足利氏

鎌倉御家人北条氏の専制政治所領と経営室町幕府家臣団足利義氏・・ ・
(時宗・一遍>転載) 足利氏の誕生物語足利尊氏新田義貞
足利氏にとっての足利東国武士と新田一族の盛衰戦国時代の新田一族末裔・・・

雑学の世界・補考   

鎌倉御家人足利氏

足利義清の動向
治承・寿永の内乱前夜における源姓足利氏の動静には不明な点が多いが、義康の子義清・義長・義兼らは、「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」によると、鳥羽法皇の皇女上西門院(1126-89.64歳)や八条院(1137-1211.75歳)に仕えて蔵人(くろうど)、判官代(ほうがんだい)などに任ぜられていたようである。なかでも八条院は足利氏の領有する足利荘の本所であったから、足利氏との関係は特に密接であった。当時、八条院の御所は反平氏の拠点となっており、また、以仁王(1151-80.30歳)は女院の猶子(ゆうし)であったから、義清兄弟も平氏打倒の計画に加わったことであろう。
 治承4年(1180)5月、源三位頼政(1104-80.77歳)は以仁王を奉じて挙兵し、平氏軍の追撃にあって宇治で敗死した。権中納言中山忠親(1132-95.64歳)は日記「山槐記(さんかいき)」にこの時の戦闘の様子を詳細に記しているが、それによると、この戦いで平家方に討取られた者のなかに足利判官代源義清の名をあげ、さらに註記して「後に聞く、この頸(くび)は義清にあらず。義清は戦場に交らずとうんぬん」としている。ところが、「源平盛衰記」では、義清は頼政軍に加わったことになっており、味方の敗色が濃い中で、頼政の養子八条院蔵人仲家らと共に追撃軍を防ぎ、この間に頼政に心静かに自害させたと、その奪戦を伝えている。この戦闘に関する朝廷への報告や噂を詳細に記した「山槐記」にくらべると、「源平盛衰記」の史料的価値は低いが、八条院と義清の関係や次に述べる「吾妻鏡」の記事から考えて、義清の参戦はあながち否定されるべきでなく、義清はおそらくこの合戦の後、平氏の追求を逃れて落ちのびたのであろう。
「吾妻鏡」は頼政父子の首と共に足利判官代義房の首がさらし首にされたことを伝えている。この義房が源姓足利氏の一族であったことは間違いないであろうが、「尊卑分脈」には見えず、その系譜関係は明らかでない。続群書類従本「清和源氏系図」・「足利系図」は義房を義清の兄弟とし、これが通説のようであるが、義康の弟季邦のこととする説もある。
同年8月、以仁王の令旨をうけた伊豆の源頼朝(1147-99.53歳)が平氏打倒の旗を挙げると、これに続いて諸国に雌伏していた源氏がいっせいに蜂起するが、やがて義清も再起し木曾義仲(1154-84.31歳)と行動を共にする。義清が義仲と結んだ理由としては、宇治敗戦の後でもあり、独自の行動をおこすだけの軍事力を持たなかったことがあげられるが、ほかに、義仲が同年10月、信濃から上野に進出し、下野の足利俊綱を討とうとしたことがあったから、祖父義国以来梁田御厨の領有をめぐって藤姓足利氏と対抗関係にあった義清は、義仲と連携し、これを機会に足利俊綱を倒して足利地方を完全に支配下に置こうとしたことも考えられよう。この時には、義仲は、頼朝の勢力が北関東に伸びてきたので、これと接触するのを避けるため、俊綱を攻撃することをあきらめ、反転して信濃に帰り、以後、北陸方面に進出していく。そして、寿永2年(1183)5月、加賀・越中国境の倶利伽羅(くりから)峠で平氏軍を撃破し、やがて7月には京都に迫って平氏を西国に追い落した。義清はこの時、丹波方面の老(おい)の坂(さか)より京都に進撃している。
義仲の軍勢は同年10月、平氏追討のため西国に発向し、播磨から備前に入ったが、この地方は平氏の強固な地盤であっただけに、在地武士の激しい反撃にあい、戦況は思わしくなかった。閏10月1日には、備中国水島の海戦で平重衡(1157?-85.29歳?)・通盛らの率いる平氏水軍によって決定的な打撃を受け、この戦いの大将軍として陣頭にあった義清は、弟義長や家人らと共に壮烈な討死を遂げた。名草中町の清源寺に伝わる「高階系図」には、高惟長(こうのこれなが)・惟信(これのぶ)兄弟が義清に従いこの戦いで討死したことを記している。
義清について「平家物語」・「源平盛衰記」は共に矢田判官代とし、「尊卑分脈」も足利矢田判官代と注記しており、一般に、義清は信濃国矢田荘を領して矢田判官代と称したといわれているが、これについては全く明証がない。彼の領有した梁田御厨(やなだみくりや)の梁田を矢田と誤り伝えたものであろうか。なお、南北朝時代に足利氏の部将として活躍する仁木・細川の両氏は義清の子孫である。
足利義兼の鎌倉参向

