奇兵隊

奇兵隊1奇兵隊2南奇兵隊新撰組太平天国高杉晋作1高杉晋作2高杉晋作の神葬祭最小不幸の社会西郷隆盛天誅組
蛮社の獄1蛮社の獄2蛮社の獄3大塩の乱

雑学の世界・補考   

奇兵隊1

長州奇兵隊の隊士(一部)長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の1つである。「奇兵」とは藩士・武士のみからなる部隊(撰鋒隊)に対して、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊の意味。「正規兵」の反対語である。
奇兵隊などの諸隊は1863年(文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された高杉晋作らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ松下村塾の塾主・吉田松陰の「西洋歩兵論」などの影響があると指摘されている。当初は外国艦隊からの防備が主目的で、本拠地は廻船問屋の白石正一郎邸に置かれた。本拠地はのちに赤間神宮へ移る。奇兵隊が結成されると数多くの藩士以外の者からなる部隊が編制され、長州藩諸隊と総称される。
同年に奇兵隊士が撰鋒隊と衝突した教法寺事件の責めを負い、高杉は総督を更迭された。その後、河上弥市と滝弥太郎の両人が総督職を継いだのを経て、総督は赤根武人、軍監は山縣狂介が務めた。同年には、京都で八月十八日の政変が勃発し、朝廷から長州勢力が追放される。翌1864年(元治元年)、新選組が長州藩の攘夷激派を襲撃した池田屋事件の後に長州藩は京都の軍事的奪回を図り、禁裏を侵して会津藩・桑名藩などの幕府側と衝突し、長州藩の不穏な動きを警戒していた薩摩藩が援軍として加わると形勢が変わり、長州勢は総崩れになり敗北した。この禁門の変で長州藩は禁裏を侵したために朝敵となった。幕府は朝敵・長州藩を伐つため、第一次長州征伐を行う。この戦争では奇兵隊も軍事力として戦った。
長州藩が第一次長州征伐に敗北した後に、亡命していた高杉は帰藩。高杉らが藩政の主導権を握り藩の保守勢力を一掃すると、長州藩の方針は倒幕に定まる。翌1865年(元治2年)には幕府によって再び第二次長州征伐(四境戦争)が行われ、奇兵隊ほか諸隊も戦った。
1866年(慶応2年)に長州藩は薩摩藩と倒幕で一致して軍事同盟を結び(薩長同盟)、1867年11月(慶応3年10月)の大政奉還を経て、1868年1月(慶応3年12月)に薩長が主導した王政復古が行われた。奇兵隊ほか長州藩諸隊は官軍の一部となり、旧幕府軍との戊辰戦争で戦った。この頃、周防地区では第二奇兵隊(南奇兵隊)も作られている。
奇兵隊は身分制度にとらわれない武士階級と農民や町民が混合された構成であるが、袖印による階級区別はされていた。隊士には藩庁から給与が支給され、隊士は隊舎で起居して訓練に励んだ。このため、いわゆる民兵組織ではなく長州藩の正規常備軍である。奇兵隊は総督を頂点に、銃隊や砲隊などが体系的に組織された。高杉は泰平の世で堕落した武士よりも志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされる。隊士らは西洋式の兵法をよく吸収して当時最新の兵器を取り扱い、戦果を上げた。
また、被差別部落民をも奇兵隊に取り入れていたという事実も特筆するべきである。当初これらの賤民層は屠勇隊として分離され、奇兵隊とは別に扱われていた。その後彼等は奇兵隊に組み入れられる事となったが、これを機に長州藩は差別撤廃政策を敷くという抜本的政策を断行したのである。結果、長州藩内の被差別身分が差別から解放される事となり部落の生活水準は上昇したが、実質的な解放政策は江戸幕府の身分制を根幹から否定したため長州藩は幕府からはますます遠ざけられることになった。明治に入り解放令が出されると日本全国で解放令反対一揆が発生したが、旧長州藩内では解放令反対一揆はほとんど起こらなかった。部落解放同盟が山口県が最も部落解放の進んだ都道府県であることをアピールしている[要出典]根拠になっているのも理解できる。
奇兵隊は、明治維新以降、鎮台の設立に伴って廃止された。1869年(明治2年)から翌年にかけて、隊士の一部が脱退騒動を起こして山口県庁を包囲した。騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎は、九州の久留米へ逃れる。大楽は、同志を糾合して再起を図ったものの、騒動は木戸孝允(桂小五郎)により武力鎮圧され、大楽はじめ130人あまりが処刑された。また、奇兵隊士の一部は農民一揆にも参加しており、明治時代初期に多発した士族反乱にも影響を与えたと言われる。  
奇兵隊2

所属/長州藩 隊長/山内梅三郎・赤根武人・山県有朋 勢力/375名
文久三年に結成された民兵組織。長州藩が起こした馬関戦争において、戦闘のプロであるはずの武士団が諸外国のわずかな軍艦の前に大敗北してしまい、下関や前田村が諸外国軍の砲火に晒されてしまった。この結果として、農民町人たちは「武士はあてにならない。自分たちの故郷や村は自分たちで守らなければならない」と自覚する。一方、諸外国軍の強さを知ってしまった長州藩では、高杉晋作の献策を採用し、身分の低い者でも入隊可能である奇兵隊の結成に踏み切る。その当初は、兵力増強の為の臨時義勇軍として発足する。だが、その戦闘力の高さから、後に大村益二郎によって藩正規軍へと編入される事になる。吉田松陰の唱えた「草莽崛起」の理想を弟子である高杉晋作が実現させた形で出来た奇兵隊は、その隊内では身分に上下無く全員が同志という扱いだった。また能力主義を取り、階級を定めた為、能力が無いのに門閥や身分により階級が決まってしまう様な武士団と比べ、非常に合理的な部隊となった。また、奇兵隊に触発されて結成が相次いだ各長州諸隊も、奇兵隊をモデルケースとした為に、長州全体が総じて強力な兵団を持つことになった。
当初の武装は、火縄銃や刀槍などで武装された貧弱な装備だった。この装備のまま、英仏蘭米四カ国連合艦隊を馬関海峡で迎え撃つも大敗北する。この時も長州正規軍である武士は役に立たず、最も多くの犠牲を出したのが奇兵隊であり、次に庸懲隊(後に南奇兵隊と合併し、第二奇兵隊となる。)であった。奇兵隊軍監山県有朋は、この戦闘で「洋銃でなければダメだ」と悟り、長州藩全体が一挙に洋銃装備と西洋兵学の取り入れに奔走する事になる。
長州内戦の時は、高杉晋作の決起には応じなかったものの、数日後には参加して正義派の主力となって長州藩正規軍と戦い、これに勝利する。だが、この時奇兵隊総監であった赤根武人は、奇兵隊存続の為に、すでに藩政府との交渉に応じており、高杉晋作らの決起論は、奇兵隊はおろか藩を滅ぼすと非難していた。高杉軍が勝利を得る事で、俗論派の一人という烙印を押されてしまった赤根は、裏切り者の汚名を被って長州藩を脱出し、新撰組に身を寄せた時期もあった。第二次長州征伐の時には、長州藩と幕府を仲裁すべく長州領に潜入するが、捕らえられ斬首されてしまう。
長州藩政が桂小五郎・高杉晋作ら松下村塾系に支配されると、長州藩軍政改革の責任者として大村益二郎が着任。大村は、すぐさま藩士一人につき洋銃1挺を買うことを指示して、長州藩の軍政改革は急速に進んだ。同時に、奇兵隊などの諸隊も長州正規軍へ編入され、洋銃を基本装備とする洋式軍隊化する。
第二次長州征伐、世に言う四境戦争の際は、高杉晋作に率いられて小倉口に投入された。奇兵隊は、小倉に上陸して、小倉城にある幕府軍を攻め立てた。第十四代将軍の死により、幕府軍は自然解体してしまい、孤立無援となった小倉藩は、自ら城を焼き、小倉藩領内の山河に隠れ、占領軍である長州奇兵隊に対してゲリラ戦を挑む。この小倉兵の攻撃には、さしもの奇兵隊も手を焼いた。
戊辰戦争では、山県有朋に従って越後方面に出撃し、佐幕派の中で最新鋭装備を誇る長岡藩と激突する。北越戦争朝日山の攻防戦では、山県有朋率いる連戦連勝の奇兵隊も、長岡藩の河合継之助と桑名藩の名将立見鑑三郎の前に大敗北している。この後、兵力にモノを言わせて長岡城を攻略する。山県は、戦線を張って次の進撃に備えようとする。だが河合継之助は、底なし沼で誰も渡れないと言われた八丁沖の渡河作戦を決行した。戦線を張らなくて良い防御壁と思っていた八丁沖から、長岡兵の進撃を許した明治新政府軍の戦線は崩れ去った。「死に来た!」と叫びながら攻撃してくる長岡兵の前に、奇兵隊も崩れ、山県は長岡城を放棄して後退を余儀なくされ、長岡城は奪回されてしまう。
だが、河合継之助が重傷を負い、奥羽越列藩同盟の洋銃輸入の基地新潟港を攻略すると、長岡軍は急速に弱体化してしまい、敗北の道を歩む事になる。
奇兵隊は、この後会津鶴ヶ城攻城戦にも参加した。
戊辰戦争終了後は、大村益二郎の奇兵隊をモデルケースとする徴兵制度が行われると、すでに士分格となっていた奇兵隊は不要な存在となる。士分を得た事で態度が武士化していた面があり、彼らは武士に取り立てられて身分制度の上位になれたと思っていたのだ。この為に、新たに徴兵した農民町人達との間に差が出来ていたのである。また、奇兵隊は元々諸外国軍に対する郷土防衛団体として発足しており、その根底には「攘夷思想」があった。しかし、明治新政府の方針は開国であり、四民平等であった。結局、奇兵隊は解散へと追い込まれて行くが、これが奇兵隊隊士達の反発を買い、不満が爆発する格好で、奇兵隊の反乱事件へと発展してしまう。明治新政府は、反乱した奇兵隊隊士達に対して、武力鎮圧に撃って出て、これを撃破してしまう。
奇兵隊は、時代の必要性から生まれ、新たな世の象徴となった。その反面、で明治維新の矛盾から滅び去った悲劇の部隊でもある。
 
南奇兵隊 (別名/第二奇兵隊)

所属/長州藩 隊長/白井小助 軍監/世羅修蔵 勢力/125名
長州藩の上士であった高杉晋作が作った奇兵隊は、藩と直接的に結びついていた為に、多少の変動はあったにせよ隊としては結成から解散まで存続した。だが、それ以外の長州尊皇諸隊は、義勇軍的性格が強かった為、幕府軍の長州征伐に備えて指揮系統の整備を行おうとする長州藩によって、統廃合が行われている。第二奇兵隊と呼ばれる部隊もその一つであると思われる。特に第二奇兵隊の名は、南奇兵隊と膺懲隊の別名であると説明されている。この二つの部隊が、合併して第二奇兵隊となる訳ではなく、二つとも第二奇兵隊の別名を持っているのである。もっとも、後に二つの部隊が合併して建武隊となり、戊辰戦争に参加していく。ともかく、第二奇兵隊の名を用いた場合、資料的な混乱に陥りやすいので、ここでは南奇兵隊として紹介しておこう。
南奇兵隊も、なん部隊かの諸隊が合併して編成された義勇諸隊である。元治元年ごろ大島近郊で、秋良雄太郎と大洲鉄然が真武隊を、芥川義天と三国管嶺が僧練隊を結成するが、軍資金がなく隊としては行動不能で、結局解散へと追い込まれる。そして、慶応元年にこの二つを白井小助、世羅修蔵、芥川義天らが再編成する形で、真武隊を再結成する。これが、南奇兵隊の母体である。そして、幕府の長州征伐を見据えて長州領諸隊の再編が行われ、真武隊は南奇兵隊として再編される事になる。そして、この南奇兵隊の別名で第二奇兵隊とも称する。とはいえ、当時300人から400人の隊員数だったという説があり、再編成の際に軍資金の問題から125人へリストラが行われ、隊員達の間で解雇反対の反乱事件など起こしていた様である。
南奇兵隊は、農民や百姓といった階級の者が多く入隊していた。馬関戦争の手痛い敗北以降、長州領の領民は自衛郷土防衛の意識が高まり、高杉晋作の奇兵隊創設を待たず、南奇兵隊の様な諸隊が誕生している。この結果として、長州藩は総力戦の体制となり、四境戦争勝利の最大の原因となった。
四境戦争の際、南奇兵隊は第二奇兵隊と称して大島口に投入され、爆軍最強の徳川歩兵隊と激突する事になる。幕府軍は、軍艦による激しい艦砲射撃の後、幕府歩兵隊を上陸させた。長州軍は周防本土へ撤退し、大島はあっさり幕軍に占領されてしまう。ここで、幕府歩兵隊の悪癖が出る。幕府歩兵隊は、奇兵隊などと同じく百姓町人などを多く含んだ部隊であった。そして、幕府側の指揮官の質の悪さもあり、歩兵達の暴走を止める事が出来ず、大島で激しい略奪行為を繰り返すという失態を犯している。これに大島の住民達は激しい怒りを抱いていた。一方、長州藩側も、兵の数が足りず、主戦場を小倉口、芸州口、石州口の三カ所に設定しており、大島口までは手が回らない状態である。それでも、大島を見殺しには出来ず、少数ながらも大島への派兵を決定する。当然、大島で編成され防衛の任務についていた南奇兵隊(第二奇兵隊)も大島救援に向かう事になる。南奇兵隊と洪武隊の六大隊は、大島へ渡り幕府軍に奇襲を仕掛ける。大島を完全占領した事で安心しきっていた幕府軍は混乱に陥ってしまい、その指揮官達は事態を収拾する能力に欠けていた為に、幕府軍は敗北を重ねる事になる。そして、大島救援の長州軍を見た大島住人たちは、ここぞとばかりに幕府軍に対して一揆を起こし、一揆軍と力を合わせた長州軍は、ついに幕府を大島から追い出す事に成功するのである。この時幕府軍は、幕府歩兵隊の指揮官何人かが討ち取られ、軍艦に収容されて大島から逃げ帰るという完全敗北であった。こうして、大島口は長州藩の勝利となり四境戦争を終える事になる。
この後、南奇兵隊は膺懲隊と合併し、建武隊となって戊辰戦争を戦い抜く事になる。
 
京都新撰組

所属/会津藩>幕府 隊長/近藤勇 勢力/13>130名
文久二年頃より、京の都は「天誅」と称した勤王浪士による暗殺事件が多発していた。京都所司代では対応不可能となり、幕府は京都守護職を新設し会津藩をその職に着ける一方で、将軍警護の名目で江戸の浪士を幕府で召し抱えれば良いという清川八郎の意見を採り入れて浪士組を作った。
清川八郎は、京都へ到着するやいなや、浪士組の目的は将軍警護ではなく、朝廷直轄の尊皇攘夷軍となる事だと公表し、浪士組を幕府から引き離そうとする。これに不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は、浪士組を離脱した。彼らは京都守護職会津藩を頼り、会津藩の預かりとして新撰組という組織を発足させる。これ以後、京都に跳梁跋扈する勤王の志士を相手に、治安維持の最前線で血みどろの戦いを繰り返していった。
剣に腕のたつ者によって結成された新撰組は、幕末最強の剣客部隊として活躍する。特に「武士道」に重きをおき、血の掟「局中法度」による隊内統制を行う事で、烏合の衆と化す事を阻止している。新撰組においては、全員が同志同格という意識の元、実力次第で出世するという方式だった為、食い詰め浪士多数が入隊し、一時期は大勢力となっていた。その一方で、思想統制は行われなかった為、佐幕派と尊皇派が入り交じっており、新撰組の力は隊内粛正という方向にも向けられてしまう。隊内では、近藤一派と芹沢一派との勢力争いがあり、その課程で土方歳三が血の掟「局中法度」を定めた。芹沢一派は、局中法度違反として近藤一派から排除された。
元治元年に起こった池田屋事件で天下にその名を轟かせ、尊皇派から憎悪される。
薩長同盟の成立と第二次長州征伐の失敗は、政治と軍事の両面において幕府の致命傷となり、とりわけ政治的に追い詰められてしまう。
一方、新撰組では尊皇派であった伊東甲子太郎らが佐幕派である新撰組からの離脱を計り、高台寺党を結成した。土方歳三は、高台寺党との対決姿勢を強め、策を弄して伊東一派を壊滅に追いやるが、この時期には、幕府側が大政奉還に踏み切るという政治的劣勢に追い込まれ、結局第十五代将軍徳川慶喜が京都を出て大阪城へ下がると、新撰組も京都から伏見へと下がらざるを得なかった。
慶応四年に起こった鳥羽伏見の戦いに参戦し、刀槍を武器に薩長軍と戦うが薩長軍の持つ洋銃には勝てず、壊滅的打撃を被って敗北し、新撰組は事実上壊滅した。この時、土方歳三は「刀はもうダメだ。」と呟いたという。
この後も、新撰組残党は会津新撰組として会津戦争に参加。続いて函館にも函館新撰組として参加しているが、組織の体質としては京都新撰組とはまったく異質な組織となっている。
 
太平天国と奇兵隊

小島晋治「近代日中関係史断章」を読んでいたら、「太平天国と日本―明治百年によせて」の中で、高杉晋作の奇兵隊が、アヘン戦争のときの林則徐の発想や、太平天国軍の英仏軍に対する抵抗からヒントを得ているという指摘があって、あ!と思う 処があった。
* 1863年外国艦隊が攘夷に対する返礼として行なった下関砲撃事件の過程で、武士階級の無力が暴露される中で、彼(高杉晋作)は奇兵隊結成にのりだす。そこには広東の水夫、漁師、または地主勢力の指導下に農民を武装させ、これをその指揮下においてイギリス軍とたたかおうとした林則徐の発想と多分に共通するものを見ることができる。また民衆を主体とする太平天国軍の英仏軍に対する頑強な抵抗を知ったことも、この着想の一因になっていたのではないかと思われる。
以前、加藤周一氏の「吉田松陰と現代」を読んだとき、「明治維新は、事実上の身分制崩壊を、制度化したものにすぎない」(「日本文学史序説」より)と指摘されているのにちょっと驚いたことがある。たとえば「高杉晋作がその「奇兵隊」において実行したこと」は「すなわち封建的身分制の打破」であり、それは高杉の師である「松陰の「分」を超えた言論と活動」から来ているというのが加藤氏の理解である。ちなみに、加藤氏は吉田松陰を「詩人兼テロリスト兼思想家」と見ている。
小島氏は、「松陰の太平天国観」にも言及していて、「1854-55年当時、中国の事態に最も鋭敏な反応を示した」のは、獄中にあった吉田松陰だったのではないかという。だが、松陰は基本的に太平天国を「賊」視していて、「中国の轍を踏まぬために」「内政改革による新たな人民掌握、そして権力の集中こそが急務だ」という教訓をそこから読み取った。
高杉晋作は「上海近郊で太平軍が英仏・清の連合軍と交戦していた1862年初夏」に幕府の船で上海を訪れるが、高杉の反応も松陰の見方に近いように思われる。
小島晋治・丸山松幸「中国近現代史」を見ると、こういう風に書かれている。
* 1862年、鎖国以後、江戸幕府がはじめて上海に派遣した千歳(せんざい)丸に搭乗した高杉晋作らは、上海の植民地的状況と欧米の近代軍備に衝撃を受け、アヘン戦争における林則徐の対応に大きな関心を示した。帰国後まもなく、高杉は品川のイギリス公使館焼き打ちに参加し、一年後、農民・商人を含めた奇兵隊を結成して、その装備の近代化を進めようとした。また高杉の同志久坂玄瑞(くさかげんずい)は藩主への上書のなかで「天草の乱」の再来として太平天国に反発を示し、キリスト教禁止の徹底を求める一方、彼らのイギリス・フランス軍との戦いが、英仏の日本に対する軍事的圧力を弱めていると指摘した。
ところで、私が気になったのはむしろ林則徐のほうである。高杉は上海で林則徐に「なみなみならぬ関心と敬意を示し」たそうだが、「中国近現代史」は林則徐について次のように記している。
* 林則徐は、マカオで発行されていた外国新聞、書籍の翻訳、研究などを行なって、西欧事情の把握に努め、これをつうじて西欧文明の軍事技術面の優越性を認識した。彼はまた、のちの洋務運動にさきがけて、ポルトガル、アメリカから洋式大砲を購入し、自力でこれを製造することをも意図した。また正規軍だけではなく、沿岸の漁民、水夫を徴募、訓練して海上のゲリラ作戦を準備し、広州周辺で、郷紳を中心に団練を組織させて、民族的な抵抗を展開する構えを見せた。
林則徐はアヘン貿易の厳禁派で、1839年に欽差大臣(特命全権大臣)に任命されて広州に派遣されると、「断固たる態度と手段をもって」外国商人にアヘンの提出を命じ、没収した約二万箱のアヘンを廃棄した。これがアヘン戦争につながるわけだが、四〇年にイギリス軍が中国沿海に到着すると、清朝はその遠征艦隊の威容に驚愕して林則徐を罷免し、妥協派の人間に交渉を担当させる。林則徐のそれまでの準備と努力が水泡に帰してしまったわけである。
だが、林則徐の「方法」は、実は1853年にペリー艦隊が浦賀にやってきたときの日本側の対応に影響を与えていた。
* この中島の主張は、アヘン戦争のときに、林則徐がイギリス代表に、「イギリスでは、〔他国へ行くと〕その国の法律に従うしきたりになっているはずだ」と言ったのと同じ趣旨の発言だという。そして、「林則徐の反論は、近代国際法を林則徐が漢訳させた「各国禁律」によっていた」というのが面白い。(井上勝生「幕末・維新」)
小島氏によると、駐日公使オールコックは、「ペルシア・インド・ベトナムの抵抗、そしてなによりも現にその抵抗をつづけている太平天国」を念頭において、対日政策を考えた。つまり、「イギリスの対日政策をその対華政策とことならしめる一つの要因になった」のは、アジア諸民族の民衆的抵抗とその「連関性」に対する認識だったのだと。[イギリス自身これをなによりも鋭く認識しており、アジア諸民族、さし当たり日本の対外抵抗派(攘夷派)がこの連関性を利用し抵抗を強めることを極度に警戒していた。]
ここから考えると、勝海舟が神戸の海軍操練所を日本、朝鮮、清国三国同盟の足掛りにしようという遠大な構想を持っていたというのは、「この連関性を利用し抵抗を強める」という狙いがあったからだろうと思える。高杉晋作も、上海からの帰国後、「外敵を敵地にふせぐ必要を痛感して海軍建設を志し、独断でオランダに蒸気船一隻を注文」したりしたが(これはオランダが手を引いて、破談に終わったという)、それは「中国の轍を踏まぬために」であって、そこにアジア諸民族の民衆的抵抗の「連関」というインターナショナルな認識があったかどうかは疑わしい。
* 要するに明治維新はたんに日本民族の力のみによってなしとげられたのではなく、アジア諸民族の当時におけるたたかいの一つの集約点として達成された。それはたんに外圧を緩和したということのみならず、アジア諸民族とりわけ中国の経験を吸収することが、維新の思想形成の大きな契機となったという意味でもそうであった。だがそれは太平天国=アジア農民のたたかいを「賊」視せざるを得ない勢力を指導勢力として実現させた。その後継者たちは1854-55年に松陰が構想した対外路線を歩むことになる。その中で高杉や久坂が漠然とにせよ理解していたもの―日本の独立が中国の民族的たたかいに助けられているという認識―は消失していかざるを得なかった。
 
高杉晋作1

天保10年8月20日-慶應3年4月14日、日本の武士、長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。 変名を谷潜蔵、谷梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷潜蔵と改名。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。。。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。
10歳の頃に疱瘡を患う。漢学塾を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられるとその獄を見舞うが、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年)11月に帰郷、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女、まさと結婚する。
文久元年(1861年)3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦丙辰丸に乗船、江戸へ渡る。8月には東北遊学を行い、佐久間象山や横井小楠とも交友する。文久2年(1862年)5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、1854年からの民衆反乱である太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の「遊清五録」によれば大きな影響を受けたとされる。
長州藩では、高杉の渡航中に守旧派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、高杉も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京師(京都市)において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。
文久2年(1862年)、高杉は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば……」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金澤八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎)が相談した。しかし久坂が土佐の武市半平太に話したことから、これが土佐前藩主山内容堂を通して長州藩世子毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作った。
この過程で、高杉は頼りになるのは長州の志士だけだとする長州ナショナリズムを形成し、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、専ら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。また、幕府の罪人として処刑された松陰の遺骨を白昼堂々小塚原から世田谷に移して会葬する。これらの過激な行いが幕府を刺激する事を恐れた藩では高杉を江戸から召還する。
文久3年(1863年)5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の報復に逢い惨敗する。高杉は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。
京都では薩摩藩と会津藩が結託した宮廷クーデターである8月18日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、高杉は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず、脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島は戦死、久坂玄瑞は自害する。8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。時に高杉晋作、24歳であった。
交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきた。高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところを深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している。ただし、このエピソードは当時の記録にはなく、ずっと後年の伊藤の回想に依拠しているため、真実か否かは不明である。
幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(伊藤博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより、攘夷派・俗論派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。
慶応元年(1865年)1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年)3月29日には新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。
さらに慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる。 5月には伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を単独購入。
6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させた。その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。その後さらに攻勢に出るも小倉城手前で肥後藩の猛反撃に合い、一時小康状態となる。しかし、幕府軍総督小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した幕府軍諸藩が随時撤兵し、7月には将軍徳川家茂の死去の報を受けた小笠原がこれ幸いと戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となり、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還への大きな転換点となった。しかし、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、慶応3年(1867年)4月14日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る(享年27)。臨終には、父・母・妻と倅がかけつけ、野村望東尼と山県狂介、田中顕助が立ち会ったとされるが、田中の残した日記によれば、彼はその日京におり、詳細は定かではない。墓所は山口県下関市。
なお、木戸孝允・大村益次郎らによって、現在の靖国神社に、東京招魂社時代の始めから吉田松陰・久坂玄瑞・坂本龍馬・中岡慎太郎たちと共に表彰・鎮魂され、祀られている。
辞世の句 「おもしろきこともなき世をおもしろく」
下の句は看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」とつけたと言われている。しかし、この句は前年にすでに読んでいたという記録も残っており、正確ではないという説もある。
都々逸「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。
顕彰碑には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」とある。これは伊藤博文が高杉晋作を評した言葉である。
高杉は長身ではなく小柄であり本人もそれを気にしていたため直立して撮った写真は現存しない。また小柄ではあったが長刀を好んで愛用していた。その姿は刀が長いため引きずって歩いているように見えたという。
師である吉田松陰は高杉の非凡さを逸早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない高杉を奮起させるためあえて、同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。高杉は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。久坂と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなどとても優秀であったという。
公金と私金の区別がつかない(つけない?)人物だった。
一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれ刀を見せた事があったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われその事を遺憾に感じた高杉はそれ以後決して見せる事は無かったという。
高杉が上海で購入したピストルが、坂本龍馬に贈られたという。
高杉氏ルーツの諸説
小説家の司馬遼太郎は現在の広島県三次市高杉の「高杉城」を晋作のルーツであると指摘している。この高杉城は江田氏の配下にあった祝(はふりし)という神事に関わっていた人々の城跡という。広島県安芸高田市に所在する「高杉山城」を指摘する説もある。こちらの城跡には高杉晋作が高杉氏の13代目の子孫であることを示す碑が晋作の子孫により昭和10年(1935年)に建立された。どちらの高杉城も晋作とかかわりあるとおもわれるがはっきりしたことはわからない。高杉氏は安芸の守護職武田氏の配下でなんらかの神事に関わっていた一族だろうと推測する説もある。家紋は丸に四つ割菱。
 
