文明論之概略

文明論之概略脱亜論
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雑学の世界・補考   

関連「明治大正の日本」
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文明論之概略 / 福沢諭吉

緒言
文明論とは人の精神発達の議論なり。其趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、或は之を衆心発達論と云ふも可なり。蓋し人の世に処するには局処の利害得失に掩はれて其所見を誤るもの甚だ多し。習慣の久しきに至りては殆ど天然と人為とを区別す可らず。其天然と思ひしもの、果たして習慣なることあり。或は其習慣と認めしもの、却て天然なることなきに非ず。此紛擾(ふんぜう)雑駁(ざつぱく)の際に就て条理の紊れ(みだれ)ざるものを求めんとすることなれば、文明の議論亦難しと云う可し。
今の西洋の文明は羅馬(ろーま)の滅後より今日に至るまで大凡そ一千有余年の間に成長したるものにて、其由来頗る久しと云う可し。我日本も建国以来既に二千五百年を経て、我邦一己の文明は自ずから進歩して其達する所に達したりと雖ども、之を西洋の文明に比すれば趣の異なる所なきを得ず。嘉永年中米人渡来、次いで西洋諸国と通信貿易の条約を結ぶに及んで、我国の人民始て西洋あるを知り、彼我の文明の有様を比較して大に異別あるを知り、一時に耳目を驚かして恰も人心の騒乱を生じたるが如し。固より我二千五百年の間、世の治乱興廃に由て人を驚かしたることなきに非ずと雖ども、深く人心の内部を犯して之を感動せしめたるものは、上古、儒仏の教を支那より伝へたるの一事を初と為し、其後は特に輓近の外交を以て最とす。加之、儒仏の教は亜細亜の元素を伝えて亜細亜に施したることなれば、唯粗密の差あるのみにて之に接すること難からず。或は我のためには新にして奇ならずと云ふも可なりと雖ども、彼の輓近の外交に至ては則ち然らず。地理の区域を異にし、文明の元素を異にし、其元素の発育を異にし、其発育の度を異にしたる特殊異別のものに逢ふて頓に近く相接することなれば、我人民に於て其事の新にして珍しきは勿論、事々物々見るとして奇ならざるはなし、聞くとして怪ならざるはなし。之を譬へば極熱の火を以て極寒の水に接するが如く、人の精神に波瀾を生ずるのみならず、其内部の底に徹して転覆回旋の大騒乱を起さゞるを得ざるなり。
此人心騒乱の事跡に見はれたるものは、前年の王制一新なり、次で廃藩置県なり。以て今日に及びしことなれども、是等の緒件を以て止む可きに非ず。兵馬の騒乱は数年前に在りて既に跡なしと雖ども、人心の騒乱は今尚依然として日に益甚しと云ふ可し。蓋し此騒乱は全国の人民文明に進まんとするの奮発なり。我文明に満足せずして西洋の文明を取らんとするの熱心なり。故に其期する所は、到底我文明をして西洋の文明の如くならしめて之と並立する歟、或は其右に出るに至らざれば止むことなかる可し。而して彼の西洋の文明も今正に運動の中に在て日に月に改進するものなれば、我国の人心も之と共に運動を与にして遂に消息(停止)の期ある可らず。実に嘉永年中米人渡来の一挙は恰も我民心に火を点じたるが如く、一度び燃へて又これを止む可らざるものなり。
人心の騒乱斯の如し。世の事物の紛擾雑駁なること殆ど想像す可らざるに近し。此際に当て文明の議論を立て条理の紊れざるものを求めんとするは、学者の事に於て至大至難の課業と云ふ可し。西洋諸国の学者が日新の説を唱えて、其説随て出れば随て新にして人の耳目を驚かすもの多しと雖ども、千有余年の沿革に由り先人の遺物を伝へて之を切磋琢磨することなれば、仮令ひ其説は新奇なるも、等しく同一の元素より発生するものにて新に之を造るに非ず。之を我国今日の有様に比して豈同日の論ならんや。今の我文明は所謂火より水に変じ、無より有に移らんとするものにて、卒突の変化、啻に之を改進と云ふ可らず、或は始造と称するも亦不可なきがごとし。其議論の極て困難なるも謂れなきに非ざるなり。
今の学者は此困難なる課業に当たると雖ども、爰に亦偶然の僥倖なきに非ず。其次第を云へば、我国開港以来、世の学者は頻に洋学に向ひ、其研究する所固より粗鹵(そろ)狭隘なりと雖ども、西洋文明の一斑は彷彿として窺ひ得たるがごとし。又一方には此学者なるもの、二十年以前は純然たる日本の文明に浴し、啻に其事を聞見したるのみに非ず、現に其事に当て其事を行ふたる者なれば、既往を論ずるに憶測推量の曖昧に陥ること少なくして、直に自己の経験を以て之を西洋の文明に照らすの便利あり。此一事に就いては、彼の西洋の学者が既に体を成したる文明の内に居て他国の有様を推察する者よりも、我学者の経験を以て更に確実なりとせざる可らず。今の学者の僥倖とは即ち此実験の一事にして、然も此実験は今の一世を過れば決して再び得べからざるものなれば、今の時は殊に大切なる好機会と云ふ可し。試に見よ、方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し。二生相比し両身相較し、其前生前身に得たるものを以て之を今生今身に得たる西洋の文明に照らして、其形影の互に反射するを見ば果して何の観を為す可きや。其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。蓋し余が彷彿たる洋学の所見を以て、敢て自から賎劣を顧みず此冊子を著すに当て、直に西洋緒家の原書を訳せず、唯其大意を斟酌(しんしやく)して之を日本の事実に参合したるも、余輩の正に得て後人の復た得べからざる好機会を利して、今の所見を遺して後の備考に供せんとするの微意のみ。但其議論の粗鹵にして誤謬の多きは固より自から懺悔白状する所なれば、特に願くば後の学者、大に学ぶことありて、飽くまで西洋の諸書を読み飽くまで日本の事情を詳にして、益所見を博くし益議論を密にして、真に文明の全大論と称す可きものを著述し、以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。余も亦年未だ老したるに非ず、他日必ず此大挙あらんことを待ち、今より更に勉強して其一臂の助たらんことを楽しむのみ。
書中西洋の諸書を引用して其原文を直に訳したるものは其著書の名を記して出典を明にしたれども、唯其大意を撮て之を訳する歟、又は諸書を参考して趣意の在る所を探り、其意に拠て著書の論を述べたるものは、一々出典を記す可らず。之を譬へば食物を喰て之を消化したるが如し。其物は外物なれども、一度び我に取れば自から我身内の物たらざるを得ず。故に書中稀に良説あらば、其良説は余が良説に非ず、食物の良なる故と知る可し。
此書を著はすに当り、往々社友に謀て或は其所見を問ひ、或は其嘗て読たる書中の議論を聞て益を得ること少なからず。就中小幡篤次郎君へは特に其閲見を煩はして正刪(せいさん)を乞ひ、頗る理論の品価を増たるもの多し。明治八年三月二十五日、福沢諭吉記。
第一章議論の本位を定る事

 

軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重ある可らず。善あらざれば悪ある可らず。故に軽とは重よりも軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、此と彼と相対せざれば軽重善悪を論ず可らず。斯の如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名く。諺に云く、腹は脊に替へ難し。又云く、小の虫を殺して大の虫を助くと。故に人身の議論をするに、腹の部は脊の部よりも大切なるものゆゑ、寧ろ脊に疵を被るも腹をば無難に守らざる可らず。又動物を取扱ふに、鶴は鰌(どぜう)よりも大にして貴きものゆゑ、鶴の餌には鰌を用るも妨なしと云ふことなり。譬へば日本にて封建の時代に大名藩士無為にして衣食せしものを、其制度を改めて今の如く為したるは、徒に有産の輩を覆(くつがへ)して無産の難渋に陥れたるに似たれども、日本国と諸藩とを対すれば、日本国は重し、諸藩は軽し、藩を廃するは猶腹の脊に替へられざるが如く、大名藩士の禄を奪ふは鰌を殺して鶴を養ふが如し。都て事物を詮索するには枝末を払て其本源に遡り、止る所の本位を求めざる可らず。斯くの如くすれば議論の箇条は次第に減じて其本位は益確実なる可し。「ニウトン」初て引力の理を発明し、凡そ物、一度び動けば動て止まらず、一度び止まれば、止まりて動かずと、明に其定則を立てゝより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。若し運動の理を論ずるに当て、この定則なかりせば其議論区々にして際限あることなく、船は船の運動を以て理の定則を立て、車は車の運動を以て論の本位を定め、徒に理解の箇条のみを増して其帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば則ち亦確実なるを得ざる可し。
議論の本位を定めざれば其利害得失を談ず可らず。城郭は守る者のために利なれども攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故に是等の利害得失を談ずるためには、先づ其ためにする所を定め、守る者のため歟、攻る者のため歟、敵のため歟、味方のため歟、何れにても其主とする所の本を定めざる可らず。古今の世論多端にして互に相齟齬するものも、其本を尋れば初に所見を異にして、其末に至り強ひて其枝末を均ふせんと欲するに由て然るものなり。譬へば神仏の説、常に合はず、各其主張する所を聞けば何れも尤の様に聞ゆれども、其本を尋れば神道は現在の吉凶を云ひ、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするを以て両説遂に合はざるなり。漢儒者と和学者との間にも争論ありて千緒万端なりと雖ども、結局其分るゝ所の大趣意は、漢儒者は湯武(殷の湯王と周の武王)の放伐(追放)を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。漢儒者の困却するは唯この一事のみ。斯の如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、其趣は恰も武用に弓矢剣槍の得失を争ふが如く際限ある可らず。若し之を和睦せしめんと欲せば、其各主張する所のものよりも一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢剣槍の争論も嘗て一時は喧しきことなりしが、小銃の行はれてより以来は世上に之を談ずる者なし。《神官の話を聞かば、神官にも神葬祭の法あるゆゑ未来を説くなりと云ひ、又僧侶の説を聞かば、法華宗などには加持祈祷の仕来もあるゆゑ仏法に於ても現在の吉凶を重んずるものなりと云ひ、必ず込入たる議論を述るならん。されども是等は皆神仏混合の久しきに由り、僧侶が神官の真似を試み、神官が僧侶の職分を犯さんとせしのみにて、神仏両教の千年来の習慣を見て明なり。今日又喋々の議論を聞くに足らず。》
又議論の本位を異にする者を見るに、説の末は相同じきに似たれども中途より互に枝別して其帰する所を異にすることあり。故に事物の利害を説くに、其これを利としこれを害とする所を見れば両説相同じと雖ども、これを利としこれを害とする所以の理を述るに至れば、其説、中途より相分れて帰する所同じからず。譬へば頑固なる士民は外国人を悪むを以て常とせり。又学者流の人にても少しく見識ある者は外人の挙動を見て決して心酔するに非ず、之を悦ばざるの心は彼の頑民に異なることなしと云ふも可なり。此一段までは両説相投ずるが如くなれども、其これを悦ばざるの理を述るに至て始て齟齬を生じ、甲は唯外国の人を異類のものと認め、事柄の利害得失に拘はらずして只管これを悪むのみ。乙は少しく所見を遠大にして、唯これを悪み嫌ふには非ざれども、其交際上より生ずべき弊害を思慮し、文明と称する外人にても我に対して不公平なる処置あるを忿るなり。双方共に之を悪むの心は同じと雖ども、之を悪むの源因を異にするが故に、之に接するの法も亦一様なるを得ず。即是れ攘夷家と開国家と、説の末を同ふすれども中途より相分れて其本を異にする所なり。都て人間万事遊嬉宴楽のことに至るまでも、人々其事を共にして其好尚を別にするもの多し。一時其人の挙動を皮相して遽に其心事を判断する可らざるなり。
又或は事物の利害を論ずるに、其極度と極度とを持出して議論の始より相分れ、双方互に近づく可らざることあり。其一例を挙て云はん。今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞て忽ち合衆政治の論と視做し、今我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんと云ひ、遂には不測の禍あらんと云ひ、其心配の模様は恰も今に無君無政の大乱に陥らんとてこれを恐怖するものゝ如く、議論の始より未来の未来を想像して、未だ同権の何物たるを糺さず、其趣旨の在る所を問はず、只管これを拒むのみ。又彼の新説家も始より古風家を敵の如く思ひ、無理を犯して旧説を排せんとし、遂に敵対の勢を為して議論の相合ふことなし。畢竟双方より極度と極度とを持出だすゆゑ此不都合を生ずるなり。手近くこれを譬へて云はん。爰に酒客と下戸と二人ありて、酒客は餅を嫌ひ下戸は酒を嫌ひ、等しく其害を述て其用を止めんと云ふことあらん。然るに下戸は酒客の説を排して云く、餅を有害のものと云はゞ我国数百年来の習例を廃して正月の元旦に茶漬を喰ひ、餅屋の家業を止めて国中に餅米を作ることを禁ず可きや、行はる可らざるなりと。酒客は又下戸を駁して云く、酒を有害のものとせば明日より天下の酒屋を毀ち、酩酊する者は厳刑に処し、薬品の酒精には甘酒を代用と為し、婚礼の儀式には水盃を為す可きや、行はる可らざるなりと。斯の如く異説の両極相接するときは其勢必ず相衝(つき)て相近づく可らず、遂に人間の不和を生じて世の大害を為すことあり。天下古今に其例少なからず。此不和なるもの学者君子の間に行はるゝときは、舌と筆とを以て戦ひ、或は説を吐き或は書を著し、所謂空論を以て人心を動かすことあり。唯無学文盲なる者は舌と筆とを用ること能はずして筋骨の力に依頼し、動もすれば暗殺等を企ること多し。
又世の議論を相駁するものを見るに、互に一方の釁(きん)を撃て双方の真面目を顕し得ざることあり。其釁とは事物の一利一得に伴ふ所の弊害を云ふなり。譬へば田舎の百姓は正直なれども頑愚なり、都会の市民は怜悧なれども軽薄なり。正直と怜悧とは人の美徳なれども、頑愚と軽薄とは常に之に伴ふ可き弊害なり。百姓と市民との議論を聞くに、其争端この処に在るもの多し。百姓は市民を目して軽薄児と称し、市民は百姓を罵(ののしり)て頑陋物と云ひ、其状情恰も双方の匹敵各片眼を閉じ、他の美を見ずして其醜のみを窺ふものゝ如し。若し此輩をして其両眼を開かしめ、片眼以て他の所長を察し片眼以て其所短を掩ひ、其争論止むのみならず、遂には相友視して互に益を得ることもある可し。世の学者も亦斯の如し。譬へば方今日本にて議論家の種類を分てば古風家と改革家と二流あるのみ。改革家は穎敏にして進て取るものなり、古風家は実着にして退て守るものなり。退て守る者は頑陋に陥るの弊あり、進て取る者は軽率に流るゝの患あり。然りと雖ども、実着は必ずしも頑陋に伴はざる可らざるの理なし、穎敏は必ずしも軽薄に流れざる可らざるの理なし。試に見よ、世間の人、酒を飲て酔はざる者あり、餅を喰ふて食傷せざる者あり。酒と餅とは必ずしも酩酊と食傷との原因に非ず、其然ると然らざるとは唯これを節する如何に在るのみ。然ば則ち古風家も必ず改革家を悪む可らず、改革家も必ず古風家を侮る可らず。爰に四の物あり、甲は実着、乙は頑陋、丙は穎敏、丁は軽率なり。甲と丁と当り乙と丙と接すれば、必ず相敵して互に軽侮せざるを得ずと雖ども、甲と丙と逢ふときは必ず相投じて相親まざるを得ず。既に相親むの情を発すれば初て双方の真面目を顕はし、次第に其敵意を鎔解するを得べし。昔封建の時に大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑(こくいふ)に在る者と、其議論常に齟齬して同藩の家中殆ど讐敵の如くなりしことあり。是亦人の真面目を顕はさゞりし一例なり。是等の弊害は固より人の智見の進むに従て自から除く可きものとは雖ども、之を除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。其交際は、或は商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接して其心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂両眼を開て他の所長を見るを得べし。人民の会議、社友の演説、道路の便利、出版の自由等、都て此類の事に就て識者の眼を着する由縁も、この人民の交際を助るがために殊に之を重んじるものなり。
都て事物の議論は人々の意見を述べたるものなれば固より一様なる可らず。意見高遠なれば議論も亦高遠なり、意見近浅なれば議論も亦近浅なり。其近浅なるものは、未だ議論の本位に達すること能はずして早く既に他の説を駁せんと欲し、これがため両説の方向を異にすることあり。譬へば今外国交際の利害を論ずるに、甲も開国の説なり、乙も開国の説にて、遽にこれを見れば甲乙の説符合するに似たれども、其甲なる者漸く其論説を詳にして頗る高遠の場合に至るに従ひ、其説漸く乙の耳に逆ふて遂に双方の不和を生ずることあるが如き、是なり。蓋し此乙なる者は所謂世間通常の人物にして通常の世論を唱へ、其意見の及ぶ所近浅なるが故に、未だ議論の本位を明にすること能はず、遽に高尚なる言を聞て却て其方向を失ふものなり。世間に其例少なからず。猶かの胃弱家が滋養物を喰ひ、これを消化すること能はずして却て病を増すが如し。この趣を一見すれば、或は高遠なる議論は世のために有害無益なるに似たれども、決して然らず。高遠の議論あらざれば後進の輩をして高遠の域に至らしむ可き路なし。胃弱を恐れて滋養を廃しなば患者は遂に斃(たふ)る可きなり。此心得違よりして古今世界に悲む可き一事を生ぜり。何れの国にても何れの時代にても、一世の人民を視るに、至愚なる者も甚だ少なく至智なる者も甚だ稀なり。唯世に多き者は、智愚の中間に居て世間と相移り罪もなく功もなく互に相雷同して一生を終る者なり。此輩を世間通常の人物と云ふ。所謂世論は此輩の間に生ずる議論にて、正に当世の有様を摸出(もしゆつ)し、前代を顧て退くこともなく、後世に向て先見もなく、恰も一処に止て動かざるが如きものなり。然るに今世間に此輩の多くして其衆口の喧しきがためにとて、其所見を以て天下の議論を画し、僅にこの画線の上に出るものあれば則ちこれを異端妄説と称し、強ひて画線の内に引入れて天下の議論を一直線の如くならしめんとする者あるは、果して何の心ぞや。若し斯くの如くならしめなば、かの智者なるものは国のために何等の用を為す可きや。後来を先見して文明の端を開かんとするには果して何人に依頼す可きや。思はざるの甚しきものなり。試に見よ、古来文明の進歩、其初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし。「アダム・スミス」が始て経済の論を説きしときは世人皆これを妄説として駁したるに非ずや。「ガリレヲ」が地動の論を唱へしときは異端と称して罪せられたるに非ずや。異説争論年又年を重ね、世間通常の群民は恰も智者の鞭撻を受て知らず識らず其範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子と雖ども経済地動の論を怪む者なし。啻にこれを怪まざるのみならず、此議論の定則を疑ふものあれば却てこれを愚人として世間に歯(よは)ひせしめざるの勢に及べり。又近く一例を挙て云へば、今を去ること僅に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして殺生与奪の権を執り、其堅固なることこれを万歳に伝ふ可きが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしと雖ども、若し十年前に当て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、其藩中にてこれを何とか云はん。立どころに其身を危ふすること論を俟たざるなり。故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説も亦必ず後年の通説常談なる可し。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏(そしり)を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を吐く可し。或は又他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よく其意の在る所を察して、容る可きものは之を容れ、容る可らざるものは暫く其向ふ所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つ可し。即是れ議論の本位を同ふするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡して天下の議論を画一ならしめんと欲する勿れ。
右の次第を以て事物の利害得失を論ずるには、先づ其利害得失の関る所を察して其軽重是非を明にせざる可らず。利害得失を論ずるは易しと雖ども、軽重是非を明にするは甚だ難し。一身の利害を以て天下の事を是非す可らず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤る可らず。多く古今の論説を聞き、博く世界の事情を知り、虚心平気以て至善の止まる所を明にし、千百の妨碍を犯して世論に束縛せらるゝことなく、高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見せざる可らず。蓋し議論の本位を定めて之に達するの方法を明にし、満天下の人をして悉皆我所見に同じからしめんとするは、固より余輩の企る所に非ずと雖ども、敢て一言を掲て天下の人に問はん。今の時に当て、前に進まん歟、後に退かん歟、進て文明を逐はん歟、退て野蛮に返らん歟、唯進退の二字あるのみ。世人若し進まんと欲するの意あらば余輩の議論も亦見る可きものあらん。其これを実際に施すの方法を説くは此書の趣旨に非ざれば之を人々の工夫に任するなり。
第二章西洋の文明を目的とする事

 

前章に事物の軽重是非は相対したる語なりと云へり。されば文明開化の字も亦相対したるものなり。今世界の文明を論ずるに、欧羅巴諸国並(ならび)に亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、支那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称し、阿非利加(あふりか)及び墺太利亜(おーすとらりや)等を目して野蛮の国と云ひ、此名称を以て世界の通論となし、西洋諸国の人民独り自から文明を誇るのみならず、彼の半開野蛮の人民も、自から此名称の誣(し)ひざるに服し、自から半開野蛮の名に安んじて、敢て自国の有様を誇り西洋諸国の右に出ると思ふ者なし。啻にこれを思はざるのみならず、稍や事物の理を知る者は、其理を知ること愈自国の有様を明にし、愈これを明にするに従ひ、愈西洋諸国の及ぶ可らざるを悟り、これを患ひ、これを悲み、或は彼に学てこれに傚はんとし、或は自から勉てこれに対立せんとし、亜細亜諸国に於て識者終身の憂は唯此一事に在るが如し。《頑陋なる支那人も近来は伝習生徒を西洋に遣りたり。其憂国の情以て見る可し。》然ば則ち彼の文明半開野蛮の名称は、世界の通論にして世界人民の許す所なり。其これを許す所以は何ぞや。明に其事実ありて欺く可らざるの確証を見ればなり。左に其趣を示さん。即是れ人類の当(まさ)に経過す可き階級なり。或は之を文明の齢と云ふも可なり。
第一居に常処なく食に常食なし。便利を遂ふて群を成せども、便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め、衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず、文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ、人為の恩威に依頼し、偶然の禍福を待つのみにて、身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。文明を去ること遠しと云ふ可し。
第二農業の道大に開けて衣食具はらざるに非ず。家を建て都邑を設け、其外形は現に一国なれども、其内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く、人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく、旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども、習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。未だ文明に達せざるなり。
第三天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、其内に在て自から活動を逞ふし、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬から其身を支配して他の恩威に依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕はず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を謀り、進て退かず達して止まらず、学問の道は虚ならずして発明の基を開き、工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし、人智は既に今日に用ひて其幾分を余し、以て後日の謀を為すものゝ如し。これを今の文明と云ふ。野蛮半開の有様を去ること遠しと云ふ可し。
右の如く三段に区別して其有様を記せば、文明と半開と野蛮との境界分明なれども、元と此名称は相対したるものにて、未だ文明を見ざるの間は半開を以て最上とするも妨あることなし。此文明も半開に対すればこそ文明なれども、半開と雖どもこれを野蛮に対すれば亦これを文明と云はざるを得ず。譬へば今支那の有様を以て西洋諸国に比すれば之を半開と云はざるを得ず。されども此国を以て南阿非利加の諸国に比する歟、近くは我日本上国の人民を以て蝦夷人に比するときは、これを文明と云ふ可し。又西洋諸国を文明と云ふと雖ども、正しく今の世界に在てこの名を下だす可きのみ。細にこれを論ずれ足らざるもの甚だ多し。戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国常に戦争を事とせり。盗族殺人は人間の一大悪事なれども、西洋諸国にて物を盗む者あり人を殺す者あり。国内に党与を結て権を争ふ者あり、権を失ふて不平を唱る者あり。況や其外国交際の法の如きは、権謀術数至らざる所なしと云ふも可なり。唯一般に之を見渡して善盛に趣くの勢あるのみにて、決して今の有様を見て直に之を至善と云ふ可らず。今後数千百年にして世界人民の智徳大に進み太平安楽の極度に至ることあらば、今の西洋諸国の有様を見て愍然たる野蛮の歎を為すこともある可し。是に由てこれを観れば文明には限なきものにて、今の西洋諸国を以て満足す可きに非ざるなり。
西洋諸国の文明は以て満足するに足らず。然ば則ちこれを捨てゝ採らざる乎。これを採らざるときは何れの地位に居て安んずる乎。半開も安んず可き地位に非ず、況んや野蛮の地位に於てをや。此二の地位を棄れば別に又帰する所を求めざる可らず。今より数千百年の後を期して彼の太平安楽の極度を待たんとするも、唯是れ人の想像のみ。且文明は死物に非ず、動て進むものなり。動て進むものは必ず順序階級を経ざる可らず。即ち野蛮は半開に進み、半開は文明に進み、其文明も今正に進歩の時なり。欧羅巴と雖ども其文明の由来を尋れば必ずこの順序階級を経て以て今日の有様に至りしものなれば、今の欧羅巴の文明は即ち今の世界の人智を以て僅に達し得たる頂上の地位と云ふ可けのみ。されば今世界中の諸国に於て、仮令ひ其有様は野蛮なるも或は半開なるも、苟も一国文明の進歩を謀るものは欧羅巴の文明を目的として議論の本位を定め、この本位に拠て事物の利害損得を談ぜざる可らず。本書全編に論ずる所の利害得失は、悉皆欧羅巴の文明を目的と定めて、この文明のために利害あり、この文明のために得失ありと云ふものなれば、学者其大趣意を誤る勿れ。
或人云く、世界中の国々相分れて各独立の体を成せば、又随て人心風俗の異なるあり、国体政治の同じからざるあり。然るに今其国の文明を謀て利害得失悉皆欧羅巴を目的と為すとは不都合ならずや、宜しく彼の文明を採り此の人心風俗を察し、其国体に従ひ其政治を守り、これに適するものを撰びて、取る可きを取り捨べきを捨て、始て調和の宜(よろしき)を得べきなりと。答て云く、外国の文明を取て半開の国に施すには固より取捨の宜なかる可らず。然りと雖ども文明には外に見はるゝ事物と内に存する精神と二様の区別あり。外の文明はこれを取るに易く、内の文明はこれを求るに難し。国の文明を謀るには其難を先にして易を後にし、難きものを得るの度に従てよく其深浅を測り、乃ちこれに易きものを施して正しく其深浅の度に適せしめざる可らず。若し或はこの順序を誤り、未だ其難きものを得ずして先づ易きものを施さんとするときは、啻に其用を為さゞるのみならず却て害を為すこと多し。抑も外に見はるゝ文明の事物とは衣服飲食器械住居より政令法律等に至るまで都て耳目以て聞見す可きものを云ふなり。今この外形の事物のみを以て文明とせば、固より国の人心風俗に従て取捨なかる可らず。西洋各国境を接するの地と雖ども、其趣必ずしも比隣(ひりん)一様ならず、況や東西隔遠なる亜細亜諸邦に於て悉皆西洋の風に傚ふ可けんや。仮令ひこれに傚ふも之を文明と云ふ可らず。譬へば近来我国に行はるゝ西洋流の衣食住を以て文明の徴候と為す可きや。断髪の男子に逢てこれを文明の人と云ふ可きや。肉を喰ふ者を見てこれを開化の人と称す可きや。決して然る可らず。或は日本の都府にて石室鉄橋を摸製し、或は支那人が俄に兵制を改革せんとして西洋の風に傚ひ、巨艦を造り大砲を買ひ、国内の始末を顧みずして漫に財用を費すが如きは、余輩の常に悦ばざる所なり。是等の事物は人力を以て作る可し、銭を投じて買ふ可し。有形中の最も著しきものにて、易中の最も易きものなれば、之を取るの際に当ては固より前後緩急の思慮なくして可ならんや。必ず自国の人心風俗に従はざる可らず、必ず自国の強弱貧困に問はざる可らず。即ち或人所云(いふところ)の人心風俗を察するとは此事なる可し。この一段に就ては余輩固より異論なしと雖ども、或人は唯文明の外形のみを論じて、文明の精神をば捨てゝ問はざるものゝ如し。蓋し其精神とは何ぞや。人民の気風即是なり。此気風は売る可きものに非ず、又人力を以て遽に作る可きものにも非ず。洽(あま)ねく一国人民の間に浸潤して広く全国の事跡に顕はるゝと雖ども、目以て其形を見る可きものに非ざれば、其存する所を知ること甚だ難し。今試に其在る所を示さん。学者若し広く世界の史類を読て、亜細亜、欧羅巴の二流を比較し、其地理産物を問はず、其政令法律に拘はらず、学術の巧拙を聞かず、宗門の異同を尋ねずして、別に此二洲の趣をして互に相懸隔せしむる所のものを求めなば、必ず一種無形の物あるを発明す可し。其物たるやこれを形容すること甚だ難し。これを養へば成長して地球万物を包羅し、これを圧抑すれば萎縮して遂に其形影をも見る可らず。進退あり栄枯ありて片時も動かざることなし。其幻妙なること斯の如しと雖ども、現に亜欧二洲の内に於て互に其事跡に見はるゝ所を見れば、明に其虚ならざるを知る可し。今仮に名を下だして、これを一国人民の気風と云ふと雖ども、時に就て云ふときはこれを時勢と名け、人に就ては人心と名け、国に就ては国俗又は国論と名く。所謂文明の精神とは即ち此物なり。かの二洲の趣をして懸隔せしむるものは即ち此文明の精神なり。故に文明の精神とは或はこれを一国の人心風俗と云ふも可なり。これに由て考れば、或人の説に西洋の文明を取らんとするも先づ自国の人心風俗を察せざる可らずと云ひしは、其字句足らずして分明ならざるに似たれども、よく其意味を砕てこれを解くときは、即ち文明の外形のみを取る可らず、必ず先づ文明の精神を備へて其外形に適す可きものなかる可らずとの意見を述べたるものなり。今余輩が欧羅巴の文明を目的とすると云ふも、此文明の精神を備へんがために、これを彼に求るの趣意なれば、正しく其意見に符号するなり。唯或人は文明を求るに当て其形を先にし、忽ち妨碍に逢て其妨碍を遁るゝの路を知らず、余輩は其精神を先にして預(あらかじ)め妨碍を除き、外形の文明をして入るに易からしめんとするの相違あるのみ。或人は文明を嫌ふ者に非ず、唯これを好むこと我輩の如く切ならずして、未だ其議論を極めざるのみ。
前論に文明の外形をして入るに易く其精神はこれを求るに難しとの次第を述べたり。今又この義を明にせん。衣服飲食器械住居より政令法律等に至るまで皆耳目の聞見す可きものなり。而して政令法律はこれを衣食住居等に比すれば稍や其趣を異にし、耳目以て聞見す可しと雖ども手を以て握り銭を以て売買す可き実物にあらざれば、これを取るの法も亦稍や難くして衣食住居等の比にあらず。故に今鉄橋石室を以て西洋に擬するは易しと雖ども、政法を改革するは甚だ難し。即是れ我日本にても、鉄橋石室は既に成りて政法の改革は未だ行はれ難く国民の議会も遽に行はる可らざる由縁なり。尚一歩を進めて全国人民の気風を一変するが如きは其事極て難く、一朝一夕の偶然に由て功を奏す可きに非ず。独り政府の命を以て強ゆ可らず、独り宗門の教を以て説く可らず、況や僅に衣食住居等の物を改革して外より之を導く可けんや。唯其一法は人生の天然に従ひ、害を除き故障を去り、自から人民一般の智徳を発生せしめ、自から其意見を高尚の域に進ましむるに在るのみ。斯の如く天下の人心を一変するの端を開くときは、政令法律の改革も亦漸く行はれて妨碍なかる可し。人心既に面目を改め政法既に改まれば、文明の基、始めてこゝに立ち、かの衣食住有形の物の如きは自然の勢に従ひ、これを招かずして来り、これを求めずして得べし。故に云く、欧羅巴の文明を求るには難を先にして易を後にし、先づ人心を改革して次で政令に及ぼし、終に有形の物に至る可し。此順序に従へば、事を行ふは難しと雖ども、実の妨碍なくして達す可きの路あり。此順序を倒(さかしま)にすれば、事は易に似たれども、其路忽ち閉塞し、恰も墻壁の前に立つが如くして寸歩を進ること能はず、或は其壁前に躊躇する歟、或は寸を進めんとして却て激して尺を退くることある可し。
右は唯文明を求るの順序を論じたるものなれども、余輩決して有形の文明を以て到底無用なりとするに非ず。有形にても無形にても、之を外国に求るも之を内国に造るも、差別ある可らず。唯其際に前後緩急の用心ある可きのみ。決して之を禁ずるに非ず。抑も人生の働には際限ある可らず。身体の働あり、精神の働あり。其及ぶ所甚だ広く、其需(もとむ)る所極て多くして、天性自から文明に適するものなれば、苟も其性を害せざれば則ち可なり。文明の要は唯この天然に稟(う)け得たる身心の働を用ひ尽して遺す所なきに在るのみ。譬へば草昧の時代には人皆腕力を貴び、人間の交際を支配するものは唯腕力の一品にして、交際の権力一方に偏せざるを得ず。人の働を用ること極て狭しと云ふ可し。文化少しく進て世人の精神漸く発生すれば、智力の方にも自から権を占めて腕力と相対し、智力と腕力と互に相制し互に相平均して、聊(いささ)か権威の偏重を防ぐに足るものあり。人の働を用るに少しく其区域を増したりと云ふ可し。然りと雖ども此腕力と智力とを用るに当て、古は其箇条甚だ少なく、腕力をば専ら戦闘に費して他は顧るに遑あらず。衣食住の物を求るが如きは僅に戦闘の余力を用るのみ。所謂尚武の風俗是なり。智力も亦漸く其権を得ると雖ども、当時野蛮の人心を維持するに忙はしければ、其働を和好平安の事に施す可らずして、専ら之を治民制人の方便に用ひ、腕力と互に依頼して未だ智力独立の地位なるものなし。今試に世界の諸国を見るに、野蛮の民は勿論、半開の国に於ても、智徳ある者は必ず様々の関係を以て政府に属し、其力に依頼して人を治るの事を為すのみ。或は稀に自から一身のためを謀る者あるも、単に古学を脩る歟、若しくは詩歌文章等の技芸に耽るに過ぎず。人の働を用ること未だ広からずと云ふ可し。人事漸く繁多にして身心の需用次第に増加するに至て、世間に発明もあり工夫も起り、工商の事も忙はしく学問の道も多端にして、又昔日の単一に安んず可らず。戦闘、政治、古学、詩歌等も僅に人事の内の一箇条と為りて、独り権力を占るを得ず。千百の事業、並に発生して共に其成長を競ひ、結局は此彼同等平均の有様に止て、互に相迫り互に相推して、次第に人の品行を高尚の域に進めざるを得ず。是に於てか始て智力に全権を執り、以て文明の進歩を見る可きなり。都て人類の働は愈単一なれば其心愈専ならざるを得ず。其心愈専なれば其権力愈偏せざるを得ず。蓋し古の時代には事業少なくして人の働を用ゆ可き場所なく、之がために其力も一方に偏したることなれども、歳月を経るに従て恰も無事の世界を変じて多事の域と為し、身心のために新に運動の地を開拓したるが如し。今の西洋諸国の如きは正に是れ多事の世界と云ふ可きものなり。故に文明を進るの要は、勉めて人事を忙はしくして需用を繁多ならしめ、事物の軽重大小を問はず、多々益これを採用して益精神の働を活潑ならしむるに在り。然り而して、苟も人の天性を妨ることなくば、其事は日に忙はしくして其需用は月に繁多ならざるを得ず。世界古今の実験に由て見る可し。是即ち人生の自から文明に適する所以にして、蓋し偶然には非ず。之を造物主の深意と云ふも可なり。
此議論を推して考れば、爰に又一の事実を発明す可し。即ち其事実とは、支那と日本との文明異同の事なり。純然たる独裁の政府又は神政府と称する者は、君主の尊き由縁を一に天与に帰して、至尊の位と至強の力とを一に合して人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯して其方向を定るものなれば、此政治の下に居る者は、思想の向ふ所、必ず一方に偏し、胸中に余地を遺さずして、其心事常に単一ならざるを得ず。《心事繁多ならず》故に世に事変ありて聊かにても此交際の仕組を破るものあれば、事柄の良否に拘はらず、其結果は必ず人心に自由の風を生ず可し。支那にて周の末世に、諸侯各割拠の勢を成して人民皆周室あるを知らざること数百年、此時に当て天下大に乱ると雖ども、独裁専一の元素は頗る権力を失ふて、人民の心に少しく余地を遺し自から自由の考を生じたることにや、支那の文明三千余年の間に、異説争論の喧しくして、黒白全く相反するものをも世に容るゝことを得たるは、特に周末を以て然りとす。《老壮楊墨其他百家の説甚だ多し》孔孟の所謂異端是なり。此異端も孔孟より見ればこそ異端なれども、異端より論ずれば孔孟も亦異端たるを免かれず。今日に至ては遺書も乏しくして之を証するに由なしと雖ども、当時人心の活潑にして自由の気風ありしは推して知る可し。且秦の始皇、天下を一統して書を焚(やき)たるも、専ら孔孟の教のみを悪みたるに非ず。孔孟にても楊墨にても都て百家の異説争論を禁ぜんがためなり。当時若し孔孟の教のみ世に行はれたることならば、秦皇も必ず書を焚くには及ばざる可し。如何となれば後世にも暴君は多くして秦皇の暴に劣らざる者ありと雖ども、嘗て孔孟の教を害とせざるを以て知る可し。孔孟の教は暴君の働を妨るに足らざるものなり。然り而して秦皇が特に当時の異説争論を悪て之を禁じたるは何ぞや。其衆口の喧しくして特に己が専制を害するを以てなり。専制を害するものとあれば他に非ず、此異説争論の間に生じたるものは必ず自由の元素たりしこと明に証す可し。故に単一の説を守れば、其説の性質は仮令ひ純精善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し。秦皇一度此多事争論の源を塞ぎ、其後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の家は屢交代すと雖ども、人間交際の趣は改ることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して世間を支配し、其仕組に最も便利なるがために独り孔孟の教のみを世に伝へたることなり。或人の説に、支那は独裁政府と雖ども尚政府の変革在り、日本は一系万代の風なれば其人民の心も自から固陋ならざる可らずと云ふ者あれども、此説は唯外形の名義に拘泥して事実を察せざるものなり。よく事実の在る所を詳にすれば果して反対を見る可し。其次第は、我日本にても古は神政府の旨を以て一世を支配し、人民の心単一にして、至尊の位は至強の力に合するものとして之を信じて疑はざる者なれば、其心事の一方に偏すること固より支那人に異なる可らず。然るに中古武家の代に至り漸く交際の仕組を破て、至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならざるの勢と為り、民心に感ずる所にて至尊の考と至強の考とは自から別にして、恰も胸中に二物を容れて其運動を許したるが如し。既に二物を容れて其運動を許すときは、其間に又一片の道理を雑(まじ)へざる可らず。故に神政尊祟の考と武力圧制の考と之に雑るに道理の考とを以てして、三者各強弱ありと雖ども一として其権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざれば其際に自から自由の気風を生ぜざる可らず。之を彼の支那人が純然たる独裁の一君を仰ぎ、至尊至強の考を一にして一向の信心に惑溺する者に比すれば同日の論に非ず。此一事に就ては支那人は思想に貧なる者にして日本人は之に富める者なり。支那人は無事にして日本人は多事なり。心事繁多にして思想に富める者は惑溺の心も自から淡泊ならざるを得ず。独裁の神政府にて、日蝕の時に天子席を移し、天文を見て吉凶を卜する等の事を行へば、人民も自から其風に靡き、益君上を神視して益愚に陥ることあり。方今支那の如きは正に此風を成せりと雖ども、我日本に於ては則ち然らず。人民固より愚にして惑溺甚しからざるに非ずと雖ども、其惑溺は即ち自家の惑溺にして、神政府の余害を蒙りたるものは稍や少なしと云ふ可し。譬へば武家の世に、日蝕あれば天子は席を移したることもあらん、或は天文を窺ひ或は天地を祭りたることもあらんと雖ども、此至尊の天子に至強の力あらざれば、人民は自から之を度外に置て顧るものなし。亦至強の将軍は其威力誠に至強にして一世を威服するに足ると雖ども、人民の目を以て之を見れば至尊の天威を仰ぐが如くならずして自から之を人視せざるを得ず。斯の如く至尊の考と至強の考と互に相平均して其間に余地を遺し、聊かにても思想の運動を許して道理の働く可き端緒を開きたるものは、之を我日本偶然の僥倖と云はざるを得ず。今の時勢に至ては武家の復古も固より願ふ可きに非ずと雖ども、仮に幕政七百年の間に王室をして将家の武力を得せしむる歟、又は将家をして王室の位を得せしめ、至尊と至強と相合一して人民の身心を同時に犯したることあらば、迚も今の日本はある可らず。或は今日に至て彼の皇学者流の説の如く、政祭一途に出るの趣意を以て世間を支配することあらば、後日の日本も亦なかる可し。今其然らざるものは之を我日本人民の幸福と云ふ可きなり。故に云く、支那は独裁の神政府を万世に伝へたる者なり、日本は神政府の元素に対するに武力を用ひたる者なり。支那の元素は一なり、日本の元素は二なり。此一事に就て文明の前後を論ずれば、支那は一度び変ぜざれば日本に至る可らず。西洋の文明を取るに日本は支那よりも易しと云ふ可し。
前段或人の言に、各其国体を守て西洋の文明を取捨す可し云々の論あり。国体を論ずるは此章の趣意に非ざれども、他の文明を取るの談に当て、先づ人の心に故障を感ぜしむる者は国体論にして、其甚しきは国体と文明とは並立す可らざる者の如くして、此一段に至ては世の議論家も口を閉して又云はざる者多し。其状恰も未だ鋒を交へずして互に退くが如し。迚も和戦の成行は見る可らず。況や其事理を詳に論ずれば、必ず戦ふに及ばずして明に一和(いつくわ)の路あるに於てをや。何ぞ之を捨てゝ論ぜざるの理あらん。是れ余輩が文の長きを厭はずして、爰に或人の言に答て弁論する所以なり。第一国体とは何物を指すや。世間の議論は姑く擱き、先づ余輩の知る所を以て之を説かん。体は合体の義なり、又体裁の義なり。物を集めて之を全ふし他の物と区別す可き形を云ふなり。故に国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなり。西洋の語に「ナショナリチ」と名るもの是なり。凡そ世界中に国を立るものあれば亦各其体あり。支那には支那の国体あり、印度には印度の国体あり。西洋諸国、何れも一種の国体を具へて自から之を保護せざるはなし。此国体の情の起る由縁を尋るに、人種の同じきに由る者あり、宗旨の同じきに由る者あり、或は言語に由り、或は地理に由り、其趣一様ならざれども、最も有力なる源因と名く可きものは、一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする者、即是なり。或は此諸件に拘はらずして国体を全ふする者もなきに非ず。瑞西(すいす)に国体堅固(けんご)なれども、其国内の諸州は各人種を異にし言語を異にし宗旨を異にする者あるが如し。然りと雖ども此諸件相同じければ其人民に多少の親和なきを得ず。日耳曼(ぜるまん)の諸国の如きは、各独立の体を成すと雖ども、其言語文学を同ふし懐古の情を共にするが為に、今日に至るまでも日耳曼は自から日耳曼全州の国体を保護して他国と相別つ所あり。
国体は其国に於て必ずしも終始一様なる可らず、頗る変化あるものなり。或は合し或は分れ、或は伸る者あり或は蹙(ちぢ)む者あり、或は全く絶て跡なき者あり。而して其絶ると絶へざるとは言語宗旨等の諸件の存亡を見て徴(ちよう)す可らず。言語宗旨は存すと雖ども、其人民政治の権を失ふて他国人の制御を受るときは、則ち之を名て国体を断絶したるものと云ふ。譬へば英と蘇格蘭(すこつとらんど)と相合して一政府を共にしたるは、国体の合したる者にて双方共に失ふ所なし。荷蘭(おらんだ)と白耳義(べるぎー)と分れて二政府と為りたるは、国体の分れたる者なれども尚他国人に奪はれたるに非ず。支那にては宋の末に国体を失ふて元に奪はれたり。之を中華滅亡の始とす。後又元を殪(たふ)して旧に復し大明一統の世となりたるは、中華の面目と云ふ可し。然るに明末に及て又満清のために政権を奪はれ、遂に中華の国体を断絶して満清の国体を伸ばしたり。今日に至るまで中華の人民は、旧に依て言語風俗を共にし、或は其中に人物あれば政府の高官にも列することを得て、外形は清と明と合体の風に見ゆれども、其実は中華南方の国体を失ふて北方の満清に之を奪はれたるものなり。又印度人が英に制せられ、亜米利加の土人が白人に逐はれたるが如きは国体を失ふの甚しきものなり。結局国体の存亡は其国人の政権を失ふと失はざるとに在るものなり。
第二国に「ポリチカル・レジチメ−ション」と云ふことあり。「ポリチカル」とは政の義なり。「レジチメ−ション」とは正統又は本筋の義なり。今仮に之を政統と訳す。即ち其国に行はれて普(あまね)く人民の許す政治の本筋と云ふことなり。世界中の国柄と時代とに従て政統は一様なる可らず。或は立君の説を以て政統とするものあり、或は封建割拠の説を以て政統と為す者あり、或は民庶会議を以て是とし、或は寺院、政を為すを以て本筋と為すものあり。抑も此政統の考の起る由縁を尋るに、此諸説の初に権を得るや必ず半(なかば)は腕力を用るを免れずと雖ども、既に権を得れば乃ち又腕力を燿(かがやか)すを要せず、啻に之を要せざるのみならず、其権を得たる由縁を腕力の所為に帰するは、其有権者の禁句にて之を忌むこと甚し。如何なる政府にても之に向て其権威の源を問はゞ、必ず之に答て云はん、我権を有するは理の為なり、我権を保つや歳月既に旧しとて、時の経過するに従て次第に腕力を棄てゝ道理に依頼せざる者なし。腕力を悪て道理を好むは人類の天性なれば、世間の人も政府の処置の理に適するを見て之を悦び、歳月を経るに従て益これを本筋のものと為し、旧を忘れて今を慕ひ、其一世の事物に付き不平を訴ることなきに至る可し。是即ち政統なるものなり。故に政統の変革は戦争に由て成るもの多し。支那にて秦の始皇が周末の封建を殪して郡県と為し、欧羅巴にて羅馬の衰微するに従ひ北方の野蛮これを蹂躙して後遂に封建の勢を成したるも此例なり。然りと雖ども人文漸く進て学者の議論に権威を増し、兼て又其国の事情に都合よきことあれば、必ずしも兵力を用ひずして無事の間に変革することあり。譬へば英国にて今日の政治を以て千七百年代の初に比較せば、其趣雲壌懸隔して殆ど他国の政の如くなる可しと雖ども、同国にて政権の事に付き内乱に及びたるは千六百年の央より末に至るまでのことにて、千六百八十八年第三世「ヰルレム」が位に即きしより後は、此事に付き絶て干戈を邦内に動かしたることなし。故に英の政統は百六、七十年の間に大に変革したれども、其間に少しも兵力を用ることなく、識らず知らず趣を改めて、前の人民は前の政を本筋のものと思ひ、後の人民は後の政を本筋のものと思ふのみ。或は又不文の世に在ても兵力を用ひずして政統を改ることあり。往古仏蘭西にて「カラウヒンジヤ」[TheCarolingians]の諸君、仏王に臣とし仕へて、其実は国権を握りたるが如し。日本にて藤原氏の王室に於ける、北条氏の源氏に於けるも、此例なり。
政統の変革は国体の存亡に関係するものに非ず。政治の風は何様に変化し幾度の変化を経るも、自国の人民にて政を施すの間は国体に損することなし。往古合衆政治たりし荷蘭は今日立君の政を奉じ、近くは仏蘭西の如き百年の間に政治の趣を改ること十余度に及びたれども、其国体は依然として旧に異ならず。前条にも云ふ如く、国体を保つの極度は他国の人をして政権を奪はしめざるの一事に在るなり。亜米利加の合衆国にて大統領たる者は必ず自国に生れたる人を撰ぶの例あるも、自国の人にて自国の政を為さんとするの人情に基きしものならん。
第三血統とは西洋の語にて「ライン」と云ふ。国君の父子相伝へて血筋の絶へざることなり。世界中国々の風にて、国君の血統は男子を限るものあり、或は男女相撰ばざるものあり。相続の法は必ず父子に限らず、子なければ兄弟を立て、兄弟なければ尚遠きに及ぼし、親戚中の最も近き者を撰ぶの風なり。西洋諸国立君の政を奉ずる処にては最も之を重んじ、血統相続の争論よりして師(いくさ)を起したるの例は歴史に珍らしからず。或は又甲の国の君死して子なく、遇(たまた)ま乙の国の君其近親に当るときは、甲乙の君位を兼ねて両国一君なることあり。此風は唯欧羅巴に行はるゝのみにて、支那にも日本にも其例を見ず。但し両国の間に一君を奉ずると雖ども、其国の国体にも政統にも差響(さしひゞき)あることなし。
右の如く国体と政統と血統とは一々別のものにて、血統を改めざれども政統を改ることあり。英政の沿革、仏蘭西の「カラウヒンジヤ」の例、是なり。又政統は改れども国体を改めざることあり。万国其例甚だ多し。又血統を改めずして国体を改ることあり。英人荷蘭人が東洋の地方を取て、旧の酋長をば其まゝ差置き、英荷の政権を以て土人を支配し、兼て其酋長をも束縛するが如き、是なり。
日本にては開闢の初より国体を改たることなし。国君の血統も亦連綿として絶たることなし。唯政統に至ては屢大に変革あり。初は国君自から政を為し、次で外戚の輔相なる者政権を専らにし、次で其権柄将家に移り、又移て陪臣の手に落ち、又移て将家に帰し、漸く封建の勢を成して慶応の末年に至りしなり。政権一度び王室を去てより天子は唯虚位を擁するのみ。山陽外史北条氏を評して、万乗の尊を視ること孤豚の如しと云へり。其言真に然り。政統の変革斯の如きに至て尚国体を失はざりしは何ぞや。言語風俗を共にする日本人にて日本の政を行ひ、外国の人へ秋毫の政権をも仮したることなければなり。
然るに爰に余輩をして大に不審を抱かしむる所のものあり。其故は何ぞや。世間一般の通論に於て専ら血統の一方に注意し、国体と血統とを混同して、其混同の際には一を重んじて一を軽んずるの弊なきに非ざるの一事なり。固より我国の皇統は国体と共に連綿として今日に至るは、外国にも其比例なくして珍らしきことなれば、或は之を一種の国体と云ふも可なり。然りと雖どもよく事理を糺して之を論ずれば、其皇統の連綿たるは国体を失はざりし徴候と云ふ可きものなり。之を人身に譬へば、国体は猶身体の如く皇統は猶眼の如し。眼の光を見れば其身体の死せざるを徴す可しと雖ども、一身の健康を保たんとするには眼のみに注意して全体の生力を顧みざるの理なし。全体の生力に衰弱する所あれば其眼も亦自から光を失はざるを得ず。或は甚しきに至ては全体は既に死して生力の痕跡なきも、唯眼の開くあるを見て之を生体と誤認(したゝむ)るの恐なきに非ず。英人が東洋諸国を御するに、体を殺して眼を存するの例は少なからず。
歴史の所記に拠れば、血統の連綿を保つは難事に非ず。北条の時代より以降、南北朝の事情を見て知る可し。其時代に在ては血統に順逆もありて之を争ひしことなりと雖ども、事既に治りて今日に至れば又其順逆を問ふ可らず。順逆は唯一時の議論のみ。後世より論ずるときは均しく天子の血統なるゆゑ、其血統の絶へざるを見て之に満足するなり。故に血統の順逆は其時代に当て最も大切なることなれども、時代を考の外に置て今の心を以て古を推し、唯血統の連綿のみに眼を着け、其これを連綿せしむるの方法をば捨てゝ論ぜざるときは、忠も不忠も義も不義もある可らず。正成と尊氏との間に区別も立ち難し。然りと雖どもよく其時代の有様に就て考れば、楠氏は唯血統を争ふに非ず、其実は政統を争ふて天下の政権を天子に帰せんとし、難を先にして易を後にしたる者なり。此趣を見ても血統を保つと政権を保つと、其孰れか難易を知る可し。
古今の通論を聞くに、我邦を金甌無欠(きんおうむけつ)万国に絶すと称して意気揚々たるが如し。其万国に絶するとは唯皇統の連綿たるを自負するもの乎。皇統をして連綿たらしむるは難きに非ず。北条、足利の如き不忠者にても尚よく之を連綿たらしめたり。或は政統の外国に絶する所ある乎。我邦の政統は古来度々の変革を経て其有様は諸外国に異ならず、誇るに足らざるなり。然ば則ち彼の金甌無欠とは、開闢以来国体を全ふして外人に政権を奪はれたることなきの一事に在るのみ。故に国体は国の本なり。政統も血統も之に従て盛衰を共にするものと云はざるを得ず。中古王室にて政権を失ひ又は血統に順逆ありしと雖ども、金甌無欠の日本国内にて行はれたる事なればこそ今日に在て意気揚々たる可けれ、仮に在昔魯英(露英)の人をして頼朝の事を行はしめなば、仮令へ皇統は連綿たるも日本人の地位に居て決して得意の色を為す可らず。鎌倉の時代には幸にして魯英の人もなかりしと雖ども、今日は現に其人ありて日本国の周囲に輻湊(ふくそう)せり。時勢の沿革、意を用ひざる可らず。
此時に当て日本人の義務は唯この国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは自国の政権を失はざることなり。政権を失はざらんとするには人民の智力を進めざる可らず。其条目は甚だ多しと雖ども、智力発生の道に於て第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行はるゝ文明の精神を取るに在り。陰陽五行の惑溺を払はざれば窮理の道に入る可らず。人事も亦斯の如し。古風束縛の惑溺を除かざれば人間の交際は保つ可らず。既に此惑溺を脱して心智活潑の域に進み、全国の智力を以て国権を維持し国体の基初て定るときは、又何ぞ患る所かあらん。皇統の連綿を持続するが如きは易中の易のみ。試に告ぐ、天下の士人、忠義の外に心事はなきや。忠義も随分不可なるに非ざれども、忠を行はゞ大忠を行ふ可し。皇統連綿を保護せんと欲せば、其連綿に光を増して保護す可し。国体堅固ならざれば血統に光ある可らず。前の譬にも云る如く、全身に生力あらざれば眼も光を失ふものなり。此眼を貴重なりと思はゞ身体の健康に注意せざる可らず。点眼水の一品を用るも眼の光明は保つ可きものに非ず。此次第を以て考れば、西洋の文明は我国体を固くして兼て我皇統に光を増す可き無二の一物なれば、之を取るに於て何ぞ躊躇することをせんや。断じて西洋の文明を取る可きなり。
前条に古習の惑溺を一掃するとのことを云へり。惑溺の文字は其用る所甚だ広くして、世の事物に就き様々の惑溺あれども、今これを政府上に論じて、政府の実威と虚威と相分るゝ由縁を示さん。凡そ事物の便不便は其ためにする所の目的を定るに非ざれば之を決し難し。屋は雨露を庇ふがために便利なり、衣服は風寒を防ぐがために便利なり。人間百事皆ためにする所あらざるはなし。然りと雖ども、習用の久しき、或は其事物に就き実の功用をば忘れて唯其物のみを重んじ、これを装ひ、これを飾り、これを愛し、これを眷顧し、甚しきは他の不便利を問はずして只管これを保護せんとするに至ることあり。是即ち惑溺にて、世に虚飾なるものゝ起る由縁なり。譬へば戦国の時に武士皆双刀を帯したるは、法律の頼む可きものなくして人々自から一身を保護するのためなりしが、習用の久しき、太平の世に至ても尚この帯刀を廃せず、啻に之を廃せざるのみならず、益この物を重んじ、産を傾けて双刀を飾り、凡そ士族の名ある者は老幼を問はず皆これを帯せざるはなし。然るに其実の功用如何を尋れば、刀の外面には金銀を鏤(ちりば)めて、鞘の中には細身の鈍刀を納るものあり。加之剣術を知らずして帯刀する者は十に八、九なり。畢竟有害無益のものなれども、之を廃せんとして人情に戻るは何ぞや。世人皆双刀の実用を忘れて唯其物を重んずるの習慣を成したればなり。其習慣は即ち惑溺なり。今太平の士族に向て其刀を帯する所以を詰問せば、其人の遁辞には是れ祖先以来の習慣なりと云ひ、是れ士族の記章なりと称するのみにて、必ず他に明弁ある可らず。誰かよく帯刀の実用を挙て此詰問に答へ得る者あらん。既に之を習慣と云ひ、亦記章と云ふときは、其物を廃するも可なり。或は廃す可らざるの実用あらば、其趣を変じて実の功用のみを取るも可なり。何等の口実を設るも帯刀を以て士族の天稟と云ふの理なし。政府も亦斯くの如し。世界万国何れの地方にても、其初め政府を立てゝ一国の体裁を設たる由縁は、其国の政権を全ふして国体を保たんが為なり。政権を維持せんが為には固より其権威なかる可らず。之を政府の実威と云ふ。政府の用は唯この実威を主張するの一事に在るのみ。而して開闢草昧の世には、人民皆事物の理に暗くして外形のみに畏服するものなれば、之を御するの法も亦自から其趣意に従て、或は理外の威光を用ひざるを得ず。之を政府の虚威と云ふ。固より其時代の民心を維持するには止むを得ざるの権道にして、人民のためを謀れば同類相食むの禽獣世界を脱して漸く従順の初歩を学ぶものなれば、之を咎む可きには非ざれども、人類の天性に於て権力を有する者は自から其権力に溺れて私を恣(ほしいまま)にするの通弊を免れず。之を譬へば酒を嗜む者が酒を飲めば其酒の酔に乗じて又酒を求め、酒よく人をして酒を飲ましむるが如く、彼の有権者も一度び虚を以て権威を得れば、其虚威の行はるゝに乗じて又虚威を振ひ、虚威よく人をして虚威を恣にせしめて、習慣の久しき、遂に虚を以て政府の体裁を成し、其体裁に千条万態の脩飾を施し、脩飾愈繁多なれば愈世人の耳目を眩惑して、顧て実用の在る所を失ひ、唯脩飾を加へたる外形のみを見て、之を一種の金玉と思ひ、之を眷顧保護せんがためには他の利害得失を捨てゝ問はざるに至り、或は君主と人民との間を異類のものゝ如く為して、強ひて其区別を作為し、位階服飾文書言語悉皆上下の定式を設るものあり。所謂周唐の礼儀なるもの是なり。或は無稽の不思議を唱へて、其君主は直に天の命を受たりと云ひ、其祖先は霊山に登て天神と言語を交へたりと云ひ、夢を語り神託を唱へ、恬として怪まざるものあり。所謂神政府なるもの是なり。皆是れ政府の保つ可き実威の趣意を忘れて、保つ可らざるの虚威に惑溺したる妄誕と云ふ可し。虚実の相分るゝは正に此処に在るなり。此妄誕も上古妄誕の世に在りては亦一時の術なれども、人智漸く開るに従て又この術を用ゆ可らず。今の文明の世に於ては、衣冠美麗なりと雖ども衙門巍々たりと雖ども、安ぞ人の眼を眩惑するを得ん。徒に識者の愍笑を招くに足るのみ。仮令ひ文明の識者に非ざるも、文明の事物を聞見する者は其耳目自から高尚に進むが故に、決して之に妄誕を強ゆ可らず。此人民を御するの法は、唯道理に基きたる約束を定め、政法の実威を以て之を守らしむるの一術あるのみ。今世七年の大旱に壇を築て雨を祈るも雨の得べからざるは人皆これを知れり。国君躬から五穀豊熟を祈ると雖ども化学の定則は動かす可らず。人類の祈念を以て一粒の粟を増す可らざるの理は、学校の童子もこれを明にせり。往古は剣を海に投じて潮の退きたることありしが、今の海潮には満干の時刻あり。古は紫雲のたなびくを見て英雄の所在を知りたれども、今の人物は雲の中に求む可らず。こは古今の事物其理を異にするに非ず、古今の人智其品位を同ふせざるの証なり。人民の品行次第に高尚に進み、全国の智力を増して政治に実の権威を得るは、国のために祝す可きに非ずや。然るに今実を棄てゝ虚に就き、外形を飾らんとして却て益人を痴愚に導くは惑溺の甚しきなり。虚威を主張せんと欲せば下民を愚にして開闢の初に還らしむるを上策とす。人民愚に還れば政治の力は次第に衰弱を致さん。政治の力、衰弱すれば、国其国に非ず。国其国に非ざれば国の体ある可らず。斯の如きは則ち国体を保護せんとして却て自から之を害するものなり。前後の始末不都合なりと云ふ可し。譬へば英国にても、其先王の遺志を継て尚立君専制の古風を守らんとせば、其王統早く既に絶滅したるは固より論を俟ず。今其然らざる由縁は何ぞや。王室の虚威を減少して民権を興起し、全国の政治に実の勢力を増して、其国力と共に王位をも固くしたればなり。王室を保護するの上策と云ふ可し。畢竟国体は文明に由て損するものに非ず。其実は之に依頼して価を増すものなり。
世界中何れの人民にても、古習に惑溺する者は必ず事の由来の旧くして長きを誇り、其連綿たること愈久しければ之を貴ぶことも亦愈甚しく、其状恰も好事家が古物を悦ぶが如し。印度の歴史に云ることあり。此国初代の王を「プラザマ・ラジャ」と云ひ、聖徳の君なり。此君即位の時其齢二百万歳、在位六百三十万年にして位を王子に譲り、尚十万の残年を経て世を去りたりと。又云く、同国に「メヌウ」と云ふ典籍あり。《印度の口碑に、此典籍は造化の神なる「ブラマ」の子「メヌウ」より授かりたるものにて斯く名るなりと云ふ。西洋紀元千七百九十四年英人「ジョネス」氏これを英文に訳せり。書中の趣意は神道専制の説を巧に記したるものなれども、脩徳の箇条に至ては頗る厳正にして議論も亦高く、其所説に耶蘇の教と符合するもの甚だ多し。其符合するは教の趣意のみならず、文章も亦類似せり。譬へば「メヌウ」の文に云く、人を視ること傷むが如くして不平を訴へしむる勿れ、実を以て人を害する勿れ、亦意を以て人を害する勿れ、人を罵る勿れ、人に罵らるゝも之に堪忍す可し、怒に逢はゞ怒を以て怒に報る勿れ、云々。又耶蘇教の「サルミスト」の文と「メヌウ」の文と字々相似たるものあり。「サルミスト」の文に云く、愚人は自から其心に告て「ゴッド」なしと云ふと。「メヌウ」の文に云く、悪人は自から其心に告て誰も己を見ずと云ふと雖ども、神は明に之を見分け且胸中の精神も之を知る可しと。其符合すること斯の如し。以上「ブランド」氏の韻府より抄訳。》此典籍の人間世界に授かりたるは今を去ること凡二十億年のことなりと。頗る古物と云ふ可し。印度の人はこの貴き典籍を守りこの旧き国風を存して高枕安眠の其間に、政権をば既に西洋人に奪はれて、神霊なる一大国も英吉利の庖厨(台所)と為り、「プラザマ・ラジャ」の子孫も英人の奴隷と為れり。且其六百万年と云ひ二十億年と唱へ、天地と共に長しとて自負するものも、固より無稽の慢語にて、彼の典籍の由来も其実は三千年より久しからざるものなれども、姑く其慢に任じて之を語らしめ、爰に印度の六百万年に対して阿非利加に七百万年のものありと云ひ、其二十億に対して我は三十億と云ふ者あらば、印度人も口を閉さゞるを得ず。畢竟痴児の戯のみ。又一言以て其自負を挫く可きものあり。云く、天地の仕掛は永遠洪大なるものなり、何ぞ区々の典籍系統と其長短を争はんや、造化一瞬、忽地(たちまち)に億万年を過ぐ可し、彼の十億年の日月は唯是れ瞬間の一小刻のみ、此一小刻に就て無益の議論を費し却て文明の大計を忘れたるは、軽重の別を知らざる者なりと。此一言を聞かば印度人も又口を開くを得ざる可し。故に世の事物は唯旧きを以て価を生ずるものに非ざるなり。
前に云へる如く、我国の皇統は国体と共に連綿として外国に比類なし。之を我国一種、君国並立の国体と云て可なり。然りと雖ども、仮令ひこの並立を一種の国体と云ふも、之を墨守して退くは之を活用して進むに若かず。之を活用すれば場所に由て大なる功能ある可し。故に此君国並立の貴き由縁は、古来我国に固有なるが故に貴きに非ず、之を維持して我政権を保ち我文明を進む可きが故に貴きなり。物の貴きに非ず、其働の貴きなり。猶家屋の形を貴ばずして、其雨露を庇ふの功用を貴ぶが如し。若し祖先伝来家作の風なりとて、其家の形のみを貴ぶことならば、紙を以て家を作るも可ならん。故に君国並立の国体若し文明に適せざることあらば、其適せざる由縁は必ず習慣の久しき間に生じたる虚飾惑溺の致す所なれば、唯其虚飾惑溺のみを除て実の功用を残し、次第に政治の趣を改革して進むことあらば、国体と政統と血統と三者相互に戻らずして、今の文明と共に並立す可きなり。譬へば今魯西亜(ろしや)にて今日其政治を改革して明日より英国自由の風に傚はんとすることあらば、事実に行はれざるのみならず立所に国の大害を起す可し。其害を起す由縁は何ぞや。魯英両国の文明は其進歩の度を異にし其人民に智愚の差ありて、今の魯は今の政治を以て正に其文明に適するものなればなり。然りと雖ども、魯をして永く其旧物の虚飾を墨守せしめ、文明の得失を謀らずして必ず固有の政治を奉ぜしむるは、敢て願ふ所に非ず、唯其文明の度を察し、文明に一歩を進れば政治も亦一歩を進め、文明と政治と歩々相伴なはんことを欲するのみ。此事に就ては次章の終にも論ずる所あり。これを参考す可し。《書中西洋と云ひ欧羅巴と云ふも其義一なり。地理を記すには欧羅巴と亜米利加と区別あれども、文明を論ずるときは亜米利加の文明も其源は欧羅巴より移したるものなれば、欧羅巴の文明とは欧羅巴風の文明と云ふの義のみ。西洋と云ふもこれに同じ。》
第三章文明の本旨を論ず

 

前章の続きに従へば、今こゝに西洋文明の由来を論ず可き場所なれども、これを論ずる前に先づ文明の何物たるを知らざる可らず。其物を形容すること甚だ難し。啻にこれを形容すること難きのみならず、甚しきに至ては世論或は文明を是とし或はこれを非として争ふものあり。蓋しこの論争の起る由縁を尋るに、もと文明の字義はこれを広く解す可し、又これを狭く解す可し。其狭き字義に従へば、人力を以て徒に人間の需用を増し、衣食住の虚飾を多くするの意に解す可し。又其広き字義に従へば、衣食住の安楽のみならず、智を研き徳を脩めて人間高尚の地位に昇るの意に解す可し。学者若し此字義の広狭に眼を着せば、又喋々たる争論を費すに足らざる可し。
抑も文明は相対したる語にて、其至る所に限あることなし。唯野蛮の有様を脱して次第に進むものを云ふなり。元来人類は相交るを以て其性とす。独歩孤立するときは其才智発生するに由なし。家族相集るも未だ人間の交際を尽すに足らず。世間相交り人民相触れ、其交際愈広く其法愈整ふに従て、人情愈和し知識愈開く可し。文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云ふ。即ち羅甸(らてん)語の「シウヰタス」より来りしものにて、国と云ふ義なり。故に文明とは人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語にて、野蛮無法の独立に反し一国の体裁を成すと云ふ義なり。
文明の物たるや至大至重、人間万事皆この文明を目的とせざるものなし。制度と云ひ文学と云ひ、商売と云ひ工業と云ひ、戦争と云ひ政法と云ふも、これを概して互に相比較するには何を目的として其利害得失を論ずるや。唯其よく文明を進るものを以て利と為し得と為し、其これを却歩せしむるものを以て害と為し失と為すのみ。文明は恰も一大劇場の如く、制度文学商売以下のものは役者の如し。此役者なるもの各得意の芸を奏して一段の所作を勤め、よく劇の趣意に叶ふて真情を写出だし、見物の客をして悦ばしむる者を名けて役者の巧なる者とす。進退度を誤り、言語節を失し、其笑ふや真ならず、其泣や無情にして、芝居の仕組これがために趣を失する者を名けて役者の拙なる者とするなり。或は又其泣くと笑ふとは真に迫て妙なりと雖ども、場所と時節とを誤て、泣く可きに笑ひ、笑ふ可きに泣く者も亦、芸の拙なるものと云ふ可し。文明は恰も海の如く、制度文学以下のものは河の如し。河の海に水を灌ぐこと多きものを大河と名け、其これを灌ぐこと少きものを名けて小河と云ふ。文明は恰も倉庫の如し。人間の衣食、渡世の資本、生々の気力、皆この庫中にあらざるはなし。人間の事物或は嫌ふ可きものと雖ども、苟もこの文明を助るの功あればこれを捨てゝ問はず。譬へば内乱戦争の如き歟。尚甚しきは独裁暴政の如きも、世の文明を進歩せしむるの助となりて其功能著しく世に顕はるゝの時に至れば、半は前日の醜悪を忘れてこれを咎るものなし。其事情恰も銭を出して物を買ひ、其価過当なりと雖ども、其物を用ひて便利を得ること大なるの時に至れば、半は前日の損亡を忘るゝが如し。即是れ世間人情の常なり。
今仮に数段の問題を設て文明の在る所を詳にせん。
第一爰に一群の人民あり。其外形安くして快く、租税は薄く力役は少なく、裁判の法正しからざるに非ず、懲悪の道行はれざるに非ず。概してこれを云へば、人間衣食住の有様に就ては其処置宜しきを得て更に訴ふ可きものなし。然りと雖ども、唯衣食住の安楽あるのみにて、其智徳発生の力をば故さらに閉塞して自由ならしめず、民を視ること牛羊の如くして、これを牧しこれを養ひ、唯其飢寒に注意するのみ。其事情、啻に上より抑圧するの類に非ずして、周囲八方より迫窄(はくさく)するものゝ如し、昔日松前より蝦夷人を取扱ひしが如き是なり。これを文明開化と云ふ可き乎。この人民の間に智徳進歩の有様を見るや否(いなや)。
第二爰に又一群の人民あり。其外形の安楽は前段の人民に及ばずと雖ども亦堪ゆ可らざるに非ず。其安楽少なきの代りとして智徳の路は全く塞がるに非ず。人民或は高尚の説を唱る者あり、宗旨道徳の論も進歩せざるに非ず。然りと雖ども自由の大義は毫も行はるゝことなく、事々物々皆自由を妨げんとするに注意するのみ。人民或は智徳を得る者ありと雖ども、其これを得るや恰も貧民が救助の衣食を貰ふが如く、自からこれを得るに非ず、他に依頼してこれを得るのみ。人民或は道を求る者ありと雖ども、其これを求るや、自からために求ること能はずして人のためにこれを求るなり。亜細亜諸国の人民、神政府のために束縛を蒙り、活潑の気象を失ひ尽して蠢爾卑屈の極度に陥りたるもの、即是なり。これを文明開化と云ふ可き乎。この人民の間に文明進歩の痕を見るや否。
第三爰に又一群の人民あり。其有様自由自在なれども、毫も事物の順序なく、毫も同権の趣意を見ず。大は小を制し、強は弱を圧し、一世を支配するものは唯暴力のみ。譬へば往昔欧羅巴の形勢斯の如し。これを文明開化と云ふ可き乎。固より文明の種はこゝに胚胎すと云ふと雖ども、現に此有様を名て文明と云ふ可らざるなり。
第四爰に又一群の人民あり。人々其身を自由にして之を妨るものなく、人々其力を逞ふして大小強弱の差別あらず。行かんと欲すれば行き、止らんと欲すれば止まりて、各人其権義を異にすることなし。然りと雖ども、此人民は未だ人間交際の味を知らず、人々其力を一人のために費して全体の公利に眼を着けず、一国の何物たるを知らず交際の何事たるを弁ぜず、世々代々生て又死し、死して又生れ、其生れしときの有様は死するときの有様に異ならず。幾世を経ると雖ども其土地に人間生々の痕跡をみることなし。譬へば方今野蛮の人種と唱るもの、即是なり。自由同権の気風に乏しからずと雖ども、之を文明開化と云ふ可きや否。
右四段に挙る所の例を見るに、一もこれを文明と称す可きものなし。然ば則ち何事を指して文明と名るや。云く、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云ふなり、衣食を饒(ゆたか)にして人品を貴くするを云ふなり。或は身の安楽のみを以て文明と云はんか。人生の目的は衣食のみに非ず。若し衣食のみを以て目的とせば、人間は唯蟻の如きのみ、又蜜蜂の如きのみ。これを天の約束と云ふ可らず。或は心を高尚にするのみを以て文明と云はんか。天下の人皆陋巷(らうかう)に居て水を飲む顔回の如くならん。これを天命と云ふ可らず。故に人の身心両ながら其所を得るに非ざれば文明の名を下だす可らざるなり。然り而して、人の安楽には限ある可らず、人心の品位にも亦極度ある可らず。其安楽と云ひ高尚と云ふものは、正に其進歩する時の有様を指して名けたるものなれば、文明とは人の安楽と品位との進歩を云ふなり。又この人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり。
前既に云へり、文明は至大至重にして人間万事を包羅し、其至る所際限なくして今正に進歩の有様に在りと。世人或はこの義を知らずして甚だしき誤謬に陥ることあり。其人の説に云く、文明とは人の智徳の外に見はれたるものなり、然るに今西洋諸国の人を見るに、果して不徳の所業多し、或は偽詐を以て商売を行ふ者あり、或は人を威して利を貪る者あり、これを有徳の人民と云ふ可らず、又至文至明と称する英国の管下に在る「アイルランド」の人民は、生計の道に暗く終歳蠢爾として芋を喰ふのみ、これを智者と云ふ可らず、是に由て之を観れば、文明は必ずしも智徳と並び行はるゝものに非ずと。然りと雖ども、此人は今の世界の文明を見てこれを其極度なりと思ひ、却て其進歩の有様に在る所以を知らざるものなり。今日の文明は未だ其半途にも至らず、豈遽に清明純美の時を望む可けんや。此無智無徳の人は即是れ文明の世の疾病なり。今の世界に向て文明の極度を促すは、これを譬へば世に十全健康の人を求るが如し。世界の蒼生多しと雖ども、身に一点の所患なく、生れて死に至るまで些少の病にも罹らざる者ある可きや。決してある可らず。病理を以て論ずれば、今世の人は仮令ひ健康に似たるものあるも、これを帯患健康と云はざるを得ず。国も亦猶この人の如し。仮令ひ文明と称すと雖ども、必ず許多(あまた)の欠点なかる可らざるなり。
或人又云く、文明は至大至重なり、人間万事これに向て道を避けざるものなし、然るに文明の本旨は上下同権に在るに非ずや、西洋諸国文明の形勢を見るに、改革の第一着は必ず先づ貴族を倒すに在り、英仏其他の歴史を見て其実跡を証す可し、近くは我日本に於ても、藩を廃して県を置き、士族既に権を失ふて華族も亦顔色なし、是れ亦文明の趣意ならん、此理を拡めて論ずるときは、文明の国には君主を奉ず可らざるが如し、果して然るや。答て云く、是れ所謂片眼を以て天下の事を窺ふの論なり。文明の物たるや大にして重なるのみならず、亦洪にして且寛なり。文明は至洪至寛なり。豈国君を容るゝの地位なからんや。国君も容る可し、貴族も置く可し、何ぞ是等の名称に拘はりて区々の疑念を抱くに足らん。「ギゾ−」氏の文明史に云へることあり。立君の政は人民の階級を墨守すること印度の如き国にも行はる可し、或は之に反して人民、権を同ふし、漠然として上下の名分を知らざる国にも行はる可し、或は専制抑圧の世界にも行はる可し、或は開化自由の里にも行はる可し、君主は恰も一種珍奇の頭の如く、政治風俗は体の如し、同一の頭を以て異種の体に接す可し、君主は恰も一種珍奇の菓実の如く、政治風俗は樹の如し、同一の菓実よく異種の樹に登(みの)る可しと。此言真に然り。都て世の政府は唯便利のために設けたるものなり。国の文明に便利なるものなれば、政府の体裁は立君にても共和にても其名を問はずして其実を取る可し。開闢の時より今日に至るまで、世界にて試たる政府の体裁には、立君独裁あり、立君定律あり、貴族合議あり、民庶合議あれども、唯其体裁のみを見て何れを便と為し何れを不便と為す可らず。唯一方に偏せざるを緊要とするのみ。立君も必ず不便ならず、共和政治も必ず良ならず。千八百四十八年仏蘭西の共和政治は公平の名あれども其実は惨刻なり。墺地利(おーすとりや)にて第二世「フランシス」の時代には独裁の政府にて寛大の実あり。今の亜米利加の合衆政治は支那の政府よりも良からんと雖ども、「メキシコ」の共和政は英国立君の政に及ばざること遠し。故に墺地利、英国の政を良とするも、之がために支那の風を慕ふ可らず。亜米利加の合衆政治を悦ぶも、仏蘭西、「メキシコ」の例に傚ふ可らず。政は其実に就て見る可し、其名のみを聞て之を評す可らず。政府の体裁は必ずしも一様なる可らざるが故に、其議論に当ては学者宜しく心を寛にして一方に僻すること勿る可し。名を争ふて実を害するは古今に其例少からず。
支那日本等に於ては君臣の倫を以て人の天性と称し、人に君臣の倫あるは猶夫婦親子の倫あるが如く、君臣の分は人の生前に先づ定たるものゝやうに思込み、孔子の如きも此惑溺を脱すること能はず、生涯の心事は周の天子を助けて政を行ふ歟、又は窮迫の余りには諸侯にても地方官にても己を用ひんとする者あれば之に仕へ、兎にも角にも土地人民を支配する君主に依頼して事を成さんとするより外に策略あることなし。畢竟孔子も未だ人の天性を究(きはむ)るの道を知らず、唯其時代に行はるゝ事物の有様に眼を遮られ、其時代に生々する人民の気風に心を奪はれ、知らず識らず其中に籠絡せられて、国を立るには君臣の外に手段なきものと臆断して教を遺したるものゝみ。固より其教に君臣のことを論じたる趣意は頗る純精にして、其一局内に居て之を見れば差支なきのみならず、如何にも人事の美を尽したるが如くなりと雖ども、元と君臣は人の生れて後に出来たるものなれば、之を人の性と云ふ可らず。人の性のまゝに備はるものは本なり、生れて後に出来たるものは末なり。事物の末に就て議論の純精なるものあればとて、之に由て其本を動かす可らず。譬へば古人天文の学を知らずして只管天を動くものと思ひ、地静天動の考を本にして無理に四時循環の算を定め、其説く所に一通りは条理を備へたるやうに見ゆれども、地球の本の性を知らざるが故に、遂に大に誤りて星宿分野の妄説を作り、日食月食の理をも解くこと能はず、事実に於て不都合なること甚だ多し。元来古人が地静天動と云ひしは、唯日月星辰の動くが如くなるを目撃し、其目撃する所の有様に従て臆断したるのみのことなれども、其事に就て実を糺せば、此有様はもと地球と他の天体と相対して地球の動くがために生じたる現象なるゆゑ、地動は本の性なり、現象は末の験(しるし)なり。末の験を誤認めて本の性にあらざることを誣ゆ可らず。天動の説に条理あればとて、其条理を主張して地動の説を排す可らず。其条理は決して真の条理に非ず。畢竟物に就ては其理を究めずして唯物と物との関係のみを見て強ひて作たる説なり。若し此説を以て真の条理とせば、走る船の中より海岸の走るが如くなるを見て、岸は動き船は静なりと云はざるを得ず。大なる誤解ならずや。故に天文を談ずるには、先づ地球の何物にして其運転の如何なるを察して、然る後に此地球と他の天体との関係を明にし、四時循環の理をも説く可きなり。故に云く、物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先づ物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ。君臣の論も猶斯の如し。君と臣との間柄は人と人との関係なり。今この関係に就き条理の見る可きものありと雖ども、其条理は偶ま世に君臣なるもの有て然る後に出来たるものなれば、此条理を見て君臣を人の性と云ふ可らず。若しこれを人の性なりと云はゞ、世界万国、人あれば必ず君臣なかる可らざるの理なれども、事実に於て決して然らず。凡そ人間世界に父子夫婦あらざるはなし、長幼朋友あらざるはなし。此四者は人の天稟に備はりたる関係にて、これを其性と云ふ可しと雖ども、独り君臣に至ては地球上の某国に其関係なき処あり、方今民庶会議の政府を立たる諸国、即是なり。此諸国には君臣なしと雖ども、政府と人民との間に各其義務ありて、其治風或は甚だ美なるものあり。天に二日なし地に二王なしとは孟子の言なれども、目今現に無王の国ありて、然も其国民の有様は遥に唐虞(とうぐ)三代の右に出るものあるは如何ん。仮に孔孟をして今日に在らしめなば、将(は)た何の面目有てこの諸国の人民を見ん。聖賢の粗漏と云ふ可し。故に立君の政治を主張するものは、先づ人性の何物たるを察して後に君臣の義を説き、其義なるものは果して人の性に胚胎したるもの歟、或は人の生れて然る後に偶然の事情に由て君臣の関係を生じ、此関係に就ての約束を君臣の義と名るもの歟、事実に拠て其前後を詳にせざる可らず。虚心平気深く天理の在る所を求めなば、必ず此約束の偶然に出でたる所以を発明す可し。既に其偶然なるを知らば又随て其約束の便不便を論ぜざる可らず。事物に就て便不便の議論を許すは即ちこれに修治改革を加ふ可きの証なり。修治を加へて変革す可きものは天理に非ず。故に子は父たる可らず、婦は夫たる可らず、父子夫婦の間は変革し難しと雖ども、君は変じて臣たる可し。湯武の放伐、即是なり。或は君臣席を同ふして肩を比す可し。我国の廃藩置県、即是なり。是に由て之を観れば、立君の政治も改む可らずに非ず。唯之を改ると否とに就ての要訣は、其文明に便利なると不便利なるとを察するに在るのみ。《或る西洋学者の説に、君臣は支那日本に限らず、西洋にも「マ−ストル」と「セルウェント」の称あり、即ち君臣の義なりと云ふ者あれども、西洋の君臣と支那日本の君臣とは其義一ならず。彼の「マ−ストル」及び「セルウェント」に当る可き文字なきゆゑ、仮に之を君臣と訳したることなれども、此文字に拘泥す可らず。余輩は古来和漢の人心に認る所の君臣を君臣と云ふなり。譬へば昔我国にて主人を殺す者は磔、家来は手打にするも不苦と云ふ。此主人此家来は即ち君臣なり。封建の時に大名と藩士との間柄などは明なる君臣と云ふ可し。》
前の論に従へば、立君の政治は之を変革して可なり。然ば則ち之を変革して合衆政治を取り、この政治を以て至善の止まる所とする乎。云く、決して然らず。亜米利加の北方に一族の人民あり。今を去ること二百五十年、其種族の先人なる者《「ピルグリム・フハアザス」を云ふ。其人員百一人にて、英国を去りしは千六百二十年のことなり。》英国に於て苛政に苦み、君臣の義を厭(いとひ)尽して自から本国を辞し、去て北亜米利加の地方に来り、千辛万苦を嘗めて漸く自立の端を開きしことあり。即ち其地は「マッサチュセット」の「プリマウス」にして、其古跡今尚存せり。爾後有志の輩、跡を追ふて来り、本国より家を移す者甚だ多く、処を撰び居を定めて「ニウエンゲランド」の地方を開き、人口漸く繁殖し、国財次第に増加し、千七百七十五年に至ては既に十三州の地を占め、遂に本国の政府に背き、八年の苦戦、僅に勝利を得て、始て一大独立国の基を開きたり。即ち今の北亜米利加合衆国、是なり。抑も此国の独立せし由縁は、其人民敢て私を営むに非ず、敢て一時の野心を逞ふするに非ず。至公至平の天理に基き、人類の権義を保護し、天与の福祚(ふくそ)を全ふせんがためのみ。其趣旨は当時独立の檄文を読て知る可し。況や其初め、かの一百一名の先人が千六百二十年十二月二十二日風雪の中に上陸して海岸の石上に足を止めし其時には、豈一点の私心あらんや。所謂本来無一物なるものにて、神を敬し人を愛するの外、余念なきこと既に明なり。今此人の心事を推て計るに、其暴君汚吏を嫌ふは固より論を俟ず、或は全世界に政府なるものを廃却して其痕跡なからしめんとする程の素志なる可し。二百五十年以前既にこの精神あり。次で千七百七十年代独立の戦争も、此精神を承けてこれを実に顕はしたるものならん。戦争終て後に政体を作りたるも此精神に基きしことならん。爾後国内に行はるゝ百工商売政令法律等、都て人間交際の道も皆此精神を目的として之に向ひしことならん。然ば則ち合衆国の政治は独立の人民其気力を逞ふし、思ひのまゝに定めたるものなれば、其風俗純精無雑にして、真に人類の止る可き所に止り、安楽国土の真境を摸し出したるが如くなる可き筈なるに、今日に至て事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行ふ可し、其暴行の寛厳は立訓独裁の暴行に異ならずと雖ども、唯一人の意に出るものと衆人の手に成るものと其趣を異にするのみ。又合衆国の風俗は簡易を貴ぶと云へり。簡易は固より人間の美事なりと雖ども、世人簡易を悦べば簡易を装ふて世に佞する者あり、簡易を仮て人を嚇する者あり。猶かの田舎児が訥朴を以て人を欺くが如し。又合衆国にて賄賂を禁ずるの法甚だ密なりと雖ども、之を禁ずること愈密なれば其行はるゝことも亦愈甚し。其事情は在昔日本にて博奕を禁ずることも最も厳にして、其流行最も盛なりしが如し。是等の細件を枚挙すれば際限なしと雖ども、今姑くこれを擱き、世論に合衆政治を公平なりとする所以は、其国民一般の心を以て政を為し、人口百万人の国には百万の心を一に合して事を議定するゆゑ公平なりと云ふことならん。然るに事実に於て大に差支あり。爰に其一箇条を示さん。合衆政治にて代議士を撰ぶに、入札を用ひて多数の方に落札するの法あり。多数とあれば一枚多きも多数なるゆゑ、万一国中の人気二組に分るゝことありて、百万の人口の内より一組を五十一万人とし一組を四十九万人として札を投ずれば、撰挙に当る人物は必ず一方に偏して、四十九万人の人は最初より国議に与るを得ざる訳けなり。又この撰挙に当たる代議士の数を百人として、議院に出席し大切なる国事を議定するときに、例の如く入札を用ひて五十一人と四十九人との差あれば、是亦五十一人の多数に決せざる可らず。故に此決議は全国民中の多数に従ふに非ず、多数中の多数を以て決し、其差、極て少なきものなれば、大数国民四分一の心を以て他の四分の三を制するの割合なり。之を公平と云ふ可らず(「ミル」氏代議政治論の内)。此他代議政治の事に就ては頗る議論の入組たるものあり。容易に其得失を断ず可らず。又立君の政治には政府の威を以て人民を窘るの弊あり。合衆の政治には人民の説を以て政府を煩はすの患あり。故に政府或は其煩はしきに堪へざれば、乃ち兵力に依頼して遂に大に禍を招くことあり。合衆政治に限りて兵乱少なしと云ふ可らず。近くは千八百六十一年売奴の議論よりして合衆国の南北に党類を分ち、百万の市民忽ち兇器を取て古来未曾有の大戦争を開き、兄弟相屠り同類相残(そこな)ひ、内乱四年の間に財を費し人を失ふこと殆ど其数を計る可らず。元と此戦争の起る原因は、国内上流の士君子、売奴の旧悪習を悪み、天理人道を唱へて事件に及びしことにて、人間界の一美談と称す可しと雖ども、其事一度び起れば、事の枝末に又枝末を生じ、理と利と相混じ、道と慾と相乱れ、遂には本趣意の在る所を知る可らずして、其事跡に現はれたるものを見れば、必竟自由国の人民、相互に権威を貪り其私を逞ふせんと欲するより外ならず。其状恰も天上の楽園に群鬼の闘ふが如くなり。若し地下の先人をして知ることあらしめなば、今この衆鬼子の戦ふを見てこれを何とか云はん。戦死の輩も黄泉に赴くと雖ども、先人を見るに顔色なかる可し。又英国の学士「ミル」氏著述の経済書に云く、或人の説に、人類の目的は唯進て取るに在り、足以て踏み手以て推し、互に踵を接して先を争ふ可し、是即ち生産進歩のために最も願ふ可き有様なりとて、唯利是争ふを以て人間最上の約束と思ふ者なきに非ざれども、余が所見にては甚だこれを悦ばず、方今世界中にてこの有様を事実に写出したる処は亜米利加の合衆国なり、「コウカス」人種《白人種》の男子相合し、不正不公の覊軛を脱して別に一世界を開き、人口繁殖せざるに非ず、財用富饒ならざるに非ず、土地も亦広くして耕すに余あり、自主自由の権は普く行はれて国民又貧の何物たるを知らず、斯る至善至美の便宜を得ると雖ども、其一般の風俗に顕はれたる成跡を見れば亦怪む可し、全国の男児は終歳馳駆(ちく)して金円を逐ひ、全国の婦人は終身孜々として此逐円の男子を生殖するのみ、これを人間交際の至善と云はん乎、余はこれを信ぜずと。以上「ミル」氏の説を見ても亦以て合衆国の風俗に就き其の一斑を窺知るに足る可し。
右所論に由て之を観れば、立君の政治必ずしも良ならず、合衆の政治必ずしも便ならず。政治の名を何と名るも必竟人間交際中の一箇条たるに過ぎざれば、僅に其一箇条の体裁を見て文明の本旨を判断す可らず。其体裁果して不便利ならば之を改るも可なり、或は事実に妨なくば之を改めざるも可なり。人間の目的は唯文明に達するの一事あるのみ。之に達せんとするには様々の方便なかる可らず。随て之を試み随て之を改め、千百の試験を経て其際に多少の進歩を為す可きものなれば、人の思想は一方に偏す可らず。綽々(しやくしやく)然として余裕あらんことを要するなり。凡そ世の事物は試みざれば進むものなし。仮令試てよく進むも未だ其極度に達したるものあるを聞かず。開闢の初より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり。諸国の政治も今正に其試験中なれば遽に其良否を定む可らざるは固より論を俟たず。唯其文明に益すること多きものを良政府と名け、之に益すること少なき歟、又は之を害するものを名けて悪政府と云ふのみ。故に政治の良否を評するには、其国民の達し得たる文明の度を測量してこれを決定す可し。世に未だ至文至明の国あらざれば、至善至美の政治も亦未だある可らず。或は文明の極度に至らば何等の政府も全く無用の長物に属す可し。若し夫れ然るときは、何ぞ其体裁を撰ぶに足らん、何ぞ其名義を争ふに足らん。今の世の文明、其進歩の途中に在れば、政治も亦進歩の途中に在ること明なり。唯各国互に数歩の前後あるのみ。英国と「メキシコ」とを比較して、英の文明右に出でなば其政治も亦右に出ることならん。合衆国の風俗便宜しからざるも、支那の文明に比してこれに優る所あらば、合衆国の政治は支那よりも良きことならん。故に立君の政治も共和の政治も、良なりと云へば共に良なり、不良なりと云へば共に不良なり。且政治は独り文明の源に非ず。文明に従て其進退を為し、文学商売等の諸件と共に、文明中の一局を働くものなりとのことは、前既に之を論じたり。故に文明は譬へば鹿の如く、政治等は射者の如し。射者固より一人に非ず、其射者も亦人々流を異にす可し。唯其目途とする所は鹿を射てこれを獲(う)るに在るのみ。鹿をさへ獲れば、立てこれを射るも、坐してこれを射るも、或は時宜に由り赤手(素手)を以て之を捕るも妨あることなし。特(ひと)り一家の射法に拘泥して、中(あ)たる可き矢を射ず、獲べき鹿を失ふは、田猟に拙なるものと云ふ可し。
第四章一国人民の智徳を論ず

 

前章に文明は人の智徳の進歩なりと云へり。然ば則ち爰に有智有徳の人あらん、これを文明の人と名く可きや。云く、然り、これを名けて文明の人と云ふ可し。然りと雖ども此人の住居する国を目して文明の国と名く可きや否は今だ知る可らざるなり。文明は一人の身に就て論ず可らず、全国の有様に就て見る可きものなり。今西洋諸国を文明と云ひ亜細亜諸国を半開と云ふと雖ども、二、三の人物を挙てこれを論ずれば、西洋にも頑陋至愚の民あり、亜細亜にも智徳俊英の士あり。然り而して西洋を文明とし亜細亜を不文とするものは、西洋に於てはこの至愚の民、其愚を逞ふすること能はず、亜細亜に於てはこの俊英の士、其智徳を逞ふすること能はざるを以てなり。其これを逞ふするを得ざるは何ぞや。一人の智愚に由るに非ず、全国に行はるゝ気風に制せらるればなり。故に文明の在る所を求めんとするには、先づ其国を制する気風の在る所を察せざる可らず。且其気風は即ち一国の人民に有する智徳の現像にして、或は進み或は退き、或は増し或は減じ、進退増減瞬間も止むことなくして恰も全国運動の源なるが故に、一度びこの気風の在る所を探得れば天下の事物一として明瞭ならざるはなく、其利害得失を察してこれを論ずること物を嚢中に探るよりも易かる可し。
右の如くこの気風なるものは一人の気風に非ずして全国の気風なれば、今一場の事に就てこれを察せんとするも、目見る可らず耳聞く可らず、或は適(たまた)まこれを見聞きしたることありと云ふも、其所見所聞に随ひ常に齟齬を生じて事の真面目を断ずるに足らず。譬へば一国の山沢を計るには、其国中に布在せる山沢の坪数を測量し、其総計を記してこれを山国と名け又は沢国と名く可し、稀に大山大沢あればとて遽に臆断してこれを山国沢国と云ふ可らざるが如し。故に全国人民の気風を知り其智徳の趣を探らんとするには、其働の相集りて世間一般の実跡に顕はるゝものを見てこれを察せざる可らず。或は此智徳は人の智徳に非ずして国の智徳と名く可きものなり。蓋し国の智徳とは国中一般に分賦せる智徳の全量を指して名を下だしたるものなればなり。既に其量の多少を知れば其進退増減を察し其運動方向を明にするも亦難きに非ず。抑も智徳の運動は恰も大風の如く又河流の如し。大風北より南に吹き、河水西より東に流れ、其緩急方向は高き処より眺(目+永)て明にこれを見る可しと雖ども、退て家の内に入れば風なきが如く、土堤の際を見れば水流れざるが如し。或は甚しくこれを妨るものあれば、全く其方向を変じて逆に流るゝこともあり。然りと雖ども其逆に流るゝはこれを妨ぐるものありて然るものなれば、局処の逆流を見て河流の方向を臆断し難し。必ず其所見を高遠にせざる可らず。譬へば経済論に、富有の基は正直と勉強と倹約との三箇条に在りと云へり。今西洋の商人と日本の商人とを比較して其商売の趣を見るに、日本の商人必ずしも不正に非ず、亦必ずしも懶惰に非ず、加之其質素倹約の風に至ては遥に西洋人の及ばざる所あり。然るに一国商売の事跡に顕るゝ貧富に就て見れば、日本は遥に西洋の諸国に及び難し。又支那は往古より礼儀の国と称し、其言或は自負に似たれども、事に実あらざれば名も亦ある可らず。古来支那には実に礼儀の士君子ありて其事業称す可きもの少なからず。今日に至ても其人物乏しきに非ざる可しと雖ども、全国の有様を見れば人を殺し物を盗む者は甚だ多く、刑法は極て厳刻なれども罪人の数は常に減ずることなし。其人情風俗の卑屈賎劣なるは真に亜細亜国の骨法を表し得たるものと云ふ可し。故に支那は礼儀の国に非ず、礼儀の人の住居する国と云ふ可きなり。
人の心の働は千緒万端、朝は夕に異なり、夜は昼に同じからず。今日の君子は明日の小人と為る可し、今年の敵は明年の朋友と為る可し。其機変愈出れば愈奇なり。幻の如く魔の如く、思議す可らず測量す可らず。他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず、夫婦親子の間と雖ども互に其心機の変を測る可らず。啻に夫婦親子のみならず、自己の心を以て自からよく其心の変化を制するに足らず。所謂今吾は古吾に非ずとは即是れなり。其情状恰も晴雨の測る可らざるが如し。昔木下藤吉主人の金六両を攘て出奔し、此六両の金を武家奉公の資と為して始て織田信長に仕へ、次第に立身するに従て丹羽柴田の名望を慕ひ、羽柴秀吉と姓名を改めて織田氏の隊長と為り、其後無窮の時変に遭ひ、或は敗し或は成り、機に投じ変に応じて、遂に日本国中を押領し、豊臣太閤の名を以て全国の政権を一手に握り、今日に至るまでも其功業の盛なるを称ぜざるものなし。然りと雖ども初め藤吉が六両の金を攘て出奔するとき、豈日本国中を押領するの素志あらんや。既に信長に仕へし後も僅に丹羽柴田の名望を羨て自から姓名をも改めたるに非ずや。其志の小なること推て知る可し。故に主人の金を攘て縛(ばく)に就かざりしは盗賊の身に於て望の外のことなり。次で信長に仕て隊長と為りしは藤吉の身に於て望の外のことなり。又数年の成敗を経て遂に日本国中を押領せしは羽柴秀吉の身に於て望の外のことなり。今此人が太閤の地位に居て顧て前年六両の金を攘みし時の有様を回想せば、生涯の事業一として偶然に成らざるものなく、正に是れ夢中又夢に入るの心地なる可し。後世の学者豊太閤を評する者、皆其豊太閤たりし時の言行を以て其一生の人物を証せんとするが故に大なる誤解を生ずるなり。藤吉と云ひ羽柴と云ひ豊太閤と云ふも、皆一人生涯の間の一段にて、藤吉たるときは藤吉の心あり、羽柴たるときは羽柴の心あり、太閤たるに至れば自から又太閤の心ありて、其心の働、始中終の三段に於て一様なる可らず。尚細にこれを論ずれば、生涯の心の働は千段にも万段にも区別して千状万態の変化を見る可し。古今の学者此理を知らずして、人物を評するに当り其口吻として、某は幼にして大志ありと云ひ、某は三歳のときに斯の奇言を発したりと云ひ、某は五歳のときに斯の奇行ありと云ひ、甚しきは生前の吉祥を記し、又は夢を説て人の言行録の一部と為すものあるに至れり。惑へるも亦甚しと云ふ可し。《世の正史と称する書中に、豊太閤の母は太陽の懐に入るを夢みて妊娠し、後醍醐帝は南木の夢に感じて楠氏を得たりと云ひ、又漢の高祖は竜の瑞を得て生れ其顔竜に似たりと云ふ。此類の虚誕妄説を計れば和漢の史中枚挙に遑あらず。世の学者は此妄説を唱て啻に他人を誑かすのみならず、己も亦これに惑溺して自から信ずる者の如し。気の毒千万なりと云ふ可し。必竟古を慕ふの痼疾よりして妄に古人を尊祟し、其人物の死後より遥に其事業を見て之を奇にし、今人の耳目を驚かして及ぶ可らざるものゝ如くせんがために、牽強附会の説を作りたるのみ。これを売卜者流の妄言と云て可なり。》抑も人たる者は其天賦と教育とに由り、自から其志操の高き者もあり或は賎しき者もありて、其高き者は高き事に志し、其賎しき者は賎しき事に志し、其志操に大体の方向あるは固より論を俟たずと雖ども、今こゝに論ずる所は大志ある者とて必ずしも大業を成すに非ず、大業を成す者とて必ずしも幼年の時より生涯の成功を期するに非ず、仮令ひ大体の志操は方向を定るも、其心匠と事業とは随て変じ随て進み、進退変化窮りなく、偶然の勢に乗じて遂に大事業をも成すものなりとの次第を記したるなり。学者此趣意を誤解する勿れ。
前の所論に由てこれを観れば、人の心の変化を察するは人力の及ぶ所に非ず、到底(ツマリ)其働は皆偶然に出て更に規則なきものと云て可ならん乎。答云く、決して然らず。文明を論ずる学者には自から此変化を察するの一法あり。この法に拠てこれを求れば、人心の働には啻に一定の規則あるのみならず、其定則の正しきこと実物の方円を見るが如く、版に押したる文字を読むが如く、これを誤解せんと欲するも得て誤解す可らず。蓋し其法とは何ぞや。天下の人心を一体に視做して、久しき時限の間に広く比較して、其事跡に顕はるゝものを証するの法、即是れなり。譬へば晴雨の如きも朝の晴は以て夕の雨を卜す可らず、況や数十日の間に幾日の晴あり幾日の雨ありと一定の規則を立てんとするも人智の及ぶ所に非ず。されども一年の間に晴雨の日を平均して計れば、晴は雨よりも多きこと知る可し。又これを一処の地方にて計るよりも広く一州一国に及ぼすときは、其晴雨の日数愈精密なる可し。又この実験を拡て遠く世界中に及ぼし、前数十年と後数十年との晴雨を計て其日数を比較しなば、前後必ず一様にして数日の差もなかる可し。或はこれを百年に及ぼし千年に及ぼすことあらば、正しく一分時の差なきに至る可し。人心の働も亦斯の如し。今一身一家に就て其人の働を察すれば更に規則の存するを見ずと雖ども、広く一国に就てこれを求れば其規則の正しきこと彼の晴雨の日数を平均して其割合の精密なるに異ならず。某の国某の時代には、其国の智徳この方向に赴き、或は此の原因に由て此の度に進み、或は彼の故障に妨げられて彼の度に退きたりと、恰も有形の物に就て其進退方向を見るが如し。英人「ボックル」氏の英国文明史に云く、一国の人心を一体と為して之を見れば其働に定則あること実に驚くに堪たり、犯罪は人の心の働なり、一人の身に就てこれを見れば固より其働に規則ある可らずと雖ども、其国の事情に異変あるに非ざれば罪人の数は毎年異なることなし、譬へば人を殺害する者の如きは多くは一時の怒に乗ずるものなれば、一人の身に於て誰か預(あらかじ)めこれを期し、来年の何月何日に何人を殺さんと自から思慮する者あらんや、然るに仏蘭西全国にて人を殺したる罪人を計るに、其数毎年同様なるのみならず、其殺害に用ひたる器の種類までも毎年異なることなし、尚これよりも不思議なるは自殺する者なり、抑も自殺の事柄たるや、他より命ず可きに非ず、勧む可きに非ず、欺てこれに導く可らず、劫(おびやか)してこれを強ゆ可らず、正に一心の決する所に出るものなれば、其数に規則あらんとは思ふ可らず、然るに千八百四十六年より五十年に至るまで、毎年竜動(ろんどん)に於て自殺する者の数、多きは二百六十六人、少なきは二百十三人にして、平均二百四十人を定りの数とせりと。以上「ボックル」氏の論なり。又こゝに近く一例を挙て云はん。商売上に於て物を売る者は、これを客に強ひて買はしむ可らず。これを買ふと買はざるとは全く買主の権に在り。然るに売物の仕入を為す者は、大抵世間の景気を察して常に余計の品を貯ることなし。米麦反物等は腐敗の恐もなく或は仕入に過分あるも即時に損亡を見ずと雖ども、暑中に魚肉又は蒸菓子等を仕入るゝ者は、朝に仕入れて夕に売れざれば立どころに全損を蒙る可し。然るに暑中試に東京の菓子屋に行き蒸菓子を求れば、終日これを売り、日暮に至れば品のありたけを売払て、夜に入り残品の腐敗せしものあるを聞かず。其都合よきこと正しく売主と買主と預め約束せしが如く、彼の日暮に品のありたけを買ふ人は、恰も自分の便不便は擱き、唯菓子屋の仕入に余あらんことを恐れてこれを買ふものゝ如し。豈奇ならずや。今菓子屋の有様は斯の如しと雖ども、退て市中の毎戸に至り、一年の間に幾度び蒸菓子を喰ひ、何れの店にて幾許の品を買ふやと尋ねなば、人皆これに答ること能はざる可し。故に蒸菓子を喰ふ人の心の働は一人に就て見る可らずと雖ども、市中の人心を一体にしてこれを察すれば、其これを喰ふ心の働には必ず定則ありて、明に其進退方向を見る可きなり。
故に天下の形勢は一事一物に就て臆断す可きものに非ず。必ずしも広く事物の働を見て一般の実跡に顕はるゝ所を察し、此と彼とを比較するに非ざれば真の情実を明にするに足らず。斯の如く広く実際に就て詮索するの法を、西洋の語にて「スタチスチク」と名く。此法は人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠く可らざるものにて、近来西洋の学者は専ら此法を用ひて事物の探索に所得多しと云ふ。凡そ土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、病に罹る者、死する者等、一々其数を記して表を作り、此彼相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり。譬へば英国にて毎年婚姻する者の数は穀物の価に従ひ、穀物の価貴ければ婚姻少なく、其価下落すれば婚姻多く、嘗て其割合を誤ることなしと云へり。日本には未だ「スタチスチク」の表を作る者あらざれば之を知る可らずと雖ども、婚姻の数は必ず米麦の価に従ふことなる可し。男女室に居るは人の大倫なり(結婚は人生の重大事である『孟子』万章上二)とて、世人皆其礼を重んじ軽率に行ふ可きものに非ず。当人相互ひの好悪もあり、身分貧富の都合もあり、父母の命にも従はざる可らず、媒妁の言をも待たざる可らず、其他百般の事情に由り、此も彼も都合よくして其縁談の整ふはこれを偶然と云はざるを得ず。実に其然るを図らずして然るものゝ如し。世に婚姻を奇縁と云ひ、又は出雲の大社結縁の神説あるも、皆婚姻の偶然に出るを証したるものなり。然るに今其実に就てこれを見れば決して偶然に非ず、当人の意に由て成る可らず、父母の命に従て整ふ可らず、媒妁の能弁と雖ども結縁の神霊と雖ども、世間一般の婚姻を如何ともすること能はず。当人の心をも、父母の命をも、媒妁の言をも、大社の神力をも、概してこれを制圧し、自由自在にこれを御して、或は世の縁談を整はしめ、或はこれを破れしむるものは、世間唯有力なる米の相場あるのみ。
此趣意に従て事物を詮索すれば、其働の原因を求るに付き大なる便利あり。抑も事物の働には必ず其原因なかる可らず。而してこの原因を近因と遠因との二様に区別し、近因は見易くして遠因は弁じ難し。近因の数は多くして遠因の数は少なし。近因は動もすれば混雑して人の耳目を惑はすことあれども、遠因は一度び之を探得れば確実にして動くことなし。故に原因を探るの要は近因より次第に遡て遠因に及ぼすに在り。其遡ること愈遠ければ原因の数は愈減少し、一因を以て数様の働を説く可し。今水に沸騰の働を起すものは薪の火なり、人に呼吸の働を生ずるものは空気なり。故に空気は呼吸の原因にして薪は沸騰の原因なれども、唯この原因のみを探得るも未だ詮索を尽したりとするに足らず。元来この薪の燃る所以は薪の質中にある炭素と空気中の酸素と抱合して熱を発するに由り、人の呼吸する所以は空気の中より酸素を引き肺臓に於て血中過剰の炭素と親和して又これを吐出すに由るものなれば、薪と空気とは唯近因にして其遠因は則ち酸素なるものあり。故に水の沸騰と人の呼吸とは其働の趣も異なり其近因も亦異なりと雖ども、尚一歩を進め其遠因なる酸素を得て、始て沸騰の働と呼吸の働とを同一の原因に帰して確実なる議論を定む可きなり。前に云へる世の婚姻の如きも、其近因を云へば当人の心、父母の命、媒妁の言、其他諸般の都合に由て成るものゝ如しと雖ども、この近因にては未だ事情を詳にするに足らざるのみならず、却て混雑を生じて人の耳目を惑はすことあり。乃ちこの近因を捨て、進て遠因のある所を探り、食物の価なるものを得て、始て婚姻の多寡を制する真の原因に逢ひ、確実不抜の規則を見るなり。
又一例を挙て云はん。こゝに酒客あり、馬より落て腰を打ち、遂に半身不随の症に陥りたり。之を療するの法如何す可きや。此病の原因は落馬なりとて、其腰に膏薬を帖し、専ら打撲治療の法を施して可ならん乎。若し然る者はこれを庸医(ようい薮医者)と云はざる可らず。畢竟落馬は唯この病の近因のみ。其実は多年飲酒の不養生に由り、既に脊髄の衰弱を起して正にこの病症を発せんとするときに当り、会(たまた)ま落馬を以て全身を激動しこれがため頓(とみ)に半身の不随を発したるのみ。故にこの病を療するの術は、先づ飲酒を禁じて病の遠因なる脊髄の衰弱を回復せしむるの在るのみ。少しく医学に志す者は是等の病原を弁じて其療法を施すこと容易なれども、世の文明を論ずる学者に至ては則ち然らず、比々皆庸医の類のみ。近く耳目の聞見する所に惑溺して事物の遠因を索(もとむ)るを知らず、此に欺かれ彼に蔽はれ、妄に小言を発して恣に大事を行はんとし、寸前暗黒、暗夜に棒を振るが如し。其本人を思へば憐む可し、世の為を思へば恐る可し。慎まざる可らず。
前段に論ずる如く、世の文明は周ねく其国民一般に分賦せる智徳の現像なれば、其国の治乱興廃も亦一般の智徳に関係するものにて、二、三の人の能する所に非ず。全国の勢は進めんとするも進む可らず、留めんとするも留む可らず。左に歴史の二、三箇条を掲げて其次第を示さん。元来理論中に史文を用れば、其文章長くして或は読者をして厭はしむるの恐なきに非ざれども、史に拠て事を説くは、小児に苦薬を与ふるに砂糖を和して其口を悦ばしむるが如し。蓋し初学の人の精神には無形の理論を解すること甚だ易からず、故に史論に交へて其理を示すときは、自から了解を速にするの便利あればなり。窃に和漢の歴史を按ずるに、古より英雄豪傑の士君子、時に遇ふ者極て稀なり。自から之を歎息して不平を鳴らし、後世の学者も之を追悼して涙を垂れざるものなし。孔子も時に遇はずと云ひ、孟子も亦然り。道真は筑紫に謫せられ、正成は湊川に死し、是等の例は枚挙に遑あらず。古今遇ま世に功業を成す者あれば之を千歳一遇と称す。蓋し時に遇ふの難きを評したるものなり。然り而して彼の所謂時なるものは何物を指して云ふ乎。周の諸侯よく孔孟を用ひて国政を任じたらば必ず天下を太平に治む可き筈なるに、之を用ひざるは当時の諸侯の罪なりと云ふ乎。道真の遠謫、正成の討死は、藤原氏と後醍醐天皇の罪なりと云ふ乎。然ば則ち時に遇はずとは二、三の人の心に遇はずと云ふことにて、其時なるものは唯二、三の人の心を以て作る可きものならん乎。若し周の諸侯の心をして偶然に孔孟を悦ばしめ、後醍醐天皇をして楠氏の策に従はしめなば、果して各其事を成して、今の学者が想像する如き千歳一遇の大功を奏したることならん乎。所謂時とは二、三の人心と云ふに異ならざる乎。時に遇はずとは英雄豪傑の心と人君の心と齟齬すると云ふ義ならん乎。余輩の所見は全く之に異なり。孔孟の用ひられざるは周の諸侯の罪に非ず、諸侯をして之を用ひしめざるものあり。楠氏の討死は後醍醐天皇の不明に非ず、楠氏をして死地に陥らしめたるものは別にこれあり。蓋し其これを、せしめたる、ものとは何ぞや。即ち時勢なり。即ち当時の人の気風なり。即ち其時代の人民に分賦せる智徳の有様なり。請ふ試に之を論ぜん。天下の形勢は猶蒸気船の走るが如く、天下の事に当る者は猶航海者の如し。千「トン」の船に五百馬力の蒸気機関を仕掛け、一時に五里を走て十日に千二百里の海を渡る可し。之を此蒸気船の速力とす。如何なる航海者にて如何なる工夫を運らすも、此五百馬力を増して五百五十馬力と為す可らず。千二百里の航海を早くして九日に終るの術ある可らず。航海者の職掌は唯其機関の力を妨げずして運転の作用を逞ふせしむるに在るのみ。或は二度の航海に初は十五日を費し後には十日にて達したることあらば、こは後の航海者の巧なるに非ず、初度の航海者の拙にして蒸気の力を妨げたる証なり。人の拙には限ある可らず。此蒸気を以て十五日も費す可し二十日も費す可し、或は其極に至らば全く働なきものと為すこともある可しと雖ども、人の巧を以て機関の本然になき力を造るの理は万々ある可らず。世の治乱興廃も亦斯の如し。其大勢の動くに当て、二、三の人物国政を執り天下の人心を動かさんとするも決して行はる可きことに非ず。況や其人心に背て独り己の意に従はしめんとするものに於てをや。其難きこと船に乗て陸を走らんとするに異ならず。古より英雄豪傑の世に事を成したりと云ふは、其人の技術を以て人民の智徳を進めたるに非ず、唯其智徳の進歩に当てこれを妨げざりしのみ。試に見よ、天下の商人、夏は氷を売り冬はたどんを売るに非ずや。唯世間の人心に従ふのみ。今冬に当て氷の店を開き、夏の夜にたどんを売る者あらば、人誰かこれを愚者と云はざらん。然り而して彼の英雄豪傑の士に至ては独り然らず、風雪の厳寒に氷を売らんとして之を買ふ者あらざれば、則ち其買はざる者に罪を帰して独り自から不平を訴るは何ぞや。思はざるの甚しきものなり。英雄豪傑、氷の売れざるを患ひなば、之を貯て夏の至るを待ち、其これを待つの間に勉て氷の功能を説き、世人をして氷なるものあるを知らしむるに若かず。果して其物に実の功能あれば、時節至てこれを買ふ者もある可し。或は又実の功能もなくして到底売る可き目途なくば、断じて其商売を止む可きなり。
周の末世に及て天下の人皆王室礼儀の束縛を悦ばず、其束縛漸く解くるに従ひ、諸侯は天子に背き、大夫は諸侯を制し、或は陪臣国命を執る者ありて、天下の政権は四分五裂、正に是れ封建の貴族権を争ふの時節にて、又唐虞辞譲(禅譲)の風を慕ふ者なく、天下唯貴族あるを知て人民あるを知らざるなり。故に貴族の弱小なる者を助けて其強大なる者を制すれば、則ち天下の人心に適して一世の権柄を執る可し。斉桓(斉の桓公)晋文(晋の文公)の霸業、即是なり。此時に当て孔子は独り堯舜の治風を主張し、無形の徳義を以て天下を化するの説を唱ふれども、固より事実に行はる可らず。当時を以て孔子の事業を見るに、彼の管仲(桓公の宰相)の輩が時勢に順ふの巧なるに及ばざること遠し。孟子に至ては其事益難し。当時封建の衆貴族漸く合一の勢に赴き、弱を助け強を制するの霸業は又行はれずして、強は弱を滅ぼし大は小を併するの時節と為り、蘇秦張儀の輩正に四方に奔走して、或は其事を助け或は之を破り、合縦連衡の戦争に忙はしき世なれば、貴族と雖ども自から其身を安んずるを得ず。奈何ぞ人民を思ふに遑あらんや、奈何ぞ五畝の宅(国民の暮し『孟子』梁恵上三)を顧るに遑あらんや。唯全国の力を攻防の事に用ひて君長一己の安全を謀るのみ。仮令ひ或は明主仁君あるも、孟子の言を聞て仁政を施せば政と共に身を危ふするの恐あり、即ち滕(春秋戦国時代の小国)の斉楚に介(はさ)まりて孟子に銘策なかりしも其一証なり(梁恵下一三)。余輩敢て管仲蘇張に左袒して孔孟を擯斥するに非ずと雖ども、唯此二大家が時勢を知らず、其学問を当時の政治に施さんとして、却て世間の嘲を取り、後世に益することなきを悲むのみ。孔孟は一世の大学者なり、古来稀有の思想者なり。若し此人をして卓見を抱かしめ、当時に行はるゝ政治の範囲を脱して恰も別に一世界を開き、人類の本分を説て万代に差支なき教を定ることあらしめなば、其功徳必ず洪大なる可き筈なるに、終身この範囲の内に籠絡せられて一歩を脱すること能はず、其説く所もこれがため自から体裁を失ひ、純精の理論に非ずして過半は政談を交へ、所謂「ヒロソヒイ」の品価を落すものなり。其道に従事する輩は、仮令ひ万巻の書を読むも、政府の上に立て事を為すに非ざれば他に用なきが如く、退て窃に不平を鳴すのみ。豈これを鄙劣(ひれつ)と云はざる可けんや。此学流若し周ねく世に行はれなば、天下の人は悉皆政府の上に立て政を行ふの人にして、政府の下に居て政を被る者はなかる可し。人に智愚上下の区別を作り、己れ自から智人の位に居て愚民を治めんとするに急なるが故に、世の政治に関らんとするの心も亦急なり。遂に熱中煩悶して喪家の狗(世に受け入れられずに落ちぶれた人)の譏を招くに至れり。余輩は聖人のために之を恥るなり。又其学流の道を政治に施すの一事に就ても大なる差支あり。元来孔孟の本説は修心倫常の道なり。畢竟無形の仁義道徳を論ずるものにて、之を心の学と云ふも可なり。道徳も純精無雑なれば之を軽んず可らず。一身の私に於ては其功能極て大なりと雖ども、徳は一人の内に存して、有形の外物に接するの働あるものに非ず。故に無為渾沌にして人事少なき世に在ては人民を維持するに便利なれども、人文の開るに従て次第に其力を失はざるを得ず。然るに今内に存する無形のものを以て外に顕はるゝ有形の政に施し、古の道を以て今世の人事を処し、情実を以て下民を御せんとするは、惑溺の甚しきものと云ふ可し。其時と処とを知らざるは、恰も船を以て陸を走らんとし、盛夏の時節に裘(かはごろも)を求るが如し。到底事実に行はる可らざるの策なり。其明証は数千年の久しき今日に至るまで、孔孟の道を政に施してよく天下を治めたる者なきを以て徴す可し。故に云く、孔孟の用ひられざるは諸侯の罪に非ず、其時代の勢に妨げられたるものなり。後世の政に其道の行はれざるは道の失に非ず、之を施すに時と場所とを誤りたるものなり。周の時代は孔孟に適する時代に非ず、孔孟は此時代に在て現に事を為す可き人物に非ず。其道も後世に於ては政治に施す可き道に非ず、理論家の説《ヒロソヒイ》と政治家の事《ポリチカルマタル》とは大に区別あるものなり。後の学者、孔孟の道に由て政治の法を求る勿れ。此事に就ては書中別に又論ずる所ある可し。
楠氏の死も亦時勢の然らしむるものなり。日本にて政権の王室を去ること日既に久し。保元平治の以前より兵馬の権は全く源平二氏に帰して、天下の武士皆其隷属にあらざるはなし。頼朝、父祖の遺業を継で関東に起り、日本国中一人として之に抗する者なきは、天下の人皆関東の兵力に畏服し、源氏あるを知て王室あるを知らざればなり。北条氏次で政権を執ると雖ども、鎌倉の旧物を改めず。是亦源氏の余光に頼るものなり。北条氏亡て足利氏起るも亦源氏の門閥を以て事を成したる者なり。北条足利の際に当て諸方の武士兵を挙げて、名は勤王と云ふと雖ども、其実は試に関東に抗して功名を謀るものなり。或は此勤王の輩をして果して其意を得せしめなば、必ず又第二の北条たる可し、第二の足利たる可し。天子のために謀れば前門の虎を逐て後門の狼に逢ふが如きのみ。織田豊臣徳川の事跡を見て之を証す可し。鎌倉以後天下に事を挙る者は一人として勤王の説を唱へざるものなくして、事成る後は一人として勤王の実を行ふたるものなし。勤王は唯其事を企る間の口実にして、事成る後の事実に非ず。史に云く、後醍醐天皇北条氏を滅し、首として足利尊氏の功を賞して諸将の上に置き、新田義貞をして之に亜(つ)がしめ、楠正成以下勤王の功臣は之を捨てゝ顧みず、遂に尊氏をして野心を逞ふせしめ、再び王室の衰微を致せりとて、今日に至るまでも世の学者、歴史を読て此一段に至れば切歯扼腕、尊氏の兇悪を憤て天皇の不明を歎ぜざる者なし。蓋し時勢を知らざる者の論なり。此時に当り天下の権柄は武家の手に在て、武家の根本は関東に在り。北条を滅したる者も関東の武士なり、天皇をして位に復せしめたる者も関東の武士なり。足利氏は関東の名家、声望素より高し。当時関西の諸族、勤王の義を唱ると雖ども、足利が向背を改るに非ずんば安ぞよく復位の業を成すを得んや。事成るの日に之を首功と為したるも、天皇の意を以て尊氏が汗馬の労を賞したるに非ず、時勢に従て足利家の名望に報じたるものなり。此一事を見ても当時の形勢を推察す可し。尊氏は初より勤王の心あるに非ず、其権威は勤王のために得たるものに非ず、足利の家に属したる固有の権威なり。其王に勤めたるは一時北条を倒さんがため私に便利なるを以て勤めたれども、既に之を倒せば勤王の術を用ひざるも自家の権威に損する所なし。是れ其反覆窮りなく又鎌倉に拠て自立したる由縁なり。正成の如きは則ち然らず。河内の一小寒族より起り、勤王の名を以て僅に数百人の士卒を募り、千辛万苦奇功を奏したりと雖ども、唯如何せん名望に乏しくして関東の名家と肩を並るに足らず、足利輩の目を以て之を見れば隷属に等しきのみ。天皇固より正成の功を知らざるに非ずと雖ども、人心に戻て之を首功の列に置くを得ず。故に足利は王室を御する者にして、楠氏は王室に御せらるゝ者なり。是亦一世の形勢にて如何ともす可らず。且正成は、もと勤王の二字に由て権を得たる者なれば、天下に勤王の気風盛なれば正成も亦盛なり、然らざれば正成も亦窮するの理なり。然るに今此勤王の首唱たる正成が尊氏の輩に隷属視せられて之を甘んじ、天皇も亦これを如何ともすること能はざるは、当時天下に勤王の気風乏しきこと推て知る可し。而して其気風の乏しき所以は何ぞや。独り後醍醐天皇の不明に由るに非ず。保元平治以来歴代の天皇を見るに、其不明不徳は枚挙に遑あらず。後世の史家諂諛(てんゆ)の筆を運らすも尚よく其罪を庇ふこと能はず。父子相戦ひ兄弟相伐ち、其武臣に依頼するものは唯自家の骨肉を屠らんがためのみ。北条の時代に至ては陪臣を以て天子の廃立を司どるのみならず、王室の諸族互に其骨肉を陪臣に讒して位を争ふに至れり。自家の相続を争ふに忙はしければ、又天下の事を顧るに遑あらず、之を度外に置きしこと知る可し。天子は天下の事に関る主人に非ずして、武家の威力に束縛せらるゝ奴隷のみ。《伏見帝密に北条貞時に敕(勅)して亀山帝の後(子)を立るの不利を説き、帝の皇子を立てゝ後伏見帝と為したりに、伏見の従弟なる後宇多上皇貞時に訴へ、後伏見を廃して後宇多帝の皇子を立たることあり。》後醍醐天皇名君に非ずと云ふも、前代の諸帝に比すれば其言行頗る見る可きものあり。何ぞ独り王室衰廃の罪を蒙るの理あらんや。政権の王室を去るは他より之を奪ふたるに非ず、積年の勢にて由て王室自から其権柄を捨て他をして之を拾はしめたるなり。是即ち天下の人心、武家あるを知て王室あるを知らず、関東あるを知て京師あるを知らざる所以なり。仮令ひ天皇をして聖明ならしむるも、十名の正成を得て大将軍に任ずるも、此積弱の余を承て何事を成す可きや、人力の及ぶ所に非ず。是に由て之を観れば、足利の成業も偶然に非ず、楠氏の討死も亦偶然に非ず、皆其然る所以の源因ありて然るものなり。故に云く、正成の死は後醍醐天皇の不明に因るに非ず、時の勢に因るものなり。正成は尊氏と戦て死したるに非ず、時勢に敵して敗したるものなり。
右所論の如く、英雄豪傑の時に遇はずと云ふは、唯其時代に行はるゝ一般の気風に遇はずして心事の齟齬したることを云ふなり。故に其千歳一遇の時を得て事を成したりと云ふものも、亦唯時勢に適して人民の気力を逞ふせしめたることを云ふのみ。千七百年代に亜米利加合衆国の独立したるも其謀首四十八士の創業に非ず、「ワシントン」一人の戦功に非ず。四十八士の輩は唯十三州の人民に分賦せる独立の気力を事実の有様に顕はし、「ワシントン」は其気力を戦場に用ひたるのみ。故に合衆国の独立は千歳一遇の奇功に非ず、仮令ひ当時の戦に敗して一時は事を誤ることあるも、別に又四百八十士もあり、別に又十名の「ワシントン」もありて、到底合衆国の人民は独立せざる可らざる者なり。近くは四年前仏蘭西と孛魯士(ぷろしや)との戦に、仏の敗走は国帝第三世「ナポレオン」の失策にして、孛の勝利は其宰相「ビスマルク」の功なりと云ふ者あれども、決して然らず。「ナポレオン」と「ビスマルク」と智愚の差あるに非ず。其勝敗の異なりし所以は当時の勢にて、孛の人民は一和して強く、仏の人民は党を分て弱かりしがためのみ。「ビスマルク」は此勢に順て孛人の勇気を逞ふせしめ、「ナポレオン」は仏人の赴く所に逆ふて其人心に戻りたるがためのみ。尚明に其証を示さん。今「ワシントン」を以て支那の皇帝と為し、「ヱルリントン」を以て其将軍と為し、支那の軍勢を率ひて英国の兵隊と戦ふことあらば、其勝敗如何なる可きや。仮令ひ支那に鉄艦大砲の盛あるも、英の火縄筒と帆前船のために打破らる可し。是に由て観れば、戦の勝敗は将帥にも因らず、亦器械にも因らず、唯人民一般の気力に在るのみ。或は数万の勇士を戦に用ひて敗走することあらば、こは士卒の知る所に非ず、将帥の拙劣を以て兵卒の進退を妨げ、其本然の勇気を逞ふせしめざるの罪なり。
又一例を挙て云はん。方今日本の政府にて事務の挙らざるを以て長官の不才に帰し、専ら人才を得んとして此を登用し彼を抜擢して之を試れども、事務の実に変ることなし。尚此人物を不足なりとして乃ち外国人を雇ひ、或はこれを教師と為し或はこれを顧問に備へて事を謀れども、政府の事務は依然として挙ることなし。其事務の挙らざる所に就てこれを見れば、政府の官員は実に不才なるが如く、教師顧問のために雇たる外国人も悉皆愚人なるが如し。然りと雖ども方今政府の上に在る官員は国内の人才なり、又其外国人と雖ども愚人を撰てこれを雇たるものに非ず。然ば則ち事務の挙らざるは別に源因なかる可らず。其源因とは何ぞや。政を事実に施すに当て必ず如何ともす可らざるの事情あり、是れ其源因なり。此事情なるものはこれを名状すること甚だ難しと雖ども、俗に所謂多勢に無勢にて叶はぬと云ふことなり。政府の失策を行ふ由縁は、常にこの多勢に無勢なるものに窘めらるればなり。政府の長官其失策たるを知らざるに非ず。知てこれを行ふは何ぞや。長官は無勢なり、衆論は多勢なり、これを如何ともす可らず。此衆論の由て来る所を尋るに、真に其初発の出所を詳にす可らず。恰も天より降り来るものゝ如しと雖ども、其力よく政府の事務を制御するに足れり。故に政府の事務の挙らざるは二、三の官員の罪に非ず、この衆論の罪なり。世上の人誤て官員の処置を咎る勿れ。古人は先づ君心の非を正だすを以て緊要事と為したれども、余輩の説はこれに異なり。天下の急務は先づ衆論の非を正だすに在り。抑も官員たる者は固より近く国事に接するものなれば、其憂国の心も亦自から深切にして、衆論の非を患ひ百方苦慮して此非を正だすの術を求む可き筈なれども、或は然らずして其官員も亦衆論者中の一人なる歟、又は其論に惑溺してこれを悦ぶ者もあらん。此輩は所謂人を患るの地位に居て、人に患らるゝの事を為す者と云ふ可し。政府の処置に往々自から建てゝ自から毀つが如き失策あるも此輩の致す所なり。是亦国のために如何ともす可らざるの事情なれば、憂国の学者は唯須らく文明の説を主張し、官私の別なく等しく之を惑溺の中に救て、以て衆論の方向を改めしめんことを勉む可きのみ。衆論の向ふ所は天下に敵なし、奈何ぞ政府の区々たるを患ふるに足らん、奈何ぞ官員の瑣々(ささ)たるを咎るに足らん。政府は固より衆論に従て方向を改るものなり。故に云く、今の学者は政府を咎めずして衆論の非を憂ふ可きなり。
或人云く、此一章の趣意に従へば、天下の事物は悉皆天下の人心に任して傍より之を如何ともす可らず、世の形勢は猶寒暑の来往の如く草木の栄枯の如くして毫も人力を加ふ可らざるもの乎、政府の人間に用なく、学者も無用の長物、商人も職人も唯天然に任して、各自から勉む可き職分なきが如し、これを文明進歩の有様と云ふ乎。答て云く、決して然らず。前既に論ずる如く、文明は人間の約束なれば、之を達すること固より人間の目的なり。其これを達するの際に当て各其職分なかる可らず。政府は事物の順序を司どりて現在の処置を施し、学者は前後に注意して未来を謀り、工商は私の業を営て自から国の富を致す等、各職を分て文明の一局を勤るものなり。固より政府と雖ども前後の注意なかる可らず、学者にも現在の仕事なかる可らず、且政府の官員とても学者の内より出るものなれば、此彼の職分同様なる可きに似たりと雖ども、既に官私の界を分ち、其本職を定めて分界を明にすれば、現在と未来との区別なかる可らず。今国に事あれば其事の鋒先きに当て即時に可否を決するは政府の任なれども、平生よく世上の形勢を察して将来の用意を為し、或は其事を来たし或は之を未然に防ぐは学者の職分なり。世の学者或は此理を知らずして漫に事を好み、自己の本分を忘れて世間に奔走し、甚しきは官員に駆使されて目前の利害を処置せんとし、其事を成す能はずして却て学者の品位を落す者あり。惑へるの甚しきなり。蓋し政府の働は猶外科の術の如く、学者の論は猶養生の法の如し。其功用に遅速緩急の別ありと雖ども、共に人身のためには欠く可らざるは同様なり。唯一大緊要は互に其働を妨げずして却て相助け、互に相刺衝して互に相励し、文明の進歩に一毫の碍障を置かざるに在るのみ。
第五章前論の続

 

