北条霞亭

北条霞亭霞亭生涯の末一年
北条霞亭文化文政時代の精神史伝に見られる森鴎外の歴史観・・・

雑学の世界・補考   

関連「江戸の日本」
調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
北条霞亭 / 森鴎外


わたくしは伊沢蘭軒を伝するに当つて、筆を行る間に料らずも北条霞亭に逢著した。それは霞亭が福山侯阿部正精に仕へて江戸に召された時、菅茶山は其女姪にして霞亭の妻なる井上氏敬に諭すに、蘭軒を視ること猶父のごとくせよと云ふを以てしたからである。
霞亭の事蹟は頼山陽の墓碣銘に由つて世に知られてゐる。文中わたくしに興味を覚えしめたのは、主として霞亭の嵯峨生活である。霞亭は学成りて未だ仕へざる三十二歳の時、弟碧山一人を挈して嵯峨に棲み、其状隠逸伝中の人に似てゐた。わたくしは嘗て少うして大学を出でた比、此の如き夢の胸裡に往来したことがある。しかしわたくしは其事の理想として懐くべくして、行実に現すべからざるを謂つて、これを致す道を講ずるにだに及ばずして罷んだ。彼霞亭は何者ぞ。敢てこれを為した。霞亭は奈何にしてこれを能くしたのであらうか。是がわたくしの曾て提起した問である。
原来此問は墓に銘した山陽の夙く発した所で、山陽も亦あからさまに解釈するには至らずして已んだ。試に句を摘んで山陽の思量の迹を尋ねて見よう。
「北条君子譲。慕唐陽城為人。自命一字景陽。嘗徴余書其説。時酒間不遑詳其旨。諾而不果。」按ずるに霞亭の嵯峨は亢宗の及第後に隠れた中条山である。碧山惟長は亢宗の弟堦域である。北条が起つて阿部氏の文学となつたのは陽が起つて徳宗の諫官となつたと相類してゐる。しかし山陽も終に霞亭の口づから説くを聞くことを果さなかつた。
「君蓋欲自験其所学者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦能済物(ひと)哉。不然。烏能舎其所楽。而役役以没也。」是が山陽の忖度する所の霞亭の心事である。山陽は霞亭の自ら説くを聞かなかつたので、已むことを得ずして外よりこれを推求した。霞亭が済物の志は他(かれ)をして嵯峨生活の適、嵯峨生活の楽を棄てしめたのであらうと謂ふのである。
問ふことは易い。しかし答ふることは難い。わたくしは書を読むこと五十年である。そしてわたくしの智識は無数の答へられざる問題の集団である。霞亭は何者ぞ。わたくしは今敢て遽にこれに答へむと欲するのでは無い。わたくしは但これに答ふるに資すべき材料を蒐集して、なるべく完全ならむことを欲する。霞亭の言行を知ること、なるべく細密ならむことを欲する。此稿は此希求より生じた一堆の反故に過ぎない。
わたくしは此稿を公衆の前に開披するに臨んで独り自ら悲む。何故と云ふに、景陽の情はわたくしの嘗て霞亭と与に偕にした所である。然るに霞亭は、縦ひ褐を福山に解いてより後、いかばかりの事業をも為すことを得なかつたとはいへ、猶能く少壮にして嵯峨より起つた。わたくしの中条山の夢は嘗て徒に胸裡に往来して、忽ち復消え去つた。わたくしの遅れて一身の間を得たのは、衰残復起つべからざるに至つた今である。

霞亭の事蹟にして既に世の人に知られてゐるのは、上に記した山陽の墓碣銘の云ふ所である。銘は山陽遺稿に載せてある。
わたくしは巣鴨真性寺に霞亭の墓を弔つた時、墓石の刻する所を以て対挍して見た。
寺は巣鴨行電車の終点より北行すること数歩の処にある。街の左側に門があつて、入つて本堂前より右折すれば墓地になつてゐる。東西に長く南北に狭い地域の中程に「霞亭先生北条君墓」がある。山陽の自ら撰んで自ら書した墓碣銘は左右背の三面に刻してある。末には「友人頼襄撰并書、孤子退建」と署してある。浜野知三郎さんは此銘が恐くは山陽の絶筆であらうと云ふ。果して然らば是は今少し広く世に知らるべき筈の金石文字ではなからうか。
今石刻の文を以て対挍するに、刊本遺稿には二三の異同がある。「君病歿於江戸。」石には「病」字が無い。「給三十口。准大監察。」石には「准」が「班」に作つてある。「学主洛閩。而輔以博覧。」石には上に「其」字がある。「有霞亭摘稿、渉筆、嵯峨樵歌、薇山三観及杜詩挿註等。」石には上に「所著」の二字がある。要するに皆小異同である。わたくしは此に其得失を論ずることを欲せない。
山陽の文に見えてゐる霞亭の著述中、杜詩の註を除く外は、皆著者の事蹟を知る資料たるに足るものである。わたくしは蘭軒伝を草するに当つて、夙く霞亭渉筆、嵯峨樵歌、薇山三観三書の刊本を浜野氏に借りて引用することを得た。薇山三観は後に帰省詩嚢と合刻せられたが、わたくしは後者の単行本を横山廉次郎さんに借りて読んだ。剰す所は未見の霞亭摘稿があるのみである。
別に歳寒堂遺稿三巻があつて、浜野氏は将にこれを挍刻せむとしてゐる。巻之一、詩古今体二百六十二首、巻之二、詩古今体二百十五首、巻之三、文三十二首で、末に行道山行記を坿したものである。わたくしは今これを浜野氏に借ることを得た。
霞亭の事蹟を知ること詳ならむを欲するときは、遺稿は読まざるべからざる書である。わたくしが此文を草するに当つて遺稿を引用することを得るのは、前に刊本三種を読むことを得たと同じく、並に皆浜野氏の賜である。
わたくしは此に先づ当に蘭軒伝中に引くべくして引くに及ばなかつた詩三首を遺稿中より抄する。霞亭と蘭軒との関係は既に上に見えてゐるが故である。「過蘭軒。孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一榻聆君話。洗尽両旬征路塵。」「従蘭軒処覓梧桐芭蕉。梅李三根対小寮。園庭十畝太蕭条。間愁剰欲聴秋雨。為乞青桐与緑蕉。」「雪日書況、寄伊沢澹父、澹父久臥病、予亦因疾廃酒。重裘囲繞護衰躬。坐看雪華飄急風。篁竹尽眠遮仄径。楼台如画出遥空。独醒長学幽憂客。高臥更憐同病翁。憶得他年乗興処。墨江晩霽掲寒篷。」共に遺稿第二巻の収むる所である。

山陽撰の墓碣銘と、霞亭が著す所の詩文雑録とよりして外、霞亭の事蹟を徴すべきものは当時の書牘である。
霞亭が故郷志摩国的矢を去つたので、父適斎道有は霞亭の弟碧山惟長をして家を継がしめた。碧山の子が一可、一可の子が新民、新民の子が新助である。此北条新助さんが霞亭の書牘一篋を蔵してゐる。わたくしは島田賢平さんに由つて此書牘を借ることを得、頃日これを読み尽した。書牘は二百余通あつて、大半は霞亭が適斎と碧山とに与へたものである。的矢の北条氏が歴世これを愛護して一も散佚することなからしめ、今の新助さんに至つたのは、其ピエテエの深厚なること、実に敬重すべきである。此二百余通の書牘は、わたくしの新に獲た資料中最大にして最有力なるものである。
霞亭が福山藩の文学となつて江戸に客死した時、同藩河村氏の子悔堂退が来つて其箕裘を継いだ。山陽に請うて養父の墓に銘せしめたのは此悔堂である。悔堂の子が笠峰念祖、笠峰の子が徳太郎である。徳太郎さんは頃日に至るまで近江国蒲生郡苗村村立川守尋常小学校長であつた。笠峰に弟洗蔵があつて高橋氏を冒し、現に神辺にゐる。わたくしは浜野知三郎さんに由つて高橋洗蔵さんの所蔵の書牘数通をも借ることを得た。是は諸友の霞亭に与へたものである。
前記の外、わたくしは福田禄太郎さんの手より許多の系譜、行状、墓表等の謄本を贈られた。霞亭の事蹟を徴すべき資料は概此の如くである。就中わたくしを促して此稿を起さしめたのは、的矢北条氏所蔵の霞亭書牘一篋である。
さて霞亭伝を作るには、いかなる体例に従ふべきであらうか。今わたくしの知る所のものを筆に上せて罫漏なからしめむことを欲したなら、わたくしは霞亭を叙すること猶渋江抽斎を叙し伊沢澹父を叙するがごとくなるを便とするであらう。しかし既往はわたくしをして懲せしめた、わたくしは簡浄を努めなくてはならない。挿叙する所の書牘の如きは、いかに価値大に興趣饒しと以為ふものと雖、わたくしは敢て其全文を写し出すことをなさぬであらう。
幸なるは霞亭の生涯に多少の波欄があつて、縦ひいかなる省筆を用ゐて記述せむも、彼蔵儲家挍讎家として幕医の家に生没した小島宝素の事蹟の如く荒涼落莫なる虞の無い事である。
わたくしは此より前記の材料に拠つて、霞亭の祖先より、霞亭自己の生涯を経て、其後裔に至るまで、極て簡潔に叙述しようとおもふ。若し其文字の間に、彷彿として霞亭の陽城に私淑した所以が看取せられたなら、わたくしの願は足るであらう。

山陽が霞亭の祖先を叙した文はかうである。「其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯国除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隠医本邑。」本邑とは志摩国的矢である。
霞亭の遠祖は北条早雲である。霞亭は渉筆を著すに当つて、祖宗の逸事として早雲の事を語つた。世の普く知る所の、早雲が人の三略を講ずるを聞いて、「夫主将之法、収攬英雄之心」に至り、復他を説かしめなかつたと云ふ伝説である。
わたくしはこれを読んで、霞亭が名将の種と云ふを以て一種のフイエルテエ(誇り)を感じてゐたものかと想ふ。霞亭は恐くはアリストクラチツクな人であつたゞらう。是は後の嵯峨生活の由つて来る所を知るために、等閑視すべからざる事実である。
しかし文献は早雲より霞亭の曾祖道益に至るまでの連鎖の幾節を闕いてゐる。福山藩に伝ふる所の「北条系図」の首にはかう云つてある。「天正十八年(1580)七月小田原落城せしかば、同年秋北条家の一門家老悉く高野山に登りしが、同年冬山を下り、麓の天野に居住す。其後家祖は志摩鳥羽の城主内藤志摩守忠重に仕へ、其子道益斎の時、内藤家断絶して浪人となり、同国的屋に隠れ、医を業とす。」此に「家祖」と云ふものは、其名こそ詳ならね、即霞亭の高祖である。
内藤家の断絶は和泉守忠勝の時であつた。延宝八年(1680)六月二十六日に、芝増上寺に於て前将軍徳川家綱の四十九日の法要が営まれた。此日に忠勝は宿怨あるを以て、丹後国宮津の城主永井信濃守尚長を寺中に斬つた。二十七日忠勝の三万三千二百石、尚長の七万石は並に官没せられ、忠勝は芝青松寺に於て切腹せしめられた。
此時道益は忠勝に仕へてゐたので、的矢に徙つて医となつた。道益と云ひ、道益斎と云ふは、固より医となつた後の称であらう。是が霞亭の曾祖である。
道益には僧俗二人の兄弟があつた。的矢北条氏蔵霞亭書牘中に首尾の裂けて失はれた一書がある。是は渉筆に拠つて考ふるに、西村及時に与へたものであらう。今其一節を抄する。「曾祖以医隠於志州的屋村。其節省北条為北。或称喜多。同胞三人。弟市之丞某東遊一諸侯へ仕宦いたし候処、不幸にして讒死いたし候。没落のせつ道益斎兄薙髪出家いたし、則真英師に候。」是に由つて観れば、同胞三人の順位は僧真英、医師道益、侍市之丞である。
然るに渉筆には「曾祖父道益弟、有了普禅師」と云つてある。そして市之丞の事は見えない。了普は即真英であらう。此僧は書牘に従へば道益の兄となり、渉筆に従へば其弟となる。渉筆は後年の刪定を経たものなるを思へば、是を定説とすべきであらうか。果して然らば道益に真英、市之丞の二弟があつたとすべきであらう。
渉筆に拠るに、霞亭は及時に請うて了普の事蹟を記せしめた。上に云つた書牘の断簡に、猶真英の事が書してある。わたくしは此を以て及時の記の根本史料となすが故に、此に録存する。「則真英師に候。(此句重出。)書をもとめ候人多く、常に潤筆の資満嚢有之候処、人に施し又は仏寺を創建いたし候よし。はじめ青の峰弁天の社を建立、又同州三箇所村棲雲庵建立。其外にも有之候へとも相しれ不申。弊家墳墓へ、手写の千部経蔵画いたし、今に埋み有之候。其外に尺八をよくふかれ候事も申つたへ候。これ等は皆々ほんの児女子口碑に御坐候。御取捨可被下候。村松に大般若経の書写有之候よし承り及候。」

霞亭の曾祖道益は享保十一年(1726)十月二十八日に歿した。法謚三友道益庵主である。其同胞僧了普は自ら創する所の三箇所村棲雲庵に住んで、遅るること十七年、寛保三年(1743)に寂した。
道益に次いで医業を的矢に行つた道可は、霞亭の祖父である。名は俊立、又玄と号した。明和七年(1770)十二月十八日に妻を喪ひ、安永五年(1776)十一月二十八日に歿した。法謚を可卯至道庵主と云ふ。孫霞亭の生るるに先だつこと四年である。
道益の後は道有が襲いだ。是が霞亭の父である。
道有には孫福公褒(原文は保が谷)撰の墓表があつて、稍其事蹟を詳にすることが出来る。褒は裕字の変体である。わたくしの記憶にして欺かずば、渉筆には剞劂氏(版木屋)に誤られてゐたかとおもふ。
道有、名は寛、字は士紳、適斎と号した。延享四年(1747)に生れ、二十四歳にして恃を失ひ、三十歳にして怙を失つた。その長男霞亭をまうけたのは、霞亭の生日安永九年(1780)九月五日なるより推すに、三十四歳の時である。霞亭の母は中村氏である。想ふに適斎道有は父の歿した後に始て娶つたのではなからうか。中村氏は十六歳にして霞亭を生んだ。
わたくしは霞亭のいかなる家庭に鞠育せられたかを知らむがために、此に墓表中より適斎の人となりを抄する。「先生為人。気宇爽朗。聞人一善。若享大賚。聞一不善。若有所失。或読古人書伝。談前言往蹟。甘心於忠良。切歯於姦佞。宛如吾眼前事。慨然歎詑不措。性嗜酒。但不喜独飲。日夕邀客対酌。率以為常。其飲量過人。老而不衰。」霞亭の父は庸人ではなかつたらしい。
わたくしは又墓表に拠つて、適斎の医にして儒であつたことを証することが出来る。「里中弟子。嘗問字学書者。凡七十余人。」適斎は閭里にあつて人の師となつてゐたのである。適斎は後年其子霞亭をして驥足を伸べしめむがために廃嫡した。わたくしは此非常の挙の由つて来る所を推して、公褒が諛墓の文を作らなかつたことを知る。
天明四年(1784)に霞亭の弟内蔵太郎が生れた。名は彦、字は子彦である。適斎三十八、中村氏二十の時の子である。兄霞亭は既に五歳になつてゐた。
渉筆に雪で塑ねた布袋和尚の融けたのに泣いた内蔵太郎の可憐な姿が写されてゐる。是は天明八年霞亭九歳、彦五歳の時の事である。
寛政三年(1791)四月三日に適斎の三男貞蔵が夭折した。其生日を知らない。恐くは生れて未だ幾ならぬに死したのであらう。時に父四十五、母二十七、両兄は十二歳と八歳とであつた。
五年には霞亭が十四歳になつた。行状一本に、士人某がこれを相した逸事を載せてゐる。「先生幼にして重遅、戯嬉を好まず。惟演史を読むを以て歓となす。年十四、里中の児と出て遊ぶ。一士人あり、熟視久うして其同行に謂て曰く。此子挙止凡児に異なり。他時必ず大名を成さむ。」  
 

 


わたくしは霞亭が寛政五年十四歳にして一士人に相せられたことを記した。次年六年閏十一月十四日には偶霞亭同胞の女子英の歿したことが伝へられてゐる。按ずるに霞亭の同胞には四女があつた。山陽は「考娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。長女を縫と云ひ、二女を英と云ひ、三女は死産であつたために名が無く、四女を通と云つた。わたくしは唯英が霞亭十五歳の時に死んだことを知るのみで、其他の女子の生歿を明にしない。通は長じて植田氏に嫁したさうである。
七年には霞亭の弟碧山が生れた。父は四十九、母は三十一、長兄霞亭は十六、仲兄子彦は十二であつた。碧山、名は惟長、字は立敬、通称は大助である。碧山は霞亭が李白の詩に取つて命じたものである、按ずるに後霞亭が郷を去るに及んで、子彦は既に歿してゐたので、此碧山が立嫡せられたのである。
九年(1797)に霞亭は京都に遊学した。渉筆の「予年十八、遊京師」の文より推すことが出来るのである。山陽は単に「幼喜読書、考以次子立敬承家、聴君遊学、入京及江戸」と云つてゐる。しかしわたくしは碧山立敬の立嫡は霞亭が始て京都に遊んだ年に於てせられたのではあるまいとおもふ。父適斎が十四歳の子彦を措いて、三歳の碧山を立てたとは信じ難いからである。況や子彦は有望な子で翌年踵を兄霞亭に接して京都に往くのである。若し碧山の立嫡が真に此年に於てせられたなら、それは適斎が霞亭子彦の二人をして斉しく郷を去つて身を立てしめようとおもひ、ことさらに最少なる碧山を以て嗣子としたと看做すより外無からう。是も亦必ずしも想像すべからざる事ではない。
霞亭は京都にあつて経を皆川淇園に学び、医を広岡文台に学んだ。事は載せて渉筆中にある。淇園は当時六十四歳であつた。文台の事は多く世に顕れてをらぬが、呉秀三さんの検する所に拠るに、宇津木益夫の日本医譜に、名は元、字は子長、伊賀の人、古医方を以て自ら任じ、名を四方に馳す、著す所家刻傷寒論ありと云つてある。霞亭が渉筆に「長予二十五歳、折輩行交予」と云ふより推せば、その霞亭を引見したのは四十三歳の時である。按ずるに霞亭が儒を以て立たむと欲する志は、当時猶未だ決せなかつたであらう。
霞亭は京都にあつて山口凹巷、鈴木小蓮、清水雷首、下田芳沢、本山仲庶等と相識つた。就中凹巷は最親く、後に霞亭の弟を迎へ女壻とするに至つた。次に親かつたのは小蓮であつたらしい。
京都は的矢を距ること遠くもないので、霞亭は屢省親のために帰つたらしい。此丁巳の歳には十二月に帰つたことが渉筆に見えてゐる。
十年(1798)は霞亭の京都にあつた第二年である。淇園に従つて東山に遊んだことが渉筆に見えてゐる。文台は此年伊賀に帰つた。渉筆を閲するに、霞亭は「居無幾、先生帰伊州」と云ふのみであるが、後庚午(1810)に文台を伊賀に訪ふ時、「以十三年睽離之久、期一見於二百里外」と云つてゐる。凹巷も亦「蓋相別十有三年」と云つてゐる。分袂の戊午(1798)にあつたことが知られる。
霞亭の弟子彦は此年に的矢より来た。渉筆に「彦、字子彦、通称内蔵太郎、予次弟、寛政戊午遊学京師、師事友人源玫瑰先生」と云つてある。子彦の師源玫瑰名は寵、字は天爵、一号は梅荘、北小路氏、肥後守、後大学介と称した。
此年的矢に於て霞亭の弟良助が生れた。父五十二、母三十四、兄霞亭十九、子彦十五、立敬四歳の時であつた。

寛政十一年(1799)は霞亭の京都にあつた第三年である。夏に入つて弟子彦が尼崎に往つて某寺に寓してゐたのを、霞亭は京都から訪ねに往つて、伴つて的矢に帰つた。子彦は九月十九日に家に歿した。年僅に十六であつた。此年田口氏の女礼以が生れた。後に碧山に適く女である。
十二年は霞亭が淹京の第四年で、事の記すべきものが無い。
享和元年(1801)に霞亭は京都を去つたらしい。後に帰省した時、霞亭は「経八年南帰」と云つてゐる。そして其帰省の年は文化五年(1808)なるが如くである。是は渉筆中の文である。山口凹巷も亦嵯峨樵歌題詞に「別来已八年」と云つてゐる。「厳慈(父)」に別れてよりの意で、凹巷霞亭の別を謂つたものではない。二友は享和三年(1803)に江戸で別れたから、南帰後林崎時代(1808-1810)に至る間に、いかにしても八年を閲する筈がない。初めわたくしは同じ文より推して、霞亭の京都を去つた年を享和二年としたが、今はその元年なるべきを思ふ。是は後に記すべき証迹がある故である。
享和二年(1802)には霞亭の既に江戸に来てゐたことが確証せられる。的矢書牘中に此年の書一通がある。此書は霞亭が壬戌七月二十五日に江戸にあつて裁したものである。
わたくしは此書の全文を写すことのタンタシヨンを感ずる。書の的矢書牘中最古のものなるを思へば、此タンタシヨンは愈大い。しかしわたくしは此念を剋扞してこれを略抄するに止める。
書は霞亭の北条大弐に与へたものである。その云ふ所より推すに大弐は別人ではない。父適斎である。わたくしは此に由つて、後に碧山の子儼が大弐と称したのは、祖父の称を襲いだものなることを知る。
書は七月二十五日に作られてゐる。何を以てその壬戌なることを知るか。「此節諸国出水之噂都下日々に御座候。別而上方辺京大坂江州大水之よしに承り候。御国辺は如何に候哉無心元奉存候。委細御様子等御示し可被下候。九州にても有馬様御領には山つなみ等も有之候よし。御当地は左程までも無之候へども先月廿一二日より晦日頃迄雨降つづき申候。下総辺笠井猿が股抔切れ候而、大川筋もあづま橋永代橋新大橋落申候。漸う両国ばかりのこり申候。三囲土手抔は一面に水つき申候。近年未曾有之事に候。」是は享和二年六七月の交の霖雨洪水を叙したものである。武江年表の「大川は両国橋のみ通行成る」と符合する。
書は七月二十五日に作られた。しかしそれが江戸より発せられた最初の書ではない。「小子無変勤学罷在候。乍慮外御安意奉希候。然者当二日頃書状差上申候。相達候哉。」霞亭は七月二日頃にも亦既に書を父に寄せたのである。是が江戸に於ける霞亭の最古の消息で、其前年辛酉に霞亭が京都を去つただらうと云ふは、後の南帰の年より推算するに過ぎない。
書には始て霞亭の弟敬助の名が見えてゐる。敬助は壬戌(1802)に生れたのである。父五十六、母三十八、兄霞亭二十三、碧山八、良助五歳の時に生れたのである。敬助、初の名は惟寧、後沖、字は澹人と改めた。山口凹巷が迎へて女壻とするのが此敬助である。「御小児は名慶助と御呼被遊候由承知仕候。慶を敬の字に御かへ被遊候方可然奉存候。其わけは当時西丸大納言様家慶公と被仰候得者此一字を俗称に相用候儀憚多く候。下々にては構も無之儀に候へども、読書生等は其心得も可有事に御坐候間、敬助之方可宜候。」是に由つて観れば適斎は慶助と命じ、霞亭が敬助と更めさせたのである。

わたくしは霞亭が享和二年七月二日頃に、既に江戸にあつたことを確証し、又其去洛の前年辛酉にあるべきことを言つた。霞亭は江戸にあつて誰に従つて学んだか。行状の一本にはかう云つてある。「後江戸に遊び、亀田鵬斎の塾に寓す。鵬斎深く先生を愛敬す。忘年忘義、視る朋友の如し。其妻に謂て曰。子譲年少と雖ども、志行端愨心なり。恨、一女子の之に配するなきを。」霞亭が鵬斎の塾に寓したことは、行状の云ふ所の如くであらう。しかし霞亭が果して贄を執つて師事したかは疑なきことを得ない。何故と云ふに、これを文書に徴するに、啻に鵬斎が朋友として霞亭を遇したのみでなく、霞亭の言にも亦鵬斎を師とした迹が無いからである。霞亭の鵬斎に従遊したのは何年より何年に至る間であつたか不明である。しかし後に北遊の途に上る前に亀田の塾にゐたことは明である。或は想ふに江戸にある初には未だ鵬斎を見なかつたのではなからうか。霞亭の書牘に鵬斎に言及してゐることは後に引く所に就いて見るべきである。渉筆は「先師淇園先生」を説いて絶て鵬斎を説かない。
享和三年(1803)は霞亭が在府の徴証せられてゐる第二年である。此歳癸亥には閏正月があつた。的矢書牘に偶霞亭が閏正月十六日に母中村氏に寄せた書がある。そしてその云ふ所は霞亭の志を知らむがために極て重要なるものである。「私などは世上の事も左のみ何ともぞんじ申さず候。万事気づよく心をもち候やふにいたし候。そのわけは左様に無之候ては、江戸おもてなどには住ひ不被申候。と申て人と争ふと申様なる事はすこしもいたし不申候。学問等に精力いだし候へども、これは元来このみ候事故、苦労とはぞんじ不申、かゑつてたのしみ候事に候。たゞたゞ運をひらき候て、少々の禄をももらひ候はゞ父母様兄弟一所にくらし候はんと、それのみたのしみ申候。それとてもつかみ付様にも出来候はねど、いづれ今暫三十ぢかくもなり候はゞ、ずいぶん出来候やうに相見え候。此頃友達の松崎太蔵と申人二十人扶持に而太田備中様へ御抱に相成候。無左とも学問成就いたし、芸さへよろしく候はゞ、人のすて置申物には無之候。たゞたゞつとめが第一に候。御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出来不申、かつ又無用之物になりしまひ候。其段いか計かなげかわしくぞんじ為参候。何分こゝろざし候事故、金石をちかひ修業こゝろがけ申候。」
霞亭は大志ある人物であつた。此一書は次年の避聘北遊の上にも、八年後の嵯峨幽棲の上にも、一道の光明を投射する。禄を干むるには「つかみ付様」には出来ない。先づこれを避くるは、後に一層大なるものを獲むと欲するが故である。先づ隠るゝは、後に大に顕れむと欲するが故である。人の行為の動機は微妙である。縦ひ霞亭の北遊と幽棲とに些のポオズに似たる処があつたとしても、固よりこれが累となすには足らない。
霞亭は母の望を繋がむがために、一友人の発迹を例に引いた。松崎太蔵は慊堂復である。行述に「退蔵」に作つてある。太田備中守は遠江国佐野郡掛川の城主太田資愛である。慊堂の解褐は前年の事であつた。行述に所謂「享和二年、掛川城主大隆公辟為藩教授、食俸廿人口」は即是である。

わたくしの上に引いた享和(三年)癸亥閏正月十六日に霞亭が母に寄せた書は、わたくしに種々の新事実を教へた。其一は松崎慊堂が霞亭の友人であつたと云ふことである。其二は霞亭の母中村氏の賢であつたことである。中村氏が賢でなかつたなら、其子が書信中に此の如く意を攄べ情を尽すには至らなかつたであらう。
霞亭は書を裁した時二十四歳であつた。学既に成つて師友に推称せられながら、軽しく質を委ぬることを欲せずして、「いづれ今暫三十ちかくもなり候はゞ、ずいぶん出来候やうに相見え候」と云つてゐる。避聘北遊の好註脚である。啻に然るのみではない。霞亭は三十を踰えても猶持重して、自ら售ることを欲せなかつた。嵯峨生活ある所以である。
わたくしは前に霞亭の廃嫡が必ずしも初て京都に遊んだ年に於てせられなかつただらうと云つた。此書の如きも、わたくしをして此疑を増さしむるものである。引く所の文に拠るに、的矢の家の継嗣は未だ定まつてをらぬ如くである。「少々の禄をももらひ候はゞ、父母様兄弟一処にくらし候はん」と云ひ、「御在所へかへり候てもよろしく候へども、御在所などにては所せん業わ出来不申」と云ふを見るに、霞亭は大諸侯に仕へ、家を挙げて任に赴かむと欲してゐたらしい。是は廃嫡せられたものの言に似ない。
且同じ書の未だ引かぬ一節を見るに、霞亭は何事をか父適斎に謀つてゐる。「此節少々ぞんじよりもおわし候て親父様迄御相談申上候義も候」と云つてある。所謂相談は或は即継嗣問題ではなかつただらうか。後の書に拠れば、霞亭は曾て父に謀つた事に手を下さず、父の与へた金を人に委託した。是に由つて観れば、相談即継嗣問題にはあらざりし如くである。しかしわたくしは尚其事の或は継嗣問題に関繋するにはあらざるかを思ふ。
尋で三月二十三日に適斎は書を霞亭に与へ、霞亭は四月十五日にこれに答へた。後者は的矢書牘中にある。此書が癸亥(享和三年)の作に係ることは、霞亭の弟良助が六歳になつてゐるより推すことが出来る。「良助、敬助義は庖瘡無恙御済被成候由、御同然に目出度奉存候。乍去良助危症等有之、其上怪我等も仕候由、驚入候事に御座候。庖瘡之義は天運に候得者、軽重共に是非もなき事に候得共、怪我抔いたし候は如何之事に候哉。此後は決而小供に負戴致させ候義乍憚御無用に奉存候。嘸々御心労奉察候。最早日数も過候而常体之由、先々安心仕候。(中略。)良助義もはや六歳に相成候得者、をわれ候はずとも可宜候。もし足にてもかよはく候哉如何と奉存候。」良助は明治五年に七十五歳にして歿した故、其六歳は享和三年に当る。
霞亭は前に某の事を父に謀り、父は其言を容れて金二両を与へた。しかし霞亭は姑く其事を輟めて金を人に委託した。事は関係する所頗重大なるものの如くである。わたくしは下に書牘の一節を引かうとおもふ。

霞亭が享和(三年)癸亥の歳に為さむと欲して果さなかつた事は、その何事なるを知らぬが、父適斎はこれを許して金を遺つた。「黄白二円御恵投難有拝受仕候。無拠申上候処、御聞捨も不被下、毎々感謝仕候義に候。夫に家政も何歟と御逼窮に乍憚可有御座候。実に不本意之至、万々恐入愧入候事に候。右御相談申上候義も、先書今頃取計可申と奉存候処、今少し見合候義も有之、先々暫時延引仕候。兎角にせひては事を誤ると申候得ば、万端相考申候。夫故御恵投之金子も当分入用に無之候故、直様新兵衛殿へ預け置申候。御返上可仕と奉存候得共、様子未分明に候故、差控申候。猶又御了簡之程被仰聞可被下候。誠にわづか計之事に候得共、盆前近き候而は、門人等之謝義等もさつはりとれ不申候。しかし是は各別にとんぢやくに及不申候得共、今暫思案仕候事有之候故さしひかへ候。当地熟交之人新兵衛殿抔へも少しも口外いたし不申候。金子被下候義少々不審に思ひ候やうすに候。」
新兵衛は鈴木芙蓉で、霞亭が京都に於て交を結んだ小蓮の父である。霞亭は江戸に来てより、最も親しく此人に交つたと見える。前に母に寄せた書の末にも、「尚又御めんどうながら、鈴木新兵衛殿御内室へ、をくれには候へども、御礼旁御文一通、どのやうにてもよろしく候間、御遣可被下候、それにてわたくし義理相済候、まいまいちそうになり申候、これも始終不快にをられ候、かしこ」と云つてある。又父に寄せた此書の首にも、「先月廿三日御状当五日相達、幸と其日芙蓉宅へ参合、直様拝見仕候」と云つてある。霞亭は屢芙蓉を訪うて其病妻の欵待を受け、剰へ芙蓉の家を以て郷書の届先となしてゐたのである。
霞亭は癸亥の歳に、既に徒に授け謝を受けてゐた。「門人等之謝義等もさつはりとれ不申候」の文はこれを証して余ある。然れば霞亭は亀田鵬斎の門人ではなかつたであらう。
或は想ふに、霞亭は当時既に北遊せむと欲し、盤纏足らざるがために、金を父に請うたのではなからうか。学問は既に成つた。的矢へは帰りたくない。仕宦は必ずしも嫌はない。しかし聘を待つて直に就きたくはない。仕ふるには君を択んで仕へたい。遊歴は緩にこれが謀をなす所以である。北遊は避聘の遊である。此心事は「熟交之人」たる芙蓉と雖、与り聞くことを得なかつた。此推想は中らずと雖遠からざるものではなからうか。
霞亭の癸亥に父に寄せた書には、猶名士数人の名が見えてゐる。先づ昌平黌儒員より抄出する。「薩摩赤崎源助も当年死去いたし候。志村藤蔵も死去。聖堂御頼之人物、最早頼弥太郎一人に相成候。弥太郎拙者詩作ほめ申候。先書之中に写し入御覧候。」
わたくしは下に赤崎、志村、頼の三人のために数語を註して置かうとおもふ。  
 

 

十一
享和(三年)癸亥に霞亭が父適斎に寄せた書には、赤崎源助の名が見えてゐる。源助は薩摩の儒臣にして幕府に徴された海門驫イである。其詳伝は不日刊行せらるべき加藤雄吉さんの薩州名家伝に見えてゐる。海門は享和(二年)壬戌八月九日六十四歳にして歿した。
青柳東里の続諸家人物誌に「文化中に六十余にして歿す」と云つてあつて、人名辞書はこれに従つてゐるが、誤である。
次に霞亭は志村藤蔵の死を報じてゐる。わたくしは此人の事に関して疑を懐いてゐる。わたくしの蔵する初板人名辞書には志村藤蔵、志村東蔵の二人を載せてゐて、藤蔵の下には名字道号並同胞の名が無い。これに反して東蔵は陸奥国羽黒堂の人志村五城の弟、志村石渓の兄で、名は時恭、号は東嶼となつてゐる。藤蔵も東蔵も皆仙台の儒員である。
又藤蔵の下には幕府に徴されたこと、失明して死んだことがある。東蔵の下には此等の事を記さない。そして彼は樺島石梁の文に拠り、此は仙台史伝に拠つたのである。
わたくしは藤蔵と東蔵とは同人ではなからうかとおもふ。果して然らば五城士轍の歿した時、石渓弘強が順養子となつて家を継いだのは、東嶼時恭が失明して先ち歿した故であらう。五城の名士轍、石渓の名弘強は仙台風藻に従ふ。
霞亭の書に云ふ如く、藤蔵も亦享和中に歿した。仙台風藻には「二年壬戌五月廿四日歿、年五十一、葬仙台新坂永昌寺」と云つてある。若し五城の弟ならば、兄に先つこと二十九年であつた。五城は天保三年(1832)五月十八日に歿した。
霞亭癸亥の書には、赤崎志村が死して頼弥太郎が独存じてゐると云つてある。春水弥太郎は時に年五十八であつた。
春水は霞亭の詩を称讃した。書牘の云ふ所に従へば、霞亭は曾て春水の評した詩稿を父に寄示したことがある。
次に霞亭は古賀氏の事を言つてゐる。書牘中適斎の若布を鈴木芙蓉に贈つたことを記して、其下にかう云つてある。「残りは如仰古賀先生へも差上可申候。当春は古賀へも彼是と大に無沙汰に打過候。何様近日に参手土産に相成候而至極よろしく候。」
古賀先生は精里樸であらう。是歳精里年五十四、始て経を昌平黌に講じてより十三年、幕府の儒員となつてより九年である。霞亭は後に其長子穀堂と親善になつた。
次に霞亭は鈴木芙蓉父子の事を言つてゐる。「芙蓉も画事大分行はれ候。文蔵も随分壮健に候。妻にても迎へ候やうに申候。」
文蔵は恐くは小蓮の俗称であらう。時に父芙蓉雍五十五、子小蓮恭二十五であつた。小蓮は霞亭の此書を作つた四月十五日の後四十六日にして麻疹のために早世した。其歿日は六月二日である。此年は四月小、五月大、六月小であつた。
十二
霞亭が享和癸亥に父適斎に寄せた書には、次に山口凹巷の名が見えてゐる。「山口徴二郎よりも早春便有之候而より来書も無之候。如何に候哉。もし山田へでも御赴之義も候はゞ、御尋可被下候。」是は霞亭が京都に於て交を訂した凹巷珏(原文は玉の代りに王)であらう。通称の徴二郎は始て此に見えてゐる。凹巷は伊勢の郷里にゐたと見える。
人名の書中に見えたるものは概ね此の如きに過ぎない。的矢の親戚故旧中猶「中西御母君」は歿し、「道快様」は血属なる「弥八悴」を養つて子とし、「喜代助」は此に由つて幸を得、「弥八妻」は歿し、「兵吉」の女は痘に娶つて治した。皆大関係なきものゆゑ省略に従ふ。
最後に一事の録存して他日の参照に資すべきものがある。即博愛心鑑序の事である。「博愛心鑑序乍御労煩御吟味可被下奉頼候。美濃紙半枚許に認有之候。」按ずるに是は霞亭の曾て艸する所の文歟。遺稿には見えない。
癸亥父に寄する書の事は此に終る。
六月二日に鈴木小蓮が痲疹に罹つて歿した。年僅に廿五であつた。霞亭の「題小蓮残香集尾」にも、「鳴乎遠恥不幸短命、享年纔廿有五」と云つてある。小蓮、名は恭、字は遠恥、通称は文蔵であつた。又同じ人の「祭木遠恥文」にも「年紀差一、登策同科」と云ひ、「君長予一歳」と註してある。安永九年(1780)生の霞亭は廿四歳になつてゐたのである。
霞亭が小蓮と京都に相識つたのは、その初て京都に入つた寛政九年(1797)である。癸亥に残香集に跋して、「六年前、余遊学在京師、会木遠恥自江戸来、一見称知己、三冬同硯席」と云つてゐる。
霞亭は寛政九年十二月に志摩に帰省した時、小蓮を伴つて京都を出た。残香集の跋には、「余帰省父母乎志州、遠恥偕与行、其往還所経歴、摂和江勢諸州名山勝区、古蹟遺蹤、靡処不到」と云ひ、祭文には、「我覲父母、君謀同征、躡蹻担簦、山駅水程、登於叡岳、観乎琶湖、踰乎仙坂、遊於神都」と云つてある。
先づ京都を去つたのは小蓮である。次で霞亭も亦郷に帰つた。跋に「無幾遠恥東帰、余亦相踵帰家郷」と云つてある。霞亭が京都を去つて江戸に来た時、一たび的矢の家を過つたことは推知するに難くないが、霞亭は此に自ら語つてゐるのである。其下に「別来踰年、余亦遂来于江戸」と云ふを見れば、享和(元年)辛酉に小蓮は京都より江戸に帰り、又霞亭は同じ年に京都より的矢に帰り、尋で壬戌に江戸に来たのではなからうか。若し残香集を検したら、或は年月を徴すべき語があるかも知れない。
霞亭は江戸に来て小蓮に再会し、其父芙蓉と親むに至つた。その鈴木氏の家に往来することの頻であつたことは、上に引いた数通の簡牘に由つて知るべきである。文化甲戌(十一年)諸家人名録(扇面亭編、亀田鵬斎序)を検するに、「画家、鈴木芙蓉、名雍、字文熙(原文は二水が付く)、又号老蓮、信濃人、深川三角油堀」と云つてある。霞亭の往来したのは此深川の家歟。然らずんば芙蓉は壬戌(1802)癸亥の頃より甲戌(1814)に至る間に其居を移したこととなるであらう。
十三
霞亭の鈴木父子に於ける、親昵上記の如くであつたから、小蓮の遽に疾んで忽ち死した時、霞亭の痛惜は尋常でなかつただらう。二月の前には老蓮が其子のために婦を迎へむとしてゐた。是も此年少の才子に徒に属せられた幾多の望の一つになつたのである。残香集跋の「方行万里、出門車軸折」は、用ゐ来つて切実である。祭文の「入君之室、不見君顔、巻帙堆几、君胡不繕、毫管満架、君胡不援」も、決して虚構ではなからう。
此よりわたくしの叙事は霞亭の避聘北游の事に入らなくてはならない。初めわたくしは北游を以て次年甲子(1804文化元年)の年となした。しかし今はその癸亥(享和三年)なることを知つてゐる。
わたくしは嘗て山口凹巷の嵯峨樵歌に題して五古中より「下毛路向東、十月朔風吹」の句を引いて、霞亭凹巷二人が十月に下野より東行したことを証した。同じ詩に就いて旅程を考ふるに、二人は多賀城、塩釜、富山、石巻、高館、中尊寺、泉城、一関を経歴し、帰途常陸の潮来に小留した。わたくしの詩中より求め得た所は此の如きに過ぎなかつた。
頃日浜野知三郎さんは備後に往来し、途次神宮文庫を訪うて凹巷の東奥紀行を閲した。此より紀行がわたくし等に何事を教ふるかを一顧しよう。
凹巷の北游の途に上つたのは、癸亥八月二十九日であつた。紀行に「癸亥八月廿九日故人餞余於南岳楼」と云つてある。
此より下紀行の云ふ所は、浜野氏が考へて月日を誤つてゐるものとなした。紀行の十月は実は九月なるが如くである。
十月(九月)の条に下の文がある。「十三日館于江戸。故人北子譲来訪。本志州人。与余有旧。余将遊奥。要与倶。子譲方被磐城辟。難之。余謂曰。昔者孟襄陽。与故人飲。違韓朝宗期。終身不達而不悔。子何以此辞。為遂定約。」凹巷の引く所の故事は新唐書の文芸列伝に見えてゐる。「孟浩然、字浩然。襄州襄陽人。少好節義。喜振人患難。隠鹿門山。年四十。乃游京師。嘗於大学賦詩。一座嗟伏。無敢抗。張九齢、王維雅称道之。維私邀入内署。俄而玄宗至。浩然匿牀下。維以実対。帝喜曰。朕聞其人。而未見也。何懼而匿。詔浩然出。帝問其詩。浩然再拝。自誦所為。至不才明主棄之句。帝曰卿不求仕。而朕未嘗棄卿。奈何誣我。因放還。採訪使韓朝宗約浩然。偕至京師。欲薦諸朝。会故人至。劇飲歓甚。或曰。君与韓公有期。浩然叱曰。業已飲。遑恤他。卒不赴。朝宗怒辞行。浩然不悔也。」旧唐書の伝は僅に四十四字である。孟は後荊州の従事となり、開元の末に疽背を病んで卒した。凹巷は北条を以て孟に比したのである。
霞亭の北游が避聘の為だと云ふことは、山陽が已に云つてゐる。「一藩侯欲聘致之。会聯玉来。偕遊奥。以避之。」しかし霞亭を聘せむと欲したものゝ誰なるかを詳にしない。そのこれを記するものは独凹巷の紀行あるのみである。「子譲方被磐城辟」と云ふものが即是である。
是に由つて観れば、霞亭を聘せむと欲したものは磐城侯である。陸奥国磐城郡岩城平の城主は、宝暦五年(1755)より文化七年(1810)に至るまで、安藤対馬守信成であつた。信成は五万石を食んで、江戸の上屋敷は大名小路にあつた。
十四
霞亭と山口凹巷とが享和癸亥(1803)九月に将に江戸を発せむとした時、偶河崎敬軒が江戸に来てゐた。敬軒は二人を柳橋に餞した。東奥紀行に「十四日(九月)夜、以良佐留江戸、酌別于柳橋酒楼」と云つてある。凹巷の詩がある。「癸亥十月(九月)十四日。河良佐、北子譲、田仲雄及余、飲柳橋酒楼、子譲与余別三年、相見喜甚、約同遊松島、以良佐当竣事先還、是夜叙別、分柳橋酌別四字為韻、余得酌字。松島風烟懸遠想。柳橋雨月対離酌。千里雖従別在今。三年復見情如昨。故人東去路漫々。断雁南帰雲漠々。岐蘇桟道誰回首。微雪満蓑迷隕蘀。」角田仲雄も亦与に倶に北遊することとなつてゐるのである。仲雄、名は敬之である。
九月十七日に霞亭等は江戸を発して北行した。一行の一の関を経たのは十月七日である。そして二十五日には皆帰つて江戸にゐた。
十月三十日に霞亭は凹巷と品川の酒楼に別を叙した。紀行に曰く。「卅日。雨中別子譲于品川酒店。乗晴更酌。子譲赴磐城。官期在近。磐城前日所道。距江戸五十里。明日復労各天夢想。不得不泣下也。良佐以十月初旬。帰自木曾道。余(凹巷)帰家。実仲冬十一日也。」凹巷に「品川留別子譲」の詩がある。「南州久客宦遊人。東奥行程共数旬。千里相随疑是夢。一宵将別恐非真。海郷疲馬嘶憐夕。山駅寒灯語到晨。腸断従今顔色遠。離亭坐雨品川浜。」
十二月二十九日に霞亭は舟を隅田川に泛べて遊んだ。事は渉筆に見えてゐる。遺稿を閲するに、当時同遊者は河崎敬軒、池上隣哉の二人で、香を懐にして来て舟中に爇いたのは隣哉である。詩引にかう云つてある。「余昔在都下。社友河良佐、池隣哉祗役自勢南至。一日快雪。余与二子泛舟墨水遊賞。酒酣、隣哉出所齎香爇炉。縷烟裊裊。如坐画図中。実享和癸亥十二月除日也。」上に引いた東奥紀行に拠るに、敬軒は十月初旬に江戸を発して伊勢に帰つた。その十二月に江戸にあるは怪むべきが如くである。しかし此人の来往の頻であつたことは、茶山集等にも見えてゐる。又霞亭は磐城に赴かむとすと云つてあるが、遂に往かなかつたと見える。
是年癸亥には霞亭は二十四歳であつた。
文化元年には霞亭が五月に武蔵国羽生にゐた。行道山行記に「文化紀元夏五月、余再来客武州羽生里」と云つてある。江戸を距ること僅に十六里の地で、門下生の家があつたのだから、是より先にも一遊したと見える。七月十七日に霞亭は下野の行道山に登らむがために、羽生を発した。同行者は二人、「井説、字仲健、井常、字子明、皆羽生人」と云つてある。利根川を済り、梅原、中谷、茶釜森、大嶋を経て堀工に至つた。茂林寺のある村である。館林、岡野、高根、日向、高松、久保田、梁田を経、渡瀬川を渉り、除川を渡つて足利に宿した。十八日に足利学校を訪ひ、月谷を経て行道山に上り、浄因寺に宿した。十九日に大岩山に上り、毘沙門堂に憩ひ、大岩、吾妻坂を経て、再び除川を渡り、和泉、中里、渋垂、県、羽刈、小曾根、鶉、日向、冢場口、館林を過ぎて羽生に帰つた。行道山行記は遺稿に附載してある。末に鵬斎、淇園の評がある。鵬斎は「子譲、名譲、号霞亭、五瀬人、少遊京師、受学於漠園先生、東来荏土、以儒為業、余山水友也」と云つてゐる。その霞亭を友として遇したことは明である。此羽生の游を除く外、わたくしは事の此年に繋くべきものを見ない。霞亭は甲子(1804)二十五歳であつた。
二年は霞亭が相模上総に遊んだ年である。渉筆に拠るに、十二月には上総国湯江にゐた。今の君津郡貞元村である。此年にも亦新資料の採るべきものが無い。霞亭は乙丑(1805)二十六歳であつた。
十五
文化三年は霞亭が前年に相模上総に遊び、又将に信濃越後に遊ばむとする時であつた。
霞亭は此年四月五日に書を父適斎に寄せた。書の此年に作られた証は、三月の江戸大火を記してゐると、古屋昔陽の死を記してゐるとの二つを見て足るのである。江戸大火は三月四日に芝車町より出た火事である。昔陽の事は下に註する。書は的矢書牘の一である。
此丙寅の歳には霞亭が亀田鵬斎の塾にゐたことが確である。是が此書のわたくしに教へた最要緊事件である。
此年には三月四日の大火の後、四月三日に「ぼや」があつた。「一昨日も私罷在候近辺上野下山崎町出火に而三町四方ほどやけ申候。とかく火災のはなしのみにてうるさき事に御坐候。乍併最早四月にも相成候故、各別の事も有まじく候。」山崎町は今の万年町である。霞亭はこれを近辺と称してゐる。
霞亭は北遊の計画を語つて、さてかう云つてゐる。「御便はやはり亀田鵬斎先生迄被遊可被下候。」又書中に別に小切が巻き籠めてあつて、それに「江戸下谷金杉中村亀田文左衛門内北条譲四郎」と書してある。是は霞亭が念のために父に示した宛名である。
亀田塾の遺址は今のいづれの地に当るか、わたくしは精しくは知らない。下谷金杉中村は恐くは当時の公の称呼であつただらう。そして世俗は単に根岸の亀田と云つてゐたであらう。文化の諸家人名録には「学者詩書画、鵬斎、亀田文左衛門、名長興、字穉龍、又号善身堂、下谷根岸」と記してある。霞亭が亀田の許にゐて、山崎町を近辺と称したのも、げにもと頷かれる。且霞亭が既に亀田の許にゐて日を経たことも、文中の「やはり」に由つて証することが出来る。
霞亭は後に神辺より鵬斎に詩を寄せて、鵬斎の居を時雨岡と云つてゐる。「夕陽村居寄鵬斎先生。曾期歳晩社為隣。何事離居寂寞浜。海内論交常自許。尊前吐気与誰親。夕陽村裏三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」しぐれが岡はしぐれの松のある処で、金杉中村の方位も略想ふべきである。「十月春」の三字も亦等閑看過すべきではないが、わたくしは事の余りに臆測に亘るを避けて敢て言はない。
次にわたくしは書中より第二北游即丁卯北游(1807)の旅程を見出す。「私も去年御噂申上候通、先当分此表は騒々敷も有之候故、暫時越後へ参り可申歎と奉存候。もつとも芙蓉子の参り候処とは方角違に御坐候。同道も一両人可有之候。先最初参り候処は越後新潟と申処に御坐候。夫より高田辺迄参り候積りに御坐候。(中略。)越後には鵬斎の門人多く候故、甚たよりいたしよく候。」他日北游摘稿を見ることを得たなら、計画と実施との同異を弁ずることが出来るであらう。  
 

 

十六
わたくしは次に霞亭が文化(三年)丙寅に父適斎に寄せた書の中より、諸名流の動静を窺ふべき文を抄出しようとおもふ。
其一は亀田父子である。「亀田氏火災に免かれ候而甚相悦申候。これも此間子息三蔵子相応之女子有之、新婚相済候。」
鵬斎が金杉の家は丙寅の火を免れた。三蔵は鵬斎の養子綾瀬長梓である。綾瀬の婦を迎へたのは此頃の事であつたと見える。鵬斎の継嗣は世に謂ふ取子取婦であつた。此年鵬斎五十五歳、綾瀬二十九歳であつた、「これも」の語は上に何人かの婚姻の事を言つたものゝ如くに読まれる。しかしこれに応ずる文を闕いてゐる。此書は首が断れて亡はれてゐるから、或は此の如き文が亡はれた中にあつたかも知れない。
其二は古屋昔陽である。「細川儒臣古屋十次郎此間死去いたし候。」熊本の蔚山町に古屋七左衛門安親と云ふものが住んでゐて、それに鼎助、重次郎兄弟の子があつた。鼎助は愛日斎鼎で、熊本に住んで江戸に往来し、天明十年(1790)に六十八歳で歿した。重次郎は昔陽鬲で、江戸に住んで熊本に往来し、文化三年(1806)四月朔に七十三歳で歿した。鬲は鼎の順養子である。鬲の家は文化諸家人名録に「日本橋十九文横町」と云つてある。霞亭の書は昔陽歿後四日に作られた。
其三は鈴木芙蓉である。「鈴木芙蓉子、これはやけ不申候得共、此節弟子両人相つれ候而越後へ参られ候よし。」芙蓉の火を免れたことを想へば、或は既に深川に住んでゐたのではなからうか。丙寅に二弟子を率て越後に遊んだことが知られる。
其四は恐くは益田勤斎であらう。「勤斎も越後に参り申候。」名は濤、字は万頃、通称は重蔵、下谷和泉橋通に住んだ篆刻家で、亦文化諸家人名録に見えてゐる。是は延焼を免れなかつたことゝ想はれる。
丙寅江戸の大火は諸書に記載せられてはゐるが、わたくしは猶霞亭の書中より数行を抄することの全く無用なるにあらざるべきを思ふ。「此度の大火に而ますます江戸の大そうなる事相しれ候。三里余に横七八丁より一里許もやけ候得共、畢竟十分之三分許に御坐候。越後屋白木などは直に翌日六日商売はじめ候よし。浅草門跡のやけ灰三百両に相成よし、尤金物釘の類に直段有之候而の事に御坐候。木挽町芝居やけ、堺町ふきや町は残り候。しかしいづれも此節は皆休み居申候。」「災後は世間一統騒敷、于今一同相片付不申候。(中略。)乍併(中略)町家も五分通はかり(仮)宅出来居候。乍去今にやけ原同然に御坐候。困窮の者共御たすけのため公儀より上野山下、本庄、芝赤羽根、護持院原、神田橋外、処々に小屋がけ出来候而、夫にをき候而食物は町々たきだし下され候。是も当四日迄に段々引払ひ申候。尤此度之大火に付大工旦雇之類はかへつて仕合のよしに候。江戸近国並に上方筋等一統のうるをひには相成候事に御坐候。御老中方へは公儀より一万両宛之拝借被仰付候。薩州侯は当秋琉球人参り候に付、別而普請相いそぎ候よし、大体二十万両位之入用に相聞え候。江戸に相限らず、尾州、津島もやけ、勢州桑名、阿波の徳島等皆々余程之火災に相聞え候。」琉球の使は十一月に至つて纔に来た。
十七
霞亭が文化丙寅に父適齋に寄せた書には、尚次弟立敬を教育する方鍼が示してある。「大助素読等いたし候と奉存候。何卒乍御面倒傷寒論を最初より少々宛御教授可被下候。大体空によみ候位には被成置被下度候。大方今年は十二歳に相成候と覚え申候。定而成長可仕とおもひやられ候。」此語は霞亭が広岡文台の旧門人であつたことを思はしめる。
此年丙寅は上に云つた如く、霞亭が将に信濃越後に遊ばむとする時であつた。此遊の詩は恐くは霞亭摘稿に載せてあるであらう。摘稿は世に刊本があるのに、わたくしは未だ寓目しない。北游の日次道程を審にすることを得ぬ所以である。
わたくしは霞亭渉筆を読んで摘稿を読まない。しかし鵬斎が凹巷の北陸游稿に序して、霞亭の北游を以て次年丁卯(文化四年)の事となしてゐる。今歳寒堂遺稿を閲すれば、霞亭は早く丙寅(文化三年)八月に越後にあつた。遊は丙寅より丁卯に亘つたのであらう。そしてその江戸を発したのは恐くは丙寅夏秋の交でもあつただらうか。
北游は関根仲彝の邀招に応じたものである。仲彝名は聖民、通称は司馬助、越後国蒲原郡茨曾根村の人である。初めわたくしは霞亭が京都にある時仲彝と交を結んだことゝ謂つた。山口凹巷の嵯峨樵歌に題する詩に、「憶曾長孺宅、邀君奏塤箎、豪爽人倶逝、長孺及仲彝」と云ひ、下に直に「飄忽君東去、去舟汎不維」を以て接してある故である。今にして思へば此豪爽の十字は挿叙に過ぎずして、長孺の死を説くに当つて、併せて仲彝に及んだものではなからうか。
遺稿に載する「関根仲彝墓誌」にはかう云つてある。「仲彝為人。温柔愛人。性解風流。暇則品茶評香。逍遥乎泉石花竹之間。又好丹青之技。揮写自娯。毎謂人生不可不読書講学。而僻郷乏師。莫所就問。常以為憾。嘗聞予之客江戸。千里馳書。使人介請其北下。予諾之。久而不果。仲彝掃榻。日候予或不至。至神籤卜之。其篤志亦如此云。」是に由つて観れば、仲彝は未だ嘗て閭門を出でなかつた如くである。
霞亭は越後に入つて、仲彝が茨曾根村の家に舎つた。「予始踵其家。仲彝大喜。揖予執弟子之礼。自此与其弟錫。並案対牀。朝誦夕読。日進受業。兼以誘後進為務。適逢中秋。把酒玩月。分韻賦詩。仲彝作七絶。」霞亭は八月十五日には既に関根氏の家にあつた。
既にして仲彝は遽に病に嬰つて死んだ。「居数日。偶感微疾。猶在我側。予戒以宜慎調護。其翌予出寝。碑僕驚慌告急。予就臥内視之。僵然偃伏乎被褥。扶起之。口噤不能言。但微笑而已。家人馳驟。百方祈治。然神益虚。気益耗。竟不可救。属\之際。予親臨之。父母坐於首。妻児坐於足側。愴然無聊。攀慕罔極。視之簌簌泣下不可禁。是為文化三年丙寅八月晦日。距生安永八年己亥九月某日。享年二十有八歳。」霞亭と仲彝とは八月に初て相見て、未だ其月を終へずして死別したらしい。鈴木小蓮と云ひ、関根仲彝と云ひ、霞亭の友人弟子には不幸の人が多かつた。
十八
文化四年三月に霞亭が越後国茨曾根村の関根氏にゐたことは、渉筆に見えてゐる。是は其友仲彝の既に歿した後である。
仲彝の父関根五左衛門栄都は、初妻建部氏が仲彝を遺して去つた後、継妻吉川氏をしてこれを鞠育せしめ、長ずるに及んで「分産別居」せしめてゐたと云ふ。按ずるに前年丙寅に霞亭の舎つてゐた家は仲彝の家であつた。然るに丙寅八月晦に仲彝が急に病んで歿した時、跡に婦阿部氏と子女五人とが遺つた。「男女五人。長曰達太郎。甫六歳。末産双男。尚在襁褓。」霞亭は此家に留まつて歳を越すべきではない。
初め仲彝は霞亭を家に迎へた時、弟錫と倶に霞亭の教を受けた。錫は栄都の家より来て講席に列したことであらう。既にして仲彝は歿した。其父栄都は必ずや霞亭を宗家に請じて、錫をして業を受けしめたであらう。此故に丁卯三月に霞亭の寓してゐた家は栄都の家であらう。渉筆の関根氏と書して、仲彝の名を載せぬのも、恐くはこれがためであらう。
此にわたくしは一事を附記して置きたい。上に云つた如く、山口凹巷は嵯峨樵歌の題詩に長孺の死を説いて、併せて仲彝の死に及んだ。長孺はわたくしは初めその何人なるを詳にせなかつた。その雷首清水平八なるべきことを聞いたのは、堀見克礼さんの賜である。頃日浜野氏所蔵の河崎誠宇受業録を閲するに、文化十一年(1814)甲戌の巻中に「故眉山先生、名公ケ、字長孺」の文がある。惜むらくは其氏を載せない。眉山は清水氏の一号歟。猶考ふべきである。
第二北游の時の霞亭の年齢は丙寅二十七歳、丁卯廿八歳であつた。
文化五年(1808)は霞亭の故郷的矢に帰つた年である。事は渉筆の「経八年南帰」の文に聯繋してゐて、わたくしの嘗て最も決することを難んじた所である。経八年と云ふ如き計算には二様の法を用ゐることが出来る。今享和紀元辛酉を以て霞亭が京都を去つた年とする。そして此辛酉の歳を連ねて算するときは経八年は文化五年戊辰となり、此辛酉の歳を離して算するときは六年己巳となる。わたくしは反復思慮した後、霞亭が偶連算法に従つたものとなして看るに至つた。
霞亭は四年丁卯に越後にあつた。わたくしの最初に索め得た其後の消息は、霞亭が七年庚午に伊勢林崎にあつて渉筆を刻せしめたことであつた。其中間には実に戊辰己巳の二年が介在してゐる。
既にしてわたくしは霞亭が林崎にあつて山口凹巷を餞したことを知つた。そして是は必ず凹巷己巳の游の祖筵でなくてはならない。霞亭は六年己巳に既に林崎にゐなくてはならない。
わたくしは後更に己巳(文化六年)よりして戊辰(文化五年)に泝ることの或は実に近かるべきを思つた。下に略わたくしの思索の経過を言はう。
十九
わたくしは初め霞亭南帰の年を以て、その渉筆を林崎に刻した文化庚午(七年)となし、次でその山口凹巷の北游を餞した己巳(六年)となし、後には更に泝つて戊辰(五年)に至つた。わたくしは下の如くに思量した。霞亭は林崎に寓して凹巷と往来し(咫尺寓林崎)、尋で相挈へて京都に遊んだ。(中間又何楽。伴我游洛師。)その大坂を経て林崎に帰つたのは春尽くる候であつた。(上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。)此春は渉筆を刻した七年庚午の春ではない。庚午は三月初に霞亭が伊賀に往き、林崎に還つた後、春尽くるまで出遊しなかつた年である。又六年己巳の春でもない。己巳三月には凹巷は北游の途に上つてゐた。降つて八年辛未の春となると、霞亭は既に嵯峨に入つてゐる。剰す所は只五年戊辰あるのみである。是がわたくしの霞亭南帰の年を求めて戊辰に溯つた最初の論証である。
次でわたくしは凹巷己巳游稿中細嵐山の条を読んで、その或は間接に霞亭の戊辰に京都に赴いたことを証するものなるべきを思つた。游稿の文に曰く。「春尽日発松本。三里到岡田。此間有細嵐山。花木盛開。下臨幽澗(原文は日が月)。坐巌久憩。因憶去歳三月。与不騫輩游洛。徘徊嵐山之址。今又北遊遇茲勝。細嵐之名与彼有符。」凹巷の戊辰(五年)三月に京都に遊んだことは明である。此游は即嵯峨樵歌題詞の「伴我游京師」を謂ふものではなからうか。果して然らば霞亭凹巷不騫皆一行中の人であつたかも知れない。
しかし此等の証拠は皆未だわたくしの心を厭飫せしむるに足らなかつた。わたくしの想像は霞亭の南帰を思ふ毎に戊辰己巳の間に彷徨してゐた。
以上わたくしは此問題の時間方面を語つた。しかし問題は啻に時間方面にのみ存するのではない。わたくしは丁卯(文化四年)に霞亭の足跡を追うて越後に至つた。上に記した其後の消息は皆霞亭に伊勢に遭遇してゐる。林崎と云はむも、凹巷不騫等の山田詩社と云はむも、皆伊勢に外ならない。京都の游の如きも亦伊勢よりして游んだものである。
そして此越後と伊勢との間に問題の空間方面があつて存する。霞亭南帰の道は越後、江戸、的矢、伊勢であつただらうか。又は旅程が江戸を経なかつたであらうか。又は霞亭は先づ伊勢に往つて、然る後に的矢に帰省したであらうか。
年月が既に数へ難く、旅程も又尋ね難い。わたくしはとつおいつして輒ち筆を下すことを得なかつた。
此時に方つて浜野氏はわたくしに河崎敬軒の子誠宇の雑記十一冊を借した。受業録と題するもの八冊、見聞詩録と題するもの二冊、聞見詩文と題するもの一冊である。皆浜野氏の新に獲た所である。わたくしはこれを読みもて行くうちに、聞見詩文中に霞亭の「祭菊池孺人詩並引」を得た。そして此一篇が料らずも上の問題の時間空間両方面を併せて、一斉に解決の緒に就かしめた。
霞亭が戊辰(五年)の歳に的矢に帰つたことは、此に由つて略推窮することが出来る。
霞亭が越後より江戸を経ずして的矢に帰り、然る後に伊勢に往つたことは、此に由つて明確に証することが出来る。
二十
河崎誠宇の聞見詩文に載する所の霞亭が菊池孺人を祭る詩並に引は、啻にわたくしをして霞亭南帰の年の文化戊辰なるべきを推知せしめ、又その帰程の越後より江戸を経ずして志摩に至つたことを確認せしめたのみではない。わたくしは此に由つて霞亭が入府当初の生計を知つた。其貧窶困阨の状を知つた。是より先、わたくしは既に霞亭が父に二両金を乞ふを以て一大事となすを見た。しかし未だ其貧困のいかばかりなりしかを悉さなかつたのである。わたくしは又これに由つて霞亭の亀田塾に於ける境遇を知つた。当時亀田一家のこれを器遇することの例に異なるものがあつたのを知つた。わたくしは既に鵬斎が女の妻すべきなきを憾んだことを聞いてゐた。しかし未だ一家の傾倒此の如くなりしことを想はなかつたのである。最後にわたくしは所謂菊池孺人に於て一の客を好む女子を識ることを得て頗るこれを奇とする。ホスピタリテエは尋常女性の具へざる所の徳なるが故である。
聞見詩文中の一篇は詩並に引と題してあるが、実は引が有つて詩が無い。わたくしは深く其詩の佚亡を惜む。
「祭菊池孺人詩並引。(詩闕。)菊池氏亀田士龍先生内人也。君為人貞潔周致。善愛人。又意気慷慨。有丈夫気象。出入其家者。無大小莫不服其徳。凡世間婦女。見他盛服R燿者。目逆送之。無不艶羨者。君自為幼稚時。雖見道路衆人中。有縞羅奪目者。不少顧眄。是其大異于尋常者。其行率類此。予在江府日。与先生結忘年交。因屢得接儀範。予時落魄甚。先生及君憐遠客無帰処。館予其家半年余。相愛之厚。猶親子昆弟。君恐予之窮困或墜志。百方慰籍。勉嚮学。予不事事。典衣沽酒。数至於不能禦寒暑。君輒親針裁以与予。不辞其労。予嘗游上毛。盤纏甚乏。君憂之。脱所御服。以資其費。毎謂人曰。吾恨無一女子以配子譲。当予之落魄無帰処之日。雖平生親友。不塤背軽侮者殆希矣。而君之信而不疑者。終始如此。豈不亦異乎。後予游越。不復出府下。直帰郷。居無幾。先生書至云。孺人以三月廿六日病歿。其平居。語屢及子。予読之。驚愕失措。痛哭慟絶。実若喪父母。初予謂。不出数年。再游府下。拝孺人於堂。以謝昔年之恩。不意忽爾遭凶変。鳴呼此恨何時已。追憶往昔。百感交至。殆難為情矣。今茲三月廿六日当其小祥之辰。道路相隔。不得親掃其墓。因邀社友諸君于某精舎。謹献時羞之奠。聊寓祭墓之儀云。文化己巳三月廿六日。北条譲拝撰。」
詩は鵬斎の妻菊池氏の小祥日に成つたものである。此日霞亭は社友を某寺に会して菊池氏の霊を祭つた。社友の山田詩社、所謂恒心社の同人なることは言を須たない。
此より逆推すれば菊池氏の死は戊辰三月二十六日である。そして霞亭は自ら郷にあつて訃を得たと云ふ。霞亭が戊辰に的矢に帰つてゐたことは明かである。さて次年己巳に菊池氏を祭つた時には、霞亭は既に林崎書院の長となつてゐたであらう。
因に云ふ。わたくしの浜野氏に聞く所に拠れば、鵬斎の菊池氏の死を報じた書は現に高橋洗蔵さんの蔵儲中にあるさうである。又云ふ。霞亭を見て女の配すべきなきを恨んだのは、行状に云ふ如く鵬斎ではなくて、其妻菊池氏である。しかし鵬斎の見る所も蓋菊池氏と同じかつたであらう。
霞亭は此年戊辰(文化五年)には二十九歳であつた。  
 

 

二十一
文化六年には霞亭が既に林崎にゐた。わたくしは上に此年己巳三月二十六日にその亀田鵬斎の亡妻を祭つて、社友を寺院に会したことを挙げた。社友は伊勢山田詩社の同人でなくてはならない。
しかし霞亭が伊勢に来たのは前年戊辰であらうか、将己巳の歳に入つた後であらうか。是も亦新に生ずる問題である。
此に林崎に於ける霞亭の一門人竹田定jが「辛未仲春」霞亭の嵯峨に徙るを送つた詩がある。其引を読むに、「霞亭先生教授於林崎学三年、幸不棄非材如昭者親炙」云云と云つてある。昭は定jの名である。辛未より泝つて三年と云ふを見れば、霞亭の林崎書院に教授した期間は己巳(六年)、庚午(七年)、辛未(八年)の三年であつて、上戊辰(五年)には及ばなかつたであらう。わたくしは竹田の五古を全録するに遑がないから、篇中霞亭の林崎にあつた年数を言ふ二句を抄する。「自君林崎寓。歳序已三移。」即小引の云ふ所と同じである。
以上記し畢つた後、浜野氏はわたくしに山口凹巷の詩題を寄示した。「秋晩従錦江書院、経野逕、訪盟兄子譲于林碕講堂、席上同賦、戊辰晩秋十七日、山口班」と云ふのである。是に由つて観れば、霞亭は早く戊辰九月に林崎に来てゐた。定jの詩は辛未(八年)に作つたものではあるが、其三年は辛未を離して算したものであらう歟。
叙して此に至れば、久しく用をなさなかつた的矢書牘が再び用をなすのである。わたくしは先づ其中より「北条御氏御台所」と云ふ異様なる宛名のある霞亭の書を挙げる。日附は単に「五日」としてあつて、年もなく月もない。しかし此書は己巳(六年)三月五日林崎に於て作られたものゝ如くである。「上方酒参り合有之候はば、毎々御面倒恐入候得共、八升許御調被遊可被下奉願候。これは五升を聯玉君餞別として宴集の節差出し申候。一升は岩淵の易家箕曲半太夫老人へをくりたく、いつぞやより以人ねんごろに招かれ候故、近日参り候約束に候。其節の土産に仕度候間、何卒随分よき処御世話奉希候。代物これにて不足に候はば、跡より御勘定可申上候。もし良助此方へ御遣被下候とても、母様御一処に被参候には及申さず候。跡より別段に御越候やう御取計可被下候。」わたくしが此書を以て己巳三月五日の作とするのは凹巷が北游の日程より推すのである。
亀田鵬斎は凹巷の北陸游稿に序して、霞亭と凹巷と自己との北游の前後を説いてゐる。先づ丁卯(四年)に霞亭が信越に遊び、次で己巳(六年)に凹巷が往き、最後に庚午(七年)に自己が往つたと云ふのである。「聯玉之北游、則己巳歳也、先余者僅一年、而後子譲者既三年矣。」霞亭が是より先丙寅(三年)に早く越後にあつたことは、関根氏墓誌に見えてゐる。然らば丁卯はその国内を遊覧した年であらうか。凹巷の游稿は首に年月日が註してないが、郷を発して桑津を過ぎたのが己巳三月であつたことは明である。わたくしが霞亭の所謂「宴集」を以て凹巷の所謂「清渚餞宴」となすのは、恐くは牽強ではなからう。三月五日は霞亭の鵬斎の妻菊池氏を祭つた日に先つこと二十一日で、是が霞亭の林崎に於ける最古の消息である。
次に霞亭が父適斎に寄せた七月四日の書がある。「此節虫干最中に而そうぞう敷罷在候」と云つてある。庚午(七年)七月には霞亭が既に書院を辞してゐるから、此書は己巳(六年)でなくてはならない。
適斎は霞亭に海松を贈り、霞亭はこれを西村及時に分つた。「先日乍序ミルの義申上候処、態と御さし遣被下、其上八蔵御遣被下候。御労煩之義甚恐入候。西村君に遣し候処、悦び申候由に御坐候。私共も賞翫仕候。」私共とは自己と弟碧山とを謂ふ。碧山の伊勢に来てゐたことは下に引く所の書に徴して知るべきである。
霞亭は父に香魚を贈つた。「香魚差上たくあつらへ置候得共、今年は殊之外払底に候。やうやう少もとめ候。余り小さく候而味も如何に哉、気の毒に奉存候。今年は一統すくなきよしに而、私共も一度山田にてたべ候のみに御坐候。又々其内よき便も候はゞ差上申たく心掛可仕候。」気の毒の義が稍今と異なるを覚える。魚小なるが故に慙ぢて陳謝する意である。書中に「土佐屋の叔母」の厚情を謝する語がある。「叔母」の二字が学者の下す所なるを思へば、或は適斎の弟の妻か。其人を詳にしない。
次にわたくしは霞亭が七月十四日に母に寄せた書を挙げようとおもふ。是も亦庚午(七年)のものでないことが明なるが故に、わたくしはこれを己巳(六年)の下に繋ける。
二十二
霞亭が文化己巳七月十四日に母に寄せた書も、亦林崎文庫にあつて作つたものである。「文庫にてはもはや朝夕は余程すゞしく相成をり候。御手すきにも相成候はゞちとちと御越被遊候様ねがひ上為参候。当盆にはわたくし義はさん上不仕候間其段御免被遊下さるべく候。」
霞亭の弟碧山大助が林崎に来てゐたことは上にも云つて置いた。「大助文之助両人共はきものそんじ候間、此方にては箇やうの類かへつて高くも有之候間、二足御もとめ被遣下さるべく候。料は跡よりさし上可申候。」霞亭は弟の学資を弁じてゐた。文之助は親戚の子か。碧山と共に書院に来り寓してゐたことと見える。
次に九月六日に父に寄せた書がある。「衣物類慥に接手仕候。大助きる物類御序に御便候節御投被下候様奉頼候。乍併各別入用も無之候間、母様御肩背痛之節と奉存候故、いつにてもよろしく候。風邪流行之由、御労煩奉察候。尊体随分御自玉奉祈候。御閑暇にも相成候はゞ、少し御枉駕奉希候。」
霞亭は父の酒と黒菜とを贈つたのを謝してゐる。「八蔵態と御遣被下辱奉存候。佳酒沢山御恵投万々難有仕合、早速外へも配当仕、尚又一酌大に発散欝陶仕候。(中略)あらめ調法之品難有奉存候。」
八日には霞亭が書院を出でて還らず、重陽に前田光明寺の詩会に莅んだ。留守の碧山に与へた書がある。「此方色々用事有之、序に相勤帰申候。夜前は風宮御遷宮物見故又々滞留いたし候。今日重陽故社友集会前田光明寺に罷在候間、もし用事出来候はゞ前田迄多吉遣可被成候。尤晩方には帰院可仕候。」
十七日に霞亭の父に寄せた書も、その己巳九月の作なることが稍確である。「当月下旬は春木氏菊圃宴集有之、来月初旬は私共方鳩口紅葉宴有之、何れも詩文出来候事に御坐候。」次年に適斎が春木氏の菊苗を乞ふのは、恐くは此に胚胎してゐるであらう。
適斎は将に道可夫妻の法要を修せむとしてゐた。「霜月には御祖父母様御遠忌被遊候御噂、其節は拙者も参上進香可仕候。先達而御咄被遊候通、恭敬之意は倹素の方が却而可然奉存候。御子はもとより孫にあたり候までの人まで計を御招被遊可然候。他族は御略し被遊候て可然と存候。」道可は安永五年(1776)十一月二十八日に、其妻は明和七年(1770)十二月十八日に歿したのである。
霞亭は例に依つて父母に来遊を勧めてゐる。「林碕鳩口辺紅葉もはや大分そめかゝり候。鹿声も毎夜うけたまわり候。私共ばかりおもしろき幸を得候も余り勿体なく奉存候。何卒御小閑も候はゞ二三日御遊行奉希候。山中の盃献上可仕候。又は何方にても御供可仕候。偏に偏に奉希候。大人御入相成不申候はゞ、母様へ御ねがひ申上候。」
霞亭は母に薄荷油を贈つた。恐くは京坂より獲たものであらう。書籍を買つた料金の弔銭が薄荷油となつて来たのである。「薄荷油又々参り候間、母様へ差上候。先達而書物もとめ候代銀の残りだけ参り候にて候。費なるものゝやうに奉存候得共、母君御用ひ候てよろしく候はゞ、一段之事に奉存候。」
二十三
文化己巳(六年)九月十七日の書には、霞亭が尚自己と弟碧山と文之助との勤学の状を告げてゐる。「文之助大助共に近頃は甚出精仕候。夜半迄はいつも勤学仕候。詩作等も余程上り候やうに候。御悦被遊可被下候。却而私義は読書はかどり不申、是耳苦心仕候。来月よりは一段出精も可仕と心懸罷在候。短日たわいも無之、教授に暇を費し候義かへすがへすも可惜と奉存候。又々了簡も仕可申候。」
又父に良助敬助の二弟を教へむことを請うてゐる。「良助慶助素読不怠候やうに乍御苦労御教授奉願候。良助論語等そらによみ候やうに仕度候。此間やすき五経素読本有之候ゆへ求め置候。何卒皆々相応の人物に仕立たきものに候。貧しき等は各別憂ふるにもたり不申候。学業等の出来不申候事、誠に可悲事と奉存候。私此節の心だのしみは我業は勿論大助など成業にも相成可申やうと是耳相たのしみ候事に候。」
次に十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書がある。わたくしはその己巳(六年)の作なること殆ど疑なきものかと思ふ。果して然らば遠忌の事の畢つた後の書か。「池上氏帰郷被致、先達而之荷物皆々為御持被下候。余程之荷物之処、態々堀の御屋敷へ被参御受取被参候由、夫に此節之使者は献上等無之候故荷つゐで無之、別段人足等かかり候やうすに相見え申候。いづれ懇意中故心配にも及不申候得共、兼々折節先き方よりは賜物等有之候義故、此度は何ぞ謝し申度候。何も思付無之込(困)り入候。毎々申上兼候へども名酒二升許所望仕度奉願候。余り度々に候故甚御気之毒奉存候。酒料御算用仕度候。」池上氏は池上隣哉である。山口凹巷は隣哉が己巳の春江戸より帰るを期待してゐた。「池上隣哉。前赴東府。計其帰期。与余北游。倶在三月之初。」想ふに帰期が春より遅れて冬に至つたのではなからうか。隣哉は江戸より帰り、大坂に於て貨物を受け取つたものか。献上は幕府に献ずる謂であらう。堀の屋敷は大坂蔵屋敷であらう。
霞亭は此書中に渉筆上梓の計画を語つてゐる。渉筆は庚午(七年)の秋刻成せられた書である。計画の前年己巳の冬に於てせられたのは、さもあるべき事である。是も亦わたくしをして此書牘の己巳の作なることを想はしめる。
わたくしは此に一の挿記したい事がある。それは霞亭摘稿上梓の事である。わたくしは其刊本を見ぬので、何れの年に刻成せられたかを知らない。しかし摘稿は渉筆に先だつて刻せられたものの如くである。的矢書牘中に和気柳斎の霞亭に与へた書がある。霞亭は東国より的矢に還つて、某年十一月七日に摘稿一部を江戸なる柳斎に贈つた。柳斎は次年正月七日に書を寄せて謝したのである。「僕亦未死候。過三日木芙蓉へ年賀に立寄候処、不図老兄去霜月七日従志州的屋と云へる一封を得たり。即開封候へば霞亭摘稿也。去十月鵬斎海晏寺行之次手立寄、老兄一先江戸御帰、其後御帰省のよし。(中略。)何卒御書面之通二三年中是非々々御再遊之事奉祈候。(中略。)久々に而御帰省御渾家様御歓喜不料候由被仰聞、定而之御儀と奉察候。」鵬斎が十月に柳斎を訪ひ、霞亭が十一月に摘稿を柳斎に贈つたのは何年か。霞亭の的矢にあるを見れば、戊辰でなくてはならない。そして柳斎のこれを謝したのは、此年己巳(六年)の初であらう。只怪むべきは霞亭が越後より江戸に帰り(一先江戸御帰)、次で南帰した(其後御帰省)と云ふ鵬斎の語である。霞亭の「游越、不復出府下、直帰郷」と云つたのと相反してゐる。或は柳斎が錯り聴いたのか。わたくしは姑く疑を存して置く。
二十四
文化(六年)己巳十一月二十一日に霞亭の父に寄せた書に、渉筆上梓の計画が見えてゐること上に云つた如くである。「霞亭渉筆不遠取かかり候積りに御坐候。越後関根氏四両加銀承知被致候。すり立候までは余程入用も可有之候。(中略)御加銀可被下奉願候。成就之上は追々集り可申候。何卒其御心当て可被下候。」是に由つて観れば渉筆は林崎書院の板と称してはあるが、霞亭が貲を損てて自ら刻し、親戚故旧がこれに助力したのである。
書院にゐる弟碧山は旧に依つて勤学してゐた。「大助此節傷寒論会読はじめ候。卯之助甚柔和なる者にてよろしく候。何にても俗用之手本類有之候はゞ御かし可被下候。板物にてもよろしく候。」卯之助は何人なるを知らない。新に的矢より来院したものか。
的矢の商賈才がやと云ふものが僧妙超の書を装潢することを霞亭に託した。「才がやより頼みの表具、たより急に相成、とゞき候時延引いたし候故、間に合申間敷とぞんじ、其儘にてかへり候。如何いたし可申哉。山田にても為致可申や。御聞可被下候。金百疋私方へ預り置候。かの大燈と申は此間一書にて見当り候。京都紫野大徳寺開基にて、余程の高僧に候。一休などより前の人に候。右序に御咄可被下候。」才がやは雑賀屋である。装潢は京都の匠人にあつらへようとしたものであらう。
適斎は二十五日に霞亭の此書に答へた。是も亦的矢書牘にある。霞亭は書を卯之助に託したが、卯之助は的矢に至る途上足を痛めて復命することを得なかつた。「大助と同年扨々気性弱者」と云つてある。適斎は僕八蔵を林崎へ遣り、復書と共に池上氏に贈るべき「伊丹高砂」三升を送致した。
適斎は渉筆の事をも、妙超書幅の事をも言つてゐる。「渉筆不遠取かかり候積り之由、且越後関根氏よりも加銀等有之候由、実に(此間四字不明)至而厚情之趣是又感心仕候。雑賀屋より頼之表具間違に相成候由、右之訳合才がやに咄候処、急に無之候而も宜敷京都へ遣扱被下様被申候。」刻費の事は末に「正月に至り候得ば出来可申候」と云つてある。
己巳(六年)の歳暮は林崎が大雪であつた。霞亭は的矢より母を迎へてゐた。其間霞亭は詩社の友に抑留せられて帰院せざること二三日であつた。留守の碧山に与へた書がある。「十八日」と書してあるから、恐くは十二月十八日であらう。「御母様御機嫌能可被遊御入奉存候。一昨日より社中諸君強而被留、今日かへり可申候処、此雪に而又々興趣有之、暫時吟酌仕居候。いづれ午後迄には帰り可申候。母様御参宮にても被遊候はゞ、足下御供にても、又は多吉御供いたし候てなりとも御参宮可被遊候。しかし明日の事に可被成方よろしからむか。」此年霞亭年三十であつた。
文化七年(1810)には霞亭が春伊賀に旧師広岡文台を訪うた。わたくしは初め此年を以て霞亭南帰の年となした。それは渉筆に戊辰己巳の記事を闕いてゐる故である。
正月二日霞亭は書を的矢の家に遣つて、三日に帰省すべきを報じた。例の「北条様御台所」と云ふ宛名である。卯之助が「痰症」を患へて久しく治せぬので、己巳(六年)十二月二十七日に人を雇つて送り帰さうとした。しかし雪に阻げられて果さなかつた。是日同行者を得て、書を携へて帰らしめたのである。「兎角病身者故心配に存候。何れ明日参上委曲御咄可申上候。」
二十五
的矢書牘中に北条適斎が子霞亭に与へた書がある。末に「二月廿八日、北条道有、内宮林崎書院北条譲四郎丈」と書してあり、文中に「伊州行も来月え御延し候由承知仕候」と云つてある。庚午(七年)三月に霞亭が旧師広岡文台を伊賀に訪うたことは渉筆に見えてゐて、此書の庚午のものたることは明である。
霞亭は文台を訪ふに先つて、これに書を寄せ、著す所の摘稿を贈つた。高橋洗蔵さんは現に文台のこれに酬いた書を蔵してゐる。わたくしは浜野氏を介して其謄本を借ることを得た。しかし古人の国字牘は読み易からざるものである。故に謄写に誤謬なきことを保し難い。わたくしの例を破つて此に全文を録するものは、その希有の筆蹟なるを以ての故である。若し人あつて高橋氏の家に就き、その愛護する所の原本を目睹して伝写の誤を正したなら幸であらう。
文台の書は三月廿五日に作られた。わたくしはその前年己巳(六年)三月なるべきを思ふ。「本月(己巳三月)十日発之芳書、自林宗相達拝見、如来示厥后御疎濶、如何被成御坐候哉と時々存居候へ共、一斎物故、元常も下之関とやらむへ参居候由、何をたつきに御尋申上候様も無之罷在候所、浮世に存生候得ば、又々御手簡拝見仕候仕合、扨々不存寄御事、未来世に而得貴意候心地、扨東国彼是御遊学之条、刮目候而御著述等拝見、驚入候御事多々忝存候。小子も無拠故国へ引取罷在、大凡十箇年を経、何事も心外之事共、犬馬相加、伏櫪千里之志(此四字、謄本は不可読として闕きたるが故に、仮に塡む)于今難相止、又々近日出京仕度、種々計画罷在候得共、所謂足手まとひにて消日仕候心事御推恕可被下候。乍然当年中には出京可仕相楽罷在候。扨摘稿熟読仕候、句々金玉、亀田子(鵬斎)へも御逢之趣、先達江州中山之一生望月左近と申者江戸へ参候而、鵬斎へ御目にかかり候由申候而、彼是承及申候所、面白き人物之由に候。何卒小子も一度は関東へ罷出度、諸君子へも御尋申上度奉存候得共、最早知命過候而残念而已に御坐候。万縷期後音候。御地よりは便不宜候。洞津迄御出被下候はゞ相達可申候。三月廿五。在所伊賀国上野万町、広岡文台。北条譲四郎殿。」
書中文化間に歿したらしい一斎、都会より下の関に往つたらしい元常、並に遽に考ふることが出来ない。霞亭摘稿に応酬の亀田鵬斎に及ぶもののあるべきは言を須たない。鵬斎の平生は、夙く近江国中山の諸生望月左近に由つて文台に伝へられてゐた。霞亭の書を文台に致した林宗は商賈の略称歟。
霞亭は此年庚午(七年)三月六日に文台を伊賀の上野万町に訪うた。然るに文台は其月朔に五十六歳にして歿したのであつた。高橋氏に存する一書は死する前一年に作られたものである。
霞亭が文台の家を訪うた時の事は渉筆に見えてゐる。前に霞亭が自ら遭逢の蹤を叙し、後に凹巷がその霞亭に聞く所のものを記し、係くるに詩一篇を以てしてゐる。「山城客到会君終。悲惋唯疑与夢同。幽火夜燃丹竈雨。落花春送素車風。張元伯墓今誰哭。阮歩兵途昔独窮。遺巻済人新副墨。一生心血在斯中。」  
 

 

二十六
文化庚午(七年)三月朔に広岡文台が伊賀の上野に歿し、六日に霞亭が其家に至つたことは既に云つた。霞亭は伊賀より還つて書を父適斎に寄せた。書は的矢書牘中に存してゐるが、惜むらくは末幅が断ち去られて、日附署名宛名等が闕けてゐる。
書中云ふ所に拠れば、霞亭は六日七日の夜を広岡氏にあつて過し、文台の墓に詣でて後林崎に還つた。
伊賀の旅は強烈なる感動を霞亭に与へたらしい。そして霞亭はこれを筆に上せて父に報じ、又山口凹巷を訪うてこれを語つた。父に寄する書中事の文台に関するものは下の如くである。
「先頃申上候通、伊州上野へ尋参、久々に而開積思可申と相楽しみ罷越候処、彼文台先生当月朔日病死被致候。私参り候処六日待夜の処へ参り候。誠に驚入候次第に御座候。病中は纔に七八日の事に候よし、其中も私事申出され候よし不堪落涙候。医術学業におゐては無双之人に候得共、段々不幸相続、貧困に而被終候義実に感慨之至奉存候。無定人世はかなき事共に御坐候。家刻傷寒論当年京大坂の披露相済、其後東行被致候積りに御坐候処、右之仕合可惜可悲此事に御坐候。小子義も右に付二夜滞留墓参等いたし、直様罷帰申候。先達而者順により、大坂へ一寸出可申奉存候得共、文台君歿去に付甚力落心持あしく候故、先々帰院仕候。小弟義当月中者留主にいたし度、外へは帰院之様子不申候。其故は春時に候故、閑人参り妨げいたしこまり入候。夫に家刻傷寒論挍合並に碑銘序文等之義、伊州に而無拠被頼候故、当分者先々閉居可仕候。」
是に由つて観れば霞亭は三月上旬に伊賀の広岡氏より帰り、戸を閉ぢ客を謝すること二旬許であつたらしい。
文台の学術は霞亭の推重すること此の如くであるが、其事蹟は渉筆を除く外、只宇津木益夫の医譜に見えてゐるのみである。富士川游さんの云ふを聞くに、医譜は未見の書を引かぬさうである。然らば家刻傷寒論は世に行はれたことであらう。其本には霞亭の序がありや否や。又後藤掃雲さんは伊賀上野の富山専一さんに問ふに、文台後裔の事を以てしたが、今は住んでをらぬさうである。しかし墓石は或は猶存してゐるであらう。其石には霞亭の誌銘が刻まれたりや否や。
頃日恒軒先生遺詩を閲するに、「弔広岡文台先生」の一篇がある。霞亭に由つて文台を識つたものは、独凹巷のみではなかつた。「山沢隠医有癯仙。一朝跨鶴入蒼烟。瀛洲閬苑渺何処。青松白石竟茫然。人間遊戯音容邈。神理独将遺編伝。早悟仙凡路終隔。何至歳月少周旋。」恒軒は東氏、名は吉尹である。
霞亭は例の如く的矢の父母を迎へて春のなごりを惜ませようとした。「当地花も最早十二三分に相成申候。二三日中には散乱仕候間、何卒明日か明後日あたり、御閑暇に候はゞ一寸御来駕奉希候。(追書。)もし大人様御出出来兼候はゞ、母様にても御越可被下奉希候。両三日過候はゞ、花も空しく相成候間、緩々御越可被下候。右御迎ひ申上度、今日大助わざわざ差上候。」書を的矢に齎したのは碧山大助であつた。
次に的矢書牘中霞亭の三月廿三日に郷里に寄せた書がある。宛名は闕けてゐるが、其語気と云ひ、その仮名文字多き書様と云ひ、母に寄せたものではなからうか。
此書に拠れば、前に立敬が林崎に来り寓した如く、今は弟澹人が踵いで至つた。「敬助義此頃は大になれ候而きげんよくいたし居申候。御安意可被下候。昨日は宮川を見せに参り、大塚君へ立寄候処、種々御馳走かつ御同道に而宮川一覧いたし候。帰路山口へ留主見舞により候。翁に懸御目贅談仕候。御菓子等被下候。其外所々にて菓子等もらひ、夕暮には中の地蔵に而うなぎをたべさしくたびれ候様子御坐候故、駕籠にのせかへり候。おもしろがり候間、おかしき事に候得共、御はなし申上候。弥西村様ヘニ日にさし遣可申候。西村には同じやうなる子供有之候而、其上河崎氏御子息など往来、却而文庫よりはよろしく可有之とぞんじられ候。とかく私を甚をそれ候やうす有之候。西村君は子供などに甚愛相よき御方に御坐候ゆへ、けつくなれやすく可有御坐、被仰下候通、一両日は滞留可仕候。(追書。)晦日には八蔵早天に御遣可被下候。山口迂斎翁被見候約束に御坐候間、少々用事申付たく候。」
二十七
わたくしは霞亭が文化庚午(七年)三月二十三日に母に寄せた書と覚しきものを上に引いた。書は季弟惟寧(沖)澹人を林崎に招致した時の事を報じたものである。是より先次弟碧山惟長は已に林崎に来てゐた。此年惟長は十六、惟寧は九歳であつた。
霞亭は四月二日を期して澹人を西村氏の家に寄寓せしめようとしてゐる。西村氏は西村及時である。名は維祺、字も維祺、孤筇、看雲、看松、宜堂、鶏肋道人、甘露堂主人、濫巾居士、友石の諸号がある。素封家に生れて禅を修し、詩文手跡を善くした。幼き澹人は霞亭を畏れてゐるが、「愛相よき」及時には或は馴れ易からうと云つてある。
及時には齠齓の児があつて、そこへ河崎氏の子などが往来するから、澹人がゐなじむに宜しからうと云つてある。河崎氏とは敬軒良佐を謂ふ。
霞亭は澹人を率て宮川を見せに出て、「大塚君へ立寄」つたと云ふ。大塚氏、名は寿、字は士瞻、不騫と号し、東平と称した。
霞亭は又宮川に遊んだ帰途に、澹人を率て「山ロヘ留主見舞に」立ち寄り、「翁」に逢つたと云ふ。又同じ書に晦日に「山口迂斎翁被見候約束」があると云つてゐる。凹巷の留守は北遊の留守である。翁と云ひ、山口迂斎翁と云ふは凹巷の養父である。凹巷珏は本と遠山白堂の次男長二郎と云つたもので、十四歳にして山口氏に養はれた。玉田耕次郎さんの写して贈つた東夢亭撰の墓誌には凹巷の養父を迂叟と書してある。迂斎の即迂叟なることは疑を容れない。
霞亭は晦日に来べき迂斎を欵待せむがために、僕八蔵を的矢より呼び寄せて準備しようとした。父適斎は二十五日に八蔵を林崎へ遣つた。此時八蔵の齎した適斎の書が的矢書牘中に存してゐる。
適斎は霞亭が幼弟澹人の世話をしたのを謝してゐる。「実に敬助義も此度は大に相馴居申候由承知仕、大慶仕候。何かと御心遣被成下候段遠察仕、千万忝存候。」澹人は安んじて及時の許に居るらしく見えたのである。
適斎は八蔵を林崎に留むること四日なることを許した。「八蔵事廿五日に遣様被為申越、則今日差出し申候。定而何かと御用事等可有之候。廿八日頃帰し可被成候。」迂斎の霞亭を訪うた事は伝はつてゐない。適斎は又河崎敬軒に縁つて春木某の菊苗を求めようとした。「菊苗河崎氏に、如何様之品に而も不苦候、春木氏之作手に二十株許も御無心申くれられ候様御頼可被下候。」春木某は前年霞亭を招いて菊を賞せしめたことがある。河崎誠宇の受業録に春木南山がある。未だ其同異を詳にしない。京都図書館に伊勢の神職春木氏の寄附に係る書籍が多く存してゐるさうである。或は其家か。
三十日には霞亭が父母に書を寄せた。二書皆的矢書牘中に存してゐる。例の如く父若くは母を四月十日前に林崎に招請しようとしたのである。
二十八
霞亭は文化庚午(七年)三月尽に書を二親に寄せて、例の如くこれに的矢より林崎に来むことを勧めた。伊賀より帰つて後、身体違和であつたのが、此二三日稍本に復し、陪遊の興が動いたのである。「私義此節は間暇に御座候故、御伺可申上奉存候へども、伊州より帰後、兎角不快に而万事疎略仕候。御海容奉希候。此両三日は随分快き方に御坐候。先日も申上候通御手透も御座候はば、御参宮旁乍御苦労三四日御来臨可被下様奉願候。朝熊又は二見の辺にでも御供可仕候。(中略。)可成は十日前に御越可被下候。」是が父適斎に謂つた語である。「此せつはわたくし方殊の外ひまにおはし候あひだ、何とぞ御見合せ被遊御参宮かたがたたけ山開帳御さんけい御かけ被遊、四五日御とうりう御入被遊候やうねがひ上為参候。私義もとかく気分あしくこまり入候。さりながら此両三日はよほどよろしく候。(中略。)もし御こし被遊候はゞ、三四五日のころよろしく候。十日過には何歟と事しげく候而よろしからず候。おつう迹をしたひ候はゞ、やはり御つれ可被下候。去年の通りに留主御たのみ被遊候やう可然ぞんじ上候。(中略。)立入候事に候へども、御小遣等は此方にてまかなひ可申上候、御用意には及び不申候。御こし被遊候はゞ、はりといとなど御持下さるべく候。ほころび候もの大分有之候。」是が母に謂つた語である。
後者中「たけ山」は朝熊山である。霞亭の書牘に妹通の名の見えたのは此を始とする。霞亭が同胞の女子には、流産の女一人を除く外、縫英通の三女があつた。縫はわたくしの頃日検し得た所に拠れば、十一年前に死んだらしい。英はこれに先つて十六年前に死んだ。推するに庚午(七年)に生存してゐたものは此通のみであつただらう。年紀は不詳である。
前二書を裁した次日、四月朔に霞亭は又書を父に寄せた。その報ずる所を数へむに、先づ三月廿六日に詩会があつた。「廿六日持法寺集会も無滞相済候。諸君御作写し入御覧候。此内東佐藤二君は御出無之候。」寺号の二字は草体不明である。東は夢亭褧か、若くは恒軒吉尹か、佐藤は子文であらう。次に海老屋の招飲があつた。「廿八日は海老屋隠居へ参り申候。画などかき、いといと面しろき老人に御坐候。山口桜葉館詩会へも相赴申候。」桜葉館は凹巷の居処である。同じ日に又澹人が西村及時の家に寄寓した。此寄寓は初め四月二日を以てすべきであつたのを繰り上げたものと見える。「敬助入門廿八日首尾能相済大慶仕候。御安意可被下候。私義昨日(晦)迄彼家に罷在候。追々なじみ可申候。西村君御夫婦並御老母君あつく御憐愛被成下候段不堪感佩候。尚又明後日あたり参り可申候。」此書の末に碧山を的矢に遣ると云つてある。書を齎して往つたのであらう。「大助遣申候。明後日御かへし可被下候。」
越えて三日には碧山が適斎の書を持つて林崎に還つた。九歳の澹人は西村方に居附かぬので、四日に的矢へ還された。事は霞亭が四日に父に遣つた書に見えてゐる。「敬助儀とかくなじみがたく、一昨日長大夫君御携被下候処、何分文庫へ参りたり山田へ行たり、かれこれいたし、其上大助にても良助にても一処に当分西村へ参り居申候はゞなれもいたすべきやとの事に候。色々御家内一統の御深切に被仰聞、わたくしも色々とたらし見候得共、何を申も子供の義、一向聞訳無之、何分二三日的矢へかへりたきよし申候間、ながき事強候も無益の事故、無是非今日かへし申候。扨々いたし方も無之、先頃よりだんだんこん気をつくし候へども、うまれ付うすく相見え、つよき事もいたしがたく候。最早御遣被下候義御やめ可被下奉希候。」長大夫は及時の通称歟。
二十九
わたくしは上に霞亭が文化庚午(七年)四月四日に父適斎に寄せた書を引いて、弟澹人が西村及時の家より的矢の親許へ還されたことを言つた。此書には猶春木氏の菊苗の事が見えてゐる。菊苗は適斎が河崎敬軒の手に籍つて請ひ得むと欲したものである。
「菊苗之義は先頃より被仰聞候へども、春木氏は近付には候得共心やすく無之、久良助君などはあの様なる事には別の人に而申出しにくく候。とかく菊を作候人などには得ては俗気有之、苗などををしみ候きみ有之物に候。申出し候而くれ不申候へば恥に相成、かつ於私心あしく候。此義は気之毒に候得共御断申上候。松坂辺のつてなどに御もとめ被遊候処は無之候哉、其方が可然奉存候。」栽培家の心を忖度し得て妙である。霞亭には愛菊説がある。その言ふ所は或は適斎と語るべくして、春木氏と語るべからざるものであつただらう。久良助は敬軒の通称歟。
四月二十四日に山口凹巷の父迂叟が霞亭に与へた書と、二十七日に及時が霞亭に与へた書とは、並に的矢書牘中にあつて、わたくしの姑く此に挿入せむと欲する所のものである。
迂叟の書は霞亭所蔵の鉄函心史を借りて、孫福公裕が謄写したことを言つてゐる。「鉄函心史二巻直に孟綽(孫福公裕)へ遣し申候。然る所一巻は孟綽写し可申やうに申候。」
鉄函心史は宋末の人鄭思肖の著す所で、明末に至つて発見せられたと云ふことである。思肖、字は億翁、所南と号した。宋史芸文志補に「鄭思肖錦箋集、一百二十図詩文集一巻」を載せ、知不足斎叢書第二十一集に「一百二十図詩集、錦箋余笑附後、鄭所南先生文集」が収めてある。心史は此鄭氏の著だとせられてゐるのである。
霞亭は此書に叙してかう云つてゐる。「鳴呼所南先生於行事。可謂悲矣。宋鼎既移。国破家喪。茫々彊土。四顧無人。猶且欲奮一臂伸大義。至事不可為。窮餓以死。布衣之節。何其至於此也。夫患難之際。身赴水火。僅償臣子之責。議者且有所憾焉。何況以帝室之冑閥閲之子。委身寇庭。靦面目。栄其爵甘其禄者。視先生何如哉。余更愛先生一心於宋。視異方。不啻犬彘。然似特注意我神皇伝統之国。其泣秋賦曰。東望蓬萊兮。峰烟昏於日本。其指胡元寇我時歟。又曰。天地之大兮。既無所容身。所思不可往兮。今将安之。其欲望援於我耶。彼元兵之暴。絶海来襲也。神明赫怒。起大風。覆没全軍。十万衆得還者僅三人。足以寒外人之胆。而長絶覬覦之心。当其時。先生作歌快之。大意謂。醜虜狂悖。敢犯礼義之国。其敗固理也。識亦遠矣。若其遺史。天地鬼神。照臨加護。歴三百年。一旦出人間。一片血誠。貫三光。不可磨滅。其言明白。扶持千古綱常。可以為天下臣子之法。豈可徒詞章視也哉。」
三十
宋末鄭所南の著と称せられてゐる鉄函心史は、我国に於て昔日より稀覯の書であつた。此書が霞亭の手に入つたには来歴がある。
心史は初野間柳谷が蔵してゐた。白雲書庫の典籍が散じた時、亀田鵬斎がこれを獲た。霞亭は江戸にあつてこれを鵬斎に借り、携へて郷に還つた。そして霞亭が林崎に寓するに及んで、山口凹巷はこれを霞亭に借りたのである。
霞亭の借りた亀田氏の心史には所々に朱書の評語があつた。霞亭はその或は鵬斎の手に出でたるを疑つて鵬斎に問うた。しかし朱書は白雲書庫蔵儲の日に既に有つたのであつた。
浜野氏は高橋氏蔵鵬斎手簡の一節を抄してわたくしに示した。鵬斎の霞亭に答へたものである。「鉄函心史之事被仰下、いつまでも被差置候而不苦候。硃字の評は僕に而無御坐候。是本は百年以前東都に野間安節と申官医御坐候。是人は都下の蔵書家に而、白雲文庫と称候。珍書奇籍夥敷持居候との事に候。是人の本に而僕二百巻余り手に入れ挿架いたし居候所、窮窘之節転売いたし、漸七八部残り居候までなり。是一部に御坐候。評も其節より有之趣に候。」
凹巷は心史を借りて閲読し、評の足らざるを補つてこれを校刻せむことを謀つた。霞亭の序は此時に成つたのである。序に曰く。「余昔遊関東。獲之亀田穉龍氏。喜猶得宝籙。携而南帰。示吾友韓聯玉。聯玉慨然謀梓以広伝。原本有朱書評語。而不完。不知出何人手。聯玉校読之次。間書所感。続成之。併存入刻。刻成。属余序之。(下略)。皇文化十三年歳次丙子秋八月。志州後進北条譲謹撰。」
山口板の心史は果して霞亭の序に云ふ如く、此より後六年丙子の歳に至つて刊行せられたであらうか。
市村器堂さんの云ふを聞くに、内閣には現に明槧の完本がある。「内閣文庫図書目録漢書門類別二、詩文部テ」の下に「鉄函心史七巻、宋鄭思肖撰、明版二」と云ふものが是である。それから本邦活字本が東京帝国大学の図書館にあり、又市村氏の文庫にある。彼此皆三巻本で、市村氏蔵本は三巻を合して一本としてある。三巻本は「咸淳集、大義集、中興集等に止まり、久々書、雑文、大義略序等を闕」いてゐる。そして「巻尾奥附に出板年月及出板者の姓名を記さ」ない。按ずるに此等の本邦活字本は山口板にはあらざるものゝ如くである。
彼本邦活字本は果して何人が何処に於て刻したものであらうか。又山口板にして果して世に行はれたとするなら、これを刻した書肆は京都か大坂か。其書は今存せりや否や。若し存するならば、其刻本は木彫か、活字か、其巻首には霞亭の序が載せられたりや否や。凡此等の事は皆わたくしの未だ審にすること能はざる所である。  
 

 

