが、毛沢東の死後その晩年の暴政への反動で起きた体制・社会主義への不信が「信仰危機」と呼ばれたのも、全国民が随時に領袖への忠誠を誓う儀式を繰り返した「文革」前期の奇観と表裏一体である。中国では国民党時代から「信仰」は信奉の意が有り主義・主張・学説等に就いても広く用いるが、政治信条・信念をも指す「政治信仰」は宗教的な性質を濃厚に帯びている。
「信仰」は日本では『広辞苑』の語釈の通り、「信じたっとぶこと。宗教活動の意識的側面をいい、神聖なもの(絶対者・神をも含む)に対する畏怖からよりは、親和の情から生ずると考えられ、儀礼と相あいま俟って宗教の体系を構成し、集団性および共通性を有する」とされる。親和の情に縁る結束は奇しくも「情結」の字面に填め込まれており、この語の「複雑な感情」の意も信仰の「畏・敬」の重層に当て嵌まるが、毛沢東が「神壇」に祭り上げられ信じ尊たっとばれたのは親和の情よりも神話の力に由る処が大きい。「始めに言葉有りき。言葉は神と共に在りき。
言葉は神なりき。」という、『新約聖書・ヨハネに由る福音書』の冒頭の言を引き合いに出すまでもなく、毛の「新星爆発」も「神性暴騰」も世界的に普遍な神格形成・「天声」発信の威光の例に漏れない。
胡錦涛乃至ケ小平より遥かに独裁的に中国を支配し且つ世界を大きく動かした毛沢東も、世界影響力で最上位辺りに居る時期が短くなかったと見て能よかろう。20 世紀の第2 の1 / 3 世紀の交に国民の人数分以上で発行し海外にも広く流布した『毛主席語録』は、一時『聖書』並みの影響力を発揮したものの僅か10 年近くで蒸発し『聖書』の不滅を際立たせた。その生誕の翌年が西暦紀元の起源とされたイエス(実際は紀元前4 年頃生まれ)を開祖とする基キリスト督教の至高の教典の絶大な存在感は、2009 年1 月20 日オバマが第44 代合衆国大統領に就任する式典で端的に顕示された。アフリカ系米国人、本土以外(布ハワイ哇州)の出身、1960 年代以降の生まれとして建国以来の異例尽ずくめの彼は、200 年前の1809 年に誕生し自分の生年(1961)の恰度200 年前に第16 代大統領に成ったリンカーンの、就任式で使用した由緒有る『聖書』を左手に載せ右手を挙げて荘厳な宣誓を行なった。
憲法で定めた宣誓文の“I will faithfully execute the Office of President of the United States”(私は忠実に合衆国大統領の職務を遂行し)は、連邦最高裁判所長官の読み間違えで“faithfully” がこの文の最後に持って行かれた。副詞をそれが掛かる動詞の前に置くのが語順の鉄則と成る中国語では有り得ない初歩的な誤りだが、オバマは不正確さに気付き一瞬言い淀んだものの“faithfully” の文字通り忠実に復唱したので、宣誓は法的には有効でありながらも翌日に大ホワイトハウス統領府で遣り直された。会場周辺で巨大テレビを通して歴史的な瞬間を見詰めていた群衆から長官の間違いで響どよ動めきが起きたが、華盛頓の人口の3 倍強の200 万人という史上最多の観衆が国内外から盛典に集まったことは、米国の首都・大統領の求心力を雄弁に物語っている。35 語の就任宣誓の中の先賢の手垢が付いた『聖書』の画龍点睛は政治と宗教の複合・相乗の符号に映るが、首脳の世界影響度の上位に在るサウジ亜剌比亜・露西亜や印度でも似た威勢の為政が見られる。
世界影響力番付の第6、7 位に選ばれた独逸首相、英国首相は、両国の前年GDP(3.35 兆j、2.18 兆j)の世界第4、6 の順位に合うが、逆に第5 位の仏蘭西(2.68 兆j)の首脳が上位陣に無いのは世界影響力の相対的に弱さを浮き彫りにした(同年の1 人当りGDP では英、独は第22、16 位[35334j、40875j]で、仏は第15 位[42747j]だから政治・外交の力不足の印象が尚更強い)。この3 ヵ国へのマクドナルド進出順は西独(日・濠と同じ1971 年)、仏(72)、英(74)であるが、西欧・亜細亜・大洋州の先進国の第1 陣より四半世紀も遅れた(96)印度は、近未来の人口最多に由る可能性への「先物買い」かの如くこの番付で国民会議総裁が第9 位に輝いた。
「金ブリックス磚4 国」の内の中・露・印の第1、4、9 位の分布は軍事力を盾にする旧超大国の強味を思わせ、マクドナルドが79 年に南米初(濠太剌利、新西蘭[76]に次ぐ南半球での3 番目)の進出を果した伯剌西爾は、逆に総合的な国力と「地球村」での存在感の遜色がやや有る様な印象が持たれた。伯剌西爾は2009 年にリオデジャネイロの2016 年五輪主催誘致に成功し、濠太剌利のメルボルン(1956)、シドニー(2000)に次ぐ南半球での3 度目の夏季五輪は新興大国の登龍門に成ろうが、蹴サッカー球の世ワールド・カップ界杯の主催では同じ南半球の南アフリカの実績(2010)より4 年遅れる(因みに、南アは伯剌西爾に比べてマクドナルド進出も16 年遅い[1995]し、09 のGDP の総額[2872 億j、32 位]と平均[5824j、74 位]も其々24 位、13 位低い)。
4 大新興国と共に2050 年への道を歩もうという夢を米投資銀行がイラク戦後に売り捲くったのは、金融・資源の商品の高騰を演出し自ら利益を獲得する相場操縦の術と見て邪推とは言え切れない。この「虚業巨星」は伝統的に米国政府との癒着が深く中枢高官の人材供給源や天下り先と成っており、例えば1965 年4 月−68 年12 月に財務長官を務めたファウラーは退官後に同社の共パートナー同経営者に加わり、66 年に入社後5 年で共同経営者に抜擢され90 年に共同会長に上り詰めたルービンは95 年1 月−99 年7 月に財務長官を務め、2006 年7 月−09 年1 月の財務長官・ポールソンはゴールドマン・サックスの前会長兼最C O E 高経営責任者(1999 年就任)だ。越南戦争に本格的に突入したジョンソン政権、財政赤字の削減を強いられたクリントン政権、世界的な金融危機に襲われた小ブッシュ政権の下で、史上第58 代、70 代、74 代に当る3 人は国家経済の番頭として舵取りの役割を果したが、「特急」の超速度で出世した早年のルービンの異名・「鞘取りの天才」の様な敏腕も感じ取れる。
『フォーブス』誌選2009 年「世界影響力番付」の第8 位は米国連邦準備制度理事会(FRB)議長で、最強国の中央銀行の機能を担う金融の番人の重みは給与が首相よりも高い日本銀行総裁を見ても分るが、記録的に5 期連任した(1987 年8 月−2006 年1 月)グリーンスパンの後の第14代も栄光を浴びたわけだ。それと呼応する様に第10 位は華盛頓州レドモンド市に本社を置くマイクロソフトのビル・ゲイツ会長だが、『フォーブス』の世界長者番付で1994 年以降ほぼ1 位(07、09 年は2 位)を独占して来た彼は、マクドナルド創設の1955 年に生まれ弱冠20 歳で後に世界最大と成った電脳ソフトウェア企業を起し、その追随を許さぬ成功は情報技術革命と富の両方に於ける米国の絶対的な強さの象徴と言って能よい。ニクソン政権で毎朝大統領に世界情勢を報告する「ザ・プレジデント・デイリー・ブリーフ」をキッシンジャー国務長官と共に担当したヤング博士が、マイクロソフト発足の75 年にオックスフォード・アナリティカ(英国の情報分析・顧コンサルティング問会社)の「デイリー・ブリーフ」を開始したが、現在49 ヵ国の政府・国連・国際機関と160 余りの世界的な企業・金融機関に配信されているこの情報提供の中で、紛争・動乱等の危リスク険性項目を測る目安の「グローバル・ストレス・ポイント・マトリックス」が有り、近年「衝撃の度合い=最高」の2 項目に挙げられる「ドルの崩壊」「国インターネット際電脳網の崩壊」は、正にバーナンキ議長とビル・ゲイツ会長の世界影響力番付での10 傑入りと表裏一体を成す。
2009 年11 月の第1 週のGSP では、次の「衝撃度=高い」(5 項目)の1、2 番目の「中国と台湾の軍事衝突」「米国に由るイラン攻撃」は、上記の世界影響力番付に於ける胡錦涛、オバマの高位と妙に符合する。世界緊張危リスク険性要因一覧の第8−22 の「中程度」項目の中で「原油価格の急変」が最初に出たのは、この範疇内の第6、7(全体の中の第13、14)の「露西亜の対外的軍事行動」「欧ユーロ州通貨からの主要国離脱」と共に、世界情勢に対するサウジ亜剌比亜の元首と露西亜・独逸の首脳の影響力の高さの裏付けに成る。更に2 位、3 位下の「印度とパキスタンの軍事衝突」「パキスタンの政権崩壊」から、印度及び「金磚4 国」の半分強(含む露西亜の相当部分)を占める亜細亜の地政学的な危リスク険性が再認識させられる。「煉瓦」に引っ掛けた洒落でBRICs の冒頭に位置する伯剌西爾が全25 項目に入っていないのは、中国の高緊張・高成長や露西亜・印度の中緊張・高成長と対照的な低緊張・高成長の現れと取るなら、「無限風光在険峰」(無限の風ふうこう光 険けんぽう峰に在り)という周恩来がニクソンに紹介した毛沢東の詩句213)の通り、中国流で言う「風険」(リスク)と「回報」(見返り)の正比例に合う結果と考えられる。
BRICs の中で伯・露に次ぐ印・中のIC は両国の電脳製造や情報技術産業の発達に因んで、集積回路(integrated circuit)の略称を捩もじった意味も有る。中国は1997 年の香港返還後に第1 次鴉片戦争の直前に英国に冠された「世界の工場」の地位に就いたが、1877 年の英国領印度帝国の成立から1947 年「8.15」独立まで70 年も英国に従属していた印度は、歴史の巡り合わせで国民の英語力の強味を生かして中国と張り合う「世界の事オフィス務所」に変貌した。米国企業の顧客対応等の業務を引き受ける「人智戦略」(中国的な「人海戦術」に擬なぞらえた造語)に由って、国インターネット際電脳網で距離や時差の隔たりを超える展開はマクドナルドにも似た脱国籍・多地域の性格を持つ。窮乏の故の安価な人件費と貪欲の故の勤勉な国民性を武器に台頭した両「発展途上準超大国」は又、社会主義国家と民主主義国家の中で其々最大の政治団体を擁する処も共通している。印度の政党として最も古い歴史を持つ国民会議派は1885 年12 月28 日にボンベイ(現・ムンバイ)で創設し、72 人の代表が集まった第1 回会議から60 数年の苦節を経て独立後の30年間は与党であり続けた。英領帝国成立100 周年の1977 年に中央政権の座を奪われたのは民主主義に対する独裁専制の敗北とされたが、80 年の復権→ 89 年の下野→ 91 年の勝利、96 年の転落を経て2004 年に再び返り咲きし、10 年に党首が世界影響力番付の10 傑に入ったのは「民主主義は数の力なり」の原理に合致する。
翻って、胡錦涛の世界影響力No.1 も突き詰めれば数の力が物を言うという普遍的な価値観に沿うものだ。中共第1 回党大会の出席者は只13 名(共コミンテルン産国際の2 人の代表[荷兰人马林、俄国人尼克尔斯基]は含まず)に過ぎなかったが、僅か28 年で政権を取り統治下の国民は建党から83 年半の後に創設代表の1 億倍に当る13 億人に達した。毛沢東が開国大典で28 発の礼砲を鳴らすよう指示したのは、建党から建国までの年数に当る党史へ礼讃の為だと言う214)が、この順当な理由の他に彼の建党時の年齢や氏名の漢字の画数も思い当る。その「28 情結」に即して思えば建国の28 年目は毛沢東・周恩来・朱徳逝去の翌年に当り、その1977 年には5月のケ小平の職務復帰に続いて第11 回党大会で華国鋒主席は「文革」の終結を宣言した。歴史的な転換の道標と成った大会の閉幕日の8 月18 日は巡り巡って、陝西北部で国民党軍に銃撃の射程内まで追撃されたという毛の生涯最大の危急215)の恰度30 年後だ。建国直後の年末に成った毛の満年齢の56 は奇しくも国内民族の総数と一致するが、建国56 周年の年頭に13 億人目の国民の誕生は建党からの期間で「83(41)」の天数の示現が見られる。
「1 大」開催時の党員数も長年の権威有る53 人説と違って最近の調査で56 人という新説が出た216)が、28 の倍数で「中華民族大家庭」の「種族」数と同じこの人数は建国時に449 万人に成り、80179 倍もの増加は28.2 年で割れば毎年平均して創設構成員の28.43 倍の15.9 万人が増えた計算である。2010 年建党記念日の前日に発表された最新の党員数は建国時の17.37 倍に当る7799.5 万人に達しが、経過期間の60.8 年で割った年率28.57%は建国前の28.43 倍の1%に過ぎないものの、引き続き28 の「天数力」を発揮するかの様に人口に占める党員の比率を1%強から6%程度に押し上げた。因みに、小数点以下の43 と57 は合計が100 の組み合わせだけでなく、其々毛沢東の党主席就任・全権総攬と「反右派」粛清・独裁開始の西暦年の下2 桁である。
中国の与党党員数は何いつ時の間にか2009 年世界人口217)で第17 位の土耳古(7482 万)を超えており、第14−16 位の埃及・エチオピア・独逸(8300 万、8282 万、8217 万)への牛ごぼう蒡抜きは時間の問題であり、人類史上初の9 桁の党員を擁する超巨大政党の出現も近未来時間の問題であろう。2002 年10 月党大会時の6694.1 万から07 年6 月の7336.3 万は平均毎年142.7 人(2.1%)増218)で、その後の3 年の大体同じ速ペース度(平均毎年154.4 万人増)で安定的な持続成長をして来たので、母体数の逓増に伴う年度毎の増加数の逓増傾向を考慮すれば、更に11 年後の建党100 周年の節目に党員1 億人の実現も不可能ではない。上海万博で入場者の史上最多記録を作る為の国家の必死な努力と確実な達成を見ても、途中の予想外の低迷が招いた内外の悲観・懐疑を見事に覆す政権の意志と実力の強さが確認できる。
曾て1999 年4 月25 日に1 万人の法輪功信者が正当性を主張する為の坐り込みを中南海の周辺に敢行し、10 年前の同月19 日に中南海・新華門で民主化急進派学生が突入を図って警備陣と激突し、その導火線で25 日にケ小平等が『人民日報』社説に由る反「動乱」宣言を決断しただけに、不意打ちを受けた当局は天安門事件の再来の悪夢に戦慄し新しい大敵を極度に警戒するように成った。大規模の隠蔽作戦の成功で一挙に脚光を浴びたその擬似新興宗教集団は海外で忽ち過大評価され、共産党に匹敵する数千万もの信者の結束力を以て太平天国並みの大乱を成し遂げかねないとまで囃された。ところが、当局の撲滅運動で国内の法輪功は瞬く間に一掃され地下に潜ると域外で活動するしかなくなった。米国に本拠を置く機関紙『大紀元時報』(週刊)は数年来、毎号に「退党退団退隊者総人数」(共産党・共産主義青年団・少年先鋒隊からの脱退者総数)の統計を載せており、2004 年12 月3 日以降の累積は僅か6 年で9000 万人に迫る天文学的数字と成った。中共党員は2009 年末に前年末の共青団員総数(7858.5 万人)とほぼ同じ水準の7799.5 万人に達し、同時期の1.3 億人の少先隊員を加えて総勢2.9 億人もの革命大集団を成しているが、その中の3 割に相当し億に近い人も離脱の意志表示をしたとは希望的な観測を超えて、「痴人説夢」(痴人に夢を説く。出来もしない馬鹿げた事の比喩)と言うべき荒唐無稽の泡バブル沫に他ならない。
ニクソンは中国政府主催の歓迎宴会での挨拶や毛沢東との会見で、「一万年太久、只争朝夕」(一万年は太あまりに久しければ、只朝ちょうせき夕を争わん)という毛の詞うたを引用した。その「満江紅・和郭沫若同志(郭沫若同志に和す)」(1963 年1 月9 日)の前段に、「􄴶蟻縁槐誇大国、蚍蜉撼樹談何易」(􄴶あり蟻 槐えんじゅに縁よりすがりて大国を誇るとも、蚍あり蜉が樹きを撼ゆさぶる 談だん何な んぞ易しき)と有るが、白日夢や「以卵撃石」(卵を以て石を撃つ。力の弱さを顧みず強敵に立ち向って自滅する譬え)に対する揶揄は、元より気功修練に由って人気が集まった法輪功の蜃気楼めく雲消霧散の形容にも適う。建国の翌々年に生まれ80 年代に法輪功を創設し96 年に米国に移住した李洪志の求心力・影響力の限界は、首都・本国に於ける立脚の地の喪失と互いに因果関係に在ると思われるが、逆に政権の「大樹」に寄る「長い物には巻かれろ」の群衆心理は「北京情結・毛沢東情結」と通底する。
世界影響力番付に於ける菅直人首相の第27 位は「日の出の国」の「斜陽」ぶりを映し出し、発表直前の11 月1 日に露西亜大統領が日本の領有主張を無視して国後島を初訪問したのも、4 ヵ月前に第2 経済大国の座を失った日本の国際舞台での頽勢の現れとして強弱の大差を裏付ける。前年8 月30 日の衆議院総選挙で自民党が歴史的な大敗を喫し、米国と同じく民主党が日本の与党に成ったが、年末の党員・党友が自民党の約1 / 4 に当る26.9 万人(全人口の0.2%)しかいないのは、「天下取っても四畳半」という熟語の様に所帯の小ささと欲望の薄さを感じさせる。民主主義国家の中の最大政党がその圏内で人口が最い多印度に在ることは、09 年初頭から米国を席巻した保守派の草の根の運動「茶ティーパーティー話会」の百万人単位の規模と共に、日本の政治・社会の「少食・草食」系の常識への疑問を提起して来る。
日本では印度国民会議派の成立の年に初代内閣・首相が誕生し福沢諭吉が「富国強兵」を唱え、60 年後の戦敗を転機に「皇・軍」(天皇・軍部)主導・対外拡張の「国家の時代」から官僚主導・経済専念の「企業の時代」に変り、更に干支の1 巡後の2005 年から指導者不在・朝野劣化の「個人の時代」に入った219)。同じ2005 年の1 月6 日に北京で13 億人目の国民に当る「小皇帝」が誕生し、中国で子供誕生祝いの節目と成る100 日目の4 月15 日には、一部の都市で続発した「憤青」(憤怒の青年)群グループ体の渉外示デモ威が中央の制御不能の寸前まで発展した。
日本の国連安保理常任理事国入りに反対する署名活動・抗議行進が3 月26、27 日に広州・深圳で起き、「北伐」挺進の勃発として4 月2 日に成都の「伊藤洋華(イトーヨーカ)堂」前で小規模の抗議行動が起き、窓硝ガラス子を割る等と過激化し220)、燎原の火が忽ち深圳(3 日)、北京(9日)等まで広がり、16 日に上海で前代未聞の10 万人規模の示威行進が行われた。日本外相訪中の17 日に北京で予定の示デモ威行進は当局の阻止で中止と成り全国でも一気に鎮静化したが、「百尺竿頭、更進一歩」の寓意を持つ101 の天数(自然の命数)を中国語の「天数」(日数)に引っ掛ければ、度を超す行き過ぎとそれを糺す緊急発動の両方に暗合する。
その山場の恰度5 年半後の2010 年10 月16 日、釣魚島(日本名・尖閣諸島)附近での中国漁船と日本海上保安庁巡視船の衝突事件(9 月7 日)に抗議して、又もや日本の小売業大手企業・イトーヨーカ堂の成都店が暴力的な群衆示威の第1 弾の標的にされ、今度は数千人規模の騒ぎで店は客を避難させ臨時休業を余儀無くされた。同日の西安・鄭州と翌日の[四川]綿陽、翌々日の武漢、23 日の[四川]徳陽、24 日の蘭州・[陝西]宝鶏、26 日の重慶、30 日の長春等で類似の行動が起きたものの、中国の外交勝利・内政規制と元々の私的な鬱憤晴らしの性格等の複合要因で間も無く下火に成ったが、国内の貧富水準の段差に符合する人口地理分布境界線の黒河(黒龍江)−騰衝(雲南)線の以西には多く、以東に在る豊かな地域に余り波及しなかったのは地理政治学の見地から考えても興味深い。次期総書記の確定に繋がる習近平の軍委副主席就任の有無が焦点と成る党中央総会(15−18 日)の最中、首都に於いて和諧(調和)221)を脅かす如何なる不穏な動きも封じ込まれるのは至極当然の事であるが、上海と広州・深圳でも今回は波乱が無いのは「紛争防止の黄金のM 型拱アーチ理論」でも説明できそうだ。深圳も北京もマクドナルドの出店が20 年前後経ったので、過激な闘争に挑む隊列より快適な外食を求める行列に加わる層の圧倒的な増加が安定を増していると思える。
世グローバル・ストレス・ポイント界緊張度項目の「行マトリックス列」で3 位に在る「中国と台湾の軍事衝突」も、マクドナルドの中国進出の1990 年以降は危機的な状況は1 度も無かった。逆に前回の世界影響力番付の発表前の09 年11 月の第1 週のGSP では、危リスク険性の各項目が1 年以内に現実化する可能性を示す「緊張の強さ」は「+50」〜「−50」の範囲内で数値化し、最低の「−38」は他ならぬ中・台の軍事衝突である(次に低いのは4 位の「米国に由るイラン攻撃」の「−28」、22 位の「イスラム武装勢力に由る大規模攻撃」の「−27」、1 位の「ドルの崩壊」の「−26」)。対して、同じ衝撃度「中」(8−22 位)に在る「中南米政府の石油瓦斯部門への介入」(11 位)と「ナイジェリア沖合油田への攻撃」(15 位)は、蓋然性が最も高い「+25」「+20」で石油・南半球の複合危険を思わせる。
次に高い「+18」の「北朝鮮の軍事対立」(23 位)と同じ衝撃度「低」の部類の中で、25 位の「巴バルカン爾幹半島諸国の混乱再発」の緊張度「+15」は先週からの変化率が全項目中の最高の↗ 0.9 であった。一覧の最後に位置するこの項目の変動は掲載紙の解説に拠ると、「巴バルカン爾幹半島諸国の混乱再発リスクが上昇した。西側諸国は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治的な膠着状態を解消しようと外交ルートを通じて調停を試みたが、同国の政治指導者らによって拒絶された。交渉の決裂は、機能不全に陥ったボスニアの危機の深刻さと分断の大きさを物語っている。今回の西側諸国による取り組みは、内戦を終結させた1995 年のデートン合意を通じたもので、欧州連合(EU)と米国の間で初めて、部分的ながら協調した動きも見られた。しかし、過去の失敗を繰り返してしまい、取り組みは失敗に終わった。」222)世界緊張度要因一覧の衝撃度「低」の3 項目の真ん中は「中央亜細亜での大規模な混乱」であるが、上の北朝鮮の全体の下から3 番目は同じ軍事衝突が懸念される台湾の上からの3 位と興味深い対照を成す。俱に東北亜細亜の中のこの2 つの民族分断が60 年以上続いた国や地域の人口は、その年に同じ2300 万人台の上限と下限に在る(2391 万対2305 万、間にガーナ・イエメンが有る)。世界人口の0.35%しか無い朝鮮民主主義人民共和国の世界順位は47 位で、翌年の世界影響力番付で国王が4 位に選ばれたサウジ亜剌比亜(46 位、2572 万)に次ぐが、核実験等で恐喝を繰り返した「無頼」の狂暴の割に衝撃度が低いのは国の規模の小ささも一因であろう。巴バルカン爾幹半島諸国の厄介さも国際社会にとって喉に引っ掛かった小骨の様な物だが、世界緊張度「行列」の末尾で懸念が薄い地域・領域との境界線上に在る微妙な位置付けは又、世界の50 億人目、60 億人目の誕生の舞台に選ばれた「巧合」(偶然の一致)の別の象徴性を思わせる。
巴バルカン爾幹半島諸国の混乱再発の緊張度が高まった2009 年10 月、60 億人目のアドナンは12 日に個人的な心配事を抱えた儘で満10 歳を迎えた。映画館の暖房炊きである父親が盲腸で入院生活を送っており母親が無職状態で、彼自身に送られる市の援助金を足しても国民の平均収入に満たない生活223)は、冷戦終結後の国際競争時代に於ける旧東欧共産圏国家の普遍的な立ち遅れと共に、12 億人目の中国人が13 億人目誕生の頃の病弱や家庭の貧困と二重映しに成る。「世界人口日」の日付は1973 年に米国で発祥したコンビニエンスストア「7 − Eleven」と偶然に重なるが、その本家の合コーポレートスローガン同標語「Thank Heaven、 Seven Eleven」(セブン− イレブン、有り難い)に倣って、セブン−イレブン・ジャパンの「セブン−イレブン いい気分!」も韻を踏み爽快な響きがする。「マテイちゃんと同じ世代の人々が平和に暮らせるように」という国連事務総長の祝福の言葉も空しく、節目節目で脚光を浴びた趙旭・アドナンはHeaven(極楽。楽園)と「好い気分」は恵まれておらず、米国の3 億人突破の5 日前に7 歳に成ったメビック君が一番重要とした皆の健康224)も容易ではない。
第3 千年紀の初頭に米国が破天荒の本土への襲撃を受けた直後の2001 年11 月30 日、ゴールドマン・サックスの経エコノミスト済学者に由る投資家向け報告書Building Better Global Economic BRICs を発表した。より好く全グローバル地球経済に寄与するBRICS の建設の目標提起が新興4 国の略称の初出と成ったが、中国建国54 周年の03 年10 日1 日の同社発報告書Dreaming With BRICs:The Path to 2050 は、世紀央(「年央」に擬なぞらえた造語)の繁栄へ向ってBRICs と共に歩む夢を描いている。イラク戦後の世界力学の均衡変化期で声価を劇的に高めた歴史的な文献であるが、「全ての道は羅馬に通じる」(All roads lead to Roma)の大路・街道(road)と違う小路・細道(path)が意味深長だ。road が含む人生・冒険・進取等の象徴的な意味をpathから求めるなら、21 世紀の人類発展の紆余曲折や20 世紀の最強大国の先細りが感じ取れる。
振り返って観れば、ジョンソン大統領の下で盛大に祝った2 億人突破に対して3 億人目の場合は目立った行事が無かったが、37 秒毎に移民が1 人増える時世の中で11 月の中間選挙で不法移民が争点に成っている事も影響した225)。
米国の多民族の坩堝めく様態や帰アイデンティティ属意識の複雑さを浮き彫りにした符号の連続出現が興味深いが、13 億人目の中国国民の文化的な象徴性として名前に隠れた価値観・美意識も見所である。「張亦弛」は明らかに『礼記』の「一張一弛、文武之道也」に因んだが、張りと緩めを使い分けた文王・武王の政道は働きと休みの両立の勧めに好く使われ、「一弛」と同音(yichi)・同義の「亦弛」は自然体の発想として「ゆとり世代」に似合う。女子なら「雨柔」と名付ける予定であった226)処も、21 世紀初頭に台頭した「小資産階級情調」(小ブルジョア階級趣味)の匂いがする。時下の中国人男性の氏名に最も多いのは「張偉」227)であり、それほど「張」姓の者が多く偉人志向が強いが、「張亦弛/ 雨柔」は「旭」の躍動・向上と反対に張力・剛性が抜けている。「中控」制御で選定された2 人の大台の符号が豊かさや強さに欠けたのは皮肉とも思えるが、首都中心の仕組みに対する上海発の疑念の持ち主も、巡り巡って外資系勤務の「白領(ホワイト・カラー)階層」であった。子供の付加価値を海南の製品の「形イメージ・キャラクター象大使」(「形象代言人」の類義語)の形で売り出した親の商ビジネス売感覚は、東南・華南沿海地域の拝金主義に染まりつつある北京の変貌・変質を物語っている。
その「与時俱進」とは裏腹に、米・露の様な国内の標準時間帯の地域区分を設けず北京時間で全国を統一させた中心統合は続けて止まない。標準時間の概念の無かった中国の封建社会では、朝廷の所在地(厳密に言えば天文・暦法を司る欽天監の観測点)が暦・時の基点であったが、民国元年に中央気象局(北京)に由る制定で、崑崙・新藏・隴蜀・中原・長白(其々東経82.3度、90 度、105 度、120 度、127.3 度を基準とする)5 時区が出来た。国民党政権が移転した台湾の台北時間は相変らず「中原標準時間」と言い、2007 年1 月12 日から中国広播(放送)公司の時報で「現在時間」と改めた228)ものの、本土と似た「中心統合情結」の潜在的な願望が見え隠れする。興味深い事に、内政部標準時間会議で5 時区が改めて批准された1939 年にも、長白・中原時区の東北・華北−東部沿海地域は国民党政権の支配下に無かった。
中国の残りの約半分をも占領しようとした日本の野望は、隴(陝西)蜀(四川)時区の名称と成る南北2 省に中枢を置く国・共両党の抵抗で遂に潰ついえた。隴の地を得た後漢の光武帝が更に蜀を手に入れたいと願った故事から、人間の欲に限りが無い事に譬える成語の「得隴望蜀」が生まれたが、興味深い事に、旧日本軍は中国語でも「心臓」と同音(xinzang)の新藏(新疆・西藏)まで辿り着くまでもなく、隴・蜀に対しても「可望而不可得」(眺望・待望は出来ても獲得できない)に止まった。一方、隴を得た共産党は到頭望み通り長白から崑崙までの広大な国土を掌中に収めたが、中原・蜀・新藏も含む本土を制した後の周恩来の提案に由る北京時間への全国統一は、絶対集権の王朝の「帝国の表徴」の復権の匂いを漂わせる。12、13、14 億人目の国民の誕生は其々第3、第4、第5 世代指導部の任期中に当るが、次回の2010 年代半ばの100 年前には袁世凱の帝政復活の宣言・実施・撤回(1915 年12 月12 日−16 年3 月22 日)や、軍閥・張勲(江西人)に由る廃帝復位(1917 年7 月1 日−12 日)が有り、強権独裁の再来への抵抗も新文化運動・「5.4 運動」の起爆に繋がった。その新潮の理想として掲げられた民主・科学の精神は今に成って漸く定着に向いつつあるが、今度も高水準と符号価値を誇る北京産婦人科病院229)で生まれる可能性は、意識の変革に伴って薄れて行く公算が高いものの、首都を同心円の中心とする固定観念や「首領は北京から生まれる」傾向は寧ろ強く成ろう。
2011 年3 月初め、米国の『国家地理』誌が発表した1 枚の合成顔写真が話題を呼んだ。世界の約70 億人の容貌の特徴を最も代表すると言うそれは28 歳の中国漢族男性で、中国社会科学院が提供した過去10 年間の20 万人余りの中国人の画像に基づき、其々100 万人の共通な特徴を表す7000 枚の極微小な図から成っている。人類の「顔」の縮図とされた理由は中国の人口が世界で最多の19%を占め、人類の約13%が漢民族の中国語を使い第2 位に並ぶ西班牙語・英語の約5%より多いことだ。20 年後は世界の最も典型的な顔は比率が首位に上昇している印度に成るだろうとも言う230)が、この基準では中国人は既に千年以上も「地球村」の首位代表を成して来たし、印度の特定な言語の使用人口が漢民族の中国語母語話者を超える日は当分無いので、中国の「帝国の表徴」の重みは相対的に下がっても依然として健在でいるであろう。
70 億人の大台に乗る見込みの年の世界の平均年齢である28 歳は、巡り巡って毛沢東の「28 画生」と建党→建国の28 年と偶然に一致し、28 の倍数は漢族が主体を成す「中華大家庭」の民族総数と同じだが、中国の首都や政治文化の基本線・中軸線が不易であり続けるなら、「毛沢東情結」と「北京情結」は時間の風化に関わらず相乗して行こう。 

212)1970 年12 月18 日、エドガー・スノーとの談話。「毛主席会見美国友好人士斯諾談話紀要(経毛主席審閲)」の中のこの件くだりは、中共中央文献研究室編、􄶮先知・金沖及主編『毛沢東伝(1949−1976)』下卷1585 頁に載っている。
213)『ニクソン回顧録』(1978)日本語版、第1 卷『栄光の日々』(松尾文夫・斎田一路訳、小学館、同年)、349 頁。
214)原非・張慶編著『毛沢東入主中南海前後』、313 頁。
215)権延赤『走下神壇的毛沢東』、3−5 頁。
216)苗体君・竇春芳「鮮為人知的中共一大前入党的三位党員」、『党史縦横』(中共遼寧省委党史研究室、月刊)2009 年第8 期。
217)国際連合人口部、当年7 月1 日現在の推計人口。
218)李亞傑・衛敏麗「截至2007 年6 月全国中共党員総数已達7336.3 万名」、新華網2007 年10 月8 日。
219)『読売新聞』2005 年8 月15 日特集記事「“ 改革” を問う 05 衆院選 日本経済 戦後60 年 官民一体 繁栄と挫折」に拠ると、UFJ 総合研究所主席研究員・鈴木明彦に曰く、「どんな優れた経済モデルも30 年もすれば限界が見え始め、60 年も経てば転換が必要に成る。/ 日本経済は今年の干えと支でもある乙きのととり酉の年を大きな節目にして来た。」120 年前の乙酉、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任してからの60 年は、戦争を繰り返して富国強兵に突き進んだ「国家の時代」で、終戦からの60 年は企業の成長が最優先された「企業の時代」だったとし、今後60 年は国家でもなく企業でもなく、個人が経済の主役に成る「個人の時代」に成ると予想した。
220)本稿筆者は「以“ 文温” 輔“ 経熱”、融“ 政冷”:増進中日相互理解的治本之路」(『立命館国際研究』20 卷3 号、2008)で、日本軍の空襲で深刻な被害を受けたことの有る重慶と誤記した(78 頁)が、此処に訂正して置く。
221)第16 期党中央委員会第4 回総会(2004 年9 月)で、「和諧社会」(調和が取れた社会)の構築を目指す方針が打ち出された。翌年4 月の亜細亜・アフリカ首脳会議(ジャカルタ)で、胡錦涛が「和谐世界」の建設を提言した。
222)「バルカン半島 混乱再発リスク上昇」、『Fuji Sankei Business i.』2009 年11 月3 日。
223)同注195。
224)同注187。
225)「米、人口3 億到達 移民流入や高い出生率 39 年で1 億人増加」、『日本経済新聞』2006 年10 月18 日。
226)「内地第13 億名公民降生 30 年後中国人口達極限」、『京華時報』2005 年1 月6 日。出産前の父親の話では、男の子なら「亦弛」と名付ける予定で、「小名」(幼名。注50 参照)は男が「十三少」(13 億人目の少年の意か)、女が「十三姨」(「姨」[おば]は「億」と同音のyi、13 億人目の女性の意か)と考えていた。
227)「中国重名最多50 公布 “ 張偉” 居首近30 万人」、新民網2007 年7 月25 日(情報源=中国姓氏権威ブログ、公安部全国公民身分番号問い合わせサービス中センター心に確認済み)。
228)『維基百科、自由的百科全書』、「中国時区」。
229)北京市産婦人科病院が13 億人目誕生の場所に選ばれたのは、毎日20 名に達する分娩の量が大きく精密な計算に向いている事が有る。医療技術・設備の対応力が優れた当病院は全国産婦人科の代表である故に、この選択は特別の意義を持つ、と国家人口・計画生育委員会の席小平司長(局長)が語った。(「内地第13 億名公民降生 30 年後中国人口達極限」、『京華時報』2005年1月6日)但し、1日20名は平均して1時間強に1人なので、恰度0 時過ぎの出産の確率は高いとは言えない。
230)「世界第一大衆臉:28歳漢族男」、中央社台北2011年3月3日电。  
党首・首都の求心力を成す
 「情結」の再認識から「3 縁政治」の試掘へ

 

以下は、建国後歴代の党中央指導部及び執行部(政治局及び常務委員会)の全構成員の出身地(含む原籍)・出身校・勤務地を詳細に分析し、各地が占める比率や順位から地域の重みを推し量り、個人・集団の気質・指向性の変化や、時代精神の変容・推移を読み解く予定であるが、紙幅の関係で別途展開したい。
本稿では、四半世紀毎の区切りで20 世紀の中国の変容を振り返って、期間内の第3 期と重なる毛沢東時代に強化された領袖・首都の支配力・求心力を分析し、後も綿々と続いている朝野の毛・北京への「情コンプレックス結」の根強さの様相と本質を指摘し、封建社会から「社会主義の初級段階」に貫かれる政治文化の伝統を掘り下げた。
続篇の「“ 北閥” の台頭と“ 北伐” の足音―新千年の第1 四半世紀の中国の“ 地縁・史縁・人縁” 政治の勢力図更新と権力構造の地殻変動」に譲る論考では、「3 縁政治」(本稿筆者の造語)の北方型と南方型の異同・交錯、政治の中心・北京と経済の中心・上海の競合・共栄、毛・ケ・江・胡と次世代指導部の治世の力点・傾向の推移を探求したい。 
 
中国対外経済政策決定過程研究の
 新動向および米中経済交渉議題の変化

 

