大塩平八郎

大塩平八郎
大逆事件と体制批判意識大塩平八郎1大塩平八郎2大塩平八郎3檄文

雑学の世界・補考   

関連「江戸の日本」「石原莞爾将軍の遺書」「平安鎌倉時代の飢饉飢餓考」
調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
大塩平八郎 / 森鴎外

一、西町奉行所
天保八年丁酉の歳二月十九日の暁方七つ時に、大阪西町奉行所の門を敲くものがある。
西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手の方角から、内本町通を西へ行つて、本町橋に掛からうとする北側にあつた。
此頃はもう四年前から引き続いての飢饉で、やれ盗人、やれ行倒と、夜中も用事が断えない。
それにきのふの御用日に、月番の東町奉行所へ立会に往つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅は何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力吉田勝右衛門を呼び寄せて、長い間密談をした。それから東町奉行所との間に往反して、けふ十九日にある筈であつた堀の初入式の巡見が取止になつた。
それから家老中泉撰司を以て、奉行所詰のもの一同に、夜中と雖、格別に用心するやうにと云ふ達しがあつた。そこで門を敲かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
門外に来てゐるのは二人の少年であつた。一人は東組町同心吉見九郎右衛門の倅英太郎、今一人は同組同心河合郷左衛門の倅八十次郎と名告つた。
用向は一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状を持参したのを、ぢきにお奉行様に差し出したいと云ふことである。
上下共何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。門番は猶予なく潜門をあけて二人の少年を入れた。
まだ暁の白けた光が夜闇の衣を僅に穿つてゐる時で、薄曇の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。英太郎は十六歳、八十次郎は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付があるのだな。」門番は念を押した。
「はい。ここに持つてをります。」英太郎が懐を指さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅か。なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体東のお奉行所附のものの書付なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。さうか。」門番は八十次郎の方に向いた。「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違の無いやうに二人で往けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。お前は河合と言つたな。お前の親父様は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切、帰つて来ません。」
「さうか。」
門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。
吉見の父が少年二人を密訴に出したので、門番も猜疑心を起さずに応対して、却つて運びが好かつた。門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉に届ける。中泉が堀に申し上げる。間もなく堀の指図で、中泉が二人を長屋に呼び入れて、一応取り調べた上訴状を受け取つた。
堀は前役矢部駿河守定謙の後を襲いで、去年十一月に西町奉行になつて、やうやう今月二日に到着した。
東西の町奉行は月番交代をして職務を行つてゐて、今月は堀が非番である。東町奉行跡部山城守良弼(すけ)も去年四月に現職に任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎に角一日の長があるので、堀は引き廻して貰ふと云ふ風になつてゐる。
町奉行になつて大阪に来たものは、初入式と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三度に分けて市中を巡見する。初度が北組、二度目が南組、三度目が天満組である。
北組、南組とは大手前は本町通北側、船場は安土町通、西横堀以西は神田町通を界にして、市中を二分してあるのである。天満組とは北組の北界になつてゐる大川より更に北方に当る地域で、東は材木蔵から西は堂島の米市場までの間、天満の青物市場、天満宮、総会所等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満組が百九町ある。
予定通にすると、けふは天満組を巡見して、最後に東照宮附近の与力町に出て、夕七つ時には天満橋筋長柄町を東に入る北側の、迎方東組与力朝岡助之丞が屋敷で休息するのであつた。
迎方とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力同心の総代として祝詞を述べ、引き続いて其奉行の在勤中、手許の用を達す与力一人同心二人で、朝岡は其与力である。
然るにきのふの御用日の朝、月番跡部の東町奉行所へ立会に往くと、其前日十七日の夜東組同心平山助次郎と云ふものの密訴の事を聞せられた。一大事と云ふ詞が堀の耳を打つたのは此時が始であつた。それからはどんな事が起つて来るかと、前晩も殆寝ずに心配してゐる。
今中泉が一大事の訴状を持つて二人の少年が来たと云ふのを聞くと、堀はすぐにあの事だなと思つた。堀のためには、中泉が英太郎の手から受け取つて出した書付の内容は、未知の事の発明ではなくて、既知の事の証験として期待せられてゐるのである。
堀は訴状を披見した。胸を跳らせながら最初から読んで行くと、果してきのふ跡部に聞いた、あの事である。
陰謀の首領、その与党などの事は、前に聞いた所と格別の相違は無い。長文の訴状の末三分の二程は筆者九郎右衛門の身囲(みがこひ)である。堀が今少しく精しく知りたいと思ふやうな事は書いてなくて、読んでも読んでも、陰謀に対する九郎右衛門の立場、疑懼(ぎく)、愁訴である。
きのふから気に掛かつてゐる所謂一大事がこれからどう発展して行くだらうか、それが堀自身にどう影響するだらうかと、とつおいつ考へながら読むので、動(やや)もすれば二行も三行も読んでから、書いてある意味が少しも分かつてをらぬのに気が附く。はつと思つては又読み返す。やうやう読んでしまつて、堀の心の内には、きのふから知つてゐる事の外に、これ丈の事が残つた。
陰謀の与党の中で、筆者と東組与力渡辺良左衛門、同組同心河合郷左衛門との三人は首領を諫めて陰謀を止めさせようとした。併し首領が聴かぬ。そこで河合は逐電した。筆者は正月三日後に風を引いて持病が起つて寝てゐるので、渡辺を以て首領にことわらせた。此体では事を挙げられる日になつても所詮働く事は出来ぬから、切腹して詫びようと云つたのである。渡辺は首領の返事を伝へた。そんならゆるゆる保養しろ。場合によつては立ち退けと云ふことである。これを伝へると同時に、渡辺は自分が是非なく首領と進退を共にすると決心したことを話した。次いで首領は倅と渡辺とを見舞によこした。
筆者は病中やうやうの事で訴状を書いた。それを支配を受けてゐる東町奉行に出さうには、取次を頼むべき人が無い。そこで隔所を見計らつて托訴をする。筆者は自分と倅英太郎以下の血族との赦免を願ひたい。尤も自分は与党を召し捕られる時には、矢張召し捕つて貰ひたい。或は其間に自殺するかも知れない。留置、預けなどゝ云ふことにせられては、病体で凌ぎ兼ねるから、それは罷にして貰ひたい。倅英太郎は首領の立てゝゐる塾で、人質のやうになつてゐて帰つて来ない。兎に角自分と一族とを赦免して貰ひたい。それから西組与力見習に内山彦次郎と云ふものがある。これは首領に嫉まれてゐるから、保護を加へて貰ひたいと云ふのである。
読んでしまつて、堀は前から懐いてゐた憂慮は別として、此訴状の筆者に対する一種の侮蔑の念を起さずにはゐられなかつた。形式に絡まれた役人生涯に慣れてはゐても、成立してゐる秩序を維持するために、賞讃すべきものにしてある返忠(かへりちゆう)を、真の忠誠だと看ることは、生れ附いた人間の感情が許さない。
その上自分の心中の私を去ることを難(かた)んずる人程却つて他人の意中の私を訐(あば)くに敏なるものである。九郎右衛門は一しよに召し捕られたいと云ふ。それは責を引く潔い心ではなくて、与党を怖れ、世間を憚る臆病である。又自殺するかも知れぬと云ふ。それは覚束ない。自殺することが出来るなら、なぜ先づ自殺して後に訴状を貽(のこ)さうとはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなくても、入らずに済めば入るまいとする筈である。横着者だなとは思つたが、役馴れた堀は、公儀のお役に立つ返忠のものを周章の間にも非難しようとはしない。家老に言ひ付けて、少年二人を目通りへ出させた。
「吉見英太郎と云ふのはお前か。」
「はい。」怜悧らしい目を見張つて、存外怯れた様子もなく堀を仰ぎ視た。
「父九郎右衛門は病気で寝てをるのぢやな。」
「風邪の跡で持病の疝痛痔疾が起りまして、行歩が愜(かな)ひませぬ。」
「書付にはお前は内へ帰られぬと書いてあるが、どうして帰られた。」
「父は帰られぬかも知れぬが、大変になる迄に脱けて出られるなら、出て来いと申し付けてをりました。さう申したのは十三日に見舞に参つた時の事でございます。それから一しよに塾にゐる河合八十次郎と相談いたしまして、昨晩四つ時に抜けて帰りました。先生の所にはお客が大勢ありまして、混雑いたしてゐましたので、出られたのでございます。それから。」英太郎は何か言ひさして口を噤んだ。
堀は暫く待つてゐたが、英太郎は黙つてゐる。「それからどういたした」と、堀が問うた。
「それから父が申しました。東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出てをりますから、それを申し上げいと申しました。」
「さうか。」東組与力瀬田済之助、同小泉淵次郎の二人が連判に加はつてゐると云ふことは、平山の口上にもあつたのである。
堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か。」
「はい。」頬の円い英太郎と違つて、これは面長な少年であるが、同じやうに小気が利いてゐて、臆する気色は無い。
「お前の父はどういたしたのぢや。」
「母が申しました。先月の二十六日の晩であつたさうでございます。父は先生の所から帰つて、火箸で打擲せられて残念だと申したさうでございます。あくる朝父は弟の謹之助を連れて、天満宮へ参ると云つて出ましたが、それ切どちらへ参つたか、帰りません。」
「さうか。もう宜しい。」かう云つて堀は中泉を顧みた。
「いかが取り計らひませう」と、中泉が主人の気色を伺つた。
「番人を附けて留め置け。」かう云つて置いて、堀は座を立つた。
堀は居間に帰つて不安らしい様子をしてゐたが、忙しげに手紙を書き出した。これは東町奉行に宛てて、当方にも訴人があつた、当番の瀬田、小泉に油断せられるな、追附参上すると書いたのである。堀はそれを持たせて使を出した跡で、暫く腕組をして強ひて気を落ち着けようとしてゐた。
堀はきのふ跡部に陰謀者の方略を聞いた。けふの巡見を取り止めたのはそのためである。然るに只三月と書いて日附をせぬ吉見の訴状には、その方略は書いてない。吉見が未明に倅を托訴に出したのを見ると方略を知らぬのではない。書き入れる暇がなかつたのだらう。
東町奉行所へ訴へた平山は、今月十五日に渡辺良左衛門が来て、十九日の手筈を話し、翌十六日に同志一同が集まつた席で、首領が方略を打ち明けたと云つたさうである。それは跡部と自分とが与力朝岡の役宅に休息してゐる所へ襲つて来ようと云ふのである。一体吉見の訴状にはなんと云つてあつたか、それに添へてある檄文にはどう書いてあるか、好く見て置かうと堀は考へて、書類を袖の中から出した。
堀は不安らしい目附をして、二つの文書をあちこち見競べた。陰謀に対してどう云ふ手段を取らうと云ふ成案がないので、すぐに跡部の所へ往かずに書面を遣つたが、安座して考へても、思案が纏(まと)まらない。併し何かせずにはゐられぬので、文書を調べ始めたのである。
訴状には「御城、御役所、其外組屋敷等火攻の謀(はかりごと)」と書いてある。檄文には無道の役人を誅し、次に金持の町人共を懲すと云つてある。兎に角恐ろしい陰謀である。
昨晩跡部からの書状には、慥な与力共の言分によれば、さ程の事でないかも知れぬから、兼て打ち合せたやうに捕方を出すことは見合せてくれと云つてあつた。それで少し安心して、こつちから吉田を出すことも控へて置いた。併し数人の申分がかう符合して見れば、容易な事ではあるまい。跡部はどうする積だらうか。手紙を遣つたのだから、なんとか云つて来さうなものだ。こんな事を考へて、堀は時の移るのをも知らずにゐた。
二、東町奉行所

東町奉行所で、奉行跡部山城守良弼が堀の手紙を受け取つたのは、明六つ時頃であつた。
大阪の東町奉行所は城の京橋口の外、京橋通と谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側にあつた。東は城、西は谷町の通である。南の島町通には街を隔てて籾蔵がある。北は京橋通の河岸で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目に見える。只庭の外囲に梅の立木があつて、少し展望を遮るだけである。
跡部もきのふから堀と同じやうな心配をしてゐる。きのふの御用日にわざと落ち着いて、平常の事務を片附けて、それから平山の密訴した陰謀に対する処置を、堀と相談して別れた後、堀が吉田を呼んだやうに、跡部は東組与力の中で、あれかこれかと慥なものを選り抜いて、とうとう荻野勘左衛門、同人倅四郎助、磯矢頼母の三人を呼び出した。
頼母と四郎助とは陰謀の首領を師と仰いでゐるものではあるが、半年以上使つてゐるうちに、その師弟の関係は読書の上ばかりで、師の家とは疎遠にしてゐるのが分かつた。「あの先生は学問はえらいが、肝積持で困ります」などと、四郎助が云つたこともある。「そんな男か」と跡部が聞くと、「矢部様の前でお話をしてゐるうちに激して来て、六寸もある金頭を頭からめりめりと咬ん食べたさうでございます」と云つた。それに此三人は半年の間跡部の言ひ付けた用事を、人一倍念入にしてゐる。そこを見込んで跡部が呼び出したのである。
さて捕方の事を言ひ付けると、三人共思ひも掛けぬ様子で、良(やや)久しく顔を見合せて考へた上で云つた。平山が訴はいかにも実事とは信ぜられない。例の肝積持の放言を真に受けたのではあるまいか。お受はいたすが、余所ながら様子を見て、いよいよ実正と知れてから手を着けたいと、折り入つて申し出た。後に跡部の手紙で此事を聞いた堀よりは、三人の態度を目のあたり見た跡部は、一層切実に忌々しい陰謀事件が譃(うそ)かも知れぬと云ふ想像に伴ふ、一種の安心を感じた。そこで逮捕を見合せた。
跡部は荻野等の話を聞いてから考へて見て、平山に今一度一大事を聞いた前後の事を精しく聞いて置けば好かつたと後悔した。をとつひの夜平山が来て、用人野々村次平に取り次いで貰つて、所謂一大事の訴をした時、跡部は急に思案して、突飛な手段を取つた。
尋常なら平山を留め置いて、陰謀を鎮圧する手段を取るべきであるのに、跡部はその決心が出来なかつた。若し平山を留め置いたら、陰謀者が露顕を悟つて、急に事を挙げはすまいかと懼れ、さりとて平山を手放して此土地に置くのも心許ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守定謙に当てた私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁七つ時に、小者多助、雇人弥助を連れて大阪を立つた。そして後十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸に着いた。
意志の確かでない跡部は、荻野等三人の詞をたやすく聴き納れて、逮捕の事を見合せたが、既にそれを見合せて置いて見ると、その見合せが自分の責任に帰すると云ふ所から、疑懼が生じて来た。延期は自分が極めて堀に言つて遣つた。若し手遅れと云ふ問題が起ると、堀は免れて自分は免れぬのである。
跡部が丁度この新に生じた疑懼に悩まされてゐる所へ、堀の使が手紙を持つて来た。同じ陰謀に就いて西奉行所へも訴人が出た、今日当番の瀬田、小泉に油断をするなと云ふ手紙である。
跡部は此手紙を読んで突然決心して、当番の瀬田、小泉に手を着けることにした。此決心には少し不思議な処がある。堀の手紙には何一つ前に平山が訴へたより以上の事実を書いては無い。瀬田、小泉が陰謀の与党だと云ふことは、既に平山が云つたので、荻野等三人に内命を下すにも、跡部は綿密な警戒をした。さうして見れば、堀の手紙によつて得た所は、今まで平山一人の訴で聞いてゐた事が、更に吉見と云ふものの訴で繰り返されたと云ふに過ぎない。これには決心を促す動機としての価値は殆無い。然るにその決心が跡部には出来て、前には腫物に障るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする。これは一昨日の夜平山の密訴を聞いた時にすべき決心を、今偶然の機縁に触れてしたやうなものである。
跡部は荻野等を呼んで、二人を捕へることを命じた。その手筈はかうである。奉行所に詰めるものは、先づ刀を脱して詰所の刀架に懸ける。そこで脇差ばかり挿してゐて、奉行に呼ばれると、脇差をも畳廊下に抜いて置いて、無腰で御用談の間に出る。この御用談の間に呼んで捕へようと云ふのが手筈である。併し万一の事があつたら切り棄てる外ないと云ふので、奉行所に居合せた剣術の師一条一が切棄の役を引き受けた。
さて跡部は瀬田、小泉の二人を呼ばせた。それを聞いた時、瀬田は「暫時御猶予を」と云つて便所に起つた。小泉は一人いつもの畳廊下まで来て、脇差を抜いて下に置かうとした。此畳廊下の横手に奉行の近習部屋がある。小泉が脇差を下に置くや否や、その近習部屋から一人の男が飛び出して、脇差に手を掛けた。「はつ」と思つた小泉は、一旦手を放した脇差を又掴んだ。引き合ふはずみに鞘走つて、とうとう、小泉が手に白刃が残つた。様子を見てゐた跡部が、「それ、切り棄てい」と云ふと、弓の間まで踏み出した小泉の背後から、一条が百会の下へ二寸程切り附けた。次に右の肩尖を四寸程切り込んだ。小泉がよろめく所を、右の脇腹へ突を一本食はせた。東組与力小泉淵次郎は十八歳を一期として、陰謀第一の犠牲として命を隕した。花のやうな許嫁の妻があつたさうである。
便所にゐた瀬田は素足で庭へ飛び出して、一本の梅の木を足場にして、奉行所の北側の塀を乗り越した。そして天満橋を北へ渡つて、陰謀の首領大塩平八郎の家へ奔(はし)つた。
三、四軒屋敷

