日本災害史

災害史 / 飛鳥奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代
 江戸時代元禄地震・・・
 明治時代・・・・
 大正時代関東大震災・・・
 昭和時代・・・・
 平成時代・・・・
 70080090010001100120013001400150016001700180019002000
地域災害史 / [東北]岩手宮城[関東]東京神奈川[中部]静岡愛知長野
 新潟[近畿]奈良京都大阪三重和歌山[四国]高知・・・伊豆半島地震史
地震周期 / 北海道東海道南海道地震三陸沖地震南関東地震・・・用語
日本災害史年表活断層と原発日本海溝南海トラフ地震予測・・・
 

雑学の世界・補考

災害史

飛鳥・奈良時代
飛鳥時代   592〜 710
奈良時代   710〜 794
684年11月29日 白鳳地震(東海地震・南海地震):M8.4(くらい)の地震。

700

 

744(天平16)年5月肥後(熊本)で地震。
745(天平17)年4月27日美濃(岐阜県南部)で大地震。三日揺れが続く。櫓館、正倉、仏寺、堂塔、百姓の廬舎崩壊する。
 5月2日地震あり。都の諸寺に17日間経を転読させる。また8日にも地震。大安、薬師、元興、興福の4寺で大集経を37日転読。10日にも地震あり、平城宮で大般若経を転読。地震で各地に亀裂が生じ、水が湧き出る。
753(天平勝宝5)年12月摂津(兵庫県東部、大阪府北部)に津波至り被害大。田租の免除を行う。
762(天平宝字6)年5月9日美濃、飛騨、信濃で地震。家ごとに二斛を支給する。
766(天平神護2)年6月5日これより前大隅神造新島(鹿児島)で地震。民多く流亡する。桜島噴火。
771(宝亀2)年5月23日豊後速見郡敵見で山崩れ。川を堰止め、十余日後に決壊。百姓47人が漂没し家43区が埋没。調庸の免除と賑救の詔が出される。
776(宝亀7)年7月19日西大寺の塔揺れる。
777(宝亀8)年7月14日但馬国分寺の塔揺れる。
 
平安時代

 

平安時代  794〜1185 
797(延暦16)年8月14日京畿に地震暴風あり。
799(延暦18)年8月11日常陸国鹿島・那加・久慈・多珂の4郡に津波が15回押し寄せる。海面は20余町引いた後、津波が内陸1町まで達するという。

800

 

816(弘仁7)年7月17日摂津で海が溢れる。死者220人。
818(弘仁9)年7月関東で大地震。死者多数。
827(天長4)年7月12日大地震。舎屋多くが倒壊。1日に大震1回、小動78回。月末まで余震続く。
 12月14日地震あり。清行の僧百人に大極殿で大般若経を三日間転読させる。
830(天長7)年1月28日出羽で地震あり。駅伝によれば、秋田城郭官舎、四天王寺六仏像、四王堂舎など倒壊。死者15人、負傷者100余人。30許丈の裂け目が出来る。城辺の秋田川が涸れるという。
841(承和8)年2月13日信濃で地震。一夜に14回揺れ、公私の墻屋(墻は垣根)倒壊。
 7月1日伊豆で地震。里落完からず。圧死者あり。使を遣わし歴撫。家屋を失った者は、当年の租調を免じ、倉を開いて賑救。家屋を修復する。亡くなった者は、埋葬に処する。
850(嘉祥3)年10月16日出羽で大地震。山谷形を変え、圧死者多数。
857(天安1)年3月3日地震により、大館地方松峰山伝寿院の堂舎が倒壊。山崩れにより仏像が谷底に埋まる。
859(貞観1)年7月27日地震あり。8月8日地震のため、五畿七道諸国の年貢御鷹一切を停止する。
860(貞観2)年5月5日雷電雨雹地震あり。天皇、端午の節を止める。
863(貞観5)年6月17日越中、越後で地震。陸谷所を易え、水泉湧出、民の廬舎崩壊し、圧死者多数。以後毎日余震。  
越中・越後地震 / 西暦863年7月10日。貞観5年6月17日。越中・越後:山崩れ、谷埋まり、水湧き、民家破壊し、圧死多数。直江津付近にあった数個の小島が潰滅したという
864(貞観6)年5月25日富士山噴火。方12里の山を焼き、火炎高20丈に達する。地震3回。噴火は十余日を経ても収まらず。烟雲鬱蒸して人近づけず。
駿河国、富士山の噴火を報ず。駿河国言へらく、「富士郡の正三位浅間大神の大山に火あり。その勢いはなはだ盛んにして、山を焼くこと方一二許里、ほのお(光炎)の高さ二十許丈、雷有り、地震ること三度、十日あまりをふ(歴)れども火なほ消えず、いわ(巌)を焦がし嶺を崩し、沙石雨ふるが如く、煙雲欝蒸して人近づくを得ず。大山の西北に本栖水海あり。焼けし巌石、流れて海の中に埋れ、遠さ三十許里、広さ三四許里、高さ二三許丈いして、ほのお(火焔)ついに甲斐国の境につく」と。
7月17日富士山の溶岩流出し、本栖水海に流れ込み30里が埋まり、高さ23丈広さ23里に至る。水は熱湯になり魚死滅す。周囲の百姓の居宅も埋まり、そのまま甲斐の国境に達する。また河口海にも溶岩が向かう。溶岩台地は青木ヶ原となり、溶岩がせの海に流れ込んで精進湖と西湖に分かれる。
甲斐国、富士山の噴火を報ず。甲斐国言ひけらく、「駿河国富士大山にたちまち暴火あり。崗巒(かんらん)を焼碎(しょうさい)し、草木を焦殺し土を鑠(とか)し石を流し、八代郡の本栖、ならびに剗(せ)のふたつの水海を埋む。水熱くして湯の如く、魚龞(ぎょべつ)皆死に、百姓の居宅(いえ)、海と共に埋れ、或は家有りて人無きもの、その数記し難し。ふたつの海より東にもまた水海有り。名づけて河口海(かわぐちのうみ)と言ふ。ほのお(火焔)赴きて河口海に向ひき。本栖、剗(せ)等の海のいまだ焼け埋れざる前、地大いに震動して雷電暴雨あり、雲霧晦冥(うんむかいめい)して山野わかちがたく、しかる後にこの災異有りき」と。
 12月26日大宰府、阿蘇山の神霊池の異変を報ず。大宰府言へらく、「肥後国阿蘇郡の正二位勲五等健磐龍命神霊池、去る十月三日の夜、声有りて震ひ動き、池の水空中に沸き騰(あが)りて東南にそそぎ落つ。その東の方に落ちしは、布の如くにして延びひろがり、広さ十許町(じゅうちょうばかり)、水の色漿(しろみづ)の如くにして草木に粘着し、旬月を経といえども消え解けず」
867(貞観9)年1月20日豊後鶴見山頂の青泥池、黒池、赤池が震動し硫黄臭が遍満する。さらに噴火し、沙泥が数里四方に積もる。泉が沸騰し、川となって山脚の道路を塞ぎ、川に至って魚数千万が死ぬ。震動三日続く。
 2月26日豐後の火山爆発。大宰府言しけらく、「從五位上火男神、從五位下火神の二社、豊後国速見郡鶴見山の嶺に在り。山の頂に三つの池有り。一つの池は泥(にご)りて水の色青く、一つの池は黒く、一つの池は赤し。去る正月廿日(はつか)に池震動し、その声雷の如く、しばらくして臰(におい)流黄の如くにして国内にあまねく満ち、磐石の飛び乱るること上下数なく、石の大なるものは方丈、小なるものも甕(かめ)の如く、昼は黒雲蒸し、夜は炎火熾(も)え、沙泥雪のごとく散りて数里に積りき。池中に元温泉出づ。泉の水沸き騰(あが)りて自ら河流を成し、山脚の道路、往還通はず、温泉ほ水衆流に入りて、魚の酔ひ死ぬるもの千万数、その震動の声三日にわたりき」と。(豊後の鶴見山というのは大分県別府市の鶴見岳のこと)
 5月11日夜、阿蘇山で奇光が見られ、翌日朝震動して長さ250丈、広さ50丈が崩壊する。
 8月6日阿蘇山噴火。大宰府言しけらく、「肥後国阿蘇郡正二位勲五等建磐龍命神、正四位下姫神の居せる山嶺、去る5月11日の夜、あやしき光照り輝き、12日の朝、振動して崩るること広さ五丈ばかり、長さ二百五十丈ばかりなりき」と。
868(貞観10)年7月8日播磨で地震。諸郡官舎・諸寺堂塔悉く倒壊。この月、度々地震。
播磨・山城地震 / 西暦868年8月3日。貞観10年7月8日。M≧7.0。播磨・山城:播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたものがあった。山崎断層の活動によるものか?
 7月15日播磨国大震を報ず。播磨国言しけらく、「今月八日、地大いに震動りて、諸郡の官舎、諸定額寺の堂塔、皆ことごとくくづれ倒れき」と。(播磨国は現在の兵庫県南西部。8日の地震が京都〜兵庫で大地震であったことがわかります。「古地震を探る」によると震央は姫路、Mは7.0以上とされている)
869(貞観11)年5月26日陸奥で大地震。流光が昼の如く目撃された後、大きく揺れる。多賀城崩壊し圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。
貞観の大地震 / 西暦869年7月13日。貞観11年5月26日。M8.3。三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約一千。流光昼のごとく隠映すという。三陸沖の巨大地震とみられる。陸奥国、地大いに震動りて、流光昼の如く陰映す。しばらくのあいだに人民叫び、伏して起つ能はず、或は屋倒れておされ死に、或は地裂けて埋れ死にき。馬牛は驚き奔りて或は相昇り踏む。城郭倉庫、門櫓牆壁のくづれくつがえるものは其の数を知らず。海口(みなと)は哮吼えて、声いかづちに似、なみ(驚濤)湧き上がり、くるめ(泝)き、みなぎりて忽ちに城下に至り、海を去ること数十百里、浩々としてそのはてをわきまえず、原野も道路もすべてうみ(滄溟)となり、船に乗るにいとまあらず、山に登るも及び難くして、溺れ死ぬる者千ばかり、たからも苗もほとほと残るもの無かりき。9月7日紀春枝を検陸奥国地震使に任命し、判官と主典をそれぞれ一名ずつ随伴させて派遣する。
870(貞観12)年7月29日山城国、山地の陥没を報ず。山城国言しけらく、「綴喜郡山本郷の山くづれて裂け陥(お)ちき。長さ二十丈、広さ五丈一尺、深さ八尺、底の広さ四丈八尺なり。相ひ去ること七丈にして小山堆起(たいき)し、草木はうごくことなし。時の人、陥地地中に入りて、また堆起して山を成すかと疑ふ」と。山城綴喜郡山本郷で山が裂け、小山が出来る。
871(貞観13)年4月8日鳥海山(大物忌神社所在地)噴火。同山よりの河に青黒い泥水溢れ、臭気充満する。死魚河を塞ぐ。泥流大きいもの2つ、小さいもの多数、海に達する。泥水により草木生えず。
 5月16日出羽国骲海郡火山活動、土地の神を鎮謝す(抜粋)。出羽国司言しけらく、「從三位勲五等大物忌神社、飽海郡の山上に在り。巌石壁立し、人跡到ること稀に、夏冬雪を戴き、禿げて草木無し。去る4月8日、山上に火有りて土石を焼き、また声有りて雷の如く、山より出づる河は、泥水泛溢(はんいつ)してその色青黒く、臭気充満して人かぐに堪えず。死魚多く浮き、擁塞(ようさい)して流れず。ふたつの大蛇(おろち)有り、長さ十丈ばかり、相流れ出でて海の口に入り、小蛇の随(したが)ふもの、その数を知らず。河に縁(そ)える苗の、流れそこなふもの多く、或は濁水の臭気に染み、朽ちてそだたず。古老に聞くに、いまだかつてかくの如き異(しるまし)有らず。ただし弘仁年中、山中に火あらはれ、その後いくばくならずして、兵仗の事ありきといふ。これを奢龜(しき)に決するに、並びに、彼の国の名神いのりしところにいまだ、かへりまなしをせず。また塚墓の骸骨、その山水を汚ししにより、これによりて怒を発(な)して山を焼き、この災異をいたす。もし鎮謝せずば、兵役あるべしと云ふ。」
874(貞観16)年3月4日薩摩開聞岳、夜雷霆が響き一晩中震動。噴火して降灰し禾皆枯れ、河水濾濁し魚死滅。死魚を食べる者、或いは死に或いは病気になる。大宰府7月にこれを報告す。
 7月2日火山噴火。大宰府言しけらく、「薩摩国從四位上開聞神の山頂に火有りて自ら焼け、煙薫りて天に満ち、灰沙雨の如く、震動の声百余里に聞え、社に近き百姓震恐して精を失ふ。」
875(貞観17)年7月7日興福寺の塔、寅の時より震動し、9日に至りても止まざりき。7月18日大安寺の塔震動しき。
878(元慶2)年9月29日関東地方大震。夜地震りき。この日、関東の諸国地大震裂し、相模武蔵を特にもっとも甚(はなはだ)しと為す。その後五六日震動止まず、公私の屋舎一として全きもの無く、或は地窪陥して往還通ぜず、百姓の圧死はあげて記すべからず。夜、相模、武蔵で大地震。揺れは京に達する。5、6日揺れが収まらず。公私の舎屋全滅。地面陥没。百姓の圧死多数。
相模・武蔵地震 / 西暦878年11月1日。元慶2年9月29日。M7.4。関東諸国:相模・武蔵が特にひどく、5〜6日震動が止まらなかった。公私の屋舎一つも全きものなく、地陥り往還不通となる。圧死多数。京都で有感
 10月14日出雲で大地震。神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。
出雲地震 / 西暦880年11月23日。元慶4年10月14日。M≒7。出雲:社寺・民家の破損が多く、余震は10月22日に至るも止まらなかった。この日京都でも強く感じたというがこの地震とは無関係で、規模ももっと小さかったとする説がある
 10月27日出雲国地震を報ず。出雲国言しけらく、「今月14日、地大震動し、境内の神社仏寺官舎、および百姓の居蘆、あるいは転倒し或は傾倚し、損傷せし者多し。その後22日まで、昼は一二度、夜は三四度、微々震動してなおいまだ休止せず」と。
 12月6日子の時地大震動し、夜より朝にいたるまで十六度震ひき。大極殿の西北隅の竪壇長さおのおの八間破裂し、宮城の垣将墻、京師の蘆舎、頽損する者ところどころ甚だ多かりき。(西暦881年1月13日。元慶4年12月6日。M6.4。京都:宮城の垣墻・官庁・民家の頽損するものはなはだ多く、余震が翌年まで続いた)
881(元慶5)年10月3日相模国、「国分寺の金色の薬師丈六の像1体、挟侍の菩薩像2体、元慶3年9月29日、地震に遇ひて皆ことごとく壊れ、その後失火して焼け損なふ。ねがわくは、改造して御願を修せむ」
885(仁和1)年8月9日大宰府噴火を報ず。大宰府言上しけらく、「管肥前国、六月より澍雨(じゅう)降らず。7月11日国司諸神に奉幣し、僧をまねきて経を転ず。13日夜、陰雲晦合して雨声の如きを聞き、遅明に粉土屑砂ふりて、こもごも境内に下るを見る。水陸田の苗稼、草木の枝葉、みなことごどく焦枯す。(私による略)薩摩国言しけらく、「同月12日の夜、晦冥にして衆星見えず。砂石雨の如し。これを故実に検するに頴娃郡正四位下開聞明神怒りを発する時は、かくの如くこと有り。8月11日震声雷の如く、焼炎はなはださかりに、雨砂、地に満ち、昼にしてなほ夜のごとし。12日は、辰より子にいたるまで雷電し、砂の降ること止まず、砂石地に積り、あるところは一尺以下、あるところは五六寸以上、田野埋瘞(まいえい)して人民騒動す」といへり」と。
 8月11日開聞岳噴火する。砂地が降り、昼間に夜の如し。田野が埋没し、人民が騒ぎだす。神祇官卜して云うには、来春に薩摩国で疫病あると。陰陽寮は占い、府辺東南の神、隣国に遷ろうとしている。よって蚕穀損耗あり。それを受けて府司に下知して彼の両国をして部内の衆神に奉幣し以て冥助を祈らせる。
886(仁和2)年5月24日上総、下総、安房で大地震あり。安房方面に黒雲あり、その中で電光ひらめき、地震を起こる。一晩中続く。砂石粉土地上に積もる。草木悉く枯れ、馬牛の粉草を食して死する者はなはだ多し。新島の噴火か。
887(仁和3)年5月20日(嘉祥3年(850年)に起きた出羽地震の影響で国府を移すことが書かれている。抜粋) 去る嘉祥3年、地大震動して形成変改し、すでに窪泥となる。しかのみならず、海水漲移して府六里のところに迫り、大川崩壊してほりを去る一町余、両端害を受けて隄塞するに力無く、堙没の期旦暮に在り。ねがはくば、最上郡大山郷保実士野に遷し建て、その険固によりてかの危殆を避けむ 
 7月2日大地震。6日、30日にも大地震。余震8月に至る。天皇、仁寿殿から紫宸殿の南底に移り、大蔵省に命じて7丈の幄二を建て、御在所とする。諸司倉屋、東西京師の廬舎多く倒壊し圧死者多数。失神して頓死する者もあり。亥刻また3回震動。七道諸国同日大いに震動し、官舎多く倒壊。津波により溺死者多数。摂津国の被害は特にはなはだし。
 7月30日申の時、地大震動し、数剋を経歴して震ることなほ止まず。天皇、仁壽殿を出でて紫宸殿の南庭におはし、大蔵省に命じて七丈の幄二つを立てて御在所と為し給ひき。諸司の倉屋及び東西京の蘆舎、ところどころ顛覆(てんぷく)し圧殺せらるる者おほく、或は失神して頓死する者有りき。亥の時、また震ること三度。五畿内七道の諸国も同日に大震ありて官舎多く損じ、海潮陸に漲りて溺死者あげて計るべからず、そのうち摂津国もっとも甚(はなはだ)しかりき。夜中、東西に声有り、雷の如き者二(ふたたび)なりき。
 南海・東南海・東海地震 / 西暦887年8月26日。仁和3年7月30日。M8.0〜8.5。五畿・七道:京都で民家・官舎の倒潰多く、圧死多数。津波が沿岸を襲い溺死多数。特に摂津で津波の被害が大きかった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる
 8月1日昼夜に地震ること二度なりき。8月2日昼地震ること三度なりき。8月4日地震ること五度なりき。この日、達智門上に気有り、煙の如くにして煙に非ず、虹の如くにして虹に非ず、飛び上がりて天につきき。或は人見て、皆曰ひけらく、「これ羽蟻なり」と。時人云ひけらく、「古今未だかくの如き異有らず」と。陰陽寮占ひて曰ひけらく、「大風洪水失火等の災有るべし」と。8月5日昼、地震ること五度、夜大いに震りき。京師の人民、家より出でてみちに居りき。8月7日地震。
 8月9日、13日、14日、16日、23日地震。24日二度地震。このあとも余震が続いたと推測されるのですが、残念ながら「日本三代実録」は仁和3年8月26日で記述が終わっています。

900

 

915(延喜15)年鳥海山噴火し降灰。農桑枯損す。或いは十和田湖で噴火か?
922(延喜22)年紀伊(和歌山県、および三重県の南部)で津波。
938(天慶1)年4月15日亥刻に大地震。東西の京舎屋、諸寺諸山の堂舎仏像多く倒壊。死者4人。洪水あり。余震やまず。
 4月15日大地震。天皇は底上に幄舎を建てて御座を遷す。鴨川洪水。
939(天慶2)年4月2日大地震。主上、庭に幄舎を建てて避難。5日にも地震。
945(天慶8)年 霧島山噴火。
958(天徳2)年9月13日天変地震等により五社に奉幣する。9月17日さらに七社に奉幣する。
965(康保2)年9月21日京で大地震。10月1日京で地震。
972(天禄3)年閏2月14日大地震。9月余震未だ止まらず。
976(貞元1)年6月18日京で大地震。人家の倒壊による圧死者多数。山城、近江の国で特にはなはだし。翌日より月末まで余震81回。天皇幄舎を建て御在所とする。崇徳寺堂谷に転落し、僧千聖転落死する。清水寺で圧死する者50人。八省院、豊楽院、東寺、西寺、極楽寺、円覚寺等も倒壊。近江国分寺大門倒壊。内裏修理中の30余人死亡し、読経請僧童子も圧死。
977(貞元2)年6月18日大地震。古今未曾有の変異にして余震200余日という。
984(永観2)年10月13日大地震。11月8日地震あり。11月8日多武峰鳴動する。
999(長保1)年3月7日富士山噴火の奏あり。

1000

 

1026(万寿3)年5月23日亥下刻石見沖の鴨島が海嘯で海没する。
1032(長元5)年12月16日富士山噴火する。嶺より山脚まで延焼。
1037(長暦1)年12月諸国で地震。高野山で被害。
1041(長久2)年7月20日地震あり、洛東岡崎法勝寺八角九重塔倒壊する。
1042(長久3)年12月22日武蔵で大地震。仏閣堂宇倒壊。  
1070(延久2)年10月20日23日にかけて山城・大和で地震が連続する。堂舎の多くが倒壊。
1076(承保3)年2月20日富士山噴火。
1083(永保3)年2月28日富士山噴火。
1085(応徳2)年三宅島噴火。
1092(寛治6)年11月10日京で大地震。越後に大津波が押し寄せ、角田浜飛山砂山古潟が海没する。
1093(寛治7)年2月14日未刻に大地震あり。3月26日地震あり。5月2日地震あり。14日、春日山震動する。
1096(永長1)年1月24日 永長東海地震:M8.3(くらい)の地震。
 11月24日辰刻大地震あり。一時続く。大殿関白以下大内に参ず。28日両殿下にに於いて諸卿を集め、改元の是非を問う会議が行われる。大極殿に被害。東大寺の鐘が落下。薬師寺回廊、河内小松寺毘沙門堂が倒壊。勢多橋が落下。東寺塔九輪が落下。駿河、伊勢阿刀津などで津波。小地震相次ぐ。
 12月7日地震あり。12月15日先月大地震の祈祷を行う。東大寺の僧千人大極殿にて読経。仁王会をを延暦寺で行い、大般若経、六観音法を行う。12月25日地震あり。12月27日左大臣以下参り、地震により改元を申上げる。強盗等を除く八虐の罪をを赦免。12月29日地震あり。
1099(康和1)年1月24日地震あり。興福寺西金堂・塔が破損。大門と回廊が倒壊する。摂津天王寺回廊倒壊。土佐田千余町が海没。地震により、木曽川下流鹿取・野代が空変海塵と化す。数十年後陸地となる。
 2月22日 康和南海地震:M8.0~8.3の地震。
 8月27日地震あり。河内小松寺の講堂倒壊。

1100

 

1103(康和5)年4月22日京で強震。
1108(天仁1)年7月21日9月にかけて浅間山噴火。火砕流と溶岩流が田圃を埋める。
1112(天永3)年10月伊豆大島噴火。鳴動雷の如く、京まで聞こえる。
1154(久寿1)年10月三宅島噴火。
1177(治承1)年1月27日大地震。東大寺の鐘と大仏螺髪が落ちる。
 4月12日加賀白山噴火する。
1179(治承3)年5月28日夜地震。7月7日地震。21日にも地震。11月7日京で大地震。
1180(治承4)年8月23日源頼朝、石橋山での合戦を企図するも、大風雨で三浦水軍が動けず、暴風雨の中敗走。24、25日に丸子川が洪水となり、和田義盛軍渡河できず。
 9月28日厳島で大地震。
 11月26日紀伊熊野地方で地震。三日間続く。
 12月17日霧島山噴火。
1184(元暦1)年10月15日鎌倉で地震。
 
鎌倉時代

 

鎌倉時代  1185〜1333
1185(文治1)年6月20日子刻激震あり。数度震動。余震続く。
 7月9日午刻激震あり。宮中の築垣、大内日花門、閑院西辺廊、法勝寺阿弥陀堂が倒壊し、九重塔が破損、市中の民家の多くが倒壊する。園庭に幄を設けて御所とする。大般若経転読あり。40余日余震が続き、皆病となる。皇居以下神社仏閣民家倒壊、音苑雷の如し。塵埃黒煙の如く日影見えず。山崩れ川埋まり、大地は稲妻の如く裂けて水湧き、盤石谷に転び人民六蓄死亡多数。?学宴を停止する。愛染王に祈祷し護摩を焚く。山稜使を立て、或いは諸社に奉弊使を遣わし、神仏の加護を祈る。
1191(建久2)年3月6日鎌倉で地震。
1199(正治1)年1月1日昏に臨み雷電地震あり。
 5月16日丑刻、鎌倉で大地震。

1200

 

1201(建仁1)年3月10日卯刻地震あり。若宮大路西頬焼失。
 8月11日下総葛西郡で海嘯。1000余人が死ぬ。
1202(建仁2)年1月28日鎌倉で大地震。
1213(建保1)年1月1日鎌倉で大地震。堂舎倒壊。
 5月21日午刻大地震。音があり、舎屋破壊、山崩れ地裂く。
1214(建保2)年2月7日鎌倉で大地震。
1215(建保3)年8月19日地震あり。21日未刻、22日にも地震あり。9月6日丑刻に地震、8日寅刻に地震あり。9月11日寅刻に大地震あり。未刻に小地震あり。17日まで余震。10月2日寅刻地震あり。12月15日亥刻地震。12月16日「将軍家殊に御謹慎あるべき変なり」と司天勘文を捧げる。12月30日御前南庭で祈祷。
1227(安貞1)年3月7日戌刻大地震。門扉築地倒壊多数、地割れ生ず。15日余震。24日祈祷。4月13日戌刻、26日亥刻地震。29日祈祷。
1230(寛喜2)年閏1月13日地震、19日暁地震。22日にも地震あり、大慈寺の後山崩れる。
1234(文暦1)年12月28日霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。
1235(嘉禎1)年3月1日京で地震。星宿龍神動くという。14日にも地震。
 9月1日大地震。文治以後最大という。
1238(暦仁1)年12月26日阿蘇山噴火。黒煙昇り、大小の石が降る。
1239(延応1)年8月17日加賀白山噴火し、白山権現焼亡。
1241(仁治2)年2月7日巳刻大地震。建暦年中の地震の如き。和田義盛謀反の前兆といわれるようになる。余震続く。
 4月3日鎌倉で地震。大津波で由比浜大鳥居内拝殿が流出。船十余艘が破損。
1251(建長3)年7月18日鎌倉に雪が降る。26日、翌8月3日にも雪。
 10月23日鎌倉で地震あり。
1252(建長4)年5月7日鎌倉で地震あり。7月23日鎌倉で大地震。
1257(正嘉1)年2月23日大地震あり。社、舎、堂倒壊。火災により焼死者あり。地割れで涌水あり。
 8月23日戌刻大地震あり。神社仏閣破損多数。山崩れ、家屋倒壊、地割れ涌水あり。中下馬橋辺の地面が割れ青い炎が上がる。祈祷を行う。
1265(文永2)年1月15日鎌倉で地震。3月9日鎌倉で地震。
 10月15日阿蘇山噴火する。
1266(文永3)年6月24日鎌倉で地震。
1269(文永6)年7月阿蘇山御池煙を発す。
1270(文永7)年11月15日阿蘇山噴火。
1272(文永9)年3月10日阿蘇山噴火。砂礫四方に散り、池水湧出す。11月1日阿蘇山噴火し、火石降下する。
1273(文永10)年7月下旬、阿蘇山噴火。
1281(弘安4)年7月30日九州地方北部で暴風雨。日本遠征中のモンゴル軍は、被害を出して退却。閏7月阿蘇山噴火し、寶池鳴動。火石が降る。
1286(弘安9)年8月3日阿蘇山噴火し、鉈型の黒雲が寶池より噴出する。
1293(永仁1)年1月1日大地震。
 4月13日鎌倉で大地震。神社仏閣その他倒壊多数。死者2万余とも23034人とも3万余ともいう。津波あり。
1296(永仁4)年10月9日南都で地震。
1299(正安1)年4月25日畿内地方で地震。死者一万余。

1300

 

1305(嘉元3)年3月晦日阿蘇山噴火し、池中より日輪の如きものが3度昇る。
 4月6日鎌倉で地震。
1307(徳治2)年3月2日関東で大地震。
1317(文保1)年1月3日-9日までに地震数十度。東寺塔倒壊。
 1月4日丑刻大地震。前日の余震か。人家倒壊で、白河辺で5人死亡。その月余震頻発。
1324(正中1)年8月10日阿蘇山噴火。寶池より黒煙火石上る。
 11月21日近江大地震。竹生島が崩れ半分湖に入る。
1331(元弘1)年7月2日諸国で大地震。
 7月3日諸国で大地震。7月7日諸国で大地震。
 11月阿蘇山噴火。
1335(建武2)年1月5日阿蘇山噴火。翌日にかけて砂礫を降らし、堂舎を壊す。2月23日阿蘇山噴火。黒煙天を覆う。
 8月3日鎌倉大風。大仏殿が倒壊し、圧死者500余人。
 
室町時代

 

室町時代 1336〜1573
1340(暦応3)年1月4日阿蘇山噴火し、大石碧天に吹き上げる。1月19日阿蘇山で、北池より砂山が出現し、高さが山頂に出づ。
1350(観応1)年5月23日大地震。大地震により大路の石堂の塔九輪が落ち砕ける。
1356(延文1)年7月3日京で大地震。7月11日大地震。
1360(延文5)年4月12日住吉神社鳴動し、楠樹が故なく倒れる。
1361(康安1)年6月16日大地震。18日、20日、21日、22日と大地震が頻発。山崩れや海が陸地になるところあり。人民牛馬死傷万を越す。阿波雪の湊1700余戸すべて津波で消失。以降も大小の地震続き、25日には天王寺金堂倒壊、26日には奈良で堂舎倒 壊多数。
 7月24日再び大地震。摂津難波浦が干上がり、魚が打ち上げられる。数百人がこれを捕りに行くが、直後に大津波が押し寄せ全滅するという。
 8月3日 正平南海地震:M8.2~8.5の地震。
 8月24日大地震。山王寺をはじめ畿内の伽藍多く倒壊。紀伊で山が裂ける。
1369(応安2)年7月27日京で大地震。
1371(応安4)年3月19日京で大地震。23日にも地震。
1372(応安5)年6月27日京で大地震。
1373(応安6)年2月2日京で大地震。
 4月1日京で大地震。12日にも地震。8月20日京で大地震。閏10月22日京で大地震。
1375(永和1)年11月19日阿蘇山噴火し、大石上がり、霊水沸騰する。
1376(永和2)年4月25日大地震。家屋倒壊多数。
1377(永和3)年3月20日阿蘇山噴火する。
 3月28日諸国で山崩れる。8月20日諸国で山崩れる。
1383(永徳3)年4月24日寅刻京で大地震。音は鼓の如く、動は載車の如し。為仏眼法を室町第に修める。26日にも地震。
1387(嘉慶1)年閏5月3日阿蘇山噴火する。
 12月19日会津で地震。
1391(明徳2)年10月16日午刻京師で大地震。歩行困難という。殿舎倒壊して死傷者無数。刑部卿土御門、乱兆であると義満に報告。
1397(応永4)年1月11日那須地獄噴火。茶臼岳爆発して、諸国に被害。

1400

 

1402(応永9)年冬、各地で地震。
1404(応永11)年1月11日那須野地獄噴火。
1407(応永14)年1月5日申刻京師他諸国で大地震。数日続く。山崩れ、宮殿、寺社、民屋倒壊多し。人民為に業を廃す。
 12月14日京師で再び地震。津波あり。
1408(応永15)年1月18日那須山噴火。灰や硫黄が降る。常陸国那珂川硫黄を流すこと5、6年。
1410(応永17)年1月21日那須山噴火し、180余人埋没。牛馬の死多数。天鳴ること雷声の如し。
1416(応永23)年8月2日伊豆大島噴火響雷の如し。9月9日伊豆大島再度噴火。
1419(応永26)年10月関東で大地震。
1421(応永28)年4月4日伊豆大島噴火。海水熱湯の如く、魚多く死す。
1432(永享4)年9月16日鎌倉山振動し崩壊する。
1434(永享6)年3月22日阿蘇山中池より黒煙。泥溢れ流れる。4月1日にも泥溢れる。
1437(永享9)年6月4日東大寺八幡宮振動する。
1438(永享10)年12月5日阿蘇山噴火する。
1442(嘉吉2)年12月伊豆大島噴火する。
1448(文安5)年4月〜6月地震頻発。
1449(宝徳1)年4月10日山城で大地震。以後15日に亘り連日余震。嵯峨釈迦堂、五大尊倒壊。築地倒壊多数。山崩涌水あり。淀大橋と桂橋も崩れる。将軍、使者を各地に派遣する。神苑築地東寺など破損。長門入道、誉田入道を検視として派遣。
1450(宝徳2)年 浅間山噴火。
1460(寛正1)年2月9日翌日にかけて畿内で地震。
 7月18日京で地震。相国寺西明楼崩れる。長禄記には8月とする。
1465(寛正6)年3月27日大和で地震。6月2日大和で地震。
1466(文正1)年12月29日春日山鳴動する。京でも震動する。
1471(文明3)年9月12日桜島噴火し、人多く死ぬ。以降5年間度々噴火。
1473(文明5)年4月11日桜島噴火。
1475(文明7)年8月6日摂津難波浦、尼崎に大潮。死者4000人余。
 8月6日京都で大風が起こり、両陣(応仁の乱か?)破損す。同日、和泉堺に高潮が押し寄せる。家屋数千、船数百が流されて跡形もなくなり、数百人が死ぬ。ここ数百年先例のない事という。天王寺は在家1、2を残し尽く引き潮に流される。しかし大和では何も起こらず、希有の事という。
1476(文明8)年9月12日桜島噴火。人家埋没し、人畜死亡多数。降灰数日続く。
1484(文明16)年12月10日翌年にかけて阿蘇山噴火。北池中に砂石出来る。大宮司惟忠薨す。僧ら大半山を去る。
1487(長享1)年11月13日夜八丈島噴火。島内飢饉となる。
1489(延徳1)年4月20日会津で地震。
 7月22日山城、大和、大坂で大地震。
1491(延徳3)年2月2日京と奈良で地震。
1492(明応1)年6月16日陸奥で地震。
1493(明応2)年5月26日会津で地震。
 10月30日畿内で地震。
1494(明応3)年1月7日陸奥で地震。
 5月7日大和で大地震。東大寺、興福寺、薬師寺、法華寺、西大寺、矢田庄在所など破損損亡。倒壊多数。祈祷を行うが、翌年2月まで余震続く。
1495(明応4)年8月15日鎌倉で大地震。津波由比ヶ浜に押し寄せ、鎌倉大仏殿も破壊される。溺死者200余人。
1498(明応7)年1月大和で大地震あり。
 6月11日遠江で大地震。山崩れ、地割れあり。浜名湖が海とつながる。今切渡と呼ばれる。
 7月9日 日向灘地震:M7.0〜7.5の地震。南海地震の可能性がある。
 8月25日大地震。日本国中の堂塔諸家倒壊多数という。大津波で伊豆浦全滅、また伊勢大湊壊滅し、他三河、紀伊などで津波により多く死者を出す。閏10月まで余震続く。死者3万人以上という。
1499(明応8)年4月8日京で地震。15日にも地震あり。
 5月5日甲斐で地震。6月4日大和、奈良で地震。7月10日大和で地震。16日にも地震あり。9月22日京で地震。

1500

 

1504(永正1)年7月6日越前で地震。
1505(永正2)年 阿蘇山噴火。
1506(永正3)年 阿蘇山噴火。
1510(永正7)年8月8日摂津(大阪)・河内(大阪)で大地震。余震75日続く。所々で山崩れあり。8月27日遠江(静岡)で大津波。数千の家屋、陸地30町余が呑み込まれ海となる。死者一万余人。今切という。
1511(永正8)年 富士山鎌岩噴火。
1512(永正9)年6月9日地震あり。18日に大地震。宮中で豊受大神宮に祈願。被害は少なし。
1516(永正13)年7月12日翌日にかけて甲斐で地震。
1519(永正16)年3月18日京師で大地震あり。被害は少なし。土御門有春、卜し兵乱か疫病の兆しと上奏。
1520(永正17)年6月10日陸奥で地震。
1522(大永2)年 八丈島噴火。噴煙人里に及ぶ。阿蘇山噴火。
1524(大永4)年 霧島山噴火。
1527(大永8)年4月浅間山噴火。
1529(享禄2)年11月8日摂津で地震。
1532(天文1)年1月20日讃岐で地震。
 5月29日地震。清水・大津・相坂・関屋で水が溢れ、田園多くが亡ぶ。
1533(天文2)年 阿蘇山噴火。
1537(天文6)年5月11日鎌倉で地震。
1542(天文11)年閏3月5日阿蘇山鳴動し火石を飛ばす。
1544(天文13)年4月22日薩摩で地震。
 7月9日大洪水で京市中の人馬の多くが流される。町々の釘抜門戸のことごとくが流失。四条・五条の橋と、祇園大鳥居も流失。御所西方の築地も失われる。東寺南大門から四塚にかけて船が多数流れるという。日吉大宮橋も流失し、比叡山諸坊数宇も失われ、数十人が死亡する。淀・鳥羽でも洪水で死者多数という。
1545(天文14)年3月薩摩で地震。
1547(天文16)年2月3日加賀白山噴火。
1548(天文17)年加賀白山噴火。
1549(天文18)年4月14日甲斐で地震が数回起こる。
1553(天文22)年8月24日鎌倉で風雨地震。
1554(天文23)年5月加賀白山噴火。翌年にかけて霧島噴火。
1555(弘治1)年8月19日会津で地震。
1557(弘治3)年8月26日朝、東風が起こり、夕方南風となる。大雨となって各国で洪水が発生する。尼崎、別所、鳴尾、今津、西宮、兵庫、前波、須磨、明石に高潮が押し寄せる。死者多数。文明7年8月の洪水に並ぶ被害という。
1562(永禄5)年2月阿蘇山噴火。
1563(永禄6)年4月1日阿蘇山噴火。
1564(永禄7)年 阿蘇山噴火。
1566(永禄9)年9月9日霧島山噴火。人多く死す。
1572(元亀3)年閏1月20日大地震。死者多数。
 
安土桃山時代

 

安土桃山時代 1573〜1603(1615)
1574(天正2)年1月霧島山噴火。天地震動す。
1576(天正4)年1月12日伊豆初島が震動する。
1578(天正6)年5月13日11日よりの大雨で洪水。鴨川・白川・桂川が氾濫し、京市中に水があふれる。溺死者多数。四条橋も流失。先に織田信長公、出陣の触れを出す。その期日相違なく船でも御動座あるべしとて、淀、鳥目、宇治、真木島、山崎の住人ら、船数百艘を五条油小路まで持ってきて言上する。信長公、これを祝す。
1579(天正7)年1月20日地震あり。四天王寺鳥居崩壊。三日揺り返し。
 8月28日加賀白山地獄谷噴火。神社焼失。翌年織田氏三社を再建する。
1582(天正10)年1月14日浅間山噴火。
 阿蘇山噴火。
1583(天正11)年6月26日三河で地震。
 阿蘇山噴火。
1584(天正12)年7月阿蘇山噴火。砂石硬黄降る。南郷色見邑荒蕪す。
1585(天正13)年11月26日加賀で地震あり。
 11月29日京、越中、飛騨、美濃、尾張で大地震。東寺金堂など一部崩壊。三十三間堂を始め多くの仏像が倒れる。壬生堂も倒壊。潅頂院も大懐し築地門傾く。飛騨白川谷沿い山崩れで帰雲山城が埋没。内ヶ島氏理以下300人が圧死。白川が堰止められ300余戸が水没。越中木船城が倒壊し前田秀継以下多数圧死。大垣城、長浜城も破損。大津波で死者多数。
 霧島山噴火。
1587(天正15)年4月17日霧島山噴火。黒煙と白煙が1日3回上がる。
 阿蘇山噴火。
1588(天正16)年3月12日霧島大噴火、申酉の間大地震がある。
1589(天正17)年2月5日遠江・駿河で地震。屋舎倒壊多数。
1590(天正18)年春、浅間山噴火。
 10月2日江戸で地震。16日にも地震。11月22日江戸で地震。
1591(天正19)年10月14日浅間山噴火。
1592(文禄1)年阿蘇山噴火。
1596(慶長1)年4月4日浅間山噴火。大石降落により死者多数、近隣諸国でも死者。6月27日土器の粉の如き物降り草木の葉に積もる。四方曇となる。
 閏7月9日豊後、薩摩で大地震。畿内にも及ぶ。
 閏7月12日子刻再度大地震あり。伏見城が崩壊し約600人が圧死、加藤清正足軽200人を率い秀吉を護衛。地割湧水あり、京の大仏も壊れる。宮中南庭に莫座が敷かれ天皇御座を遷す。堺などでも被害。
 9月1日 慶長伊予地震:M7.0の地震。それ以上とする説もある。(現在の愛媛県)
 9月4日 慶長豊後地震(大分地震):M7.0〜7.8の地震。瓜生島が津波で沈んだとされる瓜生島伝説といわれるものがある。
 9月5日 慶長伏見地震:M7.1の地震。築城されたばかりの伏見城が倒壊した。
1597(慶長2)年3月岩木山が崩れ、土石が降ること昼夜を弁えず。
1598(慶長3)年12月翌年にかけて霧島山噴火。黒煙昇り、砂礫降る。

1600

 

1600(慶長5)年6月13日津軽地方で地震あり、小石、灰など降り昼なお暗くなる。15日になり岩木山噴火が目撃される。人馬の被害無し。
1601(慶長6)年12月16日上総・安房で大地震、山崩れあり。海が干上がった後、明日大津波あり。人畜死亡多数。  
 
江戸時代

 

江戸時代 1603〜1868 
1604(慶長9)年1月8日岩木山西方の鳥海が破裂し、湖水が流出。
 11月紀州、四国、西国で地震と津波。上総で大津波があり、人馬多数死す。
 12月6日紀州、四国、西国で地震と津波。遠州舞坂で津波により80戸流出。八丈島では民家悉く流出。50余人が死亡。上総では人馬数百が死す。
 12月16日東海、南海、西海道諸国に地震と津波。死者多数。
1605(慶長10)年1月関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。
 慶長地震 - 1605年2月3日、南海トラフ巨大地震の一つとされてきたが、伊豆小笠原海溝付近震源説や遠地津波説など異論もある。M 7.9〜8.0。紀伊半島沖と房総沖が連動したとする説もあり、M 8.4〜8.5ともされる。津波地震と考えられており、地震動による被害は少なかったが、現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万人を数えた。
 9月15日八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。
 11月15日八丈島噴火。
 11月下旬、浅間山が噴火する。
 12月18日八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。
1606(慶長11)年6月1日江戸で地震が3回ある。
1607(慶長12)年1月6日江戸で大地震。
 1月20日江戸で大地震。2月6日江戸で大地震。
 6月13日駿府で地震。
1609(慶長14)年3月1日浅間山噴火。
1611(慶長16)年2月22日江戸で地震。
 8月13日会津で大地震。若松城が倒壊する。4万石が地陥りし、湖水が湧出して2700余人が死す。
 8月21日会津で地震。激しい揺れで城の石垣と塀が崩壊。殿守は破壊して傾く。死者三千数百人。越後街道消失。
 10月28日仙台で大地震。三陸地方に大津波が襲い、1783人が死亡する。 
 三陸沖でM8クラス。地震動に比べ津波の規模が大きい津波地震。伊達藩死者1783名牛馬85頭。南部津軽藩死者3000余。
1612(慶長17)年 阿蘇山噴火。
1613(慶長18)年 阿蘇山寶池から砂石が噴き出し、郡中に降る。
1615(元和1)年6月1日江戸で大地震。家屋多く倒壊。
 11月25日大地震。翌年にかけて諸国大飢饉。
1616(元和2)年7月28日仙台で大地震。城壁楼櫓悉く倒壊。
1620(元和6)年 霧島山噴火。
1625(寛永2)年 白根山が噴火する。
1627(寛永4)年1月21日諸国で大地震。1月21日江戸で大地震。
 11月23日富士山が噴火し、江戸にも灰が降る。
1628(寛永5)年5月18日江戸で地震。城塁多く崩れる。
 7月11日江戸で大地震。江戸城の石垣破損。
 9月29日霧島山噴火する。社寺宝物烏有に帰す。
1630(寛永7)年6月23日江戸で大地震が起こり、江戸城西の丸門口石垣が崩れる。
1631(寛永8)年3月13日浅間山が噴火し、江戸にも灰が降り草木が変化する。
 11月阿蘇山が噴火する。寺川湯の如し。
1633(寛永10)年1月21日関東で大地震。小田原城内破損。民家多数倒壊し死者150人とも237人とも言う。箱根で崖崩れ。三島で地裂。熱海で津波。
 2月7日小田原で大地震。家屋倒壊多数、死者150人余。
1635(寛永12)年1月21日蝦夷で大地震。
 1月23日江戸で大地震。1月25日江戸で大地震2回。
1637(寛永14)年8月11日阿蘇山が噴火。砂石硫黄が降る。
1638(寛永15)年1月1日江戸などで100年に一度という暴風があり民家多数が倒壊。
1639(寛永16)年11月越前で大地震があり、福井城が倒壊。
1640(寛永17)年6月17日蝦夷内浦岳(間山岳?)が噴火、大津波により船100余艘が被害、内陸10里に至り700人が溺死。牛馬魚貝鳥傷亡無数。灰が一丈を埋め、また飛翔して松前、陸奥の空昼夜暗きこと2日。焦土海に入り島を生ず。
 7月31日蝦夷駒ヶ岳爆発。山頂が崩壊し噴火湾に流れ込み、津波を発生する。沿岸の住民700人以上が死亡。津波は有珠善光寺御堂の後山まで達するという。
1642(寛永19)年3月1日三宅島噴火。
 3月7日桜島噴火。春、疫病流行する。
1643(寛永20)年2月12日夜、三宅島雄山噴火。溶岩が流出し阿古村が焼失。死者無し。
1644(正保1)年1月13日浅間山噴火。
1645(正保2)年1月26日浅間山噴火。4月26日浅間山噴火。
1646(正保3)年4月26日陸奥地方で大地震。青葉城や日光東照宮の石垣が崩壊する。家屋倒壊多数。仙台城大手門の櫓下の石垣、大手門東脇石垣、西裏門石垣など崩壊。死者多数。
1647(正保4)年1月14日浅間山噴火。2月19日浅間山噴火。
 5月13日江戸で大地震。倒壊家屋多数。上野大仏破損。数日にわたって余震。
1649(慶安2)年2月5日伊予で大地震。
 6月20日江戸で大地震。倒壊家屋多数。
 6月阿蘇山噴火。
1650(慶安3)年3月23日関東地方で大地震。家屋に被害、死者多数。日光でも被害。翌日も地震。
 6月20日江戸で大地震。城櫓倒壊。大名町家も破損。1日に4、50回も揺れる。
1651(慶安4)年2月22日浅間山噴火。
1652(承応1)年3月3日浅間山噴火。
1655(明暦1)年10月28日浅間山噴火。
1656(明暦2)年4月8日江戸・上総で大地震。
 10月25日浅間山噴火。
1657(明暦3)年10月20日浅間山大噴火。
 島原温泉岳噴火し、深江村、中木満村氾濫で家屋流出。死者30余人。
1658(万治1)年4月3日日光山で地震。各所で被害。
 6月24日浅間山噴火。
1659(万治2)年2月晦日日光山で地震。 強い地震が田島宿を襲った。197軒倒壊。街道一の難所“山王峠”が大きく崩れた。塩原温泉では元湯温泉の一部が地滑りで埋った。その後田島宿は水路の両側に旅籠が並ぶ整然とした宿場となった。二ヵ月後に通行可能となる。6月5日浅間山噴火。
 霧島山噴火する。
1660(万治3)年2月28日浅間山噴火。
1661(寛文1)年3月15日浅間山噴火。3月28日浅間山噴火。閏8月28日浅間山噴火。
1662(寛文2)年3月京で地震が起こり、方広寺の大仏が倒壊する。
 5月1日近畿地方で大地震。亀山・篠山・尼崎・膳所の城が倒壊する。 
雨の中、午前十一時頃、地鳴りと共に地面が激しく揺れ始めた。直後、葛川谷(かつらがわ・たに)の山腹土砂崩れ。約300人が生き埋め。火事が出てあたり一面消失。琵琶湖西岸一帯、壊滅状態。現・彦根市で城が歪み石垣600間ほど崩壊。千軒あまりの町屋崩壊。水害が甚大。夏、江戸で疫病流行。
 9月19日日向・大隅で大地震。午前零時頃激しい揺れ。佐土原藩では場内で30件の長屋が崩れる。地面が幅三尺(約1m)ほど割れる。田畑も少なからず損なわれ山が崩れた。800軒余り崩壊。津波が襲う。海岸付近の低地、広い部分が海となる。延岡藩の『延陵世鑑(えんりょうよかがみ)』には、「海辺の田畑、海となる事およそ七・八千石余。地震後は、三・四尺海底となる」日向灘の海底を震源とするM7クラスの大地震と推定。この地震を忘れぬため50年ごとに碑が建て加えられ続ける。2007年九月、七番目の碑、供養祭。
 10月31日 外所地震:M7.6の地震。死者約200人。日向国・大隅国(現在の宮崎県・鹿児島県大隅半島)、特に飫肥藩領(現・宮崎市木花地区)を中心に被害が及んだ。
1663(寛文3)年5月1日京で地震。行宮・法室新院皆壊れる。
 7月14日有珠山噴火。死者5人。
 7月25日蝦夷松前で地震。山中より火炎出現し焼く。
 12月6日京で大地震。所々壊れる。
 松前で大山崩れる。松前で海上3700(2700?)間陸地になる。
1664(寛文4)年1月18日雲仙普賢岳泥土湯煙を噴出。大石砂利焼崩れる。
 4月雲仙前山が崩壊、津波発生。溺死者100余人。田畑大損す。
 琉球で大地震。海嘯で家屋多く覆没。死者多数。
1665(寛文5)年12月27日越後で大地震。高田城が倒壊し、圧死者多数。12月27日越後で大地震、死者120余あるいは千4〜500余人。蝦夷宇須嶽噴火。震動津軽に及ぶ。  
『殿中日記』には城の門や櫓が残らず潰れ、残った家もことごとく大破。侍の家は700軒が潰れ、夜中には火事となり侍三十余名が死亡。町屋での死者は数え切れず。犠牲者数は、千数百人。『慶安元禄間記』には、城が残らず壊滅、「大手一の門」など崩壊。炬燵や台所から出火し燃え広がり、人の背丈の三倍近い高さに積もった雪の壁が逃げ道を遮った。長く延びた「つらら」がとがった刃物となって落下、多数が体を貫かれて死去。噴砂、墳泥が雪の上に流れ出し、家を失った人々は雪の上に建てた小屋で寒さに震えた。この後、お家騒動あり。
1666(寛文6)年6月1日但馬蛇山噴火。5、6間裂け、民家倒壊し死者多数。
 8月4日出雲富田の城下町が洪水で水没。以後300年間川底の土砂に埋没する。
1668(寛文8)年1月阿蘇山噴火。火石上り、苦水溢れる。11月阿蘇山噴火。
1669(寛文9)年 浅間山噴火。
1670(寛文10)年6月5日越後で大地震。村上城、民屋600余が倒壊。田200余町が損失。
 8月15日対馬で大地震。
1672(寛文12)年1月13日各地で地震頻発。19日、2月1日にも地震数回。
 閏6月5日岩木山の頂が崩壊する。
1674(延宝2)年3月10日八戸で強震。家屋倒壊多数。
1675(延宝3)年1月22日阿蘇山鳴動、大石上る。
 3月10日八戸で強震。人家多数被害。5月28日八戸で強震。人家多数被害。
1676(延宝4)年6月2日石見で大地震。津和野城に被害が出る。家屋133戸倒壊、海土手936間が崩れる。
1677(延宝5)年10月9日陸奥から常陸にかけて大地震。津波が襲い、500人以上が死亡する。
1678(延宝6)年1月9日霧島山噴火。
 8月17日東日本で大地震。花巻、白石城などが破損。上野東照宮なども破損する。江戸で30年ぶりという。
1680(延宝8)年閏8月6日暴風雨、地震、高潮が重なり、家屋3420余戸が倒壊。溺死者700余人、20万石が濡れ米となる。
1681(天和1)年4月5日日光で大地震。山崩れ。
 10月大隅で地震があり、海が陸になる。
1682(天和2)年11月15日奥羽で強い地震。
1683(天和3)年4月5日日光で大地震。
 5月24日日光で大地震。東照宮や輪王寺が破損。17日から120余回に達する。日光東照宮付近の宝塔、石灯籠など文化財の大半が崩れる。10月20日午前9時頃(九月一日)は特に激しく、日光からおよそ20km北北東にそびえる戸板山(現・葛老山、標高1123m)が大音響と共に崩れ落ちた。滑り落ちた岩塊は牡鹿川と湯西川の合流地点を埋めた。出口を失った水は巨大な湖として膨れ上がり、会津西街道の五十里宿を水没させた。五十里村の家々は残らず水上に浮かんだ。湖の水位を下げるため、のべ7000人の人足動因。修復を試みたが効果なし(江戸の業者が請け負ったが断念)。
 5月阿蘇山噴火。
 9月1日翌日にかけて南会津・日光・江戸で地震。10月大隅で地震。
1684(貞享1)年2月14日伊豆大島噴火。2月16日伊豆大島が噴火。以後7年間噴火を繰り返す。
 4月8日越前阿胡山鳴動し、山崩れ。一里泥水となる。
 8月津波、新島村で60余戸流出。4人死亡。
 9月1日日光地震。堂塔倒壊あり、山崩れで川埋まる。
 11月16日日向飫肥で地震。城本丸裂ける。
 12月10日安芸地震。
1685(貞享2)年10月26日江戸で大地震。
1686(貞享3)年閏3月3日岩手山噴火。人畜に被害。
1691(元禄4)年5月27日4月より異変の続いていた阿蘇山が噴火。
 6月17日阿蘇山噴火。
1694(元禄7)年5月27日秋田で大地震。2760戸が倒壊、394人が死亡。岩木山の硫黄孔が発火。
 閏5月25日伊予で大地震。
 7月2日小田原で津波。人家多数水没。
 7月10日蔵王噴火。宮城方へも硫黄水が流出し被害多数。
1695(元禄8)年3月2日伊豆大島噴火。
1696(元禄9)年6月19日22日にかけて江戸で大地震。
 6月磐城小名浜で地震。津波などにより2450人が死亡。
1697(元禄10)年10月12日関東で地震。鎌倉八幡鳥居など多数倒壊。日光へ使者を出す。
1699(元禄12)年2月肥前で海嘯。300余戸流出し、千余人が死亡。