はじめに 中国の対外経済政策決定をめぐる研究動向と本稿の課題
前稿中川涼司[2011]は、中国は改革開放以降、西側の国際システムへの適応・順応を進め、2001 年のWTO 加盟によってその順応が一応の完成をみたこと、しかし、WTO 加盟後の中国の大国の中で従来の「韜とうこう光養よう晦かい 有あところ所作さくい為」(目立たずに、為すべきを為して力を蓄える)政策によるロー・プロフィール政策を維持することが難しくなっていること、ただし、中国の先進各国との経済的相互依存性が高まっている下では、決定的対立に至る可能性は大きくなく、先進各国と中国は相互に関与政策を採っていかざるを行かないことを明らかにし、新たな国際公共財管理の枠組みができるまでの不安定期と捉えるべきではないかと主張した。
本稿はさらに次の2 点において前稿を発展させようとするものである。
第1 に、経済政策に主な焦点を当てる。その理由は、中国の対外政策分析の多くが安全保障政策およびせいぜいそれと密接に関連する資源・エネルギー政策に関わって分析であり、中国経済論と中国外交論がうまくリンクできていないと思われるからである。
第2 に政策決定過程に焦点を当てる。つまり、このような外交政策、とくに対外経済政策はどのようにして決められているのか、また、外交政策の決定において国内要因と国際要因の関係はいかなるものか、ということである。
若干敷衍すれば、ロバート・パットナムのPutnam[1988]によって提起された「2 レベルゲーム」論が明らかにしているように、国内政治と国際交渉の2 つのレベルのゲームに対する国内政治戦略と対外交渉戦略、および国内の政治構造と利害の配置によって国際交渉の結果は決定される。先進国間の外交交渉の分析においてはこの枠組みは広く用いられている(石黒馨[2007]など)。日米経済摩擦については中戸[2003]もこの観点を取り入れている。しかし、中国の場合、従来政策的な中央集権制が高かったことに加えて、議会制民主主義や報道の自由の乏しい下で、必要な情報が入手困難であったがゆえに、一部指導者による集権的決定がなされるものという前提での分析が(とくに日本では)多く、このような「2 レベルゲーム論」的な枠組みが十分に展開されてきたとは言い難い。中国の外交についてはすでに多くの研究が積み上げられているが、これらの先行研究は客観的環境、心理的環境、思考過程および政策執行・結果に集中していた(小島[1999]255 ページ)。1980 年代以降の情報公開の中でこういった「ブラック・ボックス」研究は大きく改善されつつあるとはいえ、リアルタイムで進む外交の意思決定プロセスは先進国であっても容易ではなく、まして情報統制がまだまだ強い中国ではなおさらである。
ただし、そのような状況の中でも注目すべき先駆的研究はいくつかある。また、近年、政策決定過程が観察可能となってきたことをうけて注目すべき研究も英語文献でいくつか出されている。本稿の課題は、まずはこのような先行研究を整理検討することである。ついで、中国の対外経済政策において最も重要な意味を持つ米中関係において、交渉議題(アジェンダ)がWTO 加盟前と現在においてどのように変化をしているかを確認する。交渉議題(アジェンダ)に続いて、交渉主体、交渉チャネルと交渉スタイルについてもすでに原稿は用意されているが、紙幅の関係で、本稿では交渉議題までとする。 
T.改革開放期中国の対外政策決定過程に関する先行研究の成果と課題 
近代中国における外交の分析や、毛沢東期の外交政策についての研究も少なくないが、ここでは改革開放期の外交政策に限定する。また、対外政策については安全保障政策に関わる研究が多いが、焦点の拡散をさけるため、安全保障政策に関わるものは限定し、対外経済政策に関係するものについてピックアップしていく。
改革開放期中国の外交政策決定過程研究の先行研究としてまず注目すべきはA. ドーク・バーネットの著作(Barnett[1985])であろう。同書は伊豆見元氏と田中明彦氏の両氏によって邦訳(しかも、原書にはなかった多くの写真等が付け加えられている)され、日本でもよく知られている。同書は最高レベルの政策決定を行う機構と人物、政治局の役割、党書記処、国務院、外交部、経済・軍事・文化諸機関、その他の情報と分析のソースを公刊資料とインタビュー調査によって網羅的に検討し中国の対外政策決定の構造とプロセスを明らかにしている。結論としては、究極的な政策決定権は依然として政治エリートの手に高度に集中しており、特にケ小平という一人の人物が基軸的な役割を果たしているが、重要な政策決定の基盤となる層が広がっており、政策決定過程はよりシステマティックで、規則的で、合理的なものとなっている、としている。とくに彼が重視するのは、重要な意思決定に関する中国共産党書記処(およびその下にある外事小組)の役割と政策執行に関わる国務院、とくにインナーキャビネットと称される国務院常務委員会の役割である。もっとも、特定の意思決定を通じたプロセスの分析は主題ではなく、決定プロセスに関する事実検証にはなっていない。
国分[1983]は洋躍進運動とそれへの批判の中で発生した日中間のプラント契約中断の事例に絞って極めて具体的にそのプロセスを明らかにした貴重な研究成果である。その検討結果として、第1 に、対外政策の形成には内政が大きな決定要素となっていること、対外経済政策についていえば、国内の経済状況が決定の客観的条件として大きな意味を持っていたこと、同時に、ポーランド問題等の国際問題、とくに社会主義諸国の問題が中国の対外政策に影響を与えていること、第2 に、大躍進とポーランド問題といった「歴史の教訓」が一定の役割を果たしていること、第3 に決定は主として最高指導部において形成され、したがって、決定過程の分析においては最高指導部内の動態分析が重要であること、第4 に官僚組織はあまり大きな役割を果たしていないこと、第5 に決定の論理においてイデオロギー的言辞が説明の道具として使われる傾向があったことが主張されている。ただし、これはこの歴史段階のプロセスと考えねばならない。当時、改革開放はまだ緒に就いたばかりであり、華国鋒や谷牧によって開始された洋躍進運動の残滓がまだあり、また、ケ小平は中心人物であったとはいえ、のちのカリスマ的地位にまでは昇り詰めておらず、この時点では陳雲らとの勢力拮抗状況にあった。このプラント建設中止は洋躍進運動の非現実性に危機感をもった陳雲によって主導され、ケ小平はそれを追認したに過ぎない。この研究は貴重なものであるが当時の状況を大きく反映したものであり、ここで明らかにされた政策決定過程はその後の政策決定過程とは大きく異なる。
小島[1999]第8 章はこれらバーネットや国分の研究とその後の現実の変化を受けたものである。ケ小平個人、中国共産党中央書記処、国務院と外交部、情報収集・分析、研究部門の役割について分析している。事例としても簡単ではあるが、1980 年のチベット工作、1984 年の14 都市開放、1983 − 85 年の第7 次5 カ年計画は検討され、ケ小平時代の決定は以下の特徴を持つとされる。第1 にケ小平が重要政策の最終決定権を独占していること、第2 にケ小平が安定的な体制継承の措置も講じようとしていたことである。第3 にケ小平は最終決定権を独占していたが、毛沢東ほどの権威・権力はなく「その他の同志の同意」も必要であったことである。第4 に、党中央政治局と常務委員会は第2 線だが、依然として最高意思決定機関であることである。第5 に、1982 年に幹部終身制の廃止のための過渡措置(1992 年に廃止)として設置された長老集団の中央顧問委員会が(想定されていた以上に)影響力を行使したことである。第6 に、党中央書記処が、政策過程において中枢的役割を果たすようになったことである。第7 に、党主導の範囲内ではるが、国務院の影響力が上昇したことである。第8 に情報収集・分析、研究部門の整備と役割の増大である。
下野[2008]は中国が1979 年の改革開放政策の開始以降、政策の根幹である外資導入政策が定着する1986 年までの改革派と保守派のせめぎあいのプロセスを豊富な文献によって詳細にフォローした労作である。改革派の台頭と計画経済派の抵抗と退場というやや単純図式であることが惜しまれるが、貴重な研究成果である。ただし、WTO 加盟を大きな画期と考える本稿からすると、対象とされる時期がずれている。
中居[2000]はアジア経済研究所の1999 年度研究プロジェクトとしてまとめられたもので、中国の政策決定過程研究を開拓しようとしたものである。うち、中居自身が執筆した第7 章「知的所有権政策の決定過程」は対外経済政策にも大きく関わるものである。それよれば1992 年の米中合意に至った要因として、@知的所有権「問題」が政策決定者、とくにケ小平の注意を引いたこと、A米中知的所有権交渉のデッドラインが迫っていたこと、B知的所有権に関する一般の関心が低かったこと、C知的所有権をより大きな問題(最恵国待遇の無条件更新問題)についての交渉の糸口とすることについて米中に共通の違いが存在したこと、D中国指導部が「了解覚書」交渉をアメリカと直接に接触し、その力量と交渉技術を「学習」する機会と捉えたことが挙げられている。また、1995 年の実行合意については中国側はすでにマルチ交渉の場に移行している知的所有権保護をアメリカがスペシャル301 条でもって一方的措置で要求してきたことへの反発がありながら、アメリカの「外圧」を国内改革に利用する術を「学習」し、米中が知的所有権保護で合意することで利益を得る「利益共同集団」が存在したがゆえに実行合意に至ったのだとされている。
1978 年から2000 年の中国対外政策の集団研究の成果であるLampton[2001]は中国対外政策決定の変化を専門化(Professionalization)、統合の多元化(corporate Pluralization)、分権化(Decentralization)、グローバル化(Globalization)として捉えた。
Lampton[2001]に所収された論文のうち、Pearson[2001]は中国のWTO 加盟交渉の国内プロセスの検討を通じて、次のような結論を得ている。すなわち、ケ小平時代と変わらず、依然として江沢民、朱鎔基といった政治エリートの指向性(preference)の役割は大きいが、同時に@国際的圧力(international forces、市場の観念と規範、GATT/WTO のルールなど)の影響が強まったこと、A対外政策決定が多元化されたこと、B(@Aにやや程度は劣るが)世論の役割が1990 年代においてたかまったことである。
Iain Johnston & Ross[2006]は中国の国内政治と対外政策の関係を扱っている。うちでも上記の、Pearson[2001]の続編ともいえるPearson[2006]は2001 年のWTO 加盟後の2年間の中国のWTO に対する対応を分析している。中国のWTO 加盟後、中国がWTO の中でどのような行動を取るのか、体制維持者(system maintainer)か体制改革者(system reformer)かあるいは体制見直勢力(revisionist power)かという問題に対して、当該論文は中国は2005 年にすでに世界第3 位の輸出国となっており、多様な製品を他国に輸出するためにWTO のルールに順応してくことを選択しており、中国の主権と国際的な威信に関わる台湾問題を除いては、WTO ルールの現状を変える意図はないこと、自らの経済利害(ダンピング規制の抑制など)からも特別待遇を求める後発途上国を支援し、連合(coalition)を形成しようとしているが、自由化を進めて輸出市場を確保しなければならない中国と後発途上国とは基本的な利害が異なり深い支援は行えないことを明らかにしている。とくに、中国がより大きな関心を持つ農業分野と繊維分野については農業は国内支持の削減と輸出補助金の削減に(あまり強くはない)支持をしていること、繊維に関する課題はMFA の輸出割り当ての実質的な撤廃(2005 年末で撤廃されたが先進国は実質的に規制を継続)であること、ドーハラウンドも(途上国のリーダーという看板を掲げていることによる制約があるとはいえ)その進める方向性について賛成の立場であることなどから、体制見直し勢力とはなっていない、としている。
WTO の加盟交渉の比べると、中国国内の利害があまり割れなかったこともあって、国内プロセスの分析としてはあまり踏み込んでおらず、国家利害(interest)からの分析が中心となっている。
Zeng ed.[2007]に収められた各章は中国の対外通商政策について国内要因と対外要因の相互関係をかなり意識して分析したものである。
同書所収のLiang[2007a]は中国のWTO 加盟の政策決定プロセスをインタビュー等に基づき、極めて具体的に跡付けながら、1990 年代の分権化された意思決定構造の中では省庁間の意思決定の調整が困難であり、その後、対外経済合作部の交渉・国内調整の権限の強化、省庁再編、さらにトップリーダーの決断によって米中合意にまで集約されていく過程を示している。
このような過程は、中国の外交とくに経済等low-politics に関わる分野においては、決してトップの専断事項ではなく、先進国同様国内の利害調整のプロセスが必要であることが示されている。
Naoi[2007]は1970 年代から中国のWTO 加盟以前の日中間の貿易摩擦、とくにセーフガード措置が採られた畳表、ねぎ、シイタケと輸出自主規制が採られた海苔の事例の比較から、貿易摩擦の対象となる産業に関わる輸出行政機構および産業の地理的立地が分散的であればあるほど利害の調整が困難になり、二国間主義(バイラテラル)な決着が難しく、WTO 等の手続きによる多国間ルールが用いられる傾向があると主張する。
Mertha[2007]はアメリカの1988 年の包括通商競争力法で1974 年通商法に創設されたスペシャル301 条により、USTR(米通商代表部)はアメリカ企業が他国による知的財産権侵害を申し立てれば調査と対応をしなければならない義務を負っているが、著作権については多くの企業が中国の知的財産権侵害を申し立てているにもかかわらず、商標関連では極めて少ないのはなぜか、という問題を取り扱っている。その回答は以下の通りである。著作権関連企業の場合、中国に拠点を置くことは少ないが、商標関連の場合、中国に物理的な拠点を置くことが多く、また、中国は市場ないし製造拠点としての重要性を持ち、その中で、拠点のある地方政府との関係を悪化させれば報復措置を受ける恐れがあり、したがって、不満はあっても非対決的な対応を選択しがちである。中国の中央政府は知的財産権保護よりも開発を優先する地方政府のこのような動きを制御できておらず、また、どのようなプロセスで報復が行われるのかも不透明であることから、現地企業は現実の報復の可能性以上に脅威に敏感となっており、地方政府によるこのような「越境通商抑止(transnational trade deterrence:TTD)が効果を持っている。以上である。知的財産権を巡るゲームを米中政府という2 つのアクター間の争いとだけ見るのではなく、さらに商標関連業界、中国の地方政府といったアクターを含めたゲームとしてとらえ、かつ、抑止理論をアレンジしたものであり興味深い。
Kennedy[2007]は中国が自らも反ダンピング規制を多用するようになっていることに着目し、反ダンピング規制が重視されるようになった経緯、国内体制の整備、交渉参加者の変化などを匿名の多くのインタビューなどによって明らかにしている。さらに興味深いのは、中国側が提訴し、かつ、中国で判定がされるにもかかわらず、提訴側がかならず勝利するとは限らないのはなぜか、という問題を提起し、3 つの事例を検討していることである。1997 年のカナダ、韓国、アメリカの企業に対して提訴された新聞用紙では、同等の品質のものが国内で供給可能であったため、中国の提訴側の勝利となった。1999 年の日本と韓国の企業に対して提訴されたステンレス鋼においては、基本的には中国の提訴側の勝利であったが、国内における同等品質代替品の乏しさから被提訴側はペナルティは課されず、また、自由貿易区への輸出への免税措置は継続された。2001 年7 月に提訴されたL-リジン塩酸塩(アミノ酸の一種で飼料添加物として利用される)については、希望集団(Hope Group)など利用者側の反対が強く、また、業界団体である中国飼料工業協会(China Feed Industry Association)は生産者側と利用者側の両方がメンバーであったために、ダンピング提許推進でまとまらず、農務省も飼料価格の上昇を懸念したこと、BASF 等の多国籍企業が水面下でロビー活動を行ったこと等から、ダンピングの事実認定はしたが、国内業者に重大な損害を与えていないとして提訴は却下された。
WTO 加盟後の2004 年にはダンピングの判定基準に公益(public interest)が加えられた(第37 条)。このように、中国は単に自由貿易を受け入れているのではなく、WTO の中で認められている保護手段についても積極活用する方向で、体制を整えている。
Liang[2007b]は中国のWTO 加盟後のWTO ルール遵守の程度を図る事例として、半導体に対する増値税の還付を決めた国務院18 号文件(Circular No.18)を巡る米中間摩擦について検討している。同問題をめぐる交渉は2001 年に始められたが、半導体産業がアメリカの戦略であるだけでなく、中国が世界有数の輸出市場であったことから、米国内の業界団体等の要求が強く、2004 年についにWTO に持ち込まれることとなった。中国側は対中特別セーフガード等の対中経過的措置が依然有効な期間であることや、対外イメージの悪化を恐れたことなどから、交渉段階で、同政策は撤回された。ただし、その経済的背景には、同政策は中国で生産すれば国内外を差別しないものであり、また、実際その恩恵に浴した中国企業はごくわずかであったことなどもあることが指摘されている。
Zeng 自身のZeng[2007]においては中国政府は1980 〜 90 年代の米中交渉では米通商法301 条等に基づく2 国間交渉が主であったが、WTO 加盟によって、多国間のルール指向的な紛争解決がされていくことが中国にとって利益であると判断したこと、また、とはいえ、中国国内の反ダンピング提訴の実際の状況をみると、集中度が高いが国際競争力が劣る鉄鋼、化学、製紙など(のとくに国有企業)の利用が圧倒的に多く、国内の業界のあり方が反ダンピング措置の利用にも反映されていることが示されている。また、輸出志向型産業の利益保全策としてもWTO ルールが利用されていることが2000 年から2001 年にかけての、日本による中国産のねぎ、シイタケ、畳表へのセーフガード措置(およびタオル等における同様の動き)に対する対抗措置として、日本の措置がWTO ルール違反であるとの主張を行うとともに、報復措置を採ったこと等が挙げられている。
以上、Zeng ed.[2007]では、中国の通商交渉が二国間から多国間の制度化されたものへと変化していること、また、中国政府は保護政策として反ダンピング規制を利用するようになっており、そのための国内体制も整えられていること、交渉はかつてのようにトップダウンで決められるのではなく、国内各界の利害を反映した形へと変化していること、などが明らかにされている。その研究水準は出色であり、今後の研究の参照軸ともなっていくだろう。ただし、中国国内の変化の考察が中心であることから、中国のWTO 加盟以降多発した対中国反ダンピング提訴やセーフガード提訴への対応および、その前提にある「市場経済国」認定の働きかけ、WTO ルールに組み込まれるべきとされながら、事実上独立に交渉が進められる繊維分野(中国が世界の輸出の圧倒的部分を占めている)などについての考察は弱く、WTO ルールには必ずしも適合的ではない輸出自主規制や二国間交渉が依然として継続されていることの説明も十分ではない。
兪敏浩[2007]は日中農産物摩擦が、アメリカとの交渉における譲歩を輸出促進でカバーすることで農民を納得させようとしていた矢先に起こったことから厳しい対応となったこと、しかし、農業部、農民等の政治的ポジションの弱さから収束していったことが明らかにしている。
Lai[2010]は中国の対外政策は基本的に国内要因(何によって政府が統治の正統性legitimacy を獲得しようとしているか)によって規定されているとの立場から中国の対外政策の変化を分析している。改革開放以降、中国の国内体制の正統化は経済開発と国際的な地位の向上によってもたらされており、中国の対外政策もそれに適合的となるよう、(「革命の輸出」によって周辺国との関係を不安定化させた毛沢東時代とは異なり)対外関係を安定化させることにプライオリティが置かれているとする。それゆえ、ベオグラードの中国大使館誤爆事件や米偵察機の不時着事件といった反米要因がありつつも、WTO 加盟のための米中合意が達成されてきた、とされる。また、対外政策は胡錦濤政権のもとで、多元化されるとともに、制度化されていったとされている。Lai の分析は多元化され、制度化された対外政策決定がなにゆえ収斂するのか、という問題に対して江沢民、朱鎔基の指導層の役割を強調することで回答をしている。これは一見すると、従来の研究と変わりがないようにも見えるが、正統性(legitimacy)の観点から回答を与えるものとなっており、一つの新たな視座を加えたと評価できる。ただし、Lai[2010]は国内からの規定要因に一面化しすぎであろう。WTO 加盟では中国は国際秩序へビルトインされることが自らの利益になることから相当程度の譲歩をかさねたが、チベット問題や人権問題といった政治問題だけでなく、人民元問題など経済問題でも譲歩の乏しいものが少なくない。また、国外に経済権益を多く持つようになった現在、国内ファクターだけでは理解できない諸問題は少なくない。
毛里和子は中国外交は基本はリアリズムであり、状況次第、目標次第で、時にアイディアリズムやモラリズムなどの『価値』が付加されてきた」(川島・毛里[2009]109 ページ)とし、また、中国固有の対外認識の仕方や構造として4 層があるとする。つまり、世界システムがどうなっているか(第一レベル)、時代性すなわち、冷戦の時代、戦争と革命の時代、平和と発展の時代(第二レベル)、二極や多極など国際的な政治構造やシステム(「系統」)(第三レベル)、大国間のパワーバランス(「格局」)(第四レベル)以上の4 層である。この4 層論は貴重な視点であるが、国内ファクターとのバランスが視野に入っていない。毛里和子は同時に2000 年代以降、外交を拘束する要件として国際環境の安定、戦略論としてパートナーシップ、国際システムへの態度として、システム作り模索、国際システムへの関心として「利益に導かれた新機能主義」を挙げている。「利益に導かれる」のであれば、経済大国化した現在の中国では、国内の利害調整と対外政策の関連が問われるべきであろうし、4 層の対外認識と国内条件とのバランスと明示的に述べるべきであろう。
Jakobson and Knox [2010]はBarnett[1985]の新版ともいうべきものである。中国における多くのインタビューを基に、中国の対外政策関与者の役割について明らかにしており、すでに邦訳も出版されている。日本における中国外交研究の草分け的存在である岡部達味氏はその解説において「中国の対外政策研究にとっては、画期的な文献」(邦訳111 ページ)との評価を与えている。
陳[2011]はアメリカの対中反ダンピング措置と中国の対米反ダンピング措置の双方から米中経済摩擦を考察するものであり、反ダンピング措置が双方から採られていることを詳説するものである。 
小括
以上のように、従来「ブラック・ボックス」と考えられていた中国の政策決定過程、とくに経済政策決定過程について、依然として不明な部分を多く含みつつも、多くの解明が進められている。しかし、先進諸国のように議会に利益団体の意向が明確に反映されるシステムでもなく、また、マスコミも対外政策に関していえば国内利害対立を明らかにすることがほとんどなく、中国国内で発表される研究も同様である中では、明らかになっていることはまだまだほんの一部分である。さらにいうと、日本においては大橋英夫氏が米中経済摩擦について網羅的な研究をしている以外はあまり大きな研究が進んでいるとは思えない。
中国の対外経済政策の特徴を明らかにするには、具体的な経済交渉の交渉議題、交渉主体、交渉チャネルと交渉スタイルを全体として、また、ケースとして取り上げ対外経済政策決定プロセスを明らかにしていく集団的努力が必要である。以下、中国の対外経済交渉において最も大きな意味を持つ米中経済交渉の交渉議題の検討を行なう。交渉主体交渉チャネルと交渉スタイルについては紙幅の関係から別稿にて検討する。 
U.米中経済交渉議題(アジェンダ)の変化 
1. 交渉議題(アジェンダ)の確認方法
大橋[1998]は米中経済摩擦について体系的にまとめた日本でも数少ない本の一つである。
しかも、出版年の1998 年はWTO の加盟の数年前であり、そこでの記述は基本的にWTO 加盟前の諸問題とその解決形態にかかわるものである。近年の米中経済摩擦については、少なくともアジェンダについては、その後の大橋の論稿(大橋[2005]、[2008a]、[2008b]、[2009]など)、蔡[2010]、崔[2010]等で確認できる。したがって、これらの文献の比較から交渉アジェンダの変化が確認しよう。
大橋[1998]が取り上げた、米中摩擦の諸問題は以下のようなものである。
最恵国待遇(MFN)更新(同書第1 章)、国交正常化(第2 章)、対共産圏輸出規制(第3 章)、繊維製品(第4 章)、アンチ・ダンピング(第5 章)、貿易収支不均衡と為替管理(第6 章)、中国市場へのアクセス交渉(第7 章)、知的財産権交渉(第8 章)、GATT/WTO 加盟(第9 章)以下、これらの点の変化について、簡単に確認する。 
2. 1998 年段階の米中交渉議題のその後変化
1 国交正常化問題
まず、国交正常化は1978 年に合意され、1979 年1 月1 日をもって国交が樹立された。ただし、周知のように、同年、アメリカは国内法として台湾関係法を制定し、台湾の防衛にコミットする戦略的曖昧政策を続けている。このことはのちに台湾への軍事供与などを巡って再三交渉の対象となるが、本稿は経済問題を中心とすることから立ち入らない。
2 最恵国待遇問題
最恵国待遇(MFN)を巡る動きは国交正常化に次ぐものである。米中は国交正常化に伴い、1979 年7 月に米中貿易協定を締結し、アメリカは中国に最恵国待遇を付与した。しかし、非民主主義国には恒久的な最恵国待遇を与えないというジャクソン・バニック修正条項により、最恵国待遇は1 年更新を繰り返す形であり、更新は毎年の交渉事項となっていた。この問題が大きくクローズアップされたのは、第1 期クリントン政権が政権成立当初の1994 年、MFN と人権問題をリンクさせることを表明し、中国との交渉に当たろうとしたためである。しかし、結局、MFN と人権問題は切り離されることとなり、2001 年の中国のWTO 加盟により差別的待遇が困難となることからその直前に「恒久的正常化通商関係(PNTR)」が付与されることで一応の終結を見た。しかし、WTO 加盟ところで再度見るように、アメリカは中国に対する特別措置を強硬に主張し、それを実現させたほか、現時点でも中国を「市場経済国」とはみなさず、2013 年まで適用可能な対中経過的措置と2015 年まで可能な非市場経済国としての認定を最大限利用するスタンスである(1)。
3 対共産圏輸出規制問題
アメリカ等の対共産圏輸出に対して多角的輸出規制調整委員会(いわゆるココム)の規制を課し、さらに中国についてはココム中国特別委員会(チンコム)が存在した。しかし、1972 年のニクソン訪中後、敵国であるZ グループから、ワルシャワ条約機構なみのY グループに、さらに1980 年のカーター政権はソ連との対抗のために、両用技術について緩和をした新たなP グループに中国を入れた。レーガン政権は対中輸出規制緩和を進め、通常の二倍の速度で緩和を進める「二倍政策」を採ろうとした(実行されず)。結局、1983 年に、中国はY グループから同盟国・友好国並みのV グループに入れられたが、他のV グループ国からみると差別的扱いは続いた。その後、規制が緩和される「グリーンゾーン」の拡大が続き、1994 年のココムの解散を迎えた。1996 年に成立したココム後の多国間輸出管理体制であるワッセナー協定においては中国は加盟国でもなければ、規制対象国でもないというポジションにおかれた。1989 年の天安門事件によって人工衛星が対中制裁の対象となったが、1992 年には解除された。
しかし、アメリカは中国の軍事的脅威を懸念する保守派の働きかけにより1998 年に「米国の国家安全保障と中国に対する軍事上・通商上の懸念」委員会(コックス委員会)を設置し、ハイテク製品輸出に対する監視を強めた。2006 年には中国へのハイテク技術製品の輸出制限政策を実施、さらに2007 年には中国が気象衛星を標的に衛星破壊実験を実施したことから、米商務省産業安全保障局は対中輸出管理規制の改正を発表した。この改正は認証済み需要者のプログラム(VEU)の設立および一部の軍事目的用の製品の規制強化を目的としたものである。
これにより、一部ハイテク製品は認証を受けないと中国に輸出できなくなり、2010 年に中国商務省馬秀紅副部長の主張では、アメリカが中国に輸出したハイテク製品はかつての18%から7%に下がった。また、個別の案件でも中国海洋石油総公司(CNOOC)のユノカル買収差し止め、聯想集団(レノボ)PC の政府調達の中止、その他多くの安全保障がらみの経済措置が取られている。
中国が共産圏かどうかではなく、軍事大国化していることへの懸念から、アメリカは安全保障上の懸念を高め輸出規制を強化しはじめた。この問題は再び形を変えて米中戦略経済対話や米中首脳会談等の議題の一つとなっている。
4 繊維製品
繊維製品の問題はやや込み入っている。繊維貿易はGATTの枠組みとはやや外れたところで、国際貿易管理がされてきた。1960 年代の日本からの綿製品輸出拡大に関しては短期綿製品取極(STA)が締結され、その後、1962 年に5 年間を期間とする長期綿製品取極め(LTA)に替わった。LTA が延長を繰り返したのち、化学繊維を含めた1974 年に多国間繊維取り決め(MFA)が成立した。1970 年代後半以降、中国は繊維輸出国として台頭しており、1978 年時点で香港に次ぐ対米輸出国であった。しかし、中国はMFA にもGATT にも加盟しておらず、その管理が問題となった。1978 年に米中繊維交渉がもたれた。アメリカはクォータを設定しようとしたが中国が合意せず、1979 年にアメリカが一方的に数量制限を実施し、1980 年に米中繊維交渉がもたれて、米中繊維協定が締結された。同協定は1982 年に期限を迎え、ここでも一方的輸入制限措置などを実施し、今度は中国側も報復措置を実施、1983 年に第2 次繊維協定が締結された。しかし、それで一見落着とはならず、1983 年に相殺関税の提訴が続き、議会でもジェンキンス法案の提出、可決がされるなどの保護主義の動きが続いて、1987 年に第3 次繊維協定が締結された。そのころから、原産地国を操作してクォータの枠を回避する動き(トランスシップメント)が活発化したため、1993 年からの第4 次協定(1994 年4 月1 日〜 1996 年12 月31 日)を巡る交渉ではこの問題が最大の焦点となった。1997 年には非合法トランスシップメントへの規制が強化されるとともに、アメリカの対中輸出を促進する第5 次協定(2000 年まで)が締結された。
この米中繊維摩擦は、中国に多国間枠組みへの参加の必要性を強く意識させた。1984 年に中国はMFA の第3 次協定からこれに参加し、1985 年にGATT への「復帰」(中国政府は中華民国政府のGATT 加盟は有効とみなしているが、1949 年10 月1 日以降に行われた脱退の決定は無効とみなしているため)申請を行った(1995 年にWTO が成立することでWTO 加盟申請に切り替えた)。
GATT ウルグアイ・ラウンドでMFA の廃止が協議され、1994 年の妥結とともに繊維・縫製品協定(ATC)が締結されて漸進的にクォータを撤廃することが決定された。1995 年に繊維貿易量の16%、98 年に同17%、2002 年に同18%と段階的にクォータが外され、2005 年1 月1 日をもって全廃される予定となった。しかし、この段階的廃止措置はGATT メンバーではなかった中国には適用されず、2001 年12 月の加盟まで留保された。
2001 年12 月のWTO 加盟に当たって、すでに世界最大の繊維輸出国であった中国の扱いをどうするのかが大きな争点となった。WTO 加盟によって中国はこれまでの留保分を享受するとともに、さらに2005 年までに段階的にクォータの撤廃がされていくこととなった。しかし、それによって中国からの輸出急増を懸念する輸入各国からの要求により、中国は中国だけを対象とする対中繊維特別セーフガード(適用は2008 年まで)を認めた。
2005 年にMFA が撤廃され、2008 年には対中繊維特別セーフガードも適用が無くなる予定であった。しかし、対中貿易政策多国間審査制度(2010 年まで)、対中経過的セーフガード措置(2012 年まで)、非市場経済国地位(最長2015 年まで)がその後も続いており、セーフガード措置、反ダンピング措置とも発動しやすい条件にある。実際、対中セーフガード措置、反ダンピング措置の提訴が相次ぎ、ウルグアイ・ラウンドで、不透明措置として禁じられたはずの輸出自主規制(VER)が復活した。2005 年に米中両政府は、中国による輸出自主規制の期限、対象品目、年間輸出伸び率の上限に関して合意した。具体的には、中国は2008 年末まで、繊維・衣料製品30 品目の対米輸出量を抑制することとなった。
5 GATT/WTO 加盟問題
上記のような繊維摩擦、MFA 加盟等を経て、1986 年に中国はGATT への復帰申請を行った。当時は、まだ、中国国内の体制を全面的に変える意識に乏しく、要求されるレベルには程遠かった上に、1989 年に天安門事件が発生、加盟を審議する中国作業部会も2 年間活動を停止した。
対中制裁の緩和、1992 年の南巡講話、社会主義市場経済を目指す路線の明確化を背景に、GATT 復帰への動きが再開した。当時ウルグアイ・ラウンドが進行中であり、サービス、農業、知的財産権などを包括するWTOが成立すると、加盟のハードルが高くなることは明らかであった。WTO 成立が1995 年と定まると、それ以前に加盟を実現しようという動きが強まった。しかし、アメリカ等の要求との差異が埋まらず、WTO の成立とともに、GATT 復帰申請は取り下げられ、新たにWTO 加盟申請が行われて、中国作業部会も衣替えされた。1997 年に江沢民政権が第2 期に入り、トップが若返り、とくに経済に強いとされた朱鎔基が重用されることで、WTO 加盟に向けての動きは強まった。すでにLiang[2007]やLai[2010]が明らかにしているように、加盟交渉のための国内体制が整備され、また、国内の強い慎重論も経済改革に強い意志を持つ朱鎔基と国家威信をかけた江沢民のリーダーシップによって押し切られ、加盟が実現した。山場となったのは1999 年米中二国間合意である。WTO 加盟に向け関税率は平均40%台から加盟時には13.6%にまで引きさげられていた。1999 年の江沢民訪米において、ITA加盟(IT 製品の関税撤廃)もお土産として表明された(2003 年4 月参加)。同年、ベオグラードにおいて米軍による中国領事館誤爆事件があり、反米ムードが盛り上がっていたにもかかわらず、合意は達成された。米中二国間合意に続き、日中、欧中の二国間合意も達成され、2001年11 月9 日から13 日まで中東・カタールのドーハで開かれたWTO 第4 回閣僚会議において、11 月10 日満場一致で中国の加盟議定書は可決された。2001 年12 月11 日に加入資格が正式に発効し中華人民共和国は143 番目の加盟国となった。ここに15 年に及ぶ長い交渉が完了した。
通常のWTO ルールに基づいて、貿易権の撤廃、ローカルコンテンツ規制の撤廃、法人税制における内外差別の撤廃等がなされたのは当然であったが、加盟議定書により、通常のWTOルール以上の対中特別措置が数多く取り入れられた。中国製品だけを対象としてセーフガード措置がとれる対中繊維特別セーフガード(2008 年まで)、中国のWTO 加盟議定書の順守状況を多国間で監視する対中貿易政策多国間審査制度(2010 年まで)、繊維以外でも対中セーフガード措置を取りやすくさせる対中経過的セーフガード措置(2012 年まで)、ダンピング認定の際の基準となるコスト計算を同等他国を基準にするなどの「非市場経済国地位」(最長2015 年まで)などである。また、アメリカが強い関心を持っていた電気通信分野では、他国にもないような資本開放措置が取られた。これらのうち、交渉の余地があるのが、市場経済国としての地位である。これは各国ごとの認定となるため、中国は各国との交渉を重ねており、ヨーロッパの国々などは市場経済国としての認定を行っている。
これらの対中特別措置が終了しないうちは中国のWTO 加盟は完全には完了していないことになる。
6 アンチ・ダンピング
中国のWTO 加盟以前は米中間の反ダンピング提訴はアメリカの通商法によるものである。
1974 年通商法のタイトルW 410 条はアメリカと特定諸国との輸出入の監視を義務付けており、特定諸国ジャクソン・バニック条項の適用各国も含まれる。1978 〜 1994 年にアメリカ国内企業・団体が中国に対しておこなった主な対抗措置は反ダンピング措置であり、37 件に上ったが、その半分以上は1990 年代に入ってからのものである。1994 年末までに34 件はクロ判定を受けていた。1988 年包括通商競争力法は「非市場経済国」の判定基準をしめすとともに、そこからの輸入品の価格の判定には代替国が用いられることなった。中国のWTO 加盟議定書における非市場経済国としての認定はこの趣旨が全世界に対して適用されることを意味する。
中国はWTO 加盟後輸出を急増させ、世界最大の輸出国となった。中国からの輸出が急増したことに加え、上記のとおり、中国に対しては反ダンピング措置、セーフガード措置ともに他国よりも発動しやすい制度条件となっているために、対中のダンピング提訴、セーフガード提訴が急増した。
それとともに、Kennedy[2007]や陳[2011]が明らかにしているように、中国自身もこの反ダンピング措置を積極的に活用するようになっており、国内制度も整えられている。商務部産業損害調査局局長の楊益(楊益[2009])ら政府官僚がWTO 紛争解決メカニズムを積極的に利用せよ、と主張しているだけでなく、国際貿易に関わる学者も中国が反傾銷措置を取ることによる救済効果の測定(蘇・劉・厳[2010])や報復措置をとることによる対中アンチ・ダンピング措置の抑止効果の測定(李・漆[2010])を行い、この行動を理論的に支えている。
7 中国の市場アクセス問題
1980 〜 90 年代において中国市場へのアクセス問題で議論されたのは、以下のような点である。関税・輸入課徴金、輸入許可証、輸入制限、標準・検査・認証、補助金、知的財産権、サービス障壁、投資障壁等である。これらのうちの多くは知的財産権等を除いてWTO の加盟交渉の中で解決された。しかし、中国が2006 〜 2010 年の第11 次5 カ年規画において「自主創新」を掲げ、自主標準にこだわる中でいくつかの摩擦も新たに発生している。その一つは上記のLiang[2007b]や中川[2007]が扱った半導体とソフトウエアの育成に関わる付加価値税還付を定めた国務院18 号文件の問題である。また、2004 年に問題となった中国で販売するIT 機器の無線LAN として中国独自の無線LAN セキュリティ・プロトコル「WAPI(WLAN Authentication and Privacy Infrastructure)」を搭載することを義務付ける方針は強い反発によって撤回され、政府調達に限定された。
また、政府調達において自国技術(知財)等に基づく製品を優遇するとした2009 年11 月発表の「国家独自開発製品認定作業に関する通知」への懸念がUSTR「2010 年スペシャル301条報告書」などで表明されている。
2006 年3 月にアメリカとEU によって提訴された中国の自動車部品関税政策は2008 年に中国の敗訴が確定し、2009 年に同政策は撤廃された(蔡[2010]33-35 ページ)。
2008 年にアメリカによって提訴された映画・音楽製品の中国市場へのアクセス問題については、2009 年WTO パネルは中国の現行政策はWTO 加盟公約に違反しているとの報告を出した。
中国が不服として上級委員会に控訴した(蔡[2010]51-53 ページ)が同年12 月に上級委員会はパネルの判断を踏襲している。
また、知的財産権の問題は、法律としては整えられているものの、執行措置が問題で、実際の解決には程遠く、その後も問題として存在し続けている(次項)。
また、サービス分野はもともと規制による閉鎖性の強い分野で、WTO 加盟を巡る米中交渉の中でアメリカが最も重視した分野である。加盟議定書によってサービス分野も大きく開放されていくことになっているが、財貿易に比べれば、部分的かつ漸進的な開放措置が取られており、交渉の余地があった。
8 知的財産権交渉
1979 年の米中通商協定においてすでに知的財産権の保護は重要な課題であった。中国はその後、1980 年6 月に世界知的財産権機関(WIPO)に、1985 年3 月に工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟し、国内法としても、1983 年に商標法とその実施細則、1985 年4 月に特許法を公布・施行し、また、国家専利局、国家版権局などを設置し、知的財産権保護に乗り出した。
しかし、アメリカ側の不満は強く、1988 年に包括競争力法ができスペシャル301 条が制定されたことに伴い、1989 年にスペシャル301 条に基づいて、中国を「優先監視国」とし、米中間で「知的財産権の保護に関する覚書」も交わした。しかし、1991 年にようやく施行されることとなった著作権法は中国で最初に出版されたもののみを保護するものであり、また、商標も外国で長期にわたって使用されたものでも、中国で最初に登記されたものが優先する形であり、多くの問題をはらんでいた。1992 年に新たに米中知的財産権了解覚書が交わされ、中国が著作権に関してベルヌ条約に加盟するとともに、コンピュータソフトを著作物として認めること、特許についてはすべての製造。製品特許を保護対象とし、保護期間も15 年から20 年に延長すること、トレード・シークレットについては1994 年1 月までに不正競争防止法を立法化することなどが取り決められた。1992 年中国はベルヌ条約と万国著作権条約(UCC)に加盟、1994 年には特許協力条約(PTT)にも加盟した。しかし、その後の著作権侵害は減るどころかむしろ増加した。それらは法の未整備というよりも執行機関や司法機関が脆弱であったことによる。1994年6 月USTR は中国を再度「優先交渉国」とし、スペシャル301 条調査に踏み切った。USTRは中国側と交渉を重ねつつ、1994 年末には総額28 億ドルの報復リストを公表し、1995 年2 月には10 億8000 万ドルの最終リストを示し、35 品目に100%の関税を課すことを決定した。これに対して、中国側も対外貿易法に則り、報復措置を明らかにした。報復合戦の中で交渉は続けられ、1995 年2 月に米中知的財産権保護に関する実行合意が達成された。これに基づいて、中国国内の海賊版取り締まり等も行われたが、1996 年USTR は実行不十分として再度「優先交渉国」に指定、交渉を経て1996 年米中知的財産権合意に至った。これらの過程で、中国国内の知的財産権保護に関わる法制度の整備が進んだ。しかし、法整備の一方で目立ってきたのが、地方政府等に対するガバナンスの弱さである。 
2000 年以降、米中間の議論は法そのものではなく、その執行に関するものが中心となった。法執行の実効性が上がらない中、USTR は2007 年4 月に中国における知的財産保護・エンフォースメントの課題の解決を求め提訴、同12 月にパネルが設置された。また、2008 年のUSTR スペシャル301 条報告書では「省・地方問題(Provincial and Local Issues)」と題する大幅な加筆が行われ、具体的な地方名を出して執行の不十分さを訴えている。知的財産権を扱うUSTR スペシャル301 条報告書がその後も一貫して、知的財産権保護の執行の弱さを主張し続けるのは当然として、さらに議会調査局の中国報告書も知的財産権問題をもっとも強調しており、このアジェンダの重要性が高まっている。
9 貿易収支不均衡と為替管理問題
すでに1983 年にアメリカの対中貿易(アメリカ側統計)は赤字に転じており、1980 年代からその原因が為替管理政策にあるとして問題にされてきた。中国側統計では1992 年まで中国側の赤字であったが、これは香港経由でアメリカに輸出されるものが算入されていなかったためであり、1993 年に統計の取り方を変更することで、中国側の出超となった。1988 年の包括競争力法はアメリカの貿易相手国が為替レート操作によって国際収支の調整を行ったり、競争力を強化させたりしていないかを監視するために財務省に年2 回議会に対して報告することを義務付けているが、1992 年5 月の報告において中国が人為的な為替管理政策を行っているとされた。米政府はこの報告に基づき、中国政府に対し、この人為的為替操作をやめるよう通告し、中国財政部や中国人民銀行と協議に入り、結局1994 年に二重為替レートが一本化されることとなった。ただし、これ以降かなりリジッドなドルペッグ制が導入されている。また、1996 年に、外資企業の外貨調達を国内企業と同等とし、経常取引での外貨調達は個別の審査を経ることが無くなり、また、外貨バランス要求も廃止された。これらの背景に、1996 年12 月1 日、中国はIMF8 条国となった。
しかし、その後、アメリカの対中貿易赤字は増え続け、ついに日本を抜いて、最大の貿易赤字相手国となった。2003 年7 月、初めて月間の対中貿易赤字が100 億ドルを突破し、スノー財務長官が人民元問題を大きく取り上げるようになった。2004 年10 月1 日 中国財政部・金人慶部長と中国人民銀行周小川総裁がG7 財務相会議にゲスト参加、2005 年2 月には再度G7 に招待され、人民元問題がクローズアップされた。2005 年6 月23 日 米上院金融委員会は7 月27 日に人民元切り上げを促すための27.5%の報復関税を実施する対中制裁法案の採決を7 月27 日に行うことを決定し、問題が緊迫した。対中制裁法案回避のためのFRB と中国財務部・中国人民銀行との緊急会合を開催し、結局7 月に人民元の対ドレート2.1% 切り上げた。通貨バスケット制導入が実施された。これらによって、「為替操作国」の認定は一貫して避けられてはいるが、グローバル・インバランスの拡大の中で、人民元問題は米中戦略経済対話や米中首脳会談の議題として議論され続けている。もっとも対中政策法案が可決しなかったのは中国側の対応だけによるものではなく、中国に投資していたり、中国からの輸入に依拠しているアメリカ国内の経済団体の多くが反対に回り、ロビー活動を展開したことにもよる。 
3. 新しい交渉議題
1 M&A による対外直接投資問題
中国はすでに1999 年に中国からの対外直接投資を促す「走出去」政策を実施しているが、実際には2003 年頃から対外直接投資が増加し始め、2009 年には初めて対外直接投資が対内直接投資を上回るに至った。世界的には対外直接投資はグリーンフィールド投資よりも、M&Aが大半となっているが、中国も対外M&A を増加させている(中川[2008a])。この中で、2003 年の中国海洋石油総公司(CNOOC)のユノカル買収に対する差し止め等が起こった。中国のこれらの動きを意識して、2007 年2 月米下院では、外国投資規制改革法案の可決が行われた。ブッシュ米大統領は同7 月26 日、上下両院が可決した外国投資規制改革法案に署名し、同法は成立した。同法は、安全保障上の観点から外国企業による米企業買収を審査する外国投資委員会(CFIUS)に通常の30 日間に加えて原則として45 日間の特別審査を求める内容が盛り込まれている。 逆に、中国は2005 年から国家株の流通可能化措置があり、また、反壟断法(独占禁止法)が2007 年8 月に成立、M&A に対する審査制度がもうけられた(中川2008b])。
2008 年にコカコーラの中国匯源果汁集団の買収が差し止められている。
2 エネルギー資源と人権問題
中国はエネルギーの約70%を石炭に依存しているが、エネルギー需要の拡大と中小鉱山の閉山などのため、石油需要が高まっており、2000 年以降毎年約5%以上のペースで需要を伸ばしてきた。石油の国内生産は減少しており、過半を輸入に依存するようになっている。しかし、中東依存は経済的にも政治的に問題があり、供給源の多様化と輸送ルートの多様化が同時並行的に進められてきた。とくにアフリカへの進出が活発に行われている。しかし、アフリカの油田はすでに欧米系メジャーズが権益を確保しており、そこに割り込むのは容易ではない。中国系石油メジャー3 社は中国政府の資金的バックアップ、ODA 等による政治的バックアップ等、政府の全面的支援の下にアフリカ進出を進めているが、人権問題から欧米諸国が経済制裁を行っているスーダン等に積極的に投資を行うことが欧米諸国との摩擦の原因となっている。 
4. 米中戦略経済対話(SED)、米中戦略・経済対話(S&ED)での議題
「米中戦略経済対話」(U.S. ‐ China Strategic Economic Dialogue:SED)は、2006 年9 月20 日に米国ブッシュ大統領と胡錦濤中国国家主席の間で設立合意された、両国閣僚級レベルによる経済協議である。ブッシュ政権時は外交分野の次官級の「高官会議」とは分離されており、計5 回開催された(2006 年12 月、2007 年5 月、12 月、2008 年6 月、12 月)。オバマ政権において統合され、「米中戦略・経済対話」(U.S. − China Strategic and Economic Dialogue:S & ED)とされ、2009 年7 月と2010 年5 月に第1 回、第2 回が開催されている。
「米中戦略経済対話」の主要なテーマは米中貿易不均衡の是正、人民元切り上げ、知的財産権保護である。米中間の航空旅客数の増便(第2 回)、バイオ燃料の生産と利用における協力強化(第3 回)、二国間投資協定(Bilateral Investment Treaty:BIT) の交渉開始について合意(第4 回)、米中輸銀による貿易金融ファシリティの創設(第5 回)などいくつかの点での合意は見られるが、主要テーマでの成果は乏しかった。
「米中戦略・経済対話」に至っては、2009 年7 月の第1 回は枠組みの確認以上の意味を持たず、2010 年5 月の第2 回も経済問題よりも北朝鮮の延坪島砲撃事件への対応など安全保障問題が前面に出てしまい、経済問題は従来通りの対立構図が繰り返されただけだった。人民元問題に関して、「為替操作国」の認定がされれば、議論が別の次元に移った可能性があるが、開催前に十分な証拠がないことから認定は行われず、議論は次の次元に進むことはなかった。もっとも、2008 年以降1 ドル= 6.83 元に再度ペッグされていた為替レートが、2010 年6 月19 日に緩和措置が取られ、その後人民元レートは徐々に高まっている。
2011 年5 月9、10 日第3 回「米中戦略・経済対話」が開催された。これは1 月の胡錦濤訪米による米中首脳会談を受けたものである。ここでは人民元オンリーではなく、広範な経済問題が協議され、共同文書として「成長と経済協力の促進に関する米中の包括的な枠組み」が署名された。人民元の対ドルレートは2011年1 月28 日の胡錦濤訪米時には1 ドル= 6.59 元台、第3 回戦略・経済対話開催時には1 ドル=約6.49 元にまで上昇しており、経済合意文書では、中国は「人民元相場の弾力性を引き続き高める」とし、アメリカは「為替相場の行き過ぎた変動を監視する」とされた。ハイテク製品の対中輸出規制緩和を求める中国に要求に対してもアメリカ側が「輸出管理制度の改革に当たっては公平な対応を求める中国の要請に十分配慮する」との回答を行っている。
アジェンダとともに関心が寄せられるのが、誰がこの対話に臨んでいるかである。第1 回「米中戦略経済対話」はポールソン財務長官と呉儀副総理が共同議長を務めた。中国チームには国家発展改革委員会の馬凱主任、外交部・李肇星部長、商務部・薄熙来部長、財務部・金人慶部長、中国人民銀行(=中央銀行)の周小川総裁、信息産業部の王旭東部長、農業部・杜青林部長、衛生部・高強部長がいた。第2 回はワシントンでの開催であったが、呉儀副総理と対中強硬派としてしられるナンシー・ペロシ下院議長(当時)やシューマー上院議員との直接対話がもたれたこと、人民元交渉が大きな争点となったことから金融行政の4 首脳(中国人民銀行総裁周小川総裁、中国証券監督管理委員会尚福林主席、中国銀行業監督管理委員会・劉明康主席、中国保険監督管理委員会・呉定富主席が同行したのが特徴である。第4 回ポールソン財務長官のカウンターパートとして、中国側が王岐山副総理(経済担当)を参加させたのも大きな特徴である。王岐山は北京オリンピックを準備した北京市長として知られているが、それ以前には、中国建設銀行行長や中国人民銀行(=中央銀行)副行長などを歴にした金融専門家である。ここで従来になく、金融問題の議論が展開された。しかし、合意は乏しかった。第5 回もポールソン財務長官と王岐山副総理である。
「米中戦略・経済対話」の第1 回の交渉代表は米側クリントン国務長官とガイトナー財務長官、中国側は王岐山副総理(経済担当)と戴秉国国務委員(副総理級、外交担当)である。第2 回は主要なメンバー第1 回と同じで、米国側ガイトナー財務長官、クリントン国務長官、中国側王岐山副総理と戴秉国国務委員であるが、米側は8 人の大臣級を含む総勢200 人のアメリカ政府要人を北京に送り込んでいる。第3 回も基本メンバーは同じであった。  
小括 米中経済摩擦から見る交渉アジェンダの変化
以上、中国の国際レジームへの参与過程において発生していた歴史的課題であった国交正常化、MFN 供与、WTO 加盟、(サービス分野を除く)市場アクセスといった問題は課題が基本的には終わったことで、アジェンダから消えているか、あるいは、形を変えて残っているにすぎない。それに対して、米中間の相互依存性の高まりから、発生している貿易不均衡是正問題およびそれに関連する人民元切り上げ問題、知的財産権問題が前面に大きく出るようになっている。また、中国の対外経済関係の深化を反映し、M&A による対外直接投資問題やエネルギー資源問題が、安全保障や人権の問題ともリンクさせられながらクローズアップされるに至っている。

1)2009 年5 月時点で97 のWTO 加盟国が中国の市場経済としての地位を認定しているが、EU、 米国、 日本およびインドなどはこれを認めず、「市場経済としての地位の認定」を経済的、 政治的な切り札としている。  
 
中国共産党の新指導思想に見る政治・経済・社会の変容
 江沢民「三つの代表」と胡錦濤「科学的発展観」

 

はじめに
中国共産党は21世紀に入ってから開催した計2回の全国代表大会(以下、党大会と呼称)で、従来からの党の指導思想である「マルクス・レーニン主義」「毛沢東思想」「小平理論」に加えて、新たに二つの新指導思想を党規約に盛り込んだ。すなわち、2002年11月の第16回党大会で党規約に明記された「三つの代表」と、2007年10月の第17回党大会で同じく党規約に記載された「科学的発展観」である。前者は前党総書記・江沢民が、また後者は現党総書記・胡錦濤がそれぞれ提示した新指導思想と位置付けられている。
理論政党を自認する中国共産党の指導者は、自らの権威と求心力を確立するため、従来の指導思想を「継承」「発展」させたとの形式の下に、独自の指導思想を打ち出すことが求められるという政治環境に置かれている。「三つの代表」と「科学的発展観」はそうした政治風土の中から出てきたといえるが、重要なのはこれらがどのような政治・経済・社会的変化、あるいは時代的要請を背景に登場したのか、という問題である。
1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議で、全党の活動の重点を社会主義近代化建設へ移行することが決定され、改革・開放への歴史的大転換が図られてから2008年でちょうど30年になる。この間、89年6月の第2次天安門事件など大きな政治的混乱に見舞われたが、経済は驚異的な高度成長を遂げ、国内総生産(GDP)総額では世界第4位(2005年)の経済大国になった。とりわけ、87年10-11月の第13回党大会で経済改革推進の理論的根拠となる「社会主義の初級段階論」が打ち出されたのに続いて、92年10月の第14回党大会で「社会主義市場経済の確立」が提起されたことにより、私営経済が加速度的に膨張するなど、事実上の資本主義化路線に拍車がかかった。
中国共産党は、政治面では、「四つの基本原則」(社会主義の道、プロレタリア独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という枠組みによって、国内のいわゆるブルジョア自由化(欧米型民主を求める動き)を封じ込め、一党体制を死守しようとしている。しかし、改革・開放30年の激浪は、地域間の発展格差、国民間の貧富格差を拡大させ、社会階層の分化を促しただけでなく、党員・幹部の腐敗や環境破壊といった体制矛盾を深刻化させた。さらに、経済のグローバル化や、インターネットの普及に象徴される情報革命によって、国民の政治意識や価値観の多様化が否応なく進行した。具体的に見れば、共産党内では党員の構成や意識に大きな変化が生じ、かつては「階級敵」であった資本家でさえも入党が公認されるようになった。社会全体では私営企業主、外資系企業管理者ら新興階層が台頭し、経済力を武器に変革に挑もうとしている。
世界に目を転じれば、90年代初頭にソ連・東欧社会主義の崩壊によって東西冷戦が終結し、中国を取り巻く国際環境は様変わりした。中国は2001年の世界貿易機関(WTO)加盟を経て、ますます激しい国際経済競争にさらされる一方、米国の一極支配に異議を唱えつつ、唯一の社会主義大国として生存と発展の道を模索している。
伝統的な社会主義体制の足元が激しく揺らぐ中、共産党指導部は、政治の安定・団結を維持しながら、最大の国家目標である経済建設に専念するため、これらの新情勢に柔軟に対応していかざるをえないという現実に直面している。「三つの代表」と「科学的発展観」は、まさに共産党が執政党として正念場を迎えている時代の転換期に編み出された理論であり、当然ながら、一連の新たな内外情勢の変化と密接な関連がある。本稿では、まず「三つの代表」および「科学的発展観」の特質を概観し、それらの背後に潜む共産党当局の政治目的と市場経済中国の政治・経済・社会的変化を検証する。そのうえで、新指導思想路線が内包する問題点を分析し、今後の中国政治の行方を考察したい。 
T 「三つの代表」および「科学的発展観」の特質 
1.「三つの代表」―第16回党大会での党規約改正
「三つの代表」は、そもそも江沢民が2000年2月25日、広東省視察の際に行った講話1)の中で初めて提起された。その内容は、中国共産党は「革命」「建設」「改革」の各時期を通じて、@先進的生産力の発展要求、A先進的文化の進路、B広範な人民の根本利益―の三つを代表してきた、というものである。そこには、「党が一貫してそれらの忠実な代表でありさえすれば、永遠に敗れることなく、人民の心からの支持を得られる」(江沢民)との政治的意図が込められている。
第16回党大会で改正される以前の旧党規約(以下、15回大会規約と呼称)は、冒頭の大綱(前文)の部分で「中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、 小平理論を自らの行動指針とする」と規定していた。それが、改正党規約(以下、16回大会規約と呼称)では「三つの代表」の登場により、「中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、 小平理論および『三つの代表』重要思想を自らの行動指針とする」と改められたのである。この個所には「江沢民」の名前は明記されなかったが、後段に「江沢民同志を主要な代表とする中国共産党人」が「『三つの代表』重要思想を作り上げた」との文言が盛り込まれ、「党が長期にわたって堅持しなければならない指導思想」と定義された。
以上の決定を踏まえ、第16回党大会は、「三つの代表」について「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想と小平理論を受け継ぎ、発展させたものであり、現代世界と中国の発展・変化が党および国の仕事に対して突きつけた新たな要請を反映したものであり、党の建設を強化し、改善し、わが国における社会主義の自己完成と発展を推し進めるための強大な理論的武器である。『三つの代表』を終始貫くことは、わが党の立党の本であり、執政の基礎であり、力の源である」と規定した2)。
「三つの代表」の党規約化に伴って、様々な関連の改正も行われた。15回大会規約は大綱の中で「中国共産党は中国の労働者階級の前衛隊である」とうたっていたが、16回大会規約では、それに続けて「同時に中国人民と中華民族の前衛隊である」との一句が付け加えられた。それが意味するところは、共産党はもはや「労働者階級」という特定の階級の代表にとどまることなく、「広範な人民の根本利益」を代表するということである。共産党自身はそう称していないが、事実上の「国民政党」宣言と解釈することも可能であろう。
次に、15回大会規約は、マルクス・レーニン主義について、「資本主義制度自体の、克服しようのない固有の矛盾を分析しており、社会主義社会が必ず資本主義社会に取って代わり、最終的には共産主義社会へと必ず発展することを指摘している。『共産党宣言』が発表されてからの100年余りの歴史は、科学的社会主義の理論は正しく、社会主義は強大な生命力を備えていることを証明している」と高く評価する一方、「社会主義は発展の過程において曲折と反復が起こりうるが、社会主義が必ず資本主義に取って代わるのは、社会歴史発展の、逆戻りできない全般的趨勢である」と強調していた。ところが、16回大会規約では党の長年の理論的支柱であったこれらの部分が全面的に削除された。
「社会主義(社会)は必ず資本主義(社会)に取って代わる」との伝統的な主張の削除は、社会主義と資本主義を対立的な存在ととらえる考え方の放棄を意味しており、資本主義であっても、経済・社会の発展に有効なものは積極的に政策に取り込むという指導部の実用主義を反映している。さらに、階級闘争史観に基づいた、マルクス主義の重要文献である『共産党宣言』の削除は、教条的イデオロギーとの決別と、「與時倶進(時代の発展につれて絶えず進歩する)」を旨とする中国式社会主義の独自性を象徴している。
これと関連して、16回大会規約は入党資格に関する規定(第一条)から「革命分子」という言葉を削除、代わりに「社会階層の先進分子」という言葉を挿入した。私営企業主の入党を公認する党の新政策に沿った重要な修正である。大幅な党規約改正の背景には、共産党の表看板は下ろさないものの、時代の変化に対応していくため、党員や国民に対して、もはや求心力を失いつつある古い理念の衣を脱ぎ捨てて、実質的な脱「階級政党」化を推し進めるとの戦略的狙いがあると指摘できよう。 
2.「科学的発展観」―第17回党大会での党規約改正
「科学的発展観」は、胡錦濤が「全面的で均衡のとれた、持続可能な発展観を打ち立てる」(2003年10月の党第16期中央委員会第3回全体会議決議)との方針を基に創出した新指導思想と位置付けられている。その特徴は、従来の経済成長万能主義を排して、環境保全などに配慮した持続的均衡発展を重視する点にある。胡錦濤は2004年3月10日に開いた中央人口資源環境工作座談会で「科学的発展観」を大々的に取り上げ、この新思想の確立と、実際の政策への反映を全国に指示した。当局がメディアを通じて「科学的発展観」の本格的な宣伝キャンペーンに乗り出したのはこの座談会以降であり、政治、経済、環境、農業、司法、科学技術など様々な分野で「科学的発展観」の重要性が喧伝された。「科学的発展観」とは、平たく言えば、「GDPの数字だけをむやみに追求せず、科学的かつ合理的な観点から、中国全体の持続可能な均衡発展を目指す」という考え方である。
共産党当局の公式見解によると、「科学的発展観」は、「社会主義市場経済体制を優れたものにするための目標、指導思想および原則として提起」され、「なぜ発展しなければならないのか」「発展とは何か」「どう発展するのか」との問題について党が認識を深めたことを示している―とされている3)。
第17回党大会で改正、採択された新党規約(以下、17回大会規約と呼称)では、大綱に「科学的発展観は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、 小平理論および『三つの代表』重要思想を受け継ぎ、時代の発展につれて絶えず進歩する科学理論であり、わが国の経済社会発展の重要な指導方針であるとともに、中国の特色を持つ社会主義を発展させるに当たって必ず堅持し貫徹しなければならない重大戦略思想である」との文言が新たに盛り込まれ、全党員が遵守すべき指導思想としての地位が確立された4)。
過去の指導思想の扱いを振り返ると、戦時下の第7回党大会(1945年)で党規約に明記された「毛沢東思想」は別格として、「小平理論」は小平死去後の第15回党大会(1997年)で、また「三つの代表」は江沢民の総書記引退が決まった第16回党大会で、それぞれ初めて党規約に登場した。その意味で、胡錦濤の総書記在任中に「科学的発展観」を党規約に入れたことは極めて異例の機関決定といえる。このことは、党内における胡錦濤の求心力向上をうかがわせると同時に、新方針の全国への浸透を急ぐ指導部の政治意志を示唆している。
17回大会規約の改正内容をめぐり、「科学的発展観」との関連で注目しなければならない点が二つある。第一は、「科学的発展観」の「本質かつ核心」と位置付けられる「以人為本(人をもって本となす)」が大綱に明記されたことである5)。この言葉は、2003年10月の党第16期中央委員会第3回全体会議で初めて中央文件に登場した。「人」は「人民大衆」、「本」は「人民大衆の根本利益」を指している。つまり、人民大衆の根本利益を出発点として発展をはかり、その成果を全人民に享受させる、との意図が込められている6)。
第二は、胡錦濤政権が政治目標に掲げる「和諧(調和)社会」の建設が、同じく大綱に盛り込まれたことである7)。前段階として、2006年3月の第10期全国人民代表大会(全人代)第4回会議の政府活動報告で、首相の温家宝は「和諧社会の建設に努力する」と述べ、「和諧社会」が胡政権の重要目標であることを宣言8)、さらに、同年10月の党第16期中央委員会第6回全体会議では「社会の和諧はわが党のたゆまざる奮闘の目標である」との決定が採択された9)。
「和諧社会」とは、文字通り「和やかな社会」を意味しており、全国民が改革と成長の成果を享受できることを目指し、発展から取り残された農村や貧困層の生活向上、公平で秩序ある法治社会の実現などを主要な長期的課題としている。
いわば、「以人為本」は「科学的発展観」の精神を代表し、「和諧社会」は「科学的発展観」の目標を集約したものと見なすことができる。「科学的発展観」を車の本体とすれば、「以人為本」と「和諧社会」はそれを支える両輪という関係になろう。 
3.「三つの代表」と「科学的発展観」の連続性
江沢民時代の政治と胡錦濤時代の政治を、政策論的に比較すれば、そこには一定の相違点を見出すことができる。ポイントは主として、経済建設を中心に置きつつも、どのように国全体を発展させるかという方法論の差異にある。
1992年6月9日、江沢民は中央党校省部級幹部研修班で演説し、経済建設への取り組みについて「経済建設を加速し、積極的な発展の速度を確保しなければならない。ゆっくりしていてはだめだ。立ち止まって前に進まないのはもっといけない」と党幹部たちに指示した10)。小平が同年1-2月の「南巡講話」で改革・開放加速の大号令を発したのを受けての発言だった。
その後、中国経済は第2次天安門事件による一時的な停滞を乗り越えて高度成長を続け、中国全体の豊かさのパイは急膨張した。ところが、本稿の「はじめに」でも言及したように、急成長の陰で国内の諸矛盾はさらに複雑さを増し、今までの闇雲な経済発展第一主義では結局、長期にわたる持続的な成長は望めないとの危機感が強まった。
そこで登場したのが、胡錦濤の「科学的発展観」である。胡錦濤政権が「科学的で、持続可能な均衡発展」というコンセプトを築く上で、重要な要因となったのは、中国をパニックに陥れた2003年の新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)騒動だった。高度成長路線の意外な脆弱性を痛感した胡錦濤指導部は、「発展を維持するには何をすべきか」を真摯に再検討せざるをえない状況に追い込まれ、そこからくみ取った教訓を政策理論の形で総括する必要に迫られた。その他もろもろの内政矛盾をも見据えて、あるべき発展の方向性を練り直した結果が「科学的発展観」に結びついた。改革・開放の流れの中で読むと、「科学的発展観」は小平・江沢民時代の発展観を調整する理論と考えることができる。
しかし、「科学的発展観」は、「三つの代表」を修正したり否定したりするものではない。むしろ、17回大会規約が「科学的発展観は『三つの代表』重要思想を受け継ぎ」と定義しているように、両者とも共通の政治・経済・社会的変容を背景に、ある意味で共産党体制の生き残りを図るために理論構築された、市場経済時代の新イデオロギーなのである。何よりも、21世紀の共産党は特定の階級(階層)に依拠するのではなく、広範な国民の利益を第一に考えなければならないという新思考において、「三つの代表」と「科学的発展観」は連続性を有している。
とりわけ、「科学的発展観」の精神および目標である「以人為本」「和諧社会」は、「三つの代表」の理念を敷衍し、具体化したものととらえていいだろう。 
U 新指導思想が打ち出された政治・経済・社会的背景
1.内的要因―市場経済、社会階層、共産党の構造変化
中国共産党が以上のような新指導思想を指針に定めるに至った背景について、まず内的要因から考察してみたい。ここでは主として、市場経済、社会階層、共産党の構造変化との関連から問題点を論じる。第一に指摘しなければならないのは、改革・開放30年間に、計画経済から市場経済へと革命的な転換が図られる中で、しだいに公有制経済が縮小し、非公有制経済が拡大するという根本的変化が起きたことである。
実際、非公有制経済の成長は著しく、2005年にはGDPの65%を占めるに至っている。2006年末現在、非公有制登記企業は3130.4万社(個人商工業者を含む)を数え、全国企業総数の95.7%を占めている。城鎮(都市と町)非公有制経済の従業員は23780.4万人で、全国の城鎮就業者数の84%に達している。納税額を見ても、非公有制経済は12666.84億元と、全国税収総額(関税、耕地占用税などを除く)の33.6%を担うまでになっており、非公有制経済なしに中国経済はもはや成り立たない状況にある。1978年以来、公有制経済の就業者は年平均3%の比率で減少しているが、非公有制経済の就業者は年平均3.1%の比率で増え、城鎮新規就業者の80%以上を吸収しているとされる11)。
第二には、経済構造の変化と連動して、社会階層構造にも極めて大きな変容が生じた。改革・開放以前の社会は「二つの階級・一つの階層」、つまり労働者階級、農民階級および知識人階層が主体という比較的単純な構造で成り立っていた。しかし、経済の改革と自由化につれて、職業の多様化ならびに階層分化が急速に進行した。中国社会科学院社会学研究所の調査では、現在の社会階層構造は10の社会階層(@国家・社会管理者、A経営者、B私営企業主、C専門技術者、D事務員、E個人商工業者、F商業サービス業従事者、G産業労働者、H農業労働者、I都市・農村の無職・失業・半失業者)と、5種の社会地位等級(@上層=高級指導幹部、大企業経営者など、A中上層=大企業中間管理職など、B中中層=小企業主など、C中下層=労働者、農民など、D低層=貧困労働者、失業者など)に区分されている12)。
これらの中で一定の経済力を備えている新興富裕層は、「二つの階級・一つの階層」と対比する形で「新社会階層」と呼ばれている。中国共産党の定義によれば、新社会階層とは@私営科学技術企業の創業者・技術者、A外資系企業の管理職・技術者、B個人経営者、C私営企業主、D(人材など)仲介機構の職員、E自由業者―の6種のカテゴリーに属する人々を指す。
新社会階層は推算で約5000万人、関連業種の全従業員を含めると、約15000万人(全人口の11.5%)に上る13)。新社会階層の多くは、労働者、農民、公務員などを経て市場経済に身を投じた転進組で、高所得の知識人(多くは非共産党員)が大半を占めている。
第三は、以上のような大状況の移り変わりによって必然的に進行した中国共産党自身の構造変化である。1949年の中華人民共和国建国当時、共産党員は約450万人で、その多くは教育水準の低い農民、労働者、兵士だった。それが、2000年には党員数約6450万人にまで膨張し、農民や労働者は全体の49%と半数を切った。代わりに、テクノクラート、専門技術者、企業管理者らが増加し、大学・専門学校以上の学歴の党員が21%を占めるなど知識人層が増大した。ちなみに、改革・開放初期の1981年当時、大学・専門学校以上の党員の比率はわずか3.4%であり、その後の約20年間で党員構成に劇的な変化が生じたことがわかる。最新の統計と比較しながら、より詳細に見てみたい。以下は、党中央組織部が2007年に発表した党員の属性に関するデータ(同年6月現在)である14)。
全国党員数7336.3万人
農民・牧畜民・漁民2310.2万人(31.5%)
機関幹部・企業事業部門管理者・専門技術者2134.6万人(29.1%)
定年退職者1377.6万人(18.8%)
労働者796万人(10.8%)
非公有制部門従業員318万人(4.3%)
学生194.7万人(2.6%)
2002年当時のデータと比べてみると、労働者、農民・牧畜民・漁民、機関幹部・企業事業部門管理者・専門技術者がそれぞれ10.6%、6.3%、5.4%の増加にとどまっているのに対して、学生と非公有制部門従業員はそれぞれ254.6%、113.4%と爆発的な増加ぶりを示している。かつて党員中の圧倒的な多数派であった農民や労働者の比率が低下しつつあるのに対して、いわゆるホワイトカラー(およびその予備軍)と私営経済分野の勤労者が増えつつある傾向が見て取れる。
また、党員の教育水準にも大きな変化がうかがえる。1954年末の党員数(候補党員を含む)は785万人だったが、このうち、大学卒程度の党員はほんの6.5万人(0.8%)に過ぎなかった。
高級中学(高校)卒程度も16万人(2%)、初級中学卒程度も84万人(10.7%)と少なく、小学校卒程度と非識字者がそれぞれ403万人(51.3%)、275.5万人(35%)と大半を占めた15)。
1986年末においても、高級中学卒以上が4分の1強、小学校卒以下が半分を占め、非識字者がなお8%もいた16)。
ところが、2007年統計によれば、大学・専門学校以上は2279.7万人(31.1%)に上り、全党員のほぼ3人に1人が高学歴者という構成になっている(対2002年比で40.8%増)。なお、2002年から2007年までの入党者のうち、32.5%は大学・専門学校以上だった。高学歴化の流れは、第17回党大会の代表(計2217人)のうち、大学・専門学校以上が2068人(93.3%)を占めたことでも明らかである17)。
以上のような非公有制経済の拡大、新社会階層の台頭、党員の知識化・専門化は、党の伝統的な階級理論に抜本的な修正を迫ることになった。江沢民は2001年7月1日の党創設80周年記念演説で、「党は労働者階級の前衛隊という性質を堅持しなければならない」と述べながらも、「経済発展、社会進歩という現実に即して、絶えず党の階級的基礎を強化し、大衆的基盤を拡大し、社会的影響力を高めなければならない」と呼びかけ、「党の路線と綱領のために奮闘できる」人材を広く社会に求める方針を示した18)。事実上の私営企業主=資本家の入党解禁宣言だった。これを踏まえ、第16回党大会報告は、私営企業主、個人業者、自由業者らについて「いずれも中国の特色ある社会主義事業の建設者である」と定義し、その存在と役割を積極的に認知した。
実のところ、共産党は第2次天安門事件直後の1989年8月28日、私営企業主の入党を禁止する通達を出している。通達の主旨は「わが党は労働者階級の前衛隊である。私営企業主と労働者の間には実質的に搾取と被搾取の関係が存在するため、私営企業主を入党させてはならない」「党は全民党(国民政党)ではない。党の性質の問題においては、いかなるあいまいさも許されない」といった内容である19)。その背景には、第2次天安門事件の衝撃を受けて政治の左旋回が強まる中、党内保守派が、地方党組織などで公然と行われていた私営企業主入党に強く反発するという政治情勢があった。しかし、江沢民の党創設80周年記念演説は、「三つの代表」を理論的根拠に、事実上、この通達を撤回するものとなった。1990年代以降の政治・経済・社会情勢の変化がいかに大きかったかを示すとともに、党指導部の権力維持への危機感―時代の変化に背を向け、硬直的な社会主義理論にしがみついていては、党の組織力を増強できないだけでなく、社会の新興勢力から見放され、一党体制そのものを維持していけなくなる―の深さを物語っている。
共産党は、私営企業主の入党承認を打ち出した江沢民の現実路線を正当化するため、2001年8月、党機関紙『人民日報』を通じて、「マルクス主義は絶えず発展する」とする理論キャンペーンを展開した。同紙は「正しい理論は具体的な状況と結びつかなければならない」(マルクス)、「我々の理論は発展する理論であり、暗唱して機械的に繰り返さなければならないという教条ではない」(エンゲルス)などの言葉を紹介したうえで、マルクス、エンゲルスが『共産党宣言』(1872年版)の序文で「これらの原理の運用は、そのときの歴史的条件によって変わらなければならない」と述べていることを挙げ、「マルクス主義理論は絶えず発展するということの模範的事例だ」と強調した。「マルクス主義は発展する」との論法で「三つの代表」に思想的正統性を付与することを狙ったものであり、そこには党が現実の変化に弾力的に対応していく姿勢が示されている。
共産党の政権基盤そのものが変わりゆく中で、江沢民から政権を継承した胡錦濤は「科学的発展観」=「以人為本」によって、「広範な人民の根本利益」を代表するとする「三つの代表」を理論的に前進させた。共産党は、第12回党大会(1982年)以降、階級闘争について「なお一定範囲内で長期に存在し、ある種の条件下では激化する可能性もある」としつつも、「もはや主要矛盾ではない」20)と定義している。「以人為本」はこの論理を補強し、「階級闘争を要とする」との旧イデオロギーの陰影を完全に葬り去ったといえる。
胡錦濤政権は、広範な人民の支持を集め、政治の安定・団結を強化するために、「以人為本」を具体的政策に反映させている。重要な政策の一つとしては、2007年3月の全人代における物権法21)制定が挙げられる。同法は私有財産保護を具体的に明文化した初の法律であり、市場経済秩序や民心の安定を促し、「和諧社会」建設に弾みをつけることを意図している。さらに、共産党当局は同年4月、自らの指導下にある民主諸党派「致公党」の副主席・万鋼を科学技術部長に登用したのに続き、6月にも無党派の科学者・陳竺を衛生部長に抜擢した。非共産党員閣僚の誕生は、民主諸党派からは35年ぶり、また無党派からは改革・開放後初めてだったが、こうした党外人士の積極的な起用も一連の政策の延長線上にある22)。 
2.外的要因―ソ連・東欧社会主義崩壊と経済グローバル化
一党独裁体制を維持しながら、市場経済によって富強国家を目指す中国共産党にとり、20世紀末の最大の衝撃は、ソ連・東欧社会主義が雪崩を打って壊滅した事件だった。特に、中ソ論争が国家対立に発展し関係断絶に至った時期もあったものの、歴史的には社会主義の先輩国であったソ連の解体は中国共産党に深刻な教訓をもたらした。いわば、江沢民政権にとっては「ソ連の二の舞を演じないためには何をすべきか」が喫緊の政治課題となった。江沢民は「三つの代表」を提示する中で、ことあるごとに政権維持をめぐる危機感を表明してきた。2000年10月11日には、党第15期中央委員会第5回全体会議の席上、以下のような演説を行っている23)。
「1990年代以降、(世界で)数十年間にわたって政権を握ってきた政党が相次いで退陣し、ある政党は消滅した。その根本原因は党の内部から問題が発生した点にある。これらの政党の興隆と衰退を真剣に分析し、参考にすることは、我々が党の建設を強化するうえで非常に意義がある」「歴史と現実がはっきり示すところによれば、一つの政権であれ、一つの政党であれ、その前途と運命は最終的に人心が従うか背くかによって決まる。最も広範な大衆の支持を獲得できなければ、必然的に崩壊する」また、江沢民は2000年12月26日、党中央規律検査委員会第5回全体会議で演説し、@東欧の激変、Aソ連の解体、B台湾における中国国民党の下野、Cインドネシアのスハルト大統領退陣、Dメキシコの制度的革命党の選挙敗北、Eペルー情勢の急変とフジモリ前大統領の日本滞在、Fフィリピン政局の動揺――などの政治事件を近年の政権維持の失敗例として挙げた後、「それぞれの原因はたいへん複雑だが、人心の離反が非常に重要だ。これらの歴史と現実の実例を、我々ははっきり見抜かなければならない」と訴えた24)。
「最も広範な大衆の支持」がなければ体制が崩壊するとの江沢民の情勢認識は、「三つの代表」の淵源を直接的に物語る。「三つの代表」がソ連・東欧の社会主義崩壊を他山の石として理論構築されたことは、江沢民政権の有力な理論ブレーンの一人であり、「三つの代表」推進に深くかかわった中央党校副校長・李君如の証言からも明らかである25)。
李君如は、「三つの代表」が打ち出された重要な背景の一つとして、ソ連・東欧社会主義崩壊に象徴される「世界の社会主義運動の大きな曲折」を指摘し、江沢民はこの間の経験・教訓を絶えず思考してきたと語る。そのうえで、「執権党の最大の憂慮と脅威は、自らの立ち遅れによって人民大衆の信頼と支持を失い、政権を失ってしまうことだ」と述べ、「ソ連・東欧の激変は、共産党が先進的生産力の発展要求、先進的文化の進路、人民大衆の根本利益の三点で遅れをとるならば、つぶれてしまうことを、我々に教えている」として、ソ連・東欧の失敗に学ぶ必要性を強調している。
ソ連・東欧社会主義の崩壊で、「政権とは何によって維持されるのか」という根源的な命題をつきつけられた中国共産党指導部は、新たな生き残りの哲学―現実から遊離した教条主義でも伝統的社会主義の遅れた生産システムでもなく、広範な国民の利益を尊重し、生活向上の欲求を満たすことのできる、柔軟で現実的な政策こそがカギを握る―を導き出した。ソ連・東欧社会主義の崩壊は、結果的に、中国共産党指導部に国家経営のあり方に関して自省の機会と路線修正の時間を与えた。その意味では、中国共産党の「延命」にプラスに作用したといえるかもしれない。
一方、胡錦濤の「以人為本」からも、やはりソ連・東欧社会主義崩壊の教訓との密接な関連を見出すことができる。国民生活の安定と向上を保障できず、人権意識の高まりなど、人々の価値観の変化に対応できない政権は、いかに強権をもって国を統治しようが、いずれは国民から見放され、崩れ去る運命にある。「以人為本」の背後には、政権のこうした危機意識が潜んでいる。胡錦濤は2003年7月1日、党創設82周年を記念して行った演説で、「民の楽しみを楽しむ者は、民も亦其の楽しみを楽しむ。民の憂いを憂うる者は、民も亦其の憂いを憂う」との『孟子』の中の言葉を引用し、「人心が従うか背くかは、一つの政党、一つの政権の盛衰を決める根本的な要因である」と訴えた26)。このような発想にたつ政治スタイルを凝縮したのが「以人為本」であると考えられよう。
もう一つの重要な外的要因は、経済グローバル化に代表される国際環境の変化である。冷戦終結後、中国は経済建設を国家発展の最優先課題に据え、2001年12月には念願のWTO加盟を果たすなど、本格的な国際競争に参入している。党内の共通認識は、これを勝ち抜くには、より開放的な経済体制へと転換し、世界の先進レベルの知識や技術、文化を吸収していかなければならない、という点にある。江沢民は2002年11月8日に行った第16回党大会報告で、「国際情勢は大きく変化しつつある。世界の多極化と経済のグローバル化の趨勢は曲折しながらも発展を遂げており、科学技術の進歩は日進月歩で、総合的国力の競争は日に日に激化している。
情勢は差し迫っており、前進しなければ退歩することになろう」との厳しい認識を表明した27)。
党が「先進的生産力の発展要求」「先進的文化の進路」を代表しなければならないとの発想は、こうした国際情勢認識に根差している。 
V 社会主義の空洞化と体制矛盾 
中国共産党は「党の最高理想と最終目標は共産主義の実現である」と党規約に定めている。
しかし、「中国はいまだに社会主義の初級段階にある」との自己規定によって市場経済化を推し進め、貧富格差を容認し、資本家の入党さえ解禁するに至った今日、共産主義はもとより社会主義でさえも、輪郭があいまいになってきてしまっている。「三つの代表」による「広範な人民の根本利益を代表する」との党の性格付けも、「科学的発展観」が呼びかける「以人為本」「和諧社会」も、この30年来の社会変容に実際的に対処するための理論装置という意味ではそれなりの合理性を有すると見なせようが、反面、資本家の入党公認や物権法制定に象徴されるように一種の現状追認路線でもあり、結果として社会主義的理想と非社会主義的現実の落差を拡げ、共産党政治への疑念を増幅させている。それは共産党員の政治意識をも侵食している。
中国国家発展改革委員会主管の「秘密」扱い内部情報誌が掲載した、共産党員政治意識調査を一例として挙げておく28)。この調査は、「N省の省委党校の六つの指導幹部育成班の研修生」を対象に実施されたものであり、有効回答571のうち共産党員が97.2%、大学・専門学校以上の高学歴者が98.8%を占める。まず、「共産主義は実現できるか」との問いに対する回答を見ると、「必ず実現できる」は42.9%と半数以下で、「実現の可能性がある」24%、「はっきりいえない」24.2%、「実現できない」3.2%という結果が示された。「わが国が行っているのは社会主義か」との問いには、「そのとおり」が47.1%で、「はっきりいえない」39.2%、「まったく違う」3%の順だった。つまり、共産党員の4人に1人は共産主義の実現に確信を持てず、4割余は社会主義にも疑念を抱いている状況が浮き彫りになっている。調査者は「現実ないし実践における社会主義(社会制度)と、半数以上の回答者の心中の社会主義(社会制度)との間に距離がある」と分析している。
さらに、「大衆の中における共産党の威信と権威はどうか」との問いには、「弱まっている」46.9%、「あまり高くない」8.4%、「比較的(あるいは非常に)低い」4.2%と否定的意見が約6割を占め、「なお非常に高い」はわずか8.2%にとどまった。「民主の状況」については、「非常に不満」「あまり満足していない」が62.8%に上り、政治改革を「加速しなければならない」との声が85.1%にも達した。あくまでも一地方の党員に対する限定的調査ではあるが、党員の政治的信仰が揺らいでいるだけでなく、党の腐敗体質や政治改革に消極的な姿勢への不満も根強い現状がうかがえよう。
党上層部もこうした問題を認識し、危機感を抱いてはいる。胡錦濤は2006年6月30日、党創設85周年の演説で「党内には現在、党の先進性の要求にそぐわず、合致しない、際立った問題がなおいくらか存在していることを、はっきりと認識しなければならない。例えば、一部の党員は先進性の意識が乏しく、理想も信念も軟弱である」29)と嘆いた。また、党理論誌は「おおいに注意すべきなのは、現在、少数の党員・幹部の党に対する忠誠心がいくらか動揺し、しだいに弱まっていることである。例えば、一部の党員はマルクス・レーニン主義を信じずに邪悪な勢力や神を信じ、組織を信じずに個人を信じている。さらに、少数の幹部は、党に対する忠誠を、ある個人に対する忠誠やコネ人脈に対する忠誠へと転化し、自分の腹心をもり立て、徒党を組み、わが身を従属させてしまっている」30)と警鐘を鳴らしている。しかし、問題の根源は、深まる体制矛盾そのものの中にあり、精神論や理想論は激しく移り変わる現実の前にもはや効力を失っているといわざるをえない。
こうした状況下、新社会階層の台頭は、良くも悪くも共産党の体質に影響を及ぼす可能性がある。私営企業主の間には、経済力を背景に中央や地方の政治に参加し、一定の発言権を確保したいとの政治志向が強まっている。党中央統一戦線部、中華全国工商業聯合会などが実施した第7次私営企業サンプリング調査(2006年)によれば、28.8%の私営企業主が人民代表大会代表や政治協商会議委員に就任したいとの切実な願望を抱いている31)。新興勢力である彼らの社会的身分にはなお不安定な側面があり、何らかの形での政治参加は自らの地位を強化する安全弁になる。すでに、私営企業主のうち共産党員は32.2%を占め、県級以上の人民代表大会代表は約9000人、同じく政治協商会議委員は約3万人に上るという実態がある32)。
現状では新社会階層が短期間に政治の中枢へと進出し、主流を占める可能性はない。しかし、長期的に見れば、その増大する存在感は二つの点で注目に値する。第一は、彼らの中には欧米留学組の経営者、専門家らも多く、国際慣例に通じ、経済合理性を重んじる一般特性は、国民内部の脱イデオロギーと価値観多元化を加速していくであろうこと。今後、党・政府組織において彼らの進出が促されるとすれば、市場経済の拡大に見合った政治改革を求める圧力の高まりは不可避となるだろう。第二に、新社会階層の進出は、経済活動にからんで汚職、脱税、知的財産権侵害、乱開発、環境汚染など多くの社会的弊害を生んでいる。党員・幹部の深刻な腐敗問題も、政治権力と経済権力の癒着構造がもたらしたものである。共産党指導部は、発展の原動力として新社会階層を活用していく方針だが、政治改革を通じて実効ある法治体制を確立しない限り、これらの体制病は一層混迷を深めていく恐れがある。
中国共産党は第16回党大会で、@2020年までに小康(まずまずの生活水準)社会を建設する、A2020年のGDPを2000年の4倍とする―との長期目標を打ち出した。第17回党大会では、AのGDPを「一人平均GDP」に修正したが、要点は「明日のさらなる豊かさ」を国民に約束し、実績を積み重ねることによって共産党が指導する国家体制を維持、発展させることにある。
もとより「明日のさらなる豊かさ」は国民全体の願望でもあるが、最大の問題は「社会主義初級段階の先にあるもの」がなかなか見えないことである。限りなく資本主義に近い社会主義なのか、あるいはまったく別の政治システムなのか、「三つの代表」も「科学的発展観」もこれには答えていない。 
おわりに 
1990年代以降の中国共産党の宣伝思想工作における大きな傾向は、ある種の伝統回帰の流れである。例えば、共産党は、東西冷戦終結と経済グローバル化、また中国自身の市場経済化と歩調を合わせるように、伝統的な愛国主義や中華民族精神の重要性を喧伝し、国民にそれらの発揚を強く求めるようになった。社会主義イデオロギーに取って代わる国民統合理念としての有効性をそこに見出しているからにほかならない。
「三つの代表」にしても、歴史的にまったく新しい概念というわけではなく、一つのモデルがある。中国共産党は長征を終えて陝西省北部に到着した直後の1935年12月、党政治局拡大会議(瓦窰堡会議)で、毛沢東の指導の下に「中国共産党はプロレタリア階級の前衛隊であると同時に、全民族の前衛隊でもある。従って、党の主張のために奮闘することを望む者は、階級や出身を問わず、すべて党に加入してよい」との決議を採択した33)。「三つの代表」は、党の政策を支持し、党のために役立つことができる者は積極的に仲間に取り込むという実利主義を、毛沢東の革命戦術に学んでいるのである。「以人為本」「和諧社会」についても、老荘や儒家の思想、あるいは伝統的なユートピア思想「大同」との関連を指摘することができよう。
こうした伝統回帰は、歴史的な変革期の只中にある中国共産党が、時代の進行方向を探りつつ、必死に思想的模索を続けていることを示唆している。共産党員の年齢構成を見ると、35歳以下が1738.4万人(23.7%)、36〜59歳が3884.2万人(52.9%)である34)。59歳の党員を1948年生まれとすれば、実体験として革命戦争を知らない世代がおおよそ8割を占める。また、35歳の党員を1972年生まれとすれば、実体験として文化大革命を知らず、物心ついた年頃にはすでに改革・開放期を迎えていた(あるいは改革・開放期生まれの)世代がおおよそ4人に1人といった勘定になる。「革命」が歴史の中に埋没するのは時間の問題であり、改革・開放と市場経済の流れが加速することはあっても、逆戻りすることは想定できない。
中国共産党は政治体制改革について「中国の民主政治建設は、必ず中国の基本的な国情から出発しなければならず、他国の政治制度と政党制度のモデルを闇雲に模倣しても成功しない」と主張している35)。いわゆる欧米型民主主義政治の受け入れは断固拒絶するとの原則的立場をうたったものだ。確かに、中国の現在の客観情勢は急速な民主化を可能にする段階にはない。
しかし、時々刻々変容する国内外の情勢は、今後、さらなる「與時倶進」を否応なく中国共産党に迫るであろう。また、国家発展のための改革路線を続行する限り、党自身、一層の理論刷新を行い、現実の変化に弾力的対応していくことから逃れられないと思われる。 