三十一
わたくしは文化庚午(七年)四月二十四日に山口凹巷の父迂叟が霞亭に与へた書を引いて、その鄭所南の鉄函心史の事を言ふ一段を抄し、附するに心史略考を以てした。その浅陋観るに足るものなきは固よりである。わたくしは惟霞亭と心史との関係を明にせむと欲して、料らずも多言の誚を免れざるに至つたのである。
迂叟は彼書中に於て啻に鉄函心史の事を言つたのみでなく、又傷寒論の事を言つた。是より先凹巷は傷寒論に関して、何事をか西村及時に托したものゝ如くである。或は想ふに霞亭は凹巷をして及時に託せしむるに、広岡文台の挍本を覆検することを以てしたのではなからうか。是は稍揣摩に亘る嫌があるが、思ひ寄つたまゝに、姑く此に録して置く。迂叟はかう云つてゐる。「傷寒論は維祺へ向頼置申候由に候。」
要するに鉄函心史と云ひ、傷寒論と云ひ、皆凹巷が霞亭に借りてゐて、これを還さずに北游の途に上つたので、霞亭は留守の迂叟に其書のなりゆきを問うたものであらう。
最後に迂叟は佐藤子文のために画讃を霞亭に請うてゐる。「竹画之詩、上に御認被下、佐藤へ御遣し可被下候。」
わたくしは迂叟の四月二十四日の書と共に、及時が同月二十七日に霞亭に与へた書を挙げようとおもふ。此及時の書は霞亭の曾祖道益の同胞であつた僧了普の事を言つてゐる。「了普尊者事跡(中略)如仰建碑等之事は大そうに可有之、御文集中御記録先々被成置候て、尚追て御取計も出来可申奉存候。」
霞亭渉筆に僧真栄と僧了普との事を記する一文があつて、それを作つたものは及時である。
真栄は大世古町酒谷氏の家に生れた。得度の後、菊潭の顕証に従ひ、密教を旧御室に受け、諸流儀軌一千百九十本を手写して、一はこれを御室に蔵し、一はこれを伊勢の無量寺に蔵した。次で大僧都に任ぜられ、高野大師将来三杵の一と、桂昌院寄施大筆二枝、古硯一枚とを賜はつた。真栄は又書を善くし、筆法を島沢氏に受けた。島沢氏は径山の哲長老の教を伝へたのである。晩年に至り、真栄は喜見菴を無量寺の境内に営んで棲息した。酒谷氏の宅後に古井があつて、真栄洗研水の称がある。真栄は後越坂に移り、享保七年(1722)九月七日、八十八歳にして寂した。是が世に伝ふる所の真栄の事蹟である。
然るに北条氏と的矢故老との口碑に伝ふる所に拠れば、北条道益の同胞了普も亦栄公と称し、無量寺と称した。北条氏の家に昔より元旦に懸くる所の掛軸がある。其「一天膏雨、千里仁風」の八字は真栄の筆である。北条氏の塋域に石経塔があつて、其書も亦真栄である。了普の建つる所に青峰山旁の天女祠があつて、青峰山には真栄の匾額がある。
是に於て及時は真栄と了普との或は同一人物なるべきを思つた。しかし了普の歿年は寛保三年(1743)である。及時は遂にかう云つた。「或疑了普学書於真栄。以其善書。世亦直称無量寺也歟。」
按ずるに霞亭が及時をしてこれを記せしめたのは、及時が内典に精しかつた故であらう。及時の此柬に徴するに、霞亭は当時碑を了普の旧居棲雲菴の址に立てようとしてゐたと見える。
及時の書を霞亭に寄せた二十七日には、蓮台寺に集会があつた。「今日蓮台精舎御出席も無御座遺憾奉存候。」
三十二
文化庚午(七年)四月四日より二十八日に至る間に、霞亭は的矢より母と叔母とを林崎に迎へた。事は二十八日に霞亭が父適斎に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書牘中にある。「先日は母様並に叔母被見候処、無何風情残念奉存候。」
わたくしは先づ此書が庚午(七年)の作だと云ふ証を示さうとおもふ。「仙洞御所七十御賀(去十二月廿五日)御酒宴の御肴裏松家へ拝領、山田春木氏へすそわけ被下候をいたゞき候。ありがたき事に存候間、母様並に子供へ御いたゞかせ可然候。」当時の仙洞御所は女帝後桜町天皇でおはしました。降誕の日元文五年(1740)八月三日より推せば、七十の賀儀は文化六年(1809)に於てせられたであらう。その特に十二月二十五日を以てせられたは何故か未だ考へない。裏松家は裏松前中納言謙光卿であつた。賀筵の肴が裏松、春木の手を経て北条氏の家に至つたのは、中三月を隔てて、次年庚午(七年)四月である。所謂肴は恐くは鯣、昆布などの類であつただらう。
霞亭の此書を作つた庚午(七年)四月の末には、林崎書院は繁劇の最中であつた。それは幕府が書目を録進することを命じた故である。「此節御老中より当所御奉行へ被仰付、両文庫書籍目録しらべ御坐候に付、何歟と両宮共に多用、私方も日々会集御坐候。迷惑なる事に而、私は断申度候得共夫なりに(相成)、さわがしく候而こまり入候。夫に付書籍皆々取寄せ御坐候。御宅へ参り候書籍等も何卒早便に皆々御返納可被下、乍御面働奉希候。又々追而はかり上可申候、参向人立合に而相しらべ候。乍去別段御遣被下候には及不申、朔日二日あたり迄に御便に御遣可被下候。」両文庫とは内宮の林崎文庫、外宮の宮崎文庫である。幕府の命を受けた山田奉行は小林筑後守であつた。
霞亭は此忙中にあつて、尚例の如く父の来遊を請うてゐる。「もし御小間も候はゞ其内両三日御来駕奉希候。」しかし適斎は此請に応ぜなかつたらしい。
五月朔に霞亭は又折簡して母を招いた。「此節は芝居もはじまり候。しかし各別おもしろくなきよしに候。芝居はともあれ、からすか二見か、どこぞ御供仕たく候。私も久しく他出やめ居申候。二三日許旅行いたし度候。御参宮旁、それにほころび又は仕立物も御ねがひ申上たく候。三四日がけに御こし被遊たく候。あつうならぬ内がよろしく、節句過頃袷とひとへ物にて御こし被遊たく候。どこへも御噂なしに、つい忍びに御出可被下候。おつう御めしつれ候てもよろしく候。八蔵におばし候而、御きがへは六左衛門へ御言伝、さきへ御遣被下候てよろしく候。どこへも御出に及不申候故、御衣類も入申まじく、手がるく御こしまち上候。御遷宮の時は又々かくべつ、かへつてそうぞう敷候てよろしからず候。其節は又々御こし可被下候。なんでも事ははやくいたし候方がかちに被存候。鴨の長明が無名抄と申書云々。」からすは辛洲であらう。霞亭の妹通の名が再び見えてゐる。「八蔵におば」せは負はすることであらう。或は方言歟。無名抄云々は登蓮法師が薄の事を問はむがために雨中蓑笠を借りて出たと云ふ故事である。文長きが故に省く。
此書の初に「良助も大分おとなしくいたし居申候、御あんじ被下間敷候」の文がある。是に由つて観れば、啻に立敬澹人の二弟のみならず、今一人の弟良助さへ林崎に来てゐたと見える。良助は立敬の弟、澹人の兄、此年十三歳であつた。
三十三
文化庚午(七年)五月朔に霞亭は母に書を寄せて、切にその的矢より林崎に来遊せむことを請うたが、母のこれに応じたか否かは不明である。
二十四日には霞亭が書を某に与へて酒肴を贈られたことを謝した。某は誰なるを知らぬが、その的矢の二親でないことは、語気より推すべく、又伊勢人でないことは、「此方より便無之、乍思御無音打過候、御免可被下候、何れ近内幸便委曲可申上候、此便待遠故、匆々」と云ふ文より推すべきである。此書は殆ど抄出するに足らざるが如きものではあるが、わたくしは其中より霞亭の友人二人の名を見出した。
「今日は、毎々被為掛尊慮、色々重宝之品々御恵投、千万難有仕合奉存候。先月五日に御遣被下候ものも無相違相達申候。其日高木、宇仁館など参合居、ひもの、ちまき別而賞翫仕候。此酒甚めづらしく別而奉謝候。社友を延候而鰹魚に而引杯可仕候。」
高木、名は舜民、字は厚之、通称は勘助、呆翁と号した。蔬譜、竹譜の著がある。宇仁館、名は信富、字は清蔚、通称は太郎大夫、雨航と号した。雨航の此人なることは、三村清三郎さんの教を受けて知つた。二人の姓氏は始て此に見えてゐる。
六月二十日には霞亭が書を弟碧山に与へて林崎を去る時の計画を告げた。是より先碧山が的矢より林崎に来て、書院に寓してゐたことは上に見えてゐる。碧山が林崎にゐた間屢郷里的矢に往来したことも亦同じである。わたくしは今将に霞亭庚午(七年)六月二十日の書を抄せむとするに当つて、尚一事の挿記すべきものがある。それは碧山が伊勢にゐた間、終始林崎にのみゐたのでなく、一時佐藤子文の許に寓してゐたかと云ふ問題である。
的矢書牘中に年月の無い霞亭の書がある。口上書の如きもので、紙を巻き畢つた端に、「宇治畑佐藤吉太夫様にて北条大助様、用事、同譲四郎」と書してある。「愈御安康珍重奉存候。然者拙者儀五日に御地方へ参り候積りに御坐候。少々用事有之候間、其方一寸御帰宅可被成候。明日六右衛門殿被帰候間、よりもらひ候間、六右衛門と同道に而御帰可被成候。吉太夫様へ其訳被仰可被下候。今日は別紙、上不申、可然奉頼候。急便早々以上。」吉大夫は子文の通称である。茶山の大和紀行にも亦通称が書してある。此書を見れば碧山は既に久しく佐藤氏にあるものの如くである。霞亭は将に自ら宇治畑に往かむとして、碧山に一たび帰らむことを命じてゐる。帰るとは何れの地に帰るのであらうか。林崎か、将的矢か。或は想ふに此書は霞亭が林崎を去り的矢に帰つた後のものではなからうか。若し然らば霞亭は弟碧山を佐藤氏に託して林崎を去つたものか。尚考ふべきである。
六月二十日に霞亭の碧山に与へた書は、林崎より的矢へ遣つたものである。霞亭はその撤去すべき林崎をさ斥して「此表」と云つてゐる。又的矢へ帰ることが、「御郷里へ参上」と云つてあり、二親への言伝が書してあるを見れば、碧山の的矢にゐたことも亦明である。書は的矢書牘の一で、その林崎撤退の事を言ふ文は下の如くである。
三十四
文化庚午(七年)六月二十日に霞亭が弟碧山立敬に与へて林崎撤退の事を言つた文はかうである。「此表之義も廿五六日迄に相片付、河崎氏隠宅へ一先三四日引取居可申相談仕候。其訳は先当月中に此方の暇乞並に用事は一切相仕廻、そふいたし候而朔日二日の内に御郷里へ参上可仕候。荷物之義どういたし候而も、当分之品は各別、河崎迄出し置、貴郷よりの船便へ差出候やう可仕候。左様思召可被下候。それに付一人に而もたれ候程の物当用之品は八蔵にもたせ遣可申候。廿三四日五日あたり迄に是非御遣し可被下候。拙者帰り候節は独行に而よろしく候。ふと存じ候には盆後備後行荷物等之順も有之、貴郷より大坂舟相頼乗船大坂迄参り可申やと存候。此節海上穏にも有之、労煩をまぬかれ、且は大船にのり候事終に無之、一奇観ならんと被存候。しかし如何可有之哉、是はいづれ参上之上相談可仕候。いづれとも山田表は当月限にいたし候而、郷里より直様出装之積りに御坐候。社中も凹巷色々心配之筋有之、とかく送行などの義かれこれとおつこうにならぬやういたしたき小生下心に候。」
霞亭は六月二十五六日の頃、林崎書院を辞して河崎敬軒の別業に寄寓せむと欲してゐる。しかし此寄寓は一時の事である。霞亭は此より一たび的矢に還つて告別し、「直様出装」しようと云ふ。是は何所へ往くのであるか。
霞亭は「大坂迄参り可申哉と存候」と云つた。しかし大坂は目的地ではなささうである。「盆後備後行荷物」とは何であらうか。霞亭が菅茶山の廉塾に往つたのは三年の後である。或は想ふに霞亭の備後行の端緒は早く此時に萌してゐて、事に阻げられて果さなかつたのであらうか。
霞亭は将に林崎を去らむとする時、校讐抄写のために忙殺せられた。同じ書にかう云つてある。「此節色々立前の仕事、欧陽公本義等うつしかかり候。詩補伝書き入候。其外何歟と多事、暑中独居殆困入候。鉄函心史先に差上候分、乍御苦労匆々御うつし可被下候。」欧陽公本義は欧陽修の毛詩本義十六巻である。詩補伝は清代に至つて宋の范処義の撰とせられた書で、凡三十巻ある。並に通志堂経解中に収められてゐる。霞亭は文庫本に就いて、或はうつし、或は書入をしてゐたのである。その碧山に課して鉄函心史を写さしめたのは、原本を亀田氏に還さむがためか。果して然らば、上に見えた孟綽(孫福公裕)の謄写も、孟綽自己のためにしたのではなくて、諸友が分担して挍本完成の業を成したのであらうか。
六月二十日の書には霞亭の友人の名を載すること僅に一人のみである。「瓦全よりも書通、これもすぐれ不申候よし、被案候ものに御坐候。」瓦全は柏原氏、名は員仍、字は子由、橘姓、京都の人である。
越て六月二十二日に霞亭は書を父適斎に寄せた。「八蔵御遣被下候はゞ、廿六七日に御遣可被下候。其節良助も遣申たく候。」霞亭は林崎を去る時、弟良助をも的矢へ還さうとしてゐるのである。
書中には尚二三の雑事がある。半兵衛と云ふものが的矢より林崎に来た日に、霞亭は山田の詩会に赴いてゐて、欵待することを得なかつた。又霞亭は的矢の某に問ひ合せた事があつて、其報復を待つてゐる。それゆゑ父に彼半兵衛に謝せむことを請ひ、又彼報章の到れりや否やを問うてゐる。文は此に贅せない。
三十五
文化庚午(七年)六月二十八日に、霞亭は既に河崎敬軒の別業にあつて書を的矢なる弟碧山立敬に与へた。是も亦的矢書牘の中にある。文中に「河崎良佐君隠居に暫時罷在候」と云ひ、末に「大世古川崎善五様宅にて北条譲四郎」と署してある。大世古は町名で、既に僧真栄の生家酒谷氏の事を記した条に見えてゐる。敬軒の通称は上に引いた書に拠れば久良助なるが如くである。或は別に善五の称があつたか。米山宗臣さんの記には敬軒が「善弼」と称したと云つてある。猶考ふべきである。
此書も亦主として旅行計画を説いてゐる。「今日荷物片付居候。河崎行荷等仕たて申候。(中略。)いづれ小生は来月五日夜宇治佐藤氏迄参り、翌六日貴宅へ罷出候。扨舟之儀は如何可仕哉。盆後相応なる便船有之候はゞ、大坂迄のり見申たく候。しかし御双親様方並に足下思召は如何。小生は大船はじめてとも存、気遣なき時節、それに荷物等直様積入まゐり候義便理かとぞんじ候故に候。舟にいたし候て不苦思召候はゞ、早々御便一寸御しらせ可被下候。さすれば此方にのこし有之候両がけ二つ直に大坂飛脚に差出し置参り候義やめにいたし、やはり郷里に持参、一所に舟積可仕候。いつも度々御煩労に候得共、八蔵ならでもよろしく候、五日に川崎氏迄御遣し可被下候。その節両がけもたし、六日同道にていそべ迄参り可申候。もし不被遣候はゞ、荷物飛脚に差出すか、又は其儘預け置参り可申候。此度の川崎舟に積候而はこゝ五六日の間入用の物有之不自由に候故に候。かわご二、一つは備後行書物に候。御受取置可被下候。(中略。)陸にても海にても、先盆後十七八日頃出立と存候。船なれば直ゆへ、此表暇乞等は両三日中済し可申候。」要するに霞亭は七月五日夜宇治なる佐藤子文の家に往き、六日に的矢に帰らうとしてゐる。さて盂蘭盆後、七月十七八日に旅程に就かうとしてゐる。その志す方はいづこか、果して備後であつたか、是は上に云つた如く未決の問題である。
霞亭は旅行の準備のために、母を煩すことの甚だしからむを恐れた。書中にかう云つてある。「衣類夜具甚かび参り候。御母様御ひとりに而何歟手ばり候而恐入候。外人御やとひ被遊可被下様奉頼候。」
此書も亦文庫本抄写の事を云々してゐる。「鉄函心史はやく御筆取被下御苦労奉存候。此方にも色々抄録ものさしつかへ、いまだ片付兼、少々加勢いり候位に御坐候。詩補伝一冊何卒三四日迄に是非々々御うつし取可被下候。これは至而秘し候而、向へ参らねばうつさせぬ位に秘重いたし候。其方へ差上候は極内々に而、やはり小生手前に而うつし候積りにいたし候間、小生此方出装迄に是非に御遣し可被下候。(中略。)何分にも補伝は三日か四日の内御遣し可被下候。右五日に人御遣し被下候はゞ、其便にて随分よろしく候。」鉄函心史は初より霞亭が碧山をして謄写せしめむと欲した所である。然るに霞亭は後詩補伝を写すことをさへ、碧山に併せ託したのである。当時詩補伝の希観書であつた状況が、此書に由つて窺知せられる。
次は的矢書牘中なる西村及時の書で、七月六日に的矢にある霞亭に与へたものである。此書は菊花を画いた半切に僅々十行の文字を留めたものであるが、わたくしがためには頗る有用のものとなつた。それは霞亭旅行の目的地を示してゐるが故である。霞亭は備後に往かむとしてゐたのではない。その荷物を備後に遣る所以は不明であるが、備後は霞亭の往かむと欲する地ではなかつた。  
 

 

三十六
文化庚午(七年)七月六日は霞亭が宇治の佐藤子文の家より的矢に還るべき日であつた。此日に西村及時が霞亭に与へた小簡がある。及時は嘱せられた霞亭の曾祖道益の同胞僧了普の事を記せむことを諾してゐる。霞亭がこれを及時に属したことは渉筆に見えてゐるのである。「了普闍梨之義御疑惑相成候処、難文乍ら文案取かかり可申、決て御同人相違有間敷候。」所謂疑惑は了普と栄公とは同人なりや異人なりやと云ふに存する。及時は此時猶その同人なるべきを以て答へたのである。
此書には又上に云つた如く、霞亭の旅行の目的地を指示する語がある。「東行御思立被成、如何御用事有之候哉、又は去就かかり候哉覧、無覚束候。」是に由つて観れば、霞亭は将に江戸に往かむとしてゐたらしいのである。只及時の艸書は頗る読み難きが故に、此に引く所にも亦誤読なきことを保せない。書の末には「七夕前一日、維祺拝、霞亭兄梧右」と書してある。わたくしは因に此に及時の姓氏に就て一言して置きたい。わたくしが及時を西村氏となしたのは、霞亭が「友人西村及時、名維祺、字維祺、(中略)緇林莫不知有及時居士」と云つてゐる故である。然るに浜野氏は凹巷の書中より志毛井維祺を看出した。次で三村米山の二氏も亦維祺の志毛井氏なるを報じた。その同一人なることは明である。猶考ふべきである。
わたくしは的矢書牘中単に「九日」とのみ記してある霞亭の書を此次に列せようとおもふ。何故と云ふに、わたくしは此書を以て庚午(七年)七月九日に作られたものとなすからである。書は父適斎に寄せたもので、霞亭は再び林崎に帰つてゐる。
霞亭が既に親を的矢に省して、而る後に林崎に帰つたことは、書中に「誠に此間は寛々御拝顔大慶奉存候」と云つてあるより推せられる。そして江戸行の事が其下に明白に説き出されてゐる。
「関東行の義、山口、西村抔へも相談申候処、菟角いそぎ候方よろしかるべく被申候。九月と申候ても、却而邪魔等はゐり、又ははり合もぬけ可申被存候。何れ来月(八月と書して塗抹し、来月と改めてある)一ばいにかへり候やう急用申参り候故、無拠出立と世間へ申置候がよろしからんと皆々被申候。私存候にも、九月迄居申候へば五十日余の日数延引候故、物入も多く、かつは只今にては吉田舟参り候へば、八日めには江戸著仕候間、かれこれ順よろしく存候間、先盆後二十日頃出船之積りに相決し候間、其段偏に御免許奉希候。御一家中へは書物出来候に付急に用事有之参り、無程帰宅可仕と被仰可被下候。又其外相尋候人も有之候はば、無拠内急用にて江戸表より申参り候故、暫時出府いたし候とばかり被仰度存候。左様候へば、何れ霜月上旬迄には帰国仕可申候。必々御案じ被下間敷候。御遷宮に逢不申候義、少しも残念には無之候。又々今度の遷宮にも存命はしれたる事に候。山口は西国游行ならば、直に同伴可仕と、たつてすゝめられ候へども、私東行は游覧にては無之、畢竟幾分の緊用に候故、其相談にはのられ不申候。いづれ左様候へば、十七八日頃又々参上可仕、昨日世話人方へはすでに申出し候処、各別怪しみも不仕、猶又帰国後住院ねがひ候と申位の事に候。書生へは未申出し不申候。」
要するに霞亭は七月十七八日に重て帰省し、さて二十日頃吉田発の舟に上つて江戸に向はうとしてゐるのである。林崎書院を辞する状況は、其世話人が「猶又帰国後住院ねがひ候」と云ふを見て略推することが出来る。霞亭は啻に江戸行の事を及時に諮つたのみならず、又これを山口凹巷に諮つた。按ずるに凹巷は既に北游より帰つてゐたのである。北陸游稿最後の詩は五月十九日に長柄川の鵜飼を観る七古である。凹巷は美濃より直に伊勢に帰つたのであらう。
三十七
文化庚午(七年)七月九日に霞亭の父適斎に寄せた書には、独り江戸行の計画が細説してあるのみではなく、亦林崎を去る時いかに弟立敬、良助二人を処置すべきかの問題が顧慮してある。「文之助十日に御かへし可被下候。何歟と用事も有之、かつ近内朝熊へ参詣為致可申候。右之順故、大助は先々出立迄書院にさし置可被下候。西村君被仰候は、私留主中良助にをしへ可申やうに被仰下候。夫にては甚よろしく候へ共、御存之良助物覚えわるく、もつとも鈍き分は構なしと被仰候。もしくは大助にても御頼可申上やとぞんじ候。箇様なる義も何れ近日御相談可申上候。」大助立敬は霞亭の去るに至るまで書院に留め置く筈である。西村及時は霞亭去後に良助を教へようと云つてゐる。しかし良助は記性乏しきものゆゑ、これを及時に託せむも徒労であらう。寧立敬を及時に託せようか。是が霞亭の意見である。文之助は霞亭の諸弟と共に林崎に来り寓してゐて、屢伊勢志摩の間を使として往来したものと見える。
同じ書に霞亭が帰省の日に文一篇を的矢に遺して置いたことが云つてある。「此間佐野右近序文わすれ参り候。文之助へ御遣可被下候。」佐野右近と云ふものが霞亭のために艸した送序などであらうか。此文は誤読なきことを保し難い。
七月十七八日の頃に重て的矢に帰省し、二十日の頃に舟に上つて山田を発せようと云ふのが、霞亭の予定であつた。霞亭の的矢に往つた日は不明であるが、十五日には猶林崎にゐた。高橋氏蔵詩箋中、凹巷の七律があつて、「庚午七月既望、同敬軒訪霞亭于林崎書院」云々と題してある。さて的矢に往つた後霞亭は事に阻げられて稽淹したらしい。七月二十二日には霞亭が猶未だ途に上らなかつた。的矢書牘中の二書がこれを証する。其一は河崎敬軒が此日に霞亭に与へた書、其二は高木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞亭を祖筵に招請した案内状である。
敬軒の書に拠るに、霞亭は当時的矢にゐた。「二尊始御挙家御無事之よし、此方相揃無恙罷在候。乍憚御罣念被下間布候。」是が書牘の首の語である。「乍筆末二尊御始立敬君へ宜被仰可被下候。此度は書状も上げ不申候。」碧山立敬も亦既に的矢に帰つてゐた。
霞亭は前日使を遣して荷物二箇を河崎氏に送つた。敬軒は即日、二十一日に筆を把つて此書の前半を作り、次日又これを補足した。中間に「是より翌朝認」と註してあり、末に「七月二十二日、河崎良佐、北条譲四郎様御下」と書してある。使人行李の事は二十一日、二十二日の両日に書する所に係る。「小生御分袂以来俗事甚多、今以昼夜奔走仕候。先日(十二日出)御状被下、早速御返事も可申上処、何角差上候ものも一緒に人出し可申存候而、彼是延引仕候。御宥恕可被下候。今日は御飛脚被下忝奉存候。御荷物二箇御預り申上候。途中大雨に逢しゆへ、荷物大にぬれ申候ゆへ、如何敷候へ共、凹巷君へ持参、上計開封仕候。中は少しもぬれ不申候へ共、袱子などはしぼり候程ぬれ申候。何れ明日上を包直候而増川へ出し置可申候。隣哉より書状も相添可申候。京への荷は油紙包ゆへぬれ不申候。(以上二十一日)荷物入用南鐐一片御遣し被下落手仕候。今廿二日便に増川へ出し置可申候。(以上二十二日)」霞亭は夙く七月十二日に的矢にあつて、書を敬軒に遣したことがあるやうである。帰省は予定より急にせられ、東行は却つて緩にせられたもの歟。荷物は二箇よりして外、尚京に遣るべきものがあつた。隣哉池上氏、名は徳隣、字は希白、通称は衛守、隣哉は其別号である。
三十八
わたくしは文化庚午(七年)七月二十二日に河崎敬軒が霞亭に与へた書に由つて、又変易せられた霞亭上途の日の何日なるかを知り、その水路を棄てゝ陸路に就くべきを推することを得た。「廿三四日頃御出装のよし。兼而此方にても皆々申候通船行は甚宜しからず、大に迂路、三十里に而ゆかれ申候処を、船にては百里余にも成候由、其上此節は甚時節あしく、風波も無心元候ゆへ、是非陸路より御出立可然被存候。此節青山生之送詩に、陸程従此平於砥、莫上秋風港口船と申句も有之由承申候。いづれ廿四五日頃御こし被下候うへ御面談可申上候。御送之儀も凹巷君へ委細御談申上置候。社中へは一切噂いたし不申候而、凹巷両人にて宮川むかひまで罷出可申候。いろいろ用事も御坐候間、先小生宅か凹巷かへ向御こし可被下候。御煩に相成不申様に、人へもしらせ不申、宜取計可申候。」敬軒は霞亭をして七月二十三日より二十五日に至る間に伊勢に来らしめ、告別した上発軔せしめようとしてゐるのである。「青山生」は東夢亭である。名は褧、字は伯頎、通称文亮又一学である。「青山」は霞亭敬軒の記する所に拠るに氏なるが如くである。その東と云ひ又「青山」と云ふは何故か、未だ考へない。
次にわたくしは同じ書に由つて、霞亭が備後に往かむと欲するのではないかと云ふ初の推測が、必ずしも誤らなかつたかと思ひかへした。敬軒の文はわたくしをして、霞亭の先づ備後に往き、それより路を転じて江戸に向はむとしてゐるかを思はしめる。「凹巷君よりも御噂申上られ候哉、備行路資之儀、社中にて差上可申筈に御坐候へ共、節季後皆々嚢中空虚、心外之至に御坐候。しかし社中取集二円金許用意仕候。御出立之節献呈可仕候間、其御積にて不足の処少々御用意可被下候。備までは多分も入不申候。大抵二円に而可宜候へ共、資乏候而は心ぼそきものに御坐候。しかし空手にて御越に候はゞ、尚御越のうへ凹巷相談じ、可然取計可申候。」備行と云ひ、備までは云々と云ふを見れば、わたくしは上の如く解せざることを得ない。前に見えた備後行荷物の事は此に至つて渙釈したものと看做しても好からう。且霞亭の備後行は山田詩社の委託のために行くものなることが、敬軒の文に由つて推せられる。事の廉塾に聯繋せりや否は未だ考へない。
次に敬軒は同じ書に八景図と其題詩との事を言つてゐる。「八景いまだ相揃不申候。皆々一図に一人づつは大形片付申候。詩はいづれも出来、凹巷君に大に御苦労相掛申候。いづれ明日あたり迄(に)は皆々相揃可申候へ共、今日の便にはえ上げ不申候。其内立敬君御認被下候舞子浜ばかり差上申候。」此八景図並に題詩の事は未詳である。しかしわたくしに一説がある。わたくしは近ごろ「伊勢十勝詩」乾坤二巻を求め得た。「一桜木里、二泉水杜、三巌波里、四打越浜、五三津湊、六藤波里、七河辺里、八岡本里、九関河、十大沼橋」を十景とし、毎景詩三十首を題したものである。作者は山田詩社の人々で、中に霞亭の詩が交つてゐる。或は想ふに此十勝は彼八景を補足して成つたのではなからうか。十勝詩二巻は写本で、詩が指頭大の楷書を用ゐて書してある。そして毎巻「神辺駅閭塾記」の朱文篆印がある。或は想ふに閭塾は即ち廉塾ではなからうか。そして此書は霞亭の手を経て山田詩社が贈つたものではなからうか。
三十九
文化庚午(七年)七月二十二日に河崎敬軒の霞亭に与へた書には尚数事が条記してある。概ね繁砕言ふに足らざるが如くであるが、或は他日此に由つて何事をか発明することがあるかも知れない。
其一。「巻軸漸今日(二十一日)出来仕候。隣哉も此節は私同様西城の臨時御用にて甚取紛、始終夜中に細工いたされ候ゆへ、甚出来よろしからず、小生より宜御断申上候様との事に御坐候。」巻軸は何の書、何の画であらう歟。池上隣哉が霞亭のために装し成した所のものである。隣哉は装潢の事を善くしたと見える。
其二。「諸子御頼申候扇子、其外御認もの、御苦労之至、夫々相達し可申候。跡より御礼可申出候、」山田詩社の諸友は別に臨んで霞亭の書を乞ひ、霞亭はこれを作つて敬軒の許に送遣し、これをして諸友に交付せしめた。
其三。「先日御願申上候佐佐木照(原註、昭か)元への添書、近頃御苦労之至恐入候へ共、是は私共の別而御願申上候儀に御坐候間、何卒御出立まで(に)御認被下候様奉希候。何(れ)料紙さし上申候。何事にても宜候。唯貴兄御覧被下候儀を御認可被下候。十字許を御煩し申上候。」佐佐木氏、照元は書家志頭摩の女である。志頭摩は加賀侯前田綱紀の策名便覧に一、二十人扶持、組外、書物役、五十三、佐々木志頭摩」と記してある。便覧は寛文十一年に成つたもので、名の上の「五十三」は年齢である。敬軒が特に料紙を遣つて、霞亭をして書せしめむとした十字許の「添書」とはいかなるものであらうか。「唯貴兄御覧被下候儀を御認可被下候」と云ふより推するに、敬軒は佐佐木氏蔵儲品のために識語を霞亭に求めたものか。
其四。「亀卜伝、辱奉存候。謹而恩(此字不明)借、尤他見いたさせ申間敷候。丹桂籍いつ迄成共御覧被遊候様御申入可被下候。書経解二冊奉璧、御落手可被下候。漸卒業仕候。律呂通考奉返、是又御落手可被下候。」霞亭蔵書にして敬軒の新に借り得たもの一種、曾て借りて今還すもの二種である。丹桂籍は敬軒の所蔵で、霞亭は父のためにこれを借りたのではなからうか。丹桂籍を除く外の三書は恐くは国書であらう。亀卜某伝と称する書は頗多い。書経解は淇園の繹解ではなからうか。律呂通考は、浜野氏に聞くに、太宰春台の著す所だと云ふ。
其五。「雨航いまだ帰り不申候。」雨航は宇仁館氏である。
前に記した如く、的矢書牘中には七月二十二日に高木呆翁、山口凹巷、西村及時の三人が連署して霞亭を招いた書がある。是は敬軒が書を霞亭に与へたと同日のものである。「明後廿四日社中御餞別申上度候。草庵寺山に而開席候。四つ時御来臨可被下候。右草庵は山御不案内に御坐候はゞ、花月楼に而御聞合可被下候。三君も御同伴被下候へば大悦に候。七月廿二日、高木舜民、山口穀(原文は禾が王)、西村維旗拝。霞亭詞宗。」署名中山口の名が珏と書せずして穀と書してある。しかし此二字は原同じであるから、凹巷はどちらをも用ゐてゐたと見える。呆翁等は霞亭を草庵寺山に餞せむと欲して、此書を的矢に遣つたのである。これを書したものは及時である。霞亭の同伴すべき「三君」とは、大助、良助、敬助の三弟ではなからうか。
四十
文化庚午(七年)七月二十四日草庵寺山の祖筵は必ず開かれたことであらう。しかし的矢書牘を除く外何等の記載をも留めざる此間の消息は今十分に闡明することが出来ない。
霞亭は八月九日には江戸に著いてゐる。定て備後を経て来たことであらうが、是も亦詳悉することを得ない。入府の事は的矢書牘に、八月十一日霞亭が父適斎に寄せた書があつてこれを証する。惜むらくは此書は首数行が糊ばなれのために遺失してゐる。「無事当九日著府仕候。都而諸子皆々無事のよしに候。未だ一一尋訪も不仕候。鵬斎君此節北国に被参留主に而甚残念(に)存候。夫故先々赤坂高林群右衛門方に罷在候。明後々日は観月旁江の島鎌倉辺へ出懸可申候。旧友和気行蔵同遊仕候。いづれくわしき義は後便可申上候。御状並に御届物は右申上候高林名当に御遣可被下候。(中略。)赤坂御門内堀織部様御屋敷高林群右衛門に而。」
亀田鵬斎は山口凹巷の北陸游稿に叙して、「余庚午歳北游、窮覧信越二州之名勝焉」と云つてゐる。又善身堂詩鈔補遺に「庚午歳、余北游到越後三条、宿某宅」の七古がある。鵬斎の江戸を発したのは何日なるを知らぬが、八月九日には既に江戸を去つてゐた。詩鈔補遺に又「留別神保子譲」の七古があつて、其引に「余遊北越既三年」と云ひ、詩中又「今朝離筵別酒時、始覚三年身是客」と云つてゐる。然れば鵬斎は少くも三年北地に淹留してゐた。霞亭の江戸に入つたのは、鵬斎が途に上つてから多く月日を経ざる程の事であつただらう。霞亭が鵬斎をして東道主人たらしめむと欲したことは此書牘に徴して知るべきである。鵬斎が家にあらざる故、霞亭は已むことを得ずして高林群右衛門の家をたよつたのである。高林氏の住所堀織部の屋敷は文化の分限帳に「二千五百石、赤坂御門内、堀織部」と記してある。庚午の役人武鑑には見えない。
霞亭は十四日を以て江の島鎌倉に遊ばうとしてゐる。同行者は和気柳斎である。聖学並に聖学講義大意を閲するに、彼に「文化七年、歳在庚午、冬十一月朔、江都柳斎主人和気行蔵古道題」とし、此に「文化七庚午歳、武蔵鄙人和気行蔵述」と署してある。想ふに庚午は柳斎が町儒者として盛に門戸を張つてゐた時であらう。柳斎筆記は早く五年前(文化二年乙丑冬)に刻せられてゐた。
八月十一日の霞亭の書牘は猶弟碧山立敬の消息を齎す。「大助儀佐藤に罷在候間、御便も候はゞ、人御よせ可被下候。立前も西村君態々御出に而、一二月も立候はゞ、此方へ預り可申様と被仰候。いづれ遷宮過一たん帰郷可仕候間、よきに御取計可被下候。」
碧山が宇治畑の佐藤子文の許に寓したのは、此文に拠るに、霞亭東行の直前であつただらう。西村及時は碧山を佐藤の家より引き取らうとしてゐたのである。末に遷宮過一旦帰郷する筈だと云つてあるのは、霞亭にあらずして碧山である。何故と云ふに、直に此文に接して、霞亭が下の如く云つてゐるからである。「私義当暮迄には罷帰可申候。いづれ所々見のこし候処へ参り可申候。」是が霞亭南帰の予定期日であつた。  
 

 

四十一
霞亭は文化庚午(七年)八月九日に江戸に来て、九月十四日に江戸を去つた。初め「当暮迄」と云つてゐた帰郷の期日は、縦令途上に暫留すべき地があつたとしても、著く縮められたのである。
霞亭は何事のために此遠路を往反したか。わたくしは未だこれに答ふる所以を知らない。惟此旅行が渉筆を刊行する事に関係してゐたかと推するのみである。
九月十四日に江戸を発する時、霞亭は書を裁して父適斎に報じた。此書も亦的矢書牘の中にある。「先月中書通申上候通、鵬斎北遊今に帰府無之、都下も一向おもしろからず候。夫に先達而よりの荷物一向著不仕、度々船問屋等吟味いたし候得共、著船無之、如何いたし候哉。段々寒冷におもむき、何歟(と)不都合にて迷惑いたし候。待合せもはてぬ事故、先々此表出立仕候。いまだ諏訪湖並に上州辺の鉢形城跡抔一覧不仕候故、此度は木曾街道をかへり申候。今日出立仕候。月末には帰家可仕候得共、事により候ては上州安中辺に滞留いたし候処も有之候間、おそくなり候とも、必々御案じ被下間敷候。荷物之儀は高林氏へくわしく頼置候。是も船の上へ(二字にて「うへ」)ははて不申候故、飛脚並に冬の春木氏便に頼み可被下候。何の役にもたゝざる荷物を出し申候事に候。」
亀田鵬斎の信越地方より帰らぬことは霞亭の帰期を急にした一因をなしてゐるらしい。霞亭は暫く的矢より来べき荷物を待つてゐたが、遂に荷物の事を高林群右衛門に托して置いて帰途に就いた。そして木曾街道を経て還らうとしてゐる。それは途上見むと欲するものが多い故である。霞亭は江戸に留まること僅に三十六日間であつた。因に云ふ。高橋氏蔵詩箋に池上隣哉、河崎敬軒の霞亭東行を送る詩歌があつて、己巳(六年)初秋と書してある。しかし前記の如く、霞亭が己巳七月十四日並に九月六日に林崎より郷親に寄せた書が存してゐて、其中間に東游のあつた形迹がない。猶考ふベきである。
霞亭が木曾路の旅はどうであつたか。その的矢に帰り著いたのはいつであつたか。わたくしは全くこれを知らない。的矢書牘には此より後次年辛未(八年)二月の嵯峨生活の時に至るまで、一の年月を知るべき書だに見えない。山陽の墓誌には林崎院長となつてより嵯峨に往くまでの間に何事も叙してない。
しかし此に奇異なる一紙片があつて的矢書牘中より出た。それは末に「譲拝乞政」と署した詩稿である。此詩稿は啻に庚午(七年)九月(発江戸)より辛未(八年)二月(将入嵯峨留別)に至るまでの唯一の文書として視るべきのみでなく、又前に疑問として遺して置いた霞亭凹巷二人の京游の上に一条の光明を投射するものである。
わたくしは此詩稿に由つて霞亭が庚午(七年)十月京都にあつたことを知る。そして此京遊は凹巷が嵯峨樵歌巻首の五古中に叙した京遊でなくてはならぬのである。「中間又何楽、伴我游洛師」は庚午(七年)の春ではなかつたが、意外にも庚午(七年)の冬であつた。
然らば辛未(八年)の二月には霞亭が既に嵯峨に入つてゐたのに、凹巷は何故に「勢南春尽帰、花謝緑陰滋」と云つたか。此間には幾分の矛盾がある。強て解して所謂春尽きて帰つたものは凹巷一人であつたとでも云はうか。下に此二句を承けて「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑、卜居択其勝、相送宮水湄」の数句を以てするはいかゞであらう。此間には幾分の矛盾がある。
庚午(七年)十一月の詩稿は下に録する如くである。
四十二
わたくしの謂ふ所の詩稿は、文化庚午(七年)十月某日に霞亭が大原寂光院の比丘尼に欵待せられ、寂如軒に宿する七律一、比丘尼が波玉と銘する桜材の香盒を贈つた時の七絶二を淡青色の巻紙に書したものである。
「庚午小春、奉訪洛北大原寂光院老尼、見許宿寂如軒、灯下作。孤庵占静院之西。竹樹近遮流水谿。千秋感憶皇妃詠。一夜情疑仙侶棲。紅葉月埋人没屐。青苔日厚鹿余蹄。暁枕聴鐘吾未睡。残灯影裏雨声凄。寂光院尼公贈予以香盒一枚、云庭前桜樹所彫、是樹枯已久矣、古時称汀桜者、香盒銘波玉。小盒玲瓏玉様奇。遺香況与水沈宜。炉霞一片花何在。髣髴春山雲隔時。又。無復落花埋碧漣。上皇遺愛詠空伝。請看掌上盈寸盒。想起春風六百年。譲拝乞政。」
此等の詩は霞亭摘稿刊後の作であるのに、遺稿には見えない、又嵯峨樵歌も只「寄懐寂光院老尼」の七絶を載せて、前年の遭遇を註してゐない。それはとまれかくまれ、此游は山口凹巷の五古に叙する所のものと同じであらう、「中間又何楽。伴我游洛師。台岳共登臨。淡雲湖色披。鐸声禅院寂。杉月照罘思(原文は罒が付く)。朝尋西塔路。山靄帯軽
(雨冠に斯)。下岳過大原。奇縁遇浄尼。梅条横夜庵。桜渚遶春池。采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄鸝。」大原の浄尼は即寂光院の尼公で、夜庵は即寂如軒であらう。そして梅条以下の叙事は大原に宿した時より後の事であらう。知るべし、寂如軒中の客は霞亭一人ではなくて、霞亭凹巷の二人であつたことを。
此の如く所謂中間の遊が少くも半ば庚午(七年)の冬であつたとすると、「勢南春尽帰」は次年辛未(八年)の三月尽でなくてはならない。然らば京坂の遊は庚午(七年)冬より辛未(八年)春に亘り、少くも凹巷一人は三月末に及んで、纔に伊勢に帰ることを得たのであらう。
要するに霞亭凹巷の二人若くは凹巷一人は庚午(七年)除夜の鐘を京師の客舎に聴いたことゝなるのである。是年霞亭は三十一歳、凹巷は三十九歳であつた。
序に記す。寂光院の尼は、名を松珠と云つた。紀伊国の産で、当時寂如軒に住し、後大和国宇陀郡宇賀志村天鷚山の紫雲庵に徙つた。霞亭凹巷の二人は三年後に吉野に遊んで松珠に再会する。天鷚山は「距芳野纔五里」である。事は凹巷の芳野游藁に見えてゐる。
以上草し畢つて高橋氏蔵詩箋の謄本を閲するに、庚午(七年)の臘尾には霞亭は林崎に帰つてゐたことが明である。これを証するものは高木呆翁の詩引である。「霞亭今秋(二字可疑、霞亭詩引云、小春)遊大原寂光院。院主尼公贈以香盒一枚云。庭前桜樹所彫。是樹枯已久矣。古時称汀桜者。霞亭携帰。一日会同社諸君於林崎。出示之。且索詩。分韻各成一絶。」詩は省く。末に「庚午冬日、濫巾呆翁」と署してある。
わたくしは辛未(八年)の記事に入るに先つて一事を挿叙して置きたい。それは霞亭渉筆印行の顚末に関する事である。今刊本を検するに、小引には「頃消暑之暇省覧一過、因抄若干条其中、裒為冊子」と云ひ、「文化庚午夏日、天放生北条譲題」と署してある。是は七月に林崎を去る前に書する所である。表紙の見返には「文化七年庚午秋新彫、林崎書院蔵」と印し、巻末には「皇都書林梶川七郎兵衛、東都書林須原屋伊八」と印してある。梶川は京都西堀川通高辻上る芸香堂、屋号は銭屋、須原屋は江戸下谷池之端仲町青黎閣、氏は北沢、所謂二代目須伊である。刻成は霞亭東遊の頃であつたらしい。
的矢書牘中に此刻の事を言ふ書二通があつて、一は首尾共に闕け、一は首あつて尾がない。並に霞亭の筆迹なることは疑を容れぬが、その何人に与へしものなるかを詳にし難い。二書の断簡には皆多少考拠に資すべきものがあるから、下に引くことゝする。
四十三
的矢書牘中渉筆上梓の事を言つた霞亭の書の一はかうである。「霞亭渉筆上木取かかり度候。先達而梶川へ申候処、十行二十字にては木とも二朱位にて彫刻いたし候やう申候。もし御もよりの書林御座候はゞ、尚又御掛引可被下候。大体中位のほりにてどれ位のわりにいたし候哉、乍御面働御聞合可被下候。十行二十字、あき処も間には有之、又ちよつと細書はいり候処も有之、点も有之候。其御心得に而御相談可被下候。種々御労煩奉察候得共、無拠御願申上候。」芸香堂梶川七郎兵衛は上に云ふが如く、京都の書肆で、渉筆を刻したものである。霞亭がこれに交渉したのは文化庚午(七年)秋以前であつた筈である。書は何人に与へたものなるか不明なるが故に、所謂最寄の書林の何の地の書林なるかを知らない。書には当時の木板刻費が見えてゐる。
今一通の書はかうである。「態と以大助一筆啓上仕候。寒冷に御座候処、愈御安泰被遊御座、奉欣抃候。先日来者毎々調法之品々御恵被下奉謝候。然者渉筆も最早皆々板刻出来候。菟角挍合点等之間違多く、書中掛合愈わかり兼候。夫に付往来とも十三四日相かかり候而上京仕度候。幸宇仁館太郎大夫殿出坂被致候故同道仕候。」以下は切れて無くなつてゐる。此書も亦その何人に与へたものかを知らぬが、これを齎し去つた伻が碧山であつたことを思へば、伊勢若くは志摩の人に与へたものと看做すべきである。さて此書の作られた時は何時歟。京都の梶川は既に渉筆を刻し畢つてゐる。霞亭は最後の一挍を其刻板に加へむがために京都へ往かうとしてゐる。そして季節は既に寒冷である。わたくしはその庚午(七年)十月以後なるべきを想ふ。然らば寂光院に松珠を見たのは此旅ではなからうか。若し然らば此「往来とも十三四日」の旅と「勢南春尽帰」との間には矛盾があつて、強てこれを解せむとするときは、凹巷が独り洛に留まつたとするより外ないのである。宇仁館太郎大夫は雨航信富である。大坂に往かむがために、霞亭と共に伊勢を立たうとしてゐたのである。
文化八年は霞亭が嵯峨生活に入るべき年である。わたくしは曩に嵯峨樵歌の詩引を引いて、霞亭入京の日を推さむことを試みた。今は頗るこれを詳にしてゐる。霞亭は二月六日に伊勢山田を発し、十一日に京都に入り、麩屋町六角下る東側伊勢屋喜助の家に宿つた。既にして天龍寺の役人加藤寿ァの所有なる下嵯峨藪之内の廃宅を借り、これに修繕を加ふる間、釈迦堂前鍵屋喜兵衛の家に寓した。藪之内の家は前年庚午(七年)の冬に物色した所の家である。此事実は二月十一日に霞亭が父適斎に寄せた書に見えてゐる。書は的矢書牘の一である。
「小子共種々用事出来候而漸う六日山田出立仕候而、立敬始而之義、所々旧迹等もあらかた見せ、夫に関辺より始終大雪に而、道中も殊之外日数相かかり、十一日入京仕候。尤私始宇仁館様並に立敬皆々無事罷在候。去冬一見いたし候嵯峨居宅早速かりうけ候而夫々相悦申候。尤四五年来無住之家故、思之外造作相かかり、于今大工日傭等相いり居申候。しかし大方相片付候而、十九日廿日の間に移居いたし候。御安意可被下候。太郎大夫殿も右に付今に御滞留被成下御世話御苦労被下候。其外色々取込候而、此便委曲不申上候。嵯峨は下嵯峨藪之内と申所に而、加藤寿銀殿と申天龍寺役人の家に候。天龍寺の裏手に御坐候。しかし御便等はやはり伊勢屋喜助宅迄御遣可被下候。いつにても便御坐候。(中略。)今日も嵯峨行仕候。尤此間より嵯峨釈迦堂前鍵屋喜兵衛と申方に居申候。此度の世話人家に候。」
四十四
霞亭は文化辛未(八年)二月六日に伊勢山田を発し、十一日に京都に入つた時、途上雪に逢つた。弟碧山の同行者であつたことは勿論であるが、宇仁館雨航も亦これに伴つて入京したらしい。霞亭が此書を父適斎に寄せたのは、番匠廝役の嵯峨藪の内の家に集つてゐた間の事である。しかし霞亭は偶これに月日を註することを忘れた。
同じ書に霞亭の弟碧山立敬の従学の事が見えてゐる。「立敬吉益入門も先々卜居相済候後と、今暫延引仕候。」吉益は東洞為則の嗣子南涯猷である。庚午(七年)の歳に六十一歳になつてゐた。霞亭が何故に碧山を挈へて入京したかは、此を見て知るべきである。
わたくしは姑く霞亭が下嵯峨藪の内に移つた日を二月十九日として看た。是は書に「十九日廿日の間に移居いたし候」と云つてあるのと、嵯峨樵歌の詩引とを併せ考へたのである。「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事。適井達夫在都。亦来訪。留宿三日。二月念一日。修営粗了。夜焚香賦詩。」わたくしは詩を賦した廿一日の夜を以て留宿の第三日となしたのである。按ずるに竹里と云ひ、幽篁書屋と云ふ、皆藪の内より来た称である。井達夫は浅井氏、名は毅、通称は十助である。
二月三十日に霞亭は又書を父に寄せた。是も亦的矢書牘の中にある。
書は先づ幽篁書屋の事を叙してゐる。「扨先書申上候通、嵯峨の辺は借宅無之地に候故、臨川寺役人加藤寿ァ殿家借用いたし候。四五年はあき候処故、殊之外造作相かかり、大工日傭四十五工も相かかり、漸う廿日に移居仕候。至極閑静の地に而、うしろは臨川寺、つい出候へば天龍寺渡月橋に御坐候。家は六畳二間、四丈二間、台所、玄関共に拾畳敷ほど、風呂場、菜園等も御坐候。井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水声よくきこへ候。しかし花過候までは京都近付其外一切しらし不申候。心おもしろく読書修業出来可申候。なじみ候程至極住よき処に被思候。右之順故太郎大夫殿も始終手つだひ、殊之外日数かさなり、漸う廿五日夜大阪へ被出候。浅井十助殿其外京都よりも伊勢喜、嵯峨八百喜等皆々出精手伝くれ候。」
卜居の顚末は概ね前書と異なることが無い。只家主加藤の名は初め寿銀に作つてあつたが、今寿ァと正してある。又匠人の事を言ふ条に「工」と云ふは恐くは工手間の略であらう。幽篁書屋の房数席数は始て此に見えてゐる。「井戸はかけひに而とり候。すべて一面竹林に而、竹をへだて候而桂川の水声よくきこへ候。」此数句は特に人をしてその懐しさを想はしめる。宇仁館雨航の辞し去つた期は「漸う廿五日」であつた。樵歌にこれに贈る絶句がある。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青灯。」霞亭は雨航を送つて京都に至つた。「客舎尋君送遠行。何時帰馬入京城。」
書に奠居の費用が載せてある。「此度卜居並に道中、何歟思之外入用有之、十両余も入用いたし候。」
既に移居した後も、郵書等は京都の伊勢屋喜助をして接受せしめた。「御状等はやはり伊勢喜迄御遣し可被下候。此方へ大方の日たより御坐候。御国産ひじき、あらめ、わかめの類折節御恵投奉希候。世話のいらぬやうに菜にいたしたく、大坂迄船つみ、淀川運賃さが払に御かき付可被成下候。同家の壁へ名当等しるし置候。」
四十五
霞亭が文化辛未(八年)二月三十日に父適斎に寄せた書には、猶弟碧山立敬の吉益を見るべき期日が記してある。「立敬も当五日(三月五日)吉益先生へ入門仕候つもりにいたし、御約束申候。入門式はかれこれ三百匹許も入用に候。外医家よりは心やすき方に御坐候。やはり四五日め会業、嵯峨よりかよはせ可申、大抵太秦通京道一里半許御坐候。家つづきに御坐候。」霞亭は二月三十日に書を裁するに当つて、ふと「当五日」と書いた。しかしその来月五日なるべきことは疑を容れない。会業云々は初謁より第四五日に至つて、始て授業せらるる謂であらうか。
吉益南涯の家は、的矢書牘中に交つてゐた京都の宿所書に「三条東洞院北東角、吉益」と註してある。初め南涯の父東洞は、元文三年(1738)に京都に入つた時、万里小路春日町南入るに住み、延享三年(1746)に東洞院に徙つて東洞と号した。明和七年(1770)に東洞は又皇城西門外に徙つて、安永二年(1773)に此に歿した。天明八年(1788)に嗣子南涯は火災に遭つて、大坂船揚伏見町に徙り、南涯と号した。京都の南に居り、その居る所が水涯であつた故である。寛政五年(1793)に南涯は伏見町の家を弟辰に譲つて、京都三条東洞院に帰り住した。是が碧山の通つて行つた吉益の家である。
同じ霞亭の書には又弟良助を宇仁館雨航に託せようとすることが言つてある。「良助義太郎大夫殿へうわさいたし候処、かの方へしばらく御預り申上、素読等いたさせ可申様申くれられ候。三四月中は道者に而いそがしく、五六月頃か盆あたりより夫に御頼可被遊候。宇仁館に被居候へば、山口河崎東などへも参り候而各別所益可有之候。宇君御宅にても近頃月六日許宛御講釈はじまり候。旁よろしく候。」良助を雨航の家に寓せしめ、又凹巷敬軒夢亭の家に往来せしめようと云ふのである。
次に同じ書に凹巷上京の期日が記してある。「四月朔日頃には山口様出京被致候。左様御心得可被下候。」
次に梅谷某上京の期日が記してある。「梅谷生は大方当月(二月)末頃上京と奉存候。梅谷に孟宗竹約束いたし置候。五月頃御とりよせ可被下候。」
三月の末に霞亭は又書を父に寄せた。的矢書牘中の此書は後半が断ち去られてゐて、宛名もなく月日もない。しかしその父に寄する書なることは語気に由つて知ることを得べく、その三月末に作られたことは首の数句に由つて知ることを得べきである。「当月廿日之尊簡今日相達、辱拝見仕候。時分柄春暖相催候処、愈御安泰被遊御入珍重奉存候。」此数句中「春暖相催」は人をして二月にはあらざるかと疑はしむるが、下に碧山が既に南涯の門に入つてゐるより見れば、三月でなくてはならない。
霞亭は漸く竹里の住ひに馴れて来た。「段々居馴染候が、ますます清閑に而甚おもしろく罷在候。処がらと申、閑静に候故、著述事等も甚だ埒明候やうに覚え候。(中略。)買物小遣等は近所出入の百姓の子供等始終まわりくれ候ゆへ殊の外自由に候。」
弟碧山は既に南涯の家に往来してゐる。「立敬も吉益へ隔日に参り候。朝五つの会故、少しくらき内に出候而、昼前に帰宅いたし候。凡二里に三四丁ぬけ候。太義にはぞんじられ候へども、その位あるき候はからだの補養にもよろしく候。甚出精、此節傷寒論会御坐候。会の所拙者相手になり、下見いたさせ、又々かへり候而も吟味いたし置候。至極何事もはやくのみ込め候やうすに御坐候。御悦可被下候。」  
 

 

四十六
霞亭が窓曙篇序を作り、又題任有亭の五古を作つたのも亦文化辛未(八年)の三月である。窓の曙は僧似雲の著す所である。霞亭は林崎書院にある時これを読み、一本を抄写して蔵してゐた。さて嵯峨に来て三秀院の僧月江と交を結んだ。三秀院に任有亭がある。是は八十年前に似雲の住んだ処である。霞亭は窓の曙の写本を出して月江に贈り、任有亭に蔵せしめた。序は此時の作である。高橋氏蔵箋に月江のこれに酬いた五古がある。其引に云く。「霞亭北条先生。近自勢南来。行李挟窓之曙一本。以余寺有似雲故居。遂見贈焉。且附以跋及詩。因次其韻謝呈。」末に署して云く。「月江宣草稿。」
窓曙篇序は歳寒堂遺稿に載せてある。題任有亭の五古は嵯峨樵歌に出でてゐる。しかし此文此詩の草稿は的矢書牘中に交つて存してゐる。そして文の末に「文化辛未春三月勢南北条譲題」と署してある。文中に「今茲辛未春辞林崎来嵯峨」の句はあるが、その三月であつたことは題署に由つて始て知らるるのである。
序文には的矢書牘中のものと遺稿中のものと、殆毎句に異同がある。按ずるに彼は初稿にして此は定稿であらう。何を以て謂ふか。的矢書牘中のものは助字が多いのに、遺稿中のものは半ばこれを刪り去つて簡浄に就かしめてあるからである。
題任有亭の詩には嵯峨樵歌の載する所に約二百言の小引がある。的矢書牘中のものは此小引を闕いてゐて、十六行の国文が窓曙篇序の後、此詩の前にある。按ずるに霞亭は此詩を樵歌中に収むるに当つて、これを漢訳したものであらう。わたくしは下に其国文を抄出する。
「五升葊瓦全子予にかたりし似雲法師の逸事、ちなみにこゝにしるす。似雲法師任有亭におはせし頃、入江若水翁渡月橋の南櫟谷に閑居をしめ、方外の交むつまじかりける。ある雪の朝、若水翁法師をむかへけるに来らざれば、待わびたるに。跡つけてとはぬもふかき心とは雪に人まつ人やしるらむ。といひおこせしとなむ。予この頃樵唱集をよみ侍るに、中に雪朝寄無心道人の詩をのす。おもふにその時の作なるべし。曰。前渓多折竹。夢断促晨興。渡口殆盈尺。山頭更幾層。豈無乗艇客。応有立庭僧。宿得一星火。茶炉独煮烹。この風流いとしたはしくおぼゆれば、此事を書つゞくる間に、つたなき一首を口ずさび侍りぬ。」
漢文の小引には瓦全の名を削つて、「一老人語予曰」と書してある。西山樵唱集の詩中末の二句は、小引に「留得一星火、茶炉独煮水」に作つてある。今樵唱集は手許に無い故に検することを得ない。国文に所謂「つたなき一首」は即五古の長篇である。
五古にも亦的矢本と嵯峨本との異同がある。此に挙げて遺忘に備へる。的矢本。「円窓代仏龕。念誦礼其中。」嵯峨本は「円相」に作つてゐる。是は孰が是孰が非であらう。指月録の円相は月である。的矢本。「晤賞定無窮。有時為歌詠。」嵯峨本は「悟賞」に作つてゐる。是は刊本が是であらう。張雨対月詩に「悟賞在茲夕」の句があるさうである。的矢本。「師亦因歌答。思君朝云終。欲出旋留屐。応解惜玲瓏、」嵯峨本は「朝云終」を「椅窓槞」に作り、「留」を「停」に作つてゐる。是も亦刊本に従ふべきであらう。
わたくしの註する所は草率の考に過ぎない。若し誤謬があつたなら、読者の教を請ひたい。元来文も詩も全篇を写し出だして、二本の異同を説くべきであるが、わたくしは人を倦ましめむことを恐れて敢てしない。しかし上に挙げた詩句の是非の如きは、必ずしも全篇を読まずして断ずることを得べきものであらう。
霞亭は前に山口凹巷の四月朔に至るべきを郷親に報じた。しかし其期の或は短縮すべきを料り知つたものの如く、三月廿八日に粟田まで出迎へたことが樵歌に見えてゐる。此記事は樵歌中任有亭の詩の後にある。わたくしの窓の曙と任有亭との事を先づ記した所以である。
四十七
文化辛未(八年)の春尽くる頃、霞亭は下嵯峨藪の内の幽篁書屋にあつて、四月朔に至るべき山口凹巷を待つてゐた。嵯峨樵歌に「聞凹巷来期在近」の七絶がある。是は或はその至る期が四月朔より早かるべきを聞知した時の作ではなからうか。「心中暗喜期将近。錯認人声復倚門。」既にして三月二十八日に及び、霞亭は粟田まで出向いて凹巷の至るを候つてゐた。「粟田旗亭遅凹巷入京即事」の七絶がある。「眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
凹巷は晦日に来た。同行者に幸田伯養、孫福孟綽があつた。加旃越後へ往く河崎敬軒、池上希白が路を枉げて共に来た。霞亭は一人を待つてゐて、五人の来るに会したのである。希白はわたくしは初め隣哉の字なるべきを謂つた。しかし帰省詩嚢に「過池隣哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の語がある。希白が隣哉の家に来たのである。その別人なること明である。
霞亭は五人を率て幽篁書屋に帰つた。「壮遊人五傑。快意酒千鍾。」五人は即日嵐山に花のなごりを尋ねた。「任他花落随流水。愛此樽携共故人。」
四月三日に五人は西近江より越前敦賀へ出で、此にて河崎、池上は袂を分つて去り、三人は若狭小浜に往き、丹後の天の橋立に遊び、丹波を経て嵯峨に帰つた。時に十六日であつた。「帰舎終無事。曲肱灯影低。」
わたくしは蘭軒伝中に於て已に一たび当時の事を記した。しかし樵歌の一書を除く外、参照すべきものがなかつたので、月日も人名もおぼろけであつた。今わたくしは的矢書牘中の四月二十四日の書を見ることを得た。亦霞亭が弟碧山と連署して父適斎に寄せたものである。
「山口角大夫、並に幸田要人、孫福内蔵介二君御同道、先晦日御著、河崎良佐、池上衛守二君も見えられ(これは越後行を極内々にてさがへ立よられ候也)、三日皆々御同道に而、いまだ見ず候故、西江州より越前敦賀へこえ、河崎池上とわかれ、夫より若狭小浜へ参り、丹後へ出、天の橋立を一覧いたし、丹波路をまいり、当十六日さがへ罷帰申候。所々名所古蹟巡覧いたし、大慶無此上奉存候。小浜に而若狭小だゐもとめ差上たく尋ね候処、冬ならではなきよし、残念に奉存候。此度の紀行等は跡より出来次第入御覧候。」
凹巷の通称は霞亭が前に徴次郎と書してゐた。是は墓碑に「小字長次郎」と云つてあるに符する。長又徴に作つたのであちう。然るに今角大夫と書してある。茶山集に「覚大夫」と云つてあるに符する。角又覚に作つたのであらう。
幸田要人は樵歌の田伯養である。孫福内蔵介は樵歌の孫孟綽である。名を(原文は褒の保が谷)と云ひ、包蒙と号した。包蒙の孟綽なることは三村氏蔵箋に拠る。孟綽は北陸游稿に凹巷の内姪と自署してゐる。又米山氏記を参考するに、孫福内蔵介セニヨオル、名は公ケ、字は長孺、道号損斎又眉山は孟綽の父若くは兄なるが如くである。文化甲戌(十一年)の誠宇受業録に「故眉山先生」と云ふは此人である。樵歌題詞の長孺は清水平八か、孫福内蔵介セニヨオルか、猶考ふべきである。池上衛守は樵歌の池希白である。
四月二十四日の書には、上に抄する所を除きては、記すべきものが少い。西光寺住職某が霞亭を訪うて鐘銘を閲せむことを乞うた。「西光寺見え候処、私留守に而掛違ひ候。津とやらに鐘出来候而、其銘を直しくれとのこし置候。せわしくいまだ見不申候。」霞亭の親戚「せや叔母」が善光寺に詣でた。「せや叔母善光寺へ被参候よし、悦候。」霞亭は山田の喜助と云ふものゝ手より吸物椀十人前を価二十五匁にて買はむとして罷めた。此椀が錯つて的矢へ送られた。霞亭は父にこれを買ひ取るとも山田へ返すとも随意に処置すべき由を言つてゐる。又父が金四両二朱と裙帯菜とを遺つたことを謝してゐる。其文は略する。
四十八
霞亭は文化辛未(八年)四月十六日に、山口凹巷、幸田伯養、孫福孟綽の三人と天の橋立より還り、下嵯峨藪の内の幽篁書屋に三人を留めてゐた。二十四日に書を父適斎に寄せた時には、客は未だ去らなかつたであらう。何故と云ふに、若し已に去つた後ならば、書中にその去つた日を言ふべきだからである。
三人の辞し去つたのは何れの日なるを詳にしない。しかし凹巷は二十六日に去つた。伯養孟綽も亦或は同じく去つたであらう。高橋氏蔵箋に凹巷の石山杯の詩があつて、其引にかう云つてある。「霞亭有嵐山杯。為西峨幽居中之一物。今又新製一小杯贈余。杯面描飛螢流水。題背曰。辛未四月廿六。石山水楼酌別凹巷韓君。(中略。)因効霞亭命名曰石山杯。追賦一絶。以謝厚貺。」酌別の事は嵯峨樵歌に見えてゐる。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」尋で覆亭は詩を凹巷に寄せて別後の情を抒べた。「始知人意向来好。却恋相期未見時。」
六月に霞亭は藪の内の居を撤して、京都市中に留まること二十余日であつた。樵歌に「晩夏冒夜到北野」の聯句があつて、次の七絶一首に小引がある。「予因事徙居都下二旬余。不堪擾雑。復返西峨。寓任有亭。翌賦呈宜上人。」市中に移つたのが六月中であつたことは、下に引く八月十八日の書に由つて知られる。
七月前半に霞亭は任有亭に寄寓した。任有亭は僧月江の寺の中で、上の詩引に所謂宣上人は即月江である。月江、名は承宣である。霞亭の嵯峨生活は竹里の第一期より任有亭の第二期に入る。その七月前半であつたことは、樵歌が宣上人に呈する前詩の次に「七月既望」の作を載するを以て知られる。七月既望には霞亭碧山の兄弟が月江等僧侶と与に舟を大井川に泛べて月を賞した。
八月十五日の夕は樵歌中に「中秋独坐待月」の七絶を遺してゐる。次の「月色佳甚、遂与惟長、拉承芸師佐野生、遊広沢池亭」の七律も、亦恐くは同じ夜の作であらう。承芸は月江の侍者、佐野生、名は憲、字は元章、通称は少進、山陰と号した。
十八日に霞亭は書を父に寄せた。的矢書牘中の此書は弟碧山と連署してある。且「北条霞亭拝、同立敬拝」と署した霞亭の名の右傍に、「此節直に号を通称仕候」と細書してある。
書中に霞亭が居所の事を言つた条はかうである。「先々小生も当年中は任有亭に罷在可申、又々来年はいかやうとも可仕候。いづれ後々は京住にも相成可申や。山中殊之外心しづまり、万事出精仕候。」
次に弟碧山の事が言つてある。霞亭は京都市中に移つた時、碧山を伴ひ行き、七月に任有亭に入るに及んで、碧山をば伊勢喜に残して置いた。尋で三秀院の一室を借り受けて碧山を迎へ取つたのは八月八日であつた。「立敬義は六月より当八日迄いせきに差置候。吉益方講釈毎日出席此頃金匱等も一とまわり済、又傷寒論は凡三度許に相成申候故、先づ当分此方へ呼寄せ置候。右両書等追々吟味会読仕候処、中々よく会領仕居候。今一度宛も参り候はゞ最早大抵よろしく、其上は自分の眼目次第に御坐候。此方にてはやはり三秀院の一と間かり受読書いたし居申候。時々京都へ遣申候。随分両人共達者罷在候。(中略。)立敬殊之外静なる性質、よく辛苦にたへ候人物故、於小生大悦仕、相楽しみ罷在候。」霞亭の京都市中に移つたのが六月であつたことは、此条より推すことが出来る。
四十九
文化辛未(八年)八月十八日の霞亭碧山兄弟の書は次にわたくしに上に見えた梅谷と云ふものの事を教へた。「内宮梅谷生今に上京無之、尤脚気のよし、此義も上るか上らぬかを得と相糺し遣し、もし上られ候はゞもとの通に藪の内三人住居可仕候。無左候はゞ、立敬計に候へば、任有亭にさしかけ二三丈の間をこしらへ候はゞ、朝夕飯等もそこにて出来候故、別而よろしく候。これは随分頼み候へば出来も可仕候。少しの物入に候。材木等はもらはれ申候。いづれ梅谷生の上返事の上之事に候。」是に由つて観れば竹里の家は霞亭碧山の兄弟のみが住んだのではなくて、梅谷某が共に住んだものである。又霞亭が京都市中より帰つて、竹里の家に入らずに任有亭に寓したのは、某が伊勢に帰つて再び来ぬが故である。霞亭は某が来るならば竹里の家に入らうかとさへ云つてゐる。某は内宮のものである。
同じ書は次に田巻と云ふものの事を言つてゐる。「越後田巻彦兵衛一旦常安寺にて僧となり候へども、僧は本望にも無之、やはり還俗修業仕たきよしにて、時々書物もち参り候。此節は三条通の借屋に居申候。此方は遠方にも有之、京都に而佐野か北小路などへ頼遣べき様申候へども、何分私へ随身仕たきよし申候。尤梅谷生など上り候て藪之内又々居住仕候はゞ、夫に同居願ひたきと申候。飯費等の義は用意もいたし候よし、これも未だ得とは引受不申候。常安寺などにてはいかやうに被思居候や。私申候はいづれ国元並常安寺などへ書通得といたし候上世話も可仕と申置候。如何仕べきや御伺申上候。」田巻彦兵衛は越後の人で、鳥羽筧山の常安寺に入つて僧となつてゐた。既にして還俗し、霞亭に従学せむとしてゐる。霞亭は田巻が京都市中に居るを以て、佐野山陰若くは北小路梅荘に紹介しようとしたが、田巻は聴かない。霞亭は越後の親元と常安寺とに問ひ合せた上で授業しようとしてゐるのである。佐野山陰の家は、文化の平安人物志に拠るに、「衣棚竹屋町北」にあつた。上に引いた嵯峨樵歌の詩引に、三日前に霞亭と倶に月を広沢の池に賞したと云ふのは此佐野生であらう、しかし山陰は長者なるを以て、霞亭が「佐野生」と称するは少しく疑ふべきである。北小路梅荘は即ち源玫瑰で、其家は的矢書牘中の京都宿所留に「車屋町丸太町下る面側」と書してある。文化の平安人物志にも亦「車屋町丸太町南」と云つてある。松崎慊堂の慊堂日暦文政乙酉(八年)九月廿二日の条に「北小路大学介、六十以上老儒、質実可語、詩文亦粗可観、檉宇云」と云つてある。林皝の評である、佐野と北小路とは皆姓を自署するを例とした。佐野は「藤原憲」と署し、北小路は「源寵」と署したのである。
同じ書に又友之進と云ふものが俳句の巻を霞亭に託して瓦全をして加点せしめようとした事が見えてゐる。「友之進様御頼之発句の巻物、これは当春八蔵跡より宇仁館へ持参いたし候処、其節は送別筵に而殊之外匆々敷、荷物之処う仁たち出入之人へ飛脚出し、こしらへもらひ候。其内いかゞいたし候哉、かの巻物封と江戸表より参り候大封書状紛失、其後吟味候てもしれ不申候。甚申訳も無之事に候。可然御断可被下候。又々御遣し候はゞ、瓦全方へ遣し可申候。其訳左様乍憚御言伝奉頼候。巻物等御贈候はゞ、何にても産物にても御添可被下候。瓦全にても其外京都などにては、私共扇面其外認もの、詩文の評点いたし候も、それ相応に進物参り候故、何もなく候てはかつこうあしく候。」
五十
霞亭碧山が文化辛未(八年)八月十八日に父に寄せた書には猶伊勢の諸友の消息がある。「山田山口其外よりも此頃追々書状参り候。山口は殊に寄九月上京も有之べきやに候。西村は盆中江戸へ被参居候よし、光明寺行脚に奥州へ被赴候処、江戸に而大病のよし、見舞に被参候よしに候。」山口凹巷九月の京遊は遂に果されなかつたらしい。西村及時は江戸に往つてゐた。及時に病を訪はれた光明寺の僧、名は謙堂、下に見えてゐる。
同じ書に又僧丹崖の対馬より帰つたことが見えてゐる。丹崖は田辺玄玄の瓷印譜の「南山寺務丹崖乗如慧克」である。克は或は充でなからうか。猶考ふべきである。「当十四日対州碩学和尚帰山、夜前小生も招かれ候。色々おもしろき物一見いたし候。」樵歌に霞亭がこれに贈つた詩があつて、小引にかう云つてある。「賀丹崖長老終馬島任帰山。是歳五月韓使来聘竣礼事。長老与韓客唱和詩若干。余得寓観。」丹崖は五月に対馬に往き、八月十四日に帰り、霞亭は十七日にこれを訪うたのである。
其他道悦、主税、半兵衛等不明の人名が同じ書に見えてゐる。「たしから道悦様永々御病気のよし御案じ申上候。先達而書通も仕候。主税義急に八月朔日此方出発仕候。」たしからは志摩の慥柄であらうか。しかし仮名の「ら」文字が不明である。半兵衛は霞亭に託して吸物椀を買はうとした。然るに半兵衛はこれを不廉なりとした。文長きを以て、下に一部分を抄する。「しかし高直に被存候而は甚気の毒に御坐候間、先々十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろしく候。(中略。)それも気に入不申候はゞ、皆々かへし候ても不苦候。只々余り度々永く留置候間、上下駄賃小生方より払遣可申候。」
八月十八日の書牘は此に終る。わたくしは今樵歌中に見えてゐる春日亀蘭洲の事を附記して置きたい。樵歌はこれを十五夜看月の詩と十七日丹崖に贈る詩との間に載せてゐるのである。
春日亀政美、字は子済、蘭洲と号した。其通称は坦斎であつた。平安人物志に拠るに、蘭洲は「四条小橋西」に住んでゐた。
蘭洲は詩を霞亭に贈つた。此詩は的矢書牘中に交つて遺つてゐる。「渉筆元奇筆。那論陳腐編。締交羞我拙。接語憶君賢。雅量徐沈密。博覧楊太玄。守愚唯蝟縮。難到蛟龍淵。」霞亭はこれに和答した。樵歌の載する五律が是である。わたくしは此に詩を略して惟其自註を挙げる。「翁齢七十八。早歳善詩及書。平生所交。多一時聞人。就中淇園先生、六如上人其同庚。今皆下世。」文化辛未(八年)七十八歳だとすると蘭洲の生年は享保十九年でなくてはならない。近世儒林年表を検するに、享保十九年生の儒者中に皆川淇園が載せてある。しかし僧六如の生年は此より三年の後、元文二年であつたらしい。他日を待つて細検すべきである。
九月には霞亭が重陽の日に病んでゐた。「九日有登七老亭之期、臥病不果口占」の五絶が樵歌に見えてゐる。
十九日に霞亭は亡弟に詩を手向けた。寛政十一年(1799)九月十九日に歿した内蔵太郎彦の十三回忌辰である。三秀院の僧月江も亦同じく詩を賦して薦した。並に樵歌に載せてある。
樵歌に拠るに、霞亭が相識る所の僧謙堂が江戸に歿したのも亦九月中の事であるらしい。謙堂は前に引いた書牘の光明寺である。西村及時は特に其病を訪はむがために東行したのであつた。樵歌に載する七律の引はかうである。「謙堂禅師游方在関東。近報其病。訃音忽至。(中略。)聞吾友看松居士与僧侶数輩故東下問疾。至則已遷化。蓋不出両日。幽明一隔不及相見云。」  
 

 

五十一
文化辛未(八年)十月八日に霞亭は任有亭より梅陽軒に移つた。樵歌の詩引に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移梅陽軒、援筆題于壁間」と云つてある。時に藪の内の家は既に他人が徙り住んでゐた。「聞竹裏旧廬人已僦居、予曾不知、戯賦」の七絶が樵歌中にある。山口凹巷は此移徙の事を聞いて詩を賦して寄せた。中に「曾従竹下開三径、更向梅辺借一庵」の聯がある。
的矢書牘中に当時の事を知るに便なる書一通がある。是は十一月二日に霞亭が父適斎に寄せたもので、最初に梅陽軒に移つたことが言つてある。「小子共も任有亭余りせまく御坐候間、先月(十月)八日天龍門前に方丈の隠居有之、夫に引移居住仕候。左様御承知可被下候。(中略。)只今居住の処は梅陽軒と申(処)に御座候。渡月橋の通、聴琴橋と申橋の近辺に候。天龍寺勅使門の前にあたり候。御状はやはり伊せき方へ御遣可被下候。大方の日たより有之候。」梅陽軒は天龍寺の隠居所であつた。
霞亭は同じ書に拠るに、梅陽軒に入つた初に、已に他日京都市中に住むべきことを考慮してゐた。「先書申上候通、菟角私の身分は甚只今の通りに而よろしく候得共、立敬医学修業今一息不便理、と申ても京都いづかたも御頼申候程の処も無之候。山田社中へも此頃及相談候処、先月末宇仁館君大坂の序態々峨山へ被参、また山口其外の口上等も承り候。いづれとも両方よろしき様取計可有之様との事に候。夫故先々小生もいづれ京都に而静かなる座敷体の処見つくろい住居可仕と奉存候。いづれ正月中頃移居可仕候。大体富小路か柳馬場あたり、中京にいたし可申候。尚又御賢慮御指揮奉仰候。」是に由つて観れば霞亭が後に京都市中に移つたのは、少くも半ば弟碧山の講学の便を謀らむがためであつたらしい。宇仁館の梅陽軒を訪うた時、霞亭の贈つた詩が樵歌中にある。「謝清蔚赴浪華、枉路過訪峨山」と題するものが是である。
此頃大冢不騫が亀井南渓を筑前に訪ふ途次に、梅陽軒を訪うた。上の十一月二日の書にかう云つてある。「山田大冢東平、筑前亀井道載先生へ来年一年も従学仕候つもりのよしに而、此間うがた尾間慶蔵同道に而被見、私方にも両夜止宿、最早此節大阪へ発足被致候。源作亀井の縁者に候故の事に候。尤亀井位の人も京都には無之候。一段壮遊と奉存候。京都も此頃は清田謙蔵、中野三良、小栗文之進など申儒生皆々死去、ますます人物もすくなく相成候やうすに御坐候。」大塚不騫の東平と称したことが此に由つて知られる。尾間慶蔵は志摩の鵜方のものであつた。樵歌には単に「尾間生」とのみ記してある。樵歌の詩は七律で、「冢不騫偕尾間生将游学筑紫、過訪峨山、賦餞、兼寄南冥先生」と題してある。
霞亭は亀井の事を父に報ずるに当つて、京洛諸儒の凋落に説き及んだ。清田元基は本播磨の人で伊藤氏を嗣ぎ、縉、綬、絢の三子をまうけた。縉が伊藤錦里、綬が江村北海、絢が清田儋叟、綬の子にして絢の家を嗣いだものが龍川勲である。勲が文化五年に歿した。謙蔵とは或は勲であらうか。勲の通称は大太郎として伝へられてゐる。或は後に謙蔵と改めたか。中野煥、字は季文、龍田と号した。文化辛未(八年)四月に歿した。三郎とは或は煥であらうか。小栗文之進は未詳である。文化中に歿した十洲光胤は画家である。文之進は恐くは別人であらう。
同じ書は早く樵歌の事を言つてゐる。「来春は嵯峨樵歌と申拙詩集板行に出候。此節追々とりあつめ仕候。しかし出来あがり候迄は御噂被下まじく奉願候。」
五十二
文化辛未(八年)の冬には此より後多く記すべき事が無かつた。樵歌に拠れば、山口凹巷は新に書斎を造つた。宇仁館雨航は大坂より伊勢に帰つた。凹巷の書斎の事は「聞凹巷処士近開小吟窩、日坐其中」と云つてある。本凹巷とは山田上の久保に住んだ故に号したと、墓誌に見えてゐる。書斎も必ずや同じ所に築かれたことであらう。雨航は前に伊勢より梅陽軒を過訪して大坂に往き、今又伊勢に帰つたのである。樵歌に「立春後一日送清蔚還郷」の詩がある。
又的矢書牘中、下に引くべき書に拠るに、霞亭は歳晩に薄つて弟碧山を京都の伊勢喜より梅陽軒に迎へ取つた。
霞亭は辛未(八年)の歳を梅陽軒に送つた。「迎春身計知何事。先為探梅買緑蓑。」是年霞亭は三十二歳であつた。
文化九年(1812)は霞亭が歳を梅陽軒に迎へた。「大堰川頭斂暁霏、小倉山外捧春輝」の句がある。
正月十一日に霞亭は書を父適斎に寄せた。書には京都市中に移り住む計画が載せてある。「旧冬はけしからぬ寒気に御坐候。春に相成候而は少々ゆるまり候様覚え候。御地等は如何に哉。将又御宅よりの書状此方へ一向相届不申、朝夕掛慮仕候。八月初旬御書簡在しより以来絶而相達し不申、もし途中浮沈等は不仕候哉。兼而十月頃御書簡被下候様相待居候に、当月迄も相達し不申、もしや御故障にても無之哉と両人申いで居候。私義も旧冬より寒気あたりの気味、四五十日も出京仕かね候。夫故万事失礼仕候。去年申上候通、今年は又々京都へ出張可仕奉存候。静かなる処京都へ聞合せ置候。いづれすこし暖気に相成候はゞ、早々取計可申奉存候。当月末、来月上旬中には相定まり可申候。立敬も旧冬より此方へ罷越居候。当十二日師家会始のよしにて出席いたし候。先に立敬京都へ遣し置可申候。此辺も嵐山花さき候へば、殊之外騒々敷、何卒其前方に移居可仕奉存候。」碧山立敬の前年の暮に梅陽軒に移つたことは此に見えてゐる。
書は又凹巷と梅谷某との事を言つてゐる。「来月中旬には山口氏此方に御上京之よし相聞え候。梅谷御子息も当月末歟来月上旬には発足のよし申来候。」
霞亭は正月十一日に此書を父に寄せた後僅に一日にして、急に的矢に帰省することを思ひ立つた。事は十二日に重て父に寄せた書に見えてゐる。「小生も当年は京都へ罷出門戸丈張見可申奉存(此下に「候得共」の三字あれども文脈下に接せざる如きを以て省く)此頃段々相謀申候。然る処去々月より御宅より御書状一向到来不仕候故、不安心に奉存候。霜月末も差出候処、今以御消息相しれ不申候故、右万端御相談も申上たく、且又御伺申上たく候而、京都へ移居いたし可申前に立かへりに一寸御宅へ参上可仕存立候。尤山田山口氏へも内々御相談に及び候儀も有之、旁参上仕候得共、此度は誠に立帰りの義に候て、且は立敬一人跡へのこし置候故不安心にも有之、御宅一両日滞留、山田一宿、これもどれへも噂不仕様にいたし候。山口氏、西村氏、東君、是は山口に而御目にかゝり候のみにいたし、外へはすこしもしれ不申候様いたし可申候。無左候ては義理あしく候。御宅へも夜にいり、参り可申候間、何卒其前方に左様御心得可被下候。外御親類とても御噂被下間敷、又々其内表むきに而参り候節、諸方へも逢可申候。色々物事労煩に相成候而、又々よろしからざる事も有之候故に候。右一寸前方御しらせ可申為、如斯御坐候。此表廿六七日の中に発足いたし候。(中略。)何卒暫時御座敷に罷居申たく奉存候。一両日の事故、無拠人にのみ逢可申候。」此書は奇怪なる書である。前書を発した後僅に一日にして帰省を思ひ立つたのが既に怪むべく、其文脈も亦例に似ず、しどろもどろなるが愈怪むべきである。啻に然るのみではない。霞亭は又十数日の後此帰省を思ひ止まつたのである。
五十三
霞亭は文化壬申(九年)正月十一日に書を父適斎に寄せて、嵯峨の梅陽軒より京都市中に移るべきを告げ、十二日に又書を寄せて市中に移るに先だつて的矢に帰省すべきを報じた。既にして二十六日に至り、霞亭は書を門生梅谷某の父に与へ、これに託して的矢に帰寧せざることを言はしめた。
「当月廿二日山田迄急飛脚書状差出し、且郷里への書状等貴館迄差出し候。相達候哉。其書中山田並に郷里へも少々用事有之、立かへり(に)参り可申、申上候処、此節宇仁館氏浪華へ被罷出候処、態々西峨へ山田社友より使者に被相立候而御出被下、かね而申上候通、先に居宅京都に而かり受可申、去冬より心かけ候処、左まで思わしき事も無之、幸柳馬場蛸薬師下る処にかつこうなる家有之、家賃等二分余もかかり候而すこし高価にも被存候へども、甚静かなる家居故、先にかり受申候。来三日移居いたし候積りにて急に相計申候。尤小生嵯峨本意之事故、やはり任有亭の(「の」は「を」の誤か)本居といたし置、京都は立敬並に御子息、外に山田より一人、当地に而一人、以上四人の居住と相定め、小生折ふしは嵯峨へも参り可申、畢竟京都は旅宿と相定め可申候。其方万事、事すくなく候而よろしく候故、右相計可申候。左様思召可被下候。然る処此間一寸立かへり(に)参り可申、郷里へ申遣候間、是は先々当分相やめ可申候間、かの書状的屋へ未御出し不被下候はゞ、其儘御返却奉希候。もし未御遣し不被下候はゞ、何卒此書状御一覧之上此儘的屋へ御遣し被下候様被仰遣可被下候。別段書状相認可申候処、明朝発足の人急帰故不得其意候。いづれ跡より委曲可申遣候間、くるかとぞんじ候て相待候も心がかりに候間、右之段被仰聞可被下候。くれにかゝり書状相認、甚乱書御免可被下候。いづれくわしくは奉期後便候。乍去先に京都卜居いたし候義今暫御触被下間じく御内々奉頼候。匆々以上。尚々郷里へは此書状直に御封じ被下御遣可被下候。跡より別書くわしく差出可申候。」宛名は「梅谷上羽様文案」と記してある。「羽」字は不明ながら姑く形似を以て写し出すこととする。
わたくしは先づこれを読んで霞亭の帰郷を罷めたのを怪んだ。遽に思ひ立つた帰郷の何故に罷められたかを怪んだ。しかし前に帰郷を報じた書は、此文に拠れば十二日にあらずして二十二日に発せられたるが如くである。わたくしは前書を誤読せしかと疑つて再検した。原字はすなほに読めば明に「十」である。「廿」の艸体として視むことは頗難い。或は猶著意して強ひて此の如くに視るべきであらうか。わたくしは第く疑を存して置く。
それはとまれかくまれ、霞亭が初に入市を言ひ、中ごろ入市に先だつて帰郷すべきを言ひ、最後に帰郷せずして入市すべきを言つたことは明白である。そしてわたくしは今その逓次に意を齢した一々の動機を知ることを得ない。的矢書牘中壬申(九年)正月の三書は到底奇怪の書たることを免れない。
わたくしは尚此に書中に見えた入市の期を一顧して置きたい。霞亭は二月三日を期して京都市中に移らうとしてゐたのである。
五十四
霞亭が文化壬申(九年)二月を期して京都市中に移らうとしたことは上に云つた。即ち嵯峨生活の第三期に入らうとしてゐるのである。しかし果して期の如く移つたか否かは未詳である。
嵯峨樵歌の巻末に歳寒堂の事が言つてある。「今茲壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄客。山縁水契固不浅。将辞也。猶爾瞻恋故山不忍去。乃欲移松梅竹。吟榻相対。游焉息焉。聊慰其情。三種皆名于地産也。三秀宣上人聞而嘉之。特贈亀山松堰汀梅峨野竹。各附一絶。適院屏有売茶翁松梅竹三字。併見恵寄。(中略。)昔元張伯淳呼松梅竹為三友。明人又有歳寒之称。予既栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。遂命曰歳寒堂。」
仮に霞亭が二月に市中に入つたとすると、わたくしは其市中の家を知らぬが、此の不知の家は歳寒堂ではなささうである。
的矢書牘中に四月廿四日に霞亭が父に寄せた書があつて、それが京都木屋町三条上る処の家に移る前日に裁せられたものである。木屋町の家は帰省詩嚢に所謂錯薪里の家である。霞亭は弟碧山と此書に連署してゐる。そして惜むらくは書の中間幾行かが断れて亡はれてゐる。
「幸木屋町三条上る処相応の家有之、是は表にてもしづかなる処にて格好もよろしく、尤家賃は一月四十四匁宛、一年七両内外に御坐候而、只今の処より高価に候故、太儀に被存候得共、直様世話なしにはいられ候故、先々それに決し候、明廿五日転居仕候。此段左様思召可被下候。木屋町は御案内の通東よりにてすこし町とは違ひ候故如何とも存候へども、諸方の通行には甚勝手よろしく候。三条上ると申ても、先々二条三条の間にて、町にては御地あたりにあたり、高瀬川と鴨川の間に有之候に御坐候。家主は大坂鴻の池の持に候。座敷六丈敷、台所五丈半板敷、次の間四丈半、玄関三丈じき、以上四間に御座候。ながしも内井戸、甚よろしくひろく候。座敷庭もすこし有之候。」
所謂「只今の処」は、事情より推しても語脈より推しても、梅陽軒ではなささうである。霞亭は恐くは二月に市中に入つて、所謂只今の処に住み、更に木屋町に移らうとしてゐるのであらう。
此書に云ふ移転は期の如くにせられたことが明かである。それは後の書牘に由つて証せられてゐる。そしてわたくしは此木屋町の家を以て歳寒堂だとする。霞亭に松梅竹を贈つた三秀院の僧月江は、嵯峨樵歌の後に書して「賢父母在堂、君因其命、今教授於京師」と云つてゐる。此跋は七月に草したもので、文中の教授の所は歳寒堂であるらしく、当時の霞亭の家は木屋町にあつたのである。
霞亭は正月の書に、嵯峨を本居として市中の家に往来しようと云つてゐた。其家は歳寒堂でなく、後木屋町に移るに及んで、嵯峨の家を撤したことであらう。松梅竹は嵯峨の家を撤した後に、木屋町の家に芸ゑられたことであらう。
木屋町に移る前日に作られた此書には猶二三の記すべき事がある。それは次の如くである。
五十五
文化壬申(九年)四月二十四日に霞亭碧山兄弟が父適斎に寄せた書は、独り次日に移り住むべき京都市中の新居を報じてゐるのみでなく、又こんな事を載せてゐる。
其一は河崎敬軒が当時京都に淹留してゐたことである。「裏松殿御薨去に付、河崎良佐君此節御入京、大方当月中は滞留被致候。山田のやうすくわしく承り候。右之御供など参り居、明日転宅はこびもの等人やとひなしに出来悦申候。」敬軒の淹京は裏松前中納言謙光の喪のためであつた。霞亭は次日木屋町に移らむがために物を搬送せしめ、敬軒の従者等がこれを手伝つた。
其二は梅谷某の手より本屋勘兵衛と云ふものに由つて霞亭に送致した物が濡滞したことである。原文は省く。本屋は飛脚屋である。
霞亭の木屋町に移ることは、期の如くに行はれたに違なからう。前日に什具等が舁送せられたことも亦これが証に充つべきである。
四月には猶菅茶山が霞亭の嵯峨樵歌に序した。茶山は霞亭の詩を以て「力写実境、而不逐時尚」となし、望を前途に属したのである。末に「文化壬申孟夏、備後菅晋帥撰」と署してある。霞亭が菅氏の通家を識れる某に托して閲を茶山に請ひ、茶山が僧道光に由つて此序を霞亭に致したことは後に記すであらう。
五月二十三日に霞亭は書を父に寄せた。此書には弟碧山は名を署してゐない。亦的矢書牘の一である。
わたくしは先づ木屋町新居に関する事どもを其中より抄出しようとおもふ。「先月末頃山田尼辻たばこや弥兵衛殿迄書状一通御頼申候。定而相達し可申奉存候。其節申上候通、四月末より木屋町三条上る二丁目に居住仕候。」烟草屋弥兵衛に託せられた書は即上の四月廿四日の書である。移居の事は既に果されてゐる。「木屋町三条上る」の下に今「二丁目」の三字が添へ出された。柬牘に何丁目何番地なることを報ずるは、今も多く移前に於てせられずして移後に於てせられる。「下地よりはひろく候故、涼敷候而よろしく候。」下地よりは方言で、前よりと云ふと同じである。
次に通信の中継の事を抄する。「此後書状便荷物等は山田妙見町相可屋善右衛門殿方迄さし出し置申候間、其御地八百屋にても又は御家来にても御立寄らせ可被下候。是は小生方へ参り被居候門生弥六宅に御坐候間、万事序有之候。相可屋は野間因播のむかひに候。」相可に「あふか」と傍訓してある。門生永井氏相可屋弥六の名が偶此に録せられた。
偶一門生の名が出でたから、わたくしは他の門生の事を次に抄する。「高階主計之允殿御子息もひるの聞塾中に参り読書等いたし候。浅井周助子は此節無拠暫く帰郷いたされ候。」主計之允は文化の平安人物志に拠れば、名は経宣、字は子順、枳園と号し、家は「両替町御池北」にあつた。高階経本さんに質すに、経宣は青蓮院の坊官鳥居小路経元の子で、始て高階氏と称し、医を業とした。家譜には字が子春に作つてある。一に東逸とも称した。経本さんの曾祖父である。浅井周助は後の書信に徴するに、伊勢山田の人である。十助毅との同異は猶考ふべきである。
此書の中抄すべきものは未だ竭きない。尚下に続抄するであらう。  
 

 

五十六
文化壬申(九年)五月二十三日に霞亭が父適斎に寄せた書には次に弟碧山の近状が載せてある。「立敬も吉益へ毎朝かよひ候。夜分は小生友人百百内蔵太子方へ先々月入門いたさせ、医書会読に遣し申候。時々療治代診等にもつれられ候。随分堅固に相務居申候。」百々内蔵太、名は俊徳、字は克明、漢陰と号した。文化の平安人物志に拠るに、「西洞院竹屋町北」に住んでゐた。碧山は昼吉益南涯の講筵に列り、夜漢陰の許に往つて教を受けてゐた。その漢陰に従遊してゐたのは三月以後の事である。
次に書中に見えてゐるのは碧山の直次の弟良助の事である。「良助儀河崎良佐君へ先達而御相談申候処、先々此方へ被遣置可被成候、随分と御世話申候而、素読等いたさせ可申、山口東などへも始終往来、彼家御子息と一しよに読書詩作等いたさせ申候而可然などゝ、御心切に被申聞候。如何思召候哉、御相談申上候。乍去いづれ小生も七月中には御見舞旁々帰国可仕候間、くわしく其節御面上御相談可申上候。尚又御思慮も候はゞ被仰聞可被下候。」河崎敬軒は良助を伊勢山田の家に迎へ取つて、山口凹巷、東夢亭の家に往来せしめ、子弟と同じく教へようと云つてゐたのである。
次に嵯峨樵歌の事が書に見えてゐる。「嵯峨樵歌も此節専ら板木にかかり居申候。六月中には出来上り可申候。」霞亭は刻成を六月に期してゐた。
次は霞亭が父に双林寺物語を贈つた事である。「蝶夢和尚双林寺物語、近頃上木に相成申候。甚おもしろき物にて評判ものに候。一部進上仕候。御慰に御覧可被下候。」蝶夢は又幻阿、泊庵、五升庵とも称し、寺町今出川北阿弥陀寺の子院に住してゐた。人名辞書に俳林小伝を引いて「寛政四年十二月廿四日歿す、年六十四」と云つてある。平安名家墓所一覧には「寛政八年」に作つてあつて、月日と年齢とは同じである。墓は阿弥陀寺にあるさうである。双林寺物語は国書解題に見えない。歿後二十年若くは十六年にして刊行せられたものと見える。按ずるに霞亭の友柏原瓦全が五升庵と称するは蝶夢の庵号を襲いだもので、双林寺物語は瓦全の挍を経たことであらう。
最後に伊勢の梅谷氏より来るべくして来らなかつた物件の始末が書中に見えてゐる。物件は金二両と渋紙包一つとで、適斎が梅谷氏に託して送つたものであつたらしい。然るに梅谷氏はこれを本業の飛脚屋に交付せずして、所謂町飛脚に交付し、金品は町飛脚の所に濡滞してゐた。霞亭は河崎敬軒をして増川本屋の両飛脚屋を捜索せしめ、両飛脚屋は町飛脚を糾問し、金品を発見した。そして五月十七日に金品が京都の伊勢喜に達した。「乍去梅谷氏へはやはり何がなしに落手いたし候やうに可申遣候。無左候而は彼家の無世話に相なり風評も不可然候間、先々此方へ落手いたし候へば子細無之事に候間、ちよつとも左様の御噂被遊被下間敷候。」わたくしは当時逓伝の実況を徴知すべきと、霞亭が寛弘の量を見るべきとのために、煩を厭はずしてこれを抄した。
六月十四日に霞亭が父に寄せた書は、恐くは直に前書に接するものであらう。「伯耆大山の香茸少々、土佐の畔鳥二羽、仙台のほや二、長崎野母崎のからすみ一つ」に添へた書である。大山は所謂伯耆富士である。畔鳥は何鳥なるを知らない。石勃卒、鮞脯は註することを須ゐない。書は的矢書牘の一で、その言ふ所は下に抄するが如くである。
五十七
霞亭が父適斎に寄せた文化壬申(九年)六月十四日の書には先づ祇園祭の事が言つてある。「当地此節は祇園祭に而騒々敷罷過候。」日次紀事に拠るに、十四日は朝卯刻より山渡があり、昼午刻許より神輿が出るのである。山は即山車、江戸に謂ふ「だし」である。
次に弟良助を託すべき家の事が言つてある。「良助義河崎か宇仁館の方へ遣し可申やう先達而被申越候。此度も申来候。別段御状懸御目候。いづれ其方可然奉存候。御両所様御相談被遊置可被下候。いづれ私義盆後御見舞旁一寸参上仕度奉存候。其節万事可得尊意候。しかし拙者一寸帰省いたし候事は先々他人へは御噂被下間敷候。」
次に門人浅井周助が帰塾した。「浅井周助先月むかひ参り、一寸帰郷いたし、二三日前帰京仕候。山田内宮辺噂承知仕候。」
次に山口凹巷が男子を挙げた。「山口君又々当月男子出生有之候よし承知仕候。」凹巷の子は墓誌に拠るに、嫡出が観平、群平の二人、庶出が興平、梅児の二人で、梅児は夭したさうである。月瀬梅花帖にも、「男観、男群、男興」の三人が署名してゐる。壬申(九年)に生れたのは何れの子歟。「又々」と云ふより見れば、その観平にあらざることは明である。恐くは群平であらう歟。以上記し畢つてわたくしは観平の文化丙子(十三年)七歳であつた証を得た。然れば此歳壬申には観平三歳で、新に生れた子は群平なること疑を容れない。
次に菅茶山撰嵯峨樵歌の序が到著した。「嵯峨樵歌も近々出来上り申候。大方来月(七月)初旬迄には仕立候積りに御座候。此節雲州の道光上人御上京兼而頼遣置候備後福山神辺の老儒菅太仲先生の序文出来参り申候。御聞及も有之候哉、この太仲と被申候人は那波魯堂先生(原註、播州の人、宝暦の頃の大儒、京住)門人に而当時は三都にも肩をならべ候人なき程の詩人にて候。尤甚名高き人に御坐候。樵歌序文甚おもしろく出来参り辱奉存候。右の道光上人と申は法華の高徳に而、詩も余程出来候人に候。これも菅太仲など懇意の人に候。世間に而甚人の信用いたし候僧に御坐候。」僧日謙が霞亭のために樵歌の序を霞亭に致したことは此に由つて知られる。日謙、俗姓は日野氏、大坂の人であるが、出雲平田の報恩寺の住職であつたので、「雲州の道光上人」と云はれてゐる。
次に紅葉詩藁が刊行せられたので父に報じた。「山口君御計に而青山文亮、大冢東平、孫福内蔵介、立敬など林崎に罷在候節、紅葉詩藁、外之少年のはげみにもと被存一冊小さき詩集此節板刻きれゐに出来申候。漸々此度一冊参り候。追而入御覧可申候。いづれ若き人の懈怠の出来不申候やうとの思召、辱義と奉存候。一寸御風聴申上候。」東夢亭の通称文亮なることが始て此に見えてゐる。山田橋村氏の報に拠るに、夢亭は本青山泰亮の子である。東恒軒の歿した時、山口凹巷は門人青山文亮を以て己が猶子たらしめ、これをして恒軒の家を嗣がしめた。夢亭の旧宅は山田に儼存し、其裔は大正五年法学士となり、現に神戸市鈴木商店主管の一人となつてゐると云ふ。紅葉詩藁は碧山の詩を載せてゐるので、霞亭は父に報じて喜ばせようとした。しかし父の或は名を求むるに急なるを責めむことを恐れたものと見え、霞亭は反覆して此刻の奨励のためなることを説いてゐる。
次に霞亭は室町辺住某の柬を雑賀屋へ介致した。雑賀屋は嘗て大燈書幅の装潢を京匠に託したことのある志摩の商賈である。原文は略する。
五十八
文化壬申(九年)秋の間は霞亭の消息の徴すべきものが甚乏い。しかし霞亭は秋より初冬上旬に至る間に家を移した。木屋町より鍋屋町に徙つたのである。事は下に引くべき書牘に見えてゐる。又嵯峨樵歌は秋の初に刻成せられた。刻本の末に「文化壬申年七月、京都書林梶川七郎兵衛」と記してある。樵歌には曾て云つた如く、僧月江の跋があるが、是は刻成の期に迫つて草せられたものと見え、「文化壬申秋七月、嵯峨釈承宣撰」と署してある。
十月十日に至つて霞亭の父適斎に寄せた書がある。亦的矢書牘の一である。
此書中先づわたくしの目を惹いたのは移居の事である。「先日伊勢喜便に書上呈上仕候。相達候哉。其節申上候通、此節は鍋屋町(京都河原町三条上る鍋屋町南側中程)に罷在候。至極物静かに候而、別而住居安穏に候。別段に三丈の居間有之候故、終日其中に間坐読書仕候。何卒此冬も得といたし候成功有之たく願望仕候。」
霞亭は自ら三冬読書の計を定めて、さて都下の学風を一顧した。「只今京都の儒生一統軽薄風流、さもなきは見せかけを重んじ候人計、甚悲しむべき可恥事と被存候。」
嵯峨樵歌刻費の事が此書にある。「山田社中並に宇治佐藤守屋有志中一般より金三両嵯峨樵歌の祝賀に被下候。移居費用並に樵歌刻料それに而相済申候。全体関東に金主御座候積りに申置候処、其人申分すこし小生心に叶不申候故相断遣し、其後無何沙汰候。夫故右刻料仕立等四百目許小生物入に相成居申候処半分のこり有之候処、右に而相済安心仕候。未越後其外関東辺へは便無之下し不申候。夫々相遣し候はゞ後々相応に取分可有之候。」守屋氏は未だ考へない。
樵歌は公卿の読むことを求めたものがあつた。「此間日野殿より御所望有之一部遣申候。百々取次に而小生詩歌関白家へ上り候よし承り候。実は何も役に立たざる義に候へども、又しる人はしる事も可有之候。自愛仕候事に候。もとより詩文は小生の本志には無之、これは只慰仕業と存候。右等内情申上候得共、一切外人へ御噂被仰下間敷候。」日野は参議資愛である。関白は鷹司政熙(原文は二水が付く)である。樵歌を鷹司家に呈したのは百々漢陰であつた。霞亭が詩文は本領にあらずと云ふ意は、経術を以て自ら任じたのである。樵歌の巻末にも「天放子聖学管窺二巻」の預告が出してある。
碧山は旧に依つて兄霞亭の監督の下に勉学してゐた。「立敬も此節は甚出精いたし候。当年限に被遊候哉、又は来年半年も御差置被遊候哉、御回音之節被仰聞可被下候。来春よりは眼科外科等も一通心懸いたし候様入門為致可申や、此段も奉伺候。費用の義は当暮より来七月帰郷可仕候まで、もはや四両ばかりも御遣し被下候はゞ、夫にて一切相済可申候。いづれ此義は母様御相談之上得と被仰聞可被下奉願候。」
霞亭の此書には猶高階枳園の父、僧丹崖、柏原瓦全の事が見えてゐる。又小沢蘆庵が家集の事も書中に出でてゐる。わたくしは下にこれを抄せようとおもふ。
五十九
文化壬申(九年)十月十日に霞亭の父適斎に寄せた書には洛医高階枳園の家の消息が見えてゐる。「高階老人も夏以来病気とくと無之、木屋町に而は介抱行届かね候よしに而、先日本宅へ被帰申候。此頃は少々快き方の由、当主計允右老人の七十賀いたし候とて、富豪の事故、結構なる座敷など追々造作有之候。今二午の事に候。乍去無覚束候。」枳園の父経元、字は士春は壬申十一月六日に歿したさうである。即ち此書の作られた後二十六日の事である。家伝には享年六十三歳と云つてある。しかし此書に従へば六十八歳でなくてはならない。猶考ふべきである。
次に僧丹崖の事がある。「寿寧丹崖長老も当春天龍寺方丈に被命候処、これも八月中遷化、しかたも無之物に候。」
次に柏原瓦全の事が見えてゐる。「此六日(十月六日)通天の楓見にむりむりとさそわれ参り申候。酒などのみ候中、瓦全子の前歯落候を何歟といひはやし候内、ふと小生詩をつくり候。六十八年汝共齢。万千吟酌飽曾経。可憐辞謝得其処。巧学秋林一葉零。と申候へば翁甚悦申候而、其歯をすぐに東福寺の紅葉の下に埋むとて翁も発句有之候。霜の紅葉老がおちばもけふこゝに。とやられ申候。元来瓦全前方の句に。鹿鳴てながめられけり夜の山。と申句一生の秀逸とて甚評判高く、世上にて夜の山の瓦全と呼候位の事のよし。学問は無之候得共、常の俳譜師と相違、甚物がたく正しき男に候。先日も寺町妙満寺へ仏参いたし候処、さいふを拾ひ候てこれを其儘かき付いたし候て、当人に渡したきとて甚わび候。今に其人尋来り不申候由。其節も小生よばれ参り居合、席上詩をつくり候。拾金帰主不為恩。此事於翁何足言。好是柏家無価宝。素行清白付児孫。柏家はかの人柏原氏に候故に候。」以て瓦全の小伝に充つべきである。河崎誠宇の受業録に霞亭の「瓦全真影讃」がある。「厖眉雪白聳吟肩。箇是夜山柏瓦全。三句社中遺一老。洛陽風月托清権。」平安人物志に拠るに、瓦全、名は員仍、字は子由、橘姓である。
最後に小沢蘆庵家集の事を抄する。「小沢蘆庵の歌集黙軒萍流などの世話に而六冊出来申候。歌は近来の上手に候。先日借覧いたし候。その中に岡崎の庵にありし頃ある人の銭三文かしくれとてこひけるに、くまもなくもとめ侍りけれど露あらざりけるけしきをみて、外にてもかりてんとて出ぬ、いとほいなければと詞書ありて。津の国の難波のみつのあしをなみこと浦かけてからせつるかな。甚おもしろく巧なる手段に候。三津は難波の地名、三文にかけ、あしは蘆にて銭のあしにかけ、なみは波に而無といふにかけ、こと浦は外の所へゆきし也、からせは苅を借の義にかけ候ものと相見え申候。」黙軒は前波氏、萍流は小川布淑である。
蘆庵の歌集六冊は近代名家著述目録の「六帖詠藻六」である。古学小伝には「六帖詠草七巻」と云つてある。わたくしは其書を蔵せぬ故、竹柏園主に乞うて其蔵本を検してもらつた。刻本の題簽は「六帖詠草」に作つてある。本古今六帖にならつて六巻としたものであるが、雑を上下に分つたため、七冊となつてゐる。末に「文化八辛未歳晩春、二条通富小路東へ入町、京師書林吉田四郎右衛門梓行」と云つてある。蘆庵の歿年享和元年より算して十年の後纔に刻せられたのである。諸書の載する所に別に「蘆庵集」があるが巻数を記さない。独り国書解題は「写本十五巻、春一二三四五、夏上中下、秋一二三四五、冬上下」と記してゐる。猶考ふべきである。
的矢の漁の事は霞亭の書牘に数見えてゐるが、此書にはかう云つてある。「今年は鰶魚よくとれ候哉。あじなどの時節を憶ひ出し候。乍去必々御労煩、飛脚賃費かかり候間、御上せは御無用に奉存候。」蒪鱸の情懐想ふべきである。又霞亭は此書と共に富士海苔を故郷に送つた。「富士海苔少々もらひ候まま懸御目候。此方にても甚すくなく、売買には無之候。いづれ御吸物に被遊可然候。香気よろしく候。」
十月十五日に霞亭は書を茶山に寄せた。書は漢文で、末に「十月之望、晩生北条譲頓首百拝、奉茶山菅先生文壇下」と云つてある。茶山の嵯峨樵歌に序したのを謝したものである。霞亭が庚午(七年)の歳に備後に往つたとしても、その茶山を見なかつたことは此に徴して知るべきである。此書は今高橋氏の蔵する所で、他日浜野氏が歳寒堂遺稿を刊するに至らば、そのこれを補入すべきは疑を容れない。
六十
文化壬申(九年)の歳暮に霞亭は小旅行をなしたらしい。的矢書牘中に「十二月六日、譲四郎、浅井周助様、永井弥六、北条立敬様各位」と署した一通がある。弟碧山と浅井永井の二生とに留守せしめて霞亭が家を出でたとすると、其家は鍋屋町の私塾にして其歳暮は壬申の歳ならざることを得ない。「飛脚便一筆啓上仕候。愈御安佳珍重に候。然者昨日乗興候而石山小楼一宿仕候。然る処道人相送申度義有之、夫に故郷に少々相含み候用事も有之候故、直様同道南帰仕候。尤立帰りに候間、中旬頃迄に帰京可仕候。其内十三日旧津に而河敬軒東行餞送仕候やと奉存候。左候へば十六日には入京可仕候。此度は外人被尋候はゞ道人送行いたし、一寸故郷へ帰省いたし候と被申候而よろしく、暫時留主中折角御看護頼入候。永井子別而病後御互に御いたわり候様奉存候。留主中読書作詩不怠候やう第一御用心可被成候。几上に宇仁館へ遣し候書状、賃銭相添大阪飛脚へ御出し可被下候。玄安翁より御左右有之候はゞ急々飛脚被仰可被下候。書外拝顔可申上候。今晩石部宿に候。草津駅亭に而相認候。匆々頓首。」若し霞亭にして此旅程を改めなかつたとすると、其日次は凡下の如くであらう。
霞亭は十二月五日石山に、六日草津にゐて、其夜石部に舎らうとしてゐた。十三日に河崎敬軒と津に相会し、十六日に京都に還る筈であつた。又其間に一旦帰省しようとしてゐた。霞亭の弟、其二門生よりして外、書は宇仁館、玄安の事をも載せてゐる。宇仁館雨航は猶大阪にゐた。
是年霞亭は三十三歳であつた。
文化十年(1813)は霞亭が年を鍋屋町に迎へた。歳寒堂遺稿に「金咼巷僑居元日」の七絶がある。「朝市山林事自分。茅堂晏起看春雲。庭中手掃前宵雪。先賀平安向竹君。」是は木屋町より再び移し栽ゑた「峨野竹」ではなからうか。此年は霞亭が備後に遊ぶべき年である。山陽は単に「歳癸酉遊備後」と書してゐる。此一年間の霞亭の事蹟はわたくしをして頗筆を著くるに苦ましめる。それは的矢書牘に明確に癸酉に作られたと認むべき霞亭の柬牘が極て少い故である。
わたくしは霞亭の菅茶山を黄葉夕陽村舎に訪うた月日を知らない。唯福山諸友の手より得た行状一本に「文化十年三月菅茶山先生を訪ふ」の文を見るのみである。果して然らば往訪の月は三月であつたか。
是より先霞亭は庚午(七年)の歳に伊勢より江戸に往くに当つて、備後を過つたかとおもはれる。しかし菅氏をば訪はなかつた。次で壬申(九年)の歳に霞亭は人を介して、嵯峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得た。霞亭の茶山を見むことを欲したことは既に久しかつたであらう。そして此望が癸酉(十年)に遂げられたことは明である。その癸酉三月なりしや否は稍疑はしい。
癸酉の歳に霞亭は備後に往くに先つて、一たび故郷に帰り、尋で又吉野に遊んだらしい。高橋洗蔵さんの所蔵僧承芸の詩幅に「奉送霞亭先生還郷」の五古がある。「任有亭」「白梅陽」の二寓を叙した末にかう云つてゐる。「近来在城市。城市声名揚。纔未経一歳。又将帰故郷。二月漸催暖。別離慳抱傷。従今無人問。空掩竹間房。行矣天放子。春風道路長。」承芸は月江承宣の徒弟である、所謂城市の居は木屋町、鍋屋町の家であらう。霞亭は二月に京都を去つて的矢に帰らうとしたのである。次にわたくしは嘗て山口凹巷の芳野游藁に拠つて霞亭の吉野の遊を叙したことがある。今記憶を新にせむがために、其月日を此に抄出する。
二月二十日に霞亭は関宿に往つて凹巷の至るを俟つた。
二十四日に凹巷は河崎敬軒、佐藤子文と共に来り会し、次で山内子亨が至つた。山内の氏と字とは三村氏蔵夢亭詩抄に拠つて改めた。
三月三日に一行は吉野に至つた。
七日に霞亭は六田を発し、伊勢の諸友と別れて京都に還つた。
以上が芳野游稿の日程である。若し霞亭が三月中に備後に往つて茶山を見たとすると、是は必ず六日より後の事でなくてはならない。霞亭は吉野より京都鍋屋町の居に帰つて、未だ幾ならぬに備後へ立つたことであらう。  
 

 