天満橋筋長柄町を東に入つて、角から二軒目の南側で、所謂四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助の役宅がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫の弟に生れたのを、養父平八郎が貰つて置いて、七年前にお暇になる時、番代に立たせたのである。併し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。
玄関を上がつて右が旧塾と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂と云ふ匾額(へんがく)が懸けてある。その東隣が後に他家を買ひ潰して広げた新塾である。講堂の背後が平八郎の書斎で、中斎と名づけてある。それから奥、東照宮の境内の方へ向いた部屋々々が家内のものの居所で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館と云ふ匾額が懸かつてゐる。これだけの建物の内に起臥してゐるものは、家族でも学生でも、悉く平八郎が独裁の杖の下に項を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平の学生に比べて、殆何等の特権をも有してをらぬのである。
東町奉行所で白刃の下を脱れて、瀬田済之助が此屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此出来事を青天の霹靂として聞くやうな、平穏無事の光景ではなかつた。家内中の女子供はもう十日前に悉く立ち退かせてある。平八郎が二十六歳で番代に出た年に雇つた妾、曾根崎新地の茶屋大黒屋和市の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立ち退かせたのである。
女子供がをらぬばかりでは無い。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼て門人の籍にゐる兵庫西出町の柴屋長太夫、其外縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯をする度に、科料の代に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入つてからそれを悉く運び出させ、土蔵にあつた一切経などをさへそれに加へて、書店河内屋喜兵衛、同新次郎、同記一兵衛、同茂兵衛の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀する人民に施すのだと云つて、安堂寺町五丁目の本屋会所で、親類や門下生に縁故のある凡三十三町村のもの一万軒に、一軒一朱の割を以て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家はがらんとしてしまつた。
今一つ此家の外貌が傷けられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組与力柴田勘兵衛の門人で、佐分利流の槍を使ふ。当主格之助は同組同心故人藤重孫三郎の門人で、中島流の大筒(おほづつ)を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯へ火薬をも製する習ではあるが、此家では夫が格別に盛になつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重の倅良左衛門、孫槌太郎の両人を呼んで、今年の春堺七堂が浜で格之助に丁打(ちやううち=射撃)をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締をして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢、炮碌玉を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢の材木を挽き切つた天満北木幡町の大工作兵衛などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒は人から買ひ取つた百目筒が一挺、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村の百姓兼質商白井孝右衛門が土蔵の側の松の木を伐つて作つた木筒が二挺ある。砲車は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々の地が次第に喧噪と雑遝(ざつたふ)とを常とする工場になつてゐたのである。
家がそんな摸様になつてゐて、そこへ重立つた門人共の寄り合つて、夜の更けるまで還らぬことが、此頃次第に度重なつて来てゐる。
昨夜は隠居と当主との妾の家元、摂津般若寺村の庄屋橋本忠兵衛、物持で大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門、同組同心の倅近藤梶五郎、般若寺村の百姓柏岡源右衛門、同倅伝七、河内門真三番村の百姓茨田郡次の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々いつもの人を圧伏するやうな調子の、隠居の声が漏れた。
平生最も隠居に親んでゐる此八人の門人は、とうとう屋敷に泊まつてしまつた。此頃は客があつてもなくても、勝手の為事は、兼て塾の賄方をしてゐる杉山三平が、人夫を使つて取り賄つてゐる。
杉山は河内国衣摺村の庄屋で、何か仔細があつて所払になつたものださうである。手近な用を達すのは、格之助の若党大和国曾我村生の曾我岩蔵、中間木八、吉助である。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩のりつがお部屋に附いて立ち退いた跡で、頻に暇を貰ひたがるのを、宥め賺して引き留めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方杉山、若党曾我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔(など)がゐたのである。
瀬田済之助はかう云ふ中へ駆け込んで来た。
四、宇津木と岡田と

 

新塾にゐる学生のうちに、三年前に来て寄宿し、翌年一旦立ち去つて、去年再び来た宇津木矩之允と云ふものがある。平八郎の著した大学刮目の訓点を施した一人で、大塩の門人中学力の優れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町の医師岡田道玄の子で、名を良之進と云ふ。宇津木に連れられて親元を離れた時が十四歳だから、今年十六歳になつてゐる。
この岡田と云ふ少年が、けさ六つ半に目を醒ました。職人が多く入り込むやうになつてから、随分騒がしい家ではあるが、けさは又格別である。がたがた、めりめり、みしみしと、物を打ち毀す音がする。しかと聴き定めようとして、床の上にすわつてゐるうちに、今毀してゐる物が障子襖だと云ふことが分かつた。それに雑つて人声がする。「役に立たぬものは討ち棄てい」と云ふ詞がはつきり聞えた。岡田は怜悧な、思慮のある少年であつたが、余り思ひ掛けぬ事なので、一旦夢ではないかと思つた。それから宇津木先生はどうしてゐるかと思つて、頸を延ばして見ると、先生はいつもの通に着布団の襟を頤の下に挿むやうにして寝てゐる。物音は次第に劇しくなる。岡田は心のはつきりすると共に、尋常でない此屋敷の現状が意識に上つて来た。
岡田は跳ね起きた。宇津木の枕元にゐざり寄つて、「先生」と声を掛けた。
宇津木は黙つて目を大きく開いた。眠つてはゐなかつたのである。
「先生。えらい騒ぎでございますが。」
「うん。知つてをる。己は余り人を信じ過ぎて、君をまで危地に置いた。こらへてくれ給へ。去年の秋からの丁打の支度が、仰山だとは己も思つた。それに門人中の老輩数人と、塾生の一半とが、次第に我々と疎遠になつて、何か我々の知らぬ事を知つてをるらしい素振をする。それを怪しいとは己も思つた。併し己はゆうべまで事の真相を看破することが出来なかつた。所が君、ゆうべ塾生一同に申し渡すことがあると云つて呼んだ、あの時の事だね。己は代りに聞いて来て遣ると云つて、君を残して置いて出席した。それから帰つて、格別な事でもないから、あした話すと云つて寝たのだがね、実はあの時例の老輩共と酒宴をしてゐた先生が、独り席を起つて我々の集まつてゐる所へ出て来て、かう云つたのだ。一大事であるが、お前方はどう身を処置するか承知したいと云つたのだ。己は一大事とは何事か問うて見た。先生はざつとこんな事を説かれた。我々は平生良知の学を攻めてゐる。あれは根本の教だ。然るに今の天下の形勢は枝葉を病んでゐる。民の疲弊は窮まつてゐる。草妨礙(くさばうがい)あらば、理亦宜しく去るべしである。天下のために残賊を除かんではならぬと云ふのだ。そこで其残賊だがな。」
「はあ」と云つて、岡田は目を睜(みは)つた。
「先づ町奉行衆位の所らしい。それがなんになる。我々は実に先生を見損つてをつたのだ。先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない。先生はそこまでは考へてをられぬらしい。」
「そんなら今事を挙げるのですね。」
「さうだ。家には火を掛け、与せぬものは切棄てゝ起つと云ふのだらう。併しあの物音のするのは奥から書斎の辺だ。まだ旧塾もある。講堂もある。こゝまで来るには少し暇がある。まあ、聞き給へ。例の先生の流義だから、ゆうべも誰一人抗争するものはなかつた。己は明朝御返事をすると云つて一時を糊塗した。若し諫める機会があつたら、諫めて陰謀を思ひ止まらせよう。それが出来なかつたら、師となり弟子となつたのが命だ、甘んじて死なうと決心した。そこで君だがね。」
岡田は又「はあ」と云つて耳を欹てた。
「君は中斎先生の弟子ではない。己は君に此場を立ち退いて貰ひたい。挙兵の時期が最も好い。若しどうすると問ふものがあつたら、お供をすると云ひ給へ。さう云つて置いて逃げるのだ。己はゆうべ寝られぬから墓誌銘を自撰した。それを今書いて君に遣る。それから京都東本願寺家の粟津陸奥之助と云ふものに、己の心血を灑(そそ)いだ詩文稿が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総の邸へ往つて大林権之進と云ふものに逢つて、詩文稿に墓誌銘を添へてわたしてくれ給へ。」かう云ひながら宇津木はゆつくり起きて、机に靠れたが、宿墨に筆を浸して、有り合せた美濃紙二枚に、一字の書損もなく腹藁(ふくかう)の文章を書いた。書き畢つて一読して、「さあ、これだ」と云つて岡田にわたした。
岡田は草稿を受け取りながら、「併し先生」と何やら言ひ出しさうにした。
宇津木は「ちよいと」と云ひ掛けて、便所へ立つた。
手に草稿を持つた儘(まま)、ぢつとして考へてゐる岡田の耳に、廊下一つを隔てた講堂の口あたりから人声が聞えた。
「先生の指図通、宇津木を遣つてしまふのだ。君は出口で見張つてゐてくれ給へ。」聞き馴れた門人大井の声である。玉造組与力の倅で、名は正一郎と云ふ。三十五歳になる。
「宜しい。しつかり遣り給へ。」これは安田図書の声である。外宮の御師で、三十三歳になる。
岡田はそつと立つて便所の戸口へ往つた。「殺しに来ます。」
「好い。君早く逃げてくれ給へ。」
「併し。」
「早くせんと駄目だ。」
廊下を忍び寄る大井の足音がする。岡田は草稿を懐に捩ぢ込んで、机の所へ小鼠のやうに走り戻つて、鉄の文鎮を手に持つた。そして跣足で庭に飛び下りて、植込の中を潜つて、塀にぴつたり身を寄せた。
大井は抜刀を手にして新塾に這入つて来た。先づ寝所の温みを探つてあたりを見廻して、便所の口に来て、立ち留まつた。暫くして便所の戸に手を掛けて開けた。
中から無腰の宇津木が、恬然たる態度で出て来た。
大井は戸から手を放して一歩下がつた。そして刀を構へながら言分らしく「先生のお指図だ」と云つた。
宇津木は「うん」と云つた切、棒立に立つてゐる。
大井は酔人を虎が食ひ兼ねるやうに、良久しく立ち竦んでゐたが、やうやう思ひ切つて、「やつ」と声を掛けて真甲を目掛けて切り下した。宇津木が刀を受け取るやうに、俯向加減になつたので、百会(ひやくゑ)の背後が縦に六寸程骨まで切れた。宇津木は其儘立つてゐる。大井は少し慌てながら、二の太刀で宇津木の腹を刺した。刀は臍の上から背へ抜けた。宇津木は縁側にぺたりとすわつた。大井は背後へ押し倒して喉を刺した。
塀際にゐた岡田は、宇津木の最期を見届けるや否や、塀に沿うて東照宮の境内へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前を文鎮で開けて、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。
五、門出

 

瀬田済之助が東町奉行所の危急を逃れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明六つを少し過ぎた時であつた。
書斎の襖をあけて見ると、ゆうべ泊つた八人の与党、その外中船場町の医師の倅で僅に十四歳になる松本隣太夫、天満五丁目の商人阿部長助、摂津沢上江村の百姓上田孝太郎、河内門真三番村の百姓高橋九右衛門、河内弓削村の百姓西村利三郎、河内尊延寺村の百姓深尾才次郎、播磨西村の百姓堀井儀三郎、近江小川村の医師志村力之助、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵(しとね)の上に端坐してゐた。
身の丈五尺五六寸の、面長な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉は弔つてゐるが、張の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額に青筋がある。髷は短く詰めて結つてゐる。月題は薄い。一度喀血したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪と云はれたと云ふが、現(げ)にもと頷かれる。
「先生。御用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。
「さうだらう。巡見が取止になつたには、仔細がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為だ。」
「小泉は遣られました。」
「さうか。」
目を見合せた一座の中には、同情のささやきが起つた。
平八郎は一座をずつと見わたした。「兼ての手筈の通りに打ち立たう。棄て置き難いのは宇津木一人だが、その処置は大井と安田に任せる。」
大井、安田の二人はすぐに起たうとした。
「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只第一段を除いて、すぐに第二段に掛かるまでぢや。」第一段とは朝岡の家を襲ふことで、第二段とは北船場へ進むことである。これは方略に極めてあつたのである。
「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡伝七と、檄文を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はづした建具を奥庭へ運び出す音がし出した。
平八郎は其儘端坐してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽し、いかに生長し、いかなる曲折を経て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。
平八郎はかう思ひ続けた。己が自分の材幹と値遇とによつて、吏胥(りしよ=官吏)として成し遂げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保元年は泰平であつた。
民の休戚(きうせき=幸不幸)が米作の豊凶に繋つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍常に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫が出来る。海嘯(つなみ)がある。とうとう去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風大水があり、東北を始として全国の不作になつた。
己は隠居してから心を著述に専にして、古本大学刮目、洗心洞剳記(さつき)、同附録抄、儒門空虚聚語、孝経彙註(ゐちゆう)の刻本が次第に完成し、剳記を富士山の石室に蔵し、又足代権太夫弘訓の勧によつて、宮崎、林崎の両文庫に納めて、学者としての志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賤民の困窮を、目を塞いで見ずにはをられなかつた。
そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平かなることが出来なかつた。賑恤(しんじゆつ=施与)もする。造酒に制限も加へる。併し民の疾苦は増すばかりで減じはせぬ。
殊に去年から与力内山を使つて東町奉行跡部の遣つてゐる為事が気に食はぬ。幕命によつて江戸へ米を廻漕するのは好い。併し些しの米を京都に輸(おく)ることをも拒んで、細民が大阪へ小買に出ると、捕縛するのは何事だ。
己は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上の驕奢と下の疲弊とがこれまでになつたのを見ては、己にも策の施すべきものが無い。
併し理を以て推せば、これが人世必然の勢だとして旁看するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅し富豪を脅して其私蓄を散ずるかの三つより外あるまい。
己は此不平に甘んじて旁看(ばうかん)してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀つてくれようとも信ぜぬ。己はとうとう誅伐と脅迫とによつて事を済さうと思ひ立つた。鹿台(ろくだい=私蓄)の財を発するには、無道の商を滅さんではならぬと考へたのだ。
己が意を此に決し、言を彼に託し、格之助に丁打をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐うて加はつても、準備の捗つて行くのを顧みて、慰藉を其中に求めてゐた。其間に半年立つた。
さてけふになつて見れば、心に逡巡する怯もないが、又踊躍する競もない。準備をしてゐる久しい間には、折々成功の時の光景が幻のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭を叩く金持、それから草木の風に靡くやうに来り附する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻も見えなくなつた。
己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井殿に信任せられて、耶蘇教徒を逮捕したり、奸吏を糺弾したり、破戒僧を羅致したりしてゐながら、老婆豊田貢の磔になる所や、両組与力弓削新右衛門の切腹する所や、大勢の坊主が珠数繋にせられる所を幻に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己の胸には一度も疑が萌さなかつた。
今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先づ恣に動いて、外界の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時でも用に立てられる左券を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉にした丈で、動もすれば其準備を永く準備の儘で置きたいやうな気がした。
けふまでに事柄の捗つて来たのは、事柄其物が自然に捗つて来たのだと云つても好い。己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉して走つたのだと云つても好い。一体此終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。
平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々の為事をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討ち果したとか、今奥庭に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎に平八郎は只一目そつちを見る丈である。
さていよいよ勢揃をすることになつた。場所は兼て東照宮の境内を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前の開いてゐたのを知つた。行列の真つ先に押し立てたのは救民と書いた四半の旗である。次に中に天照皇大神宮、右に湯武両聖王、左に八幡大菩薩と書いた旗、五七の桐に二つ引の旗を立てゝ行く。次に木筒が二挺行く。次は大井と庄司とで各小筒を持つ。次に格之助が着込(きこみ)野袴(のばかま)で、白木綿の鉢巻を締めて行く。下辻村の猟師金助がそれに引き添ふ。次に大筒が二挺と鑓(やり)を持つた雑人とが行く。次に略格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗の羽織、野袴で行く。茨田と杉山とが鑓を持つて左右に随ふ。若党曾我と中間木八、吉助とが背後に附き添ふ。次に相図の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立つた人々で、特に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帯刀で、多くは手鑓を持つ。押へは大筒一挺を挽かせ、小筒持の雑人二十人を随へた瀬田で、傍に若党植松周次、中間浅佶が附いてゐる。
此総人数凡百余人が屋敷に火を掛け、表側の塀を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時である。先づ主人の出勤した跡の、向屋敷朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋の長柄町に出て、南へ源八町まで進んで、与力町を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回して船場に向はうとするのである。
六、坂本鉉之助

