渋江抽斎

渋江抽斎
抽斎1抽斎2抽斎の妻書評石川淳歴史に取り憑かれた鴎外抽斎3・・・

雑学の世界・補考   

関連「江戸の日本」
調べ物途中で見つけた情報 その時は無関係な物でしたが 捨てがたく設けた書棚です
渋江抽斎 / 森鴎外


「三十七年如一瞬(いつしゆんのごとし)。学医(いをまなび)伝業(げふをつたへて)薄才伸(はくさいのぶ僅かな才能を伸ばした)。栄枯窮達(えいこきゆうたつは)任天命(てんめいにまかす)。安楽換銭(あんらくをぜにゝかへて心の平安を財宝と思ひ)不患貧(ひんをうれへず)。」これは渋江抽斎の述志(じゆつし)の詩である。想ふに天保十二年(1841)の暮に作つたものであらう。弘前の城主津軽順承(ゆきつぐ)の定府(ぢやうふ江戸定住)の医官で、当時近習詰(きんじふづめ側近係)になつてゐた。しかし隠居附にせられて、主に柳島(やなぎしま)にあつた信順(のぶゆき)の館ヘ出仕することになつてゐた。父允成(たゞしげ)が致仕(ちし引退)して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏縫を喪つてから十二年、父を失つてから四年になつてゐる。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善(つねよし)、長女純(いと)、二男優善(やすよし)とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあつた。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好で、技を售(う売)らうと云ふ念がないから、知行より外の収人は殆ど無かつただらう。只津軽家の秘方(ひはう)一粒金丹(いちりふきんたん)と云ふものを製して売ることを許されてゐたので、若干(そこばく)の利益はあつた。
抽斎は自ら奉ずること極めて薄い人であつた。酒は全く飲まなかつたが、四年前に先代の藩主信順に扈随(こずい)して弘前に往つて、翌年まで寒国にゐたので、晩酌をするやうになつた。煙草は終生喫(の)まなかつた。遊山などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。只好劇家で劇場には屢出入したが、それも同好の人々と一しよに平土間を買つて行くことに極めてゐた。此連中を周茂叔(「愛蓮説」の周敦頤)連と称へたのは、廉(れん)を愛すると云ふ意味であつたさうである。
抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購ふと客を養ふとの二つの外に出でなかつただらう。渋江家は代々学医であつたから、父祖の手沢(しゆたく手垢)を存じてゐる書籍が少くなかつただらうが、現に「経籍訪古志」に載つてゐる書目を見ても抽斎が書を買ふために貲(し資)を惜まなかつたことは想ひ遣られる。
抽斎の家には食客が絶えなかつた。少いときは二三人、多いときは十余人だつたさうである。大抵諸生(しよせい学生)の中で、志があり才があつて自ら給せざるものを選んで、寄食を許してゐたのだらう。
抽斎は詩に貧を説いてゐる。其貧がどんな程度のものであつたかと云ふことは、略以上の事実から推測することが出来る。此詩を瞥見(べつけん)すれば、抽斎は某貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施してゐたかとも思はれよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはゐられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去つた四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥(おだやか)に承けられる筈がない。伸ると云ふのは反語でなくてはならない。「老驥(らうき駿馬)櫪(れき飼い葉桶)に伏すれども、志千里に在り」と云ふ意が此中に蔵せられてゐる。第三も亦同じ事である、作者は天命に任せるとは云つてゐるが、意を栄達に絶つてゐるのではなさゝうである。さて第四に至つて、作者は其貧を患へずに、安楽を得てゐると云つてゐる。これも反語であらうか。いや、さうではない。久しく修養を積んで、内に恃(たの)む所のある作者は、身を困苦の中に屈してゐて、志は未だ伸びないでもそこに安楽を得てゐたのであらう。

抽斎は此詩を作つてから三年の後、弘化元年(1844)に躋寿館(せいじゆくわん)の講師になつた。躋寿館は明和二年(1765)に多紀玉池(ぎよくち)が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽斎が講師になつた時には、もう玉池が死に、子藍渓(らんけい)、孫桂山(けいざん)、曾孫柳沜(りうはん)も死に、玄孫暁湖(げうこ)の代になつてゐた。抽斎と親しかつた桂山の二男茝庭(さいてい)は、分家して館に勤めてゐたのである。今の制度と較べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたやうなものである。これと同時に抽斎は式日(しきじつ)に登城することになり、次いで嘉永二年(1849)に将軍家慶(いへよし十二代)に謁見して、所謂目見(めみえ)以上の身分になつた。これは抽斎の四十五歳の時で、其才が伸びたと云ふことは、此時に至つて始て言ふことが出来たであらう。しかし貧窮は旧に依つて(もとのまゝ)ゐたらしい。幕府からは嘉永三年(1850)以後十五人扶持出ることになり、安政元年(1854)に又職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償(つぐな)ふことは出来なかつた。謁見の年には当時の抽斎の妻(さい)山内氏五百(いほ)が、衣類や装飾品を売つて費用に充てたさうである。五百は徳が亡くなつた後に抽斎の納(い)れた四人目の妻(さい)である。
抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折(ふせつ)さんに書いて貰つて、居間に懸けてゐる。わたくしは此頃抽斎を敬慕する余りに、此幅(ふく)を作らせたのである。
抽斎は現に広く世間に知られてゐる人物ではない。偶(たまたま)少数の人が知つてゐるのは、それは「経籍訪古志」の著者の一人として知つてゐるのである。多方面であつた抽斎には、本業の医学に関するものを始として、哲学に関するもの、美術に関するもの等、許多(あまた)の著述がある。しかし安政五年(1858)に抽斎が五十四歳で亡くなる迄に、脱稿しなかつたものもある。又既に成つた書も、当時は書籍を刊行すると云ふことが容易でなかつたので、世に公にせられなかつた。
抽斎の著した書で、存命中に印行(いんかう出版)せられたのは、只「護痘要法(ごとうえうほう)」一部のみである。これは種痘術のまだ広く行はれなかつた当時、医中(医者の中)の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作つた数種の書の一つで、抽斎は術を池田京水(けいすい)に受けて記述したのである。これを除いては、こゝに数へ挙げるのも可笑しい程の「四つの海」と云ふ長唄の本があるに過ぎない。但しこれは当時作者が自家の体面をいたはつて、贔屓にしてゐる富士田千蔵の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。「四つの海」は今猶杵屋の一派では用ゐてゐる謡物(うたひもの)の一つで、これも抽斎が多方面であつたと云ふことを証するに足る作である。
然らば世に多少知られてゐる「経籍訪古志」はどうであるか、これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園(きゑん)と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。其時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである。
世間に多少抽斎を知つてゐる人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた「経籍訪古志」があるからである。しかしわたくしはこれに依つて抽斎を知つたのではない。
わたくしは少(わか)い時から多読の癖があつて、随分多く書を買ふ。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估(しよこ)との手に入つてしまふ。しかしわたくしは曾て珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの文学史の序を読むと、バルテルスが多く書を読まうとして、廉価の本を渉猟し、文学史に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないと云つてあつた。わたくしはこれを読んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思つた。それゆゑわたくしは漢籍に於ても宋槧本(ざんほん)とか元槧本とか云ふものを顧みない。「経籍訪古志」は余りわたくしの用に立たない。わたくしは其著者が渋江と森とであつたことをも忘れてゐたのである。

わたくしの抽斎を知つたのは奇縁である。わたくしは医者になつて大学を出た。そして官吏になつた。然るに少い時から文を作ることを好んでゐたので、いつの間にやら文士の列に加へられることになつた。其文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるやうになつてから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜つた。そこに武鑑(武家の名鑑)を検する必要が生じた。
武鑑は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕(か欠)くべからざる史料である。然るに公開せられてゐる図書館では、年を逐つて発行せられた武鑑を集めてゐない。これは武鑑、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じ難いので、措いて顧みないのかも知れない。しかし武鑑の成立を考へて見れば、此誤謬の多いのは当然で、それは又他書によつて正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料は無い。そこでわたくしは自ら武鑑を蒐集(しうしゆう)することに着手した。
此蒐集の間に、わたくしは弘前医官渋江氏蔵書記と云ふ朱印のある本に度々出逢つて、中には買ひ入れたのもある。わたくしはこれによつて弘前の官医で渋江と云ふ人が、多く武鑑を蔵してゐたと云ふことを、先づ知つた。
そのうち武鑑と云ふものは、いつから始まつて、最も古いもので現存してゐるのはいつの本かと云ふ問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を武鑑の中に数へるかと云ふ、武鑑のデフイニションを極めて掛からなくてはならない。
それにはわたくしは「足利武鑑」、「織田武鑑」、「豊臣武鑑」と云ふやうな、後の人のレコンストリユクシヨンによつて作られた書を最初に除く。次に「群書類従」にあるやうな分限帳(ぶげんちやう職員録)の類を除く。さうすると跡に、時代の古いものでは、御馬印揃(うまじるしそろへ)、御紋尽(もんづくし)、御屋敷附(やしきづけ)の類が残つて、それが稍(やゝ)形を整へた江戸鑑となり、江戸鑑は直ちに後の所謂武鑑に接続するのである。
わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの武鑑に対する知識は日々変つて行く。しかし今知つてゐる限を言へば、馬印揃や紋尽は寛永中からあつたが、当時のものは今存じてゐない。その存じてゐるのは後に改板したものである。只一つこゝに姑(しばら)く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔(らいすけ)さんが最古の武鑑として報告した、鎌田氏の「治代普顕記」中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられてゐるエラルヂツクを、我国に興さうとしてゐるものと見えて、紋章を研究してゐる。そして此目的を以て武鑑をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年(1634)の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち治代普顕記の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちに此記載を精検しようと思つてゐる。
そんなら今に迨(いた)るまでに、わたくしの見た最古の武鑑乃至其類書は何かと云ふと、それは正保二年(1645)に作つた江戸の屋敷附である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。只題号を刻した紙が失はれたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。此本が正保四年と刻してあつても、実は正保二年に作つたものだと云ふ証拠は、巻中に数箇条あるが、試みに其一つを言へば、正保二年十ニ月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあつて、又其第(やしき)を諸邸宅のオリアンタシヨンのために引合に出してある事である。此本は東京帝国大学図書館にある。

わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓せられた屋敷附より古い武鑑の類書を見たことが無い。降(くだ)つて慶安(1648)中の紋尽になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文(1661)中に作つたもので、真に慶安中に作つたものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行したものである。それから明暦(1655)中の本になると、世間にちらほら残つてゐる。大学にある紋尽には、伴信友の自筆の序がある。伴は文政三年(1820)に此本を獲て、最古の武鑑として蔵してゐたのださうである。それから寛文中の江戸鑑になると、世間に稍多い。
これはわたくしが数年間武鑑を捜索して得た断案である。然るにわたくしに先んじて、夙(はや)く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある「江戸鑑図目録」といふ写本を見て知ることが出来る。此書は古い武鑑類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目(ぐうもく注目)した本と、買ひ得て蔵してゐた本とを挙げてゐる。此書に正保二年の屋敷附を以て当時存じてゐた最古の武鑑類書だとして、巻首に載せてゐて、二年の二の字の傍に四と註してゐる。著者は四年と刻してある此書の内容が二年の事実だといふことにも心附いてゐたものと見える。著者はわたくしと同じやうな蒐集をして、同じ断案を得てゐたと見える。序(ついで)だから言ふが、わたくしは古い江戸図をも集めてゐる。
然るに此目録には著者の名が署して無い。只文中に所々考証を記すに当つて抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た弘前医官渋江氏蔵書記の朱印が此写本にもある。
わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思つた。そしてどうにかしてそれを確めようと思ひ立つた。
わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢ふ毎に、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遣(や)つて問ひ合せた。
或る日長井金風(きんぷう)さんに会つて問ふと、長井さんが云つた。「弘前の渋江なら蔵書家で「経籍訪古志」を書いた人だ」と云つた。しかし抽斎と号してゐたかどうだかは長井さんも知らなかつた。「経籍訪古志」には抽斎の号は載せてないからである。
そのうち弘前に勤めてゐる同僚の書状が数通届いた。わたくしはそれによつてこれだけの事を知つた。渋江氏は元禄の頃に津軽家に召し抱へられた医者の家で、代々勤めてゐた。しかし定府であつたので、弘前には深く交つた人が少く、又渋江氏の墓所も無ければ子孫も無い。今東京(とうけい)にゐる人で、渋江氏と交つたかと思はれるのは、飯田巽(たつみ)と云ふ人である。又郷土史家として渋江氏の事蹟を知つてゐようかと思はれるのは、外崎覚(とのさきかく)と云ふ人であると云ふ事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精しい佐藤弥六(やろく)さんと云ふ老人で、当時大正四年に七十七歳になると云つてあつた。
わたくしは直接に渋江氏と交つたらしいと云ふ飯田巽さんを、先づ訪ねようと思つて、唐突ではあつたが、飯田さんの西江戸川町の邸へ往つた。飯田さんは素(も)と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしてゐるのださうである。西江戸川町の大きい邸はすぐ知れた。わたくしは誰の紹介をも求めずに往つたのに、飯田さんは快く引見して、わたくしの問に答へた。飯田さんは渋江道純(だうじゆん)を識つてゐた。それは飯田さんの親戚に医者があつて、其人が何か医学上にむづかしい事があると、渋江に問ひに往くことになつてゐたからである。道純は本所御台所町に住んでゐた。しかし子孫はどうなつたか知らぬと云ふのである。

わたくしは飯田さんの口から始めて道純と云ふ名を聞いた。これは「経籍訪古志」の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかつた。
切角道純を識つてゐた人に会つたのに、子孫のゐるかゐないかもわからず、墓所を問ふたつきをも得ぬのを遺憾に思つて、わたくしは暇乞をしようとした。其時飯田さんが、「ちよいとお待下さい、念のために妻(さい)にきいて見ますから」と云つた。
細君が席に呼び入れられた。そして若し渋江道純の跡がどうなつてゐるか知らぬかと問はれて答へた。「道純さんの娘さんが本所松井町の杵屋勝久(きねやかつひさ)さんでございます。」
「経籍訪古志」の著者渋江道純の子が現存してゐると云ふことを、わたくしは此時始めて知つた。しかし杵屋と云へば長唄のお師匠さんであらう。それを本所に訪ねて、「お父うさんは抽斎と云ふ別号がありましたか」とか、「お父うさんは武鑑を集めてお出でしたか」とか云ふのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問ひ合はせて貰ふことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾(だく)した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
二三日立つて飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江終吉(しゆうきち)と云ふ甥があつて、下渋谷に住んでゐると云ふのである。杵屋さんの甥と云ヘば、道純から見れば、孫でなくてはならない。さうして見れば、道純には娘があり孫があつて現存してゐるのである。
わたくしは直(すぐ)に終吉さんに手紙を出して、何時何処へ往つたら逢はれようかと問うた。返事は直に来た。今風邪で寝てゐるが、なほつたら此方から往つても好いと云ふのである。手跡はまだ少い人らしい。
わたくしは曠(むな)しく終吉さんの病の癒えるのを待たなくてはならぬことになつた。探索はこゝに一頃挫を来さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思つて、此隙(ひま)に弘前から、歴史家として道純の事を知つてゐさうだと知らせて来た外崎覚といふ人を訪ねることにした。
外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮(現在の書陵部)にある。わたくしは宮内省へ往つた。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教へられた。常に宮内省には往来しても、諸陵寮がどこにあると云ふことは知らなかつたのである。
諸陵寮の小さい応接所で、わたくしは初めて外崎さんに会つた。飯田さんの先輩であつたとは違つて、此人はわたくしと齢(よはひ)も相若くと云ふ位で、しかも史学を以て仕へてゐる人である。わたくしは傾蓋故(ふる)きが如き念(おもひ意気投合)をした。
初対面の挨拶が済んで、わたくしは来意を陳べた。武鑑を蒐集してゐる事、古武鑑に精通してゐた無名の人の著述が写本で伝はつてゐる事、その無名の人は自ら抽斎と称してゐる事、其写本に弘前の渋江と云ふ人の印がある事、抽斎と渋江とが若しや同人ではあるまいかと思つてゐる事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。
 

 


外崎さんの答は極めて明快であつた。「抽斎と云ふのは「経籍訪古志」を書いた渋江道純の号ですよ。」
わたくしは釈然とした。
抽斎渋江道純は経史子集(経書、史書、諸子、詩文集)や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、古武鑑や古江戸図をも蒐集して、其考証の迹(あと)を手記して置いたのである。上野の図書館にある「江戸鑑図目録」は即ち古武鑑古江戸図の訪古志である。惟(ただ)経史子集は世の重要視する所であるから、「経籍訪古志」は一の徐承祖を得て公刊せられ、古武鑑や古江戸図は、わたくし共の如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、其目録は僅に存して人が識らずにゐるのである。わたくし共はそれが帝国図書館の保護を受けてゐるのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
わたくしは又かう云ふ事を思つた。抽斎は医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其迹が頗るわたくしと相似てゐる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸に於いて、考証家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雑駁なるヂレツタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
抽斎は曾てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比(たぐひ)ではなかつた。逈(はるか)にわたくしに優つた済勝の具(さいしようのぐ健脚)を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
然るに奇とすべきは、其人が康衢(かうく)通逵(つうき)をばかり歩いてゐずに、往々径(こみち)に由つて行くことをもしたと云ふ事である。抽斎は宋槧の経子を討(もと)めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも翫んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板(どぶいた)の上で摩れ合つた筈である。こゝに此人とわたくしとの間に暱(なじ)みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
わたくしはかう思ふ心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人なるかを知らずに、漫然抽斎のマニユスクリイの蔵弆者(ざうきよしや)たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先づ「経籍訪古志」を著した渋江道純の名を知り、其道純を識つてゐた人に由つて、道純の子孫の現存してゐることを聞き、やうやう今日道純と抽斎とが同人であることを知つたと云ふ道行を語つた。
外崎さんも事の奇なるに驚いて云つた。「抽斎の子なら、わたくしは識つてゐます。」
「さうですか。長唄のお師匠さんださうですね。」
「いゝえ。それは知りません。わたくしの知つてゐるのは抽斎の跡を継いだ子で、保(たもつ)と云ふ人です。」
「はあ。それでは渋江保と云ふ人が、抽斎の嗣子であつたのですか。今保さんは何処に住んでゐますか。」
「さあ。大ぶ久しく逢ひませんから、ちよつと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知つてゐるものがありませうから、近日聞き合せて上げませう。」

わたくしは直(すぐ)に保さんの住所を訪ねることを外崎さんに頼んだ。保と云ふ名は、わたくしは始めて聞いたのでは無い。是より先、弘前から来た書状の中に、かう云ふことを報じて来たのがあつた。津軽家に仕へた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦(しではらたん)さんに書を遣つて問うた。しかし学校には此名の人はゐない。又曾てゐたこともなかつたらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館の発行した書籍に、此名の著者があつたと云ふ人が二三あつた。しかし広島に踪跡(そうせき足跡)が無かつたので、わたくしは此報道を疑つて追跡を中絶してゐたのである。
此に至つてわたくしは抽斎の子が二人と、孫が一人と現存してゐることを知つた。子の一人は女子で、本所にゐる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にゐる終吉さんである。しかし保さんを識つてゐる外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかつた。
わたくしは猶外崎さんに就いて、抽斎の事蹟を詳(つまびらか)にしようとした。外崎さんは記憶してゐる二三の事を語つた。渋江氏の祖先は津軽信政(のぶまさ)に召し抱へられた。抽斎はその数世の孫(そん)で、文化(1804)中に生れ、安政(1854)中に歿した。その徳川家慶に謁(えつ)したのは嘉永(1848)中の事である。墓誌銘は友人海保漁村(かいほぎよそん)が撰んだ。外崎さんはおほよそこれだけの事を語つて、追つて手近にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈らうと約した。わたくしは保さんの所在を捜すことゝ、此抜萃を作ることゝを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
外崎さんの書状は間もなく来た。それに「前田文正(ぶんせい)筆記」、「津軽日記」、「喫茗雑話(きつめいざつわ)」の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添へてあつた。中にも「喫茗雑話」から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしは其中に「道純諱(いみな)全善、号抽斎、道純其字(あざな)也」と云ふ文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓ませたのださうである。
これと殆ど同時に、終吉さんの稍長い書状が来た。終吉さんは風邪が急に癒えぬので、わたくしと会見するに先(さきだ)つて、渋江氏に関する数件を書いて送ると云つて、祖父の墓の所在、現存してゐる親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等を報じてくれた。墓は谷中斎場の向ひの横町を西へ入つて、北側の感応寺にある。そこヘ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけであゐ。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。此二人の同胞(はらから)の間に脩(をさむ)と云ふ人があつて、亡くなつて、其子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であつて、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしてゐる。そこで早く怙(こ父)を失つた終吉さんは伯母をたよつて往来をしてゐても、勝久さんと保さんとはいつとなく疏遠になつて、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにゐたさうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女(むすめ)冬子さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在を知つた。終吉さんが住所を告げてくれた叔父と云ふのが即ち保さんである。是に於いてわたくしは、外崎さんの捜索を煩すまでもなく、保さんの今の牛込船河原町の住所を知つて、直にそれを外崎さんに告げた。

わたくしは谷中の感応寺に往つて、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立つてゐる。「抽斎渋江君墓碣(ぼけつ)銘」と云ふ篆額(てんがく)も墓誌銘も、皆小島成斎(せいさい)の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除(さんじよ)したものださうである。「喫茗雑話」の載する所は三分の一にも足りない。わたくしは又後に五弓雪窓(ごきゆうせつそう)が此文を「事実文編」巻の七十二に収めてゐるのを知つた。国書刊行会本を閲するに、誤脱は無いやうである。只「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪ふと訓ませてあるのに慊(あきたら)なかつた。「経籍訪古志」の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀茝庭(さいてい)の命じた名だと云ふことが、抽斎と森枳園との作つた序に見えてをり、訪古の字面は、「宋史」鄭樵(ていせう)の伝に、名山大川に游び、奇を搜し古を訪ひ、書を蔵する家に遇へば、必ず借留し、読み尽して乃ち去るとあるのに出たと云ふことが、枳園の書後(あとがき)に見えてをる。
墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、又「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事ださうである。又平野氏の生んだ女と云ふのは、比良野(ひらの)文蔵の女威能(ゐの)が、抽斎の二人目の妻になつて生んだ純(いと)である。勝久さんや終吉さんの亡父脩は此文に載せて無いのである。
抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。其一には「性如院宗是日体信士、庚申元文五年(1740)七月十七日」と、向つて右の傍に彫(ゑ)つてある。抽斎の高祖父輔之(ほし)である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年(1837)十月二十六日」と、彫つてある。抽斎の父允成(たゞしげ)である。其間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法諡(はふし)が彫つてある。「松峰院妙実日相信女、己丑明和六年(1769)四月十三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌寛政二年(1790)四月十三日」とあるのは、允成の初の妻田中氏、「寿松院妙遠日量信女、文政十二年(1829)己丑六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏縫、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年(1794)甲寅三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華水子、文化八年(1811)辛未閏二月十四日」とあるのも、並に皆允成の女である。其二には「至善院格誠日在、寛保二年(1742)壬戌七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年(1854)甲寅三月十日」と彫つてある。至善院は抽斎の曾祖父為隣(ゐりん)で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先(さきだ)つて死んだ長男恒善である。其三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明四(1784)甲辰二月廿九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓(ほんかう)である。「智照院妙道日修信女、寛政四(1792)壬子八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永六年(1777)丁酉五月三日死、享年十九、俗名千代、臨終作歌曰」云々としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女である。抽斎の高祖父輔之は男子が無くて歿したので、十歳になる女登勢に壻を取つたのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になつて、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子(がいし)と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子ださうである。其四には「渋江脩之墓」と刻してあつて、これは石が新しい。終吉さんの父である。
後に聞けば墓は今一基あつて、それには抽斎の六世の祖辰勝(しんしよう)が「寂而院宗貞日岸居士」とし、其妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛(しんせい)が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、其妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏が、「徧照院妙浄日法大姉」とし、同岡西氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあつたが、其石の折れてしまつた迹に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのださうである。
わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と、其尊卑二属とに、香華(かうげ)を手向けて置いて感応寺を出た。
尋(つ)いでわたくしは保さんを訪はうと思つてゐると、偶(たまたま)女杏奴が病気になつた。日々官衙(くわんが官庁)には通つたが、公退の時には家路を急いだ。それゆゑ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣つた。
三家からはそれぞれ返信があつて、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕くべからざる資料があつた。それのみではない。終吉さんは其隙(ひま)に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語つて貰ひたいと頼んだのである。叔父甥はこゝに十数年を隔てゝ相見たのださうである。又外崎さんも一度わたくしに代つて保さんをおとづれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町へ往くに先んじて、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

気候は寒くても、まだ炉を焚く季節に入らぬので、火の気の無い官衙の一室で、卓を隔てゝ保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語つて倦むことを知らなかつた。
今残つてゐる勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、此三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸と云ふ。抽斎が四十三、五百が三十二になつた弘化四年(1847)に生れて、大正五年(1916)に七十歳になる。抽斎は嘉永四年(1851)に本所へ移つたのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
終吉さんの父脩は安政元年(1854)に本所で生れた。中三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になつてゐたのである。
抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなつたから、保さんは其時まだ二歳であつた。幸に母五百は明治十七年までながらへてゐて、保さんは二十八歳で恃(じ母)を喪つたのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考(亡父)の平生を聞くことを得たのである。
抽斎は保さんを学医にしようと思つてゐたと見える。亡くなる前にした遺言によれば、経を海保漁村に、医を多紀安琢(あんたく)に、書を小島成斎に学ばせるやうに云つてある。それから洋学に就いては、折を見て蘭語を教へるが好いと云つてある。抽斎は友人多紀茝庭(さいてい)などゝ同じやうに、頗るオランダ嫌ひであつた。学殖の深かつた抽斎が、新奇を趁(お)ふ世俗と趨舎(すうしや)を同じくしなかつたのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次の芸を「西洋」だと云つてある。これは褒めたのではない。然るにその抽斎が晩年に至つて、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教へることを遺言したのは、安積艮斎(あさかごんさい)に其著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟つたからださうである。想ふにその著述と云ふのは「洋外紀略」などであつただらう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになつたが、それは時代の変遷のためである。
わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅に二歳であつた保さんが、父に武鑑を貰つて翫んだと云ふことを聞いた。それは出雲寺板の大名武鑑で、鹵簿(ろぼ行列)の道具類に彩色を施したものであつたさうである。それのみでは無い。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑」と貼札をして、其中に一ばい古い武鑑を収めてゐたことを記憶してゐる。此コルレクシヨンは保さんの五六歳の時まで散佚せずにゐたさうである。江戸鑑の箱があつたなら、江戸図の箱もあつただらう。わたくしはこゝに「江戸鑑図目録」の作られた縁起を知ることを得たのである。
わたくしは保さんに、父の事に関する記億を、箇条書にして貰ふことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで「独立評論」に追憶談を載せてゐるから、それを見せようと約した。
保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼(大正四年)に参列するために京都へ立つた。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にゐるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰つて、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、又「独立評論」をも借りた。こゝにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。

渋江氏の祖先は下野(しもつけ)の大田原家の臣であつた。抽斎六世の祖を小左衛門辰勝と云ふ。大田原政継(せいけい)、政増(せいそう)の二代に仕へて、正徳元年(1711)七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光(ちようくわう)は家を継いで、大田原政増、清勝(せいしよう)に仕へ、二男勝重(しようちよう)は去つて肥前の大村家に仕へ、三男辰盛(しんせい)は奥州の津軽家に仕へ、四男勝郷(しようきやう)は兵学者となつた。大村には勝重の往く前に、源頼朝時代から続いてゐる渋江公業(こうげふ)の後裔がある。それと下野から往つた渋江氏との関係の有無は、猶講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕へた大田原家と云ふのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、其支封(しほう)であらう。宗家は渋江辰勝の仕へたと云ふ頃、清信(きよのぶ)、扶清(すけきよ)、友清(ともきよ)などの世であつた筈である。大田原家は素(もと)一万二千四百石であつたのに、寛文五年(1665)に備前守政清(まさきよ)が主膳高清(たかきよ)に宗家を襲がせ、千石を割いて末家を立てた。渋江氏は此支封の家に仕へたのであらう。今手許に末家の系譜がないから検(けん)することが出来ない。
辰盛(しんせい)は通称を他人(たひと)と云つて、後小三郎と改め、又喜六(きろく)と改めた。道陸は剃髪してからの称である。医を今大路侍従道三玄淵(だうさんげんゑん)に学び、元禄十七年(1704)三月十二日に江戸で津軽越中守信政(のぶまさ)に召し抱へられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義(のぶよし)の五女を娶つて、信政の姉壻(あねむこ姉の夫)になつてゐたのである。辰盛は宝永三年(1706)に信政に随つて津軽に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年(1712)には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。此時は信政が宝永七年(1710)に卒したので、津軽家は土佐守信寿(のぶしげ)の世になつてゐた。辰盛は享保十四年(1729)九月十九日に致仕して、十七年(1732)に歿した。出羽守信著(のぶあき)の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年(1662)だから、年を享くること七十一歳である。此人は三男で他家に仕へたのに、其父母は宗家から来て奉養を受けてゐたさうである。
辰盛は兄重光の二男輔之(ほし)を下野から迎へ、養子として玄瑳(げんさ)と称へさせ、これに医学を授けた。即ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年(1729)九月十九日に家を継いで、直に三百石を食み、信寿に仕ふること二年余の後、信著に仕へ、改称して二世道陸となり、元文五年(1740)閏七月十七日に歿した。元禄七年(1694)の生であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には登勢と云ふ女一人しか無かつた。そこで病革(すみやか急)なるとき、信濃の人某の子を養つて嗣となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であつたから、名のみの夫婦である。此女壻が為隣で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保元年(1741)正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄春を二世玄瑳と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人として遺された。
寛保二年(1742)に十五歳で、此登勢に入贅(にふぜい)したのは、武蔵国忍(をし)の人竹内作左衛門の子で、抽斎の祖父本皓(ほんかう)が即ち此である。津軽家は越中守信寧(のぶやす)の世になつてゐた。宝暦九年(1759)に登勢が二十九歳で女千代を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に繋ぐべき子で、剰(あまつさ)へ聡慧なので、父母はこれを一粒種と称して鍾愛してゐると、十九歳になつた安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十一歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があつて、名を令図(れいと)と云つたが、渋江氏を続(つ)ぐには特に学芸に長じた人が欲しいと云ふので、本皓は令図を同藩の医小野道秀の許へ養子に遣つて、別に継嗣を求めた。
此時根津に茗荷屋(めうがや)と云ふ旅店があつた。其主人稲垣清蔵は鳥羽稲垣家の重臣で、君を諌めて旨に忤(さから)ひ、遁れて商人となつたのである。清蔵に明和元年(1764)五月十二日生れの嫡男専之助と云ふのがあつて、六歳にして詩賦を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願つてゐたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を仮親にして、大田原頼母(たのも)家来(けらい)用人(ようにん)八十石渋江官左衛門次男と云ふ名義で引き取つた。専之助名は允成(たゞしげ)字(あざな)は子礼、定所と号し、居(を)る所の室を容安と云つた。通称は初(はじめ)玄庵と云つたが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野栗山、医術は依田松純(よだしようじゆん)の門人で、著述には「容安室文稿」、「定所詩集」、「定所雑録」等がある。これが抽斎の父である。  
 

 

十一
允成は才子で美丈夫であつた。安永七年(1778)三月朔に十五歳で渋江氏に養はれて、当時儲君であつた、二つの年上の出羽守信明に愛せられた。養父本皓の五十八歳で亡くなつたのが、天明四年(1784)二月二十九日で、信明の襲封(しふほう)と同日である。信明はもう土佐守と称してゐた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
寛政三年(1791)六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎寧親(やすちか)が支封から入(い)つて宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵して、殆ど兄弟の如く遇せられた。平生着丈四尺の衣を着て、体重が二十貫目あつたと云ふから、その堂々たる相貌が思ひ遣られる。
当時津軽家に静江と云ふ女小姓が勤めてゐた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼と号した。妙了尼(めうれうに)が渋江家に寄寓してゐた頃、可笑しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中達が争つて其茶碗の底の余瀝を指に承けて舐(ねぶ)るので、自分も舐つたと云ふのである。
しかし允成は謹厳な人で、女色などは顧みなかつた。最初の妻田中氏は寛政元年(1789)八月二十二日に娶つたが、これには子が無くて、翌年四月十三日に亡くなつた。次に寛政三年六月四日に、寄合戸田政五郎家来納戸役金七両十二人扶持川崎丈助(ぢやうすけ)の女を迎へたが、これは四年二月に逸(いつ)と云ふ女を生んで、逸が三歳で夭折した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下総国佐倉の城主堀田相模守正順(まさより)の臣、岩田忠次(ちゆうじ)の妹縫で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
縫は享和二年(1802)に始めて須磨と云ふ女を生んだ。これは後文政二年(1819)に十八歳で、留守居年寄佐野豊前守政親組飯田四郎左衛門良清に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年(1805)十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後には文化八年閏二月十四日に女が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなつた。感応寺の墓に曇華水子(どんげすいし)と刻してあるのが此女の法諡(はふし)である。
允成は寧親(やすちか)の侍医で、津軽藩邸に催される月並(つきなみ)講釈の教官を兼ね、経学と医学とを藩の子弟に授けてゐた。三百石十人扶持の世禄の外に、寛政十二年(1800)から勤料五人扶持を給せられ、文化四年(1807)に更に五人扶持を加へ、八年に又五人扶持を加へられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることゝなつた。中二年置いて文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月百両以上の所得になつたのである。
允成は表向侍医たり教官たるのみであつたが、寧親の信任を蒙ることが厚かつたので、人の敢て言はざる事をも言ふやうになつてゐて、数(しばけしば)諫めて数(しばしば)聴かれた。寧親は文化元年五月連年蝦夷地の防備に任じたと云ふ廉を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。所謂津軽家の御乗出(のりだし)がこれである。五年十二月には南部家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従四位下に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当つて、允成が啓沃(けいよく臣下の忠告)の功も少くなかつたらしい。
允成は文政五年(1822)八月朔に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親(やすちか)も八年四月に退隠して、詩歌俳諧を銷遣の具とし、歌会には成島司直(しちよく)などを召し、詩会には允成を召すことになつてゐた。允成は天保二年(1831)六月からは、出羽国亀田の城主岩城伊予守隆喜(たかひろ)に嫁した信順(のぶゆき)の姉もと姫に伺候し、同年八月からは又信順の室欽姫(かねひめ)附を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになつたのは、此等のためであらう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
允成は天保八年十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫は、文政七年(1824)七月朔に剃髪して寿松(じゆしよう)と云ひ、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなつた。夫に先つこと八年である。
十二
抽斎は文化二年(1805)十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保さんが云ふ。これは母五百の話を記憶してゐるのであらう。父允成は四十二歳、母縫は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋と云ふのは橋の名では無くて町名である。当時の「江戸分間大絵図」と云ふものを閲するに、和泉橋と新橋との間の柳原通の少し南に寄つて、西から東へ、お玉が池、松枝町、弁慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豊島町と云ふ順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡つて、少し東へ偏つて行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になつてゐる。此通の東隣の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になつてゐる。わたくしが富士川游さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成は天明六年(1786)八月十九日に豊島町通横町鎌倉横町家主伊右衛門店(いゑもんだな)を借りた。この鎌倉横町と云ふのは、前云つた図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方(かた)河岸に寄つた所にある。允成が此店を借りたのは、其年正月二十二日に従来住んでゐた家が焼けたので、暫く多紀桂山(けいざん)の許に寄宿してゐて、八月に至つて移転したのである。その従来住んでゐた家も、余り隔たつてゐぬ和泉橋附近であつたことは、日記の文から推することが出来る。次は文政八年(1825)三月晦に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したと云ふことが、日記に見えてゐる。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、只東西両側が名を異にしてゐるに過ぎない。想ふに渋江氏は久しく和泉橋附近に住んでゐて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移つたのであらう。この元柳原町六丁目の家は、抽斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、或は抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にゐて、其後文政八年に至るまでの間に、向側の元柳原町に移つたものと考へられぬでも無い。
抽斎は小字(をさなゝ)を恒吉(つねきち)と云つた。故越中守信寧の夫人真寿院が此子を愛して、当歳(ゼロ歳)の時から五歳になつた頃まで、殆ど日毎に召し寄せて、傍(そば)で嬉戯(きゞ)するのを見て楽んださうである。美丈夫允成に肖た可憐児であつたものと想はれる。
志摩の稲垣氏の家世(家柄)は今詳にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであらう。此身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じてゐなくてはならない。わたくしはこゝに清蔵が主を諌めて去つた人だと云ふ事実に注目する。次に後允成になつた神童専之助を出す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないと云ふ推測を顧慮する。彼は意志の方面、此は智能の方面で、此両方面に於ける遺伝的系統を繹(たづ)ぬるに、抽斎の前途は有望であつたと云つても好からう。
さて其抽斎が生れて来た境界はどうであるか。允成の庭の訓(おしへ)が信頼するに足るものであつたことは、言を須(ま)たぬであらう。オロスコピイは人の生れた時の星象を観測する。わたくしは当時の社会にどう云ふ人物がゐたかと問うて、こゝに学問芸術界の列宿(れつしゆく巨人たち)を数へて見たい。しかし観察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限つて観察することゝしたい。即ち抽斎の師となり、又年上の友となる人物である。抽斎から見ての大己(?)である。
抽斎の経学の師には、先づ市野迷庵がある。次は狩谷棭斎である。医学の師には伊沢蘭軒がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水である。それから抽斎が交つた年長者は随分多い。儒者又は国学者には安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎、岡本况斎(くゐやうさい)、海保漁村、医家には多紀の本末両家、就中(なかんづく)茝庭、伊沢蘭軒の長子榛軒(しんけん)がゐる。それから芸術家及美術批評家に谷文晁、長島五郎作(ごろさく)、石塚重兵衛がゐる。此等の人は皆社会の諸方面にゐて、抽斎の世に出づるを待ち受けてゐたやうなものである。
十三
他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中には、現に普(あまね)く世に知れわたつてゐるものが少くない。それゆゑわたくしはこゝに一々其伝記を挿(さしはさ)まうとは思はない。只抽斎の誕生を語るに当つて、これをして其天職を尽さしむるに与(あづか)つて力ある長者のルヴュウをして見たいと云ふに過ぎない。
市野迷庵、名を光彦(くわうげん)、字を俊卿又子邦(しはう)と云ひ、初め篔窓(うんそう)、後迷庵と号した。其他酔堂、不忍池漁(ふにんちぎよ)等の別号がある。抽斎の父允成が「酔堂説(すいだうのせつ)」を作つたのが、「容安室文稿」に出てゐる。通称は三右衛門である。六世の祖重光(ちようくわう)が伊勢国白子(しろこ)から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋と云つた。当時の店は弁慶橋であつた。迷庵の父光紀(くわうき)が、香月(かづき)氏を娶つて迷庵を生せたのは明和二年(1765)二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になつてゐた。
迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本、古抄本を捜り討めて、そのテクストを閲し、比較考勘する学派、クリチツクをする学派である。此学は源を水戸の吉田篁墩(くわうとん)に発し、棭斎が其後を承けて発展させた。篁墩は抽斎の生れる七年前に歿してゐる。迷庵が棭斎等と共に研究した果実が、後に至つて成熟して抽斎等の「訪古志」となつたのである。此人が晩年に「老子」を好んだので、抽斎も同嗜の人となつた。
狩谷棭斎、名は望之(ばうし)、字は卿雲(けいうん)、棭斎は其号である。通称を三右衛門と云ふ。家は湯島にあつた。今の一丁目である。棭斎の家は津軽の用達(ようたし)で、津軽屋と称し、棭斎は津軽家の禄千石を食み、目見諸士の末席に列せられてゐた。先祖は三河国苅屋の人で、江戸に移つてから狩谷氏を称した。しかし棭斎は狩谷保古(ほうこ)の代に此家に養子に来たもので、実父は高橋高敏(かうびん)、母は佐藤氏である。安永四年(1775)の生で、抽斎の母縫と同年であつたらしい。果してさうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵より十少かつたのだらう。抽斎の棭斎に師事したのは二十余歳の時だと云ふから、恐らくは迷庵を喪(うしな)つて棭斎に適(ゆ)いたのであらう。迷庵の六十二歳で亡くなつた文政九年(1826)八月十四日は、抽斎が二十二歳、棭斎が五十二歳になつてゐた年である。迷庵も棭斎も古書を集めたが、棭斎は古銭をも集めた。漢代の五物(漢鏡、漢銭、王莽の威斗、中平の双魚・洗耳壺?)を蔵して六漢道人と号したので、人が一物足らぬではないかと詰つた時、今一つは漢学だと答へたと云ふ話がある。抽斎も古書や古武鑑を蔵してゐたばかりでなく、矢張古銭癖があつたさうである。
迷庵と棭斎とは、年歯(ねんし年齢)を以て論ずれば、彼が兄、此が弟であるが、考証学の学統から見ると、棭斎が先で、迷庵が後である。そして此二人の通称がどちらも三右衛門であつた。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
六右衛門の称は頗る妙である。然るに世の人は更に一人の三右衛門を加へて、三三右衛門などゝ云ふ。この今一人の三右衛門は喜多氏、名は慎言(しんげん)、字は有和(いうわ)、梅園又静廬(せいろ)と号し、居る所を四当書屋(しとうしよおく)と名づけた。其氏の喜多を修して北(ほく)慎言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋根葺(職業)で、屋根屋三右衛門が通称である。本は芝の料理店の悴(せがれ)定次郎で、屋根屋へは養子に来た。少い時狂歌を作つて網破損針金(あみのはそんはりがね)と云つてゐたのが、後博渉(はくせふ博識)を以て聞えた。嘉永元年(1848)三月二十五日に、八十三歳で亡くなつたと云ふから、抽斎の生れた時には、其師となるべき迷庵と同じく四十一歳になつてゐた筈である。此三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清(ともきよ)の「擁書楼(ようしよろう)日記」を見れば、文化十二年(1815)に五十一歳だとしてあるから、此推算は誤つてゐない積であゐ。しかし此人を迷庵棭斎と併せ論ずるのは、少しく西人の所謂髪を握んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際が無かつたらしい。
十四
後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬(しんてん)、通称は辞安と云ふ。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒は其分家で、備後国福山の城主阿部伊勢守正倫(まさとも)の臣である。文政十二年(1829)三月十七日に歿して、亨年五十三であつたと云ふから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷真砂町に住んでゐた。阿部家は既に備中守正精(まさきよ)の世になつてゐた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移つたのは後の事である。
阿部家は尋(つい)で文政九年(1826)八月に代替(だいがはり)になつて、伊予守正寧(まさやす)が封を襲(つ)いだから、蘭軒は正寧の世になつた後、足掛(あしかけ)四年阿部家の館に出入した。其頃抽斎の四人目の妻五百の姉が、正寧の室鍋島氏の女小姓を勤めて金吾と呼ばれてゐた。此金吾の話に、蘭軒は蹇(あしなへ)であつたので、館内で輦(れん車)に来ることを許されてゐた。さて輦から降りて、匍匐(ほふく)して君側に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑つた。或日正寧が偶此事を聞き知つて、「辞安は足はなくても、腹が二人前あるぞ」と云つて、女中を戒めさせたと云ふことである。
次は抽斎の痘科の師となるべき人である。池田氏、名は奫(いん)、字は河澄(かちよう)、通称は瑞英、京水(けいすい)と号した。
原来疱瘡を治療する法は、久しく我国には行はれずにゐた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束(つか)ねて傍看(ぼうかん)した。そこへ承応二年(1653)に戴曼公(たいまんこう明の僧独立禅師)が支那から渡つて来て、不治の病を治し始めた。龔廷賢(きようていけん)を宗(そう)とする治法を施したのである。曼公、名は笠(りつ)、杭州仁和県(じんわけん)の人で、曼公とは其字である。明の万暦二十四年(1596)の生であるから、長崎に来た時は五十八歳であつた。曼公が周防(すはう)国岩国に足を留めてゐた時、池田嵩山(すうざん)と云ふものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川(きつかは)家の医官で、名を正直(せいちよく)と云ふ。先祖は蒲冠者(かばのくわんじや)範頼(のりより源範頼)から出て、世々出雲に居り、生田氏を称した。正直の数世(すせい)の祖信重(しんちよう)が出雲から岩国に遷(うつ)つて、始て池田氏に更めたのである。正直の子が信之(しんし)、信之の養子が正明(せいめい)で、皆曼公の遺法を伝へてゐた。
然るに寛保二年に正明が病んで将に歿せんとする時、其子独美(どくび)は僅に九歳であつた。正明は法を弟槙本坊(まきもとぼう)詮応(せんおう)に伝へて置いて瞑した。そのうち独美は人と成つて、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年(1762)独美は母を奉じて安芸国厳島に遷つた。厳島に庖瘡が盛に流行したからである。安永二年(1773)に母が亡くなつて、六年に独美は大阪に往き、西堀江隆平橋の畔に住んだ。此時独美は四十四歳であつた。
独美は寛政四年(1792)に京都に出て、東洞院(ひがしのとういん)に住んだ。此時五十九歳であつた。八年に徳川家斉に辟(め)されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。此年三月独美は躋寿館(せいじゆかん)で痘科を講ずることになつて、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
抽斎の生れた文化二年(1805)には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでゐた筈である。年は七十二歳であつた。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向島小梅村の嶺松寺(れいしようじ)に葬られた。
独美、字は善卿(ぜんけい)、通称は瑞仙、錦橋(きんけう)又蟾翁(せんをう)と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇(がま)を夢に見た。それから「抱朴子(はうぼくし)」を読んで、其夢を祥瑞(しやうずい)だと思つて、蝦蟇の画をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈つた。これが蟾翁の号の由来である。
十五
池田独美には前後三人の妻があつた。安永八年に歿した妙仙、寛政二年に歿した寿慶、それから嘉永元年まで生存してゐた芳松院緑峰である。緑峰は菱谷氏、佐井氏に養はれて独美に嫁したのが、独美の京都にゐた時の事である。三人共子は無かつたらしい。
独美が厳島から大阪に遷つた頃妾(せふ)があつて、一男二女を生んだ。男(だん)は名を善直(ぜんちよく)と云つたが、多病で業を継ぐことが出来なかつたさうである。二女は長を智秀と諡(おくりな)した。寛政二年(1790)に歿してゐる。次は知瑞と諡した。寛政九年に夭折してゐる。此外に今一人独美の子があつて、鹿児島に住んで、其子孫が現存してゐるらしいが、此家の事はまだこれを審にすることが出来ない。
独美の家は門人の一人が養子になつて嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国(かうづけのくに)桐生(きりふ)の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋(しん)、字は柔行(じうこう)、又直卿(ちよくけい)、霧渓(むけい)と号した。躋寿館の講座をも此人が継承した。
初め独美は曼公の遺法を尊重する余に、これを一子相伝に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にゐた時、人が諌めて云ふには、一人の能く救ふ所には限がある、良法があるのにこれを秘して伝へぬのは不仁であると云つた。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取つた。それから門人が次第に殖えて、歿するまでには五百人を踰(こ)えた。二世瑞仙は其中から簡抜(かんばつ)せられて螟蛉子(めいれいし養子)となつたのである。
独美の初代瑞仙は素(もと)源家の名閥だとは云ふが、周防の岩国から起つて幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となつた。それに業を継ぐべき子がなかつたので、門下の俊才が入つて後を襲つた。遽(にはか)に見れば、なんの怪むべき所もない。
しかしこゝに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水である。
京水は独美の子であつたか、姪(てつ甥)であつたか不明である。向島嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに二世瑞仙晋の子直温(ちよくおん)の撰んだ過去帖には、独美の弟玄俊(げんしゆん)の子だとしてある。子にもせよ姪にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで、自立して町医になり、下谷(したや)徒士町(かちまち)に門戸(もんこ)を張つた。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立してゐたのである。
種痘の術が普及して以来、世の人は庖瘡を恐るゝことを忘れてゐる。しかし昔は人の此病を恐るゝこと、癆(らう)を恐れ、癌(がん)を恐れ、癩(らい)を恐るゝよりも甚だしく、其流行の盛なるに当つては、社会は一種のパニックに襲はれた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後、特に痘科を京水に学ぶことになつた。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであつたか。従来痘は胎毒だとか、穢血(ゑけつ)だとか、後天の食毒(しどく)だとか云つて、諸家は各その見る所に従つて、諸証を攻(をさ)むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、所謂(いはゆる)八証四節三項を分ち、偏僻(へんぺきいなか)の治法を斥けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。
 

 