一国文明の有様は其国民一般の智徳を見て知る可し。前章に云ふ所の衆論とは即ち国内衆人の議論にて、其時代に在て普く人民の間に分賦せる智徳の有様を顕はしたるものなれば、此衆論を以て人心の在る所を窺ふ可しと雖ども、今又この衆論のことに就て二箇条の弁論あり。即ち其第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありと雖ども習慣に由て之を結合せざれば衆論の体裁を成さずとのことなり。其次第左の如し。
第一一人の論は二人の論に勝たず。三人の同説は二人を制す可し。其人数愈多ければ其議論の力も亦愈強し。所謂寡は衆に敵せざるものなり。然りと雖ども此議論の衆寡強弱は、唯才智同等なる人物の間に行はるゝのみ。天下の人を一体に為して之を見れば、其議論の力は人の数の多寡に由らずして智徳の量の多寡に由て強弱あるものなり。人の智徳は猶其筋骨の力の如く、一人にて三人を兼る者あり、或は十人を兼る者あり。故に今衆人を集めて一体と為し、其一体の強弱を計るには唯人数の多少を見てこれを知る可らず。一体の間に分賦せる力の量を測らざる可らず。譬へば百人の人数にて千貫目の物を挙れば、一人の力、各十貫目なれども、人々の力量は必ず同等なる可らず。試に此百人を等分して五十人づゝの二組と為し、この二組の五十人をして各物を挙げしめなば、一組の五十人は七十貫目を挙げ、一組の五十人は三十貫目を挙ることあらん。尚これを四分し又これを八分して之を試みなば、必ず次第に不平均を生じ、其最強の者と最弱の者とを比して、一人よく十人の力を兼る者あるを見ん。依て又其百人の内より屈強なる者二十人を撰て一組と為し、他の八十人を一組と為して之を試みなば、二十人の組は六十貫目を挙げ、八十人の組は僅に四十貫目を挙ぐ可し。今この有様に就て計算するに、人の数を以て見れば二と八との割合なれども、力の量を以て見れば六と四との割合なり。故に力量は人の数に由て定む可らず、其挙る所の物の軽重と其人数との割合を見て之を知る可きなり。
智徳の力は権衡度量を以て計る可らずと雖ども、其趣正しく筋骨の力に異なるの理なし。其強弱の相違に至ては筋力の差よりも尚甚しく、或は一人にて百人を兼ね千人を兼るものもあらん。若し人の智徳をして酒精の如きものならしめなば、必ず目を驚かす奇観ある可し。此種類の人物は十人を蒸溜して、智徳の量、一斗を得たるに、彼の種類の人物は百人を蒸溜して僅に三合を得ることもあらん。一国の議論は人の体質より出るに非ずして其精気より発するものなれば、彼の衆論と唱るものも必ずしも論者の多きのみに由て力あるに非ず、其論者の仲間に分賦せる智徳の分量多きがため、其量を以て人数の不足を補ひ、遂に衆論の名を得たるものなり。欧羅巴の諸国にても人民の智徳を平均すれば、国中文字を知らざる愚民は半に過ぐ可し。其国論と唱へ衆説と称するものは、皆中人以上智者の論説にて、他の愚民は唯其説に雷同し其範囲中に籠絡せられて敢て一己の愚を逞ふすること能はざるのみ。又其中人以上の内にも智愚の差は段々限あることなく、此は彼に勝ち彼は此を排し、始て相接して立所に敗するものあり、久しく互に屹立して勝敗決せざるものあり。千磨百錬、僅に一時の異説を圧し得たるものを、国論衆説と名るのみ。是即ち新聞紙演説会の盛にして衆口の喧しき所以なり。畢竟人民は国の智徳の為に鞭撻せられて、智徳方向を改れば人民も亦方向を改め、智徳党を分てば人民も亦党を分ち、進退集散皆智徳に従はざるはなし。《世間に書画等を悦ぶ者は中人以上字を知て風韻ある人物なり。其これを悦ぶ所以は、古器の歴代を想像し書画運筆の巧拙を比較して之を楽むものなれども、今日に至ては古器書画を貴ぶの風俗洽く世間に行はれて、一丁字を知らざる愚民にても少しく銭ある者は必ず書画を求めて床の間に掛物を掛け、珍器古物を貯へて得意の色を為せる者多し。笑ふ可く亦怪む可しと雖ども、畢竟この愚民も中人以上の風韻に雷同して、識らず知らず此事を為すなり。其外流行の衣裳染物の模様等も皆他人の創意に雷同して之を悦ぶものなり。》近く我日本の事を以て其一証を示さん。前年政府を一新して次で廃藩置県の挙あり。華士族はこれがために権力も利禄も共に失たれども、敢て不平を唱ること能はざるは何ぞや。人或は云く、王政一新は王室の威光に由り、廃藩置県は執政の英断に由て成りしものなりと。是れ時勢を知らざる者の臆断なり。王室若し実の威光あらば其復古何ぞ必ずしも慶応の末年を待たん。早く徳川氏を倒して可なり。或は足利の末に政権を取返すも可なり。復古の機会は必ずしも慶応の末年に限らず。然るに此時に至て始て其業を成し、遂に廃藩の大事をも行ふたるは何ぞや。王室の威光に由るに非ず、執政の英断に由るに非ず、別に其源因なかる可らず。
我国の人民積年専制の暴政に窘められ、門閥を以て権力の源と為し、才智ある者と雖ども門閥に藉(よつ)て其才を用るに非ざれば事を為す可らず。一時は其勢に圧倒せられて全国に智力の働く所を見ず、事々物々皆停滞不流の有様に在るが如くなりしと雖ども、人智発生の力は留めんとして留む可らず、この停滞不流の間にも尚よく歩を進めて、徳川氏の末に至ては世人漸く門閥を厭ふの心を生ぜり。其人物は、或は儒医に隠れ或は著述家に隠れ、或は藩士の内にもあり或は僧侶神官の内にもあり、何れも皆字を知て志を得ざる者なり。其徴候は、天明文化の頃より世に出る著書詩集又は稗史(はいし)小説の中に、往々事に寄せて不平を訴るものあるを見て知る可し。固より其文の上に門閥専制の政を不正なりとて明に議論を立るには非ず、譬へば国学者流は王室の衰微を悲み、漢学者流は貴族執政の奢侈を諷し、又一種の戯作者は慢語放言以て世間を愚弄する等、其文章にも事柄にも取留たる条理なしと雖ども、其の時代に行はるゝ有様を悦ばざるの意は自から言外に顕はるゝものにて、実は本人も訴る所を知らずして不平を訴るなり。其状恰も旧痾(きうあ)身を悩まして自から明に容体を述ること能はずと雖ども、唯其苦痛を訴る者の如し。《都て徳川氏の初、其政権の盛なる時には、世の著述家も其威に圧倒せられて毫も時勢を咎めず、却て幕政に佞するものあり。新井白石の著書、中井竹山の逸史等を見て知る可し。其後文政の頃に至て著したる頼山陽の日本外史には、専ら王政の衰廃を憤り、書中の語気恰も徳川氏に向て其罪を責るが如し。今其然る所以を尋るに、白石竹山は必ずしも幕府の奴隷なるに非ず、山陽は必ずしも天子の忠臣なるに非ず、皆時勢の然らしむる所なり。白石竹山は一時の勢に制せられて筆を逞ふするを得ず、山陽は稍や其束縛を脱して当時に行はるゝ専制の政を怒り、日本外史に藉て其怒気を洩したるのみ。其他和学小説狂詩狂文等の盛なるは特に天明文化の後を最とす。本居、平田、馬琴、蜀山人、平賀源内等の輩、皆有志の士君子なれども、其才力を伸るに地位なくして徒に文事に身を委ね、其事に託して或は尊王の説を唱へ、或は忠臣義士の有様を記し、或は狂言を放て一世を嘲り、強ひて自から不平を慰めたるものなり。》然り而して此国学者流も必ずしも王室の忠僕に非ず、漢学者流も亦必ずしも真実憂世の士君子に非ず。其証拠には、世の隠君子なる者、平居不平を鳴すと雖ども、一旦官途に抜擢せらるれば忽ち其説を変じて不平の沙汰を聞かず、今日の尊王家も五斗米の饒なるに遇へば明日の佐幕家と為り、昨日の町儒者も登用の命を拝すれば今日は得色を顕はす者多し。古今の実験に由て之を見る可し。然ば則ち此和漢の学者流が、徳川の末世に至て尊王憂世の意を筆端に顕はして暗に議論の端を開たるも、多くは其人の本音に非ず、一時尊王と憂世とを名にして以て自己の不平を洩したることならん。されども今其心術の誠なると否と、又其議論の私なると公なるとは姑く擱き、素と此不平の生ずる由縁を尋れば、世の専制門閥に妨げられて己が才力を伸ばすこと能はざるよりして心に憤を醸したるものなれば、人情、専制の下に居るを好まざるの確証は、筆端に顕はるゝ所の語気を見て明々白々たり。唯暴政の盛なる時代には此人情を発露するを得ざるのみ。其これを発露すると否とは、暴政の力と人民の智力と、其強弱如何に在るなり。政府の暴力と人民の智力とは正しく相反対するものにて、此に勢を得れば彼に権を失し、彼に時を得れば此に不平を生じ、其釣合恰も天秤の平均するが如し。徳川氏の政権は終始一の如く盛にして天秤は常に偏重なりしが、末年に及て人智僅に歩を進め、始て其一端に些少の分銅を置くを得たり。かの天明文化の頃より世に行はれたる著書の類は即ちこの分銅と云ふ可きものなり。然りと雖ども此分銅なるもの極て軽量にして固より平均を為すに足らず、況や其平均を破るに於てをや。若し其後に開港の事なからしめなば、何れの時に此平均を倒にして智力の方に権勢を得べきや、識者のよく知る所に非ず。幸にして嘉永年中「ペルリ」渡来の事あり。之を改革の好機会とす。
「ペルリ」渡来の後、徳川の政府にて諸外国と条約を結ぶに及び、世人始て政府の処置を見て其愚にして弱きを知り、又一方には外国人に接して其言を聞き、或は洋書を読み或は訳書を見て益規模を大にし、鬼神の如き政府と雖ども人力を以てこれを倒す可きを悟るに至れり。其事情を形容して云へば、頓に聾盲の耳目を開て始て声色の聞見す可きを知たるが如し。而して始て事の端を開たる者は攘夷論なり。抑も此議論の発する源を尋るに、決して人の私情に非ず、自他の別を明にして自から此国を守らんとするの赤心に出ざるはなし。開闢以来始て外国人に接し、暗黒沈静の深夜より喧嘩囂躁(がうさう)の白昼に出たる者なれば、其見る所の事物悉く皆奇怪にして意に適するものなし。其意は即ち私の意に非ず、日本国と外国との分界をば僅に脳中に想像して、一身以て本国を担当するの意なれば、之を公と云はざるを得ず。固より暗明頓に変じたる際に当り、精神眩惑して其議論に条理の密なる者ある可らず、其挙動も亦暴にして愚ならざるを得ず。概して云へば報国心の粗且未熟なる者なれども、其目的は国の為なるが故に公なり、其議論は外夷を攘ふの一箇条なるが故に単なり。公の心を以て単一の論を唱れば、其勢必ず強盛ならざるを得ず。是即ち攘夷論の初に権を得たる由縁なり。世間の人も一時に之に籠絡せられ、未だ外国交際の利を見ずして先づ之を悪むの心を成し、天下の悪尽(ことごと)く外国の交際に帰して、苟も国内に禍災の生ずるあれば、此も外人の所為と云ひ彼も外人の計略と称し、全国を挙て外国の交際を悦ぶ者なきに至れり。仮令ひ私に之を悦ぶ者あるも世上一般の風に雷同せざるを得ず。然るに幕府は独り此交際の衝に当て外人に接するに稍や条理に拠らざるを得ず。幕府の有司必ずしも外交を好むに非ず、唯外国人の威力と理窟とに答ること能はずして道理を唱る者多しと雖ども、攘夷家の眼を以て視れば此道理は因循姑息のみ。幕府は恰も攘夷論と外国人との中間に介まりて進退惟谷(これきはまる)の有様に陥り、遂に其平均を得ずして益(ますます)弱を示し、攘夷家は益勢を得て憚る所なく、攘夷復古尊王討幕と唱へ、専ら幕府を殪して外夷を払ふの一事に力を尽せり。其際には人を暗殺し家を焼く等、士君子の悦ばざる挙動も少なからずと雖ども、結局幕府を殪すの目的に至ては衆論一に帰し、全国の智力悉く此目的に向て慶応の末年に革命の業を成したるなり。此成行に従へば、革命復古の後には直に攘夷の挙に及ぶ可き筈なれども却て其事なく、又仇とする所の幕府を殪さば則ち止む可き筈なるに、併せて大名士族をも擯斥(ひんせき)したるは何ぞや。蓋し偶然に非ざるなり。攘夷論は唯革命の嚆矢にて、所謂事の近因なる者のみ。一般の智力は初より赴く所を異にし、其目的は復古にも非ず、又攘夷にも非ず、復古攘夷の説を先鋒に用ひて旧来の門閥専制を征伐したるなり。故に此事を起したる者は王室に非ず、其仇とする所の者は幕府に非ず、智力と専制との戦争にして、此戦を企たる源因は国内一般の智力なり。之を事の遠因とす。此遠因なる者は開港以来西洋文明の説を引て援兵と為し、其勢次第に強盛に赴くと雖ども、智戦の兵端を開くには先鋒なかる可らず、是に於てか近因と合して其戦場に向ひ、革命の一挙を終て凱旋したるなり。先鋒の説も一時は勇気を発したれども、凱旋の後に至ては漸く其結構の粗にして久を持すること能はざるを知り、次第に腕力を棄てゝ智力の党に入り、以て今日の勢を成せり。向後この智力に益権を得て、彼の報国心の粗なる者をして密ならしめ、未熟なる者をして熟せしめ、以て我国体を保護することあらば無量の幸福と云ふ可し。故に云く、王政復古は王室の威力に拠るに非ず、王室は恰も国内の智力に名を貸したる者なり。廃藩置県は執政の英断に非ず、執政は恰も国内の智力に役せられて其働を実に施したる者なり。
右の如く全国の智力に由て衆論を成し、其衆論の帰する所にて政府を改め、遂に封建の制度をも廃したることなれども、此衆論に関る人を計れば其数甚だ少し。日本国中の人口を三千万とし、農工商の数は二千五百万よりも多く、士族は僅に二百万に足らず、其他儒医神官僧侶浪人の類を集めて仮に之を士族と視做し、大数五百万人を華士族の党と定め、二千五百万人を平民の党と為し、古より平民は国事に関ることなき風なれば、此度の事に就ても固より之を知らず、故にこの衆論の出る所は必ず士族の党五百万人の内なり。又この五百万人の内にも改革を好む者は甚だ少し。第一これを好まざるの甚しきものは華族なり、次で大臣家老なり、次で大禄の侍なり。此輩は皆改革に由て所損ある者なれば決してこれを好むの理なし。身に才徳なくして家に巨万の財を貯へ、官に在ては高官を占め、民間に在ては富有の名望を得たる人物が、国のために義を唱て財を失ひ身を殺したる者は古来の例に甚だ稀なれば、此度の改革に就ても斯る人物は士族の内にも平民の内にも極て少き筈なり。唯此改革を好む者は、藩中にて門閥なき者か、又は門閥あるも常に志を得ずして不平を抱く者歟、又は無位無禄にして民間に雑居する貧書生歟、何れも皆事にさへ遇へば所得有て所損なき身分の者より外ならず。概して之を云へば改革の乱を好む者は智力ありて銭なき人なり。古今の歴史を見てこれを知る可し。されば此度の改革を企たる者は士族の党五百万の内僅に十分の一にも足らず、婦人小児を除き何程の人数もなかる可し。何処より発したるとも知れず、不図新奇なる説を唱へ出して、何時となく世間に流布し、其説に応ずる者は必ず智力逞しき人物にて、周囲の人は之がために説かれ之がために却(おびやか)され、何心なく雷同する者もあり、止むを得ずして従ふ者もありて、次第に人数も増し、遂に此説を認めて国の衆論と為し、天下の勢を圧倒して鬼神の如き政府をも覆したることなり。其後廃藩置県の一挙も華士族一般のためには極て不便利にして、之を好まざる者は十に七、八、この説を主張する者は僅に二、三なれども、其七、八の人数は所謂古風家にて、此党の間に分賦せる智力は甚だ乏しく、二、三の改革者流に有する智力の分量に及ばざること遠し。古風家と改革家と其人数を比較すれば七、八と二、三との割合なれども、智力の量は此割合を倒にしたるが如し。改革家は唯此智力の量を以て人数の不足を補ひ、七、八の衆人をして其欲する所を逞ふせしめざりしのみ。目今の有様にては真に古風家と称す可き者も甚だ少なく、旧士族の内に其禄位の保つ可き議論を立る者もあらず、和漢の古学者流も半は既に其説を変じ、或は牽強附会なる論を作て私に自家の本説を装ひ、体面を全ふして改革家の党に混同せんと欲する者もあり。之を譬へば和睦を名にして降参を謀る者の如し。固より其名は和睦にても降参にても、混同の久しきに至れば遂には実の方向を同ふして、共に文明の路に進む可きが故に、改革家の党は次第に増す可しと雖ども、其初め事を企てゝこれを成したるは人数の多きがために非ず、唯智力に由て衆人を圧したるなり。今日にても古風家の党に智力ある人物を生じて、次第に党与を得て盛に古風を唱ることあらば、必ず其党に勢を増して改革家も路を避くることなる可しと雖ども、幸にして古風家には智力ある者少なく、或は遇ま人物を生ずれば忽ち党に叛て自家の用をば為さゞるなり。
事の成敗は人の数に由らずして智力の量に由るとのことは前段の確証を以て明に知る可し。故に人間交際の事物は悉皆この智力の在る所を目的として処置せざる可らず。十愚者の意に適せんとして一智者の譏を招く可らず、百愚人の誉言を買はんがために十智者をして不平を抱かしむ可らず。愚者に譏らるゝも恥るに足らず、愚者に誉めらるゝも悦ぶに足らず、愚者の譏誉は以て事を処するの縄墨(じようぼく基準)と為す可らず。譬へば周礼(しゆらい)に記したる郷飲の意に基き、後世の政府時として酒肴を人民に与ふるの例あれども、其人民の喜悦する有様を見て地方の人心を卜す可らず。苟も文明に赴きたる人間世界に居り、人の恵与の物を飲食して之を悦ぶ者は、飢者に非ざれば愚民なり。此愚民の悦ぶを見て之を悦ぶ者は、其愚民に等しき愚者のみ。又古史に、国君微行して民間を廻り、童謡を聞て之に感ずるの談あり。何ぞ夫れ迀遠なるや。こは往古の事にて証するに足らざれども、今日に在て正しく之に類する者あり。即ち其者とは独裁の政府に用るところの間諜、是なり。政府暴政を行ふて民間に不服の者あらんことを恐れ、小人を遣て世間の事情を探索せしめ、其言を聞て政を処置せんと欲するものあり。此小人を名けて間諜と云ふ。抑もこの間諜なる者は誰に接して何事を聞く可きや。堂々たる士君子は人にものを隠すことなし。或は陰に乱を企る者あらば、其人物は必ず間諜よりも智力逞き者なれば、誰か此小人をして密事を探り得せしめん。故に間諜なる者は唯銭のために役せられて世間に徘徊し、愚民に接して愚説を聞き、自己の臆断を交へて之を主人に報ずるのみ。事実に於て毫も益することなく、主人のためには銭を失ふて徒に智者の嘲を買ふ者と云ふ可し。仏蘭西の第三世「ナポレオン」多年間諜を用ひたれども、孛魯士と戦争のときには国民の情実を探り得ざりしにや、一敗の下に生捕られたるに非ずや。之を鑑みざる可らず。政府若し世間の実情を知らんと欲せば、出版を自由にして智者の議論を聞くに若かず。著書新聞紙に制限を立てゝ智者の言路を塞ぎ、間諜を用ひて世情の動静を探索するは、其状恰も活物を密封して空気の流通を絶ち、傍より其死生を候(うかゞ)ふが如し。何ぞ夫れ鄙劣なるや。其死を欲せば、打て殺す可し、焼て殺す可し。人民の智力を以て国に害ありとせば、天下に読書を禁ずるも可なり、天下の書生を坑(あなうめ)にするも可なり。秦皇の先例則とる可きなり。「ナポレオン」の英明も尚この鄙劣を免かれず、政治家の心術賎むに堪たり。
第二人の議論は集て趣を変ずることあり。性質臆病なる者にても三人相集れば暗夜に山路を通行して恐るゝことなし。蓋し其勇気は人々に就て求む可らず、三人の間に生ずる勇気なり。又或は十万の勇士風声鶴唳を聞て走ることあり。蓋し其臆病は人々に就て求む可らず、十万人の間に生ずる臆病なり。人の智力議論は猶化学の定則に従ふ物品の如し。曹達(ソーダ)と塩酸とを各別に離せば何れも激烈なる物にて、或は金類をも鎔解するの力あれども、之を合すれば尋常の食塩と為て厨下の日用に供す可し。石灰と硇砂(だうしや)とは何れも激烈品に非ざれども、之を合して硇砂精と為せば其気以て人を卒倒せしむ可し。近来我日本に行はるゝ諸方の会社なるものを見るに、其会社愈大なれば其不始末愈甚しきが如し。百人の会社は十人の会社に若かず、十人の会社は三人の組合に若かず、三人の組合よりも一人にて元手を出し一人の独断にて商売すれば利を得ること最も多し。抑も方今にて結社の商売を企る者は大抵皆世間の才子にて、かの古風なる頑物が祖先の遺法を守て爪に火を灯す者に比すれば、其智力の相違固より同日の論に非ず。然るに此才子相会して事を謀るに至れば、忽ち其性を変じて捧腹に堪へざる失策を行ひ世間に笑はるゝのみならず、其会社中の才子も自から其然る所以を知らずして憮然たるものあり。又今の政府に会して事を為すに当ては、其処置必ずしも智ならず、所謂衆智者結合の変性なるものにて、彼の有力なる曹達と塩酸と合して食塩を生ずるの理に異ならず。概して云へば日本の人は仲間を結て事を行ふに当り、其人々持前の智力に比して不似合なる拙を尽す者なり。
西洋諸国の人民必ずしも智者のみに非ず、然るに其仲間を結て事を行ひ世間の実跡に顕はるゝ所を見れば、智者の所為(しよい)に似たるもの多し。国内の事務悉皆仲間の申合せに非ざるはなし。政府も仲間の申合せにて議事院なるものあり。商売も仲間の組合にて「コンペニ」なるものあり。学者にも仲間あり、寺にも仲間あり。僻遠の村落に至るまでも小民各仲間を結て公私の事務を相談するの風なり。既に仲間を分てば其仲間毎に各固有の議論なきを得ず。譬へば数名の朋友歟、又は二、三軒の近隣にて仲間を結べば、乃ち其仲間に固有の説あり。合して一村と為れば一村の説あり、一州と為り一郡と為れば亦一州一郡の説あり。此の説と彼の説と相合して少しく趣を変じ、又合し又併せて遂に一国の衆論を定むることにて、其趣は恰も若干の兵士を集めて小隊と為し、合して中隊と為し、又併せて大隊と為すが如し。大隊の力はよく敵に向て戦ふ可しと雖ども、其兵士の一己に就て見れば必ずしも勇士のみに非ず。故に大隊の力は兵士各個の力に非ず、其隊を結たるがために別に生じたるものと云ふ可し。今一国の衆論も其定りたる上にて之を見れば頗る高尚にして有力なれども、其然る由縁は、高尚にして有力なる人物の唱へたるが故のみを以て議論の盛なるに非ず、此議論に雷同する仲間の組合宜しきを得て、仲間一般の内に於て自から議論の勇気を生じたるものなり。概して云へば、西洋諸国に行はるゝ衆論は其国人各個の才智よりも更に高尚にして、其人は人物に不似合なる説を唱へ不似合なる事を行ふ者と云ふ可し。
右の如く西洋の人は智恵に不似合なる銘説を唱て不似合なる巧を行ふ者なり。東洋の人は智恵に不似合なる愚説を吐て不似合なる拙を尽す者なり。今其然る所以の源因を尋るに、唯習慣の二字に在るのみ。習慣久しきに至れば第二の天然と為り、識らず知らずして事を成す可し。西洋諸国衆議の法も数十百年の古より世々の習慣にて其俗を成したるものなれば、今日に至ては知らずして自から体裁を得ることならん。亜細亜諸国に於ては則ち然らず、印度の「カステイ」の如く、人の格式を定めて偏重の勢を成し、其利害を別にし其得失を殊にし、自から互に薄情なるのみならず、暴政府の風にて故さらに徒党を禁ずるの法を設て人の集議を妨げ、人民も又只管無事を欲するの心よりして徒党と集議との区別を弁論する気力もなく、唯政府に依頼して国事に関らず、百万の人は百万の心を抱て各一家の内に閉居し、戸外は恰も外国の如くして嘗て心に関することなく、井戸浚(さらひ)の相談も出来難し、況や道普請に於てをや。行斃(ゆきだふれ)を見れば走て過ぎ、犬の糞に逢へば避けて通り、俗に所謂掛り合を遁るゝに忙はしければ、何ぞ集議を企るに遑あらん。習慣の久しき其風俗を成し、遂に今の有様に陥りたるなり。之を譬へば世に銀行なる者なくして、人民皆其余財を家に貯へ、一般の融通を止めて国に大業の企つ可らざるが如し。国内の毎戸を尋れば財本の高なきに非ず、唯毎戸に溜滞して全国の用を為さゞるのみ。人民の議論も又斯の如し。毎戸に問ひ毎人に叩けば各所見なきに非ざれども、其所見百千万の数に分れ、之を結合するの手段を得ずして全国の用を為さゞるものなり。
世の学者の説に、人民の集議は好む可きことなれども無智の人民は気の毒ながら専制の下に立たざるを得ず、故に議事を始るには時を待つ可しと云ふものあり。蓋し其時とは人民に智を生ずるの時なる可しと雖ども、人の智恵は夏の草木の如く一夜の間に成長するものに非ず、仮令ひ或は成長することあるも習慣に由て用るに非ざれば功を成し難し。習慣の力は頗る強盛なるものにて、之を養へば其働に際限ある可らず。遂には私有保護の人心をも圧制するに足れり。其一例を示さん。今我国にて政府の歳入凡そ五分の一は華士族の家禄に費し、其銭穀の出る処は農商より外ならず。今この禄を廃すれば農商の所出は五分の一を減じて、五俵の年貢は四俵と為る可し。小民愚なりと雖ども四と五を区別するの智力なしと云ふ可らず。百姓の身と為りて一方より考れば入組たる事に非ず、唯己が作り出したる米を分て無縁の人を養ふことなれば、与ふると与へざるとの二議あるのみ。又士族の身と為りて考れば家禄は祖先伝来の家産なり、先祖に手柄ありて貰ひしものなれば自から日傭賃に異なり、今我輩に兵役あらざればとて何ぞ先祖の賞典を止めて家産を失ふの理あらんや、士族を無用なりとして其家に属したる禄を奪ふことならば、富商豪農の無為にして食ふ者も其産を奪はざる可らず、何ぞ独り我輩の産を削て無縁の百姓町人を肥さんやと。斯く説を述れば亦一理なきに非ざれども、士族の内にも此議論あるを聞かず。百姓も士族も現に己が私有を得ると失ふとの界に居て、恬として他国の話を聞くが如く、天然の禍福を待つが如く、唯黙坐して事の成行を観るのみ。実に怪しむ可きに非ずや。仮に西洋諸国に於て此類の事件あらしめなば、其世論如何なる可きや。衆口沸くが如く一時の舌戦を開て大騒動なる可し。余輩固より家禄与奪の得失を爰に論ずるには非ざれども、唯日本人が無議の習慣に制せられて、安んず可らざるの穏便に安んじ、開く可きの口を開かず、発す可きの議論を発せざるを驚くのみ。利を争ふは古人の禁句なれども、利を争ふは即ち理を争ふことなり。今我日本は外国人と利を争ふて理を闘(たたかは)するの時なり。内に居て澹泊(淡泊)なる者は外に対しても亦澹泊ならざるを得ず、内に愚鈍なる者は外に活潑なるを得ず。士民の愚鈍澹泊は政府の専制には便利なれども、此士民を頼て外国の交際は甚だ覚束なし。一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事を談ずるも無益なるのみ。蓋し其気象なく又其勇力なきは、天然の欠点に非ず、習慣に由て失ふたるものなれば、之を恢復するの法も亦習慣に由らざれば叶ふ可らず。習慣を変ずること大切なりと云ふ可し。
第六章智徳の弁

 

前章までの議論には、智徳の二字を熟語に用ひ、文明の進歩は世人一般の智徳の発生に関するものなりとの次第を述たれども、今此一章に於ては智と徳とを区別して其趣の異なる所を示す可し。
徳とは徳義と云ふことにて、西洋の語にて「モラル」と云ふ。「モラル」とは心の行儀と云ふことなり。一人の心の中に慊(こころよ)くして屋漏(をくろう)に愧ざるものなり。智とは智徳と云ふことにて、西洋の語にて「インテレクト」と云ふ。事物を考へ事物を解し事物を合点する働なり。又此徳義にも智恵にも各二様の別ありて、第一貞実、潔白、謙遜、律儀等の如き一心の内に属するものを私徳と云ひ、第二廉恥、公平、正中、勇強等の如き外物に接して人間の交際上に見はるゝ所の働を公徳と名く。又第三に物の理を究めて之に応ずるの働を私智と名け、第四に人事の軽重大小を分別し軽小を後にして重大を先にし其時節と場所とを察するの働を公智と云ふ。故に私智或は之を工夫の小智と云ふも可なり。公智或は之を聡明の大智と云ふも可なり。而して此四者の内にて最も重要なるものは第四条の大智なり。蓋し聡明叡知の働あらざれば私徳私智を拡て公徳公智と為す可らず、或は公私相戻て相害することもある可し。古より明に此四箇条の目を掲げて論じたるものなしと雖ども、学者の議論にても俗間の常談にても、よく其意の在る所を吟味すれば果して此区別あるを見る可し。孟子に惻隠、羞悪、辞譲、是非は人心の四端なり、之を拡るときは火の始て燃へ泉の始て達するが如く、よく之を充れば四海を保つ可く、之を充たざれば父母に事(つか)ふるに足らずとあり。蓋し私徳を拡て公徳に至るの意ならん。又智慧ありと雖ども勢に乗ずるに如かず、鎡基(じき鋤鍬)ありと雖ども時を待つに如かずとあり(『孟子』公孫上一)。蓋し時勢の緩急を察し私智を拡て公智と為すの義ならん。又俗間の談に某は世間に推出して申分なき人物、公用向には最上なれども一身の行状に至ては言語道断なりと云ふことあり。仏蘭西の宰相「リセリウ」の如き是なり。蓋し公智公徳に欠点なくして私徳に乏しきの謂なり。又某は囲碁、象棋、十露盤は勿論、何事にても工夫は上手なれども、所謂碁智恵、算勘にて、兎角無分別なる人物なりと云ふことあり。蓋し私智ありて公智なきを評するなり。右の如く智徳四様の区別は、学者も俗間も共に許す所のものなれば之を普通の区別と云はざるを得ず。先づ此区別を定めて次に其働を論ずること左の如し。
前に云へる如く聡明叡知の働あらざれば私智を拡て公智と為すを得ず。譬へば囲碁、闘牌(カルタ)、弄椀珠(シナダマ)等の技芸も人の工夫なり、窮理器械等の術も亦人の工夫にして、等しく精神を労するの事なれども、其事柄の軽重大小を察して重大の方に従事し以て世間に益すれば、其智恵の働く所、稍や大なりと云ふ可し。或は又自から其事に手を下ださゞるも、事物の利害得失を察すること「アダム・スミス」が経済の法を論ずるが如くして、自から天下の人心を導き一般に富有の源を深くすることあるは、智恵の働の最も至れるものと云ふ可し。何れにも小智より進て大智に至るには聡明叡知の見なかる可らざるなり。又士君子の口吻に、天下を洒掃(さいさう)すれども庭前は顧みるに足らずなどゝて、治国平天下の術を求めて大に所得あれども、一身一家の内を脩ること能はざる者あり。或は一心一向に律儀を守て戸外の事を知らず、甚しきは身を殺して世に益するなき者あり。何れも皆聡明の働に乏しくして事物の関係を誤り、大小軽重を弁ずる能はずして脩徳の釣合を失したるものなり。是に由て考れば聡明叡知の働は恰も智徳を支配するものなるが故に、徳義に就て論ずるときは之を大徳と云ふも可なりと雖ども、爰に天下一般の人心に従て字義の用ひ来りに拠れば之を徳と名く可らずの由縁あり。蓋し古来我国の人心に於て徳義と称するものは、専ら一人の私徳のみに名を下したる文字にて、其考の在る所を察するに、古書に温良恭謙譲と云ひ、無為にして治ると云ひ、聖人に夢なしと云ひ、君子盛徳の士は愚なるが如しと云ひ、仁者は山野如しと云ふなど、都て是等の趣を以て本旨と為し、結局、外に見はるゝ働よりも内に存するものを徳義と名るのみにて、西洋の語にて云へば、「パッシ−ウ」とて、我より働くには非ずして物に対して受身の姿と為り、唯私心を放解するの一事を以て要領と為すが如し。経書を按ずるに其所説悉皆受身の徳のみを論ずるに非ず、或は活潑々地の妙処もあるが如くなれども、如何せん書中全体の気風にて其人心に感ずる所を見れば唯堪忍卑屈の旨を勧るに過ぎず。其他神仏の教とても脩徳の一段に至ては大同小異のみ。此教に育せられたる我国の人民なれば、一般の人心に拠るときは徳の字の義は甚だ狭くして、所謂聡明叡知等の働は此字義の中に含有することなし。都て文字の趣意を解くには、学者の定めたる字義に拘はらずして天下衆人の心を察し、其衆心に思ふ所の意味を取るを最も確実なりとす。譬へば舟遊山と云ふ文字の如し。一々字義を糺せば甚だ不都合なれども、世間一般に思ふ所にては、此文字の内に山に遊ぶと云ふ義を含有することなし。徳の字も亦斯の如し。学者流に従て義を糺せば其意味甚だ広しと雖ども、世人の解す所は則ち然らず、世俗にて無欲なる山寺の老僧を見れば之を高徳なる上人と尊崇すと雖ども、世に窮理、経済、理論等の学問に長ずる人物あれば、之を徳行の君子と云はずして才子又は智者と称すること必定なり。或は又古今の人物が大事業を成す者あれば之を英雄豪傑として称誉すると雖ども、其人の徳義に就て称する所は唯私徳の一事に在るのみにて、公徳の更に貴ぶ可きものは却て之を徳義の条目に加へずして往々忘るゝことあるが如し。世人の解す所にて徳の字の義の狭きこと以て見る可し。蓋し其心に自から智徳四様の区別を知らざるに非ざれども、時としては之を知るが如く又時としては知らざるが如く、結局天下一般の気風に制せられて其重んずる所、私徳の一方に偏したるものならん。故に余輩も此天下一般の人心に従て字義を定れば、聡明叡知の働は之を智恵の条目中に掲げて、彼の徳義と称するものは其字義の領分を狭くして唯受身の私徳に限らざるを得ざるなり。第六、七章に記す所の徳の字は悉皆この趣意に従て用ひたるものなれば、其議論の際、智恵と徳義とを比較して、智の働は重くして広く、徳の働は軽くして狭く、或は偏執なるが如くなれども、学者若し爰に記す所の趣意を了解せば之に惑ふことなかる可し。
抑も未開の有様に於て私徳の教を主張して人民も亦其風に靡くは独り我国のみに非ず、万国皆然らざるはなし。蓋し国民の精神未だ発生せずして禽獣を去ること遠からざるの時代に於ては、先づ其粗野残刻の挙動を制馭して一身の内を緩和し人類の放心を求めしむるに忙はしければ、人間交際の入組たる関係に就ては之を顧るに遑あらず。猶衣食住の物に於ても、開闢の初には所謂手以て直に口に達するものにて、未だ家屋衣装の事を顧るに遑あらざるが如し。然るに文明次第に進めば人事も亦繁多に赴き、私徳の一器械を以て人間世界を支配す可きの理は万々ある可らずと雖ども、古来の習慣と人生懶惰の天賦とに由て古を慕ふて今に安んじ、一方に偏して平均を失ふたることなり。固より其私徳の条目は、万世に伝へて変ず可らず、世界中に通用して異同ある可らず、最も単一にして最も美なるものなれば、後世より之を改正す可らざるは無論なりと雖ども、世の沿革に従て之を用るに場所を撰び、又これを用るの法を工夫せざる可らず。譬へば食を求るは万古同様なれども、古は手以て直に口に達するの一法ありしもの、後世に至れば飲食の事にも千種万様の方術あるが如し。又これを譬へば私徳の人心に於けるは耳目鼻口の人身に於けるが如し。固より其有用無用を論ず可きに非ず。苟も人の名あれば必ず是れなかる可らず。耳目鼻口有無の議論は片輪者の住居する世界に行はる可きことなれども、苟も片輪以上の地位に上れば亦喋々の弁を費すに足らず。蓋し神儒仏なり、又耶蘇教なり、何れも上古不文の世に在て恰も片輪の時代に唱へたる説なれば、其時代に於て必用なるは固より論を俟たず。後世の今日に至るまでも世界中の人口、十に八、九は片輪なる可ければ、徳義の教も亦決して等閑にし難し。或は之がため喋々たらざる可らざるの勢もあらん。《儒者の道に誠を貴び、神仏の教に一向一心を勧る等、下流の民間に在ては最も緊要なる事なり。譬へば智力未だ発生せざる小児を育し、或は無智無術なる愚民に接して、一概に徳義などは人間のさまで貴ぶ可きものに非ずと云はゞ、果して誤解を生じて、徳は賎しむ可し、智恵は貴ぶ可しと心得、其智恵を又誤解して、美徳を棄てゝ奸智を求むるの弊に陥り、忽ち人間の交際を覆滅するの恐なきに非ざれば、此輩に向ては徳義の事に付き喋々の弁、なかる可らずと雖ども、誠心一向の私徳を以て人類の本分と為し、以て世間万事を支配せんとするが如きは、其弊も亦極て恐る可きものなり。場所と時節とを勘弁して、其向ふ所は高尚の域を期せざる可らず。》然りと雖ども文明の本旨は多事の際に動て進むに在るものなれば、上世の無事単一に安んず可らず。今の人として食を求るに手以て直に口に達するの法を快とせず、我身に耳目鼻口を具するも誇るに足らざるを知らば、私徳の一方を脩るも今だ人事を尽したるに非ざるの理は明白なる可し。文明の人事は極て繁多なるを要す。人事繁多なれば之に応ずる心の働も亦繁多ならざる可らず。若し私徳の一品を以て万事に応ず可きものとせば、今の婦人の徳行を見て之に満足するも理なしと云ふ可らず。支那日本にて風俗正しき家の婦人に、温良恭謙の徳を備へて、言忠信、行篤敬、よく家事を理するの才ある者は珍らしからずと雖ども、此婦人を世間の公務に用ゆ可らざるは何ぞや。人間の事務を処するには私徳のみを以て足らざるの証なり。結局余輩の所見は私徳を人生の細行として顧ざるには非ざれども、古来我国人の心に感ずる如く、唯この一方に偏して議論の本位を定るを好まざるなり。私徳を無用なりとして棄るには非ざれども、之を勤るの外に又大切なる智徳の働あるとの事を示さんと欲するのみ。
智恵と徳義とは恰も人の心を両断して各其一方を支配するものなれば、孰れを重しと為し孰れを軽しと為すの理なし。二者を兼備するに非ざれば之を十全の人類と云ふ可らず。然るに古来学者の論ずる所を見れば、十に八、九は徳義の一方を主張して事実を誤り、其誤の大なるに至ては全く智恵の事を無用なりとする者なきに非ず。世の為に最も患ふ可き弊害なれども、此弊害を弁論するに当て一の困難あり。何となれば今の世に在て智恵と徳義との区別を論じて旧弊を矯めんとするには、先づ此二者の分界を明にし、以て其功用の所在を示すことなれば、思想浅き人の目を以て見るときは、或は其議論は徳を軽んじて智を重んじ漫に徳義の領分を犯すものなりとて不平を抱く者もあらん。或は其議論を軽々看過して、徳義は人間に無用なりとて誤解する者もある可ければなり。抑も世の文明のために智徳の共に入用なるは、猶人身を養ふに菜穀と魚肉と両ながら欠く可らざるが如し。故に今智徳の功用を示して智恵の等閑にす可らざるを論ずるは、不養生なる菜食家に向て肉食を勧るに異ならず。肉食を勧るには必ず肉の功能を説て菜穀の弊害を述べ、菜肉共に用ひて両ながら相戻らざるの理を明にせざる可らず。然るに此菜食家なる者、其片言を信じて、断じて菜穀を禁じて魚肉のみを喰はんとすることあらば、惑の甚しきなり。之を誤解と云はざるを得ず。窃に按ずるに古今の識者も智徳の弁を知らざるに非ざれども、唯この誤解の弊害を恐れて云はざることならん歟。然りと雖ども知て之を云はざれば際限ある可らず。何事にても道理にさへ叶ふことなれば、十人は十人悉皆誤解するものに非ず。或は遇ま十に二、三の誤解あるも尚云はざるに優れり。二、三の誤解を憚りて七、八の智見を塞ぐの理なし。畢竟世人の誤解を恐れて云ふ可き議論をも隠さんとし、或は其議論を装ふて曖昧の際に人を導んとし、所謂坐を見て法を説く(その場の雰囲気に合せること)の策を運らすは、同類の生々を蔑視するの挙動と云ふ可し。世人愚なりと雖ども黒白は弁ずるものなり。同類の人間に甚しき智愚はある可らず。然るに我心を以て人の愚を察し、其誤解を臆度して事の真面目を告げざるは、敬愛の道を失するに非ずや。君子の為す可らざることなり。苟も我に是とする所のものあらば丸出しに之を述て隠すことなく、其可否の判断は他に任して可なり。是即ち余輩が敢て弁を好て智徳の差別を論ずる由縁なり。
徳義は一人の心の内に在るものにて他に示すための働に非ず。脩身と云ひ慎独と云ひ、皆外物に関係なきものなり。譬へば無欲正直は徳義なれども、人の誹謗を恐れ世間の悪評を憚りて無欲正直なる行を勉るものは、これを真の無欲正直と云ふ可らず。悪評と誹謗とは外の物なり。外物のために動くものは徳義と称す可らず。若しこれを徳義といはゞ、一時の事情にて世間の咎めを遁るゝを得るときは、貪欲不正の事を行ふも徳義に於て妨げなかる可し。斯の如きは則ち偽君子と真君子との区別はある可らず。故に徳義とは一切外物の変化に拘はらず、世間の譏誉を顧ることなく、威武も屈すること能はず、貧賎も奪ふこと能はず、確乎不抜、内に存するものを云ふなり。智恵は則ち之に異なり。外物に接して其利害得失を考へ、此の事を行ふて不便利なれば彼の術を施し、我に便利なりと思ふも衆人これを不便利なりと云へば輙(すなは)ち又これを改め、一度び便利と為りたるものも更に又便利なるものあれば之を取らざる可らず。譬へば馬車は駕籠よりも便利なれども、蒸気力の用ゆ可きを知れば又蒸気車を作らざる可らず。此馬車を工夫し蒸気車を発明し、其利害を察して之を用るものは智恵の働なり。斯の如く外物に接して臨機応変以て処置を施すものなれば、其趣全く徳義と相反して之を外の働と云はざるを得ず。有徳の君子は独り家に居て黙坐するも、これを悪人と云ふ可らずと雖ども、智者若し無為にして外物に接することなくば、これを愚者と名るも可なり。
徳義は一人の行ひにて、其功能の及ぶ所は先づ一家の内に在り。主人の行状正直なれば家内の者自から正直に向ひ、父母の言行温順なれば子供の心も自から温順に至る可し。或は親類朋友の間、互に善を責て徳の門に入る可しと雖ども(『孟子』離婁下三一)、結局忠告に由て人を善に導くの領分は甚だ狭し。所謂毎戸に諭す可らず毎人に説く可らずとは即ち此事なり。智恵は則ち然らず。一度び物理を発明してこれを人に告れば、忽ち一国の人心を動かし、或は其発明の大なるに至ては、一人の力、よく全世界の面を一変することあり。「ゼイムス・ワット」蒸気機関を工夫して世界中の工業これがために其趣を一変し、「アダム・スミス」経済の定則を発明して世界中の商売これがために面目を改めり。其これを人に伝るや、或は言を以てし或は書を以てす可し。一度び其言を聞き其書を見て之を実に施す人あれば、其人は正しく「ワット」と「スミス」に異ならず。故に昨日の愚者は今日の智者と為りて、世界中に幾千万の「ワット」と「スミス」を生ず可し。其伝習の速にして其行はるゝ所の領分の広きは、彼の一人の徳義を以て家族朋友に忠告するの類に非ず。或人云く、「トウマス・クラルクソン」が一心を以て世に売奴の悪法を除き、「ジョン・ホワルド〈JohnHoward〉」が勉強に由て獄屋の弊風を一掃したるは、徳義の働なれば、其功徳の及ぶ所亦洪大無量と云はざるを得ずと。答て云く、誠に然り、此二士は私徳を拡て公徳と為し、其功徳を洪大無量ならしめたるものなり。蓋し二士が事を施すに当て、千辛万苦を憚らずして工夫を運らし、或は書を著し或は財を散じ、難を凌ぎ危を冒して、世間の人心を動かし、遂によく其大業を成したるは、直に私徳の功に非ず、所謂聡明叡知の働と称す可きものなり。二士の功業大なりと雖ども、世の人心に従て徳の字を解し、徳義の一方に就て之を見れば、身を殺して人を救ふより外ならず。今爰に仁人ありて、孺子(じゆし)の井に入るを見て之を救はんがために共に身を失ふも、「ジョン・ホワルド」が数万の人を救ふて遂に身を殺したるも、其惻隠の心を比較すれば孰か深浅の別ある可らず。唯彼は一孺子のためにし、此は数万人のためにし、彼は一時の功徳を施し、此は万代に功徳を遺すの相違あるのみ。身を致すの一段に至ては此と彼との間に徳義の軽重あることなし。其数万の人を救ひ万代の後に功業を遺したるは、「ホワルド」が聡明叡知の働に由て其私徳を大に用ひ、以て功徳の及ぶ所を広く為したるものなり。故に此仁人は私徳を有して公徳公智に乏しき者なり、「ホワルド」は公私両ながら之を有する者なり。之を譬へば私徳は地金の如く聡明の智恵は細工の如し。地金に細工を施さゞれば鉄も唯重くして堅きのみの物なれども、之に少しく細工を施して鎚と為し釜と為せば、乃ち鎚と釜との功能あり。又少しく工夫を運らして小刀と為し鋸と為せば、乃ち小刀と鋸の功能あり。尚其細工を巧にすれば巨大なるは蒸気機関と為る可し、精細なるは時計の弾機(ばね)となる可し。今世間にて大釜と蒸気機関とを比較せば、誰か機関の功能を大なりとして之を貴ばざる者あらん。其これを貴ぶは何ぞや。大釜と機関と地金の異なるに非ず、唯其細工を貴ぶなり。故に鉄の器械を見て其地金を論ずるときは、釜も機関も鎚も小刀も正しく一様なれども、此諸品の内に貴き物と賎しき物との区別を生ずるは、之に細工を施すの多少あればなり。智徳の釣合ひも亦斯の如し。彼の孺子を救はんとしたる仁人も「ジョン・ホワルド」も、其徳行の地金に就て見るときは軽重大小の別なしと雖ども、「ホワルド」は此徳行に細工を施して其功能を盛大に為したるものなり。而して其細工を施したるものは即ち智恵の働なれば、「ホワルド」の為人(ひとゝなり)は之を評して唯徳行の君子とのみ云ふ可らず。智徳兼備して然も其聡明の智力は古今に絶したる人物と云ふ可し。若し、この人をして智力なからしめなば、一生の間、蠢爾(しゆんじ)として家に居り、一冊の聖経を読て命を終り、其徳義を以てよく妻子を化することを得る歟、或はこれを得ざることもある可し。奈何ぞ此大事業を企て欧羅巴全州の悪風俗を除くを得んや。故に云く、私徳の功能は狭く智恵の働は広し。徳義は智恵の働に従て其領分を弘め其光を発するものなり。
徳義の事は古より定て動かず。耶蘇の教の十誡なるものを挙れば、第一「ゴッド」の外に神ありと思ふ勿れ、第二偶像の前に膝を屈する勿れ、第三「ゴッド」の名を空ふする勿れ、第四礼拝の日を穢す勿れ、第五汝の父母を敬せよ、第六人を殺す勿れ、第七穢れたる言行思想を避けよ、第八貧賎なりと雖ども盗む勿れ、第九故さらに詐(いつは)る勿れ亦詐を好む勿れ、第十他人の物を貪る勿れ、以上十箇条なり。孔子の道の五倫とは、第一父子親ありとて親子相親しむことなり、第二君臣義ありとて旦那と家来との間には義理合を守て不実なる挙動ある可らずとのことなり、第三夫婦別ありとて亭主と妻君と余りなれなれしくして見苦しき様に陥る可らずとのことなり、第四長幼序ありとて年若き者は何事も差控て長老を敬す可しとのことなり、第五朋友信ありとは友達の間には偽詐を行ふ可らずとのことなり。此十誡五倫は聖人の定めたる教の大綱領にして数千年の古より之を変ず可らず。数千年の古より今日に至るまで盛徳の士君子は輩出したれども、唯この大綱領に就き註解を施すのみにて別に一箇条をも増加することなし。宋儒盛なりと雖ども五倫を変じて六倫と為すを得ず。徳義の箇条の少なくして変革す可らざるの明証なり。古の聖人は此箇条を悉く身に行ふたるのみならず人にも教へたることなれば、後世の人物如何に勉励苦心するも決して其右に出づ可きの理なし。之を譬へば聖人は雪を白しと云ひ炭を黒しと云たるが如し。後人これを如何す可きや。徳義の道に就ては恰も古人に専売の権を占められ、後世の人は唯仲買の事を為すより他に手段あることなし。是即ち耶蘇孔子の後に聖人なき所以なり。故に徳義の事は後世に至て進歩す可らず。開闢の初の徳も今日の徳も其性質に異同あることなし。智恵は則ち然らず。古人一を知れば今人は百を知り、古人の恐るゝ所のものは今人は之を侮り、古人の怪む所のものは今人は之を笑ひ、智恵の箇条の日に増加して其発明の多きは古来枚挙に遑あらず、今後の進歩も亦測る可らず。仮に古の聖人をして今日に在らしめ、今の経済商売の説を聞かしめ、或は今の蒸気船に乗せて大洋の波濤を渡り、電信を以て万里の新聞を瞬間に聞かしむる等のことあらば、之に落胆するは固より論を俟たず。或はこれを驚かすに必ずしも蒸気電信を要せず、紙を製して字を書くの法を教へ、或は版木彫刻の術を示すも尚これを敬服せしむるに足る可し。如何となれば此蒸気、電信、製紙、印書の術は悉皆後人の智恵を以て達し得たるものにて、此発明工夫を為すの間に聖人の言を聞て徳義の道を実に施したることなく、古の聖人は夢にも之を知らざりしことなればなり。故に智恵を以て論ずれば古代の聖賢は今の三歳の童子に等しきものなり。
徳義の事は形を以て教ゆ可らず。之を学て得ると得ざるとは学ぶ人の心の工夫に在て存せり。譬へば経書に記したる克己復礼の四字を示して其字義を知らしむるも、固より未だ道を伝へたりと云ふ可らず。故に此四字の意味を尚詳にして、克己とは一身の私欲を制することなり、復礼とは自分の本心に立返て身の分限を知ることなりと、丁寧反覆これを説得す可し。教師の働は唯これまでにて、他に道を伝るの術なし。此上は唯人々の工夫にて、或は古人の書を読み或は今人の言行を聞見して其徳行に倣ふ可きのみ。所謂以心伝心なるものにて、或はこれを徳義の風化と云ふ。風化は固より無形の事なれば、其これに化すると化せざるとに就ては試験の法ある可らず。或は実に私欲を恣にしながら自分には私欲を制したりと思ひ、或は分外の事を為しながら自分には分限を知ると思ふ者もある可しと雖ども、其思ふと思はざるとは教る人の得て関す可きに非ず。唯これを学ぶ人の心の工夫に存するのみ。故に克己復礼の教を聞て、心に大に発明する者もあり、或は大に誤解する者もあり、或は之を蔑視する者もあり、或は之を了解するも却て外見を装ふて人を欺く者もあり。其趣千状万態にして、真偽を区別すること甚だ難し。仮令ひこの教を蔑視する者にても、外見を飾て人を欺く歟、又は之を誤解して之を信じ、真の克己復礼に非ざるものを是として疑はざる者あるときは、傍より之を如何ともす可らず。此時に至ては縄墨の以て証す可きものなきゆゑ、或はこれに告るに天を恐れよと云ひ、或は自から心に問へと云ふの外、手段ある可らず。天を恐れ心に問ふは一身の内の事にて、真に天を恐るゝも偽て天を恐るゝも外人の目を以て遽に看破す可き所に非ず。是即ち世に偽君子なる者の生ずる由縁なり。偽君子の甚しきに至ては、啻に徳義の事を聞て其意味を解するのみならず、自分にて徳義の説を主張し、或は経書の註解を著し、或は天道宗教の事を論じ、其議論如何にも純精無雑にして、其著書のみを取て之を読めば後世又一の聖人を出現したるが如きものあれども、退て其人の私に就て之を見れば言行の齟齬すること実に驚く可し、心匠の愚なること実に笑ふ可し。韓退之が仏骨の表を奉て天子を諌めたるは如何にも忠臣らしく、潮州に貶(へん)せられたる時には詩など作て忠憤の気を洩しながら、其後、遠方より都の権門へ手紙を遣て、きたなくも再び出仕を歎願したるは、此れこそ偽君子の張本なれ。此類を計へ上れば古今支那にも日本にも西洋にも韓退之の手下なきに非ず。巧言令色、銭を貪る者は論語を講ずる人の内に在り。無智を欺き小弱を嚇し名利を併せて両ながら之を取らんとする者は、耶蘇の正教を奉ずる西洋人の内に在り。此輩の小人は、無形の徳義に試験の縄墨なきを利し、徳義の門に出入して暫時にても密売を行ふ者と云ふ可し。畢竟徳義の働は以て人を制す可らざるの明証なり。《書経に今文と古文との区別あり。秦皇天下の書を焚て書経も共に亡び、漢興て文帝の時に済南の老学生伏勝よく二十九篇を暗記して之を伝へたるものを今文と名け、其後孔子の故宅を毀て壁中より古書を得たりとて之を古文と名く。故に今の書経五十八篇の内に今文二十九篇古文二十九篇あり。然るに今この今古の文を比較するに全く其体裁を異にし、今文は難渋、古文は平易、其文意語勢、明に両様の別ありて、何人の目を以て見るも秦火以前に行はれたる同一書中のものとは思はれず。必ず其一は偽作たるを免かれざるなり。殊に壁中古文の世に行はれたるは晋の時代にて、其以前、漢代に書中の一篇秦誓とて諸儒の引用したるものを、晋の時に偽秦誓と名けて之を廃したることあり。何れにも書経の由来は不分明なるものと云はざるを得ず。されども後世に至ては人の信仰益固くして、一に之を聖人の書と為し、蔡沈が書経集伝の序にも、聖人の心の書に見はれたるものなりと云へり。怪しむ可きに非ずや。蓋し蔡沈の意は今文古文等の区別を論ぜずとも、書中に記す所、聖人の旨に叶ふが故にとて之を聖書と見做したることならんと雖ども、今古の内、其一文は後世より聖人の意を迎へて作為したる文章なれば、之を偽聖書と云はざるを得ず。されば世の中に偽君子の多きは勿論、或は偽聖人を生じて偽聖書をも作る可きものと知る可し。》智恵は則ち然らず。世上に智恵の分量饒多なれば、教へずして互にこれを習ひ、自から人を化して智恵の領域に入らしむること、猶かの徳義の風化に異ならずと雖ども、智恵の力は必ずしも風化のみに藉て其働を伸るものに非ず。智恵は之を学ぶに形を以てして明に其痕跡を見る可し。加減乗除の術を学べば直に加減乗除の事を行ふ可し。水を沸騰せしめて蒸気と為す可きの理を聞き、機関を製して此蒸気力を用るの法を伝習すれば、乃ち蒸気機関を作る可し。既に之を作れば其功用は「ワット」が作りし機関に異ならず。之を有形の智教と云ふ。其教に形あれば亦これを試験するにも有形の規則縄墨あり。故に智恵の法術を人に授けたりと雖ども、之を実地に施すことに就き尚不安心の箇条あらば、之を其実地に試験す可し。之を試験して未だ実地の施行を能せざる者あらば、更に実地施行の手順を教ふ可し。何れも皆形を以て教ゆ可らざるものなし。譬へば爰に数学の教師あらん。十二を等分して六を得るの術を生徒に教へて、其これを実地に施し得るや否を試るには、十二個の玉を与へてこれを二に分たしめ、明に其術を得ると得ざるとを証す可し。生徒若し誤てこの玉を二に分ち八と四とに為さば、未だ術を得ざるものなり。若し然るときは再び説弁して之を試み、此度びは十二の玉を等分して六と六とにするを得れば、此一段の伝習は終りて、其学び得たる術の巧なるは教師に異なることなく、恰も天地の間に二人の教師を生じたるが如し。其伝習の速にして試験の明白なるは現に耳目を以て聞見す可し。航海の術を試るには船に乗て海を渡らしむ可し、商売の術を試るには物を売買せしめて其損益を見る可し、医術の巧拙は病人の治不治を見て知る可し、経済学の巧拙は家の貧富に由て証す可し。斯の如く一々証拠を見て其術を得たると否とを糺す、之を智術有形の試験法と云ふ。故に智恵の事に就ては外見を飾て世間を欺くの術なし。不徳者は装ふて有徳者の外見を示す可しと雖ども、愚者は装ふて智者の真似を為す可らず。是即ち世に偽君子多くして偽智者少なき由縁なり。或はかの経済家が天下の経済を論じて一家の世帯を保つの法を知らず、航海者が議論は巧なれども船に乗ること能はざるの類は、世間に其例少なからず。是等は所謂偽智者なるものに似たれども、畢竟世の事物に於て議論と実際と相異なる可きの理なし。唯徳義の事に就ては此議論と実際との相違を明にす可き縄墨に乏しきのみ。智恵の領分に於ては、仮令ひ此偽智者を生ずるも尚其真偽を糺す可き手段あり。故に航海者が船に乗ること能はずして、経済家が世帯に拙なることあらば、其人は必ず未だ真の術を知らざる者歟、又は別に其学び得たる術を妨るの源因ありて然るものなり。《譬へば経済家が奢侈を好み、航海者が身体虚弱にして其術は巧なれども之を実地に施すこと能はざるの類を云ふ。》然り而して、其術と云ひ又これを妨る所の源因と云ひ、皆是れ有形の事なれば、其有様を糺して、真に其術を得たる者歟、然らざる者歟を証するは難きに非ず。既に其真偽を証するときは、又傍より議論して之に教るの法もある可し、或は自から工夫して人に学ぶの路もある可し。結局智恵の世界には偽智者を容る可き地位を遺さゞるなり。故に云く、徳義は形を以て人に教ゆ可らず、形を以て真偽を糺す可らず、唯無形の際に人を化す可きのみ。智恵は形を以て人に教ゆ可し、形を以て真偽を証す可し、又無形の際に人を化す可し。
徳義は一心の工夫に由て進退するものなり。譬へば爰に二少年あり、田舎の地方に生れて天稟謹直なること、二人毫も差別なき者、商売歟、又は学問のため都会の地に出て、其初は自から朋友を撰て之に交り、師を撰て之に学び、都会の人情の軽薄なるを見て私に歎息せし程のことなりしが、半年を過ぎ一年を経る間に、其一人は旧来の田舎魂を変じて都下の浮華を学び遂に放蕩無頼に陥て生涯の身を誤り、一人は然らずして益身を脩め其行状終始一なるが如くして嘗て田舎の本心を失はず、二人の徳行頓に雲壌懸隔することあり。其事実は今日東京に在る学問の生徒を見ても知る可し。若し此二少年をして故郷に在らしめなば、二人共に謹直なる人物にて、歳月を経るに従ひ有徳の老成人たる可き筈なるに、中年にして一人は徳より不徳に入り、一人はよく其身を全ふせし者なり。今其然る由縁を尋るに、二人互に天稟の異なるに非ず、又其交る所の人も同様にして学ぶ所のことも同様なれば、教育の良否に由るものと云ふ可らず。然るに其徳行の互に懸隔すること斯の如きは何ぞや。其一人の徳義は頓に趣を変じて却歩し、一人は其旧を守て之を失はざりしものにて、外物の働に強弱あるに非ず、一心の工夫に動と不動との別ありて、一は退き一は進たるの証なり。又少年の時より遊冶(ゆうや)放蕩を事とし、物を盗み人を害し悪業至らざる所なくして、親類朋友の交をも失ひ、殆ど世間に身を容る可き地位なきに至りし者にても、一旦豁然として心術を改め、前日の非を悔悟して後来の禍福を慮り、謹慎勉強して半生を終る者あり。其生涯の心事を見れば明に前後二段に分れ、一生にして正しく二生の事を為し、恰も桃の木の台に梅の芽を接ぎ、成木の後唯梅花のみを見て其根の桃の木たるは之を弁ず可らざるものゝ如し。試に世間に就て其実証を求めなば、昔の博徒が今の念仏者と為り、有名の悪漢が手堅き町人と為りたるの類は珍しからず。此輩は皆他人の差図に従て心事を改めたるに非ず、一心の工夫に由て改心したるものなり。在昔熊谷直実が敦盛を討て仏に帰し、或る猟師が子を孕たる猿を撃て生涯、猟を止めたりと云ふも此類なる可し。熊谷も仏に帰すれば則ち念仏行者にて旧の荒武者に非ず、猟師も鉄砲を抛て鋤を採れば則ち、やさしき百姓にて昔の殺生人に非ず。荒武者より念仏行者に変じ、殺生人より百姓に移るの事は、他人の伝習を要せず一心の工夫を以て瞬間に行ふ可し。徳と不徳との間に髪を容れざる者なり。智恵の事に至ては大に其趣を異にせり。人の生は無智なり、学ばざれば進む可らず。初生の児を無人の山に放たば、幸にして死せざるも其智恵は殆ど禽獣に異なる可らず。或は鶯の巣を架するが如き巧なる術は、教なき人間一代の工夫にては出来ざる可し。人の智恵は唯教に在るのみ。之を教れば其進むことも亦際限ある可らず。既に進めば又退くこともある可らず。二人の少年天稟相同じければ、之を教て亦共に進む可し。或は双方の進歩に遅速あるものは、其天稟相異なる歟、其教授の方同じからざる歟、或は二人の勤怠一様ならずして然るものなり。何等の事情あるも一心の工夫を以て頓に智を開くの術ある可らず。昨日の博徒は今日の念仏者と為る可しと雖ども、人の智愚は外物に触れずして一日の間に変化す可らず。又去年の謹直生は今年の遊冶郎に変じて其謹直の跡をも見ずと雖ども、人の既に得たる智見は健忘の病症に罹るに非ざれば之を失ふことなし。孟子は浩然の気と云ひ、宋儒の説には一旦豁然として通ずると云ひ、禅家には悟道と云ふことあれども、皆是無形の心に無形の事を工夫するのみにて其実跡を見る可らず。智恵の領分に於ては、一旦豁然として之を悟り、其功用の盛なること、かの浩然の気の如きものある可らず。「ワット」が蒸気機関を発明し、「アダム・スミス」が経済論を首唱したるも、黙居独坐、一旦豁然として悟道したるに非ず、積年有形の理学を研究して其功績漸く事実に顕はれたるものなり。達磨大師をして面壁九十年ならしむるも蒸気電信の発明はある可らず。今の古学者流をして和漢の経書万巻を読ましめ、無形の恩威を以て下民を御するの妙法を工夫せしむるも、方今の世界に行はるゝ治国経済の門には遽に達す可らず。故に云く、智恵は学て進む可し、学ばざれば進む可らず、既に学て之を得れば又退くことある可らず。徳義は教へ難く又学び難し、或は一心の工夫にて頓に進退することあるものなり。
世の徳行家の言に云く、「徳義は百事の大本、人間の事業、徳に由らざれば成る可きものなし、一身の徳を脩れば成る可らざるものなし、故に徳義は教へざる可らず、学ばざる可らず、人間万事これを放却するも妨なし、先づ徳義を脩めて然る後に謀る可きなり、世に徳教なきは猶暗夜に灯を失ふが如くして、事物の方向を見るに由なし、西洋の文明も徳教の致す所なり、亜細亜の半開なるも亜非利加の野蛮なるも、其源因は唯徳義を脩るの深浅に従て然るものなり、徳教は猶寒暖の如く文明は猶寒暖計の如く、此に増減あれば忽ち彼に応じ、一度の徳を増すときは一度の文明を進るものなり」とて、人の不徳を悲み人の不善を憂ひ、或は耶蘇の教を入る可しと云ひ、或は神道の衰へたるを復す可して云ひ、或は仏法を持張す可しと云ひ、儒者にも説あり、国学者にも論ありて、異説争論囂々(がうがう)喋々、其悲憂歎息の有様は、恰も水火の将(まさ)に家を犯さんとするに当るものゝ如し。何ぞ夫れ狼狽の甚しきや。余輩の眼には自から又別に見る所あり。都て事物の極度を持出すとも之に由て議論の止まる所を定む可らず。今不善不徳とて極度の有様を本位に定めて、唯其一方を救はんとせば固より焦眉の急に似たれども、此一方の欠のみを補へばとて未だ人事を全ふしたりと云ふ可らず。猶彼の手以て直に口に達するの食を得るも人間の活計を成すと云ふ可らざるが如し。若し事物の極度を見て議論を定む可きものとせば、徳行の教も亦無力なりと云はざるを得ず。仮に今徳教のみを以て文明の大本と為し、世界中の人民をして悉皆耶蘇の聖教を読ましめ、之を読むの外に事業なからしめなば如何ん。禅家不立文字の教を盛にして、天下の人民文字を忘るゝに至らば如何ん。古事記五経を諳誦して忠義脩身の道を学び糊口の方法をも知らざる者あらば、之を文明の人と云ふ可きや。五官の情欲を去て艱苦に堪へ人間世界の何者たるを知らざる者あらば、之を開化の人と云ふ可きや。路傍に石像あり、三匹の猿を彫刻して、一は目を覆ひ、一は耳を覆ひ、一は口を覆へり。蓋し見ざる、聞ざる、云はざる、の寓意にて、堪忍の徳義を表したるものならん。此趣意に従へば、人の耳目口は不徳の媒妁にて、天の人を生ずるは之に附与するに不徳の具を以てするが如し。耳目口を害なりとせば手足も亦悪事の方便たらん。ゆえに盲聾唖子は未だ十全の善人に非ず、兼て四肢の働をも奪ふこそ上策なれ。或は斯る不具の生物を造るよりも、寧ろ世界に人類なからしめなば上策の上なる可し。之を造化の約束と云ふか。余輩少しく疑なきを得ず。されども耶蘇の聖経を念じ、不立文字の教に帰し、忠義脩身の道を尊び、五官肉体の情欲を去る者は、徳義の教を信じて疑はざるものなり。教を信じて疑はざる者は仮令ひ無智なりと雖ども之を悪人として咎るの理なし。無智を咎るは智恵の事なり、徳義の関る所に非ず。故に極度を以て論ずれば、徳義に於ては私徳を欠く者を見て概して之を悪人と為し、教の目的は唯世に此悪人を少なくするの一事に在るが如し。然りと雖どもよく広く人心の働を察して其事跡に見はるゝ所を詳にすれば、此悪人を少なくするの一事を以て文明と云ふ可らざるの理あり。今田舎の土民と都会の市民とを比して私徳の量を計れば、何れの方に多きや明に之を決し難しと雖ども、世間一般の論に従へば先づ田舎の風俗を質朴なりとして悦ぶことならん。仮令ひ之を悦ばざるも、田舎の徳風を薄しとして都会の風を厚しとする者はなかる可し。上古と近世とを比し、子供と大人とを比するも亦斯の如し。然るに其文明如何を論ずるときは、都会は文明なりと云ひ近世は文明進歩したりと云はざる者なし。然ば則ち文明は唯悪人の多少を以て其進退を卜す可らず。文明の大本は私徳の一方に在らざること明白に証す可しと雖ども、彼の徳行の識者は初より議論の極度に止まり、思想に余地を遺さずして一方に切迫し、文明の洪大なるを知らず、文明の雑駁なるを知らず、其働くを知らず、其進むを知らず、人心の働の多端なるを知らず、其知徳に公私の別あるを知らず、其公私互に相制するを知らず、互に相平均するを知らず、都て事物を一体に纏めて其全局の得失を判断するの法を知らずして、唯一心一向に此世の悪人を少なくせんことを欲し、其弊や遂に今の世界の人民をして犠昊(伏犠と少昊)以上の民の如くならしめ、都会をして田舎の如くならしめ、大人をして小児の如くならしめ、衆生をして石の猿の如くならしめんとするの陋見に陥りたるものなり。必竟神儒仏及び耶蘇の教とても其本旨は斯の如く切迫なるものに非ざること無論なりと雖ども、唯如何せん、世間一般の気風にて其教を伝へ又これを受るの際に人心に感ずる所の結果を見れば、終に此陋弊を免かるゝを得ず。其趣を形容して云へば、酸敗家の甚しき者へは、何等の飲食を与ふるも尽く酸敗して滋養の功を奏せざるが如し。飲食の罪に非ず、痼疾の致す所なり。学者これに注意せざる可らず。
又彼の識者が甚しく世の不徳を憂る由縁を尋るに、畢竟世の人をば悉皆悪しき者と思ふて之を救はんとするの趣意なる可し。其婆心は真に貴ぶ可しと雖も、世の人を罪業深き凡夫と名るは、所謂坐を見て説くの方便のみ、其実は必ずしも然らず。人類は生涯の間、孜々として悪事のみを為す者に非ず。古今世界中に於て如何なる善人にても必ず悪行なきを保す可らず、如何なる悪人にても亦必ず善行なきを期す可らず。人の生涯の行状を平均すれば、善悪相混じて善の方多きものならん。善行多ければこそ世の文明も次第に進たることなれ。而して其善行は悉皆教の力のみに由て生じたるものに非ず。人を誘て悪に陥れんとして、其謀の必ず百発百中ならざることあらば、乃ち此謀を倒にして善に用ゆるも亦、必ず人を導て善に移す可らざるを証す可し。到底(ツマリ)人の心の善悪は人々の工夫に在るものにて、傍より自由自在に与奪す可きものに非ず。教の行届かざる古代の民に善人あり、智力発生せざる子供に正直なる者多きを見れば、人の性は平均して善なりと云はざるを得ず。徳教の大趣意は其善の発生を妨げざるに在るのみ。家族朋友の間に善を責るとは、其人の天性になきものを傍より附与するに非ず、其善心を妨げるものを除くの術を教へ、本人の工夫を以て自己の善に帰らしむるのみ。故に徳義は人力の教のみを以て造る可きものに非ず、之を学ぶ人の工夫に由て発生するものなり。且其所謂徳行とは此章の初にも記したるが如く唯受身の私徳にて、其結局は一身の私慾を去り、財を愛まず名を貪らず、盗むことなく詐ることなく、精心を潔白にして誠のためには一命をも抛つものを指して云ふことなれば、即ち忍難の心なり。忍難のこころ、固より非なるに非ず。之をかの貪吝詐盗大悪無道の不徳に比すれば同日に論ず可らずと雖も、人の品行に於て此忍難の善心と此不徳の悪心との間には尚千種万様の働ある可き筈なり。前段に智徳の箇条を四様に分たれども、其細目を枚挙せば殆ど際限ある可らず。恰も善悪を甚暑甚寒の両極と為して、其間には春もあり秋もあり薄暑もあり向寒もありて、冷温の度に限なきが如し。もし人類をして其天性を全ふするを得せしめなば、甚寒の悪心は素より既に之を脱して遥に上流に在る可き筈に非ずや。人に盗詐の心あらざればとて何ぞ之を美徳とするに足らん。不盗不詐等の箇条は人類の品行に計へ込む可きものに非ず。若し夫れ貪吝詐盗大悪無道なるあらば、人にして人に非ざる者なり。其心を内に包蔵すれば世間の軽蔑を受け、其所業を外形に顕すときは人間交際の法を以て之を罰す可し。何れにも因果応報の次第は明にして、懲悪の具、外に備はり、勧善の機、内に存するものと云ふ可し。然るに今孜々として私徳の一方を教へ、万物の霊たる人類をして僅に此人非人の不徳を免かれしめんことを勉め、之を免かるゝを以て人生最上の約束と為し、此教のみを施して一世を籠絡せんとして却て人生天稟の智力を退縮せしむるは、畢竟人を蔑視し人を圧制して其天然を妨るの挙動と云はざるを得ず。一度び心に圧制を受れば之を伸すこと甚だ易からず。かの一向宗の輩は自から認めて凡夫と称し、他力に依頼して極楽往生を求め、一心一向に弥陀を念じて六字の名号を唱るの外、更に工夫あることなし。漢儒者が孔孟の道に心酔して経書を復読するの外に工夫なく、和学者が神道を信じて古書を詮索するの外に工夫なく、洋学者が耶蘇の教を悦て日新の学問を忘れ、一冊の「バイブル」を読むの外に工夫なきが如きも、皆一向宗の類なり。固より此流の人にても、其信ずる所を信じて一身の内を脩め自から人間交際の風を美にするの功能は世の裨益の一箇条なれば、決して之を無用として咎るの理なし。譬へば文明の事業を智徳の一荷と為して、人々此荷物を担ふ可きものとすれば、教を信じて一身の徳を脩るは即ち其片荷を負ふ者にて、一方の責は免れたりと雖ども、唯其信ず可きを信ずるのみにて働く可きを働かざるの罪は遁れ難し。其事情恰も脳を有して神経なきが如く、頭を全ふして腕を失ふが如し。畢竟人類の本分を達して其天性を全ふしたる者に非ざるなり。
右の如く私徳は他人の力を以て容易に造る可きものに非ず。仮令ひよく之を造るも智恵に依頼せざれば用を為す可らず。徳は智に依り、智は徳に依り、無智の徳義は無徳に均しきなり。左に其証を示さん。今の学者、耶蘇の宗教を便利なりとして神儒仏を迀遠なりとするは何ぞや。其教に正邪の別ある乎。其正其邪は余輩の敢て知らざる所、これを弁ずるは本書の趣意に非ざれば姑く擱き、其民心に感ずる所の功能に就て論ずるときは、耶蘇の教も亦必ずしも常に有力なるに非ず。欧羅巴の教化師が東洋諸島及び其他野蛮の地方に来て、其土人を改宗せしめたるの例は古来少しとせず。然るに今日に至るまで土人は依然たる旧の土人にて、其文明の有様固より欧羅巴に比較す可らず。夫婦の区別も知らざる赤裸の土人が寺に群集して、一母衆父の間に生れたる其子供に、耶蘇正教の洗礼を行ふも唯是れ改宗の儀式のみ。或は其地方に文明の端を開て進歩に赴きしものも稀にこれありと雖ども、其文明は必ず教師の伝習したる文学技芸と共に進たるものにて、唯宗教の一事のみに由て生じたる結果に非ず。宗教は表向の儀式と云ふ可きのみ。又一方に就て見れば、神儒仏の教に育せられたる日本の人民にても、唯文明の名を下だす可らざるのみ、其心術に至ては悉皆これを悪人と云ふ可らず、正直なる者も亦甚だ多し。此趣を見れば神儒仏の道、必ずしも無力にして、耶蘇の教のみ独り有力なるに非ず。然ば則ち何を以て耶蘇の教を文明に便利なりとして神儒仏の道を迀遠なりとする乎。学者の考は前後不都合なるに似たり。今其議論の由て生ずる本を尋ね、其意見の在る所を砕て之を探るに、耶蘇の教は文明の国に行はれて文明と共に並立す可く、神儒仏の教は不文の国に行はれて文明と共に並立す可らざるが故に、此を迀遠なりとして彼を便利なりと云ひしことならん。然りと雖ども其行はるゝと行はれざる由縁は、教の本体に於て力の強弱あるに非ず、其本体を装ふて光明を増す可き智恵の働に巧拙の差あればなり。西洋諸国にて耶蘇教を奉ずる人は大概皆文明の風に浴したる者にて、殊に其教師の如きは唯聖経のみを読むに非ず、必ず学校の教を受て文学技芸の心得ある人物なれば、前年は教化師と為て遠国に旅行したる者も、今年は自国に在て法律の業を勤む可し、今日は寺に居て説法するも明日は学校に行て教師と為る可し、法俗兼備して法教と共に学芸を教へ人を智域に導くがゆゑに、文明と並立して相戻らざるのみ。故に人の此教を軽蔑せざるは唯其教の十戎のみを信ずるに非ず、教師の言行自から迀遠ならずして今日の文明に適するがために之に帰依するなり。今若し耶蘇の教師をして無学無術なること我山寺の坊主の如くならしめなば、仮令ひ其行状は正しくして聖人の如くなるも、新旧約書は諳誦して朝夕にこれを唱るも、文明の士君子にして誰かこの教を信ずる者あらんや。遇ま之を信ずる者あれば即ち其者は田夫野嫗(やおう)、数珠を捫(なで)て阿弥陀仏を念ずる輩のみ。此輩の目を以て見れば耶蘇も孔子も釈迦も大神宮も区別ある可らず。合掌して拝むものは狐も狸も皆神仏なり。意味も分らぬ読経を聞て涙を流す其愚民へ、何を教へて何の功を成す可きや。決して文明の功を成す可らず。此不文暗黒の愚民中に入込みて強ひて耶蘇の聖教を教へんとし、之に諭し之に説き、甚しきは銭を与へて之を導き、漸くこれに帰依する者あるに至るも、其実は唯仏法の内に耶蘇と名る一派を設けたるが如きのみ。斯の如きは則ち決して識者の素志に非ず。識者は必ず博学多才なる耶蘇の教師を入れて、宗教と共に其文学技芸を学び、以て我文明を達せんとするの意見なる可し。されども文学技芸は智恵の事なり。智恵の事を教るは必ずしも耶蘇の教師に限らず。智恵ある者に就て学ぶ可きのみ。然ば則ち、かの耶蘇教を便利なりとして神儒仏を迀遠なりとしたるは識者の了簡違に非ずや。余輩は固より耶蘇の教師を悪むに非ず、智恵さへある者なれば耶蘇の教師にても尋常の教師にても好悪の差別あることなし。唯博学多才にして身の正しき人を悦ぶのみ。若し天下に耶蘇の教師を除くの外は正しき人物なきものとすれば、固より此教師のみに従て何事も伝習す可しと雖ども、耶蘇の宗門は必ずしも正者専売の場所に非ず、広き世界には自から博学正直の士君子もある可し。之を撰ぶは人々の鑑定に任ず可きのみ。何ぞ独り耶蘇教の名目に拘泥するの理あらんや。何れにも教の本体に便不便はある可らず。唯これを奉ずる人民の智恵に由て価を変ずるものなり。耶蘇の教も釈迦の教も愚人の手に渡せば愚人の用を為すのみ。今の神儒仏の教も今の神職僧侶儒者輩の手に在て今の人民に教ればこそ迀遠なれ、若し此輩の人をして(期し難きことなりと雖ども)大に学ぶことあらしめ、文学技芸を以て其教を装ひ、文明の人の耳を借て之を説くことあらば、必ず其教に百倍の価を増して、或は他をして之を羨ましむるに至る可し。之を譬へば教は猶刀の如く、教の行はるゝ国の人民は猶工匠の如し。利刀ありと雖ども拙工の手に在れば其用を為さず。徳行も不文の人民に逢へば文明の用を為さゞるなり。かの徳行の識者は工匠の巧拙を誤て刀の利鈍と認めたるものと云ふ可し。故に云く、私徳は智恵に由て其光明を生ずるものなり。智恵は私徳を導て其功用を確実ならしむものなり。智徳両ながら備はらざれば世の文明は期す可らざるなり。
新に宗教を入るゝの得失を論ずるは此章の趣意に非ざれども、議論の次第こゝに及びたるが故に、序ながら少しく云はざるを得ず。都て物を求るとは我に無きもの歟又は不足するものを得んとすることなり。爰に二箇条の求ありて、其孰か前後緩急を定るには、先づ我所有の有様を考へ、其全く我に無きもの歟、又は二の内、最も不足するものを察して之を求めざる可らず。蓋し一を求めて一を不用なりとするに非ず、両ながら入用なれども、之を求るに前後緩急の別あるのみ。文明は一国人民の智徳を外に顕はしたる現象なりとのことは前既に之を論じたり。而して日本の文明は西洋諸国のものに及ばずとのことも普く人の許す所なり。然ば則ち日本の未だ文明に達せざるは、其人民の智徳に不足する所ありて然るものなれば、此文明を達せんとするには智恵と徳義とを求めざる可らず。即是れ方今我邦に於ける二箇条の求なり。故に文明の学者は広く日本国中を見渡して此二者の分量を計り、孰か多くして孰か少なきを察するに非ざれば、其求の前後緩急を明に弁ず可らず。如何なる不明者と雖ども、日本全体の人民を評して徳義は不足すれども智恵は余ありと云ふ者はなかる可し。其証拠と為す可き箇条は甚だ多く且明にして計ふるに遑あらず、亦計ふるにも及ばざる程のことなれども、念のために一、二例を示さん。抑も日本に行はるゝ徳教は神儒仏なり、西洋に行はるゝものは耶蘇教なり。耶蘇と神儒仏と其説く所は同じからずと雖ども、其善を善とし悪を悪とするの大趣意に至ては互に大に異なることなし。譬へば日本にて白き雪は西洋にても白く、西洋にて黒き炭は日本にても黒きが如し。且徳教の事に就ては東西の学者頻りに自家の教を主張し、或は其書を著し或は他の説を駁して争論止むことなし。此争論の趣を見ても亦以て東西の教に甚しき優劣なきを徴す可し。凡物の力量略(ほぼ)相敵せざれば争論は起る可らず。牛と猫と闘ふたるを見ず、力士と小児と争ふたるを聞かず。争闘の起るは必ず其力、伯仲の間に在るものなり。かの耶蘇教は西洋人の智恵を以て脩飾維持したる宗教なれば、其精巧細密なること迚も神儒仏の及ぶ所に非ざる可しと雖ども、西洋の教化師は日本に来て頻りに其教を主張し神儒仏を排して己れの地位を得んとし、神儒仏の学者は及ばずながらも説を立てゝ之に敵対せんとして、兎に角に喧嘩争論の体裁を成すは何ぞや。西洋の教必ずしも牛と力士との如くならず、日本の教必ずしも猫と小児との如くならずして、東西の教、正しく伯仲の間に在るの明証と云ふ可し。其孰か伯た孰か仲たるは余輩の関する所に非ずと雖ども、我日本人も相応の教を奉じて其徳教に浴したる者なれば、私徳の厚薄を論ずるときは、西洋人に比して伯たらざるも必ず仲たり。或は教の議論に関せずして事実に就て見れば、伯たる者は却て不文なる日本人の内に多きこともあらん。故に徳の分量は仮令ひ我国に不足することあるも焦眉の急須に非ざること明なり。智恵の事は全く之に異なり。日本人の智恵と西洋人の智恵とを比較すれば、文学技術商売工業、最大の事より最小の事に至るまで、一より計へて百に至るも又千に至るも、一として彼の右に出るものあらず。彼に敵対する者なく、彼に敵対せんと企る者もなし。天下の至愚に非ざるの外は、我学術商工の事を以て西洋諸国に並立せりと思ふ者はなかる可し。誰か大八車を以て蒸気車に比し、日本刀を以て小銃に比する者あらん。我に陰陽五行の説を唱れば、彼には六十元素の発明あり。我は天文を以て吉凶を卜したるに、彼は既に彗星の暦を作り太陽太陰の実質をも吟味せり。我は動かざる平地に住居したる積りなりしに、彼は其円くして動くものなるを知れり。我は我邦を以て至尊の神洲と思ひしに、彼は既に世界中を奔走して土地を開き国を立て、其政令商法の斉整なるは却て我より美なるもの多し。是等の諸件に至ては、今の日本の有様にて決して西洋に向て誇る可きものなし。日本人の誇る所のものは唯天然の物産に非ざれば山水の風景のみ、人造の物には嘗てこれあるを聞かず。我に争ふの意なければ彼も亦争はず。外国人はよく自国の事に付て自負するものなれども、未だ蒸気車の便利を述て大八車の不便理を駁したるを聞かず。畢竟彼我の智恵の相違は牛と猫との如くにして互に争端を開かざるものなり。是に由て之を観れば、方今我邦至急の求は智恵に非ずして何ぞや。学者思はざる可らず。
又一例を挙て之を示さん。田舎に人物あり、旧藩士族と云ふ。廃藩の前に家禄二、三百石を取り、君に仕へて忠、父母に事へて孝、夫婦別あり、長幼序あり、借金必ず払ひ、附合必ず勤め、一毫の不義理を犯したることなし。況や詐盗に於てをや。或は威を以て百姓町人を圧制したることあれども、固より身分の当然なれば心に恥る所なし。家は極て節倹、身は極て勉強、弓馬の芸、剣鎗の術、達せざるものなし。唯文字を知らざるのみ。今此人のために謀るに之を如何す可きや。徳を与へんか、将(は)た智を与へんか。試に之を徳に導き、突然として耶蘇の十誡を示すことあらば、第四誡までの箇条は生来知らざることなれば或は之を聞く可しと雖ども、第五誡以下に至ては此人必ず云はん、我は父母を敬せり、我は人を殺すの意なし、何ぞ婬(いん)することをせん、何ぞ盗むことをせんとて、一々抗論して容易に敬服することなかる可し。固より耶蘇の教は此十誡の白文を以て尽す可きに非ず、必ず意味深長なるものにて、父母を敬するにも自からの敬の法あり、人を殺さゞるにも自から殺さゞるの趣意あり、不婬にも義あり、不盗にも義あることならん。故に之に説くには丁寧反覆よく其旨を尽して、遂には此人の心を感動せしむることもある可しと雖ども、兎に角に徳行の事に就ては、此士族平生の行状に於て、少なくも初段の心得はある者と云はざるを得ず。然るに一方より其智恵に就て所得を試るに、渾身恰も空虚なるが如し。五色の区別は僅に弁ずれども天然七色の理は固より之を知らず、寒暑の挨拶は述れども寒暖計昇降の理は之をしらず、食事の時は誤らざれども時計の用法をば解すこと能はず、生国の外に日本あるを知らず、日本の外に外国あるを知らず、何ぞ内の形勢を知らん、何ぞ外の交際を知らん、古風を慕ひ古法を守り、一家は恰も一小乾坤にして、其眼力の及ぶ所は唯家族の内を限り、戸外に出ること僅に一歩にして世界万物悉皆暗黒なる者の如し。廃藩の一挙以て此小乾坤を覆へし、今日に至ては唯途方に暮るゝのみ。概して此人物を評すれば愚にして直なりと云ふの外は名状す可きなし。斯る愚直の人民は唯旧藩士族のみに限らず世間に其類甚だ多し。人の普く知る所にして、学者も政府も共に患る所のものなり。然るに、かの徳行の識者は尚この愚民に説て耶蘇の正教を伝へ其徳義を進めんとするに忙はしくして、其智恵の有無は捨てゝ問はざる乎。識者の目には唯愚にして不直なる者のみを見ることなる可しと雖ども、世間には愚にして直なる者も亦甚だ多し。識者これに向て何等の処置を施さんとするや。其直をして益直ならしめ、其愚をして益愚ならしめんと欲する乎。物を求るに前後緩急の弁別なきものと云ふ可し。西洋家流の人は常に和漢の古学を迀遠なりとして詈(ののし)るに非ずや。其これを詈るは何ぞや。事実に智恵の働なきを咎るものならん。他を咎て自から其覆轍に傚ひ、自から築て自から毀つ、惑へるの甚しきなり。
宗教は文明進歩の度に従て其趣を変ずるものなり。西洋にても耶蘇の宗旨の起りし其初は羅馬の時代なり。羅馬の文物盛なりと雖ども、今日の文明を以て見れば概してこれを無智野蛮の世と云はざるを得ず。故に耶蘇の宗教も其時代には専ら虚誕妄説を唱へて、正しく当時の人智に適し、世に咎めらるゝこともなく世を驚かすこともなく、数百年の間、世と相移りて次第に人の信仰を取り、其際に自から一種の権力を得て却て人民の心思を圧制し、其情状、恰も暴政府の専制を以て衆庶を窘るが如くなりしが、人智発生の力は大河の流るゝが如く、之を塞がんとして却て之に激し、宗旨の権力一時に其声価を落すに至れり。即ち紀元千五百年代に始りたる宗門の改革、是なり。此改革は羅馬の天主教を排して「プロテスタント」の新宗派を起したることにて、是より両派、党を異にして相互に屹立すと雖ども、今日の勢にては新教の方、次第に権を得るが如し。抑も此両派は元と同一の耶蘇教より出たるものにて、其信ずる所の目的も双方共に異なることなしと雖ども、新教の盛なる由縁は、宗教の儀式を簡易に改め、古習の虚誕妄説を省て正しく近世の人情に応じ、其智識進歩の有様に適すればなり。概して云へば旧教は濃厚にして愚痴に近く、新教は淡薄にして活潑なるの差あるなり。世情人古今の相違を表し出したるものと云ふ可し。
右所記に従へば、欧羅巴の各国にて文明の先なるものは必ず新教に従ひ、後なるものは必ず旧教を奉ず可き筈なるに、亦決して然らず。譬へば今蘇格蘭(すこつとらんど)と瑞典(すえーでん)との人民は妄誕に惑溺する者多くして、仏蘭西人の穎敏活潑なるに及ばざること遠し。故に蘇瑞は不文にして仏蘭西は文明と云はざるを得ず。然るに仏は旧き天主教を奉じ、蘇瑞は新教の「プロテスタント」に帰依せり。この趣を見て考れば、天主教も仏蘭西に在ては其教風を改めて自から仏人の気象に適するもの歟、然らざれば仏人は宗教を度外に置て顧みざることなる可し。新教も蘇瑞両国に於ては其性を変じて自から人民の痴愚に適するものならん。到底(ツマリ)宗教は文明の度に従て形を改るの明証と云ふ可し。日本にても旧き山伏の宗旨又は天台真言宗の如きは専ら不思議を唱へ、或は水火の縁を結ぶと云ひ、或は加持祈禱の妙法を修すると云ひ、以て人を蠱惑して、古の人民はこの妄誕を信仰せしことなりしが、中古一向宗の起るに及ては不思議を云ふこと少なく、其教風都て簡易淡薄を主として亦中古の人文に適し、遂に諸宗を圧倒して独り権力を専らにせり。世の文明次第に進歩すれば宗教も必ず簡易に従ひ、稍や道理に基かざるを得ざるの証なり。仮に今日に在て弘法大師を再生せしめ、其古人を蠱惑せし所の不可思議を唱へしむることあるも、明治年間の人には之を信ずる者甚だ稀なる可し。故に今日の人民はまさに今日の宗旨に適し、宗旨も人民に満足し、人民も宗旨に満足して、互に不平ある可らず。若し日本の文明今より次第に進て、今の一向宗をも虚誕なりとして之を厭ふに至らば、必ず又別の一向宗を生ずることもある可し。或は西洋に行はるゝ宗旨を其まゝに採用することもある可し。結局宗旨のことは之を度外に置く可きのみ。学者の力を尽すも政府の権を用るも如何ともす可きものに非ず。唯自然の成行に任ず可きのみ。故に書を著して宗旨の是非正邪を論じ、法を設けて宗旨の教を支配せんとする者は、天下の至愚と云ふ可し。
有徳の善人必ずしも善を為さず、無徳の悪人必ずしも悪を為さず。往時西洋諸国にて宗旨のために師を起し人を殺したるの例は歴史を見て知る可し。其最も甚しきものは「ペルセキウション」とて、己が信ずる所の宗旨に異なる者を逐て之を殺戮することなり。古来仏蘭西及び西班牙(いすぱにあ)に於て其例最も多し。有名なる「バルゾロミウ」の屠戮(とりく)には、八日の間に無罪の人民五千人を殺したりと云ふ。《事は西洋事情二編仏蘭西の史記にあり。》其惨酷なるは沙汰の限りなれども、屠戮を行ふたる本人に就て見れば、元と一心一向に宗旨を信じ、信の一事に於ては俯仰憚る所なく、所謂屋漏に恥ざる善人なり。此善人にして此大悪事を行ふは何ぞや。私徳の足らざるに非ず、聡明の智恵に乏しきなり。愚人に権力を附して、之をして信ずる所あらしめなば、何等の大悪事をも為さゞることなし。世のために最も恐る可き妖怪と云ふ可し。爾来諸国の文物漸く盛なるに至り、今日は既に「ペルセキウション」の事あるを聞かず。こは古今の宗旨に異同あるに非ず、文明の前後に由て然るものなり。均しく是れ耶蘇の宗旨なるに、古はこの宗旨のために人を殺し、今はこの宗旨を以て人を救ふとは何故ぞ。人の智愚に就て其源因を求むるの外は手段なかる可し。故に智恵は徳義の光明を増すのみならず、徳義を保護して悪を免かれしむるものなり。近くは我日本にても、水戸の藩中に正党姦党の事あり。其由来は今爰に論ずるに及ばずと雖ども、結局、忠義の二字を議論して徒党を分たるものにて、其事柄は宗旨論に異ならず。正と云ひ姦と云ふも其字に意味ある可らず。自から称して正と云ひ他を評して姦と名るのみ。両党共に忠義の事を行ひ、其一人の言行に就て之を見れば腹中甕(かめ)の如き赤心を納る者多し。其偽君子に非ざるの証は、此輩が事を誤るときに当て常に従容死に就き狼狽する者なきを見て知る可し。然るに近世議論のために無辜の人民を殺したるの多きは水戸の藩中を最とす。是亦善人の悪を為したる一例なり。
徳川家康は乱世の後を承け櫛風(しつぷう)浴雨、艱難を憚らずして遂に三百年の太平を開き、天下を泰山の安(やすき)に置たりとて、今日に至るまでも其功業の美なるを称せざる者なし。実に足利の末世、海内紛擾の時に当て、織田豊臣の功業も未だ其基を固くすること能はず。此時に家康なかりせば何れの時か太平を期す可きや。実に家康は三百年間太平の父母と云ふ可し。然るに此人の一心に就き其徳義を察すれば、人に恥づ可きもの少なからず。就中其太閤の遺託に背て大阪を保護するの意なく、特に託せられたる秀頼を輔けずして却て其遊冶暗弱を養成し、石田三成の除く可きを除かずして後日大阪を倒すの媒妁に遺したるが如きは、奸計の甚しきものを云ふ可し。此一条に就ては家康の身には一点の徳義なきが如し。然るに此不徳を以て三百年の太平を開き衆庶を塗炭に救たるは奇談に非ずや。其他頼朝にても信長にても、一身の行状を論ずれば残忍刻薄偽詐反覆悪む可きもの多しと雖ども、皆一時の干戈を止め人民の殺戮を少なくしたるは何ぞや。悪人も必ずしも善を為さゞるに非ざるなり。必竟此輩の英雄は、或は私徳に欠点ありと雖ども、聡明叡知の働を以て善の大なるものを成したる人物と云ふ可し。一点の瑾(きず)を見て全璧の価を評す可らざるなり。
右に論ずる所を約して云へば、徳義は一人の行状にて其功能の及ぶ所狭く、智恵は人に伝ること速にして其及ぶ所広し、徳義の事は開闢の初より既に定て進歩す可らず、智恵の働は日に進て際限あることなし、徳義は有形の術を以て人に教ゆ可らず、之を得ると否とは人々の工夫に在り、智恵は之に反して人の智恵を糺すに試験の法あり、徳義は頓に進退することあり、智恵は一度び之を得て失ふことなし、智恵は互に依頼して其功能を顕はすものなり、善人も悪を為すことあり悪人も善を行ふことありとのことを説き示したるものなり。抑も徳義を人に授るに就ては有形の方術なく、忠告の及ぶ所は僅に親族朋友の間のみなりと雖ども、其風化の達する領分は甚だ広し。万里の外に出版したる著書を見て大に発明することあり、古人の言行を聞て自から工夫を運らし遂に一身の心術を改る者あり。伯夷の風を聞て立つとは此事なり。苟も人として世を害するの意なくば一身の徳義を脩めざる可けんや。名のために非ず、利のために非ず、正に是れ人類たる者の自から任ず可き徳義の責なり。自己の悪念を防ぐには、勇士が敵に向て戦ふが如く、暴君が民を御して之を窘るが如くし、善を見て之を採るは守銭奴が銭を貪て飽くことを知らざる者の如くし、既に一身を脩め又よく一家を教化し、尚余力あらば乃ち広く他人に及ぼして之に説き之に諭し、衆生をして徳の門に入らしめ、一歩にても徳義の領分を弘めんことを勉む可し。是亦人間の一科業にて、文明を助るの功能固より洪大なるが故に、世に教化師の類ありて徳義の事を勧るは誠に願ふ可きことなれども、唯徳義の一方を以て世界中を籠絡せんとし、或は其甚しきに至ては徳教中の一派を主張して他の教派を排し、一派を以て世の徳教を押領して兼て又智恵の領分をも犯し、恰も人間の務は徳教の一事に止りて徳教の事は又其内の一派に限るものゝ如くし、人の思想を束縛して自由を得さしめず、却て人を無為無智に陥れて実の文明を害するが如きは、余輩の最も悦ばざる所なり。受身の私徳を以て世の文明を助け、世人をして其徳沢を被らしむることあるは、偶然に成たる美事と云ふ可きのみ。譬へば我地面内に家を建てゝ遇ま隣家の屏墻と為りたるが如し。隣人のためには極て便利なりと雖ども、元と我家を建たるは自己のためにして隣人のためにしたるに非ず、偶然の便利と云ふ可きのみ。私徳を脩るも元と一身のためにするものにて他人のためにするに非ず、若し他人のために徳を脩る者あらば、即是れ偽君子にて、徳行家の悪む所なり。故に徳義の本分は一身を脩るに在り。其これを脩て文明に益することあるは偶然の美事のみ。偶然の事に拠て一世を支配せんとするは大なる誤と云ふ可し。元来人として此世に生れ、僅に一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとするに足らず。試に問ふ、徳行の君子、日に衣食する所の物は何処より来たるや。上帝の恩沢洪大なりと雖ども、衣服は山に生ぜず、食は天より降らず。況や世の文明次第に進めば其便利、唯衣服飲食のみならず、蒸気電信の利あり、政令商売の便あるに於てをや。皆是れ智恵の賜にあらざるはなし。人間同権の趣意に従へば、坐して他人の賜を受るの理ある可らず。若し徳行の君子をして瓢瓠(へうこ)の如くならしめ、よく懸て食ふことなくば則ち止まん(有徳の君子がぶら下がるだけで食べられない瓢箪のやうなものになるなら無意味なことだ)。苟も食を喰ひ衣を服し、蒸気電信の利を利として、政令商売の便を便とすることあらば、亦其責に任ぜざる可らず。加之肉体の便利既に饒にして一身の私徳既に恥ることなしと云ふも、尚この有様に止て安ずるの理なし。其饒と云ひ、恥るなしと云ふは、僅に今日の文明に於て足れるのみ、未だ其極に至らざること明なり。人の精神の発達するは限あることなし、造化の仕掛には定則あらざるはなし。無限の精神を以て有定の理を窮め、遂には有形無形の別なく、天地間の事物を悉皆人の精神の内に包羅して洩すものなきに至る可し。此一段に至ては何ぞ又区々の智徳を弁じて其界を争ふに足らん。恰も人天並立の有様なり。天下後世必ず其日ある可し。
第七章智徳の行はる可き時代と場所を論ず

 

事物の得失不便を論ずるには時代と場所とを考へざる可らず。陸に便利なる車も海に在ては不便利なり。昔年便利とせし所のものも今日に至ては既に不便なり。又これを倒にして今日の世には至便至利のものたりと雖ども、之を上世に施す可らざるもの多し。時代と場所とを考の外に置けば、何物にても便利ならざるものなし、何事にても不便利ならざるものなし。故に事物の得失便不便を論ずるとは、其事物の行はる可き時節と場所とを察すると云ふに異ならず。時代と場所とにさへ叶へば事物に於て真に得失はなきものなり。中古発明長柄の鎗は中古の戦に便利なれども、之を明治年間に用ゆ可らず。東京の人力車は東京の市中に便利なれども、之を「ロンドン」「パリス」に用ゆ可らず。戦争は悪事なれども敵に対すれば戦はざるを得ず。人を殺すは無道なれども戦のときには殺さゞるを得ず。立君専制の暴政は賎しむ可しと雖ども、「ペイトル」帝の所業を見て深く咎む可らず。忠臣義士の行状は好みす可しと雖ども、無君の合衆国を評して野蛮と称す可らず。彼も一時一処なり、此も一時一処なり。到底世の中の事に、一以て之を貫く可き道はある可らず。唯時と処とに随て進む可きのみ。
時を察し処を視るの事は極て難し。古来の歴史に於て人の失策と称するは、悉皆此時と処とを誤たるものなり。其美事盛業と称するはよく此二者に適したるものなり。蓋し其これを視察するの難きは何ぞや。処には類似したるもの多く、時には前後緩急の機あればなり。譬へば実子と養子と相類するが故に、養子を御するに実子を遇するの法を以てして大に誤ることあり。或は馬と鹿と相似たるが故に、馬を飼ふの術を用ひて鹿を失ふことあり。或は宮と寺とを誤り、或は提灯と釣鐘とを誤り、或は騎兵を沼地に用ひて重砲を山路に牽かしむることあり。或は東京と「ロンドン」とを誤認(あやまりしたゝ)めて「ロンドン」に人力車を用ひんとする等、此類の失策は計るに遑あらず。又時に就て論ずれば、中古の戦争と今の戦争と相似たればとて、中古に便利なりし長柄の鎗を今世の戦に用ゆ可らず。所謂時来れりと称するものは多くは真の時機に後れたる時なり。食事の時は飯を喰う時なり、飯を炊くの時は其以前になかる可らず。飯を炊かずして空腹を覚へ、乃ち時来れりと云ふと雖ども、其時は炊きたる飯を喰ふ可き時にて、飯を炊く可き時には非ず。又眠を貪て午前に起き、其起たる時を朝と思ふと雖ども、真の朝は日出の時に在て、其時は睡眠の中に既に過ぎたるが如し。故に場所は撰ばざる可らず。時節は機に後る可らざるなり。
前章には智恵と徳義との区別を示して其功用の異なる所を論じたり。今また其行はる可き時節と場所とのことを弁論して、以て此一章を終る可し。開闢の後、野蛮を去ること遠からざる時代には、人民の智力未だ発生せずして其趣恰も小児に異ならず、内に存するものは唯恐怖と喜悦との心のみ。地震雷霆風雨水火、皆恐れざるものなし。山を恐れ海を恐れ、旱魃を恐れ飢饉を恐れ、都て其時代の人智を以て制御すること能はざるものは、之を天災と称して唯恐怖するのみ。或は此天災なるものを待て来らざる歟、又は来て速に去ることあれば、乃ち之を天幸と称して唯喜悦するのみ。譬へば旱(ひでり)の後に雨降り、飢饉の後に豊年あるが如し。而して此天災天幸の来去するや、人民に於ては悉皆其然るを図らずして然るものなれば、一に之を偶然に帰して、嘗て人為の工夫を運(めぐら)さんとする者なし。工夫を用ひずして禍福に遇ふことあれば、人情として其源因を人類以上のものに帰せざるを得ず。即ち鬼神の感を生ずる由縁にて、其禍の源因を名けて悪の神と云ひ、福の源因を名けて善の神と云ふ。凡そ天地間に在る一事一物、皆これを司る所の鬼神あらざるはなし。日本にて云へば八百万神の如き是なり。其善の神に向ては幸福を降さんことを願ひ、悪の神に向ては禍災を避けんことを願ひ、其願の叶ふと否とは我工夫に在らずして鬼神の力に在り。其力を名けて神力と云ひ、神力の扶助を願ふことを名けて祈と云ふ。即ち其時代に行はるゝ祈祷なるもの是なり。
此人民等の恐怖し又喜悦する所のものは、啻に天災と不幸とのみならず、人事に於ても亦斯の如し。道理に暗き世の中なれば、強大なる者の腕力を以て小弱なる者を虐するも、理を以て之を拒むの術なくして唯これを恐怖するのみ。其有様は殆ど天災に異ならず。故に小弱なる者は一方の強大に依頼して他の強暴を防ぐの外に手段ある可らず。此依頼を受る者を名けて酋長と云ふ。酋長は其腕力に兼て聊(いささ)かの智徳を有し、他の強暴を制して小弱を保護し、之を保護すること愈厚ければ人望を得ることも亦愈固くして、遂に一種の特権を握り、或は之を子孫に伝ることあり。世界中何れの国にても、草昧の初に於ては皆然らざるものなし。我邦王代に於ては、天子、国権を執り、中古、関東にて源氏の威を専らにしたるも其一例なり。此酋長なる者、既に権威を得ると雖ども、無智の人民、反覆常なくして之を維持すること甚だ難し。之に諭すに高尚の道理を以てす可らず、之に説くに永遠の利益を以てす可らず。其方向を一にして共に一種族の体裁を保たんとするには、唯其天然に備はりたる恐怖と喜悦との心に依頼して、目前の禍福災幸を示すの一法あるのみ。これを君長の恩威と云ふ。是に於てか始て礼楽なるものを作り、礼は以て長上を敬するを主として自から君威の貴きを知らしめ、楽は以て無言の際に愚民を和して自から君徳を慕ふの情を生ぜしめ、礼楽以て民の心を奪ひ、征伐以て民の腕力を制し、衆庶を率ひて識らず知らず其処を得せしめ、善き者を褒て其喜悦の心を満足せしめ、悪き者を罰して其恐怖の心を退縮せしめ、恩威並(ならび)行はれて人民も自から苦痛なきに似たり。然りと雖ども其これを褒めこれを罰するは皆君長の心を以て決することなれば、人民は唯この褒罰に遇ふて恐怖し又喜悦するのみ。褒罰の由て来る由縁の道理は之を知ることなし。其事情恰も天の禍災幸福を蒙るが如く、悉皆其然るを図らずして然るものにて、一事一物も偶然に出でざるはなし。故に一国の君主は偶然の禍福の由て来る所の源なれば、人民より之を仰て自から亦人類以上の観を為さゞるを得ず。支那にて君主のことを尊崇して天の子と称するも蓋し此事情に由て起りし名称ならん。譬へば古の歴史に往々百姓の田租を免すと云ふことあり。政府にて何程の倹約を行ふも、国君以下衣食住の入用と多少の公費は欠く可らず。然るに幾年の間、年貢を取らずして尚この諸入費に差支なきは、前年の租税苛酷にして其時に余財ありし証なり。此苛税を出しても人民は其出す所以を知らず。今頓に幾年の間、無税と為るも、人民は其無税と為りし所以を知らず。苛き時は之を天災と思ふて恐怖し、寛なるときは之を天幸と思ふて喜悦するのみ。其災も其幸も天子より降り来ることにて、天子は恰も雷と避雷針と両様の力あるものゝ如し。雷霆の震するも天子の命なり、此雷霆を避けしむるも天子の命なり。人民はこれに向て唯祈願するの一術あるのみ。其天子を尊崇すること鬼神の如くするも亦理なきに非ざるなり。
今人の心を以て右の事情を考れば極て不都合なるに似たれども、時勢の然らしむる所、決して之を咎むるの理なし。此時代の人民に向ては、共に智恵の事を語る可らず、共に規則を定め難し、共に約束を守り難し。譬へば堯舜の世に今の西洋諸国の法律を用ひんとするも、其法律の趣意を解してよく之に従ふ者なかる可し。其これに従はざるは人民の不正に非ず、其法律の趣意を解す可き智恵あらざればなり。此人民を放て各其赴く所に向はしめなば、何等の悪事を犯して世のために何等の災害を醸す可きやも測る可らず。唯酋長なる者、独りよく其時勢を知り、恩を以て之を悦ばしめ、威を以て之を嚇し、一種族の人民を視ること一家の子供の如くし、之を保護維持して、大は生殺与奪の刑罰より、小は日常家計の細事に至るまでも、君上の関り知らざるものなし。其趣を見れば天下は正しく一家の如く又一教場の如くにして、君上は其家の父母の如く又教師の如く、其威徳の測る可らざるは鬼神の如く、一人の働を以て父母と教師と鬼神との三職を兼帯する者なり。此有様にて国君よく私慾を制し己を虚ふして徳義を脩むれば、仮令ひ智恵は少なくとも仁君明天子の誉あり。之を野蛮の太平と名く。其時代に在ては固より止むを得ざることにて、亦これを美事と云ふ可し。唐虞三代の治世即是なり。或は然らずして国君、私の慾を逞ふし、徳を施さずして唯威力のみを用るときは、則ち暴君の名あり。所謂野蛮の暴政なるものにて、人民は其生命をも安んずること能はず。結局野蛮の世には人間の交際に唯恩威の二箇条あるのみ。即ち恩徳に非ざれば暴威なり、仁恵に非ざれば掠奪なり。此二者の間に智恵の働あるを見ず。古書に、道二あり、仁と不仁となりとは、是を謂ふなり。此風は唯政治の上に行はるゝのみならず、人の私の行状に就ても皆双方の極度に止て、明に其界を分てり。和漢著述の古書を見るに、経書にても史類にても、道を説て人の品行を評するには悉皆徳義を以て目的と為し、仁不仁、孝不孝、忠不忠、義不義、正しく切迫に相対して、伯夷に非ざる者は盗跖(たうせき)なり、忠臣に非ざる者は賊なりとて、其間に智恵の働を容れず。偶ま智恵の事を為すものあれば之を細行末事と称して顧みる者なし。畢竟野蛮不文の時代に在ては、人間の交際を支配するものは唯一片の徳義のみにて、此外に用ゆ可きものあらざるの明証なり。
人文漸く開化し智力次第に進歩するに従て、人の心に疑を生じ、天地間の事物に遇ふて軽々之を看過することなく、物の働を見れば其働の源因を求めんとし、仮令ひ或は真の源因を探り得ざることあるも、既に疑の心を生ずれば其働の利害を撰て、利に就き害を避るの工夫を運らす可し。風雨の害を避るには家屋を堅くし、河海の溢るゝを防ぐには土堤を築き、水を渡るに船を造り、火を防ぐに水を用ひ、医薬を製して病を療し、水理を治めて旱魃に備へ、稍や人力に依頼して安心の地位を作るに至る可し。既に人力を以て自から地位を得るの術を知れば、天災を恐怖するの痴心は次第に消散して、昨日まで依頼せし鬼神に対しても半は其信仰を失はざるを得ず。故に智恵に一歩を進れば一段の勇気を生じ、其智恵愈進めば勇力の発生も亦限あることなし。試に今日西洋の文明を以て其趣を見るに、凡そ身外の万物、人の五官に感ずるものあれば先づ其物の性質を求め其働を糺し、随て又其働の源因を探索して、一利と雖ども取る可きは之を取り、一害と雖ども除く可きは之を除き、今世の人力の及ぶ所は尽さゞることなし。水火を制御して蒸気を作れば太平洋の波濤を渡る可し、「アルペン」山の高きも之を砕けば車を走らしむ可し。避雷の法を発明したるの後は雷霆も其力を逞ふするを得ず、化学の研究漸く実効を奏して飢饉も亦人を殺すを得ず。電気の力、恐る可しと雖ども、之を使へば飛脚の代用を為さしむ可し。光線の性質、微妙なりと雖ども、影を捕へて物の真像を写す可し。風波の害を及さんとするものあれば、港を作て船を護り、流行病の来て襲はんとするものあれば、之を駆て人間に近づくを得せしめず。概して之を云へば、人智を以て天然の力を犯し、次第に其境に侵入して造化の秘訣を発し、其働を束縛して自由ならしめず、智勇の向ふ所は天地に敵なく、人を以て天を使役する者の如し。既に之を束縛して之を使役するときは、又何ぞ之を恐怖して拝崇することをせんや。誰か山を祭る者あらん。誰か河を拝する者あらん。山沢河海風雨日月の類は文明の人の奴隷と云ふ可きのみ。
既に天然の力を束縛して之を我範囲の内に籠絡せり。然ば則ち何ぞ人為の力を恐怖して之に籠絡せらるゝの理あらん。人民の智力次第に発生すれば、人事に就ても亦其働と働の源因とを探索して軽々看過することなし。聖賢の言も悉く信ずるに足らず、経典の教も疑ふ可きものあり。堯舜の治も羨むに足らず、忠臣義士の行も則とる可らず。古人は古に在て古の事を為したる者なり、我は今に在て今の事を為す者なり。何ぞ古に学て今に施すことあらんとて、満身恰も豁如とてして天地の間に一物以て我心の自由を妨るものなきに至る可し。既に精神の自由を得たり、又何ぞ身体の束縛を受けん。腕力漸く権を失して智力次第に地位を占め、二者互いに歯(よはひ)するを得ずして人間の交際に偶然の禍福を受る者少し。世間に強暴を恣にする者あれば道理を以て之に応じ、理に伏せざれば衆庶の力を合して之を制す可し。理を以て暴を制するの勢に至れば、暴威に基きたる名分も亦これを倒す可し。故に政府と云ひ人民と云ふと雖ども、唯其名目を異にし職業を分つのみにて、其地位に上下の別あるを許さず。政府よく人民を保護し小弱を扶助して強暴を制するは即ち其当務の職掌にて、之を過分の功労と称するに足らず、唯分業の趣意に戻らざるのみ。或は国君なる者自から徳義を脩め、礼楽征伐を以て恩威を施さんとするも、人民は先づ其国君の何物たるを察し、其恩威の何事たるを詳にし、受く可らざるの私恩は之を受けず、恐る可らざるの暴威は之を恐れず、一毫をも貸さず一毫をも借らず、唯道理を目的として止まる処に止まらんことを勉む可し。智力発生する者は能く自から其身を支配し、恰も一身の内に恩威を行ふが故に他の恩威に依頼するを要せず。譬へば善を為せば心に慊(こころ)きの褒(はう)ありて、善を為す可きの理を知るが故に、自から善を為すなり。他人に媚るに非ず、古人を慕ふに非ず。悪を為せば心に恥るの罰ありて、悪を為す可らざるの理を知るが故に悪を為さゞるなり。他人を憚るに非ず、古人を恐るゝに非ず、何ぞ偶然に出たる人の恩威を仰て之を恐怖喜悦することをせんや。政府と人民との関係に付き、文明の人の心に問はゞ左の如く答ふ可し。「国君と雖ども同類の人のみ、偶然の生誕に由て君長の位に居る者歟、又は一時の戦争に勝て政府の上に立つ者より外ならず、或は代議士と雖ども素と我撰挙を以て用ひたる一国の臣僕のみ、何ぞ此輩の命令に従て一身の徳義品行を改る者あらんや、政府は政府たり、我は我たり、一身の私に就ては一毫の事と雖ども豈政府をして喙(くちばし)を入れしめんや、或は兵備刑典懲悪の法も我輩の身に取ては無用の事なり、之がために税を出すは我輩の責に非ずと雖ども、悪人多き世の中にて之と雑居するが為に止むを得ずして姑(しばら)く之を出し、其実は唯此悪人に投与するのみ、然るを況や政府にて、宗教学校の事を支配し、農工商の法を示し、甚しきは日常家計の事を差図して、直に我輩に向て善を勧め生を営むの道を教るがためにとて銭を出さしめんとするに於てをや、謂れなきの甚しきものなり、誰か膝を屈して人に依頼し我に善を勧めよとて請求する者あらん、誰か銭を出して無智の人に依頼し我に営生の道を教へよとて歎願する者あらん」と。文明の人の心事を写して其趣を記せば大凡そ斯の如し。此輩に向て無形の徳化を及ぼし私の恩威を以て之を導かんとするも亦無益ならずや。固より今の世界の有様にて何れの地方にても全国の人民悉皆有智なるには非ずと雖ども、開闢を去ること次第に遠くして其国の文明却歩することなくば、人民の智恵は必ず進て一般の間に平均す可きが故に、仮令ひ或は旧習に浸潤し上の恩威を仰て下民の気力甚だ乏しきに似たるものあるも、事に触れ物に接して往々疑心を発せざるを得ず。譬へば一国の君主を聖明と称して其実は聖明ならざることあり、民を視ること赤子の如しと云て其実は父母と赤子と租税の多寡を争ひ、父母は赤子を却(おびやか)し赤子は父母を欺き、其醜態見る可らざることあり。此際に当ては中人以下の愚民にても他の言行の齟齬するを疑ひ、仮令ひ之に向て抵抗せざるも、其処置を怪しまざる者なし。既に之を疑ひ又これを怪むの心を生ずるときは、信心帰依の念は忽ち断絶して又これを御するに徳化の妙法を用ゆ可らず。其明証は歴史を読て知る可し。和漢にても西洋にても、仁君の世に出でゝよく国を治めたるは往古の時代なり。和漢に於ては近世に至るまでも此君を造らんとして常に之を誤り、西洋諸国に於ては千六、七百年の頃より仁君漸く少なくして、千八百年代に至ては仁君なきのみならず智君もなきに至れり。こは国君の種族に限りて徳の衰へたるに非ず、人民一般に智徳を増したるがために君長の仁徳を燿すに処なきなり。之を譬へば今の西洋諸国に仁君を出すも月夜に提灯を灯すが如きのみ。故に云く、仁政は野蛮不文の世に非ざれば用を為さず、仁君は野蛮不文之民に接せざれば貴からず、私徳は文明の進むに従て次第に権力を失ふものなり。
徳義は文明の進むに従て次第に権力を失ふと云ふと雖ども、世に徳義の分量を減ずるに非ず、文明の進むに従て智徳も共に量を増し、私を拡て公と為し、世間一般に公智公徳の及ぶ所を広くして次第に太平に赴き、太平の技術は日に進み争闘の事は月に衰へ、其極度に至ては土地を争ふ者もなく財を貪る者もなかる可し。況や君長の位を争ふが如き鄙劣なる事に於てをや。君臣の名義などは既に已に地を払て小児の戯にも之を言ふ者なかる可し。戦争も止む可し、刑法も廃す可し。政府は世の悪を止るの具に非ず、事物の順序を保て時を省き無益の労を少くするがために設るのみ。世に約束を違る者あらざれば貸借の証文も唯備忘のために記すのみ、他日訴訟の証拠に用るに非ず。世に盗賊あらざれば窓戸は唯風雨を庇ひ犬猫の入るを防ぐのみにて錠前を用るに及ばず。道に遺を拾ふ者あらざれば邏卒は唯遺物を拾ふて主人を求るに忙はしきのみ。大砲の代に望遠鏡を作り、獄屋の代に学校を建て、兵士罪人の有様は僅に古画に存する歟、或は芝居を見るに非ざれば想像す可らず。家内の礼義厚ければ又教化師の説法を聞くに及ばず、全国一家の如く、毎戸寺院の如し。父母は教主の如く、子供は宗徒の如し。世界の人民は恰も礼譲の大気に擁せられて徳義の海に浴するものと云ふ可し。之を文明の太平と名く。今より幾千万年を経てこの有様に至る可きや、余輩の知る所に非ず、唯是れ夢中の想像なりと雖ども、若し人力を以てよくこの太平の極度に達し得ることあらば、徳義の功能も亦洪大無辺なりと云はざるを得ず。故に私徳は野蛮草昧の時代に於て其功能最も著しく、文明の次第に進むに従て漸く権力を失ひ其趣を改めて公徳の姿と為り、遂に数千万年の後を推して文明の極度を夢想すれば又一般に其徳沢を見る可きなり。
右は徳義の行はるゝ時代を論じたるものなり。今又爰に其場所の事を説かん。野蛮の太平は余輩の欲する所に非ず。数千万年の後を待て文明の太平を期するも迀遠の談のみ。故に今の文明の有様にて徳義の行はる可き場所と行はる可らざる場所とを区別するは、文明の学問に於て最も大切なる要訣なり。一国人民の野蛮を去ること愈遠ければ此区別も亦愈明白なる可き筈なるに、不文の人は動もすればこれを知らずして大に目的を誤り、野蛮の太平を維持して直に文明の太平に到らんと欲する者多し。即ち古学者流の人が今の世に在て古を慕ふも其源因蓋しこの区別順序を誤るに在るなり。其事の難きは木に縁(より)て魚を求るが如く、梯子を用ひずして屋根に登らんとするが如し。其心に思ふ所と事実に行はるゝ所と常に齟齬するが故に、明に其心事を人に語ること能はざるのみならず、自から問ふて自から答ふ可らず、心緒錯乱思慮紛紜(ふんうん)、一生の間、曖昧の内に惑溺して向ふ所を知らず、随て建て随て毀ち、自から論じて自から駁し、生涯の事業を加減乗除すれば零に均しきのみ。豈愍む可きに非ずや。此輩は所謂徳義を行ふ者に非ずして徳義に窘めらるゝ奴隷と云ふ可きのみ。今其次第を左に示さん。
夫婦親子一家に居るものを家族と云ふ。家族の間は情を以て交を結び、物に常主なく与奪に規則なし、失ふも惜むに足らず、得るも悦ぶに足らず、無礼を咎めず拙劣を恥ぢず、婦子の満足は夫親の悦と為り、夫親の苦は婦子の患と為り、或は自から薄くして他を厚くし、他の満足を見て却て心に慊(こゝろよ)きを覚るものなり。譬へば愛子の病に苦しむときに、若しこの病苦を親の身に分て子の苦痛を軽くするの術ありと云ふ者あらば、天下の父母たるものは必ず身の健康を棄てゝ子を救ふことなる可し。概して云へば家族の間には私有を保護するの心なく、面目を全ふするの心なく、生命を重んずるの心も亦あらざるなり。故に家族の交には、規則を要せず、約束を要せず、況や智術策略をや、これを用ひんとするも用ゆ可き場所なく、智恵の事は僅に世帯整理の一部に用を為すのみにて、一家の交際は専ら徳義に依て風化の美を尽せり。
骨肉の縁少しく遠ざかれば少しく此趣を異にし、兄弟姉妹は夫婦親子よりも遠く、叔父と姪とは兄弟よりも遠く、従兄弟は他人の始なり。肉縁の遠きに従て其交に情合を用ることも亦次第に減少せざる可らず。故に兄弟も成長して家を異にすれば私有の別あり。叔父、姪、従兄弟に至ては最も然り。或は朋友の交にも情合の行はるゝことあり。刎頚の交と云ひ莫逆の友と云ふが如きは、其交際の親しきこと殆ど親子兄弟に異ならずと雖ども、今の文明の有様にては其区域甚だ狭し。数十の友を会して長く莫逆の交を全ふしたるの例は古今の歴史にも未だ之を見ず。又或は世に君臣なる者ありて、其交際は殆ど家族骨肉の如くにして、共に艱苦を嘗め、共に生死を与にし、忠臣の純精なるに至ては親子兄弟を殺して君のためにする者あり。古今世間の通論に於て、この働の由て来る所をば全く其君と其臣との交情に帰するのみにて他に源因を求ることなし。然りと雖ども此世論は唯一方の光に照されて君臣の名義に掩はれ、其所見未だ事の実際に達せざるものなり。若し他の光を以て事実を明にせば、必ず別に大なる源因の在る所を見る可し。蓋し其源因とは何ぞや。人の天賦に備はりたる党与の心と、其時代に行はるゝ人の気風と、此二者、即是なり。君臣の初め人数少なくして、譬へば北条早雲が六人の家来と共に剣を杖ついて東に来りしときの如きは、其交情必ず厚くして親子兄弟よりも親しきことならんと雖ども、既に一州一国を領して臣下の数も随て増加し、其君家の位をも次第に子孫に伝るに及ては、君臣の交際決して初の如くなるを得べからず。此時に至ては君臣共に其祖先の有様を口碑に伝へ、君は臣下の力に依て其家を守らんとし、臣は君家の系統を尊崇して其家に属し、自から一種の党与を結て、事変あれば臣下の力を尽して君の家を守り、兼て亦一身の私を保護し、或は機に投じて利を得ることあり、或は其時代の気風にて一世に功名を燿す可きことあるが故に、粉骨砕身の働をも為すことなり。必ずしも其時の君臣に刎頚の交あるに非ず。故に忠義家の言に、社稷(しやしよく)重しとし君を軽しとするとて、役に立たぬ人物とさへ思へば一家に唯一人の主人にても之を処するに非常の道を以てすることあり。之を情合の厚きものと云ふ可らず。又かの戦場に討死し落城のときに割腹する者とても、多くは其時代の気風にて、一命を棄てざれば武士の面目立たずとて一身の名誉のためにする者歟、又は遁逃(とんたう)しても命の助かる可き見込なきが故に命を致すものなり。太平記に鎌倉の北条滅亡のとき、元弘三年五月二十二日東勝寺に於て高時と一所に自殺したる将士八百七十余人、此外門葉恩顧の輩これを聞き伝へて従死する者鎌倉中に六千余人なりとあり。北条高時、何ほどの仁君なれば此六千八百人の臣下に交て其交情親子兄弟の如くするを得たるや。決してある可らざることなり。此様子を見れば討死割腹等の多少に由て其君徳の厚薄を卜す可らず。暴君のために死し仁君のために死すると云ふも、事実君臣の情に迫て命を致す者は思の外に少なきものなり。其源因は別に之を求めざる可らず。故に徳義の功能は君臣の間に於ても其行はるゝ所甚だ狭し。
貧院病院等を立てゝ窮民を救ふは徳義情合の事なれども、元と此事を起すは窮民と施主との間に交誼あるに非ず、一方は富にして一方は貧なるが故に出来たる事なり。施主は富て且仁なれども、施を受る者は唯貧なるのみにて、其徳不徳はこれを知る可らず。他の人物をも詳にせずして之に交る可き理なし。故に救窮の仕組を盛大にするは、普く人間交際に行はる可き事柄に非ず。唯仁者が余財を散じて徳義の心を私に慰るのみのことなり。施主の本意は人のためにするに非ず、自からためにすることなれば、固より称す可き美事なれども、救窮の仕組愈盛大にして其施行愈久しければ、窮民は必ずこれに慣れて其施を徳とせざるのみならず、之を定式の所得と思ひ、得る所の物、以前よりも減ずれば、却て施主を怨むことあり。斯の如きは則ち銭を費して怨を買ふに異ならず。西洋諸国にても救窮の事に就ては識者の議論甚だ多くして未だ其得失を決せずと雖ども、結局恵与の法は之を受く可き人の有様と人物とを糺して、身躬から其人に接し、私に物を与ふるより外に手段ある可らず。此亦徳義の以て広く世間に及ぼす可らざるの一証なり。
右の次第を以て之を考れば、徳義の力の十分に行はれて毫も妨なき場所は唯家族のみ。戸外に出れば忽ち其力を逞ふすること能はざるが如し。然りと雖ども人の説に家族の交は天下太平の雛形なりと云ふことあれば、数千万年の後には世界中一家の如くなるの時節もあらん歟。且世の事物は活動して常に進退するものなれば、今日の文明に就て其進退如何を問へば之を進歩の中に在りと云はざるを得ず。然ば則ち仮令ひ前途は遠くして、千里の路、僅に一歩を進ると雖ども、進は則ち進なり。前途の永遠なるに恐縮し自から画して進まざるの理なし。今西洋諸国の文明と日本の文明とを比較するに、唯此一歩の前後あるのみにて、学者の議論も唯此一歩の進退を争ふのみ。
抑も徳義は情愛の在る処に行はれて規則の内に行はる可らず。規則の功能を見ればよく情愛の事を成すと雖ども、其行はるゝ所の形は則ち然らずして、規則と徳義とは正しく相反して両ながら相容れざるものゝ如し。又規則の内に区別ありて、事物の順序を整理するための規則と、人の悪を防ぐための規則と、二様に分つ可し。甲の規則を犯すは人の過なり、乙の規則を犯すは人の悪心なり。今爰に論ずる所の規則は人の悪を防ぐための規則を指して云ふものなれば、学者之を誤る可らず。譬へば家族の事を整理するために、家内の者朝は六時に起て夜は十時に房に入る可しと規則を立ることあらんと雖ども、家内の悪念を防ぐために非ず。この規則を犯せばとて罪人と云ふ可らず。唯一家内の便利のために申合せて定めたる規則にて、書面を認るにも及ばず、家内の心を以て自から行はるゝものなり。此外真実睦しき親族朋友の間に金を貸借するも此類なり。されども今広く世間に行はるゝ証文、約条書又は政府の法律、各国の条約書等を見るに、或は民法刑法等の別ありて事物の順序を整理するための規則も少なからずと雖ども、一般に其所用如何を尋れば悉皆悪を防ぐの器械と云はざるを得ず。都て規則書の趣意は利害を裏表に並べて人に示し、其人の私心を以てこれを撰ばしむるの策なり。譬へば千両の金を盗めば懲役十年と云ひ、其の約条を十日延期すれば償金百両と云ふが如し。千両の金と十年の懲役と、百両の償金と十日の違約と両方に掲げて、人の私心をして其便利と思ふ方へ就かしむるの趣向なれば、徳義の精神は毫も存することなく、其状恰も飢たる犬猫に食物を示して傍に棒を振揚げ、喰はヾ打たんとて威を示すものゝ如し。其形のみを見れば決して之を情愛の事と云ふ可らず。
又徳義の行はるゝ所と規則の行はるゝ所と其分界を明にせんため左に其一例を示さん。爰に甲乙二人、金を貸借することあらん。二人相互に親愛して、これを貸すも徳とせず、借て返さゞるも怨とせず、殆ど私有の別なきは情愛の深きものにて、其交情は全く徳義に基くものなり。或は返済の期限と利足の割合とを定め、備忘のために之を紙に記して此書附を貸主に渡し置くも、其交情未だ徳義の領分を出でず。されども此書附に印を押して証券の印紙を貼(てふ)し、或は請人を立て或は質物を取るに至ては、既に徳義の領分を脱し、双方共に唯規則に依頼して相接するのみ。此貸借に就ては借主の正不正信じ難きが故に之を不正者と認め、金を返さゞれば請人へ掛り、尚も返さゞれば政府に訴て裁判を受る歟、又は其質物を取押へんとする趣向にて、所謂利害を裏表に掲げ、棒を振揚げて犬を威するものなり。故に規則に依頼して事物を整理する処には徳義の形は毫も存することある可らず。政府と人民との間にても、会主と会員との間にても、売主と買主との間も、貸主と借主との間も、或は銭を取て学芸を教る教師と生徒との間にても、規則のみを以て相会するものは之を徳義の交際と云ふ可らず。譬へば政府の官に同僚二人ありて、甲は深く公務に心配して誠実を尽し、役所より帰宅して夜も眠られぬ程に苦労すれども、乙は然らずして酒を飲み遊蕩を事として嘗て公務を心頭に掛けず。されども朝八時より出頭して午後四時退出までの間は、乙も勉強して其働は少しも甲に異ならず、言ふ可き事を言ひ書く可き事を書き、公務に差支あらざれば之を咎む可らず。甲の誠意も光を顕すこと能はざるなり。又人民の租税を納るにも、政府より促さゞれば之を納めざるも可なり、之を納るに贋金を以てするも之を請取れば請取たるものゝ落度なり、誤て多く納るも既に手渡すれば納めたるものゝ損なり、売物に掛直(かけね)を云ふも之を買へば買たる者の損なり、つり銭を多く与るも既に之を渡せば渡したる者の不調法なり、金を貸渡すも其証文を紛失すれば貸方の損なり、金札引替も其日限を過れば札を所持する者の損なり、物を拾ふて之を隠すも人の知る者あらざれば拾ふたる者の徳なり、加之(しかのみならず)人の物を盗むも露顕に及ばざれば之を盗賊の利と云はざるを得ず。此有様を見て之を考れば、今の世界は全く悪人の集る処にして徳義の痕跡をも見ず、唯無情の規則に依頼して僅に事物の順序を保ち、悪念内に充満すれども規則に制せられて之を事跡に顕はさず、規則の許す所の極界に至て乃ち止り、恰も鋭き刃の上を歩するものゝ如し。豈驚駭す可きに非ずや。
人心の賎む可き斯の如く、規則の無情なる斯の如し。遽(にはか)に其外形を一見すれば実に驚駭に堪へずと雖ども、今一歩を進めて此規則の起る所以の源因と、之に由て得る所の功徳とを察すれば、決して無情なるに非ず、之を今の世界の至善と云はざるを得ず。規則は悪を止むるためのものなりと雖ども、天下の人悉皆悪人なるが故に之を作るに非ず、善悪相混じて弁ず可らざるが故に、之を作て善人を保護せんがためなり。悪人の数は仮令ひ万人に一人たりとも、必ず其なきを保す可らざれば、万人中に行はるゝ規則は悪人を御するの趣意に従はざる可らず。譬へば贋金を見分るが如し。一万円の内に仮令ひ一円にても贋金あらんことを恐るゝときは、悉皆一万円の金を改めざる可らず。故に人間の交際に於て、其規則は日に繁多なるも規則の外形は無情なるが如くなるも、万々之を賎しむの理なし。益これを固くして益これを遵奉せざる可らず。今日の有様にて世の文明を進るの具は規則を除て他に方便あることなし。物の外形を嫌ふて其実の功能を棄るは智者の為さゞる所なり。悪人の悪を防ぐが為に規則を設ると雖ども、善人の善を為すの妨と為るに非ず。規則繁雑の世の中にても善人は思のまゝに善を行ふ可し。唯天下後世の為に謀るに、益この規則を繁多に為して次第に之を無用ならしめんことを祈るのみ。其時節は数千年の後にある可し。数千年の久きを期して今より規則を作らざるの理なし。時代の沿革を察せざる可らず。在昔野蛮不文の世に、君民一体天下一家にして、法を三章に約し、仁君賢相は誠を以て下民を撫し、忠臣義士は命を抛て君のためにし、万民上の風に化して上下共に其所を得るが如きは、規則に依頼せずして情実を主とし、徳を以て太平を致したるものにて、遽に之を想像すれば或は羨む可きに似たれども、其実はこの時代に規則を蔑視して用ひざるに非ず、之を用ひんとするも其処あらざるなり。之に反して人智次第に発生すれば世の事務も亦次第に繁多ならざるを得ず。事務繁多なれば其規則も随て増加す可し。且人智の進むに従て、規則を破るの術も自から亦巧なる可きが故に、之を防ぐの法も亦密ならざるを得ず。其一例を挙れば、昔は政府、法を設けて人民を保護せしもの、今日は人民、法を設けて政府の専制を防ぎ、以て自から保護するに至れり。古の眼を以て此有様を見れば、冠履転倒、上下の名分、地を払ふたるが如くなれども、少しく其眼力を明かにして所見を広くすれば、此際に自から条理の紊れざるものありて、政府も人民も互に面目を失するの患あることなし。今の世界に居て一国の文明を進め其独立を保たんとするには唯この一法あるのみ。時代の移るに従て人智の発生するは猶小児の成長して大人と為るが如し。小児の時には自から小児の事を事として、其喜怒哀楽の情、自から大人に異なり、年月を経て識らず知らず大人と為るに至れば、嘗て悦びし竹馬も今は以て楽とするに足らず、嘗て恐れし百物語も今は以て恐とするに足らざるは自然の理なり。且其小児の心事、痴愚なりと雖ども、敢て之を咎るに足らず。小児は小児の時に在て小児の事を為したる者にて、固より其分なれば、之に多を求む可らず。唯小児の群集する家は家力弱くして、他家に向て並立の附合を能せざるのみ。今此小児の成長するは家のために祝す可きことに非ずや。然るに其前年嘗て小児たりし由来を以て強ひて之を小児の如くならしめ、竹馬を以て之を悦ばしめ百物語を以て之を威せんとし、甚しきは昔の小児の言行を録して今の大人の手本と為し、此手本に従はざる者を名けて不順粗暴と唱るが如きは、智徳の行はる可き時代と場所とを誤りて適(たまた)ま家を弱くするの禍を招くのみ。
仮に又規則の趣意を無情なるものと為し、之を守る人の心をも賎しむ可きものと視做すと雖ども、尚人事に益すること大なり。譬へば物を拾ふてこれを主人に返せば、其物を半折して拾ふたる者へ与ふるの規則あり。今こゝに物を拾ふて唯其半折の利を得んがために之を其主人に返す者あらば、其心事は誠に賎しむ可し。然りと雖ども此規則を鄙劣なりとして廃することあらば、世の中に落したる物は必ず主人の手に返るを期す可らず。されば半折の法も徳義を以て論ずれば好む可きに非ざれども、之を文明の良法と云はざるを得ず。又商売上に目前の小利を貪て廉恥を破ることあり、之を商人の不正と云ふ。譬へば日本人が生糸蚕卵紙を製するに不正を行ふて一時の利を貪り、遂に国産の品価を落して永く全国の大利を失ひ、遂には不正者も共に其損亡を蒙るが如きは、面目も利益も并せて之を棄る者なり。之に反して西洋諸国の商人は取引を慥(たしか)にして人を欺くことなく、方寸の見本を示して数万反の織物を売るに、嘗て見本の品に異ならず、之を買ふ者も箱の内を改ることなく安心して荷物を引取る可し。此趣を見れば日本人は不正にして西洋人は正しきが如し。されどもよく其事情を詳にすれば、西洋人の心の誠実にして日本人の心の不誠実なるに非ず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば後日の差支と為りて己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実に非ず、勘定づくの誠なり。言葉を替へて云へば、日本人は欲の小なる者にて、西洋人は欲の大なる者なり。されども今西洋人の誠は欲のための誠なれば賎む可しとて、日本人の丸出しの不正を学ぶの理なし。欲のためにも利のためにも誠実を尽して商売の規則を守らざる可らず。此規則を守ればこそ商売も行はれて文明の進歩を助く可きなり。今の人間世界にて家族と親友とを除くの外は、政府も会社も商売も貸借も、事々物々、悉皆規則に依らざるものなし。規則の形、或は賎しむ可きものありと雖ども、之を無規則の禍に比すれば其得失、同年の論に非ざるなり。
方今西洋諸国の有様を見るに、人智日に進て敢為の勇力を増し、恰も天地の間には天然の物にても人為の事にても人の思想を妨るものなきが如くして、自由に事物の理を究め自由に之に応ずるの法を工夫し、天然の物に就ては既に其性質を知り又其働を知り、其性に従て之を御するの定則を発明したるもの甚だ多し。人事に就ても亦斯の如し。人類の性質と働とを推究して漸く其定則を窺ひ、其性と働とに従て之を御するの法を得んとするの勢に進めり。其進歩の一、二を挙れば、法律密にして国に冤罪少なく、商法明にして人に便利を増し、会社の法正しくして大業を企る者多く、租税の法巧にして私有を失ふ者少し。兵法の精しきは人を殺すの術なれども、却て之がために人命を残ふの禍を減じ、万国公法も粗にして遁る可しと雖ども、聊か殺戮を寛にするの方便と為り、民庶会議は以て政府の過強を平均す可し、著書新聞は以て強大の暴挙を防ぐ可し。近日は又万国公会なるものを白耳義(べるぎー)の首府に設けて全世界の太平を謀らんとするの説あり。是等は皆規則の益精にして益大なるものにて、規則を以て大徳の事を行ふものと云ふ可し。
第八章西洋文明の由来