 

東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力同心を随へて来た。跡部は堀と相談して、明六つ時にやうやう三箇条の手配をした。鈴木町の代官根本善左衛門に近郷の取締を托したのが一つ。谷町の代官池田岩之丞に天満の東照宮、建国寺方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎が病気引をしてゐる所へ使を遣つて、甥平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町近くへ往くと、もう大塩の同勢が繰り出すので、驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔り、又懼れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。
大西へ使を遣つた跡で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手は所詮近寄れぬと云つて帰つた。
両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫、御手洗伊右衛門に、鉄砲同心を借りに遣つた。同心は二人の部下を併せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、玉造口定番遠藤但馬守胤統に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐秋之助に命じて、玉造組与力で月番同心支配をしてゐる坂本鉉之助を上屋敷に呼び出した。
坂本は荻野流の砲術者で、けさ丁打をすると云つて、門人を城の東裏にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所へ出た。そこに月番の玉造組平与力本多為助、山寺三二郎、小島鶴之丞が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎の所為だと告げた。これは大塩の屋敷に出入する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷へ呼ばれたのである。
畑佐の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭の与力二人には平与力蒲生熊次郎、本多為助を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛(づつ)出すことにした。集合の場所は土橋と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇勝太郎に書附を持たせて出して遣つた。
手配が済んで、坂本は役宅に帰つた。そして火事装束、草鞋掛で、十文目筒を持つて土橋へ出向いた。蒲生と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐は、跡部に二度催促せられて、京橋口へ廻つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人を留めて置いて、集合地を発した。堀端を西へ、東町奉行所を指して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。
坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒を用意して貰ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所へ遣つた。昼四つ時に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手の展望を害する梅の木を伐ること、島町に面した南手の控柱と松の木とに丸太を結び附けて、武者走の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。
坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町から南へ迂廻したことを聞いた。そして杣(そま)人足の一組に天神橋と難波橋との橋板をこはせと言ひ付けた。
坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門、馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番米津丹後守昌寿が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承らうと云つた。
広瀬は雪駄穿で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、原来お互に御城警固の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召が分かり兼ねます。貴殿はどう考へられますか。」
坂本は目を睜つた。「成程自分の役柄は拙者も心得てをります。併し頭(かしら)遠藤殿の申付であつて見れば、縦ひ生駒山を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通拙者は打支度をいたしてをります。」
「いや。それは頭御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知を受るやうなわけで、体面にも係るではありませんか。先年出水の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固の者を貸すことは相成らぬと仰やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」
「それは御同意がなり兼ねます。頭の申付なら、拙者は誰の下にでも附いて働きます。その上叛逆人が起つた場合は出水などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷へお出になつて下さい。」
「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」
「已むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」
「然らばお暇しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。
そこへ京橋口を廻つて来た畑佐が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫くして同心三十人を連れて来た。併し自分は矢張雪駄穿で、小筒も何も持たなかつた。
坂本は庭に出て、今工事を片付けて持口に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部は、相役堀を城代土井大炊頭利位の所へ報告に遣つて置いて、書院から降りて来た。そして天満の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなかなかこちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。  
七、船場

 

大塩平八郎は天満与力町を西へ進みながら、平生私曲のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町の四辻から綿屋町を南へ折れた。それから天満宮の側を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳せ加はつたものの中に、砲術の心得のある梅田源左衛門と云ふ彦根浪人もあつた。
平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸を西に進んで、門樋橋を渡り、樋上町河岸を難波橋の袂に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足が、今難波橋の橋板を剥がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身の鑓を見て、ばらばらと散つた。
北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔は、一々方略に取り極めてあつたので、ここでも為事は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着られる限の金銀を身に着けて、思ひおもひに立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔いてあつた。
平八郎は難波橋の南詰に床几を立てさせて、白井、橋本、其外若党中間を傍にをらせ、腰に附けて出た握飯を噛みながら、砲声の轟き渡り、火焔の燃え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂の空を感じてゐた。昼八つ時に平八郎は引上の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやうやう百五十人許りであつた。その重立つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲すことは出来たが、窮民を賑すことが出来ないからである。切角発散した鹿台の財を、徒に烏合の衆の攫み取るに任せたからである。
人々は黙つて平八郎の気色を伺つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫くして瀬田が「まだ米店が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺り覚されたやうに床几を起つて、「好い、そんなら手配をせう」と云つた。そして残の人数を二手に分けて、自分達親子の一手は高麗橋を渡り、瀬田の一手は今橋を渡つて、内平野町の米店に向ふことにした。
八、高麗橋、平野橋、淡路町

 

土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部に土井の指図を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。
「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘すわつてゐた。
堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否や、部下の与力同心を呼び集めて東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒を持たせて来てゐた。
「どこの組か」と堀が声を掛けた。
「京橋組でござります」と広瀬が答へた。
「そんなら先手に立て」と堀が号令した。
同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏めて、西組与力同心の前に立つた。
堀の手は島町通を西へ御祓(おはらひ)筋まで進んだ。丁度大塩父子の率ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗が見えた。
「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。
広瀬が同心等に「打て」と云つた。
同心等の持つてゐた三文目五分筒が煎豆のやうな音を立てた。
堀の乗つてゐた馬が驚いて跳ねた。堀はころりと馬から墜ちた。それを見て同心等は「それ、お頭が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁に馬を牽かせて、御祓筋の会所に這入つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞をして京橋口に帰つて、同役馬場に此顛末を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。
御祓筋から高麗橋までは三丁余あるので、三文目五分筒の射撃を、大塩の同勢は知らずにしまつた。
堀が出た跡の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上すると、遠藤は岡翁助に当てて、平与力四人に大筒を持たせて、目附中井半左衛門方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒を一挺宛、脇勝太郎、米倉倬次郎に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋を南に折れ、それから内平野町へ出て、再び西へ曲らうとした。
此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川の東河岸に落ち合つて、南へ内平野町まで押して行き、米店数軒に火を掛けて平野橋の東詰に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋から、神明の社の角をこつちへ曲がつて来る跡部の纏が見えた。二町足らず隔たつた纏を目当に、格之助は木筒を打たせた。
跡部の手は停止した。与力本多や同心山崎弥四郎が、坂本に「打ちませうか打ちませうか」と催促した。
坂本は敵が見えぬので、「待て待て」と制しながら、神明の社の角に立つて見てゐると、やうやう烟の中に木筒の口が現れた。「さあ、打て」と云つて、坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒をつるべかけた。
烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向まで開いてゐる。橋詰近く進んで見ると、雑人が一人打たれて死んでゐた。
坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎んで引き返した。そして始て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとうとう落馬した。
思案橋を渡つて、瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵等が切れぎれに続いた。
平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢は、又逃亡者が出たので百人余になり、浅手を負つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町を西へ退く所である。
北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋と鍛冶屋町筋との交叉点では、もう敵が見えなかつた。
堺筋との交叉点に来た時、坂本はやうやう敵の砲車を認めた。黒羽織を着た大男がそれを挽かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋西側の紙屋の戸口に紙荷の積んであるのを小楯に取つて、十文目筒で大筒方らしい、彼黒羽織を狙ふ。さうすると又東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒で坂本を狙ふ。坂本の背後にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて、十間程前へ出た。三人の筒は殆同時に発射せられた。
坂本の玉は大砲方の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠をかすつたが、坂本は只顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉は全く的をはづれた。
坂本等は稍久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃えて来る。四辻の辺に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒三挺車台付、木筒二挺内一挺車台付、小筒三挺、其外鑓、旗、太鼓、火薬葛籠(つづら)、具足櫃(びつ)、長持等であつた。鑓のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓だと云つた。
玉に中つて死んだものは、黒羽織の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向に倒れてゐた。身の丈六尺余の大男で、羅紗の黒羽織の下には、黒羽二重紅裏の小袖、八丈の下着を着て、裾をからげ、袴も股引も着ずに、素足に草鞋を穿いて、立派な拵の大小を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋では町家の看板が蜂の巣のやうに貫かれ、檐口(のきぐち)の瓦が砕かれてゐたのである。
跡部は大筒方の首を斬らせて、鑓先に貫かせ、市中を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士が、途中から大塩の同勢に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。
跡部が淡路町の辻にゐた所へ、堀が来合せた。堀は御祓筋の会所で休息してゐると、一旦散つた与力同心が又ぽつぽつ寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋の敵を打ち退けたので、堀は会所を出て、内平野町で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手を命じ、天神橋筋を南へ橋詰町迄出て、西に折れて本町橋を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻して敵の退路を絶たうと云ふ計画であつた。併し一手のものが悉く跡へあとへとすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつぽつ耗つて、本町堺筋では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やうやう堺筋を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。
跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰まで引き上げて、二人は袂を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入つた。坂本、本多、蒲生、柴田、脇並に同心等は、大手前の番場で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。
九、八軒屋、新築地、下寺町

 

梅田の挽かせて行く大筒を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る見る耗つて、大筒の車を挽く人足にも事を闕くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆無節制の状態に陥り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々勝手に射撃する。平八郎は暫くそれを見てゐたが、重立つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢや、好く今まで踏みこたへてゐてくれた、銘々此場を立ち退いて、然るべく処決せられい」と云ひ渡した。
集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田、高橋、父柏岡、西村、杉山と瀬田の若党植松とであつたが、平八郎の詞を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々に固まつてゐる身方の残兵に首領の詞を伝達した。
それを聞いて悄然と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構へたやうに持つてゐた鑓、負つてゐた荷を棄てて、足早に逃げるものもある。大抵は此場を脱け出ることが出来たが、安田が一人逃げおくれて、町家に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中に長持の宰領をして来た大工作兵衛がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子の供がしたいと云つて居残つた。質樸な職人気質から平八郎が企の私欲を離れた処に感心したので、強ひて与党に入れられた怨を忘れて、生死を共にする気になつたのである。
平八郎は格之助以下十二人と作兵衛とに取り巻かれて、淡路町二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹を晦ますことが出来た。
此時北船場の方角は、もう騒動が済んでから暫く立つたので、焼けた家の址から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物にか執着して、黒く焦げた柱、地に委ねた瓦のかけらの側を離れ兼ねてゐるやうな人、獣の屍の腐る所に、鴉や野犬の寄るやうに、何物をか捜し顔にうろついてゐる人などが、互に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立ち退く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色になつて来て、陰鬱な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配してゐる。まだ鉄砲や鑓を持つてゐる十四人は、詞もなく、稲妻形に焼跡の町を縫つて、影のやうに歩を運びつつ東横堀川の西河岸へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾だけ残つた中に、青い火がちよろちよろと燃えてゐるのを、平八郎が足を停めて見て、懐から巻物を出して焔の中に投げた。これは陰謀の檄文と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状であつた。
十四人はたつた今七八十人の同勢を率ゐて渡つた高麗橋を、殆世を隔てたやうな思をして、同じ方向に渡つた。河岸に沿うて曲つて、天神橋詰を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋に一艘の舟が繋いであつた。船頭が一人艫の方に蹲つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食はせをして、此舟に飛び乗つた。跡から十三人がどやどやと乗込んだ。
「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。
不意を打たれた船頭は器械的に起つて纜(ともづな)を解いた。
舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒、其外の人々は手鑓を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込を脱いで、これも水中に投げた。
「どつちへでも好いから漕いでをれ。」瀬田はかう云つて、船頭に艪を操らせた。火災に遭つたものの荷物を運び出す舟が、大川にはばら蒔いたやうに浮かんでゐる。平八郎等の舟がそれに雑つて上つたり下だつたりしてゐても、誰も見咎めるものはない。
併し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方どこへお上りなさいます。」
「黙つてをれ」と瀬田が叱つた。
平八郎は側にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世話になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」
「へえ。これは済みません。直吉と申します。」
これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂れてゐた頭を挙げて、「これから拙者の所存をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存と云ふのは大略かうである。
此度の企は残賊を誅して禍害を絶つと云ふ事と、私蓄を発(あば)いて陥溺を救ふと云ふ事との二つを志した者である。然るに彼は全く敗れ、此は成るに垂(なんなん)として挫けた。主謀たる自分は天をも怨まず、人をも尤(とが)めない。只気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒として、袂を分つて陸に上り、各潔く処決して貰ひたい。自分等父子は最早思ひ置くこともないが、跡には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家へ往き、自裁するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。
平八郎の妾以下は、初め般若寺村の橋本方へ立ち退いて、それから伊丹の紙屋某方へ往つたのである。後に彼等が縛に就いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。
暮六つ頃から、天満橋北詰の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡、西村、茨田、高橋と瀬田に暇を貰つた植松との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落して遣つた上で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主になつて、時疫で死に、植松は京都で捕はれた。
跡に残つた人々は土佐堀川から西横堀川に這入つて、新築地に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫つて所存を問うたが、只「いづれ免れぬ身ながら、少し考がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残のないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。
一行は暫く四つ橋の傍に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所を求めに往くにしても、大小を挿してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡に附いて、一同下寺町まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残は尽きぬと云つて、暇乞をした。後に白井は杉山を連れて、河内国渋川郡大蓮寺村の伯父の家に往き、鋏を借りて杉山と倶に髪を剪り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。
跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町で火事を見に出てゐた人の群を避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村で夜を明かして、平野郷から河内、大和を経て、自分と前後して大和路へ奔つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。
庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻考があるとは云つたが、別にかうと極まつた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己は今暫く世の成行を見てゐようと思ふ。尤も間断なく死ぬる覚悟をしてゐて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途を見届けます」と云つて、河内から大和路へ奔ることを父子に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道の闇の裏に消えた。  
十、城

 