1700

 

1700(元禄13)年2月27日対馬で大地震。
 富士山が噴火する。
1702(元禄15)年6月1日八戸で強震。
1703(元禄16)年4月22日関東で大地震。7月22日関東で大地震。
 11月23日関東で大地震。武蔵、相模、阿波、上総で津波。房総南部などでは震度7に達したとみられ、東海道宿場も壊滅。各地で数千人が死亡。伊豆大島の波浮池は決壊して海につながり波浮入江になる。28日にも地震。
関東地方南部の広い地域が揺れた。土地は二三寸、所によっては五六尺も割れ、石垣は崩落、塀は崩れ家蔵は潰れ、死者けが人が一時にでき、老若男女の泣き叫ぶ声は大風のごとく。所々から火事起きる。品川の海(東京湾)から大津波打ち上げ、浜へ逃げたもの、ことごとく波に巻き取られる。房総半島東端の犬吠崎から、伊豆半島南端の下田にいたる範囲は津浪に襲わる。安房小湊(あわこみなと)で570軒、御宿で440軒、下田で500軒流される。特に被害が著しかったのは震源となった相模湾周辺。小田原では地震によって家屋倒壊の後に焼失し、多人数亡くなる。小田原から箱根までの道筋には大石が転び落ちた。川崎から箱根宿まで潰家多数。宿場は残らず破損。江戸では地盤が強い大名屋敷は被害少なし。沖積低地(下町)被害甚大。この地震は相模湾(相模トラフ)に沿ってのプレート境界から。1923年の「大正関東大地震」に対し、「元禄関東地震」と呼ばれる。相模湾北部発生の大正関東地震規模はM7.9程度。元禄関東地震はM8.2程度で、元禄期のものがはるかに大きいという。このような地震がおおむね2300年前後の周期で繰り返されて房総半島の波食台を形成しているという。
元禄地震 (元禄関東地震)

 

元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.5と推定されている。元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。
大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。
江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)にはM 8.4-8.6(Mw 8.7-9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している。
地震動
元禄十六年癸未十一月二十三日乙丑の丑刻(二十二日甲子夜丑刻)(1703年12月31日午前2時頃)関東地方諸国は激しい揺れに襲われた。古記録には日付が「二十二日夜丑刻」あるいは「二十二日夜八ツ」と記されているものも多く、当時は一日の境界は厳密でなく、「夜丑刻」と現せば現代の暦法でいう夜半過ぎの翌日、丑刻の事を指す。
『楽只堂年録』には「今暁八つ半時希有の大地震によりて吉保・吉里急て登城す、大手乃堀の水溢れて橋の上を越すによりて供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出す、夜に入て地震止されば四つ時吉保、登城して宿直す」とあり、江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録されている。
尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には「丑二点地震。良久敷震ふ。而震返しあり。」とあり、名古屋において長い地震動があり、余震があったことが記されている。
また公卿近衛基熙の日記である『基煕公記』には「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている。
また、甲府徳川家に仕えていた新井白石は『折りたく柴の記』において「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記している。
本地震と同日、ほぼ同時刻に豊後でも強い地震があり、府内領で潰家、由布院で被害が著しかった。
被害
江戸では比較的被害が軽微で、江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。元禄地震では、地震動は箱根を境に東国で甚だしく西側は緩くなり、宝永地震では逆に箱根を境に西側で甚だしく関東は緩かったという(『金五郎日記歳代覚書』)。
上総国をはじめ、関東全体で12か所から出火、被災者約37,000人と推定される。地震7日後の11月29日酉下刻(18-19時頃)、小石川の水戸宰相御殿屋敷内長屋より出火、初めは西南の風により本郷の方が焼け、西北の風に変わり本所まで焼失した(『文鳳堂雑纂』、『甘露叢』)。この火災は地震後の悪環境下における二次災害とみられないこともないとされる。
この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録されている。
『楽只堂年録』に纏められた各藩の幕府への被害報告の合計では死者約6700人、潰家、流家は約28000軒となる。『楽只堂年録』には又、11月29日(1704年1月6日)、勘定奉行荻原重秀が曲淵伊左衛門、鈴木伊兵衛重武に江戸城周囲の破損箇所の修復の事を命じたことが記されている。
『片桐甚左衛門扣』には、11月29日の火災による被災者も併せて、地震火事による死者は211,713人と公儀之御帳に記されたとあり、他に地震火事による犠牲者数として、『鸚鵡籠中記』では22万6千人云々、『基熈公記』には26万3千7百人余のよし風聞に御座候とある]。
地殻変動
この地震による地殻変動で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。今村明恒によれば房総半島布良(現・館山市)4.7m(大正地震は2.0m)、野島崎5.0m(同1.8m)、三浦半島三崎1.6m(同1.4m)それぞれ隆起したという。また大磯付近も約2m隆起したと推定され、本地震は大正関東地震の震源域も包括していたと推定されている。また、松田時彦らの解析では江ノ島の隆起量は 0.7m程度とされている。
延宝元年(1673年)に描かれた房総半島南端の白浜町の絵図と明治17年(1884年)に測量され製作された地形図との比較から元禄地震前の海岸線は現在より約500m内陸にあり、また現在の地形図との比較から大正関東地震前の明治時代は現在より約100m内陸にあったことが判明した。この付近に見られる海岸段丘は最下部に大正関東地震によると見られる変位約2mで狭い巾の段丘の上部に元禄地震によると見られる変位約6mの巾も広い段丘が見られ、さらにその上部に狭い段丘数段と広い段丘の繰り返しパターンがあり、大正関東地震クラスの地震と、数度に一度、元禄地震クラスの特に規模の大きな地震が繰り返されていることが判明した]。
地震後に暴風雨による洪水を抑えるのが困難になったとする『基煕公記』の記述から本地震で江戸の海岸が沈降した可能性が高いとされ、これは大正地震で羽田から船橋に至る東京湾北岸が1 - 2尺(30 - 60 cm)沈降した事と共通している。
このような南上がりの地殻変動は1923年関東地震と同様であり、相模トラフにおいて北アメリカプレートが衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。ただし、トラフ軸の走向に対するフィリピン海プレートの南東→北西方向沈み込み方向の関係から相模沖-房総半島までの断層モデルは1923年関東地震と同様に右横ずれ成分を顕著に含む。
震源断層モデル
相模湾沖の大正地震の断層モデルに加えて、房総半島が著しく隆起していることから房総沖にもう一つ断層モデルを置くのが妥当とされている。さらに推定震度分布のインバージョン解析から、房総沖の震源域は1996年に発生した非地震性のすべり領域を包括しており、ここは短周期の地震波が発生しにくい領域であったとする説もある。
規模
マグニチュードは7.9-8.2と推定されているが、古文書による各地の記録に基づく推定震度分布に頼らざるを得ない歴史地震であり、また津波や地殻変動などから仮定される断層モデルなどによる推定であるからその数値は不確定性を含む。
河角廣は規模MK = 6.6を与え、これは M 8.2に換算されている。断層モデルによるモーメントマグニチュードはMw 8.1と見積もられている。また津波の規模から津波マグニチュード、モーメントマグニチュード共にMt 8.4、Mw 8.4とする推定もある。中央防災会議の首都直下地震モデル検討会による断層モデルではMw 8.5と見積もられている。
津波
相模灘から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。また、鎌倉では鶴岡八幡宮の二の鳥居まで津波が押し寄せ由比浜大鳥居が破損(『基煕公記』)、伊東では川を遡った津波が水害を及ぼしたという。津波は三浦で6 - 8m、九十九里辺りで5m、江戸湾(現在の東京湾)入り口の浦賀で、4.5mに達した。江戸湾内でも津波は影響を及ぼし、本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、横浜で3m、稲毛では3 - 4m、さらに隅田川の遡上も記録されている。九十九里浜では海岸から5Km程度内陸まで到達し、現在の白子町では1000人、長生村では900人を越える犠牲者があった。
また、2005年に行われた館山市の元禄地震で離水したとされる元禄段丘を調査対象としたジオスライサーによる掘削調査では、少なくとも6 枚の砂層の重なりがある。この、6 枚の砂層の周期的な重なりは粘土粒子が降下するのに十分な間隔を置いて堆積したと特徴を持ち、少なくとも6 回の遡上する流れが発生したことを示している。
伊豆半島東岸では一部遡上高が17mを越した所もあった。さらに北は釜石、西は土佐の須崎まで津波が届いた記録がある。
津波の被害状況
地域 / 推定波高・遡上高 (古文書の記録)
釜石 / 現・釜石市 / 相模小田原地方海嘯被害大、三陸地方余波をうけ、死傷あり『釜石小学校調査』
小名浜 / 現・いわき市 / 小名浜津浪打上大宝切通崩ル『内藤侯平藩史料』
九十九里浜 / 現・千葉県 / 上総九十九里ノ浜、大方ツナミニとられ人多死ル『谷合氏見聞録』/弐拾九里浜と申所沢山ニ肴ヲ取ル此所より肴上ヶ申所ニ而然る所ニ山ノ上迄津浪打上ヶ大船も山ノ上ニ而破損米船のよし『雞助編』 / 5-6m
御宿 / 現・御宿町 / 津浪者廿七年以前の浪より二丈余高しとなり『文鳳堂雑纂』/二十三日夜海嘯大に起こり洪濤陸に上り夷隅、長生、山武三郡の沿岸其の災に罹らざる所なく溺死者無慮数万に及べり『千人塚石塔碑文』 / 5-8m
房総半島野島崎・千倉 / 現・南房総市 / 千倉と申浦辺ゟ平郡・安房郡浦方地震津浪、以後湖汐差引無之、常々差引所ゟ八九町或は半道一里程も干潟に成『文鳳同雑纂』 / 8-10m
深川 / 現・東京都江東区 / 寅の初刻より海辺しきりに動揺し/海上波荒く高波丈に登り海上綿三町はかりも打そと見へし『震火記』 / 1.5m
本所 / 現・墨田区 / 三五尺水つかる / 2m
品川 / 現・品川区 / 品川海手より南、津波打上、品川より川崎之間、地破申候『月見堂見聞集』 / 2m
川崎 / 現・川崎市 / / 1.5m
野毛 / 現・神奈川県横浜市 / / 3-4m
浦賀 / 現・横須賀市 / / 4.5m
三浦半島 / 現・三浦市 / 大地震による津波により、全山悉く流失『建長寺誌』 / 6-8m
江ノ島 / 現・藤沢市 / / 8m
小田原 / 現・小田原市 / 其高さ十丈余の津波暗雲の如くにおほひ来り八里か内に打上たり『震火記』
宇佐美 / 現・静岡県伊東市 / 城宿ノ中央一町バカリノ丘ニタドリツキタル者ハ生命ノミハ助リシモ、遠ク峯、阿原田桑原部落ヲ目指シタルモノ二百人余人ハ、海岸ヲ距ツルコト数町ナラズシテ怒涛ニ追ヒツカレ男女数十人横枕ニ倒レタリ『宇佐美村誌』 / 9.4m
鎌田 / 現・伊東市 / 元禄十六年大津波祈祷震災犠牲者の冥福『津波地蔵石碑』 / 17.3m
下田 / 現・下田市 / 大地震津浪打寄家敷四百九十弐軒流失潰候『下田年中行事』 / 3m
仁科 / 現・西伊豆町 / 廿三日明ケ夜に大地震ゆり、津浪上り申候.『佐波神社享保二年丁酉歳建立棟札』 / 3m 4m
土肥 / 現・伊豆市 / 土肥、伊藤、うさみ、あたみは廿二日の夜、津波にて人家多没したり『梨本祐之手記』 / 3m
三保 / 現・静岡市 / 二十二日夜八ツ頃ヨリ申ノ正月マテ、家ノ前へ浪入ル、人々御宮へ逃ル『三保村誌』 / 2m
浜名湖口 / 現・湖西市 / 元緑年中地震津浪ニテ海上荒レテ風強キ時ハ浪高ク、渡舟ノ災多ク『舞坂町誌』 / 3m
渥美半島堀切 / 現・愛知県田原市 / 二十二日, 夜八ツ時地震、経月不止、海水張温、人多く死し、漁網、漁具流失す『常光寺年代記』 / 2m
名古屋 / 現・名古屋市 / 尾州熱田海のごときも一日に三度潮満『鸚鵡籠中記』 / 1m
尾鷲 / 現・三重県尾鷲市 / 慶長、延宝、元禄之頃も地震高浪有りトいへども人家を流シたる程の事も無之『念仏寺過去帳 宝永海嘯ノ記』 / 2m
高知 / 現・高知県高知市 / 所々湊口汐満干日数三日不定一日之間ニ四五度も曲ヒ不審する所に東国大地震『大変記』/同日土佐ハ浦戸野見須崎宇佐辺大潮『板垣氏筆記』 / 1m
八丈島でも「廿二日夜八ツ時大地震一時ホドユリタテ方モ知レス大キナルナリモノ致シ其上大波打揚ケ谷トケ原半分稲宮山弓手馬手打払ヒ蒔附タル麦芋アシタ損亡ス」と記録され、伊豆大島では、津波によって波浮池が海とつながったことが記されている(『八丈実記』)。
紀伊では「廿三日巳の刻(10時頃)津浪にて、奥熊野尾鷲組九鬼浦に□家有」の記録もある(『地震洪浪の記』)。
土佐でも安政南海地震に付いて記した『大変記』に「昔元禄十六癸未年十一月廿二日当国書所々湊口汐満干日数三日不定一日之間ニ四五度も曲ヒ不審する所に東国大地震小田原崩レ安房上総江津浪入死人夥敷」と津波により汐が定まらなかったことが記録されている。
風説
この年の2月(西暦3月)に赤穂浪士46人が切腹しており、浪士たちの恨みで起こった地震と噂された。元禄地震は社会不安を引き起こし、翌元禄17年(宝永元年)には虚説への取締を命じる町触が出されており、同3月には「宝永」への改元も行われた。
「寶永元申年三月   申渡之覚
一 旧冬地震ニ付、虚説申あるき候もの之儀ニ付、最前も町中為相触候処、今以不相止、頃日は揺狂哥等も作之、申触もの有之由相聞、不届ニ候、向後名主、家主心掛、左様之もの於有之は、早速捕之、月番之番所え可申出、若隠置、外より相聞候ハゝ、名主、家主、五人組迄可為越度候間、此旨急度可申聞置候以上」
なお、伊豆諸島の新島では津波で島が分断され、現在の式根島ができたという風説が流布されているが、これは明治期に式根島の帰属を巡り新島の島民が言い出した創作であり、新島村の村史でも創作であると断定している。
元禄地震の被害と関東大震災
元禄地震の江戸と関東大震災の東京は、ほぼ同じ揺れに見舞われたと考えられている。しかし、その死者数は、関東大震災がはるかに元禄地震を上回る。二つの地震を比較し、大きな死者数の差が生じた原因を解説する。
震災は地震が引き金となって人間が起こすもの、つまり震災の大きさには、震源の条件だけでなく被災する人間側の条件が大きく影響している。1923(大正12)年の関東大震災は、首都東京が史上最悪の被害を被った自然災害である。その理由を220年前に発生した元禄地震と比較することによって考えてみよう。元禄地震は関東地震と同様に相模トラフで発生する海溝型巨大地震であったと考えられている。
元禄地震は元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)の未明に発生した。地震の規模はマグニチュードM7.9〜8.2とされ、1923(大正12)年の関東地震(M=7.9)よりやや大きい。図1に震度分布の比較を示す。元禄地震に対しては、古文書に記載されている限られた被害や揺れの情報から震度を求めているために地点数が少なくなっているが、それでも神奈川県南部や房総半島南端では互いによく似た分布をしていることが分る。
   図1 元禄地震と関東地震の震度分布の比較
次に2つの地震の被害を比較する。表1は元禄地震の被害集計、表2は関東大震災の集計である。死者数に着目すると、まず元禄地震で大火災が発生した小田原を含む小田原藩領では、対応する足柄下郡と足柄上郡での関東大震災の被害の合計値に比べほぼ同じ程度であったことが分かる。さらに甲府領と山梨県、駿河・伊豆と静岡県でも、住家の全潰数も含め両者の死者数はほぼ同じオーダーであったことが分かる。
   表1 元禄地震の被害集計
   表2 関東大震災の被害集計
一方で、死者数が明らかに異なるところもある。一つは房総半島で、元禄地震の方が関東大震災の千葉県に比べてはるかに多い。これは元禄地震の震源断層が外房沖まで伸びていたために、九十九里浜などでの津波が高かったことによる。
元禄地震における江戸と関東大震災の東京とでは、震源断層の位置から考えてほぼ同じような揺れに見舞われたと考えられる。それにも関わらず元禄地震による江戸の死者数は関東大震災の東京のそれに比べてはるかに少ない。もちろん、元禄地震で判明している江戸の被害が史料の欠落などによって過少評価されているという可能性は完全には否定できないが、直後に火災も発生せず、幕府が江戸市民に救済令を出したという記録がないことも事実である。ちなみに当時の江戸にはすでに70万人もの人々が暮らしていた。
元禄地震の10年余り前の1689年(元禄2年)に出された「江戸図鑑綱目」という地図がある。この地図を見ると隅田川の東側の本所方面では黒釘(黒く塗られた状況)が目立ち未だに町名が刻まれていないところが多い。本所が町奉行所の管轄支配下にはいるのは1690(元禄3)年のことであり、深川はさらにそのあとであろう。つまり隅田川の東側の本所、深川には元禄地震当時いまだに湿地帯の名残が強く、ほとんど人が住んでいなかったようなのである。
そこで関東大震災の東京市15区の被害を隅田川の西側の13区と東側の本所、深川の2区に分け世帯数単位でまとめてみた(表3)。人口は西側が166万人、東側が42万人である。一方、全潰率を見ると西側が4.9%であるのに対して東側は18.4%に達し、隅田川の東側では地盤が軟弱で強い揺れが生じ、多くの家屋が全潰したことが分かる。仮に元禄地震の頃と同じように本所、深川にほとんど人が住んでいなかったとすれば、関東大震災による死者数はほぼ西側のみの1万23人となる。さらに住家の全潰によって延焼火災が多数発生した本所、深川で火災が発生せず、飛び火などによって他地域に延焼拡大しなかったとすれば、元禄地震の時のように目立った火災が無い状況になっていたかもしれない。そう考えると死者数は圧死者のみの1489人となる。さらに人口比を考慮すれば関東大震災の死者数は628人にまで減少し、元禄地震で判明している死者数の340人でもおかしくないという結果になってしまう。
   表3 関東大震災の東京市15区の被害
元禄地震以降、江戸は膨張を続け、葦の生い茂る湿地帯も開拓され、科学技術の進歩によって、大規模な埋め立て工事や堤防工事も可能になって、多くの人々が隅田川の東側に住むようになった。それから220年が経過した時に、関東地震が起こり、耐震対策を施していない木造家屋を軟弱地盤で増幅された強い揺れが襲い、多くが全潰しさらには延焼火災の発生を招いて6万9000名もの人々が命を落とすという結果となってしまった。その兆候はすでに70年前の安政江戸地震の時にも表れていたにも関わらず、その後も十分な都市改造がなされないままに人口集中を続け、その日を待つに至ったのである。
              深川 界隈 
                     
    
   芝・高輪 界隈
          「江戸切絵図」より 嘉永2−文久2 (1849-1862) 刊行
東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東(1703)、安政東海(1854)
 津波とその他の津波の遡上状況
1. はじめに
元禄関東地震(1703 年12 月31 日)、安政東海地震(1854 年12 月23 日)は大規模な津波を伴い、それぞれ南関東と東海地方沿岸に大災害をもたらしたことが知られている。筆者らは関東大地震50 周年を契機に、南関東の津波記録を集めて概況を示した。その後、新収日本地震史料をはじめ、房総半島の津波史料が多数収録されてきた。また神奈川県防災消防課(1984)では、県下で元禄・安政津波と1923 年関東地震津波の現地調査を行った。
一方、筆者[羽鳥(1975、1976、1984)]は、房総半島・伊豆半島各地の津波記録や伝承を手掛りに、津波の痕跡高を現地調査してきた。本文では、以上の文献をふまえ東京湾・浦賀水道沿岸における元禄・安政津波の高さを1923 年関東地震津波などと比較し、湾内の津波特性を再検討してみる。
2. 津波史料と検潮記録例
東京湾・浦賀水道沿岸における1703 年元禄関東津波と1854 年安政東海津波の状況について、新収日本地震史料から主な記録を拾い出して表1 と表2 に示す。各地の津波高(平均海面上)は、地盤の高さをふまえ浸水状況から推定値を示す。なお比較のために、1923 年関東地震津波について、検潮記録の全振幅値または痕跡高を付記した。
a 1703 年元禄関東津波(図1、2)
元禄地震(M8.2)は12 月31 日の深夜2 時ごろ房総南部沖で発生し、相模湾岸・房総九十九里浜が大被害に見舞われた。津波マグニチュードはm=3 と格付けられている。東京では隅田川へ遡上し、本所・両国・深川で道路上に溢れ、1.5m と推定される。品川や千葉県浦安・船橋も町内へ遡上しており、2m 程度あったであろう。野毛(横浜)では流失家屋があり、津波高は3-4mとみなされる。湾口の浦賀では町内や田畑に浸水し、津波高は4.5m であった。目視記録から、長周期波であったようだ。間口(三浦市)では町内へ200-400m 遡上しており、6-8mと推定された。
一方、南房総の津波高はさらに上回り(図3)、上総湊〜館山間では5-10m に達し、外房沿岸と同じように突出している。
b 1854 年安政東海津波(図1、2)
安政東海地震(M8.3)は、12 月23 日9 時ごろ遠州灘で発生した。大規模な津波を伴い、静岡・愛知・三重県沿岸に大被害をもたらした。津波伝播図によると[羽鳥(1984)]、伝播時間は三浦半島西岸で30 分、南房総では35 分になる。
東京では、隅田川河口の浜町河岸(中央区)や深川(江東区)に溢れ、山谷堀(台東区)にも上がり、船が破損した[宇佐美(1976)]。浦安では、境川が溢れたとある。津波高は1m 程度と推定され、元禄津波より下回る。神奈川県下では生麦(横浜)で海岸に上がり、1-2m とみなされる。浦賀では床上浸水があり、3m と推定された。また外房の鴨川で町内広い範囲に遡上しており、3-4m に達した。これは、屈折効果で増幅されたのであろう。なお、内房沿岸の津波史料は見出されていない。
c 検潮記録例
1923 年9 月1 日の関東地震(M7.9)に伴う津波(m=2)は、鎌倉・熱海・伊東など相模湾沿岸に大きな被害をもたらした。図4 には、東京区内と千葉市における検潮記録を示す。各地の全振幅値は芝浦130cm、深川80cm、呉服橋50cm、千葉110cm、周期は約60 分である。幸い干潮時の津波であったので、市街地の影響は免れた。そのほか、横須賀の全振幅値は160cm であった。
1944 年12 月7 日13 時35 分、熊野灘で発生した東南海地震(M8.0)による津波(m=2.5)は、関東地方でも観測され、図5 に東京(築地)・横須賀・布良の検潮記録を示す。全振幅値は東京50cm、横須賀95cm であり、布良では280cm と屈折効果で大きく増幅されている。東京では湾のセイシュが励起され、70 分の長周期波であった。
3. 波高分布
以上の波高データをもとに、東京湾・浦賀水道沿岸における各津波の波高分布を図6 に示す。ここで左図に東京都・神奈川県側、右図には千葉県側の波高分布を示す。分布パターンは各津波とも共通しており、浦賀水道に面した三浦・房総半島の波高が大きく、湾奥に向かって減衰している。元禄津波の高さは両半島の先端付近で8-10mに達し、湾奥の東京・浦安で1.5-2m になる。安政東海津波では浦賀で3m、横浜〜東京間では1-1.5m であった。なお、1923 年関東地震津波では、房総先端付近の相浜で8m に突出したが、浦賀水道両岸で3-5m、東京・千葉では1m であった。
一方、南米チリで発生した1960 年チリ津波は、地震から23 時間後の5 月24 日未明に日本に到達し、太平洋沿岸各地に大きな被害をもたらした。検潮記録によれば、40-50 分の長周期波であり、各地の全振幅値は布良・久里浜で240cm、東京湾内では約1m で一様な高さであった。
4. 津波伝播時間
1923 年関東地震津波の波源域は、相模湾から房総半島中部に横たわった。津波は横須賀で地震と同時に観測され、東京・千葉での伝播時間は約30分であった。元禄津波の伝播時間も、湾内ではほぼ同じであったと推測される。
熊野灘で発生した1944 年東南海津波の伝播時間は、布良で45 分、横須賀60 分、東京では120分であった(図5)。東京湾内における1960 年チリ津波の津波初動はやや不明瞭であるが、5 月24日未明、布良で02 時38 分、横須賀02 時50 分、東京04 時00 分と読み取れる。
図7 には、湾口の布良を基準にとり、東南海津波とチリ津波による各地の伝播時間分布を示す。ここで曲線は、東京湾南北の中心線上の平均水深における長波の伝播時間であり、沿岸の観測値と比較して示す。その結果、両津波とも伝播時間はほぼ理論通りになり、布良から東京・千葉までの伝播時間は約70 分になる。
5. むすび
東京湾・浦賀水道沿岸における元禄関東津波・安政東海津波の状況を、1923 年関東地震津波などと比較検討した。両津波は湾内で顕著に減衰するが、東京では隅田川河岸に溢れ、船が転覆して死者も出ている。市街は地震災害と複合して混乱したことであろう。東京での大正津波の周期は約60分であり、元禄・安政津波も長周期波であったようだ。元禄・大正の地震津波は東京湾内では直下型であるが、遠方の津波が浦賀水道に入射すると、湾口の布良から東京までの伝播時間は約70 分になる。
東京での津波高が、2m を超える可能性は低いであろう。しかし長周期波が道路に上がれば、漂流物が交通障害になる。また地震で河川堤防や水門が決壊すれば、標高ゼロメートル地帯が長期間冠水する恐れがある。津波シミュレーションによれば、東京港内の台場・有明の水路で、流速が2-3m/s に達する試算がある。船舶の避難対策が課題になろう。 
 

 

1704(宝永1)年1月1日浅間山が噴火。
 4月24日秋田で大地震。
 前年より浅間山噴火続く。降灰あり。
1705(宝永2)年12月桜島噴火。
 12月15日霧島山が噴火する。堂塔寺家焦土と化す。
1706(宝永3)年9月15日関東で大地震。江戸城内石塁多数倒壊。
 10月16日浅間山噴火。
 10月大坂で地震。
1707(宝永4)年10月4日東海から九州にかけて大地震。太平洋沿岸で11回の大津波。土佐、大坂で被害甚大。死者42500人とも言う。
「元禄関東地震」の四年後、南海トラフの全域で、プレートが一気に破壊された。「東海地震と南海地震が同時に発生」した。「宝永地震」と呼ばれる。太平洋に接した浜松城下では、潰家71軒、半壊28軒、大破52軒、小破48軒の被害。「明応東海地震」のとき浜名湖と海がつながった今切では渡船が被害を受け通行不能。四国では高知城下の被害が、流家一万一千百七十戸、潰家千七百四十二戸、死人1844人。太平洋沿岸の集落は大津波に流され、古文書には全滅を意味する「亡所」の二文字がある。この地震で、城下の周囲六・七里の大地が七尺ほど低くなった。反対に津呂・室津のあたりは七・八尺高くなった。神社の階段全42段のうち下から39段までが津波に浸かった。愛媛の道後温泉は145日間湯が出なくなった。讃岐(香川県)では五剣山の東端が大音響と共に崩れ落ちた。火事が発生しほとんどが焼けた。この地震では、大阪湾にも津波が押し寄せ、市街の川や堀をさかのぼり、道頓堀の日本橋(にっぽんばし)まで、迎船六・七十隻が沈没、50石、70石の舟は大船に押し倒されたが数は無数。日本橋(にっぽんばし)西の橋が落ち堀江川で橋が落ちた。安治川筋では堂島田蓑橋まで落ちた。鰹座は死人が夥しかった。尾張藩御たたみ奉行・朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』に詳しい体験談が記されている。「揺れが収まらないので裸足で庭に飛び降りたところ、地震が倍の強さになり、書院の鳴動が夥しくなった。木々はざわめいて大風が吹くようで、大地は揺れて歩くことができない」、などとある。「ようやく鎮まり座敷に上がると、三の丸が火事になっていた。手酌で三杯酒を飲んで、急いで帰宅し両親と家内の安否を確認してから城に向かった」、という。地面が割れ、泥水が噴出した。寛文二年の地震(近江・若狭地震)より激しく長かった。「他の資料」土佐の国では高潮が城下まで侵入、紀州の尾鷲町では家、千軒余が流れ男女が残らず死んだ。大阪では川口にあった数百隻の大船が津波で道頓堀芝居下や日本橋の下まで押し寄せた。
 10月28日周防・長門で大地震。
 11月23日富士山大噴火。麓の須走村は焼滅し他の村も作物などの被害で飢餓状態となる。江戸でも大量の灰が降る。
富士山の山頂から南東方面に下った位置にある宝永火口から噴火、すべての村々が火山灰に埋もれた。新井白石の『折たく柴の木』に詳しい。江戸でもすべてが火山灰で白くなった。
1708(宝永5)年1月富士山噴火で、相模・駿河に灰が降る。
 11月28日浅間山噴火。灰が周辺の国に降る。
1709(宝永6)年1月4日阿蘇山噴火。泥逆上す。三日続く。
 3月14日三宅島噴火。
 8月5日北国で大地震。津軽、信州、秋田等で強く震動。
1710(宝永7)年3月15日浅間山、三宅島噴火。
 8月20日会津地震。舎屋倒壊多数。
1711(正徳1)年2月16日浅間山噴火。
 11月2日播磨姫路で大地震。山崩地裂あり。津波で人家多く流出。
 12月28日三宅島棣棠の沢噴火する。阿古村が泥水で被害を受ける。
1714(正徳4)年3月15日信州で大地震。松本が特に激震。潰家33、死者57人。上州堺津で津波あり。
1716(享保1)年2月18日霧島山が噴火。八重川増水し、死魚が流れる。9月26日霧島山西岳大爆発。大被害をもたらす。12月26日霧島山噴火。
1717(享保2)年1月3日霧島山噴火。134戸が倒壊し、死傷31人。8月15日霧島噴火で近郷の田畑数十里が埋没。
 8月19日浅間山噴火。
1718(享保3)年7月26日飯田、伊那、伏見、淀で地震。長野県南部の天竜川沿いを強い地震が襲った。下伊那郡南信濃村(現・飯田市)と天竜村に大被害が生じ、石垣や建物は倒れ、直後に山崩れに襲われた。和田宿では、背後の盛平山(せいへいやま)の西端が崩れ落ち川をせき止めた。上流側に生じた湖は、しばらくして決壊、濁流が下流地域を襲った。家々の損傷が酷かった。
 9月3日浅間山噴火。
 9月12日信濃で大地震。飯山城大破。民家多く倒壊。
1719(享保4)年1月岩手山噴火。北麓へ溶岩流出。
1720(享保5)年5月1日浅間山噴火。
1721(享保6)年5月28日浅間山噴火。関東の者16人、石に当たり15人が死亡。
1722(享保7)年8月14日東海道で海嘯。
1723(享保8)年1月1日浅間山噴火。7月20日浅間山噴火。
 11月20日九州で大地震。
1725(享保10)年7月7日江戸・信州で大地震。
 9月25日長崎で大地震。昼夜に80余回起こる。
1726(享保11)年2月29日越前勝山で津波大風。人畜溺死多数。
 3月14日越前で大地震。470余人死亡。
 3月19日越前弁慶ヶ岳で地震。大河が堰止められ洪水。
1728(享保13)年10月9日浅間山噴火。
1729(享保14)年7月7日能登鳳至郡で大地震。輪島で300余戸損壊。
 10月浅間山噴火。
1730(享保15)年1月24日対馬で大地震。
1731(享保16)年9月7日福島県北東端から宮城・山形両県にかけ強い地震が発生。激しく揺れた桑折(こおり)では、仙台・山形方面に向かう84の橋が落ち300余の家屋が倒壊した。小原温泉が土砂に埋った。
 12月25日岩手山噴火。溶岩流出。
1733(享保18)年6月20日浅間山が大噴火。前掛山残らず割れる。
 8月11日広島で大地震。奥郡で被害多数。
1736(元文1)年3月仙台で大地震。
1739(元文4)年7月14日蝦夷松前で山崩れ。震動は津軽に及ぶ。
1740(元文5)年2月1日江戸で大地震。
 5月鳥海山が噴火。硫黄明礬の気が渓流に混入し、田地作物が損失。4、5年間河水に魚見ず。
 7月19日松前海嘯。人家多数流出。死者多し。
1741(寛保1)年7月19日蝦夷渡島大島の江良岳が早朝爆発。大津波が発生し、松前藩領などで死者1467人以上。791戸が流出し、152隻が破損する。津波は佐渡にいたり、東北地方で8人が死亡し82戸が流出する。
1742(寛保2)年3月2日8日にかけて桜島噴火。
1744(延享1)年8月江戸芝で海嘯。家屋多数倒壊。死者多数。
1746(延享3)年4月24日江戸で強震。家屋多数破損。
1747(延享4)年4月24日京師で大地震。
1749(寛延2)年4月10日広島で大地震。
 桜島噴火。
1751(宝暦1)年2月29日京で大地震。余震続く。人家土蔵多数破損。余震7月まで続く。
 4月25日越後高田で大地震。1日30余回。城下で大被害。死者千とも16300ともいう。
1752(宝暦2)年2月25日会津で地震。
1753(宝暦3)年1月9日京師で地震甚だし。洛中築地破損多数。
1754(宝暦4)年6月19日浅間山噴火。煙、地に這い作物を害する。秋過ぎまで度々噴火。
1755(宝暦5)年4月10日地震により日光山奥院が崩壊。
1756(宝暦6)年7月晦日近江・大坂などで大地震。8月3日大坂で大地震、火災。
 桜島噴火。
1757(宝暦7)年6月26日安芸で洪水と高潮。27118戸が被害。
1762(宝暦12)年7月16日伯耆大山爆発。激水湧出し、100余人が死亡。
 12月16日八戸で大地震。被害多数。
1763(宝暦13)年1月27日八戸で強震。家屋土蔵破損多数。
 7月9日以降1769年にかけて三宅島噴火続く。
1764(明和1)年 阿蘇山噴火。
1766(明和3)年1月18日陸奥で地震。
 1月28日陸奥北部で大雪のなか大地震。翌日までに17回。津軽藩領内の死者1240余人。津波で7500戸流出、1335人が死亡とも言う。
酉刻 青森県弘前付近から津軽半島一帯を巻き込む地域が激しく揺れた。倒壊した人家は5490余、圧死者は千余人、火事で焼死したものは300余人、死んだ馬は440頭と『津軽藩史』に記録がある。弘前藩の『封内事実秘苑』には、雪が深い寒い時期だが、此日は寒さが和らぎ春めいていた。六つ時、北西の方向から鳴動し、百千の雷のようで、大地が動揺し、しばらく止まなかった。怪我で死傷したものが夥しく、家ことに幼少の女童たちの悲鳴や号泣する声がかまびすしく、鶏犬猫の類までが東西に駆け走った。そのうち潰屋から出火、四方に火の手が上がった。地面が割れて砂が押しあがった。地面の割れ目に子供が埋り込んだことを聞いた。沖積低地では、液状化現象が顕著だった。津軽平野の東縁に沿って南北に延びる津軽山地西縁断層帯から生じた可能性が高い。
 2月8日弘前で地震。家屋破損多数。人馬死傷多数。
 3月28日 津軽地震:M6.9の地震。死者約1500人。
1767(明和4)年7月19日尾張・三河で洪水と山津波。
1768(明和5)年12月蝦夷宇須岳噴火。
1769(明和6)年7月28日豊後と日向で大地震。日向高鍋城と延岡城が破損。
1771(明和8)年3月10日琉球諸島で地震。揺れに比べ巨大な津波が八重山諸島を襲う。石垣島は島の4割が洗われ、また水納島は全滅。死者総数2548人とも。その後、飢餓疫病が頻発し、八重山地方の人口は激減、回復に150年間かかる。波高は記録によれば最高85.4mに達する。沖縄県の石垣島を中心とする八重山諸島に大津波が押し寄せ、死者・不明者が一万二千人に達した。地震動による被害はなく、東方沖海底で発生したM7クラスの津波地震と考えられる。
 5月2日江戸で大地震。6月2日江戸で大地震。
1773(安永2)年6月初旬、越後高田で地震。
1777(安永6)年7月29日三原山噴火。積灰4、5尺。
 9月10日安房・相模・伊豆で海が溢れ、民家破損多数。溺死者多数。
1778(安永7)年1月18日三備地方で地震。余震数十回。
 3月17日三原山噴火。
 6月肥後で大津波。船舶家屋多数破損。
 10月三原山大噴火。溶岩流出。
1779(安永8)年2月阿蘇山御池が噴火。降灰。
 9月29日大隅で地震。桜島噴火する。
 10月1日桜島大爆発。9つの島が生成する。大坂でも降灰。薩摩藩内で死者150余人、全半壊500戸。2万石が被害を受け、牛馬2000頭が死ぬ。
 11月10日魚沼地方で大地震。
1780(安永9)年4月ウルップ島で地震津波。
 6月19日秋田で地震。
 7月青ヶ島噴火。島民避難する。
1781(天明1)年4月青ヶ島池ノ沢より噴火。焦砂耕地を埋没す。
1782(天明2)年7月14日江戸で翌日にかけて大地震。被害甚大。
1783(天明3)年3月9日伊豆青ヶ島噴火。
 6月8日八丈島噴火。
 7月8日浅間山大爆発。溶岩と火砕流で麓の鎌原村が壊滅し、土石流が川をせき止めて後に決壊洪水。利根川・江戸川に瓦礫や死体が流れる。降灰は10余国に及び、また泥雨が降る。江戸も大量の降灰。成層圏への噴出物により北半球全土で異常気象。この影響で天明の大飢饉が拡大する。溶岩は後に「鬼押出し」と呼ばれる。
1784(天明4)年1月19日蝦夷渡島駒ヶ岳噴火。
1785(天明5)年3月10日青ヶ島噴火。島民327人の内130〜140人が焼死し、島は焦土と化す。残りの島民は八丈島へ移り、以後50年間無人島となる。
1786(天明6)年2月21日箱根山で大地震。二子の山崩れ、温泉破れて人畜死傷。数日余震。
 11月17日金沢で60年来の激震。
1789(寛政1)年 伊豆大島噴火。
1790(寛政2)年6月23日翌日にかけて松本で地震。破損数カ所。
1791(寛政3)年8月14日桜島噴火。
 8月20日尾張沿岸で海嘯。
1792(寛政4)年1月18日島原温泉山噴火。以後噴火続く。
 4月1日雲仙で地震。前山が崩壊し津波で島原一帯と対岸の熊本、天草藩領に大被害。死者15433人。
雲仙普賢岳が不気味な活動を始めた。前年10月頃から地震が続き、頂が崩れ、年が明けた寛政四年(1792)深夜、轟音と共に噴煙が立ち昇った。
2月になると、中腹から赤茶けた溶岩が流れ出し、炎が空を焦がした。3月1日(旧暦)深夜に大きな地震によって前山の斜面が崩れ、城内でも地割れが生じ、領民たちの間に動揺が広がり、近隣の各村へ避難する者が相次いだ。5月21日午後6時頃(旧暦4月1日酉刻)はるかに大きな地震(M6.4程度)が二回続き、大音響と共に前山が大きく崩れ落ちた。海より波が打ち寄せ、城の下の数千の町屋、神社、仏閣がひとつも残らず、つかの間に押し流し、人はみな波に溺れて死する。標高700mにおよぶ前山の南東部(天狗山)で、幅1kmの範囲が崩れ落ち、土塊が島原城下町を巻き込みながら有明海に流れ込んだ。島原湾は地中に埋り、海面には九十九(つくも)島とよばれる流山が点々と頭を出した。城下は目を覆うばかりで、人々は家屋や木材に挟まれ、あるいは土に埋った。怪我人が多く手のうちようもなくやがて息を引き取ったという。有明海に流れ込んだ土塊は海水を圧迫し、対岸にあたる肥後藩の海岸を襲う大津波となった。犠牲者数は4653人とある。島原藩で一万余、肥後藩で四千数百の命を奪った大惨事は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた。なお、二百年の歳月を経た1991年に普賢岳が活動、同年6月3日の大規模火砕流により、報道関係者など40余名が犠牲となった。
 4月24日蝦夷後志で地震。津波がある。
1793(寛政5)年2月17日 寛政宮城県沖地震:M8.2の地震。死者12名。
 2月22日岩木山噴火。
1797(寛政9)年 桜島噴火。
1798(寛政10)年5月25日加賀で地震多発。圧死者多数。
1799(寛政11)年2月22日桜島噴火。
 5月26日加賀で大地震。城内外の石塁、塀、墻、家屋倒壊多数。
金沢城下が地震に直撃された。加賀藩の町奉行の日記『政隣記(せいりんき)』によると、大山が崩れるように鳴動し樹木は幣を振るようになり、家はさまざまな方向へ傾き、屋根に重石としておいた「屋根石」は一尺(30cm)ほど飛び上がり、地面は大波のようにうねった。煙草を三服吸い込むくらいの短い時間だった。築山の石灯籠は六尺ほど飛び上がり、落ちるときは四方に飛び跳ねた。上下動が顕著だった。その他多くの記録があり、丈夫な金沢城の石垣は堀へ崩れ落ち、残った石もはみ出して無残な姿をさらした。地滑りに伴う地割れが続き、門から下へ通じる坂道は亀甲(きっこう)のように、ひび割れた。この他多くの場内にあった長屋(下級武士の住居)が残らず倒れた。城下では数々の沖積層に建つ家々が倒壊、多くの土蔵が水路に落下した。金沢城のある台地では崖側の家々が犠牲となり、多くの家が崖下に落ちた。崖下では幅三尺余りの地割れから噴き上げた水が一丈(約3m)もの高さに及んだ。郊外では多くの集落が、地滑りや液状化現象による被害をこうむった。黒津船神社では一家が全滅したが、幼い子を抱いて逃げ出した妻は九死に一生を得た。石川県埋蔵文化財センターが調査した金石の普正高畠(ふじょうたかばたけ)、遺跡では最大幅30cmの砂脈が発見されたという。当時の地面からの深さ約1mに堆積していた砂礫層が流れ出し、江戸時代中期の地層を引き裂き、江戸時代末期の地層に覆われていたという。 

1800

 