足利氏の嫡流三郎義兼(?-1199)は、兄義清とは行動を共にせず、鎌倉に参向し頼朝の下に加わった。義兼が史料にはじめて名を見せるのは、「吾妻鏡」治承4年(1180)12月12日条の、頼朝が鎌倉の新造御所に移徙(いし)する際の供奉(ぐぶ)武将の一人としてである。義兼の母は熱田(あつた)大宮司範忠の娘で、頼朝の母(範忠の父季範の娘)の姪であったから、この関係が義兼を頼朝に結びつけたのであろう。この段階においては、頼朝は木曽義仲をはじめとする諸源氏の間にあって、まだ優位の地歩を築くに至っていなかったから、かつて保元の乱において、独立の武士団を率い、武士の棟梁(とうりょう)として頼朝の父義朝(1123-60.38歳)と対等の地位を占めた足利義康(?-1157)の嫡子義兼が自己の陣営に加わったことは、頼朝の立場を有利にするものとして大いに歓迎されたことであろう。翌養和元年2月、義兼は頼朝の命によってその妻北条政子(1156-1225.70歳)の妹をめとった(以下「吾妻鏡」による場合は注記しない)。義兼は頼朝の下に加わったとはいえ、まだこの段階では頼朝の家人になったわけではなく、独自の行動をとりうる立場にあったから、義兼を自己の下につなぎとめようとする頼朝の政略的意図に出たものとみることができる。
義兼は元暦元年(1184)5月、志水冠者義高(1173-84.12歳)の残党討伐の将として甲斐に発向し、ついで8月、蒲冠者範頼に属して平氏追討のために西海に赴き、武勲をあげた。翌文治元年(1185)8月には勲功賞として、山名義範(伊豆守)・大内惟義(相模守)ら源氏の人々と並んで頼朝が賜わった知行国の名(めい)国司に推挙され、上総介に任ぜられた。頼朝は文治5年(1189)12月知行国を返上し、義兼は上総介を辞すが、この間義兼は頼朝の側近にあって、頼朝の社寺参詣などの供奉を勤め、文治5年7月には、頼朝の奥州藤原氏征伐に従い、泰衡(1155-89.35歳)の後見熊野別当を捕えるなどの武功をたてた。つづいて翌建久元年(1190)正月、泰衡の遺臣大河兼任が出羽で蜂起すると、追討使として発向しこれを鎮圧した。
このように義兼は頼朝の覇業に参加し、鎌倉幕府の創設に協力をおしまなかった。しかし、このことは頼朝の政治的地位の上昇に伴い、義兼の地位を相対的に低下させることになり、やがて足利氏が鎌倉殿=頼朝の御家人として鎌倉政権の内部に位置づけられることになった。義兼は文治4年(1188)正月6日、頼朝に椀飯(おうばん)を献じ、馬五頭を進め、また自ら銀作りの太刀を献上している。この椀飯は、鎌倉幕府において、有力御家人が、新年に際し、将軍に対して忠誠の誓いを新たにし、馬や武器などを献ずる行事として恒例化されるものである(福田豊彦「千葉常胤」)。したがって、義兼が頼朝に椀飯を献じたことは、足利氏が御家人として頼朝に忠誠を誓う立場に立つに至ったことを物語るものといえよう。とはいえ義兼は源氏の名族として一般武士の尊敬を集めて幕府内部に重きをなし、常に鎌倉にあって幕府に奉仕した。
建久5年(1194)11月13日、義兼は将軍家の繁栄を祈願するため、鶴岡(つるがおか)八幡宮に、妻北条氏と共に書写した一切経及び両界曼荼羅(まんだら)を寄進し、八幡宮別当円暁を導師に、題名僧60名を請じて盛大な供養を行った。この供養には大内義信・山名義範以下の源氏の人々が列席し、頼朝夫妻も15日には結縁(けちえん)のため八幡宮に参詣した(鶴岡八幡宮文書「鶴岡八幡宮供僧次第」)。一切経と両界曼荼羅は八幡宮の東廊に安置され、両界壇所(だんしょ)と名づけられて供僧2名が置かれた。この供僧は代々足利氏が進止(支配)し(「鶴岡両界供僧次第」)、供料(ぐりょう)は毎年足利荘の公文所(くもんじょ)から送らせることとした(相承院文書)。その後、義兼の子義氏(1189-1254.66歳)は、宝治2年(1248)2月、供料を公文所よりの送進にかえて、足利荘粟谷郷の地利の一部と定め、これを寄進している。
翌建久6年(1195)3月、頼朝が東大寺供養のために上洛した時、義兼はこれに従って供養の儀式に供奉し、その後同月23日東大寺において出家をとげたという(「尊卑分脈」)。
義兼はその後も5月に頼朝の天王寺参詣に随侍しているので、出家の日を3月23日とするのは疑問であるが、この天王寺参詣供奉を最後に、義兼の名が「吾妻鏡」に見られなくなるから、このころ出家したと考えて間違いないであろう。
この上洛までのあいだには、建久4年(1193)8月、陰謀の疑いで範頼が殺され、同年11月と翌5年8月に、幕府創業に大きな役割を果した甲斐源氏の安田義定(1134-94.61歳)・義資(?-1193)父子が相ついで誅殺されるという事件があった。頼朝は奥州平定後、同族御家人に対する統制を強め、自らの独裁権力の確立をはかって、その障害となる者の排除を露骨に進めるが、範頼以下はその犠牲になったものである。このような状況の下にあって義兼の立場は、その血統と声望の故にきわめて微妙なものにならざるをえなかった。義兼は範頼らの死をまのあたりにし、やがてふりかかるであろう危険を感じ、それを回避するために出家の道を選んだのであろう。今川了俊(りょうしゅん)(1325-?)の「難太平記(なんたいへいき)」の、「(義兼は)殊のほか頼朝に昵近(じっきん)していたので、世をはばかって空者狂(そらものぐるい)になり、その代を無事に過した」とする伝承はこの義兼の立場をよくあらわしている。
義兼は出家後は法名を鑁阿(ばんな)と称して足利に隠棲し、邸内に持仏堂を設け、念仏三昧(ざんまい)の日々を送ったといわれている。この持仏堂は堀内御堂(ほりのうちみどう)とよばれ、これが後に鑁阿寺に発展する。義兼は亡母の菩提を弔うため、樺崎の地に法界寺(廃寺)を建立したという。寺址については説が分かれ、八幡山の東山麓、現樺崎八幡宮の社地をこれにあてる説(前沢輝政「足利の歴史」)と、八幡宮の東、向かい側の山ずそにあったとする説があるが、共に寺址としてはやや狭い感がある。もし法界寺が前沢輝政の説の如く浄土教寺院であったとするならば、北は堂山、南は亀池までの広闊な地域を想定すべきであろう。義兼はまた、堀内の御堂僧に命じて内外典(ないげてん)の講莚(こうえん)を開かせ(鑁阿寺所蔵文書)、僧俗の教学の事にも心を用いた。これが足利学校の前身であるとする説があるのは周知のことである。
義兼は正治元年(1199)3月8日に没し(「尊卑分脈」)、樺崎の八幡山の東麓に葬られたと伝えられている。現在、八幡宮の本殿床下に竪穴が確認されるから、これが義兼の墳墓であるとすれば、後になって八幡神が勧請され、合祀されたものであろう。なお、義兼と同時代に、高野山に鑁阿と称する僧があり、この僧を義兼とする説があるが、この人物は明らかに別人である(臼井信義前掲論文)。
「尊卑分脈」によると、義兼には三男二女があった。長子義純は、元久2年(1205)畠山重忠(1164-1205.42歳)が滅ぼされた後、その未亡人の北条時政娘と結婚し、重忠の旧領を与えられた。その子泰国より畠山氏を称する。義純はさらに新田義兼の娘と結婚して時兼をもうけたが、この時兼は母方より上野国新田荘内の土地を譲られ、新田岩松氏の祖となった。義兼の次子義助は承久の乱に宇治川で討死を遂げ、その子孫は上野国桃井を領して桃井氏を称する。三男義氏は生母が北条時政の娘であったので、嫡子となり家を継ぐ。二人の娘は、右衛門督藤原親兼および熱田大宮司野田朝氏にそれぞれ嫁している。このうちの一人は、かつて元久元年(1204)ごろ、将軍実朝(1192-1219.28歳)とのあいだに縁談があったが、実朝はこれを断わり、京都から前大納言坊門信清の娘(1193-1274.82歳)を夫人にむかえた。この出来事は実朝の京文化に対する強いあこがれを示す逸話として説明されるのがふつうであるが、上横手雅敬は、足利氏が、頼家時代の比企氏の如く、将軍と結んで権勢を伸ばし、北条氏の地位をおびやかす存在になる可能性があり、それをおそれた北条氏の意志が強くはたらいていたとする見解を示している。
源氏の滅亡と足利氏の立場

正治元年(1199)、将軍頼朝が死去し、頼家(1182-1204.23歳)があとを継ぐと、北条時政(1138-1215.78歳)・義時(1163-1224.62歳)父子は頼家の母政子とはかり、頼家をおさえて、時政父子ら重臣・宿老の合議で幕政を運営することにした。これにより北条氏は優位を占めたが、一方、幕府内部の対立も激化し、頼朝以来の功臣梶原景時(?-1200)・比企能員(?-1203)らが相ついで滅ぼされた。建仁3年(1203)、時政は頼家を廃してその弟実朝を将軍にたて、政所別当となって幕政の実権をにぎり、翌年、頼家を殺した。
時政はその後も宿老の排除につとめ、元久2年(1205)には、頼朝の遺命によって頼家の輔佐にあたった畠山重忠を攻め滅ぼした。足利義兼の跡をついだ17歳の三郎義氏(1189-1254.66歳)は、この討伐軍に加わっている。
時政退隠のあとは、嫡子義時がつぐが、義時もまた、対抗勢力を倒して権力の確立につとめた。建保元年(1213)、侍所別当(さむらいどころのべっとう)として御家人の間に隠然たる勢力をもっていた和田義盛(1147-1213.67歳)を挑発し、いわゆる和田氏の乱をおこさせて、これを滅ぼした。義時はこの後、侍所別当を兼ね、ここに北条氏の執権政治が成立する。
足利義氏は和田氏の乱がおこると、5月2日、北条泰時(1183-1242.60歳)・朝時(1193-1245.53歳)らと幕府を守り、防戦に力をつくした。この時勇猛をうたわれた敵の朝夷名(あさひな)三郎義秀が惣門を破って乱入してきた。義氏は政所の前の橋のそばで義秀と行きあって一騎討となり、義秀に鎧の袖をつかまれ、これを振り切ろうと馬を駆って濠を飛び越えた。鐙の袖は中ほどから引きちぎられたが、馬も倒れず、主も落ちず、これを見た者は手を打ち舌を鳴らして、両者の武勇をほめそやしたという。義秀は橋を回って、なおも義氏にせまったが、鷹司冠者(熱田大宮司範忠孫野田三郎朝氏父)が命を捨てて両者の間に入ったので、義氏は遁れ去ることができた。墓府軍はやがて攻勢に転じ、義氏は和田勢を米町辻大町大路に攻めたてた。翌3日、敵が再び攻勢に出た時にも、義氏は町大路で奮戦し、幕府方を勝利に導いた。5月7日、和田氏の乱の論功行賞が行われ、北条氏一門をはじめ多くの御家人が恩賞に浴した。義氏については「吾妻鏡」に記録されていないが、足利氏の所領の中には、この合戦の恩賞として賜ったと考えられるものがある。
義氏は幕府内の対立抗争の中にあって、若年ながら去就を誤らず、北条氏と結びその権力確立に力をかしたが、建保3年(1215)ごろには、北条泰時の娘を妻に迎えて、その連帯を強め、同5年(1217)には北条時房(1175-1240.66歳)にかわって武蔵守となり、さらに貞応元年(1222)には義時のあとをうけて陸奥守となり、幕府内部に重要な地位をしめるに至った。
承久元年(1219)1月、将軍実朝(1192-1219.28歳)が暗殺され、源氏の将軍の血統が断絶すると、源氏の一族阿野(あの)時元が挙兵するなど、将軍の地位をねらって策動する者があらわれ、世情は動揺した。このような情勢の下で、義氏は慎重に行動し、北条氏に協調する態度をくずさなかった。同年7月、京都より2歳の九条頼経(1218-56.39歳)が将軍の後嗣として鎌倉に下向した。義氏はその際の行列に、泰時と並んで頼経の輿(こし)の直前に侍している。将軍の後嗣が決まったが、なお、世情の不安は静まらず、加えて鎌倉に大火がおこるなどの災異が続いたので、この年の秋から翌2年にかけて、不穏な空気は日増しに高まっていった。このような状況の中で、同年5月20日、義時・時房・義氏が大江広元(1148-1225.78歳)邸に参会し、小弓の会を催した。これは幕府首脳が小弓会にことよせて会合し、世上動揺の鎮静と幕政安定の策を議したものであろう。
かねてより幕府に反感を抱いていた後鳥羽上皇(1180-1239.60歳)は、関東の不穏な世情を幕府衰退のあらわれとみて幕府打倒にたち上り、承久3年(1221)5月、北条義時追討の院宣を全国に下した。承久の乱がこれである。幕府側は北条政子・執権義時を中心に団結し、東海・東山・北陸の三道より大軍を西上させた。義氏は北条時房・泰時・三浦義村(?-1239)・千葉胤綱(1208-28.21歳)と共に東海道大将軍となり10万余騎を率いて京都に進撃した。6月5日には尾張一宮に到着し、京方が防衛線をしいた尾張川(木曽川)攻撃の部署が定められ、義氏は池瀬に向ったが、この日、東山道を進んだ武田勢が美濃大井戸の京方をうち破って進撃して来たので京方は退却した。幕府軍は逃げる敵を追って進み、13日には、近江野路より諸方に分かれて進軍することとなった。義氏は泰時とともに宇治に向かった。この日、泰時に属した三浦泰村と軍議を無視して進み、京方の猛反撃をうけて多くの死者を出す失策もあったが、翌日には、義氏は付近の在家を壊して筏(いかだ)に組み、これに大勢を乗せ宇治川を渡しながら戦い、京方を撃破する武功をあげた(「承久軍物語」)。宇治川渡河に成功した幕府軍は、翌15日には京都に入り、乱は終りをつげた。宇治川の戦いで、幕府軍は多くの戦死者を出した。義氏の兄義助が討死したことは前に述べたが、清源寺本「高階系図」には、高惟重・義定父子が義氏に供奉して従軍し、惟重は生年60歳で宇治川において戦死し、義定は父子の勲功賞として近江国栗大郡辺曾(へそ)村を拝領したこと、また、一族の大平惟行が京方の武士他由(池田か)左近貫持を討取ったことを記している。
関東の宿老足利義氏