六十一
霞亭は文化癸酉(十年)に初て菅茶山を見た。それが癸酉三月であつたと行状の一本に云つてある。しかしわたくしはその拠る所を知らない。
霞亭が初て茶山を見た時の事は伝へられてゐない。惟行状の彼一本にかう云つてある。「文化十年先生西遊せむと欲し、神辺に至る。七日市北側今の油屋前原熊太郎の屋に当る大なる旅館あり。この旅館に投宿す。廉塾の諸生来り、経史詩書中の難義を質問し、先生を辱めむとす。先生答弁明確、循々然として説明す。諸生赤面して帰り、茶山先生に告ぐ。先生曰く。これ予て待つ所の人なり。豈汝輩の類ならむや。直に往て先生を伴ひ帰りしと云ふ。」
若し此説を是なりとすると、霞亭は「西遊せむと欲し、神辺に至」つたのだと云ふ。西遊とは何処をさして往かうとしたもの歟、考ふることが出来ない。下に引く蘆舟の記には、茶山を訪ふ詩の前に「三月夜、舟発浪華、至兵庫」の詩がある。わたくしは此に拠つて霞亭が三月某日大阪兵庫を経て西したことを推知するのみである。
霞亭が神辺に来て七日市に投宿したのは事実であらう。その宿つた所の家の故址が口碑に存じてゐて、此状に上つたことを、わたくしは喜ぶ。
しかしわたくしの忖度する所に従へば、霞亭は神辺に来て直に茶山を訪うた筈である。何故と云ふに、霞亭は人を介して嵯峨樵歌の序を茶山に請ひ、これを得て深く茶山を徳とした。今神辺に来た上は、縦ひ先づ行李を七日市の客舎に卸したのは已むことを得ぬとしても、又廉塾の諸生が遽に至つて其論戦に応ぜざることを得なかつたとしても、霞亭が茶山の親しく来り迎ふるを待つたのは怪むべきである。
霞亭の初て茶山を訪うたのが三月だと云ふことには確拠が無いと、わたくしは云つた。しかし間接にその三月なるべきを想はしむる証が無いことも無い。それは霞亭が茶山の家に於て頼春水に再会した事である。春水霞亭の曾て江戸に於て相識つてゐたことは上に記した。
遺稿に「訪茶山先生于夕陽村舎、邂逅芸藩春水先生、賦呈二先生」の詩がある。「平生夢寐在豪雄。一世龍門見二公。元自大名垂宇宙。真当談笑却羆熊。辛夷花白春園雨。黄鳥声香晩塢風。安得佳隣移宅去。追随吟杖此山中。」辛夷は春の末に花を開く。しかし遺稿は必ずしも厳に編年の体例を守つてはをらぬ故、詩の何れの時に成つたかを徴するには足らない。
春水遺稿を閲するに、癸酉(十年)の部首に「告暇浴有馬温泉、経京阪而帰」と註してあり、妙正寺の詩の下に「以下十二首係東遊作」と註してあつて、其第十二首は「次韻菅茶山」の詩である。「出閭廿里送吾行。聯載籃輿伊軋声。楊柳渡頭分袂去。白頭相顧若為情。」知るべし、春水は癸酉に茶山を訪ひ、その去るに当つて、茶山は神辺より送つて二十里の遠きに至つたことを。茶山集後編癸酉の春には春水に訪はれた詩は見えない。
幸に春水の此訪問が癸酉(十年)四月前で、此訪問の際に霞亭が春水を見たことを徴すべき書牘がある。それは的矢書牘中にある柏原瓦全の霞亭に与へた書である。書は五月二十日に京都に於て裁し、的矢に帰省してゐる霞亭に寄せたものである。「備後菅氏に而頼老仙に御出会被成候よし、御本懐、此老仙四月六日頃京著、若槻氏へ入来、同十日再浪華へ下向、有馬へ入湯のよし噂承候。」若槻氏は聖護院村の若槻寛堂の家である。名は敬、字は子寅、通称は幾斎である。春水は神辺を去つて、四月六日に京都に著いた。その神辺にあつたのは三月であつたらしい。
六十二
わたくしは霞亭の初て菅茶山を見た時を推して、姑く文化癸酉(十年)三月であつたとする。その頼春水と茶山の家に相見たのは、必ず初対面の席に於てしたとは云ひ難いが、霞亭が始て神辺に往つた時に春水が有馬に浴する途次来合せたことは明である。
さて霞亭は茶山を見た後いかにしたか。わたくしはその神辺に淹留しなかつたことを知つてゐる。浜野氏は嘗てわたくしに書を与へて、茶山集に就いて霞亭の直に神辺を去つたことを証した。それは「子晦(藤井暮庵)宅同頼千秋北条景陽劉大基赤松需道光師賦」の詩中「斯時誰厭酔、明日各雲程」の句である。霞亭は去つた。そして四月十日には郷里的矢に帰つてゐた。
既に引いた癸酉(十年)五月二十日の柏原瓦全の書牘にかう云つてある。「先月(四月)十日之貴牘無滞相届忝拝誦、先以御清寧御帰国之趣承知安堵仕候。此節ははや宮川辺に移居被成候か、委曲承度奉存候。」京都の瓦全が霞亭の四月十日に的矢にあつて裁した書牘を得たのである。
此文中「此節ははや宮川辺に移居被成候か」の句は、霞亭の的矢より何処に往かむとしてゐたかを示すものである。瓦全は霞亭の四月十日の書に云つた所より推して、その既に宮川辺に移つたことを想つた。
霞亭は実に的矢に帰つてより幾もあらぬに伊勢に居を卜した。其家は即歳寒堂遺稿に所謂夕霏亭である。「夕霏亭即事。手中書巻掩昏眸。一枕清風夢転幽。伊軋時疑門有客。数声柔櫓下前流。」前流の宮川なることは復疑を容れない。
霞亭が故郷より夕霏亭に徙つたのは、恐くは四月十日の直後であらう。何故と云ふに、霞亭は同じ日に書を廉塾の諸友に致して、本宅は的矢、居住は山田附近だと云つてゐる。浜野氏の写して示した一書はかうである。「口上。先生家より御投毫被下置候はゞ、左之通名前にて御差下し可被下奉頼候。早速相達し被下度、尚又先生家へ差上候書状等、便宜いづかたへむけ差上候而よろしく候哉、何卒御序に御しるし被遣被下候やう、乍御面働奉頼候。以上。四月十日。北条譲四郎。黄葉夕陽村舎御塾中御取次。京都麩屋町六角下る、伊勢屋喜助。右之処書に被成下度候。山田へ直様御遣し被下度候へば、勢州山田上之久保、山口角大夫方迄御名宛可被下候。小生本宅は的屋と申処に而、磯部の辺に御座候。小生居住は山田には候得共、山居に而市中より少々隔絶仕候故、不便理に御座候故に御座候。」
霞亭は同じ日に書を京都の五升庵と備後の廉塾とに遣り、彼には「宮川辺」と云ひ、此には「山田には候得共山居に而市中より少々隔絶仕候」と云つた。その斥す所は均しく是れ夕霏亭であらう。
書を廉塾に遣つたのは、茶山との通信の便を謀つたのである。茶山は書を京都の伊勢喜に送るか、又は山田上の久保町の山口凹巷に送つて、霞亭に伝致せしむるが好いと云つたのである。
霞亭は瓦全に将に移らむとするものの如くに言ひ遣り、茶山門人に既に移つたものの如くに言ひ遣つた。後者は文字の繁冗を避けたものである。それ故わたくしは霞亭の夕霏亭に徙つた期日を四月十日の直後とする。
六十三
わたくしは的矢書牘中に分明に文化癸酉(十年)に裁せられた霞亭の書が少いと云つた。霞亭の書は少い。しかし上に引いた柏原瓦全の書の如く前後の事跡を徴すべきものは有る。又「癸酉仲夏六日、同陪霞亭先生、従夕霏亭、遊于宮水、分余酣嗽晩汀句、得汀字、伏乞郢正、孫公裕拝藁」と署した詩箋がある。此詩に「高人棲息地、山水抱孤亭」の句がある。癸酉五月六日に霞亭が夕霏亭に住んでゐたことは明である。
此よりわたくしは五月二十日瓦全の書中より録存に値する数件を拾はうとおもふ。先づ瓦全自己の近況がある。「扨貴君(霞亭)御帰省後、弥生中比より老病差起り、于今聢と不致全快、欝々と日を消し候。尤高階診察投剤、浅井にも御世話に相成候。老境無拠事に候か。されど嵐山へは浅井と罷こし、月江和尚と対酌して佳興難申候。昨十九日北谷を訪ひ、御噂申出候。数々及閑談帰りがけ、銅駝新地の家毎より人走り出候故、何事ぞといふに、四条戯場歌右衛門が表木戸を火方のあらものらが一統して打こぼち、内へ入て舞台の道具立も打やぶりしといひて走り行候。狂言は一の谷にて、熊谷を歌右衛門がして、けしからずはやるに付、勢ひ猛にのゝしりて無銭のものを入ざる意趣ばらしと相聞え候。大俗事申もいかゞに存候得共、都には箇程の大あためづらしき故申入候。(中略。)尚々老婆もよろしく申度申添候。豚児が本宅へ帰れと申て頻にくどき候。今より帰る事口をしく、足立ぬまでは帰るまじと存候得共、言を尽してかさねがさね申に心惑して決し不申候。」北谷の隠者は何人なるを知らない。しかし瓦全が後に同じく北谷に住んだ証迹は的矢書牘に見えてゐる。瓦全には妻子があつて、子が老爺を本宅へ呼び戻さうとしてゐた。瓦全の病を療した高階は枳園である。瓦全と共に僧月江を訪うた浅井は周助であらう。中村歌右衛門は三代目、後の梅玉である。
瓦全の書には猶北小路梅荘と筑前の俳人魯白との消息がある。
「北小路は三月末より因幡へ入湯に下向有之候。因幡の温泉聞及ぬ事に候。」梅荘は是年の初に大学助に除せられたらしい。わたくしの獲た廉塾の一書生陸奥の僧蘆舟の雑記を閲するに、霞亭の「金咼巷僑居元日」の詩の後に梅荘に次韻した作がある。「予将帰故山(的矢)、故人北小路肥後守顧草蘆云、聞子隠故山、予家蔵成斎翁(西依氏)所書陶弘景詩一軸、以子心跡与陶相似、特以為餞、且贈詩曰、翻然帰臥故山雲、恰悦従来久所聞、海底珊瑚天外鶴、只応不許在人群、因和其韻以謝、君近除大学助。明時有路上青雲。満世文名聖主聞。双鬢我将如野鶴。低回甘欲逐離群。」
「筑前魯白つくし貝の御返しに御作一章呈せられ可被下候。此叟今春古稀に候。」歳寒堂遺稿に「筑紫貝序」があつて、末に「文化辛未(八年)初秋、嵐山樵逸北条譲、書於任有亭楓窓」と署してある。霞亭のこれに序したのは二年前の七月で、任有亭にゐた時である。想ふに其後刊本が霞亭の手に到つたことであらう。瓦全は更に魯白のために詩を求めた。霞亭をして魯白の七秩を賀せしめむとしたのであらう。霞亭の作は遺稿に見えない。
魯白の筑紫貝は国書解題に見えない。霞亭の序に「其書彙纂彼土闔州名勝之来由典故、附以諸家所題諧歌、上自古哲下及当今作者」と云つてある。彼土とは筑紫である。
霞亭の夕霏亭にあつた時、茶山は書を霞亭と其友山口凹巷とに寄せて、霞亭を廉塾に聘せむとした。五月二十一日に霞亭の的矢にある碧山に与へた書がある。即癸酉(十年)の霞亭書牘として稀有なる一篇である。惜むらくは其前半は烏有に帰してしまつた。わたくしは下に稍細に此断簡を検せようとおもふ。
六十四
前半を失はれた文化癸酉(十年)五月二十一日の霞亭の書は、霞亭を菅氏に繋ぎ、次で阿部家に維ぐ端緒を開くものにして、事出処進退に関し、頗重大なるが故に、わたくしは例を破つて断簡の全形を此に写し出す。
「小生並に山口君(凹巷)え御状被下候。(按ずるに書は茶山の備後より伊勢に寄せたものである。)其儀は何分にも両三年助力いたしもらひたきとの事に候。御状別に懸御目申候。御覧可被下候。身事におゐてはさまでの事も有之間敷候得共、あの通当時天下に高名の先生、別而四方の人輻湊、歴々諸侯方の儒官の人にても入門在塾仕候程の人、実は二三日の会面に御心酔被致、この如く厚意に被仰聞候段、誠に学生之面目に存候。茶山の門人と申にても無之、先々学風等はすこし違ひも候拙者を、重く敬待被致候儀、山口君とも申出し、近世にまれなる事、益以茶山翁の高徳想ひやられ候。御存じの通、当時京江戸などの諸先生業におゐては茶山に及候者無之候得共、皆々傲然とかまへ候人多く候時節に候。この通り謙虚の思召、実に不堪感佩候。尤参り候はゞ後来の都下などへ発業いたし候基本にも可然と存候。夫に内々山口君とも御相談申候得共、山口君も美事可惜際会にも候得共、遠別もつらく被存、とかくいづれとも決断いたし兼候。尤遠方とは申ながら江戸などとは大に相違に而、百里たらぬ所之上、通路も甚いたしやすき道、並に仕宦などとは違ひ候而、一歳一度か又は不時に勢南帰省は出来候事に御座候故、案じ候には及不申候得共、何分御両親(適斎夫妻)の意にまかせ候より外は無之候間、足下より得と御双親様へ御相談可被下候。山口君も呉々被申候也。小生参上仕たく候得共、右講釈つい今日はじめ候儀故、留主にいたしがたく候。(按ずるに霞亭の夕霏亭に入つたのは、伊勢人に請はれて書を講ぜむがためであつたと見える。尺牘の前半を佚したために、これを審にすることを得ない。)御熟談之上近々足下一夜泊りにても私寓(夕霏亭)へ乍御苦労御越可被下奉頼候。尤いそぎ不申候得共、帰後未だ彼方(神辺)へ呈書も不仕に罷在、却而彼方より寄書いたされ候。甚失敬に相成候間、近日山口並に小生より返書仕たく候間、急に御相談御出可被下候。万端可然御勘考可被下候。乍末毫御双親様へ乍恐宜敷御致声被仰上可被下候。頓首。五月廿一日。譲四郎。北条立敬様。」
的矢に於ける適斎夫婦と碧山との議は、遂に霞亭をして神辺の聘に応ぜしむることに決し、次で碧山は此消息を齎して夕霏亭に来たであらう。此間の経過は文書の徴すべきものが無い。
霞亭は何時夕霏亭を去つたか不明である。遺稿に「将出夕霏亭即事」の詩がある。「世間無限好青山。人不争辺我往還。蹤跡唯従風捲去。高情一片与雲閑。」霞亭が嵯峨を経て西したことは、遺稿に「嵯峨宿三秀院、呈月江長老」の五律を載するを見て知るべきである。此詩題が蘆舟の記には「仲秋遊三秀院、呈月江長老」に作つてある。然れば夕霏亭を去つたのは癸酉(十年)八月前半で、十五日に嵯峨に宿つたことであらう。
霞亭は此より再び茶山を神辺に訪ひ、遂に廉塾に留まつた。遺稿の「夕陽村舎寓居秋日」の二律は恐くは八月下旬若くは九月に成つたものであらう。
霞亭は早く八月二十三日に神辺にゐて、書を的矢へ遣つた証がある。それは的矢書牘の一なる九月二十七日の書に見えてゐる。「此方(神辺)より書状、先月(八月)廿三日笠岡便、京都五升庵(柏原氏)迄差出申候。」
わたくしは此九月二十七日碧山宛の書より、先づ霞亭の状況を抄する。「此方さして相替候儀も無之候。当時は塾中出入書生三十人許居申候。菅先生甚勉強いたされ候人に而、毎日講釈等無懈怠有之候。小生も先日より毎朝講釈手伝ひはじめ候。大学中庸大方終り候。詩経近日にはじめ候。」廉塾に来てより、九月二十七日に至る間に、幾多の日子があつたことは、学庸を講じ畢つたと云ふより推すことが出来る。「此方に参り候より、府中行の外は一切他出も不仕、門外もしらぬ位に候。短日に候故、何歟といそがしく覚え候。」
次に塾中諸友の事を抄する。「筑前竹田定之丞殿も一昨日出立帰国被致候。小生送序なども有之候得共副本無之候。追而懸御目可申候。先日菅翁並塾中両三子と秋柳の詩作り候。別にうつし入御覧候。門田子作懸御目候。中々上達に御座候。十七歳のよし、才子に御座候。此節日向伊東侯の文学落合氏塾中に寄宿いたし被居候。出精家に而、よきはなし相手に御座候。外は皆々小児輩多く候。」曰竹田器甫、曰門田朴斎、曰落合双石、皆注目に値する人物である。
「送竹田器甫序」は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「豈図予之来無幾、而君之去爾遽」の語がある。朴斎当時の詩文は稿を存じてゐるものが甚少い。これに反して双石の「鴻爪詩集巻二」には霞亭の名が累見してゐて、中に二人の茶山と同じく賦した「秋柳」の七律がある。「徒使寒潭写月痕。何能病葉蔵鴉叫。」
六十五
霞亭が文化癸酉(十年)に再び神辺に来たのは、前に引いた書牘に拠るに、八月二十三日より前であつた。歳寒堂遺稿に「呈茶山先生、先生時読易」の詩がある。「楽天安命鬂毛斑。絶跡市朝高養閑。正是林中観易罷。夕陽門外対秋山。」去つて茶山集を看れば、「次北条景陽見貽韻」の詩がある。「孤生踽々鬢斑斑。好把斯身附等閑。幸得招君為隠侶。将分一半読書山。」霞亭は秋山の字を下してゐるのに、茶山の次韻は冬の詩の間に厠つてゐる。茶山は或は稿を留むるに次第に拘らなかつたか、或は又日を経て賡酬したか。それはともあれ、茶山が霞亭をして二年前(辛未)に去つた頼山陽の替人たらしめむとする意は三四の句に露呈してゐる。霞亭はこれを評して「承眷不浅、抱愧実深」と云つた。
茶山より視れば、霞亭は山田詩社の一人であつただらう。そして山田詩社は皆茶山を景仰し、茶山も亦これを善遇してゐた。此年に入つてよりも、山口凹巷は父のために茶山の寿詩を贏ち得た。「寄祝伊勢山迂叟先生七十寿」の一絶が是である。又茶山の此年に詩を題した鸚鵡岩の持主「韓老人」も恐くは迂叟であらう。冬に至つては佐藤子文が来て、霞亭と共に茶山の客となつた。茶山に「与佐藤子文同往中条路上口号」の七律がある。「久留詞客臥田家。偶値晴和命鹿車。澗涸白沙全解凍。野暄黄菜誤生花。村声有趣聴逾好。山路無程興也加。但恐荒涼使君厭。都人平日慣豪華。」
是年霞亭は三十四歳であつた。遺稿の「除夕廉塾集得郷字」の頷聯に「人生七十齢将半、客路三千思与長」と云つてある。此夜茶山が「馬齢垂七十」を以て起つた五古を作つて、霞亭はこれに和した。「千里従為客。匆匆節物更。功名他日志。老大此時情。梅媚灯前影。燎明村外声。多年丘隴隔。念至涙空傾。」
文化十一年(1814)の元旦は霞亭がこれを茶山の家に迎へた。茶山の「椒盤一日三元日、萍聚十人九処人」の所謂十人中に志摩の霞亭と伊勢の佐藤子文とがあつた。そしてわたくしの郷国石見をば市川忠蔵と云ふものが代表してゐたさうである。忠蔵の事は今詳にし難いが、佐伯幸麿さんは嘗て津和野養老館に於て其子捨五郎の教を受けたと云つてゐる。
正月七日に霞亭は郊外に遊んで六言の詩を作つた。同遊者は「大卿、子文、孟昌、玄寿、尭佐」であつた。初めわたくしは大卿は鷦鷯春行、俗称は銭屋総四郎、京の商人だと謂つた。しかし備後の人に聞けば、大卿、通称は大二、備中国西阿智村の人ださうである。子文は佐藤である。孟昌は太田全斎の子昌太郎である。実は第二子であつたが、兄が夭したために孟昌と字した。福山の人である。玄寿は甲原秀義、漁荘又武陵と号した。豊後吉広村(今国東郡武蔵村)の人である。尭佐は門田朴斎である。霞亭の六言は絶無僅有の作である。「茅屋鶏鳴犬吠。柴門竹碧梅香。杯盤世外人日。酔臥山中夕陽。」
是月霞亭は梅を三原に観た。「薇山三観」は端を甲戌(十一年)正月に開いたのである。わたくしは既に一たび三観の事を記したから、今省略に従ふ。同遊者は佐藤子文、甲原玄寿であつた。
書して此に至つてわたくしは又的矢書牘を引く喜に遭遇する。それは霞亭の碧山に与へた月日の無い書で、それが此正月の作なることは佐藤子文の消息に由つて知ることが出来る。「子文も無事罷在候。二月中句頃迄は此表に被居候よし、金毘羅(讃岐)参詣等いたし帰国いたされ候よしに御座候。」  
 

 

六十六
わたくしは先づ文化甲戌(十一年)正月の書牘中霞亭の自己の事を告ぐる文を抄する。「余寒に候得共此表旧年より甚暖気に御座候。(中略。)小生は甚壮健に御座候。平生素食、夫に酒も少し許宛喫し候事に御座候。」霞亭は此句の直後に茶山の己を遇することの厚きを説いてゐる。「茶山翁淡泊の高人に而、御厚意はけしからぬ事に御座候。貴所(碧山)の事なども折節被尋申候。」霞亭は身を此境界に置いて、自己のこれに処する所以を思つてゐたらしく、碧山をして父母の意嚮を問はしめようとしてゐる。「尚々大人様にても母様にても、小生身分の事に付思召寄せられ候儀も有之候はゞ、くわしく御書通可被下候。いづれも足下の取計にて万事つゝまず御志の儀等被仰聞可被下候。」
次は弟碧山の事である。「御詩作(碧山の詩)毎篇拝見仕候。おもしろく存候。菅翁(茶山)へ入御覧置候。追而御返上可申上候。尚又御近作等御便之節御録示可被下候。聯玉兄(山口凹巷)よりも折角悦被越候。尚万事御出精可然候。四書集註御熟覧可然候。山田へ被出候序も候はゞ、経書にても歴史類にても、いづ方にても御借受被成御熟読可然候。書物は多く有之候ても無詮物に御座候。とかく熟復手に入候やう文章類御心懸可然候。御本業医事は勿論研究可被成候。(中略。)学問家業の外、余りに心つめ候事なきやう御心得可然候。すこしの御病気にても手ばやく御療治可被成候。何分にも身体壮健に無之候ては何事も出来不申、大に損に御座候。詩文事其外学業の為にも候はゞ、二月に一度位は二三日がけに山田へ出候而、山口兄(凹巷)など御訪申上候もよろしく被存候。いづれ御両親様御計次第に御座候。敬助、良助など御心懸素読等御指南可被下候。」此文中碧山の詩を云云する処に一紙片が貼してある。細検するに西村及時の筆蹟である。及時は書を霞亭に寄せた次に、其弟碧山の詩を称した。霞亭は其一段を戴り取つて弟に与ふる書の上に貼し、弟を奨励する料となしたものである。「尚々昨日来は御令弟(碧山)御出被下、昨夕は此方へ御止宿、唯今御帰り被成候。御作等翮々、且御上達被成候様奉存候而甚悦申候。必御案じ被成間布候。」
次は頼春水の事である。「頼翁の御状京都に而浮沈、去暮(癸酉歳晩)漸く落手仕候。御丁寧被仰聞奉感候。今般入御覧候。御接手可被下候。」霞亭は癸酉(十年)三月に春水に再会し、其歳晩に手書に接したのである。春水の柬中には詩があつたので、霞亭はこれに復する時、贈詩一篇を添へた。「広島頼春水翁書中見録示答人問京遊状詩、因賦此以寄呈。江頭分手恨匆匆。別後勝遊書信通。詩酒幾場傾渭洛。文名一代重華嵩。鶴帰湖岸疎梅外。人立門庭深雪中。琴剣何時尋講舎。重陪語笑坐春風。」所謂「答人問京遊状詩」は春水遺稿に「帰後答人問遊状」と題してある。「山陽百里信軽鑣」を以て起る七律が是である。想ふに春水の尺牘にして此詩あるものが猶存じてゐはすまいか。尺牘が碧山の許に留められたら志摩北条氏に、霞亭の許に還されたら備後高橋氏に。
六十七
わたくしは霞亭の文化甲戌(十一年)正月の書を続抄する。次は大窪詩仏の事である。「高田文之助より旧冬書状到来、随分無事のよし、貴所(碧山)へ可然申上候様申来候。菟角勢南へ参りたきやうに申居候よし、いらざる事と存候。詩仏方の家の図とやらを足下(碧山)へ差上くれと申参候。江戸人はとかくこのやうの浮華なる事計多く候。玉池に此位の事出来候やうなし。」
高田文之助、名は淵、字は静沖、越後の人である。霞亭の林崎時代の門人で、今は亀田鵬斎の塾に入つてゐるのである。高田は大窪天民のお玉が池の家の図を獲て珍重がり、霞亭に託して碧山に贈らうとした。霞亭は図の誇張に出づるを以為ひ、(玉池に此位の事出来候やうなし)且江戸人の浮華を笑つた。
詩聖堂集十巻が文化己巳(六年)の冬より庚午(七年)の春にかけて挍刻成を告げ、此歳甲戌(十一年)の四月に市に上つたことは、集の序と奥附とに徴して知られる。詩聖堂の図が先づ頒布せられたのは一種のレクラム(広告)である。集中玉池精舎二十詠があつて、図の必ずしも誇張にあらざるを見ることが出来る。高田が此図を獲て碧山に伝へ示さうとしたのは、今文芸雑誌の六号記事を嗜読するものの情と同じである。
此より後幾ならずして所謂番附騒動が起つた。わたくしは嘗て蘭軒伝中にこれに言ひ及んだが、後に至つて当時の記録一巻を購ひ得た。記録中最観るべきものは、太田錦城の天民に与へた書である。その云ふ所に従へば、番附は詩聖堂末派の画策に成り、主として此に従事したものは山本北山の子緑陰であつたさうである。江戸文壇のレクラム手段は玉池精舎の図より進んで此番附となつたのである。
次は山口凹巷一家の事である。「山口氏御内人とかくこちのものにはなりかね候やに被存候。何卒本復いたさせ申たきものと存候。無左候而は凹巷の家事甚むづかしく気之毒に存候。」凹巷の妻の病が重かつた。若し起たずんば「家事甚むづかし」からむと、霞亭は気遣つてゐる。後の詩に「韓公(凹巷)愛客客成群、家政平生付細君」と云つた意である。
次は柏原瓦全の事である。「京都瓦全も本復いたし、本宅へ帰り被居候よし、此間書状参り候。京はけしからぬ水旱に而戸々込り入候由に御坐候。」瓦全は遂に子の請を拒むことを得なかつたのである。困るを「込」ると書するは霞亭慣用の仮借である。
甲戌(十一年)正月の書中より抄すべきものは略此に尽きた。其他雑事二三がある。其一。「嵯峨樵歌、渉筆此節数十部梶川より下し申候。御地辺に望候人有之候はゞ御世話可被下候。後便にいなや被仰聞可被下候。」其二。「御母様御世話に而先達而下向之節外に而金子二両借用仕候。此節差上可申之処、とかく便は皆々蔵屋敷頼に候故金子相頼がたく、子文帰装の節頼可申やと存候。其段被仰上置可被下候。」母を介して二両を人に借りた。的矢宗家の窮乏想ふべきである。其三。霞亭は兵大夫と云ふものの計を得た。霞亭、碧山の少時世話になつた人である。文長きが故に省略に従ふ。末にかう云つてある。「兵大夫殿と御約束仕候菅翁手迹跡に相成候へども差上候。其上しみものいたし候而気之毒に存候。表具にいたし候はゞ見やすく相成可申哉。」茶山の書は延陵の剣にせられた。其四。「扨尊大人様に此方産物何ぞ差上たくぞんじ含み罷在候得共、殊之外物事不自由の地何も無之、皆京大坂にありふれ候物計に候。鞆の芳命酒(保命酒)と申ても甘味すぎ候もの、索麪よろしく候得共、箇様之食物類は船中の者ぬすみ候而、其上各別の物にも無之、夫故何も差上不申候間、貴所(碧山)より可然御断置可被下候。子文も無僕故言伝ものも気之毒に御座候。何分如在無之候得共、右之仕合愧入候。」
此頃より霞亭の郷親に寄する書が殆必ず弟碧山に宛てられてゐる。そして適斎に謂ふべき事も碧山をして言はしめられてゐる。碧山の家督は或は此頃に於てせられたのではなからうか。
六十八
文化甲戌(十一年)二月に入つて佐藤子文は茶山の許を辞し去つたであらう。茶山集中に「伊勢藤子文尋霞亭於余家、不憚脩途、余因得歓、臨別賦此」の一篇がある。「長路故来縁恋友、帰期無滞為思親」は其頷聯である。
子文は神辺に淹留した間に、料らずも霞亭が身上に関繋すること重大なるロオルに任ずるに至つた。それは茶山が霞亭を廉塾に拘留せむと欲し、又これに妻すに井上氏敬を以てせむと欲して、先づこれを子文に諮つた故である。
的矢書牘中に二月二十日の霞亭の書がある。是は霞亭が子文の去後に弟碧山に与へたもので、頗此間の消息を悉すに足るものである。惜むらくは書の前半は断裂して存じてゐない。
「将又此度極内々御相談申上候一件御坐候。足下(碧山)より御双親様へ御噂申上、御志之処御心腹とくと御聞可被下候。小生におゐては各別相すゝみ不申候義に有之候得共、無拠時宜故内々申上候。其義と申は子文発前茶山翁別段に内々子文を招れ、小生身分並に故郷家事等相尋候上に被申候は、此方我々最早かくの如く老衰に及候而、見かけ候通学問所世話いたし候仁も無之、此方罷在候内はよろしく候得共、跡に而書生教授相続いたし候人無之候ては、折角取立て候閭塾空敷相成、気之毒に存候。夫に付北条永く此方学問所世話いたし呉候事出来まじきや。かつはかの人もいつまでも独身に而も叶申間敷、此方姪女(敬)配偶いたしもらゐたきとの思召のよしに候。此姪と申は先生のめいにて、二十四五歳の人、もと翁の甥(茶山仲弟汝楩の子)何某(万年)の妻となり、菅氏の本宅酒造家の主人に有之候処、二三年以前其夫死去、其遺子五歳許の男子一人(菅三、後自牧斎惟縄)有之、これを成長の後菅氏の右酒家相たてさせ候積りのよしに候。只今は彼方の家あけ候而先生家に参り居候人也。この家田地も有之、酒造のかぶも有之候家也。元来菅氏は酒造家に而余程の巨家に有之候処、先生は三十年前迄は医を兼而被致候よし。然る処右本宅両度迄焼失いたし、其内先生は医をやめられ候而、専ら学問一道に相成候て、本宅へは弟(茶山季弟)圭二郎(晋宝)相続、先生同居し被居候処、右圭二郎京都へ出候而客死、先生は右今の廉塾の方営み候而、引込候而、書生教導いたされ候処、福山侯より二十人扶持金十五両宛とやらむ相付られ、今の学問所取建、屋敷等除地除役に相成、永世学問所といたされ候事に候。其砌右先生甥(万年)菅の酒家本宅相続いたし居申候也。先生無欲の人物なれば、右扶持方等年分入用の余計に而、近々田地等をももとめ、学問所の方へつけられ、其方よりも年々三十俵ほども百姓より上り候よしに候。佐藤氏へ先生相談は、北条氏承知の様子にも候はゞ、貴様的屋へ罷越、大人(適斎)へ御相談被下候やう被申候処、佐藤子直に被申候は、かの人元来嫡子に而的屋本宅相続可仕の人に候処、学問好に而今の体に被成候義、且又かの人平生之志気、北条氏をかへ候而はとても承知有之間敷事必然に候と被申候へば、翁被申候は其義は我々も覚え有之候義、何分学問所相続、右配偶等いたされ候はゞ、其義は意にまかし可申との事に候。右之段子文より小生へ相談候処、小生も甚当惑仕候。」
文は未だ尽きない。わたくしは事の重要なるを思ふが故に敢て擅に筆削することをなさない。
六十九
わたくしは文化甲戌(十一年)二月二十日の霞亭の書を続抄する。文は霞亭が佐藤子文をして茶山に謂はしめた辞令に入る。
「老人(茶山)の御頼無拠候へども、此義は一身之進退なれば、とても一分にては参り申間敷候。人づてにて親共御相談申上候ても、内外分り兼、親共の思召もはかりがたく候へば、いづれ七月頃にも帰宅いたし、御面上相談仕候上、いなや返答可申上候。夫迄は佐藤君にも社中とても御噂被下間敷、先々夫迄御待被下候様申置候。右之義足下(碧山)如何御思召候哉。御双親様之御心中如何あらむや。小生心中にも改姓の事に候はゞとても承引出来がたく候。夫に尋常仕宦のやうに勤仕等有之候事に候はゞいやにも候へども、学問事世話いたし、自分修業専一にいたし候而、外俗事とては少しも無之義故、学問のためには至極よろしかるべきと存候へども、先自分の事はともあれ、御互に気遣仕候は御双親様(適斎夫妻)の義に候。御壮健被為入候故、御長寿之義とは相楽罷在候得共、七十にちかく御入候大人様を遠方隔居仕居候義、いかにも心苦敷義と被存候。さすればとて右之身分に相成候はゞ、御見舞申上候とても、二年めか三年めならでは出来申間敷、只今迄始終遠方へ参り居申候得共、今更後悔千万奉存候。別而去年来兵大夫殿と申、武内叔父の変故等有之てよりこのかた、とかく帰郷の念出候而時々惆悵仕候。つらつら存候に当時のありさま仕宦仕候てはわけ而身分の自由なりがたく、一切学業等の妨にも相成、門戸をはり候而教導いたし候にも、はじめ余程の骨折にも有之候よし、世の中の浮名微禄おもしろからざる事(に候へば、)とかく自分著述学業のすゝみ候やう相計、御双親御存生のながきを相楽み、旧里にても或はいせにても又は京都にても、偶然と自由に往来いたし居可申やと段々思慮もいたし候事に候。茶山翁切角御相談に及候義故、一先申上候わぬも不可然候。御双親様の御心中次第により秋頃にても帰郷可仕や、又は此書中に而大略わかり候へば夫にも及不申候哉、御相談之処御双親様の御心落無之義に候はゞ不及申相断候而帰郷可仕候。尤茶山翁被申候は、この事相談なり不申候とも、永く学問所の滞留いたされ候処は頼可申との事に候へども、夫に付候ては小生も今年明年の義は各別、別段存じ入れも有之候故、又々其節御相談可申上候。何分あらまし思召被仰越可被下候。佐藤氏へも小生夏秋の間帰郷までは親共方へも不申候やう申かため置候間、今暫之処一切御噂御無用に存候。いそぎ不申候間、とくと御返書奉煩候。書外期再信候。頓首。二月廿日。北条譲四郎。北条立敬様文案。尚々御双親様始、時下御自愛専一奉祈候。今年は春色も甚はやく候。最早去年参り候節の園中の辛夷、昨日あたりより盛開に御坐候。なにかに付御床布奉存候。」
此書の断簡ながらも猶存ずるは洵に喜ぶべきである。何故と云ふに此に由つて、直接には霞亭を廉塾に繋ぎ、間接には又これを福山藩に繋いだきづなの、いかにして結ばれしかが、始て窮尋せられたからである。
霞亭は前年癸酉(十年)三月に始て神辺に来て、黄葉夕陽村舎の園中に辛夷の花の盛に開いてゐるのを見た。暖気の特に早く回つた甲戌(十一年)には、二月の未だ尽きぬに辛夷の花が再び開いた。そして霞亭の足は将に赤縄子の纏るを免れざらむとしてゐる。
七十
茶山は閭塾に良師あらしめ、女姪に佳壻を得しめむと欲して其事未だ集らざるに、福山侯阿部正精は遠く茶山を江戸邸に召すこととなつた。福山の留守は早く甲戌(十一年)三月中に其内議の江戸より至るに会した。事は的矢書牘中にある霞亭の一書に見えてゐる。此書は甲戌四月十三日に的矢なる弟碧山に与へたものであるが、惜むらくは偶中腹を佚亡して首尾のみが僅に存じてゐる。其末幅にかう云つてある。「去月(三月)より菅翁を江戸へ被召候儀有之、多病甚迷惑被致候由、先断立候やうすに候。当御屋敷御老母様御忌中に而今に中陰に御坐候。翁も久敷講談休すまれ居候。」茶山の母とは佐藤氏であらう。
佐藤子文は神辺を去つてより四月十三日に至るまでに、書を霞亭に寄すること既に両度であつた。「子文より此頃両度書状承知致候。山田にも社中無事の由に候。」
頼春水は一たび霞亭と相見てより漸く親善なるに至つた。「頼翁より時々書状参、足下(碧山)へも伝言有之候。則御一読可被成候。度々かの方へも尋問いたし候やう被申越候。辱候得共、三十里も有之候処、夫に講業日々に而不得其意候。」春水は霞亭を広島に迎へむと欲したが、霞亭は往訪の暇を得なかつた。
霞亭は此度も弟碧山を指導することを忘れなかつた。「近来御作は無之候哉。ちと御見せ可被下候。書籍不自由奉察候。何にても佐藤(子文)又は山口(凹巷)などへ御頼申て恩借可然候。御かり被成候物ははやく卒業御返戻又々御かり被成候様可然候。さなくてはかし主倦候物に御坐候。御心得可然候。経書熟読肝要之義に候。外色々意にまかせ可然候。佐藤にても山口にても漁洋山人詩集精華録御かり被成候て注まで一通御よみ被成候はゞ大分益可有之候。一度ならずとも両三度に御かり被成候てもよろしく候歟と被存候。」霞亭が碧山をして王阮亭を読ましめむとするを見れば、当時の山田詩社が清朝の詩風を追逐してゐたことが知られる。
中三日を隔てて四月十七日に霞亭は又書を碧山に与へた。是も亦的矢書牘中にある。「四五日前山田高木氏迄書状一通差出申候。定而相達し可申存候。以来此方何も別条無之候。」乃知る前の書は高木呆翁に由つて故郷に達したものであつたことを。
此書を見るに山口凹巷の妻は遂に歿した。「山口氏御内人御死去御互に惆悵仕候。甚事に幹たる人に而可惜事に御坐候。凹巷家政等迷惑可被致と恍々罷在候。」墓誌に拠るに凹巷の初の妻は藤田氏、後の妻は山原氏である。山原氏歿して後妾加藤氏を納れた。甲戌(十一年)に歿したのは山原氏であらう歟。歳寒堂遺稿に「寄慰韓聯玉悼亡」の四絶がある。其一に元白応酬の詩を摸してかう云つてある。「夢裏音容覚且疑。残灯無焔悄閨帷。深更起坐聞雞唱。誰撫呱呱索乳児。」藤田氏には子女なく、山原氏には二子三女があつた。
わたくしは山原氏の名を知らない。しかし孫福孟綽の所謂霅雨孺人の此人なることは明である。河崎誠宇の受業録は云はく。「甲戌之春、霅雨孺人逝、孺人吾叔氏韓先生之配也、是秋余過桜葉館、側聴令愛象虎二女、読藤黄門所撰百人一首、叔氏語余曰、二女近学書之暇、往松村氏、習読倭歌、今請観霅雨遺稿、予日、汝未解歌意、叨請之不可、汝有所自試、若能成章、則如所請、因令象詠月虎詠菊、衝吻各成其辞、雖不属、覚有思理、叔氏雌黄、便成佳篇、余歎賞窃謂、之女有志吟詠、叔氏悼内詩云、擁児傍読国風辞、蓋孺人常訓児輩以倭歌及漢詩、是知其養之所致也、而今孺人既逝、二女嗣前志之不終、冀叔氏事業之余、朝夕導学、自倭及漢、何独班氏之有大家而已哉、況使孺人欣然於地下、亦叔氏之賜也、因賦長句奉呈、時甲戌秋九月。叔氏本儒流。於詩復盛名。孟光為之配。為人淑且貞。夙夜不言労。奴碑亦淳誠。内外人称美。義重由利軽。二男及三女。羅生玉雪清。書灯中饋暇。孜々訓嬌嬰。百全長難保。天命有虚盈。一値不平事。肝胆甚於烹。罹疾秋風蓐。送魂春草塋。男啼声呱々。女解語嚶々。恋母思手沢。拝告発中情。遺篇何所蔵。暗塵筐中生。悲喜紛不説。為之試其鳴。当此杪秋時。菊花又月明。繊手把彤管。黄口吐辞英。側読歎胎教。慧思眉間横。大隧途云邈。欲酬恩海弘。幸汝侍厳顔。自今遂長成。刀尺有余間。硯田時筆耕。豈問脂与粉。顕親足光栄。況有双愛弟。一窓結文盟。吾亦父汝父。大恩仰崢エ。楽哉螽斯化。与我幾弟兄。因茲報叔氏。庶共振家声。」是に由つて観れば凹巷の長女は象、二女は虎で、皆観平より長じてゐたのである。
次に碧山以下三弟の事を抄する。霞亭は先づ碧山の善く親に事ふるを褒め、後にその善く二弟に誨ふるを称へてゐる。「御両親様益御壮健被遊御坐候由くわしく被仰聞辱奉存候。御老成之御気象有之、万事御油断無之事と奉存候。甚彊人意候。尚又無御怠御奉事奉願候。良助慶助(敬助)素読詩作等もいたし候由大悦に存候。御苦労奉察候。何歟と御心付奉頼候。」  
 

 

七十一
霞亭は文化甲戌(十一年)四月十七日の書に三原観梅詩の稿を脱した事を言つてゐる。「三原観梅詩、副本なし、草稿のまゝ差上候。御一覧相済候はゞ、兼而約束に候間、早速佐藤君へ御遣可被下候。(思召も御坐候はゞ、何卒御書き付御遣可被下候。)かの方より此方へ御返却被下候やう申上候事に候。聯玉君へ寄慰之拙詩も同前御遣可被下候。」上に引いた山口凹巷の喪内を慰むる詩も亦観梅詩と倶に碧山の許に遣られた。
此書の載する所の雑事には猶下の如きものがある。其一。長井某の事。「長井子不相替出精のよし、社中よりも承知仕候。御互に悦申候。元来好生質に候。浮華の風にうつり候はぬ事尤も可貴被存候。」按ずるに長井は霞亭が京都にありし時の内塾生永井弥六であらう。其二。北谷翁の事。「北谷翁よりも此間書状参り候。随分無事のよしに候。」上の柏原瓦全の書にも月江と「北谷を訪ひ噂申出候」と云つてあつた。未だ其人を考へない。其三。園部氏の事。大坂土佐堀一丁目福山蔵屋敷に園部長之助と云ふものが勤めてゐた。其名は茶山の大和行日記に見えてをり、又茶山のこれに与へた書牘も存してゐる。園部氏は霞亭と京都、山田、的矢の諸人との間に往反する書信を取り次ぐ家であつた。霞亭は佐藤子文をして路を枉げて訪はしめ、逓伝の事を託した。文長きが故に省く。其四。茶山霞亭の食嗜の事。「此方(神辺)鼈、鰻
(魚偏に麗)等沢山なる地に候。菅翁はすべて厚味の物養生に而絶口被申候。小生は近辺に里正などしたしき飲友有之、時々喫し候事に候。」其五。亀石の茶と印籠酒との事。「此茶当国神石郡亀石と申処の新茶、粗茶に候へども土物故差上候。とても上方の茶には似より候ものにてはなく、田舎むき茶づけにこく出し而よきかに候。なら(奈良)菊屋と申名高き酒屋の印籠酒少しばかり、これは道中にてもいたし、至極酒あしき所に而、この物をみゝかきばかりも盃にいれ候へば、酒よくなり候とて、旅人の用侍り、貴郷などの名酒有之候処にてはしかたもなき無用之品に候得共、博物之一つ故入御覧候。小生なども兼而きゝしものゝはじめてに候。高価なるものと申候へども、たわいもなきもの也。」印籠酒は今の味の素の類歟。霞亭は此物と亀石の茶とを郷里に送遣したのである。
五月に茶山は遂に江戸に赴くべき命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東邸」と書してある。「梅天初霽石榴紅。何限離情一酔中。恨殺樽前長命縷。不牽君輩与倶東。」霞亭も亦此餞筵に列してゐたであらう。其送別の詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「送茶山先生応藩命赴江都邸。文献有徴思老成。佳招趣起就脩程。棲遅在野元優遇。趨舎随時不近名。親炙二年恩日重。孤羈千里意新驚。聞知明主多仁沢。帰臥行当遂素情。」
茶山は神辺を発するに臨んで、廉塾を霞亭監督の下に置いた。後に自ら「志人条子譲(中略)留守余家」と書してゐる。
茶山は東行の途次桜川を経て、凹巷の事を憶つて詩を作つた。昔年凹巷は京に上る時此に憩ひ、藤棚の下で赤小豆粥を食ひ、其幽趣を賞したのである。「藤架陰中豇豆粥。却将片事想仙姿。」関宿に至つて、佐藤子文と再会した。「薇西二月送君時。再会寧知今日期。」凹巷も亦二姪と共に来り見え、轎を連ねて四日市に至つた。「数両軽輿断続声。暫時忘却客中情。」茶山と山田社友との談は屢霞亭に及んだことであらう。
六月七日に霞亭は神辺にあつて驟雨の詩を作つた。其詩箋が的矢書牘中に存してゐる。「甲戌六月七日大雨志喜。疾雷駆雨雨如麻。聞得歓声満野譁。一段快心難坐了。出門秧緑渺無涯。」
七十二
霞亭は文化甲戌(十一年)の秋に入つて、詩を江戸にある茶山に贈つた。歳寒堂遺稿の「寄懐茶山翁在江戸邸」の七律である。「満渓秋色遶書寮。流水依然古石橋。楊柳西風疎翠落。芙蓉白露暗香消。夢思灯下人千里。睡起庭中月半宵。縦是朱門多寵遇。能無回首憶漁樵。」次で霞亭は園中の菊を見て又詩を主人に寄せた。遺稿の「園中閑歩有懐茶山翁」の絶句である。
九月九日には鷦鷯大卿に訪はれた。遺稿の「九日鷦鷯大卿見過」の七絶が此年の重陽なることは、「況復主人天一方」の句に由つて知られる。
十九日に霞亭は弟子彦を祭つた。的矢書牘中に詩箋がある。「九月十九日亡弟彦忌辰感述以薦。世事浮雲皆可嗟。君帰冥漠我天涯。上心十五年前事。独拭涙眸看菊花。又。筆硯依然未毀焚。廿年耽学作何勲。形軀七尺随児戯。却向幽冥慚陸雲。」
わたくしは此に霞亭と山陽との離合を一顧したい。二人は初て東山に相見た。是は霞亭が嵯峨若くは京の市中にゐた時であつただらう。嵯峨樵歌に一語のこれに及ぶなきを思へば、恐くは後者に於てしたと見るべきであらう。即壬申(九年)の春より癸酉(十年)の春に至る間でなくてはならない。既にして二人は神辺に再会した。わたくしは此を以て甲戌(十一年)九月の事としたい。即山陽が父を広島に省した帰途、茶山の留守を尋ね、期せずして市河寛斎の長崎より還るに逢つた時である。霞亭の此会合を紀する詩は遺稿にある。「頼子成見過。和其途上作韻。東山邂逅眼曾青。再会寧期忽此迎。対酌論文永今夕。灯花一榻落還生。」わたくしの固随なる、山陽全集の存否をだに知らぬが、所謂途上の作は山陽詩鈔には見えない。原唱は知らず、和韻は怊青門に従つて庚青の通韻を用ゐてゐる。
これと相前後して江戸には亀田鵬斎と茶山との奇遇があつた。善身堂集に「陌上酔認骨相奇、云翁得非西備某」と云ひ、茶山集に「陌上憧々人馬間、瞥見知余定何縁」と云つて、街上の邂逅が叙してある。そして二人は暗中の媒介者たる霞亭を憶はずにはゐられなかつた。茶山。「吾郷有客(霞亭)与君(鵬斎)善。遥知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑶篇。」鵬斎。「条生(霞亭)落魄遥集西。在君(茶山)廡下荷恩厚。元是酒伴如弟兄。吹塤吹箎和相狃。一別十年隔参商。不知豪爽猶昔不。老夫老毛耄加疎懶。因仮佳篇代瓊玖。」わたくしの引く所の善身堂集は明治四十四年の活字覆刻本で誤謬なきを保せない。瓊玖の句の如きは忽ち八言をなして読み難きが故に、わたくしは敢て妄に一字を剛つた。善本を蔵する人は幸に正されたい。
十一月には霞亭が神辺より的矢に帰り、伊勢を経て大阪に往き、兵庫より塾に還つた。三村清三郎さんの所蔵の梱内記に、此月十七日に霞亭が河崎敬軒を訪うたと云つてある。十二月十七日には霞亭が大坂より的矢にある碧山に書を寄せた。書は的矢書牘中にある。「先日来は緩々滞留得物語大慶仕候。殊更遠方御送行被下御苦労奉存候。小生儀十一日松坂宿、子文一人送り被申一宿、翌朝わかれ候。十二日椋本、十三日水口、十四日石山、十五日伏水舟、十六日浪華著仕候。雨航在坂、二三日会飲、今日屋敷へ参り候。園部氏甚供接に逢候。明十八日此表発足、大方兵庫宿りと被存候。此頃甚暖気に而道中も無苦被存候。」滞留の的矢なることは論を須たない。日附は「極月十七日」である。その甲戌(十一年)の歳なることは、末段に「菅翁はいづれ越年と被存候」の文あるより推することが出来る。霞亭の書信を逓伝する園部氏の阿部家大坂蔵屋敷の吏なることは上に見えてゐる。雨航は宇仁館太郎大夫である。
佐藤子文は松坂の別を碧山に報じた。的矢書牘中に漢文の手柬がある。「某啓。別来沍寒。伏惟二尊及足下起居清勝。近者令兄霞亭先生南帰。庭闈之歓。塤箎之楽。非言説所能尽。吾郷旧社諸彦叙闊飲宴。如僕下走。亦陪末席。以慰三秋之思。蓋先生之発備西也。往来有程。不得不再西。僕雖不能担笈遠従。諸彦送者既散。僕独従到松坂城。同投客舎。欲置酒。永斯一夕。独奈客舎荒寂。接待甚疎。為之悶々。遂早就寝。翌朝出送。酌于城西小店。到塚本遂別。僕瞻望之間。先生行色飄然。意軽千里。所謂天涯比隣。真先生之謂也。今因便具告足下。報諸二尊人。遠道風霜。莫深為念幸甚。歳云将除。明春定省之暇。恵然一来。諸容面晤不罄。十二月念五日。社末藤昭頓首再拝。呈北条君立敬賢兄足下。」印二顆がある。白文は「佐藤昭印」、朱文は「子文」。
七十三
文化甲戌(十一年)十二月に霞亭の大阪を発すべき期は一日を緩うせられた。霞亭は十九日に纔に発して、二十五日に廉塾に帰つた。その二十七日に弟碧山に与へた書がある。
「小生儀浪華四日程滞留、雨航在坂に而何歟と手間取候也。蔵邸園部氏へも参候処大預馳走候。当十九日大坂を立出候而、雨航御送行大仁村に而別酌等いたし、其日は西宮宿、廿五日無恙帰塾仕候。菅氏家内無別条候。明日(二十八日)は一寸福山へ罷越申候。帰来未何方へも得参り不申候。(中略。)此節は書生も皆々帰宅、綾両人許居申候。菅翁より霜月末之書状参り候。何様来三月頃でなくては帰装無之様子に候。鵬斎先生よりも書状詩など参り候。善身堂一家言と申経義之著述近々出来候やうすに候。」是が志摩より備後に至る旅程の後半と帰塾後の状況とである。江戸よりは茶山が帰期の遅かるべきを報じた。鵬斎は一家言の刊行を告げた。その寄せた詩は下に引くべき書に見えてゐる。霞亭の「夕陽村居寄鵬斎先生」の詩は或は復書と倶に寄せられたもの歟。「曾期歳晩社為隣。何事離居寂寞浜。海内論交常自許。尊前吐気与誰親。夕陽村裡三秋日。時雨岡頭十月春。千里相思難命駕。恨吾長作負心人。」
次に霞亭が身上の事を言つたものと郷親に対して情を攄べたものとを抄する。「小生身上一決も先老先生帰宅後に可仕候。本宅普請等いたし候などと申内意有之候。御地頭より願書下り候はゞ早々御知らせ可被下候。」此等は霞亭が籍を志摩より備後に移す事に関するものではなからうか。「尊大人様母様(適斎夫妻)何れも御機嫌よう御年むかへ可被遊と奉遥賀候。先日数日滞留仕候へ共、今更又々御なつかしく相成候事一倍に候。今少し居ればよかりしと残念奉存候。」霞亭の親を思ふこと切なりしを見るべきである。
次に例の如く弟を策励する語がある。「貴君(碧山)前日も縷々申上候通、無御懈怠御業務御勤御孝養御心遣千万依托仕候。御苦労之儀は推察仕候。学業わけて御心懸所祈に候。」
霞亭は碧山と袴を更むことを謀つた。それは京匠をして裁せしめた袴が華美に過ぎた故である。「先日京都へ袴上下頼置候而、帰路大坂迄相達し、持帰候へども、いづれも余りけつかう過、直段はり候而迷惑仕候。上下は随分よろしく候へども、袴奥丹後とやらいふものに而木綿衣裳へ著用不似合、且はよき衣裳国がらかつこうよろしからず候。不苦候はゞ其許(碧山)御持之袴と御かへ可被下候。一両二朱程もかかり候。屋敷便の節御遣可被下候。便次第此方よりも差出し可申候。いせき(伊勢喜)へは噂御無用。」
次に山田詩社の事がある。「山田社中へは出立後いまだ書通不仕候。いづれ来春の事と先延し候。佐藤子(子文)先日はひとり松坂迄被参一宿わかれ候。少し小生と用事も有之故に候。」
次に江原与兵衛の事がある。「当表第一心やすくいたし候江原与兵衛、借財のために家内引あげ、江戸へ出奔いたし候。気之毒に候。よき人に候へども、貧困いたし方無之、小生少し力落に候。」驥蝱日記に云く。「茶山先生族人江原与平、客冬(甲戌冬)遊勢南。」是が江原東遊の動機であつた。江原は江戸に奔らむと欲して、途上伊勢に留まつたもの歟。
書には猶的矢より発送した革茸が神辺に至らなかつたことが見えてゐる。「船の人へ御頼被成候かうたけとやら今に達し不申候。外に大切の入用物はなく候哉。」
十二月二十七日の書の事は此に終る。
七十四
文化甲戌(十一年)十二月三十日には霞亭が友を廉塾に会して詩を賦した。的矢書牘中の一詩箋に甲戌除夜の作と乙亥(十二年)元旦の作とが書してある。除夜の作は歳寒堂遺稿に補入すべきものである。「歳除与諸子同賦、余時自南州帰。到舎纔三日。明朝又一春。更驚拠学久。只喜拝親新。映雪移書帙。挿梅清路塵。尊前何寂々。猶有未帰人。」
是年霞亭は三十五歳であつた。
文化十二年(1815)には霞亭が歳を廉塾に迎へた。元旦の詩は遺稿に見えてゐる。「乙亥元日有懐田孟昌、原玄寿、藤子文諸君、去年今日、余与諸君探梅於丁谷、故及。客稀門巷似平時。塵外佳辰独自嬉。午雪霏々半為雨。春泉決々忽流澌。故情相恋人千里。新恨空看梅一枝。丁谷風光已堪訪。双柑斗酒好同誰。」遺稿には前年元旦に丁谷の詩が無くて、却つて人日に南渓の詩があつた。
正月六日に霞亭の弟碧山に与へた書が的矢書牘中にある。先づそのいかに自己を語つてゐるかを見よう。「今年は先生(茶山)留守、書生も寥々に候。併物事すくなく候而喜申候。十日は毎年開講に候。老先生帰家も一向しれ不申、いづれ二月下旬にも候哉。霜月下旬の書以来未便無之候。拙詩つくり棄御笑覧可被下候。(按ずるに上の除夜元日の作歟。)道中(甲戌十一月帰省)の詩も近々考可申候。(中略。)道中の癖つき候而、朝酒すこしのみたき位に候。しかしこれは不遠やめ候也。御地頭に差上候願書下次第御報可被下候。」
碧山に謂ふ語はかうである。「先日来の詩脱稿候はゞ御遣し可被下候。凹巷に請正もよろしく候へども、夫は待遠也。先出来候はゞ直に御見せ可被下候。三月頃にも相成候はゞ、一寸山田へも御越可被成候。しかし余り御世話にならぬやう御心懸可被成候。先輩へよくよく虚心に請益可被成候。書籍子文方に有之候ものなどの内借覧可然候。御双親様へ御孝養第一奉祈候。医業随分御精研可然候。人命所関係不容易候。誠意を以人を待候事、学問工夫とも第一也。(中略。)蓬萊にきかばや伊勢の初便。はやく御状御遣し可被下候。」
書中霞亭は前年の暮に亀田鵬斎の寄せた詩を弟に録示した。「鵬斎の詩懸御目候。昔年河豚を小生にせまりくはせし事有之、此冬も喫し候而憶ひ出し候に付、小生に寄懐せられ候由。井春経業已紛綸。遠入西州還楽群。鹿洞曾期可人到。豹堂合啓好懐分。三年漫趁越山雪。千里空帰函谷雲。一部河豚典一袴。尊前酔夢幾逢君。少しきこえがたき処有之候。」
次に高田静沖の消息がある。「文之助事など被申遣候。(鵬斎の語静沖に及ぶと云ふ意。)やはり彼塾(亀田塾)に居候。御存じ通の生質難化候而、やはり昔年之通也などと被申遣候。こまりもの也。」
次に出国数馬と云ふものの事がある。「かの出国数馬も小生罷在候節入候婦人離絶いたし候由、文之助よりくだらぬ書状遣し候。」是も亦或は亀田塾中の人歟。 書は世上の風聞に入つて、当時人の視聴を動すことの最大きかつた小笠原氏の内訂を説いてゐる。「豊前小倉小笠原侯内乱専ら噂に候。家老小笠原出雲と申佞人より起り候由、色々の風説に候。」小笠原氏の当主は大膳大夫忠固で、出雲の名は家老首席に見えてゐる。
七十五
霞亭は其文化乙亥(十二年)正月六日の書に世上の風聞として豊前小笠原氏の内訂を説き、言は一諸侯より他諸侯に及び、阿部氏の近事が筆に上るに至つた。「御当主も日光御かかりに付御物入多く、御領分へ御用金かかり可申之処、府中と申処信藤吉兵衛と申商家一人に而百五十貫目冥加の為とやらに而上へ献申候。河相周兵衛と申塾の世話人弟百貫目、右両人に而御用金やめに成候由。吉兵衛と申ものは味噌屋と申ものの僕に候而、中年より貨殖、三千貫目程の身上に相成候よし。俗事ながら商家と申ものは奇なるものに候。」
阿部氏の当主は備中守正精である。前年甲戌(十一年)九月二十一日に日光山東照宮修覆正遷宮祝の猿楽があつた。正精は恐くは此修覆の事に与つたのであらう。荒木義誉、石井英太郎二家の云ふを聞くに、献金者は延藤吉兵衛百五十貫、河相周兵衛三十貫、石井武右衛門百二十貫であつた。武右衛門は周兵衛の弟で、出でて石井氏を冒した。英太郎さんの曾祖父である。
霞亭は次に渉猟の余偶得たる所を碧山に報じた。其一。「尾張如来小語中におもしろき話。加納侯臣長沼国卿。剣師也。弟子三千余人。嘗語曰。一士人形質羸弱。当初不勝兵。数日能大刀。数月伎大進。歳余弟子皆曰。不易当。窃問。則跡父之讎者也。凡学剣者。誰不以為死地之用。而不如真有死地者。於是吾亦得進一歩。此心得学術医術何によらず肝要なり。」長沼国卿は四郎左衛門と称した。真心影流の剣客である。
其二。「病人の死前に間ひがあり、暫くよくなり候を、医書には見えず、清人朱鑑池と申に尋候処、回光反照と申由答候由、周防三田尻の医南部伯民が技癢録にあり。伯民は此辺九州にて相応之学医なるよし、著述もあちこち有之、小生などの名もきゝつたへ居候よし、彼辺の人の参り噂申候。」南部伯民は次年に至つて霞亭と相見る人である。
其三。「去年(甲戌)御咄申候書は独嘯庵黴瘡口訣と申小冊に候。あらあらおもしろく覚候。」霞亭は前年碧山に永富朝陽の書中の事を語り、偶書名を忘れてゐたことがあると見える。
書中には猶二三の雑事がある。「をゝの屋(大野屋歟)伯母」と云ふものが的矢にあつて病んでゐた。「七十余の人病気とかくはかどり申間敷、親族段々凋零、別而大切に御坐候。」霞亭は的矢の家より石決明の味噌漬を遺られた。「此節迄たべ候。少しはからく候へども損じは不致候。五家程の進物にいたし候。粕漬よりは旨くなけれども、酒客には却而よし。」又佐藤子文より海老漬を遺られた。「佐藤被遣候海老づけ甚おもしろし。」
二月十五日に霞亭は又書を碧山に寄せた。未だ茶山の江戸を発すべき期日を知らざる時の書である。当時井上氏敬との縁談は頻に話題に上つてゐた。所謂地頭より下るべき願書は此事に連繋したるものの如くである。下に的矢書牘中の此書を抄する。  
 

 

七十六
文化乙亥(十二年)二月十五日の書より、わたくしは先づ霞亭自己の身上の事を抄する。「送状願状御遣し被下安心仕候。先々小生方へ預り置候。送状には及申間敷由にきこえ候。何分追而可申上候。扨一決之義も段々外人よりは逼り参り候。老先生(茶山)帰後と小生より申候へども、先生帰期はまだ一向しれ不申候。夫故当月(二月)中に是非慶事相極め申たくとの事に候。如何相成申べきや、小生心中はまだ決著不仕候。それは少し主意も有之候故に候。扨塵累に繋れ候やとぞんじ候へば、今更つらく思ひ候。名教中之人不可奈何候。この頃ふと麤歌出候。御一笑可被下候。世をばまだそむきはてねどうたたねの夢にぞかよふ峰の松風。いづれもしも慶事相済候はゞ、早速御報可申上候。」覆亭は既に久しく的矢の地頭より下るべき願書を待つてゐた。今其願書は下つた。そしてわたくしは、霞亭の忽ち点出したる「慶事」の二字に由つて、事の井上氏敬の于帰に関するを知つた。合巹の期は既に迫つてゐる。それに霞亭は猶とつおいつして輒決せず、夢に入る松風の音に耳を傾けてゐるのである。
書は此より貝原益軒の養性説に及び、郷親の健康をねが希ひ、友朋の安寧を望んでゐる。わたくしは行文の脈絡を断つに忍びずして、略原構の次第を保存し、此に抄録の筆を下す。「近来養生の道に用心仕候而、貝原先生の頤生輯要、養生訓等の書、並に医書類摂養に関係いたし候書よみ候。養生訓、甚諄々おもしろく候。今度の便に大坂書林へ申遣、一部差上可申候。御大人様並に母様へも懸御目可被下候。夜分にてもいくたびも母様などへ御よみきかせ可被下候。勿論自分の心得とも相成候。篤実の大儒の作故、虚談は無之候。小生其中の導引術を先日来ひとり日々いたし候。大分しるし有之候やう覚え候。大人様御痰症有之候。ちと御養生御服薬等も被成候はゞいかゞ。余り厚味なるもの御寝しななどにはよろしかる間敷、痰は別而可畏候。母様へ御すゝめ申候而、飯後にても又は御気むすぼれ候節、よき酒二三杯宛めし上られ候やう可被成候。慶助(敬助沖)顔色始終あしく候。一月一度は是非灸治等いたさせ可然候。扨申に及ばぬ事に候へども、万々一御双親様の中に御病気等之事候はゞすこしの事にても早速御知らせ可被下候。少々の事遠方迄申遣し候にも及ばぬなどと申事の決而無之様奉願候。夫にかぎらず何にても緩急の節は大坂屋敷迄三日限御状御差出し可被下候。遠方隔り候故、夫程たへがたく思ひも不仕候へども、とかく御双親様並足下、社中などの夢頻々と見申候。此頃山口君手書中にも小生を夢に見候而、其夢中に歌をよまれ候よし被申遣候。其歌は。君来ぬと見し夢さめてかたらはむ人なき宿の有明の月。小生かへし。あひみきと聞くもはかなき夢がたりうれしとやいはむかなしとやいはむ。きこえ可申や、御一笑可被下候。」
七十七
わたくしは霞亭の文化乙亥(十二年)二月十五日の書牘を抄して、その自己を説き、父母兄弟朋友を説く一段を終つたが、文中猶親戚の事に及ぶもの一二がある。其一。「新屋敷伯母春来如何候哉承度候。三日限御状御差出し可被下候。」是は前日の書に所謂「をゝの屋の伯母」であらう。其二。「土佐屋従母御儀御死去誠に驚歎仕候。(中略。)随俗例七日酒肉相却候而居喪仕候。聞忌に候故、正月二十三日承知仕候、当二十二日迄服中に御坐候。」霞亭は金を餽つて茶若くは菓子を供へむことを請うた。
書中には又頼氏の近事を報ずる一段がある。「春水翁令嗣権次郎労症に而此頃死去いたし候由、いまだ二十五六歳の人、才子に有之候由、可惜又気の毒なるものに候。是は竹原本家春水弟の春風翁の独り子の由、久太郎跡へ養子いたし候也。」権次郎は春風惟彊の子景譲元鼎で、春水惟完の養嗣子となつてゐたのである。山陽撰の墓表に依れば、元鼎は此年乙亥(十二年)正月二十八日に死した。年二十六である。
最後に書籍に関する事二条、飲饌に関する事二条を抄する。「芭蕉発句集見あたりもとめ置候。大人様へ御上可被下候。併これも大坂書林便に来月差出し可申候。」霞亭は既に貝原益軒の養生訓を的矢の家に遺り、又芭蕉の句集をも遺らうとしてゐる。「樵歌渉筆長井にまだ八部か六部のこり居候。御入用候はゞ、御とりよせ可被成候。」長井とは門人長井弥六の家歟。此二事は書籍の事である。
「おもしろくなきものながら、またさわら子一つ任有合差上候。」さわら子とは馬鮫魚(鰆)の鮞歟。是は備後の産物である。「ついでに申上候。さくちといふこといつぞや御尋に御座候。これは小生覚え違に候。嘖({さく}原文は魚偏)子と申はぼらの子をいふなり。外の子はいひがたきにや。」是より先碧山は霞亭に嘖子の何物なるかを問うた。霞亭は答へて魚鮞だと云つた。今前言を改めて、菩良の子だと云ふのである。按ずるに嘖には数義がある。説文には嘖字は見えない。嘖を烏賊とするは、嘖鰂の相通に因る。正字通から出てゐる。是が一つ。嘖を鮒とするは嘖鯽の相通に因る。博雅、爾雅の註から出てゐる。是が二つ。此二つは鰂鯽の相通に由つて聯繋してゐる。嘖を小貝とするは嘖
(虫偏に責)の相通に因る。爾雅より出てゐる。是が三つ。嘖を魚子とするは嘖
(月偏に責)の相通に因る。正字通から出てゐる。是が四つである。本問題は右の第四義に従つて解すべきものである。さて嘖子の語は新修余姚県志に見えてゐると云ふ。これを加良須美に当てたのは重修本草綱目啓蒙の説である。和名紗には嘖字が無い。新撰字鏡には「子石反、去、鮪鮒」とのみ云つて、魚子の事に及ばない。しかし和名鈔箋註は加良須美を以て米奈太の子となし、「謂菩良子者誤」と云つてゐる。霞亭の斥す所は加良須美であらう。若し然らば霞亭は箋註に謂ふ誤に陥つてゐたのであらう。加良須美は今嘖子と書かれずに、鱲と書かれる。箋註に従へば鱲は樔(原文は魚偏)の譌で、樔は奈与之である。前段馬鮫魚の鮞は加良須美の劣品である。此二事は飲饌の事である。
七十八
次に文化乙亥(十二年)三月五日に霞亭の碧山に与へた書が的矢書牘中にある。霞亭が神辺にあつて此書を裁したのは、茶山が江戸を発して帰途に就いた第十日である。茶山が藤川駅に宿した日である。
先づ霞亭の奈何に自己の上を語るかを看よう。「小生無事罷在候。乍慮外御安意可被下候。(中略。)婚事先月にもいたし候やう外人申候へども、少々主意も違ひ候筋に思ひ候人も有之候やと被存候故、其一段今一応菅翁へ申上候上の事と申延し候。いづれ菅翁帰後の事と申置候。御存之通、小生生来雲水杜多の境涯に罷在候処、俄に妻孥の体、且は官途に拘束せられ候事、我ながら不似合に被思候而おかしく候。人倫名教、儒者第一の事に候へども、山水聞憔悴風流難忘、今更心迷候。可成は一所不定の方快楽たるべく被存候。併是は一己之私の事、何分にも御双親様御安心の方に随ひ可申候。何を申も学業の為に候。」是は二月十五日の書に云ふ所と大差は無い。しかし「何分にも」以下の口吻より推すに、霞亭は彼此の間に郷書を得てゐるらしい。そして郷書は霞亭に勧むるに茶山の言に従ふべきを以てしたらしい。書の首に「二月八日御手簡、晦日相達し拝見仕候」と云つてある。碧山の二月八日の書が晦に霞亭の手に到つてゐるのである。
霞亭は上に迎妻の事を言つてゐるが、其他猶禁酒の事をも一言つてゐる。「当春は例よりは花なども遅く覚え候。しかし此頃は二三分の開花も見え候。近来養生の為、酒を止め見申候。各別身体健やかに、脾胃調ひ候やう覚え候。此序にやめにも被成候はゞともぞんじ候へども如何あらむや。」末段は一時の廃飲の功を奏したるを見て、永くこれを廃せむかと思惟し、又自らこれを能くせむや否やを疑つてゐるのである。
次は碧山の事である。「母様(中村氏)御文足下(碧山)御出精の義に被存申候。大慶不過之奉存候。何分とも家業勤学別而御奉養之際に御精勤奉希候。(中略。)御作拝見仕候。少々加筆仕候。御取捨可被成候。又々御出来候はゞ御擲示可被下候。随分熟錬被成候様可然候。一句の上より全体のととのゐを第一御心掛可被成候。」
霞亭碧山の袴を更へむとする議は終に行はれた。「袴御遣被下辱存候。此方の袴今便差出し可申之処、大坂書林便荷はり候故差扣申候。跡より差上可申候。此方別段に又々一つこしらへ候。」碧山の神辺に送つたのは的矢じたての袴、霞亭の的矢に送らむとするのは京都じたての袴である。京都じたての華美を嫌つた霞亭も、的矢じたての粗野に過ぐるを見て、別に神辺じたての袴をあつらへたものと見える。
次は霞亭の郷里に遺り、又郷里より得た書籍の事である。「芭蕉翁句集大人様(適斎)へ差上候。養生訓書林へ申遣候間、定而遣し可申候。御心得の為に御熟読可然候。大人様母様へも入覧可被下候。」是は郷里に遺つたものである。「大学纂釈掌手仕候。」大学纂釈とは古賀精里の章句纂釈であらう。是は郷里より得たものである。
わたくしは霞亭が人参と海苔とを郷里に遣つた事を此に附記する。「御種人参少々母様へ差上候。御薬用の節二三分宛も御用被遊候様。畢竟たわゐもなきものに候へども、先日小生服用にいたし候様一袋もらゐ候まゝ少々御すそわけ申上候に候。(中略。)広島のり乍序少々封入仕候。異郷の風味に候故也。御閑酌御試可被成候。」
七十九
文化乙亥(十二年)三月五日の霞亭の書には二三知人の消息がある。其一。「及時居士もやはり嵯峨に被居候由、いせき(伊勢喜)より噂申来候。」西村及時は霞亭の住み棄てた任有亭に居つたらしい。浜野氏蔵河崎誠宇受業録に「嵯峨任有亭寄懐霞亭」の詩がある。「流憩憶君楓際寮。壁空無復旧詩瓢。高調任上樵童口。梅発山村不寂寥。宜堂先生。」宜堂は及時の一号である。
其二。「当春いせきへむけ藤浪翁へ書状差出し候処、極月(甲戌十二月)六日御死去のよし、いせきより申来候。折角心やすくいたし候よき御老人に有之候処残念に候。弔書さし出し候方もいづかたやらむ、夫故先々差扣候。」藤浪は未だ考へない。且「浪」字の草体も不明である。
其三。「此無量寺への書状無拠被頼候。河崎辺へ便の節御達し可被下候。山田をつ坂に御坐候。貴君(碧山)御出のせつ被遣候ても又は池上君(隣哉)あたりに頼候てもよし。あの近辺也。此老僧今は伊賀とやらむへ隠居いたし候由、此里の出生の由、姪とやらが一人のこり有之候。」山田無量寺の老僧は名を詳にしない。
書中の抄すべきものは略此に尽きた。最後に天龍寺の事を附して置く。「此辺(神辺)に而噂には天龍寺焼失いたし候やう申候。実説に候哉、無覚束候。京都より何とも申参不申候。」
此月三月九日に大冢不騫が伊勢山田の南岡に葬られた。名は寿、字は士瞻、東平と称した。信濃国伊奈郡駒揚駅の人大冢子躍の子である。河崎誠宇の受業録に孫福孟綽の詩がある。「三月九日葬冢子瞻于南岡、是夜夢与伯頎訪子瞻、酒間言志、覚後悵然、賦此眎伯頎。雲飛水逝杏無蹤。玉骨空堆土一封。名是令君身後著。来猶与我夢中逢。弔花春事添新恨。背月宵遊耿旧容。推枕回看灯影暗。耳辺如聴接談鋒。」想ふに霞亭の訃を得たのは数十日の後であらう。しかしわたくしは遺稿中の輓詩を此に録する。「悼冢不騫。崢エ気象使人思。同学行中独数奇。十載交歓帰片夢。一生清苦見遺詩。峨山雨雪連牀夜。紫海春風回棹期。蔵得書筐図酌別。忍看親自写仙姿。」詩の後半は自註があつて始て解せられる。「辛未仲冬。君将遊筑紫。問予於嵯峨梅陽軒。一夜酒間作酌別図。」
驥蝱日記を閲するに、茶山は此月三月七日に河崎敬軒と共に四日市駅に宿し、八日に敬軒と別れた。その神辺に帰つた日を詳にしない。行状に「三月帰国」と云つてあるのは江戸を発した時である。集に「帰後入城途上」の詩があつて、「官駅三十五日程」と云つてあるを見れば、二月二十六日に江戸を発した茶山の神辺に帰つたのは四月朔であつた筈である。乙亥(十二年)は二月大、三月小であつた故である。しかし後に引く江原等の書に拠るに、三月二十九日であつたらしい。
四月十九日に霞亭は井上氏敬を娶つた。霞亭は星期前に碧山に与ふる書を作り、未だ発送せずして妻を娶り、廿一日に追書して発送した。的矢書牘には惟其追書のみが存してゐる。「追啓。此書状相認置候処、便無之延引仕候。本書申上候慶事延引と申上候処、茶山翁急に思召被立候而、本月十九日婚事相調申候。普請中やはり廉塾に罷在候。右之段御双親様へ被仰上可被下候。披露之義は菅翁姪甥と申ものに而、小児(菅三惟縄)之義はつれ子と仕候而、則私子分にいたし候。是又左様思召可被下候。先は此児に菅氏をたてさし候内意に御坐候。」
八十
上に抄しかけた霞亭迎妻後の第一書には、三十行に満たざる断片ながら、猶二事の録存すべきものがある。大坂の書肆を弟碧山に紹介したのが其一である。「大坂に而書物もとめ候処、多少によらず、心斎橋筋北久太郎町河内屋儀助と申書林へ可被仰遣候。此方より其訳申遣置可申候。代払は節季にても可宜候。才が屋(雑賀屋)迄とゞけさし候義可然候。」大坂の種玉堂河内屋儀助は京都の汲古堂河南儀兵衛と共に茶山の詩を刻した書估である。北条氏は新に茶山の親戚となつたために、此の如き便宜を得たのである。其二は霞亭が碧山に輓詩を作ることを勧めた事である。「大冢、守屋弔詩など御作り可然候。」大冢は不騫寿である。守屋は未だ考へない。以上は文化乙亥(十二年)四月二十一日の書である。
的矢書牘中次に日附を「四月廿六日」とした霞亭の書がある。亦碧山に与ふるものである。此日附には些の疑がある。何故と云ふに、書の首に「三月念二日御手教(碧山手書)今日廿五相達拝見仕候」と云つてあるからである。然らば二十五日に書きはじめ、二十六日に書き畢つたものかと云ふに、其墨痕を検すれば一気に書いたものらしく見える。初の「廿五」は恐くは廿六の誤であらう。
此書には先づ霞亭夫妻の新居の事が見えてゐる。「此間(二十一日)書状相認候而京都迄頼遣し候。大抵此書状と前後に相達し可申候。爾来無何違状候。其書中にも申上候通、本月十九日小生婚事相済候。御双親様へ被仰上可被下候。当分やはり廉塾に罷在候。新居、町にざつとしつらひ候。来月(五月)中には落成も可仕候。出来次第彼方へ引移り候積りに御坐候。此方先生(茶山)風、何事もざつとと申候事、無造作なる事がすきに候。先日婚事もいひ出し候而半日間に事を終へ候と申位の事に候。」茶山の坦率を見るに足る。
霞亭は碧山の来つて婚を賀することを辞した。「貴君御出之義被仰聞候へども、小生義いくへにも懸御目たく候へども、遠境御苦労、且は費用等も入候事に候へば、必々態と御越には及不申候。夫よりも山田社中にてもよき友なども御坐候はゞ、御見合御越も候はゞ妙にて可有之候。小生非事永住に付、御越之義は決而夫に及び申まじく候。」霞亭の坦率も亦茶山に譲らない。
霞亭は廉塾に厭ふべき客と喜ぶべき客とのあることを語つた。「先生(茶山)帰後日々来客迷惑致候。筑前竹田定之允被見候而新塾に滞留いたし候。此人咄相手に成候而悦申候。」竹田定之允は茶山集、驥蝱日記等に見えてゐる器甫である。茶山と共に江戸を発して西したことが驥蝱日記に見えてゐる。茶山集を閲するに、竹田は二年前癸酉(十年)にも神辺にゐた。「又々被見」と云ふ所以である。
霞亭は自他のために養性に留意することを忘れない。「御病用之外御他出も無之御読書はかどり候由、大慶不過之奉存候。何分御勉励奉祈候。追々暑蒸、居処御ゑらび被成候而、暑熱の身に伏し不申様御心付可然候。双親様はもとよりの義、足下(碧山)弟妹共時々御灸治等被成候様祈候。小生日々独按摩等心懸候。其効か、一段身体も壮健を覚え候。」わたくしは此に養生訓の事を附する。「貝原養生訓新本増補の方差上候様申来候。相達し候哉。」此は大坂書估の報道である。
霞亭は一の拓本を佐藤子文に贈つた。「此墨本御序に佐藤へ御達し可被下奉頼候。」その何の拓本なるを知らない。四月二十六日の書の事は此に終る。  
 

 

八十一
文化乙亥(十二年)五月には霞亭が書を的矢に遣つたが、今存してゐない。そのこれを遣つた証は六月十一日の書に見えてゐる。亦弟碧山に与へたもので、的矢書牘中にある。「三月四月五月共に書状差出し候。大坂屋敷並河儀(河内屋儀助)より一々勢州へ下し候様申来候。定而浮沈は有之間敷候。才が屋方御聞可被下候。」
霞亭が新居の工事は漸く進捗してゐる。「先書段々申上候通、以来何の別条も無之候。新宅普請も已に五十日程日々かかり居候得共、とかく埒明不申候。ざつといたし候修屋にても日数かかり候ものに候。いづれ当月(六月)中には引移り候事出来可申候。至極涼敷家に有之、後は菜園など有之、黄葉山を正面に見候。」歳寒堂遺稿に「移居雑賦」と題する五律七首がある。其一に「朱蓋峰当牖。紫薇墟隔墻」の十字がある。牖に当る峰は黄葉山であらうか。
霞亭の郷親に摂養を勧めたことは例の如くである。「当年は例年よりも暑気未だうすく覚え候。御地辺は如何候哉。七八日以前より葛衣など著し候位に候。暑中御双親様始足下並に弟妹等随分御用心専一奉祈候。御灸治等御心懸なされ候やう可然被存候。涼敷処へ御立まわり被成候方御用心第一に候。暑中は業務(医業)等もさまであくせくと被成候わぬやう(被成候)が尤可宜候。」
山口凹巷、佐藤子文等は久しく消息を絶つてゐた。「勢州山口より書状三月参り候のみに而、佐藤其外よりも久敷便無之候。」
門人永井弥六の家は霞亭と郷親との間に立つて、書信を伝逓してゐたと見える。「永井氏相替候儀も無之候哉、当年は一度も書状参り不申候。書状毎々御世話之事篤く御礼可被下候。爾来相頼候処やはり永井氏よろしく候哉、御序に御きかせ可被下候。」
六月十一日の書の事は此に終る。
霞亭は六月には新居に移ることを得なかつた。そのこれに移つたのは七月五日である。事は菅氏の族人江原与兵衛菅波武十郎の二人が適斎碧山父子に与へた書に見えてゐる。「誠に先般者就吉辰譲四郎様御婚儀首尾能御整被成、其後も無程御居馴染被成芽出度、皆様御満悦之段奉察、於此方一同喜仕候。先生旧宅も今般普請出来、当月五日譲四郎様御夫婦共日柄能御移被成、重々芽出度奉存候。随分御安養被成御坐候。乍憚御休意可被下候。老先生(茶山)も当三月末無恙帰宅被致候。是又御安心可被成下候。(下略。)七月十九日。江原与兵衛。菅波武十郎。北条道有様。御同立敬様御侍者中。」移居雑賦の詩に就いて新居の方位景物を考ふるに、茶山の家と相距ること遠くはなかつただらう。「移居仍一塢。衡宇近相望。(中略。)晨昏来往好。路入稲花香。」新居より茶山の家に往く道は水田の傍を経たものと見える。又新居には木槿の生籬があつて(木槿半籬秋)、東隣は酒店であつたらしい。(東隣是酒壚。)
是より先同じ月の十五日に霞亭は碧山に与ふる書を作つた。移居後十日の書であるから、必ずや移居を報じたものであらう。惜むらくは前半は佚亡して、的矢書牘中には其後半のみが存してゐる。此断片には南部伯民の事が見えてゐる。「南部伯民と申周防三田尻の医人随分名高き人に候。学問もよし、療治もよろしく候よし。先日此辺へ被遊候而、塾へも被見候而一見いたし、今日西帰、詩をよせられ候。一寸和韻いたし候。原韻は前後忘却仕候。拙和懸御目候。帰興匆々任短篷。暫歓如夢忽西東。扇頭題寄清新句。揮起周洋万里風。甚匆作に候。」其他には京都浅井周助の事、嵯峨樵歌の事がある。「京都浅井よりは此間書通有之候。」「嵯峨樵歌残本有之候はゞ屋敷迄御遣し可被下候。段々人のもとめ多く有之候。」
同じ月の二十三日に霞亭は又碧山に与ふる書を作つた。茶山の的矢に遣る手書と物品とが此書と共に発送せられむとした。「京都便荷物等皆々仕立仕廻(しまひ)候処、太中翁(茶山)より書状包参り候故、一併に差遣候。足下へ書状なれば足下御返書、大人様へ御状なれば大人より御返書可被下候。何やら此中に入居申候。」
八十二
文化乙亥(十二年)七月に霞亭夫婦が神辺の新居に移つた後十八日の事である。霞亭は書を弟碧山に与へた。上に云つた七月二十三日の書が是である。
わたくしは此書を見て、霞亭の新婚新居を併せ賀した菅氏親戚の一人江原与兵衛が霞亭の家に近く住んでゐたことを知る。「江原与兵衛も先達而帰郷、此節はもとの通役儀等被仰付候。つい隣家に御坐候。」帰郷は江戸より還つたのである。
又新居雑賦が少くも幾首か早く此時に成つてゐたことを知る。霞亭はこれを扇に書して碧山に贈つた。「扇子の詩は新居の作也。又々近々出来候はゞ可差上候。」
霞亭は茶山の贈る所の物を此書と共に発送したので、報瓊のために思を労し、碧山に告ぐるに茶山の食嗜を以てしてゐる。「急に御報にも及申間敷やに候。もしも被遣候はゞ、于瓢などは随分よろしく候へども、去年来山田より大分参り候而、まだ多く有之候。わかめ、ぼら等御無用に候。あわびも段々参り候。菅翁は何も好のなき人に候。油こき物は皆きらゐに候。しかし海鰌の白き皮付肉のよき(が)候はゞ、御序に御恵可被下候。山田の便にて可被遣候。是もいかやうにてもよろしく候。先は小生などたべ候料に充候。」
此書の末に「余(餘)は本文両通に有之候」の句がある。わたくしは的矢書牘に就いて所謂本文の何であるかを探討して、遂にこれを知ることを得た。是より先七月十五日に霞亭は的矢に遣るべき書を作つたが、発遣の便を得ずに、留置した。次で前日二十二日に又一書を作り、父適斎に献ずる索麪一篋、碧山に送る袴地と併せて梱包した。二十三日の書は更にこれに副へたものである。そして七月十五日の書は其前半を佚し、二十二日の書は全く存してゐる。わたくしは後者に由つて此顚末を明にしたのである。
二十二日の書は只「七月廿二日」の日附があるのみで、遽に見れば何の把捉すべき処もない短文である。「中元(乙亥七月十五日)書簡相認置候処便無之延引、此信と一併に相成申候。(中略。)甚麤末之品に候へども索麪一箱大人様へ進呈仕候。不敗物、何も此方より差上候ものとては無之、御免可被下候。保命酒は途中に而間違出来やすく、かつは京よりの賃銭等あまり費に候間差控申候。」惟此の如きに過ぎない。此時袴地が同じく送られたことは、後の八月八日の書に由つて証せられる。
以上三書同発の事を言ふ一段は、わたくしと雖猥瑣の甚だしいのを知つてゐる。此篇を読むことを厭はぬ少数の好事者も、定て鄙意の存する所を知るに苦むであらう。しかしわたくしは年次なき我国の古人の書牘を読む法を講じてゐるのである。そして講究のメカニスムの一隅を暴露して人の観るに任すのである。此講究の有用無用はわたくしは問ふことを欲せない。世に偶無用の人があつて好んで無用の事をなすも、亦必ずしも不可なることは無からう。
前年渋江抽斎を伝した頃、一文士は云つた。森は断簡を補綴して史伝を作る。此の如きは刀筆の吏をして為さしめて足ると云つた。是は容易く首肯し難い。且く広瀬旭荘の語を借りて言はむに、史館は正史を修むる処である。間史を修むる官廨は無い。縦ひこれを設けられたとせむも、吏胥の間、忍んで此の如き事をなすものの有りや否は疑はしい。わたくしの此言をなすのが、官廨に於て有用の事が等聞視せられてゐると云ふ意でないことは固よりである。
八十三
文化乙亥(十二年)八月には的矢書牘中霞亭が弟碧山に与へた八日の書が遺つてゐる。方五六寸の紙片に蠅頭の文字で書いたものである。「半切切れ候而甚細書御免可被下候」とことわつてある。その乙亥なるを知るは彼三書同発の事より推すのである。「七月京都舛屋便に索麪及袴地其外菅氏よりの品物等一併佐藤子文迄頼遣し候。此節大方相達し可申奉存候。」袴地の同じく往いたことは、此に由つて知られる。霞亭が京都で買ひ求め、その華美なるを嫌つて碧山の袴と更へたものである。舛屋の「舛」字は墨瀋に半ば掩れて不明である。
これを書する時霞亭は碧山の風邪に冒されたことを聞いてゐた。「風邪は当分之事に候哉、早速御慎みのよし、尚々御用意専一奉存候。」霞亭自家の生活は平穏無事である。「日々会業いそがしく候而、春来いづかたへも参り不申候。二月に二里許有之候処へ遊行候外、一切出門不仕候。寂奥御憐可被下候。」恒心詩社の音耗も断えてゐた。「山田社中よりも一切音信たえ候。」的矢の親戚に病む人があつて瘥えた。「新屋敷伯母御快気の由大悦仕候。」
此月八月の二十日に恒心社の一員東恒軒が歿した。誠宇の受業録に孫福孟綽撰の墓表がある。恒軒、名は吉尹、字は君孚である。父久田常瑛が京都丹羽某の女を娶つて二子三女を生ませた。兄を常隼と曰ひ、家を嗣いだ。恒軒は其弟である。女子は長鶴が夭し、次俊が森島氏に適き、季幸が八家氏に適いた。恒軒は宝暦十三年(1763)に生れ、安永九年(1780)十八歳にして東重邦に養はれた。初の妻は小田愛忠の女、後妻は洞津の藤川氏である。並に子がなかつた。此秋水腫を患へて歿した。年は五十三であつた。
恒軒の著す所は論語解、勢江集、恒軒稿がある。(墓表。)嵯峨樵歌に曰く。「君夙研覃魯論。別為一註解。今漸已脱稿。嘗謂予曰。明春予歯五十。拙著亦適当完成。吾願会諸君訂議。且聊自賀成業。子其千里命駕。深所希望。」是は「明春予歯五十」と云ふより推すに文化辛未(八年)の事であつた。恒軒の論語解は上梓せられたか否を知らない。論語年譜は支那日本の撰述を併せて「論語解」と題するもの四十八種を臚列してゐるのに、恒軒の書は其中に見えない。
恒軒の人となりは墓表にかう云つてある。「先生為人敦直。平生倹薄自安。与人言。必吐中情。行無虚飾。或遇非義。雖貴介豪富。輒面折其不可。無所回避。以是人亦高其風。敬而慕之。性嗜酒。飲量過人。今茲(乙亥)自春渉夏。全廃飲。」霞亭の樵歌に云ふ所も略同じである。「其為人。天真横出。不修辺幅。而逢義不可。覿面罵斥。無所趨避。有酒量。飲則口吃。」口吃の事は霞亭の一聯にも見えてゐる。「得酒談奇奇或吃、辞銭守道道曾玄。」
霞亭は訃を得て「哭東恒軒」の五古を作つた。未刊の遺稿に載せてある。誠宇の受業録にも亦此詩があつて末に「乙亥九月、北条譲拝具」と署してある。篇長きを以て悉く録するに及ばぬが、わたくしは句を摘んで霞亭と恒軒との交を一顧したい。
八十四
文化乙亥(十二年)(1815)八月二十日に東恒軒が歿したので、霞亭は九月に五古を作つてこれを弔した。わたくしは詩の云ふ所より種々の事を知ることを得た。「憶昔初相見。忘年承盛眷。中間十五年。友誼曾無倦。」霞亭の恒軒に交つた初は、享和辛酉(1801)去洛の前後でなくてはならない。恒軒三十九歳、霞亭二十二歳の時であつた。
二人の交は霞亭が林崎書院長たるに及んで深きを加へた。「櫟街寄萍迹。来往無晨夕。疑義時質問。蔵書互通借。」恒軒は既に四十七歳、霞亭は三十歳になつてゐた。「櫟街」は竹柏園主に乞うて伊勢人に問ひ、山田月読宮の北なる一之木町なることを知つた。昔いちゐの木の大木ありしよりの名で、元文(1736)の頃に至るまで「櫟町」と書したさうである。
霞亭の嵯峨生活は二人の間を隔てたが、雁魚の往来の絶えなかつたことは樵歌に由つて徴せられる。前年甲戌(十一年)の冬霞亭は神辺より帰省して、又恒軒と相会した。「去年帰省日。同人会一堂。故態嫌猜絶。劇談平昔償。」霞亭が神辺に帰る時、恒軒は送つて宮川に至つた。「宮水送我夜。洗愁累千觴。耿々天将曙。班馬嘶路傍。」
此年乙亥(十二年)に霞亭は河崎敬軒の書を得て、恒軒の酒を廃めたことを知つた。「前月河子信。報君近状来。春来乏気力。不復銜酒杯。聞之雖不安。意謂是偶然。不日応回復。吾心為自寛。」
未だ幾ならぬに恒軒の訃は神辺に至つた。「茫然疑夢寐。把訃再三視。視此良不妄。酸辛満五臓。海内足交遊。知己斯人喪。」霞亭の哀悼は頗切であつた。「已矣終天地。何路接容光。容光恍在目。泣向白雲長。孤鴻叫天際。明月照屋梁。展転不能寐。喞喞伴寒螿。」
東夢亭は恒軒の歿後、山口凹巷の世話に由つて青山氏より入家した恒軒の末期養子ださうである。
九月九日に霞亭は書を碧山に与へた。亦的矢書牘の一である。「小子無事、家内とも無恙候。」有妻の人の語である。
霞亭の近状を抄する。「此方諸般無別条候。新宅追々草木等うゑ候。仲秋の月見は居宅にていたし候。日々昼間は塾へつめ候而、少しも閑時なく候。講書は書経集伝、左伝等隔日にいたし候。(中略。)とかく今迄方外之人となり居申候処、少々宛検束、節句じやの、親類吉凶などと役しられ候而、時々福山へも参申候。迷惑仕候。併世の中のさまと、無是非観念仕候。」廉塾に於ける本業の一端が始て窺はれる。「書経集伝」は所謂蔡伝であらう。当時陳師凱の旁通、袁仁の砭蔡編、陳櫟の纂疏、董鼎の纂註が已に刻せられてゐて、就中後の二書は新に市に上つたのであつた。左伝の如きは秦滄浪の校した流布本が始て四年前に刻せられたのである。
文中「仲秋の月見は居宅にていたし候」の句は、歳寒堂遺稿の詩を以て註脚とすることが出来る。是より先霞亭は微恙があつた。「十四夜、余臥病、不能赴廉塾詩会」云々の詩がある。次で「十五夜、諸賢集草堂、螂得青」の詩がある。「待月黄昏坐小亭。跫然幸破径苔青。先欣微白生遥嶺。已見清光可半庭。病況今宵渾似忘。歓情近歳未曾経。酒残不忍空眠去。護得暁寒依紙屏。」
次に諸友の消息を抄する。山田詩社の人々は金を餽つて霞亭の婚姻を祝した。「恒心社十人名前より金五百疋昏儀祝儀に参り候。子文(佐藤)よりは中元祝儀百疋被遣候。この十人の名前の人へは御出会之節名々御礼被仰可被下候。」
八十五
文化乙亥(十二年)九月九日の霞亭の書より、今諸友一々の状況を抄出する。
其一。佐藤子文。「子文的矢紀行及詩冊参り候。驚入候上進に御坐候。三十韻の的屋より帰途の詩最合作に候。」
其二其三。東夢亭、孫福孟綽。「文亮(夢亭)、孟綽駸々の由欽服仕候。」霞亭は以上三人の進益を説いてゐる。
其四。東恒軒。「恒軒久敷病気の由、何卒回復いのり候。」恒軒の訃は九日には未だ至らなかつたのである。
其五。山口凹巷。「凹巷兄は迂斎翁物故後はとかく多事之由に御坐候。」凹巷の父迂斎又迂叟の歿したのは此年乙亥(十二年)四月十二日であらう。河崎誠宇の受業録に「丁丑(十四年)孟夏十二日迂叟大祥忌」の文がある故である。
此書には最後に霞亭の同胞二人の年忌の事が言つてある。そして其一人の歿年は今北条氏に於ても湮滅して復知るべからざるに至つてゐたものである。「尚々今年はおぬゐ内蔵太郎十七年と存候。定而感愴奉察候。已に当月正当に候。薦詩等跡より差出し可申候。」霞亭の弟子彦は寛政十一年(1799)己未九月十九日に歿した。此年乙亥(十二年)(1815)九月が十七回忌「正当」なることは霞亭の云ふ如くである。是は既知の事実である。これに反して霞亭の同胞女子、適斎の長女縫の生歿は今に至るまで全く知るべからざるものであつた。然るに此書の云ふ所に従へば、縫も亦寛政己未九月に歿したのである。惟其歿日のみが尚未詳である。
霞亭が「跡より差出し可申候」と云つた詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「九月(乙亥)十九日亡弟子彦忌辰賦薦。姜被難忘当日情。尤憐逐我客京城。僑居逢盗無衣換。孤寺同僧有菜烹。暮雨渚辺鴻雁下。秋風原上鶺鴒鳴。天涯涕涙空盈把。不得家山一掃塋。」霞亭の所謂薦詩は辛未(八年)の作が嵯峨樵歌に見え(「露下黄英代弁香」の七絶)、癸酉(十年)(「世事茫然真可嗟」並に「筆硯依然猶未焚」の七絶二)甲戌(十一年)(「遠向家山差一巵」等の七絶六)の作が遺稿に見えてゐる。上の七律は其次である。
的矢書牘に九月十五日の霞亭の書があつて、又「索麪一箱及包物、外に袴差上候」と云つてある。是は前に裁して未だ発送せずにゐた書(上の九月九日の書歟)と同じく霞亭の手を離れたものである。「此頃書状差出し可申相認置候故、一併差上候。」宛名は又碧山である。
碧山が的矢の中秋を報じた故、霞亭は神辺の中秋を以て酬いた。「中秋頃時候大抵被仰越候趣に候。しかし十四夜小陰、十五十六は快晴に候。百里外少々の不同は有之候。拙詩にて略御領知可被下候。」詩は上に云つた十四夜病中と十五夜草堂集との二律である。
書中霞亭の自己を語ること下の如くである。「菟角此方も菅翁内人暫時病気、此頃少々快気と相見え候。塾長の儀故、いづかたへも出遊出来不申候。甚窮屈なる事に候。」内人は後妻門田氏である。病気の事は茶山集に見えない。
霞亭は咳逆の志摩に行はれたことを聞知した。「八月風邪流行いたし候由、御鬧敷奉察候。」
霞亭は碧山に託するに敬助惟寧を教ふることを以てした。「敬助へ詩作素読出精いたし候やう、乍御苦労御心付可被下候。四書五経文章軌範詩類熟読いたさせ可被下候。」  
 

 

八十六
文化乙亥(十二年)十月には先づ日附の無い霞亭の一書がある。「只今大坂へ幸便匆々相認候。乱筆御免可被下候。」是が日附を脱した所以であらう。わたくしが此を十月の作とするは、八月九月の書の後に発せられたこと、十月朔に郷書を得た後に発せられたこと等より推すのである。「九月五日御認之御状(碧山の書)十月朔相達申候。(中略。)此方より御書付(既に的矢に達した霞亭書牘の目録)之外八月九月書状差上候。」此十月の乙亥(十二年)なることは下に抄する書中の事件に由つて知るべきである。此書も亦的矢書牘の一で、碧山に与へたものである。
例の如く先づ神辺の事を抄する。「当方無事罷在候。両家(茶山の家、霞亭の家)依然に御座候。」「別居以来下地(別居前)よりは多事、いづかたへも出不申、日々講業に逐れ候計、おもしろくもなんともなく候。」日常生活に倦めるものの口吻である。山陽をして前に廉塾を去らしめたものは此倦憊であつた。「この節は御地鰶魚とれ候頃、嘸御風味可被成と奉察候。」人の性情には時代もなく国境もない。霞亭の張季鷹たることを得なかつたのは憫むべきである。
適斎と茶山との間には已にコルレスポンダンスが開かれた。「大人様より菅翁へ御状辱御礼申上候様被申付候。」
諸弟の講学は霞亭の頃刻も忘るること能はざる所であつた。然るに良助は啻に兄碧山に劣るのみでなく、弟澹人にだに及ばなかつた。「良助素読如何はかどり候哉。」
東恒軒の死は大いに霞亭の心を傷ましめた。「恒軒下世之由御しらせ被下候。山田所々よりの便に春来病状相きこえ如何々々と日夜案じ申候処、右之仕合扨々残念千万成事に候。年来御存之通の懇意、実に親戚同前に存じ候。旧感不已、悲歎仕候。いまだ社中(恒心社中)よりは訃音不参候。弔詩此節案じ居申候。情尽き不申候而、何とも趣向出不申候。」訃は十月朔に纔に至つたものと見える。詩の成つた後、「乙亥九月北条譲拝具」と署して伊勢へ遣つたのは、歿日に後るること甚だ遠からざらむを欲した故であらう。文書の日附は尽く信ずべからざるものである。
柏原瓦全は尚健であつた。「京都北谷瓦全丈へは去年一別後書通も得いたし不申候。壮健のよし安堵仕候。」
浅井周助は猶京都にあつて問候を怠らなかつた。「浅井よりは時々便有之候。」
次に挙ぐべきは的矢書牘中の断簡で、「九月十二日、北条譲四郎、御母様人々御前へ」と書してあるものである。此書は前半が失はれてゐる。その乙亥(十二年)の作なることは、神辺諸家の霞亭夫妻に贈つた祝物が列記してあるのを見て知るべきである。
「江原伊十郎(となりさかや、庄屋也)より郡内島、荒木市郎兵衛よりきむく小袖、荒木隠居(菅太中様妹の家)よりふだんぎ一、井上源右衛門(おけう親、以上並に皆原註)より小袖料二百疋と餅酒肴もらひ候。其外は皆々酒肴の類ばかりに候。わけなき事に候へども、何も申上候事なき故かい付候。私も病後はかくべつ達者になり候やうに御座候。常よりもふとり居候。たべもの甚うまく候。来春は何卒御見舞申上たく、今よりたのしみ居申候。時節切角御いとひ被遊候やういのり上候。小松どのへも御序によろしく頼上候、其外御親類中へも同様よろしく願上候。」
霞亭の中村氏に寄せた此書は字々母を慰めむと欲する子の情より出でたものである。八月中旬の霞亭の不予が偶母の耳に入つたので、霞亭は極力其迹を滅却しようとしてゐる。移居雑賦の東隣の酒壚は江原伊十郎であつた。千田の荒木氏は茶山の季妹まつ、後の名みつの適いた家である。井上正信は原註の如く敬の父である。祝物の数目は其半を失つたもので、上に「小袖一」の三字が残つてゐる。
十一月には「霜月十三日」の日附を以て碧山に与へた霞亭の書が的矢書牘中にある。霞亭の自ら語る所はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)いづれ明年の中には見合帰省仕度存含み罷在候。」
碧山の詩と書との事が文中にある。「元日の詩御録し被下辱存候。近来書甚見事に被存候。楷書法帖時々御心懸御手習可被成候。詩稿は力をきわめてあしく申候。御改正且は御自得御精思可被成候。」元日の詩を録したと云ふは、次年丙子(十三年)元日のために予め作つた詩の稿であらうか。
霞亭は反復して東恒軒の死に説及んでゐる。「恒軒下世御報知被下慨歎不少候。社中索落察入候。」
河崎敬軒は北遊してゐる。「河敬軒越後へ祗役、越前府中より通書、縷々近状等くわしく被仰聞候。」
山口凹巷は新に書斎を営んだ。「河崎君御状に山口に書斎又々出来候由うらやましき事に候。かの洗愁処には文亮始少年多く寄寓いたし候由、弥六も被参居候。珍重之事に候。」洗愁処は旧書斎であらう。これに寓してゐる文亮は恒軒の嗣となるべき夢亭である。弥六は永井氏である。
霞亭は旧門生高田静沖の文稿を碧山に寄示した。「文之助春来遣候文章懸御目候。あのきよろつき者にはよく出来候。」
霞亭が碧山の問に答へた雑事は何事であつたか不明である。「被仰越候件々は別紙にしるし申候。御接手可被下候。其内胎毒爛の事肝要也。」
八十七
文化乙亥(十二年)十二月朔に霞亭の家では二客に酒を供し、韻を分つて詩を賦した。歳寒堂遺稿に「鈴木今村二君見過、得尤」と云ふものが是である。「客従城府至。路問早梅不。示句清何甚。呼杯緑已浮。陰陽愁短景。歳月感東流。予卜臘前雪。尋君続此遊。」鈴木は宜山圭である。今村は綽夫である。此小宴の月日は的矢書牘中の詩箋に由つて知られる。末に「極月朔也」と書してある。
九日に霞亭は書を弟碧山に寄せた。亦的矢書牘の一である。霞亭が蔡伝の講説は既に竟つてゐる。「此方何も不相替候。講業は書経此間卒業、近思録講釈いたし候。」
霞亭は碧山の山田に往つたことを聞いて、これに誨ふるに益を先輩に請ふべきを以てした。「山田へ御出被成候由、諸君子御無事被仰聞、辱奉存候。御出之節はなんぞ平生蓄疑いたされ候義等、山口兄など、其外河崎、文亮、孫福へ御質問被成候やう可然候。とかく何に付ても取益有之候様御心懸専一奉存候。御作拝見仕候。随分おもしろく候。又々御近作御示し可被下候。」山口兄は凹巷珏、河崎は敬軒、文亮は夢亭褧、孫福は公裕である。
霞亭は此書中に江原与兵衛の死を報じてゐる。「江原与兵衛労瘵終に養生不叶、当五日死去いたし候。可憐事に候。」江原は乙亥(十二年)十二月五日に歿したのである。茶山には輓詩が無い。霞亭の遺稿には「春日、酒徒江原与平亡」の一絶がある。「七十人生今半強。莫嗤花底酔顚狂。南隣愛酒伴何在。如此春光却断腸。」凹巷にも亦「聞江原君与兵衛訃」の詩がある。「宿昔難披備海雲。三年訃至夢中聞。寧知一病成長逝。欲把前書復寄君。」三年は別後三年の謂であらう。
季冬は的矢に菩良を漁する時である。「此節は鯔魚漁如何候哉。」碧山は霞亭にたたきを貽り、佐藤子文はえひたたきと青海苔とを貽つた。「たたき遠方辱奉存候。しかし箇様之物は不むきに有之候。佐藤よりゑひたたき青海苔菅江原小生等へ被遣候。ゑひたたきは去年のやうに参り不申候。青海苔は調法いたし候。すべてあの様なるいたまぬ物はよく候。」たたきと云ひ、えひたたきと云ふは、いかなる製品歟。方言を知る人の教を乞ふ。
二十二日に霞亭は福山に往つた。的矢書牘中の詩箋に遺稿の載せざる所の詩がある。「晩冬念二、携僕定蔵赴福山、偶憶去年今日播州路上事、因賦。携汝復為去歳看。行々道旧互相歓。記不白鷺城頭店。一椀茅柴衝暮寒。」前年十二月には霞亭は十九日に大阪を発して、二十五日に神辺に帰つた。二十二日には姫路城下を過ぎたであらう。わたくしは此に北条氏の僕の名を見出だしたことを喜ぶ。
箋には此詩の次に茶山、田中辞卿に訪はれた作、槐寮除夜の作が列記せられてゐる。知るべし、茶山等の来たのは二十三日以後であつたことを。二詩は遺稿に譲つて録せない。辞卿は其人を詳にせぬが、霞亭は次年丙子(十三年)帰省の途次これに京都に邂逅し、輻湊亭に会飲する。「一尊今夜鳧川月。匹馬明朝鹿嶺雲。」(帰省詩嚢。)
茶山の集を閲するに、「除夜草堂小酌」の客中霞亭の名を闕いでゐる。菅氏草堂の宴と槐寮の宴とは或は所を異にしてゐたもの歟。しかし茶山に「一堂蠟梅気、環坐到天明」の句があり(分得明字)、霞亭に「華堂酒正薫、灯壁梅如画」の句がある。(分得画字。)又想ふに霞亭は已に菅氏の族人たるが故に名を客中に列せなかつた歟。霞亭は乙亥(十二年)三十六歳であつた。
八十八
文化十三年(1816)の元旦には、茶山が前年乙亥(十二年)に歳を江戸の阿部邸に迎へたことを憶ひ出でて一絶を作つた。「彩画屏前碧澗阿。新嬉両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」歳寒堂遺稿に霞亭賡韻の作がある。「元日和茶山翁韻。楽道安貧老澗阿。不知朝市事如何。梅花香裏人如玉。偏覚春風此際多。」
河崎誠宇の受業録は偶此歳首の茶山の賀帖を写してゐる。敬軒に与へたものであらう。「単帖。菅晋帥、竹田j、甲原義、臼杵愚、同恭賀新嬉。」筑前の竹田定之允、名はj、字は器甫であつたと見える。豊後の甲原漁荘、名は義、字は玄寿で、此人は東涯風に俗称を以て字としてゐたと見える。佐貫の臼杵黙庵、後の牧黙庵、名は愚、又古愚、字は直卿であつたと見える。器甫、玄寿、直卿は茶山集に累見する名であるから、好事家のために此に註する。
的矢書牘中には此正月の書と認むべきものが一も存してをらぬが、遺稿を閲するに霞亭は此正月に詩を作ることが極て多かつた。先づ七日には茶山と共に韻を分つて詩を賦した。茶山に「晴久渓村転凍凝」の律があれば、霞亭に「他郷他席亦清歓」の律がある。次で竹田器甫が訪ねて来て、古賀精里に和する畳韻を示し、霞亭がこれに和したのが「牛日」だと云つてある。此年丙子(十三年)は元旦が辛巳であつたから、牛日は九日己丑である。
次に「寄韓聯玉」「聞高木呆翁隠梅坳」の二律は並に遺稿に見えてゐるが、受業録にこれを抄して、末に「丙子初春正」と書してある。わたくしは特に凹巷韓氏に寄する詩を録して、遺稿に無き所の茶山の評を一顧したい。「寄韓聯玉、社友冢士瞻、東君孚相継淪謝。書剣飄零滞海隅。愁中抱病歳年徂。(受業録歳作幾。)誰人白首交相許。何処青山茅可誅。淡月梅花春似昔。疎灯雨滴夢還孤。嵆生夭後阮生没。(受業録阮生作阮公、似不可従、第八有黄公故也。)忍問黄公旧酒壚。(受業録壚作墟、非。)茶山翁評。合作。但何処一句雖出真情、而老所不欲聞。」わたくしは此評を読んで老茶山の胸懐を想ひ遣つた。茶山は廉塾のために一たび山陽を聘してこれを失つた。今又纔に霞亭を聘したのに、其霞亭が若し茅を青山に誅せば奈何。茶山の此語を聞くことを欲せなかつたのは、ことわりせめてあはれである。
高木呆翁が隠居所を梅坳に営んだのは、恐くは前年乙亥(十二年)晩秋の候であつただらう。凹巷に「乙亥十月三日訪梅坳」の三律があつて、受業録に見えてゐる。今其一を録する。「菜根霜味肉応譲。登俎載如肪玉状。屋浄全無鼠壌遺。池深自可魚苗養。頑詩恐我汚山中。勝蹟倩誰題石上。多謝毎留煩主人。酒添何況樵青餉。」
次に「和看松子過任有亭見懐韻」も亦霞亭が正月の作であらう。受業録に西村及時の原唱が載せてある。「嵯峨任有亭寄懐霞亭。流憩憶君楓際寮。壁空無復旧詩瓢。高調任上樵童口。梅発山村不寂寥。」結句は霞亭の和歌を用ゐたものである。「寂しさを忘るるまでにうれしきは梅さきそむる冬の山里。譲。」遺稿に霞亭の次韻があつて、丙子(十三年)人日の詩の後に出でてゐる。「楓陰有逕遶書寮。窓裏無人対酒瓢。不是孤高西処士。寒山誰復問幽寥。」
八十九
わたくしは文化丙子(十三年)の正月に霞亭の多く詩を作つた事を言つた。しかし此説は未だ尽きない。的矢書牘中には此正月の簡牘が無いが、偶詩箋が其中に存してゐて五律一、七律一が写してある。初なるは歳寒堂遺稿所載の「送恵美子継帰省広島」の詩で、後なるは遺稿の収めざる所である。「正月二十九日、東門大夫集、分韻得麻。大夫文雅厭紛華。為政余間客満家。厨下烹羞新雁肉。瓶中乱挿老梅花。城墻小雨催芳草。庭院斜陽送晩鴉。酒罷灯前揮快筆。剡藤颯々走龍蛇。自註。大夫有臨池癖。故及。」末に「二首とも甚麤作也、譲」と署してある。
按ずるに安芸の恵美子継を送る詩は、遺稿に高木氏梅坳の詩の次に入つてゐる。そして東門大夫の詩に「正月二十九日」の日附がある。わたくしは二首皆丙子(十三年)正月の作なること殆疑なきものかとおもふ。
わたくしは更に一歩を進めて、遺稿中看松子に和する七絶と恵美を送る五律との間に収めてある諸作は勿論、其下の数首に至るまで、皆丙子(十三年)正月に成つたかとおもふ。若し然らば霞亭は正月八日には福山に往き、(八日福山途上)十一日に法城寺に往き、(十一日法城寺途上)十二日には霞亭の妻敬が井上氏に帰寧したのである。(十二日内人帰寧、余独居。)
二月朔に至つて的矢書牘中に始て霞亭の碧山に与ふる書がある。此書の丙子のものなることは、適斎七十の賀の事を言ふを以て証せられる。此に由つて考ふるに、正月にも書を発したが、其書は佚してしまつたのである。「当方よりも極月及当正月両度小簡差出申候。」上に引いた詩箋はこれに添へられたものであらう。
先づ霞亭一家の近状を抄する。「此地閑には候へども、唯一友も無之、是而已迷惑仕候。俗物なれど江原与兵衛飲伴に有之候故、少々はつれになり候へども、これも物故いたし、益寂寥無聊、夫に近来とかく酒は体に合不申候而、大方はのめ不申候。独酌一合半にて前の量とは甚相違に候。(別項。)小生方拙妻も此節妊娠仕候。五月か六月には臨盆と申事に候。此節随分壮健に候。御序之節双親様へ御噂可被下候。(別項。)此方名所神辺北条譲四郎に而よろしく候。かた書に学問所と御認被成候てもよろしく候。」
飲伴江原の死は上に見えてゐる。井上氏敬の胎にある児は長女梅であらう。廉塾の俗称は「神辺学問所」であつたか。
次に適斎古稀の事を抄する。「当年は尊大人様七十に御成被遊候。益御勇健被為入候哉。千鶴万亀至祝抃舞仕候。何卒当年中帰省仕度奉存候。一筵開き、親族打集、寿觴奉献仕候事相計申たく候。菟角小生等業がら少しも盛んなる事は無之、恥入候次第に御坐候。それと申も、我輩世人のいとなみを皆々脱却いたし、只閑居を愛し候崇と奉存候。何分菽水の歓を奉じ候而、御安心ありたく候へば、夫を楽しみと御互に可致候。尚又くわしき事は追而可申上候。此方はじめ而の居宅、小生一切不構に有之、先は廉塾にまかし候。甚打つめ候事にて、漸う一杯の酒に憂を散じ候と申位の事に候。御憐察可被下候。」霞亭は父を寿せむと欲するに臨んで、自己の未だ名を揚げ家を興すに至らざるを歎ずるのである。
九十
わたくしは文化丙子(十三年)二月朔に霞亭が弟碧山に与へた書を抄して父適斎の七十の賀の事に及んだ。兄は弟に寿詩の事を諮つてゐる。「寿詩を相識の先生達へ頼申たく、江戸京へも追々申遣候。勢州の分は足下御周旋可被下候。しかし帖にいたし候つもり故、小生方よりも又々頼遣可申候。其御心得に頼入候。菊を御愛し被遊候故陶淵明が秋菊有佳色の句を詩題と可仕歟と奉存候。御相談申上候。」碧山の此言に従つたことは現に存する所の諸家の詩に由つて証せられる。
書中に見えてゐる朋友の名は山口凹巷と高田静沖との二つである。
「凹巷も角大夫の名前を七歳の令児に譲り候而、もとの長二郎になられ候よし、様子も有之候義と被存候。しかし閑にはなられ候義と奉存候。」凹巷は小字を長次郎と云ひ、後角大夫と称してゐた。今角大夫の称を七歳の児に譲つて、故の長次郎に復つたのである。長次郎は霞亭の古い柬牘に徴次郎に作つてあつた。按ずるに襲称の子は凹巷の嫡男であらう。墓誌に拠るに、凹巷は「初娶藤田氏、早没、再娶山原氏、生二男三女、曰観平、曰群平、山原氏亦没、後納加藤氏為妾、生二男、曰興平、曰梅児、梅児夭」と云ふことである。浜野氏の閲する所の「月瀬梅花帖」に「男観、男群、男興」の三人が署名してゐるさうである。是に由つて観れば、襲称の子、名は観、初の称は観平、後の称は角大夫であらう。霞亭の書に徴するに観は丙子(十三年)七歳であつた。然らば文化七年庚午の生であらう。
霞亭の書は凹巷を以て退隠せるものとなすが如く、称を譲り間に就いたと云ふ。墓誌に曰く。「晩年婚嫁已畢。退居于先人別業。花竹一区。流水遶屋。有古棲逸風。毎遇秋晴。携釣具到北江。与漁人舟子。陶然酔於荻花楓葉間。」若し此退居が丙子(十三年)の歳に於てせられたとすると、凹巷の女は皆観より長ずること十歳余でなくてはならない。
三村氏所蔵の梱内記に年次不明の一巻があつて、河崎敬軒の子誠宇松の元服の事を記してゐる。文中凹巷の氏称を書して「山口角大夫」と云ひ、「角大夫」の三字を抹殺して「長次郎」と傍書してゐる。或は凹巷の譲称直後に書せられたものではなからうか。若し然らば誠宇は丙子(十三年)の歳に元服したこととなるであらう。梱内記に拠れば、誠宇、名は松、通称は松之允、元服して景山と字し、木工と改称した。
霞亭の書に見えてゐる今一人の知人は高田静沖である。「文之助、鵬斎方に居寓したり、雄二郎と申伯母次男の方などにも居候よし、小生は二三年書通も不仕候。」文之助は既に云つた如く静沖の通称である。按ずるに霞亭は新に鵬斎若くは静沖自家の書を得てこれを碧山に報じたのであらう。
最後に霞亭は此書中に於て碧山に教ふるに尺牘に用ゐるべき称謂の事を以てしてゐる。「老輩へ御文通旁書は、梧右は平交の称(故)、函丈とか、侍史或は侍座下など可然候。」恐くは碧山の問に答へたのであらう。
二月七日に霞亭は又書を碧山に与へた。是も亦的矢書牘中にある。霞亭の自ら語る所はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)帰省之儀は飛立やうに思候へども、時宜如何、未だ言ひ出し不申候。何様秋になり可申哉と奉存候。」
適斎の七十を寿すべき詩歌の事が再び見えてゐる。「尊大人様七十寿詩歌之義は、先書も申上候通、去冬より相心懸申候。京江戸の相識などへも頼置候。急々にも集り申間敷候へども、此節専一諸方へ頼遣申候。先は此方の相識ならぬ方へは頼み申まじき了簡に候。それとも名家大家は格別之事に候。賢弟方も其心得御頼可被下候。山田社中へも此節頼遣可申候。帖にいたし候つもりに御坐候。」
碧山は江原与平と菅波武十郎とに寄する書を霞亭に託した。「江原、菅波への書状は、江原は死去いたし候故、年始状なれば不吉故、さしひかへ候。江原も跡は弟など有之候へども、なんとなり可申や。先は書通に及不申候。菅波は本陣に而、菅家の本家分、夫に小生婚姻の媒灼に而、親族之第一になり居申候。左様御心得可被下候。」江原与平には弟があつた。菅波武十郎の事は此書を得て始て明なることを得た。
以上の二書を除く外には、丙子(十三年)二月に作られたと認むべき書が完存してゐない。惟遺稿に竹田器甫を送る詩があり、尚二月の末に裁したらしい霞亭手柬の断片が的矢書牘中に存するのみである。  
 