 

今の西洋の文明を記して其由来を詮索するは此小冊子の能くする所に非ず。依て爰には仏蘭西の学士「ギゾ−」氏所著の文明史及び他の諸書を引て、其百分一の大意を記すこと左の如し。
西洋の文明の他に異なる所は、人間の交際に於て其説一様ならず、諸説互に並立して互に和することなきの一事に在り。譬へば政治の権を主張するの説あり、宗教の権を専にするの論あり。或は立君と云ひ或は神政府と云ひ、或は貴族執権或は衆庶為政とて、各其赴く所に赴き各其主張する所を主張し、互に争ふと雖ども互によく之を制するを得ず。一も勝つ者なく一も敗する者なし。勝敗久しく決せずして互に相対すれば、仮令ひ不平なりと雖ども共に同時に存在せざるを得ず。既に同時に存在するを得れば、仮令ひ敵対する者と雖ども、互に其情実を知て互に其為す所を許さゞるを得ず。我に全勝の勢を得ずして他の所為を許すの場合に至れば、各自家の説を張て文明の一局を働き、遂には合して一と為る可し。是即ち自主自由の生ずる由縁なり。
今の西洋の文明は羅馬滅亡の時を初とす。紀元三百年代の頃より羅馬帝国の権勢漸く衰微に赴き、四百年代に至て最も甚しく、野蛮の種族八方より侵入して又帝国の全権を保つ可らず。此種族の内にて最も有力なる者を日耳曼(ぜるまん)の党と為す。「フランク」の種族も即ち此党なり。此野蛮の諸族、帝国を蹂躙して羅馬数百年の旧物を一掃し、人間の交際に行はるゝ者は唯腕力のみ。無数の生蕃、群を為して侵掠強奪至らざる所なし。随て国を建る者あれば随て併合せらるゝ者あり。七百年代の末に「フランク」の酋長「チャ−レマン」なる者、今の仏蘭西、日耳曼、伊多里の地方を押領して一大帝国の基を立て、稍や欧羅巴の全州を一統せんとするの勢を成したれども、帝の死後は国又分裂して帰する所なし。此時に当ては、仏蘭西と云ひ日耳曼と云ひ、其国の名あれども、未だ国の体を成さず。人々各一個の腕力を逞ふして一個の情欲を恣にするのみ。後世此時代を目して野蛮の世又は暗黒の世と称す。即ち羅馬の末より紀元九百年代に至るまで凡そ七百年の間なり。
此野蛮暗黒の時代に在て耶蘇の寺院は自から其体を全ふして存するを得たり。羅馬廃滅の後は寺院も共に滅す可きに似たれども決して然らず。寺院は野蛮の内に雑居して啻に存在するのみならず、却て此野蛮の民を化して己が宗教の内に籠絡せんことを勉強せり。其胆略も亦大なりと云ふ可し。蓋し無智の野蛮を導くには高尚の理を以てす可らず。乃ち盛に儀式を設け外形の虚飾を以て人の耳目を眩惑し、曖昧の際に漸く其信心を発起せしむるに至れり。後世より之を論ずれば妄誕を以て人民を蠱惑するの謗を免かれ難しと雖ども、此無政無法の世に苟も天理人道の貴きを知る者は唯耶蘇の宗教あるのみ。若し此時代に此教なからしめなば、欧羅巴の全州は一場の禽獣世界なる可し。されば耶蘇教の功徳も此時代に於て小なりと云ふ可らず。其権力を得るも亦偶然に非ず。概して云へば肉体を制するの事は世俗の腕力に属し、精神を制するの事は寺院の権に帰し、俗権と教権と相対立する者の如し。加之寺院の僧侶が俗事に関係して市在民間の公務を司るは羅馬の時代より行はるゝ習慣なれば、此時に至るまでも其権を失はず。後世の議院に僧侶の出席するも、其因縁は遠く上世に在て存するものなり。(寺院権あり)
初め羅馬の国を建るや幾多の市邑合衆したる者なり。羅馬の管轄、処として市邑ならざるはなし。此衆市邑の内には各自個の成法ありて、自から一市一邑の処置を施して羅馬帝の命に服し、集めて以て一帝国を成したりしが、帝国廃滅の後も市民会議の風は依然として之を存し、以て後世文明の元素と為れり。(民庶為政の元素)
羅馬の帝国滅亡したりと雖ども、在昔数百年の間この国を呼て帝国と称し、其君主を尊て帝と名け、其名称は人民の肺肝に銘して忘る可らず。既に皇帝陛下の名を忘れざれば専制独裁の考も此名と共に存せざるを得ず。後世立君の説も其源は蓋し爰に在るなり。(立君の元素)
此時代に在て天下に横行する野蛮の種族なる者は、古書に載する所を見て明に其気風性質を詳にし難しと雖ども、当時の事情を推察して之を按ずるに、豪気慓悍にして人情を知らず、其無識暗愚なること殆ど禽獣に近き者の如し。然りと雖ども今一歩を進めて、其内情に就き細に砕て之を吟味すれば、此暗愚慓悍の内に自から豪邁慷慨の気を存して不覊独立の風あり。蓋し此気風は人類の本心より来りしものにて、即ち自から認めて独一個の男子と思ひ、自から愉快を覚るの心なり、大丈夫の志なり、心志の発生留めんとして留む可らざるの勇気なり。在昔羅馬の時代にも自由の説なきに非ず、耶蘇教の党にも此説を主張する者なきに非ざれども、其自由自主と唱るものは一種一族の自由にて、一身の自由を唱る者あるを聞かず。一個の不覊独立を主張して一個の志を逞ふせんとするの気風は、日耳曼の生蕃に於て始て其元素あるを見たり。後世欧羅巴の文明に於て、一種無二の金玉として今日に至るまでも貴重する所の自由独立の気風は、之を日耳曼の賜と云はざるを得ず。(自由独立の気風は日耳曼の野蛮に胚胎せり)
野蛮暗黒の時代漸く終て周流横行の人民も其居を定め、是に於てか封建割拠の勢に移りたり。此勢は九百年代に始り千五、六百年の時に至て廃滅したるものなり。此時代を「フヒユ−ダル・システム」の世と称す。封建の時代には、仏蘭西と云ひ西班牙(すべいん)と云ひ、各其国の名を存して各国の君主なきに非ざれども、君主は唯虚位を擁するのみ。国内の武人諸方に割拠して一の部落を成し、山に拠て城を築き、城の下に部下を集め、下民を奴視して自から貴族と称し、現に独立の体裁を備へて憚る所なく、武力を以て互に攻伐するのみ。暗黒の時代に在ては、世の自由なるもの一身一己の上に行はれたりと雖ども、封建の世に至ては大に其趣を異にし、自由の権は土地人民の主たる貴族一人の身に属し、之を制するに一般の国法なく、之を間然するに人民の議論もなく、一城の内に在ては至尊の君と云はざるを得ず、唯其専制を妨るものは敵国外患に非ざれば自力の不足のみ。欧羅巴の各国大概この風を成して、国中の人皆貴族あるを知て国王あるを知らず。彼の仏蘭西、西班牙の如きも、未だ仏国、西国と称す可き国体を成さゞるなり。(封建割拠)
右の如く封建の貴族独り権を専らにするに似たれども、決して此独権を以て欧羅巴全洲の形勢を支配するに非ず。宗教は既に野蛮の人心を籠絡して其信仰を取り、紀元千百年より二百年代に至ては最も強盛を極めり。蓋し其権を得たる由縁を尋れば亦決して偶然に非ず。抑も人類生々の有様を見るに、世体の沿革に従て或は一時の栄光を燿かす可し、力あれば以て百万の敵を殲(ほろぼ)す可し、才あれば以て天下の富を保つ可し、人間万事才力に由て意の如くなる可きに似たりと雖ども、独り死生幽冥の理に至ては一の解す可らざるものあり。此幽冥の理に逢ふときは、「チャ−レマン」の英武と雖ども、秦皇の猛威と雖ども、秋毫の力を用るに由なく、悽然として胆を落し、富貴浮雲、人生朝露の歎を為さゞるを得ず。人心の最も弱き部分は正に此処に在るものにて、防戦を以て云へば備を設けざる要害の如く、人身にて云へば穎敏なる、きうしよの如くにして、一度び之を犯さるれば忽ち避易し、我微弱を示さゞる者なし。宗教の本分は此幽冥の理を説き造化の微妙を明にするものと称して、敢て人の疑惑に答ふるものなれば、苟も生を有する人類に於て誰か之に心を奪はれざる者あらんや。加之当時の人文未だ開けず、粗忽軽信の世の中なれば、虚誕妄説と雖ども嘗て之を怪む者なく、天下靡然(びぜん)として宗旨信仰の風を成し、一心一向に教の旨を信ぜしむるのみにて更に私の議論を許さず、其専制抑圧の趣は王侯の暴政を以て下民を窘るに異ならず。当時の事情を概して評すれば、人民は恰も其身を両断して精神と肉体との二部に分ち、肉体の運動は王侯俗権の制御を受け、精神の働は羅馬宗教の命令に従ふ者の如し。俗権は身体有形の世界を支配するものなり。宗教は精神無形の世界を支配するものなり。
宗教は既に精神の世界を支配して人心を奪ひ、王侯の俗権に対立すと雖ども、尚これに満足せずして云く、精神と肉体と孰か貴重なるや、肉体は末なり又外なり、精神は本なり又内なり、我は既に其本を制して内を支配せり、奈何ぞ其外と末とを捨るの理あらん、必ずしも之を我範囲の内に籠絡せざる可らずとて、漸く王侯の地位を犯し、或は其国を奪ひ或は其位を剥ぎ、羅馬の法皇は恰も天上地下の独尊なるが如し。日耳曼の皇帝第四「ヘヌリ」が法皇「グレゴリ」の逆鱗に逢ひ、厳冬風雪の中に徒跣(とせん)して羅馬の城門に立つこと三日三夜、泣て法皇に哀を乞ひしと云ふも此時代の事なり。(宗教の権力大に盛なり)
野蛮の横行漸く鎮定して割拠の勢を成し、既に城を築き家を建てゝ其居に安んずるに至れば、唯飢寒を免かるゝを以て之に満足す可らず、漸く人に風韻を生じて、衣は軽暖を欲し食は美味を好み、百般の需要一時に起て又旧時の粗野を甘ずる者なし。既に其需あれば随て又これを供するものなかる可らず。是に於てか始て少しく商工の路を開き、諸処に市邑の体を成して、或は其市民の内に富を致す者もあり。即ち羅馬の後、市邑の再興したるものなり。蓋し此市民の相集て群を成すや、其初に於ては決して有力なるものに非ず。野蛮の武人昔年の有様を回顧して乱暴掠奪の愉快を忘るゝこと能はずと雖ども、時勢既に定れば遠く出るに由なく、其近傍に在て掠奪を恣にす可き相手は唯一種の市民あるのみ。市民の目を以て封建の貴族武人を見れば、物を売るときは客の如く、物を奪はるゝときは強盗の如くなるが故に、商売を以て之に交ると雖ども、兼て又其乱暴を防ぐの備を為さゞる可らず。乃ち市邑の周囲に城郭を築き、城中の住民は互に相助て外敵を防ぎ、以て利害を共にするの趣向にて、大会のときには鐘を鳴らして住民を集め、互に異心なきを誓ふて信を表し、此会同のときに於て衆庶の内より人物数名を撰び、城中の頭取と為して攻防の政を司らしむるの風なり。此頭取なる者、既に撰挙に当て権を執るときは、其専制、意の如くならざるはなし。殆ど立君特裁の体なれども、唯市民の権を以て更に他人を撰挙して之に代らしむるの定限あり。
斯の如く市民の群を成して独立するものを「フリイ・シチ」と名け、或は帝王の命を拒み或は貴族の兵と戦ひ、争乱殆ど虚日あることなし。《「フリイ・シチ」は自由なる市邑の義にて其人民は即ち独立の市民なり》紀元一千年の頃より欧羅巴の諸国に自由の市都を立るもの多く、其有名なるものは伊太里の「ミラン」「ロンバルヂ」、日耳曼にては「ハンセチック・リ−ギュ(ハンザ同盟)」とて、千二百年代の初より「リュベッキ」及び「ハンボルフ」等の市民相集て公会を結び、其勢力漸く盛にして一時は八十五邑の連合を為して王侯貴族も之を制すること能はず、更に条約を結て其自立を認め、各市邑に城郭を築き兵備を置き法律を設け政令を行ふことを許して、恰も独立国の体裁を成すに至れり。(民政の元素)
以上所記の如く、紀元三、四百年の頃より、寺院なり、立君なり、貴族なり、民庶なり、何れも皆其体を成して各多少の権力を有し、恰も人間の交際に必用なる諸件は具はりたれども、未だ之を合して一と為し、一国を造り一政府を建るの時節に至らずして、人民の争ふ所、各局処に止まり、未だ全体なるものを知らざるなり。紀元千零九十六年十字軍の事あり。此軍は欧羅巴の人民、宗教のために力を合して小亜細亜の地を征伐し、全欧羅巴洲を味方と為して亜細亜に敵したることにて、人民の心に始て欧亜内外の区別を想像して其方向を一にし、且欧洲各国に於ても亦一国全体の大事件なれば、全国人民の向ふ所を同ふし、全国の利害を以て心に関するに至れり。故に十字軍の一挙は欧羅巴の人民をして欧羅巴あるを知らしめ、各国の人民をして各国あるを知らしめたるものと云ふ可し。此軍は千九十六年より始り、随て止み随て起り、前後の征伐八度にして、其全く終たるは千二百七十年のことなり。
十字軍の事は元と宗教の熱心より起たることなれども、二百年の久きを経て其功を奏せず。人の心に於て之を厭はざるを得ず。各国君主の身に於ても、宗教の権を争ふは政治の権を争ふの重大なるに若かず。亜細亜に行て土地を押領するは、欧羅巴に居て国境を開くの便利に若かざるを知り、又軍事に従はんとする者なし。人民も亦漸く其所見を大にし、自国に勧工の企つ可きものあるを悟りて遠征を好まず、征伐の熱心も曖昧の間に消散して事終に罷み、其成行は笑ふ可きに似たれども、当時欧洲の野人が東方文明の有様を目撃して之を自国に移し、以て自から事物の進歩を助け、又一方には東西相対して内外の別を知り、以て自から国体を定めたるは、此十字軍の結果と称す可し。(十字軍功を奏すること大なり)
封建の時代に在ては各国の君主は唯虚位を擁するのみと雖ども、固より平心なるを得べからず。又一方には国内の人民も次第に知見を開て、永く貴族の覊絆(きはん)に罹るを慊とせず。是に於てか又世上に一種の変動を生じて貴族を圧制するの端を開きたり。其一例を挙て云へば、千四百年代の末に仏蘭西王第十一世「ロイス」が貴族を倒して王室の権を復したるが如き是なり。後世より此君の事業を論ずれば、其欺詐狡猾、賎しむ可きに似たれども、亦大に然らざるものあり。蓋し時勢の変革、これを察せざる可らず。昔日は世間を制するに唯武力のみありしもの、今日に至ては之に代るに智力を以てし、腕力に代るに狡猾を以てし、暴威に代るに欺計を以てし、或は諭し或は誘ひ、巧に策略を運らしたる趣を見れば、仮令ひ此人物の心事は鄙劣なるも、其期する所は稍や遠大にして、武を軽んじ文を重んずるの風ありと云はざるを得ず。此時代に在て王室に権を集るの事は、仏蘭西のみならず英国、日耳曼、西班牙の諸国に於ても亦皆然り。其国君の之を勉るは固より論を俟たず。人民も亦王室の権に藉て其讐敵なる貴族を滅さんとし、上下相投じて其中を倒すの風と為り、全国の政令漸く一途に帰して稍や政府の体裁を成すに至れり。又此時代には火器の用法漸く世に弘まり、弓馬の道次第に廃棄して、天下に匹夫の勇を恐るゝ者なし。又同時に文字を版にするの術を発明して、恰も人間世界に新に達意の街道を開たるが如く、人智頓に発生して事物の軽重を異にし、智力、地位を占て、腕力、道を避け、封建の武人は日に権威を落して其依る処を失ひ、上下の中間に在て孤立するものゝ如し。概して此時の形勢を評すれば、国の権力漸く中心の一政府に集まらんとするの勢に赴きたるものと云ふ可し。(国勢合一)
寺院は既に久しく特権を恣にして憚る所なく、其形状恰も旧悪政府の尚存して倒れざるものゝ如く、内部の有様は敗壊し了したれども、只管旧物を墨守して変通を知らず、顧て世上を見れば人智日に進て又昔日の粗忽軽信のみに非ず、字を知るのことは独り僧侶の壟断に属せず、俗人と雖ども亦書を読む者あり。既に書を読み理を求るの法を知れば、事物に就て疑なきを得ず。然るに此疑の一字は正に寺院の禁句にて、其勢両ながら相容る可らず。是に於てか世に宗教変革の大事件を生じたり。千五百二十年、有名なる改宗の首唱「ル−ザ」氏、始て羅馬の法皇に叛して新説を唱へ、天下の人心を動かして其勢殆ど当る可らず。然りと雖ども羅馬も亦病める獅子の如く、生力は衰弱すと雖ども獅子は則ち獅子なり。旧教は獅子の如く、新教は虎の如く、其勝敗容易に決す可らず。欧洲各国これがために人を殺したること殆んど其数を知らず。遂に「プロテスタント」の一宗派を開き、新旧共に其地位を失はずして「ル−ザ」の尽力も其功空しからずと雖ども、殺人の禍を計れば此新教の価は廉なりと云ふ可らず。されども其廉不廉は姑く擱き、結局この宗旨論の眼目を尋れば、双方共に教の正邪を主張するには非ずして、唯人心の自由を許すと許さゞるとを争ふものなり。耶蘇の宗教を是非するには非ずして、羅馬の政権を争ふの趣意なり。故に此争論は人民自由の気風を外に表したるものにて、文明進歩の徴候と云ふ可し。(宗教の改革文明の徴候)
千四百年代の末より、欧洲各国に於て其国力漸く一政府に集り、其初に在ては人民皆王室を慕ふのみにて、自から政治に関するの権あるを知らず。国王も亦貴族を倒さんとするには衆庶の力に依頼せざるを得ず。一時の便宜のために恰も国王と人民と党与を結て互に其利する所を利し、自から人民の地位を高上に引揚げ、或は政府より許して故さらに人民へ権力を附与したることもあり。此成行に沿ひ、千五、六百年の際に至ては、封建の貴族も次第に跡を絶ち、宗旨の争論も未だ平治せずと雖ども稍や其方向を定め、国の形勢は唯人民と政府との二に帰したるが如し。然りと雖ども権を専にせんとするは有権者の通癖にして、各国の君主も此癖を脱すること能はず。是に於てか人民と王室との間に争端を開き、此事の魁を為したるものは即ち英吉利なり。此時代に在ては王室の威権盛大ならざるに非ずと雖ども、人民も亦商売工業を勉めて家産を積み、或は貴族の土地を買て地主たるものも少なからず。既に家財地面を有して業を勉め、内外の商売を専にして国用の主人たれば、又坐して王室の専制を傍観すること能はず。昔年は羅馬に敵して宗旨の改革あり。今日は王室に敵して政治の改革あらんとするの勢に至り、其事柄は教と俗との別あれども、自主自由の気風を外に洩して文明の徴候たるは同一なり。蓋し往古に行はれたる「フリ−・シチ」の元素も爰に至て漸く発生したるものならん。千六百二十五年第一世「チャ−レス」の位に即きし後は、民権の説に兼て又宗教の争も喧しく、或は議院を開き或は之を閉じ、物論蜂起、遂に千六百四十九年に至て国王の位を廃し、一時共和政の体をなしたれども永続すること能はず、爾後様々の国乱を経て、千六百八十八年第三世「ヰルレム」が王位に登りしより、始て大に政府の方向を改め、自由寛大の趣意に従て君民同治の政体を定め、以て今日に伝へり。
仏蘭西に於ては千六百年の初、第十三世「ロイス」の時に、宰相「リセリウ」の力を以て益王室の権威を燿かし、千六百四十三年第十四世「ロイス」が王位を継たるときは、年甫(はじめ)て五歳にして未だ国事を知らず、加之内外多事の時なれども国力を落すに至らず、王の年長ずるに及て天資英邁、よく祖先の遺業を承て国内を威服したるのみならず、屢外国と兵を交へて戦て勝たざるはなし。在位七十二年の間、王威赫奕の極に達し、仏蘭西にて王室の盛なるは特に此時代を以て最と称す。然れども其末年に及ては、兵威稍や振はず、政綱漸く弛み、隠然として王室零落の萌(きざし)を見るが如し。蓋し第十四世「ロイス」の老したるは、唯其人の老したるのみに非ず、欧洲一般に恰も王権の老衰したるものと云ふ可し。第十五世「ロイス」の世は、益政府の醜悪を極めて殆ど無政無法の極に陥り、之を昔年の有様に比すれば、仏蘭西は恰も前後二箇の国あるが如し。然りと雖ども、又一方より国の文明如何を尋れば、政治廃壊の此際に当て、文物の盛なること前代無比と称す可し。千六百年の間にも学者の議論に自由の思想なきに非ざれども、其所見或は狭隘なるを免かれざりしもの、七百年代に至ては更に其面目を改め、宗旨の教なり、政治の学なり、理論なり、窮理なり、其研究する所に際限あることなく、之を究め之を疑ひ、之を糺し之を試み、心思豁然として其向ふ所を妨るものなきが如し。概して此時の事情を論ずれば、王室の政治は不流停滞の際に腐敗を致し、人民の智力は進歩快活のために生気を増し、王室と人民との間に必ず激動なかる可らざるの勢と云ふ可し。即ち千七百年代の末に仏蘭西の大騒乱は、此激動の事実に見はれたるものなり。但し其事の破裂するや、英吉利にては千六百年代の央に於てし、仏蘭西にては千七百年の末に於てし、前後百余年の差あれども、事の源因と其結果と相互に照応するの趣は、正しく同一の轍を践むものと云ふ可し。
右は西洋文明の大略なり。其詳なるは世上に文明史の訳書あり、就て見る可し。学者よく其書の全体に眼を着し、反覆熟読して前後を参考することあらば、必ず大に所得ある可し。
第九章日本文明の由来

 

前章に云へる如く、西洋の文明は、其人間の交際に諸説の並立して漸く相近づき、遂に合して一と為り、以て其間に自由を存したるものなり。之を譬へば金銀銅鉄等の如き諸元素を鎔解して一塊と為し、金に非ず、銀に非ず、又銅鉄に非ず、一種の混和物を生じて自から其平均を成し、互に相維持して全体を保つものゝ如し。顧て我日本の有様を察すれば大に之に異なり。日本の文明も其人間の交際に於て固より元素なかる可らず。立君なり貴族なり、宗教なり人民なり、皆古より我国に存して各一種族を為し、各自家の説なきに非ざれども、其諸説並立するを得ず、相近づくを得ず、合して一と為るを得ず。之を譬へば金銀銅鉄の諸品はあれども、之を鎔解して一塊と為すこと能はざるが如し。若し或は合して一と為りたるが如きものありと雖ども、其実は諸品の割合を平均して混じたるに非ず。必ず片重片軽、一を以て他を滅し、他をして其(その)本色を顕はすを得せしめざるものなり。猶かの金銀の貨幣を造るに十分一の銅を混合するも、銅は其本色を顕はすを得ずして、其造り得たるものは純然たる金銀貨幣なるが如し。之を事物の偏重と名く。抑も文明の自由は他の自由を費して買ふ可きものに非ず。諸の権義を許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞ふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は不自由の際に生ずと云ふも可なり。故に人間の交際に於て、或は政府、或は人民、或は学者、或は官吏、其地位の如何を問はず、唯権力を有する者あらば、仮令ひ智力にても腕力にても、其力と名るものに就ては必ず制限なかる可らず。都て人類の有する権力は決して純精なるを得べからず。必ず其中に天然の悪弊を胚胎して、或は卑怯なるがために事を誤り、或は過激なるがために物を害すること、天下古今の実験に由て見る可し。之を偏重の禍と名く。有権者常に自から戒めざる可らず。我国の文明を西洋の文明に比較して、其趣の異なる所は特に此権力の偏重に就て見る可し。
日本にて権力の偏重なるは、洽ねく其人間交際の中に浸潤して至らざる所なし。本書第二章に、一国人民の気風と云へることあり。即ち此権力の偏重も、かの気風の中の一箇条なり。今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とのみを相対して、或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈を咎る者多しと雖ども、よく事実を詳にして細に吟味すれば、此偏重は交際の至大なるものより至小なるものに及び、大小を問はず公私に拘はらず、苟も爰に交際あれば其権力偏重ならざるはなし。其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を掛け、其天秤大となく小となく、悉く皆一方に偏して平均を失ふが如く、或は又三角四面の結晶物を砕て、千分と為し万分と為し遂に細粉と為すも、其一分子は尚三角四面の本色を失はず、又この砕粉を合して一小片と為し又合して一塊と為すも、其物は依然として三角四面の形を保つが如し。権力偏重の一般に洽ねくして事々物々微細緻密の極にまで通達する有様は斯の如しと雖ども、学者の特に之に注意せざるは何ぞや。唯政府と人民との間は交際の大にして公なるものにて著しく人の耳目に触るゝが故に、其議論も之を目的とするもの多きのみ。今実際に就て偏重の在る所を説かん。爰に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でゝ世間を見るも亦然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賎、新参故参、本家末家、何れも皆其間に権力の偏重を存せり。尚一歩を進めて人間の稍や種族を成したる所のものに就て之を見れば、封建の時に大藩と小藩あり、寺に本山と末寺あり、宮に本社と末社あり、苟も人間の交際あれば必ず其権力に偏重あらざるはなし。或は又政府の中にても官吏の地位階級に従て此偏重あること最も甚し。政府の吏人が平民に対して威を振ふ趣を見ればこそ権あるに似たれども、此吏人が政府中に在て上級の者に対するときは、其抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚甚しきものあり。譬へば地方の下役等が村の名主共を呼出して事を談ずるときは其傲慢厭ふ可きが如くなれども、此下役が長官に接する有様を見れば亦愍笑に堪へたり。名主が下役に逢ふて無理に叱らるゝ模様は気の毒なれども村に帰て小前の者を無理に叱る有様を見れば亦悪む可し。甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極あることなし。亦奇観と云ふ可し。固より人間の貴賎貧富、智愚強弱の類は、其有様(コンヂ−ション)にて幾段も際限ある可らず。此段階を存するも交際に妨ある可らずと雖ども、此有様の異なるに従て兼て又其権義(ライト)をも異にするもの多し。之を権力の偏重と名るなり。
今世間の事物を皮相すれば有権者は唯政府のみの如くなれども、よく政府の何物たるを吟味して其然る由縁を求めなば、稍や議論の密なるものに達す可し。元来政府は国人の集りて事を為す処なり。此場所に在る者を君主と名け官吏と名るのみ。而して此君主官吏は生れながら当路の君主官吏に非ず。仮令ひ封建の時代に世位(せいゐ)世官(せいかん)の風あるも、実際に事を執る者は多くは偶然に撰ばれたる人物なり。此人物、一旦政府の地位に登ればとて、忽ち平生の心事を改るの理なし。其或は政府に在て権を恣にすることあるは、即ち平生の本色を顕はしたるものゝみ。其証拠には封建の時代にても賎民を挙て政府の要路に用ひたることなきに非ずと雖ども、其人物の所業を見れば決して奇なるものなし。唯従前の風に従て少しく事を巧にするより外ならず。其巧は即ち擅権(せんけん)の巧にて、民を愛して愚にするに非ざれば、之を威して退縮せしむるものなり。若し此人物をして民間に在らしめなば、必ず民間に在て此事を行ふ可し。村に在らば村にて行ひ、市に在らば市にて行ひ、到底我国民一般に免かる可らざるの流行病なれば、独り此人に限て之を脱却することある可らず。唯政府に在れば其事業盛大にしてよく世間の耳目に触るゝを以て、人の口吻にも掛ることなり。故に政府は独り擅権の源に非ず、擅権者を集会せしむるの府なり。擅権者に席を貸して平生の本色を顕はし盛に事を行はしむるに恰も適当したる場所なり。若し然らずして擅権の源は特に政府に在りとせば、全国の人民は唯在官の間のみ此流行病に感じて前後は果して無病なる乎、不都合なりと云ふ可し。抑も権を恣にするは有権者の通弊なれば、既に政府に在て権を有すれば其権のために自から眩惑して益これを弄ぶの弊もあらん、或は又政府一家の成行にて擅権に非ざれば事を行ふ可らざるの勢もあらんと雖ども、此一般の人民にして平生の教育習慣に絶てなき所のものを、唯政府の地位に当ればとて頓に之を心に得て事に施すの理は万々ある可らざるなり。
右の議論に従へば、権を恣にして其力の偏重なるは決して政府のみに非ず、之を全国人民の気風と云はざるを得ず。此気風は即ち西洋諸国と我日本とを区別するに著しき分界なれば、今爰に其源因を求めざる可らずと雖ども、其事甚だ難し。西人の著書に亜細亜洲に擅権の行はるゝ源因は、其気候温暖にして土地肥沃なるに由て人口多きに過ぎ、地理山海の険阻洪大なるに由て妄想恐怖の念甚しき等に在りとの説もあれども、此説を取て直に我日本の有様に施し、以て事の不審を断ず可きや、未だ知る可らず。仮令ひ之に由て不審を断ずるも、其源因は悉皆天然の事なれば人力を以て之を如何ともす可らず。故に余輩は唯事の成行を説て、擅権の行はるゝ次第を明にせんと欲するのみ。其次第既に明ならば亦これに応ずるの処置もある可し。抑も我日本国も開闢の初に於ては、世界中の他の諸国の如く、若干の人民一群を成し、其一群の内より腕力最も強く智力最も逞しき者ありて之を支配する歟、或は他の地方より来り之を征服して其酋長たりしことならん。歴史に拠れば神武天皇西より師を起したりとあり。一群の人民を支配するは固より一人の力にて能(よく)す可きことに非ざれば、其酋長に附属して事を助る者なかる可らず。其人物は、或は酋長の親戚、或は朋友の内より取て、共に力を合せ、自から政府の体裁を成したることならん。既に政府の体裁を成せば、此政府に在る者は人民を治る者なり、人民は其治を被る者なり。是に於てか始て治者と被治者との区別を生じ、治者は上なり主なり又内なり、被治者は下なり客なり又外なり。上下主客内外の別、判然として見る可し。蓋し此二者は日本の人間交際に於て最も著しき分界を為し、恰も我文明の二元素と云ふ可きものなり。往古より今日に至るまで交際の種族は少なからずと雖ども、結局其至る所は此二元素に帰し、一も独立して自家の本分を保つものなし。(治者と被治者と相分る)
人を治るは其事固より易からず。故に此治者の党に入る者は必ず腕力と智力と兼て又多少の富なかる可らず。既に身心の力あり、又これに富有を兼るときは、必ず人を制するの権を得べし。故に治者は必ず有権者ならざるを得ず。王室は此有権者の上に立ち、其力を集めて以て国内を制し、戦て克たざるはなし、征して降さゞるはなし。且被治者なる人民も、王室の由来久しきの故を以て益これに服従し、神后の時代より屢外征の事もあり、国内に威福の行はれて内顧の患なかりしこと推して知る可し。爾後人文漸く開け、養蚕造船の術、織縫耕作の器械、医儒仏法の書、其他文明の諸件は、或は朝鮮より伝へ、或は自国にて発明し、人間生々の有様は次第に盛大に及ぶと雖ども、此文明の諸件を施行するの権は悉皆政府の一手に属し、人民は唯其指揮に従ふのみ。加之全国の土地、人民の身体までも、王室の私有に非ざるはなし。此有様を見れば被治物は治者の奴隷に異ならず。後世に至るまでも御国、御田地、御百姓等の称あり。此御の字は政府を尊敬したる語にて、日本国中の田地も人民の身体も皆政府の私有品と云ふ義なり。仁徳天皇民家に炊煙の起るを見て朕既に富めりと云ひしも、必竟愛人の本心より出て、民の富むは猶我富むが如しとの趣意にて、如何にも虚心平気なる仁君と称す可しと雖ども、天下を一家の如く視做して之を私有するの気象は窺ひ見る可し。此勢にて天下の権は悉く王室に帰し、其力、常に一方に偏して、以て王代の末に至れり。蓋し権力の偏重は前に云へる如く至大より至細に至り、人間の交際を千万に分てば千万段の偏重あり、集めて百と為せば百段の偏重あり、今王室と人民との二段に分てば、偏重も亦此間に生じて、王室の一方に偏したるものなり。(国力王室に偏す)
源平の起るに及んで天下の権は武家に帰し、之に由て或は王室と権力の平均を為し、人間交際の勢一変す可きに似たれども、決して然らず。源平なり、王室なり、皆是れ治者中の部分にて、国権の武家に帰したるは治者中の此部分より彼部分に力を移したるのみ。治者と被治者との関係は依然として上下主客の勢を備へ、毫も旧時に異なることなし。啻に異なることなきのみならず、曩(さき)に光仁天皇宝亀年中天下に令を下だして兵と農とを分ち、百姓の富て武力ある者を撰て兵役に用ひ、其羸弱(るいじやく)なる者をして農に就かしめたりとあり。此令の趣意に従へば、人民の富て強き者は武力を以て小弱を保護し、其貧にして弱き者は農を勉めて武人に給することなれば、貧弱は益貧弱に陥り、富強は益富強に進み、治者と被治者との分界益判然として、権力の偏重は益甚しからざるを得ず。諸書を案ずるに、頼朝が六十余州の総追捕使と為りて、毎国に守護を置き、荘園に地頭を補し、以て従前の国司荘司の権を殺ぎしより以来、諸国の健児の内にて筋目もあり人をも持つ者は守護地頭の職に任じ、以下の者は御家人と称して守護地頭の支配を受け、悉皆幕府の手の者と為りて、或は百日交代にて鎌倉に宿衛するの例もありと云ふ。北条の時代にも大抵同じ有様にて、国中処として武人あらざるはなし。承久の乱に泰時十八騎にて鎌倉を打立たるは五月二十二日のことなるが、同二十五日まで三日の間に東国の兵尽く集りて、都合十九万騎とあり。是れに由て考れば、諸国の武人なる者は平生より出陣の用意に忙はしく、固より農業を勉るの暇ある可らず、必ず他の小民の力に依て食ひしこと明に知る可し。兵農の分界愈明に定りて、人口の増加するに従ひ武人の数も次第に増したることならん。頼朝の時には概ね関東伺候の武家を以て諸国の守護に配し、三、五年の交代なりしが、其後いつとなく譜代世禄の職と為り、北条亡びて足利の代に至ては、此守護なる者、互に相併呑し、或は興り或は廃し、或は土豪に逐はれ或は家来に奪はれ、漸く封建の勢を成したるなり。王代以来の有様を概して云へば、日本の武人、始は国内の処在に布散して一人一人の権を振ひ、以て王室の命に服したるもの、鎌倉の時代に至るまでに漸く合して幾個の小体を成し、始て大小名の称あり。足利の代に至りては又合して体の大なるものを成したれども、其体と体と合するを得ず。即ち応仁以後の乱世にて、武人の最も盛なる時なり。斯の如く、武人の世界には合離集散あり進退栄枯あれども、人民の世界には何等の運動あるを聞かず。唯農業を勉めて武人の世界に輸するのみ。故に人民の目を以て見れば、王室も武家も区別ある可らず。武人の世界に治乱興敗あるは、人民のためには恰も天気時候の変化あるに異ならず。唯黙して其成行を見るのみ。《武家興て神政府の惑溺を一掃したるの利益は第二章三十五葉(岩波文庫旧版三三頁)に論じたり》
新井白石の説に、天下の大勢九変して武家の代と為り、武家の世又五変して徳川の代に及ぶと云ひ、其外諸家の説も大同小異なれども、此説は唯日本にて政権を執る人の新陳交代せし模様を見て幾変と云ひしのみのことなり。都てこれまで日本に行はるゝ歴史は唯王室の系図を詮索するもの歟、或は君相有司の得失を論ずるもの歟、或は戦争勝敗の話を記して講釈師の軍談に類するもの歟、大抵是等の箇条より外ならず。稀に政府に関係せざるものあれば仏者の虚誕妄説のみ、亦見るに足らず。概して云へば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。学者の不注意にして国の一大欠典と云ふ可し。新井先生の読史余論なども即ち此類の歴史にて、其書中に天下の勢変とあれども、実は天下の大勢の変じたるに非ず、天下の勢は早く既に王代の時に定まりて、治者と被治者との二元素に区別し、兵農の分るゝに及て益この分界を明にして、今日に至るまで一度びも変じたることなし。故に王代の末に藤原氏、権を専にし、或は上皇、政を聴くことあるも、唯王室内の事にて固より世の形勢に関係ある可らず。平家亡びて源氏起り、新に鎌倉に政府を開くも、北条が陪臣にて国命を執るも、足利が南朝に敵して賊と称せらるゝも、織田も豊臣も徳川も各日本国中を押領して之を制したれども、其これを制するに唯巧拙あるのみ。天下の形勢は依然として旧に異ならず。故に北条足利にて悦びしことは徳川も之を喜び、甲の憂ひしことは乙も之を憂ひ、其喜憂に処するの法も甲乙に於て毫も異なることなし。譬へば北条足利の政府にて五穀豊熟人民柔順を喜ぶの情は、徳川の政府も之に同じ。北条足利の政府にて恐るゝ所の謀反人の種類は、徳川の時代にても其種類を異にせず。顧て彼の欧洲諸国の有様を見れば大に趣の異なる所あり。其国民の間に宗旨の新説漸く行はるれば政府も亦これに従て処置を施さゞる可らず。昔日は封建の貴族をのみ恐れたりしが、世間の商工次第に繁昌して中等の人民に権力を有する者あるに至れば、亦これを喜び或は之を恐れざる可らず。故に欧羅巴の各国にては其国勢の変ずるに従て政府も亦其趣を変ぜざる可らずと雖ども、独り我日本は然らず、宗旨も学問も商売も工業も悉皆政府の中に籠絡したるものなれば、其変動を憂るに足らず、又これを恐るゝに足らず、若し政府の意に適せざるものあれば輙ち之を禁じて可なり。唯一の心配は同類の中より起る者ありて、政府の新陳交代せんことを恐るゝのみ。《同類の中より起る者とは治者の中より起る者を云ふ》故に建国二千五百有余年の間、国の政府たるものは同一様の仕事を繰返し、其状恰も一版の本を再々復読するが如く、同じ外題の芝居を幾度も催ふすが如し。新井氏が天下の大勢九変又五変と云ひしは、即ち此芝居を九度び催ふし又五度び催ふしたることのみ。或る西人の著書に、亜細亜洲の諸国にも変革騒乱あるは欧羅巴に異ならずと雖ども、其変乱のために国の文明を進めたることなしとの説あり。蓋し謂れなきに非ざるなり。(政府は新旧交代すれども国勢は変ずることなし)
右の如く政府は時として変革交代することあれども、国勢は則ち然らず、其権力常に一方に偏して、恰も治者と被治者との間に高大なる隔壁を作て其通路を絶つが如し。有形の腕力も無形の智徳も、学問も宗教も、皆治者の党に与みし、其党与互に相依頼して各権力を伸ばし、富も爰に集り才も爰に集り、栄辱も爰に在り廉恥も爰に在り、遥に上流の地位を占めて下民を制御し、治乱興廃、文明の進退、悉皆治者の知る所にして、被治者は嘗て心に之を関せず、恬として路傍の事を見聞するが如し。譬へば古来日本に戦争あり。或は甲越の合戦と云ひ、或は上国と関東との取合と云ひ、其名を聞けば両国互に敵対して戦ふが如くなれども、其実は決して然らず。此戦は唯両国の武士と武士との争にして、人民は嘗て之に関することなし。元来敵国とは全国の人民一般の心を以て相敵することにて、仮令ひ躬から武器を携て戦場に赴かざるも、我国の勝利を願ひ敵国の不幸を祈り、事々物々些末のことに至るまでも敵味方の趣意を忘れざるこそ、真の敵対の両国と云ふ可けれ。人民の報国心は此辺に在るものなり。然るに我国の戦争に於ては古来未だ其例を見ず。戦争は武士と武士との戦にして、人民と人民との戦に非ず。家と家との争にして、国と国との争に非ず。両家の武士、兵端を開くときは、人民之を傍観して、敵にても味方にても唯強きものを恐るゝのみ。故に戦争の際、双方の旗色次第にて、昨日味方の輜重(しちよう)を運送せし者も今日は敵の兵糧を担ふ可し。勝敗決して戦罷むときは、人民は唯騒動の鎮まりて地頭の交代するを見るのみ、其勝利を栄とするに非ず、又其敗北を辱とするに非ず。或は新地頭の政令寛にして年貢米の高を減ずることもあらば之を拝して悦ばんのみ。其一例を挙て云はん。後北条の国は関八州なり。一旦豊臣と徳川に敵対して敗滅を取り、滅後直に八州を領したる者は讐敵なる徳川なり。徳川家康如何なる人傑なればとて一時に八州の衆敵を服するを得んや。蓋し八州の人民は敵にも非ず味方にも非ず、北条と豊臣との戦争を見物したるものなり。徳川の関東に移りし後に敵の残党を鎮撫征討したりとは、唯北条家の遺臣を伐ちしのみのことにて、百姓町人等の始末に至ては恰も手を以て其頭を撫で即時に安堵したることなり。是等の例を計れば古来枚挙に遑あらず。今日に至ても未だ其趣の変じたるを見ず。故に日本は古来未だ国を成さずと云ふも可なり。今若し此全国を以て外国に敵対する等の事あらば、日本国中の人民にて仮令ひ兵器を携へて出陣せざるも戦のことを心に関する者を戦者と名け、此戦者の数と彼の所謂見物人の数とを比較して何れか多かる可きや、預め之を計て其多少を知る可し。嘗て余が説に、日本には政府ありて国民(ネ−ション)なしと云ひしも是の謂なり。固より欧羅巴諸国にても戦争に由て他国の土地を兼併すること屢これありと雖ども、其これを併すること甚だ易からず、非常の兵力を以て抑圧する歟、若しくば其土地の人民と約束して幾分の権利を附与するに非ざれば、之を我版図に入るゝこと能はずと云ふ。東西の人民其気風を殊にすること以て見る可し。(日本の人民は国事に関せず)
故に遇ま民間に才徳を有する者あれば、己が地位に居て此才徳を用るに方便なきがため、自から其地位を脱して上流の仲間に入らざるを得ず。故に昨日の平民、今日は将相と為りしこと、古今に其例少なからず。之を一見すれば彼の上下の隔壁もなきが如くなれども、此人物は唯其身を脱して他に遁れたるのみ。之を譬へば土地の卑湿を避けて高燥の地に移りたるが如し。一身のためには都合宜しかる可しと雖ども、元と其湿地に自から土を盛て高燥の地位を作りたるに非ず。故に湿地は旧の湿地にて、目今己が居を占めたる高燥の地に対すれば、其隔壁尚存して上下の別は少しも趣を変ずることなし。猶在昔尾張の木下藤吉が太閤と為りたれども、尾張の人民は旧の百姓にして其有様を改めざるが如きもの是なり。藤吉は唯百姓の仲間を脱走して武家の党に与みしたるなり。其立身は藤吉一人の立身なり、百姓一般の地位を高くしたるに非ず。固より其時の勢なれば今より之を論ず可らず、之を論ずるも万々無益なれども、若し藤吉をして其昔欧羅巴の独立市邑に在らしめなば、市民は必ず此英雄の挙動を悦ばざることなる可し。或は又今の世に藤吉を生じて藤吉の事を為さしめ、彼の独立の市民を今の世に蘇生せしめて其事業を評せしめなば、此市民は必ず藤吉を目して薄情なる人物と云ふならん。墳墓の地を顧みず、仲間の百姓を見捨て、独り武家に依頼して一身の名利を貪る者は、我党の人に非ずとて、之を詈ることならん。到底藤吉と此市民とは其説の元素を異にするものなれば、其挙動の粗密寛猛は互に相似たるも、時勢に由らず世態に拘はらず、古より今に至るまで遂に相容るゝことを得ざるものなり。蓋し欧羅巴にて千二、三百年代の頃、盛に行はれたる独立市民の如きは、其所業固より乱暴過激、或は固陋蠢愚なるものありと雖ども、決して他に依頼するに非ず、其本業には商売を勉め、其商売を保護するために兵備を設けて、自から其地位を固くしたる者なり。近世に至り英仏其他の国々に於て、中等の人民次第に富を致して随て又其品行を高くし、議院等に在て論説の喧しきものあるも、唯政府の権を争ふて小民を圧制するの力を貪らんとするに非ず、自から自分の地位の利を全ふして他人の圧制を圧制せんがために勉強するの趣意のみ。其地位の利とは、地方に就ては「ロカルインテレスト」あり、職業に就ては「カラッスインテレスト」あり、各其人の住居する地方、又は其営業を共にする等の交情に由て、各自家の説を主張し自家の利益を保護し、之がためには或は一命をも棄る者なきに非ず。此趣を見れば、古来日本人が自分の地位を顧みずして便利の方に附き、他に依頼して権力を求る歟、或は他人に依頼せざれば、自から他に代て他の事を為し、暴を以て暴に易へんとするが如きは、鄙劣の甚しきものなり。之を西洋独立の人民に比すれば雲壌の相違と云はざる可らず。昔支那にて楚の項羽が秦の始皇の行列を見て、彼れ取て代る可しと云ひ、漢の高祖は之を見て大丈夫当に斯の如くなる可しと云ひたることあり。今此二人の心中を察するに、自分の地位を守らんがために秦の暴政を忿るに非ず、実は其暴政を好機会と為して己が野心を逞ふし、秦皇の位に代て秦の事を行はんと欲するに過ぎず。或は其暴虐秦の如くならざるも、少しく事を巧にして人望を買ふのみ。其擅権を以て下民を御するの一事に至ては、秦皇も漢祖も区別あることなし。我国にても古来英雄豪傑と称する者少なからずと雖ども、其事跡を見れば項羽に非ざれば漢祖なり。開闢の初より今日に至るまで、全日本国中に於て独立市民等の事は夢中の幻に妄想したることもある可らず。(国民其地位を重んぜず)
宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存す可き筈なるに、我日本に於ては則ち然らず。元来我国の宗旨は神仏両道なりと云ふ者あれども、神道は未だ宗旨の体を成さず。仮令ひ往古に其説あるも、既に仏法の中に籠絡せられて、数百年の間本色を顕はすを得ず。或は近日に至て少しく神道の名を聞くが如くなれども、政府の変革に際し僅に王室の余光に藉て微々たる運動を為さんとするのみにて、唯一時偶然の事なれば、余輩の所見にては之を定りたる宗旨と認む可らず。兎に角に古来日本に行はれて文明の一局を働きたる宗旨は、唯一の仏法あるのみ。然るに此仏法も初生の時より治者の党に入て其力に依頼せざる者なし。古来名僧智識と称する者、或は入唐して法を求め、或は自国に在て新教を開き、人を教化し寺を建るもの多しと雖ども、大概皆天子将軍等の眷顧を徼倖(げうかう)し、其余光を仮りて法を弘めんとするのみ。甚しきは政府より爵位を受けて栄とするに至れり。僧侶が僧正僧都等の位に補せらるゝの例は最も古く、延喜式に僧都以上は三位に准ずと云ひ、後醍醐天皇建武二年の宣旨には、大僧正を以て二位大納言、僧正を以て二位中納言、権僧正を以て三位参議に准ずとあり(釈家官班記)。此趣を見れば、当時の名僧智識も天朝の官位を身に附け、其位を以て朝廷の群臣と上下の班を争ひ、一席の内外を以て栄辱と為したることならん。之がため日本の宗旨には、古今其宗教はあれども自立の宗政なるものあるを聞かず。尚其実証を得んと欲せば、今日にても国中有名の寺院に行て其由来記を見る可し。聖武天皇の天平年中日本の毎国に国分寺を立て、桓武天皇延暦七年には伝教大師比叡山を開き根本中堂を建てゝ王城の鬼門を鎮し、嵯峨天皇弘仁七年には弘法大師高野山を開き帝より印符を賜はりて其大伽籃を建立したり。其他南都の諸山、京都の諸寺、中古には鎌倉の五山、近世には上野の東叡山、芝の増上寺等、何れも皆政府の力に依らざるものなし。其他歴代の天子自から仏に帰し、或は親王の僧たる者も甚だ多し。白河天皇に八男ありて、六人は僧たりしと云ふ。是亦宗教に権を得たる一の源因なり。独り一向宗は自立に近きものなれども尚この弊を免かれず。足利の末、大永元年実如上人の時に天子即位の資を献じ、其賞として永世准門跡とて法親王に准ずるの位を賜はりたることあり。王室の衰微貧困を気の毒に思ふて有余の金を給するは僧侶の身分として尤のことなれども、其実は然らず、西三条入道の媒酌に由り銭を以て官位を買たるものなり。之を鄙劣と云ふ可し。故に古来日本国中の大寺院と称するものは、天子皇后の勅願所に非ざれば将軍執権の建立なり。概して之を御用の寺と云はざるを得ず。其寺の由来を聞けば、御朱印は何百石、住職の格式は何々とて、其状恰も歴々の士族が自分の家柄を語るに異ならず。一聞以て厭悪(えんを)の心を生ず可し。寺の門前には下馬札を建て、門を出れば儻勢を召連れ、人を払ひ道を避けしめ、其威力は封建の大名よりも盛なるものあり。然り而して其威力の源を尋れば、宗教の威力に非ず、唯政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりと雖ども、其教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明に非ずして、政権の威光なるが如し。寺院に自立の宗政なきも亦怪むに足らず、其教に帰依する輩に信教の本心なきも亦驚くに足らず。其一証を挙れば、古来日本にて宗旨のみの為に戦争に及びしことの極て稀なるをみても、亦以て信教者の懦弱を窺ひ知る可し。其教に於て信心帰依の表に現はれたる所は、無智無学の田夫野嫗が涙を垂れて泣くものあるに過ぎず。此有様を見れば、仏法は唯是れ文盲世界の一器械にして、最愚最陋の人心を緩和するの方便たるのみ。其他には何等の功用もなく、又何等の勢力もあることなし。其勢力なきの甚しきは、徳川の時代に、破戒の僧とて、世俗の罪を犯すに非ず、唯宗門上の戒を破る者あれば、政府より直に之を捕へ、市中に晒して流刑に処するの例あり。斯の如きは則ち僧侶は政府の奴隷と云ふも可なり。近日に至ては政府より全国の僧侶に肉食妻帯を許すの令あり。此令に拠れば、従来僧侶が肉を食はず婦人を近づけざりしは、其宗教の旨を守るがためには非ずして、政府の免許なきがために勉めて自から禁じたることならん。是等の趣を見れば、僧侶は啻に政府の奴隷のみならず、日本国中既に宗教なしと云ふも可なり。(宗教権なし)
宗教尚且然り。況や儒道学問に於てをや。我国に儒書を伝へたるは日既に久し。王代に博士を置て、天子自から漢書を読み、嵯峨天皇の時に大納言冬嗣、勧学院を建てゝ宗族子弟を教へ、宇多天皇の時には中納言行平、奨学院を設る等、漢学も次第に開け、殊に和歌の教は古より盛なりしことなれども、都て此時代の学問は唯在位の子弟に及ぶのみにて、著述の書と雖ども悉皆官の手に成りしものなり。固より印書の術も未だ発明あらざれば、民間に教育の達す可き方便ある可らず。鎌倉の時に大江広元、三善康信等、儒を以て登用せられたれども、此亦政府に属したるものにて、人民の間に学者あるを聞かず。承久三年北条泰時、宇治勢多に攻入たるとき、後鳥羽上皇より宣旨来り、従兵五千余人の内より此宣旨読む可き者をと尋ねしに、武蔵国の住人藤田三郎なる者一人を得たりと云ふ。世間の不文なること以て知る可し。これより足利の末に至るまで、文学は全く僧侶の事と為り、字を学ばんとする者は必ず寺に依らざれば其方便を得ず。後世習字の生徒を呼て寺子と云ふも其因縁なり。或人の説に、日本に版本の出来たるは鎌倉の五山を始とすと云へり。果して信ならん。徳川の初に其始祖家康、首として藤原惺窩を召し、次で林道春を用ひ、太平の持続するに従て碩儒輩出、以て近世に及びしことなり。斯の如く学問の盛衰は世の治乱と歩を共にして、独立の地位を占ることなく、数十百年干戈騒乱の間、全く之を僧侶の手に任したるは、学問の不面目と云はざるを得ず。此一事を見ても儒は仏に及ばざること以て知る可し。然りと雖ども、兵乱の際に学問の衰微するは独り我日本のみに非ず、世界万国皆然らざるはなし。欧羅巴に於ても中古暗黒の時より封建の代に至るまでは、文字の権、全く僧侶に帰して、世間に漸く学問の開けたるは実に千六百年代以降のことなり。又東西の学風其趣を異にして、西洋諸国は実験の説を主とし、我日本は孔孟の理論を悦び、虚実の相違、固より日を同ふして語る可きに非ざれども、亦一概に之を咎む可らず。兎に角に我人民を野蛮の域に救て今日の文明に至らしめたるものは、之を仏法と儒学との賜と云はざるを得ず。殊に近世儒学の盛なるに及て、俗間に行はるゝ神仏者流の虚誕妄説を排して人心の蠱惑を払たるが如きは、其功最も少なからず。此一方より見れば儒学も亦有力のものと云ふ可し。故に今東西学風の得失は姑く擱き、唯其学問の行はれたる次第に就き、著しき両様の異別を掲げて爰に之を示すのみ。蓋し其異別とは何ぞや。乱世の後、学問の起るに当て、此学問なるもの、西洋諸国に於ては人民一般の間に起り、我日本にては政府の内に起たるの一事なり。西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるゝや官私の別なく、唯学者の世界に在り。我国の学問は所謂治者の世界の学問にして、恰も政府の一部分たるに過ぎず。試に見よ、徳川の治世二百五十年の間、国内に学校と称するものは、本政府の設立に非ざれば諸藩のものなり。或は有名の学者なきに非ず、或は大部の著述なきに非ざれども、其学者は必ず人の家来なり、其著書は必ず官の発兌なり。或は浪人に学者もあらん、私の蔵版もあらんと雖ども、其浪人は人の家来たらんことを願て得ざりし者なり、其私の蔵版も官版たらんことを希ふて叶はざりし者なり。国内に学者の社中あるを聞かず、議論新聞等の出版あるを聞かず、技芸の教場を見ず、衆議の会席を見ず、都て学問の事に就ては毫も私の企あることなし。遇ま碩学大儒、家塾を開て人を教る者あれば、其生徒は必ず士族に限り、世禄を食て君に仕るの余業に字を学ぶ者のみ。其学流も亦治者の名義に背かずして、専ら人を治るの道を求め、数千百巻の書を読み了するも、官途に就かざれば用を為さゞるが如し。或は稀に隠君子と称する先生あるも、其実は心に甘んじて隠するに非ず、窃に不遇の歎を為して他を怨望する者歟、然らざれば世を忘れて放心したる者なり。其趣を形容して云へば、日本の学者は政府と名る篭の中に閉込められ、此篭を以て己が乾坤と為し、此小乾坤の中に煩悶するものと云ふ可し。幸にして世の中に漢儒の教育洽ねからずして学者の多からざりしこそ目出たけれ、若し先生の思通りに無数の学者を生ずることあらば、狭き篭の中に混雑し、身を容る可き席もなくして、怨望益多く、煩悶益甚しからざるを得ず。気の毒千万なる有様に非ずや。斯の如く限ある篭の中に限なき学者を生じ、篭の外に人間世界のあるを知らざる者なれば、自分の地位を作るの方便を得ず。只管其時代の有権者に依頼して、何等の軽蔑を受るも嘗て之を恥るを知らず。徳川の時代に学者の志を得たる者は政府諸藩の儒官なり。名は儒官と云ふと雖ども、其実は長袖の身分とて、之を貴ぶに非ず、唯一種の器械の如くに御して、兼て当人の好物なる政治上の事務にも参らしめず、僅に五斗米を与へて少年に読書の教を授けしむるのみ。字を知る者の稀なる世の中なれば、唯其不自由を補ふがために用ひたるまでのことにて、之を譬へば革細工に限りて穢多に命ずるが如し。卑屈賎劣の極と云ふ可し。此輩に向て又何をか求めん、又何をか責めん。其党与の内に独立の社中なきも怪むに足らず、一定の議論なきも亦驚くに足らざるなり。加之、政府専制よく人を束縛すと云ひ、少しく気力ある儒者は動もすれば之に向て不平を抱く者なきに非ず。然りと雖どもよく其本を尋れば、夫子自から種を蒔て之を培養し、其苗の蔓延するがために却て自から窘めらるゝものなり。政府の専制、これを教る者は誰ぞや。仮令ひ政府本来の性質に専制の元素あるも、其元素の発生を助けて之を潤色するものは漢儒者流の学問に非ずや。古来日本の儒者にて最も才力を有して最もよく事を為したる人物と称する者は、最も専制に巧にして最もよく政府に用ひられたる者なり。此一段に至ては漢儒は師にして政府は門人と云ふも可なり。憐む可し、今の日本の人民、誰か人の子孫に非ざらん。今の世に在て専制を行ひ、又其専制に窘めらるゝものは、独り之を今人の罪に帰す可らず、遠く其祖先に受けたる遺伝毒の然らしむるものと云はざるを得ず。而して此病毒の勢を助けたる者は誰ぞや、漢儒先生も亦預て大に力あるものなり。(学問に権なくして却て世の専制を助く)
前段に云へる如く、儒学は仏法とともに各其一局を働き、我国に於て今日に至るまで此文明を致したることなれども、何れも皆古を慕ふの病を免かれず。宗旨の本分は人の心の教を司り、其教に変化ある可らざるものなれば、仏法又は神道の輩が数千百年の古を語て今世の人を諭さんとするも尤のことなれども、儒学に至ては宗教に異なり、専ら人間交際の理を論じ、礼楽六芸の事をも説き、半は之を政治上に関する学問と云ふ可し。今この学問にして変通改進の旨を知らざるは遺憾のことならずや。人間の学問は日に新に月に進て、昨日の得は今日の失と為り、前年の是は今年の非と為り、毎物に疑を容れ毎事に不審を起し、之を糺し之を吟味し、之を発明し之を改革して、子弟は父兄に優り後進は先進の右に出て、年々歳々生又生を重ね、次第に盛大に進て、顧て百年の古を見れば、其粗鹵不文にして愍笑す可きもの多きこそ、文明の進歩、学問の上達と云ふ可きなり。然るに論語に曰く、後世畏る可し、焉ぞ来者の今に如かざるを知らんと。孟子に曰く、舜何人ぞ、予何人ぞ、為ることある者は亦是の如し。又曰く、文王は我師なり、周公豈我を欺かんやと。此数言以て漢学の精神を窺ひ見る可し。後世畏る可し云々とは、後進の者が勉強せば或は今人の如く為ることもあらん、油断はならぬと云ふ意味なり。されば後人の勉強して達す可き頂上は辛ふじて今人の地位に在るのみ。加之其今人も既に古人に及ばざる季世の人なれば、仮令ひ之に及ぶことあるも余り頼母しき事柄に非ず。又後進の学者が大に奮発して、大声一喝、其慷慨の志を述べたる処は、数千年以前の舜の如くならんと欲する歟、又は周公を証人に立てゝ恐れながら文王を学ばんとするまでのことにて、其趣は不器用なる子供が先生に習字の手本を貰ひ、御手本の通りに字を書かんとして苦心するが如し。初めより先生には及ばぬものと覚悟を定めたれば、極々よく出来たる処にて先生の筆法を真似するのみ、迚も其以上に出ることは叶ふ可らず。漢儒の道の系図は、堯舜より禹湯文武周公孔子に伝へ、孔子以後は既に聖人の種も尽きて、支那にも日本にも再び其人あるを聞かず。孟子以後宋の世の儒者又は日本の碩学大儒にても、後世に向ては矜る可しと雖ども、孔子以上の古聖に対しては一言もある可らず。唯これを学て及ばざるの歎を為すのみ。故に其道は後の世に伝ふれば伝ふるほど悪しく為りて、次第に人の智徳を減じ、漸く悪人の数を増し、漸く愚者の数を増して、一伝又一伝、以て末世の今日に至りては、疾(はや)く既に禽獣の世界と為る可きは十露盤の上に明なる勘定なれども、幸にして人智進歩の定則は自から世に行はれて儒者の考の如くならず、往々古人に優る人物を生じたることにや、今日までの文明を進めて、彼の勘定の割合に反したるこそ、我人民の慶福と云ふ可けれ。斯の如く古を信じ古を慕ふて毫も自己の工夫を交へず、所謂精神の奴隷(メンタルスレ−ヴ)とて、己が精神をば挙て之を古の道に捧げ、今の世に居て古人の支配を受け、其支配を又伝へて今の世の中を支配し、洽ねく人間の交際に停滞不流の元素を吸入せしめたるものは、之を儒学の罪と云ふ可きなり。然りと雖ども又一方より云へば、在昔若し我国に儒学と云ふもの無かりせば、今の世の有様には達す可らず。西洋の語に「リフハインメント」とて、人心を鍛錬して清雅ならしむるの一事に就ては、儒学の功徳亦少なしとせず。唯昔に在ては功を奏し今に在ては無用なるのみ。物の不自由なる時節に於ては、敗筵(やれむしろ)も夜着に用ゆ可し、糠も食料と為す可し。況や儒学に於てをや、必ず其旧悪を咎む可らず。余思ふに儒学を以て古の日本人を教へたるは、田舎の娘を御殿の奉公に出したるが如し。御殿にて起居動作は自から清雅に倣ひ、其才智も或は穎敏を増したれども、活潑なる気力は失ひ尽して、家産営業の為には無用なる一婦人を生じたることなり。蓋し其時節には娘を教ゆ可き教場もなかりしゆゑ、奉公も謂れなきに非ざれども、今日に至ては其利害得失を察して別に方向を定めざる可らず。
古来我日本は義勇の国と称し、其武人の慓悍にして果断、誠忠にして率直なるは、亜細亜諸国に於ても愧るものなかる可し。就中足利の末年に至て天下大乱、豪傑所在に割拠して攻伐止む時なく、凡そ日本に武の行はれたる、前後この時より盛なるはなし。一敗、国を亡す者あり、一勝、家を興す者あり、門閥もなく由緒もなく、功名自在、富貴瞬間に取る可し。文明の度に前後の差はあれども、之を彼の羅馬の末世に北狄の侵入せし時代に比して彷彿たる有様と云ふも可なり。此事勢の中に在ては日本の武人にも自から独立自主の気象を生じ、或は彼の日耳曼の野民が自主自由の元素を遺したるが如く、我国民の気風も一変す可きに思はるれども、事実に於ては決して然らず。此章の首に云へる権力の偏重は、開闢の初より人間交際の微細なる処までも入込み、何等の震動あるも之を破る可らず。此時代の武人快活不覊なるが如くなれども、此快活不覊の気象は一身の慷慨より発したるものに非ず、自から認めて一個の男児と思ひ、身外無物、一己の自由を楽むの心に非ず、必ず外物に誘はれて発生したるもの歟、否(しから)ざれば外物に藉て発生を助けたるものなり。何を外物と云ふ。先祖のためなり、家名のためなり、君のためなり、父のためなり、己が身分のためなり。凡そ此時の師に名とする所は必ず是等の諸件に依らざるものなし。或は先祖家名なく、君父身分なき者は、故さらに其名義を作て口実に用るの風なり。如何なる英雄豪傑にして有力有智の者と雖ども、其智力のみを恃(たのみ)て事を為さんと企たる者あるを聞かず。爰に其事跡に見はれたるものを撮て一、二の例を示さん。足利の末年に諸方の豪傑、或は其主人を逐ひ、或は其君父の讐を報じ、或は祖先の家を興さんとし、或は武士たるの面目を全ふせんがためにとて、党与を集め土地を押領し、割拠の勢を為すと雖ども、其期する所は唯上洛の一事に在るのみ。抑も此上洛の何物たるを尋れば、天子若くは将軍に謁し、其名義を借用して天下を制せんとすることなり。或は未だ上洛の方便を得ざる者は、遥に王室の官位を受け、此官位に藉て自家の栄光を増し、以て下を制するの術に用る者あり。此術は古来日本の武人の間に行はるゝ一定の流儀にて、源平の酋長、皆然らざるはなし。北条に至ては直に最上の官位をも求めずして、名目のために将軍を置き、身は五位を以て天下の権柄を握りたるは、啻に王室を器械に用るのみならず、兼て将軍をも利用したるものなり。其外形を皮相すれば美にして巧なるに似たれども、よく事の内部に就て之を詳にすれば、必竟人心の鄙怯より生じたることにて、真に賎しむ可く悪む可きの元素を含有するものと云はざるを得ず。足利尊氏が赤松円心の策を用ひて後伏見帝の宣旨を受け、其子光明天皇を立たるが如きは、万人の目を以て見るも之を尊王の本心より出たるものと認む可らず。信長が初は将軍義昭を手に入れたれども、将軍の名は天子の名に若かざるを悟り、乃ち義昭を逐ふて直に天子を挟(はさ)みたるも、其情厚しと云ふ可らず。何れも皆詐謀偽計の明著なるものにて、凡そ天下に耳目を具したる者ならば、其内情を洞察す可き筈なれども、尚其表面には忠信節義を唱へ、児戯に等しき名分を口実に用ひて自から之を策の得たるものと為し、人も亦これに疑を容れざるは何ぞや。蓋し其党与の内に於て上下共に大に利する所あればなり。日本の武人は開闢の初より此国に行はるゝ人間交際の定則に従て、権力偏重の中に養はれ、常に人に屈するを以て恥とせず。彼の西洋の人民が自己の地位を重んじ、自己の身分を貴て、各其権義を持張する者に比すれば、其間に著しき異別を見る可し。故に兵馬騒乱の世と雖ども、此交際の定則は破る可らず。一族の首に大将あり、大将の下に家老あり、次で騎士あり、又徒士あり、以て足軽中間に及び、上下の名分判然として、其名分と共に権義をも異にし、一人として無理を蒙らざる者なく、一人として無理を行はざる者なし。無理に抑圧せられ、又無理に抑圧し、此に向て屈すれば、彼に向て矜る可し。譬へば爰に甲乙丙丁の十名ありて、其乙なる者、甲に対して卑屈の様を為し、忍ぶ可らざるの恥辱あるに似たれども、丙に対すれば意気揚々として大に矜る可きの愉快あり。故に前の恥辱は後の愉快に由て償ひ、以て其不満足を平均し、丙は丁に償を取り、丁は戊に代を求め、段々限あることなく、恰も西隣へ貸したる金を東隣へ催促するが如し。又これを物質に譬へて云へば、西洋人民の権力は鉄の如くにして、之を膨脹すること甚だ難く、之を収縮することも亦甚だ易からず。日本の武人の権力はゴムの如く、其相接する所の物に従て縮張の趣を異にし、下に接すれば大に膨脹し、上に接すれば頓に収縮するの性あり。此偏縮偏重の権力を一体に集めて之を武家の威光と名け、其一体の抑圧を蒙る者は無告の小民なり。小民を思へば気の毒なれども、武人の党与に於ては上大将より下足軽中間に至るまで、上下一般の利益と云はざるを得ず。啻に利益を謀るのみに非ず、其上下の関係、よく整斉して頗る条理の美なるものあるが如し。即ち其条理とは党与の内にて、上下の間に人々卑屈の醜態ありと雖ども、党与一体の栄光を以て強ひて自から之を己が栄光と為し、却て独一個の地位をば棄てゝ其醜体を忘れ、別に一種の条理を作て之に慣れたるものなり。此習慣の中に養はれて終に以て第二の性を成し、何等の物に触るゝも之を動かす可らず。威武も屈すること能はず、貧賎も奪ふこと能はず、儼然たる武家の気風を窺ひ見る可し。其一局の事に就き一場の働に就て之を察すれば、真に羨む可く又慕ふ可きもの多し。在昔三河の武士が徳川家に附属したる有様なども此一例なり。斯る仕組を以て成立たる武人の交際なれば、此交際を維持せんがためには、止むを得ず一種無形最上の権威なかる可らず。即ち其権威の在る所は王室に止まると雖ども、人間世界の権威は、事実、人の智徳に帰するものなるが故に、王室と雖ども実の智徳あらざれば実の権威は之に帰す可らず。是に於てか其名目のみを残して王室に虚位を擁せしめ、実権をば武家の統領に握らんとするの策を運らしたることにて、即ち当時諸方の豪傑が上洛の一事に熱中し、児戯に等しき名分をも故さらに存して之を利用したる由縁なり。必竟其本を尋れば、日本の武人に独一個人の気象(インヂヴヰヂュアリチ)なくして、斯る卑劣なる所業を恥とせざりしことなり。(乱世の武人に独一個の気象なし)
古来世の人の等閑に看過して意に留めざりし所なれども、今特に之を記せば、日本の武人に独一個人の気象なき趣を窺ひ見る可き一個条あり。即ち其個条とは人の姓名の事なり。元来人の名は父母の命ずるものにて、成長の後或は改名することあるも、他人の差図を受く可きに非ず。衣食住の物品は人々の好尚に任し、自由自在たるに似たれども、多くは外物に由て動かされ、自から時の流行に従ふものなれども、人の姓名は衣食住の物に異なり、之を命ずるに他人の差図を受けざるは勿論、仮令ひ親戚朋友と雖ども、我より求て相談を受るに非ざれば喙(くちばし)を入る可き事柄に非ず。人事の形に見はれたるものゝ中にて最も自由自在なる部分と云ふ可し。法に由て改名を禁ずる国に於ては、固より其法に従ふも自由を妨るに非ざれども、改名自由の国に於て、源助と云ふ名を平吉と改る歟、又は之を改めざるの自由は、全く一己の意に任して、夜寝るに右を枕にし又左を枕にするの自由なるが如し。毫も他人に関係ある可らず。然るに古来我日本の武家に、偏諱を賜はり姓を許すの例あり。卑屈賎劣の風と云ふ可し。上杉謙信の英武も尚これを免れず、将軍義輝の偏諱を拝領して輝虎と改名したることあり。尚甚しきは、関原の戦争後に天下の大権徳川氏に帰して、諸侯の豊臣氏を冒す者は悉く本姓に復し、又松平を冒す者あり。是等の変姓は或は自から願ひ或は上命にて賜はることもあらんと雖ども、何れにも事柄に於ては賎しむ可き挙動と云はざるを得ず。或人謂へらく、改名冒姓の事は、当時の風習にて人の意に留めざることなれば、今より咎む可らずと云ふものあれども、決して然らず。他人の姓名を冒して心に慊しと思はざるの人情は、古今皆同じ。其証拠には足利の時、永享六年、鎌倉の公方持氏の子、元服して名を義久と命じたりしに、管領上杉憲実は例の如く室町の諱を願はる可しと諌めたれども聴かずとあり。此時持氏は既に自立の志あり。其志は善にも悪にも、他の名を冒すは賎しき挙動と思ひしことならん。又徳川の時代に、細川家へ松平の姓を与へんとせしに辞したりとて、民間には之を美談として云伝へり。虚実詳ならざれども、之を美とするの人情は今も古も同様なること明に証す可し。以上記す所の姓名のことは左まで大事件にも非ざれども、古来義勇と称する武人の、其実は思の外卑怯なるを知る可く、又一には権威を握る政府の力は恐ろしきものにて、人心の内部までも犯して之を制するに足るとの次第を示さんがために、数言を爰に贅したるなり。
右条々に論ずる如く、日本の人間交際は、上古の時より治者流と被治者流との二元素に分れて、権力の偏重を成し、今日に至るまでも其勢を変じたることなし。人民の間に自家の権義を主張する者なきは固より論を竢たず。宗教も学問も皆治者流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず。乱世の武人義勇あるに似たれども、亦独一個人の味を知らず。乱世にも治世にも、人間交際の至大より至細に至るまで、偏重の行はれざる所なく、又此偏重に由らざれば事として行はる可きものなし。恰も万病に一薬を用るが如く、此一薬の功能を以て治者流の力を補益し、其力を集めて之を執権者の一手に帰するの趣向なり。前既に云へる如く、王代の政治も将家の政治も、北条足利の策も徳川の策も、決して元素を異にするものに非ず。只彼を此より善しとし、此を彼より悪しと云ふものは、此偏重を用るの巧なると拙なるとを見て其得失を判断するのみ。巧に偏重の術を施して最上の権力を執権者の家に帰するを得れば、百事既に成りて他に又望む可きものなし。古来の因襲に国家と云ふ文字あり。此家の字は人民の家を指すに非ず、執権者の家族又は家名と云ふ義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚しきは政府を富ますを以て御国益などゝ唱るに至れり。斯の如きは則ち国は家の為に滅せられたる姿なり。是等の考を以て政治の本を定るが故に、其策の出る所は常に偏重の権力を一家に帰せしめんとするより外ならず。山陽外史、足利の政を評して尾大不掉とて其大失策とせり。此人も唯偏重の行はれずして足利の家に権力の帰せざりしを論じたるまでのことにて、当時の儒者の考には尤のことなれども、到底家あるを知て国あるを知らざるの論なり。若し足利の尾大不掉を失策とせば、徳川の首大偏重を見て之に満足せざる可らず。凡そ偏重の政治は古来徳川家より巧にして美なるものはなし。一統の後、頻に自家の土木を起して諸侯の財を費さしめ、一方には諸方の塁堡を毀ち藩々の城普請を止め、大船を造るを禁じ、火器を首府に入るゝを許さず、侯伯の妻子を江戸に拘留して盛に邸宅を築かしめ、自から之を奢侈に導て人間有用の事業を怠らしめ、尚其余力あるを見れば、或は御手伝と云ひ、或は御固めと云ひ、百般の口実を設けて奔命に疲れしめ、令するとして行はれざるなく、命ずるとして従はざるなかりしは、其状恰も人の手足を挫て之と力を較するが如し。偏重の政治に於ては実に最上最美の手本と為す可きものにて、徳川一家の為を謀れば巧を尽し妙を得たるものと云ふ可し。固より政府を立るには中心に権柄を握て全体を制するの釣合なかる可らず。此釣合の必用なるは独り我日本のみならず世界万国皆然らざるはなし。野蛮不文なる古の日本人にても尚且この理を解したればこそ、数千百年の前代より専制の趣意ばかりは忘れざりしことならずや。況や文物次第に開けたる後の世に於て、誰か政府の権を奪ひ去て然る後に文明を期すると云ふものあらん。政権の必用なるは学校の童子も知る所なり。然りと雖ども、西洋文明の各国にては此権の発源唯一所に非ず、政令は一途に出ると雖ども、其政令は国内の人心を集めたるもの歟、仮令ひ或は全く之を集ること能はざるも、其人心に由て多少の趣を変じ、様々の意見を調合して唯其出る処を一にしたるものなり。然るに古来日本に於ては、政府と国民とは啻に主客たるのみに非ず、或は之を敵対と称するも可なり。即ち徳川政府にて諸侯の財を費さしめたるは、敵に勝て償金を取るに異ならず。国民に造船を禁じ、大名に城普請を止めたるは、戦勝て敵国の台場を毀つに異ならず。之を同国人の所業と云ふ可らざるなり。
都て世の事物には初歩と次歩との区別あるものにて、初段の第一歩を処するには、之をして次の第二歩に適せしむるの工夫なかる可らず。故に次歩は初歩を支配するものと云ふも可なり。譬へば諺に、苦は楽の種と云ひ、良薬口に苦しと云ふことあり。苦痛を苦痛として之を避け、苦薬を苦薬として之を嫌ふは、人情の常にして、事物の初歩にのみ精神を注ぐときは、之を避け嫌ふも尤なるに似たれども、次の第二歩なる安楽と病の平癒とに眼を着すれば、之を忍て之に堪へざる可らず。彼の権力の偏重も、一時国内の人心を維持して事物の順序を得せしむるには止むを得ざるの勢にて、決して人の悪心より出たるものには非ず。所謂初歩の処置なり。加之其偏重の巧なるに至ては、一時、人の耳目を驚かすほどの美を致すものありと雖ども、唯如何せん、第二歩に進まんとするの時に及び、乃ち前年の弊害を顕はして初歩の宜しきを得ざりし徴候を見る可し。是を以て考れば、専制の政治は愈巧なれば其弊愈甚しく、其治世愈久しければ其余害愈深く、永世の遺伝毒と為りて容易に除く可らざるものゝ如し。徳川の太平の如きは即ち其一例なり。今日に至て世の有様を変革し、交際の第二歩に進まんとして、其事極て難きに非ずや。其難き由縁は何ぞや。徳川の専制は巧にして其太平の久しかりしを以てなり。余嘗て鄙言を以て此事情を評したることあり。云く、専制の政治を脩飾するは、閑散なる隠居が瓢箪を愛して之を磨くが如し。朝に夕に心身を労して磨き得たるものは、依然たる円き瓢箪にして、唯光沢を増したるのみ。時勢の将に変化して第二歩に入らんとするに当り、尚旧物を慕ふて変通を知らず、到底求めて得べからざる所の物を求めて脳中に想像を画き、之を実に探り得んとして煩悶するものは、瓢箪の既に釁(す)きたるを知らずして尚これを磨くが如し。愚も亦一層甚しと云ふ可しと。此鄙言或は当ることあらん。何れも皆事物の初歩に心配して次歩あるを知らず、初歩に止て次歩に進まざるものなり、初歩を以て次歩を妨るものなり。斯の如きは則ち、彼の初歩の偏重を以て事物の順序を得せしめたりと云ふも、其実は順序を得たるに非ず、人間の交際を枯死せしめたるものと云ふ可し。交際を枯死せしむるものなれば、山陽外史の所謂尾大不掉も、徳川の首大偏重も、孰れか得失を定む可らず。必竟外史なども唯事の初歩に眼を着して瓢箪を磨くの考あるのみ。
試に徳川の治世を見るに、人民は此専制偏重の政府を上に戴き、顧て世間の有様を察して人の品行如何を問へば、日本国中幾千万の人類は各幾千万個の箱の中に閉され、又幾千万個の墻壁に隔てらるゝが如くにして、寸分も動くを得ず。士農工商、其身分を別にするは勿論、士族の中には禄を世(代々のもの)にし官を世にし、甚しきは儒官医師の如きも其家に定ありて代々職を改るを得ず。農にも家柄あり、商工にも株式ありて、其隔壁の堅固なること鉄の如く、何等の力を用るも之を破る可らず、人々才力を有するも進て事を為す可き目的あらざれば、唯退て身を守るの策を求るのみ。数百年の久しき、其習慣遂に人の性と為りて、所謂敢為の精神を失ひ尽すに至れり。譬へば貧士貧民が無智文盲にして人の軽蔑を受け、年々歳々貧又貧に陥り、其苦は凡そ人間世界に比す可きものなきが如くなれども、自から難を犯して敢て事を為すの勇なし。期せずして来るの難には、よく堪ゆれども、自から難を期して未来の愉快を求る者なし。啻に貧士貧民のみならず、学者も亦然り、商人も亦然り。概して之を評すれば、日本国の人は、尋常の人類に備はる可き一種の運動力を欠て停滞不流の極に沈みたるものと云ふ可し。是即ち徳川の治世二百五十年の間、此国に大業を企る者、稀なりし由縁なり。輓近廃藩の一挙ありしかども、全国の人、俄に其性を変ずること能はず、治者と被治者との分界は今尚判然として毫も其趣を改めざる由縁なり。其本を尋れば悉皆権力の偏重より来りしものにて、事物の第二歩に注意せざるの弊害と云ふ可し。故に此弊害を察して偏重の病を除くに非ざれば、天下は乱世にても治世にても、文明は決して進むことある可らず。但し此病の療法は、目今現に政治家の仕事なれば、之を論ずるは本書の旨に非ず、余輩は唯其病の容体を示したるのみ。抑も亦西洋諸国の人民に於ても、貧富強弱一様なるに非ず。其富強なる者は貧弱を御するに、刻薄残忍なることもあらん、傲慢無礼なることもあらん。貧弱も亦名利のために、人に諂諛することもあらん、人を欺くこともあらん。其交際の醜悪なるは決して我日本人に異なることなし、或は日本人より甚しきこともある可しと雖ども、其醜悪の際、自から人々の内に独一個人の気象を存して精神の流暢を妨げず。其刻薄傲慢は唯富強なるが故なり、別に恃む所あるに非ず。其諂諛欺詐は唯貧弱なるが故なり、他に恐るゝ所あるに非ず。然り而して、富強と貧弱とは天然に非ず、人の智力を以て致す可し。智力を以て之を致す可きの目的あれば、仮令ひ事実に致すこと能はざるも、人々自から其身に依頼して独立進取の路に赴く可し。試に彼の貧民に向て問はゞ、口に云ふ能はずと雖ども、心には左の如く答ることならん。我は貧乏なるが故に富人に従順するなり、貧乏なる時節のみ彼に制せらるゝなり、我の従順は貧乏と共に消す可し、彼の制御は富貴と共に去る可しと。蓋し精神の流暢とは此辺の気象を指して云ふことなり。之を我日本人が、開闢以来世に行はるゝ偏重の定則に制せられて、人に接すれば其貧富強弱に拘らず、智愚賢不肖を問はずして、唯其地位の為に或は之を軽蔑し或は之を恐怖し、秋毫の活気をも存せずして、自家の隔壁の内に固着する者に比すれば、雲壌の相違あるを見る可きなり。(権力偏重なれば治乱共に文明は進む可らず)
此権力の偏重よりして全国の経済に差響きたる有様も等閑に看過す可らざるものなり。抑も経済の議論は頗る入組たるものにて、之を了解すること甚だ易からず。各国の事態時状に由て一様なるものに非ざれば、西洋諸国の経済論を以て直に我国に施す可らざるは固より論を俟たずと雖ども、爰に何れの国に於ても何れの時に在ても、普ねく通用す可き二則の要訣あり。即ち其第一則は財を積て又散ずることなり。而して此積むと散ずるとの両様の関係は、最も近密にして決して相離る可きものに非ず。積は即ち散の術なり、散は即ち積の方便なり。譬へば春の時節に種を散ずるは秋の穀物を積むの術にして、衣食住の為に財を散ずるは、身体を健康に保て其力を養ひ、又衣食住の物を積むの方便なるが如し。此積散の際に、或は散じて積むこと能はざるものあり。火災水難の如き是なり。或は人心の嗜慾にて奢侈を好み、徒に財物を費散して跡なきものあり。是亦水火の災難に異ならず。経済の要は決して費散を禁ずるに非ず、唯これを費し之を散じたる後に、得る所の物の多少を見て其費散の得失を断ずるのみ。其所得の物、所費より多ければ、之を利益と名け、所得所費相同じければ之を無益と名け、所得却て所費よりも少なき歟、或は全く所得あらざれば、之を損と名け又全損と名く。経済家の目的は、常に此所得をして所損より多からしめ、次第に蓄積し又費散して全国の富有を致さんとするに在るなり。故に此蓄積費散の二箇条は、何れを術と為し何れを目的と為す可らず、何れを前と為し何れを後と為す可らず。前後緩急の別なく、難易軽重の差なし。正しく同一様の事にして、正しく同一様の心を以て処置す可きものなり。蓋し蓄積してよく之を散ずるの法を知らざる者は、遂に大に蓄積するを得ず。費散して又よく積むの働なき者は、遂に大に散ずるを得ざればなり。富国の基は唯此蓄積と費散とを盛大にするに在るのみ。其盛大なる国を名けて之を富国と称す。是に由て考れば、国財の蓄積費散は全国の人心を以て処置せざる可らず。既に国財の名あれば国心の名あるも謂れなきに非ず。国財は国心を以て扱はざる可らざるなり。政府の歳入歳出も国財の一部分なれば、西洋諸国にて政府の会計を民と議するも、其趣意は蓋し爰に基きしものなり。第二則、財を蓄積し又これを費散するには、其財に相応す可き智力と其事を処するの習慣なかる可らず。所謂理財の智、理財の習慣なるもの、是なり。譬へば、千金の子、其家を亡し、博奕に贏(か)つ者、永く其富を保つこと能はざるが如し。何れも皆其財と其智力習慣と相当せざるものなり。智力なく習慣なき者へ過分の財を附するは、徒に其財を失ふのみならず、小児の手に利刀を任するが如く、却て之を以て身を害し人を傷ふの禍を致す可し。古今に其例甚だ多し。
右所記の二則果して是ならば、之を照らして古来我日本国に行はれたる経済の得失を見る可し。王代の事は姑く擱き、葛山伯有先生の田制沿革考に云く、
源平の乱に至り、徴発国衙に由らず。民奉ずる所を知らず。一郷一荘の地、官に奉じ、平族に奉じ、源氏に奉ず。間亦奸窃の徒の為に粮食を取られ、無告の民、塗炭惟谷。終に源公の権行はれ、国に守護を置き、荘に地頭を設く。国司荘司は依然として存すれば、民両君を戴くと云ふ可し。中略足利氏の国郡を制する、他の政令なく、国郡郷荘尽く割て士に与へ、租税は其主の指揮に任せ、別に五十分一の課を充て、自から奉とす。譬へば租米五十石を出す可き地は、別に一石を出さしめて京に運送し、将軍の厨料に充られしなり。或は増して二十分一に至りし年もあり。守護地頭は自から其出る用を量りて入ることを制する故に、両税なり。中略又段銭(たんせん)、棟別、倉役は時を撰ばずして之を取る。段銭とは田地にかけて銭を出さしむ、今の高掛りと云ふが如し。棟別とは軒別に割附て銀を出さしむるなり、今云ふ鍵役などに同じ。倉役とは富民富商人へばかり割附るなり、今云ふ分限割と云ふに同じ。倉役、義満公の代には四季にあてられ、義教公の代には一箇年十二度に及び、義政公には十一月九度、十二月八度に至りしゆゑ、百姓は田宅を棄てゝ逃散し、商旅、戸を閉て財を交へざりしこと応仁記に出、云々。又云く、豊臣家一統の後、文禄三年に至り、定則ありし所は、天下の租税三分の二は地頭取て、三分の一は百姓の得分たる可しとあり、云々。又云く、玆(ここ)に国初《徳川》に及び、勝国の苛刻を厭ひ、租税三分の一を弛め《四公六民の法を云ふ》民の倒懸の急を解き、云々。
右沿革考の説に拠れば、古来我国の租税は甚だ苛刻なりしこと疑なし。徳川の初に至て少しく弛めたるも、年月を経るに従ひいつとなく旧の苛税に復したることなり。又古より世の識者と称する人の説に、農民は国の本なれども、工商の二民は僅に賦を出すか出さずして坐食逸飽、理に於てあるまじきことなりとて、頻に工商を咎れども、よく事実を詳にすれば、工商は決して逸民に非ず。稀に富商大賈(たいこ)は逸して食ふ者もあらんと雖ども、こは唯其財本に依て活計を立るものなれば、豪農が多分の田地を所持して坐食する者に異ならず。以下の貧商に至ては仮令ひ直に公の税を払はざるも、其生産の難きは農民に異ならず。日本には古来工商の税なし。其税なきが故に、之を業とする者も自から増加せざるを得ず。されども其増加するや亦必ず際限あるものなり。此際限は農の利と工商の利と互に平均するに至て止む可し。譬へば四公六民の税地を耕すは、其利、固より饒なるに非ずと雖ども、平年なれば尚妻子を養ふて饑を免かる可し。工商が都邑に住居して無税の業を営むは、農民に比すれば便利なるに似たれども、尚饑寒を免かれざる者多し。其然る由縁は何ぞや。仲間の競に由るものなり。蓋し全国工商の仕事には限ありて、若干の人員あれば之を為す可きに定りたる処へ、仕事を増さずして人員のみを増せば、十人にて為す可き商業をば二、三十人の手に分ち、百人にて取る可き日傭賃をば二、三百人に配分し、三割の口銭を得べき商売も一割に減し、二貫文を取る可き賃銭も五百文に下り、自から仲間の競業を以て自から其利潤を薄くし、却て他の便利を為して農民も亦此便利を受く可ければなり。故に工商の名は無税なりと云ふと雖ども、其実は有税の農に異ならず。或は工商に利益の多きことあらば、其多き由縁は、政府にて識者の言を用ひ、様々の故障を設けて、農民の商に帰するを妨げ、其人数の割合尚少なきがために、聊か専売の利を得せしめたるものなり。此事情に由て考れば、農と工商とは正しく其利害を共にして、共に国内有用の事業を為すものなれば、其名目に有税と無税との別ありと雖ども、何れも逸民に非ず。双方共に国財を蓄積する種類の人民と云ふ可し。
故に人間の交際に於て、治者流と被治者流とに区別したるものを、今爰には経済の上にて生財者と不生財者との二種に分つ可し。即ち農工商以下被治者の種族は国財を生ずる者にして、士族以上治者の種族は之を生ぜざる者なり。或は前段の文字を用ひて、一を蓄積の種族と云ひ、一を費散の種族と云ふも可なり。此二種族の関係を見るに、其労逸損徳の有様、固より公平ならずと雖ども、人口多くして財本の割合に過ぎ、互に争ふて職業を求るの勢に迫れば、富者は逸して貧者は労せざるを得ず。是亦独り我邦のみに非ず、世界普通の弊害にして、如何ともす可らざるものなれば深く咎るに足らず。且又士族以上、治者流の人を不生財又費散の種族と名くと雖ども、政府にて文武の事を施行して世の事物の順序を整斉ならしむるは、経済を助るの大本なれば、政府の歳出を以て一概に之を無益の費と云ふ可らず。唯我国の経済に於て、特に不都合にして特に他の文明国に異なる所は、此同一様の事なる国財の蓄積と費散とを処置するに、同一様の心を以てせざるの一事に在り。古来我国の通法に於て、人民は常に財を蓄積し、譬へば四公六民の税法とすれば、其六分を以て僅に父母妻子を養ひ、残余の四分は之を政府に納め、一度び己が手を離れば其行く処を知らず、其何の用に供するを知らず、余るを知らず、足らざるを知らず。概して云へば之を蓄積するを知て其費散の道を知らざるものなり。政府も亦既に之を己が手に請取るときは、其来る処を忘れ、其何の術に由て生じたるを知らず、恰も之を天与の物の如くに思ふて、之を費し之を散じて一も意の如くならざるはなし。概して云へば之を費散するを知て蓄積の道を知らざるものなり。経済の第一則に、蓄積と費散とは正しく同一様の事にして、正しく同一様の心を以て処置す可きものなりと云へり。然るに今此有様を見れば、同一様の事を為すに二様の心を以てし、之を譬へば一字の文字を書くに、偏と作とを分て二人の手を用るが如し。如何なる能筆にても字を成す可らざるや明なり。斯の如く上下の心を二様に分て、各其所見の利益を別にし、互に相知らざるのみならず、互に其挙動を見て相怪むに至れり。安ぞ経済の不都合を生ぜざるを得んや。費す可きに費さず、費す可らざるに費し、到底其割合の宜しきを得べからざるなり。足利義政が大乱の最中に銀閣寺を興し、花御所の甍(いらか)珠玉に金銀を飾りて六十万緡(びん)、高倉御所の腰障子一間に二万銭を費す程の奢侈にて、諸国の人民へ段銭、棟別を譴責して、政府に一銭の余財もなきは、上下共に貧なる時節なり。太閤が内乱の後に大阪城を築き、次で又朝鮮を征伐し、外は兵馬の冗費、内は宴楽の奢侈を尽して、尚金馬の貯あるは、下は貧にして上は殷富なる時節と云ふ可し。又歴代の内にて賢明の名ある北条泰時以下時頼貞時等の諸君は、其自から奉ずること必ず質素倹約なりしことならん。下て徳川の時に至り、其初代には明君賢相輩出して、政府の体裁は一も間然す可きものなし。之を義政の時代などに比すれば同日の論に非ずと雖ども、民間に富を致して事を企たる者あるを聞かず。北条及び徳川の遺物として今日に伝へたるものゝ内にて最も著しきは、鎌倉の五山なり、江戸及び名古屋の城なり、日光山なり、東叡山なり、増上寺なり、何れも盛大なるものなれども、独り怪しむ可きは其時代の日本にして斯る盛大なる工業を興し得たるの一事なり。果して全国経済の割合に適したるもの乎、余輩は決して之を信ぜず。今国内にある城郭は勿論、神社仏閣の古跡とて、或は大仏大鐘、或は大伽藍等の壮大なるものあるは、大概皆神道仏教の盛なりし徴には非ずして、独裁君主の盛なるを証するに足るのみ。稀には水道堀割等の大工を起したることもあれども、決して人民の意に出たるに非ず。唯其時の君相有司の好尚に従ひ、所謂民の疾苦を問ふて其便利を推量したるものゝみ。固より古代無智の世の中なれば、政府にて独り事を為すは必然の勢にて、誰か之を怪しむ者あらん。今より其挙動を是非するの理は万々ある可らずと雖ども、国財の蓄積と費散と其路を別にして、経済上に限なき不都合を生じ、明君賢相の世にても暴君汚吏の時にても、共に此弊を免かれざりしは明に証す可きことなれば、後世苟も爰に眼力の達したる者あらば、再び其覆轍を踏む可らず。明君賢相は必ず有用の事に財を費す可しと雖ども、其有用とは君相の意を以て決する所の有用なれば、人々の好尚に由て武を有用とする者もあらん、文を有用とする者もあらん、或は真に有用の事を有用とすることもあらんと雖ども、又は無用の事を有用とすることもあらん。足利義政の時代に、政府より令して一切借金の約束を破りて之を徳政と名けたることあり。徳川の時代にも之に似たる例なきに非ず。是等も政府より徳と云へば徳なるが如し。何れにも国内の蓄積者は費散者の処置に付き少しも喙を入れざる風なれば、費散者は出を量りて入を制するに非ず、出入共に限なく、唯下民の生計を察して従前の有様に止まれば、之を最上の仁政として他に顧る所あらず。年々歳々同一様の事を繰返して、此処に積ては彼処に散じ、一字の文字を二人にて書き、以て数百年の今日に至り、顧て古今を比較して全国経済の由来を見れば、其進歩の遅きこと実に驚くに堪へたり。其一例を挙て云はんに、徳川の治世二百五十年、国内に寸兵を用ひたることもなきは、万古世界中に比類なき太平と云ふ可し。此世界に比類なき太平の世に居れば、日本の人民愚なりと雖ども、工芸の道開けずと雖ども、仮令ひ其蓄積は徐々たりと雖ども、二百五十年の間には経済の上に長足の進歩を為す可き筈なるに、事実に於て然らざるは何ぞや。独り之を将軍及び諸藩主の不徳のみに帰す可らず。若し或は之を君相有司の不徳不才に由て来りし禍とせば、其不徳不才は其人の罪に非ず、其地位に居れば止むを得ず不徳不才ならざるを得ざるの勢と為りて、其勢に迫られたるものなり。故に経済の一方より論ずれば、明君賢相も思の外に頼母しからず、天下太平も思の外に功能薄きものなり。或人の説に、戦争は実に恐る可く悪む可き禍なれども、其国の経済に差響く処は、之を人身に譬るに金創の如し、一時は人の耳目を驚かすと雖ども、生命貴要の部分に係らざれば、其癒着は案外に速なるものなり、唯経済に就て格別に恐る可きは、金創にあらずして彼労症の如く、月に日に次第に衰弱する病に在りと。此説に拠て考れば、我日本の経済に於ても、元と権力の偏重よりして蓄積者と費散者との二流に分ち、双方の間に気脈を通ぜずして、月に日に衰弱せざれば、歳に月に同一の有様に止まり、或は数百年の間に少しく進みたるも到底盛大活潑の域に入るを得ずして、徳川氏二百五十年の治世にも著しき進歩を見ざりしは、所謂経済の労症なる可し。《昔より日本の学者の論に、政府の勘定奉行と郡奉行とは課を分たざる可らずと云へり。蓋し其趣意は、勘定奉行に収税の権を任すれば自から聚斂に陥るが故に、民に近き郡奉行の権を以て之を平均するの積りならん。固より一政府同穴の内に在る役人に課を分つも、事実に益はなかる可しと雖ども、其論の意を推して考れば、費散者の一手に財用の権を附するの害は、古人も暗に知らざるに非ざるなり。》
経済の第二則に、財を蓄積し又これを費散するには、其財に相応す可き智力と其事を処するの習慣なかる可らずとあり。抑も理財の要は、活潑敢為の働と節倹勉強の力とに在るものにて、此二者其宜しきを得て、互に相制し互に相平均して、始て蓄積費散の盛大を致す可きなり。若し然らずして一方に偏し、敢為の働なくして節倹を専とすれば、其弊や貪慾吝嗇(りんしよく)に陥り、節倹の旨を忘れて敢為の働を逞ふすれば、其弊や浪費乱用と為り、何れも理財の大本に背くものと云ふ可し。然るに前段に云へる如く、全国の人を蓄積者と費散者との二種族に区分して、其分界判然たるときは、其種族全体の品行に於て必ず一方に偏し、甲の種族には節倹勉強の元素を有するも、敢為の働を失して吝嗇の弊に陥らざるを得ず、乙の種族には活潑敢為の元素を有するも、節倹の旨を失して浪費の弊に陥らざるを得ず。日本の国人、其教育洽ねからずと雖ども、天稟の愚なるに非ざれば理財の一事に於て特に拙なりと云ふの理なし。唯其人間交際の勢に由て分つ可らざるの業を分て各種族の習慣を成し、遂に其品行を殊にして拙を見はすに至りしものなり。其品行の素質は決して悪性なるに非ず、適宜に之を調和すれば敢為活潑、節倹勉強と名る物を生じて、理財に無二の用を為す可き筈なれども、其用を為さずして却て浪費乱用、貪慾吝嗇の形に変じたるは、必竟素質の悪性に非ず、調和の宜を失したるものなり。之を譬へば酸素と窒素とを調和すれば空気と名る物を生じて、動植物の生々に欠く可らざる功徳を為す可き筈なれども、此二元素を分析して各別にするときは、功徳を為さゞるのみならず、却て物の生を害するが如し。古来我国理財の有様を見るに、銭を費して事を為す者は常に士族以上治者の流なり。政府にて土木の工を興し、文武の事を企るは勿論、都て世間にて書を読み、武を講じ、或は技芸を研き、或は風流を楽む等、其事柄は有用にても無用にても、一身の衣食を謀るの外に余地を設けて、人生の稍や高尚なる部分に心を用ゆる者は、必ず士族以上に限り、其品行も自から穎敏活潑にして、敢て事を為すの気力に乏しからず。実に我文明の根本と称す可きものなれども、唯如何せん、理財の一事に至ては数千百年の勢に従ひ、出るを知て入るを知らず、散ずるを知て積むを知らず、有る物を費すを知て、無き物を作るを知らざる者なれば、其際に自から浪費乱用の弊を免かる可らず。加之因襲の久しき、遂に一種の風俗を成し、理財を談ずるは士君子の事に非ずとして、之を知らざるを恥とせざるのみならず、却て之を知るを恥と為し、士君子の最も上流なる者と、理財の最も拙なる者とは、二字同義なるに至れり。迀遠も亦極ると云ふ可し。又一方より農商以下被治者の種族を見れば、上流の種族に対して明に分界を限り、恰も別に一場の下界を開て、人情風俗を殊にし、他の制御を蒙り、他の軽侮を受け、言ふに称呼を異にし、坐するに席を別にし、衣服にも制限あり、法律にも異同あり、甚しきは生命の権義をも他に任するに至れり。徳川の律書に、
足軽体に候(さうらふ)共軽き町人百姓の分として法外の雑言等不届の仕方にて不得止(やむをえず)切殺し候者は吟味の上紛無之(まぎれこれなく)候はゞ無構事
とあり。此律に拠れば、百姓町人は常に幾千万人の敵に接するが如く、其無事なるは幸にして免かるゝのみ。既に生命をも安んずること能はず、何ぞ他を顧るに遑あらん。廉恥功名の心は身を払て尽き果て、又文学技芸等に志す可き余地を遺さず、唯上命に従て政府の費用を供するのみにて、身心共に束縛を蒙るものと云ふ可し。然りと雖ども人類の天性に於て、心の働は何様の術を用るも全く之を圧窄禁錮す可きものに非ず、何れにか間隙を求めて僅に漏洩の路あらざるはなし。今この百姓町人等の身分も進退固より不自由なりと雖ども、私財を蓄積して産を営むの一事に於ては、其心の働を伸ばす可き路を開て之を妨るもの少なし。是に於てか稍や気力ある者は蓄財に心を尽して、千辛万苦を憚らず節倹勉強して往々巨万の富を致す者なきに非ず。されども元と此輩は、唯富を欲して富を致したる者にて、他に志す所あるに非ず、富を求るは他の目的を達するための方便に非ずして、正に是れ生涯無二の目的なるが如し。故に人間世界、富の外に貴ぶ可きものなし、富を抛て易ふ可きものなし、学術以上人心の高尚なる部分に属する所の事件は、之を顧みざるのみならず、却て奢侈の一箇条として之を禁じ、上流の人の挙動を見て窃に其迀遠を愍笑するに至れり。事勢に於ては亦謂れなきに非ざれども、其品行の鄙劣にして敢為の気象なきは、真に賎むに堪へたるものなり。試に日本国中富豪と称する家の由来と其興敗の趣とを探索せば、明に事の実証を見る可し。古来大賈豪農の家を興したる者は、決して学者士君子の流に非ず、百に九十九は無学無術の野人にして、恥づ可きを恥ぢず、忍ぶ可らざるを忍び、唯吝嗇の一方に由て蓄積したる者のみ。又其家を亡す者を見れば、気力乏しくして蓄積の術を怠る歟、或は酒色游宴肉体の欲を恣にして銭を失ふものに過ぎず。彼の士族の流が飄然として産を治めず、其好む所に耽て敢て其志を屈せず、敢て其志す所の事を為して貧を患へざる者に比すれば、同日の論に非ず。固より肉体の欲を以て家を破るも、飄然として家を破るも、其家を破るの実は同様なれども、心思の向ふ所を論ずれば、上流の人には尚智徳の働に余地を存し、下流の人には唯銭を好み肉体の欲に奉ずるの一元素あるが如し。其品行の異別亦大なりと云ふ可し。右の次第を以て被治者流の節倹勉強は其形を改めて貪欲吝嗇と為り、治者流の活潑敢為は其性を変じて浪費乱用と為り、共に理財の用に適せず、以て今日の有様に至りしものなり。抑も我日本を貧なりと云ふと雖ども、天然の産物乏しきに非ず、況や農耕の一事に於ては、世界万国に対して誇る可きもの多きをや。決して之を天然の貧国と云ふ可らず。或は税法苛刻ならんか、税法苛刻なりと雖ども、其税は集めて之を海に投げるに非ざれば、国内に留て財本の一部分たらざるを得ず。然るに今日の有様にて全国の貧なるは何ぞや。必竟財の乏しきに非ず、其財を理するの智力に乏しきなり。其智力の乏しきに非ず、其智力を両断して上下各其一部分を保つが故なり。之を概言すれば、日本国の財は開闢の初より今日に至るまで、未だ之に相応す可き智力に逢はざるものと云ふ可し。蓋し此智力の両断したるものを調和して一と為し、実際の用に適せしむるは経済の急務なれども、数千百年の習慣を成したるものなれば、一朝一夕の運動を以て変革す可き事に非ず。近日に至て少しく其運動の端を見るが如くなれども、上下の種族、互に其所長を採らずして却て其所短を学ぶ者多し。是亦如何ともす可らざるの勢にて、必ずしも其人の罪に非ず。蕩々たる天下の大勢は上古より流れて今世に及び、億兆の人類を推倒して其向ふ所に傾きしものなれば、今に於て俄に之に抗抵すること能はざるも亦宜(むべ)なりと云ふ可し。
第十章自国の独立を論ず

 