十六
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数へて京水に及ぶに当つて、こゝに京水の身上(しんしよう)に関する疑(うたがひ)を記(しる)して、世の人の教を受けたい。
わたくしは今これを筆に上(のぼ)するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪ひ、又幾多の先輩知友を煩はして解決を求めた。しかしそれは概ね皆徒事(いたづらごと)であつた。就中憾(うらみ)とすべきは京水の墓の失踪した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語つたのは保さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣でたことがある。しかし寺の名は記憶してゐない。只向島であつたと云ふだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の事を問ひに遣つた。富士川さんがこれに答へた中に、京水の墓は常泉寺(じやうせんじ現存)の傍にあると云ふ事があつた。
わたくしは幼い時向島小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になつてゐる。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸(隅田公園)の北のはづれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往つた。今は新小梅町の内になつてゐる。枕橋(墨田区役所北)を北へ渡つて、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人(いちびと)の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵の一家(いつけ)の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あつたが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作つたもので、いろは順に檀家の氏(うぢ)が列記してある。いの部には池田氏が無い。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であつた。
わたくしは空しく還つて、先づ郷人宮崎幸麿(さきまろ)さんを介して、東京の墓の事に精(くは)しい武田信賢(しんけん)さんに問うて貰つたが、武田さんは知らなかつた。
そのうちわたくしは「事実文編」四十五に霧渓の撰(えら)んだ池田氏行状(ぎやうじやう伝記)のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、其墓が向島嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公の表石(へうせき碑)があつて、瑞仙は其側に葬られたと云ふのである。向島にゐたわたくしも嶺松寺と云ふ寺は知らなかつた。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水も或はそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往つた。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して踵を旋(めぐら)したが、道の序なので、須崎町弘福寺にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師(ぼくじふし)を訪つて久闊(きうくわつ)を叙した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両(ふた)つながらこれを知つてゐた。
墨汁師は云つた。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其畛域(しんいき)内に池田氏の墓が数基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になつたと云ふのである。わたくしはこれを聞いて、先づ池田氏の墓を目撃した人を二人まで獲たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。「墓は檀家がそれぞれ引き取つて、外の寺へ持つて行きます。」
「檀家が無かつたらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ遷す例になつてゐます。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後(のち)は今どうなつてゐるかわかりませんか。」かう云つてわたくしは撫然とした。
十七
わたくしは墨汁師に謂つた。池田瑞仙の一族は当年の名医である、其墓の行方は探討したいものである。それに戴曼公の表石と云ふものも、若し存してゐたら、名蹟の一に算すべきものであらう。嶺松寺にあつた無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷(うつ)されたか知らぬが、若しそれがわかつたなら、尋ねに往きたいものであると云つた。
墨汁師も首肯して云つた。戴氏独立(どくりふ)の表石の事は始て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗(わうばく)の衣鉢(いはつ)を伝へた身であつて見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはゐられない。想ふに独立は寛文中九州から師隠元を黄檗山に省(せい訪問)しに上る途中で寂(じやく)したらしいから、江尸には墓はなかつただらう。嶺松寺の表石とはどんな物であつたか知らぬが、或は牙髪(がはつ)塔(歯や髪を納めた塔)の類ででもあつたか。それは兎も角も、其石の行方も知りたい。心当りの向々へ問ひ合せて見ようと云つた。
わたくしの再度の向島探討(たんたう)は大正四年の暮であつたので、そのうちに五年の初になつた。墨汁師の新年の書信に間合せの結果が記してあつたが、それは頗る覚束ない口吻であつた。嶺松寺の廃せられた時、其事に与つた寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かつたらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であつた。独立の表石と云ふものは誰も知らないと云ふのである。
これでは捜索の前途には、殆ど毫(すこ)しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴(ねんばら)しのために、染井へ尋ねに往つた。そして墓地の世話をしてゐると云ふ家を訪うた。
墓にまゐる人に樒(しきみ)や綫香(せんかう)を売り、又足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十許(ばかり)の怜悧(かしこ)さうなお上さんがゐた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名には云ふが、其地面には井然(せいぜん)たる区画があつて、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中には池田と云ふ家は無い。池田と云ふ檀家が無いから、池田と云ふ人の墓の有りやうが無いと云ふのである。
「それでも新聞に、行倒れがあつたのを共同墓地に埋めたと云ふことがあるではありませんか。さうして見れば檀家の無い仏の往く所がある筈です。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあつた寺が取払になつて、こつちへ持つて来られた仏です。さう云ふ時、石塔があれは石塔も運んで来るでせう。それをわたくしは尋ねるのです。」かう云つてわたくしは女の毎区有主説に反駁を試みた。
「えゝ、それは行倒れを埋める所も一箇所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てゝ遣る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たと云ふことは、聞いたこともございません。詰りそんな所には石塔なんぞは一つも無いのでございます。」
「でもわたくしは切角尋ねに来たものですから、そこへ往つて見ませう。」「およしなさいまし。石塔の無いことはわたくしがお受合申しますから。」かう云つて女は笑つた。
わたくしもげにもと思つたので、墓地には足を容れずに引き返した。
女の言(こと)には疑ふべき余地は無い。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいやうな気がした。そこで帰途に町役揚に立ち寄つて問うた。町役場の人は、墓地の事は扱はぬから、本郷区役所へ往けと云つた。
町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かつてゐた。そこでわたくしは思ひ直した。廃寺になつた嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかつたことは明白である。それを区役所に問ふのは余りに痴(おろか)であらう。寧ろ行政上無縁の墓の取締があるか、若しあるなら、どう取り締まることになつてゐるかと云ふことを問ふに若くはない。その上今から区役所に往つた所で、当直の人に墓地の事を問ふのは甲斐の無い事であらう。わたくしはかう考へて家に還つた。
十八
わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だと云ふことを知つた。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、又警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになつてゐるかと云ふことを問うて貰つた。
府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳とも云ふべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺と云ふ寺は載せてないらしかつた。其廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣(ぼけつ)を搬出するときには警官を立ち会はせる。しかしそれは有縁のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したと云ふことを届け出でさせるに止まるさうである。
さうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷されたと云ふのは、遷したと云ふ一紙の届書が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮今になつて戴曼公の表石や池田氏の墓碣の踪迹(そうせき行方)を発見することは出来ぬであらう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
兎角するうちに、わたくしが池田京水の墓を捜し求めてゐると云ふこと、池田氏の墓のあつた嶺松寺が廃絶したと云ふことなどが「東京朝日新聞」の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知つたものであらう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けて云つた。自分は曾て府庁にゐたものである。其頃無税地反別(たんべつ)帳と云ふ帳簿があつた。若しそれが猶存してゐるなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないと云ふのである。わたくしは無名の人の言(こと)に従つて、人に託して府庁に質(たゞ)して貰つたが、さう云ふ帳簿は無いさうであつた。
此事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞うた人は頗る多い。初にはわたくしは墓誌を読まんがために、慕の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知らうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵が何歳、狩谷棭斎が何歳、伊沢蘭軒が何歳と云ふことを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、若し又数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度(そんたく)して見たかつたのである。
諸家の中でも、戸川残花(ざんか)さんはわたくしのために武田信賢さんに問うたり、南葵(なんき)文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三さんは医史の資料に就いて捜索してくれ、大槻文彦さんは如電(によでん)さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往つてくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によつて知つたが、恐らくは郷土史の嗜好あるがために、踏査の労をさへ厭はなかつたのであらう。只憾むらくもわたくしは徒に此等の諸家を煩はしたに過ぎなかつた。
これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあつたのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪(と)うた。そしてかう云ふことを聞いた。富士川さんは昔年日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓に就いて親しく抄記したものだと云ふのである。惜むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかつた。又嶺松寺と云ふ寺号をも忘れてゐた。それゆゑわたくしに答へた書に常泉寺の傍と記したのである。是に於いて曾て親しく嶺松寺中の碑碣(ひけつ)を睹(み)た人が三人になつた。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮減(いんめつ)の期に薄(せま)つてゐた墓誌銘の幾句(いくゝ)を、図らずも救抜(きうばつ)してくれたのである。
十九
弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入つてからも、捜索の手を停(とゞ)めずにゐた。そしてとうとう下目黒村海福寺(かいふくじ)所蔵の池田氏過去帖と云ふものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には「生田氏中興池田氏過去帖慶応紀元季秋」の十七字が四行に書してある。跋文(ばつぶんあとがき)を読むに、此書は二世瑞仙晋の子直温(ちよくおん)、字は子徳が、慶応元年(1865)九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰(きしん命日)に丁(あた)つて、新に歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記(さんき)して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
此書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、其墓所は或は注してあり、或は注してない。分明に「嶺松寺に葬る」、又は「嶺寺に葬る」と注してあるのは初代瑞仙、其妻佐井(さい)氏、二代瑞仙、其二男洪之助、二代瑞仙の兄信一の五人に過ぎない。しかし既に京水の墓が同じ寺にあつたとすると、徒士町の池田氏の人々の墓も此寺にあつただらう。要するに嶺松寺にあつたと云ふ確証のある墓は、此書に注してある駿河台の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
此書の記する所は、わたくしのために創聞(さうぶん初耳)に属するものが頗る多い。就中異とすべきは、独美に玄俊と云ふ弟があつて、それが宇野氏を娶つて、二人の間に出来た子が京水だと云ふ一事である。此書に拠れば、独美は一旦姪京水を養(やしな)つて子として置きながら、それに家を嗣がせず、更に門人村岡晋を養つて子とし、それに業を継がせたことになる。
然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあつたらしい。しかもその廃せられた所以を書して放縦不羈にして人に容れられず、遂に多病を以て廃せらると云つてあつたらしい。
両説は必ずしも矛盾してゐない。独美は弟玄俊の子京水を養つて子とした。京水が放蕩であつた。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、其説通ぜずと云ふでもない。
しかし京水が後能く自ら樹立して、其文章事業が晋に比して毫も遜色の無いのを見るに、此人の凡庸でなかつたことは、推測するに難くない。著述の考ふべきものにも、「痘科挙要」二巻、「痘科鍵会通」一巻、「痘科鍵私衡」五巻、抽斎をして筆受せしめた「護痘要法」一巻がある。養父独美が視ること尋常蕩子の如くにして、これを逐ふことを惜まなかつたのは、恩(親の愛情)少きに過ぐと云ふものではあるまいか。
且わたくしは京水の墓誌が何人の撰文に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪であつたなら、縦(たと)ひ独美が一時養つて子となしたにもせよ、直(ただち)に瑞仙の子なりと書したのはいかゞのものであらうか。富士川さんの如きも、「日本医学史」に、墓誌に拠つて瑞仙の子なりと書してゐるのである。又放縦だとか廃嗣だとか云ふことも、此(かく)の如くに書したのが、墓誌として体を得たものであらうか。わたくしは大いにこれを疑ふのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、其撰者を審にすることを得ざるのを憾とする。
わたくしは独(ひとり)撰者不詳の京水墓誌を疑ふのみではない。又二世瑞仙晋の撰んだ池田氏行状をも疑はざることを得ない。文は載せて「事実文編」四十五にある。
行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年(1735)乙卯五月二十二日に生れ、文化十三年(1816)丙子九月六日に歿した。然るに安永六年(1777)丁酉に四十、寛政四年(1792)壬子に五十五、同九年丁巳に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢(よはひ)を記する毎に、殆ど必ず差(たが)つてゐるのは何故であらうか。因(ちなみ)に云ふが過去帖にも亦齢八十三としてある。そこでわたくしは此八十三より逆算することにした。
二十
晋の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直と云ふものを挙げて、「多病不能継業」と書してある。其前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言の多きに及んである。瑞仙は痘を治することの難きを説いて、「数百之弟子、無能熟得(じゆくとく)之者」と云ひ、晋を賞して、「而汝能継我業」と云つてある。
わたくしは未だ過去帖を獲(え)ざる前にこれを読んで、善直は京水の初の名であらうと思つた。京水の墓誌に多病を以て嗣を廃せらると云ふやうに書してあつたと云ふのと、符節は合するやうだからである。過去帖に従へば、庶子善直と姪(てつ)京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかと云ふ疑が、今に迄(いた)るまで未だ全くわたくしの懐を去らない。特に彼過去帖に遠近の親戚百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙の只一人の実子善直と云ふものが痕跡をだに留めずに消滅してゐると云ふ一事は、此疑を助長する媒(なかだち)となるのである。
そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺(そし)つてあるのを見ては、忌憚(きたん遠慮)なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記して、一の抑損(よくそん謙譲)の句をも著(つ)けぬのを見ては、簡傲(かんがう傲慢)も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられてゐるやうに思はれてならない。わたくしの世の人に教を乞ひたいと云ふのは是である。
わたくしは抽斎の誕生を語るに当つて、後に其師となるべき人々を数へた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であつた迷庵、三十一歳であつた棭斎、二十九歳であつた蘭軒の三人と、京水とであつて、独り京水は過去帖を獲るまで其齢を算することが出来なかつた。なぜと云ふに、京水の歿年が天保七年(1836)だと云ふことは、保さんが知つてゐたが、年歯に至つては全く所見が無かつたからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字を信卿と云つて寛政九年(1797)八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年(1786)に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡(はふし)して宗経軒(そうけいけん)京水瑞英居士と云ふ。
これに由つて観れば、京水は天明六年(1786)の生で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になつてゐた。抽斎の四人の師の中では最年少者であつた。
後に抽斎と交る人々の中、抽斎に先つて生れた学者は、安積艮斎(あさかごんさい)、小島成斎、岡本况斎、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交が深くはなかつたらしいが、抽斎をして西学を忌む念を翻さしめたのは此人の力である。艮斎、名は重信(しげのぶ)、修して信と云ふ。通称は祐助(いうすけ)である。奥州郡山の八幡宮の祠官(しくわん神主)安藤筑前親重(ちかしげ)の子で、寛政二年(1790)に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正(りせい庄屋)今泉氏の壻になつて、妻に嫌はれ、翌年江戸に奔(はし)つた。しかし誰にたよらうと云ふあてもないので、うろうろしてゐるのを、日蓮宗の僧日明(いちみやう)が見附けて、本所番場町の妙源寺(みようげんじ)へ連れて帰つて、数月間留めて置いた。そして世話をして佐藤一斎の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立つてゐる寺である。それから二十一歳にして林述斎の門に入つた。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。さうして見ると抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であつた。これは艮斎が万延元年(1860)十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足、字は子節、初め静斎と号した。通称は五一である。棭斎の門下で善書(ぜんしよ能書)を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久二年(1862)十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫(はじ)めて十歳である。父親蔵が福山侯阿部備中守正精(まさきよ)に仕へてゐたので、成斎も江戸の藩邸に住んでゐた。  
 

 

二十一
岡本况斎、名は保孝(ほうかう)、通称は初め勘有衛門(かんゑもん)、後縫殿助(ぬいのすけ)であつた。拙誠堂の別号がある。幕府の儒員に列せられた。「荀子」、「韓非子」、「淮南子」等の考証を作り、旁(かたはら)国典(こくてん日本の古典)にも通じてゐた。明治十一年(1878)四月までながらへて、八十二歳で歿した。寛政九年(1797)の生で、抽斎の生れた文化二年(1805)には僅に九歳になつてゐた筈である。
海保漁村、名は元備(げんび)、字は純卿(じゆんけい)、又名は紀之(きし)、字は春農(しゆんのう)とも云つた。通称は章之助、伝経廬(でんけいろ)の別号がある。寛政十年(1798)に上総国(かづさのくに)武射郡(むさごほり)北清水村(きたしみづむら)に生れた。老年に及んで経(けい)を躋寿館に講ずることになつた。慶応二年(1866)九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあつて、父恭斎に句読(くとう漢文の素読)を授けられてゐたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十、况斎が九つ、漁村が八つになつた時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先づ多紀の本家、末家(ばつけ)を数へる。本家では桂山(けいざん)、名は簡(かん)、字は廉夫(れんふ)が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、其子柳沜(りうはん)、名は胤(いん)、字は奕禧(えきき)が十七歳、末家では茝庭(さいてい)、名は元堅、字は亦柔が十一歳になつてゐた。桂山は文化七年(1810)十二月二日に五十六歳で歿し、柳沜は文政十年(1827)六月三日に三十九歳で殿し、茝庭(さいてい)は安政四年(1857)二月十四日に六十三歳で歿したのである。
此中抽斎の最も親しくなつたのは茝庭(さいてい)である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒(しんけん)も略(ほゞ)同じ親しさの友となつた。榛軒、通称は長安、後一安(いちあん)と改めた。文化元年(1804)に生れて、抽斎には只一つの年上である。榛軒は嘉永五年(1852)十一月十七日に、四十九歳で歿した。
年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であつた茝庭(さいてい)と、二歳であつた榛軒とであつたと云つても好い。
次は芸術家及芸術批評家である。芸術家としてこゝに挙ぐべきものは谷文晁一人に過ぎない。文晁、本(もと)文朝に作る、通称は文五郎、薙髪(ちはつ剃髪)して文阿弥(ぶんあみ)と云つた。写山楼(しやざんろう)、画学斎(がゞくさい)、其他の号は人の皆知る所である。初め狩野派の加藤文麗(ぶんれい)を師とし、後北山寒巌(かんげん)に従学(じゆうがく師事)して別に機軸(きぢく手法)を出(いだ)した。天保十一年(1840)十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になつてゐた。二人(にゝん)年歯の懸隔は、概ね迷庵に於けると同じく、抽斎は画をも少しく学んだから、此人は抽斎の師の中に列する方が妥当であつたかも知れない。
わたくしはこゝに真志屋五郎作と石塚重兵衛とを数へんがために、芸術批評家の目を立てた。二人は皆劇通であつたから、此の如くに名づけたのである。或はおもふに、批評家と云はんよりは、寧(むしろ)アマトヨオル(愛好家)と云ふべきであつたかも知れない。
抽斎が後劇を愛するに至つたのは、当時の人の眼(まなこ)より観れば、一の癖好(へきかう)であつた。だうらくであつた。啻(たゞ)に当時に於いて然るのみではない。是の如くに物を観る眼は、今も猶教育家等の間に、前代の遺物として伝へられてゐる。わたくしは嘗て歴史の教科書に、近松、竹田の脚本、馬琴、京伝の小説か出て、風俗の頽敗を致したと書いてあるのを見た。
しかし詩の変体としてこれを視れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁(よ)つて演じ出す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数へるのは、好む所に阿(おもね)るのでは無い。
二十二
真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であつた。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あつて世禄三百俵を給せられてゐた。巻説には水戸侯と血縁があるなどゝ云つたさうであるが、どうしてそんな説が流布せられたものか、今考へることが出来ない。わたくしは只風采が好かつたと云ふことを知つてゐるのみである。保さんの母五百の話に、五郎作は苦昧走つた好い男であつたと云ふことであつた。菓子商、用達の外、此人は幕府の連歌師の執筆をも勤めてゐた。
五郎作は実家が江間氏で、一時長島氏を冒(おか名乗ること)し、真志屋の西村氏を襲ぐに至つた。名は秋邦、字は得入(とくにふ)、空華(くうげ)、月所、如是縁庵等と号した。平生用ゐた華押(くわあふ)は邦の字であつた。剃髪して五郎作新発智(しんぼち)東陽院寿阿弥(じゆあみ)陀仏(だぶつ)曇「(どんてう)と称した。曇「とは好劇家たる五郎作が、音の似通つた劇場の緞帳(どんちやう)と、入宋(につそう)僧「然の名などゝを配合して作つた戯号ではなからうか。
五郎作は劇神仙(げきしんせん)の号を宝田寿莱(じゆさい)に承けて、後にこれを抽斎に伝へた人ださうである。
宝田寿莱、通称は金之助、一に閑雅と号した。「作者店おろし」と云ふ書に、宝田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、真の氏ではなかつたであらう。浄瑠璃「関の戸」は此人の作ださうである。寛政六年(1794)八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
五郎作は歿年から推算するに、明和六年(1769)の生で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になつてゐた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁に於けると大差は無い。嘉永元年(1848)八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎が此二世劇神仙の後を襲いで三世劇神仙となつたのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成と親しく交つてゐたが、允成は五郎作に先つこと十一年にして歿した。
五郎作は独り劇を看ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎を贔屓にして、所作事を書いて遣つたと、自分で云つてゐる。レシタシヨン(朗読)が上手であつたことは、同情の無い喜多村筠庭(きたむらゐんてい)が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だと云つたのを見ても察せられる。
五郎作は奇行はあつたが、生得(しやうとく)酒を嗜まず、常に養性(やうしやう)に意を用ゐてゐた。文政十年(1827)七月の末に、姪(てつ)の家の板の聞から墜ちて怪我をして、当時流行した接骨家元大坂町(もとおおさかちやう)の名倉弥次兵衛(なぐらやじべゑ)に診察して貰ふと、名倉がかう云つたさうである。「お前さんは下戸で、戒行(かいぎやう節制)が堅固(けんご)で、気が強い、それでこれ程の怪我をしたのに、目を廻さずに済んだ。此三つが一つ闕けてゐたら、目を廻しただらう。目を廻したのだと、療治に二百日余掛かるが、これは百五、六十日でなほるだらう」と云つたさうである。戒行とは剃髪した後だから云つたものと見える。怪我は両臂(ひぢ)を傷めたので骨には障らなかつたが痛が久しく息まなかつた。五郎作は十二月の末まで名倉へ通つたが、臂の痺(しびれ)だけば跡に貽(のこ)つた。五十九歳の時の事である。
五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄(かんじやう)の筆を以てした。技倆(ぎりやう)の上から言へば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかつた。只小説を書かなかつたので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年(1915)の十二月に、五郎作の長文の手紙が売に出たと聞いて、大晦日に築地(つきぢ)の弘文堂へ買ひに往つた、手紙は罫紙十二枚に細字で書いたものである。文政十一年(1828)二月十九日に書いたと云ふことが、記事に拠つて明かに考へられる。こゝに書いた五郎作の性行も、半は材料を此簡牘(かんどく書簡)に取つたものである。宛名の苾堂(ひつだう)は桑原氏、名は正瑞(せいずい)、字は公圭、通称を古作(こさく)と云つた。駿河国島田駅の素封家(そほうか財産家)で、詩及書を善くした。玄孫喜代平(きよへい)さんは島田駅の北半里許の伝心寺に住んでゐる。五郎作の能文は此手紙一つに徴(ちよう)して知ることが出来るのである。
二十三
わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自ら居るわけではないが、これを蜀山等の作に比するに、遜色あるを見ない。筠庭(ゐんてい)は五郎作に文学の才が無いと思つたらしく、「歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むやうなる仮名書して終れり」と云つてゐるが、此の如きは決して公論では無い。筠庭(ゐんてい)は素漫罵(まんばけなす)の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、「性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めり」と云つてゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて静廬を回護(かいご弁護)するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的と云ふ語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱(さしお)いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。
五郎作は少(わか)い時、山本北山(ほくざん)の奚疑塾(けいぎじゆく)にゐた。大窪天民は同窓であつたので後に迨(いた)るまで親しく交つた。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持つてゐて酒を飲んだ。北山が塾を見廻つてそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、其人物が小さくおもはれると云つた。天民がこれを聞いて大樽を塾に持つて来たことがあるさうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑つてゐたことであらう。
五郎作は、又博渉(はくせふ)家の山崎美成(よしゝげ)や、画家の喜多可庵(きたかあん)と往来してゐた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしてゐた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持つて往つて見せた。
文政六年(1823)四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売つてゐた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさといふものを見せに往つた。ふくさば数代前に真志屋へ嫁入した島と云ふ女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云つて、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられてゐた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(ぢがり借地人)であつた。島が屋敷奉公に出る時、稚なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ちりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫つてくれた。間もなく本郷森川宿(もりかはじゆく)のお七の家は天和二年(1682)十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識(さうしき)になつて、翌年の春家に帰つた後、再び情人と相見ようとして放火したのださうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持つて来た。そして祐天上人(いうてんしやうにん)から受けた名号(みやうがう)をそれに裹(つゝ)んでゐた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫ひ附けさせたので、山崎に持つて来て見せたのである。
五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であつた好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年(1799)の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になつてゐた。歿したのは文久元年(1861)十二月十五日で、年を享くること六十三であつた。
二十四
石塚重兵衛の祖先は相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町(とよずみちやう)に住んだ。世(よゝ代々)粉商をしてゐるので、芥子屋(からしや)と人に呼ばれた。真の屋号は鎌倉屋である、
重兵衛も自ら庭に降り立つて、芥子の臼を踏むことがあつた。そこで豊住町の芥子屋と云ふ意で、自ら豊芥子(ほうかいし)と署した。そして此を以て世に行はれた。その豊亭と号するのも豊住町に取つたのである。別に集古堂(しふこだう)と云ふ号がある。
重兵衛に女が二人あつて、長女に壻を迎へたが、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に浅草諏訪町(すはちやう)の西側の角に移つてから、又其壻を呼び返してゐたさうである。
重兵衛は文久元年(1861)に京都へ往かうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であつた。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童であつた筈である。
重兵衛の子孫はどうなつたかわからない。数年前に大槻如電さんが浅草北清島町(きたきよじまちやう)報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣でゝ、忌日に墓に来るものは河竹新七(かはたけしんしち)一人だと云ふことを寺僧に聞いた。河竹に其縁故を問うたら、自分が黙阿弥の門人になつたのは、豊芥子の紹介によつたからだと答へたさうである。
以上抽斎の友で年長者であつたものを数へると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であつた安積艮斎、十歳であつた小島成斎、九歳であつた岡本况斎、八歳であつた海保漁村がある。医者に当時十一歳であつた多紀茝庭(たきさいてい)、二歳であつた伊沢榛軒がある。其他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であつた。
抽斎が始て市野迷庵の門に入つたのは文化六年で、師は四十八歳、弟子は五歳であつた。次いで文化十一年(1814)に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父允成は経芸(けいげい経学)文章を教へることにも、家業の医学を授けることにも、頗る早く意を用ゐたのである。想ふに後に師とすべき狩谷棭斎とは、家庭でも会ひ、師迷庵の許でも会つて、幼い時から親しくなつてゐたであらう。又後に莫逆の友となつた小島成斎も、夙(はや)く市野の家で抽斎と同門の好(よしみ)を結んだことであらう。抽斎がいつ池田京水の門を敲いたかと云ふことは今考へることが出来ぬが、恐らくはこれより後の事であらう。
文化十一年(1814)十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想ふに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であつただらう。謁見即ち目見は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入(ばんいり宿直勤務)を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立つてゐる、
抽斎が迷庵門人となつてから八年日、文化十四年に記念すべき事があつた。それは抽斎と森枳園とが交(まじはり)を訂(てい結ぶ)した事である。枳園は後年これを弟子入と称してゐた。文化四年十一月生の枳園は十一歳になつてゐたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取つたことになる。
森枳園(きゑん)、名は立之(りつし)、字は立夫(りつふ)、初め伊織(いおり)、中ごろ養真(やうしん)、後養竹(やうちく)と称した。維新後には立之を以て行はれてゐた。父名は恭忠(きようちゆう)、通称は同じく養竹であつた。恭忠は備後国福山の城主阿部伊勢守正倫(まさとも)、同備中守正精(まさきよ)の二代に仕へた。その男(だん)枳園を挙げたのは、北八町堀(はつちやうぼり)竹島町に住んでゐた時である。後「経籍訪古志」に連署すべき二人は、こゝに始て手を握つたのである。因に云ふが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であつた、弘前の医官小野道瑛(だうえい)の子道秀(だうしう)も袂(たもと)を聯(つら)ねて入門した。
二十五
抽斎の家督相続は文政五年(1822)八月朔を以て沙汰せられた。是より先き四年十月朔に、抽斎は月並出仕仰附けられ、五年二月二十八日に、御番見習、表医者(おもていしや奥医師の下)仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入つた。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成が五十九歳であつた。抽斎は相続後直ちに一粒金丹製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附を以てせられた。
抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作(さうまだいさく)が江戸小塚原(こづからはら)で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、こゝに相馬大作の事を説かうとするのではない。しかし事の序(ついで)に言つて置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であつたと思つてゐた。そこで文化二年以来津軽家の漸く栄え行くのに平(たいらか)ならず、寧親(やすちか)の入国の時、途(みち)に要撃(えうげき待伏せ)しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知つて道を変へて帰つた。大作は事露(あらは)れて捕へられたと云ふことである。
津軽家の祖先が南部家の被官であつたと云ふことは、内藤恥叟(ちそう)も徳川十五代史に書いてゐる。しかし郷土史に精しい外崎覚さんは、嘗て内藤に書を寄せて、此説の誤を匡(たゞ)さうとした。
初め津軽家と南部家とは対等の家柄であつた。然るに津軽家は秀信の世に勢を失つて、南部家の後見(うしろみ)を受けることになり、後元信、光信父子は人質として南部家に往つてゐたことさへある。しかし津軽家が南部家に仕へたことは未だ曾て聞かない。光信は彼の渋江辰盛を召し抱へた信政の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨(うらみ)を結ぶ筈がない。この雪冤(せつゑん)の文を作つた外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す媒(なかだち)をしたのだから、わたくしは只これだけの事をこゝに記して置く。
家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始て妻を娶つた。妻は下総国佐倉の城主堀田相模守正愛(まさちか)家来大目附百石岩田十大夫女百合(ゆり)として願済(ねがひずみ届け出)になつたが、実は下野国阿蘇郡佐野の浪人尾島忠助女定(さだ)である。此人は抽斎の父允成が、子婦(よめ)には貧家に成長して辛酸を嘗めた女を迎へたいと云つて選んだものださうである。夫婦の齢(よはひ)は抽斎が十九歳、定が十七歳であつた。
此年に森枳園は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であつたのに、去つて直ちに蘭軒に従学することになつた。当時西語に所謂シニックで奇癖が多く、朝夕好んで俳優の身振声色を使ふ枳園の同窓に、今一人塩田楊庵(やうあん)と云ふ奇人があつた。素越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗(そう)対馬守義質(よしかた)の臣塩田氏の女婿となつた。塩田は散歩するに友を誘はぬので、友が密に跡に附いて行つて見ると、竹の杖を指の腹に立てゝ、本郷追分の辺を徘徊してゐたさうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双(いつさう)の奇癖家として遇せられてゐた。声色遣(つかひ)も軽業師も、共に十七歳の諸生(しよせい学生)であつた。
抽斎の母縫は、子婦を迎へてから半年立つて、文政七年(1824)七月朔に剃髪して寿松(じゆしよう)と称した。
翌文政八年三月晦には、当時抽斎の住んでゐた元柳原町六丁目の家が半燒になつた。此年津軽家には代替があつた。寧親が致仕して、大隅守(おほすみのかみ)信順(のぶゆき)が封を襲いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であつた。
次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢(さうほう)した年である。先づ六月二十八日に姉須磨が二十五歳で亡くなつた。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善(つねよし)が生れた。
須磨は前に云つた通、飯田良清と云ふものの妻になつてゐたが、此良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株(けにんかぶ御家人)を買つたのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買つたのであらう。
迷庵の死は抽斎をして狩谷棭斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が棭斎の門に入つたのも、此頃の事であつただらう。迷庵の跡は子光寿(くわうじゆ)が襲いだ。
 

 

二十六
文政十二年も亦抽斎のために事多き年であつた。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介(すけ)を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなつた。十一月十一日には妻定が離別せられた。十二月十五日には二人目の妻同藩留守居役百石比良野文蔵の女威能(ゐの)が二十四歳で来り嫁(きたりか)した。抽斎は此年二十五歳であつた。
わたくしはこゝに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加へたい。亡くなつた母に就いては別に言ふべき事が無い。
抽斎と伊沢氏との交は、蘭軒の歿した後も、少しも衰へなかつた。蘭軒の嫡子榛軒が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であつたことは前に言つた。榛軒の弟柏軒(はくけん)、通称磐安(ばんあん)は文化七年に生れた。怙(こ)を喪つた時、兄は二十六歳、弟は二十歳であつた。抽斎は柏軒を愛して、己の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷棭斎の女俊(たか)を娶つた。其長男が磐(いはほ)、次男が今の歯科医信平(しんぺい)さんである。
抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故か詳にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の女なら、かう云ふ性質を具へてゐるだらうと予期してゐた性質を、定は不幸にして具へてゐなかつたかも知れない。
定に代つて渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世(よゝ)要職に居る比良野氏の当主文蔵を父に持つてゐた。貧家の女に懲りて迎へた子婦であらう。そして此子婦は短命ではあつたが、夫の家では人々に悦ばれてゐたらしい。何故さう云ふかと云ふに、後威能が亡くなり、次の三人目の妻が又亡くなつて、四人目の妻が商家から迎へられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になつたからである。渋江氏と比良野氏との交誼が、後に至るまで此の如くに久しく渝(かは)らずにゐたのを見ても、婦壻(よめむこ)の間にヂソナンス(不和)の無かつたことが思ひ遣られる。
比良野氏は武士気質の家であつた。文蔵の父、威能の祖父であつた助太郎貞彦は文事と武備とを併せ有した豪傑の士である。外浜(がいひん)又嶺雪(れいせつ)と号し、安永五年(1776)に江戸藩邸の教授に挙げられた。画を善くして、「外浜画巻(そとがはまがゝん)」及「善知鳥(うとう)画軸」がある。剣術は群を抜いてゐた。壮年の頃村正作の刀を佩(お)びて、本所割下水(わりげすい)から大川端(おほかはゞた)辺までの間を彷徨して辻斬をした。千人斬らうと思ひ立つたのださうである。抽斎は此事を聞くに及んで、歎息して已まなかつた。そして自分は医薬を以て千人を救はうと云ふ願(がん)を発(おこ)した。
天保二年(1831)、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純(いと)が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰(とつ)いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧(まさやす)の医官岡西栄玄(をかにしえいげん)の女徳が抽斎に嫁した。是年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜はつた。これは従来寧親(やすちか)信順(のぶゆき)二公にかはるがはる勤仕してゐたのに、六月からは兼て岩城隆喜(たかひろ)の室、信順の姉もと姫に、又八月からは信順の室欽姫(かねひめ)に伺候することになつたからであらう。
此時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾島氏出の嫡子恒善、比良野氏出の長女純の四人となつてゐた。抽斎が三人目の妻徳を娶るに至つたのは、徳の兄岡西玄亭が抽斎と同じく蘭軒の門下に居つて、共に文字(もんじ)の交を訂(てい)してゐたからである。
天保四年(1833)四月六日に、抽斎は藩主信順に随つて江戸を発し、始めて弘前に往つた。江戸に還つたのは、翌五年十一月十五日である。此留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔に二人扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたゝめであらう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
抽斎の友森枳園が佐々木氏勝(かつ)を娶つて、始めて家庭を作つたのも天保四年で、抽斎が弘前に往つた時である。是より先枳園は文政四年(1822)に怙を喪つて、十五歳で形式的の家督相続をした。蘭軒に従学する前二年の事である。
二十七
天保六年(1835)閏七月四日に、抽斎は師狩谷棭斎を喪なつた。六十一歳で亡くなつたのである。十一月五日に、次男優善(やすよし)が生れた。後に名を優(ゆたか)と改めた人である。此年抽斎は三十一歳になつた。
棭斎の後(のち)は懐之(かいし)、字は少卿(せうけい)、通称は三平(さんぺい)が嗣いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善(つねよし)、長女純(いと)、次男優善の五人になつた。
同じ年に森枳園の家でも嫡子養真(やうしん)が生れた。
天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰に進んだ。これまでは近習格であつたのである。十一月十四日に、師池田京水が五十一歳で歿した。此年抽斎は三十二歳になつた。
京水には二人の男子があつた。長を瑞長(ずいちやう)と云つて、これが家業を襲いだ。次を全安(ぜんあん)と云つて、伊沢家の女壻になつた。榛軒の女かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町(ゆみちやう)に住んだ。
天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順(のぶゆき)に謁した。年甫(はじめ)て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随つて弘前に往つた。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。此年抽斎は三十三歳になつた。
初め抽斎は酒を飲まなかつた。然るに此年藩主が所謂詰越をすることになつた。例に依つて翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになつたのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕(ぶた)の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶(もん)を遣つた。抽斎が酒を飲み、獣肉を噉(くら)ふやうになつたのは此時が始である。
しかし抽斎は生涯煙草だけば喫まずにしまつた。允成の直系卑属は今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのださうである。但し抽斎の次男優善(やすよし)は破格であつた。
抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町の池田の家で、当主瑞長が父京水の例に倣つて、春の初に発会式(ほつかいしき)と云ふことをした。京水は毎年これを催して、門人を集へたのであつた。然るに今年抽斎が往つて見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異つてゐて、京水時代の静粛は痕だに留めなかつた。芸者が来て酌をしてゐる。森枳園が声色を使つてゐる。抽斎は暫く黙して一座の光景を視てゐたが遂に容(かたち)を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに羞ぢて、すぐに芸者に暇(いとま)を遣つたさうである。
引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐はれて、祖母、母、妻勝(かつ)、生れて三歳の倅養真(やうしん)の四人を伴つて夜逃をしたのである。後に枳園の自ら撰んだ寿蔵碑(じゆざうひ)には「有故失禄(ゆゑありてろくをしつす)」と書してあるが、その故は何かと云ふと、実に悲惨でもあり、又滑稽でもあつた。
枳園は好劇家であつた。単に好劇と云ふだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技を、観棚(かんばう客席)から望み見て楽むに過ぎない。枳園は自ら其科白(くわはく)を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登つて梆子(つけ拍子木)を撃つた。後には所謂相中(あいちゆう歌舞伎役者の位)の間に混じて、並(ならび)大名などに扮し、又注進などの役をも勤めた。
或日阿部家の女中が宿に下つて芝居を看に往くと、ふと登場してゐる俳優の一人が養竹さんに似てゐるのに気が附いた。さう思つて、と見かう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極めた。そして邸に帰つてから、これを傍輩に語つた。固より一の可笑しい事として語つたので、初より枳園に危害を及ばさうとは思はなかつたのである。
さて此奇談が阿部邸の奥表(おくおもて)に伝播して見ると、上役はこれを棄て置かれぬ事と認めた。そこでいよく君侯に稟(まを)して禄を褫(うば)ふと云ふことになつてしまつた。
二十八
枳園は俳優に伍して登揚した罪によつて、阿部家の禄を失つて、永の暇(いとま)になつた。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百の姉は、阿部家の奥に仕へて、名を金吾と呼ばれ、枳園をも識つてゐたが、事件の起る三四年前に暇を取つたので、当時の阿部家に於ける細かい事情を知らなかつた。
永の暇になるまでには、相応に評議もあつたことであらう。友人の中には、枳園を救はうとした人もあつたことであらう。しかし枳園は平生細節(さいせつ)に拘らぬ人なので、諸方面に対して、世に謂ふ不義理が重なつてゐた。中にも一二件の筆紙(ひつし)に上(のぼ)すべからざるものもある。救はうとした人も、此等の障礙(しやうがい)のために、其志を遂げることが出来なかつたらしい。
枳園は江戸で暫く浪人生活をしてゐたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて夜逃をした。恐らくはこの最後の策に出づることをば、抽斎にも打明けなかつただらう。それは面目が無かつたからである。給(けつく人助け)の道を紳(しん心がけ)に書してゐた抽斎をさへ、度々忍び難き目に逢はせてゐたからである。
枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であつた枳園には、もう幾人かの門人があつて、其中に相模の人がゐたのをたよつて逃げたのである。此落魄中の精しい経歴は、わたくしにはわからない。「桂川(けいせん)詩集」、「遊相医話(いうさういわ)」(枳園の著書)などゝ云ふ、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑には、浦貿、大磯、大山、日向、津久井県の地名が挙げてある。大山は今の大山町、日向は今の高部屋村で、どちらも大磯と同じ中郡(なかごほり)である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流してゐる。桂川は此川の上流である。
後に枳園の語つた所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があつたのださうである。此銭は箱根の湯本に着くと、もう遣ひ尽してゐた。そこで枳園はとりあへず按摩をした。上下(かみしも)十六文(按摩の低賃金)の糈銭(しよせん食費)を獲るも、猶已むにまさつたのである(わずかの金でもないよりまし)。啻に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科(ないがいにかをろんずるなく)、或為収生(あるいはしうせいをなし)、或為整骨(あるいはせいこつをなし)、至于牛馬鷄狗之疾(ぎうばけいくのしつにいたるまで)、来乞治者(きたりてちをこふものに)、莫不施術(せじゆつせざるはなし)」と、自記の文に云つてある。収生はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内にも立ち入つた。医者の歯を治療するのをだに拒まうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
老いたる祖母は浦賀で困厄(こんやく)の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併せて四人の口を、此の如き手段で糊(のり)しなくてはならなかつた。しかし枳園の性格から推せば、此間に処して意気沮喪することもなく、猶幾分のボンヌ・ユミヨオル(元気)を保有してゐたであらう。
枳園はやうやう大磯に落ち着いた。門人が名主をしてゐて、枳園を江戸の大先生として吹聴し、こゝに開業の運(はこび)に至つたのである。幾ばくもなくして病家の数が殖えた。金帛(きんばく金と絹)を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬(さいそ野菜)を輸(おく)つて庖厨(はうちゆう台所)を賑した。後には遠方から轎(かご)を以て迎へられることもある。馬を以て請ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中、三浦両郡の間を往来し、こゝに足掛十二年の月日を過すことゝなつた。
抽斎は天保九年(1838)の春を弘前に迎へた。例の宿直日記に、正月十三日忌明(きあき)と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順(のぶゆき)に随つて江戸に帰つた。三十五歳になつた年である。
是年五月十五日に、津軽家に代替があつた。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷り、同じ齢(よはひ)の順承(ゆきつぐ)が小津軽(黒石藩)から入つて封を襲いだ。信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財攻の窮迫を馴致(じゆんち惹起)し、遂に引退したのださうである。
抽斎はこれから隠居信順附にせられて、平日は柳島の館に勤仕(きんし)し、只折々上屋敷に伺候した。
二十九
天保十一年(1840)は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇してゐた年長者で、抽斎は平素画(ゑ)を鑑賞することに就ては、なにくれとなく教を乞ひ、又古器物や本艸(ほんざう)の参考に供すべき動植物を図(ず)するために、筆の使方、顔料の解方などを指図して貰つた。それが前年に七十七の賀宴を両国の万八楼(まんはちろう)で催したのを名残にして、今年亡人(なきひと)の数に入つたのである。跡は文化九年(1812)生で二十九歳になる文二が嗣いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐は、もう五年前に夫に先つて死んでゐたのである。此年抽斎は三十六歳であつた。
天保十二年には、岡西氏徳が二女好(よし)を生んだが、好は早世した。閏正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎が生れたが、これも夭折した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初(はじめ)に於て、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数へたが、倏(たちま)ち来り倏ち去つた女好の名は見(あら)はすことが出来なかつた。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
是年に躋寿館で書を講じて、陪臣(ばいしん大名の家臣)町医に来聴(らいちやう受講)せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新に講師が任用せられた。初(はじめ)館には都講(とかう)、教授があつて、生徒に授業してゐたに過ぎない。一時多紀藍渓(らんけい)時代に百日課の制を布いて、医学も経学も科を分つて、百日を限つて講じたことがある。今謂ふクルズス(講義)である。しかしそれも生徒に聴かせたのである。百日課は四年間で罷んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになつたのは、此時が始である。五箇月の後、幕府が抽斎を起たしむることゝなつたのは、此制度あるがためである。
弘化元年(1844)は抽斎のために、一大転機を齎(もたら)した。社会に於いては幕府の直参になり、家庭に於いては岡西氏徳のみまかつた跡へ、始て才色兼ね備はつた妻が迎へられたのである。
此一年間の出来事を順次に数へると、先づ二月二十一日に妻徳が亡くなつた。三月十二日に老中土井大炊頭(おほいのかみ)利位(としつら)を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城(とじやう)を命ぜられた。年始、八朔(はつさん八月一日)、五節句、月並の礼に江戸城に往くことになつたのである。十一月六日に神田紺屋町鉄物問屋(かなものどいや)山内忠兵衛妹五百が来り嫁した。表向は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳(かざし)として届けられた。十二月十日に幕府から白銀五枚を賜はつた。これは以下恒例になつてゐるから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純(いと)が幕臣馬場玄玖(げんきう)に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶つたのは、其兄玄亭が相貌も才学も人に優れてゐるのを見て、此人の妹ならと思つたからである。然るに伉儷(かうれい夫婦)をなしてから見ると、才貌共に予期したやうではなかつた。それだけならばまだ好かつたが、徳は兄には似ないで、却つて父栄玄の褊狭(へんけふ)な気質を受け継いでゐた。そしてこれが抽斎にアンチバチイ(反感)を起させた。
最初の妻定は貧家の女の具へてゐさうな美徳を具へてゐなかつたらしく、抽斎の父允成が或時、己の考が悪かつたと云つて歎息したこともあるさうだが、抽斎はそれ程厭とは思はなかつた。二人目の妻威能は怜悧で、人を使ふ才があつた。兎に角抽斎に始てアンチパチイ(反感)を起させたのは、三人目の徳であつた。 
三十
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱り懲らすことは無かつた。それのみでは無い。あらはに不快の色を見せもしなかつた。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにゐた。そして弘前へ立つた。初度(しよど)の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にゐる間、江戸の便がある毎に、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆ど日記のやうに悉(くはし)く書いたのである。抽斎は初め数行を読んで、直ちに此書信が徳の自力によつて成つたものでないことを知つた。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えてゐたからである。
允成は抽斎の徳に親(したし)まぬのを見て、前途のために危(あやぶ)んでゐたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与へて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本(もと)づいて文案を作つて徳に筆を把(と)らせ、家内の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得る毎に泣いた。妻のために泣いたのでは無い父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰つて、抽斎は勉めて徳に親んで、父の心を安(やすん)ぜようとした。それから二年立つて優善(やすよし)が生れた。
尋いで抽斎は再び弘前へ往つて、足掛三年淹留(えんりう)した。留守に父の亡くなつた旅である。それから江戸に帰つて、中一年置いて好(よし)が生れ、其翌年又八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立つて亡くなつた。
そして徳の亡くなつた跡へ山内氏五百が来ることになつた。抽斎の身分は徳が往き、五百が来る間に変つて、幕府の直参になつた。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒(にはか)に其中に身を投じて、難局に当らなくてはならなかつた。五百が恰も好し其適材であつたのは、抽斎の幸である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚(ほうかく)と云つた。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋と云ひ、商標には井桁(ゐげた)の中に喜の字を用ゐた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客に交り、財を捐(す)てゝこれが保護者となつた。
忠兵衛に三人の子があつた。長男栄次郎、長女安(やす)、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託してゐた。文政七、八年の頃、当時允成が日野屋をおとづれて、芝居の話をすると、九つか十であつた五百と、一つ年上の安とが面白がつて傍聴してゐたさうである。安は即ち後に阿部家に仕へた金吾である。
五百は文化十三年(1816)に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になつてゐた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至つて、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女にも尋常女子の学ぶことになつてゐる読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学などをさへ、殆ど男子に授けると同じやうに授けたのである。
忠兵衛が此の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守盛豊(もりとよ)の子、対馬守一豊(かずとよ)の弟から出たのださうで、江戸の商人になつてからも、三葉柏(みつばかしは)の紋を附け、名のりに豊の字を用ゐることになつてゐる。今わたくしの手近にある系図には、一豊の弟は織田信長に仕へた修理亮(しゆりのすけ)康豊(やすとよ)と、武田信玄に仕へた法眼(ほふげん)日泰(につたい)との二人しか載せて無い。忠兵衛の家は、此二人の内孰(いづ)れかの裔であるか、それとも外に一豊の弟があつたか、こゝに遽(いはか)に定めることが出来ない。  
 

 

三十一
五百は十一、二歳の時、本丸に奉公したさうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉が五十四、五歳になつた時である。御台所は近衛経煕(けいき)の養女茂姫(しげひめ)である。
五百は姉小路と云ふ奥女中の部屋子であつたと云ふ。姉小路と云ふからには、上臈(じやうらふ)であつただらう。然らば長局(ながつぼね)の南一の側に、五百はゐた筈である。五百等がタ方になると、長い廊下を通つて締めに往かなくてはならぬ窓があつた。其廊下には鬼が出ると云ふ噂があつた。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかと云ふに、誰も好くは見ぬが、男の衣を着てゐて、額に角が生えてゐる。それが礫(つぶて)を投げ掛けたり、灰を蒔き掛けたりすると云ふのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌つて、互に譲り合つた。五百は穉(をさな)くても胆力があり、武芸の稽古をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往つた。
暗い廊下を進んで行くと、果してちよろちよろと走り出たものがある。おやと思ふ間もなく、五百は片頬(かたほ)に灰を被つた。五百には咄嗟の間に、其物の姿が好くは見えなかつたが、どうも少年の悪作劇(いたづら)らしく感ぜられたので、五百は飛ひ附いて掴まへた。
「許せ許せ」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛めなかつた。そのうちに外の女子(おなご)達が馳(は)せ附けた。
鬼は降伏して被つてゐた鬼面(おにめん)を脱いだ。銀之助様と称へてゐた若君で、穉くて美作国西北条郡津山の城主松平家へ婿入した人であつたさうである。
津山の城主松平越後守斉孝(なりたか)の次女徒(かち)の方の許へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男三河守斉民(なりたみ)である。
斉民は小字(をさなゝ)を銀之助と云ふ。文化十一年(1814)七月二十九日に生れた。母はお八重の方である。十四年七月二十二日に、御台所の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に婿入し、十二月三日に松平邸に往つた。四歳の壻君である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移つた。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従四位上(じやう)侍従三河守斉民となつた。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成つて後確堂公(かくだうこう)と呼ばれたのは此人で、成島柳北の碑の篆額は其筆である。さうして見ると、此人が鬼になつて五百に捉へられたのは、従四位上侍従になつてから後で、只少将であつたか、なかつたかが疑問である。津山邸に館はあつても、本丸に寝泊して、小字の銀之助を呼ばれてゐたものと見える。年は五百より二つ上である。
五百の本丸を下つたのは何時だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家に奉公してゐた。五百が十五歳になつたのは、天保元年(1830)である。若し十四歳で本丸を下つたとすると、文政十二年(1829)に下つたことになる。
五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家と云ふ大名の屋敷を目見(めみえ試用)として廻つたさうである。其頃も女中の目見は、君臣を択ばず、臣君を択ぶと云ふやうになつてゐたと見えて、五百が此の如くに諸家の奧へ覗きに往つたのは、到処(いたるところ)で斥(しりぞ)けられたのではなく、自分が仕ふることを肯(がへん)ぜなかつたのださうである。
しかし二十余家を経廻るうちに、只一箇所だけ、五百が仕へようと思つた家があつた。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であつた。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
五百が鍛冶橋内(かじばしうち)の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じやうな考試に逢つた。それは手跡、和歌、音曲の嗜(たしなみ)を験(ため)されるのである。試官は老女である。先づ硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染(そめ)を」と云ふ。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせられた。此等の事は他家と何の殊なることもなかつたが、女中が悉く綿服(めんぷく)であつたのが、五百の目に留まつた。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐに此家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斉政(なりまさ)の女である。
此時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いてゐるのを見附けた。
三十二
山内家の老女は五百に、「どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けてゐるか」と問うた。
五百は「自分の家が山内氏で、昔から三葉柏の紋を附けてゐる」と答へた。
老女は暫く案じてから云つた。「御用に立ちさうな人と思はれるから、お召抱(めしかゝへ)になるやうに申し立てようと思ふ。しかし其紋は当分御遠慮申すが好からう。由緒のあることであらうから、追つてお許を願ふことも出来よう」と云つた。
五百は家に帰つて、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。「姓名だの紋章だのは、先祖から承(う)けて子孫に伝へる大切なものである。濫に匿(かく)したり更めたりすべきものでは無い。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好い」と云つたのである。
五百が山内家をことわつて、次に目見に往つたのが、向柳原(むかふやなぎはら)の藤堂家の上屋敷であつた。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用ゐても好いと云つて、懇望せられたので、諸家を廻り草臥(くたび)れた五百は、此家に仕へることに極めた。
五百はすぐに中臈(ちゆうらふ)にせられて、殿様附と定(さだ)まり、同時に奥方祐筆(いうひつ)を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡(あのごほり)津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷(たかゆき)である。官位は従(じゆ)四位侍従になつてゐた。奥方は藤堂主殿頭(とのものかみ)高ッ(たかたけ)の女である。
此時五百はまだ十五歳であつたから、尋常ならば、女小姓に取らるべきであつた。それが一躍して中臈を贏(か)ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草(たばこ)、手水などの用を弁ずるもので、今云ふ小間使である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾になつたと見ても好い。しかし大名の家では奥方に仕へずに殿様に仕へると云ふに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名を挿頭(かざし)と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まつて、比良野氏の娘分にせられた時、翳(かざし)の名を以て届けられたのは、これを襲用(しふよう)したのである。さて暫く勤めてゐるうちに、武芸の嗜のあることを人に知られて、男之助(をとこのすけ)と云ふ綽名(あだな)が附いた。
藤堂家でも他家と同じやうに、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使つた。食事は自弁であつた。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であつた。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思つてゐたのではない。今の女が女学校に往くやうに、修行をしに往くのである。風儀の好さゝうな家を択んで仕へようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問ふ所でなかつた。
修行は金を使つてする業(わざ)で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住ひをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調へ、下女を使つて暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したさうである。給料は三十両貰つても九両貰つても、格別の利害を感ぜなかつた筈である。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕(きんし)未だ一年に満たぬのに、天保二年(1831)の元日には中臈頭に進められた。中臈頭は只一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになつた。
三十三
五百は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇(いとま)を取つた。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にゐた間、尾島氏定を妻とし、藤堂家にゐた間、比良野氏威能、岡西氏徳を相踵(つ)いで妻としてゐたのである。
五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷めた頃は、忠兵衛はまだ女を呼び寄せる程の病気をしてはゐなかつた。暇を取つたのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかつたゝめである。此年に藤堂高猷(たかゆき)夫妻は伊勢参宮をすることになつてゐて五百は供の中に加へられてゐた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先つて五百を家に還らしめたのである。
五百の帰つた紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾牧(まき)、二十八歳の兄栄次郎がゐた。二十五歳の姉安は四年前に阿部家を辞して、横山町の塗物問屋長尾宗右衛門に嫁してゐた。宗右衛門は安がためには、只一つ年上の夫であつた。
忠兵衛の子がまだ皆幼く、栄次郎六歳、安三歳、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一(やまいち)の女で松平摂津守義建(ぎけん)の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなつたので、跡には享和三年(1803)に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になつてゐたのである。
忠兵衛は晩年に、気が弱くなつてゐた。牧は人の上に立つて指図をするやうな女ではなかつた。然るに五百が藤堂家から帰つた時、日野屋では困難な問題が生じて全家が頭を悩ませてゐた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
栄次郎は初め抽斎に学んでゐたが、尋いで昌平黌(しやうへいくわう)に通ふことになつた。安の夫になつた宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかも此二人だけが許多(あまた)の士人の間に介まつてゐた商家の子であつた。譬へて云つて見れば、今の人が華族でなくて学習院に入つてゐるやうなものである。
五百が藤堂家に仕へてゐた間に、栄次郎は学校生活に平(たいらか)ならずして、吉原通をしはじめ、相方は山口巴(茶屋)の司と云ふ女であつた。五百が屋敷から下る二年前に、栄次郎は深入をして、とうとう司の身受をすると云ふことになつたことがある。忠兵衛はこれを聞き知つて、勘当しようとした。しかし救解(きうかい)のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷に(さたやみ)なつた。
然るに五百が藤堂家を辞して帰つた時、此問題が再燃してゐた。
栄次郎は妹の力に憑(よ)つて勘当を免れ、暫(しばら)く謹慎して大門を潜(くゞ)らずにゐた。其隙に司を田舎大尽(だいじん金持ち)が受け出した。栄次郎は欝症になつた。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往かせた。此時司の禿(かぶろ)であつた娘が、浜照(はまてる)と云ふ名で、来月突出(つきだし遊女)になることになつてゐた。栄次郎は浜照の客になつて、前よりも盛な遊をしはじめた。忠兵衛は又勘当すると言ひ出したが、これと同時に病気になつた。栄次郎も流石に驚いて、暫く吉原へ往かずにゐた。これが五百の帰つた時の現状である。
此時に当つて、将に覆らんとする日野屋の世帯を支持して行かうと云ふものが、新に屋敷奉公を棄てゝ帰つた五百の外に無かつたことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、其夫宗右衛門は早世した兄の家業を襲いでから、酒を欲んで遊んでゐて、自分の産を治することをさへ忘れてゐたのである。
三十四
五百は父忠兵衛をいたはり慰め、兄栄次郎を諌め励まして、風浪(ふうらう)に弄(もてあそ)ばれてゐる日野屋と云ふ船の柁を取つた。そして忠兵衛の異母兄で十人衆(町年寄)を勤めた大孫某(おほまごなにがし)を証人に立てゝ、兄をして廃嫡を免れしめた。
忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦忠兵衛の意志に依つて五百の名に書き更へられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じやうな教育を受けてゐた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言(しんせうなごん)と呼ばれたと云ふ一面がある。同じ頃狩谷棭斎の女俊に少納言の称があつたので、五百はこれに対へてかく呼ばれたのである。
五百の師として事へた人には、経学に佐藤一斎、筆札(ひつさつ書道)に生方鼎斎(うぶかたていさい)、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭(まへだなつかげ)があるさうである。十一、二歳の時夙く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度毎に講釈を聴くとか、手本を貰つて習つて清書を見せに往くとか、兼題(けんだい課題)の歌を詠んで直して貰ふとか云ふ稽古の為方(しかた)であつただらう。
師匠の中で最も老年であつたのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であつたのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年(1816)には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になつてゐた。
文晁は前に云つたとほり、天保十一年(1840)に七十八で歿した。五百が十一の時である。一斎は安政六年(1859)八月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治(げんぢ)元年(1864)八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年(1856)正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香(はんかう)の村松町の家へ年始の礼に往つて酒に酔ひ、水戸の剣客某と口論をし出して、某の門人に斬られたのである。
五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院(よらくゐん)と橘千蔭(ちかげ)との筆跡を臨摸(りんも)したことがあるさうである。予楽院家煕(いへひろ)は元文(げんぶん)元年(1736)に薨じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園(はぎぞの)千蔭は身分が町奉行与力で、加藤又左衛門と称し、文化五年(1808)に歿した。五百の生れる前八年である。
五百は藤堂家を下(さが)つてから五年目に渋江氏に嫁した。穉(をさな)い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取つては、自分が抽斎に嫁し得ると云ふポッシビリテエ(可能性)の生じたのは、三月に岡西氏徳が亡くなつてから後の事である。常に往来してゐた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなつた三月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも抽斎を訪(と)うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とか云ふ問題は、当時の人の夢にだに知らなかつた。立派な教育のある二人が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲した友人関係を棄てゝ、遽(にはか)に夫婦関係に入つたのである。当時に於いては、醒覚(覚醒)せる二人の間に、此の如く婚約が整つたと云ふことは、絶て無くして僅(わづか)に有るものと謂(い)つて好からう。
わたくしは鰥夫(をとこやもめ)になつた抽斎の許へ、五百の訪ひ来た時の緊張したシチュアション(状況)を想像する。そして保さんの語つた豊芥子の逸事(逸話)を憶ひ起して可笑しく思ふ。五百の渋江へ嫁入する前であつた。或日五百が来て抽斎と話をしてゐると、そこへ豊芥子が竹の皮包を持つて来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓(すし)を薦め、自分も食ひ、五百に是非食へと云つた。後に五百は、あの時程困つたことは無いと云つたさうである。
三十五
五百は抽斎に嫁するに当つて、比良野文蔵の養女になつた。文蔵の子で目附役になつてゐた貞固(さだかた)は文化九年(1812)生で、五百の兄栄次郎と同年であつたから、五百は其妹になつたのである。然るに貞固は姉威能の跡に直る(跡を継ぐ)五百だからと云ふので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
文蔵は仮親になるからは、真の親と余り違はぬ情誼がありたいと云つて、渋江氏へ往く三箇月許前に、五百を我家に引き取つた。そして自分の身辺に居らせて、煙草を塡(つ)めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
助太郎は武張つた男で、髪を糸鬢(いとびん)に結ひ、黒紬の紋附を着てゐた。そしてもう藍原(あゐばら)氏かなと云ふ嫁があつた。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門の女であつた時、穴隙を鑽(き密会)つて相見えたゝめに、二人は親々の勘当を受けて、裏店の世帯を持つた。しかしどちらも可哀い子であつたので、間もなくわびが愜(かな)(つて助太郎は表立つてかなを妻に迎へたのである。
五百が抽斎に帰(とつ)いだ時の支度(したく)は立派であつた。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩によつて傾き掛かつてはゐたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向(しむ)けて置いた首飾(しゆしよく)、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあつた。今の世の人も奉公上りには支度があると云ふ。しかしそれは賜物を謂ふのである。当時の女子はこれに反して、主に親の為向けた物を持つてゐたのである。五年の後に夫が将軍に謁(えつ)した時、五百は此支度の一部を沽(う)つて、夫の急を救ふことを得た。又これに先つこと一年に、森枳園が江戸に帰つた時も、五百は此支度の他の一部を贈つて、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々までも、衣服を欲するごとに五百に請ふので、お勝さんはわたしの支度を無尽歳だと思つてゐるらしいと云つて、五百が歎息したことがある。
五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善(つねよし)、長女純(いと)、次男優善(やすよし)の五人であつたが、間もなく純は出でゝ馬場氏の婦(ふ)となつた。
弘化二年(1845)から嘉永元年(1848)までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が少かつた。五百の生んだ子には、弘化二年(1845)十一月二十六日生の三女棠(たう)、同三年(1846)十月十九日生れの四男幻香(げんかう)、同四年(1847)十月八日生れの四女陸(くが)がある。四男は死んで生れたので、幻香水子は其法諡である。陸は今の杵屋勝久さんである。嘉永元年(1848)十二月二十八日には、長男恒善が二十三歳で月並出仕を命ぜられた。
五百の里方では、先代忠兵衛が歿してから三年程、栄次郎の忠兵衛は謹慎してゐたが、天保十三年(1842)に三十一歳になつた頃から、又吉原へ通ひはじめた。相方は前の浜照であつた。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍(らくせき)させて妻にした。尋いで弘化三年(1846)十一月二十二日に至つて、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅に二歳になつた抽斎の三女棠に相続させ、自分は金座の役人の株を買つて、広瀬栄次郎と名告つた。
五百の姉安(やす)を娶つた長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲いでから、終日手杯(てさかづき)が釈(お)かず、塗物問屋の帳場は番頭に任せて顧みなかつた。それを温和に過ぐる性質の安は諌めようともしないので、五百は姉を訪うて此様子を見る度にもどかしく思つたが為方がなかつた。さう云ふ時宗右衛門は五百を相手にして、「資治通鑑(しぢつがん)」の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強ひて帰らうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬お銓(せん)の二人の女に、をばさんを留めいと云ふ。二人の女は泣いて留める。これはをばの帰つた跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌なるのとを憂へて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失ふのである。五百が此有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣つて、わざわざ横山町へ諭(さと)しに往つた。宗右衛門は大いに慙ぢて、稍産業に意を用ゐるやうになつた。
 