高杉晋作2

幕末の動乱の時代に、山口県萩市(長州藩)で生まれました。奇兵隊の創設など幕末期にさまざまな革命を起こし、長州藩を倒幕の方向に決定付けた立役者です。松下村塾門下生として吉田松陰に大きな影響を受け、松陰の遺志を実現するため、文字通り走り続けた高杉晋作。
1839年誕生-幼少時代 / 高杉晋作は、天保10年8月20日(1839年9月27日)、長門国萩城下の菊屋横丁(現・山口県萩市南古萩町)で、生まれました。父親は、高杉小忠太、母親は、道(みち)といいました。のちに、武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)という三人の妹が誕生しましたが、長男である晋作は、高杉家のあと取りとして、大事に育てられていきました。
高杉家は、戦国時代より毛利家に仕えてきた、長州藩の名家です。祖父・又兵衛、父・小忠太も、長州藩の重要な職を歴任してきました。晋作は、高杉家の家柄に関して、高い誇りを持っていたようです。そのため、晋作にとって、父、小忠太は生涯、頭が上がらない存在でした。
8歳になると、萩でも評判だった寺小屋「吉松塾」に入りました。ここで高杉晋作は、生涯のライバルであり親友でもあった、久坂玄瑞と出会うことになります。久坂玄瑞は晋作よりも一歳年下でしたが、成績は優秀で、その秀才ぶりは他の塾生からも認められていました。勉強嫌いの高杉晋作とは比べものになりませんでした。
14歳のときに、長州藩士の子供たちのための学校である、明倫館に入学しました。高杉家の跡取りとして将来を期待されていた晋作は、ここで一人前の武士になるための教育を受ける必要がありました。けれども明倫館での勉強は、昔ながらの進歩のない学問ばかりでした。そのため、高杉晋作は勉強はあまりせず、剣術ばかりに打ち込んでいました。
1857年松下村塾入門 / 高杉晋作の将来に重大な影響を与えた出来事といえば、松下村塾に入門したということがあげられます。
吉田松陰が主宰する松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れ、活きた学問を勉強する場としての役割を担っていました。
高杉晋作は19歳のとき、幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、松下村塾の門をたたきました。入塾時、自信のあった自作の詩を見せると、吉田松陰は「才能はあるが、久坂玄瑞よりは劣っている。」と指摘しました。吉田松陰のこの一言が、負けず嫌いだった晋作を奮い立たせ、それ以来、勉学に没頭するようになりました。
松下村塾での勉強は、学んだ知識をどのように実行にし、将来の日本にどう活かすか、ということを中心に進められていきました。この吉田松陰の思いを忠実に受け継いだ塾生の中からは、明治維新、明治新政府で活躍した、多くの逸材が育っています。その中でも高杉晋作は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに、「松下村塾四天王」と呼ばれ、他の塾生たちからも一目置かれる存在でした。
1858年江戸遊学 / 1858年に入ると、全国へ遊学(国内留学)する松下村塾生が増えました。これは、吉田松陰の強い勧めによるものです。
塾生たちは、遊学により現実の日本を知ることができました。また、吉田松陰のもとへは、塾生たちから全国各地の情報が寄せられ、飛耳長目帳(ひじちょうもくちょう)と呼ばれる資料にまとめられていきました。この飛耳長目帳により、吉田松陰や長州に残った塾生たちも、全国の現実を知ることが出来ました。
全国へどんどん出て行く塾生たちの姿を見ていた高杉晋作は、自分だけが取り残されたような気持ちになり、ついには、吉田松陰に遊学の仲介をしてくれるよう頼みました。それを受けた吉田松陰は、藩の重職についていた周布政之助に、藩政府より晋作を遊学させてくれるようお願いし、ついに晋作の江戸遊学が認められることになりました。
江戸に到着すると、まず、大橋訥庵(おおはしとつあん)の大橋塾に入門しました。そしてその後、本来の目的である昌平黌(しょうへいこう)に入門します。期待いっぱいでやってきた江戸遊学でしたが、どちらも、晋作にとっては全く役に立たない講義ばかりで、がっかりしてしまいました。
1859年吉田松陰処刑 / 1858年より安政の大獄が始まりました。(幕府の大老・井伊直弼、老中・間部詮勝らの「朝廷の許可なしで日米修好通商条約を結ぶ」計画に反対した人たちを、権力を使って抑圧した事件) このことに憤慨した吉田松陰は、水戸藩などの同士たちと一緒に、老中の間部詮勝の暗殺を計画していました。
暗殺計画を知った長州藩は、びっくりして、吉田松陰を萩の野山獄という牢屋へ入れ、松下村塾を閉鎖してしまいました。
その後、吉田松陰は梅田雲浜(うめだうんぴん)とのつながりを疑われ、幕府の命令により江戸の伝馬町獄へ投獄されました。梅田雲浜は、幕府を批判していたため、安政の大獄で摘発され、投獄されていた人物です。
昌平黌の学生であった高杉晋作は勉強のかたわら、獄中の吉田松陰の世話役として、精力的に尽くしました。けれども、晋作が松陰に近づくことを良く思っていなかった父・小忠太は、藩に依頼し、晋作を萩に呼び戻してしまいました。
晋作が江戸を離れ、萩に向かっているそのころ、吉田松陰の取調べが行われました。梅田雲浜との関係は否定していた吉田松陰ですが、間部詮勝の暗殺を計画していたことについて正直に話してしまい、これにより死罪が確定しました。
高杉晋作が吉田松陰の死を知ったのは、萩に到着してからのことです。まさか師匠が処刑されるとは思ってもみなかった晋作は、悲しみと怒りに震え上がりました。そして吉田松陰の志を、受け継ぐ覚悟を心に決めました。
1860年結婚 / 師匠である吉田松陰が亡くなって、悲しみと怒りに震えていたそのころ、晋作の気持ちとは裏腹に、父・小忠太が縁談の話を進めていました。個性の強いひとり息子を早く落ち着かせて、高杉家の跡取りにふさわしい人物にしようという思いによるものでした。
縁談のお相手は、同じ長州藩士、井上平右衛門の次女雅(まさ)でした。30歳までは結婚しないと言い張っていった晋作でしたが、父親への忠誠心により、縁談を受け入れ、1860年(安政7年)に結婚しました。晋作は22歳、雅は16歳でした。
しかしながら、激動の人生を生き抜いた高杉晋作ゆえ、二人が一緒に過ごすことができた期間は、6年間の結婚生活の中で、わずか2年ほどしかありませんでした。
1860年試撃行 / 1860年、高杉晋作は、江戸にある幕府の軍艦教授所に入所することになりました。江戸までの道のりは、丙辰丸(へいしんまる)という、長州藩所有の軍艦に乗り、乗船訓練を兼ねての旅です。以前から、航海学や西洋の学問を学びたいと思っていた晋作は、意気揚々と訓練に参加しました。
約60日かけて江戸へ到着しましたが、その航海は晋作にとっては、さんざんなものでした。船中での生活は、とても不自由で退屈でしたし、航海術もそう簡単に修得できるものではありません。江戸に着くころには、すっかり意欲をなくしていました。航海中につけていた「東帆録(とうはんろく)」という日記も、途中でやめてしまいました。
航海が自分には向いていないということを悟った晋作は、江戸に着くとすぐ、軍艦教授所の入所を勝手に取り消してしまいました。
軍艦に乗ることをあきらめた晋作は、改めて文学と剣術に力をいれることを決意しました。そして、剣と文学の修行を目的とした、北関東、北陸を回る旅にでました。この旅は、試撃行(しげきこう)と名付けました。
晋作は生涯でたくさんの旅をしていますが、試撃行は生涯の中で、唯一晋作自身が計画、実行した旅でした。その他の旅はすべて、藩からの命令によるものか、政治的な亡命によるものでした。
試撃行では、笠間の加藤有隣、松代の佐久間象山、福井の横井小楠などの名士に会い、充実した日々を過ごしました。けれどもその反面、自分の未熟さを思いしらされた旅でもありました。
1862年上海視察 / 文久元年(1861年)、高杉晋作は長州藩主、毛利敬親のあと取り、定広の小姓役を命じられました。小姓役(こしょうやく)とは、付き人のような役職なのですが、上級武士しか就任することが出来ませんでした。晋作が就任するまでは、父、小忠太がこの役を務めており、親子二代に渡り、小姓役を努めることになったのです。晋作はこれを機会に、本格的に藩政に関わるようになっていきました。
ちょうどそのころ、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)が「航海遠略策」といわれる意見書を提出しました。「航海遠略策」は、幕府と朝廷が一緒になって(公武合体)、開国を進め、海外に目を向けましょうという内容の提案でした。
高杉晋作たちが進めていた尊皇攘夷は、その反対で、天皇を尊敬し、外国、外敵を撃退しようという思想です。尊皇攘夷の思想と対立する長井雅楽の意見に、高杉晋作は、久坂玄瑞たちと共に大反対しました。そして晋作は、ついには長井雅楽の暗殺まで実行しそうな雰囲気になってしまいました。
おだやかな解決を望んでいた仲間の桂小五郎たちは、晋作の行動に不安を感じ、晋作をいったん国外に出すことを思いつきました。ちょうどそのころ幕府が募集していた上海視察へ、晋作を藩の代表として乗せることにしたのです。この話を聞いた晋作はあっさりと暗殺計画を止め、上海行きに同意しました。
文久2年(1862年)5月から約2ヶ月間、高杉晋作は上海に滞在しました。上海で見た光景は、晋作を愕然とさせることになりました。そこには、アヘン戦争に負けた影響で、欧米の植民地のようになってしまった悲惨な中国の姿がありました。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどってしまうとの思いにかりたてられました。そして、この上海視察により、高杉晋作が将来進むべき道を決定付けることになったのです。
1862年英国公使館焼き討ち / 高杉晋作が上海視察から帰国したころ、「航海遠略策」は朝廷により却下され、長井雅楽はすでに立場を失っていました。これにより、長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷」に転換されていたのです。即今攘夷(そっこんじょうい)とは、ただちに外国を撃退しようという思想です。
上海から帰ったばかりの高杉晋作は、ただちに行動を起こすべきだとの思いにかられ、他藩の藩士たちと共に、横浜の外国人を暗殺する計画を立てました。しかし残念ながら、この外国人暗殺計画はあっさりと長州藩に洩れてしまいました。今は混乱を起こすべきではないと、長州藩からの警告をうけ、計画の決行を取りやめることになりました。
その後、晋作は、長州藩だけの尊皇攘夷運動組織を立ち上げました。当時、品川に建設中だった英国公使館に火を放ち、これをきっかけに長州藩対幕府の戦争を勃発させるという計画だったようです。この焼き討ちは成功し、英国公使館は炎上しました。けれどもこのことを、幕府がそれほど大きく取り上げなかったため、本来の目的である、「長州藩対幕府の戦争勃発」は、実現しませんでした。
結局、この計画は失敗に終わってしまいました。
1863年隠遁 / 高杉晋作は周布政之助に対して、今こそ倒幕に向けて動くべきだと提言しました。しかし、周布政之助の返事は、「それには10年早い、その時期が来るまで待ったほうがいい」とのこと。それを聞いた高杉晋作は「それならば、10年間、暇を頂きます」と藩に休暇願を提出し、あっさりと認められました。
晋作は、髪を切って坊主になり、吉田松陰の生誕地、松本村の近くで草庵を結び、10年間の隠遁生活に入ってしまいました。このころ、晋作は、尊敬していた歌人、西行にちなんで東行(とうぎょう)と名乗っていました。
高杉晋作が隠遁生活を送っていたころ、幕府や長州藩では大きな動きが起こり始めていました。幕府は朝廷からの圧力に負け、攘夷を決行することになったのです。その攘夷期限がくると、長州藩は、関門海峡を通る外国船を次々に、無差別に攻撃し始めました。しばらくは長州藩の優勢が続いていたのですが、その後、アメリカとフランスの猛反撃にあい、長州藩は、またたく間に寛大な被害を受け、危機的な状況におちいってしまったのです。
1863年奇兵隊結成 / 長州藩はアメリカやフランスの艦隊からの猛攻撃により、圧倒的な武力の差を見せつけられました。この難局を乗り切るため、長州藩主・毛利敬親は、隠遁中の高杉晋作を呼び出し、関門海峡の防衛についての対応策をたずねました。晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」との提案をしました。敬親は晋作のアイデアを承認し、下関の防衛を晋作に任せることにしました。これにより、10年の予定だった晋作の隠遁生活は、わずか2ヶ月で終わってしまいました。
平和な世の中に慣れてしまった武士だけでは、力にならないと感じていた晋作は、身分に関係なく広く兵士を募集しました。これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるものです。「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。吉田松陰の教えを忠実に受け継いだ高杉晋作は、奇兵隊の結成に草莽崛起の思想を取り入れました。
こうして集まった民兵組織「奇兵隊」を、下関の白石正一郎の邸宅で立ち上げ、初代総督に就任しました。
高杉晋作が立ち上げ、その後、討幕に向けて大活躍することになる奇兵隊ですが、晋作の奇兵隊総督としての役目は、わずか3ヶ月で終わってしまいました。長州藩には、武士だけで構成された正規軍がすでにありましたので、いうなれば新参者の奇兵隊とは、事あるごとに衝突していました。そしてついには、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、隊士を斬り殺すという事件も発生してしまいました。(教法寺事件)
これをきっかけに、高杉晋作は総督を解任されました。
1864年野山獄に投獄 / 長州藩で教法寺事件が起こった、ちょうどそのころ、京都では「八・一八の政変」が起こりました。これにより、攘夷派である長州藩は京都から締め出されることになります。
京都での政変を受け、長州藩では勢力の回復方法について、二つの勢力が対立することになりました。一つは遊撃隊の総督を務めていた来島又兵衛らによる武力で解決しようとするグループ、もうひとつは、周布政之助や高杉晋作らによる慎重に事を進めようとするグループです。
高杉晋作は、藩主の命令により、来島又兵衛の説得を行うことになりましたが、これがなかなかうまく行かず、ついには様子を見てくるといって、藩主に無断で京都に行ってしまいました。桂小五郎たちに説得され、長州藩に戻った晋作は、この行為が脱藩とみなされ、かって吉田松陰も投獄されていた牢屋、野山獄に入れられてしましました。高杉晋作は、約三ヶ月もの間、野山獄に投獄されていたのですが、その間、長州藩は大きな危機をむかえていました。
京都の池田屋で新撰組との乱闘の末、吉田稔麿を失い、(池田屋事変)
京都蛤御門付近で長州藩士と、会津藩、桑名藩、薩摩藩の諸隊との衝突(禁門の変)がおこり、久坂玄瑞、入江久一、来島又兵衛を失ってしまいました。これらの事変により、松下村塾四天王のうち、残ったのは高杉晋作だけとなりました。
また幕府は、禁門の変で長州藩兵が発砲した銃弾が御所へ向けて飛んだという理由で、この責任をとらなければ、長州に攻撃をしかけると脅してきました。そのうえ下関では、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が報復攻撃をしかけてきました。
絶対絶命の状態となった長州藩でした。
1864年連合国と講和談判 / 1864年8月、長州藩の攻撃によって大打撃を受けていたイギリスが中心となり、フランス、オランダ、アメリカと共に四国連合艦隊を結成、下関に再度攻撃を仕掛けました。このときには奇兵隊も応戦しましたが、近代兵器の威力にはかなわず、敗戦が濃厚となりました。そして長州藩は戦いをやめ、講和の道を選ぶこととなりました。野山獄を出た後、自宅で謹慎中だった高杉晋作を呼び出し、講和の全権を任せることにしました。
連合軍との話し合いの場に立った高杉晋作は、悪魔のように傲然として交渉にのぞみました。欧米側の要求は、「賠償金300万ドルの支払い」と、「長州藩の領地である彦島を借してくれ」とのことでした。晋作はこれをきっぱりと拒否しながらも、攘夷を捨てることはあっさりと約束しました。こうして、何度かの話し合いで、講和談判をまとめあげました。これにより、長州藩は一つの危機を脱出することができました。
この講和談判をきっかけに、長州藩は尊王攘夷から尊王討幕に転換しました。
1864年功山寺挙兵 / 連合軍との講和談判が整ってすぐ、長州藩内では、幕府寄りの政治を推し進める、俗論党が要職を占めることになってしまいました。これにより、討幕を推し進めていた高杉晋作の仲間たちは、次々に排除されていくことになりました。井上門多は襲われ瀕死の重傷を負い、周布政之助は藩政を窮地に追い込んだ責任をとり自決、高杉晋作も、自分の身の危険を感じはじめていました。
このままでは自分の命も狙われると悟った晋作は、福岡の平尾山荘に住んでいる、野村望東尼(のむらもとに)のもとに潜伏し、長州の情勢を見守ることにしました。長州藩がどんどん幕府寄りになっていく様子を、しばらくみていた高杉晋作は、いまこそ行動をおこすときだと判断し、下関に戻りました。
下関に着くとすぐ、高杉晋作は諸隊をまわり、「兵を挙げて幕府寄りの俗論党と闘おう」と説得してまわりました。すぐにその説得に応じてくれたのは、遊撃隊と力士隊のふたつだけ、約80名という小さな兵力ではありましたが、晋作には、いずれは他の諸隊も同調してくれるだろうという確信があったようです。
そして約80名の兵は、長府の功山寺に集結しました。まずは下関で長州藩の奉行所を襲撃、そして、三田尻で奇襲攻撃をしかけ、藩の軍艦3艇を強奪しました。この活躍に他の諸隊も次々に同調、兵力はどんどん増えていき、2000人にも達する規模となりました。大田絵堂の戦いを皮切りに、次々に正規軍と交戦し、勝利していきました。
約2ヶ月もの戦いの末、俗論党政権は追放され、藩政は討幕へと踏み出すことになりました。
1866年四境戦争 / 討幕を掲げることになった長州藩は、土佐浪士の坂本龍馬の仲介で、西郷隆盛の薩摩藩と薩長同盟を結びました。八・一八の政変以来、対立が続いていた長州藩と薩摩藩でしたが、ついに団結するときがやってきました。
6月にはいると幕府征長軍が、長州藩領を四方から取り囲み、攻撃を仕掛けました。四境戦争の始まりです。長州藩の藩境は4ヶ所あり、芸州口、大島口、石州口、小倉口の、それぞれの藩境で戦いが行われたため、四境戦争と呼ばれました。第二次長州征伐などと呼ばれることもあります。
幕府は、まず大島口を攻撃、あっと言う間に周防大島を占領してしまいました。この知らせを聞いた長州藩は、高杉晋作を現地に派遣しました。晋作は、幕府の軍艦に対して夜のうちに奇襲をかけ、あっさりと撃退してしまいました。
芸州口、石州口でも戦いが開始されましたが、芸州口では井上聞多、石州口では大村益次郎の活躍により、勝利しました。
小倉口では、大島口から戻った晋作が指揮をとり、幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられました。途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城奈落という形で長州藩の勝利で幕を閉じました。
それぞれの戦地で長州藩が圧倒的に勝利し、幕府の弱さが浮き彫りになりました。そして、討幕への大きなきっかけとなりました。
1867年死去 / 以前より、肺結核におかされていた高杉晋作の病状は、小倉口の戦いのころには、立てなくなるほどに悪化していました。それでも、無理をして陣頭指揮をとろうとする高杉晋作に対し、長州藩は療養に専念するよう命令しました。
高杉晋作は、藩の命令に従い、下関の桜山招魂場下の家で療養生活に入りました。けれども、すでにすべての力を出しきっていた晋作には、遅すぎる療養生活でした。
慶応3年4月14日(1867年5月17日)、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残し、高杉晋作は、28歳という若さで、その激動の人生の幕を閉じました。
かつて晋作が、吉田松陰から死生観について聞いた言葉に次のようなものがあります。
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」
師の教え通り、数々の命の危険をおかしながら、晋作は生き抜いてきました。そして、また師の教え通り、高杉晋作は不朽の功績を残しこの世を去っていったのです。
高杉晋作のなきがらは、奇兵隊の本拠地である下関吉田に葬られました。
高杉晋作が亡くなって、半年後、15代将軍徳川慶喜は、政権を返上することを申し出ました。(大政奉還)
260年あまり続いた江戸幕府が倒れ、明治時代の始まりとなりました。
 