けふの騒動が始て大阪の城代土井の耳に入つたのは、東町奉行跡部が玉造口定番遠藤に加勢を請うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。
土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時に定番、大番、加番の面々を呼び集めた。
城代土井は下総古河の城主である。其下に居る定番二人のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江三上の城主である。定番の下には一年交代の大番頭が二人ゐる。東大番頭は三河新城の菅沼織部正定忠、西大番頭は河内狭山の北条遠江守氏春である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭四人、組衆四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。
これ丈では守備が不足なので、幕府は外様の大名に役知一万石宛を遣つて加番に取つてゐる。山里丸の一加番が越前大野の土井能登守利忠、中小屋の二加番が越後与板の井伊右京亮直経、青屋口の三加番が出羽長瀞の米津伊勢守政懿、雁木坂の四加番が播磨安志の小笠原信濃守長武である。加番は各物頭五人、徒目付六人、平士九人、徒六人、小頭七人、足軽二百二十四人を率ゐて入城する。其内に小筒六十挺弓二十張がある。又棒突足軽が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。
定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正九つ時に城内を巡見するから、それまでに各持口を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃を担ぎ出す。具足奉行上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫は鉄砲玉薬を分配する。鍋釜の這入つてゐた鎧櫃もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方ならぬ混雑であつた。
九つ時になると、両大番頭が先導になつて、土井は定番、加番の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮六つ時に改めて巡見することにした。
二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎、岸和田、高槻、淀などから繰り出した兵が到着してゐる。
坤(ひつじさる=南西)に開いてゐる城の大手は土井の持口である。詰所は門内の北にある。門前には柵を結ひ、竹束を立て、土俵を築き上げて、大筒二門を据ゑ、別に予備筒二門が置いてある。門内には番頭が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向に陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄の一番手三百三十余人が西向に陣取る。略同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷り、次いで跡部の要求によつて守口、吹田へ往つた。後に郡山の一二番手も大手に加はつた。
大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾の角に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与の手、其外淀の手が備へてゐる。
京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵である。焔硝蔵と艮の角の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋が掛かつてゐる。極楽橋から這入つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には菅沼、北条の両大番頭が備へてゐる。
青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番の井伊が遊軍としてこれに加はつてゐる。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印を立ててゐる。
玉造口定番の詰所は巽に開いてゐる。玉造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。
土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜に入つてからは、城の内外の持口々々に篝火を焚き連ねて、炎焔天を焦すのであつた。跡部の役宅には伏見奉行加納遠江守久儔、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。
目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配は、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。吹田村で氏神の神主をしてゐる、平八郎の叔父宮脇志摩の所へ捕手の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池に飛び込んだ。船手奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤したのも二十一日である。
朝五つ時に天満から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思の外にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺、摂津国町、又二郎町、越後町、旅籠町、南が大川、北が与力町を界とし、大手前から船場へ掛けての市街は、谷町一丁目から三丁目までを東界、上大みそ筋から下難波橋筋までを西界、内本町、太郎左衛門町、西入町、豊後町、安土町、魚屋町を南界、大川、土佐堀川を北界として、一面の焦土となつた。
本町橋東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃えて来たので、夕七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮六つ半に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵五つ半である。町数で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数、竈(かまど)数で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災に罹つたのである。
十一、二月十九日の後の一、信貴越

 

大阪兵燹の余焔が城内の篝火と共に闇を照し、番場の原には避難した病人産婦の呻吟を聞く二月十九日の夜、平野郷のとある森蔭に体を寄せ合つて寒さを凌いでゐる四人があつた。これは夜の明けぬ間に河内へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子と瀬田、渡辺とである。
四人は翌二十日に河内の界に入つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やうやう産土(うぶすな)の社を見付けて駈け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏(まとひ)にならぬやうにすると云つて、手早く脇差を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先が這入つたので、所詮助からぬと見極めて、平八郎が介錯した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温順篤実な男で、年齢は僅に四十を越したばかりであつた。
二十一日の暁になつても、大風雨は止みさうな気色もない。平八郎父子と瀬田とは、渡辺の死骸を跡に残して、産土の社を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国志紀郡田井中村である。
三人は風雨を冒して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやうやう午頃に息んだが、肌まで濡れ通つて、寒さは身に染みる。辛うじて大和川の支流幾つかを渡つて、夜に入つて高安郡恩地村に着いた。
さて例の通人家を避けて、籔陰の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝を集めて来て、おそるおそる焚火をしてゐると、瀬田が発熱して来た。いつも血色の悪い、蒼白い顔が、大酒をしたやうに暗赤色になつて、持前の二皮目が血走つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々は焚火の前に蹲つて、現とも夢とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱いで平八郎に襲ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎に角人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道を百姓家のある方へ往かせた。其後影を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越の方角を志して、格之助と一しよに、又間道を歩き出した。
瀬田は頭がぼんやりして、体ぢゆうの脈が鼓を打つやうに耳に響く。狭い田の畔道を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動もすれば苅株の間の湿つた泥に足を蹈み込む。
やうやう一軒の百姓家の戸の隙から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫く休息させて貰ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭ら顔の爺いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思の外拒まうともせずに、囲炉裏の側に寄つて休めと云つた。婆あさんが草鞋を脱がせて、足を洗つてくれた。
瀬田は火の側に横になるや否や、目を閉ぢてすぐに鼾をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行灯の下にすわつた婆あさんは、呆れて夫の跡を見送つた。
瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限駈けて行く。跡から大勢の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆鳥の飛ぶやうに駈けることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗満足して、只追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調に鼓を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確に判断することが出来た。
瀬田は跳ね起きた。眩暈の起りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行灯の下の婆あさんは、又呆れてそれを見送つた。
百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹の大籔がある。その奥を透かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆く積もつた竹の葉を蹈んで、松の下に往つて懐を探つた。懐には偶然捕縄があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈み締めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠を作つて自分の頸に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最期を遂げた。村役人を連れて帰つた爺いさんが、其夜の中に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守に届けた。
平八郎は格之助の遅れ勝になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和の境に入つた。それから日暮に南畑で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入つた。暫くすると出て来て、「お前も頭を剃るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明六つ頃であつた。
寺にゐた間は平八郎が殆一言も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」
格之助も此詞には驚いた。「でも帰りましたら。」
「好いから黙つて附いて来い。」
平八郎は足の裏が燃えるやうに逃げて来た道を、渇したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵と暁とに温い粥を振舞はれてからは、霊薬を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。
十二、二月十九日後の二、美吉屋

 

大阪油懸町の、紀伊国橋を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋と云ふ手拭地の為入屋がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外、家内に下男五人、下女一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向の用を達したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰で町預になつてゐる。
此美吉屋で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵の五つ過に表の門を敲くものがある。主人が起きて誰だと問へば、備前島町河内屋八五郎の使だと云ふ。河内屋は兼て取引をしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜に入つて人をよこしたかと訝りながら、庭へ降りて潜戸を開けた。
戸があくとすぐに、衣の上に鼠色の木綿合羽をはおつた僧侶が二人つと這入つて、低い声に力を入れて、早くその戸を締めろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形に不似合な脇差を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがたがた震えて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食はせをすると、跡から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除けて戸締をした。
二人は縁に腰を掛けて、草鞋の紐を解き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。髪をおろして相好は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。
二人は黙つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召か」と問ふと、平八郎は只「当分厄介になる」とだけ云つた。
陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併し平八郎の言ふことは、年来暗示のやうに此爺いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃(くわあう=災難)を未来に推し遣る工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調へて運ぶことにした。
一日立つ。二日立つ。いつは立ち退いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重の先にお尋者を置くのが心配に堪へない。幸に美吉屋の家には、坤の隅に離座敷がある。周囲は小庭になつてゐて、母屋との間には、小さい戸口の附いた板塀がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路次に附いてゐる。此離座敷なら家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞(おそれ)もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々飯米を測つて勝手へ出す時、紙袋に取り分け、味噌、塩、香の物などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火で自炊するのである。
兎角するうちに三月になつて、美吉屋にも奉公人の出代(でかはり)があつた。その時女中の一人が平野郷の宿元(やどもと)に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。
平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉平左衛門、中瀬九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷の陣屋に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問せられて、すぐに実を告げた。
土井は大目附時田肇に、岡野小右衛門、菊地鉄平、芹沢啓次郎、松高縫蔵、安立讃太郎、遠山勇之助、斎藤正五郎、菊地弥六の八人を附けて、これに逮捕を命じた。
三月二十六日の夜四つ半時、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の摸様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒を受け取つた。
それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤で極めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齢五十歳を過ぎて、跡取の倅もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰つて、次の二番から八番までの籤を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。
二十七日の暁八つ時過、土井の家老鷹見十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附鳥巣彦四郎を添へて、偵察に遣ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから、手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣が中屋敷に来て、内山の口上を伝へて、本町五丁目の会所へ案内した。時田以下の九人は鳥巣を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町の南裏通である。信濃町では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口に向ふ追手と、西裏口に向ふ搦手(からめて)とに分れることになつた。
追手は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手は同心二人、遠山、安立、芹沢、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次、永瀬七三郎三人の率ゐた火消人足に前以て取り巻かせてある美吉屋へ、六つ半時に出向いた。搦手は一歩先に進んで西裏口を固めた。追手は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。
追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預けになつてゐるので、今家財改のお役人が来られた。どうぞちよいとの間裏の路次口から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。
つねは顔色が真つ蒼になつたが、やうやう先に立つて板塀の戸口に往つて、もしもしと声を掛けた。併し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。
暫くすると戸口が細目に開いた。内から覗いたのは坊主頭の平八郎である。平八郎は捕手と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。
岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。「平八郎卑怯だ。これへ出い。」
「待て」と、平八郎が離座敷の雨戸の内から叫んだ。
岡野等は暫くためらつてゐた。
表口の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立ち退いた跡で暫く待つてゐたが、板塀の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形になつてゐる表の庭を、縁側の角に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。
「宜しうございませう」と同心が答へた。
鉄平は戸口をつと這入つて、正面にある離座敷の雨戸を半棒で敲きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭がした。
鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。
離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆ひ、間内の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際に、平八郎は鞘を払つた脇差を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手を見て、其刃を横に吭(のど)に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。
投げた脇差は、傍輩と一しよに半棒で火を払ひ除けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑ぎ掛けたやうに血が附いた。
火は次第に燃えひろがつた。捕手は皆焔を避けて、板塀の戸口から表庭へ出た。
弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔がありますから、引つ掛けて掻き寄せませう」と云つた。脇差は旨く掻き寄せられた。柄は茶糸巻で、刃が一尺八寸あつた。
搦手は一歩先に西裏口に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真ん中に道を開け、逃げ出したら挟撃にしようと待つてゐた。そのうち余り手間取るので、安立、遠山、斎藤の三人が覗きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又覗きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併し火気が熾なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。
そこへ内山が来て、「もう跡は火を消せば好いのですから、消防方に任せてはいかがでせう」と云つた。
遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」
遠山はかう云つて、傍輩と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。
総年寄今井が火消人足を指揮して、焼けた材木を取り除けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺し貫いてある。平生歯が出てゐたが、其歯を剥き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭を突いて俯伏してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体を見定めた。格之助は創の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅といふ医者の家から、駕籠を二挺出させて、それに死骸を載せた。
二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜へ送られた。道筋には見物人の山を築いた。  
十三、二月十九日後の三、評定

 

大塩平八郎が陰謀事件の評定は、六月七日に江戸の評定所に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(ちか)の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同英太郎、河合八十次郎、大井正一郎、安田図書、大西与五郎、美吉屋五郎兵衛、同つね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬つた浅草遍照院の所化(しよけ=修行僧)尭周等が呼び出されて、七月十六日から取調が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田、高橋、父柏岡、倅柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津森小路村の医師横山文哉、同国猪飼野村の百姓木村司馬之助との十九人、それから返忠をし掛けて遅疑した弓奉行組同心小頭竹上万太郎は磔になつた。然るに九月十八日に鳶田で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一人である。他の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼江戸へ廻された大井迄悉く牢死したので、磔柱には塩詰の死骸を懸けた。中にも平八郎父子は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀たれた。
松本、堀井、杉山、曾我、植松、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間浅佶、深尾の募集に応じた尊延寺村の百姓忠右衛門と無宿新右衛門とは獄門、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門の甥儀次郎、般若寺村の百姓卯兵衛は死罪、平八郎の妾ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の倅で、穉い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島、安田と杉山を剃髪させた同人の伯父、河内大蓮寺の僧正方、西村の逃亡を助けた同人の姉婿、堺の医師寛輔の二人とは追放になつた。併し此人々も杉山、上田、大西、倅白井の四人の外は、皆刑の執行前に牢死した。
密訴をした平山と父吉見とは取高の儘譜代席小普請入になり、吉見英太郎、河合八十次郎は各銀五十枚を賜はつた。此中で酒井大和守忠嗣へ預替になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所の棚の刀箱から脇差を取り出して自殺した。
城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本鉉之助は鉄砲方になつて、目見以上の末席に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。  
附録

 

私が大塩平八郎の事を調べて見ようと思ひ立つたのは、鈴木本次郎君に一冊の写本を借りて見た時からの事である。写本は墨付二十七枚の美濃紙本で、表紙に「大阪大塩平八郎万記録」と題してある。表紙の右肩には「川辺文庫」の印がある。川辺御楯君が鈴木君に贈与したものださうである。
万記録の内容は、松平遠江守の家来稲垣左近右衛門と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津尼崎の城主松平忠栄の事であらう。
万記録は所謂風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を選み出さうとして見ると、獲ものは頗乏しい。併し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を刺戟せられた。
そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精しく書いてある幸田成友君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。
こんな事をしてゐる間、私の頭の中を稍久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度に、平八郎の話をし出して、これに関係した史料や史論を聞かうとした。松岡寿君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又三上参次君、松本亦太郎君は多少纏つた評論を聞せてくれた。
そのうち私の旧主人が建ててゐる菁々塾の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。
そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、概ね左の通である。
天保八年二月十九日
今の時刻 / 昔の時刻 / 事実
午前四時暁七時(寅)吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行堀利堅に呈す。
六時明六時(卯)東町奉行跡部良弼は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を訪ひて処決せしむることを嘱す。
七時朝五時(辰)平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。
十時昼四時(巳)跡部坂本鉉之助に東町奉行所の防備を命ず。
十一時昼四半時城代土井利位城内の防備を命ず。
十二時昼九時(午)平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。
午後四時夕七時(申)平八郎等八軒屋に至りて船に上る。
六時暮六時(酉)平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再び城内を巡視す。
時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢てそれを試みた。そして其間に推測を逞くしたには相違ないが、余り暴力的な切盛や、人を馬鹿にした捏造はしなかつた。
私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてはゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊に外生活だけを臚列するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻に些の空白をも残さぬばかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古だか分からぬやうになつた。ここにはそれを省略して載せる。  
大塩平八郎年譜

 

寛政五年癸丑(一七九三年)大塩平八郎後素生る。幼名文之助。祖先は今川氏の族にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をして家を襲がしむ。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。数世にして喜内と云ふものあり。其弟を助左衛門、其子を政之丞成余と云ふ。成余の子を平八郎敬高と云ふ。敬高の弟志摩出でて宮脇氏を冒す。敬高大西氏を娶る。文之助を生む。名は後素。字は子起。通称は平八郎。中斎と号す。居る所を洗心洞と云ふ。