1803(享和3)年3月4日江戸で大地震。
 10月1日伊豆大島噴火。翌日江戸に降灰。
1804(文化1)年6月4日出羽で大地震。硫黄臭の泥が吹き出す。山崩れと堂舎崩壊多数。西の松島と呼ばれた景勝地象潟湖が隆起し陸上に。死者400人、家屋8000戸が倒壊する。ふと大地が二三尺持ち上がったように感じた。地震かな?と思う間もなく激しい揺れが襲ったが、前の揺れより百倍を超す激しさ、前後を忘れ、まるで夢の中にいるようだった。町中の多くの人が寝入っている頃で、多くの家が潰れた。外へ逃げようとしても一歩も動けず、酒に酔ったようだったという。そばに居る子供や親を助けることもできず、多くは潰れたい絵の下敷きになり、家から逃げたものは稀だった。太陽が東の空を明るくするころ、人々の目の前に信じられない情景が広がった。象潟に浮かんだ無数の島々が一気に持ち上がり、一面の泥沼と、その中に点在する丘と化していた。村々の新田開発による造成地では砂が吹き上がって地面を埋めた。また半潰れとなった。川を遡って津波が入り込んで一面水浸しとなった。広大な田んぼが傷み、地盤が裂けて悪臭を放つ泥土が噴きだした。後世、東北大学の研究者は、この地の南北25km以上の範囲が隆起、象潟付近の海岸も1.8m持ち上がったことを証明した。海岸に沿う活断層が活動し、M7.1程の地震(象潟地震)を引き起こした。
 7月10日 象潟地震:M7.1の地震。死者約500人。
1806(文化3)年7月17日阿蘇山噴火。
1809(文化6)年2月21日24日にかけて松本山中鳴動。南北500余間、東西900余間の地裂あり、家屋田畑窪み落ちる。
1810(文化7)年1月1日佐渡大地震。連日やまず。
 8月27日出羽で大地震。男鹿郡内189戸が倒壊し、61人が死亡す。
1811(文化8)年1月3日伊豆山噴火。
1812(文化9)年11月4日関東で大地震。神奈川−程谷2駅で被害甚大。家屋多数倒壊。
1813(文化10)年薩摩諏訪瀬噴火。島民全員避難し、1883年まで無人島となる。
1814(文化11)年11月12日越後で大地震。家屋破壊無数。火災あり。死者3万余。牛馬6000余死亡。
1815(文化12)年1月22日加賀で大地震。小松城大破。
 5月阿蘇山噴火。
1816(文化13)年11月2日伊豆松崎津波。民家漂失多数、死者多数。
1819(文政2)年6月12日伊勢・美濃・近江・加賀・山城で大地震。濃尾平野から琵琶湖周辺を含めた広い地域が大きく揺れた。被害が大きかったのは、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)に沿う輪中地域(わじゅうちいき)だった。『文化秘筆』の記述によると、桑名に近い香取村(現・桑名市)の40軒ほどの家がすべて微塵となった。海寿寺ではちょうど法談を聞くため数万の人出があったが、寺の建物が崩れ、75人が即死。怪我人は数え切れぬほどであった。土蔵や建屋の破損はもちろん、大地には泥土が噴出した。伊勢湾沿岸の四日市では、中町、河原町、西町の土蔵の瓦が落ち、地中から泥水が三・四尺ほど噴き上がった。彦根では、105軒の家があり、そのうち70余軒が崩壊した。
1821(文政4)年3月29日蔵王山が噴火する。
 11月19日奥州で大地震。家600余戸倒壊。人馬死傷多数。翌月12日には収まる。
 12月20日霧島山が噴火する。
1822(文政5)年1月4日奥州で地震。去冬よりも甚し。閏1月16日19日にかけて奥州で地震150余回。
 閏1月19日有珠山が噴火する。火砕流で虻田集落が全滅し、死者50人負傷53人。
 6月12日畿内で地震。江川八幡被害。
1824(文政7)年1月1日土佐で大地震。
1826(文政9)年春と秋に江戸で地震頻発。
 9月2日阿蘇山噴火。
1828(文政11)年11月12日越後で大地震。三条・見付が壊滅し、少なくとも1443人が死亡(3万余とも)。  
越後の出雲崎出身の良寛和尚は、そのとき71歳だったが、突然の地震に遭遇し、被害が酷かった三条まで足を運んだ。言語に絶する惨状を眼にし、「かにかくにとまらぬものは涙なり人の見る目もじのぶばかりに」と詠んだ。このときに作った漢詩では、この40年間、人倫の道を軽く見て、太平を頼んで人の心がゆるんだことが天災を招いた、としている。雪の降り積もる中で、突然、雷のような地響きと共に大地が激しく揺れた。家並みが将棋のコマのようになぎ倒された。良寛も体験した三条地震である。ちょうど年の瀬を前にした「市」の日に当たり、三条では、早朝から煮物をして火を使っていた。煮売り店の五ヶ所をはじめ、十三ヶ所から燃え広がった炎は、町全体を一気に覆った。仏閣なども残らず消失し、迫り来る猛火は三里四方に広がった。民家や蔵など約500軒が全潰、1062軒が消失、205名が命を落とした。周辺の「燕市」でも全潰269軒、死者221人、「見付(みつけ)」では全潰545軒、死者127人、与板(よいた・現・長岡市)では全潰263軒、死者34人、長岡で潰屋三千数百、死者442人、という大災禍となった。活断層から発生した内陸地震だったが、活動した断層は特定されていない。信濃川に沿う沖積低地では、広く液状化現象が起き、畑に生じた三四尺、一丈の割れ目から黒砂混じりの水が噴出、畑は水面となった。信濃川流域をはじめ、この地域では平安時代から液状化現象の記録や、遺跡が多いという。
1830(天保1)年7月2日京と山城で地震。倒壊多数、京で死者280人。8月20日まで昼夜余震続く。京都北西部で、中規模(M6.5)程度の地震が発生した。石垣、塀、築地などが多く倒れ、京都の死者は約280人だった。この年は不作が続き、「天保の大飢饉」で多くの人が餓死した。
 7月2日阿蘇山崩壊し、人家田畑壊滅す。津波あり。
1831(天保2)年2月1日京大坂亀山で地震。8日、16日にも地震。5月8日畿内で地震。16日にも地震あり。
 7月浅間山噴火。頂上が崩壊。熱湯が噴出し、3、40里を浸し、流出家屋、死傷者多数。
1832(天保3)年11月22日江戸で大地震。
1833(天保4)年10月26日出羽・越後・佐渡で大地震。庄内地方で被害甚大。死者約100人。
1834(天保5)年1月1日西蝦夷石狩で地震。81戸全半壊。北海道の石狩平野が激しく揺れた。『天保雑記』によると、「西蝦夷地の内イシカリと申すところ、当正月朔日(1日のこと)巳の刻過ぎより地震強、2月22日(旧暦)」迄、日々地震にて、地割れ泥、噴き出、(中略)破損。との報告があり、蝦夷人の家を含む多くの建屋が損壊した。
 4月8日富士山大荒、近国震動す。
1835(天保6)年6月26日仙台で大地震。津波あり。流出家屋、死者多数。
 9月21日雄山噴火。
1843(天保14)年3月26日明け六つ頃 北海道南東部の海岸へ大津波が押し寄せた。『松前家記』には「国後、根室、厚岸・釧路地方が大いに揺れ、海水が陸に溢れ、溺死するもの四六人。家を壊さる75戸。船を破る61艘。番所や蝦夷人の家は津波によって一軒残らず流れ去った、と、強い揺れと津波が記録されている。十勝沖のプレート境界から発生した巨大地震。その後に近代の調査により、17世紀にも十勝沖から根室沖にいたるプレート境界で大きな地震が発生、最大波高10mを超える津波が押し寄せたことが明らかになっている。
 4月25日 十勝沖地震:M8.0の地震。
1844(弘化1)年2月2日越後今町で海嘯。
1846(弘化3)年3月24日信州で地震。家屋倒壊火災多数。飯山で死者多数。
1847(弘化4)年3月24日善光寺大地震。参拝者などを含め死者16000人、家屋倒壊34000戸。山崩れで犀川、土尻川、裾花川堰止められる。  
善光寺で地震。浅間山も噴火。焼死者数千とも3万とも言う。亥の刻(午前10時)少し過ぎに大きな地震があり、月番家老の河原綱徳(かはら・つなのり)は急いで登城しようとしたが、非常服を取り出すどころではなく、行燈の灯が揺り消えて、よろけ出る間に三度も転んだ。町方では多くの潰屋があり、死者も多く、家に埋もれた人が多かった。西の空が赤いので土手から眺めると、西山手から東山手までの七ヶ所くらいが猛火につつまれていた。北方で善光寺付近と、清野山(きよのやま)を越えて稲荷山付近は火事が強烈だった。信濃の有名な善光寺はちょうど数年に一度の、ご本尊ご開帳の年、数万人の善男善女が全国から集まっていた。善光寺の中にあった宿坊(宿泊施設)46のうち、44が焼失した。町方の宿泊施設は殆どが焼け落ちた。焼死・圧死が千人ほどとされるが、実際には何千人か分からない。逃れた人も多いが、およそ七割が死亡したと思われる。すなわち死者は一万人を超すと考えられる。長野盆地の被害は凄まじく、川中島周辺の民家はすべて揺り倒れた。また筑摩山地では地滑りが生じた。山崩れで流れが堰きとめられ、二週間後の5月22日午後2時過ぎ、20mの高さの水が一気に流れ落ち、四軒だけ残しすべての家々が流された。予測可能な出来事だったから犠牲者は100人余りに留まった。長野県埋蔵文化財センターの発掘調査では、弥生時代後期から古墳時代、奈良時代に多くの断層激震の跡が見られるという。
1848(嘉永1)年5月8日江戸で大地震。
 9月越前で地震。損失多数。
1852(嘉永5)年12月17日信州で大地震。
1853(嘉永6)年2月3日江戸と東海道で大地震。小田原被害甚大で2200余戸、土蔵1148棟倒壊。死傷700余人。温泉破裂、岩石樹木倒壊多数。
1854(安政1)年6月15日伊賀を中心に大地震。倒壊多数で圧死800余人など。  
正午過ぎに大きく揺れ、二十数回小さく揺れた後、翌日は穏やかになり、安心して寝入った7月9日の午前2時頃(15日丑刻)に「古今無双」の大地震に見舞われた。『見舞到来並雑記』によると、7日の地震では石灯籠を損ねる程度だったが、9日の地震では、家々で死人や怪我人が多く、まったくのパニック状態となった。この地震は「伊賀上野」を狙いうったようだった。死者900、潰れた戸数2250戸、怪我人や半壊家屋は何千とも分からない。朝野(ちょうや)、長田、東村あたりでは、地面が七、八尺(2-2.5m)下がり、服部川と佐那具(さなぐ)川の合流部は湖のような淵となり、青田の底から白砂が吹き出し、地割れの中から乳のような白水が流れ出した。一方、伊勢湾沿岸では、多くの寺社が火災により焼失した。奈良盆地の沖積低地の被害も夥しいものがあった。2400ほどの家々が崩れ、死者はおよそ200人、全体では相当数になったと思われるがはっきりしない。安土桃山時代に地震となった断層跡があり、この断層が江戸時代に動いたものと見られる。11月4日東海道を中心に関東以西の広範囲にかけて大地震。M8.4。掛川城、福井城が大破、駿府城破損。佐夜中山、袋井、三島、沼津、甲府、鍬沢など家屋壊滅。倒壊家屋8300戸、死者1万余。津波で下田が壊滅し、停泊していたロシア軍艦ディアナ号も大破し後沈没。津波はサンフランシスコに至る。翌日の南海大地震との区別が出来てない史料が多い。
ロシア大使のプチャーチンが乗った「ディアナ号(英語=ダイアナ)」は幕府の指示で伊豆下田港にいた。福泉寺で川路聖謨(かわじ・としあきら)らと厳しい交渉が始まった。翌日、1854年12月23日午前9時過ぎ(嘉永7年11月4日五ッ半過ぎ)大地が激しく揺れ、東海地域を中心とした太平洋沿岸が大津波に襲われた。高台の長楽寺に滞在していた村上淡路守の『下田記行』によると,市中の人家の中に四、五百石の船が二,三艘流れ込み、門前町まで水が来ていた。秋葉神社の山へ登ってみると、いったん水が引いた後に、まもなく二度目の津波が押し寄せた。勢いが凄まじく、たちまち防波堤を押し崩し、千軒余りある人家を片端から将棋倒しにした。黒煙を立てて船を押し込み、家が崩れ、人々は泣き叫び、地獄とはこんなものかと思った。引き波になり家々のすべてをすべて押し流し、また津波が七、八回押し寄せた。二度目の津波で下田の町は野原になった。一方、ディアナ号は地震で一分間ほどひどい揺れを感じ、午前10時にひどい大波が襲い、二度目の波が湾内にうねり込むと、浮いていたボート類をすべて岸へ運び去った。波が引くときには、下田の町のすべての家屋が湾内に洗い落とされた(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)。ディアナ号は島のほうや岸のほうへ激しい勢いで引き寄せられ、30分間に42回も回転した。船は左に傾き、海水が浸入、舵機が破損し下頭部と船尾の大半が破壊された。この間、艦の側を生存者たちが流れていった。乗組員は救命綱を降ろすなどの救助を行った。修羅場に足を踏み入れたプチャーチンは医師らを連れ、負傷者の治療に協力したいと申し出た。川路聖謨の『下田日記』には「ロシア船も三人まで助けたり。魯人の話では,同船脇を百人も、通りたりと也。ロ人は死せんとする人を助け、厚く治療の上、あんままでする也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也」と、ロシア人の献身的な救護活動に感銘を受けている。地震から二、三日後、ディアナ号は修理のため、伊豆半島南端を回って、北西岸の戸田(へだ)に向かった。このとき住民が総出で小船を出して手伝ったが、嵐が来ることを予感し浜へ逃げ去った。この嵐でディアナ号は沈没したが、乗組員は助かった。艦を失った五百人ほどの将兵に対し、川路聖謨らは迅速な救援活動を行った。2月7日に長楽寺で「日露和親条約書」が締結された。幕府が費用を負担して、戸田湾(へだわん)で小型の西洋艦が作られることになり、全国から船大工が戸田に集まり、西洋船の作り方を実地に学んでいる。日本初の西洋式帆船は戸田の知名にちなんで「ヘダ号」と名づけられた。後に娘のオルガ・プチャーチナが戸田を訪れ、住民たちに感謝の気持ちを伝えた。地震から13日後に元号が変わったため、この地震は「安政東海地震」と呼ばれる。11月5日西日本で前日の32時間後に別の大地震が発生。M8.4。大津波などで8万余戸が被害、死者3000余人か。特に土佐では高知城が大破したほか、城下壊滅。津波は北米に達する。史料は前日の地震と混同が多い。
紀伊半島南端(串本)では、前日に起きた東海地震に驚いた人々が山へ逃げ込み夜を明かしていた。翌日、荷物を持って家に帰ると、夕方になってさらに激しい揺れに襲われ、家屋がきしみ、屋根瓦が落ち、軒は傾き人々の泣き叫ぶ声が響いた。やがて、潮が引いて海底が赤く見え、津波を恐れた人々はいっせいに山へ戻った。その直後、高さ3丈(約9m)近い津波が襲った。80軒の家が呑み込まれたが、死者はなく、浦神(うらかみ)では死者7名。一方、尾鷲では、すべての家が流され350人が犠牲となった。四国南東部では東海地震の揺れや津波は小さかったが、突然襲った南海地震によって大被害が発生した。個人日記によると東海地震については大したことがなかったが、翌日の安政南海地震については、「浜は一面荒磯のごとくなり、数隻の小船が畑に打ち上げられ、八十石積みの船が二艘、浜へ錨を引きながら打上げられた。大半の人々が海へ流された」と書いている。高知県のある神社では42段の石段があり、「宝永地震」のときは舌から39段までが波に浸かったが、今回の地震では下から7段までだった。ちなみに、1946年(昭和21年)の「昭和南海地震」では石段まで到達していない。室戸岬は南ほど高くなるように隆起した。室津港は四尺(約1.2m)ほど上昇したから、大きな船の出入りが困難となった。吉野川下流の徳島県板野郡では、村々の土地が、一面に裂けて土砂を含んだ水を吹き出し、あたかも鯨が潮を吹くような光景があちこちに見られ、白い砂の海のようになったと『大地震実録記』に記録されている。淡路市教育委員会の調査により、著名な寺院の敷地が中世以降の地震により、何度も滑り動いたことが明らかになった。また幕末の滑り跡があり、「安政南海地震」の痕跡と考えられている。大阪市外では「ふと大地震ゆり、その長きこと甚しくして、家めりめりいう音おそろしき。人々外へ出、右往左往にてんでんす。先夏(伊賀上野地震)」よりはまたまたひどしという。」(『近来年代記』)大きな横揺れが2分以上続いた。家々は壊れ、土蔵が崩壊した。大阪湾に進入した津波は、地震から約2時間後に大坂の沿岸に達し、天保山付近では2mに近い高さになった。多くの水路には、「地震のときは船が安全」と誤解した人々が避難していた。河口に達した津波は海岸に停泊していた千石船を押し流しながら河川や水路を遡り、橋を打ち壊しながら大船が無数の小舟の上に乗りかかり、折り重なりながら上流に向かって流された。大船も小舟もすべて津波に打上げられ、あるいは打ち払われ、微塵となり、また内川へ押し込まれ、大船の帆柱にて橋橋を打ち落とし、道頓堀川の大黒橋まで、1400艘の大船押し登り、船の上に船、二重三重にかさなり、亀の甲羅を干すがごとく」とあるそうだ。多くの人々があっという間に水底に沈んだ。地震の翌年、木津川の渡し(現・大阪市浪速区の大正橋東詰)に、犠牲者の霊を弔う石碑が建立され、惨劇の様子が記録されているという。宝永四年にも同じようなことがあり、悲劇が繰り返されたことを嘆いているという。11月7日伊予、豊後、日向北部で地震。先の2大地震とは別の震源。被害は記録上2大地震と正確な区別ができず。先の地震で残っていた家屋が倒壊したという。
 11月4日 安政東海地震:M8.4の地震。
 12月24日 安政南海地震:M8.4の地震。
 12月26日 豊予地震:M7.4の地震。
1855(安政2)年1月2日土佐で地震。
 9月28日東海地方で地震。掛塚、下前野、袋井、掛川辺などで被害甚大。山形から山口に掛けての広範囲で揺れを観測。前年大地震の余震か。
 10月2日江戸で、夜直下型の大地震。M6.9。死者7468人以上(10万余という史料もある)、重傷2000余人。家屋倒壊15294戸。下町は倒壊と火災で壊滅。山手、多摩の被害は軽度。地震前に発光物体が飛行する、湧水、地鳴り、磁石から釘が落ちるなどの現象あり。佐久間象山はこの事を元に磁石を使った地震予知機を作る。材木などが急騰。
下から突き上げられるような衝撃が江戸の町を襲った。歌舞伎役者の中村仲蔵(なかぞう)は、弟子の踊りの稽古から帰ろうと身ごしらえをしていると、地がドドドと持ち上がった感じがしたから、すぐに地震と気づいたが、立って歩こうとすると揺れが凄く、足をとられて思うように歩けなかった。また当時16歳の佐久間長敬(江戸町奉行与力)は、寝床に入ったばかりだったが、西の方角からゴウゴウという響きが耳に入り、頭を上げたが、夜具ごと三・四尺ほど投げられたように感じた。障子、襖はガラガラと崩れ、壁は落ちた。枕元で裁縫していた姉二人は、泣き叫びながら長敬の上に重なり、その重みで起き上がれなかった。そのうち、近所の茅場町あたりの町屋から、「火事だ、助けてくれ」という女の叫び声を聞いた。忽ち火の粉が舞ったが、いつもの火事と異なり警鐘・版木・太鼓も鳴らなかったので、江戸全体が大変なことに成ったと思った。ドロドロと雷が鳴り響くような音がして地面が揺れ始めた。往来の人はうずくまり家では畳にひれ伏し、棟や梁で圧死するかと生きた心地がしなかった。穏やかになった頃、八方から出火し、我先にと逃げ出した。家に残る人はまれで、老若・男女・貴賎の差別もなく往来にひざを連ねたという。本所・深川・浅草・下谷・神田小川町・小石川では震度六と推測される。死者は一万人ほど、多くは圧死で、裏通りの密集した棟割長屋(むねわりながや)の住人が多数犠牲となった。火事は翌日の昼頃までに、2.2km2が焼け落ちた。火災の被害が著しかったは新吉原。周囲を「おはぐろどぶ」に囲まれ、出入り口は大門だけ。火の海となった遊郭で、客と遊女の千人余が犠牲となった。このとき「尊皇攘夷」を言い出した水戸学の大物、藤田東湖が江戸の水戸藩邸で圧死した。このため水戸藩は衰退の一途をたどっている。
1856(安政3)年7月23日奥州南部で大地震。東北から函館にかけて津波あり630余戸流出倒壊破損。南部藩で26人、八戸藩で5人死亡。
1857(安政4)年5月23日駿河大地震。
 閏5月23日駿河大地震。津波で興津隣村が被害。
 8月25日伊予、安芸で地震。今治城内、松山城内破損。大洲でも地震。倒壊家屋若干。5人死亡。
1858(安政5)年2月26日飛騨、越中、加賀、越前で大地震。富山城、金沢城、勝山城などで被害。山崩れが多発し常願寺川支流の各所が堰止められ、3月10日と4月26日に決壊洪水。死者426人、負傷646人。
富山・岐阜両県が激しい揺れに襲われた。現・飛騨市の元田(げんだ)小学校の校庭に置かれた碑文には、飛騨・越中・越前に起きた大地震は、飛騨では小島・小鷹利(こたかり)・下高原・下白川の四郷七十箇村に被害を与え、全壊寺院9、全壊民家312、半壊寺院7、半壊民家370、即死203人、負傷45人、死んだ牛馬87。さらに、山の一角が欠け落ちて、9戸の53人が家と共に地底深く埋もれ、荒町清蔵のむすめだけが奇跡的に死を免れたことなどが記されているとのこと。河合村から跡津川(あとつがわ)断層が西南西方向に延びているが、この断層の活動によって「飛越地震」が発生した。跡津川(あとつがわ)断層の東端では、立山連峰にそびえる大鳶(おおとんび)山と、小鳶(ことんび)山が激しい振動で崩れ落ち、立山温泉を埋めるとともに、常願寺川最上流の湯川(ゆかわ)や真川(まかわ)を塞き止めた。日本の河川工学に影響を与えたオランダ人技師デレーケが「滝のようだ」と驚いたほど急峻な常願寺川。下流の人々は大洪水の恐怖におびえる日々を過ごすことになった。2週間後の4月23日の午後十時頃。長野県の大町付近でM7.5程度の中規模地震が発生し、これを引き金にして湯川の堰が崩れ、巨礫や大木を巻き呑んだ「泥洪水」が常願寺沿いの村々を襲った。正午ころになって、常願寺川の川筋一面に黒煙が立ち上り、大岩や大木などの森羅万象を一気に押し流し、水は一滴残らず流れ落ちた。大岩と小さな岩がぶつかり合って黒煙が立ち上った。川下のほうは常願寺川の川幅が広くなり、泥・砂・大岩・大木などが一丈もたまり、一面が平らになった。4月26日には真川の堰が崩れて泥洪水が押し寄せた。今度は西岸地域を押し流して、加賀・富山両藩の三万三千石余りの田畑が壊滅した。
 3月10日信濃大町で地震。倒壊71戸、蔵7棟。家屋破損多数。
1859(安政6)年9月9日広島で大地震。11日にも大きな余震。厳島神社に万民安泰の祈願を行う。
1865(慶應1)年1月28日播磨・丹波で大地震。杉原谷で被害。
1867(慶應3)年2月8日信州で地震。11日まで続く。
 
明治時代

 

明治時代 1868〜1912 
1872(明治5)年2月6日石見、出雲で大地震。揺れは西日本の広範囲に至る。液状化と小津波あり。三原城で被害。浜田県で倒壊4049軒、死者536人。出雲県で倒壊457軒、死者15人。浜田県・出雲県(両方とも現・島根県)では、ごく小さな地震が一週間前から続いていた。この日も午前11時頃に小さな地震があり、午後3時過ぎに比較的大きな地震があった。その後、小さな地震が起き、海水が沖に向かって移動し始めた。そして、午後4時40分頃、異様な地鳴りと共に大地が激しく揺れ動いた。浜田から大田(おおだ)にいたる海岸沿いの数十キロの範囲では、半分以上の家屋が全壊し、死者五百数十人、全壊家屋四千数百軒、焼失家屋二三○軒という大災禍となった。浜田地震(M7.1)と呼ばれる。地震学者、今村明恒の調査によると、浜田付近と川波(かわなみ:現・江津市)〜唐鐘(とうがね:現・浜田市)間で地面が最大1.5m隆起し、浜田から唐鐘までの間で約1m沈降していた。海岸に沿う海底の活断層が、南側が隆起するような活動を行ったためと考えられている。地元の国学者、藤井宗雄は「すさまじき音と共に天地も崩れるがごとく震い出るに、家々片端より倒れ、親を助け、妻を救う術(すべ)なく、兄弟は在所を異にし、児孫は行方を失い、ただ、めいめいの身命を助からむと、慌てて走るうちに、そこここより火い出て焼け上がり、鬢髪(びんぱつ)を焦がし、手足を爛し、息も絶えぬに火炎に悶え苦しみ、棟梁に腰を打ちくじきて、泣き叫ぶなど、眼も当てられぬ有様なり」と筆を走らせている。
 3月14日 浜田地震:M7.1の地震。死者552人。
1882(明治15)年7月25日那覇、首里一帯で強い地震。石垣の破損多し。余震42回。8月11日にも大きな余震。
1889(明治22)年7月28日熊本市を中心に大地震。倒壊家屋239軒、半壊236軒。死者20人、負傷者54人。
1891(明治24)年10月28日早朝濃尾地方で大地震。仙台から九州までの広範囲で揺れを観測。震度6。岐阜、大垣、名古屋などで被害甚大。死者7273人、負傷者17175人、家屋全壊142177戸、半壊80324戸。橋10392、堤防7177ヶ所が破損、10224ヶ所で山崩れ。3日間で烈震4回、強震40回を観測する。9月7日、翌年1月3日、同10日に余震で被害。
1894(明治27)年6月20日東京、神奈川で大きな地震。東京府内で死者24人、全壊22軒。神奈川で死者7人、全半壊40軒。鹿鳴館にも被害。詳細な調査が行われた初の地震。
 10月22日庄内平野で大地震。全壊3858軒、半壊2397軒、全焼2148軒。死者726人など。土地の隆起沈下、山崩れなど多数。
1896(明治29)年6月15日三陸地方に弱い地震。およそ40分後に大津波が襲来。9879軒が流出、倒壊1844軒。船6930艘に被害。死者26360人、負傷者4398人。村落集団移転を行った集落は1933年の津波で被害は軽微だったが、移転しなかった集落は再度甚大な被害を受ける。
 8月31日秋田、岩手県境山間部で大地震。揺れは広範囲で観測するが、強い揺れは山間部の極狭い範囲に集中。死者209人、負傷者779人、全壊5792軒、半壊3045軒、山崩れ9899ヶ所。梅ノ湯温泉などで量と温度に変化。
1897年8月5日 宮城県沖地震:M7.7の地震。
1899(明治32)年3月7日紀伊半島南東内陸で地震。死者7人。山崩れ多数。太平洋郵船のタコマ号が海震を観測。

1900

 

1901(明治34)年8月9日青森東方沖で地震。死傷者18人。家屋破損多数、小坂鉱山の大煙突が倒壊する。
1905(明治38)年6月2日芸予地震。1903年以降地震が頻発。死者11人、負傷者177人。鉄道などに被害。埋め立て地で被害。
1909(明治42)年8月14日江濃地震。死者41人、負傷者784人、全壊978軒、半壊2444軒。
1911(明治44)年6月15日喜界島付近で地震。死者7人、負傷者26人、全壊418軒、半壊565軒。石垣の崩壊多数。西日本全域でかなり強い有感を感じる。
 
大正時代

 

大正時代 1912〜1926
1914(大正3)年1月12日桜島大爆発。地震も伴う。溶岩が大量に流出し、3集落を呑み込み、大隅半島に達し陸続きとなる。噴火と地震で死者35人、行方不明23人、負傷者112人。全壊120軒、半壊195軒、焼失2148軒。小津波あり。灰は仙台に至る。
 3月15日秋田で大地震。被害は仙北郡に集中し、死者94人、負傷者324人。全壊640軒、半壊575軒。
1918年9月8日 択捉島沖地震:M8.0の地震。死者24人。
1923(大正12)年9月1日関東・東海・甲信地方に大地震発生。M7.9。揺れは本州のほぼ全域と四国で観測。被害は東京と横浜で特に甚大。浅草凌雲閣12階は8階から折れて崩壊。300人以上が下敷きに。東京では下町を中心に大火災。本所被服廠跡では、避難民のほとんどである44030人が焼死。根府川で山津波により流域170軒が埋没、停車中の列車を呑み込む。死者99331人、行方不明43476人、負傷者103733人。家屋全壊128266、半壊126233、焼失家屋447128、流出家屋868。1日に余震114回。流言飛語により朝鮮人、中国人、一部日本人に犠牲者。
1925(大正14)年5月23日北但馬地震。豊岡、城崎を中心に大被害。全壊1733軒、半壊815軒、焼失2328軒。死者465人、負傷1016人。葛野川河口付近で10haが陥没して海となる。 
関東大震災 1 [概要]

 

1923年(大正12)9月1日11時58分、相模湾北部を震源とする海溝型の巨大地震が発生。地震そのものの規模は最大級とは言えないが、人口密度の高い地域と、火災により観測史上最大規模の死者14万人(2003年の武村雅之氏の研究では死者10万5千人)、現在の貨幣価値に換算して約320兆円という甚大な被害をもたらした。
地震の主要動が10分間にわたって継続したと言われ、振幅は安政江戸地震よりも大きかった。震源地は伊豆大島北端にある千ヶ崎の北15km付近の相模湾海底で、激震地域は、伊豆半島を横ぎり、三島から富士山麓を経て甲府盆地に入り、それから東北に進んで熊谷、館林、古河、下館を過ぎ、土浦から房総半島中央を横断して勝浦付近にまで渡るという余りに広大で非常に不規則な円状区域だったために、正確な震央について、少なからず当時から疑問の声があがっていた。
1993年の研究(岐阜測候所から地震の波形データが発見された)によって、関東大震災では11時58分32秒に発生したM7.9の本震から3分後の12時01分にM7.2、5分後の12時03分にM7.3という巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが最新の研究で判明した。つまり、本震の震央が神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源となった。
被害は東京(当時の人口:都市部250万人、郡部100万人)神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨に及ぶ広大な地域で震度6以上の揺れが発生。震度7の地域は、本震の震央とされる神奈川県小田原〜鎌倉にかけての相模平野一帯から横浜、東京、房総半島南部にと広範囲に広がり、20cm以上の強い揺れが1分以上続いたとも伝えられる。震源とされる断層は、神奈川県西部から小田原、鎌倉、横須賀、横浜、千葉県館山を含む長さ約130km、幅70kmに至り、この断層が平均2.1mのずれを生じたという。
地震の直接被害は震源に近い神奈川の相模湾をのぞむ地域(特に横浜・小田原・国府津・大磯・茅ヶ崎・鎌倉)と房総の千葉(特に那古・船形・北条・館山)が最激震地となり甚大で、沿岸部の木造家屋30%が一瞬で倒壊、震源近くの地域では70%以上の倒壊率だった。
東京東部と横浜・小田原は壊滅的な打撃を受け死者10万人以上、千葉県で1,373人、静岡県で450人、埼玉県で280人の死者を出した。
横須賀では重油タンクが爆発炎上、横浜港の大半は海中に没した。神奈川県西部の根府川で、大規模な山津波が発生し集落170棟が消失し、東海道線根府川駅に停車中の列車も飲み込まれて乗客112人が死亡。江戸300年の歴史を誇る日本橋魚河岸は、震災で壊滅したため、その後、現在の築地へと魚市場は移転を余儀なくされた。
地震による津波も発生し、静岡県熱海市で12m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6m。鎌倉市由比ケ浜では別荘や海水浴客に津波が押し寄せ300人余が行方不明となった。
地震後には、旧・東京市(人口250万人)の約132ヶ所で一斉に出火、能登半島沖にはこの日、台風が停滞していた影響で、関東地方は折から風速10m/sの強風が吹きあれていたため、火は瞬く間に延焼し9月3日午後14時頃まで類焼し続けた結果、市内総戸数63万8千棟の内、約40万棟が全焼した。警視庁など多くの中央官庁の本部や役所が火災により全焼。消防や被害への早期対応にあたる行政組織が壊滅的な被害を受けたことや、地震当日は土曜日で、当時の官公庁や企業の多くは正午に業務を終えていたことも被害拡大の一因となった。
本所区(現・墨田区)の2万坪の空き地に約4万人が避難していたが、1日の夕刻に火災旋風(火の竜巻)が襲いほぼ全員が逃げる間もなく焼死。火災のため、9月1日深夜の東京の気温は46度まで上昇するなど、更に5万人の命が一夜で失われた。
余りの混乱で社会不安が増大、「朝鮮人が放火」「井戸に毒を投げ入れた」など流言やデマが飛び交い朝鮮人が群集らに虐殺される痛ましい事件(韓国政府によると虐殺3000〜6000人、北朝鮮では2万人虐殺と報道される。当時の朝鮮総督府の調査では、関東大震災による朝鮮人死者・行方不明者総数は832人、うち司法省調査による朝鮮人虐殺者数は死亡233人、重傷15人、軽症27人、その他、朝鮮人と間違われて殺害された日本人58人、中国人3人とされている)や、亀戸事件や甘粕事件と呼ばれる労働運動や社会主義運動指導者の殺害事件も混乱に紛れて発生した。
関東大震災では火災ばかりがクローズアップされる傾向があるが、被災地域の広大さと、余震も特筆に価する。2003年の研究によると本震と続けて発生した「三つ子地震」の後にも、午前12時48分に東京湾を震源にM7.1、翌9月2日午前11時46分に千葉県津浦沖でM7.6、午後18時27分に九十九里沖でM7.1と、阪神淡路大震災と同規模のM7の地震が合計6回も発生したことが判明している。
東京の揺れの被害
東京の被害は、隅田川より東側が最も大きく揺れ、この地域の家屋倒壊率は20〜30%近くに達している。特に隅田川から柳島一帯、本所の横綱から被服廠跡地、深川の大部分が最も被害が大きかった。
早稲田鶴巻町から江戸川沿いの地域、小石川砲兵工廠(現在の小石川後楽園・東京ドーム)から神田三崎町、西小川町、大手町、丸の内までの一帯の家屋倒壊率も20〜25%、また、新吉原から玉姫町、山谷町、吉野町、千束町の辺りも20〜25%だった。これらの町の特徴は、本所深川の埋立地、小石川江戸川の灌江や平川の流れを填築(埋め立て)したところに近く、下谷・浅草では姫池、千束池、姥池などの埋立地で比較的に地盤が弱い所でもあった。
逆に、いわゆる台地と言われる場所は、これらに比べ被害が少なかった。待乳山、元鳥越、八重洲口から銀座通り一帯などである。
当時の旧・東京市社会局の統計によると、焼失家屋戸数の総計は407,992戸で、地震発生前の家屋数が638,860戸だったことから実に東京市内の64%の家屋が火災により焼失したことになる。
また、罹災人口の総計は、1,505,029人で、これも地震前の人口2,437,503人に対し、65%の人が被害を受けた・・・とある。
東京市社会局の調査で死者約91,000人のうち、火災による死者が83%(約76,000人)、家屋倒壊などによる圧死者が12%(約11,000人)。その他、行方不明者のうち火災によると思われる者が90%、圧死者が4%。火災による重傷者62%、倒壊による重傷者28%であった。 
関東大震災 2 [被災]

 

1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。
神奈川県および東京府(現・東京都)を中心に隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。
大震災と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では焼死が多く、阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い。本災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)等で、火災が広範囲に発生したためである。
この災害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本において、史上最大級の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲に渡る災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、帝都を直撃して国難に及ぶことから、国(大日本帝国)も対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が8月24日(発災8日前)に急死していたため、発災から内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が首相就任(なお、大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。
金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものであった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。
日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また、震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月〜)、1930年(昭和5年)行われた金解禁はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止にされた。
なお、本災により東京市から郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。40年近く後の高度経済成長期に三大都市圏の中心となる大阪府や愛知県等に移住する者も多くみられ、特に大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また、東京市電の機能不全を肩代わりさせるため東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まって、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。電話の自動交換機も普及した。
避難
東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査によれば、9月5日に避難民12,000人以上を数える集団避難地は160箇所を記録。最も多い場所は社寺の59箇所、次いで学校の42箇所であった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営が行われた。また、9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮や日比谷公園などには、瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査では、市、区の管理するバラックが101箇所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化。一部ではスラム化の様相を見せたため、翌年には内務省社会局、警視庁、東京府、東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去に当たっては、東京市が月島、三ノ輪、深川区・猿江に、東京府が和田堀、尾久、王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また、義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。
軍は橋を架け、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた。
震災後日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された。
被害
190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」、「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」、「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものが見られた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」、「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」、「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」…などという見出しが続いた。
人的被害
2004年(平成16年)頃までは、死者・行方不明者は約14万人とされていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし、近年になり武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され、その説が学界にも定着したため、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」としている。
地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村(現、小田原市の一部)の根府川駅ではその時ちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出し、さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。
火災
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)等、発火原因が不明な所があり、2日の午後に新しい火災が発生する等不審な点も多い」と主張している。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。他、現在の墨田区立両国中学校や日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる)で起こった火災旋風を引き起こしながら広まり、旧東京市の約43%を焼失させ鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時頃とされている。火災による被害は全犠牲者中、約九割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた)ともいわれている。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった。また、この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は東京都復興記念館に収蔵され展示されている。
建物
東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊し作業員300余名が圧死した。また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くが焼失した。神田神保町や東京帝国大学図書館、松廼舎文庫、大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。
震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテル、オリエンタルパレスホテル(現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館の全てが焼失、工場・会社事務所も90%近くが焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行が辛うじて残った以外は郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。
なお、地震以後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁。位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している。この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
首都機能の麻痺
震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものであった(ラジオ放送は実用化前であり、電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで、印刷機能を失い、さらに大火によって13社は焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞・報知新聞、都新聞は焼け残り、東京日日は9月5日付夕刊を発行、最も早く復旧した。
郵便制度も同様であった。普通切手やはがき、そして印紙も焼失し、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、糊や目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。
さらに、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式の記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが、逓信省の倉庫で原版もろとも焼失し、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。
関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、赤城山麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「伊豆諸島の大噴火による消滅」、「三浦半島の陥没」などといった噂やデマとされる情報が取り上げられた。
震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原−真鶴間で、11トンネルのうち7トンネルが大破するなどの被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川−根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖−藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井−富浦間)。
地震の混乱で発生した事件
司法省及び法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの、解放されていた受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみであった。
なおこの9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が発布された日でもある。
9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した。
軍活動
同時に、陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きも見られた。
甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊に殺害され)、亀戸事件では労働運動の指導者平澤計七ら13人が亀戸警察署で、近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤が斬首された。
 ○ 9月3日 甘粕事件(大杉事件)、東京地方裁判所管
 ○ 9月6日 福田村事件、千葉地方裁判所管
 ○ 9月7日 『治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件』(勅令第403号)が発布。
 ○ 9月16日 亀戸事件、東京地方裁判所管
 ○ 佐原事件
震災後の殺傷事件
震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。
これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は、9月5日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊および警察が取り締まるので、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した。
「内閣告諭第二號
今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所為若シ不穏ニ亘ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷静ヲ失ハス慎重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ発揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ
大正十二年九月五日        内閣總理大臣」
この内閣告諭第二号と同日、官憲は臨時震災救護事務局警備部にて「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ。協定の内容は、官憲・新聞等に対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである。こうして日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁して行くことになり、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか、必死に探し回った。
流言の拡散と検証、収束
一方で震災発生後、内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
さらに警視庁からも戒厳司令部宛に
「鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」
と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた。
当時はテレビはむろんラジオも日本にはなく、新聞のみが唯一のマスメディアだったが記事の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された。
これらの情報の信憑性については、2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において
「不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう」
と発表。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。
治安維持緊急勅令の発布
こうした流言の存在を奇貨として、治安維持法の前身であるが可決させることができなかった司法省の「過激社会運動取締法案」の替わりに、7日、緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が発布された(同日の司法大臣は、前日までは大審院長であった思想検事系列の平沼騏一郎、枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾であった)。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した。
また、震災後1ヶ月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実であったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある。
一部の流言については正力松太郎が、1944年(昭和19年)の警視庁での講演において、当時の情報が「虚報」だったと発言している。
戒厳令発布
警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。なお水野は朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。この戒厳令発令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた。また、戒厳令のほか、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、およびモラトリアムが施行された。最終的に政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制を行うまでになった。陸軍は戒厳令の下騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々に安心感を与えたつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植え付けたとも考えられる。また、戒厳令により警官の態度が高圧化したとの評価もある。
自警団による暴行
軍・警察の主導で関東地方に4000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京ろうあ学校の生徒の約半数が生死が判らない状態になり、卒業生の一人は殺された。 9月4日、埼玉県の本庄町(現・本庄市)では、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現・熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。 9月5日から6日に掛けて群馬県藤岡町(現・藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)。
横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとされている。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った。
警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている。
10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
被害者数
殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない。内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している。吉野作造の調査では2613人余、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査での6661人という数字があり、幅が見られる。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった。なお、立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる。
2013年6月には、韓国の李承晩政権時代に作成された、被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、また、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した。最終的に2015年12月に検証結果報告があり、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した。
復興
山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」を創設する事で大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に12,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には24,333台、1926年(大正15年)には40,070台となっていた。1929年の世界恐慌など逆風が続く中、その後も漸増した。
その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、後の昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制が採られたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれて昭和金融恐慌を起こすことになる。
震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興道路、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。また、復興のシンボルとして震災前は海だった所に瓦礫により埋め立てられ山下公園が作られ、1935年には復興記念横浜大博覧会でメイン会場となった。同公園内には1939年にインド商組合から市に寄贈された水飲み場(インド水塔)が設置されているが、これは在留インド人の事業復活のため低利融資や商館再建などに尽力した横浜市民らへのお礼として寄贈されたものである。現在この水飲み場は使用されていないが、イスラームのモスクを思わせる屋根をした建造物が今も残されている。
横須賀軍港では、ワシントン海軍軍縮条約に従って巡洋戦艦から航空母艦に改装されていた天城型巡洋戦艦「天城」が、地震により竜骨を損傷して修理不能と判定された。代艦として、解体予定の加賀型戦艦「加賀」が空母に改装された。「加賀」と「天城」の姉妹艦「赤城」は太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦で活躍した。
震災発生後、大連沖で訓練中の長門型戦艦一番艦である長門が「横浜、東京が壊滅している」と報告を受け鹿児島、大隅海峡を通り東京に救援物資を運んでいる。この時、長門が27ノットの速力を出していたのがイギリス海軍に目撃されている。
9月27日、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により帝都復興計画が提案された。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路の計画(道路の計画には震災前の事業計画であった低速車と高速車の分離も含まれていた)、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画であったが、当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった(後藤案では30億円だったが、最終的に5億円強として議会に提出された)。また土地の買い上げに関しては神田駿河台の住民が猛反発した。この復興計画の縮小が失策であったことは、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の高度経済成長期以降の自動車社会になって証明された。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、かつ広域延焼防止のために造られた道路の中央分離帯(緑地)を潰すなどして建設された)する必要が出てきた。また現在も、一部地域では道路拡張や都市設備施設などの整備が立ち遅れているという結果を生んだ。
1930年(昭和5年)には帝都復興記念章が制定され(昭和5年8月13日勅令第148号「帝都復興記念章令」第1条)、帝都復興事業に直接または伴う要務に関与した者(同第3条1号2号)に授与された(同第3条)。
9月には台風災害なども多いことから、関東地震のあった9月1日を「防災の日」と1960年(昭和35年)に定め、政府が中心となって全国で防災訓練が行われている。ただし、宮城県沖地震を経験している宮城県、桜島を擁する鹿児島県などのように、独自の防災の日を設けて、その日に防災訓練を行っている地域もある。
影響
耐震建築と不燃化
上述の通り、大震災ではレンガ造りの建物が倒壊した。また鉄筋コンクリート造りの建物も大震災の少し前から建てられていたものの、建設中の内外ビルディングが倒壊したのをはじめ日本工業倶楽部や丸ノ内ビルヂングなども半壊するなど被害が目立った。そんな中、内藤多仲が設計し震災の3ヶ月前には完成していた日本興業銀行本店は無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。すでに1919年(大正8年)には市街地建築物法が公布され1920年(大正9年)施行されていたが、1924年(大正13年)に法改正が行われ日本で初めての耐震基準が規定された。同法は、後の建築基準法の基となった。
一方で震災では火災による犠牲者が多かったことから、燃えやすい木造建築が密集し狭い路地が入り組んでいた街並みを区画整理し、燃えにくい建物を要所要所に配置し広い道路や公園で延焼を防ぐ「不燃化」が叫ばれるようになった。内藤と対立していた佐野利器らが主張し、後に後藤新平によって帝都復興計画として具体化する。
また、鉄道省でもこの震災で多くの木造客車が焼失した教訓から、より安全な鋼製車への切り替えを研究するようになり、1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故で木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこともあって、電車・客車共に1927年度発注の新車からは鋼製車体への全面切替が実施されている。
遷都論議
震災直後には、参謀本部では周期的に大地震が発生するおそれがある東京からの遷都が検討され、当時、参謀本部員であった今村均は京城近郊の竜山、加古川、八王子を候補地として報告したと述懐している。しかし、震災発生から11日後の9月12日には、東京を引き続き首都として復興を行う旨を宣した詔書が発せられ、遷都は立ち消えとなった。
人口動態
震災によって概して被害の大きかった東京市・横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだ。前年の1922年(大正11年)から田園都市会社によって洗足田園都市住宅地の分譲が始まり、同じ年には箱根土地による目白文化村の分譲が始まったが、何れも被害が限定的だったことから震災後は人口が増加する。さらには常盤台や国立学園都市など郊外での住宅開発が相次ぎ、郊外に居住して都心部の職場へ通うことが一種のステータスとなった。また、被災した芸術家や文豪たちは鎌倉や浦和などに移住し、以後「鎌倉文士に浦和画家」と言われた。
その一方で大阪市は東京・横浜からの移住者も加わって人口が急増し、一時的に大阪市が東京市を抜き国内で最も人口の多い市となった。また、名古屋市や京都市・神戸市も関東からの移住者によって人口が一時的に急増した。この状況は1932年(昭和7年)に東京市が近隣町村を編入するまで続いた。
歴史認識問題
関東大震災時における朝鮮人殺害事件は、現在、歴史認識問題ともなっている。
横浜市立中学校の副読本の内容について、当該の副読本の出版社は2011年(平成23年)に、関東大震災の折にデマが原因で朝鮮人が殺害されたことについて、従来「自警団の中に朝鮮人を殺害する行為に走るものがいた」との内容だったのを、「軍隊や警察、自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行った。横浜でも各地で自警団が組織され、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」とする内容に改定した。市議会ではこの変更が問題となり、横浜市教育委員会は「横浜でも軍隊や警察による虐殺があったと誤解を受ける」として、当時の指導課長を2012年9月に戒告処分としたほか、当時の指導主事らも文書訓戒とした。
2013年(平成25年)2月3日、韓国記録写真研究家のチョン・ソンギルは、岡田紅陽が東京府の委嘱を受け撮影し、震災の89日後に発売した『大正大震災大火災惨状写真集』と私家版のアルバム所収の「吉原公園魔ノ池附近」と記された吉原遊女犠牲者の写真を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開し、韓国の聯合ニュースで報道された。 
関東大震災 3 [地震]

 

大正12年(1923年)9月1日に南関東を中心に発生した巨大地震であり、関東大震災を引き起こしたことで知られる。関東大地震(かんとうおおじしん、かんとうだいじしん)とも呼称される。
なお、元禄16年(1703年)の地震も本地震と類似のメカニズムで起こったと考えられており、本地震を大正関東地震、1703年の地震を元禄関東地震と称する場合もある。また、これらの地震は相模トラフのプレート境界に沿って発生したと考えられており、相模トラフ巨大地震とも総称される(この相模トラフ沿いで発生したと考えられている巨大地震も一般に「関東地震」と総称することがある)。
本地震のメカニズムは、金森(1971)のモデルによれば、震源域は三浦半島の延長線方向の相模トラフの走行に平行する右横ずれの低角逆断層とされる。武村(1996)も、P波の初動分布による震源メカニズムは、金森(1971)が指摘する通りフィリピン海プレートの沈み込み方向から判断される北北東に34°傾斜する節面が断層面と考えられ、横ずれ成分を多く含むことを支持するとしているが、異説も有り解明には至っていない(後述)。地震調査委員会は発生要因をフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界での北米プレートの跳ね返りとしている。
一方で、フィリピン海プレートと本州側のプレートとの力学的境界は既に銭洲付近にあり、地質学的時間スケールでは駿河トラフ沿いで起こるとされる想定東海地震も、本地震もプレート内地震となるとする見解も出されている。
地殻変動による推定から震源断層は湘南地方の内陸深くまで及んでいると考えられており、小田原付近の揺れが最も激しかった。
地震学教室主任教授大森房吉のもと今村明恒助教授が、それまでの観測のもとこの地震を予言していた。
本震
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分32秒に関東地方南部を震源として発生した地震である。当時の地震学者である石本巳四雄は東京本郷の加速度を300gal程度であったと推定している。また、東京横浜の山の手での卓越周期は0.3秒であったと述べている。この揺れは約9000km離れたウイーンのオーストリア気象庁でも観測され、同庁が世界にいち早く関東地震の発生を報じたとされている。
震央
この地震の震央の位置は研究者によって見解が異なっている。おもな説は、
 ○ 相模湾のほぼ中央部を震央とする説
 ○ 相模湾の北部を震央とする説
 ○ 山梨県の河口湖付近の東1里(4km)余
 ○ 神奈川県西部を震央とする説
規模
河角廣により本地震のマグニチュードは7.9と推定されたが、その根拠は東京の震度を6とし、震央距離を100kmと仮定したものと思われている。坪井(1964)も7.9が妥当としているが、日本国外の地震波形を用いて解析するとM8以上となる傾向があり、表面波マグニチュードMs8.2、Ms8.3などが報告されている。
武村雅之、池浦友則、野澤貴(1999-2000)は、秋田、仙台、長崎など7箇所の今村式強震計の記録データを元に、MJ = 8.1±0.2 と推定した。但し、従来から用いられている M 7.9 は決定精度誤差の範疇であり妥当であるとしている。この結果は、当時の観測記録で振り切れていない完全な記録をもとに評価したものであり、中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会における平成18年7月の報告書(1923 関東大震災報告書─第1編─)に掲載されている。
金森博雄(1977)はモーメントマグニチュードをMw7.9とし、行谷(2011)らはMw8.0と推定している。中央防災会議の首都直下地震モデル検討会による大正関東地震断層モデルではMw8.2と見積もられており、同検討会はこのモデルの方が地殻変動や津波の高さの再現性が良いとしている。
地震の多元性
今村(1929)は、地震波の記録から本地震は3つの異なる発震点から始まった多元地震であるとし、第一元は相模湾中央、第二元は丹沢山地方面、第三元は再び相模湾の小田原沖に戻ったとした。また、陸地測量部による精密測量の結果から、断層線の西部は南下り、東部は北下りであり、非局部大地震に伴う地形変動とした。
北アメリカプレートとフィリピン海プレートがずれ始めたのち破壊は40秒から50秒かけて放射状に広がり、北は現在の川崎市の地下35km、南は現在の館山市の地下5km、東は房総半島端にまで広がり全体で長さ130km、幅70kmの岩盤(断層)が平均で2.1mずれた(金森(1971)の断層モデル)。
武村ら(1995)は、今村式2倍強震計の解析や体験談から、特に強い揺れを生んだのは破壊開始から数秒後に起きた小田原 - 秦野の直下での岩盤破壊(第1イベント/第一震)と、その約10 - 15秒後に始まった三浦半島の直下の破壊(第2イベント//第二震)であり多重震源地震としている。これは、震源に近い地域では地震計の針が振り切れてしまっており正確な揺れの様子は不明であるため、体験談を基に大方の揺れの様子の推定を試みたものである。
第1イベントに近い小田原では揺れ始めてすぐに上下水平の強い揺れが襲い10 - 20秒間位やや弱まった後、再び強い水平動が襲ってきた。第2イベントに近い鎌倉や藤沢では最初の揺れはやや弱かったが、暫くして強い揺れが襲ってきたという。東京でも、例えば中央気象台の地震掛であった中村左衛門太郎の体験談では主要動の途中で振動方向が南北から東西に変化したという。これら2つのイベントが組み合わさっていることから、「双子の地震」や「2つの地震の組み合わせ」などと呼ばれることもある。
津波
地震の数分後、太平洋沿岸地域から伊豆諸島にかけて津波が襲った。
熱海
地震後5 - 6分で引波となり間もなく第1波が襲来し、さらに5 - 6分して第2波は7 - 8m、局地的に高さ12m(40尺)に及び家屋流失 162戸、死者行方不明92名の被害が発生した。また、海岸から200m内陸まで、地盤高7mまでが浸水したとされている。
初島
地盤が隆起し集落内に津波は侵入しなかった。津波の高さは漁港付近で1.8m程度、島の西側で3m程度。
伊東
波高9mとなり海岸から浜海道までの集落はほとんど流失、宇佐美村でも111戸が流失した。下田町では波高2.5m、湾外では4m程度であった。
鎌倉
地震直後に2 - 300m潮が引き、10分程で第1波が襲来し第2波が最大で、材木座付近で波高5 - 6mに達した。
房総半島
伊豆程の津波とはならず概ね2m程度(6 - 7尺程度)と3m(10尺)超える所は少なかったが、相浜で高さ9m(30尺)の津波を記録し63戸が流失した。館山測候所付近では、先ず引波が200m余(2町余)、水深約9m(30尺)に及び、来襲した津波の高さは1.8m(6尺)程度であった。
外房沿岸
元禄津波で甚大な被害となったのとは対照的で、元禄津波は波高7m前後で10mに達した所もあるの対し、大正津波は2m前後であった。
東京湾内
検潮所の記録では、深川、芝浦、千葉で両振幅1m程度であり、内房沿岸では東京湾内に向かって元禄津波よりも急速に減衰している。
地盤の隆起・沈降
この地震によって上盤の北米プレートが南東方向にフィリピン海プレートにのし上がり、房総半島南部で隆起、丹沢山地など内陸部で沈降した。 この沈降により丹沢山地では土石流が発生した。元禄地震でも同様の地殻変動と思われる記録があり、また房総半島南部には大正関東地震、元禄地震およびそれ以前の地震の際に隆起したと見られる海岸段丘が発達し、元禄地震による段丘は特に段差が大きい。房総半島のうち震源に近い南部地域や相模湾に接する三浦半島全域、相模湾北岸(現在の江ノ島がその例である)などで地盤の隆起が確認され、東京府南葛飾郡地域では地盤の沈降が確認された。隆起や沈降量は、陸地測量部および海軍水路部による測量結果から推定された。
前震
以下は本震発生以前の近い時期における関連が指摘される地震の記録である。
8年前
 ○ 大正4年(1915年)11月、東京で有感地震が過去最多の18回。
 ○ その後地震は沈静化。
 ○ 大森房吉・今村明恒両博士の関東大地震論争。
1〜2年前
 ○ 大正10年(1921年) 茨城県南部で地震(M7.0)。
 ○ 大正11年(1922年) 浦賀水道で地震(M6.8)、25人が死傷。
2〜3ヶ月前
 ○ 大正12年(1923年)5〜6月、茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)。
余震
9月1日
 ○ 12:01 M7.2 東京湾北部
  東京23区や神奈川県東部の横浜・川崎で強く揺れを感じる。
 ○ 12:03 M7.3 神奈川県・山梨県・静岡県県境付近
  神奈川県西部、静岡県東部、山梨県で強い揺れを感じる。
 ○ 12:17 M6.4 伊豆大島近海
 ○ 12:23 M6.5 相模湾
 ○ 12:40 M6.5 相模湾
 ○ 12:47 M6.8 山梨県中・西部
 ○ 13:31 M6.1 静岡県東部
 ○ 14:22 M6.6 静岡県伊豆地方
 ○ 15:19 M6.3 茨城県沖
 ○ 16:37 M6.6 静岡県東部
9月2日 11:46 M7.3 千葉県南東沖
 ○ 18:26 M6.9 千葉県東方沖
 ○ 22:09 M6.5 静岡県伊豆地方
大正13年(1924年)1月15日05:50 M7.3 神奈川県西部(丹沢地震)
  死者19名、負傷者638名 
 