高杉晋作の神葬祭

はじめに
高杉晋作の神式葬儀を考える場合、近世に於ける長州藩の神葬祭はいつ頃、どのように始まったのかを考察しておく必要がある。小藩ではあるが隣藩の津和野藩では慶応三年(1863)藩主亀井茲監公が率先し、藩内すべてを神道葬に改めたほどの神葬祭運動の高まりを見せていたが、 長州藩では藩をあげて神葬祭に転化するといった動きはなかった。
江戸時代では神道は京都の白川家と吉田家が全国の神職支配の行っていたのであるが、神葬祭は元々は神社神職の中で行われていた葬儀だったのである。つまり白川家や吉田家の裁許があれば、長州藩でも神社神職家の神職本人及び嫡子の神葬祭は行なうことが出来た。しかしながら徳川幕府の人民統治の重要政策である寺請制度によって、神式葬儀が武士や町人・ 農民にまで許されるものではなかった。
しかしながら幕末の長州藩では、尊皇攘夷の志士や勤皇家の間には神道葬への強烈な志向が存在していたのである。その代表格が初代奇兵隊総督の高杉晋作と馬関の勤王の豪商として知られた白石正一郎である。そして重要であるのは、長州藩の最精鋭部隊として倒幕戦に重要な役割を果たし、奇兵隊という日本の近代的軍隊の先駆けとなった組織に於いて、戦死者が神式で葬られ祀られたという事実が存在している。
幕末長州藩の尊皇攘夷の志士や勤皇家のこうした神道葬執行の史実があるにも拘らず、このことが従来ほとんど指摘されて来なかったのは、彼らの余りに華々しい政治活動とその成果に注目が集中した為に、彼らの近代日本宗教史に与えた重要な宗教面が見過ごされてしまった故ではないかと思える。しかし歴史の流れに則して云えば、幕末維新の長州藩を導いた彼らが、戦死者への神式の葬儀や祭祀を行なったことが、当時の長州藩に於ける招魂社(明治維新までに16社が創建)を創建させ、それは近代の靖国神社・招魂社・護国神社の創建へと展開したといえるのである。
そこで今回は、高杉晋作の神葬祭に絞って考察を加えることとした。  
一、奇兵隊の神葬祭の始まり
高杉晋作の葬儀が神式で行われるに至ったことには、それなりの経緯があったといえる。その経緯とは、文久三年五月に結成された奇兵隊との関係にある。奇兵隊奇兵隊士を神葬祭で葬ったのは奇兵隊結成の初期に始まる。その最初は結成5ヶ月後、奇兵隊の本陣が防府三田尻に置かれていた文久三年(一八六三)十月二十二日の木原亀之進からであった。木原亀之進は、十月十九 日に自害していた。
十月十九日一、木原亀之進、楳田時蔵方ニおゐて夜五ツ時自害致候ニ付き、
瀧惣管其外見届相済、大枝八郎治を以、萩表同姓茂左衛
門方及報国候事、十月廿二日一、夕刻、木原亀之進遺骸埋葬ニ付、
(『奇兵隊日記』(1))
「神主を申請、神祭之式ニ致」たのであった。木原亀之進以外で、奇兵隊による神葬祭執行が明確なのは、明治元年十一月に死没した福田侠平(奇兵隊軍監)である。
十一月十日 福田侠平北国より帰候由承、東一差遣候処、大病也、福田侠平死去、近藤政介
神葬書付かりニ来ル福田葬式吉田ニて執行、東一差遣候
(『白石正一郎日記』(2))
福田侠平は奇兵隊の幹部で、明治元年十月十六日に北越戦争から凱旋して下関で酒を飲み、卒倒してそのまま息を引き取り、高杉の墓(現在の下関市吉田の清水山東行庵)の隣に神式で埋葬された人である(3)。 隣に福田侠平が埋葬された初代奇兵隊総督の高杉晋作の葬儀が、神式で執り行われたことは良く知られている。
しかしながら実際どのような神葬祭が行なわれたのかということになると、これまで神道側からの研究が全然行なわれていないという事情もあって、不明な点が多いと云わざるを得ないのである。
また、戦死した隊士を直ちに桜山招魂場に招魂していたことは、慶応元年(1865)1月に諸隊(正論派)と藩政府軍(俗論派)の間で
戦われた内紅戦で奇兵隊戦死者が出、その霊魂を祀ったと考えられる桜山招魂場に、奇兵隊幹部や隊士がが同年4月19日以降相次いで参詣している。或いは慶応二年(1866)6月に始まった四境戦争小倉口の戦いで戦死した奇兵隊士7名の神霊を同年7月に桜山招魂場に祭る祭祀が奇兵隊が執り行っていることによって窺い知ることができる。
その奇兵隊の初代総督が高杉晋作であり、高杉は小倉口の戦いにおいても決定的な指揮をとって、勝利に導いているのである。その高杉の遺骸は、本人の今際の際の遺言(葬儀の際に読まれた祝詞に記されている)によって奇兵隊の本陣が於かれていた厚狭吉田の清水山に埋葬されたのである。  
二、高杉晋作の葬儀
高杉は慶応三年四月十三日に赤間関で病没するが、その遺骸は奇兵隊本陣が置か れていた吉田(赤間関からは二十キロメ−トル程離れている)に埋葬された。吉田清水山(現在、高杉の菩提を弔う東行庵が 営まれている)に高杉の遺体が埋葬された理由は、高杉の遺言(4)によるとも、高杉が死ぬ間際に「吉田…」とつぶやいたことから(5)とも伝えられている。
高杉の葬儀を全面的に取り仕切ったのは幕末の志士を広 く援助したことで有名な下関の豪商白石正一郎である。勿論、白石正一郎は最初期からの奇兵隊士でもある。正一郎は、父白石資陽の葬儀を神式で行なった慶応三年三月二十八日(7)から二週間程して高杉晋作 の神葬祭を執り行うことになった。
高杉晋作は四月十四日午前二時頃に死去する。
四月十三日 今夜八ツ時分高杉死去の段、為知来片山と林へ行、
そのことを片山貫一郎が知らせに来たので、正一郎は そのまま片山と連れだって林算九郎邸(高杉は、林家の離れで息を引き取った)へ出向き、帰宅して直に片山・山県・福田等と葬儀の段取りを相談したのだった。
四月十四日 朝林よりかえる、高杉神祭一条、片山と申談示書付遣し候、昼前より山県狂介福
田侠平来り、高杉神祭一条談示、一酌夜中ニ帰ル、山県近日上京ニ付、藤井良節へ刀の事催促、手紙言伝ル、 今夜大庭一平長崎よりかへり来る。
片山とは、白石正一郎が父資陽の葬儀の際に葬地の神祭を頼んだ奇兵隊教授方の片山貫一郎である。片山貫一郎は、白石家の分家で同じ赤間関竹崎で回船問屋を営む 白石良右衛門(正一郎とは従兄弟に 当たる)の姪を妻にしていた関係から、正一郎とは縁類関係にあった。
白石正一郎は、片山貫一郎や山県狂介・福田侠平といった奇兵隊最高幹部と相談した上で、高杉の神葬を取り進めたのだった。 四月十五日には、高杉の葬祭用具が悉く白石正一郎邸に預かり置かれた。
十五日 今日高杉の神祭用具、悉此方へ預置候
十六日になると、白石邸に預かり置かれた神祭用具は吉田へ送られて、葬祭が 執り行われた。
十六日 右神祭用の品、吉田へ送リ出ス、今朝片山ヘ萩行ニ付、金壱両餞別トして遣ス、清渡辺与三左エ門へ被立寄候様、渡辺へ先日の礼、反もの二反遣ス。
高杉の葬儀についてはよく解らない点もあるが、葬儀次第等は『谷東行主神葬略式』によって知ることができる。
当記録は白石正一郎の手になるものとして、これまでにも部分的ではあるが既刊書で紹介されている。冨成博著『高杉晋作』(6)(長周新聞社発行、一九七九年)三七四頁。 『白石正一郎日記』の四月十四日条には、「高杉神祭一条、片山と申談示書付遣し候」と記されているところから、『谷東行主神葬略式』は、この「書付」を基にしているのと考えられる。
また、末尾に「死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之」とあって、「自葬式」の語が用いられていることは、父資陽の葬儀を「水戸の自葬ニ習い」と記した白石正一郎自身が記した書付としてよい有力な根拠になると考えられ 、以下に『谷東行主神葬略式』(8)の全文を紹介する。(『谷東行主神葬略式』の解読・活字化には、本会副会長の広田暢久氏の全面的なご助力をいただいた。近世文書には 全くの素人である私には、当文書 の解読・活字化など独力では全く歯が立たないものであった。広田氏は所蔵先の長府博物館までご同道下さり、原本との校合までして下さった。この場を借りて、改めて謝意を申し上げたい。)  
丁卯四月十六日    
谷東行主神葬略式
一 忌の事  親の喪夫の喪は、妻子たる者ハ其日より酒肉をたち慎むべし、葬の時葬地にゆく道中徒跣の事、寒中たりとも足袋を用ふべからず、すべて忌あ る人々は、皆すあしの事  
一 棺  吉田迄の道中ハ病気の体、吉田着の上旅宿にて神祭の事但し、馬関を夜に入はやく出立、凡四ツ頃吉田着、直様其夜葬ふるべし  
一 神祭用具の事 先ツ棺のうしろに屏風にても立廻シ、前の 方に机一脚長サ凡一尺居ヱオキ、此上に献供の三方ヲ五ツならぶる事、献供の品ハ○御酒一対○野菜物○海草類○?菓子類 但し、時の木の実に干菓子ヲ取合セ可然か
一 右の机の前に、又壱ツ小キ机を居ヱおきて、真中に神主(イハイ)・香炉・香合・両脇に花瓶二ツ、灯明二ツおくべし 但し、灯明ハ野辺に持ちゆき、風にきえぬやうに、かねてあんどんを用ひおくべし、花は榊を用ひ候事
一 献供相済 親子兄弟ヲ始用夫迄、順々焼香すべし、但し、各手を柏ち拝し、丁寧に致すべし
一 此時出たちとして、親子始其外へも一統に膳を居ヱ候事 但し、平皿汁とも手軽にして魚肉用ふべからず、勿論無酒の事
一 右相済時刻見合せ、凡夜半頃葬送の事
一 是ヨリ先キ、葬地にて土地の神を祭るべし但し、通例の清浄なる机か、又は八足にても用意し、○神酒○洗米○肴類供すべし、魚ハ干魚にてもよろし、是ハ死骸を埋メ土地を穢すゆゑに、其御断りを申す心得なり、勿論忌服なき者祝詞を白し祭るなり  
旅宿ヨリ葬地迄の行列
一 大松明 二ツ 但し、棺の前凡五六間程おきて左右也
一 箒持二人  但し、棺のまえ凡そ弐間程おきて同断
一 棺      但し、棺舁四人各白木綿無紋のはつぴ着用
一 机一脚   但し、先に旅宿にて用ひ候小き方、其侭持参の事、位牌、香炉、香合、花立、灯明等、其侭持行也
一 三方  壱ツ 供膳用、但し、葬地ニて右の机の上へニ置べし○洗米○塩○野菜の類、又ハ干物類ニても可然候、各かハらけの少し大き分に盛てよろし、五品程にて可然致か
一 鎗・挟・箱・合羽・籠等、此処に行列すべし
一 大松明 二ツ 但し、右道具持ヨリ凡三間程おきて左右
一 親類其外惣供 但し、親・妻・子・血つゞきの者ハ、婦人たり共葬地迄ゆくべし
一 壙の深サ凡六尺、葬地壙の前の方、手広く致し置べし、是ハ前以用意之事
一 壙の前の方に、荒こも三四枚敷ならべ、其上に棺及供物の机などすゑ置、其まへの方のあらこものうへにて、祭主 祝詞をよミ祝詞をハりて親子・妻・兄弟順々に焼香・拍手・拝礼の事
一 焼香相済、棺をしづかに壙中におろし埋メ候事 但し、埋メをハりて又銘々焼香まへの如し 埋メをハり焼香相済、銘々帰宿の時、 一統一揖して静かにすべし、其時おもく忌のかゝる人を守護し、家に持ちかへり、机の上にすゑおき、存生の中の如毎日供膳、神酒・菓子・魚類、すべて何にても珍らしき物を奉るべし、五十日の間ハ昼夜灯明あかしおく也其後ハ、毎年春秋両度に祭奉仕すべし、勿論其月・其日にあたれる時ハ、子たるもの前日より酒肉を禁ずべし  
調もの荒まし覚
一 棺 箱にして随分長く広く、木も相応に能木にて、板の厚一寸位出来立にすへし  
蓋釘付の事
一 台輪 丈夫ニ造るべし
一 棒  長く作るべし、凡四人舁 
一 馬 二ツ 背高サ棺に応じ見合の事
一 まんりき トウにて丈夫に調候事
一 四方に七五三縄張候事
一 机二脚、但し長サ六尺と四尺位高サ凡一丈 但し、四尺の方根を調ふべし、野辺にて雨ふりの時、香炉の火消え、又ハ供物香の類濡候故也
一 香炉 一ツ
一 香合 一ツ
一 花立 二ツ
一 灯明用 油器二組
一 かハらけ 上五ツ、但し三方に盛ル程に洗米・塩其外用
一 三方 六ツ 九寸程 但し五ツハ宅ニて用ふ、一ツハ葬地用
一 あらこも三四枚
一御神酒徳り 二ツ ○死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之
この次第書によれば高杉の葬祭は、白石資陽の葬祭と同じく深夜に行なわれたと思われる。暗くなるや早々と下関新地を出発し、四ツ(十時)頃吉田に到着する。その宿で祭祀を行なった後、夜半に墓所で再び祭祀を行なって遺体は埋葬された。その遺体埋葬に先立って、埋葬地の土地神へ埋葬断わりの祭祀も行なわれた。  
ここで白石正一郎が父資陽の葬儀の時に行なった水戸 の自葬式について述べておきたい。水戸の自葬とは、水戸光圀が「僧侶の勢力を弱め無用の出費を少なくするため士民に儒式による葬祭を勧めた」(9)とされ、神職については「光圀が領内の神職に対して、本人ならずその家族 に至るまで、僧侶によらず、神職自身による葬儀を行なうこと」に始まる葬法とされている。
岡田荘司氏の研究によれば、その葬祭書は朱子の作とされた『文公家礼』に基づいて編纂され、寛文六年(一六六六)に家臣に 『喪祭儀略』が下された。それが更に調えられて『神道集成』第十二巻の葬祭書になったとされる。金井淳氏によれば、『神道集成』第十二巻の「葬禮式」は、
全体を通じて儒葬を参考としながらも我が国独自の形を模索し、次第の中に取り入れようとする努力の跡が伺える内容であると
され、神式の祝詞奏上などの神道的要素も取り入れられた葬祭書であったことを指摘している。
白石正一郎は、父の葬儀を「水戸の自葬ニ習い」と記し、高杉の葬 儀次第書である書付末尾にも「死骸ヲ棺にをさめ候迄の義ハ、凡自葬式に有之候故略之」として、「自葬」の語を使用していることからすれば、高杉の葬儀も水戸の自葬を手本としていたことは間違い無いと思われる。
では、白石正一郎はどのような自葬の葬儀書を参考としたのだろうか。白石正一郎の書付と『神道集成』「葬祭」を比較すると、共通点は殆ど見られず、白石正一郎が参考にした葬儀書は『神道集成』ではないと思われる。
近藤啓吾氏の研究(10)によれば、『神道集成』(11)に先だって纏められた『喪祭儀略』(12)には「入棺、土地神を祭る、埋葬、神主を書く」等の次第が記されているとされる。その『葬儀略』は、金井淳氏論文「徳川光圀の葬祭研究 とその現代的意義について」に、諸本を校訂した全文が紹介されている。そこで『喪祭儀略』と『谷東行主神葬略式』と比較すると、式次第は幾分異なるものの大筋の流れは相似ており、また儀式に用いる諸祭具や儀式内容 は極めて近似していることが知られる。 例えば、『喪祭儀略』では、墓所の土地神を祭った後、これに連続して埋葬・墓前祭を行なうとしているのに対して、『谷東行主神葬略式』では、前もって土地神を祭り、埋葬・墓 前祭は旅宿から直接赴いて行なうという次第であるが、納棺前後の棺前の設えは殆ど同じである。
『喪祭儀略』
其後、霊座とて尸骸の前に其人の常に着たる肩衣服にても卓子にのせ 其上に魂帛を置き又前に卓子を置き、上に香炉、香合、燭台を置き、酒、茶、菓子をそなゆ
『谷東行主神葬略式』
右机の前に、又壱ツ小キ机を居ヱおき、 真中に・香炉・香合・両脇にを花瓶二ツ、灯明二ツおく べし。
『喪祭儀略』にある「魂帛」とは、仮の依代のことで、人形に似ているとされ、最終的には墓穴に埋納されるものである。また、墓前での埋葬祭祀を終えてからの次第も、「神主(イハイ」を奉じて家に帰り、これを机に置いて酒・菓子などを毎日供える等の服喪期間中に於ける事柄も、ほぼ共通したものである。加えて焼香を行なうことも共通している。
こうした点から、白石正一郎は『喪祭儀略』ないしはそれに近い系統の葬儀書に依りながら、これを幾分修正して高杉の葬祭を執行したものと考えられる。 明治元年十一月の福田侠平の葬儀の際には、「近藤政介神葬書付かりニ来ル」とあることからも、白石正一郎が執行した 葬儀及び奇兵隊が行なった葬祭は「水戸の自葬式」に基づいていたと云えるものであろう。
更に、『喪祭儀略』で興味深い点は、墓の前に立てる石碑についての記載である。石碑圖〔石碑、高さ四尺今尺にて二尺五寸五分、厚さ七寸九分今尺にて九寸一分、闊さ一尺一寸今尺にて七寸六分、碑首は圭首とて四方よりそぎて中を高 くするなり、□高さ九寸半今尺にて六寸、横二尺四寸四方今尺にて一尺五寸四方、碑面に、故某號某君墓と題し、その人の事跡、生卒の年月日を傍に刻す、文長ければ、後にまはして刻すべし〕 この石碑図を立体的に描いてみると、、山口県の方であるならば、その形と同様な形の石碑をすぐに連想することが出来る。即ち、この碑形は山口県内にある招魂社(桜山神社等)に必ず附属している招魂碑の石碑と同じ形と思われる。特に碑首が四方から削いで中を高くした形で、角柱である点、台が一段である点は同じである。
これまで、県内の招魂墓(石碑)の形が何に由来したものなのかよく解らなかったのであるが、『喪祭儀略』の墓前石碑 図によって、この葬儀次第書を範とした碑型であったと云えるのではないだろうか。したがって墓前石碑の形からも、白石正一郎や奇兵隊が用いた葬儀次第書は『喪祭儀略』であったことが強まると思われる。 ちなみに、『神道集成』の石碑は 「石碑高二尺八寸、廣八寸、厚五寸、頂如笏首、」とあり、頭部が笏の形で、圭首形の『喪祭儀略』や招魂社にある墓碑とは明らかに違っている。  
さて、高杉晋作の葬儀に奏上された片山貫一郎作の祭文(13)が伝えられている。紙数の制約もあって全文を紹介できないが、重要な部分のみを紹介させていただく。 
祭谷東行大人文
此国乃殿人籏本尓仕 功績高伎谷潜蔵源東行大人乃棺前尓 真人梅之進主尓代
片山高岳 剣太刀柄押伏厳戈末傾 畏美畏美母申須 汝為瞑之言尓 厚狭吉里尓
遺骸乎葬奉礼止 遺言置給都留随意 今所尓葬奉良牟止志称白 言阿里(中略)
和魂波 殿乃命乃近守神止仕奉 荒御魂波 御軍乃先鉾乎仕 四方之仇 浪寄来奴輩乎
科戸乃風乃天之八重雲吹放事之如久  (以下略)
この祭文では、高杉の和魂(にぎみたま)・荒魂(あらみたま)とに対して、和霊は藩主の側に仕え守護し、荒霊は軍の先鋒となって四方から押し寄せる敵を退かせよと祈請されている。実はこの荒魂(あらみたまの働きは、長門国一宮に祭られる住吉神の神格と全く同じである。即ち長門一宮の住吉神は、『延喜式』に「住吉坐荒御魂神社三座」と記されるように、住吉三神の荒魂を祭ったとされており、一方の和魂を祭ったのが摂津国一宮の住吉神社とされる。神功皇后の三韓征伐の際、住吉神は皇后に次の様に託宣したと『日本書紀』は記す。     我和魂服王身而守壽命。荒魂先鉾而導師船(我和魂は王身に服ひて壽命を守り、荒魂は先鉾となりて師船を導かん)
この祭文を作った片山高岳は、身近な長門国一宮に鎮座する住吉神の神格の由来や意味を知っていた上で、こうした表現を当祭文 に用いたとされるのだろうか。
祭文の中に荒魂・和魂の表現があることは、高杉の葬儀に参列した人々(奇兵隊関係者>も含めて)が、人の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂とする神道的解釈を理解することが出来たことを推測させる。和魂が守るのは「殿」、即ち藩主とされていることは、如何にも近世の藩主と臣下の関係を象徴する表現と思われるが、人の神霊の働きに関した具体的な表現であり、寧ろこの祝詞から幕末志士達の、人の神霊への信仰を具体的に知ることができる。しかし高杉の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂と考えたことが、長門国住吉神の神格から発想されたとは一慨に云えない。それは、これと同様な章句が、文久二年十二月の京都霊山の霊明舎に各藩の殉難志士を網羅して祭った時の、古川 躬行の祝詞(14)に見出されるからである。
…請忠義諸君乃和魂荒魂 知毛不知無毛洩事無脱事 此祭庭爾天駆理来会坐
同志諸人酒飯山海乃多米津物乎捧而 歓仰状乎平久安久聞給比 和魂 朝廷乎
守幸閉 諸司百官忠誠爾国郡領主等邪穢心不令在 荒魂蠏行横浜在留夷賊波更也
若軍艦寄来牟波討罰米千里乃波濤爾逐沈米(以下略)
忠義諸霊の和魂には朝廷を守り、荒魂には夷賊を逐い沈めることが祈願されていることは、高杉の場合に於けるのと同一の思考と云えるものであろう。  
こうしたことからすると幕末の日本では、人の死後の神霊を和魂・荒魂の二魂とする思考が広 く行き渡っていたと考えられ、またそうした神霊観が古来からの伝統的神霊観を引き継いでいたことも云える。
さて、白石正一郎の書付から、香と酒肉の禁止を取り、焼香の代わりに玉串を用い、位牌を霊璽とすれば、今日の神葬祭にほぼ近く、 また片山高岳の祭文が今日の神葬祭祝詞としても通用する祭文であると思われることは、幕末の長州藩に於ける神葬祭が如何に進んだものであったかを示している。而も、その葬祭が水戸の自葬を手本として、長州藩の奇兵隊関係者に行なわれて いたことは実に注目されることではないだろうか。
奇兵隊と神道との結び付きは長州藩に於ける招魂社の創建、そして近代の靖国神社の創建へと進展するのであるが、そのことは拙論「幕末長州藩に於ける招魂社の発生」に詳しく論じたので、 ここは再論しないことにする。以上で当論文を終えたい。  
[注]
1 『奇兵隊日記』(マツノ書店刊、一九八三年)。
2 『白石正一郎日記』(『白石家文書』所収、下関教育委員会編集・刊行、昭和四十三年)。
3 一坂太郎著『高杉晋作秘話』、「福田侠平伝」(東行記念館刊、一九九九年発行)
4 注14祭文。
5 『高杉晋作と奇兵隊』「・終焉」(東行庵発行、平成六年)。
6 冨成博著『高杉晋作』(長周新聞社発行、一九七九年)三七四頁。
7 『白石正一郎日記』慶応三年三月二十八日条。
8 『谷東行主神葬略式』(長府博物館所蔵)。
9 岡田荘司「神道葬祭成立考」(『神道学』第百二十八号、昭和六十一年)十三頁。
10 近藤啓吾「水戸の葬礼」(「國學院雑誌」九〇−五、平成元年)岡田荘司氏前掲論文。
11 『神道集成』(『神道体系』首編一)近藤啓吾氏前掲論文。
12 金井淳「徳川光圀の葬祭研究とその現代的意義について」(『神社本庁教学研究所紀要』第二号、平成九年)。
13 「祭谷東行大人文」(東行庵所蔵)、『東行庵だより』に全文掲載。
14 加藤隆久「招魂社の源流」(『神道史研究』第十五巻第五・六号、昭和四十二年。『現代神道研究集成』第六巻所収、神社新報社刊、平成十二年)。  
 
政治の役割は最小不幸の社会を作ること

菅直人首相は8日夕、就任後初の記者会見を行い、「政治の役割は国民が不幸になる要素、世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか。最小不幸の社会を作ることにあると考えている」と述べた。
「今夕、天皇陛下の親任をいただいた後、正式に内閣総理大臣に就任することになりました菅直人でございます。国民のみなさんに就任にあたって、私の基本的な考え方を申し上げたいと思います。私は政治の役割というのは、国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか。最小不幸の社会を作ることにあると考えています。もちろん、大きな幸福を求めることは重要でありますが、それは、たとえば恋愛とか、あるいは自分の好きな絵を描くとか、そういうところにはあまり政治が関与すべきではなくて、逆に貧困、あるいは戦争、そういったことをなくすることにこそ政治が力を尽くすべきだと、このように考えているからであります。そして、今、この日本という国の置かれた状況はどうでしょうか。私が育った昭和20年代、30年代は、物はなかったけれども、新しい、いろいろなものが生まれてきて、まさに希望に燃えた時代でありました。しかし、バブルが崩壊してからのこの20年間というのは経済的にも低迷し、3万人を超える自殺者が毎年続くという、社会の閉塞(へいそく)感も強まって、そのことが、今、日本のおかれた大きな、何かこう全体に、こう押しつぶされるような、そういう時代を迎えているのではないでしょうか。私はこのような日本を根本から立て直して、もっと元気のいい国にしていきたい。世界に対しても、もっと多くの若者が羽ばたいていくような、そういう国にしていきたいと考えております」
「そのひとつは、まさに日本の経済の立て直し、財政の立て直し、社会保障の立て直し。つまりは、強い経済と強い財政と強い社会保障を一体として実現をすることであります。今、成長戦略の最終的なとりまとめを行っておりますけれども、日本という国は大きなチャンスを目の前にして、それにきちっとした対応ができなかった。このように思っております。たとえば、鳩山前総理が提起された、地球温暖化防止のための(温室効果ガスの)25%(削減)という目標は、まさに日本がこうした省エネ技術によって、世界の中に新しい技術や商品を提供して、大きな成長のチャンスであるにもかかわらず、立ち遅れてきております。また、アジアの中で、歴史の中で、最も大きな成長の時期を迎えているにもかかわらず、先日も中国に行ってみましたら、いろんな仕事があるけれども、日本の企業はヨーロッパの企業の下請けしかなかなか仕事がとれない。一体どんなことになったのか。つまりは、この20年間の政治のリーダーシップのなさが、こうしたことを生み出したと。このように思っております」
「成長戦略の中で、グリーンイノベーション、そしてライフイノベーション、そしてアジアの成長というものを、私たち、それに技術や、あるいは資本や、いろいろな形で関与することで、わが国の成長にもつなげていく。こういったことを
柱にした新成長戦略、これに基づいて財政配分を行いたいと考えております」
「また、日本の財政状況がこれまで悪くなった原因が、端的にいえばこの20年間、税金が上げられないから、借金でまかなおうとして、大きな借金を繰り返して、効果の薄い公共事業、例えば100に近い飛行場をつくりながらまともなハブ空港がひとつもない。これに象徴されるような効果の薄い公共事業にお金をつぎ込み、また一方で社会保障の費用がだんだんと高まってきた。これが今の大きな財政赤字の蓄積の構造的な原因であると。私は財政が弱いということは思い切った活動ができないわけでありますから、この財政の立て直しも、まさに経済を成長させるうえでの必須の要件だと考えております。そして社会保障についても、従来は社会保障というと何か負担、負担という形で、経済の成長の足を引っ張るんではないかと、こういう考え方が主流でありました。しかし、そうでしょうか。スウェーデンなどの多くの国では、社会保障を充実させることの中に雇用を見いだし、そして若い人たちも安心して勉強や研究に励むことができる。まさに社会保障の多くの分野は、経済を成長させる分野でもある。こういう観点に立てば、この3つの経済成長と財政と、そして社会保障を一体として、強くしていくという道は、必ず開けるものと考えております」
「国際的な問題についても触れたいと思います。日本は、戦後60年間、日米同盟を基軸として外交を進めてまいりました。その原則は今も原則として、しっかりとそうした姿勢を続けていく必要があると考えております。それと同時に、アジアにある日本として、アジア諸国との関係をより深め、さらに、ヨーロッパや、あるいはアフリカや、あるいは南米といった世界の国々とも連携を深めていく。このことが必要だと思っております。普天間の問題で、日米関係を含めて、いろいろと国内の問題も含めて、国民のみなさんにご心配をおかけいたしました。日米の間の合意はでき、それに基づいて進めなければならないと思っておりますが、同時に閣議決定においても述べられました、沖縄の負担軽減ということも、真摯(しんし)に全力を挙げて取り組んでいかなければならないと考えております。大変困難な課題でありますけども、私もしっかりと、ひとつの方向性をもって、この問題に取り組んで参りたい。このように思っているところであります」
「そして、私、首相としての仕事は何なのか。この間、テレビなどを少し見ますと、私が任命をした閣僚や党の新しい役員が、それぞれマスコミのみなさんの取材を受けて、いろいろな発言をしているわけです。どうですか、みなさん。そういう、私よりも10歳、20歳若い、そういう民主党の閣僚や党役員の顔を見て、声を聞いて、「ああ、こんな若手が民主党にはいて、なかなかしっかりしたことを言うじゃないか。なかなかこれならやってくれそうではないか」、そういうふうに思っていただけたんじゃないか。私は鳩山由紀夫前首相とともに、1996年に旧民主党をつくり、98年に新たな民主党、初代の、初代の代表となりました。その後、小沢一郎前幹事長の率いる自由党と合併をして、今の民主党になったわけでありますけども、そこにそうした人材が集まってきたこと。私はそのことがうれしいと同時に、自信を持って、今申し上げたような日本の改革を推し進めることができる。このように思っております」
「そして、この多くの、民主党に集(つど)ってきたみなさんは、私も普通のサラリーマンの息子でありますけれども、多くはサラリーマンや、あるいは自営業者の息子で、まさにそうした普通の家庭に育った若者が、志を持ち、そして努力をし、そうすれば、政治の社会でもしっかり活躍できる。これこそがまさに本来の民主主義のあり方ではないでしょうか。そのみなさんとともに、このような課題を取り組んでいく上で、私の仕事は、ひとつの方向性をきっちりと明示をし、そして内閣、あるいは党をですね、その方向で、議論するところは徹底的に議論をして、みんなが納得した上でその方向にすべての人の力を結集していく。そのことが私の仕事だと考えております。ま、首相になったからには、もうあまり個人的な時間はとれない。本当なら53番札所まできているお遍路も続けたいところですけども、今しばらくはそれを、まさに後に延ばしても、ある意味では、官邸を中心に、これこそが修行の場だと、そういう覚悟で、日本という国のため、さらには世界のために、私のあらん限りの力を尽くして、よい日本を、よい世界をつくるために全力を挙げることを国民のみなさんにお約束いたしまして、私からの国民のみなさんへのメッセージとさせていただきます。よろしくお願い申し上げます」  
首相は首相指名後の記者会見で、今回の組閣について「官邸機能をしっかりして内閣の一体性を担保する」と指摘している。首相も副総理として加わった鳩山政権は短命に終わったが、その背景にどんな構造的問題があったのか。今回の組閣では、その教訓を生かして、どこがどう変わるのか
「まあ、鳩山内閣において、私もですね、副総理という重要な役割をいただいていたわけですから、鳩山内閣が短命に終わってしまったことは、もちろん残念でありますし、私も大きな責任を感じております。ま、その上で、新たな、私の下の内閣は、やはり官房長官を軸にした一体性というものを考えて構成をいたしました。つまりは首相の下の官房長官というのはまさに内閣の番頭役であり、場合によっては、首相に対してもですね、「ここはまずいですよ」と言えるような人物でなければならない。よく中曽根康弘政権の下の(官房長官の)後藤田正晴先生の名前が出ますけれども、まさに、そうした力をもった方じゃなければならないと思っております。仙谷由人官房長官は私とは長い付き合いでありますけれども、同時に、ある意味では、私にとっても、煙たい存在でもあるわけであります。しかし、そういう煙たい存在であって、しかし、力のある人に官房長官になっていただくことが、この政権の一体性をつくっていく上での、まず、最初の一歩だと考えております。そして、その下に官房副長官、さらには各閣僚、そして副大臣という形を構成します」
「ま、この間、政と官の問題でいろいろ言われましたけれども、決して官僚のみなさんを、こう排除してですね、政治家だけでものを考え、決めればいいということではまったくありません。まさに官僚のみなさんこそが、政策やいろんな課題を長年、取り組んできたプロフェッショナルであるわけですから。そのみなさんのプロフェッショナルとしての知識や経験をどこまで生かして、その力を十分に生かしながら、一方で国民に選ばれた国会議員、その国会議員によって選ばれた首相が内閣をつくるわけですから。国民の立場というものを、すべてに優先する中で、そうした官僚のみなさんの力もつかって、政策を進めていく。このような政権を、内閣をつくっていきたいし、今日、全員の閣僚とそれぞれ10分程度でありますけれども、時間をとって話をいたしました。それぞれに頑張ってほしいということと同時に、必要となれば、私がそれぞれの役所のあり方についても場合によっては、官房長官を通してになるかもしれませんが、「もうちょっとこうしたらいいんじゃないの」と、こういったことも申し上げて、一体性と同時に政と官のよりよい関係性を、力強い関係性をつくっていけるように努力をしていきたいと考えております」
参院選について。改選期の議員を中心に7月11日の投開票を求める声が出ている。今国会の会期を延長し、投開票日を先送りする考えはあるか。また、参院選の争点と目標獲得議席数、勝敗ラインについてはどのように考えるか
「国会の会期というのは、通常国会というのは150日と決まっております。本来はその期間の中で成立させるべき法案を、すべて成立させたいわけでありますが、会期末を近くに控えて、まだそんな状況になっておりません。そういう中で国民新党との間での合意、つまりは郵政の法案について、それの成立を期すという合意もあるわけです。一方では、たとえ多少の延長をしても、必ずしも、すべての法案を成立させることは難しい。それならまた選挙の後に改めて取り組むこともあっていいんではないかという意見もいただいております。これから新しい幹事長、あるいは国対委員長の下で、そうした連立の他党の皆さんとも十分議論をした上で、その方向性を定めていきたいと考えております」
「選挙における勝敗ラインということがよく言われますけれども、私は6年前、岡田代表の下で戦われた参議院選挙でいただいた議席がまずベースになる。そのベースをどこまで超えることができるか、あるいは超えることが本当にできるのか。これから私もすべての選挙区について私なりに選挙区情勢を把握をしながら、近く発足する予定の参議院選挙対策本部の本部長として陣頭指揮をとっていきたいとこのように考えております」
先ほど財政再建の重要性を強調されたが、参院選に向けて、消費税を含む税制の抜本改革をどう位置づけていくか。財政再建に関して新規国債発行額を今年度の44.3兆円以下に抑えると述べているが、参院選に向けて公約に明記する考えがあるのか
「確かに44.3兆円以下を目標とするということを申し上げました。ただ、これは誤解をいただきたくないのは、44兆3000億(円)の国債を出すことで、財政再建ができるということではありません。これでも借金は増えるんです。この規模の財政出動を3年、4年続けていれば、GDP比で200%を超える公債残高が数年のうちにそういう状況になってしまいます。そういった意味ではこの問題は実はまさに国として、とらえなければならない最大の課題でもあります。これから所信表明演説もありますけれども、こういう問題こそ、ある意味では、一党一派という枠を超えた議論の中で、本当に、どこまで財政再建のためにやらなければならないのか。それは規模においても時間においても、どうあるべきなのか。そのことをある意味では党派を超えた議論をする必要が、今この時点であるのではないかと思っております。そういうことも踏まえながら、最終的な政権としての公約も含めて、そういうものを考えていきたいと思っております」
全閣僚の会見、官房長官の会見などを国民のために完全に開く意思はあるのかどうか。
「開くという意味がですね、具体的にどういう形が適切なのか、まだ私も総理という立場でまだ検討ということまで至っておりません。率直に申し上げますと私はオープンにすることは非常にいいと思うんですけれども、ややもすれば、何かこの、取材を受けることによって、そのこと自身が影響してですね、政権運営が行き詰まるというそういう状況も何となく私には感じられております。つまり政治家がやらなければいけないのは、まさに、私の立場で言えば、内閣総理大臣として何をやるかであって、それをいかに伝えるかというのは、例えばアメリカなどでは報道官という制度がありますし、ま、かつてのドゴール大統領などはですね、あまりそう頻繁に記者会見はされてはいなかったようでありますけれども、しかし、だからといって、国民に開かれていなかったかといえば、必ずしもそういうふうに一概には言えないわけです。ですから回数が多ければいいとか、あるいはいつでも受けられるとか、そういうことが必ずしも開かれたことではなくて、やるべきことをやり、そしてそれに対してきちんと説明するべきときには説明する。それについてどういう形があり得るのか、これはまだ、今日、正式に就任するわけでありますから、関係者と十分議論をしたいと思ってます」
政権が代わり、首相が代わったということで、衆参同日で選挙を打つ考えはあるか。
「まず、新しい政権になって、国民の皆さんから、参議院の選挙で審判を受けることになります。衆議院の選挙にということついて、ま、ときどきいろんな方が言われるのは、分からないわけではありませんけれども、まず参議院の選挙で、今ここでも申し上げたような、ある意味では昨年の選挙で公約を出しましたし、また大きな意味での方向性をだんだんと固めてきた問題も含めて、きちっとこの参議院選挙で議論をさせていただきますので、そのことに対しての国民の審判を、まずいただくというのが、最初にまあ、やることというか、やらなければならないことだと思っております。その意味で現在のところ衆議院選挙について、さらにやるべきだという、必ずしも、そうなるのかどうか、これはまったく白紙ということで考えております」
鳩山政権は「政治主導」や「友愛政治」とよく言われたが、菅政権が目指す方向性、キーワードがあったら教えてもらいたい
「私自身は草の根から生まれた政治家でありますので、草の根の政治という表現がひとつ浮かぶわけですが、もう少し元気が良いところで言えば、そうですね、まあ私の趣味で言えば「奇兵隊内閣」とでも名付けたいと思います。私は今は坂本龍馬が非常に注目されていますが、長州生まれであります。高杉晋作という人は逃げるときも早い、攻めるときも早い。果断な行動をとって、まさに明治維新を成し遂げる大きな力を発揮した人であります。今、日本の状況はまさにこの停滞を打ち破るためには果断に行動することが必要だ。そして、奇兵隊というのはまさに武士階級以外からもいろいろな人が参加をして奇兵隊をつくったわけですから、まさに幅広い国民の中から出てきたわが党の国会議員、これが奇兵隊のような志を持って、まさに勇猛果敢に戦ってもらいたいという期待を込めて「奇兵隊内閣」とでも名付けてもらえればありがたいと思っています」
鳩山由起夫前首相は退陣の理由で「政治とカネ」の問題、普天間問題をあげた。枝野幸男幹事長は小沢一郎前幹事長の政治倫理審査会への出席に関し、ご本人の判断に任せるといったが首相はどう考えるか。普天間問題では、8月末までに工法など詳細を決定するということだが、沖縄県では反対されている。どう判断していくつもりか
「鳩山前首相がですね、自らの辞任のあいさつの中で今、ご質問がありました政治とカネと普天間の問題をあげて、いわばその問題でこの民主党政権が本来やらなければならないことがなかなか国民に理解してもらえなくなったということで自ら身を引かれたわけです。そういう意味では、この後を受けた私の政権はある意味では前首相の思いをしっかりと受け止めて引き継いでいかなければならないと思っています。政治とカネの問題については前首相の発言もあって、小沢前幹事長も自ら幹事長を引いておられるわけです。ある意味でこれで十分と考えるかどうかということはいろいろな立場がありますが、政治という場でそうした首相でもある代表を辞任し、また最も党の中で重要な役職である幹事長を辞任するという一定のけじめであると思っています。それを含めて、どうしたことがさらに国会や他の場面で必要になるのか、そこは特に国会の問題では幹事長を中心にそうしたことについては他党の主張もあるわけですから、しっかりと他党の主張も聞きながら判断していきたいと思っています」
「普天間については、日米合意を踏まえるという原則はしっかりと守っていかなければならないと思っています。ただ、だからといって沖縄の皆さんが現在の時点で賛成をしていただいているというふうにはまだまだ思える状況にないことも分かっています。8月の専門家によるひとつの方向性を出すということはそれはひとつの日米間の日程上の約束になっているわけですけど、そのことと沖縄の皆さんの理解を求めるということはやはり並行的に進めていかなければならない。当然ではありますけども、日米間で決めればすべてですね、自動的に沖縄の皆さんが了解して頂けるということではもちろんないわけでありますから。そういう意味では沖縄の皆さんについて、沖縄の負担の軽減ということをしっかりと取り組んでいく、そのことを含めた話し合いをしていかなければならない。先の政権でいろいろな方がいろいろなアイデアや意見をもって鳩山前首相のところに来られたという経緯があったようでございますが、逆に言うと、いろいろな意見を聞くことは良いけれども、いろいろな人に担当してもらうことは混乱を招きかねませんのでまずは官房長官のところでどういう形でこの問題に取り組むべきなのか、もちろん外務省や防衛省、沖縄担当という大臣もおられますので、どういう形でこの問題に取り組むのが適切か、そう時間をかけるわけにはいきませんが、今日が正式のスタートでありますので、まずはどういうチームなり、どういう枠組みの中でこの問題の検討をするかの検討をしっかり行いたい」
今回の人事について「小沢カラー」を払拭(ふっしょく)した人事だといわれているが、野党側は参院選に向けた「小沢隠し」であるといっている。小沢前幹事長との距離感をどのようにとっていくのか
「良く皆さん、報道を見ていると常に小沢さんになんといいましょうか、近いとか遠いとか、あるいは小沢カラーとかいわれますが、少なくとも今回の人事を考える上で最大の要素はどなたにどういう仕事を担当してもらうのがより効果的に物事が進むかということで判断をいたしました。ですから、よく見てもらえればわかるようにですね、それぞれ自らの考え方を持ち、行動力を持った人がそれぞれの所掌についてもらったと思っています。小沢前幹事長について私が申し上げたのは、例えば私も2004年、最後は社会保険庁の間違えということが分かりましたけども、いわゆる年金未納で代表を辞任したことがあります。やはり辞任した後はですね、しばらく本当におとなしくしていようと思いました。あるいは岡田(克也外相)さんは2005年の衆院選で小泉政権の郵政選挙で大敗されました。あの選挙も今考えれば小泉さん流のある意味、ひどいというと言い過ぎかもしれませんが、まさに小泉劇場に踊らされた選挙であったわけですが、しかし岡田さんは責任をとって辞任した後にまさに全国の落選した仲間を一人一人たずねるという形で少なくとも表の場でいえば静かにして、次につながった行動をとられた。私は特別なことを言ったつもりはありません。前首相が政治とカネの問題を含めて辞任し、また幹事長も首相から同じ問題でやはりともに引こうではないかということで了解されたということを首相が言われたわけですから、ある意味で責任を感じて辞められたということであるならば、しばらくの間は静かにされているのが、ご本人を含めてみんなのためにもいいのではないかとごく自然なことを言ったわけです。しばらくというのは何日ならいいとか、何年ならということではなく、ひとつの新しい段階がきた中では、それはそれとして判断があっていいのではないでしょうか」
経済成長を発展させるためにどのような引き金があり得るか。また円安についての考えは
「さきほど経済、財政、社会保障を一体でということを申し上げました。詳しいことを時間があれば申し上げてもいいんですけれども、あちらこちらで発言もしておりますし、また近いうちに所信表明もありますので、そういう中ではもう少し詳しく申し上げたいと思っております。基本的にはですね、財政というものを健全化するそのときに、ただ、極端に言えば、増税して借金返しに充てたらいいかと言えば、これは明らかにデフレをより促進する政策になってしまいます。そういうことを含めてですね、財政の振り向ける方向性がしっかりと経済成長につながる分野でなければなりません」
「また、国民の貯蓄を国債という形で借り受けして、そうした経済成長に資するところに使っていくというのは当然経済政策としてはあり得る政策であるわけです。何を間違ったかと言えば、使い道が間違ったんです。90いくつも飛行場を作って(韓国の)仁川(インチョン)のようなハブ空港が一つもないような使い方をやったことがですね、借金は増えたけれども成長はしなかったということであります」
「さらに言えば、世界先進国の中でも最もGDP(国内総生産)で高い水準まで借金が積み上がっておりますので、マーケットというのはなかなか難しい相手でありますから、そういうことを考えたときには、これ以上借金による、例え適切な財政出動であっても、借金による財政出動でいいのか、それとも税制の構造を変えることによって新たな財源を生み出して、そこの財源を使うことが望ましいのか。そういったことをですね、まさに本格的に議論をする時期に来ている。できればそれは政府として一方的に考え方を申し上げるだけではなくて、自民党を含む野党の皆さんの中でも共通の危機感を持たれている方もかなりありますので、そういう中での議論に私はつなげていければいいなと、こう思っております」
「円安のことはですね、一般的には円安が輸出においてプラスになるし、輸出のかなりウエートの高い今の日本経済では、円安が一般的に言えばプラスになると、こういうふうに言われていることは私もよく承知をしております。ただ、相場についてはあまり発言しないようにと財務相になったときも言われましたので、この程度にさせていただいております」
米軍普天間飛行場の移設問題について、ぎくしゃくした日米関係を再構築する意味で、具体的に日米関係を好転させるために、どのようなことを考えているか。近くカナダでサミット(主要国首脳会議)があるが、この前後の機会に自ら訪米する考えはあるか
「カナダでサミットが近く、今月の終わりごろありますので、その場でオバマ大統領と会談ができればいいなと。まだ最終的な予定は決まっておりませんが、そう思っております。ただ、先日の電話会談では、カナダで会うことを楽しみにしているとオバマ大統領からもお話をいただいていますので、たぶんその場での会談は実現できるんではないかと思っております。それより以前に訪米するということなども、いろいろ選択肢はあるわけですが、私ももちろんいろいろな国会を抱えておりますし、米大統領はもちろんもっと世界のいろいろな仕事があるわけで、今のところはサミットのときに首相として初めてお目にかかってお話ができるのではないかと思っております。ということです」
フリーランスの記者が首相に質問できる記者会見は今回で3回目だが、参加するには、さまざまな条件が課されている。3回連続で参加を申請して断られたフリージャーナリストは、交渉の過程で首相官邸報道室に「私の権限であなたを記者会見に出席させないことができる」と言われた。このジャーナリストはこれまで警察庁キャリアの不正を追及したり、検事のスキャンダルを暴いてきた人物だが、権力側から見たら煙たい存在だ。首相は過去の活動実績の内容や思想・信条によって会見に参加させるかさせないかを決めていいという判断なのか
「先ほど、この会見というのか、オープンということの質問にもありましたが、私は一般的にはできるだけオープンにするのが望ましいと思っております。ただ、何度も言いますように、オープンというのが具体的にどういう形が望ましいのかというのは、しっかりそれぞれ関係者の皆さんの意見も聞いて検討したいと思っております。例えば私などは、首相になったらいろいろ制約があるかもしれませんが、街頭遊説なんていうのはたぶん何百回じゃきかないでしょう。何千回もやりました。いろんな場面がありますよ。その場面でも。隣に来て大きなスピーカー鳴らして邪魔をする人もいたりですね、集団的に来る人もいたり、いろんなことがあります」
「だから、いろんな場面がありますので、できるだけオープンにすべきだという原則と、具体的にそれをどうオペレーションするかというのは、それはそれとしてきちんと何か必要なルールなり、対応なりをすることが必要かなと、こう思っています」
閣僚の顔ぶれを見ると再任が多いが、これは夏の参院選、9月の民主党代表選後に内閣改造ということを念頭に置いてのことなのか。それとも逆に少なくとも次の総選挙まではこのメンバーでいくぞという決意で決めたのか
「一般的にはですね、まだ鳩山政権が誕生してから9カ月弱で今回の辞任に至ったわけです。ですから、すべての閣僚も9カ月弱のこれまでの就任期間だったわけです。ですから私もそれこそ最初の(カナダの)イカルカットでのG7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)なんかに行ってですね、「この1年間で4人目の財務相の菅直人です」って言ったら、各国の財務相が苦笑していましたけれども、つまりはあまりにもですね、首相はもとよりですが、大臣も短期間で変わるということは私はそういう意味での行政の質と言っていいのか、いろんな意味で望ましいことではないと思っております」
「ですから今回については、もちろんいろんな経緯で自ら少し休みたいと言われたりですね、いろいろな経緯の方おりますけれども、しっかりした仕事をだいたいの方がやっていただいていると私も同じ内閣にいて見ておりましたので、そういう皆さんには留任をしてもらったということであります」
「改造うんぬんという話も今言われましたけれども、どうも皆さんが好きなのは改造とかですね、新しく変わることが好きなんですね。同じ人がしっかりした仕事をやっていても、なかなか報道してもらえないんですね。ですから私の頭にそういう改造とか、なんとかということは全く頭の中にはありません。ぜひですね、しっかり今やっている大臣が何をやっているかをよく見て、どういうことが実現できたかをよく見てですね、その上で、こうするのかああするのかを聞いていただければと思います」
次の総選挙までは内閣、党人事を変えないという意気込みでいくのかどうか
「ですからそのことも含めてですね、今、私の頭の中には、改造とか何とかということはありませんし、一般的には、ある程度の期間を続けていただくことが望ましいと思っておりますけれども、この間、思いもかけない首相辞任もありましたのでですね、あまり、あの、その先のことまで、あまり確定的に申し上げることはちょっと控えたいと思います」
北方領土問題についてうかがいたい。鳩山前首相はやり残した仕事の中で北方領土問題を挙げていた。メドベージェフ露大統領と6月のサミット(主要国首脳会議)、9月のロシアの国際会議、11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で、3回首脳会談をすることで約束していた。菅首相としては鳩山前首相とメドベージェフ大統領との約束を踏襲するのか。北方領土問題について具体的にどのような方針で対処するか
「率直なところ、まだ私自身がですね、今、指摘をされた鳩山前総理がどういう約束をメドベージェフ大統領とされているのか、あるいはその流れがどうなっているのか、必ずしも詳細に状況をまだ把握をしておりません。ですから、もちろんこの問題、大変重要な課題であると同時に、大変歴史的にも非常に、こう長い間の問題で、大きな課題であるだけにですね、どういう形で取り組むことが適切か、まずはこれまでの経緯、あるいは鳩山総理とメドベージェフ大統領のそういう、その約束の中身なども十分検討した上で判断したいと思っています」
先ほどの質問で、官房機密費の問題についてお答えになっていなかったので重ねて質問する。野中広務元官房長官が機密費を言論人、マスメディアの人間に配って、いわば情報操作、言論捜査を行ったという証言をした。その後、取材を行い、野中氏の発言だけでなく、はっきりと私は機密費を受け取ったと証言する人物も出ている。評論家の佐藤優氏は江田憲司元首相秘書官から機密費を受け取ったとはっきりおっしゃった。こうした政治とカネならぬ、報道とカネの問題。政治と報道とカネの問題は大変ゆゆしき問題だ。この点について、きちんと調査をするか。機密費の使途について、これまで使った分も、今後使用される分も含めて公開される気持ちはあるか
「この機密費という問題、なかなか、何と言いましょうか。根源的な問題も含んでいるわけです。まあ、ものの本によればですね、いつの時代でしたでしょうか、戦前でしたでしょうか。当時のソ連の動きをですね、明石(元二郎)大佐ですか。いろいろ、こう、調査をするときにですね、巨額の、まさに、そういう費用を使ってですね、いろいろそういう意味での情報のオペレーションをやったというようなこともいろいろ歴史的には出ております。そういう意味でですね、確かにその、なんて言うんでしょうか、国民のみなさんの生活感覚の中で考えられることと、場合によっては機密費という本質的な性格の中にはですね、一般の生活感覚だけでは、はかることの、場合によってはできない、ちょっと異質なものもあり得ると思っております。今、この問題、官房長官のほうで検討をされていると思いますが、まあ、いろんな外交機密の問題もある意味で、ある期間が経た後にきちっと公開するというようなことのルールも必ずしも日本でははっきりしていないわけですけれども、この機密費の問題もですね、何らかのルールは、そういう意味でですね、必要なのかと思いますが、現在その検討は官房長官ご自身に委ねているところです。まあ、報道のあり方については、これはあまり私の方からですね、言うべきことというよりも、それは報道に携わるみなさん自身がですね、考えられ、あるいはある種の、自らのですね、ルールが必要であれば、自らの自主的なルールを考えられればいいのではないかと。私なども時折ですね、ちょっと記事が違うんじゃないか、一体誰から聞いたんだと言っても、いやそれは取材元の秘匿はジャーナリストのいわば原点ですからと言って、それはそれでひとつのルールなんでしょう。考え方なんでしょうが、まあ政治とカネの問題についてもですね、みなさん自身がどういうルールなり倫理観を持って当たられるか、それはみなさん自身が考え、あるいは必要であれば議論されることではないでしょうか」 (2010/6/8)
戦う奇兵隊内閣、お遍路は後回し  
えんび服姿で臨んだ菅首相の初の記者会見。用意したメモには目を落とさず、時折両手を大きく広げながら「この国に元気を取り戻したい」と熱く語りかけた。
会見場に笑いが漏れたのは「菅政権を象徴するキーワードは」という質問に答えた時。「私は草の根から生まれた政治家ですので、草の根の政治」と述べた後、少し間を置いて「もう少し元気のいい所で、私の趣味で言えば奇兵隊内閣」。
奇兵隊は幕末に、菅首相の出身地でもある長州藩(山口県)の高杉晋作がつくった民兵組織。「奇兵隊は武士以外にいろんな人が集まった。幅広い国民から出てきたわが党の議員も勇猛果敢に戦ってほしい」。世襲議員の多い自民党への皮肉を込めたのか、照れくさそうに話した。
また、2004年の代表辞任後、お遍路参りしたことを引き合いに、「五十三番札所まで来ているお遍路も続けたいが、しばらくは後に延ばす。官邸を中心に修行の場だ」。再び笑いが漏れた。
政治とカネの問題では歯切れの悪さも。小沢一郎前幹事長の衆院政治倫理審査会への出席の是非には答えず、「幹事長を辞任するのは一定のけじめだと思う」とかばう姿勢も。官房機密費問題の調査や使途公開にも「公開のルールが必要かと思うが、検討は官房長官に委ねている」と即答を避けた。 (2010/6/9)  
 