前の第八章第九章に於て、西洋諸国と日本との文明の由来を論じ、其全体の有様を察して之を比較すれば、日本の文明は西洋の文明よりも後れたるものと云はざるを得ず。文明に前後あれば前なる者は後なる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるゝの理なり。昔鎖国の時に在ては、我人民は固より西洋諸国なるものをも知らざりしことなれども、今に至ては既に其国あるを知り、又其文明の有様を知り、其有様を我に比較して前後の別あるを知り、我文明の以て彼に及ばざるを知り、文明の後るゝ者は先だつ者に制せらるゝの理をも知るときは、其人民の心に先づ感ずる所のものは、自国の独立如何の一事に在らざるを得ず。抑も文明の物たるや極て広大にして、凡そ人類の精神の達する所は悉皆其区域にあらざるはなし。外国に対して自国の独立を謀るが如きは、固より文明論の中に於て瑣々たる一箇条に過ぎざれども、本書第二章に云へる如く、文明の進歩には段々の度あるものなれば、其進歩の度に従て相当の処置なかる可らず。今我人民の心に自国の独立如何を感じて之を憂ふるは、即ち我国の文明の度は今正に自国の独立に就て心配するの地位に居り、其精神の達する所、恰も此一局に限りて、未だ他を顧るに遑あらざるの証拠なり。故に余輩が此文明論の末章に於て自国独立の一箇条を掲るも、蓋し人民一般の方向に従ひ、其精神の正に達する所に就て議論を立たるものなり。尽く文明の蘊奥(うんあう)を発して其詳なるを究るが如きは、之を他日後進の学者に任ずるのみ。
昔し封建の時代には、人間の交際に君臣主従の間柄と云ふもの有て世の中を支配し、幕府並に諸藩の士族が各其時の主人に力を尽すは勿論、遠く先祖の由来を忘れずして一向一心に御家の御ためを思ひ、其食を食む者は其事に死すとて、己が一命をも全く主家に属したるものとして、敢て自から之を自由にせず、主人は国の父母と称して、臣下を子の如く愛し、恩義の二字を以て上下の間を円く固く治めて、其間柄の美なること或は羨む可きものなきに非ず。或は真に忠臣義士に非ざるも、一般に義を貴ぶの風俗なれば、其風俗に従て自から身の品行を高尚に保つ可きことあり。譬へば士族の間にて其子弟を誡(いましむ)るには、必ず身分又は家柄等の言葉を用ひ、侍の身分として鄙劣は出来ずと云ひ、或は先祖以来の家柄に対してと云ひ、或は御主人様に申訳けなしと云ひ、身分家柄御主人様は正しく士族の由る可き大道にして、終身の品行を維持する綱の如し。西洋の語に所謂「モラル・タイ」なるものなり。
此風俗は唯士族と国君との間に行はるゝのみに非ず、普ねく日本全国の民間に染込みて、町人の仲間にも行はれ、百姓の仲間にも行はれ、穢多の仲間に於ても、非人の仲間に於ても、凡そ人間の交際あれば至大より至小に至るまで行渡らざる所なし。譬へば町人百姓に本家別家の義あり、穢多非人にも親分子分の別ありて、其義理の固きこと猶かの君臣の如く然り。
此風俗を名けて或は君臣の義と云ひ、或は先祖の由緒と云ひ、或は上下の名分と云ひ、或は本末の差別と云ひ、其名称は何れにても、兎に角に日本開闢以来今日に至るまで人間の交際を支配して、今日までの文明を達したるものは、此風俗習慣の力にあらざるはなし。
輓近外国人と交を結ぶに至て、我国の文明と彼の国の文明とを比較するに、其外形に見はれたる技術工芸の彼に及ばざるは固より論を俟たず、人心の内部に至るまでも其趣を異にせり。西洋諸国の人民は智力活潑にして、身躬からよく其身を制し、其人間の交際は整斉にして事物に順序を備へ、大は一国の経済より小は一家一身の処分に至るまで、迚も今の有様にては我日本人の企て及ぶ所に非ざるなり。概して云へば、西洋諸国は文明にして我日本は未だ文明に至らざること、今日に至て始て明にして、人の心に於て之を許さゞるものなし。
是に於てか、世の識者、我日本の不文なる所以の源因を求めて、先づ第一番に之を我古風習慣の宜しからざるに帰し、乃ち此古習を一掃せんとして専ら其改革に手を着け、廃藩置県を始として都て旧物を廃し、大名も華族と為り、侍も貫属と為り、言路を開き人物を登用するの時節なれば、昔時五千石の大臣も兵卒と為り、一人扶持の足軽も県令と為り、数代両替渡世の豪商は身代限と為り、一文なしの博徒は御用達と為り、寺は宮と為り、僧侶は神官と為り、富貴福禄は唯人々の働次第にて、所謂功名自在、手に唾して取る可きの時節と為り、開闢以来我人民の心の底に染込たる恩義由緒名分差別等の考は漸く消散して、働の一方に重心を偏し、無理によく之を名状すれば人心の活潑にして、今の世俗に云ふ所の文明駸々乎(しんしんこ)として進むの有様と為りたり。
扨この功名自在文明駸々乎たるの有様にて、識者は注文通りの目的を達し、此文明の駸々乎を以て真の駸々乎と為して他に求る所なきやと尋るに、決して然らず。識者は今の文明を以て決して自から満足する者には非ざる可し。如何となれば、今の事物の有様にて我人民の品行に差響く所の趣を見るに、人民は恰も先祖伝来の重荷を卸し、未だ代りの荷物をば荷(にな)はずして休息する者の如くなればなり。其次第甚だ明なり。廃藩の後は大名と藩士との間に既に君臣の義なし。強ひて窃に此義を務めんとすれば、或は迀遠と云はるゝも申分けある可らず。足軽が隊長と為りて前年の支配頭を指揮すれば、其号令には背く可らず。上下、処を異にして、制法厳なるが如くなれども、支配頭も唯銭をさへ出せば兵卒たるの役は免かる可し。故に足軽も得意にして隊長たる可し、支配頭も亦得意にして閑散たる可し。博徒が御用達と為て威張れば、身代限に為りたる町人は時勢を咎めて其身を責めず、亦気楽に世を渡る可し。神官が時を得たりとて得意の色を為せば、僧侶も公然と妻帯して亦得意の色を為せり。概して云へば今の時節は上下貴賎皆得意の色を為す可くして、貧乏の一事を除くの外は更に身心を窘るものなし。討死も損なり、敵討も空なり、師に出れば危し、腹を切れば痛たし。学問も仕官も唯銭のためのみ、銭さへあれば何事を勉めざるも可なり、銭の向ふ所は天下に敵なしとて、人の品行は銭を以て相場を立たるものゝ如し。此有様を以て昔の窮屈なる時代に比すれば、豈これを気楽なりと云はざる可けんや。故に云く、今の人民は重荷を卸して正に休息する者なり。
然りと雖ども、休息とは何も為す可き仕事なき時の話なり。仕事を終る歟、又は為す可き仕事なくして、休息するは尤のことなれども、今我邦の有様を見れば決して無事の日に非ず。然も其事は昔年に比して更に困難なる時節なり。世の識者も爰に心付かざるに非ず、必ず休息す可らざるの勢を知て、勉て人心を有為に導かんとし、学者は学校を設て人に教へ、訳者は原書を訳して世に公布し、政府も人民も専ら文学技芸に力を尽して之を試れども、人民の品行に於て未だ著しき功能を見ず。学芸に身を委(ゆだぬ)る者の趣を見るに、其科業は忙はしからざるに非ざれども、一片の本心に於て私有をも生命をも抛つ可き場所と定めたる大切なる覚悟に至ては、或は忘れたるが如くして兎角心に関するものなく、安楽世界と云はざるを得ず。
或る人々は爰に注意し、今人の所業を認めて之を浮薄と為し、其罪を忘古の二字に帰して、更に大義名分を興張し、以て古に復せんとして、乃ち其教を脩め、神世の古に証拠を求めて国体論なるものを唱へ、此論を以て人心を維持せんことを企てたり。所謂皇学なるもの、是なり。此教も亦謂れなきに非ず。立君の国に於て君主を奉尊し、行政の権を此君に附するは、固より事理の当然にして、政治上に於ても最も緊要なることなれば、尊王の説決して駁す可らずと雖ども、彼の皇学者流は尚一歩を進めて、君主を奉尊するに、其奉尊する由縁を政治上の得失に求めずして、之を人民懐古の至情に帰し、其誤るの甚しきに至ては、君主をして虚位を擁せしむるも之を厭はず、実を忘れて虚を悦ぶの弊なきを得ず。抑も人情の赴く所は一時の挙動を以て容易に変ず可きものに非ざれば、今人の至情に依頼して君主奉尊の教を達せんとするには、先づ其人情を変じ、旧を忘れて新に就かしめざる可らず。然るに我国の人民は数百年の間、天子あるを知らず、唯これを口碑に伝ふるのみ。維新の一挙以て政治の体裁は数百年の古に復したりと称すと雖ども、王室と人民との間に至密の交情あるに非ず、其交際は政治上の関係のみにて、交情の疏密を論ずるときは、今の人民は鎌倉以来封建の君に牧せられたるものなれば、王室に対するよりも封建の旧君に対して親密ならざるを得ず。普天の下、唯一君の大義とて、其説は立つ可しと雖ども、事の実際に就て之を視れば必ず行はれざる所あるを知る可し。今の勢にては人民も旧を忘れて封建の君を思ふの情は次第に消散するに似たりと雖ども、新に王室を慕ふの至情を造り、之をして真に赤子の如くならしめんとするは、今世の人心と文明の有様とに於て頗る難きことにて、殆ど能す可らざるに帰す可し。或は人の説に、王制一新は人民懐古の情に基きしものにて、人情霸府を厭ふて王室を慕ひしことなりと云ふ者あれども、必竟事実を察せざるの説のみ。若し果して此説の如く、人情真に旧を慕ふものなれば、数百年来民心に染込たる霸政をこそ慕ふ筈なれ。凡そ今の世の士族其外の者にて先祖の由緒など唱るは、多くは鎌倉以後の世態に関係するものなり。霸政の由来も亦旧くして広きものと云ふ可し。或は又人情は旧を忘れて新を慕ふものとすれば、王政の行はれたるは霸政以前のことにて最も旧きものなれば、王霸両様に就て孰れを忘れんか、必ず其最も旧きものを忘るゝの理なり。或は又人心の王室に向ふは時の新旧に由るに非ず、大義名分の然らしむるものなりとの説あれども、大義名分とは真実無妄の正理ならん。真実無妄の理は人間の須臾も離る可らざるものなり。然るに鎌倉以来人民の王室を知らざること殆ど七百年に近し。此七百年の星霜は如何なる時間なるや。此説に従へば七百年の間は人民皆方向を誤り、大義名分も地を払て尽きたる野蛮暗黒の世と云はざるを得ず。固より人事の泰否は一年又は数年の成行を見て決定す可きに非ずと雖ども、苟も人心を具して自から方向を誤つと知りながら、安ぞよく七百年の久しきに堪ゆ可けんや。加之実際に就ても亦証す可きものあり。実に此七百年の間は決して暴乱のみの世に非ず。今の文明の源を尋れば、十に七、八は此年間に成長して今に伝へたる賜と云ふ可し。
右の次第を以て考れば、王制一新の源因は人民の霸府を厭ふて王室を慕ふに由るに非ず、新を忘れて旧を思ふに由るに非ず、百千年の間、忘却したる大義名分を俄に思出したるが為に非ず、唯当時幕府の政を改めんとするの人心に由て成たるものなり。一新の業既に成て、天下の政権、王室に帰すれば、日本国民として之を奉尊するは固より当務の職分なれども、人民と王室との間にあるものは唯政治上の関係のみ。其交情に至ては決して遽に造る可きものに非ず。強ひて之を造らんとすれば其目的をば達せずして、却て世間に偽君子の類を生じて益人情を軽薄に導くことある可し。故に云く、皇学者流の国体論は、今の人心を維持して其品行を高尚の域に導くの具と為すに足らざるなり。
又一種の学者は、今の人心の軽薄なるを患ひ、之を救ふに国体論を以てするも功を奏す可らざるを知り、乃ち人の霊魂に依頼し、耶蘇の宗教を施して人心の非を糺し、安身立命の地位を与へて衆庶の方向を一にし、人類の当に由る可き大目的を定めんとするの説あり。此説も決して軽率なる心より生じたるものに非ず。其説の本を尋るに、学者以為(おもへ)らく、今の人民を見れば百人は百人、皆其向ふ所を異にし、政治上の事に就て衆庶一定の説なきは勿論、宗教に至ても神か仏か定む可らず、甚しきは無宗旨と名く可き者もあり、人類に於て最も大切なる霊魂の止まる所をも知らず、安ぞ他の人事を顧るに遑あらん、天道を知らず、人倫を知らず、父子なく、夫婦なし、恰も是れ現在の地獄なれば、苟も世を憂る者は此有様を救はざる可らず、又一方より考れば、宗教を以て一度び人心を維持するを得ば、衆庶の止まる所、始て爰に定り、拡て之を政治上に施さば、亦以て一国独立の基とも為る可しとの趣意なり。決して之を軽率なる妄説と云ふ可らず。実に此道を以て今の士民を教化し、其心の非を糺して徳の門に入らしめ、仮令ひ天道の極度に達せざるも、父子夫婦の人倫を明にして孝行貞節の心を励まし、子弟教育の義務たるを知らしめ、蓄妾淫荒の悪事たるを弁へしむる等の如きは、世の文明に関して其功能の最も大なるものなれば、固より間然す可きものなしと雖ども、目今現に我国の有様に就て得失を論ずるときは、余は全く此説に同意するを得ず。如何となれば彼の学者の臆測に、耶蘇の教を拡て之を政治上に及ぼし、以て一国独立の基を立てんとするの説に至て、少しく所見を異にする所あればなり。
元来耶蘇の宗教は永遠無窮を目的と為し、幸福安全も永遠を期し、禍患疾苦も永遠を約し、現在の罪よりも未来の罪を恐れ、今生の裁判よりも後生の裁判を重んじ、結局今の此世と未来の彼の世とを区別して論を立て、其説く所、常に洪大にして、他の学問とは全く趣を異にするものなり。一視同仁四海兄弟と云へば、此地球は恰も一家の如く、地球上の人民は等しく兄弟の如くにして、其相交るの情に厚薄の差別ある可らず。四海既に一家の如くなれば、又何ぞ家内に境界を作るに及ばん。然るに今この地球を幾個に分ち、区々たる国界を設け、人民各其堺内に党与を結て一国人民と称し、其党与の便利のみを謀らんがためにとて政府を設け、甚しきは兇器を携へて界外の兄弟を殺し、界外の地面を奪ひ、商売の利を争ふが如きは、決して之を宗教の旨と云ふ可らず。是等の悪業を見れば永遠後生の裁判は姑く擱き、現在今生の裁判も未だ不行届と云ふ可し。耶蘇の罪人なり。
然りと雖ども、今世界中の有様を見れば処として建国ならざるはなし、建国として政府あらざるはなし。政府よく人民を保護し、人民よく商売を勤め、政府よく戦ひ、人民よく利を得れば、之を富国強兵と称し、其国民の自から誇るは勿論、他国の人も之を羨み、其富国強兵に傚はんとして勉強するは何ぞや。宗教の旨には背くと雖ども、世界の勢に於て止むを得ざるものなり。故に今日の文明にて世界各国互ひの関係を問へば、其人民、私の交には、或は万里外の人を友として一見旧相識の如きものある可しと雖ども、国と国との交際に至ては唯二箇条あるのみ。云く、平時は物を売買して互に利を争ひ、事あれば武器を以て相殺すなり。言葉を替へて云へば、今の世界は商売と戦争の世の中と名くるも可なり。固より戦争にも種類多くして、或は世に戦争を止るがために戦争する戦争もあらん。貿易も素と天地間の有無を互に通ずることにて最も公明なる仕事なれば、両様とも其素質に於て一概に之を悪事とのみ云ふ可らずと雖ども、今の世界に行はるゝ各国の戦争と貿易との情実を尋れば、宗教愛敵の極意より由て来りしものとは万々思ふ可らざるなり。
右の如く宗教の一方より光を照らして事を断じ、唯貿易と戦争と云へば其事甚だ粗野にして賎しむ可きに似たれども、今の事物の有様に従て之を見れば又大に然らざるものあり。如何となれば貿易は利を争ふの事なりと雖ども、腕力のみを以て能す可きものに非ず、必ず智恵の仕事なれば、今の人民に向ては之を許さゞる可らず。且外に貿易せんとするには内に勉めざる可らざるが故に、貿易の盛なるは内国の人民に智見を開き、文学技芸の盛に行はれて其余光を外に放たるものにて、国の繁栄の徴候と云ふ可ければなり。戦争も亦然り。単に之を殺人の術と云へば悪む可きが如くなれども、今直に無名の師を起さんとする者あれば、仮令ひ今の不十分なる文明の有様にても、不十分は不十分のまゝに、或は条約の明文あり、或は談判の掛引あり、万国の公法もあり、学者の議論もありて、容易に其妄挙を許さず。又或は唯利のために非ずして、国の栄辱のため、道理のためにとて起す師もなきに非ず。故に殺人争利の名は宗教の旨に対して穢らはしく、教敵たるの名は免かれ難しと雖ども、今の文明の有様に於ては止むを得ざるの勢にて、戦争は独立国の権義を伸ばすの術にして、貿易は国の光を放つの徴候と云はざるを得ず。
自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を脩め、自国の名誉を燿かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、其心を名けて報国心と云ふ。其眼目は他国に対して自他の差別を作り、仮令ひ他を害するの意なきも、自から厚くして他を薄くし、自国は自国にて自から独立せんとすることなり。故に報国心は一人の身に私するには非ざれども、一国に私するの心なり。即ち此地球を幾個に区分して其区内に党与を結び、其党与の便利を謀て自から私する偏頗(へんぱ)の心なり。故に報国心と偏頗心とは名を異にして実を同ふするものと云はざるを得ず。此一段に至て、一視同仁四海兄弟の大義と報国尽忠建国独立の大義とは、互に相戻て相容れざるを覚るなり。故に宗教を拡て政治上に及ぼし、以て一国独立の基を立てんとするの説は、考の条理を誤るものと云ふ可し。宗教は一身の私徳に関係するのみにて、建国独立の精神とは其赴く所を異にするものなれば、仮令ひ此教を以て人民の心を維持するを得るも、其人民と共に国を守るの一事に至ては果して大なる功能ある可らず。概して今の世界各国の有様と宗教の趣意とを比較すれば、宗教は洪大なるに過ぎ、善美なるに過ぎ、高遠なるに過ぎ、公平なるに過ぎ、各国対立の有様は狭隘なるに過ぎ、鄙劣なるに過ぎ、浅見なるに過ぎ、偏頗なるに過ぎて、両ながら相接すること能はざるなり。
又一種の漢学者は其所見稍や広くして、皇学者流の如く唯壊古の情に依頼するのみには非ざれども、結局其眼目は礼楽征伐を以て下民を御するの流儀にて、情実と法律と相半して民心を維持せんとするものなれば、迚も今の世の有様に適す可らず。若し其説をして行はれしめなば、人民は唯政府あるを知て民あるを知らず、官あるを知て私あるを知らず、却て益卑屈に陥て、遂に一般の品行を高尚にするの場合には至る可らず。此事に就ては本書第七章及び第九章に所論あれば今爰に贅せず。
以上所論の如く、方今我邦の事情困難なりと雖ども、人民は更に此困難を覚へず、恰も旧来の覊絆を脱して却て安楽なるが如き有様なれば、有志の士君子、深く之を憂ひ、或る皇学者は国体論を唱へ、或る洋学者は耶蘇教を入れんとし、又或る漢学者は堯舜の道を主張し、如何にもして民心を維持して其向ふ所を一にし、以て我邦の独立を保たんとて、各勉る所ありと雖ども、今日に至るまで一も功を奏したるものなし、又後日に至ても一も功を奏す可きものなし。豈長大息す可きに非ずや。是に於てか余輩も亦聊か平生の所見を述べざるを得ず。都て事物を論ずるには、先づ其事物の名と性質とを詳にして、然る後に之を処分するの術を得べし。譬へば火事を防ぐには、先づ火の性質を知り、水を以て之を消す可きを詳にして、然る後に消防の術を得べきが如し。今我国の事態困難なりと云ふと雖ども、其困難とは抑も亦何等の箇条を指して云ふや。政令行はれざるに非ず、租税納めざるに非ず、人民頓に無智に陥りたるに非ず、官員皆愚にして不正なるに非ず。是等の件々を枚挙すれば日本は依然たる旧の日本にして更に変動あることなく、更に憂ふ可きものあるを見ず、或は前日の有様に比較すれば新に面目を改めて善に進たりと云ふも可なり。然るに我国の事態を前年に比すれば更に困難にして一層の憂患を増すとは、果して何等の箇条を指して何等の困難事を憂ることなるや、之を質さゞる可らず。按ずるに此困難事は我祖先より伝来のものに非ず、必ず近来俄に生じたる病にて、既に我国命貴要の部を犯し、之を除かんとして除く可らず、之を療せんとして医薬に乏しく、到底我国従来の生力を以て抗抵す可らざるものならん。如何となれば、依然たる日本国にして旧に異なることなくば之に安心す可き筈なれども、特に之を憂るは必ず別に新に憂ふ可き病を生じたるの証なり。世の識者の憂患する所も必ず此病に在ること断じて知る可しと雖ども、識者は此病を指して何と名るや。余輩は之を外国交際と名るなり。
世の識者は明に此病に名を下だして外国交際と云はざるにもせよ、其憂る所は正しく余輩と同様にして、今の外国交際の困難を憂るものなれば、先づ爰に物の名は定りたり。次で又其物の性質を詳にせざる可らず。抑も外国人の我日本に来るは唯貿易のためのみ。而して今日本と外国との間に行はるゝ貿易の有様を視るに、西洋諸国は物を製するの国にして、日本は物を産するの国なり。物を製するとは天然の物に人工を加ることにて、譬へば綿を変じて織物と為し、鉄を製して刃物と為すが如し。物を産するとは天然の力に依頼して素質の物を産するを云ふ。日本にて生糸を産し、鉱品を掘出すが如し。故に今仮に名を下だして、西洋諸国を製物の国と名け、日本を産物の国と名く。固より製物と産物とは其分界明に限り難しと雖ども、甲は人力を用ること多く、乙は天力に依頼すること多きを以て、名を異にするものなり。扨経済の道に於て、一国の貧富は天然に生ずる物産の多寡に関係すること思の外に少なくして、其実は専ら人力を用るの多少と巧拙とに由るものなり。土地肥饒なる印度の貧にして、物産なき荷蘭の富むが如し。故に製物国と産物国との貿易に於ては、甲は無形無限の人力を用ひ、乙は有形有限の産物を用ひて、力と物とを互に交易するものなり。細に之を云へば、産物国の人民は労す可き手足と智恵とを労せずして、製物国の人を海外に雇ひ置き、其手足と智恵とを借用して之を労せしめ、其労の代として自国に産する天然の物を与ふることなり。又これを譬へば宛行(あてがひ)三百石、家族十人の侍が、安楽逸居して何事をも為さず、朝夕の飲食は仕出し屋より取り、夏冬の衣服は呉服屋より買ひ、世帯に入用なるものは一より十に至るまで悉く市中に出来上りたる物を買立てゝ、其代として毎年三百石の米を遣払ふが如し。三百石の米は恰も天然の物産なれども、年々の遣払ひにて迚も蓄財の目途はある可らず。方今我日本と外国との貿易の有様を論ずれば、其大略斯の如し。結局我国の損亡と云はざるを得ず。
又西洋諸国は製物を以て既に其富を致し、日新文明の功徳に由て人口年に繁殖し、英国の如きは今正に其極度に達したるものと云ふ可し。亜米利加合衆国の人民も英人の子孫なり、「アウスタラリヤ」に在る白人も英より移りたるものなり、東印度にも英人あり、西印度にも英人あり、其数殆ど計る可らず。仮に今世界中に散在せる英人と、数百年来英国より出たる者の子孫とを集めて、其本国たる今の大不列顛及び「アイルランド」の地に帰らしめ、現在の英人三千余万の人民と同処に住居せしむることあらば、全国に生ずる物を以て衣食に足らざるは固より論を俟たず、過半の平地は家を建るがために占めらるゝことならん。文明次第に進て人事の都合宜しければ人口の繁殖すること以て知る可し。子を生むの一事は人も鼠も異なることなし。鼠は其身を保護すること能はずして、或は飢寒に死し或は猫に捕るゝに由て、其繁殖も甚しからずと雖ども、人事の都合宜しくして飢寒戦争流行病の患少なければ、人の繁殖は所謂鼠算の割合に増すの理にて、欧羅巴中の古国にては既に其始末に困却せり。彼の国経済家の説にて、此患を防ぐの策は、第一、自国の製造物を輸出して、土地の豊饒なる国より衣食の品を輸入することなり。第二、自国の人民を海外の地に移して殖民することなり。此第一策は限ある仕事にて未だ十分に患を救ふに足らず、第二策は大に財本を費す仕事にて或は功を奏せざることあり。故に第三策は、外国に資本を貸して其利益を取り、以て自国の用に供することなり。蓋し人を海外の地に移すには既に開けたる地方を最も良とすと雖ども、開けたる地には自から建国政府ありて、其人民にも一種の習慣風俗を備へ、他国より来て其中心に入り之と雑居して便利を得んとするも、容易に成す可きことに非ず。唯一の手掛りは其海外の国なるもの、未だ勧工の術を知らずして富を得ず、資本に乏しくして力役の人多く、之がために金の利足貴ければ、本国に余ある元金を齎らして此貧国に貸付け、労せずして利益を取るの術なり。言を替へて云へば、人を雑居せしめずして金を雑居せしむるの法なり。人は習慣風俗に由て其雑居容易ならずと雖ども、金なれば自国の金にても他国の金にても其目撃する所に差別なきが故に、之を用る者は唯利足の高下を問ひ、甘んじて他国の金を融通し、識らず知らずして他国の人に金利を払ふことなり。金主の名案と云ふ可し。方今日本にても既に若干の外債あり、其利害得失を察せざる可らず。抑も文明の国と未開の国とを比較すれば、生計の有様、全く其趣を異にし、文明次第に進むに随て其費用も亦随て洪大なれば、仮令ひ人口繁殖の患は之を外にするも、平常の生計に於て其費用の一部は必ず他に求めざる可らず。其これを求る所は即ち下流の未開国なれば、世界の貧は悉く下流に帰すと云ふ可し。文明国の資本を借用して其利足を払ふは、貧の正に下流に帰して其形に見はれたるものなり。故に資本の貸借は必ずしも人口繁殖の一事のみに関係するものに非ざれども、今特に此事を挙げたるは、唯学者の了解に便ならしめんがために、西洋人の利を争はざる可らざる一の明なる源因を示したるのみ。
右は外国交際の性質に就き其理財上の損徳を論じたるものなり。今又此交際に由て我人民の品行に差響く所のものを示さん。近来我国人も大に面目を改め、人民同権の説は殆ど天下に洽ねくして之に異論を入るゝ者はなきが如し。蓋し人民同権とは唯一国内の人々互に権を同ふすると云ふ義のみに非ず。此国の人と彼国の人と相対しても之を同ふし、此国と彼国と対しても之を同ふし、其有様の貧富強弱に拘はらず、権義は正しく同一なる可しとの趣意なり。然るに外国人の我国に来て通商を始めしより以来、其条約書の面には彼我同等の明文あるも、交際の実地に就て之を見れば決して然らず。社友小幡君の著述、民間雑誌第八編に云へることあり。前略、米国の我国に通信を開くや、水師提督「ペルリ」をして一隊の軍艦を率ひて我内海に驀入(ばくにふ)せしめ、我に強るに通信交易の事を以てし、而して其口実とする所は、同じく天を戴き同じく地を踏て共に是れ四海の兄弟なり、然るに独り人を拒絶して相容れざるものは天の罪人なれば、仮令ひ之と戦ふも通信貿易を開かざる可らずとの趣意なり。何ぞ其言の美にして其事の醜なるや。言行齟齬するの甚しきものと云ふ可し。此際の形容を除て其事実のみを直言すれば、我と商売せざる者は之を殺すと云ふに過ぎず。中略今試に都下の景況を見よ。馬に騎し車に乗て意気揚々、人を避けしむる者は、多くは是れ洋外の人なり。偶ま邏卒なり行人なり、或は御者車夫の徒なり、之と口論を生ずることあれば、洋人は傍に人なきが如く、手以て打ち足以て蹴るも、怯弱卑屈の人民これに応ずるの気力なく、外人如何ともす可らずとて、怒を呑て訴訟の庭に往かざる者も亦少なからず。或は商売取引等の事に付き之を訴ることあるも、五港の地に行て結局彼国人の裁判に決するの勢なれば、果して其冤を伸る能はず、是を以て人々相語て云く、寧ろ訴て冤を重ねんより、若かず怒を呑むの易きにとて、其状恰も弱少の新婦が老悍の姑側に在るが如し。外人は既に斯の如き勢力を蓄へ、又財貨饒なる国より財貨乏しき国に来て其費用する所多きがため、利に走るの徒は皆争て之に媚を献じ、以て其嚢中を満たさんとす。故に外人の到る所は温泉場も宿駅も茶亭も酒店も一種軽薄の人情を醸成し、事理の曲直を顧みずして銭の多寡を問ひ、既に傍若無人なる外人をして益其妄慢を逞ふせしむるが如きは、一見以て厭悪するに堪へたりと。以上小幡君の議論にて真に余が心を得たるものなり。此他外国人との交際に付ては、居留地の関係あり、内地旅行の関係あり、外人雇入の関係あり、出入港税の関係あり。此諸件に付き、仮令ひ表向は各国対立彼我同権の体裁あるも、其実は同等同権の旨を尽したりと云ふ可らず。外国に対して既に同権の旨を失ひ、之に注意する者あらざれば、我国民の品行は日に卑屈に赴かざるを得ざるなり。
前に云へる如く、近来は世上に人民同権の説を唱る者多く、或は華士族の名称をも廃して全国に同権の趣旨を明にし、以て人民の品行を興起して其卑屈の旧習を一掃せざる可らずと云ふ者あり。其議論雄爽(ゆうさう)、人をして快然たらしむと雖ども、独り外国の交際に就ては此同権の説を唱る者少なきは何ぞや。華士族と云ひ平民と云ふも、等しく日本国内の人民なり。然るも其間に権力の不平均あれば、尚且これを害なりとして平等の地位に置かんことを勉めり。然るに今利害を別にし、人情を異にし、言語風俗、面色骨格に至るまでも相同じからざる、此万里外の外国人に対して、権力の不平均を患へざるは抑も亦何の由縁なるや。咄々怪事(とつとつくわいじ)と云ふ可し。其由縁は必ず種々様々なる可しと雖ども、余輩の所見にて其最も著しきもの二箇条を得たり。即ち第一条は世に同権の説を唱る者、其論説に就き未だ深切なる場合に至らざることなり。第二条は外国の交際日浅くして、未だ其害の大なるものを見ざることなり。左に之を論ぜん。
第一条今の世に人民同権の説を唱る者少なからずと雖ども、其これを唱る者は大概皆学者流の人にして、即ち士族なり、国内中人以上の人なり、嘗て特権を有したる人なり、嘗て権力なくして人に窘められたる人に非ず、権力を握て人を窘めたる人なり。故に其同権の説を唱るの際に当て、或は隔靴の歎なきを得ず。譬へば自から喰はざれば物の真味は得て知る可らず、自から入牢したる者に非ざれば牢内の真の艱苦は語る可らざるが如し。今仮に国内の百姓町人をして智力あらしめ、其嘗て有権者のために窘められて骨髄に徹したる憤怒の趣を語らしめ、其時の細密なる事情を聞くことあらば、始て真の同権論の切なるものを得べしと雖ども、無智無勇の人民、或は嘗て怒る可き事に遭ふも其怒る可き所以を知らず、或は心に之を怒るも口に之を語ることを知らずして、傍より其事情を詳にす可き手掛り甚だ稀なり。加之今日に於ても、世の中には権力不平均のために憤怒怨懣の情を抱く者必ず多からんと雖ども、明に之を知る可らず。唯我輩の心を以て其内情を察するのみ。故に今の同権論は到底これを人の推量臆測より出たるものと云はざるを得ず。学者若し同権の本旨を探て其議論の確実なるものを得んと欲せば、之を他に求む可らず、必ず自から其身に復して、少年の時より今日に至るまで自身当局の経験を反顧して発明することある可し。如何なる身分の人にても、如何なる華族士族にても、細に其身の経験を吟味せば、生涯の中には必ず権力偏重の局に当て嘗て不平を抱きしことある可ければ、其不平憤懣の実情は之を他人に求めずして自から其身に問はざる可らず。近く余が身に覚へあることを以て一例を示さん。余は元と生れながら幕府の時代に無力なる譜代の小藩中の小臣なり。其藩中に在るとき、歴々の大臣士族に接すれば、常に蔑視せられて、子供心にも不平なきを得ざりしと雖ども、此不平の真の情実は小臣たる余輩の仲間に非ざれば之を知らず。彼の大臣士族は今日に至ても或は之を想像すること能はざる可し。或は又藩地を出でゝ旅行するとき、公卿幕吏御三家の家来等に出逢へば、宿駅に駕籠を奪はれ、川場に先を越され、或は旅籠屋に相宿を許されずして、夜中俄に放逐せられたることもあり。此時の事情、目今に至ては唯一笑に属すと雖ども、現に其事に当たる時の憤懣は今尚これを想像す可し。而して此憤懣は唯譜代大名の家来たる我輩の身に覚へあるのみにて、此憤懣を生ぜしめたる公卿幕吏御三家の家来は漠然として之を知らず。仮令ひ漠然たらざるも僅に他の憤懣を推量臆測するに過ぎざるのみ。然りと雖ども結局余も亦日本国中に在ては中人以上士族の列に居たる者なれば、自分の身分より以上の者に対してこそ不平を抱くことを知れども、以下の百姓町人に向ては必ず不平を抱かしめたることもある可し。唯自から之を知らざるのみ。世上に此類の事は甚だ多し。何れにも其局に当らざれば其事の真の情実は知る可らざるものなり。
是に由て考れば、今の同権論は其所論或は正確なるが如くなるも、主人自から論ずるの論に非ずして、人のために推量臆測したる客論なれば、曲情の緻密を尽したるものに非ず。故に権力不平均の害を述るに当て、自から粗鹵迀遠の弊なきを得ず。国内に之を論ずるに於ても尚且粗鹵にして洩らす所多し。況や之を拡て外国の交際に及ぼし、外人と権力を争はんとするの事に於てをや。未だ之を謀るに遑あらざるなり。他日若し此輩をして現に其局に当らしめ、博く西洋諸国の人に接して親しく権力を争ふの時節と為り、其軽侮を蒙ること我百姓町人が士族に窘めらるゝが如く、譜代小藩の家中が公卿幕吏御三家の家来に辱しめらるゝが如き場合に至らば、始て今の同権論の迀遠なるを知り、権力不平均の厭ふ可く悪む可く怒る可く悲む可きを悟ることならん。加之昔の公卿幕吏士族の輩は仮令ひ無礼妄慢なるも、等しく国内の人にして且智力乏しき者なれば、平民は之に遇するに敬して遠くるの術を用ひ、陽に之を尊崇して陰に其銭を奪ふ等の策なきに非ず。固より悪策なりと雖ども、聊か不平を慰るの方便たりしことあれども、今の外人の狡猾慓悍なるは公卿幕吏の比に非ず。其智以て人を欺く可し、其弁以て人を誣ゆ可し、争ふに勇あり、闘ふに力あり、智弁勇力を兼備したる一種法外の華士族と云ふも可なり。万々一も、これが制御の下に居て束縛を蒙ることあらば、其残刻の密なること恰も空気の流通をも許さゞるが如くして、我日本の人民は、これに窒塞するに至る可し。今より此有様を想像すれば、渾身忽ち悚然(しようぜん)として毛髪の聳(そばだ)つを覚るに非ずや。
爰に我日本の殷鑑として印度の一例を示さん。英人が東印度の地方を支配するに其処置の無情残刻なる実に云ふに忍びざるものあり。其一、二を挙れば、印度の政府に人物を採用するには英人も土人も同様の権利を有し、才学を吟味して用るの法なり。然るに此土人を吟味するには十八歳以下の者を限り、其吟味の箇条は固より英書を読て英の事情に通ずるに非ざれば叶はざることなるゆゑ、土人は十八歳の年齢に及ぶまでに、先づ自国の学問を終り兼て英学を勉強して、其英学の力を以て英人と相対し、英人の右に出るに非ざれば及第するを得ず。或は一年を過ぎて十九歳の時に成業する者あるも、年齢に限あれば才学を問はず人物を論ぜずして之を用に適せざる者と為し、一切官途に就て地方の事に参与するを許さず。英人は此無情なる苛法を以て尚足れりとせず、吟味を行ふの場所を必ず英の本国「ロンドン」に定め、故さらに土人をして万里の波濤を越へて「ロンドン」まで出張せしむるの法を設けたり。故に土人は十八歳の時既に吟味を受けて及第す可き学力を有するも、多分の金を費して遠路を往来せざれば官に就く可らざるの仕掛に制せられて、学力の深浅に拘はらず、家産に富まざれば官途に由なし。或は稀に奮発する者ありて旅費を抛ち「ロンドン」に行て吟味を受るも、不幸にして落第すれば徒に家産を破るのみ。其不便利なること譬へんに物なし。英の暴政、妙を得たりと云ふ可し。○又印度の政府にて裁判するに、参坐の者は土人を用ひず、必ず英人に限るを法とす。《「ジュ−リ」のことなり。西洋事情第三巻英国の条第九葉に出。》或る時、一の英人、印度の地方に於て鉄砲を以て土人を打殺したるに付き訴訟と為りしかば、被告人の申分に、何か一個の動物を見掛け、之を猿と認めて発砲したるが、猿には非ずして人なりしことならんとの答にて、参坐一列の面々も更に異議なく、被告人は無罪に決したりと云ふ。
近来「ロンドン」にて数名の学者、私に社を結て印度の有様を改革せんとて尽力する者あり。前条の愁訴は千八百七十四年の春、或る印度人より此社へ呈したる書中に記せしものなりとて、余が旧友、当時在「ロンドン」馬場辰猪君の報告なり。馬場氏は現に此会社にも出席して親しく其事情を聞見し、此類の事は枚挙に遑あらずと云ふ。
第二条外国人の我国に通信するや玆に僅に二十年、五港を開くと雖ども輸出入の品も少なくして、外人の輻輳する所は横浜を第一とし、神戸之に亜ぎ、自余の三港は計るに足らず。条約面の約束に従ひ、各港に居留地を設けて、内外人民の住居に界を限り、外人旅行の地は港より各方に十里と定めて、此定限の外は特別の許可あらざれば往来を得せしめず、此他不動産の売買、金銀の貸借等に就ても、法を設けて内外の別を限ること多きが故に、今日に至るまで双方の交際は漸く繁盛に赴くと雖ども、内外人民の相触るゝこと甚だ少く、仮令ひ或は其交際に付き我人民に曲を蒙て不平を抱く者あるも、其者は大概皆開港場近傍の人民に止まりて、世間一般の風聞に伝るものは甚だ稀なり。且開港の初より政治上に係る交際の事務は政府一手の関する所にて、人民は嘗て其如何の状を知ることなし。生麦の一件に付き十万「ポンド」、下の関の償金三百万「ドルラル」、旧幕府の時代に亜国へ軍艦を注文し、仏国人に条約を結て横須賀の製造局を開き、維新以後も砲艦を買入れ、灯明台を建て、鉄道を造り、電信線を掛け、外債を募り、外人を雇ふ等、其交際甚だ煩はしくして、其間には或は全く我に曲を蒙らざるも無拠(よんどころなく)談判の機にて銭を損したることもあらん。結局彼の方に万々損害の患なきは明にして、我方に十分の利益と面目とを得たるや否は極て疑はしきことなれども、政府の独り関する所なれば人民は未だ之を知らず、啻に下賎の群民これを知らざるのみならず、学者士君子、又は政府の官員と雖ども、其事に与らざる者は之を知る可きの手掛りある可らず。故に我国の人民は外国交際に付き、内外の権力果して平均するや否を知らず、我に曲を蒙りたるや否を知らず、利害を知らず、得失を知らず、恬として他国の事を見るが如し。是即ち我国人の外国に対して権力を争はざる一の源因なり。蓋し之を知らざる者は之を憂るに由なければなり。
抑も外人の我国に来るは日尚浅し。且今日に至るまで我に著しき大害を加へて我面目を奪ふたることもあらざれば、人民の心に感ずるもの少なしと雖ども、苟も国を憂るの赤心あらん者は、聞見を博くして世界古今の事跡を察せざる可らず。今の亜米利加は元と誰の国なるや。其国の主人たる「インヂヤン」は、白人のために逐はれて、主客処を異にしたるに非ずや。故に今の亜米利加の文明は白人の文明なり、亜米利加の文明と云ふ可らず。此他東洋の国々及び大洋洲諸島の有様は如何ん、欧人の触るゝ処にてよく其本国の権義と利益とを全ふして真の独立を保つものありや。「ペルシャ」は如何ん、印度は如何ん、邏暹(しやむ)は如何ん、呂宋(るそん)呱哇(じやわ)は如何ん。「サンドウヰチ」島は千七百七十八年英の「カピタン・コック」の発見せし所にて、其開化は近傍の諸島に比して最も速なるものと称せり。然るに発見のとき人口三、四十万なりしもの、千八百二十三年に至て僅に十四万口を残したりと云ふ。五十年の間に人口の減少すること大凡そ毎年百分の八なり。人口の増減には種々の源因もある可ければ姑く之を擱き、其開化と称するものは何事なるや。唯此島の野民が人肉を喰ふの悪事を止め、よく白人の奴隷に適したるを指して云ふのみ。支那の如きは国土も洪大なれば、未だ其内地に入込むを得ずして、欧人の跡は唯海岸にのみありと雖ども、今後の成行を推察すれば、支那帝国も正に欧人の田園たるに過ぎず。欧人の触るゝ所は恰も土地の生力を絶ち、草も木も其成長を遂ること能はず。甚しきは其人種を殲(ほろぼ)すに至るものあり。是等の事跡を明にして、我日本も東洋の一国たるを知らば、仮令ひ今日に至るまで外国交際に付き甚しき害を蒙たることなきも、後日の禍は恐れざる可らず。
以上記す所のもの果して是ならば、我日本に於ける外国交際の性質は、理財上に論ずるも権義上に論ずるも至困至難の大事件にして、国命貴要の部分を犯したる痼疾と云ふ可し。而して此痼疾は我全国の人民一般の所患なれば、人民一般にて自から其療法を求めざる可らず。病の進むも自家の事なり、病の退くも自家の事なり。利害得失悉皆我に在ることにて、毫も他を頼む可らざるものなり。思想浅き人は輓近世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名け、我文明は外国交際の賜なれば、其交際愈盛なれば世の文明も共に進歩す可しとて、之を喜ぶ者なきに非ざれども、其文明と名るものは唯外形の体裁のみ。固より余輩の願ふ所に非ず。仮令ひ或は其文明をして頗る高尚のものならしむるも、全国人民の間に一片の独立心あらざれば文明も我国の用を為さず、之を日本の文明と名く可らざるなり。地理学に於ては土地山川を以て国と名れども、余輩の論ずる所にては土地と人民とを併せて之を国と名け、其国の独立と云ひ其国の文明と云ふは、其人民相集て自から其国を保護し自から其権義と面目とを全ふするものを指して名を下だすことなり。若し然らずして国の独立文明は唯土地に附して人に関せざるものとせば、今の亜米利加の文明を見て「インヂヤン」のために祝す可きの理なり。或は又我日本にても、政治学術等の諸件を挙て之を文明なる欧人に附与し、我日本人は奴隷と為て使役せらるゝも、日本の土地に差響あることなくして、然も今の日本の有様よりも数百等を擢(ぬきん)でたる独立の文明国と為らん。不都合至極なるものと云ふ可し。
又或る学者の説に云く、各国交際は天地の公道に基きたるものなり、必ずしも相害するの趣意に非ざれば、自由に貿易し、自由に往来し、唯天然に任す可きのみ。若し或は我権義を損し我利益を失ふことあらば、其然る所以の源因は我に求めざる可らず、自から脩めずして人に多を求るは理の宜きものに非ず、今日既に諸外国と和交する上は飽まで誠意を尽して其交誼を全ふす可きなり、毫も疑念を抱く可らずと。此説真に然り。一人と一人との私交に於ては真に斯の如くなる可しと雖ども、各国の交際と人々の私交とは全く趣を異にするものなり。昔し封建の時代に行はれたる諸藩の交際なるものを知らずや、各藩の人民必ずしも不正者に非ざれども、藩と藩との附合に於ては各自から私するを免かれず。其私や藩外に対しては私なれども、藩内に在ては公と云はざるを得ず。所謂各藩の情実なるものなり。此私の情実は天地の公道を唱て除く可きに非ず、藩のあらん限りは藩と共に存して無窮に伝ふ可きものなり。数年前廃藩の一挙を以て始めて之を払ひ、今日に至ては諸藩の人民も漸く旧の藩情を脱するものゝ如しと雖ども、藩の存する間は決して咎む可らざりしことなり。僅に日本国内の諸藩に於ても尚且斯の如し。然るに東西懸隔、殊域の外国人に対して、其交際に天地の公道を頼にするとは果して何の心ぞや。迀闊も亦甚し。俗に所謂結構人の議論と云ふ可きのみ。天地の公道は固より慕ふ可きものなり、西洋各国よく此公道に従て我に接せん乎、我亦甘んじて之に応ず可し、決して之を辞するに非ず。若し夫れ果して然らば、先づ世界中の政府を廃すること我旧藩を廃したるが如くせざる可らず。学者こゝに見込あるや。若し其見込なくば、世界中に国を立てゝ政府のあらん限りは、其国民の私情を除くの術ある可らず。其私情を除く可きの術あらざれば、我も亦これに接するに私情を以てせざる可らず。即是れ偏頗心と報国心と異名同実なる所以なり。
右の如く外国交際は我国の一大難病にして、之を療するに当て、自国の人民に非ざれば頼む可きものなし。其任大にして其責重しと云ふ可し。即ち此章の初に云へる、我国は無事の日に非ず、然も其事は昔年に比して更に困難なりとは、正に外国交際の此困難病のことなり。一片の本心に於て私有をも生命をも抛つ可き場所とは、正に外国交際の此場所なり。然ば即ち今の日本人にして安ぞ気楽に日を消す可けんや、安ぞ無為に休息す可けんや。開闢以来君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別と云ひしもの、今日に至ては本国の義と為り、本国の由緒と為り、内外の名分と為り、内外の差別と為りて、幾倍の重大を増したるに非ずや。在昔封建の時代に、薩摩の島津氏と日向の伊東氏と宿怨ありて、伊東氏の臣民は深く薩摩を仇とし、毎年の元旦に群臣登城すれば先づ相互に戒めて、薩の仇怨を忘るゝ勿れと云て、然る後に正を賀するを以て例と為すとの話あり。又欧羅巴にて仏国帝第一世「ナポレオン」の時、孛魯士は仏のために破られて未曾有の恥辱を蒙り、爾後孛人は深く遺恨を抱て復讐の念常に絶ることなく、之がために国民の勉励するは勿論、就中国内の寺院其他衆庶の群集する場所には、前年孛人が大敗を取て辱を蒙り、其忿る可く悲む可き有様を図画に写して額に掲る等、様々の術を尽して人心を激せしめ、其向ふ所を一にして以て復讐を図り、遂に千八百七十年に至て旧怨を報じたりと云ふ。是等の事は何れも皆怨恨不良の心より生ずるものにて、直に其事柄を美として称誉す可きには非ざれども、国を守るの難くして人民の苦心する有様は以て知る可し。我日本も外国の交際に於ては未だ伊東氏及び孛国の苦を嘗たることなしと雖ども、印度其他の先例を見て之を戒ること伊東氏の如く又孛国の如くせざる可らず。或は元旦一度に非ずして、国民たる者は毎朝相戒めて、外国交際に油断す可らずと云て、然る後に朝飯を喫するも可ならん。是に由て考れば、日本人は祖先伝来の重荷を卸して、代りの荷物を得ざるに非ず、其荷物は現に頭上に懸て、然も旧の物より幾百倍の重さを増して、正に之を担ふ可きの責に当り、昔日に比すれば亦幾百倍の力を尽さゞる可らず。昔の担当は唯窮屈に堪るのみのことなりしが、今の担当は窮屈に兼て又活潑なるを要す。人民の品行を高くするとは、即ち此窮屈なる脩身の徳義と活潑々地の働とに在るものなり。然るに今この荷物を引受け尚且身に安楽を覚るものは、唯其物の性質と軽重とを知らずして之に心を留めざりしのみ。或は之に心を留るも、之を担ふに法を誤りたるものなり。譬へば世に外国人を悪む者なきに非ず、されども其これを悪むや趣意を誤り、悪む可きを悪まずして悪む可らざるを悪み、猜疑嫉妬の念を抱て眼前の細事を忿り、小は暗殺大は攘夷、以て自国の大害を醸す者あり。此輩は一種の癲狂にて、恰も大病国中の病人と名く可きのみ。
又一種の憂国者は攘夷家に比すれば少しく所見を高くして、妄に外人を払はんとするには非ざれども、外国交際の困難を見て其源因を唯兵力の不足に帰し、我に兵備をさへ盛にすれば対立の勢を得べしとて、或は海陸軍の資本を増さんと云ひ、或は巨艦大砲を買はんと云ひ、或は台場を築かんと云ひ、或は武庫を建てんと云ふ者あり。其意の在る所を察するに、英に千艘の軍艦あり、我にも千艘の軍艦あれば、必ず之に対敵す可きものと思ふが如し。必竟事物の割合を知らざる者の考なり。英に千艘の軍艦あるは、唯軍艦のみ千艘を所持するに非ず、千の軍艦あれば万の商売船もあらん、万の商売船あれば十万人の航海者もあらん、航海者を作るには学問もなかる可らず、学者も多く商人も多く、法律も整ひ商売も繁昌し、人間交際の事物具足して、恰も千艘の軍艦に相応す可き有様に至て、始て千艘の軍艦ある可きなり。武庫も台場も皆斯の如く、他の諸件に比して割合なかる可らず。割合に適せざれば利器も用を為さず、譬へば裏表に戸締りもなくして家内狼藉なる其家の門前に、二十「インチ」の大砲一坐を備るも盗賊の防禦に適す可らざるが如し。武力偏重なる国に於ては、動もすれば前後の勘弁もなくして、妄に兵備に銭を費し、借金のために自から国を倒すものなきに非ず。蓋し巨艦大砲は以て巨艦大砲の敵に敵す可くして、借金の敵には敵す可らざるなり。今日本にても武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。或は我製造の術、未だ開けざるがためなりと云ふと雖ども、其製造の術の未だ開けざるは、即ち国の文明の未だ具足せざる証拠なれば、其具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざる可し。故に今の外国交際は兵力を足して以て維持す可きものに非ざるなり。
右の如く、暗殺攘夷の論は固より歯牙に留るに足らず、尚一歩を進めて兵備の工夫も実用に適せず、又上に所記の国体論、耶蘇論、漢儒論も亦人心を維持するに足らず。然ば則ち之を如何んして可ならん。云く、目的を定めて文明に進むの一事あるのみ。其目的とは何ぞや。内外の区別を明にして我本国の独立を保つことなり。而して此独立を保つの法は文明の外に求む可らず。今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり。都て人間の事物に就て、其目的と、之に達するの術とを計れば、段々限あることなし。譬へば綿を紡ぐは糸を作るの術なり、糸を作るは木綿を織るの術なり、木綿は衣服を製するの術と為り、衣服は風寒を防ぐの術と為り、此幾段の諸術、相互に術と為り又相互に目的と為りて、其結局は人体の温度を保護して身を健康ならしむるの目的に達するが如し。我輩も此一章の議論に於ては、結局自国の独立を目的に立てたるものなり。本書開巻の初に、事物の利害得失は其ためにする所を定めざれば談ず可らずと云ひしも、蓋し是等の議論に施して参考す可し。人或は云はん、人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず、尚別に永遠高尚の極に眼を着す可しと。此言真に然り。人間智徳の極度に至ては、其期する所、固より高遠にして、一国独立等の細事に介々たる可らず。僅に他国の軽侮を免かるゝを見て、直に之を文明と名く可らざるは論を俟たずと雖ども、今の世界の有様に於て、国と国との交際には未だ此高遠の事を談ず可らず、若し之を談ずる者あれば之を迀闊空遠と云はざるを得ず。殊に目下日本の景況を察すれば、益事の急なるを覚へ又他を顧るに遑あらず。先づ日本の国と日本の人民とを存してこそ、然る後に爰に文明の事をも語る可けれ。国なく人なければ之を我日本の文明と云ふ可らず。是即ち余輩が理論の域を狭くして、単に自国の独立を以て文明の目的と為すの議論を唱る由縁なり。故に此議論は今の世界の有様を察して、今の日本のためを謀り、今の日本の急に応じて説き出したるものなれば、固より永遠微妙の奥蘊に非ず。学者遽に之を見て文明の本旨を誤解し、之を軽蔑視して其字義の面目を辱しむる勿れ。且又余輩に於て独立を以て目的に定むと雖ども、世人をして悉皆政談家と為し、朝夕之に従事せしめんことを願ふに非ず。人各勤る所を異にせり、亦これを異にせざる可らず。或は高尚なる学に志して談天彫竜に耽り、随て窮め随て進み、之を楽て食を忘るゝ者もあらん。或は活潑なる営業に従事して日夜寸暇を得ず、東走西馳、家事を忘るゝ者もあらん。之を咎む可らざるのみならず、文明中の一大事業として之を称誉せざる可らず。唯願ふ所は其食を忘れ家事を忘るゝの際にも、国の独立如何に係る所の事に逢へば、忽ち之に感動して恰も蜂尾の刺蠆(したい小さなトゲ)に触るゝが如く、心身共に穎敏ならんことを欲するのみ。
或人云く、前説の如く唯自国の独立をのみ欲することならば、外国の交際を止るの便利に若くものなし。我国に外人の未だ来らざりし時代に在ては、国の有様は不文なりと雖ども、之を純然たる独立国と云はざるを得ず。されば今独立を以て目的と為さば古の鎖国に返るを上策とす。今日に至ればこそ独立の憂もある可けれ、嘉永以前には人の知らざりしことなり。国を開て国の独立を憂るは、自から病を求めて自から之を憂るに異ならず。若し病の憂ふ可きを知らば、無病の時に返るに若かずと。余答て云く然らず、独立とは独立す可き勢力を指して云ふことなり。偶然に独立したる形を見て云ふに非ず、我日本に外人の未だ来らずして国の独立したるは、真に其勢力を有して独立したるに非ず。唯外人に触れざるが故に偶然に独立の体を為したるのみ。之を譬へば、未だ風雨に逢はざる家屋の如し、其果して風雨に堪ゆ可きや否は、嘗て風雨に逢はざれば証す可らず。風雨の来ると否とは外の事なり、家屋の堅牢なると否とは内の事なり。風雨の来らざるを見て、家屋の堅牢なるを証す可らず。風なく雨なくして家屋の存するは勿論、如何なる大風大雨に逢ふも屹立動かざるものこそ、真に堅牢なる家屋と云ふ可けれ。余輩の所謂自国の独立とは、我国民をして外国の交際に当らしめ、千磨百錬、遂に其勢力を落さずして、恰も此大風雨に堪ゆ可き家屋の如くならしめんとするの趣意なり。何ぞ自から退縮して古に復し、偶然の独立を僥倖して得意の色を為さんや。加之今の外国交際は、適宜にこれを処すれば我民心を振起するがために恰も的当したる刺衝と為る可きが故に、却て之に藉て大に我文明を利す可し。結局我輩の旨とする所は、進て独立の実を取るに在り。退て其虚名を守るが如きは敢て好まざる所なり。
故に又前説に返て云はん。国の独立は目的なり、今の我文明は此目的に達するの術なり。此今の字は特に意ありて用ひたるものなれば、学者等閑に看過する勿れ。本書第三章には、文明は至大至洪にして人間万事皆これを目的とせざるなしとて、人類の当に達す可き文明の本旨を目的と為して論を立たることなれども、爰には余輩の地位を現今の日本に限りて、其議論も亦自から区域を狭くし、唯自国の独立を得せしむるものを目して、仮に文明の名を下だしたるのみ。故に今の我文明と云ひしは文明の本旨には非ず、先づ事の初歩として自国の独立を謀り、其他は之を第二歩に遺して、他日為す所あらんとするの趣意なり。蓋し斯の如く議論を限るときは、国の独立は即ち文明なり。文明に非ざれば独立は保つ可らず。独立と云ふも文明と云ふも、共に区別なきが如くなれども、独立の文字を用れば、事の想像に一層の限界を明にして、了解を易くするの便あり。唯文明とのみ云ふときは、或は自国の独立と文明とに関係せずして、文明なるものあり。甚しきは自国の独立と文明とを害して、尚文明に似たるものあり。其一例を挙て云はんに、今我日本の諸港に西洋各国の船艦を泊し、陸上には洪大なる商館を建て、其有様は殆ど西洋諸国の港に異ならず、盛なりと云ふ可し。然るに事理に暗き愚人は、此盛なる有様を目撃して、今や五洲の人民、我国法の寛大なるを慕ひ、争て皇国に輻湊せざるはなし、我貿易の日に盛にして我文明の月に進むは、諸港の有様を一見して知る可しなどゝて、得色を為す者なきに非ず。大なる誤解ならずや。外国人は皇国に輻湊したるに非ず、其皇国の茶と絹糸とに輻湊したるなり。諸港の盛なるは文明の物に相違なしと雖ども、港の船は外国の船なり、陸の商館は外国人の住居なり、我独立文明には少しも関係するものに非ず。或は又無産の山師が外国人の元金を用ひて国中に取引を広くし、其所得をば悉皆金主の利益に帰して商売繁昌の景気を示すものあり。或は外国に金を借用して其金を以て外国より物を買入れ、其物を国内に排列して文明の観を為すものあり。石室鉄橋船艦銃砲の類、是れなり。我日本は文明の生国に非ずして、其寄留地と云ふ可きのみ。結局この商売の景気、この文明の観は、国の貧を招て永き年月の後には必ず自国の独立を害す可きものなり。蓋し余輩が爰に文明と云はずして独立の文字を用ひたるも、是等の誤解を防がんとするの趣意のみ。
斯の如く、結局の目的を自国の独立に定め、恰も今の人間万事を鎔解して一に帰せしめ、悉皆これを彼の目的に達するの術とするときは、其術の煩多なること際限ある可らず。制度なり学問なり、商売なり工業なり、一として此術に非ざるはなし。啻に制度学問等の類のみならず、或は鄙俗虚浮の事、盤楽遊嬉の物と雖ども、よく其内情を探て其帰する所の功能を察すれば、亦以て文明中の箇条に入る可きもの多し。故に人間生々の事物に就き、其利害得失を談ずるには、一々事の局処を見て容易に之を決す可らず。譬へば古より学者の議論甚だ多し。或は節倹質朴を主とする者あり、或は秀美精雅を好む者あり、専制独断を便利なりとする者あれば、磊落自由を主張する者あり、意見百出、西と云へば東と唱へ、左より論ずれば右より駁し、殆ど其極る所を知らず。甚しきは嘗て定りたる所見もなく、唯一身の地位に従て議論を作り、一身と議論と其出処栄枯を共にする者あり。尚これよりも甚しきは政府に依頼して身を掩ふの地位と為し、区々の政権に藉て唯己が宿説を伸さんとし、其説の利害得失に至ては忘れたるが如き者あり。鄙劣も亦甚しと云ふ可し。是等の有様を形容すれば、的なきに射るが如く、裁判所なきに訴るが如し。孰れを是とし孰れを非とす可きや。唯是れ小児の戯のみ。試に見よ、天下の事物、其局処に就て論ずれば、一として是ならざるものなし、一として非ならざるものなし。節倹質朴は野蛮粗暴に似たれども、一人の身に就ては之を勧めざる可らず。秀美精雅は奢侈荒唐の如くなれども、全国人民の生計を謀れば日に秀美に進まんことを願はざる可らず。国体論の頑固なるは民権のために大に不便なるが如しと雖ども、今の政治の中心を定めて行政の順序を維持するがためには亦大に便利なり。民権興起の粗暴論は立君治国のために大に害あるが如くなれども、人民卑屈の旧悪習を一掃するの術に用れば亦甚だ便利なり。忠臣義士の論も耶蘇聖教の論も、儒者の論も仏者の論も、愚なりと云へば愚なり、智なりと云へば智なり、唯其これを施す所に従て、愚とも為る可く智とも為る可きのみ。加之彼の暗殺攘夷の輩と雖ども、唯其事業をこそ咎む可けれ、よく其人の心事を解剖して之を検査せば、必ず一片の報国心あること明に見る可し。されば本章の初に云へる、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別等の如きも、人間品行の中に於て貴ぶ可き箇条にて、即ち文明の方便なれば、概して之を擯斥するの理なし。唯此方便を用ひて世上に益を為すと否とは、其用法如何に在るのみ。凡そ人として国を売るの悪心を抱かざるより以上の者なれば、必ず国益を為すことを好まざる者なし。若し然らずして国害を為すことあらば、其罪は唯向ふ所の目的を知らずして偶然に犯したる罪なり。都て世の事物は諸の術を集めて功を成すものなれば、其術は勉めて多きを要し、又多からざるを得ず。唯千百の術を用るの際に其用法を誤ることなく、此術は果して此目的に関係あるもの歟、若し関係あらば何れの路よりして之に達す可きもの歟、或は直に達す可き歟、或は間に又別の術を置き此術を経て後に達するもの歟、或は二の術あらば孰か重くして先なる可き歟、孰か軽くして後なる可き歟と、様々に工夫を運らして、結局其最後最上の大目的を忘れざること緊要なるのみ。猶彼の象棋を差す者が、千種万様の手はあれども、結局其目的は我王将を守て敵の王を詰るの一事に在るが如し。若し然らずして王より飛車を重んずる者あれば、之を下手象棋と云はざるを得ず。故に今この一章の眼目たる自国独立の四字を掲げて、内外の別を明にし、以て衆庶の由る可き道を示すことあらば、物の軽重も始て爰に量る可く、事の緩急も始て爰に定む可く、軽重緩急爰に明なれば、昨日怒りし事も今日は喜ぶ可きものと為り、去年楽みし事も今年は憂ふ可きものと為り、得意は転じて心配と為り、楽国は変じて苦界と為り、怨敵も朋友と為り、他人も兄弟と為り、喜怒を共にし、憂楽を同ふし、以て同一の目的に向ふ可き乎。余輩の所見にて今の日本の人心を維持するには唯この一法あるのみ。
 
脱亜論 /「時事新報」明治18年3月16日(1885)

 

世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る處、草も気も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異なるに非ずと雖ども、其擧動の古に遅鈍にして今に活發なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今当用に國するものゝ為に謀るに、此文明の東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事實に不可ならんを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に當り此流行病の害を惡て此れを防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩斷じて其術なきを證す。有害一遍の流行病にても尚且其勢には激す可らず。況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや。當に之を防がざるのみならず、力めて其蔓延を助け、國民をして早く其氣風に浴せしむるは智者の事なる可し。西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開國を發端として、國民漸く其採る可きを知り、漸次に活發の氣風を催ふしたれども、進歩の道に横はるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の舊套と兩立す可らずして、舊套を脱すれば同時に政府も亦廢滅す可ければなり。然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり。是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊嚴に依頼して、斷じて舊政府を倒して新政府を立て、國中朝野の別なく一切萬事西洋近時の文明を採り、獨り日本の舊套を脱したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亞の二字にあるのみなり。
我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古來亞細亞流の政教風俗に養はるゝこと、我日本國に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺傳教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國三國相對し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二國の者共は一身に就き又一國に關してして改進の道を知らず。交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に變々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、學校の教旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二國を視れば今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。幸にして其の國中に志士の出現して、先づ國事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より數年を出でずして亡國と爲り、其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇歯とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も殘忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、我日本國の一大不幸と云ふ可し。左れば、今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。  
 
脱亜入欧
「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的とした、日本におけるスローガンや思想である。
欧米列強が植民地戦争を繰り広げていた明治時代初期に、「富国強兵」と共に政府が実行した政策の根幹となった思想である。後の朝鮮半島や中国など、アジア大陸への侵略に至る流れの始まりと見ることもできる。
具体化された例として、断髪令や廃刀令、1880年代の鹿鳴館が知られている。
福澤諭吉が書いたとされる論説「脱亜論」は、基本的にこの考え方に沿っていると指摘されることがあるが、これは誤りである。福澤は署名著作・時事新報論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない。さらに福澤が「脱亜入欧」という語句と関連付けられるのは第二次世界大戦後の1950年代以降である。
一方、逆説的であるが「興亜論(後の時代では「大アジア主義」)の考えこそが、中国・朝鮮への進出を押し進めた」という説も有力に主張されている。
脱亜論
新聞「時事新報」紙上に1885年(明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説を指す。福澤諭吉が執筆したとされているが、原文は無署名の社説である。1933年(昭和8年)に慶應義塾編「続福澤全集〈第2巻〉」(岩波書店)に収録されたため、福澤が執筆した社説と考えられるようになった。
1950年(昭和25年)以前に「脱亜論」に関するコメントは見つかっていない。見つかっている最初のコメントは翌年に遠山茂樹が発表した「日清戦争と福沢諭吉」(福沢研究会編「福沢研究」第6号)である。「脱亜論」が一般に有名になったのはさらに遅れて1960年代である。
第1段落
まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。
第2段落
「不幸なるは近隣に国あり」として、支那(清、現在中華人民共和国)と朝鮮(李氏朝鮮、現在韓国・北朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。そして、甲申政変を念頭に置きつつ両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。
その上で、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、間接的ではあるが外交に支障が少なからず出ている事は「我日本国の一大不幸」であると危惧する。そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、東アジアの悪友とは縁を切って近代化を進めて行くことが望ましいと結んでいる。
執筆背景
福澤諭吉と朝鮮
福澤が創設した慶應義塾には近代における朝鮮からの正式な留学生の第1号として兪吉濬が1881年(明治14年)6月以来学んでおり、福澤は兪を通じて朝鮮への理解を深め、諺文(ハングル)使用が朝鮮近代化と民衆の教化に必要と考えていた。
1881年(明治14年)に訪日した開化派の金玉均とも親交を結んだ福澤は「時事小言」を発表し、朝鮮の文化的誘導の必要性を主張した。さらに、1882年(明治15年)7月23日に発生し日本公使館が襲撃され日本人が殺害された壬午事変の事後処理のため同年9月に訪日した朴泳孝を正使とする修信使が福澤を訪問した。日本の文物を視察しながら朝鮮近代化の方策を模索していた金玉均を含む修信使一行は福澤にこれを推進するための要員斡旋を依頼した。同年9月8日付け「時事新報」は社説「朝鮮の償金五十萬圓」で「今朝鮮國をして我國と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全國の人心を一變するの法に由らざる可らず。即ち文明の新事物を輸入せしむること是なり。海港修築す可し、燈臺建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、鐵道を敷き、滊船を運轉し、新學術の學校を興し、新聞紙を發行する等、一々枚擧す可からず」と報じた。福澤は朝鮮開化の具体的手段のひとつとして新聞発行に同意した修信使に慶應義塾出身の牛場卓蔵と高橋正信を学事顧問名義で斡旋するとともに、朝鮮事情調査を目的として福澤家で書生をしていた井上角五郎を同行させた。1883年(明治16年)1月11日〜13日付け「時事新報」は社説「牛場卓造君朝鮮に行く」を掲載した。また、福澤は発行する新聞に漢諺混合文の採用を強く推し、自費でハングル活字を鋳造させていた。
1883年(明治16年)1月に帰国した朴泳孝は漢城府判尹(知事)に就任し、国王高宗から漠城府主導下に新聞を発行する許可を得たものの、壬午事変後の守旧派の巻き返しにより左遷されて新聞発行は頓挫し、牛場と高橋の両名は帰国した。残った井上は統理交渉通商事務衙門協弁(外務次官)金允植の知遇を得て同年6月に外交顧問、新聞発行の主体となった博文局主任となり、10月に朝鮮近代で最初の新聞である「漢城旬報」発行にこぎつけた。しかし、1884年(明治17年)1月30日付け第10号掲載の清国兵の横暴を諌める記事「華兵犯罪」が清国勢力に咎められ、井上は責任を取る形で辞任、帰国に追い込まれた。
日本の外務省の支持を受けて井上は同年7月に朝鮮に再渡航し、朝鮮の外務顧問と博文局主任の地位に復し、井上の離任後暫くして休刊となっていた「漢城旬報」を再刊した。しかし、12月4日に朝鮮で起きた甲申政変に清が介入し、「漢城旬報」の印刷所も焼き討ちにあって廃刊。新聞発行の支持基盤であった開化派は一掃され、井上は12月11日に朝鮮を離れた。
「脱亜論」掲載前の論説
ウィキソースに朝鮮独立党の処刑の原文があります。「脱亜論」の約3週間前の明治18年(1885年)2月23日と2月26日に掲載された論説に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」がある。
平山洋は「福沢諭吉の真実」において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていると主張している。また、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。
– 朝鮮獨立黨ノ處刑(後編、1885年2月26日掲載)
「脱亜論」掲載後の論説
ウィキソースに朝鮮人民のために其国の滅亡を賀すの原文があります。「脱亜論」の5ヶ月後の8月13日に掲載された論説に、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」がある。政府による「一国民としての栄誉、生命と私有財産の保護」が行われない現状であるならば、朝鮮に支配の手を伸ばしているイギリスやロシアの法治にある方が、朝鮮人民にとっては幸福ではないかと逆説的な主張をしている。この論説の結尾はこの通りである。
故に我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり。
– 朝鮮人民ノタメニ其国ノ滅亡ヲ賀ス(1885年8月13日掲載)
脱亜論の評価
日本
日本の初等・中等教育の歴史教科書においても、「脱亜論」社説を「日本が欧米列強に近づくためにアジアからの脱却を唱えた物で、日本がアジアの1ヵ国であることを否定している」と定義付け、「日本人がアジアを蔑視する元となった脱亜入欧の代表的言説」と教えていることが多い。が、この論文に至った甲申事変や当時の歴史的背景を教えていない事も多く、「脱亜論」の一部だけを取り上げて、「脱亜論」社説を正しく解釈していない、と言う意見も存在する。
丸山眞男は、福沢が実践的にも早くからコミットしていた金玉均ら朝鮮開化派による甲申事変が三日天下に終わったことの失望感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する焦立ちから、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する。
また、丸山は、福澤が「脱亜論」を執筆したと仮定しても、福澤が「脱亜」という単語を使用したのは「脱亜論」1編のみであると指摘した。それゆえ、「脱亜」という単語は福澤においてはキーワードでないと述べた。さらに、「入欧」という単語に至っては、福澤諭吉は(署名著作と無署名論説の全てにおいて)一度も使用したことがなく、したがって「脱亜入欧」という成句も福澤が一度も使用していないことを指摘した。
「福沢諭吉書簡集」の編集委員であった西川俊作は、「この短い(およそ2,000字の)論説一篇をもって、彼を脱亜入欧の「はしり」であると見るのは短絡であり、当時の東アジア三国のあいだの相互関連を適切に理解していない見方である」と指摘する。
坂本多加雄は、甲申政変の失敗と清国の強大な軍事力を背景にして、「「脱亜論」は、日本が西洋諸国と同等の優位の立場でアジア諸国に臨むような状況を前提にしているのではなく、むしろ逆に、朝鮮の一件に対する深い失望と、強大な清国への憂慮の念に駆られて記された文章ではないか」と説明する。
坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。福沢の「脱亜論」をもって彼のアジア蔑視観の開始であるとか、彼のアジア侵略論の開始であるとかいう評論ほど見当違いなものはない」と主張している。
安川寿之輔は、初期の福澤の思想にも国権論的立場を見出し得るのであるから、「脱亜論」がそれ以前の福澤の考えと比較して特段異なるものとはいえないと指摘する。
平山洋は、「脱亜論」が甲申政変とその後の弾圧に対する影響で書かれた社説であることに注目して、「第二次世界大戦後になって、「脱亜論」中の、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」(全10二百四十頁)とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷(ざんこく)あれば」とかいった記述がことさらに取り上げられることになったが、そうした表現は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に対する批判にすぎなかったのである。こうした時事的な部分を除いてしまえば、「脱亜論」は、半開の国々は西洋文明を取り入れて自から近代化していくべきだ、という「文明論之概略」の主張と少しも変わらない」と解説している。
小説家の清水義範は、小説中の文学探偵が「脱亜論」を読んだ感想として、「日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮と袂を分かたなければいけない……それが脱亜という選択肢である」と語らせている。
他には、興亜論へのアンチ・テーゼとして「脱亜論」が発表されたとの考えもある。
中国・韓国
中国・韓国では、「脱亜論」は「アジア蔑視および侵略肯定論」であり、福澤は侵略主義者として批判的に取り上げられている。一例として、林思雲の論文「福沢諭吉の「脱亜論」を読んで」中で言及されている中国内での理解、そして韓国の新聞中央日報に掲載された金永熙(キム・ヨンヒ)国際問題記者執筆の2005年11月25日のコラム「日本よアジアに帰れ」がある。
起稿者の認定
最近の研究では、「脱亜論」が時事新報に掲載された無署名論説であることに着目した論説執筆者判定が展開されている。
井田進也は井田メソッドを駆使して「脱亜論」関連論説の起稿者の認定を行った。井田メソッドとは、無署名文において使用される語彙や言い回しの特徴を分析して起稿者の認定を行う方法である。起稿者の認定は、関与の多い方から5段階のA、B、C、D、Eで表す。井田は「歴史とテクスト――西鶴から諭吉まで」(光芒社、2001年)の104頁で、「脱亜論」の認定を行い、「「脱亜論」の前段には福沢的でない「東洋に國するもの」、ごく稀な「力めて」「揚げて」、高橋の「了る」(福沢は稀)「横はる」が散見し、自筆草稿が発見されぬかぎり高橋が起稿した可能性を排除できないから、前回同様、福沢が高橋の原稿を真っ黒に塗抹したものとして、ほとんどAとしておこう。」と結論付け、時事新報記者で社説も執筆していた高橋義雄が起稿した可能性を排除できないとした。
さらに同書105頁から「脱亜論」関連論説の起稿者の認定も行っている。「脱亜論」関連論説の認定結果の一覧表を引用する。高橋は前出の高橋義雄、渡辺も高橋と同じく時事新報記者で社説も執筆していた渡辺治のことである。
 
「福沢諭吉の真実」 / 平山洋

 

書評1
本書は福沢諭吉の論とされている中に疑問があるというのが骨子の本だが、ここではとくに「脱亜入欧論」の部分に絞って紹介してみたい。この毀誉褒貶の大きい「脱亜入欧論」は、(長大な論文ではなく)翁が創始した「時事新報」という新聞の明治十八年三月十六日付に掲載された社説だったことを知った。
本論が書かれた動機として、上海で暗殺された朝鮮開化派、独立党の志士金玉均(1851〜94)の事件があった。諭吉翁は、「脱亜入欧論」掲載の前、2回にわたって、Korea に帰った金玉均の遺体が、首を斬り四肢を切断し胴体を切り刻むという残虐非道な「凌遅斬の刑」に処され、また泣き叫ぶ幼い子供や老人・女性を含む遺族を、公衆の面前でむごたらしく処刑した有様を赤裸々に伝えることで、「こうした残酷無比な国とは、ともに行動できないではないか」という嫌悪感と拒否感が「脱亜入欧論」の骨子となっていることが読み取れる。本論のごくごくサワリの部分を紹介してみよう。
「(前略)我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既(すで)に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然(しか)るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。(中略)一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、(中略)この(支韓)二国の者共は一身に就(つ)きまた一国に関して改進の道を知らず、(中略)その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
これは単なる悪口と違って、その裏に金玉均の事件があったからに他ならない。現在の日・中・韓の関係の中から、「China 各地の抗日記念館で日本兵の仕業としている偽造写真や人形は、日本人のもっとも嫌う彼らの残虐性の裏返しであり、またKorea における時代錯誤的な親日分子糾弾の動きや、艦船に「独島」と名付けるなどという姑息な行為」などを見ると、諭吉翁があの世から、「だからあれほど言ったのに…」と嘆息しているに違いない。
「脱亜入欧論」は、それほど的確な予言の書というべきである。いまや日本は、譲歩・謝罪外交から脱却して、脱中・韓を明確に志向すべきではないか。
書評2
タイトルに「真実」と書いてある本は、既存の議論の多い話題を根底から見直す内容のものが多いです。僕が読んだ他の本では、「大東亜会議の真実アジアの解放と独立を目指して」がそれに当たりました。この本は現在僕の手元にないので書評は省きますが、その時受けた衝撃は忘れません。どちらの本にも共通する「真実」と言うのは、そもそも物事の真の姿である訳なので人間は真実に近づくことは出来ても、決して到達できない(理解できない)領域です。反対に「事実」と言うのは人が各々に到達できる姿です。真実は世界に一つだけ存在し、事実は個々の人に存在します。言い換えると、真実の一側面を誰かが捉えて解釈したものが事実といえます。
これは、例えると、富士山の写真は、赤富士、青富士、雪富士、雲がかかった富士山など様々に一側面が撮れますが、富士山の本当の姿は誰も理解できないというのに似ています。各人は各々に事実(写真)を確認できるけど、真実(本当の姿)は理解できないのです。真実に近づくにはどうすれば良いかというと、なるべく様々な事実(様々な角度からの写真)を手に取って、真実(真の姿)について考察することです。この本は、福沢諭吉についての議論を根底から見直す意義深いもので、衝撃を受けました。「真実」の新たな一側面を捉えたといえるでしょう。
福沢諭吉を正しく捉えたいという要求は、非常に大きなものです。なぜなら、福沢は現在の日本の繁栄と、日本の路線を規定した近代最も大きな思想家だからです。明治維新から150年間で最大の思想家であるだけではなく、日本の歴史の大きな転換点トップ5には確実に入る転換期の決断を成功に導いた人物のうちの一人です。西暦600年ぐらいに中国の皇帝の他に、「日の出づる国の天使」=天皇を規定し、日本を文化的に独立させた聖徳太子に続くほどの重要さです。聖徳太子の決断が19世紀後半に、福沢の主張するように日本に取り入れる文明を選択変更可能にしたとも言えます。
ところが、どの社説が福沢の本心なのかを推定するのは、本書で主題となる時事新報は無記名で記載されているものが多くて、難しい状態です。本書は社説に書かれた福沢の本心を探るミステリーのような本で、次々と明らかになる「真実」はスリリングですらあります。本心の推定をさらに困難とするのは、石河幹明という時事新報を引き継いだ人が、戦争の熱気を利用して福沢諭吉の名をもっと高めようと努力していたのです。本書では、以下のように書かれています。
伝記と全集の編纂が成し遂げられたことによって、「福沢ルネッサンス」とでもいうべき、思想運動が生じたのは事実である。ただしその運動は、それまで知られていなかったアジアへの勢力拡大を声高に主張する国権皇張論者としての福沢を、戦時局にあって役立てようとするものであった。(P.184)
到達し得ない「真実」に近づくために、物事は多面的に見たいと思います。また、そうすることがいかに楽しいことなのか教えてくれる本でした。福沢の醍醐味は、幕府やそれまでの常識を覆すという革新の精神です。福沢の手法や、考え方は現代の我々にも役に立つことばかりですが、彼の出した結論は乗り越えるべきものです。それこそが彼のやり方なのですから。本書で書かれていた、時事新報が廃刊に際しての一記者の洞察は気づかされるものがありました。
福沢翁の精神の一つは、旧形式の破壊であった。実利本位に、古い形式を破壊することであった。所が、福沢翁を尊敬するあまり、福沢翁のやり方が、同社に於いては、一つの形式になっていた。そして、その形式を頑として尊重するのであった。福沢翁の本当の精神は古い形式の破壊であったから、たとえ福沢翁のやり方でも時勢に連れて、どんどん破壊して行くことこそ、福沢翁の本当の精神ではないかと自分は思っておった。福沢翁の本当の精神を掴むことが出来なかったことなども、同社の衰運を招いた原因の一つではなかったかと思う。(P.191) 
書評3
福沢諭吉という書き尽くされた感のある大物思想家を描きながら、本書は、新鮮で推理小説を読むような謎解きのスリルも味わえる力作である。福沢諭吉に関しては、近年に至るまで膨大な著作があるにもかかわらず、市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする二つの評価に分かれている。この大きな原因が、現行版「福沢諭吉全集」二一巻(岩波書店)の元になっている大正版一〇巻と昭和版「続福沢全集」七巻が、石河幹明によって恣意的に編集され、石河の弟子であった富田正文によって編集された現行版も、その問題を継承しているからであると、著者は言う。その問題とは、全集の中に、福沢の経営した新聞「時事新報」の論説中、福沢が執筆も立案もしていないものまで、多数混在させていることである。
平山氏は、比較文学者の井田進也氏によって確立された、語彙データや特徴的文体や言い回しに基づいて、執筆者を鑑定する方法を応用して、福沢の真筆を選り分けた。その上で、福沢を市民的自由主義者とする見方を、鮮やかに確認した。
結論は、(一)福沢は日本国民として君主である天皇を尊重する精神があったが、それは国民の心情という以上のものではなく、天皇が直接政治に関係することはかえってその権威をおとしめるようになるとの危惧を抱いたように、天皇への強い賛美者ではなかった、(二)国際関係を経済的側面から考え、産業育成と経済交流が立国の中心とみて、面としての領土を拡大する意味はほとんどないと考えた、(三)中国人や朝鮮人に対する民族的偏見があまりなく、文明化という同じ競争に参加させられていることを理解せず、文明化に努力しない諸国家の政府や支配層を批判するだけであった、ことである。
平山氏は、福沢に侵略的な絶対主義者像を与えた主役を、石河幹明とみる。彼は水戸藩士の子として一八五九年に生まれ、茨城中学を経て、一八八五年に時事新報社に入社し、一九二二年に主筆の座を降りるまで、「時事新報」の編集や論説作成に従事した。石河が福沢の詳細な伝記である「福沢諭吉伝」(一九三二年)の作者であり、大正版「福沢全集」と昭和版「続福沢全集」の編者であったことは、福沢研究者の間にはよく知られている。
石河は福沢の死後二五年以上経って全集や伝記を出版し、福沢の後継者としてふるまったが、それは福沢の理想ではなかった。「時事新報」の主筆は、社長も兼ねていた中上川彦次郎が一八八七年四月に山陽鉄道に転じた後、一二年間空席となっていた。福沢が最も期待していた高橋義雄も、八七年七月に時事新報社を退社し、後に三井銀行などの重役となる。次いで期待された渡辺治は、八八年に福沢との関係が悪化して翌年退社、また、別のお気に入りだった菊池武徳も、九四年に退社して、後に政友会の代議士となった。
福沢は五八歳となった一八九一年頃から体力が衰えた。九八年、福沢が脳卒中に倒れ、翌九九年に以前から主に論説を担当していた石河が念願の主筆に就任した。朝野新聞などを経て九四年に入社し、福沢がかつての高橋以上に評価していた北川礼弼もこの頃退社し、社内に石河を脅かす者は誰もいなくなった。石河以外に主筆となるべき人材を求め育成しようとしたが果たせなかった福沢の悲哀を浮彫りにしたことも、本書の興味深い点の一つである。このことを、石河の福沢伝は意図的に隠蔽し、その影響を受けた従来の伝記も本格的にとりあげなかった。
福沢が石河を評価しなかったのは、文章力のなさもさることながら、天皇への崇敬心が甚だしく深く、国際関係を露骨な帝国主義的勢力圏としてとらえ、中国人・朝鮮人に対する民族的偏見が非常に強いという思想上の理由からである。では、福沢はなぜ石河を切らず、論説を任せたのだろうか。平山氏は、福沢があまりできのよくない次男捨次郎を「時事新報」の社長にするために、編集の実権を握り記者を掌握していた石河を残さざるをえなかったためとしている。
私はその面も否定しないが、石河が日清戦争前から第一次世界大戦前後に「時事新報」の編集の中枢にあって論説を担当し、社の経営を発展させたという本書の指摘から、東アジアが帝国主義の時代を迎え、世論が「学問ノスヽメ」や「文明論之概略」をもてはやした頃と大きく変わってしまったからと考える。「時事新報」を破産させることは、老境に入った福沢にとって自らの人生の存在意義にすら関わる問題である。将来に世論の状況が好転した時のために、不快さに耐えても社を存続させておこうと、福沢は考えたのではないか。
また、福沢が常に理想と現実との緊張の中で思索し発言する思想家であったことを考慮すると、病で倒れなかったら、一九〇〇年の義和団の乱以降の東アジア情勢をどのように論じたかは興味の残る所である。列強、とりわけロシアの中国での勢力圏拡大に対し、日本も防衛上、韓国を勢力圏とする協商をロシアと結ぶ必要がある等と論じても、当時の国際慣行に照らして非道徳的な考えとはいえない。
いずれにしても、石河は福沢の真筆でない自らの論説や自らの考えに近い他の記者の論説を全集に挿入し、それらをも根拠とし、また「福翁自伝」を曲解して、石河の考えに近づけた福沢像を伝記として完成させた。そのことは、満州事変後の時勢に適い、「福沢ルネサンス」ともいうべき福沢ブームを呼び起こした。
本書を読んで、私には石河のこの行動は、福沢の正統な後継者として自らを権威付けるのみならず、青壮年期に福沢に十分認められなかった石河の福沢に対する密かな復讐のようにも思えた。この石河の策略に対し、彼の手になる「全集」や「伝記」に不安を感じつつも、富田正文・丸山真男・遠山茂樹らはそれぞれの立場上の理由で、本格的な検討を加えなかったと、平山氏は推定した。また最後に、「現行版「福沢諭吉全集」の「時事新報論集」をこのまま放置しておくことは許されぬことであろう」と本書を結んだ。これは、きわめて重い提言である。 
書評4・自著を語る
1安川・平山論争のことなど
ここでは「福沢諭吉の真実」(以下本書)の由来と、そこで新たに明らかになったこと、さらに出版後三ヶ月を経過した時点で寄せられた疑問への応答を試みたい。
「あとがき」にもあるように、安川寿之輔氏の論説「福沢諭吉ーアジア蔑視広めた思想家」が本書を書く契機となった。安川論説の内容は同氏著「福沢諭吉のアジア認識」(高文研二〇〇〇)を要約したものである。
安川氏の福沢批判は、現行版全集(一九五八〜六四)の「時事新報論集」所収論説を主な対象としていた。私には安川氏がそれら無署名論説を無条件に受け入れているのは不自然に思われた。そこで私は、現行版の全集は弟子の石河幹明が編纂した大正版と昭和版の正続全集を再編集したもので、その「時事新報論集」も石河が無署名論説を紙面から選んだにすぎない旨の反論を試みたのだった。
それに対し安川氏は、現行版全集第八巻の「後記」(一九六〇)に依拠して、石河の論説選択は確実であり、侵略的・差別的思想家としての福沢像にも揺るぎがないことを重ねて主張した。私には安川氏が、無署名論説は石河が選んだのだから正しい、と言っているとしか受け取れなかった。そこでこのあり方を「石河への盲目的愛」と名付けたのである。
この二〇〇一年五月から六月にかけての安川・平山論争のうちに本書の構想はほぼ固まったといえる。とはいえ当初の私には石河が故意に福沢像をねじ曲げようとした、とまでは思い至らなかった。安川氏への反論は、主に井田進也氏が編み出した文体と語彙による起筆者推定の方法(光芒社「歴史とテクスト」二〇〇一)に基づいていて、安川氏が批判している論説の大部分は石河が執筆したものである、としたに過ぎなかったのである。
そもそも「時事新報論集」に石河起筆の論説が多数含まれていることは、昭和版続全集(一九三三)の「付記」(本書七五頁に転載)において石河自ら明言していることである。福沢執筆ではないとしても、全体として福沢を体現した論説が収められている、と石河は主張しているわけだ。「時事新報論集」が福沢の思想を正しく伝えているなら、安川氏の主張にも一定の正当性があることになろう。
2本書において新たに明らかとなったこと
ところが二〇〇一年夏に行った調査によって、石河が意図的に福沢像を歪曲したことが判明したのである。
福沢には全集未載の論説・演説集「修業立志編」(一八九八)があることは従来まで知られていなかった。石河はこの「修業立志編」所収の論説・演説全四二編のうち九編を全集から落としている。しかもそのうち「忠孝論」と「心養」の二編は、はっきり福沢の真筆と確定できる論説なのである。石河は「福沢諭吉伝」(一九三二)を執筆するにあたって、彼が思い描いていた侵略的絶対主義者としての福沢像にそぐわない真筆論説を自ら編纂した正続全集に入れなかったのである。
こうして、安川氏による福沢批判の根拠は根底から覆されてしまった。「時事新報論集」所収の論説の多くが石河の執筆であり、そこに採られている論説が福沢を体現するものではなく石河の見解であるとしたら、安川氏は福沢ではなく石河を批判していたことになるからである。
富田正文編の現行版全集は、厳密な校訂をもって定評があり、一九六五年には学士院賞さえ受賞している。この権威ある全集に疑義をはさんだ者は、この四〇年近くの間に一人もいなかった。しかし石河への疑問はそのまま富田編の現行版全集にも当てはまる。全集への疑問を解くべく、二〇〇二年四月から一年をかけて本書の原型を書いたのだった。
そこで本書で明らかとなったことは主に以下の三点である。まず第一点は、現在なおも対立したままとなっている二つの福沢評価、すなわち福沢を市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする見方のうち、後者は石河による「福沢諭吉伝」と昭和版続全集が完結した一九三四年以降に新たに付け加えられた評価であったということである。
大正版全集が刊行された一九二五年まで、福沢の思想とは明治版全集(一八九八)に収められた署名著作とその後死去までに出版された「福翁百話」(一八九七)や「福翁自伝」(一八九九)などに限られていた。無署名の時事新報論説は未公刊だったのであるから、そもそも侵略的絶対主義者としての福沢の姿など創り出せるはずもなかったのである。
ついで第二点は、石河による福沢像が彼の虚構であった、ということである。石河は自分で執筆した論説を大量に大正版・昭和版の正続全集に盛り込み、それらをもとに「福沢諭吉伝」を書き上げたのであった。
さらに第三点は、この二つの福沢評価をめぐる、第二次世界大戦後間もなくして始まり今なお尾を引いている論争において、そもそも両陣営が間違った場所を戦場としていることを示したことである。
福沢は市民的自由主義者であるとする、慶応義塾の出身者と丸山真男率いる東京大学法学部出身者たちを主力とする研究者たちは、石河の仕事を尊重しつつ、侵略性よりもむしろ個人の自由と経済の発展の追求に福沢の本質を見いだすことで福沢を弁護してきた。
一方東京大学文学部とその他の大学の文学部・教育学部出身者を主な構成メンバーとする研究者たちは、石河の主張を積極的に受け入れて、侵略的絶対主義者としての福沢を批判していたのであった。今日まで大きな影響を与えている遠山茂樹氏の「福沢諭吉」(東京大学出版会一九七〇)でさえ、その骨子は石河の伝記に依拠しているのである。
現行版全集の「時事新報論集」がまったく信用できないものである以上、福沢の時事的思想の研究は未だ開始されていない、とさえいえるほどなのである。
3寄せられた疑問への応答
本書が八月に刊行されてから、いくつかの疑問が寄せられている。その第一は、無署名論説の起筆者認定が石河へ不当に辛いものになってはいないか、ということである。第二は、福沢と石河に立場の相違があったとするなら、なぜ福沢は石河を罷免しなかったのか、というもっともな問いである。第三は、福沢は市民的自由主義者であるとする私の規定はやや一方に偏しているのではないか、ということである。順に答えて行きたい。
第一については、無署名論説の認定にあたって私は井田氏の判定基準を参考にした一覧表を用いたのだが、そこに恣意性がまったく排除されているか、と聞かれれば答えに窮せざるをえない。米原謙氏よりその点についての指摘(ネットの同氏HP「政治学・政治思想の研究動向」一〇月一〇日)があり、他人の身びいきには気づいても自分の身びいきには気づいていない可能性があることを痛感した。無署名論説の起筆者推定の試みに多くの人が参加することを希望する次第である。
第二は、脳卒中に倒れる一八九八年九月以前にも問題論説(たとえば「台湾の騒動」一八九六)があるが、それらを福沢が書いていないとしても、掲載を許した責任は免れないのではないか、ということで、栗原俊雄氏(毎日新聞「ウイークリー文化・批評と表現」八月二九日掲載)から寄せられた。その点については本書一七九頁以後に大まかな答えがある。要するに、今日の目からは読むにたえない論説であったとしても、当時の状況下では、論説担当を外すというほどの卑劣作とは考えられていなかった、と推測するのである。
第三は、鷲田小弥太氏が呈された疑問(同氏HP「読書日日」一〇月二二日)であるが、これは市民的自由主義の意味する内容に、鷲田氏と私では差があることから生じたように思われる。すなわち私は、またおそらく丸山も、市民や自由主義を古典的な意味で用いていて、現代では一般的となっている、市民を国民全般と、自由主義を政治的リベラリズムと同様に見なす使い方をしていない。
福沢が士流と呼び、丸山が市民と名付けたのは、庶民(人民)とははっきり分けられたミドルクラスのことである。また、自由主義とは一九世紀英国の政治的・経済的自由を尊重する立場のことで、国民全般の福祉向上を主目的とする現代のリベラリズムとは異質なものだ。福沢は、民権(現在の用語では民力)の拡大が国権(国力)の増大に繋がると常に主張していたのであるから、一貫して英国流の市民的自由主義者といってよいのである。
こうしたことを踏まえた上での安川氏による本書の批評をぜひとも知りたく思う。 
 
『文明論之概略』 諸説

 

福澤諭吉は編集術の名手だった。 最初は翻案である。ソサエティを「交際」と訳したのをはじめ、ルサンチマンを「怨望」ととらえて、フランス語以上のイメージをつくった。 なにしろ遣米施設や遣欧施設に随行すると、その見聞をたちまち『西洋事情』『掌中万国一覧』『世界国尽』に著して(これらが明治2年までの仕事)、そうしたインストラクションの仕事にぞっこん夢中になれた。『世界国尽』など婦女子用のためもあって、すべてが七五調なのである。 そのインストラクションの工夫を、文明開化に立ち会いつつある自分が悉く引き受けるのだという自負と気概が向かうところは、その対象領域とともにまことに広かった。それこそ収税論から教育論におよび、学校経営から新聞(時事新報)の発行におよんだ。あまり知られていないけれど、『開口笑話』というジョーク集の翻案すらしてみせた。 天保5年の大阪堂島の生まれ。故郷は大分の中津藩。この時期の開明派に共通して、福澤も下級武士の家である。 はやくからめっぽう斬新で、名うての儒教嫌いだったようだが、いわゆるハイカラというのではなく、タテをヨコで眺めたり、ヨコの世界をタテの文化にすることに才能を賭けていた。のちに丸山真男がそういう福澤を、「ヨコのものをいかに自家薬籠中のものとしてタテにしたか、そこに思想のオリジナリティがあったのです」と言っている。 こうした福澤を山路愛山は「無情」と批判し、徳富蘇峰は「偏知的」とよんだ。この批判はわかる。 しかし、ヨコをタテにしてなお独創に富んでいるというのは、よぼどの才能なのである。無情に見え偏知的に見えるのは、まさにすべてを「情報」として平等均等に把握できる近代的合理性があったからで、そのような見方が維新直後の日本社会において"情実がない"と映るのはしょうがない。事実、福澤ほど「恩威情実」を批判した者はいなかった。 そこを正宗白鳥は、当時の鴎外・漱石ですら「あの頃の日本の秀才には、その頭脳の半面において甚だしい古さが潜んでゐる」と言い、「本当に頭の新しかつた人と云ふと、一時代前の福澤諭吉たつた一人であつた」と書いた。 おそらく白鳥が「頭の新しかつた人」というのは、頭の中に入っている古いものも、新たに入ってきたものも、その全部をとりあえず公平に検討できて、それらを現状や将来に応じて組み替えができるということである。 組み替えるだけではない。そこに新たな展望のための概念や方策を提示できるということである。それを一言でいうのなら、福澤は「近代編集思想」の開拓者だったということになる。また、そういう編集思想に徹する方法も編み出していた。 その方法というのは、わかりやすくいえば「A知はB知に変換できる」というもので、そのB知からまたC知をつくりだせるというものである。 実際にも『文明論之概略』では、フランソワ・ギゾーの『ヨーロッパ文明史』やヘンリー・バックルの『英国文明史』を頻繁に引いているだけではなく、それらをベーシックモデルにして、その枠組のうえに自身の見解の幹を加えて枝葉をのばした。そういう方法をもっていた。 事実、福澤がそれらの原著に書きこみをした蔵書が何冊も残っていて、福澤が猛然たる読書によって思索を拡張しながら、本書の叙述を計画的に深めていったことの跡が読みとれる。 そういう意味では、『文明論之概略』はまさに"読書編集型の思索構成"の成果なのである。きっと参考書を読みこみながら、その論旨や視点を日本社会の現実や将来に着地させるための大胆な編集をしつづけたのだろう。そういうことは、ぼくのような、ある意味では似たような作業にかかわってきた者には、手にとるようにわかるのだ。 しかしながら、本書の執筆はそのことにのみ終始したわけではなかった。「因習の日本に新たな文明論の切っ先をもちこむ」という断固たる決意によって、日本の総点検にも向かった。そのことができたからこそ、本書はその後の日本近代史のすべての文明論的先駆体をはたすことにもなっている。 福澤の手元にどんな蔵書があったにせよ、そこから抜き出した概念や用語をひとつずつ独自の日本語におきかえるたびに、福澤はそのつど独得の論述を繰り出したのだ。 誰もそんなことをしていなかった。 同じ豊前の帆足万里らの先駆者を除けば、当時「文明としての日本」などということを誰も考えていなかったし、仮に考えていたとしても福澤のように西洋をその目と体で見聞もしていなかったし、また、西洋の書物に熱中できる語学的才能も解釈力も、もっていなかった。 福澤はそれができただけでなく、文明論の洋書を読んだハナから日本への適用を翻訳語の創案とともに論述できた。その「日本語へのおきかえ」と「独得の論述展開」とが、いちいち近代以降の日本人の編集思想の原型となっていったのだ。なぜなら、「日本語へのおきかえ」はたんなる翻訳をこえて日本社会の文脈の読み替えとなり、「独得の論述展開」はたんなる西洋理論の解説ではなく、日本社会の制度や態度の提案となっていったからである。 もっとも、こうした福澤にも、いくつもの過誤や過信はつきまとう。ここでは述べないが、たとえば優生学への加担など、福澤にしてあきらかな勇み足だった。 これは編集思想というものが、素材をまちがえると、それらをいかに組み替えようと、そこから新たな展望を出そうと、最後までボタンの掛け違いがおこるということなのである。 さて、一身独立して一国独立となる。 これが福澤諭吉の確信である。『文明論之概略』ではこのテーゼが一貫して語られる。本書だけではない。福澤は晩年にいたるまで「東洋になきものは、有形において数理学、無形において独立心」と書いていた。 では、そんな東洋の、そのまた一隅の日本において、一身独立するにはどうするか。福澤は私の「徳義」を捨てて公の「智恵」を選ぶことを決断する。そもそも福澤は儒者を嫌って、これを「腐儒」とすらよんだ。儒学が門閥制度の温床になっていたからでもある。そこで智恵を得るには、そうした腐儒の狭隘なセクト主義から脱するためにも、「公智」が必要ではないかと推断する。個人の智恵ではなく社会的な智恵をつくるしかないのではないかという見解なのだ。ということは、徳義も私徳にとどまるようなものではあってはならないということになる。 一身独立にあたって公智を養う。 これは個に至って類に及ぶというなかなかの難題である。 しかし、福澤が考えつづけた「文明」とは、結局はその一点の確立に行きついて初めて獲得できるものだった。難しかろうが、従来の日本がそうでなかろうが、それ以外の方法はない。そう、福澤は確信した。その一点の確立を見定めるならば、福澤はそこから「自由」というものが日本にも得られるはずだというわけである。一人ずつの独立が公の自由をつくり、その公智が戻ってきて個を自在にするという論法なのだ。 これは誰かの主張に似ている。そうなのだ、フリードリッヒ・ハイエクかマイケル・ポランニーである。けれども、ハイエクやポランニーと福澤の立場が根本的に異なるのは、福澤がこのことを主張するとき、そこには「日本の独立」という、いまだ見えない課題が背負われていたことである。 これでだいたいの察しがつくだろうとおもうが、福澤が『文明論之概略』において「文明」という言葉をつかうのは、日本の独立のことを年頭においてのことだったのである。誰よりも早く、誰よりも独自に「文明としての日本」を議論してみること、それが福澤が本書の執筆を通して自身に背負った課題だった。 けれども、その文明の独立に進む日本は、上からの権力でつくられるべきではなく、あくまで個人の公智にもとづくものであってほしかった。 福澤が国政にも自由民権運動にもかかわらなかった理由が、ここにある。 残念ながら、福澤の論じた「文明」は日本には実現しなかった。日本は大日本帝国として明治天皇を戴いて、立憲君主制に向かっていった。 それに福澤自身も、日清戦争では世論を統一して軍民の士気を高揚させることや戦費を捻出するための献金に奔走したりして、必ずしも下からの独立に徹したわけではなかった。けれども、福澤の自由や公智は別のかたちのなかで、一身独立のしくみとして継承されていったのかもしれない。それが慶応義塾というものだろう。小泉信三の福澤論などを読むと、そんな気がする。 加えて、もうひとつ言っておきたい。福澤の方法は、今日もなおかえって吟味するに値するということである。 『文明論之概略』の試みは、近代以降の思想方法の原型になるほどの成果であった。それにもかかわらず、福澤以降、それほどの編集思想を生んだ方法の特徴に注目する継承者があらわれてこなかった。福澤の思想を議論する者はいっぱいいたのだが、その編集方法を議論する者がほとんどいなかった。それが残念なのである。 とくに戦後思想では、ヨコをヨコのまま輸入する思想ばかりが跋扈して、あげくのはて今日の日本の現代思想はそのような"ヨコ・ヨコ輸入思想"にまみれたままになっている。 ほんとうは、今日の福澤派とでもいうべき連中が、福澤思想の拡張に向かうよりも、福澤方法の解明にとりくむべきなのではなかったか。この数年、橋本龍太郎や竹中平蔵ばかりを見させられてきた者として、ちょっとそのことを付け加えておきたかった。  
以前に、お薦めできる思想研究者として南原繁・丸山真男・福田歓一のお三方を紹介しておきながら、「丸山真男氏については日本思想の研究者なのでよく知りません」と書き付け、そのあまりのいい加減さに我ながらしばし呆然としておりました。ということで、さすがにこのままでは無責任の誹りを免れませんので、古本屋で岩波新書の三巻本である『「文明論之概略」を読む』が安く購入できたのを切っ掛けに、丸山真男氏の論考を読んでみました。 結論から言えば、事前の予測に違わず、この書物はきわめて優れたものでした。福沢諭吉の明治八年の著作である『文明論之概略』について、丸山氏が岩波書店等の編集者たちに向けて私的に行ったゼミナールの記録がベースとなっており、専門家向けの論文ではないこともあってか、とても読みやすいです。今まで書店や図書館で何度も背表紙を目にした記憶があるのですが、新書ではあるもの三巻本とやや長めであることと、受験時代の歴史の知識から福沢諭吉に対して良い印象がなかったこともあり、中身を眺めてみたことはなかったのですね。 本書の内容はまさに「碩学による自由闊達な講義録」と言うべきものであり、容易な要約を許すものではないのですが、僕自身が印象深かった点を中心に紹介してみたいと思います。『文明論之概略』は先に述べたように明治八年、すなわち明治維新から間もない時期に書かれた著作であり、この著作で福沢は、当時において最新の歴史論・文明論であったギゾーの『ヨーロッパ文明史』とバックルの『イギリス文明史』を下敷きにして世界的文明論のアウトラインを描くと同時に、その中におけるヨーロッパ文明の今日的優越がどのような要因によってもたらされたのか、また日本はこのような世界的状況にどのように対峙していくべきなのかを論じています。丸山氏が読者に対して特に注意を促しているのは、福沢の論考が開国以降激しく変動する社会的状況をリアルタイムで見据えつつ現実的な議論を組み立てている一方で、しかし同時にその背景に極めて広範な歴史理解と明晰な理論的地平が存在しているということであると思われます。もう少し詳しく言うとすれば、明治維新後の日本はどのような国家像を理想として描けばよいのか、理想的国家へ進んでいくために講じられる具体的手段の中で優先されるべきものはどれか、アジア諸国が次々にヨーロッパ諸国の植民地になっていく状況において日本国家の独立はどうすれば保たれるのか、さらには国家の独立=国体の維持とは原理的にどのような条件によって可能になるのか、といった諸問題が、現実的地平と理論的地平を幾度も往復しつつ考察されていくわけです。 本書を一読して考えさせられたのは、誤解を招く表現かもしれませんが、「思想の成熟」とは一体何だろうかということでした。激動する社会的状況とそれによってもたらされる多様に交錯した諸問題を前にしたとき、人は不可避的にこれらに対する簡明な「答え」を求めてしまう。「すべての問題の根源は〜にあり、これを除去すればすべてが解決する」というような感じですね。これに対して成熟した思想家は、可能な限り幅広い視野を確保し、追求するべき究極的な理想は何かを掲げると同時に、現実を成り立たせている構成要素はどのようなものか、現実を理想に向けて組み替えていく際に取られるべき手段とはどのようなものか、その優先順位はどうなるかについて考察していくことになります。ヘーゲル的な表現を援用するとすれば、「現実的かつ理性的な」方途を模索することになるわけです。そして福沢の、さらには丸山氏の考えによればおそらく、「思想の成熟」とは一個人の思索の次元にとどまるものではない。それは一社会や一文明全体の有り様にも当てはまるのであり、社会や文明が「成熟」していくためには、それが一元的な制度や価値観に支配されるのではなく、多様な制度や価値観が並び立ち、それらの間に積極的な運動が展開しなければならないわけです。こうして福沢は、ヨーロッパの文明が他の文明に比してその内部に多様な制度や価値観を内在させていたこと、具体的に言えば、教会という宗教的制度、学術団体、会社組織などが国家に対して独立した地位を保ち、それらの間で権利主張の論争や相互援助が活発に行われてきた点を評価しています。そして日本もまた、文明の優劣といった大味な議論はさておき、内部に多様性を許容するヨーロッパ的社会像を取り入れていかなければならないし、ヨーロッパ的・近代的な国家の枠組みと、それによって構築される国際関係の秩序に、とりあえずは参入する必要がある。福沢による慶應義塾という私塾の経営は、国家からの学問・教育の独立を目標としたものでしたし、その題目だけが人口に膾炙している「脱亜入欧」論も、簡単に言えば上述のような理論的考察の結果として主張されていたわけですね。 この書物は『文明論之概略』に対する卓越したコメンタリーであると同時に、第二次大戦を挟んでの二人の思想家の対話という意味も持っています。福沢の予見した日本国家の将来像は、ある側面ではその通りになりました。植民地化を受けた他のアジア諸国に対して日本は独立を維持し、技術優先の西欧文化移入を促進した結果、経済的・技術的側面においては先進国の仲間入りを果たすことになる。しかしその一方で、福沢が当時軽視していた天皇制という国家的イデオロギーは肥大化の一途をたどり、教育や学問においても国家的統制が拡大し、福沢の著作も部分的な検閲を被ることになりました。本書は明治初頭において福沢が描いた理論的パースペクティブに照らすことによって、日本近代史全体の再考を促すものであり、今日の我々にとっても示唆に富む内容を備えています。一例を挙げるとすれば、何気なく書き付けられた次の一節、「政教一致を広く解すれば、政治の究極目的を国民教育に置く、ということです」(中巻58頁)という命題などは、盲目的に国家論に吸い寄せられがちな今日の教育論を反省する上で、とても有益なのではないでしょうか。  
現代にも存在意義をもつ日本人論
 『文明論之概略』は日本社会の特質を、長所も短所も含めて、的確に捉えている。そしてこの特質が明治以来今日まで続いており、現在及び将来の日本社会を考えていく上でも重要な指針を与えるだろう。この観点から、現在においても『文明論之概略』は存在意義がある。 本書は、世界に対しては日本の独立、日本国内では個人の独立を謳っている。当然、個人の独立と国の独立の両方を同時に考えると、両者の間には対立と緊張関係が生まれる。個人を主体にするか、国を中心に考えるか。それについては、個人が合理的精神に基づいて行動しながら、個人と国の間で妥協点を探っていくことになる。それが民主主義であり、『文明論の概略』で言わんとしたことではないかと思う。 大きな書店では専門書、教養書、通俗書というコーナーができている。個人が本を読むときには、その本がその個人にとって専門書なのか教養書なのか、或いは通俗書なのかを自ずと自覚する必要がある。その個人にとって専門書ならば、学生にとっては教科書かもしれないが、この場合はルールにのっとった読み方が要求され、指導者の下に読んでいかなければならない。教養書では、あるときは参考書の助けを借りながら、自分の知性と想像力をたくましくして読むことになる。また、通俗書であれば、ざっと斜め読みにもできるだろう。 『文明論之概略』は福澤研究者以外にとっては教養書である。幾つかの解説書もあるが、できれば、原書(もちろん『文明論之概略』そのものである)を直接読んでほしい。著者と、本を通じて、間接的に対話をしながら読んでいくと、解説書とは違った含蓄に気がつくであろう。さらに、20代、30代、40代、50代と読後感も違ってくる。 『文明論之概略』はほぼ同時代のウェーバーの『職業としての学問』、『職業としての政治』、また少し前のヘーゲルの『歴史哲学』とも相通じる点があることに気がつくと思う。そして、『文明論之概略』を執筆した当時の本人にも会って直接対話をしてみたいという気になるだろう。私が本を通じて感銘を受けたマルクス・アウレリウス・アントニウス、ベーコン、デカルト、ウェーバーなど何人か会ってみたかった中の一人である。  
江戸期の思想を読解して日本思想史の新局面を開いてきた子安宣邦氏は近代日本言説研究へと向かい、すでにいくつかの著作を著していますが、白眉となるであろう書き下ろしが本書です。 福沢諭吉の『文明論之概略』の読解といえば、丸山真男氏の『文明論之概略を読む』(岩波新書、全3冊)がよく知られていますが、著者は丸山氏のように古典のテクストとしては読まず、あくまで近代日本の黎明期の著作という歴史的な限定において読みます。アジアと日本が大きな転換期に書かれたという限定においたとき、文明論的な日本の設計を初めて提示したこの著作をいま読む意味が出てきます。現在という時代も、19世紀後半のアジアの大きな転換期から百十数年を経て、さらに大きな世界の転換に直面しているからです。この読解のもう一つの姿勢は、福沢による文明化の設計は、脱亜論というアジアとの関係のとり方と不可分であることを踏まえながら読むということです。 福沢諭吉の文明論的な設計が、当時の何を解体し、何を新たに据えようとしたのか。その設計は近代日本の国家設計に実際にどのように書き込まれたのか、また何が書き込まれなかったのか。そして、近代日本は福沢の期待したものとは違うものとして実現されたのだろうか。こうした問いをもちながら、章ごとにテクストを追いながら精読をしていきます。 『文明論之概略』は、自国の文明化が新しい日本の課題であると考えた福沢諭吉が、文明社会とはどういうものかを野蛮・半開社会との対比によって論じ、文明的社会の政治体制の問題や文明化へと至る歴史的動因について論じ、旧来の道徳支配社会から文明的な智力による社会への転換を説き、いかなる分野でも権力偏重に陥る日本の文明を批判して、日本の真の目的である「独立」に立ちふさがる「外国交際」の問題まで考察した、近代日本黎明期の重要な著作です。 文明化とは西欧の近代的主権国家を目指すことにことです。近代国家は「対内的には平和と秩序ある活動を市民に保障し、対外的には軍事力をもって無法に備え、さらにその力を行使して国益を擁護し、その拡大をも主張しうるような国家としてあるのである」(本書261頁)。その帰結は1945年の敗戦だといえるでしょう。しかし、子安氏の視線は、文明化にあたって福沢が解体しようとしたものに注がれます。特に本書の「精読4」での子安氏の議論は、福沢の国体論に対して決然と立ち向かいながらも時代の状況をよく考慮した巧みな言説を分析し、注目に値します。 至るところ新鮮な読解で充満する本書は、福沢がどれほどラジカルであったかを堪能させてくれます。それは近代主権国家がもつラジカルさでもあるのですが、子安氏はその近代化への意志を礼賛しているのでも、非難しているのでもありません。子安氏は問いかけます。「近代日本の黎明期に福沢がきわめてラジカルに提示した日本の進路を、1945年の結果をふまえてわれわれはほんとうに問い直してきたか」(291頁)。福沢が『文明論之概略』の最終章でいう「商売と戦争」が、今も問い直しのキーワードであるようです。  
 
『学問のすすめ』と『文明論之概略』

 

1 はじめに
同時期に書き進められていた『学問のすすめ』(以下『学問』と略)と『文明論之概略』(以下『文明』と略)が、どのような関係にあるのかについて、従来の研究ではさほど注意が払われてこなかった。それというのも、前者は、中津市学校生徒募集の宣伝文として書かれた初編(明治五年二月刊)が図らずも大ヒットしたのを受けて、約二年後の明治六年(一八七三)一一月から月刊形式で書き続けた啓蒙パンフレットである一方、後者は、そうした実状に飽き足らなくなった福沢が、『学問』のような思想の切り売りをやめにして、文明論を一つの体系として書き下ろした著作であるということが、自身の証言ではっきりしているからである。 明治八年(一八七五)八月に刊行された『文明』は、まず、表紙に「明治七年二月八日初立案二月二十五日再案」とある和装三八丁の構想ノート「文明論プラン」が成立し、続いて本文が翌三月から翌年三月まで、ほぼ一年をかけて書かれている。その構成は、緒言、第一章「議論の本位を定る事」、第二章「西洋の文明を目的とする事」、第三章「文明の本旨を論ず」、第四章「一国人民の智徳を論ず」、第五章「前論の続」、第六章「智徳の弁」、第七章「智徳の行わるべき時代と場所とを論ず」、第八章「西洋文明の由来」、第九章「日本文明の由来」、第十章「自国の独立を論ず」である。 一方『学問』は、この間に、六編「国法の貴きを論ず」(明治七年二月刊)、七編「国民の職分を論ず」(三月刊)、八編「我心をもって他人の身を制すべからず」(四月刊)、九編「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」(五月刊)、十編「前編の続、中津の旧友に贈る」(六月刊)、十一編「名分をもって偽君子を生ずるの論」(七月刊)、十二編「演説の法を勧むるの説・人の品行は高尚ならざるべからざるの論」(十二月刊)、十三編「怨望の人間に害あるを論ず」(十二月刊)、十四編「心事の棚卸・世話の字の義」(明治八年三月刊)と計九編出されていて、後に触れるように、そのうち十一編までは、『文明』と内容上の相関関係がある。 本論文は、『文明』の成立過程を『学問』各編との連関から明らかにしようとするものである。そこで、そのようなことを追究する目的については、論者なりの目算がある。すなわち、最初に成立した「文明論プラン」と、完成された『文明』にはかなりの相違が指摘できるのであるが、その内容の変更について、それを随時発表されていた『学問』各編に加えられた批判への応答の結果として理解できるのではないか、ということである。つまり『学問』各編は『文明』にとって観測気球の役割を果たしていて、読者の反応や反発、さらには政府の言論統制の状況を見計らいつつ完成された、という推測である。さらに、この方向からの追究を進めることで、『文明』の最終第十章「自国の独立を論ず」が、いかにも取って付けたような報国心(愛国心)の主唱で締めくくられている謎の解明にも期待がもたれよう。 このような見込みのもとで、本論は主に時系列に従って展開することになる。 
2 『文明』の基本プランを構想する ―明治七年一月から三月―
明治七年一月刊行の『学問』五編「明治七年一月一日の詞」(以下「詞」と略)は、慶應義塾における年頭の演説を採録したものである。この五編において諭吉は、文明の精神として人民独立の気力をとくに重要視し、その担い手として中産階級の覚醒に期待を寄せている。多くはその階層の出である塾生に向けての演説なのだから、それが中産階級を鼓舞する内容をもつのも当然ではあるのだが、この五編には、それに留まらないある種の切迫感が漂っているように感ぜられる。 その一つの理由は、文中にもあるように、維新後わずか六年のうちに鉄道・電信・トンネル・鉄橋などを敷設建設したり、学校や軍備の制度を整えてきた明治政府が急速に権威をもつようになったため、文明の精神ともいうべき人民の気力が衰えてきている、という認識が諭吉にあったからであろう。諭吉にとって政府とは人民から選ばれて実務を担当する技能集団にすぎなかったから、かつての幕府のようにそれ自体が人民を威圧するなどというのは、決して許してはならない退歩として映ったのである。それ故に、政府の外にいる中産階級が自ら独立の気力を高めてそれを制御しなければならない、と主張するのであるが、私は諭吉がこの時とくに中産階級論を展開したのにはもう一つの理由があったと推測する。 明治七年の正月にあって、確かに政府は権威を高めてはいたが、同時に分裂の危機に瀕していた。すなわち前年十月に征韓論を巡っての政府内部の意見調整が不可能となり、朝鮮を開国させるために軍事力を行使するべきだ、とする土佐の板垣退助・後藤象二郎、佐賀の江藤新平・副島種臣、薩摩の西郷隆盛らが一斉に下野してしまっていたのである。政府の屋台骨がぐらついているときに、人民の期待がその政府に集まるのは危険な兆候であった。だからこそ、中産階級はしっかりと政府を監視して、彼らがよい政治を行うように仕向けなければならない、というわけである。 中産階級が自らに課せられた使命を認識するのには、『学問』五編所収の演説だけでは明らかに力不足であった。そこで諭吉は、この「詞」の内容を、より理論的により詳しく記述した『文明』を明治七年初に構想したのだと私は思う。 とはいえ時は大久保利通政権下である。言論の自由はこの時期より幕末期のほうがかえって保たれていたくらいで、一度目を付けられたら当分著述活動はできない、という覚悟がいった。福沢が、ある程度までは融通のきく月刊『学問』で言論の自由の範囲を探りつつ『文明』を書き進めたのも、当時の日本人が抱きがちな誤解を、あらかじめあぶり出すためだったのだろう。たとえば、すでに西洋思想を身につけていた福沢には明白な社会契約説の説明でも、それまで西洋学を学んだことのない日本の中産階級の読者にとって、あたかも「国体」の変更であるかのように誤解されてしまう場合があるが、そうした誤解を前もって潰しておくことができる、という見込みである。 征韓論の直後に刊行が開始された月刊『学問』二編「人は同等なる事」(明治六年十一月刊)・三編「国は同等なる事」(同年十二月刊)に、すでに中産階級への呼びかけとでもいうべき側面があるとはいえ、続く四編(明治七年一月刊)の「学者の職分を論ず」では、初学者ではなく学問を修めた成人が明確に読者として想定されてきている。その中で福沢は、中産階級たる洋学者は、あくまで政府の外に留まりつつ、政府に適切な刺激を与えてそれを正しい方向に導かなければならない、と主張している。そして同じ一月刊の五編「詞」の冒頭には、「この五編も、明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずして或いは解し難きの恐れなきに非ず。畢竟四、五の二編は、学者を相手にして論を立てしものなるゆえこの次第に及びたるなり」とあって、想定読者層の水準の引き上げが告知されている。 少し前に述べたように、この「詞」は、『文明』の構想メモとなっている。完成されたそれとの連関からいうと、文明の本質は物質文明にあるのではなく精神的な部分にある、ということを示した「詞」冒頭部は、『文明』の第三章「文明の本旨を論ず」の梗概となっており、また、「詞」の中盤で日本人が独立の気概に乏しいことをなげいた部分は、『文明』の第九章「日本文明の由来」における日本人の国民性を批判した部分との類似性を指摘しうる。「詞」の終盤三分の一ほどは、文明の主導者たるべき中産階級の覚醒を促す一種の呼びかけになっているのであるが、『文明』中には具体的にあてはまる部分はないようである。あえて言えば、『文明』全体が中産階級に向けられているのだから、「詞」の結論部は『文明』の総てをおおっている、ということもできる。 元旦の演説である「詞」と、「文明論プラン」までには一カ月半ないし二カ月ある。この間に福沢は二月刊の『学問』六編「国法の貴きを論ず」を執筆しつつ、『文明』の構想を練っていたわけである。この六編は、内容的に『文明』第七章「智徳の行はる可き時代と場所とを論ず」と重なる部分が多い。また、三月刊の『学問』七編「国民の職分論ず」は、国民こそが政治の主体であることが示されていて、『文明』の第九章「日本文明の由来」の一部に利用されている。 ところで、福沢は「文明論プラン」に基づいて、明治七年三月から『文明』本文の執筆にとりかかっている。現在まで福沢自筆の『文明』草稿は十八綴り発見されていて、No.1からNo.18までの綴り番号がふられている。それらの綴りを戸沢行夫が系統別に整理しなおしたのが、草稿Aから草稿Hまでの八系統分類である。参考までにやや簡略化した一覧表を以下に掲げる。 一覧表「『文明論之概略』の自筆草稿と執筆過程」 見られるように、大まかにいえば、成稿の順は系統のアルファベット順・綴り番号の若い順(一部前後あり)といってよい。綴りの一部には成稿の月日が記入されているので、各系統の執筆時期を推定できる。たとえば三月までに書かれた草稿A・Bは、第一章から第五章までの下書きで、この下書きの総分量は、四百字詰原稿用紙に換算して五十枚強である。完成された『文明』の第一章から第五章までの総枚数は約一六五枚なので、それから一年の間に、三倍以上もの増補がなされることになるわけである。 
3 学者職分論・赤穂不義士論・楠公権助論、批判を受ける ―明治七年四月から八月―
『文明』第五章までの下書きが出来上がった三月十五日、福沢は母順を始め総勢三十名程の家族・弟子を引き連れて箱根入湯に出発し、二十九日に帰京している。そしてその直後の四月、福沢はいわゆる学者職分論争に巻き込まれることになる。四月刊の『明六雑誌』第二号には加藤弘之・西周・森有礼・津田真道らからの批判が寄せられていて、その反論として見ることのできる『学問』九編・十編「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」を書くことになったのである。 明六社は、明治六年七月にアメリカ留学から戻った森有礼の主唱で設立された日本最初の学術団体であった。九月一日に最初の会合がもたれたが、その時には諭吉は出席していない。『学問』四編「学者の職分を論ず」(明治七年一月刊)のもとになる演説がいつの会合でなされたかは分からないものの、刊行日から逆算して明治六年末の可能性が高いようだ。 その中で福沢は、政府を人間の身体に、人民をそれに対する外部からの刺激と捉え、身体(政府)の健全な育成には適切な働きかけ(外刺)が必要だと論ずる。さらに、従来の儒学者や国学者ではこの外刺の役割を果たすことはできず、西洋文明を深く理解する民間人が人民に方向づけを行いつつ、文明政治の主体としての政府を正しく導いていくことで初めて可能となる、とする。 私立する洋学者という諭吉のこの考えは、後に二〇世紀の「知識人」が果たした役割と重なっている。諭吉にとって学問とは単に社会の役に立つ技術的知識のことではなく、文明の政治を実現するための知的活動全般を指しており、そのために学者は政府の外にいなければならないのである。 その三カ月後に刊行された『明六雑誌』第二号の中で示された加藤・森・津田らの意見は、学者は政府の中でこそ役立つ、というものであった。たとえば加藤は福沢の学者職分論を民権対国権の図式で捉え、洋学者が在野で活動すると民権が伸長しすぎるのでよくない、と憂慮を表明する。それよりもむしろ政府の内部から人民を指導するほうが効率的だし混乱をきたさない、というのである。こうした意見に対して福沢(『学問』十編)は、学者の居場所が政府の中だけにあるという考えは狭隘で、学問の使い道は、農業にも、商業にも、研究にもあり、それは公務員・文筆業・新聞記者・法律学者・芸術家・工場経営者また議会政治家となっても有用である、と反論した。 また、西からの批判は、福沢の実践志向の早急さに懸念を表明するアカデミックな立場からのものであったが、その西が心配していたのは、本来学問研究を本旨とするべき学者が世論の先導者となることへの危うさについてであった。オランダの大学に留学していた西の抱く学者のイメージとは、研究室にこもって勉強を続ける大学教授のそれであった。ところが、英米系の学問を修得していた福沢は、学者の範囲を教養ある知識人にまで広げて理解していたので、彼らが社会全体へ貢献するのは当然だと考えていた。福沢が影響を受けていたJ・ベンサムもJ・S・ミルもB・フランクリンも、大学教授職に就いたことはなかったのである。 福沢は象牙の塔などというものに、価値があるとは思っていなかった。西のアカデミズム賛美を意識してのことであろうか、『学問』十編は、彼への皮肉とも取れる一文で結ばれている。「学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰い味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり」。 四月中に学者職分論批判への反論を書いていた福沢は、五月八日に母順が亡くなったことでしばらくの間執筆活動ができなかったようだ。二月に刊行されていた『学問』六編中のいわゆる赤穂不義士論と、三月刊行の七編にある通称楠公権助論への批判が、新聞に掲載されるようになったのはこの時期のことで、浜松県下一丈夫の投書(『郵便報知新聞』六月二十八日)が確認できる最初のものである。そこには、日本の国体を社会契約説で説明することからみて、福沢はアメリカ型政治の支持者なのではないか、という疑念が表明されている。さらに翌二十九日、『日新真事誌』四八号に掲載された佐藤信衛(秋田県)の投書では、楠公を権助扱いしたとして、「慨嘆憤激自ら禁ずる能はざるを以てす」とある。七編は楠木正成の名前に触れてはいないのだが、これでは楠公を名指しで貶めたと『真事誌』の読者は誤解したであろう。 上毛一万田如水の「学問のすすめの中童蒙に課し難き一二の弁議」が『新聞雑誌』(二七七・二七八号)に掲載されたのは七月一八日・二〇日のことで、それは『学問』初編の社会契約説の説明を当時の児童に施すのは望ましくない、という内容である。ちょうどこの時期には、それまでの『文明』草稿には含まれていなかった、第六章「智徳の弁」の下書き・草稿C(No.8)が書かれているのであるが、それは、六月以降にわかに高まった赤穂不義士論・楠公権助論への批判に対抗するためのようである。すなわち、智徳の進歩に従って、かつて賞賛されていた行為も時代遅れになり、かえって進歩を妨げる保守主義になってしまう、というのである。この『文明』第六章の後半は、時代遅れの君子論にあくまでしがみつく人々を偽君子として批判しているのであるが、それは七月刊行の『学問』十一編「名分をもって偽君子を生ずるの論」と大きく重なっている。 その後、注目すべき投書として、『真事誌』第八八号(八月一八日)には、南豊鶴谷山人による『学問』六・七編擁護論が掲載されている。山人の正体は当時慶應義塾に在籍していた藤田茂吉であったが、その文中で藤田は、バックルの「凡そ時世よりも進歩せる人は必ず人の謗譏を受く」という言葉を引いて、「世の開明日に新たに月に改まり、昨日の確論は今日の僻説となり、今日の賢人も明日の愚夫となるべし」と、孔孟の道もすでに時代遅れになっている、と主張している。この投書は、完成された『文明』第二章「西洋の文明を目的とすること」と同じ内容をもつものである。 山人が福沢の弟子であることを看取したものか、『真事誌』第九七号(八月二九日)の久保豊之進(広島県)による投書「弁駁」は、「(福沢の)此論を推し窮むるや、終に共和政治に帰するのみ。予深く之を悪む。是れ予同氏の論に服せざる大趣意也」と、話をさらにあらぬ方向へもっていこうとしている。 ここまで来るともはや言いがかりである。福沢はそれまで共和制が理想的であるなどということを言明したことはなかった。明治初年の段階で西洋文明国で共和制が確立されていたのはアメリカ合衆国だけで、第三共和制(一八七〇〜一九四〇年)が開始されたばかりのフランスの動向は定まっていなかった。イギリスはもとよりドイツも君主制であったから、文明の進展度と国家の体制(政体)とはとくに関係はない、というのが福沢の考えなのである。 
4 楠公権助論批判を受けて『文明』草稿を書き換える ―明治七年九・十月―
六月から九月にかけて、福沢は主として楠公権助論による強い批判を浴びている。先にも書いたように実際には『学問』七編中に楠木正成自身に触れた部分はなく、二つの政治勢力が抗争している最中に、主君に忠義だてをして討ち死にしてもそれは無駄な死であると言っているだけで、それを南北朝の争乱のことであると限定しているわけではない。にもかかわらず攻撃にさらされてしまったことで、福沢は書きつつあった『文明』にさらに改訂を加える必要を感じたものと思われる。 先の一覧表中、九月二十日と二十三日の日付が記入された草稿E(No.12,13)と呼ばれているものがそれで、第一章から第五章に相当する部分に手が加えられている。進藤咲子の研究によれば、『文明』第一章に相当する草稿B(No.1追加)、草稿C(No.5)、草稿E(No.12)の推敲の過程を見ると、次のことが明らかとなる、という。すなわち、三月に執筆された草稿Bと、草稿C(七月執筆)までは、和学(国学)について、「(漢学に比して)和学には読む可き書類も少なく、証す可き事実も稀なり」と、学問としての国学を低く位置づける一節があるのに、草稿E(九月執筆)では、この部分が削除されているのである。 また、草稿B(三月)と草稿C(七月)までは、「和学者は一系万代を主張するに在るのみ」とされていた部分は、草稿E(九月)以降は「在り」に書き替えられているが、これは、福沢は万世一系の国体を軽視している、という批判を避ける狙いによるのであろう。書き替え前でも、文脈的には、中国と日本の国家観の「違いは」、中国では易姓革命を許すのに、日本では万世一系を唱えるというところ「だけだ」、と言っているのは明らかで、国学の主張の根幹は万世一系の重視「だけだ」、と主張しているわけではないのであるが、福沢は、その部分だけを用いての攻撃を避けようとしたのである。 このように『文明』第一章から第三章までの改稿について綿密な検討を加えた後、進藤は次のように述べる。「草稿が全部そろっているわけではないので速断はできないが、この国体部分での書き替えは結果的には論を鋭くするより鈍いものにしたようだ。当時の福沢の筆は紙の上でなく剣の刃を渡るようなものだったのではなかろうか」。 明治七年九月のこの頃にはまだ発覚していなかったが、八月二九日の久保豊之進の投稿を読んだらしい京都府士族山科生幹なるものが、福沢が政府の有力者と結託して日本を共和制にしようとしているから、このような国賊はことごとく誅殺しなければならない、と唱えて、同志を募るため福沢一味の密約書なるものを偽造し、公家の九条家や中山家に示して福沢排除の密勅を得ようとする策動を、この時期にはじめている。この福沢諭吉暗殺未遂事件は翌明治八年一月に発覚しているが、それを知ったときの福沢の衝撃はいかばかりであったろうか。自伝の「暗殺の心配」の章「回国巡礼を羨む」の節には、「維新後明治六、七年のころまで」夜分決して外出しなかった、とあるが、どうやらこの『文明』執筆期間が、暗殺を心配しなければならない最後の時期であったようである。 第六章・第七章に相当する草稿E(No.14,15)には日付の記入がないが、No.13に引き続いて十月頃執筆されたものと思われる。進藤によれば、七月に書かれた草稿C(No.8)との相違点として、偽君子の実例が日本人から西洋人に書き替えられていることが挙げられ、またNo.14の「寺社建立の名を以て酒食の資を求る者は敬神愛国を唱る神職僧侶の内に在り」の一文は、神職僧侶からの反発を慮ってか、後に削除されているという。 執筆にあたって福沢が同じ部分を何度も改稿した、ということはつとによく知られていることであるが、これは内容上の変更を意味するよりもむしろ、表現の上から維新前は尊王攘夷派であった人々をいかに刺激しないで済ませるか、ということを目的としていたようである。 
5 楠公権助論、大槻磐渓により擁護される ―明治七年十月―
明治七年(一八七四)夏の楠公権助論批判には、福沢もほとほと参ってしまったようだ。『学問』七編発表の段階で注意を払ったつもりなのに、それでもこれだけの反発を招き、ついには共和主義者呼ばわりされてしまうとすれば、どのように書いても誤解を免れることはできないだろう。 先にも少し触れたことだが、こうした事態の背景には、前年十月の征韓論破裂に伴って、西郷隆盛・江藤新平・前原一誠ら征韓派参議とともに政府関係機関から旧尊王攘夷派が放逐された、という政治情勢の変化が暗い影を落としている。もともと征韓論は国内で高まりつつあった不満を対外戦争で解消しようとすることを目的としていたのだから、朝鮮との戦争は回避されたものの、征韓派の敗北によって、その内的圧力はますます高まっていたのである。福沢批判を新聞に投書していた人もまた、そうした現状に不満をもつ士族であったように思われる。 大久保利通らは彼らの気を逸らすため、明治七年五月に無防備な台湾に出兵したものの、わずか三千人余の正規軍を派遣したにすぎないその征台の役は、明治四年の廃藩置県後、放置されたままになっていた不平士族に、就職の機会を与えるものではなかった。 福沢を擁護する声は主に洋学者によって細々と唱えられていたが、『朝野新聞』十月二八日号掲載の「読余贅評六号」において、大物儒学者である大槻磐渓からの強い支持を受けることになった。洋学者大槻玄沢の息子である磐渓は、安政五年(一八五八)冬に福沢が江戸に到着した当初に世話を受けた仙台藩の儒者である。砲術の研究者として佐久間象山と交流していたため、ペリー来航時には象山の弟子であった吉田松陰から米国への密航の方法について相談を受けた人物でもある。 仙台藩実学派の思想的背景として磐渓は、文久二年(一八六二)に帰国後、弟子の但木土佐とともに同藩内において公武合体運動を推進し、慶應四年(一八六八)には奥羽越列藩同盟で中心的役割を果たしている。戊辰戦争での敗北の結果、維新後はしばらく投獄されていたが、明治二年(一八六九)には出獄、在野の文筆家となった。後明治七年の『朝野新聞』の創刊にあたっては、社長の成島柳北に協力している。 さて「読余贅評六号」で、磐渓は、「(福沢のいう)忠臣義士は蓋し狷介徒死の輩を云ふにて、決して楠公を指すに非ず」と述べる。その理由は、福沢自身による文明の定義、すなわち智徳の進歩に照らして、楠公のとった行動はそれを推進したことが明らかであるからである。そのため、「福沢氏の意楠公を相手取て論を建つるに非ざる事、断じて知る可し」と磐渓はいう。 言うまでもなく楠木正成は南朝の功臣である。正成が生きているうちに彼の事績は評価されることはなかったし、南北朝の合一も北朝の優位のもとで行われたため、その後の天皇はすべて北朝の系譜を継いでいる。明治天皇もまた例外ではない。しかし正成のように同時代の人々には評価されず、数百年も経過してから智徳の進歩としての文明を推進した者として再評価を受けることがある、と奥羽越列藩同盟を影から支えた思想家大槻磐渓は示唆するのである。福沢の弁護にこと寄せて、彼が何を言わんとしていたかは明らかであろう。 福沢自身が「慶應義塾五九楼仙万」の筆名で書いた弁明は、その十日後の十一月七日の『朝野新聞』に掲載された。そこで福沢は、自分は戦死したことをもって忠臣とする風潮を批判したまでで、楠公が偉大であるとすればそれは死んだことによってではなく、彼が目的としたことがマルチルドムに価するからなのである。また、自分を共和主義者だとする攻撃については、あまりにばかばかしい、ためにする誹謗中傷である、と反論している。この弁明は「福沢全集緒言」に再録されている。 
6 『文明』において楠公権助論批判などに応答する ―明治七年十一・十二月―
おそらくは明治七年の夏以降に高まった楠公権助論批判によって、七月までに執筆されていた『文明』中で、国学を低く評価しているかに受け取られかねない部分の表現が弱められていることは、すでに三で見た。完成された『文明』には、そればかりではなく、福沢自身が楠木正成や共和政治をどのように評価するかについて、彼自身の見解が示された部分がある。 楠木正成に関するまとまった記述は、第四章の中盤、全集では第四巻五九頁から六五頁八行目までにある。それを要約するなら、南北朝の争乱で楠木正成が討ち死にしてしまったのは、当時の日本に勤王の気風が十分には育っていなかったためで、結局のところ正成は時勢に敗れたにすぎない、「英雄豪傑の時に遇わず」ということはいつの時代にもあることで、人民の智徳の進歩に応じていずれは再評価されるものなのである、というものであるが、その内容は大槻磐渓による楠公権助論弁護とほぼ同じ内容である。 進藤の研究によれば、この部分の原型は三月に書かれた草稿B(No.7)にはすでにあって、福沢は、時勢に遇わなかった不幸な英雄楠木正成のことは、当初から取り上げるつもりであったらしい。ただ、楠公権助論批判以後の九月二三日の日付をもつ草稿E(No.13)、大槻磐渓(十月二八日)・福沢本人(十一月七日)の投書より後に作成された草稿H(No.16)では、旧尊王攘夷派の誤解を招かないよう念入りな修正が施されている。 その一例として、進藤によれば、草稿E(No.13)では、当初、「楠氏の如きは唯勤王の名を以て近傍の数百人の士卒を募り得たる者にして、当時の勢力は固より足利新田と肩を併ふ可き者に非ず」とあった部分が、傍線で削除されている。完成された『文明』では、「(正成は)河内の一寒族より起り、勤王の名を以て僅に数百人の士卒を募り、千辛万苦奇功を奏したりと雖ども、唯如何せん名望に乏しくして関東の名家と肩を並るに足らず」とある部分である。読み比べてみると後者のほうが正成を高く位置づけているのは明白である。 また、『文明』第一章には、「今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞きて忽ち合衆政治の論と視做し、今、我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんといい」という部分があるが、これは明らかに『学問』七編への批判が念頭にある。八月二九日の久保豊之進の投書によって、さらなる説明の必要を感じたのであろうか、その無理解への回答として、第二章「西洋の文明を目的とする事」の中では、君主の血統を守ることと、政治体制(政統)を時代に応じて変革することはまったく別のことであるから、天皇のもとに日本人が日本政府を維持する限り、国体は護持されているといってよい、と述べている。 進藤によれば、三月に書かれた草稿B(No.2)の第二章相当分は、全集では一九頁四行目までで、今述べた血統と政統に関する部分は、九月二十日の日付をもつ草稿E(No.12)で始めて完成された形で現れる。また、九月から十月にかけて書かれた草稿E(No.12,13,14,15)は、『文明』緒言及び第一章から第七章までを含んでいるのであるが、そのうち第二章までに相当するNo.12は、その前段階である草稿CのNo.5の二倍強の文章量になっている、という。草稿Cは七月頃の分と推測できることから、九月になって大幅加筆がなされたということになる。 明治七年の夏に、福沢は楠公権助論を批判され、また共和主義者という言いがかりをつけられて、『文明』の草稿はどんどん増加していったのである。 
7 『文明』第八・九・十章を年明けに執筆する ―明治八年一月から二月―
夏以降『文明』の増補に手間取っていたためか、『学問』は七月刊行の十一編の次は、ともに十二月刊の十二編「演説の法を勧むるの説、人の品行は高尚ならざるべからざるの論」・十三編「怨望の人間に害あるを論ず」まで五カ月間中断している。十二編以降『文明』との内容的連関が希薄になっていることは、すでに指摘した通りである。 ところで、『文明論之概略』のタイトルが、当初は『文明論』だけであったことは、梗概が「文明論プラン」と題されていたことからもはっきりしている。中井信彦と戸沢行夫は、「本書の書名は、もと単に『文明論』であった。草稿のうちで『文明論之概略』と書かれているのは、一月十八日に始まる日付のあるNo.11が最初で、それに続いて作られたNo.15・No.10も同様である。そして、それに先立って作られた整理稿であるNo.12・13・14・15はみな「文明論」と書かれたあとで「之概略」の三字が補われている。従って、書名の変更は、No.12・No.13の合綴が行われたと覚しい七年九月からNo.11が作られた八年正月までの間に行われたと推測されるが、それ以上に時期を限定する手掛りは今のところ得られていない」と述べている。 本論文の一にも再掲している戸沢行夫作成の一覧表「『文明論之概略』の自筆草稿と執筆過程」とこの記述を照らし合わせてみると、草稿Eまでの『文明論』という表題が、草稿F以降『文明論之概略』となったことが分かる。草稿EのNo.14,15に日付が入っていないため題の変更時期は十月以降としか言えないものの、その変更理由については推測が可能である。要するに、第八章「西洋文明の由来」と第九章「日本文明の由来」、そして第十章「自国の独立を論ず」を書き加えることになって、「論」に留まらない歴史的過程の要素が大きくなったため、「概略」を付けたと考えられるのである。 すでに「文明論プラン」にも、ごく大まかに、第八章・第九章に相当する「英は英、魯は魯、足利北条皆時代の人智相応の政を為せり」という記述があるが、その程度の内容ならばすでに第七章以前に含まれている。大部の西洋文明史と日本文明史をここで増補した理由は、想定される読者が、『文明』一冊だけで、その発達史の全体像を理解できるようにするためなのであろう。 第八章の執筆期間は明治八年二月三日から五日、第九章は五日から二十一日とされているが、ギゾーの文明史の要約とはいえ、第八章はいかにも短い期間のうちに書かれている。ギゾーは慶應義塾本科で教科書として使われていて、明治七年頃まで福沢の他小幡篤次郎が担当した、という須田辰次郎の証言がある。『文明』「緒言」中の小幡への謝辞は並々ならないものであるのだが、あるいはこの第八章の執筆にあたって、何らかの貢献があったのかもしれない。 第九章については、慶應義塾には日本史の授業科目がなかったこともあり、福沢が自らの知識を駆使して書き上げたと見るのが適切である。問題は第八・九章に先立つ一月十八日から二月二日にかけて書かれたとされる第十章「自国の独立を論ず」の内容である。 この『文明』全十章の内九章までは、西洋文明を目的として政治体制の変革を推進することが日本にとっての緊急の課題で、そのために中産階級は自らを政治の主体としてしっかりと自覚し、もって人民を正しく導かなければならない、という内容をもつと整理可能である。ところがそれだけではこぼれ落ちてしまう重要な部分がある。それが最終章「自国の独立を論ず」であるが、この章は、西欧諸国に蚕食されているアジアの立場から書かれているため、当然にギゾーやバックルの著作にその由来を求めることはできない。しかもその主張は相当に鮮烈で、愛国心(報国心)を自国至上主義の発露と捉えたうえで、自国の独立のためにはそうした心情をもつことも大切なことだ、と一見すると福沢らしからぬ見解が表明されている。 戸沢はこの章の要素はすでに「文明論プラン」中に見いだせると述べているが、論者としてはその事実を確認することはできなかった。そもそも「文明論プラン」には、独立・愛国・報国といった用語が一度も使われていないのである。 第九章までで十分に完結しているにもかかわらず、この第十章があるために、全体を整合的に理解するのが容易でなくなっている。最終章に至るまで、西洋の文明が目的である、というつもりで読んでくると、第十章に、「今の日本国人を文明に進るは、この国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明はこの目的に達するの術なり」などという言葉が出てきて戸惑ってしまう。文明は目的なのかそれとも手段なのか、手段だとするなら国の独立と個人の自由とはどのような関係にあるのか、説明はしっかりついていないように感じられる。 なぜ第十章は執筆されたのか、この問題は重要と思われるので、節を改めて論じることにする。 
8 『文明』第十章「自国の独立を論ず」はなぜ書かれたのか ―明治八年一月―
最終章に至って突然愛国心が重視されていることについての違和感は、多くの『文明』の読者に共通した感想のようで、小泉信三は、「合理主義の哲学の眼から見ると、先生自身の愛国心というものは説明出来ない。そこで先生はこれは公道に外れたものである。しかし外れておっても構わないと言われる。ここにおいて、先生の著作の中には屡々猛烈な色彩をもって、イルラショナリズムの思想が現れて来るのであります」と述べている。 つまり諭吉の内面にもともとあった愛国心がここにきてあふれ出ている、ということで、こうした主張は西洋崇拝者としての福沢という見方しかできない人々には意外の感があろう。とはいえ本論文ではその愛国心の由来に立ち入ることはせずに、明治八年の年も明けてから急に第十章を付け加える気になった動機について考察を進めることにする。 明治七年から八年にかけての年末年始は、『文明』執筆に掛かりきりで手紙さえ書く暇がなかったのか、長沼事件に関して千葉県令柴原和に宛てて書いた明治七年十二月二五日付書簡の次は、脱稿してから出かけた日光見物の途中、束原熊次郎なる人物に面会を求める明治八年四月十八日付の手紙まで、約四カ月もの空白期間がある。 そこで十二月以前について調べてみると、参考になりそうなものとして、「読余贅評六号」掲載の礼状として書かれた明治七年十一月六日付大槻磐渓宛書簡一七五が見つかった。そこでは、磐渓の弁護論を、「頗る吾意を獲たるものなり」と評価したうえ、さらに「今の新聞投書家之如きハ、自分にても必ず世を憂るの心得なるへしと雖とも、其実ハ世に憂らるる者なり。何とかして此輩の議論を今一段高尚之域ニ導候様いたし度」と述べている。この部分が『文明』改訂の抱負を語っているのかについては速断はできないが、この時期に、第七章までほぼ書き上げられ、表題が『文明論』から『文明論之概略』へと変更されつつ、残り三章の増補の準備が行われようとしていたのは事実である。 国を憂える憂国者こそ実は国を憂えさせる、ということが書かれた磐渓宛書簡の指し示すことは意味深長である。幕末期、幕臣であった福沢は外国方に所属して外国公館から持ち込まれる案件の処理に大わらわであったのだが、それらの多くは、尊王攘夷派が仕掛けた攘夷事件の被害にあった外国公館からの、幕府の責任を問う苦情の数々だった。文久二年(一八六二)年八月の生麦事件は、翌文久三年七月の薩英戦争を、同年五月の長州藩による関門海峡での攘夷実行は、翌元治元年八月の英米仏蘭四国連合艦隊の下関砲撃事件を、それぞれ引き起こしていた。 この二度にわたる外国との交戦が大規模な戦争にまで発展しなかったのは、偶然にすぎない。現実には、これらの小規模の戦争は長州・薩摩が英国と手を結ぶきっかけとなったのであるが、それは尊王攘夷派がもともと目指したことではなかったはずである。 インド独立戦争は、薩英戦争のわずか五年前の出来事であった。結果としてムガール帝国は滅亡し、インドは独立を失ったが、それと同じ運命を日本がたどらなかったのは、まさに運がよかった、としか言いようがない。明治維新により政府が交代したとはいえ、それは日本の国内的な事象にすぎず、諸外国としては、もとの尊王攘夷派が考えを改めて明治政府を新たに組織した、といった程度の認識しかなかった。征韓論の結果、日本政府が分裂したことをじっと見守っていた諸外国は、国論が再び攘夷へと傾くのを見取ったなら、容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろう。それが明治七年にあっての福沢の情勢分析である。 しかも先にも少し触れたように、明治七年は、近代日本初の軍の海外遠征が進行中であった。同年四月、わずか半年前に征韓論をはねつけた大久保利通は、軍事力などあって無きがごとしの台湾への出兵を決定、翌五月、西郷従道中将率いる征台軍三千が台湾に到着して掃討を開始した。彼らが東京に凱旋するのは、明治七年十二月二七日のことである。福沢が第十章を書いていたのは、日本軍の初めての海外派遣で、民衆が戦勝に沸いていた、そんな世相下なのであった。 台湾を清国領と認めた上で、沖縄の漁民を虐殺した現地人を懲罰する、というのが台湾征討の名目であった。これは日本の清国への侵略の意図をあらかじめ否定するためだが、諸外国はそのようには見なかった。彼らは、日本が国力を貯えれば、いずれは台湾や清国本土を侵すに違いない、との懸念を強めたのである。福沢は征韓論はもとより台湾征討にも反対していた。そうすることが諸外国の疑いを深める結果となることを、福沢はよく知っていたからである。 こうした政治情勢を考慮に入れるならば、第十章執筆の動機も、自ずと見えてこよう。「詞」でも触れられていたように、福沢は明治六年十月の征韓論の破裂までは、日本にも順調に文明主義が根づきつつある、という考えをもっていた。そのため『学問』初編(明治五年二月刊)結論部における報国心(愛国心)の唱導はもはや不必要との考えだったのだが、征韓論以後の急速な逆コースによって、状況は明治四年の段階にまで戻っていたのである。この第十章で、福沢が、商品製造と貿易によって経済力を高めることが独立した文明国へと至る最短の経路である、と三年前の『学問』初編と同じ主張を繰り返しているのは、野放図な軍備増強による国威発揚に警鐘を鳴らすためと推測できる。 『学問』初編は、「人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮を甘んずる者あらん、これ即ち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦すほどの心配あるにあらず」というところで終わっている。この真の報国心への期待は、『文明』第十章における、「政府よく人民を保護し、人民よく商売を勤め、政府よく戦い、人民よく利を得れば、之を富国強兵と称し、其国民の自から誇るは勿論、他国の人も之を羨み、其富国強兵に倣はんとして勉強するは何ぞや」、という問いかけに、それは「世界の勢」で、「止むを得ざるもの」であるから、「自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を修め、自国の名誉を燿かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、其心を名けて報国心と云う」との答えで報国心を定義づけたうえで、その報国心を国民が養うことは何より重要なことだ、とする中産階級の読者への呼びかけと、正確な対応関係にあるのである。 
9 おわりに
以上、『学問』各編と『文明』各章の相関関係を見てきたが、相当に煩雑なこともあり、次に本論文で明らかになったその関係をもう一度整理しておきたい。
『文明』第一章11頁一四行目から12頁一一行目は、『学問』二編人民同権論への応答。
『文明』第二章16頁八行目から23頁一五行目は、『学問』四編学者職分論の敷衍。
『文明』第三章41頁二行目から43頁九行目は、『学問』五編冒頭部文明精神論の敷衍。
『文明』第四章63頁三行目から65頁八行目は、『学問』七編楠公権助論への応答。
『文明』第五章79頁一五行目から81頁三行目は、『学問』七編国民職分論の敷衍。
『文明』第六章112頁一二行目から114頁一〇行目は、『学問』十一編偽君子論と同じ。
『文明』第七章127頁一〇行目から133頁九行目は、『学問』六編法令遵守論と同じ。
『文明』第八章はギゾーのヨーロッパ文明史の翻案であるため、『学問』に対応部なし。
『文明』第九章は福沢の日本文明史であるが、それは『学問』七編国民国家論の反対物として提示。
『文明』第十章190頁六行目から192頁四行目は、『学問』初編結論部報国論と同じ。
六にも書いたように、『文明』第十章の自国の独立に関する記述は「文明論プラン」にはまったくなく、書名が『文明論』から『文明論之概略』へと切り替えられた明治七年十月以降に、新たに盛り込まれることになった主題のようである。『文明』の最後に至ってこのような変更が行われた理由としては、一つには、楠公権助論批判の過程で、旧尊王攘夷派に連なる人々が文明の本質を相変わらず理解していないことが明らかとなったこと、二つには、彼らの愛国的活動が、かえって日本の独立を脅かす危険のあることを、さらに強調するにしくはないことがはっきりしたこと、そして三つには、日本のアジアへの進出が招来する西洋諸国の疑念は、最終的には日本の独立を脅かす危険があることを警告する義務感が生じたこと、などが考えられる。 
 
福沢諭吉「福翁自伝」

 

福沢諭吉の歩んだ道をたどると、彼ほど父母の影響を強く受けた人も少ないのではないかと思われる。 諭吉は1835年、大分・中津藩下級武士の末っ子として生まれ、幼くして父を失い、母の手一つで育てられた。教養人でありながら下級武士という身分のため不遇な生涯を送った父の無念を思い、諭吉は理不尽な身分制度に異議を唱え続ける。一方、母は貧しい生活の中にあっても近所の子供たちの服を繕い、シラミを取ってやるような博愛精神の持ち主であった。母を助けながら逆境を生き抜くたくましさを身に着けた諭吉は、自由平等の理想主義者であり、同時に状況を見極めてしたたかに生きていく現実主義者として、この国の歴史に名を刻んだのである。 中津藩から派遣された諭吉が、長崎で蘭学を学んだのは54年。翌年、大阪の緒方洪庵塾に移り、58年には藩命により江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開設した。だが、蘭学の無力を知ると59年にはさっさと英学に転向。60年には艦長の従僕として咸臨丸に乗り込み渡米するという要領の良さである。その後、幕府の遣欧使節団の一員として欧州7カ国を訪問し、その見聞をまとめた「西洋事情」で、思想家としての評価を高めた。 明治新政府が廃藩置県を実施し、300年続いた幕藩体制という巨大な"重し"が外れると、士族は各地で反乱を起こし、大衆は新時代の到来を歓迎した。有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」の人間平等宣言で始まる「学問のすゝめ」は、4年間、17編にわたって書き継がれ、合計340万部も売れた。今日のように書籍が大衆化していないころのこの数字は驚異的である。人々がいかに諭吉の思想を喜んだかが分かろうというものだ。「門閥制度は親の敵(かたき)」とした諭吉の思想の根っこに、父の不遇への思いが色濃く反映しているのは明白である。財をなした諭吉は、中津藩時代の蘭学塾を拡張発展させて、慶応義塾を創設する。後には、雑誌や新聞も創刊し啓蒙(けいもう)思想家としての地位を確立したのである。 偉人としてあがめられる諭吉だが、一方では「ただの男」でもあった。何よりも酒を愛した。大阪時代には「町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客」という店に入り浸った。30代を「朝でも昼でも晩でも時を嫌わず、よくも飲みました」と振り返り、晩年も「今の大酒家と言っても私より以上の者はまず少ない」と言う。 子煩悩でもあった。四男五女の父親として、それぞれ誕生時や幼少時の様子を書き残している。長男、二男が米国に留学した6年間には「半死半生の色の青い大学者になって帰って来るより、筋骨逞(たくま)しき無学文盲なものになって帰って来い」などとしたためた三百数十通の手紙を送っている。 諭吉は民主主義者、自由主義者、合理主義者と評価される半面、西洋崇拝、政府への妥協や権道主義への転向などと批判もされる。 つまり、諭吉の「脱亜入欧」思想が太平洋戦争後はアジア侵略の象徴とされたからである。だが、「文明論之概略」の中で諭吉は、欧米人を「狡猾剽悍(こうかつひょうかん)」(ずる賢く、荒々しい)と表現している。「これが制御の下にて束縛を蒙ることあらば(中略)我日本の人民は、これに窒塞するに至る」と警戒心をむき出しにしている。もろ手を挙げて西洋文明を礼賛していたのではないのだ。当時、欧米列強はアジアへと進出を続けていた。日本が独立を保ち、植民地化を避けるためには西洋流の近代化が不可欠である、と。「脱亜入欧」は、諭吉の現実主義者としての判断によるものだった。 諭吉が最も伝えたいことは何だったのだろうか。明治維新直後の1870年、母親を東京へ呼び寄せるために中津を訪れた際に書いた「中津留別(りゅうべつ)之書」に答えがあろう。新政府への不満分子が各地で要人暗殺事件を繰り返していた。諭吉の周辺でも不穏な空気が漂う中で書かれたものだ。 「自由といへば我儘のよふに聞れども、決して然らず。自由とは、他人の妨を為さずして我心のまゝに事を行ふの義なり」 福沢旧邸保存会(中津市)の青木憲行事務局長(59)が解説する。「命の危険が迫っている、古里を訪れるのも最後かもしれない−。そんな状況下だからこそ、思いの神髄が書き記されたのではないか」。自由とは何か。日本はどこを目指すのか。さらに、福岡大学人文学部の大嶋仁教授はこう言う。 「自主性の強さ、行動力、旺盛なチャレンジ精神は、今でも日本人の枠には収まりきれない」 「中津留別之書」の執筆から100年を経て、私たちが学び取るべきことは、まだまだ多い。 自伝文学の傑作とされる「福翁自伝」は、諭吉の口述を速記し、諭吉自身が推敲、加筆した作品である。1898年から67回にわたり、諭吉が創刊した新聞「時事新報」に連載され、翌年単行本として刊行された。現代人にも読みやすく、単なる「自慢話」に留まらない。明治近代史を読み解く大きな手掛かりである。
ふくざわ・ゆきち
1835年1月10日、大阪の中津藩蔵屋敷で生まれる。54年に長崎へ遊学、55年からは緒方洪庵が大阪に開いていた「適塾」で学んだ。58年、藩命で江戸へ移った後、60年に咸臨丸に乗り組み米国を訪れたほか、62年に欧州7カ国を歴訪、67年には再び訪米し見分を広めた。欧米の社会事情を初めて日本に紹介した「西洋事情」(66年)をはじめ、「学問のすゝめ」(72年)「文明論之概略」(75年)「福翁自伝」(99年)などを次々と記し、日本の歴史の転換期に大きな足跡を残した。68年に慶応義塾(現慶応大)を創設、東京学士会院(現日本学士院)初代会長も務めた。1901年2月、66歳で死去。 
 
福沢諭吉 / 文明論と経済学

 