1)江沢民「在新的歴史条件下、我們党如何做到“三個代表”」、中共中央文献研究室編『十五大以来重要文献選編・中』人民出版社、2001年、1138-1143頁。
2)「中国共産党第十六次全国代表大会関於十五届中央委員会報告的決議」、『中国共産党第十六次全国代表大会文件匯編』人民出版社、2002年、132-133頁。
3)中央党校小平理論和“三個代表”重要思想研究中心「科学発展観:実践中形成的重大戦略思想」、『光明日報』2006年1月24日。筆者は中央党校副校長の李君如。
4)「中国共産党章程」、『求是』2007年第21期、24頁。
5)王偉光主編『科学発展観幹部読本』(中共中央党校出版社、2004年)は、「『以人為本』の堅持は、『科学的発展観』の本質的要求であり、経済・社会の発展において長期にわたって堅持しなければならない指導思想である」と解説している(135頁)。
6)本書編写組『構建社会主義和諧社会実用手冊』中国方正出版社、2005年、198頁。
7)「中国共産党章程」、『求是』2007年第21期、25頁。
8)国務院研究室編写組『十届全国人大四次会議《政府工作報告》学習問答』中国言実出版社、2006年、36頁。
9)「中共中央関於構建社会主義和諧社会若干重大問題的決定」、本書編写組『構建社会主義和諧社会学習問答』紅旗出版社、2006年、173頁。
10)江沢民「深刻領会和全面落実小平同志的重要談話精神、把経済建設和改革開放得更快更好」、中共中央文献研究室編『十三大以来重要文献選編・下』人民出版社、1993年、2062-2063頁。
11)李欣欣「非公経済発展指標比重大増」、『瞭望』2007年第40期、37頁。
12)陸学芸主編『当代中国社会階層研究報告』社会科学文献出版社、2002年、8-9頁。
13)葉暁楠、紀雅林「新社会階層身影日漸清晰」、『人民日報』、2007年6月11日。新社会階層の人数等は党中央統一戦線部副部長・陳喜慶の推計に基づいている。「新社会階層」の概念自体は、江沢民の第16回党大会報告に登場している。
14)新華社「十六大以来党員隊伍不断優化壮大」、『中国青年報』2007年10月9日。
15)中共中央党校党建教研室編『中国共産党 党的建設大事記(一九四九年十月―一九五六年十二月)』求実出版社(内部発行)、1983年、83-84頁。
16)廖蓋隆・趙宝煦・杜青林主編『当代中国政治大事典』吉林文史出版社、1991年、68頁。
17)「中組部負責人就党的十七大代表選挙工作情況答本報記者問」、『人民日報』2007年8月4日。
18)江沢民「在慶祝中国共産党成立八十周年大会上的講話」、中共中央文献研究室編『十五大以来重要文献選編・下』人民出版社、2003年、1915-1917頁。
19)「中共中央関於加強党的建設的通知」、中共中央文献研究室編『十三大以来重要文献選編・中』人民出版社、1991年、598頁。
20)「十二大党章」、本書編委会編『中国共産党歴次党章匯編(1921〜2002)』中国方正出版社(内部発行)、2006年、311頁。
21)物権法は、私有財産について「個人はその合法的な収入、家屋、生活用品、生産道具、原材料などの不動産および動産の所有権を有する」と規定し、「個人の合法的財産は法律の保護を受け、いかなる機関・個人もこれを占有、略奪、破壊することを禁じる」と法的保護をうたっている。
22)中共中央は2006年11月、「関於鞏固和壮大新世紀新階段統一戦線的意見」を通達し、新社会階層に対する統一戦線工作の強化を指示している。
23)江沢民「関於改進党的作風」、中共中央文献研究室編『十五大以来重要文献選編・中』人民出版社、2001年、1407頁。
24)江沢民「推動党風廉政建設和反腐敗闘争的深入開展」、中共中央文献研究室編『十五大以来重要文献選編・中』人民出版社、2001年、1562頁。
25)謝春濤「“三個代表”與党的建設―李君如訪談録」、『百年潮』2000年第9期、4-7頁。
26)胡錦濤「在“三個代表”重要思想理論研討会上的講話」、『十六大以来重要文献選編(上)』中央文献出版社、2005年、370頁。
27)江沢民「全面建設小康社会、開創中国特色社会主義事業新局面」、新華月報編『十六大以来党和国家重要文献選編 上(一)』人民出版社、2005年、3-4頁。
28)肖唐「対地方官員政治態度的調査與分析」、『改革内参』2005年第35期、31-35頁。
29)胡錦濤「在慶祝中国共産党成立85周年曁総結保持共産党員先進性教育活動大会上的講話」、『人民日報』2006年7月1日。
30)陳章元「強化共産党員的忠誠意識」、『求是』2007年第9期、55頁。
31)中華全国工商業聯合会ホームページ、2007年10月30日。詳細は同聯合会編『1993-2006中国私営企業大型調査』(中華工商聯合出版社、2007年)を参照。
32)葉暁楠、紀雅林「新社会階層身影日漸清晰」、『人民日報』、2007年6月11日。
33)李君如「正確理解和堅持党的階級性」、『学習時報』、2001年7月9日。
34)新華社「十六大以来党員隊伍不断優化壮大」、『中国青年報』2007年10月9日。
35)中国国務院新聞弁公室「中国的政党制度」、『人民日報』2007年11月16日。 
 
「全球(グローバル)化」時代の「発展中(途上)大国」・中国の光と影
 総合的国力・社会問題の諸相と展望

 

一、近代〜「全球化」時代の中国の道程と変容 
1.近代(1840 − 1919)の衰微
(1)強国の凋落
中国の歴史上、百年以上の繁盛を誇る時代で今から最も近いのは、康煕・雍正・乾隆3朝(1661 − 1795)の「盛清」である。本稿筆者の此の造語は初唐・盛唐・中唐・晩唐の「断代」(時代の区分)に因んだ物であるが、初唐(高祖〜睿宗の9朝、618 − 712)と盛唐(玄宗〜代宗の3朝、712 − 79)から成った唐代前期も、史上有数の百年強の栄華期の一つである。唐高祖即位から安禄山の乱(755)までの137 年は、康煕元年〜乾隆末年の134 年と共に、1世紀半を超える持続的強盛の無理を示唆する。「中清」の中弛みで国力が横這いから下り坂へ向い、1820 年に世界GDP総額の28.7 %をも占めたと言う1)程の優位は、「世界の工場」(1838 年の英国議会で最初に使われた言)・英国に奪われた。中国近代史の起点と成る鴉片戦争(1840 − 42)で英国に屈伏し、国家の弱体化は「急衰・激痩」の傾斜を辿り始めた。
(2)中興の失敗
「太平天国」の内乱(1851 − 64)と並行して、第2次鴉片戦争(1856 − 60)で対英・仏・露・米の敗北を経て、1861 年の総理各国事務衙門(外交等を司る中央官庁、米国務院相当)・安慶軍械所の設立を以って、富国強兵を図る洋務運動が発足した。政治・経済・文教・外交で列強に習う「自強新政」は一定の進展を得たが、近代化と軍備・海防強化は不十分であった故、中仏戦争(1883 − 85)の軍事・外交の挫折で越南の仏蘭西植民地化を容認させられ、日清戦争(1894)の惨敗で台湾・朝鮮が日本の治下に帰せられた。東北亜細亜の勢力図の一連の塗り替えに因って、老大国の「盟主」的地位も喪失した。
(3)王朝の消滅
1898 年の「維新変法」は宮廷政変の蹉跌で幕を閉じ、首謀者の処刑と光緒帝の軟禁で改革派は壊滅的打撃を受けた。英・米・独・仏・露・日・伊・墺8ヵ国聯軍の天津・北京占領(1900)で、中国は更に2等国へと転落した。思想家・梁啓超に由る「中華民族」の概念の提起(1898)、急進派知識人・鄒容の『革命軍』と陳天華の『警世鐘』の爆発的流布(1903)等、清朝打倒・漢族復権・中国再起を求める民族主義が高揚した。「駆逐韃虜、恢復中華」(満族駆除・中華復興)の気運で辛亥革命(1911)が勃発し、秦(前221 −前206)以降2100 年余り続いた「一統天下」(全国支配)の封建社会が壊滅した。
(4)新生の混沌
中華民国の成立(1912)は共和制の近代国民国家の誕生を意味したが、辛亥革命後の南北講和会議で北側(清朝)が提起した「五族(漢・満・蒙・回・蔵[チベット])共和」は、一旦朝野の共通認識に成った後、孫文等の漢族主体の中華民族の一元的同化志向に由って否定された。内乱に付け込んだ列強の「瓜分」(瓜を割る様な恣意の分割)が止まらず、日本は独逸の租借地・青島を攻略し山東省の大半を横取りした翌年(1915)、不当な「対華21 ヵ条要求」を中国に呑ませた(最後通牒提出と受諾の5月7日、9日は当時「国恥記念日」と成った)。歴史に逆行する袁世凱大統領の帝政復活・皇帝就任は頓挫し(1916)、北洋政府の治下で軍閥割拠の局面が続いたが、1917 年に孫文が広州護法軍政府を設立し護法戦争を始めた。
(5)明暗の回顧
西洋・東洋の列強に強いられた凌辱・敗戦・賠償等で、中国は亜細亜・世界の経済・文明の中心から国際舞台の隅に追い遣られた。屈辱と痛恨に満ちた此の時期の非力・喪失から、異族・他国への不信感等の精神的創傷が根強く遺り、列強に伍する富強志向も急速に強まった。国内の民族対立(満清vs.漢人)は大中華意識へ昇華する形で次第に解消に向い、列強に抵抗する急務が全民族の大義と国家の求心力に成った。 
2.現代(1919 − 49)の激動
(1)鬱憤の爆発
中国近代史の起点・「5.4 運動」(1919)は、日本「対華21 ヵ条要求」への取り消し要求を拒否した巴里講和条約での調印予定に抗議した大衆運動であり、対帝政露西亜勝利後の戦争賠償部分放棄に反発する東京日比谷公園焼き打ち事件(1905)に類似した。此の反帝国主義・封建主義の愛国運動の翌年に、中国は世界連盟に加盟した。更に次の年に共産党が成立し、孫文の「聯俄・聯共・扶助農工」(ソ連・共産党と提携し、労農を扶助する)路線の下で、国(民党)共(産党)連合戦線が結成された。孫文は世界戦略に関する遺言として、逝去の前年(1924)神戸に於ける演説で、日本と共に「亜細亜の干城」を成す「大亜細亜主義」を主張した。
(2)脱ソ・入欧米
広州革命政府の北伐戦争(1926 − 28)が破竹の勢いで展開されたが、蒋介石の反共政変(1927、上海)を経て国民党政権が大陸を支配した。上記の孫文の3大政策は否定され、蒋(介石)・宋(子文)・孔(祥煕)・陳(果夫・立夫)「4大家族」の親英・米志向に変り、南京への遷都も在華英・米資本の基盤に寄り掛かる要素が有った。孫文の提唱した5権分立(立法・行政・司法・考試[人事]・監察)の5院制が実現した反面、北洋政府時代以来の軍閥混戦に国共内戦や、日本軍に由る張作霖爆殺(1928)・満州事変(1931)が加え、乱世の暗雲は濃く成る一方で晴れ間が一向に現れなかった。
(3)「惨勝」の創傷
盧溝橋事件(1937)で日本が全面的侵華戦争に突入した後、既に植民地化された東北3省を含めて中国の約半分が占領された。後に中華人民共和国国歌と成った『義勇軍行進曲』(田漢作詞・聶耳作曲、1935)の雄叫びの通り、「中華民族は最大の危機に直面し」、人々は「自らの血と肉体で新たな長城を築く」決意を迫られた。8年に亘った抗日戦争は人員・財産の天文学的数字の損害2)を出し、賠償請求の放棄は一層「惨勝」の性格を深めた。其の前後の第1、2次国共内戦(中共の史観では「土地革命戦争」、「解放戦争」)の死闘も合わせた結果、全国は敗戦日本の廃墟と変らぬ程の焦土に化した。
(4)禍福の勘定
戦火が絶えず「半壁河山」(半分の国土)が長らく外国に占領された此の30 年は、中華民族の多難な宿命の縮図を成す「悲涼」(悲愴)な時代と言える。其の代償として、国連安全保障理事会常任理事国という国際社会に於ける高い地位が獲得された。米・ソ・英・仏と並ぶ政治列強の一員として、大戦中に空前に漲った民族主義・国際志向が2本の梃と成って、戦後の強盛大国・責任有る大国への道が開かれた。 
3.当代(1949 − )の再起
(1)消耗の連続
毛沢東政権は政治面で恐怖統治を断行し、経済「戦線」で冒険・失策を繰り返した。其の悪果として、過大な生産目標を掲げた「大躍進」(1958)の破綻等で、「非正常死亡」者数が2000 − 4000 万に達する3)大飢饉(1959 − 62)を招き、毛沢東の死(1976)まで10 年続いた「文化大革命」は国家を破局に陥らせた。軍事面でも朝鮮戦争への参戦と越南戦争への支援軍秘密派遣の様に、冷戦の「恐怖の均衡」を超える必死な熱闘の強硬姿勢が目立った。北京を首都にした選択は中ソ同盟を外交の基軸と成す指向性の現れでもあるが、ソ連への一辺倒から両国が決裂し(1959)、国境戦争まで起った(1969)。インドネシア左派に由る政変(1965、未遂)への一部関与4)等、革命輸出の野望も国際社会の中の孤立を深めた。対GDP、国家財政支出比が先進国よりも高い対友好国・「不発達国家」(途上国)援助(大半は無償)は、自国民に多大な負担を掛け根強い怨嗟を招いた。5)
(2)復興の始動
毛沢東時代の停滞・自閉の反面、1950 − 70 年代に「4つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術の近代化)が国是として提起・確立され、国連への復帰(1971)や米・日との修交(1972)を果たした。1978 年末の改革・開放路線の発足は、先代で達成し得なかった志向の継承の側面も有る。華国鋒政権の「洋冒進」(西洋指向の冒険的経済猛進)は、20 年前の「土(土着的、泥臭い)冒進」の再演や変種と思えるが、15 年以内に英国に追い越せと言った毛の50 年代中期の号令は、彼が当時「球籍」(地球上の戸籍。国際社会での存在資格)の喪失に抱いた不安にも起因した。胡耀邦総書記失脚・「反資本主義自由化」運動(1987)で改革の減速が懸念される中で、1988 年に「球籍」危機の議論が再燃した。
(3)過渡の陣痛
小平が実権を握る改革・開放初期と本格的小平時代(1982 − 89)には、転形期らしい前進と徘徊が多く見られた。経済特区の設立(1980 − )や市場原理の浸透と平行して、保守派に由る「資本主義自由化・精神汚染」排除が発動され(1983)、「(中華伝統の)黄河文明から(現代世界の)海洋文明へ」の進歩的主張(1988)が封殺された。「地球籍」確保の焦燥に駆られた過激な物価・給与体系の抜本改革が年率3割弱の高通貨膨張を惹起し、翌年の天安門事件の外科手術的解決(武力鎮圧)も甚大な後遺症を遺した。改革・開放元年(1979)元日の中米国交樹立の翌月の対越南「自衛反撃戦争」にも、和・戦2極の間を揺れ動く姿が映し出された。
(4)巨龍の離陸
中国は冷戦終結後の湾岸戦争とソ連解体で、米国の強大と社会主義体制の脆弱を痛感した。衝撃の末の小平の南方巡視(1992)で改革・開放が再点火され、広東・福建に継ぐ上海・長江下流三角洲と首都圏(北京・天津・唐山)の経済特区的重点化等の動きが起きた。が1983年に是認した「先富」(実力の有る地域や個人が先に富裕に成る)は徐々に実現し、先進地域から後進地域へ波及する国内の「雁行型成長」が実を結び、外資誘致の進展とも相俟って経済大国への変貌が始まった。
(5)功罪の評価
共産党執政の結果、中国は半植民地から完全に独立し、朝鮮戦争や冷戦対峙を経て、米・ソ両超大国と対抗できる実力・自信も得られたが、不条理な高圧的・硬直的統治に因る高緊張・低成長が目立った。自国と世界の相関変数に就いて言えば、30 年も続いた閉鎖的状態は近代の30 年とも類似の内向的暗さが漂ったが、トンネルを抜け出して国際社会と合流する勢いは必然的に強烈な反動・対照が伴った。 
4.「全球(グローバル)化」への「接軌」(リンク)
(1)奔流の加速
江沢民を頭とする建国後第3世代指導部への権力譲渡が終った翌年(1995)、GDPの購買力平価(PPP)ベース総額が世界2位の日本を抜き、「国際互聯網(インターネット)元年」を迎える等、「瓶頸」(ボトルネック)突破から「量子飛躍」へという途上国の本格的高成長の軌跡や、「全球化」(中国では90 年代後期に提起)の新潮に合流する胎動が見られた。「盛清」終焉200 周年、日清戦争101 周年に当る此の節目の転換は、「盛清」起点の200 周年の洋務運動発足と同じく歴史の循環を感じさせる。
(2)「居亜・入世」(亜細亜に立脚し、世界に進出する)
「国際接軌」(国際社会の軌道に接続する。国際基準を導入する)、「政治の多極化・経済の全球化」といった合言葉の通り、自国の孤立と米国の「独覇」(単独制覇)の両方を防ぐのが中国的「全球化」の心構えである。小平と同世代の経済担当の中共重鎮・陳雲は1982 年、一定の制限と適宜の自由から成る「鳥籠経済」を提唱し、其の国家統制+市場原理の二刀流は東亜細亜経済危機の対処でも奏効した。香港と亜細亜の最後の植民地・澳門の回収(1997、99)で、栄光を取り戻す中国の自信は益々深まった。2001 年の「入世」(世界貿易機関への加入)は「国際接軌」の集大成として、19 世紀末の民族主義と好一対の20 世紀末の「全球化」の指向性を示した。
(3)両輪の奏効
「現代化・全球化」に集約された民族主義と国際志向、「鳥籠構造」の社会主義体制+市場経済原理の有機的結合の結果、安定下の持続的高成長と国際社会に於ける一応の調和・優位が実現できた。海底の瓶に千年も閉じ込められた後に解放された魔神の様な貪欲・激越を見せつつも、闘争精神と平和願望、孟子が言う「独善其身」(我が身を善くする)の本能と「兼済天下」(兼ねて天下を救済する)の新たな余力から、「如虎添翼」(鬼に金棒)の展開が導かれている。 
二、「現代化・全球化」へ向う発展途上の成果と課題 
1.空前の好調
1989 年以来の平和・繁栄は、近代以降150 年の歴史に比類の無かった黄金時代の様相を呈す。「温飽」(基本的衣食)問題の全面的解決と「小康」(一応の余裕)水準の全体的達成と共に、共産党・中国史上の稀に見る平和的権力譲渡(2002 年党大会に於ける総書記交替、翌年の中央軍事委員会主席交替)も、新紀元の証として観て好い。「世界の工場」の地位を英国から奪還した2000 年頃以来の加速度的発展として、2002 年にソ・米に継ぐ有人宇宙飛行が成功し、2004 年に総貿易額が日本を抜き米・独に次ぐ世界3位と成り、2005 年にGDP総額が仏・英を抜き世界4位に躍進し、2006 年に外貨準備高(香港・台湾含まず)が日本を抜き世界1に成った。
改革・開放後の年率1割弱(1978 − 2005 年平均9.6 %)のGDP持続増長は、「滾雪球」(雪達磨)的複利効果で約7.5 年毎の倍増を繰り返して来た。「小康社会」全面実現の目標は中共建党百周年(2021)の前年と設定されており、人口増加ピークに近い其の頃までには倍々(「翻番」)ゲームは続いて行きそうである。米国投資銀行ゴールドマン・サックスの報告書「BRICsと夢を共有する― 2050 年への道」(2003)では、国際通貨基金(IMF)方式の米ドル換算GDP総額が其々2015、39 年頃に日、米を抜く見通しまで出た。中国は日本が「第2の敗戦」に突入した1995 年から勃興し、米国が9.11 テロの打撃を受けた2001 年以降には一段と飛躍した。国際競争の勝ち組や有望な新興工業国群BRICs(ブラジル・露西亜・印度・中国)の頭として、遂に米中競合が軸を成す21 世紀の主役と嘱されるに至った。 
2.深層の実相
然しながら、目覚しい経済成長の裏には、様々な絡繰と問題が隠れている。
(1)朱鎔基は首相在任中に経済統計の不正操作や水増しに最も立腹したが、国家統計局は長年GDPの「各地の総計> 全国の総計」の「双軌」(複線)併記を不本意にも容認しており(『中国統計年鑑2005』に載った国内総生産と各地域総生産の合計は、其々の136875.9 億元と163240.43 億元とが2割も開いている)、実態以上に過大評価されがちの虚像の部分は否めない。「真老虎」(本物の虎)と「紙老虎」(張り子の虎)の両面の一例として、外資企業の寄与度の高さ(工業生産の3割強、輸出の6割弱)が思い当る。
(2)量と質の両面から観れば、GDP総額の世界4位への急上昇にも関わらず、1人当りの水準は低い儘である。「昇竜」日本、「4小龍」(韓国・台湾・香港・新嘉坡)には遠く及ばず、「亜細亜の奇跡」の後発組の「4小虎」に比べても、マレーシア、泰(2004 年= 4753、2539 ドル)とインドネシア、比律賓(同1184、1036 ドル)の間に当る。2005 年の同数値は前年の1490 ドルから1703 ドルに大幅増と成ったが、110 番目の世界順位はウクライナやモロッコとほぼ同じである。世界平均の約1/4 に当る水準は中進国以下の途上国の部類に属し、「経済大国であっても経済強国とは言えない」6)所以である。
(3)「宏観」(巨視的、マクロ)の良好・順調とは裏腹に、「微観」(微視的、ミクロ)の難題が山積している。GDP1人当り1000 − 3000 ドルの段階に於いては、産業構造や分配体系等の調整・転形に伴って、経済発展・社会秩序・大衆心理の均衡が崩れ易く、矛盾の噴出や犯罪の急増が目立ちがちで、3000 ドルの水準に到れば民主化の要求が高まる、という途上国成長の経験則が好く言われる。人民元の強勢にも助長される年率1割弱の成長速度が維持できれば、3000 ドルの達成は2011 年頃にも見込まれる。上海万国博覧会の翌年の此の年は辛亥革命百周年に当り、更に翌年は第5世代へ権力が譲渡される党大会の開催の年であるが、上記の法則に当て嵌まるなら、其までも其以降も厄介な「治理」(governance の最善な中国語訳)が強いられよう。 
3.動乱の警鐘
小平時代の学生・市民運動(1989 年天安門事件)は政治改革を求め、江沢民時代の「法輪功」の「静坐」(座り込み)抗議(1999)は信教の自由を唱え、胡錦涛時代の「渉日示威」(2005。所謂「反日デモ」)は愛国の大義名分を掲げたが、下記の諸動因の根底に共通したのは「不信・不安・不平」に尽きる。
(1)毛沢東の失政がもたらした「文革」後の「信仰危機」(共産主義や共産党に対する大衆乃至党員の深刻な不信)の未解消;
(2)幹部・不心得者の職権や制度の不備を利用した不正な蓄財・汚職等の腐敗に対する社会全体の憤慨;
(3)失業・一時休業(レイオフ)・不本意な早期退職等の多発・常態化、医療・保険制度等の改悪に由る個人負担増、開発用地徴収に伴う強制退去・補填不十分、等の社会保障安全網の崩壊に対する人々の動揺;
(4)利益配分の不公平にも起因した貧富格差の拡大に対する「弱勢群体」(社会的弱者集団)の不満。 
4.諸々の光と影
躍進中国に対する外部の観方は好く薔薇色の夢か暗部の塊という二極に偏るが、光と影の両方を客観的に眺めなければ成らない。此処で実事求是の精神に基づいて実態を点検し、色々な側面から進展と不足、趨勢と課題を整理する。
(1)独裁専制の緩和と政治規制の強化
政治の民主化・価値の多元化・気風の自由化等、政治面の改善が近年多く見られた。全国人民代表大会(国会)は90 年代以降、党中央の決定を忠実に追認する「ゴム判」から変貌し、国務院(内閣)提案の三峡ダム建設や閣僚人選等に大量の反対票が出た(三峡ダム建設の動議が辛うじて2/3 の賛成を得た事は、同じ1992 年の改革・開放再点火に相応しい転換点と言える)。2003 年のSARS騒動で解放軍総病院の古参医師・蒋彦永(蒋介石、蒋経国政権で「教育部長」、「外交部長」[教育相、外相]等を歴任した蒋彦士の従弟)が、インターネットを通じて米国『タイム』誌に告発文を寄せ、其の契機で情報隠蔽が暴露され衛生部長(厚生相)と北京市長が解任された。湖南衛星テレビ局主催の「超級女声大賽」(スーパー歌姫コンクール)の第2回(2005)は、応募者16 万人、視聴者延べ3億人の一大旋風を巻き起した。決勝戦で800 万人も実施した携帯電話短信(ショットメール)投票に由る決定制が、インターネット時代の民主的権利行使の擬似演習として、新型の民意形成・反映の可能性を提示した。「世界環境日2000 北京論壇」の開催を境に非政府組織(NGO)が続々と立ち上げられ、公民権益・社会安定の維持に純粋な民間組織が実力を発揮しているのも、国際社会に倣って出来た風穴である。
反面、「超級歌姫」を「低俗」として優勝者等の出演を禁じる中央テレビ局の対抗措置や、「渉日示威」が現した携帯短信・ネットの煽動力に対抗する当局の示威禁令の短信流布、言論管理の為の一部「網站」(サイト)の強制閉鎖が示した様に、報道媒体やネット空間への規制は今や天安門事件以来の厳しさを見せている。金正日独裁体制を批判し米国の北朝鮮処分に同調した研究者論文の「筆禍」に因り、『戦略と管理』(中国戦略・管理研究会機関誌)は廃刊を余儀無くされ(2004)、歴史教科書の義和団運動の記述の「愛国」偏向に対する是正主張を載せた『中国青年報』(共産主義青年団中央機関紙)の『氷点週刊』も、団中央・党中央宣伝部・外交部(外務省)の集中砲火を浴びて停刊・編集長等更迭の処分を受けた(2006)。SARS情報封鎖の告発で当局に表彰された蒋彦永は、天安門事件の再評価を促す党中央宛ての書簡(2004)で行動が監視される様に成り、「対日外交新思考」論者の馬立誠(『人民日報』高級論説委員)や党中央宣伝部への討伐を鼓吹した焦国標(北京大学助教授)も、其々2003、05 年に香港、米国へ追放された。とかく名誉毀損訴訟や暗殺で体制批判を封殺する新嘉坡や露西亜よりましであろうが、「国家機密窃取」「間諜」等の罪名で内外の取材・情報公開を阻む動向も出た(2006 年の例として、英国籍の新嘉坡『海峡時報』駐香港記者・程翔が趙紫陽回顧録の獲得に絡む活動で、台湾側に国家機密を提供したとして懲役5年に処された7))。「危険」な書き込みに警告を発する「網絡警察」(サイバー警官)の検閲は、「台湾/西蔵(チベット)独立」等の「禁句」と共に「資本主義」「自由」まで引っ掛かり、「人権圧制」「民主主義」「6.4(天安門)事件」等の単語の使用を自動的に通報する仕組みを米国検索大手会社に提供させた程である。2006 年の北京市内・郊外の「上訪村」(地方から上京した直訴者の集落)への取締や地下基督教会への抑圧も、先進国並みの民主・自由との決定的落差を露呈させた。
(2)精神文明の構築と道徳倫理の低下
『氷点週刊』に災禍をもたらした袁偉時(歴史学者、広州中山大学教授)の異端的論文「近代化と歴史教科書」は、 力群(改革・開放始動期の党中央宣伝部長)の言を引いて、「我々は狼の乳を飲んで育った世代だ」と喝破した。毛沢東時代の遺伝子に組み込まれた其の野性も徐々に薄れ、儒教の再評価や先進国の影響に因って、洗練された精神文明が再構築されつつある。サービス業や市民の間の「文明(儀礼)用語」(例えば「請稍候」〈少々お待ち下さい〉)の普及・定着を例に取っても、10 年前に比べても隔世の観が有る。
反面、愛国心の稀薄や道徳の低下も目を覆いたくなる程である。特に悪質な事例として、高官が国・軍の機密を台湾や外国に売る事件が続発し、1996 年台湾海峡軍事演習の際に2人の大佐がミサイル発射の実弾未装填の内情を敵側に漏洩し(1999 年処刑)、延辺朝鮮族自治州の幹部等の情報提供で北朝鮮に在る中国の諜報網が壊滅した(2000)8)。極め付けは解放軍総参謀部第2(情報)部副部長・姫勝徳少将が受賄・横領・機密漏洩罪で死刑(執行猶予付き)判決を受け、厳罰を不服として父親・姫鵬飛(元外相・副首相)が抗議の自殺をした(2000)。
2005 年に域外に出た中国人は延べ3100 万人に達し、海外に於ける中国人観光客の消費単価(1人約1000 ドル)は日本を抜いて世界1と成ったが、多くの国・地域で不行儀の悪名を遺した。国家・民族の体面を挽回する為に、中央精神文明建設指導委員会弁公室(事務局)・国家旅遊(観光)局が2006 年、「中国公民出境旅遊(域外観光)文明行為指南」を定めた程である。
(3)財成機会の増加と拝金主義の氾濫
国家・個人の「致富之路」(財成への道)が開かれ、国民総生産や個人所得の全体的増加が恒常的に実現した。改革・開放後の職工年平均賃金、都市住民1人当り貯蓄残高の増長(1978年の615 元、22 元→ 2005 年の18405 元、10787 元)は、其々30 倍、490 倍の名目上昇から通貨膨張の要素を差し引いても、可成り高い伸びであると言わざるを得ない。格差が小さい代りに所得も低かった毛沢東時代の「7億総貧困」の共倒れから脱出し、今や機会の相対的均等の下で各々の所得向上を追求する状況が定着した。俗諺の「端起飯碗吃肉、放下子罵娘」(ご飯茶碗を持って肉を食べ、箸を擱いて料理を作ってくれた人を罵る)の様に、大衆は様々な不平不満を鳴らしつつも暮らしは確実に好く成っている。
反面、中国固有の現世至上主義や「文革」後の拝金主義が結合した結果、日本の敗戦直後の「生きよ、堕ちよ」(坂口安吾『堕落論』[1946]の言)の風潮以上に、刹那主義的不義・不正・頽廃が現れた。横領・贈収賄等の経済犯罪・汚職の横行は党・国家の指導部にも見られ、元広西壮族自治区主席・全人代副委員長の成克傑の死刑(2000)や、党中央政治局委員兼北京市党委書記・陳希同の懲役16 年(1998)等の厳罰にも拘わらず、中央・地方・軍の首長には「敗類」(腐敗した者。成らず者)が続出した。1981 年に制定された刑法は1997 年の大幅改正で、経済犯罪関連の条項の比重や順位が著しく上昇した。第3章「社会主義市場経済秩序破壊罪」(第1−8節「偽造・粗悪商品生産・発売罪」「密輸罪」「会社・企業管理秩序破壊罪」「金融管理秩序破壊罪」「金融詐欺罪」「税務徴収・管理妨害罪」「知的財産権侵犯罪」「市場秩序撹乱罪」)と、第8、9章「横領・贈収賄罪」「涜職罪」の数々の条文には、旧刑法では想定しなかった新型の犯罪が多く盛り込まれ、緻密で厳正な対処が欠かせない昨今の世相を反映している。今まで約4000 人の汚職役人が合計約数500 億ドルの横領公金を持って海外に逃亡し9)、悪徳の腐蝕の深刻さを物語っている。ケネディ大統領暗殺の軍産複合体陰謀説を想起させる朱鎔基首相への暗殺企図(特に1999 年1月、昆明で走行中にビルの屋上からの軍用高性能ライフルの連射で自動車後部のトランクが命中された一幕)10)、従業員や殺し屋を使って土地取得の障害と成る市民や農民を殺した上海の不動産会社や河北省定州市政府の荒業(2005)、炭坑業者や犯罪組織等の腐敗勢力に由る貴州省興仁県県長一家・甘粛省臨夏回族自治州中級人民法院(地裁)裁判長一家惨殺(2006)は、業界や地域等の特殊利益集団の手強さと恐ろしさを見せ付けた。一方、増産・コスト削減の至上命題化や、金儲けの為に非合法的に出資した地方官僚等の手抜きで炭坑の安全管理は疎かに成り、相次ぐ瓦斯爆発事故と大量の死傷(2005 年に3341 件発生、5986 人死亡)が、社会に不安の陰影を落としている。
(4)権利保護の整備と凶悪犯罪の横行
毛沢東時代には政治犯の極刑が日常茶飯事で、「殺一警百」(一罰百戒)の公開処刑も平気で行なわれたが、其の恐怖統治は消えて久しく、1997 年の新刑法では「反革命罪」も削除された。2003 年、広州で就労中の武漢青年(大学卒)が臨時居住証明書の不所持に因り、浮浪者収容所に入れられ職員等に殴り殺された。『南方都市報』の報道とネットの伝播で暴露された虐待の加害者が厳罰され(他の職員や収容者に殴打を教唆した主犯の女性職員は死刑)、中国政法大学・北京郵電大学・華中科技大学の3人の法学博士が全人代常務委員会に破天荒な違憲審査を要請した結果、国務院は1982 年公布の「城市流浪乞討人員収容遣送弁法」(都市浮浪者・物乞い者収容・強制送還規則)を直ちに廃止し、人権に配慮する代替法規の「救助管理弁法」を制定した。翌年に憲法で初めて人権尊重・保護が明記されたのも、件の公民に由る法規違憲の提訴と同じく画期的である。医療権・教育権・「隠私権」(プライバシー権)・「知情権」(知る権利)等の権利意識が高まり、法治の観念・制度の普及・整備が着実に進んでいる。狂犬病撲滅の為に犬を問答無用で撲殺する当局の無慈悲な「白色恐怖」(白いテロ)に抗議し、2006 年11 月に北京動物園で2000 人の愛犬家が「養狗権」([寵物]犬を飼う権利)確保の請願をしたが、ネット上の呼び掛けで成立した此の「渉日示威」以来の首都最大規模の抗議活動11)は、中産階級の台頭と連動する「維権」(権利維持)志向の増長を示した。胡錦涛に信仰の自由・法治の徹底を求める公開書簡を送った(2005)「維権」弁護士・高智晟が「国家政権転覆煽動」容疑で起訴された等、「維権」派の「一番寒い厳冬」が囁かれた12)中で、翌月に愛犬家6万人署名の嘆願書が胡錦涛を突き動かし犬処分の中止を勝ち取った。
反面、社会の安全感を揺るがし国家の名誉を損なう凶暴犯罪が、規模・性質とも悪化する一方である。2万余りに上る「黒社会」(闇社会、暴力団)組織の跳梁跋扈への危機感から、2002 年、党中央政治局に直属し首相が司る「打黒除悪小組」(闇社会組織犯罪取締本部)が設置された。3000万人もの構成員(組織と同じく政府発表数)から成る「黒悪(闇社会・犯罪者)勢力」は、治安を撹乱する「無頼群体」(成らず者集団)として、腐敗官僚等と共に「邪悪軸心」(悪の枢軸)を成し、「官匪/警匪勾結」(官/警と犯罪組織の結託)はもはや公然の秘密である。李登輝の「土匪(匪賊)国家」の非難と中台交流の中断を招いた浙江千島湖の強盗団に由る遊覧船放火・台湾団体観光客等32 人殺害(1994)、全人代副委員長・「民主党派」(翼賛野党)党首の李沛瑶に対する警備兵の殺害(1996)等の金品目当ての犯罪の他、現役・退役軍人や失業・失恋者等の報復殺人や自爆等が相継いだ。枚挙に暇が無い数々の事件の典型として、@2人目の出産への強制中絶に因る妻の死亡と部隊の処分への腹癒せで、若手中尉が北京郊外の駐屯地と市内で乱射し上官やイラン外交官等を多数殺した(1994);A河北省台市司法局長等が不遇や事業失敗の鬱憤から、北京−広州鉄道の線路を爆破し交通大動脈を4時間中断させた(1999);B石家荘の無職・犯罪前科者が元妻の家族・関係者の住む工場宿舎・アパート等4棟を連続爆破し、108 人の死者が出た(2001);C南京の自営業者が従兄弟への商売上の妬みから劇薬で大量無差別中毒を起し、42 人の命を奪った(2002);D海南省の農場職員が北京大学・清華大学の食堂で時限爆弾を仕掛けた(2003)、等が挙げられる。2005 年春の「渉日示威」が平定された直後に、江蘇の無職者が天安門広場で比律賓観光客2人を斬殺した事件は、外交より内政、周辺安保より国内治安に遥かに制御の精力が要る事情を窺わせた。
(5)実利享受の満足と社会保障の脆弱
江沢民が2002 年党大会で執政の成果を誇示した通り、大衆は建国後空前の「実恵」(実利)を90 年代以降に享受して来た。生活水準の著しい向上を反映する事象として、耐久消費財の普及率を先ず挙げたい。2004 年の都市・農村家庭に於ける保有率は、カラーテレビが133 %・75 %、冷蔵庫が90 %・36 %、携帯電話が111 %・35 %に達し、飛躍的に実現した現代文明「神器」の普遍的所有は、4半世紀前の感覚では想像すら出来なかった程である。小平が始めた改革・開放は、同年(1979)のサッチャー政権の高福祉・高負担国家から自由主義経済市場への回帰と共に、21 世紀の世界の趨勢を先駆けた決断として歴史に残ったわけである。
反面、生活基盤への安心感も曾て無い程の動揺に襲われた。経営不振や人員過剰に因る失業・一時休業・早期退職は常態化し、実質失業率は江沢民政権末期の2001 年に8 %に上った。
政府が公表した2005 年都市失業率の4.2 %は、第11 次5ヵ年(2005 − 10)計画の目標と成る5 %以内の許容範囲内であるが、失業者・半失業者は農村余剰労働力の約1割に当る1500 万人前後と見られ、一部の銀行員45 歳定年制の様に再雇用困難の不条理が随所有る。社会保険・社会福祉・社会救助・軍人福祉から成る社会保障制度は、商業化・市場化の煽りで弱体化が進む。2005 年『中国青年報』に掲載された国務院発展研究センター・世界保健機関(WHO)の報告書は、医療衛生体制の改革は全体的に成功していないと断じた。2000 年のWHOに由る世界の医療衛生分配の公正性の評価では、中国は191 ヵ国・地域中の188 位であった。負担を個人に転嫁する保健・保険等の福祉制度の改悪で、「生労病死」(仏教の「4苦」)に対する国家の配慮・扶助は著しく弱く成り、今や国民の2/3 が如何なる医療保険にも加入していない。無銭者に対する非人道的治療拒否の多発に其の弊害が端的に現れており、同年同紙に暴かれた北京同仁病院の無銭農民工(農村出稼ぎ労働者)致死事件で更に社会問題化した中で、2006 年四川省広安( 小平の故郷)の市立病院でも劇毒の農薬を誤って飲んだ児童を死なせた治療拒否が有り、千人近くの憤怒の大衆が病院に破壊的攻撃を掛け警官隊の鎮圧も効かなかった13)。公安部が把握した2004 年暴動・抗議件数の7.4 万は1994 年の7.4 倍に当り、参加者数の376 万人は一昔前の73 万人の5倍と成り、労働争議の26 万件も利害対立の熾烈さを物語っている。各地で続発した焼身自殺、請願示威(デモ)、集団暴動が示す様に、開発用地徴収に伴う強制退去と金銭・住居の補填の不十分は、2004 年に憲法で初めて明記された私有財産の保護を有名無実にし、「安身立命」「安居楽業」(安心に暮らし楽しく働く)の理想を根本から妨げている。域外企業に対する優遇や投資環境の保護も朝令暮改等の未熟に因り、カントリー・リスクを増大させ継続成長の阻害要因に成る。
(6)人口制御の成功と「未老先富」の陥穽
竹内実が80 年代中国の課題とした「@人口A人材B人権」は、其の後の人口の抑制、人材の確保(特に海外回帰組の「海亀派」)、人権の強化で一応の解決を見せ、同氏が指摘した90年代の課題の「@老齢化社会への対応A環境汚染への対応B新しい哲学の必要」14)は、未だに対処の途上であり、2つの@には継続性が有る。
国連開発計画(UNDP)が制定した人間発展指数の内の人口関連の指標として、嬰児死亡率の低下(建国時の2割→ 2003 年の2.55 %)と平均寿命の向上(建国時の35 歳→ 2000 年の71 歳台[世界平均より4歳高い])は、中国の世界順位の上昇(2005 年は1990 年より20 位高い第85 位)に寄与した。反面、高出生率・高死亡率・高人口増加率の途上国型から低出生率・低死亡率・低人口増加率の先進国型に近づいた結果、2015 年頃には「人口賞金」(経済に有利な生産年齢人口の比重上昇)が消失し、高成長も生産年齢人口の頭打ちで止まる、と予測された。15)急速な高齢化に因る「空き巣」(老人独居)現象は全国家庭の3割(大・中都市では其以上)も占め、50 年後に9割に達すると予言した専門家も居る16)が、個人・国家の「未富先老」(未だ富裕に成らぬ内に老いて了う)の兆候と思える。1人当りGDPの5000 −1万ドル達成後に高齢化社会に入る先進国に対して、中国は早くも900 ドルであった2000 年に高齢者社会入りの国際指標(65 歳以上人口の全体比7%超)に達した。改革・開放元年に始まった産児制限(独りっ子政策)の弊害として、都会人・高学歴層の低出生率と農村・少数民族の高出生率の歪みも顕著に成った。罰金の罰則を無視し制限を突破した「無頼的」出産は、戸籍の無い「黒孩子」(闇の子)を大量に造り出し(農民工の子供だけでも2000 万人の戸籍未登録者が居る17))、農村・農業・農民問題の改善や教育水準・中産階級比率の向上に負の影響を与える。其の非合法出生の「原罪」と無戸籍「編外」(番外)の立場は、社会の物・心両面の差別及び彼等の精神の歪みを招き易い。一方、少数民族の生育に対する無制限の優遇は、主体民族・漢族への逆差別の様にも思われ、56 の民族の「大家庭」の融合には微妙な異和をもたらしかねない。
(7)産業構造の改善と「三農問題」の重荷
建国当初に比べて、農村人口の比率は9割弱から6割強に下がり、GDPに占める農業の比重も1割強に減り、先進国型に向けた構造転換は此の分野でも着実に進んでいる。毛沢東時代の搾取的政策を改めて利益の合理的個人獲得が可能と成った結果、農村住民家庭1人当り純収入の実質伸び率は1979 − 2005 年の間、平均5 %の増長が続いた(減少は1989 年の− 1.6 %のみである)。戸籍制度に由る農業(農村)人口と非農業(市町)人口の垣根は未だ崩れていないものの、90 年代の食糧・物資の配給制度の廃止に伴って、農村から都市への就労・居住機会は空前に増えた。農民工は全人口の1割にも達し、其の所得増加と「城郷接軌」(都市と農村の連結)は迂回・還流の形を以って、農村の富裕化・近代化に波及や刺激を与えている。温家宝首相が2004 年の全人代で打ち出した農業税の段階的廃止措置は、予定の2009 年より3年前倒しで06 年元日から全廃と成った。歴史に記載された中国最古の農業税である魯宣公の「初税畝」の開始(紀元前594)以来、恰度2600 年続いた「皇(公)糧」(朝廷に納める年貢の食糧[農業税の俗称])の撤廃は、治世の根本に関わる農業問題を解決する現政権の重大な決意を窺わせた。
反面、就業人口の中の農業人口は依然として5割弱の高位に止まっており、国内産業に対するWTO加盟の衝撃も加わって、「三農(農業・農村・農民)問題」(2003 年1月の党中央農村工作会議で正式に提起された用語)は更に深刻化した。朱鎔基は2002 年全人代の記者会見で農民の増収が最も頭の痛い問題だと述べ、翌年の全人代で首相としての最後の「政府工作(活動)報告」で此の問題を経済面の最重点とした。其の建議を受けた次期政権の努力で農業税の軽減・廃止で改善の趨勢を見せたが、老人・女性・児童が支える「三ちゃん農業」の実態は、食糧安保や農村安定に不利な構造的要因と成る。農民工が遭遇した賃金滞納・不払いや子女(俗称「流動児童」)の就学難は、「三農」の鬼門が全社会に突き付けた新しい難題に他ならない。1989 年“6.4”惨劇の教訓を受けて当局は示威群衆への発砲を自制し続けたが、胡錦涛時代には又「開殺戒」(殺害を戒める掟を破る)の暴挙が出た。農村部の数千、数万人参加の大規模の騒乱や傷害事件の多発の例として、2005 年4月に浙江省東陽市画頭鎮の工場閉鎖で溢れた労働者が職場を占拠し、公安当局の強制排除が発火点と成って暴徒が街に出て、外の不満分子をも吸収して5万人余りに膨らんだ末、弾圧を受けて137 人が射殺された。18)12 月に広東省汕尾市の開発区の村民が発電所建設の為の用地没収等に抗議し、警官隊が発砲し死者を出した。
19)指導部と域外世論を震撼させた「第2、第3の天安門事件」では、前者の人々が暴力を振るう際の「起義」(蜂起)の咆哮は、秦王朝を滅ぼした陳勝・呉広の農民一揆を連想させて不気味であった。同年の都市部の「渉日示威」の順調な沈静化や往年の天安門事件の武力鎮圧の即効性と比べても、農村部の暴力衝突の恒常化が社会の安定に与える脅威は軽視できない。地方政府が経済開発の大義名分を盾にした不当な徴収で、4000 万人の農民が土地の喪失か減少に見舞われ、中には半数が土地と仕事を共に無くした20)が、「分田地、均貧富」(土地を分け、貧富を均等にする)の謳い文句で農民の支持を得て天下を取った共産党にとって、極めて憂慮すべき造反の地下岩が蓄積している。
(8)中産階級の台頭と「弱勢群体」の鬱憤
都市人口の全人口比の1990 年の19 %→ 2003 年の37 %の増加は、都市化の急速な進展を示した。先進国の7−8割には遠く及ばないものの、世界平均である5割弱に届くのは時間の問題であろう。生活水準の向上に伴って出現した中産階級は、大・中都市に集中し全人口の数%に過ぎないが、其の価値観・美意識は先進国へ向う発展の推進力に成る。毛沢東時代に批判された「小資産階級情調」は90 年代後半以来、「酷」(「格好良い」意のcool の音訳兼意訳)の部類に入り、「知本主義」の形成や教養水準の向上、消費の促進に寄与して来た。2005 年上海の「渉日示威」に中間層が多数参加した事は、中産階級の台頭が民主化の実現要因と成った韓国の経験を思い起せば興味深い。中国社会科学院社会学研究所の報告書「2004 年:中国社会情勢の分析と予測」(2004)では、職業、収入、消費・生活様式、「主観認同」(自覚・自己規定)の4つの基準から、中産階層の数は人口の2.8 %相当の3500 人であると推定した。1桁台後半と観る向きよりも冷静な此の数値が有る一方、「入世」の功臣・龍永図(対外貿易経済合作[協力]部副部長[通産次官]、WTO加盟談判の中国側首席代表)は2001 年、中位の収入を持つ中産者層は10 年後に4億人に達するとの見通しを示し、米国のメリルリンチ証券も10 年後の3.5 億人を予測した。21)現段階の中産階級の存在を幻想として一蹴する論調も出たが、2005年1月に国家統計局が中国史上初の中産階級の基準(年収6− 50 万元)を公表した事は、実体の動かぬ存在の証左と思える。マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』(1848)の冒頭で描いた西欧共産主義運動の姿を擬って言えば、「幻影の徘徊」もGDPが世界2位に成る頃には人口2割超の実現をもたらし、社会の「相(相対的・相当な)中流化」(本稿筆者の造語)を導くであろう。2006 年5月の党中央政治局会議で提起された収入・分配制度改革の発想の中で、「提低」(低所得層の水準を引き上げる)・「調高」(高所得層の水準を調整する)と並行する「拡中」(中間層を拡大する)22)は、中国の国民中流化と「地球村」中間層入りの前景を指向する。
反面、毛沢東時代の「階級陣線(陣営)」の区分が廃止された代りに、中国社会科学院研究グループの「現代中国社会構造の変遷に関する研究」(2001)の通り、10 階層の構図が浮上している(内訳と人口比は、@国家・社会の管理者[2.1 %]A経営者[1.5 %]B私営企業主[0.6 %]C専門技術者[5.1 %]D事務員[4.8 %]E個人工商業者[4.2 %]F商業サービス従業員[12 %]G産業労働者[22.6 %]H農業労働者[44 %]I都市・農村の無職・失業・半失業者[3.1 %]である)。都会部では「富人」(金持ち)と「白領」(ホワイトカラー)、「藍領」(ブルーカラー)、「民工」(出稼ぎ労働者)、失業者等の階層分化が鮮明に成り、所得水準が先進国並みの上海では、3K(汚い・危険・きつい)仕事は農民工等が大半を担い、タクシー運転手には泰人出稼ぎ労働者まで現れた。一方、都市世帯1人当り可処分所得と農村家庭1人当り所得の差は、1979 年の2.6 倍から83 年の1.8 倍に一旦低下した後、94 年の2.5 倍を経て2003、04 年の3.2 倍に上昇した。中国社会科学院経済研究所収入分配課題組(研究プロジェクト)の調査報告「中国の収入分配と公共政策」(2004.2)は更に、公費医療や養老年金、失業・最低生活の救済保障、学校の財政補助等、都市住民のみが享受し得る多くの社会奉仕は其の可処分所得に含まれていない故、非貨幣的要素を考慮した都市と農村の実質的収入格差は4−5倍、乃至6倍も場合によっては有り、世界最高(最悪)の水準に在る、と喝破した。温家宝は首相就任直後の記者会見で9億の農民の所得水準に言及し、年収825 元(100 ドル)で線引きすれば貧困層は9000 万人に達すると認めたが、世界銀行が貧困の基準とする1日の生活費1ドルを適応するなら、空恐ろしい頭数に成るに違い無い。1990 年代の河南省農村で少なくとも数万人の売血者がエイズに感染した人災の根源は、正に数回分の売血報酬が年収に匹敵する様な経済格差に在った。朱鎔基は2002 年全人代への「政府活動報告」で「弱勢群体」の概念を使い、社会的弱者集団への配慮を表明した。『中国人民大学 中国社会発展報告2003 − 2004 :より公正な社会へ』では、失業者・一時休業者、身体障害者、被災者と農工から成る「弱勢群体」は、総人口の11 − 14 %に当る1.4 − 1.8 億人に達しているとされたが、老人・病人等も含めれば此の底辺層の数は更に膨大である。国家統計局の2005 年末の発表では生活困難者数は1.2 億人に上ったが、中流以上の生活を楽しむ「勝ち組」と彼等との断層は、「1億総中流」が崩れた日本の上流・下流の二極化より遥かに大きい。3.65 億戸の家庭中の僅か0.4 %に当る159 万戸が国民個人資産の6割の8230 億ドルも所有する23)構造は、成人人口の2 %が家計の富の51 %を占める世界の平均や、人口比1 %の最富裕層が持つ富の比率の世界平均(4割)と先進国の水準(最高の米、日は37 %、27 %)24)に比べても、異様な寡占と言わざるを得ない。所得分配の格差を示すジニ係数(値が1に近づくほど不平等度が高く、0に近づくほど平等的)の全国民平均は、先進国も上昇傾向に在る(日本は1981 年の0.332 から2002 年の0.392 に、米国は1968 年の0.384 から1994 年の0.426 に上がった25))が、中国では1981 年の0.29 から2000 年の0.4(国際警戒ライン)突破を経て、直近は亜細亜で比律賓に次ぐ0.47 に達し(0.5 以上と見る向きも国内に多い)26)、而も増長の速度は既に世界記録を創ったと指摘される27)。物・心両面の著しい不均衡に因る底辺の嫉妬・鬱憤は、中国社会の「活火山」の巨大な噴火口に化している。
「人往高処走」(人は高い処に行く)の原理に沿う人口流動の活発化は、経済成長を推進すると共に犯罪の温床をも派生した。最近の米国では貧困層や外国人労働者等への治安面の警戒と心理上の差別から、富裕層の居住区が防犯の砦で外部と遮断する要塞化の動きが出たが、中国でも社会階層分化の拡大の象徴として、多くの住宅区は高い塀と警備員に守られ、資産家が住む「高尚小区」(高級住宅区)は「先端的城塞」の観が強い。と同時に、1981 年旧刑法の想定外であった営利誘拐が多発する中で、富裕層・著名人の被害と誘拐保険の需要の急増は、「劫富」(富豪を強奪する)を防ぐ「内なる長城」の合理性・必然性を思わせる。更に翻って思えば、報道媒体にも踊り出た大衆の「仇富」(富豪を恨む)憎悪の一因は、個人所得税納付の国民義務や慈善寄付の社会還元に対する富豪等の極めて消極的態度にも在る。
(9)「先富」波及の開花と地域格差の拡大
「先富」の東部沿海地域→中部→西部の波及は全国を底上げし、所得水準がほぼ先進国に伍するに至った華東・華南・首都圏等の重点地域の発展は、国全体のGDP増長や外資導入に突出的に貢献し、再生産・再分配に豊富な原資を提供し、就労機会の増大で「三農問題」の改善に繋がり、「国際接軌」の中継基地としても近代化の加速に寄与している。
反面、地域の経済格差は拡大するばかりである。1988 年に国家長期成長戦略の策定の中心と成った経済学者・胡鞍鋼は、旧ユーゴ解体の一因を各共和国間の貧富格差が1965 年の5倍から1988 の7.5 倍に拡大した事に求めた28)が、中国1級行政区間の1人当り所得の最大格差の上海市/貴州省の1990 年の7.3 倍は既に危険水域に入り、今や13 倍を超えて了った。1985 − 88
年に貴州の党委書記を務めた胡錦涛は、温家宝と同じく全国2番目に貧しい甘粛省で「文革」時代を過ごしたが、総書記就任の2002 年の2級行政区の1人当り所得格差は、最低の同省礼県と最高の深市(経済特区)の開きが171 倍も有った。毛沢東の「3つの世界」(@米・ソ両超大国;A其の他の先進国;B発展途上国)区分(1974)に因んで、胡鞍鋼は2001 年に国内の「4つの世界」を提起した(@上海・北京・深等の高所得発達地域;A天津・広東・浙江・江蘇・福建・遼寧等の大・中都市、沿海の所得上位中クラス地域;B河北・東北・華北中部の一部を含む所得下位中クラス;C中・西部の貧困地域・少数民族地域・農村・辺境地域等の低所得地域。全人口に占める割合は其々2 %、22 %、26 %、50 %)29)が、先進地域、中進地域と途上地域、後進地域の4層は其の通り厳然と存在する。最も貧しい層を含む世界の成人人口の半分は家計の富の1 %しか所有していない30)が、中国の貧困地域住民も扶養の支えが要る「半辺天」(半分の天)を成し、其の危機的傾斜は皮肉にも貧富の格差が常識化した国際社会との共通項に成る。農村住民の現金収入が最高と最低の省の格差は、2004 年の4.1 倍から翌年の8倍近く撥ね上がった31)が、自然条件の優劣や「致富」の巧拙等に因る此の数値の急上昇は、旧ユーゴ解体前の地域最大格差の危険信号との暗合も有って、「三農問題」に絡む地盤の傾斜・沈下や劇震の襲来を予感させる。旧ユーゴで最高のスロベニアと対極に在った最低のコソボが解体後に戦場と化した事は、中国にとって東欧社会主義陣営の消滅とは別の意味で不吉な悪夢に成る。胡錦涛政権は江沢民が遺した「大西北開発」の課題より東北工業基地の振興を優先したが、経済的合理性・効率性の裏の東部と西域の格差の拡大は益々懸念される。
(10)巨富蓄積の達成と投機暴走の温床
2000 年にGDPが1兆ドルを突破した結果は、此の指標に於いて日本との差が20 年に縮まった事を意味する。2006 年に外貨準備高も世界首位の1兆ドルに達し、其で国力増殖の資本や外交カード、対外投資機会が増え(一例は聯想集団に由る米国IBMパソコン部門買収[2004]で、パソコン製造業界の世界3位に浮上した事)、人民元の堅調も米ドルベースGDPの増長の「魔法の杖」に成る。民間の豊富な外貨所有は「蔵富於民」(国富を国民に貯蔵する)の理想に合致し、個人・企業の海外進出の支援材料として「全球化」を促進し得る。
反面、人民元相場の安定維持の為の不胎化(sterilization)介入操作(元安を誘導する市場介入で米ドルを買い、自国内の通貨量を変動させない為に元供給増加を吸収する調節)に因る外貨準備高の無理な膨張は、運用先の米ドルや米国債の下落の危険を大きく負い、官・民ともに打撃を与える波乱要因を孕んでいる。米国2006 年会計年度の米国債の出入勘定では、最大の保有国・日本の116 億ドルの売り超しに対して、中国は近年の買い増しを続け379 億ドルの買い超しであったが、保有額の増加で人民元が1割切り上げれば650 億ドル(2005 年GDPの3%)を失う計算に成る。32)人民元切り上げへの期待から流入した「熱銭」(ホット・マネー)が国内の金余りに加勢して、不動産投機熱が幾度も起き不良債権の増大に直結した。日増しに膨らんで行く「巨象・長龍」じみた中国資金はやがて、20 年前の泡沫期の日本資金の様に海外市場を撹乱しかねない。
(11)「豊衣足食」の進歩と「恐龍爆食」の憂慮
衣・食・住・行(交通)の量・質とも顕著に向上し、「豊衣足食」(衣が豊富で食が足りる)の理想を超えて、中国は飽食の高消費時代に向いつつある。生活水準に反比例するエンゲル係数(生計費に占める食費の割合)の下降(1978 − 2005 年の都市家庭と農村家庭は、其々57.5 %→ 36.7 %、67.7 %→ 45.5 %と減少)、住宅面積の拡大(同時期の都市1人当り建築面積と農村1人当り住宅面積は、其々6.7 u、8.1 uから約26 u、30 uに増加)、自動車の普及(2004 年の自動車保有数は前年比13.6 %増の269 万台、内私有車は21.6 %増の148 万台)等、諸々の指標に長足の進歩が現れている。「暴利産業」が不動産・医療薬品・美容・健康用品・
教育・出版・通信・葬儀等に集中する現状は、先進国に倣う価値指向や生活様式の変化の結果と思える。
反面、所得・購買力の向上と権利意識の強化は賃金上昇の圧力に化し、国際競争力を削ぐと共に「世界の工場・市場」の存在維持の負担を内外に強いる。生活水準の改善や外貨準備の潤沢等に因って、中国の「爆食」が世界の食料・資源を食い潰す懸念も現実味を帯びて来た。
卵・肉の増産に必要な飼料の穀物や健康志向の需要で人気が高まる海鮮物から、工業の糧なる石油・鉱石・鋼材等までの世界的価格暴騰は、「巨龍の胃袋」の貪欲に釣られた処が大きい。
社会生活基盤施設整備の落後の一環である電力供給の不足は、工場操業停止の他に増発の為の石炭使用に因る空気汚染の害をも起こし、自動車を含めたエネルギー消費の能率の低さで環境が悪化している。2006 年中国の新車販売台数721.6 万台(前年度比25.1 %増)は日本を抜いた世界第2であり、自動車生産の728 万台(前年度比27.3 %増)も独逸を抜いて世界3位と成り、
2010 年には年産1000 万の大台に乗り日本を大きく凌ぐと見られているが、其の誇り高い「揚眉吐気」(心が晴れ晴れして意気揚々)は「埃高い吐気」として、「吐痰」(痰を吐く)の悪習の様に有害な排気・塵埃を撒き散らす恐れが有る。2005 年の中国のGDPは世界の5 %なのに、原炭、鉄鉱石、鋼材、酸化アルミニウム、セメントの消費量は世界の25 %− 40 %にも上り33)、資源利用の非効率と猪突猛進の不健全が露呈した。国家環境保護総局・国家統計局に由る初の「グリーンGDP」評価である「中国緑色国民経済核算統計研究報告2004」(2006.9)では、2004 年の環境汚染に因る経済損失は同年GDPの3 %相当で、同年中に環境に放出された汚染物の完全除去にはGDPの6.8 %に当る費用が必要であるとされ、自然資源の破損や環境の退化等の生態系の被害が含まれない此の数値でも当局を驚愕させた。同年の環境汚染がもたらした損失の33 %が健康面に在る事は、胡錦涛政権の「以人為本」(人を本と為す)路線からしても重大な脅威を意味し、人間安全保障を脅かす弊害・摩擦等の悪果はもはや金銭に換算できない。
2005 年に吉林省の中国石油化工公司の工場の爆発事故に因り松花江が80 トンの有害物質で汚染され、北の黒龍江省哈爾浜市(人口800 万人)が4日間断水の破目に陥り地域紛争へと発展した。土地の砂漠化とも関連する北方の「沙塵暴」(黄沙の嵐)は日本まで襲い、其の越境汚染は中国の形象を著しく損なっている。
(12)「国際接軌」の進展と「知識産権」の薄弱
外国の製品や文化の大量な輸入・流入に因り、生活水準・生活様式の「国際接軌」が急速に進展している。4番目の近代化の科学・技術の分野でも大国に相応しい飛躍が遂げられ、有人宇宙飛行の実現に続いて米国に継ぐ月面登陸に向けて鋭意準備中(2012 年予定)である。探査・商業衛星打ち上げは1996 年から2005 年の「神舟6号」まで、連続45 回以上の成功を収め国際市場でも高い信用を勝ち取った。対照的に、東京都知事・石原慎太郎が中国初の有人宇宙飛行を時代遅れと揶揄した直後、「第2の敗戦」後日本の各種衛星の打ち上げ・軌道投入・分離の失敗(1998、99、2000、02)は又再演した。中国の研究開発費は経済成長速度以上の増加で日本を抜き世界2位に成り、此を発表した経済協力開発機構(OECD)の報告書(2006.12)は、11 年間に8倍化(1995 年の170 億ドル→ 1360 億ドル)の驚異的脅威に対抗すべく、強化・再構築の必要性を意識させたのである。
反面、自主知的財産権を持つ企業は1万社中に僅か3社で、特許申請をした会社は1 %に止まる34)等、知的所有権に対する保護は未だ途上国の水準であり、2006 年10 月に米・日・欧州主要国が遂にWTOを通じて海賊版・違法模造品への強力な摘発を求めて提訴した。1995 年末に中国消費者保護基金が「消費者打假奨(偽商品摘発賞)」を設立し、商店を相手に賠償訴訟を精力的に起した初代受賞者の青年・王海が国民的英雄に成った事は、偽ブランド・粗悪品の途轍も無い氾濫の裏返しに過ぎない。「隠形(地下)経済」のGDP総量比15 − 20 % 35)はは、1989 − 90 年のOECD加盟国の平均(名目GDPの15 % 36))と余り変わらないものの、悪質な模倣・偽造製品が大きな比重を占めるのが中国的である。日・韓の比でない論文剽窃等の学術の堕落37)も、知的水準の向上の裏の暗部として挙げられる。
(13)教育機会の普及と教育現場の混迷
小学就学率が建国時の2割から99 %に達し、文盲率が建国後の50 年で8割強から7 %以下に抑えられた等、識字率・入学率の向上はGDPの増長、健康指標(平均寿命、嬰児死亡率)の改善と共に、人間発展指数の世界順位の向上に貢献した。毛・時代の比でないほど教育に対する社会の重視度が高まり、施設・教員待遇も大きく改善された。「国際接軌」に連動する英語学習熱は「全球化」時代に相応しい成果を上げ、TOEFL受験平均得点は往年と大逆転し日本を大いに凌いだ。亜細亜金融危機が起きた1997 年7月から翌年6月実施分を例に挙げると、中国の560 点は亜細亜平均の509 点と世界平均の532 点を上回り、亜細亜では上位の6番目と成った(1−5位は新嘉坡、印度、比律賓、ブータン・ブルネイ)が、香港(523 点)、韓国(522 点)と台湾(508 点)を下回る日本の498 点は、北朝鮮と並んで亜細亜の最下位であった。1987 − 89 年に対する日、韓の13 点、17 点増より大幅多い中国の51 点増38)も、国際化の奔流の中の「鯉魚跳龍門」(登龍門の鯉の跳躍)の勢いを感じさせた。
反面、教育事業の国家予算支出は国民総生産(GNP)比2.1 %(2004)の低水準に止まり、米国の5.9 %、韓国の4.6 %と日本・新嘉坡・露西亜の3.7 %に劣り、バングラディシュ・タンザニア・ボツワナ(2.2 %)とパキスタン・カンボジア(2 %)と同列に成っている。39)江沢民は小平が認めた「軍隊経商」(軍隊の商業活動・経営)を禁じる英断に踏み切った(1998)が、江政権が進めた「教育産業化」は学校運営の乱脈や、都市と農村、高所得層と低所得層の間の教育機会の不公平等の弊害をもたらした。高校、大学の就学者率が約5割、2割に上昇した裏には、「小皇帝」(親に溺愛される独りっ子)世代の英才教育に因る過度競争とも関連して、学生の鬱病や自殺・他殺事件多発が端的に現す様に、青少年の心身を酷く蝕っている。2006 年に江西省江職工技術学院の学生たちが、社会で通用しない3年制大学卒業証を発行した大学の無責任に抗議し暴動を起したが、機動隊が装甲車と催涙瓦斯を使って対処した此の学園紛争40)は、空手形乱発の裏の「中空」や人口圧力に因る就職難を垣間見せた。
(14)安全保障の確固と対外進出の危険
90 年代以降、中国は周辺国との境界線をほぼ全て確定させ、経済安保の柱の金融・エネルギー分野でも通貨の安定、命脈の確保に成功した。更に主体的全方位外交も一応の成功を収め、日本との競合を観ても東亜細亜共同体の構築や露西亜天然瓦斯の争奪で優位に立っている。江沢民時代の「大国外交」戦略より進化した胡錦涛時代の「責任有る大国」志向の実績として、朝鮮核開発を巡る6ヵ国(中・朝・米・韓・日・露)北京協議等の国際協商や地域協力を推進し、東南亜細亜諸国連盟(ASEAN)+中・日・韓の「東亜細亜共同体」構築で主導的役割を果たした。
反面、80 年代の「和平発展」から胡錦涛時代の「和平崛起」(平和的勃興)への転換(2003)は、 小平が天安門事件後に訓示した「韜光養晦」(韜晦・雌伏)から乖離した。国際的影響力を増強する自信・意欲の強い発露に因り、外国と衝突する危険も増大中である。「走出去」(打って出る)志向で企業・個人の海外進出が目覚しいが、中国海洋石油公司に由る米国大手石油会社・ユノカルの強引な買収計画(提示額の185 億ドルは米業界2位・シェブロン社より20 億ドル上乗せ)が米議会の反対で断念され(2005)、露西亜・モンゴルや南アフリカ等で反発・摩擦乃至華人殺害の事件を誘発した。2004 年から韓国を皮切りに世界各地で「孔子学院」を設立する国家的事業も、「経済植民地化支配」と並ぶ「文化帝国主義拡張」の警戒を招いた。41) 
5.「発展途上大国」の両面
「孔子学院」の海外展開より国内の教育事業を優先すべしという声も根強いが、類似の「分不相応」にはアフリカへの巨額の債務放棄・経済援助等が有る。資源の確保や米国との対抗の為の「国際統一戦線」工作の一環として、最近48 ヵ国の首脳等が出席する「中非合作論壇北京峰会」(中国・アフリカ協力フォーラム北京サミット)が開催された。中国が中核の一員として参与した1955 年の亜細亜・アフリカ会議(10 年後に同じインドネシアで開催予定の第2回は同国の政変で無期限中止)を想起させる盛会は、人権蹂躙が罷り通る諸国との提携が先進国の世論に非難されたが、日本の政府開発援助(ODA)を受けながらの大盤振る舞いは確かに矛盾を感じる。毛沢東時代から続けて来た「第3世界の旗手」の自任も、政治・経済・軍事・文化の総合的国力の膨張に連れて懐疑されつつある。
最近の「負責任的発展中大国」(責任有る発展途上大国)の自己規定42)は、「一国二制度」にも似た複合性格を持つ。目下の国花制定の議論で有力視された「一国両花」案も、苦難に忍耐する梅と富貴を象徴する牡丹の並立が示唆に富む。中国は量と質の両面に於いて其々大国と途上国の特徴が強く、「表/裏中国」(「表/裏日本」を擬った本稿筆者の造語)は其々先進/後進の部分が多い。日本の「第2の敗戦」後の両国の力関係に逆転の趨勢が現れたものの、30年程の発展落差を埋めるには相当の歳月が掛かるに違いない。温首相は2003 年訪米の際に中国農村の惨状を縷々と訴え、米国並みの先進国に成るには百年の努力が要ると述べた。43)共産党政権が描いた建国百周年(2049)の「中華民族の偉大な復興」の青写真は、近代化の基本的実現と富強・民主・文明の国家建設の達成であるが、実質的には先進国入りの初級段階に過ぎない。但し、中国は永遠に超大国に成るまいという小平の誓言(1974、国連総会での演説)が守られても、超大国から途上国に転落した後の再興は間違い無く強盛大国の出現を導く。
中国に対する返還後の香港の影響力は紅茶の中の砂糖に譬えられたが、少量ながらも満辺無く浸透し味を変える意味では言い得て妙である。香港の大陸化以上に進んだ大陸の香港化を観ると、味を占めて砂糖を次々と入れた紅茶の「平和的変容」(冷戦時代のダレス国務長官が中共の次世代に託した自然発生的変質の期待)が感じ取れる。中国の途上国から先進国への「脱毛」(改革・開放期の脱皮を形容し、脱毛沢東化と暗合する胡耀邦総書記の言)は、左様な浸透・漸進を経て徐々に成し遂げられて行くであろう。
米国社会心理学者・マズローの「欲望階層説」は、人間の欲求を@生理本能A安全需要B感情・帰属願望C評価欲求D自己実現と分類し、低次の欲求が実現されて始めて高次の層へ進み得るとした。国家の位相を当て嵌めれば、中国は第1層(生存の物的基礎条件[食糧・資源等]の確保)、第2層(国/地域・環境・人間の安全・安定の確保)を超越し、第3層(周辺地域・国際社会との調和)、第4層(尊厳・名誉の獲得・維持)を跨ぐ段階に差し掛かり、最上層(平和・繁栄下の安心立命)を目指している。「国際接軌」「地球籍確保」がBに当り、対外援助や「軟実力」(ソフトパワー)発揮の狙いはCに他ならない。此の図式は先進・中進・後進の国や地域の位置の確認の手掛りにも成るが、中国は持ち前の貪欲な上昇志向と「先富・後富・未富」の混在に因り、重層的欲求の渦巻きの中に在る複雑系の様態を成すわけである。 
三、山積した社会暗部の解決方向と「中国船団遠洋航行」の展望 
1.困難な制御
今日の中国が背負う様々な暗部は、老大国の規模・歴史等に因る厄介な諸条件の他、第1−3世代指導部の負の遺産も重荷と成っている。具体的には、@毛沢東時代の信頼の喪失・道徳の堕落と経済の疲弊・人口の「爆満」(爆発的充満);A 小平時代の武力鎮圧の禁じ手や拝金風潮等の「禍匣」(パンドラの箱)の開封;B江沢民時代の共同富裕への転換の遅行と経済格差の拡大、等が有る。
小平は死後の中国の軍隊の肥大化、地方の独立王国化、少数民族の分離を懸念したと言うが、何れも未だに解消し切れていない。北朝鮮の「先軍政治」を先行した「文革」の軍事独裁体制と訣別し、 文民統治も非軍人の中央軍事委員会主席・江沢民の時代に実現したが、依然として軍は特殊な地位を保っている。江に進言し胡への全権譲渡を背中押しした軍部の開明の態度44)の反面、原子力潜水艦が日本領海に進入した事件(2004)等、摩擦・衝突の火種も色々と抱えている。地方首長が多く入っている党中央政治局の会議で、上海市党委書記・陳良宇が不動産泡沫抑制の方針に抵抗し温家宝に引責辞任の担保を迫った一幕(2004)45)は、地方の暴走と中央の「鞭長莫及」(鞭の長さ[制御の力]が及ばぬ)を端的に顕した。西蔵自治区党委書記時代の胡錦涛に建国後初の戒厳令を発動させた拉薩動乱(1989.3)、 小平死去の前後(1997.2 − 3)新疆の民族分裂運動集団(土耳古のアンカラに本部を置く「東トルキスタン解放組織」)が烏魯木斉・北京でバス等を爆破したテロ活動も、開発独裁でソ連解体の悲劇を回避できた現政権の舵取りの困難を示した。 
2.温和な調整
胡錦涛は共産主義青年団中央第1書記に就任した1982 年、マルクス主義+儒教の両輪に由る治国の考えを披露した46)が、胡政権の志向性は正に革命の理想と仁和の手法の結合である。
其を凝縮させた合言葉の「和諧(調和)社会」は、対内的には「先富」→「共同富裕」の路線転換で格差の縮小を目指し、対外的には「崛起」(勃興)の刺激の中和を図る物である。経済成長と環境保護の均衡を重視する90 年代の国際社会の決意と世界銀行の提言(1997)に沿って、中国は2004 年から「グリーンGDP」評価システムの構築とモデルケースの実験を始めたが、名目GDPから環境・自然の損失分を差し引いた純正な国富を追求する努力は、「社会主義の初級段階」のGDP至上主義から脱皮し世界の高度な文明への進化を促す。
胡総書記・温首相の「親民・勤政」姿勢は、貧困地域、少数民族居住区や炭坑、「エイズ村」等への視察に好く現れる。胡錦涛は総書記就任の翌々月(2002.12)に中央書記処(局)構成員を連れて、初の国内視察先として「革命の聖地」・河北省平山県西柏坡村に赴き、建国直前の第7期2回中央総会の開催場所を見学し中共政権の初志への回帰を宣揚した。美徳の発揚と醜悪の駆除を唱える「八栄八恥」(8つの栄誉、8つの恥辱)の提言で、謙虚・慎重・清廉・刻苦を貫く気風改良の努力が一層進んだ2006 年には、公平な再分配の為に特殊利益集団との対決も辞さぬ決意が固まり、信頼回復・社会安定を目指す「伸張正義」(腐敗一掃・犯罪厳罰)の大手術として、9月に陳良宇等「上海閥」の追放に乗り出した。其の際に陝西・江蘇省等外地の武装警察要員を上海に投入したのは、毛沢東の内戦中の「農村を以って都会を包囲する」戦略(「文革」の直前・中に「亜細亜・アフリカ・ラテンアメリカ/第3世界を以って米国・西側陣営を包囲する」に転義)の変種に映る。
空軍副政治委員・劉亜洲等の対日強硬論を封じ「渉日示威」を終息させた一幕47)は、既に党・国・軍に対する胡錦涛の掌握力を窺わせた。党中央総会の開幕日に安倍首相を迎えた内政絡みの外交「表演」(パフォーマンス)は、「以和為貴」(和を以って貴びと為す)の協調性を顕示し前政権との距離を宣言する物であった。30 年前の上海閥「4人組」逮捕(1976.10.6)とは別の意味で歴史の転換点に成ろうが、「快刀斬乱麻」(快刀乱麻を断つ)ならぬ老子流の「治大国若烹小鮮」(大国を治めるのは小魚を烹るが若し)が、試行錯誤や微調整を繰り返す胡錦涛流である。小平の「摸着石頭過河」(石を探りながら河を渉る)の流儀は、隔世遺伝の形で引き継がれているわけである。
「水能載舟、亦能覆舟」(水は舟を載せるのも、舟を覆すのも出来る)という、国民と君主の対立・統一や治世の機微・困難を説く荀子の言は、「現代化」の騰勢や「全球化」の潮流と中国の統治・制御の弁証法的関係にも当て嵌まる。国民が13 億強で「網民」(ネット利用者)も米国に迫る世界2位の1.1 億(2005)に上った状況は、漢方薬や太極拳の様な抜本的「治理」を一層に要求する。2005 年に意表を突く政治的空白・経済的無風の時機に実施した人民元切り上げは、当初の小幅(対ドル相場2 %)設定と其の後の狭い範囲(1日の内に中値の上下0.3 %以内)での推移(2006 年対米ドル上昇幅の3.4 %は米ドルの4 %台の全利分よりも低い)に由り、徐々に外国と市場の圧力を緩和し、1985 年に米国に屈し円を大幅(初日に最大7%強)切り上げ大損した日本の二の舞いに成らずに済んだ。厳粛な綱渡りじみた巧妙な制御は国民との対話や社会の調整に於いても、時代の本流に逆らえず且つ歯車の逆回転を止める効果が現れつつある。高緊張・高成長→中緊張・高成長の段階を経て、「中風険・中回報」(ミドルリスク・ミドルリターン)の累積で、老子的「上善若水」(上善は水の若し)の魔法に由る「発展中」からの卒業が見込まれる。 
3.茫洋たる前途
「崩壊」論も「脅威」論も「泡沫」論も当らない中国の在り方は、「航海日」制定(2005)の縁起と成る600 年前の「鄭和下西洋」(鄭和船団の遠洋航海)に因んで言うなら、巨大船団が果てしない大海原を只管走行し続けて行く姿に見立てられる。「ヘッジファンドの帝王」の威名を馳せたジョージ・ソロスは最近、中国が世界経済の「暴走機関車」に化す危険に言及した48)が、頑丈で修理が効く巨大タンカーと言う朱建栄の比喩49)の通り、局地的・一時的障害や危機が生じても前進が止まる事は無い。中国は米国の最新鋭スペースシャトルの爆発・全滅事故(1986、2003)を横目に、費用(「神舟6号」は9億元= 1.1 億ドル)が其の1%に過ぎないソ連型の宇宙飛行船で「地球村」の外・上に進出したが、其の成功は現実主義・合理主義の柔軟性の威力を展示した。
GDP総額の世界に於ける比重は史上最盛期に遠く及ばないものの、乾隆帝退位(1795)に伴う「盛清」終焉後200 年来の空前の繁栄を勝ち取った中国は、史上最長(其々289、266、267 年)の唐、明、清3王朝に継ぐ第4の強盛時代に成りそうである。「中国封建社会の超安定体系」50)の典型を成した唐、明、清の堅調・長命は、其々「開明」、「恐怖」と「弾圧+懐柔」の統治装置に負う処が大きかった。共産党政権の専制統治と市場経済の結合も、「盛清」に似た「鳥籠政治・経済」を以って、「盛唐」の開明型の持続的平和・繁栄へと導くであろう。
「蟻の目」で捉えれば中国の課題の山積が目に当るが、「鷹の眼」で眺めると歴史の大河は紆余曲折ながらも前へ進んで行く。西暦の3番目の千年紀の初頭には、古代4大文明は希臘を除いて全て途上国と成っている。「盛久必衰」(盛んで久しくなれば必ず衰える)の法則は、バビロニアが在ったイラクを侵攻・制圧した米・英にも適用する。大昔に共に世界上位として栄えた中国と印度は、巡り巡って1962 年の国境戦争で敵対し、ダライ・ラマ14 世の亡命政府に対する印度の庇護も有って相互不信が根強く続いたが、2003 年に両国首脳が北京で結んだ「包括協力宣言」を起点に関係改善の新段階に入った。世界の情報産業の「硬件」(ハードウェア)と「軟件」(ソフトウェア)の牽引力を持つ両国が、其々「世界の工場」と「世界の事務所」としてBRICs(ブラジル・露西亜・印度・中国)の半分を占める変容も、『紅楼夢』の箴言の「好就是了、了就是好」(好は即ち了、了は即ち好)の通りである。
2003 年春に仏蘭西主催の主要国首脳(G8)との対話会議に中国が初めて参加した事は、イラク戦後の世界の政治・経済の枠組みや勢力図の変化と合わせ考えれば、千年単位の歴史循環の中の文明の逆襲も感じられる。早年ジョージ・ソロスと組んだ米国大投資家のジム・ロジャーズは19、20、21 世紀を其々英、米、中国の世紀とした51)が、中共党員数の7000 万人(2006)が英・仏・伊より其々1割強多い事は示唆的である。ゴールドマン・サックス社が選好したBRICsと「Next 11」(韓国・越南・比律賓・インドネシア・バングラデシュ・パキスタン・イラン・土耳古・埃及・ナイジェリア・墨西哥)は、BRICs4ヵ国の中国語名「金磚」(金の煉瓦)の通り、確実な大儲けの機会を秘めている。発展中である故の新興・勃興の可能性は、既成の富強国・地域と対照的な途上国の強みを思わせる。中国が目指す中進国、先進国入りの実現は又、世界に於ける「先進国/途上国」の構図の発展的解消に繋がろう。 