西郷隆盛・諸説

西郷の戦争の癖、収拾には寛大に
海音寺 歴史学着たちは、直接証拠となるような古文書がなければ信用しないのですね。ある人物の性格、性癖、仕事のやり方などから推測して、こうだったろうというようなことで直接証拠のない歴史の空隙を埋めて行くことはしないのです。
たとえば、西郷の戦争のし方には一の癖があります。第一次長州征伐の時には、これは長州藩が蛤御門の戦いをおこして、禁門に銃砲を撃ちかけるようなことをした罪を鳴らして行われたのです。西郷はこの不臣は大いに誅罰しなければならないと首唱して、幕府の尻を引っぱたくようにして、おこさせました。そして、そのはじめにおいては、毛利氏は東国の方へ移して、五万石くらいに減知すべきだと主張しましたね。ところが現実に処理するにあたっては、これは西郷が征長総督の尾張老公慶勝の参謀長格となって処理したのですが、移封だの減知だのなどは毒せず、要するに大将として出陣した三家老を責任者として腹を切らせて首をさし出せばよろしい、というようなことで弓をおさめようとしました。征長総督の尾張藩や征長軍に属した他藩から、それでは軽すぎるという異議が出て、参謀の連中にも腹を切らせ、山口城を破却するということも出て来た訳ですが、西郷の意見は、単に三家老に腹を切らせればいいというのだったのです。
また江戸城征伐の時も、そのはじめは将軍慶事に腹を切らせて、江戸は火の海にするというようなきついことを声言していましたが、実際には慶事は助命し、徳川家は存続させる、江戸城は無血開城ということでおさめています。これが西郷の事をおさめる場合の手口なんです。
網淵 そうですね。行動のパターソがはっきりしている。
海音寺 はじめ厳しいことを言うのは、それによって故に精神的打撃をあたえ、また味方の士気を鼓舞するための計略なのですが、収拾にあたっては至って寛大にすることをはじめから考えています。江戸征伐の時なぞ、書いたものも残っています。近頃、私が『江戸開城』という本を書きましたが、それにその古文書も入れておきました。
朝鮮問題の場合も、歴史学者達がこの西郷の手口を考慮に入れるなら、考え方は違って来るはずですが、あの人達には直接証拠となる古文書がなければならないのです。そのくせ、放慈な主観で放慈な思いつきを堂々と展開しますがね。ともあれ、彼は朝鮮問題の時も征韓ということは少しも言ってないんです。 
征韓論と西郷との係わり
海音寺 征韓論があの当時の是におこったのは、ずいぶん早いのです。明治三年にはもうおこっています。朝鮮が、わが国が和親交際を申しこんだのに対して、至って無礼な応対しかしないといって、使節になって行った人々が唱えはじめたのです。
木戸孝允などもその熱心な論者でした。この頃のそれはもっぱら武力的なもので、たしかに征韓論です。
しかし、この頃は西郷は国許にいて、全然これには関係ありません。彼が朝鮮のことを問題にしはじめたのは明治六年になってからです。しかし、征韓ということは決して言わない。朝鮮派遣使節としか言わないのです。彼は自分が使節として行くことを熱心に主張している訳ですが、それを征韓論の主張と当時も後世も言っているのは、彼のタッチする以前の朝鮮問題に対する論議が全部征韓論だったので、一緒くたにしているのでしょう。それから、もう一つは、彼を遣韓大使として朝鮮にやることに反対である岩倉や大久保らが、彼が行けは必ず戦争になるといったので、それを後世の歴史学者も信じて、征韓論の論争というのでしょう。
西郷は戦争する気はないのですよ。自分が行けば見事に、平和裡に成功し得るという自店があったでしょう。彼は第一次長州征伐の時、兵を用いずして事を治めるために、単身岩国に乗りこんで吉川経幹を説いて、見事に無血降伏させています。 
西郷は政府改革に乗り出すつもりでいた
もっとも、西郷は朝鮮問題の決裂で国許に帰って来る際、これは私の考えですが、そのまま国許に引っこみっきりにするつもりはなく、いつの日か、政府改革のために乗り出さねばならんと覚悟していたでしょう。それはいつかといえば、現政府の政治は色々な意味で行き詰まるであろうから、世間はおれの出て来るのを待望するであろう、その時におれが出て政府を改革し、真の意味の維新政府を組織し、真に国民を幸福にする政治を行おう、と思っていたと思うのです。
だから、佐賀の乱にも立たず、神風達の乱や、秋月の乱や萩の乱や相接しておこった西国九州の乱にも立たなかったのだと思います。まだまだ民の怒りと不平とは爆発点に達していないと見ていたのでしょう。たまたま、明治十年のあの時点に兵を起さなければならなかったのは、西郷としてはまだ時機は熟し切っていないけれども、こうなってしまえば仕方がないというので、おいどんのからだをおはん達にあげようということばとなって踏切ったのだと思っています。ともかくも、彼はやがては政府相手に戦争をしなければならないと思って、国に帰って来たと、私はみてるんですけどね。
西郷には全然そういう考えはなかったのだが、すでに火薬庫襲撃事件などを起して政府の罪人になっている若者らを見棄てるに忍びずああなったのだというのは、西郷を叛逆者にしたくない、西郷びいきの人考たとえば勝海舟、たとえば副島種臣らの言い出したことがもとになっています。真の原因には、それもいくらかはありますが、全部ではありません。
西郷という人は世間なみの大義名分論では律することの出来ない人です。彼の天皇観は、彼が沖永良部島時代に土持政照にあたえた『役人の心掛』に明瞭に出ていますが、天皇は仁愛の主体たる天の代行者であるべきだというのです。彼はそういう天皇にしたいと思って天皇教育をしたのです。ですから、当時の政府の言いなりになっている天皇は天皇たる道を失っていると思っていたでしょう。口に出して言いはしないまでも、彼の「敬天愛」の哲学をおしつめて行けばそうなります。ですから、彼は征討総督宮として有栖川官が向われたと開いて、宮様はこんどの場合、そんなことをなさるべきではありません、それは天皇様のおん徳を汚しなさることですと諌言を送り、お聞き入れにならないなら打ちすえて通りますぞとまで言っているのです。書いたものが残っていますから、私の作り話ではありません。 
西郷には気のきいた永久革命の方式がなかった
海音寺 現実政治家というものは、本当は民衆の人気はないですよ。一面からみると実に低くて、いやらしいですからね。彼らには理想はない。功業の徒にすぎないのです。だから民衆に人気はないのです。毛沢東などは、稀有にして現実的手腕を持っていますね。例の文化革命という手段、あれは永久革命の新しい有効な方法ですが、彼はそれを発明したのです。彼はそれを中国の歴史の中から発見し、彼の創造としてつくり出したのです。御承知の通り、中国は政治が悪くて民衆が苦しんでいる時に飢饉などが続くと、民衆は流浪の民となって故郷を離れます。この連中が放浪を続けている問に、いつの間にか集団になって、指導者が出来、軍団化してきます。その指導者が政治的意識を持つと、軍団は革命戦団になります。祥譲時代と伝えられる堯・舜・爵の王朝交代や殷・周のことは歴史記述が簡明にすぎて具体性を欠いているから、よくわかりませんが、秦が亡んだ時からは、歴史記述が豊富詳密になってますから、よくわかります。上述の形が連綿として続いている革命の方式です。毛沢東はこの方式から紅衛兵方式を案出したのだと私は思います。
日本にはそのような歴史がないのです。日本の革命は、源頼朝が武家政治を始めましたね、あれは明らかに革命ですが、源平の抗争は、せんじつめて言えば、親のかたき討ちという名目で行なわれています。明治維新だって、尊皇壊夷という錦の御旗をかかげてやっているんです。民衆を塗炭の苦から救うために旧政権をたおし、新しく理想的政権を立てるという最も高い旗をかかげてはやらんのです。親のかたき討ちだの、尊皇演奏だの、はるかに低次元の旗しかかかげないのです。それでなければ人が納得してついて来ないのは、民衆の権利意識、あるいは政治意識が低いからです。こういう国柄だから、西郷には気のきいた永久革命の方式がなかった。国許から兵をひきいて出るという最も原始的な方式しか。これは西南戦争に対する福沢諭吉の批判へのある程度の答えにもなっていましょう。 
西郷は自分自身を抽象的な世界にもっていった
尾崎 だから、その段階では現実政治家としての貯めた限は虚像の裏に必ずあったと思うんです。ところが明治になってからの西郷は、その現実政治家としての部分が虚像を上回ってしまって、自分自身でもどうしようもない自純白縛みたいなもののなかへ入っていたんじゃないか。
まあ言ってみれば西郷にとってはたいへん寂しいことかもしれない、自分自身が虚像に縛られるということはやりきれないことでしょうが、しかし、そのやりきれなさを知ってたのは、やはり西郷一人だったんではないでしょうか。
司馬 それはきわめて正鵠を射た西郷観だと思いますね。
尾崎 司馬さんのあの作品を読んでいてもその感じがするんです。
司馬 まあ『翔ぶが如く』の場合は、なるべく西郷に肉迫しょうと思って、近似値まではとてもいけないけれども近似値に近い数値までのとこに自分が迫っていきたいと思ったんですけどね、やはり書き終えて、ぼくは西郷のそばを通過してないという感じがある。これは神秘的というふうに受けとられたらこまるんですけど、西郷という人は、血が流れていて欲望があって、怒ったり笑ったり泣いたりする存在であることから、ずいぶん昇華してしまっていますね。
自分自身を一個の抽象的な世界にもっていったという例は、まあ中国なんかなら割合あるかもしれない。われわれは日本の西郷についての印象が鮮烈すぎるから、どうしても西郷論はほかの似た外国人をもってくるわけにはいかない。数値でいえば、マイナス一もプラス一もあり得るわけですけどゼ長けはあり得ない。ゼロだけは数値というよりもひとつの世界ですよね。西郷は自分をそのゼロヘもっていくということをやった唯一の人じゃないかと思いますね。 
西郷は無私を悟っていた
ところが薩摩では、特に先輩を尊敬するという気風があるでしょう。その先輩は尊敬されるに値する先輩でなきゃだめですよね。そこで西郷は手拭をくれるだけの存在なんですけど、ところが西郷さんからもらうということがうれしいのです。これが重要なことなんですね。あんな奴からもらった、っていうんじゃなくて、つまらない筆一本、手拭一本だけども、西郷さんからもらったのは非常にわくわくしてうれしいという雰囲気があったような感じがします。
そうすると西郷というのは、俺は力もなければ知恵もなくて郷中頭になっているけど、世間にはいっぱい俺よりも上のやつがいてこういうことをしているはずだと考えたかもわからない。そして西郷は生きている以上何事かをしたいと思ったでしょう。何事かをしたいというのは政治的人間ですから、革命をやりたいとか、まあ最初のころはきっとお家の改革をやりたいと思ったでしょう。それがある時期から国家の改革をやりたいと思うようになる。それには多士済々を頼めばいい、そのためには自分が無私になればいい、無私になれば人がついてきてくれるだろうと感じたんではないか。どうも無私になるということは大変な、それこそ脂汗の流れるような修養だと思いますけど、西郷という人は、自分が無私になりさえすれば、それはひとつの大きなカだと、それだけじゃないかと悟ったときがあるんじゃないかと思うんですけどね。
尾崎 しかし、それは非常に大きなことですよね。
司馬 大きなことなんです。この無私ということをついにわれわれは悟れずにいくんですけど、西郷はすでに十代の終りぐらいに悟ったようなところがある。まあ、無私というのは、自分のからだの中に二、三パーセントの真空部分をつくることだろうと思うのですね。空気をず−つと圧縮して、真空部分をつくるということだと思うのですが、人間は欲望で生体が成り立っているわけですから、欲望があって生命なのですから、それを抑えるということ、つまり無私っていうのはもうありえないことですよね。ありえないことを、西郷は自分のなかでやってみた。
尾崎 それはもう大変なことで。
司馬 そう、大変なことですよね。で、二、三バーセソトの真空部分をつくってみると、さっきのゼロじゃないけど、何百人、何万人がそこに吸い込まれるように入っちゃうということを、どうも知ったんじゃないでしょうかね、西郷は。無論これは想像なんですけど、こう考えないと、あとの時代の西郷がわからなくなる。 
 
天誅組

1 序曲  
(1) 浜口儀兵衛、国防を誓う
泰平の世を謳歌する徳川幕府も十九世紀に近づく寛政元年(一七八九)五月。
新宮丹鶴城下では、突如、亜米利加船が入港してきて大騒ぎとなっている。
かねて我が北辺に出没し、通商を求めていたロシヤが、突然エトロフ島に上陸して来たのは寛政九年(一七九七)である。それを知った幕府は、書院番頭・松平忠明を北辺鎮護取締役に任じ、近藤守重らは直ちに現地に急行した。エトロフ島に大日本恵土呂府の標柱を建立したのが、今から二百年前の事である。
そして十九世紀半ばの嘉永年間に入ると、紀州沿岸の村々に何処からともなく
「米国が鎖国を解かせる為に東インド艦隊を派遣する事に決した」との噂が流れて世上は騒然となった。
有田郡広村の浜口儀兵衛(*1)が崇義園を結成し、八幡社の神前で
「今日、わが氏神の社前に於て、正義勇猛の有志を集め盟約を誓うは、決して物好で戦を好むに非ず。近年外国船の渡来が甚しくなりしは、我国を奪わんとの本心にて、若し国土を聊かでも盗られては、正に日本の大恥なりと痛感する余りにて、天子様もそれを心配され、幕府に国防の固めを勅し、七社七寺に外患排除の祈祷を命ぜられ賜うた。よって我ら日本に生をうけたる者は、心を一つにして神国を守り抜き、忠孝の道を全うせん事を固く誓い、万が一の場合は村を死守し、老幼男女を一人たりとも傷つけぬ決意にて、めいめい鉄砲を習い、棒術を練り、きっと一かどの用に立ち、我国民の優秀さを異人に振輝せん事を誓う。」との誓約文を献じてその意気を示している。
これは浜口に限らず、庄屋ら当時の村指導者の偽らぬ本音である。浜口が後に襲来した安政の大津波に自田の稲村を焼いて村民に急を知らせ、ラデカフォーン(*2)がその義人ぶりをひろく世に紹介した人物である事は云う迄もない。

(*1) 濱口梧陵(はまぐちごりょう)。1820〜1885。紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)当主。第7代浜口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火(中井常蔵)』のモデルとしても知られる。
(*2) ラフカディオ・ハーン。小泉八雲(こいずみやくも)。1850〜1904。新聞記者(探訪記者)・紀行文作家・随筆家・小説家・日本研究家。儀兵衛を主人公に仕立てた『A LivingGod(生ける神)』という名の短編がある。 
(2) 開国と井戸一族
嘉永六年(一八五三)初夏、
「英国はアジヤ各地で次々に軍事拠点を手に入れている。我国も早く太平洋上の諸島に強力な拠点を手に入れるべきだ。未開の野蛮国には武力で脅すのが一番じゃ思い切りやれ!」と政府の指令を受けた米国海軍きっての鷹派であるペリー提督(*1)が四隻の軍艦を連ねて浦賀沖に怪異な姿を見せた。大統領の国書を提示して開国を要求し、攘夷か開国かで、国中は蜂ノ巣を突ついた騒ぎとなった。
そして時の浦賀奉行が、井戸良弘の次男・治秀の嫡流である石見守・弘道である。日夜奔走し続ける中に、折悪しく将軍家慶(*2)が病没したので、回答は明年と云う事でどうにか退散させている。
続いて日米和親条約調印に当たったのが、江戸町奉行で名奉行と云われた本家の対馬守・井戸覚弘であったのを知る人は少ない。
安政元年(一八五四)早々ペリーが再航し、交渉奉行を命ぜられた井戸覚弘は応接に苦労しながら奔走したものの、軍艦七隻の威力に幕府はやむなく和親条約を調印した。三百年近い鎖国泰平の夢は破れ、日本は否応なしに白人列強の貪欲な牙の前にさらされることになった。
それを聞いて「遅れじ」と、下田に駈せつけたロシヤ極東艦隊のプチャーチン(*3)は、大津波に襲われて乗艦が大破沈没すると云う憂目に逢った。それを知った攘夷論者達は
「見ろ!神風が吹いたぞ」と大いに快哉を叫んだ。
しかし、覚弘が如何に苦斗しようと開国以外に日本の道はなく、ペリーは『日本遠征記』の中で
「井戸対馬守殿は五十年配の背も高く肥った威厳のある人物であった。」と、記している。
覚弘は、後には大目付と云う大名格の地位に就いているが、熊野や大和に散在する井戸一族は知る由もなかった。
そして安政四年の秋、米国領事ハリス(*4)が江戸城で、将軍家定(*5)に謁見して大統領国書を捧呈した。ハリスは、将軍が全くの人形で、京には“天皇”と呼ばれる君主のいる事を知り、開国論者の老中・堀田正睦(*6)に、世界の大勢や阿片戦争の現状を語った。急ぎ通商条約を結ぶのが救国の道であると力説するうち、時代は安政の大獄の年に突入する。