 

九十一
文化丙子(十三年)二月二十六日に筑前の人竹田定之允が廉塾を辞して帰郷した。備後の人藤川葦川の黄葉夕陽村舎詩欄外書には定之丞に作つてある。当時の人は丞、允、尉の如きは、自署も区々なることを免れない。竹田は上に見えた如く名はj、字は器甫であつた。その発程の日は茶山が「二月廿六日、竹田器甫、甲原玄寿西帰」と記してゐる。甲原漁荘と同日に塾を辞したのである。「老衰随触易愴神、一朝況送二故人。」是が茶山七古中の句である。霞亭の詩は歳寒堂遺稿に見えてゐる。「送竹器甫帰筑前。故人分手向郷城。千里帰程草始生。他日相期上堂約。及時堪慰倚門情。春風野館花光乱。暮雨江天帆影明。路入下関応一笑。家山如黛馬頭横。」霞亭は又甲原をも送つた。遺稿に「送甲原玄寿帰豊後」の五古がある。甲原氏、名は義、漁荘と号した。玄寿は其通称である。是れ亦東涯風に通称を以て字に充ててゐたと見える。霞亭の詩の題下に「杵築古市人」と註してある。実は吉広村(今中武蔵村)に生れたのである。
次に的矢書牘中に霞亭書牘の断簡がある。此二月の末に父若くは弟に遣つた書の一節であらう。「頼春水翁うすうすと此辺へ死去のうわさいたし候。未だしらし(為知)は参り不申候。久太郎(山陽)も十八日(二月)京出立、日夜馳行、廿二日夜神辺へ立寄、直に駕輿に而夜行いたし候。気之毒なる事に候。大方うわさに違も有之間敷にや。」
頼春水の死は行状に「歿年七十一、実文化十三年丙子二月十九日也」と云つてある。山陽が母の十二日の書を得て、十八日に京都を立つたことは周知の事実である。二十二日の夜廉塾を過つたことは此書に見えてゐる。さて二十四日に広島の家に著き、二十七日に比治山安養院の墓を拝し、三月二十二日に京都に帰つたさうである。
霞亭の遺稿には猶此年正月二月の交に成つたものと看做すべき詩がある。「送恵美子継帰省広島」「送山下顕吾帰讃州」「送田中辞卿遊京」等皆是である。恵美子継は広島の医家恵美氏の事である。井原市次郎さんの云ふを聞くに、広島には恵美氏と称する二族がある。一は馬術の家で、今の戸主を恵美文吾と云ふ。一は医家で、今の戸主を恵美徳之助と云ふ。後者は文化丙子(十三年)には二世三白の時であつた。二世三白、名は貞璋、字は君達、大笑と号した。実は長尾養意の子で、初世三白貞栄の養嗣子となつた。その養はれたのは貞栄の実子三圭が貞栄が歿した時(天明元年)弱年であつたためである。丙子の歳には三白貞璋七十二歳、三圭貞秀五十五歳であつた。子継は恐らくは貞秀の次男貞纘であらう。後に四世三白となつた。山下顕吾の事は全く不明である。田中辞卿は後霞亭と京都に於て会飲してゐる。(帰省詩嚢。)
三月三日に霞亭は藤希淵の兵庫に帰るを送つた。遺稿に七絶がある。希淵の何人なるを知らない。此月猶遺稿に「春尽同諸子遊国分寺、得尤」の五律がある。
四月は薇山三観の一なる「山南観漁」の時である。詩十二首があつて、末に「右丙子初夏」と註してある。此諸篇中に五人の名が見えてゐて、皆親族である。先づ桑氏の兄弟がある。兄を伯彦と曰ひ、弟を翼叔と曰ふ。伯彦に敏卿、綱次郎の二子がある。残る一人は河氏君推で、桑翼叔は此君推の「女甥」だと云つてゐる。女甥は或は女壻ではなからうか。
的矢書牘中には此月の書と認むべきものが唯一篇ある。それは十日に碧山に与へた霞亭の書である。霞亭の自己身上に就いて言ふ所はかうである。「小生無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)拙荊随分無事罷在候。併先頃より少々腫気のきみ有之候。これも大方よろしく、首尾能分娩いたし候は先運次第、いたし方もなく候。(中略。)此方此節は年輩の諸生皆々帰省いたし候而、はなし相手無之候而迷惑仕候。晩間独酌仕候のみに候。(中略。)当塾は多く小児輩あちこちより参り候。十三以上の者多く候。此間備中より入門仕候一生、書など見事、且は棋の上手に候而、かつて備前侯様へめされ出候事など有之候由、十四五の子也。(中略。)此辺も先頃より鯛網はじまり候ゆへに、紅魚は時々たべ申候。此間藤井料助参宮いたされ候を一寸送り候詩に、回首能無憶吾輩、杜鵑声裏撃新鵑(下鵑字恐当作鮮)と云句をいたし候也。実は甚麤作故全篇は録し不申候。」敬の腫気は妊娠のためであらう。胎に在る子は長女梅である。藤井料助の何人なるかは不明である。霞亭は鯛網を説いて山南の遊に及ばない。観漁は恐らくは十日より後の事であつただらう。
書に杜詩挿註の事が見えてゐる。「杜詩論文と申杜詩の全集の注を見候に付、先頃より別に見候序でに、挿註をざつと認見候。夫故詩作等など一向出来不申候。挿註四五冊も出来候へども、田舎類書無之不自由に候。いづれ一遍位にてはとても役に立申間敷候。人に見せ候程の物は出来不申候とも、先は手前の詩学といたし候積りにてかかり申候。」
霞亭は又父適斎を寿する詩歌の事を言つてゐる。「寿詩の儀外へ段々頼置候。遠方のはいまだより不申候。近辺のはだんだんあつまり候。学者、一方に名有之候人にはぬめ或はきぬを遣候而、帖にいたし候積りに仕候。山田詩の儀は小生よりも相頼遣可申候。尤これはあとよりきぬ地差出し、夫に認もらゐ可申候。此節少々あつまり居候へども、いづれ小生参り候頃一処にとりあつめ参り可申と存候。いづれ人に頼候事、夫に御同前に寿詩はおもしろからぬもの故、とかく埒明兼可申候。先は気長に夫々の手筋へ頼可申候。京都堂上方へも御頼申上候積りに候。足下も兼而御構案可被成候。歌などもあつめたく候。」
碧山の詩稿は例の如く痛斧を被つたらしい。「御作拝吟仕候。随分おもしろく候。随例無遠慮にあしく申候。外へは箇様に申候事出来不申候。且亦其内にはあまりいひすごし可有之哉、何分御取捨可被下候。」
撫松勤学の事も亦霞亭の忘れざる所である。「敬助素読はもはやどれ位になり候か被仰聞可被下候。清書大字など半紙を時々つぎ合せ御かかせ可被成候。この方へもちと御見せ可被成候。詩作出来候はゞ、少々宛にても御遣し可被下候。」
恒心社の事はかう云つてある。「勢南社中も御無事の由、久敷何方よりも便無之候。いつぞや高木令郎の手図いたされ候呆翁隠居図、凹巷兄よりよせられ候。南帰いたし候はゞ、そこに宿をいたし候などと被申遣候。おもしろさうなる処也。凹巷の御作も上に認被遣候。」呆翁隠居は所謂梅坳である。これを図した子は或は梱内記の「高木次郎大夫」歟。
書に清人漂到の事が見えてゐる。「南京船入津いたし候由、めづらしく候。併村中さわぎ迷惑察入候。下田とやらへ漂著いたし候由、先達而江戸より申来候。筆談など出来候者は一向無之由、足下御療治に被御頼被成候はゞどのやうなる様子、なんぞ筆話などは不被成候哉、夫らも禁じ候事に候や、再便くわしく被仰聞可被下候。一昨日とか当地鞆浦へ著いたし候由、とりどり噂有之候。」
九十二
文化丙子(十三年)五月朔に霞亭は書を弟碧山に与へた。わたくしの的矢書牘中の此書を以て丙子のものとするのは、下の一節あるが故である。「三月廿一日、京都天変大雹ふり候由、御受禅の日に候処、のび候よし、定而御地にも噂可有之候。」わたくしはその仁孝天皇の受禅なるを思ふのである。
此書は何故か前半が截り去られてゐる。糊離れにはあらざるが如くである。書中霞亭は母中村氏の婦に対して敬語を用ゐるを憂へ、碧山をして諫めしめむとしてゐる。「母様へをりを以被仰上(度)候。御文通妻どもなどへ余り御丁寧過候て恐入候。私共はやはり呼ずてに御認被遊候やう可被仰上候。」想ふに中村氏は菅氏を尊敬するが故に、井上氏敬を「呼ずて」にすることを憚つたのであらう。
霞亭は又花草の種子を的矢の家に送つた。「追而草花類の種さし上可申候。植木屋の物は俗物の玩物なり。たゞありふれたるものなどおもしろく候。」若し霞亭をして今の橐駝氏(植木屋)の鬻ぐ所を見しめたなら、果して何と云ふだらうか。卑著「分身」中に「田楽豆腐」の一篇がある。霞亭の此語と併せ見るべきである。
書には知人二人の名が見えてゐる。其一。「佐藤も今に臥蓐の由、浅井当春見舞に下り候由、此頃書通に承り候。」わたくしは思ふ所あつて此下三行を抄せずに置く。佐藤子文のために忌むが故である。子文の病を問うた人は浅井周助である。其二。「先日鳥羽の中村九皐と申候て画師尋参り候。力松と申候もの也。二十八九年めに逢申候。京の岸が弟子のよし。外へ添書いたし遣候。長崎まで参ると申居候。画はかなりにかき候。」岸駒の門人中村九皐である。
七日には霞亭が夢に詩句を獲てこれを足成した。夢中の句は「檻前一片看雲坐、林外数声聴鳥眠」の一聯である。全篇は遺稿に見えてゐる。
十九日には霞亭の妻敬が分娩した。生れたのは長女梅である。霞亭は何故か六月朔に至つて方纔これを的矢に報じた。事は下に見えてゐる。
此月は薇山三観の一なる「竹田観蛍」の時である。七絶八首を作つた。刊本の此部の末に「右丙子仲夏」と註してある。
此月の末に霞亭が又書を碧山に与へた。しかし女子の生れたことは言はなかつた。的矢書牘中「五月廿六日」の日附のあるものが是である。書には又適斎の七秩を寿する詩歌の事が詳に言つてある。「寿詩、うた、参り候だけ先々差上候。とかく遠方も近所も埒明不申候。いづれ気長にあつめ可申候。ぬめ、きぬの部は画帖にしたため候つもりに候。茶山翁、鵬斎翁の分は、きぬ地ぬめ地表具にいたし候様に頼置候。大頼(春水)へ頼み候半と申候内に、かの病気死去に及び候。遺憾に候。しかし新死之人故、たのまなんだもよきかとも被存候。(別項。)寿詩山田へ頼候分、敬軒凹巷宜堂呆翁孫福山口佐藤宇仁館池上へはぬめきぬ地、以上九つ差上候而頼遣し候。左様思召可被下候。」山田の九家中宜堂は西村及時の一号である。他は必ずしも註することを須ゐぬであらう。
此書に猶抄すべきものがある。それは碧山撫松の二弟に対する語である。
碧山にはかう言つてある。「春来御療用御多事のよし一段之御義と奉存候。山田へ御越被成候由、敬軒よりも委曲御噂被下候。御作等多く可有之、後便御擬示可被下候。此節御佳什因例雌黄仕差上候。」
撫松のためには下の語をなしてゐる。「方正学詩うつし、朱子家訓等敬助へ御遣し可被下候。」霞亭の手写する所は遜志斎集中二巻に就いて抄出したものであらう。家訓に此詩を添へて授けた用意を見るべきであ
九十三
文化丙子(十三年)六月朔に霞亭は書を母に寄せて妻敬の分娩を報じた。初めわたくしは霞亭が梅の生後に書を碧山に与へたのに、一語のこれに及ばなかつたことを怪んだ。しかし是は女子の生れたことを以て、弟に報ずべき事となさず、母に報ずべき事となした故ではなからうか。「一筆申上まゐらせ候。時しも暑気相催し候処、弥御機嫌能被遊御入、目出度ぞんじ上まゐらせ候。此方老人(茶山)をはじめ家内皆々無事罷在候。御安心被遊可被下候。然ばけう(敬)儀先月(五月)十九日安産いたし候。母子ともすこやかに肥立申候て、一とう悦申候。是又乍憚御安心被下候様ねがひ上まゐらせ候。生子は女に御座候て梅と名付申候。左様思召可被下候。子は随分丈夫にて大きなる方に候。女子にてすこしおもしろからず候へども、いたし方も無之候。親父様(適斎)始御親類中へも乍憚御つゐでに御うわさ被遊可被下候。先達而はおけうへ御文下し置れ難有存上まゐらせ候。此度は文差上不申候間あつく申上候様申出候。当年わ時候おくれ候而、今にあわせなど著用いたし候位に候。随分時節御いとゐ御用心いのり上まゐらせ候。盆頃あつく有之べきやとぞんじ候。先は右御しらせ申上度如此御座候。くわしくは又々あとより可申上候。愛たくかしこ。六月朔日当賀。譲四郎。御母上様人々御中。」
次に霞亭は六月六日に書を碧山に与へた。是は短信で、「先書(五月二十六日の書であらう)色々くわしく申上候、此信は何の事も無之候へども、便故消息仕候計に御座候」と云つてある。茶山の時に用ゐた紅紙に書してある。
しかし此短信中に却つて有用なる文字がある。それは薇山三観刊刻の事である。「此節京にて小生の薇山三観詩上木仕候。大方七月中には出来可申候。浅井周旋被致候。しかし是は社中始、先々御無言に被成可被下候。尤土産(に)いたし候積り也。」三観の刊本には浅井氏の序があつて、末に「文化丙子仲夏井毅達夫識」と署してある。浅井氏、名は毅、字は達夫、通称は十助であつたと見える。
次に「六月廿六日」の日附のある碧山に与へた書が的矢書牘中にある。是も亦紅紙である。「当方大小皆々無事に候。暑中折角御自愛、飲食御用心専一に存候。小生東上(帰省)もいづれ盆後と被存候。待遠に被存候。此頃はたびたび夢に見申候。こしをれ歌御目にかけ申候。ちゝ母の旅なるわれをおもへばやよひやよひごとの夢に見えぬる。菅波武十の歌有之候故乍序懸御目候。何分大暑御用心、乍憚二尊へ可然被仰上可被下候。書外期再信之時候。恐惶謹言。賀の歌はさぬき金比羅牧久兵衛なる者の歌也。」菅波氏と牧氏との歌は佚した。牧氏は棲碧山人歟。此人の通称は一に藤兵衛に作つてある。尚考ふべきである。
此書には同じ紅紙の詩箋が巻き籠めてある。詩は七絶二首で、「東窓即事」と題してある。其一は歳寒堂遺稿に「東園矚目」と題してあるものと同じである。「思詩閑坐碧林隈。雨気侵簾香始灰。幽鳥不知人熟視。苔花啄遍近階来。」
九十四
文化丙子(十三年)六月二十五日の書に巻き籠められた霞亭の紅詩箋には猶「東窓即事」の第二首があつて、歳寒堂遺稿に見えない。「又。一拳菖石小盆池。中畜丁斑与細亀。看弄旋忘亭午熱。游嬉偶爾憶童時。」二詩の後に和歌一首が書き添へてある。「あつき日のひねもす待ちし夕風は吹くたびごとにめづらしきかな。」紙尾に「譲」の一字が署してある。
夏は過ぎた。わたくしは古賀精里の長子穀堂の神辺を過ぎて霞亭と相見たのは此夏の事であらうとおもふ。何故と云ふに、遺稿は丙子(十三年)諸作の中間に「古賀溥卿見過、賦呈」の七律を収めてゐて、其頸聯に月緑樹に上るの語があるからである。「孤身寂寞老荒山。唯喜屢逢君往還。蘇氏文名動天下。賈生経術照朝班。杯伝几榻青灯畔。月上渓巒緑樹間。明日縦有離別恨。清談一夜且開顔。」按ずるに霞亭は江戸にあつて夙く精里の家に於て穀堂と相識つてゐたであらう。且此篇の第二に徴するに、穀堂の神辺を過つたことは数度であつたと見える。
七月は霞亭が省親の途に上つた月である。帰省詩嚢の首に、「留別塾子」の七絶がある。「雲山千里一担簦。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書灯。」結句は七月の句でなくてはならない。
しかしわたくしは発程の十六日以後なるべきを思ふ。何故と云ふに前に碧山に与へた書に盆後と予報してあつて、又遺稿中「中元有懐江原与平」の五古の七八にも「劉墳聊一酹、対月悵回頭」と云つてあるからである。
此よりわたくしは詩嚢中に就て事実の考ふべきものを擷取しようとおもふ。わたくしは先づ「出門」の詩に留目すべきものあることを言はなくてはならない。「瞻望南雲心已馳。趨庭僂指想恰々。出門何事還濡滞。垂白之人呱泣児。」山陽は評して云つた。「精里詩云。東已有家西又家。霞亭亦然。」霞亭西家の垂白の人は誰か、又呱泣の児は誰か。彼は茶山、此は梅である。わたくしは前に詩嚢中より霞亭の已婚を見出した。しかし此呱泣の児をば錯過してゐたのである。書は精読しなくてはならない。
九十五
霞亭は父適斎の七十の賀宴に列せむがために、郷里的矢へ往かむとして、文化丙子(十三年)七月十六日以後に神辺を発した。
帰省詩嚢に縁つて路程を求むるに、詩題には高谷、矢掛、岡山、舟坂、明石、舞子、一谷、須磨、御影、尼崎の地名が見えてゐて、霞亭は淀舟に乗つて京都に入つた。
霞亭は京都にあつて浅井達夫の新居を訪ひ、諸友と輻湊亭に会飲した。達夫を訪ふ詩の引に、「達夫曾寓予錯薪里僑居」の語がある。錯薪里は木屋町である。輻湊亭はいづれの旗亭なるを知らない。
京都より伊勢山田に至る途上、詩嚢には夏見、水口、鈴鹿の地名が見えてゐる。
霞亭は山田に至つて山口凹巷の桜葉館を訪うた。「千里訂期客始来。主人相見両眉開。」次で諸友と花月楼に会飲した。わたくしは七律の後半を抄する。「不見詩窮老東野。依然歌妙旧園桃。感来杯酒還無数。年少結交多二毛。」詩窮の老東野は恒軒東吉尹である。
霞亭の的矢に帰つて適斎の寿宴に列した時の状況は七古の長篇に写し出されてゐる。わたくしは既に一たび此詩を分析して細論したことがあるから、今復贅せない。此には惟家族の年歯を註して置きたい。「游子省親日。高堂上寿時。小弟及一妹。次第侍厳慈。」厳君適斎七十、慈君中村氏五十二、霞亭譲三十七、碧山惟長二十二、良助十九、撫松惟寧十五、女通の年紀は不詳である。
賀筵の壁上には諸家の「秋菊有佳色」の詩歌が懸け列ねられたことであらう。的矢書牘中にも詩箋若干葉が交つてゐる。わたくしは惟河崎誠宇受業録中より獲た茶山の作を抄出する。本集の載せざる所なるが故である。「北条適斎先生七十寿言、同賦秋菊有佳色。秋菊有佳色。采々泛杯觴。衆賓酬且酢。四坐澹清香。主人卜過(原文は草冠がつく)軸。歯操長隣郷。二子倶英発。美行名已揚。主客皆藻士。歌頗声琳琅。予辱瓜蔓末。拍帨情特長。恨在千里外。不得歓一堂。願各分君福。家庭致寿昌。願同師君操。晩節保芬芳。」適斎の事を言ふ語中「過軸」は詩の衛風より出でてゐる。英発の二子は霞亭碧山で、良助の不肖と敬助の少年とは与らない。茶山自ら叙する語に「予辱瓜蔓末」と云つてある。適斎は定て感激に堪へなかつたであらう。
霞亭は的矢にあつて池上隣哉の家を訪ひ、又高木呆翁の家を訪うた。就中高木氏の梅坳には主客十七人が来り集つた。「尊空童走市。席満客茵苔。」
詩嚢に拠るに、霞亭は的矢より又京都に至つて少留した。僧月江を三秀院に問うた詩三首の一に、月江の事蹟を徴すべきものがある。「三秀院賦呈宣長老。(節録。)聞説明春向対州。波濤万里去悠々。路過薇海如思我。為卸高帆鞆浦頭。」月江対州行の次年丁丑(十四年)なることが此に由つて知られる。霞亭は又任有亭、含旭軒に歴游した。
以上神辺を発してより後、霞亭の行住には一も月日の徴すべきものがない。就中憾むべきは詩嚢の的矢賀筵の日を註せなかつたことである。賀筵は恐くは適斎の生日に開かれたことであらう。然るに適斎の墓誌は歿日を書して生日を書せない。  
 

 

九十六
霞亭の父適斎は文化丙子(十三年)の秋七十の賀筵を開き、霞亭は神辺よりこれに赴いた。わたくしは此賀筵の日の帰省詩嚢に註せられざるを憾とした。然るに此に佐藤子文の一書があつて、此欠陥を補ふべきが如くである。亦的矢書牘中の一である。
子文の書には宛名が無い。しかしその適斎の子に与へたものなることは明である。「御書翰被下忝拝見仕候。朝夕秋冷、益御全家様御清福被成御座奉恭賀候。然者十日(丙子閏八月十日)御祝筵御開被成候に付、香魚寿苔御申こし被成、香魚水後に而取がたく纔十五頭得申候(て)さし上申候。明日迄は置がたく候と奉存、やかせ差上候。寿苔、菊花漬御祝儀迄に呈上仕候。御祝納可被下候。菊花漬今少し有之候へば宜候処、是ほどならでは無之呈上仕候。右今日より水に御醮し塩出し被成、御したし物に御あしらい被下度候。香魚の料二匁(一字不明)申受候。残五銭目御返進申上候。(中略。)御賀章之義、御斧正被下候上認め上申度奉存候。詩先認め上申候。御風正可被下候。菊有黄花又白英。侵凌風露帯秋栄。羅家不独呈祥瑞。況復譲君延寿名。右奉賀適斎北条君七十。佐藤昭拝草。伏乞風正。延寿客、避邪翁は仙経にありと、琅琊代酔に見え申候。自註無之候而も宜候哉御尋申上候。何れ近日拝面可申上候。先は取急ぎ草々如此に御座候。頓首。閏八月九日。尚以尊大人様へ別段書中御祝詞可申上候処、急ぎ不得其意候。乍末筆宜被仰上可被下候。尚々此節は近年之大水、貴郷は無御別条候哉、乍次御尋申上候。当地は格別之事無之候。鳴海辺は大分当り候処も有之(由)承り申候。」按ずるに子文の此書は霞亭に与へたものである。碧山は後進なるが故に、縦令乞正は辞令に過ぎずとせむも、子文はこれに典故の註すべきものなりや否を質すべきではなからう。
それはとまれかくまれ、適斎七十の賀筵が文化丙子(十三年)閏八月十日に開かれたことは疑を容れない。子文の此書の偶存してゐたのは実に喜ぶべきである。
寿筵の日が果して閏八月十日であつたとすると、七月後半に神辺を発して帰省した霞亭は、八月の過半を父母の膝下に送つたであらう。鉄函心史の序に「文化十三丙子八月」と書するを見れば、此一文の如きは的矢帰省中の属稿に係ることが明である。
前にわたくしは寿筵は適斎の生日に開かれたであらうと云つた。しかし厳密に言ふときは、丙子(十三年)閏八月十日は生日ではなからう。歿年より逆推するに、適斎は延享四年(1747)に生れた筈である。そして延享四年丁卯には啻に閏八月がないのみでなく、此年は閏年でなかつた。強て推測を逞しうすれば、適斎は丁卯八月十日に生れたのに、其賀筵は遅るゝこと一月にして、閏八月十日に開かれたかともおもはれる。
わたくしは詩嚢に拠つて霞亭の帰省を追叙し、既に霞亭が的矢を辞し、京都に至つて暫留したと云つた。此より下、わたくしは京都より神辺に至る旅程を記するであらう。
九十七
霞亭は文化丙子(十三年)七月に神辺を発して的矢に帰省し、父適斎の七十の賀筵に列して後踵を旋した。そして京都に入つて少留した。此間帰省詩嚢には一として月日を詳にすべきものがなかつた。
詩嚢は霞亭が京都を発するに当つて、始て「閏八月念五日」の文字を点出してゐる。的矢の寿筵にして果して閏八月十日に開かれたとすると、霞亭は此より後既に十五日を経過してゐる。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。(中略。)到芥川宿。翌(二十六日)尋伊勢寺。(中略。)宿禅師(国常)之院。其翌(二十七日)登金龍寺。下到前嶼、乗舟至浪華。」此より下詩嚢註する所の地名は、堺、高師浜、信田森、国府、神崎、西宮の六所に過ぎない。山口凹巷、宇仁館雨航の二人は送つて神崎に至り、酒を巴江亭に酌んで別れた。「客意蕭条共憶家。重陽時節各天涯。巴江亭上三杯酒。暫破愁顔対菊花。霞亭。」時は恰も是れ九月九日であつた。
的矢書牘中に百々漢陰の霞亭に寄せた一書があつて、末に「閏月廿八日、百々内蔵太、北条霞亭様」と書してある。是は寿詩を寄せた時の書で、そのこれを裁した日は霞亭の大坂に達した次日である。推するに漢陰の書は京都より東行して的矢に至り、霞亭はこれに反して大坂より西行して神辺に向つたであらう。「誠(に)先比者御来訪被下忝、併紛冗不得寛晤、匆々残念不少奉存候。其節蒙命候寿詩及延引申候。此節浄写仕、呈案下候。久絶文雅、藻思荒落、別而拙劣、深(く)愧入申候。旧交の誼に酬候迄に候。御笑覧可被成下候。御絹者跡より可呈候。此二枚御勝手の御屏風にも御押被下候はゞ忝奉存候。近所にも候はゞ、麤末の屏風御避風の為に進上も可仕候も、遠路不任鄙中候。書は山脇法眼へ代筆相頼申候。小生拙筆故、代筆にて呈し申候。画は竹内由右衛門と申人、狩野家にては旧名ある人に候。画工之気習無之候故相頼かかせ申候。甚図陋(杜漏か)御海恕可被下候。近日御入京も被成候はゞ、好時節にも候故、久々にて御郊行陪遊仕度奉企翹候。山口君並賢弟惟長君(に)も宜御致意可被下候。当春賜書候返書相認め郵亭へ差出し申候。未著候哉。毎々御懇篤之御投書被下忝、御高作も御見せ被下忝奉存候。呉々も宜く御致声可被下候。北小路へも申聞候も未詩作不脱藁候故、先差上くれ候様被申候故、今便小弟のみ申上候。何分御入京之節御知らせ可被下候。草々頓首。」
是に由つて観れば霞亭は寿詩を北小路玫瑰と漢陰とに乞うた。然るに漢陰の詩が先づ成つた。霞亭は往路に漢陰を西洞院竹屋町北に訪うたが、反路には告げずして京都を過ぎた。霞亭は詩を乞ふ時絹を贈つたのに、漢陰は敢て受けず、別に書画二枚を製して寄せたらしい。詩は漢陰が作り、山脇東海をして書せしめ、画は竹内重方をして作らしめた。「麤末の屏風御避風の為に進上も可仕候も、遠路不任鄙中候。」或は辞令に過ぎざるやも測られぬが、慇懃の至である。絹を受けざる遠慮と云ひ、此会釈と云ひ、礼俗の厚き今人思料の及ばざる所である。「進上も可仕候も」、「北小路へも申聞候も」、此も文字は「へども」の義である。わたくしは此弖爾乎波を以て甚新なるものとなしてゐたが、漢陰の書に徴するに夙く文化中に行はれてゐたと見える。
九十八
文化丙子(十三年)九月十五日に霞亭は省親の旅より神辺に帰り著いた。事は十月朔に弟碧山に与へた書に見えてゐる。「浪華より凹巷へ托し一書差上候。凹巷雨航(此二字不可読、拠詩嚢塡之)二君と尼崎に而御別申候而、当(九月)十五日初更帰宅いたし候。(中略。)凹巷別後は独行故、夫に短日、渓山中興も有之候へども、いそぎ候而帰り申候。京都はすぐ通り、嵯峨へ立寄両宿いたし候。浅井宅に一宿いたし候。かの人例の篤実家、何か(と)よく周旋いたしくれられ候。医事大分行はれ候やうに見え候。可悦候。急にさむくなり候而孫福のどうぎと浅井の袷著に而やうやうふせぎ帰宅いたし候。御一笑可被下候。(中略。)塾翁始、家族皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。此度は凹巷君御寵送、殊之外御苦労奉存候。かの人の庇蔭に而名勝等色々探索仕相楽候事に御坐候。宇公へ新宅之方位御尋被成候哉。」
此書は末に「十月朔」と書しながら、文中には神辺に著いた日を「当十五日」と書してゐる。是は先月十五日と云ふべきを、ふと誤つたものである。詩嚢に拠るに嵯峨の両宿は三秀院と含旭軒とである。含旭軒も亦僧院であつたことが詩に由つて知られる。次の一宿は浅井達夫が家であつた。達夫は医を業としてゐた。孫福孟綽は送つて此に至つて別れたと見える。次で尼崎に至つて凹巷が辞し去つた。霞亭は此より独行したのである。「一別今朝独杖藜。」わたくしは上に二字の読むべからざるものがあることを註した。是は渇筆にあらず、蠧蝕にあらず、草体の弁じ難きものである。或は「観魚」であらう歟。推するに宇仁館氏の一号にしてわたくしの未だ知るに及ばざるものであらう。
書には猶寿詩の事がある。「寿詩あつまり候分差上候。御接手可被下候。山田社中の詩追々まゐり候はゞ御写録御遣し可被下候。」霞亭の送遣したものは、留守中若くは帰後に神辺に集まつた諸作である。霞亭は伊勢人の諸作を見むことを欲してゐる。
わたくしは的矢書牘中の首尾なき一紙片を此に挿入すべきものかとおもふ。それは云ふ所を以て的矢より帰つた時の言となす故である。「二白。先達而見受候処、敬助儀上送(逆上)のためとて元服いたし居申候。病の事はいたし方も無之候へども、髪有之候ても各別違ひ候ものにも有之間敷候間、やはりはやさせ(総髪)医生にしたて候事可然候。尤頭つきにより候ものには無之候へども、御地など風俗あしき処に而悪少年などの中に居り候事故、人に違ふて身持等正しく無之候へば、よき人にはなられ申間敷候。髪など人にちがひ候へば人も自然とかわり候ものに候。是非見合、のばさせ可被成候。併頭つき人がらはどのやうになり候ても、性根あしければなんの益に立不申候。是第一之事也。」
同じ十月二十一日に霞亭は又書を碧山に与へた。前書と共に的矢書牘中にある。書に云ふ所は多く寿詩の事に係つてゐる。
其一。百々漢陰。わたくしは前にその霞亭に与ふる書を抄して、詩幅の京都より的矢に送致せらるべきを思つた。然るに詩幅は却つて神辺に郵寄せられた。恐くは京都辺に於て霞亭の西帰を知るものの手に落ち、故に備後に搬遣せられたのであらう。「百々兄より詩被遣候。此便は余り大きなるものに而人に托しかね候。追而差上可申候。詩は。金葩翠葉数枝新。老圃秋容巧写真。要識此花生面目。高堂正有古稀人。題菊画寿北条霞亭先生尊翁七十。書は山脇道作様御認に而甚大幅、二枚折屏風になり候位、菊の画も添候。」
其二。北小路玫瑰。「北小路先生より(の)寿詩うつし拝見仕候。辱奉存候。未此方へは参り不申候。」玫瑰の詩は的矢に送られ、碧山が写して兄に示したのである。
其三。僧月江。「月江長老の詩並に書状は九月中西村及時君方迄達し候由に候。」
寿詩の事は未だ罄きない。わたくしは下に続抄しようとおもふ。
九十九
文化丙子(十三年)十月二十一日の霞亭の書に一、漢陰。二、玫瑰。三、月江の寿詩の事が見えてゐることは既に云つた。次は
其四。勘解由小路資善。「勘解由小路様御作も被下候様子、是もまだ参り不申候。御苑御菊、勘解小路殿より御周旋被遊候由、難有幸と奉存候。菊は参り候様子に候へども、いかゞいたし候而参り候や承度候。切り而花かれ候はゞ、大切にをし花になりとも被成置度候。追而拝見仕度候。」
其五六。内藤拡斎、鈴木宜山。「此方より内藤老大夫並に鈴木文学詩は茶山翁書中山口(凹巷)迄達し候由に候。しかし其方へ参り不申候はゞ、序に御聞可被下候。詩はうつしをこちらへ御遣可被下候。」内藤大夫は文化甲戌(十一年)の献頌篇に見えてゐる内藤景充であらう。拡斎の印がある。江木鰐水稿本福山風雅集に拠れば、拡斎の通称は角右衛門である。鈴木文学は圭輔である。
其七。恒心社友。「山田社中御作も其方より御催促被成、御集録可被下候。」恒心社友の作を蒐むる任は碧山にあるのであつた。
的矢の家に集まつた詩は、写して一巻となし、高木呆翁の許に留め、霞亭は副本を作つて携へ帰つた。しかし抄写に広略があつたので、霞亭は更に碧山をして副本を作らしめ、自抄本と易へようとした。わたくしは下の文を此の如くに読むのである。「梅坳(高木氏)に寿詩巻は有之候。併ながら御手透之節、又々一通りていねいに御録写可被下奉頼候。此方のはそちらへ差上可申候。外より段々見せくれ候へと被申候が、小生匆略にかき候故見苦敷候故に候。かわりめのなき題言はかくに不及、少し事の有之候題は御書き可被下候。姓名の下の処附は此方にていたし可申候。」
霞亭の書は報酬の事にも言及してゐる。「北小路百々へは此方よりも三観(薇山三観刊本)か何ぞ産物にても挨拶之印に遣し可申候。百々は格別、北小路は折角御周旋被下候間、当冬伊勢鯔つつこみ一尾にても、大坂園部迄御遣可被下候。此方へも一尾被仰付可被下候。いづれもこれは飛脚は御無用、冬の中に船便大坂迄、とくといたし候船頭御頼可被下候。しかし御面働ならば御見合可被成候。」
霞亭は前書に、雨航に方位を問ひしや否と云つた。此書にも亦此言が反復してある。按ずるに的矢の北条氏は将に新屋を構へむとしてゐたであらう。「雨航に方位造作(之)事御尋被申候哉。是も大方此節は浪華勤と被察候。」宇仁館雨航は形法の学に通じてゐたものと見える。
十一月十七日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書牘の一で、その云ふ所は直に武を前書に接してゐる。先づ寿詩の事を抄する。「寿詩あつまり候分差上候。御落掌可被下候。内藤は内藤角右衛門と被申候御隠居之国老に御坐候。鈴木、伊藤とも福山教授文学に御坐候。北小路より詩参り候哉、此方へは届不申候。」内藤大夫は前考の如く角右衛門景充であつた。鈴木君璧よりして外、今新に伊藤文学が添へ出された。伊藤弘亨、字は貞蔵、竹坡と号した。仁斎の次男が梅宇長英(東涯弟、介亭竹里及蘭嵎兄)、梅宇の次男が蘭畹懐祖。蘭畹の長男が竹坡である。

霞亭の文化丙子(十三年)十一月十七日の書はわたくしに北条氏に重要なる一事のあつたことを知らしめた。それは当時霞亭の一人の弟良助が既に妻を娶り子を生ませてゐたと云ふ事である。「良助女子出産之由、目出度悦候。彼方へもよろしく御祝儀可被下候。なんぞと被存候へども、遠方故不任心候。又々折も可有之候。二尊へも御祝詞可然奉頼候。」
既に屢記した如く、適斎の子は譲四郎譲、内蔵太郎彦、貞蔵、大助惟長、良助、敬助惟寧の六人であつた。就中内蔵太郎、貞蔵の二人は早世した。丙子(十三年)の歳に存してゐたものは、霞亭譲四郎三十七、碧山大助二十二、良助十九、撫松敬助十五である。
北条氏の家譜に拠るに、良助は谷岡氏を冒してゐる。按ずるに谷岡某が良助を養つて子としたのは、晩くも丙子(十三年)の早春であつただらう。此書に云ふ所の生誕は谷岡良助の長女の生誕である。良助は適斎諸子中にあつて、記性鈍く、学業の成り難かつた不肖の子であつた。想ふに谷岡氏の家業はこれを襲ぐに読書人を求むることを須ゐなかつたのであらう。
此書には諸友の消息が極て乏しい。惟「此間山口氏(凹巷)宜堂兄(西村及時)などより御状被下」云云の句を見るのみである。
霞亭述作の事は書中に二条ある。其一。「先日紀行詩四十首計卒業いたし候へども、副本無之故、又又追而可入御覧候。山口へ一本遣し候。彼方(山田)にて見てもらひ候上、其方(的矢)より此方(神辺)へ御返却可被下候。」紀行詩は的矢に往反した時の作であらう。刊本帰省詩嚢の載する所は古今体五十四首である。或は思ふに其四十首許が先づ成つて余の十数首は後に補作せられたものか。
其二。「山口、宜堂より杜詩註解、詳説、心解等御恵借被下候。遠方辱奉存候。是は来春中に卒業仕たく候。」是に由つて観れば杜詩挿註は丙子(十三年)の冬起稿する所であつた。霞亭はこれがために凹巷及時に書を借りた。
霞亭の次に碧山に与へた書は、末幅が断裂してこれを作つた月日を知ることが出来ない。しかしその已発最後の書を「十一月十七日」とするを見れば、直に前書に継ぐものなることは明である。是も亦的矢書牘中にある。
先づ適斎を寿する詩の事を抄する。「北小路より御高作被下候。此信呈上仕候外に勘解由(今次不脱由字)小路様御染筆等皆北小路御周旋被下候。足下よりも厚く御礼書状御差出し可被下候。ぼらにても御序に御遣し可被下候。三紙共縉紳家の御筆に候。いづれ後便御家号、爵位等尋遣可申候。」所期の北小路玫瑰、勘解由小路の詩書の外、公卿の書二枚をも得て郷里に送つた。
霞亭は詩を作つて常安と云ふものに贈つた。「常安へ此詩御遣可被下候。甚拙作也。只塞責耳。」此詩は遺稿に見えない。  
 

 

百一
文化丙子(十三年)十一月十七日後の霞亭の書には次年丁丑茶山七十の賀の事が見えてゐる。「此方茶山翁来春二月七十寿辰、同伯母(原註、翁妻)も六十一に御座候。夫妻とも賀年にあたり候。伯母の事は女の事故しらぬふりにてもよろしかるべく候。翁へは御宅よりも何ぞ御祝儀可被下候。先達而金子に而酒料参り候と覚え候。同じやうにてもかつこういかがあるべく、其節の間に合不申候てもよろしく、いつにても何ぞ思召付之品御賀進可被下候。大人へ御相談可然候。翁とかくすぐれ不申候へども、対客講釈はたえず有之候。」
菅氏の家譜に拠るに、茶山の初配は内海氏為で、天明二年壬寅二月十七日に歿した。年僅に二十三であつた。後妻は門田氏宣で、文政九年丙戌五月十九日に歿した。茶山に先だつこと一年にして歿したのである。
此書の云ふ所を見るに、宣は丁丑に六十一歳になるさうである。然らば其生年は宝暦七年で、歿した時は七十歳であつた筈である。
此書は三たび雨航家相の事を説いてゐる。「雨航より此間書状まゐり候。歳晩(丙子)か初春(丁丑)には御宅(的矢)へも被参候而家相得と見可申由被申越候。繁用なる人故、如意被参候哉無覚束候。いづれ可然御頼可被成候。」
これよりして外、書中の剰す所は二三の雑事のみである。其一。「池上隣哉之詩いつぞ御序に御返し可被下候。」隣哉の詩とはいかなる作であらうか。誠宇の受業録を閲するに、霞亭の丙子(十三年)に帰省した時、諸友は相会する毎に東恒軒を憶ふ詩を作つた。隣哉に二絶がある。所謂隣哉の詩は或は是歟。「花月楼作。秋風此夕不蕭条。一曲絃歌声欲飄。縦使幽明路相隔。沈檀一弁為君焼。」「漑(原文は正字)蘭社集、憶恒軒先生、時霞亭先生帰省自備後。逢霽逢君把酒頻。有情有感剪灯親。秋窓閑話皆依旧。唯是此中少一人。」花月楼集の霞亭の詩は詩嚢所載「行邁忽忘旬日労」云云の七律である。其二。「薇山三観御入用も候はゞ被仰越可被下候。何部にても差上可申候。」霞亭は三観を以て帰遺に充てたので、伝聞して乞ふものもあつたのであらう。
霞亭丙子(十三年)の書にして的矢書牘中に存するものは此に尽きた。わたくしは的矢書牘に交つてゐる一詩箋の事を補記したい。
箋に三詩が書してあつて、其一は歳寒堂遺稿丙子(十三年)歳除の詩の前に見えてゐる。「橘好直送新醸彭祖春数斗、酒味勁甚、賦此寄謝」と題するものが是である。按ずるに好直は茶山集中の佐五郎である。門田の詩集に拠れば藤田氏で、兵庫の人歟。酒は茶山と霞亭とに貽られた。「故人偶以家醸羞。臘味余辛気浮々。」わたくしは余の二首の此に挿入すべきものなるを思ふのである。「弔杉林主鈴。(疑齢。)越中出奇士。落魄滞京城。猖獗思阮籍。粗豪圧禰衡。抱痾終歳臥。論志万金軽。憶起生前日。猶聞罵酒声。」「伊藤子直君萱堂七十寿言。児孫遶膝靄慈顔。百歳無□意思閑。応是不騫添寿算。君家檻外有南山。」
丙子(十三年)の歳は云に暮れた。「歳除、是時杜詩卒業。抱志悠悠何所為。光陰無待棄予馳。年年筋力成衰境。事事歓情異少時。千里故山拠弟妹。一灯清酌対妻児。朝来聊有欣然意。注了少陵全部詩。」杜詩挿註の初藁が成つたのである。時に霞亭年三十七。
百二
文化十四年(1817)の元旦には茶山に詩があつて霞亭にない。彼は「東風吹老老梅林、元日今年春已深」の一篇である。
霞亭は二日に郷親に寄する賀正の書を作り、八日に発送した。発送の事は下の正月十五日の書と認むべき断片に見えてゐる。亦的矢書牘の中にある。
書中に霞亭は弟碧山に筆札の事を誨へてゐる。「習書の思召一段之義と奉存候。法帖類は何と申にても無之、古人帖なれば皆々よろしく候。其中銘々の好尚も有之候間御取捨可被成候。よろしくぞんじ候品にても見当り候はゞ、購求仕差上可申候。併僻境故何もさしたる物無之候。山田辺御出之節御相談可被成候。楷書習ひ候方甚益多かるべく候。小生輩のやうに狼籍にかき習ひ候癖付候而(は)今更去りがたく後悔仕候。」わたくしの偶此語を抄するは椿山公の孤松余影を贈られた次日である。二宮孤松は霞亭の歌四首と画とを合装したる一幅を愛蔵してゐた。そして「其書の妙なる殆ど山陽の俗牘に譲らざるものあり」と云つてゐる。「狼籍に書き習」つた霞亭が百年後に知己を獲たのは奇とすべきである。
霞亭は又次の二弟の講学に言及してゐる。「良助、敬助素読等(此下二字不明)出精のよし為御知大悦仕候。尚又無怠慢様御心懸可被下候。」
又山田詩社の消息がある。「山田よりも河崎、西村、長井、文亮子などより書状参候而、くわしく様子承知仕候。山口は何歟檀家の大金出入事間違候而、公辺かかり合等有之候由、河崎より申来候。余程取込筋に候へども、例の御気質故、其中にも格別御不貪著のよし、よしの詩稿百首計も卒業とやらむの事に候。しかし家事取込気之毒に存候。」書を寄せた河崎は敬軒、西村は及時、長井は弥六、文亮は夢亭である。敬軒の書に凹巷の近状が見えてゐた。訴訟の事は不詳である。「よしの詩稿百首計」は芳野游稿である。芳野の遊は文化癸酉(十年)であつたが、刊本の末を閲すれば、「文化十四年丁丑孟春、平安書舗梶川七良兵衛開雕」と書してある。載する所の詩は九十八首である。
其他書中には碧山の霞亭に寄せた物、霞亭の碧山に寄せた物が見えてゐる。「霜月末御状除夜に相達し申候。女院日記慥に受取申上候。」女院日記とは群書類従収むる所の女院記歟。猶考ふべきである。「近作少々入御覧候。(中略。)此記は認そこなゐに候。入御覧候。外へは御示し御無用に奉存候。」詩は丙子(十三年)歳除の作等であらう。所謂此記とは何歟。歳寒堂遺稿には飯後亭記以下四篇の文があつて、皆記である。此時碧山に示したものは何れの篇であらうか。
越て四日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書牘中にある。書は先づ茶山の七十の賀の事を言つてゐる。「老先生今年二月七十誕辰に候。先達而申上候通御賀儀可被遣候。且御詩作御達可被成候。伯母菅翁妻も六十一に候。この人は法成寺村と申大庄屋の姉に候。門田久兵衛と申人極月末死去いたし候。別段弔書には及申まじく、小生よりよきやうに申置べく候。老先生の賀言はをくれても御挨拶可被成候。大人様へ已に賀有之候事なれば也。」茶山の事は姑く置く。妻門田氏宣と齢との事は上に註した。門田氏の家は安那郡西法成寺村である。宣の父を伝内正峰と云つた。丙子(十三年)十二月に歿した久兵衛の事は、他日門田氏の系譜に就て検したい。
百三
文化丁丑(十四年)正月四日の霞亭の書には、尚山口凹巷と宇仁館雨航との名が見えてゐる。
「三月末、四月頃には凹巷播州の回檀の序、此辺へも枉臨可有やうかねて被申候。何卒如意御越有之候はば、小生歓意無此上候。尚御出会も候はば、御勧聳可然候。」回檀とは檀家を歴訪する義歟。或は思ふに凹巷は神宮に関する職を奉じてゐたのであらうか。墓誌は通篇詞章の事を言つて、絶て職業に及ばない。わたくしの解釈に艱む所以である。
雨航の事は前に見えた的矢北条氏の家相の事に聯つてゐる。「雨航正月に御宅へ被参候様に、小生方へも被仰遣候。併甚繁用の人故、気之毒千万に候。御出なくとも済候事ならば、労し申さぬ方可然候。先第一申上候は外の事には無之、随分麤末にいたし、財のかからぬやうの事に候。此意は先達而も申上候。其御主意を御ふくみ被成候様御頼申上候。」北条氏は果して土木を興さうとしてゐるのであつた。
書中に霞亭は弟碧山のために作詩の訣を語つてゐる。「御詩作随分おもしろく候。さりながら随例賛歎いたし候は不深切なる事也。力を極めわるく申候。そこを御考可被成候。読書の力なくては、詩もよくは出来不申候。御用意専一に奉存候。」霞亭は学殖あつて始て詩を善くするものと信じてゐたのである。要するに語に来歴あらむことを欲してゐたのであらう。
最後に霞亭は父に土宜を献ぜむとして敢てせぬ事を言つてゐる。「大人様にこの辺のぶり(海鰱)又はさより(鱵)などを差上たく心懸候へども、実はたわいもなきもの、且は諸方へ世話かけ候も気之毒に候故、先差上不申候。いづれ小生参り候節と奉存候。」
此書よりして後、霞亭は正月八日、十五日、二十一日に書を的矢に遣つた。事は後の三月九日の書に見えてゐる。しかし的矢書牘中には此等の日附の書が存してゐない。只正月十五日の書の断片と認むべき一紙が存してゐるが、其事は下に註する。
二月には三日、七日に書を的矢に遣つた。亦三月九日の書に見えてゐて、今伝はつてゐない。しかし是月は茶山の寿筵の開かれた月である。茶山は寛延元年二月二日に生れた。飲燕の生日に開かれたことは疑を容れない。現に本集載する所の「酔月迷花七十年」云云の七律にも「七十誕辰」と題してある。しかし菅氏の賀客を請じた日は啻に生日のみではなかつた。霞亭の三月九日の書に「度々賀客の筵有之」と云つてある。霞亭の寿詩は「寿茶山先生七秩」と題する五古で、歳寒堂遺稿に見えてゐる。篇中には月を言つて日を言はない。「此日寿覧揆。青陽二月初。」此にはその身分を説いた数句を抄する。「吾躬辱姻族。知愛受恩殊。皐比分半席。禄米賑窮厨。抃舞携児女。一堂侍杯盂。」妻敬と女梅とを伴つて席に列したのである。
三月三日は梅の初雛であつた。是も亦三月九日の書に見えてゐる。わたくしは的矢書牘中なる九日碧山に与ふる書を抄する。「今年は塾先生七十に而度々賀客の筵有之、或は私方初ひななどと、俗事に而日をくらし候。花も殊の外はやく皆々落残いたし候。此辺花なく、一度も出不申候。」梅は鴨村丁谷にあつて、彼は亡び此は存してゐたが(丁谷幾叢開満岸、鴨村千樹墾成田、茶山)、桜は神辺の近所に少かつたと見える。
百四
文化丁丑(十四年)三月九日の霞亭の書には、的矢北条氏、土木の事のはかどつた跡が見えてゐる。「御宅普請の図等御見せ被下大慶仕候。何分ざつと被成候やう可然、大人様など御心配無之候様御心付可被成候。」
霞亭は書中に良助敬助二弟に尺牘の楷式を誨へてゐる。「良助より年始状辱存候。よろしく頼入候。敬助なども年始暑寒の御見舞状等(此間「塾翁へ」など添へて看るべきであらう)差出させ可被成候。良助はもとより、敬助にても、平生通用之書面随分俗通之方之文体可然候。学者は却而手紙書状等にうとく、世の中の用に立かね候故、わけ而心付可申候。」霞亭は字雕句琢の尺牘を喜ばぬのである。
山田詩社の消息は曠疎である。「正月には山田諸君御宅へ御訪被下候由、いまだ此方へは(此間「いまだ」重出)書通無之候。御無事と察入候。」九日の書の事は此に終る。
歳寒堂遺稿を閲するに、霞亭は此春今村蓮坡を訪ひ、又筑前の梶原、月形、吉富等の来り過ぐるに会した。「訪今村綽夫、主人時閲録旧詩草」の七絶、「晩春筑藩梶原月形吉富諸君見過、用梶君贈茶山韻」の七律がある。就中今村の名字は福田氏の教を得て詳にすることを得た。今村勝寛、字は綽夫、一字は子猛、蓮坡(披一作陂)又退翁と号した。通称は五兵衛である。居る所を藕風居と云つた。わたくしは福田氏所蔵の「蓮坡詩稿」並に「藕風居百絶」を寓目することを得た。後者に「今村完綽夫著、広住翰十五校」と署してある。広住氏は僧となつて祐慶と称し、最善寺に住した。山陽の曾て宿した寺である。祐慶、名は翰、静庵と号した。筑前の三士中、梶原月形の二氏は茶山集に見えてゐる。茶山集の藤井葦川の註に拠るに、梶原翼、字は子儀、通称は七大夫、月形質、字は君璞、通称は七助、道号は鷦棲である。
四月には霞亭が六日に書を碧山に与へた。前の三月九日の書と此書との間には通信のなかつたことが文中に見えてゐる。
先づ霞亭の家事を抄する。「正月来里方妻父病気に而度々妻など罷越候。それや来客、講業等に而、今年は一度も花も見不申、殺風景罷過候。此節小学詩経講説に而皆々半になり候。」里方妻の父は井上源右衛門正信である。わたくしは此に的矢書牘中の月日の無い一柬を挿みたい。それは是年丁丑(十四年)の作なることが明だからである。「此頃は大分暖気相催候。(中略。)妻共親早戸村源右衛門此頃大病に而、妻お梅携、十日(正月か)参り居申候。少々よき方にも申候由、併六十有余の人故、急にも本復出来兼可申候。小生此節独居甚静に而、詩歌など出来悦候。(中略。)十八日頃より又々講業にかかり候。」或は上に云つた丁丑(十四年)正月の十五日の書であらうか。此断片には猶浅井周助が丙子(十三年)冬に盗に逢つた事、前波黙軒が中風に罹つてゐる事が見えてゐる。「浅井去冬盗に逢候由新居昨今の事故嘸こまり可申候。狂歌や詩など数々被遣候。何卒ひるみなくとりつづかせたきもの(医業を謂ふか)と黙禱仕候。」「登々庵詩、前波宗匠歌差上候。前波も久敷中風、老毫のきみにて、この位の事も余程大義に有之候よし。」(以下切れて無し。)前波黙軒、名は敬儀、一号は蕉雨軒、京都両替町二条南に住んでゐた。
諸友の動静にして上の四月六日の書に見えてゐるものの中、先づ月江承宣の事を挙げる。「月江上人も二月御乗船のよし、鞆へは順風に而寄舟無之、三月八日予州岩木と申処より書状到来いたし候。承芸、天隠など従事いたし候よし、長老より涌蓮歌集、竹(此字不明)たんざく、くわし等数品たまはり候。」月江は京都より対馬行の舟に上つたのである。随行には承芸の外に天隠と云ふものがあつた。涌蓮歌集は「獅子巌集」であらう。
次は山口凹巷である。「凹巷も春来一度も便無之候如何。回檀用事も延ばし候哉。」
次は浅井周助である。「浅井もいかがいたし候哉、今春はたえて便無之候。御地辺へはいかが。病気にてもなきや。此間又々尋遣候。」
次は田口某で、是は或は文字の交にあらざるかとおもはれる。「田口氏書状受取申候。尚又よろしく奉頼候。鯔魚は被遣ぬが甚妙に候。是のみならず、一切贈品御無用に被存候。」
百五
文化丁丑(十四年)四月六日の霞亭の書より事の郷里的矢に関するものを拾へば、先づ土木の事がある。「此節土木事御営作何歟(と)御事多く奉察候。」次は恒心社同人の適斎を寿する詩の事である。「山田社中の詩先々朽葉をかるべく候。いづれ其内小生より促し可申候。」朽葉を苅るとは、已に得た作中に就いて存すべきは存し、棄つべきは棄つる意であらう。其内促すべしとは、未だ得ざる作を誅求せむとする意であらう。次は末弟撫松の教育の事である。「敬助へ之書状先達而差出候。尚無油断御策励可然候。」
書中に尚碧山の茶山を寿する詩の事が見えてゐる。「老先生賀詩御序に御浄書被遣可被下候。(中略。)茶山翁賀詩尚又御序に凹巷兄へも御斧正御頼可被成候。併いそぎ候はば、それにも及申間敷候也。」碧山の詩は存せりや否やを知らない。
前書を作つた後七日、四月十二日に霞亭は又書を碧山に与へた。しかし其書は佚して、次の五月十一日の書が存してゐる。亦的矢書牘の一である。季候は「此節少々暑気相催候処、愈御安祥可被成御揃奉仰祝候」と云つてある。
此書は的矢土木の事を言ふこと稍詳である。「此節御普請中嘸御取込奉察候。隠居(所)へ御移被成候由、可然被存候へども、かの隠居(所)は此暑中にむかゐ候ては、御老人方は勿論、其方皆々あつさに御こまり可被成候。暑中に風すきあしき、むし候処にこらへ居候事甚人の毒に御坐候。ひよつと暑熱の入候ては、とりかへしもならず候。普請中はいづれにても近処の宅へひとつに御宿し被成候方可然奉存候。何分足下よくよく御心付可被成候。身の不養生は何にもかへがたく候。此段御心得可被下候。普請出来候のち、壁のかわかぬ処に起臥、是又よろしからず候。兼好が徒然草に人の家は夏をむねとしてつくるべしとあり、夏風いれよく、すずしき処は冬もあたたかなるもの也。草木随分あき地へ何なりとも多くうへられ候やう可然候。竹松など猶さら也。是皆人のなぐさみのみにあらず、養生になり候たすけに候。去年まき候なでしこはさき申候哉。此方此節一面さき候て見事に候。」瞿麦の種子は霞亭が丙子(十三年)帰省の日に備後より持つて往つたものであらう。それゆゑ神辺の家の園にも蒔かれ、此書を作つた時花を開いてゐたのであらう。
此書には又碧山が霞亭と其塾僚二人とに反物を贈つたことが見えてゐる。「塾へ紬一反御遣被下調法之品於小生辱奉存候。塾二位よりも宜敷御礼申上候様申出候。」一反の紬は三人の衣を裁するに足らない。何の料に充てしめむとしたもの歟。
此書は末が断たれてゐて日附が無い。中に「三月廿日の御状四月十三日相達候」と云つてある。後の六月十七日の書に徴するに、霞亭は此年四月十二日と五月十一日との間には書を的矢へ遣らなかつた。此書が四月十三日に達した郷書の事を言つてゐるより推すに、その五月十一日の書たることが明である。
次は六月十七日の書で、其首に見えてゐる発信の順序はわたくしをして前書の作られた日を知らしめた。「此方より四月十二日、五月十一日書状差出し候。追々相達可申候。」此書も亦霞亭の碧山に与へたもので、的矢書牘の一である。  
 

 

百六
わたくしは文化丁丑(十四年)六月十七日の霞亭の書より、先づ事の神辺に関するものを抄する。季節は涼しき夏であつた。「今年はけしからぬ涼しき夏にて、今月迄各別こまり候あつさも無之候。南国(志摩)は如何候哉。(中略。)残暑強く有之候半歟。折角御心付肝要に候。此頃朝夕已に秋涼の心を覚え候位に候。」霞亭の一家は無事であつた。「此方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)何も別段申上候事も無之候。」霞亭は多く山田諸友の贈遺を受けた。「凹巷より吸物椀よき品御恵投、呆翁よりも右之類御恵投被下候。御出会之節御謝可被下候。河崎、雨航などよりも御投贈もの有之、春来之消息先日一同参り、甚慰遠情申候。」山口凹巷、高木呆翁、河崎敬軒、宇仁館雨航皆物を贈り書を寄せたのである。
次に事の的矢に関するものを抄する。「御普請近々御落成におもむき可申奉存候。御様子承りたく候。」江戸の和気柳斎が霞亭の父適斎に紙子を贈つた。「和気行蔵子より紙子被下候由、御地へむけ参り可申候。御入念之儀と奉存候。何ぞ其内謝答いたしたきものに候。いづれ其内御見合何ぞ御考置可被下候。いつにてもよし。」是も必ず寿詞と共に贈られたものであらう。
霞亭は此書を匆忙の裏に作つた。「御双親様へ別段暑中御見舞書状可差上候処、福山より士人参り待受候(ふ)へ頼候故不克其意候。よろしく御断被仰上可被下候。」
歳寒堂遺稿に此夏の下に繋くべき事二条がある。一は「伏日高滝、島田、小野諸君見過」の七絶である。たかたき高滝氏は撲斎詩鈔に累見してゐる「高滝大夫」であらう。そして同集の末に「拝高滝常明墓」と云ふものも亦恐くは同人であらう。島田氏は献頒篇の「嶋田遠」であらう。印文に拠るに「字子広」である。撲斎集には「島田子広」と云つてある。小野氏は献頌篇の「小野明」であらう。印文に拠るに字は「士遠氏」である。撲斎集に拠るに小野士遠は居る所を清音亭と云つた。二は「寿楢園先生七秩」の五律である。楢園の事は頼杏坪の墓誌に詳である。「姓源。氏小寺。諱清先。通称常陸介。楢園其号。備中笠岡人。家世奉其邑稲荷祠。考諱清続。称豊前守。本磯田氏。来嗣小寺氏。故妣小寺氏。(中略。)文政十年丁亥夏患瘍。閏六月廿六日。端坐而逝。年八十。葬于館後山下。」是に由つて観れば小寺楢園は寛延元年に生れ、此年丁丑(十四年)に七十歳になつてゐた。推するに生日は六月某日であつただらう。
七月には記すべき事が無い。八月朔に霞亭の碧山に与へた書は的矢書牘の中にある。丁丑(十四年)の残暑は果して烈しかつた。「今年は暑中は各別にも無之候へども、残暑の方却而甚しく候。併此頃は朝夕稍涼冷を覚え候。」
神辺には事がなかつた。「小生無事罷在候。(中略。)其後諸般相替り候事少しも無之候。」霞亭は世上の事を聞かむと欲すること頗切であつた。「御地の御様子等何に付ても御しらせ可被下候。其外世間のうわさ雅俗にかかわらず説話等御きかせ可被下候。田舎に僻在いたし候ては、世上の事などきくが甚おもしろく一楽事に相成候ものに御坐候。」
百七
文化丁丑(十四年)八月朔の霞亭の書には、最後に父適斎に土宜を献ぜざる所以が弁じてある。「大人様へ国産(備後産)の索麪にても献じたく候得共、さまでもなきものを遠方へ差上候て、其上立入候事は大阪よりいせまでの賃銭、いせより御郷里へやるのなにかと(「やるのなんのと」の意歟)費なることに奉存候故、先々やめ申候。産物と申もの、よそへやりて、それほどに人の思はぬもの多きものに候。備後人がさうめんを人にやるとて、上方人のをりふしわらひ候よし、尤のことに候。其段御断可被下候。それとも御入用も候はば被仰聞可被下候。いつにても差上可申候、以上。」
九月七日に霞亭は書を弟碧山に遣り、これに短柬一紙を添へた。後者中「諸事本書に認置候」と云つてある。然るに所謂「本書」は存してゐない。
此短柬はわたくしに的矢北条氏の人々が新居に移つた日を教へる。それは七月六日であつた。「七月末御状今日相達拝見仕候。愈御安康奉賀候。六日(七月六日)移徙有之候由、重畳目出度奉存候。」其他書中には的矢より于瓢を霞亭に遺り、神辺より園卉野菜の種子を郷親に遺つたことが見えてゐるのみである。「乾瓢条沢山御恵投辱奉存候。何より調法之品別而辱奉存候。佐藤(子文)より塾へは先達而参り候故、皆私方へ申受候。(中略。)種物の内、大方皆春の彼岸頃(蒔くが)よろしく候。石竹は八月がよろしく候。しも(霜)かかわり候に及不申候。」
此書の次に列すべき霞亭の書は、末幅が糊離れのために失はれて、月日を詳にすることが出来ない。しかしわたくしは下の一段に因つて列次を定めた。「御新居段々御居馴染被成候哉。御勝手は如何に候哉。内造作も色々事多きものに御坐候。」此語は移徙の報を得た直後に書かれたものでなくてはならない。是も亦的矢書牘の一で、その碧山に与へたものなるは言を須たない。
此書に備後侯阿部正精の老中になつたことが見えてゐる。「此方殿様寺社奉行より直に御老中に御昇進被成候而、領内は一統悦候而、祭などいたし候而、郡中にぎやかに候。しかし何事も倹約を厳重にいたし候。」阿部正精の老中に列せられたのは丁丑(十四年)八月二十五日であつた。
書に又伊予の人矢野某の事が見えてゐる。「予州西条家中の医生矢野生が詩懸御目候。大分よくつくりたるものに候。二十二三の男にて、先日尋参候。これ迄江戸聖堂に居候而、京都にて頼徳太郎が弟子になり候由。此詩御返しに及不申候。」矢野の事は未だ考へない。山陽集中には載せざる如くである。茶山集に只矢野士善と云ふものがあるのみである。
又森岡維寅の事が見えてゐる。「先日来讃州より才子の童子入門滞留いたし候。森岡綱太と申もの、十二歳にてふりわけ髪の小児に候へども、書物はよくよみ候。史記左伝なども一通手を通し居候。先は奇童と申べきもの也。」綱太、名は惟寅、字は士直、森岡保治の子である。茶山の墓誌銘に、「綱太年始十二、航海来、寓余塾、白皙繊叟、如不勝綺、賦詩作書、略已就緒、而与人応接、如老成人、人皆愛慕焉」と云つてある。
其他書中には抄するに足るものが少い。霞亭は又花卉蔬菜の種子を郷里に送遣した。「あさがほ種少々差上候。漳州種の中には常の種、須磨などいふしろき種もまじり候。来年三月頃御まき可被成候。松なのたねは御地にも可有之候へども差上候。うらのすみか畑のすみに、いつにても御まき置可被成候。先春がよろしく候。」
百八
文化丁丑(十四年)の秋には猶歳寒堂遺稿より窺ふべき事二三がある。其一は霞亭が僧丹崖に次韻したことである。「和慧充上人韻。禅悦由来厭世囂。風流未必廃吟嘲。丹崖翠壁秋応好。想掃雲牀対泬寥。」慧充の丹崖なることは瓷印譜に由つて証せられる。泬寥は楚辞より出でた語である。
其二は霞亭懐人の五律に、伊藤蘆汀が此年京都に遊んでゐて、瀬尾緑谿と交つてゐたことが見えてゐる。「懐伊藤文佐在京、兼寄瀬尾子章。京洛故人遥。別来変涼燠。尋詩誰子同。恋月何辺宿。北雁念音書。東籬已芳菊。嵯峨経過時。為我題幽竹。」伊藤良炳、字は文佐、蘆汀と号した、本備後の士川越仁左衛門光崇の弟で、竹坡弘亨の養嗣子となつて伊藤氏を冒した。仁斎より第六世、東涯の弟梅宇より第五世である。瀬尾文、字は子章、緑谿と号した。通称は弥兵衛である。家は京都中立売新町西にあつた。
其他牽牛花を詠じた「碧花雑題」、題画の数首等も亦此秋霞亭の作つたものであらう。
冬に入つて十月十日に霞亭の弟碧山に与へた書がある。亦的矢書牘の一である。此書は前半が失はれてゐる。しかし前半に霞亭が亀田鵬斎に書を寄せ物を贈つたことが見えてゐた筈である。
霞亭は碧山に託して物を鵬斎と和気柳斎とに贈つた。断片の首に僅に存してゐる数語はかうである。「そして北条譲四郎、亀田文左衛門様と上封御書被遣可被下候。」次に物を柳斎に贈ることが云つてある。「和気へ。これもかの方より年々何歟被遣候。今年も遣し候也。去年の賀の礼旁、これは小生と足下と連名にて(鵬斎に寄するものに、碧山が連署せぬゆゑ、これはとことわつたのである)此書状そへ、鰹節一連、五六日の処御遣可被下候。是も封じて上へ両人名御書被遣可被下候。別段足下より紙布等被遣候挨拶礼状御そへ可然候。右之通御認、霜月末、極月初之内、河崎氏迄御遣置可被下候。御めんどうながら頼入候。代銀は来年参り候節勘定可仕候。」所謂去年の賀は、前年丙子(十三年)適斎七十の賀である。柳斎は物を適斎に遺つたことであらう。わたくしは此に由つて書の丁丑(十四年)に成つたことを知つた。
霞亭は同じ書中に又対馬にある僧月江に言ひ及んだ。「対州へも此間書状差出し候。例の索麪を遣し候。無恙相達し可申や。遠境一向便もしれ不申候。京都へは定而便も可有之候らむ。」
又池上隣哉の病の事が書中に見えてゐる。「池上隣哉久敷臥蓐の由、此頃初而承り候。」
此より後は霞亭の消息にして此冬に繋くべきものが殆無い。遺稿の「牧百穀、諸子見過」の七律は「落葉満庭人不蹊」の句より推してその冬なるべきを思ふのみである。百穀の事は上にも出でてゐたが、わたくしはその棲碧山人の親戚なるべきを想ひつつも、これを詳にすることを得なかつた。今わたくしは百穀の名を碩と云つたことを麻渓百絶中より見出し、その信蔵と通称して、麻渓の妹を娶り、一時廉塾の長となつてゐたことを茶山集の葦川註に由つて知つた。遺稿の載する所は此の如きに過ぎぬが、猶的矢書牘中に前半の失はれたる一柬があつて、その丁丑(十四年)十二月に作られたことが証せられる。わたくしの此の如く云ふは、書中に「論語竟宴、得原壌」の五絶と、「冬日即事、三体詩竟宴、傚一意体、得先」の五律とがあつて、並に遺稿丁丑(十四年)の諸作に介まつてゐるものと同じきが故である。彼は遺稿に「原壌、論語竟宴」と題し、此は単に「冬日即事」と題してある。書には尚下の如き語がある。「無程漁猟之秋と奉察候。郷味想像、流涎仕候。しかしつつこみはもはや御恵には及不申候。左思召可被下候。近作一向無之候。短日講業に駆馳せられ候のみ。此節孟子杜律隔日、文章軌範などよみ候。(此間有詩二首。)此外色々可申上候得共、難尽筆頭候。苦寒折角御自愛奉祈候。御双親様へ可然奉願候。余期再信之時候。匆々頓首。譲。立敬賢弟。」
遺稿に「除夜和茶山翁」の七絶がある。「城市喧闐人未還」を以て起るものが是である。茶山集を検すれば、「放学経旬静掩関」云々の除夜の詩がある。其他遺稿には「雪中和茶山翁」の五律があつて寒韻を用ゐてあるが、茶山集は其原唱を載せない。是歳霞亭は三十八であつた。
百九
文政元年には霞亭に「戊寅元日」の七律があつて、歳寒堂遺稿に見えてゐる。「飛騰暮景二毛新。四十今朝欠一身。漸覚歓情在児女。近疎杯杓養形神。梅開蛙谷香先動。氷泮鷹川緑自淪。遥拝双親看雲立。東風吹送故山春。」第二に作者は年歯を点出してゐる。三十九歳になつたのである。二毛はその記実なりや否を知らない。意を留めて看るべきは第四の「近疎杯杓養形神」の句である。題の下にも既に「予因病新禁酒」と註してある。
遺稿に又これと合せ看るべき七絶がある。「修家書。意至宛如泉有源。幾回加筆不知煩。写来還恐人添憶。抹却憂痺止酒言。」是に由つて観れば霞亭は痺を病むことを慮つたかと疑はれる。「憂痺」の憂は必ずしも杞憂でなかつたとは云はれない。しかし元日の詩の題下に「因病禁酒」と云ふを思へば、或は夙く中風に似た病兆が見れたことがあるのではなからうか。
所謂家書は幸に的矢書牘中に存してゐる。そして一語の禁酒に及ぶものがない。書は正月九日に弟碧山に与へたものである。それが戊寅の春始て作られたものなることは、首に「改春之御慶重畳申納候」と云ふを以て知られる。
わたくしは先づ霞亭の自己を語るを聞かむと欲する。「小生始家内皆々無事越歳仕候。御安意可被下候。旧冬よりは例よりも暖に而くらしよく候。雪はたえて無之候。御地は猶更と奉察候。(中略。)私も当年は帰省可仕と心懸候。いつ頃にいたし候やしれ不申候。とかく小家にても主人となれば何歟と纏累、容易に出かね候。どふぞ春中と心懸候。春なれば同道なども有之候。尤同道はいくらも有之候ても、気にいらぬ者はいや故に候。未一寸も其事は申出不申候。これも順により可申故、きつと定めかね候。必々御待被下間敷候。」
次に帰省詩嚢刊行の事を一顧する。「去々年(丙子)帰省詩稿京師にて又々上木いたし候。かの三観(薇山三観)に附し候つもり、達夫(浅井)周旋いたされ候。しかしいつ頃出来候哉、近来は信無之候。」刻本には達夫の丁丑(十四年)冬の跋がある。想ふに霞亭の此言をなした時、詩嚢は既に剞劂氏の手にわたつてゐたことであらう。
次は弟碧山に関する事どもである。「御草稿返璧いたし候。(中略。)唐宋詩醇をどこぞで御かり出し被成候而御熟読可然候。文庫(林崎)には有之候。是はむづかしきか。佐藤(子文)へ内々御頼被成候て、一帙づつにても出来可申や。」碧山惟長は当時二十三歳であつた。
次は佐藤子文と池上隣哉とに関する事である。「佐藤より歳末(丁丑)信有之、先は全快のよし、詩など多く参り候。池上はとかく得と無之候由、気之毒に存候。」隣哉の病の事は前年十月十日の書に見えてゐた。子文の病の事は始て此に見えてゐる。
最後に少年詩人上田作の事を抄する。「上田作といふ人は誰の子に候哉。御郷里にこの位の詩にても出来候人はめづらしく候。」詩は碧山と唱和したもので、碧山の稿中に見えてゐたものであらう。上田の誰なるをば未だ考へない。
十二日には備後に始て雪が降つた。霞亭に「十二日暁起、看黄葉山雪」の五古がある。「開戸僮驚叫。夜雪没千峰。」又、「倚軒方一笑。此景無昨冬。」
十三日には霞亭が福山に往つたらしい。後に引く所の書牘がこれを証する。
百十
文政戊寅(元年)正月十三日に霞亭が福山にゐたと云ふことは、的矢書牘中の月日を闕いた書に拠つて言ふのである。書は霞亭が弟碧山に与へたもので、その月日を闕いてゐるのは、首あつて尾なきが故である。此書に「霜月御状正月十三日福山に而接手仕候」と云つてある。
此書の戊寅に成つたことは、碧山新居の事が見えてゐるより推すことが出来る。碧山は前年丁丑(十四年)に新居を営んだが故である。「御新居之額の儀色々案申候。前江後山村舎(或は堂)などは如何候哉。杜詩の古詩(五字本のまま)に家居所居堂、前江後山根と申すこと有之候。同号の事、嵐山も亀山も余り漠然か。碧山などは如何。御近辺青峰と申山ある、夫にとり候て、出処は李白が問君何事棲碧山と申字有之、いづれ御考可被成候。」惟長立敬の碧山と号した来歴は此に見えてゐる。
二月朔に霞亭は菅茶山北遊の事を郷里に報じた。是は初度の報ではない。しかし前書と此書との間に成つた書は佚亡してゐる。此書も亦碧山に与へたもので的矢書牘の一である。「先書(佚亡)申上候通、菅翁二月末頃上京之由、順に寄候てはいせへも可被参候。いせへ被参候はば貴郷(的矢)へも立寄可被申や。かの人は余り構候もきらひ被申候。といふて不構もいかが。飲食は格別このみなき人に候。御地のかまぼこ、をぼろなどが口によく合可申候。いづれ両三日も滞留いたされ候はば、灯明などへ舟遊御すすめ被成てもよろしく候。しかし本人の意にまかすべし。尤十に七八はいせへは被参申間敷候間、必々御心待御無用と被存候。」
同じ書に又適斎七秩の寿詩の事が見えてゐる。「大人様寿詩録、小生初録之分一遍此方へ御贈可被下候。さなくば華山公の処の為天放子と申処御破可被下候。別段あの通御願可申と存じ候へどもむづかしく候故に候。あの一枚を反古に被成可被下候。」わたくしは此文を下の如く解する。霞亭は父のために寿詩を集録した。其中華山公の詩は霞亭がこれを写すに臨んで小引を改刪した。是は公に改め書せむことを請はむと欲したが故であつた。然るに此請をなすことは容易でないので断念した。霞亭は改刪の痕を後に遺さむことを憚つて、弟に破棄せむことを命じたのであらう。華山公とは花山院内大臣愛徳か、非か。猶考ふべきである。
又霞亭が碧山のために茶山の書を求めた事が書中に見えてゐる。「菅翁より志州磯辺途中の詩二首、鳥羽の詩二首、足下よりの頼にいたし、かいてもらひ候。いつにても御序に御謝辞可被下候。これは屏風か、からかみの用にもと存候故に候。先々いづれ小生帰省仕候節の事に可被成候。よき趣向可有之候。」
最後に二三の瑣事を書中に取つて此に録存する。其一。「江戸へ木魚御遣被下候儀御世話之至に存候。」木魚は誰に贈つたものか不詳である。其二。「雑録、詩文、時喜(此一字不明)録、これは先他へ御見せ被成ぬやうに被成可被下候。其御心得可被下候。」時喜録の事は後に見えてゐて、書牘の作られた年を識る資料となるゆゑ、特に注意に値する。しかし喜字は艸体不明である。其三。「小生帰省は右先書申上候次第に(而)いまだ申分も立不申候故、いつともしれ不申候。」霞亭の帰省の期は猶未定である。其四。「御詩稿例の如く愚案申上候。弟共書状被遣、皆々へ宜敷(可被申)候。書状の認方など、一々御指図可被成候。俗通用は随分俗文ひらたくきこえ候が第一よろしく候。其心得可被下候。良助などは百姓の儀故、猶更の事なり。」  
 

 

百十一
文政戊寅(元年)二月中、前書を発した後、霞亭は又菅茶山の事を弟碧山に告げた。「先書申上候通、菅翁も当廿日頃上京いたされ候。病人の儀故、京坂の間の名医などに見せ候つもりを主意の由、夫によしのの花などかけ候事に候。事により候ては、いせ参宮も可被致候。よしのは三月中頃廿日迄の内にも可有之候へば、いせへは中頃か三月末迄の内と被存候。老人の儀故、しかともいたし不申候へども、山田へ被参候はば、貴郷へも可被参候。其御心懸可然候。佐藤へ一寸しらせ候事を頼遣し申候。尚又足下よりも頼置れ可然候。被見候噂きこえ候はば、足下山田へ御越被成候而もよろしく、何分郷里にも御越被下度儀、親共始御願申上たく候へども、僻郷之儀故申上兼候、御苦労にも思召候はば、山田切にてもよろしくと御挨拶可被成候。其上は翁の意次第にまかせられ候而可然候。被参候ても格別御構にも及申間敷候。御膳などは随分ざつといたし候而よろしく候。朝夕は茶漬にてよろしく候。珍物はきらひに候。こわき物口に合不申候。何分被参候はば料理人御やとひ被成、それに何もかもまかせられ候て可然候。定而滞留一両日に過申間敷候。舟遊一日御すすめ可被成候。これもあの方の勝手次第、しゐては被仰まじく候。書画類床にかけ候(は)何に而もよろしく候。御宅には何も人に見せ候もの無之候故、一切御出し被成間敷候。寿詩類は人のみて詮なきもの故、これも御出し被成ぬがよく候。帰途行厨にても被成候而磯辺辺迄御送行可被成候。親族中皆々御挨拶に罷出候はづに候へども、御面働を憚候故差控候と御断可被仰候。その方が翁も勝手に候。滞留中足下并に敬助は著袴可被成候。これも其時の見合にて必とせず。大抵其御心得にて宜敷候へども、参不参は定められず候間、前方より御用意は決して入不申候。噂きこえ候はば少し御心懸可然と申に候。たとへ山田へ被出候ても、翁被参候より前日さきへ御帰宅可被成候。日しれ候はば迎舟にても御遣被成候てよろしく候。翁ももはやこれきりの旅行故、足下少年輩なるたけ周旋被成候て可然候。さとうへ頼候事失念被成間敷候。人二重になり候故、外へは別段御頼被成間敷候。」
霞亭の茶山がために意を用ゐること至れりと謂ふべきである。按ずるに此一紙は霞亭の碧山に与へた書に副へられたもので、其書は佚したと見える。しかしその二月朔後望前に作られたことは疑を容れない。
霞亭の二月十五日に碧山に与へた書は的矢書牘中に存してゐる。文中「此方より書状正月両(此間蠧蝕)度、内一通金子二方入、二月一通差出し候、内菅翁書入、夫々相達可申候」と云つてある。しかし推するに霞亭は二月朔の書を正月の書中に算したのではなからうか。そして「両度」は原「両三度」などに作つてあつたのではなからうか。霞亭が朔日の書を其前月の書中に算した例は、既に上にも見えてゐた。
此書は霞亭が河相保平に託したものである。「此書状近処千田と申処の河相保平と申人に頼候。此人参宮便なり。ちかく候はば事に寄御尋も申上たきと被申しことに候。此人は此地に而無二懇意、内外世話いたしくれ候人に候。其御心得に而御挨拶可被下候、以上。(此下行間に書き入れあり。)被参候はば御取持被成可被下候。深切づくに態々被参候事に候。併先は参らぬ様に申居候。」保平は菅氏と親善であつた河相周兵衛の嗣子である。
書中霞亭の自己を説くことは下の如くである。「小生講書も杜律をはり候而此頃周易講釈はじめ候。(中略。)当春帰省は先々延引仕候。翁(茶山)近日上京のよし、未何のうわさもなく候へども、其つもりと被存候。小生は秋にも相成可申哉。夫に付種々説話も可有之候へども、いづれ面上ならでは不分明に候。二尊様へ可然様被仰上可被下候。」
百十二
此より文政戊寅(元年)二月十五日の霞亭の書に就いて、其中に見えてゐる二三の人物の事を抄する。其一は中村九皐である。「中村九皐此地よりとも(鞆)へ書状をつけ遣し候。九月頃也。ともに五六十日滞留いたし、長崎の方へむけだんだん参候よし申候。夫故只今何方に居申候哉、蹤跡しれ不申候。聞合候もあてのなきものに候間無是非候。つまらぬものに候。」九皐は碧山の知人で、碧山は兄に其行方を問うたのであらう。
其二は佐藤子文である。「子文への詩稿を表具(に)御遣被下候哉。此間も早春のたより相届、かの人は不相替鄭重に候。度々書状被遣候。」詩稿は霞亭の子文に贈るものであらう。
其三は後藤漆谷の事である。「さぬき高松漆谷老人詩差上候。この人は油屋弥之助と申町家にて、詩と書とは当時甚高名家也。この詩は旧作を頼候。」霞亭は漆谷に旧作を書せしめ、これを碧山に致したのである。漆谷、名は苟簡、字は子易、一字は田夫、又木斎と号した。氏を修して滕となしてゐた。以上の名字は五山堂詩話、詩仏集、小野節の書牘等より得たものである。わたくしは霞亭の此書に由つて俗称の油屋弥之助であつたことを知つた。
其四は頼山陽の事である。「頼徳太郎もこの十八日春水翁大祥に付先日下り候。はやきものに候。」春水の忌日は二月十九日なるが如くである。しかしわたくしは春水の大祥と云ふに由つて、霞亭の此書の戊寅(元年)に作られたことを知つた。
其五は讃岐の神童森岡維寅の事である。「金毘羅の神童此頃又々再遊いたし候。」維寅の事は既に一たび前の書に見えてゐた。
次に霞亭の碧山に与へた三月六日の書がある。亦的矢書牘の一である。此日は茶山発程の日である。「菅翁今日出立被致、芳野へ直に被参候と申事に候。順路にいせへも御立寄も可有之候哉無覚束候。五十日の御暇を願候との事に候。京都などにて医家に見てもらひ候事と相きこえ候。」西備新聞社刊する所の茶山の大和行日記に「三月六日いそぎて門を出づ」と云つてある。
茶山の同行者は日記に拠るに「牧周蔵、林新九郎、臼杵直記、渡辺鉄蔵」の四人であつた。偶同郷の人「別所有俊」が来つて此行に加はつた。
送行者は日記に「井原の滝蔵兄弟、庫右衛門、玄沖、寛平」と云つてある。茶山集に「平野橋示送者」の絶句がある。「閑行本自往来軽。不似前遊厳路程。唯為衰躬重離別。出門已有異郷情。」
霞亭に「送茶山翁之和州、翁時就医于和州」と題する詩があつて歳寒堂遺稿に見えてゐる。「春風扶懶出郷閻。勝践知応養病兼。何処杏林尋董奉。無由籃轝捧陶潜。花村柳駅行行好。酒思詩懐日日添。想見芳山千樹賞。満峰香雪照吟髯。」頷聯は王維の「董奉杏成林、陶潜菊盈把」より出でてゐる。
霞亭が此書の裁せられた時、志摩伊勢よりは賀正の書が叢り至つてゐた。「良助、敬助より年始状辱、尚よろしく被仰可被下候。」又、「佐藤より先日年始状参り候。其外(山田諸友)はたえて消息不承候。定而皆々御無事と奉察候。」
百十三
文政戊寅(元年)三月六日の霞亭の書には、末に詩二篇がある。歳寒堂遺稿に補入すべきものなるを思ふが故に、此に録存する。「春思。客舎江南已換衣。梅花零落草菲菲。誰憐万里春風恨。送尽帰鴻人未帰。」「渓館読書図。渓館長清寂。読書心自楽。将終秋水篇。独笑看魚躍。」
書中には猶例に依つて碧山の詩を削正したことが見えてゐる。「詩例の通愚案申上候。」又書籍二種を的矢の家に留め置くことを碧山に命じてゐる。其一は亀卜伝である。其二は某の家集であるらしいが、艸体不明なるを以て読むことを得ない。
次で十七日に霞亭は又書を碧山に寄せた。是も亦的矢書牘の中にある。書は西村十左衛門と云ふものに託して送つたものである。「西村十左衛門殿幸便一筆啓上仕候。」
中に茶山北遊中廉塾の状況が叙してある。「先書申上候通、茶山翁当六日発装留主中寂寥罷在候。殊に留主故先生講業等迄相務、日間夜分大方在塾いたし、殊更当春は俗了、花は已に爛落いたし候へども、未だ一度も出門不仕候。夫に塾生に大病人有之、何歟と詩も一向無之候。一昨日(三月十五日)みのの山伏体円と申が尋申候。茶山を態々問参り候もの、十一年前(文化丁卯)に居申候人のよし、夫に贈り候詩。普門道士月中山、故来問茶山翁、翁時遊芳山不在、有詩見贈、次韻以呈。別書煩しく草稿のまま。」此下幅一尺許の空白が存してある。推するに詩艸を巻き籠め若くは貼り付けてあつたのが失はれたものであらう。体円と云ひ、月中山と云ふ、並に山伏の名であらう。詩は遺稿に見えない。茶山の紀行を按ずるに、体円は神辺より茶山の跡を追うて京都に往き、四月二十六日に茶山を升屋の別宅に訪ひ、二十七日には別宅に移つて来て同居した。西備新聞社の活字本に休丹に作り、又体丹に作つてあるのは、皆体円の誤である。
十七日の書には別に録すべきものが無い。惟「為蔵弔書には及不申候」の句がある。しかし為蔵の何人なるを知らない。霞亭の此書を作つた十七日には、大和行日記に拠るに、茶山は吉野を出でて服部宗侃と云ふものの家に宿つた。
次に的矢書牘中に五月四日の霞亭の書がある。亦弟碧山に与へたものである。
霞亭自己の近状はかう云つてある。「留主(茶山の留守)中両人講業事有之(茶山と自己との講業歟)昼夜塾へ引移居申候。多事、何も興趣無之候。」
茶山の事はかう云つてある。「二月三月両度御状(碧山の書)拝見仕候。茶山翁御待も被成候由、是も私方への書状(茶山の書)に、伊勢までと存候へども、輿中とかく眩量のきみ有之、不得已直に京へ引かへし候由に候。未帰期もしれ不申候へども、大方此節帰計と被察候。」茶山は三月二十日に京に帰つて升屋に宿り、二十五日に同じ家の寺町六角下る別宅に移つて、そこに滞留してゐた。霞亭の此書を作つた五月四日には、中山言倫が訪ねて来て、伊藤東涯の書などを贈つたと、日記に云つてある。
次に伏原久童、武元登々庵、頼山陽の事が此書に見えてゐる。「京都の人々の詩画、ある儒生よりあつめ遣し候。皆々おかしなるものに候へども、先々差上候。此内久童卿と申は、伏原三位殿に而、御所の儒家に候。登々庵も先々月病死いたし候。京都に而詩書にて追々業のうりひろめ出来候最中を、可憐事いたし候。頼徳太郎も春水翁三年に二月に下り候。それより直に九州辺より長崎辺迄漫遊、もふけるつもりにて出懸罷在候。いまだ帰らぬよしに候。」伏原三位は正三位宣武卿である。武元の死は二月二十四日の事で、茶山は三月七日に宮内でこれを聞いた。「聞登々庵下世。本擬相逢共酔吟。忽聞君宅北邙陰。遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」山陽の西遊は世の普く知る所で、遂に戊寅(元年)の歳を赤馬関に送つた。
百十四
文政戊寅(元年)五月四日の霞亭の書には猶山口凹巷、河崎敬軒の事が見えてゐる。「先日は凹巷君より通書有之、社中近況も承知仕候。敬軒も江戸より去月(四月)上旬不快にてもどられ候由、此節は快然と奉存候。私も先達而承り候へども、多事書状差出し不申、漸今日見舞状遣し候。御便(碧山書信)の節、書中にても御尋可被遣候。」霞亭は凹巷の書を得て、敬軒の病んで江戸より伊勢に帰つたことを知つたのである。敬軒の子誠宇は驥蝱日記に跋して、「戊寅之春、先人罹疾于東府、輿而南帰」と云つてある。是が敬軒のためには致死の病であつた。
碧山の事にして此書より抄出すべきものは下の如くである。「額の儀さしあたりこれと申人も無之候。いづれ見合頼可申候。御号之事は追而面談にて申候。青峰開帳に而来客等多く有之候由、労擾察し入候。人世これも不可免儀に候。小生輩なりたけ俗事にはなれ候積に候へども、とかく時々慶弔事などに近来は役せられ候而迷惑仕候。」額は碧山が新居の匾額である。霞亭が堂に名づけたことは前書に見えてゐる。碧山は兄の撰んだ文字を書すべき人を求めてゐるのである。号は霞亭が弟のために撰んだ碧山の号である。碧山は重て此文字の事を兄に質したのであらう。
五月下旬に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書牘の一である。此書の日附は卒に見れば「六月四日」と書したるものの如くである。しかし茶山の未だ神辺に帰つてをらぬを見れば、その非なること明である。「此間太中翁便宜に京へむけ書状差出し候得共、昨日大坂書状到来、十七日(五月)浪華に下られ候よし、然れば行違に相成候而、差出し候状届申間敷被存候間、又々別段認此書候。(中略。)太中も両三日中に帰家と被存候。」茶山の日記に徴するに、五月十七日の条に「大坂に著、蔵屋敷にやどる」と云つてある。即霞亭の文と符する。然れば日附の「六月」は「五月」にして、「四日」の上に「廿」を脱したもの歟。
此書には改元の風聞の事、四月晦の天変の事、通貨改鋳の事などが見えてゐる。「年号文政と改まり候よし、此辺にてうわさいたし候。四月晦雷雨に、此辺夥敷雹ふり申候。大いなるは七八匁位かけめ有之候。福山辺は野菜麦穂を大に損じ候。御地辺如何に候哉。金銀相場ふきかへ有之候而大にさがり候。此節二朱に而七匁五分位にとりかへのよし、まだもさがり可申や、金子たくわへ候者は迷惑なるもの也。」試に大坂相揚を検すれば、金一両に付六十三匁二分四厘である。即二朱に付七匁九分である。
六月三日に霞亭は又書を碧山に与へた。亦的矢書牘の一である。書中には霞亭の語の自己に及ぶを見ない。惟「当方無事罷在候。乍憚御安意可被下候」と云つてあるのみである。
茶山は既に北遊より帰つてゐる。「茶山翁も五月晦日帰宅被致候。先々安心仕候。」大和行日記を閲するに、「廿九日(五月)神辺より輿丁二人来り迎へ、薄暮に家にかへる」と云つてある。戊寅(元年)の五月は小であつたから、晦日は無かつた。霞亭の晦日と云つたのは尽日の義である。
碧山は既に妻を娶つたと見える。「山田永々御滞留被成、一瀬辺遊行被成候由、佳興不堪羨望候。定而詩文等沢山御出来可被成と奉察候。婚事之儀被仰聞、先は相調候而目出度存候。くわしく被仰聞可被下候。御双親様へ御助力、御安心被成候様万事御心付可被成奉願候。」文中「相調候而目出度存候」と云ふを見れば、碧山の已に娶つたことは明である。
霞亭は敬軒の病を言つて中山言倫の事に及んでゐる。「敬軒は病気余程むづかし(き)ものと被存候。何卒本復いのり候。いづれ酒は厳敷禁ぜねばなり申間敷候。中山言倫肺癰なれど、粉剤など用ひ、爾来八九年一滴も胸間に下し不申候故、今に先は生活いたし被居候。何卒あのやうになりともいたしたきものに候。」敬軒の死は、其子誠宇の驥蝱日記の跋に、「是歳(戊寅)五月廿七日没」と云つてある。然れば霞亭の此書は敬軒歿後五日に作られたものである。誠宇の見聞詩録に「敬軒先生臨終作、五月廿八日」と題する七絶二首がある。「河崎良佐勢南人。病肺一朝欲殞身。志業未成年卌九。愧文政太平民。」「読書無復一経専。郡志将修猶未編。徒謂老年期了事。而今何愬彼蒼天。」是に由つて観れば敬軒は肺を病んで四十九歳にして終つた。郡志を編せむと欲して果さなかつたのである。中山言倫、名は懋、字は子徳、自取と号した。父を子幹と云ふ。並に茶山集に散見してゐる。
十一日に霞亭の女梅が夭した、菅家過去帳に「栽玉童女、文政元年寅六月十一日、北条譲四郎嫡女、名梅」と云つてある。按ずるに梅は三歳であつた筈である。的矢書牘中に霞亭の七月六日の書があつて、梅の死を弟に報じてゐる。
百十五
文政戊寅(元年)七月六日の書は霞亭が弟碧山に女梅の死と自己の病とを報じたものである。「此地五月末より痢病流行いたし候。小児など多くいたみ候。等閑に存罷在候処、八日(六月八日)より少々お梅やみ付候而、段々重り候而、医療等は手を尽し候得共、未三歳之小児体もちかね、それにさしこみつよく、終に六月十一日午時はかなく相成申候。大分愛嬌らしくなり、物などもいひ候処、可憐事いたし候。葬送何歟仕上等いたし候内、十三日より又々小生やみ付候而、小生は余程重症に而、昼夜大凡百行余に及候事二三日に候。医家も三四人の配剤に候。三箇角兵衛殿始終療治に預り候。時疫を兼候症とて熱をさばき候事を第一に被致候。夫故か二十日頃よりは段々快き方に相赴候而、二三日前より大方平常に相成申候。併病後の事故、万事廃却いたし、唯養生のみにかゝり候。最早気遣は少しも有之間敷医家も皆々被申候。不存寄大病相煩候。大に迷惑仕候。しかし最早食事等も味よろしく候。此分にては日々平復可仕候。必々二尊御案じなきやう被仰可被下候。小児の事は天命無是非候。近隣にても十二三人死去いたし候位の事故、時節と存じ候。病夜の作章をなし兼候。幾回励志体元孱。多少傷心伏枕閨B千里相関老親意。一眠猶見病児顔。風驚後夜灯残壁。虫咽幽叢秋満山。蝉翼繭糸何所況。暁鐘声裏涙潺湲。自註、陸游詩、官情薄似秋蝉翼、郷思多於春繭糸。病後読詩作詩等気のあつまり候事よろしくなきと申事に而、何もかもやみにいたし居申候。閑居摂養送日候。」
梅の病は所謂疫痢である。霞亭はこれに感染して痢を患へた。そして治療を三箇角兵衛に託した。わたくしは嘗て伊沢榛軒の書に、福山士人中学殖あるものは一の三箇氏あるのみと云つてあるのを観た。当時霞亭の三箇氏を信頼したことを思へば、後年榛軒のこれを推重したのがげにもと頷かれる。
霞亭は書中又碧山の婚事に及んでゐる。「扨先達而御婚事首尾能相調候由、目出度存候。此方よりも早速祝詞等差出し可申候処、右に申上候通之仕合、(女梅と霞亭との痢疾)延引仕候。いづれ是は来春にても帰省之節と心懸居申候。乍憚二尊並に新娘へもよろしく御断置可被下候。」碧山の娶つた妻は田口氏礼以であらう。礼以は戊寅(元年)に二十歳になつてゐた。
霞亭は又河崎敬軒の死を惜んでゐる。「敬軒下世同歎之儀、無是非事に候。」是は碧山の書中に哀悼の語があつたのでこれに答へたものであらう。
八月朔に霞亭は弟に書を与へたが、此回は殆全く前言を反覆するのみであつた。亦的矢書牘の一である。「先月九日(六日の誤歟)福山便書状差出し申候。相達候哉。山田山口(凹巷)へむけ相可屋へ達し候。共書中申上候通小生病気も追々快く相成申候而、此節にては掲病牀候。併病後閑適何もかも廃却罷在候。此辺流行痢病時疫も大方穏に相成候。先日子文(佐藤氏)より書中勢南にも疫或は瘧流行いたし候由、御地並に山田社中は無恙候哉。小生痢疾は三箇氏の見立にては疫痢と申にて、熱のさばき第一の処、はじめの医家随分巧者に而最初葛根湯用ひ候へども、はや痢疾の療治にとりかかり、熱の発散かひなく、夫故始終熱気のさしひき三十日余に及候。いづれ医と申ものは天地の間の大役に而人命の関係する所なれば可慎第一に候。精細の工夫平日相用申さねば相成申間敷候。足下なども詩文の事よりも先我先業故ひろく医籍療法の上に御用心被成、良医に御なり被成候様奉祈候。此内拙荊並に菅三なども少々気味も有之、案じ候へども、是は皆々軽症に而早速本復仕安心仕候。此度拙者病気に付而は、塾二位はもとより親族其外他所よりも皆々奔走いたしくれ、のこる方なき介抱に逢申候。併痢後は却而腹部などはよくなり候様にも御坐候。小生も此度にこり候而、以来益修摂に心を用ひ可申、当春中酒など思ひ合候処、先は酒を第一節し候様心掛可申候。もとより此節は一滴も入口不仕候。」是に由つて観れば、啻に女梅と霞亭とのみならず、敬も菅三も痢に感染したのであつた。
「お梅をいたみ候和文和歌も数々有之候へどもいまだ清書いたし不申候。」霞亭は本文に此の如く書し、更に行間に細書した。「むすめがいたみの記、歌懸御目候。御覧後またのたよりにかへし遣され度候。」未だ浄書せざる稿本が的矢に送り遣られたのである。
此書に帰省詩嚢刻成の事が見えてゐる。「新刻到来、一部進上いたし候。先達而之三観(薇山三観)と一つにいたし、霞亭二稿と題し発行いたし候。二匁宛にてうり候よし。三観をはづして帰省(帰省詩嚢)ばかりなれば一匁二分宛に候。望人あらば御世話可被下候。」薇山三観、帰省詩嚢には各単行のものと合刻のものとがあつたのである。
霞亭は又季弟撫松の年歯を忘れて碧山に問うた。「敬助はいくつに相成候哉、十六か十七と覚え候。御序に被仰聞可被下候。」撫松沖は享和二年の生で、十七歳になつてゐたのである。
最後に河崎敬軒を弔する詩の事が見えてゐる。「河崎悼詩した書懸御目候。病中ろくな事も出来不申候。」詩は歳寒堂遺稿載する所の七絶二首である。此に其小引を録する。「七月六日河崎良佐訃音至、賦此遥悼、用其絶命詞韻、余時嬰病。」  
 

 