承久の乱の勝利によって、幕府は朝廷をおさえ、その威令もようやく全国に及ぶようになった。執権として幕府権力の伸張につとめた義時は元仁元年(1224)に没し、その翌年には、北条政子が世を去り、宿老大江広元もこれと前後して死去した。執権泰時(1183-1242.60歳)は幕政刷新の必要を感じ、有力御家人と文筆職員からなる11名の評定衆を任命し、執権を補佐して幕政の評議にあたらせることにした。足利義氏は評定衆になることはなかったが、幕閣の外にあって、義父であり従兄である泰時の治政を好意の目で見守っていたことであろう。やがて寛喜3年(1231)ごろには左馬頭となり、連署として泰時を助けてきた北条時房(1175-1240.66歳)の没後の仁治2年(1241)から翌年にかけて、義氏は政所に出仕し評定衆らとともに政務にあずかった(臼井信義前掲論文・中条家文書他)。このころには、義氏も年齢すでに50歳をこえ、官位も正四位下に進み、また、小山朝政(1158-1238.81歳)・三浦義村らの長老も死去していたので、おのずから幕府の宿老として内外に重きをなした。
これよりさき、義氏の長子五郎長氏(1211-90.80歳)は、安貞2年(1228)より幕府に出仕し、嫡子の泰氏(1216-70.55歳)も、嘉禎2年(1236)には出仕して、丹後守、ついで宮内少輔に任ぜられ、将軍頼経に近侍した。泰氏は泰時の孫娘を妻とし、足利氏と北条氏の関係はいっそう緊密になった。
泰時は仁治3年(1243)に没し、孫の経時(1224-46.23歳)が執権となった。出家して正義と称していた義氏は、宿老として、また北条氏の縁者として、影ながら若年の経時の捕佐にあたったと思われる。寛元4年(1246)、経時が病死し、弟の時頼(1227-63.37歳)があとをつぐと、不穏な動きがおこり、人々は動揺したが、時頼はこれを機に幕府創設以来の有力御家人三浦氏の排除をはかり、外戚安達氏と結んでこれを挑発し、宝治元年(1247)、ついに三浦一族を滅ぼした。これが宝治合戦であるが、義氏はこの時、事件に連坐して滅亡した上総権介(かずさごんのすけ)秀胤の遺領を恩賞として与えられている。
この時期が鎌倉時代における足利氏の最盛期で、義氏は上総と三河の守護を兼ね、子息泰氏・長氏のほか、孫の太郎家氏・次郎兼氏や、一族の畠山泰国・国氏父子も幕府に出仕しており、他を圧する観があった。建長2年(1250)、幕府は閑院内裏の造営費用を御家人たちに割りあてたが、この時には義氏は単独で小御所を分担しているから、その経済力も一般御家人よりはるかにぬきんでていたことがわかる。
このころ、義氏は結城入道日阿(朝光)(1167-1254.88歳)に雑人(ぞうにん)のことについて手紙を送ったことがあった。その手紙には「結城上野人道殿足利政所」とあった。書札礼では、宛所の上に謹上の語をそえるか、脇付を書き、差出しには本名を記すのがふつうであって、このような書式は相手を見下(みくだ)した非礼なものである。そこで日阿も、返書に「足利左馬頭入道殿 結城政所」としたところ、義氏は立腹して、時頼に、自分は頼朝の一族であるが、日阿は頼朝に仕えて今に存生しているものである。それなのに昔のことを忘れてこのような書式をとるとは奇怪である。よくいましめてもらいたい、と訴え出たという。これは「吾妻鏡」に記されているところであるが、義氏の自分の血統に対する誇り、宿老としての大きな自負を示すものとしてうけとることができよう。
ところが、建長3年(1251)12月2日、足利氏の繁栄に影を落とす事件がおこる。義氏の嫡子泰氏が所領下総国埴生(はにう)荘で、幕府に無断で実然出家してしまった。36歳であった。埴生荘は上総権介秀胤の遺領で、宝治合戦の恩賞として義氏に賜わり、泰氏に譲られていたが、幕府は泰氏の自由出家を理由にこれを没収し、北条実時(1224-76.53歳)に与えてしまった。この泰氏の突然の出家について、臼井信義は、建長3年は将軍頼嗣が解任され、かわって宗尊親王(1242-74.33歳)が下向する前年にあたっているところから、源氏の嫡流として御家人の間に重きをなす足利氏の立場が、この将軍更迭問題をめぐって微妙になってきたからではないかと推測している(臼井信義前掲論文)。傾聴すべき見解であるが、幕府で将軍更迭のことが問題になるのは泰氏の出家後のことである。泰氏が出家した直後、鎌倉中が騒擾し、謀叛の噂が飛んだが、やがて在京の前将軍頼経(1218-56.39歳)と結ぶ一派の幕府転覆の陰謀が発覚し、12月26日には一味が捕えられた。幕府はこれを機会に頼嗣(1239-56.18歳)を廃し、かねて希望していた皇族将軍の実現を策したのである。泰氏は幕府出仕以来将軍頼経に近侍し、寛元2年(1244)に頼経が将軍の職をその子頼嗣に譲ってからは、頼嗣の近習(きんじゅう)として側近に侍していたから、前将軍頼経を中心とするこの陰謀にまき込まれる危険性があり、それを避けるために出家したと考えることもできよう。
泰氏出家の後も、義氏の公的生活はかわらなかった。翌4年(1252)3月の宗尊親王の下向に際し、三河国守護として同国矢作(やはぎ)宿・宮路中山の宿所の経営にあたり、親王鎌倉下着後の4月3日には新将軍に椀飯を献じた。この年には、執権時頼の妹を母とする嫡孫三郎利氏も出仕するようになり、11月には、将軍の新御所移徒に、太郎家氏や長氏の子上総三郎満氏らと供奉している。義氏にとって、この利氏の成長を見守るのが老後の大きな楽しみであったであろうが、やがて2年後の建長6年(1254)には病いの床に臥し、11月21日に永眠した。享年66歳、法号は法楽寺殿正義。本城三丁日の法楽寺は建長元年(1249)2月義氏の開基になるといわれており、義氏の菩提寺となった寺院である。境内には義氏の墳墓と伝えるものがある。
義氏の生きた時代はまさしく北条氏の権力確立の時期でもあった。義氏は生涯を通じて北条氏との協調関係を保ち、つねに側面からその権力の確立に力をかした。このことは、有力御家人達が北条氏によって排除され、おさえられていく中で、足利氏の一家一族に繁栄をもたらし、また、義氏自身を「関東の宿老」たらしめたのであった。
義氏のころは、三代将軍実朝の好学、つづく摂家将軍の下向などの影響もあって、鎌倉武士のあいだで和歌や学問・芸術に対する関心が高まった時代であった。義氏は鎌倉のこのような文化的雰囲気の中にあって、上流武士としてかなりの教養を身につけていたことと思われるが、それを窺うことのできるほどのものは残されていない。嘉禎3年(1237)3月9日、将軍頼経の新御所で催された和歌会に出席したことと、「続拾遺集」冬部に収められた一首の詠歌がわずかに義氏の風雅を示すのみである。
霰(あられ)ふる 雲の通路(かよいじ) 風さえて
おとめのかざし 玉ぞみだるる
観念的で硬く、古歌の引きうつしといった感じが強いが、これが当時の武士の和歌にみられる一般的傾向であった。
義氏は亡父義兼の孝養のために、足利荘の堀内御堂を発展させて一寺にすることを思いたち、天福2年(1334)工を起こし、方五間の大殿を建立して大日如来像を安置した(鑁阿寺所蔵「灌頂庭儀之図裏書」鑁阿寺大御堂棟札写)。鑁阿寺大御堂がこれである。そして長日の勤行のために供僧を置き、堀の外周に十二坊を設けたという。また、寺の規式を定め、供科・用途(費用のこと)は足利荘の公文所、荘内各郷及び給主(きゅうす)などにそれぞれ負担させることとした(70)。その後も当寺の興隆に意を注ぎ、講書の請定、供料・用途の催促、禁制(きんぜい)を下すなどの保護をしばしば行っている。
義氏はまた、嘉禎4年(1238)、伯母北条政子(1156-1225.70歳)の十三回忌にあたって、追善報恩のために、高野山金剛三昧院に大仏殿を建立して丈六の大日如来像を安置し、実朝及び政子の遺骨を納め、その回向(えこう)の料として美作国大原保を寄進している。
義氏には五男三女があったという(「尊卑分脈」)。長子五郎長氏(1211-90.80歳)は、幕府に出仕した翌年の寛喜元年(1229)には、将軍頼経の御前で催された犬追物や流鏑馬(やぶさめ)の射手に選ばれる栄誉に浴し、やがて従五位下検非違使尉となり、ついで上総介となった。この長氏は少年のころ、父義氏より三河国吉良(きら)荘を装束料として譲られている(「難太平記」)。この後流が吉良・今川両氏である。三郎泰氏(1216-70.55歳)は北条泰時の娘が生母であったので嫡子となった。四郎義継は「尊卑分脈」以下の系図に「渡唐帰朝」と注記されているが、他に徴すべき史料がない。次の有氏については出家と記すのみである。末子は鎌倉勝長寿院の別当となった最信で、鑁阿寺の多宝塔が造立された時には、その供養導師を勤めている。女子には新田太郎政義の妻となったもの、四条大納言隆親(1203-79.77歳)の室になったもののほか、「関東往還記」によると、義光流源氏の小野蔵人太郎時村の妻となった女子があり、この女性は弘長2年(1262)に西大寺叡尊(えいぞん)(1201-90.90歳)より五戒を授けられ、是信(ぜしん)の法名を与えられている。  
 