 

三十六
森枳園は大磯で医業が流行するやうになつて、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そして其度毎に一週間位は渋江の家に舎(やど)ることになつてゐた。枳園の形装(ぎやうさう)は決して曾て夜逃をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかつた。保さんの記憶してゐる五百の話によるに、枳園はお召縮緬の衣を着て、海老鞘(えびざや)の脇指(わきざし)を差し、歩くに褄(つま)を取つて、剥身絞(むきみしぼり)の褌(ふんどし)を見せてゐた。若し人がその七代目団十郎を贔屓にするのを知つてゐて、成田屋と声を掛けると、枳園は立ち止まつて見えをしたさうである。そして当時の枳園はもう四十男であつた。尤もお召縮緬を着たのは、強(あなが)ち奢侈と見るべきではあるまい。一反二分一朱か二分二朱であつたと云ふから、着ようと思へば着られたのであらうと、保さんが云ふ。
枳園の来て舎る頃に、抽斎の許にろくと云ふ女中がゐた。ろくは五百が藤堂家にゐた時から使つたもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎る毎に、此女を追ひ廻してゐたが、とうとう或日逃げる女を捉へようとして大行燈(あんどう)を覆(くつがへ)し、畳を油だらけにした。五百は戯(たはむれ)に絶交の詩を作つて枳園に贈つた。当時ろくを揶揄(からか)ふものは枳園のみでなく、豊芥子(ほうかいし)も訪ねて来る毎にこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
枳園は又当時纔(わづか)に二十歳を踰(こ)えた抽斎の長男恒善の、所謂おとなし過ぎるのを見て、度々吉原へ連れて往かうとした。しかし恒善は聴かなかつた。枳園は意を五百に明かし、母の黙許と云ふを以て恒善を動(うごか)さうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としてゐるのを知つてゐて、恒善を放ち遣ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したさうである。
枳園が此の如くにして屢江戸に出たのは、遊びに出たのではなかつた。故主(こしゆう)の許に帰参しようとも思ひ、又才学を負うた人であるから、首尾好くは幕府の直参にでもならうと思つて、機会を窺つてゐたのである。そして渋江の家は其策源地(さくげんち)であつた。
卒(にはか)に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易く、新に幕府に登庸せられるのは難いやうである。しかし実況にはこれに反するものがあつた。枳園は既に学術を以て名を世間に馳せてゐた。就中本草に精しいと云ふことは人が皆認めてゐた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻(けいてう)を忌む心が頗る牢(かた)かつた。多紀一家殊に茝庭は稍これと趣を殊にしてゐて、略(ほゞ)此人の短を護(ご庇)して、其長を用ゐようとする抽斎の意に賛同してゐた。
枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒、柏軒の兄弟であるが、抽斎も亦福山の公用人服部九十郎、勘定奉行小此木伴七(はんしち)、太田、宇川等に内談し、又小島成斎等をして説かしむること数度であつた。しかしいつも藩主の反感に阻げられて事が行はれなかつた。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先づ茝庭の同情に愬(うつた)へて幕府の用を勤めさせ、それを規模(きぼ根拠)にして阿部家を説き動さうと決心した。そして終に此手段を以て成功した。
此期間の末の一年、嘉永元年(1848)に至つて枳園は躋寿館の一事業たる「千金方」校刻(かうこく校定)を手伝ふべき内命を贏ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。
三十七
阿部家への帰参が愜(かな)つて、枳園が家族を纏めて江戸へ来ることになつたので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家のあつたのを借りて、敷金を出し家賃を払ひ、応急の器什(きじふ)を買ひ集めてこれを迎へた。枳園だけは病家へ往かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通(ひとゝほり)持つてゐたが、家族は身に着けたものしか持つてゐなかつた。枳園の妻勝の事を、五百があれでは素裸と云つても好いと云つた位である。五百は髪飾から足袋下駄まで、一切揃へて贈つた。それでも当分のうちは、何か無いものがあると、蔵から物を出すやうに、勝は五百の所へ貰ひに来た。或日これで白縮緬の湯具(ゆぐ腰巻き)を六本遣ることになると、五百が云つたことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然(てんぜん平気)として世話をさせたかと云ふことが、これによつて想像することが出来る。又枳園に幾多の悪(あく)性癖があるに拘らず、抽斎がどの位、其才学を尊重してゐたかと云ふことも、これによつて想像することが出来る。
枳園が医書彫刻取扱手伝と云ふ名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年(1848)十月十六日である。
当時躋寿館で校刻に従事してゐたのは、「備急千金要方」三十巻三十二冊の宋槧本であつた。是より先き多紀氏は同じ孫思邈(そんしばく)の「千金翼方」二十巻十二冊を校刻した。これは元(げん)の成宗(せいそう)の大徳十一年(1307)梅渓書院の刊本を以て底本としたものである。尋いで手に入つたのが「千金要方」の宋版である。これは毎巻金沢文庫の印があつて、北条顕時(あきとき)の旧蔵本である。米沢の城主上杉弾正(だんじやう)大弼(だいひつ)斉憲(なりのり)がこれを幕府に献じた。細に検すれば南宋「乾道淳煕」中の補刻数葉が交つてゐるが、大体は北宋の旧面目(めんぼく)を存してゐる。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになつた。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安、黒田豊前守直静(なほちか)の家来堀川舟庵(しうあん)、それから多紀楽真院(らくしんいん)門人森養竹(枳園)である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は「経籍訪古志」の跋に見えてゐる堀川済(せい)である。舟庵の主黒田直静は上総国久留利(くるり)の城主で、上屋敷は下谷広小路にあつた。
任命は若年寄大岡主膳正(しゆぜんのかみ)忠固(たゞかた)の差図(さしず)を以て、館主多紀安良(あんりやう)が申し渡し、世話役小島春庵、世話役手伝勝本理庵、熊谷弁庵が列座した。安良は即ち暁湖(げうこ)である。
何故に枳園が茝庭の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであつて、まだ表向になつてゐなかつたのでもあらうか。枳園は四十二歳になつてゐた。
是年八月二十九日に、真志屋五郎作が八十歳で歿した。抽斎は此時三世劇神仙になつたわけである。
嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城した。躑躅(つつじ)の間に於て、老中牧野備前守忠雅(たゞまさ)の口達(こうたつ通達)があつた。「年来学業出精に付、序(ついで)の節(せつ)目見仰附けらる」と云ふのである。此月十五日に謁見は済んだ。始て武鑑に載せられる身分になつたのである。
わたくしの蔵してゐる嘉永二年の武鑑には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあつて、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の武鑑にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出でたものである。
三十八
抽斎の将軍家慶(いへよし十二代)に謁見したのは、世の異数(いすう特別待遇)となす所であつた。素より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になつてゐた建部内匠頭政醇(まさあつ)家来辻元ッ庵(しゆうあん)が如く目見の栄に浴する前例はあつたが、抽斎に先つて伊沢榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になつてゐるので、薦達(せんたつ推薦)の早きを致したのだとさへ言はれた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈(さかゞみげんぢやう)があつた。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られてゐたので、人が其殊遇(しゆぐう)を美(ほめ)めて三年前に目見をした松浦壱岐守(いきのかみ)慮(はかる)の臣朝川善庵と並称した。善庵は抽斎の謁見に先つこと一月、嘉永二年(1849)二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交つて、渋江の家の発会(ほつくわい)には必ず来る老人株の一人であつた。善庵、名は鼎(てい)、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山(けんざん)の子である。兼山の歿した後、妻(つま)原氏が江戸の町医朝川黙翁(もくをう)に再嫁した。善庵の姉寿美(すみ)と兄道昌(だうしやう)とは当時の連子で、善庵はまだ母の胎内にゐた、黙翁は老いて病に至つて、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育(ぶいく)の恩に感じて肯(うけが)はず、黙翁も亦強ひて言はなかつた。善庵は次男格(かく)をして片山氏を嗣がしめたが、格は早世した。長男正準(せいじゆん)は出でゝ相田氏を冒したので、善庵の跡は次女の壻横山氏麎(しん)が襲いだ。
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかつた。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人も無かつた。しかし当時世間一般には目見以上と云ふことが、頗る重きをなしてゐたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚(きつきやう)せしむるものがあつた。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢つて帰つて、常の如く通用門を入らんとすると、門番が忽ち本門の側に下座(げざ平伏)した。榛軒は誰を迎へるのかと疑つて、四辺を顧たが、別に人影は見えなかつた。そこで始て自分に礼を行ふのだと知つた。次いで常の如く中の口から進まうとすると、玄関の左右に詰衆(つめしゆう身辺警護)が平伏してゐるのに気が附いた。榛軒は又驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は此の如く世の人に重視せられる習(ならひ)であつたから、此栄を荷ふものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかつた。津軽家では一箇年間に返済すベしと云ふ条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつゝも、殆どこれを何の費に充てようかと思ひ惑つた。
目見をしたものは、先づ盛宴(せいえん)を開くのが例になつてゐた。そしてこれに招くべき賓客(ひんかく)の数も略定まつてゐた。然るに抽斎の居宅(きよたく)には多く客を延(ひ案内)くべき広間が無いので、新築しなくてはならなかつた。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀(せんこく)の事に疎いことを自知してゐたので、商人たる忠兵衛の言ふがまゝに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲(なげう)つことにこそ長じてゐたが、靳(をし)んでこれを使ふことを解せなかつた。工事未だ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
平生金銭に無頓着であつた抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌(つち)の響のする中で、顔色は次第に蒼(あを)くなるばかりであつた。五百は初から兄の指図を危みつゝ見てゐたが、此時夫に向つて云つた。
「わたくしがかう申すと、ひどく出過ぎた口をきくやうではございますが、御一代に幾度と云ふおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙つて見てゐることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすつて下さいまし。」
抽斎は目を睜(みは)つた。「お前そんな事を言ふが、何百両と云ふ金を容易に調達せられるものでは無い。お前は何か当があつてさう云ふのか。」
五百はにつこり笑つた。「はい。幾らわたくしが痴(おろか)でも、当なしには申しませぬ。」
三十九
五百は女中に書状を持たせて、程近い質屋へ遣つた。即ち市野迷庵の跡(あと子)の家である。彼の今に至るまで石に彫られずにある松崎慊堂(かうだう)の文に云ふ如く、迷庵は柳原の店で亡くなつた。其跡を襲いだのは松太郎光寿で、それが三右衛門の称をも継承した。迷庵の弟光忠(くわうちゆう)は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立してゐて、彼は世三右衛門を称し、此は世市三郎を称した。五百が書状を遣つた市野屋は当時弁慶橋にあつて、早くも光寿の子光徳(くわうとく)の代になつてゐた。光寿は迷庵の歿後僅に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字(をさなゝ)を徳治郎と云つたが、此時更めて三右衛門を名告つた。外神田の店は此頃まだ迷庵の姪(てつ)光長(くわうちやう)の代であつた。
程なく光徳の店の手代が来た。五百は箪笥(たんす)長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸さうと云つた。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。
三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であつた。しかし目見に伴ふ飲醼(いんえん)贈遺一切の費は莫大であつたので、五百は終に豊芥子(ほうかいし)に託して、主なる首飾(しゆしよく)類を売つてこれに充てた。其状当(まさ)に行ふべき所を行ふ如くであつたので、抽斎は兎角の意見を其間に挾(さしはさ)むことを得なかつた。しかし中心には深くこれを徳(とく恩義)とした。
抽斎の目見をした年の閏四月十五日に、長男恒善は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳(きし)が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻五百(いほ)三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善十五歳、四女陸(くが)三歳、五女癸巳一歳の六人であつた。長女純は馬場氏に嫁し、三女棠(たう)は山内氏を襲ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香は亡くなつてゐたのである。
嘉永三年(1850)には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることゝなつた。藩禄等は凡て旧に依る(もとのまゝ)のである。八月晦に、馬場氏に嫁してゐた純が二十歳で歿した。此年抽斎は四十六歳になつた。
五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十二日である。次いで嗣子(しゝ)貞固(さだかた)が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、所謂独礼(どくれい)の班に加はつたのである。独礼とは式日に藩主に謁するに当つて、単独に進むものを謂ふ。これより下は二人立、三人立等となり、遂に馬廻以下の一統礼(いつとうれい)に至るのである。
当時江戸に集つてゐた列藩の留守居は、宛然(ゑんぜんそつくり)たるコオル・ヂプロマチツク(外交団)を形(かたちづく)つてゐて、その生活は頗る特色のあるものであつた。そして貞固の如きは、其光明(くわうみやう明るい)面を体現してゐた人物と謂つても好からう。
衣類を黒紋附に限つてゐた糸鬢奴(いとびんやつこ)の貞固(さだかた)は、素より読書の人ではなかつた。しかし書巻を尊崇(そんそう尊敬)して、提挈(ていけつ指針)を其中に求めてゐたことを思へば、留守居中稀有の人物であつたのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡(せつかん手紙)して抽斎を請じた。そして容(かたち)を改めて云つた。
「わたくしは今日父の跡を襲いで、留守居役を仰付けられました。今までとは違つた心掛がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立つお講釈が承はりたさに、御足労を願ひました。あの四方に使して君命を辱めずと云ふこと(「論語」子路20)がございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先づ何よりもおよろこびを言はんではなるまい。さて講釈の事だがこれは又至極のお思附だ。委細承知しました」と抽斎は快く諾した。
四十
抽斎は有合せの道春点(林羅山の訓点)の「論語」を取り出させて、巻十三を開いた。そして「子貢問曰、何如斯可謂之士矣(いかなるをかこれこれをしといふべき)」と云ふ所から講じ始めた。固より朱註をば顧みない。都て古義に従つて縦説横説(自由に話)した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本(りくてうぼん)の如きは、何時でも毎葉毎行の文字の配置に至るまで、空(くう)に憑(よ)つて思ひ浮べることが出来たのである。
貞固(さだかた)は謹んで聴いてゐた。そして抽斎が「子日、噫(ああ)斗筲之人(とせうのひと)、何足算也(なんぞかぞふるにたらん)」に説き到つたとき、貞固の目はかゞやいた。
講じ畢(をは)つた後、貞固は暫く瞑目沈思してゐたが、徐(しづか)に起つて仏壇の前に往つて、祖先の位牌の前にぬかづいた。そしてはつきりした声で云つた。「わたくしは今日から一命を賭して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛(たゝ)へられてゐた。
抽斎は此日に比良野の家から帰つて、五百に「比良野は実に立派な侍だ」と云つたさうである。其声は震を帯びてゐたと、後に五百が話した。
留守居になつてからの貞固は、毎朝日の出ると共に起きた。そして先づ厩を見廻つた。そこには愛馬浜風が繋いであつた。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかと云ふと、馬は生死を共にするものだからと、貞固は答へた。厩から帰ると、盥嗽(くわんそう手洗とうがい)して仏壇の前に坐した。そして木魚を敲(たゝ)いて誦経(じゆきやう)した。此間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかつた。来客もそのまゝ待たせられることになつてゐた。誦経が畢つて、髪を結はせた。それから朝餉の饌(ぜん)に向つた。饌には必ず酒を設けさせた。朝と雖も省かない。殽(さかな)には選嫌(えりぎらひ)をしなかつたが、のだ平(へい)の蒲鉾を嗜(たしな)んで、闕(か)かさずに出させた。これは贅沢品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麦が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板(ひといた)二分二朱であつた。
朝餉の畢る比には、藩邸で巳(み)の刻(十時)の太鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓(やぐら)太鼓である。嘗て江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴ずに、とうとう上屋敷を隅田川の東に徙(うつ)されたのだと、巷説(かうせつ)に言ひ伝へられてゐる。津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の太鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家の留守居に会ふ。従者は自ら豢(やしな)つてゐる若党草履取の外に、主家(しゆうけ)から附けられるのである。
留守居には集会日と云ふものがある。其日には城から会場へ往く。八百善(やほぜん)、平清(ひらせい)、川長(かはちやう)、青柳(あをやぎ)等の料理屋である。又吉原に会することもある。集会には煩瑣な作法があつた。これを礼儀と謂はんは美に過ぎよう。譬へば筵席(えんせき)の觴政(しやうせいルール)の如く、又西洋学生団のコンマン(作法)の如しとも云ふべきであらうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遣(とりやり遣取)をもしなくてはならなかつた。就中厳しく守られてゐたのは新参故参の序次(じよじ)で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶しなくてはならなかつた。
津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一箇月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆゑ、これに二百石を補足せられたのである。五百の覚書に拠るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島(やじま玄碩)の月割が三両三分であつた。矢島は後に抽斎の二子優善(やすよし)が養子に往つた家の名である。これに由つて観れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加へた二十三両一分と見て大いなる差違は無からう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費(つひえ)である。吉原に火災があると、貞固は妓楼(ぎろう)佐野鎚(さのづち)へ、百両に熨斗(のし)を附けて持たせて遣らなくてはならなかつた。又相方黛のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかつた。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌(ふんどし)一本買ふ銭も無い。」  
 

 

四十一
均しく是れ津軽の藩士で、柳島附の目附から、少しく貞固に遅れて留守居に転じたものがある。平井氏、名は俊章(しゆんしやう)、字は伯民(はくみん)、小字(をさなゝ)は清太郎(せいたろう)、通称は修理(しゆり)で、東堂(とうだう)と号した。文化十一年(1814)生で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄二百石八人扶持なので、留守居になつてから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫(かうぢやうふ)で威貌(ゐばう硬派の風貌)があつた、東堂も亦風丰(ふうぼう)人に優れて、而も温容親むべきものがあつた。そこで世の人は津軽家の留守居は双璧だと称したさうである。
当時の留守居役所には、此二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田徳太郎などがゐた。杉浦は後喜左衛門と云つた人で、事務に諳錬(あんれん熟練)した六十余の老人であつた。藤田は維新後に潜(ひそむ)と称した人で、当時まだ青年であつた。
或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属(しよく)せしめた。藤田は案を具して呈した。
「藤田、まづい文章だな。それにこの書様(かきざま)はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗る不機嫌に見えた。
原来(がんらい本来)平井氏は善書(ぜんしよ)の家である。祖父峩斎(がさい)は嘗て筆札(ひつさつ書道の指導)を高頤斎(かういさい)に受けて、其書が一時に行はれた(もてはやされた)こともある。峩斎、通称は仙右衛門(せんゑもん)、其子を仙蔵(せんざう)と云ふ。後父の称を襲ぐ。此仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里(とうり)の門人で書名があり、且詩文の才をさへ有してゐた。それに藤田は文に於ても書に於ても、専門の素養が無い。稿を更めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめる筈が無い。
「どうもまづいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないと云つても好い。」かう云つて案を藤田に還した。
藤田は股栗(こりつ身震)した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭を低れてゐる青年の想像に浮かんで、目には涙が涌いて来た。
此時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顚末を知つた。
貞固は藤田の手に持つてゐる案を取つて読んだ。「うん。一通わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下(そくか)は気が利かないのだ。」
かう云つて置いて、貞固は殆ど同じやうな文句を巻紙に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好いかな。」
東堂は毫も敬服(けいふく感心)しなかつた。しかし故参の文案に批評を加へることは出来ないので、色を和げて云つた。
「いや、結構です。どうもお手を煩はして済みません。」
貞固は案を東堂の手から取つて、藤田にわたして云つた。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからこんな工合に遣るが好い。」
藤田は「はい」と云つて案を受けて退いたが、心中には貞固に対して「再造の恩」(地獄に仏の恩)を感じたさうである。想ふに東堂は外(ほか)柔(じう)にして内(うち)険(けん)、貞固は外(ほか)猛(まう)にして内(うち)寛(くわん)であつたと見える。
わたくしは前に貞固が要職の体面をいたはるがために窮乏して、古褌(ふるふんどし)を着けて年を迎へたことを記した。此窮乏は東堂と雖もこれを免るゝことを得なかつたらしい。こゝに中井敬所(けいしよ)が大槻如電さんに語つたと云ふ一の事実があつて、これが証に充つるに足るのである。
此事は前の日わたくしが池田京水の墓と年齢とを文彦(大槻)さんに問ひに遣つた時、如電さんが曾て手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故に如電さんは平井氏の事を以て答へたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質が流れて、それを買つたのが、池田京水の子瑞長であつたからである。
四十二
東堂が質に入れたのは、銅仏一軀と六方印(ろくはういん)一顆(くわ)とであつた。銅仏は印度で鋳造した薬師如来で、戴曼公の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印(趣味の印鑑)である。
質流になつた時、此仏像を池田瑞長が買つた。然るに東堂は後(のち)金が出来たので、瑞長に交渉して、価(あたひ)を倍して購(あがな)ひ戻さうとした。瑞長は応ぜなかつた。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天漪(かうてんい)に授けた。天漪、名は玄岱(げんたい)、初の名は立泰(りふたい)、字は子新、一の字は斗胆(とたん)、通称は深見新左衛門で、帰化明人(みんひと)の裔(えい)である。祖父高寿覚(じゆかく)は長崎に来て終つた。父大誦(たいしよう)は訳官(やくゝわん)になつて深見氏を称した。深見は渤海である。高氏は渤海より出でたから此氏を称したのである。天漪は書を以て鳴つたもので、浅草寺の「施無畏」の匾額(へんがく横長額本堂外陣に現存)の如きは、人の皆知る所である。享保七年(1722)八月八日に、七十四歳で殘した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であつただらう。天漪の子が頤斎である。頤斎の子が峩斎である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以である。
戴曼公は又痘科を池田嵩山(すうざん)に授けた。嵩山の曾孫が錦橋(独美)、錦橋の姪(てつ)が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶(たまたま)獲た曼公の遺品を愛重して措かなかつた所以である。
此薬師如来は明治の代となつてから守田宝丹が護持してゐたさうである。又六方印は中井敬所の有に帰してゐたさうである。
貞固(さだかた)と東堂とは、共に留守居の物頭(ものがしら)を兼ねてゐた。物頭は詳しくは初手(しよて最初)足軽頭と云つて、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起る毎に、火事装束を着けて馬に騎り、足軽数十人を随へて臨検した。貞固は其帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄つた。実に威風堂々たるものであつたさうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であつたらしい。帆足万里(ほあしばんり)は嘗て留守居を罵(のゝし)つて、国財を靡(び)し私腹を肥やすものとした。此職に居るものは、或は多く私財を蓄へたかも知れない。しかし保さんは少時帆足の文を読む毎に心平かなることを得なかつたと云ふ。それは貞固の人と為(な)りを愛してゐたからである。
嘉永四年(1851)には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒してゐた棠子(たうこ)が、痘(とう)を病んで死んだ。尋いで十五日に、五女癸巳(きし)が感染して死んだ。彼は七歳、此は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかつたと見える。三月二十八日に、長子恒善が二十六歳で、柳島に隠居してゐた信順(のぶゆき)の近習にせられた。六月十二日に、二子優善(やすよし)が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩(げんせき)の末期養子(まつごやうし)になつた。是年渋江氏は本所台所町に移つて、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破つて、少(わか)うして烟草を喫み、好んで紛華奢靡(ふんかしやび)の地に足を容れ、兎角市井のいきな事、しやれた事に傾き易く、当時早く既に前途のために憂ふべきものがあつた。
本所で渋江氏のゐた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。
四十三
嘉永五年(1852)には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎の養女糸(いと)を娶つた。五月十八日に、恒善に勤料三人扶持を給せられた。抽斎が四十八歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏では此年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交は頗る親しかつた。楷書に片仮名を交ぜた榛軒の尺牘(せきどく手紙)には、宛名が抽斎賢弟としてあつた。しかし抽斎は小島成斎に於けるが如く心を傾けてはゐなかつたらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでゐた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構(かまへ)であつた。庭には吉野桜八株(しゆ)を栽(う)ゑ、花の頃には親戚知友を招いてこれを賞した。其日には榛軒の妻飯田氏しほと女かえとが許多の女子を役(えき使用)して、客に田楽豆腐などを供せしめた。バアル・アンチシパシヨン(流行を先取りして)に園遊会を催したのである。歳の初の発会式(ほつかいしき)も、他家に較ぶれば華やかであつた。しほの母は素京都諏訪(すは)神社の禰宜(ねぎ)飯田氏の女で、典薬頭(てんやくのかみ)某の家に仕へてゐるうちに、其嗣子と私(わたくし)してしほを生んだ。しほは落魄(らくはく落ちぶれて)して江戸に来て、木挽町(こびきちやう)の芸者になり、些(ちと)の財を得て業を罷(や)め、新堀(しんぼり)に住んでゐたさうである。榛軒が娶つたのは此時の事である。しほは識らぬ父の記念の印籠(いんろう)一つを、母から承け伝へて持つてゐた。榛軒がしほに生ませた女かえは、一時池田京水の次男全安を迎へて夫としてゐたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と啞(あ)科とに偏すると云ふを以て、榛軒が全安を京水の許に還したさうである。
榛軒は辺幅(へんぷく外見)を脩(をさ整える)めなかつた。渋江の家を訪ふに、踊りつゝ玄関から入つて、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻を誂(あつら作らせて)へて置いて来て、粥を所望することもあつた。そして抽斎に、「どうぞ己に構つてくれるな、己には御新造(ごしんざう)が合口(あひくち話が合ふ)だ」と云つて、書斎に退かしめ、五百と語りつゝ飲食するを例としたさうである。
榛軒が歿してから一月の後、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館の講師にせられた。森枳園等と共に「千金方」校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になつてゐた。
是年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀つて、横山町の家を漆器店のみとし、別に本町(ほんちやう)二丁目に居宅を置くことにした。此計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬(けい)、銓(せん)の二女、女中一人、丁稚一人を棲(す)まはせた。
嘉永六年(1853)正月十九日に、抽斎の六女水木(みき)が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸(くが)、水木の六人で、優善(やすよし)は矢島氏の主人になつてゐた。抽斎四十九歳、五百三十八歳の時である。
此年二月二十六日に、堀川舟庵が躋寿館の講師にせられて、「千金方」校刻の事に任じた三人の中(うち)森枳園が一人残された。
安政元年(1854)は稍事多き年であつた。二月十四日に五男専六(せんろく)が生れた。後に脩(をさむ)と名告つた人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦(しふ嫁)糸の父田口儀三郎の窮を憫(あはれ)んで、百両余の金を餽(おく)り、糸をば有馬宗智(そうち)と云ふものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年に五人扶持を給せられることになつた。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝を仰附(おほせつ)けられた。今度校刻すべき書は、円融天皇の天元五年(982)に、丹波康頼(たんばのやすより)が撰んだと云ふ「医心方(いしんはう)」である。
保さんの所蔵の抽斎手記に、「医心方」の出現と云ふ語がある。昔から厳(おごそか)に秘せられてゐた書が、忽(たちま)ち目前(もくぜん)に出て来た状(さま)が、此語で好く表されてゐる。
「秘玉(ひぎよく)突然開櫝出(はこをひらきていづ)。瑩光(ゑいかう)明徹(めいてつ)点瑕無(てんかなし)。金龍山畔(きんりようさんはん)波濤起(はたうおこり)。龍口(りようこう)初探(はじめてさぐりしは)是此珠(これこのたま)。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜(よろこび)を記した詩である。龍口と云つたのは、「医心方」が若年寄遠藤但馬守胤統(たねのり)の手から躋寿館に交付せられたからであらう。遠藤の上屋敷は辰口(たつのくち)の北角(きたかど)であつた。
四十四
日本の古医書は「続群書類従」に収めてある和気広世の「薬経太素(やくけいたいそ)」、丹波康頼の「康頼本草(やすよりほんざうう)」、釈蓮基の「長生療養方(ちやうせいれうやうはう)」、次に多紀家で校刻した深根輔仁の「本草和名(わみやう)」、丹波雅忠の「医略抄」、宝永(1704)中に印行せられた具平(ともひら)親王の「弘決外典抄(ぐけつげてんせう)」の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本(もと)字類(じるい字典)に属して、此に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼の出雲広貞等の上(たてまつ)つた「大同類聚方」の如きは、散佚して世に伝はらない。
それゆゑ天元五年(982)に成つて、永観二年(984)に上られた「医心方」が、殆ど九百年の後の世に出でたのを見て、学者が血を湧き立たせたのも怪むに足らない。
「医心方」は禁闕(きんけつ宮中)の秘本であつた。それを正親町(おほぎまち)天皇(在位1560-1586)が出して典薬頭(てんやくのかみ)半井通仙院(なからゐつうせんゐん)瑞策に賜はつた。それからは世(よゝ)半井氏が護持してゐた。徳川幕府では、寛政(1789)の初に、仁和寺文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、此本は脱簡(だつかん落丁)が極て多かつた。そこで半井氏の本を獲ようとして屢命を伝へたらしい。然るに当時半井大和守成美(せいび)は献ずることを肯ぜず、其子修理大夫(しゆりのしだいぶ)清雅(せいが)も亦献ぜず、遂に清雅の子出雲守広明(ひろあき)に至つた。
半井(なからゐ)氏が初め何の辞(ことば)を以て命を拒んだかば、これを詳にすることが出来ない。しかし後には天明八年(1788)の火事に、京都に於て焼失したと云つた。天明八年の火事とは、正月晦に洛東団栗辻(だんぐりつじ)から起つて、全都を灰燼(くわいじん)に化せしめたものを謂ふのである。幕府は此答に満足せずに、似寄(により)の品でも好いから出せと誅求(ちゆうきう要求)した。恐くは情を知つて強要したのであらう。
半井広明は已むことを得ず、かう云ふ口上を以て「医心方」を出した。「外題は同じであるが、筆者区々(まちまち)になつてゐて、誤脱多く、甚だ疑はしき麤巻(そかん粗本)である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供する」と云ふのである。書籍は広明の手から六郷(ろくがう)筑前守政殷(まさたゞ)の手にわたつて、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持つて往つた。正弘は公用人渡辺三太平(さんたへい)を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
越えて十月十五日に、「医心方」は若年寄遠藤但馬守胤統(たねのり)を以て躋寿館に交付せられた。此書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであらう。若し彫刻を命ぜられることになつたら、費用は金蔵(かねぐら)から渡されるであらう。書籍は篤(とく)と取調べ、且刻本売下(うりさげ)代金を以て費用を返納すべき積年賦(せきねんぷ年数)をも取調べるやうにと云ふことであつた。
半井広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻(けんの)二十五に上下がある。細(こまか)に検するに期待に負(そむ)かぬ善本であつた。素「医心方」は巣元方(さうげんばう隋の医者)の「病源候論(びやうげんこうろん)」を経(けい縦糸)とし、隋唐の方書百余家を緯(ゐ横糸)として作つたもので、その引用する所にして、支那に於て佚亡(いつばう散逸)したものが少く無い。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
幕府は館員の進言に従つて、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印(ほふいん最高位)、多紀安良(あんりやう)法眼(ほふげん法印の下)である。楽真院は茝庭、安良は暁湖で、並(ならび)に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此は法眼になつてゐて、当時矢の倉の分家(茝庭)が向柳原の宗家(暁湖)の右(上位)に居つたのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵(しうあん)と抽斎とが加はつてゐた。
躋寿館では「医心方」影写(えいしや透き写す)程式(ていしき規則)と云ふものが出来た。写生は毎朝辰刻(八時)に登館して、一人一日三頁を影摸する。三頁を摸し畢れば、任意に退出することを許す。三頁を摸すること能はざるものは、二頁を摸し畢つて退出しても好い。六頁を摸したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔に起つて、二十日に終る。日に二頁を摸するものは晦(みそか)に至る。此間は三八の休課(三と八のつく日を休むこと)を停止する。これが程式の大要である。
四十五
半井(なからゐ)本の「医心方」を校刻するに当つて、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問ふことを須(ま)たぬであらう。然るに別に一の善本があつた。それは京都加茂の医家岡本由顕(いうけん)の家から出た「医心方」巻(けんの)二十二である。
正親町(おほぎまち)天皇の時、従(じゆ)五位上(じやう)岡本保晃(ほうくわう)と云ふものがあつた。保晃は半井瑞策に「医心方」一巻を借りて写した。そして何故か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
由顕の言ふ所はかうである。「医心方」は徳川家光が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸に於て瑞策に師事した。瑞策の女が産後に病んで死に瀕した。保晃が薬を投じて救つた。瑞策がこれに報いんがために、「医心方」一巻を贈つたと云ふのである。
「医心方」を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にゐた人で、江戸に下つたことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈らうとしたにしても、よもや帝室から賜つた「医心方」三十巻の中から、一巻を割いて贈りはしなかつただらう。凡そ此等の事は、前人が皆嘗てこれを論弁してゐる。
既にして(そのうちに)岡本氏の家衰へて、畑成文(はたせいぶん)に託して此巻を沽(う)らうとした。成文は錦小路(にしきこうぢ)中務権少輔(ごんせういう)頼易(よりおさ)に勧めて元本を買はしめ、副本(ふくほん写し)はこれを己が家に留めた。錦小路は京都に於ける丹波氏の裔である。
岡本氏の「医心方」一巻は、此の如くにして伝はつてゐた。そして校刻の時に至つて対照の用に供せられたやうである。
是年(1854)正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。「医心方」校刻の事の起つたのは、枳園が教職に就いてから十箇月の後である。
抽斎の家族は此年主人五十歳、五百三十九歳、陸八歳、水木二歳、専六生れて一歳の五人であつた。矢島氏を冒した優善は二十歳になつてゐた。二年前から寄寓(きぐう)してゐた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移つた。
安政二年(1855)が来た。抽斎の家の記録は先づ小さき、徒(あだ)なる喜を誌(しる)さなくてはならなかつた。それは三月十九日に、六男翠暫(すいざん)が生れたことである。後十一歳にして夭札(ようさつ夭折)した子である。此年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り撼(うごか)して起たしめたものは、独(ひとり)地震のみではなかつた。
学問はこれを身に体し、これを事に措(お)いて、始て用をなすものである。否(しからざ)るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちににれを事に措かうとはしない。その矻々(こつこつ)として年を閲(けみ)する間には、心頭姑(しばら)く用と無用とを度外に置いてゐる。大いなる功績は此の如くにして始て贏(か)ち得らるゝものである。
この用無用を問はざる期間は、啻に年(とし)を閲するのみでは無い。或は生を終るに至るかも知れない。或は世(よゝ)を累(かさ)ぬるに至るかも知れない。そして此期間に於ては、学問の生活と時務(じむ急務)の要求とが截然として二をなしてゐる。若し時務の要求が漸(やうや)く増長し来つて、強ひて学者の身に薄(せま)つたなら、学者が其学問生活を抛(なげう)つて起(た)つこともあらう。しかし其背面には学問のための損失がある。研鑽はこゝに停止してしまふからである。
わたくしは安政二年に抽斎が喙(くわいくちばし)を時事に容(い)るゝに至つたのを見て、是の如き観をなすのである。
 

 

四十六
米艦が浦賀に入つたのは、二年前(ぜん)の嘉永六年(1853)六月三日である。翌安政元年には正月に艦(ふね)が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾(せうぜう)は名状すべからざるものがあつた。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備の無い軍隊の腑甲斐なさが覗はれる。新将軍家定(いへさだ)の下にあつて、此難局に当つたのは、柏軒、枳園等の主侯(しゆこう)阿部正弘である。
今年(こんねん)に入つてから、幕府は講武所(かうぶしよ)を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘(ぼんしよう)を以て大砲小銃を鋳造すベしと云ふ詔(みことのり)が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れてゐた抽斎も、こゝに至つて寖(やゝ)風潮の化誘(かいう感化)する所となつた。それには当時産蓐(さんじよく)にゐた女丈夫五百の啓沃(けいよく進言)も与つて力があつたであらう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至つた。
津軽順承(ゆきつぐ)は一の進言に接した。これを上(たてま)つたものは用人加藤清兵衛、側用人兼松伴大夫(かねまつはんたゆう)、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能くこれを遵行(じゆんかう)するものは少い。概ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑(いとま)あらざるのである。宜(よろし)く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが貲(し)に充(み)てしめ、年賦に依つて還納せしむべきである。且今より後毎年一度甲冑改(あらため)を行ひ、手入(ていれ)を怠(おこた)らしめざるやうにせられたいと云ふのである。順承はこれを可とした。
此進言が抽斎の意より出で、兼松三郎がこれを承けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたと云ふことは、闔藩(かふはん)皆これを知つてゐた。三郎は石居(せきゝよ)と号した。その隆準(りゆうじゆん高い鼻)なるを以ての故に、抽斎は天狗と呼んでゐた。佐藤一斎、古賀侗庵(とうあん)の門人で、学殖儕輩(せいはい仲間)を超え、嘗て昌平黌の舎長となつたこともある。当時弘前吏胥(りしよ事務官)中の識者として聞えてゐた。
抽斎は天下多事の日に際会して、言(こと)偶(たまたま)政事に及び、武備に及んだが、此の如きは固より其本色(ほんしよく本領)では無かつた。抽斎の旦暮(たんぼ日夜)力を用ゐる所は、古書を講窮し、古義を闡明(せんめい)するにあつた。彼(ひ)は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクション(反応)である。此(し)は学者たる抽斎が、終生従事してゐた不朽の労作である。
抽斎の校勘(かうかん校定)の業は此頃着々進陟(しんちよく)してゐたらしい。森枳園が明治十八年に書いた「経籍訪古志」の跋に、緑汀会(りよくていかい)の事を記して、三十年前だと云つてある。緑汀とは多紀茝庭(さいてい)が本所緑町の別荘である。茝庭は毎月一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村等を此に集へた。諸子は環坐して古本を披閲(ひえつ)し、これが論定をなした。会の後には宴を開いた。さて二州橋上(両国橋上)酔(ゑい)に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰つたと云ふのである。同じ書に、茝庭が此年安政二年より一年の後に書いた跋があつて、「諸子裒録(ほうろく集録)惟(こ)れ勤め、各部頓(とみ)に成る」と云つてあるのを見れば、論定に継ぐに編述(文章化)を以てしたのも、亦当時の事であつたと見える。
わたくしは此年の地震の事を語るに先つて、台所町の渋江の家に座敷牢があつたと云ふことに説き及ぼすのを悲む。これは二階の一室を繞(めぐら)すに四目格子を以てしたもので、地震の日には工事既に竣(をは)つて、其中は猶空虚であつた。若し人が其中にゐたならば、渋江の家は死者を出(いだ)さざることを得なかつたであらう。
座敷牢は抽斎が忍び難きを忍んで、次男優善(やすよし)がために設けたものであつた。
四十七
抽斎が岡西氏徳に生せた三人の子の中、只一人生き残つた次男優善は、少時放恣佚楽(いつらく)のために、頗る渋江一家を困(くるし)めたものである。優善には塩田良三(りやうさん)と云ふ遊蕩夥伴(なかま)があつた。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖を立てゝ歩いたと云ふ楊庵が、家附の女(むすめ婿取り娘)に生せた嫡子である。
わたくしは前に優善が父兄と嗜を異にして、煙草を喫んだと云ふことを言つた。しかし酒は此人の好む所でなかつた。優善も良三も、共に涓滴(けんてきしづく)の量なくして、あらゆる遊戯に耽つたのである。
抽斎が座敷牢を造つた時、天保六年(1835)生の優善は二十一歳になつてゐた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になつてゐた。二人は影の形に従ふ如く、須臾(しゆゝ)も相離るゝことが無かつた。
或時優善は松川飛蝶(ひてふ)と名告つて、寄席に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶と名告つて、共に高座に登つた。鳴物入で俳優の身振声色を使つたのである。しかも優善は所謂心打(しんうち真打)で、良三は其前席を勤めたさうである。又夏になると、二人は舟を藉(か)りて墨田川を上下(じやうか)して影芝居(かげしばゐシルエットによる芝居)を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那である。中にも良三の父は神田松枝町に開業して市人に頓才(とんさい頓知)のある、見立の上手な医者と称せられ、その肥胖(ひはん肥満)のために瞽者(こしや盲)と看錯(みあやま)らるゝ面(おもて)をば汎く識られて、家は富み栄えてゐた。それでゐて二人共に、高座に顔を曬(さら)すことを憚らなかつたのである。
二人は酒量なきに拘らず、町々の料理屋に出入し、又屢吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚故旧(こきう知人)をして償はしめ、度重つて償ふ道が塞がると、跡を晦(くら)ましてしまふ。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、さう云ふ失踪(しつそう)の間の事で、その早晩還り来(きた)るを候(うかゞ)つて此中(うち)に投ぜようとしたのである。
十月二日は地震の日である。空は陰(くも)つて雨が降つたり歇(や)んだりしてゐた。抽斎は此日観劇に往つた。周茂叔連にも逐次に人の交迭(かうてつ)があつて、豊芥子(ほうかいし)や抽斎が今は最年長者として推されてゐたことであらう。抽斎は早く帰つて、晩酌をして寝た。地震は亥の刻(ゐのこく)に起つた。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まつて、震動か漸く勢を増した。寝間にどてらを著(き)て臥(ふ)してゐた抽斎は、撥(は)ね起きて枕元の両刀(りやうたう)を把つた。そして表座敷へ出ようとした。
寝間と表座敷との途中に講義室があつて、壁に沿うて本箱が堆(うづたか)く積み上げてあつた。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎は其間に介(はさ)まつて動くことが出来なくなつた。
五百は起きて夫の後に続かうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶(たす)け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかつた。
抽斎は衣服を取り繕ふ暇もなく、馳せて隠居信順(のぶゆき)を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往つた。信順は柳島の第宅(ていたく)が破損したので、後に浜町の中屋敷に移つた。当主順承(ゆきつぐ)は弘前にゐて、上屋敷には家族のみが残つてゐたのである。
抽斎は留守居比良野貞固(さだかた)に会つて、救恤(きうじゆつ救助)の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米(りんまい備蓄米)二万五千俵を発して、本所の窮民を賑(にぎは)すことを令した。勘定奉行平川半治は此議に与(あづか)らなかつた。平川は後に藩士が悉く津軽に遷(うつ)るに及んで、独り永の暇を願つて、深川に米店を開いた人である。
四十八
抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると住宅は悉く傾き倒れてゐた。二階の座敷牢は粉韲(ふんせい粉微塵)せられて迹(あと)だに留めなかつた。対門(たいもん)の小姓組番頭土屋佐渡守邦直(くになほ)の屋敷は火を失してゐた。
地震は其夜歇んでは起り、起つては歇んだ、町筋毎に損害の程度は相殊つてゐたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かつた。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪(くりん塔の頂上)が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十箇所から起つた火は、三日の朝辰の刻(午前八時)に至つて始て消された。公に届けられた変死者が四千三百人であつた。
三日以後にも昼夜数度の震動があるので、第宅(ていたく)のあるものは庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿(ろしゆく野宿)するものが多かつた。将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、本丸の破損が少かつたので翌朝帰つた。
幕府の設けた救小屋は、幸橋(さいはひばし)外に一箇所、上野に二箇所、浅草に一箇所、深川に二箇所であつた。
是年抽斎は五十一歳、五百は四十歳になつて、子供には陸、水木、専六、翠暫の四人がゐた。矢島優善の事は前に言つた。五百の兄広瀬栄次郎が此年四月十八日に病死して、其父の妾牧は抽斎の許に寄寓した。
牧は寛政二年(1790)生で、初五百の祖母が小間使に雇つた女である。それが享和三年(1803)に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になつた。忠兵衛が文化七年(1810)に紙問屋山一の女くみを娶つた時、牧は二十一歳になつてゐた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家の懐子(ふところご箱入り娘)で、性質が温和であつた。後に五百と安とを生んでから、気象の勝つた五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承け継いでゐると人に言はれたのに徴(ちよう)しても、くみがどんな女であつたかと言ふことは想ひ遣られる。牧は特に悍(かん)と称すべき女でもなかつたらしいが、兎に角三つの年上であつて、世故(せいこ)にさへ通じてゐたから、くみが啻にこれを制することが難かつたばかりでなく、動もすればこれに制せられようとしたのも、固より怪むに足らない。
既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次で文化十四年(1817)に次男某を生むに当つて病に罹り、生れた子と倶に世を去つた。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであつたか、重聴(ちようてい)になつた。其時牧がくみの事を度々聾者(つんぼ)と呼んだのを、六歳になつた栄次郎が聞き咎めて、後までも忘れずにゐた。
五百は六、七歳になつてから、兄栄次郎に此事を聞いて、ひどく憤つた。そして兄に謂つた。「さうして見ると、わたし達には親の敵がありますね。いつか兄いさんと一しよに敵を討たうではありませんか」と云つた。其後五百は折々箒(はうき)に塵払(ちりはらひはたき)を結び附けて、双手(さうしゆ両腕)の如くにし、これに衣服を纏つて壁に立て掛け、さてこれを斫(き)る勢をなして、「おのれ、母の敵、思ひ知つたか」などゝ叫ぶことがあつた。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥(さ)す所を暁(さと)つてゐたが、父は憚つて肯(あへ)て制せず、牧は懾(おそ)れて咎めることが出来なかつた。
牧は奈何にもして五百の感情を和げようと思つて、甘言を以てこれを誘(いざな)はうとしたが、五百は応ぜなかつた。牧は又忠兵衛に請うて、五百に己を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知つてゐて、此の如き手段の却つて其反抗心を激成(げきせい激化)するに至らむことを恐れたのである。
五百が早く本丸に入り、又藤堂家に投じて、始終家に遠(とほざ)かつてゐるやうになつたのは、父の希望があり母の遺志があつて出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶に起臥(おきふし)することを快からず思つて、余所へ出て行くことを喜んだためもある。
かう云ふ関係のある牧が、今寄辺を失つて、五百の前に首(かうべ)を屈し、渋江氏の世話を受けることになつたのである。五百は怨(うらみ)に報ゆるに恩を以てして、牧の老(おい)を養ふことを許した。
四十九
安政三年(1856)になつて、抽斎は再び藩の政事に喙(くちばし)を容れた。抽斎の議の大要はかうである。弘前藩は須(すべから)く当主順承(ゆきつぐ)と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居信順(のぶゆき)以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしと云ふのである。其理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰は其必要を認めないからである。何故と云ふに、原(もと)諸侯の参勤、及これに伴ふ家族の江戸に於ける居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当つて、旧慣を棄て、冗費を節することを謀つてゐる。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷め、府内を行くに家に窓蓋(まどぶた)を設ることを止めたのを見ても、其意向を窺ふに足る。縦令諸侯が家族を引き上げたからと云つて、幕府は最早これを抑留することは無からう。理由の第二は、今の多事の時に方(あた)つて、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに掣肘(せいちう)を加ふること無く、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事ある毎に、藩論が在府党と在国党とに岐(わか)れて、荏苒(じんぜん遅々)決せざることである。甚だしきに至つては、在府党は郷国の士を罵つて国猿(くにざる)と云ひ、その主張する所は利害を問はずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以(ゆゑん)の道でないと云ふのである。
此議は同時に二、三主張するものがあつて、是非の論が盛に起つた。しかし後にはこれに左袒(さたん味方)するものも多くなつて、順承(ゆきつぐ)が聴納(ちやうなふ)しようとした。浜町の隠居信順(のぶゆき)がこれを見て大いに怒つた。信順は平素国猿を憎悪することの尤(もつと)も甚しい一人であつた。
此議に反対したものは、独(ひとり)浜町の隠居のみではなかつた。当時江戸にゐた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかつた。中にも抽斎と親善であつた比良野貞固は、抽斎の此議を唱ふるを聞いて、馳せ来つて論難した。議善からざるにあらずと雖も、江戸に生れ江戸に長じたる士人と其家族とをさへ、悉く窮北(きゆうほく極北)の地に遷さうとするは、忍べるの甚しきだと云ふのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかつた。貞固はこれがために一時抽斎と交を絶つに至つた。
此頃国勝手の議(くにがつてのぎ国元に居よといふ意見)に同意してゐた人々の中、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあつて、彼議を唱へた抽斎等は肩身の狭い念をした。継嗣問題とは当主順承(ゆきつぐ)が肥後国熊本の城主細川越中守斉護(なりもり)の子寛五郎(のぶごらう)承昭(つぐてる)を養はうとするに起つた。順承は女(むすめ)玉姫を愛して、これに婿を取つて家を譲らうとしてゐると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接してゐるために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰ひ受けようとするに至つた。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、此養子を迎ふることを拒まうとし、順承はこれを迎ふるに決したからである。即ち側用人加藤清兵衛、用人兼松伴大夫は帰国の上隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永の蟄居(ちつきよ)を命ぜられた。
石居即ち兼松三郎は後に夢醒と題して七古(しちこ七言古詩)を作つた。中に「又憶(またおもふ)世子(せいし)即世後(そくせいのゝち)、継嗣(けいし)未定(いまださだまらず)物議伝(ぶつぎつたふ)、不顧身分(みぶんをかへりみず)有所建(けんするところあり)、因(よりて)冒譴責(けんせきをおかして)坐北遷(ほくせんにざす)」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈つた。中に「菅公(かんこう)遇譖(たまたまそしられ)、屈原(くつげんは)独清(ひとりきよし)、」と云ふ語があつた。
此年抽斎の次男矢島優善は、遂に素行修まらざるがために、表医者を貶(へん降格)して小普請(こぶしん)医者とせられ、抽斎も亦これに連繋(れんけい)して閉門三日に処せられた。
五十
優善の夥伴(なかま)になつてゐた塩田良三は、父の勘当を蒙つて、抽斎の家の食客となつた。我子の乱行のために譴(せん)を受けた抽斎が、其乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家に居らせたのは、余りに寛大に過ぎるやうであるが、これは才を愛する情が深いからの事であつたらしい。抽斎は人の寸長をも見逭(みのが)さずに、これに保護を加へて、幾ど其瑕疵を忘れたるが如くであつた。年来森枳園を扶掖してゐるのもこれがためである。今良三を家に置くに至つたのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであらう。固より抽斎の許には、常に数人の諸生が養はれてゐたのだから、良三は只此群に新に来り加はつたに過ぎない。
数月の後に、抽斎は良三を安積艮斎の塾に住み込ませた。是より先艮斎は天保十三年(1842)に故郷に帰つて、二本松にある藩学の教授になつたが、弘化元年(1844)に再び江戸に来て、嘉永二年(1849)以来昌平黌の教授になつてゐた。抽斎は彼の終始濂渓の学(れんけいのがく朱子学)を奉じてゐた艮斎とは深く交らなかつたのに、これに良三を託したのは、良三の吏材(りざい)たるべきを知つて、これを培養することを謀つたのであらう。
抽斎の先妻徳の里方(さとかた)岡西氏では、此年(安政三年)七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
栄玄は医を以て阿部家に仕へた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であつたので、抽斎はこれと交を訂(てい)し、遂に其妹徳を娶るに至つたのである。徳の亡くなつた後も、次男優善が其出であるので、抽斎一家は岡西氏と常に往来してゐた。
栄玄は樸直(ぼくちよく木訥)な人であつたが、往々性癖のために言行の規矩(きく程度)を踰ゆるを見た。嘗て八文の煮豆を買つて鼠不入(ねずみいらず戸棚)の中に蔵し、屢其存否を検したことがある。又或日海鰱(ぶり)一尾を携へ来つて、抽斎に遺(おく)り、帰途に再び訪(と)はむことを約して去つた。五百はために酒饌(しゆぜん酒肴)を設けようとして頗る苦心した。それは栄玄が饌(ぜん)に対して奢侈を戒めたことが数次であつたからである。抽斎は遺られた所の海鰱を饗(きやう)することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色(いろ)悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走をすることは、わたしの内(うち)では無い」と云つた。五百が「これはお持たせでございます」と云つたが、栄玄は聞えぬ振をしてゐた。調理法が好過ぎたのであらう。
尤も抽斎をして不平に堪へざらしめたのは、栄玄が庶子苫(とま)を遇することの甚だ薄かつたことである。苫は栄玄が厨下(ちゆうか)の婢(ひ)に生せた女(むすめ)である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」と云つて、板の間に蓙(ござ)を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿してゐたから、これは河東の獅子吼(かとうのしゝく妻の嫉妬)を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであつた。抽斎は五百に議(はか)つて苫を貰ひ受け、後下総の農家に嫁せしめた。
栄玄の子で、父に遅るゝこと僅に四月にして歿した玄亭は、名を徳瑛(とくえい)、字を魯直(ろちよく)と云つた。抽斎の友である。玄亭には二男一女があつた。長男は玄庵、次男は養玄である。女は名を初と云つた。
是年(安政三年)抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であつた。抽斎が平生の学術上研鑽の外に最も多く思(おもひ)を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手の議だと云はなくてはなるまい。此議の応(まさ)に及ぼすべき影響の大きさと、此議の打ち克たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識してゐた所であらう。抽斎は又自己が其位にあらずして言ふことの不利なるをも知らなかつたのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢てしたのは、必ず内に已むことを得ざるものがあつて敢てしたのであらう。憾むらくは要路に取つてこれを用ゐる手腕のある人が無かつたゝめに、弘前は遂に東北諸藩の間に於て一頭地を抜いて起つことが出来なかつた。又遂に勤王の旗幟(きし)を明にする時期の早きを致すことが出来なかつた。  
 

 