(*1) マシュー・カルブレース・ペリー。1794〜1858。アメリカ海軍軍人。艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させた。
(*2) とくがわいえよし。1793〜1853。江戸幕府12代将軍。水野忠邦に天保の改革を行わせたり、高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧したりした(蛮社の獄)。
(*3) エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン。1803〜1883。ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、文部大臣。
(*4) タウンゼント・ハリス。1804〜1878。アメリカ合衆国の外交官。妻子はなく、生涯独身。日本の江戸時代後期に来日して初代駐日公使となり、日米修好通商条約を締結した。
(*5) とくがわいえさだ。1824〜1858。江戸幕府13代将軍。幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。一説には、脳性麻痺であったとされる。
(*6) ほった まさよし。1810〜1864。下総佐倉藩の第5代藩主。孝明天皇から日米修好通商条約調印の許可を得ようとするが失敗。 
(3) 十津川の歴史
ここで改めて十津川郷の辿った悠遠の歴史を回顧して見よう。熊野神邑に入られた建国の英雄・神武大帝が長大な川の流れを見て
「ああ、遠つ川や」と嘆じられたのがその名の由来と云われる。神武大帝は八咫烏の案内で霊峯玉置山に十種の玉を献じて神助を乞い、やがて大和橿原ノ宮で初代天皇となられた。
八咫烏族が鴨氏と称し親衛隊となったのを始め、この里人は代々御所警備役となり、天武天皇の壬申ノ乱(*1)の大功によって永代無税を許されている。
以来、代々尊皇心の厚いことで聞え、元弘ノ乱(*2)よりは南朝の中心地となり北朝方の足利幕府でさえ赦免地の伝統を守った程で豊臣、徳川の世となってもその特権は変らず、里唄にも
トンと十津川 御赦免どころ 年貢いらずの 作り取り。
と歌われている程、他領より豊かに暮らせる村里であった。其代り「いざ、鎌倉!」の場合は直ちに千余の精強な筋目の郷士が参戦する習わしである。彼らはいずれも黒木の巨木で建てた城のような邸に住み、床ノ間には手入れも充分な槍、鉄砲の武具が物々しく飾られ、まるで南北朝時代そのままの面影を止めていた。
徳川幕府の領下となっていた当時の十津川は上、下二村で千石と検地され、玉置、西川郷と共に徳川天領地とされる。玉置山明花院を筆頭とする四十五人の筋目の郷士に八十石の扶持を与え、筏師と山手銀と呼ぶ山林税を奈良奉行が管理した。木材、食糧、雑品などの運搬人夫を課してはいても、その税は遙かに軽く、羨ましがられていた。
更にその奈良奉行が、元筒井の家老職だった中坊左近で、井戸家とも昔からの親しい間柄だけに何かと便利だったろう。

(*1) 天皇は神にしませばを参照。
(*2) 元弘の乱を参照。 
(4) 文久三年〜長州と薩摩、外国と戦争する〜
黒船来航の嘉永六年(一八五三)以来、十津川郷にも「由緒復古」と称された尊皇攘夷運動が渦まいて、文久三年(一八六三)六月には中川宮(*1)から郷士の宮中衛士が認められ
「往古より勤皇の志厚き汝らの誠忠に、帝も大いに喜ばれ、支度金三百両を下賜され、御所駐在者には玄米五百石を当座の食糧とし、洛中菊入り提灯の使用を許す。」との令旨が届いたから全郷がわき立った。
折から将軍家茂(*2)が上洛して、四月には岩清水八幡宮に攘夷祈願をされ、五月十日を攘夷決行の日と定められた。
そして「待ってました!」とばかり長州は領民を総動員して
尊皇攘夷と聞くからにや 女ながらも国の為、まさかの時には 締襷(しめたすき)。
と日夜兼行で台場の完工を急ぎ、五月十日となると馬関海峡で米、蘭船に撃ちかかる。朝廷では伊勢、紀州の藩主を呼んで
「伊勢神宮、熊野三山の警備を固め国辱を招くな」と勅書を下すと云う、正に戦時体勢となった。
六月に入ると英仏艦隊が馬関を襲って忽ち長州勢を完敗させる。七月には新鋭の英艦隊が鹿児島湾に突入してアームストロング砲の威力を見せ、全砲台を壊滅させ、勇猛を誇る薩摩隼人の舌をまかせた。

(*1) 久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)。1824〜1891。幕末から明治時代初期の皇族。孝明天皇の父・仁孝天皇の猶子。通称、中川宮。公武合体派の領袖であり、長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われた。
(*2)とくがわ いえもち。1846〜1866。江戸幕府14代将軍。将軍就任の前は御三家紀州藩第13代藩主。井伊直弼ら南紀派の支持を受けて13歳で将軍就任。英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われる。 
(5) 文久三年〜天誅組の挙兵〜
八月十三日には親兵総督・三条実美(*1)ら尊攘派の公卿は真木和泉(*2)、平野国臣(*3)らの提案による伊勢行幸計画、
「攘夷祈願の為に大和に行幸して、神武天皇陵に参拝して軍議を開き、伊勢神宮に詣でてから、各藩は全員供奉せよ」と発表した。
この報を聞いた尊攘派の志士達は
「討幕の時節到来!」と狂喜し、我こそその先駆たらんと、一群の浪士らが秘そかに京を発して大和をめざした。
皇太子・祐宮(*4)の遊び相手として十二歳で従五位下、侍従を命じられた中山忠光(*5)を主将と仰ぐ天誅組の挙兵である。これほど維新夜明け前の大和、伊賀、熊野の人々を驚愕させたものはなく、この地に住む人々には忘れてはならぬ歴史的事件である。その状況については既に『明治維新の熊野』で述べたから、今回は緒戦と天川辻の激斗、そして惨烈の終焉にポイントを置き、坂本龍馬(*6)、中岡慎太郎(*7)と並ぶ吉村寅太郎(*8)の死態に迫って本巻の結びとしよう。

(*1) さんじょうさねとみ。1837〜1891。公卿、政治家。最後の太政大臣。藤原北家閑院流の嫡流。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。「梨堂」と号す。
(*2) 真木保臣(まきやすおみ)1813〜1864。久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。真木和泉として有名。尊攘派を形而上下にわたり、先達として指導した。
(*3) ひらのくにおみ。1828〜1864。福岡藩士、志士。攘夷派志士として奔走。寺田屋事件で失敗し投獄。大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。天誅組の挙兵に呼応して但馬国生野で挙兵するが失敗。禁門の変の際、獄舎で殺害された。
(*4) さちのみや。のちの明治天皇。
(*5) なかやまただみつ。1845〜1864。公卿。権大納言中山忠能の七男。明治天皇の叔父(明治天皇の生母・中山慶子は、忠光の同母姉)。八月十八日の政変後、長州潜居中に暗殺された。
(*6) さかもとりょうま。1836〜1867。幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。国民的人気を誇っている。
(*7) なかおかしんたろう。1838〜1867。志士(活動家)。陸援隊隊長。名は始め光次、後、道正。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。贈正四位(1891年)。
(*8) よしむらとらたろう。1837〜1863。幕末の土佐藩出身の志士。土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩。寺田屋事件で捕縛され、土佐で投獄。釈放後、中山忠光を擁立して天誅組を組織。大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変し、戦死。 
2 緒戦  

 

(1)光格天皇
一一九代光格天皇(*1)は
「西に聖天子あり、東に賢相(松平定信)あり」と称された程の名君であったが、大坂の陣以来の幕府ぎらいの伝統を受けた豪毅な帝で、特に父・閑院宮の尊号要請(*2)に対する不遜な幕府の態度に
「武蔵野は魔所の棲家」と怒り、側近の公卿、中山忠伊(*3)、岩倉具定に命じて倒幕を計られたと云う。
けれど事は露見して、忠伊は自刃、具定は出家させられ、自身は皇位を第一皇子の仁孝天皇に譲って退かれる。然し光格天皇は、尚もその意思を捨てず、第二皇子・長仁親王(*4)を中山家に養子に出し、その名も忠伊と改めさせて、尊皇討幕運動に奔走させた。
幕府をゆるがせた大塩の乱も、島津久光を激怒させた寺田屋事件も、その影に密命を受けた中山家の用人・田中河内介(*5)の活躍があったと云われている。

(*1) 光格天皇(1771〜1840。在位1779〜1817)。119代天皇。閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。即位の前日に危篤の後桃園天皇の養子。天明の大飢饉の際、幕府に領民救済を申し入れ、北方での日露紛争の際、交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。父に太上天皇の号を送ろうとして、幕府と尊号一件と呼ばれる事件を起こす。
(*2) 尊号一件。父親の典仁親王に太上天皇(上皇)の尊号を送ることを幕府が拒絶。
(*3) ただこれ。光格天皇の側近・中山愛親(なるちか)の子。
(*4) 第二皇子・長仁親王かどうかは諸説あり。自害した中山愛親の息子にちなんで名づけられたと思われる。中山忠頼卿の長男として降下される。「幕府側の刺客の銃弾を身に受けて自害した」あるいは「元治元年(1864)2月10日中山忠伊、平野海願寺にて自刃」等の説がある。詳細は不明。
(*5) 幕末に活躍した勤皇の志士。明治天皇の教育係だったことも。薩摩藩の島津久光によって有馬新七らが討たれた寺田屋事件で、河内介とその息子は薩摩に引取られることとなり、船で大阪を出発したが、途中暗殺される。 
(2)天誅組、五条代官所を襲撃する
天誅組の挙兵に就いても、忠伊公(光格天皇の子)は、土佐の吉村寅太郎、五条の乾十郎(*1)らと共に計画を練られた。六十を過ぎた自分の代りに甥の忠光(*2)を主将としながらも、事件直前に金剛山の山伏道場に入って陰の本陣とし、河内の水郡善之祐(*3)らに募兵と弾薬糧食の確保を命じたようだ。
従って天誅組が五条代官襲撃前に金剛山を訪ねたのも、当然、忠伊公を交えての最終軍議の為であったと思われる。軍議を終え、志気注天の百余人の志士と軍夫らは、十路五条代官所めざして、翔ぶが如くに下山していっただろう。
五条代官所は、吉野、宇智、宇陀、高市、葛上の五郡四〇五カ村、七万石の天領を支配する。そこに、八月十四日の夕刻、甲冑をつけ、鉄砲、槍で武装した百人近い浪士が、突如として乱入した。
代官・鈴木源内は、昨年、着任早々より老人を表彰し、善政をめざす温厚な人柄ではある。しかも、十津川郷士が、朝廷の命で、御所衛士に選ばれた時、
「誠に名誉なことである。一日も早く上京させよ。もし問題になれば身共が腹を切るから良いではないか」と言い、反対する佐幕派を圧さえて、出発させた。それが、僅か半月前のことで、尊皇派とも云うべき幕官であった。
とはいえ、突然乱入し、
「朝臣・中山忠光卿に、七万石の天領を、直ちに引渡せ」と脅されても、彼としては
「左様でござるか」と承知することができないのは当然である。
「それは理不尽である」と拒むや、浪士達は
「天誅!」と叫んで襲いかかり、僅か五人の役人達を血祭りに上げると、
「違勅の幕府の逆命を受け、朝廷の恩義を忘れ、民に重税を課したる重罪により、梟首に処す」と布告して代官所を焼き払い、隣の桜井寺に“皇軍先鋒、御政府”の看板を掲げた。
そして五条新政府の機関として
主将 中山忠光
総裁 藤本鉄石
〃  松本奎堂
〃  吉村寅太郎
側用人 池内蔵太
監察  那須信吾
記録方 伴林光平
小姓頭 渋谷伊作
等を任命し、朝廷よりの祝儀として、本年の年貢を半減し、孝子を表彰。悪徳庄屋や富豪には軍資金献上を命じている。

(*1) 乾十郎 (1828〜1864)。京都に上って儒学を森田節斎に、医学を森田仁庵に学ぶ。大津に出て梅田雲浜のもとで国学を修めた。この間、按摩をして苦学、嘉永6年に来坂して医業を営んだが、専ら勤王の志士と交遊した。▽万延元年には郷里の五条に帰って医業とともに目薬真珠円を製造販売をした。帰郷してからも尊王思想を振起し、また和歌山藩に対し、紀ノ川の筏税の免除、船荷積替の慣例撤廃などについて提言するなど、郷党のために尽力した。▽文久3年、天誅組が河内から五条に攻めいる途中を出迎え、これに参加。五条における天誅組の新政布告の立札は彼が書いたという。さらに武器方となって天川辻、鷲家口などに転戦。十津川敗走の間、吉村寅太郎の弾丸摘出の手術を行い、さらに天誅組解散の途中、熱病に苦しむ久留米藩士小川佐吉に数十日付き添って看病。▽のち大坂の西成郡江口村に潜伏中に捕縛され、京都六角の獄に繋がれて、平野国臣らと共に斬罪になった。享年37。
(*2) 序曲を参照。
(*3) にごり ぜんのすけ。1826〜1864。幕末の河内の大地主で勤皇の志士。勤皇の志が強く、志士達を金銭的に援助。水郡家は代々勤皇の家で、彼の祖父も幕政批判の咎で捕えられている。天誅組の挙兵で、財政面で大きな貢献をし、自らも息子・英太郎とともに参加、小荷駄奉行となっている。天誅組崩壊の後、捕えられ、京都六角獄にて処刑された。 
(3) 中山忠光、高取城で大敗北する
処が孝明天皇(*1)の意を受けた薩、会のクーデターによって三条実美(*2)以下の尊攘派が一掃されたのが八月十八日である。僅か五日で、昨日まで天兵先駆を誇っていたのが、忽ち逆賊の汚名をかけられる悲劇となった。激怒した幹部達は軍議を開き、解散して再起を計るか、徹底抗戦か、討論の末に、
「守り難い五条より、十津川に移り、勤皇党で知られた郷士らの協力を得て、最後まて戦い抜く」こととなった。
かくして大峯、果無山脈に囲まれた日本四大秘境(*3)の一つである十津川の北の関門とも云うべき天辻峠に堅陣を築いた。京の急変を知らぬ間にと、十五〜五十歳までの郷士を強制召集した。僅か一日で天辻峠に参集した兵は千二百に達したから勇み立って
「坐して待つより、勢いに乗じて高取城を攻略して本城とし、持久戦に持込まん」と決めた。八月二十五日の朝早く、徹夜で五十粁の山路を駆けつけてきた郷士達を、一睡もさせず五条に急行軍させた。
いかに健脚の十津川兵でも五条に着いたのは夕刻で、折から
「郡山兵が御所に現れた」との報に、再び行軍を続け、重坂峠に着いたのは夜半で、もはや体力の限界であった。
然るに中山忠光はここで大きな失敗を侵してしまう。軍師・安積五郎(*4)が
「行軍六里を過ぎれば戦わないのが鉄則である。我々は既に八里を越えている。敵情も不明のまま闇雲に攻めず、今夜は兵を休め明朝敵情をさぐり、御所攻撃に向った吉村隊とも連絡を取った上で攻撃すべし」と説き、松本ら二総裁もそれに賛成している。しかし、彼は敢えて即時夜襲を命じ、
「高取兵は僅か二五〇名、我らの五分の一に過ぎぬ、鎧袖一触じゃ」と豪語した。ろくに敵情も探らず、八月二十六日の明方に、高取城下に迫った天誅組は菊紋の旗をなびかせつつ、二列縦隊のまま押し進んだと云うから正に“飛んで火に入る夏の虫”である。
鳥ガ峰には、高取一番隊に郷民兵数百が、家康が大坂城攻略に用いた巨砲四門を構えて待ち受けていた。彼らが一斉に鯨波を轟かせて猛射したから、訓練不足の十津川兵が忽ち総崩れとなったのは当然であった。
戦死十三、生捕り五十余人、木砲六門、槍刀、多数を分捕られ、算を乱して故郷に逃走した。中には京の御所警備隊にかけこんだ者もいて、精強で知られた二百の現役親兵は始めて郷里の情勢を聞き、切歯扼腕したようだ。

(*1) こうめいてんのう(1831〜1867)。121代天皇。119代・光格天皇の第六皇子である120代・仁孝天皇の第四皇子。
(*2) 序曲を参照。
(*3) 他は、白川郷(岐阜県)、祖谷(徳島県)、椎葉(宮崎県)か。
(*4) 安積五郎(1828〜1864)。江戸生まれ。幼少の頃、痘瘡を病み右目を失明、11歳のとき商家に奉公したが、間もなく家に帰って売卜(報酬を得て、占いをすること)を学び、のち剣術をも志す。15歳の時、幕府医官塩田順庵に従って勉学、同時に北辰一刀流・千葉周作について剣術を学び、ついに売卜業の家業を捨てて、江畑五郎なるものと共に下谷御徒町に漢学塾を開いた。▽安政6年(1859)、千葉道場の同門・清河八郎と出会い、尊王攘夷論に強い感銘を受け志を同じくする。商家出の安積は境遇も似ており、清河八郎にとって安積は弟のような存在だったのかもしれない。▽安積は当然のように「虎尾の会(*4-1)」の一員となり尊攘を唱えていたが、同志・伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助らによるヒュースケン殺害事件後、清河塾に対する監視が厳しくなり、清河八郎とともに逃走。長い逃亡生活が始まる。▽清河八郎暗殺後、その意志を受け継ぎつつ、天誅組の義挙に参加。旗奉行として十津川・坂本に戦い、清河八郎の幼少の師・藤本鉄石らとしばしば奇策をもって敵を破ったが、9月25日、丹波で津藩兵に捕えられる。この闘いで「虎尾の会」の多くの同志が死ぬ。翌年元治元年(1864)7月、京都の六角の獄中で処刑。享年37歳。
(*4-1) 安政7 / 万延元年(1860)、お玉ヶ池塾に尊攘派が集まるようになり、「虎尾の会」結成。メンバーは山岡鉄太郎、松岡万、池田徳太郎、美玉三平、村上俊五郎、薩摩藩士樋渡八兵衛・益満新八・伊牟田尚平ら。この年の12 / 15、虎尾の会の益満新八・伊牟田尚平・樋渡八兵衛、通訳ヒュースケンを斬殺。 
(4) 吉村寅太郎、負傷する
いっぽう御所に進撃した吉村寅太郎は、めざす郡山兵の影も見えず、手ぶらで帰る途中の三在村で敗走する本隊と出会った。思わず忠光の馬の轡を握りしめ
「緒戦でこんな不態な敗け戦をして天下の物笑いとなるは必定。公はこれを何と考えて居られるか!」と怒鳴りつけたと云う。一言もなく五条に帰る忠光を見送った吉村は
「何とかこの仇を討たねば」と、その夜に決死隊を編成して城下に迫り、敵の軍監(*1)を落馬させて討取らんとした時、運悪くも慌てた十津川兵の弾を腹と股に受けてしまう。さすが不屈の彼も遂に夜襲を断念せざるを得なかった。傷心の身を山駕籠に託して五条に帰ったのは八月二十七日の夜だった。
処が桜井寺本営に待っていたのは軍師・安積五郎と水郡善之祐ら河内隊のみで、忠光はいち早く天辻本陣に逃げ帰ったと云う。
吉村は
「宮中第一の剛気と聞いてはいても所詮は公卿か」と失望しながらも、四辺から続々と迫ってくる追討の幕軍に、ここで防ぐのは危ういと翌日の早暁、四十人の残兵を率いて五条を立った。半時後には紀州兵六百が姿を見せ、正に危機一髪であった。

(*1) ぐんかん。戦国時代用語。戦場で軍の進退などを監督する役目またはその人。軍目付(いくさめつけ)、軍奉行(いくさぶぎょう)とも言う。 
(5) 吉村寅太郎、敢えて天辻峠に止まる
吉村が、傷の痛みに耐えながら天辻本陣に着いたのはもう夕刻で、忠光は二総裁(*1)を引連れて四里も先の長殿(*2)に本陣を移したと云う。
「亦してもじゃじゃ馬公の独断か、一戦も交えず万夫不当の堅陣を捨てられるか」と激怒した吉村は軍令を無視して水郡隊と共に断呼居残った。これは“軍中の将、時に君命に従わざる事あり”との信念からであろう。
天誅組の軍令は国学の大家と云われた松本奎堂(*3)の起草で
「軍令は厳ならざれば、一軍の勝敗にかかわる。忠孝の本義にいささかも違背あるべからず。もし反したる者は軍中の刑法、歩を移さずと云うことかねて心得申すべし。」から始まって微に入り細をうがち、やがて
「一心公平無私。土地を得て天朝に帰し、功あらば神徳に属して私することあるべからず。将もしこの儀に違わば皇祖大神の冥罰を蒙り、兵この儀に違わば凶徒に異ならず、忽ち天誅神罰を行わん。ここに皇祖大神宮に誓い総軍将士に告ぐ。」で結ぶ正に秋霜厳烈の趣があった。
吉村はその事を熟知していた上で、敢えて天辻に止まったのは、心中一点の私心も無かったからだ。

(*1) 天誅組三総裁は、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂。
(*2) 和歌山県十津川村。奈良県五條市より十津川村への入口。
(*3) まつもと けいどう(1832〜1863)。幕末の志士。奎堂は号。▽三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わる。▽孝明天皇の大和行幸の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵。吉村寅太郎(土佐脱藩)、藤本鉄石(岡山脱藩)とともに三総裁の一人となるが、八月十八日の政変で大和行幸は中止。孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死。 
(6) 中山忠光、新宮へ行けず
そして忠光も若気の拙劣はあっても臆病風などの私心からではない。高取の壊走が敵の巨砲の凄しさと味方の木砲の不発や性能不足から生じたのを見て
「無駄な消耗を続けるより、余力を残して一気に熊野新宮に突進し、海路長州をめざし捲土重来を期した」からに違いない。
八月末の時点で、熊野の首府とも云うべき新宮丹鶴城の情勢を見れば、後の長州戦で連戦連勝「鬼水野」と恐れられた剛強・水野忠幹(*1)以下の精鋭六百は在京中であった。老公忠央(*2)の下には老幼兵二百に満たず、城下は大騒動となる。年二十両で兵を募めたが、中々集まらず、四苦八苦していた。もし川舟を徴発して一気に新宮港を突けば、恐らく成功していただろう。
そして長殿の長泉寺に本陣を置いた忠光が藤本鉄石(*3)の参同を得て
「即時、新宮へ進発」の軍令を発したのは八月三十日の朝で、その日は風屋の福寿院に本陣を移し、吉村らが到着するのを待って滞陣。
その日『南山踏雲録』の筆者・伴林光平(*4)らは、忠光の命で、急ぎ下立(折立)に急行して新宮への舟便を確保すべく懸命となったらしい。
その日の日誌に
武士の 我もと云いて 問い来るは 折立村の あればなりけり。
と詠じているが、折立の渡船場で船頭達から
「水野老公の厳命で丹鶴城の水ノ手口を始め乙基、桧杖、浅里、請川の渡船場には水野駿馬を始めとする警備隊が配置され、軍奉行の瀬田貫三郎が日々きびしく巡回して守りを固めている。」との情報を手に入れ、急ぎ立帰って忠光に報じたのは九月一日である。それを聞いた忠光はガックリきたらしく、別室に籠って出てこなかったと云う。

(*1) みずの ただもと(1838〜1902)。紀伊新宮藩の第10代当主(紀伊藩附家老、大名としては初代藩主)。第9代当主・水野忠央の長男。
(*2) みずの ただなか(1814〜1865)。紀伊新宮藩の第9代当主(幕藩体制下では藩主として認められておらず、紀州藩の付家老だった)。第8代当主・水野忠啓の長男。号は丹鶴、鶴峯。
(*3) ふじもとてっせき(1816〜1863)。幕末の志士。絵師であり画号が多い。鉄石斎が最もよく知られる。▽岡山藩を脱藩。諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪士と交わり志士活動を行う。天誅組三総裁の一人となるが、幕府軍の討伐を受け、天誅組は壊滅。藤本も戦死。
(*4) ともばやしみつひら(1813〜1864)。幕末の国学者、歌人、勤王志士。▽志紀郡林村(現:藤井寺市林)浄土真宗尊光寺に父 賢静・母 原田氏の次男として生まれ、各地で仏道・朱子学・国学・和歌を学ぶ(父は出生前に他界、母も六歳の時に亡くなった)。▽1845年、八尾の教恩寺の住職となり、多くの門人に国学・歌道の教育を行うが、1861年出奔、勤王志士として活動。▽1863年、天誅組の変が起こると、五條に駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。義挙失敗の後、捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した「南山踏雲録(なんざんしゅううんろく、なんざんとううんろく)」を書き、翌年2月、京都で斬首処刑。京都六角の獄舎に移されたとき、生野の変で囚われた平野国臣と牢が隣同士で和歌の贈答をしている。1891年9月靖国神社合祀、12月従四位追贈。 
3 天ノ川辻峠の激斗  

 

(1) 天誅組、全軍が天辻本陣に集結
九月に入るや、動きのにぶかった各藩の兵も紀州三千、藤堂二千、郡山二千、井伊ら三千総計一万に達した。
その中心となるべき紀州藩の水野勢の中でも
「高野山に進んだ北畠道龍(*1)の法福寺隊や、津田監物(*2)の三番隊は、斗志満々たるものがある。」との情報を聞いた吉村寅太郎は、かねて知己の紀州の同志から聞かされていた新宮藩主の水野忠幹(*3)公に違いないと、その本陣に宛て次のような一書を提した。
「一筆献上。かねて貴藩同志より、忠幹公は、上は天朝を尊び、下は庶民を撫育し、君臣の大義を知る名君なれば、その動向には心配無用なり、と聞き及びたるにつき、謹んで啓上仕る。」と天皇の真意を曲げる薩会の姦略を責め、今回の出陣を
「当今仁義の士を賊徒とするは天下の不幸ならずや」と評した。そして
「公の寛大にして勇断に富む赤心や如何」と責めている。
けれどこの水野は紀州公の直臣で、物頭役三千石の水野多門である。水野多門はそれを見て、悩んだ末にその職を坂西に任せて、和歌山に帰ってしまう。水野多門の用人が責を負うて切腹したと云われる。
それを聞いた吉村寅太郎は、更に小姓頭の渋谷を、藤堂藩の伊賀上野の城代・藤堂新七郎、同玄蕃に対して軍使として送り、同様に説得させた。
渋谷の死を決した潔ぎよい態度にひどく心を打たれた藤堂新七郎は、惜しみながらも彼を捕らえると、返書の中に
「その精神は判るが、形の上では朝敵である。速やかに降伏すれば何とか力になろう」と述べている。
それを見た吉村寅太郎は、一段と河内方面への突破作戦に自信を深め、中山忠光に天辻合流を切望したから、中山忠光も漸く
「新宮突出の望みが絶えた今は、それに頼るしかない」と考え、九月六日、北上して全軍が天辻本陣に集結、高らかに鯨波を轟かせた。

(*1) 北畠道龍(1820-1907)。浄土真宗西本願寺派僧侶。日本人として初めて仏陀成道の地ブッダガヤを巡礼した。宗教者というよりは一大の豪傑と呼ぶがふさわしい人物で、紀州出身の道龍は僧侶だてらに軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊をけちらし、幕府軍のなかで孤軍気を吐いた。維新前後には津田出(*1-1)とタッグを組んで和歌山藩の兵制をプロシア式に改革。廃藩置県の時点で、道龍が育てた和歌山軍は恐らく日本最強の軍隊だったのではないか。
(*1-1) つだ いずる(1832〜1905)。幕末期から明治前期にかけて活躍した武士・官僚、陸軍軍人。紀州藩藩政改革に成功し、明治新政府の廃藩置県および徴兵令に影響を与えた。官位は錦鶏間祗候陸軍少将従二位勲一等。通称は又太郎。号は芝山。
(*2) 不明
(*3) 緒戦を参照。 
(2) 橋本若狭、下市の彦根本陣に放火
それを知った藤堂新七郎は大日川で、自から先頭に立ち、大激戦を展開したが、槍傷を受けて退却した。中山忠光はかって大塔宮が快勝した歴史の残る白銀神社(*1)に本陣を移して、下市の敵に備える。
九月八日になると、下市に本陣を置いた彦根勢三千が、栃原砦と樺木砦に迫り、郡山二千は広橋峠に進撃してきた。そこで、丹生川上下社(*2)の神官・橋本若狭(*3)、水郡善之祐(*4)の河内勢を配置して、必死に防戦し、決戦二昼夜に及んだ。
然し多勢に無勢で次々に陥落する。丹生川上神社も占領された上に、全焼させられたから、怒髪天をつく思いの橋本若狭は独断で、同夜、下市の彦根本陣に潜入して放火した。後世“天誅の大火”と呼ばれる大惨事となる。三百余軒が全焼して居り、橋本若狭らは膨大な量の兵器弾薬を奪うと、荷車に満載して意気揚々と引揚げた。
下市の大火は白銀山の本陣からも手に取るように見え、伴林光平(*5)は
吉野山、峰の梢や 如何ならん 紅葉になりぬ 谷の家村。
と詠じているが、これが橋本若狭の手柄とは思わず、高見の見物で快哉を叫んでいるうち
「藤堂勢大挙迫る」と大日川の陣から急報が入ったので、中山忠光は全員を率いて大日川へ救援に向ったのは残念としか云い様がない。
もしこれが判っていたら、直ちに下市に突進し、逃げる敵を壊滅させ、勢に乗じて河内方面に脱出するのは容易であったと云われ、千載一遇の好機を空しく逸してしまった。
そればかりでなく、前線で力斗している水郡勢に連絡もせず転進した事から、戦力と補給の中心となっていた水郡善之祐隊が分離して独自の行動をとる事になる。若い中山忠光は、そうとは夢にも知らない。計らずも大日川にかけつけた藤堂勢と激斗を交えるうち、突如として敵は田村の民家を焼いて退却に転じた。