1)アンガス・マディソン著、[財]政治経済研究所訳『世界経済の成長史 1820 〜 1992 年』、東洋経済新報社、2000 年、21 頁。尤も、1992 年中国のGDPは世界2位の12.9 %(3位の日本は8.6 %)とした同書の統計は、台湾・香港・澳門を加算した物だとしても通説と大きく乖離するので、中国で好く引用される此の数値は吟味や割引の必要が有るかも知れない。
2)『辞海』(辞海編輯委員会編、上海辞書出版社)の“抗日戦争”項目の説明として、1989 年版では国民死傷1800 万人、軍隊死傷380 万人、財産損失600 億ドルと記された(縮刷版、764 頁)が、1999 年版では国民死傷3100 万人、軍隊死傷380 万人、直接的経済損失1000 億ドル、間接的経済損失は5000 億ドルと大幅に修正された(1920 頁)。抗日戦争勝利60 周年大会での胡錦涛の演説に有った説明の通り、直近の損失額数値は1937 年の価格を現在に換算した物である。
3)「3年自然災害」の「非正常死亡」者は、公式発表の2000 万人から研究報告の4000 万人まで諸説が有る。(天児慧等編『岩波現代中国事典』、1999 年、岩波書店、420 頁)
4)張戎(ユン・チャン)とジョン・ハリデイの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』に拠れば、北京はインドネシア共産党に対して政権奪取の為の武装闘争を絶えず促した。(土屋京子訳、講談社、2005 年、下巻291 頁)2005 年からネット上で流布した劉亜洲の「大国策」(2001)は、周辺安保の為に外国の内政に積極的に関与すべしと主張する際、「毛主席当年曾在印尼小試牛刀、因遭美国狙撃而北」(毛主席は曾て往年インドネシアで小手調べをしたが、米国の狙い撃ちに遭って敗北した)と、直接的関与の歴史を示唆した。
5)非OECD諸国の中の主要な援助供与国として、中国は1950 − 85 年に87 ヵ国に対して、同期の国家財政支出の1.73 %に相当する援助を提供した。(『岩波現代中国事典』、675 頁)当時の援助は一概に無駄とは言えず、周辺安保や国際展開、形象向上の効果が有った、との論調も近年中国で出たが、胡錦涛政権の毛沢東時代への止揚的継承や部分的回帰の現れと取りたい。
6)世界生産力大会に於ける国家統計局副局長・徐一帆の発言。新華社通信2006 年10 月9日、人民網日本語版10 月10 日。
7)紀碩鳴「程翔案疑雲 忘歴史冤案啓示」、香港『亜洲週刊』2006 年9月17 日号、26 − 29 頁。
8)王健民・毛峰「中朝諜対諜 互破情報網」、『亜洲週刊』2003 年1月27 日号、14 − 17 頁。
9)商務部の調査報告、新華網2005 年8月5日電。推計総額は諸説が有り、最も保守的見積りは最低50 億ドル以上であると言う。
10)林東方「側近が怒りの告白に踏み切る重大な事由 朱鎔基首相はなぜ四度暗殺されかけたか」、講談社『現代』2000 年11 月号、224 − 231 頁。
11)江迅「中国維権新浪潮 中産階級博」、『亜洲週刊』2006 年11 月26 日号、28 − 31 頁。
12)紀碩鳴「維権者最寒冷的冬天」、『亜洲週刊』2006 年12 月10 日号、14 頁。
13)同上。
14)竹内実「文化問題としての日中関係」、竹内実編『日中国交基本文献集』、蒼蒼社、1993 年、下巻326 − 327 頁。
15)関志雄「中国、一人っ子政策の弊害」、『日経金融新聞』2006 年11 月24 日。
16)『大連日報』電子版、2004 年10 月18 日。
17)2005 年12 月判明分、[東京]中国研究所編『中国年鑑 2006』、創土社、2006 年、49 頁。
18)富坂聡「“第二の天安門事件”の幕開け 反政府暴徒137 人が殺された」、『文芸春秋』2005 年6月号、104 − 105 頁。
19)同注12。
20)江迅「憤怒的土地沸騰 中南海重拳整頓」、『亜洲週刊』2006 年7月16 日号、25 − 29 頁。
21)『南方人物週刊』報道「中国中産階級調査」、捜狐網2006 年8月8日転載。
22)同上。
23)米国ボストンコンサルティンググループが2005 年12 月に発表した推計、出所は同注17。
24)国連大学世界開発経済研究所調査、『日本経済新聞』2006 年12 月6日。
25)『朝日現代用語「知恵蔵」2007』、朝日出版社、2007 年、「ジニ係数」の説明(627 頁)。
26) 飛「央行官員再駁基尼係数風険」(中国金融網2006 年6月27 日転載『北京晨報』)、陳旭敏「中国的基尼係数到底姓“社”還是姓“資”?」(明星頻道網[star.mop.com]2006 年6月30 日転載英国『金融時報』)等。
27)注21 文献。なお、注25 文献ではジニ係数の世界平均は0.89、米、日は其々0.88、0.55 としているが、資産配分面の数値と理解したい。
28)中国社会科学院・清華大学国情研究中心編、胡鞍鋼主編『地域与発展:西部開発新戦略』、中国計劃出版社、2001 年、16 − 17 頁。
29)同上、6−7頁。
30)同注24。
31)顧厳・楊宜勇『2005、2005 − 2006 年:中国収入分配問題与展望』、社会科学文献出版社、2005年。
32)『産経新聞』2006 年12 月17 日。
33)同注6。
34)同注6。
35)経済学者、紅旗出版社副社長・黄葦町の推計、『中国青年報』2003 年1月28 日。
36)門倉貴史『日本の地下経済 脱税・賄賂・売春・麻薬』、講談社、2002 年、194 頁。
37)張潔平・咼中校「掲開学術腐敗 防止動揺国本」、『亜洲週刊』2006 年9月3日号、27 − 29 頁。
38)阿部美哉編『国際文化学と英語教育』(玉川大学出版部、1992 年)、等。
39)(財)矢野恒太記念会編集・発行『世界国勢図会2006 / 07』、2006 年、483 − 487 頁。
40)同注11。
41)浜田和幸「“左手にマルクス、右手に孔子” 全世界に“儒教学校”を展開する胡錦涛“大中華戦略”」(『SAPIO』2006 年11 月22 日号)が、其の警戒論の一例である。
42)王海運「中国現段階宜定位為負責任発展大国」、中国頻道網、2006 年2月26 日。
43)『日本経済新聞』2003 年12 月12 日。
44)江迅・林飛『江沢民下台内幕』、『亜洲週刊』2004 年10 月3日号、40 頁。
45)「陳良宇書記の解任が示す江沢民ライン“上海閥”の解体」、『週刊エコノミスト』2006 年10 月17日号、12 頁。
46)同注41 文献。
47)香港筋等の報道に拠ると、2005 年4月に劉亜洲等が画策した「中日関係討論会」は胡錦涛の指示で流産し、其の対日強硬論は「軍方討論会」有志の宣言のネット流布でしか公表できなかった。
48)ジョージ・ソロス(インタビュー・構成=浜田和幸)「中国は世界の暴走機関車だ」、『文芸春秋』2006 年12 月号、314 − 322 頁。
49)朱建栄「“対日重視派”と“右派”の絶妙な関係で“互恵関係”構築を」、『週刊エコノミスト』2006 年11 月28 日号、36 頁。
50)金観涛・劉青峰『興盛与危機――論中国封建社会的超穏定結構』(湖南人民出版社、1983 年)、日本語版=若林正丈・村田雄二郎訳『中国社会の超安定体系―“大一統”のメカニズム』(研文出版、1987 年)。
51)ジム・ロジャーズ著『冒険投資家』(2003 年)、林康史・望月衛訳(日本語版副題『ジム・ロジャーズ世界発見』、日本経済新聞社、2003 年、83 頁。 
 
中日の政治文化・国際戦略に見る東亜共同体の可能性・方向性

 