是年平八郎後素の祖父成余四十二歳、父敬高二十四歳。
六年甲寅平八郎二歳。成余四十三歳。敬高二十五歳。
七年乙卯平八郎三歳。成余四十四歳。敬高二十六歳。
八年丙辰平八郎四歳。成余四十五歳。敬高二十七歳。橋本忠兵衛生る。
九年丁巳平八郎五歳。成余四十六歳。敬高二十八歳。
十年戊午平八郎六歳。成余四十七歳。敬高二十九歳。大黒屋和市の女ひろ生る。後橋本氏ゆうと改名し、平八郎の妾となる。
十一年己未平八郎七歳。成余四十八歳。五月十一日敬高三十歳にして歿す。平八郎の弟忠之丞生る。
十二年庚申平八郎八歳。成余四十九歳。七月二十五日忠之丞歿す。九月二十日平八郎の母大西氏歿す。
享和元年辛酉平八郎九歳。成余五十歳。宮脇りか生る。
二年壬戌平八郎十歳。成余五十一歳。
三年癸亥平八郎十一歳。成余五十二歳。
文化元年甲子平八郎十二歳。成余五十三歳。
二年乙丑平八郎十三歳。成余五十四歳。
三年丙寅平八郎十四歳。此頃番方見習となる。成余五十五歳。
四年丁卯平八郎十五歳。家譜を読みて志を立つ。成余五十六歳。
五年戊辰平八郎十六歳。成余五十七歳。
六年己巳平八郎十七歳。成余五十八歳。
七年庚午平八郎十八歳。成余五十九歳。豊田貢斎藤伊織に離別せられ、水野軍記の徒弟となる。
八年辛未平八郎十九歳。成余六十歳。
九年壬申平八郎二十歳。成余六十一歳。
十年癸酉平八郎二十一歳。始て学問す。成余六十二歳。西組与力弓削新右衛門地方役たり。
十一年甲戌平八郎二十二歳。此頃竹上万太郎平八郎の門人となる。成余六十三歳。
十二年乙亥平八郎二十三歳。成余六十四歳。
十三年丙子平八郎二十四歳。成余六十五歳。京屋きぬ水野の徒弟となる。
十四年丁丑平八郎二十五歳。成余六十六歳。
文政元年戊寅六月二日成余六十七歳にして歿す。平八郎二十六歳にして番代を命ぜらる。妾ゆうを納る。二十一歳。宮脇むつ生る。
二年己卯平八郎二十七歳。
三年庚辰平八郎二十八歳。目安役並証文役たり。十一月高井山城守実徳東町奉行となる。
四年辛巳平八郎二十九歳。平山助次郎十六歳にして入門す。四月坂本鉉之助始て平八郎を訪ふ。橋本みね生る。
五年壬午平八郎三十歳。
六年癸未平八郎三十一歳。平八郎の叔父志摩宮脇氏の婿養子となり、りかに配せらる。是年大井正一郎入門す。水野軍記の妻そへ歿す。
七年甲申平八郎三十二歳。宮脇発太郎生る。庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。
八年乙酉平八郎三十三歳。正月十四日洗心洞学舎東掲西掲を書す。白井孝右衛門三十七歳にして入門す。
九年丙戌平八郎三十四歳。宮脇とく生る。
十年丁亥平八郎三十五歳。吟味役たり。正月京屋さの、四月京屋きぬ、六月豊田貢、閏六月より七月に至り、水野軍記の関係者皆逮捕せらる。さの五十六歳、きぬ五十九歳、貢五十四歳、所謂邪宗門事件なり。
十一年戊子平八郎三十六歳。吉見九郎右衛門三十八歳にして入門す。十月邪宗門事件評定所に移さる。
十二年己丑平八郎三十七歳。三月弓削新右衛門糺弾事件あり。平八郎の妾ゆう薙髪(ちはつ=剃髪)す。十二月五日邪宗門事件落着す。貢、きぬ、さの、外三人磔に処せらる。きぬ、さのは屍を磔す。是年宮脇いく生る。上田孝太郎入門す。木村司馬之助、横山文哉交を訂す。
天保元年庚寅平八郎三十八歳。三月破戒僧検挙事件あり。七月高井実徳西丸留守居に転ず。平八郎勤仕十三年にして暇を乞ひ、養子格之助番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓(てんぼ=墓参)す。頼襄(らいのぼる=頼山陽)序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本は甫めて七歳なりき。
二年辛卯平八郎三十九歳。父祖の墓石を天満東寺町成正寺に建つ。吉見英太郎、河合八十次郎入門す。彼は十歳、此は十二歳なり。
三年壬辰平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本大学刮目に序せんことを約す。六月大学刮目に自序す。同月近江国小川村なる中江藤樹の遺蹟を訪ふ。帰途舟に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に亡し。是年宮脇いくを養ひて女とす。柴屋長太夫三十六歳にして入門す。
四年癸巳平八郎四十一歳。四月洗心洞剳記に自序し、これを刻す。頼余一に一本を貽る。又一本を佐藤坦に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧により、剳記を宮崎、林崎の両文庫に納む。九月奉納書籍聚跋に序す。十二月儒門空虚聚語に自序す。是年柏岡伝七、塩屋喜代蔵入門す。
五年甲午平八郎四十二歳。秋剳記附録抄を刻す。十一月孝経彙註に序す。是年宇津木矩之允入塾す。柏岡源右衛門入門す。此頃高橋九右衛門も亦入門す。
六年乙未平八郎四十三歳。四月孝経彙註を刻す。夏剳記及附録抄の版を書估に与ふ。
七年丙申平八郎四十四歳。七月跡部良弼東町奉行となる。九月格之助砲術を試みんとすと称し、火薬を製す。十一月百目筒三挺を買ひ又借る。十二月檄文を印刷す。同月格之助の子弓太郎生る。安田図書、服部末次郎入門す。宇津木矩之允再び入塾す。天保四年以後飢饉にして、是歳最も甚し。
八年丁酉(一八三七年)平八郎四十五歳。正月八日吉見、平山、庄司連判状に署名す。十八日柏岡源右衛門、同伝七署名す。二十八日茨田、高橋署名す。是月白井孝右衛門、橋本、大井も亦署名す。二月二日西町奉行堀利堅就任す。七日ゆう、みね、弓太郎、いく般若寺村橋本の家に徙る。上旬中書籍を売りて、金を窮民に施す。十三日竹上署名す。吉見父子平八郎の陰謀を告発せんと謀る。十五日上田署名す。木村、横山も亦此頃署名す。十六日より与党日々平八郎の家に会す。十七日夜平山陰謀を跡部に告発す。十八日暁六時跡部平山を江戸矢部定謙の許に遣る。堀と共に次日市内を巡視することを停む。十九日暁七時吉見英太郎、河合八十次郎英太郎が父の書を懐にして、平八郎の陰謀を堀利堅に告発す。東町奉行所に跡部平八郎の与党小泉淵次郎を斬らしめ、瀬田済之助を逸す。瀬田逃れて平八郎の家に至る。平八郎宇津木を殺さしめ、朝五時事を挙ぐ。昼九時北浜に至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火息む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛の家に潜む。三月二十七日平八郎父子死す。
九年戊戌八月二十一日平八郎等の獄定まる。九月十八日平八郎以下二十人を鳶田に磔す。竹上一人を除く外、皆屍なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。
二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しよに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で縊死してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆疑を容れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、亦推定することが出来る。唯恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。
試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、亀瀬峠は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる服部川から信貴越をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。
二月十九日後の記事は一、信貴越二、美吉屋三、評定と云ふことになつた。
平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵揣摩である。
大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶歉(きようけん=凶作)があつても、すぐに大影響を被る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を恣にしてゐる。平八郎はそれを憤つた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕して、京都へ遣らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。  
全国の石高を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。
石高実数(単位万石)全国石高に対する百分比例
徳川幕府   800       29.2 %
諸大名     1900      69.4
御料             3         0.1
皇族并公卿   4.7      0.2
社寺           30         1.2
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計          2737.7    100  %
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天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。
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五畿内東山道    45   %
東海道              45
関八州              30-40
奥州                 28
羽州                 40
北陸道              54
山陰道              32
山陽道及南海道 55
西海道              50
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                        42.4%
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これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三〇,四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗四合である。  
平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。
若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。
若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。
この二つの道が塞がつてゐたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。
未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたばかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。
此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼等は未だ醒覚してゐない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。
平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。
平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。
平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の賄方、格之助の若党、中間、瀬田済之助の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。
暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。
大塩平八郎美吉屋にて自刃す
大塩格之助東組与力西田青太夫実子美吉屋にて死す
渡辺良左衛門東組同心河内田井中にて切腹す
瀬田済之助東組与力河内恩地にて縊死す
小泉淵次郎郡山柳沢甲斐守家来春木弥之助実子、東組東町奉行所にて斬らる
与力養子
庄司義左衛門河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同奈良にて捕はる
心養子
近藤梶五郎東組同心自宅焼跡にて切腹す
大井正一郎玉造口与力倅京都にて捕はる
深尾才次郎河内交野郡尊延寺村百姓能登にて自殺す
茨田郡次河内茨田郡門真三番村百姓支配役場へ自首す
高橋九右衛門河内茨田郡門真三番村百姓支配役場へ自首す
柏岡源右衛門摂津東成郡般若寺村百姓支配役場へ自首す
柏岡伝七同上倅自宅にて捕はる
西村利三郎河内志紀郡弓削村百姓江戸にて願人となり病死す
宮脇志摩摂津三島郡吹田村神主自宅にて切腹入水す
橋本忠兵衛摂津東成郡般若寺村庄屋京都にて捕はる
白井孝右衛門摂津守口村百姓兼質屋伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
横山文哉肥前三原村の人、摂津東成郡森小路村の医捕はる
師となる
木村司馬之助摂津東成郡猪飼野村百姓捕はる
竹上万太郎弓奉行組同心捕はる
次に左の十一人は獄門に処せられた。
松本隣太夫大阪船場医師倅捕はる
堀井儀三郎播磨加東郡西村百姓捕はる
杉山三平大塩塾賄方伏見に往く途中豊後橋にて捕はる
曾我岩蔵大塩若党大阪にて捕はる
植松周次瀬田若党京都にて捕はる
作兵衛天満北木幡町大工京都にて捕はる
金助摂津東成郡下辻村猟師捕はる
美吉屋五郎兵衛油懸町手拭地職自宅にて捕はる
浅佶瀬田中間捕はる
新兵衛河内尊延寺村無宿、深尾才次郎の募に応ず捕はる
忠右衛門同村百姓、同上捕はる
次に左の三人は死罪に処せられた。
上田孝太郎摂津東成郡沢上江村百姓捕はる
白井儀次郎河内渋河郡衣摺村百姓、白井孝右衛門従弟捕はる
卯兵衛摂津東成郡般若寺村百姓捕はる
次に左の四人は遠島に処せられた。
大西与五郎東組与力、平八郎の母兄捕はる
白井彦右衛門孝右衛門倅大和に往く途中捕はる
橋本氏ゆう実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ京都にて捕はる
美吉屋つね五郎兵衛妻自宅にて捕はる
次に左の三人は追放に処せられた。
安田図書伊勢山田外宮御師淡路町附近にて捕はる
寛輔堺北糸町医師、西村の姉婿、西村の逃亡を捕はる
幇助す
正方河内渋河郡大蓮寺隠居、杉山の伯父にして捕はる
杉山をして剃髪せしむ
以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は悉く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で塩詰にした屍首を磔柱、獄門台に懸けた。江戸で願人坊主になつて死んだ西村丈は、浅草遍照院に葬つた死骸が腐つてゐたので、墓を毀たれた。
当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは独平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。
近い頃のロシアの小説に、譃を衝かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々であつた。
個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。
平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。
平山助次郎東組同心暴動に先だつこと二日、東町奉行跡部良弼に密訴す
吉見九郎右衛門東組同心暴動当日の昧爽、西町奉行堀利堅に上書す
吉見英太郎九郎右衛門倅九郎右衛門の訴状を堀に呈す
河合八十次郎平八郎の陰謀に与し、半途にして逃亡し、遂に行方不明になりし東組同心郷左衛門の倅なり、陰謀事件の関係者中行方不明になりしは、此郷左衛門と近江小川村医師志村力之助との二人のみ九郎右衛門の訴状を堀に呈す
評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和の邸で、人間らしく自殺を遂げた。 (大正二年十二月)  
 
大逆事件と体制批判意識

 

森鴎外が大正二年の十二月に書き上げた歴史小説の第五作目「大塩平八郎」は、それまでの歴史小説とはいささか趣を異にしている。
「興津弥五右衛門の遺書」から「護持院原の敵討」に至る四作は、いづれも歴史上の出来事を取り上げ、依拠した資料をして自ら語らしめながら、そこに生きた人間たちの、生の人間性といったものを淡々と描き出そうとする態度に貫かれていた。鴎外が彼らに垣間見たのは、武士としての意地であり、人間として当然の義務を果たそうとする、無私の衝動であった。鴎外はそこに、人間の人間としての、時代を超えた普遍的な感情を見ようとした。
これらの作品で取り上げられた人物たちは歴史上に実在した人たちだったとはいえ、殆ど無名であって、彼らの行状を記した資料もいわば穴だらけといってよいものだった。鴎外はその穴を必要な範囲で最小限につくろいながら、主人公たちの表情を浮き上がらせようとつとめていた。
これに対して、大塩平八郎は歴史上有名な人物であった。彼の起こした行動については、さまざまな見方があったが、畢竟マイナスのイメージで彩られていた。幕藩体制から鴎外の生きた天皇制の時代を通じて否定的な評価が定着していたのである。
大塩平八郎は幕藩体制にとっては、体制の転覆を図ったけしからぬ男であった。、また天皇制の時代になっても、暴動を以て権威に立ち向かった無謀な男であり、天保時代に世を襲った飢饉など悲惨な時代背景を割り引いても、同情できるところは全くないと断罪されてきた。
鴎外はそんな大塩平八郎という男を改めてとりあげ、彼の起こした暴動の一部始終を描きながら、それが持った歴史的な意味合いを考え直そうとした。あわせて大塩平八郎の人物像や暴動にかかわった人々の行動を詳細にあぶりだそうとした。
鴎外がこの小説を書くにあたっては、典拠とすべき優れた業績が存在していた。同時代の歴史家幸田成友が明治43年に出版した「大塩平八郎」という本である。幸田は大阪市史を編纂する過程で、大阪の歴史に大きな足跡を刻んだこの人物に同情を抱くようになり、世間に流布している誤伝謬説を打破して、平八郎に対して相応しい評価を与えようと試みたのであった。
この本は大塩平八郎という人物について、生い立ちより始めて与力としての功績、学者としての思想を述べ、天保の飢饉下で大塩が如何に世を憂え、どのような動機にもとづいて反乱を惹起せしめたかを、克明に追及した。そこには幕府によってかぶせられた逆賊・不倫の汚名から大塩平八郎の名誉を回復せしめようとの意図が働いていた。
鴎外はこの幸田の本を下敷きに使って、「大塩平八郎」を描いた。だが幸田とは異なり、鴎外は平八郎に肩入れするような言辞は一切用いていない。また平八郎についての余分な側面は一切省略して、暴動当日のわずか一日間の動きに焦点を合せている。それも、くだくだしい説明は除き、平八郎を中心にした人物たちの行動を淡々と描いているのみである。
鴎外研究家の尾形仂は、幸田の本と鴎外の小説とを読み比べて、面白い論を展開している。尾形は小泉浩一郎の「大塩平八郎論」を引き合いに出して、鴎外がこの小説に垣間見せている見解として三つのものをあげている。
一つは町奉行たちの行動や心理を描くことを通じて、官僚たちの無能や俗物性を強調していること。二つ目は、「己が陰謀を推し進めたのではなくて、陰謀が己を拉っし去ったのだ」という平八郎の言葉を引用して、平八郎の陰謀に対する受動性を強調していること。三つ目は、累を及ぼしたものへの平八郎の謝罪や、逃亡の道筋で見せる生への執着を強調していること。以上の三点である。
とくに二つ目の陰謀に対する受動性という点に関しては、鴎外は弟子の宇津木に師匠を批判する言葉をはかせ、その行動が幕府や天皇に対して向けられた計画的な反乱ではなく、先をみないその場限りの暴挙に終っていると言わせている。
尾形はこの部分を解釈して、鴎外が平八郎に対してなした「国家秩序の変革への展望を欠落させた一揆的暴動への批判」と見ている。鴎外が平八郎をこのように批判する背景には、同時代に対する厳しい批判意識が重なっていたのだと、尾形は考える。幸徳秋水らがかかわったいわゆる大逆事件に対して、鴎外が示した反応に、その批判意識が表れているとみているのである。
明治43年におきた「大逆事件」は、無政府主義者による天皇制転覆の企てとして、体制を震撼させる事件に発展した。政府は過剰とも言える反応を見せ、その年の五月に最初の検挙者を出して以来、違例のスピード捜査と非公開の裁判を以て、翌年の1月には24人の死刑を始めとして、関係した26人全員に判決が下された。
鴎外は被告側弁護人平出弁護士の手を通じて、その裁判の内実を読むことができる立場にいた。鴎外はそれを読むことを通じて、幸徳秋水らの思想的な未熟さや、ましてそれが計画的な革命をなすには程遠いものだったことなどを知り、幸徳秋水らに対する官憲側の異常なまでの過剰反応の一切を知ることができた。
当時の鴎外は、大逆事件については神経質になっていた節がある。日記の中でそのことについては殆ど触れていないばかりか、むしろ空白の日が目立っている。恐らく自身係わりのあったこの事件について、慎重にならざるを得なかったのだろう。
だが大正も二年目を迎えて、世間の記憶が風化し始めたのを見計らったのか、鴎外はこの事件を何らかの形で取り上げたいと思うようになった。だが正面から取り上げるには危険が大きすぎる。そこで鴎外は、似たような事件の先例として大塩の乱に目をつけ、それに託しながら大逆事件の意味を考え直そうとしたのではないか。これが、尾形の推論のあらましである。
大塩平八郎の乱と大逆事件には似ているところが非常に多い。まずその無計画性である。平八郎自身「陰謀が己を拉っし去った」といっているように、平八郎の乱は、義憤に駆られるまま、自然の流れに乗って暴発したものだった。それを大きな騒ぎに燃え上がらせたのは、町奉行をはじめ幕府側の事大主義的な対応である。
同じように大逆事件も、綿密な計画に支えられたものではなかった。幸徳秋水自ら、「これは一種の正当防衛です」といっているように、一方では世の中の不条理に義憤を感ずるまま、その義憤のはけ口をもとめて暴発したという側面があるとともに、官憲側の異常な反応が彼らを妄動へと追いやった側面もある。
権力側の対応にも似通ったものがある。大塩の乱に際しては、町奉行方は終止無能振りを発揮してなすすべもなかったが、やがて巨大な力を集中してちっぽけな反乱者集団を包囲していく。権力の事大主義である。大逆事件においても、官憲側は相手の能力からすると異常とも思える力の行使に頼ることによって、相手を粉砕しようとした。しかもその過程では、裏切りや密告をそそのかして、相手側を内部から崩壊させようと躍起にもなった。
大塩の時代の場合には、この寝返りの行為は返忠という言葉で美化されていた。正しくあるべき幕府方に忠義をつくすのだから、それは否定的な意味での裏切り行為ではなく、大儀に対する忠誠というわけである。大逆事件の際にも、密告や裏切りが生じたが、鴎外はこうした行為に対して、衷心から怒りを覚えた。
鴎外はこの二つの不幸な暴挙を、「未だ覚醒せざる社会主義」と呼んだ。鴎外の気持では、そうした暴動を引き起こさせたのは、権力による人民に対する誅求であり、これを葬り去ったのも権力による弾圧であった。鴎外はその権力の中に、余りにも人間性に反するものを見たが故に、それに対して批判的にならざるを得なかった。
鴎外はもとより官僚として人生を送り、権力機構そのものの、しかも中枢近くにいた男である。その男が何故、かくも権力に対して批判意識を持つのか。森鴎外という一個の人間を理解するための鍵が、この問いには潜んでいる。  
 