五十一
安政四年(1857)には抽斎の七男成善(しげよし)が七月二十六日を以て生れた。小字(をさなゝ)は三吉(さんきち)、通称は道陸(だうりく)である。即ち今の保さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣(えな胎盤)を乞ひに来た。玄庵は父玄亭に似て夙慧(しゆくけい早熟)であつたが、嘉永三、四年(1850-1851)の頃癲癇を病んで、低能の人と化してゐた。天保六年(1835)の生であつたから、病を発したのが十六七歳の時で、今は二十三歳になつてゐる。胞衣を乞ふのは、癲癇の薬方として用ゐんがためであつた。
抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善(しげよし)の胞衣を持つて帰つた。此時これを惜んで一夜を泣き明したのは、昔抽斎の父允成の茶碗の余瀝を舐つたと云ふ老尼妙了(めうれう)である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓してゐて、毎(つね)に小児の世話をしてゐたが、中にも抽斎の三女棠を愛し、今又成善の生れたのを見て、大いにこれを愛してゐた。それゆゑ胞衣を玄庵に与へることを嫌つた。俗説に胞衣を人に奪はれた子は育たぬと云ふからである。
此年前に貶黜(へんちつ降格)せられた抽斎の次男矢島優善(やすよし)は、纔かに表医者介を命ぜられて、半(なかば)其位地を回復した。優善の友塩田良三は安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入れられてゐたが、或日師の金百両を懐にして長崎に奔(はし)つた。父揚庵は金を安積氏に還し、人を九州に遣つて子を連れ戻した。良三はまだ残の金を持つてゐたので、迎へに来た男を随へて東上するのに、駅々で人に傲(おご)ること貴公子の如くであつた。此時肥後国熊本の城主細川越中守斉護(なりもり)の四子寛五郎(のぶごらう)は、津軽順承(ゆきつぐ)の女壻にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあつた。斉護は子をして下情(かじやう世情)に通ぜしめんことを欲し、特に微行(びかうお忍び)を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としてゐた。驕子(けうしどら息子)良三は往々(わうわうしばしば)五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を凌いで、旅中下風(かふう)に立つてゐる少年の誰なるかを知らずにゐた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁(わづか)に十七歳であつた。
小野氏では此年令図(れいと)が致仕して、子富穀(ふこく)が家督した。令図は小字を慶次郎と云ふ。抽斎の祖父本皓(ほんかう)の庶子で、母を横田氏よのと云ふ。よのは武蔵国川越の人某の女である。令図は出でゝ同藩の医官二百石小野道秀の末期養子となり、有尚(いうしやう)と称し、後又道瑛と称し、累進(るいしん出世)して近習医者に至つた。天明三年(1783)十一月二十六日生で、致仕の時七十五歳になつてゐた。令図に一男一女があつて、男を富穀と云ひ、女を秀と云つた。
富穀、通称は祖父と同じく道秀と云つた。文化四年(1807)の生である。十一歳にして、森枳園と共に抽斎の弟子となつた。家督の時は表医者であつた。令図、富穀の父子は共に貨殖(くわしよく利殖)に長じて、弘前藩定府中の富人であつた。妹秀は長谷川町の外科医鴨池道碩(かもいけだうせき)に嫁した。
多紀氏では此年二月十四日に、矢の倉の末家の茝庭が六十三歳で歿し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年武鑑は、茝庭が既に逝いて、暁湖が猶存してゐた時に成つたもので、茝庭の子安琢(あんたく)が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せてあり、暁湖は旧に依つて多紀安良法眼二百俵、父安元として載せてある。茝庭の楽真院を、武鑑には前から楽春院に作つてある。その何の故なるを詳にしない。
五十二
茝庭(さいてい)、名は元堅(げんけん)、字は亦柔(えきじう)、一に三松(さんしよう)と号す。通称は安叔(あんしゆく)、後(のち)楽真院又楽春院と云ふ。寛政七年(1795)に桂山(けいざん)の次男に生れた。幼時犬を闘はしむることを好んで、学業を事としなかつたが、人が父兄に若かずと云ふを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になつて見せるから」と云つてゐた。幾(いくばく)もなくして節を折つて(意思を曲げて)書を読み、精力衆に踰(こ)え、識見人を驚かした。分家した初は本石町(ほんこくちやう)に住してゐたが、後に矢の倉に移つた。侍医(じい)に任じ、法眼(ほふげん)に叙せられ、次で法印(ほふいん)に進んだ。秩禄(ちつろく)は宗家と同じく二百俵三十人扶持である。
茝庭は治を請ふものがあるときは、貧家と雖も必ず応じた。そして単に薬餌(やくじ)を給するのみでなく、夏は蚊幮(かや)を貽(おく)り、冬は布団を遺(おく)つた。又三両から五両までの金を、貧窶(ひんる貧苦)の度に従つて与へたこともある。
茝庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であつた。しかし当時法印の位は太(はなは)だ貴いもので、茝庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり蓋のある茶碗に注(つ)ぎ、菓子は高坏(たかつき)に盛つて出した。此器は大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限つて用ゐたさうである。茝庭の後は安琢が嗣いだ。
暁湖、名は元マ(げんきん)、字は兆寿(てうじゆ)、通称は安良(あんりよう)であつた。桂山の孫、柳沜(りうはん)の子である。文化三年(1806)に生れ、文政十年(1827)六月三日に父を喪つて、八月四日に宗家を継承した。暁湖の後を襲いだのは養子元佶(げんきつ)で、実は季(すゑ)の弟である。
安政五年(1858)には二月二十八日に、抽斎の七男成善(しげよし)が藩主津軽順承(ゆきつぐ)に謁した。年甫(はじめ)て二歳、今の齢を算する法に従へば、生れて七箇月であるから、人に懐(いだ)かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められてゐたので、此日だけば八歳と披露したのださうである。
五月十七日には七女幸(さき)が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
此年には七月から九月に至るまで虎列拉(コレラ)が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々御勝不被遊(すぐれあそばされず)」と云ふことであつたが、八日には忽ち薨去(こうきよ)の公報が発せられ、家斉の孫紀伊宰相慶福(よしとみ)が十三歳で嗣立(しりつ)した。家定の病は虎列拉であつたさうである。
此頃抽斎は五百にかう云ふ話をした。「己(おれ)は公儀へ召されることになるさうだ。それが近い事で公方様の喪(も)が済み次第仰付けられるだらうと云ふことだ。しかしそれをお請(うけ)をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではゐられない。己は元禄以来重恩の主家を棄てゝ栄達を謀る気にはなられぬから、公儀の方を辞する積だ。それには病気を申立てる。さうすると、津軽家の方で勤めてゐることも出来ない。己は隠居することに極めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなつたから、己も兼て五十九歳になつたら隠居しようと思つてゐた。それが只少しばかり早くなつたのだ。若し父と同じやうに、七十四歳まで生きてゐられるものとすると、これから先まだ二十年程の月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先づ「老子」の註を始として、迷庵棭斎に誓つた為事(しごと)を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」と云つた。公儀へ召されると云つたのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎は其内命を受けてゐたのであらう。然るに運命は抽斎をして此ヂレンマの前に立たしむるに至らなかつた。又抽斎をして力を述作に肆(ほしいまま)にせしむるに至らなかつた。
五十三
八月二十二日に抽斎は常の如く晩餐の饌(ぜん)に向つた。しかし五百が酒を侑(すゝ)めた時、抽斎は下物(げぶつ酒の肴)の魚膾(さしみ)に箸(はし)を下さなかつた。「なぜ上らないのです」と問ふと、「少し腹工合が悪いからよさう」と云つた。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であつたのを、所労を以て辞した。此日に始て嘔吐があつた。それから二十七日に至るまで、諸証(しよしよう病状)は次第に険悪になるばかりであつた。
多紀安琢、同元佶、伊沢柏軒、山田椿庭(ちんてい)等が病牀(びようしよう)に侍して治療の手段を尽したが、功を秦せなかつた。椿庭、名は業広(げふくわう)、通称は昌栄(しやうえい)である。抽斎の父允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮(うきやうのすけ)輝聡(てるとし)の家来で、本郷弓町に住んでゐた。
抽斎は時々(じゞ)譫語(ぜんごうわごと)した。これを聞くに、夢寐(むび)の間に「医心方」を校合(けうがふ)してゐるものの如くであつた。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言の中に、兼て嗣子と定めてあつた成善(しげよし)を教育する方法があつた。経書を海保漁村に、筆札を小島成斎に、「素問」(中国の医学書)を多紀安琢に受けしめ、機を看て蘭語を学ばしめるやうにと云ふのである。
二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であつた。遺骸は谷中感応寺に葬られた。
抽斎の歿した跡には、四十三歳の未亡人五百を始として、岡西氏の出(しゆつ嫁の子)次男矢島優善二十四歳、四女陸十二歳、六女水木六歳、五男専六五歳、六男翠暫(すいざん)四歳、七男成善二歳の四子二女が残つた。優善を除く外は皆山内氏五百の出である。
抽斎の子にして父に先つて死んだものは、尾島氏の出長男恒善、比良野氏の出馬場玄玖(げんきう)妻長女純(いと)、岡西氏の出二女好(よし)、三男八三郎、山内氏の出三女山内棠(たう)、四男幻香、五女癸巳(きし)、七女幸(さき)の三子五女である。
矢島優善は此年二月二十八目に津軽家の表医者にせられた。初の地位に復したのである。
五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に先つこと一月、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、塗物問屋の業はこゝに廃絶した。跡に遺つたのは未亡人安(やす)四十四歳、長女敬(けい)二十一歳、次女銓(せん)十九歳の三人である。五百は台所町の邸の空地(くうち)に小さい家を建てゝこれを迎へ入れた。五百は敬に壻を取つて長尾氏の祀(まつり祖先)を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予(いうよ躊躇)して決することが出来なかつた。
比良野貞固は抽斎の歿した直後から、連(しきり)に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はかう云つた。「自分は一年前に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になつてゐた。しかし抽斎との情誼を忘るゝことなく、早晩疇昔(ちうせき)の親みを回復しようと思つてゐるうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室が多い。どうぞそこへ移つて来て、我家に住む如くに住んで貰ひたい。自分は貧しいが、日々の生計には余裕がある。決して衣食の価は申し受けない。さうすれば渋江一家は寡婦孤児として受くべき侮(あなどり)を防ぎ、無用の費(つひえ)を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来よう」と云つたのである。
五十四
比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎へようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を識らぬのであつた。五百は人の廡下(ぶか軒下)に倚(よ)ることを甘んずる女では無かつた。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと勿論である。夫の存命してゐた時のやうに、多くの奴婢を使ひ、食客を居(お)くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婢にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の中には去らしめようにも往(ゆ)いて投ずべき家の無いものもある。長尾氏の遺族の如きも、若し独立せしめようとしたら、定めて心細く思ふことであらう。五百は己が人に倚らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかつた。そして内に恃(たの)む所があつて、敢て自ら此衝(しよう)に当らうとした。貞固の勧誘の功を秦せなかつた所以である。
森枳園は此年十二月五日に徳川家茂(いへもち)に謁した。寿蔵碑には「安政五年戊午十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、此年月日は家定が薨じてから四月(しげつ)の後である。その枳園自撰の文なるを思へば、頗る怪むべきである。枳園が謁した筈の家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であつた。
此年の虎列拉は江戸市中に於て二万八千人の犠牲を求めたのださうである。当時の聞人(ぶんじん有名人)でこれに死したものには、岩瀬京山、安藤広重、抱一(酒井)門の鈴木必庵(絵師)等がある。市河米庵(書家)も八十歳の高齢ではあつたが、同じ病であつたかも知れない。渋江氏と其姻戚(いんせき親戚)とは抽斎、宗右衛門の二人を喪つて、安、五百の姉妹が同時に未亡人となつたのである。
抽斎の著す所の書には、先づ「経籍訪古志」と「留真譜(りうしんふ)」とがあつて、相踵(あいつ)いで支那人の手に由つて刊行せられた。これは抽斎と其師、其友との講窮(かうきゆう研究)し得たる果実で、森枳園が記述に与つたことは既に云へるが如くである。抽斎の考証学の一面は此二書が代表してゐる。徐承祖が「訪古志」に序して、「大抵(たいていは)論繕写刊刻之工(ぜんしやかんこくのこうをろんじ)、拙於考証(かうしようにおいてつたなく)、不甚(はなはだしくは)留意(りういせず)」と云つてゐるのは、我国に於て初て手を校讐(かうしう校合)の事に下した抽斎等に対して、備はるを求むることの太(はなた)だ過ぎたるものではなからうか。
我国に於ける考証学の系統は、海保漁村に従へば、吉田篁墩(くわうとん)が首唱し、狩谷棭斎がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁墩の傍系には多紀桂山があり、棭斎の傍系には市野迷庵、多紀茝庭(さいてい)、伊沢蘭軒、小島宝素(ほうそ)があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島抱沖(はうちゆう)、堀川舟庵と漁村自己とがあると云ふのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、和泉橋通に住してゐた。名は尚質(しやうしつ)、一字(じ)は学古(がくこ)である。抱沖は其子春沂(しゆんき)で、百俵寄合医師から出て父の職を襲ぎ、家は初め下谷二長町(にちやうまち)、後日本橋榑正町(くれまさちやう)にあつた。名は尚真(しやうしん)である。春沂の後は春澳(しゆんゐく)、名は尚絅(しやうけい)が嗣いだ。春澳の子は現に北海道室蘭にゐる杲一(かういち)さんである。陸実(くがみのる)が新聞「日本」に抽斎の略伝を載せた時、誤つて宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に迨(いた)るまで誰もこれを匡さずにゐる。又此学統に就いて、長井金風さんは篁墩の前に井上蘭台と井上金峨とを加へなくてはならぬと云つてゐる。要するに此等の諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、方(まさ)に纔に全著(ぜんちよ全作)を成就するに至つたのである。
わたくしは「訪古志」と「留真譜」との二書は、今少し重く評価して可なるものであらうと思ふ。そして頃日(けいじつ最近)国書刊行会が「訪古志」を「解題叢書」中に収めて縮刷し、其伝を弘むるに至つたのを喜ぶのである。
五十五
抽斎の医学上の著述には、「素問識小(しきせう)」、「素問校異(かうい)」、「霊枢(れいすう)講義」がある。就中「素問」は抽斎の精を殫(つく)して研窮(けんきゆう)した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が「説文」を引いて「素問」の「陰陽結斜」は「結糾」の訛(か誤)なりと説いたことが載せてある。又「七損八益」を説くに、「玉房(ぎよくばう)秘訣」を引いて説いたことが載せてある。「霊枢」の如きも「不精(せいならざれば)則(すなはち)不正当(せいたうたらず)人言(じんげん)亦(また)人人異(じんじんことなる)」の文中、抽斎が正当を連文(れんぶん熟語)となしたのを賞してある。抽斎の説には発明極て多く、此の如き類は其一斑(いつばん一部)に過ぎない。
抽斎遺す所の手沢本には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には「老子」がある。「難経(鍼灸の本)」がある。
抽斎の詩は其余事に過ぎぬが、猶「抽斎吟稿」一巻が存してゐる。以上は漢文である。
「護痘要法」は抽斎が池田京水の説を筆受したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
雑著には「晏子(あんし)春秋筆録」、「劇神仙話」、「高尾考」がある。「劇神仙話」は長島五郎作の言(こと)を録したものである。「高尾考」は惜むらくは完書をなしてゐない。
「ゑい(衛+心)語」は抽斎が国文(こくぶん漢文でないこと)を以て学問の法程を記して、及門(きゆうもん入門)の子弟に示す小冊子に命じた名であらう。此文の末尾に「天保辛卯(しんばう)季秋(きしゆう晩秋)抽斎酔睡(すいすい)中にゑい(衛+心)言す」と書してある。辛卯は天保二年(1831)で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存してゐる一巻には、此国文八枚が紅色(こうしよく)の半紙に写してあつて、其前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が合綴(がふてつ綴じ合わす)してある。其目(もく)を挙ぐれば、煩悶異文弁(いぶんべん)、仏説(ぶつせつ)阿弥陀経碑、春秋外伝国語跋(ばつ後書)、荘子注疏跋、儀礼跋、八分書(はちふんしよ)孝経(かうきやう)跋、橘録(きつろく中国の書物)跋、冲虚(ちゆうきよ)至徳(しとく)真経(しんきやう)釈文(しやくぶん解釈)跋、青帰書目蔵書(市野迷庵の蔵書)目録跋、活字板左伝跋、宋本校正病源候論跋、元板(げんはん)再校千金方跋、書医心方後、知久吉正翁墓碣(ぼけつ)、騎駝考、癱瘓(たんたん)、論語義疏跋、告(つぐ)蘭軒先生之霊(らんけんせんせいのれいに)の十八篇である。此一冊は表紙に「ゑい(衛+心)語、抽斎述」の五字が篆文で題してあつて、首尾渾(すべ)て抽斎の自筆である。徳富蘇峰さんの蔵本になつてゐるのを、わたくしは借覧した。
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已に佚亡(いつばう)したものもある。就中日記は文政五年(1822)から安政五年(1858)に至るまでの三十七年間に亘る記載であつて、裒然(ほうぜん膨大)たる大冊数十巻をなしてゐた。これは上(かみ)直ちに天明四年(1784)から天保八年(1837)に至るまでの四十二年間の允成の日記に接して、其中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年問は父子の記載が並存してゐたのである。此一大記録は明治八年二月に至るまで、保さんが蔵してゐた。然るに保さんは東京から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛(りやうがけ行李)に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護を加ふることを怠つた。そして悉くこれを失つてしまつた。両掛の中には猶前記の抽斎随筆等十余冊があり、又允成の著す所の「定所雑録」等約三十冊があつた。想ふに此諸冊は既に屏風襖(ふすま)葛籠(つゞら)等の下貼の料となつたであらうか。それとも何人(なにびと)かの手に帰して、何処かに埋没してゐるであらうか。これを捜討せんと欲するに、由るべき遺が無い。保さんは今に迨(いた)るまで歎惜(たんせき)して已(や)まぬのである。
「直舎伝記抄」八冊は今富士川游さんが蔵してゐる。中に題号を闕(か)いたものが三冊交つてゐるが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。上は宝永元年(1704)から下は天保九年(1838)に至る。所々に善云(ぜんいはく)と低書(ていしよ)した註がある。宝永元年から天明五年(1785)に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として「津軽一統志」、「津軽軍記」、「津陽(しんやう)開記」、「御系図三通」、「歴年亀鑑」、「孝公行実(ぎやうじつ)」、「常福寺由緒書」、「津梁院過去帳抄」、「伝聞雑録」、「東藩名数」、「高岡霊験記」、「諸書案文」、「藩翰譜」が挙げてある。これは諸書に就いて、主に弘前医官に関する事を抄出したものであらう。
「四つの海」は抽斎の作つた謡物(うたひもの)の長唄である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた「護痘要法」と倶に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の綴文(とぢぶみ)である。
「仮面の由来」、これも亦片々(へんぺん)たる小冊子である。
 

 

五十六
「呂后千夫」は抽斎の作つた小説である。庚寅の元旦に書いたと云ふ自序があつたさうであるから、其前年に成つたもので、即ち文政十二年(1829)二十五歳の時の作であらう。此小説は五百が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあつて、五百は数遍読過(どくゝわ)したさうである。或時それを筑山左衛門と云ふものが借りて往つた。筑山は下野国足利の名主だと云ふことであつた。そして終(つひ)に還さずにしまつた。以上は国文で書いたものである。
此著述の中刊行せられたものは「経籍訪古志」、「留真譜」、「謹痘要法」、「四つの海」の四種に過ぎない。其他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の「ゑい語」、宮士川游さんの所蔵の「直舎伝記抄」及已に散佚した諸書を除く外は、皆保さんが蔵してゐる。
抽斎の著述は概ね是の如きに過ぎない。致仕した後に、力を述作に肆にしようと期してゐたのに、不幸にして疫癘(えきれい疫病)のために命を隕(おと)し、曾て内に蓄ふる所のものが、遂に外に顕るゝに及ばずして已んだのである。
わたくしは此に抽斎の修養に就いて、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取つて渾侖(こんろん)に承認すべきものでは無い。是に於て考証家の末輩には、破壊を以て校勘の目的となし、毫もビエテエ(敬虔)の迹を存せざるに至るものもある。支那に於ける考証学亡国論の如きは、固より人文進化の道を蔽塞すべき陋見(ろうけん)であるが、考証学者中に往々修養の無い人物を出だしたと云ふ暗黒面は、其存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するやうな事はしない。只修養の全からんことを欲するには、考証を闕くことは出来ぬと信じてゐる。何故と云ふに、修養には六経(りくけい)を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須(ま)つことがあると云ふのである。
抽斎は其「ゑい語」中にかう云つてゐる。「凡そ学問の道は、六経を治め聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。扨其六経を読み明めむとするには必ず其一言一句をも審(つまびらか)に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、文字の音義(おんぎ音と意味)を詳(つまびらか)にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、先づ善本を多く求めて、異同を比讐(ひしゆう校合)し、謬誤(びうご)を校正し、其字句を定めて後に、小学(読み方)に熟練して、義理(ぎり意味)始て明了なることを得。譬へば高きに登るに、卑(ひく)きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕(さいさい微細)の末業に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること能はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき大業に似たれども、其内主とする所の書を専ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に随ひて教を受くべき所なり。さて斯の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大遺微意に通達すること必ず成就すべし」と云つてゐる。
これは抽斎の本領を道破(だうは言い切る)したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁りて修養して好いか分からぬことになると云ふのである。さて抽斎の此の如き見解は、全く師市野迷庵の教に本づいてゐる。
五十七
迷庵の考証学が奈何なるものかと云ふことは、「読書指南」に就いて見るべきである。しかし其要旨は自序一篇に尽されてゐる。迷庵はかう云つた。
「孔子は堯舜三代の道を述べて、其流義を立て給へり。堯舜より以下を取れるは、其事の明に伝はれる所なればなり。されども春秋の比(ころ)にいたりて、世変り時遷りて、其道一向に用ゐられず。孔子も遣つては見給へども、遂に行かず。終に魯に還り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を精出して覚ゆるがよし。次に九経(きゆうけい「論語」など)をよく読むべし。漢儒の注解はみな古より伝受あり。自分の臆説をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時程頤、朱熹等己が学を建てしより、近来伊藤源佐(仁斎)、荻生惣右衛門(徂徠)などゝ云ふやから、みな己の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇(まつくら)になりてわからず。余も亦少かりしより此事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の旨にしたがひて、それぞれの古書をよむがよしと思へり」と云つた。
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由つて至るより外無いと信じたのである。固よりこれは捷径(しようけい近道)では無い。迷庵が精出して文字を覚えると云ひ、抽斎が小学に熟練すると云つてゐる此事業は、これがために一人(いちにん)の生涯を費すかも知れない。幾多のジェネラシヨン(世代)の此間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものが無いとすると、学者は此に従事せずにはゐられぬのである。
然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑が無くなりはせぬか。いや。さうでは無い。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつゝ、不断の修養をなすことが出来る。
抽斎はそれをかう考へてゐる。百家の書に読まないで好いものは無い。十三経と云ひ、九経と云ひ、六経と云ふ。列(なら)べ方はどうでも好いが、秦火(しんか焚書坑儒)に焚かれた楽経(がくけい)は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と事々しく云へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも過猶不及(すぎたるはなほおよばざるがごとし)を身行(しんかう行動)の要(かなめ)とし、無為不言(ぶいふげん)を心術の掟(おきて)となす。此二書をさへ能く守ればすむ事なり」と云ふのである。
抽斎は百尺竿頭(ひやくせきかんとう論じ尽して)更に一歩を進めてかう云つてゐる。
「但論語の内には取捨すべき所あり。王充(わうじゆう)書(「論衡」)の問孔篇(もんこうへん)及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべき」と云つてゐる。王充の所謂「夫(それ)聖賢(せいけんの)下筆(ふでをくだし)造文(ぶんをつくるや)、用意(いをもちゐて)詳審(くはしくつまびらかにするも)、尚未(なほいまだ)可謂(いふべからず)尽(ことごとくは)得実(じつをうと)、況(いはんや)倉卒(そうそつの)吐言(とげん)、安(いづくんぞ)能(よく)皆(みな)是(ぜならなんや)」と云ふ見識である。
抽斎が「老子」を以て「論語」と並称するのも、師迷庵の説に本づいてゐる。「天は蒼々として上(かみ)にあり。人は両間(りやうかん天地の間)に生れて性皆相近し。習(ならひ)相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。其れ是歟(これか)。孔子曰。述而(のべて)不作(つくらず)。信而(しんじて)好古(いにしへをこのむ)、窃(ひそかに)比(ひす)於我(われを)老彭(ろうほうに)。かく宣給ふときは、孔子の意も亦自然に相近し」と云つたのが即ち是である。
五十八
抽斎は老子を尊崇せむがために、先づこれをヂスクレヂイ(不評)に陥いれた仙術を、道教の畛域(しんいき)外に逐ふことを謀つた。これは早く清の方維甸(はういでん)が嘉慶板(かけいばん)の「抱朴子(はうぼくし)」に序して弁じた所である。さて此洗冤(せんえん冤罪を晴らす)を行つた後にかう云つてゐる。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。不患人不己知(ひとのおのれをしらざるをうれへず)及曾子の有若無(あれどもなきがごとく)実若虚(じつなれどもきよなるがごとし)などゝ云へる、皆老子の意に近し。且自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又仏家(ぶつか)に漠然(まくねん)に帰すると云ふことあり。是れ空に体する大乗の教なり。自然と云ふより一層あとなき言(こと)なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も孝悌仁羲より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その一以貫之(いちもつてこれをつらぬく)は此教を一にして執中(しつちゆう中庸)に至り初て仏家大乗の一場(いちゞやう)に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」と云つてゐる。
抽斎は終に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。若し此人が旧新約書を読んだなら、或は其中にも契合(けいがふ符合)点を見出だして、彼の安井息軒の「弁妄」などゝ全く趣を殊にした書を著したかも知れない。
以上は抽斎の手記した文に就いて、其心術身行の由つて来る所を求めたものである。此外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは五百が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日保さんがわたくしのために筆に上せたのである。わたくしは今漫に潤削を施すことなしに、これを此に収めようと思ふ。
抽斎は日常宋儒の所謂虞廷の十六字を口にしてゐた。彼の「人心惟(これ)危(あやふく)、道心惟(これ)微(びなり)、惟精(これせい)惟一(これいつ)、允(まことに)執(とる)厥中(そのちゆうを)」の文である。上の三教帰一の教は即ち是である。抽斎は古文尚書(「書経」)の伝来を信じた人では無いから、此を以て堯の舜に告げた言となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、古言古義として尊重したのであらう。そして惟精惟一の解釈は王陽明に従ふべきだと云つてゐたさうである。
抽斎は「礼」の「清明在躬(みにあれば)、志気如神(かみのごとし)」の句と、「素問」の上古天真論の「恬惔(てんたんとして)處無(きよむならば)、真気(しんき)従之(これにしたがふ)、精神内守(うちにまもれば)、病安(いづんぞ)従来(したがひきたらん)」の句とを誦(しよう)して、修養して心身の康寧(かうねい平安)を致すことが出来るものと信じてゐた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を飼らない。腹痛は幼い時にあつたが、壮年に及んでからは絶て無かつた。しかし虎列拉の如き細菌の伝染をば奈何ともすることを得なかつた。
抽斎は自ら戒め人を戒むるに、屢沢山咸(たくざんかん易)の「九四爻(きうしかう)」を引いて云つた。学者は仔細に「憧々(しようしようとして)往来(わうらいすれば)、朋従(ともはしたがふ)爾思(なんぢのおもひに)」(「易経」)と云ふ文を味ふべきである。即ち「君子素其位而行(そのくらゐをそにしておこなひ)、不願乎(ねがはず)其外(そのほかを)」(「中庸」)の義である。人は其地位に安んじてゐなくてはならない。父允成が居る所の室を容安室と名づけたのは、これがためである。医にして儒を羨(うらや)み、商にして士を羨むのは惑へるものである。「天下何思何慮(なにをかおもんばからん)、天下同帰(きをおなじくして)而殊塗(みちをことにし)、一致而(ちをいつにして)百慮(りよをひやくにす)」と云ひ、「日往則月来、月往則日来、日月相推(あひおして)而明生(ひかりうまる)焉、寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推而歳成(としなる)焉」(「易経」)と云ふが如く、人の運命にも亦自然の消長がある。須(すべから)く自重して時の到るを待つべきである。「尺蠖(せきくわく尺取り虫)之屈(くつするは)、以(もつて)求信(のびんことをもとむる)也、龍蛇(りようだ)之蟄(かくるゝは)、以存身(みをながらへる)也」(「易経」)とは是の謂であると云つた。五百の兄広瀬栄次郎が已に町人を罷めて金座の役人となり、其後久しく金の吹替(ふきかへ改鋳)が無いのを見て、又業を更(あらた)めようとした時も、抽斎は此爻(かう)を引いて諭した。
五十九
抽斎は屢地雷復の「初九爻(しよきゆうかう)」を引いて人を諭した。「不遠復(とほからずかへる)无祗悔(くいにいたることなし)」(「易経」)の爻である。過を知つて能く改むる義で、顔淵の亜聖たる所以は此に存すると云ふのである。抽斎はいつもその跡で言ひ足した。しかし、顔淵の好処(かうしよ長所)は啻に此のみでは無い。「回之為人也(かいのひとゝなりや)、択乎中庸(ちゆうようをえらび)、得一善(いちぜんをうれば),則(すなはち)拳拳服膺(けんけんふくよう)、而弗失之(これをうしなはず)矣」(「中庸」)と云ふのが是である。孔子が子貢に謂つた語に、顔淵を賞して、「吾与女(われなんぢと私もお前も)、弗如也(しかざるなり顔淵に劣る)」と云つたのも、これがためであると云つた。
抽斎は嘗て云つた。「為政(まつりごとをなすに)以徳(とくをもつてすれば)、譬(たとへば)如(ごとし)北辰(ほくしん北極星)、居其所(そのところにゐて)、而衆星(しゆうせい)共之(これにむかふが)」(「論語」為政一)と云ふのは、独(ひとり)君道を然りとなすのみでは無い。人は皆奈何(いかに)したら衆星が己に共(むか)ふだらうかと工夫しなくてはならない。能くこれを致すものは即ち「給(けつく人助け)之道」である。韓退之は「其責己也(そのおのれをせむるや)重以周(おもくしてもつてあまねく)、其待人也(そのひとをまつや)軽以約(かくしてもつてやくす)」と云つた。人と交るには、其長を取つて、短を咎めぬが好い。「無求(もとむることなかれ)備(そなはるを)於一人(いちにんに)」(「論語」微子十)と云ひ、「及其使人也(そのひとをつかふにおよびてや)器之(これをきとす人はその才能に応じて使ふべし)」(「論語」子路二五)と云ふは即ち是である。これを推し広めて云へば、「老子」の「治大国(たいこくをおさむるは)、若烹小鮮(せうせんをにるがごとし小魚を料理するのと同じ)」(六十章)と云ふ意に帰着する。「大道廃(だいだうすたれて)有仁義(じんぎあり)」と云ひ、「聖人不死(しせざれば)、大盗不止(やまず聖人がいるうちは大泥棒もなくならない)」(「荘子」胠篋第十)と云ふのも、其反面を指(ゆびさ)して言つたのである。己も往事を顧れば、動(やゝ)もすれば給(けつく)の道に於て闕くる所があつた。妻岡西氏徳を疎んじたなどもこれがためである。幸に父に匡救(きやうきう注意)せられて悔い改むることを得た。平井東堂は学あり識ある傑物である。然るに其父は用人(藩の重役)たることを得て、己は用人たることを得ない。己はその何故なるを知らぬが、修養の足らざるのも亦一因をなしてゐるだらう。比良野助太郎は才に短であるが、人は却つてこれに服する。賦性(ふせい天性)が自ら給驍フ道に愜(かな)つてゐるのであると云つた。
抽斎は又云つた。孟子の好処は尽心(じんしん)の章にある。「君子有三楽(さんらくあり)、而(しかも)王天下(てんかにわうたるは)、不与存(あづかりそんせず)焉、父母倶存(ともにそんし)、兄弟無故(ことなきは)、一楽也、仰(あふぎて)不愧於天(てんにはぢず)、俯(ふして)不怍於人(ひとにはぢざるは)、二楽也、得(えて)天下英才、而教育之、三楽也」と云ふのが是である。「韓非子」は主道、揚権(やうけん)、解老(かいらう)、喩老(ゆらう)の諸篇が好いと云つた。
此等の言(こと)を聞いた後に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人(たれひと)もそゆ言行一致を認めずにはゐられまい。抽斎は内(うち)徳義を蓄へ、外(ほか)誘惑を卻(しりぞ)け、恒に己の地位に安んじて、時の到るを待つてゐた。我等は抽斎の一たび徴(め)されて起つたのを見た。その躋寿館の講師となつた時である。我等は抽斎の将に再び徴されて辞せむとするのを見た。恐らくはその応(まさ)に奥医師たるべき時であつただらう。進むべくして進み、辞すべくして辞する。その事に処するに、綽々として余裕があつた。抽斎の咸(かん)の九四を説いたのは虚言では無い。
抽斎の森枳園に於ける、塩田良三に於ける、妻岡西氏に於ける、その人を待つこと寛宏なるを見るに足る。抽斎は給驍フ道に於て得る所があつたのである。
抽斎の性行とその由つて来る所とは、略(ほゞ)上述の如くである。しかしこゝに只一つ剰(あま)す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして悉く岐路に立たしめた。勤王に之(ゆ)かむか、佐幕に之かむか。時代は其中間に於て鼠いろの生を偸(ぬす)むことを容(ゆる)さなかつた。抽斎はいかにこれに処したか。
此問題は抽斎をして思慮を費さしむることを要せなかつた。何故と云ふに、渋江氏の勤王は既に久しく定まつてゐたからである。
六十
渋江氏の勤王は其源委(げんい原因)を詳にしない。しかし抽斎の父允成に至つて、師柴野栗山に啓発せられたことは疑を容れない。允成が栗山に従学した年月は明でないが、栗山が五十三歳で幕府の召(めし)に応じて江戸に入つた天明六年(1786)には、允成が丁度二十五歳になつてゐた。家督してから四年の後である。允成が粟山の門に入つたのは、恐らくは其後久しきを経ざる間の事であつただらう。これは栗山が文化四年十二月朔に七十二歳で歿したとして推算したものである。
允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であつたことは、其詠史(えいし史実を歌ふ)の諸作に徴して知ることが出来る。此詩は維新後森枳園が刊行した。抽斎は啻に家庭に於て王室を尊崇する心を養成せられたのみでなく、又迷庵の説を聞いて感奮(かんぷん)したらしい。
抽斎の王室に於ける、常に耿々(かうかう憂ひ)の心を懐いてゐた。そして曾て一たびこれがために身命を危くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、憾むらくは其月日を詳にしない。しかし本所に於ての出来事で、多分安政三年(1856)の頃であつたらしいと云ふことである。
或日手島良助と云ふものが抽斎に一の秘事を語つた。それは江戸にある某貴人の窮迫の事であつた。貴人は八百両の金が無いために、将に苦境に陥らんとしてをられる。手島はこれを調達せむと欲して奔走してゐるが、これを獲る道が無いと云ふのであつた。抽斎はこれを聞いて慨然(がいぜん悲嘆)として献金を思ひ立つた。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を先取(さきどり)することの出来る無尽講を催した。そして親戚故旧を会して金を醵出せしめた。
無尽講の夜、客が已に散じた後、五百は沐浴してゐた。明朝金を貴人の許に齎さむがためである。此金を上(たてまつ)る日は予め手島をして貴人に稟(まを)さしめて置いたのである。
抽斎は忽ち剥啄(はくたくノック)の声を聞いた。仲間が誰何すると、某貴人の使だと云つた。抽斎は引見した。来たのは三人の侍である。内密に旨を伝へたいから、人払をして貰ひたいと云ふ。抽斎は三人を奥の四畳半に延(ひ案内)いた。三人の言ふ所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、此使を発したと云ふことである。
抽斎は応ぜなかつた。此秘事に与つてゐる手島は、貴人の許にあつて職を奉じてゐる。金は手島を介して上ることを約してある。面を識らざる三人に交付することは出来ぬと云ふのである。三人は手島の来ぬ事故を語つた。抽斎は信ぜないと云つた。
三人は互に目語して身を起し、刀の欛(つか)に手を掛けて抽斎を囲んだ。そして云つた。我等の言を信ぜぬと云ふは無礼である。且重要の御使を承(うけたま)はつてこれを果さずに還つては面目が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよと云つた。
抽斎は坐したまゝで暫く口を噤んでゐた。三人が偽(いつはり)の使だと云ふことは既に明である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、又能はざる所である。家には若党がをり諸生がをる。抽斎はこれを呼ばうか、呼ぶまいかと思つて、三人の気色を覗つてゐた。
此時廊下に足音がせずに、障子がすうつと開いた。主客は斉く愕(おど)き眙(み)た。  
 

 

六十一
刀の欛(つか)に手を掛けて立ち上つた三人の客を前に控へて、四畳半の端近く坐してゐた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に見遣つた。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
五百は僅(わづか)に腰巻一つ身に着けたばかりの裸体であつた。口には懐剣を銜(くは)へてゐた。そして閾(しきゐ)際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであつた。小桶からは湯気が立ち升(のぼ)つてゐる。縁側を戸口まで忍び寄つて障子を開く時、持つて来た小桶を下に置いたのであらう。
五百は小桶を持つたまゝ、つと一間に進み入つて、夫を背にして立つた。そして沸き返るあがり湯を盛つた小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜へてゐた懐剣を把つて鞘を払つた。そして床の間を背にして立つた一人の客を睨んで、「どろばう」と一声叫んだ。
熱湯を浴びた二人が先に、欛に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろばう」と云ふ声を其間に挾んだ。しかし家に居合せた男等の馳せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまつた。此時の事は後々まで渋江の家の一つ話になつてゐたが、五百は人の其功を称する毎に、慙ぢて席を遁れたさうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、匕首(ひしゆ短剣)一口だけは身を放さずに持つてゐたので、湯殿に脱ぎ棄てた衣類の傍から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に纏ふ遑は無かつたのである。
翌朝五百は金を貴人の許に持つて往つた。手島の言によれば、これは献金としては受けられぬ、唯借上になるのであるから、十箇年賦で返済すると云ふことであつた。しかし手島が渋江氏を訪うて、お手元不如意のために、今年は返金せられぬと云ふことが数度あつて、維新の年に至るまでに、還された金は些許(すこしばかり)であつた。保さんが金を受け取りに往つたこともあるさうである。
此一条は保さんもこれを語ることを躊躇し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の誠心(まごゝろ)をも、五百の勇気をも、かくまで明に見ることの出来る事実を湮滅(いんめつ)せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き御方である。あからさまに其人を斥(さ)さずに、略(ほゞ)其事を記すのは、或は妨が無からうか。わたくしはかう思惟して、抽斎の勤王を説くに当つて、遂に此事に言ひ及んだ。
抽斎は勤王家ではあつたが、攘夷家ではなかつた。初め抽斎は西洋嫌で、攘夷に耳を傾けかねぬ人であつたが、前に云つたとほりに、安積艮斎の書を読んで悟る所があつた。そして窃(ひそか)に漢訳の博物窮理の書を閲し、ますます洋学の廃すべからざることを知つた。当時の洋学は主に蘭学であつた。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去つたのである。此公認を贏(か)ち得るまでには、蘭法医は社会に於いて奮闘した。そして彼等の攻撃の衝(しよう役)に当つたものは漢法医である。其応戦の跡は「漢蘭酒話」、「一タ医話」等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢て言を某間に挾(さしはさ)まなかつたが、心中これがために憂へ悶えたことは、想像するに難からぬのである。
六十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したと云つた。此公認は安政五年(1858)七月初の事で、抽斎は翌八月の末に歿した。
是より先幕府は安政三年二月に、蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を九段坂下元小姓組番頭格(ばんがしらかく)竹本主水正(もんどのしやう)正懋(せいぼう)の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を兼たやうなもので、医術の事には関せなかつた。越えて安政五年に至つて、七月三日に松平薩摩守斉彬(なりあきら)家来戸塚静海、松平肥前守斉正(なりまさ)家来伊東玄朴、松平三河守慶倫(よしとも)家来遠田澄庵(とほだちようあん)、松平駿河守勝道(かつゝね)家来青木春岱(しゆんたい)に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した権輿(けんよ始め)で、抽斎の歿した八月二十八日に先つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御医師即ち官医中有志のものは「阿蘭(オランダ)医術兼学致(けんがくいたし)候とも不苦(くるしからず)侯」と令した。翌日又有馬左兵衛佐(さひようゑのすけ)道純(みちずみ)家来竹内玄同(たけのうちげんどう)、徳川賢吉(けんきち)家来伊東貫斎(くわんさい)が奥医師を命ぜられた。此二人も亦蘭法医である。
抽斎が若し生きながらへてゐて、幕府の聘(へい)を受けることを肯じたら、此等の蘭法医と肩を比べて仕へなくてはならなかつたであらう。さうなつたら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎し来つた蘭法医との間に、厭ふべき葛藤を生ずることを免れなかつたかも知れぬが、或は又彼の多紀茝庭の手に出でたと云ふ無名氏の「漢蘭酒話」、平野革谿(かくけい)の「一夕医話」等と趣を殊にした、真面目な漢蘭医法比較研究の端緒が此に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあつたことは、前にも折に触れて言つたが、今遺(のこ)れるを拾つて二、三の事を挙げようと思ふ。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用ゐた。飯は朝午各(おのおの)三椀、タ二椀半と極めてゐた。しかも其椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあつた。殊に晩年になつては、嘉永二年(1849)に津軽信順(のぶゆき)が抽斎の此習慣を聞き知つて、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜はつた椀のみを用ゐた。其形は常の椀より稍大きかつた。そしてこれに飯を盛るに、婢(ひ)をして盛らしむるときは、過不及(くわふきふ)を免れぬと云つて、飯を小さい櫃(ひつ)に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしてゐた。朝の未醤汁(みそしる)も必ず二椀に限つてゐた。
菜蔬(さいそ野菜)は最も萊菔(だいこん)を好んだ。生で食ふときは大根おろしにし、烹(に)て食ふときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油などを掛けなかつた。
浜名納豆は絶やさずに蓄へて置いて食べた。
魚類では方頭魚(あまだひ)の未醤漬を嗜んだ。畳鰯も喜んで食べた。鰻は時々食べた。
間食は殆ど全く禁じてゐた。しかし稀に飴と上等の煎餅(せんべい)とを食べることがあつた。
抽斎が少壮時代に毫も酒を飲まなかつたのに、天保八年(1837)に三十三歳で弘前に往つてから、防寒のために飲みはじめたことは、前に云つたとほりである。さて一時は晩酌の量が稍多かつた。其後安政元年に五十歳になつてから、猪口(ちよく)に三つを踰えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈つた品で、宴に赴くにはそれを懐にして家を出た。
抽斎は決して冷酒を飲まなかつた。然るに安政二年(1855)に地震に逢つて、ふと冷酒を飲んだ。其後は偶(たまたま)飲むことがあつたが、これも三杯の量を過さなかつた。
六十三
鰻を嗜んだ抽斎は、酒を飲むやうになつてから、屢鰻酒と云ふことをした。茶碗に鰻の蒲焼を入れ、些(すこ)しのたれを注ぎ、熱酒(ねつしゆ)を湛へて蓋を覆つて置き、少選(しばらく)してから飲むのである。抽斎は五百を娶つてから、五百が少しの酒に堪へるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを旨がつて、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに侑(すす)め、又比良野貞固に飲ませた。此等の人々は後に皆鰻酒を飲むことになつた。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問へば、読書と云はなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、こゝに算せない。医書中で「素問」を愛して、身辺を離さなかつたことも亦同じである。次は「説文」である。晩年には毎月「説文会」を催して、小島成斎、森枳園、平井東堂、海保竹逕、喜多村栲窓(かうさう)、栗本鋤雲(じようん)等を集へた。竹逕は名を元起、通称を弁之助と云つた。本(もと)稲村氏で漁村の門人となり、後に養はれて子となつたのである。文政七年(1824)の生で、抽斎の歿した時、三十五歳になつてゐた。楮窓は名を直寛(ちよくゝわん)、字を士粟(しりつ)と云ふ。通称は安斎、後父の称安政を襲いだ。香城は其晩年の号である。経を安積艮斎に受け、医を躋寿館に学び、父槐園(くわいゑん)の後を承けて幕府の医官となり、天保十二年(1841)には三十八歳で躋寿館の教諭になつてゐた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は哲三(てつざう)、粟本氏に養はるゝに及んで、瀬兵衛と改め、又瑞見(ずいけん)と云つた。嘉永三年(1850)に二十九歳で奥医師になつてゐた。
「説文会」には島田篁村(くわうそん)も時々列席した。篁村は武蔵国大崎の名主島田重規(ちようき)の子である。名は重礼(ちようれい)、字は敬甫(けいほ)、通称は源六郎と云つた。艮斎、漁村の二家に従学してゐた。天保九年(1838)生であるから、嘉永、安政の交(かう変り目)には猶十代の青年であつた。抽斎の歿した時、篁村は丁度二十一になつてゐたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、赤本、蒟蒻本、黄表紙の類であつた。想ふにその自ら作つた「呂后千夫」は黄表紙の体に傚つたものであつただらう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を襲いだと云ふを以て、想見(さうけん想像)することが出来る。父允成が屢戯場(ぎぢやう劇場)に出入したさうであるから、殆ど遺伝と云つても好からう。然るに嘉永二年(1849)に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは目見以上の身分になつたからは、今より後市中の湯屋に往くことゝ、芝居小屋に立ち入ることゝは遠慮するが宜しいと云ふのであつた。渋江の家には浴室の設があつたから、湯屋に往くことは禁ぜられても差支が無かつた。しかし観劇を停(とゞ)められるのは、抽斎の苦痛とする所であつた。抽斎は隠忍して姑く忠告に従つてゐた。安政二年(1855)の地震の日に観劇したのは、足掛七年振であつたと云ふことである。
抽斎は森枳園と同じく、七代日市川団十郎を贔屓にしてゐた。家に伝はつた俳名三升(さんしよう)、白猿(はくゑん)の外に、夜雨庵(やうあん)、二九亭、寿海老人と号した人で、葺屋町の芝居茶屋丸屋三右衛門の子、五世団十郎の孫である。抽斎(1805生)より長ずること十五年であつたが、抽斎に一年遅れて、安政六年(1859)三月二十三日に七十歳で歿した。
次に贔屓にしたのは五代目沢村宗十郎である。源平、源之助、訥升(とつしやう)、宗十郎、長十郎、高助(たかすけ)、高賀(かうが)と改称した人で、享和元年(1801)に生れ、嘉永六年(1853)十一月十五日に五十三歳で歿した。抽斎より長ずること四年であつた。四世宗十郎の子、脱疽(だつそ壊疽)のために脚を截(き)つた三世田之助(たのすけ)の父である。
六十四
劇を好む抽斎は又照葉(てりは)狂言をも好んださうである。わたくしは照葉狂言と云ふものを知らぬので、青々園伊原さんに問ひに遣つた。伊原さんは喜多川季荘(きさう)の近世風俗志に、此演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子(たうし)四、五人が創意したものである。大抵能楽の間の狂言を摸し、衣裳は素襖(すあを)、上下(かみしも)、熨斗目(のしめ)を用ゐ、科白には歌舞伎狂書、俄、踊等の状(さま)をも交へ取つた。安政中江戸に行はれて、寄場はこれがために雑沓した。照葉とは天爾波俄(てにはにはか)の訛略だと云ふのである。
伊原さんはこの照葉の語原は覚束ないと云つてゐるが、いかにも輙(すなは)ち信じ難いやうである。
能楽は抽斎の楽み看る所で、少い頃謡曲を学んだこともある。偶弘前の人村井宗興と相逢ふことがあると、抽斎は共に一曲を温習(をんしふ)した。技の妙が人の意表に出たさうである。
俗曲は少しく長唄を学んでゐたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かつた。
抽斎は鑑賞家として古画を翫んだが、多く買ひ集むることをばしなかつた。谷文晁の教を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画いた。
古武鑑、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家として蒐集した所である。わたくしが初め古武鑑に媒介せられて抽斎を識つたことは、前に云つたとほりである。
抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少(まれ)であつた。これは自ら儆(いまし)めて耽らざらむことを欲したのである。
抽斎は大名の行列を観ることを喜んだ。そして家々の鹵簿を記憶して忘れなかつた。新武鑑を買つて、其図に着色して自ら娯んだのも、これがためである。此嗜好は喜多静廬の祭礼を看ることを喜んだのと頗る相(あひ)類してゐる。
角兵衛獅子が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言つた。
庭園は抽斎の愛する所で、自ら剪刀(はさみ)を把つて植木の苅込をした。木の中では御柳(ぎよりう)を好んだ。即ち「爾雅(じが)」に載せてある檉(てい)である。雨師(うし)、三春柳(しゆんりう)などゝも云ふ。これは早く父允成の愛してゐた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけば常に居る室に近い地に栽ゑ替へさせた。居る所を観柳書屋(しよおく)と名づけた柳字も、揚柳では無い、檉柳である。これに反して柳原(りうげん)書屋の名は、お玉が池の家が柳原に近かつたから命じたのであらう。
抽斎は晩年に最も雷を嫌つた。これは二度まで落雷に遭つたからであらう。一度は新に娶つた五百と道を行く時の事であつた。陰つた日の空が二人の頭上に於て裂け、そこから一道の火が地上に降つたと思ふと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に僵れた。一度は躋寿館の講師の詰所に休んでんでゐる時の事であつた。詰所に近い厠の前の庭へ落雷した。此時厠に立つて小便をしてゐた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を朝顔に打ち附けて折つた。此の如くに反覆して雷火に脅(おびやか)されたので、抽斎は雷声を悪むに至つたのであらう。雷が鳴り出すと、蚊幮(かや)の中に坐して酒を呼ぶことにしてゐたさうである。
抽斎の此弱点は偶森枳園がこれを同じうしてゐた。枳園の寿蔵碑の後に門人青山道醇(だうじゆん)等の書した文に、「夏月畏雷震、発声之前(はつせいのまへ)必先(かならずさきに)知之(これをしる)」と云つてある。枳園には今一つ厭なものがあつた。それは蛞蝓(なめくぢ)であつた。夜行くのに、道に蛞蝓がゐると、闇中に於てこれを知つた。門人の随ひ行くものが、燈火を以て照し見て驚くことがあつたさうである。これも同じ文に見えてゐる。
六十五
抽斎は平姓で、小字を恒吉(つねきち)と云つた。人と成つた後の名は全善(かねよし)、字は道純(だうじゆん)、又子良(しりやう)である。そして道純を以て通称とした。其号抽斎の抽字は、本籒に作つた。籒、■(籒の竹のない字)、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の手沢本には籒斎校正の篆印が殆ど必ず捺してある。
別号には観柳書屋、柳原書屋、三亦堂(えきだう)、目耕肘(もくかうちう)書斎、今未是(こんみぜ)翁、不求甚解(ふきうじんかい)翁等がある。その三世劇神仙と称したことは、既に云つたとほりである。
抽斎は嘗て自ら法謚を撰んだ。「容安院不求甚解居士」と云ふのである。此字面は妙ならずとは云ひ難いが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻五百のために撰んだ法謚は妙極まつてゐる。「半千院出藍終葛大姉」と云ふのである。半千は五百、出藍は紺屋町に生れたこと、終葛は葛飾(かつしか)郡(ごほり)で死ぬることである。しかし世事の転変は逆覩(げきと予想)すべからざるもので、五百は本所で死ぬることを得なかつた。
この二つの法謚は孰れも石に彫られなかつた。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、又五百の遺骸は抽斎の墓穴に合葬せられたからである。
大抵伝記は其人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰(けいかう敬慕)するものは、其苗裔(べうえい)がどうなつたかと云ふことを問はずにはゐられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記し畢つたが、猶筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下に書き附けて置かうと思ふ。
わたくしは此記事を作るに許多の障礙のあることを自覚する。それは現存の人に言ひ及ぼすことが漸く多くなるに従つて、忌諱すべき事に撞着することも亦漸く頻(しきり)なることを免れぬからである。此障礙は上に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭を擡(もた)げて来た。これから後は、これが弥(いよいよ)筆端に纏繞(てんぜう)して、厭ふべき拘束を加へようとするであらう。しかしわたくしは縦(よ)しや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけば書いて、此稿を完うする積である。
渋江の家には抽斎の歿後に、既に云ふやうに、未亡人五百、陸、水木、専六、翠暫(すいざん)、嗣子成善(しげよし)と矢島氏を冒した優善とが遺つてゐた。十月朔に才(わづか)に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、一家の生計を立てゝ行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であつた。
遺子六人の中で差当り問題になつてゐたのは、矢島優善の身の上である。優善は不行跡のために、二年前に表医者から小普請医者に貶せられ、一年前に表医者介に復し、父を喪ふ年の二月に纔かに故(もと)の表医者に復することが出来たのである。
しかし当時の優善の態度には、まだ真に改悛したものとは看做しにくい所があつた。そこで五百は旦暮周密に其挙動を監視しなくてはならなかつた。
残る五人の子の中で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めてゐた。陸や水木には、五百が自ら句読(くとう読み方)を授け、手跡(しゆせき習字)は手を把つて書かせた。専六は近隣の杉四郎と云ふ学究の許へ通つてゐたが、これも五百が復習させることに骨を折つた。又専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書(りんしよ手本を見て書く)だけば手を把つて書かせた。午餐(ごさん昼飯)後日の暮れかゝるまでは、五百は子供の背後(うしろ)に立つて手習の世話をしたのである。
 

 