百十六
文政戊寅(元年)九月三日に霞亭は書を弟碧山に与へた。亦的矢書順中にある。当時霞亭の病は既に全く瘥えてゐた。「小生此節は全く快復仕候而、日々講業に従事仕候。乍憚御安意可被下候。(中略。)痢疾此辺は先月(八月)末頃よりしづまり候。福山は今に少しのこり有之候よし。小生も病後いづかたへもいで不申、唯静養仕候。詩も一向出来不申候。此間近野に出候節口号。出門(歳寒堂遺稿門作戸、可従)看秋色。行々悶漸忘。虫声陰処早。菊気露中(遺稿中作辺)香。笛遠呼牛谷。歌喧打稲場。携来有柑酒。一路興偏長。中秋は此地宵の間は陰り候。小生も夜坐を畏れ候故、塾に暫時よばれ候而、早く帰りいね申候。詩も有之ども一向悪作也。」茶山の此中秋の詩に「忽覩庭沙白、出歩階除前、頭上雲行疾、走月在林端、須臾還陰翳、有似羞人看」の数句がある。
霞亭の諸弟が梅を弔する書は既に至つてゐた。「亡児に香火灯籠等御手向被下候由、御厚意奉謝候。おけう(敬)へも申きかせ候処、難有がり泣涕いたし候。亡児へ悼詩辱奉存候。(以上謂碧山。)二弟(良助、敬助)弔状辱、宜敷頼申候。」碧山は詩をも寄せたのである。
此書に佐藤子文の消息が見えてゐる。「一両日前佐藤より来書有之候。近来は壮健之由申来候。」
百十七
文政戊寅(元年)十月十二日に霞亭は又書を弟碧山に与へた。是は季弟撫松を廉塾に迎へむと欲する書である。わたくしは撫松の齢十七と云ふを以て、その戊寅に作られたことを知つた。亦的矢書牘中に存してゐる。
撫松の事は半切の右下に頁数を記したる四紙の過半に亘つてゐる。「敬助十七歳に御坐候はば成長の儀一段之事に候。随分壮健になり候やう心懸第一に候。近年中には此方塾などへも参り候やういたしたく候。これは小生参り候節御相談申候而よろしき儀に候へども、大略のやうす一寸御相談申上置候。廉塾は御上の御所持に而、太中翁預り分となり居申候。入塾之書生は何もかも一統ひとつにいたし、一月の上に而総勘定いたし候。大体一人前食物油の代迄に而一日七八歩に而済候。外には紙筆髪結ちんなど計也。是は親族の子弟にても外人にても同じやうに勘定たて候事勿論に候。間ま貧窮の者には扶持方なく置候もの有之候へども、是は学僕の積りに而家の事色々いたさせ候。敬助参り候ても、右之扶持をば出し不申候ては叶不申候。私方へ置候へば夫にも及不申候へども、書生塾の外に置候事禁じ申候。私もあてがい身上故、家内入用の外に一箇月廿三四匁の入用出しがたく且は塾へ対し候ても不可然候。されども一々長き間御宅より御物入御坐候も御苦労の義とぞんじ候。右に付先達而より小生色々工夫いたし候処、先一箇月食料一分二朱といたし候而、半分は私よりいで、半分御宅より御出し可被下候。さすれば一年の飯費四両二歩にいたし候而、其半分を二両御出し被下候やう奉頼候。小遣紙筆の費、髪結賃等は此方に而弁じてよく、外に一切入用なし。洗濯物、是は此方に而世話いたし候。書物は持参に及ばず、当用のものは此方に有之候。衣類、めん服に而よし。右之段二尊へ御相談被成置可被下候。尤これは当分の事に候。後には又々よきしかた可有之候。くわしくは面談に可申上候。敬助さし料大小御坐候哉、かつこうよきもの有之候へばよし、なければ其用意被成可被下候。山口長二郎殿(凹巷)いつぞや大阪へさし被参候大小、甚手がるにてしかも簡便に有之候。子息の観平にこしらへ遣候由、道具屋平兵衛方にてこしらへ候由、其価も甚やすく、金一両にて出来候よし、もしこしらへ候はば山口へ御頼可被成候。其価は私より進じ候てもよろしく候。これはいそがぬ事に候へども、ふと気付候故に候。書生の内は事さへ各別かかねばなんでもよし。私どものくらし、やはり林崎などに居申候せつにかわり無之候。家内有之、親類の吉凶事のつとめにうるさくこまり入候。とかく昔が安心に有之したはしく候。」わたくしは此に由つて当時廉塾の諸生の生活費を詳にすることを得た。一日八分、一月二百四十分一は以て飲饌より灯油に至る一切の費を弁ずるに足つた。銀相場を検するに当時金一両は銀六十三匁二分五釐即六百三十二分四であつた。一月の費は金一分二朱三分一釐、一年の費は四両二分三匁七分五釐である。今の費の約百分の一である。そして霞亭一家の生活費も亦剰余を以て此全額を給するに足らぬので、霞亭は弟碧山をして其一半を醵出せしめようとした。わたくしは又此に由つて当時の刀剣の価を知ることを得た。山口凹巷が其子観平のために作らしめた刀は価金一両であつた。殆三月を支ふべき生活費に当る。そして霞亭はこれを廉なりとして、撫松がためにこれを求めようとした。
百十八
文政戊寅(元年)十月十二日の霞亭の書は自己を説くことが極て少い。上に引く所の文に、姻家慶弔の煩はしきを厭ひ、林崎時代の生活を追慕してゐる外には、惟例に依つて「小生方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候」と云ふに過ぎない。
的矢に在る弟碧山は当時風邪に冒されてゐた。「御風邪御用心専一に候。風邪もあなどりて長引候と、人の性により、労咳のやうになり候ものも御坐候。足下など少し腹よわきやう見え候。随分用心専一に候。灸治おこたらず可被成候。弟妹共へも御すすめ可被成候。」
書に中村九皐の事がある。「九皐画人参り候よし、これは内分なれど、この人には説あり、参り候ともよいくらゐに御あしらひ可被成候。御懇意に被成候事は無用に候。」
末にわたくしは瑣事二件を抄する。其一。「水松沢山被遣、辱賞味仕候。水松は腫気などによきと申事故に申上候。しかしあしらひ、吸物あしらひに専ら用ひ候。時節過候而申上候而甚御労煩をかけ候。」按ずるに水松は霞亭が求め、碧山がこれに応じたのである。其二。「和中丸御序に少し御恵可被下候。来正月出来候節にてもよろしく候。」按ずるに和中丸は霞亭が家庭用のために請うたのである。
十一月二日に霞亭は又書を碧山に与へた。神辺の家には吉事の報ずべきものがあつた。それは妻敬が女子を産したのである。「当方無事罷在候。先日大阪便書状差上申候。(此書の事は下に出す。)其節申上候通出産やすく御坐候而、母子追々肥立申候。乍憚御安心可被下候。」按ずるに生れた子は霞亭の第二女虎であらう。戊寅(元年)の生であつた故の名歟。此年六月に長女梅が夫し、十月に虎が生れたことと見える。
霞亭の自ら道ふ所には猶下の語がある。「此頃は短日、講業等に逐はれ候而好意思もなく、詩も一向出来不申候。此間の悪作。題後赤壁図、得覃。臨皐良夜憶江潭。有客有肴情興酣。斗酒如無細君蓄。千年風月欠佳談。順輔、辞卿見過、得樵字。有客茅楼問酔樵。挽留吟袖指山瓢。傖儜莫笑非時様。請坐聴吾酒後謡。」二詩皆歳寒堂遺稿の収めざる所である。順輔は未だ考へない。辞卿は田中氏である。
霞亭は季弟撫松来学の事を促した。「先書申談遣候敬助儀もはやく御相談被成御返辞可被下候。さすれば来春小生帰省のせつの心積りも有之候。」
高木呆翁、西村及時の書中より、霞亭は山口凹巷耳病の事を見出だした。「高木、西村両子より通書有之候而始而承知仕候。聯玉君久敷耳痛に而すぐれ不申候由、八月頃は余程危篤にも有之候由、併し此節は涼膈散など適中いたし、先は気遣も無之候由、先々お互に安心仕候。足下など定而御存じ之事と被存候。御通書之節一寸被仰聞可被下之処、疎略なる事と被存候。右故か六月以来一向此方へ通書も無之候。」
霞亭は適斎に海索麪を遺つた。「海ぞうめん少々差上候。大人様へ御上可被下候。是は但馬城崎より出候のみとぞんじ候処、先日御領内田島と申処に而とれ候とて、其土人の手製をくれ候。さしみ、いり酒のわきもりによろしく、京に而よく遣候遣候。(二字衍。)少し前に水に而よくよく洗候而御用可被成候。」うみぞうめんは紅色藻門のネマリオン歟。
虎の誕生を報じた霞亭の「大阪便書状」は、わたくしは初め佚亡したものと謂つてゐた。後に至つてわたくしは霞亭の母に寄せた書の後半を断ち去られたものを発見した。そして此断片の大阪便に付せられたものなることは今や疑を容れない。「扨せん日おけう(敬)も安産いたし候。又々女子に御坐候。母子とも追々肥立申候。名は虎と名づけ申候。とらのとしの生れの故に候。さつそく御しらせ申上候はづ(筈)に候処、何歟と用事しげく、夫に女子ゆへ(故)さほどおもしろくも無之候故延引いたし候。しかしお梅などより生れだちは丈夫に見え候。産衣七夜に親類より少々もらひ候。学問所より紫紋ちりめん小袖とつむぎ小袖。本庄屋(菅波武十郎)よりもゝいろきぬ。」(以下切れて無し。)
百十九
文政戊寅(元年)十一月十一日に弟碧山に与へた霞亭の書が的矢書牘中にある。通篇殆皆自己を語つてゐる。「当方無事、小児(虎)も追々肥立申候。御安意可被下候。(中略。)此頃看書講業に追れ、詩は一切無之候。夜前(十一月十日夜)人の索に応じ候双狗児の賛。穉犬日相嬉。無心殊可喜。不知長大時。還憶同胞否。御一笑可被下候。最早当年も五十日にたらぬ光陰に候。はやき歳月、更に驚き候。来二月(己卯二月)頃は何卒帰省果し申たく候。只今此状認候に付ふと出候。夢のごと過る月日も故里をおもへばひさしいつか帰らむ。きこえかね候様に候。」霞亭は次年二月を以て帰期となしてゐた。双狗児賛は歳寒堂遺稿に見えない。
山田詩社の消息は暫く絶えてゐた。「良佐(河崎敬軒)下世いたされて、山田の信も甚疎濶に候。山口君(凹巷)耳疾追々全快と被察候。」
書中に医事二三がある。「此頃中風の防ぎ並に中症になり候て後にてもよろしきと申名灸伝授うけ候。書中に(て)はわかりかね候。帰省のせつ可申上候。其内相しれる人の左様の事も候はば被仰可被下候。書付進じ可申候。テリアカの製法もつたへ候。是又同段。」テリアカは希臘語テリアコンの転で、解毒蜜剤である。
此書は十一月十一日の作る所ではあるが、その発せられたのは或は二十六日であつたかとおもはれる。何故と云ふに、的矢書牘中別に「霜月廿六日」の書があつて、「別状は先日認置候得共、便間違延引仕候、やはり一併に差上候」と云つてあるからである。此十一月二十六日の書の戊寅に成つた証は、「此方書信」と題して既発の書を列記した中に「霜月二日、うみそうめん入」の一信があつて、其海索麪入の書は上に引いた如く存してゐるのである。
次は霞亭が十二月八日に碧山に与へた書で、亦的矢書牘中にある。神辺の事は初に「小生無事罷在候、左様御安意可被下候」と云つてあるより外下の数句がある。「扨今年は此境けしからぬ暖なる冬に而くらしよく候。今朝梅がこの位にさき候とて、一枝(此下三字不明)もらひ候。御地辺は如何に候哉。私明春帰省も先二月頃とは思ひ候。故障さへなくば是非発程可仕候。」
霞亭は帰遺の事を報じてゐる。「大人様へ明春土産の一物に筑前より到来の帯地(此下三字不明)先御差上可被下候。良助へ書物一冊、是は頼万四郎殿(杏坪)比配下へ行ひ候書なりとてもらひ候。芸州にてけしからぬ発行の由、教にもなり、手本にならひ候が可然候。良助へこれも来春の土産のつもり也。左様被仰可被下候。(京よりは独行のつもり也。)」
池上隣哉が書を霞亭に寄せた。「一昨日(十二月六日)池上氏よりの信有之候。これも段々快き方に候由、凹巷も段々御快復之由、いづれも重畳之事に候。」隣哉は病んでゐたと見える。
次は十二月十八日に霞亭の碧山に与へた書である。是も亦的矢書牘中にある。末に「最早当年は大方此限に通書不申上候、万々御自愛奉祈候、頓首、極月十八日夕灯下書」と云つてある。
書に碧山迎妻の披露の事が見えてゐる。「御婚儀御披露御坐候由、目出度存候。右御祝詞之印迄書状並に金子入、先月末大阪書商へ相托し申候。相達し候哉承度候。すべ而何事によらず、中分より質素に被成候様可然候。是は足下へ内々心得に候。其方が自他安心なるものと存候。」
百二十
戊寅(元年)十二月十八日の霞亭の書を続抄する。
適斎の妻中村氏は霞亭の女虎に涎衣を贈つた。「おとらへ母様よりけつこうなる涎かけ御送、辱奉存候。拙内(敬)も早速御礼可申上候処、今夕は甚急故不得其意候。可然御礼申上候様申出候。」
医生魚沼文佐の事が同じ書中にある。「魚沼文佐、成程存候ものに御坐候。菅塾にて大分世話になり候もの、私も心易くはいたし不申候へども、相識には有之候。医療も相応にいたし、詩文などもかなりに出来候由、併甚不人物、大阪に而去々年歟大分悪事いたし候よし、先は遠ざけ候人物に候。一宿は無拠義に候。すべてあのやうなる人物何方ぞ書状にてもそへ頼参り候はゞ格別、先は大概にあしらい被遣候様可然候。尤私をよくしり候人と申候ても、私書状そへ不申候はゞ、一宿も御無用に候。乍去これはその人物次第御見計も可有之候。此辺などは色々なるもの参り候てこまり候。中には名をかたり候而人の世話をかけ候類有之候。一飯一宿の事はいかやうにてもよろしく候へども、それをつてにいたし、外々へ厄介をかけ候類、書画(家)医人儒生などに近来多く候間、御心得肝要に候。」魚沼は曾て廉塾にあつたもので、自ら霞亭の友と称し、的矢の北条氏をおとづれたものと見える。
霞亭戊寅(元年)の尺牘にして今存するものは此に尽きた。そこでわたくしは遺稿を一顧する。その収むる所の詩中明に戊寅の冬に成つたことを徴すべきものが二三首ある。先づ「贈浜希卿」「送岡部子道」の七絶二首がある。茶山集戊寅の部の七律に「送岡浜二子還筑」と題するものは、希卿子道の二人でなくてはならない。子道の筑前の人なることは、霞亭の「天辺何処覇家台」の句がこれを証してゐる。次は「題挿秧図」の七絶である。是は茶山の「挿田図、為恵美玄仙」の五古と同時に作られたものであらう。恵美玄仙はわたくしの井原市次郎さんに乞ひ得た譜牒に拠るに、後に四世恵美三白となつた続斎貞纘で無くてはならない。続斎は廉塾の一書生で、広島より来遊してゐたのである。最後に「菅岱立至、賦呈」の五律がある。高橋洗蔵さんの蔵箋に「戊寅臘月七日、北条先生宅夜話」と題する五律があつて、「菅景知拝」と署してある。又菅氏より出た書牘に菅野景知と書してあつた。菅野氏、名は景知、字は岱立である。箋の題する所はかうである。「卅里来相見。清丰過所聞。言談何娓々。意気共忻々。炉火留人暖。梅花入酒薫。還家春已近。雞黍好徯君。」「卅里」と云ひ「徯君」と云ふを観るに、その居る所の「西村」は三備の中でなくてはならない。霞亭の句に「西村明歳約」と云ひ、下に「西村菅所居」と註してある。但後の詩には「西村」が「西構村」に作つてある。
戊寅(元年)「除夜」の霞亭の詩は遺稿に見えてゐる。「四十無聞客。百年多病身。悠々思遠道。寂々絶囂塵。冬暖梅全吐。灯明酒作淪。不愁厨下冷。爛酔已生春。」茶山には吉村大夫に寄する詩があつて、除夜の作はなかつた。中に「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。大夫は白川の人である。
是年霞亭は三十九歳であつた。「四十無聞客」は将に迎へむとする歳を謂つたものである。  
 

 

百二十一
文政二年には霞亭の元旦の詩が無い。茶山は「村閭相慶往来頻」云云の絶句を作つた。八日に至つて霞亭に「正月八日夜、睡起看雪」の七絶がある。其三四は昔年北越の遊に説き及んでゐる。渉筆と併せ看るべきである。
遺稿の「看梅憶亡女二首」は「梅是亡児名」と云ひ、「梅開似児面」と云ふ、並に此春の初に成つたことは明である。戊寅(元年)に女梅の死して後、始て梅花に対したのは己卯(二年)の孟春であつたからである。
的矢書牘には己卯正月以下の作と認むべきものが甚少い。強て求むれば正月十四日の短柬があつて、「当年かけ、冬より大分例よりもあたたかに候へども、梅ははなはだをそく、漸く一二花開し位の事に候」の語がある。戊寅(元年)十二月八日の書並に除夜の詩の「冬暖梅全吐」と併せ考ふべきである。
これに反してわたくしは遺稿中より、霞亭が預期の如く二月に帰省の途に上つたことを推測する。若し此推測が誤らぬならば、書牘の存してゐぬのも怪むこと須ゐぬこととなるであらう。
歳寒堂遺稿は厳密に編日の体例に従つたものとは云ひ難い。しかしわたくしは「出門」「倉鋪過鷦鷯大卿僑居」「岡山早発」「西構村宿菅岱立家」「姫路途上」「途中口占」「蟹坂」「贈韓聯玉」「宿高厚之家、翌朝携出、到南垠別墅別」「帰到」の諸篇を読んで、霞亭の神辺より山田を経て的矢に帰つた旅程を想像する。
帰到の詩に云く。「帰到仲春十五夜。家人月影共団団。風光何似天倫楽。真是千金一刻看。」わたくしは此家庭団欒の光景を的矢北条氏の家庭とする。前に「出門」の詩があり、後に「将辞」の詩があるを見れば、此断定は誤らぬであらう。霞亭は己卯(二年)二月十五日に的矢の家に到著したのである。
此よりわたくしは霞亭出門の時に溯つて、更に細に其詩を検する。神辺を出でた月日は今知ることが出来ない。しかし当時神辺には疱瘡が行はれてゐたので、敬と虎とは親許に往つてゐた。それゆゑ霞亭発軔の日には母子が告別に帰つて来た。出門の詩の題下に「時妻(敬)児(虎)避痘、久在他、是日来取別」と註してあり、詩の初に「児女寄舅里、(井上氏、)舅里非遠程、不見未旬日、相思魂易驚」と云つてある。霞亭は己が虎を思ふ情と、適斎夫妻が己を思ふ情と相殊ならざるべきを知り、(因我念児切、転思父母情、)敬と虎との歎を顧みずして程に上つた。(我私豈足恤。擺脱万縁軽。)
霞亭は倉敷を過ぎ、岡山を過ぎた。そして「西構村」に菅岱立を訪うた。「梅綻君過我。梅残我問君。(中略。)隔歳心纔慰。明朝手復分。」
霞亭は姫路を経、蟹坂を踰えた。そして山田に山口凹巷を訪うた。「贈韓聯玉」の七律がある。「摂西(尼崎)分手歳三更。(丙子、戊寅、己卯。)長憶旗亭離別情。相見一懽消積想。倶経万死(凹巷耳疾、霞亭痢病)賀重生。二毛潘岳閑方得。(凹巷退隠。)落歯香山詞既成。(霞亭痢瘥一歯落、作歌。)対酒茫々腸欲断。春風苔緑故人(河崎敬軒)塋。」
次で伊勢の山田より志摩の的矢に帰り到つたのが、上に云つた如く二月十五日であつた。丙子(文化十三年)帰省の後、中二年を経て父母弟妹と相見たのである。
霞亭の的矢に淹留したのは十日余であつた。「将辞」の五古の起首に「膝下来奉歓、旬余忘恨歎」と云つてある。二月十五日より二十四日後に至る間北条氏に宿つてゐたのである。
百二十二
文政己卯(二年)二月二十四日後の事である。霞亭は的矢を発する日を定めて、其前夕に別宴を催した。「将辞」の詩に「今夜侍坐宴、頓異昨来情、款々情話久、灯花照面明」と云つてある。
霞亭の的矢を発した日は恐らくは三月朔であつたらしい。次年上巳の詩に家を出でて三日であつたと云つてある。碧山は送つて伊勢の松坂に至り、別酒を酌んだ。
霞亭は松坂より京都、大阪を経て神辺に還つた。遺稿の「天龍寺与古海師夜話」「過三秀院、時月江長老在馬島」「篠崎小竹、武内確斎命舟遊墨江同賦、分得梅字」「過瀬尾子章話旧、分得韻東」四篇は此途中の作である。中に就いて僧古海と武内確斎とは新に出でた人物である。
霞亭の神辺に著した日は詳にし難い。わたくしは只其日の三月二十五日前なることを知るのみである。何を以てこれを知るか。此に霞亭の碧山に与へた、月日を書せざる一書が的矢書牘中にある。そして此書の四月に成つたことは、初に「新夏和暖」と云ふより推すべく、その己卯(二年)に成つたことは春の帰省後の事を言ふより推すべきである。此書に「先月(三月)十二日大坂より書状(原註、梅疾口訣入)帰後廿五六日頃京迄書状差出し申候」と云つてある。十二日の書は的矢より神辺に帰る途上に発せられ、二十五六日の書は神辺に帰つた後に発せられたのである。
此四月の書は更にわたくしに一の重要なる事を教へる。それは霞亭が的矢より神辺に還る時、季弟撫松が随ひ来つたことである。「敬助(撫松沖)も昼間は塾(廉塾)へ参り居申候。随分無事講業に従事いたし候。」
此時の霞亭の状況は下の如くに云つてある。「当方皆々無事罷在候。(中略。)菅翁中庸、唐詩選隔日、小生易、古文隔日にいたし候。昨日(四月某日)は諸生山行、残花を賞しに参り候。私帰後いまだ半丁も出行いたし不申候。」
霞亭は碧山の病を憂へてゐた。「御病気いかが候哉、くわしく御様子承度候。無御油断御薬治可然候。」
書は小松屋幸蔵と云ふものに託したのである。「小松屋幸蔵といへる塾出入之仁今夕(四月某日)急に乗舟、匆々申残し候。」
わたくしは啻に書の四月に成つたことを知るのみならず、又その四月十六日以前に成つたことを知つてゐる。何故と云ふに、四月十七日には霞亭が福山藩の徴辟を被つたからである。行状の一書にかう云つてある。「文政二年四月十七日、福山侯(原註、正精公)俸五口を賜ひ、時に弘道館に出て書を講ぜしむ。」此解褐の事は「五月二日」の日附のある霞亭の碧山に与へた書に於て、方纔に郷親に報ぜられてゐる。書は的矢書牘の一で、実は閏四月二日に作られたものである。わたくしのいかにして此錯誤を知つたかは下に見えてゐる。
「五月二日」(閏四月二日)の日附の書に云く。「小生無事罷在候。(中略。)先月十七日(四月十七日)御用書到来、私へ別段五人扶持被仰付、時々は弘道館と申学校へ罷出、講釈等世話いたし候様被命候。先難有義と、両三日中御家老や年寄衆へ御礼まわりいたし候。私心中には甚迷惑にもぞんじ候得共、表向御用に而被仰付候故、只今のふり合御断も申出がたく候。尤月に両度位も出席いたし候へば済可申、それが勤と申ものに候。儒者四家、親子勤も有之、以上五人、私ともに六人を日わりにいたし勤め候事、私在宅故、遠方故、家中の人よりすくなく成候様に願置候。塾と両方に相成候故、只今よりは又々世話しく相成候而、自分の事出来兼候。
それがつらく候。尤茶山翁最初三人扶持に而被召出、学校暫つとめ候由、いづれ私も一二年罷出候而、其後はどふぞ御断申たきものに候。在宅の者へ御扶持に而も被下候義、御領分の人などは甚栄幸に存候而、此頃は日々賀客など参り候。これも一つの累に候。御笑可被下候。」
百二十三
文政己卯(二年)「五月二日」(閏四月二日)の霞亭の書に、福山藩に於ける同僚を数へて、「儒者四家、親子勤も有之、以上五人、私ともに六人」と云つてある。此霞亭を除く五人は誰々であらう歟。浜野氏は「鈴木圭輔、衣川吉蔵、伊藤貞蔵、同文佐、菅太中」であらうと云つてゐる。衣川吉蔵、名は広徳、伊藤貞蔵は竹坡弘亨、同文佐は蘆汀良柄である。
書中弟碧山の病の事を言ふ条はかうである。「足下の御病気如何、くわしく御様子承度候。(中略。)貴郷最早鰹魚の頃と察し候。併今年は足下たべられ不申候故気之毒に存候。(中略。)尚々追々向暑折角御いとひ可被成候。」
弟撫松の事を言ふ条はかうである。「敬助は甚たつしや、日々塾へ罷出居候。参り候而以来風ひとつ引不申候而悦申候。」
其他の瑣事が二三ある。其一。「田口氏へ此書状御附属可被下候。外に御写し被成候郡県要略これへそへ御かし被遣可被下候。」霞亭の田口某に与ふる書は碧山に与ふる書と倶に発せられた。そして霞亭は碧山の写した郡県要略を田口某に仮さうとしてゐる。田口氏は或は碧山の妻礼以の父兄ではなからうか。其二。「お敬よりそまつの品ながら母様へ進上仕候。中陰中故書状は上不申候。」
前書の次に霞亭の発したる如き一書が的矢書牘中にあつて「五月三日」の日附になつてゐる。しかしその載する所を検するに、前書を作つた翌日の作ではない。わたくしは熟考した末に、前書の日附の誤つてゐることを知つた。前書は「五月二日」の作ではなくて閏四月二日の作であつた。何故と云ふに霞亭の解褐の四月であつたことは他の文書の証する所で、前書はそれを「先月」の事となしてゐるからである。己卯(二年)には閏四月があつて、五月の先月は四月でなくて閏四月だからである。
五月三日の書は下の如く霞亭の近状を見してゐる。「当方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。私も福山出勤、十一日、十二日、廿五日、廿六日右四日とまりがけに相つとめ候。先廿五日よりはじめて罷出候。つらく候へどもいたしかたなく候。当年は閏月有之候故、今までは随分すゞしく、一両日前よりひとへもの折々き候。」按ずるに「先廿五日」は閏四月二十五日であらう。
事の碧山に関するものは下の如くである。「三月御出しの両通、先月(閏四月)相達し拝見仕候。御旧疾追々御快き方の由、折角御摂養奉願候。一たんよきとて御油断被成まじく候。とかく気体のよく調候やう第一に候。いりこ(海参)など煮て始終御上り被成候など可然候。御詩拝見仕候。此度のは皆々かくべつよろしく候。又々御みせ可被成候。」碧山回復の事は霞亭が「五月二日」(閏四月二日)の書を作つた後に郷書を得て知つたものである。
事の撫松に関するものは下の如くである。「敬助も無事出精仕候。いつにてもたより急になり候て、別段書状得認不申候。」
此月八日に僧月江が霞亭を鞆の浦に迎へ、又同じ上旬の中に僧道光が神辺に来た。道光の事は茶山集には唯「今雨重歓五月天、紅榴依旧隔簾然」と云つて、下に「上人七年前来訪、正当五月」と註してあるのみである。しかし下に引く霞亭の書に五月初と云つてある。上旬を下らなかつたものと看るべきであらう。
六月朔に霞亭の碧山に与へた書が的矢書牘中にある。事の神辺の家に関するものは下の如くである。「当方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。(中略。)弘道館へも月に両度二日宛四日講書に出候。涼しき処にて悦申候。(中略。)当夏は只今迄は大にくらしよく候。此方久敷五月中雨ふり候。盆前あつく可有之候。」
上に云つた僧道光の事は此書に見えてゐる。「先月(五月)初道光上人久々に而被見候。七十四に被成候。各別衰老之気味も見え不申候。いづれ暫くは滞留之由、此節は笠岡と申へ被参居候。」道光は七年前に来た故、「久々」と云つてある。即ち嵯峨樵歌の序を茶山に受けて京都にある霞亭に授けた文化九年壬申の遊である。此書に云ふ所より推せば、道光は延享三年の生で、霞亭の父適斎より長ずること僅に一歳である。
下に引くべき書牘に「喜道光師至、次其韻」の七律がある。「吾師徳望満人天。高臘真乗何儼然。病貌軽癯閑白鶴。慈顔微笑接青蓮。新詩可賦塵縁遠。清話屢参趺坐堅。一炷炉香茅屋底。山如太古日如年。」道光は覆亭の家をも訪うたのである。詩は遺稿に見えない。
百二十四
僧月江の文政己卯(二年)五月八日に鞆の浦に来たと云ふ事も亦六月朔の霞亭の書に見えてゐる。「先月(五月)八日月江長老対州より帰帆順風の処、鞆浦へつけられ、人被遣候故、昼後より小生も竹輿にて罷越、其夜は舟中にて饗応にあづかり、翌日(九日)は対潮楼の隣寺をかり受置酒終日談話仕候。釣首座、承芸など、其外僧徒五六人居申候。対馬より送船、三百石位の人附来候。医者なども被添候。以上舟四艘ほどにて、おもきとりあつかいなるものに候。足下(碧山)御噂等もいたし候。長老随分壮健に候。色々朝鮮の品土宜にもらゐ候。十日は弘道館出席日故、其夜福山迄帰申候。定而長老は最早帰山と被察候。」
歳寒堂遺稿に「鞆浦途上」の七絶がある。「忽報帰帆入鞆湾。軽輿軋々向江山。江山満眼舟何在。欲見月師(月江)微笑顔。」題の下に「五月八日、峨山(嵯峨)月江師自対州帰、卸帆於鞆浦、予往見、途中作」と註してある。書牘は同じ詩を録して、「先日月江師鞆浦へ維舟のせつ途上口号」とはしがきしてゐる。
遺稿に又「鞆浦舟中呈月江長老」の七絶がある。「西州留錫三年役。南浦帰帆一日期。不意鞆津新暑夕。柁楼風月対吾師。」
書牘は上の鞆浦途上の詩の次に僧道光に次韻した作を載せてゐるが、其詩は既に上に録出した。
六月朔の書は碧山病後の事を言ふこと下の如くである。「追々御快復の由、一段の儀に存候。猶々御油断無之御摂養所祈に候。薬ぐひなどいりこ(煎海鼠)など可然候。かつを(鰹)は少しはかくべつ、先御用捨可被成候。酒は少々宛は不苦被存候。いづれ油こきものは毒を激し可申候。」
此書に山口凹巷、宇仁館雨航の名が見えてゐる。「山口宇仁館などより通書、何歟参居候由、福山迄参り、いまだ接手不仕候。いづれ皆々無事と被存候。」
書は草木の事二条を載せてゐる。皆霞亭が的矢の家に送つて栽ゑさせたものである。「姫ぶきはえ候由、余よろしからぬものに候へども、只めづらしといふ計の事に候。したしものの外に、備前にては葉を火に炙り醤油打てたべ候由、山の里とやら申候由。」ひめぶきの何の菜なるを知らない。「柳附候由、夏の間はじめは余り日にあたらぬやう、生長の後はいかやうにても不苦候。」是は恐らくは菅氏の西湖柳であらう。
霞亭は此書と倶に文二篇を碧山に寄示した。「鈴木伊藤送序懸御目候。御序に御かへし可被下候。」按ずるに送序の一は「送鈴木君璧序」なること明である。君璧は宜山圭の字である。序はその再び江戸に辟された時に作られたものである。今一つの送序は恐らくは「送藤希宋序」であらう。「日向藤君希宋、奉君命、辞母遠遊数年、其人卓異、其志嘐々然、方聚首黄備、今将適安芸」と云つてある。わたくしは此書牘に由つて希宋の伊藤氏なるべきを推すのである。
此より後霞亭は七月四日、同二十二三日頃、八月中頃、九月朔に書を碧山に与へしことが九月十二日の書に見えてゐる。しかし的矢書牘を検するに、「七月四日」は「七月九日」、「八月中頃」は「八月三日」の誤であるらしい。
七月九日の書は短文である。「残暑未退候処、御安康御揃珍重に奉存候。当方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。御旧疾(碧山の持病)今頃とくとよろしく候由、一段之義と奉存候。随分御摂養奉祈候。先月(六月)地震いづかたも有之候由、此辺は常の事にてさまで覚え不申候。江州八幡辺は人死ども有之候由、上方にはめづらしき地震に候。姫路革きせる筒おかしなるものに候へども、もらひ候まゝ大人様に差上候。御便はいつも園部氏(大阪蔵屋敷園部長之助)がよろしく候。何物にても丁寧に候故間違無之候。高科(二字稍不明)方へも御療治に御越の由、御苦労に奉存候。とかくひろくどこ迄も通行有之候様御心懸専要に奉存候。何歟申上候事も可有之候へども、今日急便、明日学館出勤日、何歟と多事故匆略仕候。余期再信之時候。七月九日。北条譲四郎。北条立敬様文案。」此書には己卯(二年)に成つた証はなく、偶これが証に充つべき六月の地震があつても、手近に検すべき書が無い。しかし次に挙ぐべき八月三日の書と此書との関聯は、地震に由つて証すべく、八月三日の書には別に己卯(二年)に成つた証があるのである。
次の八月三日の書はかうである。「残暑未退候処、愈御安康可被成御座、珍重之至奉存候。先日(七月九日歟)大阪迄書状相達し申候。無程著可仕候。以来此方皆々無別条候。乍憚御安意可被下候。先々月(六月)御地辺地震大雷等有之候、嘸々御驚奉察候。此辺は甚かすかなる事に候。江州八幡辺、彦城、勢州桑名辺大分損じ候由承り候。浅井(十助、京都住)も五月中に紀州より帰り候由通書有之候。先十一日(先月即ち七月十一日歟)福山御城代佐原作右衛門殿屋敷焼失いたし候而、此辺甚騒動いたし候。御本丸(福山城本丸)下之処、幸に御城はまぬかれ候而、国中悦候事に候。近詩少々、書損に候、御慰に御覧可被成候。乍憚御両親様へ可然御伺被仰上被下度候。(下略。)」
地震の事は前書と符してゐる。福山佐原氏失火の事は手近に考証すべき資料を有せない。これに反して京都の浅井十助が紀伊国より還つたのは、是年己卯(二年)でなくてはならない。下に引くべき十月二十一日の書がこれを確保するが故である。彼書には浅井が紀伊国より還つた後に居を移したことが言つてあるからである。
浅井は何の故に紀伊国に往つたか、又その往つたのは何時であるか。的矢書牘にこれを知るに足る資料が存してゐる。それは幅三寸許の巻紙の小紙片で、下の如き文を記したものである。「浅井も当月(下を見よ)より冬かけて紀州へ下り花輪に外科の事修業に参り候由、結構なる事に候。医業に出精いたされ候而一段之事に候。足下(碧山)なども三四箇月の閑暇を得候はゞ、あのあたりにて外科などの事、眼などの事も心得被成たきもの也。花輪は古今の神医、またもあのやうなる人は出申間敷との事に候。」花輪は華岡青洲である。浅井はこれを訪ふために某月より冬にかけて旅行した。按ずるに其発程の予定期日は前年戊寅の晩秋なるが如くである。しかし後の書に徴するに、浅井は次年の春に至つて纔に発程し、仲夏に至るまで紀伊に淹留したのであらう。青洲の事は猶下に註することとする。
百二十五
わたくしは霞亭の文政己卯(二年)九月十二日の書を引くに先つて、歳寒堂遺稿中に就いて己卯夏秋の詩と認むべきものを検したい。
「奉追和林祭酒父子(述斎、檉宇)春浅畳韻詩」、「和頼子成贈茶山韻以呈」の二首は、わたくしはその夏の作なることを推測する。何故と云ふに、茶山が「新年奉次林祭酒橋梓畳韻」を作つた時、霞亭は既に帰省の途に上つて居り、又山陽が西遊の帰途母を広島に省し、広島より京都に還る途次廉塾に立ち寄つた時、霞亭は未だ神辺に還らなかつたらしいからである。
山陽は二月二十八日に神辺に来て、晦に去つた。霞亭は上に云つた如く、二月二十四日後に的矢を辞し、三月二十五日前に神辺に還つた。相見ることを得なかつた所以である。山陽の「贈茶山」の詩は「肥山雲霧薩海風」を以て起り、茶山の「次韻頼子成見贈」は「披襟流鬼万里風」を以て起り、並に本集に見えてゐる。霞亭の和韻はかうである。「和頼子成贈茶山韻以呈。西州遊蹤雲海重。極目蒼茫送断鴻。帰来一尊談勝概。奇観躍々抵掌中。太史文思応益壮。莫説周流道術空。」
其他「寄道光師在笠岡」に「未見別来消夏詩」の句があり、「下宮氏集」の詩に「忘却昼間炎日紅」の句があり、「高滝彦先君招飲」の詩に「晩榻留人処、涼颸気正蘇」の句があり、「本間度支家集」に「余酣人掬漱、涼月満階除」の句がある。皆夏の作であらう。
山口凹巷が月瀬看梅の詩を廉塾に送つて、茶山と霞亭とに寄題を求めたのは、恐らくは此夏の事であつただらう。霞亭の「題韓聯玉月瀬詩巻」の五古と七絶と上に列記した夏の諸作の間に厠つてゐる。又茶山の「韓聯玉示遊月瀬梅林詩、賦此却寄」の三絶句も、本集己卯(二年)の「夏日雑詩」の後、「所見」と題する一絶句の前に出でてゐて、後詩に「秧田万頃緑畇々」の句がある。並に事の己卯の夏にあつたことを証すべきが如くである。
凹巷の「月瀬梅花帖」は後に刊行せられた。浜野知三郎さんは前年丁巳(大正六年)に、東京より備後に往反するに当り、路を枉げて伊勢の神宮文庫を訪ひ、此書を閲することを得た。凹巷の遊は己卯(文政二年)二月十八日であつた。その作る所を繕写して廉塾に送つたのが春夏の交で、茶山霞亭の寄題が夏に於てせられたと看るは失当ではなからう。
霞亭が寄題の五古はわたくしに一の新事実を教へた。それは霞亭が己卯の春的矢に帰省した次に、月瀬に立ち寄つた事である。「吾遊半海内。梅花称西備。曾観三原林。天下謂無二。読君月瀬詩。舌撟驚絶異。或意詩人巧。誇言頗放肆。不然勝如許。豈無人標識。信疑交横胸。思想存夢寐。一見欲得実。今春(己卯春)杖屨試。」
此に至つて霞亭が往路に月瀬を経たか、反路に月瀬を経たかと問はざることを得ない。霞亭は二月の初に神辺を出で、十五日に的矢に帰り著き、二十四日後に的矢を辞し、三月二十五日前に神辺に反つた。観梅によろ宜しき季節は往時にあつて反時にあらざるが如くである。
しかし凹巷の遊は二月十八日であつた。霞亭が凹巷の詩の初稿を読むことを得たのは、恐らくは的矢淹留の日であつただらう。「読君月瀬詩、舌撟驚絶異」は的矢淹留の日であつただらう。是は霞亭看梅の反路に於てせられたことを証するに似てゐる。
霞亭は月瀬の勝を凹巷に聞いた。しかし凹巷の霞亭に此勝を語つたのは、必ずしも己卯(二年)二月の遊後に始まつたのではない。凹巷は曾て書を備後に寄せて月瀬の勝を説いたことがある。霞亭の季弟撫松沖は長兄の歿後に詩を月瀬梅花帖に題して、其自註にかう云つてゐる。「亡兄霞亭在備西日、先生(凹巷)寄書、盛説月瀬之勝」と云つてゐる。霞亭看梅は決して往路に於てせられなかつたとも云ひ難い。
啻に然るのみではない。若し霞亭が反路に月瀬を過ぎたとすると、的矢より神辺に伴ひ帰られた季弟撫松は同じく梅を見た筈である。然るに撫松撰月瀬梅花帖の跋には「辛巳歳(文政四年)兄弟省親、自奈良至月瀬」と云つて、絶て己卯(二年)の事を言はない。
或は疑ふ。撫松は己卯の春兄霞亭帰省の後に神辺に来り寓したが、的矢より神辺に至る間、兄と同行しなかつたか。わたくしは姑く疑を存して置く。  
 

 

百二十六
歳寒堂遺稿中文政己卯(二年)の秋の作と看るべき詩には、先づ「及時居士在峨山、与諸禅衲唱和、録以寄示、因次韻却寄」の一篇がある。「遠寄清詩慰恨人。西山旧興為君新。秋来石上藤蘿月。憶否天辺弔影身。」西村及時は猶嵯峨に住んでゐたと見える。
前詩と「秋夜」の七絶との中間に、「哭池上隣哉」の詩がある。「奉母長貧窶。手操晨夕炊。病中曾哭婦。身後孰収児。聞雁思来信。開筐泣贈詩。重泉逢二老。聚首尽交期。」是に由つて観れば、池上隣哉の歿したのは此秋であつた。わたくしは上に帰省詩嚢を引いて、隣哉と希白との或は別人なるべきことを言つたが、後に玉田耕次郎さんに聞けば、「池上徳隣、字希白、号隣哉」が池上衛守であつたらしい。弔詩に謂ふ泉下の二老は東恒軒、河崎敬軒である。
此下に九月九日の詩がある。わたくしはこれを録するに先つて九月七日の霞亭誕辰の事を挿記して置きたい。霞亭が四十歳の誕辰である。霞亭は初よりこれを祝する意がなかつた。しかし茶山は訪ひ来つて酒を酌み、的矢の生家は此日を祝して物を贈つた。事は下に引くべき九月十二日の書に見えてゐる。
九月九日には鶴橋の会があつた。「重九与茶山翁聴松師、会東溝致仕大夫及諸君於鶴橋、客各有行厨之携、時鈴木文学在江戸、末句故及、分得韻灰。半道相要宴正開。鶴橋南畔柳楊隈。水味野餐紛几席。丹萸黄菊照尊罍。僧是耽茶咬然趣。賓皆愛酒孟嘉才。却思朱邸趨陪客。天末遥々首重回。」茶山霞亭は来遊中の僧道光を誘つて、東溝氏を鶴橋に迎へたのである。鈴木文学は宜山圭である。茶山の集は此会の詩を載せない。
重陽鶴橋の詩の次に「聴松上人帰山陰、餞以蒲団一坐、副此詩」の七絶がある。「三生石上豈無縁。聊把蒲団贈老禅。却想山陰深夜雪。吟安一字坐能堅。」霞亭は神辺を去る道光に蒲団を贈つた。道光の去る時、茶山は送つて府中に至り、翌日明浄寺に別酒を傾けた。本集に「近田道中呈道光上人」、「送光師、同往府中」、「明浄寺席上限韻」の三絶がある。
道光は何れの日に神辺を去つたか詳にし難い。しかし上に記した三絶と「呈聴松上人」の七律一首とは茶山集中「中秋有食」と「十三夜楽群館賞月限韻」との間に介在してゐる。明浄寺の祖筵が九月十三日より前に開かれたことは明である。然らば霞亭が下の九月十二日の書を作つた時は、或は茶山が道光を送つて府中に往つた留守中であつたかも知れない。
九月十二日に霞亭の碧山に与へた書は的矢書牘中にある。書中霞亭の自己を説くことは下の如くである。「小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者為年賀(四十初度)太織紬一段御恵投被下、御厚意千万難有拝受仕候。乍憚二尊様(適斎夫妻)へも可然御礼被仰上被下度候。先達而御断申上置候処、却而御心配をかけ候而甚痛却仕候。何より調法之品と辱奉存候。外に蚿海苔めづらしく賞味仕候。至極歯ぎれよろしく候。七日(九月七日)誕辰に塾翁(茶山)外に備中の一客有之用ひ候処、皆々悦申候而、すそわけいたし候。御国のみの産に候や、外にも有之候や。」
書は此より霞亭の的矢、山田、京都の親戚故旧に遺つた索麪の事に及んで、恒心社友の消息を云々してゐる。「七月二十二三日頃書状、索麪一箱差上候。京都呉服屋便に候。如何いたし候哉大阪へ此頃達せぬよしに候。いづれ間違は有之間敷候へども、日数かゝり居、損じ可申候。届候はゞ其様子被仰聞可被下候。いせにても高木佐藤などへ遣し候。大阪屋敷へも遣し候故に候。損じ居申候はゞ気の毒なるものに候。佐藤はかわり候儀もなく候哉、久敷便きゝ不申候。」
百二十七
文政己卯(二年)九月十二日の霞亭の書には弟碧山の国史を問ふに答ふる一段がある。「国史は本書等は日本紀以下六国史と申候而百七十巻も大数有之候。これらはあまり大きく候而卒業不容易候。水戸の大日本史は結構なるものに候。神武より後小松天皇迄の事皆々くわしく候。これは山田社中の内に有之と覚え候。少し宛にてもかり候はゞよろしく候。これも百二十巻計も有之候。古今の大段のかはりめを論じ候ものは白石先生の読史余論六冊、これはかなにてかけり。同人の作古史通は神代上古の事を紀せり。御当代(徳川氏)の事は水戸の烈祖成績、近来竹山の逸史などよく候。何にても書物のあるものを心懸よみ候て可然候。いづれ又々面上いたし候節御咄可申候。」
是月九月中に碧山は昏礼を行つた。事は下に引くべき十月二十一日の霞亭の書に見えてゐる。碧山の娶つたことは早く戊寅(元年)六月三日の霞亭の書に見えてゐた。その「婚事」が調つたと云ふは、或は所謂客分として迎へたもので、此時に及んで始て礼を行つたのではなからうか。それは兎まれ角まれ、新人は恐らくは田口氏礼以であらう。碧山二十五、礼以二十一であつた。
十月二十一日の霞亭の書は的矢書牘中にある。亦碧山に与ふるもので、霞亭の自ら語る所は下の如くである。「当方無事罷在候。乍憚御放意奉希候。講習私は詩経朱伝、荘子など隔日也。老先生(茶山)は近思録、孟子隔日也。いづかたも諸色下直也。わけて米仙は猶更也。」詩経朱伝は所謂詩集伝で、詩経集註と称するものと同じである。
廉塾にある季弟撫松の事はかう云つてある。「敬助も無事日夜勤学いたし候。髪をはやしかけ候やうにみうけ候。私は何とも不申候。足下より被命候や。只今の内はいづれにても可然候。」撫松は備後に来る時剃髪してゐた。それが復剃らなくなつた。恐らくは医を罷めむことを欲したためであらう。霞亭は碧山の情を知つてゐるや否を疑つてゐるのである。
碧山婚礼の事はかう云つてある。「母様よりお敬へ御文中足下婚礼も九月中御調可被成旨珍重に御坐候。然首尾能相調候哉承度候。先御左右承り候上と存候而賀状も延引仕候。早々御しらせ可被下候。」
伊勢恒心社の事はかうである。「西村兵大夫より便有之候而、社中様子もうけたまはり候。干瓢かつをなど被遣候。」西村及時は猶嵯峨にある筈である。及時の通称は長大夫であつたらしい。一に左大夫に作つてあるが稍疑はしい。梱内記に長大夫、兵大夫の称が並に見えてゐる。兵大夫は或は及時の嗣子歟。
書は浅井十助の事を言つて華岡青洲に及んでゐる。「四五日前(十月十六七日の頃)浅井十助より書状参り、帰京後東洞院押小路下るへ借宅いたし候由、業事も不相替相応に行はれ候様子御坐候。紀州華岡の事などくわしく申来候。三月許も居候由、春秋病人夥敷集り候節治療を見候へば益有之候由、当今の華陀神医なるよし、足下なども何卒手透も出来候はゞ、ちかき処にも候へば二三箇月も従遊いたし候はゞと存候。もはや六十歳のよし、来年賀のよし、其子息盆後より廉塾へ参り居候。大阪に居候良平は瑞賢の弟也。是は私も書生の頃の相識也。」
華岡氏、一に花輪氏に作る、名は震、字は伯行、随賢と称し、青洲と号した。霞亭は「瑞軒」と書して塗抹し、「瑞賢」と改めてゐる。経済雑誌社の人名辞書も「随軒」と書し、下に「軒一に賢に作る」と註してゐる。天保六年十月七十六歳にして歿した。文政己卯(二年)に六十歳であつたことは霞亭の云ふが如くである。
霞亭は京都にあつた時青洲の弟と交つたと云ふ。此弟、名は文献、字は子徴、鹿城又中州と号した。霞亭の「良平」と云ふは其通称である。
青洲の子某が己卯(二年)七月に廉塾に入つたことは、霞亭の書に由つて始て知られた。
わたくしは姑く此に附記して置いて、他日更に考へ定めたく思ふ事がある。それは嘗て伊沢蘭軒伝に書し、又霞亭の痢を療したために上にも記した三箇角兵衛の身分素性である。わたくしの後に見出した霞亭の文化中の書牘によれば、角兵衛は武士にして医方に通じてゐた。そして茶山の持病をも療してゐた。又此角兵衛は大阪の花輪鹿助と云ふものの兄である。霞亭は花岡氏を又花輪氏とも書してゐる。大阪の花輪鹿助とは或は華岡鹿城ではなからうか。鹿城の通称は良平としてあるが、一に鹿助とも云つたのではなからうか。若し然らば随賢、角兵衛、良平の伯仲季となるであらう。霞亭の文はかうである。「三箇角兵衛と申福山藩武士、殊之外医事にくわしく、先其人甚流行、かねて塾(廉塾)へもよく見え候。先其人の処方(茶山のための処方)之柴胡剤になにやらむ加減致候。角兵衛殿は大阪の花輪鹿助の兄なり。」
百二十八
文政己卯(二年)十月二十一日の霞亭の書には猶僧月江の事が見えてゐる。「是も浅井より申参り候。月江長老此度台命下り候而、天龍寺住職になられ候よし、当霜月十四日(己卯十一月十四日)とやらむ登壇儀式有之候由、先々重畳の儀、紫衣住職天龍に久敷無之候由、長老甚御手柄と被存候。」
書に又皆川篁斎、三宅橘園二人の事が見えてゐる。「浅井書中に承り候。皆川猷蔵当夏死亡、三宅又太郎も八月脚気にて死去のよし、皆々きのどくなるものに候。」皆川篁斎、名は允、字は君猷、猷蔵と称した。住所は中立売室町西、歿日は夏ではなく、七月十八日である。淇園の嗣子で、年を饗くること五十八であつた。三宅橘園、名は邦、字は元興、又太郎と称した。又威如斎の号がある。淇園門の人で、五十三歳にして歿し、文景と私諡せられた。家は麩屋町二条南にあつた。
前書を発した後、中二日を隔てて、十月二十四日に霞亭は又小簡を碧山に寄与した。「御祝儀書状(賀婚書)一々差上可申候処、明朝(二十五日)より学校へ出勤日に而、夫に只今大阪へ上り候たより申参候故、急に相認候間、御免可被下候。拙内(敬)も祝状相認可申候処、右今夜になり何歟ととり込候故、跡より差上可申候。尚々可然申上候様申出候。十月廿四日夕灯下。」霞亭は碧山の婚事を報ずるを待つて賀したいと云つてゐた。此簡は碧山の書を得て作つたもので、上文の前に「九月廿五日御状(碧山の書)今夕相達し拝見仕候。」と云つてある。
十月には的矢書牘中に霞亭の書が無い。只此頃書して碧山に示したかと思はれる詩箋が存してゐる。其詩は七絶三首、第一「今村綽夫小斎分得韻尤」、第二「小春課題」、第三「孟母断機図、賀佐渡中山顕民母氏」である。第一第二は歳寒堂遺稿に載せてあつて、字句も全く同じである。
第三は遺稿に補入すべき詩である。「蒙養遷居就義方。母儀千古有遺芳。誰知尺寸刀余布。雲錦天章失彩光。」そして茶山集に此詩と参照すべき作がある。「孟母断機図、寿中山言倫叔母七十。七篇微旨本三遷。命世兼欽母徳賢。機上断糸長幾許。続来聖緒万斯年。」
按ずるに文政己卯(二年)に七十歳であつた老媼は、佐渡の中山顕民がこれを母とし、京都の中山言倫がこれを叔母としてゐる。然らば顕民と言倫とは従父兄弟でなくてはならない。是より先、佐渡より出でて京都の医となつた中山氏に蘭渚玄亨がある。言倫は其裔にして、顕民も亦其族ではなからうか。
百二十九
的矢書牘中に文政己卯(二年)十一月二十九日に作つた詩を書した一小箋がある。「仲冬廿九日大雪、得窓字。騒屑醒幽夢。曙光明映窓。高眠吟白屋。独釣憶寒江。団掬濫孺子。走狂輸小尨。誰歟乗興客。緑酒湛盈缸。」
わたくしの此を以て己卯の仲冬とするは、箋に猶二首の詩が併録してあるが故である。そして此二首の己卯に成つたことは歳寒堂遺稿がこれを証する。先づ其二首を抄する。「読広瀬子詩巻、和其東楼韻以寄。林鳥何好声。拭几焚雞舌。西州有隠君。高臥抱清節。誦詩想其人。襟懐瑩氷雪。又。近詩日軽浮。競巧在脣舌。多君真性情。仰攀陶靖節。吟来塵想消。一点紅炉雪。」二首は遺稿己卯の下に見えてゐて、字句に異同がない。箋には末に「広瀬求馬、農後日田の儒生、作家也」と註してある。広瀬求馬は淡窓建で、此年三十八歳、霞亭より少きこと二歳である。弟旭荘謙は年甫て十三、その吉甫と字したのが此より七年後、旭荘と号したのが八九年後である。
十二月に入つて後、霞亭は三日に丁谷へ看梅に往つた。遺稿に「十二月三日与捫蝨子丁谷探梅」の七絶がある。「一枝初認渓橋曲」の句より推すに、既に花を開いた一枝があつたと見える。捫蝨子は誰なるを知らない。
的矢書牘中には十七日碧山に与へた書がある。その己卯(二年)のものたる確証は得難いながら、矛盾なく此に挿入するに堪へたる書である。「以来(十一月書を発してより)何のかはり候事も無之候。寒前は甚暖かに候処、寒中は余程寒く有之候処、また両三日以来大分温和を覚候。梅も已に七八分に及候。御地はわけてはやかるべくと奉存候。御地今年は鯔魚は如何に候哉。郷味想像仕候。何も申上候事も無之候。学館講釈は此間十一日に仕廻(仕舞)申候。塾はいつといふ限なし。諸生あれば二十七八日頃にいたし候。此信も高木(呆翁)へ頼遣し申候。左様思召可被下候。何様当冬は大方通信これ限に可仕候。来春早々めでたく可申上候。」学館は福山の弘道館、塾は廉塾である。三日に花一枝を著けた梅が、既に七八分の盛になつてゐる。
二十二日に霞亭は夢に山口凹巷を訪うた。遺稿に其時に作つた詩があつて、小引に夢が記してある。「十二月廿二夜。忽夢予在林崎。会中秋。出敲呆翁門。不在。遂至凹巷。凹巷云。今日事故不可出。因叙話片時。共歎敬軒、隣哉今則亡。又欲就観魚。意其之浪華。不果。須臾而夢醒。時沈灯明滅。風雨交作矣。」詩は略する。宇仁館雨航の一号が観魚であつたことは此に確保せられた。
此に是月に作られたと認むべき詩があつて、遺稿はこれを佚してゐる。わたくしは的矢書牘の間に厠つてゐる詩箋に於てこれを見出だした。「客到寒暄無費辞。嗒(原文は草冠)焉隠几写新詩。世間多少聾心者。虚籟満前聞不知。棲碧山人聾、賦此。譲拝草。」傍に細書してかう云つてある。「讃岐金比羅牧藤兵衛也。詩集など有之男に候。」
此詩が己卯(二年)十二月に成つたことは茶山集がこれを証する。茶山集の己卯の部は送窮の詩の後に「棲碧山人耳聾、因寄」の七絶を載せてゐる。「十歳耽詩厭世営。恐佗外事攪幽情。疾聾双耳君何恨。免見啾々毀誉声。(結、楽天成詩。)」霞亭の詩が茶山の詩と同時に成つたことは殆ど疑を容れない。そして牧麻渓の聾したのが己卯の年であつたことが推知せられる。茶山集の己卯の部は応酬の諸篇を集めて末に附したものらしい。果して然らば茶山の詩は己卯に成つたと云ふべくして、己卯十二月に成つたとは云ふべからざる如くである。しかし上の詩は十二月に成つた送窮の詩と「牧百穀来訪、臨去賦此」の詩との間に介まつてゐる。牧百穀(藤兵衛畏犠妹壻信蔵碩)は菅氏を訪うたのである。此詩は爾余の応酬の作とは稍趣を殊にしてゐて、尚編日の順序に従つて録せられたものかとおもはれる。
是年己卯(二年)には霞亭は四十歳であつた。
百三十
文政三年には霞亭に元旦の詩がある。「庚辰元旦口占、邦俗謂四十一為初老。不羨朝韡趁暁天。瓶梅香裏聴雞眠。誰言今日是初老。自賦閑居已十年。」瓶梅の下には四十一歳の主人、三十八歳の妻敬、三歳の二女虎の三人がゐた。詩は名は初老ながら老いて已に久しいと云ふ意である。自ら嘲る語とも看るべく、髀肉の歎を寓した詞とも看るべきである。茶山集を検すれば、同じ日に成つた七律二首がある。皆老境を悲む作である。わたくしは此に由つて此元旦が晴天で雪の残つてゐたことを知る。「倚欄郊雪半成烟」「残雪輝々林日斜」等の句がある。
正月四日は大雪であつた。歳寒堂遺稿に上の元旦の詩の次に「四日大雪」の七絶がある。
七日の詩がこれに次いで遺稿に見えてゐる。わたくしは「人日」の七律の後半を抄する。「隣叟餉魚驚倦枕。山妻買酒勧携筇。今朝且幸逢初子。好挈女児移穉松。」酒を買ふ山妻は敬、松を移す女児は虎である。
的矢書牘中に二月朔の霞亭の書がある。わたくしは未だ此の碧山に与ふる書の庚辰のものたるか、次年辛巳のものたるかを審にせぬが、姑くこれを此年に繋けて置く。書中に門田朴斎の事がある。「菅太中翁も此節門田尭佐といへる男(原註、いつぞや御逢被成候歟)、久しく塾に罷在候少年、翁の妻の姪に御坐候、これを養子にいたしたき願書御上へ差出され候。菅三幼少、何になり候やらまだしれ不申候故の事と見え候。尭佐も大分近来学問上り候。もはや廿四五になり候。」
朴斎尭佐は寛政九年(1797)丁巳の生であるから、其二十四歳は庚辰、二十五歳は辛巳である。朴斎詩鈔初編を閲するに、己卯二十三歳に至るまでの詩は于支を註せずに、「以上係在菅茶山先生塾弱冠前後所作」と云つてある。そして庚辰二十四歳以後の作は悉く于支が註してある。わたくしは初めこれを見た時、その「在菅茶山先生塾」と云ふ期間には養子時代も含まれてゐるものと以為つた。今按ずるに朴斎が詩を刻する時、塾生時代と養子時代とを区別したことは明である。惟決し難いのは養子時代が庚辰に始まつたか、辛巳に始まつたかである。そして此問題は霞亭が二月朔の書を作つた時、朴斎が二十四であつたか、二十五であつたかの問題に聯繋してゐるのである。わたくしは姑く庚辰二十四歳を以て養子時代の始とする。是は詩鈔に始て于支を註した年が、霞亭の「近来学問上り候」と云つた年に相応するが如く感ずるが故である。
二月朔の書は「何も用事も無御坐候へども、幸便故平安を報じ候」と云つてある如く、特に抄すべき事が少いが、上の朴斎養子問題を除く外、猶山田詩社の消息がある。「吉大夫より此間書通、山田社中は皆々無別条候由。」吉大夫の佐藤子文なることは茶山の大和紀行より推することが出来る。
次に的矢書牘に霞亭の二月八日に碧山に与へた書がある。此書にも亦その庚辰のものたる確証は無いが、猶前の朔の書と相発明するものが無いことも無い。「此頃も両度程書状差出候。伊勢より佐藤など二度春来便有之候。高木、西村皆々便有之候。御地の便は未だ届不申候。嘸御出し可被成と奉察候。此方春来凡四五度も出し候と覚え候。」佐藤吉大夫の書の事が復此にも見えてゐるのである。
次に的矢書牘に同月二十八日の霞亭の書がある。此日附は或は二十一日ならむも測られぬが、姑く二十八日と読む。宛名は「高木勘助様侍史」と云つてあつて、書信を的矢に伝致せむことを請ふ文である。勘助は呆翁舜民である。是も亦庚辰のものたる確証は無いが、権(かり)に此に挿入して置く。「春暖相催候処、愈御安泰可被成御揃、奉恭賀候。小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然ば此書状(郷に寄する書)毎々乍御労煩御便に被仰付可被下候。少々急ぎ之用事に付、何卒早便奉願候。今般差掛り何事も申残候。書余期再鴻之時候。」猶紙の端に下の文が書き添へてある。「老人養草一部並に胎毒丸一封此書状と一併に的屋へ御遣し可被下奉煩候。」高木氏との往復は前の八日の書にも見えてゐる。霞亭の適斎に贈つた老人養草は豊前の香川牛山の著す所である。胎毒丸は谷岡良助の女などに服せしめむが為であらう歟。
霞亭は二月中に親戚三四人を神辺の家に招いて、四十一の賀を行つた。事は六月の書に見えてゐる。  
 

 

百三十一
文政庚辰(三年)三月二日に霞亭は書を碧山に与へた。此書の庚辰のものたることは下に確証があるが、必ずしも証を待たずして知るべきである。何故と云ふに次年辛巳の此頃には霞亭が旅をしてゐるからである。書は正月二月の的矢の書を得た後に作られた。「正月二月御書状此間相達拝見仕候。(中略。)正月頃少々御腫物にて御難義被成候由(腫物を患へたのは碧山である)、何分下地の病気とくと根ぬけいたしかね候と被存候。随分御用心可被成候。佐藤、弥六などがやうに、いづれ一旦痼疾を得候ては、終身の害に相成候ものに候。無御油断御摂生奉祈候。」痼疾の例に引かれた佐藤は子文、弥六は永井氏である。
書中に又碧山の詩の事が言つてある。「御近作御示し、皆々おもしろく被存候。如何敷処へ線を引候。いづれ好文字を御思惟可被成候。多作より推敲の念入候が詩学の第一。」
霞亭は書と共に出雲十六島と安芸広島との海苔を郷里に贈つた。「十六島(うつぶるい)海苔少々大人様(適斎)へ進呈仕候。雲州道光師より被遣候。これは酒をいれ候而久敷にるがよく候よし、生にてもよし。広島のり少々、これは浅草などにかわりも無之候へども、土地の産故懸御目候。粗なるのりは伊勢あまのりに少しもかわりなし。」出雲の海苔は僧道光の貽であつた。
二十日に霞亭は書を父適斎に寄せた。是は碧山が家に在らざる故であつた。的矢書牘中の此書は啻にその庚辰の作たることが確なるのみでなく、又上に引いた数通の書の上に光明を投ずるのである。わたくしは先づ霞亭一家の事を抄する。「当方私始家内皆々無事、敬助(撫松)も壮健に勤学罷在候。乍慮外御放意被遊可被下候。」
碧山の旅は華岡青洲を紀伊に訪うたのである。恰も是れ青洲六十一の寿を祝せむために、其子雲平が廉塾より帰省した時である。「然ば源兵衛より敬助へ(の)書中承知仕候処、立敬先月三日(二月三日)紀州へ参候由、御事しげき中よくぞ御許被遊御遣し被遊候。無程帰宅可仕候得共、御療用等御苦労に奉存候。長くはいらざる事に候得共、当世癰科の名医に候故、暫時見習候も可然候。併私方へ(の)二月朔日の書状になんとも申越不申候。甚急におもひたち候義に候哉。以来何事も先相談いたし候上取計候様、乍憚被仰付可被下候。掛隔候へども、又何歟の心懸等も気付候事は何に限らず申入たく候故に候。華岡子息雲平此方に在塾罷在候。これも瑞賢先生(青洲)六十一にて年賀のために此節紀州へ帰省いたし候。此書状はこの仁へ託し申候。」
青洲のためには茶山も霞亭も寿詩を作つた。彼の七律には「応諳徐福采残薬、非授華佗遺得方」の聯があり、此の七古にも亦「千里輿病集門下、人道華岡今華佗」の句がある。青洲は宝暦十年の生で、是年庚辰(文政三年)に六十一歳になつてゐた。後天保六年に至つて七十六歳を以て終るのである。青洲は紀伊国那賀郡に住んでゐた。
青洲の弟鹿城が大坂にあつて外科に名のあつたことは世に知られてゐるが、青洲の子の事は上にも云つた如く諸書に見えない。わたくしは霞亭の書に由つてその雲平と称したことを知つた。
霞亭は書中に正月下旬以後郷里に遣つた音信の事を言つてゐる。「正月下旬、京都呉服屋便に金子十両山田鈴木屋武右衛門へ向け差出し申候。(中略。)鍵屋大夫手紙の便にそうめんの書状高木氏迄、二月下旬参宮人便に書状佐藤氏迄、三月上句飛脚便書状うつぶるいのり少々入山口氏迄、右等追々相達し可申候。」金を餽つたことは前の三月二日の書にも見えてゐたが、わたくしは抄せなかつた。「高木氏迄」の書が「二月下旬」の書の前にあるより推すに、わたくしの上に「二月廿八日(同月二十八日)」と読んだ日附は猶或は二月二十一日であつたかも知れない。三月二日十六島海苔入の書が庚辰(三年)であつたことは、此書がこれを確保してゐる。此書は更に海苔の事を追記してゐる。「うつぶるいのり、此間出雲の人に承り候処、これも久敷はもちかね候由、(久敷たてば味もにほひもおち候由、)長くもたすならば火にあてゝ風のいらぬ様壷などへつめ置候がよろしく候よし、吸物にいたし候は水にひたし候はよろしく無之候由、下地の汁こしらへ置、このまゝにきざみ入、其後はよくよく煮候がよきよしに御座候。」
書中には最後に少女虎の眼下の黒子の事が見えてゐる。「あざの薬、なんぞ妙方は無御座候哉、乍憚御示し被遊可被下候。少女とら目の下に●ほど計のあざ出候。構も不仕候へども、目にさわり候而見苦敷候。いつにてもよろしく候。以上。」
百三十二
文政庚辰(三年)の春は暮れた。わたくしは歳寒堂遺稿に就いて此春の事件中書信に見えなかつたものを求め、これを下に列記しようとおもふ。其一。霞亭は或日小野明を訪うた。「小野士遠小斎得蕭」の詩がある。頃は二月の半でもあつただらうか。「一春幽事看将半、且為残梅叩小寮」と云つてある。其二。霞亭は又双鏡亭の会に赴いて詩を賦した。亭は誰の営む所なるを知らない。「双鏡亭集分得韻冬」の詩がある。其三。霞亭は鈴木宜山の留守をおとづれて、園中の垂糸桜を看た。宜山は江戸に祗役してゐたのである。「過宜山園、観垂糸桜、主人時在江戸。庭花不改旧嬋娟。独奈糸糸春恨牽。想得主人官舎睡。香雲一片夢中懸。」其四。郡宰山岡某が霞亭等を請じて酒を勧めた。「山岡郡宰招飲、同諸君賦、得杯字」の詩に、「会客勧春杯」の句がある。其五。京都の瀬尾緑谿が退隠して詩を寄示したので、霞亭はこれに和した。「和瀬尾子章退休志喜韻」の詩がある。此篇には季節を徴すべき文字は無いが、稿本中春の詩の中間に写された詩を春の詩と看做すのである。其六。三月三日に雨中大夫佐原某等が霞亭を訪うて詩を賦した。「是日(上巳)雨中佐原大夫及諸子見枉村舎、分得韻陽」の二詩がある。其七。三月二十日に小野泉蔵が霞亭を訪うた。此日の詩の小引に「我輩方飲花下、会小野泉蔵携一瓢自長尾来、有詩、率爾和之、時晩春廿日也」と云つてある。茶山集を検するに、三月尽の詩と並んで、「小野泉蔵叔姪更迭来宿、次韻泉蔵」の詩がある。泉蔵は黄葉夕陽村舎に舎つたと見える。「二玩相尋信草堂。吟牀並遺語音芳。春来沿例多人客。能若君曹得未嘗。」其八。浅川楝軒が霞亭を招宴した。「楝軒招飲」の詩に「晴窓納春野」の句がある。其九。郡宰森島某が詩会を催し、兼て母の八十を寿した時、霞亭もこれに与つた。「森島郡宰父子会諸子、余亦与焉、分得韻虞、兼寿大孺人八十」の詩に「黄鶯催彩筆、緑柳払金壷、萱草春愈茂、芝蘭日自敷」の聯がある。森島は樸忠であらう歟。由緒書に拠れば、樸忠一の名は忠利は「文化八未二月廿三日、御者頭席、十酉五月七日中山斧助元組郡御奉行寺社兼役、大御目付兼役、十一戌二月七日、町御奉行兼役、十三子九月廿七日、大御目付兼役御免、文政元寅十月十七日、御番頭格」である。然れば大孺人は忠州の女、忠寛の妻、忠利の母で、父子とは忠利、忠同であらう。其十。小野伯本が雨中に霞亭を訪うた。「和小野伯本途上韻。久期相見屢相違。君子有情来款扉。泥路且欣帰馬滞。属杯閑看雨霏々。」小野が途上の詩は即来路の詩であらう。そしてわたくしは此賡和の春尽る頃に於てせられたことを推する。何故と云ふに遺稿は此詩の次に霞亭の山県、小野、浅野三人を招いた時の詩を載せて、其中に「春逕留紅薬、夏峰含翠嵐」の句を見るからである。
庚辰(三年)の夏に入つてからは、先づ四月二日に霞亭の父適斎に寄せた書がある。霞亭は弟碧山の猶紀伊に在るを知るが故に宛名を父にした。此書は文が短いのに、前後の事実の聯繋を明にするに便なるものである。それゆゑわたくしは例を破つて此に全文を載せようとおもふ。「二月廿九日御手簡(適斎の書)三月廿二日福山へ出勤之節相達拝見仕候。(小野泉蔵来訪の日、前書を父に寄せた日の後二日である。)愈御安泰被遊御揃奉恭祝候。当方私共皆々無事罷在候。乍憚御放意奉希候。金子無間違相達し申候由安心仕候。何分宜敷御取計奉願候。(是は餽る所の金の用途である。今これを知ることが出来ない。)立敬紀州行之儀敬助方へ源兵衛より申来候。立敬紀州よりの書状等皆々一度につき申候。無程(立敬)帰宅可仕候。嘸々事かけと奉察候。華岡随賢よりも此方へ書通被致候。かの子息(雲平)去年(己卯)より在塾故に候。立敬かへり候はゞ、月瀬の梅並に紀州へ参り候道すがらのあり様、路はどのやうに通行いたし候や、途中詩なども、くわしくはなし申こし候様、乍慮外被仰可被下奉願候。二月頃(実は三月二日)の便に十六島のり少々山口(凹巷)迄むけ差上候。相達し候哉。其外は去年来当春書状皆々相達し候由承知仕候。右平安報じ申上度如此御坐候。万々奉期再信之時候。恐惶謹言。四月二日。北条譲四郎。北尊大人様左右。尚々時節御自愛万々奉願候。乍憚母様始立敬夫婦にも可然奉頼候。以上。」
百三十三
霞亭は弟碧山の書の紀伊より至るに会して、一面柬を的矢の父適斎に寄せ、一面又碧山に誨ふる文を草した。しかし此文は後四月二十四日に至つて纔に神辺より発せられた。
此文は現に的矢書牘中にある。惜むらくは其首幾行かが断裂せられてゐる。「いづれ一度御越、術をみるもよろしく候。物入の事はさしかかり候事なればいたしかたなく候。外之事にて節倹可然候。且又乍内分少し心得有之候。」此段は前段を闕いてゐて、何物を承くるかを詳にせぬが、恐くは碧山今回の紀州行を斥して言ふのであらう。霞亭は要するときは旅費の不足を補つて遣ることも出来ると云つてゐる。「かの家(華岡青洲の家)などは老練故、色々奇妙なる術も施し候由、未熟の内にそのまねいたしては却而しくじりも出来候。備中西山先生(備中鴨方の拙斎西山正)孫某(孝淑若くは孝恂の子歟)医になり居申候。華岡弟子になり候而帰り候而一術を施し候処、手ぎわあしく人死亡候而、その人(西山)の殺し候様風説出来候而、終には人もろくに頼まぬやうになり候。医人は何事によらず大切の心得第一に候。人が此人ならではと信ずる人物ならではなり不申候。何分京摂其外此辺恵美(安芸広島の三白貞秀、三世三白)などのふり合も学んで、(学ぶも可なれどもの意歟)それに久敷つき候とてよき医にもなられ不申候。所詮は豪傑の士は一分より発明を出し候より外は有之間敷候。其内知人方書の治療に益あるものは無御油断読閲可被成候。足下など既に治療の施に当り候故、それが直に修業の第一に候。いづれ何の業も小心と放胆と相兼候わねばなり申間敷候。此度御越被成候路程其外近事追々御報知可被成候。随賢(青洲)よりも此間拙者へ書状参り候。これは雲平世話になり候礼状也。雲平たち候跡へとじき候。大方雲平も備前に少し淹留、四月上句には帰家いたし候由。大坂の良平(鹿城文献)と申は随賢弟也。これは私二十年前の相識也。(寛政京遊の日である。)近頃言伝などいたしをこし候。是も大分流行いたし候由。今迄は堺に罷在候。近頃大坂へ出たり。名手(那賀郡名手村)までは大坂より泉州へ出てゆけば牛滝(和泉国泉北郡山滝村南方)の方を通り候而十六七里の路程也。先達而御こしはどのやうに取路候や。名手まで十日かかり候様見え申候。定而迂路と被存候。いづれかながきにても路すがらの様子くわしく被仰可被下候。医事も胸懐高くなく候ては上手にもなり申間敷候。胸懐高くするは読書にしくはなし。香川太中(一本堂修徳、庚辰より六十五年前歿)などは聖賢伝中の医などとも申候。近来蘭方などを治療にまじへ候事世間通用のはやりになり、外科などは兼用も尤なる事に候。(しかし)実は読聖賢書の余りに信用になり申さざる事。雲平はなしには華岡(青洲)なども書は先外科正治、正宗なども用ひ候よしに候。これ迄書状(碧山紀伊の書)達し候節に相認候。四月三日。此書状認置候処、彼此仕候而延引仕候。一昨日より学館(福山)へ出勤罷在候而船便此書状差出申候。四月廿四日福山旅寓に書。」
霞亭は医学の宗派を説き、兼て医の処世法に及んでゐる。上にも云つた如くに、わたくしは霞亭の書に由つて華岡青洲の弟鹿城が良平と称したことを知り、又霞亭が少時京都に遊学して鹿城と交つたことを知つた。文政庚辰(三年)より二十年前は寛政十二年である。しかし霞亭の二十年前と云ふは概算であらう。
わたくしは霞亭の寛政京遊の事を言ふ次に、此に再びその始て的矢より京都に赴いた年を顧み、前記の足らざる所を補はうとおもふ。それは新なる資料を閲して、入京年次の旁証を得た為である。浜野氏は近ろ霞亭の助字弁を購ひ得た。此書は「霞亭先生述、助字弁初編、北越仙城院蔵」と題し、「関根」「廓如之印」の二印がある。即ち霞亭が越後の関根氏に客たりし日に刊せられたものである。書の「題言」にかう云つてある。「年十八。負笈京師。謁大典禅師請教。禅師示以一隅。後就淇園先生而正焉。」一隅とは助辞法の一隅を謂ふのである。霞亭は寛政九年(1797)に十八歳になつた。入京の年は霞亭渉筆の「十三年前」と符合する。且霞亭が皆川淇園に従遊するに先だつて僧大典を見たことも、霞亭伝中藐視すべからざる事実である。助字弁には刊行の年月を著さない。
百三十四
霞亭の庚辰(文政三年)四月二十四日の書には猶僧乗如の事が見えてゐる。推するに碧山は紀伊に於てこれと相見て兄に報道したのであらう。「高野の詩僧と申は大方正智院乗如にて可有之候。茶山の弟子也。神辺近村の生れの者也。今は大分出世いたし居申候。是は小生も随分相識に候。かなりに何か出来候。只今高野の碩学職を被命居候人也。(中略。)此書をかき候処へ茶山翁来りて、乗如の事とひ候へば、即正智院の事の由、それなれば小生も相識也。近年帰省のせつは高野へよられよと度々言伝いたしをこし候。その弟子の僧は塾に久敷居申候者も参居候。」此文前後相連らざる所あれども、それは初の「乗如」の二字、其他数句が後に書き加へられし故である。霞亭は高野の詩僧の事を聞いて、先づその正智院なるべきを思ひ、後に茶山の語に由つて其正智院の即乗如なることを知つたのである。
次に六月三日に霞亭は書を碧山に与へた。霞亭一家は平穏であつた。単に「当方無事罷在候、乍憚御放意可被下候」と云つてある。
碧山は兄に紀州の遊を報じて、途に月瀬を経たことを言つた。霞亭は答へて云つた。「月瀬の奇観健羨仕候。御作等候はば後便御示可被下候。芳野は花時に候や。今年は全体花はやく候由承り候。扨今年は三月中大方陰雨に而、又々梅雨中も四五日ふりつめ候。御地辺は如何候哉承度候。」
霞亭は弟のために史学を説き、又詩の事を語つてゐる。「本業の余暇、日本の事実などしるし候もの等御心懸御覧可然候。此方に生れ候而一向しらぬもつまらぬもの、詩文などの用、議論の事など面墻多きものに候。大日本史山田社中に所持に候。少々宛なりとも御恩借御よみ可被成候。しかしそれにも限り不申候。もちと小さきものにてもよし。(原註、軍書俗談類にても。)歴史は通鑑など見候へばよし。資治通鑑にても綱目にても。しかし本まれに可有之候。先御心懸可被成候。晋書、三国など正史にしくはなけれども、余り浩博すぎ候而にわかに卒業出来ねば手短き方よりいたし候も一手段に候。詩は唐宋詩醇など先よろしく候。王阮亭精華録など詩学に益あり。たれぞ社中に所持も可有之候。」
適斎の妻中村氏は此庚辰(三年)の春尾張に遊んだと見える。「母様尾張へ御遊覧被遊候由、よくぞ御越、御機嫌よく御帰宅めでたく奉存候。よきつれにても御坐候哉。ことの外早く御帰りと奉存候。」
碧山は兄に四十一の賀の事を問うたので、霞亭はこれに答へた。「私四十一の年賀の儀一寸御噂申上候へども、二月親類三四人相招き内祝已にすみ候。一切他人の祝儀等は相断申候。夫故もはや已にすみ候儀故、御祝意の御心遣は必々御無用に奉願候。」
霞亭は例の如く的矢の郷親のために摂生を説いてゐる。「暑中にむき候而食物御用心専一に奉存候。此四五日前弥九郎と申大荘屋(原註、川南藤井料助の兄)平生積持に候処、ふと章魚をくひ候而あたり死去いたし候。あたる時はこわきものに候。」暑中の摂生を説くは既に晩い。霞亭は里正の死を聞いて訓戒を郷人に与へようとしたのであらう。死者の弟藤井料助の事は、前に偶忘れて其人を知らぬやうに云つたが、浜野氏木崎氏等は当時直に手書してわたくしにその暮庵なることを報じ、就中浜野氏は墓銘を寄示した。暮庵、名は公顕、字は士晦、備後神辺の人で、生父は澹斎、養父は蘭水である。暮庵は澹斎の二男に生れ、出でて宗家を継いだ。二家は皆里正である。弥九郎は恐くは澹斎の長子であらう。章魚を食つて死んだ例は又永富独嘯庵の漫遊雑記にも見えてゐた。今其病症の同異を審にし難い。
歳寒堂遺稿には此夏の詩が少い。詩中の人名は山県某、小野公熈、浅野千春(「招平戸山県某、長尾小野公熈、浅野千春飲」。)牧麻渓(「寄棲碧山人」)暮渓(「留暮渓」)僧石峰(「石峰師見過」)の六人があるのみである。「中山典客招飲」は夏秋のいづれなるかを知らない。
わたくしは此に霞亭の弟撫松の此夏の詩を附記したい。的矢書牘中に「北条敬助寧拝、奉呈北条尊大人(適斎)様、同尊大兄(碧山)様人々御中」と署した書の断片があつて、七絶二首が記してある。「闍潤B緑陰深処読書家。雨歇檐前啼乳鴉。睡起呼童汲渓水。半簾斜日煮雲芽。恭敏先生忌祭。一去塵寰十四年。復開遺巻歎君賢。弁香羞罷人無語。穆々清風半沼蓮。」恭敏は廉塾の都講であつたが、わたくしは未だ其氏名を検出しない。落合双石の鴻爪詩集にも、「君諱某、私諡恭敏、廉塾都講、苦学罹疾早歿」と云つてあるのみである。文化八年辛未茶山の祭奠の詩に「琴亡忽五年」の句がある。文化辛未(八年1811)を五年とすれば文政三年(1820)は十四年である。前の闍盾フ詩を併せ考ふるに、此書柬は庚辰の夏に作られたものである。若し廉塾の祭が所謂年忌を以てせられたとすると、恭敏の歿年は文化四年(1807)丁卯であつただらう。
百三十五
文政庚辰(三年)の秋は的矢書牘が先づ七月四日に霞亭の碧山に与へた書を伝へてゐる。その自己の上を語るものは下の如くである。「残暑に相成候得共、却而酷しく御坐候。(中略。)此方皆々無事罷在候。乍憚御放意可被下候。(中略。)今年は例よりは久敷涼しく候而、こゝ四五日前各別暑気を覚え候。併已に秋意を催候様子なれば、さほどの事も有間敷被存候。暑中詩も一向出来不申候。少々有之候も皆只応酬勉強のみに候。(中略。)今日上京の人へ急に托し候故何事も略書いたし候。いづれ盆後書中に申上候。」
恵美三白の死の事が此書に見えてゐる。そして是が此書の庚辰(三年)の作たる確証である。「恵美三白当春御供(松平斉賢の供)に而出府いたし候。先月(六月)江戸邸(桜田霞が関浅野邸)に而下世いたし候由、昨日(七月三日)しらせ参り候。参りがけから余程衰老にみえ候。七十五六に可有之候。」三白は三世三白で、名は貞璋、大笑と号した。庚辰六月八日に七十六歳を以て終つたのである。法諡は頤神院換髄霊方居士、赤坂の威徳寺に葬られたと云ふ。弟潤三郎をして探らしめたが、真言宗智剣山威徳寺は赤坂区一つ木町十三番地にあつて、俗に一つ木の不動と呼ばれてゐる。「墓は墓地の中央部に南面して立てり。趺石三層あり。石の玉垣を繞らし、前面に扉あり。垣の内左右に石灯籠あり。墓の前面には「大笑恵美先生之墓」と彫り、左右後三面に「大笑恵美先生墓誌銘」を刻す。亀井昭陽の撰ぶ所なり。」
次に山口凹巷の事が見えてゐる。「此間は凹巷より久々に而来書、社中(伊勢恒心社中)近況くわしく承知致し候。孟綽(孫福包蒙)留主に而多用に御入との事に候。」玉田氏の云ふを聞くに、孫福公裕、字は孟綽、包蒙、楓窓、松嶠、齪斎等の号がある。凹巷の実兄眉山孫福公ケの子である。凹巷の書を挍して姪と署した所以である。さて眉山凹巷の父は孫福白堂、初名雅脩、後文圭、字は圭甫、後に遠山氏を冒したのである。
書に猶二三の瑣事がある。一、「調息養気法、ある医書中にて検出仕候。匆々敬助(撫松)にうつさし懸御目候。」此抄本は今伝はつてゐない。二、「唐宋詩醇、どこぞに所蔵あらば御借覧可然候。林崎文庫には有之候が、借用如何有之哉、佐藤(子文)などへ御逢之節御咄可被成候。」
此七月四日の書よりして外、的矢書牘は此秋の消息を伝ふるものが甚乏しい。それ故わたくしは以下歳寒堂遺稿を以て主なる典拠とせざることを得ない。
七月七日には霞亭が詩を賦した。此七律の後半にはお敬とお虎とが写し出されてゐる。「七夕。倒翻書簏撲蟫魚。渫治井泉労僕夫。一掬晩涼生径草。半鉤新月在庭梧。年光容易不相待。児女団欒聊可楽。還苦渠儂妨著睡。問星指漢挽吾髪。」
十五日には七古の長篇を作つて京都の僧月江等に寄せた。「勝事十年水東流」は文化八年大堰川の舟遊を追懐したのである。庚辰(文政三年)より逆算すれば文化八年は九年前である。その十年と云ふは概算に過ぎない。「清空塵土長相隔。時時幽夢到林丘。」嵯峨生活は夢に入ることも寖罕である。
八月十五日には廉塾に詩会があつて、霞亭は詩を牧麻渓に贈つた。遺稿の「社日廉塾席上贈牧詩牛」の七古が是である。庚辰は中秋が社日に値つた。茶山には「中秋値秋社」の詩題がある。詩牛の麻渓なることは「近来其耳燥且聾」と云ふを以て知るべきである。茶山にも亦「棲碧山人航海来訪、病後耳聾口喎、談話不似旧日壮快」の詩があつて、中に「三五秋輝喜共看」と云つてある。廉塾の宴には茶山が蒞んだものと見える。次の霞亭の書はわたくしをして更に中秋の事を補記せしむるであらう。
霞亭は十七日に書を碧山に与へた。的矢書牘中の此書には「八月十七夜」と記してある。神辺の家の事は「小生無事、敬助も無恙罷在候、乍憚御安意可被下候」と云つてある。
撫松の学資が的矢から来た。「七月十五日御手簡当月(八月)十二日自大坂相達拝見仕候。(中略。)金子二両一歩慥に落手仕候。御世話之儀に候。」
庚辰は米価の廉い年であつた。「扨米価殊之外下直に御坐候。貴境辺も同様と被存候。此頃石三十八匁位と申事に候。私共米にて何もかも受取候故、去年来余りにやす過候而諸事手支に候。おかしき事に候。乍去太平のありさま無此上事に候。」米一石銀三十八匁は銀一匁米二升六合三である。大抵当時の米価は銀一匁米一升五合乃至二升を例としてゐたのである。
霞亭は中秋前後の事を細報した。「中秋は甚清光に候。十四夜もよく候。夜前(十六夜)もよく候へども、すこしくもりごゝちに候。御地辺の様子承度候。十五夜に木星月にはいり候。をりには有之候事のよし。詩は一首落成、敬助にうつさし御目にかけ候。歌は。いぬるまにあけむ夜をしと玉櫛笥ふたゝびおきて月をみるかな。」木星の事は茶山に「忽覩一星排戸入、得非后羿覓妻来」の句がある。霞亭の撫松に写させた詩は、遺稿の「十五夜渓上即事」の七律であらう。十六夜の陰は茶山をして「陰嗟今夜月、歓倍昨宵人」と吟ぜしめたのである。
霞亭は通信の中継をする人に謝儀を贈ることを云々してゐる。「大坂園部(長之助)へは二季に何なりとも御挨拶の品被遣可被下候。此方は勿論かけず遣し候。高木(呆翁)へも其心得、これは至交なれば不必。」
書の末には時候の事が言つてある。「昨今は朝夕冷気を催し候。追々秋涼、切角御自愛奉祈候。乍憚二尊様へ可然奉願候。大阪河内屋(書估儀助)便匆々申残候。匆々頓首。」  
 

 

百三十六
文政庚辰(三年)の九月九日には霞亭等は茶山に随つて御領山に登つた。会僧風牀と小野泉蔵とが前日来廉塾に来てゐたので同行した。午時に雷雨があつたので、一行は国分寺に避けた。
小野泉蔵の招月亭詩抄には三日前の詩があり(九月六日至神辺途中戯題)、茶山集と風牀詩稿とには前日の詩がある。茶山は「忽忻恵遠過橋去、遥伴王弘載酒来」と云ひ(九月八日呈風牀上人、小野泉蔵)、風牀は此詩に次韻してゐる。(九月八日同泉蔵遊廉塾、和茶山先生高韻。)
重陽の遊は茶山集に「九日与二客及諸子鼕鼕薬澗、値雷雨入国分寺、晴後再入澗(原文は日が月)飲石上、分得韻文」と題する七古があり、風牀詩稿に「重陽同茶山霞亭二先生及小野泉蔵諸子、登御領山、午時雷雨、急避国分寺、分韻得五歌」と題する七律があり、歳寒堂遺稿に「重陽同諸子陪茶山翁登御領山、備中風牀師、小野泉蔵適在」と題する七律がある。独り招月亭詩抄には詩が無い。
霞亭の詩に「籃轝争攀三十人」の句があるのを見れば、重陽の遊に従つた廉塾の書生の頗多かつたことが知られる。
歳寒堂遺稿には此秋の詩が猶数首ある。「橋元吉過訪」は橋本竹下が霞亭の家を訪うた時、偶茶山も座にあつて、主人と句を聯ねたのである。詩は「秋灯一点細論詩」(霞亭)の句を以て起つてゐる。竹下、名は旋、元吉は其字、備後尾道の人である。「廿二日福山途上」は霞亭が九月二十二日に弘道館に赴いた時の絶句であらう。詩が秋の作の間に介在してゐて、しかも重陽の詩の後に出でてゐるからである。此詩に由つて考ふるに、霞亭は九月下旬に微恙に冒されてゐたらしい。(籃輿朝護病身行。)最後に秋冬その孰れなるかを弁ずべからざる七律一首がある。「高久南谷集、飲既酣、本間蓉渓挈壷至、四坐歓然、同賦得虞」が是である。高久南谷、本間蓉渓、並に初て見えてゐる。浜野氏蔵本間蓉渓、山岡次隆の詩集に拠るに、高久字は子盛、荘太郎と称し、鞆浦に住み、本間名は長恭、字は思卿、六左衛門と称し、「密書」の職を奉じてゐた如くである。しかし同姓異人を混ずる虞がないでもない。詩には一字の季節に関するものがない。
冬に入つて十月二十三日に霞亭の碧山に与へた書の断片が的矢書牘中に存してゐる。初めわたくしはその何年の作なるかを疑つたが、今権にこれを庚辰(三年)の下に繋ける。断片には詩二首がある。皆遺稿の載せざる所である。「十月望分韻。為思良夜買村醪。無復雅游浮野舫。風月清佳客乗興。出門一笑唱山高。」「同前、高久諸君到、得登字。有客携魚興此乗。喜聞柴戸響登々。不労江上浮舟去。起掃東軒月正昇。」わたくしの初め詩の何年の作なるかを疑つたのは、水辺に住んで作つたらしい語があるからである。しかし客に高久があつて、高久は前月の後半若くは此月の前半に霞亭等を招いて宴を設けたものである。此故にわたくしは権にこれを庚辰の下に繋けた。
詩の後に三行の文字があつて空白を塡めてゐる。「これは甚匆作也、博粲。蘇州集返璧いたし候。」官版の韋蘇州詩には「文政三年刊」と云つてある。推するに霞亭は碧山の手に由つて、伊勢の社友の蔵弆なる新刊の韋詩を借りて読んだものであらう。果して然らば十月望の二絶の庚辰に成つたことは確だと云ふことが出来よう。
百三十七
庚辰(三年)十一月二十二日に霞亭は書を碧山に与へた。是書は前半が失はれてゐる。「昨日(十一月二十一日)冬至なれどもいまだ梅は一花もみえ不申候。これまで暖なれども三四日前より大分寒気になり申候。御地はいかが。今年冬至転厳凝。憶昨尋梅向馬塍。春入山園人未省。琴声鏗爾半池冰。(原文失題。)また昨日人の求に応じて富士の画賛。峯容至脂キ。独立無矜色。自是衆山宗。鎮茲君子国。敬助も稽古の為塾中之小生へ隔日に小学、十八史略など講釈いたし候やうすに候。詩なども相応に上進いたし候様にて候。先は近状報じたく如此御座候。(従此下追書。)三先生(原註、清田、皆川、富士谷)一夜百詠と申うすき冊子二巻(原註、終に和歌あり)如意庵亡師へ久敷前にかし候。かへり候哉。もし有之候はゞ御宅へ御とり置可被下候。紛失いたし候はゞいたし方なし。」
わたくしの此書を以て庚辰(三年)に成つたものとするは、「今年冬至転厳凝」の七絶が歳寒堂遺稿中庚辰冬の諸作間に介在してゐるからである。題は「冬至偶作」である。富士の画賛は遺稿に見えない。当に補入すべきである。季弟撫松の講書の事は始て此に出でてゐる。
霞亭は昔日書を「如意庵亡師」に貸した。如意庵とは誰であらうか。霞亭は軽しく人を称して師となすものではない。儒には皆川淇園を師とし、医には広岡文台を師としたのみである。按ずるに如意庵は僧侶ではなからうか。
一夜百詠はわたくしは其書を知らない。しかし同撰者三人中の皆川と富士谷とは淇園層城の兄弟なるべきこと、殆ど疑を容れない。果して然らば此書は或は層城成章の著述中にある「北辺一夜百首詩歌」と同じではなからうか。清田は儋叟絢であらう。
二十七日に雪が降つた。歳寒堂遺稿に「十一月念七朝大雪即事得江」の七律がある。茶山集中「雪日分得韵冬」の七律も亦恐らくは同時の作であらう。霞亭に「山妻臥病児号凍」の句がある。敬が病んでゐたものか。茶山の「雪光侵枕起吾慵」の句はわたくしをしてその朝の雪なるを想はしめる。二家の詩の同時に成つたことは殆疑無からう。
茶山、霞亭二集の庚辰の詩は、並に皆上の二篇を殿としてゐる。わたくしは霞亭十二月中の消息を知らない。
是年霞亭は四十一歳であつた。
百三十八
文政四年(1821)の元旦は霞亭がこれを廉塾に迎へた。歳寒堂遺稿は先づ「辛巳元旦」の七律を載せて、次に「同前和茶山先生韻」の五古に及んでゐる。五古には茶山、霞亭皆年歯を点出してゐる。茶山。「吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」霞亭。「今朝四十二。歳月徒爾過。既往不可咎。来日已無多。」
七日に霞亭が同人と梅を南郊に探つた。遺稿に「尋梅」と題する七絶があつて、「芒鞋跟断入深幽」を以て起つてゐる。しかし二十八字中には時と所とを徴すべき語がない。わたくしの「七日」と云ひ「南郊」と云ふは此詩の前に「首春六日、高滝諸君見過、得江」の五律がある故である。その「佳期在人日、先喜足音跫」を以て起り、「明逐登臨興、城南挈翠缸」を以て終るを見れば、霞亭の梅を探つた時と所とが自ら明である。
的矢書牘に「芒鞋跟断入深幽」の詩を書した手柬の断片がある。その人日後に作られたことは疑を容れない。「晩冬廿九日御手簡(碧山の書)今日相達拝見仕候。愈御安祥珍重奉存候。此方無事罷在候。乍憚御安意可被下候。敬助(撫松)入用二両二歩慥に接手仕候。御世話に奉存候。个様に厳重にいそぎ御差出し無之候ても不苦候。此頃より書状相認候而上京の人を相待居候。何も用は無之候へども御状相達候御請迄に認候。」此下に「探梅」と題して上の七絶が書してある。
二月に霞亭は的矢に帰省せむがために神辺を発した。是は恰も廉塾の山県貞三が平戸へ帰り、僧玉産が彦根へ帰ると同時であつた。茶山集に三人を送る詩がある。「北条子譲之志州、山県貞三還飛蘭島。玉産上人之江州、賦贈。梅影娟々柳影軽。東風吹入別離情。花前一日一尊酒。春半三人三処行。」歳寒堂遺稿にも亦此時の詩がある。「二月八日送山県貞三帰平戸、僧玉産赴彦根。余亦帰省、発期在近。一帰海曲一湖辺。吾亦省親郷国旋。別後半輪今夜月。三人三処各天円。」二詩の結句を看るに、恐らくは茶山の詩が先づ成つて、霞亭がこれに倣つて作つたのであらう。
三人の此行と前後して廉塾の僧石峰が僧泥牛を石見に訪うた。茶山集の「石峰師善病、忽将遍参、来告別、賦此以呈」の詩は三人を送る詩の次に載せてある。これに反して歳寒堂遺稿の「送石峰師問泥牛師于石州」の詩は山県と玉産とを送る詩の前に載せてある。わたくしの蔵する所に、陸奥の僧蘆舟の廉塾雑記一巻がある。蘆舟は前年庚辰(三年)の歳に石峰と同じく塾にゐて、石峰の去る時、猶留つてゐた。石峰は石見国より書を寄せて、「偃息褥上」と云つたさうである。石峰は安芸の人である。
霞亭が神辺を発して帰省の途に著いたのは辛巳(四年)二月八日の後である。しかし此行の日程を徴すべき材料は甚少い。歳寒堂遺稿には「河辺途上」「三石嶺上作」「麑川途上」「菟原」「楠公墓下作、二十韻」「亡弟子彦曾寓尼崎某寺、余自京来迎取而帰、翌年(寛政十一年)九月罹病没于家、距今已二十四年矣」「南京」「桜葉館、賦呈韓聯玉」の八篇がある。川辺は備中国下道郡河辺村、三石嶺は備前国和気郡三石村、麑川は播磨国加古郡加古川町、菟原は摂津国菟原郡、楠公墓は摂津国武庫郡坂本村(今神戸市)、尼崎は摂津国河辺郡尼崎町、南京は大和国添上郡奈良町、桜葉館は伊勢国度会郡山田町である。
河辺を過ぐる時は道傍の柳がめぐみ、野沢の水がぬるんでゐたが(芹香残野水、柳色入東風)、三石の山駅に入れば鞋痕を暁霜に印し、鶯の声もまだ渋り勝であつた。(暁霜料峭春霜白。出谷鶯声恨未円。)三石は鶯の名所ださうである。加古川は神辺と的矢との略中央である。(郷国路将半。帰興日陶々。)霞亭が一僕をしたがへて旅行したことは加古川の詩に由つて知られる。(倦就芳塘憩。僮肩有小瓢。)菟原には紅梅が咲いてゐた。(靄々盈々遥認来。疑看紅雪万千堆。菟原東北甲山麓。戸々争栽鶴頂梅。)甲山は兜山ではなくて六甲山であらう。菟原の街道は六甲山の南麓である。
霞亭は摂津の坂本村を過ぎて「楠公墓下作二十韻」を得た。集中大作の一である。且五言排律は霞亭の詩中絶無僅有である。霞亭は先づこれを山陽に寄示した。山陽は下の如く其後に書した。「高作雄渾厳整。与題相称。有朱竹垞風。豈小生輩所可容喙。然辱垂示下問。不敢不言志。襄妄評。」又これに下の国字牘を添へて還した。「先頃御状被下、且雄篇刮目候。今時かゝる詩は景雲鳳凰に候。容喙任貴命候。茶翁へ兄之原稿と僕鄙見と一併質正、翁之雌黄又々乍御煩御示及被下度、学問に仕度奉存候。茶翁垂老矍鑠御同慶に候。しかし余寒残暑、夕陽追黄昏、喜懼交集候。碩果一墜、誰当後生之瞻望者。」茶山は原稿と頼の評とを閲し、これに意見を附して還す時、下の短信を霞亭に寄せた。「用事。楠公詩、学殖才調ともに見え候而感吟仕候。鄙評は思出し次第之事、とり留たる慥なる事はなく候。御取捨可被下候。近来老耄毛之上今春之病に而性根ますますぬけ候而よき分別出不申候。これは居間の壁へでもはりつけおき、時々よき字を見出し候へば改候が宜候。いづれ大作なれば也。」
尼崎に亡弟彦を憶ふ詩の引に「二十四年」と云つてあるのは、恐らくは二十二年の誤であらう。彦の死は寛政十一年(1799)であつたから、文政辛巳(四年1821)より湖れば二十二年前である。奈良の詩は旧都懐古の作である。山田の詩は山口凹巷の桜葉館に於て作られた。霞亭は未だ的矢に到らざるに、殆郷に帰つた念をした。「東帰千里上君堂。已是羇懐一半忘。」凹巷子女の生年は詳でないが、象、虎の二女、観平、群平の二子、いづれも長成してゐたであらう。「人世悲懽無定在。且欣児女粲成行。」
百三十九
霞亭の辛巳(四年)の帰省はその神辺を発した日を知ることが出来ない。只その二月八日後なるべきを知るのみである。さてその的矢に抵つた日をいかにと云ふに、是も亦知ることが出来ない。只その三月三日前なるべきを知るのみである。
三月三日には霞亭が既に的矢にゐた。歳寒堂遺稿に「上巳陪宴二尊、賦示諸弟」の七古がある。其起首の数句はかうである。「至幸得天如我稀。父母倶存旧庭闈。千里帰来時覲省。起居食息和不違。上寿適逢上巳節。春風桃李照斑衣。弟妹取次更行酒。捧觴深楽接容輝。」弟妹は碧山立敬、谷岡氏良助、撫松敬助、通の四人である。
霞亭の的矢を去つた日も亦不詳である。遺稿に「辞郷」の五古がある。首に「来時一何楽、去時一何悲、臨行不多語、酸腸涙暗垂」と云ひ、尾に「頼有賢弟妹、定省無欠虧、以此排感念、決然拝而辞、扁舟離岸遠、春江渺別思」と云つてある。一の季節の語をだに著けてない。
霞亭は家を辞して社友を山田に訪うた。弟碧山が伊勢に同行した。遺稿に「楊柳渡別韓聯玉、宇清蔚、藤子文、孫孟綽、東伯順、弟立敬諸君」の詩がある。「逢君幾酔故山春。十日歓悰跡已陳。楊柳渡頭何限恨。落花時節独行人。」わたくしは十日の二字に著目する。来路に桜葉館を訪うた時より此離別の時に至るまで約十日になつてゐたかと推せられる。送別の客は碧山を除く外、山口凹巷、宇仁館雨航、佐藤子文、孫福孟綽、東夢亭の五人であつた。
霞亭は阪下、石部を経て京都に入り嵯峨に宿つた。遺稿に「阪下駅舎作」「自石部入京、日尚不哺、遂到嵯峨宿、山花已尽、纔留一樹而己」の二絶句がある。爰に後の詩を録する。「不問京城一故人。尋花先向桂河津。山霊待我非無意。独樹分明尚駐春。」
「不問京城一故人」と云ふと雖、霞亭は行李を嵯峨に卸して後、特に山陽を鴨川の辺に訪うて留まること二夜であつた。「宿頼子成鳧水僑居。春風三月入皇州。一笑相逢皆旧儔。貪看鳧川楊柳色。両宵沈酔宿君楼。」山陽の家は木屋町で、山紫水明処は未だ営まれてゐなかつた。主人も客も共に四十二歳である。是より先文化丙子(十三年)に霞亭が帰省した時、山陽を訪はなかつたので、山陽は不平を茶山の前に鳴らしたことがある。わたくしは浜野氏に借りて一読した「十月廿二日頼襄拝、菅先生函丈」と書した尺牘中の語を是の如くに解するのである。「北条君京へ帰路被枉候様兼約にて、中山(言倫)などと申合相待居候処、山崎間道より被落候段、其翌日一僧より伝承、遣一支兵追撃とも奉存候へども不能其儀、扨々失望、中山などは腹を立居候。」霞亭は今度往訪して前過を償はなくてはならなかつたのである。
霞亭が嵯峨の宿は三秀院であつた。遺稿に嵯峨の二詩がある。一は五古、一は七古にして並に小引がある。五古の引。「三秀院賦呈月江長老。己卯五月師従対州還。繋舟鞆浦。報予相見。帰山後賜紫衣。住持天龍寺。」七古の引。「余在三秀院。瀬尾子章、瓦全叟、井達夫、皆自京至。共会任有亭。十一年前余暫寓亭中焉。」十一年の「一」は衍文である。
五古は旧院主月江承宣に贈つたものである。七古は旧友瀬尾緑谿、柏原瓦全、浅井達夫等と会して作つたものである。彼には己卯鞆浦の事を追憶してゐる。(却憶邀帰棹。涼宵泛鞆湾。)此には辛未(文化八年)暫留の事を追憶してゐる。(恠吾何事抛茲境。来往風塵已十年。)
嵯峨淹留の数日は三月下旬の事であつた。木屋町の詩には「春風三月入皇州」の句があるが、桜花は既に落ちて、新緑が目を悦ばしめてゐた。月江に贈る詩に「花雨残春寺、烏声新翠山」の聯があり、緑谿等と作つた詩に「山色如新桜葉嫩、渓声依旧瀑泉懸」の聯がある。
百四十
霞亭は文政辛巳(四年)三月下旬と覚しき頃伏水(ふしみ)をさして嵯峨を立つた。柏原瓦全、浅井達夫の二人は送つて太秦に至つた。遺稿の詩に。「自嵯峨赴伏水、瓦全叟、井達夫携送到太秦、一酌而別。岐路依依牽我衣。蜂岡寺裏酔斜輝。残花全与離情似。猶惜余春不肯飛。」蜂岡寺は広隆寺である。
摂津国武庫郡魚崎を過ぐる時は桜花は落ち尽して麦が穂を抽いてゐた。遺稿に。「魚崎途上。節物風光転眼忙。残花落尽緑陰涼。去時麰麦方盈寸。驚見満岡抽穎芒。」
かくて霞亭は神辺に帰つた。遺稿に。「春尽帰家。九十風光将尽日。一千余里客新帰。佗山花事恍如夢。臥看清陰満旧扉。又。故山回首又天涯。憶昨高堂日奉巵。憑仗雲中後飛雁。一家安穏報親知。」家に帰つたのは三月二十九日前であつた。辛巳(四年)の三月は小であつた。
四月十三日に霞亭は藩主に江戸に召された。藩主は阿部正精で、辛巳は三男寛三郎を立嫡せしめた年である。霞亭は十八日に弟碧山に報ずるに入府の事を以てした。「一筆致啓上候。時下新暑相催候処、愈御安健可被成御揃奉欣祝候。当方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。当月十日頃小簡差出申候。相達候哉。(此書佚亡。)諸般不相替候。然者当十二日御飛脚(阿部侯使价)到著之由に而、十三日江戸屋敷より御用に付出府仕候様被仰付候。難有仕合と翌十四日城中に罷出御受申上候。成程栄幸之儀とも存候得共、爰十二三年来閑放之癖有之、一図に勤仕筋の儀きらひになり居候故、甚迷惑にも被存候故、内々当役の者へも御辞退申上候儀願出候得共、已に公命なれば、何分にも一旦は出府いたし不申候わねば(申さずては)叶不申、もし是非出ぬ気なれば申出候外無之、さすれば始終病人となり、外出もみだりに出来申さぬ事と被存候。差当り病気もなきを(ありと)申立候も欺上且欺心候儀、不可然候。先出府のつもりに決定仕候。まだとくと日期はしれ不申候へども、いづれ来月(五月)上旬十日頃の立、中旬には大坂著可仕候。供まわりの儀これもまだ仰付けられ無之候へども、大てい内々のかつこう鑓持草履取などと申やうなる位の事に候由、万事業がらにも候へば質素にて省略いたし候。敬助(撫松)儀如何いたし可申哉、若党代りのつもりなれば、弟子などつれられ候故、彼もめしつれ可申や、外にも段々頼参り候者も多く候。是は上より御扶持出ず、手前物入也。いまだとくと決し不申候。官程ならずば、わづか二三日の行程故、一寸(的矢に)立寄御伺可申候へども、それも参りがけには出来不申候。御用の筋も何事やらむしれ不申候。いつまで居り候や、江戸へ参らねばしれ不申候。いづれ大坂三四日滞留いたし候故、彼地より三日限にても書状差出し可申候。先心づもり十五六日頃には大坂屋敷著と被存候。御閑暇に候はゞ、関宿あたりに迄御出懸被下候はゞ、一面御咄も申度候得共如何候哉。それもおつくうなる事にも被存候へばみ合可被成候。何歟と取込居候故略書申上候。乍憚二尊様始どなたへも可然奉頼候。万大坂よりの再信を期し候。恐々謹言。四月十八日。北条譲四郎。北条立敬様貴下。」此書は的矢書牘中にある。
霞亭は初め発軔前に再び書を碧山に与ふることを期せなかつた。しかし四月下旬に入つてより些の余裕があつたと見えて、前書と大差なき書を郷里に遣つた。  
 

 