大塩平八郎 1

 

寛政5年-天保8年3月27日(1793-1837)は、江戸時代後期の儒学者で、大坂町奉行所の与力。大塩平八郎の乱を起こした。
平八郎の父も大坂町奉行所与力であり、初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目であり、代々与力として禄を受けていた。通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎。 大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。
奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴く。特に、西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めた。腐敗した奉行所内では彼を憎む者も少なからずいたが、上司の東町奉行高井実徳の応援があればこそ活躍できた。1830年の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲る。学問は陽明学を学び、知行合一を信じて、自宅で洗心洞という私塾を経営し、頼山陽などとも交際を持った。
天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって、大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけた。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかった。
その後は蔵書を処分するなどして、私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、門人に砲術を中心とする軍事訓練を行った後、1837年に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある)によって奉行所の知るところとなったこともあって、すぐ鎮圧された。逃亡生活中、四ツ橋のあたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数ヶ月ほどの後、所在が発覚し(その理由のうち有名なものの一つとして、いつも2人分の食事が日に1度必ず余分にあるのを不審に思った商家の女中が奉行所に密告したという説がある)、養子の格之助と共に火薬を用いて自決した。享年45。
「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性が伺われる。また、食事中に幕政の腐敗を嘆くあまり、歯が立たない硬い鰯(カナガシラともいわれる)の頭をかみ砕いてしまったことがある。ストイックな生活を送り、夕方には就寝、午前2時に起床、潔斎と武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤というサイクルであった。その講義も厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目が見られなかったという。頼山陽からは「小陽明」とその学識ぶりを称賛される一方で、「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ。」とその直情的な性格を忠告された。なお、10日余りも眠ることが出来なかった時があったという。
 
大塩平八郎 2

 

江戸後期の陽明学者で大塩の乱の首謀者。大阪出身。父は大阪町奉行所与力(よりき)で大塩家は禄高200石の裕福な旗本だった。号は中斎。幼くして父母を失い、祖父母に育てられる。13歳頃、与力見習いとして東町奉行所に出仕、1818年(25歳)正式に与力となる。「与力」は今で言う警察機構の中堅。署長が奉行で、与力は部下の「同心」たちを指揮している。翌年には吟味役(裁判官)となり、裁定に鋭い手腕を発揮した。大塩は20代から陽明学を学んでおり、職務を通して陽明学の基本精神“良いと知りながら実行しなければ本当の知識ではない”を実践していく。
大塩が吟味役となって驚いたのは、奉行所がとてつもなく腐敗していたことだった。ある日、彼が担当した事件で当事者から菓子折りが届いた。中味は小判という“金のお菓子”だった。これが日常茶飯事であるばかりでなく、同僚の中には自ら賄賂を要求する者が多数いることを知り愕然とする。捜査に手心を加えることも、半ば公然と行なわれていた。つまるところ、奉行所は腐りきっていた。
内部告発の為に証拠を集める大塩は、西町奉行所(奉行所は東と西がある)にとんでもない与力がいることを知る。この弓削という男は裏社会の犯罪組織のボスで、手下に恐喝や強盗、殺人まで行なわせて自身は遊郭で遊び暮らし、与力という立場を利用して捜査を妨害する大悪党だった。
大塩は徹底的に戦う決意をし、大阪各地に潜伏する弓削の手下を片っ端から摘発、弓削のシンジケートを壊滅させた。弓削は自害し、大塩は没収した3千両という莫大な金銭を貧民への施し金とした。ところが事件はこれで収まらなかった。捜査の過程で、複数の幕府高級官僚が不正に加わっていた証拠を掴んだのだ!「余計なことをするな」「大人しくしていろ」と幕府中枢部から圧力を受けた大塩は、身の危険を感じて同棲中の恋人を親戚の家に匿ってもらい、腹をくくって巨悪に立ち向っていった。
1830年(37歳)、大塩が不正行為を暴いた一大スキャンダルの裁決が発表される。それは大塩を深く失望させる内容だった。幕府高級官僚の悪事は揉み消され、小悪党の3名が遠島や改易処分になってこの事件は幕が下ろされた。そして処分の一ヵ月後、大塩を陰ながら応援してくれていた上司が辞任。これに連座する形で、名与力として人望を集めていた大塩も、職を養子・格之助に譲って奉行所を去った。こうして大塩の25年にわたる奉行所生活が終わった。
これに先立つ5年前(1825年)、大塩は32歳の時に、私塾「洗心洞」を大阪天満の自宅に開いていた。教えていたのは陽明学。彼は学者としても広く知られており、与力や同心、医師や富農にその思想を説いていた。塾の規律は厳しく、朝2時に講義が始まり、真冬でも戸を開け放していたが、門弟は増える一方だった。奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、1833年(40歳)“知”は“行動”が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説いた「洗心洞剳記(さつき)」を刊行する。大塩は著作の最後を「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と締めくくり、門弟と共に富士山に登り同本を山頂に納めた。
1833年(40歳)、冷害や台風の大被害で米の収穫量が激減し、米価は高騰した。凶作は3年も続き餓死者が20〜30万人に達する。世に言う「天保の大飢饉」だ。1836年(43歳)、商都大阪でも街中に餓死者が出る事態となり、大塩は時の町奉行・跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)に飢饉対策の進言をする。凶作とはいえ“天下の台所”大阪には全国から米が集まってくる為、庶民は飢えていても米問屋や商家にはたっぷり米があったからだ。「豪商たちは売り惜しみをして値をつり上げている。人々に米を分け与えるよう、奉行所から命令を出してはどうか」と訴えたが、跡部は耳を貸すどころか「意見するとは無礼者」と叱責する始末。
さらに大塩を憤慨させることが。将軍のいる江戸に米をどんどん流して点数を稼ぐ為、奉行所は大阪に搬入されるはずの米を兵庫でストップさせ、それを海上から江戸に送っているというのだ。しかも米価を吊り上げ暴利を得ようとする豪商と結託しているからタチが悪い。飢饉につけ込む豪商らの米の買占めで、大阪の米の値段は6倍まで急騰した。一方で奉行所は大阪の米を持ち出し禁止にし、京や地方から飢えて買い付けに来る者を牢屋に入れ厳罰に処した。もうメチャクチャだ。あくまでも出世の為に組織の論理を優先し、利己的な考えに終始する為政者たち。
日々餓死者が出ているのに何の手も打たない大阪町奉行。大塩は三井、鴻池ら豪商に「人命がかかっている」と6万両の義援金を要請したが、これも無視された。「知行合一、このまま何もしなくていい訳がない」。大塩は言葉が持つ力を信じていたし、けっして武力を信奉する人間ではない。しかし、事態は一刻を争った。窮民への救済策が一日遅れれば、一日人命が失われる…。12月。ことここに及んで、大塩はついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をした。堺で鉄砲を買い付け高槻藩からは数門の大砲を借りた。大塩が睨む最終目標は、有り余るほど大量の米を備蓄していた「大阪城の米蔵」だ。
蜂起の前に大塩は、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文(げきぶん)を作成する。「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為す時であり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」。
1837年1月。大塩の同志連判状に約30名の門下生が名を連ねた。内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸だ。
2月、民衆の窮状を見るに見かねた大塩は、学者の自分にとって宝ともいえる5万冊の蔵書を全て売り払い、手に入れた六百数十万両を1万人の貧民に配った(奉行所はこれをも“売名行為”と非難した)。そして檄文を周辺4カ国の貧農に配付した。そして一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とした(2月の夕刻なら陽も落ち、闇に乗じて攻撃できる)。
決起の前日、大塩は幕府の6人の老中に宛て、改革を促す書状を送った。蜂起後に江戸へ届くはずの文面はこうだ。「公然と賄賂をとる政治が横行していることは、世間の誰もが知っているのに、老中様たちはそれを存知ながら意見すらおっしゃいません。その結果 、天下に害が及ぶことになったのです」。仮に蜂起が失敗しても、心ある老中が一人でもいれば改革を行なってくれるかも知れない、そう願った。
※この書状は何者かの手によって、後日山中に打ち捨てられていた。
大塩の乱
蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告した。当直で奉行所に泊まっていた別の門弟が「バレた!」と大塩に急報する。事態急変を受け、大塩は午前8時に「救民」の旗を掲げて蜂起した!朝の大阪に大砲の音が轟く。計画が早まり仲間が集まらず最初は25人で与力朝岡宅を砲撃し、続いて洗心洞(大塩邸)に火を放った。「天満に上がった火の手が決起の合図」と伝えていたので、近隣の農民が次々と駆けつけてきた。70名になった大塩たちは、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していった。難波橋を南下し船場に着いた昼頃には町衆も多く混じり300人になっていた。島原の乱から200年目の武装蜂起は街のド真ン中で起きた。次なる目標は大阪町奉行、そして大阪城!「救民」の旗をひるがえし進軍する大塩たち。
※出陣した東西の町奉行が砲声に驚いた馬から振り落とされ、こんな歌が流行った。「大阪天満の真ん中で、馬から逆さに落ちた時、こんな弱い武士見たことない、鼻紙三帖ただ捨てた」。
しかし、正午を過ぎると奉行側も反撃の態勢が整い、大阪城からは2千人規模の幕府軍が出てきた。幕府軍の火力は圧倒的だ。砲撃戦が始まると民衆は逃げ始め、大塩らは100余名になった。100対2000。私塾の門下生と正規軍では勝負にならない。大塩一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、二度目の総攻撃を受け夕方には完全に鎮圧された。しかし火災は治まらず翌日の夜まで類焼し、「大塩焼け」は大阪中心部の5分の1(約2万軒)を焼き尽くした。
事件後の執拗な捜査で門下生たちは軒並み捕縛されたが、大塩と養子の格之助だけは行方を掴めなかった。最終的に、約40日間逃走した後、3月27日に市内靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放つと火薬を撒いて爆死した。享年44歳。
この乱で処罰された者は実に750人に及ぶ。重罪者31人のうち6名は自害、2名は他殺、1名は病死、そして17名は1ヶ月の間に獄中死している。仲間の名を吐かせる為に過酷な拷問が行なわれたと見られる(大塩の恋人も獄中死)。刑の執行まで生存していた者は、わずかに5人だった。
大塩には逃亡中に最も重い判決「重々不届至極」が下っており、幕府は爆死して黒焦げになった大塩の遺体を塩漬け保存し、門弟20人(彼らも遺骸)と共に磔(はりつけ)に処した。
幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し「不届き者の放火騒ぎ」と封印しようとした。しかし、大塩が1ヶ月以上も逃亡したことで、広範囲に手配せざるを得なくなり、乱のことは短期間に全国へ知れ渡った。しかも爆死したことで人相確認が出来なかったことから、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう。
乱から2ヵ月後の4月に広島三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こし、6月には越後柏崎で国学者の生田万(よろず)が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲い(生田万の乱)、7月には大阪北西部で山田屋大助ら2千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こした。この様な大塩に共鳴した者の一揆や反乱がしばらく続いた。
大阪周辺の村に対して、奉行所は大塩の「檄文」を差し出すよう命じたが、農民たちはこれに従わず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し各地に伝えていった。
薩摩や長州といった巨大な大名でさえ、幕府に対して従順であるしかなかったこの時代に(龍馬はまだ2歳)、一個人が数門の大砲を用意して、白昼堂々と大阪の中心街でブッ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大阪城襲撃を目論んだ。誰がこんな事態を想像できよう。この事件は徳川政権を大きく揺さぶり、幕府の権威が地に落ちていることを全国に知らしめた。
とはいえ、大塩らが幾ら鉄砲や大砲を揃えた所で、幕府を敵に回して勝ち目などある訳がない。密告がなく予定通り決起しても、敗北が早いか遅いかの違いだ。大塩もそれが分かっているからこそ、蜂起前に資産を処分して貧民に配ったのだろう。要するに、一身を犠牲に庶民の救済を求め立ち上がったのだ。それはあの朝集まった25名の門下生も同じだ。だからこそ、大火で焼け出された人々は、大塩らに怒りをぶつけるどころか、「大塩さま」と呼んでその徳を称えた。※事件後、市中で大塩を賞賛したとして数十名の逮捕者が出ている。
大塩の先祖は家康から直々に愛用の弓を賜ったという直参の旗本。彼は真面目に与力という要職を勤め上げ、ずっと体制側にいた元幕府役人だ。そんな男が幕府の政治に反抗したという事実は、幕府だけでなく諸大名にも強烈な衝撃を与えた。たとえ半日で鎮圧されても、彼らの死は無駄ではなかった。つまり、幕政に不満を持つ人々に、それまでは考えもしなかった“幕府は刃向かえるもの”という選択肢を心の中に芽生えさせた。これは30年後の明治維新へと繋がっていく。

江戸時代、“大罪人”大塩の墓を造ることは許されなかった。維新から30年後にようやく建立されたが大阪大空襲で破壊、1957年に有志が墓を復元した。大塩父子の墓よりも「大塩の乱に殉じた人々の碑」の方が5倍近く大きい。後世に建てられたものとはいえ、墓にまで“民衆第一”という思想が現れている。
大塩が撒いた檄文(抜粋)
役人はただ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様。大阪の奉行並びに諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致している。何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。
大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つていて未曾有の有福な暮しを致しおる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑等を所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋している時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つているのは何といふ事か。
天下の為と存じ、血族の禍を犯し、此度有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持していても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、これは決して一揆蜂起の企てとは違ふ。
此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは詰るところは殷の湯王と周の武王、漢高祖、明太祖が天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。
天保八丁酉年 摂河泉播村々 庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ
※飢饉は天災ではなく人災である(大塩平八郎)
 
大塩平八郎 3

 