(*1) 波宝神社(はほうじんじゃ)の誤記か。祭神:住吉明神、神功皇后。所在地:奈良県吉野郡西吉野村夜中。吉野三山の一つ銀峯山(白銀岳)612m山頂に鎮座する式内社。
神社の起源詳らかならずも…銀峯は吉野郡三霊峰の一にして往古、伊弉諾伊弉冉二尊の降臨あらせられ…
神功皇后、三韓帰途日高を経てここ小竹宮に還る。(夜中邑地名起源説話)
応神天皇、吉野行幸の際駐輦あらせ給う…
舊古田大明神又は若櫻宮と稱す大寳元年、役小角、此山に入り秘法を行いしに神女出現ありて「鎮護國家化導群衆」と告げ石室に入り給う因って神蔵大明神と云ふ爾来大峯参詣の行場にして先達入峯すること舊例なり。
正平十五年(1360)南朝方征夷大将軍赤松宮陸良親王(大塔宮・護良親王遺子)銀峯に陣を構え三日三夜の戦い。
天保四年(1833)有栖川宮、参拝あらせられ祈願所となし摂社八幡大神の神体及び本社の大鈴外数点を献ず。
文久三年(1863)9月、天誅組、茲に本陣を置くなり。…
…などと記されている。『白銀村(旧)村史』
(*2) にうかわかみじんじゃ。奈良県吉野郡にある神社。本来は1つの神社であるが、明治以降、歴史的経緯により上社・中社・下社の3つの「丹生川上神社」ができた。上・中・下は神社の格の上下や所在地の位置関係を表すものではない。
(*3) はしもとわかさ(1822〜1865)。郷士・益田藤左衛門の第四子。万延元年(一八六○)三月三十八歳の時、吉野郡丹生村長谷の丹生川上神社下社祠官橋本信政の後継となる。幼少より武芸を修め、当時「滝の今弁慶」とさえ言われた。剣、柔、槍、砲術の技を修業するために常に各地を巡歴する中、諸藩の形勢や国情を探り歩いた。一方、特に柔術に長じ、自ら「二葉天明流」を興し、神職のかたわら練武場を設け、近隣の者たちへ武芸を教えながら、熱く勤王の志を説いた。▽文久三年(一八六三)八月一七日、五條に主将・中山忠光卿(前侍従)吉村寅太郎(土佐)松本金堂(参州)藤本鉄石(備前)等三総裁が率いる天誅組の義挙が起こると妻子を残し、同志中井元定(越前)や欣求寺良厳等を引き連れ参陣。祀官として皇軍戦勝を祈祷する一方で自らも武人として栃原、樺の木峠、広橋峠で彦根藩を相手に奮闘。一時的に勝利を手にするも敗色濃厚となり無念の撤退。丹生川上神社下社も焼かれ起死回生の秘策として下市の敵陣営の夜襲を決行し快勝。しかし本隊の退却や離脱者も相次ぎ、天誅組は事実上解散した。▽ 九月の東吉野村鷲家口での最後の戦をかろうじて脱出。その後も勤王の志は何ら衰えず、三河の村上忠順宅に潜伏。元治元年(一八六四)大阪にて大阪屋豊次郎と称して材木仲買商を営みながら同志たちとの画策を続ける中、十一月ついに幕吏に捕縛され、翌慶応元年(一八六五)六月京都六角獄で処刑された。享年四十四才。
(*4) 緒戦を参照。
(*5) 緒戦を参照。 
(3) 水郡善之祐隊、離脱する
下市で彦根勢が大量の武器弾薬を失い、総攻撃の予定が延期となったのを知った藤堂新七郎は、孤立包囲されるのを恐れて、五条に引揚げた。
だが、それとは知らず、凱歌を轟かせた中山忠光と藤本鉄石(*1)は、この勢いに乗じて河内脱出を決めた。先峰となった水郡善之祐隊は、一気に五条に近い丹原まで追撃して陣を固め、本陣の到着を待った。
処が十一日になっても、本陣は姿を見せない。それで水郡らは大日川に帰って見ると、軍議は変更されて十津川に引き揚げとなり、藻抜けの空となっていた。
「亦しても置き去りじゃ」と隊員の怒りは遂に爆発し、十七名の離脱決議文を見せられた時、二総裁は内心その責を痛感したに違いない。
「将、将たらざる故に、士、士たらず。水郡の去るを、怨む処なし」と嘆じる軍師・安積五郎(*2)の言葉に天辻にいた吉村寅太郎も断腸の想であったろう。

(*1) 緒戦を参照。
(*2) 緒戦を参照。 
(4) 天誅組、天辻を放棄する
そうこうとして十二日朝、軍議を開く折しも
「紀州法福寺隊が凄しい斗志で一挙に要衝・鳩首(*1)を襲い、我方は為す術もなく潰走した」との敗報が入った。
「もはや天辻は放棄するしかない」さすがの吉村寅太郎もそう感じ、自から殿軍を買って出た。中山忠光ら本隊は、直ちに四千尺の高峯・唐笠山(*2)の山麓にある小代(*3)の地に退却する。
中山忠光に随行した伴林光平は殿野(*4)の里で
鉾とりて 夕越くれば 秋山の 紅葉の間より 月ぞきらめく。
と詠じ、藤本鉄石もまた
雲をふみ 巌さぐゝむ 武夫の 鎧の袖に 紅葉かつ散る。
と応じている。
伴林はひどく藤本を尊敬し、この句にちなみ『南山踏雲録』と号した戦記を記している。伴林が藤本を愛したのは、武将たる資質よりもその詩人肌であった。それは、伴林自身が詩人で、惨雨悲風の中に、あたかも煌めく月の如き名文を世に残したことでも判る。

(*1) 不明。トップページの地図参照。賀名生の南、唐笠山の北、銀峯山(白銀岳)の西、天辻の東に位置すると推測される。
(*2) 1,118m。R168天辻トンネルを抜け、道の駅「大塔」を過ぎ、正面に見える。
(*3) 奈良県五條市大塔町小代
(*4) 奈良県五條市大塔町殿野 
(5) 吉村寅太郎、鶴屋本陣に放火して退却する
九月十二日、要衝・天ノ川辻を後にした天誅組本隊が、唐笠山頂に輝く秋月を仰ぎながら、十津川めざして落ちて行った頃。
京の二条城で紀州藩征討総督に任じられた水野忠幹(前述)以下六百の精鋭は、慌しく淀川を下り、大坂港から快速蒸気船に乗船して、故郷・新宮をめざした。水野勢が紀南一帯に防衛陣を固めれば南海への脱出は不可能で、天誅組は釜中の魚でしかない。
水野忠幹が久しぶりに新宮港に到着したのは、九月十四日である。
同じ日、天ノ川辻の吉村隊は、「我こそ一番乗り」を競う鳩首の藤堂勢と富貴の紀州勢の攻撃を受けて死傷続出し、危機一髪の情勢であった。
と云うのも幕軍は十五日に攻撃を決行する約束であるのに、藤堂新七郎の独断で抜け駈けを計った。それを知った紀州勢も「そわさせじ」と、一足早く、けもの道から、突如!富貴辻砦に襲いかかったからである。
本陣の吉村は、急を聞いて、なけなしの兵をかき集めて送った。直後に、続いて藤堂の大軍が本陣に迫った。
さすがの彼も「もはやこれまで」と鶴屋本陣(*1)に放火して退却せざるを得なかった。
藤堂勢は勇み立って本陣に突入し、多数の兵器、弾薬、糧食を分捕って凱歌を奏した。それに比べ紀州勢は、必死に反撃する天誅組によって、隊長以下多くの死傷を出しつつも空しく兵を返すしかなかった。

(*1) 天誅組を援助した豪農・鶴屋治兵衛の天辻峠の屋敷(最高所)に本陣を置いた。旧天辻小学校の校地となった鶴屋治兵衛の屋敷跡が天誅組本陣跡で、今、天辻峠維新歴史公園となり、天誅組本陣跡の石碑や鶴屋治兵衛の頌徳碑が立っている。 
(6) 中山忠光、天誅組の解散を宣告する
吉村が山籠にゆられて上野地に姿を見せたのは十六日である。
思いがけなく十津川隊が、中川宮(*1)から
「忠光を勅使に出した事実はない。朝権を憚らず、勝手な勅諚などと詐称する天誅組は国家の乱賊である。十津川郷は古来からの勤皇の伝統を守り断呼彼らを討て」との沙汰書を受け、一同協議の上、「天誅組に退去して貰おう」と決議して忠光に申し入れて来た。それで、短気な忠光が遂に隊の解散を宣告した、と云う悲報を知った。
吉村は
「それにしても天ノ川辻で苦斗しているわしらに一言もなく勝手に解散してしまうとは」と内心は腹が立ったろうに、一言の愚痴もなく折からの十六夜の月を仰いで
曇りなき 月を見るにも 思うかな 明日は屍の 上に照るかと。
と詠じているのはさすがである。
十津川隊の申出は当然であり、それでも情の厚い山人だけに三百人近い人夫を提供して天誅組に尽力しているのだから、伴林が怒るのは無理と云うものだろう。

(*1) 久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)。(1824〜1891)伏見宮邦家親王の第四王子。「ともよし」とも読む。通称に中川宮。▽天保7年(1836年)、仁孝天皇の猶子となり、翌・天保8年(1837年)親王宣下、成憲(なりのり)の名を下賜される。天保9年(1838年)に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。嘉永5年(1852年)、剣と学問の師である有馬範顕の推挙で空席となった青蓮院門跡門主の座に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。 青蓮院が宮門跡で、また粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮または粟田宮と称される。後には天台座主にも就く。▽尊融法親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、将軍徳川家定の後継者問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老井伊直弼に目を付けられ、安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融法親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と称した。▽文久2年(1862年)に赦免されて復帰した尊融法親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌・文久3年(1863年)8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名でよく知られている。▽文久3年(1863年)前半は長州系公卿を中心とした討幕・尊攘派が朝廷の主流であった。そして、尊攘討幕派の志士たちの朝廷工作活動は、いかに朝廷に幕府を制御させるかという点に目標が移っていた。それが大和行幸の詔であった。孝明天皇の大和行幸の際に、天皇自ら攘夷のための軍議を開き、軍議を開くことによって自動的に幕府から軍事権および施政権を取り返すということを企てていた。同時に、征夷大将軍が率いる幕府軍こそ最も攘夷を実行すべき責任があり、当然取るべき責任を取ってもらうという算段でもあった。▽公武合体派の領袖であった尊融親王は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、真木和泉らの画策によって「西国鎮撫使」の名のもと、都から遠ざけられかけもした。これを察知した親王は西国鎮撫使の就任を固辞し、政敵であり長州派公卿の有力者であった大宰帥・有栖川宮熾仁親王にその役目を押し付けた。▽さらに尊融親王は京都守護職を務める会津藩やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。同年、元服を済ませて朝彦の諱を賜り、二品弾正尹に任ぜられる。以後は、弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)と称される(弾正尹は親王が任命される事が通例だったため)。▽八月十八日の政変により長州派公卿および長州藩が朝廷から退くと、朝彦親王は京都守護職松平容保とともに孝明天皇の信任を篤く受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や倒幕・尊攘派の志士たちの強烈な恨みを買うことにもなる。▽元治元年(1864年)、一部の尊攘倒幕派は朝彦親王邸への放火や容保の殺害を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった武器商人の古高俊太郎に大量の武器を用意させた。しかし、実行寸前で古高が新撰組に捕らえられ、計画に関与していた者の多くが池田屋事件で闘死、もしくは捕縛された。▽この年、宮号を中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改めた。同年禁門の変をが発生、その報復として二度も長州征伐が試みられたが、幕府は将軍の徳川家茂を病で失い、戦闘でも敗北した。さらに後を追うように孝明天皇が崩御する。このため、朝彦親王らの佐幕派は朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。▽慶応3年(1867年)12月9日、小御所会議において、長州藩主父子(毛利敬親・毛利広封)やすべての長州派公卿(討幕・尊攘派公卿)が復権する。有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら討幕・尊攘派公卿は、朝彦親王を明治元年(1868年)、広島藩預かりとした。明治5年(1872年)正月、伏見宮に復籍。▽明治8年(1875年)、久邇宮家を創設。公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。▽朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの、ませた逸話を持つ。還俗してからも子を多く作り、賀陽宮邦憲王、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)、梨本宮守正王、久邇宮多嘉王、朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王(首相)などをもうける。今上天皇以下の皇族は香淳皇后を介して久邇宮家の血を引いており、直系子孫にあたる。▽神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。 
(7) 伴林光平、置手紙を残す
九月十七日、忠光本隊の隊員軍夫を含めた四百名は南下して小原に泊した。
伴林らは進路調査の為に嫁越峠から前鬼をめざす。
十八日、本隊は下葛川から瀞峡を渡り新宮に向うと見せ、標高千三百mの笠捨山を越えて「浦向」をめざした。
山中で、忠光は珍しく
武夫の 赤き心を 現わして 紅葉と散れや 丈夫の友。
と詠じ、やっとのことに二十日、浦向に辿りついた。
村人は丁重に迎え入れ、菊水の紋も輝く正法寺(*1)には、忠光ら八十人を、傷病者の吉村らは上平家に、浦向兵助、善五郎宅には人足二四〇人を宿泊させ、もてなしている。
九月二十一日は雨で、軍議の結果、木ノ本、尾鷲への突出を断念し、東熊野街道を北上して河内に出る事となり、白川林泉寺(*2)に到着する。
ここで先発の伴林らが勝手に軍費を作り
「お先に南山を脱し、長州をめざす」との置手紙があった。

(*1) 曹洞宗の寺院。現在、奈良県吉野郡下北山村大字寺垣内896。
(*2) 現在、奈良県吉野郡上北山村大字白川214-44 
(8) 中山忠光、正法寺を焼く
置手紙を見て忠光は怒り、前鬼に残っている米を取りに行かせ、その日は進発せず休養させた。これが運命の別れ道となろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
前鬼に着いた人夫達を待っていたのは伴林を追って来た藤堂藩士らで
「天誅組に協力する者は首をはねる、こちらの人夫となれ」と厳命された。早々に逃げ帰ると林泉寺にいる村役に報告し、協議の末に全員が深夜こっそり逃亡してしまう。
九月二十三日の朝、それを知った忠光は激怒して八方に探させたが見つからない。兵器、食料などは捨てて身一つになり、十余人の病人の籠は隊士や従者が交替でかつぐ事にして午前八時に出発する。
忠光は腹立ちまぎれに
「武器弾薬を敵の手に渡してはならん。寺もろ共に焼いてしまえ」と命じ、炎上する寺を後にして五十余人が伯母峯峠をめざしたが、天誅組の軍令に
「敵地の住民と云えども本来は帝の御民であるから乱暴は許さぬ、神社、寺院に放火を厳禁する」と書いた松本圭堂はさぞ断腸の想いだったろう。
忠光ら三十人が伯母谷村の法昌寺(*1)についたのは夜の十時だった。
傷病者の籠はひどく遅れて、村人の救助に助けられて、吉村らが村に入ったのは九月二十四日の夜明けである。
その哀れな姿を見た忠光は涙ぐんで
「せめて一日休ませてやりたい」と思ったが、折しも
「彦根兵が和田村に来た」との報に、それもできず、朝九時に健兵四十人が先陣に立った。

(*1) 曹洞宗の寺院。現在、吉野郡川上村伯母谷21 
4 鷲家口の玉砕  

 

(1) 那須信吾、決死隊に
狼の遠ぼえがしきりとこだまする畿山路をふみ越えた天誅組隊士らは
「いざ井伊の赤鬼(*1)とやらに一泡ふかさん」と新しい斗志に燃えて和田村に入った。敵影と見たのは井光、井戸の各村から集まった百余人の人夫らで、喜んだ中山忠光(*2)は傷病者を彼らに任せて武木に向う。
筏流しで有名な武木についたのは午だった。庄屋の大西吉左衛門が礼装で迎え、心づくしのカツオ節と勝栗が膳をかざり、村役の給仕で地酒の美味さが身にしみる想いであったろう。
これが最後の宴とも知らず座は賑わい、藤本鉄石(*3)が、主に筆紙を求め、見事な筆跡で
八咫烏みちびけよかし、大君の事し励しむ御軍の為。
と詠じ一段と感動させる。
中山忠光らが武木を発ったのは午後の三時で、隊士らは次々と重い足取りで足の郷峠に向い、五木桜と呼ぶ悠大な山波の連なる尾根の茶店まで来ると、鷲家口の農夫が待っていた。
敵情を聞くと
「井伊家の方々が村に泊っているが、そんな大勢ではない」と答えつつも何やら怖えているので立木に縛りつけた。軍議を開き、
「決死隊を募って敵の本陣に斬込み、その隙に忠光や傷病者を脱出させる」ということに決して、那須信吾(*4)ら六名が選ばれる。
黄昏の雨の中を出発する彼らを見送った忠光は
「死に急ぎするでないぞ、何としても切り抜けて再挙の日を共に迎えようぞ」と励ましながら、熱い涙をこぼしていた、と農夫は後に証言している。忠光は性来人一倍情感にあふれたロマンチストだったようで、狂気とか過激と評するのは酷かも知れない。

(*1) 井伊 直弼(いい なおすけ)。近江彦根藩の第15代藩主。江戸幕府の大老。安政の大獄を行なって反対派を処罰するなどして、事実上の幕府最高権力者となるが、大獄に対する反発から桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。
(*2) 序曲を参照。
(*3) 緒戦を参照。
(*4) なすしんご(1829〜1863)。土佐藩の郷士。土佐藩の家老を務める浜田光章の三男。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。▽坂本竜馬に深く傾倒し、1861年に土佐勤王党に加わった。1862年には安岡嘉助や大石団蔵らと共に尊王を無視して藩政改革、佐幕を唱える吉田東洋を暗殺した上で脱藩し、長州藩に逃亡する。▽1863年、天誅組の反乱に参加し、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。享年35。 
(2) 那須信吾、死す
ここで追討軍の情況を眺める。
水野忠幹(*1)、坂西又六らの千余人の紀州勢は、本宮に本陣を於いて紀南一帯に防衛陣を固め、鈴木孫八郎(*2)を将とする一隊は、浦向から白川を北上して天誅組の後に迫っていた。
前鬼の藤堂勢から
「敵は東熊野街道を北上中なり」との報が五条本陣に入ったのは九月二十三日で、忽ち
「全軍とも鷲家口に急進せよ」との命が下った。
真先に井伊藩の先発三十人が二十四日の夕刻に着き、続いて紀州田丸藩の数百は参勤交替の際の本陣のある鷲家に本陣を置く。彦根本隊の到着は二十五日、藤堂本隊は二十六日の予定であった。
伴林らがこの地を難なく通過したのは二十一日の夕刻だから、もし忠光が白川で手間どらず急進すれば二十三日には無血突破できたわけで、その武運の拙なさが惜しまれる。
鷲家口に着いた彦根藩三十名は、斥候から前夜に天誅組が伯母峰に泊したのを知る。近村の農民をかり集め、第一線を宝泉寺の山門前に配備すると、要所要所に大篝火を焚き、その背後に鉄砲隊を置いて待ち構えた。
那須らの決死隊が斬込んだのは夜の七〜八時頃だったと云う。その状況は別図の通りである。
那須ら一騎当千の猛者揃いとは云え、銃は白川林泉寺で焼き捨て、一剣のみで斬りこんだのだから、井伊の鉄砲隊によって空しく怨を呑んだらしい。

(*1) 緒戦を参照。
(*2) 明治12年(1879)、初代新宮戸長に任命される。旧藩で柔術師範をつとめ、仲ノ町で柔術道場を開いていた。 
(3) 三総裁の最期〜松本奎堂、藤本鉄石〜
那須信吾らの犠牲によって中山忠光らは一気に敵陣を突破して鷲家に向った。しかしそこには紀州田丸の家老・山高、以下数百の兵が篝火を燃やし、手ぐすねをひいて待っていた。
到底突破は無理と思われので
「ここで解散してめいめい思い通りに落ち延び他日を期そう」と協議し、忠光は上田、伊吹ら六人と鷲家谷の北の山中に分け入った。
傷病者組にいた吉村寅太郎(*1)ら三総裁は、忠光らより遅れて五本桜についた。折から鷲家口の方角で激しい銃声が轟いているのを聞いて、藤本鉄石、松本奎堂(*2)は進路を変え、丹生川上神社中社から御殿越しの山道に入り、その夜は伊豆尾村の庄屋・松本清兵衛の邸にかくまわれる。
然し翌二十五日、紀州勢に探知されて、盲目の松本奎堂は敢なく銃殺された。
藤本鉄石は従者と共に当時は紀州領の本陣・日裏屋に斬り込み、家老の山高らを震い上らせると、力戦の後に学者とは思えぬ壮絶な最後をとげる。

(*1) 序曲を参照。
(*2) 緒戦を参照。 
(4) 三総裁の最期〜吉村寅太郎〜
吉村寅太郎は二十四日夜、傷に苦しみながらも気力は衰えず、人足達を
「辛抱せよ、辛抱したらきっと新しい世が来る。それを楽しみに耐えるのじゃ」と励ましつつ、本隊の跡を追った。しかし途中、銃声に恐れた籠人足に逃げられ、木津川村の庄屋・堂本孫兵衛の土蔵にひそんでいた。
けれど追手が迫るのを感じると、主に迷惑をかけられぬと、二十七日の夜半に出発し、鷲家谷に辿りつき猪小屋でかくれているのを藤堂隊に発見された。いきり立って乱射する味方を、
「憂国の士を銃で討ちとってはいかん」と止めた上野撤兵隊の金谷健吉は白刃をかざして迫り、重傷の吉村は討取られる。
彼は死に臨み「残念!」の一語を残して倒れたと云われる。村人はその遺骸を鷲家川畔の巨岩の根元に埋葬し“残念将軍之墓”なる石碑を立てて供養した。
処がその碑が不思議にも彼の霊力が宿ったか、万病を直す霊験をあらわし、やがて各国から参詣人が殺到することになる。 
(5) 安積五郎、伴林光平、水郡善之祐
鷲家口を辛うじて脱出した志士達も次々に捕われた。
藤堂藩に捕えられた軍師・安積五郎(*1)、小姓・顕澁谷ら九名は、島ヶ原の観菩提寺に預けられ、その好遇に
「何とか貴藩で処刑して貰いたい」と嘆願している程だが、翌年二月、伴林光平(*2)らと京の六角牢で処刑された。
竜神温泉で捕わった河内勢の水郡善之祐(*3)らも紀州藩の志士としての待遇に感謝し
鬼神も 恐れざりしが、誠ある 人の情に 袖ぬらすらん。
と詠じている。ちょうど蛤御門の激斗(*4)の最中だったため、裁判もなく、平野国臣(*5)ら三十二名と共に惨殺されている。
長州に逃れた忠光を始め、百余名の隊員中で明治の世にめぐり合えて“功なり名をとげた”ものは、平岡(*6)、伊吹(*7)、程度である。
すべて二十〜三十代で散っているのは昭和の特攻隊そのままで、何とも哀れである。

(*1) 緒戦を参照。
(*2) 緒戦を参照。
(*3) 緒戦を参照。
(*4) 禁門の変(きんもんのへん)。元治元年(1864)に起きた事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも。▽長州の積極派が、討薩賊会奸を掲げて挙兵。京都蛤御門付近で長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突、尊皇攘夷を唱える長州勢は壊滅。
(*5) 序曲を参照。
(*6) 平岡鳩平。維新後、北畠治房と名を変え、司法官として横浜、京都、東京の裁判所長、大阪控訴院長を歴任して男爵まで上り詰めた。大正10年(1921)、八十九歳で死す。
(*7) 石田 英吉(いしだ えいきち)(1839〜1901)。坂本龍馬門下。土佐国の人。変名を伊吹周吉。▽土佐藩の医師の家に生まれる。家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し医術を学んだ。志士・吉村寅太郎に心酔し天誅組に加わって大和挙兵に参陣。敗れた英吉はやむなく長州に落ち延び再起を図るが、蛤御門の変で負傷。 三条実美ら有力公卿が都を落ち延びたいわゆる「七卿落ち」で三条とともに都を離れた。その後、再び長州に逃れた英吉は、そこで高杉晋作と合流し奇兵隊創設に貢献するなどして過ごした。坂本龍馬と接触をはじめるのはこの頃からである。▽以後、優秀な人材を買われて龍馬の側近くで活動。亀山社中成立の頃より竜馬に従い、のち海援隊創設時は、長岡謙吉にとともに重きをなした。下関海戦では龍馬の命でユニオン号の指揮を任せられ、めざましい戦果を挙げた。▽龍馬の死後、主を亡くした海援隊は後継指導者も定まらなかったが英吉は長岡謙吉に従い、しばし後進の指導にあたるなど組織をまとめた。海援隊解散後、明治の世となった後は、秋田県令・千葉県知事をはじめ多くの県知事職を歴任。農政面での政策では多大な功績を残した。かつて英吉の愛弟子である陸奥宗光は農商務大臣に就任した際、英吉を次官に迎え国政を相談したと言われている。 貴族院議員をつとめたのち1901年、63歳で没した。▽龍馬配下としては指折りの逸材とも言われ、医術者を志していた共通の境遇を持つ長岡とともに「二吉」と賞され、また福岡孝悌、陸奥宗光と並ぶ人物であった。 
5 東吉野遊歩 

 

(1) 東吉野村
始めてこの地を訪れたのは平成八年(一九九六)の年末で、榛原から宇陀の水分神社を通り佐倉峠を越えると、天誅組と日本狼終焉の地で有名な東吉野村に入る。
村内の史碑と案内板の完備しているのは驚くばかりで
「こんなに歴史を大切にしている土地は他に知らんぞ。きっと奉仕精神に溢れた先覚者がいたに違いない。こんな処で住めれば幸福だなあ」と喜び、感心した。
鷲カ谷から川ぞいに下ると、今は小川と変った鷲家口の役場を訪ねて話を聞こうと思ったが、年末休みで誰もいない。名物の羊羹を土産に買い、色々聞いた処によれば、昔は和紙を中心とした百軒の商店が連なる商業地だったと云う。
出合橋を基点に、東は大又、高見から伊勢へ、西は吉野、上市に出る。北は今通ってきた榛原から参宮街道、南は東熊野街道に通じる交通の要地でもあったらしい。
宝泉寺(*1)と云う立派な寺があり、更に下ると清烈な鷲家川に架った橋の袂に「天誅組終焉地」の巨碑(*2)が立ち、ここが吉村ら多くの志士の碑が鎮まる明治谷である。
丹生川上中社の下の川辺で弁当を開き、鳥の声も爽やかな日の下で頬ばりながら次の行程を考えた。次回は武木まで下り、ここをスタートに北上して、終焉の日をじっくりと回顧する事に決め、明治谷の碑前で追悼の詩を吟じて菩提を弔し、帰途についた。

(*1) 吉野郡東吉野村大字小川588。寺の前に、「天誅義士記念碑」が、総裁吉村寅太郎を初め11人の志士がこの地で傷つき倒れたことを後世に伝えるために建立されている。
(*2) 天誅組終焉之地。バス停「鷲家」から県道16号吉野東吉野線を少し「鷲家川」に沿って南下すると、道路に面して左側に「天誅組終焉之地」の碑が建っている。なお、東吉野村の村内には、「天誅組湯ノ谷墓所」や「天誅組明治谷墓所」など至る所に天誅組の墓所等がある。 
(2) 中山忠伊、死す
さてやっと調査を終え、鷲家から帰途につきながら、改めて天誅組の精神を考える。
光格天皇(*1)の皇子でありながら、父の秘命を受けて民間に下られた中山忠伊(*2)は四十年に及ぶ討幕運動に奔走された。
天誅組玉砕の後にも勃発した沢(*3)、平野(*4)の「生野の変(*5)」もそうである。一時は二千の兵力を以て幕府の生野銀山代官所を占領したものの忽ちにして壊滅した。やがて金剛山転法輪寺の忠伊にも捕吏の手が伸びてきたので、一時は河内平野の満願寺に居を移して機をうかがった。しかし元治元年(一八六四)二月、中山忠伊は捕吏に襲われ惜しくも自刃される。時に六十余才であったと云う。