百四十一
的矢書牘中霞亭の入府を弟碧山に報ずる第二の書は文政辛巳(四年)四月二十二日に作られたものである。「安達生便、一筆致啓上候。薄暑相催候処、愈御安祥可被成御揃珍重奉存候。小生無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者先日書中略申上候通、出府公命有之、五月十日爰元出立いたし候。さ様思召可被下候。支度送用金(三字不明)等一昨日被仰付候。御用の儀は何事とも此方にてはしれ不申候。随分御手あて結構に被仰付候。いまだ無格浪人同様故、道中供まわりの儀は如何様とも勝手次第に有之候。供一人若党代りの弟子一人、外にも弟子一人、其内敬助(撫松)も召連候。扨右に付御近辺通行いたし候儀故、一寸立寄御見舞も申たく候へども、官路はさ様なる事むづかしく、帰路なれば願候へば叶申候へども、此節はむづかしく候。もし二尊御許も候はゞ、関駅あたり迄乍御苦労御出懸被下候はゞ甚悦候事に候。一夕ゆるゆる御咄申たく、夫とも御業用さしかゝり手透無之候はゞ御無用に候。山田山口(凹巷)高木(呆翁)佐藤(子文)などは一寸しらせ候。是は如何候哉。日づもりは別紙に申遣候。万々御考可被下候。此書状日限にせまり候はゞ必々御無用に候。途中にては間違出来やすきものに候。乍筆末双親様へ可然被仰上可被下候。暑蒸折角御自玉祈候。余期再信候。匆々頓首。四月廿二日。北条譲四郎。北条立敬様侍史。」
今二書の云ふ所を考ふるに、霞亭は多く望を東行に属せざるものの如くである。しかし若し霞亭に機に乗じて才を展べむと欲する意がなかつたものと見倣したなら、それは此人の心を識らざるものであらう。その筆に上して郷人に告ぐる所は、恐くは期待の最下限であらう。わたくしは字句の間に霞亭が用心の周密なることを窺ひ得たるが如く感ずる。
辛巳(四年)東上の旅程は毫も伝はつてゐない。しかし霞亭は予定の如く五月十日に神辺を発したことであらう。茶山集は此行を送る詩を載せない。惟弟撫松の随行したこと、碧山の的矢より関宿に赴いて相会したこと、六月二日に恙なく江戸に著したこと等は、下の六月四日の書に由つて知ることが出来る。又門田新六さんの蔵儲せる詩箋は当時神辺を発するに臨んで書した撫松が留別の作である。福田氏はわたくしに其詩を録示した。「将赴東都留別菅尭佐老兄。山村五月楝風時。又別故人天一涯。渭樹江雲君憶我。鱗鴻為寄幾篇詩。北条惟寧拝具。」
霞亭の六月四日に碧山に与へた書は、入府後の第一書で、幸に的矢書牘中に存してゐる。「一筆啓上仕候。暑蒸相加候。愈御揃御平安と奉恭賀候。先日は遠方御出懸被下(関駅会見)御苦労辱奉存候。別後無恙皆々達者に而、当二日(六月二日)著府仕候。乍憚御安意可被下候。本郷丸山御屋敷に而長屋相わたり申候。一昨日家老中などの回勤は相済申候。いまだ君上謁見は被仰出不申、何事を被仰出候事やらむ一向知れ不申候。滞留の儀勿論の事に候。しかし諸事御客あしらひのやうすに而、少しも不自由なる事は無御坐候。右之順故朋友其外へもいづ方へも尋不申、先草臥やすめ居申候。敬助(撫松)其後は足もいたみ不申(碧山の関駅に来た時、撫松は足痛に悩んでゐたと見える)至極すこやかに候。乍憚尊親様へ可然被仰上可被下候。余は近日又々可申上候。著之様子為御知申上度如此御坐候。頓首。六月四日。北条譲四郎。御状御出し被下候はゞ江戸本郷丸山阿部備中守様御屋敷(自註、三番長屋、これはかくに不及候)右之通御認可被下候。鳴海途上寄懐立敬弟。昨逢吾弟旅情忘。新別朝来意更傷。隔海勢山青未了。白雲親舎転凝望。これは悪詩に候。作りすて候まゝ入御覧候。」此書牘には宛名が無い。詩題の「寄懐立敬弟」を以て宛名に代ふべきにもあらざる故、わたくしは霞亭が偶書することを忘れたものと看る。詩は遺稿に見えない。或は想ふに霞亭は真に稿を留むることを欲せなかつたのではなからうか。
霞亭は六月二日に江戸に著いた。然るに後二日(六月四日)に至るまで、阿部正精はこれを引見せず、又何の命をも伝へなかつたのである。
百四十二
文政辛巳(四年)六月六日に霞亭は亀田鵬斎を訪うた。鵬斎は二年前(己卯)より卒中風のために病臥してゐた。年齢は七十四歳であつた。
七日に至つて霞亭は丸山学問所の儒者を以て命を伝へられた。命は暫時留め置き、学問所に於て講書せしめるとの事であつた。しかし後に此命は誤伝であつた、阿部侯の意ではなかつたと云ふことが判明した。
以上の事は的矢書牘中の小紙片二葉によつて知ることが出来る。惟霞亭は初め伝へられた命の錯誤に出でたことを知るに及ばなかつたのである。先に書かれた紙片は下の如くである。「今日迄何とも御用不被仰候。御上(阿部正精)御事多き歟、又私を休息いたさせ候思召やらむ、如何難測候。昨日鵬斎へ尋申候。三年来(己卯、庚辰、辛巳)中風の気味に而言語ろくにわかり不申候へども、書などは随分出来候。(鵬斎)悦申候而酒などたべ申候。六月七日。」後の紙片は下の如くである。「今日御年寄より被仰渡候趣に而、大目附より御儒者迄被申出候。暫差留候様、御上御用は近々被仰出候由、丸山学問所講釈いたし候様との事に有之、(此)順なれば先当年は在府とみえ候。其上の事はいまだ何ともしれ不申候。六月七日八つ時。」
右の誤伝の命と後(六月十三日)の正しき命との間の関係は霞亭が茶山に寄せたる「機密」の標記ある書に由つて知ることが出来る。此書は二通あつて、皆末に読後焚毀を請ふと書してある。わたくしは浜野氏の手より借りてこれを一瞥することを得たが、故あつて何人の蔵弆なるを発表することを憚る。
わたくしは先づ誤伝とはいかなる義なるかを言明して置きたい。所謂誤伝の命は家老より大目附に伝へ、大目附より丸山学問所の儒者に伝へ、儒者より霞亭に伝へたものなることが霞亭の書に見えてゐる。按ずるに阿部侯は初よりこれを霞亭に伝へしめむと欲したのではなくて、学問所の儒者に告げしめむと欲したのであらう。阿部侯は儒者等をして予め新入班のものがあることを知らしめようとしたに過ぎなかつたであらう。要するに此命は逓伝の間に齟齬して、箭は的の背後に達したのであらう。
此よりわたくしは記憶をたどつて霞亭の密書の云ふ所を条記する。六月九日の夜八つ過に太田全斎の子又太郎が使に書状を持せて霞亭の許に遣した。それは明朝面談すべき事があるから来て貰ひたいと云ふのであつた。翌十日の朝霞亭は又太郎を訪うた。又太郎は霞亭に阿部侯の内意を伝へた。要を摘んで云へばかうである。去る七日に霞亭に伝へられた命は全く行違であつた。真の任命は程なく正式に伝へられるであらう。しかし侯の霞亭に待つ所は頗重大である。「一藩の風俗をも正しくし、学問と政事と相通じ、賞罰黜陟の権やはり学官の方に有之候様との思召之由、」此数句は密書を一閲した時、わたくしが諳じて置いたのである。又太郎は慎重にこれを霞亭に伝へた。霞亭は此の如き重任は己の能く当る所でもなく、又儒官中には長者がある事ゆゑ僭越の虞もあると云ふを以て辞退した。又太郎は侯の信任の極て厚く、其決意の動すべからざることを告げた。
此密書は十日に霞亭が書して茶山の許に送つたものである。霞亭を阿部正精に薦めて此に至らしめたものの誰なるかは不明であるが、又太郎の語中に、「山岡治左衛門の主張」に由つて云云と云ふことがあつた。此歳の武鑑を検するに年寄は「岩野与三右衛門、吉田助右衛門、山岡治左衛門、高滝左仲、岡半左衛門、三浦音人、青木勘右衛門、太田八郎」の八人であつた。山岡治左衛門は次隆か。太田八郎は全斎である。浜野氏の云ふを聞けば、其子又太郎は此年正月二十一日に学問所掛を命ぜられてゐた。
百四十三
文政辛巳(四年)六月十三日に霞亭は大目附中より大目附格儒官兼奥詰を命ぜられ「御前講釈」に従事することになつた。越て十五日に霞亭は同時にこれを茶山と弟碧山とに報じた。前者は所謂密書の第二である。しかし大体は後者と択ぶことが無い。後者は的矢書牘中にあつて引用に便なるが故に、下に全文を載せる。事出処進退に関して甚重要であるから、これを節略することを欲せぬのである。
「当十日御物頭交代便、大坂蔵屋敷迄書状差出し申候。(霞亭の六月十日に的矢に遣つた書は佚亡した。しかし上の神辺に遣つた書は恐くは同じく物頭交代便に付せられたものであらう。)大暑中愈御安泰可被遊御揃欣喜之至奉存候。私無事滞留仕候。然者当十三日(六月十三日)御館へ御召出し、大目附中より申渡し有之、三十人扶持被下置、大目附格に被仰附、儒官相勤候様との事に候。尚又奥詰相兼、月並御前講釈等申上候様被仰出候。其後家老中列坐御逢、御請申上、即刻御前(阿部正精)御目見被仰付候。難有次第に御坐候。其日御前は御登城より御帰り御休息の処、御小姓頭より申上候は御疲にも被為入候へば、御平服御逢被遊候様申上候処、いや初而逢事故、道に対してもと被仰、御紋服御袴に而御逢、兼々ききつたへ候、此度は大儀に存ずると御挨拶有之、其儘退出仕候。不肖之一分箇様に御用之儀、いくへにも任にたへ不申義と、御前内意有之候節(六月十日)一旦御断も申上候へども、是非にと之事にて右之仰付に及候。これらわづかの御扶持にも候得共、太中翁は五十近き時三人扶持被下、其後五人扶持になり、江戸在番十七年前にいたし候節十人扶持になり、この六年前在番御用之節二十人扶持に相成、夫に格式も上下格給人に而、大目附とは七八段も下に御坐候。右等のかつこう、高名学術太中翁にいくらか減少いたし候私故、色々と御内意御請思惟もいたし候。何分此度は御上之御主意有之、家中一統の風俗をも正し、学問と政事と相通じ候様との御主意の由、(太田又太郎伝宣)誠に難有思召に御坐候。当御屋敷儒官御国江戸かけ候而六七人も御坐候。夫に皆々私格式よりははるかにひきく候。家中にては大目附以上は貴官にて、下坐格と申候て、御門出入に御門番足軽総下坐いたし候。扨末々如何被命候哉、先在番と申事に候。在番なれば来年此頃迄の滞留に候。万一定府被仰付候はゞ、故郷父母帰省の義は別格にをりをり御許容被下度と願ひ候つもりに候。其儀はうすうす相含申出候。是は定府になり候時の事にて、今より申べき事にも無之候。何分随分壮健相勤候間、必々御案じ無御坐候様、両尊様へ被仰上可被下候。右御報じ申上度如此御坐候。書余期再信之時候。恐惶謹言。六月十五日。北条譲四郎華押。北条立敬様。尚々本文之儀先々御一家中は格別、さまでことこど敷御うわさ被下間敷候。何歟これらの事にほこり候様俗人のきゝとり候ははづかしく候以上。敬助(撫松)始、外両人も皆々無事相勤居候。御上より僕一人わたり居候。」任命後の霞亭の書は、茶山に呈した所謂機密の書も、弟に与へた此書も略同じである。此書に機蜜と題せず、又弟に焚毀を命ぜなかつたのは猜忌者を交へた同藩の士のために忌むべき事も、余所事として聞き流す志摩人のためには必ずしも忌まざるが故である。文中阿部正精の褻衣もて学士を見ることを肯ぜざる処は注目に値する。此侯に霞亭を重用する意志のあつたことは、此一事よりして推すことが出来る。独り太田又太郎の伝へた数語のみではないのである。
霞亭は新に命を受けて、朋友知人のこれを祝賀するものが少くなかつたであらう。偶高橋洗蔵さんの許に保存せられてゐる亀田鵬斎の書牘があつて、其一例として看られるのである。霞亭が鵬斎を訪うたことは既に上に見えてゐた。さて任命の報を得るに及んで、鵬斎は書を寄せて賀した。其日は恰も霞亭が上の弟に与ふる書を作つた日と同じであつた。十五日であつた。「朶雲拝誦、時下無恙被成御座候事雀躍不少候。扨又十三日貴藩へ被召出候而、儒官(の命)を蒙り、殊に三十口之月俸被下置候事、実に結構なる事無窮存候。定而嘸や志州之御両人(適斎夫妻)にも、生前之面目を開とて感涙(御流し)可被成事と奉察候。先づは御受までに如此候。いづれ近日奉接貴眉、万々可(申)述候。紛冗罷在、匆々頓首。六月十五日。亀田興再拝。北条譲四郎賢弟座右。」後の霞亭の書に拠れば、鵬斎は霞亭に袴を贈つたさうである。文中に袴の事が見えぬから、或は此復翰を与へた後に贈つたものであらう歟。
わたくしは此に挿叙しなくてはならぬ事がある。それは歳寒堂遺稿の「不忍池旗亭、有懐亡友木小蓮」の詩である。遺稿には此詩が霞亭の三月に的矢より神辺に帰つた詩の次に見えてゐる。即ち江戸に来てより後の第一の詩である。
霞亭の池端の料理屋に往つた月日は不明である。しかしわたくしは其日が六月十五日より前であつたのを知ることを得た。霞亭の十五日に茶山に与へた書に、「先日」の事として池端に遊んだ事が言つてあつた。そして此詩に一首の和歌が添へてあつた。今此に詩歌を併せ録する。「回首前遊思惘然。来看六月満池蓮。蓮香撲酒人何処。撩起清愁二十年。不忍の池の蓮の物言はゞいざ語らなむしのぶ昔を。」
所謂二十年は概算で、実は十八年である。辛巳の十八年前享和三年癸亥の夏、小蓮鈴木恭が亡くなつたことは前に記した。わたくしはその歿した日の事を詳にすることを得ずに、前の文を草した。
後に至つてわたくしは的矢書牘中より、小蓮の歿した時の霞亭の書を見出した。それは享和三年六月四日に父適斎に寄せた書である。霞亭は下の如く小蓮の死を報じてゐる。「鈴木文蔵儀、先月(五月)下旬麻疹に而、甚軽症に而、早速肥立被成候様子に而、先晦日(五月晦日)抔は序も候て、友人と同道に而談話に参り候処、常体よりも快く致し被居候。然る処当(六月)朔夜より乾霍乱に而以之外あしく、翌日八つ時(六月二日午後二時)死去被致候。甚以急症と申、存外之儀絶言語候。尤前年来病身に而、別而此度麻疹(後)日数も立不申、旁もちこみあしく候而之事と被存候。夫に御存之通母堂(芙蓉鈴木雍妻)長病中、且又御親父(芙蓉)旅行于今帰宅無之、追々急飛脚参り候。大方明日(六月五日)は帰宅と被存候。愁傷之体誠に気之毒千万に奉存候。一体近来元気乏しく候ひしが、箇様之前表と被存候。未壮年、今より段々業等も成立之め出しに候処、かへすがへすも遺憾之至に候。小子も力落し候事各別に候。何れ不遠御赴弔之御書面御丁寧に相煩可申候。右之順に候得ば、御相談筋も所詮取込中申出し候(こと)も出来にくゝ候。夫に最早旦那(蜂須賀阿波守治昭歟)著府、大方めし出しも可有之候。乍残念先々此儘に而在留可仕候。其内修業専一に可仕候。乍併此度にかぎらず又々一了簡いたし見可申候。何としても右之混雑故委曲不申上候。先は右御知しを申度如斯御坐候。」所謂相談筋は霞亭北遊に関するものであつただらう。
百四十四
文政辛巳(四年)六月十五日前に霞亭は池端に遊んで、亡友鈴木小蓮を追憶した。わたくしは享和三年六月四日の書を引いて、小蓮の死を詳叙した。初め享和中の事を記した時、わたくしは只癸亥(享和三年)四月十五日の書あるを知るのみで、此より後歳暮に至るまでの間、霞亭の書の一通をだに引くことを得なかつたのである。
今六月四日の書に就て考ふるに、霞亭は癸亥五月二十七日頃にも書を適斎に寄せた。「先(癸亥五月)廿七日頃飛脚便書状差上申候。」しかし此書は伝はらない。わたくしは既に六月四日の書に言及したから、此機会に於て此書に見えてゐる享和癸亥の霞亭の身上の事を追補して置きたい。
霞亭は癸亥二十四歳にして江戸にあつて麻疹に嬰つた。「小子麻疹後段々順快、甚以快健に御坐候。近頃は食物等もさまでいみ不申候処、益心持よろしく候。」此麻疹は啻に江戸に流行したのみではなく、伊勢志摩の辺にも蔓延したのである。「山田(伊勢)春木公御名代石田雄之進儀先月著に而、御国(志摩)辺御様子も承知仕候。麻疹流行之由、如何に候哉。弟共(立敬、良助、敬助)何卒軽順に為致(候様)千万奉祈候。相済候はゞ早速御知らせ可被下候。無左候而は不安心に御坐候。何分御頼申上候。山田にても西村長太夫(及時)も池上左織(隣哉か、未考)も(此間二字不明)麻疹のよしに候。雄之進も道中より麻疹に而、例年よりは大に延著に候。御当地も于今流行一統に候。菟角産前後の婦人六か敷多く死亡仕候。先達而之御柳(檉)初発(に)何様御用ひ可被遊候。尤葛根湯加味によろしく候。」春木公は、玉田氏の云ふ所に拠るに、名は根光、後に煥光と改む、字は尭章、象軒又榊亭と号した。通称は隼人である。御師にして禄千石を食んでゐた。河崎敬軒、池上隣哉、石田雄之進、皆其家臣であつたさうである。
わたくしは霞亭の事を記して文政辛巳(四年)六月十五日に至り、享和癸亥の事を回顧した。此より又本伝に復する。的矢書牘中に存ずる霞亭の書にして此下に接すべきものは、六月十八日の後、二十七日の前に作られたらしい書である。「一筆致啓上候。大暑、愈御安泰可被遊御揃、珍重之至奉存候。小生始皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。当十六日(六月十六日、恐らくは上の十五日の書)町飛脚高木(呆翁)へむけ書状差出し申候。定而相達し可申候。爾来相替儀も無之候。あつさ故どこへも出不申候。当十七日当番奥詰相勤申候。(以上既往を語るもの歟。)廿七日御小書院講釈はじめ候積り、丸山学問所は来月(七月)三日よりはじめ候つもりに候。(此二条の事は未来を語るものなること明かである。)甚すこやかにくらし候間必々御案じ被下間敷候。此間和気行蔵様より剣菱五升、風呂敷など祝儀参り、鵬斎はけつこうなる袴地。」此下は断ち去られてしまつてゐる。霞亭の旧交にして江戸に存してゐたものは亀田鵬斎と和気柳斎とである。
七月七日は江戸は雨であつた。下に引くべき霞亭の書に徴して知るべきである。此日の朝神辺の茶山の人に与へた書が坂紀守さんの蔵弆中にある。福田氏はこれを写してわたくしに示し、且其書の福山の内藤大夫に与へたものなるべきを告げた。内藤は茶山集中に見えたる東門大夫である。「御手教難有拝見仕候。如仰大暑之候に御坐候処、愈御安祥被遊御坐候由、恭悦之至奉存候。扨御使者被遣、江戸より参候一箱並に蒲鉾御恵投被下、両品共結構之品、段々御厚意難有奉存候。(此間四字不明)旧作相認候事、鵬斎詩御示被下、奉畏候。近日に差上可申候。(按ずるに受信者は、下に見えたる如く、先づ鵬斎自書の詩を得て、茶山に其旧作を書せむことを請うたのである。鵬斎の詩は「西備雄鎮有詩叟」の七古なるべく、又茶山の旧作は「陌上憧々人馬間」の七古なるべきこと殆ど疑を容れない。)北条事結構蒙仰難有仕合に奉存候。御恩寵に叶候様に相勤可申と乍恐黙禱仕候。昨年は不礼之品進貢仕候処、鄭重御挨拶被仰下、却而恐入奉存候。尭佐へも御書被下難有仕合に奉存候。私義夏首(辛巳四月)より腰痛、今以平常に相成不申、久々御伺も不申上恐入奉存候。いづれ不遠参邸御断ども可申上候。今年の暑はいつもより殊勝に御坐候よし人々申候。御保護被遊(度)千万奉祈候。恐惶謹言。七夕朝。(自註。今日は芽出度奉存候。)菅太中晋帥、華押。御侍中様。尚々被遣候鵬斎書等暫御あづかり申おき候。此頃珍客も有之、海物不自由に御坐候処、よき物御投被下、別而重宝仕候。鵬斎は中風いたし候様承候処、中々手蹟も相替不申候。遠方のうはさ多くは間違申候。」茶山の霞亭任命に対する態度は僅に此書の徴すべきあるのみである。鵬斎の筆迹は旧に依つてゐても、中風の事は虚伝でなかつたのである。
百四十五
文政辛巳(四年)七月十日に霞亭の弟碧山に与へた書は的矢書牘中に存してゐる。先づ霞亭の自己を語るを聞くに下の如くである。「私儀無事罷在候。乍憚御放意可被下候。扨関東当年はめづらしき旱に而、私共参り候而既に四十日にも相なり候処、(六月二日著後第三十九日)一雨も無之、皆々こまり候事に候。去ながら七夕より八日かけ大分ふり候而、人物ともに蘇息仕候。先月(六月)二十七日初而奥詰当番(に)罷出候。朝四つ時御小書院講釈つとめ候。当時日々御登城故、御前(阿部侯正精)出御は無之、御年寄御用人番頭物頭衆など聴聞に出られ候。昼後八つ時御前内講仕候。講後御前へ御めし被遊候而、今日は初而拝聴と御挨拶有之、御麻上下一具拝領被仰付候。是又これまで無之例の由難有奉存候。御講釈は月に三度なり。丸山学問所家中諸士子供など(に)講釈、これは月に五、十と三の日、以上九日(三日、五日、十日、十三日、十五日、二十日、二十三日、二十五日、三十日ならむ)出勤也。勤仕むきはかれこれいそがしく候へども、先は甚気力すこやかにて、国元出立以来ちつとも気色あしき事なし。此段悦候。飯なども在宅よりはよくいけ候。諸色前々より値段たかきにこまり候。かんひよう(于瓢)其外なんぞ食物類少々船便に御恵可被下候。飛脚には御状ばかり御出し可被下候。必々外のものは御無用に候。併船便にても先何も不(被)遣候がよく候。かへつて世話かかり可申候。此方用聞は新川の井上十二郎問屋に候。」
神辺の状況にして書中に見ゆるものはかうである。「備後よりも両度たより有之候。皆々無事に候。其内子供中暑に而わづらひ候由、例のさしこみにて無之やと少々あんじ候。併大分こゝろよきよしに候。御放意可被下候。」虎には痙攣を発する等の習癖ありしものゝ如くである。
書の紙隅に霞亭の歌二首が細書してある。「七月三日のゆふべ。ひかりそふ秋の三日月いかなればはや山の端にいらむとすらむ。ふるさとの松にはいかにさわぐらむゆめおどろかす秋のはつ風。」此三日月の歌は霞亭が後に改めたらしく、岡本花亭の書牘には「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ」と云つてある。調は茲に至つて始て整つてゐる。田内月堂のこれを見て詠んだ歌は「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清き光を」と云ふのである。
此月七月二十八日に太田全斎の茶山に与へた書がある。是は某氏の所蔵で、わたくしは浜野氏に就て借覧することを得た。書中に「先頃は北条譲四郎結構に被仰付目出度奉存候」の語がある。末には「太田八郎」と署してある。
八月八日に霞亭は「江戸表引越」の命を受けた。そして十二日にこれを的矢の碧山に報じてゐる。報道は必ずや神辺と的矢とに発せられたであらうが、今存するものは的矢書牘中の一書のみである。「小生輩皆々無事罷在候。乍慮外御放意奉希候。然る処八日(八月八日)夕方俄に御上屋敷(西丸下阿部邸)より江戸表引越可仕旨被仰出候。先達而は先来(来年壬午)五月迄在番と被命候処、又々右之様子、随分御前首尾能、一統御年寄諸役人の場合もよく候事と相みえ候。乍併余り急なる儀故当惑仕候。いづれ立帰り御願申上、夫より妻子共めしつれ江戸住居に相成候儀に候。扨々大混雑、私は往来になれ候へども妻子など俄に驚き候事と被存候。いづれ当暮より歟、来春かけ候而は、御屋敷中に而地面拝領仕、家造作新に建て可申候。とても長屋にては始終すまれ申間敷候。格式被下候儀故、此度は参りかけとは(違ひて)、道中も色々持もの等も有之、私妻子共皆々乗物等なければ(なくては)表むき並に御関所等も済不申候。右二百里程往来引越、余程の費用かゝり可申、尤御上より相応之御手あても被下置候儀に候へども、中々家普請など少々よくいたし申までは届申間敷と被存候。右に付又々願差上、東海道四日市より入、親共在所一寸見舞申たき願書差出候積りに御坐候。勿論これは無子細御許容の事と被存候。いづれ先九月朔日出立と存候へども、大方それよりははやき方にも可相成やと被存候。此度(は)右官命故、御在所へ御見舞申上候ても、両三夜ならでは滞留出来申間敷、併是が楽(に)被存候。再び東し候節、妻子共同道御見舞申上候へば(候はば)、妻子共も悦可申候へども、女にて、わけて家中の女は御関所むづかしく、福山より別段大阪屋敷迄飛脚たち、其後大阪御留主(松平右京大夫輝延)、上京御所司代様(松平和泉守乗寛)の御印をうけ、それを持参仕候事故、日限も可有之候故、不得其意候。いづれ江戸永住の事に候へば、又々其内二尊様御気にむき、江戸へ御越被下候はば、其節にても御目にかけ候てよろしく候。以上の様子くわしく二尊へ被仰上可被下候。大てい心づもり九月十三四の頃は的屋へ参り可申哉と被存候。扨往来雑費何歟とざつと四十金程の費有之候。それに家宅普請にかかり候はば、又々相応の物入可有之、なりたけ節倹仕候へども、先達而矢立半右衛門殿へ預け有之候拾八両の金子何卒拙者参り候節迄(に)返済いたし呉候様かねて被仰可被下候。今一口の五両の分も、なるべくはとりたて申たく候。夫とも此節出来がたく候はば、暮までにてもよろしく候。右等差上置候儀故、私方へ遣(ひ)候つもりは無之候へども、私も一生のきまり揚処、今度のやうなる物入多き事はもはや有之間敷候、俸禄わづかなれども定まつてとれ候儀故、段々ふり合よろしくいたし可申、又々無拠御入用等の儀も候はば、いづれとも可仕候間、可相成は右之金子先御間に合せ被下候やう、くれぐも頼入候。いづれ其内拝顔万事可申上候。先は右御報申上度如此御坐候。若日どり延引故障等も候はば又々可申上候。(以下細書。)扨私罷帰り候迄は御家内限参り候うわさ被下間敷候。勿論此度は一切貰(此字不明)物等きびしく相断申べく、此は主意も有之儀に候。何卒左様御心得可被下候。以上。」所謂「来五月迄在番」は六月十三日に命ぜられたものであらうか。由緒書、行状等に見えない。
二十二日に和気柳斎が書を霞亭に与へた。是は浜野氏のわたくしに示したものである。「朝夕は少々凌能相成候。益御戩穀被成御坐奉欣然候。然ば此度急に御引越被仰付候段、先以重畳目出度奉存候。夫に付御願之上御国元へ御下、令閨(敬)令愛(虎)御同道之儀愈廿四五日頃に相成候哉。小生此間中より御暇乞旁参堂可仕存居候処、前月中より流行風邪下利有之、一日一日と延引仕候。今日は繰合参上可仕積に御坐候所、塾生五人病臥、急に無人に相成、不任心底候間、此度は得貴顔不申候。御海容可被下候。無程把臂晤言可仕相楽居候。折角御支度被成御発足被成候様(にと)奉存候。昼錦之御栄耀一段之儀、為故人雀躍仕候。前日被仰聞候扇面此間中相認置御届申上候。御落掌可被下候。将又此一品余り麤末之至に御坐候へ共、今日人差上候印迄致呈上候。御道中御用も被下候はば本懐仕候。荊婦御尋被下、不浅奉謝候。宜御礼申上候様申出候。匆々布字。八月廿二日。和気行蔵。霞亭先生侍史。」柳斎は流行感冒の新に瘥たところで、塾生五人は師に継いで病臥してゐた。霞亭の問安を被つた柳斎の妻も或は同じく病んでゐたのではなからうか。  
 

 

百四十六
文政辛巳(四年)八月二十三日に霞亭は「妻子召致之為福山に赴くべき旨」を命ぜられ、二十五日に江戸を発した。事は行状の一本に見えてゐる。わたくしは此発程を叙するに先つて霞亭と伊沢蘭軒との事を言つて置きたい。
歳寒堂遺稿は鈴木小蓮を憶ふ詩と西帰諸作との中間に「過蘭軒」の一絶を載せてゐる。「孤旅天涯誰共親。官居幸是接芳隣。清風一榻聆君話。洗尽両旬征路塵。」
蘭軒信恬は茶山の旧友である。後に霞亭の妻敬の入府する時、茶山は敬に蘭軒を視ること我を視るがごとくせよと謂つた。是に由つて観れば、その霞亭を蘭軒に紹介したことは言を須たない。霞亭は入府直後に蘭軒を訪うたであらう。詩の転結も亦これを証してゐる。啻に然るのみならず、霞亭が初に住んだ丸山の阿部家中屋敷の宿舎は伊沢の家と軒を並べてゐたと見える。「官居幸是接芳隣」の句は是の如くに解すべきである。
霞亭が江戸を発した日は二十五日である。其前日二十四日に岡本花亭は長文の書を作つて霞亭に託し、これを備後なる茶山に致した。書は某氏の蔵する所で、わたくしは浜野氏の手を経て借覧した。今書中の数事を左に抄する。
一、前年文政庚辰(三年)の三月に茶山は安芸の人吉川某に託して、花亭に霞亭の帰省詩嚢を貽つた。花亭はこれを謝してゐる。
二、花亭は門田朴斎の詩才を賞してゐる。「尭佐君も追々御成立あるべく御たのもしき事、詩もきつといたしたる事よく御出来被成候。」
三、蠣崎波響は前年庚辰七月に入府し、在府中に母と孫女とを喪ひ、九月に松前に還り、此年辛巳(四年)四月に松前侯(志摩守章広)に扈随して入府し、八月四日に総州梁川に往つた。花亭はその九十月の交に江戸に帰るのを待つてゐる。
四、江戸は此年辛巳の八月朔より雨多く、十四日十五日は無月であつた。十六日に至つて始て晴れ、十七日も亦好天気であつた。そこで田内月堂は南部伯民を誘つて舟を倩つた。花亭は二男と倶に和泉橋から其舟に乗り込んだ。さて月を墨田川に賞し、四人は「清風明月」の四字を分つて韻とし、詩を賦した。花亭は此時始て伯民と相識になつた。此遊に月堂は霞亭をも請じた。しかし生憎に霞亭は七の日毎に阿部家の上屋敷に宿直する例になつてゐたのでことわつた。
五、詩仙堂の募金は、林祭酒(述斎衡)の周旋のために、江戸人の応ずるものが多い。又田安殿(権中納言従三位斉匡)が一橋穆翁(斉匡生父権大納言従二位治済入道)に勧めて醵出せしめたので、上流の間にも応ずるものを見る。
六、山口凹巷の月瀬看梅詩巻題詞は花亭は既に脱稿して送つた。茶山も定て寄題することであらう。
花亭の書中文芸史上の参考に資すべきものは概ね此の如くである。書の末には「八月二十四日、岡本忠次郎成。菅太中様函丈」と云つてある。花亭は此書を霞亭に託するに当つて、霞亭に団扇と詩箋とを贈つた。二つの品には皆詩が添へてあつた。此詩箋は現に石井貞之助さんの蔵弆中にある。貞之助の曾祖武右衛門盈比は菅家と親交のあつた河相周兵衛好祖の弟で、盈比の子長二郎盈慎は霞亭の相識であつた。盈慎の子が武右衛門盈武、盈武の子が今健存せる英太郎盈清、字は士静、号は山屋で、貞之助の父である。「一、月影箋一巻。重遊賞月豈無期。当月難勝苦別離。収取月明秋満紙。相思好写月前詩。一、団扇一把。運拙所為多後時。贈君秋扇亦堪嗤。江都八月猶炎暑。此去西風客路秋。右上霞亭詞伯莞存。岡本成拝具。」霞亭のこれに酬いた詩が遺稿に見えてゐる。「余将西帰、岡本豊洲君見恵団扇及月影箋、各附以詩、賦此奉謝。両種恵遺荷愛情。新詩況復与秋清。団々明月蕭々影。先寄愁心送我行。」
二十五日に霞亭は江戸を発した。遺稿に「出都」の詩がある。「為取妻児賜暇行。行兼済勝足恩栄。西望笑指郷関道。無数青山馬首横。」
百四十七
霞亭の妻子を迎へ取らむがために江戸より備後に還つた旅は、辛巳(四年)八月二十五日を以て江戸を発した日とし、九月二十三日を以て福山に著いた日とする。是は行状の一本に見えてゐる。
此旅の途上の作と認むべき詩にして遺稿中に存するものは、「大磯」「平冢途上」「函根坂上作」「宿興津」「宇都山中邂逅刈谷棭斎、立交一臂而別」の五絶である。霞亭は平冢を過ぎて神辺の家を思つた。「前日郷書報暫還。候門児女想欣顔。輿窓忽納天辺翠。総角丱如双子山。」興津に宿したのは雨の夜であつた。「客枕凄涼今夜雨。淋々猶作駅鈴声。」狩谷望之が西遊の事は、わたくしは嘗て伊沢蘭軒伝中に書した。狩谷は帰途に東し、北条は往路に西して、偶宇津の山辺に邂逅したのである。「宇山秋雨客思迷。邂逅逢君鼯鼠蹊。空有蔦薙纏別意。相牽恨不与倶西。」
此霞亭の往路には月日を徴知すべき文書が無い。その纔にこれあるは九月七日に霞亭が参河の赤坂駅に宿したと云ふ一事に過ぎない。此夜霞亭は夢をみて、途次伊勢山田の山口凹巷を訪うてこれを語つた。「霞亭先生曩応福山侯聘在江戸、今秋(辛巳秋)賜暇帰覲、九月七日宿赤坂駅、夜夢見一小盧於野草流水之間、中有老翁、出迎先生、延之坐、贈以倭歌、云、山里盤寸密与加里計里春毎仁梅咲也止泥幾美乎古曾末氐、意蓋似欲与先生偕隠者、先生受而読之、既覚、奇其事、作和文一篇記之、以述其志云、九月(此間闕字)日余与山士亨(山内氏)謁先生于桜葉館、酒間談及、且見示其文、因賦二絶奉呈。君言赤阪夢中奇。老屋梅花有好詞。任重転思方外適。不妨冥想訂棲期。又。記得空疑一首吟。致君身己義如金。豈無梅蘂凌寒質。只有葵花向日心。伏乞慈斧。鷹羽応拝草。」鷹羽応は其人を詳にしない。応と同じく凹巷を訪うた山子亨は夢亭詩抄に見えてゐる。河崎誠宇受業録に徴するに山内氏である。霞亭は此旅の次に的矢に帰省し又友人を伊勢に訪うた。事は下に引くべき書牘に見えてゐる。
霞亭が西下の途上にある間に、神辺の茶山は頼春風と僧風牀等との訪問を受けた。茶山集に「頼兄千齢枉過、酒間走賦」「九日風牀上人至、分得村字」の二詩がある。風牀は前年庚辰(三年)と此年辛巳(四年)との重陽を神辺に過したのである。風牀の「重陽(辛巳)同小野泉蔵奉訪茶山先生」の七古に下の語がある。「去歳庚辰重陽節。嘗共泉翁遊備西。備西行程百里強。遥到先生旧隠棲。先生門下多英俊。御領山頭共攀躋。(中略。)今年辛巳重九日。又伴泉翁引杖藜。再到黄葉夕陽村。熟路迢々行不迷。」
同じ頃に山陽は京都にあつて霞亭新任の事を聞知した。浜野氏のわたくしに示した一書には「九月十七日、襄拝、茶山老先生帳下」と署した末に下の数行が添へ出されてゐる。「尚々北条先生何やら昇進とか、江戸詰は逢旧友とて可面白候へども、山野放浪之性、侍講などは大困と奉存候。可憐々々。」尋常の賀詞を呈せぬ処に山陽の面目を見る。
又霞亭の福山に著く前日、九月二十二日に月形鵜棲の茶山に与へた書がある。是は浜野氏のわたくしに示したもので、筑前にある鶴棲が霞亭の任命を聞知して茶山に寄せた賀状である。「霞亭君御栄遇、誠以千万欣慶仕候。併尊老には賢壻御遠離御寂寞奉察候。近頃乍粗悪、博多に而近来製出候墨一笏附貢仕候。御笑留御試被成可被下候。霞亭君にも呈書も不得仕候間、別包一笏奉托候。」
霞亭は九月二十三日に福山に著いて後、二十九日に書を弟碧山に与へた。書中に云く。「小生無恙本月廿三日到著仕候。乍憚御放意可被下候。先日は多勢御造作に相成申候。何歟と被仰付、此節混雑罷在候。併皆々無事、来月(十月)五日爰元(神辺)発程之積に御坐候。此つもりなれば十一日大坂著、十三日夜舟ふしみ、十七日関泊りに参り可申候。左様思召可被下候。足下御苦労御出懸被下候趣、御宅さわりも無之候はば、御出懸可被下候。母様御越被成候はば、わけて御苦労千万奉謝候。道中往来万事よくよく御心付、少しは御慰にも相成候様御心得可被成候。十五日山田御泊、十六日雲津か津あたり、十七日関つる屋へ御著のつもりに被成可被下候。駕籠人足はいそべより山田迄、山田にて泊り候節高木氏か山口あたりの出入の人足(原傍註、かへる迄)御相談可被成候。造用ともに賃御きわめ可被成候。その方がめんどうになくてよろしく候。一人五匁か六匁位にて可然や。関より四日市迄御まわりも被遊候はば、往来とも七日かかり可申候。山田社中、山口、高木、佐藤なども事により候はば、御出懸も可被下やにきこえ候。是は何の風情なき事、気の毒なるものに候。しかし先き様の厚意なれば如何様とも、たとへ御越あるとも道すがらははなれて御往来可然候。お互にめんどうになき様可然候。(中略。)敬助其後如何いたし候哉。隠居の書物だんすに私幼年のせつうつし候公載秘録と申もの五冊か可有之候。御越しのせつ御携可被下候以上。」
此書はわたくしに二三の有用なる事実を教へた。其一は霞亭が江戸より福山に至る途中必ず的矢に立ち寄つたと云ふ事である。「先日は多勢御造作に相成申候」と云ふを以てこれを知る。其二は霞亭が弟撫松を的矢に伴ひ帰り、的矢に留め置いて福山に往つた事である。「敬助其後如何いたし候哉」と云ふを以てこれを知る。其他は多く他日東行の時の事に関してゐる。公載秘録は公裁秘録の誤記であらう。わたくしはまだ寓目せぬが、正徳より元文に至る頃の幕府公裁文書を集めた書だと云ふことである。
百四十八
文政辛巳(四年)九月二十三日に霞亭は江戸より福山に帰り著いた。そしてその妻子を挈へて備後を発したのは、行状の一本に拠るに、十月五日である。辛巳の九月は大なるが故に、霞亭は十三日間備後に居たのである。此間の手書にして今存してゐるものは、上に引いた九月二十九日の書のみである。歳寒堂遺稿は此旅の往路の詩を載せて反路の詩を載せない。又淹留中の一作をだに留めてゐない。
十月五日の発程は、上に引いた前月二十九日の書にも見えた如く、予定せられてゐたもので、霞亭は其期を愆らなかつた。しかし発程の所は福山なるが如くである故、その神辺の家を去つたのは五日より早かつたかも知れない。
四日には山岡緑雨の木犀舎に於て餞宴が開かれた。福田氏の抄して示した楝軒詩集に下の七絶がある。「五日(恐応作四日、其証見下)木犀舎席上別霞亭先生。聊開祖席木犀斎。非挙大杯奈別懐。此会他時君記取。菖蒲薫殺杜茅柴。」同じ詩集に又霞亭を送る七古がある。「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸。(自註、十月五日。)離觴前日(恐是木犀舎祖宴日)悲且喜。一在別離一徴起。千里別離悲難忘。一朝徴起喜無已。況復即今寵命隆。来携妻孥乍復東。重蒙寵命誰不栄。只於道東心有忡。憐他廉塾青衿子。料知与我同憑恃。別恨愈深夜亦深。何堪嘶馬発郷里。」楝軒浅川勝周の詩は殆ど詩として視るべからざるが如くである。詩集の原本に茶山は此七古を評して只「条理分明」と云つてゐるさうである。しかし霞亭の事蹟を徴するに足るが故に、わたくしは此に全篇を録出した。
福山より江戸に至る反路に、霞亭は京都に篠崎小竹を訪うた。霞亭は又予め反路に的矢の生母中村氏及弟碧山と関宿に会することを約した。其期日は十七日であつた。そして此約の履行せられたことは後に引くべき霞亭の書牘に由つて証せられてゐる。母と兄弟二人とは同行して桑名に至つて袂を分つた。霞亭は母と弟の十一月二日に的矢に還るべきを推してゐた。二日は霞亭の今切の舟中にある時であつた。
浜松に至つて、霞亭は女虎の病のために一日を緩うした。
十一月十三日午刻に霞亭は江戸の藩邸に著した。此入府の期日は行状の一本に見えてゐて、下の書牘の文も亦これと符する。
書牘は的矢書牘の一で、十一月二十二日に碧山に与へたものである。「飛脚便一簡呈上仕候。寒冷相増候処、愈御安康可被成御揃、珍重奉存候。桑名別後、遠州浜松にて小児少々発熱、おそれ候而一日滞留致し候。其後は段々快く、しかし五里、六里、高々八里位の道中故、十三日午時屋敷著仕候。以来(虎は)おちつき候而、追々なじみ、機嫌よく遊び候。乍憚御安意可被下候。先達而は母様遠方御苦労恐入候。二日(十一月二日)には御帰家と察し入候。私共今切(浜名湖口)をのり候節大方御帰郷と想像いたし候。」
次に霞亭は入府後の数事を報じてゐる。「屋敷其外皆々無別条候。当御屋敷寛三郎様(阿部正寧)と申御二男御嫡子若殿様と被成候御願、十三日(十一月十三日)公儀より御許容に候而、家中一統総出仕有之候。御前講釈も又々十七日(十一月十七日)より始まり候。短日著後何歟と多事、一向勤仕の外は外出いたし不申候。先は無事著之報申上度、匆々如此御坐候。」
中間に茶山の家の消息の事が挿んである。「備後(菅氏)よりも此間便有之候。皆々無事の由に候。」
又紙端に碧山の妻の事が言つてある。当時田口氏は妊娠してゐた。「令内御近状如何折角御用意祈候。分娩有之候はば早速御しらせ可被下候。」
百四十九
文政辛巳(四年)十二月七日に霞亭の茶山に寄せた書は某氏の蔵する所で、わたくしは浜野氏に由つてこれを読むことを得た。先づ霞亭の自家の事を言ふ条を抄する。「お虎随分まめに遊び申候。菅三(惟縄)も無事、暫法成寺(門田氏)へ参居申候由、大慶仕候。嘸淋敷無聊に思ひ可申と始終噂仕候事に御坐候。お敬並僕一向不案内故、賤事迄も世話やけ、夫にお上の御祝儀(阿部寛三郎立嫡)何かと取紛、一首の詩歌も出不申候。」
次に此書に見えたる諸家の消息を抄する。一、田内月堂、田井柳蔵。「先日御上屋敷(霞が関)より鉄炮洲白河(松平越中守定永)御屋敷へまわり候。田内(月堂)折節留主に候。柳蔵(田井氏)に一晤仕帰申候。」
二、亀田鵬斎。「繍句図あちこち聞糺し可申、鵬斎へ此間尋遣候。これも急にはしれ不申候。追而相考可申と申越候。」
三、山口凹巷、孫福包蒙。「聯玉(凹巷)より此額字瀟碧閣の三字御揮毫奉希候。外にかの姪孫福内蔵何にても一紙頂戴仕度旨、私より願上候様申来候。」
四、狩谷棭斎、市野迷庵。「津軽屋、市野屋すべて得出会不仕候。無事之由に候。市野は中風のきみの由に候。」
五、牧古愚。「さぬき牧唯助此間見え候。」
六、尾藤絃庵。「尾藤学士(二洲)の子息此間被尋候。」わたくしは所謂子息の長子絃庵積高なるべきをおもふ。
七、太田全斎。「太田大夫存候よりは御気象に候。」以上は七日の書に見えたる主なる人名である。
十二月十四日に霞亭は書を茶山に寄せた。浜野氏はわたくしに某氏所蔵のものを示した。中に下の語がある。「十五日(十二月)限学問所は終会になり候。当番はやはり廿七日迄相勤申候。」
次に十五日に霞亭の弟碧山に与へた書が的矢書牘中にある。下に其全文を録する。「寒冱之節愈御安祥被遊御揃、珍重之至奉存候。当方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。先月飛脚高木氏(呆翁)迄差出し申候。(十一月二十二日便。)相達候哉。諸般相替候儀も無之候。只在番部屋住居に而万事不自由にこまり候。春に成候はば普請にかかり可申、此節地面拝領願出置候。屏風たしかに相達可申候。御めんどうの儀に候。味噌沢山に被仰付、辱奉存候。此方にてはあのごとき味噌はめづらしく候。少々宛両三家へすそわけ遣し候。其実は近来物価たかく候而、厨下大にたすかり、妻ども殊之外悦申候。此方より何歟と差上申度候へども、船便はたれと申船へ遣し候てよろしからむや、それも的屋へよらぬ船なれば間違も出来可申故不得其意候。飛脚便は甚賃銭の費有之候、是又無益の事に候。何分御国よりも必々よくよくよき便なれば各別、船へは御出し被下間敷、平安信は一月一度宛飛脚へ御出し可被下候。船にても此間みそ新堀より私方へ持候賃三百文とり候。(原註、これは人やとひ候由也。)持参り候者船賃済と書付有之候へども、一銭もとらぬなどと恩にきせ候。あらめなど御送はもはや御無用に被成可被下候。唯無事の御便を承り候へば夫が何よりの大悦に候。最早年内無余日、折角御自愛奉祈候。二尊様始、敬助(撫松)などへよろしく奉頼候。令内(田口氏)は如何、出産前随分大切に被成御用心専一に候。とかく多用いづかたへも得出不申候。おとら段々居馴染、よくあそび候。其後不快のきみもなし。全(く)道中あたりとみえ候。此節は鯔魚如何。郷味想像床敷候。何事も期来春候。恐々謹言。極月十五日。北条譲四郎、華押。北条立敬様。」撫松は桑名には往かず、江戸にも随行しなかつたのである。
二十九日に霞亭の茶山に与へた書は某氏の所蔵で、浜野氏がわたくしに示した。中に下の句がある。「十月扶持御国(備後)にてわたり可申候。五両位も可有之候。本荘屋か幸蔵方へなりとも預りくれ候やう被仰可被下候。出立之節おとらへ賜り候三両、既に幸蔵へ預け置候。序も有之候故に候。」
歳寒堂遺稿の「丸山寓廨雑詠」と題する七律五首は、霞亭が辛巳(四年)に家を挙げて入府した後の作である。(新携妻子仍羇況。又。歌室嬌嬰操土語。又。旁看山妻撿衣料。)しかもその脱稿は十二月の末に於てせられたものと見える。(公朝有制近新正。)
寓廨雑詠には浅川楝軒の賡和があるが、此に贅せない。雑詠中少時の旧遊を憶ふ語がある。(二十年前久滞東。又。旧歴里門如夢中。)辛巳より二十年を溯れば享和元年を得る。即霞亭が京都より江戸に転遊した年である。
此懐旧の情は霞亭をして除夜に一絶を作らしめた。「余昔在都下(江戸)。社友河良佐(敬軒)池隣哉祗役自勢南至。一日快雪。余与二子泛舟墨水遊賞。酒酣。隣哉出所齎香爇炉。縷烟裊裊。如坐画図中。実享和癸亥(三年)十二月除日也。比歳二子相継就木。今茲余仕官再来此。会歳除追憶当時。音容在日。風流不可復得。黄壚之感。殆難作情矣。(以上引。)憶昨買舟楊柳橋。篷窓霽雪把香焼。誰知十九年前客。独向江頭泣此宵。」此遊の「幽遠清澹之趣」は深く霞亭の心に銘してゐたものと見えて、霞亭渉筆も亦これを「係雪之事数条」との下に収めてゐる。辛巳除夜の茶山の作は集中に見えて「蛇(巳)年今夜尽、鶴髪幾齢存」の聯がある。
是年霞亭は年四十二であつた。
百五十
文政五年は霞亭に元旦の詩がない。茶山も亦同じである。江戸は元日が雪、しかも初雪であつたと、下の霞亭の書に見えてゐる。
正月二日に霞亭の弟碧山に与へた書は的矢書牘中にある。先づその自家の事を言ふ条を抄する。「此方皆々無事、例よりは暖和なる方に候。昨日(元旦)雪大分ふり申候。これがはじめての雪に候。(中略。)火事も先静なる方に候。去霜月(辛巳十一月)池の端やけ、其後日本橋北方六万坪ほどやけ、飛脚京屋、島屋もやけ申候。丸山は火事は先わきからくらぶれば用心よき所なり。屋敷樹林四方をかこひ候故に候。いづれ早春より家作にかゝり可申候。江戸は万事高価、中々小屋いとなみ候にも田舎三倍も物入有之候。町住居なれば借宅(又は)古屋買得いたし候へばやすくすみ候へども、いたし方無之候。其代りに一度たておけば地代等はくつろぎ可申候。」霞亭は既に丸山邸所属の地を獲て、将に後の所謂嚢里の家を営まむとしてゐる。前年辛巳(四年)の江戸の火災は武江年表に記載を闕いてゐる。
碧山の事の書中に見えたのはかうである。「御詩稿(碧山詩稿)毎首批点いたし候。乍憚大分調ひよくみえ候而大慶仕候。」「令閨(礼以)出産は如何、安産有之候はゞ早速御報じ可被下候。」
次に伊勢の恒心社の事が書中に見えてゐる。「恒心社中山口(凹巷)、高木(呆翁)孫福(包蒙)斯波、宇仁館(雨航)文亮(夢亭)佐藤(子文)文明、丹井、右九輩より家のみまひとして菓子椀十人前、朱盆一枚おくり被下候。山田へでも御こしのせつ、出立のせつ憶ひ出し候はゞ御礼被仰可被下候。」恒心社中の所謂九輩にして自ら明なるものは文中に註した。「斯波」は孫福包蒙の一姓氏なるが如くである。玉田氏の云ふを聞くに、伊勢人に一人両姓多きは山田奉行所の簿冊に上る姓氏と、神宮の簿冊に上る姓氏との相同じからざるに因るさうである。しかし此書の斥す所の斯波氏は包蒙にあらずして別人なると明である。「丹井」は河崎誠宇の見聞詩録に見えてゐるが、その詳なるを知ることが出来ない。「文明」は未だ考へない。恒心社友は霞亭の嚢里の家を営むを聞いて物を贈つたのである。
同じ書に拠るに、碧山は是より先霞亭に鹿角菜(ひじき)を寄せ、某氏長蔵は宮重大根、某氏半兵衛は鯔を贈つた。又霞亭は碧山に上下一具を遺らうとしてゐる。「ぼら九頭御恵投被下、遠境別而辱賞味仕候。(森云。鰭非碧山所貽、閏正月書、当参看。)御当地(江戸)は諸事高価、中々肴など沢山たべ候事出来不申候。此頃より(彼鯔を)正月肴にいたし、外へも少々宛すそわけいたし候。ひじきは達し不申候。石原屋敷(本所石原阿部氏下屋敷)より受取候は、ぼら入樽と宮重三本入と太中(茶山)翁よりの箱入もの計に候。長蔵へあつく御礼可被下候。宮重、殊に当地にはめづらしく候。種をうゑて作り候へどもあのやうには出来不申候。(中略。)何ぞ相応なる用事、もとめ物等も候はゞ被仰聞可被下候。江戸には何でもあるやうなれど、さて御国などへ献じ候ものとては何も存付無之こまり候。浅草のりは定而沢山に参り可申候へば上不申候。麻上下足下にても敬助(撫松)にても入用なれば私去(辛巳)夏こしらへ候分進上いたし可申候。御前(阿部正精)より両度上下賜り候故、私紋付を差出し可申候。御入用なれば必ず遺可申候。閏月(壬午閏正月)にも池上衛守帰国の節言伝可申候。」此文に拠れば池上隣哉は已に死して池上衛守は猶存してゐる。設し衛守が世襲名ならば、此文の衛守は隣哉の子であらう歟。しかし霞亭の別の書牘に衛守を希白だとしてゐるを思へば、わたくしは再び帰省詩嚢の「過池隣哉家、敬軒凹巷希白勇進源一尋至」の詩引に想ひ到ることを禁じ得ない。頃日浜野氏は三村氏所蔵の伊勢人物志を看た。此書は天保五年の刊本で、当時現存者を集録したものであるに、「池上衛守、菊所、俳、田中中世古町」と云つてある。又同じ三村氏蔵の写本神境人物志料に「池上菊所、希白又易玄、詩又俳句」と云つてある。又河崎松宇の手録中同一の詩を二所に出して、一は易玄の作となし、一は菊所の作となしてゐる。此等を併せ考ふるに、池上希白又易玄、号は菊所、通称は衛守は、池上隣哉、諱は徳隣と別人にして、隣哉の死後天保五年に至るまでも生存してゐたかとおもはれる。猶考ふべきである。
歳寒堂遺稿は「雪後憶山陽旧況」の七絶を以て辛巳(四年)より壬午(五年)に入るものゝ如くである。按ずるに雪後とは元日の雪の後を謂つたのであらう。
高橋洗蔵さんの許に篠崎小竹の霞亭に与へた正月五日の書がある。その壬午の正月に成つたことは明である。「新年目出度奉存候。徳門御揃御清勝可被成御超年奉恭祝候。賎族皆無恙加齢仕候。乍憚御放慮可被成下候。誠に旧年(辛巳)は御引越之節御通行御過訪も被下候処、錯迕不御奉歓、暫時御滞留のよし(なるに)、僕被冒風邪、不能叩問、失敬之至り、園部(長之助)に承り候処、此地及道にて令眷(女虎)御不例にて頗御闃ヨのよし、嘸御困りと存候。乍然此程は追々御棲馴にて大家団欒之楽奉緬想候。為差儀も無之候得ども、年頭御祝(申上)及旧歳来之御無沙汰を奉謝候。江都雅事奇談等も候はゞ御示可被下候。万奉期永日候也。正月五日。篠崎長左衛門。北条譲四郎様侍史。」遺稿に「篠崎小竹示歳除詩、卒爾和答」の七絶がある。小竹の詩は此柬に添へられたものであらう。霞亭の賡和に曰く。「移宅不移天性頑。無求随処足安眠。何憂閏厄逢今歳。薄福如予過去年。(来詩云。栄枯何足煩人意。一任黄楊厄閏年。自註云。僕明年四十二。而正月閏。故云。)」
此詩と註とに些の錯誤がある。詩の去年は辛巳(四年)、今歳は壬午(五年)であるに、註の明年も亦壬午(五年)である。恰も詩の未だ成らざるに、註が早く書せられた如き看を做してゐるのである。且霞亭の生年の安永九年(1780)であつたことは、わたくしの得た行状の二本も山陽撰の墓誌銘も皆同じきが故に、辛巳四十二歳、壬午四十三歳でなくてはならない。何故に霞亭は閏正月のある壬午を四十二歳として算したであらうか。怪むべきである。  
 

 

百五十一
わたくしは此に歳寒堂遺稿の一詩を挿入したい。その早くして辛巳(四年)の歳暮、晩くして壬午(五年)の正月に成つたことを想ふが故である。詩は題して「近有人目余以満腔子是懶惰、因成詠」と云つてある。「懶性従来吾自知。無端近日被人窺。不除軒裡昔年夢。已兆半聯雲石詩。」末に自註がある。「十二年前予与看松居士(西村及時)宿藤子文(佐藤昭)不除軒。夢中得頽石懶雲封句。既覚語之。居士戯曰。詩夢固佳。然頽云懶云。君潦倒可知耳。相共一笑。」
わたくしは此詩の成つた時を徴するに、的矢書牘に交つてゐる詩箋を以てする。箋は「丸山寓廨雑題」の七律五首中の第二第四を書し、末に此解嘲の詩を書したものである。律絶皆多少の異同がある。要するに箋に書した詩は未定稿なること明である。就中絶句の第三の昔年が箋に「他年」に作つてあるのは非である。
惟自註の十二年が箋に「十三年」に作つてあるのは後の考証に資すべきである。解嘲の詩が辛巳(文政四年)の暮に成つたとすると、十三年前は文化戊辰(五年)、十二年前は文化己巳(六年)となる。壬午(文政五年)の初に成つたとすると、十三年前は己巳、十二年前は庚午(文化七年)となる。霞亭の「五鈴川頭」(茶山詩自註)の不除軒に宿した時は此に由つて定まるであらう。
壬午(五年)閏正月には霞亭の碧山に与へた書の断片二種があつて、的矢書牘中に存してゐる。しかし二紙皆本書でなくて、其一は「尚々」を以て起つてをり、其二は首に「用事」と題してある。
わたくしはその「尚々」を以て起るものに就て、先づ最初の一条を抄する。言ふ所は碧山の身上に関してゐる。碧山の妻礼以が新に子を産んだのである。「尚々無如在小児御そだて、万事よくよく御心付可被成候。お敬もさつそく文にて御祝詞申上候筈に候へども、先月より蛔虫のきみにや熱往来いたしはかばか敷無之、専ら医薬いたし罷在候故、此度は書状差上不申候。産衣可成は一重ねにいたし進じ度、妻共も呉々申候へども、新居もち一切の物諸道具等だんだんかひたて、物入つよく、夫に家居もいまだ定まり不申、何歟と不自由心にまかせ不申候ゆゑ、よろしく御断申上候。(原註。お敬持病なればさし而気遣候事にはなく候。先々段々快方に候)」碧山の子は長男新太郎儼であらうか、未だ審に考へない。
次に霞亭は造営の事を言つてゐる。「居宅普請も御地面(丸山邸地面)拝領願出候処、丸山屋敷に上屋敷(霞ケ関〉へ引越候人有之、どうかそれを買とり住し候へば世話も少なく、新にたて上候よりは物入もすくなからむと見合居申候。これもまだとくときまり不申候へども大方不遠は分り可申、何卒三月節句前二月中に引越しいたし安堵いたしたく、これ迄田舎に住候格とは大ちがひ、そ(此字不明)の上やせ身体、何もかも高直なるにはこまり候。家もち候はゞ下男下女なども入可申こまりものに候。併書籍類は追々当用のものもとめ候。右申候古家には土蔵も有之候。火用(心)のためには土蔵も序にもとめ置たく存心に候。いづれ近日きまり候はゞ又々可申上候。」霞亭の移り住むべき家屋も其地所も猶未定であつたのである。以上の一紙には「閏正月廿七日」の日附がある。
第二紙は首に「用事」と題してある。一、「此方(江戸)より当年書状正月に河崎杢へ托し、其後閏月書状鷹羽平蔵へ托し申候。」河崎杢は誠宇である。梱内記に松之允が元服して木工と称し、詩の「陟彼景山、松柏丸々」に取つて、字を景山と命じたと云つてある。然らば河崎松、字は景山、号は誠宇、小字は松之允、後に木工と称したのである。鷹羽平蔵は名は応、字は世誼なるが如くである。しかし是は未だ確証を得ない。誠宇の齎し帰つた霞亭の書は上の正月二日の書なるべきこと殆ど疑を容れない。平蔵の持ち帰つた書は上の閏正月二十七日の書と別なることが下に証せられてゐる。
二、「良助、敬助へ年始状被遣候(礼)宜敷御伝へ可被下候。」谷岡氏を冒した良助、撫松惟寧の二弟に賀正の謝を伝へむとしてゐるのである。
三、「ひじきは如何いたし候哉とゞき不申候。ぼらはとゞき候。今に用ひ申候。とかく塩からく候而込(困)り候。半兵衛より被下候由、よろしく御礼(御申)可被下候。先は(如此物は)御宅にて御遣ひ可被下候。あの類よりは何ぞひもの類御序も候はゞ御恵可被下候。しかし(干魚も)わざと御遣被下候には及不申候。何ぞよき船便のついでの節にてよろしく候。ひじきわかめも同様、(但)わかめもはやおそく候。是もよきのには及不申候。随分雑物がよく候。家内の食用にいたし候。」前に碧山は鯔と鹿角菜とを霞亭に遺つた。然るに鯔は至つて鹿角菜は至らなかつた。鯔は某氏半兵衛の的矢北条氏に貽つたもので、碧山は其一樽を江戸に送致した。霞亭はその鹹に過ぐるを嫌つて、再び送らざらしめむと欲してゐる。
四、「いつぞや備後へ御宅より被下候ふとりつむぎ一反につき、いか程位いたし候哉。御地辺にてかひ取候直段御しらせ可被下候。ふとりと申ても、いつぞやのはほそく候而、大方本つむぎとみえ候位に候。今に着用いたし候。つよみはいかゞ候哉。」志摩の絁紬の値を問ふのである。
五、「総じてかさ高なるものは格別、平安信は是非飛脚へ御出し可被下候。船便は遅速不可定候。」郷信の期を愆まらずして至らむことを欲するのである。
六、「御宅に壒嚢抄と申かたかな書にいたし候もの十四五巻有之候と覚え候。少々入用有之(候に)さしあたり焼板とみえ本無之候。御かし可被下候。外に半紙本かたかなにて俗諺故事とか申(原註、題名とくと不覚候)一冊もの、ふる本有之候。是又御一処に御かし可被下候。右は船手便に御差出し可被下候。」僧行誉の壒嚢抄が北条の家に蔵せられてゐた。俗諺故事は未だ考へない。
用事と題した書の云ふ所は略此の如くで、末に「閏月」と書してある。その壬午(五年)閏正月なることは疑を容れない。
百五十二
壬午(五年)閏正月二十五日に碧山は書を兄霞亭に寄せて、弟撫松の将に山口凹巷の女壻たらむとする事を報じた。二月七日に霞亭はこれに答へた。「閏正月廿五日御書状(碧山の書)今夕(二月七日夕)相達致披見候。春暖相催候処尊両親様始、皆々御無事御消光、無此上奉賀候。此方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。先廿七日(閏正月二十七日)山田代官山口権左衛門に書状、産衣一托し申候。其内相達可申候。(上に引く所の書。)扨此度敬助入壻之儀被仰渡委細承知仕候。兼々熟友へも私はなし置候事故右之段に及候と被存候。山口氏は格別の懇意に候。凹巷の娘に配偶いたし候儀故、於小生わけて満足いたし候。それとも縁不縁の儀も可有之候へども、凹巷よりも高木(呆翁)宇仁館(雨航)よりも縷々書面(有之)、皆々兄弟親類同然の儀故、何歟と申子細も無之候。本人も承知、二尊も御許容被遊候はゞ、随分御相談可被成候。乍去人の家を嗣候は我家よりも大切なるもの、これ義の第一なる事なるべし。敬助儀世間なれぬ人物故、とくと御垂示可被成候。外にあしき事無之候。只人は実義実誠、親兄弟は勿論一切の事に真実に心をもち候へば、少々鈍くても自ら人服し候ものに候。御書面に四季相応の物などこしらへたく被思召候由、いづれ少々は御用意可然候。それも各別つくろひ候には及申間敷候。ざつといたし候がよろしく候。さしあたり著がへ三四つに上下小袖もん付など有之候はば相済可申候。御宅の御物入も不大方被存候。なりたけ質素なる方よろしく候。凹巷など万事よくのみこみ候人故、つくろひて立派だてするはよろしからず候。従来貧素の事は人もよくしり候事也。少しも恥べき事には無之候。併し右等用意の入用御助も仕度候へども、私手元新世帯万事費用夥敷不得其意候。彼両家へ預け有之候金九両の内五両程も御用ひ可被成候。是は其訳とくと被仰含、又は私方に急に入用とか申ても(入用と申してなりとも)御取立御用ひ可被成候。余金は御序に御下し可被下候。夫とも無拠当分御差支も候はば、御用ひ被成候而もよろしく候。私方差くり不自由はこらへ可申候。高、宇二君の書状も懸御目候。其内凹巷書状は高、字二君媒の事故、私より書通の儀は内証にいたし候様被申越候間、其御心得可被下候。此書状六日切なれど大方十四五日頃ならでは届申間敷、余り急なれば、三月いみ候事ならば、四月にても可然歟、そこはいづれ共可然候。」伊勢国山田の代官山口権左衛門は壬午(五年)の武鑑に見えない。
的矢書牘中には猶此書に附せられたかとおもはれる一紙片がある。「別啓。これは足下(碧山)へ内々申候。たとひ縁談相調候とも、とかく御郷里の親族知友など名乗り候而、各別は手(派手)(に)いたし候は不宜候。俗流と違ひ、凹巷高韻の人なれば、誰にも覚え有之、うるさく可厭ものに候。その処御心得可被成候。何歟なしに吉大夫(佐藤子文)呆翁(高木)雨航(宇仁館)へ諸事御まかせ、可然御願申上候と申がよろしく候。なま中義理だてを多くするはよくなきものに候。これは私が偏介の流義故か、人も大方そふ可有(そうあるべき)と被存候。万事足下御見計可被成候。二尊へも右等御はなし可被申上候。家筋の義さし而申分も無之候様に被存候。何分にも此後いかがと思ふ事、小事大事一応私へ御きかせ可被下候。ちとは益にも相成可申候。遠方間に合兼可申候へども、膝とも談合也。」
霞亭は弟碧山に答ふると同時に、書を高木呆翁と宇仁館雨航とに寄せた。これも亦的矢書牘中にある。「御手教拝見仕候。春妍相催候処、愈佳祥被成御揃、欣抃之至奉存候。小生無事罷在候。乍憚御放慮可被下候。然者敬助(撫松)儀山口氏へ入贅の儀御周旋被下、件々(此二字不明)御厚意、千万辱奉存候。御見受も御坐候通、柔弱性質、とても間に合兼可申候。乍去不外家の儀、相調候はば於私大慶無此上奉存候。何分相応いたし候儀に候はば、両兄賢慮に可任候。可然御垂教可被下、偏奉煩候。急卒御報申上候。余期再信之時候。恐惶謹言。二月七日。北条譲四郎華押。高木勘助様。字仁館太郎大夫様侍史下。勘助様へ御願申上候。毎々乍御煩労此書状郷里へ任便御送被仰忖度候。鵬斎へ頼候書、去(辛巳四年)冬遣し置候処、(壬午五年)早春より勝れ不申、延引仕候。然処竹の詩間違、をかしなる詩認られ候。これ(鵬斎)も此節余程すぐれ不申候。私一昨日(二月五日)当春初而相尋候処、殊之外病悩、もはや死期をまつなどと申候。其故又々と申にくく候。いづれ本復次第相頼可申候。岡本(花亭)へも昨日(二月六日)尋候。これも多用と病人とに取紛れ未だ出来不申候由。雄二郎(館柳湾)へは近日参り頼可申候。宇仁館様へ申上候。昨(辛巳)冬は浪華に而段々御世話に預り、今に時々妻どもなどと申出候而難有がり申候。其後御無沙汰計仕候。御免可被下候。御托しの品、茶山へは申遣置候。鵬老へは一寸咄のみ出し候。病人故遠慮いたし罷在候。扨私も到着後一向なにも片付不申、妻ども今に得と無之、万事拮据、それにあれこれと多用、大方月半過は他出勤め有之、なにも手を付不申候。住宅もいまだ定り不申候。わけなく送日申候。御憐察可被下候。宇公に又々申上候。浪華百絶は何分篠崎長左衛門(小竹)へ一言を御乞可被成候。浪華人なれば、わけてよろしく候。私も申候と被仰、御頼可被成候。」雨航の浪華百詠は果して梓行せられたであらうか。又梓行せせられたなら、其本に小竹の序が載せられたであらうか。
百五十三
壬午(五年)正月二月の交に霞亭は小学を刻することに著手した。山陽の墓碣銘に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之」と云ふもの即是である。霞亭は和気柳斎に校本を寄視して、剞劂氏を紹介せむことを請うた。柳斎のこれに答へた二月三日の書がある。わたくしは浜野氏に借りてこれを見ることを得た。「日日欝陶敷天気御坐候処、益御安泰被為在奉欣服候。令閨君如何被為在候哉。扨前日留守へ御越被下(致失礼)候。小学之儀、兼而御咄申上候板木屋総左(に)申遣候所、過日参候に付、即掛合申候処、何れ拝顔窺度旨申聞候間、明日(二月四日)貴宅へ上り候様相約候間、御対談可被下候。前日之小学一本即総左より趙璧仕候。御落掌可被下候。此節普請に取掛、俗事紛々、匆々布字。二月三日。」巻き詰めた裏に「北条譲四郎様、和気行蔵」と書して、左脇に「小学返上」と細注してある。柳斎の此書はわたくしに当時霞亭の妻敬の病に臥してゐたことを教へ、又柳斎の屋を営んでゐたことを教へる。雕工総左は必ずや四日に霞亭を見て、小学を刻することを諾したことであらう。
十四日に霞亭は使を亀田鵬斎の許に遣つて病を問ひ、重詰の料理と塩とを饋つた。鵬斎の赤穂塩を嗜んだことは人の周く知る所である。鵬斎のこれに酬いた書は高橋氏の所蔵である。わたくしはその影写を見ることを得たが、二三の読み難き処があつた。今意を以て補足すること下の如くである。「御尋被下、辱感謝候。私病気も同様に而堅(此字不明)臥罷在候。細君(敬)御病気、今以御同様之由、御節(不明)愛可被成候。為御見舞、赤穂塩一筐並御重之物被下置、(不明)御厚情奉謝候。何事も拝顔之節(不明)御礼可申陳(不明)候也。打臥罷在、乱筆を以申述候。匆々頓首。二月十四日。亀田鵬斎。霞亭様。」霞亭の妻の病の事は再び此に見えてゐる。
十五日に嵯峨天龍寺の僧月江が霞亭に寄する簡を作つた。「因幸便一簡呈上仕候。時下逐日春和相催申候処、愈御清健被成御凌、恭喜之至奉存候。去年(辛巳)来両回御投書被下、無浮沈相達申候。先達而備後へ御下り之御様子承知仕、其後如何哉と懸念罷在候処、愈御内室(敬)等被召連御帰府御座候事と察上候。扨両回御返書如例懶惰、追々老境に相赴、執筆迷惑申訳無之、失敬御海容可被下候。心底に少しも相替儀無之、只々右之次第に而御不音、何事も御免可被下候。貴境御多忙、鵬斎先生にも中風之由、此節如何候哉。御風流之儀も絶而無御坐候由、当境に而も同様、衲近来少々相悩、寺務多般、佳友無之、対山水殺風景之事共に而消日罷在候。嵐山花候上巳比に而有之、貴境上野も其比に而可有之相察申候。旧冬来当地格別之寒気も無之、先者緩やかにて凌能御座候。此間二両日(本のまゝ)少々余寒、乍去梅花満開、追々暖和に可相成候。天我(二字不明)天隠一昨年来病気、うごうごと致罷在候。芸也儀も只今に而は、字は惟芳と相称申候。毎度御噂申出し、御床敷(由)申居候。古海、文明いづれも無恙罷在候。毎度御伝声被下、毎輒相達申候。及時居士随分無事之様子に候得共、音信者絶而無之候。是も只今に而は畜髪之由に承申候。此度当地出入之もの出府仕、今日京迄出候由、急に一書相認、前後不文御推覧可被下候。先者御返事之御断、時候御見廻申上度如此御坐候。恐々頓首。二月十五日。月江。北条譲四郎様書案下。尚々御内室へ宜敷御伝可被下候。此書状相托し候もの、門前立石町と申に居候こんにやく屋に御坐候。次郎右衛門と申候而、定而御覚えも可有御坐哉。二白。惟芳其外院内之銘々、何れも宜敷申上候様申居候。嵐山桜木盃一つ呈上仕候。侑函之印迄に御座候。」天我天隠は上の二字草体不明である。推するに一僧の名であらう。芸也、字は惟芳は月江の侍僧承芸と同人ではなからうか。古海と文明とは、「いづれも」と云ふより推すに、二人の名であらう。西村及時が夙く剃髪してゐて、此に至つて還髪を蓄へたことは、此書に由つて知られる。霞亭の漫筆に「外愛仏乗、禅坐習静」とは云つてあるが、その剃髪したことは未だ証せられてゐなかつたのである。嵐山杯は霞亭が早く一箇を蔵してゐた。是は文化八年二月に伊勢より嵯峨に移つた時、友人の贈つたものである。嵐山杯記に「辛未之春、予移居洛西、河氏之子以此杯為餞、盃面描落花流水浮槎図、蓋摸堰川之景也」と云ふもの即此である。「河氏之子」とは恐くは河崎松宇であらう。尋で同じ年の四月に霞亭は別に嵐山杯一箇を作つて山口凹巷に贈つた。凹巷の嵐山杯詩序に、「今又新製一小杯贈予、杯面描飛蛍流水、題背曰、辛未(文化八年)四月、石山水楼酌別凹巷韓君」と云ふもの即此である。僧月江は十一年の後更に霞亭に遺るに一嵐山杯を以てした。霞亭伝中嵐山杯の名を見ること前後凡三たびである。
百五十四
文政壬午(五年)(1822)三月三日に霞亭は前年(辛巳)的矢にゐたことを憶ひ出して詩を作つた。歳寒堂遺稿の「上巳憶諸弟」の七絶が是である。尋で四日若くは六日に日野大納言資愛に謁した。資愛は勅使として江戸に下つたので、其随員の中には霞亭が相識の北小路梅荘もゐた。
浜野氏のわたくしに示した書牘中に梅荘の書二通があつて、皆此謁見の事を言つてゐる。先づ其一を此に録する。「一筆致啓上候。春気和煦相成候処、愈御清勝被成御勤奉恭祝候。愚夫依旧無異罷在候。然者此般(擡頭)日野大納言殿御当地御参向被遊候に付、御供被仰付、我等も一昨日(二月二十八日)無事到著仕候。然る所貴兄盛名(闕字)大納言殿兼々御聞及御座候に付、御面会も相成度御含に御座候。御勤向御差支も無御座候筋に御座候はば、何卒龍の口伝(闕字)奏御屋敷へ向御入来被下間敷哉、以内意御尋申候様被申付候。御承諾も被下候はば、御入来御日限一寸と被仰聞被下度候。此段御承引被下候へば、於愚夫も忝可奉存候。右御尋申上度如此御座候。館中取込、草々、恐惶謹言。二月卅日。北小路大学助。北条譲四郎様。二白。昨年来御加増御進格当地御常居被成候旨、御岳丈(茶山)より承及、重畳目出度奉存候。此度御尋も申上度存候事に御座候へ共、御入来も可被下候へばと、見合罷在候。以上。」
梅荘の第二の書は霞亭が上の第一の書に答へた後に作られたものであらう。然るに日附は顚倒して「二月廿九日」となつてゐる。所謂「館中取込」の際此錯記をなしたものではなからうか。「朶雲忝致拝誦候。御紙面之趣申上候処、来(三月)四日夜と六日昼後計御閑日にて、其他は御暇も不被為有候。何卒右両日之中御繰合御入来被進被下候はば於(擡頭)相公御満悦可被成候。若右日取御勝手不宜候はば、又々後年御下向之節御出被進候様との御事に御座候。若御入来無御座候はば、御近作一二首御認御差上被下候様申請候様被申付候。乍御不肖右両日中御入来偏所奉祈候。尚拝面万々可申上候。頓首拝復。二月廿九日。北小路大学助。北条譲四郎様。」
霞亭の資愛に見えたことは、遺稿の詩に徴して知るべきであるが、其日が四日の夕であつたか、六日の午後であつたか不明である。詩は「奉謁日野相公恭賦」の五律である。「東下皇華使。文星一位明。糸綸清要職。忠孝古家名。雖在衣冠会。不忘丘壑情。春台延野父。賜坐聴流鶯。」此時資愛は正二位大納言で、年四十三であつた。資愛は霞亭と偶同庚の人であつた。
十五日に田内月堂が書を霞亭に与へた。此に由つて、わたくしは春初に霞亭が岡本花亭を訪うて、席上月堂に邂逅したこと、霞亭が是より先歌稿を月堂に示したこと、又月堂を介して楽翁侯に書を請うたことを知つた。其他此書には立原翠軒父子並に南部伯民の名が見えてゐる。書は浜野氏に借りて見ることを得た。「花亭にて早春一謁後更に契絶(此一字不明)花鳥之折一入想慕仕候へども、紛劇一向不得寸暇空しく打過、遺憾之至、過日は御投書被成下、御旧詠一冊拝誦ゆるされ、偸闢秤コに朗吟相楽しみ候。例之不遜なる愚評等可申上と存じつつ、つゐ今以机上にさし置、花亭主人へも転不申、等闍ー入候。不日に花亭に可達候。歳寒書屋之額字、老寡君(松平定信)に御需被遣、委細敬承仕候。しかるに額字は社寺之外は一向相認不申候。歳寒の二文字にてよろしく候はば横に一揮可被致候。切角被仰下候へども無拠御断申上候。其他揮毫何にても御もとめに可応候。無御隔意可被仰下候。四書附考三冊茶山先生より被仰越、旧冬さし上候。右之代銀七匁弐分に御座候。仍而三分呈上仕候間、南一被投可被下候。乍御煩労御次手に相願申候。水府藩邸立原翠軒、この老人ことし七十九になられ候。茶翁年来之友人にて候。然るに去年(辛巳)より眼病にて蓐臥、近来快方に候へども、いまだ全愈に及びがたく、甚濛鬱之様子に御坐候。過日参り候所、先生御噂に及申候。御近所の事故、何卒御闌之時御枉駕被遣可被下候。さぞさぞ歓候と被存候。今退隠して当職は甚太郎と申、是も博識かつ書画癖にて候。くれぐれ不日に御訪可被下候。草々拝具頓首。暮春既望。先比中より参堂と心組候へども、繁務之上に懶病も加り、無申訳御無音打過不堪恐怖候。此磁器御勝手向之御入用にもと、とくよりもとめ置候処、今日々々と遅引、はや四箇月を経申候。麤物ながら呈上、御笑納可被下候。さてこの蕨めづらしからず候へども、近所(原註、上総)領分より産候ゆゑ呈上、是又麤薄之至、このわらび音信山のつとなればおとづれ絶し人にみせばや。御一粲々々々。この名(音信山)上総之山中に有之候。万々不日に参上(可申上候)草々再拝。又々言上仕候。嵯峨之御百首誠に刮目感吟、老人(月堂父)も再三朗吟いたされ候。その内赤壁之長篇並短篇二首御抄写可被下候。百拝(此二字不明)奉希候。(此間二字不可読)紙呈上、横に御一揮可被下候。伯民一昨日(三月十三日)出府、うれしく奉存候。わが父胸痛之時に而一入歓申候。僑居、柴井町会津侯御中屋敷の向ふがは。悴を携来り候間、此度(は)暫く足をとめ申候つもり。親輔拝啓。霞亭先生左右。」
文中に「老寡君」と称してある松平定信(1758-1829)は文化九年(1812)に楽翁と号して後の第十年である。壬午(文政五年)(1822)六十五歳である。社寺に非ざる限、匾額を書せなかつた。
立原翠軒は壬午七十九歳、其子杏所は三十八歳である。文中杏所の通称「甚太郎」が用ゐてある。杏所が水戸家の側小姓江戸詰となつた文化九年より算すれば、此亦第十年になつてゐる。翠軒は退隠して子の許に住んでゐた。わたくしは此書に由つて翠軒が眼を病んだことを知つた。推するに翠軒父子と霞亭との交は此に訂せられたことであらう。翠軒は翌年三月十四日に八十歳で歿したのである。
南部伯民は前年辛巳(四年)の秋江戸にゐて、花亭、月堂と月を隅田川に看たことが上に見えてゐる。壬午(五年)三月十三日には、一旦還つた郷里より又入府したのである。伯民は息を率て来た。月堂は父の胸痛を療せしめようとおもふので、常に倍して歓迎した。伯民の名が彝であることは、浜野氏のわたくしに示した書牘に由つて知られる。其郷国は、霞亭の詩句「扇頭題寄清新句、揮起周洋万里風」に徴するに、周防であらう。江戸に於ける壬午の僑居「柴井町」は芝柴井町である。会津侯松平肥後守容衆の邸は武鑑に拠るに、「上、和田倉御門内、中、源助町海手、下、三田綱坂、下、深川高橋通」であつた。源助町と柴井町とは相接してゐる。
茶山は前年辛巳(四年)の冬月堂に託して論語附攷を買つた其価の事が文中に見えてゐる。
霞亭の月堂に視した嵯峨百首は嵯峨樵歌であらう。
百五十五
壬午(五年)三月の末であらう、楲の葉が既に陰を成し、桜の花が纔に存してゐた頃、霞亭は妻敬と女虎とを率て、江戸の北郊に遊んだ。歳寒堂遺稿に「晩春携妻児遊郭北」の七絶がある。「路逢佳寺敲門入、催喚妻児看晩桜」は其転結である。
阿部侯の養嗣子寛三郎が杜鵑の詩を作つて、霞亭をして次韻せしめたのも、亦前遊より遅るること遠からぬ程の事であらう。わたくしはその三四月の交なるべきを推する。遣稿の「応儲君令、詠杜鵑、奉和其瑶韻」の七絶二首は、前首に「花白窓紗残月低」の句があり、後首に「春暮城頭杜宇啼」の句がある故に言ふのである。
四月九日に霞亭は書を岡本花亭に与へ、花亭はこれに答へた。此返信は浜野氏の示す所である。「欣誦、如諭新霽清和、愈益御勝適奉賀候。うち絶御遠々敷大に御無音申候。備後(茶山)より御便有之、不相変御健寧のよし、慰抃仕候。無申訳御無さた、御序に宜奉憑候。私も久々眼疾、やゝ快方故、やうやう執筆、兼而被遣候題賛類出来いたし候。去年(辛巳)十月後筆硯廃絶、別而不出来、詩も題後噛臍候事不少、汗愧仕候。則御使に付候。拗巷(山口珏)へも乍御世話幸便に御とどけ被下候やう仕たく候。旧冬の来書今に返書不指送、是も心外無音いたし候。不遠書状は別にさし立可申候へども御序に猶御伝言厚奉憑候。茶山先生御別紙御示被仰下候趣承悉、則血怔(未考)に海葠用方、別に録呈いたし候。至而しるしある事如神に御坐候。早々被仰遣可然候。あまり御遠々敷、ちと御出被下候やう奉待候。草々頓首。四月九日。忠次郎。譲四郎様。」書中に茶山、凹巷の名が見えてゐる。茶山に答ふる医薬の事は、独り病名の文字不明なるのみならず、未だ考ふるに及ばない。花亭の翠軒と同じく眼を患へたことを思へば、当時眼疾が流行したのではなからうか。
五月朔に茶山が書を霞亭に寄せた。此書は嘗て浜野氏に借りて、文中に散見してゐた人名を抄して置いた。皆識らぬ名のみではあるが、或は他日思ひ当ることもあらうかとおもふので、此に録して置く。一、藤田民蔵は長門の人である。茶山はその入府する時、これを霞亭に紹介した。しかし些の警戒の語を書き添へた。それは「議論合はざるときは脇差を抜く人ゆゑ用心せられたし」と云ふのであつた。想ふに請はるるままに紹介はしたが、懐に安んぜざるものがあつたのであらう。二、座間長平。是は「昨夜(壬午四月二十九日夜)癆症にて死去」と云つてある。恐らくは神辺の人であらう。三、某氏勇司。是は茶山が霞亭の許へ遣つたのに、霞亭を訪はずに直に聖堂に入つたと云つてある。想ふに備後を出でて江戸に遊学した一諸生であらう。此書には以上の三人の事を除く外、特に抄すべきものが無かつた。
五日に恭甫と云ふものが霞亭を訪うて、共に酒を酌み詩を賦した。歳寒堂遺稿に「端午与恭甫対酌、分韻得歌、因憶去年今日(辛巳五月五日)福山諸子餞余東行於高久子家」と題する七絶がある。前年辛巳(四年)五月十日は霞亭が在府の阿部侯正精に召されて、備後を発した日である。これに先だつこと五日に、祖筵が高久の家に設けられた。わたくしは前に高久南谷の家は鞆浦にあつたらしいと云つた。然るに此高久氏は福山に住んでゐた。猶細検すべきである。壬午(五年)端五の客恭甫の何人なるかは未だ考へない。
二十日に岡本花亭が書を霞亭に遣つた。「向暑愈御安寧奉賀候。先頃は認物被仰下、早速認置候へ共、無人に而至今日候。則三幅一巻返還いたし候。殊に不出来見ぐるしく候。御免可被下候。泉本正助(原註、私姉むこに而御坐候)佐渡奉行被為命候而、来月(六月)九日頃発途いたし候。夫に付給人にちと学問気あり、少年輩などの取しまりにもなり候やうなるもの、目付役などをも兼させ候つもりに而申付置候処、俄に障る事生候而、其もの遠国へ出がたきに付、その代りになるべきもの覓候へ共、さしあたり其人を得不申候。もし何ぞ御心当りの人はあるまじく候や。尤官辺の事なれ候もの、俗事弁候類はいくらもあり、其人備り候へ共、書物気あり、手がたき人物難得、それに事を闕き申候。浪人に而も何に而もよく候。事にうときは却而よろしく候。たゞ書物気と人のたしかなるを望申候。若し幸に御存のもの御心あたりも候はゞ、早速御聞被下候やう乍御面倒奉憑候。尤至而いそぎ申候事に御坐候。いなや答教可被仰下候。医師にも相応にわざ出来候もの御心あたり御坐候や。いづれも来年瓜代までに而、帰府の上は直に退去候も勝手次第に御坐候。老先生(茶山)御詩集中に中山子幹(原註、文粛先生)其子某などの事数篇相見え候。佐渡の人のよし、今は其人の家跡如何なり候や。元来何人に候ひしや。若し御存にも候はゞ御示可被下候。其外にもかの国に御存知のものも候はゞ承度候。万期拝晤候。頓首。五月廿日。板井蛙、田内より転達、感吟いたし候。絶唱と覚候もあり。鍾情の御詠などは人を動し候。古賀より被頼候一封御とゞけ申候。」
花亭は姉夫泉本正助が佐渡へ赴任するため、これに随行せしむべき儒生医師を得むと欲し、霞亭に知人中に就いて物色せむことを請うた。正助は武鑑に「佐渡奉行泉本正助忠篤、父正助、二百表、下谷長者町、文政五年四月より」と云つてある。四月に任命せられ、六月に発程することになつてゐたものと見える。
花亭は又忠篤の往く佐渡に、いかなる読書人のあるかを知らむと欲して、霞亭に問うた。そしてその先づ着眼したのは、茶山集中に見えてゐる中山子幹である。子幹、名は維驕A通称は貞蔵、京都に住んで医を業とした中山言倫、名は懋、字は子徳の父である。儒医であつたらしい。(茶山題遺照詩、胆量儒而俠。又云、器真堪活国。)嘗て京都に遊ぶこと三年にして還つた。(三載滞中原。又云、帰国逾脩行。)再び妻を喪つて、自己も亦宿痾に悩まされた。(傷神再鼓盆、又云、頻纏二豎困。)その子懋を遺して歿したのは、(豈料文星燦、空随泉路昏。又云、庭幸良駒在、文期彩鳳騫。)寛政六年であつたらしい。茶山集甲寅の作中に遺照に題する詩が見えてゐるからである。
霞亭の歌稿板井蛙は、田内月堂の手より花亭の手にわたつた。此稿本は惜むらくは散佚した。花亭が其中に絶唱さへあつたと云ふを聞けば、愈惜むべきである。花亭の伝致した古賀の書は穀堂の簡であつただらう。是も亦見ることを得ない。  
 

 

百五十六
文政壬午(五年)五月二十日の花亭の書は、霞亭との間に数度の往復を累ねしめたらしい。偶存する所の二十五日、二十七日の花亭の書に徴するに、彼の佐渡奉行の随員を求むるが如き事件の有無に拘らず、北条岡本二家の応酬は虚日なかりしものゝ如くである。
花亭二十五日の書はかうである。「暑気漸厳、愈御清適奉賀候。御頼申候一事、色々御きゝ合被下候処、調不申候由承悉仕候。(恐らくは佐渡に往くべき儒生を覓めて得なかつたのであらう。)御煩労かけ候事悚息仕候。高作(歳寒堂遺稿不載此詩)君子の子、子孫の子、異用にも候へばくるしかるまじく、郎君をかへ候方歟などと存候処、君子を吉士と御改可被成やのよし、何様是はそれに而もよろしくや。近有を近見と被成候ては、対句のつり合少しわろくなり候歟。近有終無、改がたきやにも覚申候。有常等の聯何と歟御直し被成方もあるべくや、坤ノ字を韻に押て、此二句のこゝろをいひ廻し方有之候やなどと存候迄に而、存付も無御座候。ニノ有字いづれ一つは御改換不被成候ては難愜やうに覚候。扨かやうの処に至て困り候事に御座候。草々申残候。頓首。五月廿五日。」此の如き商量の書は常に二人の間に交換せられたことであらう。
次にわたくしは二十七日の書を抄する。「昨日は簡教拝桶、愈御安寧奉賀候。医者之事に付、以別紙御示、委曲被仰下候趣、かたじけなく奉存候。此医師私は存不申候へ共、親戚中兼而療治もいたし、山崎父子も懇意に而御座候故、佐渡行申試候処、断に御座候。乍去立帰りになりとも参るまじきやと相談中に御座候へども、それも如何あるべきやのやうすに御座候。被懸御心わざわざ被仰下、呉々も忝奉存候。小野、津山両氏へも宜御挨拶奉憑候。冗甚。御答迄草々申残候。頓首。今村氏詩稿瞥見而已に而、其後塵事取紛候而罷在候。さしていそぎにもなく候はゞ、今少し御かし置可被下候。とくと閲申度候。貝原一軸の事領諭仕候。」
霞亭の薦めた医師はその何人なるを詳にしない。小野氏津山氏は儒生若くは医師を物色した人々であらうか。山崎父子は花亭の親近者にして、霞亭も亦知るに及んでゐたらしい。詩稿の作者今村氏は蓮坡勝寛であらう。貝原云々の句は益軒の書幅が霞亭花亭二人の間に授受せられた如くに読まれる。
六月に入りて後も、花亭霞亭の応酬は旧に依つてゐて、存する所の資料中先づ挙ぐべきものは花亭の七日の書である。「大暑愈御安佳奉賀候。扨は甚恐多(き)願に候へ共、君侯侍史御筆を急に頂戴仕候事は相協申まじくや、万一侍史下へ御伺被下候事も相成候筋に御座候はゞ、子罕却玉図に而御座候。是へ左伝の全文なれば百字ほど御座候、節略して不若人有其宝迄なれば五十余字に御座候。是を御染筆奉願度至願に御座候。其上自由がましく重畳恐入、申兼候事に御座候へ共、先日も御聞に入候佐渡へ罷越候親戚へおくり候画に而御座候。首途迄に間に合候やう仕度候。(原註。来る十五日立可申歟に御座候。)十二三日迄にも御染筆相協候はゞ、無此上大幸に御座候。色々自由箇間敷申上兼候事に御座候へ共、先づ願試候。何分宜奉希候。今日は御上屋敷へ御当直と被存候間、もし何と歟御伺被下候筋もやと、旁申上試候。幸に相協候事に候はゞ、明日図はさし上可申候。草々頓首。岡本忠次郎。北条譲四郎殿。」
花亭は、泉本忠篤に子罕玉を卻くる図を贈るに当つて、霞亭を介して、棕軒阿部侯をしてこれに題せしめむとするのである。
子罕の献玉を受けざる事は左伝襄公十五年の下に見えてゐる。子罕は所謂戴族四氏の一なる楽氏で、宋の平公に仕へて司城の官に居つた。さて平公の十八年に下の如き事があつた。「宋人或得玉。献諸子罕。子罕弗受。献玉者曰。以示玉人。玉人以為宝也。故敢献之。子罕曰。我以不貪為宝。爾以玉為宝。若以与我。皆喪宝也。不若人有其宝。稽首而告曰。小人懐璧。不可以越郷。納此。以請死也。子罕ゥ諸其里。使玉人為之攻之。富。而後使復其所。」花亭は姉壻の官に居つて廉潔ならむことを欲して、子罕の事を画かしめ、これを贐にしようとしてゐるのである。上に引いた左氏の文は凡九十九字を算するので、「百字ほど」と云つたものである。「節略」するときは五十九字となるのである。
百五十七
壬午(五年)六月二十三日に霞亭は書を茶山に寄せた。浜野氏はわたくしのために人に此書を影写せしめた。しかし影写した草体尺牘は霞亭の筆蹟を読むに慣れてゐるわたくしにも読み難い。わたくしは已むことを得ずして、下にその僅に読み得た数条を抄出する。わたくしは読み得たと書した。しかし是も亦字の如く解すべきではない。読むべからざる字は已むことを得ずして補塡したのである。「四月廿二日、五月廿六日両回の尊簡、先日相達、拝読仕候。早速拝答可仕候処、追々書状差上、無別条故延引仕候。御海恕可被下候。時下暑蒸、尤例よりは緩き好き夏と奉存候。兎角雨がちにて、御国辺も打続雨天の様子高詠にて承知仕候。御塾には雨湿あたりの人も有之候由、御一家無御別条候哉。お敬も追々快復、此節は常体に御座候。先達ては団魚丸の事御願申上候得共、小野氏過般製しくれ、其後下総辺より大鼈到来、夫にて家内にても製し申候。既に御製し被下候やも不知候得共、未だしならば先よろしく候間、御見合被下度候。」「太田大夫(全斎)御無事に候。彼家には四月中養子出来候。藤七郎と申武田団平弟に候。又太郎後家に配偶いたし候。右藤七郎近頃大目付役被仰付候。」「先達而田内(月堂)より申上候四書附攷の本書の事聞合せ申候。集註を本書といたし候附考の由に御座候。別に附考定本弁と申もの見当り候まゝ差上候。先達而田内より差上候ものと同物なりや不知候。代はいつにても御序有之候節御遣し可被下候。実はいさゝかのもの、いかやうにてもよろしく御座候。」「新居大工の事に付態々被仰越難有奉存候。被仰下候通一々御尤に奉存候。幸に田内懇意にいたし候御作事方役人錦織庄助と申者相頼、それが万事引受世話いたしくれ候。直段の処もいろいろ御座候而、四通の内最下等の処にて申付候。四十七両にて受合、別に雑費三両程かゝり、五十金にたて上げ候。此上道具其外当用に十両位もいり可申候。先書八十両と申上候由なるが、是は誤筆にて可有之候。或は小学翻刻入用の出金と一筆にいたし候やらむと存候。伊藤仙之助に相談可仕様被仰越候得共、仙之助は御上屋敷に有之、又格別懇意に無之候故相頼申さず候。今年は普請中始終雨がち壁等かわき不申、漸う此頃たて上仕候。当月晦には移居のつもりに候。左様思召可被下候。書外近き内奉期再信之時候。恐惶謹言。六月廿三日。北条譲四郎華押。茶山老先生函丈。」
浜野氏撰太田全斎年譜を按ずるに、太田又太郎は全斎の第三子にして、初称は信助、名は武群、前年辛巳(四年)十月五日に歿した。又太郎の未亡人とは年譜の乙幡氏きん、後の名とみであらう。浜野氏の言に拠るに、又太郎の結婚は二月二十九日であつた。
四書附攷は「文化十一年刊、呉県呉志忠輯、四書章句集註附攷」の事ださうである。是も亦浜野氏の言ふ所に従つて此に注する。
霞亭が嚢里の家は金五十両を費して建てられた。そしてこれに移るべき期日は六月晦に予定せられてゐた。団魚丸を製した小野氏、茶山が霞亭に勧めて造営の事に与らしめむと欲した伊藤仙之助の何人なるかは未だ考へない。
霞亭は茶山に書を寄せた日に、又大坂蔵屋敷の園部長之助に書を与へて、郷書を伝達する労を謝した。此書は福田氏の蔵する所で、わたくしは其謄本を得た。此には末の一節を抄する。「扇面二、任有合御慰に進上仕候。御笑納可被下候。歌は楽翁様御小姓頭田内主税詩は同勘定組岡本忠二郎。」園部は紙端に「文政五午年七月八日達」と注してゐる。
百五十八
文政壬午(五年)の六月晦に霞亭は駒籠阿部邸内の新居に移つた。此事実は下に引くべき書牘に見えてゐる。歳寒堂遺稿には先づ「移居」の五古がある。五山堂詩話の例を破つて収録した長篇である。詩中に「移徙七月初」と云つてあるのは、妻孥を迎へ筆硯を安んじた時を斥して言つたのであらう。
七月七日に霞亭は阿部侯の邸に宿直して索麪を饗せられた。「七日当直、賜近臣索豹、因物寓感、遥寄茶山翁」の五古は此時の作である。
高野の僧恵充が新茶を寄せ、陸奥の熊阪盤谷が訪ひ来つて継志編、稇(原文は木が禾)載録等の書を贈つたのも、恐くは此頃の事であらう。彼は「新居雑賦」の第四首の自註に見えてゐる。此は霞亭をして「陸奥熊阪君実来見贈其所著継志編、稇載録等書」の七律を作らしめた。律は「熊氏書香久所聞、忽来敲戸手携文」を以て起つてゐる。盤谷は祖父を覇陵と云ひ、父を台州と云ひ、並に文字のある人であつた。
わたくしは又霞亭が日暮里に遊び、上野感応寺に旧友芳沢某の墓を弔したのも、此時より遅るゝこと遠からざる程の事であらうと推する。何故と云ふに此月の末には霞亭が既に病に嬰つてゐたからである。遺稿に「日暮里台即目」「感応寺看一碑、読之乃知芳沢儒生歿已久矣、二十四年前、余初見君於京師、蓋其趣崎嶴時也」の二絶を留めてゐる。二十四年前は寛政十年で、霞亭が京都の皆川淇園に従学してゐた時である。
霞亭の未だ移居を報ぜざるに、茶山は七月二十二日に又書を霞亭に与へた。中にかう云つてある。「土木いかゞ仕候哉。既に経始之後に而鄙説も間にあひ不申候や。然どもせいぜい倹約に可被成候。今一度たてかへるほどは金も貯(此一字不明)不申ては江戸の住ゐは出来不申と存候。」前に茶山の霞亭に家屋の事を言つた趣意は、此書に由つて簡明に表示せられてゐる。書は浜野氏のわたくしに視したものである。
二十五日に霞亭は書を碧山に与へた。「呈一簡候。残蒸退兼候へども、朝夕は余程秋涼を覚え候。然し御清佳可被遊御揃奉恭祝候。当方皆々無事罷在候。乍憚御放意可被下候。私も新居漸う落成、六月晦に引移申候。内造作なども追々片付申候。幽僻なる所にて得其処申候。先々安心仕候。雑費は存外臨時出申候。甚麤作なれども、六十五金余に及候。苜蓿先生物力尽申候。まだこの上に井を掘候に五金ほども入候由、なにもかも新規故、存外ゐる事に候。石にても土にても皆々買得いたし候事に候。すまひは甚勝手よろしく候。うら之外に畑などもとられ、竹林有之候。拙詩にてその様子御想像可被下候。新太郎眼気如何。山口凹巷、甚平両君より先達而猿田彦鎮宅符及金百疋祝儀に参り申候。御逢のせつ御礼可被下候。此方より船手へものいだし候節は井上へ遣し候てよろしく候得共、届候処的矢にては風次第なれば承知いたし申間敷、如何いたし候てよろしきや被仰聞可被下候。先達而の壒嚢並に和漢故事など返納いたしたく、且小学纂注も大方出来あがり候故、遣し度故に候。これは飛脚にてもしれたる事なればいそぎ不申候。浅井書通、北谷玄安も当春死去いたし候由、打続不幸跡には一人もなし、気之毒なるものに候。残蒸折角御自愛専一奉祈候。不及申二尊様へは万事可然奉頼候。余期再信之時候。恐惶謹言。七月廿五日。北条譲四郎華押。北条立敬様侍下。良助へ、暑中御見舞御状辱、宜敷頼入候。其外相識中へ宜敷奉頼候。何ぞ相応の用事御坐候はゞ被仰越可被下候。以上。むら竹の窓にそよげばさよあらし嵯峨野の庵に吹くかとぞ聞く。狂歌に。両方に口のあいたる袋町そこをたづねよ我家はあり。」
移居の日が六月晦であつたことは、此塙証を得て復動すべからざるものとなつた。新居雑賦の幾首かゞ此書と倶に寄示せられたことも、亦「拙詩にて」云々の句に徴して知ることが出来る。且狂歌の「袋町」は漢訳嚢里の原語なること疑を容れない。
「小学纂注も大方出来あがり候。」是亦霞亭伝中の最重要なる句である。霞亭は便宜を得てこれを碧山に贈らうとしてゐる。又塔嚢抄と和漢故事とは前に的矢より到つて、猶霞亭の許にある。
歳首に生れた碧山の子は果して「新太郎」儼であつた。当時眼疾に罹つてゐたと見える。
其他北谷玄安といふものが壬午(五年)の春歿して、浅井周助がこれを霞亭に報じた。山口凹巷と共に鎮宅符を霞亭に贈つた甚平は誰か、未だ考へない。
百五十九
壬午(五年)七月二十五日に田内月堂の霞亭に与へた書は、浜野氏のわたくしに示した尺牘の一である。「築地園中之勝地之名凡三四十景みだりに名づけ申候。その内恍然島御寄題御托申候様、宜相願候へと申付られ候。扨この島の和名は名ごりのしまと唱申候。もと此名は七八箇年以前奥松島遊覧いたされ、彼地之絶景常に心頭に来往いたし、池を穿て松の島出来候所、おのづから松島之島のけしきに似寄、この池之島を見るごとに絶景を想慕いたされ候ゆゑ、この名つき申候。この丹罫紙へ御揮写可被下候。異なる紙に候が、是は碑石之大きさにて御坐候。その箇所々々各碑一本づゝ建申候。詩歌を彫、地名を表申候。白河転封にて何角一藩多忙に御坐候。大夫之隠居、吉村又右衛門之父なり、病にて年若く辞し、退隠仕候而、只風月文墨にのみ耽好のをとこに候。南湖に別荘あり、その御寄題相願度よし申越候。これは春の事にて候ひき。今桑名へ行てはいらぬやうなれども、先生之佳作なくては遺憾に可存、転封はしらぬふりにて御一首御構成奉祈候。外に一双如別紙相願申候。乍御面倒ひとつびとつ相願申候。各横巻也。料紙呈上仕候。頓首。七月廿五日。輔拝具。歳寒園主人君。」
月堂が築地園中の恍然島のために霞亭の詩を求めたのは、楽翁侯の命ずる所である。わたくしは今海軍大学校になつてゐる旧邸の園に、文字を刻した石の幾箇かゞ遺つてゐることを聞いた。恍然島の標石は其中に存してゐるや否や。
書中に謂ふ転封は両松平と阿部との間に行はれた。元の奥平氏姫路少将忠明の裔松平下総守忠尭が伊勢国桑名郡桑名より武蔵国埼玉郡忍へ移り、楽翁侯の嗣松平越中守定永が陸奥国白川郡白川より桑名へ移り、阿部善右衛門正勝の裔鉄丸正権が忍より白川へ移つたのである。
此書を得た時、霞亭は既に脚気を病んでゐた。そして其病は遂に癒えなかつた。わたくしは翌日岡本花亭の霞亭に与へた書に由つてこれを証することが出来る。亦浜野氏の示した所である。「拝誦、御清適奉賀候。乍去御脚疾に而御引籠の由、御困り可被成、折角御保養奉祈候。豚児共も両人共久々重腿の患に而困却致候。時気により候や、此夏は所々に有之候。聯玉(山口凹巷)壮寧のよし被仰越候趣具悉、近便私への伝言も委曲申来候由、忝事に御坐候。私も大に無音仕候。御返書被遣候時、何分宜奉願候。御国元御家老方より御一幅托題御求のよし、其外扇頭白紙等被遣被仰下候趣、被入御念候事に奉存候。容易之儀、不日に相認可申候。御新居趨賀こゝろ掛居候へ共、近来冗紛、日又一日延引仕候。何れ近日御尋可申上候。来月この頃には墨水辺へ御同伴仕度含罷在候。何分御脚疾御保護奉禱候。草々拝答、余は期面晤候。頓首。七月廿六日。成復。霞亭雅宗梧下。茶山先生へ大御無音、やうやう昨日長崎奉行発軔に付し、一封呈し候。如仰昨夜は暴雨、暑はかくて退候半。甚御遠々敷候。ゆるゆる御物語を期し、何事も申残候。御風呂敷もとゞめ置候。」
花亭の茶山に寄する書を托した長崎奉行は、此月に問宮筑前守信興に代つた高橋越前守重賢である。
八月十日に古賀穀堂が書を霞亭に与へた。「秋暑未退候処、愈御清福被成御奉職奉賀上候。御出府後毎度御尋可申上相心得居候処、御聞及も可被成、俗務牽絆不得如意、大背本意候。何とぞ不遠内遂御一面度候。此筋御序御座候はゞ御尋可被下候。何とぞ結社請教(度)ものと存候。東都も諸家林立候得共、色々之流義御坐候と相見、且暇も無之、皆以遠々敷罷過申候。茶山先生毎々御恵書此方よりは甚失敬仕候。別書奉復仕候間、御序に被遣被下度御頼仕候。御近著之書御垂示被成度、此段奉得御意候。草々頓首。八月十日。Z。北条仁兄。尚々此書昌平諸生へ嘱候間、御落手遷延候(事)も可有之と存候也。」此書は艸体読み難きが故に、所々意を以て補塡した。穀堂は社を結んで学を講ぜむとして、霞亭にこれを謀つてゐる。此時穀堂は年四十六、霞亭より長ずること三歳、父精里を喪つて後六年である。弟伺庵は三十五歳である。
百六十
壬午(五年)八月十二日に田内月堂が書を霞亭に与へた。「例之秋霖いとはしく候。先以御快方とうかゞひ、欣抃無佗事候。何卒いゆるに加りし説御慎可被成候。さだめて御絶房と奉存候。恍然島は御詩体いか様にても御随意に可被成下候。是まで絶句も律もあり、あの紙竪に一ばい御認可被下候。題名はなくてもよろしく候。今日は取込用事のみ、頓首。八月十二。月堂上。霞亭先生函丈。」霞亭の脚気は一時病勢が緩んでゐたと見える。「いゆるに加りし説」とは韓詩外伝の「病加于小愈」を用ゐたものであらう。此書は霞亭が恍然島に題する詩の何の体を以てすべきかを問うたのに対へたものである。以上数通の尺墳は皆浜野氏がわたくしに示した。
十四日には霞亭が嚢里の新居に独坐して、酒を酌み月を賞した。歳寒堂遺稿の詩を見るに、殆ど病の身にあるを忘れてゐたやうである。「十四夜。山妻向晩摘畦蔬。窓戸豁開親掃除。無復故人尋僻処。且将佳月酔新居。虫声満砌吟相和。歌吹誰家聴漸疏。忽見片雲頭上黒。陰晴明夜果何如。」霞亭は此夜の夢に伊勢の山口凹巷を見た。「是夜夢韓聯玉、醒後賦。官羈未遽卜帰休。蹤跡東西恋旧遊。踽々唯供衆人笑。茫々常抱百年憂。音書鴻雁孤楼月。風雨芭蕉一枕秋。安得君来如夢裡。墨川春載墨川舟。」
十五日は天が陰つて風が勁かつた。遺稿に曰く。「中秋無月。陰雲撥墨圧檐端。痴坐無言向夜闌。野靄蒼茫桂香湿。天風蕭瑟雁嘶寒。人情未免偏為怨。世事従来是此観。旋徹杯杓引衾臥。竹声如海夜漫々。」
二十九日に霞亭は月堂に書を与へ物を遺つた。時に月堂は喪に居つた。しかし未だ死者の何人なるかを考へない。月堂のこれに対へた書は浜野氏の示した書牘の中にある。「秋冷相加、日々御快方奉恭賀候。尚又御加養専一奉祈候。恍然島いつにても御快愈之上御構思被下度所希に候。吉村又右衛門願之別業南湖寄題之御作、是又いつぞ御揮毫被下候様相願申越候。くれぐれ此上御摂養第一奉存候。とかく御疎音恐入候。頓首。八月廿九日。別啓。喪居御訃(恐当作賻)問被下、其上御国産之名品御投被成下、千万々々奉拝謝候。毎々御懇情感荷々々。御ふろしき返上仕候。以上。御返事は御面倒なるべし。必御筆を労すべからず候也。月堂上。霞亭先生。」
是月に霞亭は菊を栽ゑ、又隣家なる伊沢蘭軒に乞うて梧桐と芭蕉とを移し種ゑた。遺稿に「従蘭軒処覓梧桐芭蕉」「種菊」の二絶が見えてゐる。
又小学の校刻が功を竣つて、霞亭が自ら其一本を携へて岡本花亭を訪ひ、これを其子に贈つたのも、是月の末であつた。事は九月朔の花亭の書に見えてゐる。
花亭の九月朔に霞亭に与へた書は下の如くである。書は浜野氏がわたくしに示した。「今日は暫晴候へ共、又可変天気、扨々久雨可厭候。御脚疾趣軽(此二字不明)快候や如何。往日は御出被下、折節南部伯民対酌之処に而、幸と相悦、早々御通し申候へと申付候処、客来と御見受被成、被仰置、直に御帰被成候由故、急ぎ一奴走らせ候へ共、早御うしろ影も不見よし、他客にもあらば社、よき折から御出も被下候に、扨々遺憾、御噂申あひ候事に御坐候。其節は新刊御蔵版の小学纂註一部御携、豚児に御恵被下、此本先日も書中申上候通、借用望居候書に而、御蔵版出来候事は存不申、御返書委曲被仰下候而、不存寄事と相喜相示罷在候処、早速新版御恵被下、かく丁度なる幸も有之物かと、喜出望外、御礼難申尽感領仕候。版も至(而)宜出来、善本に而、別而悦敷、呉々も辱御事に奉存候。児此節脚疾に而、一向歩行不相愜候故、快復の日趨拝御礼可申上候へ共、先づ私より宜御礼申置呉候やう申聞候。さて私も御尋可申、久敷心掛候へ共、天気もあしく、かれのこれの延引仕候。御海涵可被下候。いづれ近日拝話を期候。昌光寺のたのみ物御面倒奉存候。鵬斎病中急には出来兼可申よし、左候はゞ、別人へ画を御属、御題賛被下候共、画なしに高作ばかり御一揮被下候共、可然やう可被成下候。頓首拝白。九月朔。忠次郎。譲四郎様。」  
 