1.研究史
福沢諭吉は五巻からなる『全集』(1898)を生前に自ら編んでいるが、これは著作のすべてを含むという意味の『全集』ではない。彼の没後石河幹明によって全一〇巻の大正版『福澤全集』(1924-25)、全七巻の『続福澤全集』(1933-34)が編纂され、これが戦後の全二一巻からなる『福澤諭吉全集』(1958-64)の基礎となっている。なお、最近全四巻からなる『福澤諭吉書簡集』(2001-2003)が刊行された。石河は慶應義塾から委嘱されて四巻からなる『福澤諭吉伝』(石河1932)を執筆している。 福沢についての全般的評価やその経済思想についての研究も戦前にはじまっている。日本の近代化に貢献した合理主義者・自由主義者というのが大方の評価であるが、「自由主義」の評判の悪かった戦前期には、国家主義的な要素を強調した福沢像が描かれている。他方、マルクス主義の歴史家の間では、明治政権の理解とかかわって、福沢が「新興ブルジョアジー」の代表者なのか、それとも「絶対主義者のなかの開明派」なのかという見解の対立があった。 経済学・経済思想の面にわたって福沢を論じたものはそれほど多くないが、住谷悦治と堀経夫の開拓的な日本経済学史では、福沢は自由主義の経済学者のなかに分類されている(住谷1934、堀1935)。しかし、堀は福沢が自由主義と並んで「国民主義的傾向を併有」していたとする。慶應の経済学史家である高橋誠一郎は、幕末期の福沢は自由通商論を説いていたが明治の六−八年頃には保護主義に転向し、晩年には自由主義に戻ったという段階区分を行っていた(高橋1947)。 戦後においては、小泉信三の小著(小泉1966)が合理主義的な科学観にもとづいて日本の近代化を推進した福沢像を描いた入門的な著作となっている。しかし、日清戦争の勝利についての福沢の感激を重視し、最後を父百助への思慕で結んでいることは戦前・戦中期の福沢論との連続性を感じさせる。慶應義塾を守り抜いた塾長にふさわしい標準的福沢像というべきなのだろう。著者が経済学者であるにもかかわらず、経済論に触れることがないのが残念だが、この点は高橋誠一郎や野村兼太郎(高橋1947、野村1958)に譲ったのであろうか。 千種義人の二巻(千種1993,1994)は、福沢の経済論・社会論の各論にわたっているが、理解の仕方は高橋に近い。それに対して、福沢の紙幣擁護論に古典派の教条にとらわれない「日本資本主義の代弁者」を見出した長幸男(長1963)は、明治絶対主義のもとでの資本主義の発展という服部之総(服部1955)の問題提起を受け継いだものと言えるだろう。自由主義的な福沢解釈を詳細に批判し、福沢には自由主義的要素と同時に前自由主義的な重商主義の要素もあるとして、全体としては「無残な矛盾の体系」となっているという印象的な評言で結んだ杉山忠平(杉山1986)もこの系列に位置づけられるであろう。 自由主義的近代化論者と開明派絶対主義者、あるいは自由主義経済学者と重商主義的保護論者という対立しあう見解に対しては、飯田鼎(飯田1984)はそれらの側面の存在をすべて認めながらも、「これらのイデオロギーのすべての側面を併せもつ国民国家論者」(飯田1984)という理解が可能であると主張した。それに対して、自由主義のもとでも帝国主義的な政策(「自由貿易帝国主義」)は取られうるし、古典派経済学においても政府の勧業政策は許容されると論じた藤原昭夫は、より古典的自由主義に近いスタンスから福沢の経済論を理解している(藤原1998)。計量的方法をとる経済史家でもある西川俊作は、福沢が古典派から出発しながらも、洋学修行のなかで体得した科学的な思考法によって分析における「独創性」も発揮した実践的なエコノミストでもあったと論じている(西川1985)。 福沢と西洋経済学の出会いについては、福沢を論じる人のすべてが必ず触れるところであるが、いまでは『西洋事情外編』の下敷きになったチェンバーズ版『経済学』原書の作者がスコットランド啓蒙の研究者であったジョン・ヒル・バートン(JohnHi」」Burton,1809-81)であることが明らかにされている(クレイグ1984)。チェンバーズ版『経済学』は以前からしばしば取り上げられていたが、杉山は『西洋事情外編』で福沢が意図的に省略された箇所について論じている(杉山1986)。他方、藤原は、福沢が慶應義塾での講読に用いていた経済書の著者フランシス・ウェーランドの経済学と倫理学についての研究をおこない、ウェーランドのキリスト教信仰を背景にして生まれた「秩序ある進歩」の思想が、福沢および慶応の思想のなかに受け継がれたとしている(藤原1993)。 最近になって関心が高まっているのは福沢の経済論の伝統的経済思想との関連である。長崎に出て蘭学を学ぶ以前の諭吉は、中津の漢学の塾に通って一通り以上の漢籍の素養を得ていた。また、彼の周囲には、三浦梅園や帆足万里の合理主義的な自然論から亀井南冥の現実主義的な政略論など、旧来の儒学の枠を超える思想的要素が存在していた。こうした要素の福沢に対する影響は、これまでは今永清二(1979)横松宗(1991,2004)のように地方史家の関心領域のように思われていたが、近年の日本経済思想史研究の進展と結びつきはじめている。その代表が、坂本愼一(2004)である。 経済学あるいは経済思想の枠を超える問題であるが、福沢に対する批判的なスタンスは、現在では彼の「脱亜論」を中心に形成されている。福沢は、朝鮮・中国の民衆を蔑視していて、あからさまな帝国主義を志向していたと論じているのは安川寿之輔(2000)であり、彼はさらに現代における福沢の最良の理解者とされる丸山真男(丸山1986,2001)の福沢論批判に至った(安川2003)が、これは福沢の近代化論のなかでの農民や地方、あるいは女性の位置という問題にも結びついている。以前から批判的な立場からの福沢論の代表者は遠山茂樹(遠山1970)とひろたまさき(ひろた1976)であるが、ひろたの最近の福沢観も留保はあるものの安川のそれに近い(ひろた2001)。しかし、他方で、これまでほとんどすべての福沢研究者が依存してきた『福沢全集』に対する深刻な疑問が平山洋(2004)によって提起されている。プレ・ファシズムの時期に『福澤諭吉伝』(石河1932)を執筆した石河幹明は、彼に編纂がまかされた『福澤全集』の「時事論集」の諸巻に、露骨な対外拡張主義を表明した彼自身の執筆になる「社説」を多数組み入れたというのがその疑惑である。しかし、文明論者福沢にとって、アジア諸国との関係、近代化・産業化に取り残された人々との関係がどのように理解されていたのかというのは、『全集』編集への疑惑を超えて存在する問題である。新たに刊行された『書簡集』も含めて、より一層慎重な文献考証を経たうえでの立論が要請されているであろう。 
2.福沢諭吉の生涯
福沢は明治維新後の変化を経験した自分たちの世代を「一身にして二生を経る」と表現しているが、実際に彼自身の生涯も、ちょうどその真ん中に位置する維新を挟んで前半と後半に二分されている。前半では、彼は地方藩下級武士の家に生まれながら洋学者となり、当時の日本人の誰よりも深い西洋認識を得ていたが、なお身分的制約に縛られていた。福沢は幕府の翻訳局に出仕していたが、そこでの仕事自体が守旧的な上司の監視下にあったし、また、慶應三年の米国渡航の際には旅行中に不都合があったとのことで謹慎の処分を受けている。それに対して維新後の後半生は、彼の信条どおりの「独立自尊」の生涯である。維新の変革は、福沢の陪臣あるいは幕臣としての出世の可能性を奪ったが、その代償に自由を与えた。新政府への出仕を断った福沢は、いちはやく藩を離脱し、自らの私塾と出版活動によって生きることを選択した。その著述活動も、翻訳・紹介ものから思想をもった批評的論説に移行した。私立の学校には時として政府からの圧迫があり、また著述・出版活動については世論の反発や偽版の横行といった困難があったが、福沢はそれを耐えしのいだ。しかし、彼自身「掃除破壊」の時期と「建置経営」の二段の時期があったと言っているように、この後半生三○余年の福沢の言説についても、前期と後期を区分できるかもしれない。 福沢諭吉は天保五年の一二月一二日(西暦では一八三五年の一月一○日になる)に、現在は大阪大学医学部の敷地になっている大坂堂島の中津藩蔵屋敷の長屋で、父百助、母お順のもとに生まれた。八歳上の兄三之助と姉三人がいた。父百助は学者肌の人物で、軽輩ながら御廻方として勤めながら、学者としての交際を保ち、乏しい収入をはたいて貴重な和漢書を買い集めていた。諭吉の名前は、ちょうど同時期に百助が入手した明律の『上諭条例』にちなんで付けられたという。 父百助は諭吉がわずか二歳半のときに病死したので、一家は中津に移り住んだ。なじみのない町であることに加えて、藩士としては最低に近い下士の身分であっったから、一家は近所交際も慎みながら、母お順を中心にして寄り添うように暮らしたようである。諭吉も内職で家計を助けなければならない状況であったので、人よりも遅れて、一四−五歳になってはじめて漢学の塾に入ったが、上達は早かった。母お順が子供を躾けるに際してつねに父百助を引き合いに出し、兄三之助も学問好きな模範的な孝子であったから、学問への素地はすでに家庭内で得られていたのであろう。諭吉が師としたのは白石照山という筑前の亀井南冥の系譜を引く儒者で、後に中津藩といさかいを起こして臼杵藩に移っている。諭吉は、白石の塾で経義の研究を続け、数年のうちに「漢学者の前座ぐらい」になったと回想している。 諭吉が中津をはじめて出たのは数え二○歳の時で、洋式の砲術を学んだらどうかという兄のすすめにしたがったものである。彼は長崎で砲術家山本物次郎の家に入り込み、応接・家事万端を引き受けながら、オランダ通詞についてオランダ語のてほどきを受けた。しかし、長崎に同時に滞在していた中津藩家老の息子のそねみを受けて一年後に長崎を去らなければならなくなる。諭吉は、中津に帰らず江戸をめざしたが、大坂で勤務していた兄に引き止められて蘭医緒方洪庵の適塾に入門した。洪庵の塾で諭吉は水を得たかのように学問に励んだが、医学だけでなく、物理、化学、工学を含む科学全般について幅広く学習したと思われる。適塾で知り合った蘭学仲間には、後の大村益次郎(村田蔵六)や箕作秋坪、長与専斎などがいる。しかし、翌年兄の突然の病死で家長となり、中津で実直に藩と家族への勤めを果たすか、それともひとり蘭学で身を立てるかという選択に迫られた。彼は後者を選び、中津の家を整理し、父百助の蔵書を売却して得た学資でふたたび適塾にもどり蘭学修行を続けた。 中津藩は「オランダ大名」と呼ばれた奥平昌高を藩主として以来、蘭学に好意的な藩であった。藩士の籍のある福沢が適塾で名をあげたことを聞きつけたのであろう、福沢に江戸屋敷で蘭学塾を開くようにという藩命を与えた。福沢は、適塾の後輩一人を伴って、安政五年江戸に移り、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷の長屋の一角で蘭学塾を開いたが、これが後の慶應義塾のそもそもの発祥ということになる。しかし、西洋人の生活を実見しようと横浜の居留地を訪れた福沢は、オランダ語がほとんど通用せず、英語がもっとも重要であることを知らされる。彼は、心機一転英語の学習を開始するが、その時に聞きつけたのが、幕府の咸臨丸米国派遣の計画である。福沢はつてをたどって軍艦奉行木村摂津守の従僕となり、万延元年春についにサンフランシスコに上陸する。彼をもっとも驚かせたのは、アメリカで利用されている技術ではなく、婦人が社交で対等な役割を果たすことや初代大統領ワシントンの子孫について誰も関心をもっていないといった社会・風俗の違いであった。この最初の渡航では、資金の余裕がなかった諭吉は、ウェブスターの英語辞書一冊と『華英通語』という英語・中国語の単語・文章の対照冊子を購入するにとどまったが、それによって英語力を倍加させることができた。 この第一回目の渡航から帰ると、福沢は、同じく中津藩士の土岐太郎八の娘錦(きん)を娶っている。土岐は江戸在勤の上士であったが、福沢の学者としての将来性を評価したのであろう。福沢の錦との夫婦生活は生涯を通じて円満で、四男五女をもうけただけでなく、数人の養子も育てている。福沢は福沢の行動的な探究心は、結婚によって鈍らされることはなく、今度は欧州諸国への開港開市の延期交渉のため使節団が派遣されるという計画をききつけて、これに通訳として参加できるように運動した。この二回目の渡航は、文久元年の暮れから翌年一一月におよぶ長期の旅行で、英国船で香港、シンガポールからインド洋、紅海、スエズ地峡、地中海をへてマルセイユに着き、フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ロシア・ポルトガルと欧州諸国を巡歴している。 福沢はこの旅行に際して詳細な記録『西航手帳』を残し、またこのときの見聞が『西洋事情(初編)』を公刊する基礎になった。福沢はさらに維新の直前の慶應三年にも、幕府がアメリカに注文していた軍艦の受け渡しにかかわる勘定方役人の派遣に同行し、半年間のアメリカ旅行を行っている。今度はサンフランシスコだけでなく、東部の大都市をも見聞することができた。この時は、諭吉はかなりの額の書籍購入の資金を用意して旅行にのぞみ、大量の洋書を日本に持ち帰っている。 維新前の江戸在住期の福沢の職務は、既に述べたように、藩命で開いた洋学塾の維持と幕府の翻訳方への出仕の二つである。藩命といっても、正式の学校(藩校)ではなく、江戸屋敷の一角で家塾を開かせ、藩士ないしその子弟の学習を奨励するという程度のことにすぎない。したがって、塾の場所が藩屋敷の外に移り、また福沢自身が藩から独立すれば、福沢の純粋な私塾となったのである。福沢は幕府の命運がついた慶應四年の春に、その塾を芝新銭座に移し、慶應義塾をなのり授業料などの制度を定めた。この年の五月一五日に彰義隊戦争の砲声をよそにウェーランド経済書を講読したので、慶應義塾大学では現在もこの日を「ウェーランド講述記念日」と呼んでいる。二度目のアメリカ渡航で彼が買い込んだ多数の書籍は、この塾での洋学教育の充実のために用いられたのである。 幕府の翻訳方に出仕したのは、はじめは第一回目のサンフランシスコ渡航からの帰国後であったが、その身分ははじめ「雇い」であった。後に「召抱え」になったので、陪臣から直参に昇格したことになる。仕事は、外交文書の翻訳が主であったと思われるが外交文書の漏洩などで切腹を申し付けられた例もあるので、気をつかう職務であったと思われる。幕府勘定方の有力者に西洋経済書の目次を訳したものを見せて、「競争」という訳語が不穏であると咎められたというのも、この幕府翻訳方の仕事と関連していたかもしれない。現在では馬鹿馬鹿しい話のように思われるが、福沢としても幕府要職者の反応を無視することはできなかったであろう。他方で、やはり経済学への関心をもった友人神田孝平が異人嫌いの賄い婆に開国通商の利益を説いて成功しなかったことを聞いて、筆で説得してみるのも面白いと考えて、『唐人往来』という文章を書いて匿名で配布している。この頃の福沢は、旧友の大村益次郎などが強硬な攘夷派になっていることに驚いているが、彼自身としては、幕府の権力を強化して開明政策をとらせることを考えていたようである。したがって、明治政府が成立したあとでも、最初のうちは、新政権が攘夷政策や復古政策をとるのではないかと警戒していた。 明治期に入ってからの福沢は慶應義塾に拠って教育と言論で立つことで一貫している。すべての出仕をやめ塾の経営に専念することを決心し、「慶應義塾」と命名すると同時に、塾則を定め、入塾料・月謝で運営することにした。この塾では、「東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点」という認識にしたがって、物理学(「窮理学」)を含む授業内容が整備されると同時に、折にふれて「独立心」を涵養する演説や筆記が行われた。帝国大学が整備されるのは明治一○年以降であるから、慶應義塾は明治初期においてはもっとも重要な人材供給源であり、福沢も卒業生の各界への進出を可能なかぎり支援している。福沢は、三井に中上川彦次郎、武藤山治などをおくりこんでその近代化を助けるとともに、新興の岩崎弥太郎の才能を認め荘田平五郎、豊川良平など多数の人材をその協力者として提供した。 福沢は明治三年に中津に帰郷したさいに藩に洋式学校の創設をすすめていたが、それに引き続いて同郷の友人たちに向けて書き始めた文章が明治五年の二月に第一編が出た『学問のすゝめ』である。おりしも明治四年に創設された文部省によって全国に学校が整備された時期で、福沢がその後四年間にわたって書き継いだ前後一七編の売れ行きは、流通部偽版も含めて総計すれば一○○万冊近くに達している。福沢も学校制度の整備に助言を惜しまず、私設文部省は三田にあると噂されるほどであった。 初学者を対象とした『学問のすゝめ』が全国にいきわたりつつあるなかで、既に何らかの学問を身につけている読者を対象にして、自分の思想的立場を体系的に論述したのが明治八年の『文明論之概略』である。ここでは、福澤はバックルやギゾーの文明史観を自らのものとして、さらにスペンサーやJ・S・ミルなどをとりこんだ上で、科学的方法と独立心を重視する彼の歴史的発展観を示している。福澤は、外形としての文明の背後にある「文明の精神」とは、「人民の気風」にほかならないとしたが、それは歴史を名分論で語る儒学的歴史観にとってかわるべきものであった。 この『学問のすゝめ』と『文明論之概略』は、福澤の表現でいえば「破壊掃除」の仕事である。それに対して、政策論や制度論は「建設建置」の仕事になるであろう。福澤は、明治も一○年を経て民権思想の高まりが見えてくると、民権の正確な理解を普及させるために『通俗民権論』を執筆したが、同時に国家・政府の役割をも理解させるべきだと考えて『通俗国権論」をも執筆して、二著を同時に刊行した。「国会」開設の提案も、福澤が他人の名前を借りて『郵便報知新聞』に掲載させた文章が嚆矢になったようである。 明治初期において、福沢は明治新政府の拙速・強引なやり方に不満をもちながらも、政府の中の開明派(はじめ大久保利通、その後、大隈重信、井上馨、伊藤博文ら)と連携していた。明治一四年の政変の前には、国会開設の機運が高まるなかで、福澤は当時の政府首脳であった大隈・伊藤・井上から新聞発行の依頼を受けていた。しかし、大隈は民間人と結託して政府転覆を企てたとして追放され、福沢系の人物はすべて政府・官界から排除され、福澤は単独で新聞を創刊して維持しなければならなくなる。これが明治一五年三月に刊行された『時事新報』である。福澤の弟子には、馬場辰猪のように自由党に参加したものもいるが、福澤はルソー流の人民主権論にたつ民権論は拒絶していた。大隈の改進党系に近かったが政党とは距離を保ち、もっぱら言論によって政治に関与した。社説のほとんどは彼が執筆するか、あるいは彼の添削になるものと言われている。福澤は執筆した社説の多くを編纂しなおして単行本にしているが、それらに収録されなかったものも多い。 戦後になって、有名になった『脱亜論』(明治一八年三月一六日掲載)もその一つである。福澤は後の独立党の指導者となる金玉均と親交があり、慶應義塾に多数の朝鮮人留学生を受け入れており、甲申事変にすら関与していたという見解もある。東アジアの「悪友を謝絶」し、西洋人のやり方で「処分す可きのみ」という『脱亜論』は、旧態依然としたままの清国を宗主国と考える旧勢力が支配するかぎり東アジアには近代的独立国家は生まれないという絶望観を表明したものであった。したがって、東アジアにおける旧勢力の本拠である清国との戦争は福沢にとって「文明」と「野蛮」の戦いであり、彼は日清戦争を熱烈に支持し、高額の醵金を行った。しかし、『時事新報』に掲載された拡張主義的な「社説」や人種差別的な「漫言」のすべてを福澤に帰すことができないことは、平山(2004)によって指摘されている。 福澤は「政府」ではなく、「中産階級」が社会の支柱であると考え、日本においてその成長を促進するために尽力した。慶應義塾によった教育活動もその一環であるが、その卒業生を中心に明治一三年に交詢社という社交組織を設立している。これは政治組織ではなかったが、活発な知識の交換や協力を通じて明治期の人々の横断的な連携に貢献している。また、各種の学校、会社、銀行、保険会社や経済団体の設立についても様々な関わりをもった。 福沢は、学者に対して、政府から独立して現状を批判し未来を構想するという点で、大いに期待するところがあった。明治六年には洋学派の学者たちで集まって『明六雑誌』を刊行したが、それに福澤は「学者職分論」を掲載し、政府の下で才能・知識を提供することが学者の職分ではないと論じた。晩年には北里柴三郎を援助して伝染病研究所をつくらせた。政府に権力および知識・人材が偏重することは、いくら開明的な政府であろうとも専制に復帰することにほかならないからである。 福沢の思想において特筆すべきことは、その近代的な家庭観である。門閥制度を福沢が「親の仇」というとき、それには個人の独立を縛り付ける世襲的な家制度も含まれていた。母が中心の家で育ち欧米で男性と対等にふるまう女性をみた福沢は、家庭における男女平等を肯定した。儒教的な男女の「別」の議論に反対して「男女の交際」を論じ、夫婦間で互いに「敬意」をもちながら「情愛」にみちた家庭をつくることを提唱した。封建的な婦人道徳論に反対して明治一九年に『日本婦人論』を刊行しただけでなく、数年後にその男性版『日本男子論』をつけくわえたのもいかにも福澤らしい。 福沢は、当時の日本人としてはきわめて頑健な身体をもち、健康を誇っていたが、酒好きでもあった。晩年は節酒に努めていたが、明治三一年九月に脳溢血に襲われたことに、その酒好きが関連していたかどうかはわからない。一命はとりとめたが失語症が残ったので、それ以降二年間の福澤の著作とされるものは何にせよ誰か他人の手が加わっているとみた方がいい。幸いなことに『自伝』の公述筆記はその前におこなわれていた。門人たちの編纂で『修身要領』が作成された。明治三四年元旦、ある程度の回復をみせた福澤を囲んで二○世紀を迎える会が催され、その席で福沢は「独立自存迎新世紀」と大書したといわれる。同年一月二五日に脳溢血が再発し、二月三日に享年六六歳でなくなった。 
3.西洋経済学との出会い
日本人の経済思想は、福沢諭吉において転換を見せた。それは、統治の術としての伝統的な経済論(経世済民論)から西洋的な市場経済を基礎にした経済学への転換である。篤学の父の遺風の残る家に育ち、数え二十歳で中津を離れて長崎に出るまで漢学の塾に通っていた諭吉は、江戸期の学者たちの経済論についても十分な知識をもっていた。したがって諭吉が西洋の経済思想を受け入れたのは、日本の経済論には無いものをその中に発見したからであろう。 それは、一体何であったのか。私は、人事の世界に属する経済においても「法則」aw」が存在し、その探求の仕方と利用の仕方において、自然界の「法則」に異なることはないという見方がそれであったと考える。福沢のことばでは、「経済の定則」あるいは「経済学の定則」である。 西洋経済学の基本思想を、当時の欧米の経済学の入門書から学んだ諭吉は、それをしばしばアダム・スミスと結び付けている。 「始めて経済の定則を論じ商売の法を一変したるはアダム・スミスの功なり。」(『すゝめ』) 「アダム・スミス経済の定則を発明して、世界中の商売これがために面目を改めり。」(『概略』) しかし、アダム・スミスの経済学は、国内国外を問わず市場が発展し、商業化された生活のなかで「平明な利己心」によって導かれる人々を前提としている。それに対して、諭吉が目の前にみていたのは、封建社会の統制に無気力に従い、また時としてその裏返しのような放恣に走る人々であった。こうしたなかで、どのような「経済の定則」が現実性を有していたのだろうか。この問いかけは最近では、慶應義塾出版会版の『福沢諭吉著作集』の経済論集に解説を書いた小室直紀(小室2003)によって提出されている。小室によれば、この問いかけは、半世紀前に野村兼太郎がやはり福沢諭吉の経済論集を編集した際にすでに発されている。おそらく、福沢の経済論を紐解く者の誰しもが抱く疑問なのであろう。
(1)チェンバーズ版経済書との出会い
「経済(学)の定則」という言葉は、最初には『西洋事情外編』にあらわれている。 「世界万有を察するに、日月星辰の旋転するあり、動物植物の生ずるあり、地皮の層々相重さなるありと雖ども、各々一定の法則に帰して、嘗てその功用を錯ることなきは、実に驚駭に堪たり。抑々経済の学に於ても亦一定の法則あること他に異なることなし。その定則の一班を窺うときは、或は欠典あるに似て、之を名状すること甚だ難しと雖も、合して一体と為しその全璧を見れば、至善至美、尽さザる所なし。故に是学も猶お他の生物論、地質論、本草学の如く、共に是れ地球上の一学科たりと雖ども、その理を窮るに至ては亦以て造化霊妙の仁徳を窺い見るに足れり。右の如く経済学の定則は、元と人造に非らず、又人為を以て之を変易改正すべきものにも非らざれば、人或は問を発する者あらん、何等の趣意を以て是学を研究するやと。余答て云わん、唯その定則を知て之に従わんが為めなり。譬えば人身は天然生理の定則に従てよくその生を保ち無恙健康なることを得るものにて、その定則は人の意匠を以て変易改正すべきに非らず、然れども人として人身窮理を研究するの趣意は何ぞや。唯その定則をして人身の内に行われしめ、その作用を逞うせしめて天然を妨ること勿からしめんが為めなり。故に云く、経済学を研究するは人身窮理を学ぶの趣意に異ならずと。」 達意の文章であるが、実際にはチェンバーズ社の経済学教科書Chambers's Educationa」Course.-EditedbyW.andR.Chambers,Po」itica」Economy,ForUsein Schoo」s,andforPrivateInstruction,Edinburgh:Wi」」iamandRobertChambers,18525)の自由な翻訳である。ここでは、経済現象においても天体の運行や生物の生理についての法則と同様な人為によらない自然的な法則が存在するとして、経済学を研究することの意義を、この法則を知ってそれに従うことにあると述べている。その「定則」の内容とそれへの従い方は後の論述の対象であるが、すぐ次のパラグラフでも以下のように示唆されている。 「経済家も亦、人間の衣食住を整理し、人をして安楽ならしむる所以の定則を察して、若しこの定則を妨ぐるものあればその妨害を除くことを知れり。殊に人の上に立て衆を御する者に於ては、この定則を知ること最も緊要なる一事とす。譬えば、世に暴君ありて専ら私慾を恣にし、その国の諸港へ台場を築て外国人の来るを防ぎ、我国人をして他に交り有余不足を貿易することを禁じなば、一国の窮することも亦甚しかるべしと雖ども、仁君代て出ば必ずこの妨害を除き、貿易の法を立てテ国民を塗炭に救うことあるべし。是即ち経済学の然らしむる所なり。但し経済学の趣旨は、売買の道を保護し、之を鼓舞して世の貿易を盛ならしむる所以の理を論ずれども、これを実地に施すの処置に至ては政治学の関る所とせり。」 ここで、経済学は「人間の衣食住を整理し、人をして安楽ならしむる所以の定則」と定義されているが、「人」あるいは「人間」を「民」におきかえれば、伝統的な経済論になる。経済学は「売買の道を保護し、之を鼓舞して世の貿易を盛ならしむる所以の理」を論じているというのは、それが自由主義的な性質のものであることを示す。「台場を築て外国人の来るを防ぎ、我国人をして他に交り有余不足を貿易することを禁じ」というのは、わずか一○年前まで続いていた鎖国政策を指しているかのように思われるが、これもまた原書の翻訳である。ただし、経済学は売買を保護し貿易を発展させることが必要な理由は説明するが、その実施法は「立法の術artof」egistration」(福沢はこれを「政治学」と訳している。)にゆだねられるとしていることである。それ自体が翻訳・紹介書である『西洋事情外編』によって福沢の経済思想を論じることに対しては、杉山(1986)によって厳しい警告が与えられている。しかし、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』に「経済の定則」という特徴的な語が受け継がれていることは、経済学の基本的みかたについて、福沢が『外編』のそれを引き継いでいることを示唆するものと思われる。また、幕末期の福沢が、西洋経済学に出会って衝撃を受け、それに沿った言動をしていたことは明らかである。経済的自由主義を信奉していたのか、それとも重商主義、あるいは保護主義の要素が勝っていたのかという問題以前に、売買および貿易が人々の「安楽」を増進するという経済学の原則論があり、福沢はそれを肯定していたと考えるべきである。
(2)初期の経済的関心
福沢が西洋経済学に最初に出あった時期の関心の所在は、『自伝』における「コンペチション」の訳語騒動に象徴的に現われている。福沢は幕府御勘定方の要人に「隣で物を安く売ると言えば此方の店ではソレよりも安くしよう。また甲の商人が品物を宜くすると言えば、乙はソレよりも一層宜くして客を呼ぼうとこういうので、またある金貸が利息を下げれば、隣の金貸も割合を安くして店の繁昌を謀るというようなことで、互いに競い争うて、ソレでもってちゃんと物価も決まれば金利も決まる、これを名づけて競争というのでござる」「何もキツイことはない、それですべて商売世界の大本が決まるのである」と説得を試みたが、成功しなかった。 また、当時の事情から出版は控えられたものの、福沢は貿易の利益によって開国論を支持した『唐人往来』を執筆している。これは、福沢が経済学を共に学んだ学友である神田孝平が賄い係の老婆を開国論に導こうとして失敗したと聞いて「一本の筆を振り回はして江戸中の爺婆を開国に口説き落さん」として執筆したものであった。福沢は、その中で、一、貿易は余った物を不足の物と交換するだけでなく、新医療法・医薬品などの新しい有益な物品・技術を取り入れたり、飢饉の際に食料を輸入したりできる利益がある、二、物価の上昇は貨幣価値(「金の位」)の低下によるもので賃金なども全般的に上昇しているので問題はない、三、交易によって生産と流通が促進され繁盛が起きている、と論じている。 おそらく、この時期の福沢にとって、「経済の定則」は、競争市場による価格決定や貿易の利益に代表されるものであった。そのための施策は、この「定則」の発現を妨げている独占、干渉、あるいは貿易制限を取り除くことであった。
(3)「定則」の主体的側面
それでは、『概略』および『すゝめ』に代表される福沢の本格的著述期においては、「経済の定則」はどのように理解されていたのだろうか。 この時期においては、彼は、市場経済のなかでの成功不成功が個人の努力だけによるものではなく、偶然その他の外的条件に多く左右されること、人々の競争の条件および能力には大きな差異があること、とくにそれが国際的な経済取引においては著しいことを知っている。その上で、経済の議論は「各国の事態時情に由て一様なるものにあらざれば、西洋諸国の経済論を以て、直に我国に施すべからざる」ことを認識した。さらに経済の議論のなかにも保護主義と自由主義があり、世界の各国が異なる主義をとってそれぞれに道理を主張しあっていることも知った。経済学の法則は、時代をこえて妥当する物理学の法則のようなものではないのである。 がある。これは、「序」でいうように『学問のすゝめ』の経済版あるいは商人版であり、その基礎にあるのは『概略』る。それも加えて総覧するならば、この時期に彼がみる経済の世界は、もはや自由に「競争」をさせさえすれば「それですべて商売世界の大本が定まるのである」といってすまされるような調和的世界ではなくなっていることがわかる。 『概略』で「経済の定則」に近いものを探しもとめると、「経済の要は決して費散を禁ずるにあらず。ただこれを費しこれを散じたる後に、得る所の物の多少を見て、その費散の得失を断ずるのみ」という「第一則」、「第二則、財を蓄積しまたこれを費散するには、その財に相応すべき智力と、その事を処するの習慣なかるべからず」とが、「何れの時にありても普く通用すべき二則の要訣」として挙げられている。また「経済論に、富有の基は正直と勉強と倹約との三箇条にありといえり」とも書かれているが、これは『学問のすゝめ』の経済版あるいは商人版とされる明治一〇および一三年の『民間経済録』で「経済に大切なるものは、智恵と倹約と正直と、此三箇条なり」と引き継がれている。 これらは、経済的世界の客観的な運動法則というより、経済主体の意識あるいは行動と結びついたものである。『概略』の「二則の要訣」の第一は、近代の市場経済においては資本の蓄積に対応した経済行動を示し、第二は、それに対応した智力・習慣を要求している。『民間経済録』の三箇条は、それ自体を取り出して並べれば「商売心得」というような倫理的徳目であるが、「智力」=「智恵」=「勉強」によって『概略』の「第二則」と結びついている。 「経済の定則」が、このように経済主体の行動原理にまで縮退したことについては、非合理的な世界においても合理的経済行動を貫徹する経済主体を生み出すことが資本蓄積につながるというヴェーバー的解釈を与える誘惑に駆られる。しかし、福沢は自分に対しても相手に対してもピューリタンではなかったし、空疎な道徳論は福沢が最も嫌ったもの(「偽君子」)であった。『民間経済録』のとくに第二編で福沢が推奨しているのは、「恒産」に代わって「恒心」を可能にする「保険」によって不慮の損失に備えつつ経済活動を発展させることである。他方、政府に対しては、通貨、行政、銀行、運輸、公共事業などの政策によって合理的経済活動の便宜をはかることを要請している。個人と政府の努力の両者があいまって、「三箇条」の徳目が実効性をもつ経済が生まれるのである。 『概略』では、「正直」という倫理的徳目についても、「利」を基礎に解釈される。 「西洋人の心の誠実にして、日本人の心の不誠実なるにあらず。西洋人は商売を広くして永遠の大利を得んと欲する者にて、取引を誠実にせざれば、後日の差支と為りて、己が利潤の路を塞ぐの恐あるが故に、止むを得ずして不正を働かざるのみ。心の中より出たる誠実にあらず、勘定ずくの誠なり。」(『概略』)「智力」と「習慣」も、「利」の合理的かつ果断な追求と結び付けられている。 「利を争うは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。今、我日本は外国人と利を争うて理を闘するの時なり。・・・・けだしその気象なくまたその勇力なきは、天然の欠典にあらず、習慣に由て失うたるものなれば、これを快復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりというべし。」
(4)「定則」の成立根拠
中期の福沢において客観的な「経済の定則」が消失していると断じるのは早計である。『概略』全編が「文明論」という「定則」の論証にささげられた著作であるか、「経済の定則」はその一部あるいはその応用であると考えれば問題が解決するからである。 『概略』は、仔細な事情、あるいは心の変化によって左右される人間の行動にかかわって「定則」を見出すに方法として2つをあげている。その第一は、巨視的な考察、「天下の人心を一体に視做して、久しき時限の間に広く比較して、その事跡に顕わるるものを証するの法」である。偶然的変動が均され統計的な大数法則が成立する場合があるからである。第二は、近因から遠因に遡ることである。 「近因は見易くして遠因は弁じ難し。近因の数は多くして遠因の数は少なし。近因は動もすれば混雑して人の耳目を惑わすことあれども、遠因は一度びこれを探得れば確実にして動くことなし。故に原因を探るの要は、近因より次第に遡って遠因に及ぼすにあり。その遡ることいよいよ遠ければ、原因の数はいよいよ減少し、一因を以て数様の働を説くべし。」 福沢が論じているのは、統計的な分析を用いた客観的法則の論証法であり、主観的な原理からの演繹的な「法則」の展開法ではない。福沢が西洋経済学に出会ってそれを「科学science」として理解したとき、それは積極的な探究によって一歩一歩「法則」を明らかにしていく科学的方法によって特徴づけられるものであった。アダム・スミスであれ誰であれ、既に解明しつくされた真理の体系として理解されたのではなかった。このような客観的な法則理解は、「そもそも経済の議論は頗る入組みたるものにて」という相対主義的とも見える理解とも抵触するものではない。 巨視的把握、遠因への遡行という二つの方法によって、福沢が定立した壮大な理論が「天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずる」文明論であった。人々全体の智徳の水準がすなわち文明の水準である。福沢自身が行っているように、それを史論によってわかりやすく示すならば、「時勢」という大局的状態になる。つまり孔子・孟子が不遇な学者に終わったのも、楠正成が討ち死にしたのも、結局のところは、諸侯が暗愚で後醍醐天皇が間違った判断を下したこと(近因)によるものではなく、「時勢」という大局的状態に適合しなかったからである。諸侯の中には智者もいないわけではなかったであろうが、儒者の理想論は民衆の生活状態に適合していなかった。後醍醐天皇も時には楠正成の才能を評価することもあったであろうが、名門に人心がなびく氏族社会を統率するには足利尊氏の方が適合していたのである。総体的に考察するならば、「時勢」を超越して成功する個人はありえないのである。
(5)開化への道
大局を規定するものが「天下衆人」の智徳の状態であるとすれば、低い智徳のレベルの人民は劣悪な政府、劣悪な経済しかもちえないのではないか。個人にも政府にも何もなす術はないのではないかという疑問が生じる。福沢もときにはそのような表現を筆にすることがあった。 しかし福沢は、文明の水準は宿命ではなく、その発達のために各人は「職分」を分有しているという考えをもっていた。 「前既に論じる如く、文明は人間の約束なれば、これを達すること固より人間の目的なり。そのこれを達するの際に当て、各その職分なかるべからず。政府は事物の順序を司どりて現在の処置を施し、学者は前後に注意して未来を謀り、工商は私の業を営て自から国の富を致す等、各職を分て文明の一局を勤るものなり。」 この福沢の回答のなかで「文明」が「人間の約束」であり「目的」であるというのは、人間が智恵をもち社会をつくるということ自体のなかに「文明」への発展への動因が存在しているということである。福沢は、この「文明」的な発展観のもとで、人々も政府もそれぞれ「職分」を有していると考えていた。 商工業者の経済活動はたしかに、現存の人民の智徳の状態に規定されている。 しかし、彼らが民間の経済活動を発展させ、国富を増加させれば、それは人民の智徳の増進に貢献するのである。しかし、現在の状態からの制約を超出する点において福沢が評価するのは、学者の活動である。政府が管掌しているのは、現在の状態にすぎないが、科学的な探求は未来につながるからである。 福沢は『民間経済録』においても、実利・倹約の経済論とは正反対のような学問的探求を「之を知る者は之を好む者に若かず」と称揚している。 この議論は、アダム・スミスの『国富論』第一篇での機械の改良に対する「学者または思索家」の貢献についての言及を思いおこさせる。 「其物の性質と其売買の価とを比較して、至当の価なれば之を買ひ、不当なれば之を却くることなり。即ち之を知るの義にして、其考は未だ経済の域内を脱せず、或は道理の内に在て未だ情に入らざる者と云も可なり。・・・・経済理論の眼を以て右の事情を見れば、殆ど愚にして笑ふ可きが如くなれども、人文技芸の進歩は大抵皆この好事に依頼せざるものなし。」 福沢にとっては、経済学は「利」を追求し人々に「安楽」をもたらす科学であるが、その対象となる「経済」は「文明」の一部にすぎなかった。「文明」の基礎には、外部の自然界、人間界に対する知的な探求があり、「文明」とはそれによって得られた智力によって人間が世界を支配する状態、あるいはその水準であった。この知的探求が姿をとったものが「科学」であった。経済学は「科学」であることによって、「前後に注意して未来を謀る」ものでなければならない。それによって、現在の経済状態、現在の文明状態を引き上げることに貢献するものである。 
4.日本経済論
(1)文明論の時間的・空間的構造
福沢は西洋経済学によって、社会現象に「定則」があり、それが「利」を求める人々の競争的な行動によることを知った。しかし、医学・物理学のような経験的自然科学(「数理」)から洋学に入った福沢は、儒教的な教義を西洋近代の自由主義の教義に置き換える「転向」した原理主義者ではなかった。バックルやギゾーの「文明史」に出会う以前に彼の文明論=「開化」論がどれだけ成熟していたかは分からない。しかし、「文明開化civi」ization」の概念は、チェンバーズ版経済書を翻訳して以来彼に親しい概念になっていたはずであるし、また文久年間における欧州渡航によっての世界についての文明論的認識の基礎を得ていたものと思われる。 チェンバーズ版経済書は、文明を野蛮状態と区別し、歴史は諸国民が野蛮な状態から文明化された状態に進むことを示すとしていた。「歴史を察するに、人生の始は莽昧(ぼうまい)にして、次第に文明開化に赴くものなり。」野蛮状態においては人間の劣等な情念がより大きな役割を果たし道徳的な資質の発展が弱いので、人々の間に信頼が欠如し、一般的福祉をはかる制度が存在しない。これに対して、文明のもとでは劣悪な情念は矯められ一般的福祉のための制度が確立している。 野蛮人は自由に生きているように思われるが、飢える自由、専制の自由、犯罪の自由であり、文明状態のような法の下の自由ではない。野蛮人は自然に生きているように思われるが、知的能力や清潔さへの志向文明のもとで開花する自然な性向の発展が外的状態によって抑えられているだけである。 しかし、文明は一様に進行するわけではない。チェンバーズ経済書の「文明論」も、文明の進展度による空間的構造を有している。現在の時代でも「野蛮」にとどまる部族が存在するが、女性に纏足を強いる中国人は「野蛮」とは言えないが、「文明の教未だ洽からざるものにて半開半化の国と云ふ可し。」中国では、制度も道徳も存在するが、それが人間の自然に反するものになっているというのである。これは、『概略』における「野蛮」「半開」「文明」の3段階のうちの「半開」にあたるだろう。 また、チェンバーズ経済書は、文明化された国においても、無教育で野蛮人と同じく無智な人々が多数存在し、またそうした人たちが多数を占める地方が存在するとしている。これは、国民自体の内部にも文明度にかんして社会的・地域的な格差が存在するのである。 チェンバーズ経済書においては、こうした格差は事実として存在する格差にとどまり、特に国内における格差は文明の進展のなかで早晩解消されるべきものと考えられていた。しかし、幕末期の日本から香港、シンガポール、エジプトを経て欧州に至った福沢にとって、世界は「野蛮」ないし「半開」の世界と「文明」世界に構造化されて見えたであろう。「半開」の東洋世界のなかに進出してきた「文明」国民は、旧慣に拘泥する「半開」世界特有の事大主義をいいことに、東洋の各地・各国で植民地的支配を実現していた。文明度の格差は支配関係に転化して「後になるものは先になるものに制される」状態になっているというのが福沢の世界認識であった。 福沢は、日本が「半開」世界を脱して「文明」にいたる道を開こうとした。 その場合、「外の文明はこれをとるに易く、内の文明はこれを求るに難」いが、「難を先にし易を後にし」なければ、目的を達成できない。電気や牛鍋のように利便や快適さを有する外形な事物の普及だけを追求するならば、旧制度を変革しないまま外国人に依存することになりかねないからである。「半開」の世界では、不合理な人為的制度が人々を縛りつけ、人々はそれに馴れて自主性を失っている。したがって、西洋世界に匹敵・凌駕する文明の達成を目標とするには、旧制度を支えた思想自体を「破壊」して、文明の基礎になる合理主義(「数理」)と独立心を基本とした学問(「実学」)によって「人民の気風」を変革しなければならないというのが福沢の主張であった。 しかし、「半開」世界を出発点とするならば、こうした先鋭的・意識的な「文明化」が民衆のすべてを一挙にとりこむことはありえない。教育と産業による「中産階級」の創出という福沢の近代化構想自体が、底辺における伝統的世界と近代化のプロジェクトに参加する階層化されたエリートおよび中産階級という二重構造に結果せざるをえないであろう。 福沢の経済論も、このような文明論の時間的・空間的構造に規定されていると私には考えられる。この構造の特徴は、第一には、世界全体としては、個人と文明が直結しているのではなく、国民単位で文明の進展度によって配列され、それが優越・劣後の関係になっていることである。したがって国民相互の競争と国民内部の競争は区別されて考えられる。第二には、国民内部でも、目標とされる「文明」に近い集団および組織とそうでない「文明化」に取り残された底辺的な民衆が存在している。したがって、国際面においては、日本が他の国民との関係でどこに位置するかによって利害関係が異なってくる。対抗しあう国民の関係のなかで独立を維持することが優先的な課題となる。国内面においては、競争は基本的に望ましいことであるが、人々の意識・行動の全体的な水準を無視することはできない。つまり、国際面においても国内面においても、「文明化された状態」を前提にした自由主義の経済論をそのまま適用することはできないのである。
(2)通商論
福沢を「自由主義者」とみなす人々を驚かすのは、明治六−八年頃の外国人商人の内地通商に対して福沢が強硬に反対したことである。 明治六年から翌年にかけて各国の公使たちは日本政府に対して国内の自由旅行と国内での自由な直接取引を要求し、『明六雑誌』の同人の中からも西周のような賛同者が出た。福沢はこれに対して、開国以来の貿易は欧米諸国には利益をもたらしたが日本には損失をもたらしていると断言して、外国人商人の自由を拡大することに反対した。福沢は通商貿易を「南瓜」にたとえた西をうけて、日本の現状を「八百屋の押売りにて南瓜を買込み、嘉永年中より今日まで之を喰ひしに、南瓜は性無毒なれども、日本人の体質に相応せずして下痢を始め、漸く衰弱して全国の金力を失はんとするの容体を発したり」と表現した。福沢は、外国からの輸入品が「製造物」であるのに対して日本の輸出品は「素質の物」にすぎないので、「製産の利」「其技芸」を失いかけていること、貿易収支の不均衡によって巨額の金銀が流出していること、外国人商人の支配・横暴を防止しえないことの三点を根拠として「自由貿易」が日本にとって害になっているとした。 福沢は、互いに有無を通じ合う通商貿易の利益自体を否定しているわけではない。しかし、個人日本人の製造技術、商業的能力が西洋に対して懸隔があり国家制度も整備されていない状態では、「良剤を小量に用ひ、次第にその量を増す可きのみ」と言わざるをえなかった。当時の日本は関税自主権を奪われていたので、そのかわりに外国人商人の内地取引を制限することによって国内産業の保護を図ったといってもよい。 この頃の福沢は、日本の商工業者が旧態依然のままであることに対して深刻な危機を感じていた。そのため彼は、西洋の簿記を翻訳紹介(『帳合之法』)し、慶應義塾の卒業生に実業界に進出することを薦め、また森有礼が投げ出しかけた商法講習所を支援した。さらに西洋式の商業の外形だけを移入して実質が伴わない場合が多いことを見て取ると、すでに紹介したように、『学問のすゝめ』の商人版というべき『民間経済録』二編を出版した。 福沢は、自由放任論を机上の空論として退け、政府による勧業政策も肯定していた。政府は対外交際にあたっては、先進国が後進国を制することを防止するために働くべきであるが、国内では「先進先覚」者として「後進」を導かなければならない。 「是即ち人民の睡眠を驚破し麻痺を感覚せしむるの一策なり。此一段に至ては日本の政府は西洋諸国の政府に比して少しく趣を異にし、恰も公務の外に一の私務ある者の如し。故に自国の形勢をも考へずして西洋の空談を聞き、一概に自然放頓の旨を主張して政府の多事繁務なるを咎るは、実地に暗き者の紙上論のみ」 しかし、他方では、文明は人民の智徳の状態であって政府のそれではないから、政府が強権をもって勧業政策を行うことに対してはその効果を疑問視していた。生前未公表の『覚書』における大久保利通の殖産興業政策にかんする次のような批評は、政府の先導論よりも、福沢の「文明論」によりよく合致する。 自分の「文明論」が許す以上に政府の先導を認めざるをえなかったところに当時の福沢なりの苦渋があったのかもしれない。 「明治一○年まで政府にて為したる事業を見るに、其事の性質に於て宜しからざるものは甚だ稀なり。勧農勧商工学校開成校或は博覧会の如きも全く無益と云ふ可らず。唯政府の地位にて之を行ひ以て其害を見るのみ。当年東京の上野に設る内国博覧会にても、内務卿なる大久保利通が非役人民の地位に居り、其同志を募り得ること同省の下役の如くにして之を施行したらば、真に人民開化の度も測る可く亦勧業の一大助とも為る可きなれども、大久保の智力も下役共の智力も、政府の力に合せざれば事を為し得ざるゆへ、其為す所の事は無理とも無法とも言語に絶たる沙汰なり。恰も感情激しき主人が急率に土木を起し て一時の欲を逞ふするに異ならず。此土木の盛なるを見て誰か其家の繁盛を卜する者あらん。」 藤原によれば、福沢の日本経済の発展の構想においては、「終始、貿易に第一義的重要性が付与されていた」(藤原150)が、明治一○年代における生糸・茶のような在来産業製品および鉱産物を対象とした物産改良による輸出拡大策から明治20年代には紡績業などの資本主義的近代産業を基礎にした「商工立国」論に変化した。米麦中心の農業振興策には一貫して反対で、農業が国を支えるという「農業立国」論に対しては、食料は外国から輸入しても良いとしている。 彼が農業者に勧めたことは、稲田をつぶしても桑畑をつくり製絹所をおこせということであり、自給型の農業から輸出と結びついた収益性のある農業への転換を主張したわけである。 しかし、国内資源に基礎を置いた在来産業の製品輸出には限界がある。また、先に見たように、「天然の力」に依存して産する「素質の物」を輸出して工業生産物を輸入する貿易は日本に不利益をもたらすというのが福沢の見解であった。 したがって、福沢の「貿易立国」論は、一時は中継貿易に希望を見出すような傾向すらあった。しかし、明治二○年代の後半になり、綿紡績のような国外の安価な原料を基礎にした大規模な近代産業の可能性が見えてくると、福沢は「商工立国の外に道なし」と明言うるようになる。商業と工業ということではなく、貿易と結びついた工業、「内に物を製し外に之を売ること」ということである。藤原は、福沢が「商工立国」論に進んだのは、紡績業の国際比較をおこなって、特に実質的労働費用の面からみてインド綿業を格段に上回るだけでなく、イギリス綿業に対しても競争力があることを確信したことにあると指摘している。(藤原1998:)深夜業、高技能、長時間労働という原生的労働関係と低賃金による利点は、原料輸入のハンディを埋め合わせて余りがあったのである。 福沢が「自由貿易」論を公然と表明したのは、ようやく明治二六年であった。 「今や世運の漸く進歩するに従ひ、漸く実業世界の面目を改め、天下の人皆外国の貿易に重きを置くものゝ如し。即ち我輩が始めて爰(ここ)に自由貿易論を公にしたる所以(ゆえん)なり。」彼は日本の実業がもはや、「臨時の経済策」である「保護税」の必要なくなったと確信したのである。
(3)経済発展の条件整備
福沢は政府による勧業政策の必要を認めなかったわけではないが、政府が民間の領分を侵すことには原則的には反対で、経済面における政府の役割を民間の経済活動を支える制度を維持・整備し、また必要があれば運輸・通信のよう領域で公共事業を営むことに限定していた。 このような観点からすると、第一の問題は、民間が事業を営む際の価値の基準となり流通手段となる通貨の問題である。 明治の初年の貨幣制度は非常に混乱していて、明治四年の金貨を本位とする「新貨条例」にもかかわらず開港場では「貿易銀」が用いられ、国内では政府紙幣と国立銀行の銀行紙幣が流通していた。当初は兌換紙幣であった国立銀行紙幣も正貨準備の不足から不換紙幣となっていた。不換紙幣のもとでは、紙幣の発行量が増えれば通貨価値は下落するが、福沢が最初の『通貨論』を刊行した前年(明治一○年)には物価は小康状態を保っていた。福沢は、この段階では、「一国人口の員数と商売の盛否とに従て通用貨幣の多寡を定る」ことは「難事」であるが政府が行わなければならない「難事」の一つであり、「一国の人民たるものは妄りに其政府を疑ふ可らず」とまで書いて政府の紙幣流通政策を擁護している。 しかし、その後西南戦争の戦費を不換紙幣でまかなったつけがまわりはじめ、明治一四年を頂点としたインフレーションが起こる。このインフレの昂進のなかで財政の担当者は大隈重信から松方正義に交替した。福沢は、創刊したばかりの『時事新報』「社説」に『通貨論』の続篇を公表(明治一五年三月)し、「実に今日に在て、紙幣の価値を旧に復して最良の金銀貨と一様ならしむるに非ずんば、富国の基立つ可らざるなり。又曰く、是政府の責任にして然も燃眉の急なりと」として迅速な対策を迫った。 最初の『通貨論』における福沢の考えは、金銀の正貨流通を基準とした古典派的な金本位制論から大きく逸脱している。福沢は、通貨の本質を「品物の預かり手形」であるとして、金銀と紙幣のどちらがより便利かと問いかけて、紙幣であるとしている。金銀との兌換の保証がなくても紙幣が通用することの例として、福沢は自分の出身藩である中津藩における藩札の流通事情をあげている。問題は実体経済と釣合い物価を安定化させるような通貨の発行量を知ることである。彼は『通貨論』の執筆のために、実際に大蔵省を訪ねて金庫の見学をするとともに通貨関係の統計数値を関係者に教えてもらっているが、中津藩の場合のような明解な結論には達さなかったようである。その際重要な問題は、幕藩体制下の日本と異なって、金銀貨幣を基準とした国際貿易が行われていることである。金銀を正貨として兌換銀行券を流通させる金本位制のもとでは、国際均衡を達成するように通貨量が伸縮するが、不換紙幣の場合には紙幣の価値と貿易用貨幣の乖離が生じる可能性がある。福沢が提案しているのは次のような制度である。 「此禍を防ぐの法は、世界万国普通の相場に従て金銀貨幣の位を定め、其貨幣の名目に準じて紙幣を発行するに在り。之を要するに、国内に通用するものは何時までも紙幣と定め置き、其中に少しく金銀貨を交へ用ひて之を通用の目安と定め、其目安と紙幣との釣合を視ること緊要なるのみ」。 西川俊作は福沢を『通貨論』を「早咲きの管理通貨論」(西川1985)と形容していて、明治15年以降の松方財政批判においてもその立場が貫かれていると見ている。松方は緊縮財政と紙幣整理によってデフレーションを引き起こしたが、福沢はデフレなしに貨幣価値を安定化させるために外債に頼って紙幣の交換を実現すべきだと考えていた。外債は国の独立に反するかのように思われるが、「民間の殖産がこれによりて生力を発し、職業繁忙の世の中となれば、負債を払ふに何の苦労もあるべからず」」と考えたからである。 第二の問題は、政府財政をまかなう課税のあり方である。これに関して印象的なのは、福沢が「民力休養」をスローガンとした地租軽減論に対して強硬に反対したことである。明治政府は、明治六年以来、数年をかけて土地所有者に地券を交付し、それに記載される地価の百分の三を金納させる地租改正の事業に取り組み、幕府時代の年貢納を地租に転換して国家財政の基礎とした。途中、明治一○年に地租の率は百分の二・五に軽減されていたが、地価の修正・低減についても議論が絶えなかった。とくに国会が開設されると、「地租軽減・地価修正」は地方勢力・農業勢力を結集する民党の重要な要求になっていた。福沢 は、明治二五年の四月から五月にわたって『時事新報』社説で、これに痛烈な批判を浴びせた。 福沢が指摘することは、地租を軽減した利益は土地の所有者である地主に行くのであって、耕作者である農民に行くのではないということである。小作料は他の商品同様に借地人どうしの競争によって経済的に定まるのであって、地租を軽減すれば小作料が下がるわけではない。地租を軽減すれば、地主の純収入が増え、その土地の資産価値を増やし、地主の土地兼併の意欲をかきたてるだけに過ぎないというのが福沢の主張である。耕作地を自分で保有している自作農におよぶ利益については、福沢もそれを否定しないが、わずかな収入の増加によって消費水準をあげてしまい、資産価値が生まれた土地を手放して小作 に転落する危険がかえって増大するとも考えている。 「地租軽減して兼併の勢を増し、自作の百姓漸く減じて小作人と為りたる処にて、国民の幸不幸如何を問へば、我輩は之を評して経済の惨状と云はざるを得ず。国中幾多の地主は脳力を労するに非ず手足を役するに非ず、天与の生産力(即ち土地)を人に貸して独り其利益を専らにし、尚ほ今後人口の次第に増して次第に土地の狭きを感ずるに至れば、商売社会に流通資本の乏しきが為めに金利を引上げるの道理に等しく、小作料も次第にせり上げて次第に騰貴せざるを得ず。農民何に由りて生を保つ可きや、之を思へば唯寒心するのみ。」 この引用に見られるように、福沢の反地主的態度は明瞭である。経済の発展にともなって不生産的なレント収入が増大し、生産者である農民をおしつぶしかねないことを福沢は憂いているのである。高率と言われる地租は、土地の貸付・売買の利益を削ぐことによって、それにブレーキをかけているというのである。 福沢は、明治初期の改革で土地の私有を認めたこと自体が誤りであったという。徳川時代のように土地売買が禁止されていたならば、農民の土地喪失、地主による農民支配も起こらなかったであろう。いまさら「土地国有」にはできないものの、「地税を重くし、凡そ小作料として、地主の手に入る可きものを、残らず政府に取り上ぐるは、目下の上策なる可しと信ず。」土地への課税を重くすれば、国家の歳費をほとんど賄って他の税を廃止できるであろうし、また重税を支払うために土地利用が促進される。これは、一九世紀末に欧米でおこなわれていた土地国有化論や土地単税論に刺激された議論である。 たしかに土地の国有化や不生産的な収入である地代の全面没収は、形式的には市場経済のもとでも可能である。ブルジョア的な合理主義者、あるいは急進主義者のプログラムである。しかし、マルクスが指摘するように、もっとも由緒のある財産である土地所有への攻撃は、私有財産全体への攻撃に発展せざるをえない。現実的には、土地所有者はその利益が経済的発展に依存し、また不生産的な収入によって、十分な余暇と財力を有するので、生来の統治階級たりうるのであって、地主階級抜きのブルジョア国家は現実的ではない。さらにまた、土地国有化、あるいは土地単税によって国家財政を賄える可能性があったのは、農業が未だ国民経済の大きな部分を占める経済発展の一段階に過ぎないことも指摘しなければならない。明治期だけをとっても、国家財政に占める「地租」収入の比重は次第に低下している。「地租」は日本の経済発展の一時期において国家財政を支えることによって商工業の発展を促進したにせよ、福沢の通商論である「商工立国」が実現すればその重要度は減少する。農業部門は維持するのがかえって高価な産業に転化するのが通例である。 第三の問題は、産業の発展にともなう貧富格差の増大という問題である。チェンバーズ経済書を紹介したとき、福沢はこの問題を基礎にした資本主義への批判や社会主義についての記述を省略した。しかし、明治も中葉になると、労働問題や社会問題も出現するようになった。それでも明治一七年一○月の『時事新報』社説「貧富論」では、富豪の慈善や祭礼での鬱憤晴らしで「緩和弥縫」できるという楽観的な態度をとっていた。この時期には、貧富の格差についての議論は、現実の問題である以上に、教育によって知識水準が向上しながら「殖産」が追いつかないためであると考えていた。しかし、その七年後の「貧富論」の再論では、貧困問題に冷淡な世論に警鐘を鳴らしている。 「経済論者の言に、人生の貧富は智愚の如何に由来するものなり、人学ばざれば智なし、無智の民は貧なり、教育は富を致すの本なりとて、貧富の原因を挙て其人の智愚如何に帰する者あり。」多くの人は、福沢の『学問のすゝめ』をまさにそのように受け取っていたであろう。しかし、「此言、理なきに非ず、貧民の多数を平均すれば大抵皆智恵に乏しき者なれども、事の原因と結果を相照らして仔細に社会の実際を視れば、今世の貧民は、無智なるが故に貧なるに非ずして、貧なるが故に無智なりと云ふも妨なきの場合少なからざるが如し」。貧なるが故に無智で無智なるが故に貧という悪循環に対しては、「経済論」は無力である。 経済の発展が本格的になってくると、もはや貧民でも努力次第で、あるいは運次第で富みを得られるような可能性は減少してくる。富豪は既に獲得した知識・資本をさらに合理的に用いることによって富をさらに集中させる。それが合法的な営利活動であるかぎりは誰からも指弾される理由はない。しかし、そのような「道理」にたてこもって他の人々に対して「冷淡」でいるならば、「何ぞ図らん、貧窮社会の窮は日にますます窮し、窮鼠却て猫を噛む、窮人亦噛まざるを得ず」という「衝突破裂」の事態に至るであろう。しかし、この時点でも福沢はまだ、労働者や農民のような大衆的な貧困よりも、「士族書生」「貧乏学者」の意識面における貧困を主要な危険に数えている。したがって、福沢が推奨する対策は、富豪を痛烈に攻撃しながらも、宗教の奨励、過度の教育の抑制、公益慈善活動の奨励、海外移住の促進といった、以前同様の「緩和弥縫」でしかなかった。 工場法に対しても社会政策に対しても、福沢はそれに賛成しなかった。批判的な見方をすれば、日本の「商工立国」にとって必要な競争基盤である低賃金・長時間労働の問題を意識的に視野の外におかれている。文明への道を挫折させる危険は、労働者や農民といった底辺における反抗ではなく、文明への道に中途半端に入った人々の暴発にあると考えていたのであろう。 
5.文明論の底辺
福沢は西洋経済学を学んだが、それをどのような場合にも成り立つ原理的体系として受容したのではなかった。経済の「定則」を、総体としての人々、その知識、気風、行動のなかで成り立つものであるとして、「文明論」の一環としての科学に発展させて受容した。また、この文明論は、国外・国内の双方の領域において文明の進展度によって位置づけられる時間構造と空間構造を有していた。経済的自由主義の通常の枠をこえた政策論が現われるのも、こうした文明論的な世界認識によるものであろう。 市場経済を選択しながらも、経済発展の促進のために、自由主義的ルールや民主主義的政治に対して制限を課する政策態度は、最近は「開発主義」と呼ばれることがある。政府の勧業政策や通貨管理を承認し「官民協調」を唱えた福沢は、「開発主義」と完全には無縁ではない。しかし、経済が基本的に「民間」の「独立心」による活動であり、政府への知識・権力の集中は避けなければならないとした点で、福沢は「開発主義」と袂を分かっている。 文明論的な世界認識は、福沢を現実主義者にした。しかし、通商問題における米麦栽培全廃論や『地租論』における土地国有論のような議論に接すると、自給的な農業政策、不生産的な小作料に対しての批判としては理解できるが、地方や農業を含んだ日本近代化の全体の構造に即した現実主義の表明であるとは考えられない。彼の現実主義と合理主義は、近代化=西洋文明の導入による国家的独立の維持という「文明論」の戦略によって規定されたものであって、現実の日本近代の歴史に照らすならば、見えていないものがあるだろう。 たとえば、綿工業のような近代産業の競争力の基礎にある労働関係を見抜きながらも、それを社会問題と結びつけて考えようとしていない。農民に輸出と結びつく桑作・養蚕・製糸をすすめたが、農業の総体、地方経済の総体の振興についてはビジョンを有していない。結局、福沢が注目するのは、文明化のプロセスの中にある「中産階級」であって、底辺の農民、労働者ではなかった。 福沢は東アジアの隣国における「半開」から「文明」への変革が困難であることをみてとると、「脱亜」を宣言した。彼が期待した日本の近代工業は、欧米だけでなく、朝鮮と中国をも市場とした。しかし、ここでも底辺の民衆は「半開」の世界に惰眠を貪る存在として、彼の「文明論」の視野の外に置かれていたと思われる。真の「文明」の立場からすれば、立国ですら「私」の事業であ るとみなしていた福沢は、アジアの隣国とその民衆を「文明論」の視野の外に置いたことを、自分自身で意識していたかもしれない。 
 
「文明論」のこと

 

「文明論」というと私には福沢諭吉先生の「文明論之概略」がすぐ頭に浮かぶ。 私のような慶應義塾の中で育った人間としてはこれから逃れることはできないのだが、「義塾」に先生が何をイメ−ジしたかについては前にふれたが、あらためて先生の「文明論」に何が書いてあったかを見直そうと思った。 最近「文明の衝突」とか言われることがあるし、私も「血圧論」とか「食塩文化論」とか言ったり書いたりした手前、先生が「文明論」の中で何を言っていたのかを読み直そうと思ったのである。 「文明論」と「文化論」との相違についてここに論ずるのではないが、ちなみに大学の図書館で”OPAC”で検索すると、「文明論」は20件、「文化論」は101件ヒットされ、「文化論」の方が多く書かれていると認識した。 「文明論之概略」を「近代日本の古典」との認識にたって「読書会」を始められた丸山真男氏の、その記録が「岩波新書325-327、昭61」にあることを知って読んだが、それを読む前のものである。ただその中の「古典との付き合い方として」に語られていた言葉「先入観の排除」「早呑み込みの危険性」には同感であった。また「”文明”ということばはたんに古臭いだけでなく、科学技術の偏重とか、物質中心主義とか、公害源とかいうはなはだ芳しくない連想と結びついておる」「私たちは、どんなに自分では”自由”に思考していると思っても、現代の精神的空気を肺の奥底まで吸いこみ、現代の思考範疇をメガネとして周囲の光景を眺め、手近なところでいえば、現代の流行語を十分な吟味なしに使って、物事を論じています」も同感であった。 私には以前に読んだ「歴史する心」(増田四郎:創文社版,昭和42)に書かれていたことの影響があったと思う。それは「歴史をふりかえってみると、古今東西、きわめて多くの歴史家であっても、その研究のきっかけなり、その関心の重点なり、その業績なりというものは、後生からみると、すべてこれ、その歴史家が生きていた時代の思潮や諸情勢の反映でないものではなかろうかという気がする」と。 福沢先生が書かれた「文明論」はどんなものであったかを書き留めておく。 私が先生の論文にふれたのは昭和3年の岩波文庫「福沢選集」また昭和12年の岩波書店刊行の「福沢文選」からである。 明治8年先生42歳の時に書かれた「文明論之概略」の初版をみたわけではない。また最近刊行された「書簡集」を読んでその当時の先生の考えを考察したものではない。岩波文庫(33-102-1,1995)の解説によると「昭和11年・・皇室関係に関する記述につき次版で改訂処分を余儀なくされた」とあった。今度読み直したときには「日本の名著:福沢諭吉、中央公論社、昭44」によった。 その「緒言」に先生の考えが凝縮されていると読んだ。 「文明論とは人の精神発達の論議なり。その趣旨は一人の精神発達を論ずるにあらず。天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。ゆえに文明論、あるいはこれを衆心発達論と言うも可なり。けだし人の世に処するには、局所の利害得失におおわれてその所見を誤るものははなはだ多し。習慣の久しきに至りてはほとんど天然と人為とを区別すべからず。その天然と思いしもの、はたして習慣なることあり。あるいは習慣と認めしもの、かえって天然なることなきにあらず。この紛擾雑駁(ふんじょうざつばく)の際について条理のみだれざるものを求めんとすることなれば、文明の論議また難しと言うべし」とあった。 「衆心発達論」とあるのは最近私が書いた「精神的拉致」を連想する。 「たといその説新希なるも、等しく同一の元素より発生するものにて、新たにこれを造るにあらず」とあるのは、もとになった「情報」を連想する。 「試みに見よ、方今わが国の洋学者流、その前年は悉皆漢学生ならざるはなし。悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族にあらざれば、封建の民なり。あたかも一身にして、二生を経るがごとく、一人にして両身あるがごとし」とは分かりやすい表現である。それでいて先生は「洋学」をうりものに義塾を創ったのである。 「けだし余が彷彿たる洋学の所見をもって、あえてみずから賤劣を顧みず、この冊子を著わすに当たりて、直ちに西洋諸家の原著を訳せず、ただその大意を斟酌して、これを日本の事実に参合したるも、余輩のまさに得て、後人のまた得べからざる好機会を利して、今の所見を遺して後の備考に供せんとするの微意のみ」 「書中、西洋の諸書を引用してその原文を直ちに訳したるものは、その著者の名を記して出典を明らかにしたれども、ただその大意をとってこれを訳するか、・・・これを譬えば食物を食らいてこれを消化したるがごとし。・・・ゆえに書中にまれに良説あらば、その良説は余が良説にあらず、食物の良ばるがゆえと知るべし。・・・」 先生が西洋の論文にふれて、その中の言葉を日本語に翻訳するときの心構えが分かる。先生は新しいいくつかの言葉を創ったりしているが、「ネ−ミング」の才があることが伺われる。だがこの点は、「観察・記録・考察」を積み重ねてゆく「科学者」との違いを感ずる。 第一章の「議論の本位を定める事」から始まり、「西洋の文明を目的とすること」「文明の本旨を論ず」・・「西洋文明の由来」「日本文明の由来」そして「自国の独立を論ず」で終わっている。 「議論の本位を定めること」の中に「軽重、長短、善悪、是非等の字は相対したる考えより生じたるものなり」とあった。 「西洋の文明を目的とすること」のはじめに「前章に事物の軽重・是非は相対したる語なりと言えり。されば文明開化の字もまた相対したるものなり。今世界の文明を論ずるに、・・・を最上の文明国となし、・・・をもって半開の国と称し、・・・等を目して野蛮の国と言い、この名称をもって世界の通論となし、・・文明の齢(よわい)と言うも可なり」とあった。 「野蛮・半開・文明」とある考え方は世にいう「進化論的倫理観」に影響されているように読みとれる。 「今余輩がヨ−ロッパの文明を目的とすると言うも、この文明の精神を備えんがため、これを彼に求めるの趣旨なれば、・・」「文明の外形はこれを取るに易く、その精神はこれを求めるに難しとの次第をのべたり」とあった。 西洋文明が絶対的に最上の文明国とはいっていないと考えられる。しかし西洋は千年、日本は二千五百年の「国体」がありとの認識が伺われる。それでいて当時の日本を「半開の国」ともいっているところに先生の考えを理解するの難しさを感じる。 国体についての先生の考え方は次ぎの文章にあった。 「第一に、国体とは何ものをさすや。世間の議論はしばらくさしおき、まず余輩のしるところをもってこれを説かん。体は合体の義なり。物を集めてこれを全うし、他の物と区別すべき形をいうなり。ゆえに国体とは、一種族の人民相集いて憂楽をともにし、他国人に対して自他の別を作り、みずから互いに視ること他国人を視るよりも厚くし、みずから互いに力を尽くすこと他国人のためにするよりも勉め、一政府の下に居てみずから支配し、他の政府の制御を受けるを好まず、禍福ともにみずから担当して独立する者を言うなり。西洋の語にナショナリチ(nationa」ity)と名づくるものこれなり」 「第二にポリチカル・レジメ−ション(po」itica」」egitimation)ということあり。ポリチカルとは政(まつりごと)の義なり。レジメ−ションとは正統または本筋の義なり。今仮にこれを”政統”と訳す」 「第三に血統とは西洋の語にてラインと言う。国君の父子相伝えて血筋の絶えざることなり」 「右のごとく国体と政統と血筋とはいちいち別のものにて、・・・この時に当たりて日本人の義務はただこの国体を保つの一カ条のみ」と。 後日先生49歳のとき「帝室論」を書かれているが、内容はまだ読んでいない。「二千年以上」の「ライン」は尊重されるべき「文明」との考えによっているのではないかと思うのであるが。 私にとって先生が「文明」をどこから取り入れた言葉であったかが興味があったし、それが「文明の本旨を論ず」の章にあった。 「そもそも文明は相対したる語にて、その至るところに限りあることなし。ただ野蛮の有様を脱してしだいに進むものを言うなり」 「文明とは英語にてシウイリゼイション(civi」ization)と言う。すなわちラテン語のシウイタス(civitas)より来るものにて、国という義あり。ゆえに文明とは人間交際の次第に改まりて良きほうに赴く有様を形容したる語にて、野蛮無法の独立に反し、一国の体裁を成すという義なり」 私が昭和45年ロンドンでの第6回世界心臓学会へ行ったとき、テレビのインタ−ビュウ−に答えて「Civi」izationissa」tization」といったのは「Civi」ization」は「梅毒化」(シフィリゼイション)が頭にあって口について出た言葉であった。「civi」ization」を先生は「文明」という言葉におきかえて論じていたことが判明したことは今度の収穫であった。その「文明」は「衆心発達術」とあったのも我が意を得たりの感がしたのが読後感である。 しかし「次第に改まりて良きほうに赴く」が先生の「文明論」の中にながれている考えであることが伺われる。 それにしても先生の「文明論」に言いたかったことは、「自国の独立を論ず」にあったのではないか。 「西洋諸国と日本の文明の由来を論じ、その全体の有様を察してこれを比較すれば、日本の文明は西洋の文明より後れたるものと言わざるを得ず。文明に前後あれば前なるもの後れなる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるの理なり」「文明の後なる者は先だつ者に制せらるの理を知るときは、その人民の心にまず感ずるところのものは、自国の独立如何の一事にあらざるを得ず」「「文明駸々乎(しんしんこ)(進歩のはやいさま)として進む」「忠臣義士の論も耶蘇聖教の論も、儒者の論も仏者の論も、愚なりと言えば愚なり。智なりと言えば智なり。ただそのこれを施すところに従いて、愚ともなるべく智ともなるべきのみ」「もって同一の目的に向かうべきか。余輩の所見にて今の日本の人心を維持するにはただこの一法あるのみ」と。 時あたかも「天保の老人たち」のあとの明治維新前後の時代、いわゆる「帝国主義的侵略」を身近に感じ、「いつ必殺にあうかも分からない危険」にあった時代によくこの文を書かれたものだと思う。自分は「先生」とはいわず、続きは次ぎの時代の人にまかせようと読みとれる論文であったが。 それから百数十年。日本が敗戦を経験し、新生日本になった今、世界に展開される「戦争」また「国づくり」の中におかれている。先生だったらどんな文明論を書いたであろうか。 
 
道徳的な男性性構築の課題 / 福澤諭吉のヂグニチー・愛・敬・恕 論

 

一.今なぜ福澤諭吉『日本男子論』か―問題設定
「実に遠」い学問ではなく、生活に役立つ実験実証の実学への真理観の転換を説き、「天は人の…」で始まる平等論などで有名な『学問のすすめ』の著者である福澤諭吉([一八三五]〜一九〇一・天保五年〜明治三十四年)が、『日本婦人論』『男女交際論』など数多くの男女論を書いていたことは意外に知られていない。 既存の福澤諭吉研究において福澤の男女論は、主に婦人(女性)論や家族論という枠組みで問題にされている。この点について、ひろた(1979)、中村(1990.1993.1994)、杉原(1991)、小泉(1997)、関口(2001)等が論及している。 ところが、一八八八(明治二十一)年に発表された『日本男子論』を男性論として議論しているものは、たとえば、男尊女卑への義憤を爆発させつづけた福澤の論説群は「いつかは書かるべき日本男性史上、不抜の位置を占めている」(鹿野1981:334)といった評価や、「福澤自身、彼の男性論がすぐ受け入れられるとは思っていなかった」(西澤2003:370)とする言及があり、「福沢の把握した日本の近代人間(=男性)像が…臣民像であった」(安川1979:379)という論及において福澤の男性像は、女性やアジアの民衆など被差別者には尊大で支配的に振る舞い明治憲法の天皇制下では従属性を持つとの指摘があるものの、先行研究は極めて少ない。 また、これまでの福澤研究では、『日本男子論』で説かれている「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」(「男」「女」、人間)関係および「ヂグニチー(dignity君子の身の位)」という個人のあり方を、道徳的な男性性構築の課題として捉える分析が、比較的手薄である。 そして、「男性性」を問い直し、現代日本の代表的な男性解放論となっている「男らしさの鎧を脱ぎ捨てよう」という伊藤公雄による脱鎧論では、「男たちの女に対する、優越志向・権力志向・所有志向」(伊藤1993:169)に注目しつつも、抑圧的な規範性をもつ男らしさの鎧を脱いだ後の男性の新たな価値観や行動規範などが敢えて充分に示されていない。 そこで、本稿では、『日本男子論』を当時の日本における新しい道徳的な男性性構築の言説として見ていくことを課題とする。 
二.福澤諭吉の「文明」論と道徳的な男性性の構築を課題にする男性論
福澤の「文明」論は、「智徳の進歩」「人間交際(権力が偏重した男尊女卑)の改良」「衆心(より多くの大衆の精神)発達」などを構成要素にした「複合概念」(丸山1986:215)である。「徳の進歩」が文明化の基本要素と考える福澤は、『日本男子論』において道徳を論じる時に、「居家の道徳」と「家の外の道徳」に分け、「私徳公徳の区別」をしている。福澤は、単なる〈公私分離論〉ではなく、東洋的な儒教の修身斉家治国平天下(『大学』経第五節)に学び、〈私公連続(同心円的拡大の社会構想)論〉を説く。 あくまで私徳が公徳の前であり徳の根本なのである。また、私徳について福澤は、「世界開闢生々の順序に於ても、先ず夫婦を成して然る後に親子あることなれば…根本は夫婦の徳心に胚胎するものと云わざるを得ず」(中村編1999:141)と念を押している。 この「夫婦」関係の前提になる個人のあり方として、『日本男子論』では「ヂグニチー(君子の身の位)」が論じられ、「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」関係論が、「男子」を対象として男性にこそ説かれている。 福澤が「男子論」を展開する理由は、「婦人論なり、また交際論なり、いずれも婦人の方を本にして論を立てたるものにして…その筆法は常に婦人の気を引き立つるの勢いを催して、男子の方に筆の鋒(ほこさき)の向はざりしは些(ち)と不都合」(中村編1999:137)と考えたからである。 「夫婦」の徳義を重んじる福澤の眼差しの先には、家の存続の為とか英雄色を好むなどと称し一夫一婦の関係を粗略にする畜妾制などの常態化した国内の社会状況があり、対外的に不平等から平等なものへ条約改正を西洋に迫る上で、訪日する欧米人の内地雑居が進んだときに、西洋から軽侮の念で見られかねない男性の不品行が問題化していた。 当時の風潮として、女性へ貞淑さや貞操を求めながら、一方で、公然と貞節の義務を破る男性が妾を養うのも男の甲斐性・特権・特典とするなど、今で言う「性の二重基準(sexua」doub」estandard)」(上野1994:112)を福澤は問い、「古今世界の実際において、両性のいずれかこの関係を等閑にして大倫を破るもの多きやと尋ぬれば、常に男性にありと答えざるを得ず」(中村編1999:150)と男性を問題視している。 福澤は、このような男性問題の解決策を講じようとしたときに、日本において「文明」を「始造」しうる道徳的な主体形成の課題の一つとして、道徳的な男性性の構築を課題にする男性論を展開した。 
三.「ヂグニチー(君子の身の位)」にもとづく個人のあり方を問う
そもそも「自ら信じ自ら重んずる所のもの」(中村編1999:155)が無ければならないと福澤は説く、そして、それが何か、自分自身に問うてみよと迫る。さらに、「男子」のあり方、個人のあり方として何が最も大切なのか、問いかける。 福澤によると「いわゆる屋漏(おくろう)に恥じざるの一義が最も恃(たの)むべきもの」「能(よ)くその徳義を脩(おさ)めて家内に恥ずることなく戸外に憚(はばか)る所なき者は、貧富・才不才に論なくその身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位という。洋語にいうヂグニチー」(中村編1999:156)というのである。ここで「屋漏に恥じざる」とは、「人の目から最も遠い場所にいる時も自戒し謹慎せよとの意。道徳の内面性を示すことば」(松沢校注1982:329)と解される。 つまり、個人のあり方や男のあり方として最も大事なことは、誰が見ていようと見ていまいと(ゴッドのような天は見ているかもしれないが…)、自分の欲望や行動に対して自己調整(統御)力が備わり、自分を信じ自分を重んじ自分の尊厳を大事にする自尊感情を併せ持つ有徳者たる存在であることであろう。 この「ヂグニチー(君子の身の位)」の体現者について、福澤は、「我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働はただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気、外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々(しゃくしゃく)然として人の情を痛ましむることなし」(中村編1999:158)とリズミカルに朗誦するかの如く語っている。 幕末に強烈な西洋の衝撃を受けた日本では、明治以来、西洋に追いつけ追い越せと、滅私奉公的に個人を犠牲にしてまでも、近代的な国民国家や産業社会の形成を最優先する傾向が、第二次世界大戦後も経済復興期から右肩上がりのバブル景気の終焉まで継続した。 個人のあり方や男のあり方への一人一人の自問自答は、先進的な西洋より日本が後発であったが故に、経済的物質的に精神的時間的にも余裕が無く、不問にふしたり、曖昧なまま先送りして来たのではないだろうか。 大量生産大量消費による個々人の飽食的な欲求充足を是とした二十世紀の末まで、日本の男性の多くは、高学歴高収入を目指し、産業戦士・仕事人間・会社人間などと呼ばれ、稼ぎ手として主たる生計維持者の役割を果たし期待に応えようとしてきたが、福澤によれば、「才学」や「資産」などは自信自重の「資(たすけ)」にすぎなかった。 地球規模での環境破壊が進行して、生存基盤が危うくなり、持続的な発展が望まれる一方で、富が偏在して南北格差が深刻となった社会状況下の二十一世紀の日本に生きる者、特に男たちにこそ、「ヂグニチー(君子の身の位)」にもとづく個人のあり方として、まず、自分を信じ自分を重んじるものがあるのかを問うこと、自尊感情を大事にすること、そして、自戒と謹慎が求められ、「屋漏に恥じざるの一義が最も恃む可きもの」になってきているのかもしれない。 
四.「夫(「男」)」にこそ問う「愛」「敬」「恕」にもとづく「夫婦」のあり方
『日本男子論』における「愛」とは、「相互いに隔てなくして可愛がる」「動物たる人類の情」である。また、「敬」とは、「互いに丁寧にし大事にする」「万物の霊たらしむる所以のもの」(中村編1999:146-147)であり、「夫を主人として敬うべしというは、女子より言を立てて一方に偏するが故に不都合…男子の方より婦人に対し、夫婦の間は必ず敬礼を尽し…時としては君に事(つか)ふるの礼をもってこれを接すべし」(中村編1999:181)と「夫婦」間では特に「夫(「男」)」に求められている。 この「愛」と「敬」は、さり気なく「相互いに」「互いに」という〈相互性(reciprocity)〉が定義の共通要素になっている。 実はこの「相互性こそが対等の人間関係を保障」(坂本1991:15)し、男女平等を基礎づけている重要な要素であろう。すでに一八七三(明治六)年の『学問のすすめ』二編において、「人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ(reciprocity)」又は「エクウヲリチ(equa」ity)」と云う」と福澤はウェーランド(FrancisWay」and.1796-1865)の「モラルサイヤンス(『修身論』TheE」ementsofMora」Science)」(伊藤1969:3-17)から学んでいた。 「敬愛」とは、「夫婦の徳にして…夫婦利害を共にし苦楽喜憂を共にするは勿論、あるいは一方の心身に苦痛の落ち来ることもあれば、人力の届く限りはその苦痛を分担するの工風」(中村編1999:147)をするという「夫婦」の利害苦楽喜憂の〈共同分担(性別分業の見直し)論〉であろう。男性に共同分担する工夫を迫り、固定的な性別分業の段階的で究極的な見直しが求められているといえよう。 たとえば、この男性の共同分担のユニークな議論の展開は、一八九九(明治三十二)年に発表された『新女大学』第二条の子育て論において示されている。父たる者は、「妻」と苦労を分かち、仮に「戸外の業務あるも事情の許す限りは時を偸(ぬす)んで小児の養育に助力」して、少しでも「妻」を休息させ、「夫」が、「妻」の辛苦をよそに安閑とし見て見ぬふりでは「勇気なき痴漢(ばかもの)」(西澤編2003:306)であると、福澤は、「男の育児無し批判」をして、男も育児の時間を取るという「男の子育て」(丹原1992:137)を先駆的に説いていた。 そして、「恕」とは、「己の欲せざる所を他の一方に施すにおいてをや。ゆめゆめあるまじき事」(中村編1999:147)という〈己所不欲勿施於人〉論(『論語』顔淵第十二第二章)になっている。己が欲さないことは、突き詰めていくと尊厳をおかされること、言い換えれば、「ヂグニチー(君子の身の位)」を危うくされることであろう。「恕」の本質的な構成要素は、尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉と言えるのではないだろうか。 福澤の「恕」とは、一八八五(明治一八)年の『日本婦人論後編』で男性に対しても論じられ、まず、「恕」の説明に際して、「試みに女大学の文をそのままに借用し…男女の文字を入れ換えて」(中村編1999:59)、男が女の立場になって、相手の置かれた状況や気持ちを思いやると「大不平」「生まれた甲斐なしとまで憤る」例が挙げられている。この文脈で、「恕」とは、「心の如しとの二字を一字にしたる文字にして、己の心の如くに他人の心を思いやり、己が身に堪え難きことは人もまた堪え難からんと推量して、自ら慎むこと」(中村編1999:61)であった。この「恕」にも〈相互性〉が意味内容に含まれている。 また、福澤の「恕」は、「愛」とも関連があり、「愛」とは、「動物たる人類の情」とはいえ、妾などを愛玩し寵愛するというより、「隔てなく」は、文脈上、「徹頭徹尾、恕の一義を忘れず、形体こそ二個に分れたれども、その実は一身同体と心得て、夫婦の人倫を全うするを得べし」(中村編1999:147)と繋がり、自他が一心同体となるほど対等・平等に、我が身を愛する如く他者を「相互いに」「可愛がる」意味であろう。「恕」を実践して自他が「一身同体」になるほど他者の心身を思いやり「自ら慎むこと」は容易ではない。 つまり、福澤の「愛」「敬」と「恕」とは、〈相互性〉が共通要素でありながら、違いは、「愛」「敬」が、動物的であれ「万物の霊」としてであれ、男が固定的な性別分業を見直し共同分担するなど〈何かをする〉ことであるのに対して、「恕」とは、自己を起点に他者を思いやり、男が他者である女に対して(たとえば、相手を自分の思い通りにしようと手を上げるなど暴力を振るわず)尊厳をおかさない〈何かをしない〉ことであろう。 福澤によれば「己の心の如くに他人の心を思いや」るとは、己の欲することを他者にすることではなく、己の欲せざることを他者にすることがないように「推量(推察)」して「自ら慎む」ことを意味していたが、微妙ながら決定的に重要である。 「恕」論の「自ら慎む」要素は、「ヂグニチー(君子の身の位)」論の自戒と謹慎の要素と重なり合い、〈尊厳の尊重・不可侵〉を基礎づけ保障していた。「愛」「敬」「恕」論には、〈相互性〉が共通する要素であった。このように、福澤が説く「愛」「敬」「恕」「君子の身の位」という儒教用語は、有機的に関連し合っていよう。 たとえば、福澤の「愛」「敬」「恕」の共通要素になって、立場交換などして忖度する〈相互性〉は、〈平等・対等〉を基礎づけ保障する。「恕」と「ヂグニチー(君子の身の位)」とは、個人の尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉を基礎づけ保障する。〈平等・対等〉や〈尊厳の尊重・不可侵〉を基礎づけ保障する福澤の「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」論は、相互に共通要素を持ち相乗効果的に結びつき合って新たな価値や行動規範の内容になっているといえよう。 このように見てくると、〈平等・対等〉と尊厳の尊重・自他の〈尊厳の不可侵〉を基礎づけ保障する福澤の工夫の重要な要素は、「恕」論であろう。 なお、『日本男子論』において福澤は、「我輩が爰(ここ)に敬の字を用いたるは偶然にあらず」(中村編1999:146)と特別の注意を読者に喚起している。そこで、福澤が特別の意味を込めている「敬」については、古注(原始儒教)から新注(朱子学)、そして、福澤の儒教の「先生となった白石常人は…徂徠の系譜を引く学者であった」(岩間1997:120)ので、その徂徠の『論語徴』における解釈と比較して、福澤の「敬」解釈の特徴や「敬」概念の転換(転釈)の工夫を検討した結果を簡潔に見ておこう。 『論語』の「敬」に関する重要な章句の一つである、為政第二第七章の「子游孝を問う。子曰く、今の孝なる者は、是をよく養うを謂う。犬馬に至るまで、皆よく養うこと有り。敬せずんば、何を以って別たん乎」(吉川1978:56)を検討する。 古注の有力説では、養うが「労働」「奉仕」(吉川1978:57)の意味で、子が家畜並みの位置にあり、親に対して、無条件的で無制限の上下的な敬いである。 新注では、養うが「食料を与えている」(吉川1978:57)意味で、子が、親や家畜に対し、食することに不自由がないようにしつつ、子が親を敬うので、親が最上位で次に子、その下位に家畜という梯子のような位置関係になり、上下的でありながら、子に一定の主体性が認められ、家畜より上位に在り、「分の階梯的肯定」(守本1967:124)という封建的世界に適合的な解釈であった。 『論語徴』のこの章句には、一見余計なエピソード風に君子と君臣関係の説明が付記されている。『孟子』離婁第四下篇九十二章の「君の臣を視ること犬馬の如くなれば、すなわち臣の君を視ること國人の如し。君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること寇讎(あだかたき)の如し」(小川訳注1994:66)を部分引用して、君の臣への心的態度に対する臣の君への心的態度が追記されている。国人とは、普通の縁のない人々、路傍の人である。君と臣という上下的でありながら、臣から君と君から臣への双方向性というのか〈相互性〉の大切さが強調されており、この点が、君臣関係から親子双方の〈対等・平等〉な関係への画期的な過渡的イメージになっていよう。徂徠は、古注を支持しても単なる復古ではなく、新たな思想的可能性を提示していた。 古注であれ、新注であれ、徂徠解釈であれ、「敬」が上下的な位置関係であったのに対して、福澤の「敬」は、夫婦「互いに」「丁寧にし大事にする」と定義に明確に〈相互性〉が含まれ平等な関係を基礎づけ保障している。 このように歴史的な「敬」は上下的関係であったので、平等な関係で「敬」意を払い合い、尊「敬」し合うことが如何に困難か、「敬」解釈の変遷を見てくると平等な関係における「敬」は未だ経験していないが故に、簡単なことのようで難題であろう。 特に、男に権力が偏重した男尊女卑の状況下において、女が男を「敬」したとしても、男が女を「敬」することは、容易ならざる大衆的な難業かもしれない。 
五.おわりに
福澤は、論語の章句を換骨奪胎して転釈を試み、徂徠が親子犬馬の関係に追記した君子と君臣関係を、意識的であったか否かは別にして事実として「夫婦」関係に置き換え、さらに、従来の「夫婦に別有り」ではなく「夫婦に愛敬恕」有りへ大胆な読み替えをした。 ちなみに、福澤の「夫婦に別有り」の解釈は、一対ごとの「夫婦」で『中津留別の書』に示されており、一夫多妻など妾制度を認めない一夫一婦の解釈になっている。ところが、福澤は、思想的には柔軟で将来的に一夫一婦制は「男子論」において「絶対(アブソリュート)の理論」(中村編1999:169)ではないとして、『福翁百話』では「愛情相投ずれば合して夫婦となり、その情の尽るを期して自由に相別れ、更に他に向って好配偶を求むべし云々と…自由愛情(フリーラヴ)論」(中村編1999:190)を紹介している。 ただし、この「自由愛情(フリーラヴ)論」は、男子の豪放磊落と称する性的放縦とは全く似て非なるものである。この考え方の影響が可能性として考えられる一八五〇年のアメリカで始まった共同体運動について、「ミルが『自伝』のなかで触れ…「個人の尊厳」のみに基づいて社会制度を形成しようとするもので…福沢はミルの自伝を読んでいた」(中村2000:183)という。福澤の「自由愛情(フリーラヴ)論」を成り立たせる基本要素は、「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」論であり、男にこそ求められていたのであろう。 筆者は、本稿において道徳的な男性性の構築が福澤の課題であるとして『日本男子論』を中心に内容を検討してきた。伊藤公雄の脱鎧論では、抑圧的な鎧を脱いだ後の男性の新たな価値観や行動規範などが充分に示されていないことを指摘して、この不充分性の補充を試みた。伊藤男性性論は、なぜ新たな男性性の規範を敢えて示さないのか、それは性別にもとづく規範を問題視して、性別を越えた規範の再構築を考えているからであろう。本稿筆者も、性別にもとづく規範の再生は、新たな特性論を生みがちで、固定的な性別分業や性差別を再生産する危うさがあると考える。 伊藤男性性論では、性別などによらずに、他者への配慮・想像力をともない、支配することなく逞しく、「自己像においても他者像においても、また自己と他者の関係性においても」個々人の多様性・固有性を「ひとつ」にくくらず、「つねに多様性・複数性という志向性のなかでとらえ…差異を差異として、固有性を固有性として解放しながら、しかも、自己と他者との対等で開かれたコミュニケーション=共同性を可能にする…脱男性社会を生きるための「倫理」」(伊藤1993:196-197)が示されていた。 福澤の議論は、道徳的な男性性の構築が課題であったけれども、内容を検討すると単に道徳的な男性性の規範論に止まらず性別を越えた規範論になっている。 つまり、「ヂグニチー(君子の身の位)といった個人のあり方は、男のあり方であり、女のあり方でもある。「愛」「敬」「恕」の両性間あるいは自他における〈相互性〉が共通要素になっているということは、「男も人なり女も人なり」「人たる者は常に同位同等」(今風に言えばgenderequa」ity)であり、道徳的な男性性構築が女性性構築の課題となり、さらに、「男」「女」の二項区分を超越した道徳的な人間(「万物の霊」)性構築の課題にもなりうる。 ところで、人は生きていくためにアクセルを踏む(「愛」「敬」の精神で〈何かをする〉)だけではなく、人身事故などを起こさないためにブレーキで停まり自己統御(「恕」の精神で〈何かをしない〉)ができなければ、市民社会で幸せに暮らしていけない、ドライバーの心の奥底には個人の尊厳を重んじる構え(「ヂグニチー(君子の身の位)」)があるというように、現代社会に適合的な倫理として、福澤の道徳論はたとえられるのかもしれない。 今を生きる性の開拓者や若者たちには、福澤論が堅苦しく古臭い印象を与えるかもしれない。しかし、何でも有りが何にも無いかのような、価値を見失い揺らいでいる人々が、激変期を生きた福澤の男女論を読むと、意外に示唆的で望ましい男性像や人間の姿が見いだせよう。 福澤が説いた「ヂグニチー(君子の身の位)」の具体化は何よりも、男性の自己解放になり、「愛」「敬」「恕」の実践は、他者との関係の解放になるであろう。単なる西洋近代化志向ではなく、東洋と西洋との両洋の要素などから成る人類の文明化を目指す「(智)徳の進歩」「人間交際の改良」「衆心発達」として、福澤の「ヂグニチー(君子の身の位)」「愛」「敬」「恕」にもとづく道徳論は、百年余りの時空を超えて、二十一世紀の一人一人の男性たちに問われ、(たとえば、共に生きる者と苦楽喜憂を分かち幸せを感じ合い、歴史的に繰り返されている性的いやがらせや殴る蹴る精神的に虐待するなど家庭内の暴力、性暴力などを予防して生じないように…)改めて道徳的な男性性構築の課題になっているのではないだろうか。 
文献
*伊藤公雄『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学』新曜社一九九三 *伊藤正雄『福澤諭吉論考』吉川弘文館一九六九 *岩間一雄『比較政治思想史講義―アダム・スミスと福澤諭吉』大学教育出版一九九七 *上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店一九九四 *小川環樹訳注・荻生徂徠『論語徴1』(全2巻)平凡社一九九四 *鹿野政直「解説」『福沢諭吉選集第九巻』(全14巻)岩波書店一九八一 *小泉仰「福沢諭吉の女性論」『国際基督教大学アジア文化研究』別冊7一九九七 *坂本多加雄『市場・道徳・秩序』創文社一九九一 *杉原名穂子「福沢諭吉の女性論におけるパラダイム転換」『お茶の水女子大学人間文化研究年報』第15号一九九一 *関口すみ子「福沢諭吉の「徳」と「家族」」『福澤諭吉年鑑28』福沢諭吉協会二〇〇一 *丹原恒則「男の子育て・子育ての男育て」岡山女性学会編『女・男の現在(いま)を見つめて―岡山女性学10年』山陽新聞社一九九二 *中村敏子「福沢諭吉における文明と家族」『北大法学論集』第40巻第5・6合併号一九九〇第44巻第3号第4号一九九三第6号一九九四 *中村敏子編『福沢諭吉家族論集』岩波文庫一九九九 *中村敏子『福沢諭吉文明と社会構想』創文社二〇〇〇 *西澤直子「解説」西澤直子編『福澤諭吉著作集第10巻日本婦人論日本男子論』(全12巻)慶応義塾大学出版会二〇〇三 *ひろたまさき「福沢諭吉の婦人論にふれて―近代日本女性史研究の若干の問題点」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号[史学篇]一九七九 *松沢弘陽校注・福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫一九八二 *丸山真男『「文明論之概略」を読む上、中、下』岩波書店一九八六 *守本順一郎『東洋政治思想史研究』未来社一九六七 *安川寿之輔『増補・日本近代教育の思想構造』新評社一九七九 *吉川幸次郎監修『中国古典選3論語上』朝日文庫一九七八 
 
生命文明への舵を取れ

 

1 福澤諭吉の文明論と「独立自尊」
「文明」というものを日本人が強烈に実感し、真剣に考えなければならなくなった幕末明治の時代、近代日本を築いた先人達は、どのような文明観を持っていたのでしょうか。
日本の文明論の先駆ともいえる福澤諭吉の『文明論之概略』(明治八年、一八七五年)は、次のような書き出しから始まっています。
「文明論とは人の精神発達の議論なり。
其趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、或は之を衆心発達論と云ふも可なり。」
また福澤は、
「いわく、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするをいうなり、衣食を饒(じょう)にして人品を尊くするをいうなり」
とも述べています。
一人ひとりの身体を安楽に、衣食を豊かにすることは、物質的な豊かさや、健康、安全で生きられる社会環境づくり、経済、政治の安定とつながると思います。
そして、心を高尚に磨き、人品を尊くすることは、精神的な豊かさや知性、人間性、社会性といった人間の内面の発達にあたるわけです。
ちなみに福澤諭吉は坂本龍馬の一歳年上に当たり、居合いの達人であり、一八八〇年代の日本の欧化主義には批判的な態度を示すなど、一般的に広まっている「脱亜入欧」「アジア蔑視」といった単純な思想家としてのイメージとはだいぶ異なる側面を持っている人物で、私は魅力を感じます。
彼が生きた時代に直面した「文明」の衝撃とは、西洋文明に他なりません。
十字軍遠征に端を発するとされる西欧のルネッサンスから、大航海時代の幕開け、宗教改革、近代市民革命、産業革命、そして植民地帝国主義の時代へと、いわゆる西洋文明は地球上のどの文明圏よりも急速に、強大な「力」を持つようになっていきます。
日本は明治維新の成功を通した近代化によって植民地化は免れましたが、依然不平等条約の撤廃という外交課題を抱えていた時代です。
また、大陸の清国や朝鮮半島も非常に不安定な激動の時代で、西欧列強によるアジア諸国の植民地化も着々と進められていた時代です。
そんな中、日本がどのように国家としての「独立自尊」を完遂しうるのか、福澤が『文明論之概略』を記し、あるべき文明像を提示した主眼はここにあったと思います。
当時の彼の判断基準からすれば、油断すれば日本も歴史の荒波に呑み込まれかねない弱肉強食の近代世界システムの中で、封建主義的な古い時代の価値観に観点が固定されている人間たちに対して、強い覚醒を促す意志があったと思います。
そうでなければ、強大な「西洋文明」の力の前に日本が支配されてしまうという、危機感、切迫感がまだ残っている時代でした。
また福澤は、『学問のすすめ』の中で、
「一身独立して一国独立す」という中心理念を軸にすえて、学問の意義を説いています。
一人ひとりの人間の自由独立の気力、気概、気風があって、初めて日本も諸外国に対し毅然とした自由独立の主権国家の尊厳を確立できる、という、彼の強い信念がこもった言葉です。
福澤は今日私たちが頻繁に使っている「自由」という単語を翻訳したことでも知られています。
英語のFreedomや」ibertyに対する訳語で、もとの英語のニュアンスとは異なるところもありますが、「独立自尊」を理想とした彼の文明観とも密接に関係する言葉でしょう。 
2 西郷隆盛の文明論と「道」の理想
「文明」の理想像を考える上で、また別の角度からも考えてみたいと思います。
『文明論之概略』から二年後の一八七七年、西南の役で自刃した西郷隆盛の言を収めた『西郷南洲遺訓』によれば、西郷は、「文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず。
世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些とも分からぬぞ。」(文明とは、道、天道、道理が普遍的に広く社会に行きわたっていることを称賛した言葉で、宮室の荘厳さ、衣服の美しいあでやかさ、うわべだけの外観の華やかさを言っていることではない。今の世の中の人が唱えているような価値観では、何が文明で何が野蛮なのか、ちっともわからないことだ。)と語っています。
そして、「予嘗(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。」(私は、かつてある人と議論をしたことがある。私が西洋は野蛮であると主張すると、その人はいや文明国だと主張し議論になった。私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言ったところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮というのかと私に尋ねてきた。私が本当の文明国であるならば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野蛮であると言った。すると、その人は口をつぼめて何も言い返すことができないと苦笑していた。)という、西郷の思想を象徴する有名なエピソードを残しています。 
3 孫文の「大アジア主義講演」西洋覇道と東洋王道
そんな西郷隆盛を敬慕していた人物に、福岡が生んだ傑物、玄洋社の頭山満(とうやまみつる)がいます。
頭山は、辛亥革命を起し、一九一二年に初代中華民国臨時大総統をつとめた中国革命の父、「国父」孫文に対し、日本で積極的に支援・援助をしていました。
孫文が一九二四年に日本で行った有名な「大アジア主義講演」をもとに、少し考えてみたいと思います。
孫文自身の人物像や彼の事績の歴史的な評価は様々ですが、
「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である。」
との言葉を残し、近代中国を切り開いた革命政治家が、戦間期の日本と世界をどのように見ていたのか、現代につながるメッセージとして読み解いてみたいと思います。
少し長くなりますが、随所を引用してみます。
「アジアは一度は衰微しましたが、三十年前に再び復興し来たったのであります。…日本が三十年前に外国と締結しました一切の不平等条約を撤廃したことです。日本の不平等条約撤廃の其の日こそ、我がアジア全民族復興の日であったのであります。」
「…それより十年を過ぎて日露戦争が起こり、其の結果日本が露国に勝ち、日本人が露西亜人(ロシア人)に勝ちました。
これは最近数百年間に於けるアジア民族の欧州人に対する最初の勝利であったのであります。この日本の勝利は全アジアで影響を及ぼし、アジア全体の諸民族は皆有頂天になり、そして極めて大きな希望を抱くに至ったのであります。」
「日露戦争の開始されました年、私は丁度欧州に居りましたが、或る日東郷大将が露国の海軍を敗った、露西亜が新に欧州より浦塩(ウラジオストック)に派遣した艦隊は、日本海に於て全滅されたと言うことを聞きました。此の報道が欧州に伝わるや全欧州の人民は恰も(あたかも)父母を失った如くに悲み憂えたのであります。
英国は日本と同盟国でありましたが、此の消息を知った英国の大多数は何れも肩を顰め(ひそめ)、日本が斯くの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものではないと思ったのであります。これは正に英語で「B」oodisthickerthanwater(血は水よりも濃い)」と言う観念であります。」
このような話を踏まえ、孫文は大アジア主義講演の主旨を、「東方の文化と西方の文化の比較と衝突の問題」と述べました。
孫文いわく、東方の文化は王道であり、王道は仁義道徳を主張するもの。
対して西方の文化は覇道であり、覇道は功利強健を主張するもの。
そして、「王道の仁義道徳は正義合理によって人を感化するものであり、覇道の功利強権は洋銃大砲を以って人を圧迫するもの」である、と講演しています。
続いて、「我が大アジア主義を実現するには、われわれは何を以って基礎としなければならないかと言いますと、それは我が固有の文化を基礎にした道徳を講じ、仁義を説かねばなりません。仁義道徳こそは我が大アジア主義の好個の基礎であります。斯くの如き好個の基礎を持って居る我々が、なお欧州の科学を学ぼうとする所以は工業を発達させ、武器を改良しようとするが為に外なりません。欧州を学ぶのは決して他国を滅ぼしたり、他の民族を圧追したりすることを学ぶのではないのであります。唯だ我々はそれを学んで自衛を講じようとするのであります。」
と語り、「さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります…」とまとめていきます。
この後で彼が語った最後の講演内容が、日本の論壇でも長く取り上げられてきた有名な一部です。
「我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、多面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界の前途に対し、西洋覇道の鷹犬(ようけん)となるか、或は東洋王道の干城(かんじょう)となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」
この中で特に有名な次の一言、「西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか」鷹犬とは、狩猟で使役する手先としての動物である鷹と犬の意で、日本を、世界を狩猟する西洋列強の手先の鷹や犬で例えているものです。
そして、干城とは、国家を防ぎ守る軍人や武士のことで、西洋の植民地帝国主義からアジア諸国を守る役割を指します。
この一言は、孫文が強く日本に詰め寄り、日本の覚悟を問いただすような姿勢が感じられ、当時の日本と日本を取り巻く世界情勢の深刻さを深く物語っていると思います。
時代的には、日本が中国東北部に進行し、日中関係に暗雲がかげり始めた時期です。
この講演は、この後の歴史での日本の対アジア政策を批判する材料として使われることが多かったようですが、ここでは、もう少し本質的なところに話を深めてみたいと思います。
時代背景は当然異なりますし、現代の尺度からの歴史の評価の難しさもありますが、近代アジアを切り開いた明治維新と辛亥革命、この歴史の大転換期を生きた福澤諭吉や西郷隆盛や孫文といった先人たちが見ていた「文明」は、今日を生きる私たちに何を伝えてくれるでしょうか。 
4 一人ひとりが文明そのもの
福澤諭吉が高く掲げた「独立自尊」、人間の「自由」という中心価値、そして文明の根本要素である「人の精神発達」という基本概念の理想的なイメージとは、どんなものなのでしょうか。
そして、本質的かつ現実的な意味での、「一身独立」を果たしうる条件と状態とは、どのように理解すればよいのでしょうか。
西郷隆盛が語ったような、慈愛を本とし、懇切に説き諭しながらお互いの関係性を発展させていけるような、「道」が普遍的に広がっている称賛されるべき文明は、どのようにすれば具現可能なのでしょうか。
孫文が危惧した日本の進路は、その後どのような歴史を辿り、今の日本や中国は、孫文が理想として語ったような、仁義道徳を基礎とした東洋の王道文化を保持していると言えるのでしょうか。
彼らにとどまらず、時代を切り開いてきた歴史の英雄たちは、自らの人生をかけて成し遂げたい使命と夢を胸に人生を駆け、生きた証を歴史に刻み込んできました。
そうであるなら今、五百万年間の人類文明の構造の根本問題が見えてきたこの時代、私たちは、どのような文明像を描いて未来に向かうべきなのでしょうか。
この地球上に、全人類と地球生命共同体が幸せに繁栄しうる共存共栄の人類普遍文明を打ち立てたい、という理想を抱くことは、愚かなことでしょうか。
この地球上に、五百万年間の人類文明の本質的限界を突破する文明の構造改革を通した、WIN-WIN、A」」-WINの大和の文明を築きたい、と希望を抱くことは、愚かなことでしょうか。
この地球上に、この日本から、西洋文明と東洋文明、物質文明と精神文明が融合発展した美しい生命文明を開きたい、という夢を抱くことは、愚かなことでしょうか。
環境問題や金融問題などが典型的に象徴するように、今、全世界はひとつの運命共同体です。
ひとつにつながり合う世界の中で、自分のこと、自分の集団のことだけを考えて生きるエゴの生き方は通用しないこの時代、地球という惑星上で運命を共にする私たちは、どんな理想の文明像を描くべきなのでしょうか。
向かうべき理想のイメージも方向性もない状態で、現代文明は一体どこに向かって舵を取ればよいのでしょうか。
これは、「私の仕事や人生には、そんな大きな話は関係ないよ」と分離して、自分の目先のことだけ考えてすむような話ではありません。
なぜなら、私たちの生活も人生も文明社会全体の大きなうねりの中から無関係でいることは決してできず、もしも文明が病んでいるとしたら、文明の病は私たちの人生や仕事、日々の身近な出来事の中にもひっそりと転移し、知らず知らずのうち人生を蝕んでいくものだからです。
文明の問題、文明の危機と私たちの人生の問題、それはすべて密接に直結しています。
そして、それは一人ひとりの人生だけではなく、自分の大切な人やこれから生まれてくる子供たちや、地球上に共に住む多様な生命たちにも、着実に深く影響を与えていくものです。
例えば私たちは日常で当たり前のように「文明病」という言葉を使います。
身近にある文明病としては、花粉症やアトピー、メタボなどの生活習慣病もそうです。異常なウイルスなども含め、物質文明が発達していった結果、有害電磁波や環境ホルモン、食品添加物などが関係する、今までにはなかった病気が増えてきています。
また、うつ病などの精神疾患は、もはやガン、心臓疾患と並ぶ三大疾患として、先進諸国では最優先課題として深刻な問題になってしまっている状態で、日本では「国民病」として、国家的課題として取り組むべきだと考えられているほどです。
この背景には、物質的豊かさがもたらすライフスタイルの変化の影響や、複雑な情報社会がもたらす個人の意識空間の混濁、閉鎖的志向性が関わっています。
そして、心身を病む結果、人間関係にも大きな問題を生じ、仕事などにも支障をきたすため、健康な労働者層が病んでいくという、企業の問題、社会経済的な問題ともつながっているのです。
さらにそれは、実際の社会の活力や国家の経済力とも直結していく問題であり、巡りめぐって個々人の雇用の問題や収入、生活保障、人生設計の問題なども全部関わってくるのです。
このような意味で、文明の問題・危機というものと私たちの日々の生活や人生は、実は分けて考えることができるものではありません。
いうなれば、私たち一人ひとりが文明そのものなのです。
ですから文明の危機が解決できないという事は、私たちの人生そのものの危機を解決できないという意味に繋がっています。
文明というと大きなスケールに見えますが、このように全て自分につながった問題ですから、自分の日常生活と人生に密接に繋がった問題として捉えるべきものなのです。 
5 ゆでガエルの緩慢な死「どんな選択をするのか」
カエルが泳ぐ水槽の水を、除々に温めていきます。このときカエルは、この先熱湯になってしまったらと未来を予測できなければ、遠からず必ず死んでしまいます。
ゆっくりと水温という環境が変化し、「ちょっと熱くなってきたような気もするけれど、無理して頑張って高い水槽の壁を超える決断をするよりは、現状維持でいいや、周りのみんなもそうしているし」という心の状態であったとすれば、それは緩慢な死へと至る愚かな選択だと言わざるをえないでしょう。
私たちがそんな「ゆでガエル」にならないようにするためにも、未来予測の先見力、洞察力、危機意識、切迫感を持つことは非常に重要なことです。
そして、よくよく洞察してみれば、このまま放っておけば文明の病はどんどん深刻になり、もう取り返しのつかない段階にまで入っていこうとしているような、危うい時代が現代であることに気づきます。
特にこの日本は、「課題先進国」として、本当に待ったなしの状態です。
そんな時代だからこそ、歴史の意志を受けて、そして今の時代が直面している文明史的な危機を正面から受け止めて、その危機をチャンスに大反転させ、逆に日本から希望にあふれる世界をつくっていくぐらいの夢と志をもつこと。
それは、私たちの世代の責任であり、使命であるべきなのではないでしょうか。
なぜならば、私たちは文明の病を根本から治療するための人類史の病原である、「人間五感覚脳の観点固定による認識疾患」という人間の本質的な病が発見できた時代を迎え、そして何よりも、それを解決し、治癒する術が手に入っている時代に生きているからです。 
6 文明の基本構造の七段階
それでは、人類の本質的な限界を突破して、今から新たに創建するべき文明の方向性と全体像とはどういうものなのでしょうか。
それを理解するためにここで、そもそも現代文明の危機とは何なのかということを、五つの観点で独自に整理してみたいと思います。
そして、その文明の五つの危機の「原因」と、危機に対する「処方」があることをお伝えしながら、実際に未来を切り開いていく「変革の主体」となる力をどうつくればよいのか、ということ(文明の舵取りの全体像)をご紹介したいと思います。
その前に、文明の構造と経済的な観点をあわせて、植物の成長段階で表してみました。
根っこから茎、葉、花、実、種、そして種が土のスキマに入る、という七段階のサイクルで整理したものです。
根は「観点・基準点・中心軸・認識方式」というキーワードを当てています。意味するところは、五感覚脳の観点に固定された認識方式を基準点・中心軸として、自分と自分が認識している宇宙をどう捉えて観るかという、ものの観方、観点、根本判断基準ということです。
茎は「価値観」です。
多様な思想、哲学、理念、理論などのほかに、主義(〜イズム)、イデオロギー、ドグマなどといったものも含んで意味しています。
葉は「システム(活動、組織化)」、これは、人間集団を組織化していくシステムとして、教育訓練体系や情報伝達体系、組織機構、組織制度や法規範、規則などのルールを意味しています。
花は「商品生産、開発技術」です。
組織化された人間集団(経済的な観点では企業が一番象徴的)による商品生産の開発技術を指します。
実は、「マーケティング、ブランディング」で、その商品を市場に流通、販売させるマーケティング、ブランディング戦略や経営戦略に当たります。
種は、「市場占有率」。その商品がどのくらいのマーケットシェアを取れるのかという段階。
そしてスキマは、その商品を購入することで、富の蓄積、財貨の獲得、物質的な豊かさなどを得ることができる、という段階です。 
7 五大危機一、「観点・基準点の限界」
まず本質的な観点からいくと、文明の五大危機の一つ目は、「観点・基準点の限界」です。
人間の不完全な五感覚脳に観点が固定されていた今までの文明の根幹自体を根本的に見直す必要があること、これは第三章で概要をお伝えした通りです。
五感覚脳の観点固定状態から、これまでの歴史で多種多様な価値観が生み出されてきました。
仏教の観点、キリスト教の観点、イスラム教の観点、神道の観点、あるいは資本主義の観点、共産主義の観点もありますし、自由主義や社会主義の観点もあります。
日本人の観点、アメリカ人の観点、中国人の観点、韓国人の観点、北朝鮮人の観点や、あらゆる宗教、思想、哲学、理念、理論など、文明を育ててきた茎の背景には、それぞれの観点、判断基準を生み出す五感覚脳の観点固定があるのです。
人間は、自分の観点、自分の判断基準から抜け出して本当の意味で相手の観点に立つことが難しく、これが様々な問題の根本原因となっています。
また、私たちは個人である前に共通して人間ですから、自分の観点だけでなく、この人間の観点からも移動が自由になれば、植物の観点、動物の観点、物質の観点、光の観点などにもなれるのです。
他にも、脳の意識の観点だけではなく、脳を構成する細胞の観点、DNAの観点、魂の観点など、丁寧にイメージをほどいて観点移動をしていけば、実は人間が思い込んでいる世界よりももっと広大な、無意識の観点移動の世界が可能なのです。
それらの意味や可能性に全く興味を持つことなく、そのジャンルを開発することすら思いもよらなかった今までの人類文明の構造の根幹が、大きく変化する必要性とタイミングが今の時代なのです。
そしてそのためには、多様で相対的な観点を自由自在に往来できるようになるための新しい基準点となる、相対世界を生み出す絶対世界の観点との出会い、観点の次元上昇が必要なのです。
観点の次元上昇なくしては、人と人、組織と組織、人と自然がお互いの立場になって柔軟に相互発展する意識が生まれません。分離意識から生まれる、人と人、人と自然の闘争状態では、環境問題が象徴するように、いつか共倒れになってしまいます。
観点の次元上昇、すなわち悟りが当たり前になる時代を開くべき時なのです。
これは、福澤諭吉が翻訳した、もともと仏教用語である「自由」(自らに由る)という語の本意であると共に「一身独立」を謳った精神の一番奥深くにあるものです。
西洋は現実的な絶対権力からの自由を手に入れることで、個人が目覚めて民主主義や資本主義を開花させていきましたが、東洋から発する文明の危機の解放は、人間の第二の誕生である脳の観点固定からの解放、自我意識からの独立、「天上天下唯我独尊」の、完全な自己の独立としての絶対的な大自由の心そのものへの個人の覚醒であるべきだと思います。
脳に支配されている状態では、本当の意味でのその個人の「独立」はありえません。
なぜなら人間は常に必ず、環境から、あるいは人間が作り上げた観念知識や集団思考から影響され続けざるを得ないからです。
そして個人の悟りから社会の悟り、文化文明の悟りにまで広がっていった時、西郷が理想とした、「道の普く行はるる」慈愛と懇切な対話による、「文明のかたち」が生まれていくと思います。 
8 MadeinJapanの限界を超えて物質文明から生命文明へ
次に現実的な経済の観点からみると、七段階で整理した図のうち、私たち日本人が一番強いのは花の部分です。「商品生産、開発技術」の部分(パート)に当たります。日本経済、日本人にとっては、戦後の廃墟の中から世界ナンバーワンにまで上り詰めた製造業によるメイド・イン・ジャパン(MadeinJapan)の世界ブランドが、戦後の日本のプライドそのものでもあります。
これにより、実物経済の発展による物質文明、近代科学文明、そして情報社会から金融経済へと二十世紀の歴史を歩んできたわけですが、この文明のモデルを総称して「アメリカ式経済発展モデル」としておきたいと思います。
物質文明はモノを変化・運動・移動させる技術によるもので、日本はこの分野で経済的に世界の超一流国家になりましたが、問題は、ものづくりでは日本はもはや世界に勝てなくなってきており、それは時間がたつほど深刻な事態になっていくということです。
MadeinJapanだけでは、もはや今からの日本にとっての中心価値、中心戦略にはなりえません。
世界レベルでのマーケティングやブランディングも日本は不得手ですから、当然ながら市場占有率も下がり、今のままの産業構造で日本経済が再び豊かになることはないでしょう。
そのために、産業構造の転換や政府の経済政策、成長戦略の策定など色々な提案が真剣に論じられています。また、国家として日本経済の根本的なメインコンセプトをどのように規定するべきか、といった議論も出てきています。
しかしながら問題は、日本人はもともとそのような「システム」(葉の部分にあたる)や、システムを生み出す「価値観」(茎の部分に当たる)を、明治以来オリジナルで自ら創り上げてきた経験が決定的に乏しく、基本的に西洋の「価値観」、「システム」を翻訳輸入して模倣することに専心してきたため、今になってそこからの建て直しをすることが非常に難しいという限界を抱えている事です。
しかも、日本人が戦後六十年以上モデルとして受け入れてきた、アメリカ式の資本主義の根本的な問題や欠陥が噴出している今、六十年以上依存してきたその観点から自由になって、独創的・主体的に自らの意志とビジョンで日本経済の変革の道を開拓することは、絶望的に困難でしょう。
これは、日本と日本人の観点そのものの限界を意味しているものです。
また、基本的に世界経済は戦争のようなものです。かつては軍事力を持って領土や人民を直接的に奪い合っていた戦争が、合理的にスマートに、かつ長期的なスタイルに変化しているだけで、西洋近代世界システムの弱肉強食の競争の延長上にすぎません。
ですから必然的に、孫文が言ったような「仁義道徳」、「正義合理」の東洋の王道の理想はそこに存在しません。
「功利強健」をもって闘争する道具が、「洋銃大砲」から「企業の商品」に変化はしましたが、自国に有利な仕組みの構築や駆け引き、裏工作や裏取引が当たり前なのが経済戦争の実態です。
だからこそ日本は「第二の敗戦」と呼んでいますし、実際、経済戦争に敗北したことで、国家産業は疲弊し、国の財政は破綻し、経済社会システムの変更を強制され、大量の失業者や、その結果としての自殺者までを出している状態です。経済戦争において、国家が国民の安全保障に失敗してしまったのが、この「失われた二十年」なのだと思います。
そして、物質文明の発達と金融資本主義による人間の強欲によって、地球環境は持続不可能な状態に陥っている状態なのですから、広い視野で見れば、日本だけではなく、運命共同体である世界の経済システムと現在の人類文明そのものが、根本的な問題提起と大きな文明の方向転換を必要としているのです。
それらあらゆる問題の全体像を整理して、人類文明全体と日本経済の根本的な構造改革に取り組むための出発の変革点として、私は、「観点固定から観点の次元上昇へ」という処方を、まず何よりも重要なこととして提示したいと思います。
そこから、悟りが当たり前の状態で、悟りの智恵を現実に応用、適用させられる新しい文明の構築に取り組む方向性を日本が選択できれば最高だと思います。
それはいうなれば、孫文が唱えた東洋の王道文化として、力と強さによる「規模の経済」の衝突の時代を超えて、東洋の和の精神の「干城」として、「仁義道徳」と「正義合理」の通用するアジアの理想を問い直すための変革の道でもあります。
そして、宇宙自然の根本原理HITOTSUから構築される、日本オリジナルの現実的な新しい価値観、システムを築き上げながら、WIN-」OSEの競争の経済発展モデルではなく、WIN-WIN、A」」-WINの、日本から始まる共創の新経済発展モデルを世界に発信できるまでの夢をこの国が持つようになること。
それは、今までの文明の恩恵に感謝しつつ、その問題点と限界を補って進歩発展させる役割と使命を、日本が引き受ける意味でもあります。
そのような意志を日本人が持って、この時代に生まれた意味を新しい文明の創造へと定めることができたなら、歴史の意志の中心へと向かう第二の明治維新のような日本の底力が、必ず爆発してくると思っています。
それが、物質文明と精神文明の良さを融合調和させた、日本から生まれる新しい文明のモデルである、生命文明へと舵を取ることの意味です。 
9 五大危機二、「発展エンジン停止時代」と「人の精神発達」七段階
文明の五大危機の二つ目は、「発展エンジン停止時代」です。
福澤諭吉の言葉を、再度引用したいと思います。
「文明論とは人の精神発達の議論なり。
其趣意は一人の精神発達を論ずるに非ず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、或は之を衆心発達論と云ふも可なり。」
この言葉は、文明論の本質を正確に仕留めた福澤の至言だと、私は思います。
人類の文明が絶えず前進していくものであるなら、そのための発展エンジンとなるものが必要です。
そしてその発展エンジンは、文明を築いている最小単位である人間個人一人ひとりの中にあるものでしょう。
そのような意味で、文明の発展エンジンとなる「人の精神発達」とはどのようなもので、それが今どのような危機を迎えているのかを考えてみたいと思います。
そうすることで、「天下衆人の精神発達を一体に集めて、其一体の発達を論ずる」ものとして文明論の本源を照らしてみたいと思います。
人間が生きる原動力、人間が社会発展に向かうエンジンとは、どこから来るのでしょうか。
ここでは、アメリカの心理学者、アブラハム・マズローの欲求の五段階説をベースにした七段階の階層で整理していきます。なお、単語は若干独自のものに置き換えてあります。
「生理欲求」、「安定欲求」、「所属欲求」、「認定欲求」の四階層を、マズローは「欠乏欲求」と位置づけました。
「生理欲求」は人間の生命維持のために必須の水や食べ物を求める欲求であり、また、三大欲求等の本能的・根源的な欲求をさします。
「安定欲求」は、健全に生きていく上で基本的に必要な、安全、安心、安定状態への欲求です。肉体的健康をはじめとして、経済的な安定や生活水準の安定、社会秩序の安定などが当たると思います。
「所属欲求」は、精神的に安定し満たされる人間関係や、他者に受容されている安心感など、情緒的な愛を感じられる関係性の欲求です。
「認定欲求」は、他者から認められ尊敬を受けることで満たされる低次の尊重・認定のレベルと、自信感や自己信頼感、自立性などの自己尊重感を得ることで満たされる高次の尊重・認定のレベルがあります。
そして、「自己実現欲求」に動機づけられた欲求・原動力を「成長欲求」としています。
晩年、さらに高次の「自己超越欲求」というものがあると考えたようですが、ここではそれに近い概念として、六段階目に「自己完成欲求」を置き、そこからさらに進んだ最終段階として、「自己超越欲望」を置きたいと思います。
ここで整理する「自己実現欲求」とは、一人ひとりが自らの個性を開花させ個性を実現させる欲求であり、また、高次の「人の精神発達」の段階として、自他を深く受容する心や、協調性、自発性、創造性、高度な自助努力などが挙げられます。
そして「自己完成欲求」とは、ひと言でいうと悟りの欲求です。自分とは何者なのか、自分はどこから来てどこに行くのか、自己存在の本質を悟り知る世界を「自己完成欲求」と規定しています。
人生を旅で例えれば、もの心ついた時には人生はもうスタートしています。
一体、旅の出発がどこだったのか、旅の目的が何だったのか、旅の終着地点がどこなのか、魂が渇望する本質的な欲求が全ての人にあるのです。
マズローはこれに近い世界を自己超越の世界としましたが、この段階の特徴としては、存在の本質を知り、自我が消えて「それそのもの」になっている安定した状態であり、深く広く多角的な統合認識の洞察力を持っているような精神発達の段階です。
マズローが語るところによれば、他者の不幸に罪悪感を抱き、聡明で謙虚で創造的な特徴を持つと同時に、面白い特徴として、「外見は普通である」というのもあります。
悟りを得て自己完成をしたからといって、それはその人の認識空間が開けている世界ですので、基本的には外から見たら普通の人と別に何も変わりはないものです。
ただ、話してみればその人の意識空間、イメージ空間は観えますので、人間の観念を超えた世界のイメージがあるかどうか、その人が悟っているかの判別は容易につくでしょう。
四段階目までの欲求を物質文明の発展エンジンとしてひと括りにするならば、五段階目と六段階目の欲求が精神文明の発展エンジンです。
この全体のバランスが取れることが大切ですが、盧在洙は、これら全体を統合して生命文明へと向かう発展エンジンとして、七段階目に「自己超越欲望」を規定しました。
「自己超越欲望」は、個人の悟りを意味する「自己完成」の次の段階として、全ての存在、全ての人間、世界人類を悟らせて、現実的にも幸せに導きたいという魂深い望みを持った、これまでの歴史上ではまだ具現化していない高次の精神発達段階であり、高次の発展エンジンです。
まずこのように全体像を整理してみたとき、今の時代の発展エンジンの停止の危機とはどのようなものでしょうか。
もっとも、先進国や途上国など世界の各国・各地域によって社会の発展段階は全く異なりますので、それらに対してひとまとめに括ることはできません。
しかし、物質文明のトップランナーといえる先進国日本に、後進国もいずれ追いついてくるでしょうから、日本をひとつの先行的モデルとして考えてみたいと思います。
物質文明が成熟した社会における発展エンジンの停止の危機とは、一から四階層の「欠乏欲求」のレベルのエンジンでは、もはや未来に向かって強烈に社会を牽引する原動力にならないということです。 
10 「〜のために(for)」の発展エンジンの限界
格差社会とはいえ「欠乏欲求」は、日本はある程度は満たされています。無いものを求めるのが欲求の基本性質ですから、既にあるものでは力強い原動力にはなりません。
また、戦後の日本は精神性を骨抜きにされた上に、もともと日本人が苦手な自己主張もさらにできないようになってしまい、「生きる力」そのものが弱体化している現実もあります。
別の言葉で言えば、「欠乏欲求」は五感覚と体の自分を満たしたいエゴの欲求ですが、中国人のような強烈なバイタリティと比較すれば、草食系と揶揄されるような今の日本人の獲得欲求では、社会発展の原動力として、到底かなわないと思います。
また逆にもし改めて、自分のために、家族のために、会社のために、絶対に家、車、不動産、株や金融商品などを少しでも多く獲得したい、というようなエゴの欲求が日本の発展エンジンになったとしても、単なる「〜のために(for)」という前進型のエゴの欲求では、色々な問題が再燃してしまいます。
エゴの欲求に幻惑され、消費扇動に踊らされたのがバブルの教訓だったでしょうし、世界の金融危機も環境問題も人間の強欲、傲慢が招いたものでしょう。
さらに、社会のために、国家のために、世界のために、といったような高次の意味での「〜のために(for)」という公共的欲求も個人主義教育によって削り取られてきていますし、「滅私奉公」などは人によってはマイナスイメージもありますので、「〜のために(for)」の力だけで改めて日本社会全体の発展エンジンとするのは難しいと思います。
物質文明を築いてきた前進型の発展エンジンが力を失っており、またそのエンジンが再燃されても今からの地球文明にとって問題が起こりやすいならば、新しいエンジンを稼動させる必要があるでしょう。 
11 生命文明の発展エンジン「自己超越欲望」へ
精神文明の発展エンジンがそれに当たるもので、基本は「自己実現欲求」なのですが、現代は自己実現を達成するのは非常に困難な時代状況です。
なぜならば、一人ひとりが自己実現を果たそうにも、そもそも日本全体の社会的、経済的環境が非常に苦しい状態です。
その上現代人は、テレビやドラマ、漫画やインターネットなどで、無意識のうちに自己を投影した憧れのイメージ、偶像(アイドル)の情報データを日々莫大に脳にインプットしてしまっています。
情報社会の海を泳ぐ魚のような存在である人間は、脳が思わせる世界の中で、自分と相対比較する対象である多種多様な憧れのイメージがあふれ返っている状態なのです。
そして、自分の年収や知識や職業や容姿や恋愛経験など、知らず知らずのうちに刷り込まれた理想とするイメージと、現実の自分とのギャップが、潜在意識深くにかなり影響を与えているのです。
一方で現代人は浅く広く情報を得ながら、束縛される関係性の少ない社会状況になっているため、一人ひとりが自己中心性の強い王様のような心理状態になっています。
「上から目線」という姿勢が嫌われるのは、日本人のもともとの平等意識もありますが、自分の上に立場をとられることに無意識で抵抗感を感じる現代日本人の心理状態を象徴しています。
このようなことから、人の話を謙虚に素直に受け入れることも非常に難しい状態で、人の協力を得ることが困難になっています。
成功願望の現実化のためには人の協力が必ず必要ですから、そんな心理状態で心から充足する自己実現欲求を満たすことは至難の業です。
こういった背景を踏まえて、本質的な意味からも現実的な観点からも、現代人が「自己実現欲求」を完全に満たすには、実は悟りを得る道が一番早く確実なのです。
そもそもエゴを出発とした前進型の「〜のために(for)」の欲求は、釈迦が二千五百年前から「求不得苦」「五蘊盛苦」と言っているように、求めても手に入りにくく、手に入っても永遠に充足されないものです。
それでもなお自己の個性と自己の所有に対して尊厳やプライドを持つためには、宇宙百三十七億年の歴史の中で、オンリーワンの存在そのものである自己の尊厳に気づくことがまず大切だと思います。
そして、今自分が存在していることそのものがまず無条件に奇跡、神秘、感謝、感動であり、ひとつひとつ自分が出会っているほんの些細なことが本当に偉大なことであることを実感できるイメージ感覚が必要です。
その観点を持つには人間の五感覚の観念では限界があります。だからこそ悟りの世界、観点の次元上昇した五次元の世界が必要なのです。
そして、「すべてが私であり、私がすべてである」という悟りの全我意識を出発に、世界の不幸に罪悪感と自己責任を感じるような精神発達段階までいくことで、全世界の幸せのために生きる選択をすることができる「自己超越欲望」へと進むことができ、そのあり方ができることで、逆に現実的な人の協力や応援も得やすくなり、自己実現の夢への道も早く開けてくるのです。
そしてこの混沌とした大激動、大変革の時代を突き抜けて生命文明への構造改革をなしとげたいという真実の魂の欲望である「自己超越欲望」を持つようになることが、地球生命の未来が必要とする観点からみて、真実に理想とされるべき処方であり、理想の新しい生命文明の発展エンジンなのです。
12 五大危機三、「変化の方向性喪失」
文明の五大危機の三つ目は、「変化の方向性を喪失」しているということです。
先の発展エンジンの問題からつなげて考えてみると、「〜のために(for)」の生き方は、自分が無いものを求める生き方、「幸せの高さ」を求める生き方と言えます。
植物のイメージでいえば、茎を伸ばし、葉を繁らせ、美しい花を咲かせたい、というような、前へ前へと進んでいく前進型の変化の欲求です。それは人間の向上心として大切ですが、エゴの「〜のために(for)」の生き方では、本当に深いところの心や魂は充足しません。
なぜならそれは、「認識疾患」の中毒状態の脳から出発している生き方ですから、その中でいくら前進しても、四苦八苦と無知の壁を突破するまでには永遠に至らないからです。
脳はとにかく分ける作業をするクセを持っていますので、自分が認識している世界を無限の存在に分けて認識して、そこに無限の判断を加えて、欲しい、欲しくない、手に入れた、手に入れてない、の思いが働きます。
しかし、人間が手に入れられるものは当然ながら有限ですので、無限に存在する欲求の対象と比較すれば、常に何かが思うとおりに手に入っていない未達成の状態から抜け出すことができないのです。
私が学生の頃に好きだった京都の龍安寺には、「吾れ唯だ足るを知る」という有名な知足のつくばいがあります。
これは、悟って心が無限に広がった状態からの言葉で、「認識疾患」からくる「五蘊盛苦」の執着の火が完全に吹き消された世界です。
そして、全てがひとつであり、宇宙全てが本来の自分の心の中に全て入っている状態ですので、そもそも欲しいとか奪いたいとかいう観念も生ぜずに、完全に「今、ここ」で本来の心で満たされている世界を意味しています。
この世界と出会うことは、「〜のために(for)」という「幸せの高さ」とは正反対の方向性で、すべてとつながる「幸せの深さ」を持って生きる生き方につながります。
それは同時に、「〜によって(by)」今、ここ自分と自分の宇宙が存在していて、自分がその宇宙を存在、変化させる意志・心そのものであるという真実のアイデンティティである「何者として(of)」が完成している生き方をスタートさせる意味でもあります。
「何によって(by)」は宇宙の出発点とつながって存在の仕組み、秘密を悟っている自分、「何のために(for)」は存在と変化の意味、価値を悟っている自分、「何者として(of)」は自分のアイデンティティが本来の心の中心軸にある状態です。
イメージが難しいかもしれませんが、これが悟りを得て五次元認識で生きる新しい生き方の基本要素です。
この変化の方向性に向かえない限り、時代が圧迫してくる現実の諸問題、精神の重圧を克服して二十一世紀を新しい文明の創造の道へと変化させることは難しいでしょう。  
13 「ディバージェンス」から「コンバージェンス」へ
また、これまで人間の脳の観点から出発した多様な学術がありますが、第二章でホーキング博士の言葉をご紹介したように、分ける作業をする脳のクセから出発した部分の理論、分析思考では、どこまで前進しても最終理論(ファイナルアンサー)は絶対に完成しません。
これでは、宇宙の事象の根源の秘密を永遠に説明できず、無知が解決されません。
ですから、「認識疾患」を抱えたままで分析し続ける変化の方向性では、問題解決もできず、かといって他のアプローチも構築不可能な、方向性喪失状態に置かれているのです。
そして、超高度情報科学技術の時代の中、人間の思考・感情はこんがらがってどんどん複雑になり、何をどのように考えればよいのかの整理も判断も難しくなっています。
そのような人間が作る細分化された学術、法律、制度などあらゆる社会システムが複雑化しすぎて、どんな変化の方向性が未来のためになるのか、わけがわからなくなってしまっています。
二十世紀までの変化の方向性を整理してみれば、個人、家族、企業、学問、商品、土地などを際限なく分けて境界線を引き、複雑化、細分化の方向に邁進してきたことで、個人や社会の孤立化、疎外化、弱体化、強欲化、非効率化、敵対化が進みました。その結果、モノとお金にあふれても幸せの充足感は空洞化している、おかしな危機的状態になっているのです。
この状態を生み出している原因を理解する根本のキーワードは、「ディバージェンス(Divergence)、一点から分岐すること、発散、分離の意」です。
「ディバージェンス」から生まれた現象世界の全ての複雑と人間の思考・感情を、一度完全に真逆の方向性に転換させて究極にシンプルな世界に溶かすことができるかどうか。
その鍵となるキーワードは、「コンバージェンス(Convergence)、一点集中、収束、集合点、融合の意」です。
あらゆるものを一点に「コンバージェンス」させて、シンプル化させて溶かし、そこを基準点として新しい変化の方向を再創造できるのかが鍵です。
そして、そのためには、あらゆる領域が矛盾無く一点に向かって収束融合していく中心核が必要であり、その核が、あらゆる存在の根っこ、現象の根源にある異質な五次元HITOTSUの世界なのです。
ここから生まれる新しい現実の変化の方向性を具体的に詳述すると、一冊の本が必要ですので、ここでは次頁のように一つの図にまとめたもので整理しておきます。
重要なことは、新しいビジョンに向かう基本段階として、まず明確に「コンバージェンス」の中核の世界の意味と価値を正しく理解し把握することです。
「ディバージェンス(分離・分散)」から「コンバージェンス(収束・融合)」へ。
この変化の方向性が、文明のパラダイムシフトを具現化する処方の要になると思います。  
14 五大危機四、「就業が困難な時代(人間性喪失の成長時代)」
文明の五大危機の四つ目は、「就業が困難な時代(人間性喪失の成長時代)」です。
産業が興隆し新しい商品が誕生するためには新しい技術が必要で、技術が興隆するためには新しい学術が必要です。
新しい学術はイマジネーションを源泉とするものでもありますが、では学術はどこから発生してきたかというと、実は「観点」が変化した時に生まれてきているのです。
大きく枠組みで整理すると、人間が農業中心の労働に従事していた時代は、自然界を理性的に理解する観点は未熟な状態で、自然崇拝や迷信、中世の錬金術などに象徴される、いわば「魔術」の時代と言えます。
農産物商品を中心に開発してきた農業社会が大きく変化したのは、産業革命を引き起こした原因である西洋の合理的理性の力です。
この最も代表的な人物は、近代科学の父と呼ばれるアイザック・ニュートンでしょう。
シンボル的な意味で、「魔術」の時代は終焉を告げ、人間の理性によって自然界は説明しうるものだという「観点の変化」により、「学術」の時代が花開くようになったのです。
その結果、多様な技術と物商品が開発され、産業革命によって人間社会の経済産業構造は劇的な変革を遂げることになります。
ニュートン以降、現代物理の二大柱と言われるアインシュタインの相対性理論と量子論が二十世紀に相次いで興隆していきますが、この二大理論を打ち立てた根本原因も、実は「観点の変化」にありました。
時間・空間・存在は分離したものという観点のもと、物体の運動法則を体系化したニュートンでしたが、マクロの世界とミクロの世界では、ニュートンの観点では説明不能な物理法則が働いていることを発見し理論化したことによって確立したのが、相対性理論と量子論です。
その学術は原爆の開発にも応用されましたが、その後の歴史の中で、特に量子論なくしては現代のIT革命につながるIT技術、IT社会もありえないものでした。
学術的な面では、量子論が開いたミクロの世界の物理学は素粒子物理の隆盛をもたらし、物質の根源は粒子ではなく「ひも」だ、という「観点の変化」によりひも理論へ、そして「ひも」ではなく「膜」だ、という「観点の変化」によりM理論へと発展していきます。
ひも理論に象徴される超高度な数学方程式の理性の世界は、数学方程式を応用した金融商品や金融工学を発達させ、それが二○○八年の金融破綻の象徴ともいえるリーマンショックの引き金ともなっています。
ちなみに物理学の観点では、素粒子物理の標準理論から多次元宇宙論であるひも理論、M理論まで分析理性を追求し続けた結果、もうこれ以上分けようがないM理論、膜理論の世界まできても、まだファイナルアンサーに行き当たらない根本的な限界を迎えている状態です。
このような意味での「観点の変化」と学術の発展により、農業革命から産業革命、IT革命、金融工学が発展し、物質科学文明、超高度情報社会、金融資本主義をもたらしたのが、これまでの人類文明の経済産業構造の背景にあるものです。
そして今現在、この延長上での経済発展モデルの問題や限界と共に、就業が困難な時代、人間性喪失の成長時代という危機を抱えているのです。  
15 今までの経済発展モデルを続けることの限界
今までの経済発展モデルを続けることが限界である理由について要点だけお伝えしますと、ひとつには「観点の限界」があります。新しい学術を生み出すための根本要因となる「観点の変化」を、もはや物理学のどんな理論も導き出せない限界にあるのです。
次に、金融工学が象徴する、お金中心・利益利潤追求の価値観が大前提の資本主義社会の価値観そのものの問題です。
これは、臓器売買や人身売買に典型的に象徴されるように、人間の生命性や尊厳性を、資本の暴力性・凶暴性が踏みにじることを人間社会が許している意味でもあります。
生産性、効率性、合理性を基礎にした資本主義の理念からは、人間の幸福のためのお金・経済活動であるべき本来の目的が、完全に主客転倒してしまう恐れがあるのです。
現に、人件費抑制を目的とした企業は、日本政府に圧力をかけ、また、日本の労働形態の弱体化を図ったアメリカの外圧により労働法を改正したことで、雇用形態に深刻な問題を引き起こしたと言われています。
終身雇用、年功序列の問題はもちろんあるでしょうし、派遣形態の利点ももちろんありますが、この国が経済活動の根幹である人的資源を活かす観点と戦略を全く確立できていないことは否定できない事実でしょう。
また、教育水準の低下と精神年齢の低下、人間関係力の低下などにより、大卒の学生でもまともなコミュニケーションがとれない人事採用者の嘆きがある一方で、韓国、中国、インド、ベトナム、インドネシアなどの教育水準は非常に高くなっているようです。
他にも、国際競争力の著しい低下、少子高齢化と生産年齢人口の減少、家計貯蓄率の低下、一人当たりのGDPの低落など、経済指標から導き出される様々な現実的データも日本の危機を実証していますし、世界的に同じような問題を抱えこんでいる国も多くあります。
日本の電気大手九社の利益合計が韓国のサムスン一社にも到底及ばないほど日本の製造業の優位性は反転しつつありますし、アジアの金融の中心は東京から上海、香港、シンガポールへと移行しつつあります。
そんな中、MadeinJapanの誇りを賭けて最先端科学技術であるロボット産業に期待がかけられ、二○三五年には今の約十倍の九・七兆円規模が見込めるとされていますが、ロボット産業が抱える課題もまだまだたくさんあります。
中でも本質的に考えなければならないのは、ロボットが量産され市場と生活、職場に出回ることで人間性にどのような影響を及ぼすかということです。
日本人は、鉄腕アトムやドラえもん、ガンダムやエヴァンゲリオンなどのアニメに見られるように、ロボットとの親近性が非常に高い不思議な民族ですが、産業ロボット、サービスロボットに人間の仕事を代替させることがもたらす問題も、今からしっかり考えておく必要があるでしょう。
特に少子高齢化の問題で介護ロボットが期待されますが、家族のつながりや年配者を敬う社会雰囲気と人間性教育を置き去りにしたまま、実用性の面からだけロボットの価値を語ることは、人間の存在価値そのものへの大きな疑念を呈するものだと思います。
もちろん介護に限った話ではありませんし、人間よりも記憶力、情報処理判断能力、利便性、効率性に優れたロボットが仕事を代替するようになったとき、人間が働く価値というものをそもそもどのように考えればよいのか、人間がするべきこと、人間にしかできないこととは一体何なのかということを、人間の本質に即してしっかり議論することが必要でしょう。
ロボット産業は技術立国としての日本の切り札として非常に重要ですし重点的に発展させていくべきですが、労働市場と雇用に与える影響の大きさは、深く考慮する必要があると思います。
例えば業務効率を促進する高度なIT技術や機械ロボットが導入されることで、人間の労働力が不要になり、人件費カットやリストラに進むような可能性は充分考えうると思います。
専門的な知識技術を持っている人には関係ないかもしれませんが、多様な意味で格差が開きつつある日本と世界の就労状況からみれば、労働能力が充分に開発、発揮されないままの個人は、機械に取って替わられて縮小していく労働市場からはじき出されかねないのではないでしょうか。
それでなくても、機械のような一時期・一部分(パート)の労働で、ロボット的なルーティンワークだけ与えられた末に、会社組織の都合で使い捨てられる弱者が激増する恐れが多いにあるのが、今の時代動向だと思います。
実際、日本経済の景気は持ち直したという報道がされる背景で、年越し派遣村のような状況や、ニート、フリーター、派遣切り、失業者の問題や、製造業、不動産業の倒産件数などは年々深刻化しています。
旧産業が崩壊していく中で新産業の育成が難しく、就業が困難な時代。
そしてたとえ就業しても、機械的な仕事で人間性そのものが抑圧・否定される労働環境や雇用形態の問題がある時代。
その問題を放置したまま、仮に効率性の強化によって会社の成長や経済発展をなしえたとしても、それで人間が本当の意味でその仕事に従事する価値があるといえるのでしょうか。
観点のイノベーション「学術の時代」から「観術の時代へ」
この危機を突破し生命文明へ向かうひとつの代案として、学術的にも産業育成の面からも重要なのが、「観点のイノベーション」です。
なぜなら五大危機の一つめの図で示したように、根本的な観点の変化から全ての変化が生まれていくからです。
「学術」の限界を超えるその道を、盧在洙は「観術」という体系で実社会の変革の手法として提唱しています。
「観術」は五感覚脳の観点を次元上昇させる教育テクノロジーであり、認識の革命的変化を生み出す術として、個人から世界へ広がる「認識革命」を引き起こすものです。
それは人間の機械的な思考や機械的な生き方を卒業させて、思考卒業の世界に案内し、機械やロボットには決して真似できない、悟りのイメージ感覚からくる新しい感性を開花させる生き方への変化の道でもあります。
そのような「観点の変化」から、悟りを現実に応用する人づくりの事業・産業を通して、経済活動の中心軸にしっかりと人間の尊厳性が位置しているような「人本主義」の経済発展モデルと、新しい雇用創出への道を開拓していくことが大切だと思います。
まずは心を悟らせる二十一世紀の人づくりである認識産業、人文産業、感動産業をしっかりと具現化させることで、既存の産業にも段階的にそれらの人材と五次元の悟りの応用技術を徐々に浸透・発展させられるようになるでしょう。
そのようにして、物質文明の良さ、精神文明の良さ、資本主義の良さを融合して活かしていける新しい文明社会のあり方へとスライドさせていく変革の道を目指すことが、時代的な全ての課題を根幹から包んで希望へ導く、最良の処方だと私は考えています。  
16 観点のイノベーション「学術の時代」から「観術の時代へ」
この危機を突破し生命文明へ向かうひとつの代案として、学術的にも産業育成の面からも重要なのが、「観点のイノベーション」です。
なぜなら五大危機の一つめの図で示したように、根本的な観点の変化から全ての変化が生まれていくからです。
「学術」の限界を超えるその道を、盧在洙は「観術」という体系で実社会の変革の手法として提唱しています。
「観術」は五感覚脳の観点を次元上昇させる教育テクノロジーであり、認識の革命的変化を生み出す術として、個人から世界へ広がる「認識革命」を引き起こすものです。
それは人間の機械的な思考や機械的な生き方を卒業させて、思考卒業の世界に案内し、機械やロボットには決して真似できない、悟りのイメージ感覚からくる新しい感性を開花させる生き方への変化の道でもあります。
そのような「観点の変化」から、悟りを現実に応用する人づくりの事業・産業を通して、経済活動の中心軸にしっかりと人間の尊厳性が位置しているような「人本主義」の経済発展モデルと、新しい雇用創出への道を開拓していくことが大切だと思います。
まずは心を悟らせる二十一世紀の人づくりである認識産業、人文産業、感動産業をしっかりと具現化させることで、既存の産業にも段階的にそれらの人材と五次元の悟りの応用技術を徐々に浸透・発展させられるようになるでしょう。
そのようにして、物質文明の良さ、精神文明の良さ、資本主義の良さを融合して活かしていける新しい文明社会のあり方へとスライドさせていく変革の道を目指すことが、時代的な全ての課題を根幹から包んで希望へ導く、最良の処方だと私は考えています。  
17 五大危機五、「ファイナルアンサーを持った変化の主体が見えない」
文明の五大危機の最後は、「パラダイムシフトを誘起するための決定的コンテンツとなる、ファイナルアンサーを持った変化の主体が見えない」ということです。
パラダイムシフト、アセンション、次元上昇、意識の目覚めといった単語は今、日本のみならず世界中に広がっている時代です。
また、感覚的に「すべてはひとつ」であると体感して、精神世界をリードしていこうという方々が増えている時代であることも間違いありません。
しかしながら、問題は、例えば次元上昇といっても、何が次元上昇するのか、どのように次元上昇するのか、どうやって次元上昇を起こせるのか、次元上昇したらどうなるのか、次元上昇した後で、現実的、具体的に何からどのような段階的ロードマップで実社会の変革に取り組めばよいのか、など、答えるべき質問がたくさんあることです。
これらに対し、明確で誰もが納得できる解答を出すことは、抽象的なスピリチュアルな世界だけでは非常に難しいのではないでしょうか。
映画『地球交響曲』にも出演し、原子・人間・宇宙に存在する一貫性ある原理・構造を探求する「システム哲学」を提唱している世界賢人会議の創設者であり会長のアーヴィン・ラズロ氏は、「ワールドシフト」という概念を提唱しています。
彼は、「ワールドシフトとは発展の方向性を変える…つまり新たな方向へシフトすることを意味します。」「ワールドシフトは今までと異なる目的、優先権、そして価値観を持つことです。」と述べていますが、意識のシフトを起こすための具体的な方法論を持ち合わせていないという限界があります。
もっとも、ラズロ氏がいうように、このシフトは本来誰かに指示されたり命令されたりして成立するような啓蒙教育的なものではなく、個人一人ひとりの中から気づいていくものであるというのはとても重要な観点です。
しかし、禅宗の教えに、「卒啄同時」というものがあります。
卒はヒナが卵の内側から声を発することをいい、啄は親鳥が殻をつついてヒナが殻から出るのを助けることを言います。
これは、観念の殻を破って悟りを得ようとしている弟子と、それを導く禅師の教えが絶妙なタイミングで呼応することを意味しています。
五感覚脳の記憶中心の啓蒙教育の時代が大きく変化して、気付きの教育、内発的成長を促進する教育の時代に変わりつつあることは確かですが、そうかといって何もせずにただ黙って眺めて待っているだけが教育ではないでしょう。
正しく意識のシフトをガイドできるコンテンツは必要ですし、それを通して、その人本来のオンリーワンの個性や気づきをより深く引き出し、活かせるようになるのです。
パラダイムシフトの時代といっても、例えばただ漠然と二○一二年を期待して待っているだけでは、その人の人間性の発達も魂の進化も、現実的な適用能力も、何も育ちはしません。
大きな歴史の流れや宇宙のエネルギーの流れがあるとしても、「人事を尽くして天命を待つ」のことわざ通り、人間としての自助努力と未来への能動的な意志は、必ず必要なものです。
そして、現実から完全に離れた悟りのゼロの心の境地を持ちつつも、いかにしてこの現実世界をより早く、より美しいものに変化していけるかという課題に対して、目的に向かう揺るがない意志と無限大の集中が必要でしょう。
そのためには、現実の変革に適用可能な次元の悟りの智恵が必要なのですが、それを誰も提示できないために、パラダイムシフトといっても、抽象的な理想論や精神論の域を出ることができない限界があります。
ですから、「パラダイムシフトを誘起するための決定的コンテンツとなる、ファイナルアンサーを持った変化の主体が見えない」という本質的な危機があるのです。  
18 文明の限界を突破し生命文明へ時代の舵を取る
五次元認識テクノロジーはその役割を充分に果たせる条件を備えた処方箋ですが、もちろんこれだけでなく、世界のどこかで同じような、あるいはよりもっと発展したコンテンツを持って時代の変革に取り組んでいる人々がいるかもしれません。
その際、どちらが優れているかは瑣末な問題で、より優れている方法論を中心に、世界全体の幸せ、生命文明の創建へと共に向かうべきであると、私は思っています。
それは身近な例では、携帯電話があるのにポケベルを使う必要などないのと同じことです。
第三章でお伝えしたように、「認識疾患」の人間の判断基準は問題ばかりを生み出しますから、その判断基準を一度完全にゼロ化させて、そこから真実の判断基準、五次元の判断基準を中心軸に、一人ひとりの個性の判断基準を開花させる教育コンテンツが必要なのです。
それは、宇宙森羅万象の根本原理であるファイナルアンサーを持ってワールドシフトに向かう生き方と出会う意味でもあります。
そして、古い世界から新しい世界へと舵を取る変革の主体は私たち一人ひとりであり、変革をスタートさせるべき場所をこの地球上にひとつ探し求めるならば、それは、私たちが住んでいるこの日本しかないと私は思います。
日本が変革の主体となって、人類五百万年の文明の限界を突破する生命文明へと時代の舵を取ることが、世界が新たな方向にシフトするための希望の航路を開くのです。
 