北条氏の専制政治と足利氏

足利氏の頽勢
足利泰氏(1216-70.55歳)は出家後、證阿と称し、足利荘平石の里(現山下町)に閑居したという。泰氏の後半生について伝えられるところは少ないが、信仰に明け幕れる毎日であったからであろうか、寺院・神社に関するものがある。
鑁阿寺に対しては、すでに出家前の建長3年(1251)3月8日、供僧の進退・一切経会料足・仏寺修造などの事について規式を定めているが、出家の後も、正月の講書始めを懈怠(けたい)なく行うべきことを命ずるなど、その保護・興隆につとめている(鑁阿寺所蔵文書鑁阿寺文書一)。また、弘長3年(1263)には、亡父義氏(1189-1254.66歳)の追善のために梵鐘を鋳造し、小俣の名刹鶏足寺に寄進している。
そのほか、大岩山(現大岩町)の叶(かのう)権現は、泰氏が大岩山に百か日の祈願日参を行った際、白蛇の現われる奇瑞があり、祈願成就の後、小堂を建ててこれを祭ったものと伝えられている。また、叶権現の北、尾根上に、高さ約120cmの上部の欠損した多重塔(層塔)があり、前面は大日如来像を浮彫にし、背面には「建長八年四月 □□敬白」と陰刻されているが、これも泰氏が先祖追福のために建立したものであるといわれている。
泰氏はまた、平石の地に智光寺を創建したという。昭和39年から翌年にかけて、寺址の発掘調査が市教育委員会の主管の下に前沢輝政によって進められた結果、園池を中心に整然とした地割にもとづいて造営された浄上庭園型式の寺院であったことが明らかにされた。また、その創建年代も、「智光寺 文永二年三月日」の刻銘をもつ瓦の出土によって、文永2年(1265)と推定されている。
泰氏は文永7年(1270)5月10日、55歳で没した。法号は智光寺殿。山下八幡宮はその廟墓であるという。
泰氏は子女に恵まれ、「尊卑分脈」には一二男三女が記載されている。長男家氏はすでに述べたように、寛元元年(1243)より幕府に出仕したが、建長5年(1253)に中務権大輔、ついで文応元年(1260)に検非違使尉、文永2年(1265)には尾張守に任ぜられている。家氏の生母は泰氏の前妻で、北条朝時(泰時の弟)(1193-1245.53歳)の娘であった。この系統は独立の御家人となり、奥州斯波(しば)郡を伝領したので後に斯波氏とよばれるようになる。
二男兼氏は後に義顕と名を改めるが、兄と同じく若年より出仕し、建長4年(1252)4月、将軍御所の格子番(こうしばん)となり宗尊親王(1242-74.33歳)に近侍したようである。兼氏は足利荘内板倉(現板倉町)に住んだことがあったとみえて、板倉二郎とも称しているが、この子孫が渋川氏となる。
三男の利氏は母が北条時頼(1227-63.37歳)の妹であったので嫡子となり足利氏の嫡流をつぎ、名を頼氏と改める。四男頼茂は石塔氏の祖となり、次の宮内卿律師公深は山伏になったが、一族の今川基氏がこれを姉聟に迎え、三河国吉良荘今川のうち一色(いっしき)を与えたので、この子孫はその地名により一色を苗字とする。
他に上野氏の祖となる義弁、伊豆密厳院(みつごんいん)別当覚玄、同じく覚海、薬師寺別当相義、小俣法印腎宝、山崎法印腎弁、六郎基氏があり、これらのうち、賢宝の子孫は小俣鶏足寺の別当職を相伝して小俣氏を称し、基氏の子孫は加子(現久保田町)に住んで加子氏を称したものと思われる。また、女子には北条業時(1241-87.47歳)の妻となったもの、一族の足利(吉良)上総介満氏に嫁したものなどがある。
義氏の死後、そのあとを継いだ利氏は、康元元年(1256)正月3日、若年ながら足利氏の当主として椀飯を献じ、同年8月に執権時頼の長子時利(時輔)(1248-72.25歳)が元服した際には烏帽子親(えぼしおや)の役をつとめている。またその翌年には将軍御所の廂衆(ひさししゅう)及び格子番に選ばれて、将軍宗尊親王のそば近くに仕えた。その後正元元年(1259)には上総国の守護として京都大番役(おおばんやく)の番頭をつとめ(深堀記録証文)、翌文応元年(1260)には治部権大輔となり、このころ名を頼氏と改めた。
頼氏は射芸に長じ、康元元年(1256)8月の鶴岡八幡宮放生会(ほうじょうえ)の際には流鏑馬の射手に選ばれるほどであったが、病弱であったと思われ、弘長元年(1261)7月未には、翌月15日の鶴岡八幡宮放生会への将軍社参の供奉を所労のために辞退している。頼氏の名はこれを最後に「吾妻鏡」に見られなくなる。
頼氏の没年については、従来、弘安3年(1280)4月7日没23歳(「尊卑分脈」)、同年没33歳(続群書類従本「足利系図」)、永仁5年(1297)6月9日没40歳(鑁阿寺所蔵「新田足利両家系図」)、弘長2年(1262)4月24日没(吉祥寺霊牌)の各説がある。臼井信義はこれらの説に検討を加え、頼氏の子家時が文永6年(1269)4月に鑁阿寺の寺規を定めていること、頼氏の生母が宝治元年(1247)に死没していることから、弘安3年説及び永仁5年説を否定して、吉祥寺霊牌の弘長2年説を最も確からしい説とし、頼氏がその前年の弘長元年に病気のために鶴岡八幡宮への供奉を辞退していることもこの説を裏づけるとしている。その死没年齢は、生母や生母の父北条時氏(1203-30.28歳)が若死しているところから、「尊卑分脈」の23歳とする説を支持している(臼井信義前掲論文)。頼氏が弘長2年に23歳で死去したとすると、その誕生は仁治元年(1240)となり、生母は、その兄時頼(1227-63.37歳)が安貞元年(1227)の生まれであるから、兄と同年の生まれとしても、数え年14歳で頼氏を生んだことになり、あり得ないこととは言えないまでも、やや不自然で、この点疑念も残るが、大体において妥当な説といえよう。
頼氏の菩提寺、江川町の吉祥寺には、古老の言として、堂前を騎馬で通行すると、必ず馬がおびえて暴れだし、落馬するという、頼氏の死が尋常のものではなかったことを思わせるような伝えがある。
頼氏の夫人として、従来、家時の生母である上杉重房の娘が知られており、この女性を頼氏の正妻とする考えもあるが、「尊卑分脈」はこの家時の母を家女房(侍女)としている。臼井信義は、このことから、頼氏は年若くして死去したため正室をもたなかったとしているが、米沢市の中条敦所蔵「恒武平氏諸流系図」によれば、北条時房(1175-1240.66歳)の子時盛(1197-1277.81歳)の娘に「足利三郎頼氏女」とするものがあり、「女」は「妻」の誤記もしくは誤写であろうから、この女性を頼氏の正室と考えることができる。
霜月騒動と足利家時の自殺