 

百六十一
霞亭の校刻した小学纂註は清の高愈の作る所の書である。当時倭刻本として世に行はれてゐた小学は、元禄七年刊の明の陳選の小学句読があつたのみで、高氏の纂註の如きは未だ翻刻せられなかつたのである。今日より視ても、小学は晩出の貝原篤信、竹田定直師弟の手に成つた福岡版の集疏を除いては、福山版の纂註を推さざることを得ない。
星野恆さんは霞亭の纂註を取つて漢文大系中に収めた時、歙西豊芑堂版の心遠堂本と此纂註とを比較して下の如く云つた。「今二本を対校するに、豊芑堂校刊本は首に高愈の凡例十則を載せ、次に朱子年譜を載せ、次に小学総論を載せ、然後朱子句読及題辞を載せ、而して題辞は直に内篇立教篇と連接す。福山藩翻刻本は首に高愈の同学弟華泉の康煕丁丑(三十六年)の序を載せ、次に篇目を載せ、次に総論を載せ、然後朱子の題辞及題小学を載せ以て本篇に接し、(但本篇は紙を別にし、直に連接せず)而して凡例及朱子年譜なし。然れども豊芑堂刊本の朱子総論は僅に七条を録し、福山藩翻刻本の総論は程子朱子以下十八人の説凡三十条を録す。又其題小学の下、註して原本作小学句読、未知何拠、或云、始於陳恭愍(選)、又有作小学書題、小学題序者、皆後人以意名之、今依朱子文集改正とあり。而して豊芑堂校刊本は此註なく、其題猶小学句読に依れば、福山藩翻刻本の高愈晩年の定本たる審なり。故に今之に拠る。其凡例年譜なきは、凡例に陳選句読の短を挙げ、自ら朱子編輯の本旨を明にせるを述べたるを以て、意自ら快とせず、華泉の序に代言せしめ、以て凡例を刪去せしか。又朱子年譜は凡十一葉あり、其稍冗長なるを以て、亦之を刪りたるか。今其原本を得ざるを以て、其意を詳にする能はず。但四庫全書総目の子部儒家類目に小学纂註を載せ、編修励守謙家蔵本と注し、後附総論及朱子年譜とあれば、其見る所の本も豊芑堂校刊本と同種なるべし。」今霞亭の取る所の纂註本のいかになりゆきしかを審にしない。
現存の霞亭校刻の纂註には凡そ二種の本がある。其一は巻端に「文政五年壬午夏、清本翻刻、重訂小学纂註、福山藩歳寒堂蔵板」と題し、末に「福山藩歳寒堂蔵板、江戸発行書舗新乗物町鶴屋金助、池端仲町岡村庄助、本石町十軒店英平吉」と記し、更に嵯峨樵歌、薇山三観、帰省詩嚢の三既刊書の目を附したものである。其二は巻端の「福山藩歳寒堂蔵板」に代ふるに、「福山誠之館蔵板」を以てし、末の「福山藩歳寒堂蔵板」を削り、又既刊書目を載せない。按ずるに彼は初印にして、此は後に改められたものであらう。
此二種の本は並に福山図書館に存して居り、浜野氏も亦これを併せ蔵してゐる。二本は唯端末を改刻したるに止まつて、固より同本である。装して「元亨利貞」の四本となし、元亨に巻一より巻四に至る内篇を収め、利貞に巻五より巻六に至る外篇を収め、毎巻頭に「高愈纂註」、毎巻尾に「後学北条譲校読」と記してある。
百六十二
霞亭の校刻した高愈の小学纂註の現存諸本中尤も珍とすべきは浜野氏蔵の歳寒堂初印本で、即松崎慊堂の手沢本である。此本は所々に幹枝月日を記し、又間成徳書院の名を註するを見る。慊堂は此書を携へて下総の佐倉に往き、これを成徳書院に講じたのである。
成徳書院は南山吉見頼養の総裁たる学校で、南山と慊堂とは親善であつた。平野重久撰の「南山先生吉見君墓碣銘」にも、「先生、博学強記、於書無所不読、慊堂松崎翁常称其学殖」と云つてある。然れば慊堂の携へ往いた書は友人霞亭の校刻する所の書で、その講説した学校は知人南山の督理する所の学校であつた。
浜野本に記してある于支月日は、天保八年慊堂六十七歳の時より十一年七十歳の時に至つてゐる。浜野氏の抄出する所は左の如くである。
巻一、十葉、終、裏「丁酉(天保八年)四月二成徳書院」
巻二、三ノ裏「四月十」
同七ノ裏「四月廿」
同十ニノ表「十一月十二」
同十四ノ表「丁酉十二月二日」
同十九ノ表「戊戌(天保九年)四月二」
同廿一ノ裏「戊戌四月廿」
同廿六ノ裏「戊戌閏月(閏四月)十二日」
同卅一ノ表「戊戌閏四月廿」
同卅三ノ表「戊戌五月十二成徳書院」
巻三、五ノ表「戊戌六月二」
同八ノ表「戊戌六月十二成徳書院」
同十一ノ裏「戊戌六月廿二」
同十四、終、表「戊戌七月二日」
巻四、四ノ表「戊戌八月二日」
同七ノ裏「戊戌八月十二」
同十一ノ表「戊戌八月廿二」
同十四ノ裏「戊戌九月二」
同十七ノ表「戊戌十月十二」
巻五、四ノ表「戊戌十月廿二」
同七ノ表「十一月七日」
同十一ノ表「戊戌十一月十二」
同十四ノ裏「戊戌十二月二日」
同十七ノ表「戊戌十二月十二」
同廿三ノ表「己亥(天保十年)三(正ヵ)月十二日」
同廿五ノ裏「己亥正月廿二成徳」
同廿九ノ裏「己亥三月廿二」
同卅三ノ表「己亥四月二」
同四十ノ裏「四月廿二」
同四十五ノ表「己亥五月二」
同四十九、終、裏「己亥五月十二」
巻六、四ノ表「己亥五月廿二」
同八ノ表「己亥六月十二」
同十一ノ裏「己亥七月廿二」
同十六ノ表「己亥八月十二」
同十九ノ裏「己亥八月廿一」
同廿四ノ表「十月二日」
同廿八ノ裏「己亥十月十一」
同卅三ノ表「己亥十月廿二」
同卅八ノ裏「己亥十二月廿二日」
同四十ニノ表「庚子(天保十一年)二月廿二」
同四十五ノ裏「庚子三月十二」
同五十一ノ表、終「庚子三月廿一」
記する所の講席は凡四十四度である。しかし第一講の十葉は稍多きに過る如くである。或は其間に記註を脱したもの歟。其他巻二の終頁即第三十六葉、巻四の終頁第廿一葉の如きも、記註を脱することなきを保し難い。慊堂の小学の講席は恐くは五十度に近かつたことであらう。
慊堂の佐倉侯のために書を講じたのは、何れの年よりの事であらうか。浜野氏の検する所に従へば、其初は文政三年なるが如くである。慊堂旧蔵の和漢年契文政三年の下に「四月十三日、赴講佐倉侯」と書してあるが故である。しかし此に一の疑がある。それは此講書の事が或は早く其前年文政二年に始まつたのではないかと云ふことである。同じ和漢年契文政二年の下に「四月始赴佐倉侯講」の文が見えてゐるからである。唯文政二年の記註の輒従ひ難きは、慊堂旧蔵の文政二己卯の暦本にこれと矛盾するに似たる記註が存してゐるが故である。即「文政二年二月廿三日発都、三月十四日入京、三月廿八日游吉野、閏四月六日発京、同十八日帰都」の文である。此に拠れば己卯四月は慊堂の京都に淹留してゐた月で、佐倉に往くことは出来なかつた筈である。文政三年は慊堂五十歳、若しこれに先つこと一年とすると四十九歳である。とまれかくまれその小学を講じたのは、佐倉侯のために書を講ずることを始めた後十六七年の頃の事である。佐倉は堀田相摸守正愛の世より備中守正篤の世に移つてゐた。
慊堂は小学を講じ畢つた後、庚子(天保十一年)四月二日より近思録を講じたのである。
百六十三
小学纂註は文政壬午(五年)九月六日に和気柳斎と田内月堂とに寄贈せられた。柳斎の復書はかうである。「謹読仕候。如貴諭秋冷相成候処、被為揃愈御安寧被成御興居、欣然之至に奉存候。然ば小学御翻刻御出来に付、悴方へ一本御恵投被成下、千万難有奉存候。外十部之儀奉諾候。書肆定価十五銭、目下之処御手元より出候分は十三匁之由是亦奉諾候。九日殊により御光臨も可被下候旨、何卒御出に相成候様仕度候。来月(十月)五日頃海晏寺之事承知仕候。講義中匆匆拝復。九月六日。和気行蔵。霞亭先生左右。」
月堂の復書はかうである。「薫誦。心ならず御疎音打過候所、はからず御手簡被投、忙手拝披、先以御挙家御栄祥と相伺、欣抃無他事候。都下之寒暄俄混交、折角御保養専一奉祈候。さて小学纂註御上木御落成に付御恵被成下御厚情奉拝謝候。永く珍襲、孫裔共に相譲可申候。外に十部旧友へと為御持被下、是又忝奉存候。文事好候もの一人も無之、誠に可恥事に候。しかし先々懇友共へも相示可申候。先々五部御あづかり申候。其内一部隠居(楽翁侯)へも御贈り被下候ては如何哉。御同意に候はば、別に御示被下候に不及候。此方にてよき様に取計申候。中秋無月尤寥々、ことしの様にふる事も稀にて候。佳作数篇御抄録被下、千万有がたく、私疝利にて病臥、徒然を慰可申候。くれぐれも奉拝謝候。御詠草とく醒翁(花亭)へ転送いたし候。翁の若(此字不明)き事無限候。老先生(茶山)より画料百匹相達文晃へ遣候。右之御礼をもこの初夏の比申上候。御使いそぎ、其上肩背痛、艸々拝復、頓首。九の六。月堂上。霞亭先生。廿二日(八月)大風雨の夜に。雨風にあれし軒はをもりかへて夢のとたとる夜半の月哉。博祭。」
霞亭は小学を友に贈り又は友の子に贈りて、同時に友に数部を託し、人に売らしめむことを図つた。後の霞亭が書牘に拠るに、霞亭は阿部家の金を借りて刻費に充て、数年を期してこれを償はむと欲してゐた。友に売ることを託した所以である。小学の贈を受た二友の書中、月堂の書には頗る注目すべきものがある。一、霞亭の小学は月堂が介して白河老侯に献じた。二、霞亭は和歌を詠じ、例に従つて月堂と岡本花亭との閲を乞うてゐる。三、菅茶山は文晃をして画を作らしめ、月堂に託して潤筆銭を餽つた。柳斎の書には特に言ふべきものが無い。
百六十四
文政壬午(五年)の九月九日には、霞亭が詩を茶山に寄せた。歳寒堂遺稿に曰く。「九日寄茶山翁。妻児対酒話郷関。想得旧園籬菊斑。高興不知如昨否。誰扶籃轝向何山。」此前日に茶山に「想君攜上馬頭山、屢顧籃轝欧六一」の句があつた。君は来飲の諸客を斥して云ひ、欧陽修は茶山が自ら比したのである。九日には茶山が又文化十一年の重九を回顧して七絶三首を賦した。中に「酔把茱萸想旧朋、何山此日共吟登」の句がある。何山の二字は両処に於て同日に用ゐられた。
十一日に霞亭は的矢の書を得た。そのこれに答へた書の断簡が的矢尺牘中にある。「八月十七日芳簡、九月十一日自井上相達、披見仕候。秋涼愈御安泰被遊御揃、奉恭賀候。当方無事罷在候。乍憚御放意可被下候。然者為新居祝儀、酒尊一御恵投被成下、千万難有奉存候。御双親様へ可然御礼被仰上可被下候。併甚大そうなる御進物甚恐入候。私方にては何よりの品にて、大方正月頃迄は是に而相済可申候。わけて甚佳酒にて、ぴんといたし候て、私口中に適し、実に難有奉存候。小学一本進上仕候へば受納可被下候。良助へも一本御遣し可被下候。此度小学翻刻、大分板はよく出来候へども五十金近く費用入申候。殆ささへ兼申候。併随分発行の様子にきこえ候。書林などへも追々出可申候。御地辺望候人候はば御世話可被下候。此表書林定価は百疋に候。私方より懇意中などへ直に差出し候は十三匁宛にいたし候。呂氏春秋当春文亮へ世話いたしもとめ遣し候処、不用の由に而足下へ遣し候由、あれは大分美本に而二分二朱にて買得いたし候。御入用に候はば進上いたし候。代料には及不申候。格別御好にもなく候はば、いつにても舟便のせつ御遣し可被下候。いかやうにてもよろしく候。先便摩翳(二字不明)散並に金子入書状相達し候哉。此度御書面新太郎眼翳(上の翳と共に医に作れるが如くなれども、臆度して翳とす)も追々うすく相成よし、一段之儀に候。併かの散薬御試に御用可然候。庭園に、新開の地故、一樹も無之候処、追々あちこちよりもらひ候ものうゑ候。大分よろしく相成申候。少々畠も有之、大根などまき候。柳の枝、蜀(不明)も蘇も、七八寸許宛四五本、大根へ根の方をさしこみ被遣可被下候。これも船便なんぞの荷の中へ入被遣可被下奉煩候。その序に松菜のたね少々御遣し可被下候。」此下裂けて無し。書は九月十一日後両三日の間に作られたものであらう。宛名の例の如く碧山であつたことは殆疑を容れない。小学纂註は二弟が各一本を獲た。碧山の息新太郎(儼)のために、伯父霞亭は眼を治する薬を贈つた。霞亭の求むる柳のうち、一は菅家より分たれた蘇州の種であらう。蜀字は不明で、又蜀に産した柳の的矢の家にあつたことも未詳である。
十九日に霞亭は書を花亭に与へ、花亭は直ちにこれに酬いた。「如諭□□(二字蠧蝕)天秋寂、愈御勝適奉賀候。往日は趨拝、緩々御清誨、太暢懐仕候。色々御馳走相成、御懇款さてさてかたじけなく奉存候。御口号御眎被下乍一見先感吟仕候。何卒この通り御浄書御恵可被下候。呉々も辱奉存候。小学五部御もたせ被下奉謝候。望人へ相達可申候。扇頭御揮題是又奉謝候。拙詩、徐雪樵詩扇御擲還被下、接収仕候。御掛物拙題草案失ひ候而今に見出し不申、因而別紙認見候。かやうなる事したゝめ候而者不宜候半歟。猶かき方も可有歟と存候へども、只今草し候処へ御使来候故、まづ其儘掛御目乞正仕候。不宜思召候はば書改可申候。無御遠慮被仰下度候。又是にても引直し候はば不苦被思召候はば、無御遠慮御直し被下、問違たる事も候はば、傍へ御書入御指導可被下候。一二日内使上げ可申候間、其せつは痛刪の上御付還可被下候。長過而不宜候やとも存候。短くちやつと認替可申候や。何分高意被仰下候やう仕度候。匆々拝答、不具。御令政様へも前日の御礼宜奉頼候。二男御尋被下(候へ共)逐日快方にむかひ候。御放念可被下候。九月十九日。忠次郎。譲四郎様。」二人の間の応酬のいかに頻なりしかが想見せられる。又花亭が小学纂註の流布のために力を致した状も窺ひ知られる。
翌二十日花亭は霞亭を訪ひ、越えて二十二日に又書を寄せた。「一昨日(二十日)は色々御みせ被下奉謝候。扨々面白き事共(に候。)其内画軸題言は妄評別紙かき付候。拙文末の方改、其外こゝかしこ刪潤いたし候。今一応とくと御覧被下、高意残りなく被仰下候やう仕度候。別紙にも申候通冗に失候癖に而、さしてもなき事迄長々と人のかきたる見苦敷ものに候へど、自運毎々如此に候。程合よく、過不及なきは、何事もかたきものと覚候。呉々も御遠慮なく御痛刪可被下候。其上に而御軸に題可申候。茶山先生へはいつ頃御便あるべきや。一書呈度候。御書状御さし出の頃あひ承度候。獅子巌集へ御かき付被成候一首。苔衣うらなる珠のくもらねばうつるも清き月花の影。甚よろしく覚候。但三の句如何。裏なる珠を鏡にてと被成べくや。秀歌なるべし。書経蔡伝、同講義、御蔵本拝借いたし度と二男願候。楷書の法帖御約束(により)差出し候。一、黄庭楽毅(趙臨)一帖。一、続千字文一帖。一、明楷一帖。(明楷一帖の傍に細註して曰く。是は前後錯乱甚しく候。はしたに切々となり候を書林が心なく仕立候故失次候か。所々面白事もみえ候故懸御目候。)甚草々申残候。頓首、白。趙臨真草千文一帖も相添候。九月廿二日。醒翁。霞亭様。」花亭は自家の文章の冗漫を憂へてゐる。わたくしは多く其文を読まぬゆゑ、疵病の如何なるかを詳にしない。獅子巌集は霞亭と幽居の地を同じうした僧涌蓮の歌集なること、既に云へるが如くである。霞亭は平生楷書を善くせぬことを歎じてゐた。今多く楷書の法帖を花亭に借りたのは、臨書せむがためであつたかとおもはれる。諸帖の趙臨は趙松雪臨書であらう。
二十六日に霞亭は書を和気柳斎に遣つて小学纂註の売行を問うた。柳斎の復書はかうである。「捧読仕候。愈以戩穀被為在奉欣然候。前日は能ぞ御光臨被下、千万奉謝候。小学之事被仰下、社中逐々申聞候所、多分蔵書有之、或は返事なしにぐずぐずなど致、裁に三部片付き申候。右料三十九匁付貴价候。御落掌可被下候。先へより小学会読始申候。其節又相願候様可仕候。七部は先趙璧仕候。前日御咄之鯨肉乍些少差上候。御笑味可被成下候。観楓之事被仰下、少は遊意も動候へ共、近日少々普請に取掛り候故、此度は辜負仕候。未免俗、御捧腹可被下候。家族へ御致意被下、奉厚謝候。即申聞候。小生より宜御礼申上候様申出候。乍末令閨君へ宜奉憚候。匆々拝復。九月廿六日。行蔵。北条譲四郎様。」柳斎の交は花亭、月堂等とは自ら其趣を異にしてゐる。霞亭の此人に於けるは、略鵬斎に於けると相似たものであつたかも知れない。此書の末に詩一首が書き添へてある。「陪冠山老侯得風字。寒梁相隔水流東。貴賎雖殊道自同。絃管和潮塵世外。丹青染月玉堂中。新知雑旧談難尽。古義裁今感不窮。君作権衡吾老矣。欲乗海上冷然風。」詩中第一の東字の上の二字は読み難いので、姑く水流の二字を塡めて写し出した。又隔の字は大沼竹渓が下したものだと傍書してある。柳斎の詩は集刻せられたか否かを知らない。その竹渓に政を乞うたことは此柬によつて知ることが出来る。大沼竹渓名は典、一の名は守緒、字は伯継、通称は次右衛門、文政十年十二月二十四日、六十六歳にして歿した。法諡は仁譲院徳翁日照居士、墓は三田薬王寺にある。松平定常は此秋詩酒の宴を催したものと見える。上の花亭の二書、柳斎の一書は都て浜野氏の示す所である。(大正六年十月)  
 
霞亭生涯の末一年

 


わたくしは今人に松崎慊堂の日記を写させてゐる。丁度写し畢つて持つて来た天保八年七月四日の条に、「買羊羮六梃、二梃為一函、一函奠棭翁家塋、一函伊沢、一函小島」と云つてある。此狩谷棭斎一派の学者の事蹟を湮滅せしめぬやうにしたいと思ひ立つたのが、わたくしの官を罷めた時の事であつた。
初めわたくしの思つたは、近く説文会などが再興せられて、世に知られた狩谷は其事蹟も既に明かになつてゐるだらうといふことであつた。それが必ずしもさうでないことは後に至つて纔にわかつた。しかしわたくしは先づ狩谷を除いて、伊沢蘭軒、小島宝素の伝を作つた。以上は羊肇をもらつた人々であるが、わたくしはそれを遣つた松崎をも、狩谷と共に、比較的に知れわたつてゐる人と認めて跡廻しにしたのである。
さて蘭軒の事を叙してゐるうちに、これと親善であつた菅茶山の名が出たり、茶山が家塾を譲らうとした北条霞亭の名が出たりした。すると、蘭軒伝の東京日々新聞、大阪毎日新聞に載せられるのを見て、霞亭の書牘などをわたくしに借してくれる人が出て来た。是がわたくしの遂に霞亭伝を草するに至つた所以である。
とかくするうちに、わたくしは又出でて仕へたので、日刊新聞に物書くに便悪しくなつてしまつた。そこで帝国文学を借りて稿を続ぐこととした。然るに其帝国文学が休刊になつた。それが霞亭伝の将に終らむとする時であつた。
霞亭の歿したのは文政六年癸未八月十七日である。伝記の帝国文学に載せられたのは、其前年五年壬午の秋の末に至るまでである。跡には壬午の冬より終焉の癸未の秋に至る凡そ十二月間の事が残つてゐる。是が「霞亭生涯の末一年」である。
わたくしは雑誌「あららぎ」の片隅をまうし受けてこれを書き畢らうとおもふ。わたくしの伝へようとする人々の主なるもの、即ち狩谷、松崎等は、史に儒林と文苑とを分つとすると、必ずや儒林に入るべきで、到底文章家、詩人を取る文苑に入るべきではない。独り松崎のみは詩文も他人の企て及ばぬところであつた。
霞亭はわたくしの初より伝を立てようとした人ではない。儒林に入るとしても、文苑に入るとしても、あまり高い位置をば占め得ぬ人であらう。その代には此人は文章も作れば、詩も作り、剰へ歌をさへ詠む。しかしそれは「あららぎ」の片隅を借る分疏になる程のものではない。
これに反してわたくしは「あららぎ」の読者にかういふ事を思量してもらひたい。狩谷一派の学者は一切の学問の淵源を窮めなくては已まぬ人達である。漢文学に於て説文を講じた渠等は、松崎の友山梨稲川を除く外、完書を成就するには至らなかつたが、国文学に於て狩谷は和名鈔の所謂箋註を留与して、国語を正確に使用しようとするものの津筏となしてゐる。是は読者の些の思量を費して可なる事ではなからうか。

わたくしは嘗て霞亭の事を叙して文政壬午(五年)の秋末に至つた。そしてその既に記した所は此秋の事跡にして月日を徴することを得たものである。爰に的矢尺牘の間に來雑してゐた一張の破紙がある。わたくしは此破紙のわたくしに教へた所を此に追記する。
霞亭の主君棕軒阿部侯は壬午(文政五年)九月中に洲崎の別荘に遊んで詩を賦した。そして霞亭にこれを刪潤せむことを命じた。詩は七律で、「壬午季秋遊洲崎別荘攄懐」と題し、末に「阿精未定稿、乞斧政」と書してある。第一の二字、第七の二字、第八の一字は全く毀損せられてゐる。二聯は間半ば闕けた字があるが、猶読み得られる。「秋闌池畔菰蘆折。日照岸辺松樹遮。為奉洪恩趨殿閣。難抛簪笏臥烟霞。」これを書したものは阿部侯にあらずして霞亭である。推するに霞亭は侯の詩を削つて還す時、副本を作つて留存したものであらう。若し棕軒侯の詩文集が存してゐるならば、全璧を知ることが容易であらう。
阿部侯の此遊には霞亭も亦扈随した。歳寒堂遺稿に「扈随公駕於洲崎別墅、恭同諸臣賦」の五律がある。「朝政乗清暇。海荘臨釣磯。江山呈霽色。楓菊耀秋暉。双坐高吟賞。群僚近徳威。留連天欲夕。余興便還帰。」棕軒詩の日照の字、霞亭詩の霽色、秋暉の字は、人をして此九月某日の好天気であつたことを想はしめる。
遺稿には此詩を挿んだ律詩二首が存してゐて、並に皆交友と相往来する際に成つたものである。前なるは岡本花亭が嚢里の家を訪うた後の作で、後なるは古賀穀堂の来り過つた時の作である。そして穀堂に答へた詩以下の諸篇には冬に入つた後の作たる徴証があるのである。
花亭に寄せた五律はかうである。「岡本醒翁見過、別後却寄。対君真可楽。去後転難忘。話勝十年読。坐留三日香。残壷猶細酌。孤月復清光。静向秋空浄。朗吟聞鶴章。」題の下に「君近有聞鶴篇、言志」と註してある。所謂「聞鶴篇」は三十一字の国風で、竹柏園所蔵の花亭が田内月堂に与へた書に其事が見えてゐたと記憶する。穀堂に答へた七律は下に抄するであらう。
冬に入つて霞亭校刻の小学纂註が白川楽翁侯に献ぜられた。侯は酬ゆるに集古十種新刊の部を以てした。事は月堂の書牘に見えてゐる。書牘は浜野氏の示す所である。「寒さやゝ身にしみ候。御挙家倍御万祥奉賀上候。先以新刻小学一部寡君へ御贈り被遣、則さし出候処、千万忝被存候、この御本にて、久しぶりにて小学一閲、坐間にさし置、調法いたされ候。御謝辞よろしく申上候様、且集古十種之内銅器文房五冊、摸刻共拙悪、第一撰も麤漏に候へども、御いらへ迄に進上いたされ度、御笑受被下候はば大幸可被存候。此旨可然申上候様、翁被申付候。謹白、頓首。十月初六。田内主税。北条譲四郎様。」
次に十月二十三日に花亭が書を霞亭に寄せた。「打絶御物遠(物字不明)御床敷存居候処、御手教、愈御清適奉賀候。但御痰喘のよし、御加養奉祈候。痰は若は酒崇にはあらず候や。節飲湯薬にまさるべくや。伯民御逢被成候はば懇に御致声奉憑候。古賀修理中路会所希に御坐候。御相談次第早々訂盟可仕候。万期拝話候。此間備後翁恵音、拙詩之評被仰下候。浅く近き所をもと被仰下候。誠に欽服仕候。来翰懸御目候。追而御序に御還可被下候。拙作少々乞正仕候。如何と存候処、其外共、あしき事御見出御さとし可被下候。昌光寺への書牘など、既に遣し候而事済候ものには候へ共、よからぬ処被仰下候はば、追而書直し可遣候。是は詩も尤みるにたらぬものに御坐候。末の五古いまだ錬らぬ詩に而候。よく御覧被下、あしき処御示被下候やう殊に所望いたし候。法帖御還被下、領手仕候。高文、寄想乎孤蓬独棹之境に而丁度程よく候半と奉存候。獅子巌集、田内みたがり候故、御断申而と申遣候内、又使之序有之候故、転貸いたし候跡、御断候なり。御海恕可被下候。田内へ御返歌よく調候と奉存候。私も同人へ茶を貰候礼数首、波響へ贈候数首等有之候。従後御目に懸可申候。今日も冗雑匆々申残候。余者期拝接候頓首。十月廿三日。忠次郎。譲四郎様。書経蔡伝願はくは所持の人に御かり被下候様仕度と二男申上候。本たらぬ故願候よし。」書中に留目すべき事が頗る多い。霞亭が痰喘を患へてゐたことは其一である。次に中路会の事がある。主催者たる古賀修理は穀堂Zであらう。穀堂が同人胥会して学を講ずるに意があつて、予めこれを霞亭に謀つたことは早く上に見えてゐた。当時の江戸に中路会といふもののあつたことは、或は他書にも出でてゐるだらうが、わたくしは未だ知るに及ばない。且中路の名はその拠る所を審にしない。按ずるに宋玉九弁に「中路而迷惑兮、自厭按而学誦」と云ふことがある。会の名は此に本づくか。是が其二である。次に茶山の花亭がために詩を説いた一語がゆくりなく此書によつて伝へられた。わたくしは花亭の集を知らぬが、偶その糸瓜の絶句一幅を蔵してゐて、その取材措詞の奇僻なるを見、茶山の語の此人の病に中るものあるを想ふのである。是が其三である。其他霞亭と月堂、月堂と花亭、花亭と蠣崎波響の間の唱和の迹が此書によつて窺はれる。僧涌蓮の獅子巌集の如きは霞亭より花亭へ、花亭より又月堂へと逓伝して読まれてゐる。周防の南部伯民は又江戸へ来てゐる。花亭の二男は書の蔡伝の輪講に加はつてゐて、霞亭に就て一本を借らむと欲してゐる。最後に書中に見えたる霞亭の文の一句は、これを歳寒堂遺稿並附録の諸篇に求むるに未だ検出しない。
十一月に入つて穀堂が嚢里の家をおとづれた。遺稿に「古賀溥卿見訪草堂、有詩、次韻答謝」の七律がある。「都士如雲匪思存。深居却跡掩郊園。客来門巷迷藤竹。市遠盤餐慚野村。矜飾誰能投俗好。酔歌唯是答君恩。不知灯地(原文は土偏が火偏)杯乾久。海内人文終夕論。」浜野氏の示す所に此訪問此応酬の事を言ふ一書があつて、末に「小春十三日」と書してある。所謂「先日」の訪問が十一月の前半に於いてせられたことは疑を容れない。推するに穀堂は来つて中路会を創立せんことを議つたのであらう。わたくしは下に穀堂の此柬を写し出す積である。

文政壬午(五年)十一月十三日に古賀穀堂の霞亭に与へた書はかうである。「時下寒涼差募候処、倍御勝常被成御座奉賀候。先月は奉訊之処、蒙御款接、種々御馳走被成下、不堪感謝之至候。蕪詩一首率賦乞正候。御粲覧可被下候。貴作数回吟誦、任命僭評返完仕候。此粗茗菲薄之至に候得共、藩製に付差上候。御約束之文会は何とぞ有時而可催候。(此間二字不明。)同調を御見立可被成候。先日も御示談之通、文風益頽靡、不勝浩歎、人才も余程衰候様相見候。此上とても閣老之御威勢に而、鼓舞之道は有之間敷や、当時聖堂板刻は大要出来立、是はよ程盛事に候得ば、何卒天下之才俊を教育するの費用に分ち度ものに御座候。当時も被褐懐玉之もの随分可有之、右様の如きもの候はゞ振抜汙塗と申手段は有之間敷や。箇様之儀嫌疑も有之候得共、謙恭のみに而は不悉事情候故、吐出心腹候。扨又此間も内々御咄出候御要官之内に、文気も有之候人は、追々敝藩のため締交度意も有之候。尤僕疎狂甚敷、与世背馳ゆゑ、強而は不求候。乍然一寸耿々之丹心は有之候間、其思召に而御周旋可被下候。当時楽翁侯の如きは天下之人物、兼而所景慕に御座候。彼侯之事蹟書候もの有之候はゞ致一覧度、幸彼藩に御知音も御座候ゆゑ、御周旋可被下候。京坂之人物も御垂示被下度、及平生遠游之奇癖有之、箇様之拘束に而、誠に不勝神飛候間、紀行之文、先日御沙汰候類、何とぞ飽迄寓目(仕)度候。右旁為可得御意如此に御座候。尚其内期拝晤候。草々不尽。小春十三日。Z。北条盟台侍史。」
此書は文会の事を主としてゐる。会は霞亭の穀堂と謀つて興さうとしてゐるものである。さて穀堂はこれを言ふに当つて、当時の幕府の文教に論及し、遂に自家身上の事をさへ云云してゐる。
わたくしはかう読み解く。「幕府の文教が衰替に傾いて、人才も出ない。君の主侯(阿部正精)も老中の一人であるから、今少しどうにか奨励してくれることは出来ぬものであらうか。昌平学校の官版が追々出来るのは結構な事だ。あの本の売上金を教育費の方へ分けてもらひたいものだ。まだ世間には立派な学者で隠れてゐるものがある。どうかそれを引き上げて使ふことは出来まいか。こんな事を言ふのは、なんだかうしろめたいやうだが、謙遜ばかししてゐては、心に思つてゐる事が言ひ尽されぬから、遠慮なく思ふ通りに言ふのだ。又上の方の役人衆の中で、学問の事のわかる人があるなら、僕は我佐賀藩のためにさういふ人と相識になりたい。しかし僕はなかなか変人だから、そんな交際をしようといふのは無理な注文かも知れぬ。これは強ひては願ひにくい事だ。只僕の腹の綺麗な処を承知して、それにかかはらずに世話をしてくれるなら難有からう。」
此詞は穀堂の伝の資料として頗る価値のあるものであらう。第わたくしは古賀一家の事蹟に通じてをらぬので、其価値の大さを知り、此資料を以て塡むべき穴を塡めることが出来ない。
古賀家は精里樸が歿してから五年を経てゐる。精里の子は穀堂Z、晋城煒、侗庵Uであつた。精里は佐賀の鍋島家から幕府へ召し出されて、「御儒者」になり、穀堂を鍋島家に残して置き、晋城を同藩の洪氏へ養子に遣り、侗庵を継嗣にした。そこで精里と侗庵とは、丁度当時の林家で、述斎衡と檉宇皝とが親子勤をしてゐたやうに、やはり親子勤をしてゐた。文化壬午(五年)には穀堂は四十五歳で鍋島肥前守斉直の嫡子貞丸に事へ、鍋島氏の溜池の中邸にある清風楼に住んでゐた。武鑑に「側用人古賀修理」と記してある。侗庵は三十五歳で昌平学校に奉職してゐた。武鑑に「御儒者衆二百俵、聖堂附、古賀小太郎」と記してある。
穀堂は其書に幕府の人材を挙用せむことを望んで、「嫌疑」云々と云つてゐる。幕府の己を用ゐむことを欲したのであらうか。しかしその「敝藩のため」云々と云ふを見れば、鍋島氏のために謀つてゐることは明かである。それは固よりさもあるべき事で、穀堂は所謂世子傅の職を守つて、八年の後貞丸が信濃守斉正として家督相続をする時に至るまで渝らなかつたのである。只わたくしは古賀氏の事蹟に通じてゐぬ故に、此間の消息を忖度するに一膜を隔つる憾があるのである。
穀堂が霞亭を訪うた時、詩を作つて示したので、霞亭が次韻した。歳寒堂遺稿に見えてゐる詩は上に抄出した。書中に「貴作」と云ふものが即彼詩であらうか。果して然らば、書中の「蕪詩」は初に嚢里の家で作つた詩とは別でなくてはならない。憾むらくは刊本穀堂遺稿抄の七律の部を検するに、霞亭と応酬する作の一首をだに載せてゐない。そして所謂穀堂全集は、わたくしは其存否をだに知らぬのである。

文政壬午(五年)十二月に入つてから、二日に岡本花亭の霞亭に与へた書が残つてゐる。亦浜野氏の示す所である。「厳寒愈御佳勝奉賀候。うち絶不奉尊諭、御ゆかしく罷過候。御痰喘は既に御清快に候や、御尋申度而已日々存居候へ共、塵冗扨々御無音、御海容可被下候。今日野村生入来候へ共、手ふさがり居候而不能対談、幸寸楮相託候而、御無さたの申訳而已如此御坐候。乍序小学代料も相託候。御落手可被下候。貝原軸預置候へ共、色々持物(有之)、今日は残し申候。従後返璧可仕候。一両日は別而寒凛、御自玉奉祈候。余は期拝話、匆々申残候。頓首。十二月二日。岡本忠次郎。北条譲四郎様。」
此書を花亭に受けて霞亭に授けた野村某の何人なるかは未詳である。花亭は霞亭のために小学を人に售つて、此便に籍つて其価を償つた。霞亭の痰喘は或は脚気とは別であらうか。「貝原軸」の事は下方に譲る。
尋で五日に花亭は又書を霞亭に与へた。亦浜野氏の示す所である。「雪中愈御勝常奉賀候。御痰喘は御快候や。一昨は野村生へ一封相託候。(小学代料共。)定而相達候半。扨々大御無音、御床しく奉存候。御近作御示可被下候。尊棲、雪はさぞ静に而、殊に趣あるべく想像仕候。老懐、炉頭縮蝸、御憐察可被下候。○湖亭渉筆と申もの御著述と承及候而、拝見いたし度と一書生願候。さるもの御旧作有之候や。或は湖は霞の誤歟。伝聞のあやまりに候歟。水戸の安積著作にこの名ありと覚申候、いかが。もし御著作に、似たるもの候はば、御見せ被下候やう仕たく候。○貝原軸拙題。小字故別而不出来、甚きのどくに奉存候。近来段々と目あしく、かやうのもの出来兼候而見ぐるしく候。御海涵可被下候。○敝友天遊と申もの詩稿、三年前に歟さしこし直しを請申候。未熟の詩、疵おほく、見るべき詩もなく候へ共、願はくは御一閲被下、乍御面倒御直しにかかり可申分は、直に御書入御直し被下候やう仕度、あしき分は御抹去可被下候。私も旧友の折角たのみ候事もだしがたく、此外一二冊竄改いたし遣し候。若御一閲御痛刪も被成下候はば忝奉存候。乍去全冊は詩あまり多く、御面倒もはばかる所に候故、半分なりとも御心任せに奉頼候。くれぐれも御面倒の事、悚息仕候へ共、先願試候。右草々申残候。書余期拝眉候。(以下細註。)右詩稿、題のかきやうなども、あしきところ願はくはべたべたと直に御直し被遣被下候はば、於私大幸に御坐候。十二月五日。成拝。霞亭詞壇。」
前書と後書との間に、江戸は雪の日となつた。某生の花亭を介して見むと欲した書は湖亭渉筆ではなくて、霞亭渉筆であつた。湖亭渉筆は安積澹泊の撰なること、花亭の言の如くである。貝原軸は初め益軒の肖像ならむかともおもつたが、再思するに貝原某が霞亭を介して花亭に詩を題せむことを乞うた画幅であらう。花亭が霞亭に斧政を乞うた詩の作者天游は未だ考へない。
霞亭は此書を得た後、書を花亭に与へた。花亭のこれに報いた書が、同じく浜野氏の示した尺牘中にある。「如高諭、雪後寒甚。御痰喘嘸御困被成候事と奉察候。御保重千万奉禱候。万金丹御恵被下、家内毎々用候要薬に而、別而辱奉存候。畳表の儀も、御心に被懸、委曲被仰下、別簡も御添被下、奉謝候。親類共頼候間、御問合申候事に御坐候。早速遣し候やう可仕候。煩瀆甚悚息仕候。○南部薬五六十服、さしてしるしも無之と被仰候に付窃に愚案いたし候は、処剤は定而宋元以後の法歟。或は加減方などにも候や。素人料簡申も如何に候へ共、御患状古方の小青龍湯宜くや、五味子を去、杏仁を加而御服被成候はば、効あるべくや。同じ麻杏の司るところ歟と被存候。あまり久しくなり、喘気御持病のやうなり候よし、私四五年前此症やみ候時、此方に而しるしを得候故、若御考合のためにもと申上候。御用試被成候而は如何。私は加減なしに本方五味を杏に換而用申候。○今村詩稿、御うた一冊大に延引御免可被下候。少々書入仕候而と存候而其ままに御坐候。長々留置候而そのまま還璧仕候も不本意、今少し御待可被下候。ここより為持還納可仕候。○天遊は私より年四五も下に而早く衰、年来病居り、この頃は別而不出来のよし、詩は至而好きに御坐候。為人温雅、茶山先生を景慕いたし、先年いかがの詩など贈呈いたし候事も御坐候。力不足故、観るべき詩もなく候へ共、旧社のよしみもだし難く、御たのみも申上候。御面倒ながら痛く御直し被遣被下候はば、於私幸甚。何分相願候。冗中匆々拝復。十二月七日。成拝復。霞亭詞壇。」
霞亭の病は未だ瘥えてゐない。南部伯民の処方に効験がないので花亭に愬へると、花亭がこれに別方を勧めた。花亭の医方に通じてゐたことは、此書に由つて始めて知ることが出来た。霞亭の評を乞うた詩の作者今村は蓮陂勝寛であらう。福田氏蔵蓮陂詩稿を閲するに、壬午(五年)は蓮陂の多く詩を作つた年である。天遊は詩を茶山に贈つたことがあるさうである。しかし茶山集に就てこれに酬いた詩を索むるに未だ得ない。
花亭の此書を獲た日に、霞亭は弟碧山に書を与へた。是は的矢尺牘中にある。「十月廿四日御状、霜月廿二日に相達候。時節厳寒に御座候処、愈御安泰被遊御揃、珍重之至奉存候。当方皆々無事罷在候。此方よりも十月三日金子一両入、霜月五日飛脚へ差出申候。夫々に相達候哉。磨翳散又々所望いたし遣候。御用可被成候。何分胎毒解し候手あて可被成候。煎薬のまねばむづかし、少し宛にても用ひさせ、或は食粒など少しくひ候はば、丸薬にいたし、まぜて御用被成候ては如何。いづれ大黄或は鷓鴣菜など入候方可然候。当地先達而より痘瘡はやり候。近辺にも有之候へ共、先は大方無難に候。紫草といふむらさきそめる草の穂を煎じて、痘前にのますればやすしとて、皆々用ひ候。根はひやすものに候而よろしからぬよし。痘瘡の薬によく配剤いたし有之ものに候。昨日友人の処より兎血丸少々分配いたし(来)候。これは誠に霊薬のよし、製法むづかしきもののよし。香月牛山が小児必用薬などともいへり。おとらに用ひさせ候。此度のこり候はば、新太郎へも分与可仕候。一角(ウニコウル)の御たくはへにても候はば、誠にすこしばかりにても御恵可被下候。なければよし。さし当り流行の節は都下あのやうなるもの高価に候。御詩作随分おもしろく候。一々くわしくも得不申候。とかく精思にしくはなし。如何と思ふ処へ――を引候。御考合可被成候。文章を御心懸可(被)成候。何事にても無油断かき置候(事)肝要也。お通縁談の事、いづれ御双親様の思召にまかせらるべく候。町家も随分よく候へ共、すぐれて人のいふ富家などは却而平生何歟と気がはり候て如何可有之候哉。夫になんぼ其身其儘と申ても、十両と十五両の支度等も入可申候へば、所詮そのやうなる事にては、富家のとりやりは出来申間敷、貴家の御難渋になり候事なれば、今一両年見合候ても可然歟。夫とも雨航山口など御深切に取計くれられ候事なれば、無腹蔵打あかし、まけ出して向ふへまかせ、世話御頼可被成候。何分女子は縁談は大事のもの也。ふいといたしたる事にて、跡のつまらぬ事のなきやう、御分別可被成候。甚平などへもとくと内談可被成候。三日ころりといふ病、大坂にはやり候よし、山陽も広島辺大分有之候よし申参り候。江戸にも先達而より専らうわさいたし候へども、これは風説のみにて、只今はとんと無之候。御在所辺の霍乱症などに類し候もの、これ又同様一般邪疫の気と被存候。此類の事、其時にあたり治療の法、跡の考にも相成可申候。よくよく御試御録しなど可被成候。今年は寒さも厳敷様に御坐候。都下火沙汰も先静なる方に候。御在所辺漁猟は如何。私方新宅故、さむきものに候故、此節大紙帳など製し、専ら防寒之備いたし候。最早今年は差あたり候用事なく候はば、書状是切にいたし可申候。早春めでたく御左右可申上候。寒中折角御自愛専一に奉祈候。匆々頓首。十二月七日。北条譲四郎華押。北条立敬様文几。」
通女は霞亭の季の妹である。屢注したる如く、雨航は宇仁館氏、山口は凹巷である。通女を嫁すべき家の事について、霞亭の弟碧山に諭す所は懇到深切を極めてゐる。女を嫁する支度の「十両と十五両」は、人をして百年前の物価の廉なるに驚かしめる。霞亭は弟の冢子新太郎儼に眼薬を与へ、又女虎に服せしむる薬をも分ち与へむとしてゐる。書には又痧病の流行の事が見えてゐる。此疫の行はれた始である。防寒用の紙帳も珍しい。

文政壬午(五年)十二月二十八日に、和気柳斎が書を霞亭に与へた。亦浜野氏の示す所である。「雪後余寒甚御座候処、御喘気如何被為在候哉相伺度候。扨先達而奉願候小学料、別紙之通昨夕相越候に付、為持差上候。御落手可被下候。延引之段御用捨奉願候。将又小生よりも御礼奉呈度候へ共、普請婚儀等諸債不残相済し候処、此節金気払底に相成候間、背本懐候。不敬之段御海容可被下候。当年最早窮陰にも御座候間、尚来陽芽出度期面晤候。切角御自愛御迎陽被成候様奉祈候。頓首。十二月二十八日。和気行蔵。北条譲四郎様。尚々此塩物近所出入之者よりもらひ申候。外々のよりは少したべられ候由に付、乍序さし上候。御叱留可被下候。乍憚令閨君へ宜被仰達可被下候。」これが壬午の歳霞亭と諸友との往復の最後の書である。柳斎はやはり霞亭の脚気を言はずして其喘息を言つてゐる。柳斎の家には啻に造営の事があつたのみでなく、亦婚礼があつた。或は子のために婦を迎へなどしたものか。猶考ふべきである。
霞亭の此冬の詩が歳寒堂遺稿に見えてゐて、其月日を詳にせざるものに、先づ「奉送内藤大夫帰福山」の七律がある。内藤氏は茶山集に所謂東門大夫である。門田朴斎の集を検するに、東門大夫が李太白集を朴斎に贈つたのが恰も此年である。想ふに人材を掖誘するに意を用ゐた人であつたらしい。此詩ある所以である。次に「和答讃岐尾池玉民見寄」の七絶がある。自註に「君清痩善詩、家近飯山」と云つてある。飯山は「いひやま」である。茶山集に讃岐の尾池寛翁があつて茶山と応酬してゐる。寛翁、名は文槃、通称は左膳、桐陽と号す。二子大隣、世璜、大隣は静処と号し、世璜は松湾と号す。玉民は世璜の字である。次に「雪日書況、寄伊沢澹父、澹父久臥病、予亦因疾廃酒」の七律がある。頸聯の「独醒長学幽憂客、高臥更憐同病翁」を見るに、霞亭には猶脚気の徴候があつて、足疾の蘭軒を呼ぶに同病翁を以てしたのであらう。次に「賀石峰師秉払鳳山」の五言排律がある。僧石峰が前年廉塾を去つて石見に往たことは上に見えてゐる。自ら署して「芸州沙門」と云ひ、詩文稿の序に陸奥の蘆舟が「芸石峰師兄」と称してゐるから、安芸の人であらう。詩文稿に永平忌の作があるのを見るに、曹洞宗の僧か。
是年霞亭は四十三歳であつた。
文政癸未(六年)の正月は七十六歳の菅茶山が「驚殺吾齢長一郷」と云つた時である。霞亭は病を抱いて歳を迎へた。病は脚気と痰喘とである。わたくしは初め痰喘の一時の気管枝病なるべきを推測した。しかしその余りに久しく痊えざるを見れば、わたくしは疑を生ずる。霞亭は或は萎縮腎などに嬰つてゐたので、脚腫も脚気に由つて発したのでなかつたかも知れない。
霞亭が此正月に弟碧山に与へた書二通が的矢書牘中にある。第一の書はかうである。「春寒退兼候。愈御安康被成御揃、珍重之儀奉存候。霜月廿一日(壬午)出(の書状)達し候後は消息無之候。此方より十月八日書状、金一両、眼薬、烟草筒等入、差出し申候。其後廿二日(十一月)早便に又々書状差出し申候。夫々相達し候哉。去冬は当地各別寒気甚しく候。雪も度々有之候。しかし節分後は甚和暖を覚候。大晦日に鶯をきゝて。いそかしき世のいとなみもわすれけりとしの内なる鶯の声。など口占いたし候。去冬漁猟は如何候哉。日外酒の事申上候へども、已に御遣し被下候はばよろしく候。まだならば、先御無用に被成可被下候。又々追而御願可申上候。小学二部承知いたし候。とかくあの類の荷はり候物、去々年より道中筋貫目改きびしく、春木などへ言伝候も気の毒に候。先見合、船便にでも差出し可申候。其内幸便あらば遣し可申候。めづらしからぬ品に候得共何も差上候もの無之、例の浅草のり少々差上候。鮭よろしからず候得共、是又少々差上候。これも荷のはり候を恐候故、誠になまぐさ迄に候。それにとどき候内には風味も落可申候。宜敷御断被仰上可被下候。貝の柱少々、そまつなるものなれど差上候。一日も水につけ置候而、吸物などに、醤油したぢだしなど入候而御遣(使)ひ可被成候。扇子二本、一本は母様へ御上可被下候。一本は阿波屋叔母へ御上可被下候。よろしからざる品に候へども、去春日野様より御手づから頂戴いたし候もの故に候。当年掛金、春五会、二十一匁四分六厘、秋六会、二十一匁、右の内へ金二歩先差上候。是は便の序故に候。四分六厘不足に候。去年過上の内に而御算用被成置可被下候。先は差向之用事のみ申上候。万々其内期永日之時候、匆々、頓首。正月三日。北条譲四郎。北条立敬様。」日野資愛に謁した時賜はつた扇二握が、新春の贈として母と叔母とに遣られた。酒を乞うて又これを辞したのが痰喘のためであつたことは、後の書に徴して知るべきである。  
 

 


文政癸未(六年)の正月に霞亭の碧山に与へた二書の中、其一は上に録した。さて其二を録するに先つて、わたくしは此に太田全斎の短簡を挿みたい。それは上の書と相発明するものがあるからである。全斎の書は浜野氏の手より獲た謄本である。「過刻は御手翰、致拝見候。先以早春御出被下、辱奉存候。世中百首御貸被下、辱奉存候。また山井の仮字の事、御挨拶愧入候。扨また暮と春との御詠奉感候。但第二の御詠にて、説文也(原文篆体)女陰也象形のことおもひいだし。鶯の声なりの字を見とかめて我もおぼえずうちゑみにけり。蘆胡、頓首。正月五日。八郎。譲四郎様。」按ずるに暮の歌は霞亭の弟に与へた書に見えてゐるものと同じ歌であらう。そして春に至つて作つた鶯の歌には、鶯の声なりとつゞけた句があつたのであらう。
正月の第二の書はかうである。「春寒未退候。愈御安泰被成御揃、珍重奉存候。当方皆々無事罷在候。左様御放意可被下候。当四日年始状認、品々入、春木大夫旅宿へ頼遣し、(此間原文「候処」の二字あり)已に発し候様存候処、昨日広瀬源一被見、先便には出しかね候由、夫にては大方二月末になり可申候間、此書状別段に差出し申候。早春書状は達し候節御覧可被下候。諸般相替候儀も無之、私少々痰喘に而引込摂養いたし候。追々暖気になり候故か、先は快く覚え候。御案じ被下間敷候。先封の中、鮭肉など有之候。嘸味あしくなり可申候間、あしく候はば御棄可被成候。わるくすると、塩引はあたり候ものに候間、兼而申上置候。御大人様などへは、先御無用に被成可被下候。極月(壬午十二月)廿二日書状差出し申候。相達し候哉。極月廿三日御手簡当月五日相達し申候。痘瘡少々はやり候由如何候哉。紫草といふもの煎じ候而庖瘡前にのませば、胎毒を解し、かるきと、当地医家皆々申候。紫草は染草なり。むらさきそめしから也。その茎也。薬種屋御吟味可被成候。根は冷物にてあしき由。此表(江戸)も専ら流行いたし候へども、おとらもいまだいたし不申候。三四月にもなり候はば、してもよろしく被存候。酒の儀委曲被仰聞、辱存候。右痰喘保養の為、当元日より先禁酒いたし候。専ら保養になり候薬ぐひをいたし候。又々追而御頼可申上候。此せつ油こきもの等は一切絶し候。常食に麦飯をいたし候。備後より少々もらひ候へども、昨日までにたべ終候。此表にてはよき麦なく、搗そまつにて込(困)り候。何卒船便之節、搗麦一俵程御もとめ被遣可被下候。乍御世話頼上候。いりこ(海参か)も少々にてもよろしく候。奉頼候。梅花御封じ御贈、めづらしく拝見仕候。清香甚しく、家園光景、不堪神馳候。早春書状延引候故、御案じもやと、不取敢此書状差出し候。余寒折角御自愛奉頼候。匆々頓首。正月廿五日。北条譲四郎。北条立敬様。尚々十月八日書状金子一両入、摩翳散、烟筒(烟管)など入差出し申候。相達し候哉。」
霞亭は己の病を痰喘と称してゐる。そして麦飯を常食として酒を絶つてゐる。推するに喘息と脚腫と並び存してゐて、主に喘息のために苦んだものか。前にも記した如く、気管枝の徴候が此の如く久しく去らぬのは、或は脚腫が脚気ではなくて、萎縮腎などのために起つた水腫であつたのではなからうか。若し然らば医療の功を奏せなかつたのも、復怪むに足らぬであらう。

文政癸未(六年)の二月に入つて、霞亭は所謂痰喘のために困臥し、一時筆硯を絶つに至つたらしい。岡本氏の嘱した某氏天遊の詩を刪ることも其請を容れ難くなつたので、詩巻を岡本氏に還した。花亭の復章は浜野氏がわたくしに眎した。「拝承。于今御伏枕筆研御廃絶のよし、御欝悶奉察候。御噂は野村生又広瀬氏より前日も承候へば、まづ少しづつ御快方のよし、やゝ慰念仕候。御見舞申度心懸居候内、私も不快、一日一日と心外御無沙汰に相なり候而無申訳候。御歌御示被下、ゆるゆる拝吟可致と相楽申候。私も雪の頃奉懐のうた三首か口号、今さしあたり思出不申、思出候而かき付懸御目可申候。天游詩稿御返被下、何様御病中御面倒にも候半。先収手仕候。蘐園の余習不免候へ共、蘐園を奉じ候ものには無之候。先年備後の老先生へ奉贈の詩、若くは御覧も不被成候哉。元来長崎人に而御徒士方の隠居、温藉可愛人となりに御坐候。数年以来病居り候而、衰殆極候。此頃は幼童のいふやうなる語而已に而、詩らしきもの一向出来不申候。されども吟不絶口候。大に可憐候。前年の詩稿強而直しくれ候へと申には、私もちとあぐみ居り候故、一巻御たのみ申上候に而御坐候。臘尾以来少々拙作詩歌も御坐候。録候而近日乞正可仕候。二三日暖和、又今日は雨寒、御保調専一奉祈候。長日御無聊嘸々と御察申候。見合御尋可申候。よく社御書通被下、大に相悦申候。日々のやうに御噂は申出候。草々拝復。二月十日。成復。霞亭詞壇。」天游の誰なるを知らぬことは上にも言つたが、「長崎人にて、御徒士方の隠居」と云ふだけの身分が此書に見えてゐる。
次に歳寒堂遺稿に就て此頃の詩を求むるに、二月の詩と看做さるべきものが二三ある。引に月日を注したものは欵冬花の絶句一首であるが、的矢文書中の詩箋に、「病中口号」の作が其前に、又「病稍復」云々の作が其後に列記してあるより推すに、此等は皆二月の詩と看て可なるものである。
先づ遺稿の「病中口号」の一絶を抄する。「春来抱病負風光。過了梅花未掃牀。臥聴蕭々三日雨。麹塵看已上園楊。」詩箋に徴するに、霞亭は本二絶を作つたが、後に其一を刪つたのであらう。箋に連書する所の二十八字はかうである。「強半春光枕上過。養生降得酒詩魔。自嘲仍作看花計。不識沈痾竟若何。」
所謂欵冬花の詩は遺稿にも詩箋にも前詩の次に並んでゐる。今其小引のみを抄する。「二月十八日、勢南鷹羽生来告別、乃夜夢余踰函関、路傍見欵冬著巨花、即吟曰、欵冬花綻大芙蕖、覚後足句成一絶。」福田氏の示す所の詩箋謄本を併せ考ふるに、鷹羽生の名は応であつたらしい。
欵冬花の詩の後には、遺稿にも、詩箋にも下の一絶が並んでゐる。「病稍復、有訛伝予死者、弔客或至、因賦。世間万事念全灰。且向春風眉為開。三百瓮韲応未尽。先生許自道山回。」三百の瓮韲は侯鯖(原文は青が)録の故事を使つたものである。「東坡曰。世伝。王状元未第時。酔墜汴河。河神扶出曰。公有三百千料銭。若死。何処消散。士有効之。佯酔落水。神亦扶出。士喜曰。我料銭幾何。神曰。有三百壅黄韲。無処消散耳。」末に歌一首がある。「生けりともおもほえぬまで疲れけりげに分け来しか死での山路を。」
三月に霞亭は季弟惟寧に小学一部を贈つた。的矢書牘中にこれに添へた訓誨の書が存してゐる。「一筆致啓上候。時分柄春暖に御坐候処、愈御壮健被成御揃珍重奉存候。当方無事罷在候。然ば此小学一部もとめ遣し候。立敬へ御願申上候而、本文はもとより注文まで、日々少し宛にても熟読可被成候。此書は分而人間一生之宝訓也。大切に服贋可被致候。書物はよみ候のみに而は無益の事也。その書物のをしへの事を身に行なひ心に忘れぬ様にいたし候が誠の読書学問之第一に御坐候。能々御勤学可被成候。尚近々可申入候。万事立敬被申候様に被成候而、御双親様によくよく御つかへ可被成候。右申入度如此御坐候。以上。三月十四日。譲四郎。敬助様。」霞亭の季弟は撫松惟寧である。兄弟の順位は既に屢注したが、読者の記憶を新にせむために此に反復する。第一、譲四郎、名は譲、字は景陽、号は霞亭、第二、内蔵太郎、名は彦、字は子彦、第三、貞蔵、第四、立敬、初め大助、名は惟長、号は碧山、第五、良助、谷岡氏を冒す、第六、敬助、名は惟寧、号は撫松、山口氏を冒して名を沖、字を澹人と改む、以上六人である。
二十日に古賀穀堂が書を霞亭に寄せた。これは浜野氏の示した所である。「前月二十五日出之貴書忝拝見仕候。時下春暄相成候処、文候愈御祥迫と奉賀候。先達而者貴恙御難渋之趣承知仕、不堪懸念之至、随分調護可被成候。御病中二絶御垂示、感吟仕候。僕疾病は無之候得共、官事束縛、兀々度日、雅事雅情掃地と申様相成、何とぞ老兄輩と有時得商榷度ものと相願居申候。何とぞ日外御沙汰之伯民など如き之徒と可相談(存居)候。御近所もちの木へ者例月罷出候得共、どこぞに結小社候事は可然やと被存候。御序に何時にても御出被成度、乍然俗事多端、且其節故障等に而者御気之毒に候間、態々に無之、御通行之御序抔に被成下度候。芸州之御門生被見候得共、上局中に而不能面晤、残念に御坐候。何卒御近著等近々拝見仕度事に御坐候。先は右為可得御意、若此御坐候。不宣。三月廿日。Z頓首。北条儒宗。○近日松平冠山候幼女六歳に而死去、辞世之歌、其外珍敷才女なり。詩を被求ければ。掌珠弄得六逢春。莫是観音暫化身。韶慧未曾聞曠古。黄金何惜鑄斯人。(原注。第二句非本色語。以冠山精仏学故云。)又。開篋錦篇墨未乾。奚図暴雨砕庭蘭。露花風蝶(歌中語)成讖語。一字真将一涙看。又。遺草殷勤諫酔翁。(遺草中有諫侯好酒語。)廟堂君子慚精忠。仙都俄借女才子。応為玉楼記未工。右漫作不足観候得共、近作写呈、御笑政可被下候、以上。」是に由りて観れば、中路会は未だ成立してゐない。穀堂は南都伯民がこれがために周旋せむことを望んでゐるのであらうか。本郷西片町附近にもちの木といふ地名があると見えるが、わたくしは知らない。麹町区飯田町の黐木坂と別なることは論を須たない。冠山は因幡支封の主松平縫殿頭定常で、当時致仕して鉄砲洲の邸にゐた。冠山六歳の女露が前年十一月に庖瘡を病んで死んだことは、諸家の集に散見してゐる。佐藤一斎の愛日楼文に「跋阿露君哀詞巻」があつて、「検篋笥、得遺蹟、上父君諫飲書一通、訣生母蔵頭和歌一首。訣傅女乳人和歌一首、題自画俳詞三首、又得一小冊子、手記遺誡数十百言、及和歌若干首、理致精詣、似有所得者、至於遺誠、往々語及家国事、亦誠可驚矣」と云つてある。穀堂の詩は遺稿抄にも載せて、「為冠山侯題女公子遺艸」と題してあるが、三首の第一、第三が有つて、第二が無い。
霞亭の碧山に与へた三月廿五日の書が的矢書牘中にある。その宛名なきを見れば、此書は或は別に本文ありてこれに副へたものであつたかも知れない。「二月十一日御手柬、三月十七日相達致拝見候。春暖愈御揃御安静奉賀候。私病気も追々快く候。緩症故、始終同じ調子故、急に復しがたく候。二三の医人に相談いたし候。只今伊沢辞安と申藩医の薬用ひ居候。もはや只胸膈のさばけのみになり候。元来肺にかかり候症と被存候。いづれ降気剤服用いたし候。御薬、様々の御書付、毎々御厚意辱奉存候。気色も飲食も常にことならず、只歩行いたし候に跌(此字不明)し候而こまり候のみに候。こゝ三十日程薬湯願を差出し、花時は少々宛外出、暖気には心にまかせ、試歩いたし候。(正月来引籠に候。引籠なれば、藩法に而門外へ出られず、薬湯願といへば、薬湯にいるといふ名目にて、どこへでも勝手次第に出てあるかれ候。)今暫く再願いたし候而、得と補養いたし候つもりに候。酒も四五杯程は退屈の節用ひ候。食物は厳敷用心いたし候。○甚平妻懐孕の由一段の事に候。○お通縁談の儀承知いたし候。すべてよく間違出来候ものに候。意とするにたらず。併かのやうな類の事は成就する迄人にしれぬ様可被成候。此後もいくらもあるなり。又々相応の儀も可有之候。まだ両三年おそくても不苦儀に候。何より配偶の人物をえらび候事に候。私明年にても帰省いたし候はば、又々御相談も可致候。其内嫁前の女子はすべて厳格に行儀に御心を付らるべく候。其内雨航など相談いたし候儀も候はば可被仰越候。○妻共へかうがい母様御世話被下置候趣、(難)有奉存候。あれには過分なる位に候。余金は五月春木太夫便のせつにても差上可申候。飛脚便賃銭多く懸り候故に候。○御地庖瘡如何。御当地は大方仕廻(しまひ)候。おとら此度は免かれ候。○今年は帰省もいたしたく心懸候得共、新家持何歟と行届兼ね、夫に正月以来不出勤故、学問所なども同役代勤いたしくれ居候儀故、何歟と差つかへ、先今年は相やめ可申候。これも親の病気とさへ申出し候得者、即日許容有之儀に候。併私も身体丈夫にて春の長日に旅行いたし度候。明春は何卒一寸帰省仕度候。帰省いたし候ても、何歟と費用多く候故、先表むきにはいたし不申、勿論私用故内分のつもりに候。夫故鑓持など申儀も相やめ、私名前差出し不申、御関所なども、備中守家中でない面にて通行のつもりに候。僕か弟子か一人つれ候位の事に可致候。○茶山翁も当正月中旬より風邪の処、一時は余程むづかしく候ひしが、二月初は追々快く候由、此間国元飛脚の者よりくわしく承り候。其外諸般相替候義も無之候由。以上三月廿五日相認。右は御来書の答のみ也。○世間ばなし。当十五日か初鰹十四本小田原町へ上り候。七本は公儀へ御買上、これはいつも定値段百疋宛と申事に候。二本は八百善といふ料理茶屋、一本四両づつに買候よし。其翌日は壱分弐朱位、三四日過候ては七八匁位に候。○此頃相撲御上覧有之候よし。判(番)付に柏戸と玉垣が大関に候。総体相撲とり弐百人ばかり見え候。」
霞亭の主治医は別人ならず、伊沢蘭軒であつたことが此書で塙証せられる。又薬湯願の事は下に引くべき散策看花の詩の注脚である。霞亭の季の妹通の縁談は半途にして挫折したらしい。菅茶山の健康状態は略此書の云ふ所の如くである。本集に拠れば、豊後の田能村竹田が訪ねた時の詩に、「伏枕春来未渉園」と云つてあるのに、稍後に至れば「暮春登山寺」、「箱田道中」等の作がある。即ち「追々快く候由」と云ふに合つてゐる。書中の事で最も気の毒とすべきは、霞亭が明年帰省せむとしてゐることである。余命は既にいくばくもないことを知らずに、渠は望を明年に繋いでゐた。初鰹の事は開明史料として価値がある。

歳寒堂遺稿の「病起郊外試歩」より「因病禁酒戯賦」に至る五首の詩は文政癸未(六年)三月中の作なることが、殆ど遺憾なきまでに、立証せられる。何故といふに、詩句に暮春の景物多きなどは姑く措き、下に挙ぐべき四月二日の書に五首中の第四「病中」の七律が録せられてゐるからである。その第五を録せなかつたのは、語のあまりに曠達なるがために、弟に視すことを憚つたものかと察せられる。
此五首の下には只二首の詩があるのみで遺稿の詩は尽きてしまふ。それゆゑわたくしは五首を悉く抄しても好い。しかし悉く抄して、そのうへに著語するといふと、あまりに多く筆墨を費すこととなる。そこで径に著語する。
五首の第一、第二「病起郊外試歩」は七絶と五律とで、上の三月二十五日に「花時は少々宛外出、暖気には心にまかせ試歩いたし候」と云つてある、その試歩の時に成つたものである。今第一の転結に菜花畠を写し出してある二句のみを鈔する。「揩拭病眸何物可。郊村十里菜花黄。」恐らくは王子あたりの景であらう。
第三はこれも試歩の日の獲ものであつて、偶然霞亭の友人二人の名を伝へてゐる。「感応寺看花、庭中有下田芳沢、本山仲庶碑、二子倶是二十年前相見於京師人也」と題する五律が即是である。感応寺は上野の感応寺であらう。しかし上野の寺には、下田、本山二氏の墓碑は存してゐない。霞亭は二十年前に此二人と京都で相見たと云ふ。霞亭の京都を去つた年を享和二年であつたとすれば、癸未(文政六年)より逆算して二十一年である。二人の事はわたくしは所見が無い。しかし「新碑皆旧識」の句があるより推せば、坏土未だ乾かなかつたこととおもはれる。
第四は霞亭が弟碧山に与ふる書に見えてゐるから、下に引く所に譲る。第五「因病禁酒、戯賦」はかうである。「天放先生如喪偶。看花対月忍空手。従茲姓字没人言。令我有名元是酒。」
文政癸未(六年)四月に入つて、先づ霞亭が弟碧山に与へた四月二日の書がある。的矢尺牘の一である。「三月十五日御状、同廿八日相達、拝見仕候。愈御安静被為入恭賀候。当方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。○魚譜の事は先書に申入候。これも一学問に候間、ゆるゆる御心掛可被成候。○貝の柱は江戸に而沢山ある、ばかといふものの柱に候。身は味あしく価やすきもの、柱は調法いたし、料理むきにも用ひ候。それらによりて、ばかのむきみなどいふにや。○春秋掛金跡に而心付候。あれにては不足に可有之候。後便被仰聞可被下候。○小学の代料先づ御預り置可被下候。夫にくしかうがい(櫛笄)の代など、いづれ此方より差上候分可有之候。後便御算用被仰聞可被下候。委細此間認置候書状に御座候。書余期再信之時候。以上。四月二日。北条譲四郎。北条立敬様。廿八日即事。蹉跎歳月棄人馳。一病悠悠任臥治。跡絶交遊如隔世。傷多恐懼不銜巵。飛花経眼春将晩。語燕妨眠昼更遅。擡枕欣然聊慰藉。家書陸続到茅茨。博粲。○白河侯松平越中守様伊勢桑名へ。これは御先代桑名御城主也。桑名侯武州忍へ。阿部鉄丸様、此方様御同家也、忍侯白河へ。三月廿四日右御所替被仰付候よし。」
魚譜の事は碧山が問ひ、霞亭が先つて答へたものであらう。碧山は漁業地的矢に居る故、魚の名を知らむと欲したこととおもはれる。蛤丁は霞亭が故郷に送つて遣つたことが前に見えてゐる。碧山がこれを獲て問ふ所があつたものか。ばかがひ(Mactra,Eulamellibranchia)の丁が其名を擅にしてゐることは、今も古に同じく、ばかがひの名の由つて来たる所も、必ずや霞亭の云ふが如くであらう。廿八日即事は歳寒堂遺稿の「病中」と題するものと全く同じである。わたくし共は乃ち此に由つて病中の七律が癸未(六年)三月二十八日に成つたことを知るのである。末に見えてゐる三月二十四日の交迭は徳川実記にかう書いてある。「廿四日。陸奥国白川城主松平越中守定永は、伊勢国桑名城へ、桑名城主松平下総守忠尭は、武蔵国忍城へ、忍城主阿部鉄丸正権は、白川城へ遷移せしめらる。」霞亭が松平定永の桑名に転封せられたることを記して、下に「これは御先代桑名御城主也」と注したのは、越中守定綱が寛永十二年美濃の大垣より桑名に徙り、摂津守定良を経て越中守定重に至つて、越後の高田に徙つたことを謂ふのである。其後因幡守定逵、越中守定輝、越中守定儀を経て、越中守定賢に至つて、陸奥の白川に徙つた。定賢の嗣が越中守定邦で、即ち楽翁定信の養父である。又霞亭は阿部正権の武蔵の忍から白川に転封せられたことを記して、下に「此方様御同家也」と注した。此方様は霞亭の主家備後福山の城主備中守正精である。正精の祖先伊予守正勝は長子正次に宗家を襲がせた。第二子正吉は別に家を立て、正吉の子忠秋が忍の城主にせられた。正権は忠秋十世の孫である。正権の子孫は後に磐城の棚倉に徙つたので、此家を棚倉阿部家といふ。
四月七日に狩谷棭斎が霞亭に昆布を餽つた。事は浜野氏のわたくしに視した尺牘に見えてゐる。「菟角寒温難定候処、御不快如何被成御入候哉、承度奉存候。事に触、御近辺迄参候儀も有之候へ共御面話御難儀奉察候間、態と拝謁差扣申候。自蘭軒承候へば、此節昆布御食用に宜候趣、依之国産手製仕候間、風味無覚束候へ共、奉献之候。万々其内拝顔可申上候。先は右申上度、草々頓首。四月七日。狩谷棭斎。北条譲四郎様。貴答御口上にて可被仰候。」霞亭と棭斎との交は多く痕迹を留めてゐない。それゆゑ人は或は二人の間に交のあつたことをさへ疑ふであらう。此書はその絶て無くして僅に有る証左の一である。しかも二人の交は太だ疎ならぬこと、彼此の間に時々往来のあつたことなどが此に由つて推測せられる。一面に棭斎と蔵書多き酌源堂主との親みがあつて、一面に又堂主と茶山の塾頭たる霞亭との親みのあることを思へば、二人の間に介居してゐる蘭軒が二人の相識る媒とならずに已まぬことは、殆ど自明の理、必然の数である。しかし若し此書の如きものが偶存してゐなかつたら、わたくし共は恐らくは塙に二人の交通の迹を認むることを得なかつたであらう。「貴答御口上にて可被仰候」は、霞亭をして謝状を作る煩を免れしめようとしたので、棭斎の病める霞亭に対する温存の工夫の至れるを見るべきである。昆布の事は下に引く霞亭の碧山に与へた五月の書を併せ考へて始て明かにすることが出来る。

文政癸未(六年)五月は霞亭の事を徴すべき三通の書牘を遺留してゐる。霞亭の弟碧山に与へた細に病状を叙した書一通、山口凹巷の霞亭に与へた書一通、山口甚平の霞亭に与へた書一通が即是である。
両山口の書は皆五月二十一日に作られた。霞亭の書の日づけは塗抹改竄の為に読み難くなつてゐるが、推するに初め淡墨を以て廿一日と書し、後に濃墨を以て「一日」の二字の上に「日」の一字を書したやうである。
今三書を抄出せむと欲するに臨んで、わたくしは孰れを先にし、孰れを後にすべきかを思つた。そして霞亭の書より始めようと決定した。それは最も長い霞亭の此書が、五月頃の霞亭の情況を知るに尤も便なるが故である。其情況はどんなものであるか。約して言へば、霞亭の病は著るく変じたとはおもはれない。しかし既に久しく病勢が一進一退してゐるので、霞亭の自ら憂ふることも漸く切になり、霞亭の親戚朋友もその久しきに亘るを見て漸くこれを重視するに至つたらしい。霞亭の一書も、両山口の二書も斉しく此情況の下に書かれたものである。霞亭は己の病を憂へて数医を易へ、既に良医を獲たと信ずるに及んで、其言に従つて広く治療摂養の方法を知人の間に求めた。此要求の一端は下の霞亭の書にも見えてゐるが、霞亭は是より先にも、既に人に向つて此の如き言をなすこと啻に一再のみでなかつたらしい。山口氏の書には其反響が見れてゐる。此より先づ霞亭の書を録する。
「四月両度御出しの華柬各通披見、向暑愈御安泰御揃被成、珍重之至奉存候。当方皆々無事罷在候。乍憚御安意可被下候。○私病気今少しとなりいかにも順快いたし不申、又々医人をかへ、此度は芸洲恵美三白をむかへ候。(自註。先三白養子、年六十二歳。)この人見立には、元来脚気にて、心下水気充満いたし候故、留飲とも癪ともみえ候へども、それは余派也。脚気の水気を逐ねばならぬ処と申候。かの家の流には塩物だちを厳敷いたし、赤小豆計を喫し、少々宛大麦を食料とし、米をたち、長芋、くわゐ、(此三字不明)こんぶなどやうのもの計、塩気なく煮くらひ候。方は蘇子檳榔湯に加減有之、已に四十貼余用ひ候処、大に効験有之、全身水気皆よくとれ、心下も追々ゆるみ、只今にては大方平常にもなり候。いづれ此後食用など第一と申事に候。塩気は其内少々宛用ひても不苦候由、酒魚品は一切不可然との事に候。赤小豆、大麦計、初はつらく候へども、此頃にてはなれ候て、随分甘く喫申候。二椀半位宛たべ申候。此様子なれば無程全復可仕候へども、先用心の為、当年は已に半年病気引込故、炎暑中は静養可致奉存候。元来去冬より催し候痰に候を等閑にいたし候油断も有之候。○最初、南部伯民(自註、周防の人、近頃出都、長門候に仕ふ、下地懇意也、著述なども有之、名高き医者也)に相談いたし、手合の薬用ひ、其後、内田玄郁と申町医(自註、これも懇意に而相応に行はれ候人)にみせ、屋敷医者、小野玄関薬三十日程(用ひ)、やはり当屋敷、伊沢辞安(自註、格別懇意なる人也、学問も有之、医学尤精苦いたし候、これは脚気ならんかとも申居候)これへかかり候へども効見え不申、又々本郷町医、横田某に少しの間かかり、其後恵美にみせ候。さすが名家だけたけ(長)候而、水気の病には尚更高名に候。最初より是と存候へども、何にもせよ二里許も隔り、それに当表にても、諸侯以下争迎、ただそれ故申遣し不申候処、不外儀と申され、早速みえ、療治いたしくれられ候。何分此水気病脚気などには塩味たち候事第一と被存候。無左ては薬も水気と塩味に妨られ、少々の事は(森云、少量にてはの意か)きき不申と被存候。○尚又脚気病後心得の事御気付くわしく御書付被仰付可被下候。広岡文台が書き候随筆に何歟脚気の論少し有之候様覚え候。御録出被遣可被下候。其外手近き医書中に有之候儀共、一々被仰聞可被下奉頼候。○脚気水気浮腫は上部に有之候へども、下部にはなく候。先は乾脚気に属し候歟。衝心と申程の事は無候へども、水気心下につき候事も、正二月頃は折節有之候。此度の痰に而、十五年来の留飲も次手にさばけ候様にも被存候。右の通参候はば重畳に候。○麦の儀被仰下辱存候。此間外よりとりよせみ申候。極上擣に而百文に付一升四合にて差上可申と申候。それなれば此表にて求め可申、もはや御無用に候。○櫛の儀母様御厚意難有奉存候へども、御宅にても金子出候儀故、是は御勘定可仕候。(森云、此より下勘定書の数字不明。)くしかうがい代金一両三歩先金二両一歩、金十六匁八分三厘講未秋掛金、計二両二分余、これへ御あつらへ小学料二部代二十六匁其内へ御入可被下候。外に金一両二歩願上候。大方これにて相済可申候。すこし過上にや。○首飾など近来奢靡(二字不明)一般の悪風俗に候。わけ而伊勢の山田など申処は、上にこはきもの無之処故に候。何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申者も有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。心正しく行かけねば千金の子も襤褸甕戸の人に恥候ものに候。(森云。「心正しく行欠けぬ藍縷甕戸の人には千金の子も恥候ものに候」の意か。)わけ而家法は婦女子を厳敷制禁せねばならぬものに候。足下などよくよく御心得可被成候。○わり菜其後煮候事(処か)甚和らかに候。○魚譜今年中に仕上可申やとの事、箇様に性急には何事もききだし候事は出来申間敷候。尤老人の儀故、待遠には候べく候へども、先二三年もかかり候御心掛可然候。其内あちらよりいそぎ参り候へば格別、いづれ諸方へ参り候冊(此一字不明)もそのやうに急にはかへり申間敷候。先尭佐へ一応御答置可被成候。すべて著述にても何にても、急に仕立る事緩にする事と見計第一に候。心懸は敏に事は緩にする事と見計第一に候。已に茶山後集、去去年もはや板下にかかり候処、今に埒明不申位に候。きまり候事さへ菟角落成は手間とり候ものに候。就夫蒿渓が随筆にてみ候。或君上の此手紙は急なる事申遣し候間、随分静かにかけと筆者に被仰候由、面白き事也。私性質火急の非を覚候。近来はいたくため直し候。とかく宿習出やすきものに候。先はいそがぬ事と被存候。○御大名の御所替などの儀、下のうわさにしれ候ものには無之候。公儀より被仰出候迄者、一向わかり不申もののよし。○母様へ麤末なる小袖一差上申たく候。何ぞ御好被遊候様、御序に被仰上可被下候。地は何、染色何、うら何、或は島(縞)にても、紋は何をつけ(可申哉)、右等被仰上可被下候。とてもよき物は差上候事出来申間敷候へども、この様なるものがよきと思召候もの無御心置被仰聞可被下候。当冬あたり迄に被仰聞可被下候。○主人にも少々御中症のきみ被為入、久敷御引込に候。去年も百日余御引込有之候。此頃、是は極内々、御退役御願書御差出しの思召も有之候由、如何被仰出候や不可測候。御家中者一統残念がり候事なれど、御大役御病身に而御勤、御寿命にさはり候より、乍恐御良計と、私共は奉存候。是は機密之事、口外被成間敷候。○私今度の病中、幸に新居物静に而、南むき風吹いれよろしく、のみ、蚊、蠅少なく、引籠の儀故、懇意の外は一人不来、読書詩文もいたし不申、当元日より公の事々は一日も勤不申、ゆるやかに養保いたし候儀、扨々難有君恩に候。終日無一事、腰折うたなどよみてまぎれ、水飴をなめ薬とし居るさま、ひまなる僧家にちかく候。此節ほととぎす鶯沢山音づれ、後園に笋生じ、家内喫し候外、私たべ不申、ちかく二三里の所ならば差上度などと此頃妻共申居候。おとらが此頃ちひさき笋にて花いけをこしらへ、草花をさして、御とと様の御なぐさみにと持出候節の腰折、花さすとをさな子がきる竹の子のなほき誠をみてぞなぐさむ、すこしむづかしき歌に候。○私共の様なる不調法なるものは、かせぎてまうけるなどと申事は出来不申候。夫に出来ても、いづれはやる様になれば人にも出会せねばならず、外勤も多く、人も集め不申候ては叶ひ不申、病身物むづかしく、自分修業と御上並に御家中の稽古の外は皆々大方やめのつもりに候。節倹して、さむからず、びだるからずば足りぬといふありさまにて、其余は天道まかせといたし候了簡に候。江戸は勢利の地故、外観をかざる(此六字不可読なる故、姑く塡む)輩、医者などは勿論の事、儒者画家書家時めき候ものなど、皆々権門勢家をつとめまわり、栄利を計るがなべての風に候。うるさきありさまに候。○立原翠軒死去、葛西健蔵死去、寐ぼけ先生死去、老人たち皆なくなり候て、鵬斎一人になり候。これも久敷中風、此頃私方之弟子を見舞に遣承り候処ますます不遂、只右手に而物書て、二便抱きかかへのさまの由、気はまめにて、酒も四五杯宛は被参候よし。近年は格別高名になり、書などのもとめ多く、金子など多くとれ候由、夫にてもやはりたり不申候由。先月両国万八楼とやらにて、門人などの一統申合に而、七十の賀の書画会いたし候由。(自註。七十二延引。)其日来集八九百人にも余り候由。富豪の弟子など多金いだし候者も有之、三百金程内入有之候処、下地の物入、饗応、借財などにて、わづか五十金計になり候由。其節の事に、市川団十郎使を以て御祝儀申上候。まんぢうせい籠三十荷先生に奉ると大くかき、これをよく人のみる処へ御張被下候へと申参り候処、弟子先生に如何取計可申やと申候処、其使に返詞に、よくぞいはひ被下、辱、団十郎へよろしく、せいろうはつみ可申候、これは少しながら御祝儀なりと、金五両つゝみ、使の者へ遣し、其書付はやぶりしまひ候由、例の儒俠、始終この様なる事にも費多き事とみえ候。教にはなり不申候へども、一奇人に候。近年池田に而鵬といふ銘の酒をこしらへ、自分もそれをとりよせのみ候。何分病人ながら今暫は生したきものに候。悴三蔵は町住家に而、久世長門守様御儒者に、十五人扶持に而近頃有付候。町弟子なども段々有之、相応にいたし候。もはや四十六七にも相成可申候。○ふと存付候。扨何事につけ、私は他人には大概の事はいはぬ流義なれど、骨肉兄弟へは少しにても気の付候事は一々申す性質に候。申候とて、一々それがよきには無之候。如何敷事なれば何によらず、さ有まじきと被仰可被下候。手前の事は手前にてはしれかね候もの也。是は朋友中にも入懇の人には頼置申事なれど、扨その様之忠告する人の少なきものに候。足下など、これは如何の事や、いふもあしきやと思ふ事も、兄弟などへは随分いふてみるがよし、用ひられぬ事なれば、それきりといたし候迄の事也。是は平生の御心懸に申上候。時節大暑に向ひ候。二尊様始、御家内一統、御食物御用心御保養専一に奉存候。余期再信候以上。五月廿日。譲四郎。立敬様。」
此書には註すべき事が頗多い。その書中に見えた序次に従つて左にこれを略叙する。

霞亭が文政癸未(六年)五月に弟碧山に与へた書には、最初に治を託する医師を替へたことが言つてある。医師は安芸の恵美三白で、これに「先三白養子、年六十二歳」と註してある。恵美氏は伊予国より出でて安芸国広島に移り住んだ医家で、その三白と称することは寧固恵美貞栄に始まる。堤氏に生れて恵美氏に養はれた人である。寧固は天明六年十月八日に七十五歳で歿した。二世三白は大笑恵美貞璋である。本長尾氏で、寧固に養はれて家を嗣いだ。是が霞亭の謂ふ「先三白」で、先だつこと三年、文政三年六月八日に江戸で歿した。霞亭を療した三白は三世三白で、名は貞秀、玄覧と号した。実は初代三白の子で恵美三圭と称してゐたのを、二代三白が取つて継胴としたのである。宝暦十二年の生で文政六年癸未には、霞亭自註の如く「年六十二歳」になつてゐた。
玄覧は霞亭の病を脚気と診断した。其徴候は詳でないが、病人の自ら云ふを聞くに、十五年前より留飲があつた。酒を好む人の慢性の胃病である。さて今度の病になつてからは、霞亭は主に痰喘に悩された。そのうち上半身に浮腫が来たらしい。是は此書に於て始て明に記されてゐる。その「水気心下につき候事」もあるといふのは、上半身に浮腫が来ると同時に、或るときは胸より心窩にかけて苦悶を覚えたものであらう。しかし下半身には浮腫が無い、自ら「乾脚気に属し候歟」と云ふ所以である。そして下肢の知覚異常、所謂しびれに至つては、霞亭は未だ曾てこれを説いたことがない。霞亭の病の徴候として記されてゐるものは、唯是のみである。
此事実は後より推して霞亭の病の脚気なりしや否を決するに足るものでないことは言を須たない。さて初より霞亭を診した南部、内田、小野、伊沢、横田の五人は、脚気とは看做さなかつた。中に就て伊沢は「脚気ならむかとも申居候」と云つてあるが、是とても診察上彼か此かと、とつおいつ考へた間に、或は脚気ならむも測られぬと云つたことがあるに過ぎぬであらう。然るに恵美一人が脚気と確言した。恵美三白貞秀は「名家」であつて、「わけて水気の病には尚更高名」であつたから、霞亭が信じて一身を此人に託したのも当然の事であつただらう。又恵美の診断は真に中つてゐたかも知れない。
しかし伝はつてゐる所の事実は、既往症として慢性の胃病があり、そこへ慢性の気管枝病が起つて来て、終に上半身に浮腫を見るに至つたと云ふに過ぎない。されば単に疾医たるのみでなく、学医と称するに足る伊沢蘭軒も、又多少書を読んでゐた南部伯民も脚気と断ずることを敢てしなかつたのは是亦怪むに足らない。且霞亭自身は脚腫がない為に、「先は乾脚気に属し候歟」と云つてゐるが、所謂乾脚気の主なる徴候たる神経系の障礙は毫も記載せられてゐない。
わたくしは上に霞亭の病は萎縮腎ではなからうかと言ふ疑問を提起したが、説いて此に至つても、此疑問を撤回する必要を見ない。霞亭が常に痰喘痰喘と云ふのみで、何の苦悩をも訴へぬのも、上の神経系諸徴の記載が闕けてゐる事実以外に、わたくしをして前の提案を維持せしむる一の理由となつてゐる。わたくしは下に霞亭の終焉を記するに至つて、再び此問題を回顧するであらう。
恵美は霞亭の病の脚気なることを断定して、脚気を治する法を励行した。米を絶つて、大麦、赤小豆を食せしめた。是は今も行はれてゐる療法である。しかし恵美の法の主とする所は此に存せずして塩を絶つに在つた。其可否は此に論ずべきではないが、蔬食者をして久しく那篤留謨(ナトリウム)を遏絶せしむるのは、頗る峻烈な処置だと謂はなくてはならない。わたくしはこれに耐へた霞亭の意志を尊重する。
霞亭は脚気を病むものの養生方を録送せむことを碧山に求めた。特に見むと欲したのは旧師広岡文台の随筆中なる脚気の条である。此随筆は今伝はつてゐぬやうである。恐らくは刊本ではなからう。
当時の江戸の大麦の価「百文に付一升四合」は、これを白米の市価に較べて見るに、稍貴きに過ぐるやうである。「極上擣」なるが故か。
櫛笄の価等の一条は艸体の読み難いのを強ひて読んだ。それゆゑ錯誤なきことを保し難い。しかし権に金一両銀六十三匁四分の相揚として算し、其乗除の迹を討ぬるに、意義概ね通ずるものの如くである。
霞亭は女子首飾の奢侈を語つて、貧富の懸隔に及んでゐる。伊勢国山田が当時特殊の状態をなしてゐて、地方行政の制裁を受くること少く、奢靡の風が盛であつたと云ふは、げにさもあるべき事である。「何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命禄といふもの有之候。」今の社会主義乃至共産主義を駁するものとなして読まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社会主義の国家若くは中央機関は愚者の政を為す処である。
的矢から霞亭の許にわり菜が来た。霞亭は一たびこれを硬しと謂ひ、此書を作るに及んで、「其後煮候事(処)甚和らかに候」と云つてゐる。わたくしはわり菜の何物なるかを知らぬので、竹柏園主を介して、これを志摩国鳥羽の人門野錬八郎さんに質した。其答はかうである。「わり菜は菜にあらず。芋苗を日にほしたるものをいへり。かたまりたるを一夜水につけて煮、又三杯酢にして食ふに、蕨又薇などに似たる味あり。」これでわり菜の義は渙釈した。
魚譜の事は上にも見えてゐた。しかしわたくしが碧山を以て魚譜を得んと欲するものとなしたのは誤であつた。此書を読んだ後に再び按ずるに、事は菅茶山が魚譜の資料を諸方に求めたのに起つたらしい。的矢の北条氏は門田朴斎の手から此資料を徴せられて、これを江戸にある霞亭に諮つた。霞亭はこれがために力を致すことを辞せない。唯年を踰えずして資料を集め畢らむことを要請する茶山の性急に過ぐるをおもふのである。かくては独り的矢の資料が全きことを得ぬばかりでなく、諸方の資料も亦遺漏多きことを免れぬであらうと云ふのである。
霞亭は事の急にすべからざることを証せむがために、茶山集の顚末を引いてゐる。「已に茶山後集去去年もはや板下にかかり候処、今に埒明不申位に候。」茶山後集とは黄葉夕陽村舎詩後編である。去去年は文政四年辛巳である。刊本を検するに、其前年庚辰(三年)に登登庵武元質の弟恒の評が成つて、辛巳の十二月に霞亭の序が成つた。剞劂も辛巳を以て著手せられたことと見える。書の首尾に「文政癸夫鐫」又「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と書するを見れば、霞亭の此柬を作つた時は刻が未だ成らず、此年の暮に薄つて、霞亭の歿後に纔に成つたのである。
霞亭は又事の急にすべからざるを証せむがために伴蒿蹊の随筆を引いた。「或君上の此手紙は急なる事申遣し候間、随分静かにかけと筆者に被仰候由、面白き事也。」此事は閑田耕筆、閑田次筆、近世崎人伝、同続編、門田の早苗等には見えぬやうである。徳川時代の諸侯の事蹟に精しい人の教を受けたい。
書中に主人退役の願書云云の事がある。阿部正精が老中の職を辞せむとしてゐるのである。正精は霞亭の歿後に至つて十月十一日に老中を免ぜられた。徳川実記文政六年十月十一日の下に、「十一日宿老阿部備中守病により職とかん事、かさねて請ひ申すにより、免されて雁の間席命ぜらるると、一族井上河内守めして伝へらる」と書してある。井上河内守正春は陸奥国棚倉の城主で、当時虎門内の邸に居り、やはり雁の間詰を勤めてゐた。その「一族」といふ所以は、正春が正精の女壻であるからである。  
 

 