 

昭和時代  
昭和時代 1926〜1989 
1927(昭和2)年3月7日北丹後地震。西日本全体で揺れ。死者2925人、負傷者7806人。全壊約5000、半壊約4700、焼失約7400。地震研究所が初めて調査を行う。
1930(昭和5)年11月26日北伊豆地震。死者272人、負傷者572人。全壊2165軒、半壊5516軒。発光、怪音現象あり。
1931(昭和6)年9月21日埼玉県西部で地震。死者16人、負傷者146人。全壊76、半壊124。青や黒い色をした土砂が地面から噴出したという。
1933(昭和8)年3月3日三陸地方でやや強い地震、大津波が襲い、死者1522人、負傷1092人、行方不明1542人。船舶7000隻以上が被害。波高最大23m。海震の観測多数。津波はカリフォルニアやチリにも到達。発光、怪音、潮位・井水の変化などが前兆現象として観測される。
1935(昭和10)年7月11日静岡地震。静岡、清水などに被害集中。死傷者9299人。全壊367、半壊1830。
1936年11月3日宮城県沖地震、宮城県沖を震源とするM7.4の地震が発生した。「金華山沖地震」ともいう。現在の宮城県石巻市、仙台市、福島県いわき市で最大震度5を観測した。死者はなく、負傷者4人。家屋被害も全壊3戸、半壊2戸にとどまり、同じ規模の1978年宮城県沖地震に比べて被害は極めて小規模だった。
1939(昭和14)年5月1日男鹿地震。男鹿半島に被害が集中し、死者27人、負傷者52人。全壊479、半壊858。
1943(昭和18)年5月23日茨城県沖地震:M7.0の地震。
 9月10日鳥取地震。揺れは西日本の全域で観測されるが、被害のほとんどは鳥取市内に集中。死者1083人、負傷者3259人。全壊7485、半壊6158。
1944(昭和19)年12月7日東海地方で大地震と津波。被害は戦時中のため若干記録に違いがあるが、死者998人、負傷3059人、不明253人といわれる。全壊26130、半壊46950、流出3059。津波はカリフォルニアに達する。
1945(昭和20)年1月13日三河地震。揺れは本州、四国の広範囲で観測されるが、被害は渥美半島付近に集中。中でも幡豆郡の被害が大半を占め、被害は総合で死者1961人、負傷896人、全壊5539、半壊11706。戦争末期で士気低下につながるとして全く報道されず。
1946(昭和21)年12月21日南海大地震。西日本の大半で大小の被害が出る。死者1330人、負傷者3842人、不明113人。全壊9070、半壊19204他。津波が東京から大隅半島に至る太平洋沿岸各地を襲い、流出家屋1451、船舶2349隻が被害。津波は更にカリフォルニアに至り、また海震が観測される。
1946年12月21日に発生したM8.0の地震。死者1330人。震度は最大5(強震)であり、その範囲は四国をはじめ、紀伊半島・東海地方・北陸・境港・大分などと広い範囲に及んだ。北陸地方 福井市 /東海地方 岐阜市・津市・尾鷲市 /近畿地方 彦根市・洲本市・橿原市・和歌山市・串本町 /中国地方 境港市 /四国地方 徳島市・高松市・多度津町・室戸市・高知市・宿毛市 /九州地方 大分市
1948(昭和23)年6月28日福井地震。震度第7階級の設定を決めるに至った大地震。福井平野に被害が集中した。家屋全壊36184、半壊11816。大火が発生し3851戸が焼失。死者3769人、負傷22203人。地割れが多数発生し、挟まれて死亡した例もあった。3本の列車が転覆。GHQが公安条例命令を出す。
1952(昭和27)年3月4日十勝沖地震。震害は北海道に集中したが、津波は太平洋沿岸の広範囲に達する。死者28人、負傷者287〜621人、不明者5人。全壊815〜1614、半壊1324〜5449戸。(被害数値は国警と北海道旬刊弘報の両方による)新冠の泥火山8つの内1つも活動。前日が三陸津波記念日で、津波避難訓練をしていたため、津波による被害は小さかった。)
1958年11月7日択捉島沖地震:M8.3の地震。
1960(昭和35)年5月23日チリ地震津波。全国で津波の被害あり。死者122人、負傷872人、不明20人。全壊1571、半壊2183、流出1259。他に沖縄で死者3人、負傷者2人。全壊28、半壊109。全国で船舶3000隻以上が被害。太平洋広域津波警報システムが作られる。
1963年10月13日択捉島沖地震 M8.3の地震。死者2人。
1964(昭和39)年6月16日新潟で大地震。液状化と津波で、鉄筋アパートやコンクリート橋が倒壊、石油タンクが爆発炎上する。死者26人、負傷447人、家屋全壊1960、全焼290、半壊6640、浸水15000戸。
1965(昭和40)年8月3日70年まで松代群発地震。有感総数62821、全地震数711341回。発光現象あり。
1968(昭和43)年2月21日えびの地震。九州で揺れを観測。25日までに震度5の地震が4回。被害は宮崎県えびの京町付近10kmに集中。死者3人、負傷42人。全壊368、半壊636。
 4月1日日向灘地震 M7.5の地震。延岡市、宿毛市で震度5を観測。死者1名、負傷者15名(53名とする資料もある)。住家全壊1棟、半壊2棟、道路損壊18件などで、高知県・愛媛県で被害が多かった。
 5月16日十勝沖地震。北海道南部から東北地方北部で大地震。大雨の後に発生したため地滑り崖崩れが発生。死者行方不明52人、負傷330人。全壊673、半壊3004。津波あり。厳密には十勝沖ではなく、三陸沖北部の地震とされている。
1969年8月12日北海道東方沖地震 M7.8の地震。
1973年6月17日根室半島沖地震 M7.8の地震。
1974(昭和49)年5月9日伊豆半島で地震。地滑りなどで死者30人、負傷102人。全壊134、半壊240。潜水艦が海中で震動を観測。
1978(昭和53)年1月14日伊豆半島、大島などで地震。小津波あり。前震が相次いだ為、気象庁は本震の前に予報を出す。死者25人、負傷211人。全壊96、半壊616。鉱滓貯蔵所が決壊し、液状化したシアン化ナトリウムが持越川、狩野川に流出する。
 6月12日宮城県で地震。死者28人(内18人がブロック塀、石壁などの倒壊圧死者)。全壊1183、半壊5574戸。小津波あり。
1982(昭和57)年3月2日北海道日高地方で地震。重軽傷者147人。
1983(昭和58)年5月26日日本海中部地震。液状化、大津波が発生。死者104人(内津波で100人)、負傷163人。全壊934、半壊2115、流出52。沈没255隻、流出451隻。津波警報発令が遅れたことが問題となる。
1984(昭和59)年8月7日日向灘地震 M7.1の地震。宮崎市、大分市、熊本市、宇和島市などで震度4を観測。津波があった。負傷者9名。建物の一部損壊319件、津波が発生し、最大で18cm(延岡市)を観測した。発震機構解は正断層型であり、フィリピン海プレート内部で発生した地震である可能性がある。
 9月14日長野県西部地震。御岳山頂付近が崩壊し、大土石流となって王滝村に至る。死者11人、行方不明18人、負傷10人。
1987(昭和62)年3月8日日向灘地震。死者1、負傷6、354戸損傷。
 12月17日千葉東方沖地震。死者5、負傷123、全壊10戸、半壊93戸、破損63692戸。  
 
平成時代

 

平成時代 1989〜 
1989(昭和64・平成元)年7月9日伊豆東方沖で地震。負傷22、92戸が破損。
1993(平成5)年1月15日釧路沖地震。死者1、負傷932、3518戸破損。
 7月12日夜、北海道南西沖地震。M7.8。山崩れ、液状化の他、大津波と火災で奥尻島を中心に大被害。死者202、不明29、負傷323。7690戸以上破損、1514隻以上被害。ほかロシアなどでも死傷者。
1994(平成6)年10月4日夜、北海道東方沖地震。M8.1。負傷436。北方4島の大津波。
 12月28日夜、三陸はるか沖地震。M7.2。死者2、負傷29、78戸被害。
1995(平成7)年1月17日早朝神戸を中心とした近畿地方で大地震。震度は最大7。建物倒壊と火災で、当時の公式報告では死者6308人、負傷41527人、不明2人。34万人が避難。全壊100282、半壊108402。鉄道、高架道の倒壊多数。交通と流通及び各ライフライン網が各所で寸断。液状化で港湾施設が壊滅するなど間接的な経済損害は全国規模に。火災は数日続く。ビルの中間階圧潰が多数。数日間、余震あり。耐震問題、避難救助問題の検討が全国的に盛んになる。地震直前怪光が多く目撃される。動物の異常行動、発光などの現象の研究も本格化。ボランティア活動が大きく取り上げられるきっかけとなった。

2000

 

2000(平成12)年10月6日鳥取県西部地震。最大で震度6。死者はなかったが、建造物に被害多数。
2000年10月6日鳥取県西部地震/M7.3の地震。兵庫県南部地震と同規模であった。鳥取県の西部を震源として発生した地震である。地震の規模はマグニチュード7.3で、鳥取県西部で最大震度6強を観測した。地震空白域とされる地域で発生した。
2001年3月24日芸予地震M6.7の地震。特に広島県西部で被害が顕著であった。芸予地震(げいよじしん)は、瀬戸内海の安芸灘を震源として発生し、震源に近い広島県・山口県東部と愛媛県に比較的大きな被害を生じる地震のこと。
2003年9月26日十勝沖地震/M8.0の巨大地震。北海道の十勝地方の沖合を震源として起こる地震。
2004年10月23日新潟県中越地震/M6.8の地震。21世紀に入って初めて震度7を記録した地震である。新潟県中越地方を震源として発生したM6.8、震源の深さ13kmの直下型の地震である[1]。1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)以来、観測史上2回目の最大震度7を観測した。
2005年3月20日福岡県西方沖地震/M7.0の地震。阪神大震災以降に政令市で震度6以上を観測した地震。
2007年3月25日能登半島地震/M6.9の地震。石川県輪島市西南西沖40kmの日本海で発生した地震。
 7月16日新潟県中越沖地震/M6.8の地震。新潟県中越地方沖を震源とする地震である。震度6強:新潟県 長野県
2008年5月8日茨城県沖地震/M7.0の地震。5弱:茨城県 栃木県
 6月14日岩手宮城内陸地震/M7.2の地震。土砂災害が多発した。震度6強:岩手県、宮城県
 7月24日岩手県沿岸北部地震/M6.8の地震。岩手県沿岸北部で発生した地震。震度6弱:岩手県、青森県
2009年8月11日駿河湾地震/M6.5の地震。東名高速道路が路肩崩落により通行止となり、お盆の帰省ラッシュに大きな影響が出た。静岡県御前崎沖の駿河湾で発生した地震。
2011年3月11日東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)/M9.0の巨大地震。
    東日本大震災[震度] 
    東日本大震災[震央] 
国内観測史上最大の地震、最大震度7。東日本の太平洋沿岸部に多大な被害を与えた。津波は、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県に及ぶ。震災による死者・行方不明者は18,449人、建築物の全壊・半壊は合わせて400,827戸。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上。
 3月12日長野県北部地震(栄村大震災)/長野県栄村と新潟県津南町の境界付近を震源として発生したM6.7の地震。長野県栄村では震度6強を記録しており、家屋の倒壊や土砂崩れなどの被害を受けた。
 4月11日福島県浜通り地震/M7.0の地震。東北地方太平洋沖地震で誘発された余震。福島県いわき市で震度6弱を記録。また同市で土砂崩れにより3人が死亡した。またこの地震で復旧中の電力が途絶し最大約21万戸が停電した。翌日、同じような場所と深さでM6.4、最大震度6弱の地震が発生したが、この地震で誘発されたと思われるもので、厳密には別の地震である。福島県と茨城県で最大震度6弱を観測した。
2016年4月14日熊本地震/前震(M6.5)が発生し、最大震度7を益城町で観測。その後、4月16日に本震(M7.3)が発生し、熊本県益城町(2回目)、西原村で最大震度7を観測したほか、熊本県と大分県の広範囲で震度6強〜6弱を観測。なお、本震の際には大分県中部でも誘発地震が同時発生していた。
 4月16日熊本県阿蘇地震/M5.8の地震。平成28年熊本地震に誘発された地震。熊本県産山村で最大震度6強を観測。熊本地震の本震で震度6強の揺れに見舞われた南阿蘇村などでは、被害の拡大を招いた。
 4月16日大分県中部地震/M5.3の地震。平成28年熊本地震に誘発された地震。大分県由布市で最大震度5弱を観測。熊本地震の本震(ほぼ同時発生した大分県中部の誘発地震)で震度6弱の揺れに見舞われた由布市・別府市などでは、被害の拡大を招いた。 
 
地域災害史

 

東北地方
岩手
岩手県に被害を及ぼす地震は、主に太平洋側沖合の太平洋プレート沈み込みに伴って発生する地震と、陸域の浅い場所で発生する地震です。
青森県から宮城県にかけての太平洋側沖合では、1896年の明治三陸地震(M8.2)や1933年の三陸地震(M8.1)、1968年十勝沖地震(M7.9)のようにM8程度の巨大地震が発生することがあります。2回の三陸地震は陸地から離れた日本海溝付近で発生したため、地震の揺れによる被害は小さかったのですが、津波により太平洋側沿岸部に大きな被害が生じ、1896年の明治三陸地震では県内で死者18.158名、1933年の三陸地震では死者・行方不明者2.713名の被害が生じました。被害が大きかった原因としては、津波そのものの規模も大きかった上に、三陸沿岸に発達したリアス式海岸のV字型の地形の影響で、湾奥ではさらに津波が高くなったことが挙げられます。これらの地震より規模の小さい地震でも、平成6年(1994年)三陸はるか沖地震(M7.6)や1978年宮城県沖地震(M7.4)のように、震源域が陸に近い場合には、地震の揺れによって県東部を中心に被害を及ぼすことがあります。この他、歴史の資料によると、三陸沖で発生したと考えられている869年の地震(M8.3)や1611年の地震(M8.1)などにより、三陸沿岸に被害が生じたことが知られています。また、沿岸部から100kmくらい沖合の海域では、短期間にM6〜7程度の地震が続けていくつか発生することがあり、例えば、1989年の地震活動(最大M7.1)では、M6以上の地震が6日間に6回発生したことがあります。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震では、県内で死者4.673名、行方不明者1.124名、負傷者213名、建物全壊19.597戸など、多大な被害が生じました。
陸域で発生した被害地震としては、秋田県との県境付近で発生した1896年の陸羽地震(M7.2)がよく知られています。この地震による被害の中心は秋田県でしたが、岩手県内でも死者4名などの被害が生じました。また、真昼山地東縁断層帯で地表にずれが生じました。このずれは川舟(かわふね)断層と呼ばれ、断層の西側が東側に対して最大2M隆起しました。また、北上高地の東部では、小国地震と呼ばれる1931年の地震(M6.5)がごく浅いところで発生し、局所的に被害が生じました。小国地震が発生した地域では、顕著な活断層は知られていません。このようにM7程度より小さい地震であっても被害が生じることがあります。また、平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震(M6.8)では、奥州市で震度6強を観測し、死者2名などの被害が生じました。
県北部の岩手山付近や県南部の栗駒山周辺では、過去に群発地震が発生したことが知られています。例えば、1986年に県北部の一戸町西岳付近で最大M5.0、同じく1986年に県南部の栗駒山周辺で最大M5.0の群発地震が発生しました。また、群発地震であったかどうかはっきりしませんが、歴史の資料によると、1823年に岩手山付近で約半年間続いた地震活動(最大M5 3/4 〜 6)で被害が生じたことがあります。近年では、1998年の春からM3.9を最大とする群発的地震活動が岩手山近傍で続き、9月3日にそのすぐ南でM6.2の地震が発生しました。この地震は雫石盆地西縁断層帯の活動によるものと考えられますが、上記の岩手山近傍の群発的活動との関係についてはよく分かっていません。一方、栗駒山近くの宮城県鳴子町(旧名、現在の大崎市)鬼首付近を震源域とする1996年の秋田・宮城県境の地震活動では、逆断層型の地震(M6.1)と横ずれ断層型の地震(M5.8)が続けて発生しました。岩手山や栗駒山は活火山ですが、これらの活火山と群発地震活動との関係について、はっきりしたことはまだ分かっていません。
岩手県では、1987年の岩手県北部の地震(M6.6、深さ72km)や2003年の宮城県沖の地震(M7.1、深さ72km)のように沈み込んだ太平洋プレート内で発生する地震や三陸沖北部から房総半島沖の海溝寄りにかけての太平洋側沖合など、周辺地域で発生する地震によっても被害を受けることがあります。さらに、1960年のチリ地震津波のような外国の地震によっても津波被害を受けることがあります。チリ地震津波の際は、三陸沖などの日本近海で発生する地震による津波と違って、湾口が狭く湾奥が広いような湾の方が、湾奥で津波が大きくなりました。
岩手県内の主要な活断層は、奥羽山脈と北上盆地の境目に北上低地西縁断層帯、さらに西側に雫石盆地西縁−真昼山地東縁断層帯、青森県から北上高地北部にかけて折爪断層があります。また、海溝型地震には、三陸沖北部、宮城県沖、三陸沖南部海溝寄り、三陸沖から房総沖の海溝寄りの領域で発生する地震があります。 
869年7月13日(貞観11) 三陸沿岸 8.3 強い揺れと津波により被害。城郭の破壊あり、溺死者多数。
1611年12月2日(慶長16) 三陸沿岸および北海道東岸 8.1 (津波があり、伊達領で溺死者1.783人、南部・津軽地方で人馬の死3.000以上。)
1677年4月13日(延宝5) 陸奥 7 1/4〜7 1/2 強い揺れと津波により大槌浦、宮古浦、鍬ヶ崎浦等で被害。
1678年10月2日(延宝6) 陸奥・出羽 7.5 花巻地方に被害。城壁・石垣の多くが崩落。
1717年5月13日(享保2) 仙台・花巻 7.5 花巻地方に被害。家屋破損多数。
1772年6月3日(安永1) 陸奥 6 3/4 盛岡、遠野、宮古、大槌、沢内に被害。落石や山崩れにより死者12人。
1793年2月17日(寛政5) 陸奥・磐城 8.0〜8.4 大槌・両石で家屋全壊・同流失71棟、死者9人などの被害。
1823年9月29日(文政6) 陸奥岩手山 5 3/4〜6 山崩れあり、西根八ヶ村に被害、家屋全壊105棟など。
1856年8月23日(安政3) 日高・胆振・渡島・津軽・南部 7.5 強い揺れと津波により宮古村付近を中心に被害。南部藩で死者26人、家屋全壊100棟、同流失93棟。
1896年6月15日(明治29) (明治三陸地震津波) 8.2 津波により甚大な被害。死者18.158人、北海道から宮城にかけて家屋流失全半潰1万棟以上。
1896年8月31日(明治29) (陸羽地震) 7.2 和賀郡で最も大きな被害。死者4人、負傷者43人、家屋全壊110棟。
1897年8月5日(明治30) 仙台沖 7.7 (津波により三陸沿岸に小被害。津波の高さは盛町で3M、釜石で1.2M。)
1933年3月3日(昭和8) (三陸地震) 8.1 津波により大きな被害。死者・行方不明者2.713人、負傷者823人、家屋倒壊1.121棟、同流失2.914棟。
1960年5月23日(昭和35) (チリ地震津波) Mw9.5 大船渡市などに大きな被害。死者・行方不明者62人、負傷者206人、住家全壊523棟、同流失656棟。
1968年5月16日(昭和43) (1968年十勝沖地震) 7.9 死者2人、負傷者4人、住家全壊2棟。
1998年9月3日(平成10) 岩手県内陸北部 6.1 負傷者9人。
2003年5月26日(平成15) 宮城県沖 7.1 負傷者91人、住家全壊2棟。
2003年9月26日(平成15) (平成15年(2003年)十勝沖地震) 8.0 負傷者1人。
2005年8月16日(平成17) 宮城県沖 7.2 負傷者11人。
2008年6月14日(平成20) (平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震) 7.2 死者2人、負傷者37人、家屋全壊2棟。
2008年7月24日(平成20) 岩手県中部〔岩手県沿岸北部〕 6.8 負傷者90人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震)9.0 死者4.673人、行方不明者1.124人、負傷者213人、建物全壊19.597戸、建物半壊6.571戸。 
宮城

 

宮城県に被害を及ぼす地震は、主に太平洋沖合の太平洋プレートの沈み込みに伴って発生する地震、陸域の浅い地震です。
青森県から宮城県にかけての太平洋側沖合では、1896年の明治三陸地震(M8.2)や1933年の三陸地震(M8.1)、1968年十勝沖地震(M7.9)のようにM8程度の巨大地震が発生することがあります。2回の三陸地震は陸地から離れた日本海溝付近で発生したため、地震の揺れによる被害は小さかったのですが、津波により太平洋側沿岸部に大きな被害が生じ、1896年の明治三陸地震では県内で死者3,452名、1933年の三陸地震では死者・行方不明者308名の被害が生じました。被害が大きかった原因は、津波そのものの規模も大きかった上に、県北部沿岸に発達したリアス式海岸のV字型の地形の影響で、湾奥ではさらに津波が高くなったためです。これらの地震より規模の小さい地震でも、1978年宮城県沖地震(M7.4、県内で死者27名)のように、震源域が陸に近い場合には、地震の揺れによって大きな被害を及ぼすことがあります。1978年宮城県沖地震の際は、特に丘陵地帯を造成して宅地化した地域を中心に大きな被害が生じ、さらに、ガス、水道、電気などのライフラインの被害により市民生活に混乱が生じるなど、都市型の災害が生じました。また、1978年宮城県沖地震が発生した場所よりさらに沖合の宮城県沖では、短期間にM6〜7程度の地震が続けていくつか発生することがあります。この他、歴史の資料によって、いくつか宮城県に被害を及ぼした地震が知られており、古くは三陸沖に発生したと考えられている869年の地震(M8.3)により、多賀城下に津波被害が生じたとの記録があります。2005年には、この宮城県沖地震の領域で、M7.2の地震が発生し、仙台市を中心に被害をもたらしました。
1978年宮城県沖地震が発生した海域付近では、1793年(M8.2)、1835年(M7.0、M7.3という説もあります)、1861年(M6.4)、1897年2月(M7.4)、1936年(M7.4)と、平均すると約37年間隔で同程度の規模の地震が発生してきました。1793年の地震は、この海域だけでなく日本海溝寄りの領域も連動して破壊したため、その規模は他の地震より大きいM8.2程度と考えられます。1936年の地震は、1978年の地震とほぼ同じ規模で、仙台市などで震度5が観測されました。しかし、被害に関しては、1978年の地震に比べて、はるかに軽微なものでした。これは、、震源の破壊の仕方の違いのほか、都市化、宅地化の進展など、社会状況の変化によって被害状況が変わってくることを示しています。なお、1936年の地震による津波の波源域は、1978年の地震の波源域の南側に推定されています。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震では、県内で死者9,541名、行方不明者1,236名、負傷者4,145名、建物全壊82,999戸など、多大な被害が生じました 。
陸域で発生した被害地震としては、歴史の資料によると1736年の地震(M6.0)により、仙台城下に被害が生じたと記録されていますが、長町−利府線断層帯との関係は不明です。明治以降では、1900年の宮城県北部の地震(M7.0)、1956年の白石の地震(M6.0)、1962年の宮城県北部地震(M6.5)、2003年宮城県北部の地震(M6.4)が知られています。1956年の白石の地震は福島盆地西縁断層帯付近で発生しましたが、この断層帯の活動との関係は分かっていません。もしこの断層帯で発生した地震だとしても、地震の規模の大きさからは、断層帯全体を震源域としたとは考えられません。また、1900年の宮城県北部の地震、1962年の宮城県北部地震、2003年宮城県北部の地震では、宮城県北部を中心に震度6強〜5弱の強い揺れが生じ、被害がありましたが、これらの地震に対応する活断層は見つかっていません。
平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震(M6.8)では、栗原市で震度6強を観測し、死者10人などの被害が生じました。
宮城・岩手・秋田県境の栗駒山周辺は東北地方の中で群発地震活動が比較的活発な地域の一つで、例えば1950年(最大M4.0)の活動など、過去M4程度の群発地震が数多く発生してきました。群発地震活動の期間は、過去の例によると1ヶ月以内で収まる場合が多く、長くても4ヶ月程度です。この地域では、本震−余震型の地震が発生することもあります。栗駒山近くの鳴子町(旧名、現在の大崎市)鬼首付近を震源域とする1996年の秋田・宮城県境の地震活動では、逆断層型の地震(M6.1)と横ずれ断層型の地震(M5.8)が続けて発生しました。複雑な発生過程の地震活動でしたが、大きく見ると本震−余震型の経過をたどりました。また、1962年の宮城県北部地震(M6.5)が発生した地域周辺では、例えば1985年(最大M4.5)のような群発地震がときどき発生することがあります。さらに、蔵王山付近でも群発地震が知られています。蔵王山や栗駒山は活火山ですが、これらの活火山と群発地震活動との関係について、はっきりしたことはまだ分かっていません。
宮城県では、周辺地域で発生する地震や北海道から関東地方にかけての三陸沖北部から房総半島沖の海溝よりにかけての太平洋側沖合で発生する地震によっても被害を受けることがあります。さらに、1960年のチリ地震津波のような外国の地震によっても津波被害を受けることがあります。チリ地震津波の際は、三陸沖などの日本近海で発生する地震による津波と違って、湾口が狭く湾奥が広いような湾の方が、湾奥で津波が大きくなりました。
宮城県の主要な活断層は、仙台市付近に長町−利府線断層帯、県南部から福島県にかけての奥羽山脈の東麓に福島盆地西縁断層帯、阿武隈高地の東縁部に双葉断層があります。また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、宮城県沖、三陸沖南部海溝寄り、三陸沖から房総沖の海溝寄りの領域で発生する地震があります。
869年7月13日(貞観11) 三陸沿岸 8.3 (家屋倒壊、圧死者多く、津波により多賀城下で溺死者1,000人。)
1611年12月2日(慶長16) 三陸沿岸および北海道東岸 8.1 (津波があり、伊達領で溺死者1,783人、南部、津軽で人馬の死3,000以上。)
1646年6月9日(正保3) 陸奥・岩代・下野 6.5〜6.7 仙台城・白石城で被害。
1793年2月17日(寛政5) 陸奥・磐城 8.0〜8.4 仙台藩で死者12人、家屋損壊1,060棟以上。
1835年7月20日(天保6) 仙台 7.0(7.3という説もある) 仙台城石垣破損。
1861年10月21日(文久1) 陸奥・出羽・磐城 6.4 (陸前の遠田・志田・登米・桃生の各郡で特に被害が多く、潰家・死傷があった。)
1896年6月15日(明治29) (明治三陸地震) 8.2 津波による被害。死者3,452人、北海道から宮城にかけて家屋流失全半潰1万棟以上。
1897年2月20日(明治30) 仙台沖 7.4 (岩手・山形・宮城・福島で小規模の被害。一関で家屋損壊72など)
1900年5月12日(明治33) 宮城県北部 7.0 遠田郡で被害最大。死者13人、負傷者4人、家屋全壊44棟。
1933年3月3日(昭和8) (三陸地震) 8.1 津波による被害。死者・行方不明者308人、負傷者145人、家屋倒壊528棟、同流失950棟。
1936年11月3日(昭和11) 金華山沖 7.4 負傷者4人。(福島・宮城両県で非住家全壊3棟、その他の小被害、小津波があった。)
1960年5月23日(昭和35) (チリ地震津波) Mw9.5 津波による被害。死者・行方不明者54人、負傷者641人、建物全壊977棟、建物流失434棟。
1962年4月30日(昭和37) (宮城県北部地震) 6.5 田尻町、南方村を中心に被害。死者3人、負傷者272人、住家全壊340棟。
1978年6月12日(昭和53) (1978年宮城県沖地震) 7.4 死者27人、負傷者1,273人、住家全壊1,180棟。
2003年5月26日(平成15) 宮城県沖 7.1 負傷者64人。
2003年7月26日(平成15) 宮城県北部 6.4 負傷者675人、住家全壊1,276棟。
2005年8月16日(平成17) 宮城県沖 7.2 負傷者79人
2008年6月14日(平成20) (平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震) 7.2 死者14人、行方不明4人、負傷者365人、家屋全壊28棟。
2008年7月24日(平成20) 岩手県中部〔岩手県沿岸北部〕 6.8 負傷者17人。
2010年3月13日(平成22) 福島県沖 5.7 負傷者1人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 死者9,541人、行方不明者1,236人、負傷者4,145人、建物全壊82,999戸、建物半壊155,129戸。  
 
関東地方

 

東京
東京都(伊豆諸島及び小笠原諸島を除く)に被害を及ぼす地震は、主に、相模湾から房総半島南東沖にかけてのプレート境界付近で発生する地震と、陸域の様々な深さの場所で発生する地震です。
相模湾から房総半島南東沖にかけてのプレート境界付近で発生する地震としては、例えば、1923年の関東地震(M7.9)があります。この地震では、都内のほとんどで震度5〜6の揺れとなり、大火災が発生したことも災いして、当時の東京府内では、死者・行方不明者70,387名などの非常に大きな被害が生じました。また、1703年の元禄地震(M7.9〜8.2)でも当時の江戸は大きな被害を受け、火災も発生しました。
陸域で発生した被害地震としては、荒川河口付近で発生した1855年の(安政)江戸地震(M6.9)が知られています。この地震は、浅い地震であったか、関東地方の下に沈み込んだフィリピン海プレートに関係したやや深い地震であったか、はっきりしていません。この地震により、下町を中心に全体として死者約4千名などの大きな被害が生じました。また、沈み込んだ太平洋プレートに関係する陸域の深い地震としては、(明治)東京地震と呼ばれる1894年の地震(M7.0)が知られています。この地震では、東京湾岸を中心に、都内で死者24名などの被害が生じました。最近では、約100kMの深さを震源とする1988年の東京都東部の地震(M5.8)で若干の被害が生じたことがあります。さらに、歴史の資料によると、17世紀前半などに、江戸付近で発生したM6〜7程度のいくつかの地震により、被害が生じたことが知られていますが、これらの地震が発生した深さは分かっていません。
1992年の東京湾南部(浦賀水道付近)の地震(M5.7)や2005年の千葉県北西部の地震(M6.0)など周辺地域で発生する地震や、東海沖などの太平洋側沖合で発生するプレート境界付近の地震によっても被害を受けたことがあります。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震では、都内で死者7名、負傷者117名、建物全壊15戸などの被害が生じました。
東京都の主要な活断層には、埼玉県南部から都南部まで延びる立川断層帯があります。また、都内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、相模トラフ沿いで発生する地震があります。
818年(弘仁9) 関東諸国 7.5以上 (相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野などで被害。圧死者多数。)
878年11月1日(元慶2) 関東諸国 7.4 (相模、武蔵を中心に被害。圧死者多数。)
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 津波により、八丈島谷ヶ里で全家屋流失し、死者57人。
1615年6月26日(元和1) 江戸 6 1/4〜6 3/4 家屋倒壊多く、死傷者多数。
1647年6月16日(正保4) 武蔵・相模 6.5 江戸城の石垣、大名屋敷など破損。死者少なからず。
1649年7月30日(慶安2) 武蔵・下野 7.0 江戸城の石垣破損、侍屋敷、長屋の破損・倒壊あり。圧死者多数。
1703年12月31日(元禄16) (元禄地震) 7.9〜8.2 江戸本所付近で被害が大きく、死者340、家屋全壊22。津波により、伊豆大島岡田で死者56、家屋流出58、波浮池が決壊して海とつながる。八丈島、新島でともに死者1。
1782年8月23日(天明2) 相模・武蔵・甲斐 7.0 小田原付近の地震。江戸でも、家屋全壊あり、死者が生じた。
1812年12月7日(文化9) 武蔵・相模 6 1/4 品川で家屋倒壊し、死者多数。
1855年11月11日(安政2) ((安政)江戸地震) 7.0〜7.1 下町を中心に甚大な被害。江戸における死者4,000人以上、家屋全壊14,346棟。
1894年6月20日(明治27) 東京湾北部((明治)東京地震とも呼ばれる) 7.0 東京湾岸を中心に被害。死者24人、負傷者157人、家屋全壊22棟。
1895年1月18日(明治28) 霞ヶ浦付近 7.2 下町で被害。死者1人、負傷者31人、家屋全壊4棟。
1923年9月1日(大正12) (関東地震) 7.9 死者・行方不明者70,387人、住家全壊20,179棟、住家焼失377,907棟。
1924年1月15日(大正13) 丹沢山塊(丹沢地震とも呼ばれる) 7.3 関東地震の余震。死者6人、負傷者116人、住家・非住家全壊25棟。
1936年12月27日(昭和11) 新島近海 6.3 新島で死者2人、負傷者70人、家屋全壊38棟。式根島で死者1人、家屋全壊1棟。
1957年11月11日(昭和32) 新島近海 6.0 式根島で石造家屋全壊2棟。
1967年4月6日(昭和42) 神津島近海 5.3 式根島で住家全壊7棟、神津島で負傷者3人。
1968年2月25日(昭和43) 新島近海 5.0 式根島で住家全壊2棟。
2000年(平成12) 三宅島・神津島・新島近海 最大6.5 死者1人、負傷者15人、住家全壊15棟。
2005年2月16日(平成17) 茨城県南部 5.3 負傷者5人。
2005年7月23日(平成17) 千葉県北西部 6.0 負傷者12人。
2008年5月8日(平成20) 茨城県沖 7.0 負傷者2人。
2009年8月11日(平成21) 駿河湾 6.5 負傷者1人。
2009年8月13日(平成21) 八丈島東方沖 6.6 住家全壊1棟。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 死者7人、負傷者117人、建物全壊15戸、建物半壊198戸。  
江東区における津波の影響
東京湾
平成24年4月に東京都防災会議より公表された「首都直下地震等による東京の被害想定」において、今後発生が想定される地震の中から海域内あるいは海域に近接するものが抽出され、それぞれ津波の高さが算出されています。これによると、江東区においては、元禄型関東地震(1703年の元禄関東地震をモデルに想定したマグニチュード8.2の地震)による津波が最大の高さとなり、その高さは最大約1.58m(満潮時に津波が発生するという想定で、最大潮位T.P.+2.55m程度(※))と算出されています。
また、同会議においては、発生の切迫性が指摘されている首都直下地震のうち東京湾北部地震を想定し、津波の高さを算出しています。これによると、江東区における最大の津波の高さは、最大約78cm(満潮時に津波が発生するという想定で、最大潮位T.P.+1.75m程度(※))とされています。
これに対し、東京湾内湾のうち江東区にかかる防潮堤の高さはT.P.+4.47m〜+6.87mとなっており、想定しているあらゆる津波の高さを上回っています。
※T.P. / 東京湾平均海面(海抜)
荒川・隅田川流域
荒川の堤防は、台風による最も大きな波に耐えられる高さを想定して築かれており、堤防の高さはT.P.+6.87mとなっています。これは最大の想定である元禄型関東地震に伴う津波の高さを大きく上回るため、津波が堤防を越える可能性は極めて低いと考えられます。
隅田川流域においても、護岸の計画天端高(最高の高さ)はT.P.+5.17mとなっており、護岸の高さは想定される最大の津波の高さを大きく上回ることから、護岸を越える可能性は極めて低いと考えられます。
区内の内部河川流域
大地震発生などの非常時においては、区内の水門を閉鎖することにより、荒川・隅田川からの影響を遮断し、津波の流入を防ぎます。  
神奈川

 

神奈川県に被害を及ぼす地震は、主に相模湾から房総半島南東沖にかけてのプレート境界付近で発生する地震と、陸域の様々な深さの場所で発生する地震です。
相模湾から房総半島南東沖にかけてのプレート境界付近で発生する地震としては、1923年の関東地震(M7.9)がよく知られています。この地震の震源域は、県内のほぼ全域を含んでいると考えられており、県内では強い揺れが生じました。県内の全域で震度6の揺れとなり、南部の一部では震度7相当の揺れが生じたと推定されています。火災による被害も合わせて、県内では死者・行方不明者33,067名などの非常に大きな被害が生じました。さらに、1923年の関東地震の余震である1924年の丹沢山塊の地震(M7.3、丹沢地震と呼ぶこともあります)でも、県内で死者13名などの被害が生じました。また、1703年の元禄地震(M7.9〜8.2)でも、小田原をはじめ沿岸部を中心に、死者約2,300名などの大きな被害が生じました。
県西部地域では、1633年の相模・駿河・伊豆の地震(M7.0)、1782年の相模・武蔵・甲斐の地震(M7.0)、1853年の小田原付近の地震(M6.7)などのM7程度の被害地震が繰り返し発生してきました。これらの地震と1703年の元禄地震(M7.9〜8.2)、1923年の関東地震(M7.9)の発生年数などから、この地域に被害を及ぼす大地震が、約70年間隔でほぼ規則的に繰り返し発生し、現在は次の発生時期にあたっているという説が出されています。これは、歴史の資料の解釈に基づくと同時に、フィリピン海プレート上の伊豆半島が陸側のプレートの下に沈み込めずに衝突しているために、関東地方の下に沈み込むフィリピン海プレートと伊豆半島の間が、裂けるような形で破壊されなければならないという考えに依っています。一方で、この説に関してはいくつかの異論も唱えられています。
県北西部の丹沢山地から山梨県東部にかけての深さ10〜30kMの場所では、伊豆半島が陸側のプレートに衝突するために生じると考えられる地震活動が活発で、M5〜6程度の地震は、数年に1回の割合で発生し、若干の被害が生じたことがあります。
陸域の深い場所で発生した地震としては、最近では1992年の東京湾南部(浦賀水道付近)の地震(M5.9、深さ92kM)などで若干の被害が生じたことがあります。
1855年の(安政)江戸地震(M6.9)や(明治)東京地震と呼ばれる1894年の地震(M7.0)、1930年の北伊豆地震(M7.3)など周辺地域で発生する地震や東海沖・南海沖などの太平洋側沖合で発生するプレート境界付近で発生する地震によっても被害を受けたことがあります。さらに、外国の地震によっても津波被害を受けたことがあります。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震では、県内で死者4名、負傷者138名などの被害が生じました。
神奈川県の主要な活断層には、県中部に南北に延びる伊勢原断層、静岡県との県境の丹沢山地南縁から相模湾に延びる塩沢断層帯・平山−松田北断層帯・国府津−松田断層帯(神縄・国府津−松田断層帯)、三浦半島中南部とその周辺海域に分布する三浦半島断層群、県西部から伊豆半島に延びる北伊豆断層帯があります。また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、相模トラフ沿いで発生する地震があります。
818年(弘仁9) 関東諸国 7.5以上 (相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野などで被害。圧死者多数。)
878年11月1日(元慶2) 関東諸国 7.4 (相模、武蔵を中心に被害。圧死者多数。)
1257年10月9日(正嘉1) 関東南部 7.0〜7.5 鎌倉で山崩れ、社寺・家屋倒壊などの被害。
1293年5月27日(永仁1) 鎌倉 7.0 鎌倉で社寺・家屋倒壊、焼失などの被害。死者数、数千から23,000人余の諸説あり。
1498年9月20日(明応7) 東海道全般 8.2〜8.4 鎌倉で津波により、溺死者200人。
1633年3月1日(寛永10) 相模・駿河・伊豆 7.0 小田原で最も被害が大きく、小田原市内で死者150人、家屋全壊多数。箱根でも死者あり。
1649年9月1日(慶安2) 川崎・江戸 6.4 川崎で民家140〜150軒などが倒壊。付近の村でも家屋倒壊あり。死傷者多数。
1697年11月25日(元禄10) 相模・武蔵 6.5 鎌倉で家屋全壊あり。
1703年12月31日(元禄16) (元禄地震) 7.9〜8.2 沿岸部を中心に甚大な被害。小田原領内で、死者2,291人、家屋全壊8,007棟。津波による被害もあり。
1782年8月23日(天明2) 相模・武蔵・甲斐 7.0 箱根、小田原で被害が大きく、住家約800棟破損。
1812年12月7日(文化9) 武蔵・相模 6 1/4 横浜で、家屋全壊22棟。付近でも死者、家屋全壊あり。
1853年3月11日(嘉永6) 小田原付近 6.7 小田原を中心に被害。死者24人、負傷者13人、家屋全壊1,088棟。
1855年11月11日(安政2) ((安政)江戸地震) 7.0〜7.1 県東部を中心に被害。死者37人、負傷者75人、家屋全壊64棟。
1894年6月20日(明治27) 東京湾北部((明治)東京地震とも呼ばれる) 7.0 横浜市、橘樹郡を中心に被害。死者7、負傷者40、建物全半壊40。
1923年9月1日(大正12) (関東地震) 7.9 死者・行方不明者33,067人、住家全壊62,887棟、住家焼失68,569棟、住家流出埋没136棟。
1924年1月15日(大正13) 丹沢山塊(丹沢地震とも呼ばれる) 7.3 関東地震の余震。死者13人、負傷者466人、住家全壊561棟。
1930年11月26日(昭和5) (北伊豆地震) 7.3 死者13人、負傷者6人、住家全壊88棟。
2005年2月16日(平成17) 茨城県南部 5.3 負傷者1人。
2005年7月23日(平成17) 千葉県北西部 6.0 負傷者9人。
2009年8月11日(平成21) 駿河湾 6.5 負傷者4人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 死者4人、負傷者138人、建物半壊41戸。 
 
中部地方

 

静岡
静岡県に被害を及ぼす地震は、主に相模、駿河、南海トラフ沿いで発生する海溝型巨大地震と、陸域の浅い場所で発生する地震です。
プレート間地震として発生した1944年の東南海地震(M7.9)では、県の西部が震度5から6の揺れとなり、地震の揺れ及び津波によって、死者・行方不明者295名、家屋全壊6,970棟などの被害が生じました。また、1707年の宝永地震(M8.6)、1854年の安政東海地震(M8.4)では県内全域が震度6となり、地震の揺れ・津波・火災・山崩れ等によって甚大な被害が生じました。なお、1946年の南海地震(M8.0)によっても県内では津波による家屋の浸水や船舶の流出などの被害が生じました。
一方、相模トラフでのプレート間地震として発生した1923年の関東地震(M7.9)では、県東部が震度6、西部が震度5となり、地震の揺れと火災及び津波によって、県内では伊豆半島を中心として死者・行方不明者444名、家屋全壊2,298棟などの甚大な被害が生じました。また、1703年の元禄地震(M7.9〜8.2)でも、伊豆地方などを中心として、津波や山崩れなどによる被害が生じました。
伊豆半島では、1974年伊豆半島沖地震(M6.9)で死者30名、1978年伊豆大島近海の地震(M7.0)で死者25名などの被害が生じ、山崩れ等による大きな被害が発生しました。その後も伊豆半島東部を中心として、1978年(最大M5.4)、1980年(最大M4.9)、1984年(最大M4.5)、1986年(最大M4.7)、1988年(最大M5.2)、1989年(最大M5.5)、1993年(最大M4.8)、1995年(最大M5.0)、1996年(最大M4.3)、1997年(最大M5.9)、1998年(最大M5.9)、2006年(最大M5.8)などの、火山活動に関連すると思われる規模の大きな群発地震活動や地殻の異常な隆起等の活動が時折発生しています。また、伊豆半島東岸の沖では、1980年の伊豆半島東方沖地震(M6.7)や1990年の地震(M6.5)が発生しました。
2011年3月15日の静岡県東部の地震(M6.4)では、負傷者48名などの被害が生じました。
県中西部、静岡市付近から浜名湖付近に至る広い範囲に、深さ20〜30kMの定常的な地震活動が点在しており、とくに静岡市の周辺では、1589年(M6.7)、1841年(M6 1/4)、1857年(M6 1/4)、1917年(M6.3)、1935年(M6.4)、1965年(M6.1)と、数名の犠牲者を生じるようなM6程度の被害地震が発生しています。
1891年の濃尾地震(M8.0)や1924年の丹沢山塊での地震(M7.3)のように周辺地域で発生する地震によっても被害を受けることがあります。さらに、沿岸部では、チリ地震津波のように外国の地震によっても、津波被害を受けることがあります。
県内の主要な活断層としては、神奈川県との県境付近に塩沢断層帯・平山−松田北断層帯・国府津−松田断層帯(神縄・国府津−松田断層帯)が、伊豆半島北部に北伊豆断層帯が、富士市から富士宮市にかけて富士川河口断層帯があります。
また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、南海トラフで発生する地震があります。
1854年の安政東海地震(M8.4)では、紀伊半島沖から駿河湾(駿河トラフ)までが震源域となりましたが、1944年の東南海地震(M7.9)では、駿河湾は震源域とならず、現在その付近のひずみは蓄積したままであると考えられています。そのため、駿河トラフ周辺を震源域としたM8程度の東海地震の発生が懸念されています。
715年7月4日(霊亀1) 遠江 6.5以上 山崩れが天竜川を塞ぎ、数十日を経て決壊し、敷智、長下、石田の3郡住家170棟余没す。
841年(承和8) 伊豆 7.0 里落完たからず(村々は大破)。圧死傷者多数。
878年11月1日(元慶2) 関東諸国 7.4 (相模、武蔵がとくにひどく、圧死者多数。相模国分寺に被害。)
1096年12月17日(永長1) 畿内・東海道 8.0〜8.5 津波が伊勢・駿河を襲う。駿河で社寺・家屋流失400棟余。
1498年9月20日(明応7) 東海道全般 8.2〜8.4 静岡地方では津波による死者約26,000人。
1589年3月21日(天正17) 駿河・遠江 6.7 駿河・遠江両国の住家破損多数。
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 津波が押し寄せる。浜名湖近くの橋本で、死者多数、家屋流失80棟。
1633年3月1日(寛永10) 相模・駿河・伊豆 7.0 三島で家崩れる。熱海に津波。
1686年10月3日(貞享3) 遠江・三河 7.0 新居の関所、番所、町家少々破損、死者あり。
1703年12月31日(元禄16) (元禄地震) 7.9〜8.2 伊豆東海岸に津波。死者は宇佐美で380人余、須玖美で163人、下田で27人。下田で家屋倒壊・流失332棟。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 沿岸で津波と液状化。下田で死者11人、家屋全壊・流失857棟など。
1718年8月22日(享保3) 信濃・三河(遠山谷の地震とも呼ばれる) 7.0 (伊那遠山谷で山崩れ、せき止められた遠山川が決壊し死者50人余。)天竜川沿いに被害が推定される。
1782年8月23日(天明2) 相模・武蔵・甲斐 7.0 伊豆田方郡で強い揺れ。伊豆北部に小被害の可能性あり。
1854年12月23日(安政1) (安政東海地震) 8.4 沿岸一帯に津波。低地では液状化現象あり。特に掛川、袋井付近の被害大。また沿岸一帯に津波が来襲、下田で死者122人、家屋全壊・同流失840棟。
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 遠江で住家全壊32棟。
1917年5月18日(大正6) 静岡付近 6.3 死者2、負傷者6。
1923年9月1日(大正12) (関東地震) 7.9 死者・行方不明者444人、住家全壊2,383棟、住家焼失5棟、住家流出埋没731棟。
1924年1月15日(大正13) 丹沢山塊(丹沢地震とも呼ばれる) 7.3 駿東郡の被害。負傷者26人、住家・非住家全壊10棟。
1930年11月26日(昭和5) (北伊豆地震) 7.3 死者259人、負傷者566人、住家全壊2,077棟、同焼失75棟。
1935年7月11日(昭和10) 静岡市付近 6.4 静岡市・有度山周辺に被害集中。死者9人、負傷者299人、住家全壊363棟。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 津波あり。死者・行方不明者295人、負傷者843人、住家全壊6,970棟。
1965年4月20日(昭和40) 静岡付近 6.1 清水市北部の平野で被害大。死者2人、負傷者4人。
1974年5月9日(昭和49) (1974年伊豆半島沖地震) 6.9 中木、入間、石廊崎で被害大。死者30人、負傷者102人、家屋全壊134棟、焼失5棟。
1978年1月14日 (昭和53) (1978年伊豆大島近海の地震) 7.0 持越鉱山の鉱滓堆積場の堰堤損壊。死者25人、負傷者211人、住家全壊96棟。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者2人。
2009年8月11日(平成21) 駿河湾 6.5 死者1人、負傷者319人。住家半壊6棟。
2009年12月(平成21) 伊豆半島東方沖 5.1(最大) 負傷者7人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 負傷者3人。
2011年3月15日(平成23) 静岡県東部 6.4 負傷者48人。  
愛知

 