(*1) 緒戦を参照。
(*2) 緒戦を参照。
(*3) 澤宣嘉(さわ のぶよし)(1836〜1873)。公卿、明治の政治家。▽1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結の際は、反対して廷臣八十八卿列参事件にかかわる。以後、朝廷内で尊皇攘夷派として活動。▽1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。▽長州へ逃れた後に各地へ潜伏し、平野国臣に擁立されて但馬国生野で挙兵するが(生野の変)、3日で逃亡し、再度長州藩に逃れ、萩黒川にある藩主本陣 森田邸(吉田松陰養母実家にあたる)に逗留し、兵学、外国情勢等学ぶ。▽1867年(慶応3年)の王政復古の後に明治新政府に仕官する。参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの役職を務め、1869年(明治2年)に外国官知事から外務卿になり外交に携わるが38歳の若さで病死した。
(*4) 序曲を参照。
(*5) いくののへん。文久3年(1863)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件。 
(3) 明治維新〜天誅組ら志士の犠牲の上に咲いた花〜
それを伝え聞いた水戸の武田耕雲斉ら天狗党は筑波山に挙兵(*1)してその志を継かんと、京の慶喜(*2)に訴えるべく転進し、これに応じて京の勤皇志士らも御所を襲わんと計画中に新選組(*3)に襲われる。
いわゆる池田屋事件(*4)で、それを怒った長州藩は、七月、大挙上洛して蛤御門の戦いとなるが、会津、薩摩に敗れて長州藩は「俗論党」の世となる。
中山忠光が二十才で生涯を終えるのも其為だが、やがて
「吉村の死を無駄にはさせぬ」と誓った坂本竜馬の活躍によって薩長雄藩の連合(*5)が実現し、鳥羽、伏見(*6)で三百年ぶりに関ヶ原の仇討となる。
天誅組討伐に最も働いた譜代の井伊がまず官軍につき、続いて山崎関門を守った藤堂妥女の新式砲兵隊が橋本の幕軍砲台を粉砕して三百余名を倒し、官軍に決定的な勝利をもたらしているのも亡き志士達の英魂の導きではなかったろうか。
天誅組の壊滅を見て、その二の舞をさけるべく雄藩連合の構想が生れたのだから、明治維新は天誅組ら志士の犠牲の上に咲いた花であると云える。
それを“罪なき人民を苦しめる暴挙”と説くのは、その精神の高さを無視して結果のみを論ずるもので“力を正義”とする権力主義的な考えであり、決して真の歴史家とは云えない。
そう結論づけて、爽やかに墓碑に別れを告げた。

(*1) てんぐとうのらん。元治元年(1864)3月27日に起きた、水戸藩士・藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵。武田耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諌めたが、止む無く首領となった。
(*2) 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)(1837〜1913)。第15代将軍。将軍在位は慶応2年(1866)12月5日から慶応3年(1867)12月9日(王政復古の大号令)まで。将軍としての執務を江戸城で行なわなかった唯一の将軍。
(*3) しんせんぐみ。幕末期に、主として京都において、反幕府勢力弾圧・警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織である。
(*4) いけだやじけん。元治元年(1864)6月5日午後10時に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館池田屋で、京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件である。
(*5) さっちょうれんごう。慶応2年(1866)1月21日(旧暦)に幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟。薩長盟約、薩長同盟ともいう。▽薩摩は、元治元年(1864)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐などで薩摩が長州を屈服させて以来、感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により巨頭会談が進められ、1月21日(22日説も)京都薩摩藩邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の木戸孝允が倒幕運動に協力する6か条の同盟が成立。
(*6) とば・ふしみのたたかい。慶応4年(1868)1月3〜6日。戊辰戦争の緒戦にあたり、京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦い。 
6 エピローグ / 天誅組と熊野つゝ井筒 

 

天誅組と熊野つゝ井筒の由来を述べて結びとしよう。
熊野井戸家の十三代当主と伝えられる“益弘”は、若くして国学を好み、青雲の志に燃えて上洛すると吉村寅太郎の知己となった。天誅組挙兵の際は、家に災禍いの及ぶのを恐れて名を変えて参加した、と、私は祖父から聞かされた。
然し益弘は天ノ川辻の激戦で銃傷を受け、吉村の配慮で彼の従兵に送られて郷里に帰った。そして、邸の裏の山小屋で、幼い妹・おますの懸命な看護で療養に努めていた。
前記した通り、吉村は九月二十四日、鷲家口に向う。その前に、吉村は、その従兵に伝家の宝刀“水田郡国重”の小刀を贈った。そして辞世の句
吉野山 風に乱るゝ 紅葉をば 我らの太刀の 血煙りを見よ。
を詠み、
「益弘に頼んで、熊野大権現に奉納して討幕の達成を祈願して望しい」と、従兵に託した。
彼は必死で敵中を突破し、小鹿と呼ぶ地までやって来た時、計らずも警備についていた水野藩士・井野笹之助に発見されて討たれる。が、不思議なことに、この笹之助が良弘の郎党だった井戸野笹之助の子孫であった。
井戸野笹之助は、紀州・吉宗(*1)の代に召されて仕官し、姓を井野と改め、その嫡子は代々“笹之助”を継いでいた。画才に優れた兄・春敷は、吉宗と共に江戸に移住して幕府直参となり、弟は水野藩士となって新宮に住んだ。
従兵を討ったのは五代目の笹之助と云われるが、いまわの際の従兵から事情を聞き、主筋に当る益弘の苦境を目にして己の手柄とする気になれなかった。そして藩には無断で益弘をかくまい通すうち、兄の看護に懸命なおますの健気な姿に、何時しか山清水の如き“つゝ井筒の恋”が芽ばえたらしい。やがて二人はめでたく夫婦となり新宮に住んだ。
後、明治六年(一八七三)の征韓論(*2)に際し、西郷に傾倒して鹿児島に赴く井戸益弘の懇請で、井野笹之助は、子の一人を井戸家の養子とする。
後の西南の役(*3)に西郷護衛隊の一人となった益弘は、人吉(*4)で西郷が宿舎とした相良家の家老・新宮簡(行朝の子孫)の邸で、日夜警備に当っていた迄は判っているが、可愛岳(えのだけ)の突破行で、ついに討死したらしい。
そこら辺りの事情が判らぬのは、益弘が賊軍(西郷軍)に加わっていた為と、明治の大洪水(*5)で資料が一切流されたためで、惜しい事に、口碑しか残っていない。
或いは
「正直まっぽ(*6)に生き、名利を求めてはならぬ」と云う家訓から私的な話などは謹んだものと思われる。
鷲家川とそのほとりに咲き乱れた桜並木の梢からさんらんと舞う花吹雪が美しい。
吉村には京祇園の料亭「たん熊」の娘・およしという愛人がいて、可愛い子も生まれ、彼は断腸の思いで出陣したらしい。玉砕八十年忌の昭和十七年に封切られた映画『鷲ノ王峠(*7)』はその悲話を画き、主題歌“維新子守唄”が大流行だった。
 行灯かき立て眠る子の 頬に涙の子守唄。
 今宵わが子を抱く腕に 明ければ大義の剣(たち)をとる……
この詩と節(メロディー)が大好きで愛唱したのは、やがて兵として立つ日を覚悟していたからだ。
今でも時々思い出して歌うが、あれから早くも半世紀になる。
伊勢物語ならさしずめ、
「昔、男ありけり。つゝ井筒の乙女に恋うるが如く、いみじくも『大義の悲歌(エレジー)』と名づけたる、一つ唄を口ずさみて、五十(いそ)年を重ね、哀れ白髪の翁となりぬ」とでも云うか。
「ああ、これでわしの役目は終った。今夜は一つシャンペンでも挙げるか」と上機嫌で笑えば、開けた車窓から舞い込んだ花片が白髪に散りかかる。
「今日は四月二十日、七十二の誕生日だ。感謝とともに、祝わせてもらおう…」鷲家川の清冽な谷間に沸く“八幡湯”で夕日を浴びながら旅の疲れを癒し、薫風の中を一路さくら峠を越えた。

(*1) 徳川 吉宗(とくがわよしむね)。第8代将軍。紀州藩第5代藩主。
(*2) 征韓論(せいかんろん)は、日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている(毛利敏彦「明治六年政変」による)。
(*3) せいなんせんそう。1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦となった。
(*4) ひとよし。熊本県南部。人吉市。九州山地に囲まれた人吉盆地に位置し、球磨川沿いの温泉と川下りで有名。人吉・球磨地方の中心地。人吉藩相良氏の城下町として栄えた。
(*5) 明治22年の大洪水。時間雨量169.7ミリを記録したという。
(*6) 正直ひとすじ、の意。
(*7) 松竹下加茂、1941[昭16]年、伊藤大輔監督)スチル写真。  
 
蛮社の獄

 

天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。
背景
学問的背景
天保年間(1830年代)には江戸で蘭学が隆盛し新知識の研究と交換をする機運が高まり、医療をもっぱらとする蘭方医とは別個に、一つの潮流をなしていた。渡辺崋山はその指導者格であり、高野長英・小関三英は崋山への知識提供者であった。この潮流は旧来の国学者たちからは「蛮社」(南蛮の学を学ぶ集団)と呼ばれた。
後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は幕府の文教部門を代々司る林家の出身であり、幕府は儒学の中でも朱子学のみを正統の学問とし他の学説を排除したが林家はその官学主義の象徴とも言える存在で、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとり蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学にかぶれさらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても同様の感情が生まれていた。
以上の通説に対して田中弘之は、林述斎(耀蔵の実父)は儒者や門人の蘭学者との交流に何ら干渉せず寛容であり、また後述するように述斎はモリソン号事件の際、幕府評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえること、鳥居も単なる蘭学嫌いではなく、多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して反対するなど、その実用性をある程度認めていたこと、そもそも林家の三男坊にすぎなかった鳥居耀蔵は鳥居家に養子に入ることにより出世を遂げたため、鳥居家の人間としての意識のほうが強かったことを指摘している。また、崋山の友人である紀州藩の儒者・遠藤勝助は、救荒作物や海防について知識交換などを目的とした学問会「尚歯会」を創設したが、崋山・長英・三英はこの会の常連であったために「蛮社=尚歯会」「蛮社の獄=尚歯会への弾圧」という印象が後世生まれたが、尚歯会の会員で蛮社の獄で断罪されたのは崋山と長英のみであり、その容疑も海外渡航や幕政批判・処士横議で、会の主宰であった遠藤をはじめ他の関係者は処罰されておらず、そのような印象は全くの誤解だとしている。
対外的危機と開国への期待
天保年間、日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化し、欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東が重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。
寛政5年(1793年)のラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐れが強く、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。一方でこの頃から、蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待が生まれ始め、庶民の間でも鎖国の排外的閉鎖性に疑問が生じ始めていた。文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる可能性があった。
そのような中で出されたのが文政8年(1825年)の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年 - 1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた。
また、対外関係は、19世紀初頭に紛争状態にあった北方ロシアと関係改善されるも、インド市場と中国市場を獲得したイギリス政府が日本市場を狙い台頭する状況から、イギリスの小笠原諸島占領計画、モリソン号渡来が蛮社の獄に影響し、これら内外の状況が為政者の不安と有識者の危機意識を掻き立てていたというのが通説である。これに対して田中弘之は、当時のイギリスは清国との関係が急激に悪化しており、そのため日本人漂流民の送還もアメリカ商船モリソン号に委ねなければならなくなったと指摘している。小笠原諸島は清国との有事の際のイギリス商人の避難地およびイギリス海軍の小根拠地と考えられていたにすぎず、香港を獲得するとイギリスの占領計画も自然消滅しており、当時の幕府もイギリスの小笠原諸島占領に全く無関心であったとしている。モリソン号の来航を機に鎖国の撤廃を期待したのが高野長英・渡辺崋山らで、崋山は西洋を肯定的に紹介して「蘭学にして大施主」と噂されるほどの人物であった。
発端
モリソン号事件
蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キング(英語版)が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。
天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。
翌天保9年(1838年)6月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきたことを知った(ただしモリソン号はイギリス船と誤って伝えられた)。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7〜8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。
勘定奉行・勘定方「通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる」
大目付・目付「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき」
林大学頭(林述斎。鳥居耀蔵の父)「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり」
水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。
評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」
水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。
『戊戌夢物語』と『慎機論』
幕閣でモリソン号に関する評議がおこなわれていたのと同時期、天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において現在進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。
前述のように、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとするその場の一同は幕府の意向は打ち払いにあり、またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。
報せを聞いてから6日後に、長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮し、前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせた。なお、松本も長英と同様の趣旨の「上書」を幕府に提出している。
一方、崋山も『慎機論』を書いた。自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、友人の儒学者・海野予介が老中・太田資始の侍講であったことから海野に仲介を頼んでいた。しかし当の『慎機論』は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。
なお、『夢物語』『慎機論』いずれもモリソンを船名ではなく人名としているが、松本の「上書」では事実通りの船名となっており、長英と崋山はあえてモリソンを人名としたものと思われる。モリソンを恐るべき海軍提督であるかのように偽って幕府に恐れさせ、交易要求を受け入れさせようとしたものとみられる。
同じ頃、これは目付・鳥居耀蔵と江川英龍に江戸湾巡視の命が下った時期でもあるが、崋山は友人の儒学者・安積艮斎宅に招かれ世界地図を広げ海外知識を説いている。居並ぶ客皆感嘆の声を漏らさない者はなかったが、唯一、林式部(林述斎の三男・鳥居耀蔵の弟)だけは冷笑するばかりであったという(赤井東海『奪紅秘事』)。
江戸湾巡視
モリソン号に関する審議や『戊戌夢物語』の流布などを経た10か月後、天保9年(1838年)12月に水野忠邦は鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として江戸湾巡視の命を下した。両者は拝命し、打ち合わせを重ねたが鳥居が江川に無断で巡見予定地域を広げるなど当初からいざこざが絶えなかった。
江川は出発にそなえ渡辺崋山に測量技術者の推薦を依頼し、それに応えて崋山は高野長英の門人である下級幕臣・内田弥太郎と奥村喜三郎の名を挙げ、また本岐道平を加わらせた。一方鳥居の配下には、後に蛮社の獄で手先として活動する小笠原貢蔵がいた。江川は内田の参加が差し障りがないかどうか鳥居と勘定所にただしたところ、問題なしとの返事が来た。しかし出発前日の天保10年(1839年)1月8日になり、勘定奉行から内田随行不許可の内意が示された。巡見使一行は1月9日に出発したが、江川は内田の参加がなければ測量はできないと判断し、病と称して見分を延期し、勘定所に内田随行の願書を再三提出した。その結果ようやく21日になり随行が許可されたが、これは鳥居と江川という高官同士の対立を感知していた勘定所が政争に巻き込まれることを恐れたためと言われている。こうして内田と奥村は2月3日になって一行に合流したが、鳥居は今度は奥村の寺侍という身分を問題にし、強引に帰府させた。
鳥居・江川の一行が測量を終えて帰府したのは3月中旬であるが、この頃には鳥居は、崋山が江川と親しく、人材と器具を提供しているばかりか数々の助言を与えていることをつかんでいた。佐藤一斎の門人で林家に連なる身でありながら蘭学に傾倒した上、友人の儒学者らを蘭学に多数引き入れ、また陪臣の身分で幕府の政策に介入し外国知識を入説しようとする崋山は、林家と幕臣という二重の権威を誇り、身分制度を絶対正義と見なし西洋の文物を嫌悪する鳥居と林一門にとって、決して許容できない存在として憎悪の対象になった。さらに、折からの社会不安と外警多端によって幕藩体制がゆらぎを見せ始めていることに対する鳥居なりの危機意識、江川に代表される開明派幕臣を排除したい出世欲などが加わり、崋山を槍玉に挙げ連累として開明派を陥れることが、それらの解決策であると彼は考えるようになった。何よりも水野忠邦を首班とする幕閣全体に、『戊戌夢物語』の流布に見られる処士横議の風潮に対する嫌悪感があった。
以上が蛮社の獄発端のあらましで、フィクションにおいてしばしば採用される、測量図製作において鳥居が江川に敗れたのを逆恨みしたためというのは俗説であり、高野長英の獄中手記『蛮社遭厄小記』からとられたものである。長英は鳥居と江川・崋山の根深い対立や、後述する崋山の論文『外国事情書』について知らなかったのである。
以上の通説に対して田中弘之は、前記のとおり林家は蘭学に対しても非常に寛容であったし、鳥居耀蔵も林家よりも幕臣鳥居家の人間としての意識のほうが強かったと指摘している。江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。江戸湾巡視における両者の対立が決定的なものだったなら、そのようなことはあり得ない。そもそも鳥居と江川は、西洋に対する厳しい警戒心・鎖国厳守・幕府に対する並々ならぬ忠誠心という点では同一であり、江川が海防強化に積極的なのに対して鳥居は消極的という点で異なっているにすぎず、逆に海防論者を装いつつ内心では鎖国の撤廃を望む崋山と江川は同床異夢の関係であった。江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川を啓蒙しようとしていたのである。また、鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を江戸湾巡視に求めるのは誤りであるとしている。
事情書三部作
3月中旬、江戸湾巡視を終えて江戸に帰ってきた江川英龍は、復命書を作成するにあたって渡辺崋山の意見書も幕府に提出する予定であった。10年近くにわたり蘭学の知識を吸収し国防に関して意見を練り上げてきた崋山にとっても、これは幕府中枢に自分の意見を届けることのできるまたとない機会であった。日をおかずに崋山は『初稿西洋事情書』を書きあげたが、これは江川に送ることを断念した。この『初稿西洋事情書』が、2ヵ月後の蛮社の獄で幕政批判の証拠として挙げられ、『慎機論』とともに断罪の根拠とされることになる。
崋山は改めて『再稿西洋事情書』と『諸国建地草図』を脱稿し、3月22日に送付した。だが江川は後者は採用したが、前者は幕政批判の文言が激しいために却下し、書き直しを指示した。江川の希望に従い、崋山は4月23日になり改稿した『外国事情書』を先方に送付した。『再稿西洋事情書』が幕府の鎖国政策と怠惰性を激しく攻撃し、もっぱら幕政批判に終始しているのに比べ『外国事情書』は分量だけでも『再稿西洋事情書』の3倍近くに達し、海外知識と海防の具体案で占められている。海外知識に関しては最新の資料が活用され、崋山の蘭学研究の集大成であるとともに、論文としても当時の最高水準に達したものであった。崋山はこの論文を執筆していることを誰にも明かさず、高野長英もその例外ではなかった。蛮社の獄における通説の主要な情報源である長英の『蛮社遭厄小記』において、この『外国事情書』をめぐる動きについて一切触れられていないのはそのためである。
一方、書き直しを繰り返して完成が遅れたために、崋山が江川に『外国事情書』を送付した4月23日には江川はすでに幕府に復命書を提出してしまっていた。江川が幕府に復命書を提出した4月19日は、鳥居耀蔵が配下の小笠原貢蔵らに崋山について内偵を命じた日でもあった。陪臣の崋山が、幕府の業務たる測量行に、それも蘭学をもって介入したことだけでも不審と不快を覚えていた鳥居の感情は、江川が報告書に崋山作成の『諸国建地草図』を付したことでさらに悪化していた。蛮社の獄の狙いは、大局的には開明派の弾圧であり、直接的には江川を通じての『外国事情書』上申を阻むことにあった。鳥居の視点から見れば、これは西洋による文化侵略から日本を守る崇高な行動であった。
以上の通説に対して田中弘之は、江川が崋山に求めたものは、西洋の危険性を明らかにし日本が早急に海防を強化しなければならない理由を記した西洋事情の概説書であり、一方で崋山は江川からの依頼を好機として江川に鎖国・海防政策の誤りを気づかせようとしたものであるとしている。江川の事情書三部作には、イギリス・ロシアなど主要国の大まかな地誌・歴史・社会・軍備等が記されており、特に『初稿西洋事情書』ではそうした概説的記述の他に西洋に対する肯定的紹介、鎖国・海防への婉曲的な批判が巧みに挿入されているが、これは鎖国批判を含む内容が過激すぎたためか江川に送ることを断念し、次に鎖国の撤廃をほのめかした部分などを除いた『再稿西洋事情書』を書いて『諸国建地草図』とともにこれを送った。だがこれも江川の意に添わず書きなおしを求められ、崋山が再度書き直して送ったのが『外国事情書』である。だがこの『外国事情書』でも西洋への称賛は控えめなものの海防の強化は婉曲に批判しており、これは依頼した江川の意図とは反するため、結局江川は幕府への復命書を書くにあたって『再稿西洋事情書』『外国事情書』を参考にすることはなかった。さすがに江川もこの時点で崋山が海防論者でないことを悟ったのだろう。『外国事情書』の上申を阻むのが蛮社の獄の目的なら、正使の鳥居が部下である副使の江川が提出する報告書や『外国事情書』を却下すれば済むことであり、また開明派・守旧派などの存在も不分明で、そのような説は成立しがたいとしている。
無人島渡航計画
無人島である現在の小笠原諸島の存在が日本に知られるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、延宝3年(1675年)に幕府は探検船を派遣して調査し領有を宣言した。当時は長崎に来航する唐船を模して建造されたジャンク様式の航洋船が長崎にたまたま1隻あり、朱印船貿易時代の航海術にくわしい船頭もいたからだが、18世紀にはそのような船や人も失われており、19世紀に入り幕府の外国への警戒が厳しくなって異国船打払令が発令されると、幕府の無人島に対する姿勢も委縮し硬化していった。無人島の正確な位置さえ誰もわからなくなっており、関心も失われて半ば放置されていた。
そのような中、文政10年(1827年)にイギリスの探検船ブロッサム号(英語版)が父島に来航しイギリス領宣言を行ったが、イギリス政府の正式な承認は得られなかった。天保元年(1830年)には欧米人・ハワイ人など25名が父島に入植している。彼らは島に寄港する捕鯨船に水や食料を売って生活していた。
通説によると、モリソン号事件に象徴される外交問題に頭を悩ませていた幕府にとって、海防と沿岸調査は急務の事案であった。すでに天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説に対応し、幕府は代官・羽倉簡堂を同地の調査に派遣している。また、後に蛮社の獄で連累されることになる下級幕臣・本岐道平が羽倉に同行している。本岐は蘭学に通じた技術者であった。羽倉の友人であった渡辺崋山はこの調査に同行することを藩に願い出て、却下されているとする。これに対して田中弘之は、羽倉の伊豆諸島巡見は彼の支配地である大島から八丈島までの巡見であり、無人島渡航を命じられた事実はうかがえず、羽倉の無人島渡航は単なる噂に過ぎなかった。当時の和船では八丈島への航海でさえ危険が伴ったのである。崋山は噂を事実と信じて同行を希望したが、彼は西洋人が小笠原島に定住していることを知っていたようで、西洋に肯定的認識を持っていた崋山はそれゆえに最も身近な西洋とも言える無人島への興味と憧れから無人島渡航への同行を希望したものとみられる。そもそも羽倉と崋山の接点は不明で、もし2人が親密な間柄であったなら、無人島渡航の計画がないことを崋山は知らされていただろうとしている。
また、18世紀末以来、松浦静山『甲子夜話』や本多利明『西域物語』などの書物に桃源郷のような無人島の話が載っており、佐藤信淵『混同秘策』では空想的な無人島開発論が書かれており、無人島の噂は流布していたものとみられる。一方で、異国船打払令を発令していた幕府は、日本人と西洋人の接触を厳しく禁じるとともに、西洋への警戒心の緩んだ日本人への警戒を強めていた。
天保の半ばころ、常陸国無量寿寺の住職・順宣とその子息・順道は林子平の『三国通覧図説』や漂流者の日記などを読んで影響を受けたことから、無人島に関心を持ち、現地への渡航という夢を抱くようになった。旅籠山口屋の後見人・金次郎らもこの計画に関心を持っており、他に蒔絵師・山崎秀三郎、御徒隠居・本岐道平、陪臣医師・阿部友進、御普請役の兄・大塚同庵、元旗本家家臣・斉藤次郎兵衛、後に仲間を裏切って鳥居のスパイとなった下級幕臣・花井虎一らもこの計画に参加していた。この無人島渡航計画はもちろん幕府の許可を得たうえで実行することになっていたが、資金をはじめ船や食料の調達など具体的なことは何一つ決まっておらず、無人島に関心のある人々が地図や記録類を集めては夢や期待を語りあっていただけであった。
事件の展開
鳥居の暗躍
流布した『戊戌夢物語』は天保10年(1839年)春ごろには老中・水野忠邦にも達したようで、水野は「モリソン」という人物と『夢物語』の著者の探索を鳥居耀蔵に命じた。4月19日、鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに『夢物語』の著者探索にことよせ、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じた。鳥居はすでに前年から崋山の身辺を探索しており、この機会を利用して「蘭学にして大施主」と噂される崋山の拘引を狙っていたとみられる。10日後の4月29日、小笠原は調査結果を復命した。
イギリス人モリソンの人物について
『夢物語』は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという風説
幡崎鼎の人物像と彼と親しい者の名(松平伊勢守、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍、内田弥太郎、奥村喜三郎)。また彼らは幡崎が捕らえられてからは崋山・長英と親しくしていること
崋山の人柄と彼に海外渡航の企てがある旨
これらを述べた後さらに小笠原は、順宣・順道ら常州無量寿寺の人間たちが無人島(小笠原諸島)に渡航しようとしており、さらにアメリカまで行こうとしているという、『夢物語』とは関係なく水野の探索指令にもない一件を加えている。これら一連の情報を小笠原にもたらしたのは、下級幕臣の花井虎一である。彼は蘭学界に出入りして崋山宅もしばしば訪れており、さらにはそもそも無人島渡航計画にも加わっていた人物であった。鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井を使って崋山の内偵を進めており、花井は鳥居一派に完全に取りこまれ、犯罪の既成事実を作るべく崋山と順宣グループそれぞれに渡海をけしかけていた。報告を受けた鳥居は、無量寿寺についてさらなる調査を命じた。
一連の調査の結果、順宣らの計画は幕府に許可の願書を出し済みの合法的なものであることが判明したが、鳥居は、この計画に崋山が関与しさらに単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出した。先年崋山が羽倉の小笠原諸島の調査に同行しようとしたことも、密航の企ての証拠とされた。
なお告発状の大部分は崋山への誣告で占められているが、崋山の同調者として羽倉や江川、見分に同行した内田と奥村ら幕臣の名前が批判的に挙げられている。鳥居の狙いが、崋山の陥れとともに政敵排除と見分に介入されて不快を覚えた私怨を晴らすことにあったということが、ここからも伺える。ちなみに川路聖謨は告発状の中に名を挙げられていない。水野は鳥居の訴状を鵜呑みにはせず、配下の者に再調査を命じた。その結果、俎上にあげられた人間のうち、幕臣(松平伊勢守、羽倉、江川、内田、奥村、下曽根信敦)は皆容疑から外された。
以上の通説に対して田中弘之は、前記のとおり鳥居と江川は昵懇の間柄であり、鳥居は崋山の友人に幕府高官もいることを利用して水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたもので、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。また水野が再調査を命じた根拠とされる、鳥居の上書(告発状)以外のもう1通の上書についても、水野の再調査命令による上書ではなく、吟味の過程で鳥居の告発に疑問を抱いた北町奉行所が作成したものだろう。もし水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問いただすはずだし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。
5月14日に崋山・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、5月17日に自宅にて自殺した。高野長英は一時身を隠していたが、5月18日になり自首して出た。これにより、逮捕者は以下の8名となった。
渡辺崋山(田原藩年寄。47歳)
高野長英(町医。36歳)
順宣(無量寿寺住職。50歳)
順道(同上。順宣の息子。25歳)
山口屋金次郎(旅籠の後見人。39歳)
山崎秀三郎(蒔絵師。40歳)
本岐道平(御徒隠居。46歳)
斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣。66歳)
なお、崋山拘引の直後、水野は「登(崋山)事夢物語一件にてはこれ無く、全く無人島渡海一件の魁首なり」と断言しており、『夢物語』よりも無人島渡海を重要視している姿勢がうかがえる。
吟味
召喚された面々に対し、北町奉行・大草高好によって吟味が開始された。鳥居耀蔵の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根であり、さらに花井虎一が渡辺崋山に海外渡航をけしかけたこと、また崋山は順宣らグループとは無関係である一方、グループのメンバー斎藤次郎兵衛を花井が一度だけ崋山宅に連れて来たことがある旨を崋山は返答した。この日の時点で、大草は崋山に「その方、意趣遺恨にても受け候者これありや」と問うている。翌15日の吟味では、順宣グループと崋山の突き合わせ吟味が行われた。大草の尋問に対し順宣父子は、崋山という人物は名前も知らないこと、また告発状の中では具体的な渡航計画が述べられているが、これは花井が順宣らにこの通りにするようせかしてきたが、幕府の許可が降りていないために断った旨を述べた。また他のメンバーも崋山と渡航計画が無関係であるとの証言をし、崋山の嫌疑は晴れたかに見えた。しかしその間も、崋山の自宅から押収された文書類の検査は続けられていた。5月17日、鳥居は江川英龍に手紙を送った。「先月提出された報告書には外国事情を記した文書も付する予定だったそうだが、それがなかったのはいかなるわけか。速やかに提出されたし」という文面は、『初稿西洋事情書』を家宅捜索によって確保したことからくる皮肉と嘲笑だった。江川は鳥居の意図を察し、『外国事情書』の上申を断念せざるをえなかった。
5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣の大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。崋山の書類の中から『慎機論』『初稿西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。老中水野忠邦が、幕臣は容疑から外したものの処士横議の風潮を嫌い、崋山や長英の逮捕を是としていた以上幕閣の空気は有罪論に傾いていかざるをえなかった。崋山は取り調べが続く中も、『初稿西洋事情書』を発展させて『慎機論』としたとの虚偽の答弁をした。『初稿西洋事情書』は『外国事情書』と無関係とすることで、江川の『外国事情書』上申に支障が出ないようにと考えたのだが、江川は前述の通りすでに上申を諦め、5月25日に、崋山の文書を参照した外国に関するごく簡略な短文を提出している。
以上の通説における『外国事情書』の上申の部分について、田中弘之は#事情書三部作の節に記されているとおり、最初から上申は意図されておらず、また江川の意にも沿わない書であったため江川の復命書にも全く反映されなかったとしている。なお北町奉行の大草は、花井の偽証や鳥居の捏造と吟味介入に不信感を抱き、崋山らに同情的だった。
吟味自体は6月16日に終了した。長英を含む他の逮捕者全員は、有罪を認め口書に書判した。崋山一人が抵抗していたために判決が下りないでいたが、有罪を認める口書についに彼が書判させられたのは、7月24日のことだった。崋山の書判により裁判は一応の結審を見、量刑を決める段階に入った。
救援活動
渡辺崋山の交際は幅広く、幕府・大藩の高官から知識人に至るまで多岐に及んでいたが、彼が逮捕されるや高官や儒学者らは、松崎慊堂とその弟子・小田切要助と海野予介を除けば、こぞって崋山との無関係を強調することに務めた。
投獄された崋山の救援のために立ち上がり、奔走したのは、身分が低く新知識にも無縁な絵の弟子や友人達であった。救援活動の中枢をになったのは、崋山の画弟子の椿椿山である。また同じ崋山門下の一木平蔵・小田甫川・斎藤香玉、画友の立原杏所・高久靄崖・多胡逸斎ら、田原家中で崋山の義父でもある和田伝・小寺大八郎・金子武四郎らが、主な活動者であった。崋山投獄のニュースが伝わると彼らは乏しい家計の中からやりくりして獄中の崋山と牢役人に差し入れと付け届けをし、崋山は早くも5月21日には牢内で牢隠居の座につくことができた。
獄中における崋山の安全をとりあえず確保した後、彼らはそれぞれの縁故を頼って要路へのわたりをつけ、崋山の出獄・減刑のために活動した。その動きのうち主立ったものは、以下のごとくである。
(1) 当時の老中と町奉行へのつて。
松崎慊堂・海野予介を通じて太田資始へ。
小田切要助(水野の侍講)を通じて水野忠邦へ。
龍野藩士某を通じて脇坂安董(龍野藩主)へ。
下曽根信敦を通じて下曽根の実父・南町奉行の筒井政憲を介し吟味担当者の北町奉行・大草高好へ、それぞれ影響を与えるべく尽力した。鳥居耀蔵の告発状にも名前を挙げられた下曽根は、旗本でありながら西洋砲術の研究家だった。
(2) 田原藩側用人の八木仙右衛門が田原藩主三宅康直を動かし、崋山赦免のために働きかけてくれるよう水戸藩主徳川斉昭に対し陳情させる案が練られたが、これは実現を見なかった。
(3) 椿山のいとこ・椿蓼村が、つてをたどり塙次郎を介して大草高好に請願した。また蓼村は崋山の儒学の師の佐藤一斎ならびに林家の門も訪ね、彼らの様子を報告した。一斎は崋山救援のために動くことはなかったし、林家は崋山が逮捕されるや、間髪を入れず門人名簿から崋山の名を削ってしまっていた。
(4) 画弟子の斎藤香玉は、姉婿で幕臣の松田甚兵衛を通じ、将軍徳川家斉の愛妾お美代の方の養父中野碩翁に働きかける用意をした。しかし崋山は大奥の力で助かることをよしとせず、主君三宅公の安危に関わる場合の非常手段に留めるよう獄中から指示している。また香玉の父・斎藤市之進は寛永寺領代官を務めていた関係で、寛永寺の宮に幕府に声をかけさせるよう働く作戦もたてられたが、これは崋山の死罪が決定的になった場合にのみ頼るべきものとして同じく実行は見送られた。
(5) 水戸藩士立原杏所を中心とする、菊池淡雅・安西雲烟・高久靄崖といった風雅の友や下野の文人らが、共通の友人である崋山のために多額のカンパをした。杏所は洋学にも関心をもっていて高野長英とも親しく、処分は所払い程度であろうと獄中で楽観した長英が、その場合には水戸付近に住居を世話してくれるよう手紙で頼んだ相手はこの杏所である。
その他多数の人間達が、崋山救援のためにわずかなつてを頼って町奉行や奉行所役人に陳情や接触をこころみた。また、当時出府中であった佐久間象山が獄中の崋山に励ましの手紙を送ったことは、崋山が書簡中で特筆している。
もっとも、権力を恐れてこれまでの言動を翻した者の方がはるかに多かった。当時の江戸では新知識と開明性を尊ぶ気運が高まり、崋山の元には多くの儒学者・名士高官が集まっていたが、獄が始まると彼らは皆一様に崋山や洋学との無関係を喧伝した。文雅の友の中でも、八徳を説いた『南総里見八犬伝』の著者曲亭馬琴は救援のために動くことはなかった。また「幕末の三筆」として書道史に名高い市河米庵は崋山に肖像画を描かせるほど親しかったが、ある書画会で「崋山などという人間はまったく知らぬ」と言い放ち、その場にいた人間に「ではあなたの肖像画を描いたのはどなたでしたかな」と切りかえされたという。
奔走した中でもっとも名高いのは、やはり松崎慊堂であろう。慊堂はもとは林家の門人だった。25歳下の鳥居耀蔵とも、彼が子供の頃から今に至るまで親密な交際があった。蛮社の獄は慊堂にとって、崋山の逮捕と鳥居の陰謀の噂によって二重に心を痛めさせる出来事であった。慊堂の日記『慊堂日歴』には、鳥居の潔白を信じようとする心情がつづられている。
7月24日に至って崋山は、奉行所作成の口書に書判させられた。この口書は末尾に「別して不届」という語句が入っており、当時の慣習ではこれは死罪を免れないことを意味した。この口書の内容を知った松崎慊堂は崋山の死罪を予想して愕然とし、病をおして、崋山の人柄の高潔さと、政治批判を断罪するべきではない旨を訴える長文の嘆願書を書き上げ、浄書して29日に小田切要助を介して水野忠邦に提出させた。北町奉行所が口書に基づき作成して幕閣に提出していた、崋山斬罪の伺書が差し戻しになったのは8月3日のことであった。
もともと当時の老中4名のうち太田資始・脇坂安董が崋山に同情的であった上に、慊堂の尽瘁をおもんぱかった水野の意向が加わり、12月18日に崋山に対し在所蟄居の判決が下された。
判決とその後
12月18日に言い渡された判決は、次の通りである。  
渡辺崋山 - 幕政批判のかどで、田原で蟄居。
高野長英 - 永牢(終身刑)。
山口屋金次郎 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。
山崎秀三郎 - 江戸払い。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。
斉藤次郎兵衛 - 永牢。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。
順道 - 未決。吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられる。
順宣 - 僧籍の身で投機にはしったかどで押込。
阿部友進 - 獄開始後、渡航グループに接触した容疑で奉行所に召喚された、崋山の友人であり医者である同人も、無人島開発計画を吹聴し、山口屋に鉄砲を渡す相談に乗ったかどで100日押込。
本岐道平 - 無断で鉄砲を作成したかどで100日押込。
大塚同庵 - 山口屋金次郎に鉄砲を渡したかどで100日押込。
鈴木孫介 - 蛮社の獄に直接関係なかったが、崋山に貸した大塩平八郎の書簡を焼却したことが不埒として押込。
無人島渡海について、拷問で獄死した町人たちと同罪と見られる罪状がありながら、幕臣・陪臣はそれぞれ別件で「押込」という軽い処罰で済まされているが、その理由として田中弘之は、蛮社の獄は「幕府が緩み始めた鎖国の排外的閉鎖性の引き締めを図った事件」であって、罪状の有無よりも西洋・西洋人への警戒心の風化を戒める一罰百戒としてみせしめ的厳罰という要素が強かったため幕臣は除かれ町人たちだけが冤罪の犠牲にされた。鳥居耀蔵が『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を、町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされた事件であるとの説を提示している。
その後崋山は判決翌年の1月に田原に護送され、当地で暮らし始めたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)10月11日に自刃した。享年49。
長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄した。蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡したが、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害された。享年47。
本岐道平は獄中生活で体を壊したためか、出獄後まもなく死亡。順宣は無量寿寺に戻り、慶応3年(1867年)2月15日、77歳で死亡。
花井虎一は誣告の罪で重追放にされるべきところ、犯罪の摘発に寄与した功績が認められて無構え。その後花井は、翌年の4月6日に昌平黌勤番に抜擢されている。昌平黌は林家の所管であり、この異例の昇進には水野忠邦の内意も働いていた。その後花井は小笠原貢蔵の養女をめとり、長崎奉行付同心に昇進した。義父となった小笠原とともに長崎に赴任し、鳥居耀蔵による高島秋帆の陥れにも一役買ったという(ただしこれも鳥居によるものではなく、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中の水野によって行われたものとする説もある)。 
 