頼氏のあとは子の太郎家時が継ぐ。このころになると「吾妻鏡」の記事も終わり、家時の幕府出仕の様子を知ることはできないが、足利氏の当主としての活動は後述するように文永3年(1266)より見られるから、この前後には、家時は若年ながら幕府に出仕するようになったであろう。
文永・弘安年間に、北条氏一門をはじめ秋田城介(あきたじょうのすけ)安達泰盛(1231-85.55歳)ら幕府の有力者達が、高野山に町石卒都婆を寄進し、山麓九度山の慈尊院から奥の院に至る参道の一町(約109m)ごとに道程の標示として立てたが、家時もこれに加わり、文永5年(1268)に卒都婆一基を寄進した。それには「七十七町 文永五年閏正月日 源朝臣家時」と刻まいるママ。
この年の2月、幕府は上総国の御家人深堀太郎時光に、翌年正月1日より6月晦日(みそか)までの京都大番役を課し、「番頭足利入道跡(あと)」に寄り合って勤仕すべきことを命じている(深堀記録証文)。この足利入道を泰氏とし、当主の家時が幼少であったので、祖父の泰氏入道が上総の守護として番頭をつとめたとする考えもあるが(臼井信義前掲論文)、足利入道は義氏のことと解すべきであり、「跡」は当時の慣例では、そのあとを相続している者をさす語であるから、番頭足利入道跡は家時のこととすべきである。
家時はその後、建治2年(1276)8月以前に、従五位下式部丞となって、足利式部大夫とよばれたが、さらに弘安5年(1282)11月には伊予守に任ぜられ、同7年7月に辞した。
蒙古襲来があったのは家時の時代のことであるが、文永・弘安両役の際の家時の動静は伝わっていない。一族の中では、足利(吉良)上総介満氏が、文永の役後、防備体制強化策の一環として越前の守護に任ぜられたことが知られている。
家時は、この間、足利氏の当主として、文永3年(1266)4月24日、倉持左衛門尉忠行を所領陸奥国賀美郡穀積(こいづみ)郷の地頭代(じとうだい)に任命し、あわせて足利荘内の屋敷一所を与えており(倉持文書)、弘安4年(1281)11月5日には、三河国額田(ぬかだ)郡秦梨子(はたなし)郷を不輸の地(租税免除の地)として某に給与したことを額田郡公文所に通達している(前田家所蔵「武家手鑑」)。ついで同6年(1283)12月23日には、さきに曾祖父義氏が鶴岡八幡宮両界壇所の供科として寄進した足利荘粟谷郷の寄進状が焼失してしまったので、その案文(写し)に証判を加え、これを安堵している。
鑁阿寺に対しては、家時はその興隆に特に心を傾けている。文永6年(1269)4月には七か条にわたる寺規を定めて供僧以下の懈怠(けたい)を固く戒め、また、翌文永7年には、3月8日の本願義兼の遠忌に一切経会を行い舞楽を奏して供養の儀を壮厳にすることに努めた。一切経会及び舞楽はその後弘安8年(1285)まで16年間続行されたようである。
この家時のころは幕府政治が有力御家人の合議制をよりどころとする執権政治から北条氏嫡流=得宗の専制政治への傾斜を強めた時期であった。この傾向はすでに北条時頼(1227-63.37歳)の晩年にみられたが、文永の役を機にいっそう顕著になり、執権時宗(1251-84.34歳)は、その外戚や一部の有力者のほか、御内人(みうちびと)とよばれる得宗家の被官(家臣)を加えた「寄合(よりあい)」という秘密会議をしばしば自邸で開き、そこで重要政務を議した。北条氏の専制化は、惣領制(そうりょうせい)のくずれと貨幣経済の発展による御家人制の動揺をくいとめ、蒙古襲来という難局に対処するためにとられた幕府の支配権強化策であった。しかしそれは従来の合議体制を形式化し、有力御家人の発言力をおさえることになって、かえって御家人の利益を損う傾向すら生じた。
家時は文永10年(1273)より数年間にわたり美作国大原保の領有をめぐって高野山の僧法禅と相論している。同保は嘉禎4年(1238)、足利義氏が高野山金剛三昧院大仏殿に寄進し、荘務を法禅の先師隆禅に与えた所で、幕府から寄進地安堵の下知状を得ていた。ところが延応2年(1240)、御家人所領保護のための立法がなされて、所領を私(わたくし)に寺社に寄進することが禁止されてしまった。そこで義氏は、建長元年(1249)に、北条氏の家令平左衛門入道盛阿(盛綱)をもって子細を申入れた上で、隆禅から同保の荘務をとり返して代官を置き、寺用年貢を送ることにした。義氏はその後、同保を他の所領とともに子孫に譲与し、これもまた幕府の安堵を受けていた。約20年後の文永10年に至り、隆禅のあとをついだ法禅は家時を相手取って幕府に出訴し、両者の訴陳が行われた。家時は年紀法(20年の年紀を経過することによって、その間の土地所有の事実が、正当な権利として確認される鎌倉幕府の慣習法)を楯に同保の領有を主張したが、建治2年(1276)裁許が下され、「仏陀施入(ぶっだせにゅう)の地、たやすく悔(く)い返しがたし」との理由によって敗訴し、同保の返還を命ぜられた。家時はこれを不服として越訴(再審を求めること)したが、弘安2年(1279)却下されてしまった。
右の判決が、北条氏の足利氏をおさえる意図のもとになされたとは考えられないが、北条氏との間に父祖の時代ほどの深い関係を持たず、北条氏専制化が進行する中で強い疎外感を抱くようになったであろう家時にどのような心理的影響を及ぼしたか想像に難くない。家時は、御内人の政界進出と、その上に立って権力を集中する得宗の動きに対して、しだいに批判的になり、当時、幕閣内において御家人勢力の代表として、これまでの合議体制を維持していこうとする立場をとる有力御家人安達泰盛に親近感をいだくようになったとしても不思議ではない。
家時の没年には諸説がある。文保元年(1317)6月25日切腹35歳とする説(続群書類従本「足利系図」)が従来広く信ぜられていたようであり、他に延慶2年(1309)2月21日没とする説(鑁阿寺所蔵「新田足利両家系図」)もある。最近、臼井信義は正応2年(1289)説を出した。そして、前二説の不合理な点をあげて反駁を加え、家時の発給文書の最後の年である弘安6年(1283)から家時の子貞氏の文書の初見の年である永仁2年(1294)までの間に家時の没年を求め、家時の文書の初見とされる文永6年(1269)を家時15歳の時と見、享年を35歳として、正応2年没としている。しかも、この正応2年は将軍惟康親王(1264-1326.63歳)が廃されて、京都より久明親王(1276-1328.53歳)が迎えられた年にあたるところから、家時の死の原因はおそらくこの事件に無関係ではあるまいと推論している。
「難太平記」によれば、足利氏には源義家(1041-1108.68歳)の置文が伝わっていて、それに「我(わが)七代の孫に吾(われ)生(うまれ)かはりて天下を取へし」とあり、家時はその七代にあたるが、なお時の至らぬことを知り、「我命をつつめて三代の中にて天下をとらしめ給へ」と八幡大菩薩に祈り、自筆置文を残して自殺したという。義家の置文は伝説にすぎないとしても、家時の置文が存在したことはたしかで、後年足利直義(1306-52.47歳)が高師秋(こうのもろあき)に与えた次の書状の中に置文のことが見えている。
故報国寺殿御終焉の時、心仏に遣わさる御書拝見のところ、感激肝に銘ずるものなり。よってこれを召し置きおわんぬ。案文を遣わすの状、件の如し。四月五日  高土佐守殿 (三宝院文書)
家時の死が自殺であったことは事実であったと思われるが、その没年に関しては、文保元年(1317)説・延慶2年(1309)説はともに論外として、臼井信義の説についても疑念が残る。「問はず語り」に、正応2年(1289)10月の新将軍久明親王の鎌倉到着に際して「御所には、当国司、足利より、みなさるべき人々は布衣(ほい)なり」と記して、執権北条貞時(1271-1311.41歳)や足利家の当主など、おもだった人々が御所に出仕して将軍を迎えたことを述べている。もし臼井信義の説に従うならば、これは家時の死の直後のこととなり、当主貞氏は服喪中の身として出仕をはばかったと思われるからである。
家時の史料上の活動は、「勘仲記」の弘安7年(1284)7月26日に伊予守を辞した記事を最後とし、子貞氏は永仁2年(1294)正月2日に所領相模国宮瀬(みやがせ)村に吉書(きっしょ)を下している。従って家時は弘安7年7月26日以降、永仁2年1月2日以前の時期に死没したことになる。この期間中に足利氏より発給された唯一の文書が相承院文書中にあるが、それは弘安9年(1286)3月2日付の、鶴岡八幡宮両界供僧職を参河阿闍梨(あじゃり)教意に安堵した足利氏の執事心仏(高師氏)の奉書である。足利氏の執事奉書はこの相承院文書中の一通の他に数通伝存し、それらの奉書には例外なく足利氏の当主の袖判(そではん)が加えられているが、この奉書にはそれが見られない。内容が所職安堵に関することであるだけに全く異例である。何故であろうか。その理由としては、当主が年少でまだ自身の花押(かおう)を有するに至らなかったと解するのが最も自然であるように思われる。とすれば、家時の死は弘安7年7月26日より後で、同9年3月2日より前ということになる。
弘安7年(1284)4月に執権北条時宗が死去し、その子貞時が14歳であとを継ぐと、政情が不安になり、執権貞時の外祖父で、御家人派の代表者として権勢をふるっていた安達泰盛(1231-85.55歳)と、御内人の勢力を代表する内管領平頼綱(?-1293)との対立が激化し、やがて翌弘安8年(1285)11月には頼綱の策略によって泰盛が一族もろともに滅ぼされるという事件が起こった。これが霜月騒動であるが、この時、安達氏一門のほか、与党の有力御家人や上野・武蔵の御家人たちが多数、自害したり、討たれたりし、その数は500人にのぼったという。騒動は鎌倉にとどまらず地方にも波及し、各地で泰盛派の人々が災にあった。
霜月騒動が、安達氏一門ばかりでなく、有力御家人勢力を一掃することを目的とした策謀であったとすると、足利氏にも累が及ぶ危険性があったはずであり、事実、「北条九代記」によれば、この時、一族の上総三郎(吉良氏、満氏の子か)が非分に誅(ちゅう)せられ、尾張三郎宗家(斯波氏、家氏の子)も討たれている(続群書類従本「最上系図」)。足利氏がこの事件に連坐し滅ぼされることをおそれた家時は、わが身を犠牲にすることによって家の存続をはかり、悲憤の書を残して自害したものと考えたい。
家時の法号は報国寺殿義忍。墓所は鎌倉市浄明寺の臨済宗寺院報国寺という。同寺は家時の菩提寺といわれるが、その創建は建武年間(1334-37)で、開基は足利氏の被官上杉重兼とされている。
家時の室は六波羅探題北条時茂(極楽寺重時の子.1240-70.31歳)の娘であった。この女性は、鎌倉極楽寺の長老忍性(1217-1303.87歳)が永仁6年(1298)、奈良の唐招提寺に施入した鑑真和上(がんじんわじょう)(689-763.75歳)の伝記絵巻「東征伝絵巻」の筆者の一人「足利伊予守後室」として知られている。この家時夫人が上流の女性として、高い教養を身につけていたことが推測されよう。
足利貞氏の屈従