愛知県に被害を及ぼす地震は、主に南海トラフ沿いで発生する海溝型巨大地震 と陸域の浅い場所で発生する地震です。
太平洋側沖合などのプレート境界付近で発生する地震によって、地震の揺れや津波による被害を受けることがあります。例えば、1854年の安政東海地震(M8.4)や1944年の東南海地震(M7.9)では、県内の全域で強い揺れが生じ、名古屋市付近では大きな被害が生じました。
歴史の資料で知られている県内の浅い場所で発生した被害地震としては、浜名湖の西、静岡県との県境付近で発生した715年の地震(M6.5〜7.0)、1686年の地震(M7.0)や西尾市付近で発生した1861年の地震(M6.0)などが知られています。明治以降では、1945年の三河地震(M6.8)があり、幡豆郡を中心に死者2,306名、全壊家屋7,221棟などの大きな被害が生じました。この地震により深溝地震断層(主要な活断層となっておらず、図には示されていません)で地表にずれが生じ、断層の上盤側で特に大きな被害が生じました。
周辺地域で発生した地震によっても被害を受けることもあります。例えば、歴史の資料によると、1586年の天正地震(M7.8)、1715年の大垣付近の地震(M6.5〜7)などで県内に被害が知られており、明治以降では、1891年の濃尾地震(M8.0)により県内の広い範囲で震度6が観測され、甚大な被害が生じました。
さらに、1960年のチリ地震津波のように外国の地震によっても津波の被害を受けることがあります。
県内の主要な活断層は、県中部に屏風山・恵那山断層帯及び猿投山断層帯が、伊勢湾内に伊勢湾断層帯があります。
県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、南海トラフで発生する地震があります。
なお、岐阜市から名古屋市にかけて存在するとされていた岐阜−一宮断層帯は、長期評価では調査の結果活断層ではないと判断されています。
715年7月5日(霊亀1) 三河 6.5〜7.0 正倉47破損。民家陥没。
1586年1月18日(天正13) 畿内・東海・東山・北陸諸道(天正地震) 7.8(8.2とする文献もある) (死者5,500人以上。)
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 (津波が犬吠埼から九州までの太平洋岸に来襲し多くの被害が出た。)
1685年(貞享2) 三河 不明 渥美郡で被害。家屋の倒壊あり、死者多数。
1686年10月3日(貞享3) 遠江・三河 7.0 遠江新居の関所、三河田原城に被害。死者あり。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 渥美郡、吉田(現在の豊橋)で大被害。尾張領内の堤防被害、延長9,000M。三河・尾張で死者19人、負傷者4人、家屋全壊8,573棟。
1718年8月22日(享保3) 信濃・三河(遠山谷の地震とも呼ばれる) 7.0 (死者50人余。)
1854年12月23日(安政1) (安政東海地震) 8.4 三河、知多、尾張の沿岸に被害。津波により被害。
1854年12月24日(安政1) (安政南海地震) 8.4 (前日の安政東海地震による被害との区別がつかない。)
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 三河・尾張で死者2,339人、負傷者4,594人、家屋全壊68,899棟。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 小津波あり。名古屋臨港部などで液状化現象による被害。死者・行方不明者438人、負傷者1,148人、住家全壊6,411棟。
1945年1月13日(昭和20) (三河地震) 6.8 幡豆郡、碧海郡に甚大な被害。死者2,306人、負傷者3,866人、住家全壊7,221棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 死者10人、負傷者19人、住家全壊75棟。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者7人。
2009年8月11日(平成21) 駿河湾 6.5 負傷者3人。 
長野

 

長野県に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅い場所で発生する地震と、相模、駿河、南海トラフ沿いで発生する海溝型巨大地震です。
これまでに、県内では浅い場所で被害地震が比較的多く発生してきました。歴史の資料には、762年(M不明)と841年(M6.5以上)に県内に大きな被害を及ぼした地震があったとの記録があります。このうち、762年の地震は、その被害が美濃、飛騨にも及ぶことなどから、糸魚川−静岡構造線断層帯の地質学的調査によって認定された1200年前の活動に該当する可能性があります。
県内の活断層で発生した地震としては、1847年の善光寺地震(M7.4)があります。この地震は、長野盆地西縁断層帯で発生し、長野付近から飯山周辺まで地表に断層運動によるずれが生じました。この地震による被害は、現在の新潟県上越市付近から松本付近に至る地域に及びましたが、特に水内郡(旧名、現在の飯山市)や更科郡(旧名、現在の長野市)で非常に大きな被害が生じました。死者は、当時の松代領で2,695名、飯山領で586名、善光寺領で2,486名だったほか、善光寺自体に大きな被害はなかったものの、全国からの善光寺への参詣者7,000〜8,000名のうち、生き残った人は約1割とも言われています。また、各地で多数の家屋が倒壊しました。さらに、この地震によって多数の山崩れが生じ、そのうち虚空蔵山が崩れたものは犀川をせき止め、周辺の村を水没させたほか、後に決壊して下流部で洪水となり、大きな被害が生じました。
このほか、歴史資料によって知られている被害地震については、県北部では、1714年の地震(M6 1/4)、1853年の地震(M6.5)、1858年の地震(M5.7)などがあります。これらの地震は、現在の大町市以北の北安曇郡や長野市付近などに被害を及ぼしました。松本市付近では、1791年の地震(M6 3/4)で、松本城の塀が崩れるなどの被害が生じました。また、諏訪市付近で、1725年にM6.0〜6.5の地震が発生し、高遠城の破損や家屋倒壊などの被害が生じました。県南部、静岡県や愛知県との県境付近では、1718年にM7.0の地震(遠山谷の地震とも呼ばれます)が発生し、死者、家屋倒壊などの被害が生じました。この地震による山崩れで河川(遠山川)がせき止められ、その後決壊して、下流で被害が生じています。
明治以降においても、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)周辺や大町市周辺で、いくつかのM5〜6程度の被害地震が発生しています。特に、1918年の大町地震(M6.1、M6.5)では、大町市周辺において、家屋全壊、半壊などの被害が生じました。また、1941年には、長野市付近でM6.1の地震(長沼地震とも呼ばれます)があり、長野市の北東を中心に死者5名や全壊家屋などの被害が生じました。1943年にも、野尻湖付近でM5.9の地震があり、死者1名や全壊家屋などの被害が生じました。また、1965年には、長野市の南、松代周辺で活発な群発地震活動(松代群発地震)が始まっています。最近では、大町市の北で1986年にM5.9の地震が発生し、家屋への被害が生じました。さらに、県東部の上田市周辺では、1912年(M5.1)と1986年(M4.9)に小被害を伴った地震が発生しました。
昭和59年(1984年)長野県西部地震(M6.8)は、御嶽山の南側で発生し、死者・行方不明者29名、建物全壊13棟などの被害が生じました。ほとんどの被害は、地震に伴って発生した大規模な斜面崩壊とそれに続く土石流によるものです。震源域には、活断層は知られておらず、またこの地震に伴って地表に断層運動によるずれは現れませんでしたが、地震や地殻変動の観測から、地下にある東北東−西南西方向の断層(長さ十数kM)が約1Mの右横ずれを起こすことで地震が発生したと考えられています。
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の翌日の3月12日未明に発生した長野県北部の地震(M6.7)では、避難中や仮設住宅の除雪中の事故などによる死者3名や、負傷者12名、住家全壊34棟などの被害が生じました。
2014年11月22日の長野県北部の地震(M6.7)では、長野県内で最大震度6弱を観測し、建物全壊77棟などの被害が生じました (平成27年1月5日現在、消防庁調べ)。
1891年の濃尾地震(M8.0)、1964年の新潟地震(M7.5)などのように周辺の地域で発生した地震によっても被害を受けることがあります。また、南海トラフ沿いの巨大地震で、地震の揺れによる被害を受けています。1854年の安政東海地震(M8.4)の際に、松本では死者5名、家屋倒壊、焼失など、また当時の松代藩でも死者5名や家屋倒壊などの被害が生じました。1944年の東南海地震(M7.9)では、県内で家屋全壊などの被害が生じ、1946年の南海地震(M8.0)の際にも家屋への被害が生じました。さらに、相模トラフ沿いの巨大地震である1923年の関東地震(M7.9)でも、家屋全壊などの被害が生じました。
長野県の主要な活断層は、県内をほぼ南北に縦断するように糸魚川−静岡構造線断層帯が延びており、諏訪湖付近では伊那谷断層帯が並走しています。諏訪湖付近から南西方向には、境峠・神谷断層帯とその延長上に木曽山脈西縁断層帯が、県北東部には十日町断層帯、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)があります。
また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、南海トラフで発生する地震があります。
762年6月9日(天平宝字6) 美濃・飛騨・信濃 不明 (被害の詳細は不明。)
841年(承和8) 信濃 6.5以上 家屋倒壊あり。
863年7月10日(貞観5) 越中・越後 不明 (山崩れ、谷埋まり、民家破壊し、圧死者多数、直江津付近の数個の小島潰滅。)
1627年10月22日(寛永4) 松代 6.0 死者あり、家屋倒壊80棟。
1703年12月31日(元禄16) (元禄地震) 7.9〜8.2 伊那で家屋倒壊あり。松代で家屋全壊2棟。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 諏訪と南北安曇郡に被害。死者2人、家屋全壊567棟。
1714年4月28日(正徳4) 信濃北西部 6 1/4 姫川沿いの谷に被害。大町組全体で死者56人、負傷者37人、住家全壊194棟。
1718年8月22日(享保3) 信濃・三河(遠山谷の地震とも呼ばれる) 7.0 飯田領内で死者12人、家屋全壊350棟余。天竜川沿いに山崩れが多発し、森平山が崩れ、遠山川を堰き止めた。
1725年8月14日(享保10) 高遠・諏訪 6.0〜6.5 高遠城の石垣、塀、土居夥しく崩れる。諏訪では郷村36ヶ村で死者4人、負傷者8人、家屋全壊347棟。
1751年5月21日(宝暦1) 越後・越中 7.0〜7.4 松代領で死者12人、家屋倒壊44棟。
1791年7月23日(寛政3) 松本 6 3/4 松本城の塀など崩れる。住家損壊495棟。
1847年5月8日(弘化4) (善光寺地震) 7.4 松代領で死者2,695人、負傷者2,289人、家屋全壊9,550棟。飯山領では死者586人、全壊家屋1,977棟。善光寺領では死者2,486人、家屋全壊2,285棟、同焼失2,094棟。
1853年1月26日(嘉永5) 信濃北部 6.5 水内、更級郡で住家倒壊23棟。
1854年12月23日(安政1) (安政東海地震) 8.4 松本で死者5人、家屋倒壊52棟、同焼失51棟。松代藩で死者5人、負傷者29人、家屋倒壊152棟。飯田、諏訪等でも家屋倒壊あり。
1858年4月23日(安政5) 信濃北西部 5.7 大町付近を中心に被害。家屋全壊71棟。
1918年11月11日(大正7) (大町地震) 6.1, 6.5 2回の地震があった、姫川沿いの地域で住居全壊6棟。
1923年9月1日(大正12) (関東地震) 7.9 住家全壊13棟。
1941年7月15日(昭和16) 長野市付近(長沼地震とも呼ばれる。) 6.1 死者5人、負傷者18人、住家全壊29棟。千曲川沿いで噴砂現象。
1943年10月13日(昭和18) 長野県古間村 5.9 野尻湖付近。死者1人、負傷者14棟、住家全壊14棟。
1944年12月7日(昭和19)  (東南海地震) 7.9 住家全壊13棟。諏訪では軟弱地盤の被害が大きかった。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 住家全壊2棟。
1965年8月3日(昭和40) (松代群発地震) 1967年10月まで。負傷者15人、住家全壊10棟。
1984年9月14日(昭和59) (昭和59年(1984年)長野県西部地震) 6.8 御岳山の山崩れにより、王滝村で被害。死者・行方不明者29人、負傷者10人、建物全壊13棟、同流失10棟。
2004年10月23日(平成16) ( 平成16年(2004年)新潟県中越地震) 6.8 負傷者3人。
2007年7月16日(平成19) (平成19年(2007年)新潟県中越沖地震) 6.8 負傷者29人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 負傷者1人 。
2011年3月12日(平成23) 長野県北部 6.7 死者3人、負傷者12人、住家全壊34棟、住家半壊169棟 (平成24年10月1日現在、長野県危機管理部調べ)。
2011年6月30日(平成23) 長野県中部 5.4 死者1人、負傷者17人、住家半壊24棟 。
2014年11月22日(平成26) 長野県北部 6.7 負傷者46人、住家全壊77棟、住家半壊136棟。 
新潟

 

新潟県に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅い場所で発生する地震と日本海東縁部で発生する地震です。
歴史の資料から陸域の浅い場所で発生した被害地震が比較的多く知られています。1502年、1666年、1751年に新潟県西部においてM6〜7の地震があり、大きな被害が生じました。また、1670年には、新潟県中部、南蒲原郡付近で地震(M6 3/4)が発生し、死者、家屋倒壊などの被害が生じました。なお、この地震については、より西方の越後平野(1828年の地震のすぐ北側)で発生したとする調査報告もあります。1828年のM6.9の地震(三条地震と呼ばれることもあります)では、越後平野南部で被害が著しく、特に三条では約439軒の家が潰れ、死者約205名などの被害が生じました。県内各地でも大きな被害を出しました。地割れから水や青砂を噴出したり、建物が土中に3〜4尺めり込んだという記録もあり、この地震に伴って、かなり大規模な液状化現象が起こったと考えられます。
明治以降も、陸域の浅い被害地震がいくつか発生しています。特に、明治以降における観測体制の整備、社会的状況の変化等により、M5〜6程度の地震による局所的な被害が新潟県中〜西部で数多く報告されています。例えば、1887年の古志郡の地震(M5.7)、1927年の三島郡関原の地震(M5.2)、1933年の小千谷の地震(M6.1)、1961年の長岡付近の地震(M5.2)などがあります。1961年の長岡付近の地震では、約3kM程度の非常に狭い範囲で震度6程度の揺れを感じました。最近では、1995年に新潟県笹神村(旧名、現在の阿賀野市)付近で発生した地震(M5.6)で、負傷者や家屋の全半壊などの被害が生じました。また、1992年の津南の地震は、M4.5にもかかわらず深さが非常に浅かった(約2kM)ため、ごく局所的に被害が生じました。さらに、中越地方で平成16年(2004年)新潟県中越地震(M6.8)とそれに伴うM6.0を超える規模の余震が本震直後に立て続けに発生し、死者68人などの被害が生じたほか、電力などのライフラインへの被害や、新幹線の脱線、道路の崩壊などの交通機関の大きな被害なども生じました。また、平成19年(2007年)新潟県中越沖地震(M6.8)では、柏崎市や刈羽村、長岡市で震度6弱を観測し、死者11人などの被害が生じたほか、ライフラインの被害や、柏崎刈羽原子力発電所での変圧器の火災などの被害も生じました。
新潟県内では、隣接する県で発生する浅い地震によっても被害を受ける場合があります。例えば、1847年の善光寺地震(M7.4)では県西部、特に上越市付近を中心に家屋倒壊などの被害が生じました。
歴史の資料によると、新潟県付近の日本海東縁部で発生した地震としては、1762年の地震(M7.0)や1802年の地震(M6.5〜7.0)が知られています。いずれも、佐渡島付近の海域で発生し、1762年の地震では佐渡島において強い揺れによる被害のほかに津波被害も生じました。明治以降では、1964年の新潟地震(M7.5)が日本海東縁部で発生した被害地震です。1833年の山形県沖の地震(M7 1/2)や昭和58年(1983年)日本海中部地震(M7.7)などでは、新潟県の沿岸地域に津波被害が出ており、新潟県沖合以外の日本海東縁部で規模の大きな地震が発生した場合でも津波被害を受けることがあります。なお、1828年の地震などが知られている越後平野南部と1964年の新潟地震の震源域との間には、これまでに規模の大きな地震が知られておらず、ここを地震の空白域とする指摘もあります。
新潟県内の主要な活断層は、北部に櫛形山脈断層帯とその延長上に月岡断層帯、中部に海域から続く長岡平野西縁断層帯とその延長上に十日町断層帯、長野盆地西縁断層帯(信濃川断層帯)、魚沼市から南魚沼市を経て南魚沼郡湯沢町にかけて六日町断層帯、西部に高田平野断層帯があります。
また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、山形県沖、新潟県北部沖、佐渡島北方沖の領域で発生する地震があります。
863年7月10日(貞観5) 越中・越後 不明 (山崩れ、民家倒壊、湧水あり、圧死者多数。)
1502年1月28日(文亀1) 越後南西部 6.5〜7.0 越後の国府(現・直江津)で家屋の倒壊並びに死者多数。
1666年2月1日(寛文5) 越後西部 6 3/4 高田城破損。死者約1,500人、住家倒壊多数。
1670年6月22日(寛文10) 越後中・南蒲原郡 6 3/4 上川4万石で、死者13人、家屋全壊503棟。
1729年8月1日(享保14) 能登・佐渡 6.6〜7.0 佐渡で死者、家屋倒壊あり。
1751年5月21日(宝暦1) 越後・越中 7.0〜7.4 高田城破損、全体で死者2,000人、高田領の死者1,128人、家屋全壊及び焼失6,088棟。
1762年10月31日(宝暦12) 佐渡 7.0 石垣、家屋が破損、死者があり。鵜島村で津波により家屋流出26棟。
1802年12月9日(享和2) 佐渡 6.5〜7.0 佐渡3郡全体で死者19人、全壊家屋1,150棟、同焼失328棟。
1828年12月18日(文政11) 越後(三条地震とも呼ばれる) 6.9 三条・見附・今町・与板などで被害。死者1,400人、家屋倒壊9,800棟、同焼失1,200棟。
1833年12月7日(天保4) 羽前・羽後・越後・佐渡 7 1/2 死者5人。
1847年5月8日(弘化4) (善光寺地震) 7.4 (死者12,000人、全壊家屋34,000棟。)
1847年5月13日(弘化4) 越後頸城郡 6 1/2 善光寺地震の被害と区別できないところが多い。
1961年2月2日(昭和36) 長岡付近 5.2 死者5人、住家全壊220棟。
1964年6月16日(昭和39) (新潟地震) 7.5 新潟市内で地盤の流動、不同沈下による震害が著しかった。死者13人、負傷者315人、住家全壊1,448棟、同全焼290棟。
  1964年(昭和39年)6月16日13時1分 M7.5
新潟県の粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。地震の規模はM7.5(Mw7.6)。日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、化学消防体制が脆弱な時代背景もあり、143基の石油タンクが延焼し、その火災は12日間続いた。以後、石油コンビナート防災の指標の一つとなっている。そして、この地震を機に住宅地や工業地帯の液状化現象への本格的な研究が始まった。また、日本で地震保険ができる直接的な要因となった震災としても知られ、この2年後、1966年(昭和41年)に地震保険制度が誕生した。なお、1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始から4年後に発生したこの地震は、日本において数多くのカラー映像で被害状況を残すことができた初めての大規模地震である。サハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯で発生した地震の一つ。余震は震央の北北東−南南西方向の約80 kmの範囲に分布しているが、震源断層の傾斜方向は明らかになっていない。当時周辺の陸上の地震計(地震観測点)設置箇所は少なく海底地震計は設置されていなかったことから、余震の震源決定の精度は悪い。震源近くの粟島はこの地震によって約 1m隆起した。粟島の海岸にはいくつかの段丘が形成されており過去の活動歴を残していて、活動間隔は段丘の高さから約2000年間隔とする説と海底の活断層の解析から約3000年間隔とする説がある。先行する静穏化現象があり、震央を中心として半径約50kmの範囲では16年間に渡って地震活動が低調で、地震の約2年半前からやや活発な活動の後に本震が発生した。
1995年4月1日(平成7) 北蒲原南部 5.6 負傷者82人、家屋全壊55棟。
2004年10月23日(平成16) (平成16年(2004年)新潟県中越地震) 6.8 死者68人、負傷者4,795人、家屋全壊3,175棟。
  2004年(平成16年)10月23日17時56分 M6.8
新潟県中越地方を震源として発生したM6.8、震源の深さ13 kmの直下型の地震である。1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)以来、当時観測史上2回目の最大震度7を記録した。新潟県北魚沼郡川口町(現長岡市)の直下を震源として発生した逆断層型の内陸地殻内地震で、震源直上の川口町では最大震度7を観測した。震度7を観測したのは、1995年の阪神・淡路大震災以来9年ぶり、観測史上2回目。なお、阪神・淡路大震災では気象庁などの調査によって震度が判定されたため、震度計で震度7が観測されたのは初めてである。また、M6を越える規模の大きな余震が複数回発生するなど、余震回数が多く群発地震的様相を呈したことも特徴のひとつである。気象庁はこの地震を平成16年(2004年)新潟県中越地震(英: Mid Niigata Prefecture Earthquake in 2004)と命名した。英語圏では Niigata Prefecture Chuetsu Earthquake などの表記が多く用いられた。また、一般的ではないものの、新潟県はこの地震による震災を新潟県中越大震災と命名し、この呼称を11月29日より使用している。この地域は、ユーラシアプレートと北米プレートが衝突する日本海東縁変動帯の陸域の新潟-神戸歪集中帯の中でも強い褶曲を受け複雑な応力場を生じている地域である。北北東 - 南南西方向の軸を持つ複背斜構造があり、震源域となった新潟堆積盆地の東縁(信濃川の東岸)の東山丘陵と魚沼丘陵は、中新世以降に堆積した5,000 m以上の堆積物が堆積している。地震発生直後の調査では地表地震断層が出現した小平尾断層と六日町盆地西縁断層の北部が活動したと考えられたが、その後の調査で前述断層帯が原因となった可能性を否定する結果が得られている。阪神・淡路大震災の様に明瞭な断層線が地表に出現しない事から、従来知られていた活断層(小平尾断層、六日町盆地西縁断層、信濃川低地西縁断層、信濃川低地東縁断層など)の活動ではなく、厚い堆積層下の未知の断層の活動による地震と考えられている。メカニズムとしては、北西 - 南東圧縮の逆断層型の地震である。本震及び余震の振動波形や余震分布の解析結果によると、本震を発生させた滑り面とは別に並行する別な滑り面と本震と直交する合わせて3つの滑り面が存在した。
2007年3月25日(平成19) (平成19年(2007年)能登半島地震) 6.9 負傷者4人。
2007年7月16日(平成19) (平成19年(2007年)新潟県中越沖地震) 6.8 死者15人、負傷者2,315人、家屋全壊1,319棟。
  2007年(平成19年)7月16日10時13分 M6.8
新潟県中越地方沖を震源とする地震である。地震の規模を示すマグニチュード (M) は6.8、最大震度は6強。中越地方では2004年(平成16年)の新潟県中越地震以来のマグニチュード6以上および震度5弱以上を観測した地震となった。気象庁はこの地震を平成19年(2007年)新潟県中越沖地震と命名した。本震の発生直後、10時14分に佐渡島を含む新潟県全域の沿岸に津波注意報が出され、柏崎(新潟県管轄)では約1m、佐渡市小木(国土地理院管轄)で27cmの津波が観測された。なお、本震の1時間後の11時20分に津波注意報は解除された。北西−南東方向に圧縮軸を持つ逆断層型の地震で、京都大学の研究グループの解析では3つのアスペリティの破壊によるものと推定されている。この地震の震源域では、200年以上地震が発生していない空白域であった。震源が海底下にあるためこの地震による断層のような明瞭な変位は地表に現れていない、しかし陸域観測衛星「だいち」に搭載されている合成開口レーダー (PALSAR) による干渉SAR解析を行った結果、震源から15 km東に離れた西山丘陵の活褶曲の向斜軸に沿って幅 1.5km 長さ 15km の帯状隆起域が検出された。この隆起は、活褶曲が成長した証拠と考える研究者がいる。この地震については、発生当初から、新潟県中越地震や能登半島地震との関連性がマスメディアを通じて広く報じられた。これら3つの地震は、断層のずれ方のタイプ(横ずれを伴う逆断層)、断層にかかっている圧力の方向(西北西-東南東方向の圧縮)、規模 (M6.8 - 6.9)、震源の深さ (11 - 17km)、地質学的な地震の分類(直下型地震)などがほぼ同じで、震源の距離も近い。しかし、圧力の方向や深さは断層型の地震であればよくあるものであり、3つの地震は同じ断層で起きたものではないため、「独立した地震」として扱われている。これと似たように、距離的に近い地域で短い期間に大地震が発生した例に、1920年代の北但馬地震と北丹後地震や、2016年の熊本地震がある。だが、新潟県中越地震や能登半島地震が今回の地震の引き金となった可能性もあると考えられている。この2つの地震が起きた事によって、新潟県中越沖地震を引き起こした断層にかかる圧力(応力)に変化が起き(圧力が増すことも減ることもある)、今回のタイミングで地震が発生したのではないかとの見方もある。ただ、新潟県中越地震の後の周囲の地殻への応力変化 (ΔCFF) の推定に関しては、気象庁では圧力が減った、産業技術総合研究所活断層研究センターでは圧力が増したなどとなっており、意見は分かれている。また、断層は北東−南西に延びる逆断層であることはすぐに判明したが、断層の傾く向きは北西側に沈むのか、南東側に沈むのかで意見が分かれた。北西側に沈む場合、柏崎刈羽原子力発電所のある断層南東側は、断層が地表から浅い所にあることになり、原発の安全対策の欠陥がさらに大きくなることから注目された。2008年になり、南東側に沈むものであるとする結論が東京大学地震研究所、産業技術総合研究所などから出され、見解は統一されつつある。これと関連して、過去100年余りの一連の地震活動の傾向や近年のGPSによる観測をもとにした研究により提唱されている日本海東縁から近畿地方北部にかけての新潟-神戸歪集中帯に沿った地域で発生した地震で、かつ1828年三条地震と1964年新潟地震の間にあった空白域を埋めた地震でもある。
2010年5月1日(平成22) 新潟県中越地方 4.9 負傷者1人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 負傷者3人 。
2014年11月22日(平成26) 長野県北部 6.7 住家半壊1棟。 
  2011年(平成23年)3月12日3時59分 M6.7
2011年(平成23年)の長野県北部地震(ながのけんほくぶじしん)は、同年3月12日3時59分ごろ、長野県北部と新潟県中越地方に跨る地域、長野県下水内郡栄村と新潟県中魚沼郡津南町との県境付近で発生した地震。逆断層型の内陸地殻内地震で、マグニチュード(M)6.7(Mw6.35)、最大震度6強。本震に続いてM5以上の2回の余震が2時間内に相次いで発生した。新潟・長野県境地震、信越地震ともいう。最も大きな被害の出た長野県下水内郡栄村は栄大地震、栄村大震災と呼称している。なお、顕著な災害を起こした自然現象に対しては気象庁が命名することになっているが、この地震は基準に達していないため命名はされていない。発震機構は、北西 - 南東方向に圧力軸を持つ逆断層型で、地殻内の浅い大陸プレート内地震。3月12日9時までの余震分布域は、本震を中心として北北東方向 - 南南西方向に約17kmの距離と深さ4kmから10kmの地域に集中している。十日町断層帯と信濃川断層帯の中間に位置する地域での変位が大きく、既知の活断層の活動ではない。なお、断層の方向を正断層と考える研究もある。 また、4月12日には3月12日の震央から南に20km離れた地点でM5.6、震源の深さ0km、最大震度5弱の地震が発生した。この地震の発震機構解は北北西−南南東圧縮の横ずれ断層型で別の断層の活動と考えられる。2004年(平成16年)の新潟県中越地震と1847年(弘化4年)の善光寺地震の震源域の中間付近に存在していた新潟-神戸歪集中帯の空白域を埋めた地震で、東京大学地震研究所や産業技術総合研究所の研究者らにより発生が予見されていた。この他、本地震および一連の余震の特徴として、潮汐に関係するとみられる地震が全体の約50%と通常より高い相関がみられている。  
山形県沖地震
  2019年(令和元年)6月18日22時22分 M6.7
山形県沖(日本海)で発生したMj6.7 (Mw6.4) の地震。新潟県村上市で震度6強を観測した。今回の地震は1964年(昭和39年)の新潟地震 (Mj7.5) や1983年(昭和58年)の日本海中部地震 (Mj7.7) などと同様に日本海東縁変動帯(ひずみ集中帯)付近で発生したと専門家がコメントしている。この付近ではプレートテクトニクスの観点からユーラシアプレート(アムールプレート)と北アメリカプレート(オホーツクプレート)の大陸プレート同士が衝突し、日本海側の前者が日本列島側の後者の下に潜り込んでいると考えられ、東西方向からの圧縮運動が起きているため、比較的大きな地震の多い箇所である。6月18日22時24分に気象庁は山形県、新潟県上中下越、佐渡、石川県能登に津波注意報を発表した。新潟県の新潟港で10センチメートル (cm)、新潟県の粟島、佐渡市鷲崎、山形県酒田市、石川県輪島港でそれぞれ数cmの微弱な津波を観測した。津波注意報は6月19日1時2分にすべて解除された。  
 
近畿地方

 

奈良
奈良県に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅いところで発生する地震と、沈み込んだフィリピン海プレート内で発生する地震です。
1854年の伊賀上野付近の地震(M7 1/4:伊賀上野地震と呼ぶこともあります)では、被害は伊賀上野から奈良・大和郡山にかけての地域で著しく、奈良で死者280名などの被害が生じました。この地震は木津川断層帯で発生したと考えられています。その他に、1936年(M6.4:河内大和地震)などに被害の記録があり、人的・物的被害の他に地面の亀裂や噴砂・湧水現象も見られました。
沈み込んだフィリピン海プレート内で発生する陸域のやや深い地震としては、1952年の吉野地震(M6.7、深さ約60kM)が知られており、県内では死者3名などの被害が生じました。奈良県・三重県の県境付近で発生した1899年の地震(M7.0、推定の深さ40〜50kM:紀伊大和地震と呼ぶこともあります)もこのタイプの地震であると考えられ、県南部を中心に被害が生じました。
1596年の慶長伏見地震(M7 1/2)のように周辺地域で発生する地震や、1944年の東南海地震(M7.9)や1946年の南海地震(M8.0)のような南海トラフ沿いに発生する巨大地震によっても奈良県内で被害が生じたことがあります。1707年宝永地震では法華寺の塔が倒れるなど、寺社の大きな建物が長い揺れによって被害を受けました。
奈良県の主要な活断層には、京都府から延びる京都盆地−奈良盆地断層帯南部(奈良盆地東縁断層帯)と、金剛山地に沿って大阪府との境に延びる中央構造線断層帯(金剛山地東縁)があります。
また、奈良県周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、南海トラフで発生する地震で被害を受ける可能性もあります。
県北部の盆地部は、地盤がやや軟弱なため、周辺より揺れが強くなる可能性があります。
1185年8月13日(文治1) 近江・山城・大和 7.4 寺社家屋倒壊破損多く、死者多数。
1361年8月3日(正平16) 畿内・土佐・阿波 8 1/4〜8.5 南海トラフ沿いの巨大地震。寺社などの被害。
1596年9月5日(慶長1) 畿内(慶長伏見地震とも呼ばれる) 7 1/2±1/4 寺社倒壊などの被害。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 南海トラフ沿いの巨大地震。家屋全壊約280棟。
1854年7月9日(安政1) 伊賀・伊勢・大和および隣国(伊賀上野地震とも呼ばれる。) 7 1/4±1/4 奈良で死者280人、全壊家屋700〜800棟。周辺に被害あり。
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 死者1人、負傷者2人、家屋全壊16棟。
1899年3月7日(明治32) 紀伊半島南東部(紀伊大和地震とも呼ばれる。) 7.0 南部を中心に被害。家屋全壊あり。
1936年2月21日(昭和11) (河内大和地震) 6.4 北西部を中心に被害。死者1人、負傷者7人、住家全壊2棟。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 死者3人、負傷者17人、住家全壊89棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 負傷者13人、住家全壊37棟。
1952年7月18日(昭和27) (吉野地震) 6.7 死者3人、負傷者6人。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者3人。 
京都

 

京都府に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅いところで発生する地震です。
長期間にわたり都であった京都は、歴史の資料が豊富な場所です。歴史の資料で知られている最も古い京都府の地震は、701年の地震(規模不明)です。この地震により若狭湾内の島が山頂のみを残して海中に没したとの記述がありますが、基となった歴史の資料は後世のものであり、信憑性は乏しいと考えられています。陸域で発生した地震で、京都府での確実な被害地震の記録は、M6.7以上と推定されている976年の地震からです。この地震では、京都府南部や滋賀県で死者50名以上などの被害が生じました。慶長伏見地震と呼ばれる1596年の地震(M7 1/2)では、被害は畿内に広く分布し、特に、京都では三条から伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守が大破し、石垣が崩れて約600名の圧死者が生じました。最近の調査によって、この地震は有馬−高槻断層帯で発生した地震であると考えられています。その他に、827年(M6.5〜7.0)、1830年(M6.5)などにも被害の記録がありますが、これらの地震がどの活断層に関係したものであったかは分かっていません。明治以降では、丹後半島を中心に甚大な被害を及ぼした1927年の北丹後地震(M7.3)が知られています。また、京都府中部の綾部市付近では、1968年の地震(M5.6)により、住家半壊1棟など局所的に被害が生じました。このような比較的規模の小さい地震でも、局所的に被害が生じたことがあります。
1185年(M7.4)の近江の地震、平成7年(1995年)兵庫県南部地震(M7.3)のように周辺地域の浅い場所で発生する地震や、1952年の吉野地震(M6.7、深さ約60kM)のように沈み込んだフィリピン海プレート内で発生する地震、南海トラフ沿いで発生する巨大地震によっても京都府内で被害が生じたことがあります。さらに、京都府の北部は日本海に面しており、昭和58年(1983年)日本海中部地震(M7.7)など日本海東縁部で発生する地震によって、津波による被害を受けたことがあります。
京都府の主要な活断層は、滋賀県境付近から奈良県境付近にかけて三方・花折断層帯と京都盆地−奈良盆地断層帯南部(奈良盆地東縁断層帯)が延びています。南東部には、三重県・滋賀県から延びる木津川断層帯が、南部には兵庫県・大阪府から延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように大阪府・奈良県の県境付近から延びる生駒断層帯があります。中央部の丹波高地の西部から京都盆地西縁にかけては三峠・京都西山断層帯が、北部には山田断層帯が延びています。
また、京都府周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、上述のように、南海トラフで発生する地震で被害を受ける可能性もあります。
京都盆地・亀岡盆地や、木津川・宇治川流域に沿った地域では地盤がやや軟弱なため、周辺より揺れが強くなる可能性があります。
827年8月11日(天長4) 京都 6.5〜7.0 (家屋全壊多数。)
887年8月26日(仁和3) 五畿・七道 8.0〜8.5 京都で、家屋倒壊多く、圧死者多数。(南海トラフ沿いの巨大地震) 
938年5月22日(天慶1) 京都・紀伊 7.0 宮中で死者4人。家屋全壊多数。
976年7月22日(貞元1) 山城・近江 6.7以上 死者50人以上、家屋全壊多数。
1185年8月13日(文治1) 近江・山城・大和 7.4 白河辺で被害大きく、死者、家屋倒壊多数。
1317年2月24日(文保1) 京都 6.5〜7.0 白河辺で、ことごとく住家全壊し、死者5人。
1449年5月13日(宝徳1) 山城・大和 5 3/4〜6.5 洛中の堂塔などに被害多く、死者多数。
1596月9年5日(慶長1) 畿内(慶長伏見地震とも呼ばれる) 7 1/2±1/4 三条から伏見の間で被害が最も大きく、死者、家屋倒壊多数。伏見城では、天守の大破などにより、圧死者約600人。
1662年6月16日(寛文2) 山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃 7 1/4〜7.6 京都で死者200人余、家屋倒壊1,000棟。
1830年8月19日(天保1) 京都および隣国 6.5 京都で死者280人、負傷者1,300人。
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 家屋全壊13棟。
1925年5月23日(大正14) (北但馬地震) 6.8 北部(久美浜)で、死者7人、負傷者30人、住家全壊20棟。
1927年3月7日(昭和2) (北丹後地震) 7.3 北部で甚大な被害。死者2,898人、負傷者7,595人、住家全壊4,899棟、同焼失2,019棟。
1952年7月18日(昭和27) (吉野地震) 6.7 死者1人、負傷者20人、住家全壊5棟。
1995年1月17日(平成7) (平成7年(1995年)兵庫県南部地震) 7.3 (死者6,434人、行方不明3人、負傷者43,792人、住家全壊104,906棟。)
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者1人。  
大阪

 

大阪府に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅いところで発生する地震と、太平洋側沖合で発生する地震です。
陸域で発生した被害地震を見ると、慶長伏見地震とも呼ばれる1596年の地震(M7 1/2)の被害は広範囲に及んでいますが、大阪府内では、堺で死者600余名とされています。1936年の河内大和地震(M6.4)では、府内で死者8名などの被害が生じ、地面の亀裂や噴砂・湧水現象も見られました。その他に、震源の詳細は分かっていませんが、1099年(規模不明)などにも被害の記録があります。
大阪府は、太平洋側沖合の南海トラフ沿いで発生する巨大地震による被害も受けることがあります。例えば、1854年の安政南海地震(M8.4)では、大阪湾北部で高さ2M程度の津波が襲いました。また、木津川・安治川を逆流した津波により、船の破損、橋の損壊、死者多数(7,000名など諸説ある)などの被害があったとの記録があります。1707年宝永地震の時はさらに大きい津波に見舞われました。宝永地震では旧大和川流域だった河内平野で特に倒壊被害が大きくなりました。また、1944年の東南海地震(M7.9)で死者14名、1946年の南海地震(M8.0)で死者32名などの被害が生じました。南海トラフ沿いで発生する巨大地震は安政や昭和のように東海地震と南海地震と二つに分かれて発生する場合と、宝永地震のように1度に全体を震源域として我が国最大級の地震が発生する場合があります。大阪府は、そのいずれの場合でも、地震動や津波による被害を受けることがあります。
1927年の北丹後地震(M7.3)や平成7年(1995年)兵庫県南部地震(M7.3)のように周辺地域の浅い場所で発生する地震や1952年の吉野地震(M6.7、深さ約60kM)のように沈み込んだフィリピン海プレート内で発生する地震によっても大阪府内で被害が生じたことがあります。
大阪府の主要な活断層は、北部に兵庫県から京都府まで延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように京都府から延びる三峠・京都西山断層帯と奈良県との県境付近に延びる生駒断層帯、府西部に延びる上町断層帯があります。北部には兵庫県との県境付近から淡路島にかけて延びる六甲・淡路島断層帯と、大阪湾内に大阪湾断層帯が延びています。奈良県・和歌山県との県境付近には、紀伊山地北部から和歌山県北部に延びる中央構造線断層帯(金剛山地東縁−和泉山脈南縁)があります。
また、大阪府周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、上述のように、南海トラフで発生する地震で被害を受ける可能性もあります。
大阪湾沿岸や淀川の流域周辺では地盤がやや軟弱なため、周辺より揺れが強くなる可能性があります。
887年8月26日(仁和3) 五畿・七道 8.0〜8.5 津波による死者多数。(南海トラフ沿いの巨大地震)
1361年8月3日(正平16) 畿内・土佐・阿波 8 1/4〜8.5 四天王寺倒壊により、圧死者5人。津波による被害あり。(南海トラフ沿いの巨大地震)
1510年9月21日(永正7) 摂津・河内 6.5〜7.0 寺社倒壊。死者あり。
1596月9年5日(慶長1) 畿内(慶長伏見地震とも呼ばれる) 7 1/2±1/4 堺で死者600人余。
1662年6月16日(寛文2) 山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃 7 1/4〜7.6 大坂城、高槻城、岸和田城破損、大阪で若干の死者あり。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 大阪で、死者約750人、家屋全壊1,000棟余、他に津波による死者多数。
1854年12月23日(安政1) (安政東海地震) 8.4 (東海沖の巨大地震。強い揺れ及び津波により、関東から近畿にかけて被害。住家全壊・焼失約30,000棟、死者2,000〜3,000人。)
1854年12月24日(安政1) (安政南海地震) 8.4 (南海沖の巨大地震。安政東海地震の被害と区別するのが難しい。)
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 死者24人、負傷者94人、家屋全壊1,011棟。
1927年3月7日(昭和2) (北丹後地震) 7.3 死者21人、負傷者126人、住家・非住家全壊127棟。
1936年2月21日(昭和11) (河内大和地震) 6.4 死者8人、負傷者52人、住家全壊4棟。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 死者14人、負傷者135人、住家全壊199棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 死者32人、負傷者46人、住家全壊234棟。
1952年7月18日(昭和27) (吉野地震) 6.7 死者2人、負傷者75人、住家全壊9棟。
1995年1月17日(平成7) (平成7年(1995年)兵庫県南部地震) 7.3 (死者6,434人、行方不明3人、負傷者43,792人、住家全壊104,906棟。)
2000年10月6日(平成12) (平成12年(2000年) 7.3 負傷者4人。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者10人。
2013年4月13日(平成25) 淡路島付近 6.3 負傷者5人。 
三重

 

三重県に被害を及ぼす地震は、主に太平洋側沖合で発生する地震と、陸域の浅いところで発生する地震と、沈み込んだ0フィリピン海プレート内で発生する地震です。
太平洋側沖合では、南海トラフ沿いでM8クラスの巨大地震がほぼ100〜200年間隔で繰り返し発生してきました。これらの地震のうち、静岡県から三重県にかけての沿岸部を含む太平洋側沖合で発生した場合には、その震源域が三重県の陸域の一部まで達するため、強い揺れに見舞われることが多くあります。例えば1944年東南海地震では三重県のほぼ全域が震度5から6相当の揺れに見舞われました。加えて、津波を伴う場合が多く、過去には10M以上の津波に襲われたこともあります。さらに、フィリピン海プレート内で発生したM7程度の地震であっても被害が生じます。例えば、2004年の紀伊半島南東沖の地震(M7.4)でも、松阪市や香良洲町(旧名、現在の津市)で震度5弱の揺れを観測し、県内で8名の負傷者が生じました。また、1944年東南海地震の西隣で発生した1946年南海地震(M8.0)のように和歌山県から高知県にかけての沿岸部を含む太平洋側沖合で発生した地震によっても、地震の揺れや津波による被害を受けたことがあります。
陸域の浅い場所で発生した被害地震としては、1854年の伊賀上野付近の地震(M7 1/4:伊賀上野地震と呼ぶこともあります)が知られています。この地震により、伊賀上野付近で死者600余名、周辺地域を含めると約1,300名の死者を出すなど、被害は伊賀上野から奈良・大和郡山にかけての地域で著しいものとなりました。この地震は木津川断層帯で発生したと考えられています。木津川断層帯は横ずれ成分を伴う逆断層ですが、この地震による横ずれの大きさは分かっていません。この地震には、一ヶ月程前から前震がありました。また、本震の数時間後には最大余震がありましたが、地域によっては、本震とほぼ同じように感じられ、四日市付近ではこの余震の方が強く感じられたようです。
沈み込んだフィリピン海プレート内で発生した陸域のやや深い地震としては、三重県・奈良県の県境付近で発生した1899年の地震(M7.0、推定の深さ40〜50kM:紀伊大和地震と呼ぶこともあります)がこのタイプの地震であると考えられています。この地震では、県内で死者7名などの被害が生じました。また、隣の奈良県のやや深いところで発生した1952年の吉野地震(M6.7、深さ61kM)も陸域のやや深い地震であり、三重県でも小被害が生じました。
県外で発生した地震についても、1891年の濃尾地震(M8.0)など周辺地域で発生する地震によっても三重県内で被害が生じたことがあります。さらに、1960年のチリ地震津波のような外国の地震によっても津波被害を受けたことがあります。1819年(M7 1/4)の近江の地震でも県北部の川沿いを中心に被害が発生しました。
県内には、中央構造線より北側に、活断層が分布しています。岐阜・愛知県との県境付近に延びる養老−桑名−四日市断層帯とその延長上の伊勢湾内にある伊勢湾断層帯、滋賀県との県境の東側に鈴鹿東縁断層帯があります。北部には、南北方向に布引山地東縁断層帯と頓宮(とんぐう)断層が平行に走っており、それに直交するように京都府南東部から延びる木津川断層帯があります。また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、想定東海地震、東南海地震及び南海地震があります。伊勢湾沿岸部ではやや軟弱な地盤になっており、地震が発生したときには、周辺の地域に比べて揺れが大きくなる可能性があります。
684年11月29日(天武13) 土佐その他南海・東海・西海地方 8 1/4 (南海トラフ沿いの巨大地震。諸国で家屋の倒壊、津波あり、死傷者多数。)
887年8月26日(仁和3) 五畿・七道 8.0〜8.5 (南海トラフ沿いの巨大地震。京都で家屋倒壊多く、圧死者多数。沿岸部で津波による溺死者多数。)
1096年12月17日(永長1) 畿内・東海道 8.0〜8.5 東海沖の巨大地震と考えられる。伊勢で津波被害あり。
1099年2月22日(康和1)  南海道・畿内 8.0〜8.3 (南海沖の巨大地震と考えられる。興福寺、摂津天王寺などで被害。)
1361年8月3日(正平16) 畿内・土佐・阿波 8 1/4〜8.5 (南海トラフ沿いの巨大地震。各地で、強い揺れ、津波により、死者多数。)
1498年9月20日(明応7) 東海道全般 8.3 南海トラフ沿いの巨大地震。沿岸部で津波被害。伊勢大湊で溺死者5,000人など。
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 南海トラフ沿いの巨大地震。沿岸部に津波来襲。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 南海トラフ沿いの巨大地震。尾鷲付近で、死者1,070人以上、家屋流失1,510棟。その他県内で、死者57人、負傷者73人、家屋全壊2,333棟、同流失601棟。
1854年7月9日(安政1) 伊賀・伊勢・大和および隣国(伊賀上野地震とも呼ばれる) 7 1/4±1/4 伊賀上野付近で死者約600人、家屋全壊2,000棟余、周辺でも被害あり。
1854年12月23日(安政1) (安政東海地震) 8.4 (東海沖の巨大地震。強い揺れ及び津波により、関東から近畿にかけて被害。住家全壊・焼失約30,000棟、死者2,000〜3,000人。)
1891年10月28日(明治24) (濃尾地震) 8.0 北部を中心に被害。死者1人、負傷者17人、家屋全壊625棟。
1899年3月7日(明治32) 紀伊半島南東部(紀伊大和地震とも呼ばれる) 7.0 南部を中心に被害。木ノ本・尾鷲で死者7人、負傷者62人、家屋全壊35棟。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 強い揺れ及び津波により被害。死者・行方不明者406人、負傷者607人、住家全壊1,826棟、同流失2,238棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 強い揺れ及び津波により被害。死者11人、負傷者35人、住家全壊65棟、同流失23棟。
1952年7月18日(昭和27) (吉野地震) 6.7 (死者9人、負傷者136人、住家全壊20棟。) 
1960年5月23日(昭和35) (チリ地震津波) 9.5 注) 津波により被害。住家全壊2棟、同流失1棟。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者8人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 負傷者1。 
和歌山

 

和歌山県に被害を及ぼす地震は、主に太平洋側沖合で発生する地震と、陸域の浅いところで発生する地震です。
太平洋側沖合では、南海トラフ沿いでM8クラスの巨大地震がほぼ100〜200年間隔で繰り返し発生してきました。和歌山県では、これらの地震の震源域が内陸の一部まで達するため、強い揺れとなります。例えば1946年南海地震(M8.0)では、県内のほぼ全域で震度5相当の揺れが観測されました。また、その直後に大きな津波に襲われることが多く、津波の高さは高いところでは10M以上の高さになることがあります。南海トラフ沿いで発生する巨大地震は安政や昭和のように東海地震と南海地震と二つに分かれて発生する場合と、宝永地震のように1度に全体を震源域として我が国最大級の地震が発生する場合があります。和歌山県は、そのいずれの場合でも、地震の揺れや津波による被害を受けることがあります。
和歌山県では、歴史の資料により938年(M7.0)以降、古くから数々の陸域の地震によって被害を受けてきたことが知られていますが、震源が和歌山県内にあると推定されている地震の数はあまり多くありません。しかし、古い地震の震源の精度や、震源の位置はよく分からないものの紀伊半島南部に被害が生じたとの記録がいくつかあることを考えると、必ずしも県内で発生した地震が少ないかどうかは分かりません。さらに、活断層のない地域や紀伊水道も含めて、県内のところどころで、M7より小さい規模ですが局所的に被害が生ずる地震が発生することがあります。被害地震としては、明治以降では、1906年(M6.2)と1924年(M5.9)の日高川流域の地震、1938年の田辺湾沖の地震(M6.8)、1948年の田辺市付近の地震(M6.7)などが知られています。
周辺地域で発生する地震や1899年の地震(M7.0、推定の深さ40〜50kM:紀伊大和地震と呼ぶこともあります)や1952年の吉野地震(M6.7、深さ約60kM)のように沈み込んだフィリピン海プレート内で発生するやや深い場所で発生した地震によっても被害を受けたことがあります。また、1960年のチリ地震津波のように外国の地震によっても津波被害を受けたことがあります。
和歌山市付近では定常的に地震活動が活発です。ほとんどがM5程度以下の中小規模の地震ですが、和歌山市における有感地震回数は、最近の10年間では年平均19回程度にのぼり、日本で最も有感地震回数の多い地域の一つです。特に1920年以降報告回数が増えたことが知られています。近年この地域に大規模な地震の発生は知られていないので、この地震活動は特定の大地震の余震ではありません。その規模は最大でもM5程度ですが、震源がごく浅いために、局所的に被害が生じたこともあります。この付近の東側と西側では、フィリピン海プレートの沈み込む角度が違い、この付近の地下構造は複雑になっています。また、この付近の深さ数kMまでの浅いところは、堅いけれども脆い性質を持つ古い時代の岩石が分布しています。これらのことが、和歌山市付近の定常的な地震活動の原因と考えられています。また、地震が発生する深さは数kMよりも浅いところに限られており、上記の岩石が分布している深さで発生していると考えられます。なお、この地震活動が発生している地域の北部には中央構造線断層帯があります。その活動を起こす力の向きは、和歌山市付近の地震活動(東西方向の圧縮力)と中央構造線断層帯の活動(北西−南東方向の圧縮力)では異なっていますが、両者の関係についてまだはっきりとは分かっていません。
和歌山県の主要な活断層は、大阪府との境に沿って東西に延びる中央構造線断層帯(和泉山脈南縁)とその延長上に淡路島まで延びる中央構造線断層帯(紀淡海峡−鳴門海峡)があります。
また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、想定東海地震、東南海地震及び南海地震があります。
県北部の紀ノ川河口部や御坊など地盤がやや軟弱な場所では、周辺より揺れが強くなる可能性があります。
684年11月29日(天武13) 土佐その他南海・東海・西海地方 8 1/4 (南海トラフ沿いの巨大地震。諸国で家屋の倒壊、津波あり、死傷者多数。)
887年8月26日(仁和3) 五畿・七道 8.0〜8.5 (南海トラフ沿いの巨大地震。京都で家屋倒壊多く、圧死者多数。沿岸部で津波による溺死者多数。)
1096年12月17日(永長1) 畿内・東海道 8.0〜8.5 (東海沖の巨大地震と考えられる。伊勢・駿河で津波被害あり。)
1099年2月22日(康和1) 南海道・畿内 8.0〜8.3 (南海沖の巨大地震と考えられる。興福寺、摂津天王寺などで被害。)
1361年8月3日(正平16) 畿内・土佐・阿波 8 1/4〜8.5 (南海トラフ沿いの巨大地震。各地で、強い揺れ、津波により、死者多数。)
1498年9月20日(明応7) 東海道全般 8.3 (南海トラフ沿いの巨大地震。紀伊から房総沿岸にかけて津波あり、死者多数。)
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 南海トラフ沿いの巨大地震。津波により、広村で家屋流失700棟。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 南海トラフ沿いの巨大地震。死者688人、負傷者222人、家屋全壊681棟、同流失1,896棟。
1854年12月23/24日(安政1) (安政東海地震/安政南海地震) いずれも8.4 安政東海地震と安政南海地震の被害は区別するのが難しい。紀伊田辺領で、死者24人、住家倒壊255棟、同流失532棟、同焼失441棟。和歌山領で溺死者699人、家屋全壊約1万棟、同流失8,496棟、同焼失24棟。広村で、死者36人、住家全壊10棟、同流失125棟。沿岸の熊野以西では、津波により村の大半が流失した村が多かった。
1944年12月7日(昭和19) (東南海地震) 7.9 強い揺れ及び津波により被害。死者51人、負傷者74人、住家全壊121棟、同流失153棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 強い揺れ、津波、地震後の火災による被害。死者・行方不明者269人、負傷者562人、住家全壊969棟、同流失325棟、同焼失2,399棟。
1948年6月15日(昭和23) 田辺市付近 6.7 死者1人、負傷者18人、家屋全壊4棟。
1952年7月18日(昭和27) (吉野地震) 6.7 (死者9人、負傷者136人、住家全壊20棟。)
2000年10月6日(平成12) (平成12年(2000年)鳥取県西部地震) 7.3 負傷者1人。
2004年9月5日(平成16) 紀伊半島南東沖 7.4 負傷者1人。 
 