蛮社の獄 2

 

父の定通が100石から12石まで給料を減らされ
崋山の父は田原藩(現・愛知県東部)の藩士・渡辺定通で、江戸藩邸で働いていました。崋山が生まれたのも田原藩の藩邸です。
渡辺家は本来なら100石を貰える上級藩士だったのですが、藩の財政難と「定通が養子である」という理由で、12石にまで削られてしまっていました。これはひどい。しかも、定通が病気がちだったために医療費もかなりかかり、生活費に使えるのはもっと少なかったといわれています。当然「武士は食わねど高楊枝」どころではなく、崋山の弟や妹はほとんど他の家に奉公に行ってしまったといいます。
崋山は幼いなりに、家計の足しになることができないかと考えました。そこで、得意としていた絵を売って、いくらかの収入を得るようになります。
また、小さい頃から藩主の嫡男・亀吉、次いでその弟・元吉の話し相手として仕えていたため、かなり忙しい少年時代を過ごしていたようです。
しかしそのおかげで藩主一家の覚えもめでたく、学問所や絵の勉強をしに行くことができました。絵については谷文晁という、かなりおおらかな画家に教わっており、それが良い方向に働き、才能を開花させたといわれています。少年・崋山は好きなことや目先の生活のことだけでなく、朱子学や農学など、いずれ必要になるであろう知識も積極的に吸収していきました。
こうした息子の姿に励まされたのか。父・定通も出世して80石にまで収入が増えます。
相続問題で発言力を発揮
崋山は30歳で結婚し、二年後に父の死を受けて家督を相続。しかしここで、田原藩の跡継ぎを巡ってちょっとしたいさかいが起きてしまいます。ときの藩主・三宅康明(かつての元吉)が息子に恵まれないまま28歳で病死してしまったため、跡継ぎがいなくなってしまったのです。
例によって困り果てたお偉いさんたちは、持参金目当てで姫路藩から養子を迎えようと考えました。あっちもこっちも火の車状態の大名諸藩の中で、姫路藩は木綿の専売などによって比較的裕福になっていたからです。
しかし、養子を迎えるにも問題がありました。病死した元藩主の康明には異母弟の友信がおりまして、本来であれば血筋の続いている順に藩主の座を継ぐのが道理です。それに加えて藩主一家に近かった崋山は、お偉いさんの決定に納得できず、友信の擁立を呼びかけました。
結局は姫路藩からの養子・康直が次の藩主になりましたが、お偉いさんや姫路藩に“康明の姫と友信の男子を結婚させ、二人の間に生まれた男子を次の藩主にする”ことを承諾させています。
友信も藩主になれないと決まってからは荒れた生活を送っていたものの、「少なくとも自分の孫が将来藩主になれる」と聞いてまともに戻ったそうです。お偉いさんたちも、崋山たち友信派をなだめる目的で、友信を「ご隠居様」扱いとし、巣鴨に屋敷を用意しました。
崋山はここから友信と親しく付き合うようになり、いろいろと支援してもらうようになります。
天保の大飢饉でも餓死者を出さぬ藩政改革
一連の跡継ぎ騒動で気骨があるとみなされたのか。この後、39歳のとき、崋山は家老の末席に加えられました。崋山としては奉公はそこそこにして、絵に専念したかったようですが、良い意味で目をつけられたようです。
しかし根が真面目な崋山は、家老の一員になったからには気合を入れて働きます。倹約に加え、家格ではなく役職を元に禄(給料としての米)をもらう「格高制」を導入し、藩士のやる気を引き出しました。
他に、農業効率アップのため農学者を招き、いろいろな試みをしております。中でも、鯨油による田んぼの害虫駆除は大当たりしたといわれています。これにより収穫向上もでき、食料を蓄えておくことに成功。崋山が家老になって四年目に天保の大飢饉が起きたとき、この蓄えと綱紀粛正・倹約と領民優先を徹底し、餓死者を出しませんでした。自ら「凶荒心得書」というマニュアルも作っています。
これは幕府の目にも留まり、全国で唯一表彰を受けました。
まぁ、江戸時代になってからこの時点で三回も大飢饉が起きているのに、「食料を蓄える」という発想が他の藩になさすぎるのはどうかという気もしますけどね。幕府もほとんどの大名も、借金まみれかつ財政難だったので、「いつ来るかわからない(=二度と来ないかもしれない)災害のことなど考えていられるか!」ということなんでしょうか。
モリソン号事件のときに思わず書こうとした「慎機論」
ともかく、この頃から崋山は、尚歯会という蘭学者・儒学者の会合に顔を出すようになります。尚歯会には高野長英や川路聖謨(後々ハリスと交渉した人)などが参加しており、飢饉対策や海防についてなど、幅広い議論がかわされていました。崋山は表立って口にすることは控えていたものの、内心では開国派だったので、この会の人々と馬が合ったようです。
また、崋山自身には蘭学の心得はなかったものの、蘭学者たちが崋山の考えに深く同意したことで、蘭学者のリーダーとみなされるようになっていきました。
そんな中、崋山45歳のとき、モリソン号事件が起きます。「日本人の漂流民がたまたまアメリカの商船・モリソン号に救出されたものの、幕府が外国船打払令のために追い返してしまった」という、まさに「お役所仕事」な事件です。尚歯会のメンバーはこれに異を唱え、崋山も「慎機論」という本を書こうとしました。
しかし、田原藩の家老という立場上、他の学者たちのように真っ向から幕府へ反論を書くことができず、うやむやな文章になってしまいます。崋山にも自覚があったようで、公にはせず草稿のままにしておいたのですが、これがよくありませんでした。
陪臣の分際で国政に口を出すとは何事か!
それから約半年後、後に悪名高い「蛮社の獄」が勃発。崋山が未発表のまま置いておいた「慎機論」が「陪臣の分際で国政に口を出す不届き者の証拠」としてお咎めを受けてしまいます。
崋山は命までは取られませんでしたが、田原で謹慎生活を申し付けられました。当然生活は苦しくなり、画家としての弟子である福田半香の勧めで、絵を売って生活の足しにしています。図らずも、少年時代と同じような状況になったわけです。
しかし、これが幕府にバレたという噂が立ち、「藩にこれ以上の迷惑はかけられない」と感じた崋山は、「不忠不孝渡辺登」と書き残して切腹してしまいました。(「登」は崋山の武士としての通称)この噂自体が反崋山派の陰謀という説もありますが、どっちもあり得るのがなんとも……。崋山は急に昇進して様々な取り組みを実行したために、陰で相当に恨まれていたらしく、死後もかなりの圧力がかけられました。
息子の小崋が許されて家名再興を果たしても、崋山の墓を作ることはずっと許されず、許可が出たのは戊辰戦争が始まった慶応四年=明治元年(1868年)の春の話です。 
 
蛮社の獄 3

 

1) 尚歯会
大坂で大塩の乱があった天保8年(1837年)の6月2日、泰平の日本を揺るがすような事件があった。
マカオを出港したモリソン号というアメリカ船籍の船が浦賀沖に現れた。文政8年(1825)に制定された外国船打払令(無二念打払令ともいう)により、理由の如何を問わず打ち払う事になっていたから、沿岸から砲撃し、船を退去させた。その後、その船は薩摩に上陸しようと接近したが、やはり砲撃を加えられたため、日本入国を断念してマカオに帰港した。
あとでわかった事だが、この船には嵐にあって漂流していた日本の船乗り7人が乗っており、アメリカ人商人チャールズ・キングが彼らを日本に送り届けるのと引き替えに日本との通商を開こうと企図したのだ。
モリソン号を追い返せたのは、大砲などの兵器を備えていない商船だったためであるが、ひとまず幕府も民衆も胸をなでおろした。 しかし異国の情勢に詳しい学者や、大砲などの武器の彼我の能力差を知っている人たちはこの情勢をおおいに憂いていた。
尚歯会と呼ばれる勉強会があった。「尚」は尊ぶ、「歯」は年齢を表し、本来は老人を敬う、すなわち敬老という意味である。当初は天保飢饉など、相次ぐ飢饉の対応策を講ずるために結成されたが、次第に蘭学を中心に医学・語学・数学・天文学などの西洋の学問を論ずる会になり、さらに議論は政治・経済・国防などに及ぶようになった。主な会員は医師の高野長英、小関三英、田原藩家老で画家の渡辺崋山、幕臣の江川英龍、川路聖謨、下曽根金三郎、水戸藩士で南画家の立原杏所などであった。
五郎左衛門がこの会に参加していたという記録はない。しかしこの会のキーワードである「飢饉対策」と「大筒(大砲)の彼我の差」は五郎左衛門にとって関心をよせざるを得ない分野である。前者は天保飢饉に苦しむ江戸市民を救済する事業にかかわり、記憶に新しい。
大筒は五郎左衛門が若い頃から稽古してきた得意の分野、西洋の大砲の性能を聞くたびに彼我の差に切歯扼腕して来たからだ。
さらに会員の1人である下曽根金三郎は砲術をともに学んだ仲間である上に、五郎左衛門の上司である筒井伊賀守の実子。
また立原杏所は甥の仁杉八右衛門の著作「扇譜」に序文を書くなど仁杉家とは交遊があった人。
このように、尚歯会で議論されている事は五郎左衛門にとって最大の関心事であるし、人的な関係も深い。なんらかの形で五郎左衛門が尚歯会と関わりを持ったことは想像に難くない。
モリソン事件のことを知った高野長英は「戊戌夢物語」を著し、間接的に幕府の対外方針を批判した。 尚歯会のこのような活動を苦々しく思っていた人物がいる。 蘭学を毛嫌いする保守派の中心、鳥居耀蔵である。
2) 鳥居の言論弾圧
鳥居は寛政8年(1796)11月24日に大学頭林述斎の3男として生まれた。 林述斎は、美濃国恵那郡岩村の藩主・松平能登守の第3子乗衡。 老中松平定信によって学問所が再興されたとき、林家を相続して大学頭に任命されている。 この3男として生まれたのが後の忠耀である。
文政3年(1820)25歳のとき千5百石の旗本・鳥居家の娘登与の婿養子となり、翌文政4年に家督を相続した。 文政6年2月、中奥番を命じられたが天保3年これを辞した。 その後天保5年6月、御徒頭を命じられ、次第に才能を発揮、2年後の9月4日には西の丸目付に昇進し、同9年4月には本丸目付となった。 儒学の家に生まれたせいか大の洋学嫌い、儒学による社会安定こそ第一義とし、洋学を「亡国の思想」と信じる保守主義者であった。
蘭語を通じて西洋の学問を論ずる尚歯会の面々は鳥居にとって好ましからざる集団であったが、これに輪をかけて尚歯会を目の仇とするようになる出来事があった。ったのは、会員の1人である江川太郎左衛門とともに命じられた相州他の海岸巡検である。
天保10年(1839)、高まる国防論から江戸湾海岸調査、相州他の海岸巡検を行うよう指示され、その正使に任ぜられた。 その副使だった韮山代官の江川太郎左衛門は洋式兵学に通じ、蘭学研究(尚歯会)仲問の渡辺畢山、高野長英などと誼を通じ、その助力で正確で優れた図面を提出した。 鳥居の調査報告は江川のそれに比べてはるかに劣っていたため、老中水野忠邦から叱責された。 これにより、鳥居は江川を政敵とみなすようになり、洋学嫌い、尚歯会嫌いはさらに嵩じた。
鳥居は配下を使って、尚歯会の言動を調査させ、その報告者をもとに一大疑獄事件を仕組んだ。天保10年(1829)5月、渡辺畢山・高野長英らの主要メンバーは幕政批判の罪に問われて逮捕され、尚歯会は解散させられた。しかし、「政敵」の江川をはじめ、川路、下曽根などの幕臣は老中の承認が得られず逮捕することが出来なかった。
町奉行所の与力でありながら、尚歯会の連中と親交があり、時としてその会合にも参加したかも知れない五郎左衛門も、当然の事ながら鳥居には好ましからざる人間として目をつけられていたであろう。
部下の目付に五郎左衛門の行動を監視させ、その報告書をもって、上司である南町奉行・筒井伊賀守に五郎左衛門の処分を迫った。
ところが、20年以上もともに仕事をし、天保飢饉の際には江戸の町民を飢餓から救うために働いた五郎左衛門を処分するつもりは毛頭ない。また息子で下曽根家へ養子に出している金三郎も尚歯会のメンバーである。五郎左衛門を処分することは息子の処分につながることになる。
筒井は鳥居の要求を断固として断った。旗本の最高ポストとも言える町奉行を20年以上も勤めている筒井がここまで強く出れば、鳥居としてもそれ以上五郎左衛門を追求するわけにいかない。鳥居は五郎左衛門の捕縛をあきらめたが、江川や下曽根同様、いつか滅ぼすべき敵方という烙印をおした。
逮捕され牢屋敷に収監された崋山は、年末もおしつまった12月、南町奉行筒井伊賀守から国元蟄居を命じられた。
この事件はもともと北町奉行所の扱いであったが、判決の直前、天保7 年から北町奉行を勤めていた大草安房守高好が病死したため、急遽南町奉行が判決を言い渡したのである。
渡辺崋山は傷心のまま在所である三河田原に戻り、家族とともに粗末な屋敷で翌々年秋まで蟄居していたが、自分の存在が周囲の人たちに迷惑をかけることを恐れ、10月11日に自殺を遂げた。 遺骸は罪人として葬られ、墓を立てることも許されなかったが、幕府崩壊直前の慶応4年3月15日、名誉が回復され田原の地に墓所が建てられた。
また高野長英は永牢の判決をうけ、牢名主も勤めるなど5年間も在牢した。
弘化元年(1844)6月30日の牢屋敷の火災に乗じて逃亡し、全国を逃げ回った後、沢三伯という偽名を用いて江戸で町医師をしていたが、嘉永3年(1850)10月30日、町奉行所に踏み込まれ、役人との戦いで死亡した。(捕えられ護送中の駕籠の中で喉を突いて死亡したとも伝えられている。)
この言論弾圧事件は、外国語を学び、外国の文明を取り入れることが制約され、日本の近代化に大きな遅れをもたらした事件となった。また、本編主人公の仁杉五郎左衛門にとっては
後に妖怪と呼ばれ幕閣の実力者となった鳥居耀蔵にとって「好ましからざる男」と烙印をおされる事件でもあった。 
 
大塩の乱

 

天保9年(1838)の8月、五郎左衛門は上方(大坂)へ出張している。 これは前年(1837)2月、国中を震撼させた大塩の乱で捕縛された罪人のうち、江戸の評定所で判決を受けた者達を護送するとともに、大坂の町奉行所との打合せのためである。
1) 大塩の蜂起
天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂・河・泉・播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した。
奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。 乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。 当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わった。 事件に関与したと嫌疑を受けたものは数百名におよび、大坂与左衛門町の牢屋敷内に新牢を建てなければ収容できなかったという。乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。 大塩決起の報は4日後の2月23日には早馬で江戸にも伝えられた。 大坂で起きた事件だが、全国規模の影響を与えた大事件であり、幕府や江戸町奉行所にとっても他人事ではない出来事だった。 全国への波及を恐れる幕府は不穏分子の摘発にやっきとなり、江戸でも多くの者が捕らえられた。
長引く飢饉で世情が騒然としているなかで、幕府は江戸での同調者の騒乱を恐れ、町 奉行、寺社奉行、勘定奉行などに警戒を強めるよう指示した。 事件発生から10日後の2月28日、月番の南町奉行所は町役人を集め、年番の五郎左衛門から「米穀などの手配もしており、各地から追々廻船が入港することになっている。下々にいたるまで安堵するよう周知せよ」という指示を言い渡し、江戸町民の不安を抑えている。 その町触が「大塩の乱資料館」の「塩逆述」巻之三その八」に掲載されている。 原文は下記の通りである。
「・・・この節大坂大火に付、混雑の義もこれあり候哉、所々風説これあるべき哉、それに付、
猶又入津の米これあるまじき哉など、下々懸念致し申すべき哉、米穀そのほか積廻し方等差支の義これなき様、かねて夫々手当もこれあり、諸国よりも追々米穀廻船入津致し候事に付、下々安堵致し居り候様、小前の者に至る迄、よくよく申し諭すべく候事、昨28日、この段伊賀守様御番所にて、御年番仁杉五郎左衛門殿より仰せ渡され、畏み奉り候
2月29日   小口年寄彦太郎   西河岸清左衛門 」
また、この事件の重要性に鑑み、時の老中首座水野越前守は6月7日、事件関係者のうち主な者についての吟味を現地の大坂城代、大坂町奉行に任せず、幕府の評定所で行うよう指示した。 このため、吉見九郎衛門・竹上万太郎・大井正一郎・大西与五郎・美吉屋五郎兵衛夫妻等が江戸に送られ評定所で訊問されることになった。 大塩一党は肥後熊本藩預かりとなり、熊本藩は留守居役以下物頭、使番、足軽、医師など実に260人の藩士をこの囚人護送に付けて江戸に送った。夜になれば更に90人の提灯持ちをつけたというから熊本藩にとっては大出費だったろう。 評定所の審理は7月7日(森鴎外の記述には16日とある)から始まった。 そのほかの事件関係者は大坂で審問する事になり、評定所留役山本新十郎及び支配勘定白石十太夫を大阪に派遣した。
2) 上方出張
約1年後の天保9年8月21日、ようやく評定所での審理が終わり、判決が決まった。
この審理では目付の鳥居耀蔵が中心的な働きをして、主な事件関係者の判決文は鳥居が起草したといわれている。 罪人は処刑のため大坂へ送還されることになり、この警固と検使のため南北奉行所から与力1人づつが派遣されることになった。
南からは五郎左衛門が選ばれ、北は谷村源右衛門が同行することになった。両人とも奉行所を代表する筆頭与力で年番方を勤めている。 また南北から同心4人が随行することになり、南からは筧彦七、左川源次郎、大竹彦九郎、大里忠之助が選ばれた。
藤岡屋日記の天保8年8月の項に次のような記述がある。
「・・・右に付、南町奉行、与力・同心差添、大坂へ19日目到着。名前左の通り
北 大草安房守組与力   谷村源左衛門
  同人組 同心   大村大助、新島鉄蔵、服部正之助
南 筒井紀伊守組与力   仁杉五郎左衛門
  同人組 同心   筧彦七、左川源次郎、大竹彦九郎、大里忠之助 」
さらに天保9年8月21日の項に
「・・・大塩平八郎一件、御仕置被仰付、囚人大坂まで送りとして南与力仁杉八右衛門、同心4人、北は谷村源右衛門、同心4人、22日出立 」
とある。 「八右衛門」というのは勿論記載ミスで「五郎左衛門」が正しい。
一行は結審の翌日8月22日に江戸を出立し、9月11日に大坂に着いた。 この年の9月は小の月なので29日まで。 従って大坂まで18日間かかったことになる。罪人の護送だから普通より日数がかかっている。
大阪市史には
「・・・戌8月22日、江戸町奉行所与力両人、同心8人、検使警固相兼出立。9月11日当表へ着の積り、何れも肥後候預りの者なれば、候よりも警固大勢附添来り、於森口蔵屋敷より大勢出張し之を受け取り、大坂に連れ来り直に御奉行へ御渡となる。 」
とある。
一行の大坂到着の日に、連行して来た罪人引取りのため森口(守口)まで出向いたとあるので、京から大坂には淀川の舟で行ったものと思われる。
この罪人は肥後侯(熊本細川藩)の預かりだったので、熊本藩からも多数付き添い、更に熊本藩大坂蔵屋敷からも多数の藩士が引き取りのために森口に出向いている。 罪人たちは9月18日、大坂飛田で処刑され、3日間晒された。
森鴎外の「大塩平八郎」にも下記のような記述がある。
「・・・大塩平八郎が陰謀事件の評定は、6月7日に江戸の評定所に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(ただちか)の預かつていた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門・同英太郎・河合八十次郎・大井正一郎・安田図書・大西与五郎・美吉屋五郎兵衛・同つね・其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬った浅草遍照院の所化堯周等が呼び出されて、7月16日から取調が始まった。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まって上申せられたのは天保9年閏4月8日で、宣告のあったのは8月21日である。 」
この大坂出張の折、五郎左衛門は出入りの商人から50両の餞別をもらっていると、後に判決文の中で指摘されている。 「そのたびたび受用致し」とあるから出張は一度だけでなかったのか。
五郎左衛門が出張したのは大坂東町奉行所である。 この時の東町奉行は跡部山城守良弼、天保改革を推進する老中首座水野忠邦の実弟であった。
跡部は水野の改革を支持する立場であり、水野の指示で大坂の米市場に流通する米を大量に江戸に回送したが、大坂にも米不足に困窮する餓民が多数おり、これらを救済する事が大坂町奉行の本務であると東町奉行所の大塩平八郎らが主張し対立した。 これが大塩の乱の原因のひとつとなった。
9月1日付けで評定所の構成員(寺社奉行 牧野備前守 、青山因幡守、町奉行 筒井紀伊守、大草安房守 、勘定奉行 深谷遠江守)から事件関係者に「骨折に付」ということで賞金が授与されている。
史料「浪華姦賊罪案」によれば大坂まで出向いて審理した山本新十郎には金2枚、白石十太夫には金15両下されたとある。
五郎左衛門達にも当然賞金が与えられたと考えられるが、その記録は見当たらない。 また、囚人護送以外に大坂で何をしたのか、いつ江戸に帰着したのかはわかっていない。
 

 

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