西周「非学者職分論」のディスクール批評

 

1.「学者職分論論争」
まず簡単に「学者職分論論争」の経緯を振り返っておこう。明治六年七月に駐米代理公使の任から帰国した森有礼は西村茂樹を通じて「都下の名家」に結集を呼びかける。そして九月一日に学術結社としての「明六社」の最初の会合を開く。明六社は以降月二回の会合を重ね、翌明治七年四月には雑誌『明六雑誌』を刊行する。これによって明六社の活動は世に広く知られることになる。
明治七年四月二日に『明六雑誌』第一号と第四号が発行される。続いて四月八日には問題となる『明六雑誌』第二号が発行される。この第二号は、その年の一月に福沢諭吉が『学問のすゝめ』第四編として刊行した「学者の職分を論ず」に対する反論の特集号となった。
加藤弘之「福沢先生の論に答う」、森有礼「学者職分論の評」、津田真道「学者職分論の評」、西周「非学者職分論」の四本の論文が掲載されている。この応答がいわゆる「学者職分論論争」である。
「学者職分論論争」に関する先行研究を概観すると、当然のことながら福沢諭吉の視点に立つ研究が圧倒的に多い。福沢諭吉を主語として語る研究の多くには、濃淡の差はあれある共通のトーンが確認できる。そのトーンを、少々滑稽なまでに誇張した表現を、我々は現在もっとも流通している文庫版『学問のすゝめ』の「解説」に見ることができる。
封建社会の余弊は、明治になっても、依然、著しい官尊民卑の気風となって残った。
蓋し明治維新は、ヨーロッパに見るような市民革命ではなく、士族によって実現されたものだからである。役人の威張ることは、明治の以前も以後も少しも変わらない。
官尊民卑の打破は、福沢の生涯の念願で、彼が政府の再三の召命にも応ぜず、民間の学者をもって終始したのは、自らその範を示したものである。「政府の力だけが強く、役人だけが威張る国は、決して文明国とは言えない。国民はよろしく官民対等の精神を自覚すべし」とは、初編・第二編・第三編そのほかにも力説されたところであるが、なかんずく第四編「学者の職分を論ず」・第五編「明治七年一月一日の詞」は、全編このことを論じ、官僚学者の事大主義を批判して、時弊を突いた快文字であろう。政府を恐れず、政府に媚びず、政府に頼らぬ逞しい市民社会を築くことこそ、彼の抱負であった。
権力に弱い日本の学者の卑屈な伝統は、『文明論之概略』などにも痛論されているが、「政治(政治家)と学問(学者)とは各自の分野に独立して、車の両輪のごとく、その権威に少しの軽重もあるべきではない」というのが彼の持論であり、それは生涯の行動にも遺憾なく発揮された。彼が学問(学者)の権威を高めるために払った不断の努力は、実に先覚者たるに恥じぬものがあった。
福沢諭吉の思想的展開を記述するために「学者職分論論争」を参照する論者の多くは、論争を対話としてではなく、福沢のモノローグとして理解する傾向を持つ。上の引用はその典型であり、福沢の主張を極端に単純化し、「官対民」=「権力対市民」=「従属対独立」=「官僚学者対私立学者」=「明六社同人対福沢諭吉」といった素朴な二分法的図式で論争を要約する。だがそうした紋切り型でこの論争を説明することは、論争というダイアローグの可能性をあらかじめ閉じてしまうものではなかろうか。
「学者職分論論争」の「論争」に注目した研究は限られている。小林嘉宏の論文「明六社における学術論争の意味――「学者職分論争」を手がかりとして」3はその数少ないひとつである。著者の言葉を借用すれば、この論文は「個々の論者の主張自体よりも「論争」の構造を考察すること」を課題とし、「「論争」の過程に浮かび上がってくる論者達相互の思考形態や発想様式のコントラストに分析を定める」ものである。小林は西の「非学者職分論」を二つの観点から分析し、その結果を次のようにまとめている。
1.個別の専門的学問領域にとらわれることのない福沢独自の文明論的発想によって書かれた「学者職分論」に、西は「致知学」という個別の専門的学問による視野から批判した。
2.福沢は学者自らが標的を示す実践者となって、人民の積極的な活動性を喚起する中心的推進者になることを主張したが、西は「事勢の勢」を「客観的」に判断する批評家となることが重要だと主張した。
そして次のように結論する。
西は福沢の主張を一応了解していたとしても、西が実践的問題については禁欲的態度をとり、自らの視点を哲学、論理学という「専門」的な学問分野に限定することによって、福沢の論に対応する論を立てたことに変わりないことは改めていうまでもなかろう。このような西の「非学者職分論」にしめされた態度は、結局福沢との間に生産的な論争を成り立たせたというより、むしろ、二人の間の基本的立脚点の相違ばかりを際立たせる結果をもたらすことになったというべきだろう。
我々はこの結論に対して疑問をもつ。はたして西は実践問題について禁欲的だろうか。
むしろ西は「明六社」という学術的公共空間を足がかりにして、啓蒙活動の実践に踏み出したのではなかったか。論理学は狭い「専門」的学問分野だろうか。確かに今日の我々にとって論理学とはそういうものであるかもしれない。しかし問題は明治初年の日本における論理学がどのようなものと見なされていたかという点にある。そして西は論理学を学術の基礎、ヨーロッパ文明の本質、さらにはコミュニケーション社会の基盤と考えていたのではなかったか。福沢と西は論争のなかで両者の相違ばかりを際立たせていただろうか。
逆に西は福沢の現状認識に対してはほぼ全面的に、その主張に対してはその大半に同意を表明してはいないだろうか。同じ洋学者として多くの共通点を確認した上で相違点を浮き彫りにし、さらなる論争=対話への可能性を開いているのではなかろうか。どうやら西の「非学者職分論」には、さらには「学者職分論論争」にも、新たな視点で読み直す余地は残されているようである。 
2.「非学者職分論」の論点
「非学者職分論」の論点を概観しておこう。西は福沢の「学者職分論」にたいする批判を六項目挙げる。その六つの批判点は以下のように要約できる。
第一、独立の危機という根拠薄弱な前提から出発するのは「詭論」である。
第二、無気無力の愚民を短期間で開明できると主張するのは「早計」である。
第三、学術・商売・法律が「未だ」外国に及ばないことを憤るのは「徒為」である。
第四、洋学書生が官を選ぶ真の理由を見逃している。
第五、政府への阿諛追従を洋学者に帰すのは「冤」罪である。
第六、政府(生力)と人民(刺衝)の均衡は「世の勢」に左右される。
結論、学者が政府で働くことも私立することも可であり、個人次第である。
この六項目を内容別に分類整理すると、次のようになるだろう。
第一、福沢の文章の論理的非整合性の指摘。
第二・三、福沢の主張の「非現実性」の指摘。
第四・五・六、福沢の「状況認識」批判。
結論、福沢の「職分論」批判。
福沢に対する西周の応答は、他の三人の明六社同人のそれらとは異質なものである。なにしろ西は福沢の主張、「洋学者は官を離れ私立すべし」に対してほとんど反論らしい反論をしていない。それどころか結末では、福沢の「高風を欽慕」し「早晩まさに驥尾に附かんとす」と福沢に倣って政府を離れ、私立独立したいという願望さえ告白している。ところがさらに不思議なことに、その告白の直前で、福沢の「職分」思想を断固として否定しているのである。こうしたことから我々は西の福沢、あるいは福沢の主張に対する微妙な距離感を感じることができる。
また「非学者職分論」の論じ方もユニークである。西は福沢の土俵に立つことを拒否している。福沢に正面から反論しない。そうではなく、福沢の論理の破綻を指摘し、論拠の曖昧性を突く。いわば表面的な指摘に終始する。我々はこのひたすら表面と表現に注目した応答を、福沢のディスクール批評だと考えている。ディスクール批評とは言語表現に注目することで、表現を成立させている思考、さらには無意識的・時代的イデオロギーをあぶり出そうとする批評である。とはいえ西周をミシェル・フーコーの先駆者だと言うわけではない。西の「文章」と「論理」に対する強い関心が、ディスクール批評へと導いたと考えるべきであろう。というのも西は文明開化においては、新しい思考方法、哲学と並んで、新しい文章表現が必要だと考えていたからである。西は『明六雑誌』第一号の巻頭を飾る論文、「洋字を以て国語を書するの論」のなかで明六社を「学・術・文章の社」と捉え、「学なり術なり文章なりは、皆かの愚暗を破り、一大艱険を除くの具」5であると述べている。
つまり西にとって「学問」と「技術」と「文章」の近代化は、日本近代化のために最初に着手しなければならない事項であった。そして文章表現への強い関心がこの論争のなかに現れたと考えるべきではなかろうか。
「非学者職分論」の重要な論点は、福沢のディスクールを取り上げた第一の論点と、「職分」思想に焦点を当てた「結論」に集中している。ただ「結論」部分の短すぎる記述の背景に横たわる問題領域はとてつもなく広い。そこには西周と福沢諭吉の「知識人観」、「職業観」が関わっているだけではなく、二人の経歴、つまりそれぞれの幕末期の官僚洋学者としての活動、そしてその明治期との連続性と不連続性、などといった、社会学的な問題を取り上げざるを得ない。残念ながら「結論」に関わる問題については別の機会に譲ることにして、ここでは第一の論点に限定して論じていきたい。 
3.福沢の「論理」批判
「非学者職分論」冒頭で西は福沢の推論の論理的欠陥を指摘する。まずはその内容を検討しておこう。
第一、立論の本意、本邦の独立疑うべく危むべきものあるを起本とし、結末、学者私立してこれを維持すべきをもってす。それいわゆる疑うべき危むべきものは、概括の意想より取る。下文論ずるところ気風のごときこれなり。ゆえに一つも事実に本きたるものにあらず。しからばすなわち、独立の上に一点の疑なき能わずと云うものは、きわめて疑似の間に根拠するものにして、この疑似なるものをもって学者をして私立を謀るために概して官を辞せしめんと欲するは、蒸気を化して固堅質となすがごとし。
一理なきにはあらずといえども、致知学において詭論には属すべからずや。福沢は日本の独立が危機にさらされているという「事実」を「学者職分論」の出発点とするのだが、西はその出発点そのものが確かな事実であるということが実証されていないと言う。「独立の危機」は「一つも事実に本きたるもの」ではない。「概括の意想」つまり根拠の曖昧な思いつきにすぎない。したがって、福沢の論は、曖昧な前提に基づく「詭論」だと西は断定する。
この西の指摘の妥当性を検討してみよう。「学者職分論」は「独立を失うの患はなかるべしや」(84)という疑問をその出発点として提出する。しかしその疑問を提出するのは、福沢自身ではなく、特定不能な他者である。ひとりは「識者」、もうひとりは「疑う者」、三人目は「この国を蔑視したる外国人」である。福沢はそうした匿名の人々の言葉を紹介し、「事に疑いあらざれば、問のよりて起るべき理なし」と結論する。独立に疑問を持つ人がいるということは、独立に疑問があるからだと結論するのである。このような擬似的推論に対しては、我々も西周と声をそろえて「一理なきにはあらずといえども、致知学において詭論には属すべからずや」と言うべきではなかろうか。
もう少し丁寧に見てみるとそこには二つの問題が併存している。一つは「独立への疑問」を口にする人が誰なのかという「参照関係」の問題である。二つ目は、「疑問がある以上、問題が事実としてある」という推論の妥当性の問題である。つまりこういうことである。
読者が「独立の危機」という福沢の論述を検証しようとすると、まず「匿名性」による参照関係の不可能性が立ちはだかる。そしてさらに「論理の飛躍」が待ち受けているわけである。
これとよく似たケースを我々はよく知っている。今日の大学生が福沢諭吉と同レベルの推論を用いて論文を書く場合である。インターネット上の複数のサイトに「日本の独立が怪しい」と書かれていた(匿名性)。そういう書き込みがある以上、日本の独立は怪しいと言わなければならない(論理の飛躍)。などといった記述を学生の論文のなかに発見したら、教師たる我々は「根拠が薄弱である」「論拠を明らかにすべし」などと朱筆したくなるであろう。
「学者職分論」の導入部分に対する西の批判は妥当なものである。だが、そうした批判は論争にありがちな「論争相手の言葉尻を捉えて先制攻撃を加える」類の姑息な論争戦術にすぎないかもしれない。言い換えれば、小林が言うように、「論理学」という閉じられた学問分野からの限定的攻撃、タコ壺からの安全な狙撃かもしれない。我々はそう思わない。西の指摘は福沢諭吉に加えられた最初のディスクール批評であり、その射程は福沢諭吉の文体、思考方法から啓蒙の姿勢にまで及ぶものである。そしてわれわれは西の批評の先駆性を特記しなければならないと考えている。というのも近年のいくつかの福沢研究が西の指摘を繰り返しているからである。従来福沢諭吉の文章については、「解りやすくて論理的」だという評価が定着していた。そうした通念に対して疑問を投げかける見解が表明されてきているのである。例えば松沢弘陽は『文明論之概略』を丹念に分析した論文の導入部で次のように述べている。
この本(『文明論之概略』引用者注)の読解自体決して容易ではない。行論の配線は周到に張り廻らされ回路が巧みに完成しているかと思うと意外なところで途切れている。意図的か否か簡単に述べられたことばが、その背景にどのような事実を持っているのか、その事実はどれだけの意味を持っているのかもはっきりしない。次第に進んで来た、西洋の著作の福沢への〈影響〉を跡づける作業、とくに手沢本の点検についても同様のことがいえる。また、本書草稿の検討も漸く緒につき、執筆を中断しては西洋の書物を読み、読んではまた書いたという加筆塗抹縦横の苦心のさまに接することが可能になったが、数次にわたる草稿から成稿にかけての変化が何を意味するか読み取ることはきわめて難しい。
松沢が「行論の配線は周到に張り廻らされ回路が巧みに完成しているかと思うと意外なところで途切れている」と言うとき、それは上で見た「推論の飛躍」を指していると思われる。また「意図的か否か簡単に述べられたことばが、その背景にどのような事実を持っているのかもはっきりしない」という指摘は、「参照関係の不可能性」に該当するであろう。
いわば松沢は「非学者職分論」の西周と同じ感想を繰り返しているのである。
またさらに二人の研究者がこの福沢の文章における「参照関係の不可能性」と「論理の飛躍」を指摘している。次はその二つの研究を見てみよう。 
4.福沢における「参照不可能性」
歴史家坂野潤治は福沢における「参照関係」の問題について次のように指摘している。
我々は、丸山氏の指摘する、「福沢諭吉の政治論が高度に状況的思考に基いている」(昭和二十七年刊『福沢諭吉選集』第四巻解題)という点を、もう一度吟味しなおしてみる必要があろう。「状況的思考」を特徴とする思想家の論述の真意は、その論述がなされた状況との関連で初めて明らかになることはこれまでもたびたび指摘されてきた。しかし福沢の場合に厄介なのは、福沢が同時代人としてもっていたであろう状況認識と同程度の状況認識を今日の我々がもちうるほどには、日本近代史研究が進歩していないという点である。福沢が同時代的にもっていた情報と認識とは、近代文明論、国家・政体論にとどまらず、現実の政治・経済・外交についてのトップ=クラスのそれであった。福沢の状況的発言とはいわばこの総体から出てきたものなのである。
いいかえれば、福沢の状況的発言はその当時において福沢が認識した総体的な状況構造にもとづいているのであって、我々がそれと同程度の総体的な状況構造の認識をもちえない限り、彼の誇張的表現に振りまわされてかれの絶えざる転向を論じさせられるはめにおちいるのである。
坂野は福沢の論述の背景にどのような状況認識があるのかが把握しづらいと言う。「状況認識」とは「情報」と「認識」から構成される「総体的な構造」である。したがって坂野は福沢がどのような「事実」をどのような経路・視点から「知り」、それに対してどのような「認識」を行ったのかがわかりにくいと言っているわけである。つまるところこれは「論述」と「歴史的事実」の「参照関係」の問題である。坂野は福沢の参照関係の「わかりにくさ」の原因を「日本近代史研究が進歩していない」点に帰している。たしかにそういう一面はあるだろう。しかし問題はそればかりではないのではないか。というのも「非学者職分論」の西周は、明治七年における「日本独立の危機」がどのような歴史的事実と参照関係にあるのかが理解できなかったからである。福沢の言う危機がどれほど切迫したものか、福沢の同時代人であり福沢と同程度の情報を有していたと想定できる西周も理解できなかったのである。そもそも「日本独立の危機」が、ある程度社会的に共有されていた通念であったならば、西が「学者職分論」の導入部に疑義を持つことはなかっただろう。
したがって福沢の「発言」と「状況認識」の関係、さらに「状況認識」と「状況」との間に横たわる不可能性は、歴史的懸隔に由来するものではないのではなかろうか。それは福沢諭吉の側に原因があると考えるべきではないだろうか。つまり、それは福沢諭吉の文章表現のひとつの特徴なのではなかろうか。
ところで今日の研究者は、福沢が「学者職分論」のなかで訴える「独立の危機」を「内地旅行論」問題と関連づけて考えている。日本が諸外国と結んだいわゆる「不平等条約」には、唯一日本に「有利」な「逆不平等条約」があった。それは日本における外国人の居住を制限し旅行を禁止する条項であった。それによると外国人は開港場の周囲十里(約40キロメートル)以内の遊歩しか認められていなかった。いわば明治日本に住む外国人は江戸時代の出島状態と本質的には変わらない条件にあったのである。これは外国人にとって、とりわけ商業活動にとって不都合な規定であった。そこで明治六年二月、イタリアは日本政府に対して日本の裁判管轄権を認めるかわりに、イタリア人の内地旅行の自由を認める提案をおこなう。これによって政府内、言論界において「内地旅行」を認めるべきかどうかという議論が繰り広げられることになるのである。
『明六雑誌』第23号では西周が「内地旅行」を発表し、第26号では福沢諭吉が「内地旅行西先制の説を駁す」を発表し、二人はここでも論争を行うことになる。福沢はその論文の中で次のような主張を展開する。内地旅行は必然的に日本と西洋との経済戦争を招く。日本の愚民は狡猾な西洋人に太刀打ちできないから、日本は経済的に敗北し、独立が危うくなる。したがって外国人の内地旅行は認めるべきではない。さて、この主張を「学者職分論」に組み込めば「独立の危機」の論証は確かなものになっていたはずである。「内地旅行」と「人民が愚民である」という二つの条件があれば、日本の「経済的独立が危機にさらされる」という論理は確かな道筋で結ばれるからである。だがはたして福沢がそう考えていたのかという疑念は残る。「内地旅行」論はあくまで状況証拠でしかない。それになぜ福沢は「学者職分論」のなかでそのような書き方をしなかったのだろうかという疑問も残る。
とりあえず「独立の危機」の疑問は「内地旅行論」と組み合わせることによって解消されたとしよう。だが「学者職分論」にはそれ以外にも参照関係が不明な論述は残っている。
たとえば「一時の術策」はそのひとつだ。福沢は政府が愚民を御するに「一時の術策を用い」るべきだという主張があることを紹介し、それを「言うべくして行うべからず」と批判する。「一時の術策」に対する批判は「学者職分論」の重要な一部分を構成している。
したがって我々は、ではそれは誰が主張したのか。その「一時の術策」とは具体的にはどのようなものかを知りたい。しかしここでも「参照不可能性」が立ちはだかっていて、妥当な回答は未だに提出されていないのである8。やはり「参照不可能性」は福沢の文章の内在的な特徴なのではなかろうか。 
5.福沢における「物語的論理」
続いて福沢のディスクールの論理の検討に移ろう。コミュニケーション論の立場から福沢の文体とレトリックを研究している平井一弘は次のように述べている。
福沢の文体については既に多くのことが論じられている。当時の知識人に一般的であった漢文体の書き言葉から、福沢のいう、解りやすさを第一の目的とする「雅俗めちゃめちゃ」文体に至る福沢の文体改革の努力は「福沢全集緒言」にかなり事細かに説明されており、また『文字之教』にその実践例が記されている。さらに、後の多くの研究者が福沢の文体を論じている。これらの研究者の多くは、福沢文体をそれ以前の漢文調文体と対比して、「平易である」「解りやすい」「民主的」などの評価をしている。国語・国字問題を専門とする一部の国語学者がいうように「民主的」であるかどうかはよく解らないが、福沢の文体が、当時の知識人のそれに比べて、平易であり、解りやすいことは間違いはない。その意味で福沢の文体はコミュニケーション上の大きな効果をもたらしたことは疑い得ない。それだからこそ、『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などは当時のベストセラーになったことは疑い得ないであろう。
私自身このことについては別稿で論じているし、今後も研究を進めなければならないと考えている。
福沢の文体を、個々の言葉遣い、あるいは言い回しの範囲を超えて、一つのディスコースのレベルで読んでも、「普通に」読んでいると、そこには「解り易さ」を超えたある種の「心地好さ」あるいは「いさぎよさ」を感ずる。例えば、『学問のすゝめ』の各章であり、また、『福翁自伝』全体である。私は、この感じは福沢のディスコースが、基本的には物語であって論証ではないことから生ずるのではないかと考えている。そこには論証特有の、効果を計算した証拠の積み重ね(レトリック用語では、構想と配置)ではなく、尻取り遊びの単語や、俳諧の連句をディスコースとして展開するような物語性がある。
しかし、福沢の文章を分析的に読もうとすると、突然、この「心地好さ」「いさぎよさ」が断ち切られる場合がある。そこには「解りにくさ」が顔を出す。例えば、有名な『学問のすゝめ』初編の冒頭の「万人は万人、皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きを以って、天地の間にあるよろづの物を資り(中略)自由自在、互いに人の妨をなさずして、各々安楽に此世を渡らしめ云々」において、平易な文体で書かれ、解り易いようではあるが、「万人平等」と「万物の霊」と「自由自在」はどのように関係するのかを問い始めると、この関係は解りにくい。さらに、『文明論之概略』の第一章の「議論の本位」も平易な言葉で説明されてはいるが、本書でも様々な角度より論じているごとく、これが何を意味するのかは解り難い。
平井は福沢の文章のもつ魅力をうまく捉えている。それは平易で解りやすい。しかも読者を惹きつけ、読みの快楽を与える「文学的」な力すら持っている。平井が「心地好さ」というとき、それは福沢の文章のリズムを、「いさぎよさ」と言うとき、それは想像力を通じての読者と著者の人格的交流可能性を暗示しているように思われる。それはつまりある種の「文学性」である。平井はこうした福沢の文章の魅力が、それが論理的な構造物であるよりも、物語的な構造を持っていることに由来するものだと分析する。福沢のディスクールは「西洋的な」論証の論理とレトリックで構成されているのではない。むしろ日本古来の「語り」(「尻取り遊び」)や古典的文芸(「俳諧の連句」)に内在する遊戯的な連鎖、あるいは「流れ」によって構成されているのだと言う。我々はさらに「リズム」(口調)を付け加えたいと考えるのだが、ともあれ福沢的ディスクールの基軸は「日本的レトリック」なのであり、そのことが、逆に、「西洋的」論理の糸をたどりながら理解しようとする読者を、突如として「解りにくさ」に直面させる原因だとするのである。この平井の指摘は非常に興味深い。
「学者職分論」の冒頭の「問題を口にする人がいる以上、その問題が事実としてある」という推論も、論理的な推論というよりは、「火のない所に煙は立たぬ」ということわざ、つまりは伝統的言語文化に基づく推論だと考えることができるかも知れない。さらに先に引用した松沢の感想(「行論の配線は周到に張り廻らされ回路が巧みに完成しているかと思うと意外なところで途切れている」)を説明することができるかもしれない。あるいは西が「非学者職分論」の冒頭に置いた、「本論立位明快、しかりといえども間然するなきこと能わず」という文の根拠を説明するものかもしれない。
「非学者職分論」の他の箇所に目を移せば、最初に確認した六つの批判項目のうち、第四と第五の論点も、福沢の物語的論理に関わるものと見ることができる。第四で、西は次のように言う。福沢は青年の書生が官途を志すのは「名望を得たる士君子の風に倣う」からだというが、それは違う。学資がないから、生活に追われているから、あるいは洋学の指導者が欲しいからといった理由があるのだ。これは一応は「原因推定」の錯誤に対する批判である。しかしそうだろうか。では「学者職分論」で該当箇所を確認してみよう。
福沢は洋学者のほとんどが官途を目指し、私立するものが少ないことを指摘し、世間が皆洋学者を模倣していると述べる。そして問題の箇所が続く。
青年の書生、わずかに数巻の書を読めば、すなわち官途に志し、有志の町人、わずかに数百の元金あれば、すなわち官の名を仮りて商売を行わんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。ここをもって、世の人心ますますその風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜体、見るに忍びざることなり。
「対句」と「列挙」と「繰り返し」が巧みに組み合わされ、次第にテンポを上げつつ畳みかけていくリズムが感じられる。読み手をグイグイと引っ張っていく文章である。まさに声に出して読みたくなる名文である。注意しなくてはならないのは、ここでディスクールの運動を発動しているのが「論理」ではないということだ。そうではなく類似性によって喚起される観念の連鎖と数学的規則性に基づいて計算された音韻効果である。文章のめまぐるしい展開に、通常の読者は流されてしまうだろう。西のように「書生が官途に志す真の理由はなにか」などという疑問を挟む余裕を持つ読者はほとんどいないだろう。西は疾走する福沢に論理のブレーキをかけようとしているように思われる。福沢の名調子で支配的なのは、「論理学的論理」ではない。むしろ言葉の自律的な論理、平井一弘が言う「日本的なレトリック」なのである。 
6.結論にかえて / 啓蒙とことば
ここまで、福沢諭吉的スピード感に魅力を感じつつも、西周的論理展開を尊重しながら、西の指摘が、現代の研究者の分析を先取りするものであることを確認した。そして同時に西がおこなった福沢的ディスクール分析の妥当性を確認してきた。その結果、次の二つの特徴を確認した。
1.参照関係を明示することに消極的である。
2.西洋的論証レトリックよりも、日本の伝統的レトリックが支配的である。
次に残された作業は、福沢のディスクールの背後にどのような啓蒙戦略があり、さらにその背後にいかなるイデオロギーがあるのかを確認することかもしれない。だがそれは福沢研究者に委ねよう。我々は分析主体である西周に立ち返って、次のように問おう。なぜ西にとって福沢のディスクール批評をすることが必要だったのか。
それに答えるためには、西の「啓蒙」における「ことば」の重要性を理解しなければならない。ところで「啓蒙」と「ことば」はどこで繋がっているかといえば、いうまでもなく論理学である。ここで「学者職分論論争」からまもない明治七年七月に西周が発表した『致知啓蒙』の「自序」を見てみよう。
余嘗て欧羅巴に遊び、頗る其の事情を悉す。観る所の凡百事物、之を目するに二字を以てす。曰く浩大。都邑府城の若き、道路橋梁の若き、宮殿楼閣の若き、廨暑・庠校・祠宇・教堂の若き、幼孤・唖盲・癲狂・疾病の諸院の若き、金銀硝磁を分析・鋳鍛する諸工廠の若き、考古・博物・禽獣・草木の諸館園の若き、銃砲船艦・海陸諸軍の兵具戦器の若き、汽車・電線・驛遞・銀行・互市諸場の若き、凡そ以て目に触れ、耳に入るもの、皆愕然驚嘆せざるは莫し。退いて諸を書史に考へ、諸を学術に徴するに及んでは、惘然自失惛然自惑たり。蓋し其の説の精緻にして、其の論の詳確なること、繭絲牛毛も啻ならず、自ら心力以て包括する能はず、智力以て剖拆能はざるもの有るを覚ゆ。乃ち又之を目するに二字を以てす。曰く精微。夫れ此二義は萬緒千端にして各々其の方を同じうせず。浩大は外に努めて其の極將に無際に至らんとし、精微は内に努めて其の極將に無間に入らんとす。故に此に従事して手滑する処あらば、生疎偏小の病を免れず。誠に難きと為るなり。今両得有りて之を兼ねんか、魚と熊掌とを獲たりと謂つ可し。然れども之を獲るや、必ず道あり。朝夕の能く致す所に非ざるなり。既に致知の術に依って、本末相依、因果相応の故を求め、講究之れ久しうし、思惟之れ熟して、一旦以て心に会する有りて曰く、精微は本なり因なり、浩大は末なり果なり、能く其の精微を尽くす、故に能く其の浩大を致すと。独り世の耳に開化を学び口に文明を唱ふるの徒、能く其の浩大を模して而して其の精微を遺すを怪しむ。
是を思惟の始に審にし、諸を論弁の際に詳にするに非ざれば、即ち能はざるなり。凡そ学術の論、公会の議、状師の訴、判官の断、苟も此に軌範せざれば、将室を路傍に作るに近し。亦何ぞ基礎の固く、累架層構傾覆の患無きを保せんや。此の書今刊して世に公にす。聊か以て大匠利器の用に供せんと欲す。固より浮噪速成を望むる者とは語り難し。
西は次のように言う。ヨーロッパの文明は「観る所の凡百事物」、すなわち「目に触れ、耳に入るもの」すべては「浩大」の様相を呈している。しかしそうした現象を生み出した「学術」に目を移せば、そこにはもう一つのヨーロッパ原理が君臨している。それは「精微」である。つまり文明には「浩大」と「精微」という相反する二つの原理があるのだ、と。
ところで、上の引用で、ヨーロッパの学問に接すると「蓋し其の説の精微にして、其の論の詳確なること、繭絲牛毛も啻ならず、自ら心力以て包括する能はず、智力以て剖拆能はざるもの有るを覚ゆ」と述べた一文は、西がライデン大学で社会諸科学を体系的に学んだときの驚きの表現だと想像してはいけないだろうか。もしそうであるならば、これは西周におけるウェスタンインパクトがどこにあったかを指し示すことばであるだろう。西周にとって西洋の根本原理は「精微な論理」なのである。そしてヨーロッパ文明の「浩大」、すなわち成果だけを取り入れようとする行為は批判されなくてはならない。「精微」という原理を導入しないかぎり、それは導入ではなく模倣でしかないからである。
さらに西は、「精微」が学問の原理であるだけでなく、人間の社会的活動の原理でもあると続ける。すなわち「精微」は「思惟」と「論弁」の基礎なのである。致知学的な精微は、「学術の論、公会の議、状師の訴、判官の断」といった文明開化の装置や制度を機能させる原理なのである。つまり、論理的精微とは論理学という一専門分野の学問領域の専有物ではない。それはヨーロッパ文明の本質であり、近代社会を機能させる原理、人間交際と学術の共通言語なのである。
ここで福沢諭吉の言語観と西周の言語観の共通性と差異を確認することができよう。両者ともヨーロッパ文明の精神を導入するためには、コミュニカティブな社会を確立することが必要だと考える。これが共通性である。しかし真のコミュニケーションを実現させるためには何が必要かという点について、両者の考えは異なる。西は西洋的な論理的精微を重要視する。他方福沢諭吉は日本的物語論理による「解りやすさ」を重要視する。この言語コミュニケーション観の違いは、両者の文体上の相違として現象している。そのことを西の「非学者職分論」は明らかにしたと言えるだろう。しかし他方、言語観の相違は両者の啓蒙観、啓蒙戦略の差に根ざすものである。では西周と福沢諭吉の「啓蒙」の違いはどこにあるのか。
これは簡単に答えることのできない問題である。安易な回答を出すことは避けたい。しかし、「ことば」の問題に限定して推測すれば次のようなことが言えるのではないか。福沢的ディスクールの対象は「人民」である。それに対して西の対象はまず政治家であり、学者である、と。とはいえ急いで付け加えなくてはならないが、福沢の「人民」とは、慶應義塾で学ぶエリート集団であった。また、西が政治家と学者を対象に想定していたからと言って、権力の方を向いていたと結論することはできない。というのも、明治七年当時の政治家と学者は、ややもすれば復古主義に回帰しかねない存在であった。言い換えれば説得し、論破しなくてはならない潜在的敵でもあったのだ。官に身を置いていた西は、政府内部にいまだ攘夷思想、復古主義、国学的伝統、儒学的伝統の隠然たる力を感じていたからである。西にとっていまだ啓蒙は戦いであった。 
 
福沢諭吉における婦人論の展開

 

1.人権思想とフェミニズム
…十八世紀のフェミニストたちは、当時、西洋世界を席捲していた革命熱の潮流に反応しているのだった。いわゆる啓蒙運動または(理性の時代)に展開された理論が、実行にうつされていた。たとえば、人聞は、一定の譲ることのできない権利、あるいは政府が侵害しではならない「自然」権をもっという理念は、アメリカの独立宣言(1776)とフランスの人権宣言(1789)の核心だった。フェミニストたちは、女も男とおなじ自然権の資格がある、と考えられていると確認したいと思っていた。実際、メアリ・ウルンストクラフトは、もし女たちが新しいフランスの政体から除外されるとするならば、フランスは依然として暴政にとどまるだろうとせきたてながら、『女の諸権利の擁護」をフランスの大臣タレイラン(=彼はこの本が出版された1792年から恐怖政治の終結まで、使節となってイギリスに滞在した)に献呈したのだった[Donov釦.1985=1987:9・10]ヨーロッパ近代における人権思想とそれにもとづく「革命」の展開が、フェミニズムをうみだす契機となったことは自明なものとしてわれわれは認識している[Donov却.1985=1987][大越.1996]。この人権思想とは、人聞は自然権を有している点で対等・平等であり、ゆえに対等・平等に遇されなければならないとする思想である。この思想を旗印に、種々の差別解消運動が展開されているという事実は周知のことだろう。しかし、人聞は自然権を有しているという認識が、人聞をみな対等・平等に遇されなければならないという規範を導くとする論浬のあいだにはいささか飛躍がある。認織は認識であり、直接に規範,を根拠づけることはできない。その論理の飛躍は、さしあたりカテゴリ一概念をもちいて坦めることができるだろう。
人権思想の確立は、「人間」というカテゴリーが新しく重要性を帯びたことにもとづいている。このカテゴリーの浮上により、これまで同ーの対象を指し示し、かつ区分するのに有力であった別のカテゴリーらとのあいだで、カテゴリーの優越性をめぐって葛藤が生じる。人権思想の展開によって「男女平等」が議論の組上にあがったのは、この「人間」というカテゴリーと「男/女」カテゴリーとのあいだで葛藤が生じたことを意味している。そもそも、「男/女」という区分は、可視的であるがゆえに、人権思想が出現する以前において社会秩序をたもつための有力なカテゴリーとして作動していた。アリストテレス以来の西洋自然科学が展開されるなかで、性差についての解釈がつねにさまざまに試みられていた歴史は、この「男/女」という人を区分するカテゴリーがひとかたならず注目を集めていたことを示唆している[荻野,1990]0結局、この葛藤は「人間」カテゴリーの優越をもっておわる。そのさい、『男/女」カテゴリーは「人間」カテゴリーに準拠してあらためて解釈しなおされる。そこで、「人間」というフィクションに近接しているのはかろうじて「女」より「男」である、ということが発見された。それゆえ、人権の実現にむけての現実的な目標として「男女平等」が設定される。これらにより、人権思想にもとづいて生起した社会思想・社会運動は、「人間」からより離れている「女」の解放を志向するかたちをとったのであり、だからこそこの女性解放の思想・運動は女性性.(femininity)の主張という意味のフェミニズム(Feminism)と名づけられているのである。
ところで、日本においては先阪的に福沢諭吉(1835-1901)や植木枝盛(1857-92)によって、女性解放が体系的に論じられた。もちろん、当時さまざまな知識人らは、文明化(=近代化)という至上命題のもと、具体的目標の一形態として男女平等の必要性を認織していたのであり、女性解放は婦人倫というかたちで福沢や纏木だけでなく、さまざまに論じられていたo「明六雑誌』では、森有礼や津田真道らによる一夫一婦制の主張や公娼制度をめぐる問題が論じられた。自由民権運動では自由民権をもとめての女性による活動がみられた。
また、巌本善治によって明治19(1886)年に『女学雑誌」が刊行され、キリスト教にもとづいて一夫一婦思想が説かれている。だが、このときの女性活動家は自由民権運動の退潮とともに活動から身を退いていった。また、男性知識人のほとんどは、啓蒙的でしかなかった@命題としての文明化を「西洋」化と同一視し、ただ「西洋」の模倣をめざしていたのである。そのようななかで、かれら二人は、文明化を模倣によって実現するようなものではなく根源的になにかをかえていくことによって達成されるものととらえ、かっ「婦人」を文明化における課題のひとつとして受けとめ議論を展開していた。彼らの論は婦人たちに反響をおこし、あるいは慈善活動のような、婦人らによる社会活動の思想的な支柱になった。
それゆえか、福沢諭吉あるいは植木枝盛の婦人論については、これまで多くの人々によって論じられている。ただ、論じているものの多くは、その当時の時代拘束性を考慮しながらも彼らの議論に対して評価を試みているのみである。現在において自明のものとなっている認識枠組みにもとづいて評価がくだされており、その枠組みのひとつとして政治的権利の主張の有無というものがある。この評価軸において、まさに福沢と植木はつねに対照的に摘かれ論じられる。たとえば、福沢は、一夫多妻をたえず批判したにもかかわらず政治的権利について言及しなかった者として描かれる[ひろた,1979][外崎,1986]。その一方で、擁木は「婦人の参政権」まで主張するにいたったラディカ/レな思想家として称賛される[外崎,1986][丸岡,1975]。だが、政治的権利の主張があるかないかにわれわれがこだわってしまうのは、福沢や植木が生きた時代からすでに一世紀近くを経たこの時点で、日本においても婦人参政権運動が世界同時代的に展開されたことをわれわれが「知って」いるからである。
さしあたり本稿では、福沢諭吉における婦人論をとりあげ検討することを目的とする。というのも、権利について論じられていたか否かという観点とは別にひとまず論ずるべきことがあると筆者が考えることによる。それは、人権思想のインパクトからフェミニズムが浮上するための与件としてどのようなものがあるかを探究することである。
人権思想のインパクトからフェミニズムが浮上するための与件として、従来、「女性抑圧」の存在が焦点とされて論じられてきた。上野氏は、日本の女性史において近代化を解放の歴史ととらえる解放史観から、抑圧の歴史ととらえる抑圧史観への転換がみられるが、このような近代評価をめぐる史観の転換はフェミニズムの展開と関連していることを指摘する[上野,1991-1伺4]0この抑圧史観においては、近代こそ女性抑圧を継続させかっ複雑化しているからフェミニズムが登場したと解釈される。このような解放史観から抑圧史観への転換に影響を与えたものとして、上野は「六0年代の高度成長期がもたらした社会変動」をあげている[上野,1991ー1悌4:133]0高度産業社会における都市雇用者核家族の成立は、女性を主婦役割へと限定した。この役割限定は、産業化における人間解放を一面では意味していたかもしれない。しかし、この経験は、1鈍3年、フリーダン(Frie也n,B.)による「新しい女性の創造(TheFeminineMystique)」のなかで郊外中産階級の妻の孤独と不安として捕かれ、また、「フリーダンの経験した高度産業社会における女性の抑圧と疎外は、高度成長期を通じて七0年代はじめまでには、ようやく日本の女性の聞にも現実化していた」ものであり、これによって、上野は「日本には日本のリヴが成立するだけの産業社会の成熟が、背景にあった」と論じている[上野,1991ー1994:133]このような上野の指摘には、解放運動の成立の背景には抑圧や疎外の経験が横たわっており、この経験は社会構造によってもたらされるという認織がひそんでいる。たしかに、抑圧経験の存在によって、解放運動は多くの部分を説明できるかもしれない。だが、抑圧の経験によって、多くの人々が共時的にあるまとまりをもっ思想や運動にまきこまれ、っきうどかされると考えるのは、二つの点で困難があるように恩われる。第ーに、フェミニズムを生成するにいたった「抑圧」はそれ以外の時代の抑圧となにかしら異なっていると考えることができるのか、という疑問である。それを説明するために、今日さまざまに歴史的に文化人類学的に調べられているが、研究が蓄積されればされるほど、解が見えなくなっているのが現状である。第二に抑圧の経験が社会構造によってもたらされるというにも関わらず、すべての人々が運動に向かわないという事実は厳然として存在するのであり、フェミニズムの生成を明らかにすることを目的とするとき、この区別を説明することが必要であると思われる。ただ、はっきりしているのは、近代においてフェミニズムが出現したことである。ならば、フェミニズムの出現を可能にした与件とはどのようなものであるのかをあきらかにするためには、今ひとたび、フェミニズムが出現し展開されゆく歴史的経緯を検討することが重要なのではないか。
本稿において、福沢諭吉における婦人論を検討するのはこのような理由による。かれが「婦人」について論じることを、どのような思索のなかで紡いできたのか。本稿はおもにこの間いを明らかにすることで、フェミニズムの出現を可能にした与件を確定するための糸口をつかむことを目的としている。福沢諭吉は、日本において近代化が必要であることを認自民し、文明論というかたちで近代化についてさまざまに論じるなかで、フェミニズムにつうじるような、女性解放について議論をところみた思想家である。そのようなかれについて論究し、かっ駆け足に概観するこの試みは、筆者の力量を超えていることは承知している。しかし、日本における婦人論の展開がもっ意味について考察するとき、かれの足跡に言及しないわけにはいかないのである。 
2.福沢諭吉において婦人論 / 男女の交わりの可能性
福沢諭吉において婦人論は、生涯をとおしてくり返しとりあげられ論じられる領域のひとつであった。このことは、彼にとって婦人倫が一過性の問題領域ではなかったということを、われわれに示唆してくれる。しかし、それらの論は生涯においてたえまなく論じられていたという性質ではなく、三つの時期に集中して論じられていたということが、鹿野政直やひろたまさきによって指摘されている[鹿野.1981][ひろた.1979]0この三つの時期への集中は、従来指摘されるように、彼の論理枠組みが時期によって異なっていることを意味しているのだろうか。ひとまずは、鹿野にしたがって三つの時期区分と論を整理し、各時期の特徴を概観してみたい[鹿野.1981]川。
第一期。1870年代前半。この時期、福沢が中津に訪れたさい旧友に綴った「中海留別の書」(」871年)、『学問のす』め」(1872・1876)第八編(1874年)、『明六雑誌』の妻妾論争の中での「男女同数論」(1875年)といったものがある。「明六雑誌」での論争のなかで展開された「男女同数論」の焦点は、一夫一婦制を主張する根拠を男女同数にもとめているものである。また、「中津留別の書」は「人の交わりの大略」について論じているが、そのなかで「人倫の大本(=人間関係の基本)は夫婦なり」という記述がある。この記述は、彼がその後たえず一夫一婦を主唱する背景として、彼が観ょうとしている「人の交わりの大略」のなかでその基本は夫婦であるという認識にもとめていることを示すものである。この時期の論は、次の時期において体系的に展開されることとなる論点がすでに提出されていることがみえる。第二期o1880年代中期。明治18(1槌5)年に「日本婦人倫」「日本婦人輪後編」「品行論」が、明治19(1槌6)年に「男女交際論」「男女交際除論」、明治21(1槌8)年に「日本男子論」が『時事新報』の社説として数回にわたって連載され、連載終了後すぐに「男女交際総論」をのぞいて単行本化されている。この時期は体系化された枠組みのなかで、文明化という命題のもとで婦人の交際を可能にすることに意義があること、かっそのための現状での課題について論じられていた点に、すなわち福沢における婦人論の体系が示されている点に特徴がある。
第三期。1890年代後半。明治31(1898)年に「福沢先生浮世談」が、翌年明治32(1899)年に「女大拳評論・新女大拳」が「時事新報』の社説として速載されたものがまとめられ単行本化されている。「浮世談」では男女交際の重要性、とりわけ婦人の交際の意義が再確認されている。「女大拳評論・新女大畢」では、福沢が考えるところの婦人の交際を困難にしている主たる要因としての「女大学」(儒者の教え)批判をおこなうと同時に、福沢による「内を司るもの」としての婦人の道徳が展開されている。この時期は、第二期の議論をもとに論点が「女大学」にしぼりこまれたのであった。
このように概観したとき、二つの傾向をみることができる。一つには、三つの時期を変遷するにしたがって、おもに一夫一婦制から婦人の交際法へ、さらに女大学批判へというように主題が変遷しているとともに主張が多岐にわたっているということである。だが、他方では主題の変遷に比して婦人を論ずる論理は驚くほどに変化していない。ここでいう論理とは、婦人を論ずることを論者みずからが要請するその根拠の内容をさす。かくかくしかじかゆえに婦人について論ずるとするそのかくかくしかじかが、生涯をとおしてなおくり返されており、このことが彼の論を読むことによって鮮明に浮かびあがってくるのである。主題の変遷や主張の多岐性と、それらに対する論理の一貫性。このことは何ら矛盾を示すものではなかった問。
*
それでは、その論理とはどのようなものか。論理をつかむ手がかりをえるために、『学問のす』め』と、またそれから三十年近くのちにかかれた「女大畢評論・新女大拳」のなかから以下の叙述に注意をはらってみたい。
右は上下貧賎の名分より生じたる悪弊にて、夫婦親子の二例(夫婦の悪弊例,女大学、妾の議論)を示したるなり。世間に此悪弊の行はる』るは甚だ贋く、時々物々人間の交際に浸潤せざるはなし。(学問のす』め」[福沢3:84])(なお、引用文中の口は筆者による)省説は雨性の関係を律するに専ら形式を以てせんとし、我輩は人生の天然に従て其交情を全うせんとする…・。(「女大皐評論・新女大寒」[福沢6:522])
『学問のす』め」では、福沢は悪弊によって人聞の交際が浸潤していないことを嘆いている。この浸潤とは、しみこむという意味である。他方、「女大挙評論・新女大準」のくだりは、つぎのように理解することができる。「交情」とは交際あるいは交わりによって生じる情のことをさす。両性、すなわち男性と女性の関係を形式によって律するのではなく、情を交わらすことがまっとうできるようにすること、そのために、福沢は女大学を批判し、自らが考えるところのものをあらわしたのである。「全うする」という語は、完全にする、果たすという意味をもっ。「浸潤」「全うせん」ということばのなかに、交際や交情、交わりによって生じる情を、すみずみにまでしみわたらせようとする、福沢の「交際」「交わり」に賭していた思いがかいまみえる。
まさしく、このような「交情を全うせん」とそが、福沢を婦人論にむかわしめる論理であった。そして、「男女交際総」は、「交情を全うせん」がために、交際そのものについて論じられている。序では男女交際の重要性についてつぎ。
A値冨のように述べている。
人の世に在る、往来交際せざるべからず。往来交際せざれば社曾存すべからず、社曾存せざれば人間無きなり。往来交際の重要事たる、又多言を要せざるなり。然るに古来我が日本園民が世に慮するの法を見るに、曾て往来交際を重んずべきを知らず、単独離居して自ら喜ぶ者、酒々皆然らざるはなし。近年西洋文明の風を慕ひ、漸く往来交際の忽にすべからざるを悟ると雌ども、此往来交際や単に男子の聞に限りて、未だ女子の問に及ぶことなし。況んや男女雨生[性]の聞に於てをや。夫婦以外男女相見るを許されず、相諮るを許されず、相往来するを許されず。間て世上百般の人事滋難曲屈名伏すべからず。闘の不幸これより大なるものなかるべきなり。我筆愛に慨する所あり、・・(「男女交際論」[福沢5:581])
「人の世に在る、往来交際せざるべからず。往来交際せざれば社曾存すべからず、社曾存せざれば人間無きなり。」一一この書き出しは、福沢の思想を端的に物語っており、かつ彼において婦人を論ずることがどのように重要であるかを示している。「人が世に存在するかぎり、往き来し交際しないとすることはできない。往き来し交際することなければ社会は存在することができないし、社会が存在しなければ人間は無いo」ここには二つの前提がおかれている。ひとつは、社会と人聞はかぎりなくフィクションなのだということである。もうひとつは、フィクションである社会と人聞が現実化する可能性をもつのは、ただ「往来交際」によってのみと考えられていることである。福沢にとって「交際」「往来交際」それら自体が重要なのは、まさしくフィクションを現実のものにする契機をもっ、ただ一つの行為形式ととらえられるからにほかならなかった。しかし、この「交際」「往来交際」は手段であるがゆえに、目的に転じる。さきほどの「交情を全うせん」という言葉は、交際の目的化を意味する。
「婦人」が論じるものとして発見されるのは、この点にある。序の後半で、女子の聞や男女両性の聞において「往来交際」が欠けているとの指摘は、「往来交際」が目的であることによる。そして、「日本婦人論」をはじめとしてさまざまに婦人論が展開されたのである。
*
福沢がここで「往来交際」を現実化するために描いたプログラムは、世界そのものをそっくり入れ替えることではなく、ひとりひとりが実践するその瞬間瞬間にかかわるものであった。それは、何かしら二様が交わるなかにこそ、あるときは生を成し、またあるときは幸福快楽が生じる、というかたちで現実化することが可能であると掛かれている。たとえば、婦人を改良することの必要を説いているなかで、婦人の心の働きを活発にするための方策の提案とその理由を次のように述べている。…大凡そ人聞は苦集を以て生を成すものにして、其苦幾の大なるもの、之の大なるものと云ふ。然り而して人の苦幾を大ならしめんとすれば、随て其責任も亦大ならざるを得ず。例へば政事世事に聞して、此人のー奉ー動は全国の休戚に影響し、其人の言行は唯一村一邑を動かすに足るとするときは、甲の責任は乙よりも大にして其苦策亦共に大なる可し。…故に人の苦楽唯責任に由て生ずるものにして、必ずしも其人の畢不撃に由るに非ず。...人生の綾逮に責任の緊要なること斯くの如くにして、顧て日本圃の女子を見れば何等の責任あることなし。
何かしらの責任を負うことによって苦楽が大きくなるということは、自らの行為が他者に何かしら影響するために、苦と楽のあいだを揺れ動くことが可能になるからである。これによって、まさしく福沢は、婦人の心を活発にし、幽閉虚弱を改良することができると考えたのであった。「交わる」ということは他者と交わり、苦楽と交わるというだけにとどまらなかった。男女の交際は肉交と情交の駆け引きのなかの妙処であると福沢は論じる。福沢によれば、男女の交際には二様があるという。その二様とは肉交と
情交をさす。肉交とは「肉髄の交」であり、「文字の如く両生の肉健直接の交」を意味する。これは「人間快楽の中にでも頗る重きもの」であるが、「男女の間柄は肉交のみを以て事を終る可きもの」ではない[福沢5:589]。このように肉交を位置づけたうえで、もうひとつの僚としての情交の内容と、今の社会における情交の可能性をつぎのように強調する。
殊に人文漸く開新に赴き、人の心志を用る匝域漸く虞まりて、心事漸く多端なるに至れば、情感の馳する所も亦庚く且多端にして、男女の交際躍に肉交の一事に止まる可らず。警警方相互に説を以て交り、文事技量蓄を以て交り、或は合話し或は間食する等、同生相互の交際に異ならずと雌ども、唯その際に微妙不可思議なるは呉生相引くの働にして、讐方の言語暴動相互に情に感じ、同生の聞なれば何の風情もなき事にでも、唯異生なるがために之を間見して快く、一録一笑の細に至る迄も互に之に鍋れば千鈎の重きを貴へて、言ふ可らざるの中に無限の情を催ふす其趣を形容すれば、心匠巧なる重工が山水の景勝に遇ふて感動し、一片の落葉、ー塊の頑石も、其微妙の風韻は他人の得て知らざる慮に在て存するもの〉如し。則ち是れ男女繭生の聞に南風の薫ずるものにして、之を名けて情感の交とは申すなり。(「男女交際紛」[福沢5:589・590])
ここで重要なのは、肉交は完全否定される類のものではなく、むしろ、情交の可能性をかぎりなくおしひろげる境界面として位置付けられるということである。妙慮が強調されているのは、情交が肉交の磁場に足をおきつつ肉交には至らないという性質をもつことによる。福沢は、このような「情交」の在り方のなかに、男女の交際の理想郷を描きだしたのであった川。かっ、「開け進む世」においては本来男女の交際が繁多となり、「貸方の情を通じ、親しんで流れず、近づいて汚れず」といった無限の妙味あるものとしての情交が発達すると福沢は想定していた。
*
このような枠組みにもとづいて、議論の大半は情交という意味での男女の交際が、わが国の実態にお川てどのように困難であるのか、を論じることについやされる。そこで、福沢が情交の発達あるいは実現困難さの原因にみいだしたものは、妾、芸妓、娼妓といったように婚姻外の男女の関係パターンが肉交のみしかない、という現実であった。もちろん、それらの女性と客としての男性のあいだに情交がまったく存在しないといっているのではない。妾、芸妓、娼妓といった習俗化されているこれらの存在は、情交はあくまでも肉交を伴わないという約束事を破っている。だからこそ、福沢は問題にしており、男子の不品行としてしばしば問題にするのであった。
しかし、何よりも問題なのは、婦人の閉じこめを強制することで、男女による情交のいっさいを妨げる儒者の教えであった。福沢はことごとく、「女大学」を取りあげて批判する。晩年にかかれた「女大患評論・新女大畢」は、新たに論じられたというよりも、それまで随所でふれて批判していた「女大学」に正面から取り組みなおしたという性格をもつものだろう。
彼にとって、儒者の教えは「開け進む世」にそぐわないものとして認識されていた。たしかに、この教えは、徳川治世250年とくに元和偲武において、古人の言をもとに定められたものであり、その時代状況のなかで意味あるものであった。だが、いまは「開け進むt佐」であり、教えが成立した時代状況とはずれている。こんにちの時代状況とは食い違っているにもかかわらず、その教えが影響力をもっていること、この原因として福沢はおもに二つを考えている。
第ーに、「開け行く世に製普通の道を知ら」ない学者の罪を指摘する。そのようなことが生ずるのは、学者の「脳中には、唯貞貨と媛貸しと二様の思想、あるのみにして、其聞に些少の自余裕を奥えず、貞ならざるものは姪なり、姪ならざるものは貞なりとて、貞と媛との中間その贋きこと無線の際に無限の妙慮あるを忘れたる者」(「男女交際論」[福沢5:589])だからである。学者がこのような状態に陥っているのは、学者が未開人の教えを守っていることによる。というのも、「未開人とは今の田舎漢か小児の如く、其心の働き、簡単無造作にして、種々織々に入組たる事を勘解するのカなく、・・心の働に於ても、善悪邪正等を区別して、善ならざれば則ち悪なり、正ならざれば則ち邪なりと、其聞に恰も一直線の界を定めて窮屈に之を守るのみにして、其の善と悪と正と邪との聞に働きあるを知ら」ないからである(「男女交際論」[福沢5:588])。だが、学者が強調するだけで、偶者の教えが守られつづけることにはならない。
教えの対象である人々が教えに従うこと、これこそが教えが教えの機能をはたすうえで重要な意味をもっ。それゆえに、福沢は第二として「社舎の座制(Socia」Oppression)」に注目する[福沢5:594]。学者の教えが両性の関係を窮屈にしただけではなく、人心を萎縮させ用心堅闘にさせてしまったこと、この人心に注目する。そして、日々の人々の実践のなかで教えが守られるプロセスに注目し検討したのである。
福沢のこうした議論は、じつは議論の対象が上流階級とくに士族の婦人に限定されていたことを明らかにする。かれが、具体的に「婦人」モデノレについて言及するとき、主婦役割を強調してしまうという事実は、改善の対象として想定じていたのが士族の婦人らだからであった川。主婦役割の強調は、従順な士族の女性に、責任をもたせ心を活発にするためであった。従来、議論の対象として上流階級が想定されていたことは批判されている。しかし、福沢のそのような議論の展開は、彼が上流階級の女性の改善こそ重要であると認識していたからである。
*
ところで、福沢において論じるべきものとして、「婦人」はどのように発見されたのであろうか。従来、ミレ(Mi」,J.S.)の影響力の大きさが指摘される。
たとえば、丸山は『文明論之概略を読む(上)」のなかでつぎのように述べている[丸山,1986:266・267]。ミノレの『婦人の隷従について(Onthesubjectionof women)」が出版されたのが1869年であり、福沢は1876年の『学問のす〉め」の八篇のなかで、商洋におけるミノレが婦人解放輸を展開する例をいままでの習慣を破る実践として紹介している。福沢手沢本が1870年版であり、出版されて数年のうちに入手していることが予想される。1槌5年に書かれた「日本婦人論」をはじめとした議論に対しては、社交の場面における婦人がはたす役劃を重視する面において、影響があったことはうかがえる(5)。
しかし、ミノレを読んだことによって福沢が「婦人」を論ずるものとして発見したと考えるのは困難ではないだろうか。丸山も述べているように、福沢の婦人論は、「ミノレを読んで初めてもった考え方ではないが、『深刻な、持続的な示唆』を受けた」という性格が強い。丸山はその根拠として、ミルの本がでるまえに福沢が項目を選びだして訳し著した『西洋事情外編」のなかで、一夫多妻制、家庭における男性の女性支配、畜妾に対する批判の原則が示されていることをあげている。
このような丸山の類推は、ミルを読む以前に福沢が婦人を論じる必要を感じていたととを示すものである。むしろ、福沢にとってミルの婦人輸の読書体験は、自分自身の考え方を再確認したものにすぎない。そのように読書以前に福沢を婦人について考察させるにいたった契機としては、仮説的ではあるが、筆者は、「西洋」を体験したことに求められるのではないかと考える。そのように考える根拠として、以下の例を挙げておきたい。
文久2(1862)年、岩倉具視とともにヨーロッパを巡行したさいに記された「西航記」という日記がある[福沢19]0そのなかで、3月17日(新暦4月15日)、パリの病院を訪問したときの感想が記されており、つぎのような叙述がある。
[介抱者の他に]文た「ノン」と名づくるものあり、これ老若婦人奇数[数奇?]に遇ふか、或は他故あるもの、神に誓ひて若干年間病者を扶けんことを自から約し、其年期内は男女の交を絶ち白から守ること本邦の女僧のま日して病院に入るものなり。故に此「ノン」は病者を扶くるに男女を耕ぜず臥床に近くことを得るなり。(「西航記」[福沢19:21])
この日の叙述はのちに『西洋事情」初篇の「病院」の紹介としてそのまま転載されている。このことから、この病院訪問が、「西洋」の体験として福沢の印象につよく残っていたと想像できる。
上の叙述において、「ノン」の説明として「男女の交を絶つ」「男女を別たず近づく」ということに福沢が着目していた点に注目してほしい。ここには、「病院」という、男女が混在している空間のなかで、ある種の婦人が男女の交とは無縁に男女別たずに接している、すなわち、女性がセクシヤノレではないかたちで家以外の空間で振る舞っていること、このことに対する福沢の驚きをみることができるだろう。
この「ノン」とは、英語で「修道尼」を______意味するnunのことであろう。福沢の観た「ノン」の活動とは、出家せず世俗において修道のため、社会奉仕活動・社会事業への従事する宗教活動の一種であった。当時、カトリックにおいて、女子教育の一環として、社会奉仕活動や社会事業への従事が促されており、病院での奉仕活動は、そのひとつであった。かっ、これらの活動は上流階級の女性たちによっておこなわれる類のものであった。それらに対し、農民や下層階級に属する女性たちは、修道院にはいり修道女となる途しかとりえないのであった川。
「ノン」をめぐる状況をふまえたとき、福沢が、以下のことに驚きを覚えたのではないかと想像することができる。性に関する商売をしていない女性が家以外の空間に存在していること。のみならず、さらに、そのように活動している女性が上流階級の女性であること。こうした「西洋」の状況に対し、日本における、福沢がおもに論の対象としていた士族の婦人は、当時「女大学」の教えにしたがって、家以外の空間を出ない、ないしは出ることが許されていなかった。
「西洋」の視察は、「文明」の視察を意味していた。それは、「日本」には何が欠けているのかを確認するための旅でもある。したがって、福沢の日記で描かれていることは、さきに文明化した「西洋」にあって「日本」には欠けているものとして捉えられたことの一覧である。日記において「ノン」の活動が記されたことは、視察体験のなかで「日本」に欠けているものとして「婦人」による社会活動の発見を意味する。このようにして、福沢は、家の外部で、肉欲に堕ちないような、男女が交わる可能性を求めて、「婦人」論を展開したのである川。 
3.交際としての〈社会〉
福沢における婦人論の展開のなかで、「交際」「人間交際」という概念が重要な位置をしめていることを前章において検討した。ところで、この「交際」とは福沢の思想においてどのような意味をもっのだろうか。
『文明論之概略」のなかで、福沢は「文明化(civi」ization)」の指標として「交際」を位置づけている。
抑も文明は相封したる語にて、其至る所に限あることなし。唯野蟹の有様を脱して次第に進むものを云ふなり。元来人類は相交るをもって其性とす。濁歩孤立するときは其才智殺生するに由なし。家族相集るも未だ人間の交際を愈すに足らず。世間相交り人民相燭れ、其交際愈庚くその法愈整うに従て、人情愈和し智識愈開く可し。文明とは英語にて「シウヰリゼイション」と云ふ。即ち羅旬語の「シウヰタス」より来たりしものにて、固と云ふ義なり。故に文明とは、人間交際の次第に改りて良き方に赴く有援を形容したる語にて、野管無法の濁立に反しー園の健裁を成すと云ふ義なりo<「文明論之概略」[福沢4:38])その当時の日本において、「文明化」とは、人々がただ希求してやまないだけでなく、国をあげての緊急かっ至上命題であった。この文明化は、福沢が述べているとおり、「野蛮」との「相対」としてとらえられていた。明治期初めにおける知識人らの多くは、ギゾー(Guizot,F.)著『ヨーロッパ文明史(Histoirede」aCivi」isationenEurope)」邦訳『泰西開化史」「西洋開化史」)、ミル著『自由論(On」iberty)」(邦訳『自由之理」)、スベンサー(Spencer,H.)著『社会静学(S侃ia」Statics)」(邦訳『権理提綱」「社会平権論」)などを読み、かっ日本の指針として言及していた。福沢があらわしたこの『文明諭之概略」はギゾーの影響をつよくうけており、とくに「西洋の文明」を論じている箇所はギゾーの記述におおくを拠っているという[丸山,1986]0中村正直によって、明治5(1872)年に翻訳された『自由之理』は、当時ひろく読まれていたという[柳父,1982]。また、スベンサーであるが、こんにちからみれば、のちに社会進化論をもとに国体論を展開した加藤弘之への影響が指摘されるが、他方で国体論と対極をなすと通常想定されている自由民権思想を唱える人々も、その立論の根拠をスベンサーに求めていた[山下,1983]0たとえば、板垣のプレーンとして活躍した植木枝盛は、よくスベンサーやミルに言及していたが、それは、民権あるいは男女同権を主張することがスベンサーの描くところの「野蛮から文明へ」の進歩の状態として認織されていたからである。植木の日記や読書日記を開いてみると、上述の書物を翻訳された早い時期に購入し、読んでいたことがうかがえる[家永編,1990・1991]。
これらの書物は、それぞれ、ローマ帝国の崩嬢からフランス革命にいたるまでのヨーロッパの「歴史」が捕かれていたり、文明社会において「自由」がどのように重要であるかが説かれていたり、社会の「進歩」の段階が述べられていたりというように、今日から考えれば、ぱらぱらのテーマについて論じられているという印象が強いかもしれない。しかし、当時の知織人の多くが、ギゾーも、ミルも、スベンサーも読み、いずれの思想も自らの思考を構築するために必要なものと認識していたことは明らかである。ここには、当時多くの知識人らが共通してギゾ一、ミル、スペンサーを重要なものとして読み思想を受容しようとするにいたる、なにかしらの関心を共有していることが考えられるだろう。そして、その関心こそが、「野蛮から文明への進歩」の必要性であった。
福沢が『文明論之概略』をあらわしたのは明治8年であり、このような明治期はじめの時代状況とふかく関連している。
また、この奮は、丸山真男によって、「福沢の庖大な言論著作」において、唯一の、「ほぼ純粋な理論的著作」として位置づけられている[丸山.1947-1964:60]0それは、内容からみても明らかであるといえるが、執筆過程をたどりなおすとき、ほかの論とくらべてもその過程はきわだって特異であり、唯一「純粋な理論的著作」であると位置づけることはもっともなことと思われる。
福沢の生涯において論じられたものの多くは時事論であり、とくに明治15年からはみずから創設した『時事新報』の「社説」として書かれた。これらの輸は、『時事新報」「慮義塾」の運営者としての務めのかたわらで書かれたものであり、また、そのなかに福沢の口上を弟子らが筆記したものもあった。それに対し、『文明論之概略」に関しては、その執筆に専念するために一年有余の期間がもうけられていた。その問、ギゾーやパックノレを読み、執筆し、推敵する、という作業がくりかえされたのである[松沢.1995][丸山.1986]。このような経緯があったことをふまえるとき、『文明論之概略」に記されている言葉のひとつひとつは福沢によって厳しく精選された思索の断片であるといえるだろう。
このような執筆にいたる背景や経絡をもっ著作において、「文明」ということばが、「人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様を形容したる語」として定義されていた。福沢は、野蛮から文明へと進む像として人間交際の改良を想定していたのである。
ところで、この「人間交際の改良」を自然に推移するものとして福沢はとらえていなかった。「家族がたがいに集まってもいまだに人間同士の交際を尽くすには足りていない」という叙述は、交際を尽くすことがまず重要であるということ、かっ人々が集まっているだけでは交際を意味しないこと、との二つを福沢が認識していたことを示している。そして、人々が集合している状態から「交際を尽くす」ために、福沢はつぎのような実践を求めたのである。
普封建の時に大名の家来、江戸の落邸に住居する者と園邑にある者と、英議論常に阻僻して同藩の家中殆ど讐的の如くなりしことあり。
是亦人の異面白を顕はわさゾりし一例なり。是等の弊奮は固より人の智見の進むに従て白から除く可きものとは雌ども、之を除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。其交際は、或は商賓にでも又は拳聞にても、甚しきは遊毒事酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接して其心に思ふ所を言行に務露するの機舎となる者あれば、大に貸方の人情を和はらげ、所調雨眼を開て他の所長を見るを得ベし。
このくだりは、『文明論之概略』の書き出しにて「議論の本位を定る事」の重要性を論じているおりに、議論に弊害が生じた場合いかに対応するかに関して福沢が論じている箇所である。福沢は弊害をとりのぞくのに有力なものとして「人と人との交際」をあげる。福沢は交際が議論の弊害をのぞくと考える根拠として、「ただ、人と人がたがいに接して、それぞれが思うところを言葉や行動にあらわすこと」をあげ、それによって、両眼を開いて相手の長所をみることができると述べている。ここからは、福沢の文明論における「交際」の位置がみえる。まず、「尽くす」ということばには、「人間交際」が理想状況として想定されていることが含まれている。しかし、これまでにもたびたびふれているように、理想状況にたどりつくには、「交際」はある方向づけをもって実際におこなわれることが必要であったo「人間交際」を可能にするために現実において「人と人との交際」を方向づけること、この交際の二重性こそが『人間交際の次第に改りて良き方に赴く有様」として文明をとらえる福沢の文明論を構成していたのである。
*
このように、福沢における思想の主要な領域である文明論において「人間交際」は重要な位置をしめていたのである。ところで、福沢において実はこの「人間交際」とは、societyすなわち「社会」を意味していた。西洋の思想を摂取す句。るために読み込みの跡がみられる手沢本の書き込みや、翻訳本において、societyには「人間交際」という訳がおもにあてられていた。丸山は、『文明論之概略」に根本的に影響を与えているギゾー『ヨーロッパ文明史」:英訳版(1870年版)への、明治6(1873)年から7(1874)年頃になされた書き込みにおいて川、また、柳父も、それよりもさらにさかのぼること5年程前の慶謄4(1部8)年に出版した『西洋事情外篇」において、これはチェンパースの『経済論(Po」itica」Economy,foruseinschoo」s,andforprivateinstruction)」(著者名、発行年不明)を抄訳したものであるが、どちらにおいてもおもにsocietyを「人間交際」と翻訳していることを指摘している[丸山,1986:83][柳父,1982:6・7]。
これは、おそらく、翻訳語を確定するさい、「社会」ということばがなく、明治期なかばに定着したことと関係しているかもしれない。幕末から明治にかけて英和辞書の類がさまざまにだされているが、それらにおいて、societyの意味として、「仲間、交わり、一致、組、連中、社中、会(対7)、会社(クミ7イ)、・連衆(レンシュ)、交際、合同(イげ)」があてられていたのであり、「社会」という語はなかった。それが、明治8(1875)年頃から、「社会」が訳語として使われるようになる。この「社会」の典拠は、宋題の審物(程伊川の『二程文集」)における、「土地の神を祭るために一定の地域の人々が社場に会合する」というくだりからとられたものであると厚東は指摘する[厚東,1991:30]。また、柳父は、明治期はじめ1875年頃から、「会社」の類義語として、あるいは、「同じ目的を持った人々の集まり」として用いられていた「社」の会するものとして、「社会」が使われはじめた、と指摘する[柳父,1982:14・17]。「社会」という語が確定する経緯を検討するだけの資料を待ちあわせていないため、どのような経緯であったかははっきりしていない。だが、いずれにしても「社会」とは明治期にいたってsocietyの翻訳語として新しく造りだされた誇であったことは確かである。そし℃、多くの人びとは「社会」という語が造りだされ、使われはじめたとたんに、その訳語が明治以前においてほとんど意味や用法が付加されておらず、その分だけsocietyの訳として「社会」を用いるように急速にかわっていった。十年ほどたった明治20(1887)年には有賀長維によって、「英語のsocietyという字を社会と翻訳するのは誰の始めし事なるやを知らず」と言われるまでになっていたのである[厚東,1991:30]。
福沢が洋奮を読んだ時期はどちらも1875年以前であるため、societyを「人間交際」と訳したことには、そもそも「社会」という新造語がなかったからと考えることは、あながちはずれていないと思われる。しかし、つぎに述べるこつの点によって、福沢が「交際」を使用するのは便宜的だからではなく、それが思想の根底的な位置を占めていたからであるということを主張したい。まず、s叩etyの訳として頻繁に「交際」をもちいていたのは、おもに福沢だけであった。明治5(1872)年に出版されたミノレ『自由論』の翻訳書である『自由之理』において、翻訳者の中村正直はsocietyの訳語として『政府」「仲間」「会社」をはじめにさまざまな語をあてていたのであり、「交際」という訳はおもにもちいられていなかった[柳父,1982:13]0第二に、「社会」という言葉が新しく造られ、急速に広まったときにも、福沢は「社会」とあわせて『交際」を用い1ていた。明治12(1879)年にあらわされた『民情一新』において、つぎのような叙述がみられる。
西洋諸圃の文明開化は徳教にも在らず文撃にも在らず又理論にも在らざるなり。然ば則ち之を何慮に求めて可ならん。余を以て之を見れば其人民交通の便に在りと云はざるを得ず。雨間の人類相互に交通往来するもの、之を社舎と云ふ。社舎に大あり小あり、活発なる者あり無力なる者あり、皆交通往来の使不便に由らざるはなしo(「民情一新」[福沢5:5-6])「人類、人民が互いに交通往来することが社会であり、文明化は交通往来の発展(=便不便)の具合に左右される」ということが述べられている。この叙述は、前節でみた「男女交際論」の書き出し、すなわち「人の世にある、往来交際せざるべからず。往来交際せざれば、社曾存すべからず、ネ土台存せざれば人間無きなり」という叙述と類似している。福沢は、交通あるいは交際といった「交わり」をつうじてのみ社会が存立することができると考えていたのである。
ところで、そもそも、交際とは第一義的には、家、君臣関係とは別個の関係性の認織枠組みとして用いられていた、という[丸山,1986]。家、君臣関係と別個の関係をさすものとしての交際。福沢が展開しようとした「社会」としての交際。交際におけるこのような意味の二重性は、福沢によって、交際という一語をもってして、二重の意味を含ませて使用することを可能にしたのであった。福沢は、家族は交際ではないとか、家来・君臣聞によっておこなわれる議論を交際として論じることで交際の可能性を示そうとした。そして、その「交際」をとおして社会が存立する可能性をみようとした。すなわち、福沢は、交際としての(社会)を追究していたのである。
福沢において、(社会)を論じるうえではたす「交際」のこのような役割について考えるとき、ジンメノレ(Simme」,G.)が『社会学の根本問題」のなかで論じている「社交」(sociabi」ity)を想起する。それは、たんに社交状況を描いているということにおいてではない社会」(society)の純粋なフィクションとして『社交」が位置付けられていることにおいて想起することができる。
ジンメルはつぎのように述べる。
このように、社交は、芸術や遊戯と同じような性格をもって行われる社会化の抽象であるから、社交は、この上なく純粋な、この上なく透明な、この上なく軽い魅力を湛えた相互作用の様式を必要とする。即ち、平等な人たちの聞の相互作用であることを要する。…社交というのは、すべての人聞が平等であるかのように、同時に、すべての人聞を特別に尊敬しているかのように、人々が「行う」ところの遊戯である。[Simme」,1917=1979:80]
福沢においては、当時明治期の日本における社会認識の状況のなかで論じているため、ジンメノレの言うところの「社会」は「世」にあたるなど、用語系はずれているかもしれない。しかし、福沢において「交際」がもった意味と、ジンメノレが論じた「社交」がもっ魅力との共通性があることは浬解できる。
ジンメノレにおいて、「社交」とは純粋な関係様式であり、リアノレさを絶えずかわしてゆくものであった。ここで意味するところのリアノレな関係横式とはさしあたり「社会」である。ジンメノレの「社交」に関する議論における、「社会」と「社交」のいれこ構造が、福沢による「交際」「交わり」を論じるレトリックのなかにはらまれている(9)。
*
だが、社会と社交=交際のいれこ構造を論じることが可能になったのは、当時の日本における状況のなかで、社交=交際を可能にするような何かしら物的な構造、制度がまさしく成立する瞬間を迎えていた、あるいは迎えることを人々が意識していたことも関係していると思われる。ここに、そのように考える根拠を二つほどあげておくこととする。
第一に、「新聞」や「演説」会の隆盛と浸透によって、広くかっ迅速に情報が流通し交換されゆくさまを、その当時に生きる人々がまさしく「体験」として受けとめたことである。稲田は、自由民権運動を展開させるのに大きな役割を果たした政治文化として、「新聞」と「演説」の二つをとりあげ論じている[稲悶,1伺4]0まず、「新聞」が運動を展開させるのに大きな役割を果たすことができた理由として、稲田は日刊の実現と、投書欄の成立、広告の存在、の三つをあげている。たとえば、「新聞」は印刷技術の改良により、日刊紙としての発行が可能になった。このことは、毎日毎日情報を伝達することが可能になったことを意味するものであり、日々‘運動の纏勢に関する情報が人々に伝わっていくことを意味した。また、投書欄がもうけられており、読者による投稿がかなり盛んであったという。植木校盛は、自由民権を論じる演説家として活蹟する前は、多くの新聞や雑誌に投稿していたことを日記に記している[家永編,1990・1991]。投書という形式は情報受容者が新聞を媒介として情報発信者に転じうる可能性をもっていたのであり、投稿の隆盛は当時の人々の情報交換欲が盛んであったことを示しているといえるだろう。さらに、新聞広告の存在、その広告の多くが西洋の思想や実態を紹介する本の広告であったということは、情報が発信される空間が西洋にまで広がっているという想像を喚起したと考えられる。他方、「演説」会が短期間に広まり、盛り上がった理由として、稲田は演説会がもっ演劇性、新奇性、来会者との相互作用性の三つの特性をあげている[稲田,1994:103・104]。演説会が開かれた場所は芝居小屋や寺院、浴場だったのであり、かっ、有料であった。また、演説においては巧みさなどの技術が求められたりした。ところで、そのような演説は,主語を確定し、論理的に筋道を立てて展開するというような、「徹底的に自諭を開陳する」という行為は、当時の人々にとって、極めて新しく珍しいものであった。さらに、来会者は従来の芝居とは異なってただの見物人という以上に、場を構成するものとして重要な役割をはたした。そこで、「ヒヤヒヤ」とか「ノウノウ」とか叫んで演説に応えたり、拍手を送ったりすることは、意思の統一形成を意味したのである。このような点で「新聞」や「演説」が人々を魅了したのであるが、魅了したと思われる理由をたどりなおしたとき、人々の経験をつぎのように想像することができるだろう。一方で、情報を流通する速度を速めたり、密度を高めるものだったり、情報が匿名的に多くの人々と相E的にとり交わされるものだったりと、情報を交換する範囲に制限がなく無限に広がりゆくものとして体験されたと考えられる。他方で、村の集まりでも親戚の集まりでもないような今までに経験したことのない「場」において、ある人の意見に耳をかたむけ、反応することの体験を可能にした。新聞という「メディア」をとおして、情報空間の広がりと流れを体験する一方で、演説会は情報の新しい相互作用の在り方を集約的に体験することが可能な「結節点」として作用していたのである。
第二に、交通の体験についてである。交際と交通が相互補完的に用いられていることである。そもそも、明治維新は、人々の流動性が重要な意味を持っていた。また、廃藩置県は人々が移動することを許されたことを意味した。さらに、当時、明治10年代から20年代にかけては交通網が整備されつつある時期であった。鉄道が東京や大阪を中心に近隣の都市とのあいだに徐々にひかれていった。また、郵便網や電信網の確立もこの当時すすんでいたという。このことから、人々が行き交う空間のひろがりゆくイメージが広範に共有されていただろうということが想像できる。交通空間の拡大は、交わる人の量や、交わる頻度の拡大を維持するものであり、交際の物的基盤として意味づけられていた。
福沢によって、明治12(1879)年に著された『民情一新』は、「蒸気船車、電信、印則、郵便」の発達が、人々の往来交通をさかんにし、社会を存立させるというように、交際が円滑に行われるために交通が果たした役割について論じていた。また、「民情一新補遺」のなかで、日本の交通網の拡大と社会の存立の関連について言及されでいる[福沢19」。さらに、「交通論」において、運輸交通は脈管であると論じている。それは、智徳富有という血液が流れるための「路」なのであった。ゆえに、「舟車郵便電信印刷」の便不便と多寡」は、「脈動を言十へて血液循環の趣」である。このように考えたとき、現在の日本の状況は「一且其聞に運輸交通の路を開てより、来曾聞の事を聞き未曾見の物を目撃し、貨物を交易し知識を交通して、貸方の利益奉て言ふ可らず」(明治13年11月5日「交通論」「交葡雑誌」[福沢19:667])というように、社会の存立における交通の重要性をふたたび確認したものであった。また、植木においては、交通ということばが交際を補完するものとしてもちいられていた。たとえば、「交際論」において、人々が風雅を楽しむ集会を催したりするとき、そこでの交際を、「他衆との交通」と述べている。また、論文の題名として、「集会、結社、交通の自由」というものがあり、ここでの交通は交際を意味するものであった。
交際すること、交わることの期待感は、すぐれて福沢が先取していた。しかし、うえのような事態にもとづくとき、かれだけでなく、その当時、そうした期待感は多くの人々に共有されていたと想像するのは容易であろう。実際、さまざまなかたちで人びとは交際への期待を表明していた。たとえば、明治19(1886)年に結成された婦人矯風会の支部のいくつかは男女交際会という名前がつけられた。植木が明治22年に出版した『東洋之婦女』は、その三分のーがかつて女流民権家として活躍した婦人や婦人矯風会の婦人らによる序文で占められているが、そこでいく人かの婦人から、男女交際の改善への期待が述べられていた。また、同時期、文明史家として名をあげつつあった岡ロ卯吉も『情交論」をあらわしていたという[嘉治.1972:5・6]。そして、福沢や田口の「情交論」に感化されて、明治20(1槌7)年に「日本情交之変遷』を著したものも存在した[末兼.1887-1972]。かれは、その書で、古代にかろうじてあった自由情交が、ふたたび明治維新以降の社会において実現する可能性をもつだろうと論じていた。
福沢による「男女の交わり」を主張する婦人論は、このように当時の人々と関心を共有していたのである。福沢による「男女交際論」は、明治初期のとろの『西洋事情」や『学問のす』め』など以来、ひさかたぶりに偽版が刊行された、という[福沢5:664-侃~]。このことは、「男女交際」に対して人々がたんに卑狼な関心をもっていたからと従来は考えられているが、それのみならず、当時の、「交際」に対する一般的で広範な関心と呼応するものであったと考えられるだろう。 
4.おわりに
これまで論じてきたことを概観しよう。福沢において婦人が論じられたのは、交際という視角によるものであった。そして、この「交際」とは、福沢の思想において重要な位置を占めているのみならず、そこで生きる人々をもなにかしら喚起するようなメルクマーノレだったのである。
ところで、このように概観したとき、福沢が男女の交わりとして婦人を論じるにいたった過程には、三つの局面が介在していると指摘できる。
第一。男女の交わりを積極的な価値に転回したことである。男女の交わりは常に存在していたものである。しかし、ノンの例や男女交際論、品行論の展開はそれまでの交わりの価値づけを積極的なものへと転回する、すなわち、「隠す」ベき交わりから、積極的に交わりを追求する方向へと変わったのであり、だからこそ、婦人を交わるものとして発見したり、論じることが可能になったのである。
第二。この交わりは、新しい型であり、ゆえに固有の空間を新しく必要とした。交わりという関係性は、その関係性を可能にする特有の空間と関連をもっている。従来からの交わりとして、たとえば、夫婦やそれ以外の性的な関係というものがある。それらは、それぞれ、家や遊郭などが固有の空間として対応している。というのも、家の中で夫婦以外の性的な関係が、他方で、遊郭において夫婦関係が、営まれていたということは想像できないのであり、ゆえに、ある空間において通常とは異なる関係性が営まれているとはいえないだろう。
ところで、社交のような交際という関係性の形成と近代社会という空間の形成は、密接に結びついていた。ジンメ/レの社交と社会の議論は、新しい関係伎は固有の新しい空間をともなうことを示してくれる。この新しい空間は従来の空間と併存する。近代における公私領域の分離は、空間を重層化し、かつ併存を示すものである。ここでは、男女の交わりが重層的に実現したことを意味しており、そのひとつとして、福沢の情交は位置づけられるだろう。
第三。ところで、福沢は「交際」を尽くすととによって社会を存立させる過程をcivi」izationとみなし、その来歴としてcivitasに求めていた。civitasとは、古くは、支配団体としての市民共同体をさした[Riede」,1975=1990]0このことは支配されないことを含意していたと考えられるだろう。福沢はこれに「薗」という語をあてていた。また、「一身独立して一国独立する」というように、「園」と「身」をアナロジカノレにとらえていた。ここから、支配されない主体であることが、福沢にとってまず何よりも重要であったと考えられる。
それは、「園」と個人を相互に規定するものであった。「男も人なり。女も人なり」とは、「人」というどこにもないものへの無限の希求のはじまりであった。福沢は、「人」としての「主体」を追求する営みのなかで婦人を発見したのである。
本稿は、人権思想の展開、女性抑圧の存在以外にフェミニズムを生成した与件を明らかにすることが目的であった。本稿では、福沢の婦人論だけを対象にしているため、との目的を達成することは難しい。しかし、暫定的にではあるが、呈示することができるだろう。それは、福沢が婦人を論じるにいたった過程に介在している三局面である。男女の交わりの価値が転回したことは、関係性に関する認識の転回といえる。価値づけの転回を支えたのは、新しい空間の生成であるが、それは、空間の再編成があったと考えられる。また、この関係性と空間の再編において、「主体」が登場する。このように、関係性、空間、主体の三つが編成されなおされゆくなかで、婦人は論ずるものとして発見されたのであり、すなわち、フェミニズムが生成する与件ととりあえずは考えられるだろう。
だが、これを確定するためには、いくつかの点にかんしてのさらなる検討を要する。最後に、さらなる検討を要する点として二つがあることを述べて、本稿の筆をおきたいと思う。
まず、参政権の問題である。第一波フェミニズムにおいて、参政権の獲得が主要な目標となったのであり、福沢において、参政権が論じられなかったのは、どうしてか、ということは検討する必要があるだろう。そのために植木枝盛との比較検討が有効であるように恩われる。というのも、通常、植木の「男女同権」論は権利輸に依拠して婦人論を展開したととらえられているからである。
だが、この「権」は本当に権利を意味しているのだろうか。植木の議論は福沢とどのように異なるのだろうか。フェミニズムの生成と権利との関連について検討するとき、植木の議論を検討することは必要である。
つぎに、一夫一婦制の問題である。福沢は、一夫一婦を主張していた。この主張は、近代家族の主張につながるものであり、公私の分離と関係している。
だが、福沢においては、あまり論じられていなかった。福沢において、この問題がどこまで展開されていたかを確認するために、女性が担うとされている役割に関する二つの議論を検討することが有効であろう。そのこつとは、外延、周辺としての娼婦と、中心としての委である。
これらとの比較検討を通して、さらに、福沢における婦人論のもつ可能性を、また、日本においてではあるが、フェミニズムが生成した与件を明らかにしていきたい。 
〈注〉
(1)福沢からの引用はすべて『福沢諭吉全集」によっている。そのさい、文献挙示を変則的におこなっている。たとえば、[福沢1:24]としたとき、『福沢諭吉全集』の第1巻24ページをさす。また、著作名をしるすさい、二重かっこ(「」」もしくは一重かっこ(「」)の使い分けは、初出時に単行本であったかいなかで分けている。すなわち、初出時に単行本であった著作は二重かっこ<「」)で表記し、時事新報の社説といったように単行本ではない場合は一重かっこ(「」)で表記している。なお、引用箇所で用いている漢字は原則として『全集』に拠っている。しかし、第二水準に登録されていない字は、新字体に改めている。
(2)だが、従来は主題の変遷や主張の多岐性は論理の変化によるものとみなされ、福沢の晩期における思想の退行を批判するものが多い。彼らは、福沢において啓蒙期と晩期では主張が矛盾しており、晩期において後退・反民主的であることを指摘する。さらに、ひろたまさき氏は、そのような晩期における婦人論は「後退」や「反民主的」ですませられるものではない、「娩期独自の構造」をもったものであると述べている[ひろた,1979:5]。その構造とは、「帝国主義段階における有護者階級の婦人論というべき主張」をさす。晩期の構造を上述のように規定する給処として、ひろたは、福沢が妾、芸妓、娼妓らは社会の織牲だと認献していても、必要悪としている点に求めている。
しかし、筆者は二つの点で晩期=帝国主義的とする論処に疑義をはさみたい。第一。実は批判に取り上げている箇所のコンテクストを無視しているのではないか。ひろた氏は1896年1月18日付けの『時事新報」社説「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」のなかの娼婦の業=卑しいというあるくだりを引いて福沢が売春の必要惑を鋭いているとし。「この論理は一郎女性に対するとめどのない“道具視"を生み出す」とまで述べている[ひろた,1979:4-5]。しかし、この社説はあくまで。圏内の公娼制度は恥ずかしいと思わないのに、圏外への娼婦の出稼ぎは園の対面を汚す、恥ずかしいと考え批判する人々の矛盾を矛盾としてついている鎗である。対面を汚すと恩われることが園の内側において平気でまかり通ってしまうこと、すなわち、対面を汚すと考える根において娼婦の業=卑しいとする考えが機たわっているにもかかわらず、圏内の公娼制度にはその考えが当てはめられていないこと、このこと自体が福沢にとって不思議に恩われることなのである。
たしかに、その社説の後半で、移民となる人には独身者が多いだろうから。娼婦の必要性があるかもしれないと槍じているところもある。しかし、倫点は対面を気にする態度であり、ひろた氏の批判はコンテクストを無視した批判ではないだろうか。
また、第二に、福沢が娼婦を必要慈の点から認めていたことは、ひろた氏が過渡期として検討をしていない啓蒙期に。かれた「品行論」においてすでにみられている。ならば、福沢の娼婦観自体が福沢の思想においてどのように位置付けられていたのか、ということこそ輸ずることが重rt要であると思われる。
以上により、本稿では、晩期における退行というとらえ方では総じないこととする。
(3)ところで。福沢が男女の交際として描こうとしている「情交」は。驚くほどに、ジンメル(Simme」,G.)が『社会学の根本問題」のなかで論じている『社交」(5ω泊bi」ity)の場面での婦態などと類似している。しかし、こういった織論は紙幅をこえるものであり、今後の課題としたい。
(4)だからこそ、経済的独立ということを福沢は主張する。それは、資産の所有権を確保することが、独立の源になるという考えによるものであった。
(5)なお、ここで緬沢が求めていた『社交」とは、談話のできる能カであった。このことは、詳細に「男女交際係論」のなかで、具体的な処方について給じられている。当時、鹿鳴館にもとづく欧化政策が展開されたが、そこで強調された『社交ダンス」や『洋装化』に対しては、循沢は批判する場合があった。
(6)「ノン」をめぐるフランスの背景については‘山脇千賀子氏(日本学術振興会特別研究員)から助言をいただいた。なお、フランス簡では、修道女を意味する請はmonia」eであり、また、修道士を意味する絡はmomeである。したがって、福沢の叙述したところの『ノン」とは。英語のnunであると恩われるため、本文中ではそのように述べている。というのも、福沢はおそらくフランス絡はできなかったであろうこと(たとえば、後にふれるギゾーの『ヨーロッパ文明史』も原書はフランス語で書かれているが、手沢本は英訳本であることが明らかにされている)、この視察旅行では通訳がついており、通訳が英穏で説明したと思われるからである。
(7)ただし、福沢が婦人を発見することができたのは、西洋の体験だけと考えるのは、早計であろう。福沢が情交を論じるとき、遊女との、遊郭における『いき」。の存在が想起されるのである。このことは、本来ならば、本文中で論じるべきことである。しかし、時間と紙幅の都合上、本文中で検討するができなかったので、ジンメルの「社交」とあわせて、この線題は今後改めて検討したい。
(8)ただし、このことに関してはもう少し詳しい説明が必要であろう。ギゾーの奮はフラシス語で普かれたものだからである。だが、福沢は実際は原書からギゾーの論を理解したのではない。そのことは、書き込みがなされていた本が英訳本であったことからも明らかである。この手沢本の入手および読み込みの経織は本文のとおりであるが、このことは小沢によって詳しく論じられている[小沢,1960)。
(9)丸山真男はI福沢諭吉の哲学」のなかで、福沢の哲学とジンメノレの『社交」とのアナロジーをすでに指摘している[丸山,1947ー1964:87・88)。これらは本来ならば本稿で鎗じるべきであるが、先述の「情交」とジンメルの「社交」などほかにも論点がさまざまにあり本稿の範囲を超えるので、検討は今後の課題としたい。 
 
「師夷制夷」と「独立自尊」に関する比較研究
 / 魏源と福沢諭吉の西洋への対応を中心に

 

はじめに
中国の近代化がアヘン戦争(1840−1842)から中華人民共和国成立(1949)までの109年の間、迂回曲折の道程を支えてきた思想は、魏源の「師夷制夷」思想であったといわれている。また、日本の近代化がペリー来航から激動な幕末を経て、明治新政府に多大な影響に与えた思想は福沢諭吉の「独立自尊」思想であったと言っても過言ではないであろう。従って、魏源と福沢諭吉の思想は中国と日本の近代化においても、きわめて重要な意味を持っていることが明らかである。それらの思想はいかに形成されたのか、またそれぞれの時代背景の中で、どう影響し、近現代社会にどんな結果をもたらしたか、について分析してみたいと思う。
従来の魏源研究に関しては、特に『魏源全集』20冊は100年以来の研究成果の基礎の上に、2004年に魏源(1794−1856年)の生誕210年に整理し、出版された。現代の魏源研究は新たな段階に入ったと言っても過言ではない。これに対して、日本の福沢諭吉に関する研究も盛んになっているのが事実である。例えば、『「文明論之概略」を読む』という著作は丸山真男がその第一人者といえるだろう。また、北岡進一は『福翁自伝』に関する研究が『独立自尊』というテーマとして明確に現れた。魏源と福沢諭吉に関する研究は近代人物の思想の紹介において、銭国紅の『日本と中国における西洋の発見』の中に関連する紹介の形で扱っただけで、岡本さえの『アジアの比較文化』の中に、それぞれ各節で魏源の『海国図志』と福沢諭吉の『文明論之概略』を紹介しただけである。
これらの研究がいずれも、優れていると思われる。しかし、近代化思想において、魏源と福沢諭吉に関する実証的な比較研究はまだ存在しないのが事実であるといわざるをえない。そこで、本稿『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会)第9巻第4号2007年3月45頁〜50頁ではこのような研究状況を踏まえ、中国と日本の近代化において、西洋の外圧により、魏源と福沢
諭吉の西洋への対応を中心に、「師夷制夷」と「独立自尊」に関する比較研究を試みたい。
本稿の構成では、まず魏源の代表的な思想である「師夷制夷」を中心として分析し、その背景としての魏源の生涯と『海国図志』の影響について論じた。次に、福沢諭吉の代表的な思想である「独立自尊」を中心として分析し、福沢諭吉の生涯と「独立自尊」の影響について論じた。最後に二人の異同点を比較的に分析した。特に啓蒙精神と西洋文明の受容や人材育成の重視を二人の共通点であると論じたが、また、国内政治通である魏源が攘夷論者であることと、西洋通である福沢諭吉が開国論であることが二人の異なる点であることとして比較的に分析した。 
T「師夷制夷」と魏源
(1)「師夷制夷」とは何か
魏源の「師夷制夷」論は、1842年に清政府のアヘン戦争の敗戦によって、魏源が林則徐の『四洲志』に基づいて編集した「『海国図志』の原序」の中に主張したものである。原文は以下のように記されている。
「是书何以作?曰:为以夷攻夷而作,为以夷款夷而作,为师夷长技以制夷而作。」(『魏源全集』第4冊『海国図志』P1)
「この本は何のために書いたのか?これは西欧列強をもって西欧列強を攻めるために書いたものであり、西欧列強をもって、西欧列強を牽制するために書いたものであり、西欧列強の優れた技術を学んで、西欧列強を制御するために書いたものである。」(筆者翻訳)
当時、魏源の見方は中国の政治と社会の矛盾が激烈しているので、西洋に対して、まず、西洋内部の矛盾を利用して、注目された中国という焦点を避ける。そして、その緩和された時間を利用して、西洋の優れた技術を学んで、最後に、西洋の侵略に対抗して、「清政府の独立」を保つことができると考えられる。明らかに当時の魏源は時勢を見据えた上で、清政府に向けて書いた処方箋であった。また、西欧列強からの脅威に直面している中国国民に危機意識という戦略的な提案であると考えられる。さらに、当時中国は自国中心の「中華思想」があり、外国に学ぶことに抵抗感があるために、魏源は「師夷」の目的が「制夷」にあると強調している。中国国民の考え方の柔軟性を持つことが意識的に重視しているだろう。「制夷」という「国の独立」を果たすために「師夷」という西洋技術を学ぶことがぜひ必要であると中国国民に呼びかけている。従って、魏源は一番強調したいのが「西欧の優れた技術」を受容することである。
「師夷」の具体的な方法は戦艦、兵器の製造と軍事的な人材の育成、訓練を西洋の特技に指摘している。さらに、師夷は「戦艦、兵器の製造」というハード面だけではなく、軍事人材の重要性や軍事人材の採用というソフト面にも西欧の特技として挙げている。従って、魏源は文人を取るという科挙人材だけではなく、武術できる人材も科挙制度に取り入れるべきであると提案したのである。
また、「制夷」には戦術として、守る、攻める、款夷があると具体的に提案した。
いうまでもなく、魏源は清政府の時代遅れを認識したので、西洋の特技を学べば、強い清政府が必ず西洋を超越する能力を持っていると考えられる。魏源の「師夷制夷」論は内からの変革と外への対応が見られる。その戦略により、魏源の世界認識と世界戦略を内外に示したと言えよう。
(2)魏源の生涯
魏源(1794−1857)は、字黙深、清末の公羊学者、思想家、歴史学者、政治家であった。
1794年に湖南省邵陽に生まれた。魏源の父・魏邦魯(1768−1831)は江蘇嘉定などで地方官に勤めていた。魏源の生涯も大いに江蘇地域に活躍していた。江蘇地域が海上から一番被害を受けやすい地域であるため、魏源はその影響に直接に受けたのかもしれない。
魏源の生涯を見るためには三段階に分けて見てみよう。第1段階は、青少年期の学習時期と順風満帆な挙人に合格した時期である。この時期が科挙試験を通して、師友との出会いによって、魏源の思想形成において大きな役割を果たしたと考えられる。第2段階は、挙人から進士に合格した時期である。人生の黄金時代といえる23年(29歳−52歳)は12回の科挙試験に挑戦しながら、友人の下で、著作と思想を生み出した。第3段階は、険しい地方官生活の時期である。魏源は52歳で、ようやく進士に合格した。そして江蘇の地方官になって、特に塩政、水利、漕運、通貨の改革において、大きな貢献をした。1853年に失脚したが、そのあと復帰した。しかし魏源は、仕官に諦めて、仏教に専心した。
(3)「師夷制夷」の『海国図志』
魏源が著した『海国図志』は、その軍事地理思想と海防思想を全面的に反映しており、清代後期に推進された自国の軍事を強化する政策を理論武装する役割を果たした。当時の世界各国の地理、歴史、気候、物産、交通、貿易、風俗、文化、教育、生産技術などについて書かれており、附図も充実していて、世界地理志、世界地図集としても価値の高い資料であった。
しかし、『海国図志』が高く評価されるようになったのは、第2次アヘン戦争(1856−1860)の敗北と太平天国の大内乱(1851−1864)を経て、西洋の軍事機械技術を採用して中国の自強を目指す洋務運動を清朝政府が開始する1860年代以降のことである。それらの評価には『海国図志』が日本に渡ってから、明治維新に役に立つことによって、再度認識したものである。
現代においては、こういう評価がある。杨慎之は「魏源は西洋に学ぶことにおいて、最先端に走っている先進人物であり、中国近代化の里程の中においても、第一歩に入った。すなわち、魏源の第
一歩がなければ、洋務運動の第二歩がなし、戊戌維新の第三歩がなし、辛亥革命の第四歩もなしと
いうことである」と評価した。いかに「師夷制夷」の重要性があるかがわかるであろう。
日本において、堤克彦によると、特に横井小楠は『海国図志』と『聖武記』に多大な影響を受け
て、尊王開国論へ転換した。もちろん、横井だけではなく、幕末の数多くの思想家に多大な影響を与えた代表的な人物は、小楠のほかに、佐久間象山、橋本左内、吉田松陰などが挙げられる。 
U「独立自尊」と福沢諭吉
(1)「独立自尊」とは何か
「独立自尊」の由来については、1900年、福沢諭吉の弟子らが慶応義塾の学生のために作成した「修身要領」の第2条に「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位をはずかしめざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」という趣旨が示された。これで「独立自尊」という言葉を使い始められたそうである。その形成原因は主に「門閥制度は親の敵である」と「3度の欧米体験による異文化ショック」であると思われる。福沢諭吉は啓蒙思想家として、教育者として、在野政治家として、その精神を忠実に実践した人であると思われる。「独立自尊」を達成するプロセスは「一身独立と一国独立」であると考えられる。
『学問のすすめ』の主な目的は「一身独立する」ことである。「一身独立する」ためには学問を勧めらければならない。『文明論之概略』は「国の独立」を主張した。「今、最も優先すべき課題は日本国の独立であり、西洋文明を学ぶのもそのためである」と「故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」が如実に語っている。
福沢諭吉は国の「独立自尊」を目的として掲げているが、「個人の独立自尊」が「国の独立自尊」の前提条件としている。「個人の独立自尊」のためには学問をすることである。学問をすることによって西洋文明を積極的に受入れることが国民の生活に役に立つ学問であると考えた。すなわち「一国独立する」ためには西洋文明を受容することである。
「独立自尊」の方法は数理学と独立心を強調した。福沢は以下のように記した。
「東洋の儒学主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形に於いて数理学と、無形に於いて独立心と之二点である。」(『福翁自伝』全集第7巻、P167)
「独立自尊」の精神は明治維新への影響にきわめて大きいものであった。高橋弘通は「福沢の著作のうち、最もよく読まれ、維新政府の政策決定に大きな影響を与えるとともに世論形成に力を発揮したものは、『西洋事情』と『学問のすすめ』及び『文明論之概略』である」と述べた。特に高橋は『西洋事情』が維新のシナリオと強調した。さらに、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」ということで、いかに福沢諭吉が影響を与えたのかがわかるであろう。
(2)福沢諭吉の生涯
福沢諭吉(1835〜1901)は近代日本を代表する啓蒙思想家、教育者、ジャーナリストであった。
その特徴は特に洋学の塾長としての生活と3度の欧米体験を指摘したい。まず、福沢諭吉は青少年の時に、塾との関わりが深くて、それ以降、自分の人生を塾と一生の付き合いになったのである。
特に漢学塾長、蘭学塾長、そして英学塾長になったことで、慶応義塾の経営に全力を尽くした。福沢諭吉は漢学、蘭学と英学の達人といっても過言ではないであろう。
次に、3度の欧米体験は福沢にとって人生の転換的な存在であると考えられる。欧米体験こそ、福沢諭吉の理想的な「文明モデル」を見つけ出した。日本社会の身分制度と対照的に、大きな衝撃を受けて、今後の日本にそのモデルの導入を自分の使命であると考えたのである。自ら見た豊かな生活と先進的な政治制度に魅力を感じて、日本の未来のモデルとして今こそ実現すべきであると福沢は考えただろう。
「独立自尊」を信念として掲げている福沢諭吉はそれに一生をかけて実践し、貫いたものであった。
「門閥制度は親の敵」と「ペリー来航」の外圧に対して、福沢諭吉が考えた「独立自尊」は儒教に基づく上下秩序を破棄し、封建的束縛から個人を解放することによって個人の自立を実現すること、これが他国による植民地支配を受けることのない国家の独立を保証することである。 
V「師夷制夷」と「独立自尊」の比較
(1)共通点
まず、啓蒙精神と西洋文明の受容について、西洋列強のアジア進出に当たり、アジアの人々に欧米への開眼を迫った最大の要因は、軍事力の圧倒的な差と、それに根ざした危機感であった。魏源と福沢諭吉は時代の先鋒に立って、時代認識に敏感な二人が自国民に危機意識を起こさせて、自ら救国の道に啓蒙精神を持って先導した。例えば、魏源の『海国図志』の中には師夷の具体的な方法が戦艦、兵器の製造と軍事的な人材の育成、訓練を西洋の特技と指摘している。福沢諭吉は『西洋事情』をモデルとして日本に紹介した。魏源は西洋の特技として軍事的な技術と軍事人材だけを取り上げているのに対して、福沢諭吉は「東洋にないものが数理学の精神と独立心」ということで、西洋の政治、経済、文化、社会などの幅広い分野を取り上げ、全面的な西洋学の普及を積極的に展開している。
次に、人材育成の重視について、魏源は軍事人材の育成と採用制度を西洋の特技として学ばなければならないと述べた。福沢諭吉は洋学の普及のために、慶応義塾の人材育成に全力的に経営している。二人とも、いかに人材の育成を重視しているのかがわかるであろう。
(2)異なる点
魏源と福沢諭吉の違うところで、最大の特徴というと、魏源は科挙受験によって人生の道が決まることであるのに対して、福沢諭吉は儒学と蘭学と英語の勉強によって欧米体験ができて、人生の道が決まったことであった。それによって、国内政治通である魏源が攘夷論者であることと、西洋通である福沢諭吉が開国論者であることが明らかである。 
おわりに
以上の分析により、近代化において、中国の魏源と日本の福沢諭吉は思想形成と実践活動がそれぞれ違うことが明らかである。しかしながら、「アヘン戦争」(1840−1842)と「ペリー来航」(1853)という西洋の脅威に対しては、目的が「国の独立」に一致し、手段が「師夷制夷」と「独立自尊」であることを実証的に比較分析してみた。特に以下の3点を指摘したい。
第1に、西洋文明の受容について、魏源は中華文明を自負し、西洋文明をライバルとして受け止め、西洋文明の軍事技術を限定して受容しようとしたと同時に、攘夷論を支持した。ところが、福沢諭吉は日本の「門閥制度は親の敵である」と批判し、西洋文明をモデルとして受け止め、西洋文明の案内者として自負し、開国論を支持した。
第2に、代表作について、魏源の『皇朝经世文编』(1826)と『聖武記』(1842)は国内政治に関する本であり、国内社会を知ることで、「師夷」の必要性がわかる。さらに、アヘン戦争より徐々に西欧諸国を注目し、魏源の『海国図志』(1842−1852)は西洋の優れた軍事技術を認め、「師夷」の方法論を強調したと同時に民族危機に対して、「制夷」を支持した。それに対して、福沢諭吉の『西洋事情』(1866−1870)は西洋文明を先に日本に紹介した。それから『学問のすすめ』(1872−1876)と『文明論の概略』(1875)は日本国内への具体的な提案を「独立自尊」の精神を持って述べた。
西洋文明の代理人として、西洋文明を受容し、西洋と同等の地位に立つことが真の目的である。
第3に、中国と日本の近代化に啓蒙思想家としての二人はそれぞれの役割を果たしたと考えられる。魏源は国内政治改革者からアヘン戦争による民族危機に際して、「愛民憂国」の精神が見られる。
福沢諭吉も「一身独立して、一国独立すること」という「憂国愛民」の精神が日本の国民に広められたと見られる。二人とも愛国主義者であり、自分の国の独立を最優先課題として捉え、国民に向けて啓蒙し、西洋と同じように自国の経済を成長させ、富国強兵の道に行きたいと考えたのである。
しかしながら、それぞれの国の状況が違うことで、それぞれの活動も違っている。魏源の生涯は科挙制度に関わり、知友の補佐官や地方官として、一生を貫いたが、福沢の生涯は塾に関わり、政府に関係なく、一在野の教育者として一生を貫いた。 
 
日本における文明開化論 / 福沢諭吉と中江兆民を中心に

 