1.政治・経済の長期波動の節目に於ける東亜共同体創設の始動の必然性と意義
小泉首相が2002 年1月に提唱した「東亜細亜共同体」の創設は、2004 年11 月の東南亜細亜諸国連盟+日・中・韓首脳会議で本格的始動の一歩を踏み出し、1年後にマレーシアで東亜細亜首脳会議を開催する運びと成った。政治の多極化・経済の全球化の潮流の中で、東亜共同体の結成は期待される必然性を持つ。
近代以降の歩みを振り返って観れば、歴史的節目に立つ当該地域の現在位置が判る。
大激動・大分化・大改組の第1波として、1842、53 年に中、日が相継いで英、米・露の砲艦に屈し開国を強いられ、1860、67 年の洋務運動、明治維新で両国の近代化への道が拓かれた。
第2波として、1894 年の日清戦争で日中の力関係が逆転し、10 年後の日露戦争で日本の東亜覇者の地位が一層固まった。
第3波として、日本は「大東亜共栄圏」の名で占拠範囲を東北亜から東南亜まで拡げた後、1945 年の敗戦で全て吐き戻した。其の中で台湾と朝鮮は再び民族分断に陥り、朝鮮半島は1950 ― 53 年に南北、米中激突の戦場と化した。
第4波として、1997 年に香港の中国返還の直後に泰の通貨危機が東亜に波及し、日本の「第二の敗戦」を加速させた。中国は1999 年の澳門回収で亜細亜の最後の殖民地に終止符を付け、「世界の工場」と責任有る大国の役割を発揮し始めた。2000、02 年の韓朝、日朝首脳会談で和解の気運が高まった朝鮮半島も、中国の仲介で米・露を交えた北京6者会談で緊張緩和へ向いつつある。
東亜共同体の胎動は当該地域の約50 年周期に合うだけでなく、世界史でも政治・経済の分水嶺に位置する。2000 年の日・米発IT 企業群株式泡沫崩壊と翌年の9.11 襲撃は、情報技術革命の万能神話や米国の一極支配の破綻を意味した。2003 年春の米英聯軍のイラク攻略と世界株式相場の底打ち、翌年の小ブッシュ大統領再選後の米ドル軟調と国際素材商品高・欧州通貨高・人民元引き上げ帰趨は、世紀の交の世界的通貨緊縮が通貨膨脹へと転換して行く中で主役の交代を予感させる。
新千年紀を挟んだ数年はコンドラチェフ長波の谷に当り、約55 年周期の景気循環の前回の底1)―1942 ― 45 年は、恰度米国が戦争の危機を繁栄の機会に転化させた時期である。長波の頂点だった1973 年の石油危機・ニクソン衝撃及び越南戦争敗北を経て、米国は世界最盛の優位を保ちつつも衰退の兆を見せ始めた。伝説的米国投資家・バフェットは2002 年に半世紀以上維持して来た方針を変更し、始めて米ドル以外の欧州通貨や豪ドル等を基金に組み入れ、翌年に史上2番目の海外投資先として中国石油天然気の大株主と成った。1969 年ソロスと共に量子基金(Quantum Fund)を創設したロジャースは、「中国の世紀」や実物投資への強気と米国経済への悲観を唱え共鳴を博した2)。
朝鮮戦争の特需で戦後復興の契機を手にした日本は半世紀後、中国「爆食」3)の特需で泡沫経済崩壊後の低迷打開の活路を掴んだ。中国は香港回収と共に英国から19 世紀前半の「世界の工場」の株を奪い、旧英国殖民地の印度は今「世界の事務所」として米国人の仕事を奪っている4)。欧米を雇用増無き景気回復の落し穴に陥らせた別の要因である情報技術産業でも、異名・“IC”の印・中は軟・硬両面の牽引車を成している。19、20 世紀の英、米の単独制覇も21 世紀には再演されず、世界の繁栄の重心は欧米以外の地域や新興勢力に移って行きそうだ。
政府中枢に近い米国大手投資銀行(証券会社)のゴールドマン・サックスは、2003 年10 月にBRICs待望論を打ち出し、目下米国の4分の1に過ぎぬブラジル・露・印・中の域内総生産(GDP)は2039 年までに米・日・独・英・仏・伊の総和を上回ると預言した。先進国首脳会議(G7)で露、中が招待されるに至ったのも、豊富な人的・物的資源や強い成長力を持つ新星の台頭に伴う勢力図の変化だ。半年後ブラジルが早速BRICs +南アの「対抗首脳会議」の開催を提案したのも、地球規模の政治・経済の地殻変動の一環であるが、東亜首脳会議創設の合意が予想よりも早く出来た事は、米・欧への敵愾心と地縁の親和力の結果と言えよう。
2004 年5月1日、中東欧10 ヶ国の加盟で欧州連盟は25 ヶ国に拡大し、4.5 億の人口、8兆米jの域内総生産を以て、米国(2.8 億人、10 兆米j)に比肩する存在感を改めて印象付けた。
米国独り勝ちの湾岸戦争後の1993 年に発足したEUの実力は、’99 年に発行した欧州通貨が忽ち第2の基軸通貨と成った事にも窺える。“ASEAN+3”は人口20 億、GDP7兆米jを擁す第3大勢力に成るが、EUの亜細亜版を目指す東亜共同体の基盤―東南亜諸国連盟は、奇しくも其の前身なる欧州共同体(EC)の創立の翌月(1967 年8月)に結成された。
東亜首脳会議の創設は比律賓首相が認めた通り、米国・欧州連盟に対抗する意図が大きい5)。
初回議長国にマレーシアが選ばれた事は、1990 年末に同国首相が「亜細亜経済協議体」を提唱し米国に潰された経緯を考えれば、冷戦後唯一の超大国の神通力の低下の表徴とも取れる。
「亜細亜経済協議体」や「東亜共同体」の推進にマレーシアと中国が最も意欲を示しているのも、亜細亜金融危機の中で独自の防波堤で域外の攻撃を躱した両国の姿勢を思い起すと興味深い。「全球化」の名を借りた政治・経済・文化の覇権主義と一線を劃す其の立場は、東亜共同体の安全保障・経済協力・文化融合の方向を示すが、米国の懸念も根拠無き恐怖ではない。
「昇龍」日本→「4小龍」韓国・台湾・香港・新嘉坡→「4小虎」インドネシア・泰・マレーシア・比律賓→「巨龍」中国の雁行型発展を経て、東亜は戦後世界の一大成長セクターと成った。世界第二の経済大国や核兵器保有の国連安保理常任理事国だけを観ても、此の地域の総合的実力は判る。更に東北亜の範囲を地理学的に北亜の露西亜極東・西比利亜まで含めれば、東南亜に隣する南亜の印度と合わせてBRICsの大半が連結部に跨り、政治・経済・軍事上の重みが益々増して来る。東亜の目覚しい飛躍の陰の奇跡には、第三世界で例外的に実現した地域連合も有る。亜細安(ASEAN)が1999 年に東南亜全域を覆うに至った成功は、東亜共同体の青写真に現実味を持たせている。
然し、2002 年亜細安首脳会議では東亜共同体創立の目途は2020 年とされ、此の設定は広域統合の困難と当該地域の複雑を如実に物語っている。東北亜の中でも数々の隘路(bottle −neck。中国語=「瓶頸」)が存在しており、朝鮮半島や台湾海峡両岸の民族分断も解決の見通しが立たないし、日本と中・韓・朝の歴史的怨念も根深く、其は皮肉にも東亜共同体を唱えた小泉首相の靖国神社参拝で再燃した。1997 年亜細安首脳会議で日中韓が非公式に招待されたのは、金融危機の荒波を乗り越える為に大船に乗ろうとの目論見も有ったろうが、東亜内部の南北は接近と共に摩擦も増幅した。東南亜諸国の域内総生産は韓国に相当する程度なので、「10 +3」が「3+ 10」に取って代られて行く状況の中で主導権を巡る暗闘は免れない。
東亜首脳会議の創設にインドネシアが難色を示したのは、現実と歴史の両方に理由が有る。
此の国は曽て中国と亜細亜の反新植民地主義の枢軸として結ばれたが、1965 年の政変で突如反中国の方向へ走った。ジャカルタを中心に4「小虎」・1「小龍」が結成した亜細安は、当初は中・越の脅威を意識し反共の色彩が強かった。今や米国の誇大も有って東北亜の地政学的危険が世界の注目を浴びたが、朝鮮停戦後の東亜の全面戦争は越南が戦場であった。中国は1979 年元旦に米国と国交を結び金門への砲撃も同時に止めたが、直後に越南への懲罰的討伐を仕掛けた。東北亜は人類史上唯一核爆撃の被害を受けた地域だが、核兵器の保有や開発で非核区の東南亜に地域覇権の懸念を与えたとしても頷けなくはない。
只、注目すべき現象として、朝鮮停戦後の東北亜では全面的軍事衝突は無かった。朝鮮の青瓦台大統領府強襲(1968 年)、朴正煕暗殺(’74 年、夫人死亡)、ラングーン殉難者廟爆破(’83年、韓国副首相等19 人爆殺)に対して、韓国は武力報復に訴えず水面下で対話を図り和解に繋がった。中国は1958 年に金門を砲撃し米・蒋連盟に楔を打ち込んだが、双方の応酬は忽ち実害を与えぬ相互隔日施行の儀式に化した。李登輝の「総統」再選を阻止する為の軍事演習でも、台湾海峡へ発射された導弾は実弾を搭載せず、其の最中に江沢民政権初期以来の両岸密使会談が続いたと言う6)。戦術核兵器に由る外科手術的打撃の淵に差し掛かった中ソ国境衝突も、越南主席・胡志明の葬儀に参列したソ連首相・ゴスイキンが北京に寄り協議した事で落ち着いた。1969 年9月11 日の其の出来事は32 年後の“9.11”事変と対照的に、当該地域の危機回避の能力・可能性の高さが窺われた。
一連の動きに東南亜が脇で登場したのは、東亜の南北の不即不離を現わしている。東南亜と東北亜の境界線を隔てた中・越に焦点を絞ると、近くて遠い両地域の分・合の変易が見えて来る。中国は大国の矜持から域外での恐怖活動を潔しとしないが、20 世紀の例外的越境暗殺は蒋介石の刺客が仏領の河内で漢奸・汪精衛を襲った事(1939 年)だ。中共政権は軍事顧問や軍隊の派遣も含めて越南の抗仏・抗米戦争を援助したが、米軍と死闘を繰り拡げながらも参戦を伏せ続けた。朝鮮戦争では米国への宣戦を避けるべく原案の「支援軍」を変えて「志願軍」の名で出兵したが、越南戦場で使った非公式名称の「後勤(兵站)部隊」は一段と晦渋であった7)。
越南と反目した後1991 年に和解を迎えたが、’99 年大晦日に合意し翌年に調印した陸上国境条約では中国は出血奉仕を提供し、’79 年に軍が死守し国民的英雄伝説を遺した係争地の老山・法山を譲った8)。
小利を捨てて大益を得、小異を存して大同を求めるとは、周辺国に対する中国の半世紀以来の基本姿勢である。2000 年ノーベル平和賞が金大中大統領に授けられたのは、南北首脳会談を実現させた「太陽政策」への顕彰だが、1973 年に東京で韓国大使館の諜報員に本国へ拉致された彼の生還・活躍も、東北亜の一体性と共に私怨を超えて米・日へ接近した毛沢東と通底する。
中国は’92 年の小平南巡で「和平崛起」(平和的台頭)の幕を開け、同年の中韓国交樹立は「不以意識形態劃線」(観念形態を以て線引きせぬ)の外交新思考の手本と成った。其は当然ながら金日成の無言の抵抗に遭った9)が、金正日の「実利社会主義」は・江の内政・外交の「実恵」(実益)志向10)と一緒だ。 
2.東亜共同体成立の障碍と動力:羨望と抵抗が織り合う「情結」(complex)
38 度線の両側、台湾海峡の両岸の一卵性双生児めく同根性は、東亜の各方面の間でも様々な形で見られる。「度尽劫波兄弟在、相逢一笑泯恩讐。」(劫波を度り尽くして兄弟在り、相逢うて一笑すれば恩讐を泯ぶ。)満州事変の翌々年(1933 年)魯迅が日本の友人に贈った此の句11)は、中日や国共の和解に対する礼讃か祈願に好く引き合いに出される。1982 年に全国人民代表大会副常務委員長・廖承志が蒋経国宛ての公開書簡で統一の希望を此に託し、1993 年に新嘉坡で開いた初の両岸会談で台湾の海峡基金会理事長・辜振甫も此を引いた。然し、70 年経っても親善・融合は実現に程遠いので、世の中は綺麗事で行くわけが無い。中国近代文学の第一声と成った魯迅の小説『狂人日記』(1918 年)は、兄や村人に食われて了うのではと言う主人公の被害妄想が主眼だ。日本でも有る「血は水より濃い」の観念は、自民党派閥の「嫉妬集団」の様相を観ても、同類相愛と同族嫌悪の表裏一体に気付かせる。
日本の「第4権力」・報道機関の頂点に立っている渡邊恒雄(読売新聞社長)は、長年の政界観察に基いで斯く述べた。「日本の戦後史の流れを見た時、イデオロギーや外交戦略といった政策は、必ずしも絶対的物ではなく、人間の権力闘争の中での、憎悪、嫉妬、そしてコンプレックスといった物の方が、大きく作用して来た」12)。中国で共鳴を博した元米大統領・ニクソンの指導者論でも、人間の生臭い感情や赤裸々な欲望が政治・外交の原動力として説かれた13)。蒋経国は日本軍に爆死された生母の墓に「以血洗血」の誓いを刻んだが、干支一巡後の自民党総裁選で小渕恵三に負けた梶山静六も、其の表面上紳士的競合の内実を「血で血を洗う戦い」と喝破した。握手して仲直りするよりも敵手を冷遇する方が正直だと言う彼の逆説14)は、非情の世界の条理を如実に表わした。当選後の小渕が対抗馬の梶山・穴馬の小泉と手を結んで記念撮影を撮った光景は、今回ラオスで小泉首相を真ん中に中国総理・韓国大統領と3人で手を重ねて握った構図、水面下張り合う亜細安+3首脳会議の協力体制と三重写しに成る。
心の中の痼を指すcomplexの中国語訳の「情結」は、銭其元外相が言う「非洲(アフリカ)情結」15)の様に、友情の絆を表わす転義も有るが、此の概念はcomplex の劣等感の含みも絡んで、常に「羨憎相織」(羨望と憎悪が織り合う)16)の性質を帯びる。スハルト政変と連動したインドネシアの華僑排斥は、3分1世紀後の亜細亜経済危機の頃に再び爆発し、1978 年の越南の華僑排斥も中国に堪忍袋の緒を切らせた。当時新嘉坡を訪問した范文同首相は李光耀に華僑差別の理由を説明する際に、華人の貴方が分る様に彼等は何時でも中国に心を寄せるのであり、我々越南人が何処に居ても越南に心を寄せるのと一緒だと率直に言った17)。其の「非我種族、其心必異」(我が種族でなければ、其の心は必ず異なる)の心理18)と現実は、孫文にも影響を及ぼした昔の日本の「亜細亜一家」の理想を嘲笑うが、文・種の近い漢字文化圏の日・中・韓の提携が東南亜に遅れる事は、「伴」(パートナー)の羈絆の「人(糸)+半」の字形に隠れた摩擦・反発が一因だ。
同じ戦車に縛り付く軍事同盟こそ究極の運命共同体であるが、其の固い紐帯で結ばれた中ソ友好同盟も10 年余りで有名無実化して30 年後に自然解消したし、中朝の類似関係も「面和心不和」(表は和合を保つが心は和合せぬ)で形骸化している。中国が朝鮮、越南戦争の際に出兵を辞さなかった理由は、「唇亡歯寒」(唇が亡びれば歯は寒し)の共存・自衛なのである。米とpeg(止め釘)の固定連動で一蓮托生と成った中国と香港も、「唇歯相依」(唇と歯は頼り合う。唇歯輔車)故に亜細亜通貨危機で共闘したわけだ。但し、唇と歯は表と奥、軟と硬の差に因り、対等の「相互依靠」(靠ちつ靠たれつ)には成り難く、隣接の為「同室操戈」(身内
[仲間]同士が矛を向け合う。内輪揉め)が起き易い。
東亜共同体の「風雨同舟」(風雨の中で同じ舟に乗る。苦難を共にする)、「同舟共済」(同じ舟に乗る者が助け合う)は結局、各々の国益の為の呉越同舟の節が多い。三国時代の魏軍が安定・連繋の為に停泊の船隊を鎖で繋げ、呉・蜀聯軍に焼かれて全滅した赤壁会戦(208 年)の教訓は、一心同体・一蓮托生の共倒れ・連鎖破綻の危険を示した。1998 年に世界的金融危機を触発した米国ヘッジ・ファンドLTCMは、ノーベル経済学賞に輝いた2人の米国教授の参画にも関わらず、hedge(損失・危険を回避する両掛け)の根本に違反して火傷を負った。此の語彙の「@垣根;A障壁;B防止策」の多義、及び敷地や野、畑の仕切りにも使う英国の用法から来た「囲んで守る」意19)、hedge fundの中国語訳の「対衝基金」(対衝=双方向の相反行動、相殺)は、此の文脈に於いても示唆に富む。
東亜共同体は米国の「排他的」の警戒の通り対外的障壁を築く節も有るが、「長城」の内側にも「一国二制度」めく「双軌」(複線)が当然敷かれよう。国民党時代の山西軍閥・閻錫山は独立王国を守る為に、省内の鉄道の幅を敢えて全国基準より広くして置いた。自ら要職を務めた中央政府の侵攻を阻む其の防壁は、奇しくも越南の広軌と同じ規格であり後に中国が援越に活用した20)。対越配慮から中国は明初に設置した辺境要所・鎮南関を「睦南関」、「友誼関」に改名した(1953、65 年)が、列車が車輪を調整しないと相手国に入れない仕組みは断層の表徴だ。小泉首相は「共に歩み、共に進む共同体」を謳ったが、言わば「同根不同心、同道不同志」(同根でも同心に非ず、同道でも同志に非ず)の実態も予想される。
「臥榻之側、豈容他人鼾睡」(臥榻の側、豈他人の鼾睡を容れんや)、と宋太祖は江南の使者に一喝したが、周辺地域の異端を断固許さない意志は、朝・越との国境への米国の肉迫を必死に阻止した中国にも貫かれた。其に比べれば同床異夢は排他性が薄く進歩とも言えるが、門戸開放は中国の世界貿易機構(WTO)加盟(2000 年)の様に機会と危険が同時に付く。
“Big Bang”(宇宙創成時の大爆発)と呼ばれた英国の金融・証券制度の大改革(1986 年)は、倫敦金融街の「ウィンブルドン化」(参加者の多国籍化)を招き、其を真似た日本の金融開国(’98 年)も弱肉強食の再編を引き起した。経済財政・金融担当大臣の竹中平蔵は2002 年に韓国を銀行再編の模範に挙げたが、韓国でも’98 年金融危機に因る半国有化の結果、5大銀行が相当程度で外資の手に落ちた21)。司馬遼太郎等の「藩は一個の企業体」の譬え22)は国家にも適用するが、地域統合への躊躇は吸収合併を恐れる下位企業の心理と似通う。毛沢東は「老大哥」(兄貴)・ソ連への訪問でスターリンの冷遇を喰らい、金日成も或る国際首脳会議で椅子が用意されなかった屈辱を味わったと言う23)が、大国と小国の論理・感覚の差も「兄弟」の歩み寄りを拒む。
中・朝は「鮮血凝成的戦闘友誼」(鮮血で固まった戦闘的友誼)を呪文の様に誇示して止まぬが、金日成は朝鮮停戦後忽ち中国の勧告を顧みず親中派を粛清した24)。越南は「同志+兄弟」と呼び合う中国の絶大な人的・物的援助を得つつ、1960 年代初めから教科書や軍の伝統教育で東漢の馬援将軍(紀元前14 − 49 年)の侵攻(41 年)を取り上げて中国を貶し、後に小平の激憤と「懲罰」を誘発する遠因と成った25)。はマレーシア訪問(1978年)で共産軍掃蕩を顕彰する国家英雄記念碑への献花を断り、外交的打算を優先した范文同の献花を「魂を売る共産党の敗類(成らず者)」とした26)が、内外の色々な場合で昔の中国侵越に遺憾を表した周恩来27)は、訪越の際に馬援の鎮圧で殺害された原住民女傑の記念碑に献花した28)。西独首相・ブラントが波蘭でユダヤ人勇者碑の前で土下座した挙動(’70 年)に等しい自省は、周恩来外交の美談や中共の国際主義の証とされたが、’55 年に胡志明主席に対して先人の越南侵略を詫びた29)毛沢東は、馬援の「青山処処埋忠骨、何須馬革裹尸還」(青山処処忠骨を埋め、何ぞ馬革で尸を裹んで還る須いむ)を、同じ60 年代初めに海外への革命輸出の精神教育に使った。アフリカ某国反体制勢力の軍事顧問としての赴任を拒んだ将軍を此を以て糾弾した周恩来は、同じ名句で1964 年ラオスに軍事顧問として赴く別の将軍を激励した30)。
中越国境の円満解決は主に陸上に限り領海に関する諒解は不完全で、南沙諸島の領有権を巡って最近紛糾が再燃し始めたが、中日の「政冷経熱」や東亜提携の総論賛成・各論分岐も両面を見せている。目下台湾の「去(脱)大陸化」風潮に異論を挟む台湾作家・龍応台は、政治は一時的であり文化は永遠であると言い、中国文化は漢族以外の蒙古・満清等の勢力を含んだ多元的存在だとした31)。其の「大河の支流や渦」の比喩で言えば、東亜と他地域、東南亜と東北亜、両地域の内部、政治と経済、現実と理想……等の対立軸は、同方向・異速度か逆方向の渦を巻きつつ相対・接近し合う。東亜共同体も一心同体の良縁が結ばれず、不同心の両円の複合或いは双焦点の楕円に成る公算が高いが、求心力と遠心力の均衡を考える前に連結を導く親和力を探ろう。
東亜共同体は地縁関係、政治力学と構想経緯から観て、数種の双円から成る連環の様相を呈す物である。其の範囲の東南亜+東北亜、中核の亜細安創設構成員+日中韓に於いて、幾つかの「後来者居上」(後に来る者が上位に居る)が見て取れる。東アジア共同体協議会(2004 年発足)会長を務める等、共同体創設に熱心な中曽根康弘元首相は、日中関係の拗れを理由に、「東北亜中心国家」を自任する韓国の盧武鉉大統領に牽引役を要請した32)が、中国でも一部有る「“帯頭羊”(引率羊)は韓国」の待望33)と共に、政治・軍事大国の中国と経済・文化大国の日本の対峙を思わせる。此の双壁は今や拮抗の均衡点に立っているが、「10」に対する「3」の「反客為主」(主客顛倒)は日中の間でも起きよう。現に、中国は既に「客気」(遠慮)を捨てて北京6者会談の主宰役を買って出たし、政府の「走出去」(打って出る)の進軍号令で企業が積極的に世界へ進出し、海外の有力企業を買収する等々の攻勢を掛けている。
中国は亜細亜金融危機の中で人民元引き下げの自粛を以て、1987年10月米国株式大暴落の際の日本の大蔵省主導の買い支え以上に貢献した34)。日清戦争後の中日の勝敗、優劣は二転三転したが、今や相剋共生の緊張・依存に在りながら、再び「後来者居上」の徴候が鮮明と成った。
2004 年に日本で嫌中論調が沸騰した契機は、年頭の小泉首相の靖国神社参拝が惹起した隣人の憤慨への反発だが、前年に中国が2超大国に次いで「有人宇宙飛行倶楽部」に入った事を考えても、周回遅れの相手に追い付かれた時の動揺も見え隠れする35)。同年の日中、中韓、韓日の間に領土・帰属を巡る論争・紛糾の激化も、保ち合いが煮詰まり振幅が大きく成って行く36)信号である。
司馬遼太郎は日比谷公園焼き討ち事件(1905 年)を日本の軍国化の起点と視た37)が、首都戒厳を惹起した恰度百年前の其の出来事は、中国現代史の幕開けの5.4運動(’19 年)と対で眺めれば興味津津である。日露戦争を制した後に米国の圧力で対露賠償金・樺太北半分割拠を放棄した譲歩は、大衆の怨嗟を買い「臥薪嘗胆」の悲願を湧かせたが、親日高官邸の焼き討ちで爆発した5.4運動の怒気の起因も屈辱的領地割譲だ。目下両国官民の達成感・欠損感が混じ合った摩擦は、此の世紀の連環に於いて既視感が有る。両事件の其々26 年後に日本が満州事変を惹起し、中国が抗日戦争に勝った展開も、歴史転換点の伏線的作用の現れとして留意したい。
東亜共同体創設の目途とされた2020 年は、日本の「第二の敗戦」の起点から恰度四半世紀後に当る。中国は中共成立百周年や人口頂点に因り持続高成長の目標を其処に設定したが、約30 年前の日本の道を辿って来た経験則からすれば、其の頃には昭和末期並みに栄華を極めるに至ろう。東南亜諸国連盟、欧州共同体が生まれた1967 年に、明治維新百周年を迎えた日本は強盛復興の決意を新たにし、東京五輪から25 年に亘る黄金時代を築いた。中共建党の1921 年は世界のコンドラチェフ波の山であったが、頭数が英・仏・伊の何れよりも多い此の集団が率いる国家は、新世紀の景気循環の最初の頂上に立っても不思議ではない。
東亜の雁行型成長も日本の「頭雁」(引率雁)役も終り、此の広域は「群龍無首」(龍[人]の群れに頭が無い)の戦国時代に突入した。先進国も途上国も情報技術革命の時代では同じ出発地点に立つ、と米国未来学者・トフラーは『第三の波』(1980 年)で主張したが、其の「第三の波」の理想論と違う現実的判断として、錯綜した利害で連衡合従を図る各方面は自他の力関係を意識せざるを得ない。「東北亜民族主義」、「東亜共同体」と言う2つの妖怪の同時出没は、中国の「後来者居上」を警戒しつつも東亜全体の「後来者居上」を狙う心理に因る。「雁群」の後発者も日本の「経済侵略」に反発しながら、羨望や嫉妬を起爆剤に自身の変革・強化を実現させたが、東亜共栄の道でも同じ逆説的追い風は吹くだろう。
1989 ― 91 年の冷戦終結、東欧革命、インターネット登場と湾岸戦争、ソ連解体は、21 世紀の世界史の基調を定めた。其の伏線の中・英の経済改革とソ連のアフガン侵攻が起きた’79 年、米国発の“Japan as No.1”論が台頭した。昨今の中国嘱望論は其の主語が“China”に変った物だが、“is”ならぬ“as”の選好は深意が有った。日本は遂に一番手に成り損ない、中国も同じ期待外れを演じるかも知れないが、牽引役としての可能性は否めない。ヴォーゲル教授は其の著書に「米国への教訓」の副題を付けたが、『不滅の大国・米国』(1990 年)の後の『米国への警告―21 世紀国際政治のパワーゲーム』(2002 年)でも似た問題意識を見せたナイ教授は、国力の質の変化に着眼し1990 年に「軟実力」(soft power)を提唱した。政治・軍事の実力が万能でなくなった時代では、徳目や魅力が国家の影響力の源泉に成ると言う38)が、東亜共同体は東亜的価値観・美意識の発信でも其の意義を持ち、中・日は其々の得意分野の政治と経済で特に貢献し得る。 
3.地縁経済学に見る漸進的共同体形成の必然性:欲求階層・雁行型成長に於ける格差
華人作家・陳舜臣は日本国籍取得の翌々年の1992 年、「親龍」日本と「4小龍」の成長に就いて、「儒教圏繁栄論」は必ずしも唯一の鍵言葉ではないと述べた。「4小龍」の共通点は異文化受容の緊張を強いられた殖民地経験に在る、と言う李登輝の見解に同調して、彼は「複合文化経験圏繁栄論」を唱えた。曰く、日本語学習を強制された台湾の二重言語使用者(bilingual)は、負担も重いものの複眼が持て選択肢も増えた39)。其の当否はともかく、英国殖民地時代から否応無しに公用語と成った英語は、香港・新嘉坡・印度の近代化・全球化で確かに強味を発揮して来た。儒教と複合文化は文化制度の接点で結ばれるが、複数の殖民地時代と異文化を体験させられた「4小虎」の急成長も合点が行く。一方、半占領か半植民地しか経験の無い日、中の場合は、儒教の性質でもある複合文化に負う処が多い事に成ろう。
戦争中に『司馬遷』を著した作家・武田泰淳は1948 年、両国の全的滅亡の体験の多寡を比較し、敗戦まで「処女」だった日本に対して、中国は度重なる姦淫・離縁に因り複雑で成熟した情欲が育まれた女体の様だ、と語った40)。彼と『毛沢東 その詩と人生』(1965 年)を共著した中国学の泰斗・竹内実は、其の半世紀後に中国の成長の原動力を経済の欲望に求めた41)。
「昇竜」と「巨龍」の繁栄は両者の卓見を手掛りに考えれば、喪失の廃墟から栄光を復興させる動機も要因に思えて来る。其の梃子は毛沢東・李登輝が信奉した『易経』の「窮→変→通」の原理42)や、教育・企業管理に示唆を与えたマズローの欲求階層説に隠されている。
彼の米国の心理学者が1943 年に提起した此の論理は、人間の欲望を金字塔構造の5層に分けた。其の@生理本能、A安全需要、B帰属・感情要求、C自尊・評価追求、D自己実現は、低次が満たされて始めて高次へ進む事に成っている。国家・地域に当て嵌めても思い当る処が多いが、戦後の日本や「文革」後の中国に関して言えば、絶頂から絶境への転落の落差が反発・上昇の意欲との正比例に先ず気付く。経済準超大国に昇り詰め再び亜細亜最強の地位に返り咲きした後の日本は、自己完結の境地に入った故に頭打ちと成ったわけだが、東亜地域統合の文脈に入れて見ると、発展の段差は共同体形成の障壁と成り得る。
[ 図1 マズロー「欲求階層説」に対応する国/地域の5段階上昇志向(括弧内は筆者の敷延) ]
中国は社会主義の初級段階に在り、「温飽」(衣食の保障)の解決が急務だと小平は規定したが、マズロー原理では正に初級段階の課題である。毛、 時代の末期の戦備優先や「暴乱平定」は、同じ初級段階の安全渇求の強迫観念に駆られた過剰反応と言える。毛の「無法無天」は経済崩壊と国際孤立を招いたが、「無頼国家」と誹られた今の朝鮮も食糧と防衛の確保が精一杯で、世界の一員として帰属・感情や評価を求める余裕は未だ無い。他方の台湾は経済面で亜細亜の先進地域と成ったが、「認同」(アイデンティティ)・外交の基本を存在の確保・認知とした李登輝の主張43)の通り、国際社会の孤児として第2、3層に跨る側面も有る。蒋介石政権は1955 年に香港で周恩来搭乗予定の英国民航機に時限爆弾を仕掛け、中共外交官・記者等多数死亡の惨劇を造ったが、越境暗殺を自制した大陸時代の大国の矜持を捨てたわけだ。蒋経国時代の諜報機関が米国で作家・江南を暗殺した事(1984 年)と共に、朝鮮が海外で敢行した数々の恐怖活動を彷彿とさせる。江南事件が台湾民主化への転換点と成ったのは米国の圧力の他に、安全保障の危機の或る程度の緩和も背景に有ろう。金正日が日朝首脳会談で拉致を認め謝った挙動は、「以退為進」(撤退[譲歩]を前進と為す)の奇手の様に映ったが、国際社会の譴責の重荷と安全面の「自己資本」増殖の兼ね合いの結果と思える。
存在は意識を決定し、意識は存在に影響を及ぼす、とマルクス主義は考えたが、毛が1958年に英・米を猛追する「大躍進」を始めた動因は、「球籍」(地球籍。国際社会に於ける存在資格)が剥奪されかねない危機感だ。其の盲動の頓挫の恰度30 年後に「球籍」論争が起き、先進国入りを目指す改革加速の声に応える形で、 は賃金・物価体系の大改革に踏み切った。朝鮮は2002 年に同じ賭けに出て同じ超通貨膨脹に見舞われたが、追走の動因も落伍・失格を恐れる焦燥に他ならない。日本との約30 年前後の発展格差を縮める為の中国の躍動と重なるが、亜細亜の雁行型成長は順次に欲求構造の高層へと進む過程の様にも映る。経済学者・赤松要教授の雁行型成長構想の第一声―論文「亜細亜新興工業国の産業発展」は、奇しくも交戦中の米国で生まれた「欲求階層説」と同じ1943 年の所産だが、倶にコンドラチェフ長波の谷で蓄積した反転の契機として、「窮すれば変ず」の原理に通底する。
@生理本能(生存の物的基礎条件[食糧・資源等]の確保)A安全需要(国/地域・環境・人の安全・安定の保障)B帰属・感情要求(周辺地域・国際社会との調和)C自尊・評価追求(尊厳・名誉の獲得・維持)D自己実現(平和・繁栄の下の安心立命)人口増加頂点が到来する2020 年頃まで高成長を続ける中国の国家戦略は、経済学者・胡鞍鋼を首班とする研究集団の報告『生存と発展』(1989 年)に依る処が多いが、題の2語は正にマズロー説の第1、2層の欠乏欲求と第3―5層の成長欲求に対応する。「温飽」問題が解決され「小康」(一応の余裕)の実現が途に着いた変化は、新世紀の中国の足場と力点が生存から発展に上がった事を意味する。但し、第3層に腰を据えつつ第4層へと頭角を出す中で、全体の底上げにも関わらず内部の発展段差は寧ろ拡大した。胡鞍鋼は2001 年に所得水準で中国の省・自治区・直轄市を「4つの世界」に分けた44)が、其の富裕、先進、中進、後進の4等級は欲求階層の金字塔構造と重ねれば興味深い。
胡鞍鋼は1988 年の国内地域(省・自治区・直轄市)間経済格差の最大7−8倍を、旧ユーゴスラビア解体前並みの危険水準とし是正を説いた。後に最上位と最下位の格差は逆に10 倍を突破した45)が、其の理想と実情は相反する原理を思わせた。即ち、一方では、過度な経済格差は民族問題等と絡めば統合の溝に成りかねないが、他方では、1つの連邦・2つの文字・3つの宗教・4つの言語・5つの民族・6つの共和国を擁し、7つの隣国と辺境を接したチトー大統領時代のユーゴ(1953 − 80 年)や、其の再編・廃合時(’92 − 93 年)以上の経済格差を抱えた今の中国の様に、強固な政治統治は其を超克し得る粘着力が有る。東・西独の統一や中・東欧諸国のEU加盟も現わした通り、経済的段差は意志と時間さえ有れば統合の障碍を構成するまい。
東・西部時間を設けた米国や11 もの地方時間が有るソ/露と違って、中国は国民党時代から全国統一時間で地域の中央への帰属を強いて来た。「車同軌、書同文、行同倫」(車は軌幅を同一にし、書は文字を同一にし、行動は倫理を同一にする)と言う、秦始皇の中国統一の手法の延長に思えるが、中国・朝鮮・韓国と日本新幹線の国際標準軌と露西亜(除くサハリン州)・蒙古や越南の広軌、日本在来線・露サハリン州の狭軌の幅違いを観ても、東北亜や東亜の広域統合の制度的・技術的困難を感じずにはいられない46)。更に、行政的統轄が出来ても同一化が不可能な領分には、自然条件や経済、文化が有る。中国が近来進めている大西部開発と東北振興は、多民族の大所帯の構造的断層の不易と平準化の難度を思わせる。
人口地理学者・胡煥庸の1933 年の発見では、黒龍江省輝(今の黒河。凡そ北緯50 度、東経127.5 度)と雲南省騰衝(同25、98 度)を結ぶ約45 度の直線の東・南と西・北は、其々国土の半々を占めるが、人口比率の約94 %対6%が百年変らなかった。建国後の西部支援の移民政策にも関わらず、今日も黒河−騰衝線の両側の軽重は昔の儘である47)。東北〜西南に延伸し長城と一部だぶる降雨量15 吋等高線48)も此にほぼ吻合するが、東北の北端まで含む大西部は正に此の2本の風土・環境区分線の西・北側だ。国防上でも重要な意味を持つ降雨量15吋等高線は、住み好い湿潤地帯と住み難い乾燥地帯の境界と成り、遊牧に適した後者の発展の限界や先天的条件の改造の悠長を浮き彫りにする。
(環日本海経済研究所『北東アジア経済白書2003』[註46 参照]43 頁「全国31 省・市・自治区の1人当りGDP(2001 年)」図[中国国家統計局『中国統計年鑑2002』拠り作成]を用いて、本稿筆者が黒河−騰衝線を添加した物)出所=黄仁宇『中国大歴史』中国語版(註48 参照)26 頁図2 黒河−騰衝線と中国各省・市・自治区(除く台湾)の2001 年1人当りGDP水準図3 中国降雨量15 吋等高線の概念図国の主な「硬実力」(ハード・パワー)は人口・領土規模や経済力、軍事力等だが、人口と領土の比重の極端な乖離に見る西域の経済的軟弱や、「第4世界」が総人口の半分も占める中国の現状を観れば、国勢を量る多様の物差しが再認識できよう。「東亜共同体」構想が世に出た2002 年頭時点の1人当り国内総生産49)では、予定構成員の中で最多の人口と最大の国土を誇る中国は、最高の日本の40 分の1に過ぎない(927 米j対37、408 米j)。東南亜に於いて人・地・経済規模とも断然1位のインドネシアも、域内最高の新嘉坡の30 分の1弱(同678 対20、701 米j)で、他の3「小虎」よりも相当劣っているので、量的規模と質的水準の両方に対する把握・吟味が必要だ。
李光耀は新嘉坡の初代首相に就任した翌年(1960 年)のインドネシア訪問で、スカルノ大統領から彼我の人口や自動車の数を訊かれ多寡を比較された。150 万人対1億人、全国1万台対首都5万台と言う差を前にして、面積に関しては貴国は東南亜随一ですと李は相槌を打った50)。
彼を困惑させた其の然り気無ない話は言うまでもなく実力誇示の意図に由り、1072 年に渡宋した成尋も皇帝から日本の首都の面積・人口と全国総人口を先ず訊かれた51)。彼の天台宗僧侶が咄嗟に「不知幾億万」と虚勢を張ったのは恐らく、隋煬帝の逆鱗に触れた聖徳太子の国書(607年)の「日出づる処の天子、日没する処の天子に致す。恙無きや」と同じく、大国に侮られるまい対抗意識の発露であったろう。亜細亜最盛の隋は其の煬帝の激怒の11 年後に内乱で消滅し、宋も成尋渡来の半世紀後(1126 年)金に都・開封を占領され朝廷が南遁したが、東南亜の「小龍」の「一番小虎」に対する逆転勝ちは、千年前の東北亜史の片鱗に既視感めく予感が有った。
新嘉坡の1人当りGDPは1959 年の400 米jから、31 年後の李光耀退任時に30.5 倍(12、200米j)と成り、1999 年には2万2千米jに達した52)。インドネシアの牛歩との対照は其の10年前(1949 − 79 / 89 年)の日本対中国と重なるが、東亜の2つの奇跡は工業社会の加速度性と共に競合相手の敵失も味方だった。東南・東北亜の最大国の「泥足の巨人」化はソ連解体と通じて経済軽視が敗因であり、李光耀との20 分間の会見で専制統治の論理を喋り捲ったスハルト53)と、ニクソンとの会談議題を「吹哲学」(哲学談義)と限定した毛沢東は、倶に国家的意味では「経済動物」の対極に在る政治家なのだ54)。日本の此の渾名は奇しくもスカルノ政権臨終の1965 年、此の両国が中心を成す亜細亜・アフリカ新興勢力の論壇で、パキスタン外相・プットが「羨憎相織情結」を以て付けた物である。彼は12 年後スカルノと同じく軍事政変で大統領の座を失い、国際社会の同情も空しく翌々年に絞首刑に処されたが、其の頃から日本に脅威と嫉妬を抱いた南亜は結局、経済運営の拙さで亜細亜雁行型成長の末尾と成った。
其の時代のインドネシアと中国は経済の落伍と政治の蹉跌の相互因果、「達」に成らぬ「窮」の儘での「済天下」の悲劇を見せた。東亜雁行型成長は「独行者最速」(独りで行く者は最も速い)の定理を証明し、「独善其身者先富」(独り我が身を善くする者は先に富裕に成る)の法則にも思い付かせる。「雁群」の先発・先達組は恵まれた平和的環境を生かして経済に専念し、次発・次達組は専制統治で保障した安定の下で成長を推進し、後発組の飛躍も政治→経済の移行の成果に他ならない。取り残された不発組の朝鮮等も合わせて、実質的に既に終焉した東亜雁行型成長は理論上4つの列を呈している。更に人口分布地理区分の黒河−騰衝線に倣って国境に拘らぬ経済実力等高線を引けば、東亜の「3つの世界」を浮き彫りにする「雁行梯隊」斜線が思い当る。
(本稿筆者が小学館『日本百科全書2001』の「アジアの各国」地図を用いて、文中詳述した「第1世界」、「第2(2.5)世界」、「第3世界」の区分線を引いた物)
[ 図4 東亜の経済成長度の「3つの世界」(「先富」・「次富」・落後層)の概念図 ]
東京―漢城―新嘉坡の3点を線で結ぶと、鋭角三角形の枠内には「昇龍」日本の南部と4「小龍」が恰度ほぼ全部入り(台湾は台北を含む北部)、中国の江南・華南も加わって東亜の最富地域と成る。4「小虎」と「巨龍」中国の主体・中間層、更に広義的東亜の一部なる露極東の沿海地域を入れる区切りとして、ハバロフスク−哈爾濱−長春−北京−西安−成都・重慶−昆明−ラングーンを繋ぐ直線が思い浮かぶ。中国の大西部や北亜の西比利亜の大半、東北亜の蒙古は、正に「第2世界」圏外の「第3世界」に収まる形だ。亜細安の最後の加盟国で東南亜唯一の軍事独裁政権支配下のミャンマーは、二重性格を体現する様に首都以東の半分が「第2世界」に跨る。黒河−騰衝線とほぼ重なる此の線は、漢城―南京・上海―広州・香港―新嘉坡の線とほぼ平行する。中国最富の深と最貧の甘粛省礼県(北緯34 度、東経105 度附近)は、此の図で見事に其々「第1世界」と「第3世界」に位置し、日本の内の東北・北海道・沖縄も「第2世界」に区分される。「第1世界」の東側の境界線はハバロフスク−ラングーン線ともマニラ−ジャガルタ線とも平行し、後者以東は「小虎」の中の中進部分として「第2.5 世界」と名付けたい。
朝鮮やカンボジアの「第2世界」帰属は経済的実力では違和感も有るが、朝鮮の地縁政治学上の重みや両国の言わば地縁経済学上の波及受益の可能性には似合おう。美称・「金三角」の中・朝・露国境図們(豆満)江地域の東北亜経済協力開発区も、日本の環日本海地域と手を組む点でも「第2世界」の共同事業体と思える。東京−漢城の線で恰度「裏日本」が「首富」(首位・一等の富豪)圏から弾き出される事は、黒河−騰衝線と同じ「域勢」(「国勢」に因んだ造語)を浮き彫りにする。東北亜と東南亜の最富国・日本と新嘉坡が首尾を成す細長い楔形の「首富」区は、一極集中に成り勝ちな富の分布の不均衡を思わせるが、勝ち組が雪達磨式に出現する「亜細亜工業国雁行型成長形態」を絵に描いた観も有る。何れも地図上の東北−西南方向の約45 度斜線は中国語の「騰衝」の意の通り、「龍・虎・雁」の右肩上りの「騰(飛翔)・衝(突撃)」の表徴に見える。既成と進行中の「東亜の奇跡」の気勢・騰勢を形容する語彙として、「衝鋒」(突撃)や「衝刺」(最終追い込みの全力疾走)が申し分無い。「先富」区の両側の「次富」区が順次に追随して行く雁行型成長の摂理を考えれば、胡錦涛政権が大西部の開発よりも重工業基地・東北の振興を先行したのは賢明な「梯形逓進」だ。「先富」の牽引で「雁群」後方の裾野へと波及して行く「共富」(共同富裕)の道は、中国に於いても東亜に於いても歴史的帰趨と言えよう。 
4.「先発→共栄」の道:「窮→変→通」の量子飛躍と「庶→富→教」の梯形逓進
此の図は世界に於ける東亜の軽重と関連して観れば、地球規模の「首富」区の変遷が興味を引く。亜細亜開発銀行の試算に拠れば、世界に占める亜細亜の経済規模は、工業社会に入った1820 年には6割も有ったが、1940 年には人口比率の6割と著しく釣り合わぬ2割まで下がり、今は4割まで増え、2025 年には再び6割に達する見通しだ55)。工業社会と後工業社会に於ける世界経済の主役の交代を伴う浮沈は、歴史の風車の百年単位の長期変動周期を浮き彫りにする。1820 年の経済大国上位5ヶ国の実質GDPの世界に占める比率は、中国の28.6 %と印度の16 %に続く仏、英、露は其々5%程度だったが、6位の日本(3.1 %)と9位の米国(1.6 %)は1992 年に、其々3位(8.6 %)、1位(20.3 %)に成った。其でも日本の上昇率は一時の神話の割には突飛でもないし、中、印の2位、5位の維持とブラジルの躍進(露に次ぐ10 位56))は注目すべきだ。前回の10 傑から消えた墺太利、西班牙(7、8位)の当時の1.9 %を上回るブラジルの2.3 %は、21 世紀のBRICs 台頭の信号と観て能い。更に英国の衰微(8位、3.3 %)の帰趨とも照らせば、毛沢東も留意した中国史の「300 年歴代興亡周期率」57)の世界的普遍性に気が付く。中国は亜細亜の昔の強盛と後の不振の最大な変動要因であったが、底力・反発力の相乗で相場格言通りの「谷深ければ山高し」の飛躍が期待できる。20 世紀亜細亜の中興の立役者・日本の後退は、栄枯の循環と共に強盛の方程式まで示唆している。
ロジャースは極東を21 世紀の有力な成長地域とし、成功の鍵は「日本の資金力+中国の労働力+西比利亜の資源」だと考えた58)。中国流で言えば「財源+能量(パワー)+能源(エネルギー)」の結合だが、其の一昔(10 年前)の彼の予想を超えて今や中国が西比利亜の資源を確保すべく露石油会社の買収に出た59)。彼と彼以上に露西亜に乗り込んだソロスが創った「量子基金」と、「鉄女」の元英首相が顧問を務めた「虎基金」(Tiger Fund)の名は、皮肉な巡り合わせで新富国の秘密を解く手掛りに成る。世界的情報技術企業株式泡沫崩壊の2000 年、「虎基金」は解散に追い込まれ「量子基金」も同じ大損の故に保守的運用に切り替えた。
「対衝基金」の両雄の退場・萎縮と対照的な東亜「龍・虎」の躍進は、「百獣之王」・獅子に次ぐ「亜王」・虎の特質と量子の原理にも因る。真珠湾奇襲作戦の暗号名「虎!虎!虎!」が示す攻撃性の他に、当時の日本の安全確保の為の石油争奪と域外制覇の為の勢力拡張は虎の貪欲でもある。一方、隘路を一旦突破した後に加勢する量子飛躍に因んで、東亜の奇跡は「量子(次元・段差)飛躍型成長形態」とも呼べよう。
其の“bottle−neck”は瓶の狭い口が中身の出入りを窮屈にする事から、隘路・難関に転義した比喩であるが、封印が解かれて瓶から出た悪魔の暴れと言う西洋の寓話が連想される。毛沢東は自分の性格を「虎気+猴気」の複合と分析した60)が、主たる虎の気質と副次的猿の気質は其々勇猛・非情・貪欲と躍動・機敏・天邪鬼だ。後者の祖形・「美猴王」孫悟空は「斉天大聖」(天に斉しい大聖)と自称した処に、虎・猿共通の挑戦精神が顕れているが、500 年の幽閉から解放された後の猛威は正に檻を出た虎、隘路を破った量子の勢いだ。1979、89、99 年を起点とした中国の3段飛びも其々、経済的貧困、政治的孤立、歴史的屈辱からの脱出が原動力である。
『易経』の「窮→変→通」は量子の隘路通過の変易・経過と思えて来るが、瓶の内と外、頸と本体の落差は欲求不満の爆発を孕む。日本の学者が「奢侈」の字形の「大きな者、多い人」の寓意から捉えた中国の「物量主義」、及び中国的「欲望の自己増殖・大快楽主義61)」は、百年の孤独から千年の愉楽へと走る「虎・猴」複合体の精神力の源泉だ。
英国が工業社会の最初の覇主と成り日本が後工業社会の第二経済大国と成った事は、人口・幅員の規模が必ずしも経済成長に正比例しない事を物語っている。但し、其の19 世紀前半の「世界の工場」と20 世紀後半の「東亜の奇跡」の再演の観が有る中国の飛躍は、両者の強烈な物的欲望・上昇志向と人口・幅員の規模との相乗の「如虎添翼」(虎に翼。鬼に金棒)を思わせる。現に、中国は人口・幅員を安価な労働力や無言の国威と化し、経済・安保上の利益の獲得・増殖を進めている。Goldman Sachs(中国語訳名=「高盛」)発のBRICs台頭論は、曽て前共同会長が財務長官を務めた(ルービン、1995 − 99 年)米国政府の価値判断と通底し、人口・幅員の規模に対する重視は米・中共通の尺度を窺わせる。新興4強の中の中・印は古代4大文明の半分を占め、国土の大半が亜細亜に在る露は20 世紀の社会帝国主義超大国だ。三者の栄光を取り戻す「孤憤」(孤独の故の発憤62))と巨大な国勢は、『紅楼夢』の4大名門の「百足之虫、死而不僵」(百本足の虫[蜈蚣]は死んでも倒れない)を想起させる。
李光耀はソ連解体を憐憫な眼で観ながらも、原子爆弾の所持や核・宇宙科学者、 五輪優勝者の輩出を根拠に、此の民族を軽視しては成らないと断言した63)。ソ連に反撥しつつも息子に露西亜語を習わせた事は毛沢東と同じである64)が、今の「北極熊」は俗諺の「痩死的駱駝比馬大」(駱駝は痩せて死んでも馬より大い)の通りだ。BRICs有望論が世に出る直前の英米聯軍のイラク攻略は、古代文明の一角が新千年の劈頭に再盛の道を絶たれた事にも成る。西亜細亜の其の国の凋落は独裁体制の自業自得と共に、「駱駝」程の総合的国力を不可逆に失って久しい所以でもある。往年の「悪の枢軸」の独・伊・日が大戦後間も無く捲土重来を果したのは、政治・経済・文化の遺産の厚さに負う処も有ろう。ソ連の自滅に関わらず露西亜は政治・軍事大国の余威を猶持っており、中国の西域に似た西比利亜の資源の強味も加わって対日の心理的優位は余り変るまい。
李光耀はソ連の瓦解を清王朝末期の数十年に比した65)が、鴉片戦争(1840 年)から8ヶ国聯軍北京侵攻(1900 年)までの中国の連戦連敗は、確かに老大国の威風が地に塗れた全的滅亡の様相が濃い。再び列強と比肩する国際的地位を獲得し日本との屈辱的優劣逆転を再逆転したのは、幅員・人口の利点に頼った抗日戦争の勝利の結果だ。現代開幕(1919 年)前後の其の明暗の分れ目には、物理的国勢と精神的国勢(国家の意志・威勢)の相乗の有無・強弱も有ろう。
空間・人間・観念と合わせて社会・歴史の4元素を成す時間も、中国の持久戦の味方と日本の速決戦の天敵に成った。自然的時間と相対論的時間、静的国勢と動的国勢の相違・相関を示す様に、両国は其々「文革」と泡沫経済崩壊に由る「失われた10 年」で勢いが止まり、其の間に競合相手が加速度的躍進で「後来者居上」の気運を得た。顕在的規模・実力に対する潜在的帰趨・念力も時間変数と似た梃子だが、東亜の「龍騰虎躍」(龍が飛び立ち虎が躍り上がる。生気勃々)も騰勢と統制が同時に要求される。
毛沢東が抗日戦争中に否定した「唯武器論」と同じ様に、経済も唯一決定的要素でない事は昨今の日本の政治的影響力の限界で立証された。小平の経済専念路線の本質も政治・経済の両輪併進に在るが、宋帝も成尋への質問で然様な複眼を示した。神宗が訊ねた天皇・大臣の名、官制、行政区、地理、気候等の事情66)は、国政・国勢の根幹を成す中枢構造と政治風土に他が、「要用漢地是何物貨」(中国の何の物を用い[輸入し]たいか)の件は貿易の関心が表れた。成尋渡宋の恰度900 年後に田中角栄の訪中で日中国交正常化が実現したが、其の前に周恩来は佐藤首相の後任人事に就いて熱心に情報を収集した67)。国際戦略と国家建設に倶に目を配る中国支配者の遺伝子を受け継いで、毛沢東は国交正常化前の1957 年に王震将軍が率いる農業代表団の訪日を批准し、陳雲は水稲栽培の経験を吸収するよう指示した68)。改革・開放初期の小平・陳雲両巨頭体制は、毛・周時代まで続いて伝統的「帝王+宰相」型権力頂点構造の変種だ。其の政治と経済、域外と域内の重点分担は、東亜共同体結成の文脈では中・日に当て嵌まる処も有る。
雁行型経済成長の梯隊を4層に分けた斜線と交差の経緯を織り成す様に、東亜の地政学的重心地域を結ぶ線として2本の軸が思い浮かぶ。東北亜では日・中・韓・朝の首都が一文字形で並ぶ北緯35 − 40 度線の細くて狭い区間であり、同じ北緯40 度線近辺の華盛頓・紐育・桑港との等高線も興味深い。東南亜の方は赤道を挟んだ細い弧状の地帯と成り、「小龍」新嘉坡と「小虎」の内のGDP総額上位3国(インドネシア、泰、マレーシア)の首都が集中する。其々東−西、南−北走行の対照と両者の距離は東亜共同体の規模と困難を改めて浮き彫りにするが、此の座標系を見詰め直して気が付く事は、先ず夏季五輪開催に見る言わば「亜細亜雁行型国際出世形態」だ。東京→漢城→北京の移行は其々24 年、20 年の間隔と共に、地理的にも見事にほぼ等距離の2都間で北緯36 → 38 → 40 度近辺の西進・北上を呈する。東亜の政治的「首強」(首位・一等の強者)圏内と経済的「先富」圏外に在る北京の位置は、其の逆の上海と補完して総合的国力の「双拳」69)を成す。「政治の北京+経済の上海」は東北亜の「政治の中国+経済の日本」70)に対応するが、南の「首強+先富」の重畳地帯に首都を置く国が新嘉坡しか無い事は、東南亜の両輪と政治・経済力学上の弱味を示している。
小泉首相が新嘉坡で共同体構想を提起した事は、東亜の南・北の「首富」の組み合わせも意味深長である。新嘉坡は「小国寡民」の故に「4小龍」の中で存在感がやや薄く、日本は頭数も含めて億万長者の貫禄が有る。但し、日本は「富国倶楽部」・G7の創設構成員であり、経済力に応じて国連維持費の2割も負担して来ながら、安保理常任理事国・中国の低い分担率(2%)に反比例の発言権には敵わない。中国が自負する総合的国力は政治・経済・軍事等の相乗なのだが、「両弾一星」(核[原子・水素]爆弾、大陸弾道導弾、人工衛星)を配置した西域は、「半壁山河」(国土の半分)に相応しい補完で全体の「完璧」に寄与している。
「両弾一星」を高い国際的地位の獲得の切り札とした 小平は、天安門事件後に訪中の泰首相・チャートチャーイ・チュンハワンとの会見で、「塊頭大、人口多」(恰幅[幅員]が大きく、人口が多い)故に容易に呑まれぬ事をも中国の強味に挙げた71)。更に彼が重視した数千万人の(図4と同じ地図[除く北亜の露西亜部分]を用いて、本稿筆者が東北亜・東南亜の政治的中枢地帯[文中詳述]を表記した物)
[ 図5 東亜の政治力学の南北2「強極」の概念図 ]
「僑牌」(華僑カード72))も、資金・経験の両面で近代化の援軍と成っている。東・西域に跨る「中華民族大家庭」と海外まで分布する「大中華圏」は、其々地縁・血縁で繋がった「合衆国」や「連結企業体」の観が有る。「国際互聯網」(インターネット)に因んで東亜共同体を「地域互聯網」と言うなら、其の「天網」の有形・無形の赤い糸の可成りの内実も、全体の力を強め外圧を撥ねる為の各方面の結集・補完の思惑だ。其の結合に対して米国が覚えた不安は、「中国脅威論」の拡大版と言えよう。
日本保有米国債を売却したい誘惑に駆られたと訪米の橋本首相が冗談っぽく吐露した途端に、米国株式市場で史上2番目の幅を記録する暴落が起きた。亜細亜通貨危機の10 日前(1997.6.23)の此の笑劇的衝撃は、高値警戒感に因る米国の自律的調整を促した側面も有るが、平和志向に封じられた軍事力と同じ抜けぬ宝刀の底力と空虚は、日本の識者が泡沫経済破綻後の有り様を形容した「張り子の豚」73)と似通う。中国は亜細亜通貨危機の中で同じ圧力を米国に掛けて、香港を攻撃した国際投機筋の退治で援軍を得たとされるが、実力及び行使の決意の兼備、政治・経済・軍事の能力・実力の相乗や相互転換・増殖こそが、米国が排他的東亜共同体に抱く恐れの根源である。第2次大戦後に米国の無敵神話を打破した2回の戦争とも、宿命の様に東亜の朝鮮と越南が舞台なのだ。
米国の天敵の中・朝・越は倶に「惨勝」の後に経済的苦境に陥り、其の逆相関関係も此の地域で軍事的解決が長らく回避された要因と思える。不名誉な撤退を強いられた米国の皮肉な収穫は、戦場の消耗で実力が削がれた相手と周辺国の発展格差が一体化の障壁と化した事だ。東亜共同体形成の最大な困難は日・中・韓の共同体意識の欠乏とされるが、政治的志向の相異と共に経済的落差も温度差の由来である。孟子の「窮則独善其身、達則兼済天下」(窮すれば則ち独り我が身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす)の通り、中国は一応の余裕が出来た1997 年から東亜地域協力に意欲が涌いた。インドネシア・スマトラ島沖大地震と印度洋大津波の後も、責任有る大国の印象を天下に宣揚すべく先進国の援助引き上げ合戦に加わった。
東南亜・南亜の此の災厄は奇しくも毛沢東生誕111 周年の日(2004.12.26)に降り掛かったが、別種の大国の矜持から印度が援助を拒否した意地張りは、毛死去直前の同規模(死者24万人)の唐山大地震(1976.7.28)の際の中国と一緒だ。一方、援助獲得の為に冒険も惜しまぬ朝鮮は今も欠乏欲求を満たす為に独善的の儘でいる。
但し、朝鮮の核開発の狙いは数十年前の中国と同じく、国防の盾で安全を保障し外交の切り札で利益を得る一石二鳥だろう。「先軍政治」は「文革」の軍事独裁を彷彿とさせるが、「強盛大国」の目標も中国と一緒である。援助を引き出す為の威力や度胸の顕示は、欲求階層の上方の帰属希求や自尊追求の動機も帯びる。マズローの逓進説に符合する発展三部曲として、先ず人口を増やし次に富まし最後に教化すると孔子が言った74)。毛、 、江3世代は正に此の3段階を順次に踏まえたが、他の途上国も何れ「先富」(先に富裕に成る)組の道を辿り、飢渇精神で勝ち取った「硬実力」を自己実現の「軟実力」に昇華させよう。
東亜共同体の構想は曽て「数十年先の事」と冷やかに見られた75)が、急に動意が付いたのは数十年先の見通しが出来た事も有ろう。今の域内の最富国と最貧国の1人当りGDPの差は200 倍近くにも上り、上・下双方の乖離度は平均水準を無意味にする程大きいが、途上国は高い速度と長い期間を梃子に格差を縮めて行こう。赤松要が提起し其の高弟が敷延した「亜細亜工業国雁行型成長」は戦後、日本の牽引で業界を超えて国家・地域の次元で実現したが、日本の官民一体の「護送船団方式」疾走も「1942 年体制」発足の半世紀後に疲弊した。日本は競争力が低下し緩慢な衰退に入り爛熟へ向かい、韓国も1人当りGDP1万米j達成(1995 年)後は此の水準の近辺を徘徊し続け、中国も日・韓に続いて2030 年頃には人口が減少に転じる見込みなので、東亜は平準化の収斂や飽和後の調整を経て今世紀中葉の大再編を迎えるだろう。 
5.超越的・形而上的連帯の紐枢:地縁政治・経済・文化的等高線と精神風土の通底
赤松要は戦争中に将官待遇で新嘉坡に4年間滞在し調査・研究を進めた76)が、其の頃に生まれた日本首相が約60 年後に其の地で「東亜共同体」を提唱したのは、亜細亜雁行型成長の達成と新展開の徴と言える。赤松構想が業界を超えて国・地域の次元に移行し始めた1956 年77)は、日本では経済白書『日本経済の成長と近代化』の宣言通り、「もはや戦後ではない」時代の始まりであった。「もはや戦争は無い」と言う金大中の訪朝帰来の第一声も、振り返って観れば朝鮮停戦後の東北亜に適用したのである。「亜細亜雁行型成長」説が最初に想起された'35年は中国に於いて、毛沢東が長征中に党・軍の大権を掌握し、後に国歌と成る抗日戦歌『義勇軍行進曲』が世に出た年だ。’55 年の自民党結成と翌年の中・朝建国後の初党大会・新体制発足で、前回の東亜地政学的変動長波は新しい一巡に入ったが、今次長波の始動では’56 年型集団指導へ回帰する中共に対して、自民党は’55 年体制の金属疲労の所為で’93 年に遂に下野させられた。
人間学的長波の連続・止揚の両面を示現するかの如く、代って政権を握った新党党首・細川護煕は巡り巡って、盧溝橋事変の直前から真珠湾攻撃の直前まで3度首相を務め、A級戦犯容疑に指定され出頭直前に自決した近衛文麿の孫(母方)だ。日中全面戦争勃発直後の1938 年1月に生まれた彼と等高線で繋がる様に、「第二の敗戦」後の最初の3首相―橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗も、奇しくも盧溝橋事変(1937.7.7)を挟んだ7月29 日、6月25 日、7月14日の生まれだ。歴史認識を巡る日中の対立が小渕内閣の頃から表面化した事は、時代の烙印や歴史の循環を感じさせる。此の偶然の一致と共に世代交替を思わせる等高線として、小泉純一郎、金正日、胡錦涛、温家宝は同じ1942 年生まれである。太平洋戦争勃発1ヵ月後生まれた小泉は硝煙の記憶が無い最後の戦中世代の先陣と言え、干支一巡後の日朝首脳の握手は其だけ象徴的意味を持つ。還暦で党・政首班と成った胡・温の誕生は鴉片戦争敗戦百周年にも当るが、普遍的「窮→変→通」の啓示が読み取れる。
胡・温は「文革」中に西域の甘粛で長年雌伏したが、1人当りGDPが全国2番目低い此の省は新世紀の「双駕馬車」(二頭馬馬車)の揺り籠と成った。党・国・軍3権掌握に由る「胡錦涛元年」の暁、カンボジア(同指標= 195 米j[同上、2001 年])に次ぐ東亜第2の最貧国・ラオス(同324 米j)で東亜首脳会議の設立が決定されたが、両者を考え併せれば示唆に富む。胡が1992 年に小平から2段飛び特進で党中央政治局常務委員に大抜擢されたのは、ラオスに近い最貧地域の貴州省(同344 米j)、殺人的高原気候と厄介な民族問題を抱えた西蔵自治区の首長を務めた(1985 − 88、88 − 92 年)実績が大きい。非凡な気配りと忍耐力の
持ち主・周恩来も西蔵だけは遂に行かなかったので、「吃得苦中苦、方為人上人」(苦中の苦を喫し得て、方に人の上の人と為る)と言う、江戸時代の日本にも「常言」として入った格言78)が立証された。
マレーシアが東亜共同体の前身を提唱し、初回東亜首脳会議の主催国に選ばれた事も、類似の座標系に置いて観れば必然性を感じる。同国の1人当りGDPは「4小虎」の中で断然1番(3、745 米j)で、泰、比、インドネシア(1、873、934、678 米j)の総和をも上回るが、東南亜と東亜の「首富」・新嘉坡と日本の其々18 %、10 %に過ぎない。東亜の経済規模・水準は亜細亜では群を抜くものの、米・西欧に比べて全体的には未だ中進と先進の間に在る。東亜共同体に於けるマレーシアや中国の位置は、世界に於ける東南亜、東北亜、東亜共同体の縮図とも映るが、20 世紀後半の中・日の指導者も中・低所得地域の出身が多い。1885 年以来の歴代日本首相で山口県の出身が一番多い(56 中7人79))事も象徴的であり、明治時代の長州藩(山口)・薩摩藩(鹿児島)出身者の突出(其々4、3人)は、同じ西南の四川と隣の湖南・湖北の指導者の輩出と似通う。
訪中の田中角栄は談判が危機に瀕した時、意気消沈した大平正芳外相(後に首相)に対して、「君等大学出はこういう修羅場、土壇場に成ると駄目だな」と喝を入れた。2人は貧乏の身で其々新潟、香川から上京し活路を開いた初心に戻り元気を付けた80)が、昭和・平成を跨いだ「新領袖」・竹下登の故里・島根県の人口過疎地域比率、GDP総額が何れも全国2番目に悪く、戦後保守政治本流の「校長」81)・吉田茂の出身地・高知の同指標が其々全国最悪と3番目に悪い事82)、小渕恵三の祖父・父親が何度も生計・事業に危機に瀕した事83)と共に、『易経』に基づいた毛沢東の「窮則思変」(窮乏すれば変革を思う)に頷かせる。ニクソンは貧しい家庭の出自を毛・フルシチョフとの共通項に挙げた84)が、革命・暴力に満ちた20 世紀に相応しく、中共建国後の3世代指導部の最中枢群の出身地は、所得水準の高い東部が少なく、中・下層の中・西部に集中した。
江沢民政権は「大西部開発」戦略の基礎として、地理・経済水準に依って東・中・西3部の区切りをした。3大区は1人当り域内総生産でほぼ上、中、下の部類に当て嵌まるが、建国後の主要な指導者は西部の四川・重慶を除いて、中部8省の内の黒龍江・吉林を除く6省の出身者が突出して多い。江→胡時代の交の「四つの世界」の実態を浮き彫りにし、小泉「東亜共同体」提言時の東亜と較べる意図から、当事者の生・育の時期とのずれを承知の上で2001 年度の数値を用いるが、当該地域の1人当りGDPの全国順位を並べ、全国平均値(927 米j)との偏差を弾き出せば、次の通りに成る。
[ 表1 中部6省・西部2省の中共建国後歴代要人の輩出と2001 年1人当りGDP 水準区分・地域順位人均GDP 全国平均比建国以降中共要人の主な出身者 ]
中部・湖北13 / 31 941 米j+ 03.6 % 林彪・董必武・李先念・将軍多数
中部・湖南17 / 31 730 米j− 19.7 % 毛沢東・劉少奇・元帥3人・胡耀邦・朱鎔基
中部・河南18 / 31 714 米j− 21.4 % 趙紫陽・頴超・李徳生
西部・重慶20 / 31 681 米j− 25 % 李鵬
中部・山西21 / 31 656 米j− 27.8 % 華国鋒・彭真・徐向前・薄一波
西部・四川24 / 31 633 米j− 30.4 % 小平・朱徳等元帥4人・楊尚昆
中部・安徽25 / 31 629 米j− 30.8 % 姚依林・胡錦涛(本籍)・呉邦国
中部・江西26 / 31 628 米j− 30.8 % 曽慶紅・汪東興・将軍多数
湖南以下の各地が全国平均より2−3割も低い水準は、安徽の陳独秀が初代党首(1921 −27 年)を務めた中共の「窮→変」因子を裏付けた。中部地域で順位・偏差値が倶に最高の黒龍江(全国10 位、+ 23.9 %)からは指導者が出ず、毛沢東が林彪事件後に後継者として嘱望した王洪文の故郷は全国平均に最も近い吉林(同14 位、+ 1.3 %)だ。更に富と乱の逆相関関係を思わせる様に、当局が「邪教」と断罪した法輪功の教祖・李洪志も「政治流氓」(政治的成らず者)・王と同じ吉林出身だ。黒龍江・吉林と同じ全国平均線上組の湖北の水準は比律賓並みで、保守派大物が多く出た山西85)はインドネシア以下であるが、中国全体の金字塔型構造を東亜首脳会議参加国と見比べれば、深経済特区と甘粛省礼県との171 倍もの1人当りGDP格差86)は、最富の日本と最貧のカンボジアとの192 倍に近似する。
(本稿筆者が独自に考案・換算・作成した物。1人当りGDP数値は『中国統計年鑑2002』に基づき、1米ドル=8.3人民元の為替レートで算出した。全人代では各省・自治区・直轄市の地理的位置と経済発展の水準に応じて、東部12 省区、中部9省区、西部10 省区に分けた[国家統計局、2000 年]が、筆者は大西部開発戦略の通念[註44 文献14、133 頁参照]に沿って、東部の広西と中部の内蒙古を西部に分類した。
表1、2の「中共要人」の範囲は、主に政治局常務委員・国家主席・全人代常務委員長・元帥。)中日政治文化比較の文脈に置いて観れば、初代の伊藤博文を始め首相輩出の山口・鹿児島と湖南の妙な等高線に気付く。同じ年の両県のGDP総額は47 地方自治体中の24、26 位である87)が、尺度の相違で厳密な対比とは成らないものの、湖南の上記指標の31 地域中の17 位は換算すれば正に両者の中間だ。首相出身者数歴代2位の岩手県(東京都と並列、4人)の同28 位は、此の変則的参照座標系に於ける相対的位置が河南に近い。同年の県民1人当り所得88)では山口は絶対値と同じ全国24 位だが、岩手と鹿児島の38、44 位は一層「窮→変」原理の不易を感じさせる。岩手生まれの歌人・石川啄木(1886 − 1912)の貧困脱出願望、及び「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」の「“縮み”志向」89)を思い浮かべると興味津々だ。
戦後首相が最も多く出た地方自治体は群馬(3人)であり、其の福田、中曽根、小渕は倶に重要な時期(1976 − 78、83 − 87、98 − 2001 年)に国を司った。首都圏に近く1人当り県民所得が全国平均より僅か下回る14 位90)の此の県は、最近の中共指導部に出身者が増えた山東・河北91)の地理的位置や経済水準順位に近いが、春秋・戦国時代の魯・燕や『水滸伝』の舞台だった両地の殺伐な雰囲気が乏しい。群馬の特産物は全国生産高の9割弱も占める蒟蒻芋である92)が、司馬遼太郎は蒟蒻を「日本の奇妙な食品の一つ」としてこんな風に吟味した。「成分のほとんどが水で、禅問答のような食品である。何の栄養もなく、それ自体が持つ味もない。
(中略)栄養学的には咀嚼・嚥下の無駄というものだが、その無駄に味を付けて喜ぶあたりに、日本人の暮らしの底の何事かと結びつくものがあるかと思える93)。」中曽根が後輩首相の小渕に冠した「真空」の異名も、其の群馬産の日本的特色を帯びている。
毛沢東時代の党・軍の頂点は其と対照的に、国、共政権の都(南京、北京)から遠く激辛を好む湖南・湖北・四川の人が多かった。風水思想で運勢・傑物の源泉と成る「龍穴・龍脈」の少数集中の傾向を証す様に、毛と国防相・彭徳懐は湖南省湘潭県の同郷で、国家主席・劉少奇の故郷・寧郷とは50 `程しか離れていない94)。後の2人は「両雄不倶立」(両雄は並立せず)、「天無二日、民無二主」(天は2つの日は無く、民は2人の主は無い)の掟95)で粛清されたが、正・反両面の「情結」は諸刃の剣の如く地縁文化的危険を窺わせた。聖徳太子の「憲法十七条」(604 年)にも孟子所縁の「国に二君無く、民に両主無し」(第12 条)と有るが、激戦区の旧群馬3区も言わば「三雄不両立」の事情で不倶戴天の衝突が起き易く、政敵に対する小渕首相の仁義無き排除も宿命的と言える96)。毛が自称した「無法無天97)」は湖南の「多強」と楚人の激越にも由来したが、胡耀邦の失脚は同じ湖南省瀏陽県出身の古参指導者・王震も押す要因だったらしい98)が、東北亜の日・中・韓の三つ巴も似た強豪の競合に成ろう。
毛が好きな佛語の「赤条条、来去無牽掛」(裸一貫、此の世に来るのも去るのも係累無し)99) は、大韓航空機爆破事件(1987 年)の容疑者・金賢妃の手記に出た朝鮮の諺―「空手来、空手去」(何も持たずに生まれて、何も持たずに去る100))と通じる。「金持ちは喧嘩せず」とは逆の「窮且愈堅」(窮して猶志を堅くする101))の心理は、日本帝国の乾坤一擲や「無頼国家」の冒険、毛沢東の「継続革命」と民主化闘士の急進示威等に現れた。中国の最後の対外・対内の武力行使は倶に四川人の小平が決断し、天安門事件の際に国を牛耳った「8老」も半数が四川( 小平)・湖南(王震・宋任窮)・湖北(李先念)の人だ(他は山西2人[彭真・薄一波]、河南[ 頴超]・上海[陳雲]各1人で、8分の7が中・西部出身)。其の「赤三角」は動乱・闘争の終焉を映して、第3世代指導部の中核では1992 年体制(第14 回党大会)の各1人から、'97 年体制の2人(四川[重慶]の李鵬と湖南の朱鎔基)と成り、今や遂に皆無と成った102)。
中央軍事事委員会副主席・劉華清の退出で政治局常務委員が全て非軍人に成った事は、建軍70 周年の’97 年の「文民統治元年」の性格を物語っている。建党50 周年の1971 年に毛沢東が「副統帥」・林彪の野心家集団を撃破する為に、赤軍時代の『三大紀律、八項注意』を自ら歌い党・軍幹部に服従を促したが、歌詞の共編者の1人が林彪と同じ湖北人の劉華清である。1916年生まれの彼の引退は建党前世代の退場をも意味するが、初回党大会に出席した董必武及び同じ湖北出身の李先念は国家主席と成った。劉の故郷・大悟に僅か約50 `離れた黄安(建国後「紅安」に改名)の1県だけで、約200 人もの中共軍将軍が出たから、辛亥革命の地でもある湖北は武装革命の「火薬味」(硝煙の匂い)が格段と濃い。権力の頂点から「九頭鳥」(9つの頭を持つ鳥。激情・喧騒を形容する湖北人の渾名)が消えたのは、其故に鹿児島人の首相が昭和に出番を失った事と重なる。最後の薩摩出身の首相・山本権兵衛は大正13 年(1924 年)1月7日に退陣したが、恰度65 年後の同日の昭和終焉を思えば隔世の断絶が感じられる。
一方、非連続的連続めく止揚・継承を示す様に、湖北人より数倍も「九頭鳥」的性格の強いとされた九江人が居る江西から、胡錦涛時代の政治局常務委員の9人中2人(曽慶紅・呉官正)も出た。中央委員会全198 人中の江西人は彼等も含めて僅か3人なので、頂点に占める比重は驚異的であるが、赤軍の発祥地や曽の父親・曽山(内務相経験者)の血脈の所縁を考えると頷ける。’97 年選出の政治局常務委員7人中の3人が江蘇省内直径50 `程の隣接地域で育ち(江沢民=揚州、李嵐清=鎮江、胡錦涛=泰州)、’81 年以来の政治局常務委に共産主義青年団中央出身の「三胡」(胡耀邦、胡啓立、胡錦涛)が常駐して来103)、胡耀邦時代の院政政治を司った「8老」の4分の1が彼と同じ瀏陽出身で、更に瀏陽同郷の楊勇が周恩来の「三楊」指名で楊得志(湖南人)、楊成武(福建人)に次いで志願軍の主将として朝鮮に出征した事と共に、地縁・「人縁」(人的関係網)に因る密集や連続として中国政治の機微を示唆する。毛・彭の故郷を支点とする湘潭−寧郷−瀏陽の逆三角形の上辺のほぼ中点に在る長沙から、陳雲と共に計画経済を指導する第1世代の李富春が先ず出て、更に毛が好んだ明太祖・朱元璋の後裔と言われる朱鎔基が世紀の交の総理と成った。「第4世界」の辺地から指導者が余り出ず、抗戦中の党中央所在地の「革命の揺り籠」―陜西の出身者・高崗、胡啓立も政治的に夭折した事と併せ観れば、歴史伝統や文化風土の生産性を感じずにはいられない。
「兵家必争之地」(戦争で双方が必ず争奪する要地)の徐州(江蘇北部)の近辺に、劉邦(沛県)と項羽(宿遷)が生まれ育った事は、「英雄造時勢、時勢造英雄」(英雄が時勢を造り、時勢が英雄を造る)の相互因果を思わせる。江沢民の故郷・揚州も周恩来の生地と同じ江蘇北部に在り、長江上流の西南・華中から下流の東南への権力重心の移転104)は、中国版図の見立ての「鶏」の脂が載った腹に軸足を移す事である。揚州の傍の泰州で育った胡錦涛は上海生まれで、同じ沿海国際都市・天津の温家宝との組み合わせは、黒河−騰衝線の弦を背にした弓幹の如く、中原の河南人・趙紫陽も同調した黄河文明→海洋文明の展開105)を象徴する。上海、天津の1人当りGDPは全国1位、3位だが、2人の揺り籠は新指導部の高学歴と共に中国の高成長・国際化の潮流に似合う。「海洋国家」志向の日本や越・比との領海紛争が表面化し、再び「好戦的雄鶏」106)の印象を周辺に抱かせたのも、亜地域内の亜文明の衝突として必然性が有る。小平は1992 年に胡錦涛・朱鎔基の重用と共に政治局常務委員会の一席を劉華清に与えたが、「副帥」(中央軍委筆頭副主席)でも国防相でもない彼が唯1人の「軍代表」と成ったのは、元海軍司令(1982 − 88 年)と原潜建造推進派の旗手である事を考えても国際戦略の布石と思える。 
6. 全球化時代でも不易の中国流統治・外交の要諦:「理・礼・力・利」の重層・結合
指導者の揺り籠の中部内陸から東部沿海への分布推移は、富裕化の帰趨と全球化の時流に合致するが、全体的に底上げした中国は「発展途上大国」の自己規定の通り、世界では依然として中・下層に止まっている。2002 年に選出された新中央委員会の構成員の出身地では、上位の江蘇・山東・浙江は全体の約3分の1も占めた107)。東海・黄海に面した此の3省の上記1人当りGDPは、其々全国6位、9位、4位と高い。同じ’01 年域内総生産絶対値の恰度2、3、4位の位置も、地縁経済−人文学108)的説明を見事に成すが、絶対値1位で1人当り水準5位の広東と合わせ観れば、巨龍の気勢や正体は一段と掴め得る。
[ 表2 東部11 省・直轄市の1人当りGDP(同表1)と建国以降中共要人の主な出身者 地域順位人均GDP 全国平均比建国後要人の主な出身者(★と※は前、今期政治局常委)]
上海1位4504 米j+ 395.6 % 陳雲・胡錦涛★※(生地)・銭其
北京2位3408 米j+ 235.4 % (中共の北京占拠年数の関係で指導部には無し)
天津3位2408 米j+ 164 % 李瑞環★・温家宝※
浙江4位1753 米j+ 92.9 % 周恩来(本籍)・喬石・尉行健★・黄菊※等多数
広東5位1640 米j+ 80.5 % 葉剣英
江蘇6位1557 米j+ 71.4 % 周恩来(生地)・江沢民★・李嵐清★
福建7位1491 米j+ 64.1 % 陳伯達
遼寧8位1454 米j+ 60 % (歴代政治局常委には皆無)
山東9位1261 米j+ 38.7 % 康生・張春橋・万里・宋平・羅幹※・将軍多数
河北11 位1004 米j+ 10.5 % 賈慶林※
海南15 位857 米j−5.7 % (無し。直近の中央委員会でも皆無)
GDPの絶対値と1人当り値が其々全国一の広東と上海は、 小平の意志で経済特別広域の位置付けで加速度的成長を遂げたが、今こそ「首富」を誇る深は開発(1980 年)前は貧しい漁村であり、上海も漁村から徐々に「東洋の巴里」へと変貌したのだ。江沢民時代の2人の外相―銭其と唐家の江蘇、上海出身は、党中央対外連絡部部長、外交部次官として対朝外交を司って来た戴秉国の貴州・土家族出身と対照的だが、江南両地が最富組入りを果した窮極の原動力も最貧組と同質の「窮→極」の上昇志向だ。昔から「人無三分銀」(人は3分の銀子も無い)と言われた貴州の貧困は、「天無三日晴、地無三尺平」(3日続く晴天も無く、3尺続く平地も無い)程の環境の悪劣が要因だが、江南も自然に恵まれた様な固定形象とは裏腹に貧寒の側面を抱えたのである。政治・経済・文化の諸分野で占有率や上位度が抜群の浙江を細見すれば、首府・杭州こそ文化的意味で今の上海が自ら冠した「東方明珠」(東洋の翠緑玉[中国語=「祖母緑」)の美称109)に該当するが、此の山紫水明の観光都市の陰には全省の「七山一水二分地」(7割が山で1割が水[河・湖]、2割が平地)の構造が有り、浙江人は其の不利な条件の克服の為に勉学に励むのだと告白している110)。
金の首領が宋への南侵を決意した一因は杭州の絶景への憧憬だと言われるが、隋煬帝の大運河建造や乾隆帝の南巡を促した揚州の魔力も物凄い111)。江沢民の「儒・商」因子は故郷の清代の商業・文化の繁栄にも由来したが、揚州が在る江蘇北部の人は20 世紀に共産党時代を含めて上海で長らく差別された112)。選りに選って江が上海市長に任命されたのは皮肉な事であるが、蘇北の出稼ぎ労働者が上海底辺の散髪屋・浴場等を支えた歴史から、東京の同じ業界に出稼ぎが多かった新潟の田中角栄の政界制覇を連想する。江の出自と総書記就任の資本たる「商都」上海での統治は、日・新等に次ぐ中国の飛躍の秘密の一端を窺わせる。周恩来も劉邦・項羽・韓信と同じ江蘇北部で生まれ育った事は、『史記』の世界と通底した中共の「窮→変→達」志向の徴と思える。佐藤栄作は常に兄・岸信介の陰に居る故に我慢を強いられ、孤独の故に裏返しの倣岸を見せた、と中曽根康弘は評した113)が、山口出身の辺境性や難病が付き纏った苦労とも無関係でない其の二面性は、指向性こそ違うものの其々周、江に於いて変形が見られた。
「粘着質、自己愛、確信犯114)」の屈折を持った小渕恵三と江沢民の間には、田中角栄と周恩来の場合に似た同類+天敵の関係も見て取れる。占領軍司令・マッカーサーに会いに行く時の昭和天皇は頻りに背伸びした115)が、物理的身長や政治的弱味は常に健気な頑張りを生み出す。周恩来の母校・天津南開中学から出た温家宝(周の43 年後輩に当る1960 年卒)の総理就任は、中共政権の超俗世「人縁」(人脈)の政治文化的血縁相関を思わせるが、温と小泉も政治家の血筋の有無の違いは別として妙な一対だ。故郷の天津と横須賀は倶に外圧に因る開国の歴史と関わった港で、横須賀が所在する神奈川の県民所得平均全国第5位も相対的に天津と対応する。小泉の「ファッショ独裁」や「ワイドショー政治」116)は張り子の虎の虚勢が多いが、温が就任会見で「穏健な調整型」の評に異論を呈し決断力を強調したのも強迫観念の表現だ。
背が低いながら余計に威厳を印象付けたナポレオンや小平の姿も思い浮かぶが、シンクロの世界で欧米人に見劣りする日本選手の悲哀と奮闘は東亜的宿命でもある。身長162 粍以下の選手に減点を課すアテネ五輪代表選考基準の重圧は、皮肉にも世界一の露西亜に肉迫する程の実力を日本に付けさせた117)。
田中角栄も学歴の劣等感を官僚操縦の心・技に転じさせたが、其でも昭和天皇に毛嫌いされた118)のは人類文化的断層を思わせる。金正日は銭其に拒絶反応を示し戴秉国に信頼を寄せていると言う119)が、朝鮮の領袖を選ぶスターリンの面接(1946 年)で露西亜語の出来る金日成が眼鏡に適った120)のと同様に、金の露極東生まれと戴の露西亜畑の経歴も含めて、文化的親近感も一因と考えられよう。中国の外相と「党外相」の出自や気質の相異も微妙に影響したとすれば、政治「人縁」や外交関係の等高線の重要性は再認識できる。貴州や同じ最貧地域の甘粛、土家族と同じ少数民族の蔵族が主体でGDP総額が全国最少の西蔵で仕事を長年した胡錦涛も、「大漢族主義」の拡大版の「大中華思想」121)で朝鮮を「二等国」として差別する事は無く、寧ろ国内の弱者扶助・共同富裕の路線を此処でも適用するだろう。中朝の今の相剋と共生は同類・同根の故の反撥と理解に他ならないが、究極の利益共同体たる運命共同体の絆には境遇の類似や感情の共鳴が有る。国際社会の孤児・朝鮮へ向ける目下の中国の目線と眼差しには、経験者の時間差付きの「同病相憐」(同病相憐れむ)と「兼済」意志が有る。
胡錦涛時代の外相・李肇星の故郷・山東は、GDP総額が全国3位で相対的に小泉首相の故郷・神奈川の全国4位に近いが、昔の山東は貧困の為に東北へ新天地を求める人が多く、東北の発展も山東人の後裔に負う処が多かった。華南の移民と其の子孫が新嘉坡の成長を支えた図式と重なるが、今日の「首富」・広東も20 世紀に経済難民が続出した。毛・時代の権力頂点の唯一の広東人・葉剣英も若い頃に、生計を立てるべく香港・新嘉坡・マレーシアに出稼ぎに行った。其の「闖南洋」(南洋進出)は中国に対する「小龍・小虎」の優位を裏付けたが、1920 年に16 歳で渡仏の途中立ち寄った新嘉坡に特殊な感情を抱いた小平122)は、清成祖時代の鄭和「下西洋」(1405 − 33 年に東南亜やアフリカ等へ渡った7回の遠洋航行)への礼讃123)を以て、国家・民族の「走出去」(世界進出)を肯定した。彼が清の衰退の要因とした自閉は昨今の朝鮮の鎖国と似通うが、国際的孤立から脱出する手本の対米接近の2番目の立役者が葉剣英であった。
当時の外交総帥・周恩来も蘇北→瀋陽→天津の移住を経て日本、西欧に留学したが、仏蘭西時代の仲間・も国際感覚を発揮し天安門事件後の中国の海外復権を導いた。中国はマレーシア首相の「亜細亜経済協議圏」提言に真っ先に同調したが、翌年の小平南巡で促された上海開発や中韓国交樹立の改革・開放加速も、「国際接軌」(国際社会と軌道を接続する)の一環である。国内の山東人「闖関東」(東北進出)も含めて中国人の「闖世界」(天下進出)は、常に「人往高処走」(人は高い処に行く)の法則に沿う。其の対の「水往低処流」(水は低い処に流れる)は利益の出入りと解せば、東亜共同体に対する日本の微温は頷ける。日本人移民後裔のペルー大統領・フジモリは1992 年の訪日で、日本の「熱くも冷たくもない」対応に些か失望した。「血は水より濃い」は東西共通の定理124)ではあるが、貧しい親戚・隣人に冷たいのも人情の裏原理の常だ。「無友不如己者」(自分より劣った人を友にはする無かれ)と言う孔子の教え125)は向上心の勧めと思えるが、大西部開発戦略に組み込まれた東南亜・南亜・中亜との提携126)と同じく、先発の諸「龍・虎」の土俵に上り強盛を実現させる可能性が、中国に意欲を湧かせる広域連結の魅力であろう。
地縁的にも政治的にも日・韓乃至東南亜と向き合う国内「第1、2世界」出身者の指導の下で、中国が東亜共同体の構想に意欲を示したのも、天意に適った人為と考えられる。小泉の「共に歩み、共に進む」と呼応する様に、同じ2002 年の中共党大会の合言葉は「与時倶進」(時と倶に進む)と言う。韓国政府首脳が最近同じ標語を使った事127)は東北亜の時流を映す同調だが、江→胡の体制交替も同じ頃の盧武鉉政権の誕生も、名実倶に新紀元に入った意義が有る。2年後の江沢民の完全禅譲は党・国史上空前の平和的移行だが、建国後50 年余り掛かった「和平演進」(平和的変容)128)の結果、4世代の指導部は波浪状の前進・螺旋状の上昇を演じた。様々な隔世遺伝的継承・発展の中で、「万変不離其宗」(千変万化でも根本から離れぬ)の枢軸が注目に値する。
国・共両党の同根性は中国歴史の「超安定構造」129)の産物であり、体制の交替や社会の激動を超えた其の不易は、中国的思考・行動様式の一貫性も要因と思われる。中国思想の基は『易経』の二元論・弁証法に他ならず、祖形は俗称「陰陽魚」の太極図に凝縮できる。黒と白が内包し合い胎児や雲に映る流体状の2半球は、東洋的奥深さを秘めた一種の「怪圏」(メビウスの環)を成す。内山完造が喝破した中国社会の「表門+裏門」の絡繰130)は、更に重層的・動的に回転扉と捉え得るが、孟子の「仁者人也」(仁とは人也)や孔子の「政者正也」(政とは正也)131)の「諧音」(語呂合わせ)命題に倣えば、其の枢理は中国語で同じli と読む「理」・「礼」・「力」・「利」に尽きよう。
此の4要諦は漢字の多義、漢語的思考の重層に因り、色々な含みや側面を持ち合わせる。例えば、「理」は道理・論理と原理・観念形態、「礼」は礼義・倫理と秩序・規矩、「力」は能力・生産力と実力・威力、「利」は利益・効率と利害・利欲、等の意を兼ねる。各々には形而上と形而下、高邁と卑近、理想と現実、硬と軟の対が有り、互いに表裏一体と成る。或る要諦は他の要諦と様々な関連を有し、柔軟な複合や流動的転換も可能である。全体図に於いて近隣同士は相互内包・補完の組み合わせと成り、反対側の同様の組み合わせと対立・統一の関係を成すが、両要諦や両半球の上下、高低、表裏、顕隠は変化し得る132)。
『産経新聞』香港、モスクワ、台北支局長を歴任した岡田充は、『中国と台湾 対立と共存の両岸関係』(2003 年)の中で、市場経済へ無防備に移行し政治論争・観念形態対立が続いた「新生露西亜」の混迷と、台・中の亜細亜的問題処理法との差を指摘した。後者は要するに、「政治的な原則を掲げながらも、経済を重視し実態を優先する中から“共通利益”を見出す方法である。時には非論理的であり超法規的な世界でもある。キリスト教やイスラム教など一神論に固有な“神か悪魔か”“正義か邪か”の二元論には無い融通無碍な世界であり、これは日図6 太極図図7 中国政治文化4要諦の概念図出所=王玉徳等著『中華神秘文化』、湖南出版社、1993 年、29 頁初出=夏剛「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(2)」(註132 参照)本社会をも貫いている133)。」北亜に跨る露西亜や西亜にも在るイスラム圏と峻別するなら、此の虚実皮膜は「東亜的」の名が相応しい。
田原総一郎の『「円」を操った男たち 政財官マネー人脈の暗闘』(1987 年)には、其の根拠を成す次の記述が有る。「我々日本人の強靭さ、恐るべき柔軟性、強かさについて、かつて元通産次官の両角良彦が“哲学がないのが日本人の最大の強味”だと指摘した。/“タテマエは只のタテマエで、本音は、要するに得か損かの判断しか無い。そして得に成る事はトコトンやる。損に成る事は絶対にしない。なまじっか哲学、理念が無い為にそれが徹底できるわけですよ”/また、両角の後輩に当る通産官僚は、“戦後、日本人の唯一の拠り所と成ったのは民主主義ではなく、効率主義だ”と言い切った134)。」「唯物主義」に因んで「唯利主義」と名付けられようが、其の路線と感覚は昨今の中国や古来の中国人にも既視感が有る。
中国人の究極の行動原理は利害を天秤に掛けて決断する事であり、ニクソンも悟った「両害相衡取其軽」(二つの害を量り其の軽い方を取る135))は、「権衡」の語義・字面に現れる中国政治文化の実用理性の真髄なのだ。抗日戦争勝利の翌年に各党派代表・識者から成る中国政治協商会議は、和平建国綱領を採択し国民政府改組、憲法改正、国民大会招集を決定する等、国是諮問機関として重要な役割を発揮した。共産党政権の参議院相当の中国人民政治協商会議も其の名を敷延したが、東亜共同体を巡る協議も利害「衡量」(均衡を慮る判断)に基づく「商量」(相談)でしか無い。
「不拘一格」(格式張らぬ。1つの枠に拘らぬ)の自在は、「文革」の不条理の中の条理に端的に見られた。政争に満ちた造反の「理」が突出する反面、党大会の中央委員会・政治局当選名簿では活字の寸法の違いに由って上下の順位を示したり、毛沢東が古参の元帥・高官を議長席最前列の半分に座らせたりして、首長・元老を尊ぶ礼は必ずしも廃れ切れななった。或いは、林彪の毛沢東支持の陰の打算や「文革は収穫が最大最大で損失が最小最小」の勘定も利・欲を窺せる。亜細安創設の1967 年8月8日は恰度「文革」開始1周年に当り、中国は毛が“all −round civil war”(全面内戦)で表現した武闘136)に陥り、「小龍・小虎」に決定的遅れを取り始めたが、其の頃の毛は「副統帥」・林の野望と健康に懸念を抱き、代打者として「資本主義の道を歩む実権派」・小平の再登板を秘かに考えた137)。林彪事件後のの復活は党・国の中興の序曲と成ったが、左様な「対衝」は中国・東洋の伝統的智術なのである。
2人の改革派総書記を解任し民主化運動を腕力で弾圧したが、経済成長を第一義的に重視する姿勢は変らなかった。現実に足を据え且つ未来を見据える両掛け、立場・主座を堅持しつつ歴史・他者と向き合う複眼は、中共建国後4世代の指導部の共通流儀である。冷戦後の秩序再建期の1992 年、独逸・瑞典首相等の“global governance”(地球規模の統治)提言が契機で、政治・経済の統治理論が俄然注目を浴びた。「文革」終結(’76 年)後の20 年間の中国の「人治→法治→徳治」の帰趨は、国際基準への後追いと新世紀理念への先取りに思える。古英語のgovernance(統治、管理、支配)に対応する中国語の「治理」は、4要諦を統治手法と化す妙味が有る。
4世代の治世の力点を其の鍵言葉で表わせば、毛沢東の「理治+力治」、 小平の「力治+利治」、江沢民の「利治+礼治」、胡錦涛の「礼治+理治」が思い当る。何れも前者が主を成す2項は時や場合に因り、其々清濁の両面を含み或いは互いに王道・覇道の対を成すが、上記図式では理路整然たる「順時針」(時計廻り)の継承・止揚を見せた138)。今の副次的「理治」は建国当初の基座と重なる様だが、胡は政治基盤だった共産主義青年団の観念性を稀薄化した。
現政権の合言葉の「執政為民」(民の為に執政する)は、毛の「為人民服務」(人民に奉仕する)の原点に戻ったが、「親民」路線の本質は江政権の「徳治」を敷延した「礼治」に他ならない。
武功→文治の漸進が到頭実現したのも、先代の遺伝子を部分的に改良した進化の結果である。
司馬遼太郎は亜細亜専制主義と訣別した功績を理由に、朴正煕と李登輝を特別に優れた指導者として讃えた139)。江沢民の直近の禅譲も個人的資質はともかく特筆すべき偉業だが、此の3方は共通の発想体系の枠内に在る。1883 年に朝鮮王朝が国旗の意匠と定め韓国が継承した八卦太極図は、中国発の「東北亜中心観念」と言って能かろう。「李」は中国の超「大姓」(使用人口の多い姓)、古代高麗王朝の名、新嘉坡の初代・現首相父子の姓として、台湾海峡両岸と朝鮮半島、大中華圏の人・文化の縁を感じさせる。「台湾人の心情、日本人の発想、欧米の価値観を持ち、中国的社会・文化背景の中で生きる」と言う140)李登輝の複雑系は、其の姓と同音の4要諦の多面政治の本質を窺わせる。
改革・開放を巡る「姓“社”姓“資”」(姓[性質]は「社」[社会主義]か「資」[資本主義]か)の論争の中で、 小平は1992 年南巡中に上海の電子産業視察で輸入機械を指差して言っ図8 中共政権4世代指導者の統治流儀の力点推移の概念図初出=夏剛「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変”(時計廻り的移行)―理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論」(註138 参照)た。「此の設備は資本主義国家で作られたので元は姓が“資”だが、今は社会主義の為に働いているから姓は“社”に成る。“資”は“社”に転化し得るし、“社”も“資”に転化できる141)。」訪ソのニクソン対フルシチョフの「厨房論争」(’59 年)を連想させる名台詞だが、「白い猫でも黒い猫でも、鼠の獲れる猫が好い猫だ」とする彼の実用主義は、戦後日本の原理無き効率至上主義・「唯利」路線と同工異曲である。中国の資本主義的社会主義と日本の社会主義的資本主義は好一対だが、同じ「黒猫・白猫」相互内包の東亜的独裁開発・専制成長は、日本的「中空・頂空」(中心・頂点の空虚)と違う「中控・頂控」(中心・頂点の「控制」[制御])の構造142)を持つ。 
7.欲望や「龍虎闘」143)を抑える「鳥籠経済・鳥籠政治」の東亜的普遍性
蒋経国が38 年も続いた台湾全土戒厳を解除した翌々年、中共建国後初の戒厳令が西蔵と北京で相継いで発動された。「政治風波」への武力鎮圧は時代への逆行として域外の指弾を受けたが、韓・台を追って民主化へ向う雁行型進化の一環と見做せば、感情的・道徳的断罪を超える勘定・是非の判断も色々出来よう。李光耀は韓国やイスラエル、南ア等の殺傷回避型鎮圧の日常化を例に、戦車出動・集団発砲の異常を指摘した。彼は天安門事件を中国史上の「匪夷所思」(摩訶不思議)の一章と捉え144)つつも、其の「匪夷」(非正常。「匪」=非、「夷」=易[通常])を「匪・夷」の蛮行145)として譴責しなかった。同じ「華族社群」(華人種族)の香港や台湾より弱い新嘉坡の民衆の反撥を、彼は共産中国との政治的関係の遠近に因る反応と観た146)が、彼一流の大局的歴史観は此処でも光っている。
李光耀は天安門事件に於ける小平の功罪に就いて、過激な処理でなければ死後もっと西側に賞賛されたはずだと言う遺憾より、百年動乱の芽を摘み取って置く決意への理解の方に傾く。
147)彼は20 世紀世界史の摩訶不思議の一頁――ソ連解体と較べて、改革・開放との巨大で希望に満ちた遺産に因り、中国は数十年の明るい展望が出来たと観ている148)。李は1990 年の訪ソでゴルバチョフのお人好しと書斎派に呆れ、賢明なの経済再建優先と逆の政治改革先行は大間違いだと思った149)。彼は「改革・透明」の旗を掲げた鳩派総書記の無邪気・無策に憐憫を抱き、1996 年大統領選挙で得票1%未満の末路を「民衆に唾棄された」と斬った150)。中国官民の見地との接近は新・中の遠くて近い関係に符合するが、趙紫陽と小平が倶に共鳴した「新権威主義」の「強人政治」151)は他ならぬ李光耀流統治の真髄だ。
天安門事件は約30 年の日中発展時差の座標系に入れて観れば、1960 年の同じ6月4日に労働組合等560 万人が参加した安保闘争と重なる。自民党が国会で新日米安保条約を単独で可決したのは北京戒厳令発布と同じ5月20 日の事だが、6月15 日の改正阻止第2次実力行使(580万人参加)に見た別の暗合は、全学連主流派が国会に突入し警官隊との激突で東大生が虐殺された事だ。閣議で通産相・池田勇人等が自衛隊の出動を強く主張したが、防衛庁長官の抵抗と岸首相の躊躇に因って、同年4月韓国の打倒李承晩市民革命の際の首都戒厳や29 年後の北京の「血の日曜日」は回避された152)。中曽根康弘は「総理の一念は“一種の狂気”」の比喩で指導者の決断の真剣さを形容した153)が、真剣(実弾)を使うか否かの「一念之差」(一念の違い)で、両国は其の歴史の転換点で明暗が分れた。
2000 年五輪開催の競争で北京が僅差でシドニーに敗れた事(1993 年)は、武力鎮圧に対する世界の不快・不信の結果とも取れる。但し、6.4惨事に衝撃を受けた末に大陸から遠ざかった司馬遼太郎も、敗戦直前に戦車部隊と共に首都防衛の為に北上する際、民衆が道を塞がった場合の対応を大本営から来た上官に訊くと、普段温厚な相手は即座に「轢っ殺して置け」と答えた。同胞への非情を悲しんだ彼は後に自分の考えが間違った事に気付き、軍隊は本質・機能として具体的自国民を守る物ではなく、守る対象は抽象的国家或いは基督教の為といったより崇高な目的だ、と書いた154)。批判を込めた論断だとしても国家機器の冷徹さを客観的に捉えており、現に米国も9.11 の非常事態で問答無用の民間機撃墜を決意したし、独逸でも国家の手で市民の命を奪う違憲の懸念が大統領から提起されたにも拘らず、乗っ取り機の撃墜を認める「空の安全保障法」が発効した(2005 年1月15 日)。
「文革」も顔負けのポル・ポト政権の大虐殺等を含めて、冷戦時代の悲劇は東亜の国・地域の内外に感情の溝を遺して来た。国際謀略説が絡んだソ連極東空軍の大韓航空機撃墜(1983 年)も想起されるが、「北極熊」の「熊気」(野蛮・愚直)と東亜的「虎気」(勇猛・非情)の結合に注目したい。李光耀は趙紫陽が忽ち無名の人に成った結末をソ連式とした155)が、 小平・蒋経国が同時(’26 年)ソ連に留学した事も中ソ、国共の同根を思わせる。胡錦涛時代に成っても趙が外賓と会えない状態が続いているのは、蒋介石が張学良を数十年も軟禁した事と一部だぶる。「放虎帰山」(虎を山に帰す。危険人物を野放しにする)の懸念に因る無力化は、自らの性格の主な部分とした毛沢東の「虎気」が東亜で普遍的に強い事の裏返しでもあるが、趙は張と同工異曲で自ら「鳥籠」に嵌まった節も否めない。張は東北人の義侠心から贖罪の同行を決意し蒋の罠に引っ掛かったが、転向を最後まで拒絶した趙の抵抗も愚直な河南人らしい。
胡耀邦失脚の「宮廷政変」(1987.1.16)の17 年後の2005 年1月17 日、彼は天安門事件の際の小平と同じ85 歳で失意の内に他界した。張の存命中の完全自由の実現と比べるまでもなく、江沢民が唱えた「政治文明」の落後の現状や歴史的汚点を許した中共の限界が露呈した。
趙は命の果てに現政権も含む党の無原則を嘆いたと言われる156)が、戦後日本の「唯利」路線との暗合は存在の合理性も有ろう。
中共「経済戦線」の大御所・陳雲は1982 年に「鳥籠経済」の名で、経済に一定の規制と適切な自由を与えよう唱した。其の計画経済と市場経済の結合に由り国家と市場は緩やかな連結体と成ったが、改革・開放期の国の意志と民の欲望に対する調整・制御は「鳥籠政治」とも呼べる。小平の「放」(政治的開放、経済成長の加速)+「収」(引き締め)の二刀流、趙紫陽が共感した「新権威主義」は、倶に「政」の「正+攵」の字形通り鞭を半分使う。瑞西建築家と中国建築設計院が合同設計した北京五輪主会場の「鳥のす」構造は、「奇を衒い過ぎ」「景観破壊」の批判を浴びながら謀らずも中国社会の縮図なり得るが、9.11 襲撃で倒壊した世界貿易中心ビルの脆弱な鳥籠構造と違う中国的強靭さが朱色に表出される。天安門事件の際に小平の言として流れた「20 万人の犠牲で20 年の安定と引き換える」は、後に香港筋の報道では王岐山が言い出し上層部が共鳴したとされた。157)海南省から首都への緊急異動後SARS退治で辣腕を揮った王は、北京市長として次回五輪開催を仕切る事に成るが、噂の真相はともかく2008 年まで正に約20 年の安定が保ちそうだ。
一部の人命よりも国の長期的安定を取る極論への反撥は、西側の価値観と異なる中国的現実主義を映して徐々に弱まった。社会動乱や国家解体の回避、生活向上の果実は、欠乏欲求の達成に精一杯の群衆には其ほど有り難かった。建国後初の戒厳令(1989.3.8)を西蔵で発動した胡錦涛が新世紀初頭の領袖に成った事は、乱→治の因果や必要からすれば自然な帰着とも言える。中国発の破天荒の怪病と戦う「硝煙無き戦争」で身を挺した彼の気概は、戒厳軍と共に拉薩の街頭に出た面影と通じる。其の年の「平定暴乱」の是非・得失は、上海市長・朱鎔基の6.4談話の通り何れ歴史が裁決するのだが、 小平が其の一昔(10 年前)に決意した超法規的作戦と併せ観よう。李光耀は其の国際的評価が芳しくない対越南懲罰に感謝し、遣ってくれねば越南は東南亜の普魯西に成っていたと述べた158)。
ニクソンは『指導者とは』(1982年)の中で、偉大な指導者の3条件として偉大な人物・偉大な国家・偉大な機会を挙げた159)。彼が最も高く評価した東亜の指導者は周恩来と吉田茂だ160)が、もう1人「小舞台の大俳優」として特筆したのが李光耀だ。同じ弁護士出身の濠首相・メンジースと同様に広い世界観・大局的判断力を持ち、倶に元英殖民地の小国を率いながら、時代や舞台が変ればチャーチル並みの功績を遺し得る、と言った絶賛ぶりである161)。大統領就任(’69 年)直後に世界一周の調査の出た財務長官は、新嘉坡は世界で最も好く治まっていると報告した162)ので、規模や実力で他国を見下しがちの米国指導者163)も刮目して看たわけだ。彼は李の精力や大きな天地を求める意欲を「檻の中の獅子」で形容した164)が、獅子が象徴物なる其の国の大成は正に「鳥籠」めく「獅子檻」統治に依る。
新嘉坡で車に落書きした15 歳の米国少年が鞭刑に処され、米国輿論の抗議とクリントン大統領の嘆願でも僅か6回から4回に減免した。1993 年の其の「文明の衝突」で亜細亜的法治は野蛮の印象を与えたが、松下幸之助が頷けた「教」の「孝+攵」の字形の寓意は、其の鞭に由る究極の青少年教育で忠実に体現された。中国の諺は「棒打出孝子」(棍棒の敲きから孝行息子が出る)と言うが、毛沢東は死の4ヶ月前に最後の外賓の1人として李光耀と会う直前に、天安門広場の大衆反「文革」示威を棍棒で敲き潰す事に同意した。第2次天安門事件の発砲は彼の「槍桿子里出政権」(銃から政権が生まれる)説を実践したが、孔子も礼制を破り天子の尊厳を犯した非礼を、「是可忍也、孰不可忍也?」(是も堪忍できるなら、堪忍できぬ事はもう無かろう)と咎めた165)。東洋一の法治国家・新嘉坡の厳罰主義と鞭刑は皮肉にも、英・日殖民地時代の恐怖統治の遺伝子を持つ166)。「安楽椅子よりも狩猟用の携帯銃座に坐る」、「新嘉坡は鋼鉄製の銃座以外に何物も待たぬ」と言う、李の国民教育の論断はニクソンに強い印象を与えた167)が、毛の「槍桿子里出政権」と小平の「鋼鉄公司」168)とも通じる。
ニクソン訪中の際の連合赤軍籠城浅間山荘攻略等の実績で、1986 年内閣官房安全保障室初代室長に就任した佐々淳行は、東大安田講堂落城(’69 年)を指揮した成功の一因として、香港出向中に見た英国当局の「文革」派暴動への果敢な平定の示唆を挙げたが、彼も言った通り「殺鶏嚇猴」(鶏を殺して猿を嚇かす)の手法169)は他ならぬ中国流だ。棍棒に由る準武力鎮圧を辞さなかった当時の日本と香港、スハルトの要請を拒絶してインドネシア人犯罪者を処刑した(’68 年)新嘉坡170)、文字獄を長らく断行した台湾海峡両岸171)、光州事件(’80 年)で後の天安門事件に勝つとも劣らぬ冷血を見せた韓国172)、権力維持の為に数十万人単位の反対勢力抹殺やテレビ中継の中の政敵殺害を憚らなかったインドネシア(’65 年)と比律賓(’83 年)173)、此等の「龍・虎」の高成長は形態や程度の差こそ有れ開発独裁か硬性管理の性質を帯びた。
「政治文明」の理想に距離が有るとして胡錦涛政権に失望する向きも有るが、言論統制の傾向は亜細安で今も猶残っている。
陳雲は治安強化・党紀粛正の方策として極刑に由る「殺一(警)百」を力説した174)が、日本流の「一懲百戒」より殺気が立つ此の成語は、中国の支配者の「大開殺戒」(大いに殺人の戒律を破る)の背景を覗かせた。体制の強硬な制御と儒教の柔和な誘導は同工異曲の鳥籠の様に、何れも「鳥」の欲・力と正比例に用意される物だ。政治改革の本格的起点が建党百周年の2021 年頃に設定された175)のは、高度成長の達成を意識の現代化の保障とする処が歴史的唯物主義らしいが、其の前の5.4運動百周年と建国70 周年(’19 年)と合わせて、観念と現実の相互改造や構造更新に数世代が要る法則に合う。反封建・反帝国主義の5.4運動が近代史の起点と成り、其の70 周年記念行事の趙紫陽演説が民主化運動に点火し、平和的台頭への移行で最大の陣痛を起したのも、黙示録的教示を含んでいる。
中国の「4つの現代化」の目標は建国10 周年の頃に提起され、建国15 周年の直後に正式に掲げられたが、孔子の人生の最初の節目も「十有五而志於学」(十五にして学に志す)だ。次の「三十而立、四十而不惑、五十而知天命」(三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る)は、其々建国30、40、50 周年の改革・開放起動、天安門事件、澳門返還に暗合する。終戦を新生の起点に日本や東亜全体に当て嵌めれば、1960、75、85、95 年に様々相応の事象が思い当る。東亜首脳会議の2005 年発足は其の干支一巡の再出発に当るが、本卦返りの還暦が「耳順」の年である事も興味深い。情理に適う言葉を素直に聞き入れる謙虚さは、儒家の教祖に人格修練の終点の一歩前と規定されたが、終戦60 周年の直前に域内の一部が互いに聴く耳を持たぬ状況は、警句の「行百里者半九十」(百里を行く者は九十里を半ばとす)の通りだ。
最後の「七十而従心所欲不逾矩」(七十にして心の欲す所に従い矩を逾えず)は、言わば自ら「鳥籠」を設定し適度の自由を楽しむ境地である。90 歳(1994 年)頃の小平の政治的名人芸は長男・朴方に「炉火純青」と形容された176)が、火の最高の燃焼が赤ならぬ青で現れるのは「淡化」(稀薄化)の逆説だ。耳順の「心平気和」(心が平穏で気分が和む)は其の器量・涵養の前提と成るが、改革・開放の成功も賢明な指導者の耳順の賜物が多い。反亜細安のマレーシア・インドネシア共産党への支持の弊害を指摘された小平は、私にどうして欲しいですかと李光耀に訊き相手を驚かせた。後に華南での両党のマレー語地下放送の閉鎖に繋がった其の反応は、李の述懐通り共産党領袖にしては驚天動地の事なのだ177)。日朝首脳が還暦の直後に対話の席に着いた事が示す様に、虚心坦懐の対話が東亜融合の第一歩である。
1946 年生まれの盧武鉉を始め戦後世代の指導者が今の東亜に多く、中でも東南亜の最富・最貧国の首領の等高線が目を引く。李光耀の長男・李顕龍は2004 年に52 歳で新嘉坡第3代首相に就任し、同年にカンボジアのシハモニ(51 歳)は李光耀と同じ81 歳の父・シアヌクから王位を継いだ。陳水扁(1951 − )も属する朝鮮戦争世代が「東亜共同体元年」178)に登場か再登板したのは、前年のマハティール(77 歳)が22 年務めた首相を63 歳の副首相に譲った事のと共に、大戦・冷戦時代の烙印の稀薄化を促す時流が感じ取れる。50 代でも精神的成熟に因り耳順の次元に達し得る一例は、 小平訪新の翌々年(1980 年)に54 歳の江沢民が新嘉坡で行なった考察だ。国家輸出入管理委員会・外国投資管理委員会次官だった彼は、経済開発庁の幹部に高度成長の秘密を執拗に訊ね、最後に「商業環境風険」(事業環境リスク)指標の説明と「政治的信用+経済の生産力」の方程式に納得した。179)country risk(国家投資風険)の重みに目覚めた開眼とも思われるが、其処で悟った「信用を売る特技」の実践の成敗はともかく、実績を真理の唯一の判断基準とし大国の矜持を捨てる姿勢は成長に繋がる。江が新嘉坡で先進国の啓蒙を受けた事は、其の国の「鳥籠統治」の成功を考えれば意味深長である。昨今の中国の社会主義の体制+資本主義的流儀を最強の複合と視る向きが多いが、秩序維持の為に自由・欲望を適宜に抑制する新嘉坡が手本の一部のはずだ。
新嘉坡も「姦淫」(日本の殖民支配)や「離縁」(マレーシアからの分離)の経験で、血縁関係の濃厚な中国と同質の複雑で成熟した智慧を増した様に思う。李光耀は新嘉坡の基盤建設に対する華南の出稼ぎ移民の寄与を強調した180)が、新・中の凄まじい飛躍や其を保障する必要悪の断行の根底には、中国的「一労永逸」(一度の苦労で永久の安逸を享受する)の貪欲・忍耐が多々有ろう。
東亜の奇跡は専制と欲求・均衡感覚の結合に負う処が大きく、家長制的牽引と我武者羅な疾走で生産・財富の拡大を追う内に、自ずと繁栄・平和に転化する様な雁行型形態も見られた。
発展を「硬道理」(絶対的真理)とした小平の論断の通り、東亜は成長を至上命題に矛盾を承知で猛進し続ける傾向が有る。日本の泡沫経済崩壊や東亜の通貨危機は傾斜の代償とも思えるが、一時的頓挫が生じても生存に響かぬ程の蓄積や再生産力が出来ていた。韓国が1998 年金融危機の際に投入した公的資金はGDPの3割、国家予算の1.5倍に当り、日本の同GDP2%と比べて大変さを強調する向きも有る181)が、程度の差こそ有れ孟子の「有恒産者有恒心」(恒産有る者は恒心有り)の定理の通り、両国が必死に作った資本が全滅を防ぐ安全装置として働いたわけだ。
孫文は逝去の前年(1924 年)の訪日中の講演『大亜細亜主義』で、亜細亜の伝統は欧米の覇道と対照的な王道文化だとし、日本は王道を歩み亜細亜の干城と成るか覇道に走り西洋の番犬に成るかと問い掛けた。其の声は80 年後の米英聯軍イラク侵攻の際に甦って来たが、盾・城から護衛者に転義した「干城」は、出典の『詩経』第1篇「周南」の「赳赳武夫、公候干城」(赳赳たる武夫、公候の干城)の通り、武装で自ら固める強硬な意志を含む。「赳赳武夫」は奇しくも田中角栄後の2首相――三木武夫、福田赳夫の名を内包するが、蒋介石が長男の幼時教育に使った『詩経』182)は日本で馴染みが薄いものの、2人の生まれた1907、05 年と日本の軍国主義化の起点との吻合を考えれば時代精神を感じる。覇権軍国を目指す「猛牛」183)日本は「泥牛入海」(泥の牛が海に入る。行った限りで消息が無い)の破目と成った184)が、戦後日本の「経済動物」化を始め東亜諸「龍・虎」は仁義無き抗争を繰り拡げ、言わば覇道を経て王道へ辿り着いた例が多い。東亜共同体の結成も相思相愛の成り行きや綺麗事の理念先行は無理で、利害衝突の中で共栄の妥協点を探る「先結婚、後恋愛」(先ず結婚し、後で恋愛する)方式が現実的だ。
東亜は人本主義の伝統から否応無しに人治の色彩が濃厚だ185)が、指導者の鶴の一声は好い結果をもたらす場合も有る。日中・日朝の関係正常化は倶に独断型首脳同士が実現させ、毛・田中と金・小泉の失政は此の歴史的功績を損ねるまい。東亜共同体の形成でも各方面の国家意志は逆風と順風の両方に成り得、互恵の利得が明確に認識された場合には「自上而下」(トップ・ダウン)の速決の機会も多い。利害の不一致に因る平行線状態も長い眼で観れば、何れ均衡・収斂の末に「雁行」の帰着で交合するだろう。孔子は国家維持の3要素を順次に捨てざるを得ないなら先ず武装、次に食糧で、信用は「民無信不立」(民、信無くば立たず)故に最後まで遺す、と言った186)が、欲求階層で上に行くほど下方の価値が逓減すると言うマズロー説に合致する。其と表裏一体の孔子の「庶→富→教」は「威→信」の化合式であり、信が出来た後に威は主役から裏付けへと後退するわけだ。天安門事件の際に喫緊の安保の為に劇薬を投入した中国も、其の後は内外で信認確立の為に低次的利益の犠牲を惜しむに至った。
食糧・武装の強化で強盛を図る朝鮮も最終的に王道を望むはずだが、米国の兵糧攻めは窮鼠と化させ元も子も無くなる恐れが強い。金正日は2000 年南北首脳会談直前の秘密訪中で天安門と聯想集団を参観したが、政治強権と経済飛躍の象徴の対から中・朝双方の「鳥籠」志向が窺える。政府系研究機関・中国科学院の研究者が1984 年に起業し、中国パソコン企業の最大手に成長した聯想集団は、2004 年末に「小吃大」(小が大を食う)手法で米国IBMのパソコン部門を買収し、一躍に富士通、東芝・NEC等を跳び越して亜細亜最大、世界3位と成った後、ブランド力を高める為に米国人を最高経営責任者(CEO)に迎えたが、朝鮮の経済特区長官の外国人起用も似た路線である。ニクソンがドゴールの言を借りて指導者の資質に挙げた超道徳的権謀と誠実の使い分け187)も、正当な目標の為に手段に拘らぬ柔軟性である。米国が其の二重基準を実践した一例として、天安門事件の直後に大統領密使を派遣し小平と意思を疎通した188)。本格的制裁に加わらぬ日・仏・新と違う道を辿りつつ、中国の平和的変容を促し東亜の漸進的前進に寄与した。 