幕府崩壊に大きな影響
皆さんは、大塩平八郎の大坂一揆のことをご存じだと思います。俗に「大塩の乱」と呼ばれているこの天保八年(1837年)の大坂市中一揆は、
1 退役したとはいえ東町奉行所与力という武士が主導したこと、
2 陽明学という思想的根拠をもって幕政を直接批判したこと、また、
3 のちの幕藩制の崩壊の歴史的な流れに多大な影響を与えたこと
などの諸点で、極めて特異な、画期的なものでした。そして、高槻(藩)との関係も決して浅くないものでした。
一揆の背景や高槻藩との関係については、『高槻市史』にも掲げてありますが、今回は、そこに触れられなかった一揆以後の幕府と藩の動向について、新発見の史料を交えながらお話ししてみたいと思います。その前に、一揆の背景や状況について少しおさらいをしてから本題に入りましよう。 
大冷害が全土を襲う 堂島米市場
天保元年(1830年=実は文政十三年)という年は、前年の豊作を祝うおかげ踊りや御蔭参りで明けたといいます。しかしそれも束の間、七月には京都で地震があり、秋九月の台風で淀川がはんらん、諸国凶作と報じられています。これはまさしくのちの大飢饉の前触れでした。
はたせるかな、天保四年には関東から北は大風害、上方では江戸廻米(かいまい)の投機が流行、このため播州加古川では米を買い占めた大商人に数万人が押し寄せて打ち壊すという騒ぎが起こっています。大坂市中の人心の不穏を見て取った西町奉行矢部定謙(さだかた)は、大坂米の江戸廻しの制限、堂島米市場の投機の禁止などの緊急政策を実施し、さらに城米の放出や富商の拠金によって窮民の救済にあたろうとしました。
これはすでに与力の職を退隠していた大塩の進言によるといわれ、陽明学者としての平八郎の最初の政治行動だったといえましょう。
ところが、現実にはこの飢饉対策もあまり実行されたといえず、平八郎はいら立ちを募らせながら、自分はもう幕府の役職ではないのだからと、各地での講学に専心する日々でした。
天保五年(1834年)は、さいわい土用に日照りがあり、作況がやや好転しましたが、翌々七年にはすさまじい大冷害が日本全土を覆います。
樫田の隣、丹波・別院(現亀岡市)のある村の記録では、その年は五月ごろから異常が見えはじめています。五月十六日から降り出した雨は、断続的に止まず、七月九日までに延べ三十一日、日差しのあった日はわずかに十一日という有り様でした。これは旧暦ですから、今の六月下旬から盆過ぎまでのほとんど毎日が雨だったことになります。
そして、これに追い撃ちをかけたのが十八日からの大風、彼岸過ぎからの冷気でした。「八月二十日(新暦では九月三十日)前後は子供・老人などは綿入れを着て、朝には氷霜が降るので、草刈りも昼中しかできない。冷気が強いので稲の穂は出ないし、出ても実がはいらない」という記述は、さきごろの「平成大凶作」を思い起こさせます。
この年の作柄は、この地域で平均三〇から四〇パーセント。おまけに土が凍って裏作の麦の畝拵(こしら)えや肥置きにも支障が起こったといいます。 
幕府による飢饉対策
この地域の米価は、七月には一石銀百匁(もんめ)だったものが翌年には二百匁を超え、二月には二百二十匁に達しています。食糧の価格というものは、必要供給量が二、三割落ちるだけで二倍になるというのは、今も当時も変わらぬ法則だったわけです。東北ではこの飢饉に、人肉まで食べたという話もありますが、ここ別院でもふだんは食べない樫の実(どんぐり)が高い値で売買されているのです。
こうした時、まず村々での対策は、倹約と施行(せぎょう)でした。
施行というのは、もともと帰依する僧侶に施物(せもつ)を捧げることから、中世には、貴族・武家・豪商農・寺院などが、救済として生活困窮者に金銭や米穀を施すことをいいましたが、近世にはとくに飢饉や大火事の災害時に、幕府や藩、都市の富商、城下の豪農などによる施行が、組織されるようになってきました。
これは一種の社会事業・社会政策でしたが、この制度化は享保の蝗害(こうがい)大飢饉(1732年)に始まったといわれます。以来、幕府は町や村に定量の米を備蓄させ、緊急時には豪商農に財物の拠出を要請したりしたのです。
天保の飢饉でも、こうした公的な施行は機能しました。先の別院の村では両三度にわたる村施行がありましたし、高槻藩領津之江村でも、藩に施行の許可を願い出ています。
富田村でも、その年(天保七年=1836年)十二月に施行が催されました。まず対象となる貧窮の者が調査され、新家町・跡坂町といった町別に書き上げられました。対象者は中難(ちゅうなん)・極難(ごくなん)に分けられ、中難の数は分かりませんが、極難は百十二軒を数え、これは村の軒数の三分の一に上るといわれます。さらに貧窮者には村方の手で半値の米が販売され、翌年の二月の施行と合わせて、これに要した米は四十七石二斗。村はこれを時価の八割八分掛けで買っていますから、差額の負担はたいそうな額でした。そしてこれに協力したのは、在の米仲買と酒造家でした。 
屋敷に放火し一揆を挙行
さて、天保八年二月六日から三日間、大坂市中で一風変わった施行がありました。場所は安堂寺町五丁目の本屋会所。実施したのは書店河内屋一族でしたが、資金六百三十両余りは大塩の蔵書を売った金でした。施行札は門人の子で配布されました。
大塩平八郎の門人たちは、施行札一万枚を配る時、天満に火事があれば必ず駆け付けてくれと申し渡しました。金一朱(一両の十六分の一、今の六千円程度)の施行を受けた農民たちを一揆に参加させようとしたもので、有名な「檄文(げきぶん)」とともにこの一揆の周到な計画性を示しています。
はたして施行のあった日から十日程のちの二月十九日朝、突如天満与力町の一角から、火の手が上がりました。火元は大塩の屋敷、いわゆる私塾「洗心洞(せんしんどう)」。猛火のなか、平八郎は鍬(くわ)形の兜をかぶり、黒い陣羽織を着て、門人二十数人の先頭に立ちます。「救民」と筆太に書いた幟(のぼり)が押し立てられます。市中一揆のぼっ発です。
大塩の「挙兵」計画は、檄文などがすでに前年の十二月前から用意されていましたが、その日程が具体化したのは、二月二日ごろといわれています。新任の西町奉行堀利堅(としたか)の恒例の市中巡察が十九日にあり、平八郎の屋敷の真向かいの朝岡助之丞(すけのじょう)宅で午後四時ごろ休息すると発表されたのです。これには東町奉行跡部良弼(よしすけ)も同行するので、この時不意に挙兵して二人を討ち取り、続いて天満組屋敷や豪商宅を焼き払う手だてでした。
しかし、この計画は二つの齟齬(そご)で大きく失敗します。
一つは門人平山助九郎・吉見九郎右衛門が相次いで町奉行に密告し、事態を知った平八郎がやむなく決起を早めたこと、今一つは一万人に施したものの、一揆に参集したものわずかに八百人たらず、それも決行まもなくの段階では三百人ほどだったのです。
この騒ぎに驚いた住み込み門弟の服部末治郎(十三歳、高槻藩士服部奥助(おうすけ)の息子)などは仲間と逃げ出したといいます。 
不正を嫌う潔癖な性格
ところで、大塩平八郎はなぜ「挙兵」という、かくも激しい手段に訴えねぱならなかったのでしょうか。一揆計画の直接の引き金は、時の東町奉行跡部良弼の悪政にあったといわれています。平八郎は、以前から町奉行所役人の腐敗・堕落、付け届けを悪と思わぬ役所の風潮に業を煮やしていましたが、加えて、この大飢饉にあたって跡部が市中の米穀を市外に出すことを禁じ、近隣からのわずかの買い米にも厳罰で臨む一方、幕命だとしてひそかに腹心の与力を播磨(兵庫県)に派遣して、多量の米を江戸に送らせたのです。
これを知った平八郎は、「市中では百人を超える餓死者が出ているのに何事」と、烈火のごとく怒ったといいます。
平八郎はもともと潔癖な性格でした。不道徳・不正を嫌い、内省的で自己抑制の強い、与力の職にはうってつけの人物でしたが、反面それは融通のきかない呵責のなさでもありました。門人によると、大塩は精神力強固で、時には十日も寝ないことがあり、歩けば一日三十里(百二十キロメートル)、毎朝午前二時に起き、冬でも戸を開けて講義したといいます。細面で怒りを含んだ目は切れ上がって恐ろしく、同役などには「気迫人を圧する」剛直で狷介な印象がありました。
前任の西町奉行矢部定謙は、前にも触れたように、平八郎の意見をよく取り入れた奉行でしたが、彼と会食中政談に及び、憤激した平八郎が金頭(かながしら)という魚を、骨から「ワリワリとかみ砕いた」時は、目をむいて驚いたといいます。 
独自の陽明学に傾倒
そんな性格もあってか、平八郎の到達した学問、儒学もまた特異なものでした。もうしばらく、一揆の支柱となった彼の政治倫理を、『新修大阪市史』第四巻からみてみましょう。
平八郎が与力の世界に疑問を感じ、自らの身の律し方を模索して到達した学問は陽明学でした。しかもそれは、当時の思想界の常套であった、朱子学を補足・補訂するための陽明学ではなく、張横渠(ちょうおうきょ)の「太虚(たいきょ)」の説や、大塩独自の『孝経』研究を導入し、王陽明の朱子学批判を実践的に徹底したものだといわれています。
彼の思想は、突き詰めれば「良知(りょうち)を致(いた)す」ということに尽きるといわれます。「そもそも人間は宇宙のかなたにある全ての物と心を生成する根源である『太虚』を受けており、太虚を心としている。この太虚を受けた自然な状態の心が『良知』である。良知は善悪を超越した『至善(しぜん:絶対善)』であり、この状態が『誠・誠意』である。真の良知は必ず実行を伴わなければならず、良知を具体的な行為の場において発揮することが、すなわち『良知を致す』である」と。太虚とは万物と精神の生成原理であり、心の本質であり内実であると考え、良知を致すとはその太虚の目にみえる実現、人間による太虚の顕現化とでもいえるものでした。 
天災は「太虚」からの讐告
非常に主観性の強い考え方ですので、ご理解願うのが困難かと恐れますが、紛れもなく儒学の一流で、幕藩社会を否定するような発想ではありません。良知というのは、いわば赤ん坊の心のようなもので、純粋無垢の善なのですが、成長に従いさまざまな欲望で心が曇り、いい行動ができなくなるので、良知を致すためには、「功夫(こうふ)」という実践修養を自分に課して、慎みと克己の生活を重ね、「太虚に帰す」ことが肝要だとします。功夫とは道徳的精神修養の工夫・鍛練で、それを通して、隠れた良知が実現され、生命活動は太虚の世界に到達するというわけです。
良知の目に見えた行動は赤ん坊が母親にすがる心で、彼はこれを純粋な「孝」だとし、孝に最も近い生活を、武士にではなく、農民や貧しい都市民衆の中に見たのでした。彼が農民たちに講学し、一揆の勢力として期待したのはこのためでした。そして彼の政治的理想は良知が実現される世の中を作ることにあったのです。
要するに、平八郎の考え方では、人災はもとより、飢饉のような天災もまた、「太虚」よりの警告であり、民衆の苦難は「良知」を没却した為政者のしからしむるところだったのです。彼は、最初は学問による改革の天下への浸透を望みましたが、危機感が募るにしたがい、挙兵・断罪という実力の覚醒に向かったものといえましょう。
さて、前勉強はこのくらいにして、いよいよ高槻の話、ことに一揆崩壊後の、いわゆる事件の頭目たる大塩探索の様子の話に移りましょう。一揆そのものの状況や、これによる大坂三郷の大火については、諸書をご参照ください。 
高槻藩でも広く交友
大塩平八郎は当代一級の陽明学者でしたから、彼を崇敬し、親しく講義を求めるものも多くありました。高槻藩でも、藩校「菁莪堂(せいがどう)」に大塩をたびたび招き、家士に講話を聴かせていますし、その縁で先の服部奥助のように、子弟を門人として「洗心洞」塾に住まわせるものも出ています。高槻藩永井氏九代藩主直進(なおのぶ)・十代直与(なおとも)親子の学問奨励以来、家中には向学の気風が定着していたのです。
平八郎と親交があり、書状のやりとりをしている藩士(門人)には、高階子敬(たかしなしけい)・芥川元答(むきゅう)・柘植連城(つげれんじょう)などがいました。
子敬は本名高階雄次郎。大塩は彼に松茸をもらったお礼と、学問上の質問に対する答えを書き送っています。大塩研究の草分けである故幸田成友(しげとも)博士は、この雄次郎を「子収(ししゅう)」とされ、この雅号が一般に流布していますが、藤井竹外の「二十八字詩」の稿本などから竹外と大塩平八郎とを含む交友関係を探ってみると、どうしても「子敬」の名しかでてこないのです。子敬と子収が別人ならば子収も竹外の交遊関係に出てこなくてはならないはずなのです。
原本を見ないで軽々しく批判するのは幸田博士に失礼ですが、どうも書状の宛名を博士が読み違えられたと思われてなりません。そこで一応「子収」を「子敬」のこととして解説しておきましょう。
高階子敬は、有名な漢詩人で明治の藩政改革にも活躍した高階春帆(しゅんぱん)と同一人物だという説もありますが、これは誤り。天保十一年(1840年)の年紀のある「高槻城下図」の中に、大手門内三之丸東側に「高階雄次郎」の屋敷があり、万延元年(1860年)の図には同地を「高階民太郎」が所持していますから春帆(民太郎)と子敬(雄次郎)は明らかに子と親の関係で、子敬は「左忠(さちゅう)」のことにまちがいありません。民太郎はこの一揆当時十一・二歳でした。 
藤井竹外とは同学
芥川无咎は本名庫次郎(くらじろう)。毎年村に配布する年貢免状(徴税令書)に連署する勘定方の重職で、大塩から「黙識(もくしき:あまりしゃべらないがものをよく知つている)の人」と称揚されています。彼も藤井竹外とは親友でした。
柘植連城。彼は本名を牛兵衛といい、家老格。前の年の初冬に平八郎が高槻にやって来た時、請われて秘蔵の百目筒の大砲(おおづつ)を譲った経緯があります。
高槻藩には他にも門人として田中市三郎や中西斧次(きんじ)の名が見えますが、藤井竹外については、門人ではなく、ともに頼山陽などを崇敬する同学と考えておきましょう。遠く大坂の火の手を見て「中齋(ちゅうさい:大塩の号)め、やりおったな」とつぶやいたというエピソードもさることながら、大塩追捕の隊への参加を固辞したことも、平八郎へのこよなき友情のゆえだと思われます。
かように高槻藩と大塩平八郎との関係は深かったものですから、大塩挙兵の知らせが入ると、城内は大変な騒ぎになりました。 
高槻藩挙げて大捜索
二月十九日(一揆の当日)の午後、草履取りをともなった一人の武士が来城しました。彼は大坂城代土井利位(としただ)の使いとして、一揆の鎮圧加勢を厳命しました。
高槻藩では、さっそくその日夕方から家臣一同に登城が命じられ、戌の刻(午後八時)には藩士全員城中に集合、徹夜で出動の文度をしたといわれます。さすがに譜代で固めた畿内の要藩だけに、永く続いた泰平の世でも、規定の軍備・武具配備は怠らなかったものと見えます。
翌二十日朝、甲冑に身を固めた軍勢が城内から繰り出しました。一番手は家老格の長田勝三郎、二番手は同じく柘植牛兵衛が率いましたが、牛兵衛は先に見たように人も知る大塩門下。書状で師の教示を請い、請われて武具を譲る間柄でしたから、藩命とはいえ心中穏やかではなかったでしょう。
ところが、軍勢の一番手が芥川堤を芝生河原あたりまで来た時、それは巳の刻半ば(午前十一時)のことでしたが、再び大坂城代からの指令が届き、大坂表が少しおさまったので武装のまましばらく待機することになりました。
大坂での衝突や火災はおさまりましたが、大塩父子やその随伴者のゆくえはつかめず、幕府方の焦りのなか、厳しい手配の網が張られました。高槻では、二十一日に大坂町奉行所から平八郎以下の人相書がいち早く配られています。城下の六つの出口の木戸は固められ、鉄砲を配置。二十二日の様子を江戸へ報告した記録では、城内の桜の馬場は警備のかがり火に美しく映えて見事だったといいます。 
飛び交う逃亡の噂
樫田を支配する丹波の亀岡藩も同様でした。大塩一党が池田から妙見山に入るという噂があり、丹波の桑田郡も警戒対象になりました。国境の犬飼・別院の村には藩兵をでばらせ、能勢から島上の摂津路にかけては隠密六人を放って情報を集めたといわれます。亀岡の家中では惣登城に向け成人男子を一斉待機させるなど、まさに戦に臨む態勢でした。
奈良の南都奉行所でも二十日夜には大坂から厳命が届き、「和州在町厳しく手配致し国境暗(くらがり)峠辺其外」を固めており、「五畿内は実に蟻の這ふ処これなき様」(『野里口伝』)という有り様でした。
こうした厳しい探索のなか、逃げきれないとさとった一党は、二月下旬ごろから次々と自殺したり自首したり、あるいは捕縛されたりして幕府役人の手に落ちました。しかし、大塩平八郎父子のゆくえはようとして知れませんでした。
このため、逃亡先の噂が次々と飛び交うことになり、町奉行所の捕縛隊はそのたびに右往左往したといいます。
その噂を『新修大阪市史』からひろってみますと、摩耶山(まやさん:神戸市)、甲山(かぶとやま:いわゆる六甲山、西宮市)などの近郊の外、吉野の山奥へ逃れたか、薩摩国(鹿児島県)へ落ちたかともいわれ、二十九日には加賀藩に白山(はくさん:石川県)の探索さえ依頼しています。また、伊豆国(静岡県)韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門などは、「伊豆は南の海に張り出しているので徒党の者が上陸しないとも限らない」と真剣に心配したといいますから、そのあわて方は大変なものでした。それもこれも、大塩平八郎が「生きていたならば、かならず何事をか起こすにちがいない」という危機感に突き上げられてのこと。それは、前代未聞の事件というだけでなく、救民=世直しを求める民衆の気分を、為政者も広く感じていたためだともいえましょう。
高槻市域についての話としては、神峰山寺が大坂手寄りの方角だとして大塩らが立てこもるという風聞があり、亀岡藩から二回にわたって取り調べに入ったことがよく知られています。
ところで、実はもう一つ、高槻にかかわることで新しい話がわかりました。同じころ、大塩が本山寺に隠れたとの風聞があったのです。 
京都雑色衆の事件記録
平八郎本山寺隠遁の風聞は、京都の史料によって初めて明らかになったもので、もとよりから騒ぎでしたが、京都町奉行所を巻き込んだ探索の経緯は、この一件に対する幕府方の狼狽を見事に表しています。しばらくは京都雑色(ぞうしき)衆・小島甚左衛門の日記からそのことを見てみましょう。
京都の雑色というのは中世からある朝廷の警備などを担当する下級官人の役職ですが、それが近世に入って、京都所司代、のちには京都町奉行の管轄に入ったもので、一定の知行(ちぎょう)を持ちながら、給米・給銀の一部を町村民が直接負担したため、「半官半民の警察機構」ともいわれる、極めて独特な組織でした。
雑色の主な任務は、皇室一族の外出の警備や、洛外山城国の郡下村々への触書(ふれがき)の伝達、洛中の神事(いわゆるお祭)の警護など多彩でしたが、町奉行所管轄になってからは、与力の配下として町々の見回り、犯罪者の捕縛にもあたり、牢屋敷の管理にも携わりました。
現在、雑色の痕跡が目に見えて残っているのは毎年七月十七日の京都祇園祭、山鉾巡行の際の「くじ改め」です。山鉾には、長刀(なぎなた)鉾・船鉾など「くじ取らず」、いわゆる先頭・末尾の定位置のものもありますが、多くは毎年巡行の順番が変わります。順番は事前に抽選で決まりますが、その決定のくじ札を改める(確認する)のが、巡行当日四条堺町の路上で行われる「くじ改め」。幕末までは烏帽子(えぼし)・大紋(だいもん)の衣裳に身を固めた雑色衆が公役としてこれにあたったもので、現在では、中世の「侍所(さむらいどころ)」の長官が行ったことになぞらえて歴代の京都市長の役目になっています。
雑色は基本的には世襲で、上・下(かみ・しも)の位階があり、上雑色四名、下雑色八名で構成されていました。 
情報源は順番飛脚
この日記というのは私的なものではなく、役職の実施状況を記録した公用の業務日誌のようなものですが、天保の当時の筆者小島甚左衛門は下雑色の一員。上雑色に従い、祇園祭の警備もし、捕物道具を携えて村で捕まった泥棒の受け取りにも出かけるという立場でした。
甚左衛門が、京都町奉行所の一角の雑色部屋で大塩平八郎の一揆を知ったのは、事件の翌日でした。「昨十九日朝五ツ(午前八時)時分、大坂御奉行跡部(あとべ)山城守殿御組天満与力大塩平八郎宅より出火、右は一揆起こり、所々へ火を附け候よし、(中略)六、七か所より燃え上がり中々火鎮まり申さずよし、鉄砲・石火矢・車台にて家々へ打ち込み候よし、槍・長刀・抜き身を持ち居り候よし、右一揆は大塩平八郎発頭人にて河州(河内)辺の百姓等二、三百人も加入致し候よし、(中略)西の御番所・牢屋敷等も焼失のよし」とあり、比較的正確な情報を記しています。
また、平八郎は「具足(ぐそく)着し、幡(はた)を立て、差図(さしず)致し候よし、諸大名方蔵屋敷へ取り掛かり候ハゞ、鉄砲にて打ち散らし候様、御城代より御下知の趣」と、大坂城代の対応を特徴的に伝えながらも、筆者自身は、「いまだ実説の義あい分からず、風聞に候事」と、慎重です。
情報源は、大坂表から定時に入ってくる「順番飛脚」のニュース、山崎・淀・伏見など要所に出役・常駐している組与力からの注進で、したがってその中には「右大塩平八郎、自分器量これあるをお用ひこれなき儀を心外に存じ、右の通り騒動致させ候よし」、つまり、平八郎は自分の有効なはずの政策提言が採用されなかったことに不満をもって騒動を引き起こしたのだという、城代・町奉行サイドで合意・決定された、主観的な評価もつけ加わっていました。
こうした報告を受けて京都町奉行所では、一応与力・同心一人ずつに雑色の配下四人をつけて、御所近辺の見回りに出します。京都の治安に関する当時の幕府の関心はなによりも皇居が中心だったのです。
最初は対岸の火事の感覚だった町奉行所も、翌二十一日、所司代松平信順(のぶまさ)の厳命が下ると、急遽雑色全員に探索の任が課せられます。しかし京都周辺には平八郎の影はなく、「張本(ちょうほん)平八郎居所不分(いどころわからず)」と記録には記されています。 
本山寺探索の下命
ところが、二十三日になって、平八郎が七、八十人の人数で、摂州島上郡の本山寺にこもっているとの情報が入ってきました。
いうまでもなく本山寺は天台宗延暦寺に属する丹波国境に近い古刹。役(えん)の行者がこの地に堂を構えて毘沙門天を刻んだという、神峰山寺の奥の院。人里離れた所でした。
にわかに西町奉行所から雑色部屋に本山寺探索の命が下ります。選ばれたのは小島甚右衛門。与力から「他国に一人で入り込むことゆえ、近づきがたい場所へは参られぬよう」と釘を刺されたのは、本山寺が険しい山中だっただけではなく、当時加納藩(城地は岐阜市内)永井氏領の原村にあり、通常は警備の管轄外だったためでした。
甚右衛門はそこで摂津に最も近い管轄下の、乙訓郡小塩(おしお)村の柳谷年寄を訪れます。小塩は中世以来の荘園の地ですが、近世には十輪寺(じゅうりんじ)や善峰寺というお寺の門前村になっており、村役には村政と寺務を兼ねた寺年寄と、それを補佐する村年寄がいるといういかにも山村らしい村でした。甚右衛門はおそらく寺年寄の方にいったのでしょう。しかし寺年寄には全く心当たりがなかったのです。 
金蔵寺の僧に面会
甚右衛門は夜に入ってから金蔵寺(こんぞうじ)に行ってみることにしました。
金蔵寺というのは、善峰の近く、小塩山の中腹・石作村にあり、本山寺と同じ延暦寺の末寺です。住持の観随というのは六十四、五歳の僧で、三年ほど前から本山寺にいっており、つい二十日の朝に帰ってきたところだというのです。
観随は、「本山寺からは確かに大坂の大火はよく見えましたが、寺には何も変わったことはござりませなんだ」と断言します。あいわかった、さて注進、と甚右衛門は山を下ります。
向日町に下りた時にはすでに夜の四ツ(午後十時)。見ると、東西の町奉行所の公事(くじ)方・目付方といった治安・公安専従の与力・同心衆が多人数、高張(たかはり)提灯・具足鉄砲のいでたちで勢ぞろいしているではありませんか。そして「われらは先手、引き続き御奉行の御出馬もある」というのです。
甚右衛門はあわてて、「確かなるものに出会い承り候らえば、その儀には及ばず」と一部始終を報告します。そこでひとまず出馬は見合わせとなり、あらためて「この上は本山寺にすぐさま参り、見届けるべし」と達せられ、目明し数人を付けられて未明八ツ時(午前二時)からの徹夜の捜索となったのです。 
平八郎は京都で自害
甚右衛門一行はふたたび柳谷観音善峰寺から、そのうしろカモシカ嶽を西へつき切り、大沢村の南を五キロメートル一気に上り、本山寺に迫ります。
甚右衛門はその時の様子をつぎのように記録しています。「麓(ふもと)川久保村より二十丁ばかり、険阻の高山にて、大坂その外眼下に見下ろし、寺一ヶ寺ばかりにて他に寺なし、門前在家(門前村の家並み)もこれなく、麓よりは西岡(乙訓長岡)柳谷へ参り候道これあり、なおなお谷あい五十丁にて柳谷へ出候」
ここで記された本山寺周辺の景観は今も変わっていません。
結局、探索はなにも得るところなく終わりました。甚右衛門はその日二十四日タ刻、向日町で待っていた目付方与力に報告を上げ、「全く事治定(ことじてい)」と認められてその夜帰京。この件を統括していた東町奉行所公事方へ出向き、ようよう帰宅することができたのです。
このように、平八郎は高槻では捕まりませんでしたが、のち二十七日、平八郎の妻(士分の妻として正式な届は出ていませんでしたが)とその実父、息子の妻や孫たちなど、家族が、京都六角高倉あたりの旅館で捕まっています。彼らは六角堂参拝の西国巡礼というふれこみだったともいわれ、能勢妙見を回って京都にたどり着いたという風説もありますから、北摂から柳谷、老ノ坂から嵯峨、あるいは丹波街道を経て京へ入ったのは家族の方だったことになります。
平八郎はそのころ大和路を回っていたといわれています。そして、一か月後の三月二十七日、大坂靭(うつぼ)油掛町の手拭(てぬぐい)地仕入職美吉(みよし)屋五郎兵衛宅に潜んでいるところを発見されて、息子格之助ともども、火薬で火を放って自害したのです。 
届かなかった密書
あの潔癖な平八郎が、家族や仲間の捕縛や自殺を尻目に、おめおめ逃げ回っていたことは、かつて研究者の間でも謎とされてきました。
最近、伊豆韮山代官であった江川家の文書の中から、事件直前に平八郎が、老中首座大久保忠真(ただざね)、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)、林述斎などに宛てた手紙の写しが発見されました。
いずれも元大坂町奉行の不正を暴いたものでしたが、箱根山中で同封の金を盗んだ飛脚らによって捨てられ、老中たちには届かなかったのです。 平八郎は、実は幕府の回答を待っていたのです。事故がなけれぱ歴史は変わっていたのでしょうか。 
 