家時のあとを継いだ貞氏は、「尊卑分脈」の没年から逆算すると、文永10年(1273)の誕生ということになり、これが一般に用いられている。しかし、この説では、貞氏の外祖父北条時茂が文永7年(1270)に30歳の若さで死没していることから生母の年齢の点でやや難があり、また、貞氏の名は元服の際に執権北条貞時(1271-1311.41歳)の偏諱(へんき)をうけたものであろうから、その元服は貞時執権就任の弘安7年(1284)7月以降、おそらくは霜月騒動の余燼(よじん)のおさまった弘安9年(1286)以降で、元服の年齢は北条氏一門の例から推して10歳前後と考えられるから、誕生の年を数年引き下げて、建治3年(1277)ごろとすべきであろう。一体に、頼氏・家時・貞氏の三代の生没年は互いに矛盾が多く、それぞれを整合させることが困難である。
貞氏の発給した文書は、管見では約20通残されているが、大部分は所領に関するもので、特に被官などに所領・所職を安堵したものが多い。その初見は前述の如く永仁2年(1294)正月であるが、主なものをリストアップすると、
永仁2年(1294)12月20日
兵部僧都円景に鶴岡八幡宮両界供僧職を安堵する(相承院文書)。
永仁4年(1295)3月1日
高師氏の娘稲荷女房に三河国額田郡比志賀郷を安堵する(総持寺文書)。
永仁4年(1295)3月1日
倉持新左衝門尉家行に陸奥国賀美郡穀積郷以下を安堵する(倉持文書)。
正安4年(1302)2月25日
弁律師教順に鶴岡八幡宮両界供僧職を安堵する(相承院文書)。
乾元2年(1303)閏4月12日
倉持左衛門次郎師経に陸奥国賀美郡沼袋上郷以下を安堵する(倉持文書)。
乾元2年(1303)閏4月12日
倉持左衛門三郎師忠に陸奥国賀美郡米積郷以下を安堵する(倉持文書)。
嘉元3年(1305)8月14日
粟生四郎入道に三河国額田郡秦梨子郷司職を安堵する(前田家所蔵「武家手鑑」)。
延慶2年(1309)6月16日
倉持左衛門三郎師忠に足利庄木戸郷内屋敷・田を安堵する(倉持文書)。
延慶2年(1309)6月16日
倉持乙若丸に陸奥国賀美郡沼袋半郷以下を安堵する(倉持文書)。
正和3年(1314)閏3月7日
粟生四郎左衛門尉盛広に三可国額田郡秦梨子郷以下を安堵する(前田家所蔵「古蹟文徴」)。
正和3年(1314)7月10日
高坊少納言房浄憲に美作国稲岡南庄内田・在家を安堵する(熊野夫須美神社文書)。
文保2年(1318)9月17日
長七郎季連に能登国土田庄上村半分以下を安堵する(「松雲公採集遺編累纂」)。
元応2年(1320)2月13日
高坊法眼に熊野山本宮御師職及び美作国稲岡南庄御師職名を安堵する(那智大社所蔵文書)。
そのほか吉書や用途の催促、訴訟の裁定などもみられる。
貞氏は、さきに義氏の造建した鑁阿寺の大御堂が、弘安9年(1286)4月落雷にあって炎上したので、その復興に尽力した。次に掲げたのは、鑁阿寺に現蔵されている貞氏の寄進状であるが、これによって、貞氏が大御堂の再建に力をいれ、造営費百貫文を寄進して、その竣工を督励した様子がよくわかる。
大御堂造営の事、その功今に遅引(ちいん)の条、本意にあらざるの間、いそぎその沙汰を致すべぎの由を存じ候。用途の事、且(かつ)は百貫文寄進し候なり。恐々謹言。   十一月十八日   前讃岐守貞氏
大御堂の再建工事は、正応5年(1292)10月に手斧始(てうなはじめ)が行われ、永仁4年(1296)2月立柱(りっちゅう)、正安元年(1299)7月には上棟が行われたというから、完成までにはかなりの歳月を要したものと思われる。これが現在の大御堂である。この仏堂は方五間の単層入母屋造(いりもやづくり)。平面は和様(わよう)で密教寺院仏堂の形式を示すが、構法及び細部には禅宗様(唐様ともいい、禅宗とともに宋から伝わった建築様式)が多用されており、鎌倉時代の貴重な遺構として鐘楼とともに重要文化財に指定されている。
貞氏の公的活動について知られることはあまり多くない。すでに述べたように、正応2年(1289)10月、新将軍久明親王の鎌倉到着に際して、御所においてこれを奉迎している。その後、従五位下に叙せられ、讃岐守となったが、間もなく讃岐守を辞し、正安3年(1301)8月に執権貞時(1271-1311.41歳)が出家すると、貞氏はこれに追従して出家したようである。法名は義観、足利讃岐入道とよばれた。さらに嘉元3年(1305)5月には連署北条時村(政村の子.1242-1305.64歳)殺害事件がおこるが、貞氏はこの時、犯人の一人を幕命によって預かっている。貞氏はまた、嘉暦4年(1329)には、上総守護として、幕府から東盛義の上総国内の所領を金沢称名寺に打渡すべきことを命ぜられ、代官の伊勢九郎宗継がその執行にあたっている(金沢文庫古文書)。ついで元弘元年(1331)、後醍醐天皇(1288-1339.52歳)の討幕計画が発覚して、主謀者たちが捕えられ鎌倉に護送されてきた際、その一人、浄土寺の忠円僧正が貞氏に預けられた。
霜月騒動によって有力御家人勢力を排除した北条氏は、以後、ますます得宗の専制権力を強化する一方、諸国の守護をつぎつぎに北条氏一門にきりかえ、また、小さな罪科を理由に御家人から所領を没収して北条氏の所領に編入し、その増加につとめた。こうして、かつて御家人のよき指導者であり保護者であった北条氏は、御家人を圧迫し強大な権力の下に慴伏(しょうふく)させる存在となっていったので、御家人の中には北条氏をうらむ者が多くなった。
貞氏は、貞時・高時(1303-33.31歳)の二代の間、幕府に出仕したが、その生涯は、おそらく、父家時よりうけついだ怨念を胸中に蔵しながら、表面は得宗の意をむかえることに汲々として奉仕につとめる、忍従の立場に貫かれた一生であったであろう。貞氏が貞時の出家に際し、これにしたがい、若くして出家したことにそれを読みとることができる。また、貞氏が、元亨3年(1323)10月、貞時の十三回忌法要にあたり、北条氏一門に加わって法華経法師品を書写して捧物30貫とともに贈進し、さらに進物として銭200貫を送っていること(円覚寺文書)からも貞氏の立場を窺い知ることができよう。
元弘元年(1331)9月5日、この前月後醍醐天皇が大和の笠置に挙兵し国中騒然となった中で、貞氏は没する。法号は浄妙寺殿義観。菩提寺は鎌倉市浄明寺の臨済宗浄妙寺で、境内に貞氏の墓と伝えられる宝篋印塔があるが、明徳3年(1392)の銘文があるので、貞氏の墓とはなしがたい。
貞氏の妻は北条氏の一門金沢顕時(1248-1301.54歳)の娘であった。貞氏はこの関係から、毎年、全沢氏の氏寺称名寺に寺用を送進した。この寺用には足利荘窪田郷(現久保田町)の年貢の一部があてられていたようである(金沢文庫古文書)。貞氏はまた、文保元年(1317)ごろ、妻の兄貞顕(1278-1333.56歳)が称名寺の大改修をおこなった際には、金堂の用材を助成したことが貞顕の書状(同上)によって知られ、足利・全沢両氏の密接さを窺わせる。貞顕は正中3年(1326)、高時出家のあとをうけて、一時執権となった人物であるが、当代の鎌倉武士の中で随一の文化人であり、年齢も貞氏とほぼ同年配であったから、学芸その他の面で貞氏に与えた影響は少なくなかったと思われる。
「尊卑分脈」は貞氏の子として、高義・尊氏(初名高氏)(1305-58.54歳)・直義(初名高国)(1306-1352.47歳)をあげている。長子高義については「左馬助、早世」と記すばかりであるが、「鶴岡両界壇供僧次第」には大夫阿闍梨円重が正和4年(1315)11月14日に足利左馬助殿より供僧職安堵の御判を賜わったことを記載している。この左馬助が高義であろう。彼の生母は正室金沢氏であったかもしれない。尊氏および直義の母は上杉頼重の娘清子(?-1342)である。この女性は家時の生母の姪であり、叔母と同じく家女房として貞氏に仕えていたものであろう。上杉氏は藤原氏北家庶流の公家出身で、重房のとき、建長4年(1252)、将軍宗尊親王(1242-74.33歳)に従って関東に下り、丹波国上杉荘を賜わって上杉氏を称したというが、確証はない。遅くとも鎌倉時代の末には足利氏の被官の列に入っていたようである。
足利氏と北条氏