1)ソ連経済学者・コンドラチェフが1925 年に提起した世界経済長期循環の周期は、45 − 70 年と幅が有り一般的に50 ― 60 年とされる。19 世紀以来の数回の山と谷の時期は諸説が微妙に違うが、文中の規定は多くの文献に拠る。
2)ロジャースの中国に対する楽観論は、“Investment Biker”(1994 年。日本語版=林康史・林則行訳『大投資家ジム・ロジャーズ世界を行く』、日本経済新聞社、1995 年)以来一貫しており、米ドル悲観論は2003 年以降、日・中を含めて世界各地で力説し続けて来た。
3)『週刊東洋経済』2004 年1月31 日号特集(30 − 45 頁)の題・「20 年ぶりの大相場 鉄、金、小麦……国際商品高騰の裏に 中国“爆食”」。
4)「世界の工場」と対を成す「世界の事務所」は初出が不詳であるが、英語力とIT 時代の通信の利便を武器に米国企業の事務処理を請け負う印度の驚異的市場占有を言い得て妙だ。
5)『日本経済新聞』2004 年11 月30 日。
6)台湾の新聞・雑誌・書籍で度重ねて報じられて来た公然の秘密。岡田充『中国と台湾 対立と共存の両岸関係』(講談社現代新書、2003 年)に詳述有り(113 − 117 頁)。
7)中共政権初代軽工業相・黄炎培(野党所属)から「支援軍」の政府色の危険を指摘されて、毛沢東は同音の「志願軍チュイン」に修正した。越南戦場で使った「中国後勤部隊」の名称は命名の経緯が不詳だが、范碩『葉剣英在非常時期 1966 − 1976』(華文出版社、2002 年)等に出ている。
8)朱建栄著『中国 第三の革命』(中公新書、1997 年)に拠れば、当時ネット上で少なからぬ中国人から不満が書き込まれ、我々は何の為に戦ったのかと言う声も出た。(196 頁)
9)銭其は『外交十記』(世界知識出版社、2003 年)の中で、金日成に中韓国交樹立を通告する気の重い旅を回顧した。説明を聞いた金が最小限の理解しか示さず、其の一行に破天荒の宴会抜きの冷遇を施した事(157− 159 頁)に、朝鮮の立腹ぶりが窺われる。猶、上村幸治の「胡錦涛が差し向けた2人の‘密使’ 金正日追放 中国がついに下す」に拠れば、当時朝鮮側関係者から一行に向けて灰皿が飛んだ。(講談社『現代』2003 年10 月号、39 頁)因みに、司馬遼太郎の次の言と照らし合わせば、其の激憤は一層実感できる。「あんな時代は日本ではない。/と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。」(『この国のかたち』第4回「“統帥権”の無限性」、『文芸春秋』1986 年6月号)
10)江沢民は第16 回党大会(2002 年)で、人民に対する空前の「実恵」提供を執政13 年の大きな実績として宣揚した。
11)魯迅詩『題三義塔』(1933 年)。日本語訳=高田淳(高田淳『魯迅詩話』、中公新書、1971 年、178頁)
12)渡邊恒雄『渡邊恒雄回顧録』、中央公論社、2000 年、155 頁。立花隆は『「田中真紀子」研究』(文芸春秋、2002 年)で、此を引用し賛成した(50 頁)。
13)ニクソンは『指導者とは』(1982 年)の終章「指導者の資格に就いて」で、「邪悪」も含む泥臭い人間性を次の論断で肯定した。「陰険、虚栄、権謀術数などは一般的に悪とされるが、指導者にはそれは無くては成らない。或る種の陰険さが無ければ、互いに対立する派閥を纏めて行くという政治に不可欠な仕事は出来ない。或る程度の虚栄心が無ければ、国民に自己の地位を正しく印象付ける事は出来ない。そして権謀術数を用いなければ、大事に当って目的を達成できない場合が多いのである。」(日本語版[徳岡孝夫訳、文芸春秋、1986 年]365 頁)猶、『領袖們』と題した中国語版の中国に於ける共鳴の一例は、元護衛長・李銀橋が披露した毛沢東の人間像―『走下神壇的毛沢東』(権延赤、中外文化出版公司、1989 年)の引用(20 −21 頁)だ。
14)佐野眞一『凡宰伝』、文芸春秋、2001 年、236 頁。
15)銭其『外交十記』第8章(243 − 288 頁)の題。
16)プリンストン大学教授・歴史学者の余英時は、西方に対する近代中国人の感情を「羨憎情結」と表現した。(安『中国民族站起来了?―政治転型期的民族主義遡源』、香港夏菲爾出版有限公司、2002 年、25 頁)
17)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、新加坡連合早報出版、2000 年、668 頁。此の書物は日本語訳も有る(小牧利寿訳、日本経済新聞社、2000 年)が、本稿で中国語版に依拠した理由は2つ有る。第一は訳者が断った(573 頁)通り、日本の読者に解り易い様に改編が施された事だ。又、「匪夷所思」(註145 参照)の類いの中国語の妙味が出ない故である。
18)西太后や蒋介石が内外の異族や異端への不信を表わす言葉として、「非我種族、其心必異」が伝えられた。
19)小稲義男等編『新英和中辞典』第5版(研究社、1985 年)の語釈。
20)黄文歓『滄海一粟 黄文歓革命回憶録』(解放軍文芸出版社、1987 年)265 頁等。朱建栄『毛沢東のベトナム戦争 中国外交の大転換と文化大革命の起源』(東京大学出版会、2001 年)19 頁拠り。
21)日本では此の竹中見解に対して、批判の声も上がっている(須田慎一郎『巨大銀行沈没 みずほ失敗の真相』、新潮社、2003 年、218 − 219 頁)。
22)NHK「街道をゆく」プロジェクト『司馬遼太郎の風景C 長州路・肥薩のみち/本郷界隈』、日本放送出版協会、1998 年、43 − 44 頁。
23)毛沢東の訪ソでスターリンが故意に長らく会見しなかったのは、毛の立腹と共に有名な話である。金日成が国際首脳会議で椅子を用意されなかった云々は、日本の月刊誌論文で未確認情報として引かれた風説だが、真偽はともかく小国の悲哀は頷ける。
24)第3回党大会(1956 年)で専制体制を敷いた金日成は、中国国防相・彭徳懐とソ連外相・ミコヤンの勧告も聴かず、1957 − 58 年に指導部内の「延安派」と「ソ連派」を粛清した。(金学俊著、李英訳『北朝鮮五十年史 [金日成王朝]の夢と現実』、朝日新聞社、1997 年[原典= 1995 年]、209 − 211、213 − 219 頁)
25)小平は日本外相・園田直との会談(1978 年8月10 日)で其の憤懣を披露した(石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光編『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』、岩波書店、2003 年、187 頁)。権延赤・杜衛東著『共和国密使』(光明日報出版社、1990 年)でも、1966年末の話として越南軍が「伝統教育」で古代中国の侵略を取り上げ、中国の支援部隊に不安・不満を覚えさせた事例が有る(245 頁)。
26)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、670 頁。
27)周恩来は秘密訪中のキッシンジャーとの1回目の会談(1971 年7月9日)で、越南人民を「偉大で英雄的で賞讃に値する人民」とした上で斯く述べた。「二千年前に中国は彼等を侵略しましたが、2人の女性将軍によって敗退させられました。私が新中国の代表として北越を訪れた時に、此の2人の墓に詣でて、搾取する側の我々の先祖を撃破した女性英雄に敬意を払い、花輪を捧げました。」(ニクソン大統領文書プロジェクト・国家安全保障会議ファイル編纂[2002 年]、毛利和子・増田弘監訳『周恩来 キッシンジャー機密会談録』、岩波書店、2004 年、19 頁)
28)光武帝の命を受けた太守・蘇定が原住民部落の首領を殺害し、馬援は暴動を起した未亡人姉妹の征索・征弐の命を落とした。周恩来は訪越中に2人の記念碑に献花し、毛沢東も「文革」初めに駐外大使等との懇談で「二征」を賞讃した(権延赤・杜衛東『共和国密使』、257 − 258 頁)が、同時に馬援の「名将」の評価を繰り返した。毛が推進した国家的文化事業の『辞海』(上海辞書出版社)の「馬援」の項も、其の件を淡々と「鎮圧」で表現するのに止まった。
29)黄諍『中越関係史研究輯稿』(広西人民出版社、1992 年)。朱建栄『毛沢東のベトナム戦争 中国外交の大転換と文化大革命の起源』20 頁拠り。
30)1960 年代初めにアフリカ某国の革命勢力の要請で、中共中央・中央軍事委員会は某中将を軍事顧問として派遣しようとしたが、本人は犠牲を忌み嫌ったのか任命を拒否した。毛沢東は遺憾な気持ちで『後漢書・馬援伝』を高級幹部に推薦し、周恩来も毛が引いた此の2句を以て会議で其の抗命を糾弾した。(権延赤・杜衛東『共和国密使』、3−4頁)
31)蕭偉基・童清峰・張紫蘭「台湾YES!去中国化NO!」、香港『亜洲週刊』2004 年3月14 日、39頁。
32)中曽根康弘『自省録―歴史法廷の被告として』、新潮社、2004 年、232 頁。
33)蒋立峰「東北アジアの安全保障と発展の問題について」、徐勝・松野周治・夏剛編『東北アジア時代への提言―戦争の危機から平和構築へ』、平凡社、2003 年、216 頁。
34)他国の経済危機に対する買い支えの絶大な恩恵効果は言うまでもないが、新嘉坡は1997 年亜細亜金融危機で地域安全装置の役割を果しただけで、米国の好感を買い米国少年鞭刑事件(本文参照)以来の関係悪化の改善に繋がった。(『李光耀回憶録 1965 − 2000』、552 頁)
35)中国の有人宇宙飛行に対して石原慎太郎等は時代遅れと軽視したが、政治的・軍事的・技術的意義への過小評価を警告する意見が、間も無く軍事専門家等から発せられた。ソ連の先駆的成功は李光耀に技術大国の威力を感じさせた(『李光耀回憶録 1965 − 2000』、490 頁)が、今だに其の影響が遺っていると言う李の露西亜観は常識的観方であろう。
36)日本の株式相場用語として、収斂した膠着状態から脱し上放ちか下放ちに成る事を指す。
37)司馬遼太郎『この国のかたち』第3回「“雑貨屋”の帝国主義」(『文芸春秋』1986 年5月号)。
38)ナイ著、山岡洋一訳『ソフト・パワー―21 世紀国際政治を制する見えざる力』、日本経済新聞社、2004 年(同原典)、26 − 34 頁。
39)陳舜臣『儒教三千年』、朝日新聞社、1992 年、213 − 216 頁。
40)武田泰淳の随筆「滅亡について」(1948 年)、武田泰淳『新編 人間・文学・歴史』(筑摩書房、1966 年)所収、9頁。
41)竹内実『中国 欲望の経済学』(蒼蒼社、2004 年)等。
42)毛沢東の「窮則思変」(窮乏すれば変革を考える)は、『易経』の「窮則変」(窮すれば変ず)を擬った命題である。李登輝は1994 年夏から1年掛けて、専門家の『易経』講義を週に1回ほど受け、『台湾の主張』(PHP研究所、1999 年)で所感を詳述した(38 − 41 頁)。
43)李登輝『台湾の主張』、92 頁。『読売新聞』1999 年8月11 日。
44)胡鞍鋼の国内「四個世界」の規定では、「第1世界」は上海・北京・深等の高所得発達地域で、直近の1人当り域内総生産が世界の所得上位中級の国・地域よりも高い;「第2世界」は天津・広東・浙江・江蘇・福建・遼寧等の大・中都市、沿海の所得上位中級地域で、同数値が世界の下位中級より高く上位中級には及ばぬ;「第3世界」は沿海地域の内の河北・東北・華北中部の一部を含む所得下位中級地域で、同数値が世界の下位中級の平均を下回り世界の第100 − 139 位の間に位置する;「第4世界」は中・西部の貧困地域・少数民族地域・農村・辺境地域等の低所得地域で、同数値が世界の第140 位以下の水準と成る。全人口に占める4地域群の比率は、其々2%強、22 %弱、26 %と約半分である。(中国社会科学院+清華大学国情研究中心編、胡鞍鋼主編『地域與発展:西部開発新戦略』、中国計劃出版社、2001 年、6−7頁)
45)本稿で引き合いに出した2001 年各省・自治区・直轄市の1人当りGDP では、最上位の上海(37、382 元)と最下位の貴州(2、895 元)の格差は12.9 倍にも上った。
46)中国、韓国、朝鮮と日本の新幹線は欧州諸国も使う1、435mmの標準軌、露西亜(サハリン州以外)と蒙古はCIS(バルト3国を除く旧ソ連邦諸国共同体)諸国・芬蘭も使う1、520mmの広軌、日本(新幹線以外)と露西亜サハリン州は1、067mmの狭軌と成っている。軌道幅が異なる国境附近では貨物の積み替えが必要で、国境の一定区間では双方の規格の軌道4本が併設され其処で作業が行なわれる。(財団法人 環日本海経済研究所『北東アジア経済白書2003』、新潟日報事業社、2003 年、183 頁)
47)胡煥庸が1933 年に発見した人口分布の地理分界線の「愛琿−騰衝線」は、中国地図をほぼ45 度の斜線で右上の黒龍江省愛琿と左下の雲南省騰衝を繋ぎ、斜線以西は全国土面積の52 %を占めるのに人口は5%に過ぎず、逆に面積が48 %の以東の人口は95 %にも上り、此の分布構造は百年来殆ど変わっていない。(朱建栄『中国2020 年への道』、日本放送出版協会、1998 年、73 − 74 頁。本稿筆者註:旧い地名の「愛琿」は『辞海』の解の通り、正しくは「琿」、'56 年に「愛輝」に改称、'83 年に同県は黒河市への編入に伴い解消。)天児慧・朱建栄等編著『岩波現代中国辞典』(岩波書店、1999 年)の「“黒河−衝騰”線」の項(若林敬子執筆)では、提起当初の胡煥庸学説から外蒙古を除いた1981 年の数値が示されている。斜線の以東と以西の面積は上記の調整で42.9 %対57.1 %と成ったが、建国後の辺境開発支援に因る漢人の西部移住にも関わらず、94.2 %対5.8 %の比率は当初の96 %対4%(上記朱建栄の記述と異なる)と大きく変っていない、と言う(327− 328 頁)。中国の『辞海』の「胡煥庸」の項の琿−衝騰線に関する解説は、人口分布の懸け離れた東南−西北「両半壁」の区分としただけで、具体的数値の言及が無い。
48)黄仁宇『中国大歴史』、中国語版(生活・読書・新知三聯書店[北京]、1997 年[原典= 1993 年英語版])25 − 26 頁。
49)世界銀行のGDP統計に拠る。矢野恒太記念会編集・発行『世界国勢図会第15 版 2004 / 2005』、2004 年、129 頁。
50)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、288 頁。
51)成尋『参天台五台山記事』第四(1072 年)。佛書刊行会編纂『大日本佛教全書』第115 冊「遊方伝叢書第三」、名作普及会、1980 年、66 − 67 頁。
52)李光耀は『李光耀回憶録 1965 − 2000』の序文で、此の実績を誇り高く宣揚した(9頁)。
53)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、288 − 289 頁。
54)毛沢東の場合は、象徴的な事に、貨幣に触る事を極度に忌避していた(権延赤『走下神壇的毛沢東』、78 − 81 頁)。
55)ナイ著、山岡洋一訳『ソフト・パワー―21 世紀国際政治を制する見えざる力』、136 頁。
56)マディソン『世界経済の成長史 1820 〜 1992 年』(1995 年)、日本語版(金森久雄監訳、政治経済研究所訳、副題「199 カ国を対象とする分析と推計」、東洋経済新報社、2000 年)21 頁。
57)1945 年7月、在野の識者が延安を訪問した際に、黄炎培(註7参照)が毛沢東に歴史の「其興也焉勃、其亡也忽焉」を説き、「歴代興亡周期率」の存在への注意を喚起し、毛は民主を以て其を打破しようと応えた。(尹高朝編著『毛沢東的老師們』、甘粛人民出版社、1996 年、522 頁)其の前年に郭沫若が明末の李自成蜂起の頓挫を記念して書いた随筆「甲申三百年」も、毛は建国前に全党へ政権変質の危険を警告する材料に援引した。唐、明、清の其々290、277、276 年の寿命から、中国「歴代興亡周期率」は四半千年紀(本稿筆者の造語)の250 年〜 300 年と考えられる。
58)ロジャース著、林康史・林則行訳『大投資家ジム・ロジャーズ世界を行く』、113 頁。
59)2005 年初頭の動き。『日本経済新聞』2005 年1月23 日「資源新たなうねり BRICsの衝撃 囲い込み、寡占が増幅」等、関連報道多数。
60)夫人・江青宛ての書簡(1966 年7月8日)。
61)井波律子は『酒池肉林―中国の贅沢三昧』(講談社現代新書、1993 年)の中で、「奢侈」の字形を論拠にした宮崎市定論文「中国における奢侈の変遷」(1940 年、原題「羨不足論―支那における奢侈の変遷」)の観点から、「物量主義」の命題を導いた(12 − 14 頁)。「欲望の自己増殖」は同書第4章「商人の贅沢」の小見出し(90 頁)。「大快楽主義」は井波律子著『中国的大快楽主義』(作品社、1998 年)の題より。
62)「孤憤」は『韓非子』第11 篇の題。猶、ニクソンは1967 年10 月『外交季刊』に掲載された論文で、地球で中国が「憤怒の孤立」に陥る事態は許されないと述べた(陳敦徳『毛沢東・尼克松在1972』[解放軍文芸出版社、1988 年]36 頁より)が、「孤憤」は謀らずも現代の世界にも対応できるわけだ。
63)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、499 頁。
64)李光耀が長男に露西亜語を習わせたのは李顕龍の数学好きも一因だが、より本質的理由として彼は子供たちに対するソ連の深遠な影響を信じた。(李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、490 −491 頁)毛沢東も全民的露西亜語学習熱を横目に全く勉強しなかったが、長男・毛岸英にソ連に留学させ、帰国後は工場責任者を経て志願軍司令部参謀兼露西亜語通訳を務めさせた。
65)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、499 頁。
66)成尋『参天台五台山記事』第四。『大日本佛教全書』第115 冊、67 − 68 頁。
67)NHKスペシャル『周恩来の決断』取材班『周恩来の決断―日中国交正常化はこうして実現した』、日本放送出版協会、1993 年、48 − 50 頁。他国の首相人事に対する露骨な関心は日本の関係者を訝らせたが、外交儀礼より戦略的情報を重視する処も中国的実用主義らしい。
68)劉徳有『時光之光―我経歴的中日関係』(商務印書館、1999 年)、日本語版(王雅丹訳『時は流れて 日中関係秘史50 年』、藤原書店、2002 年)上、203 頁。
69)中国の「拳」の「主力」の意(例えば「拳頭産品」=主力製品)を用いて、「双壁」や「双肩」を擬った筆者の比喩。
70)竹内実は「文化問題としての日中関係」(1992 年)の中で、「政治の中国」と「経済の日本」の対極図式を提示した。(竹内実編『日中国交基本文献』、蒼蒼社、1993 年、下324 頁)
71)「両弾一星」の件は、左賽春『中国航天員飛天紀実』(人民出版社、2003 年)に拠る(2頁)。「塊頭大、人口多」の件は、1989 年10 月26 日に泰首相・チャートチャーイ・チェンハワンと会見した時の言(『小平文選』第3卷、人民出版社、1993 年、329 頁)。
72)「僑牌」は 小平の好きな「橋牌」(ブリッジ。本文参照)に因んだ洒落。
73)由来の「張り子の虎」(NHK「街道をゆく」プロジェクト『司馬遼太郎の風景B 北のまほろば/南蛮のみち』、日本放送出版協会、1998 年、44 頁、等多数)は、毛沢東が広島核被爆1周年の際に米国の原子爆弾が形容した言葉。
74)「子適衛、冉有僕。子曰:“庶矣哉!”冉有曰:“既庶矣、又何加焉?”曰:“富之。”曰:“既富矣、又何加焉?”曰:“教之。”」(『論語・子路篇第13』)
75)数多い此の種の見地の一例として、2003 年末の日本+亜細安首脳会議で『東京宣言』が採択された時も、日本外務省は共同体創設を一種の標語として受け止め、実現は40 − 50 年掛かると見ていた(谷口誠『東アジア共同体―経済統合のゆくえと日本』、岩波新書、2004 年、43 − 44 頁)。
76)本稿で言及した赤松要の事績は主に、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』(朝日新聞社、1990 頁、31 頁)に拠る。
77)イーザー、ユスロン「雁行モデルの終焉―批判的考察」(進藤栄一編『アジア経済危機を読み解く―雁は飛んでいるか』[日本経済新聞社、1999 年]所収)等の観点。
78)曲亭馬琴の小説『椿説弓張月』(1811 年)の台詞に、「世の常言に、苦中の苦を喫し得て方に人の上の人と成るべしと言へり」と有る。
79)正井泰夫監修『今がわかる 時代がわかる 日本地図 2004 年版』、成美堂出版、2004 年、8−9頁。
80)NHKスペシャル「周恩来の決断」取材班『周恩来の決断―日中国交正常化はこうして実現した』、159 ― 160 頁。其の時の両者の会話は次の通り:「なあ、君は越後から東京に出て来る時に、総理大臣に成れると思ったかい。」「冗談じゃない。越後の田舎じゃ食えんからなあ。」「俺もそうだ。讃岐の田舎では食えんから東京に出て来たんだ。」
81)其の人脈を表わす「吉田学校」の名は、蒋介石が校長を務めた黄埔軍官学校や、其の1期生の林彪が「文革」中に阿諛で唱えた「毛沢東思想大学校」を連想させる。
82)都道府県の面積に占める人口過疎地域の比率は、総務省自治行政局過疎対策室が調査した2000 年の数字(矢野恒太記念会編集・出版『データで見る県勢第14 版 2005』、2004 年、40 頁)。都道府県のGDP総額は、内閣府「2001 年度の県民経済計算について」(矢野恒太記念会編集・発行『日本国勢図会 2004 / 05』、2004 年、97 頁)に拠る。
83)小渕の忍耐・頑張り精神の根には、明治44 年(1911 年)以降30 年程の祖父、父親の零細企業経営者の奮闘・挫折が有った。佐野眞一『凡宰伝』第2章『「凡人宰相」のルーツ』(53 − 94 頁)に詳述有り。
84)毛沢東に関しては、両者会談(1972 年)の際の言(ニクソン『ニクソン回顧録』[1978 年]日本語版[松尾文夫・斎田一路訳、小学館、1978 年]第1部330 頁)。フルシチョフに関しては、ニクソン『指導者とは』日本語版、197 頁。
85)華国鋒・彭真や胡耀邦失脚劇の急先鋒・薄一波の他に、天安門事件の際の手柄で北京軍区政治委員に昇進した張工(1935 − )も山西の出身。因みに、天安門事件の際に強硬論を唱えたとされる王岐山(注157 及び対応本文参照)も山西人(1948 年生まれ)。当然ながら「山西人=保守的」の短絡は許されない(現に、山西出身の徐向前元帥は天安門事件で武力鎮圧に反対したし、解放戦争中に胡耀邦とうまく組んでいた)が、「晋商」(山西商人)が「徽商」(安徽商人)に負けた近代史と併せ考えれば興味深い。
86)中国国家統計局に拠る2002 年の1人当りGDP数値。NHK報道特集『データマップ 63 億人の地図』第8回「中国 豊かさへの模索」(2004 年10 月24 日放映)で、極端な例として取り上げられた。
87)内閣府「2001 年度の県民経済計算について」(矢野恒太記念会編集・発行『日本国勢図会2004 / 05』、97 頁)に拠る。
88)内閣府「2001 年度の県民経済計算について」(矢野恒太記念会編集・発行『日本国勢図会2004 / 05』、98 頁)に拠る。
89)李御寧は『“縮み”志向の日本人』(学生社、1982 年)の中で、此の短歌を「入れ子型―込める」の典型とした(文庫版[講談社文庫、1984 年]42 頁)。
90)他道府県との所得格差が大きい東京都だけで、全国平均を大きく引き上げる故に、10 位以下の38道府県で平均を下回る結果と成っている。(正井泰夫監修『今がわかる 時代がわかる 日本地図 2004 年版』、27 頁)
91)現政治局常務委員会に於ける山東と河北の出身者は表2で示したが、山東の場合は前回居らず、河北の場合は建国後始めてなのだ。
92)直近の2003 年には、群馬県の蒟蒻芋の生産高は全国の87 %も占めた。(矢野恒太記念会編集・出版『データで見る県勢第14 版 2005』、40 頁)
93)司馬遼太郎『街道をゆく 二十 中国・蜀と雲南のみち』(1982 年)。『街道をゆく 二十』、朝日新聞社、1983 年、43 頁。
94)本稿筆者は「戦略的思考−志向を巡る現代日・中の“ 文化溝”(観念・視野篇)」(『立命館国際地域研究』第14 号[1999 年])で、此の類いの「龍穴・龍脈」現象を中国の「地理−国勢線」に絡めて論じた。
95)「両雄不倶立」の出典は『史記・生列伝』。「天無二日、民無二主」の出典は『孟子・万章章句上』。
96)小渕は自民党副総裁在任中の1995 年、群馬県党連会長選挙で不意にも福田康夫が推す人に負けた。衝撃の余り彼は支援者の会合で、「受けた恩は石に刻んで、恨みは水に流す」と言う政治家の信条を捨てて、今回は許さずここ5年間は徹底的に恨みを晴らしてやって行く、と誓った。(佐野眞一『凡宰伝』、213 頁)福田赳夫が息子・康夫に地盤を譲った事で1区3強の局面は変らず、小渕恵三・福田康夫に道を譲るべく橋本総裁の裁定(1996 年)で中曽根康弘が比例区に転出し、後に福田赳夫系統の小泉総裁が中曽根に引退を迫った(本文参照)とは、実に因果な巡り合わせである。
97)米人ジャーナリスト・スノーとの談話(1970 年12 月18 日)。
98)楊炳章(ベンジャミン・ヤン)『小平 政治的伝記』(1998 年)に拠れば、香港の老獪なジャーナリスト・陸鏗が胡耀邦に王震との同郷関係の話を仕掛けると、育った処は同じだが歩んている道は違うよと胡が答え、其の不用意な発言は王震を怒らせた。(日本語版[加藤千洋・優子訳、朝日新聞社、1999 年]268 頁)。猶、胡の失脚劇で最も強い攻撃を加えたのは薄一波(註85 参照)とされ、胡の追悼会で遺族が彼の参加だけ断固拒否したと言う(韓文甫『小平伝 治国篇』、台北時報出版、1993 年、759 頁)。
99)「赤条条、来去無牽掛」は『紅楼夢』第22 回の『寄生草』の歌詞で、毛の共鳴は長年の英文秘書・林克の指摘(林克『我所知道的毛沢東―林克談話録』、中央文献出版社、2000 年、54 頁)。
100)金賢妃著、池田菊敏訳『いま、女として 金賢妃全告白』文庫版(文春文庫、1994 年)後書き、下371 頁。
101)毛沢東が好きな唐の詩人・王勃の『滕王閣賦』の句。
102)第16 回党大会で選出された中央委員会の常務委員の出身地(原籍)は、胡錦涛・呉邦国=安徽、温家宝=天津、賈慶林=河北、曽慶紅=江西、黄菊=浙江、呉官正=江西、李長春=吉林、羅干=山東。
103)厳密に言えば、1989 年春の胡耀邦逝去と胡啓立失脚から'92 年の胡錦涛昇進までの期間は例外だが、其でも一種の奇観と観て能い。
104)夏剛「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)」(『立命館国際研究』15 巻2号[2002 年]連載)参照。
105)本文でも言及したテレビ連続ドキュメント『河殤』(蘇暁康・王魯湘総執筆、1988 年6回放映)の主張。
106)建国10 周年祝典に参加する為に北京を訪れたフルシチョフが、「好戦的雄鶏」の比喩で暗に中国を非難した。
107)稲垣清『中国のニューリーダー Who’s who』(弘文堂、2003 年)の統計(11 頁)に拠る。
108)本稿筆者の用語。
109)経済特区化の上海開発の文化建設の象徴として、亜細亜最高・世界第3の468mを誇り、「東方明珠」の名を冠したテレビタワーが1992 年に着工し、’94 年に竣工した。ロジャースも1999 年の世界周遊で似た発想を以て、上海は「21 世紀資本主義のエメラルド都市」に成ろうと預言した。(ロジャース“Adventure Capitalist”[2003 年]、日本語版[林史康・望月衛訳『冒険投資家ジム・ロジャーズ世界大発見』、日本経済新聞社、同年]77 頁)
110)上村幸治『中国 権力核心』、毎日新聞社、2000 年、317 頁。
111)銭塘江の壮観、西湖の秀麗と杭州の繁華を詠んだ柳永の詞「望海潮」が、金の南侵を誘発した一因とされた。(羅大経『鶴林玉露』:「此詞流播、金主亮聞歌、欣然有慕於“三秋桂子、十里荷花”、遂起投鞭渡江之志。」胡雲翼選註『宋詞選』、上海古籍出版社、1962 年、41 頁)隋煬帝の大運河建造と揚州の魅力の因果に就いて、夏剛「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)」註149 参照。
112)夏剛「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(3)」本文、及び対応の註150 参照。
113)中曽根康弘『自省録―歴史法廷の被告として』、93 頁。
114)「小渕という男を解くキーワード」として、佐野眞一は此の3語を挙げた。(『凡宰伝』、211 頁)
115)半藤一利・保阪正康・宮沢喜一「昭和天皇ご聖断へ “謎の静養”」、『文芸春秋』2005 年2月号、291 頁。
116)小渕死後の「陰の総理」と言われた元自民党幹事長・野中広務は、小泉政権誕生早々の2001 年5月に内閣を「ファッショ」、小泉を「独裁者」と批判した。(松田賢弥『無情の宰相 小泉純一郎』、講談社、2004 年、202 頁)小泉流の「ワイドショー政治」に関する言説は多数有り、中曽根康弘は「ショーウィンドー内閣」の酷評までした(『自省録―歴史法廷の被告として』、11 頁)。
117)『日本経済新聞』2005 年1月27 日夕刊。身長159.7 粍の巽樹理は減点3(162 粍未満の場合1粍に付き1点減)のハンディを克服して、2大会連続銀メダルに輝いた、と言う。
118)田中角栄の学歴劣等感と官僚操縦に就いては、早坂茂三『早坂茂三の「田中角栄」回想録』(小学館、1987 年)等に逸話が多い。昭和天皇の角栄嫌いも逸話が多数有り、ブラウン管で彼を見ると即座にチャンネルを変えた程とも言われたが、両者の心理的・社会的相異の本質に関する構造的解説として、高野孟の「“ヒロヒト的なるもの”対“カクエイ的なるもの”」の図式(『田中角栄の読み方』、ごま書房、1983 年、38 − 39 頁)を挙げたい(夏剛「“王・民之大欲・大恐”:指導者の自意識・強迫観念と中国人の精神伝説の深層(序論)」[『立命館国際研究』13 巻2号〈2000 年〉]引用参照)。
119)上村幸治「胡錦涛が差し向けた2人の‘密使’ 金正日追放 中国がついに下す」に拠れば、金正日は2000 年5月30 日に人民大会堂で江沢民から銭其を紹介された際、中韓国交樹立の立役者への憎みから握手を拒否したが、戴秉国には信頼を寄せて好く会っている。(『現代』2003 年10月号、39 頁)其を裏付ける様に、戴は金正日との30 回以上の会見の感触に基いて、2005 年1月に西側に対して気長な説得を要請した。
120)産経新聞・斎藤勉『スターリン秘録』(産経新聞ニュースサービス、2001 年)に詳述有り(155 −159 頁)。
121)夏剛「中国、中華民族、中国人の国家観念・民族意識・“国民自覚”」(中谷猛・川上勉・高橋秀寿編『ナショナル・アイデンティティ論の現在―現代世界を読み解くために』[晃洋書房、2003 年]所収)参照。
122) 小平が1978 年に58 年ぶり新嘉坡を訪れた時の言。李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、671頁。
123)1984 年10 月22 日、党中央顧問委員会第3回総会での講話。『小平文選』第3卷、90 頁。
124)中国語の「血濃於水」も日本語の「血は水より濃い」も、英語の諺“Blood is thicker than water”から来た熟語と思われる。
125)『論語・学而篇第1』。
126)中国社会科学院+清華大学国情研究中心編、胡鞍鋼主編『地域與発展:西部開発新戦略』、199 −203 頁。
127)国際シンポジウム「東アジア共同体の構築を目指して」(2005 年1月)に参加した際、ソウル大学校政治学科教授・張達重から受けた教示。
128)毛・はダレス以来の米国の「和平演変」(平和的変容・変質・顛覆)工作を警戒したが、冷戦思考からの脱却に伴って江沢民時代から党の宣伝からほぼ消えた。許家屯(元中共中央委員、江蘇省党委員会第1書記、新華社香港支社社長)は、米国亡命(1990 年)後の「論社会主義的和平演進」(香港『信報』1992 年6月1日)で、肯定的「和平演進」(平和的変容・前進)を主張した。
129)科学哲学者・金観涛と夫人・劉青峰は『興盛與危機』(1983 年。日本語版=若林正丈・村田雄二郎訳『中国社会の超安定システム─「大統一」のメカニズム』、研文出版、1987 年)で、専制体制の強靭さに中国歴史の「超安定構造」を見出した。
130)内山完造「表門と裏門」、『中国人の生活風景 内山完造漫語』(東方書店、1979 年)所収め(10 − 13 頁)。
131)「仁者人也」の出所は『孟子・尽心章句下』、「政者正也」の出所は『論語・顔淵篇第12』。
132)夏剛「“儒商・徳治”の道:理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化(1、2)」(『立命館国際研究』14 巻4号、15 巻1号[2002 年]連載)参照。
133)岡田充『中国と台湾 対立と共存の両岸関係』、5頁。
134)田原総一郎『「円」を操った男たち 政財官マネー人脈の暗闘』、講談社文庫、1991 年(単行本=『円を撃て』、講談社、1987 年)、216 頁。
135)毛沢東はニクソンに対して、自分は右派の共和党の方が好きで、前回の大統領選で貴方に一票を入れましたよと言った。2人の悪玉の内、比較的悪くない方を選んだわけですね、とニクソンは応えた。(『ニクソン回顧録』日本語版、第1部329 頁)136)毛沢東は1970 年12 月18 日、米人ジャーナリスト・スノーに対して、英語を交えて「文革」の「全面内戦 all − round civil war」に言及し、「1967 年7月July と8月Augustの2ヶ月は駄目で、天下大乱に成った」と語った。
137)薛慶超『歴史転換期的小平』(中原農民出版社、1996 年)、産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』(産経新聞ニュースサービス、1999 年)、下冊42 頁拠り。
138)夏剛「共産党中国の4世代指導者の“順時針演変”(時計廻り的移行)―理・礼・力・利を軸とする中国政治の統治文化新論」(『立命館国際研究』16 巻1号[2003 年])参照。
139)関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」「この国のかたち」の十年』(文芸春秋、2000 年)、文庫版(文春文庫、2003 年)122 頁。
140)台湾総統府国家安全会議副秘書長・江春男の言。岡田充『中国と台湾 対立と共存の両岸関係』、112 頁。
141)童懐平・李関成編『小平八次南巡紀実』(解放軍文芸出版社、2002 年)287 頁等、文献多数。
142)夏剛「日本的中空・“頂空”(頂点の空虚)と中国の“中控・頂控”(中心・頂点に由る支配)―『日本礼法入門』を手掛りとする両国の言説・観念の一比較」(『立命館言語文化研究』、第13 巻2、3、4号[2001 − 02 年]連載)参照。
143)「龍虎闘」は広東料理の蛇肉と猫肉の炒め物の美称で、此処では東亜の「龍」と「虎」の衝突に譬える。
144)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、698 頁。
145)「匪夷所思」は『易経・渙卦』が出典の成語。本稿筆者は此処で原義を用いる一方、蒋介石・毛沢東時代の国・共両党が罵り合った侮辱語の「匪」や、「大漢族主義・大中華思想」に由る少数民族・周辺国への蔑称の「夷」に引っ掛けた。
146)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、699 頁。
147)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、699 − 700 頁。
148)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、700 頁。
149)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、496 頁。
150)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、498 頁。
151)1988 年末から翌年春、一部の識者が韓国・台湾や南米等の開発独裁体制の成功念頭に置いて、改革・開放の推進には中央集権的国家権力が要ると主張した。民主化運動の識者は其に反撥したが、趙紫陽も「新権威主義」や「強人政治」に傾いていた(章海陵「趙紫陽的鏡子照出痛苦與希望」[香港『亜洲週刊』2005 年1月30 日号、25 頁]等参照)。小平の共鳴の一例は、「中央要有権威」(中央は権威を有しねば成らぬ)と題する談話(1988 年9月12 日。『小平文選』第3卷、277 −278 頁)。
152)中曽根康弘『自省録―歴史法廷の被告として』69 − 70 頁、等。
153)中曽根康弘『自省録―歴史法廷の被告として』、161 頁。
154)司馬遼太郎『街道をゆく六 沖縄・先島への道』(1974 年)。司馬遼太郎『街道をゆく 六』、朝日新聞社、1975 年、48 − 50 頁。猶、司馬遼太郎が天安門事件後に中国を疎遠し台湾に近寄った経緯は、NHK「街道をゆく」プロジェクト『司馬遼太郎の風景I 中国〜江南のみち/蜀と雲南のみち/ のみち』(日本放送出版協会、2000 年)に詳述有り(13 − 15 頁)。
155)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、703 頁。
156)『読売新聞』2005 年1月30 日。
157)阮銘「大陸演変的三種可能」、香港『百姓』半月刊273 期、1992 年10 月1日。韓文甫『小平伝治国篇』、810 頁拠り。
158)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、347 頁。
159)ニクソン『指導者とは』、日本語版9頁。
160)ニクソンが『指導者とは』で其々1章を使って詳論した政治家は、チャーチル・ドゴール・アデナウアー・フルシチョフ・周恩来であり、「ドゴール」と「アデナウアー」の間に「マッカーサーと吉田茂」の章も有る。
161)ニクソン『指導者とは』日本語版、345 頁。
162)ニクソン『指導者とは』日本語版、349 頁。
163)李光耀は1967 年訪米の実感として、米国人は国家の人口・幅員で問題を考えがちで、東南亜に関してはマレーシア人や新嘉坡人はインドネシア人に比べて、彼等にとって取るに足らぬ存在だ、と述べた。(『李光耀回憶録 1965 − 2000』、511 頁)
164)ニクソン『指導者とは』、日本語版346 頁。
165)「孔子謂季氏:“八舞於庭、是可忍也、孰不可忍也?”」(『論語・八篇第3』)
166)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、242 頁。
167)ニクソン『指導者とは』日本語版、348 頁。
168)毛沢東は1974 年7月17 日の党中央政治局会議で、容赦無く人を攻撃するとの意味で江青に「鋼鉄公司」の渾名を付けた。江青は此を小平に贈ろうと反撥した(彬子編『毛沢東的感情世界』、吉林人民出版社、1990 年、84 頁)が、 の強硬な辣腕は似合ないでもない。
169)佐々淳行『危機管理のノウハウ・PART2―80 年代・闘うリーダーの条件』、PHP文庫、1984年、176 ― 195 頁。
170)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、31 − 32 頁。
171)大陸で全面内戦・思想弾圧が展開された1968 年、台湾の作家・柏楊は「国家元首侮辱罪」に因り懲役10 年の刑を言い渡されたが、蒋介石死去の前日(1975 年4月4日)、中共党員・張志新が反「文革」言論に因って、毛沢東の甥・毛遠新(遼寧省党委員会書記・瀋陽軍区政治委員)の裁決で死刑に処された。
172)天安門事件で海外から最も非難を浴びたのは戦車が人を轢き潰した云々だが、銃剣で人を刺し殺した光州弾圧も冷酷極まり無い惨劇である。
173)1965 年政変後に所謂共産党支持者が約50 万人も殺害され、1983 年アキノ議員がマニラ空港で衆人環視の中で銃殺された事は、李光耀にも衝撃と不安・不快を与えた。(『李光耀回憶録 1965 −2000』、291、331 − 332 頁)
174)1986 年1月17 日の中央政治局常務委員会で、 小平の談話に対する同調。(『小平文選』第3卷、153 頁)
175)党中央学校研究集団の最近の提言として、一部の「先送り」の批判と共に海外で報じられた。
176)楊炳章著、加藤千洋・優子訳『小平 政治的伝記』、304 頁。
177)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、669 頁。
178)本稿筆者の命名。
179)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、711 −712 頁。
180)李光耀『李光耀回憶録 1965 − 2000』、158 頁。
181)須田慎一郎『巨大銀行沈没 みずほ失敗の真相』、219 頁。
182)江南著『蒋経国伝』(1984 年)、日本語版(川上奈穂訳、同成社、1989 年)12 頁。
183)「猛牛」は小渕恵三の自称・「鈍牛」を擬った本稿筆者の比喩。因みに、小渕は牛の置き物の蒐集が趣味であった。
184)宋・釈道原『景徳伝灯録』:「我見両個泥牛闘入海、直至今無消息。」
185)楊振寧も講演「帰根反思」(北京・世界知識出版社『世界知識』隔週刊、2004 年第21 号[11 月1日]、59− 61 頁)の中で、此の特質に言及した。
186)「子貢問政。子曰:“足食、足兵、民信之矣。”子貢曰:“必不得已而去、於斯三者何先?”曰:“去兵。”子貢曰:“必不得已而去、於斯二者何先?”曰:“去食。而古皆有死、民無信不立。”」(『論語・顔淵篇第12』)
187)ニクソン『指導者とは』日本語版、365 頁。
188)1992 年7月1日、大統領の特使として国家安全保障補佐官が北京を訪問し、米国で大統領・国務長官しか知らない極秘交渉を行なった。銭其『外交十記』に詳述有り(170 − 177 頁)。 
 