十一
文政癸未(六年)五月の霞亭の書には猶注すべき事がある。霞亭は亀田鵬斎の寿筵の事を言はむと欲して先づ癸未の年に入つてより以還歿した知名の士を数へた。「立原翠軒死去、葛西健蔵死去、寐ぼけ先生死去、老人たち皆なくなり候。」翠軒立原万の歿したのは癸未の三月十四日で、名人忌辰録の十八日は誤である。因是葛西質の歿したのは同年四月六日である。狂詩に寐惚先生と云ひ、狂歌に四方赤良と云つた南畝大田覃は偶因是と同じく四月六日に歿したのである。霞亭の書が五月二十日に成つたとすれば、書は翠軒死後六十五日、因是と南畝との死後四十三日に、新なる記念の下に艸せられたのである。
鵬斎の宴は七十を賀せむがために、四月に両国万八楼に開かれた。鵬斎は宝暦二年の生れなるが故に、其七十は前前年、文政四年である。霞亭の「実は七十二、延引」と注した所以である。此段の末に「悴三蔵は町住家に而、久世長門守様御儒者に、十五人扶持に而近頃有付候」と、云つてある。三蔵は鵬斎の養嗣子綾瀬梓である。これに儒官を命じた久世長門守は、名は広運、下総国関宿の城主で五万八千石を領し、雁の間詰を勤め、其邸は常盤橋内にあつた。霞亭は綾瀬の年歯を「もはや四十六七にも相成可申候」と云つてゐるが、綾瀬は安永七年の生れで、文政癸未(六年)には四十六歳になつてゐた。
山口凹巷の霞亭に与へた五月二十一日の書は浜野氏の眎す所で、其文はかうである。「急便一筆呈上、時節炎暑、御渾家御安寧奉欣祝候。当方無恙、御省慮被下度候。誠に、甚平へ本月朔之御書中兎角御所労之趣、不勝耿々候。折節於別家右御書拝見之夜、文亮被参合候に付御病症等も試に相質し候処、甚平より御覧に入候医按申越候。宜鋪御考奉希候。医事は小生等倀々、如何可然哉可申上儀も無之候得共、文亮被申候に付御脚気にも無之候哉と覚候。乍併此御症千里懸隔之儀に候へば、必確難期(此一字不明)候なりに、随分軽症に候間御摂養次第御快然可有之と文亮被申候故、先少しは安心仕候。また小生存出し候には、此節御所労之儀、若御帰養御願出も有之候はば、御家内様等も御携候而、秋涼頃に一先御帰御座候事は不相成候哉。何分にも人生平安に無之候而は不相楽候様奉存候。率爾之至に候得共、御一計奉希候。乍去追日炎熱に赴候間、暫は何分にも御養生可被下候。今夕甚平より書状差出し候趣承申候間、灯下に而心事を申上候而已。宜鋪御推恕被下度候。縷々は期再便候。恐惶頓首。五月廿一日。韓珏拝。霞亭兄侍座。尚々先便杢殿東下呈一書候。相達し可申奉存候。甚平方一統無事候間、是又御安意可被下候。杢殿にも無程御還装候はば、御近状も委敷可承と企望居申候、不宣。外封。北条譲四郎様文梧。山口長次郎。」
是は霞亭の病が久しきを経るために、知友の間に種々に評議せられた一端を見るべき書である。書を作つた山口凹巷は世に謂ふ韓聯玉で、其簡牘の今に存するものは甚だ少い。わたくしは霞亭伝の稿を起すに当つて、書牘の重要ならざるものは節録して、文のあまりに長きを致さざるべきを約した。しかし漸く主人公の末路に迫るに従つて、資料を愛惜する念を生じ、遂に全文を録するものの多きに至つた。読者がわたくしの徒に筆墨を費すを譲めようとも、わたくしには言ひ解くべき辞がない。惟此書の如きは全録せざることを得ぬものである。わたくしは此の如くに思惟して、終に外封の文字をさへ写し出した。本文の自署は氏を修して韓とし、名を珏と書してある。外封には氏を山口とし、長次郎と称してゐる。
長次郎の凹巷の小字なることは東夢亭撰の墓表に云ふ如くである。然るに癸未(六年)五十二歳にして又長次郎と署してゐる。是は文化十三年丙子に致仕した時、小字に復つたのである。然らば人となつてから丙子四十五歳まで何と称したかと云ふに、角太夫と称してゐた。わたくしが前に角太夫と書いたのを見て、書を寄せて、凹巷は終始長次郎と称したと教へた人があるが、それは不穿鑿の謬である。此人は墓表の「小字長二郎」とある「小字」を通称の義と見たかも知れぬが、是は夢亭が少時の字の義に塡用したのである。
凹巷の国牘文は頗る常に異なつてゐる。耿々と云ひ倀々と云ふ類は、他人の容易に下さざる字面である。これを読めば錬字の工夫上に一種の癖のある韓聯玉の詩が想ひ起される。
此書に拠るに、凹巷と同じく、霞亭と往復してゐる山口甚平は凹巷の別家である。又書に文亮とあるは青山文亮で、東氏に養はれて東夢亭と云ふ。凹巷は別家に往つて霞亭が甚平に与へた書を見た。そこへ夢亭が来合せたので、霞亭の病の事を質した。夢亭は医按を作つて凹巷に遣つた。凹巷はそれを此書と倶に霞亭に寄せたものと見える。
夢亭の医按の伝はらぬのは、惜むべき事である。何故といふに、霞亭の病は後より推究して、何の症とも定め難いものである。それがために医按を作つた夢亭は学医としても識見のあつた人である。そして凹巷が霞亭を兄弟の如くに視る密友であつたに反して、夢亭は霞亭を冷静な眼を以て客観的に看てゐたことが、鉏雨亭随筆に霞亭の文を評した一節に由つても推せられる。わたくしは夢亭の医按を以て公平なる観察より得来つた判断だとして、多少これに重きを置く、惜むべしとなす所以である。
わたくしは初め凹巷の此書を見てかう思つた。凹巷の別家をおとづれた夜読んだ霞亭の書には、霞亭が己れの病を脚気なりとする塙信が見えてゐたであらう。さて凹巷は医按を求めて見た。夢亭は霞亭の病を脚気とは見てゐなかつた。そこで凹巷はこれを霞亭に転致するに当つて、故らに其辞を婉曲にした。「医事は小生等倀々、如何可然哉可申上儀も無之候得共、文亮被申候に付、御脚気にも無之候哉と覚候。」訳して云へば「医学の事には私共は方角が立たない、どうなさるが好いと申し上げる意見もありませぬが、文亮の云ふのを聞けば、御病気は脚気でもないやうに思はれます」となる。夢亭が霞亭の病は脚気でないと云ひ、凹巷も亦これを聞いて脚気と云ふ診断に疑を挾んだ。さて凹巷は書中に霞亭に的矢へ帰らむことを勧めてゐる。是は或は脚気として治療してゐる江戸の医者の手より霞亭を奪ひ返して、脚気にあらずと視る夢亭の如き医者の手に委ねようとしたものであつたかも知れない。しかし若し霞亭の病が萎縮腎であつたとすると、是も亦恃むに足らぬ事であつただらう。かうわたくしは思つたのである。
しかしわたくしが凹巷の文を是の如く解したのは錯つてゐたらしい。わたくしは後に山口甚平の霞亭に与へた書を読んで、夢亭が霞亭の病を以て脚気となしてゐたことを知つた。甚平が夢亭の医按を錯り読んでをらぬ限は、錯読の失はわたくしの上に帰せざることを得ない。
此に至つて考へて見れば、凹巷が「文亮被申候に付、御脚気にも無之候哉と覚候」と書したのは、「御脚気には無之候哉と覚候」と云ふに同じく、訳すれば「脚気ではないかと、思はれます」となるのであつただらう。下の甚平の書を併せ考ふべきである。
書中に又杢の名がある。是は恐らくは河崎敬軒の子誠宇松であらう。果して然らば誠宇は癸未(六年)の夏江戸に来てゐただらう。そして凹巷はその伊勢に還るを竢つて霞亭の病状を聞かうとおもつてゐたのである。
十二
文政癸未(六年)五月二十一日に山口甚平が霞亭に与へた書は、恐らくは凹巷の書と同封せられてゐたであらう。そして東夢亭の医按が霞亭の病を以て脚気となしたことは、此甚平の書にあまりに明白に書かれてゐて、殆ど疑を挾むべき余地を留めない。「五月朔尊翰昨日相達辱拝見仕候。時下暑気相催候処、愈御渾家様御揃御万福不勝欣幸候。当方皆々無故障罷在候、乍恐御安意奉希上候。然者御病気已に御復常と奉存候処、于今御勝れ不被遊候よし、甚案じ居申候。御申越被下候御病症早速文亮子へ相尋しばらくして接対候処、御申越之趣に而者脾胃虚にては有之間敷、脚気緩症と被存候様被申候。其明日此尺牘被贈万一之利益にも相成候哉、早々此様子可申上様申来り候。御油断は無御坐候かなれども、何卒都下之名医へ御見せ被遊候様呉々奉希上候。文亮子文之中へ加へ候医人など如何御坐候哉、今にては都下第一之医と申事に御坐候。何分御病不長中御養生専一奉希上候。只今勢南之医いづれも可然人は無御座、先文亮君などを除候而者外に者無之様承り候。尚又御病気様子後便委曲御しらせ可被下奉希上候。郷里皆々無恙御揃被遊候、必々御案じ被下間敷奉希上候。御姉上様定而御心配奉察候、おとらも追々成長と奉存候。乍恐可然御致声奉希上候。右申上度、余奉期再信候。恐惶謹言。五月二十一日。山口甚平拝具。北条霞亭先生侍坐下。乱筆御高免奉希上候以上。尚々拙妻よりも可然御見舞可申上様呉々申附候也。」此書には霞亭の病の事より見て特に註すべきものはない。しかし霞亭の妻を「御姉上様」と呼ぶのは何故であらうか。霞亭の季の弟敬助は、名を惟寧と云つたが、山口凹巷に養はれて名を沖字を澹人と更めたと云ふことである。或は思ふに山口氏の所謂養子は宗家を襲がしめむがための子ではなくて、別家の主人たらしめたものではなからうか。甚平は敬助が改称したものではなからうか。凹巷の書に一言の敬助が上に及ぶものゝないのも、わたくしの推測をして蓋然性を増さしむるに足るではないか。
癸未(六年)五月に霞亭の受けた書牘の三通は此に終つた。然るに尚追加すべき一書がある。それは前三書に後るゝこと約十日に、岡本花亭が霞亭に与へた書で、浜野氏の視す所である。即ち江戸市中の往復である。「先日は御手教、此節恵美薬御相応御快方のよし目出度奉存候。扨々御長病御退窟可被成、とくに御快しと存候に、やうやう御家内御あるき位に至候よし、御病候も色々転変いたし候にや、此せつは脚気御患被成候由、河崎氏被申聞候。左様に候や。脚気は恵美得手と承候へば御属し被成候而御尤と被存候。私も当春以来大病人うち続、魔事多く、妻はやうやう死を免れ候而、此せつは大方快復、女壻は下世いたし候。かかる事共にて、大に御無音、詩なども元日に少々有之候ままにて、其後筆硯棄擲至今日候。この程少し心にひまも出来、頻に御なつかしく存続候。近日中涼しき日御見廻旁可罷出候。御病中御著作は如何。鵬斎先生染筆奉謝候。聯玉致声辱存候。此方無音而已に打過候。御序に宜しく奉憑候。碑文御存寄も少々被仰遣候よし、私も一見、みだりに難容喙候へども、卒の字如何くるしからずや。四品以下の人には用不申方宜やと、私などは心得罷在候。其外少し心付候処も有之、其中拝話可仕候。古賀一封、先頃被頼候へども、其砌は大混雑の中にて無人、旁大に延引仕候。御落手可被下候。茶山先生瘟疫、一時は危きほどの御やうす、此節は御快復と承り、安心仕候。さばかりの御病患も治候は、畢尭御高年ながら強き処おはし候故之事とたのもしく、悦申候。春以来一度も状出不申、あまりの御無音、近日呈書可致、御序のせつ何分宜奉願候。頓首。五月二十九日。成拝啓。霞亭詞壇。」
花亭が霞亭の病気の脚気だといふこと、其治療を属せられた医者の恵美三白だといふことを聞知した時の書牘である。わたくしは語調の間に花亭のあまり三白に心折してをらぬらしい意を聞き出すやうにおもふがいかがであらう。当時の医家より観れば、専門分科の人に大いに敬重すべき人は少かつた筈である。しかし花亭は三白の水腫を治する技倆を全く認めなかつたのではない。「御属し被成候而御尤と被存候」と云ふのは、脚気ならばこれを治することに長じてゐる恵美の迎へられたのも怪むには足らないと云ふ意であらう。花亭は此霞亭の近状を「河崎氏」に聞いた。即ち誠宇木工である。
わたくしは未だ花亭の詳伝を知らない。それ故、癸未(六年)の春夏に花亭の妻と女壻とが大病に嬰つてゐて妻は僅に死を免れ、女壻は終に歿したことを、此書によつて知りながら、これに注解を加ふることを得ない。聞くが如くば、花亭は当時幕府の譴を受けて小普請入の身となつてゐた。明和五年(1768)の生で癸未(1823)五十六歳である。その幕府に大用せられて世に出たのは、此より十四年の後天保八年(1837)七十歳の時である。されば此時に見えてゐる厄難は皆失意の花亭が上に加はつたのである。
鵬斎の書は花亭が霞亭の紹介に由つて乞ひ得たものであらう。凹巷は霞亭に書を寄する次に、花亭に致声したのである。墓誌銘の事は審にし難いが、撰者は同時に霞亭と花亭とに閲を請うたものとおもはれる。
茶山の病は病中雑詩の五律五首中に「臥病春過半」「昏々渉数旬」等の句があり、田能村竹田(君彝)に酬いる七律一首中に「伏枕春来未渉園」の句があるより推すに、初春仲春の頃であつた。花亭の此書は忽ち「瘟疫」の二字を点出してゐる。然れば茶山の病は腸窒扶斯(チフス)などの類であつたか。茶山集には下に暮春登山寺の五律一首があるが、下に引く霞亭の六月朔の書に徴するに、茶山の全く回復したのはこれより晩いやうである。彼五律は課題の作ではなからうか。
癸未(六年)六月に入つた頃には、霞亭の病はあまり険悪ではなかつたらしい。わたくしは六月朔に作つた尺牘三通が存じてゐるから此の如くに云ふのである。わたくしは下に此三通を連載しようとおもふ。
十三
文政癸未(六年)六月朔に霞亭の作つた三通の尺牘の中、わたくしは此に先づその弟碧山に与へた二通を録する。「五月十五日御書状相達、先以暑蒸(の節なるに)御平安奉賀候。私儀日々快く候。御放意可被下候。御作愚評(を加へ)返納仕候。ふと存附候間、如在は有之間敷候へども、甚平方へ御郷里より、御用事の人は格別、親族といふて人のゆく事御用捨可然候。兄弟などは格別の事也。何にもせよ、親族といふていけば、あちらにても麤末も相成申間敷、多事込(困)り可申候。これは私も近年備後にて時々迷惑致し候事有之故に候。此間は又々御前より私病気御尋被仰出候とて、御納戸より御肴、あわび、きすご、ひらめ、古索麪など頂戴被仰附候。難有奉存候。乍序御風聴可被下候。一昨日(五月二十八日)備後よりも信有之、菅翁も全く復し候由、こまやかなる書状参り候。鵬斎も、とてもいけぬ疾に候へば、自分には医師には一向かけぬよし、かの妻並三蔵などむりにすゝめ、恵美三白むかへるつもりになり候由、私方へ昨日(五月二十九日)申参り候間申遣置候。三白も主人家の姫君の上杉様や、加賀の御別家出雲様へ(被)為入候と、自分の主人の奥方などの御用(此一字不明ゆゑ姑く塡む)に而外療治さつばりやめ居候由に候。先達而御頼申上候いりこは私養生喫にいたし候也。可成はいらたかの高きがよろしく候。是は飛脚は御無用のこと、何ぞ物のついで(に)、船便に御頼申上候。いそぎは不申候。暑蒸切角御用心可被成候。匆々頓首。六月朔日。譲四郎。立敬様。」これが第一の書である。
「先状相認置候処、河崎杢被参、山田書状等相達、御郷里之御左右も承知仕候処、御平安之由、珍重奉存候。爾来諸般相替候儀も無之、賤症も段々順適いたし候。併薬用保養はいたし候。薬はやはり恵美に候。此節越婢加附子に蘇子五味など加へ候方に候。恵美も此節芸州御上御産、芸州より上杉候へ(被)為入候姫君御産などにて、足どめいたされ、外治療大方謝絶之由。殿様先書御噂申候通、十八日御退役願書被差出候処、其翌日直に御差留被仰出候。長く保養可仕候旨との事に候。先難有事に候。御家中も御首尾旁一統悦候事に候。御前御心中、且は御病気の事なれば、此後いかゞ相成や、はかられはいたさず候へども此上とも、御全快御出勤長く有之候はば、福山臣民は申に不及、天下一統之大慶に候。書外は先書申上置候。追々暑蒸、切角御自愛奉祈候。御家内中様、御食物中暑の御用心専一に候。夏のあひだ大方読書其外客人応対などは省略いたし候が養生かと被存候。余期再信候。匆々頓首。六月朔日。北条譲四郎。北条立敬様。」これが第二の書である。
此二書は前後二度に書かれて同時に発送せられたものである。文中で尤も註釈に待つことある処は恵美三白を拘束して技を外間に售らしめなかつた諸侯の夫人達である。第一に「芸州御上」の産と云ひ「自分の主人の奥方」の産と云ふは安芸国広島の城主松平安芸守斉賢の夫人である。第二に「加賀の御別家出雲様へ(被)為入候」奥方と云ふは越中国富山の城主松平出雲守利保の夫人で、松平斉賢の女である。第三に「芸州より上杉候へ(被)為入候姫君」又「主人家の姫君の上杉様」の産と云ふは出羽国米沢の城主上杉弾正大弼斉定の夫人で、これも亦斉賢の女である。要するに皆浅野松平と其女壻との家の事である。
此外文中には自明の事が多い。唯霞亭は薬食のために故郷に沙噀をあつらへて、「いらたかの高き」ものを択ばしめた。いらたかとは沙噀の疣であらうか。創聞に属するが故に注する。
霞亭の六月朔に作つた第三の書は菅茶山にあてたものである。弟に与へた二書は的矢書牘中の一であるが、茶山に呈する此書は浜野氏の視す所である。わたくしは数行を抄してこれを返した。「五月朔恵美三白見舞被下(中略)水気段々とれ、心下の病も追々退き候。乍憚御安意可被下候。(中略)昨日は肩輿にて霞関へ参候。格別動気も無之、先をり合申候。(中略)お敬、おとら皆々無事罷在候。(中略)御上にも先(月)十八日御病気之為御退役御免御願被遊候処、翌日早速御差留心長く養生可仕旨被仰出候由、御家中一統恭悦仕候。段々御快気之由に承候。私病中両度御尋被仰出、内々御肴、索麪等被下置候。難有仕合奉存候。」末には「六月朔、北条譲四郎、茶山先生函丈」と書してあつた。
此書に拠つて、わたくしは霞亭が癸未(六年)五月二十九日に駒籠西片町の所謂嚢里の家から駕籠で霞関の阿部家本邸へ往つたことを知つた。久病の霞亭が当時小康を得てゐた確証である。
此後未だ幾ならざるに、霞亭の二弟立敬、良助は突然江戸に来て伯兄の病牀の前に拝伏した。立敬は霞亭に代つて北条氏の嗣子となつた碧山惟長、良助は谷岡氏を冒した其次の弟である。現存してゐた伯仲叔季が、山口氏を冒した季弟沖を除くの外、皆会合したのである。
立敬良助はいつ的矢を発したか、いつ江戸に著いたか、詳にすることが出来ない。唯わたくしの知ることを得た所は、六月十六日に二人既に江戸にゐたこと、その江戸を発したのが十九日か二十日頃であつたこと、此二つの事のみである。
これを証するものは「六月十六日高城(二字不明)群右衛門、北条譲四郎様、貴酬」と書した一通の書牘で、浜野氏の視す所である。群右衛門の筆迹は極て読み難い俗書で、其氏をだに確には知り難い。わたくしは且高城と読んだ。しかし高の字は又馬とも看ることが出来る。城の字も土に従ふや否やが不明である。是は奈何ともすることが出来ない。此書に下の句がある。「御令弟様御出府之処、十九廿日頃御帰郷に付、箱根手形之義被仰下、承知仕候。相認させ候而、其以前差上可申候。何の御心配も無御座候。」群右衛門は十六日に霞亭の書に答へた。霞亭は十六日若くは其前日頃に、我家に見まひに来てゐる二弟のために封伝を乞うた。群右衛門はこれを諾したのである。二弟の江戸を発すべき日が十九日若くは二十日であることも、此書に見えてゐる。
推定の最も難いのは、二弟が此より先何日に江戸に来たかといふ一事である。しかし歳寒堂遺稿の詩集の末に、「立敬良助二弟来訪病、臨帰賦贈」の五古があつて、其中に「相見数晨夕、明朝将却回」の句がある。二弟が果して予定の如くに辞し去つたとすると、此詩の成つたのは十八日若くは十九日でなくてはならない。そして二弟が帰途に就く日を変更したらしい形迹は一も存してゐない。さて「相見数晨夕」の五字を見れば、二弟は久しくは留まらなかつた。或はおもふに霞亭は二弟の来た直後に書を群右衛門に与へたかも知れない。若し然らば二弟は僅に十五若くは十六日より十八若くは十九日に至る三日乃至五日の逗留をなしたに過ぎぬかも知れない。
此に附記すべきは的矢書牘中山口凹巷が霞亭の父北条適斎に与ふる書で、是は二弟入府の月日を考ふる上に於て、旁証に充つべきものである。二弟が已に的矢を去つた後、河崎誠宇は江戸より伊勢に帰つて、霞亭の病の小康を得てゐる様子を齎した。凹巷はこれを適斎に報じたのである。「誠に先達而江戸表御令息(此一字不明)君御不快之趣、甚以御案じ申上、別而立敬御兄弟御東下、暑中御労煩奉察候御事に御座候処、此頃先河崎良佐(敬軒)令息杢(誠宇)と申仁用向有之東行に而、於江戸表両度迄丸山御屋敷へ被致参敲、追々御快然御座候様、今朝(六月十五日)杢殿来訪承之安心仕候。幸今日御出入之仁立寄被呉候便宜此段申上候。乍憚御一統御悦可被下候。委曲は甚平よりも書中に可申上、御承知御安堵奉希候。(中略)立敬御昆弟にも無程御還装有之、目出度可得拝陳と欣想罷在候間、必々御案じ被成間鋪候。」末には「六月十五日。山口長次郎。北条道有様侍史」と書してある。此に由つて観れば誠宇が凹巷を伊勢に訪うた日は六月十五日、或は二弟が霞亭を江戸に訪うた日と同じかつたかも知れない。縦ひ然らずとも、此日に二弟は既に霞亭の家にあつたであらう。
十四
碧山と谷岡良助との仲叔二弟が、文政癸未(六年)六月の中頃伯兄霞亭を江戸に訪うた前後の事情は推測し難くはない。しかし上に引いた霞亭の五古はこれを叙すること太だ周密であるから、此に其要を抄する。「一病渉春夏。医薬無寸効。微命不足惜。先親実不孝。憂慮来百端。孤影伴妻孥。天涯親交少。向誰訴区々。毎欲脩家書。展紙屢停筆。不告類不情。告則労遠恤。遂書其梗概。因弟知小異。豈意伝説者。紛々不一二。二弟経千里。故来忽対牀。驚喜疑夢寐。各眼熱涙滂。乃言煩百聞。不如一見審。朅来察安否。令親安衾枕。可歎不慎咎。罹痾致其憂。幸且有天助。以得就微瘳。」(説文、朅去也、丘朅切。)叙筆は復注脚を須たない。霞亭は己の病の日ならずして治すべきを信じ、二弟に速に帰らむことを勧めた。「留汝不知厭。定省奈闕人。違意促帰去。吾志苦而勤。」
二弟の江戸を去つた日が六月十八日若くは十九日であつた筈だとは上に云つた。さて故郷に著いたのは七月の初である。その的矢の家に還つたのが何日であつたかは記載を闕いてゐるが、二弟は七月三日に伊勢の山田に著いて、そこから霞亭に書を発した。此事は下に引くべき霞亭の書に見えてゐる。
霞亭が二弟の山田より発した書を得たのは十一日である。歳寒堂遺稿の最後の詩にかう云つてある。「七月十一日得二弟帰家信志喜。日夜相思数去程。南雲如火正崢エ。倏披帰到平安報。将勝応門見汝情。」厳密に言へば山田に至つたのは的矢に至つたのではない。しかし霞亭の謂ふ帰家の信が山田より発せられた書であることは、是も亦下に引く書に徴して明である。
此詩は独り遺稿に載せられてゐるのみではない。的矢書牘中にこれを書した詩箋がある。惟題の「帰家信」が「帰家消息」に作つてあるを異なりとする。詩の起句は「別後相思数去程」と書して、「別後」の二字を塗抹し、勇に「日夜」と細書してある。詩箋の末には猶歌一首並に二行の追記がある。しかし此は下の書牘と共に抄することにする。詩箋は書柬に巻き籠めて送られた者とおもはれるからである。
わたくしは此に八月二日の霞亭の書を挙げる。亦的矢書牘の一である。「秋暑愈御安康御揃珍重奉存候。先達は七月三日山田よりの御状十一日に相達、挙家大安心仕候。船に御のりも一術に而、甚はやく、わけて御宅に而も御悦奉察候。先(月)九日(書状)差出申候、其後は先段々快方に候。心下も追々さばけ、腹の筋もずつと引込申候。気力精神は常の如くに候。ただ膝腰の軟弱にこまり候。これは脚気のもち前の症と見え候。復後の用心等御心付次第被仰可被下候。○いまだ米塩肉たち居候。とてもの事に四五日に而百日故、たち可申候。復後補養にそろそろかかり可申候。其内厚味は用捨可仕、何卒乍御面倒海参二朱にても百疋のにても早々御世話可被下候。船のたよりに御出し可被下候。併し少々づつ追々なれば飛脚にてもよろしく候。○此表朝夕は大分涼しく凌ぎよく相成申候。病人には甚相適申候。○杉ノ木ノ節御心懸御とり置御恵可被下候。薬に用ひ候積りに候。此方に而はまき屋に不自由に候。これはいそぎ不申候。○良助方分娩は如何。乍恐二尊様へ可然奉願候。時節折角御自愛奉祈候。先は近状報じたく如此御坐候、以上。八月二日。譲四郎。立敬様。」按ずるに上の詩箋は此書状に巻き籠めてあつたのであらう。詩箋の末に記してある歌は「よしさらば足たたずともふみみてむわが目のあきてあらむかぎりは。」其下の追記二行はかうである。「三白も廿二日出立いたし候。三圭に跡頼居候。」
書中に霞亭の病症の上より看て注意すべき句がある。「ただ膝腰の軟弱にこまり候。これは脚気のもち前の症とみえ候。」此句は詩箋の歌に聯繋してゐる。霞亭は此に至つて始て下肢の徴候に言及してゐて、そして其言が遽に見れば病の脚気たるを証するものの如くである。しかし是は必ずしもさうでない。霞亭は久しく病んだ後に、峻烈な食餌療法即絶塩法を行つてゐる。その「膝腰の軟弱」は全身衰弱の顕象として看ることを得るのである。且その今に及んで纔に顕れたのも、わたくしをして脚気の徴候でないと云ふ判断に傾かしめる。
詩箋の末の追記に拠れば、恵美三白は広島へ帰つたらしい。霞亭の跡を頼んでゐると云ふ三圭は三世三白、玄覧貞秀の女壻にして養嗣子たる桂洲貞興である。貞興は本堤氏、父を柳軒貞満と曰ふ。母は二世三白大笑貞璋の妹である。天明二年(1782)の生だから、霞亭を療した文政癸未(1823)には四十二歳になつてゐた。此人は後に君命に依つて分家したので、貞秀の家をば貞纘が継いで四世三白となつた。
わたくしは碧山と谷岡良助との二弟が霞亭を江戸に訪うた顚末を明にせむが為に、上に霞亭の八月二日の書を録した。それは二弟の帰郷後に作られた第二書で、其第一書(七月九日発)は佚したのである。わたくしは既にこれを録した後に、此書が現存する所の霞亭の柬牘中最終のもので、同時に的矢尺牘中の最後の一通であることを特筆しなくてはならない。
さて此より進んで霞亭の余命を保つてゐた半月間の事を叙するに先つて、わたくしは泝つて一事を言はなくてはならない。それは霞亭が楠公の碑を立てむと欲した事で、是は田内月堂の霞亭に与へた書に見えてゐる。書は七月二十五日に作られたもので、浜野氏の視す所である。即ち二弟の嚢里の家を辞し去つた一月後、霞亭の八月二日の書を作つた一週前のものである。
「心外に御疎音打過申候。先以被為揃御栄福奉恭賀候。過日吉川武助参り、御容体委曲相伺御案思申上候所、其後伯民より御快方之御消息承り及、大に降気且抃舞仕候。此節はとくと御全快に候哉、御様子伺ひ申度御座候。炎熱依然折角御自重専一奉祈候。先比楠公詩碑之事も内々御下問被下謹承仕候。いまだ致仕翁へは不申聞候間、認候哉否しかと申上げがたく候。扨唐突なる申事に候へども、茶翁楠公之詩長篇有之、一家之御論も有之、過年感誦いたされ候き。あの詩もともに御上石被成候ては如何。碑の正面に詩二首と申はをかしきものに候半哉。僕等はあしからずとも被存候。如何思召候哉。さて右様にては建碑企望之御諸生たち不得意にては不宜、先づ御内分貴意相伺申候のみ。春頃か柳井徳蔵(柳字不明)もとめられ候小学之代料つりといふもの被遣、先方へ遣し申候受取がき、つゐ失ひ申候。御免可被下候。紅梅この炎熱にかれ不申候哉。早春は御いらへ数首被下、有がたく感吟仕候。実は御歌にてはあき足り不申候。佳作(詩)をこそ所希に候。是はこん(来)年の春をまち得てきかまほし、梅の立枝に鴬の声、今より奉待候也。茶翁春の比患状くはしく承り驚き候所、其後御自書にて、例之蠅頭書参り、少しもむかしに不変、大に欣抃仕候。其後御壮健と奉存候。伯民もあまり金をためてやまひ動き、大に疲痩いたし候。稍快方、既に廿日に西発、また春は出可申候也。頓首。七月廿有五。月堂拝。霞亭先醒左右。」
田内の書は下に注する。
十五
文政癸未(六年)七月二十五日に、田内月堂が霞亭に与へた書には楠公碑の事が言つてある。霞亭は詩碑を湊川なる楠木正成の墓側に立てようとした。そのこれに刻すべき詩は、言ふまでもなく前年作つた「武臣曾跋扈、兇豎況迷昏」云々の二十韻の排律である。さて霞亭は此発意を月堂に告げて、白河楽翁侯の題額を獲ようとした。しかし月堂は敢て輒ちこれを侯に稟さなかつた。「いまだ致仕翁へは不申聞候間、認候哉否しかと申上がたく候」と云ふ所以である。月堂は侯に稟さないで、却つて霞亭に忠告した。石を立てるは好いが、これに刻する詩は茶山の作を併せ刻しては何如と云つたのである。茶山の詩とは本集後編巻八に載する所の「楠公墓下作並引」と題した七古である。詩は「致身所事是臣道、別有大忠知者少」を以て起し、「当時若無公輩出、乾坤亦豈有今日」を以て結んである。茶山は足利高氏の非望は源頼朝、北条泰時の類でないとおもつた。頼朝、泰時は院宣を奉じて諸侯を約束するに過ぎなかつた。高氏は親王を殺し天子を幽して顧ざるものである。正成等の兵力に圧せられて已むことを得ずして光明院天皇を擁立した。「設使其及其身、掌握海内、雖其所立、固弗可保。」茶山は高氏を新莽視してゐる。能くこれを防止した正成等は単に南朝の忠臣たるのみではない。「皇統之綿綿、諸将実有致此者焉。」茶山は南北合一後の帝系の永続にも、正成等が与つて力あるのだとおもつた。「能使楚国無問鼎、何論和議非真情。」月堂が茶山の詩に「一家之御論も有之」と云つたのは即是である。又その「過年感誦いたされ候き」と云つたのは楽翁侯が此論に感じてゐたと云ふのである。そこで月堂は霞亭に忠告して、若し霞亭が己が詩を石に刻するなら、茶山の此詩をも併せ刻しては何如と云つた。
わたくしは此に於て霞亭の詩を一顧せざることを得ない。「昊天帰閏位。大統有常尊。千歳堪冥目。九原当慰魂。」或は想ふに此一解は茶山の詩先づ在つて而後に纔に有ることを得るものではなからうか。
月堂の言は霞亭のためには苦言である。霞亭の何の辞を以てこれに酬いようとしたかは、今知ることが出来ない。
其他書中には菅茶山の病の愈えたこと、南部伯民の病んで長門に還つたこと等がある、小学を買つた柳井徳蔵は、わたくしは初め「揚井謙蔵」と読んだ。姑く一友人の読む所に従つて記したが、未だ釈然たらざるものがある。紅梅は月堂が霞亭に贈り、霞亭は倭歌を詠じて謝し、月堂は慊ずに更に詩を求めたらしくおもはれる。「梅のたちえに鴬の声」は金葉集第一、春、東宮大夫公実、「けふよりや梅のたちえに鴬の声里馴るる始なるらむ」又女房越前集、「雪のつもれりける梅に鶯の来鳴きけれは、ふる雪を花とまかへてさきやらぬ梅のたちえに鴬の声」等の典故がある。此内越前の歌は正治二年百首には「鶯、ふる雪を花にまかへてさきやらぬ梅のたちえに鶯のなく」と改刪して載せてある。
わたくしは上に霞亭の八月二日の書を挙げて、その現存柬牘中最終の書なることを言つた。霞亭の死は山陽撰の墓碣銘に「居丸山邸舎、三年罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。即ち彼書を作つた後第十五日である。此十五日間の消息、霞亭臨終の状況は渾て闇黒の中にある。惟井上氏敬と少女虎とが傍にゐたのを知ることが出来る。又主治医が桂洲恵美貞興であつたのを察することが出来る。
霞亭を葬つた真性寺は巣鴨車庫前を北へ行くこと数十歩の地にある。寺門に向ひて左に笠を戴ける地蔵尊の大石像の安置してあることを知れば尋ね易い。霞亭の墓は本堂に向ひて右の墓地の中央にあつて、山陽書の誌銘が刻まれてゐる。誌銘の事は猶下に記すであらう。寺は真宗である。
霞亭の法謚は、「歳寒院霞亭弘毅居士」であるが、石には刻まれてゐない。
霞亭の死因は何であつたか。その病症が二様の見解を容すと同じく、その死因も亦二様の見解を容す。若し病が脚気であつたら、霞亭は衝心に僵れたであらう。若し病が萎縮腎であつたら、霞亭は溺毒に僵れたであらう。わたくしはやはり衝心の或は其時期にあらざるべきを斥けて、溺毒の毎に急遽なる侵襲を例とするを取らむと欲する。霞亭は全く死の己に薄るを暁らずにゐたらしい。この儆戒せざる隙に乗じて、人をして手を措くに遑あらざらしむるは、脚気の某期に於て衝心の能く為す所ではあるが、亦萎縮腎の全経過を通じて溺毒の能く為す所である。
霞亭の訃音は何時的矢に達したか知ることが出来ない。これに反して、その備後の菅茶山の許に達した日は記載せられてゐる。茶山集に癸未重九の七律がある。「九日与小野泉蔵対酌、二日前子譲計至。重九従今更幾回。衰残触感尽悲哀。況聞東野簀新易。不得西原筵一開。旱後村閭偏索莫。霜前林薄已低摧。幸忻崔署尋彭沢。揮涙聊伝芳菊杯。」是に由つて観れば、茶山の訃を得たのは九月七日である。
訃音が的矢に達した時、霞亭の仲弟碧山と季弟撫松とは直に途に上つて江戸に来たらしい。しかし二弟は何時的矢を発したか、何時江戸に著いたか、何時又江戸を去つたか知ることが出来ない。二弟が伯兄の喪事を終へて的矢に帰り著いたのは、十一月二十一日前である。此入府の顚末は未亡人井上氏に与へた二弟連署の書に見えてゐる。
下に浜野氏の示す所の此書を抄出する。「此度は両人共ながく御せわ様に相成、まんまんありがたくぞんじ上候。(中略。)十四日土山とみなぐちの間にて福山北条とかき付あるにもつ見付候ものあるよしきき、まづまづ御出立とさつし、あんど致し候。十四日土山あたり御とほりの事ま事にて候はば、もはや此頃御国元へ御つき遊さるべくさつし上候。いさい御文にて御しらせ被下度候。(中略。)扨此度御たちより被下候ては、御上より御かへし被成候事ゆへ、御ためによろしからぬよし、夫ゆへ近年の内思召たち被遊候よし、御もつともにぞんじ上候。さりながら老人共申され候には、いまだ一度のたいめんもいたし不申、かつ孫のかほしらぬさへあるに、年よりし身は末はかりがたしとうらみ被申候へば、何卒御しゆん見はからひ一両年の内はやく思召たち御越被下候はばありがたくぞんじ上候。(中略。)せきひの事、はんぎの事せうちいたし候。(中略。)殿様の御書、ならびにさかづき、ひやうたん、衣類御遣し被下候よし、かたじけなくぞんじ上候。何につけても今さら涙に御坐候。(中略。)やま田社中にこう(香)料礼の事、わたくし共一女よろしく申のぶべくぞんじ候。(中略。)お虎事御じよさい有之まじく候へども、ずいぶん大切に御そだて、そうおうなる養子にても致し、家名御つがせ被下度候。今にてはお互にこれのみたよりにござ候。文政六年十一月廿一日。北条立敬、山口甚平。北条御姉上様。」
此署名者の一人山口甚平は霞亭の季弟で、山口凹巷に養れた撫松韓沖、字は澹人だといふことは上に一たびこれを推論して、猶些の疑を存して置いたが、此書を獲た上は、もはや疑ふべき所がなくなつた。此人は初の名惟寧を沖と改むると同時に、初の称敬助を甚平と改めたのである。
碧山撫松は此書を作つて、これを江戸に送遣せず、菅茶山の家のある備後国神辺に送遣したらしい。是は書中に未亡人の帰郷途上にあるべきを推測した言のあるに由つて知ることが出来る。
是より先江戸駒込阿部邸内にあつた、所謂嚢里の家は撤せられて、未亡人井上氏と少女虎とは茶山の家のある神辺をさして江戸を立つた。阿部侯正精は未亡人に三人扶持を給することを命じた。此間の消息は、「霞亭先生事跡」の一本に下の如く記されてゐる。「十月五日侯(阿部正精)配井上氏に俸三口を賜ふ。同月二十二日福山引越を命ぜられ、江戸を発し、神辺に帰り、菅氏に寄寓す。」三人扶持を給することが十月五日に命ぜられ、帰郷が二十二日に命ぜられたことが此に由つて知られる。
二弟の書に「まづまづ御出立とさつし」と云ふは母子の江戸を発したこと、「御上より御かへしに成候」と云ふは阿部侯の帰郷を命じたことである。
未亡人敬が帰郷を命ぜられた日は十月二十二日である。しかしその真に出発した日は知ることが出来ない。これに反してその神辺に到著した日は今明塙に知ることが出来る。浜野氏の示す所の尺牘中に、「霜月廿六日、中山造酒助、菅太中様」と署した一通があつて、其末に下の追記がある。「北条氏御後室御令愛昨日(十一月二十五日)は御無難に被帰候而御安心、何歟と御安心中之御感慨御察申候。宜御伝へ可被下候。」お敬お虎の母子は十一月二十五日に神辺に著いたのである。
母子の江戸神辺間の旅は何の障礙もなく、日を費すことも少かつたらしい。試にこれを二年前の霞亭の旅に較べて見る。霞亭は辛巳(四年)八月九日に江戸へ引越すことを命ぜられ、二十三日に更に福山へ向けて江戸を発すべきことを命ぜられた。霞亭は二十五日に江戸を発して、九月二十三日に福山に到著した。此日数二十八日である。仮に母子も亦霞亭と同じく命を受けた後、中一日を隔てて、十月二十四日に江戸を発したとする。そして十一月二十五日に神辺に著いた。此日数三十一日である。婦人女子の旅として視れば、快速であつたと謂はなくてはなるまい。
二弟の書に「十四日土山とみなぐちの間にて福山北条とかき付あるにもつ見つけ候ものあるよし」と云つてある。前段の仮定を以てすれば、十一月十四日は母子の江戸を出た第二十日である。某が北条氏の行李に土山辺に逢著したのは当然である。
二弟の書に又「扨此度御たちより被下候ては(中略)御ためによろしからぬよし」と云つてある御たちよりは的矢に立寄ることである。想ふにお敬は江戸を発するに先つて、途中に的矢の北条氏を訪ふことを辞したものであらう。
霞亭の遺物として的矢に遣られたのは、阿部侯正精の書、杯、瓢箪、衣類であつた。石碑とは、霞亭の墓碣、版木とは小学の刻版を謂つたものであらう。  
 

 

十六
文政癸未(六年)八月十七日に霞亭は歿し、駒込嚢里の家は撤せられ、妻井上氏敬と少女虎とは備後神辺なる菅茶山の家に寄寓した。わたくしは此に至つて生存せる霞亭の親戚の上を一顧したい。生父適斎は延享四年生で七十七歳、生母中村氏は明和二年生で五十九歳であつた。霞亭は二親に先つて歿したのである。其齢は安永九年(1780)生の四十四歳であつた。次は未亡人敬で、天明三年生の四十一歳である。的矢の生家を継いでゐる碧山は寛政七年生の二十九歳、其弟谷岡良助は同十年生の二十六歳、其弟山口撫松は生歿年を知らない。碧山の妻田口氏は寛政十一年生の二十五歳である。霞亭の遺孤虎は文政元年生の六歳である。
文政七年甲申四月十四日には霞亭の生父適斎が歿した。霞亭に後るること八月である。婦お敬をも孫女お虎をも見ることを得なかつた。次で八月三日に虎が茶山の家に夭折した。年僅に七歳である。茶山集に「孫女葬後数日、棲碧山人来訪」の七絶がある。「老年不必問喪儀。悽側多於少壮時。坐臥昏々欲旬浹。得君此日始開眉。」次に「十五夜」の七絶があつて、「半月前喪姪孫女」と註してある。「客逐秋期可共娯。況逢新霽片陰無。奈何天上団円影。不照牀頭一小珠。」並に虎の事に言ひ及んでゐる。隔つること一日にして霞亭一周年の忌日が来た。同じ集に「十七夜当子譲忌日」の七絶がある。「去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍円月。応照江都宿草墳。」是歳に福山北条氏の継嗣が定まつた。其人は河村新助である。
新助名は知退、字は進之、悔堂と号する。小字は道之進であつた。阿部侯正精が致仕の侍医東郭河村重善の第二子である。文化五年生で、甲申には十七歳になつてゐた。「悔堂先生事跡」にかう云つてある。「文政七年茶山先生東郭翁に請うて先生を養て北条霞亭の後を承けしめ、名を退蔵と改む。」悔堂が霞亭の後を承けたのは、茶山が世話をしたのであつた。
九年丙戌に阿部家に代替があつた。正精が卒して正寧が嗣いだ。
十年丁亥に茶山が歿した。未亡人敬と養子退蔵とが庇護者を失つたのである。
十一年戊子八月三十日に的矢北条氏の碧山立敬が歿した。年を享くること三十四である。是歳に悔堂が江戸に来て昌平黌に入り、佐藤一斎、古賀侗庵に経学を受けることになつた。此時退一郎と改称した。
天保元年庚寅に霞亭の心友伊勢の山口凹巷が歿した。
二年辛卯に悔堂が江戸から福山に還つて、又養母敬と同じく茶山の継嗣菅惟縄の家に寓することになつた。惟縄は茶山の弟の孫で、茶山の養子になつた。母は敬で、敬と前の夫万年との間に生れた。万年の父は汝楩、汝楩は茶山の弟である。それゆゑ敬は戸主のためには生母、悔堂のためには養母である。
三年壬辰に悔堂は山路氏由嘉を娶つた。そして菅氏の邸内に別に一戸をなして住むやうになつた。所謂学問所新宅である。由嘉は関藤藤陰撰の墓銘に拠るに、「山路氏(中略)諱由嘉、備後藤江村人利兵衛某之女」で、「生母田頭氏」だと云つてある。そして「悔堂先生事跡」には「養母井上氏の姪孫女山路氏」と云つてある。然らば父は山路利兵衛、母は田頭氏であらう。それがいかにして敬の姪孫女に当るかは稍明塙を闕く。「高橋氏系図」に拠れば、茶山と汝楩との妹ちよが井上正信に嫁して三女を生んだ。長は田頭氏に嫁し、次は万年の妻となつて夫に先つて歿し、季女は又万年の後妻となつた。季女即敬である。さて系図に「同人に男子あり、国松と云、女子は藤江村山路氏に嫁す」の文があつて、此「同人」とは誰を斥して言ふか不詳である。若し「同人」とは長女だとすると、其人が田頭氏の妻になつて、男国松を生み、又一女を生んで山路氏に嫁せしめたこととなる。此山路氏の子が由嘉であらうか。さうすると由嘉は敬の姉の孫女である。
由嘉は文化十二年生で、悔堂に嫁した時は十八歳であつた。
是歳山陽が「北条子譲墓碣銘」を作つた。初め茶山は山口凹巷をして霞亭を銘せしめようとした。そのうち文政十年に茶山が死に、天保元年に凹巷が死んだ。悔堂は当時江戸にゐて建碑の計画をしてゐたので、二年の夏江戸から備後に還り、三年の春書を山陽に寄せて撰文を請うた。山陽は喜んで諾した。此顚末が「墓碣銘」には下の如く書かれてゐる。「君歿於江戸(山陽遺稿には歿の上に病の字がある。石には無い。下に罹疾不起とあるから刪つたものであらう。)後九年。其子進之寓昌平学。計建墓碣。来請曰。在先友。伊勢韓聯玉最旧。菅翁嘗託之銘。未成。翁逝。韓亦踵歿。使翁在。必更託之於子。先人亦頷之也。余与君同庚。又前後同掌菅氏塾教。余辞君就。如代吾労者。且進之在東。所識鉅匠匪尠。乃遠求於余。余寧可辞。」此文には少しく語勢の累する所となつて、事実と牴牾してゐる処がある。「君歿於江戸、後九年」と云ふと、霞亭が文政六年に歿して後九年で、天保三年になる。此より直ちに「来請曰」に接すれば好い。しかし悔堂の江戸にゐたのは、文政十一年より天保二年に至る間であるから、後五年より後八年に至る間で、後九年ではない。
悔堂が山陽に墓銘を請うたのが、真に霞亭歿後九年、天保三年であつて、而も春であつたことは、下の山陽の尺牘に由つて証せられる。書中に悔堂を斥して「退佐」と云つてある。そして「当春退佐子より申来候」の句がある。「退佐」はたいすけである。悔堂は江戸にゐた時退一郎と称し、天保二年に備後に還つた後退輔と更めた。退輔と称した後の第一の春は天保三年の春でなくてはならない。
山陽の書は門田朴斎に答へたもので、其文はかうである。「先日は御状被下、北条退佐(森云、佐当作輔)子より之御状御伝語も委曲承知仕候。当年は梅天雨少と存候処さも無之、土用に入、晴日連綿に候て少雨、大抵豊穣と見え候。武士は困可申候へども、為世界可慶候。御健全に御勤仕被成候哉。北条墓碑の義、当春退佐子より申来候。書辞鄭重、真情溢紙、感誦仕候。不敢辞避候積にて、別に不裁答、此度又御催促、駄賃迄被下候義、御丁寧之甚に候。都下評判は誌銘などは下手と申候由、何之碑誌を看て申候事哉、あまり東人は看ぬ筈に候。文より詩がよき抔も、どう云事に哉。雖足下日歌行勝文、是は足下だけ也。併いづれも未嘗審読拙文数行者之申候事に候。使僕以其用於文之力、少分之於詩、則不患不成名於詩、与今時所謂詩家連鑣馳也。それはともあれ北条碑を張込で書てくれ、可鉗(森云、二字不可読、臆度以塡)人口と被仰下、ひいきの実情、忝奉存候へども、拠実而書、不泯没其人之真様にいたすより外無之候。雖欲張込、無它可為也。しかし景陽(森云、霞亭一字)不死と申様には書て可上と存候。其上衆評不肯候はば、林世子(森云、檉宇皝)に託も可也べし。但石大小如何ほどにや、近日公制も被仰出有之、何百字ほど迄は可也歟。実は未敢相示候。示候上にて字数減てくれなど被言ては気色にさはり候故に予申入候。先は紙窮閣筆。七夕前一日。襄。尭佐、進之両賢契。尚々唯今稿本大抵七百五十字ほどに候。五百字ほどに可約哉とも存候。尚々北条子之遺事行状、所未尽も可有之、拙之観志処は勿論に候へども、又収拾遺聞可申と、此間嵯峨三秀院へ参候。月江は既化、残僧に承合候。」
此書に拠つて考へると、悔堂が始て銘を請うたのは是年壬辰(天保三年)の春であつた。山陽は承諾したつもりで答へずにゐた。さて「七夕前一日」七月六日に此書を作る前に、(先日と書いてある)門田朴斎の催促状が来た。それには悔堂の「伝語」が書いてあつて、悔堂の書が添へてあつた。朴斎は山陽に江戸人の毀訾の語を伝へて激励しようとしたらしく、山陽は地歩を占めてこれに答へてゐる。朴斎は文政十三年に江戸に来て、安政元年に福山に帰つたのだから、是年には江戸にゐた。宛名には備後にある悔堂の名が連書してあるが、書柬は江戸へ向けて発せられたものであらう。
啻に然るのみではない。山陽の此書は通篇朴斎に対する語をなしてゐて、悔堂の名は止宛名として書き添へられたに過ぎない。何故に朴斎は山陽をして霞亭を銘せしめむがために力を竭したか、又山陽は主として朴斎に答へたか。是は少しく此に註しておくべき事であらう。
朴斎門田重隣は備後の安那郡百谷村山手八右衛門の子である。母は同郡法成寺村門田政峰の女で、此女は茶山の後妻宣の妹である。それゆゑ朴斎は茶山のためには妻の妹の子、敬のためには前夫の伯父の妻(姑)の妹の子である。朴斎は幼くして孤になつたので、政峰の継嗣政周の養子になつた。そして政周には嗣子政賚があつたから、其義弟として門田氏を名告つた。尋で朴斎は茶山の塾に入つて学問をしてゐるうちに、茶山は其才を愛して養子にしたが、何か養父子の間に意志の衝突があつたらしく、遂に離縁になつた。「朴斎詩鈔」初篇の文政十年丁亥「養父茶山先生八十寿言」の次に「以上係為菅氏養子八年間所作」と註してあるより推せば、朴斎は文政三年より十年に至るまでの間菅氏を冒してゐて、茶山の歿前に薄つて離縁になつたものと見える。そして万年の子惟縄が始てこれに代つたのであらう。然れば朴斎の霞亭のために力を竭したのは、先輩のためでもあり、又親戚のためでもある。
朴斎は寛政九年に生れて、霞亭より少きこと十八年、悔堂より長ずること十一年であるから、朴斎のために霞亭が先輩であると同時に、悔堂のためには朴斎が先輩である。山陽が悔堂をさしおいて朴斎に答へた所以であらう。
十七
天保(三年)壬辰七月六日に山陽は書を門田朴斎、北条悔堂に与へて、霞亭墓碣銘の事を言つた。中に猶註すべき事がある。山陽は「石大小如何ほどにや、近日公制も被仰出有之、何百字ほど迄は可也歎」と云つてゐる。此公制は続徳川実記(経済雑誌社本)天保二年四月十八日の条に「近ごろ百姓市人ら過分の葬埋、壮大の墓碑法号の事等により、きびしく令せらるゝむねあり」と云つてあるのが即是であらう。図書寮所蔵の御触書と称するものを閲するに下の如くである。「天保二年四月十九日。近来百姓町人共身分不相応大造之葬式致し、又墓所え壮大之石碑を建、院号、居士号等附候趣も相聞、如何之事に候。自今以後百姓町人共葬式は、仮令富有或は由緒有之者に而も、集僧十僧より厚執行はいたす間敷、施物等も分限に応寄附致し、墓碑之儀も高さ台石とも四尺を限り戒名え院号、居士号決而附申間敷候。尤是迄有来候石碑は其儘差置、追而修復等之節、院号、居士号相除、石碑取縮候様可仕候。右之趣御領、私領、寺社領共不洩様可触知者也。」山陽が石の大小の公制と謂つたのは此触書を斥して言つたのであらう。これは百姓町人のために制を設けたるが如くであるが、当時此の如き制を敷かれたときは、士分のものと雖、憚つて「台石とも四尺を限」ると云ふ法を遵守したものであらうか。
山陽の碑文は書を裁して朴斎悔堂に答へたとき七百五十字程であつたといふが、現に石に刻まれてゐる文は六百八十一字である。書中に「五百字ほどに可約哉とも存候」と云つてある三分一の削減、即ち二百五十字許の削減は行はれなかつたが、約七十字は後に刪られたものと見える。
文は好く出来てゐる。凹巷が書いたり、檉宇が書いたりしたら、これ程の文が出来なかつたことは勿論である。死して此文を獲たのは霞亭の幸であつた。「拠実而書、不泯没其人之真様にいたす」と云ひ、「景陽不死と申様には書て可上」と云つた山陽は、実に言を食まなかつた。
山陽は此文を艸するに先つて、わざわざ嵯峨の三秀院を訪うた。「月江は既化、残僧に承合候」と云つてある。三秀院は霞亭が文化八年の春から九年の春まです栖んだ遺跡で、当時の詩を輯めた嵯峨樵歌には月江の跋がある。序を作つた茶山も、跋を作つた月江も既に歿したのである。しかし山陽の嵯峨行は徒事ではなかつた。碑文の精彩ある末段は此行に胚胎してゐる。「余(山陽)重進之(悔堂)之請。已叙吾所知。又就嵐峡。訪於其旧識僧。僧曰。吾驟往。見其(霞亭)焚香静坐。不見甚読書也。作詩亦不甚耽。吁乎君蓋欲自験其所学者也。」
わたくしは山陽がいかなる時に於て此文を作つたかを言つて置きたい。行実に拠るに、山陽は壬辰(天保三年)の六月に喀血した。柬を朴斎悔堂に寄せたのは其翌月である。踰ゆること二月、九月二十三日に山陽は歿した。是に由つて観れば、山陽が此文を艸したのは初て血を喀いた前後で、今墓碣に残つてゐる隷の大字、楷の細字は並に皆病を力めて書したものである。
天保四年癸巳には霞亭の母中村氏が歿した。忌辰は十一月二日である。年を饗くること六十九。
七年丙申に阿部家に代替があつた。正寧が致仕して正弘が嗣いだのである。悔堂乱稿を閲するに、霞亭の歳寒堂遺稿は此時既に繕写せられてゐたらしい。悔堂は此歳の秋大阪に往つて、(出郷七絶第四、九月秋風出故郷)遂に年を越したが、(五律第二首第一、客居逢歳杪)大阪にあつて篠崎小竹に詩を贈つた。その「贈畏堂先生」七律の七八に「家集今将謀不朽、憑君属定更誰因」と云つてある。小竹の校定を請はうとしてゐたのである。
八年丁酉に悔堂は大阪から神辺に帰つた。
九年戊戌二月二十一日に悔堂の嫡男徳太郎が生れた。母は由嘉である。徳太郎、名は念祖、字は修徳、笠峰と号した。
弘化二年乙巳正月十七日に悔堂は弘道館会読掛を授けられて三人扶持の禄を受けた。又霞亭校刻の小学纂註の版を官に納めて、誠之館蔵版とした。十月二日に悔堂の生父東郭河村重善が歿した。年七十四である。十一月十七日に悔堂は儒者を命ぜられ、十人扶持を賜はり、大目附触流格を以て遇せられ、福山に徙ることとなつた。
三年丙午五月に悔堂は福山西町の賜邸に移つた。そして新助と改称した。生母高橋氏徳を家に引取つたのも亦此年である。
四年丁未五月四日に悔堂の妻山路氏由嘉が歿した。年三十三である。
嘉永元年戊申六月に悔堂は桑田氏を娶つた。文政二年生れの三十歳である。
二年己酉正月二十八日に悔堂の第二子孝之助が生れた。名は念徳、字は叔道、後洗蔵と称し、友松と号した。八月二十三日に霞亭の未亡人敬が歿した。六十七歳である。
安政元年甲寅正月に笠峰が十八歳を以て元服して、新兵衛と改称し、尋で原田氏多喜代を娶つた。
二年乙卯正月に笠峰が誠之館会読掛を命ぜられた。二月に悔堂が江戸在番を命ぜられ、笠峰を伴ひ行かむことを請うて允された。そして三月九日福山を発して二十九日に江戸丸山の藩邸に著いた。十月に父子は所謂安政の大地震に遭つた。十二月に笠峰は添川拙堂の門人となり、尋で益三郎と改称した。拙堂、各は粟、字は寛夫、一号は廉斎、寛平と称した。会津の人で、嘗て廉塾に学び、悔堂の友となつてゐた。今は上野国碓氷郡安中の城主板倉伊予守勝明の儒官である。
三年丙辰冬に悔堂笠峰父子は備後に帰省した。悔堂の生母高橋氏の病を問うたのである。
四年丁巳に笠峰の嫡男徳太郎が生れた。是歳阿部家に代替があつた。正弘が卒して正教が嗣いだのである。
五年戊午悔堂は帰藩を命ぜられ、五月九日に笠峰と共に江戸を発し、六月二日に福山に著いた。
文久元年辛酉に阿部家に代替があつた。正教が卒し正方が嗣いだのである。
二年壬戌に悔堂が病に依つて職を辞し、笠峰が儒者心得を命ぜられた。
三年癸亥に悔堂は再び文学教授を命ぜられ、笠峰は広間番を命ぜられた。
元治元年甲子に悔堂は奥勤を命ぜられ、供頭格の待遇を受けた。阿部侯正方が長門を討つ軍の安芸口先鋒を命ぜられたので、笠峰は従征した。
慶応元年乙丑正月二日に笠峰は安芸より還つた。十六日に悔堂は病歿した。年五十八である。四月に正方が長門を再討する軍の石見口先鋒を命ぜられて、笠峰は又従征した。六月六日に悔堂の生母高橋氏が歿した。年八十三である。七月に笠峰は石見より還つた。
三年丁卯に阿部侯正方が卒した。
明治元年戊辰正月に長門の杉孫七郎が福山城を襲うたので、笠峰は入城して大手門を守り、尋で媾和の後家に還つた。三月藩兵が朝命を奉じて摂津西宮を戍り、又天保山を戍つたので、笠峰も西宮天保山に居つた。阿部侯正桓が浅野氏より出でて封を襲いだ。八月に笠峰は正桓に随つて京都に上つた。そして正桓が箱館の榎本釜次郎を討つことを命ぜられたので、笠峰は従征した。笠峰は箱館にある間、故あつて氏名を変じ、喜多増一と云つた。
二年己巳に箱館が平定したので、笠峰は六月に家に還つた。尋で新一と改称した。十一月に東京在勤を命ぜられ、十二月五日に東京丸山邸に著いた。
三年庚午七月二十八日に笠峰は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。九月八日に福山の北条氏は籍没にせられ、笠峰の母は桑田氏に、妻多喜代は原田氏に、弟友松は河村氏に、子徳太郎は菅氏に寄寓した。後友松は高橋杏五に養はれて其氏を冒した。徳太郎さんは今滋賀県に寄留してゐる。
四年辛未に霞亭の弟碧山の継嗣一可が的矢に歿して、子新民が嗣いだ。今の北条新助さんは新民の継嗣で、三重県多気郡領内村に住んでゐる。
五年壬申九月三日に霞亭の弟谷岡良助が歿した。年七十五である。
八年乙亥三月三日に霞亭の弟碧山の妻田口氏礼以が歿した。年七十七である。
十三年庚辰一月二十日に笠峰が栃木県宇都宮に歿した。上野国山田郡市場村の広田氏に寄寓して其氏を冒し、広田恒と称して中学教員をしてゐたさうである。
三十一年戊戌九月十七日に悔堂の未亡人桑田氏が福山に歿した。年八十である。
大正八年己未十二月十八日に笠峰の弟友松が歿した。嗣子は五松さんといふ。福山盈進商業学校の生徒である。(大正九年十月)  
 
北条霞亭

 

北条霞亭1
ほうじょう かてい、安永9年-文政6年 (1780-1823) 江戸時代の漢学者。志摩的矢出身。名は譲。字は子譲、士譲、景陽、通称は譲四郎。霞亭の他に天放生の号を用いた。
儒医北条道有の長男として誕生したが、家督を弟に譲って各地を遊学し、皆川淇園・広岡文台に師事したり、亀田鵬斎の塾に寄寓するなどして知識を深めた。文化5年(1808)には的矢に帰郷し、隣国伊勢にある林崎書院で講義をした。文化10年(1813)に菅茶山の門人となり、その私塾の監督を委任され、やがて茶山の姪敬を娶った。文政2年(1819)には備後福山藩に招聘され、藩校弘道館で講釈に励んだ。翌年には江戸に移り定住することとなったが、この頃から病気がちとなり文政6年(1823年)に没した。墓所は巣鴨の真性寺にあり、墓碑は頼山陽が記した。
鼻梁が高く眼光の鋭い面貌で、狷介で頑固一徹な人となりであったという。 
北條霞亭 2
廉塾都講(塾頭)、弘道館教授、福山藩儒官
安永9年(1780年)9月5日、志摩的矢(現三重県志摩市磯部町的矢)生まれ、文政6年(1823年)8月17日、江戸丸山藩邸において病死、享年44歳。
寛政9年(1797年) 16歳 京都に出て儒学を皆川淇園に、医学を広岡文台に学ぶ
享和2年(1802年) 21歳 江戸に遊学して亀田鵬斎の塾に寄寓する
文化6年(1809年) 28歳 宇治山田(現伊勢市)の林崎書院の院長
文化8年(1811年) 30歳 京都・嵐山に僑居
文化9年(1812年)7月 31歳 『嵯峨樵歌』を著す
文化10年(1813年)8月下旬 32歳 福山(神辺)に来て菅茶山に師事、廉塾において都講
文化12年(1815年) 34歳 『薇山三観』を上梓
文化12年(1815年)4月 34歳 井上敬と結婚
文政2年(1819年)4月 38歳 弘道館文学教授
文政4年(1821年)6月 40歳 江戸藩邸において大目付格儒官兼奥詰
通称は譲四郎、名は譲、字は子譲、また景陽、号は霞亭または天放生。
北條霞亭は郷医北條道有の長男として、安永9年(1780年)、志摩的矢(まとや)(現三重県志摩市磯部町的矢)に生まれた。家系は北条早雲を祖とし、曾祖道益、祖道可、父道有みな医を業とした。母は中村氏、6男4女を産む。霞亭はその長男で幼時から学問を好み、寛政9年(1797年)18歳の時、京都に出て、儒学を皆川淇園(みながわ・きえん)に、医学を広岡文台に学んだ。享和2年(1802年)から2年間、江戸に遊学して、亀田鵬斎の塾に寄寓した。霞亭は北国に遊び、また越後に寄寓して、藩侯の招聘を避けながら研修に努めた。
文化6年(1809年)から3年間、郷里に近い宇治山田(現三重県伊勢市)の林崎書院(学院兼図書館)の院長となって研鑚を深めたが、洛北嵯峨の清絶な自然を愛し、文化8年(1811年)32歳のとき、弟とともに嵐山に僑居して詩魂を磨いた。この間、作詞151首を『嵯峨樵歌』にまとめ、菅茶山に送ってその閲を請うたことから、茶山の知遇を得て菅茶山に師事した。一度帰郷ののち、文化10年(1813年)8月下旬、34歳の時、福山(神辺)を再訪、都講として廉塾に留まることとなった。霞亭は、茶山の代講として塾生の教育につとめるかたわら、文化11年(1814年)新春から翌年仲秋にわたって、「三原観梅」「山南観漁(鯛網)」「竹田観螢」など風流な遊びに興じ、37首を併せ上梓して『薇山三観』と題した。〔薇山とは黄薇〈きび、備前・備中・備後〉の山のこと〕。
一方、文化12年(1815年)4月、34歳で、茶山の姪で当時寡居していた井上敬(いのうえ・きょう、頼菅三の母)と結婚した。
文政2年(1819年)4月、阿部正精は霞亭を弘道館文学教授に召した。当時の儒者には菅茶山、鈴木宜山、衣川閑斎、伊藤貞蔵(竹坡)、伊藤文佐(蘆汀)と霞亭の6人がいた。さらに文政4年(1821年)6月には、江戸藩邸に呼び寄せ、大目付格儒官兼奥詰を命じ、30人扶持を給して優遇した。その職務は、奥向きの講釈が月に3度、丸山学問所における藩士や子弟に対する講釈が月に9度であった。出府後わずか2年、文政6年(1823年)8月17日、江戸丸山藩邸において病死した。享年44歳。巣鴨(東京都豊島区)眞性寺に葬る。同寺にある碑文は頼山陽の撰。霞亭に子がなく、侍医河村重善の次男に後を継がせる。これが北條悔堂、名は退助である。
著書に、『霞亭渉筆(1巻)』、『薇山三観(2巻)』、『嵯峨樵歌(1巻)』、『杜詩挿註(8巻)』、『助辞弁(8巻)』、『古今和歌集註』、『帰省詩嚢(1巻)』、『霞亭小集(1巻)』、『霞亭摘稿(1巻)』、『歳寒堂遺稿』、『小学纂註(8巻)』(校讀)がある。 
 
文化文政時代の精神

 

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。
この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。
このように、鴎外存命中はまったく注目されることのなかった「北條霞亭」であるが、鴎外自身はこの作品に、満を持して取り組んだ。彼にとっては、一連の史伝、歴史小説を書き継いできたその先に、自身の史観、文学観を集大成したものであるべき作品だったのである。
鴎外が北條霞亭を取り上げに至ったきっかけは、「伊沢蘭軒」が「渋江抽斎」の落とし子であったように、蘭軒伝を執筆する過程で浮かび上がってきた。
鴎外は蘭軒とその師菅茶山を巡る人々について、先人の文を参照し自らも資料を集めながら記しているうちに、そこに展開している人間像と彼らが織りなす文化の世界に強い感銘を受けるに至った。
徳川時代に形成された文化は、明治以降前時代的として貶められ、とかく注目を浴びることもなくなってしまった。しかし公平にそれを見れば、この文化を担った人々には、民族の先駆者として学ぶべきものが多い。今日我々日本人がこうしてあるのも、彼らの業績の積み重ねの上に立っていればこそである。一民族は過去との断絶の上に忽然として文明を築き上げられるものではない。
鴎外はこのような感慨を持って、文化文政時代の文人たちを掘り起こしていった。そしてそこに、狩谷棭斎、亀田鵬斎、松崎慊堂といった人物を深く知るに及び、彼らに親愛の念を抱くようになった。鴎外はこれらの人々が、今日の日本文化の基層とでもいうべきものを築き、彼らの地味ではあるが確実な業績があったからこそ、今日の日本の文化も層の厚いものとして、栄えることができているのだ。こう考えたのではないか。
そこで鴎外は、文化文政時代を生きた先人たちの業績をパノラマ的に描き出すことによって、日本文化の基層ともいうべきものをあぶりだそうとする欲求にとらわれたのではないか。そう筆者などは感ずるのである。
鴎外は彼らを代表する人物として取り上げたのは、北条霞亭であった。何故北條霞亭だったのかについては、鴎外自身次のように語っている。
「わたくしは伊沢蘭軒を伝するに当って、筆を行る間に料らずも北條霞亭に逢着した。・・・霞亭の事跡は頼山陽の墓碑銘によって世に知られてゐる。文中わたくしに興味を覚えしめたのは、主として霞亭の嵯峨生活である。霞亭は学成りて未だ仕えざる三十二歳の時、弟碧山一人を挈して嵯峨に棲み、其状隠逸伝中の人に似てゐた。わたくしはかつて大学を出でた頃、かくの如き夢の胸裏に往来したことがある。しかしわたくしはその事の理想として懐くべくして、行実に現すべからざるを思って、これを致す道を講ずるにだに及ばずして罷んだ。彼霞亭とは何者ぞ。敢てこれを為した。霞亭は如何にしてこれを能くしたのであらうか。是がわたくしの曽て提起した問である。」
鴎外が、菅茶山を中心にしてその周囲に綺羅星のように群れる人材のうちからまず北條霞亭に着目したのは、その隠逸伝中の人のような生き方に、鴎外自身が青年時代に夢見てなしえなかった理想の生き方を見出したのだというのである。その生き方が鴎外の胸をうち、彼の強い共感をとらえた。鴎外はこの人物を掘り下げていくことによって、自分がかつて夢見た理想がこの人物の中でどのように花開いたか、それを追跡したかった。
だが、石川淳が指摘するように、北條霞亭という人物は、鴎外が全霊を傾けるに足るほど優れた人材ではなかったようだ。鴎外は霞亭の事跡を追っていくうちに、不幸なことに、この人物は当初自分が抱いたあの大いなる敬愛に値しないのではないかと思うようにもなった。この作品が度々長い間中断したのには、そうした鴎外の思惑違いが多少は影響しているとも思われる。
霞亭が鴎外を失望させた原因はいくつも挙げられる。そのひとつに、霞亭は嵯峨生活の後に、菅茶山に見込まれてその姪を妻とし、茶山の私塾の後継者と目された。このことについて、霞亭はあまり喜ばなかった。福山という一地方の田舎教師で終ることに気が進まなかったのである。
四十を過ぎると霞亭は福山藩に召され、藩の学監として江戸詰めを命じられた。これは常識的にみれば出世であり、事実これを機会に霞亭の名は文人たちの間で高まっていくのであるが、自身は表向きこれを迷惑だなどと、ポーズをとっている。しかしその実、内心は得意なものがあったのである。
鴎外は霞亭が時折見せるこうした態度に、斜に構えた者のいやらしさのようなものを感じ、その生き方にも疑問を感じないではいられなかった節がある。
一方、茶山のほうは、鴎外の敬愛の対象となり続けた。この老人は後継者と見込んだ霞亭を横取りされ、身辺にわびしい風が吹き寄せるのを感じながら、最後まで人間的な誠実さを失わないでいた。
霞亭は結局、学問上の大志を形に残しえぬまま、44歳で死んだ。その嵯峨生活に青年らしい大志を感じ取り、それがやがて形となって結実することを期待した鴎外は、裏切られた気持になった。彼の霞亭への思い入れは空振りに終った。
だが霞亭を題材にして文化文政時代を描いた鴎外は、主人公の霞亭を超えて、時代を生きた人びとを情熱を以て生き生きと描いた。
鴎外は、霞亭の周辺にうずまく時代の精神を把握しようとしたとき、そこには豊かな水脈が滾々と流れ、その水脈の上に緑したたるオアシスが花開いていた、そのように感じたのではないか。
そのことだけでもこの作品の執筆は、鴎外にとって意味ある作業であったといえそうだ。
鴎外は霞亭伝の擱筆後ほどなくして病に倒れて死ぬのであるが、天がもうしばらく彼に生の余裕を与えてくれていたなら、霞亭の周辺に綺羅星のように輝く巨人たちにも筆を伸ばし、おそらく文化文政期という、日本の文化史上類希な時代の全体像を、パノラマ的に描き出す作業に取り掛かったであろうと、筆者などは思うのである。
 
史伝に見られる森鴎外の歴史観

 

1
森鴎外は、『伊沢蘭軒』その二十の中で以下のように言っている。「わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者」があった、と。この「学者」が若き日の和辻哲郎であったことは今ではよく知られている。和辻は、大正五年、『新小説』七月号に、「文化と文化史と歴史小説」という文章を寄せ、『渋江抽斎』を取り挙げ、次のように書いている。「私は部分的にしか読まなかった『渋江抽斎』をここで批判しようとは思はない。にもかかはらず私は先生の態度に対する失望をいはないではゐられない気持ちがする。……しかもあの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか。……私は『渋江抽斎』にあれだけの力を注いだ先生の意を解し兼ねる。私の憶測し得る唯一の理由は、『掘り出し物の興味』である。しかし埋没されてみたといふことは、好奇心をそそりはしても、その物の本来の価値を高めはしない。その物の価値は『掘り出された』ことと独立して判定せられねばならない。……例へば中央アジアで発掘された仏像は珍奇な発掘品である故に価値があるのではなく、ある時代の文化を象徴する少数の遺物である故に芸術的価値以外に更に尊さを加へるのである。抽選の伝記にはそれがない。彼の個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない。」上に若き和辻哲郎という言い方をしたが、しかし、和辻のこのような考えは、晩年まで変ることはなかった。和辻が残した彪大な文化史的・思想史的研究は殆どすべてこのような考え方に基づいて書かれている。
一体、森鴎外と和辻哲郎の考えのどこに違いがあるのだろうか。鴎外は、上の引用文に続けて以下のように言う。(和辻のような)学者は、「蘭皇位を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてそれを斥ける。わたくしの目中の抽斎や其事蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下には居らぬのである」。これに対して和辻はどうであったであろうか。「文化と文化史と歴史小説」を書いて、三十数年して刊行した大著『日本倫理思想史』の頼山陽の章のはじめのところで、和辻は次のように言っている。「われわれの前の世代の人々は……漢文や漢詩の内容に着目する前に、その表現の形式からして異様に強い魅力を感じたやうである。……さういふ感じ方の記念碑的な作品としては、森鴎外の『伊沢蘭軒』『渋江抽斎』などをあげることができるであらう。これらの学者はちやうどここに取り扱ってみる時代の優れた考証学者であって、純粋に学問的な業績といふ上では、(藤田)東砂や山陽よりももっと重んずべきであらうが、しかしこの時代の動揺してみる思潮に働きかけるといふことをした人たちではない。鴎外はこれら学者及びそれと交友関係のあっ、た菅茶山、狩谷植斎、頼春水、頼山陽その他多くの学者を捕へ、その日常生活と、それを表現してみる詩作とに、異常な関心を示してみる。……頼山陽は、鴎外が同情をもって描いてみるじみな考証学者の群れとは、類型を異にする学者である。しかし漢詩漢文に強い魅力を感ずるといふ気分のなかに生き、さういふ気分で仕事をしたといふ点では、同一であるといはなくてはならない。」
最早や、鴎外と和辻の違いは明らかであろう。それは、漢文漢詩を味読できる世代とできない世代という、単なる世代の違いだけではない。和辻が文化や歴史を理解する上で重視しているのは、「ある時代の文化を象徴する」ものであり、「時代の動揺してみる思潮に働きかけるといふことをした」、「じみ」でない人たちである。恐らくそういう理由で、頼山陽も、『日本倫理思想史』において、重要な日本の倫理思想家の一人として選ばれたのであろう。これに対して鴎外が、少なくとも史伝で重視したのは、時代の文化を象徴するような人でなく、時代思潮に働きかけたような人でもなく、至って「じみな」人たちであった。鴎外三大史伝の主人公である渋江抽斎、伊沢蘭軒、北條霞亭などは、まさしくそういった人たちだったのである。しかし上に、少なくとも史伝ではと断っていたように、鴎外も、明治末筆までは、和辻が重視したような  特に西洋の人たちから多くを学んでいたし、しかも、とりわけ若い頃は、自らそういう人たちのように振舞っていたのである。医学は姑く措くとして、鴎外が評論や文学などの領域で、ハルトマソやゲーテ、ニーチェやイプセンなどを紹介したり論じたりして、果敢に啓蒙活動を行ったことは、何よりもそのことを雄弁に物語っている。しかしそうした時代の鴎外も、他の啓蒙家たちとは、些か違っていた。
『北條霞亭』のその一、つまり冒頭のところで鴎外は以下のように言っている。「霞亭は学成りて未だ仕へざる三十二歳の時、弟碧山一人を摯して嵯峨に棲み、其状隠逸伝中の人に似てみた。わたくしは嘗て少うしくて大学を出た比、此の如き夢の胸裡に往来したこ3 史伝に見られる森鶴外の歴史観とがある。しかしわたくしは其事の理想として懐くべくして、行実に現すべからざるを謂って、これを致す道を講ずるだに及ばずして罷んだ。」もし、鵡外が江戸時代に生を駆け生きていけたのであれば、恐らく霞亭と同じような道を辿ることもできただろう。しかしそれは不可能なことであった。日本の近代化を推進することが、知的エリートとしての鴎外に課せられた逃れることのできない責務だったからである。そして理外はその責務をよく果たした。だが、鴎外の活動は、他の知的エリートとは異っていた。明治初期の若き知的エリートたちの多くは、それまでの東洋・日本の文化や歴史を棄てあるいは軽視して、西洋近代文明を導入しようとしていた。鴎外がこうした人々と選を殊にしていたことは言うまでもない。鴎外は、東洋・日本の文化・歴史を余りにも深く身に付け、尊重していたからである。しかし、鴎外の東洋・日本の文化・歴史に対する尊重は、時代を象徴し、時代を動かした偉人たち、その事跡や思想に止まってはいなくて、「日常生活」の中に深く浸み込んで生きている東洋・日本の文化・歴史にも及んでいたのである。そうした、日常生活の中に生きている文化や歴史を支え守っているのは、じみだが堅実な人たちであった。『カズイスチカ』の中に、次のような文章がある。「熊沢蕃山の書いたものを読んでみると、志を得て天下国家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗ったり髪を硫つたりするのも道を行ふのであるといふ意味のことが書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに嘗物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してみるといふことに気が附いた。宿場の医者たるに安んじてみる父のま匹σq昌9e凶。昌の態度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽かに父を尊敬する念を生じた。」この文章の中の「詰まらない日常の事」という言葉に注意すべきであろう。それはまた、「あの頭のよさと確乎した物の掴み方とは、ともすれば小さいくだらない物の興味に支配されるのではなからうか」、と和辻が鴎外の『渋江抽斎』に対していった言葉と対比されてよい。
勿論、渋江抽斎も、伊沢蘭軒や北條霞亭も、学者である。しかし「考証学者」である。考証学は至って「じみな」学問である。一語の解釈に、多くの時日を費すのは、あるいは「小さいくだらない」ことかもしれないが、考証学者はそれに「全幅の精神を傾注」する。そして鶴外はそうした考証学者を高く評価するのである。いや、考証学者たちの日常生活をも、重要大切なものとして尊重する。だからこそ、鴎外は史伝を書いたのである。和辻は、『渋江抽斎』について、抽斎の「個人としての偉大さも文化の象徴としての意義も、先生のあれだけの労作に価するとは思へない」というが、鴎外は、抽斎などの学問、そして彼らの日常生活は、全力を傾注するに価するものと考えたのである。 
2

 

上述したように、鴎外は決して和辻のような考えを批判・否定しているのではない。それどころか、若い頃の鴎外は、和辻のような考えを、自ら行動に移していたのである。『あそび』の中にも、「実は木村も前半生では盛んに戦った」、とある。木村が鴎外の分身であることは言うまでもない。では鴎外と和辻の違いは奈辺にあるのだろうか。和辻が重視したのは、時代を象徴するもの、時代を動かすものであった。これに対して、鴎外が重視したのはそれだけではなく、より深いところのもの、より基礎にあるものを重視した、いや、前者よりも後者の方をより重視した、といってよかろう。大正時代に入って書かれるようになる歴史小説でもそれは多少見られるが、史伝に至って顕著になったのである。
鴎外は、文化や歴史を、表層の文化・歴史と深層の文化・歴史とを分けて考えていたといってよかろう。時代を象徴するもの、時代を動かすものが文化・歴史の表層である。その表層の世界を扱ったものを歴史小説の中に求めるならば、『大塩平八郎』や『津下四郎左衛門』などであろう。しかし、横井小楠は津下四郎左衛門の敵相手として、間接的にしか描かれていない。とすると、文化・歴史の表層を扱ったものとして特に注目されるべきものは、『大塩平八郎』ということになろうか。そして結論的に言えば、鴎外は大塩平八郎を必ずしも評価してはいない、寧ろ、消極的、批判的に扱っているといってよかろう。それは、「附録」に出ている以下のような文章からも明らかであろう。「平八郎は換言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まった。……平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかったのである。」
ところでここで問題にしたいのは、大塩平八郎と頼山陽との関係である。鴎外が、『伊沢蘭軒』、『北條霞亭』において、描き出したかった構図の一つに、山陽と蘭軒、霞亭との対比一これこそ、文化・歴史の表層の世界と深層の世界の対比といってよいもの一があったといえるが、その山陽は、大塩平八郎と親密な関係を持っていたのである。そのことは、『大塩平八郎』の年譜の中にも見えている。天保元年庚寅のところに、「九日平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。頼裏序を作りて送る」、とある。また、天保三年壬辰のところには、「平八郎四十歳。四月君道京都より至り、古本大学刮目に序せんことを約す。……秋頼嚢京都に病む。平八郎往いて訪へば既に亡し」、とあり、翌四年には、「四月洗心洞剤記に自序し、これを刻す。筆法一に贈る」、とある。頼余一は山陽の長子章庵である。
『大塩平八郎』では、鴎外はこれ以上、平八郎と山陽の関係を示す事跡を記していないので、いま少しく両者の関係を見ておこう。
平八郎は陽明学者として夙に知られていたが、実際に会って、王陽明を尊敬する念のはなはだ大きいのに改めて感じたのであろう、山陽は平八郎のことを「小陽明」と呼ぶべきだとしている。即ち、「知る君が学は王文成を推すを、方寸の良知自ら昭霊、八面鼓に応じて轟然あり、君を号して当に小陽明と呼ぶべし」(「訪大塩君。謝鹿沼上衙。作合下之」)、と。また、『大塩平八郎』の「附録」にも記されていたが、天保元年、平八郎が職を辞し、先祖の墓参りのため尾張へ旅立った時、「奉送大塩君子起適尾張序」を草したが、その冒頭のところで、山陽は次のように言っている。「方今海内の勢三都に偏す、三都の市皆サあり、而て大阪最も劇にして且つ治め難しと称す、蓋地大府に潤絶し、而て商頁の督する所と為り、富豪宮居し、王侯其の鼻息を仰いで以て憂喜を為す……吏に良ありと難も、衆寡敵せず、浮沈容を取るのみ、近時に至るに及んで、乃ち吾が大塩子起あり、吏の郡に奮ひ、独立撹まず、克く其の姦を治め、国家の為に二百余年の弊事を響く……」。この送序は、全体が平八
郎の志と行績を讃えるものとなっている。そして平八郎もそれに応えて、山陽死後に刊行した『洗心洞牢記』の附録に、「入刻亡友頼山陽之序與語於筍記附録自記」を付した。その自記の中で平八郎は、自分は吏でしかも王陽明を崇敬しているので、一般的には山陽と言い容れないように思われるかもしれない、「然れども往来絶えず、送迎絶えざるは何ぞや、余の山陽を善みするものは其の学にあらずして而て霧に其の胆にして識あるを取る」、と言っている。天保三年四月に、大阪にやってきた山陽は酒席で、確かに、「兄の学問は心を洗うて以て内に求む、裏が如き者は、外に求めて以て内に儲へ、而て詩を作り、而て文を属す、相反するが如く然り」、と言った。しかし、『古本大学刮目』の草稿を見せると、「是れ一家言にあらず、昔儒格言の府なり」、と言い、また、寸刻の『潜心洞叢記』の数条を示すと、「聖学の奥に於てや間然する楽なし、深く太虚の説に服す」、と言った。だが、山陽はその秋に吐血して世を去った。しかし、山陽が書いた送序の文章によると、「照れを知る者は山陽に若くはなきなり」、と言わざるを得ない。山陽は自分の学問が心学であることを知っていた。山陽は、『洗心血筍記』のすべてを読んではいないけれども、「我が心学を知らば則ち未だ筍記の両巻を尽さずと錐も而も猶之を尽すがごとき」ものである。このように、平八郎も、山陽の胆と見識に深く共鳴していたのである。
ところで、ここで、猪飼敬所が、頼山陽と大塩平八郎をどのように見ていたかを述べておこう。敬所は、渋江抽斎、伊沢蘭軒、北條霞亭などと比べるとはるかに有名な儒者だが、しかし、仁所も護国などと同じく考証学者であったからである。鴎外は革綴について言及したことはないようだが、平八郎と山陽両者と交際があった考証家の言として注目してもよかろう。
平八郎が膳所をどう思っていたかは、平八郎自身、「追錆猪飼翁校讐之記」を書いているので、御記によってある程度理解できる。ある日二人が会った時、敬所が、「聖賢ノ道二従事スト錐モ、然レドモ、唯悪人ヲ制スル能ハズ。是レ乃チ短ナリ」、と言ったことに対して、平八郎は、「夫レ其ノ真二悪人ヲ制スル能ハザルハ、則乃チ悪人ヲ知ラザルヲ以テノ故ナリ。悪人ヲ知ラザルノ原ハ、豊良知ノ致サレズニ非ラズヤ」、と考える。そして同記の最後で、「曇子ノ賢ヲ以テスルモ、而シテ其ノ学問ノ意見乃チ障ト為ル。遂二孔子ヲ目スルニ滑稽ヲ以テス。則チ其レ太虚良知ヲ信ゼザル人ノ学問、概シテ意見一路二陥ル。翁山洋品レ然うンヤ」、と述べている。これに対して、各所は平八郎をどう思っていただろうか。しばしば名前が見られる敬所の書簡の中から、一、二つ拾ってみよう。「大塩平八郎貴家二両日逗留。如貴諭当時ノ豪傑。学術陽明ニテ。記謂詞章ノ徒卜大二懸隔。……老拙少年手島氏ノ心学ヲ学フ。……古学モ。朱学モ。陽明モ。手島モ。一ニハ其人ノ賢不賢才不才ニテ。学術蝉茸ニチモ無御座候。……如責諭。学術ノ異同ヲ以テ。其人ヲ排スルハ。実二儒者根性二御座候。近世如来山人糞蝿下之士。再論学術之異同。唯以実用為主。我輩ノ法トスヘキ所ナリ」。「儒者根性」を持った儒者とは、西洋語の目1$Oξ。・圃。目盛、即ち形而上学者ということになろうか。次の文章は、平八郎乱後に書かれた書簡の一節である。「大塩霜野ニシテ。思慮浅シ。蔵出慷慨激烈ニシテ。決断アリ。知進而不知退。見成而不見敗。……如此ノ浅慮ニテ。湯武ヲ学フコト。狂妄ノ至。誠二欄笑スヘシ。……大塩が落書二言ヘル所。下民ノ快トスル庭上テ。上タル人ノ深誠トスヘシ。古ヨリカ・ル事アル。乱之端ナリ。畠中翼フ上位ノ人々。二二因テ畏催ヲ生シ。奢修ヲ戒メ。民ヲ憧シ玉ハンコトヲ。」
山陽にも、敬所の七十歳を寿いだ文章がある。「羽二重説寿猪飼翁」がそれで、山陽はその中で、敬所の学問と自分の学問とを比較している。「翁ノ学ハ、精ニシテ約、豊町シテ鍛無ク、其ノ弁ズルトコロニ贅ラズ。……其ノ行ヒバ原ク、其ノ節ハ常有リ。人敢テ押レザルモ、舎テテ佗求スル能ハズ。其レ猶ホ羽二重ノゴトキカ。……吾ハ膳人ナリ。鄙二期ンデ京二居ルコト、猶ホ河内木綿ノゴトキカ。其ノ粗壁シテ且ツ朴ナル……」。これに対して、敬所は、山陽の学問が粗雑であることに懐らざるものを感じてはいたが、その人物や見識には大いに興味を持っていた。山陽死後、谷三山に宛てた書簡の中で、敬所は以下のように言っている。「山陽福耳空古今。……然レトモ其説モ亦有知一不知二者。……山陽ハ才子故。学問置目疎。……書経書後差文ヲ見ルニ。学問ハ疎ナレトモ。大二有識。往々愚見ト合ス。……山陽少年無行ニテ。父ノ家ヲ継クコ不能。コレラ以テ世ノ正人二按棄セラル。惜カナ。近年志向正路。有孝於国母。……旧強余力臥病ト聞テ。山陽力寡婦ヨリ。十二歳ノ孤児ヲシテ見舞二塁リ。親シク病状ヲ音量レト命ス。其親切ナル「。山陽ノ余ヲ信スル誠心。身替ニミユ。余上人有二悔。壮年不知履軒丈学識。故不従評定。老年不知山陽之奇才。故不與之友。如此二子。豈知得乎。」
以上、猪飼敬所と大塩平八郎との関係、置所と頼山陽との関係について、極々簡単に見たが、そこで言えるのは、敬所の平入郎観が鴎外のそれと大体似かよっているといってよいようであるけれども、山陽についてはどうであろうか。予知が晩年、山陽と親しく接して、山陽の中に愛すべき人柄と鋭い見識とを見出していたことは、上の書簡から明らかである。しかしまた、同書簡の中で、山陽の著作や学問について、「其説モ亦有知一不知二者」、「山陽ハ才子故。学問戸立疎」、と評していることにも注意すべきであろう。山陽の父春水が、朱子学者だったことはよく知られているけれども、子の山陽は、朱子学に拘泥することはなかった。また、陽明学に走ることも、考証学に信を置くこともなかった。この点では、大塩平八郎とは大いに異っていたといえよう。恐らく、山陽は、経学者というより、詩人であり何よりも歴史家であった。しかし、着所は山陽の議論の中に、「知一不知二」なるものを認めていた。そしてこれは、平八郎についての、「知進而不知退」、とした評とどこか通ずるものはないだろうか。学派にこだわった平八郎と歴史の見方にこだわった山陽と、確かに似たところがある。しかしより注目されるのは、山陽が「才子」と評されていることである。この才子が必ずしも讃辞でないことは「学問ハ甚疎」と続いていることから明らかである。
ところで、才子で思い出されるのが、文政五年三月に、菅茶山が伊沢蘭軒に宛てた書簡の中で、「実底に御読書あれかしと読応候。才子は浮躁なりやすきものに候」と言っているところである。これが、山陽を念頭に書かれたものかどうかは分からないけれども、鴎外がこの茶山の文章に大いに共感を覚えたであろうことは想像に難くない。この茶山の書簡の文章は『伊沢蘭曲』その百二十七に出ている。 
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上にも述べたように、鴎外が、『伊沢蘭軒』、『北條霞亭』で描きたかった構図の一つは、山陽と学士、霞亭との対比である。このことは、『伊沢蘭軒』のその一からも明らかである。その一は、山陽の幽屏事件から書き始められていて、同事件にかかわる菅茶山の書簡を取り挙げ、その書簡の宛名の人が伊沢斎鎌ではないかという坂本箕山の推測を紹介し、「これは蘭曲の名が一時いかに深く埋没せられてるたかを示」したがったからだ、と述べて終っている。江戸後期から、『日本外史』その他の著述で、その名を全国に轟かせていた山陽、それに対し、鴎外が書かなければその名は歴史に埋没していただろう蘭軒、『伊沢蘭軒』はその一から、山陽と蘭軒の対比が意識されて書かれているのである。そしてその十八では、両者の面目が次のように対比されている。「愛糞が没した後に、山田椿庭は其遺稿に題するに七古一篇を以てした。中に『平生不喜荷著述、二巻随筆身後槍』の語がある。これが蘭軒の面目である。」そして、「山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至った。これが山陽の面目である」、と。
このような両者に対して、言うまでもなく、蘭軒などより山陽の方がはるかに高く評価されてきた。しかし、上にも述べたように、鴎外は、そうした一般的な評価とは違って、蘭軒などの残した事跡と山陽の残した事跡とは、同じ程度の価値を持っているとするのである。そのため、山陽に対する評価に一般と違ったものがしばしば見られる。その中の二、三をここに拾ってみよう。
『伊沢蘭軒』その五十八に、菅茶山が文化七年八月に蘭軒に与えた書簡が引用されているが、その中に山陽について記した文章が見られる。「文章は無双也。……諭すでに三十一、少し流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候」。この文章について、鴎外がその六十で、以下のように解釈している。「『文章は無双也』の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してみる。傾倒の情愈深くして、其疵病に廉ぬ感も愈切ならざるを得ない。『話すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉対審事に候。』其才には牽引せられ、其 には反嚇せられてるる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてるて、人をして親しく老茶山の言を聴くが如き念を作さしむるのである。」恐らく鴎外も、茶山のこの山陽評を読んで、同情を禁じ得なかったであろう。
文化十三年に帰省した時、霞亭は途中山陽を訪わなかったので、文政四年の時には山陽を訪うた。『北條霞亭』その百三十九に、次のようにある。「文化丙子に霞亭が帰省した時、山陽を訪はなかったので、山陽は不平を茶山の前に鳴らしたことがある。わたくしは浜野氏に借りて一読した『十月廿二日頼衝重、菅先生函丈』と書した尺憤中の語を是の如くに解するのである。『北條君京へ帰路被柾図様早月にて、中山(言倫)などと申合相待居候処、山崎間道より被落候段、其翌日一遍より伝承、面一支兵追撃とも春菊候へども不能其儀、忙々失望、中山などは腹を立居候。』霞亭は今度往訪して前盛を償はなくてはならなかったのである」。鴎外の深読みかもしれないけれども、鴎外が山陽の心をどう見ていたかがよく窺われるところである。
また、文政四年四月、霞亭は、藩主阿部正精に江戸に召された霞亭は、備後神辺婚姻の都講から江戸詰に昇進したが、それについて、山陽が茶山に送った書簡に次のようにある。「尚々北條先生何やら昇進とか、江戸詰は逢旧友とて可面白候へども、山野放浪之性、出講などは大著と奉存候。可憐々々。」これに対して鴎外は、「尋常の賀詞を呈せぬ処に山陽の面目を見る」、と評している。以上から窺えるように、鴎外の山陽評は一般のそれとは些か違っていた。しかしそれは、鴎外が山陽の行績を認めていなかったということではない。鴎外が『北條霞亭』を執筆する動機の一つは、山陽が書いた霞亭の墓六出であり、しかも鴎外はその文章を称した。『霞亭生涯の末一年』最後のその十七に、羽箒銘の「文は好く出来てみる。凹巷が書いたり、出癖が書いたりしたら、これ程の文が出来なかったことは勿論である。死して立文を獲たのは霞亭の幸であった。『拠実而書、不涙没其人之真様にいたす』と云ひ、『色心不死と申様には書て可上』と云った山陽は、実に言を食まなかった」。と鴎外は山陽の立直を讃えているのである。
そして、鴎外は、一方の霞亭の学問に対しても冷静に評価している。「霞亭はわたくしの初めより伝を立てようとした人ではない。儒林に入るとしても、文苑に入るとしても、あまり高い位置をば占め得ぬ人であらう。」、と『霞亭生涯の末一年』のその一にある。これは、狩谷液斎や松崎嫌堂などと比較したところに出ている文章で、山陽と比較したものではない。しかし、上にも述べたように、山陽が書いた「北条子譲墓碍銘」を、「文はよく出来てみる」と言い、別の人が書いたりしたら「これ程の文が出来なかったことは勿論である」、と書いていることからも、鴎外が山陽の文才を評価していたことは疑い得ない。鴎外は、菅茶山を、「天成の文人」と言い、「俗書を作るに臨んでも、字を下すことは的躍動すべからざるものがある」(『伊沢蘭軒』その七十九)と評したが、その茶山が、山陽の文章を「無双也」と評したのであるから、鴎外はこの茶山の山陽評を敢て斥ける理由を見出さなかったであろう。
では一体何故、鴎外は山陽ではなく、雪下や霞亭などの史伝を書いたのであろうか。山陽の残した事跡と霞亭などの残した事跡とが甲乙つけ難い同等のものと、鵠外が認めていたことは、既に上に述べた通りである。しかしそれだけであるならば、山陽の史伝を作ってもよかったはずである。当時、山陽に関する著作が数多く刊行されていて、屋上屋を架すという事情があったにしても。しかし鴎外は、蘭軒、霞亭などの史伝を作った。そこにはいま一つ理由があったと思われる。それは、鴎外が、明治の終り頃から、山陽が活動したような世界と、蘭軒などが活動したような世界とを区別し、次第に後者のような世界を重視するようになったことである。繰り返しになるけれども、和辻哲郎の言葉を使えば、山陽や大塩平八郎などは、「時代の動揺してみる思潮に働きかけるといふことをした人たち」であり、蘭軒や霞亭などは、「じみな考証学者の群れ」である。つまり、鴎外は、前者の「人たち」の活動や残した事跡よりも、後者の「群れ」の活動や残した事跡の方をより尊ぶようになるのである。何故なら、後者の群れの活動や事跡が基礎であり土台であって、その上にはじめて前者の人たちの活動が成り立ち、事跡が作られると考えられたからである。そして鴎外は、明治の終り頃から、その基礎であり土台である世界、いわば深層の世界が混乱し、次第に崩れつつあることをハッキリ認識するようになったので、その深層の世界をいま一度見直す必要に迫られたのだった。その必死の努力の産物が、『渋江抽斎』、『伊沢溶接』、『北條霞亭』であったのである。
日本文化の基礎、土台、つまり深層の世界の混乱と崩壊を導きつつあると鴎外が考えた理由には勿論種々ある。その一つは、西洋文化の生干り、あるいは歪められた輸入である。改めて述べるまでもなく、鴎外が留学から帰国した後、懸命に取り組んだのがこの問題であった。そして、この問題について鴎外が得た結論を史伝の中に求めるとすると、「享和中の諸生は香を懐にして舟に上った。当時の支那文化は大正の西洋文化に優ってみたやうである」(『伊沢蘭軒』その百四十二)、ということになろう。これは、二十四歳の霞亭が友人たちと墨田川に舟を浮べ雪を賞した時、香を焚いて盃を挙げたところにある文章である。
歴史観は、山陽、鴎外が最も考え抜いた問題であった。山陽は、『日本外史』その他の著作で、和辻も書いているように、勤王史観といっていいものを唱えて、幕末期に多くの読者を獲得し、政治運動にも大きな影響を与えた。鴎外も、『かのやうに』など所謂「秀麿もの」と呼ばれる小説の中で、広い意味での歴史問題を扱っており、ファインヒンガーのとωOげ哲学を借りて、一応の解決法を提示している。しかし、勤王史観といい、≧ωOげ哲学といっても、その根底に、豊かな歴史への関心があってはじめて意義を持つ。だが、鴎外の見るところ、明治末頃には、既に、豊かな歴史への関心そのものが希薄になっていたのである。しかも他方では、史観だけは様々な形で流行している。それは、儒学の世界がもうハッキリと人々の心に思い浮ばなくなっているにも拘らず、朱子学とか陽明学といった学術用語だけが一人歩きしているのと一般である。つまり、頼山陽の歴史観も、大塩平八郎の良知の学も、それぞれの基礎、土台を失いつつあるというのである。それは丁度、明治以後、西洋の自然主義や個人主義、社会改良主義や社会主義、更には女性解放といったものを、西洋文化の基礎、土台を考慮せずに、受け入れてきたが、そのためもあってか、文化の基礎、土台を異にする日本において、それらの用語、概念だけが一人歩きをしているのと似ている。鴎外もそうした自然主義や個人主義、社会主義などの問題に鴎外なりに懸命に真剣に取り組んだ。西洋文化の優れたものを、文化の土台、基礎の違う日本にどうずればうまく移植できるかを、誰よりも真剣に考え、誠実に実行しようとしたのが鴎外であった。そしてそれは最晩年まで続けられた。
しかし大正時代に入ると、鴎外の問題関心は、次第に、失われつつある日本文化の基礎、土台に向けられていった。だがこれは決して消極的な行為ではない。そうした文化の基礎、土台があって、はじめてその上に、創造的な活動が行われ、文化的事跡が刻印され得るからである。
では鴎外は文化の基礎、土台を何に見たのであろうか。その最も大きなものは、「じみな考証家たち」の活動と事跡であり、鴎外にとって、それは、「言葉の世界」といってもよいものであり、和辻の用語でいえば、「日常生活」であった。鴎外が生涯にわたって最も意を用いたのは言葉の問題であり、言葉の世界であった。鴎外にとって、日本の近代化の問題とは、言葉の世界の問題だったのであり、明治以前の言葉の世界を、出来る限り自然な形で、西洋文化を受け容れた近代日本の言葉に移行させることであった。しかし、鴎外は自らもその形成に関わった近代日本の言葉の世界に、明治末頃から、何か満たされぬものを感じるようになった。即ち、日本社会の「日常生活」に不安定なものを感じるようになったのである。鴎外が若い頃、医学、評論、文学、演劇などの分野で、啓蒙的活動を行ったのも、日本の「日常生活」が堅固で、信じるに足るものと思っていたからであった。だがその「日常生活」に鴎外は不安を感じ始めたのである。
何故、日本の「日常生活」は不安定になったのであろう。それは、日本の知識人たちの近代西洋文化に対する理解と関わっていた。史伝の中で、近代日本を代表する知識人としては、福沢諭吉や中江兆民くらいの名前しか出ていないけれども、鴎外の頭には、その他、様々な領域で活躍していた多くの知識人たちの名前が浮んでいたはずである。そして重要なことは、既に述べたように、これら近代日本の知識人たちが、頼山陽や大塩平入郎といった江戸時代の知識人たちの延長上で把えられていること、しかし、近代日本の知識人たちの西洋文化理解は、山陽や平八郎などの中国文化理解よりも、雑で生警りである、ということである。また、近代西洋文化に対する日本の対応として自ら提示した利他的個人主義や≧のOげ哲学といった議論も、日本社会の日常生活の混乱と歪みを目にすると、単なる弥縫策に過ぎないように思えてきた。
こうして大正時代に入ると、鴎外は現代小説を書くことを次第に止め、歴史小説を執筆することになった。そして、歴史小説を書くための資料を探索している時、不図したことから、渋江抽斎や伊沢蘭軒や北條霞亭といった考証学者たちを発見していくのである。『渋江毒魚』その三で、鴎外は抽斎との出会いについて書いている。「わたくしの七二を知ったのは奇縁である。……文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるやうになってから、わたくしは徳川時代の事跡を捜つた。そこに武鑑を検する必要が生じた。……徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料は無い。そこでわたくしは自ら武鑑を蒐集することに着手した。此蒐集の間に、わたくしは弘前医官渋江氏蔵書記と云ふ朱印のある本に度々出逢って、中には買ひ入れたものもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江と云ふ人が、多く武鑑を蔵してみたと云ふことを、先づ知った」。そして、『渋江抽斎』を執筆中に、伊沢蘭軒を知ったのであり、『伊沢蘭軒』執筆中に、北條霞亭に出会ったのであった。このように、抽斎や蘭軒などの鴎外の出会いは、偶然だったといってよいものであった。鴎外にしてこうだったのであるから、抽斎や三軒などが、頼山陽や大塩平八郎などに比して、社会においていかに知られていない人物であったかが分かる。しかし学外は、これらの人物の活動事跡を山陽などのそれに劣るものでないと評価するだけでなく、畏敬の念を隠そうとしないのである。『渋江抽斎』その六に次のようにある。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其 が頗るわたくしと相似てみる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸に於いて、考証家として樹立することを得るだけの地位に達してみたのに、わたくしは雑駁なるヂレツタンスチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは刃風に視て伍泥たらざることを得ない。抽斎は曽てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかった。週にわたくしに優った済勝の具を有してみた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である」。
勿論、鴎外は、渋江薄情を「畏敬すべき人」であるとしたのであって、抽斎を主人として、同人に仕えようとしたのではない。だがこのような鴎外の態度に、これまでのと些か違ったものを感じないであろうか。鴎外はこれまでも、畏敬すべき多くの先生に出会い、彼らから学んだけれども、しかし誰かに付いて仕えようとはしなかった。妄想」の中に以下のような文章がある。「冷淡には見てみたが、自分は辻に立ってるて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に付いて行かうとは思はなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢はなかったのである。」フォイトやハルトマソやショーペンハウエルやファインヒンガーなどが、雲外が敬意を表した先生たちだったのであろう。だが、これらの先生たちからは、知的な満足は得られたけれども、それ以上のものは得られなかった。鴎外は続ける。「兎に角、辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢はなかった。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の好情詩に等しいものだと云ふことを知った」。
しかし鴎外にとって、六斎や霞亭などは、ハルトマソやファインヒンガーなどとは些か違っていた。芥川龍之介は、鴎外を耳朶山房に訪ねた時に目にした光景を、『文芸的な、余りに文芸的な』の中で以下のように書いている。『』内は鴎外の言葉である。「『この間柴野栗山(?)の手紙を集めて本に出した人が来たから、僕はあの本はよく出来てみる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言った。するとその人は日本の手紙は生憎月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出来ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでみると言った』。! 僕はその時の先生の昂然としてみたのを覚えてみる」。この「昂然」という表現から、史伝を執筆していた時の鴎外が、いかにも心体共に充実していたかを窺うことができる。それは、「畏敬」から生じてくる充実である。 
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このように、鴎外は「畏敬」の心をもって、『渋江抽斎』、『伊沢蘭学』、『北條霞亭』などの史伝を書いた。『伊沢蘭軒』は、医学書、翻訳書を除けば、鴎外の著述の中で最も大部のものであり、これに『北條霞亭』が次ぎ、『渋江抽斎』がその後にくる。そして恐らくそれらに、『青年』、『雁』と続くであろう。芸術性という観点からのみいえば、あるいは『雁』は、それらの史伝より、より高く評価されてよいかもしれない。また、思想的側面からいえば、『青年』は、社会が直面している様々な思想的問題を扱っていて、社会へのインパクトとなれば、明らかにそれら史伝より大きなものを持っているといわねばならぬであろう。しかし、芸術性や思想性も含め、総合的に見るならば、これらの史伝が、鴎外のすべての文学作品の中で、最も優れたものであると評価されるべきであろう。
さて鴎外は、『山傲太夫』や『高瀬舟』や『寒山捨得』などの歴史小説を書いた後、史伝の執筆に向かう。そして、鴎外が扱った渋江抽斎、伊沢蘭軒、北條霞亭は何れも学者である。即ち、儒医あるいは儒者である。鴎外の現代小説にも、学者を主人公にした作品がかなりあるが、しかし史伝となると、やはりそこに、一定の傾向を持ち込むことは避け得ぬであろう。『伊沢蘭軒』の後に書かれた小史伝『小嶋宝素』の中で、鴎外は次のように書いている。「学者の伝記は王侯将相の直に国の興亡に繋るものとは別である。又奇傑の士、游侠の徒の事跡が心を驚し醜を動ずとは別である。学者の物たる、縦ひ其生涯に得喪窮達の小波瀾があっても、細に日常生活を叙するにあらざるよりは、其趣を領略することが出来ぬであらう。」確かに、史伝には、抽斎、蘭島、霞亭といった学者たちの事細い日常生活が描かれている。だが鴎外の史伝に描かれている彼等の日常生活は、王侯将相や奇傑の士や游侠の徒の国家的、社会的事跡よりもより意義のあるものであった。それは、彼等の日常生活そのものが、「言葉の世界」だったからである。言うまでもなく、彼等が考証学者であったこととそれは深く関わっている。しかし彼等は、儒学の中の考証学者であった。
勿論、鴎外は国学にも通じていた。鴎外が幼少年時代学んだ藩校・養老館では、儒学の外に国学も教えられていた。「仮名遣意見」の中には、契仲や本居宣長や北村季吟という国学者たちの名前が出ている。更に、鴎外が仏教書やキリスト教関連の文献も読んでいたことは明らかである。「妄想」の中に、以下のような文章が見られる。ベルリンで苦痛のため眠られない時、「これまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教の思想の断片が次第もなく、心に浮んで来」る。だが、それは「直ぐに消えてしまふ。なんの慰籍をも与えずに消えてしまふ」。この文章から推測する限りでは、仏教やキリスト教に対する関心はそれほど強くはなかったようである。しかし、ハルトマソやショーペンハウエルなどの厭世学者に惹かれたことは、鴎外の心底に仏教的なものがあったのではないかと想像され得る。それはともかく、鴎外の思想と生き方の骨格を作っていたのは間違いなく儒学であった。十歳頃までに鴎外は、論語や孟子などの四書、書判や詩経などの五経、更に、国語、史記、漢書などを読んでいる。鴎外はそうした儒学、漢学の教養の上に洋学を学んだのである。そして、幼少年期に身につけた儒学、漢学の教養は、深く人間鴎外の根底に留まり続け、生涯それから逃がれようともしなかったし、寧ろ大事に見守り続けた、と言った方がよいであろう。 だが、明治以後の近代化は日本社会に激変をもたらし、儒学もそれから免れることはできなかった。儒学は近代化の波の中で急速に衰退していった。儒学は最早や権威を持たなくなった。しかし考えてみると、江戸時代においても、萩生二七などは朱子学の権威を否定していたのである。もっとも、祖裸は、中国古代の聖人の権威を絶対のものとしてはいたが。それ故に、大正のこの時代に、儒学を復活させるなどということは到底できない。大体こうした考えを「礼儀小言」の中で鴎外は書いている。このような儒学の権威が衰えてしまっている時代に、やれ朱子派だ、やれ陽明学派だなどといっても意味はない。だが鴎外は、儒学の言葉の世界はまだ生きていると信じていた。明治以後の儒学の運命をこう理解していた鴎外が、抽斎などの考証学者に出会って畏敬の念を抱くようになったのも、容易に理解できるのである。しかも、抽斎や蘭軒や霞亭などの言葉の世界は、ただ儒学だけの言葉の世界ではなく、国学や仏教、あるいは老子などの世界と共存できる世界であり、更には、西洋との共存をも可能とするような世界であった。そういう意味で、それはまことに豊かで広々とした言葉の世界だったのである。
「空車」は象徴的なエッセイである。だからといって、どう解釈してもよいということにはならないが、「空車」を上のような「言葉の世界」と解釈しても、それほど誤ってはないであろう。鴎外は「空車」を「目迎へてこれを送ることを禁じ得ない」、といっているが、「言葉の世界」をそのまま受け容れ、その世界を大事に尊重したということであろう。そして空車に繋がれている馬が考証学であり、馬の口を取っている男が考証学者ということになるのではないだろうか。また、「或物を載せた車」の或物は、史観、理論、学説、教義といったものではないであろうか。
以下、抽斎や蘭軒、霞亭の言葉の世界がいかなるものであったかを簡単に見ることにしよう。
海保漁村によると、日本の考証学は、吉田篁敏に始まり、狩谷液斎がこれに継ぎ、その後、市野迷庵、伊沢透歯、小嶋宝素、渋江転義、森三園と継承・発展したとされる。丁重の考証学は、市野盗心に基づいているが、迷庵は以下のように考えた。中国では宋の時代、程願や朱嘉などが出て、また日本では伊藤仁斎や萩生祖棟などが現れて、各々自己の学問を建て、相帯っているため、何が儒学か分からなくなっている。だから、「儒者の道を学ばむと思は“、先づ文字を精出して覚ゆるがよし」(『読書指南』)。抽斎はこのような迷庵の教えを継承した。抽斎は、『懲語』の中で次のように言っている。「凡そ学問の道は、六経を始め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扱其六経を読み明めむとするには必ず其=言一句をも審に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義を詳にすること肝要なり、文字の音義を詳にするには、先ず善本を多く求めて、異同を比聾し、謬誤を校正し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始めて明弱なることを得。……故に百家の書読まざるべきものな」し、と。しかしこの考証学は、老子や仏教を排除するものではなく、進んで包み込むものであった。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰するところは一意なり。不患人皆知己及び曽子の有若無実若虚などと云へる、皆老子の意に近し。……孔子の道も孝悌仁義より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之は此教を一にして話中に至り初めて仏家大乗の一場に至る。執中以上を語れば、孔子草子同じ事なり」、と抽斎は言っている。
その他にも抽斎は、『世子春秋』や『国語』や『韓非子』なども熱心に読んだようである。抽斎の著作の中に、『曼子春秋筆録』があるし、また文集『訳語』の中に、「春秋外伝国語蹟」という文章がある。更に、『渋江抽斎』その五十九に「韓非子は主道、揚権、解老、喩老の諸善が好いと云った」、とある。言うまでもなく、主義、揚権などの諸篇は、『韓非子』の中で、老子の思想が見られるところである。
抽斎はかなりオランダ嫌いだったそうである。しかし晩年、安積艮斎の『洋外記略』などを借りて読み、その態度を変え、洋学の必要を認めた。そして死の前の遺言で、七男保に、オランダ語を学ばせるようにと言ったそうである。その後、保はオランダ語は学ばなかったが英語を学んだ。慶応義塾を卒業し、福沢諭吉からも知られ、同義塾の教師もした。中学校長や新聞記者としても活躍した。しかし最も力を尽したのは、出版社博文館のために、著作翻訳合わせて百五十点以上の著作物を刊行したことである。鴎外は言っている、保の「志す所は厳君の経籍訪古誌を廓大して、古より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあると謂っても、或は不可なることが無からう」、と。更に注目されるのは、抽斎の四番目の妻五百が、保から英語を習って、パアリーの『万国史』やカッケンボスの『小米国史』やホーセット夫人の経済学関連の書物を読んでいたことである。
次に抽斎の師・伊沢蘭軒の考証学についてである。迷盲の考証学を最もよく現しているのは、清人・張秋夏に与えた書簡であろう。『伊沢蘭軒』その五十三にある。「説書之業。漢儒専難訓詰。宋婦長於論説。而晋唐者漢之末流。元明者宋之余波也。至貴朝。則一大信古考拠之学。涌然振起。注一古書。必至異於数本。考証於群籍。門止戸〆。且猶所閲。有山海丘新校正。……呂古墨子吉子春秋等校注。是皆不以臆次査定一字。而僻案考証。所至尽也。不似朱明澆薄之世。妄加殺青。古書日益疵鍛也。只怪豊州古医書之二面癖者。近年有畜橘周錫蹟即刻華氏中蔵経。全拠潮煙。金壷脱文処。由呉重書補入。落下一通字以別之。不敢混清。里長得考拠之備。欝欝評者也。其他似医者。亦無見 」。
蘭軒の長男榛軒と次男柏軒は抽斎の友であったが、医学が漢から洋に移ろうとしていた時、この兄弟は、漢医方を死守しようとした。この問題は極めて興味深いので、別の機会に詳しく述べることにするが、ただ一言述べておけば、弟の柏軒は和歌を詠じ、神道を信じていたそうである。
北條霞亭は朱子学者であったが、清の高愈が作った『小学纂註』を校訂して翻刻した。『重訂小学押下』がそれだが、『漢文大系』五に収められている。鴎外も引用しているが、同母に付せられている解題で、この福山版の纂註と獄西豊芭堂下の心遠堂本とが比較されている。「……豊芭堂刊本の朱子総論は僅かに七条を録し、福山藩翻刻本の総論は葭子朱子以下十八人の説凡三十条を録す。又素干小学の下、註して原本作小学句読、末処何拠、或云、始於陳恭慰(選)、又有作小学品題、小学題序書、皆後人以意名品、画面朱子文集改正とあり。而して亡妻堂校刊本は此註なく、其題猶小学句読に依れば、福山藩翻刻本の高踏晩年の定本たる審なり。故に今之に拠る」。
霞亭が校刻した誤審には二種の本があるが、ただ端末を改刻しただけで、もとより書本で、「装して『元享利貞』の四本となし、元亨に巻の一より巻四に至る内篇を収め、利貞に巻五より巻首に至る外篇を収め、毎巻頭に『高愈纂註』、毎巻尾に『後学北條譲心癖』と記されている。霞亭が校刻した纂註は、かなり用いられたようで、松崎手遣も、下総佐倉の成徳書院で同書を講じたそうである。
霞亭が和歌をよく詠む人であったことは、『北條霞亭』に霞亭の和歌がいくつも出ていることから明らかである。
以上、抽斎、蘭軒、霞亭などの考証学を簡単に見てきたが、また注目したいのは、彼等が風流や文化をよく解する人たちだったということである。例えば、『渋江抽斎』に、抽斎は、「角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも欄いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である」、とある。
また某氏によると、伊沢柏軒と抽斎は大の祭礼好きだったそうである。『伊沢蘭軒』その三百二十五に以下のようにある。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。……山車の出る日には両先生は前夜より泊り込んでみて、斥候を派して報を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰って、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出て、山車を迎へる。そして山車の背後に随って歩くのである。車上の偶人、装飾等より難の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推察する。わたくし共は毎に先生の帰って語るのを聞いて、所謂大人者不尽其赤子之心者也とは、先生方の事だと思った」。鴎外は、たまたま読んだ松崎若干の『日暦』から、「廉堂も亦祭礼好の一人ではなかっただらうか」、と推測している。嫌堂は、狩谷長窪とともに鴎外が最も書きたかった人物である。
既に上にも引用した文であるが、霞亭が二十四の時、友人等と墨田川に舟を浮べたことを記したところで、「享和中の諸生は香を懐にして舟に上った。当時の支那文化は大正の西洋文化に優ってみたやうである」、と鴎外は言っている。
『伊沢蘭軒』最後の三百七十一で、以下のように書いている。「蘭軒伝を無用とするものの発憤を見るに、問題は全く別所に存するやうである。三三は皆詣煙毒罵の語をなしてみる。此は此篇を貌視する消極の言ではなくて、此先を嫉視する積極の言である。此嫉悪は果して何れの処より来るか。わたくしは其情を推することの甚難からざるべきを思ふ。凡そ更新を欲するものは因襲を悪む。因襲を悪むこと甚しければ、歴史を観ることを厭ふこととなる。此の如き人は更新を以て歴史を顧慮して行ふべきものとはなさない。……蘭軒伝の世に容れられぬは、独り文が長くして人を倦ましめた故では無い。実はその往事を語るが故である。歴史なるが故である」。
この「更新」が頼山陽の歴史観や大塩平八郎の良知の学の延長上で捉えられていることは疑い得ない。しかし、山陽の歴史観も平八郎の良知の学も、東洋・日本の言葉の世界に支えられていたことは間違いなく、それから切り離されてはいなかった。だが、明治以後の更新は、東洋・日本の言葉の世界を顧ることをせず、しかも、西洋の更新を、西洋の言葉からも切り離して、日本に持ち込もうとした。そのため、明治以後の更新は、日本の近代化を歪め混乱をもたらした。鴎外が行った更新は、東洋・日本の言葉の世界を顧慮しつつ、西洋の言葉の世界を正確に理解しようと努めながらなされたのであった。鴎外が一方で史伝を書き、他方で最晩年まで翻訳を止めなかったのもそのためであった。
鴎外は、和辻哲郎などより歴史あるいは文化というものをより深く理解していたのではあるまいか。 

( 1) 和辻哲郎「文化と文化史と歴史小説」(『和辻哲郎全集』第二十三巻、岩波書店∀、九六頁。同論の中で、いま一つ興味深いことは、和辻が、森鴎外と夏目漱石を比較しているところである。「森先生の歴史小説は、その心理観察の鋭さと、描写の簡素と、文体の晴朗とで以て、われわれを驚嘆せしめる。例へば、『寒山捨得』では、……俗人の心理や真の宗教的心境の暗示や人間の楽天的な無知などが、いかにも楽々と、急所急所を抑へて描いてあるのに感服した。しかし私は何となく、本質へ迫る力の薄さを感じないではゐられない。先生の人格はあらゆる行に沁み出てるるが、それは理想の情熱に燃えてない、傍観者らしい、あくまで頭の理解で押し通さうとする人格のやうに思はれる。そこへ行くと夏目先生は、口では徹底欲を笑ふやうなことをいってみるが、真実は烈しい理想の情熱で、力限り最後の扉を押し開けようとしてみる。夏目先生の取り扱ふ題目は、自分の内生を最も力強く揺り動かしてみる問題である。あくまで心の理解で貫かうとする欲求も見える」(同、九七頁)。もっとも和辻は、これは、「夏目先生の長所と森先生の短所との比較」と断つているが、漱石についてはともかく恐らくその通りだと思うが、望外に関して寧ろ逆で、現代小説の方が「頭の理解」で押し通そうとしたのに対し、歴史小説、そして史伝に行くに従って、それに加えて、「心の理解」を伴うようになったのではないかと思われる。本論稿もぞうした理解の上に書かれている。尚、和辻には、鴎外について論じたものとして、その他に、「鴎外の思ひ出」(『全集』第二十巻所収)がある。
( 2) 和辻哲郎『日本倫理思想史』(『全集』第十三巻)、三四五−六頁。
( 3) 頼山陽「訪大塩君。三十而上衙。作此贈之」(大塩中暑『洗心洞筍記』、岩波文庫)、四六九−七〇頁。
( 4) 頼山陽「奉送大塩君子起適尾張序」(同等)、四六〇1一頁。
( 5) 以下、大塩中斎『洗心洞罰記』四五四−九頁。
( 6) 大塩中主「二三猪飼翁校讐国記」(『日本倫理彙編』第三巻所収)、五=ニー四頁。
( 7) 以下の猪飼敬所の引用文は、すべて、「猪飼敬所先生書束集」(『日本儒林叢書』第三冊、東洋図書刊行会、昭和三年)からである。
( 8) 頼山陽「羽二重説寿猪飼翁」(『頼山陽選集』3『頼山陽文集』所収、近藤出版社、昭和五十六年)、二六ニー三頁。
( 9) 『伊沢蘭軒』その十三からその十八あたりまで、鴎外は、伊沢氏の口碑によりながら、頼山陽が江戸遊学中に伊沢氏の家に寄寓し、『病源候論』の謄写を手伝わせられていたのではないかと推論・考証している。例えば、その十四に以下のようにある。「伊沢氏の口碑の伝ふる所はかうである。蘭軒は頼春水とも菅茶山とも交った。就中茶山は同じく阿部家の俸を食む身の上であるので、其交が殊に深かった。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鮭を脱いだ。其頃伊沢では病源候論を写してみたので、山陽は写字の手伝をした。」そして国外は、その十八で次のように言っている。伊沢の家へ「闊入して来った十八歳の山陽は何者であるか。三四年前に蘇子の論策を見て、『天地専有如此蕃昌者乎』と呼び、壁に貼って日ごとに観た人である。又数年の後に云ふ所を聞けば、『凌雲沖香』が其志である。『一度大周へ出で、当世の才俊と被呼候者共と勝負を決し申し度』と云ひ、『四方を証せ申事』と云つてみる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名月後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至った。これが山陽の面目である。少い彼氏軒が少い此山陽をして、首を早して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詑異せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない」。以上の鴎外の推論・考証が誤りであったことは既によく知られていることであるけれども、しかしそこに寧ろ、鴎外の山陽観が率直に吐露されていると見ることもできるのではないだろうか。
(10) 和辻哲郎『日本倫理思想史』、前掲書所収、三四六頁以下。
(11) 芥川龍之介「文芸的女、余りに文芸的な」(『芥川龍之介全集』第九巻、岩波書店、昭和五十五年)、その「十三 森先生」二五五頁。引用文には次のような文章が続いている。「かう云ふ先生に瞠目するものは必ずしも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白状すれば、僕はアナトオル・フランスの『ジアン・ダアク』よりも寧ろボオドレエルの一行を残したいと思ってみる一人である」。また、その「十三森先生」の中には、以下のような文章が見られる。「『渋江抽斎』を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてみる。いや、或は書かなかったとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措かなかったであろう。」しかし他方、芥川は次のようにも言っている。森「先生の学は古今を貫き、識は東西を圧してみるのは今更のやうに言はずとも善い。のみならず先生の小説や戯曲は大抵は渾然と出来上ってみる。……しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓眼に見るとしても、畢に作家の域にはひってみない。……先生の短歌や発句は何か一つ微妙なものを失ってみる。……しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてはみない。……僕はかう云ふことを考へた揚句、畢寛森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてみなかったと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだったと云ふ結論に達した」。この結論は、例えば、佐藤春夫の「詩人 森鶴外」とかなり違っている。佐藤は同文の冒頭で以下のように言っている。「森鴎外は詩人である。『舞姫』、『文つかひ』、『うたかたの記』等の少壮時の作品から晩年の『妄想』などの諸作をつぶさに見る人は何人も鴎外の詩人たる事は否定しないであらう」(『日本詩人全集17 佐藤春夫』、新潮社、昭和四十二年)、二〇一頁。この問題は極めて重要であり、また、略々同時代の芥川と佐藤が非常に違った議論をしていることも興味深いので、別の機会に詳しく論ずることにする。ただここで言っておきたいのは、和辻哲郎や芥川龍之介など、大正に入って活躍する思想家や作家と、江戸末期に生まれ、明治時代に活躍した鵡外との間に、何か溝のようなものがあって、大きく距てられていることは認めなければならない。その溝が何であるかを解明するためにも、鴎外の史伝を精読する必要があると思われる。
(12) 鴎外は大正四年一月に「歴史其儘と歴史離れ」というエッセイを書いている。これは『山椒大夫』を書いた時の楽屋裏を告白したものだが、そこには何れ史伝に向かっていく心境的なものが吐露されている。「わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる『自然』を尊重する念を発した。そしてそれを狽に変更するのが厭になった。……わたくしは又現存する人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った。」
(13) 「安井息軒の学問観」(『日本地域文化ライブラリー1 日向の歴史と文化』所収、行人社、平成十八年)、八五−八頁。
(14) 「空車」が発表されたのは大正五年の七月で、『渋江抽斎』が終りに近づき、『伊沢蘭軒』の構想が出来つつあった頃である。従って「空車」は、そうした史伝執筆を背景に書かれたものとも推測される。だから「空車」において鴎外は、「古言は宝である。しかし什襲してこれを蔵して置くのは、宝の持ちぐされである。縦ひ尊重して用みずに置くにしても、用ゐざれば死物である。わたしは宝を掘り出して活かしてこれを用みる。わたしは古言に新たな性命を与へる。」、といっているが、史伝こそ鴎外がこのことを実行した場所ではなかったであろうか。例えば「霧開」や「儂巧」なども鴎外のいう古言であろうか。永井荷風「鴎外先生」(『荷風全集』第十五巻、岩波書店、二四四頁)、石川淳(『石川淳全集』第九巻、筑摩書房、一七五頁)など参照。
(15) 「安井息軒の学問観」、前掲書、八三頁。 
 

 

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