四国地方

 

高知
高知県に被害を及ぼす地震は、主に南海トラフ沿いで発生する地震と、陸域の浅い場所で発生する地震です。
高知県では、南海トラフ沿いで発生した巨大地震のなかで、四国沖から紀伊半島沖が震源域になった場合には、津波や強い揺れによって大きな被害を受けています。1707年の宝永地震(M8.6)や1854年の安政南海地震(M8.4)で非常に大きな被害が生じたほか、1946年の南海地震(M8.0)でも、死者・行方不明者679名、負傷者1,836名、住家全壊4,800以上、家屋流失500以上などの大きな被害が生じました。また、紀伊半島以東の南海トラフなどで発生した巨大地震でも被害を受けたことがあります。例えば、1854年の安政東海地震(M8.4)では高知市周辺は震度5相当だったとの推定もあります。
高知県では、日向灘の地震で被害を受けることがあります。1968年日向灘地震(M7.5)では、宿毛(すくも)市、土佐清水市などで強い揺れと津波による被害が生じました。また、宮崎県西部における深い場所で発生した地震(1909年、M7.6、深さは約150kMと推定)でも、県内で負傷者や家屋破損という被害が生じました。さらに、1960年のチリ地震津波のように外国の地震によっても大きな被害を受けたことがあります。
県内で発生した被害地震としては、1812年の土佐の地震(M不明)が知られており、県内で家屋などへの被害がありました。また、1789年の徳島県南部の地震(M7.0)などのように周辺地域で発生した地震によっても被害を受けたことがあります。
高知県には、室戸岬や足摺(あしずり)岬に活動度の低い活断層が分布するほかは、活断層はほとんど知られていません。
また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型地震には、南海トラフの地震、日向灘のプレート間地震及び日向灘のひとまわり小さいプレート間地震があります。
高知市や四万十市の場所によっては、やや軟弱な地盤の影響で、地震が発生したときには、周辺の地域に比べて揺れが大きくなる可能性があります。また、県の沿岸部では、南海トラフの地震後すぐに高い津波が襲来する可能性があります。
684年11月29日(天武13) 土佐その他南海・東海・西海地方 8 1/4 津波来襲。土佐の船多数沈没。土佐で田苑50余万頃(約12kM2)沈下して海となる。南海トラフ沿いの巨大地震。
887年8月26日(仁和3) 五畿・七道 8.0〜8.5 (京都で民家の倒壊多く、圧死者多数。沿岸部で津波による溺死者多数。南海トラフ沿いの巨大地震。)
1099年2月22日(康和元) 南海道・畿内 8.0〜8.3 土佐で田約1,000ha海に沈む。津波があったらしい。(南海沖の巨大地震と考えられる。)
1361年8月3日(正平16) 畿内・土佐・阿波 8 1/4〜8.5 (津波で摂津・阿波・土佐に被害。南海トラフ沿いの巨大地震。)
1498年9月20日(明応7) 東海道全般 8.3 (南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。)
1605年2月3日(慶長9) (慶長地震) 7.9 土佐甲ノ浦・崎浜・室戸岬等で死者800人以上。
1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 主として津波により、死者1,844人、行方不明926人、家屋全壊5,608棟、家屋流失11,167棟。高知市の東部で最大2Mの沈下。室津の港は隆起して浅くなった。
1854年12月23/24日(安政元) (安政東海地震/安政南海地震) いずれも8.4 (安政東海地震の被害は区別出来ないが、高知県内の被害は殆ど南海地震によると推定される。) 土佐領内では死者372人、負傷者180人、家屋全壊3,032棟、同流失3,202棟、同焼失2,481棟。
1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 死者・行方不明者679人、負傷者1,836人、住家全壊4,834棟、同流失566棟、同焼失196棟。
1960年5月23日(昭和35) (チリ地震津波) Mw9.5 注) 負傷者1人、建物全壊7棟。
1968年4月1日(昭和43) (1968年日向灘地震) 7.5 負傷者4人、住家全壊1棟。(高知・愛媛で被害多く、傷15人、住家全壊1棟、半壊2棟、道路損壊18ヶ所など。小津波があった。)
2001年3月24日(平成13) (平成13年(2001年)芸予地震) 6.7 負傷者4人。
2011年3月11日(平成23) (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) 9.0 負傷者1人。  
 
 

 

 
伊豆半島 地震・火山活動史

 

要旨
明治時代およびそれ以前における東伊豆単成火山地域の群発地震史を文献史料から調べ、噴火を類推させる地変記録についても検討をおこなった。群発地震については4事例(1868または1870年、1816-17年、1737年、1596年)、噴火可能性については2事例(1854年、1777年)を検討した。
1868(または1870)年の地震記事は伊東付近で起きた群発地震記録と考えてほぼ間違いないこと、1816-17年の地震記事についても伊東付近の群発地震記述である可能性を指摘した。
19世紀以後、伊東付近においては上記2事例をふくめた1816-17年、1868(または1870)年、1930年、1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており、約50〜60年間隔で起きてきたように見える。
事例数が少ないため確かなことは言えないが、1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は、間欠的とはいえ21年以上にわたって継続している点において、過去の群発地震と特徴を異にしている。噴火の可能性については、検討した2事例とも否定的な結果が得られた。 
I はじめに
伊豆半島東方沖群発地震が、1978年以来間欠的に繰り返されている。この群発地震は東伊豆単成火山地域(図1)の地下浅所へのマグマ貫入にともなって引き起こされると考えられており(たとえば、Okada and Yamamoto、 1991; Tada and Hashimoto、 1991;小山、1993;Ukawa and Tsukahara、 1996)、実際に1989年6〜9月の群発地震には小規模な海底火山噴火(1989年7月13日の手石海丘噴火)がともなった。1930年(昭和5年)2〜5月にも伊東付近で顕著な群発地震(伊東群発地震)と地殻の異常隆起があったことがよく知られており(たとえば、宇佐美、1996;気象庁、1990;加藤、1990a、 b)、やはりマグマ貫入事件であったと考えられている(Kuno、 1954;東北大学理学部地震予知・噴火予知観測センター、1990)。
   図1 伊豆半島とその周辺地域。東伊豆単成火山地域の火道位置については小山ほか(1995)、東伊豆単成火山地域の海側延長部をふくむ東伊豆沖海底火山群の火道位置については葉室ほか(1980)に従った。等高線の間隔は500mで、補助的に100mの等高線も示した。等深線の間隔は200m。四角枠は図2の範囲を示す。
1930年の群発地震は2月13日夜から有感地震が始まり、地震回数には2月後半〜3月と5月の2度のピークがあった。継続期間が3ヶ月以上に及ぶ長いものであったこと、有感地震回数が多かったこと(たとえば、3月の総計は2274回)、マグニチュード(以下、M)5以上の地震(最大はM5。9)が10回以上に及んだ点が、1978年以来繰り返されている群発地震と異なる。1978年以来の群発地震については、継続期間の多くは1ヶ月以内、有感地震回数は最多であった1989年6〜9月でも総計494回、M5以上の地震回数は1回の群発地震につき2回以内である(気象庁地震予知情報課、1999)。
伊東付近あるいはその周辺地域で繰り返される群発地震(すなわちマグマ貫入事件)の歴史や頻度を知ることは、東伊豆単成火山地域の火山活動史の解明や将来予測、地震・火山防災への寄与、さらには伊豆半島北東部から相模湾域にかけてのテクトニクス・地震テクトニクスを考える上で重要である(Koyama and Umino、 1991;小山、1993、1994、1995)。
東伊豆単成火山地域の過去15万年間の噴火史については、テフラ層序学の方法をもちいた詳細な検討がなされており、2。7kaから1989年までの間に噴火した証拠は見つかっていない(早川・小山、1992;小山ほか、1995)。しかしながら、東伊豆単成火山地域の火山活動はマグマ貫入事件が主体を占めていると考えられるため(小山・吉田、1994;小山ほか、1995)、地表地質調査によって得られる情報には限りがある。マグマ貫入事件の歴史解明や貫入頻度の推定には、文献史料にもとづいた群発地震史の解明が必須である。
しかしながら、1930年より前の歴史時代に東伊豆単成火山地域で起きた群発地震の時期や様相について、これまで十分な検討がなされたことはなかった。中央気象台が開設された1887年(明治20年)以降、1930年までの間には、伊東付近に被害をもたらすような顕著な群発地震の存在は知られていない。本研究は、それ以前の歴史時代の東伊豆単成火山地域の地震史を文献史料から調べた。また、地震だけでなく、火山活動を類推させる地変の記録についても検討をおこなった。
東伊豆単成火山地域は東海道などの主要交通路からやや離れた場所にあるため、その地域を襲った自然災害の歴史は江戸や京都で記された史料にほとんど記載されていない。伊東付近あるいは伊豆半島の地域史を扱った史料として、私撰のものとしては『豆州志稿(ずしゅうしこう)』(1800)、『下田年中行事』(1843)、『伊東誌』(1849)、『増訂豆州志稿』(1895)、『嶽南史(がくなんし)』(1931-1935)など、公撰のものとしては『小室(こむろ)村誌』(1913)などの各町村史、『静岡県田方(たがた)郡誌』(1918)、『伊東市史』(伊東市史編纂委員会、1958、1962)、『静岡県史』(1989-1998)などが知られている。いずれも近世以降の編纂史料であり、中世以前のまとまった古記録は皆無と言ってよい。
以上の史料には、日本の他の地方にも大被害をもたらした大規模地震(元禄関東地震、安政東海地震など)の東伊豆地域における被災記録が多数見出される。しかしながら、それらの地震以外の局地的な地震災害、ならびに火山活動を類推させる地変の記録はごく限られたものしかない。それらを時代の新しい順に以下に紹介し、検討をおこなう。ただし、本論では火山活動史(噴火史ならびにマグマ貫入にともなう地震史)の解明を主眼としているので、東伊豆単成火山地域以外での明らかな本震―余震型の地震(たとえば、享保十四年二月九日(1729年3月8日)の南伊豆地域の地震:宇佐美、1996;橋本、1989;地震予知総合研究振興会、1991)については扱わないこととする。
なお、本論においては、早川・小山(1997)および小山・早川(1998)の勧告にしたがって、明治六年改暦以前の和暦年月日を漢数字で表す。和暦から西暦への換算は、内田(1992)に従った。 
II 19世紀以前の群発地震・火山関連事件
1 1868(または1870)年の群発地震
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に「明治元年 日々地震アリ 石垣土手ノ崩壊スルモノ甚ダ多カリキ」とある(史料1:末尾に示す)。
田方郡小室村は、現在の静岡県伊東市川奈(かわな)・吉田・荻・十足(とうたり)地区に相当し、伊東温泉街の南側に広がる丘陵地一帯を占めていた(図2)。1947年(昭和22年)に北隣の伊東町と合併し、現在は伊東市の一部となっている。
『小室村誌』は、 1913年 (大正2年)7月に発行された小室村の村誌である。体裁は手書きのガリ版刷であり、例言の署名には「編者一同」と書かれているのみで個々の編者名は不明である。この時代の他の県内町村誌とともに静岡県立中央図書館に所蔵されている。
   図2 伊東市の旧行政区分。伊東市史編纂委員会(1958)にもとづいた。国道135号線(R135)については現在の位置を描いた。
田村(1986)によれば、1912年5月の静岡県知事の指示によって、静岡県下の自治体において郡誌ならびに町村誌の編纂事業が始められた。この編纂事業は、日露戦争後の政府主導による地方改良運動(疲弊した社会状況を救済・方向転換させる一連の政策)の一環としてなされたものである。つまり、『小室村誌』は、県知事の指示から1年ほどの時間をかけて、地元自治体(あるいはそこから依頼を受けた知識人たち)の手によって編纂された。
総計74ページの『小室村誌』の目次は、第一目「概説」、第二目「沿革」、第三目「名勝遺蹟」、第四目「神社寺院」、第五目「公衙学校等」、第六目「会社工場市場病院」、第七目「団体」、第八目「消防水防」、第九目「娯楽機関」、第十目「人物」、第十一目「口碑伝説」、第十二目「言語風俗歌謡俗謡」、第十三目「天変地異」、補遺の順となっている(ただし、第九目と第十一目は題目のみで本文記述なし)。第一〜二目については、川奈区、吉田区、荻・十足区の3項目、第十三目については川奈区および荻・十足区の2項目に分けた記述がなされている。
第十三目「天変地異」において、川奈区ノ部は8ページ(1ページあたり13行)にわたって記述されているが、荻・十足区ノ部はわずか1項目6行の明治25年火災記事があるのみである。川奈区ノ部には、元禄十六年(1703)から大正元年(1912)までの飢饉・疫病・地震・津波・火事・難破などの23事件が記述されている(史料1)。記述の出典として『恵鏡院過去帳』、『海蔵寺過去帳』、『蓮慶寺過去帳』、『川奈村百姓代源右エ門ヨリ安井□作ニ届出書』などが明記されている記事もあるが、出典史料名が挙げられていない記事もある(ただし、□は印刷のかすれによる難読文字)。なお、恵鏡院、海蔵寺、蓮慶寺は、現在も伊東市川奈にある寺の名前である。
本節冒頭に述べた明治元年の地震記事には具体的な月日が示されておらず、出典史料名も記されていない。しかしながら、明治元年は『小室村誌』の編纂時期の45年前にあたり、編纂時には事件の体験者が多数生存していたと考えられる。実際に、その直前の慶応四年(1868)記事には編纂時に生存していた事件体験者の談話が採録されている。したがって、『小室村誌』の明治元年地震記事は、地震体験者の記憶をもとに書かれた可能性が高い。さらに、以下に示すように、この明治元年頃の小地震群の存在を示す別の史料(A)〜(B)が存在するため、この地震の存在自体は事実と考えてよいだろう。
(A) 1930年(昭和5年)3月27日付の時事新報(東京に本社があった全国紙新聞)の記事において、東京帝国大学教授であった今村明恒が「私が伊東で会った土地の古老は、六十年前にもこんなことがあって二ヶ月も続いたと言った」という談話を残している。
この話は、東京帝国大学地震研究所今村研究室・東京帝国大学理学部地震学教室(1930)で、より詳しく以下のように記述されている。
「老人の話によると、此の地方では六十年程前にも地震が頻々として起り、三月二十一日に聞く所によればその時までに感じた今回の地震よりも強かったとのことであった。約二箇月間殆ど變はりなく毎日多数の地震があって、三箇月頃から減じたが半年程は時々揺れたさうである。川奈でも同様な話を聞いたが、その頃の事を知ってゐる土地の人は今度も二箇月位揺れたらば静まるであらうといって、思ったよりも落ち付いてゐる様であった。(三月二十四日記す)」
情報提供者の名前・住所・素性は記されていないが、「川奈でも同様な話を聞いた」と記しているからには、少なくとも2人の古老が同様のことを今村たちに語り、片方は(小室村)川奈の住人、そしておそらくもう一人は伊東(町)の住人だったのだろう。
(B) 伊東市立西小学校(伊東市岡地区)が所蔵する『昭和五年二月十三日午後十時二十分 連続地震 伊東町附近ノ状況』という史料に、以下の記述がある。
「一、岡本郷区一老人ノ談 伊東町ニハ明治三年四月始メニ此ノ頃ノ様ナ小地震ガアリ連日震動シテ実ニ心配シタガ同年六月頃ニ至リ何時止ミタリトモナク終リタリ今度ノ地震モ同様デアルト同人ハ余リ心配モナイ様デアッタ」
伊東市立西小学校の前身は伊東小学校であり、上記史料は昭和5年当時の伊東小学校の校務日誌とともに、現在も西小学校に保存されている。これらの校務日誌には当時の新聞記事や、町役場が発行した地震にかんする広報の切り抜きなどが整理されていて貴重である(加藤、1990a、 b)。
上記史料は、原稿用紙に毛筆で書かれたものであり、伊東群発地震中のさまざまな出来事が箇条書きの形で記されている。また、毎日の有感地震数をまとめた表も載せられている。おそらく当時の学校関係者が、校務日誌とは別に伊東群発地震全体をまとめて記録にとどめようとしたものと考えられる。
上記史料記述から、明治三年四月(1870年5月1日〜5月29日の期間に相当)初めから地震が始まり、同年六月(1870年6月29日〜7月27日の期間に相当)頃まで2〜3ヶ月続いて終了したことと、それが1930年(昭和5年)の群発地震に似ていたことがわかる。なお、「岡(おか)本郷区」は、当時の伊東町岡(おか)地区の一部(伊東温泉街を流れる松川の右岸一帯)である。
なお、岸上(1936)は、「伊東地震の際に土地の二、三の老人の話に約60年前にも小地震が多数起ったことがあったといふ、其の時は伊東の南の八幡野附近が強かったといふことを聞いた、伊東町の故牧野熈世氏の調べられた所によると其の時は明治三(1870)年であったといふ」と記している。牧野熈世は前述の伊東小学校の昭和5年当時の教員であり、自宅に地震計を設置するなどして今村明恒の調査にも協力しており、史料(B)の著者かもしれないという(加藤清志、私信、1999)。このことから類推すれば、史料(A)の「伊東町の古老」は、史料(B)の「伊東町岡本郷区の老人」と同一人物かもしれない。
以上挙げた『小室村誌』の記述、ならびに史料(A)〜(B)から考えて、1930年の群発地震に先立つこと約60年前に、1930年とよく似た群発地震が伊東付近で起きたことはほぼ間違いないだろう。そして、その群発地震の継続期間は2ヶ月程度(あるいは2〜3ヶ月)であった(なお、史料(A)には、その後半年くらいは時々揺れたという記述もある)。
ただし、この群発地震のあった年については、『小室村誌』は明治元年(1868年)、上記史料(B)は明治三年(1870年)四月初め〜六月と食い違いをみせている。どちらの記述が正しいかは現時点では不明である。史料(B)については、土地の古老が「60年くらい前の四月初め〜六月」と話したことを受けて、たんに昭和5年(1930年)から60年を減じて明治三年(1870年)と記した可能性がないとは言えないだろう。1868年と1870年の2回あった可能性も現時点では棄却できないが、単一の地震・噴火が日付の誤記や誤解によってあたかも複数の類似事件があったように記録されてしまうことは、他地域で多くの例が知られている。積極的な証拠のない今は、単一の事件だったと考えるのが自然である。
なお、小室村の隣村の町村史である『田方郡伊東町誌』(伊東町は現在の伊東市湯川・松原・岡・鎌田・新井・玖須美地区にあたり、伊東温泉街を中心とした地域)、『田方郡対島(たじま)村誌』(対島村は現在の伊東市八幡野・富戸・池・赤沢地区)、『村誌宇佐美村』(宇佐美村は現在の伊東市宇佐美地区)など(いずれも1912年刊)には、同時期の地震記述はみられない。小室村をふくむ田方郡の町村誌にもとづいて編纂された『静岡県田方郡誌』(1918)には、上記明治元年地震記事および後述する文化十三年地震記事がそのまま引用されている。
伊豆半島周辺の他地域でも、1868〜69年の大規模地震の記録は知られていない。1870年については、5月12日に小田原でM6。0〜6。5の地震があったが伊豆地方での被害は知られておらず、それ以外の大規模地震の記録も知られていない(宇佐美、1996;都司、1979、1983)。よって、上記した伊東での地震記録は、他地域で起きた大規模地震を伊東で感じた結果ではないだろう。
2 1854年の火気上昇?
『川路下田日記』に、「(嘉永六年、改元して安政元年)十一月九日 くもり又雨 下田より流失残のつかり桶をもち来りて、今日初てゆあみいたし申し候。御てらの客殿の椽頬也。○魯人より、一昨夜伊豆の山より火気上昇したり、もはや地震・つなみの気遣はなしと申来る。御安心成さるべしとの事也。これは西洋の説に、元来地震というものは、地中に有る火気の動く也と申す也(硫黄の気と申し候)。夫故に、火気もれて上昇したれば、地震なしと察したるなるべし。其夜光り物の飛びたるは、土地の人もみたるよし也」(平凡社刊本「長崎日記・下田日記」による一部読み下し文。原文は東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の一に所収)とある。
『川路下田日記』は、江戸幕府の勘定奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)の日記である。この時川路は南伊豆の下田にいて、戦艦ディアナ号で来日していたロシア帝国海軍提督プチャーチン一行(上記記述中の「魯人」)と日露和親条約の締結交渉をおこなっていた。この直前の十一月四日(1854年12月23日)に安政東海地震が発生し、強震動と津波に襲われた下田の街は混乱状態にあった。プチャーチンと安政東海地震にかんする逸話は石橋(1994)に詳しい。
幕府側の応接掛のひとりであった古賀謹一郎の日記『古賀西使続記』にも「九日 (中略)峩使曰、伊豆山上、火気大発洩、震嘯自是止、幸勿惶怖、衆聞之悦」(東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の一に所収)とあり、『川路下田日記』とほぼ同じ内容が記されている。
「一昨夜(1854年12月26日にあたる)伊豆の山より火気上昇したり」(『川路下田日記』)、「伊豆山上、火気大発洩」(『古賀西使続記』)と伝えられる現象を、どのように説明できるだろうか。東伊豆単成火山地域の火山分布は下田からそう遠くない天城山の南山腹にも広がっているし(図1)、その中には堰口川上流火山や佐ヶ野川火山のような噴火年代不明の小型火山があるから(小山ほか、1995)、未知の小規模噴火があった可能性を考慮すべきかもしれない。
しかしながら、山に囲まれた地形をもつ下田湾内からはせいぜい数km離れた山々が遠望できるだけであり、東伊豆単成火山地域を直接眺めることはできない。東伊豆単成火山地域に属する天城山南斜面を見るためには下田からかなり沖合いの海上にまで出る必要があるが、津波による竜骨の破損によって下田湾内で立ち往生していたディアナ号には無理だったはずである。
安政東海地震の直後に富士山が小規模な噴火を起こした可能性が指摘されているが(つじ、1992)、下田湾内からは富士山も当然見えないし、かりに富士山と80km隔たる下田から望見可能な噴火であったとすれば、もはや小規模とは言いがたいだろう。
川路や古賀とともに下田に滞在していた奉行の村垣範正が著した『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編「大日本古文書」幕末外国関係文書附録の二に所収)によれば、村垣は江戸への報告のために十一月六日に下田を出発し、六日に梨子本村(おそらく現在の賀茂郡河津町梨本)に泊まり、翌七日に天城峠を越えて湯ヶ島を通り、七日夜は原木村(現在の田方郡韮山町原木)に宿泊している(図1)。梨本から湯ヶ島付近にかけては東伊豆単成火山地域の一部にあたるが、村垣は余震や地震被害以外に何も異常現象を記していない。
以上のことから、プチャーチン一行がみた「火気」は、火山活動と異なる現象(山火事や野焼き等)であった可能性が高いだろう。該当しそうな天変現象は見あたらない(大崎、1994)。『地震海嘯考』(作者不明、1855年松雲山房刊)に「安政元年十一月四日下田浦ノ海嘯モ山海光ル事数夜」とあることから(榎本、1999)、津波発光であった可能性がある。あるいは、日本人たちを落ち着かせたり、交渉妥結を急ぐなどの理由でプチャーチン一行が創作または誇張をおこなったかもしれない。
なお、川路が「元来地震というものは、地中に有る火気の動く也と申す也(硫黄の気と申し候)。夫故に、火気もれて上昇したれば、地震なしと察したるなるべし」と記している「西洋の説」は、当時の地震・噴火の原因説としては一般的なものであった(北原、1998)。
3 1816〜17年の群発地震
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に、「文化十三年丙子年大地震(二四七六) 此年十一月十一日ヨリ十二月四日迄日々大地震アリシモ幸ニシテ人畜家屋ニハ故障ナカリキ」とある(史料1)。
文化十三年十一月十一日〜十二月四日(1816年12月29日〜1817年1月20日)の間、毎日大地震があったけれども、幸いにして人畜家屋には被害がなかったことが、川奈区の出来事として語られている。なお、数字「二四七六」は神武紀元であり、次節の1777年記事もふくめた他の江戸時代記事にも付記されている。
『小室村誌』の編纂時期(1912〜13年)から100年近く遡った時代の出来事であることと、出典史料名が記されていないことから、この地震記事を単純に事実とみなすことは危険であろう。しかしながら、地震記事が具体的な月日を挙げていることや、この事件と近い時期にある文化八年(1811)疫病流行記事や文化十二年(1815)出火記事に出典史料名を挙げた詳しい記述がなされていることを考えると、必ずしも編纂材料のなかった時代とは言いきれず、出典史料名を明記し忘れた可能性や口碑伝承を拾った可能性もあるだろう。よって、今後の別史料の発見に待つところは大であるが、ここでは文化十三年地震記事を一定の史料価値をもつ記事として取り扱う。
この文化十三年地震記事については、前項の明治元年(または三年)の地震と同様に、やはり周辺町村の町村誌に類似した記録が見あたらない。また、伊豆半島周辺の他地域にも、この時期の被害地震や顕著な有感地震記録は知られていない(宇佐美、1996;都司、1979、1983)。
よって、この文化十三年地震記事は、1868(または1870)年地震と同様に、局地的かつ長期間(ひと月弱)つづいた小地震群、つまり群発地震が1816年末〜1817年初頭にかけて川奈付近で生じた可能性を示すと考える。
4 1777年の降灰
『小室村誌』(第十三目 天変地異 川奈区ノ部)に、「安永六巳亥年(二四三七)十月三日ヨリ五日迄灰ニ似タルモノ降ル北風モ烈シカリキ」とある(史料1)。
『小室村誌』の編纂時期(1912〜13年)から140年近く遡った時代の出来事であることと、出典史料名が書かれていないことから、前節の1816〜17年地震記事と同様に、この降灰記事を鵜呑みにすることは危険である。また、この安永六年記事は『小室村誌』天変地異目の中で二番目に古い時代の記事であり、もっとも古い元禄十六年(1703)記事と74年隔たっている。後に続く天明四年(1784)と天明七年(1787)の飢饉記事も出典史料名を挙げていないことから、編纂材料の乏しかった時代の記事であることがうかがわれる。ここではこの記事をかりに事実とみなして以下の議論をおこなう。
安永六年七月二十九日(1777年8月31日)から2〜3年間にわたって伊豆大島で大規模な噴火があり(伊豆大島火山のテフラ層序におけるY1。0噴火:小山・早川、1996)、とくに安永六年の八〜十月は島内での降灰が激しかった。よって、風向きによっては伊豆半島での多少の降灰は十分考えられるだろう。しかしながら、伊豆大島の北西30kmにある伊東地域において「北風モ烈シカリキ」時に伊豆大島火山起源の降灰があるとは考えにくい。また、安永六年からの大規模噴火に対比されるY1。0テフラの等層厚線図をみると、分布軸は伊豆大島からみて東北東〜東方あるいは南西を向いている(小山・早川、1996)。
『信濃國淺間嶽記』に「安永六年、焼くる事数次」とある(長野県小諸尋常高等小学校、1910;武者、1943)。『信濃國淺間嶽記』を翻刻・校訂した萩原(1993)には、天明三年(1783)噴火を記述した部分だけが『信濃国浅間ヶ嶽の記(抄)』として示され、天明噴火より前の噴火年表が書かれていたという前文が省略されている。萩原(1993)によれば、同史料は、主として浅間火山の天明三年噴火を記録するために、天明六年(1786)に長野県北佐久郡塩名田宿の時々庵丸山柯則という人物が書いたものである。天明六年の9年前にあたる安永六年の記録にも一定の史料価値があると考えられる。
浅間山は明治以降にもたびたび噴火し、浅間山から東方170kmの水戸や南東130kmの東京でも降灰が観測されたことがある。1911年5月8日の爆発にともなう降灰域は、浅間山から南東方向を向き、相模湾に達したという(村山、1989)。1961年8月18日の噴火においても降灰域が火口から南南東に伸び、三島・網代で降灰が観測された(気象庁、1962)。以上のことと、浅間山が伊東地域の北北西170kmに位置することから考えて、『小室村誌』の安永六年降灰記録が浅間山起源であることは十分あり得ることである。
いずれにしろ、安永六年降灰記事は、それが事実であろうとなかろうと、伊豆半島外の火山噴火に起源を求めることによって十分説明可能であり、あえて東伊豆単成火山地域での噴火を考える必要はなさそうである。
5 1737年の群発地震
『硯屋(すずりや)日記』の元文二年五月十六日(1737年6月14日)条に、「出二郎申候、豆州三月より地震度々ニて熱海よし名修善寺などへ湯治ニ参人聞合見合致由ニ四月ニ至リ大地震度々ゆり申ニ付湯治ニ参病人皆々帰り候由、もつはら其さたニ候、惣テ伊豆湯本難義困窮ニ及事由、時節とは申ながらきのどく成事ニ候、当地よりもあたみへ参候人々早々帰り候、衆中方々に御座候由風聞ニ候」とある(都司、1983;東京大学地震研究所、1983)。
『硯屋日記』は、駿府宮ヶ崎町(現在の静岡市宮ヶ崎町)の硯屋の主人であった弥惣次が記した享保十九年(1734)から元文四年(1739)に至る日記であり、静岡県立中央図書館に所蔵されている(静岡市役所、1979)。
元文二年三月〜四月(1737年3月31日〜5月29日の期間に相当)に伊豆地方でたびたび地震があり、四月はとくに強いゆれが何度もあったという。このような地震の起こり方と、具体的な被害記事がないことから考えて、伊豆地方で発生した群発地震であった可能性が高いだろう。この時期、他地域での顕著な被害地震記録は知られていない(宇佐美、1996;都司、1979、1983)。
この群発地震が東伊豆単成火山地域で起きた可能性は、現在のところ否定できない。しかし、伊東温泉への言及がないことや、熱海・よし名(現在の田方郡天城湯ケ島町吉奈)・修善寺の温泉客にかんする記述がみられることから、東伊豆単成火山地域とやや異なる地域の群発地震であった可能性も十分あるだろう(図1)。次項で述べる1596年地震と同様に、現時点では東伊豆単成火山地域に限定して考えることはせず、今後の研究課題としたい。
6 1596年の地震
『増訂豆州志稿』(巻之一 祥異)に、「慶長元年丙申五月二日地震踰月(臆乗)」とある。
『豆州志稿』は、国学者・漢学者の秋山富南(ふなん)(秋山 章)が寛政十二年(1800)に完成させた伊豆地方の地誌である。『増訂豆州志稿』は、国学者・神道家の萩原正平(まさひら)・萩原正夫親子が『豆州志稿』に大幅な増訂をくわえ、 1895 年(明治28年)に完成させたものである。戸羽山 瀚が修訂をおこなった『増訂豆州志稿』の刊本が、1967年に長倉書店から刊行されている。冒頭の地震記事は、萩原親子によって書き加えられた部分にあたる。
上記地震記事の末尾に示された『臆乗(おくじょう)』という史料は、『増訂豆州志稿』の序文によれば、秋山富南が『豆州志稿』編纂に携わった間の見聞を書きとめた手記である。よって、上記地震記事は秋山富南が調査中に見聞したことの一部であるらしい。
上記地震記事をそのまま解釈すると、慶長元年(改暦の年にあたり、改暦前は文禄五年)五月二日(1596年5月28日)に伊豆地方に地震があった。「踰月」とは月を越えた、つまり次の月まで余震が続いた(あるいは群発地震が続いた)ことを意味すると考える。
宇佐美(1996)によれば、1596年の日本における被害地震として知られるものは、9月1日の別府の地震(M7。0±1/4)と、9月4日の伏見桃山地震(M71/2±1/4)だけである。都司(1979、1983)も伏見桃山地震を採録するのみである。よって、日付の記載違いがないとすれば、五月二日の地震はこれまで知られていなかった伊豆地方の局地的地震であると思われる。
伊豆半島北部には、1930年北伊豆地震の地震断層として有名な丹那断層がある。トレンチ調査によって、丹那断層には新しい方からA〜Iの9回の断層変位事件が確認されている(丹那断層発掘調査研究グループ、1983)。このうち、事件Aは1930年北伊豆地震、事件Cは承和八年(841)の伊豆国の地震に対比されている(萩原ほか、1982)。しかし、両事件の間にある事件B(およそ400〜900年前)に該当する地震史料がまだ見つかっていない。萩原ほか(1989)は、沼津市大平の『月ヶ洞文書』に書かれ、地変の跡も残るという応永九年(1402)の地震(つじ、1985)が事件Bに相当するかもしれないとしている。しかし、この地変の位置は丹那断層から離れた狩野川ぞいの低地なので、必ずしも丹那断層の活動にともなう地震と考える必要はないだろう。
いずれにしても、『増訂豆州志稿』の上記地震記事には具体的な被害記載がなく、地震が長期化したことだけが記されている。場所についての記載がないので確かなことは言えないが、内陸地震とそれにともなう余震活動という可能性のほかに、群発地震の記録である可能性を念頭に置くべきだろう。つまり、この1596年地震が丹那断層の事件Bである可能性とともに、過去の伊豆半島東方沖群発地震のひとつである可能性も考慮に入れ、さらなる調査をおこなうべきである。 
III 議論
以上述べた6つの地震または地変記事のうち、1854年「火気上昇」記事については火山活動と考える根拠がなく、1777年降灰記事については浅間山(あるいは伊豆大島)起源として十分説明できることを述べた。また、残る4つの地震記事のうち、1868(または1870)年記事については伊東付近で起きた群発地震と考えてほぼ間違いないこと、1816-17年記事についてもやはり伊東付近の群発地震である可能性を指摘した。1737年および1596年記事にかんしては、群発地震の可能性は指摘できるものの場所の特定ができない(表1)。
   表1 東伊豆単成火山地域において歴史時代に生じた群発地震のリスト(群発地震かもしれない地震もふくむ)。1737年地震と1596年地震については東伊豆単成火山地域以外で起きた可能性も高い(本文参照)。
『小室村誌』の文化年間(1804-1818)より前の時代の天変地異記事としては、元禄十六年(1703)地震(元禄関東地震)記事、安永六年(1777)の降灰記事、天明年間の2つの飢饉記事(1784、1787年)の4記事のみがあり、いずれも簡単な記述にとどまっている(史料1)。元禄地震については伊東地域における死者の数が『恵鏡院過去帳』にもとづいて書かれているだけで他の災害記述はなく、他の3記事には出典史料名が示されていない。文化年間以後、出典史料名を示した詳しい記事が目立つようになることからみて、『小室村誌』の編者たちは文化年間より前の時代にかんする編纂材料をほとんど収集できなかったとみられる。なお、『小室村誌』と同時期に成立した近隣町村誌における江戸時代の災害記録をみると、『田方郡伊東町誌』では元禄関東地震と文久三年(1863年)松川洪水の2事件、『田方郡対島村誌』では享保年間の水害記事のみ、『村誌宇佐美村』では元禄関東地震記事が記述されているだけで、記録密度は『小室村誌』より格段に劣っている。
以上のことから、18世紀やそれ以前の時代における伊東付近のはっきりした群発地震記述が知られていないことは、実際に群発地震が発生しなかったことを意味するのではなく、たんに江戸時代前半のこの地域における歴史記録の現存密度が小さいために(軽微な)自然災害記録が欠落していることを意味すると思われる。かりに1596年や1737年の地震記事が東伊豆単成火山地域で起きた群発地震だったとしても、16〜18世紀に複数回あった群発地震のうちの2回がたまたま記録に残ったと考える方が理にかなっている。
よって、ここでは18世紀またはそれ以前の時代に比べれば史料の現存密度が高いとみられる19世紀以降の伊東付近での群発地震史をとりあげ、発生間隔や継続期間の特徴を議論する。19世紀以後については1816-17年、1868(または1870)年、1930年、1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており、それらの間隔は古い方から52または54年、60または62年、48年であり、約50〜60年間隔で起きてきたと言える。小山(1993)は、この発生頻度をもちいて、マグマ貫入にともなう東伊豆単成火山地域の地殻拡大速度の見積りをおこなっている。
群発地震の継続期間については、1816-17年、1868(または1870)年、1930年の3事例においては、ほぼ1〜4ヶ月の間におさまっている。事例数が少ないため確かなことは言えないが、1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は、間欠的とはいえ21年以上もの長きにわたって継続している点において過去3回の群発地震と特徴を異にしている。このことの意味については、今はわからない。 
IV おわりに
以上、歴史時代の東伊豆単成火山地域の群発地震記事(および火山活動に関連する可能性のある地変記事)を文献史料にもとづいて検討した結果、以下のことがわかった。
1 取り上げた6つの地震または地変記事のうち、1854年「火気上昇」記事については火山噴火と考える根拠がなく、1777年降灰記事については伊豆半島外の火山起源として十分説明できる。また、残る4つの地震記事のうち、1868(または1870)年記事については伊東付近で起きた群発地震と考えてほぼ間違いないこと、1816-17年記事については伊東付近の群発地震記録である可能性を指摘した。1737年および1596年記事にかんしては、群発地震の可能性は指摘できるものの場所の特定ができないため、議論には加えなかった。
2 史料の現存密度が高いとみられる19世紀以後については、伊東付近において1816-17年、1868(または1870)年、1930年、1978年〜現在の4回の群発地震記録(すなわちマグマ貫入事件の記録)が残されており、約50〜60年間隔で起きてきたように見える。4回の群発地震のうち最新のものを除いた3回とも、その継続期間はほぼ1〜4ヶ月であった。1978年以来現在も間欠的に続いている群発地震は、間欠的とはいえ21年以上もの長きにわたって継続している点において、過去3回の群発地震と特徴が異なっている。
伊豆半島における史料の収集・解読作業は、市町村史の編纂事業が地域全体として低調のためもあって、他地域に比べ遅れているようにみえる。そのことが史料不足を招き、本論で扱った問題にかんする確度や精度の高い議論を阻んでいると言えよう。自然科学および災害史の視点も加えた、より一層の市町村史編纂事業の発展が望まれる。 
史料
『小室村誌』の第十三目「天変地異 川奈区ノ部」からの抜粋。自然現象以外の記述については見出しだけを記し、記事内容を省略した。太字は本論文の筆者が書き加えた説明文。天保年間の2記事が文化年間の記事中に挿入され、かつ安永六年記事も慶応五年記事の直前に挿入されているため、記述の時間関係が多少前後している点に注意。□は印刷のかすれによる難読文字。
一、元禄十六年十一月廿三日夜
此ノ年諸国ニ大地震アリタル由歴史年表ニ見ユ時恰モ此ノ災ト時期ヲ等クセルモノニアラザルカ伊豆近海一帯ノ大海瀟アリ此ノ地モ亦大被害ヲ蒙リタルコト等伝説アリ然モ時代ノ変遷セル今日時ノ状況ヲ詳カニ探ルコトヲ絵ズ然シ古来ノ旧家大部分ノ罹災セシコトハ正ニ記スルヲ得
人畜死傷亦多数ナランモ今ニ判明セズ唯恵鏡院過去帳ニヨレバ其ノ壇徒ノミニテ三十二名トアリ其ノ他皆不明
一、天明四年大飢饉
一、天明七年飢饉
一、文化八年疫病大流行
一、文化十三年丙子年大地震
此年十一月十一日ヨリ十二月四日迄日々大地震アリシモ幸ニシテ人畜家屋ニハ故障ナカリキ
一、天保七年 又々天下大イニ餓ユ
一、天保八年 前年ニ引続キ困窮ス
一、文化十二年出火
一、文化十五戌寅年 痘瘡流行
一、嘉永七年(安政元年十一月三日)
此日冬至明四日辰ノ下刻ヨリ巳ノ上刻迄大地震潮之干満四ツ時ヨリ八ツ半頃マデ不止六ツ上刻ヨリ止ル夜ニ入リ五ツ半頃地震ソノ間少々宛震□又夜九ツ頃地震尤モ辰巳ノ刻程ニハ無之明五日無事当国下田大津浪家数七百余漂没ス駿州清水同断惣□西浦通大荒レ沼津三島ノ宿并惣ツブレ三島明神社内不残破費沼津は城大破ソノ他諸国大荒レ風聞故ふ可(恵鏡院過去帳)
即当日ハ潮ノ干満甚シク干ノ時ハ何町ト算スル程モ干タリ築島ハ全部水下ヨリ現レ碇泊舩ハ干汐浜ニ打チ上ゲラレタル有様人心胸々殆ンド我ヲ忘レテ老幼ノ高所ニ避難スル様惨憺ノ極ミナリキトイフ井水ハ全部カレ海岸ノ人家ハ皆空家同様ニシテ見番ノ若者連ハ各ク所々ニ陣取リテ警戒ニ力ムル等頗ル惨状ヲ極メタリ然レトモ人畜家屋ニハサシタル故障ナカリキ現ニ下田ノ津浪ト称シ老人ノ口碑ニ残レリ
一、安政五戌午年八月十九日(八丈島の疫病死者を蓮慶寺で埋葬したという記事。出典を蓮慶寺過去帳と明記。また、当時の患者のうちの生存者の談話引用あり)
一、文久二年七月八日 大はしか大イニ流行ス
一、安永六巳亥年十月三日ヨリ五日迄灰ニ似タルモノ降ル北風モ烈シカリキ
一、慶応四年(明治元年)(「ええじゃないか」関連の神秘体験記事。体験者の談話あり)
一、明治元年 日々地震アリ石垣土手ノ崩壊スルモノ甚ダ多カリキ
一、明治十三年一月十日夜 川奈西町上原友三郎方便所ヨリ出火
一、明治十九年八月ノ大コレラ
一、明治二十五年四月九日大火
一、明治二十九年六月十六日津浪、朝八時頃ヨリ少シ宛ノ津浪有シ□□□当区海際ノ者ハ恟々タリキ是即青森岩手宮城県ニ大津浪アリ所謂三陸海嘯ノ余波ナル由(恵鏡院過去帳)
一、明治三十五年一月十二日大火災
一、明治四十一年四月八日 (川奈区住民の船の難破記事)
一、明治四十四年七月二十六日 (川奈区住民の船の難破記事)
一、大正元年九月一日大海嘯 此日昧爽ヨリ□爪□々トシテ起リ豪雨沛然トシテ来リ天候極メテ険悪既ニシテ山ナス波涛ハ岸ヲ噛ンデ物スゴクスハ海嘯□ト□ルマニ防波堤ヲ奪ヒ去リ陸上ヲ侵シテ忽焉海岸一帯ノ地ヲ崩壊シ人家ヲ倒□アマツサヘ港内碇泊ノ舩舶ハ或ハ全壊或ハ半壊其ノ惨惨タル光景□□人□□膽ヲ寒カラシメタリキ今左ニ当日ノ損害物件ヲ記サン 
 
地震周期

 