六十六
邸内に棲はせてある長尾の一家にも、折々多少の風波が起る。さうすると必ず五百が調停に往かなくてはならなかつた。其争は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、安が躊躇して決せないために起るのである。宗右衛門の長女敬(けい)はもう甘一歳になつてゐて、生得稍勝気なので、母をして五百の言に従はしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出さうとはしない。こゝに争は生ずるのであつた。
さてこれが鎮撫に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きてゐた時からの習慣である。五百の言には宗右衛門が服してゐたので、其妻や子もこれに抗することをば敢てせぬのである。
宗右衛門が妻の妹の五百を、啻抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチラン(暴君)として大いに安を虐待して、五百の厳い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあつて、それから後は五百の前に項(うなじ)を屈したのである。
宗右衛門は性質亮直(りやうちよく)に過ぐるとも云ふべき人であつたが、癇癪持であつた。今から十二年前の事である。宗右衛門はまだ七歳の銓(せん)に読書を授け、此子が大きくなつたら士の女房にすると云つてゐた。銓は記性があつて、書を善く読んだ。かう云ふ時に、宗右衛門が酒気を帯びてゐると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教へると云つて、戯のやうに煙管(きせる)で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙つてゐるが、後には「お父つさん、厭だ」と云つて、手を挙げて打つ真似をする。宗右衛門は怒つて「親に手向をするか」と云ひつゝ、銓を拳で乱打する。或日かう云ふ場合に、安が停めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を攫んで拉き倒して乱打し、「出て往け」と叫んだ。
安は本(もと)宗右衛門の恋女房である。天保五年(1834)三月に、当時阿部家に仕ヘて金吾と呼ばれてゐた、まだ二十歳の安が、宿に下つて堺町の中村座へ芝居を看に往つた。此時宗右衛門は安を見初めて、芝居がはねてから追尾して行つて、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であつたかと云ふので、直ちに人を遣つて縁談を申し込んだのである。
かうしたわけで貰はれた安も、拳の下に崩れた丸髷を整へる遑もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を名告る前の頃で、会津屋へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照がなれの果で何の用にも立たない。そこで偶渋江の家から来合せてゐた五百に、「どうかして遣つてくれ」と云ふ。五百は姉を宥め賺(すか)して、横山町へ連れて往つた。
会津屋に往つて見れば、敬はうろうろ立ち廻つてゐる。銓はまだ泣いてゐる。妻の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑顔をして五百を迎へる。五百は徐(しづか)に詫言を言ふ。主人はなかなか聴かない。暫く語を交へてゐる間に、主人は次第に饒舌になつて、光燄万丈(くわうえんばんぢやう)当るべからざるに至つた。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書「孔叢子(くぞうし)」の孔氏三世妻を出したと云ふ説が出る。祭仲の女雍姫が出る。斎藤太郎左衛門の女(父のために夫を裏切つた女たち)が出る。五百はこれを聞きつゝ思案した。これは負けてゐては際限が無い。例(ためし)を引いて論ずることなら、こつちにも言分がないことはない。そこで五百も論陣を張つて、旗鼓(きこ)相当つた。公父文伯の母季敬姜(きけいきやう)を引く。顔之推(がんしすい)の母を引く。終に「大雅思斉」の章の「刑于寡妻(かさいをたゞし)、至于兄弟(けいていにいたり)、以(もつて)御于家邦(かはうをぎよす)」(「詩経」)を引いて、宗右衛門が雝々(ようよう)の和を破るのを責め、声色共に(はげ)しかつた。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかつたのです」と云つた。
長尾の家に争が起る毎に、五百が来なくてはならぬと云ふことになるには、かう云ふ来歴があつたのである。
六十七
抽斎の歿した翌年安政六年(1859)には、十一月二十八日に矢島優善が浜町中屋敷詰の奥通(おくどほり)にせられた。表医者の名を以て信順(のぶゆき)の側に侍することになつたのである。今尚信頼し難い優善が、責任ある職に就いたのは、五百のために心労を増す種であつた。
抽斎の姉須磨の生んだ長女延(のぶ)の亡くなつたのは、多分此年の事であつただらう。允成の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛で、清兵衛の子が飯田良清で、良清の女が此延である。容貌の美しい女で、小舟町の鰹節問屋新井屋半七と云ふものに嫁してゐた。良清の長男直之助(なほのすけ)は早世して、跡には養子孫三郎と、延の妹路とが残つた。孫三邸の事は後に見えてゐる。
抽斎歿後の第二年は万延(まんえん)元年(1860)である。成善はまだ四歳であつたが、夙くも浜町中屋敷の津軽信順(のぶゆき)に近習として仕へることになつた。勿論時々機嫌を伺ひに出るに止まつてゐたであらう。此時新に中小姓(ちゆうごしやう)になつて中屋敷に勤める矢川文一郎(ぶんいちらう)と云ふものがあつて、穉(をさな)い成善の世話をしてくれた。
矢川には本末両家がある。本家は長足流の馬術を伝へてゐて、世(よゝ)文内と称した。先代文内の嫡男与四郎は、当時順承(ゆきつぐ)の側用人になつて、父の称を襲いでゐた。妻児玉氏は越前国敦賀の城主酒井右京亮忠毘(ただやす)の家来某の女であつた。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があつて、彼を宗兵衛と云ひ、此を岡野と云つた。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田小十郎の女みつを娶つた。岡野は順承附の中臈になつた。実は妾である。
文一郎は此宗兵衛の長子である。其母の姉妹には林有的(いうてき)の妻、佐竹永海(えいかい)の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を納れた。某の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立つてゐた五百の手を摻(と)らうとすると、五百は其手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に墜ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を着せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往つて、佐竹と邂逅した。そして佐竹の数人の芸妓に囲まれてゐるのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄色を好むとやらですね」と云つた。佐竹は頭を掻いて苦笑したさうである。
文一郎の父は早く世を去つて、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺にあづけられた。これは嘉永四年(1851)の事で、天保十二年(1841)生の文一郎は十一歳になつてゐた。
文一郎は寺で人と成つて、渋江家で抽斎の亡くなつた頃、本家の文内の許に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰附けられる少し前に、二十歳で信順(のぶゆき)の中小姓になつたのである。
文一郎は頗る姿貌(しばう)があつて、心自らこれを恃(たの)んでゐた。当時吉原の狎妓(かふぎ贔屓の遊女)の許に足繁く通つて、遂に夫婦の誓をした。或夜文一郎はふと醒めて、傍に臥してゐる女を見ると、一眼を大きく睜開(みひら)いて眠つてゐる。常に美しいとばかり思つてゐた面貌(めんばう)の異様に変じたのに驚いて、肌に粟(あは)を生じたが、忽(たちまち)又魘夢(えんむ)に脅されてゐるのではないかと疑つて、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答は未だ半ならざるに、女は満臉(まんけん顔中)に紅を潮して、偏盲のために義眼を装つてゐることを告げた。そして涙を流しつゝ、旧盟を破らずにゐてくれと頼んだ。文一郎は陽(えう上辺)にこれを諾して帰つて、それ切(きり)此女と絶つたさうである。
六十八
わたくしは少時の文一郎を伝ふるに、辞(ことば)を費すこと稍多きに至つた。これは単に文一郎が穉(をさな)い成善を扶掖(ふえき扶助)したからでは無い。文一郎と渋江氏との関係は、後に漸く緊密になつたからである。文一郎は成善の姉婿になつたからである。文一郎さんは赤坂台町に現存してゐる人ではあるが、恐くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであらう。其少時の事蹟には二つの活きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お鶴さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があつた。長男俊平は宗家を嗣いで、其子蕃平(しげへい)さんが今浅草向柳原町に住して居るさうである。俊平の弟は鈕平(ちうへい)、録平(ろくへい)である。女子は長を鉞(ゑつ)と云ひ、次を鑑(かん)と云ふ。鑑は後に名を鶴と更めた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町にゐる範一さんの妻で、其子の範(すすむ)さんとわたくしとは書信の交通をしてゐるのである。
成善は此年(1860)十月朔に海保漁村と小島成斎との門に入つた。海保の塾は下谷練塀小路にあつた。所謂伝経廬(でんけいろ)である。下谷は卑湿(ひしつ高湿度)の地なるにも拘らず、庭には梧桐(ごとう)が栽ゑであつた。これは漁村が其師大田錦城の風を慕つて栽ゑさせたのである。当時漁村(1798生)は六十三歳で、躋寿館の講師となつてゐた。又陸奥国八戸の城主南部遠江守(とうたふみのかみ)信順(のぶゆき)と越前国鯖江(さばえ)の城主間部下総守詮勝(あきかつ)とから五人扶持づゝの俸を受けてゐた。しかし躋寿館に於ても、家塾に於ても、大抵養子竹逕が代講をしてゐたのである。
小島成斎は藩主阿部正寧(まさやう)の世には、辰の口の老中屋敷にゐて、安政四年に家督相続をした賢之助正教(まさのり)の世になつてから、昌平橋内の上屋敷にゐた。今の神田淡路町である。手習に来る児童の数は頗る多く、二階の三室に机を並べて習ふのであつた。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年(1849)生で十二歳になる伊沢鉄三郎がゐた。柏軒の子で、後に徳安と称し、維新後に磐(いはほ)と更めた人である。成斎は手に鞭を執つて、正面に坐してゐて、筆法を誤ると、鞭の尖で指し示した。そして児童を倦ましめざらむがためであらうか、諧謔を交へた話をした。其相手は多く鉄三郎であつた。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行つた。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これば父が奧詰医師になつてゐるので、従者らしく附いて来たのである。
抽斎の墓碑が立てられたのも此年である。海保漁村の墓誌は其文が頗る長かつたのを、豊碑(ほうひ大きな碑)を築き起して世に傲るが如き状(じやう)をなすは、主家に対して憚があると云つて、文字を識る四五人の故旧が来て、胥議(あひぎ合議)して斧鉞(ふゑつ修正)を加へた。其文の事を伝へて完からず、又間(まゝ)実に悖るものさへあるのは、此筆削(ひつさく添削)のためである。
建碑の事が畢つてから、渋江氏は台所町の邸を引き払つて亀沢町に移つた。これは淀川過書船支配(かしよぶねしはい)角倉与一(すみのくらよいち)の別邸を買つたのである。角倉の本邸は飯田町黐木坂下(もちのきさかした)にあつて、主入は京都で勤めてゐた。亀沢町の邸には庭があり池があつて、そこに稲荷と和合神(わがふじん)との祠があつた。稲荷は亀沢稲荷と云つて、初午の日には参詣人が多く、縁日商人が二十余の浮舗(やたいみせ)を門前に出すことになつてゐた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせると云ふ条件を附けて売つた。今相生小学校になつてゐる地所である。
これまで渋江の家に同居してゐた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構へて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であつた。
六十九
矢島優善をして別に一家をなして自立せしめようと云ふことは、前年即ち安政六年の末から、中丸昌庵が主として勧説(くわんぜつ)した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て儕輩(さいはい仲間)に推されてゐた。文政元年(1818)生であるから、当時四十三歳になつて、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位に居つた。昌庵はかう云つた。「優善さんは一時の心得違から貶黜を受けた。しかし幸に過(あやまち)を改めたので、一昨年故(もと)の地位に復(かへ)り、昨年は奥通(おくどほり)をさへ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立つて、優善さんは二十六歳になつてゐる。わたくしは去年からさう思つてゐるが、優善さんの奮つて自ら新にすべき時は今である。それには一家を構へて、責を負つて事に当らなくてはならない」と云つた。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、五百は危みつゝ此議を納れたのである。比良野貞固は初め昌庵に反対してゐたが、五百が意を決したので、復(また)争はなくなつた。
優善の移つた緑町の家は、渾名(あだな)を鳩医者と呼ばれた町医佐久間某の故宅である。優善は妻鉄を家に迎へ取り、下女一人を雇つて三人暮しになつた。
鉄は優善の養父矢島玄碩の二女である。玄碩、名を優繇(やすしげ)と云つた。本抽斎の優善に命じた名は允成であつたのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の初の妻某氏には子が無かつた。後妻寿美は亀高村喜左衛門と云ふものゝ妹で、仮親は上総国一宮の城主加納遠江守久徴(ひさあきら)の医官原芸庵(うんあん)である。寿美が二女を生んだ。長を環(くわん)と云ひ、次を鉄と云ふ。嘉永四年(1851)正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には僅に六歳の鉄が遺つた。
優善は此時矢島氏に入つて末期養子となつたのである。そして其媒介者は中丸昌庵であつた。
中丸は当時其師抽斎に説くに、頗る多言を費し、矢島氏の祀(まつり家)を絶つに忍びぬと云ふを以て、抽斎の情誼に愬(うつた)へた。なぜと云ふに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であつたからである。玄碩の遺した女(むすめ)鉄は重い痘瘡(とうさう天然痘)を患へて、瘢痕(はんこん)満面、人の見るを厭ふ醜貌であつた。
抽斎は中丸の言(こと)に動されて、美貌の子優善を鉄に与へた。五百は脩として忍び難くはあつたが、事が夫の義気に出でゝゐるので、強ひて争ふことも出来なかつた。
此事のあつた年、五百は二月四日に七歳の棠(たう)を失ひ、十五日に三歳の癸巳(きし)を失つてゐた。当時五歳の陸(くが)は、小柳町の大工の棟梁新八が許に里に遣られてゐたので、それを喚び帰さうと思つてゐると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
棠は美しい子で、抽斎の女(むすめ)の中では純(いと)と棠との容姿が最も人に褒められてゐた。五百の兄栄次郎は棠の踊を看る度に、「食ひ附きたいやうな子だ」と云つた。五百も余り棠の美しさを云々するので、陸は「お母あ様の姉えさんを褒めるのを聞いてゐると、わたしなんぞはお化のやうな顔をしてゐるとしか思はれない」と云ひ、又棠の死んだ時、
「大方お母あ様はわたしを代(かはり)に死なせたかつたのだらう」とさへ云つた。
七十
女棠が死んでから半年の間、五百は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の闇を凝視してゐることが屢有つた。ごれは何故ともなしに、闇の裏(うち)に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのださうである。抽斎は気遣つて、「五百、お前にも似ないぢやないか、少しゝつかりしないか」と飭めた。
そこへ矢島玄碩の二女、優善の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになつた、蜾蠃の母(からのはゝ養母)は情を矯めて、暱(なじみ)の無い人の子を賺(すか)しはぐゝまなくてはならなかつたのである。さて眠つてゐるうちに、五百はいつか懐にゐる子が棠だと思つて、夢現(ゆめうつゝ)の境に其体を撫でゝゐた。忽ち一種の恐怖に襲はれて目を開くと、痘痕(とうこん)のまだ新しい、赤く引き弔つた鉄の顔が、触れ合ふ程近い所にある。五百は覚えず咽び泣いた。そして意識の明になると共に「ほんに優善は可哀さうだ」とつぶやくのであつた。
緑町の家へ、優善が此鉄を連れてはいつた時は、鉄はもう十五歳になつてゐた。しかし世馴れた優善は鉄を子供扱にして、詞をやさしくして宥めてゐたので、二人の間には何の衝突も起らずにゐた。
これに反して五百の監視の下を離れた優善は、門を出でゝは昔の放恣なる生活に立ち帰つた。長崎から帰つた塩田良三との間にも、定めて聯絡が附いてゐたことであらう。此人達は啻に酒家妓楼に出入するのみではなく、常に無頼の徒と会して袁耽の技(ゑんたんのぎ博打)を闘はした。良三の如きは頭を一つ竈(べつゝひ)にしてどてらを被(き)て街上(がいじやう)を濶歩したことがあるさうである。優善の背後には、もうネメシス(懲罰)の神が逼り近づいてゐた。
渋江氏が亀沢町に来る時、五百は又長尾一族のために、本の小家を新しい邸に徙(うつ)して、そこへ一族を棲はせた。年月は詳にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食(ざしよく徒食)するに忍びぬと云つて、媒するものゝあるに任せて、猿若町三丁日守田座附の茶屋三河屋力蔵に嫁し、次で次女銓も浅草須賀町の呉服商桝屋儀兵衛に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に重宝がられて、茶屋の帳場にすわることになつた。
抽斎の蔵書は兼て三万五千部あると云はれてゐたが、此年亀沢町に徙して検すると、既に一万部に満たなかつた。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きてゐた兄恒善が見附けて、奪ひ還したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売つたかわからない。或時は二階から本を索(なは)に繋いで卸すと、街上に友人が待ち受けてゐて持ち去つたさうである。安政三年以後、抽斎の時々病臥することがあつて、其間には書籍の散佚することが殊に多かつた。又人に貸して失つた書も少くない。就中森枳園と其子養真とに貸した書は多く還らなかつた。成善が海保の塾に入つた後には、海保竹逕が数(しばしば)渋江氏に警告して、「大分御蔵書印のある本が市中に見えるやうでございますから、御注意なさいまし」と云つた。
抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の「医心方」は、此年完成して、森枳園等は白銀若干を賞賜せられた。
抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎(あさかごんさい1790生)は、此年(1860)十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の齢は諸書に異同があつて、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦(しゆんぽ)さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検して貰つたが、並に皆これを記してゐない。しかし文集を閲するに、故郷の安達太郎山に登つた記に、干支と年齢のおほよそとが書してあつて、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子文九郎重允(ちよういん)が家を嗣いだ。少い時疥癬のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往つて治したことが、文集に見えてゐる。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したさうである。恐くは「洋外紀略」の「嗚呼(あゝ)話聖東(ワシントンは)、雖(いへども)生於戎羯(じゆうけつにうまると)、其為人(そのひとゝなりや)、有足多者(たりておほきものあり)」云々の一節であつただらう。  
 

 

七十一
抽斎歿後第三年は文久元年(1861)である。年の初に五百は大きい本箱三つを成善の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてかう云つた。
「これは日本に僅(わづか)三部しか無い善い版の「十三経註疏」だが、お父う様がお前のだと仰つた。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の傍に置くよ」と云つた。
数日の後に矢島優善が、活花の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度好い座敷が無いから、成善の部屋を借りたいと云つた。成善は部屋を明け渡した。
さて友逢と云ふ数人が来て、汁粉などを食つて帰つた跡で、戸棚の本箱を見ると、其中は空虚であつた。
三月六日に優善は「身持不行跡不埒」の廉を以て隠居を命ぜられ、同時に「御憐憫を以て名跡(みやうせき)御立被下置(たてくざしおかる)」と云ふことになつて、養子を入れることを許された。
優善の応(まさ)に養ふべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得てゐる近習詰百五十石六人扶持の医者に、上原元永(げんゑい)と云ふものがあつて、此上原が町医伊達周禎(しうてい)を推薦した。
周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになつた。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年(1817)生で四十六歳になつてゐた。
周禎の妻を高と云つて、已に四子を生んでゐた。長男周碩(しうせき)、次男周策(しうさく)、三男三蔵(ざう)、四男玄四郎が即ち是である。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は生得不調法にして仕官に適せぬと称して廃嫡を請ひ、小田原に往つて町医となつた。そこで弘化二年(1845)生の次男周策が嗣子に定まつた。当時十七歳である。
是より先優善が隠居の沙汰を蒙つた時、これがために最も憂へたものは五百で、最も憤つたものは比良野貞固である。貞固は優善を面責(めんせき面詰)して、いかにして此辱を雪ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に入つて勉学したいと答へた。
貞固は先づ優善が改俊の状を見届けて、然る後に入塾せしめると云つて、優善と妻鉄とを自邸に引き取り、二階に住はせた。
さて十月になつてから、貞固は五百を招いて、倶に優善を山田の塾に連れて往つた。塾は本郷弓町にあつた。
此塾の月俸は三分二朱であつた。貞固の謂ふには、これは聊(いさゝか)の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、又優善の修行中其妻鉄をも周禎があづかるが好いと云つた。そして此二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想ふに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当つて、株の売渡のやうな形式を用ゐたのであらう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には屁の糟(かす)と云ふ渾名をさへ附けてゐたさうである。
山田の塾には当時門人十九人が寄宿してゐたが、未だ幾(いくばく)もあらぬに梅林松弥(まつや)と云ふものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、後此に来たもので、維新後名を潔(けつ)と改め、明治二十一年(1888)一月十四日に陸軍一等軍医を以て終つた。
比良野氏では此年同藩の物頭(ものがしら)二百石稲葉丹下の次男房之助を迎へて養子とした。これは貞固が既に五十歳になつたのに、妻かなが子を生まぬからであつた。房之助は嘉永四年(1851)八月二日生で、当時十一歳になつてゐて、学問よりは武芸が好であつた。 
七十二
矢川氏では此年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋平野屋の女柳(りう)を娶つた。
石塚重兵衛の豊芥子(ほうかいし)は、此年(1861)十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、殆ど恒例の如くになつてゐた。五百は石塚氏にわたす金を記す帳簿を持つてゐたさうである。しかし抽斎は此人の文字を識つて、広く市井の事に通じ、又劇の沿革を審(つまびから)にしてゐるのを愛して、来り訪ふ毎に歓(よろこ)び迎へた。今抽斎に遅るゝこと三年で世を去つたのである。
人の死を説いて、直ちに其非を挙げむは、後言(しりうごと悪口)めく嫌(きらひ)はあるが、抽斎の蔵書をして散佚せしめた顚末を尋ぬるときは、豊芥子も亦幾分の責を分たなくてはならない。その持ち去つたのは主に歌舞音曲の書、随筆小説の類である。其他書画骨董にも、此人の手から商估の手にわたつたものがある。こゝに保さんの記憶してゐる一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙の画百枚があつた。題材は彼の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしは其名を保さんに聞いて記憶してゐるが、少しくこれを筆にすることを憚る。装潢(さうくわう)頗る美にして桐の箱入になつてゐた。此画と木彫の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳すると云つて借りて帰つた。人形は六歌仙と若衆とで、寛永時代の物だとか云ふことであつた。これは抽斎が「三坊には雛人形を遣らぬ代にこれを遣る」と云つたのださうである。三坊とは成善の小字三吉である。五百は度々清助と云ふ若党を、浅草諏訪町の鎌倉屋へ遣つて、催促して還させようとしたが、豊芥子は言を左右に託して、遂にこれを還さなかつた。清助は本(もと)京都の両替店銭屋の息子で、遊蕩のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好いので、豊芥子の筆耕に傭はれることになつてゐた。それゆゑ鎌倉屋への使に立つたのである。
森枳園が小野富穀(ふこく)と口論をしたと云ふ話があつて、其年月を詳にせぬが、わたくしは多分此年の頃であらうと思ふ。場所は山城河岸の津藤(つとう)の家であつた。例の如く文人、画師、力士、俳優、幇間、芸妓等の大一座で、酒酣(たけなは)なる比(ころ)になつた。其中に枳園、富穀、矢島優善、伊沢徳安などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じてゐたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒つて、七代目賽(もどき)のたんかを切り、胖大漢(はんだいかん肥満)の富穀をして色を失つて席を遁(のが)れしめたさうである。富穀も亦滑稽趣味に於ては枳園に劣らぬ人物で、臍(へそ)で烟草を喫むと云ふ隠芸(かくしげい)を有してゐた。枳園と此人とがかくまで激烈に衝突しようとは、誰も思ひ掛けぬので、優善、徳安の二人は永く此喧嘩を忘れずにゐた。想ふに貨殖に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、無頃着な枳園とは、其性格に相容れざる所があつたであらう。津藤即ち摂津国屋藤次郎は、名は鱗(りん)、字は冷和(れいわ)、香以(かうい)、鯉角(りかく)、梅阿弥(ばいあみ)等と号した。その豪遊を肆にして家産を蕩尽したのは、世の知る所である。文政五年(1822)生で、当時四十歳である。
此年の抽斎が忌日(きにち)の頃であつた。小島成斎は五百に勧めて、猶存してゐる蔵書の大半を、中橋埋地(なかばしうめち)の柏軒が家にあづけた。柏軒は翌年お玉が池に第宅(ていたく)を移す時も、家財と共にこれを新居に搬(はこ)び入れて、一年間位鄭重に保護してゐた。
七十三
抽斎歿後の第四年は文久二年(1862)である。抽斎は世にある日、藩主に活版薄葉刷(うすえふずり)の「医方類聚(いはうるいじゆ)」を献ずることにしてゐた。書は喜多村栲窓の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐つて上(たてまつ)つた。成善は父の歿後相継いで納本してゐたが、此年に至つて全部を献じ畢つた。八月十五旧順承(ゆきつぐ)は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
成善は二年前から海保竹逕に学んで、此年十二月二十八日に、六歳にして藩主順承から奨学金二百匹を受けた。主なる経史の素読を畢つたゝめである。母五百は子女に読書習字を授けて半日を費すを常としてゐたが、毫も成善の学業に干渉しなかつた。そして「あれは書物が御飯より好だから、構はなくても好い」と云つた。成善は又善く母に事(つか)ふると云ふを以て、賞を受くること両度に及んだ。
此年十月十八日に成善が筆札の師小島成斎が六十七歳で覆した。成斎は朝生徒に習字を教へて、次で阿部家の館に出仕し、午時公退して酒を飲み劇を談ずることを例としてゐた。阿都家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年(1857)六月十七日に老中の職に居つた伊勢守正弘が世を去つて、越えて八月に伊予守正教(まさのり)が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍してゐたのである。後に至つて成善は朝の課業の喧擾(けんぜう)を避け、午後に訪うて単独に教を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くこと屢であつた。成斎は卒中で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は用人格に擢(ぬきん)でられ、公用人服都九十郎と名を斉(ひとし)うしてゐたが、二人皆同病によつて命を隕(おと)した。成斎には二子三女があつて、長男生輒(せいせふ)は早世し、次男信之(のぶゆき)が家を継いだ。通称は俊治(しゆんぢ)である。俊治の子は鎰之助(いつのすけ)、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込動坂町(どうさかちやう)にゐる昌吉(しやうきち)さんである。高足(かうそく高弟)の一人小此木辰太郎(をこのぎたつたらう)は、明治九年(1876)に工務省雇になり、十八年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けてゐたが、明治二十八年一月に歿した。
成善が此頃母五百と倶に浅草永住町(ながすみちやう)の覚音寺に詣でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所である。帰途二入は蔵前通を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に邂逅した。これは五百と同じく藤堂家に仕へて、中老になつてゐた人である。五百は久しく消息の絶えてゐた此女と話がしたいと云つて、程近い横町にある料理屋誰袖(たがそで)に案内した。成善も跡に附いて往つた。誰袖は当時川長(かはちやう)、青柳(あをやぎ)、大(だい)七などゝ並称せられた家である。
三人の通つた座敷の隣に大一座の客があるらしかつた。しかし声高く語り合ふこともなく、矧(まし)てや絃歌の響などは起らなかつた。暫くあつて其座敷か遽に騒がしく、多人数の足音がして、跡は又ひつそりとした。
給仕に来た女中に五百が問ふと、女中は云つた。「あれは札差の檀那衆が悪作劇(いたづら)をしてお出なすつたところへ、お辰さんが飛ひ込んでお出なすつたのでございます。蒔き散らしてあつたお金を其儘にして置いて、檀那衆がお逃なさると、お辰さんはそれを持つてお帰なさいました」と云つた。お辰と云ふのは、後(のち)盗をして捕へられた旗本青木弥太郎の妾である。
女中の語り畢る時、両刀を帯びた異様の男が五百等の座敷に闇入して「手前達も博突の仲間だらう、金を持つてゐるなら、そこへ出してしまへ」と云ひつゝ、刀を抜いて威嚇した。
「なに、此騙(かた)り奴が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起つた。男は初の勢にも似ず、身を翻して逃げ去つた。此年五百はもう四十七歳になつてゐた。
七十四
矢島優善は山田の塾に入つて、塾頭に推されてから、稍自重するものゝ如く、病家にも信頼せられて、旗下(はたもと)の家庭にして、特に矢島の名を斥(さ)して招請するものさへあつた。五百も比良野貞固もこれがために頗る心を安んじた。
既にして此年二月の初午の日となつた。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行ふと云つて、親戚故旧を集へた。優善も来て宴に列し、清元を語つたり茶番を演したりした。五百はこれを見て苦々しくは思つたが、酒を飲まぬ優善であるから、縦(よし)や少しく興に乗じたからと云つて、後に累(わづらひ)を貽(のこ)すやうな事はあるまいと気に掛けずにゐた。
優善が渋江の家に来て、其タ方に帰つてから、二、三日立つた頃の事である。師山田椿庭(ちんてい)が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺ひました」と云つた。
「優善は初午の日にまゐりました切で、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は訝(いぶ)かしげに答へた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はかう云つて眉を壁めた。
五百は即時に人を諸方に馳せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の夜に無銭で吉原に往き、翌日から田町の引手茶屋に潜伏してゐたのである。
五百は金を償(つぐな)つて優善を帰らせた。さて比良野貞固(さだかた)、小野富穀(ふこく)の二人を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だと云ふので、其席に列つた。
貞固は暫く黙してゐたが、容(かたち)を改めてかう云つた。「此度の処分は只一つしか無いとわたくしは思ふ。玄碩さんはわたくしの宅で詰腹を切らせます。小野さんも、お姉えさんも、三坊も御苦労ながらお立会下さい。」言ひ畢つて貞固は緊(きび)しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を襲いで玄碩と云つてゐた。三坊は成善の小字三吉である。
富穀は面色土の如くになつて、一語を発することも得なかつた。
五百は貞固の詞を予期してゐたやうに、徐(しづか)に答へた。「比良野様の御意見は御尤と存じます。度々の不始末で、もう此上何と申し聞けやうもございません。いづれ篤と考へました上で、改めてこちらから申し上げませう」と云つた。
これで相談は果てた。貞固は何事も無いやうな顔をして、席を起つて帰つた。富穀は跡に残つて、どうか比良野を勘弁させるやうに話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰つた。五百は優善を呼んで厳(おごそか)に会議の始末を言ひ渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めてゐた。
翌朝五百は貞固を訪うて懇談した。大要はかうである。昨日の仰(おほせ)は尤至極である。自分は同意せずにはゐられない。これまでの行掛りを思へば、優善に此上どうして罪を贖(あがな)はせようと云ふ道は無い。自分も一死が其分であるとは信じてゐる。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆゑ切腹に代へて、金毘羅に起請文を納めさせたい。悔い改める望の無い男であるから、必ず冥々の裏に神罰を蒙るであらうと云ふのである。
貞固はつくづく聞いて答へた。それは好いお恩附である。此度の事に就いては、命乞の仲裁なら決して聴くまいと決心してゐたが、晴がましい死様をさせるには及ばぬと云ふお考は道理至極である。然らば其起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せすると云つた。
七十五
五百は矢島優善に起請文を書かせた。そしてそれを持つて虎の門の金毘羅へ納めに往つた。しかし起請文は納めずに、優善が行末の事を祈念して帰つた。
小野氏では此年十二月十二日に、隠居令図(れいと)が八十歳で歿した。五年前に致仕して富穀に家を継がせてゐたのである。小野氏の財産は令図の貯へたのが一万両を超えてゐたさうである。
伊沢柏軒は此年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。此時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記億してゐる。柏軒の四女やすは保さんの姉水木と長唄の「老松(おいまつ)」を歌つた。柴田常庵と云ふ肥え太つた医師は、越中褌一つを身に着けたばかりで、「棚の達磨」を踊つた。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは陣幕久五郎(十二代横綱)が小柳平助に負けた話を聞いた。
やすは柏軒の庶出の女である。柏軒の正妻狩谷氏俊(たか)の生んだ子は、幼くて死した長男棠助(たうすけ)、十八、九歳になつて麻疹で亡くなつた長女洲(しう)、狩谷棭斎の養孫、懐之(くわいし)の養子三右衛門に嫁した次女国(くに)の三人だけで、其他の子は皆妾春(はる)の腹である。その順序を言へば、長男棠助、長女洲、次女国、三女北(きた)、次男磐(いはほ)、四女やす、五女こと、三男信平、四男孫助である。おやすさんは人と成つて後田舎に嫁したが、今は麻布鳥居坂町の信平さんの許にゐるさうである。
柴田常庵は幕府医官の一人であつたさうである。しかしわたくしの蔵してゐる武鑑には載せてない。万延元年の武鑑は、わたくしの蔵本に正月、三月、十月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出てゐて、三月以下のには奥医師の部に出てゐる。柴田は三書共にこれを載せない。維新後に此人は狂言作者になつて竹柴寿作と称し、五世坂東彦三郎と親しかつたと云ふことである。猶尋ねて見たいものである。
陣幕久五郎の負は当時人の意料(いれう意想)の外に出た出来事である。抽斎は角觝(かくてい相撲)を好まなかつた。然るに保さんは穉い時からこれを看ることを喜んで、此年(1862)の春場所をも、初日から五日目まで一日も闕かさずに見舞つた。さて其六日目が伊沢の祝宴であつた。子の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに達れられて伊沢の家を出て婦り掛かつた。途中で若党清助が迎へて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語した。
「虚言を衝け」と、保さんは叱した。取組は前から知つてゐて、小柳が陣幕の敵でないことを固く信じてゐたのである。
「いゝえ、本当です」と、清助は云つた。清助の言(こと)は事実であつた。陣幕は小柳に負けた。そして小柳は此勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であつたと云ふから、丁度保さんと清助とが此応答をしてゐた時である。
陣幕の事を言つたから、因に小錦の事をも言つて置かう。伊沢のおかえきんに附けられてゐた松と云ふ少女があつた。松は魚屋与助の女(むすめ)で、菊、京の二人の妹があつた。此京が岩城川の種を宿して生んだのが小錦八十吉(十四代横綱)である。
保さんは今一つ、柏軒の奥医師になつた時の事を記憶してゐる。それは手習の師小島成斎が、此時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかつたかと云ふ、当年の階級制度の画図(ぐわと)が、明に穉い成善の目前に展開せられたのである。
 

 

七十六
小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べてゐる前に、手に鞭を執つて坐し、筆法を正すに鞭の尖を以て指し示し、其間には諧謔を交へた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あつてか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子等もまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
成斎が鉄砲さんを揶揄(からか)へば、鉄砲さんも必ずしも師を敬つてばかりはゐない。往々戯言(けゞん)を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲奴」と叫びつゝ、鞭を揮つて打たうとする。鉄砲は笑つて逃げる。成斎は追ひ附いて、鞭で頭を打つ。「あゝ痛い、先生ひどいぢやありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子等は面白がつて笑つた。かう云ふ事は殆ど毎日あつた。
然るに此年の三月になつて、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になつた。翌日から成斎ははつきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之ば筆法を正すにも「徳安さん、其点はかうお打なさいまし」と云ふ。鉄三郎は余程前に小字を棄てゝ徳安と称してゐたのである。この新な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく大人しくなつて、殆どはにかむやうに見えた。
此年の九月に柏軒はあづかつてゐた抽斎の蔵書を還した。それは九月の九日に将軍家茂が明年二月を以て上洛すると云ふ令を発して、湘軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野貞固に諮つて、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあづけた。そして毎年二度づゝ虫干をすることに定めた。当時作つた日録によれば、其部数は三千五百余に過ぎなかつた。
書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあづけられぬ程の事であつた。森枳園が来て論語と史記とを借りて帰つた。論語は乎古止点(をことてん)を施した古写本で、松永久秀の印記があつた。史記は朝鮮板であつた。後明治二十三年に保さんは島田篁村を訪うて、再び此論語を見た。篁村はこれを細川十洲さんに借りて閲してゐたのである。
津軽家では此年十月十四日に、信順(のぶゆき)が浜町中屋敷に於て、六十三歳で卒した。保さんの成善は枕辺に侍してゐた。
此年十二月二十一日の夜、塙次郎(はなはじらう)が三番町で刺客の刃に命を隕した。抽斎は常に此人と岡本况斎とに、国典の事を詢(と)ふことにしてゐたさうである。次郎は温古堂と号した。保己一(ほきのいち「群書類従」の編者)の男、四谷寺町に住む忠雄さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦(のぶゆき)のために廃立の先例を取り調へたと責ふ事が伝へられたのが、此横禍(わうくわ災難)の因をなしたのである。遺骸の傍に、大逆のために天罰を加ふと云ふ捨札があつた。次郎は文化十一年(1814)生で、殺された時が四十九歳、抽斎より少きこと九年であつた。
是年六月中旬から八月下旬まで麻疹が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、御柳(ぎよりう)の葉と貝多羅葉(ばいたらえふ)とを貰ひに来る人が踵を接した。二樹の葉が当時民間薬として用ゐられてゐたからである。五百は終日応接して、諸人の望に負(そむ)かざらむことを努めた。
七十七
抽斎歿後の第五年は文久三年(1863)である。成善は七歳で、始て矢の倉の多紀安琢の許に通つて、「素問」の講義を聞いた。
伊沢柏軒は此年五十四歳で歿した。徳川家茂に随つて京都に上り、病を得て客死したのである。嗣子鉄三郎の徳安がお玉が池の伊沢氏の主人となつた。
此年七月二十日に山崎美成(よしゝげ)が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかつたのではあるまい。しかし二家書庫の蔵する所は、互に出だし借すことを吝まなかつたらしい。頃日珍書刊行会が「後昔(のちはむかしの)物語」を刊したのを見るに、抽斎の奥書がある。「右喜三二(きさし)随筆後昔物語一巻。借(かりる)好問堂(かうもんだうの)蔵本(ざうほんを)。友人平伯民(へいはくみん)為予(よがために)謄写。庚子(かうし)孟冬(まうとう初冬)一校。抽斎。」庚子は天保十一(1840)年で、抽斎が弘前から江戸に帰つた翌年である。平伯民は平井東堂ださうである。
美成、字は久卿(きうけい)、北峰(ほくほう)、好問堂等の号がある。通称は新兵衛、後久作(きうさく)と改めた。下谷二長町に薬店を開いてゐて、屋号を長崎屋と云つた。晩年には飯田町の鍋島と云ふものの邸内にゐたさうである。黐木(もちのき)坂下に鍋島頴之助(えいのすけ)と云ふ五千石の寄合が住んでゐたから、定めて其邸であらう。
美成の歿した時の齢を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であつただらう。しかし諸書の記載が区々になつてゐて、確には定め難い。
抽斎歿後の第六年は元治元年(1864)である。森枳園が躋寿館の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになつた。
第七年は慶応元年(1865)である。渋江氏では六月二十日に翠暫(すいざん)が十一歳で夭札した。
比良野貞固は此年四月二十七日に妻かなの喪に遭つた。かなは文化十四年(1817)の生で四十九歳になつてゐた。内に倹素を忍んで、外に声望を張らうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待つて始て保続(ほぞく)せられたのである。かなの死後に、親戚僚属(れうぞく下役)は頻に再び娶らむことを勧めたが、貞固は「五十を踰えた花壻になりたくない」と云つて、久しくこれに応ぜずにゐた。
第八年は慶応二年(1866)である。海保漁村が九年前に病に罹り、此年八月其再発に逢ひ、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めて其子竹逕の門人になつた。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかつた。何故と云ふに、晩年の漁村が弟子のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、其他授業は竹逕が悉くこれに当つてゐたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄(しはが)れてゐるのに、竹逕は音吐(おんと)清朗で、しかも能弁であつた。後年に至つて島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻態度を学んでゐはせぬかと疑はしめた。竹逕の養父に代つて講説することは、啻に伝経廬に於けるのみではなかつた。竹逕ば弊衣を著て塾を出で、漁村に代つて躋寿館に往き、間部家に往き、南部家に往いた。勢此の如くであつたので、漁村歿後に至つても、練塀小路の伝経廬は旧に依つて繁栄した。
多年渋江氏に寄食してゐた山内豊覚の妾牧は、此年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
七十八
抽斎の姉須磨が飯田良清に嫁して生んだ女二人の中で、長女延(のぶ)は小舟町の新井屋半七が妻となつて死に、次女路(みち)が残つてゐた。路は痘瘡のために貌(かたち)を傷(やぶ)られてゐたのを、多分此年の頃であつただらう、三百石の旗本で戸田某と云ふ老人が後妻に迎へた。戸田氏は旗本中に頗る多いので、今考へることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男直之助が夭折した跡へ、孫三郎と云ふ養子が来て継いでから、もう久しうなつてゐた。飯田孫三郎は十年前の安政三年(1856)から、武鑑の徒目附(かちめつけ)の部に載せられてゐる。住所は初め湯島天沢寺(てんたくじ)前としてあつて、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記億してゐる家は麟祥院(りんしやういん)前の猿飴(さるあめ)の横町であつたさうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になつて、良政(よしまさ)と称し、後又東京に入つて、下谷車坂町で終つたさうである。
比良野貞固は妻かなが歿した後、稲葉氏から来た養子房之助と二人で、鰥(やもめ)暮しをしてゐたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心が稍動いた。此年の頃になつて、媒人(なかうど)が表坊主大須と云ふものゝ女(むすめ)照(てる)を娶れと勧めた。武鑑を検するに、慶応二年(1866)に勤めてゐた此氏の表坊主父子がある。父は玄喜、子は玄悦で、麹町三軒家の同じ家に住んでゐた。照は玄喜の女で、玄悦の妹ではあるまいか。
貞固は津軽家の留守居役所で使つてゐる下役杉浦喜左衛門を遣つて、照を見させた。杉浦は老実(らうじつ老練誠実)な人物で、貞固が信任してゐたからである。照に逢つて来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、其言語其挙止さへいかにもしとやかだと云つた。
結納は取換された。婚礼の当日に、五百は比良野の家に往つて新婦を待ち受けることになつた。貞固と五百とが窓の下に対坐してゐると、新婦の轎は門内に舁き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の丈極て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖つて歯が出てゐる。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑をして、「お姉えさん、あれが花よめ御ですぜ」と云つた。
新婦が来てから杯をするまでには時が立つた。五百は杉浦の居らぬのを怪んで問ふと、よめの来たのを迎へてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗つて往つたと云ふことであつた。
暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、顙(ひたひ)の汗を拭ひつゝ云つた。「実に分疏(まうしわけ)がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したと云ふ返事があつて参つたのでございます。其席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわつてゐて、時候の挨拶をいたしたのは、兼て申し上げたとほりの美しい女でございました。今日参つたよめ御は、其日に菓子鉢か何か持つて出て、閾の内までちよつとはいつた切で、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であらうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた悴のよめでございますと云ふ返答でございます。全くわたくしの粗忽で」と云つて、杉浦は又顙の汗を拭つた。
七十九
五百は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
杉浦は傍から云つた。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、一言念を押して置けば宜しかつたのでございます。全くわたくしの粗忽で」と云ふ、目には涙を浮べてゐた。
貞固は叉(こまぬ)いてゐた手をほどいて云つた。「お姉えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが好い、わたしは此婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越してゐる。器量好みをする年でもない」と云つた。
貞固は遂に照と杯をした。照は天保六年(1835)生で、嫁した時三十二歳になつてゐた。醜いので縁遠かつたのであらう。貞固は妻の里方と交るに、多く形式の外に出でなかつたが、照と緒婚した後間もなく其弟玄琢を愛するやうになつた。大須玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買つて与へた。中には八尾板(やをばん)の史記などのやうな大部のものがあつた。
此年弘前藩では江戸定府を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎等の国勝手の議が、此時に及んで纔かに行はれたのである。しかし渋江氏と其親戚とは先づ江戸を発する群には入らなかつた。
抽斎歿後の第九年は慶応三年(1867)である。矢島優善は本所緑町の家を引き払つて、武蔵国北足立郡川口に移り住んだ。知人(しるひと)があつて、此土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にゐて医を業としたのは、僅の間である。「どうも独身で田舎にゐて見ると、土臭い女がたかつて来て、うるさくてならない」と云つて、亀沢町の渋江の家に帰つて同居した。当時優善は三十三歳であつた。
比良野貞固の家では、此年後妻照が柳(りう)と云ふ女を生んだ。
第十年は明治元年(1868)である。伏見、鳥羽の戦を以て始まり、東北地方に押し諸められた佐幕の余力が、春より秋に至る間に漸く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入つた後に、江戸を引き上げた弘前藩の定府の幾組かゞあつた。そして其中に渋江氏がゐた。
渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売つた。畳一枚の価は二十四文であつた。庭に定所、抽斎父子の遺愛の木たる檉柳(ていりう)がある。神田の火に逢つて、幹の二大枝に岐れてゐるその一つが枯れてゐる。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徙(うつ)されて、幸に凋(しを)れなかつた木である。又山内豊覚が遺言して五百に贈つた石燈籠がある。五百も成善も、此等の物を棄てゝ去るに忍びなかつたが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難(かた)んずる所である。ましてや一身の安きをだに期し難い乱世の旅である。母子はこれを奈何ともすることが出来なかつた。
食客は江戸若(もし)くは其界隈に寄るべき親族を求めて去つた。奴牌は、弘前に随ひ行くべき若党二人を除く外、悉く暇を取つた。かう云ふ時に、年老いたる男女の往いて投ずべき家の無いものは、愍(あはれ)むべきである。山内氏から来た牧は二年前に死んだが、跡にまだ妙了尼がゐた。
妙了尼の親戚は江戸に多かつたが、此時になつて誰一人引き取らうと云ふものが無かつた。五百は一時当惑した。
八十
渋江氏が本所亀沢町の家を立ち退かうとして、最も処置に困んだのは妙了尼の身の上であつた。此老尼は天明元年(1781)に生れて、已に八十八歳になつてゐる。津軽家に奉公したことはあつても、生れてから江戸の土地を離れたことの無い女である。それを弘前へ伴ふことは、五百がためにも望ましくない。又老いさらばひたる本人のためにも、長途の旅をして知人の無い遠国に往くのはつらいのである。
本妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町の古着屋の女に生れて、真寿院(津軽信寧夫人)の女小姓を勤めた。さて暇を取つてから人に嫁し、夫を喪つて剃髪した。夫の弟が家を嗣ぐに及んで、初め恋愛してゐたゝめに今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐へ忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になつて、虐遇は前に倍し、剰(あまつさ)へ眼病を憂へた。これが弘化二年(1845)で、妙了が六十五歳になつた時である。
妙了は眼病の治療を請ひに抽斎の許へ来た。前年に来り嫁した五百が、老尼の物語を聞いて気の毒がつて、遂に食客にした。それからは渋江の家にゐて子供の世話をし、中にも棠と成善とを愛した。
妙了の最も近い親戚は、本所相生町に石灰(しつくい)屋をしてゐる弟である。しかし弟は渋江の江戸を去るに当つて、姉を引き取ることを拒んだ。其外今川橋の飴屋、石原の釘屋、箱崎の呉服屋、豊島町の足袋屋なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようと云ふものは無かつた。
幸に妙了の女姪(めひ)が一人宮田十兵衛と云ふものゝ妻になつてゐて、夫に小母の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国韮山の某寺に寺男をしてゐるので、妙了は韮山へ往つた。
四月朔に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退いて、本所横川の津軽家の中屋敷に徙つた。次で十一日に江戸を発した。此日は官軍が江戸城を収めた日である。
一行は戸主成善十二歳、母五百五十三歳、陸二十二歳、水木十六歳、専六十五歳、矢島優善三十四歳の六人と若党二人とである。若党の一人は岩崎駒五郎と云ふ弘前のもので、今一人は中条勝次郎と云ふ常陸国土浦のものである。
同行者は矢川文一郎と浅越一家とである。文一郎は七年前の文久元年(1861)に二十一歳で、本所二つ目の鉄物(かなもの)問屋平野屋の女柳を娶つて、男子を一人まうけてゐたが、弘前行の事が極まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を運れて里方へ帰つた。文一郎は江戸を立つた時二十八歳である。
浅越一家は主人夫婦と女とで、若党一人を運れてゐた。主人は通称を玄隆(げんりゆう)と云つて、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少い時不行迹のために父永寿に勘当せられてゐたが、永寿の歿するに及んで末期養子として後を承け、次で抽斎の門人となり、又抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入つた。天保九年(1838)の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であつた。其後渋江氏と親んでゐて、共に江戸を立つた時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女ふくは当歳である。
こゝに此一行に加はらうとして許されなかつたものがある。わたくしはこれを記するに当つて、当時の社会が今と殊なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になつてゐたことは勿論であるが、出入の職人商人も亦情誼が頗る厚かつた。渋江の家に出入する中で、職人には飾屋長八と云ふものがあり、商人には鮓屋久次郎と云ふものがあつた。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木拱(きよう死んで長い)してゐたが、久次郎は六十六歳の翁になつて生存(ながら)へてゐたのである。  
 

 

八十一
飾屋長八は単に渋江氏の出入だと云ふのみではなかつた。天保十年(1839)に抽斎が弘前から帰つた時、長八は病んで治療を請うた。其時抽斎は長八が病のために業を罷めて、妻と三人の子とを養ふことの出来ぬのを見て、長屋に住はせて衣食を給した。それゆゑ長八は病が癒えて業に就いた後、長く渋江氏の恩を忘れなかつた。安政五年(1858)に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に依つて晩酌の一合を傾けた。そして「あの檀那様がお亡くなりなすつて見れば、己もお供をしても好いな」と云つた。それから二階に上がつて寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往つれ見ると、長八は死んでゐたさうである。
鮓屋久次郎は本(もと)ぼて振(行商)の肴屋であつたのを、五百の兄栄次郎が晶貝にして資本を与へて料理店を出させた。幸に鮓久の庖丁は評判が好かつたので、十ばかり年の少い妻を迎へて、天保六年(1835)に悴豊吉をまうけた。享和三年(1803)生の久次郎は当時三十三歳であつた。後九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも出入することになつて、次第に親しくなつてゐた。
渋江氏が弘前に徙る時、久次郎は切に供をして往くことを願つた。三十四歳になつた豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立たうとしたのである。此望を起すには、弘前で料理店を出さうと云ふ企業心も少し手伝つてゐたらしいが、六十六歳の翁が二百里足らずの遠路を供に立つて行かうとしたのは、主に五百を尊崇する念から出たのである。渋江氏では故なく久次郎の願を卻けることが出来ぬので、藩の当事者に伺がつたが、当事者はこれを許すことを好まなかつた。五百は用人河野六郎の内意を承けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に罹つて死んだ。
渋江氏の一行は本所二つ目橋の畔から高瀬舟に乗つて、竪川(たてかは)を漕がせ、中川より利根川に出で、流山、柴又等を経て小山(をやま)に着いた。江戸を距(さ)ること僅に二十一里の路に五日を費した。
近衛家に縁故のある津軽家は、西館孤清の斡旋に依つて、既に官軍に加はつてゐたので、路の行手の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉く敵地である。一行の渋江、矢川、浅越の三氏の中では、渋江氏は人数も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、乳飲子を抱いた妻と云ふ累を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残つた。
五百等の乗つた五挺(ちやう)の駕籠を矢島優善が宰領して、若党二人を連れて、石橋駅に掛かると仙台藩の哨兵線に出合つた。銃を擬した兵卒が左右二十人づつ轎を挾んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何する。女の轎は仔細なく通過させたが、成善の轎に至つて、審問に時を費した。此晩に宿に着いて、五百は成善に女装させた。
出羽の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半である。常の旅には此に来ると祝ふ習であつたが、五百等はわざと旅店を避けて鰻屋に宿を求めた。
八十ニ
山形から弘前に往く順路は、小坂峠を踰えて仙台に入るのである。五百等の一行は仙台を避けて、板谷峠を踰えて米沢に入ることになつた。しかし此道筋も安全では無かつた。上山(かみのやま)まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹留(えんりう逗留)した。
五百等は路用の金が竭(つ)きた。江戸を発する時、多く金を携へて行くのは危険だと云つて、金銭を長持五十荷余りの底に布かせて舟廻しにしたからである。五百等は上山で、やうやう陸を運んで来た些(ちと)の荷物の過半を売つた。これは金を得ようとしたばかりではない。間道を進むことに決したので、嵩(かさ)高になる荷は持つてゐられぬからである。荷を売つた銭は固より路用の不足を補ふ額には上らなかつた。幸に弘前藩の会計方に落ち合つて、五百等は少しの金を借ることが出来た。
上山を発してからは人烟稀なる山谷(さんこく)の間を過ぎた。縄梯子に縋(すが)つて断崖を上下(しやうか)したこともある。夜の宿は旅人に餅を売つて茶を供する休息所の類が多かつた。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
院内峠を踰えて秋田領に入つた時、五百等は少しく心を安んずることを得た。領主佐竹右京大夫義堯(よしたか)は、弘前の津軽承昭(つぐてる)と其に官軍方になつてゐたからである。秋田領は無事に過ぎた。
さて矢立(やたて)峠を踰え、四十八川を渡つて、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地界である。そこを少し下ると、碇(いかり)関と云ふ関があつて番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、始て慇懃な詞を使ふのである。人が雲表(うんぺう)に聳ゆる岩木山を指して、あれが津軽富士で、あの麓が弘前の城下だと教へた時、五百等は覚えず涙を飜(こぼ)して喜んださうである。
弘前に入つてから、五百等は土手町の古着商伊勢屋の家に、藩から一人一日金一分の為向(しむけ)を受けて、下宿することになり、そこに半年余りゐた。船廻しにした荷物は、程経て後に着いた。下宿屋から街(ちまた)に出づれば、土地の人が江戸子々々々と呼びつゝ跡に附いて来る。当時髻(もとゞり)を麻糸で結ひ、地織木綿の衣服を着た弘前の人々の中へ、江戸育の五百等が交つたのだから、物珍らしく思はれたのも怪むに足りない。殊に成善が江戸でもまだ少かつた蝙蝠(かはほり)傘を差して出ると、看るものが堵(と垣根)の如くであつた。成善は蝙蝠傘と懐中時計とを持つてゐた。時計は識らぬ人さへ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄(いぢ)り毀されてしまつた。
成善は近習小姓の職があるので、毎日登域することになつた。宿直は二箇月に三度位であつた。
成善は経史を兼松石居に学んだ。江戸で海保竹逕の塾を辞して、弘前で石居の門を敲いたのである。石居は当時既に蟄居を免されてゐた。医学は江戸で多紀安琢の教を受けた後、弘前では別に人に師事せずにゐた。
戦争は既に所々に起つて、飛脚が日ごとに情報を齎した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向ふことになつた。又浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。此時浅越の下に附属せられたのが、新に町医者から五人扶持の小普請医者に抱へられた蘭法医小山内元洋(げんやう)である。弘前では是より先藩学稽古館に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育してゐた。これを主宰してゐたのは江戸の杉田成卿(せいけい)の門人佐々木元俊である。元洋も亦杉田門から出た人で、後建(けん)と称して、明治十八年(1885)二月十四日に中佐相当陸軍一等軍医正を以て広島に終つた。今の文学士小山内薫さんと画家岡田三郎助さんの妻八千代さんとは建の遺子である。矢島優善(やすよし)は弘前に留まつてゐて、戦地から後送せられて来る負傷者を治療した。
八十三
渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思ひも掛けぬ事に遭遇した。
一行が土手町に下宿した後二、三月にして暴風雨があつた。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が祟(たゝり)を作(な)すのだと信じてゐる。神は他郷の人が来て土着するのを悪んで、暴風雨を起すと云ふのである。此故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中丹後の人と南部の人とを嫌ふ。なぜ丹後の人を嫌ふかと云ふに、岩木山の神は古伝説の安寿姫で、己を虐使した山淑大夫(さんせうたいふ)の郷人を嫌ふのださうである。又南部の人を嫌ふのは神も津軽人のパルチキュラリスム(particularisme排他主義)に感化せられてゐるのかも知れない。
暴風雨の後数日にして、新に江戸から徙つた家々に沙汰があつた。若し丹後、南部等の生のものが紛れ入つてゐるなら、厳重に取り糺して国境の外に逐へと云ふのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして目指(めざ)された。中条は常陸生だと云つて中し解いたが、役人は生国不明と認めて、それに立退を諭した。五百は已むことを得ず、中条に路用の金を与へて江戸へ還らせた。
冬になつてから渋江氏は富田新町の家に遷(うつ)ることになつた。そして知行は当分の内六分引(びけ)を以て給すると云ふ達しがあつて、実は宿料食料の外何の給与もなかつた。これが後二年にして秩禄に大削滅を加へられる発端であつた。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の人達は、富田新町、新寺町新割町、上白銀(しろがね)町、下白銀町、塩分町、茶畑町の六箇所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町、新寺町新割町には大矢場、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆等が居り、新寺町新割町には比良野貞固、中村勇左衛門等が居り、下白銀町には矢川文内等が居り、塩分町には平井東堂等が居つた。
此頃五百は専六が就学問題のために思を労した、専六の性質は成善とは違ふ。成善は書を読むに人の催促を須たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆゑ五百は彼が兼松石居に従つて経史を攻(をさ)めるのを見て、毫も容喙せずにゐた。成善が儒となるも亦可、医となるも亦不可なる無しとおもつたのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先づ有用無用の詮議をする。五百は此子には儒となるべき素質が無いと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
五百は弘前の城下に就いて、専六が師となすべき医家を物色した。そして親方町に住んでゐる近習医者小野元秀(げんしう)を獲た。
八十四
小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎の次男で、小字を常吉と舌つた。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜馳せて医師某の許に往つた。某は家にゐたのに、来り診することを肯ぜなかつた。常吉は此時父のために憂へ、某のために惜んで、心にこれを牢記(らうき銘記)してゐた。後に医となつてから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問はず、地の遠近を論ぜず、食ふときには箸を投じ、臥したるときには被(ひ)を蹴て起ち、径(たゞ)ちに往いて診したのは、少時の苦き経験を忘れなかつたゝめださうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳の養子となり、其長女そのに配せられた。
元秀は忠誠にして廉潔であつた。近習医に任ぜられてからは、詰所に出入するに、朝(あした)には人に先んじて往き、タ(ゆふべ)には人に後れて反つた。そして公退後には士庶の病人に接して、絶て倦む色が無かつた。
稽古館教授にして、五十石町に私塾を開いてゐた工藤他山(たざん)は、元秀と親善であつた。これは他山が未だ仕途(しと仕官)に就かなかつた時、元秀が其貧を知つて、糈(しよ糧)を受けずして懇に治療した時からの交である。他山の子外崎さんも元秀を識つてゐたが、これを評して温潤良玉の如き人であつたと云つてゐる。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実に其人を獲たものと謂ふべきである。
元秀の養子完造(くわんざう)は本山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子芳甫(はうほ)さんは本鳴海氏で、今弘前の北川端町に住んでゐる。元秀の実家の裔(すゑ)は弘前の徒町(かちまち)川端町の対馬チ蔵(しようざう)さんである。
専六は元秀の如き良師を得たが、憾むらくは心、医となることを欲せなかつた。弘前の人は毎(つね)に、円頂(ゑんちやう坊主頭)の専六が筒袖の衣を着、短袴を穿を、赤毛布を纏つて銃を負ひ、山野を跋渉するのを見た。これは当時の兵士の服装である。
専六は兵士の間に交を求めた。兵士等は呼ぶに医者銃隊の名を以てして、頗るこれを愛好した。
時に弘前に徙つた定府中に、山澄吉蔵(きちざう)と云ふものがあつた。名を直清(なほきよ)と云つて、津軽藩が文久三年(1863)に江戸に遣つた海軍修行生徒七人の中で、中小姓を勤めてゐた。築地(つきぢ)海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の例に加はつた。弘前に徙つて問もなく山澄は熕隊司令官にせられた。兵士中身を立てむと欲するものは、多く此山澄を師として洋算を学んだ。専六も亦藤田潜(ひそむ)、柏原櫟蔵(れきざう)等と共に山澄の門に入つて、洋算簿記を学ぶことゝなり、いつとなく元秀の講莚には臨まなくなつた。後山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終つた。藤田さんは今攻玉舎(こうぎよくしや)長をしてゐる。攻玉舎は後に近藤真琴の塾に命ぜられた名である。初め麹町八丁目の鳥羽藩主稲垣対馬守長和(ながかず)の邸内にあつたのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で芝神明町の商船黌(くわう)と、芝新銭座の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉舎となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営してゐたのである。
八十五
小野富穀と其子道悦(だうえつ)とが江戸を引き上げたのは、此年二月二十三日で、道中に二十五日を費し、三月十八日に弘前に着いた。渋江氏の弘前に入るに先つこと二箇月足らずである。
矢島優善が隠居させられた時、跡を襲いだ周禎の一家も、此年に弘前へ徙つたが、その江戸を発する時、三男三蔵は江戸に留まつた。前に小田原へ往つた長男周碩と、此三蔵とは、後にカトリツク教の宣教師になつたさうである。弘前へ往つた周禎は表医者奥通に進み、其次男で嗣子にせられた周策も亦目見の後表医者を命ぜられた。
抽斎の姉須磨の夫飯田良清の養子孫三郎は、此年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になつた。
森枳園は此年七月に東京から福山に遷つた。当時の藩主は文久元年(1861)に伊予守正教の後を承けた阿部主計頭正方(まさかた)であつた。
優善の友塩田良三は此年浦和県の官吏になつた。是より先良三は、優善が山田椿庭の塾に入つたのと殆ど同時に、伊沢柏軒の塾に入つて柏軒に其才の雋鋭(しゆんえい俊英)なるを認められ、節を折つて書を読んだ。文久三年(1863)に柏軒が歿してからは家に帰つてゐて、今仕宦(しかん)したのである。
此年箱館に拠つてゐる榎本武揚(たけあき)を攻むがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加してゐた。伊沢榛軒の嗣子棠軒はこれに従つて北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に訪うた。棠軒は福山藩から一粒金丹を買ふことを託せられてゐたので、此任を果たす旁(かたはら)、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は信淳、通称は春安、池田全安が離別せられた後に、榛軒の女かえの壻となつたのである。かえば後に名をそのと更めた。おそのさんは現存者で、市谷富久町の伊沢徳(めぐむ)さんの許にゐる。徳さんは棠軒の嫡子である。
抽斎歿後の第十一年は明治二年(1869)である。抽斎の四女陸が矢川文一郎に嫁したのは、此年九月十五日である。
陸が生れた弘化四年(1847)には、三女棠がまだ三歳で、母の懐を離れなかつたので、陸は生れ降ちるとすぐに、小柳町の大工の棟梁新八と云ふものゝ家へ里子に遣られた。さて嘉永四年(1851)に棠が七歳で亡くなつたので、母五百が五歳の陸を呼び返さうとすると、偶矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなつて、陸を還すことを見あはせた。翌五年にやうやう還つた陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であつた。しかし五百の胸をば棠を惜む情が全く占めてゐたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗る自ら抑遜してゐなくてはならなかつた。
これに反して抽斎は陸を愛撫して、身辺に居らせて使役しつゝ、或時五百にかう云つた。「己はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きてゐさうだ。それだから今の内に、かうして陸を為込んで置いて、お前に先へ死なれた時、此子を女房代りにする積だ。」
陸は又兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三も亦陸を愛する一人で、陸が手習をする時、手を把つて書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が旨く出来たな」と云つて揶揄つたことがある。
陸は小さい時から長歌が好で、寒夜に裏庭の築山の上に登つて、独り寒声(かんごゑ発声練習)の修行をした。
 