大塩平八郎の檄文

 

(袋上書)
天より被下候
村々小前のものに至迠へ
(本文)
四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人に
國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く
天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ
東照~君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみ
を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然ルに茲二
百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこり
を極太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受と
て贈貰いたし奥向女中の因縁を以道コ仁義をも
なき拙き身分ニて立身重き役ニ經上り一人一家を
肥し候工夫而已ニ智術を運し其領分知行所之民百
姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき
苦む上江右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ
四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ
成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入
天子ハ足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を
御失ひニ付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な
き樣ニ乱候付人々之怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も
溢るより外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候是
皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも一向上たる人々
心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱
し金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓共
のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候
得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道コもなけ
れバ徒ニ蟄居いたし候處此節米價弥高直ニ相成大坂之
奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手
の政道をいたし江戸へ廻米をいたし
天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な
らす五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔い
たし実ニ昔葛伯といふ大名其農人乃弁當を持運
ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民
ハ コ川家御支配之ものニ相違なき處如此隔を付候ハ
全奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を度々
差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者前にも申通
道コ仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届
之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候
利コ之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福
に暮し丁人之身を以大名之家老用人格等ニ被取用
又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく
暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死之
貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構
之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋へ大名之家來を
誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし此難
澁の時節ニ絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎
ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の
酒盛も同事其所之奉行諸役人手ニ握居候政を以右之
もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場斗
をいしり事いたし実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶
御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武
之勢孔孟之コハなけれ共無據天下乃ためと存血
族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し
苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂
市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共
穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米
夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持
不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難
出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに而も
大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も
早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候
鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて當時之
飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者
ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申
へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠
輕くいたし都而中興
~武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣
年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素ニ立戻り四
海萬民いつ迠も
天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄を
救ひ死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜
天照皇太~之時代に復シかたく共中興之氣象ニ
恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ
度候へとも数多之事ニ付最寄之人家多候大村之神殿江
張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる
樣ニ心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大
坂四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子ニ候ハゝ遠慮なく
面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を
承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ
金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失
ひ申へく候間跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者
と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是
迠地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面
類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて
人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝
平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候
と申者も是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天
下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之
日月星辰之~鑑ニある事ニて詰ル處者湯武漢高
祖明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心
而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を
爾等眼を開て看
但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等
より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃
禍を畏一己ニ隱し候ハゝ追而急度其罪可行候
奉天命致天討候
天保八丁酉年 月日 某
攝河泉播村村
庄屋年寄百姓并小前百姓共へ
(注)
大塩平八郎の乱=1837(天保8) 大坂で大塩平八郎らがおこした挙兵・反乱。前年の天保の飢饉に際し、大塩平八郎は民衆の救済を大坂町奉行に献策し、蔵書を売り貧民を救済。一方大坂町奉行の無為無策、豪商の奸智に憤慨し、付近の農民に檄文を回し、門下の与力・同心・近郷の富農らとひそかにはかり、貧農や市内の貧民、部落民などへ呼びかけて翌年2月挙兵、市内の豪商を襲い、米・金を窮民に与えたが、1日で鎮圧された。平八郎は潜伏1か月ののち発見されて自殺。平八郎が著名な学者で旧幕吏であったためこの事件の影響は大きく、越後柏崎の生田万、摂津能勢の山田屋大助の乱などはこの事件に直接影響されて起こった。 
天保の飢饉(てんぽうのききん)=1833−36(天保4−7)に起こった全国的飢饉。1833より天候不良で冷害・洪水・大風雨が続発し、作柄は3分ないし7分作にとどまり米価が騰貴した。続く1834、 1835も不作が続き、1836に至って全国平均作柄4分という慢性的な大飢饉の様相を示した。このため米価をはじめ諸物価が騰貴し、農村の荒廃、農民・下層町人の離散困窮はなはだしく、各藩領内で一揆・打毀が激発した。幕府はその救済策として現米の給与・救小屋の設置、酒造制限・小売値段引下げ・囲米売却・廻米策・隠米禁止を行なったが、諸藩がこの危機に対処して飯米の確保につとめたため、江戸・大坂への廻米が激減し、いずれも不十分に終わった。この結果、大塩平八郎の乱をはじめ各地の一揆・打毀を続発させ、幕藩体制の崩壊を促進した。
 
 

 

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