はじめに
福沢諭吉と中江兆民は、ともに二〇世紀の最初の年に死去した。このふたりが、明治前期のみならず近代日本を代表する思想家であるという評価に、異論をはさむ人はいないだろう。しかし他方で、近代の思想家のなかで、このふたりほど対照的な組み合わせを他に見つけることはむずかしい。一点だけ例をあげよう。福沢はその自伝の末尾で、洋学者として自活できればいいと思っていたら「図らずも」維新になって自分の願いがかない、さらに「絶遠の東洋に一新文明国」を開くという第二の願いも、日清戦争の勝利で成就した。「左れば私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかり」と。向日性という性格もあるだろう。しかし人生の終り(この一年半余り後に死去)に臨み、自分の人生を「愉快な事ばかり」と総括できる人はざらにはいない。
兆民はどうか。「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり」。人生の終りに臨み、かれがこのように述懐したことはよく知られている。『一年有半』はその満腔の「不満」を書きつけた訣別の書にほかならない。この本の末尾で、兆民は義太夫と人形浄瑠璃の名優たちの名をあげて、つぎのように語る。「此等傑出せる芸人と時を同くするを得たるは真に幸也、余未だ不遇を嘆ずるを得ざると謂ふ可し」。強がりとも自己への憐憫ともとれるこの言葉が、『一年有半』の結びである。
栄達をなし遂げたものと、企図したことにことごとく失敗したものとの違いだといってしまえば、それまでである。しかし同時代を生きたふたりの知識人が、自分たちの生きた時代についてこれほど違った評価をしたことは、やはりふたりのパーソナルな生活史に還元できない、根源的な何かが存在したと考えるべきではないだろうか。ふたりをこれほど隔てたものが何だったのか、かれらの西欧文明に対する態度とそれをもとづいた近代化構想を中心に考察したい。 
1 文明論と国体論――初期の福沢諭吉
明治初期の福沢の言論は、主として「国民」創出の必要性を説くことに向けられている。1853(嘉永6)年のペリー来航による「西欧の衝撃」に直面して、それに対応した国民国家の創出の方途を福沢ほど的確に指し示した者はいない。それは端的にいえば、近代的な国民的エートスの養成と評することができる。近代化の両輪は産業化と民主化であるが、このふたつを達成するには、まずそれを可能にするエートスを養成しなければならない。西欧の富強の根底に、それを基礎づける特有の精神が存在することは、かなり早くから気づかれていた。しかし西欧の近代精神のあり方をもっとも的確に理解し、表現したのは何といっても福沢である。福沢の表現に従えば、「一国の治乱興敗」を決するのは「人民一般の気風」である(「国権可分の説」、福沢R528)。数百年にわたって「人心に浸潤したる気風」を一掃して、国民個々人が「文明の精神」を修得しなければ、到底、近代化は達成できない(「学問のすゝめ」第4編、福沢351)。この「文明の精神」と背反する「習慣」の精神を代表したのが儒教である。だから初期の福沢は儒教精神の克服に大きなエネルギーを注ぎ、「世上に実なき」伝統的教学ではなく、「人間普通日用に近き実学」を提唱した(同上初編、福沢330)。
伝統精神打破の福沢の闘いが、学問の「勧め」という形で開始されたのは興味深い。ここでかれは、伝統教学が精神の奴隷化を生んでいると批判するとともに、「愚民の上に苛き政府あり」と説いて、人民の無知文盲が専制政府を生み、自業自得の結果になると指摘している。つまり福沢の戦略は、一方では伝統教学を批判しつつ、他方では新しい学知のあり方を提起するという二正面作戦をとることになる。そのとき採用されたのが「一身独立して一国独立する」というテーゼである。この表現が朱子学の「修身斉家治国平天下」をなぞっていることは明瞭である。福沢は伝統教学の形式を借用しながら、そこに新しい精神のあり方を盛り込むことで、内側から「習慣」の精神を打破しようとしたのだった。
福沢のいう「独立の精神」とは、端的に「由らしむべし知らしむべからず」の伝統的な統治精神の否定である。そこでは他者への依頼、とくに政府に対する依頼心が厳しく糾弾されている。「一国の全体を整理するには、人民と政府と両立して始て其成功を得可きもの」(同上第4編、449)と書いたように、福沢はつねに国家の構成要素を人民と政府に二分して捉え、政府から人民が自立することを強調した。そしてこのような「自由独立の気風を全国に充満」させて、「国を自分の身の上に引受け」ることが要請された。
『学問のすゝめ』第6編と第7編を執筆した1874(明治7)年2月頃、福沢は『文明論之概略』執筆の構想に取りかかった。そして福沢としては異例の約1年という長い歳月をかけてそれを脱稿したとき、かれの問題意識は初期の『学問のすゝめ』から大きく転回していた。福沢の変化は、『文明論之概略』執筆中に刊行された『学問のすゝめ』の9編以後の叙述に刻印されている。一例だけを挙げると、第10編(1874年6月刊)でかれはつぎのように述べている。「余輩固より和漢の古学者流が人を治るを知って自ら修るを知らざる者を好まず。これを好まざればこそ、この書の初編より人民同権の説を主張し、人々自らその責に任じて自らその力に食むの大切なるを論じたれども、この自力に食むの一事にては未だ我学問の趣意を終れりとするに足らず」(福沢394)。ここでかれは「一身独立」だけでは不十分だと説いている。これは『文明論之概略』第6章の以下の文章と対応するものである。「元来人として此世に生れ、僅に一身の始末をすればとて、未だ人たるの職分を終れりとするに足らず」(福沢4113〜4)。
ここに見られる「一身独立」への消極的ニュアンスは、『大学』の「修身」から「平天下」に積み上げていく積分的思考では、「文明の精神」に対応できないという判断にもとづいてる。『文明論之概略』は、徹頭徹尾、このことを説いたものと考えてよい。「緒言」の言葉によれば、文明とは「衆心発達論」である。これは『学問のすゝめ』第7編における以下のような定義と明確な対照をなしている。「元来文明とは、人の智徳を進め人々身躬からその身を支配して世間相交わり、相害することもなく害せらるゝこともなく、各其権義を達して一般の安全繁盛を致す」。ここでは基本が「人々身躬から」に置かれており、個々人の「智徳」や「権義」を「世間」や「一般」に及ぼすことが文明だと説かれている。『文明論之概略』ではこうした積分的思考法を否定して、「一体」としての社会(福沢の語では「人間交際」)を考察しなければ、「文明」は把握できないと考えるようになったのである。
いうまでもなく、このように「人間交際」をひとつの個性をもった集合体として理解する思考は、ギゾーやバックルの文明論から学んだものである。とくにバックルの「スタチスチク」(統計学によるマクロ的観察)の手法に福沢が感嘆したことは、バックルが言及したパン屋のパンの販売個数や結婚統計の実例を、第4章でそのまま引証していることでも想像できる。福沢の認識によれば、西欧と日本を比較したとき、日本が劣るのは個々人の「智力」ではない。問題は個々の「智力」の程度ではなく、その結合の仕方だった。「西洋の人は智恵に不似合なる銘説を唱て不似合なる功を行ふ者なり。東洋の人は智恵に不似合なる愚説を吐て不似合なる拙を尽す者なり」(第5章、福沢479)。集合体としての「人間交際」のあり方が「習慣」に支配されているために、個々人が相互に切磋し高めあうことがない社会構造こそ、『文明論之概略』における問題の出発点だった。
上記の『文明論之概略』第5章の叙述は、日本の社会には議論による「衆論」形成の伝統がないことを指摘したものだが、同じ問題は第9章では「権力の偏重」として剔抉される。西欧文明の本質が多元性にあるとのギゾーの指摘を受けて、日本では権力や価値が一元化しているために、「諸説並立」によって新たなものが形成されることがないと福沢は指摘する。「人間交際」のあらゆる側面に「権力偏重」という現象が「浸潤」していることを指摘して、多元性の欠如による社会の「停滞不流」こそが、日本文明の根本的欠陥であると説いたものである。
以上のように、『文明論之概略』において福沢は、西欧文明と日本文明の「全体の有様」を総体として比較考察する視点を獲得した。第2章で論じられているように、文明には「外に見はるゝ事物」と「内に存する精神」があり、前者は多様だが、後者は本質的に相対的な差にすぎない。だから文明の精神における彼我の違いは、結局、進歩の「前後」関係に帰着する。そして前にあるものが後ろのものを支配する状況にある以上、日本は西欧を目標にして進まねばならないという結論になるのは当然である。単純化すれば、西欧文明の精髄は多元主義にあるので、日本もその「多事争論」の気風を学ばねばならないという点に帰着する。
しかし彼我の文明の差異を時間的な前後関係に還元しようとしたとき、福沢は頑固な論敵に逢着した。それが国体論者である。水戸学や国学は日本の国体の固有性を説くことで、西欧文明の普遍性を否定した。旧来の「全国人民の気風」を変革して、日本が「文明の精神」を獲得するために、福沢はまず国体論という障害を除去しなければならなかったのである。文明の違いは相対的なものだとして、一元的な文明観を展開した第2章で、福沢が国体論に言及したのはこのような理由による。ここでかれは国体を以下のように定義している。
「国体とは、一種族の人民相集て憂楽を共にし、他国人に対して自他の別を作り、自から互に視ること他国人を視るよりも厚くし、自から互に力を尽すこと他国人の為にするよりも勉め、一政府の下に居て自から支配し他の政府の制御を受るを好まず、禍福共に自から担当して独立する者を云ふなり」(福沢427)。この定義はJ・S・ミル『代議政体論』のNationa」ityについての説明をそのまま援用したものである。続いてかれは、国体観念の淵源をミルに従ってつぎのように説明する。「国体の情の起る由縁を尋るに、人種の同じきに由る者あり、宗旨の同じきに由る者あり、或は言語に由り、或は地理に由り、其趣一様ならざれども、最も有力なる源因と名く可きものは、一種の人民、共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする者、即是なり」(同上)。
国体の核心は「共に世態の沿革を経て懐古の情を同ふする」こと、すなわち歴史の共有に求められたのである。この定義に従えば、国体は個々の国家の固有な歴史によって特色づけられることになる(ミルのNationa」ity論はこのようなものだった)。しかしこの国体の固有性という観念は、文明の違いは相対的な物にすぎないという発展段階論と矛盾するはずである。時間的な前後関係で説明される文明論と、福沢が援用したミルのナショナリティの定義のあいだには、あきらかな齟齬が存在する。しかし「国体の存亡は其国人の政権を失ふと失はざるとに在るものなり」(福沢428)として、福沢は国体論を国家独立の問題に解消している。旧来の国体論が万世一系の皇統と不可分だったので、皇統の連続性より国家の独立を保持することの方が本質的だと切り返すことで、問題をすりかえたのである。しかし最初の定義どおり、歴史・人種・言語・宗教・地理などの共有によるNationa」ityの意識を国体と定義し、その固有性による精神の自立性こそ、西欧の侵略に対する防波堤になると考えれば(水戸学の国体はこのような形で提起された)、福沢がこうした問題にまったく答えていないことはあきらかである。
第10章「自国の独立を論ず」の「皇統者流」の国体論やキリスト教に対する批判も、同じ論法をくり返している。キリスト教についてだけいえば、「一視同仁」主義が「報国心」と矛盾するという福沢の説明は、キリスト教を西欧文明の固有性から分離して、「一視同仁」という平等主義とナショナリズムの「偏頗」性との関係で説明している。しかしこの説明にもとづけば、キリスト教は西欧諸国家の国家独立にとっても有害だという結論を避け難い。キリスト教が西欧による侵略の先兵になったことは、会沢正志斎『新論』以来の共通の認識だった。福沢はこうした論点を回避し、すべての問題を国家独立に有益か否かというプラグマティックな平面に置き換えている。これでは、キリスト教が日本の固有性を脱色してしまうという水戸学によって強調された危機感に対する応答になっていない。
福沢はキリスト教に対する敵意を水戸学などと共有しているが、その根拠づけは異なっている。幕末維新期に尊王攘夷論という形で表出したエスニックな独自性の意識を、福沢は巧みに換骨奪胎し、維新当初の祭政一致論を否定して普遍的なナショナリズム論に転換した。転轍機の役割を果たしたのが、伝統的国体論のNationa」ity論への組み替えである。しかしNationa」ity論も歴史の共有を核とした固有性の意識である以上、列強と対峙するために日本人の固有性の意識をどこに求めるかが必然的な課題となる。『文明論之概略』で伝統的な国体論を否定したとき、福沢はこの問題を十分に認識せず、おそらく無意識のうちに回避したのだった。だから福沢は日本の固有性によって「偏頗心」を確保しなければならないという課題に直面したとき、万世一系の皇統を核とした国体論にふたたび直面せざるを得なくなるのである。 
2 立法者と市民宗教――初期の兆民
中江兆民が二年余りの留学を終えて、フランスから帰国したのは1874(明治7)年5月頃だった。帰国後まもなく、ルソー『社会契約論』の少なくとも一部分が「民約論」として翻訳されている。刊行されることはなかったが、草稿の形で出回った。翌年、政府を批判する建言書を執筆して旧薩摩藩主島津久光に献じた。現在、「策論」と呼ばれている文書で、幸徳秋水『兆民先生』が伝えるところによれば、島津とのあいだに以下のようなやり取りがあったという。「公曰く、足下の論甚だ佳し。只だ之を実行するの難き耳と。先生乃ち進で曰く、何の難きことか之れ有らん、公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を囲ましめよ、事一挙に成らん、今や陸軍中乱を思ふ者多し、西郷にして来る、響の応ずるが如くならんと」。
島津は維新政府が扱いかねた難物だった。明治六年の政変で維新政府が分裂した後、島津は内閣顧問や左大臣に就任したが、1875(明治8)年5月に各種の近代化政策を批判する建言書を提出し、10月には太政大臣三条実美を弾劾する上書を提出して免官になった。兆民が島津に面会して「策論」を提出したのは、島津の免官直前の8月か9月頃だった。
「策論」は島津を黒幕とし西郷隆盛を首班とするクーデターを提言したものだが、当時の状況を考えると、兆民の建言には一笑に付し去ることができない迫真性がある。明治六年の政変で下野した江藤新平は翌年2月に佐賀の乱で刑死し、西郷は鹿児島で私学校を設立して機会を窺っていた。こうした状況下で、兆民は留学で世話になったといわれる大久保利通にも、同藩の先輩である板垣退助にも期待せず、勝海舟の仲介で反動主義の象徴的存在である島津に接近したのである。
「策論」は七つの部分からなり、全体として、儒教的モラルの強調が目立つ内容である。たとえば第一策では、妻妾同居を否定して家族道徳の確立を求め、第三策では、道義心を養うために学校教育に経伝の学習を取り入れることを説いている。ソクラテスやプラトンに淵源する西欧の道学も、その中心テーゼは「仁義忠信」にあり、その点では儒教の徳目は普遍的真理だと兆民は主張する。「策論」の執筆前に短期間在職した東京外国語学校でも、校長として孔孟の書を学校の教科に加えるよう主張して、文部省当局と対立したといわれている。フランス帰りのバター臭い知識人が、儒教道徳の必要性を説いて譲らなかったのである。兆民と島津との組み合わせは一見すると奇妙だが、兆民にとっては熟慮した末での選択だっただろう。
「策論」の結論部分である第七策で、かれは「国ノ草創ニ在テハ英傑制度ヲ造リ、既ニ開クルニ及ンデハ制度英傑ヲ造クル」(中江132)というモンテスキューの言葉を引いている。これはルソーが『社会契約論』第二編第七章の立法者の章で引用している文章であり、兆民の構想はルソーの立法者によって示唆されたものであることがわかる。ルソーは立法者について以下のように書いている。「一つの人民に制度を与えようとあえて企てる程の人は、いわば人間性を変える力」をもっていなければならない。立法者は、その人民がもともと持っていたものを取りあげ、それに代えて、今まで持っていなかったものを与えるのでなければならず、その意味でかれは「異常の人」である、と。
人民に新たな法を与える任務を負う立法者は、その人民の性質そのものを変える一種の革命を実行することになる。「策論」第七策では、このことを「一種ノ憲制」の創設とし、その任にあたる人物を「一人ノ理勢ニ達シテ且守ル所有ル者」(中江133)と表現した。これがルソーのいう「異常の人」である。そしてこの立法者の政治理念に沿って、革命(クーデター)を断行するのが「一人ノ宏度堅確且威望アル者」である。先の秋水が伝えるエピソードに従えば、これは西郷に仮託されていたことになる。
兆民が「一定ノ憲制」と呼んだものは、ルソーの立法者が人民に与える社会契約の条項である。人民が社会契約をするには、その契約の条項が所与でなければならないが、人民自らそれを作ることは不可能である。なぜならそれは、人民がすでにあるべきものになっていること、つまり「結果が原因となること」を想定することだからである。立法者の存在は『社会契約論』の自己立法の理念に反する。ルソーの思想には様々な毒があるが、立法者の構想もそうした毒のひとつである。この毒によってフランス革命のジャコバンたちは、政治的想像力を刺激されたのだった。兆民もまたジャコバンとは違った形で、草創期の明治国家を自らの理念に基づいて再構築し直そうとした。そのときかれが国家理念の中核に据えたのが儒教的モラルだったのである。ここで示された方向性は、西欧の学問を学んだ知識人としてはきわめて異色だが、かれは生涯その志向を変えることがなかった。
兆民はフランスから帰国後、私塾を営んでフランス語を教授しながら、他方では漢学塾に通って漢学を本格的に学んだ。その傾倒ぶりは、1878(明治11)年から2年ほどの間に書かれた数編の漢文の文章に顕著である。たとえば「民権論」は、隆盛に向いつつあった民権論を批判して、「民権は政教より出づ、政教の民権より出づるに非ざるなり」(中江J6)と述べる。つまり人民に権利さえ与えれば国家の富強を達成できるとする考え方を批判して、民権の発達のためには、まずそれにふさわしい「政教」を具備しなければならないと説いているのである。ここにいう「政教」が何を指しているかは必ずしも明快ではないが、議会政治を可能にするエートスという意味では、「文明の精神」の必要を説いた福沢と問題意識を共有している。しかし兆民の「政教」という語には、儒教道徳を基底にした政教一致の体制を理想としていたと思われるので、実質的な内容はまったく異なる。福沢は西欧の多元主義的な社会構成こそ文明の根源だと考えたが、兆民は社会の根底を基礎づけるのは道徳だと考え、その点では洋の東西の違いはないと説いた。
両者の対立は、現代アメリカ政治理論における自由主義(リバータリアン)と共同体主義(コミュニタリアン)の対立に似通っている。自由主義は共通善の存在を否定し、個々人が他者を犠牲にしない範囲で自己の欲求を達成できる社会を理想としている。他方、共同体主義は、共通善の感覚がないところでは社会は存続できないと主張し、自由主義者が理想としている個人の自由を第一原理とする社会も、一定の共通善(たとえば「他者を犠牲にしない」というモラル)を前提にしていると説く。それは個人と社会との関係においては、個人の自由を第一義とするか、個々人の社会への参加と自己犠牲を第一義とするかの違いとなって現れる。共同体主義の根幹が共通善を基礎にした政治共同体の形成・維持という側面にあると考えれば、それは共和主義の政教関係の両義性につながる。目的を共有する均質な市民からなる共同体は、利害を基礎にした共同体とは異なって、目的達成のために市民の献身を要請する。ルソーの市民宗教はこの問題を極限の形で表現したものだった。
ルソーは『社会契約論』の末尾で、共和主義の政治体制を基礎づける政治道徳を市民宗教と呼んでいる。市民に義務の観念を植えつけ、国家への忠誠心を確保するために考案されたものである。市民宗教の教理は、神の存在、来世の存在、正しい者の幸福、悪人にたいする刑罰、社会契約と法の神聖さの五つからなる。神の存在や来世の存在は、市民宗教の本質である「社会性の感情」とは無関係なようにみえるが、来世の存在を信じないものが国家のために生命を犠牲にするとは考えられないというのが、ルソーの主張である。つまり市民宗教は信仰の内容をできるだけ世俗化して彼岸的性格を弱め、市民の忠誠心を確保するとともに、古代の国家宗教のような排他的で専制的な側面を排除しようとしたものである。
ルソーがここで目指しているのは、祭政一致を基本とする国家宗教や、市民の関心を来世に向けてしまう「人間の宗教」を否定して、両者の中間に信仰の自由と両立する一種の公的宗教を創設することだった。宗教的寛容の焦点が世俗国家の命じる義務との衝突にある以上、市民宗教が命じる「市民としての義務」に反しないかぎりでの信仰の自由が、寛容の名に値するかどうか疑わしい。ルソーが提起した市民宗教には、根本的な危険性がはらんでいるのである。しかしここに現れた国家への忠誠と内面の自由の対立は、草創期の国民国家がつねに直面しなければならない問題だった。近代国家では、人民の意志が国家意志に直結するために、成員個々人の意識を統合する手段がますます必要になる。近代国民国家が言語、宗教、伝統などの文化を意図的に創出し、国家統合の重要な梃子にしなければならないのはこうした事情によるのである。
1870年代の兆民の思想には、ルソー主義と儒教的徳治主義の結合が特徴的である。兆民が留学したとき、フランスは第三共和政草創期にあった。共和主義者は、王党派やボナパルト派に対抗して、共和主義の正当性を主張し、その思想的父祖としてルソーの政治思想に言及していた。兆民が後に展開する「有限委任」(命令的委任mandatimpératif)や「土著兵論」(民兵制)なども、当時の共和主義者たちの主張にもとづいている。兆民はそうした共和主義者の言論を通じてルソーを受容し、その共和主義的徳の基底に儒教的なモラルを置いたのである。
先に言及した「民権論」という小文で「政教」という語を使ったとき、兆民が市民宗教re」igioncivi」eを意識していたかどうかはわからない。しかし近代化=西欧化の波に抗して国民国家の形成を構想していた兆民が、国家の礎石として期待したのは儒教的な国民道徳だった。そこにルソーが市民宗教に託したのと同質の問題意識が働いていたのはまちがいない。その意味で、同時期に書かれた「原政」が、儒教的な徳治主義をルソーに結びつけているのは興味深い。そこでかれはつぎのように述べる。
政治の本質は政治が不要になるところにある。そのためには、人民が徳を重んじて善良になる必要があるが、それにはふたつの方法がある。「道義」によるのが古代中国の方法で、「工芸」によるのが西欧の方法である。西欧人は人間の欲望を肯定し、欲望を充足させるための闘争によって学問や技術が発展すると考える。しかし人間の欲望は際限のないものであり、欲望を満足させるための学問がもたらす害毒も無視できない。しかも自己利益の追求は人間相互の対立を呼び起こすから、社会の混乱を招くことになる。ここで兆民はルソーを想起する。「余聞く、仏人蘆騒書を著して頗る西土の政術を譏ると、其意蓋し教化を昌んにして芸術を抑えんと欲す、此れ亦た政治に見るある者ならんか」(中江J17)。
いうまでもなく、兆民がここで想起しているのは『学問芸術論』や『不平等起原論』である。これらの著作でルソーは、文明の発達によって欲望が肥大する以前の人間の姿を描き出した。道徳の核となる憐れみの情と、自己保存に必要なかぎりでの欲望しか持っていなかった自然人は、自己完成能力perfectibi」itéの発動によって、欲望を際限なく肥大させ自己疎外に陥る。文明とともに発展した学問芸術も、人間の本来の徳性を堕落させ、社会を虚飾、嫉妬、競争の巷にしてしまう。文明に対してこのように否定的な態度をとることで、ルソーは近代個人主義に対するロマン主義的な批判の先駆者となったが、それは『社会契約論』の市民宗教の着想につながっていった。『学問芸術論』や『不平等起原論』における利己主義的な自我への批判が、国家形成を論じた『社会契約論』では、社会的絆の解体を道徳によって阻止しようという企図となって現れるのである。
兆民はルソーが提示した問題を一貫して儒教の理想と関連づけて理解している。儒教は本質的に政治道徳で、個人道徳(修身)が国家道徳(治国平天下)に接続するから、市民宗教の発想になじみやすいのである。しかも初期のルソーが強調した反功利主義的な姿勢は、「利」を否定する儒教道徳と親和した。
儒教道徳と西欧近代の個人主義との対立は、明治初期の知識人が等しく意識したことだった。代表的な例として、岩倉使節団に同行した久米邦武『米欧回覧実記』を挙げてみよう。この書の第5巻第89章「欧羅巴州政俗総論」で、久米は西欧社会の基本は「利欲ノ競争」にあると説き、「自主ノ利」の本質は「私利ヲ営求スル一意」だと喝破している。そして西欧の政治原理は「権義」(justice)と「社会ノ親睦」(society)からなり、一見すると東洋の仁義(justiceが義、societyが仁)に相当するようにみえるが、西欧のふたつの原理は「財産ヲ保ツ」ことに主眼があるので、仁義とは正反対だと論じる。
久米の主張は、儒教にアイデンティティの根拠をおいていた知識人が、西欧の自由主義に接したときに発するきわめて自然な反応だった。久米は外国語が読めなかったが、兆民は当代フランス学の第一人者である。ここに西欧的な文明開化に対する兆民の独特の姿勢がある。 
3 1881年の転換――国体論と脱亜論
1881(明治14)年は、明治国家の転換点だっただけでなく、福沢と兆民の思想の展開にとっても大きな転換点になった。まず福沢から述べよう。
福沢は前年末に大隈重信邸で伊藤博文、井上馨と会見し、三人から政府機関新聞の発行を依頼された。翌年1月早々、福沢は井上邸を訪れてこの依頼を謝絶したが、井上から政府が国会開設の意向であることを告白されて感激し、協力を約束した。しかしその後、伊藤と井上が井上毅の働きかけで福沢に不信感を抱くようになり、新聞発行は立ち消えになった。そのうえ10月に起った明治14年の政変で、福沢に近い大隈が排斥され、これと連動して福沢の影響も政府部内から一掃された。政府はこの後帝国憲法(1889年)と教育勅語(1890年)に象徴される体制構築に突き進んだので、政変によって排斥された福沢は、明治憲法体制と対立するリベラルと位置づけられる重要な根拠になっている。
結論を先にいえば、わたしはここでこの通説に反対して、福沢が明治国家体制の構築に重要な理論的根拠を与えたという側面を強調したい。まず政変の直前に福沢は『時事小言』を公刊した。その第6編は「国民の気力を養ふ事」と題され、愛国心をいかに要請するかが論じられている。ここで福沢は「一国人民に固有の宗教と其政治と密着すれば、宗教は如何なる種類のものにても人民護国の気力を害するに足らざるなり」(5217)と論じている。
これはまさにルソーの市民宗教の問題である。福沢は『文明論之概略』でキリスト教の教義が平等主義だから、愛国心と対立すると論じていた。『時事小言』での反対理由は教義の問題ではない。キリスト教が日本に「外教」だからである。つまりキリスト教は西欧諸国にとっては「其国固有の宗教」で「国権と宗権とを合併」する意味があるのに対して、日本にとっては国民の精神を西欧に従属させ「属国たるの情」をもたらすことになる。だからキリスト教徒に対して、「今日我国に於て耶蘇の教を学ぶ者は、西洋人の師恩を荷ひ、西洋諸国を以て精神の師と為す者なり」(福沢5214)と激しい批判が投げつけられる。ここでかれは会沢正志斎と同じ地点に立ったのである。
「外教」としてのキリスト教に対抗するのは、日本「固有」のものでなければならない。福沢の認識では、日本の「国教」は仏教である。明治維新以後、祭政一致の理念にもとづいて神道が宗教的な役割を持つにようになっていたが、福沢はこれに反対して、神道は宗教ではなく「日本固有の道」であると主張する。そして固有の宗教たる仏教と固有の道たる神道が、外教排撃のために共同戦線を組むべきだと提言している。
あたかも福沢の主張に沿うように、政府は1882(明治15)年1月に神官が葬儀に関与しない旨の内務省達が出し、神道非宗教論が政府の公式見解になる。福沢はこれを『時事新報』の論説「神官の職務」で取りあげ、神道は「敬神の教」を説くもので宗教ではないとの原理が成立したことに満足の意を表明する。そして神官の職務は、日本の歴史を講ずることによって「懐旧の感」を生ぜしめ「国権の気」を養うことだとして、つぎのように述べる。「我日本の如きは開闢以来一系万世の君を戴て曾て外国の侵凌を蒙りたることなく、金甌無缺は実に其字義の如くにして曾て尺寸の地を失はざるものなれば、古来の国史を開て之を読めば愈々益々勇気を増さゞる者なかる可し」(福沢881)。前述のように。ミルにならって歴史の共有こそナショナリズムの核心と考えていた福沢は、アイデンティティの根拠を神道に求め、神道非宗教論の成立によって、それが「ナショナリチ」喚起の役割を担うに足る存在となったと判断した。ミルのナショナリティ論と福沢の国体論の齟齬は、キリスト教を「外教」と捉え、それに対抗するための国体の中核を発見することによって解消されたのである。
ここで無視できないのは、ナショナリズムの中心となる「懐旧の感」が万世一系の皇統と不可分と考えられるに至ったことである。『時事新報』での「帝室論」の連載が、神道非宗教論を論じた「神官の職務」のちょうど一週間後に開始されている事実は、福沢の問題意識のありかをよく示している。つまりここに至って、エスニックなアイデンティティの根拠を万世一系の皇室にもとめる構想が鮮明になってくるのである。『文明論之概略』ではそれは「虚威に惑溺したる妄誕」と一擲されていたことを考えれば、福沢の変化の重大性が理解できるだろう。
「無偏無党の一焼点」としての皇室の尊厳を確立し、これを「動かす可らざるの国体」(福沢6一八)とするという『尊王論』の構想は、『帝室論』以後の福沢の一貫した主張である。こうした考えが鮮明になった1882年の段階では、キリスト教にたいする危機感が背景にあった。したがって文明の普遍性が説かれる一方で、歴史や伝統への訴えかけによる「ナショナリチ」防衛という意図も強く出ている。
しかし条約改正による内地雑居が焦点になりかけた1884年になると、福沢はこのあいまいな態度に決着をつけざるをえなくなる。福沢の迷いを端的に示すのが、この年の5月に発表された「開鎖論」である。福沢はここで将来の戦略として鎖国と開国のふたつの選択肢を提出する。つまり万事にわたってあくまで「我れは我れたり」の態度を持すか、逆に西洋と「風俗習慣をも同一様にするの方略」を取るかの選択である(福沢9495)。鎖国論はかつての無知な攘夷論ではなく国際的な「同等同権」の主張にほかならないが、西洋人が東洋人を「一種劣等のものなりと妄信」している現状では、「暗に敵対の元素」を含んでいる(福沢9491)。しかし日本がこれまで独立を維持してきたのは「自立の力」によるもので、けっして「偶然の僥倖」によるのではないことを考えれば、実力からしても国民的自負心からしても、鎖国論を取ることは不可能ではないと福沢は考える。
福沢が「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」を書いてキリスト教脅威論を撤回するのはこの2週間後である。この論説でかれは動物の保護色の比喩を援用し、風俗宗教を異にすれば「外道国視」される現状がある以上、「文明の色相」に覆われてみずから保護するしかないと論ずる。「文物制度も彼れに似せ、習慣宗教も彼れに似せ、一切万事、西洋と其色を同うして其間に異相あるを覚へざらしめ、彼れをして其互に区別する所なきを視て我を疎外するの念を絶たしむるに若かざるなり」(福沢9531)。
保護色の比喩を使ったこの文章には、福沢に似合わぬある種の卑屈さが表出している。その背後には、欧米人からの差別的なまなざしがあった。これは、明示するか否かの違いはあるが、近代日本の多くの知識人が感じとっていたものである。「開鎖論」では、こうしたまなざしを意識しながら、「我れは我れたり」の態度をとることも選択肢のひとつだと述べた。しかし福沢のプラグマティズムは、結局、保護色によって、この差別的まなざしを避ける選択をする。福沢がこのような決断をする背景にはふたつの事情があったと考えられる。ひとつは内地雑居になればキリスト教の蔓延は防ぎがたいという状況判断である。防げないとすれば、「容るゝが如く拒むが如く」のあいまいな態度は西洋諸国の不信と軽侮を招くだけだから、「断然之を容るゝに一決」したほうが得策との政治的判断があった(福沢9535)。この文章の卑屈なニュアンスは、受身に立った福沢の差し迫った決断によるのだろう。
しかしこの決断にはもうひとつ別の配慮が働いていたと考えられる。中国との差異の強調である。すでに前年の10月に発表された「外交論」で、「亜細亜の東辺に純然たる一新西洋国を出現」させる覚悟で、「大なる差支」がないかぎり「社会日常の細事」まで「西洋の風」に倣うべきだとかれは説いていた(福沢9196)。朝鮮中国と距離を置く姿勢はすでに『時事小言』の頃から顕著になっており、とくに1882年の壬午事変以後、朝鮮をめぐる清国との対立によってその傾向が強まった。「亜細亜の古国」との決別は、たんに国家独立のための文明移入という観点から必要とされているのではない。「西洋人の眼中」に日本がどう映るかを福沢は問うている。「西洋人が局外より日本支那を対照し、果して日本は支那に優るとの思想を懐くべきや如何ん」(「日本は支那の為に蔽はれざるを期すべし」、福沢9414)。結局、日本は「尋常東洋の一列国」とみなされるのではないかと、福沢は憂慮する(「輔車唇歯の古諺恃むに足らず」、福沢I33)。有名な「脱亜論」は、日本国民の精神が「亜細亜の固陋」を脱して西洋文明の域に達したと主張しているが、これが差異を強調するための戦略的発言であることはいうまでもない(福沢I239)。
日本文明化の戦略を「脱亜」に定めた福沢は、他方では西欧との差異を特徴づけるために国体論を展開しなければならなかった。この二重の差異化が複雑な心理的結果を生み出したことは想像に難くない。国際的地位の上昇のためには日本と中国との差異を強調し、西洋から違った目で見られる必要があったから、福沢は欧米人からどのように見られるかを問題にした。しかし存在(être)と見かけ(papaître)をこのように意識的に使い分ける態度は、いくら見かけを装ってもふさわしい認知を得られないというフラストレーションを生むだけでなく、深刻なアイデンティティ危機を呼び起こしやすい。ここに「脱亜」と「興亜」のあいだを動揺する日本ナショナリズムの特徴ができあがった。
他方、国体論は福沢の思想に共同体主義の色彩を付加した。福沢は、丸山眞男以来の戦後の福沢論が基調としたような、明治国家と対立するリベラルではない。福沢の言説からリベラルな要素を引き出すことは容易だが、1881年以後の福沢には明治国家を基礎づける共同体主義の原理も共存していた。 
4 「リベルテーモラル」の構想
1881年は中江兆民にとっても大きな転換の年となった。西南戦争後、1878(明治11)年の愛国社再興大会で本格化した自由民権運動は、1880年の第4回愛国社大会で国会期成同盟と改称し、全国的な広がりを見せ始めた。国会期成同盟に参加した一部の活動家は自由党結成を呼びかけ、1880年末に自由党準備会が開催された。兆民はこれに出席している。その後この自由党準備会に集まった知識人の一部が、翌1881年3月に『東洋自由新聞』を発刊した。社長にフランス留学から帰国して間もない公家の西園寺公望が就任し、兆民は主筆格で参加した。この新聞は西園寺が内勅で退社を余儀なくされたこともあって34号で廃刊になったが、兆民はここに特徴あるいくつかの論文を書いている。
ここで取りあげたいのは第1号に掲載された「リベルテーモラル」に関する社説である。兆民は「リベルテーモラルトハ我ガ精神心思ノ絶エテ他物ノ束縛ヲ受ケズ、完全発達シテ余力無キヲ得ルヲ謂フ」と説明し、さらに道徳的に正しければ敵が百万人いても「我行かん」という気持になると論じた『孟子』の「浩然の気」が援用される。「古人所謂義ト道トニ配スル浩然ノ一気ハ即チ此物ナリ、内ニ省ミテ疚シカラズ自ラ反シテ縮キモ亦此物ニシテ(後略)」。
兆民がここで論じた「リベルテーモラル」は、もともとルソーが『社会契約論』第1編第8章で論及した概念である。ルソーによれば、人間は自然状態から社会状態に移行することによって、自然的自由を失って社会的自由を獲得するが、このとき初めて「自己を唯一の主人たらしめる道徳的自由」ibertémora」e」をも獲得する。つまり欲望の赴くままに生きた自然状態から、自己立法を原則とする社会状態になったことにより、人間は自ら作った法に従う自由を得る。
ルソーに特徴的なこの道徳的自由の観念は、カント『実践理性批判』で詳細に展開されることになった。兆民のフランス留学時代に、カントをふまえて道徳的自由を説いていたのが共和主義者のジュール・バルニである。バルニの著『民主政における道徳』は兆民によって「民主国の道徳」として翻訳されており、そこでは「リベルテーモラル」はつぎのように説明されている。「試ニ思ヲ反シ内ニ省ミテ一タビ観念セヨ、吾人心中必ズ一種霊活ノ力有リテ、善ヲ為サント欲セバ亦之ヲ為スコトヲ得ルコトヲ見ン」。人間は善悪を判断することができ、善を行ない悪を行なわない自由をもっている。これが兆民のいう「リベルテーモラル」である。
1881年に兆民がルソーに依拠して道徳的自由を強調したことには、いくつかの含意がある。まず第一は功利主義批判である。すでにルソーと儒教に依拠して功利主義の「公利」観を批判していた兆民は、自由論においても、欲望追求を第一とする功利主義的自由論を、道徳的自由の観念にもとづいて批判したのである。そこにはミルに影響を受けた福沢や自由民権派の自由論に対するアンティ・テーゼを提出する意図があったと考えてよい。ルソーの『学問芸術論』を「非開化論」(1883年)として翻訳したのも、啓蒙思想批判の意図を明確に示したものだった。
第二に、「リベルテーモラル」の観念の提出が、自由民権運動への関与と不可分だったことである。「リベルテーモラル」を論じた文章が、自由民権派の新聞の社説として発表されたのは偶然とはいえない。立法者の理念にもとづいて政治改革を目指していたかつての兆民は、自らを為政者の立場に置いていた。同じくルソーに依拠して構想されたとはいえ、「リベルテーモラル」は共和政(兆民の言葉では「君民共治」)との関わりで論じられており、共和政を基礎づける市民的徳性の問題として提出されている。それは立法者のような上からの体制構想ではなく、いわば下からの政治的主体形成の論理だった。福沢が「駄民権」と切って棄てた民権論を、兆民は運動の道徳的主体の改革という観点から支えようとしたのである。兆民は相変らず政治的共同体の基礎をなす道徳について論じながら、市民宗教ではなく個々人の自由に強調点を移した。つまり福沢とは逆に、兆民は共同体主義の立場を堅持しながら、自由主義の問題意識を取り込もうとしたのである。
第三に、「リベルテーモラル」の観念が、兆民にとって決して一時的な思いつきではなかったことを強調しておかねばならない。『東洋自由新聞』の社説以後、かれの著作の主たるテーマはこの問題に向けられている。1880年代になされたフランス共和主義の政治哲学の翻訳『理学沿革史』、『理学鉤玄』はこの問題と関係しているし、実業時代の唯一のまとまった仕事『道徳学大原論』(ショウペンハウアーの仏語訳からの重訳)は「リベルテーモラル」をテーマにしたものだった。そして癌に侵された死の床で死力を尽して書いた最後の著作『続一年有半』で、かれが唱えた「ナカエニスム」は、「リベルテーモラル」の観念を日本語の文脈に定着させる試みだったといってよい。つまり1881年以後、「リベルテーモラル」の観念を究明することがかれのライフワークとなったのである。
よく知られる兆民の主著のひとつ『三酔人経綸問答』(1887年)の主題も、「リベルテーモラル」にかかわっている。この本の主題はしばしば誤解されているが、兆民の意図は社会進化論を「進化神」崇拝として批判することだった。社会進化論は1880年代前半に隆盛をきわめており、当時のベストセラーとなった徳富蘇峰の『将来之日本』でも援用されていた。兆民は進化論の教説のなかに、歴史の進化を社会の「大勢」に委ねる思考を見てとった。この道徳的主体形成を無化する思考こそ、兆民が『三酔人経綸問答』でやり玉にあげたものにほかならない。兆民にとって、進化論は単なる結果の正当化の教説にすぎなかった。「進化の理とは、天下の事物が経過せし所の跡に就いて、名を命ずる所なり」。つまり社会における人間的営為の結果を、あたかもあらかじめ定められたコースをたどったかのように説明する教説が進化論である。これに対して兆民は「進化神は、社会の頭上に厳臨するに非ず、又社会の脚下に潜伏するに非ずして、人々の脳髄中に蟠踞する者なり」と批判する。つまり「人々の脳髄」にもとづく主体的営為こそ歴史を創るのというのである。 
おわりに
1881年以後の福沢と兆民の思想的営みを以上のように理解すれば、両者がはさみ状に乖離していったことがわかるだろう。福沢は『時事小言』、『帝室論』、『尊王論』などの著述を通して、万世一系の天皇を国体の中核におく構想を明確にした。結果として、それは伊藤博文や井上毅が創りあげた明治憲法体制と合致する。内における自由民権論、外に対するキリスト教に対抗するために、福沢がさしあたり説いたのは社会の多元性ではなく官民調和であり、仏教と神道の共同戦線であり、万世一系の皇室にもとづく国体論だった。もちろん福沢は、日本がいずれ多元的な社会になり、物事が多数決によって決定されるようになることを見通している。だがこの時点での福沢の診断では、日本人は「一個大人の指示に従て進退するの習慣」(『尊王論』)であり、この大人の役割を振り当てられたのは天皇だった。
兆民の「リベルテーモラル」が、福沢が説いた「大人主義」と鋭く対立するものであることは言うまでもない。兆民は何より個々人の道徳的自立性にもとづく政治的共同体の確立をめざした。そこでは個人と国家の関係は以下のように説明される。「割出すものと、割出されたるものと、誠に実に少しの区別有り、少しなれども区別は区別なり、毫里千里、新羅大唐、割出すもの是れ個人、割出されたるもの是れ国家、政府の設けは、個人を安んずるが為めなり、兵馬の設けは、個人を護るが為めなり、鉄道の布設は個人を運ぶが為めなり、官立学校は個人を教ゆるが為めなり」(中江K101)。政治的共同体の自存と個人の自由とのぎりぎりの選択を迫られたとき、兆民は個人の自由を選択すると宣言している。1870年代に共同体主義の立場をとり、儒教に根ざした政教一致体制を構想した兆民は、ここで個人の道徳的自由こそ最後の生命線だと論じているのである。
 
公議輿論と討論のあいだ / 福沢諭吉の初期議会政観

 

第一節公議政体対「社中」・討論
福沢諭吉は、幕末から明治初年にかけての、公議輿論・公議政体のさまざまな政治的動向に大きな影響を与えながら、ついにそのような動きに自ら参画することはなかった。とりわけ明治新政権によって公議所が設置された一八六九(明治二)年頃から、西南戦争の前後、国会開設の運動が台頭するまで、福沢は国会についての制度論を正面からとりあげることをほとんどしなかった。けれども彼はこの間に、議会政を機能させる条件としての国民の実践についての思索を深め、自ら同志を結集してその「稽古」を重ねた。またこの時期を通じて福沢は、彼の議会政の理論の原型を発展させ、それは同時代の日本においておそらく最も深くまた独創的な議会政構想となった。小論は、このような福沢の議会政理解を、同時代における公議輿論・公議政体の動向と対比しつつ検討するこころみである。まず、前史として公議所開設の頃までを概観することから始める。
福沢は、幕末から明治初年にかけて、西欧特に英国の議会政の理解について、え難い機会に恵まれ、また一貫して力を注いだ者の一人だった。彼が加わった一八六一二文久二)年の幕府の遣欧使節団は、大規模な調査の任務を与えられ、「各国政事学政軍制」はその最重要事項だった。福沢は、調査の公式の報告を分担したほか、自ら『西洋事情』(初編、外編、二編)を刊行した。一八六九(明治二)年に刊行した『英国議事院談』も、このヨーロッパ行の際に買いととのえた書籍類をもとに訳述された。周知のようにこれらの著作とくに『西洋事情』は、明治新政府の公議輿論路線に大きな影響をおよぽした。一連のいちじるしい例をあげれば、一八六八(明治元)年、新政府最初のが。ロ2XEZロwとして政体書が起草された時、二冊の漢訳書『聯邦志略』『万国公法』の他に参照された、唯一の日本人の著作は『西洋事情』だった。この年新政府が福沢に繰り返し出仕を命じたのにも、加藤弘之らとともに公議輿論制度の取調を担当させる意図があったのではなかろうか。
政体書を具体化すべく公議所開設が決定すると福沢は、紀州藩公議人の求めを受けて、英国議会制度を紹介するため『英国議事院談』を突貫作業で訳述刊行した(一八六九1明治二」年三月)。廃藩置県の前夜、一八七一(明治四)年七月、「政府の基立確定」を急ぐ木戸孝允の主導によって聞かれた、制度取調会議での基本用語は、『西洋事情』のそれを踏襲していた。廃藩置県の大変革によって新設された左院が「国会議院規則」を起草した時、御訳外国人デュ・ブスケの著作とともに参照されたのも『英国議事院談』だった。
だが、以上のいちじるしい事実の反面、幕臣福沢の西欧議会政論は、明治新政権の成立までは、幕府統治の現実政治の水面に浮上するまでにはいたらなかった。幕政改革を意図して文久遺欧使節団を派遣した水野忠徳らは失脚し、使節団の公式報告は日の目を見なかった。福沢自身幕藩体制の寸御変革」のために『西洋事情』をもって幕府要路や雄藩の開明派に熱心に働きかけたが、これも現実政治に反映するにはいたらなかった。周知のように、横井小楠の、門閥身分秩序の枠をのりこえた「講習討論しの経験にもとづく構想は、松平慶永と越前藩という政治勢力と結びついて公議輿論路線として展開しえた。また、後述するように、大久保忠寛という有力な政治的パトロンを得た加藤弘之・西周らの議会論は、幕府倒壊前夜に公議所として具体化した。彼らに比べて福沢は、幕閣をめぐる政治の中で、周辺におかれた非力な存在でしかなかったのである。
そればかりでなく福沢は、幕末政治に浮上して来るさまざまな公議輿論路線にきわめて批判的だったようである。慶応二ご八六九)年段階の寸大名同盟」的列藩会議論をきびしく斥け(一八六六」慶応二1年二月七日、福沢英之助宛書簡、口・訂)、薩土盟約を背景とした大政奉還・王政復古のもとでの議会構想についても(一八六七1慶応三1年一二月一六日福沢英之助宛書簡、口・日)否定的だった。さらに、福沢の議会政観と公議輿論路線に対する態度との特質を理解する手がかりとして重要なのは、倒壊前夜の危機の中で幕政の中枢に、追討軍に対する強硬主戦派主導のもとに設けられた公議所だった。周知のように公議所組織への一方の推進力は加藤弘之・津田員道・神田孝平ら開成所教官グループである。幕府支配の危機を乗り切るための幕政改革案として、彼らはそれぞれに西欧型議会制導入の構想を発表していた(加藤「隣草」、津田「日本総制度関東領制度」など)。西周は将軍徳川慶喜の英国議会政についての下問に答えて「議題草案」を奉ったが、その中で議会の内実をなす会議ということがらが、いかに実行困難であるかについて、鋭い具体的な指摘をしていた。
「舎議と申者は人衆集曾之上ニ而、固より混雑も生シ易ク、動もすれは人々其趣意存分をも蓋候事難相成、遂ニは首として論候説主意Bも、他之論ニ縛移シ却而末を以テ本を傷ひ候事、得而は有勝之義ニ有之、倦又競舌不巧翠問不博者は、絵人ニ被座候而申立候主意を述候機舎無之、終日含糊ニ而終ニ至リ、不本意なからも無飴議同意致候様之不都合差起リ、遂ニ議論纏粂候而人々退而後言致シ、舎議も崩候者ニ有之候得は、右様混乱無之様終始其保理も遂候而、人々甘服之上決定ニ相成候事、一大肝要ニ可有之奉存候」
西は、このような実践上の困難を解決する方法として「会議之仕法」を立てることを説いた。それは、ほとんどが西欧議会の機構や議事手続の引き写しに終始した、幕末・明治初年の公議政体論の中で、寸会議」の実践から制度を考えるという問題の立て方において、異彩を放っていた。開成所を基盤とする彼らの強い働きかけで、一八六八(慶応元)年一月二五日に、加藤・津田・西が目付に抜擢の上、公議所御用取扱を命じられ、同月二七日の公議所開設にそなえて、加藤の「会議法則之愚案」、神田の寸会議法則案」が起草された。福沢は、やがて公議所に結集するこの開成所教官グループの強硬主戦派の動向をよく知った上で批判的だったのだろう、『福翁自伝』には、開成所の会議の意を体して将軍に決戦の上申をしようとする加藤弘之の姿が、昨日のことのように鮮かに、冷笑的な態度で描き出されている(7・回)。
幕府公議所に結集した開成所教官の主力は、明治新政権の成立とともに一転して、その公議政体創出に動員された。
神田孝平は江戸開城を迎えると直ちに、四月二七日、江戸市中改革仕方案を発表して、平民による「総代会議の法」を導入して自治行政を行うことを提唱した。神田は、九月には、森有礼らとともに公議輿論制度立案のための議事体裁取調御用掛の一人に任命され、一O月には加藤弘之も政体律令取調御用掛に任じられてこれに合流した。福沢諭吉が何回目かの御用召が来たのを手を尽くして辞退したのはこれと同じ噴であるこ八六九」明治二」年二月二日松山棟庵宛書簡、口・日)。そして三月七日開院した公議所では副議長神田孝平をはじめ、加藤・津田員道らが文明開化路線に立つ議案をさかんに提案したのである。
福沢はこの間、議会政についてどのような理解をしていたのだろうか。それを明らかにすることによって、福沢が同時期の公議輿論路線に、どのような態度をなぜとったかにも、いくらか示唆がえられるだろう。『福翁自伝』で告白されるように、また文久のヨーロッパ行の手記や公式報告の記述にも残されているように、はじめてヨーロッパの議会を見聞した福沢にとってそれは全て理解をこえる制度だった。最初議会は、他の官庁と同じ一つの官庁としてうけとめられたようである。そしてその官庁についての混乱した理解の中でただ一つ明瞭なのは、この官庁の役人が身分や門地にかかわりなく選挙によって登用されるという事実だった。このように混乱した直接見聞の議会像は、『西洋事情』にいたると、守西洋事情』以前から広く読まれた『海国図志』など、欧米人の著作の漢訳書に現われた議会像をはるかにしのぐまでに正確になっていた。『西洋事情』全編を通じて各国「議事院」のうちの一つ|下院は、身分門地にかかわらず「名代人」を選び、国法を評議する会議体として理解されるにいたった。なかでも最も詳しいのは英国議会政の紹介である。
寸リッピンコット地理書」(『西洋事情』初編、--m」m)、「チャンプル氏所撰の経済書」(同外編、ー・側im)に拠ったそれには共通するある傾向があった。そのような英国議会政の理解の傾向を集約した形で示したのが『英国議事院談』の例言である。それは「ビ」ル氏の英国誌」と、コブラッキストーン氏の英律」にもとづいていたが、この「プラツキストーン氏の英律」(ブラックストンの『英法釈義』のおそらく簡約学生版)こそがリピンコット・チェンパ」ス・ビ」ルらに共通する傾向の原型を打ち出したのだった。
『英国議事院談』は、その「例言」にのべられるようにゴブランド氏著の学術韻府」の匂釦円ロωEg同の項のほぼ全文の忠実な翻訳である。しかしそれに付されたビ」ルやブラックストンを引く短い「例言」は、福沢が英国の議会政および議会政論について、ブランドの辞典の忠実な翻訳者以上の、主体的な深い理解に達していることを示していた。
説「ビ」ル氏の英国誌に云ふ。英政の他に超越する所は、一ニ種の政慢を合して其調剤宜しきを得るが故なり。三種とは何ぞや。
衆庶舎議日成を貴族曾議一誌を君上専権、是なり。往古羅馬の世に卓識の政談家ありて、既に放に着服し、此三種の政鰻を合しなば始めて美政を見るべしとの設を唱へり。然れども其論、首臼の風に叶はず、人皆之れを妄誕と矯せしが、千百年の後、英国の政穏に於て始めて其賓際を見得たり。プラツキストーン氏の説に云ふあり。衆庶曾議は園法の旨意を立て其方向を定むるに可なり。
貴族舎議は其旨意を達する所の術を工夫するに可なり。君上専権は其術を寅地に施すに可なり。唯衆庶舎議の政は、動もすれば其策略愚に属して且之れを施行するに威権なし。然れども其志す所は員正にして常に報国の心を存せり。貴族舎議の政は智略に富めりと雌ども廉恥の義に乏しく、且其威権は君上一導権の政に及ばざること遠し。君上専権の政は威権赫々として盛強、議政の権と局政の権とを合して一手に其柄を握れるものなれば、恰も政府の脈絡を綴り其神経を縫合するが如し。然れども其強威を逗ふして漫に方織を誤り、之れを抑制するもの無きときは危害亦恐る可しと。蓋し英国の政憧は此三者を兼有して鼎立の勢を成し、膏整調剤の方、其中を得、以て寓固に卓越して太平を歌ふものと云ふべし。」(2・峨)
福沢がここに引いたのは、ブラックストンの、『英法釈義」の中で、英国政治を支配する独一無比の議会政についての理論を述べる部分のさわりである。福沢は、ブラックストンの、同時代で最も立ち入ったしかしかなり晦渋な説明から、混合政体および相互抑制と均衡という原理を的確に読みとっているといえよう。福沢の、英国議会政理解において、寸衆庶会議」と「貴族会議」は、本来的に君主の強い執行権を前提とし、それが方向を誤まったり圧制に転じるのを「抑制」する機能を期待されていた。後に見るように、この「抑制」の原理はやがて「平均」というキーワードに結晶し、福沢の政治社会論のかなめにまでなるのである。
しかも福沢は、『英国議事院談』に先立つ『西洋事情』の段階において、この「抑制」を、政治社会の構成原理として、議会における君主・貴族院・庶民院の「鼎立」「抑制」という範囲にとどまらぬ、古い伝統に根ざした、全社会にわたることがらとしてとらえていた。福沢はすでにヨーロッパ諸国の政治、軍事、産業、学芸、社会福祉等を実地調査する中で、それらの技術水準やサービスに驚くだけでなく、それが誰によって、いかに運営されているかに注目していた。福沢が発見したのは、国民社会の公共的なことがらが、学芸や産業から軍事にいたるまで市民の自治的自発的結社「社中」ーによって担われているという事実だっ問。この事実は『西洋事情』の全編にわたって丹念に記述された。『西洋事情」ではそれだけでなく、このような自発的結社が政治社会の構成原理にかかわることがらとしてとらえられていた。
「諸園にて古風奮例より良法の生ずること甚多く、就中人の職分を異にするに従て黛類を分つの風習は、世の矯めに大に盆あり。其一類の内には、白から一種の権を具へて政府過分の威力を梢々抑制し、恰も政府中に一の小政府を起したる姿にて、園民の保護を属すこと少なからず」(1・制)「右の如く市民の曾同慮々に起りて白から濁立の憧裁を成し、以て世上交際の基本を聞き、天下の盆を矯すこと少からず。市民の私に同盟するものは、一園の費を局さずして公事を慮置し、毎社毎舎各々一局の中心と局りて、同心毅力以て園の制度を保護するが故に、不意の騒乱を防ぐに足れり」(1・捌)
二つの文章は、『西洋事情』外編巻之このうち、チェンパ」ズ社の『政治経済学』を引いた部併である。ー市民の曾同しがそれぞれに自己立法と自治によって独立して政府の権力を「抑制」する姿がよくとらえられているといえよう。興味深いのは、前者が正確な訳であるのに対し、後者は原文から微妙に、ずれていることである。福沢は後者の「市民の曾同」の原文が全国各地の自治都市dcEng巳gqREE5.についてのべているのに、それを「市民の曾同」と訳した上「市民の私に同盟するもの」という原文にないパラフレーズをすることによって、市民の自発的結社一般にかかわることがらに拡張しているようである。このようなずれが生じた一つの原因は、福沢が、ビクトリア期英国の〈。EER25最盛時の現実に強い印象を受けて、それが西洋の政治社会原理についての記述の中に、無意識のうちに投影されたからではなかろうか。
福沢の混合政体・抑制均衡原理の理解は、それだけで幕府倒壊・新政権成立前後のさまざまな公議政体論における英国議会制理解の水準をはるかに抜いていた。さらに福沢は、議会における王権・貴族院・庶民院相互間だけでなく、同説の原理において、政治社会における自治的団体の政府に対する機能をもとらえた。議会政と政治社会全体とをあわせたこのような理解は、福沢の国民国家形成の構想の基礎となった。福沢はそればかりでなく『西洋事情』外編を脱稿する頃、自ら寸相輿に謀って」、「社中」としての慶応義塾を創設した。加藤弘之らが開成所や幕閣の公議所で、幕府追討軍に徹底抗戦を唱えて、体をなさず明確な結論を出せない激論を繰返していた時、福沢は、「社中」同志の討論によって新しい塾を創めていたのである。
しかし新政府の公議輿論路線は、廃藩置県前後を通じる政治的激動の中で後退していった。公議輿論制度の構築が再び政策目標としてとりあげられたのは、明治六年政変後の新政権の再編成過程の中においてである。しかも新政府のこのような路線は、やがて国会開設を要求する在野の民権派の運動によって挑戦されるにいたった。福沢は、このような政治的状況の中で、政府の公議輿論路線とも、民権派の国会要求とも距離をおいた場で、日本に議会政を実現させる遠大な構想を深め、少数の同志とともにその第一歩を実践しはじめたのだった。先ず、一八七三(明治六)年頃から七六(明治九)年頃まで、公議輿論路線の展開を概観し、その上でこの間の福沢の活動をたどってみよう。
公議所から集議院へと地位が低下してゆく公議輿論制度にとどめをさすように、廃藩置県が強行された後、公議輿論の制度として左院が設けられた。左院の「国会議院規則」起草に、福沢の『英国議事院談』が参照されたことはすでにのべた。その左院もやがて開庖休業的状態においこまれた。むしろそれにかわって、それまでの公議輿論制度のバリエーションとも言える地方官会議や地方民会制度が大蔵省の地方官会同二八七二一」明治六」年四月)や、左院起草と思われる地方官会議のための「議院憲法二「議院規則」(一八七四1明治七」年五月二日、第五十八号達)の形に結実し、また全国各地の府県や大区小区レベルの民会が活液化した。大蔵省地方官会同のために制定された「議事章程」は、全編二三一四七章、英国下院の議事規則を訳したもので、左院の「議院憲法し一三候・「議院規則」二五則と並んで、その前後の公議輿論構想の中で生れた議事規則として群を抜いていた。また地方民会組織の動きに先鞭をつけた一人は、兵庫県令神田孝平であり、彼が定めた兵庫県民会規則は、当時の同類の民会規則の中で最もよくまとまったものの一つだった。
公議輿論路線が新政府の基本政策として再び浮揚して来るのは、明治六年政変後の政権再編成の努力の中でだった。
一八七四(明治七)年一月には、下野参議の民撰議院設立建白が提出され、これに対し政府側は、五月、「議院憲法」を公けにして、地方長官の会議を創設し、やがて「全国人民ノ代議人ヲ召集」して立法にあたらせるという構想を示した。
翌七五年には、大阪会議をうけていわゆる漸次立憲政体の詔書が出され、四月二五日には元老院が設けられ、また六月から七月にかけて初めて地方官会議が聞かれて、地方民会が議論の中心となった。こうした状況の中で政府内の公議輿公議輿論と討論のあいだ論派と福沢の聞には相互に接近の動きが現れた。その指導者木戸孝允が米欧廻覧から帰国すると福沢と木戸の聞には緊密な交渉が生れた。この年二月には、福沢の友人寺島宗則とともに政体取調掛として、立憲制への移行を検討していた伊藤博文は、福沢をこの掛に加えることを提案するにいたつお。この提案は実現しなかったが、大阪会議後の一八七五(明治八)年九月には、福沢を文部卿にすえるという政府改造案が構想された。これらはどちらも日の目を見なかったが、少なくとも一八七六(明治九)年春ころまで、福沢と木戸の交渉には、かなり深いものがあったようである。
一八七三(明治六)年、福沢は、このような公議輿論路線の展開を基本的に支持した。大阪会議後の木戸派1民権派の公議政体再構築の方向についても(一八七五」明治八1年四月二九日、富田鉄之助宛書簡、口-m」山)、それの具体化としての地方官会議についいずれは立憲政体を実現することを期待した。ても(一八七五年九月八日、高木三郎宛書簡、U-m)、試行錯誤を経ながら、漸次立憲政体の詔勅直後の明六社の会合では、前年以来の民撰議院・民会尚早論を強硬に主張する加藤弘之および森有礼、とくに加藤を批判して激しい論争を行ない、ただちに筆をとって、「国権可分之説」、「案外論」によって「議論の場所を作」ることを「今日の急務」(凹・問、間)とする持説を展開した。しかし福沢は、政府の現状については、それが掲げる立憲政体の理念と逆行している、「専制」という現状をきびしく批判した(たとえば『学問のす〉め』四編3・ω1印)。
また下野参議によって始められた民撰議院設立要求の運動に対しても、きわめて批判的だった。
福沢は、新政府の公議輿論路線と在野の民撰議院設立要求の両者を視野に入れながら、どちらにも距離をおき、少数聞のす〉め』初編を著して人民に訴えたが、日本におりる人権宣言とも言うべき『学一八七三(明治六)年末から翌年始めにかげて『学問のす〉め』第二編かの同志を結集して独自の活動を始めた。廃藩置県の大変革に歓喜した福沢は、ら第七編までを続けざまに刊行し、国民国家の構想を打ち出した。さらに七四年春からほぼ一年、執筆活動のほとんど日本における国民国家形成の行程を示した。全力を注いで『文明論之概略』を書きおろし、世界の文明史の光のもとに、かつての『英国議事院談』のように議会の制度論を正面から論じることは全くなかった。これらの著作に通じる一つの主題は、演説と討論、別な角度からいえばレトリックとディアレクティ」クへの強い関心だっ的。これと併行して七三年頃からは同志とともに演説討論の練習を始め、この年か翌年には『会議耕』を刊行した。民撰議院設立建白に反対しながら左院議官となった加藤弘之が、漸次立憲政体の詔勅の後には民会尚早論を主張しながら元老院議官となった時、福沢は、慶応義塾「社中」の同志とともに、三田の山上に立寵って演説・討論事始めしかしこれらいずれにおいても、にのり出し、著述によって全国に訴えようとつとめたのである。以下その活動のあとを概観したい。
福沢たち同志が演説の練習にのりだしたのは、寸明治六年春夏の頃」から翌年早々にかけてのことでありつ福津全集緒号一同」1・M、「三回演説第百回の記」4・削)、その企てと『会議耕』の訳述とは結びついていた。この年改訂された慶応義塾のカリキュラムでも、「本等」最終学期にあたる、第四年第三期の五科目の一つに、「キッドエロクインス」が予定された。
プリンシプルス、ヲブ、それまで毎月一回第二日曜の演説練習の会合いずれ何らかの議会が開設されたあかつきには、義塾社中が弁論の能力で他を圧することを期したこ八七四」明治七」年ご月一一一二日、荘田平五郎宛書簡、口・胤)。
一月に民撰議院設立建白が提出された翌二月には、(明治七)年、を隔週日曜に倍増し、六月七日には、福沢が演説のとおりの原稿を予め印刷した上で演説。三」の集合も昨年から思立た」が「とかく其規律もた〉ずあまり益もないゃうで、このあひだまでも其当日には人は集ると申すばかり、:::初めから西洋風の演説を稽公議輿論と討論のあいだ古して見たいと云ふ趣意であった。ところが何分日本の言葉は、濁りで言葉を述べるに不都合で、演説の憧裁ができずに、これまでも嘗惑したことでござりました」(「福津全集緒言」1・日)と、創始の苦心から説き起した。
同六月二七日、社中一四人で三田演説会を発会。「欧州に行はるところのデベイチングソサィエティに倣ひヘ週一回の集会をたゆまず続け、発足当初は「討論会を活発にやって、その合ひ聞に演説会を催すというふう」だった。『福沢諭吉伝』第二巻や『慶応義塾百年史』上巻には、当時の同志の演説討論の練習の苦心の様子が記されているが、このほか、福沢が文明開化の世潮に乗って、講談の新しいスタイルを工夫した松林伯固について静舌を習ったというエピソードもこの頃のことだろう。
演説の寸新法を日本国中に弘め」るのが慶応義塾同志の願望だったが、明六社の同人すら始めはこれに懐疑的だった。
福沢が、「一策を按じ」、後述する彼独特の表現をかりれば、同人を「龍絡」して、演説を実演して傾聴させた次第は、コ福津全集緒言」にくわしいー・日)。これ以後演説は明六社の活動の柱となった。
一八七五(明治八)年五月一日、三田演説館開館。これ以後演説会は公開され、毎月二度の集会を続けた。
一八七六(明治九)年、三月一八日以降、討論はなくなり演説だけとなった(「三田演説会に関するメモ」幻・側、なお『慶応義塾百年史』上巻、六三七、六七二頁)。他方、福沢は慶応義塾の学生に働きかけて、演説の団体、協議社が組織された。慶応義塾における演説討論の稽古はこの頃変り始めた。それは福沢の日本における議会政実現の構想における変化の始まりと併行していたのである。
この時期を通じて福沢は、議会政についてどのような理解をしていただろうか。既にのべたように彼は、議会政特にその制度について正面から論じることは全くなかったけれども、逆に議会政についての問いは、この間に著された著作の多様な文脈の陣所にいわばちりばめられていた。『学問のす〉め』のいくつかの編、『文明論之概略』、寸人の説を答む可らざるの論」(『民間雑誌』)、「国権可分の説」(『民間雑誌』)、「覚書」など。とりわけ『会議蝉』は、西洋の討論や議事手続のマニュアルに拠りながら、議会だげでなくあらゆる集会の活動を支える原理としての討論に目を向けたし、『文明論之概略』は、全編を討論・ディアレクテイクへの関心が貫いていた。『文明論之概略』は、一面から言えば、その全体が寸異説争論」の「紛擾雑駁」の中に討論が成り立つにいたるプロセスを示していたとさえいえよう。これらを素材として、この時期における福沢の議会政理解をさぐって見たい。それはまた、福沢が、この時期における新政府の公議輿論路線や民撰議院要求の運動に対してとった態度の背景についても手がかりを与えるだろう。
一八七三(明治六)年から七六年ころにかけて、福沢の議会政理解は、すでに見た『英国議事院談』の執筆の噴までのそれから、基本的な枠組を維持しながら、さらに豊かに発展した。そしてそのような発展を促した主体的・思想的な契機は、この噴福沢が、直接・間接に議会政を論じた西欧のすぐれた文献に出会って受けた思想的な衝撃だった。これについては既に別稿で論じたが、主な著作をあげれば」i『会議排』のもとになったロ」トンやカツシング、パルグレ!ヴらの議事手続のマニュアル、J・s・ミルの『代議政治論』『自由論』、ギゾ!の『ヨーロッパ文明史』(あるいは同じ著者の『ヨーロッパ代議政治の起源史』も?)。スペンサ」の『第一原理』ーーなどである。
第一に、議会を、政府に対する抑制均衡の機能でとらえるという思想は、それ以前から一貫している。寸民庶会議は以て政府の過強を平均す可し」(『文明論之概略』第七章、4-m)。「近世に至り英悌其他の園々に於て、中等の人民:::議院等に在て論説の喧しきものあるも、唯政府の権を争ふて小民を塵制するの力を貧らんとするに非ず、白から自分の地位の利を全ふして他人の塵制を塵制せんがために勉強するの趣意のみ」(同前、第九章4-m)寸(「代議政」の|」)極意は之をして他の妨を為さしむるのみ。自由は不自由より生ずるものなりし(寸覚書」、7・例)。数年後の反省総括のうちの、「府(政府)と会(!国会)と相封時して、朝野の政権を限るの分界とする」(「国会論」5・肪)という表現は、これをうけるものといえよ〉フ。
この場合の「平均」「妨げ」「対崎」は、言うまでもなく政府の寸過強」に対する抑制であった。福沢は新政府の「専政」に反対し続げたが、そのことは新政府が員の意味で強い政府として確立することを、彼が求め続けたことと表裏一体の関係にあった。抑制機能を具体化する議会の具体的権限について福沢はほとんど論じなかった。議会の立法権や予算・租税審議権は当然のことと考えられていた。しかし、おそらく議会の「平均」機能を政府の機能の関数と考えていたからだろう、議会の権限について個別に具体的に論じることはなかった。はっきりしているのは、議会が政府に対する抑制の範囲をこえて、政府の本来の機能を妨げたり、議員が政府内に官職をえたりすることへの批判だった。また議会の代表機能について、いいかえれば議員選出の性格や方法についても論じられることは全くなかった。
これとともに注目に値するのは、福沢が、政府の「過強しに対する寸平均」の機能を議会に限らなかったことである。
既に見たように福沢は、早くから、英国政治の根本原理を政府に対する「平均」としてとらえ、その担い手を、議会だけではなく、非政治的領域における多様な自治団体にも求めていた。おそらくこのような思想が発展したのであろう、この時期には、政府と人民全体の力の「平均」という思想が現われる(『学問のす〉め』第四編など)。議会は、この政府と人民との平均における、重要なしかし多くの中の一つの制度でしかなかった。そして議会とともに「平均」を担う他の「私立」の自発的集団についての思想は、この時期を通じてさらに発展したのである。
第二。議会の活動の本質について、この時期に初めて現われたのは、討論と言論の自由という思想である。それはおそらく直接にはロートンその他の議事手続のマニュアルに触発され、ミルの『自由論』やギゾ」の『ヨーロッパ文明史』等によって思想的根拠を深められたのだろう。さらに代議制をあらゆる形の絶対的権力への批判としてとらえ、その本質を討論と公開性と、出版の自由に見出した、同じギゾ」の『ヨーロッパ代議政治の起源史』にも影響を受けているかもしれない。そして福沢は、議会政における討論についても、政府に対する議会、政府に対する自治的団体の関係におけると同じ「平均」という原理からとらえていた。福沢において、諸力の措抗と「平均」は、議会政の政治社会像を裏づける根本原理だった。しかし討論は小論全体の主題なので、後に立ちいって検討することにしたい。
第三。福沢はまた、この時期から議会の機能を人民全体の「習慣」や「気風」との相互作用においてとらえるようになった。一方では議会という制度が、その固有の機能を発揮するための前提候件として、人民の政治文化に注目するようになった。他方、同時に、議会が人民の政治文化に働きかけてそれを変えてゆく作用に着目するにいたった。例えば、福沢が明六社同人、特に加藤弘之の公議輿論制度尚早説を批判したのは、「園権を平均して、政府と人民と相半」するためには、「讐方に分れて互に相制するの法」を設けることが必要であり、そのような制度によって「約束を守り、事を議するの習慣を養ひ成す」(寸国権可分の説」日・叩)ことを期待したからだった。そして「習慣」を育てるには長い時聞を必要とするから、それに着手するに尚早はないと考えられたのだった。
議会の機能の前提保件とその作用・効用についてのこのような思想は、ミルの『代議政治論』の主題からの影響を受けたか、少なくともそれと共鳴しあうものだった。周知のように『代議政治論』では、一方では、議会政の異なる文化への移植の可能性という問題を視野に入れて、人民のさまざまな状態への議会の適合性を論じ、他方では、議会が国民の性格の改善にどれだけ寄与するか、その影響に注目していた。書込みが多かったといわれる『代議政治論』の福沢手沢本は失なわれたから、彼がこの本をどのように読んだか包括的に検討することは出来ないが、『文明論之概略』執筆のためにこの本を参照したことは『概略』の記述自体から明らかであり、とりわけ議会政を他の国民、他の政治文化に移植する可能性や傑件に関心を注いだミルの議論が、福沢の心をとらえたことは、大いにありえたのではなかろうか。たとえば、『文明論之概略』と併行して書かれた『学問のす〉め』十三編(一八七四」明治七」年一二月刊行)の「怨望」批判。
福沢はここで「民撰議院の説」も「出版自由の論」も、「嫉妬の念を絶て相競ふの勇気を勘まし:::満天下の人をして自業自得ならしめんとするの趣意なる可しし(3・山)とのべる。この箇所は『代議政治論」第三章中の、政府の形態が国民の能力や性格の改善をどれだけ促進するかという主題を論じる文脈で、「嫉妬(g〈可)が国民的性格の一特徴としてはぐくまれるしとし、「人類のうちでもっとも嫉妬心が強いのは東洋人である」とのべた行論によく似ているのである。
議会政の本質や機能をこのようにとらえていたとすれば、福沢が公議輿論をかかげる新政府の現実や民撰議院設立の運動に批判だった背景も容易に理解することが出来よう。第一に、政府にせよ在野民権派にせよ、いかに公議政体をうたい、民撰議員を要求しようとも「説を述ぶるの法」(『学問のす〉め』十二編、3-m)を知らず、「集曾談話の瞳裁」(『会議排』総論、3・日)が成立せぬ限り、とうてい実現不可能である。それどころか現在の政府が一国の智者を集めながら、政府として行うところは前後撞着、「専制」はその「本色」ではないのに専制におちいっているつ国権可分の説し日・叩)。
個人としての智者が集まっては愚人の事を行うのを、福沢は「衆智者結合の嬰性」と名づけた。これも、長い寸無議の習慣」ゆえに「衆議の法」を知らぬからだった(『学問のす〉め』四編、3・叩1日、『文明論之概略』第五章、4・η1加)。こういう候件のもとでは議院の席でも、予め書いた文書を読上げたあとは、議論が出来ず、引下って再び筆をとる「筆談の集曾」にならざるをえず、「とても民選議院も官選議院も出来ますまい」(「福津全集緒言」1・日)。福沢のこのような指摘は、彼とその同志の演説討論事始の苦心を反映していたように思われる。それはまた、新政府の公議輿論路線の下で生れたさまざまの会議体の実態をも衡いていた。幕末から明治初年にかけてのさまざまな公議輿論的会議は、激しい政治的抗争の中での戦術としてとりあげられた。したがって、それが実現した時には、たとえば横井小楠の「講習討論」の思想や、西周の「議題草案」に現われたような、討論・会議の本質や、それを成り立たせることの難しさについての自覚、いわば会議の八精神〉は、容易に失われてしまった。こうした、会議の外形が〈精神〉を置き去りにする傾向は、逆説的にも、西欧の議会制度についての情報が詳しくなり、議事手続のマニュアル類が流入し、次々に翻訳されるにつれ加速した。
すでに見たような新政府の「議院憲法」・「議院規則」や大蔵省の寸議事章程」を頂点とする政府の会議体の規則にいちじるしいのは、議事規則を詳しくして、会衆の議論を、議長の権限によりまた紀律や礼儀の名において外側からことこまかに規制する傾向であり、発議や討議に、書面によることを要件にする傾向だった。福沢は、「文明の外形はこれを取るに易く基精神はこれを求むるに難し」として、「我日本にでも鉄橋石室は既に成りて政法の改革は未だ行はれ難く国民の会議も謹に行はれざる可からざる由縁」(『文明論之概略』第二章、4-n)を衝いた。「会議」についても、会議の「精神」を理解し、実行することは、議事手続や規制という、「外形」を翻案するほどには、容易ではなかったのである。
第二に、「政府と名る領分に一種の特権を握」る「専制しの傾向は、政府と議会と「讐方に分れて互に相制するの法」と、根本から対立するものだった。福沢は特に、このような傾向が有司檀政に対して民撰議院による政治参加を要求する在野の運動に潜んでいるのを鋭く嘆ぎつけ批判した。「民権を唱る学者が唯一心に民撰議院を企望すれども、若し此議院が出来たらば、議院が樺を恋にするやうになる可し。:::今の民撰議院論は、人民の領分を広めんとするに非ずして、政府の権を分て共に弄ぽんと欲するに過ぎずし(「覚書」、7-m)。これは直接にはスペンサiの『第一原理』の一節に触発された記述である。けれどもそれはさらに、ミルの『代議政治論』第四章「代議政治はどのような社会状態のもとにおそこで、「ある国民を代議政治にまったく適合しないよその国民が代議政治から十分な利益を収める力を致命的にそこねるような諸傾向」の中、特に注目すべきものとして、「他の人々の上に権力を行使したいという欲望」I「官職欲」をあげ、それを「自分自身の上に権力をふるわれるのを好まない性向」と対比している。ミルはここで、フランスと英国の政治文化を対比しているのだが、前者はほとんどそのまま先に引いた「今の民撰議院論」にあてはまるのである。福沢は、『代議政治論』のおそらく「覚書」を記す以前に読んでおり、これに影響を受け、あるいは共感したのではなかろうか。 
第二節演説・討論・寵絡ーーその理論と歴史的背景と
福沢はこのように、議会の本質を演説・討論に見出した。しかも議会における討論は、すでにいくらかふれたように、一国人民全体にになわれる「習慣」としての演説・討論との相互促進的な関係でとらえそして後に詳しく見るように、られていた。このような意味で福沢は、日本における国民国家形成の当面の重要課題として、演説と討論の寸始造」という課題にとりくんだのだった。福沢は、このような演説・討論事始の中で、演説や討論について、どのように考えたのだろうか。初めに、コミュニケーション一般についての、福沢の思想を概観する。その上で、問題を討論にしぼって、その本質、効用、それを成立たせるための方法についての福沢の思想を検討し、さらに福沢に討論を課題とすることを迫り、また討論という新しいことがらの理解を準備した歴史的背景を見たい。
福沢が演説・討論というコミュニケーションの新しい方法に注目するにいたった背景には、人と人とのコミュニケ」シヨンにおける、話しことばによるコミュニケーションの意味の発見があった。それは、明六社同人をはじめとする啓蒙の知識人たちの中で、福沢を他にぬきんでさせた事情の一つだった。明六社の同人たちは共通して、国民国家形成のための言語改革に強い関心を抱いていた。しかしそれは、もっぱら文字や文体など、書きことばの平易化に限られていた。その中でほとんど福沢ひとりが、話しことばの領域にふみこんだ。「文字に記して意を通ずるは、より有力なるものにして:::等閑にす可らざるは無論なれども、近く人に接して直に我思ふ所を人に知らしむるには、言葉の外に有力なるものなし」(『学問のす〉め』十七編、3・凶)、「演説を以て事を述れば其事柄の大切なると否とは姑く欄き、唯口上を以て述るの際に白から味を生ずるものなり。警へば文章に記せばさまで意味なき事にでも、言葉を以て述ればこれを了解すること易くして人を感ぜしむるものあり」(『学問のす〉め』十二編、3-m)といい、「いったい学問の趣意は:::第一がはなし(「明治七年六月七日集会の演説」1・日として、コミュニケーションにおける書きことば優位の伝統をひつくり返し、学問の基礎を、本読みから口頭の相互コミュニケーションに転換した。
そのことは、おそらく福沢の書きことばにも影響した。「漢文を台にしたる文章」を理解し易くするのに限界があることを意識した福沢は、文章をわかり易くするために「あえて漢文社舎の霊場を犯して其文法を素乱し」た(「福津全集緒言」1・6)。こうして新しい文体を創り出そうとする時、福沢が念頭においたのは、話しことばであり、寺小屋の手本として広く用いられた『江戸方角』(同前、--U)や、員宗教団の根本教義をもりこんでいながら、説法のすぐれたテクストとして盛に語られた蓮如の御文章がモデルとされた(同前、1・7)。『江戸方角』をモデルとして、初めから朗請されることを意図して著された『世界国尽』の盛行については、あらためて述べるまでもないだろう。しかしそれを別とむしろ福沢には、加藤弘之の『員政大意』(一八七01明治三1年)や西周の『百一新論』(一八七四1明治七」年)のような、「:::でござる」を反復してたたみかける一方向的な説教調の〈言文・一致〉体や、加藤の『隣草』(一八六一1文久元」年)『交易問答』ご八六九1明治二1年)のような教化的な問答体がないことがいちじるしい。
文明開化期を特徴づける加藤・西周らや、いわゆる開化本の言文一致体や問答体は、書きことばを、筆者が想定する俗な話しことば・会話体のレベルにいわば引下すことによって、難しい内容を理解しやすくさせようとするものだった。
すれば、これに対して福沢は、話しことばを改革して引上げ、そして、コミュニケーションの質を高めることを大きな課題としていた。
一見話しことばから隔った高度の議論文も、争点を特定し、特定の相手を予想して、ーを想定して、彼らとの討論を念頭において著された。「親鷺上人が自ら肉食して肉食の男女を教化したるの軍に倣ひ」寸世俗通用の俗文を以て世俗を文明に導く」(「福沢全集緒言」1・8)のが文体についての方法だった。しかしそれは、文章を「俗文しのレベルにまで引下げることによってわかり易くするといったテクニック以上のことを意味していた。
つまり特定の場|トポス福沢は、高度の議論を展開する場合のキイ・コンセプトについても「学者の定めたる字義に拘らずして」、「天下一般の人心に従て字義を定」(『文明論之概略』4・Mm、なお回をも参照)めるのが「確賓」だとした。彼は、そこまで徹底して日常語をふまえ、「天下一般」共通の意識に内在しつつ、同時にそのキイ・コンセプトの日常語における定義を分析・批判することを通じて、共通意識を内側から変革しようとしたのである。
福沢はまた、説得の効果を増すのに用語や表現を易しくすることにたより、それにのみとらわれることがなかった。
むしろ議論の展開の構造が明瞭になるようにつねに心がけた。そして対論を念頭においた文章は、直接に朗請を意図しないものまでも、福沢独特のダイナミックでリズムに富む文体を生み出した。小論が対象とする時期にはまだ日本に速記術が生まれていず、福沢の話しことばのそのままの記録が残されていないから、福沢の演説や討論の実態を知ることは難しい。しかし、以下、彼が話しことばによるコミュニケーションについて論じた文章を手がかりに、福沢の演説・討論とそれに関連するコミュニケーションについての思想を考えて見たい。
福沢にとって、話しことばによるコミュニケーションの基本的なタイプは、福沢が苦心した訳語に従えば、「演説」と寸討論」とーーその原語はスピーチとディベイトーーだった(!日)。
福沢の定義に従えば、演説とは、「大勢の人を舎し」た「公衆」に寸我思ふ所」を伝える(「福津全集緒言」1・問、『学聞のす〉め』十二編、3-m)、つまり公衆に対して意見をのべる行為である。福沢自身、日本の歴史においては仏教の説法がこれに近いが、やはり「我園には古より其法あるを聞かず」(『学問のす〉め』十二編、同前)とした。明六社の同人に演説の実習を提案する福沢に対して、英米経験が長い新帰朝者森有礼が、日本語は「談話臆封に適するのみ」で、公衆に向かって意見をのべるのは西洋語でなければ不可能だと強硬に反対したのは、ある意味で当然だったろう。福沢が森のような反対を押し切って演説に成功したのは、日本語の歴史において革命的な出来事だった。しかし日本語による演説は、話しことばとしての日本語を改革し、その質を高めることによって初めて可能になったのだった。そしてそのことは、福沢が、現在いわれる、ことばの本来の意味におけるレトリックの問題に深い関心をもっていることと関連して「討論」は、福沢の語棄の中には寸演説」ほどにも定着しなかったようであり、同じことがらが他の多様なことばで表現された。またそれについての一義的な定義も見られないが、複数の人が集まった場での談話、「集曾談話」(『会議排』線論)といえよう。演説が集会の場での、一人から複数の他者への一方的なコミュニケーションであるのに対し、討論は、異なる意見の相互交渉、福沢のキイ・ワ」ドでは、「智見」のJ父易」、「異説争論」がその本質だった。福沢は演説と同じく討論についても、日本の歴史にはかつてその例がないという。それでも演説については、それに近い行為をして仏教の説法を引くことが出来たが、討論にはそれすら出来なかったのである。討論については、小論全体の主題としてさらに詳しく検討することとして、ここでは、福沢のコミュニケーション論において、討論と結びついて重要な位置を占めるもう一つのキイ・コンセプト寸龍絡」についてふれておきたい。
後述するように、福沢にとって寸異説争論」は寸異説」の力が寸伯仲」「平均」の状態にある時初めて可能になるものだった。それにもかかわらず彼は、社会において、「智力」にはその寸分量」によって強弱の差があり、それは「筋力」の差よりも甚しいと考えた。しかも彼によれば、「智力」の強者|寸智者」|は、数では少数者であり、「智力」の弱者11愚民」」」が多数をしめるのが通例だった。文明の進歩は、多数の寸智力」の弱者によって「異端妄説」として迫害される少数の「智力」の強者の意見が、前者にうち勝って「通論」に転じるダイナミズムの連続だった。この逆転のプロセスそれを圧倒するためにこにおいて少数の寸智者」は、多数愚民の政治的・社会的な力による圧迫に対して自己を守り、とばの力によるほかはない。このプロセスにおいて「異説争論」は、形の上では相互的でありながら、実質においては一方的な説得になる。福沢はこのようなコミュニケーションを「龍絡」や寸誘導」というキイ・コンセプトで表現し、あるいは「坐を見て説くの方便」(『文明論之概略』4・叩)などと称した。これは、政治学における操作・マニピュレ1シヨンの概念に、ほぽ対応するといえよう。『福翁自伝』を開けば、福沢が若い頃から、ほとんど本能のように強者・多数者を寵絡しつつ生きぬいた、その実例に事欠かない。しかも、ある時期から彼は、意識的に龍絡の方便を駆使するにいたったように思われる。既に紹介したように福沢は、日本語では「西洋流のスピーチ」は出来ないと反対する明六社同人の頑強な抵抗を攻めあぐねた。その福沢が、「一策を按じて何気なき風に護言し」(「福津全集緒言」1・日)、知らず知らずに福沢の演説の始終を傾聴させたという事実を、晩年にいたってなお生き生きと詳しく記しているのは、そのいちじるしい例だろう。概念としては別のことがらである討論と寵絡の区別は、事実においては、異説を抱いて対立する者の聞に討論を成立させるために寵絡を用い、また討論の中にも龍絡が入りこむという風に流動的だったようである。
最後になお一つ、討論と似たカテゴリーにふれておこう。それは小論が対象とする時期の終りに福沢の政治思想の中に現われ、十分には熟さず、従ってはっきりした表現も与えられていない。しかし福沢の議会政観において見落せないカテゴリーである。以上に見たように、福沢は演説も討論も、もっぱら意見の伝達、意見の争論としてとらえていた。
しかし福沢はさらに一八七五(明治八)年頃から、文明化する社会における利益意識の発展と利益の分化・対立という問題に注目するにいたった。彼にとって、自己利益追求がもたらす秩序の解体をどのようにして克服するかが緊急の課一つは、目先の利益への拘束をこえて長期に「平均」して題になったのである。福沢はこれを二つの側面から考えた。
最大の利益を獲得する時間の視野の拡大であり、他は他者の利益との両立を考慮に入れる社会的視野の拡大であり、両者は結合していると考えられた。福沢は、やがておそらくトクビルの『アメリカのデモクラシー』の影響をも受けながら、人民における「公私の利害合して一に蹄するに「分権論」4-m)ための制度として地方議会における政治参加を構想するにいたった。福沢のこのような構想に従えば、議会の議論の核心をなすのは、意見の争いではなく、異なる利益の交渉ということになろう。交渉の問題に立ち入ることは、小論の範囲をこえるが、福沢における討論という問題の輪郭をとらえるために瞥見した。
福沢は、討論という行為について、さまざまな表現を用いた。たとえば「集曾談話」(『会議緋』)、「集議」「衆議」(『文明論之概略』第五章)等。また、三田演説会の会合の中、今日の討論会に当るものは弁論会と呼ばれていた。また、これら多様なことが示す対象も多様だった。それは、共同の実行を前提とする共通意志」合意形成のための討論から、客観的な員実の発見のための討論までを含んでいた。またそれは、特定のメンバーの「会席」における討論にとどまらなかった。
福沢は西欧社会における世論を、演説会や新聞のそれをも含めた多数の討論の合流としてとらえた。このような用語のその対象の広さは、福沢における討論についての思想の未成熟を反映するように思われるが、それにもかかわらず、討論の種々の形態に通じる根本的な原理についての福沢の思想の骨格をうかがうことが出来るのである。以下、それを討論の本質についての福沢の観念から始めて、順に探ってゆきたい。
バラツキや、福沢の討論の本質についての観念を最もよく示す表現は「智見」のJ父易」(『会議燐』線論、『学問のす〉め』十二編)と、「異説争論しである。『学問のす〉め』十五編の一節は、討論としての「異説争論」の本質を生き生きと描き出している。
「一議随て出れば一説随て之を駁し、異説争論其極る所を知る可ら、ず。:::異説争論の際に事物の虞理を求るは、猶逆風に向て舟を行るが如し。其舟路を右にし又これを左にし、浪に激し風に逆ひ、数十百呈の海を経過するも、其直遠の路を計れば進むこと僅に三、五里に過ぎず。航海には屡順風の便ありと錐ども、人事に於ては決して是れなし。人事の進歩して員理に達するの路は、唯異説争論の際にまぎるの一法あるのみ。而して其説諭の生ずる源は疑の一貼に在て存するものなり。」(3・山)寸人と智見を交易し」では、討論の本質は市場における交換のメタファでとらえられていた。ここではそれは、「まぎる」という帆船の難しい操法のメタファで表現されている。「まぎる」||間切るーーーは、風を左右両舷に交互に受げるようにして逆風をジグザグに横切りながら、風土に向かって進む走法である。ここでは、福沢たちがなじんだ帆船の操法のイメージをかりて、「疑しを原動力とした、討論の弁証法としての側面が見事にとらえられている。
福沢によれば、「異説争論しは、異説の力が括抗状態にある時初めて可能になる。「凡物の力量略相敵せざれば争論は起る可らず。牛と猫と闘ふたるを見ず、力士と小児争ふたるを聞かず。争闘の起るは必ず其力、伯仲の聞に在るものなり」(『文明論之概略』第六章4・山)。二つの相対立する思想が「互に平均して其聞に館地を遣し、柳かにでも思想の運動をというのもそれに関連しているといえよう。このように、異説の寸伯仲」「平均」状許し・::・」(同前、第二章、4-却)態においてのみ可能になる寸異説争論」においては、勝敗もまた僅かの差によるもので、きわめて不安定である。寸此は彼に勝ち彼は此を排し、始て相接して立所に敗するものあり、久しく互に吃立して勝敗決せざるものあり。千磨百錬、僅に一時の異説を塵し得たるものを園論衆説と名るのみ。固定れ即ち新聞紙演舌舎の盛にして衆口の喧しき所以なり」(同前、第五章、4・刊、傍点、松沢)。「異説争論」がこのように「其極る所を知る可」らざる、聞かれたプロセスであり、永久運動的なものであるから、「他人の説を我範園の内に龍絡して天下の議論を章一ならしめに同前、第一章、4・日)ることがきびしく批判された。
しかも完結することのない無限のプロセスとしてとらえる福沢の観念は、人間の社会における探究のプロセス一般の本盾についての彼の観念と酷似している。「随て之を試み瞳て之を改め、千百の試験を経て其際に多少の進歩を局す可きもの:::凡そ世の事物は試みざれば進むものなし。偲令試てよく進むも未だ其極度に達討論をこのように弁証法的な、したるものあるを聞かず。開闘の初より今日に至るまで或は之を試験の世の中と云て可なり」(同前、第三章、4・刊)。
先に引いた『学問のす〉め』十五編の一節と比べれば、||「一議随て出れば一説随て之を駁し」と「随て之を試み随て之を改め」と、「数十百里の海を経過するも、其直達の路を計れば進む事僅かに三、五里に過ぎず」と「千百の試験を経て其際に多少の進歩を為す」と、「其極る所を知る可らず」と「未だ其極度に達したるものあるを聞かず」と、||両者は構造的に照応し、福沢は、自然と社会とを含む、人間の存立する世界を、近代経験科学の範型によってとらえた。それは一面では、ニューレトリックまで共通していることがうかがわれよう。
トンの名と結びつけて表わされる「定則」によって支配される、力学的運動の世界だった。他面、福沢は、人間の社会に自然科学的な法則の観念を導入するにとどまったバックルとちがい、人聞が自己とその社会を含むこのような世界に働きかける操作的な方法、試行錯誤のプロセスとしての実験「試験」の意味を強調した。福沢の討論は、世界構造と、その中における人間の主体としての方法とに結びついていたといえよう。
福沢にとって、望ましい社会は、あらゆる領域において異なる要素が、二元的・多元的に分化して相互に括抗する社会だった。混合政体と抑制・均衡という政体にも、政府と自治団体の聞にも、さらに混合政体を構成する議会や自治団体の活動である討論にも、世論という討論の巨大な複合体にも、「抑制」「相制」「平均」という同一の原理が貫くべきであった。討論における勝利は、このような措抗状態において「僅に一時の異説を麗し得たる」、一時的流動的なものにすぎず、討論は終極のない、聞かれたプロセスとなる。「異説争論の際にし発見される寸事物の員理」は、ことがらの本質からして究極の絶対的虞理ではなく、相対的員理にとどまる。
討論がこのような動的な均衡のプロセスとしてとらえられる背景には、討論の原動力を「疑を容」れることに見出し、討論を試行錯誤の実験と同質の行為としてとらえる観念があった。そのことは、福沢が討論成立の前提とし、また議論の「画一」化に反対した根拠が、他者からの「疑」の提起によってたえず批判されのりこえられてゆく、人間の誤りやすさ、判断能力の限界の意識にあったことを意味しているといえよう。幕末から明治初年にかけて、儒学思想の中から公議輿論と討論のあいだ自由な討論を主張した横井小楠・阪谷朗庫・中江兆民らは、客観的な員理の実在を前提し、この員理の認識にあづかる機会が人々に聞かれていること、あるいは人々の多様な意見が員理契機を分有していることを、思想的寛容と討論の根拠とした。これを討論の積極的な根拠づけとするならば、福沢のそれは墓本的に消極的な根拠づけだったといえよう。
「異説争論の際に事物の員理を求るは、猶逆風に向て舟を行るが如し」という討論についての吋間切り」のメタファも、人間の判断能力の限界の認識と関係しているかもしれない。このメタファによって示されているのは、討論の弁証法を成立たせることの難しさ、〈非能率〉、コストの大きさの認識であり、その背景には、「航海には屡順風の便ありと雄さめた深い認識があった。福沢は、異なる意ども、人事に於ては決して是れなし」という、〈人間の僚件〉についての、見の「交易」と「争論」によって員理を発見し、合意を形成する可能性をかたく信じた。しかしそのような人聞の合理「日本にては昔の時代より、物事の相談に付き人の集りて話をするとき、其談話に欝裁なくして兎角何事もまとまりかね、筆者の議論も商買の相談も、政府の評議も市在の申合せも、一として正しき談話の樫裁を備へ明に決着を局したることなし0・蘇張の才緯あるも陶朱の富有あるも、ブランクリンの政才、ニウトンの撃力と錐ども、衆と談じて事を謀るに非ざれば世のために盆することなかる可し。況やフランクリンに非ず、ニウトンに非ざる者をや。必ずしも人と智見を交易して互に其未警の才を引出し、以て大に成す所なかる可らず。:・・:凡そ西洋各園に於ては、人間百事、公私を聞はず、皆この集曾に由て決を取るの風なり。」(3-mi附)
性への信頼は、このような人間および人間の関係における合理性の限界についてのはっきりした認識をともなっていた。
福沢がこのような討論に期待した機能は、何よりもまず、集団における合意、共通の意志決定だった。『会議排』綿論の一節はこのことをよく示している。
ここに「決着を為」す、「決を取る」と表現される合意は、集団としての実行を予想した意見・政策についての合意から、客観的員理の発見における合意までを含むものだろう。別な面から言えば、「異説争論の際に事物の員理を求る」(『学聞のす〉め』十五編)における「員理しは、客観的員理から実践的民理までを含むものといえよう。
討論の効用についての福沢の期待は、集団の意志決定、員理の発見という客観的な目標遂行にとどまらなかった。三田演説会規則の冒頭に、「社友互に猪疑憤懇の情を忘れ、専ら眼を道理の員面白に注がんことを希ひ、之が為の次の憲法、附例、式目を定めり」(3・悶)と宣言されたように、討論において、パ」スナルな感情をこえて、ひたすらJ坦理」に心を集中するザハリヒな態度が強調された。しかし福沢は、ハリヒなJ定理」を追求する討論が、結果として、討論参加者の感情や内面性にもたらす、逆説的な効果にも注目した。
すでにのべたように福沢の議会政観の特徴の一つは、J-s・ミルと同じように議会政が人民の性格に及ぽす効果に注一定の「髄裁」|ザハリヒなル!ルに従って、ひたすらザ目した点にあった。「民撰議院の説」に期待したのは、一つにはそれが、閉じた社会における「怨望¥嫉妬」をとり除き、フェアに「相競うの勇気を闇ま」(『学問のす〉め』第十三編、3・山)す効果からだった。直接の交渉を通じて「堪忍の心」が生じ、寸既に堪忍の心を生ずる時は、情賓互に相通じて怨望嫉妬の念は忽ち消滅せざるを得ず」(同前3・山)と期待したのである。このような期待は、民撰議院にとどまらず、広く「人民の曾議、社友の演説、道路の便利、出版の自由」それらが「人民の交際」を促し、寸人と人と相接して其心に思ふ所を言行に発露する機会」となり、「大等に向けられ、に整方の人情を和はらげ、所謂雨眼を開て他の所長を見るを得」(『文明論之概略』第一章、4・日)ることが待望された。
敵意や怨望が寛容と共感にかわり、ことばの背後にある員意・員情までが通じあい、他者の人そのものについて、その長所までもを含めた理解が進むとされたのである。
この最後の点は、先に引いた『会議耕』綿論の一節、「人と智見を交易して互に其未護の才を引出し」とも関連するといえようO寸未護」は言うまでもなく朱子学の基本カテゴリー、未護・己震をふまえている。「人間の事には内外両様の別ありて」(『学問のす〉め』十二編、3・削)ということばからもうかがわれるように、福沢が人聞の本質として、「本心」とともに重視した「才」は、人間の内面に潜在するものとしてとらえられているようである。ここでは、それが現実化公議輿論と討論のあいだ寸とのは、「才」の所有者独りの個人的な努力によるのではなく、他者の外からの働きかけによるとされている。福沢は、寸知目白川-を交換して共通意見を形成するという討論のプロセスを、討論に加わる者の、現在すでにいわば現実態としてもっている「智見」を交換するにとどまらず、各人の内面に潜在する知的能力が相互の働きかけによってひき出され実現する働きまでを含めてとらえていたといえよう。『文戸三Jι概略」第五章の「衆智者結合の嬰性」という概念もこれを受げるように思われる。福沢は、討論に、員理の認識や正」い政策の発見と合意といった、集会や集団の、客観的な目標遂行の効用を期待しただけでなく、その同じプロセスの中で討論に参加する者個々人の主体が、また個々人の相互主体的な関係が発展することにも注目した。この両者は、集会や集団の自治と自立を支えるものだったといえよう。
福沢はこのように「人と人と相接」する討論の効果について大きな期待をいだいた。しかしその福沢は、このようなとりわけ日本の文化と、幕末から文明開化にかけての状況のもとでの困難について、誰よりもよく自覚していた。「人と人と相接」した意見の応酬の中で、互に「雨眼を開て他の所長を見しうるに至ることを期待した福沢は、同時にそれと逆の現実に注意を促した。
「今、世の人心として、人々直に相接すれば必ず他の短を見て其長を見ず、己れに求ること軽くして人に求ること多討論の成り立ち難さについて、きを常とす。即是れ心情の偏重なるものにして、知何なる英明の士と雄どもよく此鮮を兎かる〉者は甚だ稀なり。」(守学者安心論」4-m)
福沢のキイワ」ド「異説争論」は両義的だった。一方ではそれは、知的な生産と感情の次元にまで深まった相互の一体化を意味し、これを促すことが求められた。他方ではそれは、異説の阻酷と紛争を意味し、それが寸止」み寸和」することが求められた。決定的なのは、誤解と敵意の再生産にはしろうとする関係をいかにして相互理解と合意に転換しうるかその方法だった。
福沢はこの問題に関して先ず「集舎談話の髄裁」という方法に注目する。「憧裁」とは、直接には『会議排』や「三田演説会規則」中の「式目」に記されるような議事手続である。これまでの研究が明らかにしたように、『会議排』の本論は、英米の議事手続のマニュアルの翻案だったし、『会議騨』と前後してこれら英米のマニュアルが次々に翻訳出版された。また、新政府の公議政体構築の動きの中で作られた会議規則類も、もっぱら英米の議会手続をモデルにしており、その中で最も整備された大蔵省の議事章程や、左院起草の議院規則は、三田演説会の規則や、三田演説会と併行して活動していた共存同衆の係令よりも詳細だった。これらの議事手続、特に政府のそれは、特定のメンバーからなる会議体とその議長や議事規則の存在を前提していた。そこでは、議長に強い権限が与えられ、議事の「紀律」や「礼儀」や議事規則の名において討論の流れを規制する傾向が著しかった。しかし西洋の議事手続は、長い間の討論の実践の伝統が結実した、「文明の外形」の一つである。日本にそれを輸入しても、それを支える「精神」が生きて働いていない限り、議事手続は、詳細になればなる程自由な討論の流れに対する外側からの拘束と化するだろう。福沢は、『会議排』刊行にさいして、英米の議事手続のマニュアルを翻案しただけでなく、自ら執筆した「締論」を付したことからもうかがわれるように、会議という文明の制度の「精神」をよく理解していた。そして、議長の権威と議事規則とに支えられたブォ」
マルな会議体が成立する以前の、寸異説争論しで、その方法を追究した。『学問のす〉め』や『文明論之概略』には、具体的な聞き手の理解を容易にし説得を助ける技法、とりわけメタファの使い方や、説得的な論証の技法、特に議論の展開の構造化などへの深い洞察がうかがわれる。
これらは、近年新しい形での再生が唱えられているレトリックの方法に属するといえよう。
しかしこのような方法についての福沢の理解の深さ、独自性を何よりもよく示すのは、『文明論之概略』でうち出された、「議論の本位を定」めるという方法である。「議論の本位を定る」という概念は、『文明論之概略』全編を貫く主題であり、『文明論之概略』の中に展開されたさまざまな重要な問題と密接に結びついている。しかも福沢は、この概念について定義のような説明をしないから、この概念がどの範囲のことがらを指すのかはとらえ難い。「議論の本位を定る」について集中的に説明する箇所においても、その説明は、必ずしも十分でも首尾一貫してもいず、あいまいさをとどめている。そのような難しさがあるが、これまでの研究の成果に拠って、さしあたり次のように整理することが出来よう。
「議論の本位」とは、福沢の用語をかりれば「事物の利害得失」の評価を論じる方式といえる。それは、さま、ざまな問題群を含んでいる。その「事物」の寸利害得失」I功用がいかなる目的、あるいはいかなる〈問題関心〉にとってのそれであるか。「利害得失」の〈価値判断の根拠〉は何であるか。「利害得失」を判断する視野||時間および社会的空間のひろがり||の「軽重」は如何。最後の問題は、「局慮の利害得失に掩はれ」(4・3)、「一身の利窓口」「一年の便不便」(同前・日)にとらわれるか、「利害得失」の判断に当って「天下」を視野に入れ「高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見」(同前-M)するかの「軽重」として例示敷街される。
福沢は方法的に個人主義の立場をとるから、「議論の本位」は、本来「事物の利害得失」を判断する個々人のそれであり、多様に分化することが想定されている。しかし、「利害得失しを「談」じ、「論」じ、「議論」するという表現が示すように、この「利害得失」の判断は、個人かぎりの推論・判断ではなく、他者との討論の中での判断という事態を予想している。「議論の本位を定る」という課題は、「議論の本位」を「異」にし、「相髄簡」する状態から、それを「同ふ」し、共通の場において討論が成立するよう〈組織化〉する仕事に発展する。従って「議論の本位を定る」ということがらは、自己および他者の、価値判断の方式を明らかにするという論理の領域にとどまらない。それは、意見が対立し、社会的な性格を異にする者が直接に交わる場合に恐怖や敵意の感情が生じる社会病理を扶り出し、対立する意見やパーソナリティーを正確に理解するかという問題に連続する。「異説争論」における心理や情緒の領域にいかにしてそれを制御し、まで自然に発展してゆくのである。
しかしそのことは、「議論の本位」における〈組織化〉が、単なる主観的な合意の形成にとどまるということを意味しない。「議論の本位を定むる」とは、何よりも「事物の利害得失」を論じる者が、その判断方式を適切に、あるいは正しく設定すること、そしてそれをはっきりと自覚することを意味していた。そして適切にあるいは正しくとは、存在の世界の秩序||「文明」の「進歩の動態ーーとの適合性を意味していたように思われる。その意味で「議論の本位を定る」ことは文明の世界史における、今ここでという境位を正しく理解することと結びついていた。「議論の本位」を寸同ふ」し、共通の場で討論を成立させる〈組織化〉も、そのことを前提していたといえよう。
福沢が演説や討論について考え、そして「稽古」を始めていた時期は、西欧の学芸が受容される中で、その論理学や修辞学に注意が向かい始める時期でもあった。そして明六社同人の中、ことば、特に話しことばによるコミュニケーションの問題に、福沢を別とすれば最も深い関心を抱いていた西周は、このような論理学や修辞学の受容の開拓者だった。
彼はすでに、諸学の総合的体系化を企てた、一八七O(明治三)年秋からの私塾での講義「百学連環」の中で「思惟之方法」としてこの「致知学しをとりあげていた。注目に値するのは彼が、伝統的な形式論理学、いわば〈旧論理学〉を紹介するにとどまらず、論理学の発展における新しい局面展開に着目し、これを「新致知学」||長冨2Fao間同町内Z命名戸om-nw||と呼んで深い関心をよせたことである。J・s・ミルの『論理学体系』(一八四三年)がそれであり、それが「新致知学」なるゆえんは、この大著が「且県理を見出すの方略」||百2E己WI--を、西の理解にしたがえば、旧来の演鐸法に一対して帰納法を、新しく展開しているところにあった。西はこの探究の方法を適用するこころみとして、八七四」明治七」年一一月一六日の明六社例会で「内地旅行」と題して演説して、「ロジックの分析法」によって外国人の内地旅行の利害得失を論じて見せ、さらに『明六雑誌』(二三号)に発表した。福沢は、この演説を聞き『明六雑誌』の文章を読んだ上で、いわば酉の土俵に入って、演緯法と帰納法と両方を用いて、西の説に反論して見せた(「内地旅行西先生の説を駁す」『明六雑誌』二六号、一八七五年1明治八1年一月、日・叩i叩)。
西は、このように論理学の新しい展開に注目する一方で「文辞学」Iレトリックにも関心をよせていたo「学」I学問の一分野である「致知学」に対し、「文辞学しは寸術しとしてとらえられていた。彼の「文辞学」論では、寸文辞学しの功用を「国民の会議する所」で寸衆議の一決する様諸人に解説する」弁論や、聖職者の説教に求めていた。また、ことば特に話しことばによるコミュニケーションの文化における日本と西洋との比較について鋭い観察も示されていた。しかし、西のレトリック論は総体として「旧修辞学」(ロラン・バルト)の紹介にとどまっていた。幕府崩壊前夜の「議題草案」にその片鱗が示されたように、西周は討論という知的な営みについて深く理解しえた者の一人だった。レトリツクが「集議院」の活動にかかわることがらであることも彼は知っていた。また探究の「方略¥Eopo門可としての「新」論理学の実践的問題への適用を企てもした。それにもかかわらず結果的に、彼のレトリックは、一人から多数への一方通行的な弁論の「術」や文飾にとどまり、探究の「方略」も、個人の作業にかかわるものにとどまっていた。
演説や討論について福沢とある程度まで関心を共有しつつ、西欧の論理学や修辞学を受容する先頭に立った西周と、福沢とを比較する時、福沢の演説・討論についての議論の、思想史における位置と独自性はさらに明らかになるだろう。
西周の「ロジックの分析法」の問題提起をうけた福沢は、演鐸法についても帰納法についても知っていた。しかし討論についての福沢の実践と思索とは全く西周の論理学・修辞学論の世界の外側にあった。西も福沢も同じようにJ・s・ミルに関心をよせていながら、『論理学体系』に注目した西と、『自由論』や『代議政治論』に親しんだ福沢とは、立つ場が大きく隔るにいたっていたということも出来よう。西が理解した新旧の論理学や「旧修辞学」と比較すれば、福沢の演説・討論観は、共同の探究と合意形成の方法としてこの現代の新しいレトリック論に通じることがらをめぐっており、とりわけ「議論の本位」論は、レトリック論の大きな柱として現代再びクローズアップされている、探究の出発点トポス(卸)となる「問題の具体的な考察と議論にかかわるものとしての場所」にかかわる理論に照応しているといえよう。それは日本における話しことばによるコミュニケーションの歴史の中に、突然変異のように現われた新しい思想だった。また、この思想が生み出される背景に、西欧思想の影響があったのか否かも明らかではない。どのような事情が福沢を促して討論や議論の本位にかかわる新しい思想をはぐくませるにいたったのだろうか。
福沢自身は、この点について何も語っていない。ただ手がかりになるのは、先に引いた「異説宇論の際に事物の員理を求るは、猶逆風に向て舟を行るが如し。其舟路を右にし又これを左にし、浪に激し風に逆ひ:::」という、討論の弁証法を生き生きと示す帆船の間切り走法のメタファである。このメタファの背景には、何よりも九州と大阪の聞を和船で往来した福沢の経験があったろう。あるいは『福翁自伝』に昨日のことのように鮮やかに描かれる、関門の海峡を渡る途中荒天に出会いあわてふためく船頭を助けて帆綱を引張るなど大奮闘、ようやく陸に上って、船頭実は百姓の内職と知り「買に怖かった」(7-m)という経験もふくまれていたかもしれない。いずれにせよこのメタファは、討論についての福沢の思想が、彼の社会生活の経験の中で育くまれたことを示唆している。
福沢のキイ概念「異説争論」の背景にあったのは、何よりも先ず、幕末の寸横議」・「横行」(藤田省三)状況だった。脱藩1横行という時代の大きなうねりは、福沢たち洋学派の若者をもまきこんでいた。福沢自身、藩の上司を寸龍絡ししひとにも脱藩を教唆し斡旋もした(「還暦毒荏の演説」、日・却)。こうして藩地を出た洋学志向の若て事実上脱藩したし、者が集まったのは、各地の名ある洋学塾、福沢の場合は緒方洪庵の適塾だった。そして、緊迫する対外関係は、適塾の蘭学書生をも激しい政治論にまきこんだ。
「田舎の中津よりは開港場の長崎、開港場の長崎よりは都舎の大阪と云ふ如く、次第に江戸の事情を知るに便にして、外交上の風聞を耳にすること多きにつけ、我々書生仲間にも壌夷開港の議論喧しく、緒方の塾生八、九十人、大凡二つに分れて朝夕議論を闘はす其中に、小生は長崎にて見聞する所もあり、勿論開港説にて、壌夷など〉は以の外、世界を知らぬも亦甚だしなど、常に反封者を罵倒し:::。」(」簡潔先生の演説」m・刷)洋学塾を巣立った洋学者は、とりわけ幕政・藩政の改革によって官途につくにつれ、現実政治をめぐる激論にさらに深く踏みこむにいたった。福沢も例外ではなかった。洋学派知識人の世界の外では、学塾から藩論にいたるまで異説争論は、はるかに深刻な称相を呈していた。ことばによる争論は容易に暴力による抗争に転化した。「塾部屋の議論に刃物を用」(「覚書」、7-m)い、「共に忠義の事を行ひ」「忠義の二字を議論して徒黛を分」たものが「議論のために無事の人民を殺」(『文明論之概略』第六章、4-山)す悲劇は、福沢の心に深いあとを印した。しかもこうした争論は、洋学者の世界をもまきこんで、彼らは棲夷論者の暗殺を恐れ、また彼ら洋学者の聞にも疑信暗鬼が渦巻くにいたった。
こうした事態は、明治新政府が開国和親に方向を転じても、ある意味では深刻化する一方だった。全く異質な西洋文明との最初の接触は「深く人心の内部を犯して之を感動せしめ」「轄覆回旋の大騒乱」(4・3、4)を引起した。しかも、この「大騒乱」を収拾するという緊急課題をめぐって「識者」寸学者」の意見は「異説争論嵩々喋々」(4・叩)、「姐酷」し相互の「不和」と「敵意」をつのらせた。ようやく暗殺の危険は去ったと判断して『学問のす〉め』を世に送り始めた福沢だったがその第六・七編にいたって、福沢の説を、国体を否定する共和政治、耶蘇教だとする非難攻撃が集中し、脅迫状が舞込むにいたった。同志を募り公卿に入説し、密勅を受けて福沢を暗殺するという企てが生れ発展したのも『学問のす〉め』初編以下の刊行と併行していた。
しかしこのような状況の中で、福沢にとって寸異説争論」の問題を最も身近なところからつきつけたのは、おそらく同志の「社中」あるいは「会社」として「約束」によって作られた慶応義塾創業の経験だった。福沢自身「僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、之を穂裕して一社中と名け:::」(一八六八1慶応四1年閏四月一O日、山口良蔵宛室田筒、口・臼)とのべた創業の精神は、「慶臆義塾社中之約束」(一八七一」明治四」年四月)には、「師弟ノ分ヲ定メス教フル者モ学フ者モ概シテコレヲ社中ト唱フルナリ」とし寸一名ノ人ニテ此撃科ヲ学テ彼ノ翠科ヲ教ル者ハ一方ヨリ見レハ生徒ニシテ一方ヨリ見レハ教授方ナリ」と宣言されていた。「一名ノ人ニテ:::一方ヨリ見レハ生徒:::一方ヨリ見レハ教授方」という表現は、『晶子問のす〉め』六・七編において、一国を寸約束」によって成立する寸舎社」としてとらえ、国民各人を、同時に一方では「主」I治者、他方では「客」I被治者という「一人にてこ人前の役目を勤る」(『学問のす〉め』七編3-m)ものとしてとらえたのと照応しているといえよう。一人が同時に生徒であり教師という関係は、福沢によって「半翠半教」(「慶慮義塾改革の議案」一八七六」明治九」年三一月、四-m)として表現されるにいたり、慶応義塾の初期を特徴づける基本原則となった。ここでは塾の土地・建物まで寸福沢氏ノ私有ニアラス:::社中公同ノ有」(「慶慮義塾社中之約束、一八七一年)であり、「社中之約束」の「規則」は1若シ不便ノ事アラハ互ニ商議シテコレヲ改ムベシ」(「慶慮義塾之記」、一八六八」慶応四1年七月)とされていた。事実、慶応義塾創業期の記録には、寸社中」のつ曾議」寸集会」J商議」によって運営上の案件を決定したという記述が繰り返し現われるし、福沢もまた学生の処分など重要事項については「塾のことは私の一了簡には行かぬしと語っていた。福沢は『学問のす〉め』に描いた寸人民同権」の政治社会を「共和政治」としてうけとられることに強く反論したが、草創期の慶応義塾は、一つの「共和政治」にほかならなかった。
しかも福沢とその同志は、このような学問の「共和政治」を大政奉還・戊辰内戦に続く社会全体の動乱状態のさ中で創り出さなければならなかった。「慶臆義塾紀事」は、当時の苦心を次のようにのべている。
「(三田へ:::)縛居の後も入翠の生徒は日に多くして、白子務と俗務と同時に之を理すること甚だ易からず。就中諸藩の壮年士族が戦場より陣て直に撃に就き、其心事撃動の淡泊にして活液なるは員に愛す可しと雛ども、蓄時の殺気倫未だ去らず、動もすれば粗暴軽繰に走りて、向学塾の教場或は小戟場たる可きの恐れ少なからず。撃者の沈黙を以て暗に之を化す可らず、理論の深遠を以て直に之を識す可きものに非ざれば、幹事も教員も共に輿に活滋にして、唯簡易軽便の一主義を以て生徒に交り、漸く之に理を説道を示して遂に以て撃者の本色に誘導したることなり。本塾の理事常に難しと難ども、最も因したるは維新以後二一、四年の聞に在りとす。」(日・叩)『福翁自伝』中の「塾の始末に困る」という見出しを付した一節(7・出1胤)は、ここに寸晶子塾の教場」が容易に「小戦場」に転じたとのべられる事態を生き生きと描き出している。事実、義塾創業と共に定められた「社中之約束」には、説抜刃の禁止について詳しい篠項が定められ、これが姿を消すのは漸く一八七一応義塾の創業は、異説争論が暴力による対決に転じかねない自然状態的状況のたy中から、「約束」によって結合し「商(明治四)年の改訂においてだった。慶議」によって運営される、「社中」を創出する企てだったといえよう。
中津藩を脱してから慶応義塾創業に一身を賭けるまで福沢が生き抜いて来たのは、身辺においても、全国の規模においても、ことばによる争いが、容易に暴力による対決にエスカレートする政治的緊張の時代だった。しかもその中で福沢はいち早く万を捨て、幕府・中津藩さらに明治新政府と一切の権威を背負う組織を離れ、特権身分をすてていた。この状況の中を生きるのに、福沢にとって、たよることが出来たのは、ことやはだけだった。しかも福沢は四民の差別から武士身分内部の差別までを支える身分的言語体系によりかかる容易な道を拒否した。福沢に聞かれた方法は、ひたすら全ての人に共通なことばによる説得によって、消極的には紛争を解決し、積極的には合意を作り出して共存してゆくことしかなかった。演説や討論への福沢の痛切な関心と寸工夫」とは、このようなきびしい状況に迫られて生じたものだった。それは、暴力が横行する自然状態に近い状況の中で戦闘者である武士の身分と武器とを放棄し、「封建門閥」の解体に先立って自らその外に出て「独立」するという、ディレンマをやんだ道をふみ出した者が、死中に活を求めるように送びとった方法だったといえよう。従って演説や討論についての福沢の議論は、社会的人問、とりわけ対立と緊張の中にある人間の心理と行動についての驚くべく鋭い洞察に裏打ちされていた。ことばによる合意の形成の可能性に大きな期待をかけた福沢は、その難しきゃ限界についてもはっきりと自覚していた。したがって、福沢において討論と、ことばやその他の〈パフォーマンス〉の「方便」による「寵絡」や「誘導」との境界は、流動的だった。また、多称な自発的結社と議会とに担われた「衆論」の政治は、強固な「政権」の確立を当然の前提としていた。
慶応義塾創業の経験は、このような時代の状況と、その中での福沢の模索の集約だった。戊辰の動乱の渦中で、時は一八人になるまで生徒が減少し(「慶謄義塾紀事」日・仰)、専任の教師をおくだけの経済的余裕にも学問的な蓄積にも欠けるという窮状が逆説的にも、「約束」によって「社中」を組織し、「商議」によって運営し、先生と生徒の別なき「半翠半教」の「共和政治」を必要とし、また可能ともした。それは同じように、西欧の議会政理解の先駆者となり、同じように会議や討論に関心をいだきながら、「政府に依頼して身を掩ふの地位と為し、直々の政権に籍て唯己が宿説を伸さんとし」(『文明論之概略』第十章、4-m)幕府の公議輿論から新政府の公議輿論へと綱渡りする人々には、必要がなく、しかし同時にとうてい不可能なこと、がらだったといえよう。 
第三節「仲間の組合」と討論||国民国家の構成原理として
福沢は、演説討論事始にのり出す以前から英国の政治社会をモデルとし、同時代では最も深い理解に達していた。既に見たように福沢は、同時代の英国政治の基本原理を「平均」抑制と均衡ーとしてとらえていた。そして、同時代に英国を見聞した人々の中でひとり福沢だけが、議会とならんで、それぞれに公共的機能を分担する自治的諸国体もまた、政府権力に対する抑制の機能を営んでいることを理解しえたのだった。慶応義塾という自発的結社を組織し、その同志的結合を場とした演説討論の練習を経て、福沢の英国政治像はさらに発展した。寸衆論」の構造を論じた『文明論之概略』第五章の一節がそれである。寸圏内の事務悉皆仲間の申合せに非ざるはなし」(4・3。商業も学問も宗教も地域社会の行政も、公共的活動は全て、自発的結社によって担われる。
福沢は、この段階にいたって、第一に、「小民各仲間を結て公私の事務を相談するの風なり。既に仲間を分てば其仲間毎に各固有の議論なきを得、ず」(同前)と、多様な自発的集団の活動が全て討論によって営まれていることに注目した。
第二は、この寸仲間の組合宜しきを得」(同前)るがゆえに西洋においては「衆論」のアウトプットは寸其園人各個の才智よりも更に高尚にして、其人は人物に不似合なる説を唱へ不似合なる事を行ふ」(同前)|「衆智者結合の要性」というメカニズムが働いているのだった。第三に、一国の衆論は、このように多様な自発的集団の「各国有の議論」が合流する国民的規模での討論の複合体としてとらえられた。最後に、「政府も仲間の申合せにて議事院なるものあり」(同前)、議会も、このような国民社会全体にわたる巨大な寸衆論」の一部であり、討論による政治という各々の自発的結社におけると同じ原理が貫いていた。『文明論之概略』の脱稿」刊行の前夜、一八七五(明治八)年五月の三田演説館開館の式典でのべられた次のような同志の演説は、先に見た『文明論之概略』の一節と文の構造からことばの節々まで共通していた。そのことは、議会政についての福沢の理解が、三回演説会の同志に共有されていたことを示唆している。
「古来我園は君主撞制の政慢にして、政府檀に人民を覇制し、之をして敢て園政に闘濠せしむることなし。人民は亦甘んじて其檀制を蒙り、全く園家の安危盛衰を他家の事と見倣し、一身一家の外更に注意注目する所あることなし。是に於てか人民一貼の公志なく、活溌の気象月日沈浪、遂に舎一祉を結んで事を行ひ集合して事を議するの勇気あることなし。筆者の如きも亦然り。
衆人責箸して或は物事を談論し、或は自己の意見を吐露して以て撃業を研磨するの習俗なし。或は逼ま舎合して事を議することあるも、順序方法なきが故に議論紛範結で解けず、空しく貴重の光陰を消費することあるのみ。西国の知きは則ち然らず。政事を議すれば必ず曾し、商務を議すれば必ず曾し、文撃技術事として物として曾枇あらざることなし。曾枇あれば亦必ず演説の順序方法有て、衆説の至善を採揮するの方あらざるはなし。習慣の久しき、礁々たる小民に至るまで、演々たる事件あれば必相曾合し、演説の方法に頼て之を議す、故に能く論緒蒸れず一順序旗門整、速かに其功を奏するに至れり。是に由て之を観れば、此方法の功徳員に大なりと云ふ可き也。」(猪飼麻次郎の祝詞)
すでにのべたように、この当時、政府の公議政体路線は再び軌道にのって、元老院を中心に議会政の調査・立案が活発化していた。しかしそこでの関心は、もっぱら議会の組織・権限と議事規則の問題に収叙していた。それに対して福さらに政治以外の領域にまで視野を広げ、自発的結社にになわれた討論という活動に注目した。議会政は、一国人民全体の1習慣」を通じて形成された寸俗」I--文化の型ーーとしてとらえられた。議その、政治という一領域における現われであり、国民社会全体の寸俗」に裏付けられてはじめて十分に機能しう沢たちは、議会という機構の外の、会は、るものだった。福沢は既に一八六二年の訪英中、「ある社中の人が社名をもって議院に建言」(7・刷)して、駐日公使オールコックの政策を批判し、その写しを幕府使節に送付するという行動に出あい、深く感動したことを『自伝』にとどめおそらく議会外の市民の自発的結社に担われた世論の議会への働きかけについて、福沢の眼ている。こうした経験は、を聞く機会となりえただろう。それにしても福沢の同時代の英国議会政の理解は、単純かっ一面的でありながら、その重要な側面を鋭くとらえていた。
福沢は、議会政理解においてミルの『代議政治論』に多くを負っていた。しかし福沢は、ある意味においてミルが論及しない問題領域にまでふみこんでいた。ミルの『代議政治論』の特徴の一つは、「公共精神の学校」としての政治参加の場を、選挙に限らず、地方政治・陪審、さま、ざまな自由討論から、政治以外の領域における団体の活動にまで求めようとした点にあった。だが現代からミルをふり返るある研究者は、この点にミルの着眼の鋭さを見出しながら、なおかっ、この点においてミルの議論は限られていたとする。このような指摘を念頭におく時、福沢の着眼の独自性と鋭さは、より明らかになるだろう。福沢の議会政理解は、ある面でミルをこえて、ミルの自由主義を受けつぎながら『代議政治論』の八O年後に討論による政治の理論を省みて記された、次のような文章に近づいている。
「国家の領域のほかにも、その外に、社会の領域にも||教会、労働組合、教育組織その他あらゆる種類の社会的目的を討論し追求する自発的結社の、討論が行なわれる広大な分野があり、さまざまな討論の制度が存在している。自治的国家の活力を吹きこむ討論の営みは、多くの源泉から養われる。それには、政党や議会がかかわるだけでなく:::あらゆる種類の思想の水源池もまたあずかっている。その一つ一つが水を集めて、国民社会全体にわたる討論の大きな流れに、支流として注ぎこむのであ石」。
うか。それに対して「無議」の「俗」の中から西洋におもむいて「直ちに自己の経験を以て之を西洋の文明に照らすの福沢のことばをかりれば、ミルは「彼の西洋の撃者が既に瞳裁を成したる文明の内に居」(『文明論之概略』緒言、4・5)る、その一人だった。それゆえ彼は「数十百年の古より世々の習慣にて其俗を成したるものなれば、今日に至ては知らずして自ら髄裁を得る」(問、第五章、4・乃)にいたった「西洋諸国衆議の法」(同前)について論じ残したのではなかろ便利」(同前、緒言、4・5)に恵まれた福沢は、異文化接触の衝撃を通して「西洋諸園衆議の法」の秘密を見ぬきえたように思われる。
福沢が、このように西欧議会政を視野に入れて、国民国家を「始造」しようとした時、自発的結社と討論は、国民国家の形成原理にまでたかめられた。福沢は、自発的結社という新しい集団形成によって「政治的に議論する市民的公衆」(ハ」パマス)||福沢のことばを引けば、政府と「平均」して国民国家を主体的に担う「国民」|ーを創出しようとしたのである。しかも福沢は、このような政治についての討議の「習慣」を、彼の時代の日本において創出する上での、固有の係件と方法についてはっきりと認識していた。
「民権論は余輩も甚だ以て同説なり。此園は固より人民の掛り合ひにして然も金主の身分たる者なれば、何んとして園の盛衰を鈴鹿に見る可けんや。憶に之を引請けざる可らず。園の盛衰を引請るとは即ち園政に関ることなり。人民は園政に関せざる可らざるなり。然りと雌ども余輩が今愛に云ふ所の政の字は其意味の最も庚きものにして、唯政府の官員と局り政府の役所に坐して事を商議施行するのみを以て政に闘ると云ふに非ず、人民朗から自家の政に従事するの義を旨とするものなり。警へば政府にて、向学校を立て〉生徒を教へ、大蔵省を設けて租税を集るは、政府の政なり。卒民が、四四干塾を開て生徒を教へ、地面を所有して地代小作米を取立るは、之を何と稿す可きや。政府にては同学校と云ひ、卒民にては塾と云ひ、政府にては大蔵省と云ひ、卒民にては帳場と云ひ、其名目は古来の習慣に由て少しく不同あれども、其事の賓は喜も異なることなし。即ち之を卒民の政と云て可なり。古より家政など云ふ熟字あり。政の字は政府に限らざること明に知る可し。結局政府に限りて人民の私に行ふ可らざる攻は、裁判の政なり、兵馬の政なり、和戦の政なり、租税(狭き字義に従て)の政なり、此他僅に数箇僚に過ぎず。されば人民たる者が一園に居て公に行ふ可き事の箇僚は、政府の政に比して幾倍なるを知る可らず。外園商賓の事あり、内園物産の事あり、開墾の事あり、運送の事あり、大なるは豪商の曾社より、小なるは人力車挽の仲間に至るまで、各其政を所行して自家の政慢を曾奉せざる者なし。顧て筆者の領分を見れば、撃校教授の事あり、讃書著述の事あり、新聞紙の事あり、耕一一澗演説の事あり。是等の諮件よく功を奏して一般の繁盛を致せば、之を名けて文明の進歩と稀す。一園の文明は、政府の政と人民わ政と両ながら其宜を得て互に相助るに非ざれば、進む可らざるものなり。就中人民の政は思の外に有力なるものにして、動もすれば政府の政を以て之を制することは能はざるもの多し。:::政府の政は日に簡易に赴き、人民の政は月に繁盛を致し、始て民権の確乎たるものをも定立するを得ぺきなり。余輩常に民権を主張し人民の園政に閥る可き議論を悦ばざるに非、ずと雄ども、其趣意は直に政府の内に突入して官員の事務を妨ぐる欺、又は官員に代て事を局さんとするの義に非ず。人民は人民の地位に居て自家の領分内に淳一山なる一事務にカを護さんことを欲するのみ。即日疋れ康き字義に従て園政に開るものと云ふ可し。直に政府に接せずして間接に其政に参興するものと云ふ可し。間接の勢は直接の力よりも却て強きものなり。同学者これを思はざる可らず。」(『学者安心論』4・mim)
福沢は、日本が政府「偏重」の国であり、同時代の民権論者も「区々たる政府の政に熱中奔走して自家の領分は之を放却して忘れにるが如」(同前、4-m)き事態を憂慮していた。そのような状況において打ち出されたのが寸平民の政」を、という政策だった。この「平民の政」が、これまでたびたびふれて来た、福沢が西欧政治の構成要素として注目した。それぞれに固有の公共的機能を分担する、自発的自治的結社をうけていることは明らかだろう。福沢は、日本においてどのような自治的団体を、何よりも政治以外の領域に創り出すことを当面の課題とした。政府に働きかけ、国政に参加することを直接の目的としない、このような団体の活動が、結果として、政府と国政に影響する。「間接」の効果を福沢は、高く評価した。一国人民全体の聞に「衆議の法」を「俗」として根づかすという遠大な目標への道は、先ず、このような地点から始めなければならなかったのである。
福沢の議会政構想は、このように遠大なものであり、制度としての議会を視野に入れながら、それを国民の政治文化それにいわば迂回的に迫ろうとするものだった。彼が『英国議事院談』以後、久しく制度としての議会について正面から論じることがなかったという事実は、このような背景から理解できよう。その福沢は、『学者安心論』を著した年の末に執筆し、翌一八七七(明治一O)年に刊行した『分権論』で初めて議会制度についての具体的なプランを公けにした。先ず、地方行政」「治権」に参加する地方議会を開設して、「政権」を集中した中央政府と括抗させ、地方議会での経験に習熟した上で、中央に政府と措抗する国会を設けるという構想である。しかしこのような具体的構想は、翌一八七八年の『通俗国権論・二編』から翌々一八七九(明治一二)年の『国会論』にかけて大きく修正された。
地方議会から国会へというこ段階論、政府と議会とが劃然と分離されて括抗する「府と曾」の「平均」というそれまでの構想を公けに否定して、早急の国会開設と議院内閣制という新しい構想が打ち出された。そしてこのような国会開設へのいわばスケジュールの繰り上げは、福沢にまたあらたに、政府も人民も寸命回議しに未習熟で、「曾議しの「儀式憧裁」の整備だけにも時間がかかるだろうことを憂慮させた。彼は、当分の間国会は、討論に未習熟な人々を寸議事」の実際の中で訓練する寸調練しの場とならざるをえぬことを見通し、府県会においても国会においてこのような人々の聞に討論が成立しうる保件と方法について、あらためて模索を始めた。
これと併行して福沢は、一八七九年の夏から慶応義塾「社中」の同志にはかつて新しい「結社」の準備を始め、翌一八八O(明治一一二)年一月、交詞社を組織、交詞社はただちに全国的な組織へと発展した。その社則の「緒言」の中、「現今世界の通勢」としての「分業」から説き起した一節は、福沢たちがこの新しい組織の性格をどのようにとらえていたかを明らかに示している。
フ分業の利は、我之を取るを欲せざるも世既に之を取るを以て、今世に生れ、今人と居れば、各事業を専らにして、以て其利を輿さざる可らず。然り而して人の性たるや、此に精なれば、彼に粗ならざるを得ず。是に於てか:::右を慮らずして陵離孤立、終には世事の率一寒一を醸成するの恐なきに非ず、況んや其齢を異にし、其富を異にし、其居慮を同ふせざれば、皆各其利害の貼を別にして、交際の道愈其狭きを加へ、濁り陵離孤立のみならず、耳目も亦聾盲し、愈慮世の方鰐に迷ふは、是れ人の通患なり。
然らば則ち此患を救はんが局めに、各業の人を結び、老壮都郡を通じて彼是の智識を交換し、他の密を見、他の精を聞て、我が疎粗を補ひ、依て以て大に耳目を洞達するの工夫を局すは、今世に居る最大務なること智者を待たずして明なり。又一歩を進め、既に其目を澄まし、既に其耳を洞らかにすると難も、人の世に居る難険無量、之に慮するの方法に至ては、諮詞謀議、互に相保護するの他に術なきものなり。之を大にしては政府の保護あり、之を小にしては親朋の答顧あり、既に此保護あり、慨に此答顧あれば、細大の救済遺漏なきが如くなれども、賓際に就て形述を察すれば、頗る歓乏を質ゆるものあり。政府の保護は形に制せられて、意を察するに短く、親朋の答顧は情に頭輸されて、形をなすに足らざるが故に、二者の遺漏を補ふて、保護、形状両ながら全きを得んとならば、互に世務を諮詞し、互に公利を保捗するの公一祉を結び、以て其目的を達するの一事あるのみ。若し斯くの如き公一祉にして、能く諮詞の用を達し、又能く耳目の洞蓬を助けば、所謂一翠雨全の業にして、果して慮世の要具たること疑を容れざる所なり。」(石河幹明『福津諭吉停』第二巻)
ここには、家族友人という第一次集団と政府との中間領域を場として、「知識交換世務諮詞」により寸相保護」し、協力して「公利」を確保増進するという、新しい組織の性格がよくあらわされている。それは、慶応義塾創設以来の、討論によって「人民の政」を行ない、国民社会の公共活動を担ってゆく自発的結社という理想の全国的規模での具体化だった。その社則には、社の運営のための大会小会の議事規則のほか、寸重要ノ時事」についての「演説討論」に関する規程が定められていた。本拠の慶応義塾にも新しい動きが現われていた。既に一八七六(明治九)年に福沢は、演説家と新聞記者を養成することを目ざして、塾生に働きかけ、尾崎行雄・本山彦一・波多野承五郎・加藤政之助ら十数人に協議社を組織させ、彼らはさかんに演説を練習した。おそらくその翌年七月頃には、これに対抗して塾生犬養毅らが猶興社を組織した。一八八O(明治二ニ)年三月には、再び福山.0主導で義塾の教員と猶興社の学生が合体して会議講習会が組織された。福沢起草の寸慶臆義塾舎議講習曾規則」はのべる。
「門閥街阪の風止て舎議公論興る、自然の勢なり。今後我日本に於て、事大小の差なく、又官私の別なく、一切首同事曾議公-論
を以て成る、固より疑を容れず。今日我輩立身の方向は人々の好向に由る可しとは錐も、何等の黙に向ふも必ず舎議公論中の一
名たる可き、亦自然の勢にして明に前知す可き所なり。然ば則ち今に在て其舎議公論の方法を研究するは寓止む可らざるの急務
なり。本塾元来演説の曾ありと雄も、未だ曾議の方法を講習するに及ばず。遺憾と云ふ可し。」(四・叫1制)
「本塾元来演説の曾ありと誰も未だ曾議の方法を講習するに及ば、ず」とのべられるが、実は、既に見たように、三田演説会発足当初の活動はむしろ討論が中心だったのが、一八七六(明治九)年から演説だけになったのである。そしてこのような慶応義塾に再び議事討論の練習を復活させたのは、国会開設の展望だった。事実、会議講習会発足後ほどなく、協議・猶興両社の社員で会議講習会にもかかわる人々が合同し、慶応義塾からは独立した自由民権・国会開設の運動組織として三国政談社を組織した。三田政談社はやがて市中に進出して演説討論政談会を始め、この会が母胎となって、翌一八八一(明治一四)年には、慶応義塾出身・交詞社員の馬場辰猪を中心に国友会が組織された。この頃から政談演説会には「討論」がつきもので、政談演説が終った後、同じ檀上で数人の弁士が荷子を並べて、現代風にいえば、パネル討論を行うのが流行となった。国友会は、この討論に最も力を入れ、その主題や意見対立の様子は機関誌『国友雑誌』に詳しく記されている。こうした状況においては、慶応義塾の会議講習会は、もはや討論練習の先駆という地位を失つていた。国友会等の演説討論に比べたその特色は、関心が国会の会議に集中している点にあった。会議講習会の規則ては「一般に会議の方法を講習する」と定められていたが、関心の中心は国会におげる「会議公論」にあり、たとえば、議長のほかに政府委員役まで定められていた。福沢が議長をつとめた際の、議事法に違反して議長席から議論に割り込む「傍若無人の専横振り」についても回顧が残されている。慶応義塾会議講習会は、これ以後全国に活発になった擬国会の源流となったのである。以上に見通しをつけたように、沢の議会政構想は、西南戦争前夜の士族の動揺、戦後の国会開設運動の高揚に対応する中で、いわばタイム・スケジューその構想は発展し具体化するとともに変容していった。 
 
福沢諭吉とアジア

 