 

八十六
抽斎の四女陸は此家庭に生長して、当時尚其境遇に甘んじ、毫も婚嫁を急く念が無かつた。それゆゑ嘗て一たび飯田寅之丞に嫁せむことを勧めたものもあつたが、事が調はなかつた。寅之丞は当時近習小姓であつた。天保十三年(1842)壬寅(みづのえとら)に生れたからの名である。即ち今の飯田巽さんで、巽の字は明治二年己巳(つちのとみ)に二十八になつたと云ふ意味で選んだのださうである。陸との縁談は媒(なかうど)が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなからうが、余り古い事なので巽さんは已に忘れてゐるらしい。然るに此度は陸が遂に文一郎の聘を卻くることが出来なくなつた。
文一郎は最初の妻柳が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立つた。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を娶つたが、未だ幾ならぬにこれを去つた。此女は西村与三郎の女(むすめ)作であつた。次で箱館から帰つた頃からであらう、陸を娶らうと思ひ立つて、人を遣して請ふこと数度に及んだ。しかし渋江氏では輒ち動かなかつた。陸には旧に依つて婚嫁を急ぐ念が無い。五百は文一郎の好人物なることを熟知してゐたが、これを壻にすることをば望まなかつた。かう云ふ事情の下に、両家の間には稍久しく緊張した関係が続いてゐた。
文一郎は壮年の時パツシヨンの強い性質を有してゐた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であつた。渋江氏では、若し其請を納れなかつたら、或は両家の間に事端(じたん)を生じはすまいかと慮(おもんばか)つた。陸が遂に文一郎に嫁したのは、此疑懼の犠牲になつたやうなものである。
此結婚は、名義から云へば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹から見れば、文一郎が壻入をしたやうであつた。式を行つた翌日から、夫婦は終日渋江の家にゐて、夜更けて矢川の家へ寝に帰つた。この時文一郎は新に馬廻になつた年で二十九歳、陸は二十三歳であつた。
矢島優善は、陸が文一郎の妻になつた翌月、即ち十月に、土手町に家を持つて、周禎の許にゐた鉄を迎へ入れた。これは行懸りの上から当然の事で、五百は傍(はた)から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になつた鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に賺(すか)されては居らぬので、此土手町の住ひは優善が身上のクリジス(危機)を起す揚所となつた。
優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固より予期すべきであつた。しかし啻に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽ち讐敵(しうてき仇敵)となつた。そしてその争ふには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を提(ひつさ)げて夫に当るのであつた。「あなたがいくぢが無いばかりに、あの周禎のやうな男に矢島の家を取られたのです。」此句が幾度となく反復せられる鉄が論難の主眼であつた。優善がこれに答へると、鉄は冷笑する、舌打をする。
此争は週を累ね月を累ねて歇(や)まなかつた。五百等は百方調停を試みたが何の功をも秦せなかつた。
五百は已むことを得ぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取つて貰はうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかつた。渋江氏と周禎が方との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答の姿になつた。
此往反(わうへん往復)の最中に忽ち優善が失踪した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それ切帰つて来ぬのである。渋江氏では、優善が悶を排せむがために酒色の境(さかひ)に遁れたのだらうと思つて、手分をして料理屋と妓楼とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかつた。
八十七
比良野貞固は江戸を引き上げる定府の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の交(かう)安済丸と云ふ新造帆船に乗つた。然るに安済丸は海に泛(うか)んで間もなく、柁機(だき舵)を損じて進退の自由を失つた。乗組員は某地より上陸して、許多の辛苦を嘗め、此年五月にやうやう東京に帰つた。
さて更に米艦スルタン号に乗つて、此度は無事に青森に著した。佐藤弥六さんは当時の同乗者の一人ださうである。
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いてゐたのに、いつまでも到着せぬので、どうした事かと案じてゐた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄つたと云ふ流言などがあつて、愈心を悩まする媒となつた。そのうち此年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書(しゆしよ)が来た。其中には安済丸の故障の為に一たび去つた東京に引き返し、再び米艦に乗つて来たことを言つて、さて金を持つて迎へに来てくれと云つてあつた。一年余の間無益な往反をして、貞固の盤纏(はんてん旅費)は僅に一分銀一つを剰してゐたのである。
弘前に来てから現金の給与を受けたことの無い渋江氏では、此書を得て途方に暮れたが、船廻しにした荷の中に、刀剣のあつたのを卅五(35)振質に入れて、金二十五両を借り、それを持つて往つて貞固を弘前へ案内した。
貞固の養子房之助は此年に手廻を命ぜられたが、藩制が改まつたので、久しく此職に居ることが出来なかつた。
抽斎歿後の第十二年は明治三年(1870)である。六月十八日に弘前藩士の秩禄は大削滅を加へられ、更に医者の降等(かうとう降格)が令せられた。禄高は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に滅ぜられたのである。そして従来石高を以て給せられてゐたものは、其儘俵と看做して同一の削滅を行はれた。そして士分を上士、中士、下士に班(わか)つて、各班に大少を置いた。二十俵を少下士、三十俵を大下士、四十俵を少中士、八十俵を大中士、百五十俵を少上士、二百俵を大上士とすると云ふのである。
渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位する筈で、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足する積でゐた。
然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになつた。本成善は医者の子として近習小姓に任ぜられてゐるには違無い。しかし未だ曾て医として仕へたことはない。しかのみならず令の出づるに先だつて、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書を授けてゐる。これは師たる兼松石居が已に屏居(へいきよ)を免されて藩の督学(とくがく監督)を拝したので、その門人も亦挙用せられたのである。且先例を按ずるに、歯科医佐藤春益の子は、単に幼くして家督したゝめに、平士(へいし平侍)にせられてゐる。況や成善は分明に儒職にさへ就いてゐるのである。成善が此令を己に適用せられようと思はなかつたのも無理は無い。
しかし成善は念のために大参事西館孤清(にしだてこせい)、少参事兼大隊長加藤武彦の二人を見て意見を叩いた。二人皆成善は医として視るべきものでないと云つた。武彦は前(さき)の側用人兼用人清兵衛の子である。何ぞ料(はか)らむ、成善は医者と看做されて降等に逢ひ、三十俵の禄を受くることゝなり、剰へ士籍の外にありなどゝさへ云はれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかつた。
八十八
何故に儒を以て仕へてゐる成善に、医者降等の令を適用したかと云ふに、それは想像するに難くは無い。渋江氏は世(よゝ)儒を兼ねて、命を受けて経を講じてはゐたが、家は本医道の家である。成善に至つても、幼い時から多紀安琢の門に入つてゐた。又已に弘前に来た後も、医官北岡太淳、手塚元瑞、今春碩(いまはるせき)等は成善に兼て医を以て仕へむことを勧め、かう云ふ事を言つた。「弘前には少壮者中に中村春台、三上道春、北岡有格、小野圭庵の如きものがある。其他小山内元洋のやうに新に召し抱へられたものもある。しかし江戸定府出身の少い医者が無い。ちと医業の方をも出精してはどうだ」と云つた。且令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽承昭(つぐてる)に医として遇せられてゐた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は戦を大屋場に習はせた。承昭は五月二十六日に知事になつてゐたのである。銃声の盛んに起つた時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍に侍した成善をして小野に代らしめた。此の如く渋江氏の子が医を善くすることは、上下皆信じてゐたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕へてゐるものを不幸に陥いれたのは、同情が闕けてゐたと謂つても好からう。
矢島優善は前年の暮に失踪して、渋江氏では疑懼の間に年を送つた。此年一月二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持つて来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は五百に宛て、一は成善に宛てゝある。並に訣別の書で、所々涙痕を印してゐる。石川は弘前を距ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとほりに、優善が駅を去つた後に手紙を届けたのである。
五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥しはせぬかと気遣つて、再び人を傭つて捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、大鰐、倉立(くらだて)、碇関(いかりがせき)等を隈なく尋ねた。しかし蹤跡(しようせき)は絶て知れなかつた。
優善は東京をさして石川駅を発し、此年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋に著いた。湊屋の上さんは大分年を取つた女で、常に優善を「蝶さん」と呼んで親んでゐた。優善は此女をたよつて往つたのである。
湊屋に皆と云ふ娘がゐた。此みいちやんは美しいので、茶屋の呼物になつてゐた。みいちやんは津藤に縁故があるとか云ふ河野某を檀那に取つてゐたが、河野は遂にみいちやんを娶つて、優善が東京に着いた時には、今戸橋の畔に芸者屋を出してゐた。屋号は同じ湊屋である。
優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀の箱屋になり、主に今戸橋の湊屋で抱へてゐる芸者等の供をした。
四箇月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田と云ふ骨董店に入贅した。安田の家では主人礼助が死んで、未亡人政が寡居(くわきよ寡婦)してゐたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かつた。それは政が優善の妻になつて間もなくみまかつたからである。
此頃前(さき)に浦和県の官吏となつた塩田良三が、権大属(だいさかん)に陞(のぼ)つて聴訟係をしてゐたが、優善を県令に薦めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になつた。時に年三十六であつた。
八十九
専六は兵士との交が漸く深くなつて、此年五月にはとうとう「於軍務局楽手(がくしゆ)稽古(けいこ)被仰付(おほせつけらる)」と云ふ沙汰書を受けた。さて楽手の修行をしてゐるうちに、十二月二十九日に山田源吾の養子になつた。源吾は天保中津軽信順(のぶゆき)が未だ致仕せざる時、側用人を勤めてゐたが、旨に忤(さか)つて永の暇になつた。しかし他家に仕へようと云ふ念もなく、商估の業をも好まぬので、家の菩提所なる本所中の郷の普賢寺の一房に僦居(しうきよ間借)し、日ごとに街に出でゝ謡を歌つて銭を乞うた。
この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋附の衣類、上下等を葛籠(つゞら)一つに収めて持つてゐた。
承昭(つぐてる)は此年源吾を召し還して、二十俵を給し、目見以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職に居り難いのを慮つて、養子を求めた。
此時源吾の親戚に戸沢惟清(いせい)と云ふものがあつて、専六を其養子に世話をした。戸沢は五百に説くに、山田の家世の本卑くなかつたのと、東京勤の身を立つるに便なるとを以てし、又かう云つた。「それに専六さんが東京にゐると、後に弟御さんが上京することになつても御都合が宜しいでせう」と云つた。成善は等を降され禄を滅ぜられた後、東京に往つて恥を雪がうと思つてゐたからである。
戸沢がかう云つて勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾けた。五百は戸沢の人と為りを喜んでゐたからである。戸沢惟清、通称は八十吉、信順在世の日の側役であつた。才幹あり気概(きがい)ある人で、恭謙にして抑損し、些の学問さへあつた。然るに酒を被(かうぶ)るときは剛愎(がうふく強情)にして人を凌いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑(ようど貯)匱(とぼ)しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝へさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかつたさうである。
或時戸沢は公事を以て旅行した。物書松本甲子蔵(きねざう)がこれに随つてゐた。駕籠の中に坐した戸沢が、ふと側を歩く松本を見ると、草鞋(わらぢ)の緒(を)が足背(そくはい)を破つて、鮮血が流れてゐた。戸沢は急に一行を止まらせて、大声に「甲子蔵(きねざう)」と呼んだ。「はつ」と云つて松本は轎扉(けうひ駕籠の扉)に近づいた。戸沢は「ちと内用があるから遠慮いたせ」と云つて、供のものを遠け、松本に草鞋を脱がせて、強ひて轎中(けうちゆう)に坐せしめ、自ら松本の草鞋を着け、さて轎丁(かごかき)を呼んで舁(か)いて行かせたさうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんは又戸沢と其弟星野伝六郎とをも識つてゐた。戸沢の子米太郎、星野の子金蔵の二人は曾て保さんの教を受けたことがある。
戸沢の勧誘には、此年弘前に著した比良野貞固も同意したので、五百は遂にこれに従つて、専六が山田氏に養はるゝことを諾した。其事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。此年専六は十七歳になつてゐた。然るに東京にある養父源吾は、専六が尚舟中にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した陸は、此年長男万吉を生んだが、万吉は夭折して弘前新寺町の報恩寺なる文内が母の墓の傍に葬られた。
抽斎の六女水木は此年馬役村田小吉の子広太郎に嫁した。時に年十八であつた。既にして(そのうちに)矢島周禎が琴瑟調はざる(夫婦不仲)ことを五百に告げた。五百は已むを得ずして水木を取り戻した。
小野氏では此年富穀が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相統をした。道悦は天保七年(1836)生で、三十五歳になつてゐた。
中丸昌庵は此年六月二十八日に歿した。文政元年(1818)生の人だから、五十三歳を以て終つたのである。
弘前の城は此年五月二十六日に藩庁となつたので、知事津軽承昭(つぐてる)は三之内に遷つた。
九十
抽斎歿後の第十三年は明治四年(1871)である。成善は母を弘前に遺して、単身東京に往くことに決心した。その東京に往かうとするのは、一には降等に遭つて不平に堪へなかつたからである。二には滅禄の後は旧に依つて生計を立てゝ行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑を避けむがためである。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌はなかつた。これに反して私費を以て東京に往かうとするものがあると、藩は已に其人の脱藩を疑つた。況や家族をさへ伴はうとすると、此疑は益深くなるのであつた。
成善が東京に往かうと思つてゐるのは久しい事で、屢これを師兼松石居に謀つた。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓つた。しかし成善は今は徐(しづか)にこれを待つことが出来なくなつたのである。
さて成善は私費を以て往くことを敢てするのであるが、猶母だけば遺して置くことにした。これは已むことを得ぬからである。何故と云ふに、若し成善が母と倶に往かうと云つたなら、藩は放ち遣ることを聴(ゆる)さなかつたであらう。
成善は母に約するに、他日東京に迎へ取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格(そかく妨碍)すべきことは、母子皆これを知つてゐた。約(つゞ)めて言へば、弘前を去る成善には母を質(ち)とするに似た恨(うらみ)があつた。
藩が脱籍(だつせき)者の輩出せむことを恐るゝに至つたのは、二、三の忌むべき実例があつたからである。其首(しゆ)に居るものは、彼の勘定奉行を罷めて米穀商となつた平川半治である。当時此の如く財利のために士籍を遁れようとする気風があつたことは、渋江氏も亦親しくこれを験(けん)することを得た。或人は五百に説いて、東京両国の中村楼を買はせようとした。今千両の金を投じて買つて置いたなら、他日鉅万(きよまん)の富を致すことが出来ようと云つたのである。或人は東京神田須田町の某売薬株を買はせようとした。此株は今廉価を以て贖ふことが出来て、即日から月収三百両乃至五百両の利かあると云つたのである。五百のこれに耳を仮さなかつたことは固よりである。
当時藩職に居つて、津軽家をして士を失はざらしめむと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事西館孤清である。成善は西館を訪うて、東京に往くことを告げた。西館はおほよそかう云つた。東京に往くは好い。学業成就して弘前に帰るなら、我等はこれを任用することを吝(をし)まぬであらう。しかし半途にして母を迎へ取らむとするが如きことがあつたなら、それは郷土のために謀つて忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであらうと云つた。成善は悲痛の情を抑へて西館の許を辞した。
成善は家禄を割いて、其五人扶持を東京に送致して貰ふことを、当路の人に請うて允(ゆる)された。それから長持一棹(さを)の錦絵を書画兼骨董商近竹(きんたけ)に売つた。これは浅草蔵前の兎桂(とけい)等で、二十枚百文位で買つた絵であるが、当時三枚二百文乃至一枚百文で売ることが出来た。成善は此金を得て、半は留めて母に餽(おく)り、半はこれを旅費と学資とに充てた。
成善が弘前で暇乞に廻つた家々の中で、最も別を惜んだのは兼松石居と平井東堂とであつた。東堂は左腭(がく歯茎)下に瘤を生じたので、自ら瘤翁(りうをう)と号してゐたが、別に臨んで、もう再会は覚束ないと云つて落涙した。成善の去つた翌年、明治五年(1872)九月十六日に東堂は塩分町の家に歿した。年五十九である。四女乙女(おとめ)が家を継いだ。今東京神田裏神保町に住んで、琴の師匠をしてゐる平井松野さんが此乙女である、  
 

 

九十一
成善は藩学の職を辞して、此年三月二十一日に、母五百と水杯を酌み交して別れ、駕籠に乗つて家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期し難きを思つたからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になつてゐた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であつたので、此時始て親子の別の悲しさを知つて、轎中で声を発して泣きたくなるのを、やうやう堪へ忍んださうである。
同行者は松本甲子蔵であつた。甲子蔵は後に忠章と改称した。父を庄兵衛と云つて、素比良野貞固の父文蔵の若党であつた。文蔵はその樸直(ぼくちよく朴直)なのを愛して、津軽家に薦めて足軽にして貰つた。其子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生(しゝやう書記官)に任用せられてゐたのである。
弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、こゝで親戚故旧と酒を酌んで別れる習であつた。成善を送るものは、句読を授けられた少年等の外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉、菱川太郎などであつた。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になつたが、二人共に已に世を法つた。
成善は四月七日に東京に着いた。行李を卸したのは本所二つ目の藩邸である。是より先成善の兄専六は、山田源吾の養子になつて、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間に死んだ源吾の家に住んでゐた。源吾は津軽承昭(つぐてる)の本所横川に設けた邸をあづかつてゐて、住宅は本所割下水(わりげすい)にあつたのである。其外東京には五百の姉安が両国薬研堀(やげんぼり)に住んでゐた。安の女二人のうち、敬(けい)は猿若町三丁日の芝居茶屋三河屋に、銓(せん)は蔵前須賀町の呉服屋桝屋儀平の許にゐた。又専六と成善との兄優善は、程遠からぬ浦和にゐた。
成善の旧師には多紀安琢が矢の倉に居り、海保竹逕がお玉が池にゐた。維新の初に官吏になつて、此邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買ひ受けて練堺小路の湿地にあつた、床の低い、畳の腐つた家から移り住んだ。独(ひとり)家宅が改まつたのみでは無い。常に弊衣を着てゐた竹逕が、其頃から絹布を被(き)るやうになつた。しかし幾もなく、当時の有力者山内豊信(とよしげ)等の斥(しりぞ)くる所となつて官を罷めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に入つたが、竹逕は前年に会陰(ゑいん)に膿瘍(のうやう)を発したゝめに、稍衰弱してゐた。成善は久し振にその「易」や「毛詩」を講ずるのを聴いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を蒙つてゐた。成善は屢其安否を問うたが、再び「素問」を学ばうとはしなかつた。
成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町の共立学舎に通ひはじめた。父抽斎は遺言して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を易ふるに至らしめたのである。共立学舎は尺振八(せきしんぱち)の経営する所である。振八、初の名を仁寿と云ふ。下総国高岡の城主井上筑後守正滝(まさたき)の家来鈴木伯寿(はくじゆ)の子である。天保十年(1839)に江戸佐久間町に生れ、安政の末年に尺氏を冒した。田辺太一に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎等を師とし、次で英米人に親灸し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になつてゐた。
九十二
成善は四月に海保の伝経盧に入り、五月に尺の共立学舎に入つたが、六月から更に大学南校にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、猶放課後にはフルベックの許を訪うて教を受けた。フルベックは本和蘭人で亜米利加合衆国に民籍を有してゐた。日本の教育界を開拓した一人である。
学資は弘前藩から送つて来る五人扶持の中三人扶持を売つて弁ずることが出来た。当時の相揚で一箇月金二両三分二朱と四百六十七文であつた。書籍は英文のものは初より新に買ふことを期してゐたが、漢書は弘前から抽斎の手沢本を送つて貰ふことにした。然るに此書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭つて覆つて、抽斎の曾て蒐集した古刊本等の大都分が海若(かいじやく海の神)の有に帰した。
八月二十八日に弘前県の幹督(かんとく)が成善に命ずるに神社調掛を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。此命は成善が共立学舎に入ることを届けて置いたので、同時に「欠席聞届の委頼」と云ふ形式を以て学舎に伝へられた。是より先七月十四日の詔(みことのり)を以て廃藩置県の制が布かれたので、弘前県が成立してゐたのである。
矢島優善は浦和県の典獄になつてゐて、此年一月七日に唐津藩士大沢正(おほさはせい)の女蝶(てふ)を娶つた。嘉永二年(1849)生で二十三歳である。是より先前妻鉄は幾多の葛藤を経た後に離別せられてゐた。
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生(下級書記官)にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、其事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と倶に東京に来た松本甲子蔵は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、後兵事課長に進み、明治三十二年(1899)三月二十八日に歿した。弘化二年(1845)生であるから、五十五歳になつたのである。
当時県吏の権勢は盛なものであつた。成善が東京に入つた直後に、まだ浦和県出仕の典獄であつた優善を訪ふと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に駕籠一挺を宰領させて成善を県の界に迎へた。成善がその駕籠に乗つて、戸田の渡しに掛かると、渡船場の役人が土下座をした。
優善が庶務局詰になつた頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の湊屋の抱芸者を始とし、山谷堀で顔を識つた芸者を漏なく招いた。そして酒闌(たけなは)なる時「己(おれ)はお前方の供をして、大ぶ世話になつたことがあるが、今日は己もお客だぞ」と云つた。大丈夫(だいじやうふ男子)志を得たと云ふ概(がいおもむき)があつたさうである。
県吏の間には当時飲宴(いんえん)が屢行はれた。浦和県知事間島冬道(ふゆみち)の催した懇親会では、塩田良三が野呂松(のろま)狂言(人形芝居)を演じ、優善が莫大小(めりやす)の襦袢袴下(はかました)を着て夜這の真似をしたことがある。間島は通称万次郎、尾張の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、其年九月二十九日の事である。
此年の暮、優善が埼玉県出仕になつてからの事である。某村の戸長は野菜一車を優善に献じたいと云つて持つて来た。優善は「己は賄賂は取らぬぞ」と云つて卻けた。
戸長は当惑顔をして云つた。「どうも此野菜を此儘持つて帰つては、村の人民共に対して、わたくしの面目が立ちませぬ。」
「そんなら買つて遣らう」と、優善が云つた。戸長はやうやう天保銭一枚を受け取つて、野菜を車から卸させて帰つた。
優善は廉い野菜を買つたからと云つて、県令以下の職員に分配した。
県令は野村盛秀であつたが、野菜を貰ふと同時に此顚末を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」と云つて褒めたさうである。野村は初め宗七と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となつた蒔、日田県如事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去つて名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所(おんうたどころ)寄人(よりうど)を以て終つた。又野村は後明治六年五月二十一日に此職にゐて歿したので、長門の士参事白根多助が一時県務を摂行(せつかう代行)した。
九十三
山田源吾の養子になつた専六は、まだ面会もせぬ養父を喪つて、其遺跡を守つてゐたが、五月一日に至つて藩知事津軽承昭(つぐてる)の命を拝した。「親源吾給禄二十俵無相違被遣(さうゐなくつかはさる)」と云ふのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終つたが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは成善が内意を承けて願書を呈したゝめである。
専六は成善に紹介せられて、先づ海保の伝経廬に入り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に梅浦精一に従学した。
此年(1871)六月七日に成善は名を保と改めた。これは母を懐ふが故に改めたので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署してゐたのださうである。矢島優善の名を優(ゆたか)と改めたのも此年である。山田専六の名を脩(をさむ)と改めたのは、別に記載の徴すべきものは無いが、稍後の事であつたらしい。
此年十二月三日に保と脩とが同時に斬髪した。優は何時斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であつただらう。優は少し早く東京に入り、程なく東京を距ること遠からぬ浦和に往つて官吏をしてゐたが、必ずしも二弟に先だつて斬髪したとも云ひ難い。紫の紐を以て髻(もとゞり)を結ぶのが、当時の官吏の頭飾で、優が何時まで其髻を愛惜したかわからない。人は或は抽斎の子供が何時斬髪したかを問ふことを須ゐぬと云ふかも知れない。しかし明治の初に男子が髪を斬つたのは、独逸十八世紀のツォップフ(Zopf弁髪)が前に断たれ、清朝の辮髪が後に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家は其年月を知るに苦むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬つた年を記してゐない。保さんの日記の一条を此に採録する所以である。
此年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたゝめに保は弟山田脩が本所割下水の家に同居した。
海保竹逕の妻、漁村の女が此年十月二十五日に歿した。
抽斎歿後の第十四年は明治五年(1872)である。一月に保が山田脩の家から本所横網町の鈴木きよ方の二階へ徙つた。鈴木は初め船宿であつたが主人が死んでから、未亡人きよが席貸をすることになつた。きよは天保元年(1830)生で、此年四十三歳になつてゐた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信を断たなかつた。是より先保は弘前にある母を呼び迎へようとして、藩の当路者に諮ること数次であつた。しかし津軽承昭の知事たる間は、西館等が前説を固守して許さなかつた。前年廃藩の詔が出て、承昭は東京に居ることになり、県政も亦頗る革(あらた)まつたので、保は又当路者に諮つた。当路者は復(また)五百の東京に入ることを阻止しようとはしなかつた。唯保が一諸生を以て母を養はむとするのが怪むべきだと云つた。それゆゑ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百はやうやう弘前から東京に来ることになつた。
保が東京に遊学した後の五百が寂しい生活には、特に記すべき事は無い。只前年廃藩前に、弘前俎林(まないたばやし)の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産(じゆさん補助)の目的を以て割与(かつよ)した土地に剰余があつたので、当路者が士分として扱はれざる医者にも恩恵を施したのださうである。此地面の授受は浅越玄隆が五百の委託によつて処理した。
五百が弘前を去る時、村田広太郎の許から帰つた水木を伴はなくてはならぬことは勿論であつた。其外陸も亦夫矢川文一郎と倶に五百に附いて東京へ往くことになつた。
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達商人工藤忠五郎蕃寛(はんくわん)の次男蕃徳(はんとく)を養子にして弘前に遺した。蕃寛には二子二女があつた。長男可次(よしつぐ)は森甚平の士籍、又次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連さんは蕃寛の後を継いで、現に弘前の下白銀町に矢川写真館を開いてゐる。次女おみきさんは岩川氏友弥さんを壻に取つて、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いてゐる。蕃徳は郵便技手になつて、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子文平さんが其後を襲いだ。
九十四
五百は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸の夫妻並に村田氏から帰つた水木の三人と倶に、本所横網町の鈴木方に行李を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎と云ふものであつた。代次郎は勘定奉行武田準左衛門の孫である。準左衛門は天保四年(1833)十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽信順(のぶゆき)の下で笠原近江(あふみ)が政を擅(ほしいまま)にした時の事である。
五百と保とは十六箇月を隔てゝ再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、優は浦和から母に逢ひに来た。
三人の子の中で、最も生計に余裕があつたのは優である。優は此年四月十二日に権少属(さくわん)になつて、月給僅に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加へても、尚七十円許に過ぎない。しかし其意気は今の勅任官に匹敵してゐた。優の家には二人の食客があつた。一人は妻蝶の弟大沢正(せい)である。今一人は生母徳の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵は曾て保の胞衣(えな)を服用したと云ふ癲癇病者で、維新後間もなく世を去つた。次男が此養玄で、当時氏名を更めて岡寛斎と云つてゐた。優が登庁すると、その使役する給仕は故旧中田某の子敬三郎である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本甲子蔵がある。又敬三郎の父中田某、脩の親戚山田健三、曾て渋江氏の若党たりし中条勝次郎、川口に開業してゐた時の相識(さうしき)宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。其他今の清浦子が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与つて力があつたとかで、「矢島先生奎吾(けいご)」と書した尺牘(せきどく手紙)数通が遺つてゐる。一時優の救援に藉(よ)つて衣食するもの数十人の衆きに至つたさうである。
保は下宿屋住ひの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を罷(ややめさせられて)められて、これも一戸を構へてゐると云ふだけで矢張諸生であるのに、独り優が官吏であつて、しかも此の如ぐく応分の権勢をさへ有してゐる。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎へようとしたる「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四五年の間、わたくしの所に来てゐて下さい」と云つたのである。
しかし五百は応ぜなかつた。「わたしも年は寄つたが、幸に無病だから、浦和に往つて楽をしなくても好い。それよりは学校に通ふ保の留守居でもしませう」と云つたのである。
優は猶勧めて已まなかつた。そこへ一粒金丹の稍大きい注文が来た。福山、久留米の二箇所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じてゐたので、此度も又直に調合に着手した。優は一旦浦和へ帰つた。
八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言ふには、必ずしも浦和へ移らなくても好いから、兎に角見物がてら泊りに来て貰ひたいと云ふのであつた。そこで二十日に五百は水木と保とを連れて浦和へ往つた。
是より先保は高等師範学校に入ることを願つて置いたが、其採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰つた。
九十五
保が師範学校に入ることを願つたのは、大学の業を卒ふるに至るまでの資金を有せぬがためであつた。師範学校は此年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保は此給費を仰がむと欲したのである。
然るに此に一つの障礙があつた。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られてゐるのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森枳園に相談した。
枳園は此年二月に福山を去つて諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通しの借家に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になつた。時に年六十六である。
枳園は余程保を愛してゐたものと見え、東京に入つた第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いと云つた。保が二、三日往かずにゐると、枳園は又来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行つて見ると、切通しの家は店造(みせづくり)で、店と次の間と台所とがあるのみで、枳園は其店先に机を据ゑて書を読んでゐた。保が覚えず、「売卜(ばいぼく占い)者のやうぢやありませんか」と云ふと、枳園は面白げに笑つた。それからは湯島と本所との間に、往来が絶えなかつた。枳園は屢保を山下の雁鍋(がんなべ)、駒形の川桝(かはます)などに連れて往つて、酒を被(かうむ頂いて)つて世を罵つた。
文部省は当時頗る多く名流を羅致(らち招集)してゐた。岡本况斎、榊原琴洲、前田元温等の諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられてゐたのである。
保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言ふと、枳園は笑つて、
「なに年の足りない位の事は、己がどうにか話を附けて遣る」と云つた。保は枳園に託して願書を呈した。
師範学校の採用試験は八月二十二日に始まつて、三十日に終つた。保は合格して九月五日に入学することになつた。五百は入学の期日に先だつて、浦和から帰つて来た。
保の同級には今の末松子の外、加治義方、古渡資秀(ふるわたりすけひで)などがゐた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群に投じ、「絵入自由新聞」に続物を出したことがある。作者名は花笠文京である。古渡は風采揚らず、挙止迂拙(うせつ世渡り下手)であつたので、これと交るものは殆ど保一人のみであつた。本常陸国の農家の子で、地方に初生児(新生児)を窒息させて殺す陋習があつたゝめに、将に害せられむとして僅に免れたのださうである。東京に来て桑田衡平(かうへい)の家の学僕になつてゐて、それから此学校に入つた。齢は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は逈(はるか)に下にゐた。しかし保はその人と為りの沉著(ちんちやく)なのを喜んで、厚くこれを遇した。此人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫くして罷め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年(1879)に新潟新聞の主筆になつて、一時東北政論家の間に重ぜられたが、其年八月十二日に虎列拉を病んで歿した。其後を襲いだのが尾崎愕堂さんださうである。
此頃矢島優は暇を得る毎に、浦和から母の安否を問ひに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ婦り、日曜日に車で送り還した。土曜日に自身で来られぬときは、迎の車をおこすのであつた。
鈴木の女主人は次第に優に親んで、立派な、気さくな檀那だと云つて褒めた。当時の優は黒い鬚髯(しゆぜん顎頬ヒゲ)を蓄へてゐた。嘗て黒田伯清隆に謁した時、座に少女があつて、良(やゝ)久しく優の顔を見てゐたが、「あの小父さんの顔は倒(さかさま)に附いてゐます」と云つたさうである。髪毛が薄くて髯が濃いので、少女は顋(あご)を頭と視たのである。優は此容貌で洋服を着け、時計の金鎖(きんぐさり)を胸前に垂れてゐた。女主人が立派だと云つた筈である。
或土曜日に優がタ食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げませうか」と云つた。「いや。難有(ありがた)いがもう済まして来ましたよ。今浅草見附の所を遣つて来ると、旨さうな茶飯餡掛(あんかけ)を食べさせる店が出来てゐました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どつちも五十文づゝで、丁度二百文でした。廉いぢやありませんか」と、優は云つた。女主人が気さくだと称するのは、此調子を斥(さ)して言つたのである。
 

 

九十六
此年(1872)には弘前から東京に出て来るものが多かつた。比良野貞固も其一人で、或日突然保が(の)横網町の下宿に来て、「今着いた」と云つた。貞固は妻照と六歳になる女柳とを連れて来て、百本杙(ぐひ)の側に繋がせた舟の中に遺して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居する積りだと云つた。
保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連下さい。追附(おつゝけ)母も弘前から参る筈になつてゐますから」と云つた。しかし保は窃に心を苦めた。なぜと云ふに、保は鈴木の女主人に月二両の下宿代を払ふ約束をしてゐながら、学資の方が足らぬ勝なので、まだ一度も払はずにゐた。そこへ遽に三人の客を迎へなくてはならなくなつた。それが余の人ならば、宿料を取ることも出来よう。貞固は己(おのれ)が(一家の)主人となつて(から)は、人に銭を使はせたことがないのである。保はどうしても四入前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。又此界隈ではまだ糸鬢奴のお留守居を見識つてゐる人が多い。それを横網町の下宿に舎(やど)らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
保はこれを忍んで数箇月間三人を欵待(かんたい款待)した。そして殆ど日々貞固を横山町の尾張屋に連れて往つて馳走した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にゐて、房之助が著いた時、一しよに本所緑町に家を借りて移つた。丁度保が母親を故郷から迎へる頃の事である。
矢川文内も此年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店を開いたが成功しなかつた。浅越は名を隆(りゆう)と更めて、或は東京府の吏となり、或は本所区役所の書記となり、或は本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は三人あつた。江戸生の長女ふくは中沢彦吉の弟彦七の妻になり、男子二人の中、兄は洋画家となり、弟は電信技手となつた。
五百と一しよに東京に来た陸が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店を開いたのも此年の事である。長尾の女(むすめ)敬の夫三河屋力蔵の開いてゐた猿若町の引手茶屋は、此年十月に新富町に徙つた。守田勘弥の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになつたからである。
此年六月に海保竹逕が歿した。文政七年(1824)生であるから、四十九歳を以て終つたのである。前年来復(また)弁之助と称せずして、名の元起を以て行はれてゐた。竹逕の歿した時、家に遺つたのは養父漁村の妾某氏と竹逕の子女各一人とである。嗣子繁松は文久二年(1862)生で、家を継いだ時十一歳になつてゐた。竹逕が歿してからは、保は島田篁村を漢学の師と仰いだ。天保九年(1838)に生れた篁村は三十五歳になつてゐたのである。
抽斎歿後の第十五年は明治六年(1873)である。二月十日に渋江氏は当時の第六大区六小区本所相生町四丁目に僦居(しうきよ間借)した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木がゐたばかりであるが、後には山田脩が来て同居した。脩は此頃喘息に悩んでゐたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
五百は東京に来てから早く一戸を構へたいと思つてゐたが、現金の貯へへは殆ど尽きてゐたので、奈何ともすることが出来なかつた。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあつて、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになつた。相生町の家は此に至つて始て借りられたのである。
九十七
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通つてゐたが、此年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であつた寄宿舎が落成したゝめである。しかも此命令には期限が附してあつて、来六月六日に必ず舎内に徙れと云ふことであつた。
然るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付当分の内通学御許可(きよか)相成度(あひなりたく)」云々と云ふ願書を呈して、旧に依つて本所から通つてゐた。母の病気と云ふのは虚言では無かつた。五百は当時眼病に罹つて苦んでゐた。しかし保は単に五百の目疾の故を以て入舎の期を延ばしたのでは無い。
保は師範学校の授くる所の学術が、自已の攻(をさ)めむと欲する所のものと相反してゐるのを見て、窃に退学を企てゝゐた。それゆゑ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加ふることを嫌ふのであつた。
学校は米人スコットと云ふものを雇ひ来つて、小学の教授法を生徒に伝へさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席に居らせる。訛つてゐるものは下席に居らせる。それゆゑ東京人、中国人などは材能がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があつても軽んぜられる。生徒は多く不評に堪へなかつた。中にも東京人某は、己が上位に置かれてゐるにも拘らず、「此教授法では延寿大夫(清元節)が最優等生になる」と罵つた。
保は英語を操(つか)ひ英文を読むことを志してゐるのに、学校の現状を見れば、所望に愜(かな)ふ科目は絶て無かつた。又縦ひ未来に於て英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎たる漢学諸生だから、スペリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保は此等の人々と歩調を同じうして行くのを堪へ難く思つた。
保はどうにかして退学したいと思つた。退学してどうするかと云ふと、相識のフルペックに請うて食客にして貰つても好い。又誰かのボオイになつて海外へ連れて行つて貰つても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛してゐるものもある。頼みさへしたら、ボオイに使つてくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見てゐた。
保は此の如くに思惟して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉することをも怠り、早晩退学処分の我頭上に落ち来らんことを期してゐた。校長諸葛信澄(もろくずのぶずみ)の家に刺を通ぜない。其家が何町にあるかをだに知らずにゐる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科日を温習せずに、只英文のみを読んでゐる。
入舎の命令をば此状況の下に接受した。そして保はかう思つた。若し入舎せずにゐたら、必ず退学処分が降(くだ)るだらう。さうなつたら、再び頂天立地(不羈)の自由の身となつて、随意に英学を研究しよう。勿論折角贏(か)ち得た官費は絶えてしまふ。しかし書肆万巻楼の主人が相識で、翻訳書を出してくれようと云つてゐる。早速翻訳に着手しようと云ふのである。万巻楼の主人は大伝馬町の袋屋亀次郎で、是より先保の初て訳したカッケンボスの「米国史」を引き受けて、前年これを発行したことがある。
保は此計画を母に語つて同意を得た。しかし矢島優と比良野貞固とが反対した。その主なる理由は、若し退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭ふべからざる汚点を履歴の上に印するだらうと云ふにあつた。
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入つた。
九十八
矢島優は此年八月二十七日に少属(さくわん)に陞(のぼ)つたが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱ふことになり、芝琴平町に来り住した。優の家にゐた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になつた。寛斎は後明治十七年(1884)十月十九日に歿した。天保十年(1839)生であるから、四十六歳を以て終つたのである。寛斎は生れて姿貌があつたが、痘を病んで容を毀(やぶ)られた。医学館に学び、又抽斎、枳園の門下に居つた。寛斎は枳園が寿蔵碑の後に書して、「余少時(わかいとき)曾在(かつてあり)先生之門、能知其為人(ひとゝなり)、且学之広博、因(よりて)窃録(ひそかにろくし)先生之言行及字学医学之諸説、別為(べつになす)小冊子」と云つてゐる。わたくしは其書の存否を審にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女梅を娶つたが、後これを離別して、陸奥国磐城平(いはきだひら)の城主安藤家の臣後藤氏の女いつを後妻に納れた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎さんは、今本郷西片町に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職してゐる。次男篤(とく)次郎さんは風間氏を冒して、小石川宮下町に住んでゐる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
陸は此年矢川文一郎と分離して、砂糖店を閉ぢた。生計意の如くならざるがためであつただらう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
次で陸は本所亀沢町に看板を懸けて杵屋勝久と称し、長唄の師匠をすることになつた。
矢島周禎の一族も亦此年に東京に遷つた。周禎は霊岸島に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所相生町二つ目橋通に玩具店を開いた。周禎は素眼科なので、五百は目の治療を此人に頼んだ。
或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を訪ひ、束脩(そくしう入門金)を納めて周策を保の門人とせむことを請うた。周策は已に二十九歳、保は僅に十七歳である。保は其意を解せなかつたが、これを問へば周策をして師範学佼に入らしむる準備をなさむがためであつた。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめ且これに漢文を授けた。周策は後生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、幾もなく精神病に罹つて罷められた。
緑町の比良野氏では房之助が、実父稲葉一夢斎と共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下が老後の名である。貞固は月に数度浅草黒船町正覚寺の先塋に詣でゝ、帰途には必ず渋江氏を訪ひ、五百と昔を談じた。
抽斎歿後の第十六年は明治七年(1874)である。五百の眼病が荏苒として治せぬので、矢島周禎の外に安藤某を延いて療せしめ、数月にして治することを得た。
水木は此年深川佐賀町の洋品商兵庫屋藤次郎に再嫁した。二十二歳の時である。
妙了尼は此年九十四歳を以て韮山に歿した。
渋江氏は此年感応寺に於て抽斎の為に法要を営んだ。五百、保、矢島優、陸、水木、比良野貞固、飯田良政等が来会した。
渋江氏の秩禄公債証書は此年に交付せられたが、削滅を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高は、固より言ふに足らぬ小額であつた。
抽斎歿後の第十七年は明治八年(1875)である。一月二十九日に保は十九歳で師範学校の業を卒へ、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くことゝなり、母を奉じて東京を発した。
五百、保の母子が立つた後、山田脩は亀沢町の陸の許に移つた。水木は猶深川佐賀町にゐた。矢島優は此頃家を畳んで三池に出張してゐた。
九十九
保は母五百を奉じて浜松に着いて、初め暫くの程は旅店にゐた。次で母子の下宿料月額六円を払つて、下垂町(しもたれちやう)の郷宿(がうやど)山田屋和三郎方にゐることになつた。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時舎る家を謂ふのである。又諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵此郷宿にゐた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂の大木がある。今も猶儼存(げんそん)してゐるさうである。
山田屋の向ひに山喜(やまき)と云ふ居酒屋がある。保は山田屋に移つた初に、山喜の店に大皿に蒲焼の盛つてあるのを見て、五百に「あれを買つて見ませうか」と云つた。
「賛沢をお言ひでない。鰻は此土地でも高からう」と云つて、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ませう」と云つて、保は出て行つた。価を問へば、一銭に五串であつた。当時浜松辺で暮しの立ち易かつたことは、此に由つて想見することが出来る。
保は初め文部省の辞命を持つて県庁に往つた。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があつて、学務課長大江孝文(たかぶみ)の如きも、頗る保を冷遇した。しかし良(やゝ)久しく話してゐるうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく面を和げた。大江の母は津軽家の用人栂野求馬(とがのもとめ)の妹であつた。後大江は県令林厚徳に稟(まを)して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
数月の後、保は高町の坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋速見(はやみ)平吉の離座敷を借りて遷つた。此江州屋も今猶存してゐるさうである。
矢島優は此年十月十八日に工部少属(さくわん)を罷めて、新聞記者になり、「魁(さきがけ)新聞」、「真砂新聞」等のために、主として演劇欄に筆を執つた。「魁新聞」には山田脩が倶に入社し、「真砂新聞」には森枳園が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつゝ、旁ら新聞社に寄稿したのである。
抽斎歿後の第十八年は明治九年(1876)である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。是より先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併せられたのである。しかし保の職は故(もと)の如くであつた。
此年四月に保は五百の還暦の賀筵を催して県令以下の祝を受けた。
五百の姉長尾氏安は此年新富座附の茶屋三河屋で歿した。年は六十二であつた。此茶屋の株は後敬の夫(をつと)力蔵が死ぬるに及んで、他人の子に渡つた。
比良野貞固も亦此年本所緑町の家で歿した。文化九年(1812)生であるから、六十五歳を以て終つたのである。其後を襲いだ房之助さんは現に緑町一丁日に住んでゐる。
小野富穀も亦此年七月十七日に歿した。年は七十であつた。子道悦が家督相続をした。
多紀安琢も亦此年一月四日に五十三歳で歿した。名は元琰(げんえん)、号は雲従(うんじゆう)であつた。其後を襲いだのが上総国夷隅郡(いすみこほり)総元村に現存してゐる次男晴之助さんである。
喜多村栲窓も亦此年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村に住んでゐたが、明治七年(1874)十二月に卒中し、右半身不随になり、此に迨(いた)つて終つた。享年七十三である。
抽斎歿後の第十九年は明治十年(1877)である。保は浜松表早馬町四十番地に一戸を構へ、後又幾ならずして元城内五十七番地に移つた。浜松城は本井上河内守正直(まさなほ)の城である。明治元年に徳川家が新に此地に封ぜられたので、正直は翌年上総国市原郡鶴舞に徙つた。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅で、大手の左右に列つてゐた。保は其一つに母を居らせることが出来たのである。
此年七月四日に保の奉職してゐる静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
兼松石居は此年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免(めんをしる)。亦将騎鶴(つるにのりて)遊(あそばんとす)。上帝賚(たまふ)殊命(しゆめいを)。使爾(なんぢをして)永(ながく)相休(あひやすめしめんとす)。」「年浪のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟漕ぎ出でむ。」石居は酒井石見守忠方(たゞみち)の家来屋代某の女を娶つて、三子二女を生ませた。長子艮(こん)、字は止所(しゝよ)が家を嗣いだ。号は厚朴軒(こうぼくけん)である。艮の子成器は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでゐて、厚朴軒さんも其家にゐる。

抽斎歿後の第二十年は明治十一年(1878)である。一月二十五日津軽承昭(つぐてる)は藩士の伝記を編輯せしめむがために、下沢保躬(しもさはやすみ)をして渋江氏に就いて抽斎の行状を徴(め)さしめた。保は直ちに録呈した。所謂伝記は今存ずる所の「津軽旧記伝類」ではあるまいか。わたくしは未だ其書を見ざるが故に、抽斎の行状が采択せられしや否やを審にしない。
保の奉職してゐる浜松変則中学校は此年二月二十三日に中学校と改称せられた。
山田脩は此年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。是より先五百は脩の喘息を気遣つてゐたが、脩が矢島優と共に「魁新聞」の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲(ばういん朝酒)の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧(おそ)れ、急に命じて浜松に来らしめた。しかし五百は独り脩の身体のためにのみ憂へたのでは無い。その新聞記者の悪徳に化せられむことをも慮つたのである。
此年四月に岡本况斎が八十二歳で歿した。
抽斎歿後の第二十一年は明治十二年(1879)である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許(ていきよ)せられた。これは慶応義塾に入つて英語を学ばむがためである。
是より先保は深く英語を窮めむと欲して、未だ其志を遂げずにゐた。師範学校に入つたのも、其業を卒へて教員となつたのも、皆学資給せざるがために、已むことを得ずして為したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞し、頗る福沢諭吉に傾倒した。明治九年に国学者阿波の人某が、福沢の著す所の「学問のすゝめ」を駁して、書中の「日本は蕞爾(さいじ極小)たる小国である」の句を以て祖国を辱むるものとなすを見るに及んで、福沢に代つて一文を草し、民間雑誌に投じた。民間雑誌は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の「時事新報」の前身である。福沢は保の文を采録し、手書(しゆしよ親書)して保に謝した。保は此より福沢に識られて、これに適従(てきじゆう)せんと欲する念が愈切になつたのである。
保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索(もと捜す)めしめた。脩は九月二十八日に先づ浜松を発して東京に至り、芝区松本町十二番地の家を借りて、母と弟とを迎へた。
五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月二日に松本町の家に著いた。此時保と脩とは再び東京に在つて母の膝下に侍することを得たが、独り矢島優のみは母の到着するを待つことが出来ずに北海道へ旅立つた。十月八日に開拓使御用掛を拝命して、札幌に在勤することゝなつたからである。
陸は母と保との浜松へ往つた後も、亀沢町の家で長唄の師匠をしてゐた。此家には兵庫屋から帰つた水木が同居してゐた。勝久は水木の夫であつた畑中藤次郎を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
保等は浜松から東京に来た時、二人の同行者があつた。一人は山田要蔵、一人は中西常武(つねたけ)である。
山田は遠江国敷智郡(ふちごほり)都築(つゞき)の人である。父を喜平と云つて、畳問屋である。其三男要蔵は元治元年(1864)生の青年で、渋江の家から浜松中学校に通ひ、卒業して東京に来たのである。時に年十六であつた。中西は伊勢国度会郡(わたらひごほり)山田岩淵町の人中西用亮(ようすけ)の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になつてゐた。これは職を罷めて東京に来た時二十七、八歳であつた。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に入らむと欲して、共に入京したのである。  
 

 