懸念される習時代の日中関係

 

中国の次期最高指導者に内定している習近平(しゅう・きんぺい)国家副主席(59)が19日、中国を訪問中の米国のレオン・パネッタ国防長官(74)と会談した際、日本政府による尖閣諸島国有化について「茶番だ」と批判した上で、米国に対し「日中間の領土問題に介入しないように、言動を慎んでほしい」と注文を付けた。胡錦濤(こ・きんとう)国家主席(69)が外国要人と会談の際にあまり使わない強い表現を口にしたことで、習氏は対日強硬派の一面を覗(のぞ)かせた。習近平時代の日中関係は今よりもさらに悪化しそうだ。
太子党仲間の発言
石原慎太郎東京都知事(79)による尖閣購入問題が浮上した今春以降、中国メディアで習近平氏と同じく、中国共産党の元高級幹部子弟で構成する太子党グループに属している軍関係者による過激発言が急増している。
中国人民解放軍傘下のシンクタンク、軍事科学学会の常務理事、羅援(ら・えん)少将は深圳(しんせん)衛星テレビのインタビューを受けた際「日本がもし釣魚島(尖閣諸島の中国名)に強行上陸をするなら、中国は軍事手段をとる必要がある」と語った。
尖閣の“武力強奪宣言”とも受け止められるこの発言は、中国政府の公式態度と大きく異なったため、国内外に大きな衝撃を与えた。羅氏はその後も、東南アジア諸国と領有権争いをしている南シナ海問題で、強気な発言を繰り返した。
シンクタンク研究者やデンマーク駐在武官など、これまで軍内の閑職を歴任してきた羅氏は、決して実力者といえない。軍の代表のような顔をして次々と挑発的な発言をする背景には、習氏の意向があると指摘する軍関係者がいる。
羅氏の父親、羅青長氏は中国建国に関わった共産党古参幹部で、習氏の父親の習仲勲(しゅう・ちゅうくん)元副首相(1913〜2002年)の元同僚だ。最近、テレビなどでよく登場し過激な発言を繰り返すもう一人の軍人、尹卓(いん・たく)海軍少将も羅氏と同じく、習氏の子供の時からの遊び仲間だった。
党内の権力闘争で胡派に押されている習近平氏が唯一かろうじて対抗できるのは軍内の人脈である。若い頃に中央軍事委員会に3年ほど勤めたことや、妻の彭麗媛(ほう・れいえん)氏(49)が軍所属の人気歌手にして現役少将であること、そして軍内に太子党仲間が大勢にいることが、胡錦濤氏にない習氏の強みだ。
協調路線に不満の軍部
近年の予算増加を背景に海外へ膨張したい軍は、「調和の取れた世界」をスローガンに掲げる胡錦濤政権の対外協調路線に不満がある。特に、尖閣問題などで胡主席の対応を「弱腰」と批判する軍関係者が多い。
胡主席は若い頃、出身母体の共産主義青年団(共青団)で対日交流を担当した時期があり、日本に対し理解がある。党総書記就任後、日中の学者による共同歴史研究を支持し、東シナ海ガス田の共同開発を推進するなど、ほとんど効果がなかったが、日中関係の修復にそれなりの努力をした。尖閣問題を本音では穏便に処理したい思いがあるといわれる。
習氏は太子党仲間を使って、胡主席の対外政策を批判し、対抗したい思惑がある。国内では脆弱(ぜいじゃく)な権力基盤しかもたない習氏が、強い対外路線を打ち出すことで、軍内と保守派の支持を取り付けて求心力を高めようとしている。この傾向は、習政権がスタートする今秋以降、さらに顕著に現れる可能性が大きい。
江氏の反日より厳しく
これまでに中国の指導者の中で、日本に対して最も厳しかったのは、愛国主義教育と称する反日教育を進めた江沢民(こう・たくみん)前国家主席(86)だが、複数の中国人学者に聞いたところ、習氏は江氏よりも厳しくなる可能性が大きいという。
江沢民時代、日本とは歴史問題でぎくしゃくしたが、経済分野での交流拡大にはほとんど影響がなかった。日中関係は大枠でいえば友好的だったといえる。だが、習近平時代になると、日中間の構造的対立がいよいよはっきりして現れそうだ。すでに日本からの中国への投資や貿易額の拡大が頭打ちになる一方、新たな対立軸がいろいろ現れてきている。これまでに日中双方の主な矛盾といえば、歴史認識と台湾問題だったが、近年、尖閣諸島や東シナ海の資源開発問題も浮上した。今後は、知的財産権など経済面の問題や、日米同盟の太平洋地域における軍事演習など軍事面の対立も顕著化する。
江沢民時代に進めていた“反日教育”を受けた世代が大人になり、中国の対日世論もさらに厳しくなりそうだ。対日強硬な中国の新たな指導者とどう向き合うか、日本はしっかりと備える必要がある。(2012/9/22) 
 
島嶼化(とうしょか)する日本 2006

 

東アジア外交はどうあるべきか?
日本の東アジア外交が迷走している。たとえば、対中関係にみられる「謝罪外交」は果たして日本の正しい外交のあり方だろうか。歴史を紐解けば、日本と中国は、ライバルとして互いを意識し、切磋琢磨することで、パワー・バランスを維持してきた。しかし、現代(いま)の日本は、小さくなることで対中関係や周辺諸国との間に山積される様々な問題を「穏便に」やり過ごすことこそ、正しい道であると錯覚しているかのようである。
進化の現象のひとつに「島嶼化(とうしょか)」というのがある。この現象は、外界から孤立した離島では手に入る食物の量が限られ、また捕食者がいないためおこる適応進化である。小さくなれば、生き延びるために必要な食物の量が少なくて済むためだ。ほんの2年前にマレー諸島の孤島で発見された人類化石により、この現象が人類にも起きる可能性があることが確認されたばかりだ。
対中関係をはじめとする日本の外交スタンスは、「島嶼化」により、自国を生き延びさせようとしているかのようである。確かに、日本にはかつて国家生存のために外交面で「島嶼化」を実行した時代がある。鎖国制度を貫いた徳川幕府の時代がそれである。キリスト教の危険性(教義のうえでも、火薬の材料である硝石の輸入ルートという側面からも)を察知し、退けたことで国内平和を維持してきたのだ。そしてこの平和によって発酵醸造された江戸文化のクオリティーの高さこそが開国後の爆発的な国際国家への発展をもたらしたといえよう。
その結果、日本が、アジアにおいて宗主国をもたなかった唯一の国家であり続けたことを我々はもっと誇ってもよい。 敗戦後の日本は60年の間、それが作られた平和とはいえ、紛争とは無縁の平安の中で敗戦国とは思えぬほどの発展を見事に遂げてきた。
しかし、こうした島嶼化は、進化の世界でもみられるように、「天敵不在」の状況下においてのみ可能である適応進化であることを忘れてはならない。現実に眼を向ければ、日本は竹島問題や尖閣諸島、東シナ海のわが国の排他的経済水域近隣でのガス油田開発に係る領土問題、北朝鮮による日本国民の拉致誘拐の事実などの諸問題を多く抱えている。
にもかかわらず、その実態に見てみぬふりを貫いてきた政界、官僚そして報道各社の姿勢、靖国参拝に代表される中韓両国による内政干渉(A級戦犯の合祀の是非は「国内で」おおいに議論するべきかもしれないが…)に対する寛容にみられるように、日本があたかも絶海の中の孤島であるかのごとく、「平和幻想」に基づく矮小化した外交姿勢を続けることは果たして正しいといえるのだろうか。生き延びるために、島嶼化すればいい、などと悠長に構えていられる状況にはないのではないか。
この稿では、この生物進化の新知見「人類の島嶼化」を、東アジアにおける日本の外交の問題点に当てはめ、主に対中関係に焦点を当て、同地域における日本外交の本来あるべき姿について議論したいと思う。キーワードは「島嶼化」と「ライバル」である。
ダーウィンとウォレス−科学研究におけるライバル
まずは、キーワードの1つ「島嶼化」の進化論のなかでの位置づけについて解説しよう。
神に創られた最初の人類、アダムとイブは禁断の「知恵の実」を食べて、楽園から追放された。それでは、「世界から神を追放した3人の科学者」といえば、会員諸氏は誰を思い浮かべるだろう。
1人は15世紀のポーランドの天文学者で、哲学者カントが「認識論」の核としてその名を用いたことでも有名なニコラウス・コペルニクス(コペルニクス的転回)。小泉首相もお好きな「それでも地球は廻っている」で有名なガリレオ・ガリレイの宗教裁判を遡ること約120年前に、その著書「天体の回転について」において、いち早く「地動説」を唱え、ローマ教皇庁から異端視された15世紀のポーランドの天文学者である。
もう1人は19世紀終わりから20世紀初頭に精神医学、臨床心理学の礎を築いたオーストリアの精神科医ジークムント・フロイド。生涯を通じて徹底的な「無心論者」を貫き、東欧系ユダヤ人であったため、「神なきユダヤ人」と評された「精神分析の祖」である。
そして3人目の「神殺し」はケンブリッジ大学で神学と自然学を学び、1859年「種の起源(The Origin of Species)」で「進化論」を唱えた近代自然科学の巨人、チャールズ・ダーウィンである。
ダーウィンがほぼ同時期に「自然選択説」を唱えたアルフレッド・ラッセル・ウォレスに触発されて「種の起源」を急ぎ校了し、発行したエピソードは有名だ。しかし、まったく因果関係もなくそれぞれ独自に「進化論」に行き着いたこの2人は、実に不思議な因縁で結ばれている。
ダーウィンが博物学者として乗り込んだイギリス軍艦ビーグル号は、その航海の途中で南米エクアドルの沖900kmに浮かぶ19の火山性群島であるガラパゴス諸島に寄港。この機会にダーウィンフィンチ(ガラパゴス諸島にだけ生息するアトリ科の野鳥)の嘴(くちばし)の形状変化の観察から、絶海の孤島に飛来したただ一種のアトリの群れ(迷い鳥)が、移り住んだ島々それぞれの環境によってその嘴(くちばし)の形状を変化させ「固有種」となる「放散進化」のアイデアを得た。この着想こそ、後の「進化論」の核になる。(注1)
一方、ウォレスは市井の博物学者、というよりも標本収集家で、当初は南米アマゾンでの収集旅行で蓄財した後、のちに、その著書「極楽鳥とオランウータンの島」でも紹介された東南アジア・マレー諸島において、珍しい草木鳥獣の標本の収集にはげんだ。
収集旅行の間には、スンダ列島のバリ島とロンボク島の間で、動物種に明らかな違いを発見し、生物地理学上の境界線(ウォレスの分布境界線)を唱えた。これらの諸島間の生物相の違いから、「生物集団に働く自然選択が生物相に変化を与える」とする「自然選択説」を着想する。
この仮説は、「全ての生物は創造主によって創られた」とする聖書の記述を真っ向から否定するものだった為、1858年初頭に、ウォレスはこれまでの観察結果から得た自説を手紙にしたため、ダーウィンに意見を求めた。驚いたダーウィンは慌てて、自説論文をまとめあげ、同年にウォレスの論文と同時に発表し、翌年には「種の起源」を出版したのである。

科学研究の分野では、時々、このような不思議な同調性(シンクロニティ)が発生する。ダーウィンとウォレスの間に発生した同調性と瓜二つのエピソードが、時を経て、「生物は、所詮、遺伝子の乗り物に過ぎない」というセンセーショナルな仮説を語った著書「利己的な遺伝子」 (邦訳1991年)のベストセラーで知られる英国の動物行動学者・リチャード・ドーキンスと、異才の科学ジャーナリスト、ジョージ・プライスの間にも見られた。ジョージ・プライスの数奇な運命に関しては、雑誌FACTA編集長・阿部重夫氏による本会サイトの科学コラム「利他不在の証明」および「最後のジョージ・プライス」に詳しい。不思議なことに、両エピソードとも、郵便書簡による意思伝達であったこと、「進化」と「遺伝子」という類似した学問領域において、結論として「究極の無神論」に行き着いた点は興味深い。おそらく現在なら、「インターネット空間における電子論文の発表」という手法を介して、結果として、「知財合戦」という不毛の結末を行き着いていたかもしれない。しかし幸いなことに、両エピソードにおいても、同じ学際の両雄同士が、お互いを認め、リスペクトし合う帰結であったことは、現代(いま)の若き研究者たちにとっては、実に貴重である。なぜなら「利他」とはすなわち「自利」に通ずるという思想は、知財競争に明け暮れる現代科学研究が、最も忘れかけている部分だからだ。
驚くべき人類化石
「生物進化」をめぐるダーウィンとウォレスの仮説発表から1世紀半後の2004年。今度は、奇しくも、ウォレスが「自然選択説」を着想した東南アジア・マレー諸島のジャワ島の東に位置するフローレス島のリアンブア洞窟において、「ここ半世紀で最も驚くべき人類化石」(ネイチャー誌)が発見された。(参照:ワシントン・ポスト紙掲載2006年5月19日付記事およびAthenaReview)
オーストラリア・ニューイングランド大学ピーター・ブラウン準教授とインドネシア考古学研究センターのP.P. ソージョノ教授らの研究チームによって、約1万8,000年前という、全く新しい地層から発見されたその化石は、その頭骨や歯の特徴からなんと「ジャワ原人:ピテカントロプス・エレクトウス」の直系の末裔と推定されたのである。
驚くべきことは、その体躯の小ささで、身長は1メートル。体重20〜30kg。歯の磨耗などから、これで立派な成人女性ということが判明した。しかも研究者らは、コンピューター復元を用いて、新人と旧人(ネアンデルタール人など)、チンパンジーや他の霊長類の脳と今回発見された化石の脳を比較した結果、この小さな女性の脳は417立方センチメートルとほぼチンパンジーと同じ大きさだが、脳の表面の溝(こう)などの特徴が新人や原人に酷似しており、石器や火の使用の跡なども残されていることから、集団で狩猟生活を送っていたと推測されている。
発掘チームは、発見した人骨の標本に「ホビット」(映画「ロード・オブ・ザ・リング」で活躍する伝説上の小人族)というニックネームをつけた。正式名称は「ホモ・フローレシエンシス」(Homo florensiensis)という。
研究者たちは、この新種はホモ・エレクトス(直立原人)の子孫だと述べている。ホモ・エレクトスはおよそ200万年前、アフリカを起点にアジアに広がり、インドネシアにも到達したと考えられている。リアンブア洞窟で発見された人骨はホモ・エレクトスの一部の子孫である可能性があり、数十万年前のある時点で、フローレス島で孤立し、進化の結果、小型化したと見られている。
フローレス島は外界から完全に遮断されているため、島の生物は小型化していった。こうした変化を遂げた生物には、同じ島ではステゴドンと呼ばれる肩高が1メートルたらずのゾウの化石も発見されていた。しかしこうした現象が人類で確認されたのは今回が初めてで、人類も他の生物と同様に、この進化過程の影響を受けることが証明されたことになる。
この化石の断片は2003年9月に発見された。しかし当初は新しい人類ではなく、なんらかのホルモン異常の猿類のものだと考えられた。なぜならあまりに新しい地層からの発見だったからである。
「進化の時間の中で見れば、1万8000年前は昨日のようなものだ」
ブラウン準教授は、この骨がたった1万8000年前のものだという事実は驚くべきことだと述べている。現地には「洞窟に住む小さき人々」の言い伝えまであり、研究チームでは、今回特定されたホモ・フローレシエンシスの骨が1万8000年前のものだとしながらも、この新種の人類が西暦1500年代までこの島に生存していた可能性を否定していない。(注2)
平和なるもの
「ホモ・フローレシエンシス」の発見によって、自然界では因縁の天敵がいなければ、矮小化するのが人間の進化でも実証された。
さて、ここで日本の外交に戻ろう。日本の「島嶼化」は、先に述べたとおり、天敵を退けることのできた徳川幕府の鎖国制度において成立するものだといえる。
しかしながら、わが国は、太平洋戦争を終了しても尚、反戦という錦の御旗・絶対的なスローガンのもと、「平和=非戦闘」という短絡な連想に埋没しながら、「全方位外交」を維持してきた。言い換えれば、わが国は天敵をあえて作らない、ある種、外界から隔絶された離島(ピースフル・アイランド)の「幻想」の中に自らの身を置こうとしてきたようである。
しかし、そもそも、国際社会に開かれたなかでの「天敵不在」などあり得るのだろうか。東アジアに位置するわが国の周辺諸国を見れば、1951年朝鮮戦争、1979年2月、1980年7月、1981年5月の3度にわたる中越戦争、石油資源を巡る南シナ海周辺国との紛争など、数々の紛争の渦中にあった。そしてこの全てが中国の国土拡大に係る紛争であった。
東アジア情勢といえば、中華振興を国家の大命題に据え、急速に軍事・経済大国化しつつある中国と、半島統一へもはや止めようもないスピードで動き始めた朝鮮半島の動きが鮮明である。安福対決に焦点が絞られつつあるポスト小泉レースにおいても東アジア外交政策は争点であるが、それにしては、東アジア外交における日本の対応はお粗末ではないか。
冒頭に挙げたように領土や拉致問題など問題も山積している。わが国の安全保障上の厳しい現状(注3)を見れば、「全方位外交」などということがいかに非現実的な虚構であるか一目瞭然であろう。国民も、これまでわが国が慣れ親しんできた「平和なるもの」が、東西冷戦の狭間にある真空地帯に生じた幻想であったことに気がつき始めている。
和平とは、激しい外交のやり取りを通じて、はじめて獲得・実現できるものだ。日本人は、これまで「そこにある危機」に見て見ぬふりをし、問題解決を遅らせてきただけではないか。
機能不全の日本外交本部
島嶼化こそ、日本の外交のあるべき姿だ、などという幻想を広めた責任が誰にあるかといえば、まずメディアが挙げられる。靖国神社の参拝などの争点を挙げ、「イエスかノーか?」の単純無邪気な世論形成に走る短絡ぶりは眼に余る。
そして、外務省だ。親米派にしろ、チャイナ・スクールにしろ、日本の外交官はその役職のなんたるかをすっかり忘却してしまっているようだ。彼らに託された使命とは、徹底した情報収集とその情報チャンネルの管理、それに全ての情報を本省に報告することだろう。外交官が、他省の官僚とは一線を画した「エリート」たる所以は、厳しい語学訓練を積み、本省へ情報を送るチャンネルの管理者、つまり「情報エリート」であるためだ。その管理者であることの大前提を忘れ、本省へ報告する情報の取捨選択まで手を染めることがあってはならない。
しかし、上海総領事館「電信官自殺」事件は、国益を損ねる越権行為があったが故の官邸のドタバタ劇としか思えない。何らかの情報があげられていたとしても、親中派の政府高官と示し合わせて、十分な情報を官邸に報告しなかった可能性も一部では報道されている。もし、これが事実だとしたら、問題はさらに深刻だ。外務省とは、いったい、いずれの国家に帰属する組織なのだろうか。
いずれにせよ、この一件によって、外交情報のヘッドクオーター(本部)が十分機能していないという日本外交の致命的な構造欠陥が露呈された。(「凛として志のある外交」を打ち出し、「拉致問題」に関しても、これまでにない明確なポリシーを持っていると期待されている谷内正太郎外務事務次官には、早急な体制整備を期待したいところである)
「政冷経熱」は国益を損ねるのか?
そして、日本の東アジア外交の矮小化に拍車を掛けているのが、「日中連携」を政府に進言する日本の経済界だろう。2006年5月9日、経済同友会は、小泉首相の靖国神社参拝に再考を促すことなどを盛り込んだ「今後の日中関係への提言」を発表した。提言の中で、日中の首脳会談が開けない状況にあることは「極めて憂慮すべき情勢」であり、「中国等アジア諸国に少しでも疑義を抱かせる言動を取ることは、戦後の日本の否定につながりかねず、日本の国益にとってもプラスにならないことを自戒すべきだ」と強調している。
経済界の理屈はこうだ。日本は1978年のケ小平元中国国家主席の来日に応える形で、翌年から巨額な経済協力を行ってきた。円借款を含めた対中経済協力の総額は3兆円超。この額は世界の対中国経済協力の6割以上を占める。このわが国の大掛かりな中国への投資が、最近の中国の爆発的な経済的発展の礎になるインフラ構築につながったのは事実だ。そして、ようやく「商売」の相手になる「市場」が形成された。だからといって、「政経分離」は困る、というのである。
しかし、「商売」は「売り手」と「買い手」がいて、はじめて成り立つ。日本を切り離して成立するほど、中国経済の基盤は磐石だろうか。そのことは、経済の専門家集団が一番知っているはずだ。
そもそも、提言に盛り込まれているように「中国とのパートナー関係」と言えるほど、日本は中国に対して対等な関係を築く努力をしてきたのだろうか。パートナー云々を言う前に、日中間には未解決の問題が多過ぎるように思える。例えば、筆者が思いつくだけでも以下の問題がある。
(1) 昨年の反日デモに象徴される国民の感情的な反発。この反日感情の根っこにあるのは、「日本の国連常任理事国入りに対する根深い反発」だ。裏を返せば、中国国民にとって、アジアの代表は「中国」でなければならないのだ。
(2) 靖国参拝問題に代表される「歴史問題」。
(3) 東シナ海のガス田開発をめぐる「エネルギー問題」。
(4) その延長線上にある、尖閣諸島をめぐる「領土問題」。  (注4)
それでは、米国はどのような姿勢で中国に臨んでいるのだろうか。米国は対中貿易赤字が続き、赤字減らしに躍起になっているはずである。
2006年4月に初めて米国を訪問した胡錦濤中国国家主席は、マイクロソフト社やボーイング社を表敬訪問、ボーイング機を80機購入するという「経熱」ぶりをアピール。中国市場がアメリカ企業にとって、最大のビジネス相手であることを見せつけた。
一方、肝腎の米中首脳会談でブッシュ米大統領は、イランと北朝鮮の核問題で中国の協力を求めたほか、中国市場の市場開放、同市場における知的所有権侵害の問題、人権・民主問題、人民元の切り上げ要求をぶつけることを忘れなかった。しかし、すれ違いは鮮明で、関係者も驚くほどの「政冷」ぶりだったという。この結果、2005年2月の就任以来、「中国との経済関係強化」を唱え、中国を国際社会の中での「ステーク・ホルダー(Responsible Stakeholder)」として持ち上げてきた「ホワイト・ハウスの代表的親中派」ロバート・ゼーリック米国務副長官の責任が問われることとなった。
そもそも、政経分離が困るといって、米国通商代表部が、中国を牽制するホワイト・ハウスの政治姿勢に「憂慮」を示すといったような、足並みの乱れを見せるような事態はあり得るのだろうか。
多くの日本の知識人の間では、「政冷経熱への憂慮」は「大人の正論」として、広く受け入れられている模様だが、成熟した国家間においては、「政冷経熱」は戦術の1つとして選択肢になり得るのではないか。
中国は領土や人口の規模こそ大きいものの、食糧やエネルギーという観点からみると必ずしも大国ではない。むしろ、米国はもちろん、わが国とも必要があれば、食うか食われるかの天敵(ライバル)の関係であるといってよい。つまり、中国はわが国にとって身近な天敵(ライバル)なのだ。したがって、中国を天敵(ライバル)として想定しない戦略などははじめからあり得ないのである。
東アジア均衡の鍵
相手国をライバルとして想定した場合、連携できないのではないか、といった疑問があるとしよう。欧州連合(EU)を見ればよい。例えば、英国とフランスが因縁のライバルであることに変わりはない。映画「マスター・アンド・コマンダー」では、祖国を遠く離れた海上で「永遠のライバル」フランス海軍と対峙するネルソン提督時代の大英帝国海軍が描かれている。そして、第二次世界大戦で戦火を交えた英独、独仏関係、そして東欧諸国を取り込んだEUの拡大と新興大国ロシアの関係も複雑に絡み合っている。それぞれの歴史観、そして石油エネルギー利権などの「リアルな国益」を全て盛り込んだ上での、したたかな「ライバル国同士の外交交渉の蓄積」という伝統こそ、欧州諸国の関係の基盤である。
そして、中国が、日本にとって「因縁のライバル」の一国であることは、歴史的事実を見れば明らかであろう。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」
北宋の司馬光の撰になる「資治通鑑(しじつがん)」に記載された、倭王「多利思比孤(たりしひこ)」が時の大国・隋の煬帝(ようだい)に送った国書の文頭の一節である。
帝も不快を隠さなかったが、かんかんに怒ったのは鴻臚卿(こうろけい:当時の外務担当者)である。
「蛮夷の書の無礼なる者は、復(ま)た以って聞(ぶん)する勿れ」
文化果つる蛮夷の分際で、文明の中心(中華)に対してなにを「夜郎自大」な、と言う訳である。当時、南北朝時代の乱世に終止符を打った新興の大国・隋王朝に対するこの挑戦的ともいえる外交姿勢は、儒教的・朱子学の側面から見れば、確かに礼節に失する国書と言えよう。
しかし、不思議なことに、隋の皇帝・煬帝はこの「信じられないほど大胆な国書」に応じ、答礼使を日本に派遣し、国交樹立に踏み切った。この一見矛盾する外交姿勢には理由がある。当時、朝鮮半島完全統一を進行中だった隋は、以前から朝鮮半島に影響力のあったわが国の懐柔に廻ったのだ。
朝鮮半島への影響力は、隋以前の南北朝時代、南朝に倭の五王の一人、済が要求した官職が「使持節度督・倭(やまと)・新羅・任那・加羅・辰韓・墓韓(ぼかん)六国諸軍事安東大将軍」という肩書きであったことからもわかる。六国諸軍事安東大将軍とは、高句麗以外の朝鮮半島諸国の軍事を束ねる官職であった。それだけ、朝鮮半島に対する日本の軍事的な影響力は大きかったのである。
そして南北朝が終わり、新興の大国「隋」が起こってからは、わが国は、この「歴史カード」をうまく利用し、それまでの「朝貢外交」を見事に「対等外交」にシフトさせたのだ。
大胆な「国書」を送る日本も日本なら、それを受け止める隋の懐の深さも実にしたたかだ。両国の外交姿勢を見ても、地政学と国益とをよく見極めた高度な外交交渉技術とはいえないだろうか。
対照的に、大陸とは地続きの朝鮮半島の百済、高句麗、新羅の君主たちは、隋に相次いで入朝し、それぞれ「上開府儀同三司帯方郡公百済王」「大将軍遼東郡公高句麗王」「上開府楽浪郡公新羅王」に封じられていた。いや冊封に甘んじる以外、朝鮮諸国に選択肢はなかったのである。この史実からも明らかなように、遠く大和のいにしえから、日本、中国、そして朝鮮半島諸国は、熾烈な外交のやり取りの中で、それぞれの「国のかたち」を保持してきたのである。
そして、このパワー・バランスを成立させたのは、日本が大陸とは海洋で分断された島国であるという地政学上の特徴だ。そしてこの特徴は、今に至っても全く変わっていないのである。一歩踏み込んで言えば、日本・中国は互いに意識しあう「永遠のライバル」なのである。そして、それは東アジアのパワー・バランスを保つ鍵でもあると言えよう。
日中関係について非常に興味深い指摘をした著書『日中友好は日本を滅ぼすー歴史が教える「脱・中国」の法則』(講談社α新書)がある。著者の石平(シー・ピン)氏は四川省出身の日中問題研究家。この中で、飛鳥時代から近代に至るまでの、日本史における「治」「乱」の変遷を見ると、日中関係の深さとの相関関係が認められるというのだ。
つまり、中国に深入りすれば国が乱れ、関係の薄い時代は繁栄するという法則がみられるのだという。石氏は「白村江の敗戦」の天智天皇と近江朝廷、「日宋貿易」の平清盛と平家政権、「朝貢貿易」の足利義満と足利政権、「唐の平定」をもくろんだ秀吉と豊臣政権、昭和に起きた「満州事変」と太平洋戦争の帰結、そして、昭和47年の日中国交回復から始まった「日中友好」時代が、「失われた10年」と呼ばれる日本経済の失墜をもたらした結末などを例にあげ、日中関係の度合いと日本の浮き沈みの関係を冷静に解説する。書店に棚積みされたあまたある「反中本」とは一線を画する一書であろう。一読をお奨めする。
「島嶼化する国」日本
このように、日本と中国は互いを「永遠のライバル」と位置づけてきた。東アジアの均衡を保つうえでも、このライバル関係の維持は重要な戦略の1つの選択肢である。このポイントを押さえず、「日中友好」という表層の甘言に踊らされ、「謝罪外交」一辺倒の姿勢を続けることは、両国の国民にとっても、決してプラスにはならない。また、「平和幻想」を説く日本の知識人たちも、建設的なライバル関係が成立する外交関係において、「島嶼化」など成立しないことに、早く気付くべきであろう。
ライバルを意識し、切磋琢磨することで、はじめて両国に「建設的な未来」が見えてくる。そして、それこそが両国にとって、真の国益にかなう決断であろう。ためらうことは何も無い。(注5)
(注1)
絶海に孤立する島々の情景はダーウィンの著作「ビーグル号航海記」の描写からも伺えるが、1800年代初頭の捕鯨船寄航地ガラパゴスの絶景を見事に映像で再現したのは、NYタイムズ誌で“史上最高の歴史小説”と評されたパトリック・オブライアンの海洋冒険小説オーブリー・シリーズ第10巻「The Far Side of the World(南太平洋、波瀾の対激戦)」を原作とした映画「マスター・アンド・コマンダー」(ピーター・ウィアー監督・脚本、ラッセル・クロウ主演 2003年)である。
時は1805年、七つの海を制覇した海軍国家・大英帝国。ネルソン提督時代の英国軍艦サプライズ号に立ちふさがる因縁の宿敵フランス海軍の最新鋭のフリゲート艦アケロン号。ラッセル・クロウ扮する艦長ジャックと博物学者で軍医として船に乗り込んだスティーブンス(ポール・ベタニー)。英国軍艦を操船するのは、炎のようなノーブレス・オブリージュをその小さな身体に秘める貴族階級出身の少年士官候補たち、それにネルソン提督を師とあおぐ艦長を“幸運のジャック”と慕う船員たちである。そんなある夜、サプライズ号は霧の中から現れたアケロン号の奇襲を受け、12歳の士官候補生ブレイクニーも右腕を失ってしまう…。
海軍士官の夢破れ、落ち込む少年に、生物の観察を通して、自然科学の面白さを教える軍医スティーブンス。かれは戦闘には興味が無く、憧れのガラパゴスに上陸するが夢だ。あるとき船に飛来した珍しい鳥をとらえようとして、ひとりの船員が誤って軍医の腹部を鉄砲で撃ってしまう。瀕死の友人のために、ジャックは友人が憧れていたガラパゴスに船をつける。薄れ行く意識の中でスティーブンスは、軍医つきの船員がおそるおそる差し出す鏡に自分の患部を映しながら、自ら銃弾を摘出する。しかし「憧れの島」ガラパゴスの自然のなかで、瀕死のスティーブンスは奇跡的に回復していく。つかのまの動かぬ大地の生活に、船員達も鋭気を養う。鋭気の源は、陸イグアナの餌でもあるサボテンを蒸留して作った自家製のテキーラだ。一方隻腕の士官候補生はノートに珍しい昆虫のスケッチをする日々を送る。
「君には博物学の才能がある」とほめる軍医に「私も先生のようになるのが夢です」と笑顔を浮かべる少年。「たたかう博物学者に」――。そんなある日、島中の生態を観察するスティーブンスたちが、珍しい甲虫をつかまえようと、島の全貌を一望できる火山の頂に立った。そのとき、軍医の瞳にうつったものは、島の反対側の湾に停泊する美しい帆船のフォルム。それは因縁のフランス軍フリゲート艦アケロン号の船影であった。再びすさまじい海戦の火蓋が切って落とされるのだった・・・。英国とフランス、現在のEUにおいても、その因縁のライバル関係は継続している。それが歴史というものだ。
(注2)
北欧伝説の森の妖精、アイヌ伝説のコロボックル、古事記の中で大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに国をおさめた少名比古那神(すくなびこなのかみ)、スイフトのリリパット国伝説など「小さきもの」の伝承は世界各地にみられる。古典SF小説のファンならば、黒沢明や小津安二郎監督の映画よりも、興業的には、はるかに世界に「売れた」日本特撮映画の至宝「ゴジラ」の原作で知られる戦後日本の幻想小説作家、香山滋の作品「オラン・ペンデクの復讐」を思い出すかもしれない。「オラン・ペンデク」とはずばり、南洋の島に生息する「小さきヒト」を意味する。伝承は本当だったのか?まさしく事実は小説より奇なりなのである。
(注3)
竹島の帰属を真摯に両国の歴史から議論するテーブルはあってもよいのかもしれない。但し、これは両国国民が納得するためのものだ。国際法上は間違いなく日本の領土であろう。しかし半世紀以上に渡り、実際に両国間の領土問題の議論の対象となる島を、韓国が実効支配しているのは、間違いなく現実におこっている「リアル」な出来事なのだ。竹島問題が抱える事態の深刻さは拙稿「闇の奥番外編・アジアの黙示録」でも触れたが、国際的にみても、これではわが国が「本気で外交をする気がない」と見られても仕方があるまい。そして、いまわが国の排他的経済水域に近接する春暁ガス油田開発に象徴される中国による東シナ海の実効支配は、現在も容赦なく進行しているのである。
(注4)
島国であり、領土問題がすなわち「海洋上の問題」である日本において、実質的に国防を担っているのは、海上自衛隊ではなく、映画「海猿」でも知られる海上保安庁であることは案外知られていない。1996年、97年に中国・台湾の活動家が尖閣諸島に上陸を試みた際、これを阻止、検挙したのは海上保安庁であった。そして、今年5月に入り、覚醒剤北線ルートの解明の端緒を開いた2001年の北朝鮮工作船事件において、勇気ある追跡を試み、これを制圧したのも海上保安庁の3隻の巡視船である。驚かされたのは不審船の重装備ぶりであった。 それでは、彼らになぜこのような重装備が必要だったのか?日本対北朝鮮の国境をめぐる攻防は実はこれが最初ではなかったのである。日本の国防の裏側には、日本版ネイビー・シールズとも言える「知られざる特殊部隊」SST (参考:『海上保安庁特殊部隊SST』)の隊員たちの生命をかけた攻防があった。
映画「海猿」のモデル「羽田の特救隊(特殊救難隊)」の使命が人命救助だとすると、関西空港の警備から発足したSSTは国防のために「人を撃つ」ことも使命だという。「羽田の人命救助」に対して「関空の殺人部隊」という言われなき非難を浴びることすらあるのだという。5月から公開されている「海猿:Limit of Love」では、主人公の海上保安官が不審船に応射し、不審船が爆発炎上するという、2001年の海保巡視船「いなさ」と北鮮不審船との間で繰り広げられた攻防さながらのシーンがある。その後、主人公が「俺は人を殺してしまった」と自責の念に悩むエピソードは、おそらくモデルとなったケースがあるのだろう。しかし、この心理的葛藤は、若いSST隊員たちが常日頃思い悩み、そして乗り越えなければならない試練でもあるのだ。「国を守る」とは、絵空事や映画のなかだけの行為などではない。それだけの覚悟と決心が要求される「リアルな行為」なのである。それにしても日本防衛の実質的な担い手が、10年前、たった8名の構成員から始まった海保の一部隊という現状こそ、いま日本の安全保障の抱える問題を凝縮していると言えよう。
(注5)
『日はまた沈む』で日本のバブル崩壊を見事に予言してみせた、英エコノミスト誌編集長ビル・エモット氏は新著「日はまた昇る」(草思社刊)の中で、「ゆっくりでも着実に歩む『カメ』の日本は、足の速い『ウサギ』の中国に勝つ 」と大胆な予測をする。
エモット氏の主張はこうだ。「経済力は政治的野心の元となり、アジア諸国は中国と友好関係を求めるしかなくなり、その結果、貿易、投資、環境から安全保障問題に至るまで、中国がアジア地域のルールを決める立場になるかもしれない」。
しかし、この「アジア共同体」実現の最大の壁として、彼は「中国の民主化問題」を挙げる。
「日本が中国との競争で重要なのは、改革のプロセスをこれから10年続けていくこと。たとえゆっくりであっても継続さえしていれば成功する。中国の急速な成長は、不安定な成長になっていく。そして政治(共産党一党独裁)と経済(資本主義)のシステムが両立しなくなる恐れがある」
「2008年の北京五輪に向けて、中国は猛烈な投資を続けるだろう。中国国民は五輪終了までは、不満があっても自制する。しかし五輪後、経済バブル崩壊と同時に政治バブルがはじける(共産党独裁の崩壊)可能性もある」と、エモット氏は指摘する。ところで、この著書は経済本であるにもかかわらず「靖国問題」に多くのページを割いている。「靖国神社に対する公的な支配権を国家が取り戻すべき」といったユニークなアイデアは、国立の宗教施設(教会)をもつ英国人の思想背景から生み出されたものなのだろうが、「靖国問題を将来の日本を語るのに避けられない問題だ」と考えている点は、注目に値する。  
 