足利氏と北条氏との関係は、足利義兼(?-1199)が鎌倉に参向して源頼朝(1147-99.53歳)に属し、頼朝の命によって北条時政(1138-1215.78歳)の娘をめとったことに始まる。その子義氏(1189-1254.66歳)もまた、北条泰時(1183-1242.60歳)の娘を妻に迎え、さらに義氏の子泰氏(1216-70.55歳)も泰時の嫡子時氏(1203-30.28歳)の娘をめとった。足利氏の三代にわたる北条得宗家との婚姻は、臼井信義が指摘しているように、頼朝の死後、幕府内部において権力の確立につとめる北条氏が、源氏の名門足利氏を自己の陣営につなぎとめるためにとった政策であった(臼井信義前掲論文)と思われるが、それは同時に足利氏の立場を有利にし、源氏の正統が実朝(1192-1219.28歳)で断絶してのちは、足利氏が源氏の嫡流として人々に認められるようになった。
義氏のころが足利氏の最も栄えた時代で、北条氏との関係もきわめて良好であった。義氏は常に北条氏に協調する態度をくずさず、その権力の確立・維持に力を添え、北条氏もまた、足利氏を源氏の正嫡をつぐ最も有力な御家人として殊更に重んじ好遇した。
ところが、義氏の嫡子泰氏(1216-70.55歳)は35歳(36歳の誤り)で出家隠退し、義氏の死後、そのあとを継いだのは泰氏の子で北条時氏の娘を母とする頼氏であった。頼氏は若年でもあり、また、このころ、幕府内部では御家人勢力がおさえられ、北条氏得宗の独裁的傾向が強くなって、足利氏の政治的地位は低下した。正月の椀飯の行事においても、康元元年(1256)を最後に足利氏の名は見られなくなり、以後は北条氏一門が独占的に勤仕している。
頼氏も北条氏より妻を迎えたが、この女性は一門北条時盛(1197-1277.81歳)の娘であった。そして、これ以後、足利氏歴代の夫人はすべて庶流の出であって、得宗家との直接的な結び付きがなくなる。このような婚姻関係の変化は、幕府政治が合議制から得宗専制へ移行していくことと全く無関係であったとは思われない。
頼氏のあと、家を継いだのは、家女房上杉氏を母とする家時であった。足利氏では代々北条氏の娘を母とする男子が嫡子となり家を継ぐのが例であったが、頼氏が若死したため、正室に子がなく、庶出の家時が継いだのである。家時の名は、時の字が北条氏の通字であるから、北条氏より偏諱を受けたものとは思われるが、足利氏の歴代が北条氏得宗の偏諱をうけ、その字の下に通字(つうじ)の氏をつけて名乗としていることからすれば例外的である。頼氏の早世と庶出子家時の相続は北条氏の専制支配が強化されてきたこととあいまって、足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった。
鎌倉時代には有力御家人が謀叛・陰謀のかどで誅滅される事件が相ついだ。このような事件はすでに頼朝のころより見受けられ、足利義兼が出家したのは頼朝の猜疑を避けるためであった。北条氏の時代になると、北条氏は自己の権力集中の障害となる御家人の排除を露骨に進めていったから、幕初以来の有力御家人の多くが滅ぼされた。足利氏も、北条氏と姻戚開係にあるとはいえ、常にその危険にさらされていた。建長3年(1251)の暮におこった前将軍頼経(1218-56.39歳)の陰謀事件では、足利氏は泰氏の出家によって事件への連座を免れることができた。弘安8年(1285)11月、霜月騒動がおこると、足利氏の族滅をおそれた家時は、家を存続させるために一身を犠牲にし、北条氏をうらみながら自害して果てた。
家時のあとをうけた貞氏の母は北条時茂の娘で、その妻は金沢顕時の娘であった。貞氏は北条氏から一族に準ずる待遇をうけたが、それは表面上のことで、実際は北条氏得宗に服仕せしめられるという、源氏の嫡流の身にとってきわめて屈辱的な立場に置かれていた。貞氏は心中に北条氏に対する憤怒の念を秘し隠忍自重の生涯を送った。
元弘3年(1333)4月、後醍醐天皇(1288-1339.52歳)の隠岐脱出に対処するため、幕府軍の大将として上洛した尊氏は、丹渡に進み、篠村八幡宮でついに北条氏打倒に立ち上がるが、この尊氏の挙兵について、「難太平記」は「家時・貞氏此両御所の御造意」といい、「梅松論」も「関東誅伐の事、累代御心の底に挿まるる」と述べて、北条氏の打倒が、足利氏歴代の、特に家時・貞氏の二代にわたる宿望であったとしている。  
 