百一
保は東京に着いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往つて、本科第三等に編入せられた。同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に入つた。後山田は明治十四年(1881)に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしてゐる。中西は別科を修めた後に郷に帰つた。
保は慶応義塾の生徒となつてから三日日に、万来舎(ばんらいしや)に於て福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じてゐた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り出でゝこれを善遇した。
当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期と云ひ、五月から七月までを第二期と云ひ、九月から十二月までを第三期と云つた。保が此年第三期に編入せられた第三等は猶第三級と云はむがごとくである。月の末には小試験があり、期の終には又大試験があつた。
森枳園は此年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になつた。身分は准判任御用掛で、月給四十円であつた。局長得能(とくのう)良介は初め八十円を給せようと云つたが、枳園は辞して云つた。多く給せられて早く罷められむよりは、少く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だと云つた。局長はこれに従つて、特に耆宿(きしゆく老成)として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。此土蔵の鍵は枳園が自ら保管してゐて、自由にこれに出入した。寿蔵碑に「日々入局、不知老之将至(おいのまさにいたらんとするを)、殆為金馬門(漢の武帝が文学士を遇した場所)之想(きんばもんのおもひをなすと)云」と記してある。
抽斎歿後の第二十二年は明治十三年(1880)である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終へた。下等の同学生には渡辺修(をさむ)、平賀敏(びん)があり、又同じ青森県人に芹川得一(せりかはとくいち)、工藤儀助があつた。上等の同学生には犬養毅(き)さんの外、矢田績(せき)、安場(やすば)男爵があり、又同県人に坂井次永(じえい)、神尾金弥があつた。後の二人は旧会津藩士である。
万来舎では今の金子子爵、其他相馬永胤(ながたね)、目賀田(ねがた)男爵、鳩山和夫等が法律を講ずるので、保も聴いた。
山田脩は此年電信学校に入つて、松本町の家から通つた。陸の勝久が長唄を人に教ふる旁(かたはら)、音楽取調所の生徒となつたのも亦此年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽である。此頃水木は勝久の許を去つて母の家に来た。
此年又藤村義苗(よしたね)さんが浜松から来て渋江氏に寓した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を卒へ、遠江国中泉で小学校訓導をしてゐたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、其試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入つて其業を卒へ、現に某々会社の重役になつてゐる。
松本町の家には五百、保、水木の三人がゐて、諸生には山田要蔵と此藤村とが置いてあつたのである。
抽斎歿後の第二十三年は明治十四年(1881)である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争つて聘せむと欲する所で、其世話をする人は主に小幡篤(とく)次郎であつた。保は猶進んで英語を窮めたい志を有してゐたが、浜松にあつた日に衣食を節して貯へた金が又罄(つ)きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなつた。
此年も亦卒業生の決口(はけくち)は頗る多かつた。保の如きも第一に「三重日報」の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田茂吉に三重県庁が金を出してゐることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初め其任に当らうとしてゐたが、次で出来た学校の地位に心を傾けたゝめに、半途にして交渉を絶つた。
学校の地位と云ふのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴つて東京を発した。諸生山田要蔵は此時慶応義塾に寄宿した。
百二
保は三河国宝飯郡(ほいごほり)国府町(こふまち)に著いて、長泉寺の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずと云ふ辞令を受けた。
保が学校に往つて見ると、二つの急を要する問題が前に横はつてゐた。教則を作ることゝ罰則を作ることゝである。教則は案を具して文部省に呈し、其認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作つて呈し、罰則は不文律となして、生徒に自カの徳教を誨(おし)へた。教則は文部省か輒(たやす)く認可せぬので、往復数十回を累ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまつた。罰則は果して必要で無かつた。一人の詿違(くわいゐ処分)者をも出さなかつたからである。
長泉寺の隠居所は次第に賑しくなつた。初め保は母と水木との二人の家族があつたのみで、寂しい家庭をなしてゐたが、寄寓を請ふ諸生を、一人容れ、二人容れて、幾もあらぬに六人の多きに達した。八田郁太郎、稲垣親康(しんかう)、島田寿一、大矢尋三郎、菅沼岩蔵、溝部惟幾(いき)の人々である。中にも八田は後に海軍少将に至つた。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にゐる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに淹留(えんりう)した。夏日袷(あはせ)に袷羽織を著て恬として恥ぢず、又苦熱の態(たい)をも見せない。人皆その長門の人なるを知つてゐるが、曾て自ら年歯を語つたことが無いので、その幾歳なるかを知るものが無い。打ち見る所は保と同年位であつた。溝部は後農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至つた。
当時保は一人の友を得た。武田氏名は準平で、保が国府(こふ)の学校に聘せられた時、中に立つて斡旋した阿部泰蔵の兄である。準平は国府に住んで医を業としてゐたが、医家を以て著(あらは)れずに、却つて政客(せいかく政治家)を以て聞えてゐた。
準平は是より先(さき)愛知県会の議長となつたことがある。某年に県会が畢つて、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令国貞廉平の施設に慊(あきたら)なかつたが、宴闌(たけなは)なる時、国貞の前に進んで杯を献じ、さて「お殽(さかな)は」と呼びつゝ、国貞に背いて立ち、衣を搴(かゝ)げて尻を露したさうである。
保は国府に来てから、此準平と相識になつた。既にして準平が兄弟にならうと勧めた。保は謙(へりくだ)つて父子になる方が適当であらうと云つた。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
此時東京には政党が争ひ起つた。改進党が成り、自由党が成り、又帝政党が成つて、新聞紙は早晩此等の結党式の挙行せらるべきことを伝へた。準平と保とは国府にあつてかう云つた。「東京の政界は華々しい。我等田舎に住んでゐるものは、淵に臨んで魚を羨むの情に堪へない。しかし大なるものは成るに難く、小なるものは成るに易い。我等も甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」と云つた。此政社の雛形は進取仕と名づけられて、保は社長、準平は副社長であつた。
百三
抽斎没後の第二十四年は明治十五年(1882)である。一月二日に友武田準平が刺客に殺された。準平の家には母と妻と女一人とがゐた女の婿秀三(ひでざう)は東京帝国大学医科大学の別科生になつゐて、家にゐなかつた。常は諸生が居り、僕が居つたが、皆新年に暇を乞うて帰つた。此日家人が寝に就いた後、浴室から火が起つた。唯一人暇を取らずにゐた女中が驚き醒めて、烟の厨(くりや)を罩(こ)むるを見、引窓を開きつゝ人を呼んだ。浴室は庖厨(はうちゆう)の外に接してゐたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」と云ひつゝ、手に行燈を提げて厨に出て来た。此時一人の引廻がつばを被た男が暗中より起つて、準平に近づいた。準平は行燈を措いて奥に入つた。引廻の男は尾いて入つた。準平は奥の廊下から、雨戸を蹴脱(けはづ)して庭に出た。引廻の男は又尾いて来た。準平は身に十四箇所の創を負つて、庭の檜の下に殪(たふ)れた。檜は老木であつたが、前年の暮、十二月二十八日の夜、風の無いに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから薪に挽かせようと云つてゐたのである。家人は檜が讖(しん予言)をなしたなどゝ云つた。引廻の男は誰であつたか、又何故に準平を殺したか、終に知ることが出来なかつた。
保は報を得て、馳せて武田の家に往つた。警察署長佐藤某がゐる。郡長竹本元■(たけもとげんぼく)がゐる。巡査数人がゐる。佐藤はかう云ふのである。「武目さんは進取社の事のために殺されなすつたかと思はれます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の内巡査を二人だけ附けて上げませう」と云ふのである。
保は彼の小結社の故を以て、刺客が手を動かしたものとは信ぜなかつた。しかし暫くは人の勧に従つて巡査の護衛を受けてゐた。五百は例の懐剣を放さずに持つてゐて、保にも弾を塡(こ)めた拳銃を備へさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
保は「京浜毎日新聞」の寄書家になつた。「毎日」は島田三郎さんが主筆で、「東京日々新聞」の福地桜痴(あうち)と論争してゐたので、保は島田を助けて戦つた。主なる論題は主権論、普通選挙論等であつた。
普通選挙論では外山正一が福地に応援して、「毎日記者は盲目(めくら)蛇におぢざるものだ」と云つた。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実に制限選挙論者だと云ふのであつた。そこで保はベンサムの憲法論に就いて、普通選挙を可とする章句を鈔出し、「外山先生は盲目蛇におぢざるものだ」と云ふ鸚鵡返の報復をした。
此等の論戦の後、保は島田二郎、沼間守一、肥塚龍等に識られた。後に京浜毎日社員になつたのは、此縁故があつたからである。
保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入つた。実は国府を去らむとする意があつたのである。
此年矢島優は札蝿にあつて、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日に其妻蝶が歿した。年三十四であつた。
山田脩は此年一月工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。
百四
抽斎歿後の第二十五年は明治十六年(1883)である。保は前年の暮に東京に入つて、仮に芝田町一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先づ職業を得て、次で免罷(めんひ)の報に接した。一月十一日には攻玉舎の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となつて、午前に慶応義塾に往き、午後に攻玉舎に往くことにした。攻玉舎は舎長が近藤真琴、幹事が藤田潜(ひそむ)で、生徒中には後に海軍少将に至つた秀島某、海軍大佐に至つた笠間直(ちよく)等があつた。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎、校長が浜野定四郎で、教師中に門野(かどの)幾之進、鎌田栄吉等があり、生徒中に池辺吉太郎、門野重九郎、和田豊治、日比翁助、伊吹雷太等があつた。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝烏森町一番地に家を借りて、四月五日に国府から還つた母と水木とを迎へた。
勝久は相生町の家で長唄を教へてゐて、山田脩は其家から府庁電信局に通勤してゐた。そこへ優が開拓使の職を辞して札幌から帰つたのが八月十日である。優は無妻になつてゐるので、勝久に説いて師匠を罷めさせ、専ら家政を掌(つかさど)らせた。
八月中の事であつた。保は客を避けて「京浜毎日新聞」に寄する文を草せむがために、一週日程の間柳島の帆足(ほあし)謙三といふものの家に起臥してゐた。烏森町の家には水木を遺して母に侍せしめ、且優、脩、勝久の三人をして交るがはる其安否を問はしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食はなくなつたと告げた。
保が家に帰つて見ると、五百は床を敷かせて寝てゐた。「只今帰りました」と、保は云つた。
「お帰かえ」と云つて、五百は微笑した。
「おつ母様、あなたは何も上らないさうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんなら序にわたしのも取つておくれ。」五百は氷を食べた。
翌朝保が「わたくしは今朝は生卵にします」と云つた。
「さうかい。そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
午になつて保は云つた。「けふは久し振で、洗ひに水貝を取つて、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲まう。」五百は洗ひで酒を飲んだ。其時はもう平日の如く起きて坐つてゐた。
晩になつて保は云つた。「どうもタ方になつてこんなに風がちつとも無くては凌ぎ切れません。これから汐湯に遣入つて、湖月に寄つて涼んで来ます。」
「そんならわたしも往くよ。」五百は遂に汐湯に入つて、湖月で飲食した。
五百は保が久しく帰らぬがために物を食はなくなつたのである。五百は女子中では棠を愛し、男子中では保を愛した。曩に弘前に留守をしてゐて、保を東京に遣つたのは、意を決した上の事である。それゆゑ能く年余の久しきに堪へた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日毎に待つことは、五百の難(かた)んずる所であつた。此時五百は六十八歳、保は二十七歳であつた。
百五
此年十二月二日に優が本所相生町の家に歿した。優は職を罷める時から心臓に故障があつて、東京に還つて清川玄道の治療を受けてゐたが、屋内に静坐しゐれば別に苦悩も無かつた。歿する日には朝から物を書いてゐて、午頃「あゝ草臥れた」と云つて仰臥したがそれ切り起たなかつた。岡西氏徳の生んだ、抽斎の次男は此の如くにして世を去つたのである。優は四十九歳になつてゐた。子は無い。遺骸は感応寺に葬られた。
優は蕩子であつた。しかし後に身を吏籍に置いてからは、微官に居つたにも拘らず、頗る材能を見(あらは)した。優は情誼に厚かつた。親戚朋友の其恩恵を被つたことは甚だ多い。優は筆札を善くした。其書には小島成斎の風があつた。其他演劇の事は此人の最も精通する所であつた。新聞紙の劇評の如きは、森枳園と優とを開拓者の中に算すべきであらう。大正五年(1916)に珍書刊行会で公にした「劇界珍話」は飛蝶の名が署してあるが、優の未定稿(草稿)である。
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年(1884)である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であつた。
五百は平生病むことが少かつた。抽斎歿後に一たび眼病に罹り、時々疝痛を患へた位のものである。特に明治九年(1876)還暦の後は、殆ど無病の人となつてゐた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患へて絶食した頃から、稍心身違和の徴があつた。保等はこれがために憂慮した。さて新年に入つて見ると、五百の健康状態は好くなつた。保は二月九日の夜母が天麩羅蕎麦を食べて炬燵に当り、史を談じて更(かう)の闌(たけなは)なるに至つたことを記億してゐる。又翌十日にも午食に蕎麦を食べたことを記億してゐる。午後三時頃五百は煙草を買ひに出た。二、三年前からは子等の諌を納れて、単身戸外に出ぬことにしてゐたが、当時の家から煙草店へ往く道は、烏森神社の境内であつて車も通らぬゆゑ、煙草を買ひにだけは単身で往つた。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにゐた。暫くして五百は烟草を買つて帰つて、保の背後に立つて話をし出した。保は且読み且答へた。初てドイツ語を学ぶ頃で、読んでゐる書はシェッフェルの文典であつた。保は母の気息の促迫(そくはく)してゐるのに気が附いて、「おつ母様、大そうせかせかしますね」と云つた。
「あゝ年のせいだらう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はかう云つたが、矢張話を罷めずにゐた。
少し立つて五百は突然黙つた。
「おつ母様、どうかなすつたのですか。」保はかう云つて背後を顧みた。
五百は火鉢の前に坐つて、稍首を傾けてゐたが、保は其姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起つて傍に往き顔を覗いた。
五百の目は直視し、口角からは涎が流れてゐた。
保は「おつ母様、おつ母様」と呼んだ。
五百は「あゝ」と一声答へたが、人事を省(せい)せざるものの如くであつた。
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許へ走つた。
 

 

百六
渋江氏の住んでゐた烏森の家からは、存生堂と云ふ松山棟庵の出張所が最も近かつた。出張所には片倉某と云ふ医師が住んでゐた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰つた。存生堂からは松山の出張をも請ひに遣つた。
片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診して云つた。
「これは脳卒中で右半身不随になつてゐます。出血の部位が重要部で、其血量も多いから、回復の望はありません」と云つた。
しかし保は其言(こと)を信じたくなかつた。一時空を視てゐた母が今は人の面に注目する。人が去れば目送する。枕辺に置いてあるハンカチイフを左手に把つて畳む。保が傍に寄る毎に、左手で保の胸を撫でさへした。
保は夏に印東玄得をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、此上手当のしやうは無いと云つた。
五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
五百の晩年の生活は日々印刷したやうに同じであつた。祁寒(きかん酷寒)の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水を使ひ、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至つて女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵此時買ふ。タ餉は七時である。これを終れば、日記を附ける。次で又読書する。倦めば保を呼んで棋(ご)を囲みなどすることもある。寝に就くのは十時である。
隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗つた。寺には毎月一度詣で、親と夫との忌日には別に詣でた。会計は抽斎の世にあつた時から自らこれに当つてゐて、死に迨(いた)るまで廃せなかつた。そして其節倹の用意には驚くべきものがあつた。
五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かつた。「兵要日本地理小志」は其文が簡潔で好いと云つて、傍に置いてゐた。
奇とすべきは、五百が六十歳を踰えてから英文を読みはじめた事である、五百は頗る早く西洋の学術に注意した。其時期を考ふるに、抽斎が安積艮斎の書を読んで西洋の事を知つたよりも早かつた。五百はまだ里方にゐた時、或日兄栄次郎が鮓久(すしきう鮓屋久次郎)に奇な事を言ふのを聞いた。「人問は夜逆さになつてゐる」云々と云つたのである。五百は怪んで、鮓久が去つた後に兄に問うて、始て地動説の講釈を聞いた。其後兄の机の上に「気海観瀾」と「地理全志」とのあるのを見て、取つて読んだ。
抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に蠅が糞をして困る」と云つた。五百はこれを聞いて云つた。「でも人間も夜は蝿が天井に止まつたやうになつてゐるのだと申しますね」と云つた。抽斎は妻が地動説を知つてゐるのに驚いたさうである。
五百は漢訳和訳の洋説を読んで慊(あきたら)ぬので、とうとう保にスペルリングを教へて貰ひ、程なくヰルソンの読本に移り、一年ばかり立つうちに、パアレェの「万国史」、カッケンボスの「米国史」、ホオセット夫人の「経済論」等をぽつぽつ読むやうになつた。
五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、此間に或秘密が包蔵せられてゐたさうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であつたと云ふのである。
百七
石川貞白は初の名を磯野勝五郎と云つた。何時の事であつたか、阿部家の武具係を勤めてゐた勝五郎の父は、同僚が主家の具足を質に入れたゝめに、永の暇になつた。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒に学んでゐたので、直に氏名を改めて剃髪し、医業を以て身を立てた。
貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識り五百を識つてゐた。弘化元年(1844)には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓浜照の許に通つて、遂にこれを娶るに至つた。其時貞白は浜照が身受の相談相手となり、其仮親となることをさへ諾したのである。当時兄の措置を喜ばなかつた五百が、平生青眼(せいがん歓迎)を以て貞白を見なかつたことは、想像するに余がある。
或日五百は使を遣つて貞白を招いた。貞白はおそるあそる日野屋の閾を跨いだ。兄の非行を幇(たす)けてゐるので、妹に譴(せ)められはせぬかと懼(おそ)れたのである。
然るに貞白を迎へた五百にはいつもの元気が無かつた。「貞白さん、けふはお頼申したい事があつて、あなたをお招いたしました」と云ふ、態度が例になく慰勲であつた。
何事かと問へば、渋江さんの奥さんの亡くなつた跡へ、自分を世話をしてはくれまいかと云ふ。貞白は事の意表に出でたのに驚いた。
是より先日野屋では五百に婿を取らうと云ふ議があつて、貞白はこれを与り知つてゐた。壻に擬せられてゐたのは、上野広小路の呉服店伊藤松坂屋の通番頭で、年は三十二、三であつた。栄次郎は妹が自分達夫婦に慊(あきたら)ぬのを見て、妹に婿を取つて日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
壻に擬せられてゐる番頭某と五百となら、旁(はた)から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、打見(うちみ)には二十四、五にしか見えなかつた。それに抽斎はもう四十歳に満ちてゐる。貞白は五百の意の在る所を解するに苦んだ。
そこで五百に問ひ質すと、五百は只学問のある夫が持ちたいと答ヘた。其詞には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかつた。
五百は貞白の気色を見て、かう言ひ足した。「わたくしは婿を取つて此世帯を譲つて貰ひたくはありません。それよりか渋江さんの所ヘ往つて、あの方に日野屋の後見(うしろみ)をして戴きたいと思ひます。」
貞白は膝を拍つた。「なる程なる程。さう云ふお考へですか。宜しい。一切わたくしが引き受けませう。」
貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉安の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。若し五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽んぜられるであらう。これに反して五百が抽斎の妻となると、栄次郎も宗右衛門も五百の前に項(うなじ)を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀つて、労少くして功多きことを得るであらう。且兄の当然持つて居るべき身代を、妹として譲り受けると云ふことは望ましい事では無い。さうして置いては兄の隠居が何事をしようと、これに喙を容れることが出来ぬであらう。永久に兄を徳として、その為すが儘に任せてゐなくてはなるまい。五百は此の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔く此家を去つて渋江氏に適き、しかも其渋江氏の力を藉りて、此家の上に監督を加へようとするのである。
貞白は直(すぐ)に抽斎を訪うて五百の願を告げ、自分も詞を添へて抽斎を説き動した。五百の婚嫁は此の如くにして成就したのである。
百八
保は此年(1884)六月に「京浜毎日新聞」の編輯(へんしふ)員になつた。これまでは某社と只寄稿者としての連繁のみを有してゐたのであつた。当時の社長は沼間守一(ぬましゆいち)、主筆は島田三郎、会計係は波多野伝三郎と云ふ顔触で、編輯員には肥塚龍(こえづかりゆう)、青木匡(あをきたゞす)、丸山名政、荒井泰治の人々がゐた。又矢野次郎、角田真平、高梨哲四郎、大岡育造の人々は社友であつた。次で八月に保は攻玉舎の教員を罷めた。九月一日には家を芝桜川町十八番地に移した。
脩は此年十二月に工部技手を罷めた。
水木は此年山内氏を冒して芝新銭座町に一戸を構へた。
抽斎歿後の第二十七年は明治十八年(1885)である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、屢旅行した。十月十日に旅から帰つて見ると、森枳園の五日に寄せた書か机上にあつた。面談したい事があるが、何時往つたら逢はれようかと云ふのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区水谷町九番地に住んでゐて、家族は子婦(よめ)大槻氏えふ、孫女(まごむすめ)くわうの二人であつた。嗣子養真は父に先つて歿し、くわうの妹りうは既に人に嫁してゐたのである。
枳園は「京浜毎日新聞」の演劇欄を祖任しようと思つて、保に紹介を求めた。是より先狩谷棭斎の「倭名鈔箋(せうせん)註」が印刷局に於て刻せられ、又「経籍訪古志」が清国使館に於て刻せられて、此等の事業は枳園がこれに当つてゐたから、其家は昔の如く貧しくはなかつた。しかし此年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになつてゐるので、再び記者たらむと欲するのであつた。
保は枳園の求に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日に又社用を帯びて遠江国浜松に往つた。然るに用事は一箇所に於て果すことが出来なかつたので、犬居に往き、掛塚から汽船豊川丸に乗つて帰京の途に就いた。そして航海中に暴風に遭つて、下田に淹留(えんりう)し、十二月十六日にやうやう家に帰つた。
机上には又森氏の書信があつた。しかしこれは枳園の手書ではなくて、其訃音(ふいん)であつた。
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であつた。枳園の終焉に当つて、伊沢徳(めぐむ)さんは枕辺に侍してゐたさうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次枢を官衙の前に駐めしめ、局員皆出でゝ礼拝した。枳園は音羽洞雲寺の先塋(せんえい先祖の墓)に葬られたが、此寺は大正二年(1813)八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町許で、府立師範学校の西北、祥雲寺の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦さんに問うて始て知つた。此寺には枳園六世の祖からの墓が並んでゐる。わたくしの参詣した時には、おくわうさんと大槻文彦さんとの名を記した新しい卒堵婆が立てゝあつた。
枳園の後は其子養真の長女おくわうさんが襲いだ。おくわうさんは女流画家で、浅草永住町の上田政次郎と云ふ人の許に現存してゐる。おくわうさんの妹おりうさんは嘗て剞劂氏(きけつし版画家)某に嫁し、後未亡人となつて、浅草聖天(しやうてん)横町の基督教会堂のコンシェルジュ(concierge受付)になつてゐた。基督教徒である。
保は枳園の訃を得た後、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智(すち)郡犬居村百四十九番地に転籍した。保は病のために時々卒倒することがあつたので、松山棟庵が勧めて都会の地を去らしめたのである。
百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年(1886)である。保は静岡安西一丁目南裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になつたからである。校主は藤波甚助と云ふ人で、雇外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がゐた。当時の生徒で、今名を知られてゐるものは山路愛山さんである。通称は弥吉、浅草堀田原(ほつたはら)、後には鳥越に住んだ幕府の天文方(かた)山路氏の裔で、元治元年(1864)に生れた。此年二十三歳であつた。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎の女松(まつ)を娶つた。戸籍名は一(いち)である。保は三十歳、松は明治二年(1869)正月十六日生であるから十八歳であつた。
小野富穀の子道悦が、此年八月に虎列拉を病んで歿した。道悦は天保七年(1836)八月朔に生れた。経書を萩原楽亭に、筆札を平井東堂に、医術を多紀茝庭と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕へて表医者奥通に至り、明治三年(1870)に弘前に於て藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読の師を謂ふのである。しかし保が助教授になつてゐたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になつてゐたのは其医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じてゐたが、終生主に守成(受け継ぐこと)を事としてゐた。然るに明治十一、二年の交、道悦が松田道夫(だうふ)の下にあつて、金沢裁判所の書記をしてゐると、其留守に妻が東京にあつて投機のために多く金を失つた。其後道悦は保が重野成斎に紹介して、修史局の雇員にして貰ふことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選(ぶんせん活字拾ひ)をしてゐたが、父に先つて死んだ。
尺(せき)振八も亦此年十一月二十八日に歿した。年は四十八であつた。
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年(1887)である。保は一月二十七日に静岡で発行してゐる「東海暁鐘(げうしよう)新報」の主筆になつた。英学校の職は故(もと)の如くである。「暁鐘新報」は自由党の機関で、前島豊太郎と云ふ人を社主としてゐた。五年前に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の耳目を驚した人で、天保六年(1835)の生であるから、五十三歳になつてゐた。次で保は七月一日に静岡高等英華学校に聘せられ、九月十五日に又静岡文武館の嘱託を受けて、英語を生徒に授けた。
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年(1888)である。一月に「東海暁鐘新報」は改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民が静岡を過ぎて保を訪うた。兆民は前年の暮に保安条例に依つて東京を逐はれ、大阪東雲(しのゝめ)新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男三吉が生れた。八月十日に私立渋江塾を鷹匠町二丁目に設くることを認可せられた。
脩は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。是より先脩は渋江氏に復籍してゐた。
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶つた。靜岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国安倍郡豊田村曲金(まがりかね)の素封家海野(うんの)寿作の娘分である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月生であるから二十歳であつた。
此年九月十五日に、保の許に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。其文体書風が悪作劇(いたづら)とも見えぬので、保は多少の心構をして其日を待つた。静岡の市中では此事を聞き伝へて種々の噂が立つた。さて其日になると、早朝に前田五門が保の家に来て助力をしようと申し込んだ。五門は本(もと)五左衛門と称して、世禄五百七十二石を食み、下谷新橋脇に住んでゐた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国国府を去つて入京しようとした時、五門は懇親会に於て保と相識になつた。初め「函右(かんいう)日報」社主で、今「大務(たいむ)新聞」顧間になつてゐる。保は五門と倶に終日匿名の敵を待つたが、敵は遂に来なかつた。五門は後明治三十八年(1905)二月二十三日に歿した。天保六年(1835)の生であるから、年を享くること七十一であつた。
百十
抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年(1889)である。一月八日に保は東京博文館の求に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保の此書肆のために書を著すに至つた端緒である。交渉は漸く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に遠かり、博文館に近いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待つて主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後猶社説を草せむことを請うた。
脩の嫡男終吉が此年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年(1890)である。保は三月二日に静岡から入京して、麹町有楽町二丁日二番地竹の舎(たけのや)に寄寓した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉ぢ、英学校、英華学校、文武館三校の教職を辞した。只暁鐘新報の社説は東京に於て草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田仲猿楽町五番地豊田春賀の許に転寓した。
保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に夭した。又七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある智運童子は此三吉である。
脩は此年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町補習学会及神田猿楽町有終学校の英語教師となつた。妻子は七月に至つて入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となつて、遠江国磐田郡袋井駅に勤務することゝなり、又家を挙げて京を去つた。
明治二十四年(1891)には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜(ぼく)して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを落した。脩は駿河国駿東郡佐野駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
二十五年(1892)には保の次男繁次が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に示教童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に解傭を請うて入京し、芝愛宕(あたご)下町に住んで、京橋西紺屋町秀英舎の漢字校正係になつた。脩の次男行晴が生れた。此年は抽斎歿後の第三十四年である。
二十六年(1893)には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩が此年から俳句を作ることを始めた。「皮足袋の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年(1894)には脩の次男行晴が四月十三日に三歳にして歿した。陸が十二月に本所松井町三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅である。長唄の師匠としての此人の経歴は、一たび優のために頓挫したが、其後は継続して今日に至つてゐる。猶下方に詳記するであらう。二十八年(1895)には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年(1896)には脩が一月に秀英舎市が谷工場の欧文校正係に転じて、牛込二十騎町に移つた。此月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年(1897)には保が九月に根本羽嶽の門に入つて易を問ふことを始めた。長井金風さんの言に拠るに、羽嶽の師は野上陳令(ちんれい)、陳令の師は山本北山ださうである。粟本鋤雲(じようん)が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の妾が歿した。三十一年(1898)には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日に其評議員になつた。脩の長女花が十二月に生れた。島田篁村が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年乃至第四十年である。  
 

 

百十一
わたくしは此に前記を続いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年(1900)には五月二日に保の三女乙女さんが生れた。三十四年(1901)には脩が吟月と号した。俳諧の師二世桂の本琴絲女(かつらのもときんしぢよ)の授くる所の号である。山内水木が一月二十六日に歿した。年四十九であつた。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主大橋佐平が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年(1902)には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町の国文社に入り、校正係になつた。脩の四男末男さんが十二月五日に生れた。三十六年(1903)には脩が九月に静岡に往つて安西一丁目南裏に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正澂(せいちよう)の勧に従つて、中学生のために温習の便宜を謀つたのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年(1904)には保が五月十五日に神田三崎町一番地に移つた。三十八年(1905)には保が七月十三日に荏原郡品川町南品川百五十九番地に移つた。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉ぢた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立の必要なきに至つたのである。伊沢柏軒の嗣子磐が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安と改め、維新後に又磐と改めたのである。磐の嗣子信治さんは今赤坂氷川町の姉婿清水夏雲(かうん)さんの許にゐる。三十九年(1906)には脩が入京して小石川久堅町博文館印刷所の校正係になつた。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年(1907)には保の四女紅葉が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年(1908)である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩は此月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかつた。六日に至つて咳嗽(がいそくせき)甚しく、発熱して就蓐(じゆじよく)し、終に加答児(かたる)性肺炎のために命を隕した。嗣子終吉さんは今の下渋谷の家に移つた。
わたくしは脩の句稿を左に鈔出する。類句を避けて精選するが如きは、其道に専ならざるわたくしの能くする所では無い。読者の指擿(してき)を得ば幸であらう。
   山畑や霞の上の鍬づかひ
   塵塚に菜の花咲ける弥生哉
   海苔の香や麦藁染むる縁の先
   切凧のつひに流るゝ小川(こがは)かな
   陽炎(かげろふ)と共にちらつく小鮎哉
   いつ見ても初物らしき白魚(しらを)哉
   壮丹切て心さびしきタかな
   大西瓜(すいか)真つ二つにぞ切れける
   山寺は星より高き燈籠かな
   稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ′
   秋は皆物の淡きに唐芥子
   手も出さで机に向ふ寒さ哉
   物売の皆頭巾着て出る夜哉
   凩や土器(かはらけ)乾く石燈籠
   雪の日や鶏(とり)の出て来る炭俵
明治四十四年(1911)には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年(1913)には保が七月十二日に麻布西町十五番地に、八月二十八日に同区本村町八番地に移つた。三年(1914)には九月九日に今の牛込船河原町の家に移つた。四年(1915)には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。
百十ニ
抽斎の後裔にして今に存じてゐるものは、上記の如く、先づ指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となつたものである。経を漁村、竹逕の海保氏父子、島田篁村、兼松石居、根本羽嶽に、漢医方を多紀雲従(うんじゆう)に受け、師範学校に於て教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾に於て英語を研究し、浜松、靜岡にあつては、或は校長となり、或は教頭となり、旁新聞記者として政治を論じた。しかし最も大いに精力を費したものは、書肆博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至つてゐる。其書は随時世人を啓発した功はあるにしても、概皆時尚を追ふ書估の誅求に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたと謂はざることを得ない。そして保さんは自らこれを知つてゐる。畢竟文士と書估との関係はミュチュアリスム(共生)であるべきのに、実はパラジチスム(寄生)になつてゐる。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
保さんの作らむと欲する書は、今猶計画として保さんの意中にある。曰く「日本私刑史」、曰く「支那刑法史」、曰く「経子一家言」、曰く「周易一家言」、曰く「読書五十年」、この五部の書が即ち是れである。就中「読書五十年」の如きは、啻に計画として存在するのみでは無い、其藁本が既に堆(たい)を成してゐる。これは一種のビブリオグラフィイ(書誌)で、保さんの博渉の一面を窺ふに足るものである。著者の志す所は厳君(げんくん父親)の「経籍訪古志」を廓大(かくだい拡大)して、古より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあると謂つても、或は不可なることが無からう。保さんは果して能く其志を成すであらうか。世間は果して能く保さんをして其志を成さしむるであらうか。
保さんは今年大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女乙女きんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年(1908)以降鏑木清方に就いて画を学び、又大正三年以還(いかん)跡見女学校の生徒になつてゐる。
第二には本所の渋江氏がある。女主人は抽斎の四女陸で、長唄の師匠杵屋勝久さんが是である。既に記したる如く、大正五年(1916)には七十歳になつた。
陸が始て長唄の手ほどきをして貰つた師匠は日本橋馬喰町の二世杵屋勝三郎で、馬場の鬼勝と称せられた名人である。これは嘉永三年(1850)陸が僅に四歳になつた時だと云ふから、まだ小柳町の大工の棟梁新八の家へ里子に遣られてゐて、そこから稽古に通つたことであらう。
母五百も声が好かつたが、陸はそれに似て美声だと云つて、勝三郎が褒めた。節も好く記(おぼ)えた。三昧線は「宵は待ち」を弾く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、「めりやす」「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、所々の大浚(おほざらへ発表会)に往つた。
勝三郎は陸を教へるに、特別に骨を折つた。月六斎(月六回)と日を期して、勝三郎が喜代蔵、辰蔵二人の弟子を伴つて、お玉が池の渋江の邸に出向くと、其日には陸も里親の許から帰つて待ち受けてゐた。陸の浚が畢ると、二番位演奏があつて、其上で酒飯が出た。料理は必ず青柳から為出した。嘉永四年(1851)に渋江氏が本所台所町に移つてからも、此出稽古は継続せられた。
百十三
渋江氏が一旦弘前に徙つて、其後東京と改まつた江戸に再び還つた時、陸は本所緑町に砂糖店を開いた。これは初め商売を始めようと思つて土着したのではなく、唯稲葉と云ふ家の門の片隅に空地があつたので、そこへ小家を建てゝ住んだのであつた。さて此家に住んでから、稲葉氏と親しく交はることになり、其勧奨に由つて砂糖店をば開いたのである。又砂糖店を閉ぢた後に、長唄の師匠として自立するに至つたのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
本所には三百石取以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあつたから、親しく其子孫に就いて質さなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下に、一旦人に嫁して帰つた家附の女で四十歳位のが一人、松さん、駒さんの兄弟があつた。此松さんは今千秋と号して書家になつてゐるさうである。
陸が小家に移つた当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそつて往き、母が背中を洗つて遣れば、娘が手を洗つて遣ると云ふやうにした。髪をも二人で毎日種々の髷に結つて遣つた。
さて稲葉の未亡人の云ふには、若いものが坐食してゐては悪い、心安い砂糖問屋があるから、砂糖店を出したが好からう、医者の家に生れて、陸は秤目(はかりめ)を知つてゐるから丁度好いと云ふことであつた。砂糖店は開かれた。そして繁昌した。品も好く、秤も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買ひに来る。煮締屋が買ひに来る。小松川あたりからわざわざ来るものさへあつた。
或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糖などを買つて、陸に言つた。「士族の女で健気にも商売を始めたものがあると云ふ噂を聞いて、わたしはわざわざ買ひに来ました。どうぞ中途で罷めないで、辛棒をし徹して、人の手本になつて下さい」と云つた。後に聞けば、藤堂家の夫人ださうであつた。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあつて、当時の主人は高猷(たかゆき)、夫人は一族高ッ(たかたけ)の女であつた筈である。
或日又五百と保とが寄席に往つた。心打は円朝であつたが、話の本題に入る前に、かう云ふ事を云つた。「此頃緑町では、御大家のお嬢様がお砂糖屋をお始になつて、殊の外御繁昌だと申すことでございます、時節柄結構なお思ひ立で、謹もさうありたい事と存じます」と云つた。話の中に所謂心学を説いた円朝の面目が窺はれる。五百は聴いて感慨に堪へなかつたさうである。
此砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中(もなか)に閉ぢられて、陸は世間の同情に酬(むく)いることを得なかつた。家族関係の上に除き難い障礙が生じたゝめである。
商業を廃して濶ノ(かんか)を得た陸の許へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶長唄の事に及んだ。長唄は未亡人が曾て稽古したことがある。陸には飯よりも好な道である。一しよに浚つて見ようではないかと云ふことになつた。未だ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつゝかう云つた。
「あなたは素人ぢやないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」
百十四
稲葉の未亡人の詞を聞いて、陸の意は稍動いた。芸人になると云ふことを憚つてはゐるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであつた。陸は母五百の許に往つて相談した。五百は思の外容易く許した。
陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請ひ受けて勝久と称し、公に稟(まを)して鑑札を下付せられた。其時本所亀沢町左官庄兵衛の店(たな)に、似会はしい一戸が明いてゐたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になつた。明治六年(1873)の事である。
此亀沢町の家の隣には、吉野と云ふ象牙職の老夫婦が住んでゐた。主人(あるじ)は町内の若い衆頭で、世馴れた、侠気のある人であつたから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住ひの事は御存じないのだから、失礼ながらわたし達夫婦でお指図をいたして上げます」と云つたのである。夫婦は朝表口の揚戸を上げてくれる。晩に又卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
吉野の家には二人の女があつて、姉をふくと云ひ、妹をかねと云つた。老夫婦は即時に此姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしてゐる。
吉野は勝久の事を町住ひに馴れぬと云つた。勝久は曾て砂糖店を出してゐたことはあつても、今所謂愛敬商売(人気商売)の師匠となつて見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはゐられなかつた。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞く毎にぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞の妥当なるを認めながら、感情は其人を意地悪のやうに思ふ。砂糠屋でゐた頃も、八百屋、肴屋にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだ其辞(ことば)を紆曲にして直(たゞち)に相手を斥して呼ぶことを避けてゐた。今はあらゆる職業の人に交はつて、誰をも檀那と云ひ、お上さんと云はなくてはならない。それがどうも口に出憎いのであつた。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞと云はれないやうになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたやうに感じたさうである。
しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。未だ幾ばくもあらぬに、弟子の数は八十人を踰えた。それに上流の家々に招かれることが漸く多く、後には殆ど毎日のやうに、昼の稽古を終つてから、諸方の邸へ車を馳せることになつた。
最も数(しばしば)往つたのは程近い藤堂家である。此邸では家族の人々の誕生日、其外種々の祝日(いはいゞ)に、必ず勝久を呼ぶことになつてゐる。
藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は晶員になつてゐる。
百十五
細川家に勝久の招かれたのは、相弟子勝秀が紹介したのである。勝秀は曾て肥後国熊本までも此家の人々に伴はれて往つたことがあるさうである。勝久の初て招かれたのは今戸の別邸で、当日は立三昧線が勝秀、外に脇二人、立唄が勝久、外に脇唄二人、其他鳴物連中で、悉く女芸人であつた。番組は「勧進帳」、「吉原雀」、「英執着獅子(はなぶさしふぢやくじゝ)」で、末に好(このみ)として「石橋(しやくけう)」を演じた。
細川家の当主は慶順(よしゆき)であつただらう。勝久が部屋へ下つてゐると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の女の陸がゐると云ふことだから逢ひに来たよ」と云つた。連の女等は皆驚いた。津軽承昭(つぐてる)は主人慶順の弟であるから、其日の客になつて、来てゐたのであらう。
長唄が畢つてから、主客打交つての能があつて、女芸人等は陪観(ばいくわん貴人に従ふ見物)を許された。津軽候は「船弁慶」を舞つた。勝久を細川家に介致(かいち紹介)した勝秀は、今は亡人(なきひと)である。
津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となつて、渋江陸として屢召されることになつた。いつも独往つて弾きもし歌ひもすることになつてゐる。老女歌野、お部屋おたつの人々が馴染になつて、陸を引き廻してくれるのである。
稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往つた。其邸は青山だと云ふから、豊後国臼杵(うすき)の稲葉家で、当時の主公久通(ひさみち)に麻布土器(かはらけ)町の下屋敷へ招かれたのであらう。連中は男女交りであつた。立三昧線は勝三郎、脇勝秀、立唄は坂田仙八、脇勝久で、皆稲葉家の名指であつた。仙八は亡人で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「鶴亀」、「初時雨」、「喜撰」で、末に好として勝三郎と仙八とが「狸囃(たぬきばやし)」を演じた。
演秦が畢つてから、勝三郎等は花園を観ることを許された。園は太だ広く、珍奇な花卉(くわき)が多かつた。園を過ぎて菜圃(さいほ)に入ると、其傍に竹藪があつて、筍が叢(むらが)り生じてゐた。主公が芸人等に、「お前達が自分で抜いただけは、何本でも持つて帰つて好いから勝手に抜け」と云つた。男女の芸人が争つて抜いた。中には筍が抽(ぬ)けると共に、尻餅を擣くものもあつた。主公はこれを見て興に入つた。筍の周囲の土は、予め掘り起して、鬆(ゆる)めた後に又掻き寄せてあつたさうである。それでも芸人等は容易く抜くことを得なかつた。家苞(いへづと土産)には筍を多く賜はつた。抜かぬ人も其数には洩れなかつた。
前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになつた。初て往つた頃は、前田家が宰相慶寧(よしやす)、伊達家が亀三郎、牧野家が金丸(かなまる)、小笠原家が豊(とよ)千代丸、黒田家が少将慶賛(よしすけ)、本多家が主膳正(しゆぜんのかみ)康穣(やすしげ)の時であつただらう。しかしわたくしは維新後に於ける華冑(かちゆう名門)家世の事に精しくないから、若し誤謬があつたら正して貰ひたい。
勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年(1877)四月三日に、両国中村楼で名弘めの大浚を催した。浚場の間口の天幕は深川の五本松門弟中、後幕(うしろまく)は魚河津問屋今和(いまわ)と緑町門弟中、水引は牧野家であつた。其外家元門弟中より紅白縮緬の天幕、杵勝名取男女中より縹色(はないろ)絹の後幕、勝久門下名取女中より中形縮緬の大額、親密連女名取より茶緞子丸帯の掛地、木場贔屓中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもひおもひの意匠を凝したびらを寄せた。縁故のある華族の諸家は皆金品を遺(おく)つて、中には老女を遣(つかは)したものもあつた。勝久が三十一歳の時の事である。
 

 

百十六
勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構へた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して貽(おく)つた。勝久は此歌に本づいて歌曲「松の栄(さかえ)」を作り、両国井生村(ゐぶむら)楼で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まつた。曲は奉書摺(ほうしよずり)の本に為立てゝ客に頒たれた。緒余(ちよよ余技)に「四つの海」を著した抽斎が好尚の一面は、図らずも其女陸に藉つて此の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年(1894)十二月で、勝久が四十八歳の時であつた。
勝三郎は尋(つい)で明治二十九年(1896)二月五日に歿した。年は七十七であつた。法謚を花菱院(くわりようゐん)照誉(せうよ)東成(とうせい)信士と云ふ。東成は其諱(いみな)である。墓は浅草蔵前西福寺内真行院にある。原(たづ)ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、其宗家は世(よゝ)喜三郎又六左衛門と称し、現に日本橋坂本町十八番地にあつて名跡(みやうせき)を伝へてゐる。所謂植木店(うゑきだな)の家元である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、其門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に和吉があり、和吉の後を初代勝五郎が襲ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。此勝三郎は終生名を更めずにゐて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字を小三郎と云つた。即ち勝久の師匠である。
二世勝三郎には子女各一人があつて、姉をふさと云ひ、弟を金次郎と云つた。金次郎は「己は芸人なんぞにはならない」と云つて、学校にばかり通つてゐた。二世勝三郎は終に臨んで子等に遺書し、勝久を小母と呼んで、後事を相談するが好いと云つたさうである。
ニ世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎へて継がせることになつた。壻は新宿の岩松と云ふもので、養父の小字小三郎を襲ぎ、中村楼で名弘(なびろめ)の会を催した。未だ幾くならぬに、小三郎は養父の小字を名告ることを屑(いさぎよ)しとせず、三世勝三郎たらむことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織してゐて、技芸の小三郎より優れてゐるものが多い。それゆゑ襲名の事は輒(たやす)く認容せられなかつた。小三郎は遂に葛藤を生じて離縁せられた。
是に於て二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになつた。金次郎は親戚と父の門人等とに強要せられて退学し、好まぬ三昧線を手に取つて、杵勝分派諸老輩の鞭策(べんさく鞭撻)の下に、いやいやながら腕を磨いた。
金次郎は遂に三世勝三郎となつた。初め此勝三郎は学校教育が累をなし、目に丁字(学歴)なき儕輩(せいはい同輩)の忌む所となつて、杵勝同窓会幹事の一人たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数(しばしば)であつたが、固より些の学問が技芸を妨げる筈はないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼(うよく贔屓)も成つた。
明治三十六年(1903)勝久が五十七歳になつた時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥してゐるので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞ひに往つた。僦居(しうきよ間借)は海光山長谷寺の座敷である。勝三郎は病が兎角佳候(かこう)を呈せなかつたが、当時猶杖に扶けられて寺門を出で、勝久等に近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作つて、痛牀の慰草(なぐさみぐさ)にもと云つて遺(おく)つた。雑誌「道楽世界」に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、此頃の事である。三月二日に勝三郎は痛の未だ瘥(い)えざるに東京に還つた。
百十七
三世勝三郎の病は東京に還つてからも癒えなかつた。当時勝三郎は東京座頭取であつたので、高足(かうそく)弟子たる浅草森田町の勝四郎をして主として其事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座に於ける勝四郎の勤振に慊(あきたら)なかつた。そして病のために気短になつてゐる勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕ひ難い釁隙を生じた。
五月に至つて勝三郎は房州へ転地することを思ひ立つたが、出発に臨んで自分の去つた後に於ける杵勝分派の前途を気遣つた。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしてゐる女名取の間には、これを作るに何の故障もなかつた。しかし勝四郎を領袖としてゐる男名取等は、先づ師匠の怒が解けて、帥匠と勝四郎との交が昔の如き和熟(わじゆく)を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬと云つた。此時勝久は病める師匠の心を安んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに若くはないと思つて、師家と男名取等との間に往来して調停に努力した。
しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかつた。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を訪うて、重ねて勝四郎のために請ふ所があつたとき、勝三郎は涙を流して怒り、「小母さんはどこまで此病人に忤(さから)ふ気ですか」と云つた。勝久は此に至つて復奈何ともすることが出来なかつた。
六月二十五日の朝、勝三郎は霊岸島から舟に乗つて房州へ立つた。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでゐる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二郎、それに師匠の家にゐる兼さんと云ふ男、上総屋の親方、以上八人であつた。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁日に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮してゐるので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれてゐる人である。
此桟橋の別には何となく落寞(らくばく寂寞)の感があつた。痛み衰へた勝三郎は終に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去つた。そしてそれが再び帰らぬ旅路であつた。
勝久は家元を送つて四日の後に病に臥した。七月八日には女師匠が房州から帰つて、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遺(おく)つて、勝三郎の房州から鎌倉へ遷つたことを聞いた。
九月十一日は小雨の降る日であつた。鎌倉から勝三郎の病が革(すみやか急)だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣(こうれん引きつる)のために、寝がへりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往つてゐた。そこへ此報が来たので、勝久はしばらく戦慄して已まなかつた。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしてゐる勝ふみを呼びに遣つた。介抱旁(かたがた)同行することを求めたのであつた。二人は新橋から汽車に乗つて、鎌倉へ往つた。勝三郎は此タに世を去つた。年は三十八であつた。法諡を蓮生院(れんしやうゐん)薫誉(くんよ)智才信士(ちさいしんし)と云ふ。
百十八
九月十二日に勝久は三世勝三郎の枢を荼毘所(だびしよ)まで見送つて、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還つた。勝三郎が歿した後に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙がある。それは勝三郎の生前に、勝久等が百方調停したにも拘らず、宥(ゆる)されずにしまつた高足弟子勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾もこれを忘れることが出来なかつた。
十三日の昧爽(まいそう)に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣つた。「定めし御聞込の事とは存じ候へども、杵屋御家元様は御死去被遊候。夫に付私共は今日午後四時御同所に相寄侯事に御坐候。此際御前様御心底は奈何に侯哉。私存じ侯には、同刻御自身の思召にて馬喰町へ御出被成(いでなされ)候方宜敷(よろしく)侯様存じ候。田原町へ一寸御立寄被成(なされ)候て御出被成度(なされたく)存じ侯。さ候はゞ及ばずながら奈何様にも御都合宜敷様可致(いたすべく)候。先(まづ)は右申入侯。」田原町とは勝四郎に亜(つ)ぐ二番弟子勝治郎の家を謂つたのである。勝治郎は咋今病のために引き籠つて、杵勝同窓会をも脱けてゐる。
勝四郎の返事には、好意は難有いが、何分これまでの行懸上単身では出向かれぬと云つて来た。そこで十造、勝助の二人が森田町へ迎へに往くことになつた。
馬喰町の家では、此日通夜のために、亡人の親戚を始として、男女の名取が皆集まつてゐた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請ふに、亡人に代つて勝四郎を免すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となつた亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位(もくい位牌)を拝し、綫香(線香)を手向けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶した。葛藤は此に全く解けた。これが明治三十六年(1903)勝久が五十七歳の時の事で、勝久は終始病を力(つと)めて此調停の衝(しよう)に当つたのである。勝久が病の本復したのは此年の十二月である。
杵勝同窓会はこれより後睽乖(けいかい反目)の根を絶つて、男名取中からは名を勝五郎と更めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となつてゐる。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が襲いでゐる。一番弟子勝四郎改勝五郎、二番勝治郎、三番勝松改勝右衛門、四番勝吉改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
二世勝三郎の花菱院が三年忌には、男女名取が梵鐘一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕一帳男女名取中、葡萄鼠縮緬幕女名取中、大額並黒紹夢想袷羽織勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げて併せ修せられたときには、木魚一対、墓前花立並綫香立男女名取中、十七年忌には蓮華形皿十三枚男女名取中の寄附があつた。又三世勝三郎の蓮生院が三年忌には経箱六箇経本入男女名取中、十三年忌には袈裟一領家元、天蓋一箇男女名取中の寄附かありた。此等の文字は、人が或はわたくしの何故にこれを条記して煩を厭はざるかを怪むであらう。しかしわたくしは勝久の手記を閲して、所謂芸人の師に事ふることの厚きに驚いた。そして此善行を埋没するに忍びなかつた。若しわたくしが虚礼に瞞過(まんくわ)せられたと云ふ人があつたら、わたくしは敢て問ひたい。さう云ふ人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだらうかと。
百十九
勝久の人に長唄を教ふること、今に迨(いた)るまで四十四年である。此間に勝久は名取の弟子僅に七人を得てゐる。明治三十二年(1899)には倉田ふでが杵屋久羅(くら)となつた。三十四年(1901)には遠藤さとが杵屋勝久美(かつくみ)となつた。四十三年(1910)には福原さくが杵屋勝久女(かつくめ)となり、山口はるが杵屋勝久利(かつくり)となつた。大正二年(1913)には加藤たつが杵屋勝久満(かつくま)となつた。三年(1914)には細井のりが杵屋勝久代(かつくよ)となつた。五年(1916)には伊藤あいが杵屋勝久纓(かつくを)となつた。此外に大正四年(1915)に名取になつた山田政次郎の杵屋勝丸もある。しかしこれは男の事ゆゑ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は都(すべ)て官公私立の学校に於て行ふことになつてゐて、勢(いきほひ)集団教育の法に従はざることを得ない。そして其弊を拯(すく)ふには、只個人教育の法を参取する一途があるのみである。是に於て世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るに所謂芸人に名取の制があつて、今猶牢守せられてゐることには想ひ及ぶものが鮮い。尋常許取(ゆるしとり免許)の濫(らん濫発)は、芸人が或は人の誚(そしり)を辞することを得ざる所であらう。しかし夫(か)の名取に至つては、その肯(あへ)て軽々しく仮借(かしやく許可)せざる所であるらしい。若しさうでないものなら、四十四年の久しい間に、質(ち)を勝久に委ねた幾百人の中で、能く名取の班に列するものが独り七、八人のみではなかつたであらう。
勝久の陸は啻に長唄を稽古したばかりではなく、幼(いとけな)くして琴を山勢氏に学び、踊を藤間ふぢに学んだ。陸の踊に使ふ衣裳小道具は、渋江の家では十二分に取り揃へてあつたので、陸と共に踊る子が手廻り(やりくりでき)兼ねる家の子であると、渋江氏の方で其相手の子の支度をもして遣つて踊らせた。陸は善く踊つたが、其嗜好が長唄に傾いてゐたので、踊は中途で罷められた。
陸は遠州流の活花をも学んだ、其象棋をも母五百に学んだ。五百の碁は二段であつた。五百は曾て薙刀をさへ陸に教へたことがある。
陸の読書筆札の事は既に記したが、稍長ずるに及んでは、五百が近衛予楽院の手本を授げて臨書せしめたさうである。
陸の裁縫は五百が教へた。陸が人と成つてから後は、渋江の家では重ねものから不断着まで殆ど外へ出して裁縫させたことがない。五百は常に、「為立は陸に限る、為立屋の為事は悪い」と云つてゐた。張物も五百が尺(ものさし)を手にして指図し、布目の毫も歪まぬやうに陸に張らせた。「善く張つた切(きれ)は新しい反物を裁つたやうでなくてはならない」とは、五百の恒の詞であつた。
 髪を剃り髪を結ふことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼妙了が「お陸様が剃つて下さるなら、頭が罅缼(ひゞかけ)だらけになつても好い」と云つて、頭を委せてゐたので馴れた。結ふことはお牧婆あやの髪を、前髪に張の無い、小さい祖母子(をばこ)に結つたのが手始で、後には母の髪、妹の髪、女中達の髪までも結ひ、我髪は固より自ら結つた。唯余所行の我髪だけ母の手を煩はした。弘前に徙つた時、浅越玄隆、前田善二郎の妻、松本甲子蔵の妹などは菓子折を持つて来て、陸に髪を結つて貰つた。陸は礼物を卻けて結つて遣り、流行(はやり)の飾をさへ贈つた。
陸は生得おとなしい子で、泣かず怒らず、饒舌することもなかつた。しかし言動か快活なので、剽軽者として家人にも他人にも喜ばれたさうである。その人と成つた後に、志操が堅固で、義務心に富んでゐることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。
牛込の保さんの家と、其保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「兄いさん」と呼んでゐる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。
下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としてゐる。終吉は図案家で、大正三年(1914)に津田青楓さんの門人になつた。大正五年(1916)に二十八歳である。終吉には二人の弟がある。前年に明治薬学校の業を終へた忠二さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。此三人の生母福島氏おさださんは静岡にゐる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。(終) (大正五年一月−五月)  
 
渋江抽斎(しぶえちゅうさい/澁江抽齋)

 

文化2年-安政5年(1805-1858) 江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり、ほかにもいくつかの号を使用していた。1805年、弘前藩の侍医、渋江允成と3人目の妻縫との子として生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷エキ斎(「エキ」は木へんに夜と記す)に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。蔵書家として知られ、その蔵書数は三万五千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸してしまった。1858年、コレラに罹患し亡くなった。生涯で4人の妻を持ち、最後の妻である五百(いお)は、抽斎没後の渋江家を守り明治17年(1884年)に没した。 
 
森鴎外「渋江抽斎」

 

森鴎外が武鑑の収集を通じて、渋江抽斎という歴史上の一人物に出会った経緯については、先稿でも述べたとおりである。鴎外はこの人物が、武鑑という普通の感覚ならあまり面白くもないものに情熱を注ぎ、その傍ら学者として古い文献の考証に力を注いでいたらしいことを知るに及び、俄然その人物への関心の高まるのを感じ、その人物について多くを知りたいと思うようになった。そしてこのような思いがやがて実を結んで、鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽斎」の執筆へとつながっていくのである。
とにかくこの人物のことを始めて知り、その何者かについて疑問が沸くのを感じて以来、その事跡の調査にとりかかる鴎外の姿勢には尋常でないものがあった。鴎外は少ない手がかりから、この人が津軽藩と縁があると目星をつけて、知人をはじめその方面の情報を集めるうち、その子息が現存していること、また渋江抽斎その人の墓が谷中の感応寺にあることを知って、早速苔を掃いに赴いている。
こうして鴎外には渋江抽斎の著述の写本数点と、その子保氏による父抽斎の回想録が残った。回想録といっても抽斎が死んだとき保氏はまだ二歳であったから、自分自身の記憶にもとづくものではない。母親の五百から聞いていたことを思い出して綴ったものである。
鴎外はこの回想録を導きの意図として、時に抽斎自身の詩や著述を引用しながら、渋江抽斎という人物の史伝を展開していくのである。
それにしても何故鴎外は、この無名の人物にかくも傾倒し、その詳しい史伝を書こうと思い立ったのか。
それ以前に鴎外が取り上げた歴史小説の主人公たちは、それぞれ多かれ少なかれ歴史上の意義というものが認められ、その限りで個人としての興味を引くところもある人物だった。渋江抽斎はそれに反して、歴史上の意義などとは無縁で、ただ一学者として変化に乏しい一生を送っただけの人物である。
渋江抽斎に対して鴎外が抱いた親近感を、鴎外自身次のように記している。
「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其跡が頗るわたくしと相似ている。」つまり自分と似ていることへの親近感をまず述べているのである。鴎外はまた次のようにも書いている。
「抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかった。はるかにわたくし優った済勝の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。」
健脚とは文字通りに歩む力というよりは、そのスケールの大なることを言っているのであろう。鴎外は抽斎についてそういうことで、彼が自分よりはるかに偉大であったことを強調したかったのである。
だが抽斎のどこが偉大で、どこが人間として敬愛すべきなのか、「渋江抽斎」一篇を読み終えても、なかなか形をとって現前してこないと感じるのは、ひとり筆者のみではあるまい。
この史伝は全部が抽斎その人に当てられているわけではない。全部で119節からなる構成のうち、抽斎を直接描いているのは前半のみで、後半はその子息の辿った運命を記述することにあてられている。しかもその前半部においても、抽斎という人物にめぐり合い、その像を明らかにしようとする鴎外の努力が述べられ、またその後も、抽斎をめぐる人物たちの紹介が延々と続いたりして、抽斎その人の記述はそう多くはないのである。
これには抽斎その人にかかわる情報が、限られていたこととも関係があろう。なにせ子どもの保氏が母親から聞いたこと以外に、抽斎にまるわる情報は殆どなかったのである。それにもかかわらず、その少ない情報から鴎外が汲み取った抽斎像にはある確かなものがあった。
渋江抽斎の周辺には、師の世代として、市野迷庵、狩谷棭斎、伊沢蘭軒、池田京水といった人物たちがあり、ほぼ同世代として、安積艮齋、小島成斎、海保漁村、森枳園らがある。必ずしも高名のものばかりではないが、文学史上名を残したものがあり、またその人柄において尊敬すべき人物も含まれている。抽斎はこれらの人物像に混じって光彩を鈍くするどころか、でんとしてその中心に座するがごとき風格がある。
鴎外はこうした人物たちとの抽斎の交際の中に、人間としての敬愛すべき生き方を見出したのだと思えるのである。この作品はいわば幾重もの友情の糸に織り成された、人間の温かい交際の記録であったとも言える。
抽斎自身の思想や感情について、鴎外はあまり記すところがないが、ひとつだけ安政の黒船来航に際して、抽斎が主家のために草した意見書を取り上げている。それは尊王の立場から、国家のあり方を憂えた内容のものである。そのこと自体には、あまり大した意味はなかったかもしれないが、鴎外はその事実に言及することによって、抽斎がいやおうなく時代の流れに立ち向かわなければならなかった事情をほのめかせている。
渋江抽斎が生きていた時代は、文化文政の爛熟した時代の後の、日本の国がやや傾きかけていた頃であった。そして天保の混乱した時代相を潜り抜けると、その先には黒船来航以後の一層の混乱が待っていた。抽斎はこうした時代にあって、常に自分というものを見失しなわなかった。己自身に泰然自若であったとともに、国の外憂に対しては鋭く触覚を働かせた。
鴎外はそうした抽斎の生き方の中に、人間の自立と尊厳を感じるとともに、彼を取り巻く友人たちとの交友関係の中に、ほのぼのとして、また滅多に達成しがたい、人間としての暖かさ、生きることのぬくもりを感じたのだろう。
鴎外は自分と渋江抽斎の生き方を引き比べて、そこに羨望のようなものを感じたのではないか。自立という点ではともかく、鴎外は人間の暖かさという面では、そんなに幸福な人生を生きたわけではなかったようなのである。  
 