北海道
北海道沖で超巨大地震「切迫している可能性が高い」 2017/12/19
北海道沖の千島海溝沿いで、今後30年以内にマグニチュード(M)8・8以上の「超巨大地震」が発生する確率は最大40%とする見解を、政府の地震調査研究推進本部が19日、発表した。東日本大震災に匹敵する規模の地震が「切迫している可能性が高い」として対策を呼びかけている。
地震本部が千島海溝沿いの地震について予測を見直すのは13年ぶり。最新の研究を踏まえ、東日本大震災(M9・0)級の地震の確率について今回初めて検討した。
その結果、十勝沖から択捉島沖までを震源域とするM8・8程度以上の地震が起きる確率は7〜40%だった。同規模の地震は平均340〜380年ごとに発生し、直近では約400年前に起きたと考えられるという。地震本部は「平均的な間隔の『満期』を超えており、発生が切迫している可能性が高い」としている。
この地震について中央防災会議は2006年時点で、最悪の場合、津波によって北海道で約700人、本州で200人が死亡する被害想定を出しているが、来年にも内閣府が新たな想定を公表する予定。
個別の震源域でも巨大な地震が想定され、根室沖でM7・8〜8・5が70%程度と高く、十勝沖でM8・0〜8・6が7%としている。
地震本部の平田直・地震調査委員長(東京大教授)は「超巨大地震は強い揺れに見舞われる面積や、津波に襲われる沿岸が広い。東北で起きたような超巨大地震が北海道でも起こる可能性があると考えて備えを見直してほしい」と話している。 
千島海溝でM9級巨大地震 「切迫性が高い」 12/19
政府の地震調査委員会は19日、北海道の太平洋側に延びる千島海溝でマグニチュード(M)9級の巨大地震を初めて想定する新たな長期評価を公表した。発生が切迫している可能性が高く、20メートル以上の大津波が起きる恐れがあり、防災への取り組みを求めている。
千島海溝では陸側のプレート(岩板)の下に太平洋プレートが沈み込み、この境界部でM8級の大地震が繰り返し発生する。地震調査委は東日本大震災を受け、北海道東部の十勝沖から北方領土の色丹・択捉島沖にかけての活動を13年ぶりに再評価した。
沿岸の津波堆積物などの調査結果から、最大規模の地震は少なくともM8・8程度に達すると判断。発生間隔は平均340〜380年で、既に前回から約400年が経過しており「切迫性が高い」と評価し、今後30年以内の発生確率を最大40%と算出した。
平田直委員長は「極めて高い確率だ。東日本大震災のような地震が千島海溝でも起きる可能性が高い」と警戒を呼び掛けた。
震源域は十勝沖から根室沖にかけての300キロ以上に及ぶ。この付近で起きる地震は、従来の想定ではM8・3が最大だった。
北海道東部は南海トラフ地震が起きる西日本などと比べ歴史記録に乏しい。このため沿岸の沼や湿原の掘削試料から、過去の津波で運ばれた土砂を検証。過去6500年間に18回の津波が襲い、17世紀には最大で約4キロ内陸まで浸水したと分析し、地震の最大規模や発生間隔を推定した。
一方、十勝沖の大地震は従来のM8・1から最大8・6に引き上げ、30年以内の発生確率は7%と評価。根室沖は従来のM7・9から最大M8・5とし、確率は70%程度とした。
陸からみて海溝の外側で起き、大きな津波が生じやすい「アウターライズ地震」も初めて評価し、規模をM8・2前後と想定。確率は不明とした。
地震調査委は東日本大震災で想定外の巨大地震が起きた反省から、全国の地震について想定の見直しを進めており、平成25年には南海トラフでM9・1の巨大地震を想定。今後は日本海溝についても検討する。  
千島海溝 次の巨大地震切迫か 12/19
政府の地震調査委員会は、北海道の沖合の「千島海溝」で今後、「マグニチュード8.8程度以上」の巨大地震が起きるおそれがあるとする新たな評価を公表しました。
こうした地震は過去に350年前後の間隔で発生し、前回からすでに400年程度経過していることから、「次の巨大地震が切迫している可能性が高い」としています。
北海道沖の海底にある「千島海溝」では、昭和48年6月の「根室半島沖地震」や、平成15年9月の「十勝沖地震」など、繰り返し大きな地震が起きています。
政府の地震調査委員会は、最新の研究結果などをもとに、「千島海溝」で今後発生すると想定される地震の規模や確率を新たにまとめ、19日、公表しました。
想定される震源域は、千島海溝沿いの「十勝沖」と「根室沖」、それに北方四島がある「色丹島沖および択捉島沖」で、複数が連動した場合、マグニチュードは「8.8程度以上」の巨大地震となり、今後30年以内の発生確率は7%から40%と想定されています。
この想定は、北海道東部で行われた過去の大津波で海底から内陸に運ばれた砂などの「堆積物」の調査結果から導き出されましたが、こうした巨大地震は、千島海溝のプレート境界で過去に平均で350年前後の間隔で発生してきたと推定されています。
「堆積物」の調査からは、前回の地震は17世紀に起きたとされていて、すでに400年程度経過していると考えられることから、政府の地震調査委員会は、「北海道東部に大津波をもたらす巨大地震の発生が切迫している可能性が高い」としています。
地震調査委員会の委員長で、東京大学地震研究所の平田直教授は、「6年前の東北沖の巨大地震のような地震が起きる可能性が高く、津波などに十分注意して欲しい」と話しています。
評価のポイントは
政府の地震調査委員会は、「千島海溝」の地震の長期評価を前回は平成16年に公表していて、今回は13年ぶりの見直しとなります。
前回の評価では、北海道東部に巨大津波をもたらす地震について、「十勝沖」と「根室沖」の地震が連動して発生し、マグニチュードは最大で「8.3程度」と想定していました。
一方、今回の評価では、6年前の東日本大震災を教訓に、海底から内陸に運ばれた砂などの「堆積物」の調査結果から、十勝地方と釧路地方、それに根室地方では、400年ほど前の17世紀に、現在の海岸線から最大で4キロ内陸まで浸水する巨大津波が発生していたと推定されることから、前回の評価を大きく上回る巨大地震が起きた可能性があるとして、想定されるマグニチュードを「8.3」から「8.8程度以上」に見直しました。
また、震源域についても、前回評価した「十勝沖」と「根室沖」に加え、今回は北方四島がある「色丹島沖および択捉島沖」を追加し、この複数が連動して巨大地震が発生する可能性があると評価しました。
ただ、北方四島については、「堆積物」の調査が進められている最中だとして、今後の調査の結果によっては想定される地震の規模がさらに大きくなる可能性があるとしています。
「津波堆積物」をめぐっては、東日本大震災が起きる前に東北の沿岸部で行われた調査で、過去に巨大津波が起きていたことを示す痕跡が見つかっていたにも関わらず、具体的な防災対策に生かされなかったことから、政府の地震調査委員会は、今回、最新の調査結果を取り込んだ上で、「現在の科学で考えられる最大の地震を評価した」としています。
ほかの地震の評価も
今回の評価では、「千島海溝」で起きる「マグニチュード8.8程度以上の巨大地震」以外についても、地震の発生確率や規模の見直しを行っています。
(1)十勝沖
このうち十勝沖では、過去およそ170年間にマグニチュード8.0以上の地震が3回起きていて、昭和27年3月にはマグニチュード8.2の巨大地震が発生し、道東の厚岸町で6.5メートルの高さまで津波が押し寄せました。
また、平成15年9月にもマグニチュード8.0の巨大地震が発生し、道東で震度6弱の揺れを観測したほか、日高のえりも町で4メートルの高さまで津波が押し寄せました。
前回の評価では、マグニチュードを最大「8.1前後」と想定していましたが、さらに広い範囲が動く可能性があることなどから、今回は「8.6程度」に引き上げました。
今後30年以内の発生確率は「7%」で変わっていません。
(2)根室沖
根室沖では、過去およそ170年間にマグニチュード7.4以上の地震が3回起きていて、このうち、昭和48年6月に起きたマグニチュード7.4の「根室半島沖地震」では、津波の高さは根室市花咲で2.8メートルに達しました。
前回の評価ではマグニチュードを最大で「7.9程度」と想定していましたが、「十勝沖」の評価と同じ理由で今回は「8.5程度」に引き上げた上で、今後30年以内の発生確率も「60%程度」から「70%程度」に見直しました。
(3)色丹島沖及び択捉島沖
一方、「色丹島沖及び択捉島沖」では過去およそ120年間にマグニチュード7.3以上の地震があわせて5回起きていて、このうち、昭和38年10月にはマグニチュード8.1の地震が発生し、択捉島で津波が高さ4メートルまで押し寄せました。
前回の評価では、マグニチュードを、いずれも最大で「色丹島沖」が「7.8前後」「択捉島沖」が「8.1前後」と想定していましたが、今回は2つの領域を区別せずに評価した結果、「マグニチュード8.5前後」の地震が、今後30年以内に60%程度の確率で起きるという想定に見直されました。
(4)このほかの地震
このほか、今回は千島海溝のプレート境界で起きるマグニチュード7.5程度の「ひとまわり小さい地震」や、陸側のプレートの下に沈み込んでいる海側のプレートの内部で起きる地震についても評価していて、このうち沈み込んだプレート内のやや浅いところで起きる地震については、マグニチュードが8.4前後、今後30年以内の発生確率は30%程度と想定されています。
見直しは3つめ
政府の地震調査委員会は、日本列島周辺で海のプレートが陸のプレートの下に沈み込んでいる「海溝」や「トラフ」で起きる「海溝型地震」について、防災対策に生かしてもらうため、発生するエリアや規模、それに確率を評価しています。
対象となっている領域は、「千島海溝」と日本海溝がある「三陸沖から房総沖」「日本海東縁部」「相模トラフ」「南海トラフ」、それに「日向灘および南西諸島海溝周辺」の6つです。
いずれも平成16年までに評価をすべて公表しましたが、6年前の東北沖の巨大地震を受けて見直しを進め、平成25年に「南海トラフ」、平成26年に「相模トラフ」を新たに公表していて、今回の「千島海溝」が3つめになります。
このうち「南海トラフ」については、「東南海地震」や「南海地震」など想定される震源域ごとに評価していましたが、南海トラフ全域で規模や発生確率を評価するように見直し、マグニチュード8から9の巨大地震が、今後30年以内に60%から70%の確率で発生するとしました。
また、「相模トラフ」についても想定される最大のマグニチュードを「8.1」から「8.6」に引き上げたほか、今後30年以内に発生する確率については、それまでの「ほぼ0%から最大2%」を「ほぼ0%から最大5%」に見直しました。
地震調査委員会は、このほかの領域についても今後、評価を見直すことにしています。
防災相「被害想定等急ぐ」
「千島海溝」で起きると想定される巨大地震の評価が公表されたことについて、小此木防災担当大臣は19日の閣議のあとの記者会見で、「巨大地震に対する防災対応を検討するためには、まず、想定すべき最大クラスの地震や津波を決める必要があり、有識者からなる検討会で検討を進めているところだ。今後、被害想定や新たな防災対策を検討しなるべく早く結果を取りまとめたい」と述べ、国として被害想定などの取りまとめを急ぐ考えを示しました。
文部科学相「意識向上を」
林文部科学大臣は19日の閣議のあとの記者会見で、「日本は世界的に見ても非常に地震が多いところだ。日本国内では、その確率が0になるところは存在しない。地震はどこでも発生する可能性があるということを念頭に、この評価を自治体などの防災対策や、各家庭での防災意識の向上に役立てて欲しい」と述べました。
専門家「想定外なくす」
政府の地震調査委員会の委員で津波防災に詳しい東北大学の今村文彦教授は、今回、評価が公表された「千島海溝」について、「これまでの研究成果から、巨大地震が起きると、北海道では東日本大震災と同じように20メートルを超えるような津波が広い範囲で起こる可能性が高い。また、海溝沿いにある東北北部でも大津波のおそれがある」と指摘しています。
その上で今村教授は、「『千島海溝』で起きる巨大地震と津波はこれまで考えられていたよりも切迫性が高いとみられる。今回の評価は、東日本大震災のような『想定外』をなくすため震災から6年余りにたって科学的な知見を総動員して出した結果だ。今後、国が公表する予定の津波の高さや到達時間の予測を活用し、命を守るための避難計画を具体的に検討してほしい。避難に車をどの程度使うかや避難ビルをどう整備するのか、といった課題に行政だけでなく、住民も具体的に向き合い、備えを進めてほしい」と話しています。  
北海道で予想される超巨大地震とは? 12/20
北海道沖の千島海溝で、東日本大震災と同じ規模の超巨大地震が30年以内に起きる確率は、7%から40%になる。そんな調査結果を、政府の地震調査委員会が12月19日に発表した。
調査委の資料によると、マグニチュード8.8程度より上の超巨大地震が想定されるのは、十勝沖から根室沖にまたがる長さ300km以上の震源域だ。2011年3月11日に起きて東北地方を中心に甚大な津波被害を与えた東日本大震災のマグニチュード9.0と同クラスとなる。
以下、調査委の資料を元に重要な点をまとめた。
400年前にもマグニチュード8.8の超巨大地震
千島海溝では日本列島のプレートの下に太平洋プレートが沈み込むことで歪みが蓄積し、プレートの境界部で巨大地震が繰り返し発生している。調査委は東日本大震災を受けて、周辺の地震発生状況を再調査した。
調査委は千島海溝を震源とするマグニチュード8.8の超巨大地震が、約400年前の1611〜1637年に発生していると明らかにした。文献などの記録は残っていないが、北海道東岸の堆積物は、根室から十勝地域までの沿岸約200kmで確認され、各地域で1〜4kmも内陸奥まで分布している。
調査委の資料では津波の高さを示していないが、北海道大の地震学者らは「最大高さ約24メートルの大津波が道東に押し寄せた」と計算している。
平均間隔は340〜380年
こうした超巨大地震は、過去6500年間に最多で18回発生したと調査委は推定。平均間隔は340〜380年と考えられるが、前回の地震から、すでに380〜400年が経過している。そのため、マグニチュード8.8程度より上の超巨大地震が2017年から30年間に再び起きる確率を7〜40%としたという。
NHKニュースは、調査委の委員長で、東京大学地震研究所の平田直教授は「6年前の東北沖の巨大地震のような地震が起きる可能性が高く、津波などに十分注意してほしい」と話したと報じている。 
北海道沖、M9地震予測 本州にも被害の恐れ 12/20
政府の地震調査委員会は19日、北海道東部沖の千島海溝沿いで、東日本大震災のようなマグニチュード(M)9級の超巨大地震が、いつ起きても不思議はないとの見方を示した。
30年以内の発生確率は7〜40%で、切迫しているとみられる一方、南海トラフや首都直下の地震より国全体の関心は低い。被害は北海道から本州の太平洋岸に及ぶ可能性もあり行政などに早急な対策強化が求められる。
北海道東部の太平洋岸では、17世紀初頭の大津波が知られている。高さは18メートル以上で4キロ以上内陸まで浸水した。調査委は、十勝沖から根室沖を震源域とするM8・8程度の地震が引き金と推定。同規模の地震が、過去6500年間に最大18回発生し、平均340〜380年間隔で発生していると判断した。
国の中央防災会議では、千島海溝沿いの超巨大地震を「500年間隔地震」と呼んできた。調査委の指摘はそれより100年以上短い。最後の発生である17世紀初頭から400年が過ぎ、再来が迫っているとみられる。
東北沖の日本海溝との連動も否定できず、本州の広い範囲で大きな被害が出ることもありうる。
調査委は、日本で起きる最大級の海溝型地震の長期評価を2カ所で行い、南海トラフ沿いはM8〜9級が70%程度、相模トラフ沿いはM8級はほぼ0〜5%としている。千島海溝沿いは13年ぶりの見直しで、M8級とM7級も評価。根室沖でM7・8〜8・5程度の地震が起きる確率を70%程度とする。
調査委員長の平田直(なおし)・東京大教授は「東日本大震災から6年半以上が経過したが、改めて海溝では超巨大地震が起き、津波が発生することを肝に銘じてほしい」と求める。 
 
東海道・南海道地震

 

東海道、南海道の地域は過去100年〜200年周期で繰り返しマグニチュード8クラスの巨大地震が襲来し、震災と津波災害に見舞われその都度大きな被害を出してきました。
日本列島は四つのプレートがせめぎあう世界有数の地震国です。中でもユーラシアプレートとフィリッピン海プレートの接点である駿河トラフ、南海トラフ周辺では、東海道側で巨大地震が発生すると、その短時間後には南海道側でも巨大地震が発生する特徴があります。
連続巨大地震が発生した場合、救援物資、救助隊が迅速に被災地に入ることは困難であり、ライフラインなどの復旧活動は大幅に遅れると予想されます。
そうした最悪をシュミレーションした地域防災計画が必要です。東海地震と東南海・南海j地震発生の切迫性が叫ばれている今日、単独地震発生に対する防災対策だけでなく、連続巨大地震発生に対応する市民の防災意識啓発と、実践的な防災対策が焦眉の急であると思われます。防災は「悲観的に準備をして、楽観的に行動する」ことが原則です。
日本列島や北米及び中南米の太平洋岸に沿って発生する巨大地震は、太平洋の海底(プレート)が陸の下に沈み込んでいく運動(プレートテクトニクス運動)によって発生します。沈み込むとき、海底の岩盤が陸の地殻の先端を少しずつ引きずり込み(巻き込んで)、それがやがて変形してストレス(応力)が溜まり、遂には引きずり込まれた陸の端が一気に跳ね上がります。その時に巨大地震と津波が発生するのです。地震は岩盤に溜まったストレスが岩盤の破壊によって急激に解放される現象です。
このような考え方から、環太平洋地震帯で発生する巨大地震の起こり方を調べた東京大学名誉教授力武常次先生は「地震予知論入門」の中で、南海道、東海道地域の巨大地震はほぼ117年(標準偏差35年)の平均繰り返し間隔で発生すると発表されています。他の学者はこの地区で発生する地震はもっと切迫しているとも言っています。
これは過去の巨大地震の記録も裏付けています。1707年(宝永4年)宝永地震の147年後、1854年(安政元年)安政東海地震と、その32時間後に安政南海地震が発生しています。それから90年後の1944年(昭和19年)の東南海地震とその2年後の1946年(昭和21年)のいずれもマグニチュード8クラスの巨大地震が発生していることでも明らかです。
海底で巨大地震が発生すると、津波も発生します。TUNAMIと言う言葉が国際語になるほど、海底で巨大地震が発生するたびに日本では甚大な津波被害に見舞われていますので、津波防災対策も大変重要です。
また、プレートと連動し又は単独で内陸部でも活断層などの地震も発生しています。現状では活断層の地震はほとんど直前予知が不可能と言われています。いつどこで大規模地震が発生してもいいように今から準備が必要なのです。
この地域の発展は目覚しく、日本の経済の中心地となっています。東海道新幹線、東名高速道路をはじめ、有数の人、モノの交流・物流地域でもあります。この地域で連続巨大地震が発生したとしたら、想像を絶する大災害に発展すると懸念されます。国は大規模地震防災対策特別措置法、及び東南海・南海地震特別措置法などを制定し、地方自治体と共に防災対策を強化していますが、行政だけに頼るのでhなく、企業や市民の防災意識と防災度の向上が不可欠となっています。 
 [ 発生年月日 / 地震の規模 / 震源 / 地震の名称(被害概要) ]
416年8月23日(允恭5年7月14日) / 不明 / 遠飛鳥宮付近 / 大和河内地震(日本書紀に地震とのみ記載、被害の記録はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震)
684年11月29日(天武13年10月14日) / M8.0 / 南海・東海道 / 白鳳の南海・東海地震(山崩れ、家屋、社寺の倒壊多数。津波の襲来後、土佐で船が多数沈没、田畑約12平方キロメートルが沈下し海となったと記録されている)
887年8月26日(仁和3年7月30日) / M8〜8.5 / 五畿七道 / 仁和の南海・東海地震(京都で民家、官舎の倒壊による圧死者多数。特に摂津での被害が大きかった)
1096年12月17日(永長1年1月24日) / M8〜8.5 / 畿内・東海道 / 永長の東海地震(皇居の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下、近江の勢田橋が落ちた。津波により駿河で民家、社寺400余が流失)
1099年2月22日(康和1年1月24日) / M8〜8.3 / 南海道・畿内 / 康和の南海地震(興福寺、摂津天王寺で被害があった。土佐で田畑1,000町余が海に沈んだ。津波によるものらしい)
1185年8月13日(文治1年7月9日) / M7.4 / 近江・山城大和 / 文治の京都地震(京都の白河辺の被害が最も大きく、宇治橋が落ちた。社寺、家屋の倒壊で死者多数)9月まで余震続く)
1361年8月3日(正平16年6月24日) / M8〜8.5 / 畿内・土佐阿波 / 正平の南海地震(摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た。津波で摂津、阿波、土佐に被害があった。阿波の雪(由岐)湊で家屋1,700戸余が流失、60人余が流死)
1498年9月20日(明応7年8月25日) / M8.2〜8.4 / 東海道全域 / 明応の東海地震(紀伊から房総にかけてと甲斐に大きな揺れがあった。津波の被害が大きく、伊勢大湊で家屋1000戸、溺死者5000人。伊勢志摩で溺死者10000人、静岡県志太郡で溺死者26000人などの被害)
1586年1月18日(天正13年11月29日) / M7.8 / 畿内・東海北陸 / 天正の飛騨美濃近江地震(飛騨白川谷で大山が崩れ、民家300以上が埋没。死者多数。余震は翌年まで続いた)
1596年9月5日(慶長1年閏7月13日) / M7.1 / 畿内 / 慶長の京都地震(三条から伏見で最も被害が大きく、伏見城天守閣大破、石垣が崩れ約500人が圧死。堺で600人以上が亡くなり、奈良、大阪、神戸でも被害があった。余震が翌年4月まで続く)
1605年2月3日(慶長9年12月16日) / M7.9 / 東海南海西海 / 慶長の東海・南海地震(犬吠崎から九州までの太平洋沿岸に津波が来襲し、八丈島で死者57人、紀伊西岸広村で700戸流失、阿波宍喰で死者1500人、土佐甲ノ浦で死者350人、、室戸岬付近で400人以上が死んだ)
1662年6月16日(寛文2年5月1日) / M7.6 / 山城駿河信濃 / 寛文の琵琶湖西岸地震(比良岳付近で被害が大きく、滋賀唐崎で田畑が湖中に没し、倒壊家屋1570、大溝では倒壊で1020戸以上、死者37人、彦根で倒壊家屋1000戸、死者30人以上、榎村で死者300人、戸川村で260人以上死亡、京都で倒壊家屋1000戸、死者200人以上の被害があった)
1707年10月28日(宝永4年10月4日) / M8.4 / 5畿7道 / 宝永地震(死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った。わが国最大級の地震)
1854年12月23日(安政元年11月4日) / M8.4 / 中部、紀伊 / 安政の東海地震(死者2000人〜3000人余、倒壊及び焼失家屋3万戸余、津波多数発生)
1854年12月24日(安政元年11月5日) / M8.4 / 近畿中南部 / 安政の南海地震(32時間前の安政東海地震と区別が明確でないが、死者は1000人余、串本では11Mの津波)
1899年(明治32年)3月7日 / M7.0 / 三重県南部 / 紀和地震(奈良、三重県南部、和歌山県南東部で被害)
1935年(昭和10年)7月11日 / M6.4 / 静岡県中部 / 静岡地震(死者9人、倒壊家屋363戸、道路、鉄道に被害)
1944年(昭和19年)12月7日 / M7.9 / 東海道沖 / 昭和の東南海地震(静岡、愛知、三重で甚大被害、死者行方不明1,223人、倒壊家屋17,599戸、流失家屋3,129戸、津波発生、地盤沈下あり)
1945年(昭和20年)1月13日 / M6.8 / 愛知県南部 / 三河地震(死者2,306人、倒壊家屋7,221戸、深溝断層出現、津波発生、地震の規模の割りに被害甚大)
1946年(昭和21年)12月21日 / M8.0 / 南海道沖 / 昭和の南海地震(中部以西で被害甚大、死者1,330人、倒壊家屋11,591戸、焼失家屋2,598戸、津波発生、地盤沈下あり)
1965年(昭和40年)4月20日 / M6.1 / 静岡県中部 / 静岡地震(清水平野地域で被害甚大、死者2人、倒壊家屋9戸、清水港で27cM沈下)
2009年(平成21年)8月11日 / M6.5 / 駿河湾沖 / 静岡駿河湾地震(震度6弱:静岡県伊豆市、焼津市、牧之原市、御前崎市)死者1名、負傷者245名、東名高速道路牧之原インター付近で路肩崩落。  
安政東海地震
安政元年11月4日(1854年12月23日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という巨大地震が発生した。
この地震が発生した年は嘉永7年で、当時の瓦版や記録はすべて嘉永としているが、この地震の32時間後にはM8.4と推定される安政安政南海地震が連続して発生し、さらに広範囲に被害をもたらせたため、この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。年表上は安政となるため後に安政東海地震と呼ばれるようになった。(東海地震・警戒宣言)
この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あった。また、甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせた地震であった。
地震発生から数分〜1時間前後に大津波が発生し、東海沿岸地方を襲った。伊豆下田、遠州灘、伊勢、志摩、熊野灘沿岸に押し寄せた津波で多くの被害を出した。伊豆下田では推定6〜7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っている。また、江浦湾でも6〜7m、伊勢大湊で5〜6m、志摩から熊野灘沿岸で5〜10m大津波が襲来し数千戸が流失した。
特に伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたが、このときの船はわが国の外洋航行可能な船の建造の始まりでもあった。
清水から御前崎付近までの地盤が1〜2m隆起し、清水港は使用不能となった。地震の被害は流失家屋8300余戸、死者600人余と甚大なものだった。
この地震は重大な教訓を残した巨大地震でもある。それは巨大地震の東海地震は有史以来5回発生しているが、そのうち4回はその直後から2年以内に巨大地震の南海地震も発生するという、東海、東南海、南海の巨大地震の発生メカニズムを証明したのである。この史実は現在のわが国の地震予知学問に重大なキーワードをもたらせることになった。それまでに発生した過去の巨大地震を振り返ると・・・
1、東海東山道地震(1586年・天正13年)発生、その19年後の1605年(慶長9年)に「慶長地震」が発生。
2、元禄地震(1703年・元禄16年)発生、その4年後1707年(宝永4年)に「宝永地震」が発生。
3、安政東海地震(1854年・安政元年)発生、その32時間後(1854年・安政元年)に「安政南海地震」が発生。
4、東南海地震(1944年・昭和19年)発生、その2年後(1946年・昭和21年)に「昭和南海地震」が発生。
以上のように、東海道で巨大地震が発生すると、同時又は短時間後に南海道でも巨大地震が発生するというメカニズムが歴史的に証明されている。
近年東海地震発生の切迫性が伝えられているが、東南海、南海地震と連動して発生する可能性も高く、単独地震発生だけでなく連続巨大地震発生に備えた防災対策が急務である。 
東濃地域の地震発生確率
地震には、海溝型と内陸直下型があり、海溝型の地震では、安政東海地震その32時間後の安政南海地震により、確かに愛知、三重、静岡三県の沿岸部において地震とその後の津波で大災害にみまわれているが、内陸部の多治見市においては、津波の被害はなく、最大震度が、震度6に限りなく近い震度5の揺れを経験している筈。相当な被害が出たと考えられるのに確実な資料が出てきていないのは、理解しがたいことではある。むしろ内陸直下型の濃尾大震災の方が、多治見市に、はるかに大きな被害をもたらしたと理解されているのも不思議なことではある。
江戸時代、各藩では、それなりの安政の地震の記録が残っているようであるが、幕領内の地震の被害は、陣屋がまとめていただろうが、何分管轄領域が広く、その陣屋に配属されている武士は少なく、陣屋自体も甚大な被害を蒙り、陣屋内の対策に忙殺され、被害状況の記録まで手がまわらなかったのでしょうか。( 前述の気候編 付録には、安政元年の地震の欄の末尾に、陣屋の被害の状況も述べられており、高須、大垣両藩藩主に対し、総額5千両の拝借金を陣屋から仰せ付けた云々なる記述もあり、甚大な被害を蒙ったことがうかがえるのである。) 或いは、明治維新のどさくさで、笠松陣屋の旧幕臣も逃げ出し、沢山の記録類も紛失してしまったのであろうか。
これでは、宇佐美氏といえども東濃一帯の幕領内の記録を見出せなかったのもうなずけるというものである。近い将来来るであろう平成?東海地震とそれに連動して起こるだろう南海、東南海地震では、相当な被害が、多治見でも起こるだろう事を覚悟せねばならないだろう。地震学の某権威のある方のデータに基づく地震予知?では、2030年台が、要注意ということのようであります。その頃、私は、生きているのであろうか。18年後以降のことではありますが・・・。
多治見において、唯一記録に残る大地震の被害は、濃尾大震災であり、内陸直下型の地震である、この地震について、名古屋大学 地震火山・防災研究センター諸氏による「いま活断層があぶない」によると、濃尾大震災を起こしたのが、福井県池田町から岐阜県の根尾、本巣町を経て、美濃加茂市あたりへ延びる全長約80Km程の大断層、濃尾断層帯(別名 根尾谷断層)と呼ばれるものであるという。
この断層帯による地震は、有史以来から数えると2回程とか。上記一覧表の地震にある 745年(M7.9)?と1891(明治24)年10月28日(M8.0)の濃尾大震災であり、濃尾断層帯での地震発生間隔は、約2100〜3600年とされている。この濃尾大震災は、明治24(1891)年という過去におきた事ではあるが、地震学では、つい最近発生したばかりであり、地震発生確率は、当分、ほぼ0%と算出されている。それ故、我々団塊の世代は、生きているうちには、経験することはないであろうということになる。
「また、この濃尾断層帯の岐阜市から一宮を経て名古屋市北部にいたる分岐断層帯(岐阜ー一宮線)があるとされているが、存在は、未だ確認されていないという。その岐阜ー一宮線と梅原断層の間(各務原市から犬山市付近)は、濃尾地震時に、顕著に土地が隆起していたようで、紛れも無い事実であった。」美濃市付近での2〜3箇所の三角点では、最大70p隆起したというし、関市付近の三角点では、西北西に2m程移 動したということである。
あと危険と考えられる多治見市に近い活断層帯は、2ヶ所程あり、その一つは、阿寺断層帯といい、岐阜県下呂市から付知、坂下を経て中津川市北東部に抜ける長さ70Kmほどの断層であり、この断層帯の地震発生間隔は、北部約1800〜2500年とされ、南部では、約1700年と想定されている。この断層帯北部で最近起きたのは約3400〜3000年前とされ、南部では、1586年の天正地震(M8前後)とされているのであり、地震発生確率は、北部では、2035年までは 6〜11%と非常に高いのである。
もう一つは、屏風山断層帯(中津川市から恵那市にかけて延びる全長15Kmの断層)と恵那山ー猿投山北断層帯(中津川市から瑞浪市を経て豊田市の北西部にかけての全長約51Kmの断層)であり、屏風山断層帯で起こる地震は、M6.8程度と推定されている。対して、恵那山ー猿投山北断層帯での将来起こるであろう地震は、M7,7程度で、多治見では震度6弱と推定されている。この地震の発生間隔は、7200年〜14000年であり、最近のこの断層帯での地震は、約7600〜5400年前とされており、地震発生確率も2035年までにほぼ0〜2%であり、やや高い部類に入っている。この恵那山ー猿投山北断層帯で地震が起これば、多治見市内においても相当な被害がでるであろうことを覚悟せねばならないだろう。 
東海・東南海・南海地震
想定東海地震と東南海地震、南海地震が同時発生するという仮定の下で想定された南海トラフにおける連動型巨大地震のことである。3連動地震とも呼ばれる。
想定東海地震は駿河湾、東南海地震は遠州灘沖および熊野灘沖(浜名湖沖から潮岬やや東寄り沖)、南海地震は紀伊水道沖および土佐湾沖(潮岬やや東寄り沖から足摺岬沖)が、それぞれ震源域と想定されていた。このように震源域が分かれる要因は、海底の地形、沈み込んだプレートの傾斜角、トラフ軸の向きなどが関係しているとされる。
駿河湾から九州にかけての太平洋沿岸では、フィリピン海プレートとユーラシアプレートとの収束境界、すなわち沈み込み帯である南海トラフでは、過去に100 - 150年程度の間隔で巨大地震が繰り返されていると考えられていた。
1944年昭和東南海地震および1946年昭和南海地震から既に50数年の年月が経過した2001年の時点では、昭和の2地震の規模が比較的小さかったことなどから21世紀の前半にも、南海トラフを震源とする巨大地震の発生が懸念されていた。
そこで2001年6月の中央防災会議において、中部圏、近畿圏等における災害対策の強化、地震・津波被害の想定や災害対策のあり方を検討する「東南海、南海地震等に関する専門調査会」の設置が決定された。
また、1970年代から発生の可能性が唱えられていた駿河湾を震源域とする東海地震がこの時点でまだ発生していないことから、次回の東南海・南海地震と連動して発生する可能性も否定できないとされ、当時の最大級の地震の想定として、これらの3つの震源域が連動する「想定東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が同時に破壊される場合」すなわち東海・東南海・南海地震が想定された。
過去の歴史地震との関係
1707年宝永地震は、震度分布や津波襲来の領域から、1854年安政東海地震(想定東海地震と東南海地震が震源域と推定)および安政南海地震の震源域を併せたものにほぼ相当するという考えから、東海道沖および南海道沖で2つの地震がほぼ同時に発生したものと推定されていた。
また、昭和東南海地震では、安政東海地震で断層破壊された駿河トラフ部分が未破壊のまま残され、この部分が将来断層破壊する東海地震が想定された。
このような経緯から、東海地震・東南海地震・南海地震の震源域が仮定され、比較的史料が揃っている宝永、安政、昭和の過去の5地震をモデルに、それぞれの震源域が単独、あるいは同時発生する場合が想定された。
過去の5地震の震源域(従来の見解)
1. 1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(東海 東南海 南海連動) M8.6
2. 1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海 東南海連動) M8.4
3. 1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(南海地震) M8.4
4. 1944年(昭和19年)12月7日 昭和東南海地震(東南海地震) M7.9
5. 1946年(昭和21年)12月21日 昭和南海地震(南海地震) M8.0
南海トラフ沿いで歴史的に発生している巨大地震の詳細については、南海トラフ巨大地震を参照のこと。
3連動地震
3連動地震と考えられてきたものは、1707年の宝永地震であり、大規模な津波堆積物が見いだされている天武13年(684年)の白鳳地震や正平16年(1361年)の正平地震も宝永型の可能性があるとされ、記録から仁和3年(887年)の仁和地震も可能性が高いとされてきた。慶長9年(1605年)の慶長地震も津波波源域が東海から南海に及ぶとされ、房総沖も連動したとする説もあるが、その他東海道はるか沖を震源とするなど諸説あり、南海トラフの地震ではないとする見解も出されている。
しかしながら、仁和地震は、静岡県磐田市の太田川沿いの元島遺跡から発見された9世紀後半頃の津波堆積物の規模が小さいことから3連動地震の可能性は低いとされ、さらに仁和地震に相当する津波堆積物は南海側では見出されず、正平地震に相当する津波堆積物も東海側では見出されていない。
また、宝永地震については駿河湾が震源域に含まれる、含まれないとの論争があった一方で、日向灘地震の震源域まで伸びていた可能性が指摘され、また安政の2地震の同時発生では説明できず、単なる3連動地震ではない別物の巨大地震との説も浮上している。
その後の研究により、地震が起こるたびに震源域が変化するという、従来の東海・東南海・南海の枠に捕われない見解が出されるようになった。例えば、同じ南海地震でも安政の南海地震は南海道沖全域が震源域となったのに対して、昭和の南海地震は西側4分の1は震源域ではなかったと推定されている。また一方で東京大学地震研究所の瀬野徹三(2011)は、3地震の現在の分類を変える必要を挙げ、南海トラフの東端の震源域(東南海の一部及び東海)と連動して静岡付近まで断層の破壊が進む「安政型」、その震源域と連動せず静岡までは断層の破壊が起きない「宝永型」の二種類に分類することができるという説を唱えている。
瀬野徹三(2013)は、南海トラフ沿いで起こった歴史地震のなかで、3連動地震であった証拠が確かなものは無いとしている。 
南海トラフ関連 1
 
416
 684       268
 
887       203
1096-99    209
1185        89
1361       176
1498       137
1586        88
1596        10
1605         9
1662        57
1707        45
1854       147
1899        45
1935        36
1944-46     36
1965        21
2009        44
 
南海トラフ関連 2
 887
 922        35
1096       174
1180        84
1361       181
1498       137
1605       107
1707       102
1854       147
1946        92
           100-120 年周期
 
2046-2066
三陸沖地震

 

日本の東北地方の三陸沖、太平洋の地下を震源として発生した地震の総称である。
三陸沖地震は、東北地方太平洋沿岸(三陸海岸)の沖合いに位置する日本海溝における海溝型地震の中でも、特に遠方の海域で発生する地震である。
震源が海溝側付近にあるものと推定され、人が住む陸地までの距離があるため、陸上で観測される震度と地震に伴って発生する津波の大きさとの相関は低い。すなわち、観測された震度が小さくとも大きな津波が発生する場合がある。また、震源域における地震動自体が小さいにもかかわらず大きな津波となる津波地震が発生することもあり、明治三陸地震(M8.2 - 8.5)のように地震による直接の被害はほとんどないにもかかわらず、甚大な津波被害を引き起こしたケースがある。津波は太平洋沿岸各国に到達していることが観測されており、特に日本の三陸海岸一帯に激甚な被害をもたらすことが多い。
2011年3月11日には、三陸沖を震源としながら岩手県沖から茨城県沖まで広範囲の固有震源領域を巻き込んで大規模な連動型地震となった、東北地方太平洋沖地震も発生している。この地震により三陸海岸を中心に北海道から関東地方にかけて大きな津波が発生。また、三陸沖を震源とする複数の余震も発生している。この地震発生を期に「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」は大幅に見直され、「東北の太平洋沿岸に巨大津波を伴うことが推定される地震」は、平均再来間隔が約600年と評価された。
名称
地震情報に用いられる「三陸沖」は、気象庁の定める「震央地名」の一つであり、三陸海岸から日本海溝までの地域のうち日本列島に近い部分(青森県東方沖・岩手県沖・宮城県沖)を除いたおよそ東経143度以東の範囲である。
また、地震調査委員会は三陸海岸から日本海溝までの地域を「三陸沖北部」「三陸沖中部」「宮城県沖」「三陸沖南部海溝寄り」および「三陸沖北部から房総沖の海溝寄り」に分類している。
気象庁や地震調査委員会などの機関により「三陸沖」の範囲は多少異なるが、災害報道では便宜上それらの範囲を震源として発生した地震を「三陸沖地震」と通称することが多い。「三陸」という名称が存在しなかった時代における歴史上の地震についても、溯上して称することがある。
大きな被害を与えた地震では特に元号を冠して「明治三陸地震」「昭和三陸地震」のように呼ばれることがある。リアス式海岸である三陸海岸沿岸において巨大な津波により甚大な被害をもたらすことがあるため、その津波被害に焦点をあて、「三陸津波」「三陸地震津波」と呼ばれることもある。
発生要因
東北地方の三陸沖にある日本海溝では、東日本が乗っている北アメリカプレート(大陸プレート)に対して、西向きに移動する太平洋プレート(海洋プレート)が沈み込んでいる。三陸沖地震は、この沈み込みによるひずみが引き起こす海溝型地震である。
ただし、昭和三陸地震は日本海溝よりも外側の沈み込む前の太平洋プレートにおけるアウターライズ地震(海洋プレート内地震の一種)と考えられている。このタイプの地震では海溝型地震にも匹敵する巨大津波を発生させることがある一方で、震源が遠方の海域となることから地震の揺れ自体は小さくなる傾向にあるため、津波地震と同様に地震発生直後の避難が難しい側面もある。アウターライズ地震は東北地方太平洋沖地震の後にも余震として発生している。  
主な地震
以下に三陸沖を震源域としてM7.4以上、死者数1名以上、津波の高さが2m以上のいずれかに該当する地震を記述する。なお、三陸沖北部で発生した「十勝沖地震」と称される地震、固有地震ではない地震も含まれる。また、前震や余震といった本震に付随する地震は除く。
これらの中で特に強大な津波を発生したと推定されているのは、貞観地震、慶長三陸地震および明治三陸地震であり、加えて東北地方太平洋沖地震もこれに該当する。また貞観地震と慶長三陸地震の間の742年間、巨大地震の確かな記録が確認されていないが、『奥南見聞録』には1088年6月4日(ユリウス暦)(寛治2年5月13日)に宮古で地震津波、『岩手県沿岸大海嘯取調所』によれば1257年10月2日(ユリウス暦)(正嘉元年8月23日)の鎌倉の地震と同日に三陸海岸で津波があったとされ、また、『王代記』には1454年12月12日(ユリウス暦)(享徳3年11月23日)の享徳地震では奥州に大津波があったことが記されている。ただしこれらは何れも詳細は不明である。記録が少ないことについては、過去に仙台平野に何度も津波が襲来しその度に歴史記録が消失したり途絶えた可能性が指摘されている。 
 [ 発生年月日 / 名称 / 規模 / 最大震度 / 最大津波 / 死者・行方不明者 / 備考 ]
869年7月9日(貞観11年5月26日) / 貞観地震 / M8.3-8.6 / / 10-30M? / 死者約1,000人 / 震源域については、三陸沖ではなく現在の宮城県沖から福島県沖であったとする説、これらに加えて三陸沖も伴っていたとする説などがある。
1611年12月2日(慶長16年10月28日) / 慶長三陸地震 / M8.1 / 震度4-5程度 / 20M?25Mとも / 死者2000 - 5000人 / 震害はなく、津波が内陸まで遡上していることから津波地震の可能性や、千島・カムチャツカ海溝での超巨大地震であった可能性が指摘されている。
1677年4月13日(延宝5年) / 延宝八戸沖地震 / M7.4-7.9 / 震度5程度 / 6.0M / / 三陸沖北部の固有地震。延宝陸中地震とも。5ヶ月後には磐城-房総沖を震源、津波地震と推定される地震が発生。
1763年1月29日(宝暦13年) / 宝暦八戸沖地震 / M7.4-7.9 / 震度5程度 / 4.0-5.0M / / 三陸沖北部の固有地震。
1793年2月17日(寛政5年1月7日) / 寛政地震(宮城県沖地震) / M8.0-8.4 / 震度6程度 / 5-7M / 死者約100人 / 三陸沖南部海溝寄りで発生した地震が宮城県沖と連動。
1856年8月23日(安政3年7月23日) / 安政八戸沖地震 / M7.5-7.7 / 震度5程度 / 5-7M / 死者38人 / 三陸沖北部の固有地震。
1896年6月15日(明治29年) / 明治三陸地震 / M7.2 / 震度4 / 38.2M / 死者・行方不明者21,959人 / 津波地震。
1897年8月5日(明治30年) / / M7.7 / 震度4 / 3.0M / / 三陸沖南部海溝寄りの地震。
1933年3月3日(昭和8年) / 昭和三陸地震 / M8.1 / 震度5 / 28.7M / 死者1522人行方不明者1542人 / 正断層型・アウターライズ地震。
1968年5月16日(昭和43年) / 十勝沖地震 / M7.9 / 震度5 / 6M / 死者52人 / 十勝沖地震となっているが、震源域は三陸沖北部の固有地震に該当する。
1994年12月28日(平成6年) / 三陸はるか沖地震 / M7.6 / 震度6 / 0.6M / 死者3人 / 三陸沖北部で発生したが、固有地震ではない。
2011年3月11日(平成23年) / 東北地方太平洋沖地震 / 8.4 / 震度7 / 40.1M / 死者・行方不明者1万5千人以上 / 三陸沖南部海溝寄りで発生した地震。3月9日にM7.3の前震、本震と同日の3月11日と7月10日にそれぞれM7.5とM7.3の余震が三陸沖で発生している。  
三陸沖北部の空白域
超巨大地震の周期的な発生が指摘される千島海溝沿いの震源域(根室沖〜襟裳岬)と東北地方太平洋沖地震の震源域(陸中〜常磐沖)の中間部分にあたる下北〜陸中沖(日本海溝北端部にあたる下北半島沖〜三陸沖中部)でも、これまでにM9規模の超巨大地震が3000年前、紀元前後、12〜13世紀のおよそ1000〜1200年間隔で発生してきたことが地質調査により推定されている。これは北海道根室市から宮城県気仙沼市までの計11地点における過去3500年間の津波痕跡データの分析により、北海道〜東北地方の太平洋沖で巨大津波を発生させる可能性がある地震は3震源域に分類できるというもので、特に下北〜陸中沖は前回の発生からすでに800〜900年が経過する地震空白域となっているため最も切迫度が高いと考えられ、千島海溝沿いの巨大地震や東北地方太平洋沖地震の震源域が下北〜陸中沖まで拡大する可能性も考慮に入れられている。 
三陸関連 1
 
869
1611       742
1677        66
1763        86
1793        30
1856        63
1896-97     40
1933        37
1968        35
1994        26
2011        17
 
三陸関連 2
1492-94
1520        27
1611        91
1646        35
1677-78     31
1766        89
1821-22     55
1856        35
1896        40
1933        37
1968        35
(1994)     
2011        43
            35-45 年周期 
2045-2055
南関東地震

 

関東地方の南部(神奈川県・東京都・千葉県・埼玉県・茨城県南部)で歴史的に繰り返し発生するマグニチュード7級の巨大地震を指す総称。首都圏の中心地域であることから首都直下地震、東京に焦点を絞った場合東京直下地震、東京大震災などともいう。日本で想定される都市直下型地震の一つ。
東海地震や立川断層帯地震のように特定の固有地震を指すものではなく、南関東の直下を震源とする被害地震クラスの数種類の大地震をまとめて指す呼び方である。このように総称を用いている理由として、南関東の地下構造が複雑なため過去の被害地震の発生様式が特定されていない点、また防災の観点から複数の直下地震をまとめて呼んだ方が分かりやすい点などが挙げられる。厳密には、より規模・被害が大きい相模トラフで起こる海溝型地震(1703年や1923年の相模トラフ巨大地震)を含まない。
相模湾においては、フィリピン海プレートが陸のプレート(北アメリカプレート)の下に沈み込んでいて、相模湾西部から房総半島南方30kmを通り三宅島東方200km付近までは海底の谷状地形が続くプレート境界「相模トラフ」を形成している。この相模トラフの北側の幅80km - 150kmの領域を震源域として、1703年12月31日(元禄16年11月23日)の元禄地震(M8.1-8.5)、1923年(大正12年)9月1日の関東地震(関東大震災)(M7.9-8.3)などのマグニチュード8級の巨大地震が推定200 - 400年間隔で発生していて、これらを総称して相模トラフ巨大地震(「関東地震」とも)と呼ぶ。
これに対して、相模トラフから前述よりさらに北側をも含めた関東地方南部のいずれかの地域を震源域として、ひとまわり規模が小さいマグニチュード7前後の地震が平均数十年に一度程度の割合で発生している。1855年11月11日(安政2年10月2日)の安政江戸地震(M6.9)、1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震(M7.0)などが発生していて、これらを総称して南関東直下地震と呼ぶ。地震のタイプとしては内陸地殻内地震(直下型地震)に限らず、プレート間地震(海溝型地震)、スラブ内地震も想定される(詳細は後述)。なお、安政江戸地震の震源も断定はされていないが同様の地域と考えられている。また、震源が海底ではないため、緊急地震速報発信がS波到達の直後になってしまう可能性があると予想されている。
発生した場合の被害や影響が多大であることから、日本政府や関係自治体が調査報告を行っており、中央防災会議は2003年に「我が国の存亡に関わる喫緊の根幹的課題」としているほか、間接的被害は全世界に長期間及ぶと考えられている。2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の地殻変動が関東地方にも及んだことで発生確率が高まったとする研究者が複数おり、2012年には新たに最大震度7を含む想定震度分布が発表された。
南関東の特殊性と高いリスク
マグニチュード7級の地震が時折発生するという点では、南関東も日本の他の地域も同様である。しかし、南関東では以下のような理由により地震の頻度が高く、また被害の程度が顕著になると想定されることから、地震学・地質学の研究においても防災の観点においても注目され、重要視されている。
まず、関東地方には日本の他の地域と同様に地表近くに活断層が存在すると同時に、地下では相模トラフ付近だけではなく、群馬県南部・栃木県南部までプレートの境界が存在し、そこでも地震が発生する。北関東では震源が深いため揺れが減衰されるが、南関東では震源が浅いため強い揺れが起こる。しかも、南関東では地表を覆う大陸プレート(北アメリカプレート, NA)の下に南から海洋プレート(フィリピン海プレート, PHS)が沈み込み、さらにその下に東から海洋プレート(太平洋プレート, PAC)が沈み込んでいる複雑な構造であり、関東付近におけるプレート間の相対運動速度はNA-PHS間が約3cm/年、NA-PAC間が約8cm/年、PHS-PACが約5cm/年と世界的にも比較的速いため、必然的に地震の確率は高くなる。
また、関東平野は群馬南部、栃木南部、埼玉北部・東部、東京東部、神奈川東部、千葉北部・中部、茨城西部・南部まで広がっており、第四紀以降の堆積物に厚く覆われていて(最も深い東京湾付近で3,000m程度)揺れが反射・増幅されやすく、政府発表の「表層地盤のゆれやすさ全国マップ」(2005年)においても南関東の大部分が揺れやすい地域とされている。特に、東京湾岸や荒川・利根川流域などは揺れの増幅率(表層地盤増幅率)が高い地域に分類されており、都心部でも東側は地盤が弱い(表参照)。
南関東直下地震は、M8クラスの相模トラフ巨大地震や東海地震に比べれば想定される震災被害の範囲は小さいが、プレート間地震が内陸で起こる「直下型」であるため震源付近では甚大な被害が発生すると考えられる。
世界最大の再保険会社であるミュンヘン再保険が2002年に発表した、大規模地震が起きた場合の経済的影響度を含めた世界主要都市の自然災害の危険度ランキングでは、東京・横浜が710ポイントと1位で、167ポイントで2位のサンフランシスコと大差がつき、首都圏での震災を含めた災害リスクの高さが表れている。
また東京は江戸時代より日本の中心として都市機能を集約しており、戦後の高度経済成長によって日本が国際的な位置を確立し始めた時には、東京は日本だけでなく世界経済の中枢としても重要な位置を確立した。現在でも国内主要企業の本社のほとんどが集中する経済の中心地、また国会や中央省庁が集まる政治の中心地ゆえ、直下型地震によって経済活動や国家の安全保障に甚大な被害を及ぼす事態も予想されている。また、周辺を含めた首都圏にも横浜市・川崎市・相模原市・千葉市・さいたま市などの大都市があり全体的に人口密度が高く、京浜工業地帯・京葉工業地域・鹿島臨海工業地帯などの工業地域、横浜港・川崎港・千葉港などの重要港湾機能がある。このように人口や機能の集中する首都圏において大地震が発生し、その機能が麻痺状態に陥った場合のリスクは極めて高いものと想定されており、これが他地方への首都機能移転を主張する意見の一根拠にも用いられている。
首都近郊での大地震は近代より注目されている。地震学者今村明恒は、1891年濃尾地震を受けて設置された震災予防調査会がまとめた地震記録から関東地方の地震の周期性を見出し、「50年以内に東京で大地震が発生する」という趣旨の雑誌寄稿を1905年に行った。これは社会問題化したがやがて批判へと変わり、地震への警鐘は一時的なものとなってしまった。その後1921年、1922年とM7級の地震が発生するなど南関東で中規模地震が多発する中、1923年にM7.9の関東地震が発生し甚大な被害をもたらした。戦後、河角廣が発表した「南関東大地震69年周説」は1978年 - 2004年の間に南関東で再び大地震が発生するというもので再び大きく取り上げられたが、これは鎌倉における歴史地震(古地震)の記録をもとにしたもので地震の震源域や規模が明確ではなく、相模トラフ巨大地震の周期性も解明されたことから後に否定された。その後1980年代より南関東地震活動期説が唱えられているが、支持・反対の意見に分かれている。
過去の南関東の地震
日本政府の地震調査研究推進本部は、「南関東におけるM7程度の地震」として2000年代初頭から評価を行い、その後数回改定している。過去の発生記録や現在解明されている範囲での南関東地域の地殻構造から、2007年(平成19年) - 2036年の間にM6.7〜7.2の(海溝型・プレート内)地震が70%の確率で発生するとの想定が行われている。なお前記の評価想定では、観測精度が信頼できる1885年以降評価時点であった2004年まで119年間の地震のうち、震源の深さが30 - 80kmで、かつ一定規模以上の被害がみられるものを対象としている。1894年(明治東京地震)、1895年、1921年、1922年、1987年(千葉県東方沖地震)の5つが該当し、これらの単純平均から、発生間隔を23.8年と見積もっている。
以下に南関東におけるM6.5以上の地震を列記する。 
 [ 発生年月日 地震の名称 震源 地震の規模 被害概要 ]
1633年3月1日寛永小田原地震 相模湾西部(小田原市沖) M7.0 死者150名、負傷者多数
1703年12月31日元禄関東地震 野島崎沖 M8.1-8.4 死者1万余名、負傷者多数
1782年8月23日天明小田原地震 神奈川県西部 M7.0 死者、負傷者あり
1853年3月11日嘉永小田原地震 神奈川県西部 M6.7 死者100名、負傷者多数
1855年11月11日安政江戸地震 東京湾周辺 M6.9-7.4 死者7444名-1万名、負傷者多数
1890年4月16日(新島・神津島近海の地震) 新島・神津島近海 M6.8 - 負傷者1名
1891年12月24日(山梨県東部の地震) 山梨県東部 M6.5 負傷者1名
1894年6月20日明治東京地震 東京湾付近(荒川河口付近) M7.0 死者31名、負傷者197名
1894年10月7日東京湾付近の地震 浦賀水道付近 M6.7
1895年1月18日茨城県南部の地震 茨城県南部(霞ヶ浦付近) M7.2 死者9名、負傷者68名
1900年11月5日(三宅島近海の地震) 三宅島近海 M6.6 負傷者1名
1921年12月8日茨城県南部の地震 茨城県南部(竜ヶ崎付近) M7.0
1922年4月26日浦賀水道付近の地震 浦賀水道付近 M6.8 死者2名、負傷者23名
1923年9月1日大正関東地震 神奈川県西部 M7.9-8.2 死者10.5万人、負傷者11万人
 (上記余震) 伊豆大島近海 6.5
 (上記余震) 相模湾 M7.3 / M6.5 / M6.5
 (上記余震) 山梨県中・西部 M6.8
 (上記余震) 9月2日 千葉県南東沖 M7.3
 (上記余震) 9月26日 伊豆大島近海 M6.8
1924年1月15日丹沢地震 神奈川県西部 M7.3(上記余震) 死者19名、負傷者638名
1930年11月26日(北伊豆地震) 静岡県伊豆地方(函南町付近) M7.3 死者272名、負傷者572名
1931年9月21日西埼玉地震 埼玉県北部(寄居町付近) M6.9 死者16名、負傷者146名
1974年5月9日(伊豆半島沖地震) 駿河湾(石廊崎沖) M6.9 死者38名、負傷者102名
1978年1月24日(伊豆大島近海の地震) 伊豆大島近海 M7.0 死者25名、負傷者211名
1980年6月29日(伊豆半島東方沖地震) 伊豆半島東方沖 M6.7 負傷者8名
1987年12月27日千葉県東方沖地震 千葉県東方沖(九十九里浜沖付近) M6.7 死者2名、負傷者161名
1990年2月20日(伊豆大島近海の地震)  伊豆大島近海 M6.5 
メカニズムと特徴
南関東では大陸プレートの下に海洋プレート2枚が別々に沈み込んでいる複雑なテクトニクス構造からなっている。 南関東の地下におけるプレートの様子は、詳細には解明されてはいない。地震波速度や重力異常、1990年代以降の高感度地震計による微小震源分布などから推定は行われているものの、プレートの深さひとつをとっても複数の説が主張されている状況であり、近年でも関東フラグメントなどの新説が主張される動きもある。近年の解明の動きとして、2005年7月23日の千葉県北西部地震(震源の深さ73km、M6.0、最大震度5強)は1894年の明治東京地震と同じ領域(太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界域)で発生した可能性が指摘されている。東京大学地震研究所が行った古い地震計記録からの復元データおよびスーパーコンピューター「地球シミュレータ」の再現データによると、明治東京地震は深さ40 - 50km地点の両プレート境界域(千葉県北西部地震より浅く、西寄り)で発生した可能性が推定されるという。
なお上記の地震調査研究推進本部の評価においては、陸のプレート内部で起こる「内陸地殻内地震」は各断層での評価に含めているため除外されていて、30年間で70%という確率には含まれないので注意を要する。ただし、この想定は過去100年程度においては地震計のデータがあるものの全体として例が少なく、過去の地震被害や地質調査を根拠にする部分も大きいため、マグニチュード7級という想定も含めて不確実性を指摘する専門家もいる。
(南関東直下地震が含まれる可能性がある)相模湾の歴史地震および17世紀以降の南関東の中規模以上の地震の震源や規模、被害、発生様式については、宇津徳治の文献などをもとに地震調査委員会がまとめた表があるので参照のこと。
活断層
直下型のうち、震源が非常に浅い「内陸地殻内地震」をもたらす、活動度が高いとされる活断層を以下に列挙する。河床、湖底、海底の断層は調査が難しく、また南関東は関東造盆地運動のため厚い堆積層が覆っていて深いところまで掘削しなければ基盤岩に達せず、明瞭な断層面は大深度にあってほとんど調査されていない。発見されていない断層が地震をもたらす例もあるため、注意が必要である。
2011年の東北地方太平洋沖地震による広域的な地殻変動のため、下記の立川断層帯や三浦半島断層帯などいくつかの断層は地震発生リスク(確率)が高まったと発表されている。なお、活断層による地震は、地震調査委員会による「30年間で70%」という確率には含まれていない。
立川断層帯(立川断層など) - 埼玉県南部〜東京都中央部における内陸地殻内地震。
関東平野北西縁断層帯(綾瀬川断層など) - 群馬県中南部〜埼玉県北中部における内陸地殻内地震。
神縄・国府津-松田断層帯 - 静岡県東縁部〜神奈川県西部における内陸地殻内地震。
三浦半島断層群 - 三浦半島における内陸地殻内地震。
伊勢原断層 - 神奈川県中央部における内陸地殻内地震。
鴨川低地断層帯 - 房総半島南部における内陸地殻内地震。
他の地震との関連
別の巨大地震の前後に発生した例
1855年の安政江戸地震では、その1年前に南海トラフの巨大地震である安政東海地震及び安政南海地震が発生しており、これらの地震により誘発された可能性が指摘されている。また、それ以前にも日本海溝付近における連動型地震とみられる869年の貞観地震の後に、発生から9年後と間隔が開いているが878年相模・武蔵地震(伊勢原断層、或いは相模トラフの地震とみられる)が発生、さらにその9年後の887年には南海トラフにおける連動型巨大地震とみられる仁和地震も発生している。
東北地方太平洋沖地震以降の首都圏の地震活動
2011年3月の東北地方太平洋沖地震以降、首都圏では誘発地震活動のため地震の発生数が増加した。なお、同地震(本震)は前述の貞観地震と同様に日本海溝付近における連動型地震である。
酒井慎一・観測開発基盤センター准教授を中心とする平田直教授らの研究グループは、地震の頻度の経験則である『グーテンベルク・リヒター則』と、余震の数の減少についての公式である『改良大森公式』の2つを組み合わせた『余震の確率評価手法』を用いて、M6.7-M7.2の地震が首都圏で起こる確率を「今後30年で98%、4年以内で70%」と2011年9月に試算し、同月16日の東京大学地震研究所談話会で発表した。同研究所広報アウトリーチ室が上記の内容が報道された後に開設したページでは、非常に大きな誤差を含んでおり数字そのものにはあまり意味がないと考えて欲しいということ、東北地方太平洋沖地震の誘発地震活動と首都直下地震を含む定常的な地震活動との関連性はよくわかっていないので両者を単純に比較することは適切ではないと考えられる、としている。2012年2月上旬の報道によれば、再計算の結果、4年以内50%以下、30年以内83%と算出された。
遠田晋次・京都大学防災研究所准教授らが行った2012年1月21日までの計算結果では、首都圏でM7以上の地震が発生する確率は5年以内に28%、30年以内に64%となった。 
関東関連 1
1633
1703        70
1782        79
1853-55     71
1890-95     37
1921-24     31
1930-31      9
1974        36
1978-80      4
1987-90     11
 