 

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尖閣諸島
尖閣諸島は東経123度30分-124度35分、北緯25度44分-55分の間に分布する。尖閣諸島は地質的には中国の大陸棚上にあり、琉球列島とは列なっていない。これらの諸島は沖縄県石垣市に属し、八重山列島からは北北西に約150Km、台湾からは東北東に約170Km離れている。尖閣諸島は、魚釣島(東経123度30-32分、北緯25度45-46分)、北小島、南小島 、久場島、大正島の5島と、沖の北岩、沖の南岩、飛瀬岩の3岩礁からなる島々の総称である。久場島と大正島は、魚釣島から東へそれぞれ30Kmと108Km離れている。尖閣諸島の総面積は約6.3Km2で、富士の山中湖を少し小さくしたくらいの面積。そのうち、一番大きい島は魚釣島で面積約3.8Km2、周囲約12Kmある。最も高いところは海抜362mとなっている。この魚釣島は他の島と違い飲料水を確保する事が出来る。
この小さな諸島の領有権問題が浮上したきっかけは次の通りである。
1968年10月12日から11月29日にかけて、日本、中華民国、韓国の海洋専門家が中心となり、国連のアジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の基に、東シナ海一帯にわたって海底の学術調査を行った。翌年5月、東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘された。これが契機になって、尖閣諸島がにわかに関係諸国の注目を集めることになったのだ。現にこの2年後に、台湾と中国が相次いで同諸島の領有権を公式に主張している。石油があるとの発表が無ければ、これほど問題がこじれたとは考えにくい。  
1450 海東諸国記 / 1471
「海東諸国記」は、1471年 、朝鮮政府の領議政(現在の首相に相当)であった申叔舟(しんしゅくしゅう・シンスクチュ)が成宗の命をうけて編纂した書物である。この図が、琉球の最も古い図であるといわれている。申叔舟が琉球とした図には、台湾の花瓶嶼が在る。しかしこの図は島嶼の相対的位置関係を明示しているのであって、領土や領海を示すものではない。以下に説明する中国の文献も尖閣諸島が描かれているものがあるが、だからといって尖閣諸島が中国領であるはずがない。何故なら、もしそれらを認めると、台湾の付属島嶼の花瓶嶼がこの図では日本領であるというおかしな議論が成り立つからである。以下年代順に示す冊封使録をはじめとした中国の文献は領土や領海を表したものではないのは、この「海東諸国記」を見れば明白である。  
   
1500 使琉球録 / 1534
1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使・陳侃(チン・カン)の「使琉球録」に尖閣の記載がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転し、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだと想像出来る。ここで「想像出来る」と推測するのは、1〜10回の使録がないからだ。それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していたのであろう。  
   
1550 日本一鑑 / 1555
「日本一鑑」という書籍に尖閣諸島が出てくる。この本は、1555年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。  
   
  籌海図編 / 1562
中国側は、鄭若曽の「籌海図編」巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、「籌海図編」における右の事実を中国の領有論拠だとすることは、陳侃、郭汝霖使録よりもさらに劣るといってよい。沿海図といった性格のものは、必ずしも自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるものであって、例えば日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることもあるし、台湾省の沿海図では、与那国島や石垣島なども示されるのが普通である。むしろ「籌海図編」を引用するのであれば、同書巻一の十七「福建界」が当時の福建省の境界を示すものとして適当であるといえよう。  
   
  殊域周咨録 / 1582
陳侃の「使琉球録」から約半世紀後の1582年に嚴從簡によって編纂された「殊域周咨録」には、陳侃の使録がそのまま記載されている。久米島については「十一日 至夕始見古米山 間知琉球境内(11日夕方になって始めて古米山を見た。そして尋ねてそこが琉球国の境内であることを知った)」とある。「尋ねた」相手は琉球人であると推測される。中国人の古米山(久米島)の情報でさえこのような状況であるのであるから、無人島の尖閣諸島はなおさら知る由もない。  
   
1600        
1650   琉球国中山世鑑 / 1650
琉球の向象賢が著した「琉球国中山世鑑」は、釣魚諸島の名が見える琉球側の最初の書物である。「嘉靖甲午使事紀ニ日ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。そして久米島を以って「これ即ち琉球に属する者なり」(及属琉球者)とする文章もそのまま再録されていることから、中国は尖閣諸島は中国領と主張する。しかし、これは有人の久米島が琉球領と述べているだけであって、無人島の尖閣諸島を中国領と認識していたわけではない。  
 
  使琉球雑録 / 1683
清朝が派遣した第二回の冊封使・汪楫は康煕22(1683)年に琉球へ渡った。その使録「使琉球雑録」の中に出てくる文章から、中国は、「釣魚台東南の海域は"中外之界"、つまり中国と外国の境界であると指摘している。従って尖閣は古来より中国領である」と主張する。しかし汪楫は、舟子との問答をそのまま記述するかたちで、「中外之界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えをのべたものではない。汪楫はむしろ「何をもって界とする」かを疑問に思い、相手に問い、その相手が懸揣(けんたん)するのみ」(推定するだけである)と、答えにならない答えをしたことをも客観的に記述している。その時期台湾は、まだ清朝の版図に入っておらず、台湾の版図編入は翌年の汪楫帰国の年である。したがってこの点からも「中外之界」が領域界を意味するはずがなかった。  
   
  福建通志 / 1684
1683年、台湾を支配していた鄭政権が清朝に降伏し、1684年、清は台湾を福建省に付属せしめて台湾府を置いた。そして清朝政府の命を受けた金メが同年「福建通志」を著した。これには尖閣諸島に関する記述も図も一切ない。  
   
1700 指南広義 / 1708
琉球の学者である程順則(1663-1734)が中国福州にあった琉球館で著した「指南広義」は、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本である。このとき程順則は、清国皇帝の陪臣としてこの本を書いている。これをもって中国は、日本も尖閣を中国領と認めていた証拠としているが、これはいわば航路誌や海事書の類であって国境を定めている書籍ではない。  
元禄国絵図 琉球国八重山島 / 1702
徳川幕府は6寸1里という統一した縮尺による全国の地図の作成を各藩に命じ、島津藩は自藩と琉球国を描いた。江戸時代中期に描かれた琉球国絵図は、奄美諸島、沖縄本島、先島諸島の3枚から構成されていて「元禄国絵図 琉球国八重山島(先島諸島)」には、現在の尖閣諸島は描かれていない。  
  中山伝信録 / 1719
中国の冊封副使・徐葆光が著した「中山伝信録」には中国と琉球の航路図が描かれている。「三国通覧図説」の依拠した原典は、この「中山傳信録」であることは、林子平自身によって明らかにされている。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、「三国通覧図説」を作成した。  
   
  中山世譜 / 1725
琉球人の蔡鐸は、琉球国歴代の外交文書「歴代宝案」の整理・編. 集に総理唐栄司として関わっていた人物である。彼が著した著書に「中山世譜」があるが、その附属図には尖閣諸島が全く出てきていない。  
   
1750 琉球国志略 / 1756
清の周煌が著した「琉球国志略」は、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も1831(天保2年)に出ている。  
   
    三国通覧図説 / 1785
中国が尖閣諸島の主権を主張する際に、必ず持ち出す日本の資料がある。それは1785年に地理学者・林子平(はやししへい)によって作製された三国通覧図説という書物の「琉球三省其三十六島之図」という地図である。そこには中国大陸の福州と沖縄の那覇を結ぶ東西の二本の航路が見える。上の曲がった航路は北風のときに一旦北へ迂回してから風に乗って目的地方向を目指す航路である。下の直線航路は南風の時の航路で、西から、花瓶嶼、彭佳山(現・彭佳嶼)、釣魚台(現・魚釣島)、黄尾山(現・久場島)、赤尾山(現・大正島)が描かれ、これらの島々は中国大陸と同じ赤色で書かれており、黄色で書かれている琉球列島とは明らかに違う。 これは江戸時代当時の地図であるから、これをそのまま用いて現在の尖閣諸島中国領論を展開するのには些か無理がある。何故ならこの地図に描かれている花瓶嶼と彭佳嶼は尖閣諸島の一部ではなく台湾の領土であるからである。逆説的な言い方をすると、尖閣諸島と同じ赤色で、花瓶嶼・彭佳嶼が書かれていても、日本は花瓶嶼や彭佳嶼の領有権を主張することは出来ない。また、台湾は1684年に中国の版図に入ったが、この図は台湾を中国本土とは違う色で区別している。大正島までを中国の勢力範囲と認識していた林子平と、実効支配を最も重要視する現在の国際法の国境概念とは違って当然である。また、同地図を書くにあたり林子平は、「中山伝信録(1722年)」を参考に作成したと注釈をつけている。  
 
1800     天保国絵図 琉球国八重山島 / 1838
江戸時代後期に描かれた「天保国絵図 琉球国八重山島」にも、現在の尖閣諸島は描かれていない。  
  重纂福建通志 / 1838
福建通志と同じく清朝政府が発刊した「重纂福建通志」にも尖閣諸島の言及が文章にも図にもない。  
   
  厦門志 / 1839
福建省の地方志である「厦門志」には尖閣諸島の記述はない。  
   
      Narrative of the voyage of H.M.S. / 1848
イギリス軍艦「サマラン」(Samarang)は、1845年6月、恐らく世界で最初に尖閣諸島を測量しているが、その艦長サー・エドワード・ベルチャー(Sir Edward Belcher)の航海記である「Narrative of the voyage of H.M.S. Samarang, dur/g the years 1843-46」(1848年刊)に、14日、八重山群島の与那国島の測量を終えた同艦は、そこからいったん石垣島に立ちもどり、その夕方「海図上のHoap/g-San群島をもとめて航路を定めた」とある。このホアピンサンは魚釣島のことである。サマラン号はその翌日、P/nacle Islands(ピナクル諸嶼)を測量し、16日、Tiau-Su(黄尾嶼)を測量した。これらの測量の結果は、1855年に海図として出版されている。この海図およびサマラン艦長の航海記の記述が、この後のイギリス海軍の海図および水路誌のホアピン・スーとチアウ・スーの記述の基礎になっていると思われる。  
1850     皇国総海岸図 / 1855
水戸藩士の酒井喜煕(さかいよしひろ)が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から1855年に「皇国総海岸図」を作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録している。この図には尖閣諸島は記述されていない。  
      大城永保の尖閣目撃 / 1859
日本側の文献で最初の比較的詳しい尖閣諸島の記事は、美里間切(みさとまぎり・現沖縄市)詰山方筆者、大城永保の目撃発言で、清国航海の途次、魚釣島・黄尾嶼・赤尾嶼に接岸して、三島の地勢・植物・鳥類を調査した。そのことは1885年に「久米赤島・久場島・魚釣島の三島取調書」として記録がある。(出雲丸船長・林鶴松が著した「魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書」も同じく上層部へ報告が行った)  
  皇朝中外一統輿図 / 1863
1863年に胡林翼が著した「皇朝中外一統輿図」の「大清一統輿図」には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼という中国名で尖閣諸島の島々が記述されている。  
   
      大日本四神全図 / 1870
勝海舟の「大日本沿海略図」の系統を引く西欧の翻訳図として、1870年に刊行された橋本玉蘭の「大日本四神全図」がある。石垣島の北方に「赤尾山」の記述がある。  
  淡水庁志 / 1871
1871年に著された「淡水庁志」には大鶏籠山を「沿海極北之道止」と記してある。そして淡水庁附属の島嶼として鶏籠嶼(現在の基隆嶼)以下の6つの島嶼を挙げているが、基隆港の外にある棉花、花瓶、彭佳の三嶼はこれに含まれていない。  
   
      台湾水路誌 / 1873
海軍水路局の前進である海軍水路寮が作成した「台湾水路誌」に、尖閣諸島の記述がある。「台湾北翼の東北にあり。未だ詳かに知る者あらず。唯其地位を定むるのみ。即ち次表の如し」とし、「尖閣=北緯25度27分,東経121度58分、屈来具島(クライグ)=北緯26度29分,東経122度09分、亜神可留土島(アジンコールト)=北緯25度38分,東経122度08分」としている。これらは経緯度を考慮すると、それぞれ花瓶嶼(北緯25度29分,東経121度59分)、棉瓶嶼(北緯25度29分06秒,東経 122度06分23秒)、彭佳嶼(北緯25度37分22秒-25秒,東経122度04分27秒-121度05分11秒)であることが分かる。また、甫亜賓斯島(ホアピンス)は魚釣島、尖閣島は南小島及び北小島、地亜鳥斯島(チアウス)は黄尾嶼、刺例字島(ラレイジ)は赤尾嶼であることが、記述から読み取れる。同年、水路寮発行した「台湾全島之図」には尖閣諸島の記述はない。  
      琉球新誌 / 1873
国語学者の大槻文彦(おおつきふみひこ 1847 - 1928)が著した「琉球新誌」には尖閣諸島の記述がない。同年、イギリス海軍が発刊した「The Ch/a Sea directory Vol.4」には尖閣諸島の記述がある。  
      南島水路誌 / 1874
海軍水路寮が作成した「南島水路誌」には尖閣諸島の記述がない。  
  欽定続通典 / 1875
1875年に嵆璜が編纂した「欽定続通典」の巻147には鶏籠山を辺境の防衛地としているが、現在の尖閣諸島の記述はない。  
大清通商十五口図 / 1875
海軍や外務省が関わった地図に、「大清通商十五口図(清国沿海諸省)」がある。中国の各省には色が塗られているが、尖閣諸島、及び台湾の彭佳嶼は色が塗られておらず、この図からは国境が何処か特定できない。  
      大日本全図 / 1876
関口備正著が作成した「大日本全図」には尖閣諸島の記述がない。
琉球諸島全図 / 1876
茨城県士族の酒井虎三は「大日本一統與地分国図」を編纂したが、その地図の一つである「琉球諸島全図」には、尖閣諸島は記載されていない。
      大日本全図 / 1877
陸軍参謀局の木村信卿(きむらのぶあき)が表した「大日本全図」には、尖閣諸島は記載されていない。
沖縄志 / 1877
元薩摩藩士の伊知地貞馨(いじちさだか 1826 - 1887)が著した「沖縄志」には、南西諸島の島々の記述が詳細に書かれているが、尖閣諸島の記述は一切ない。  
      大日本府県管轄図 / 1879
内務省地理局が発刊した「大日本府県管轄図」の「薩摩諸島並沖縄県図」には、尖閣諸島が記載されていて、魚釣島は花瓶島となっている。それはHoa-P/-Sunの翻訳であることが分かる。  
      大日本府県分轄図 / 1881
明治政府の地理局地誌課が発行した「大日本府県分轄図」には、尖閣諸島が八重山諸島の北に描かれている。同年に松井捷悟と吉澤幸次が著し出版した「新雕日本帝国全図」の「琉球諸島全図」にも尖閣諸島が記載されている。
大日本全図 / 1882
酒井捨彦が著し、1882年に出版した「大日本全図」の「琉球全島之図 」には尖閣諸島が記載されていない。
大日本全図 / 1883
星唯清が著し、1883年に出版した「大日本全図」の「琉球全島之図」には尖閣諸島が記載されていない。  
      日本沖縄宮古八重山椿嶋地質見取図 / 1885
中国が主張するように、勅令には尖閣諸島の島名はないが、尖閣は八重山に属していたのは周知の事実である。勅令第13号が発せられる10年前の1885年10月に著された賀田貞一の「日本沖縄宮古八重山椿嶋地質見取図」にはHoa p/ su、Tia u suと記載されており、それぞれは現在名魚釣島、久場島のことである。
沖縄県管内全図 / 1885
久米長順が著した「沖縄県管内全図」には尖閣諸島が記載されていない。しかし同地図は尖閣諸島以外にも記載されていない島々があり、スペースの都合上省かれたとしても不思議ではない。  
      寰瀛水路誌 / 1886
海軍が作成した「寰瀛水路誌 第一巻下」には、尖閣諸島が詳細に記述されている。同年同月に下村考光が著した「大日本測量全図並五港之全図」には、「和平山」「凸列島」「黄尾嶼」「嵩尾嶼」の記載がある。
洋語挿入 大日本輿地全図 / 1886年
民間人が編纂した「洋語挿入 大日本輿地全図」の「琉球宮古島諸島ノ図」には、和平山、凸列島(南北二小島及び岩礁の総称)、黄尾嶼、嵩尾嶼(赤尾嶼)が記載されている。
      海軍海図 第210号 / 1888
海軍省編纂の「海軍海図 第210号」には、鹿児島から台湾までの南西諸島の島々が描かれており、尖閣諸島の位置も正しく記載されている。  
      軍艦開門の南西諸島調査 / 1892
明治政府は1892年に軍艦開門を西南諸島に向かわせ、北大東島、南大東島、そして沖大東島を調査させたことが、「軍艦開門の沖縄群島探検並びに復命書」に書かれている。久場島や魚釣島に関しての言及もあるが、これら尖閣諸島を開門は調査していない。  
      南島探験 / 1894
青森県藩士の笹森儀助が1893年に琉球を探検し、翌1894年に「南島探験」を著した。彼は尖閣諸島には渡っていないが、私見で宮古島、八重山、尖閣諸島など20島を統括する先島庁を設置すべきだと提案している。また同書によると、明治26年には、永井喜右衛門、松村仁之助(鹿児島県)らが、沖縄漁民とともに黄尾嶼にわたり、阿呆鳥の羽毛の採取をしている。他にも、伊沢矢喜太(熊本県)や野田正(熊本県)が漁夫十数人を同行して魚釣島や黄尾嶼に渡っているのが分かる。
日本水路誌 第二巻 / 1894
海軍省水路部が編纂した「日本水路誌 第二巻」には、ホアピンス島、ピンナクル諸島という名で尖閣諸島の名前が出ている。  
      内務大臣から総理大臣に標杭建設の閣議提出 / 1895
沖縄県から国標建設の要請を受けた内務大臣の野村靖は、総理大臣の伊藤博文に閣議に提出する旨伝えた。国立公文書館に「公文類集第十九編」という公文書が所蔵されている。下記はその閣議要請の資料である。  
      地質学雑誌 / 1898
そもそも尖閣という名称を同諸島につけたのは、沖縄県師範教師の黒岩恒で、1898年に掲載した「地質学雑誌」にある。このときは尖閣諸島ではなく尖閣群島という名称が付けられている。  
1900     日本水路誌 第二巻下 / 1908
日本海軍が1908年に作成した「日本水路誌 第二巻下」には現在の尖閣諸島が記載されている。  
      南日本の富源 / 1910
恒藤規隆が著した「南日本の富源」には、和平島(現在の魚釣島)や久場島、南北小島が言及されている一方で、魚釣島から遠く離れた大正島(中国名:赤尾嶼)については何の記述ない。これは同年に尖閣諸島での古賀氏の開拓を紹介した「沖縄毎日新聞」と同様である。当時の尖閣諸島の認識は、魚釣島、久場島、北小島、南小島と3つの岩礁であって、遠く離れた大正島は尖閣諸島の範囲外であったと推測される。  
      日本水路誌 第六巻 南西諸島・台湾及澎湖列島 / 1919
当然ながら告示後も尖閣が八重山に属している資料がある。それは日本の海軍水路局が作成した「日本水路誌 第六巻 南西諸島・台湾及澎湖列島」は、その名の通り、日本の南西諸島と台湾・澎湖列島の2つに大別されているが、尖閣諸島は南西諸島の章に記載がある。同年、沖縄県が「沖縄県統計書」を発刊したが、これには尖閣諸島が八重山郡に属していることが分かる。また、台北庁が発行した「台北庁誌」には、尖閣諸島は含まれていない。  
      中国が尖閣諸島を日本の領土と認知 / 1920
中国が主張するように、尖閣諸島の沖縄県八重山列島への帰属に関しては、尖閣諸島の各島名や位置が明示していない。これは明らかに日本の不備である。しかし中国は後年、尖閣諸島は八重山に属するという認識を示した手紙を送るのである。
      八重山語彙 / 1930
八重山出身の言語学者、宮良當壮が1930年に著した著書に「八重山語彙」がある。尖閣列島の図には、日本人が魚釣島(うおつりじま)というのを八重山の人々は釣魚島(イグンシマ)という。これは中国人が釣魚台(TiaoYuTai)というのと同じ表記である("魚釣"ではなく"釣魚")。八重山の方言集を見ると「イーグン」「イグン」「ユクン」とは銛(もり)を指す。八重山の人々は"釣魚"でイーグンと言っている。つまり"釣"と"銛"は同じ発音であることが分かる(注意:"魚"は漢字表記するときに補助的に付けた発音しない漢字と推量される)。そして両漢字は意味も酷似している。 中国の冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、約500年の間に合計23回しかない。これに対して琉球から中国への琉球船は数百回も中国へ赴いている。なぜ中国人が八重山の人々と同じ漢字表記をしているのかがこれで理解出来る。尖閣諸島はその歴史的背景から見て、中国本土よりも琉球の方が関係が深いのである。  
      大日本帝国陸地測量部 尖閣群島 / 1933
日本陸軍は1933年に「トカラ及尖閣群」を、1936年には「魚釣島」「黄尾嶼」をそれぞれ発刊した。  
1950   南島風土記 / 1950
終戦から間もなく書かれた尖閣諸島の記述がある書籍は、那覇出身の琉球学の大家・東恩納寛惇が著した「南島風土記」である。  
 
    台湾省通志稿 / 1951
台湾省文献委員会が編集した「台湾省通志稿」には、彭佳嶼を台湾省の最北端としている。また同書の「台湾省図」にも彭佳嶼や花瓶嶼は在るが、尖閣諸島は載っていない。  
 
  人民日報 / 1953
中国側が尖閣諸島をどのように見ていたかは、人民日報1953年1月18日の記事に見て取れる。「琉球群島はわが国台湾の東北と日本の九州の西南の海上に散在しており、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隈諸島の七組の島嶼を含んでおり、それぞれには大小さまざまな島嶼があり、総計で名称のある島嶼五十と四百余りの無名の小島があり、陸地の総面積は四千六百七十万平方メートルである(人民日報「琉球群島人民のアメリカ占領に反対する闘争」より)」。中華人民共和国成立以降も、このように中国は尖閣諸島は日本の一部と認識していたのである。同年、中国の地図出版社が発刊した「中華人民共和国分省地図」や「中華人民共和国分省精図」には中国の領土に尖閣諸島が含まれていない。  
   
  基隆市志・概述 / 1954
中華民国基隆市文献委員会編の「基隆市志・概述」は、1954年に発刊したものであるが、同書の19ページには、「光緒31年、再調整管区基隆庁計包括上述金(中略)、以及基隆嶼、彭佳嶼、棉花嶼、花瓶嶼等」との記載がある。このように彭佳嶼、棉花嶼、花瓶嶼の三島は、日本統治時代に初めて基隆庁の行政下に入った。明や清の時代に文献や図でこれら島嶼が描かれていたとしても、それは航路途中の目印程度であったことが分かる。当然これら島嶼よりも日本側にある尖閣諸島が中国領であるはずがない。  
   
    台湾地理 / 1958
「台湾地理」は中等学校補助教材として中華民国(台湾)で使用された。この本には「最北は本島東北の彭佳嶼(中略)、琉球群島内側の尖閣諸島と対峙」との記載がある。また翌年には中国大陸でも「台湾地理」(呉壮次著)が発刊し、これにも尖閣諸島は琉球群島内であり、台湾の最北端・最東端はそれぞれ彭佳嶼・棉花嶼であると記述している。  
 
    台湾省5市16県詳図 / 1960
台湾内政部が作成した「台湾省5市16県詳図」(1960年)は、台湾の附属島嶼として76島嶼を明記しており、それには「北緯21度45分25秒」(恒春七星岩)から25度38分(基隆彭佳嶼)にある」としていて、尖閣諸島はこれには含まれていない。  
 
  両種海道針経 / 1961
「両種海道針経」は1961年、中国の史学者・向達によって著された。「釣魚嶼」について「尖閣群島中之一島 今名魚釣島、亦名釣魚島」と注釈し、「黄尾嶼」については、「今尖閣群島之久場島」と、日本の「尖閣諸島」という名称群島で、それぞれ「魚釣島」「久場島」と注釈している。  
   
    台湾省地方自治誌要 / 1965
現在中国も台湾も尖閣諸島の所属は台湾省に属していると主張するが、台湾省地方自治誌要編集委員会の「台湾省地方自治誌要」には、台湾省の東端を「花瓶嶼の東端・その位置は東経122度6分25秒」とし、北端を「彭佳嶼の北端・その位置北緯25度37分53秒」としている。  
 
 
尖閣諸島・諸説
■日本の主張
尖閣諸島と南路を経て日本へいたるルートを中国人が知るようになったのは、確かに陳侃使録によってであり、鄭舜功も「日本一艦」の中でこれをあきらかにしている。「使琉球録」において陳侃は従人の中に日本へいたる路程について知識を有する者がいたことを誌している。その知識を有する者とは、 寧波などに居住する日本人多数からであると、鄭舜功自身が述べているではないか。中国から琉球への往来は496年間中国に冊封使を琉球へ、琉球は進貢使謝恩使などを中国へそれぞれ赴かせた。中国が琉球へ往来するようになったのはこのとき以後であって、これにより前に公的なかたちで両国が相互に交通をおこなっていたということは記録上無い。他方冊封使が琉球へ赴いた回数は冊封・進貢関係の全期間を通じて、合計23回であった。そうしてこれ以外に中国が琉球へ公船を派遣したことはほとんどなかった。
冊封船の23回という数字は約500年間における総数である。これを平均すると22年に1回の割合となる。しかもこの平均はいわば算術的な平均であって、実際には30年あるいは40年といった空白期間のあった例も数多くみられた(張学礼・林鴻年各30年、徐葆光・周煌各37年、李鼎元40年など)。陳侃のときは最長で前使董旻との間に実に55年の空白があった。これでは中国人たちがこの航路を経験するのは一生に一度か二度ということとなり、とうていこの航路に関する正確な知識をもちうるはずがなかった。航海の経験が少ない以上、操舟の術に信がおけなかったこともまた当然である。 陳侃はなぜ琉球人がこの航路を熟知し、操舟の術にも優れていたと記述したのであるかと言うと、それは中国への琉球船の圧倒的な派遣回数である。陳侃までの時代に、琉球船は281回中国へ赴いていた。これに安南・シャムなどとの交易船が南洋諸地域へ渡っていた回数が加わる。これらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いない。  
■大陸棚と尖閣諸島について
尖閣諸島は地質的には琉球列島には属さず、中国の大陸棚上に在る、これも中国が尖閣諸島を自国の領土とする理由の一つになっている。これを別の中国領土問題に当てはめて考えてみよう。中国は日本以外にも、フィリピンやベトナム、マレーシアなどと南沙諸島を巡って領有権争いをしているが、南沙諸島は、地質的にはこれら東南アジア諸国の大陸棚上にあり、中国とは連なっていない。中国政府はこと南沙諸島に関しては大陸棚を持ち出していないのだ。ある領土問題には地質的な証拠として大陸棚を持ち出し、別の領土問題では不利になるので大陸棚を領有権の証拠として持ち出さないというのは、何とも勝手な論法である。  
■沖縄県令
琉球藩が沖縄県となった1879年直後に、福岡県出身の古賀辰四郎という小資本家がさっそく那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに1885年、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出た。この古賀の要請を受け、内務省は先ず、沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令した。それに対して、沖縄県令は1885年9月22日次のように上申している。

第三百十五号 久米赤島外二島取調の儀に付上申 本県と清国福州間に散在せる無人島取調の儀に付、先般、在京森本本県大書記官へ御内命相成候趣に依り、取調べ致し候処、概略別紙の通りこれ有り候。抑モ久米赤島、久場島及び魚釣島は、古来本県に於て称する所の名にして、しかも本県所轄の久米、宮古、八重山等の群島に接近したる無人の島嶼に付き、沖縄県下に属せらるるも、敢て故障これ有る間敷と存ぜられ候へども、過日御届け及び候大東島(本県と小笠原島の間にあり)とは地勢相違し、中山傳信録に記載せる釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一なるものにこれ無きやの疑なき能はず。 果して同一なるときは、既に清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉せるのみならず、それぞれ名称をも付し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり。依て今回の大東島同様、踏査直ちに国標取建て候も如何と懸念仕り候間、来る十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向け出帆の雇ひ汽船出雲丸の帰便を以て、取り敢へず実地踏査、御届けに及ぶべく候条、国標取建等の儀、なほ御指揮を請けたく、此段兼て申上候也 明治十八年九月二十二日 沖縄県令 西村捨三 内務卿伯爵 山県有朋殿
中国の主張
日本政府は沖縄県庁に何故「内々」に島の取調べを行ったのか?日本領であるならば、公然と正式に命令する筈である。よって日本は、尖閣諸島が中国領であると知っていたのだ。現に沖縄県は、「清国側でも尖閣を詳悉せる(くわしく知っている)のみならず、各々名称をも附し、琉球航海の目標と為せしこと明らかなり」と言っているではないか。
日本の主張
政府が尖閣の調査をするにあたって、公然と行う必要はどこにもない。日本政府は清国と不必要な摩擦を起す事を避けただけである。また、清国は尖閣諸島については、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎない。そしてそれが直ちに中国領とはならないのである。
■久米赤島、久場島、魚釣島、國標建設ノ件 (1885年10月)
日清戦争後、外務卿の井上馨は次のような意見を表明する。
明治十八年 沖縄縣久米赤島、久場島、魚釣島、國標建設ノ件
清国の新聞に、我政府は清国に属する台湾地方の島嶼を占拠せし様の風評を掲げ、清政府の注意を喚起せしてあり故に此際最一番たる一小嶼には暫時は着分不相応の不要のコンプリケーション〔complication〕を避くるの好政策なるべし
内務省と外務省の認識 (1885年10月)
沖縄県令の以上のような上申書を受けたが、山県内務卿はここを日本領と認識していたので、そのことを閣議に提案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが「中山傳信録」にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路の方向を取りたるまでにて、別に清国所属の証跡は少しも相見へ申さず」、また「名称の如きは彼と我と各其の唱ふる所を異にし」ているだけであり、かつ「沖縄所轄の宮古、八重山等に接近したる無人の島嶼にこれ有り候へば」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげている。
十月廿一日発遣 親展第三十八号
外務卿伯爵 井上 馨
内務卿伯爵 山県有朋殿
沖縄県と清国福州との間に散在せる無人島、久米赤島外二島、沖縄県に於て実地踏査の上国標建設の儀、本月九日付甲第八十三号を以て御協議の趣、熟考致し候処、右島嶼の儀は清国国境にも接近致候。さきに踏査を遂げ候大東島に比すれば、周回も小さき趣に相見へ、殊に清国には其島名を附しこれ有り候に就ては、近時、清国新聞紙等にも、我政府に於て台湾近傍清国所属の島嶼を占拠せし等の風説を掲載し、我国に対して猜疑を抱き、しきりに清政府の注意を促がし候ものこれ有る際に付、此際にわかに公然国標を建設する等の処置これ有り候ては清国の疑惑を招き候間、さしむき実地を踏査せしめ、港湾の形状并に土地物産開拓見込の有無を詳細報告せしむるのみに止め、国標を建て開拓等に着手するは、他日の機会に譲り候方然るべしと存じ候。
且つさきに踏査せし大東島の事并に今回踏査の事とも、官報并に新聞紙に掲載相成らざる方、然るべしと存じ候間、それぞれ御注意相成り置き候様致したく候。
右回答かたがた拙官意見申進ぜ候也。
中国の主張
井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。清国から抗議を受けないような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は結局閣議に出さなかった。
日本の主張
外務省は尖閣諸島を清国領であるとは認めていない。ただ、その歴史的背景から、中国名でこれらの諸島が命名されており(勿論日本名もある)、日本にも近いが清国にも近く、台湾近くの清国の島(花瓶嶼や彭隹山)を占領されることを警戒し、日本を疑っている。したがってこの時期に国標を建てるのを反対しただけだ。「他日の機会に」と、つまり後日機会を伺って国標を建てる方針を内務省に伝えたのだ。
内務卿から太政大臣への国標建設の件 (1885年12月5日)
外務卿・井上馨の意見を受けた内務卿・山県有朋は、太政大臣の三条実美に国標建設は目下見合せる方がよいとの結論を伝えた。下記はその資料である。
秘第128号の内
無人島へ国標建設の儀に付内申
沖縄県と清国福州との間に散在せる魚釣島外二島、踏査の儀に付、別紙寫の道同県令より上申候。処国標建設の儀は清国に交渉し彼是都合も有之候に付、目下見合わせ候。方可然と相考候間、外務卿と協議の上、其旨同県へ致指令候。篠此段及び内申候也。
明治十八年十二月五日 内務卿伯爵 山県有朋
太政大臣公爵 三条實美殿
内務卿から太政大臣へ魚釣島鉱石の儀 (1885年12月16日)
同月、内務卿の山県有朋は、沖縄県令の西村捨三より差し出された魚釣島鉱石の資料を太政大臣の三条実美に、参考書類と共に内申した。下記はその資料である。
秘第260号の内
魚釣島鉱石の儀に付内申
沖縄県下・魚釣島鉱石分析・成績書、該県令・西村捨三より差出候間、為御参考書類相添及び内申候也
明治十八年十二月十六日 内務卿伯爵 山県有朋
太政大臣公爵 三条實美殿  
■中国は尖閣諸島は八重山に属するという認識を示した手紙を送る
沖縄県石垣市役所には上に示した感謝状が保管されている。領有権をめぐっては、中国、台湾などから対日批判が高まっているが、この史料が中国や台湾の主張を崩す有力な資料となるのは間違いない。史料は中華民国九年(一九二〇年、大正九年)五月二十日、中華民国駐長崎領事が中国漁民救助に対する「感謝状」として、当時の沖縄県石垣村(現、石垣市)村民に贈ったものである。内容は「中華民国八年(大正八年)の冬、中国の福建省恵安県(現、泉州付近)の漁民、郭合順氏ら三十一人が遭難し、日本の尖閣列島(現、尖閣諸島)にある和洋島(魚釣島のこと)に漂着した。石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)が熱心に看病し、皆元気に生還することができた。こうした看護は感謝に堪えず感謝状を贈る」というものである。
領事氏名の馮冕(ひょう・めん)の下に「華駐長崎領事」の公印と年月日の上に「中華民国駐長崎領事印」とある。注目されるのは、この漁船が遭難した当時、中華民国政府の外交当局が、感謝状の中で尖閣諸島のことを「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記している点である。このころまでに、中国が領有権の主張をした事実がないことはもちろん、むしろ積極的に尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠であり、第一級の史料価値がある。またこの史料を補完するものとして「大正九年一月 遭難支那人三十一人件」がある。
■米琉球政府の尖閣諸島
戦後、沖縄県は日本の行政権から外され、米国の占領下に置かれた。その米国占領時代の1969年5月に、琉球政府は尖閣諸島に標杭を建てた。そして台湾が正式に尖閣の領有を主張したのは1971年4月、中国も同年12月に初めて主権を主張した。その主張内容は下記の通りである。
マクロスキー報道官の質疑応答 / 1970
沖縄返還が迫る中の1970年9月10日、尖閣諸島問題に関してアメリカ国務省のマクロスキー報道官が質疑応答した。この中で南西諸島に尖閣諸島が含まれることを明言した。
人民日報 1970年 - 1972年
国外で最初に尖閣諸島の領有権を主張したのは台湾だが、直後中国も主張を始めた。当時の「人民日報」を見ると、中国の主張が断続的に掲載されているのが分かる。
中華民国政府外交部声明 1971年6月11日
中華民国政府は近年来、琉球群島の位置問題に対し、深い関心を寄せつつげ、一再ならずこの問題についての意見およびそのアジア太平洋地域の安全確保問題に対する憂慮を表明し、関係各国政府の中医を促してきた。この度、米国政府と日本政府が間もなく琉球群島移管の正式文書に署名し、甚だしきに至っては、中華民国が領土主権を有する魚釣台列嶼をも包括していることを知り、中華民国政府は再びこれに対する立場を全世界に宣明しなければなならない。
(1) 琉球群島に関して−中、米、英など主要同盟国は1943年に共同でカイロ宣言を発表しており、さらに1945年発表のポツダム宣言にはカイロ宣言条項を実施すべきことが規定され日本の主権は本州、北海道、九州、四国および主要同盟国が決定した他の小島だけに限られるべきと定めている。したがって琉球群島の未来の地位は、明らかに主要同盟国によって決定されるべきである。 1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ対日平和条約は、すなわち上述宣言の内容要旨にもとづいたものであり、同条約第3条の内容によって、琉球の法律地位およびその将来の処理についてはすでに明確に規定されている。中華民国の琉球の最終的処置に対する一貫した立場は、関係同盟国がカイロ宣言およびポツダム宣言に基づいて協議決定すべしとするものである。この立場はもともと米国政府が熟知している。中華民国は対日交戦の主要同盟国の一国であり、当然この協議に参加すべきである。しかるに米国はいまだにこの問題について協議せず、性急に琉球を日本に返還すると決定し、中華民国はきわめて不満である。
(2) 魚釣台列嶼に関して -- 、中華民国政府は米国の魚釣台列嶼を琉球群島と一括して移管する意向の声明に対し、とくにおどろいている。同列嶼は台湾省に付属して、中華民国領土の一部分を構成しているものであり、地理位置、地質構造、歴史連携ならびに台湾省住民の長期にわたる継続的使用の理由に基づき、すでに中華民国と密接につながっており、中華民国政府は領土保全の神聖な義務に基づき、いかなる状況下ににあっても、絶対に微小領土の主権を放棄することはできない。これが故に、中華民国政府はこれまで絶え間なく米国政府および日本政府に通告し、同列嶼は歴史上、地理上、使用上および法理上の理由に基づき、中華民国の領土であることは疑う余地がないため、米国が管理を終結したときは、中華民国に返還すべきであると述べてきた。
いま、米国は直接同列嶼の行政権を琉球群島と一括して日本に引渡そうとしており、中華民国政府は絶対に受け入れないものと認め、かつまたこの米日間の移管は、絶対に中華民国の同列嶼に対する主権主張に影響するのではないとも認めるため、強硬に反対する。中華民国政府は従来通り、関係各国が同列嶼に対するわが国の主権を尊重し、直ちに合理、合法の措置をとり、アジア太平洋に重大結果を導くのを避けるべきである、と切望する。
中華人民共和国政府外交部声明 1971年12月30日
日本佐藤政府は近年らい、歴史の事実と中華人民の激しい反対を無視して、中国の領土釣魚島などの島嶼にたいして「主権をもっている」と一再ならず主張するとともに、アメリカ帝国主義と結託してこれらの島嶼を侵略、併呑するさまざまな活動をおこなってきた。このほど、米日両国の国会は沖縄「返還」協定を採決した。この協定のなかで、米日両国政府は公然と釣魚島などの島嶼をその「返還区域」に組み入れている。これは、中国の領土と主権にたいするおおっぴらな侵犯である。これは中国人民の絶対に容認できないものである。
米日両国政府がぐるになってデッチあげた、日本への沖縄「返還」というペテンは、米日の軍事結託を強め、日本軍国主義復活に拍車をかけるたるめの新しい重大な段取りである。中国政府と中国人民は一貫して、沖縄「返還」のペテンを粉砕し、沖縄の無条件かつ全面的な復帰を要求する日本人民の勇敢な闘争を支持するとともに、米日反動派が中国の領土釣魚島などの島嶼を使って取引をし、中日両国人民の友好関係に水をさそうとしていることにはげしく反対してきた。
釣魚島などの島嶼は昔から中国の領土である。はやくも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域のなかに含まれており、それは琉球、つまりいまの沖縄に属するものではなくて、中国の台湾の付属島嶼であった。中国と琉球とのこの地区における境界線は、赤尾嶼と久米島とのあいだにある。中国の台湾の漁民は従来から魚釣島などの島嶼で生産活動にたずさわってきた。日本政府は中日甲午戦争を通じて、これらの島嶼をかすめとり、さらに当時の清朝政府に圧力をかけて1895年4月、「台湾とそのすべての付属島嶼」および膨湖列島の割譲という不公平条約「馬関条約」に調印させた。こんにち、佐藤政府はなんと、かつて中国の領土を侵略した日本侵略者の侵略行動を、魚釣島などの島嶼にたいして「主権をもっている」ことの根拠にしているが、まったくむきだしの強盗である。
第2次世界大戦ののち、日本政府は不法にも、台湾の付属島嶼である釣魚島などの島嶼をアメリカに渡し、アメリカ政府はこれらの島嶼にたいしていわゆる「施政権」をもっていると一方的に宣言した。これは、もともと不法なものである。中華人民共和国の成立後まもなく、1950年6月28日、周恩来外交部長は中国政府を代表して、アメリカ帝国主義が第7艦隊を派遣して台湾と台湾海峡を侵略したことをはげしく糾弾し、「台湾と中国に属するすべての領土の回復」をめざす中国人民の決意にてついておごそかな声明をおこなった。いま、米日政府はなんと不法にも、ふたたびわが国の魚釣島など島嶼の授受をおこなっている。中国の領土と主権にたいするこのような侵犯行為は、中華人民のこのうえない憤激をひきおこさずにはおかないであろう。
中華人民共和国外交部は、おごそかにつぎのように声明するものである。 -- 釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島などの台湾の付属島嶼である。これらの島嶼は台湾と同様、昔から中国領土の不可分の一部である。米日両国政府が沖縄「返還」協定のなかで、わが国の釣魚島などの島嶼を「返還区域」に組み入れることは、まったく不法なものであり、それは、釣魚島などの島嶼にたいする中華人民共和国の領土の主権をいささかも変えうるものではないのである、と中国人民はかならず台湾を開放する!中国人民はかならず魚釣島など台湾に付属する島嶼を回復する!
中台の突然の変更
上記に示したように、台湾と中国はそれそれ声明を発表し、尖閣諸島は中国固有の領であると主張した。しかしそれ以前は何も言ってこなかったのである。中国は連合国の一員であったので、もし尖閣諸島が中国領だと思っていたのであれば、日本が台湾を放棄した直後に尖閣諸島に対する意見を述べ、同島に対する処分が出来たはずである。このようなことから、中国・台湾、何れも尖閣諸島を自国の領土として認識していなかった証拠である。
台湾当局が1955年に発行した公文書の中で、尖閣諸島を沖縄群島の一部と明記している。台湾当局は戦後、中国政府と同様、領有権主張の有力根拠として同諸島が沖縄群島ではなく台湾周辺の島嶼の一部と主張しており、公文書の存在はこの矛盾を浮き彫りにする貴重な資料として注目される。
日本名  中国名  面積(平方Km)
魚釣島  釣魚台     3.82
久場島  黄尾嶼     0.90
大正島  赤尾嶼     0.06
北小島  日本名と同じ 0.31
南小島   ”        0.40
沖の北岩 ”        0.05
沖の南岩 ”        0.02
飛瀬    ”        0.01
※5つの岩礁には中国名は無く、中国側は日本と同じ名称を使っている。
更に、台湾の国防研究院と中国地学研究所が出版した「世界地図集第1冊東亜諸国」(1965年10月初版)、および中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)においては、尖閣諸島は「尖閣群島」という日本の領土であることを前提とする呼称の下に明らかに我が国の領土として扱われている。
これら地図集および教科書は、その後に入ってから中華民国政府により回収され、尖閣諸島を中華民国の領土とし、「釣魚台列嶼」という中国語の島嶼名を冠した改訂版が出版された。
また、北京の「地図出版社」が出版した「世界地図集」(1958年11月出版)においても、尖閣諸島は「尖閣群島」という島嶼名の下に日本の領土としてとり扱われている。
また、沖縄が日本に返還されるまで、米国は大正島(黄尾嶼)や久場島(赤尾嶼)を射撃場として使用し、その間、米国は日本に対して賃貸契約を結んでいる。当事関係国でないアメリカも、間接的に尖閣諸島が日本領である事を認めているのだ。
李登輝前総統の発言 2002年9月16日
台湾の前総統で現在台湾総合研究院名誉会長を務めている李登輝氏が、沖縄タイムス記者とのインタビューの中で、尖閣諸島について「台湾にも中国にも属さない(不屬於台灣,也不屬於中國)」であると発言、台湾では連日大きく報道された。彼は同諸島について「日本の領土(釣魚台是日本的領土)」と明言し、与那国島上空に設定されている台湾の防空識別圏については、「総統就任時、軍に十分注意するよう指示した(擔任總統時就指示軍方要特別注意,不要侵犯日本領空)」と当時の政策を語った。この李前総統の一連の発言で、日本の主権がますます明確になったと言えよう。 
■日本政府は尖閣諸島を公示していない?
明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土とした場合には、その正確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。
1891年硫黄列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)
1896年尖閣諸島?
1898年南鳥島(日本最東端)
1905年竹島
1931年沖ノ鳥島(日本最南端)
尖閣諸島の編入を決定する4年前の1891年、小笠原島の南々西の元無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に次のように協議した。「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分より同二十五度三十分、東経百四十一度零分より同百四十一度三十分の間に散在する三個ノ島嶼は、元来無人島なりしが、数年来、内地人民の該島に渡航し、採鉱、漁業に従事する者これ有るに付き、今般該島嶼の名称、所属に関し、別紙閣議に提出の見込にこれ有り候。然るに右は国際法上の関係もこれ有るべしと存候に付き、一応御協議に及び候也。」
「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠原島の所属とし、其の中央に在るものを硫黄島と称し、其の南に在るものを南硫黄島、其の北に在るものを北硫黄島と称す」と、その所属と島名の案も示してある。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治24年9月9日付勅令190号として、「官報」に、その位置、名称及び所管庁が公示された。さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた。
さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、1905年、竹島を日本領に編入したさいも、1月28日に閣議決定、2月15日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る島を竹島と称し、自今其の所属隠岐島司の所管とす。此の旨管内に告示せらるべし」と訓令した。そして島根県知事は、2月22日内相訓令通りの告示をした。
沖縄県(当時は米国下の琉球政府)の1970年9月10日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治28年1月14日の閣議決定をへて、翌29年4月1日、勅令第13号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」と発言した。これに対し中国は、「明治29年勅令第13号」には、このようなことは一言も示されていない、と反論する。そこでその勅令を見てみよう。
勅令第13号・抜粋
朕、沖縄県の郡編成に関する件を裁可し、茲にこれを公布せしむ。
  御名御璽
明冶二十九年三月五日
 内閣総理大臣侯爵 伊藤博文
 内務大臣     芳川顕正
勅令第十三号
第一條 那覇・首里区の区域を除く外沖縄県を盡して左の五郡とす。
島尻郡   島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及ビ大東島
中頭郡   中頭各間切
国頭郡   国頭各間切及ビ伊江島
宮古郡   宮古諸島
八重山郡   八重山諸島
第二條 郡の境界もしくは名称を変更することを要するときは、内務大臣之を定む。

確かに中国が言うように、この勅令のどこにも「魚釣島」や「久場島」の名はない。むろん「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球政府の70年9月17日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の「八重山諸島」に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。同時にこれによって、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」と発言した記録がある。ここで再び中国の主張を見てみよう。
中国の主張
米国占領下のこの琉球政府(1945-1972)の発言は捏造と言わざるを得ない。勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であることは百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、今の日本政府が幾ら言い張っても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事実を打ち消すことはできない。 
   

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