渋江抽斎の妻

 

森鴎外の史伝体小説「渋江抽斎」において、最も精細を放っている人物は、主人公抽斎本人というより、その妻五百であろう。五百がいなかったとしたならば、抽斎の人生もいっそうわびしく映り、したがってこの小説の面白みは半減してしまったに違いない。それほど彼女の存在感は大きい。しかもこの作品の後半は抽斎没後の家族の消息にあてられ、そこでは五百の存在感は全体を多い尽くすほど大きなものになるのである。
この五百という女性の人物像を、鴎外は五百の末子保氏の思い出をよりどころにして描いている。したがってそこには、母親に対する子の感傷的な思いも潜んでいたであろう。だが鴎外は子どもの感傷というには言い放てない、なにか優れた資質を五百という女性の中に見出し、自分でもこの女性に惚れ込んだのでないか。
五百は抽斎の没後、生まれたばかりの子どもを含め残された一家を支え続けた。維新の動乱に際しては、生き残るためにはるばる津軽に向けて、一家を率いて落ち延びていった。その姿には、女性として妻として、また母として感嘆に耐えない高貴な輝きがある、そう鴎外は感じ入ったに違いないのだ。
そんな五百の芯の強さを表わしている逸話を、鴎外は「その六十」以後で紹介している。
さる貴人が金に困却し零落に瀕しているのを知った抽斎は金策のためとて無尽講をたてて、親類知人から金を集めた。ところがその金の所在を聞きつけたらしい者たちが現れ、自分たちがそれを届けると偽って、抽斎に対して金を渡すようにと迫った。抽斎は相手が金目当ての賊であることを悟って、さていかがしたものかと思案しているうち、折から入浴中の五百は事態の容易ならざるを知って、裸体のまま風呂を飛び出すと、匕首を銜え、熱湯を汲んだ桶を手にして現場に直行した。五百は夫の前に立ちはだかると、「沸き返る上がり湯を盛った小桶を、左右の二人の客に投げつけ、銜えていた懐剣をとって鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、「どろぼう」と一声叫んだ。」
五百自身はこの時のことが話題に上るたびに、赤面して席をたったと、後に鴎外は記しているが、武士の妻としての五百の律儀さを物語る象徴的な場面である。こうした律儀さが、主人が死んだ後の一家を立派に支え続けさせるのである。
五百は商家の娘として安政13年に生まれた。抽斎よりは11歳年下である。父忠兵衛は商人ながら文芸をたしなみ、嫡子栄次郎を抽斎のもとで勉学せしめたほか、娘の五百には大名のもとで修行することを進めた。十一、二歳の時には本丸勤めをしていたらしい。その後相応しい奉公先を求めて歩き回った後、藤堂家に仕えた。15歳のときである。24歳で奉公をやめ、29歳のとき抽斎の妻になった。抽斎はすでに二度結婚し、前妻との間には3人の子があった。
五百は嫁入りするに当たって、一旦武家平野氏の養女となった。おそらく身分の懸隔を生めるための工作だったのであろう。五百の実家は傾きかけていたとはいえ、相当の嫁入り支度を五百に持たせた。この結婚の直前抽斎は幕府の直参に出世し肩書きにも箔が付き、門人も多く抱え、何かと物入りであった。五百の持参した金は大いに役立ったのである。
五百が抽斎のためにけなげに生きたことは、さきの逸話からも感じ取れるだろう。前妻の残した子のほか自らも子を生み、双方隔てなく養育に当たった。だが安政5年に当時流行したコレラに抽斎もかかってあっけなく死んだ。時に抽斎の没年54、五百はまだ44歳であった。
養父の平野氏が自分の家に来るように誘ったが、それは五百のことを知らないもののいうことだと鴎外は言っている。五百は養父といえども人の世話になることを望まず、女手ひとつで残された家族を支え続けようとしたのである。
抽斎没後の遺族の生き様について、鴎外は「抽斎没後何年」といった編年体の形式をとって逐次述べている。年代が下るにつれて、幕末維新を吹きぬけた時代の風が彼らの中にも忍び込んでくる。圧巻は明治元年の記述である。幕府が倒壊し、幕府方の遺臣として身の不安を恐れた五百は、主家津軽家のある弘前を目指して、江戸を脱出する。鴎外が描写するその有様には、時代の波に翻弄されながら、生きることに望みを託す人々の、それこそ命がけの行為が読み取れるのである。
江戸を出て弘前に向かう途中、子どもたちを連れた五百の一行は行く先々で何度も誰何に出会う。そのたびに五百は見えざる敵に身構えをせずにはいられなかった。末子つまり保氏には女装までさせて、難局を図ろうとする、そこには生きることへのあくことなき執着が感ぜられる。この執着なくしては、人間は弱いままなのだと、鴎外は言外にほのめかしている。
五百の最晩年は、息子たちの成功にも助けられて、やや穏やかなるを保ちえたようだ。
鴎外が何故、渋江抽斎という人物の史伝を書かんと欲して、その死後にわたるまで延々と書き続けたのか、その秘密の一端が五百という女性に寄せた鴎外の感動にあったのではないかと、筆者は考えるのである。
五百には鴎外自身の母親に似たところがある。鴎外はそう感じたのであろう。鴎外自身の家族も、維新前後の風波に飲み込まれながら、それを乗り越え、何とか時代の波に乗れることが出来た。それには鴎外の母親の果たしたものが大きかった。鴎外はそこに自分の母親と五百の姿を重ね合わせたのではないか。
日本人にとって、女は常に表向きは控えめに振舞いながら、実は家族、ひいては社会をも律するような働きをしてきた。女が優秀であったから、日本人は勤勉な民族としてここまで生きてこられた。そんな思いを、鴎外は自分の母親や五百という遠い昔を生きた女性にことよせながら、強く感じたに違いない。
だから「渋江抽斎」と題したこの小説の真の主人公は、その妻五百であったと言っても、言い過ぎではない。  
 
書評

 

森鴎外は「渋江抽斎」において、抽斎の誠心と五百の勇気との物語を紡いだ。抽斎の誠心とは何であろうか。それは渋江という家の風である。渋江家は津軽家の定府の医官で知行300石。代々の漢方医である。抽斎の父允成は渋江家に15歳で養子に入った人である。允成は幼名専之助と言い、その父は根津の茗荷屋という旅店を営む稲垣清蔵といった。鳥羽稲垣家の重臣であったが君を諫めて旨に忤い、遁れて商人となった人といわれている。専之助が6歳で詩賦をよくするとの話を聞いて渋江家の養子に所望されたのである。神童であったのである。江戸後期、津軽家は4万8千石から7万石、更には10万石の大名に進む。これを「津軽家の御乗出し」という。蝦夷地の防備と警護とを担うことで津軽家は発展した。当時、藩主は寧親であったが、「允成は表向き侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任をこうむることが厚かったので、人のあえて言わざることを言うようになっていて、しばしば諫めてしばしば聴かれた。」「この津軽家の政務発展のときに当って、允成が啓沃の功も少なくなかったらしい。」と森鴎外は記している。諫めて追われた実父稲垣清蔵の気質を受け継いでいるのであろう。
允成の子が抽斎である。「抽斎は平姓で、小字を恒吉といった。人と成ったのちの名は全善(かねよし)、字は道純、また子良である。そして道純をもって通称とした。」抽斎は4度妻を娶った。2番目の妻威能の父は津軽藩留守居役100石比良野文蔵である。威能の祖父貞彦は壮年の頃、本所割下水から大川端あたりをうろついて辻斬りをし、千人斬ろうと思い立ったとのエピソードを持つ。それを聞いた抽斎は歎息して「自分は医薬をもって千人を救おうという願をおこした。」この志を思う。抽斎の歎息と誠心のありかを垣間見ることが出来る。
抽斎は医家であるとともに、考証家でもある。森鴎外が抽斎を知るきっかけはここにある。森鴎外は「多読の癖」から「随分多く書を買う」。徳川時代の事蹟を捜るのに、「武鑑」が必要である。こうして弘前医官渋江氏蔵書記という朱印に出会うことになる。そして、最古の武鑑を1645年 正保2の「屋敷附」であると森鴎外に先んじて断案したのが渋江抽斎であったことから、興味を覚えるようになる。渋江抽斎を知るに及んで、森鴎外は自分と似た人物と思いまた及ばないと感じるようになる。及ばない点は何か。抽斎は考証家として樹立するだけの地位に達しているのに、自分は「雑駁なるジレッタンチスムの境界を脱することが出来ない。わたくしは抽斎を視て忸怩たらざることを得ない。」畏敬すべき人物であると思い始める。
抽斎の日常は、江戸町文化の安定に中にある。家禄を保障された家を前提とした安定である。抽斎は貧を述べているが金は何に費やしたかと森鴎外は問う。「おそらく書を購うと客を養うとの二つのほかに出なかっただろう。」というのが森鴎外の推断である。その社会の仕組みに沿いながら、誠心をもって生業を営む姿を見ることができる。抽斎は津軽藩に仕える陪臣の身でありながら、1849年 嘉永2 3月7日、将軍家慶に「年来学業出精につき」謁見を許された。「世の数奇となすところであった。」と鴎外は記す。抽斎もまた祖父や父同様に、藩政にも関心をもっていた。いくつかの建策を津軽藩に講じている。その一つは江戸定府の人数を最小にして津軽に引き上げる案である。
抽斎の誠心とともに、「渋江抽斎」の魅力は4番目の妻・五百にある。あまりも有名な箇所ではあるが、引用したい。
渋江抽斎は父允成と同じく勤王を旨とした。そのために難にあったことがある。1856年(安政3)頃の話ではないかと鴎外は推測する。江戸の某貴人が窮迫し八百両の用立てが必要との話を聴き、抽斎は自家の窮乏を口実とした無尽講を催した。無尽講の夜、客が散じた後、五百は沐浴していた。翌朝に、某貴人に届ける約があったからである。その時、某貴人の使いと称する三人の侍が訪れてきた。某貴人は明朝を待たずに金を獲ようと使いを発したと言うのである。抽斎は応ぜなかった。三人の侍は刀の柄に手をかけて抽斎を取り囲んだ。
「このとき廊下に足音がせずに、障子がすうっと開いた。主客はひとしく愕きみ(月に台)た。」「五百はわずかに腰巻一つ身に着けたばかりの裸体であった。口には懐剣をくわえていた。そして閾きわに身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは湯気が立ちのぼっている。縁側を戸口まで忍び寄って障子を開くとき、持って来た小桶を下においたのであろう。五百は小桶を持ったまま、つと一間に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、左右の二人の客に投げつけ、くわえていた懐剣をとって鞘を払った。そして床の間を背にして立った一人の客を睨んで、『どろぼう』と一声叫んだ。熱湯を浴びた二人が先に、柄に手をかけた刀も抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。あと一人も続いて逃げた。」鴎外が抽斎の誠心と五百の勇気とを述べたのは、このエピソードを引いてのことである。
五百とは何者なのか。抽斎の4番目の妻は神田紺屋町で鉄物問屋を開いていた日野屋の女山内五百である。男40歳、女29歳の時である。五百は比良野文蔵の養女として嫁ぐこととなった。家制度が社会の根幹となっていた江戸時代においては身分が違うと嫁ぐことは出来ない。「文蔵は仮親になるからには、まことの親とあまり違わぬ情誼がありたいと言って、渋江家へ往く三箇月ばかり前に、五百を我が家に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を?めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。」江戸の家制度は家禄をもってなる社会システムの根幹に関る。同時に、そのシステムを前提とした柔軟な運用が多々見られる。抽斎の父允成が見込まれて養子となったように、また五百が仮親を立てて嫁いだようにシステムを維持発展させるには柔軟な運用は必須であった。江戸時代の家制度は、このように血統のつながりを必ずしも意味しない。
五百の勇気を示す挿話が森鴎外によって取り上げられている。五百は11、12歳の頃、江戸城本丸に奉公した。徳川家斉がたくさんの子供を産ませて、大名に押し付けた時代である。その頃の話である。行儀見習いのために、さる奥女中の部屋子にあがっていた。夕方になると長い廊下を通って閉めに行かねばならない窓があった。その廊下に鬼が出るとの噂が立ち、どの部屋子も嫌がっているなかに、五百は「おさなくても胆力があり、武芸の稽古もしたことがあるので、みずから望んで窓を締めに往った。」出てきた小さな鬼に灰をかけられた。五百は飛びついて捕まえると、それは鬼の面をかぶった銀之助という若君であった。家斉の34番目の子どもで、美作国津山松平越後守斉孝の次女徒のもとへ婿に入った斉民である。その後、五百は15歳ごろからは藤堂家に奉公した。五百の勇気は武勇を意味しない。
「五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言と呼ばれたという一面がある。」とも森鴎外は述べている。
藤堂家から戻って5年後。「五百の抽斎に嫁したとき、婚を求めたのは抽斎であるが、この間にある秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師石川貞白が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。」これもまた一つの勇気であろう。
先に述べたように、渋江抽斎は将軍家慶に謁見を許された。お目見えした栄誉は、多大な費えを要した。盛宴を開く。そのための広間の新築費用や、飲食贈答への費用捻出は、五百がおこなった。嫁入りに持ってきたニ百数十枚の衣類寝具を質に出し三百両、更には首飾類を売ってこれに充てた。「その状まさに行うべきところを行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に挟むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。」
五百への見方は様々である。「五百には少女時代から武家奉公の経験があって、武士的な躾、たしなみが身についていた。鴎外が、共感をこめて書きとめた五百の振舞い、決断のそれぞれは、武士的モラールの見事な典型とすら見える。」「女性のうちに封じこめられた武士的エトスのこうした開花、結実はおそらく作者自身にとっても思いがけぬ成果であり、これは抽斎伝の不意打ちの楽しみ、美果の一つに数えてよい。」(「伝記作家としての鴎外」佐伯彰一 中公論社文庫版解説)。佐伯は五百に武士的エトスを見ている。花崎皋平は「妻五百の登場とともに、当時の富裕な江戸商人の世界が姿をあらわす。その世界に宿された高い文化と品位ある人格が、五百をつうじて示される。」(森鴎外「渋江抽斎」論 本と批評1979年10月所収)と江戸商人文化を五百に見る。「品位ある人格」という言葉が良い。家制度のなかでの物語ではあるが、それぞれの評者で見たいものが違っていると言うことであろう。
1858年(安政5)8月28日、コレラにかかって抽斎は絶命した。54歳であった。安藤広重など2万8千人が江戸市中で亡くなっている。抽斎没後10年、1868年 明治元、渋江家は江戸を引き上げて弘前にいたる。東北諸藩で官軍に加わっていたのは津軽藩と秋田藩のみ。東北列藩同盟のなかを「人煙まれなる山谷の間を過ぎた。縄梯子にすがって断崖を上下したこともあらう。夜の宿は旅人に餅を売って茶を供する休息所の類が多かった。宿で物を盗まれることも数度におよんだ。」維新の動乱は社会構造を根底から崩し、人々を新たな苦難に追い込む。こうしてたどり着いた弘前も安住の地ではなかった。家禄に基づく社会秩序は終わろうとしていたのである。程なく東京と改められた江戸に戻ってくることになる。「抽斎歿後の第26年は明治17年である。2月14日に五百が烏森の家で歿した。」このような抽斎歿後の記述が小説の半分を占めている。これは、抽斎が渋江家と言う秩序の中にあったが為である。これを佐伯彰一のように「ひたすら個人中心、個人の生涯の完結性という伝記ジャンルの大前提自体が、問い直されゆらぎ始めている兆候を仄見えているのだ。」(「伝記作家としての鴎外」中公論社文庫版解説)と読むのは違うように思える。
石川淳は「森鴎外」(1978年 岩波文庫)において第一の傑作とみなしている。「抽斎という人物がいる世界像」を描いた「渋江抽斎」は「古今一流の大文章」になっているとまで言い切っている。「鴎外の眼はただ愛情に濡れていたのであろう。」と。そして「抽斎への『親愛』が氾濫したけしきで、鴎外は抽斎の周囲をことごとく、凡庸な学者も、市井の通人も、俗物も、婦女子も、愛撫してきわまらなかった。『わたくし自身の判断』を支離滅裂の惨状におとしいれてしまうような、あぶない橋のうえに、おかげで書かれた人物が生動し、出来上った世界が発光するという稀代の珍事を現出した。」と。この評は確かな読みと美しい文章ではないか。
前年に発表した「じいさんばあさん」というこれも見事な文書表現とはまた別の、簡潔でリズムのある「渋江抽斎」という長編を、時を忘れて読めたことがうれしい。家禄を基本とする日本独特の封建制度にあって、抽斎の誠心と五百の勇気との物語とを描いた鴎外の「愛情」を感じる。その「愛情」は、明治の世が捨て去ろうとしたあるものへの惜別の心から発してはいまいか。
註、中央公論社文庫版を使用。1916年は鴎外54歳。新聞に連載している最中に、母峰子を亡くし(3月)、4月13日には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長を辞任、予備役に編入という大きな節目の年であった。
 
石川淳「森鴎外」に寄せて

 

森鴎外最晩年の文業を飾るものは、「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の、今日史伝三部作と称される作品群である。これらは発表時世人から受け入れられること甚だ薄く、「北條霞亭」にいたっては、連載していた大手新聞社から事実上連載の中断を迫られるほどの扱いを受けた。これらの作品群は鴎外存命中はもとより死後しばらくの間、彼の文業を代表するものとは評価されなかったのである。
これらを改めて取り上げ、鴎外の最高傑作と位置づけなおしたのは昭和の碩学夷齋居士こと石川淳である。石川淳は三部作のうち「抽斎」と「霞亭」をより高く評価し、次のように書いている。
―「抽斎」と「霞亭」と・・・この二編を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っている人をわたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬々たる駄作である。
石川淳は鴎外のこれらの作品を何故かくも高く評価したのか。彼はまず次のように言う。これらの作品が人の胸を打つ所以は、「文章のうまい史伝なるが故に、人はこれに感動するのではない。作品の世界を自立させているところの一貫した努力が人を打つのみである。・・・鴎外晩年の史伝は「雁」「ヰタ・セクスアリス」ほど読者の数を持ち得ないにきまっている。むつかしい字が使ってあるせいでもなく、話がしぶいせいでもなく、努力のきびしさが婦女幼童の智能に適さないからである。」
婦女幼童の智能に適さないほど厳しい努力があるといわれても、我々読者は、何故それが作品の価値につながるのか、このままではわからない。そこで、史伝の個々について石川淳がいうところをもとにして、彼が作品の魅力をどうとらえたかに迫っていかねばならない。
渋江抽斎は鴎外によって発掘せられるまでは歴史上無名の人物であった。鴎外がこの人物と出会ったのは全くの奇縁によるものである。鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」を執筆したのをきっかけにして、一連の歴史小説を書き綴るうち、歴史上の人物にかかる細かい情報を求めるために、武鑑を手広く収集するようになった。武鑑とは徳川時代の武家にかかわる情報を収載したもので、いわば紳士録と履歴書とをあわせたようなものである。歴史家はそれを読み解くことによって、徳川時代に生きた人物の大まかな情報を得ることができる。
鴎外はその過程で、徳川時代に自分と同じように武鑑を収集していたものがあったことに気づいた。そこでその人の消息を追っていくうちに、渋江抽斎という一人の興味ある人物にたどり着いたのだった。しかもその人物は医者でありまた官吏としての経歴やら、文業にいそしんでいた姿勢やらが自分によく似ている。こうして鴎外は、今まで無知であったその人物にかかる情報を捜し求め、それに基づいて、手探りのような努力の中から「渋江抽斎」一篇を書き上げたのである。
その辺の事情を鴎外自身次のように書いている。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。その跡が頗るわたくしと相似てゐる。・・・抽斎は宋暫の経子を求めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも玩んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の袖は横丁の溝板の上で擦れ合った筈である。ここにこの人とわたくしとの間に馴染が生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。」
鴎外自身のこんな言葉を引きながら、石川淳は、この作品の魅力を形作っているのは、ひとりの人間が別の一人の人間に対して抱く親愛と共感であり、それがかもし出す暖かい雰囲気なのだといいたいようである。彼は鴎外が抽斎に対して抱いた感情こそがこの作品の魅力を作り上げているのだといいたかったのだろう。
その鴎外の抽斎に対する思いを、石川淳は次のように書いている。「おぼろげな未完成の抽斎像に於て、鴎外がいち早く捕らえた生命の息吹は自分の内部なる感動よりほかない。・・・鴎外の目はただ愛情に濡れていたのである。」
この愛情が作品を貫き、描かれる対象たる人物と描く当人である作者との距離を埋め、そこに類希な人間的な息吹を生成せしめる、そこから作品のあの暖かさが生まれてくるのだ、そう石川淳はいいたいのであろう。
「伊沢蘭軒」は「渋江抽斎」の執筆の延長上に生まれた作品である。蘭軒は抽斎の師であり、その経歴学業ともに鴎外自身に似るところがあったから、鴎外は必然蘭軒にも深い共感を覚えた。しかして鴎外には「抽斎」執筆の経験から、史伝の構成について強い自信があった。この自信にもとづいて、鴎外はこの長大な作品を比較的短時間で書き上げるのである。
「伊沢蘭軒」について、筆者は稿を改めて論じたいと思うが、これを先取りして一言で言えば、文化文政時代における文人たちの生き様を、鴎外が共感を持って大らかに描いた作品と評することができる。そこに描かれているのは、蘭軒と菅茶山との間の友情を中心とした文人たちの温かい交流であり、また文化文政期の円熟した時代の雰囲気であった。後半では蘭軒の子孫にかかわる事情が経年的に語られ、作品全体としては三代百年にわたる一族の歴史というべき体裁をとっているが、やはり作品の眼目は蘭軒を中心とした人びとの間の暖かい友情にある。
この「伊沢蘭軒」について、石川淳は「<蘭軒>全篇を領するものは異様な沈静である。」といい、また「出来上がった作品としては<蘭軒>はついに<抽斎>に及ばない。」といっている。けだし人物に対する作者鴎外の態度が「抽斎」におけるようには情熱を表に出さず、淡々と筆を進めているところがこのような感じ方をさせたのであろう。しかし筆者は、「蘭軒」は「抽斎」に劣らずとの印象を持っている。そこに描かれた友情が読む人をして感動せしめ、また三代百年にわたる歴史意識の確かさが「抽斎」よりスケールの大きいことを感じさせるからである。
史伝最後の作品「北條霞亭」を、石川淳は「渋江抽斎」に劣らない傑作であると評価している。しかしその評価の視点は「渋江抽斎」の場合におけるとは多少事情を異にしている。
石川淳は「渋江抽斎」については、抽斎という人物の中に、鴎外はもとよりそれを読むものにも親愛を感じさせるものあったといっている。その人物像が作品そのものにも反映して、読者の共感を呼び、それが作品の奥の深さにつながっているというのだ。
しかし北條霞亭という人物については、次のように手厳しい言い方をしている。
「俗情満々たる小人物である。学殖に支持され、姿態に粉飾されて、一見脱俗清高の人物かと誤認されるだけに、その俗物ぶりは陰にこもって悪質のものに属する。」
このように、人物としてはつまらぬ男をテーマにしながら、作品としては評価に耐えるものとなっている、と石川淳はいう。何故そうなるのか。石川淳はその辺をあまり詳しくは論じていない。
この作品においても、「抽斎」の場合におけると同様、鴎外は主人公たる霞亭という人物に相当感情移入している。鴎外はこの作品を「霞亭とは何者ぞ」という自問自答から始めているのである。そうした鴎外の意気込みが作品に伝わって、作品の美しさが実現したのだろう。その意気込みの前では、当の主人公が多少つまらぬ男であっても、決定的な瑕にはならない、どうも石川淳はそう言いたげである。
鴎外は若き日の北條霞亭に、己のなしえなかった理想の姿を認めて、すでにして恋情というべきものにとらわれてしまった。鴎外はその恋情をバネにして作品を書き続けたのであった。
だが鴎外は、石川淳がいうような霞亭の矮小さに気づくようになった。しかもその矮小さはある意味で、鴎外自身が身につけていたものでもあった。この発見は鴎外にとって心痛のことだったに違いない。石川淳は次のように書いている。
「自分の内部の情緒が結託したところの、親愛する人間像を追求していく途中で、鴎外はその対象の人物のいやなものにそろそろ気がつきだしたに相違ない。気がついて、これを放擲するか、あるいは剔決するに至らなかったのは、いや、むしろ「霞亭生涯の末一年」においてますます身をもってこれをかばうかと見えるのは、おそらく鴎外自身のうちにそういう種類のいやなものが潜んでいたせいではなかろうか。何も鴎外の大にケチをつける次第ではない。しかし、鴎外の大の中にもはなはだ霞亭的は小部分があったらしいと診断するのは別の話である。ただ鴎外の場合では、その霞亭的なものがよく作用したのであろう。おかげで、学問芸術の士にして、明治の官僚イエラルシイを馬に乗って駆け上って生けたのであろう。」
なかなか手厳しい見立てである。しかしそういわれても、鴎外晩年の史伝三部作に流れる人間的な感情の部分は、時代を超えて人の胸を打つ。友情や敬愛など人間的な感情に乏しくなってしまった今日の日本だが、そんな時代に生きる我々だからこそ、鴎外の作品の中から汲み取るべきものが多いのではないか。
 
歴史に取り憑かれた鴎外

 

森鴎外の『渋江抽斎』は「その三十」で抽斎の四人目の妻の五百(いほ)が登場するところから俄然面白くなる。この女性が実に魅力的なのだ。どうしてNHKはこの人を朝ドラの主人公にしないのかと思ふほどである。
この作品の題名となつてゐる渋江抽斎本人は、儒学の教へである「無為不言(ぶいふげん)」を忠実に守つた人なので、その人生には何ら波乱に富んだことはない。まじめで正直で情が厚く、困つている人がゐればよろこんで助けてやる立派な人で、勉強熱心で出世も遂げた人だが、残念ながらこの人の人生は面白くおかしくもない。
ところが五百は勇気と行動力に満ちた積極的な女性で、その人生は冒険あり、立廻りありの波瀾万丈、涙と感動に満ちた英雄伝である。
だから読者は五百にどうしても感情移入してしまふ。彼女の死は自分の母の死のやうに悲しくなる。最後に五百を一人で買い物にやらせたことを、息子の保(たもつ)とともに後悔する。五百がしきりに話をしてゐたのが急に黙つて座つてしまた場面を思ひ出すたびに目に涙が浮かぶのである。
読者は五百が地動説を知つてゐたことを鴎外と共に誇りに思ふのである。子供時代に江戸城に務めてゐた五百が本丸に棲む物の怪の正体を一人で突き止めたことを誇りに思ふのである。三人の強盗に囲まれて何も出来ない抽斎を救ふために、風呂場から半裸のまゝ短剣を口にくはえて手に湯桶をもつて強盗に立ち向かつた五百を誇りに思ふのである。
鴎外の『渋江抽斎』はこの五百といふ人を描き出したことで、永遠の価値を得たと言へる。
五百以外に面白い人物といへば息子の優善(やすよし)だらうか。真面目一家の中で一人だけぐれる。抽斎の蔵書を勝手に持出して売り払ふ。この家にとつてまるで疫病神のやうな存在である。なぜこんな人間ができたのか不思議であり鴎外もその原因を深く追求しないが、優成が先妻の子で一番可愛がられることが少なかつたことは間違ひない。しかし、その優善が明治維新以後、兄弟の中では一番よく出世する。人生の皮肉である。
次に鴎外が発表した『寿阿弥の手紙』は何と言つても八百屋お七が作つた袱紗(ふくさ)を鴎外が手にするくだりが圧巻である。
水戸藩御用達の菓子商真志屋(ましや)の隠居が出家して寿阿弥(じゆあみ)と称した。この人は奇行で有名なだけでなく文名も高かつた。たまたま鴎外はこの人の書いた長文の手紙を手に入れて、その一部を『渋江抽斎』の中で紹介した。
その手紙をもつと詳しく紹介するために書いたのが『寿阿弥の手紙』である。しかし、話は手紙だけでは終らない。鴎外は『渋江抽斎』と『伊沢蘭軒』の取材中に、この寿阿弥といふ人は水戸侯の御落胤だといふ情報を得てゐた。そして鴎外は寿阿弥の菩提寺に参つたときに、寿阿弥の墓に今でも墓参りに来る老女がゐることを聞きつけて、その家を訪問する。
しかし、その老女の話からは、寿阿弥自身は御落胤ではなく寿阿弥の祖先が御落胤らしいといふことがわかつただけで、寿阿弥自身が何者かは分からないまま引き上げてくる。
ところがその鴎外のもとに、老女の婿つまりその家の当主が寿阿弥の祖先のことを伝へる文書と遺品をもつてやつてくるのである。そしてその中に八百屋お七の袱紗が含まれてゐた。
この袱紗については『渋江抽斎』の中で、寿阿弥が家に伝はつてゐるのを見つけて人に見せたことが書かれてゐる。いまそれを書いた鴎外の目の前にその袱紗が時間を超えてやつてきたのである。
その袱紗はお七の幼なじみのお島といふ娘が武家奉公のために家を出るとき、餞別としてお七が手づから縫つて拵えたものである。そこまでは『渋江抽斎』を書いたときに分かつていた。
しかし今その袱紗と共に届けられた文書によつてそのお島の奉公先が水戸家であるといふこと、そしてそのお島こそは水戸侯の落胤をはらんで宿下がりになり、そのまま寿阿弥の祖先である菓子商真志屋に嫁いできたといはれてゐる女だといふことが明かになつた。そしてその水戸侯とはほかならぬ水戸光圀であるらしいことが分かつたのである。
こうして今あのお七の袱紗と真志屋の御落胤問題が島といふ一人の女のもとで一つに繋がつたのだ。
「八百屋お七の幼馴染で、後に真志屋祖先の許に嫁した島の事は海録(かいろく)に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて真志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ちこの島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。真志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とがともに島、その岳父、その夫の三人の上に輳(あつま)り来るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或いは一人と云つても不可なることが無からう。その中心人物は島である。」(『寿阿弥の手紙』十八より)
鴎外の興奮は、ここで二度繰り替へされてゐる「わたくしは知らなかつた」に如実に表れてゐる。まさに仰天ものの発見であつた。こんなにすごいことを経験した鴎外が歴史に取り憑かれてしまつたのは無理もないことであらう。
かうして鴎外は一片の砂金を求めて川底の砂を浚ひ続ける人のやうに、歴史といふ大河の砂を黙々とさらひ続ける人となる。そして巨大な砂の山を作つた。それが『伊沢蘭軒』であり『北条霞亭』である。しかも、その山から砂金を見つけ出すのは、今度は読者の仕事になつたのである。
それは『寿阿弥の手紙』の後半にも当てはまる。寿阿弥自身については、江間家からの養子であることはわかつたが、母のことも妹のことも分からずじまいで、あとはただ真志屋の衰退を示す歴史の砂山が延々と築かれていくのである。
逆に言へば、星のやうに輝く興味深い話を、鴎外はあくまで単調な歴史の中から浮かび上がる出来事として描こうとした。
だから、例へば『北条霞亭』の最後の淡々とした編年体の記述の中に、何の衒ひもなく、「(明治)三年庚午七月二十八日に笠峰(りつぽう)は根津高田屋の娼妓を誘ひ出だして失踪した。」などといふ文があつさりと挿入される。鴎外はこの事件あるが故に、この伝記を北条霞亭の死後はるか明治の世まで書き継いだのだらう。
このやうに鴎外の興味はあくまで俗である。鴎外は、人間が求めるものは俗なことであり、俗なことにこそ人間の本当の姿が現れてゐると思つてゐたやうである。彼の興味が、人の立身出世や幸不幸の変転にあつたのは間違ひがない。
例へば、鴎外が常に人の美醜に言及した。『渋江抽斎』の中では、抽斎の父允成(ただしげ)が美男で、その茶碗の底の飲み残しを女中たちが競つてなめたといふ話を、鴎外は決して書き落としはしない。
また『伊沢蘭軒』には醜い女をいとはず結婚した男の話が二つも出てくる。どちらの場合も、その男はまるで立派なことをしたかのやうに書いてある。それに対して美しい女たちのゐる遊郭へ入り浸りになる男の話もしよつちゆう出てくるが、それは決して非難の眼差しで見られてはゐない。
鴎外の歴史小説は普通の小説とは違つて、明確なストーリーはなく、始まりも終わりも主に鴎外その人の興味である。この人のことを調べてみたいといふ興味から話が始まり、その興味の尽きるところでその話が終わる。
そのほかに鴎外が伝記を書く動機の一つに、取材に協力してくれた人たちへの礼儀がある。『渋江抽斎』の最後に延々と付け加へられた長唄の師匠勝久とその一派の伝記はまさにこれである。話自体は面白いものではあるが、学者の伝記のあとに続けられては違和感を禁じ得ない。
『伊沢蘭軒』のあとに発表された『小島宝素』は、この考証家を後世に伝へねばといふ鴎外の義務感から書かれたが、これも小島家のために書かれたといふ要素がある。
『小島宝素』には、宝素の先祖代々の系譜と、宝素と関係のある人々の生死、宝素の住んだ場所、宝素が将軍付きの医師にまで出世した様子、そして息子たちの伝記、墓の場所などが書かれてゐるにすぎない。しかし、この作品は手に入つた情報を全て処理してから書かれてゐるために、読みやすいことは読みやすい。
歴史に取り憑かれた鴎外はかうして次々に伝記を書いた。伝記を書くには材料を集めなければならない。その材料とは、まづ第一にお墓である。その人について別の人が書いた文章があればそれも使ふ。それは墓碑であつたり書物であつたりする。そして手紙、日記である。さらに詩などの創作物もそこに加はつて来る。
鴎外は手に入つた材料をなるべく手を加へないままで読者に伝へようとした。だから読者は鴎外と同じ出発点に立つて事実を推測することができる。
それが『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』の場合、蘭軒、霞亭自身の書いた漢詩と手紙である。特に霞亭については既に『伊沢蘭軒』の中で一通りその生涯が描かれたにもかかはらず、その後あらたに借用できた大量の霞亭の手紙を生かすために『北条霞亭』は書かれた。だから『北条霞亭』では手紙の引用が多い。
それらの手紙からは江戸時代の学者の肉声を聞くことができる。漢詩はそれを文学として味はふといふよりは、むしろそこから詩の材料となつた出来事を引き出すために引用される。まさに考証である。
詩はもちろんのこと手紙にも年度は書いてないものが多く、それがいつ書かれものかは内容から推測するしかない。そして詩や手紙を時間の順番に並べて、事実を推測し解説を付していく。『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』はそのやうにして書かれた。
しかし鴎外は、蘭軒の詩も霞亭の手紙も、自分が伝へなければ忘却の中に置かれてしまふといふ思ひで多くを書き写した。それが当時の多くの読者から批判を受けた。これでは過去の事実を並べてゐるだけぢやないかと言はれた。
現代の読者もきつと同じ感想を持つ人が多いに違ひない。だからここであらかじめどこが面白いか知つておくのもよいだらう。
『伊沢蘭軒』の最初の見所は頼山陽である。頼山陽は二十一歳で家出をして藩の許しを得ずに上京したために寛政十二年から文化二年の五年間父春水の屋敷に幽閉されるが、その直前の寛政九年から十年まで江戸へ旅行をしてゐる。その間にこのやんちや者の若き山陽は何をしでかしたかである。
少なくとも、十八歳の山陽は江戸のどこにゐたのか。おとなしく昌平黌にゐずにそこを飛び出して伊沢蘭軒の家にゐたのではないかと鴎外は考へるのである。ちなみに、若い頃の放蕩を改めて勉学に励んでその後名を為した例は鴎外の好むところであり、頼山陽もその一人である。
次の見所は蘭軒が長崎旅行の途次に作つた漢詩を交へた紀行文である。これは芭蕉の『奥の細道』を旅先を長崎にして俳句を漢詩にしたやうなものである。
俳句なら今では子供でも作る。だから俳句で紀行文を残した芭蕉はいまも有名だが、同じやうにして漢詩で紀行文を残した蘭軒は、森鴎外のおかげで辛うじてこの小説の中に命を永らへてゐるのみである。
しかし、当時のエリートはみな漢詩を作つた。その筆頭に来るのが江戸時代では管茶山であり頼山陽であつた。明治になつても漱石や鴎外も漢詩を作つた。これは今で言ふと、英語で詩を作るやうなもので、江戸時代以前の日本人は、それほどに中国文化の吸収に熱心だつた。
蘭軒は、江戸から中山道、山陽道を通つて長崎に至るまでの途中の土地々々の名所をたどりながら、それを漢詩にしていく。『奥の細道』が一種の名所案内であつたのと同じやうに、蘭軒の紀行文も名所案内として読むことが出来る。(この中で蘭軒は宿場といふ言葉を使はずに「駅」といふ)
鴎外が訳した『即興詩人』もイタリア観光のガイドブックとしての側面があるが、『伊沢蘭軒』もまた名所旧跡と土地の名物を紹介する旅行のガイドとしての価値がある。(例へば、江戸時代に兵庫県の加古川はシタビラメの名所だつたことが分かる)
渋江抽斎の師の一人であつた医師池田京水といふ人の廃嫡の謎を解くくだりも、『伊沢蘭軒』の中での読ませ所である。
一旦池田家の嫡男として養子に入つた京水がどうして廃嫡になつたかは鴎外にとつて大いなる謎であつた。この問題は『渋江抽斎』の中で提起されたものであり、『伊沢蘭軒』の中でやつと解決にたどり着く。
京水の子孫が保存してゐた京水自筆の巻物が鴎外の手にもたらされたのである。それによつて、養父の後妻に嫌はれた京水自らが世継ぎたることを辞退して家を出たことが明らかになる。これまた鴎外にとつて大いなる発見であり、読者を引きつける内容をもつてゐる。
さて廃嫡されたとき京水はわづかに十六歳であつたが、江戸に出て町医者として開業する。当時の秀才は今の中高生の年齢で教師になり町医者になつた。また、当時の社会は早熟の秀才を受け入れた。京水の医院は大いに繁盛し、京水は最後は幕府に取り立てられるまでになる。
蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の素性も一読に値する箇所であらう。志保は自分の父が誰であるか調べることを、京都に旅立つ小島春庵に依頼する。榛軒の友人であるこの小島春庵こそは後に別の伝記である『小島宝素』の主人公になる人である(人物再登場!)。
『渋江抽斎』の五百に相当する女性として『伊沢蘭軒』には柏軒の妻たかがゐる。五百がみずから抽斎の妻たらんと欲したやうに、たかは柏軒の妻になることを自ら望んでなつた。両者ともにすぐれた教養の持ち主で、能書家であつた。男勝りの気性の持ち主であつたことも似てゐた。
蘭軒の次男柏軒の生涯も特筆ものだ。若い頃やんちやものだつた柏軒はある日改心する。その後彼は幕府の医師として最高位まで上り詰める。そしてたつた一人で老中阿部正弘の看病を担当してその死を看取る。蘭方が盛んになる中で、最後の漢方医としての面目を保持したまま死ぬのである。
戊辰戦争、中でも五稜郭の戦いに従軍した棠軒(たうけん)の日記も興味深い。この日記からは、明治維新とともに漢方医が洋方医に取つて代られ、時刻の表し方が「とき」「こく」から「じ」に変るやうすがよく分かる。初めのうちは、「時」(とき)と「時」(じ)を区別するために、「何じ」は「何字」で表された。三月には「うまのこく」と言つていた同じ人が四月には「十二字」と書くのである。
棠軒の日録には明治五年十二月二日に太陰暦が太陽暦に変つたことも出てゐる。明日から太陽暦で一月一日とすると言はれたと書いてゐるのである。
ほかにも、頼山陽の壮絶な最期とそれを見取つた関五郎といふ男は誰かといふ問題等々。『伊沢蘭軒』は読み所満載である。(なほ関五郎は関の五郎ではなく三文字の名前であると思はれる。頼家ではそれが省略されて五郎と呼ばれたのではないか。その253で松坂屋の主人の名前は寿平治であつたが、平治と呼ばれたとある。それと同じであらう)
その他に面白いのは、番外編として老中阿部正弘侯毒殺説の紹介と、この小説の退屈さを批判する読者に鴎外が反論するところであらう。
『伊沢蘭軒』は逐次書き足して行つたもので、『小島宝素』のようにまとめて書いたものではないから、しばしば情報が前後で齟齬をきたす場合がある。(例へば、渡辺昌盈の死に場所は「その276」では本所上屋敷だが「その291」では柳島下屋敷となつてゐる。「その276」には上屋敷の当直番を須川隆白に代つてやつたその日に当直の邸が潰れて死んだとあるからである)
『北条霞亭』は鴎外が主人公である霞亭に自分を仮託して書いた小説である。おそらく鴎外は、手紙の中で家族に様々な指図をする霞亭の姿に「闘う家長」としての自分自身の姿を見てゐたに違ひない。
名目上の家長の地位は弟に譲りながらも霞亭は精神的には、家族に対して死ぬまで弱音をはかない家長でありつづけた。鴎外は霞亭と自分を同一化するあまりに、最後には、霞亭の死因となる病気を、自分と同じ萎縮腎ではないかと思ひこむほどである。
『北条霞亭』の中の最大の出来事は、霞亭が菅茶山に惚れ込まれて茶山塾頭になること、霞亭の福山藩への仕官、『小学』といふ本の注釈書の出版、そして何といつても霞亭自身の早すぎる死である。
霞亭はやつとのことで福山藩といふ大きな藩に就職が叶ひ、しかも大目付格といふ破格の大出世を遂げて江戸まで出てくるのだが、江戸に来てわづか二年で病に冒されて死んでしまふのである。
霞亭は何とかしてこの病気を治さうと苦闘する。医者を何人も替へたりもしてゐる。脚気だといふことで米を食ふのをやめ、医師の指示通りに塩気断ちもし、壮絶な努力を積み重ねるのである。しかし、最後の手紙を書いてからわづかに二週間で帰らぬ人となつてしまふ。家も新築してさあこれからといふ時の死であるから、その無念は想像に余りある。
ところで『伊沢蘭軒』も『北条霞亭』も小説とはいへ考証であるから、普通の小説を読むやうにして読んでもなかなか楽しめない。考証、つまり過去の正しい事実をひたすら求めるといふ過程を鴎外と共にするとき、初めて楽しめるものとなる。
あるいは読者は独自の考証をしながら読むのもよい。例へば、わたしはネット上にあるテキストを修正しながら読んだ。これもまた考証である。だから私はこの小説を楽しめた。
読者は例へばこれらの小説に書かれている地名が現在どこであるのかを探求しながら読むのもよいだらう。また鴎外が使つた漢字の特徴を検証しながら読むのもよいだらう。あるいはまた、私が修正したテキストに尚も残つてゐるはずの誤字を探しながら読むのもよいだらう。そのやうにすればきつと誰でも倦きることなくこの小説を読み続けられるはずである。
ただ一つしてはならない読み方があるとすれば、それはストーリーの面白さを求めて読むことである。鴎外の伝へる話の中には小説より奇なるものが多々含まれてゐるが、それはストーリー仕立てではなく、事実の探求の過程で現はれてくるものである。
鴎外は『大塩平八郎』の「付録」で初めてこの考証をやつてみせた。それを彼は『渋江抽斎』以降、本編の中でやることにしたのである。
とはいへ、『渋江抽斎』で五百の話を書いた鴎外は、若き日に『舞姫』のエリスを描き『雁』のお玉を描いた鴎外に近いものがある。五百の英雄譚はその真実を厳密に確認したものではないだらう。
『渋江抽斎』その六十七の義眼の女の話も面白い話ではあるが、嘘ではないかと思はせる。そもそも、日常気づかれない程に精巧な義眼があつたのだらうか。逆に健常者で寝てゐるときに目を開いて寝る人は少なくない。そこから発展した話とも考へられる。
したがつて、歴史といつてもやはり一種の小説であることを免れない。『寿阿弥の手紙』における水戸光圀の御落胤話も、それが光圀本人の子であるかは推測の域を出ることはない。
ところで、鴎外の歴史小説を読む楽しみの中に、バルザックの小説の場合と同じく、人物再登場の楽しみがある。『渋江抽斎』の中で脇役で登場した伊沢蘭軒が次は主役になり、『伊沢蘭軒』の中で脇役で登場した北条霞亭が、次の小説に主役として登場するのである。
『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』で重要な役割を演じるのは手紙であるが、これがかなりの難物である。当時の手紙は候文で、漢文のやうで漢文でない書き方をする。それが殆ど当て字なのである。だからそれを知つてゐないと読めないのだ。
ここにしばらく例を挙げてみよう。まず「而」は「て」、「度」は「たく」と読む。「致」は「いたす」、「間敷」は「まじく」、「遣」は「つかはす」、「罷」は「まかる」、「頼」は「たのむ」、「希」は「ねがふ」、「請」は「こふ」と読む。
「被」は尊敬の「られ」、「為」は尊敬の「され」、「仕」は「つかまつる」、「奉」は「たてまつる」、「遊」は「あそばす」、「下」は「くださる」、「承」は「うけたまはる」である。
これらを組合せて、「被遊」は「あそばされる」。「被下」は「くだされる」。「被致」は「いたされる」。「被居」は「をられる」。
三文字がくつつくと、「仕度候」は「つかまつりたくそろ」。「奉存侯」は「ぞんじたてまつりそろ」、「被成下候」は「なしくだされそろ」、「奉希候」は「ねがひたてまつりそろ」。
四文字以上になると、「可被下候」は「くださるべくそろ」、「可被成下候」は「なしくださるべくそろ」。「被為入候」は「いらせられそろ」となる。
また鴎外も漱石も漢文で使はれる漢字を使つて日本語を書いた。それは福沢諭吉も同じである。「云ふ」を全部「言ふ」と書くようになつたのは、ごく最近のことである。鴎外の文章も漢文の読み下し文に近いものである。だから、その書き方の決まり事を知つておく必要がある。
そのなかから少しを挙げると、「世」は一字で「世々」つまり「代々」と読む。「愈」なども一字で「いよいよ」と読む。「之」は「これ」か「の」に読み分ける。「先々」は「さきざき」ではなく「まづまづ」と読む。
また「が」は現代語のやうな主語ではなく所有を意味することが多いから注意がいる。逆に「の」が主語を表すことが多い。意味が分からなくなつたら、この「の」と「が」の読み方を間違へてゐることが多い。
例へば『鈴木藤吉郎』の五に「遠山は中根香亭の伝を立てた帰雲子で、少時森田座囃子方を勤め吉村金四朗と称したと云ふ非凡の才子である」では最初の「の」は主語を表してゐる。中根香亭が遠山金四郎の伝を立てたのである。
鴎外の史伝は漢詩の読み下し文がついてゐる「ちくま文庫」と岩波の「鴎外歴史文学集」が読みやすいだらう。「ちくま文庫」ではそれがひらがなのルビになつているのに対して「鴎外歴史文学集」では別立ての漢字仮名まじり文として漢詩の後に挿入されている。
漢詩の現代語訳は岩波では部分的に注記されてゐるのに対して、「ちくま文庫」では漢詩ごとに全訳が付いている。また岩波の読み下し文は音読みが多く、「ちくま文庫」は訓読みが多い。例へば「話勝十年読」を「はなすはじふねんよむにまさる」(ちくま文庫)なのに対して「話は勝る十年の読」(岩波)といつた具合である。
ただ「ちくま文庫」版の欠点は鴎外の文章を現代仮名遣ひに変へてしまつてゐることである。大正時代に政府が現代仮名遣ひを採用しようとしたときに、鴎外はそれを軍を背景にして強行に阻止した人である。鴎外の遺志を顧みない行為と言はねばならない。
「鴎外歴史文学集」の『伊沢蘭軒』の注釈は、想定する読者のレベルが中学生程度になつてゐる(その割りに漢字のルビが少ないが)。「廃藩」が「廃藩置県」のことであり「左脛」が「左のすね」であることまで註が付いている。かうした無駄な註が多すぎるために、註が次の頁までせり出すことがよくある。
「鴎外歴史文学集」では、テキストの漢字の選択に一貫性がない。例へば、「校定」の「校」は前の方では「挍」としてゐるが終盤では校となつてゐたり、「間」が「閨vとなつてまた「間」に戻つたり、ずつと「撿す」で来てゐたのが終盤になると「検す」になつたり、女壻が一カ所だけ女婿になつてゐたりする。
「相模」もだいたい「相摸」だが終盤では「相模」になる。家族関係の子供のことを表すのに、娘のことをずつと「女」で来たものが急に「娘」(『伊沢蘭軒』その三百五十)になつてゐたり、「悴」が「伜」になつたりする。「輒(すなはち)」も「輙」になつたりする。ふりがなも「達」に「たつし」が終盤では「とどけ」に変つてゐる。
「解説」によると、『伊沢蘭軒』では鴎外自身の新聞連載の校定を使つたとあるから、このやうな混乱は鴎外自身の校定漏れの結果かもしれない。本文には鴎外自身の書き間違ひまでそのまま残してゐるが、鴎外自身の意図としては直しても良かつたのではないか。現状では読者は注釈を絶えず参考にする必要がある。「解説」には役割分担を明確にして一貫性を持たせてゐるかのやうに書いてはあるが、実際はそれほどでもなささうである。
漢字は新字に替へてあるのだが、異字体はそのままになつてゐたりとややこしい。
巻尾の人名注と書名注は玉石混合で、本文にある記載内容を整理したり、言ひ換へただけのものもある。例へば、本文の「嵯峨八百喜」の注が「嵯峨の人」ではあんまりだらう。
鴎外は革新保守のいづれかと言へば完璧な保守である。社会主義など彼は一揆や打壊しなどと同列にとらへてゐた。彼の尊んだのは精神的なものである。
「何国にても貧富の違に而、千金を芥にいたし候者も、また銭百文も持不申ものも有之、不同の世也。貧人が富人をうらやむといふは愚者の常なれど、これほど分をしらぬ事はなき也。皆人に命禄といふもの有之候。」今の社会主義乃至共産主義を駁するものとなして読まむも亦可なりである。霞亭をして言はしむれば、社会主義の国家若くは中央機関は愚者の政を為す処である。(『北条霞亭』その十より)
さて、鴎外の歴史小説の一つである『都向太兵衛』には宮本武蔵が登場する。「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ有名な言葉があるが、それは武蔵の信念でもあつた。そして太兵衛もまた死を恐れないことを身につけた男であつた。
武蔵は太兵衛がこの武士道の心得をもつてゐる男であることを初対面にして見抜いてしまふ。そして藩主に太兵衛を推薦するのである。太兵衛はその後「死を決してことに当る」の精神をもつて藩主に仕へ、名を残す偉業を成し遂げる。
一方、鴎外の史伝を読んでいくと、いかに人々が次々に死んでいくかを思はざるを得ない。恐らく鴎外の歴史小説で一番多く使はれてゐる漢字は「歿」であらう。鴎外は死が突然、人の意を無視して訪れるありさまを淡々と描いて行く。武道を重んじてゐた鴎外は、史伝を通じて「人生とは死ぬことである」と言ひたかつたのではあるまいか。
 
渋江抽斎

 

今日7月9日が命日の森鴎外は小学校の絵本で読んだ「山椒大夫」と中学の時に読んだ「ヰタ・セクスアリス」以来である。息子が読んでるというので何気なく青空文庫をめっくたところ、話に引き込まれ気が付いたら読み終えていた。
鴎外が小説の題材を探すために江戸時代の「武鑑」を渉猟しているときに偶然、”渋江氏蔵書”とか”抽斎云”という書き込みに出会い、自分と同じような蒐集をしていた先人がいることに興味を抱く。それからの鴎外は、渋江抽斎の子孫を探し当てて話を聞くなど、抽斎という人とその周辺を細大漏らさず調べ、この本を書き上げる。渋江抽斎を中心に抽斎に関わる人々の消息が年代を追って細かく語られる。例えば妻の実家の兄の子供がいつ生まれいつ死んだか、抽斎の子供の儒学の先生がいつ生まれ死んだかまで、とにかく少しでも抽斎に関わる人はすべてなのである。安政の地震、幕末の動乱、明治の変革など幕末から明治の時代背景が散りばめられ、当時の人々の生活や習慣、考え方までがわかる。また、谷文晁、安積艮斎、福沢諭吉、中江兆民など聞きなれた人も関わっている。話は抽斎が死んでも残された抽斎の妻や子供の話を中心に鴎外のいる時代まで続く。
ところが、抽斎の伝記のつもりで読んでいると、いつのまにか抽斎の4番目の妻五百(いお)の伝記じゃないのかという気がしてくる。抽斎の話より彼女の逸話が面白いのである。家に三人の侍が金目当てで押し入ったときちょうど沐浴をしていた五百は匕首(あいくち)を片手に腰巻ひとつで飛出してきて侍を追い出した話は龍馬のお龍のようである。結婚前言い寄る男を池に突き落とした話や五百という名に雅がないとして伊保と書いていたとか、放蕩を続ける腹違いの息子に切腹のような名誉を与えては申し訳ないとして事を納めた話とか抽斎の話より小説的である。分量的にも「渋江抽斎」は119章から成るが、抽斎は半分の62章あたりで死んでしまいあとは五百と子供の話が中心になるのである。先に話は年代順に進むといったが、実は五百が抽斎に嫁いだ驚きの秘密は、五百が死んだ後の107章で明かされ、ちゃんと小説仕立てになっているのである。五百があまりに魅力的に書かれているので、鴎外は抽斎に名を借りて、実は五百の話が書きたかったのではないかという気さえしてくる。
抽斎は人間の修養として六経を読んだ上で、”過ぎたるは猶及ばざるがごとし、を身行の要とし、無為不言を心術の掟となす。この二書(論語と老子)をさえ能く守ればすむ事なり”と考える。六経とは、”詩経、易経、礼記、書経、楽経、春秋”である。論語と老子はかじったが、六経は読んだことがない。”過ぎたるは猶及ばざるがごとし”は中庸を説く論語で、”無為不言”はまさに老子であることは先般勉強した。
「渋沢抽斎」は、漢文の難しい言葉が多い中にカタカナ英語が散りばめられ、斬新な感じを受けた。順不同だが、
contemporain, dilettante, antipathy, situation, possibility, reconstruction,
definition, dissonance, approximatic, recitation, corpsdiplomatic, reaction,
generation, spelling, reader, mutualism, paditism, bibliography。
ひとつだけ、ボンヌユミヨオルがわからなかった。Bonne〜というフランス語かもしれない。また、クルグスは臨床講義という医学用語である。
2年前、津和野で、”自分は石見の森林太郎として死にたい”、官職や小説家など表向きの肩書とは無関係に素の人間として死にたいという鴎外の言葉に接し感動したが、抽斎の一生を振り返れば、藩医や考証家という表向きの肩書の背後に、その何倍もの時間と労力で家族や友人と接した生身の人間の一生があることに気付かされるのである。  
 
 

 

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