関東関連 2
1615
1628-33
     13
1649-50
     21
1678
        29
1703-06
     25
1746
        43
1782
        36
1812
        30
1853-55
     41
1894
        41
1923
        29
(1978)
      55
(2011)
      33
            30-40 年周期 
2041-2051
 
用語

 

■津波
地震や火山活動、山体崩壊に起因する海底・海岸地形の急変により、海洋に生じる大規模な波の伝播現象である。まれに隕石衝突が原因となったり、湖で発生したりすることもある。強風により発生する高波、および気圧の低下などで起こされる高潮、副振動(セイシュ)、原因が解明されていない異常潮位とは異なる。
1波1波の間隔である波長が非常に長く、波高が巨大になりやすいことが特徴である。地震による津波では波長600km、波高5m超のものが生じた事がある(津波が陸上に達するとこの値は大きく変わる)。
津波という現象は、例えるならば大量の海水による洪水の様な現象であり、気象など他の要因で生じる波とは性質が大きく異なる。大きな津波は浮遊物と共に陸深くに浸入し、沿岸住民の水死や市街・村落の破壊など、種々の災害を発生させる。
20世紀後半以降 "Tsunami" は、世界で広く一般にも使用される共通語になったが、そもそも日本語における「津波」の語源(後述)は沖で被害が出なくても津(=港)で大きな被害が出ることからきている。
津波は、沖合から海岸に近づき海底が浅くなるにつれて波高が高くなり、海岸線では沖合の数倍に達する。湾口で2mのものが湾奥で5m超になった事例もある。また海底が浅くなるにつれて波長は短くなるが、海岸線でも数百m - 数km程度ある。
上陸した津波は、依然として大きな水圧を伴った高速の波として、数分から数十分の間押し寄せ続けたら(押し波)、今度は海水を沖へ引きずり続け(引き波)、しばらくしたら再び押し寄せて(押し波)、という具合に押し引きを繰り返し、やがて減衰していく。大きな津波は、陸上にある建物、物品、そして人間を押し流し、景色を一変させ、甚大な被害をもたらすことがある。また大きな津波は海岸に続く河川を遡るほか、海上でも被害をもたらすことがある。
特にリアス式海岸の湾奥では狭く細長く深い湾が津波の威力を集積させるため、また海に突き出た岬の先端では周囲からの回り込みの波が重なるため、他の海岸に比べて同じ津波でも被害が大きく、より小さな津波でも被害を受けることが知られている。
また海岸では、日本の三陸海岸の港町のように津波を防ぐために防潮堤、あるいは通常の波浪を防ぐなどの目的で堤防が築かれている所があり、これらは津波の被害を軽減する役割を果たす。一例として、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0を観測)に伴う津波は沿岸の広い範囲に甚大な被害をもたらしたが、岩手県下閉伊郡普代村の普代水門・太田名部防潮堤(ともに高さ15.5m)や同県九戸郡洋野町の防潮堤(高さ12m)は決壊せず、津波の影響を大幅に減衰させて集落進入を防いだ結果、軽微な被害にとどまっており、特に普代村においては被災民家および死者は発生しなかった。
その一方で津波被害をカバーできない場合もある。防潮堤の高さや強度が不足している場合のほか、津波を起こした地震で損壊したり地盤沈下により海面が上昇したりして、堤防の機能が弱まることがある。また防潮堤などにある水門は人が駆けつけることができない場合や、停電などの影響で閉められないことがある。こうした事例から、防潮堤による津波対策を再考する動きもある。
津波をもたらす原因
海底地形や海水の体積の短時間での変化、海水への衝撃波によって引き起こされる非常に長周期の波である。
海における津波の発生原因として、海底で接触し合っているプレート同士の弾性反発に起因する急激なずれ、つまり浅海底での地震が最も大きな割合を占める。このほか、海岸地域で起こる地滑り、海底火山の活動、海底地すべりなどの地質学的な要因があげられる。また、過去においては後述するように海洋への隕石の落下により引き起こされた事例も確認されている。
地震による津波
津波の原因として最も一般的なものは、海底地震すなわち震源地が海底である大地震であり、記録に残る津波の大部分はこれによるものである。
1 地震前のプレートの沈み込み。重い海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む。
2 プレートの歪みと隆起。海洋プレートは大陸プレートの先端を押し込みながら沈み込む。大陸プレートの内側上部は隆起する。
3 地震の発生。一瞬にして大陸プレートの先端が隆起し、津波を生じる。大陸プレートの内側上部は沈降する。
4 津波の伝播。両側に津波が広がっていく。
断層が活動して地震が発生した時に、海底にまで断層のずれが達して海底面が上下に変化すると、非圧縮性流体である海水が上下に移動させられてその地形変化が海面に現われ、水位の変動がうねりとなって周囲に広がっていき、津波となる。地震の揺れ(地震動、地震波)で生じる海震とは異なる。大地震においては、数十kmから時に1,000kmを超える長さ、数十kmから数百kmの幅の範囲で、数十cmから数十mという規模で、数十秒から数分の間に、海底が一気に隆起する。この体積変化のエネルギーは巨大で波長が非常に長いため、ほとんど失われることなく海水面の隆起や沈降に変換されて津波を生じる。
正断層による海底の沈降によっても、逆断層による隆起によっても津波は起こる。マグニチュード8級の地震では震源域の長さが100km以上になる事もあり、それに伴う地形変化も広い面積になるので、広範囲の海水が動いて大規模な津波を起こす。ただし、後述の津波地震等の津波を巨大化させる別の原理があるため、地震の大きさ・揺れの大きさと、津波の大きさは、必ずしも比例していないため防災上注意が必要である。津波という現象の発生には海底の地形が大きく変わる事が重要で、大地震による海底の断層とそれによる隆起や沈降は最も津波を起こしやすい現象といえる。ただし、海底の断層運動があっても、横ずれが卓越し隆起や沈降がなければ大きな津波は発生しない。原理は、入浴中に浴槽の下から上へ、突き上げるように湯を手で押し上げて見るのが理解し易い。押し上げられた湯は塊りとなって水面まで持ち上がってから周囲に広がるはずであり、これが巨大になったのが津波である。なお、津波を生じるためには震源がある程度浅くなければならず、震源が概ね100kmより深いものでは津波は発生しないとされている。
地震津波は海溝付近で発生することが多い。海溝付近では数十年 - 数千年の間隔でマグニチュード7 - 9の海溝型地震が発生し、その際に現れる海底の大断層によって津波が発生する。20世紀後半以降、日本付近の海溝型地震は同じ地域でもその発生規模と間隔によって数種類あることが明らかになってきており、数十年間隔で海溝の中の特定の領域の1つで発生する地震(巨大地震)、数百年間隔で海溝の中の隣接した複数の領域で発生する地震(連動型巨大地震)のほか、津波堆積物による推定では数千年間隔で更に広範囲の隣接した領域で発生する地震(連動型超巨大地震)などがあると考えられている。後者ほど震源域が長いので、津波に襲われる地域は広くなる。日本付近では、千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、相模トラフ、南海トラフ、琉球海溝など太平洋側のすべての地域でこのタイプの津波が発生する可能性がある。
また、逆断層型や正断層型の内陸地殻内地震(断層型地震、直下型地震)や海溝型ではないプレート境界型の地震が海底で発生した場合でも津波が発生する。日本海東縁変動帯に当たる北海道・東北地方・北陸地方の日本海側はプレート境界型地震、その他では内陸地殻内地震による津波の発生の可能性がある。このタイプの津波も日本近海では過去何度も発生していて、1983年日本海中部地震や1993年北海道南西沖地震などがある。
なお、断層角が垂直に近い高角逆断層型の地震では下盤側で、正断層では上盤側でそれぞれ沈降が発生するため、その側に面した沿岸では引き波が第一波となることがある。津波を生じる地震は海溝型だけではなく、同じ沿岸でも地震によっては押し波となる場合もあるので、防災上は注意を要する。
地震津波の大きさを表現する指標の1つとして「津波マグニチュード Mt」というものがある。津波の規模は地震の規模に比例するという性質を利用して、複数の地点における津波の波高と震源からの距離から、マグニチュードで規模を算出する。
津波地震
また、「ゆっくり地震」或いは「津波地震」と呼ばれる、海底の変動の速さが遅い地震があることも知られている。これは、人が感じる短周期の成分では比較的小さな揺れ(地震動)しか発生しないため一見すると小規模の地震のようだが、長周期の成分が卓越しているだけであって、実は総エネルギーが大きな地震であり、海底面の変動も大規模であるため、予期せぬ大津波によって被害がもたらされる事がある。1896年(明治29年)の明治三陸沖地震津波がその例で、原因となった地震については震度分布から長らくマグニチュード 7.6、あるいは短周期の地震動の観測に基づいて表面波マグニチュード Ms 7.2 - 7.4とされてきたが、その後津波マグニチュード Mt 8.2 - 8.6、あるいは津波の大きさを考慮してマグニチュード8 1/4に改められ、理科年表では2006年版以降この値が採用されるなど近年見直しがなされた。津波地震では前記の例の通り、表面波マグニチュードより津波マグニチュードの方が大きくなる。
津波地震となる要因にはいくつかあり、
1 断層破壊が通常に比べゆっくりと進行することで、地震動や海底地形変化のエネルギーが通常よりも高い割合で津波のエネルギーに変換される。プレート境界部分に柔らかい堆積物があると、断層破壊がゆっくりとなることが知られている。
2 起震断層の角度が非常に浅い場合、地震動が短周期であっても津波の周期が通常より長くなり、長周期の津波は減衰しにくいため津波が高くなる。
3 主破壊による起震断層とは別に、地震によって海溝付近の付加体と呼ばれる堆積層に枝分かれした分岐断層が発生し、その隆起によって津波が高くなる。
4 地震動や海底地形変化によって発生した、大規模な海底地すべりによって津波が高くなる。
5 地殻変動によって海底下の堆積層にマグマが貫入し、その隆起によって津波が高くなる。
などが挙げられる。1,2は長周期の津波、3,4,5は短周期の津波である。上記1.の要因により津波地震は、海溝付近のプレート境界のうち海溝軸に近い浅い部分を震源域とした地震で起こりやすい。1896年の明治三陸沖地震津波は上記1.によって津波地震になったと考えられている。また、2011年の東北地方太平洋沖地震津波は連動型地震であったため、地震発生初期にまずプレート境界浅部で上記1.の要因による津波を発生させたあと、プレート境界深部にも断層破壊が及んで強い地震動が発生したあと、再びプレート境界浅部で破壊が起こって津波が増幅したと考えられている。
遠隔地津波
地震津波は大規模で、遠方まで伝わるため、地震を感じなかった地域でも津波に襲われる場合がある。これを遠隔地津波と言う。津波の到達まで時間があるので避難しやすく、人的被害防止は容易であるが、情報の伝達体制が整っていないと不意討ちを受ける形になり、被害が大きくなる。後者には1960年のチリ地震津波の際のハワイや日本、2004年のスマトラ沖地震の時のインド洋沿岸諸国、東北地方太平洋沖地震におけるハワイやアメリカ合衆国西海岸などの例がある。
球形の地球表面では、発生した津波のエネルギーは地球の反対側の地点(対蹠点)に再び集中する。そのため、チリ沿岸で発生した津波は太平洋を挟んで反対側の日本に被害を及ぼしやすい性質がある。また同様の原理により、太平洋の中心に位置していて、かつ5,000mの深海底に囲まれたハワイは、環太平洋各地からの津波を減衰しにくいまま受けるため、津波被害を受けやすい。
その他の要因
海洋だけで無く山間部でも、同様に山体崩壊が起因でダム湖などの湖沼でも発生する。実際にイタリアのバイオントダムでは、地すべりにより100mの津波が発生して2,000人以上が死亡している。また、岩手・宮城内陸地震では荒砥沢ダム上流部で山体崩壊を誘発し、津波が発生している。平成23年台風12号において、深層崩壊による山体崩壊が発生し、土砂が流れ込んだ河川で津波の性質を持つ段波が発生した。
○ 湖底堆積物の崩落
トゥールのグレゴリウスなどの記述では西暦563年にレマン湖南西岸のジュネーヴがトレデュナム・イベント(Tauredunum event)と呼ぶ津波状の水害に襲われたとあるが、その時に地震があったとの記録はない。2012年10月28日、ジュネーブ大学の地質学者は東端から流入するローヌ川によってできた厚さ5m、湖中心・最深部まで約10km長、幅約5kmの湖底堆積物が崩落して津波が発生し、シミュレーションにより70分後に襲われたとの研究結果を発表した。採取した堆積物は放射性炭素年代測定により381年から612年のものと判明した。地質学者は湖でも津波は起こりうるとして再発も警鐘している。
○ 海岸線に近い場所で起きる火山の山体崩壊
海岸線に近い場所で起きた火山の山体崩壊等で、大量の土砂や岩石が海になだれ込んだ際にも津波が発生する。大部分は地震津波に比べてはるかに規模は小さいが、状況によっては地震が原因の津波と遜色がないほどの大津波が発生することもあると言われ、また発生地点に接して人口密集地帯があると大被害を引き起こす。
日本国内外のいくつかの例
1640年(寛永17年)の北海道駒ケ岳噴火。
1792年(寛政4年)の雲仙岳の火山活動に起因する眉山の山体崩壊によって生じた「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる、15,000人が犠牲になった有明海の津波。
1883年のインドネシアのクラカタウ火山の爆発では、大量の火砕流が海に流れ込んで津波が起こり、36,000人が死亡したとされる。
1979年にインドネシアで700人から1,000人の犠牲者を出した津波。
○ 海底火山と海底地滑り
海底火山に起因する津波もあるが、海底の地形に大きな変動がなければ、爆発活動だけでは大きな津波にはならない。また、仮に海底地形の変動があっても、その変動量と範囲が小さければ津波の波源も小さくなり、発生した津波はすぐに分散してしまう。1952年(昭和27年)の明神礁の活動に際しても、八丈島で小規模な津波が観測された程度である。海底に生じた地滑りが津波を起こすかどうかについては、専門家の中に賛否両論あるが、実際に海底地すべりで起こったことが確認された津波の例はほとんどない。
1512年に阿波国(徳島県)で多数の死者を出した「永正の津波」は押し寄せた範囲が狭く、原因は地震ではなく、四国南東沖24kmの海底で発生した地滑りで引き起こされた可能性が、徳島大学の海底地形の分析により指摘されている。
○ 隕石
巨大隕石が海に落下すれば津波が起こると考えられる(衝突津波)。歴史時代には明確に証明された衝突津波はないが、メキシコ湾・カリブ海沿岸各地には、約6550万年前の天体衝突時に発生した津波の津波堆積物が残っており、津波高は約300mと推測されている。
○ 爆発事故
海上で超巨大規模の爆発事故が発生した場合は、それだけで津波を引き起こすことがある。1917年にカナダはハリファックスの入り江で起きた船の爆発事故(ハリファックス大爆発)により津波が発生し、ハリファックスの港町を押し流して甚大な被害を出したことがある。
○ 類似現象
伊勢湾台風での事例のように台風によって津波に匹敵する威力の高波が発生することもあるが、これはあくまで高潮であり、津波とは区別される。しかしながら、台風が原因の土砂崩れによる津波は、直接の要因が土砂崩れであるため津波となる。また、サンゴ礁が存在する海岸では高潮が津波の特性を持つことがあり、波群津波(段波状サーフビート)と呼ばれる。
津波現象の特徴
反射・屈折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。
津波の物理的性質は風浪や、天文潮すなわち干潮・満潮等の規則的な潮汐とは異なっている。以下、津波の諸特性について述べる。
波の周期・波長
津波は周期や波長が長いという特徴がある。これは津波の波源域が広く、波長がその影響により決まるためである。一般に水面に見られる津波でない波は、風によりできた風浪である。その風浪の周期は長いものでも10秒程度、波長は通常は150mくらいである。これに対し津波は、短い周期でも2分程度、長いものでは1時間以上にもなり、波長も100kmを越す例もある。周期は超長周期地震動と重なる部分があり、潮汐よりは短い。このため、津波が内陸に押し寄せる際の水位の高まりは、あたかも海面自体が上昇したような状態になって、大きな水圧や流れによる破壊力が加わる。また津波が引く際にも、一旦高くなった海面が、沖の低くなった海面に向かって引いていく形になり、やはり大きな破壊力を見せ付ける。じっさいにもチリ津波では、函館の実例の水位差は押し波が2m、引き波が3mであり、引きが強かった。このような場合は押し波で破壊された物やもともと陸にあった物などが海に持ち去られる被害が大きくなる。
津波は通常複数回押し寄せ、10回以上に及ぶこともある。第2波、第3波などの後続波が最も大きくなる傾向があり、その後次第に小さくなっていく。また、第2波、第3波は1時間以上後に押し寄せてくる場合もあり、完全に津波が収まるまでに地震発生から数日を要する場合もある。
波高
津波の高さを表す表現がいくつかある。
○ 津波の高さ(波高) - 海岸にある検潮所、験潮場などにおいて検潮儀で観測する、平常潮位面からの波の高さ
○ 浸水深 - 陸上の構造物に残る、地面からの浸水痕跡の高さ
○ 痕跡高 - 陸上の構造物に残る、平常潮位面からの浸水痕跡の高さ
○ 遡上高 - 陸上の斜面や崖などに残る、平常潮位面からの浸水痕跡のその付近での最大の高さ
外洋では津波の波高は数十cmから2mか3m程度であり、波長は100kmを越えるので、海面の時間変化はきわめて小さい。津波が陸地に接近して水深が浅くなると速度が落ちて波長が短くなるため波高が大きくなる。ただし、通常は、単に水深が小さくなっただけでは極端に大きな波にはならない。リアス式海岸のような複雑に入り組んだ地形の所では、局地的に非常に高い波が起きる事がある。津波の波高は水深の4乗根と水路幅の2乗根に反比例するので、仮に水深160m、幅900mの湾口に高さ1mの津波が押し寄せ、湾内の水深10m、幅100mの所に達した場合、波高は水深の減少で2倍、水路幅の減少で3倍になるため、総合すると波高は6mになる。そのため、V字型に開いた湾の奥では大きな波高になりやすい。
津波の記録は一般に検潮儀で測定される。しかし、巨大津波そのものの波高を正確に測定する事は困難である。これまでの大津波の波高とされる記録は、実際には波の到達高度(遡上高)で示されている。遡上高は、陸に押し寄せた津波が海抜高度何mの高さまで達したかを示す値であるため、現場の調査によって正確に決定できる利点がある。V字型の湾など地形によっては、津波は、波高自体が高くなると共に非常に高い所にまで駆け上がることがしばしばある。つまり、津波の到達高度(遡上高)は実波高(海岸での平均海水面からの高さ)より高くなる場合が多い。日本において確実とされる津波の最大波高は1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2mであるが、これはV字型の湾の奥にあった海抜38.2mの峠を津波が乗り越えたという事実に基づく到達高度の値である(海岸での津波高ではない)。
1958年7月9日(現地時間)、アラスカの南端の太平洋岸にあるリツヤ湾 (Lituya bay) で岩石の崩落による津波が起き、最大到達高度は海抜520mに達し、津波の波高の世界記録とされている。リツヤ湾は氷河の侵食によるフィヨルドで、幅3km、奥行き11km程の長方形に近い形で内陸に入り込んでいる。湾奥に左右に分かれた小さな入江があり、問題の津波はそのうちの北側の入江に発生したものである。波の発生を直接目撃した者はいないが、後の現地調査と模型実験により詳細が明らかにされている。地震により入江の片側のおよそ 40度の傾斜の斜面が崩壊、9,000万トンと推定される岩石が一塊になって海面に落ちたため、実高度150m以上の水しぶきが上がり、対岸の斜面を水膜状になって駆け上がって520mの高度に達したものである。その後、波は高さ15mから30mで湾奥から湾口に進み、太平洋に出ると共に急速に消滅した。以上のように、この波は津波と言うより水跳ねに近いもので、英文の報告書でも "giant wave" または "biggest splash" と表現されている。
なお、リツヤ湾では1853年か1854年に120m、1936年に147mの大波(いずれも到達高度)が起こったことも明らかになっている。これは、湾周囲の山林に植生する古い樹木を複数伐採して年輪を調べたところ、該当年の年輪の海側に、大きな外傷を受けた痕跡が残っていたことから判明したものである。
2011年12月5日アメリカ航空宇宙局は、ジェイソン1の観測により、東北地方太平洋沖地震に伴って発生した津波が太平洋の海底山脈などによって方向を変え、震源地から何千キロメートルも離れた海上で2つの波が融合した結果、より威力をもった津波となったことを初めて確認したと発表した。
津波の高さと被害の関係
陸上での浸水高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震の被災地での調査によると、浸水高が2mを超えると木造家屋の構造破壊が発生し始め全壊率が急増するとともに建物全体の流失率が増え始め、さらに4mを超えると木造家屋の多くが流失するという結果が出ている。
一方、津波警報等が対象とする、海岸での波高と被害の関係について、東北地方太平洋沖地震や2010年のチリ地震における日本の被災地での調査によると、
船舶や漁業施設の被害は、波高数十cmでも発生する。
海岸堤防の外側にある港湾施設や港湾道路では、波高0.7m程度(T.P.+1.3m程度)から冠水被害が発生している。
住宅被害は、T.P.+1.0m程度以下(概ね波高1m未満)では海岸堤防の内側の居住地域には浸水が及ばないが、波高1 - 2m程度から床下浸水がみられ、波高3m程度から全壊・流失が出始め、5 - 6m程度から被害率が急増する。
人的被害は、波高2m程度から出始め、4 - 5m程度から被害率が急増する。
ただし、波高1m前後の津波では、干潮・満潮による潮位の変化が加味されて予想を上回る(下回る)被害となる可能性がある。
以上のような傾向が報告されている。
伝播
津波は、水深が一定の海域で発生した場合には発生源を中心に同心円状に広がって行く。しかし、地震津波の場合、多くの地震が陸地近くの海域で起こるため、波のおよそ4分の3は海岸に向かい4分の1が外洋に向かう。たとえば1960年のチリ地震津波においては、チリ沖で生じた津波は最初は同心円を描いて伝播した。その後、チリの海岸線に対し垂直方向に進む波以外は次第に進路がチリの海岸向きに屈折した。結局4分の3がチリ海岸に戻り、4分の1は太平洋を直進してハワイや日本に達したと考えられている。これは、大陸斜面を進む波は水深の大きい沖合いで速度が速く、沿岸寄りでは遅くなるためである。じっさい同じ環太平洋地域でありながら北アメリカ西岸やオセアニアなどでは目立った津波被害は起こっていない。津波は物理的にはいわゆる孤立波であり、海のソリトンとも呼ばれる。
速度
津波の伝播する速度は水深と波高により決まる。大陸棚斜面から外洋に出ると水深は4,000m前後でほとんど一定になり、また水深に比べて波高は問題にならないくらい小さいので、外洋での津波の速度は、重力加速度(9.8m/sec2。便宜的に10m/sec2 として差し支えない)に水深を乗じた値の平方根にほぼ等しい。式で表すと次のようになる。dは水深(単位はm)、速度は秒速 (m/sec) で示される。
これを時速 (km/hour) に直すには3.6倍すればよい。これにより、水深1,000mで時速360km、水深4,000mで時速720kmとなる。沿岸では水深が浅くなり、そのため津波の波高が増すので、上の式をそのまま適用すると不正確な値となるため、次の式を用いるのがよい。Hは水面上の波高である(単位はm)。
ここから、水深10m、波高6mの場合の津波の速さはおよそ時速46kmとなる。なお、1960年チリ地震津波はチリから日本まで平均時速750kmで、2011年の東日本大震災では宮古市重茂半島で平均時速115kmで、沿岸まで到達している。
電磁場変動
海水は良質な導体であることから地磁気の影響下で運動をすると、誘導電磁場が生じている。従って、常時流動している潮流でも発生しているが、津波の際には潮流で生じるのとは別な誘導電磁場が発生するため、この電磁場の観測を行うことで結果的に津波に伴う海水の変異が観測できる。また、電離層にも影響を与え、津波発生から数分後から1時間程度継続する「電離圏プラズマの減少(津波電離圏ホール)」が生じ、GPS-TEC(GPS受信点から衛星までの視線方向に対する電離圏全電子数)観測によって観測が行える。
津波被害の態様
津波による水の圧力は非常に大きく、沿岸の広い地域に被害を与える。人的被害は水深 30cm でも発生し、被害の程度は、「波高」(浸水高)、「流速」が密接に関係しているが、浸水深さが 2m、4m、8m と深くなると被害の様相が大きく変化する事が報告されている。東北地方太平洋沖地震では、宮城県内で2mを境に流失率が増大し6mでの流失率は80%程度と報告されている。
例として、2mの普通の波と津波との違いを比較する。2mの普通の波は、海上で普段から偏西風や低気圧(気流)、月の引力などの影響を受けるため、少なからずデコボコが生じる。このデコボコの差が2mあるだけで、波長や波を形成する水量は比較的少なく、海岸に達した所で沿岸地域に被害をもたらす事はそう多くはない。これに対し2mの津波は、地震などによる海底の隆起または沈下により海水面自体が普段より2m盛り上がり、それがそのまま海岸に向かって伝わっていく。言い換えれば、2mの急激な海面上昇が起こることに近い。
つまり、2mの普通の波は海岸に少量の海水をかける程度であるのに対して、2mの津波は何kl(キロリットル)もの海水が一気に海岸地域を襲い、自動車や多くの人を簡単に飲み込み沖へ引きずり込んでしまう程の威力がある。2mの「波」の水量は2(m)×波長数(m)×0.5×約0.5×海岸の距離(m)で、海岸1mに押し寄せる波の水量は波長3mとして1.5m3(=1500リットル)、ドラム缶数本分である。一方、2mの「津波」の水量は2(m)×波長数十km(m)×0.5×0.5×海岸の距離(m)で、海岸1mに押し寄せる津波の水量は波長10kmとして5,000m3(=5,000kl)、競泳用プール2つ分となる(体積の比較参照)。2003年に発生した十勝沖地震では、実際に2mの津波に飲まれ死亡した人が確認されている。また、陸地に近づくと水流が建造物などを壊しながら内陸部へ進み、それらの瓦礫を巻き込むことによって破壊力を増す。更に、流氷や海氷などの漂流物を伴った場合に被害は増大する。
また津波が引いた後でも、損壊した住宅や市街地、工場、燃料タンクが炎上する津波火災、冷却機能を喪失した原子力発電所からの放射性物質漏れ(例:福島第一原子力発電所事故)といった二次被害が発生する。
人的被害では、津波の水は海底の砂や岩とともに微生物・有害物質などを巻き込んでいるので、津波に巻き込まれて助かった場合でも、骨折や打撲などの外傷だけでなく肺の中に「微生物」、「油脂」、「砂や泥」等を取り込んでしまう「津波肺」の健康被害が発生することがある。
河口から河川に侵入した津波が数km上流まで遡上することがある(地理的な要因次第だが、1mの津波でも5kmは遡上すると言われる)。河川を遡上する津波は、伝播速度が速くなり、遡上距離が長くなる傾向にある。先端部の形態は砕波段波と波状段波の2種類がある。
1960年5月24日のチリ地震津波では、沖縄県石川市の石川川を遡上した津波が家屋の浸水などの被害をもたらした。2003年9月26日の十勝沖地震では、津波が波状段波を形成しながら十勝川を遡上する様子が自衛隊により撮影された。この時の津波は、河口から少なくとも11km上流まで遡上したことが確認されている。2011年東北地方太平洋沖地震の津波は、利根川の40kmを筆頭に、江戸川3km、多摩川13km、荒川28kmなど、関東の深部まで到達した。このことから、海に面していない埼玉県でも地震後、津波の被害に対応する地域防災計画の検討を始めるなどしている。
また、遡上する津波が高い場合は河川の堤防を決壊させて洪水を引き起こすことがある。2011年東北地方太平洋沖地震の津波では、青森県・岩手県・宮城県の計22河川が津波により同時に決壊するという未曽有の被害を生じた。北上川では、河口から49km離れた旧中田町 (宮城県)にまで津波が到達し、農地の大規模浸水が起こっているほか、名取川では太白区・若林区の、旧北上川や新北上川(追波川)では石巻市の市街地を濁流に呑み込み、甚大な被害を出した。特に石巻市立大川小学校では新北上川の堤防が高台であると考えて避難しようとしていたところ、川を遡上してきた津波が小学校を襲い、児童・教師らが多数死亡するという悲惨な出来事も起きている。津波の河川遡上という現象自体が一般にあまり知られていなかったため、津波の際に人々が海岸から離れることはあっても、河口付近以外で河川から遠ざかろうとすることは当時まれであった。
河川を遡上する津波と似たような物理現象として、潮津波がある。代表的なのは、アマゾン川のポロロッカ、銭塘江(長江)の海嘯である。津波が河川に侵入するのを防ぐために、防潮水門などが設けられている。 
■波浪、高潮、高波、津波の原因と違い

 

天気予報を見ていると、波浪、高潮、高波、津波といった言葉をよく見聞きしますが、それぞれどういうものか知っていますか?
また、高潮、高波、津波の違いや危険性についてはどうですか?
波浪、高潮、高波、津波に関する知識は、防災を考える上でとても大切です。それぞれの現象に異なる特徴があるため、正しい知識を持っていないと、いざという時に適切な避難行動がとれない可能性が高くなるからです。
波浪とは
波浪とは、海面の波の動きのことで、風浪、うねり、風浪とうねりによって生じる磯波を総称したものです。海面の波は、風浪とうねりがくっきり区別されずに混在していることがほとんどなので、通常は、風浪とうねりをまとめて波浪と呼んでいます。気象庁HPでは、「海洋表面の波動のうち、風によって発生した周期が1〜30秒程度のもの。風浪とうねりからなる。(気象庁)」と記載されています。
風浪
風浪とは、海面上を吹く風を直接の原因として起こる浪(波)のことです。
風浪の特徴は、以下のとおりです。
•風が吹いている方向へ進む
•発達過程の波によく見られる
•波の形状が不規則で先端が尖っている
•波が発達するほど、波高(波の高さ)は高くなる
•波が発達するほど、波速(波の進む速さ)は速くなる
•波が発達するほど、周期(波の一番高い(もしくは低い)ところが来て、次の波の一番高い(もしくは低い)ところが来るまでの時間)は長くなる
•波が発達するほど、波長(波の一番高い(もしくは低い)ところが来て、次の波の一番高い(もしくは低い)ところが来るまでの長さ)は長くなる
うねり
うねりとは、風を原因としない波のことです。
海面上に吹く風が弱くなる、風向きが急変する、風浪が風のないエリアまで進むなどして起こります。
うねりの特徴は、以下のとおりです。
•風の力が働かず、少しずつ減少しながら進む(伝わる)
•波の形状が規則的で先端が丸みを帯びている
•波の一番高いところが横に長く連なっている
•ゆったりしていて穏やかな波に見える
•風浪より波長や周期が長い
•海岸付近では波が高くなりやすい
磯波
磯波とは、風浪とうねりが海岸付近の浅海に進んで変形した波のことです。
風浪やうねりは、海岸付近に進んで水深が浅くなるにつれて波長が短くなり、波高が高くなり、波形も不安定になってついには砕けます。
こうした、海岸付近特有の波が磯波です。なお、気象庁は、波浪の定義に磯波を含めていません。
高波、高潮、津波とは
高波、高潮、津波は、それぞれ波や海面の状態を表す言葉です。
高波
高波とは、名前のとおり、高い波(波浪)のことです。
気象庁HPに「波浪注意報・警報の対象になる程度の高い波」と記載されており、天気予報の高波は、単に高い波ということではなく、災害を発生させるレベルの高い波を意味しています。
高波の原因は、台風などの影響による強風です。
また、風浪とうねりがぶつかり合うことで高波が発生することもあります。
高潮
高潮とは、台風や低気圧が海面上を通過する時に、潮位(海面の高さ)が急激に上昇する現象です。
気象庁HPに「台風など強い気象じょう乱に伴う気圧降下による海面の吸い上げ効果と風による海水の吹き寄せ効果のため、海面が異常に上昇する現象。」と記載されているとおり、高潮の原因は大きく2つあります。
○ 吸い上げ効果
一つは、吸い上げ効果です。台風や低気圧の中心部は周辺より気圧が低くなります。そのため、気圧の高い周辺の空気が海水を押し下げ、中心部の空気が海水を吸い上げて、海面が上昇します。これが吸い上げ効果です。
○ 吹き寄せ効果
もう一つは、吹き寄せ効果です。台風や低気圧の影響による強風が沖から海岸へ向かって吹くことで、海水が海岸に吹き寄せられて、海岸の海面が上昇します。これが吹き寄せ効果です。
○ 高潮+高波は要注意
危険なのは、高潮で潮位が上昇した状態で高波が起こった時です。高潮や高波単体では届かなかったような場所まで波が押し寄せることがあるからです。
津波
津波とは、海底の地形が急に変化し、海面が盛り上がったり沈み込んだりすることで生じる、巨大な波の伝播現象です。
津波の主な原因は、海底の地震です。
地震の震源周辺では、海底の地形が上昇もしくは下降します。
その結果、海水が押し上げられたり引き込まれたりして波が発生し、四方に広がっていきます。
津波は、海面だけでなく、海底から海面までの海水が塊となって動く、非常に大きなエネルギーを持った波です。
そのため、たとえ30cm程度の津波であっても、簡単に人や物が引き込まれてしまいます。
高波、高潮、津波の違い
最後に、高波、高潮、津波の違いについて見ていきます。
原因の違い
まず、原因の違いです。高波と高潮はいずれも気象が原因ですが、津波は地震などの地殻変動が原因です。
現象が起こる範囲の違い
現象が起こる範囲も違います。高波と高潮は、海面上の現象ですが、津波は、海底から海面までの海水全体が塊となって動く、広範囲の海水全体に及ぶ現象です。
波長の違い
波長も違います。高波や高潮の波長は、短いと数メートル、長くても数百メートルですが、津波の波長は、数キロから数百キロに及びます。仮に波高が同じでも、高波や高潮は、波長が短いため一つ一つの波の力は小さく沿岸で砕け散ることが多いものですが、津波は、波の力が圧倒的で、勢いが衰えないまま連続して押し寄せます。また、海岸付近の浅海に入ると一気に波高が高くなり、発生時の高さ以上のところまで甚大な被害をもたらします。速度も、津波の方が高波や高潮よりも早く、避難行動の遅れが命の危険に直結します。 
■高潮 

 

台風や発達した低気圧が海岸部を通過する際に生じる海面の高まりを言う。地震によって発生する津波とは異なる。
高潮の原因は主として、気圧の低下による海面の上昇と、向岸風による海水の吹き寄せである。これらを「気象潮」と呼び、「天文潮」すなわち満潮が重なるといっそう潮位が高くなる。これらの効果は湾のように遠浅の海が陸地に入り込んでいる地形で最も顕著に現れるので、東京湾・伊勢湾・大阪湾・有明海などでは過去に大きな高潮災害が繰り返されている。これらの湾では、湾内の海水の固有振動が潮位を更に上げているとの説もある。
アメリカのメキシコ湾沿岸や、ベンガル湾に面したインド・バングラデシュでは、日本よりはるかに大規模な遠浅の海が広がっているため、勢力の弱いハリケーンやサイクロンによっても大規模な高潮が起こりうる。ベンガル湾奥部では中心気圧約960 hPa のサイクロンによって最大潮位 7〜9 m、メキシコ湾奥部では2005年のハリケーン・カトリーナによって最大潮位約 6 m を観測している。
高波は波の振幅が大きいことをいい、津波は地震、火山、(隕石の落下なども含む)といった気象以外の活動が原因なので、定義上高潮とは異なる。あくまで要因による定義の違いであり、波の性質で区別しているわけではない。台風による激しい高波でも津波ではなく高潮であり、台風による高潮であるからといって津波のような被害が出ないというわけではない。高潮はstorm surgeと呼ばれるの対し、津波はTsunamiないしearthquake surgeと呼ばれ区別されるようになってきている。ただし珊瑚礁のある海岸等では台風による高潮によって波群津波が発生することもある。
高潮のメカニズム
主な原因は、海面気圧の変化である。そもそも海面の高さ(標高)は、気圧と海水の水圧の均衡がとれた状態の水位である。1気圧 (約1013 hPa)において海抜は0メートルであり、これよりも気圧が下がると水圧が海面を押し上げる。
1 hPa 下がる毎に海面は約1 cm 上昇する。例えば台風など熱帯性低気圧の下で気圧 980 hPa の場合、33 hPa 低いので約30から33 cm 程度の上昇が見られる。
潮汐との関係
太陽や月の引力による潮汐(天体潮・天文潮)は、高潮つまり気象潮とは独立した別の現象であるが、同時に発生すると海面がさらに高くなって被害が増大する。
低気圧・台風の中心部の接近時間と満潮の時間帯が重なると、両者を合計した分海面が上昇する。一方、干潮時には両者が相殺されて相対的に低くなる。また、大潮など時期的に潮位が高いときには、さらに海面が高くなる。
通常時において外海よりも干満差が大きい内湾では、特に大きな潮位変動が起こる。
吹き寄せ効果
また、台風や発達した低気圧の下で暴風が吹き荒れる天候下で、湾などの入り組んだ地形の湾口から湾奥部へと暴風が吹きこむと、海水が吹き寄せられて湾奥部で海水面がかさ増しされる。また、風波に伴う平均的質量輸送も海岸の水位を上昇させる。
V字型の湾の場合、奥になるほど波が高くなる。また、湾の中でも水深が低い遠浅の湾の方が吹き寄せ効果は高くなる。高潮が陸地に押し寄せる方角と台風の風向きが同じ場合は、高潮の流速が暴風によって加速され、破壊力を増す。 豪雨により、陸地部分が浸水を起こすと、高潮の波高をさらに上昇させる要因にもなる。
雨による海水面上昇
台風や低気圧によって海上で大雨が降ることにより、海水面を上昇させる。河川や湖とは異なり海が広大であるため、海上の降水分は周囲に分散され、気圧や強風による潮位上昇よりは効果は少ない。港湾部においては、雨水の海洋部への出口が狭いことや、増水した河川からの流水によって、降雨による潮位上昇が比較的起きやすい。
台風による高潮被害
伊勢湾台風、室戸台風、関東大水害(明治43年の大水害・大正6年の高潮災害)や、永祚の風、安政3年の大風災、シーボルト台風など、台風による甚大な被害は高潮によるものも多い。高潮が発生すると海面が高くなり、陸地に海水が入り込む。その結果沿岸部の住宅や耕地が浸水したり、人が波にさらわれたりする。また、9月中旬は1年で最も潮位の高い時期であり、毎年のように全国各地で被害が出ている。
日本でこれまでに観測された気象潮の最大値は、伊勢湾台風の時の3.45m(名古屋港)であり、上記の国々では更に高くなると思われる。また天文潮も加えた潮位では、同じく伊勢湾台風の時の3.89mが観測史上日本最大である。災害の起こるおそれがあると予想される場合、沿岸部に高潮警報(注意報)が発表される。
台風によって特に大きな被害を出した近年の高潮災害には次のような事例がある。
1999年(平成11年)9月24日 台風18号熊本県不知火町(現宇城市)松合地区で起こった高潮で12人の犠牲者が出ている。海水面そのものが陸地まで押し寄せるという、津波と似た特性を持っていた。
2004年(平成16年)8月30日 - 8月31日 台風16号岡山県と香川県を中心とした瀬戸内海沿岸部で大きな高潮被害が発生し、岡山県倉敷市で1人、香川県高松市で2人の犠牲者を出した。当時は潮位が年間で最も高くなる夏季の大潮の時期にあたり、台風が接近した30日夜から31日未明は満潮の時間帯でもあった。これに台風接近に伴う気圧低下による吸い上げ効果と南 - 南西の暴風による吹き寄せ効果といった複数の悪条件が重なったことで、宇野(岡山県玉野市)・高松(高松市)の両検潮所において観測史上最高の潮位を記録した。この被害から約1週間が経過した9月7日にも台風18号の接近によって再び高潮が発生し、復旧作業をしていた地域で浸水被害が出ている。
発達した低気圧による高潮災害
中緯度地域では、主に秋から春にかけての寒候期に低気圧が猛烈に発達して冬の嵐が発生することがある。そのときの中心気圧は台風並みに低下し、暴風による吹き寄せ効果と気圧低下による吸い上げが台風同様に起こり、高潮をもたらすことがある。ヨーロッパにはオランダ・ベルギーなどの巨大低平地が広がっており、広範囲で高潮が発生したことがある。
河川への影響
高潮発生時、水門を閉じるなどの対策をしなければ、高潮が河川をさかのぼり浸水被害を引き起こすことがある。東京湾に注ぐ河川において高潮がさかのぼると、背後地の海抜ゼロメートル地帯において甚大な浸水被害を引き起こす危険がある。 
台風に伴う高波
風が吹くと水面には波が立ち、まわりへ広がります。波は、風によってその場所に発生する「風浪(ふうろう)」と、他の場所で発生した風浪が伝わってきたり、風が静まった後に残された「うねり」の2つに分類されます。そして、風浪とうねりを合わせて「波浪(はろう)」と呼びます。
うねりとなって伝わる波は、遠くへ行くにしたがって波高は低くなり、周期が長くなりながら次第に減衰しますが、高いうねりは数千キロメートルも離れた場所で観測されることもあります。
昔から、夏から秋にかけて太平洋に面した海岸に押し寄せる高い波(うねり)を「土用波」と呼んで高波に対する注意を促していました。これは、この時期の台風が太平洋高気圧の周りをまわってから日本に近づくので、その前にうねりの方が早く日本にやってくることを言ったものです。
   平成23年年8月28日09時の沿岸波浪図
   平成23年8月28日09時の天気図
波には、風が強いほど、長く吹き続けるほど、吹く距離が長いほど高くなるという3つの発達条件があります。台風はこの3つの条件を満たしており、例えば台風の中心付近では、10mを超える高波になることがあります。しかも、風浪とうねりが交錯して複雑な様相の波になります。
また、周辺の海域では台風の移動に伴って次々と発生する波がうねりとなって伝わるため、いろいろな方向からうねりがやってきて重なり合います。そこで風が吹いていれば風浪が加わり、さらに複雑な波になります。
台風による海難の発生状況は台風のコースやそのときの状況で大きく異なりますが、海上保安庁の調査によれば、昭和50年(1975年)から平成6年(1994年)までの20年間で台風などの異常気象のもとでの要救助船舶件数は3,775隻(年平均約190隻)に達しています。例えば、昭和54年(1979年)に温帯低気圧に変わりつつあった台風第20号により北海道近海で衝突9隻、転覆3隻など合計37隻が遭難し、66名の死者・行方不明者がでました。このことは、台風が温帯低気圧に変わりつつある、あるいは変わった、といっても決して油断できないことを示しています。
波の高さについて
波浪予報などで使われている波高(波の高さ)は、有義波高と呼ばれる波の高さです。これは、ある点を連続的に通過する波を観測したとき、波高を高い順に並べ直して全体の1/3までの波の高さを平均した値です。目視で観測される波高はほぼ有義波高に等しいと言われており、一般に波高と言う場合には有義波高を指しています。
同じような波の状態が続くとき、100波に1波は有義波高の1.5倍、1,000波に1波は2倍近い高波が出現します。また、確率としては小さいのですが、台風によるしけが長引くほど「三角波」「一発大波」などと呼ばれる巨大波が出現する危険性が増すため、十分な注意が必要です。
なお、気象庁では波の高さを説明する際には、4mから6mの波を「しけ」、6mから9mの波を「大しけ」、さらに9mをこえる波を「猛烈なしけ」と呼んでいます。 
海岸の高潮と高波の重なり合い
南に開いた湾の場合は台風が西側を北上すると南風が吹き続けますので、特に高潮が発生しやすくなります。それに加えて強風によって発生した高い波浪が沖から打ち寄せ、海面は一層高くなります。
一方、台風が東側を北上すると、北風となるため海岸付近では風浪は小さいものの、少し沖へ出れば風浪は高くなります。このとき、南からのうねりがあると、お互いにぶつかり合って複雑な波が発生しやすくなります。
台風が近づいて波が高くなってきている最中にサーフィンに出かけたり、高波を見るために海岸へ出かけたりして、高波にさらわれる事故が毎年発生しています。台風接近時には海岸を突然大波が襲うことは珍しくありません。このようなときにはむやみに海岸へ近づかないでください。  
■「波浪」用語 

 

波浪
海洋表面の波動のうち、風によって発生した周期が1〜30秒程度のもの。風浪とうねりからなる。

「波浪」と同じ
しけ
強風のため海上が荒れること。
風浪
その場所で吹いている風によって生じた波で、個々の波は不規則で尖っている。発達した風浪ほど波高が大きく、波長や周期は長い。
うねり
遠くの台風などにより作られた波が伝わってきたもので、滑らかな波面を持ち、波長の長い規則的な波。
波長
波の山(または谷)から次の波の山(または谷)までの長さ。
周期
波の山(または谷)が来てから次の波の山(または谷)が来るまでの時間。
波高
波の山から谷までの高さ。
有義波高
ある地点で一定時間(例えば20分間)に観測される波のうち、高いほうから順に1/3の個数までの波について平均した波高。これは目視観測による波高に近いと言われている。
最大波高
ある地点で一定時間(例えば20分間)に観測される波のうち最大のもの。
高波
波浪注意報・警報の対象になる程度の高い波。 
■「潮位」用語 

 

潮位
基準面から計った海面の高さで、波浪など短周期の変動を平滑除去したもの。防災気象情報における潮位は「標高」で表す。「標高」の基準面として東京湾平均海面(TP)を用いるが、島嶼部など一部では国土地理院による高さの基準面あるいはMSL(平均潮位)等を用いる。
高潮
台風など強い気象じょう乱に伴う気圧降下による海面の吸い上げ効果と風による海水の吹き寄せ効果のため、海面が異常に上昇する現象。
吹き寄せ(効果)
海岸に向かって吹く風によって、海水が沿岸に吹き寄せられて潮位が高くなること。
吸い上げ(効果)
台風など強い気象じょう乱に伴う気圧降下によって、海水が吸い上げられて潮位が高くなること。
異常潮位
潮位が比較的長期間(1週間から3か月程度)継続して平常より高く(もしくは低く)なる現象。府県より広い範囲に及ぶことが多く、原因として暖水渦の接近、黒潮の蛇行等があげられるが、様々である。
副振動
日々くり返す満潮・干潮の潮位変化を主振動としてそれ以外の潮位の振動に対して名づけられたものであり、湾・海峡や港湾など陸や堤防に囲まれた海域等で観測される、周期数分から数10 分程度の海面の昇降現象をいう。主な発生原因は、台風、低気圧等の気象じょう乱に起因する海洋のじょう乱や津波などが長波となって沿岸域に伝わり、湾内等に入ることにより引き起こされる強制振動である。強制振動の周期が湾等の固有周期に近いものであれば、共鳴を起こして潮位の変化が著しく大きくなる場合がある。
満潮
主として月と太陽の起潮力によって潮位が極大となった状態。多くの海岸で1日2回ずつ現れる。
干潮
主として月と太陽の起潮力によって潮位が極小となった状態。多くの海岸で1日2回ずつ現れる。
大潮
朔(新月)及び望(満月)の頃、満潮と干潮の潮位の差が大きくなった状態。
既往最高潮位
各検潮所で、潮位の観測開始から現在までの期間に記録された最高の潮位。
過去最高潮位
各検潮所で、潮位の観測開始から現在までの期間に記録された最高の潮位。
潮位偏差
天体の動きから算出した天文潮(推算潮位)と気象などの影響を受けた実際の潮位との差(ずれ)。
潮位の観測基準面(DL)
各検潮所毎に設定された潮位を観測する基準面。通常、観測値が負にならないように設定する。Datum Line
東京湾平均海面(TP)
標高(海抜高度)の基準面。水準測量で使用する日本水準原点はTP上24.3900m と定義されている。Tokyo Peil
平均海面水位(MSL)
ある一定期間の海面水位の平均値。一定期間として1年や5年が用いられることが多い。Mean Sea Level
暖水渦
周囲より水温が高く、北半球(南半球)で時計回り(反時計回り)の循環をもつ渦を暖水渦と呼ぶ。暖水渦の中心では、水位が周囲に比べて高いという特徴がある。
冷水渦
周囲より水温が低く、北半球(南半球)で反時計回り(時計回り)の循環をもつ渦を冷水渦と呼ぶ。冷水渦の中心では、水位が周囲に比べて低いという特徴がある。  
■海嘯 (かいしょう) 

 

満潮の際、暴風や海底の火山活動のために、三角形状になっている河口や水道などに海水が逆流し、狭い河口の抵抗のために起こる壁状の高い波。 
(下表で[□]表記)
 

 

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