防衛か侵略か
司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文芸春秋、1969〜1972年)は、伊予・松山出身の秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)の軍人兄弟と俳人正岡子規の三人を主人公に、明治という近代日本の草創期を描いた長編小説である。誕生まもない「国家」は若々しく、青雲の志を持った若者にとって、自己の未来を国家のそれに重ね合わせることのできた幸せな時代だった、との認識が司馬にはある。『坂の上の雲』というタイトルにも、それは表れている。第一巻の「あとがき」で司馬は記す。
明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。こういう「国家」というひらけた機関のありがたさを、よほどの思想家、知識人もうたがいはしなかった。
しかも一定の資格を取得すれば、国家生長の初段階にあっては重要な部分をまかされる。大げさにいえば神話の神々のような力をもたされて国家のある部分をつくりひろげてゆくことができる。素姓さだかでない庶民のあがりが、である。しかも、国家は小さい。
政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
司馬の「明るい明治」観は、日清・日露の二つの戦争を肯定する。日本が西洋列強の帝国主義の餌食になるのを防ぐ「防衛戦争」であった、との見方だ。それは同時に、司馬が自らの戦争体験を「暗い昭和」の「愚劣な戦争」と位置づけるのに必要な心理上のバランス操作でもあっただろう。司馬は学徒出陣で戦車乗りになった。敵の砲弾を喰らえば搭乗員のミンチができるほどの薄っぺらな装甲。豆鉄砲と呼ばれた短い砲身。日本はいつからこんな気違いじみた精神主義の国になったのかという怒りが、司馬の目を近代国家の出発点に向けさせたのである。
こうした司馬の歴史認識に対して、二つの異論が成り立つ。一つは、明治国家は最初から帝国主義を志向しており、日清・日露戦争は植民地獲得のための侵略戦争であった、とする左翼の認識。もう一つは、太平洋戦争までをひっくるめて、西洋列強をアジアから駆逐するための防衛戦争であった、という右翼の認識である。
文芸評論家・林房雄の著書に『大東亜戦争肯定論』(番町書房、1964年)という挑発的なタイトルの本がある。戦前の左翼弾圧で転向した林は、ナショナリズムの立場からこう述べている。
私は「大東亜戦争(太平洋戦争=原註)は百年戦争の終曲であった」と考える。……それは今から百年前に始まり、百年間戦われて終結した戦争であった。今後の日本は同じ戦争を継続することも繰りかえすこともできない。「東亜百年戦争」は昭和二十年八月十五日に確実に終ったのだ。……百年つづいた「一つの戦争」はいくつか先例がある。あいだに五年か十年ずつの「平和」があっても、それは次の戦闘のための小休止にすぎなかった。……百年戦争は八月十五日に終わった。では、いつ始まったのか。さかのぼれば、当然「明治維新」に行きあたる。が、明治元年ではまだ足りない。それは維新の約二十年前に始まったと私は考える。(以下略)
林のいう百年戦争の始点は、1863年から64年にかけて起きた「薩英戦争」と「馬関(下関)戦争」ではない。1853年に浦賀沖に現れた米海軍ペリー艦隊の「黒船」でもない。それは弘化年間(1844〜48)にまで遡る。まさに維新20年前のこのころから、外国艦船がしきりに日本近海に出没するようになり、攘夷論が高まった。精神的な戦争状態はそこに始まる、と林はみる。敷衍すれば、江戸幕府の鎖国体制が危機に瀕する中で、藩を超えた「日本」という国家意識とナショナリズムが生まれ、それが「尊皇攘夷」の旗印の下で明治維新を実現させた、と言えるだろう。
林と思想的立場は異にしながら、哲学者の上山春平も明治維新から太平洋戦争までを貫くナショナリズムを否定しない。上山は学徒兵として特攻兵器の人間魚雷「回天」に搭乗した体験を持つ。上山編『日本のナショナリズム』(徳間書店、1966年)の中で、彼は次のようなエピソードを紹介している。
明治維新から大東亜戦争終結までの約八十年間は、日本ナショナリズムが猛烈な勢いで上昇をつづけた期間であり、それは、驚威的な工業化のスビートと軍事力の増強を挺(てこ)として、東アジア地域に巨大な勢力圏をきずきあげた。法律体系、官僚機構、教育制度、等の根本的改革を通してヨーロッパ・ナショナリズムの背景をなす普遍原理をみずから拠って立つ原理として受けいれた日本ナショナリズムは、そのお手本の歩んだ道をみずからも歩みはじめ、進路をはばむ相手を武力によって排除しながら、「大日本帝国」をきずきあげたのである。
大東亜戦争のきっかけとなった満州事変を推進した石原莞爾は、戦後、彼の病床に出張尋問におもむいた極東裁判の検事に向って、「日本の侵略主義は貴国のペルリさんが無理矢理に開国を迫った結果、貴国らを大先生として習い覚えたものだ。侵略主義が悪いというのなら、ペルリさんをあの世から呼んできて戦犯にしてはどうか。」とうそぶいたというが、このことばがあの大戦の火つけ役の一人と見られる人物の口から語られた点に反感をもよおす人びとも、語られた事柄そのものにふくまれる一種の真理を認めぬわけにはゆくまい。
上山は「(幕末の開国で)延期された攘夷の実行が、日露戦争であり、大東亜戦争であった」との認識を示す一方で、そうしたナショナリズムが敗戦によって挫折したことを肯定的に受け止める。
案外、負けてよかったという実感をいだく人びとが、少なくないのではあるまいか。かつて攘夷の急先鋒だった維新の志士たちが、開国の不可避性の認識を通して、攘夷思想を支えていた偏見から解放され、歴史の発展方向に眼を開かれたように、大戦の勝利に献身した人びとが、敗戦を転機として、かつて自分をとりこにしたナショナリズムの偏見から解放されて、その偏見によっておおわれていた真実に眼を開かれたとき、敗戦は一つの啓示としての意味をもつようになる。私は、そこに旧帝国のナショナリズムとは質を異にする戦後ナショナリズムの芽ばえを認める。
いずれ破裂するとわかっていながら風船を膨らませ続けた、ということだ。攘夷思想の終着点が「鬼畜米英」を呼号したアジア・太平洋戦争であったとする林や上山の認識は、日本のナショナリズム論としては一貫している。満州事変や日中戦争ですら、主観的には米英露独仏を東亜から追い出す戦いと認識されていただろう。しかし、実際の客観的な行動としては、中国を戦場に、中国人を相手に、泥沼の戦争を繰り広げたのであって、中国にとっては侵略以外の何ものでもなかった。日本の主観的なナショナリズムだけで説明できないことは明らかだ。
他方、日清・日露戦争もアジア・太平洋戦争もすべて帝国主義戦争だった、と切り捨てる左翼史観もまた、同時代的には受け入れ難かろう。少なくとも日清・日露戦争は、ロシアの膨張主義を前にして日本が生きるか死ぬかの防衛戦争である、と為政者も国民も意識していたはずなのだ。戦争に勝ったことで夜郎自大な気分になり、植民地主義的な要求を膨らませていったことは、いわば戦争のオマケであって、最初からそれが目的だったとは必ずしも言えまい。
明治期のナショナリズムが、西洋列強のアジア侵略から日本の独立をいかに守るかに淵源を発することは疑いない。ただ、列強に対抗する上で、中国・朝鮮との関係をいかにすべきか、でいくつかの選択肢があり得た。足並みを揃えて共に近代化を図るか、足並みが揃わないなら日本が軍事介入してでも実行を迫るか、或いは日本単独でハリネズミ国家を築き上げるか。結果として日本は軍事介入の道を選び、その後の行動によって中国・朝鮮をも敵に回してしまったのである。
そこで、福沢諭吉である。明治期最高の啓蒙家であった福沢は、国家と国民の遭遇するさまざまな局面について、問題のありかを照らし出した。明治政府とは常に一線を画しながらも、彼の言説は時代の道しるべとなった。
福沢に「脱亜論」という論説がある。彼の主宰する「時事新報」の明治18(1885)年3月16日付紙面に載った。全文は別紙を参照してもらうとして、主張を要約すれば、以下の如し。
日本はアジアの東辺にあるけれども、国民の精神は既にアジアの固陋を脱して、西洋文明を取り入れた。然るに、隣国の支那と朝鮮は改進の道を知らず、百年千年の昔と異ならない。これでは、文明東漸の風潮に際し、とても国家の独立を維持することはできない。その国土はいずれ文明諸国に分割されてしまうだろう。「輔車唇歯」という言葉がある。隣国同士は助け合わねばならないというたとえである。しかし、今の支那朝鮮は日本のために何の援助にもならないばかりか、西洋文明人の目には、日本が支那朝鮮と同一視される恐れがある。現に外交上も支障を来しており、わが国の一大不幸と言わなければならない。だとすれば、隣国の開明を待って一緒にアジアを興す猶予はない。むしろ仲間を脱して西洋の文明国と進退を共にし、支那朝鮮に接するに当たっても、隣国だからと遠慮会釈などせず、西洋人が彼らに接するのと同じようにやるべきである。悪友に親しむ者は、共に悪名を免かれない。われは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものである。
9年後年、朝鮮との関係をめぐって日清戦争が勃発すると、福沢は時事新報紙上で「日清の戦争は文野の戦争なり」と熱烈に支持した。「文野」とは「文明と野蛮」の略、つまり日本の文明開化と、開化にそっぽを向き続ける中華思想との戦い、と位置づけたのだった。そして、戦勝後の翌年暮れ、還暦祝賀会で福沢は「去年来の大戦争に国光を世界に耀かして大日本帝国の重きを成したるが如きは、如何なる洋学者も三、四十年前には想像したる者なし。……扨(さて)も扨も不思議の幸福、前後を思へば恍として夢の如く、感極まりて独り自ら泣くの外なし。長生はす可きものなり。老生の如き、還暦の年までも生き延びたればこそ此(この)仕合せなれ」と手放しで喜んだ。
日清戦争どころか、日露戦争の結果も、アジア・太平洋戦争の結果も承知している現代から見れば、福沢の悲壮感と喜びようはいささか過剰に見えなくもないが、明治の真っただ中にあっては、日本の浮沈はいまだ定かでなく、誰もが闇の中を手探りで進む思いだったのだ。「国家の独立」こそが福沢の言説の究極の目的であったことを考えれば、最大級の快哉を叫んだことは当然でもあった。
筆者は、日本近代史の基本構図を次のように捉えている。日本の「主観的意図」は、日清戦争から太平洋戦争に至るまで「西洋列強に対する防衛戦争」で一貫していたと認めていい。しかし「客観的行動」としては、中国や朝鮮を戦場にし、帝国主義的な要求を突きつけ、さらには、台湾と朝鮮を植民地にもした。こうした「主観」と「客観」との矛盾は最初の日清戦争から胚胎しており、アジア・太平洋戦争では覆い難いほど大きくなった。日清・日露戦争をめぐって、防衛戦争か侵略戦争かで意見が分かれるのは、要するに客観的行動への意味づけが異なるからである。
以上の枠組みの中で、日清戦争に至るまでの福沢の言説を検証し、日本と西洋列強との国際関係、および日本と中国・朝鮮との近隣関係について、福沢がどのように考えていたのかを探っていく。おのずから、彼の思想の今日的な妥当性とともに、その限界も明らかになるであろう。
【日清戦争】1894〜95(明治27〜28)年、日本と清国との間で行われた戦争。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)に清国が出兵したのに対し、日本も居留民保護を名目に出兵、94年7月の豊島沖海戦となり、8月1日、宣戦布告。日本は各地の陸戦・海戦で勝利し、95年4月、下関で講和条約を締結した。
【日露戦争】1904〜05(明治37〜38)年、朝鮮・満州の制覇をめぐって、日本とロシアが争った戦争。04年2月10日、宣戦布告。同年の旅順攻略、翌年の奉天会戦、日本海海戦などで日本が勝利し、05年9月、ルーズベルト米大統領の斡旋により、ポーツマスにおいて講和条約を締結した。
【アジア・太平洋戦争】1937(昭和12)年に勃発した日中戦争と、米英などを相手取った1941〜45(昭和16〜20)年の太平洋戦争とを一まとめにした呼称。日中戦争は、当時の呼び方では支那(日華)事変といった。また、1931(昭和6)年の満州事変から通算して十五年戦争という括り方もある。一方、太平洋戦争は、大東亜戦争という日本側の呼称に対する米側の呼称。大東亜戦争が戦前の独善的価値観を含むことから、戦後は太平洋戦争と呼ばれることが多い。また、太平洋戦争自体をアジア・太平洋戦争と呼ぶ見解もある。アジアの植民地諸国も戦場になったことを明示しようという考え方だ。さらに、対米英戦争以降の対中戦争をそれまでの日中戦争から切り離して、対米英戦争と対中戦争をひっくるめてアジア・太平洋戦争と呼ぶ見解も論理的にはあり得る。 
民権か国権か
福沢諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)に大阪で生まれ、父の死去に伴って豊前・中津で育ち、明治34(1901)年2月3日に東京で没した。享年66。ペリーの黒船が来航したのは18歳のとき、明治元年は33歳、日清戦争が起きたときは59歳。日露戦争は知らずに死んだ。
参考までに、幕末から明治初期にかけて活躍した主要人物を生年順に並べると、別表の通り。福沢と比べて、勝海舟、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允といった明治維新の立役者が年上なのは当然だとしても、維新を見ずに倒れた坂本龍馬や高杉晋作は何と年下なのだ。明治政府で大きな力を持った板垣退助、大隈重信、山県有朋、伊藤博文らも福沢より若い。
福沢は維新前に三度、洋行した。
万延元(1860)年、軍艦奉行の従僕として渡米(西海岸のみ)
文久2(1862)年、幕府遣欧使節団の随員として渡欧
慶応3(1867)年、軍艦受け取り委員の一行に加わり渡米(首都まで)
二度目の渡欧で、使節団はフランス、イギリス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシアなど主要国を半年以上かけて回った。福沢は見聞を記録し、慶応2(1866)年から明治2(69)年にかけて『西洋事情』全3編を出版した。本は爆発的に売れ、幕府の翻訳方という裏方の存在にすぎなかった福沢を、当代きっての西洋事情通・売れっ子著述家に押し上げた。さらに、明治5(1872)年から9(76)年にかけて出版した『学問のすゝめ』全17編と、明治8(75)年刊の『文明論之概略』全6巻の大当たりによって、福沢は明治期最高の啓蒙思想家たる地位を固めたのである。
写真は、遣欧使節団の随員としてパリの国立自然史博物館で撮影したもの(東京大学史料編纂所蔵)=Wikipediaより。
さて、福沢諭吉の思想を論じた本は数限りなくある。その中で、おそらく最も厳しい評価を下したのは、安川寿之輔の『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000年)だろう。『文明論之概略』を転機として、それ以降の著作は対外強硬論とアジア蔑視に満ちており、アジア・太平洋戦争へと真っ直ぐにつながる、と安川は切り捨てる。さらに返す刀で、丸山真男を初めとする福沢研究者らは、自説に合わせて福沢の著作をつまみ食いし、誤った福沢像を世に広めてきた、と批判する。
安川は、福沢の思想を三期に分ける。
(1)初期啓蒙期(〜1877年)=『すゝめ』の中で「一身独立して一国独立する」という基本命題を掲げながらも、『概略』では、国際関係の弱肉強食ぶりを前にして、差し当たっては「一国独立」を優先させなければならないとした。一方で、「一身独立」を積み残しにしたことについては、「他日為す所あらん」と充分に自覚していた。
(2)中期・保守思想の確立(77〜94年)=『通俗国権論』や『時事小言』で、「一国独立」の国権確立論をさらに進めて、軍備強化による国権拡張論へと突き進んだ。宿題としていた「一身独立」は棚上げしたまま、高まりを見せる自由民権論に敵対した。朝鮮で1982年に反日暴動「壬午軍乱」が起きると軍事介入を唱えた。84年の親日派によるクーデター「甲申政変」では直接支援までした。
(3)日清戦争期(94〜98年)=福沢は全面的に戦争を支持した。「日清の戦争は文野の戦争なり」の社説を初めとして、福沢の主宰する時事新報は、新聞各紙の中で突出して対外強硬論を唱えた。朝鮮と中国に対する蔑視発言も際立つようになった。
安川は、福沢の著作の中からそうした侵略的発言や蔑視発言を拾い出して、以下のように紹介している。安川独特のスタイルとして、途中を小刻みに省いたり、発言と発言の間を地の文で綴り合わせたりしてあるために、煩わしく、かつ文意が取りにくいところがあるが、我慢して読んでいただきたい。文中の、送り仮名以外の()と……は原文のもの、〈〉は筆者の補足。
福沢は、「鎖国」体制を続ける「未開国に対する尋常一様の手段」として、「力を以て其国を開き天然の約束に従はしむるは世界の正理公道を行ふに止むを得ざるの手段のみ。」と説明し、開国強要は「人類の幸福、文明の進歩の為め」の「至当の天職」と主張した。内政改革の強要を福沢が「主権の蹂躙」と考えていないことを、別の論稿で確認しよう。
九四年一一月「国務の実権を我手に握り、韓人等は単に事の執行に当らしむるのみにして、……喙(くちばし)を容れしめず……眼中朝鮮人なし」、九五年一月「斯(かか)る軟弱無廉恥の国民」の場合は、「独立国の体面を其儘(そのまま)に存するは姑(しばら)く宜(よろ)しとして、実際は之を征服したるものと見做(みな)し、彼の政府枢要の地位には日本人を入れて実権を執らしめ……一切日本人の手を以て直に之を実行し、……毫(ごう)も憚(はばか)るに足らざるなり」などに見るとおりである。

さらに、甲申政変の際にさえ「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」と発言した諭吉は、後述するように、日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殱滅(せんめつ)」「誅戮(ちゅうりく)」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「残滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殱滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。〈中略〉こうした長年にわたる総体としての中国人・朝鮮人への侮蔑意識が日本国民の侵略戦争への抵抗・阻止の芽をつんだという歴史的な問題もある。

宣戦布告の二日後、早速、「軍資醵集(きょしゅう)相談会」で「眼中物なし、唯日本国あるのみ」の精神で、「内に在る吾々は家計の許す限りを揮(ふる)ふて戦資に供」することを呼びかけ、〈中略・さらに別の論稿で〉「献金嫌ひの福沢諭吉」の日頃を紹介しながら、「諭吉決して狂するに非ず」「家内相談の上、金一万円を軍費として醵出することに決した」事実を公表した。一万円という額は全国の醵金者の五指に入り、金額では二位となる巨額の軍事献金である。
日清戦争が本当に「朝鮮の独立」確保の戦争であれば、九月一六日の平壌戦の勝利で清国軍を朝鮮領内から駆逐したところで終了することもありえた。しかしもちろんそれは口実に過ぎないから、福沢は、宣戦布告直後の八月五日から「是非とも長駆して北京の首府を衝き、其喉(のど)を扼(やく)」すことを呼びかけ、二日には「取り敢へず(中国の)盛京、吉林、黒龍江の三省を」占領して「我版図に帰せし」めるよう提案し、一七日には「直に其本拠を衝き」、支那帝国「四百余州を蹂躙」することまでを要求した。
何ともおぞましく、本当に福沢がこんな主張をしていたのか疑問が残るが、その点は次編で検討する。一点だけ補足すると、上の引用文中の「チャンチャン」は、のちのちまで中国人に対する蔑称として盛んに使われた。安川は「チャンチャン」の起源について、以下のように解説している。
家永三郎の前掲『太平洋戦争』は、日本の初めての本格的な対外戦争となる日清戦争の開始とともに、日本で中国人を「チャンチャン坊主」と呼んで蔑視する空気が生まれたことを紹介している。また、日清戦争についての包括的な考察の近著である白井久也『明治国家と日清戦争』(社会評論社、一九九七年)では、「日清戦争での日本の勝利は、日本人の対中国観をがらっと変え、中国に対する蔑視意識を決定的に強めるきっかけとなった。」として、九四年九月九日の風刺雑誌『団々珍聞』第九七八号掲載の「軍(いくさ)する度(たび)へこたれて、命からがら逃げて行く。ちゃんちゃん坊主の意気地なし。偶(たま)には勝てもみんかいな。……」という歌を紹介している(九二ページ)。福沢の「チャンチャン」使用は、それよりさらに一カ月以上早い事例となる。
「団々(まるまる)珍聞」に掲載された歌が日清戦争の戦闘ぶりを反映した内容であることは明らかだが、「チャンチャン」呼ばわりはもっと早くから市井に広まっていた。一例を挙げれば「日清談判破裂して……」の歌い出しで知られる演歌がそうだ。「欣舞節」の題名で、明治22(1889)年、若宮万次郎の作詞作曲とある。この演歌にしても、既に「チャンチャン」が一般化していればこそ歌詞にもなった。福沢のほうが「団々珍聞」より一カ月早いと言ったところで、意味はない。
日清談判(欣舞節)=詞・曲若宮万次郎
日清談判破裂して品川乗り出す東艦
西郷死するも彼がため大久保殺すも彼奴がため
遺恨かさなるチャンチャン坊主
日本男児の村田銃剣のキッ先味わえと
なんなく支那人打ち倒し万里の長城乗っ取って
一里半行きゃ北京城よ
欣慕欣慕欣慕愉快愉快 =表記は『日本流行歌史』(社会思想社)による
最後の「欣慕」は、題名からして「欣舞」の間違いではないかと思われるが、確認のしようがない。『日本流行歌史』によれば、作者の若宮万次郎は、川上音次郎が歌った「オッペケぺー節」(明治23年)の作詞者でもある。ならば、自由民権運動の流れを汲む人物だろう。そういう人物が平気で「チャンチャン坊主」という言葉を発していた時代だったことを、記憶に留めておかれたい。
話を戻す。安川は、福沢批判の総括として、彼の言説がアジア・太平洋戦争に直結しているとし、その根拠として以下の点を挙げる。著書『福沢諭吉のアジア認識』の小見出しをそのまま掲げておく。
(1)侵略・殺戮への道を開いたアジア蔑視思想
(2)国家を対象化しえない国民の形成
(3)「満蒙は我国の生命線」、「大東亜共栄圏」の「盟主」思想の先駆
(4)「忠尽報国」「報国致死」
(5)皇軍思想――「生きて虜囚の辱めを受けず」と南京大虐殺への道、あわせて希薄な戦争責任意識
(6)権謀術数的「内危外競」路線と靖国の思想
(7)日本軍性奴隷「従軍慰安婦」への道
これらの点についても、のちに検討することになろう。ただ、明治から昭和にかけて日本の取った進路が、ことごとく福沢の指し示した道であったかのような言い方には、少なからず違和感を覚える。福沢がどんなに偉大な啓蒙思想家であったとしても、政治権力を握ったことは一度もないのだ。私学の「慶応義塾」と、新聞「時事新報」に足場を置く一介の教育者・言論人にすぎない。福沢の思想が昭和に至るまで時代の波長によくシンクロナイズ(同調)したとするならば、それは福沢が歴史の創造者だったからではなく、歴史の優れた予見者だったからではないのか。安川の福沢評価は、歴史の原因と結果を一緒くたにした議論に見える。
最後に、福沢研究者に対する安川の批判。一言で言えば、福沢の中期以降の言説は初期のそれと相容れないほど隔たっているのに、彼らはなぜそこを問題にしようとせず、「福沢神話」に手を貸してきたのか、ということだ。右代表として、丸山真男に対する批判を紹介する。〈〉部分は筆者の補足。
〈戦時中に福沢研究を始めたことによって〉丸山の反軍国精神の「思いいれ」をこめた福沢の「読みこみ」が始まったことはごく自然であったといえよう。だがそのことで、戦後日本の民主化過程においてもなお彼が同じ「読みこみ」を続けることまでが許容できるのか。敗戦により軍国日本が劇的に崩壊し、思いがけず「戦後民主主義」のもとでの民主化が始まろうとした時に、丸山が、日本にもこんなすぐれた民主主義の先駆者がいたという思いと姿勢で、福沢を「典型的な市民的自由主義」者として最大限におしだす民主化の啓蒙をはじめたことを、(学問的誤りの故に)私は単純に責めるつもりはない。
しかし、〈日清戦争に際して〉天皇の海外出陣まで呼号する過激な福沢に目を閉じて、「一切の政治的決定の世界からの天皇のたなあげ」を主張したリベラルな天皇制論者という虚偽を、丸山が一九八〇年代後半においてまで主張することに、一体どんな思想史的意義があるのか。〈中略〉鹿野政直同様に、戦後の丸山が「民主化」よりも敗北したはずの「超国家主義」こそを「より痛切な深題」と把握して「危なっかしいデモクラシー」を問題にした姿勢を評価することに異論はない。しかし、以上のような作為の上に福沢を市民的自由主義者と描きだす丸山の福沢研究自体は学問的逸脱であり、そうした戦後の安易で底の浅い民主化啓蒙の結果が、本書冒頭のような今日の日本の状況をもたらしたのではないか、と私はそんな心配をしているのである。
この点に関しては、同感である。福沢諭吉といえば「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と宣言した自由主義者、という評価が通り相場になっているが、その後の思想遍歴はほとんど知られていない。『学問のすゝめ』の冒頭に出てくるこのフレーズの引用にしても、正しくは「……と云へり」の四文字が付いていて、福沢の真意はそのあとに出てくる「されども……」以下にある。学ぶか、学ばないかで人間の差が出てくる、だから学問をしろ、と言っているのだ。
研究者の多くが、福沢の著作を正確に読み取り、その全貌に迫る努力をしないまま、それぞれ自分好みの福沢像を描いてきた。その意味で安川の仕事は、福沢の負の部分を洗いざらいぶちまけた労作と言える。ただ、どこまでが福沢の負うべき責任で、どこからは明治という時代の制約なのかは、腑分けして考えなければならない。このシリーズの目的はまさにそこにある。 
時事論集の謎
福沢諭吉全集に収められた時事論集は、大半が彼の著作ではない――。平山洋著『福沢諭吉の真実』(文春新書、2004年)はそんな衝撃的な内容の本だ。誰が、いつ、紛れ込ませたのか。如何なる方法で、何のために……。推理小説にも似たスリリングな謎解きで読者を引きつける。
福沢の主宰する「時事新報」は明治15(1882)年に創刊された。これには曰く因縁があって、前年に起きた「明治14年の政変」が絡んでいる。大隈重信が伊藤博文や井上馨らによって政府から追放された、薩長閥との権力闘争だ。そのとばっちりが福沢や慶応義塾出身の官吏らに及んだ。小泉信三『福沢諭吉』(岩波新書、1966年)によれば、その前に以下のような伏線があった。
明治十三年十二月二十四、五日のことであった。福沢は求められて大隈、伊藤、井上の三者と大隈邸で会見した。用件は公布日誌、すなわち「公報のやうな官報のやうな新聞紙」の発行を福沢に頼みたい、というのであった。福沢はしきりに懇説されたが、諾否を保留してその場は別れ、考えた末、今の政府をそのまま維持するため、政府の真意を人に知らせるための新聞紙であっては、発行しても畢竟(ひっきょう)無意義であろうと思って、一月某日の夜、井上の邸へ断りに出かけた。然るに、井上は「容を改めて」政府は国会を開設する決心だと打ち明けたので、福沢はその英断を欣び、感動して、即座に新聞発兌(はつだ)のことを引受けた。幾日かの後、今度は井上が福沢を訪問して前日の約束を堅くしたという。大隈の後日談によれば、「福沢先生に国論の指導を頼み、輿論の力を以て薩摩の頑固連の鉾先を挫」こうとしたものであるという。それで福沢は、門下生中の長者ごく少数のものに次第を語り、新聞発行の準備をしている間に、国会開設のことは進行せず、かえって、初め堅く結ばれた同志者と福沢の解した大隈と伊藤、井上との間が疎隔して、ついに大隈は逐われ、伊藤、井上は放逐者の側に立って、しかも伊藤は西郷従道と共に大隈に辞表の提出を促すという次第にまでなった。
それは福沢の不可解とするところであり、それ故に右記の如き長文の詰問状も発せられた次第であるが、ただしその間、大隈と伊藤、井上との疎隔に至る事情として伝えられたものも、人に知られている。その一つは、大隈の奏議である。当時政府は諸参議に立憲政治に関する意見書を差出すことを求めたのであったが、大隈はひとり他に後れて、しかも特に催促を受けて後之を出した、その意見というのが、大体イギリス風の政党内閣制を採用すべきことを主張したものであり、それは当時政府部内者の通念としては、急進的に過ぎるものであった。伊藤は、前記の通り、大隈とともに謀って国会開設に意を決したものであったが、その大隈が、彼れにはかることなしにかかる急進的奏議に独走したことに激怒し、とても同行はできぬとして、一たびは辞意を決するにまでも至ったということである。それが、福沢が初めて大隈、伊藤、井上と会談したその時より三月ばかり後のことである。
政府内では、大隈の陰に福沢や三菱の岩崎弥太郎がいると目され、政府系新聞を発刊する話は立ち消えになった。福沢としては、わが身はさておき、巻き添えを食って官吏を罷免された慶応義塾出身者を何とかしなければならない。かくて独立系新聞「時事新報」は誕生した。明治15年3月1日の第1号で、福沢は「一身一家の独立より之を拡めて一国の独立に及ぼさんとするの精神」を基本姿勢として掲げた。以後、福沢の著作は時事新報を初出とすることとなった。
以下、平山の『諭吉の真実』に沿って全集の話を進める。これまでに福沢の全集は4度発行されている。
1898(明治31)年に発行された『明治版全集』5巻(時事新報社)
1925〜26(大正14〜15)年発行の『大正版全集』10巻(国民図書)
1933〜34(昭和8〜9)年発行の『昭和版続全集』7巻(?)
1958〜64(昭和33〜39)年発行の『現行版全集』21巻(岩波書店)
最初の『明治版』は福沢の存命中に発行され、彼名義の著作だけを収録した。従って福沢が書いた無署名の論説や、その後の最晩年に著した『福翁自伝』『福翁百話』などは含まれていない。
『大正版』は、時事新報の主筆を退いた石河幹明が編んだ。積み残しの著作のほか、福沢の手になる無署名論説も「時事論集」(8〜10巻)として収録した。その「例言」の中で、石河は以下のように意図を説明している。
一福沢先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約五千篇ある可し。編者曾(かつ)て社説起草の参考に供する為め其主要なるものを抄写して之を坐右に置けり。今回時事新報社が一万五千号の記念として福沢全集を発刊するに際し、之を「時事論集」と名けて其中に収録することゝせり。
一本集の論説は政治外交軍事経済等十三篇に分類したれども、其分類は編者が索覧の便の為めにせしものにて、必ずしも厳密なる意味を以てしたるに非ず。例へば外国に関係ある論説は都(すべ)て之を外交篇の中に収め、日清戦争中に於ける各種の論説は之を軍事篇の中に収めたるの類にして、他の篇別も凡(およ)そ此趣向に依れり。
一論説の末尾括弧内の年月日は其論説が時事新報の紙上に出でたる時日を示すものなり。
一本集に収むる所の論説は二百二十三篇にして、外に漫言九十八篇を付録とせり。全集発刊の事急に決したるを以て、差向き編者の曾て抄写し置けるものを其儘(そのまま)録したる次第なり。
『昭和版』は、同じく石河による編纂。上の「例言」にあるように、膨大な数にのぼる時事新報の論説全体の中から、福沢の執筆と見なせると石河が判断した1246編を「時事論集」(1〜5巻)として収録した。他の2巻は書翰集と諸文集。
最後の『現行版』は、石河の仕事を手伝った富田正文が引き継いだ。基本的には『大正版』と『昭和版』を合体させたもので、1巻から7巻までが「署名著作集」、8巻から16巻までが「時事新報論集」、残りは書翰集と諸文集。但し、時事新報論集は、テーマ別だった『大正版』と、年次ごとにテーマ分けした『昭和版』を、単純に日付順に並べ替えた。この結果、石河のいう「抄写し置けるもの」と、あとで追加した分との区別がなくなり、すべて福沢の真筆であるかのような錯覚を招く要因となった。
立ち戻って考えれば、『昭和版』の論説は、石河の独断で追加したのであって、本当に福沢の執筆によるものかどうか、何ら証明がない。福沢の立案したものまで許容するとしても、どこまで福沢の真意を反映しているかは不明だ。福沢は1892(明治25)年ごろから日々の論説に関与することは少なくなっており、それだけ石河の権限が増していた。『昭和版』に収録された論説の大半は、まさにその時代のものだ。その中には当然、94年から95年にかけての日清戦争に関する多数の論説が含まれる。40年もたってから、石河が自分の書いた論説を全集に押し込んで、「すべて先生の目を通ったものだ」と言い張れば、反論できる関係者はもはやいなかったのだ。
石河はなぜそうまでして、紛らわしい時事論集を編んだのか。理由は二つある、と平山は見る。一つは執筆を任された『福沢諭吉伝』において、自分の理想とする「福沢像」を描き出すために。二つには昭和初期という時代に合わせるために。
1923(大正12)年6月、慶応義塾から石河に伝記執筆依頼。
1925(大正14)年12月、『大正版全集』の刊行開始。
1932(昭和7)年2〜7月、『福沢諭吉伝』全4巻刊行。
1933(昭和8)年?月、『昭和版続全集』の刊行開始。
石河に伝記の依頼があったのと、『大正版全集』の企画が持ち上がったのと、どちらが先だったのか確かな資料はないが、平山は「伝記先行」説をとる。
以下は私の推測である。すなわちこのようにばたばたと全集刊行が決まったのは、『福沢諭吉伝』が刊行される時点で、その中に引用されることになる福沢の論説が『全集』に掲載されていないのはいかにもまずいという判断が働いたからではないか。前にも記したように、後年はしばしば取り上げられることになる「東洋の政略果して如何せん」(一八八二・一二・七〜一二)や「一大英断を要す」(九二・七・一九、二〇)は、それまで石河以外の誰によっても福沢の著作と考えられたことのない論説であった。それらが『全集』に入っていないのに『福沢諭吉伝』において重要な役割を果たしているとしたら、読者は奇異の念を抱くに違いない。逆に伝記にさきだってそれらを全集に収録しておけば、誰も不自然とは思わない。
この推測は、当初大正版『全集』に漫言を収める予定はなかったということとも密接に関係している。『全集』が刊行されつつある時点で漫言を入れることにしたのは、石河が準備していた『福沢諭吉伝』で、漫言のいずれかを引用せざるをえなくなったためではないだろうか。そこで調べてみると、大正版『全集』第一〇巻(現行版11)所収の「鋳掛久平地獄極楽廻り」(八八・六・一七)が伝記の第四巻五二四頁に紹介されている。伝記で触れられている漫言はこの一編だけであるが、それが真筆であることは飯田三治宛書簡(八八・六・一四)に明らかである。二五年一二月から翌年五月までの間にこの書簡を発見した石河は、福沢が作った落語のエピソードを伝記に盛り込むことにして、全集に収録するものを急遽『時事新報』の漫言欄から選んだのであろう。
さらに、石河は『大正版全集』第1巻の「端書」で「先生の遺文は此他にも甚だ多く、時事新報所載の分のみにても尚ほ数巻を成すに足るものがある。是等は更に編纂して出版することになつて居る」と記し、『昭和版続全集』の出版を予告している。『諭吉伝』第1巻の「例言」でも「先生の遺稿は未発表のものが尚ほ多々残つてゐる。是等は目下編纂中にて、更に第二の全集数巻を刊行する筈である」と念を押している。それらの多くが石河の筆になるものと強く疑われることは、すでに見た通りだ。石河は右手で『諭吉伝』を書き、左手で、その裏付けとなる『大正版全集』と『昭和版続全集』を編んだ、と言えるだろう。平山の反省の弁。
私を含め今までの研究者の全てが、石河の書いた『福沢諭吉伝』の記述を、石河が編纂した『福沢全集』によって確認してきたのであった。伝記と全集との間に矛盾がないのは当然である。しかしわれわれはもう一歩踏み込んで、それら二八四編〈日清戦争中の94〜95年分の論説〉が本当に福沢の手になる論説なのかどうかをきちんと確認するべきだったのである。
石河にとっての「理想の福沢像」とはいかなるものであったか。一言で言えば「国権拡張論者としての福沢」である。
前回の「民権か国権か」編で、安川寿之輔の福沢批判を紹介した。曰く、福沢は初期には「一身独立して一国独立する」という命題を掲げながら、中期以降は「一身独立」を棚上げしたまま「一国独立」の国権確立論をさらに進めて、軍備強化による国権拡張論へと突き進んだ、と。今日の価値観を以て見れば、国権拡張論はマイナス評価の軍国主義・侵略主義・植民地主義等々でしかないけれども、1932(昭和7)年の石河にとっては、それこそが最高のプラス価値だった。
1928/06 関東軍が張作霖を爆殺(満州某重大事件)
1929/10 世界恐慌始まる
1931/09 満州事変勃発
1932/01 上海事変勃発
1903      満州国建国
1905      五・一五事件
1933/03 国際連盟脱退
1936/02 二・二六事件
平山は、福沢真筆の論説と石河の筆になる論説とを比較して、石河の思想の特徴を3点挙げる。(1)天皇への崇敬心が甚だしく深い、(2)国際関係を経済的側面から考えることをせず、具体的な政治的勢力範囲として捉えがちである、(3)中国人と朝鮮人に対する民族的偏見が非常に強い。ゆえに、石河を「時局迎合的」である、と評する。だが、筆者の理解では、石河はもともと国家主義的な思想の持ち主だったと考えるべきではないか。彼が時代にすり寄ったのではなく、時代が彼に近づいてきたのだ。
石河は1859(安政6)年、水戸藩士の家に生まれた。幕末の水戸においては、会沢正志斎、藤田東湖らが過激な「尊皇攘夷」を唱えていた。そういう土地柄の出身者が、なぜか洋学者の創った慶応義塾に学び、1885(明治18)年、時事新報社に入った。入ったとはいえ、石河は自由主義的な思潮とは親しまず、国家主義的なるものへの傾斜を深めていったのではなかろうか。福沢の中に自由主義者の側面と国権論者の側面が同居していたとすれば、国権論者の側面だけを、石河は自分の思想に合わせてデフォルメして見せた、と言えるかも知れない。
ともあれ、おびただしい数の「国権拡張論」的な論説が「福沢諭吉」の名前で世に出たことによって、軍国主義への道を突き進む昭和という時代に、福沢は再びスポットライトを浴びたのだった。石河の得意はいかばかりであったか。
その後、日本は世界を相手に戦争を仕掛け、行くところまで行って破滅した。石河の描いた「福沢像」は地に落ち、「侵略主義者・福沢」の汚名だけが残った。石河は1943(昭和18)年7月、日本の敗戦を知らずに世を去った。
以上、長々と平山の著書に沿いながら、『福沢諭吉全集』出版の経緯を辿ってきた。1892(明治25)年以降の論説がほとんど石河の筆になるものかどうかは、なお慎重な吟味を必要とするだろうが、平山の問題提起は重い。今後、福沢研究者はこの問題を避けて通ることは許されまい。但し、石河によって歪められた部分をすっかり取り除いたとして、あとに残った福沢像が国家主義的・侵略主義的でなくなるかどうかは別問題である。「福沢諭吉の真実」に迫る道はなお遠い。 
脱亜論の意義
前2回で、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』と、平山洋『福沢諭吉の真実』を取り上げた。中期以降の福沢を否定する安川と、一貫して全面擁護する平山との隔たりがいかに大きいかを見た。改めてここで、01回で取り上げた「脱亜論」に絞って、双方の主張を整理し、筆者の考えを述べよう。
明治18(1885)年3月の時事新報に載ったこの無署名論説を、安川は福沢の数あるアジア蔑視・植民地支配容認発言の一つにすぎないとみる。曰く、4年前の明治14(1881)年に出版した『時事小言』において、福沢はすでに「文明史観からみて蔑視せざるを得ない国は、植民地支配されても止むを得ない」との認識に立っており、翌年の明治15(1882)年にも、創刊まもない時事新報紙上で「朝鮮の交際を論ず」や「東洋の政略果たして如何せん」といった侵略主義的な論説を掲げていた。その延長線上に「脱亜論」はある、と。
つまり、「脱亜論」の内容にはなに一つ新しいものはないのである。唯一、新しいのは「脱亜」という言葉であり、この表現が直截で分かりやすく印象的な表現であるために、後世の人の記憶によりつよく刻印されることになった。しかし、幕末初期啓蒙期以来、林則徐や洪秀全への愚弄に見たように、欧米帝国主義列強の武力侵攻をともなう強圧外交に対して、「蟷螂の斧」をふるおうとするアジア諸国民を一貫して「野蛮」「未開」「暴民」「土人」の行為と罵り続けてきた福沢諭吉は、もともと初期から「脱亜」の姿勢をとっていたのであり、その自らの一貫した姿勢をここで「脱亜」と表現しただけのことである。(以下略)
一方の平山は、「脱亜論」は当時の朝鮮で起きた現実政治の反映であって、蔑視思想や侵略思想を含むものではない、との見解に立つ。すなわち、前年の1884年12月、福沢も関与した朝鮮独立党のクーデター「甲申政変」が失敗に終わり、首謀者らの一部は辛うじて日本に逃げ延びたものの、あとに残った父母や妻子が無残に処刑された。その憤りが福沢に「脱亜論」を書かせた、とする。平山は、「脱亜論」に先立って掲載された「朝鮮独立党の処刑(後編)」を引用し、幼児まで処刑したことの残虐さをつぶさに紹介した上で、以下のように結ぶ。
「脱亜論」でアジア蔑視の表明としてしばしば批判されている部分が、じつは「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約に過ぎないことは一目瞭然である。約三週間後に「脱亜論」を目にした読者にはそれがはっきりと分かったはずである。「卑屈にして恥を知らざ」る「支那人」とは清国進駐軍のことであり、「人を刑するの惨酷なるあ」る「朝鮮国」とは甲申政変後の現地の状況を述べていたに過ぎない。
また、「脱亜論」には文明諸国によるアジア分割の危機が述べられているが、それは日本が文明国の一員として侵略に参加するべきだということではない。そうではなくて、文明諸国から日本も野蛮国であるとみなされるならばその侵略を受ける可能性がある、という意味での日本人に向けた警告なのである。
イギリス海軍が朝鮮の混迷に乗じて対馬の西方一二〇キロに浮かぶ巨文島を占領したのは「脱亜論」掲載から一ヵ月後の一八八五年四月、また清仏戦争の結果としてべトナムがフランスの植民地となったのは三ヵ月後の同年六月のことであった。
従来の研究ではしばしば「脱亜論」では日本による大陸分割政策が提唱されているとみなされてきたが、当時の読者と同様にこの時期の論説を一連のものとして読んでみると、むしろ西洋諸国からの侵略の脅威におびえる『時事新報』社説子「我輩」の姿が浮かび上がってくる。(以下略)
1880年ごろの朝鮮では、国王(高宗)の実父である大院君と、王妃の閔妃一族とが敵対していた。これに政治路線が絡んで、支那(清国)との宗属関係を重視する事大党(守旧派)と、日本に倣って近代化を目指す独立党(開化派)との抗争が続いた。守旧派の大院君から実権を奪った閔妃一族は、独立党と結んで開化政策を進めた。その一環として、日本から軍事顧問を招き、新式の軍隊づくりを進めた。これに旧軍兵士が不満を募らせ、1882年7月、反日暴動を起こした。「壬午(じんご)軍乱」である。旧軍兵士らは閔妃一族の政府要人らを殺害し、日本公使館を襲撃した。花房義質公使らは辛くも脱出し、日本に逃げ帰った。暴動を裏で操っていたのが大院君だった。清国政府が鎮圧に乗り出し、大院君を自国に連行して国王と閔妃一族を復権させた。以後、清国の宗主的な立場が強まり、反比例して日本の影響力は後退した。
こうした中で、金玉均、朴泳孝ら開化派は、国王を擁立して立憲君主制の近代国家を樹立しようと、守旧派に傾いた閔妃一族を排除するクーデターを起こした。これが1884年12月の「甲申政変」である。以下は山辺健太郎『日韓併合小史』(岩波新書、1966年)や海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)による。
計画では、郵征局の落成式に出席した政府高官を、放火騒ぎに乗じて暗殺する手はずだった。いくらかの手違いはあったものの、金玉均らは王の身柄を確保し、出動要請を受けた日本軍が周りを固めた。だが、軍事行動としてはお粗末だった。朝鮮には清軍が1500人駐留していたのに対し、日本公使館を警護する日本軍は150人しかいなかった。清軍が王宮を包囲すると、竹添進一郎公使はさしたる抵抗もせずに日本軍を引き揚げさせた。開化派政権は腰砕けとなり、わずか3日で崩壊した。クーデターに加わった開化派の多くが殺され、金玉均らは辛うじて日本へ亡命した。
このクーデターには、現地責任者の竹添が深く関わっていただけでなく、外務卿の井上馨も事前に計画を承知していた。また、金玉均と親交のあった福沢は、朝鮮政府の顧問をしていた門弟の井上角五郎に計画を手助けさせた。守旧派高官を襲撃するための武器は井上角五郎が日本から持ち込んだと言われる。
こうした歴史的経緯を踏まえて、福沢の「脱亜論」を読み返してみると、なるほど平山の指摘するように、独立党のクーデターに介入して挫折した福沢の「万事休す」という思いが籠もっているように読めなくはない。文中にある「支那人が卑屈にして恥を知らざれば……」や「朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば……」は非難とみるべきであって、蔑視思想の表れだとは、筆者も考えない。しかし、侵略思想もなかったかとなると、平山の見解に俄には同意しかねる。
「脱亜論」の末尾を見よ。
「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」
この表現は、支那朝鮮に対する侵略宣言ではないのか。平山の言うように「文明国の一員として侵略に参加するべきだということではない」「文明諸国から日本も……侵略を受ける可能性がある、という意味での日本人に向けた警告なのである」とは、とても読むことができない。
日本側が官民協力して独立党のクーデターを後押ししたことは、今日的な政治規範から見れば、危険な革命輸出であり、許されざる内政干渉・主権侵害と言うべきだろう。しかし、福沢にとって、目指すところはあくまで朝鮮の独立であって、侵略ではなかった。独立への足掛かりを失ったとき、福沢は「侵略やむなし」へと一線を越えたのである。文字通りに読めば、それが「脱亜論」の位置づけではなかろうか。
そうだとすると、最初に紹介した安川の「なに一つ新しいものはない」との見解も再検討する必要が生じてくる。安川が同類だと見なした明治15年の「朝鮮の交際を論ず」はいかなる論説であったのか。
(前略)我輩が斯く朝鮮の事を憂て、其国の文明ならんことを冀望(きぼう)し、遂に武力を用ひても其進歩を助けんとまでに切論するものは、唯従前交際の行き掛りに従ひ、勢に於て止むを得ざるのみに出たるに非ず。今後世界中の形勢を察して、我日本の為に止むを得ざるものあればなり。方今、西洋諸国の文明は日に進歩して、其文明の進歩と共に兵備も亦(また)日に増進し、其兵備の増進と共に、呑併の慾心も亦、日に増進するは自然の勢にして、其慾を逞(たくま)しふするの地は亜細亜の東方に在るや明なり。此時に当て亜細亜洲中、協心同力、以て西洋人の侵凌を防がんとして、何れの国かよく其魁(さきがけ)を為して盟主たる可きや。我輩敢て自から自国を誇るに非ず。虚心平気これを視るも、亜細亜東方に於て、此首魁盟主に任ずる者は、我日本なりと云はざるを得ず。
我既に盟主たり。其隣国たる支那朝鮮等は如何の有様にして、之と共に事を与(とも)にす可きや。必ずや我国に倣ふて近時の文明を与にせしむるの外なかる可し。若しも然らずして、其国の旧套を存し、其人民の頑陋に任したらば、啻(ただ)に事を与にす可らざるのみならず、又随て我国に禍するの媒介たるに至る可し。輔車(ほしゃ)相依り唇歯(しんし)相助くと云ふと雖(いえ)ども、今の支那なり、又朝鮮なり、我日本の為によく其輔たり唇たるの実功を呈す可きや。我輩の所見にては万これを保証するを得ず。加之(しかのみならず)、不祥の極度を云へば、其国土が一旦遂に西人の蹂躙(じゅうりん)する所と為ざるを保す可らず。
今の支那国を支那人が支配し、朝鮮国を朝鮮人が支配すればこそ、我輩も深く之を憂とせざれども、万に一も此国土を挙げて之を西洋人の手に授るが如き大変に際したらば如何。恰(あたか)も隣家を焼て自家の類焼を招くに異ならず。西人東に迫るの勢は、火の蔓延するが如し。隣家の焼亡、豈(あに)恐れざる可けんや。故に我日本国が、支那の形勢を憂ひ、又朝鮮の国事に干渉するは、敢て事を好むに非ず、日本自国の類焼を予防するものと知る可し。是即ち我輩が本論に於て朝鮮国の事に付、特に政府の注意を喚起する由縁なり。
確かに、一読した印象はよく似ている。この中に出てくる「輔車相依り唇歯相助くと云ふと雖ども、今の支那なり、又朝鮮なり、我日本の為によく其輔たり唇たるの実功を呈す可きや」と、「脱亜論」に出てくる「輔車唇歯とは、隣国相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は、我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず……」とはいずれも、支那朝鮮がこのままでは、西洋列強のアジア侵食を前にして日本の助けにならない、との危機感の表明だ。ならばどうするか。「朝鮮の交際を論ず」の結論は、末尾にある通り、日本の自衛のためには朝鮮への内政干渉も辞さず、という「強制開化論」である。強制開化は内政干渉・主権侵害ではあっても、相手国内に呼応する政治勢力が存する限りは、歴然たる侵略とは言えない。従って、「侵略肯定論」に踏み込んだ「脱亜論」が単純にその延長線上にあるとする安川の認識には賛成できない。
そうは言いながらも、福沢が「脱亜論」を書いた時点で、本当に「志那朝鮮への侵略やむなし」と決意していたのかとなると、いささか躊躇せざるを得ない。と言うのも、「脱亜論」の最後がこうなっているからだ。
「悪友を親しむ者は、共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」
わざわざ「心に於て」と断っている。「我れは亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」ときっぱり言い切って構わないはずなのに、そうしなかったのはなぜか。「行動に於ても謝絶する」ことへのためらいがあったのではないか。そう考えると、「度し難い国だ。どうなろうと、もう知ったことか」という心の呻きのような気もしてくるのだ。
時事新報掲載の論説を収録した『福沢諭吉選集・第七巻』(岩波書店、1981年)の解説で、坂野(ばんの)潤治は「福沢の朝鮮問題への関心は、金玉均ら開化党の台頭とともに高まり、その敗北とともにしぼんだ」との見方に立って、次のように記す。()は原文のもの、〈〉は筆者の補足。
福沢は『時事小言』刊行の数カ月前に、朝鮮国内における「改革派」がきわめて前途有望に思えたときに、朝鮮の近代化を助けるという課題に強い興味を示した。しかし朝鮮国内における金玉均ら「改革派」の立場は福沢が『時事小言』を書くころまでには、きわめて悪化していた。このため福沢は、隣国の近代化推進者を支援するという民間思想家として何ら恥ることのない課題を乗り越えて、日本政府に、武力行使を含めた朝鮮内政改革派の援助を要求するという点にまで、『時事小言』を書いた時点で追い込まれていた。この立場は明治十五年(一八八二)三月の「朝鮮の交際を論ず」という『時事新報』社説においても繰り返されている。しかるに事態は福沢にとってはさらに悪化し、十五年七月の壬午事変によって親日=改革派は政府の要職から排除されてしまった。このため福沢は朝鮮占領論かとも思われるような激越な干渉論を『時事新報』紙上で展開し、また同年十一月刊の『兵論』の中では対清開戦準備のための軍拡論を唱えるにいたったのである。さらに福沢は安南〈ベトナム〉問題をめぐる清仏間の対立の中で、清国の弱体性が次第に明らかになると、一層積極的、具体的な内政干渉に干与し、金玉均ら親日=改革派が日本公使館と共謀して起したクーデター(甲申事変)にかなりな程度までコミットしていくのである。甲申事変が失敗して、改革派援助による朝鮮近代化=親日化政策が完全に失敗したことは、福沢にとっては、朝鮮問題に関する明治十四年初頭以来の状況構造が根底から変化したことを意味した。このとき福沢は、朝鮮国内の改革派を援助しての近代化政策をこれ以上追求することは無意味であることを宣言するために「脱亜論」を書いたのである。
これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの福沢の主張の敗北宣言にすぎないのである。(以下略)
板野の見解は要するに、「脱亜論」を額面通りに支那朝鮮への「侵略肯定論」と読むのは間違いであり、福沢の目指した「アジア改造論」が足掛かりを失った敗北宣言と読むべきだ、というのである。
小泉信三は、著書『福沢諭吉』(岩波新書、1966年)の中で「福沢が朝鮮問題に心を寄せ始めたのは明治14(1881)年の頃からであったと察せられる」とし、その根拠として、福沢がロンドン滞在中だった門下生の小泉信吉(信三の父)らに与えた同年6月17日付の書簡を紹介している。
「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中(そのうち)壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居(やりおり)候。誠に二十余年前自分の事を思へば同情相憐むの念なきを不得(えず)、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦(また)外人を入るゝの発端、実に奇遇と可申(もうすべく)、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其(その)咄(はなし)を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒(なにとぞ)今後は良く附合(つきあい)開らける様に致度(いたしたき)事に御座候。」
福沢は、自分の若いころを見る思いで、朝鮮独立党の若者に支援の手を差し伸べた。朝鮮の独立という「理」とともに、「情」においても心を動かされたからこそ、のちの「大陸浪人」ばりに、福沢は彼らのクーデター計画にまで関与したのだろう。合理主義者福沢の内に秘められたロマン主義者の一面を見る思いがする。
以上をまとめれば、朝鮮問題に関して福沢がいかに内政干渉・主権侵害の言説を唱えようと、朝鮮独立党の支援という目的がある限り、侵略肯定論とまでは言えなかった。しかし、その足掛かりが消滅してしまえば、内政干渉・主権侵害はたちまち侵略に転じる。「脱亜論」は、そうした転換点での論説であった。
それから9年後の明治27(1894)年、日本は清国との間で戦争に踏み切った。朝鮮に対する清国の宗主権を排除するのが主目的だった。呼応する政治勢力が朝鮮国内に存在しないにもかかわらず、武力でもって朝鮮を日本の支配下に置こうとした。もはやあからさまな侵略行為と言うしかない。そして、福沢は戦争を熱烈に支持した。ここに、福沢ははっきりと「侵略主義者」となったのである。 
 
福沢諭吉

 

福沢諭吉(1834-1901)の『学問のすゝめ』を読んだ人は脳天を上からガーンとなぐられたやうなショックを受けるだらう。そして一種の興奮状態に引き込まれてしまふだらう。
昔『福翁自伝』を読んで、若き日の福沢が神様の名を書いたお札を試しに便所で使つて何とも無かつたと書いているのを読んだときには、すごいやつがゐると思つたものだ。
福沢少年は藩の殿様の名前を書いた紙切れを踏んだことを兄に咎められて、殿様の頭を踏んだのならまだしも紙に書いたものを踏んで何が悪いのかと疑問を持つた。それで神様の名を書いたお札を人のゐないところで踏んでみた。ところが何ともないので、厠(かはや)に持ち込んだといふのだ。なんと型破りな人間だらう。この話は既存の価値を全て疑つてかかる彼の姿勢を象徴的に表してゐる。
ところが、彼の頭の中はその行動以上に衝撃的なものであることが『学問のすゝめ』を読むと分かる。
福沢は神様のお札のやうな形だけで実体として価値のないもの力のないものを『学問のすすめ』で名目とか名分と言つて徹底的に攻撃してゐる。
たとへば親と子は平等でも対等でもない。子は黙つて親の言ふ通りにしておけば万事うまくいく。この両者の間の名分、すなわち身分の違いや差別はあつてよい。
しかし、この考へ方を社会に持ち込んではいけないと彼はいふ。なぜなら、これは専制だからである。専制とはお上と国民の関係を親子の間柄に見立てて、お上の方が偉いのであるから国民は黙つてお上の言ふ通りにしておけば万事うまくいくといふ考へ方である。
専制といふものを説明するのに福沢が使つた譬へ話はおもしろい。
例へば、会社の社長は社員を子供扱ひにしてただ命令通りにさせるだけで、大切なことは自分ですべてを取り仕切つてゐると、社員は表向き忠実さうにしているが密かに使ひ込みをして駆け落ちをして逃げてしまふのが落ちである。
これは他人は当てにならないといふことだらうか。そうではないと福沢は言ふ。これは社員を子供扱ひしてはいけないといふことなのである。そして、これこそが政治でいふ専制なのである。
そして、専制のおかげで日本の社会には建前と本音を使ひ分ける人間がはびこるやうになつたと言つてゐる。表向きは忠義の士のやうな顔をしてゐながら、与へられた役職を使つて賄賂をとりリベートをため込んで、辞める頃には大金を貯め込んでゐるのが当たり前の世の中になつてしまつてゐるといふのだ。
つまり専制とは百害あつて一利なしなのである。
本来は、政府と国民とは親子の関係ではなく、他人の関係である。だから両者の間には契約や約束が必要なのである。親子の間のやうに恩恵や慈悲ではなく、約束に基づいて維持される関係なのだ。そしてその契約が法律なのである。
なぜ親子の関係ではいけないのか。それは力の強い弱いと身分の上下とは関係がないからである。政府は国民より力が強いが、だからといつて政府の方が偉いといふことはないのである。政府と国民は対等なのである。
男女の間の関係も同じである。男と女は対等であり、政府と国民は対等であり、そもそも人間は貧富の差はあつても平等なのである。それこそが『学問のすゝめ』の冒頭でいはれる「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といふ意味である。
だから福沢は、ドメスティックバイオレンスの不当なことを既にこの本の中で主張してゐる。一般社会で人が人のものを奪つたり人を辱めたりすれば罪になるのは当然なのに、家の中で夫が妻を辱めることがどうして許されようかと言ふのだ。
だから、「女大学」の「嫁いだら夫に従へ」などといふ教へは福沢に言はせれば、もつてのほかなのである。
ただこのお上と国民は対等であるとする福沢の過激な説は、天皇制に反対するものではないかと言はれて大いに物議を醸し、福沢の身に危険が迫るところまで発展した。それで、福沢は五九樓仙萬といふ名前で新聞に弁明の投書をしなければならなくなつた。
そこでは君主制であらうと共和制であらうと暴政は暴政であり民主主義は民主主義であると説いて、世上の批判を終息させてゐる。
しかし、明治の初めにすでにこれほど徹底した民主主義者がゐたことは全くの驚きである。
民主主義とは国民に主権があるといふことであり、それは、国民は支配される者であるのみならず同時に支配する者でもあるといふことである。つまり民主主義の国では国民は一人で二つの役割を同時に演じなければならない。
国民主権について、福沢は国民を家元であると言ひ、政府をその名代であると言ふ。一旦政府に任せた役割分担を国民は破るべきではない。そしてそれが法を守るといふことなのだ。
この考へ方からすれば、政府は国民が雇つてゐるのであるから、その政府の役人に給料を払つてやるのは当たり前で、それに不満を言ふべきでない。
例へばわずかの金で政府から警察といふ安全を買ふのであるから安いものだ。世の中に多くの買物があるが、くだらない無駄遣ひに比べたら、これほど効率のいい買物はないと福沢は言ふ。
民主国家では支配者があつてそれとは別に被支配者があるのではない。それに対して、専制国家では主役は支配者となつた人間だけで、それ以外の人間は脇役であり召使いであり客でしかない。
そしてそのやうな国は独立国家として弱いと福沢は言ふのだ。
その典型的な例として、福沢は桶狭間の戦ひを例に引く。桶狭間の戦ひでは今川義元一人の首が織田の軍勢に討ち取られると、その途端に今川の民衆は戦ひをやめて今川の国は崩壊してしまふ。
それに対して、普仏戦争ではナポレオン三世の身柄がプロシヤに生け捕りにされても、国民はフランスを捨ててしまふこともなければ、フランスといふ国が崩壊するといふこともなかつた。それは今川の民衆はその国の客だつたが、フランスの国民は国の主人だからである。
また、赤穂浪士の討入りも福沢の眼から見れば決して義挙ではなく、愚挙でしかない。
敵討ちなどといふものは個人で行なふ裁判に他ならないのであつて、独立国の一員として恥づべきものだ。そもそも浅野内匠頭は吉良上野介に無礼な目に会はされた時点で、裁判に訴へておれば仇討ちなどする必要はなかつたのだ。
内匠頭の刃傷事件に対する幕府の裁決が不満ならば、それを裁判に訴へればよかつたのである。一人が訴へ出て殺されても四十七人が次々と訴へ出れば、いつかは正当な裁判を受けることが出来たはずだ。そして、それでこそ真つ当な国民としての姿勢であり、法を重視する人間の態度である。それをせずにただ怒りにまかせて暴力に訴へるのは犯罪者のすることであると。
言はれてみれば当然ではあるが、このやうな考へ方は現在の日本人にそれほど浸透したものとは言へない。国民の多くは相変らず自分は国のお客さんであつて国の主人であると思つてゐないからである。
このやうな福沢の考へ方の出発点は、子供の頃から彼の心に深く染みついてゐた門閥に対する不満である。門閥とは家来の家に生まれついた者は死ぬまで家来であり、上役の家に生まれついた者は能力がなくても上役になるといふ理不尽な制度であつて、それは封建制度そのものである。
これに対する反発から生まれた平等といふ考へ方は、この『学問のすゝめ』といふ本の基本であり、最も強く主張されてゐる考へ方である。
この本は第一編だけを読むと、勉強すれば誰でも出世できるから勉強しようと言つて学問を勧めてゐる本であるかのやうに見えるが決してさうではない。
ところで、この本の主張には当時の日本を取り巻く世界情勢が大きく影響してゐた。当時の日本は外国によつて独立を脅かされてゐた。実際、中国やインドは欧米の植民地となつてしまつてゐた。日本もうかうかしてゐると同じやうになつてしまふ恐れがあつた。
だから、この危機感のもとに暮らす福沢の心には、この日本の独立を保つにはどうすべきかといふ思ひが強くあつて、それに対する福沢の答へが私(わたくし)の独立を打ち立てることだつた。
それは民間が力をもつて国民の一人一人が独立した力を持たねばならないといふことである。個人が寄り集まつて成立するのが国家の独立だから、そのためにはまづ個人の独立が必要だといふのだ。そして、そのためには学問が必要だといふのである。つまり、日本国の独立を維持するための学問の勧めなのである。
そして、個人の独立は私立の事業を広めることによつて可能になると福沢は考へた。
文明の力といふものは政府がやつてゐるやうに単に鉄道を引いたり議事堂を建てたりすることによつて高まるのではない。むしろ、さうした道具を使ひこなす独立した人間をまず民間が造らなければならない。そのために彼は学問を振興し、自ら学校を作つた。それが慶応義塾である。
福沢の考へ方は相対主義である。だから絶対的な価値を認めない。老子と荘子は孔子と孟子から見れば異端だが、老子と荘子から見れば孔子と孟子もまた異端だと彼はいふ。
この本は明治の始めに書かれたものではあるが、平成の今にして決して古びた印象を与へない。今読んでも新しい内容を持つており、今の我々の価値感に対してさへも挑戦的である。
逆に言へば、日本人の価値観は明治の初めからそれほど変つてはゐないし、福沢のいふ方向にはあまり進んでゐないといふことでもある。
例へば、今の政府が民間に出来るものは民間にと言つてしきりに民営化を進めてゐる。しかし、民営化といひ民間活力の導入といひ、それは福沢がとつくの昔に言つてゐたことなのだ。
以上のやうに、この本は読む前と読んだ後ではこの世の中を見る目が変つてしまふと言えるやうな本である。しかしこの本を自分で読むことは今の日本人には容易なことではない。
岩波文庫はこの本を何とか読んでもらひたいと、文語文であるにも関らず、旧仮名を新仮名にしたしまつたほどだ。しかし、新仮名で読めるなら旧仮名でも読めるはずなのだ。というのは、文語文の読みにくさはそんなものでは解消しないからである。
むしろ、この本の文語を困難と考へずに『学問のすゝめ』のもつ言葉の面白さと捉へて、それを楽しんでしまはうとするのがよい。
もともと日本語の漢字かな交じり文は、漢文の読み下し文から発達したものである。そのかなの部分は本来は漢文の横に付けられた送りがなであるからカタカナだつた。
したがつて、明治時代の人たちは漢字かな交じり文ではカタカナを使つていたし、『学問のすゝめ』の原稿もカタカナで書かれた。六法全書の刑法はカタカナで書かれているが、それはこの伝統の名残である。昔は正式の文書はカタカナだつた。
また漢文の送りがなだから、明治の文章は送りがなが非常に短い。例へば「明に」だけで「あきらかに」と読んだりする。
一方、福沢自身、若い頃は漢文をものすごく勉強してゐて漢文、特に儒学の先生になれるほどだつたから、『学問のすゝめ』の中にも、漢文の教養が顔をのぞかせたりする。
例へば、杜甫『蜀相』の「師(いくさ)に出でて未だ捷(か)たず身先づ死す、長く英雄をして涙を襟に満たしむ」といふ諸葛亮の無念を悼む詩をパロディーにして、下男が「使に出でゝ未だ返らず身先づ死す、長く英雄をして涙を襟に満たしむ可し」と書けてしまふのである。
(それだけでなく、「文明の器物」ではなく「文明の精神」をまづ輸入すべきだといふ福沢の主張は、外見より中身が大切といふ孟子の考え方によく似てゐるし、たくみに比喩を使つた明快な議論の進め方も孟子そつくりである)
福沢の書いた文章はそのやうな文章であつて、これを読めば漢文の勉強が出来てしまふのである。もつとも福沢が文章は当時としてはとても分かりやすいもので、その組み立てに使つた言葉はほぼ次のものに限られてゐる。
「畢竟・必竟」「固(もと)より」「抑(そもそ)も」「蓋(けだ)し」「苟(いやしく)も」「豈(あに)」「仮令(たとひ)」「加之(しかのみならず)」「是(これ)を譬(たと)へば」「勿論(もちろん)」「恰(あたか)も」「且(かつ)」「或(あるい)は」「則・即・乃(すなは)ち」「然(しか)も」「故(ゆゑ)に」「而(しかう)して」「と雖(いへど)も」「然りと雖ども」
「以(もつ)て」「由(よつ)て」「就(つい)て」
「漸(やうや)く」「頓(とみ)に」「俄・遽(にはか)に」「僅(わづか)かに」「稍(や)や」「聊(いささ)か」「頗(すこぶ)る」「自(おのづ・みづ)から」「所謂(いはゆる)」「徒(いたづら)に」
「一度(ひとたび)〜すれば」「随(したがつ)て〜随(したがつ)て」「啻(ただ)に〜のみならず」「〜に当(あたり)て」「試(こころ)みに見よ」「愈(いよいよ)〜愈」
「爰(ここ)に」「此(これ)と彼(かれ)と」「〜に似(に)たり」「遑(いとま)あらず」「喧(やかま)し」「〜は姑(しばら)く擱(さしお)き」
福沢はこれらの漢文の決まり文句を巧みに使ひながら自分の考へを展開していくのだ。
もう一つ面白いのは、明治の人である福沢の漢字の使用法が我々とは大幅に異なつていることだ。例へば
「全て」は「都て」と書き、
「元より」は「固より」と書く。
「例へば」は「譬へば」と書く。
「言へども」は「雖も」と書く。
「苦しめる」は「窘しめる」と書く。
「原因」は「源因」と書く。
「憂ふ」は「患ふ」と書く。
「悖(もと)る」は「戻る」と書く。
「殊更に」は「故さらに」と書く。
「ひたすら」は「只管」と書く。
「とても」は「迚も」と書く。
「逃(のがる)る」は「遁るゝ」と書く。
「暇(いとま)」は「遑」と書く。
「名る」と書いて「名付くる」と読む。
「数ふる」と書かずに「計(かぞふ)る」と書く。
「長所」か書かずに「所長」と書く。
「見聞」と書かずに「聞見」と書く。
「最近」と書かずに「輓近(ばんきん)」「方近(はうこん)」と書く。
「理由」と書かずに「由縁(ゆえん)」「所以(ゆゑん)」と書く。
「趣旨」と書かずに「趣意」と書く。
「自然に」と書かずに「天然に」と書く。
「全く」や「全然」と書かずに「悉皆(しつかい)」と書く。
「全体」と書かずに「前後」と書く。
「その上」と書かずに「且(かつ)」と書く。
「稍(やや)」と「漸(やうや)く」を「次第に、徐々に」の意味で使う。
「ますます」「おのおの」「いよいよ」などは「益々」「各々」「愈々」ではなく「益」「各」「愈」の一字ですませる。
「この」は「此」と漢字書きされることが多い。
「その」は必ず「其」である。
「これ」は「之」か「是」。
「また」は「又」「亦」の二種類あり、主に文頭では「又」が文中では「亦」が使はれる。
「ない」(否定)は「非(あら)ず」が使はれる。
「言ふ」はほとんど「云ふ」を使ふ。
「なほ」は「尚」と「猶」の二つが使ひ分けられる。
「異なる」は「殊なる」と書く。
「拡る」で「おしひろめる」と読む。
「くく」と読む「区々」が、「まちまち」とか「些細な」といふ意味でよく出てくる
「さまたげ」が「妨げ」としてよく出てくる。
「なきに非ず」「ざる可らず」「〜ざるをえず」などの二重否定が頻発するが、これらは強い肯定である。
「余輩」「余」は福沢が自分のこと指して使ふ。「我輩」は「我々」の意味で使はれる。
「社友」は慶応の学者と社員のこと。
「べし」は「可し」と書くのだが、この「可し」や「可(べか)らず」が文章の終はりにしきりに出てくる。しかもそれが可能・推量・当然・命令のどれであるかは文脈から読み取る必要がある。
「逞(たくま)しうする」が「有効にする」「実現する」といふ意味でしきりに使はれる。
「深切(しんせつ)」が「切実」といふ意味でよく使はれる。「親切」と同じ意味のこともある。
「刺衝(ししよう)」といふ言葉が「批判」といふ意味でよく使はれる。
「実験」は「実見」と言ふ意味で使はれる。
英語の文脈がそのまま表れてゐることもよくあつて、「〜であるか〜」といふ文章もよく出てくる。これは英語のORを日本語で表したものである。この「か」はORを意識した場合には「歟」か「乎」と漢字で書かれる。
専門用語も今の漢字とはだいぶ異なる。「権利」といふ表現はなく、おそらくそれを表してゐるのは「権理」である。また「法則」と言はずに「定則」といふ。
かうして明治の言葉の豊かさ優雅さ面白さを楽しみながら、『学問のすゝめ』を私のページ(ふりがな付き)で一通り読み終へたならば、福沢の主著である『文明論之概略』はもうかなり容易に読めるはずである。
そして『文明論之概略』を実際に読めば、たとへば、福沢の有名な言葉である「多事争論」が単なる言論の自由を言つたものでなく、中国対日本における日本優位論の文脈の中で出てきた言葉であることが分る。
また「古今の通論を聞くに、我邦を金甌無欠(きんおうむけつ)万国に絶すと称して意気揚々たるが如し。其(その)万国に絶するとは唯皇統の連綿たるを自負するもの乎(か)。皇統をして連綿たらしむるは難(かた)きに非ず。北条、足利の如き不忠者にても尚(なほ)よく之を連綿たらしめたり」
つまり、日本の国体の価値は皇室の継続にあるのではなく日本の独立の存続にある、なんていふ文章が読めたりする。天皇がゐても国の独立が失はれたら元も子もないといふのが福沢の意見らしいのだ。
このやうに『文明論之概略』といふ本も、言ひたい事をかなりはつきりと書いた痛快な書物であるらしいことが分る。この本は、『学問のすゝめ』に続いて、是非とも読まざる可らざる書物である。 
 
痩我慢の説 / 福澤諭吉

 

立國は私なり、公に非ざるなり。地球面の人類、その數、億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各處に群を成し各處に相分るるは止むを得ずと雖も、各處におのおの衣食の富源あれば、之に依て生活を遂ぐ可し。又、或は各地の固有に有餘不足あらんには、互に之を交易するも可なり。即ち天與の恩惠にして、耕して食ひ、製造して用ひ、交易して便利を達す。人生の所望この外にある可らず。何ぞ必ずしも區々たる人爲の國を分て、人爲の境界を定むることを須ひんや。況んや其國を分て隣國と境界を爭ふに於てをや。況んや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするに於てをや。況んや其國に一個の首領を立て、之を君として仰ぎ、之を主として事へ、其君主の爲めに衆人の生命財産を空うするが如きに於てをや。況んや一國中に尚ほ幾多の小區域を分ち、毎區の人民おのおの一個の長者を戴て之に服從するのみか、常に隣區と競爭して利害を殊にするに於てをや。
都て是れ人間の私情に生じたることにして、天然の公道に非ずと雖も、開闢以來今日に至るまで、世界中の事相を觀るに、各種の人民相分れて一群を成し、其一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、都て其趣を同うして、自から苦樂を共にするときは、復た離散すること能はず。即ち國を立て又政府を設る所以にして、既に一國の名を成すときは、人民はますます之に固着して自他の分を明にし、他國他政府に對しては、恰も痛痒相感ぜざるが如くなるのみならず、陰陽表裏、共に自家の利益榮譽を主張して、殆んど至らざる所なく、其これを主張することいよいよ盛なる者に附するに、忠君愛國等の名を以てして、國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ。
故に、忠君愛國の文字は、哲學流に解すれば、純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては、之を稱して美徳と云はざるを得ず。即ち哲學の私情は立國の公道にして、此公道公徳の公認せらるるは、啻に一國に於て然るのみならず、其國中に幾多の小區域あるときは、毎區必ず特色の利害に制せられ、外に對するの私を以て内の爲めにするの公道と認めざるはなし。例へば西洋各國相對し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本國中に於て、封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害榮辱を重んじ、一毫の微も他に譲らずして、其競爭の極は、他を損じても自から利せんとしたるが如き事實を見ても、之を證す可し。
扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。其衰勢に及んでは、迚も自家の地歩を維持するに足らず、廢滅の數、既に明なりと雖も、尚ほ萬一の僥倖を期して窟することを爲さず、實際に力尽きて然る後に斃るるは、是亦人情の然らしむる所にして、其趣を喩へて云へば、父母の大病に囘復の望なしとは知りながらも、實際の臨終に至るまで、醫薬の手當を怠らざるが如し。是れも哲學流にて云へば、等しく死する病人なれば、望なき囘復を謀るが爲め、徒に病苦を長くするよりも、モルヒネなど與へて、臨終を安樂にするこそ智なるが如くなれども、子と爲りて考ふれば、億萬中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすが如きは情に於て忍びざる所なり。
左れば、自國の衰頽に際し、敵に對して固より勝算なき場合にても、千辛萬苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて、始めて和を講ずるか、若しくは死を決するは、立國の公道にして、國民が國に報ずるの義務と稱す可きものなり。即ち俗に云ふ瘠我慢なれども、強弱相對して苟も弱者の地位を保つものは、單に此瘠我慢に依らざるはなし。啻に戰爭の勝敗のみに限らず、平生の國交際に於ても、瘠我慢の一義は決して之を忘る可らず。歐州にて、和蘭、白耳義の如き小國が、佛獨の間に介在して、小政府を維持するよりも、大國に合併するこそ安樂なる可けれども、尚ほ其獨立を張て動かざるは小國の瘠我慢にして、我慢、能く國の榮譽を保つものと云ふ可し。
我封建の時代、百萬石の大藩に隣して一萬石の大名あるも、大名は即ち大名にして毫も譲る所なかりしも、畢竟、瘠我慢の然らしむる所にして、又、事柄は異なれども、天下の政權、武門に歸し、帝室は有れども無きが如くなりしこと何百年、この時に當りて臨時の處分を謀りたらば、公武合体等、種々の便利法もありしならんと雖も、帝室にして能く其地位を守り、幾艱難の其間にも至尊犯す可らざるの一義を貫き、例へば彼の有名なる中山大納言が東下したるとき、将軍家を目して吾妻の代官と放言したりと云ふが如き、當時の時勢より見れば、瘠我慢に相違なしと雖も、其瘠我慢こそ帝室の重きを成したる由縁なれ。
又、古來、士風の美を云へば、三河武士の右に出る者はある可らず。其人々に就て品評すれば、文に武に、智に勇に、おのおの長ずる所を殊にすれども、戰國割拠の時に當りて、徳川の旗下に屬し、能く自他の分を明にして二念あることなく、理にも非にも、唯徳川家の主公あるを知て他を見ず、如何なる非運に際して辛苦を嘗るも、曾て落胆することなく、家の爲め主公の爲めとあれば、必敗必死を眼前に見て尚ほ勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるが如し。是即ち宗祖家康公が小身より起りて四方を經營し、遂に天下の大權を掌握したる所以にして、其家の開運は瘠我慢の賜なりと云ふ可し。
左れば、瘠我慢の一主義は、固より人の私情に出ることにして、冷淡なる數理より論ずるときは、殆んど児戯に等しと云はるるも、辯解に辭なきが如くなれども、世界古今の實際に於て、所謂國家なるものを目的に定めて、之を維持保存せんとする者は、此主義に由らざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競爭して士氣を養ふたるも、此主義に由り、封建既に廢して一統の大日本帝國と爲り、更に眼界を廣くして、文明世界に獨立の体面を張らんとするも、此主義に由らざる可らず。故に人間社會の事物、今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に文野の變遷こそある可けれ、百千年の後に至るまでも、一片の瘠我慢は立國の大本として之を重んじ、いよいよますます之を培養して、其原素の發達を助くること緊要なる可し。
即ち國家風教の貴き所以にして、例へば、南宋の時に、廟議、主戰と講和と二派に分れ、主戰論者は大抵皆擯けられて、或は身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は、講和者の不義を惡んで、主戰者の孤忠を憐まざる者なし。事の實際を云へば、弱宋の大事既に去り、百戰必敗は固より疑ふ可きにあらず、寧ろ恥を忍んで一日も趙氏の祀を存したるこそ利益なるに似たれども、後世の國を治る者が、經綸を重んじて士氣を養はんとするには、講和論者の姑息を排して、主戰論者の瘠我慢を取らざる可らず。是即ち兩者が今に至るまで臭芳の名を殊にする所以なる可し。
然るに爰に遺憾なるは、我日本國に於て、今を去ること二十餘年、王政維新の事起りて、其際不幸にも、此大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。即ち徳川家の末路に、家臣の一部分が、早く大事の去るを悟り、敵に向て曾て抵抗を試みず、只管和を講じて、自から家を解きたるは、日本の經濟に於て一時の利益を成したりと雖も、數百千年養ひ得たる我日本武士の氣風を傷ふたるの不利は、決して少々ならず。得を以て損を償ふに足らざるものと云ふ可し。
抑も維新の事は、帝室の名義ありと雖も、其實は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。此時に當りて、徳川家の一類に三河武士の舊風あらんには、伏見の敗餘、江戸に歸るも、更に佐幕の諸藩に令して再擧を謀り、再擧三擧、遂に成らざれば、退て江戸城を守り、假令ひ一日にても家の運命を長くして尚ほ萬一を僥倖し、いよいよ策竭るに至りて城を枕に討死するのみ。即ち前に云へる如く、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。斯ありてこそ瘠我慢の主義も全きものと云ふ可けれ。
然るに彼の講和論者たる勝安房氏の輩は、幕府の武士用ふ可らずと云ひ、薩長兵の鋒、敵す可らずと云ひ、社會の安寧、害す可らずと云ひ、主公の身の上、危しと云ひ、或は言を大にして、墻に鬩ぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋するのみならず、時としては身を危うすることあるも、之を憚らずして和議を説き、遂に江戸解城と爲り、徳川七十萬石の新封と爲りて、無事に局を結びたり。實に不可思議千萬なる事相にして、當時或る外人の評に、凡そ生あるものは、其死に垂んとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾たる昆蟲が百貫目の鐵槌に撃たるるときにても、尚ほ其足を張て抵抗の状を爲すの常なるに、二百七十年の大政府が、二、三強藩の兵力に對して毫も敵對の意なく、唯一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、古今世界中に未だ其例を見ずとて、窃に冷笑したるも謂れなきに非ず。 蓋し勝氏輩の所見は、内亂の戰爭を以て、無上の災害、無益の勞費と認め、味方に勝算なき限りは、速に和して速に事を収るに若かずとの數理を信じたるものより外ならず。其口に説く所を聞けば、主公の安危、又は外交の利害など云ふと雖も、其心術の底を叩て之を極むるときは、彼の哲學流の一種にして、人事國事に瘠我慢は無益なりとて、古來、日本國の上流社會に最も重んずる所の一大主義を、曖昧模糊の間に瞞着したる者なりと評して、之に答ふる辭はなかる可し。一時の豪氣は以て懦夫の胆を驚かすに足り、一場の詭言は以て少年輩の心を籠絡するに足ると雖も、具眼卓識の君子は終に斯く可らず惘ふ可らざるなり。 左れば、當時、積弱の幕府に勝算なきは、我輩も勝氏と共に之を知ると雖も、士風維持の一方より論ずるときは、國家存亡の危急に迫りて勝算の有無は言ふ可き限りに非ず。況んや必勝を算して敗し、必敗を期して勝つの事例も少なからざるに於てをや。然るを勝氏は予め必敗を期し、其未だ實際に敗れざるに先んじて、自から自家の大權を投棄し、只管平和を買はんとて勉めたる者なれば、兵亂の爲めに人を殺し財を散ずるの禍をば輕くしたりと雖も、立國の要素たる瘠我慢の士風を傷ふたるの責は免かる可らず。殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は萬世の要なり。此を典して彼を買ふ、其功罪相償ふや否や、容易に斷定す可き問題に非ざるなり。 或は云ふ、王政維新の成敗は内國の事にして、云はば兄弟朋友間の爭ひのみ、當時東西相敵したりと雖も、其實は敵にして敵に非ず、兎に角に幕府が最後の死力を張らずして其政府を解きたるは、時勢に応じて好き手際なりとて、妙に説を作すものあれども、一場の遁辭口實たるに過ぎず。内國の事にても、朋友間の事にても、既に事端を發するときは、敵は即ち敵なり。然るに今その敵に敵するは、無益なり、無謀なり、國家の損亡なりとて、専ら平和無事に誘導したる其士人を率ゐて、一朝敵國外患の至るに當り、能く其士氣を振うて極端の苦辛に堪へしむるの術ある可きや。内に瘠我慢なきものは、外に對しても亦然らざるを得ず。之を筆にするも不祥ながら、億萬一にも我日本國民が外敵に逢うて、時勢を見計らひ、手際好く自から解散するが如きあらば、之を何とか言はん。然り而して幕府解散の始末は、内國の事に相違なしと雖も、自から一例を作りたるものと云ふ可し。 然りと雖も、勝氏も亦人傑なり。當時幕府内部の物論を排して、旗下の士の激昂を鎮め、一身を犠牲にして政府を解き、以て王政維新の成功を易くして、之が爲めに人の生命を救ひ、財産を安全ならしめたる其功徳は、少なからずと云ふ可し。此點に就ては、我輩も氏の事業を輕々看過するものにあらざれども、獨り怪しむ可きは、氏が維新の朝に、曩きの敵國の士人と並立て、得々名利の地位に居るの一事なり(世に所謂大義名分より論ずるときは、日本國人は都て帝室の臣民にして、其同胞臣民の間に敵も味方もある可らずと雖も、事の實際は決して然らず。幕府の末年に、強藩の士人等が事を擧げて中央政府に敵し、其これに敵するの際に帝室の名義を奉じ、幕政の組織を改めて王政の古に復したる其擧を名けて、王政維新と稱することなれば、帝室をば政治社外の高處に仰ぎ奉りて一樣に其恩徳に浴しながら、下界に居て相爭ふ者あるときは、敵味方の區別なきを得ず。事實に掩ふ可らざる所のものなればなり。故に本文、敵國の語、或は不穏なりとて説を作するものもあらんなれども、當時の實際より立論すれば、敵の字を用ひざる可らず)。
東洋和漢の舊筆法に從へば、氏の如きは、到底終を全うす可き人に非ず。漢の高祖が丁公を戮し、清の康熙帝が明末の遺臣を擯斥し、日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣、即ち其主人を織田に賣らんとしたる小山田義國の輩を誅し、豐臣秀吉が織田信孝の賊臣桑田彦右衛門の擧動を悦ばず、不忠不義者、世の見懲しにせよとて、之を信孝の幕前に磔にしたるが如き、是等の事例は實に枚擧に遑あらず。
騒擾の際に敵味方相對し、其敵の中に謀臣ありて平和の説を唱へ、假令ひ弐心を抱かざるも、味方に利する所あれば、其時には之を奇貨として、私に其人を厚遇すれども、干戈既に収まりて、戰勝の主領が、社會の秩序を重んじ、新政府の基礎を固くして、百年の計を爲すに當りては、一國の公道の爲めに私情を去り、曩きに奇貨とし重んじたる彼の敵國の人物を目して不臣不忠と唱へ、之を擯斥して近づけざるのみか、時としては殺戮することさへ少なからず。誠に無慙なる次第なれども、自から經世の一法として、忍んで之を斷行することなる可し。
即ち東洋諸國専制流の慣手段にして、勝氏の如きも、斯る専制治風の時代に在らば、或は同樣の奇禍に罹りて、新政府の諸臣を警しむるの具に供せられたることもあらんなれども、幸にして明治政府には専制の君主なく、政權は維新功臣の手に在りて、其主義とする所、都て文明國の顰に傚ひ、一切萬事寛大を主として、此敵方の人物を擯斥せざるのみか、一時の奇貨も永日の正貨に變化し、舊幕府の舊風を脱して、新政府の新貴顕と爲り、愉快に世を渡りて、曾て怪しむ者なきこそ、古來未曾有の奇相なれ。
我輩は此一段に至りて、勝氏の私の爲めには甚だ氣の毒なる次第なれども、聊か諸望の筋なきを得ず。其次第は前に云へる如く、氏の尽力を以て穏に舊政府を解き、由て以て殺人散財の禍を免かれたる其功は、奇にして大なりと雖も、一方より觀察を下すときは、敵味方相對して未だ兵を交へず、早く自から勝算なきを悟りて謹慎するが如き、表面には官軍に向て云々の口實ありと雖も、其内實は徳川政府が其幕下たる、二、三の強藩に敵するの勇氣なく、勝敗をも試みずして降參したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、我日本國民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立國の根本たる士氣を弛めたるの罪は遁る可らず。一時の兵禍を免かれしめたると、萬世の士氣を傷つけたると、其功罪相償ふ可きや。
天下後世に定論もある可きなれば、氏の爲めに謀れば、假令ひ今日の文明流に從て維新後に幸に身を全うすることを得たるも、自から省みて、我立國の爲めに至大至重なる上流士人の氣風を害したるの罪を引き、維新前後の吾身の擧動は一時の權道なり、權りに和議を講じて圓滑に事を纏めたるは、唯その時の兵禍を恐れて、人民を塗炭に救はんが爲めのみなれども、本來立國の要は瘠我慢の一義に在り、況んや今後敵國外患の變なきを期す可らざるに於てをや、斯る大切の場合に臨んでは、兵禍は恐るるに足らず、天下後世、國を立てて外に交はらんとする者は、努々吾維新の擧動を學んで權道に就く可らず、俗に云ふ武士の風上にも置かれぬとは即ち吾一身の事なり、後世子孫これを再演する勿れ、との意を示して、斷然政府の寵遇を辭し、官爵を棄て利祿を抛ち、單身去て其跡を隱すこともあらんには、世間の人も始めて其誠の在る所を知りて其清操に服し、舊政府放解の始末も、真に氏の功名に歸すると同時に、一方には世教萬分の一を維持するに足る可し。 
即ち我輩の所望なれども、今その然らずして、恰も國家の功臣を以て傲然自から居るが如き、必ずしも窮窟なる三河武士の筆法を以て彈劾するを須たず、世界立國の常情に訴へて愧るなきを得ず。啻に氏の私の爲めに惜しむのみならず、士人社會風教の爲めに深く悲しむ可き所のものなり。
又、勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。是亦、序ながら一言せざるを得ず。此人は幕府の末年に、勝氏と意見を異にし、飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、政府の軍艦數艘を率ゐて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戰したれども、遂に窮して降參したる者なり。此時に當り、徳川政府は伏見の一敗、復た戰ふの意なく、只管、哀を乞ふのみにして、人心既に瓦解し、其勝算なきは固より明白なる所なれども、榎本氏の擧は、所謂武士の意氣地、即ち瘠我慢にして、其方寸の中には窃に必敗を期しながらも、武士道の爲めに敢て一戰を試みたることなれば、幕臣又諸藩士中の佐幕党は、氏を総督として之に随從し、都て其命令に從て進退を共にし、北海の水戰、箱館の籠城、その決死苦戰の忠勇は、天晴の振舞にして、日本魂の風教上より論じて、之を勝氏の始末に比すれば、年を同うして語る可らず。
然るに脱走の兵、常に利あらずして、勢漸く迫り、又如何ともす可らざるに至りて、総督を始め一部分の人々は、最早これまでなりと覺悟を改めて、敵の軍門に降り、捕はれて東京に護送せられたるこそ、運の拙きものなれども、成敗は兵家の常にして、固より咎む可きにあらず。新政府に於ても、其罪を惡んで其人を惡まず、死一等を減じて之を放免したるは、文明の寛典と云ふ可し。氏の擧動も、政府の處分も、共に天下の一美談にして、間然す可らずと雖も、氏が放免の後に更に青雲の志を起し、新政府の朝に立つの一段に至りては、我輩の感服すること能はざる所のものなり。
敵に降りて其敵に仕ふるの事例は、古來希有にあらず。殊に政府の新陳變更するに當りて、前政府の士人等が自立の資を失ひ、糊口の爲めに新政府に職を奉ずるが如きは、世界古今普通の談にして、毫も怪しむに足らず、又その人を非難すべきにあらずと雖も、榎本氏の一身は、此普通の例を以て掩ふ可らざるの事故あるが如し。即ち其事故とは、日本武士の人情、是れなり。氏は新政府に出身して、啻に口を糊するのみならず、累遷立身して、特派公使に任ぜられ、又遂に大臣にまで昇進し、晴雨の志、達し得て目出度しと雖も、顧みて往事を囘想するときは情に堪へざるものなきを得ず。
當時、決死の士を糾合して、北海の一隅に苦戰を戰ひ、北風競はずして遂に降參したるは、是非なき次第なれども、脱走の諸士は最初より氏を首領として之を恃み、氏の爲めに苦戰し、氏の爲めに戰死したるに、首領にして降參とあれば、假令ひ同意の者あるも、不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、其落胆失望は云ふまでもなく、況して既に戰死したる者に於てをや。死者若し靈あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん。
傅へ聞く、箱館の五稜郭開城のとき、総督榎本氏より部下に内意を傳へて、共に降參せんことを勸告せしに、一部分の人は之を聞て大に怒り、元來今囘の擧は戰勝を期したるに非ず、唯武門の習として、一死以て二百五十年の恩に報るのみ、総督若し生を欲せば出でて降參せよ、我等は我等の武士道に斃れんのみとて、憤戰止まらず、其中には父子諸共に切死したる人もありしと云ふ。
烏江水淺騅能逝、一片義心不`可`東とは、往古漢楚の戰に、楚軍振はず、項羽が走りて烏江の畔に至りしとき、或人は、尚ほ江を渡りて再擧の望なきにあらずとて、其死を留めたりしかども、羽は之を聽かず、初め江東の子弟八千を率ゐて西し、幾囘の苦戰に戰没して今は一人の殘る者なし、斯る失敗の後に至り、何の面目か復た江東に還りて死者の父兄を見んとて、自尽したる其時の心情を詩句に冩したるものなり。
漢楚軍談のむかしと明治の今日とは、世態固より同じからず。三千年前の項羽を以て、今日の榎本氏を責るは、殆んど無稽なるに似たれども、萬古不變は人生の心情にして、氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりと雖も、時に顧みて箱館の舊を思ひ、當時随行部下の諸士が戰没し負傷したる慘状より、爾來家に殘りし父母兄弟が、死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事實を、想像し聞見するときは、男子の鐵腸も之が爲めに寸斷せざるを得ず。夜雨秋寒うして眠就らず殘灯明滅獨り思ふの時には、或は死靈生靈、無數の暗鬼を出現して、眼中に分明なることもある可し。
蓋し氏の本心は、今日に至るまでも此種の脱走士人を見捨てたるに非ず、其擧を美として其死を憐まざるに非ず。今、一證を示さんに、駿州清見寺内に石碑あり、此碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸が、清水港に撃たれたるときに、戰没したる春山辯造以下脱走士の爲めに建てたるものにして、碑の背面に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し、公衆の觀に任して憚る所なきをみれば、其心事の大概は窮知るに足る可し。即ち氏は曾て徳川家の食を食む者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機會を失ふたれども、他人の之に死するものあるを見れば、慷慨惆悵、自から禁ずる能はず、欽慕の餘り遂に右の文字をも石に刻したることならん。
既に他人の忠勇を嘉みするときは、同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるも亦、人生の至情に免かる可らざる所なれば、其心事を推察するに、時としては目下の富貴に安じて、安樂豪奢、餘念なき折柄、又、時としては舊時の慘状を懷うて、慙愧の念を催ほし、一喜一憂、一哀一樂、來往常ならずして、身を終るまで圓滿の安心快樂はある可らざることならん。左れば我輩を以て氏の爲めに謀るに、人の食を食むの故を以て、必ずしも其人の事に死す可しと、勸告するにはあらざれども、人情の一點より、他に對して常に遠慮するところなきを得ず。
古來の習慣に從へば、凡そ此種の人は、遁世出家して死者の菩提を弔ふの例もあれども、今の世間の風潮にて、出家落飾も不似合とならば、唯その身を社會の暗處に隱して其生活を質素にし、一切萬事、控目にして、世間の耳目に触れざるの覺悟こそ本意なれ。
之を要するに、維新の際、脱走の一擧に失敗したるは、氏が政治上の死にして、假令ひ其肉体の身は死せざるも、最早政治上に再生す可らざるものと觀念して、唯一身を慎み、一は以て同行戰死者の靈を弔して、又其遺族の人々の不幸不平を慰め、又、一には、凡そ何事に限らず、大擧して其首領の地位に在る者は、成敗共に責に任じて、決して之を遁る可らず、成れば其榮譽を専らにし敗すれば其苦難に當るとの主義を明にするは、士流社會の風教上に大切なることなる可し。即ち是れ、我輩が榎本氏の出處に就き所望の一點にして、獨り氏の一身の爲めのみにあらず、國家百年の謀に於て、士風消長の爲めに輕々看過す可らざる處のものなり。
以上の立言は、我輩が、勝、榎本の二氏に向て攻撃を試みたるに非ず。謹んで筆鋒を寛にして、苛酷の文字を用ひず、以て其人の名譽を保護するのみか、實際に於ても、其智謀忠勇の功名をば飽くまでも認る者なれども、凡そ人生の行路に、富貴を取れば功名を失ひ、功名を全うせんとするときは富貴を棄てざる可らざるの場合あり。二氏の如きは、正しく此局に當る者にして、勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは、誠に手際よき智謀の功名なれども、之を解きて主家の廢滅したる其廢滅の因縁が、偶ま以て一舊臣の爲めに富貴を得せしむるの方便と爲りたる姿にては、假令ひ其富貴は自から求めずして天外より授けられたるにもせよ、三河武士の末流たる徳川一類の身として考ふれば、折角の功名手柄も、世間の見る所にて、光を失はざるを得ず。
榎本氏が主戰論を執りて脱走し、遂に力尽きて降りたるまでは、幕臣の本分に背かず、忠勇の功名、美なりと雖も、降參放免の後に、更に青雲の志を發して、新政府の朝に富貴を求め得たるは、曩に其忠勇を共にしたる戰死者負傷者より、爾來の流浪者貧窮者に至るまで、都て同擧同行の人々に對して、聊か慙愧の情なきを得ず。是亦その功名の價を損ずる所のものにして、要するに二氏の富貴こそ其身の功名を空うするの媒介なれば、今尚ほ晩からず、二氏共に斷然世を遁れて維新以來の非を改め、以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。天下後世に其名を芳にするも臭にするも、心事の決斷如何に在り、力めざる可らざるなり。
然りと雖も人心の微弱、或は我輩の言に從ふこと能はざるの事情もある可し。是亦止むを得ざる次第なれども、兎に角に、明治年間に此文字を記して、二氏を論評したる者ありと云へば、亦以て後世士人の風を維持することもあらんか、拙筆亦徒勞に非ざるなり。 
福澤の手簡
拝啓仕候。陳は過日、瘠我慢之説と題したる草稿一冊を呈し候。或は御一讀も被成下候哉。其節申上候通り、何れ是は時節を見計、世に公にする積に候得共、尚熟考仕候に、書中或は事實の間違は有之間敷哉、又は立論之旨に付、御意見は有之間敷哉、若しこれあらば、無御伏臓被仰聞被下度、小生の本心は漫に他を攻撃して樂しむものにあらず、唯多年來、心に釋然たらざるものを記して輿論に質し、天下後世の爲めにせんとするまでの事なれば、當局の御本人に於て云々の御説もあらば拝承致し度、何卒御漏し奉願候。要用のみ重て申上候。匆々頓首。
二月五日 諭吉    ・・・・・・樣
尚以、彼の草稿は極秘に致し置、今日に至るまで、二、三親友の外へは、誰にも見せ不申候。是亦乍序申上候。以上。
勝安芳氏の答書
從古當路者、古今一世之人物にあらざれば、衆賢之批評に當る者あらず。不計も拙老先年之行爲に於て、御議論數百言御指摘、實に慙愧に不堪ず、御深志忝存候。
行藏は我に存す、毀譽は他人の主張、我に與からず我に關せずと存候。各人え御示御座候とも毛頭異存無之候。御差越之御草稿は拝受いたし度、御許容可被下候也。
二月六日 安芳   福澤先生
拙、此程より所勞平臥中、筆を採るに懶く、亂筆蒙御海容度候。
榎本武揚氏の答書
拝復。過日御示被下候貴著瘠我慢中、事實相違之廉並に小生之所見もあらば云々との御意致拝承候。昨今別而多忙に付、いづれ其中愚見可申述候。先は不取敢囘音如此に候也。
二月五日 武揚   福澤諭吉樣 
 
丁丑公論 / 福澤諭吉

 

丁丑公論の一書は、福澤先生が、明治十年西南戰爭の鎮定後、直に筆を執て著述さられたるものなれども、當時世間に憚かる所あるを以て、秘して人に示さず、爾來二十餘年の久しき、先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し。餘、前年、先生の家に寄食の日、窃に其稿本を一見したることあり。
本年一月、先生の舊稿瘠我慢の説を時事新報に掲ぐるや、次で此書をも公にせんことを請ひしに、先生始めて思ひ出され、最早や世に出すも差支なかる可しとて、其請を許されぬ。依て二月一日より時事新報に掲載することとせしに、掲載未だ半ならず、先生、宿痾再發して遂に起たず。今囘、更らに此書を刊行するに際し、一言、事の次第を記すと云ふ。
明治三十四年四月 時事新報社に於て 石河幹明
明治十年 丁丑公論緒言
凡そ人として我が思ふ所を施行せんと欲せざる者なし。即ち專制の精神なり。故に專制は今の人類の性と云ふも可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の專制は咎む可らざるなり。
政府の專制、咎む可らずと雖も、之を放頓すれば際限あることなし。又、これを妨がざる可らず。今、これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に專制の行はるる間は、之に對するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。
近來、日本の景況を察するに、文明の虚説に欺かれて、抵抗の精神は次第に衰頽するが如し。苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法、一樣ならず、或は文を以てし、或は武を以てし、又、或は金を以てする者あり。今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、餘輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局、其精神に至ては間然すべきものなし。
然るに、斯る無氣無力なる世の中に於ては、士民共に政府の勢力に屏息して事の實を云はず、世上に流傳するものは悉皆諂諛妄誕のみにして、嘗て之を咎むる者もなく、之を一世に傳へ、又これを後の一世に傳へ、百年の後には、遂に事の眞相を湮没して又踪跡す可らざるに至るや必せり。餘は西郷氏に一面識の交もなく、又、其人を庇護せんと欲するにも非ずと雖も、特に數日の労を費して一冊子を記し、之を公論と名けたるは、人の爲に私するに非ず、一國の公平を保護せんが爲なり。方今、出版の条例ありて、少しく人の妨を爲す。故に深く之を家に藏めて時節を待ち、後世子孫をして今日の實況を知らしめ、以て日本國民抵抗の精神を保存して、其氣脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ。但し西郷氏が事を擧げたるに付き、其前後の記事及び戰爭の雜録等は、世上既に出版の書もあり、又、今後出版も多かる可し。依て之を本編に略す。
明治十年十月二十四日 福澤諭吉 記
丁丑公論 
世論に云く、西郷は維新の際に勲功第一等にして、古今無類の忠臣たること楠正成の如く、十年を經て謀反を企て古今無類の賊臣と爲り、汚名を千歳に遺したること平將門の如し、人心の變化測る可らず、必竟、大義名分を弁ぜざるの罪なりと。此議論、凡庸世界の流行なれば許す可し。田夫野翁の噂、市井巷坊の話、固より齒牙に止むるに足らざればなり。或は月給に生々する役人世界の談にしても亦恕す可し。西郷は實に今の官員の敵にして、西郷勝てば官員の身も聊か安んぜざる所あれば、如何樣にも名を付けて之れを謗るも尤もなる次第なり。
然るに今、無知無學なる凡庸世界にも非ず、又、身を恐るる役人世界にも非ず、學者士君子を以て自から居る論客にして、嘗て別段の所見もなく、滔々として世間の噂話に雷同し、往々其論説の發して新聞紙上に記したるものを見るに、本年、西南の騒動に及び、西郷、桐野等の官位を剥脱したる其日より、之を罵詈讒謗して至らざる所なし。其有樣は、恰も官許を得て人を讒謗する者の如し。官許の心得を以て憚るなきは姑く許すべしと雖も、尚これより甚しきものあり。
從來、新聞の記者又は投書家は、事を論ずるに、条例を恐れて十分に論鋒を逞うすること能はず、常に婉語諷言を以て、暗に己が所見を示すの功を得たりし者なるが、西郷の一条に至ては毫も斟酌する所なく、心の底より之を惡み之を怒るが如くにして、啻に斟酌を用ひざるのみならず、記事雜報の際にも、鄙劣なる惡口を用ひ、無益なる贅言を吐て、罵詈誹謗の事實に過ぐるもの尠なからず。遽に其文面を見れば、記者は嘗て西郷に私怨あるもの歟と疑はるる程の極度に至れり。豈に怪しむ可きにあらずや。
蓋し此論者は之に由て今の政府に媚を獻ぜんと欲する歟、政府の中に苟も具眼の人物あらば、忽ち之を看破して却て其賤劣を憫笑することならん。或は之に由て社會を籠絡せんと欲する歟、斯る賤しき筆端に欺かれて、其籠絡に罹る者は、社會中の糟粕にして、假令ひ之をして其説に服せしむるも、之が爲に論者の勢力を増すに足らず。下等社會に同説の多きは、正に其説の無味淺見なるを表するに足るのみ。餘輩、顧て思ふに、論者は敢て媚を政府に獻ずるにも非ず、又、社會の説を籠絡せんとするにも非ず、眞實に西郷を賊臣と思ひ、中心に之を惡み、之を罵詈誹謗して、後の西郷たるものを戒めんとするの律義心より出でたることならん。斯の如きは則ち、今の論者を評するには唯暗愚の二字を以て足るべきのみ。
論者が西郷を評して賊と稱するは何ぞや。 西郷は天子を弑して天位に代らんと欲する者歟、論者愚なりと雖も、其然らざるをば知る可し。尊王の方法は姑く擱き、尊王の心に至ては、今の西郷も昔日の西郷も正しく同一樣にして、其心を以て今の顕官の尊王心に比して、毫も厚薄なきのみならず、論者が常に口を極めて西郷を罵ると雖も、未だ曾て佞譎輕薄等の評を下ださざるは、即ち彼れが誠實の徳行に就て、釁の乘ずべきものを見出すこと能はざるの證拠なれば、其尊王の誠心如何の一點に至ては、論者も敢て口には言はざれども、心に之を許して疑はざること、明に知るべし。然らば則ち西郷は、天皇一身の賊にあらずして、今日に在ても其の無二の尊王家たるは、論者の許す所のものなり。
論者又謂らく、一國人民の道徳品行は國を立る所以の大本なり、苟も大義名分を破て政府に抗し、學者の議論に於て之を許すときは、人民の品行、地に墜ちて、又廉恥節義の源を塞ぐに至らんと。此論は孔子の春秋より出たるものにして、公私を混同したる不通論と云ふ可し。大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身にあり。一身の品行相集て一國の品行と爲り、其成跡、社會の事實に顕はれて盛大なるものを目して、道徳品行の國と稱するなり。然るに今の所謂大義名分なるものは、唯黙して政府の命に從ふに在るのみ。一身の品行は破廉恥の甚しき者にても、よく政府の命ずる所に從ひ、其嗾する所に赴て、以て大義名分を全うす可し。故に大義名分は、以て一身の品行を測るの器とするに足らず。
一身の品行に關係なきものは亦、一國の品行にも關係ある可らず。加之、名分を破て始めて品行を全うしたるの例は、古今に珍らしからず。古の事は之を擱き、近く其實證を擧れば、徳川の末年に、諸藩士の脱藩したるは、君臣の名分を破りたる者に非ずや。其藩士が、嘗て藩主の恩禄を食ひながら、廢藩の議を發し或は其議を助けたるは、其食を食で其事に死するの大義に背くものにあらずや。然り而して、世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず、當初、其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は、今日に在て名望を収むること愈盛なるが如し。
之れに反して、舊幕府及び諸藩の存在する間は、府藩の大義名分を守り、府藩斃れば翌日より新政府の大義名文を守り、舊に新に、右に左に、唯勢力と銭の存する處に随て、其處の大義名分を守るものは、世上に其流の人、少なからずと雖も、此輩の多寡を見て、一國全體の間に行はるる道徳品行の盛否を卜す可らず。結局、大義名分は道徳品行とは互に縁なきものと云ふ可きのみ。
今、西郷は兵を擧げて大義名分を破りたりと云ふと雖も、其大義名分は、今の政府に對しての大義名分なり、天下の道徳品行を害したるものに非ず。官軍も自から稱して義の爲めに戰ふと云ひ、賊兵も自から稱して義の爲に死すと云ひ、其心事の在る所は毫も異同なきのみならず、決死冒難、權利を爭ふを以て人間の勇氣と稱す可きものならば、勇徳は却て彼の方に盛なりと云ふも可なり。此事實に由て考ふれば、西郷は立國の大本たる道徳品行の賊にもあらざるなり。
論者又謂らく、西郷は武人の巨魁なり、若し彼をして志を得せしめなば、必ず士族に左袒して益人民を奴隷視するに至らん、斯の如きは即ち自由の精神を害して人智の發達を妨るものにして、之を文明の賊と稱すべしと。此論は、西郷を皮相して其心事を誤解したるものなり。西郷が士族を重んずるは事實に疑なしと雖も、唯其氣風を愛重するのみにして、封建世禄の舊套に戀々たる者に非ず。
若し彼をして事實に封建世禄の友たらしめなば、其初め徳川を倒すの時に、己が數代恩顧の主人たる島津家を奉じて將軍たらしめんことを勉むべき筈なり。或は然らざれば、自から封じて諸侯たらんことを求むべき筈なり。此を是れ勉めざるのみならず、維新の後は却て島津家の首尾をも失ひ、且其参議たりしときは、廢藩置縣の大義にも與りて大に力ありしは、世人の普く知る所ならずや。廢藩は時勢の然らしむるものとは雖も、當時、若し西郷の一諾なくんば、此大擧も容易に成を期すべからざるや明なり。
是等の事實を證すれば、西郷は決して自由改進を嫌ふに非ず、事實に文明の精神を慕ふ者と云ふべし。或は此度び事を擧ぐるに及で、之に随從する者の内には、神風連の殘黨もあり、諸舊藩の頑固士族もありて、各其局處の擧動に就て之を見れば、純然たる封建士族の風を存する者も多からんと雖も、此輩は唯西郷が政府に抗するの事に與みするのみ、其心事を了解して説を共にする者に非ず。其有樣は、十年以前に、今の改進者流が事を擧て、舊幕府を謀るときに、諸方の不平黨は、事の内實を知らず、只管尊王攘夷の事と信じて、之に随從したるの事實に異ならず。
西郷は唯、此士族輩を器として用ふるに過ぎず、毎人に向て其心事を語るに遑ある可らず、假令ひ之を語るも了解するものは尠なかる可し。我輩は窃に謂らく、若し西郷をして此度びの事を成さしめなば、其事の成りたる上にても、更に此頑固士族の處置に困却すること、昔年長州にて木戸の輩が騎兵隊の始末に當惑したると同樣の場合に至るべしと。西郷の爲めに謀て憂る所なり。
西郷の輩が志を得たらば、政府は必ず兵力專制(ミリタリ・デスポチスム)の風に移らんとて、之を心配するは、屠者は必ず不信心ならん、猟師は必ず人を殺すならんと、唯其形を見て疑念を抱く者のみ。
今の日本は兵力專制の行はるべき國に非ず。假に今、ナポレオンを再生せしめ、コロンウェルを歸化せしむるも、日本に於ては其伎倆を施すの機會ある可らず。此風の專制を行はんとするには、古の鎖國に復する歟、然らざれば、我國力をして西洋諸國に敵對し、之れを圧倒するの勢を得せしめて、然る後に始めて之を試む可きのみ。若し此專制をして我國に施す可きものとせば、今の政府にて之を行はざるは何ぞや。人類の性質として專制を行ふを好まざるものなし。然るに今の政府の人にして之れを行はざるは、心に好まざるにあらず、勢に於て能はざるなり。
西郷の輩、武人なりと雖も、よく此勢に敵す可けんや。開國以來、日本の勢は立憲の民政に赴くものにして、其際には樣々の事變故障もあれども、大勢の進で止まざるは、時候の次第に寒冷に赴き又暑氣に向ふが如くにして、之を留めんとして留む可らず。且、其事變故障と唱ふるものも、或は實の故障に非ずして、却て大勢の進歩を助くるに便利なりしこと、往々其例なきに非ず。之を譬へば、向暑向寒の時候に大風雨あれば、風雨止んで俄に暑寒の勢を増すことあるが如し。風雨は暑寒の進歩を妨げずして却て之を助くるものなり。況んや此度西郷の擧動は日本の全國を殲滅するに非ず、又、政府の全體を顛覆するにも非ず、僅に政府中の一小部分を犯すのみの企なれば、政治上の大風雨と名づくるに足らず。是等の事情をも吟味せずして、徒に兵力專制の禍を恐るるは、狼狽の甚しき者と云ふ可し。
論者又謂へらく、西郷の黨が志を得て不平を慰るを得ば、他に又不平を抱く者を生じて、更に騒擾に及ぶべし、今の政府の貴顕は平和を好むと雖も、今の地位に居ればこそ平和に依頼すれども、既に地位を失へば平和も無用なり、必ず黨與を結で事を謀ることある可し、斯の如きは即ち第二の西郷を作るに異ならずと。此説、決して事實に當らず。必竟、天下の大勢を知らざるものの淺見のみ。西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失ふものあるは必然の勢なれども、其貴顕なる者は數名に過ぎず、之に附會する群小吏の如きは、其數、思の外に少なかる可し。
試に舊幕府顛覆の時を思へ。當時、餘が親しく目撃せし所の事情を記せば、其大略左の如し。學者これに由て、天下の大勢なるものは果して如何の情を了解することある可し。 幕府にては、關西の諸侯薩長土の類を叛藩と名け、西郷吉之介、木戸準一郎、大久保一藏、大村益次郎、板垣退助、後藤象次郎の輩を奸賊と稱し、當時の幕議に云く、天皇は幼冲、萬機を親らにし給ふに非ず、三条、岩倉の如きも亦、唯貧困公卿の脱走したる者にして、才能あるに非ざれば、深く咎るに足らず。特に惡む可きの罪人は西郷、木戸の輩なり。近來、此輩が朝廷に出入して、憚る所もなく、人主の幼冲なるを利し、公卿の愚なるを誑かし、蘇秦張儀を學で以て私を營まんとする其罪惡は決して免す可らずとて、專ら誅鋤の策を運らす其最中に伏見の變あり。
彼の奸賊等は此勢に乘じて關西諸藩の衆を合從し、之に附する官軍の名を以てして、大胆不敵にも、將さに長驅して東下せんとするの報を得て、在江戸の幕臣は無論、諸藩の内にても佐幕家と稱する者は、同心協力、以て此賊兵を富士川に防がんと云ひ、或は之を箱根の嶮に扼せんと云ひ、又、或は軍艦を摂海に廻して、賊の巣窟たる京師を覆さんと云ひ、私に之を議し、公に之を論じ、策を獻じ、言を上つり、其最も盛なるは、將軍の御前に於て直言諍論、悲憤極りて涙を垂れ、聲を放て号泣する者あるに至れり。
其忠勇義烈、古今絶倫にして、人を感動せしむる程の景況なりしかども、天なる哉、命なる哉、其獻言策略も遂に行はれず、賊兵猖獗、既に箱根を越えて江戸に入り、恐れ多くも、東照神君が櫛風沐雨、汗馬の労を以て、創業の基を立てさせられたる萬代不易の大都府も、今は醜虜匪徒の爲めに蹂躪せられて一朝に賊地となり、風景殊ならず、目を擧ぐれば江河の異あり、又、之を見るに忍びず。是に於てか彼の佐幕の一類は、脱走して東國に赴く者あり、軍艦に乘て箱館に行く者あり、或は舊君の御跡を慕うて靜岡に移り、或は平民に堕落して江戸に留る等、樣々に方向を決する其中に、當初、佐幕第一流と稱したる忠臣が、漸く既に節を改めて王臣たりし者亦尠なからず。
唯王臣と爲て首領を全うするのみに非ず、其穎敏神速にして勾配の最も急なる者は、早く天朝の御用を勤めて官員に採用せられたる者あり、或は關西に采地ある者は、采地の人數を率ゐて東征先鋒の命を蒙りたる者あり。されども決死脱走の勇士は、其擧動を怒て之を獸視するも啻ならず。又、彼の靜岡に赴き江戸に留りたる者にても、此新王臣の得々たるを見れば不平なきを得ず。其心に謂らく、靜岡の俸禄、口を糊するに足らず、江戸の生計、嘗て目途なしと雖も、義を捨つるの王臣たらんよりは、寧ろ恩を忘れざるの遺臣となりて餓死するの愉快に若かずとて、東海俄かに無數の伯夷叔齊を出現したるは、流石に我日本國の義氣にして、彼の漢土殷周の比にあらざるものの如し。
然るに其後、脱走の兵は敗北、奥羽の諸藩は恭順謝罪、次で箱館の脱艦も利あらずして降伏する者次第に多く、随て降れば随て寛典に處せられ、又随て官途に御採用を蒙り、世間の時候、自から温暖を催ほして、又昔日の殺氣凛然たるものに非ず。是に於てか、曩きの伯夷叔齊も、漸く首陽の麓に下り、漸く天朝の里に近づき、王政維新の新世界を見れば、豈計らんや、日本の政府は掛巻くも畏こき天皇陛下の政府にして、徳川こそ大逆無道の朝敵なりき。知らずや、今日は聖天子上にあり、条公岩公の英明、以て之を補佐し奉りて、一綱一紀、擧らざるものなし。薩長土は眞に忠藩なり、官軍は實に天兵なり。西郷、板垣公は英雄なり、木戸、大久保公は人傑なり。三藩の盛なる、實に欽慕に堪へず。
加之、佐賀藩の如きは、前日勤王の聞もなかりしに、近來に至て俄に聲価を轟かし、薩長土に一を加へて四藩と稱するの勢を致せり。必竟、田に在るの潜竜、雲雨を得て興り、時を待つの君子、機を見て起つ者ならん。何ぞ夫れ君子の多きや。該藩の如きは、之れを稱して君子國と云ふも敢て溢美に非ず。我輩も延引ながら恭しく惟みるに、鎌倉以來、幕府にて國政を執るは之れを正理と云ふ可らず、嘗て之れに疑を容れしことなるが、今果して大に發明したり。大義は破る可らず、名分は誤る可らず。今にして此大義名分の明なりしは亦愉快ならずや。大義は親を滅す可し、親戚朋友これを顧るに遑あらず、何ぞ舊主人を問はん。
我輩無似なりと雖も、卿相諸侯の驥尾に就て、假令ひ、身、官吏たるを得ざるも、尚食客幕賓たるの栄を得て其門に出入し、以て平生萬分の一を尽さん。若し之れを尽すを得ば、首陽の薇に換ふるに大都會の滋味を以てし、以て酒泉の郡に入る可し、以て飯顆の山に登る可し。豈復た愉快ならずや。嗚呼彼も一時一夢なり、是れも亦一時一夢なり。昨非今是、過て改むるに憚る勿れとて、超然として脱走の夢を破り、忽焉として首陽の眠を醒まし、今日、一伯夷の官に就くあれば、明日は又二叔齊の拝命するありて、首陽山頭、復た人影を見ず。
昔日無數の夷齊は今日無數の柳下恵となり、小官を卑とせず等外を不外聞とせずして、大義の在る處に出仕し、名文の存する處に月給を得て、唯其處を失はんことを是れ恐るるのみ。其趣は恰も幕府に死して天朝に蘇生したる者歟、或は死生に非ず、幕府の晩に蚕眠を學で眠り、天朝の朝に蝶化して化したる者ならん。絶奇絶妙の變化と謂ふ可きのみ。
斯かる事の次第にて、彼の脱走したる烈士忠臣の殘餘も、一度び王師に抗したる諸方の佐幕論者も、靜岡に赴き江戸に居殘りたる伯夷叔齊の流も、今日は明治聖代、鼓腹撃壌の良民と爲り、又、尊王一偏の忠臣義士と爲り、昨日世上の大風浪も、今日は靄然たる瑞雲祥風と爲り、從來の痕跡少しも見えず。之を天下の大勢と云ふ。俗言これを志士の一轉身と云ふも亦可なり。
然り而して明治初年の有志者も、明治十年の有志者も、等しく是れ日本人にして、今日に於ても世上に風波あれば、其大勢に從ふの趣は毫も異同ある可らず。加之、此度西郷の企は、前にも云へる如く、唯政府の一部分を變動するのみにして、政府の名をも改るに非ざれば、其名正しく其分紊れず、今の吏人の身として、此小變動に處するに於て、其寝返りの易くして神速なるべきは、智者を俟たずして明なり。且新聞記者の如きは、展轉反側の最も自在にして最も妙を得たるものなるが故に、忽ち筆を倒にして後へを攻め、以て正三位陸軍大將西郷隆盛公の成擧を賛成し、天下の人心も亦これに歸して、風波の鎮靜すべきは疑を容る可らず。
故に云く、西郷、志を得るも第二の西郷ある可らず。或は一、二失路の人が黨與を結ばんとするも、之れに與する者は案外に少なかる可し。實は人民の氣力の一點に就て論ずれば、第二の西郷を生ずるこそ國の爲めに祝す可きことなれども、其これを生ぜざるを如何せん。餘輩は却て之を悲しむのみ。
論者又謂らく、西郷は天皇一身の賊にあらず、道徳品行の賊にあらず、又、封建を慕うて文明改進を妨ぐるの賊にも非ず、又、彼をして志を成さしむるも、大なる後患もなかる可しと雖も、苟も一國に政府を立てて法を定め、事物の秩序を保護して人民の安全幸福を進るの旨を誤らざれば、其國法は即ち政府と人民との間に取結たる約束なるが故に、此政府を顛覆して此法を破らんとする者は、違約の賊として罪せざる可らずと。此説は頗る綿密にして、稍や理論の體裁を具へたるものに似たれども、一言の下に感服すること能はず。請ふ、試に之を述べん。
論者の説を解剖すれば、一國に政府を立てて法を定るまでを第一段とし、以下、事物の秩序を保護して人民の安全幸福を進るまでを第二段として見る可し。而して其眼目とする所は、必ず第一段に在らずして第二段に在ることならん。蓋し第一段は名なり、第二段は實なり。論者は必ず名を重んじて實を忘るる者に非ざれば、假に今、人間社會に政府なるものを設けずして、事物の秩序を保護し人民の幸福を進るの路あらば、必ず此路に由ることならん。若し然らずして唯物の名のみに拘泥し、苟も政府の名あるものは顛覆す可らず、之を顛覆するものは永遠無窮の國賊なりとせば、世界古今、何れの時代にも國賊あらざるはなし。
近く其著しき者を擧れば、今の政府の顕官も、十年以前、西郷と共に日本國の政府たる舊幕府を顛覆したる者なれば、其國賊たるの汚名は千歳に雪ぐ可らざるものと云ふも可ならん。然り而して、世論之を賊と云はずして義と稱するは何ぞや。舊幕府は政府の名義あれども、事物の秩序を保護して人民の幸福を進むるの事實なきものと認めたるが故ならん。有名無實と認む可き政府は、之を顛覆するも、義に於て妨げなきの確證なり。
抑も西郷は生涯に政府の顛覆を企てたること二度にして、初には成りて後には敗したる者なり。
而して其初度の顛覆に於ては最も慘酷を極め、第一、政府の主人を廢して之を幽閉し、故典舊物を殘毀して毫も愛惜する所なく、其官員を放逐し、其臣下を凌辱し、其官位を剥ぎ、其食禄を奪ひ、兄弟妻子を離散せしめて其流浪饑寒を顧みず、數萬の幕臣は、靜岡に溝涜に縊るる者あり、東京に路傍に乞食する者あり、家屋鋪は召上げられて半ば王臣の安居と爲り、墳墓は荒廢して忽ち狐狸の巣窟と爲り、慘然たる風景、又見るに堪へず。啻に幕臣の難澁のみならず、東北の諸藩にて所謂方向を誤りたるものは、其主從の艱苦も又云ふに忍びざるもの多し。此一點のみに就て論ずれば、西郷は人の艱難を醸したる張本と云ふも謝するに辭なき程の次第なれども、文明進歩の媒と爲りて大に益する所あれば、人民一時の艱難は之を顧るに遑あらず。即ち西郷が、初度の顛覆に於て、其忠勇第一等にして、學者も之を許す由縁ならん。
然り而して、再度の顛覆には其志を成すこと能はざりしが故に、成績を見る可らずと雖も、世上一般の噂に於ても、學者流の所見に於ても、又、餘輩の憶測する所に於ても、其趣全く初度の慘酷に似ずして、必ず寛大なる可きや疑なし。第一、政府の主人たる天皇陛下の身に、一毫の災厄ある可らざるは、固より論を待たず。又、今の政體は、廢藩置縣、政令一途の旨に基き、三、五年以來、大なる改革もなくして、即ち當初、西郷が自から今の政府の顕官と共に謀て定めたる政體なれば、僅に數年の間に、自から作りたるものを自から破るの理ある可らず。
既に政治の大體を改むるの念あらざれば、徒に政府の官員を擯斥するが如き無用の擧動を爲さざるも亦推して知る可し。況んや其人品の如何をも問はず、其職務の種類をも論ぜず、官の人とあれば劍を以て之に接し、政府の根柢より枝末に至るまで之を顛覆殲滅して、以て自ら快樂とするが如き無情慘酷に於てをや、西郷の誓て行はざる所なり。實に、彼が志を得て政府に起るべき變動は、唯僅に二、三の貴顕が其處を失うて、遂に随從する群小吏が一時に勢力を落すのみにして、政府は依然たる政府たる可きなり。依然たる政府にして、數名の大臣を擯け、數十百の小吏を放逐するも、之を名けて政府の顛覆と云ふ可らず。其實は官員の黜陟たるに過ぎず。即ち、一時、政府に免職する者と拝命する者と相互に交代す可きのみ。
初度の顛覆と、再度の顛覆と、其趣を異にし、其寛猛輕重の差あること斯の如くにして、初には西郷に許すに忠義の名を以てし、後には之に附するに賊名を以てす。論者は果して何等の目安に拠て之を判斷したる歟。よく名と實とを分別し、前に云へる、事物の秩序を保護し人民の安全幸福を進るの事實を根拠と爲して、之を判斷したる歟。今の政府の官員に日本國の事務を任すれば、必ずよく社會を整理して失錯あることなく、人民の智徳は次第に進歩して、自由自治の精神は漸く發達して、富強繁盛の幸福を致す可し、之に反して、西郷をして志を得せしめなば、反對の災害を醸す可し、今の官員にして必ず然る可し、西郷にして必ず然る可らずと、今日を視察し、今後を推量し、果して心に得て之を判斷したる歟。
論者の眼力、炬の如しと雖も、斯る洞察の明は無かる可し。況んや退て其私を顧み、其平生唱ふる所の持論を聞けば、常に政法の是非を議し、其專制を憂ひ、其不自由を咎め、今後の成行を危懼して措くこと能はざるが如きものあるに於てをや。論者は決して今の政府を信ずる者と云ふ可らず。然ば則ち其西郷に賊名を附したるは、事實の利害に拠て目安を定めたるものにも非ざるなり。
然ば則ち論者は、彼の政府の公告に記したる、西郷隆盛以下兵器を携へ熊本縣下に亂入す、と云ふ一句の文字を證して、其賊たるを斷じたる歟。若し夫れ果たし然らば、論者の見識は唯紙に記したる字義を解するのみに止て、前後に關する事の聯絡には毫も頓着せざる者と云ふ可し。抑も西郷隆盛が兵器を携て熊本縣下に亂入したるは、其の亂入の日に亂を爲したるにあらず、亂を爲すの原因は遙に前日に在て存せり。
明治七年、内閣の大臣に、外征を主張する者と内政を急務する者と二派に分れ、西郷は外征論の魁にして其見込を屈せず、遂に桐野以下附属の將校兵卒數百名を率ゐて故郷に歸りたり。此時に西郷桐野等は明に辭職にも非ず又免職にも非ず、部下の兵士も亦正しく除隊の法に從ふに非ず、公然として首府を去りたれども、内閣に殘る諸大臣は、之れを制止せずして黙許に附したることなれば、其景況は恰も陸軍大將が兵隊を指揮して鹿児島に行くと云ふも可なり。
尚細に内實を表すれば、王制一新の功臣が、成功の後に不和を生じて、其一部分は東に居殘り、一部分は分れて西に赴たりと云ふも可なり。其證拠には、西郷が歸郷の後も、政府は之に大將の月給を與へたり。之を公の俸禄とす。(西郷の月給は陸軍省に積たりと聞く)又、維新以來、鹿児島縣の歳入は、中央政府の金庫に入たることなし。他なし、間接に該地の兵士を養ふの資本たる可きものなれば、之を私の俸禄とす。
斯の如く、政府は、薩兵の薩に歸るを許し、又、其將校兵卒に俸禄を給與し、之に加るに、武器製作の場所をも殊更に該地に設けて、暗に其權柄を土地の士民に附したることなれば、薩人の傲然として一方に割拠し、政府に對して並立の思ひを爲すは必然の勢にして、其勢は政府より養成したるものと云はざるを得ず。即ち亂の原因は政府に在りと云ふて可なり。
薩人は既に政府に對して並立の勢をなし、兼て又、政府より之を怒らしめて、益其亂心を促したるの事情あり。初め西郷は外征の論を主張して、行はれざるの故を以て政府を去りたるに、去て未だ一年を經ず、豈計らんや、先きに内政の急務を唱へたる者が、俄に所見を變じたる歟、臺灣を征伐して支那政府に迫り、五十萬の償金を取て得色あるが如し。西郷の身に於ては、朋友に賣られたるものにして、心に忿々たらざるを得ず。
又、政府の人が内政を修るの急務を論じながら、其内政の景況如何を察すれば、内務省設立の頃より政務は益繁多にして、嘗て整頓の期あることなく、之れに加ふるに、地租の改正、禄制の變革を以て、士族は益窮し、農民は至極の難澁に陥り、凡そ徳川の政府より以來、百姓一揆の流行は特に近時三、四年を以て最とする程の次第なれば、遠方に閉居する薩人の耳に入るものは、天下の惡聞のみにして、益不平ならざるを得ず。西郷の持論にも、方今の事物の有樣なれば、討幕の師は必竟無益の労にして、今日に至ては、却て徳川家に對して申譯けなしとて、常に慙羞の意を表したりと云ふ。是等の事情に拠て考れば、彼輩の不平忿懣は既に極度に達したるものと云ふ可し。
又、薩の士人は古來質朴率直を旨とし、徳川の太平二百五十餘年の久しきも、遂に天下一般の弊風に流れず。其精神に一種貴重の元素を有する者と云ふ可し。然るに該藩の士族にして、政府の官員たる者は、漸く都下の惡習に傚ひ、妾を買ひ妓を聘する者あり、金衣玉食、奢侈を極る者あり、或は西洋文明の名を口實に設けて、非常の土木を起し、無用の馬車に乘る等、郷里の舊を棄てて忘れたる者の如し。之に反して薩に居る者は、依然たる薩人にして、西郷、桐野の地位に在るものにても、衣食住居の素朴なること、毫も舊時に異ならず。
等しく是れ竹馬の同藩舊士族、其東に居る者と西に居る者と、生活の趣を殊にすること斯の如くにして、却て其伎倆如何を論ずれば、穎敏の才智に至ては東に對して譲る所あるも、活溌屈強の氣力は西に十分にして、常に他を憫笑する程の有樣なれば、少年血氣の輩は忿懣に堪へず、切齒扼腕し、在東京の薩藩人を惡み、之を惡むの餘に兼て又、他の官員の不品行なる者をも蔑視して、甚しきは之を評論して人面獸心と云ふに至れり。固より彼の私學校黨の激論にして、よく人事の大勢を推考したるものに非ざれども、激論中、自ら時病に中るもの尠なからず。是亦亂の原因の一大箇条なり。
右の如く、亂の原因を枚擧して、其原因は政府の方に在りと雖も、餘輩は、西郷が事を擧たるを以て、如何にも正理に適したるものと云ふに非ず。蓋し西郷は智力と腕力の中間に挟まり、其心事、常に決せずして、遂に腕力に制せられたる者と云ふ可し。西郷の目を以て部下の者を見れば、其屈強正直の氣力、愛す可しと雖も、素より腕力の兵士なり。之を誨へて老練沈着の人物たらしめんとするも、一個の力に及ぶ可きに非ず。去迚これを放て其行く所に任しなば、舟にして楫なきが如く、蒸氣にして鑵なきが如く、何等の變も計る可らず。之を誨ふ可らず、之を放つ可らず、心事の進退爰に窮りて爲す所を知らず、唯畢生の力を尽して維持の策を運らしたるのみ。
即ち其初に佐賀の江藤を援けず、後に萩、熊本の暴發に與せず、常に衆に諭して、今は時節に非ず、爰は場所に非ず、我將さに我將さにとて、之を籠絡したる由縁にして、其兵士の處置に困却するの心は、政府の顕官が之を憂るの心に異ならず。此點に就て見れば、西郷は少年の巨魁と爲りて得々たる者に非ず、其實は之に窘められたる者と云ふ可きなり。
嗚呼、西郷をして少しく學問の思想を抱かしめ、社會進歩の體勢を解して、其力を地方の一偏に用ひ、政權をば明に政府に歸して其行政に便利を與へ、特り地方の治權を取て、之を地方の人民に分與し、深く腕力を藏めて引て放たず、劍戟の鋒を變じて議論の鋒と爲し、文を修め智を磨き、工を勤め業を励まし、隠然たる独立の勢力を養生して、他の魁を爲し、而る後に、彼の民選議院をも設け、立憲政體をも作り、以て全日本國の面目を一新するの大目的を定めしめなば、天下未曾聞の美事と稱す可きなり。
人、或は云く、彼の私學校黨の如き、唯硝鉄を是れ頼で、戰爭の外、餘念なき者に向て、之に説くに地方の事務を以てし、之に諭すに勤學營業の旨を以てするも、之を説論する者と之を聞く者と、其心事、天淵の相違にして、到底相近く可らずとの説もあれども、元來この私學校黨の性質を尋れば、決して非常の人種に非ず、其心事の在る所は、他なし、人類普通、權を好むの一點に過ぎず。權を好むの心、決して惡む可きに非ず。此心の働を以て、社會を利す可し、又、害す可し。其利害如何は、働の性質に在らずして其方向に在るのみ。
故に今、此黨が權を好むの性質を有して、然も活溌屈強の氣風あらば、其性質に從ひ其氣風を利し、眞の權利の在る所を指示して、其方向に誘導す可し。性質に戻らずして却て之に從ふことなれば、決して相近づく可らざるものに非ず。必ず次第に面目を改めて、少年輩の心事にも、更に一層の高尚を致す可きは、疑を容れざる所なり。西郷は果して此邊に着眼して思慮を運らしたることある歟、餘輩これを知ること能はず。若し其眼力、爰に及ばずして、策を試みたることなくば、西郷の罪は不學に在りと云はざるを得ず。
世上の説に、西郷は數年以前、鹿児島へ退身の後も、意を内國の事に留めず、專ら外征の論を主張して少年を籠絡し、其我將さに、我將さにと云へるは、將さに朝鮮を伐ち、支那を蹂躪し、露西亜を征し、土耳古を取らんとするが如き、漠然たる思想にして、爲に益少年好武の血氣を煽動して、却て其動揺を制御する能はざるのみならず、己れも亦血氣中の一部分にして、嘗て定りたる目的もなく、遂に今囘の輕擧暴動に及びたりと。
此説果して然らば、西郷も亦、唯私學校黨の一狂夫のみなれども、餘輩は遽に之を信ずること能はず。西郷は少年の時より幾多の艱難を嘗めたる者なり。學識に乏しと雖ども、老練の術あり、武人なりと雖も風彩あり、訥朴なりと雖も粗野ならず、平生の言行温和なるのみならず、如何なる大事變に際するも、其擧動綽々然として餘裕あるは、人の普く知る所ならずや。然るに、今囘の一擧に限りて、切齒扼腕の少年と雁行して得々たる者と見做すは、西郷の平生を知らずして、臆測の最も當らざるものと云ふ可し。故に餘輩は、敢て彼に左袒して、其不學の罪をも許さんとするには非ざれども、又この世説を輕信して、直に之を狂夫視するの理由は、未だ之を見出すこと能はざるなり。
又、或は云く、西郷は眞に朝廷の忠臣にして、朝廷の名ある政府に向つて素より暴發すること能はず、又、其暴發の世に害たることをも知り、百方尽力して部下の少年輩を維持したるは、政府の人も明に知る所なり、或は之を維持して其方向を改めしむるの術に至ては、學識明ならず、知見博からずして、策の得ざるものもあらんと雖も、西郷に固有の力は、之を尽して遺す所あることなし、斯の如く忍耐勉強して、一年を過ぎ二年を經て、世上の有樣を視察するに、一として部下の不平を慰るに足るものなし、政治は益々中央集權、地方の事務は日に煩冗、此も政府の布告、彼も地方官の差圖とて、有志の士民は、恰も其心身の働を伸るに地位を見ず、其鬱積、遂に破裂して、私學校黨の暴發と爲り、西郷も實に進退維谷の場合に陥り、止を得ずして遂に熊本縣に亂入の擧に及びたりと。此説、或は然らん。然ば則ち、彼の心事は眞に憐む可くして、之を死地に陥れたるものは政府なりと云はざるを得ず。
明治七年、内閣の分裂以來、政府の權は益々堅固を致し、政權の集合は無論、府縣の治法、些末の事に至るまでも、一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして、之を奉ずるに遑あらず。其の一例を擧れば、今の府縣の民にして、政府の布告を讀む者は、百中一、二に過ぎず、他は皆、回章の名前に點を附けて之を隣家に回はすのみ。甚しきは犯罪に由て罰金を拂ふに、其これを拂ふの時に至て始て何々の法あるを聞き、己が其法を犯したるを聞き、之を犯したるが故に此罰金を拂ふの由縁を聞き、始て大に驚愕する者あるに至れり。新法の繁多にして人民の無頓着なること、推して知る可し。
政府は唯無智の小民を制御して、自治の念を絶たしむるのみに非ず、其上流なる士族有志の輩を御するにも同樣の法を以てして、嘗て之に其力を伸ばす可きの餘地を許さず。抑も廢藩以來、日本の士族流は全く國事に關するの地位を失ひ、其無聊の有樣は、騎者にして馬を殺し、射者にして弓を折たるものの如し。此時に當て政府たるものが巧に間接の法を用ひ、其射騎の力の形を變化せしめて他の方向に誘導するに非ざれば、鬱積極まつて破裂に至る可きは、智者を待たずして明なる所なれども、近來の景況を見るに、政府は毫も爰に心を用ひずして、只管直接の策に出で、士族に劍を砥ぐ者あれば、政府は銃砲を造て之に當らんとし、論客學者に喧しき者あれば、律令を設けて之を禁止せんとし、其状恰も雷を防ぐに鉄の天井を以てするに異ならず。策の巧なるものと云ふ可らず。
薩の士族にても、前に云へる如く、其性質を尋れば、唯權を好むの一點に在るのみの者なれば、よく其性質に從て更に方向を示し、間接に之を導いて其赴く所を感じ、或は以て轉禍爲福の功を奏す可きことある可し。且政府にて此間接の法を用ひんとするに意あれば、其路甚だ難からず。三、五年以來、世上に民會論の喋々たるものあれば、政府は早く其勢に乘じて事の機を失ふことなく、姑く此民會論を以て天下の公議輿論と視做し、此公議輿論に從て士族の心を誘導すれば、名義正しく、人心安く、無聊の士族も始て少しく其力を伸ばすの地位を得て、其心事の機を轉ずるを得可し。政略の巧は此邊に在て存するものなり。
民會の説、或は今の實際に行はれ難き場合もあらんと雖も、結局、其元素は推考の理論を先にして腕力を後にするものなれば、今日に實効なきも、今日に之を起して其旨を奨励し、以て後日の謀を爲すも妨なきは、固より弁を俟たず。斯の如くにして政府は、既に眞實民會を勸るの名を成したり、尚其上にも學者なり新聞記者なり、苟も世上に名望を得て有力なる者は、悉皆これを政府の味方に引入れ、益其發論の自由を許して、著書發行を自在ならしめなば、其の論鋒の向ふ所は、必ず鹿児島士族の腕力を頼て一方に割拠するが如き者を改めて、遂には彼の頑士族の頑をも砕て、不識不知の際に之を平和に導く可きは疑を容れず。
斯る形勢に至れば、西郷も亦安くして、恰も意外の僥倖を得たるの思を爲す可きなり。然るに政府の人は眼を爰に着せず、民會の説を嫌て之を防ぐのみならず、僅かに二、三の雜誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見て之に驚き、之を讒謗とし之を誹議とし、甚しきは之に附するに國家を顛覆するの大名を以てして、其記者を捕へて之を見れば唯是れ少年の貧書生のみ。書生の一言、豈よく國家を顛覆するに足らんや。政府の狼狽も亦甚しきものと云ふ可し。
是等の事情に由て考れば、政府は直接に士族の爆發を防がんとして、之を其未發に止むること能はず、間接に之を誘導するの術を用ひずして、却て間接に其爆發を促したるものと云ふ可し。故に云く、西郷の死は憐む可し、之を死地に陥れたるものは政府なりと。
尚これよりも甚しきものあり。都て國事の犯罪は、其事を惡て其人を惡む可きに非ざれば、往々之を許して妨げなきもの多し。猶維新の際に、榎本の輩を放免して今日に害なく、却て益する所、大なるが如し。然るに維新後、佐賀の亂の時には、斷じて江藤を殺して之を疑はず、加之、この犯罪の巨魁を捕へて、更に公然たる裁判もなく、其場所に於て刑に處したるは、之を刑と云ふ可らず、其の實は戰場に討取たるものの如し。鄭重なる政府の體裁に於て、大なる欠典と云ふ可し。一度び過て改れば尚可なり。然るを政府は、三年を經て、前原の處刑に於ても、其非を遂げて過を二にせり。
故に今囘城山に籠たる西郷も、亂丸の下に死して快とせざるは、固より論を俟たず。假令ひ生を得ざるは其覺悟にても、生前に其平日の素志を述ぶ可きの路あれば、必ず此路を求めて尋常に縛に就くこともある可き筈なれども、江藤、前原の前轍を見て死を決したるや必せり。然らば則ち政府は、啻に彼れを死地に陥れたるのみに非ず、又、從て之を殺したる者と云ふ可し。
西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、國法嚴なりと雖も、豈一人を容るるに餘地なからんや。日本は一日の日本に非ず、國法は萬代の國法に非ず。他日この人物を用るの時ある可きなり。是亦惜む可し。 
 

 

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