足利氏の所領とその経営

足利氏所領奉行注文
御領奉行の事
(一)
□ 足利庄 賀美郡 田井庄
  讃甘庄 広沢郷 垪和東郷
  垪和西郷 大佐貫郷 久多大見
  放光寺 黒田保
南右衛門入道 駿河六郎二郎 横瀬五郎入道
粟飯原十郎 醍醐三郎入道 堀松三郎二郎
寺岡太郎左衛門尉
一 上総国 市東西両郡 朝平郡
   愛甲庄 宮津庄 友子庄
   秋月圧 稲岡南庄 土田上村
   宮瀬村 賀治山村
三戸八郎左衛門入道 寺岡左衛門入道
彦部二郎左衛門尉 海老名七郎太郎
有木中務丞六郎 源民部七郎 村上助房
一 参河国 額田郡 設楽郡
  富永保 八田郷 宇甘郷
  漢部郷 大田郷 新野郷
  田中郷 田邑郷 戸票重富
  阿土熊
上椙三郎入道 倉持新左衛門尉
設楽太郎兵衛入道 梶原太郎左衛門尉
小嶋三郎 有富三郎
明石二郎左衛門尉 大炊助
  右、此の旨を守り、奉行せしむべきの状、くだんのごとし
この年月日未詳の史料は、その後、桑山浩然によって、鎌倉末期における足利氏所領のほぼ全容を記載したものであることが明らかにされ、いっそう注目されるようになったものである。内容は、足利荘以下の所領を三群に分け、それぞれに対応させて、有力被官高(こう)一族の南右衛門入道(頼基)、同三戸八郎左衛門入道(師澄か)、上杉三郎入道(頼重)を筆頭とする三番の奉行人の名を列記しており、足利氏の所領管理支配機構を知る上で重要な手掛りを提供している。
足利氏は鎌倉時代を通じて、吉良・斯波・渋川・桃井をはじめ多くの一族庶流を分出しているが、これら一族庶流の苗字その他から推して、この足利氏所領奉行注文にあげられている所領は庶流にはほとんど関係のない、足利氏嫡流家独自の所領であったと考えられる。また、それぞれの所領の内容・性格については不明なものが多いが、上総・三河両国の守護職のほかは、郡・荘・郷・保などの地頭職が大部分を占めるが、なかには、領家職兼帯のものや郡司職を含むと考えられるものもある。いずれにしても、鎌倉末期の足利氏は、源氏の嫡流として御家人の間に高い声望を得ていたばかりでなく、その経済的基盤においても、北条氏のそれには比ぶべきもないが、一般御家人にぬきんでいたといえよう。
本領と散在所領

鎌倉御家人の所領は、近世の大名領のように一か所にまとまっていないで、各地に分散しているのがふつうであった。所領のこのような形態を散在所領とよんでいるが、なかでも、先祖が開発し、代々伝えてきた土地は、苗字の地となり、本領とよばれて最も重要なものとされた。足利氏の足利荘がこれにあたる。
前掲の史料は所領の所在国を記していないので、これらの所領のうち、国名その他について手掛りの得られるもの、推測可能なものを一覧表にして次に示す。なお、これらのうち14か所については、すでに桑山浩然(前掲論文)および入間田宣夫によって地名比定が行われている。
この表に見られる如く足利氏の所領は、陸奥・上野・下野・上総・安房・相模・三河・能登・山城・河内・和泉・丹波・丹後・美作・備前・阿波・筑前の17か国にわたって散在しており、数の上では美作が高い集中度を示している。また、これらの所領がどのような過程をたどって足利氏に伝えられるに至ったのか、個々についてその経緯を十分に明らかにすることは困難であるが、本領の足利荘を除く大部分は、ほかの御家人の場合に見られるように、平氏追討をはじめとする鎌倉前期の諸合戦や、北条氏の覇権確立過程で起きた和田氏の乱・宝治合戦などの恩賞として与えられたり、あるいは、足利氏は代々北条氏と姻戚関係にあったから、北条氏より譲られたものや、足利氏の保護下に入った御家人が足利氏に寄せた所領もあったであろう。
つぎに所領の内容であるが、ここで指摘できることは、皇室領の荘園が足利荘をはじめとしてかなりの数にのぼることと、当然のことながら、所職としては大半が地頭職であったと考えられることである。なかでも、郡地頭職は陸奥(1)、上総(2)、安房(1)、三河(2)の6郡を数える。これらの郡がすべて足利氏の一円領有の下にあったとは成し得ないまでも、郡全体に及ぶ権益を手にしていたことは確実で、この郡地頭職保有の意義は単に経済面のみにとどまらず大きいものがあった。たとえば、足利氏の守護任国上総の場合、市東・市西両郡は宝治合戦で滅んだ上総権介秀胤の旧領であったから、国府が市西郡に置かれていたことなどより推して、足利氏は秀胤が権介として有していた同国の国衙在庁に対する指揮権をもあわせ継承し、強権をもって国内に臨むことができたものと思われる。また、三河は足利氏の強固な地盤となった国であり、南北朝初期において足利氏の軍事基地として特に重要な役割をになったことはよく知られている。その理由としては、足利氏が守護として同国に多くの所領をもち、また、吉良氏・今川氏ら一族が繁衍したことが挙げられているが、ほかに、足利氏が額田・設楽両郡を郡地頭として支配したことにより、設楽氏をはじめ在地武士の多くを被官として組織していたことも考慮にいれる必要があろう。
所領の経営

足利氏が鎌倉末期において諸国に散在する所領を管理支配するためにかなり整った機構を設けていたことは、最近、入間田宣夫によって明らかにされ、また、その所領構造も北条氏のそれと同質であったことが指摘されている。入間田の論考を参考にしなが ら、鎌倉末期の足利氏の所領支配組織について述べてみよう。
足利家時は文永3年(1266)4月24日、倉持忠行を陸奥国賀美郡穀積郷の地頭代職に補任し(倉持文書)、足利貞氏は嘉元3年(1305)8月14日、粟生四郎入道に三河国額田郡秦梨子郷の郷司職を安堵し、さきの知行の例にまかせて郷務を領掌せしむべきことを命じている。これらの郷はその後それぞれの子孫に伝領されていくが、穀積郷の場合、倉持氏は同郷から、毎年5月15日に、北条泰時(1183-1242.60歳)の菩提所粟船御堂(大船常楽寺)の仏事用途一○貫文と、月ごとに、主家足利氏の御料沙汰用途の進納を義務づけられていた(倉持文書)。足利氏は、この例に見られるごとく、その所領に郷単位の地頭代職や郷司職を設けて、被官をこれに任用していた。彼らは給主ともよばれ足利氏の所領管理支配機構の末端に位置して、自ら現地に下向し、あるいは一族子弟らを所務代官として派遣することによって郷内農民の支配にあたり、年貢収納・勧農・開発以下の郷務を管掌した。
また、郡・荘などの大規模な所領には、領内の給主を統轄し、一郡・一荘全体のことをつかさどる上級機構が存在した。鑁阿寺文書仁治2年(1241)2月日付足利義氏下文は宛所を「足利御庄公文所」とし、文中には「公文所寄人(よりうど)」の語が見出されるが、それによると、足利荘公文所は、義氏の命を受け、荘内給主に対して鑁阿寺の毎月の大師講の用途を催し勤ずべきことを下達している。ほかに三河国額田郡にも公文所が置かれていたことが確認され、足利家時は弘安4年(1281)11月5日、郡内秦梨子郷を不輸の地(年貢免除の地)として給主に宛賜わったことを同郡公文所に通達している(前田家所蔵「武家手鑑」)。これら公文所は現地に設置され、有力被官が公文所職に任ぜられて、足利荘における公文所寄人、額田郡における郡沙汰人(臨川寺重書案文)などの現地職員を指揮し、郡や荘の全域にわたる行政事務をおこなった。郡の場合は、多くは地頭職そのものが律令制の郡司の権限を継承したものであったから、一方では国衙行政権の担い手として郡全体に関する国家的行政を担当し、他方では足利氏の私的な所領支配を統轄するという二つの側面を持っていた。したがって、整備された機構と多くの人員が配置されていたことであろう。
以上が各地の所領に設けられた管理支配機構であるが、足利氏の常住する鎌倉の邸には、足利氏の家政全般を見、郡や荘の公文所の上に立って所領全体を総轄する家務執行機関が置かれていた。北条氏得宗家の家政機関「公文所」は有名であるが、足利氏の場合、その名称は明らかではない。鶴岡社務記録紙背文書の某書状断簡に「あしかかのまむ所」と見えることから、「政所」とよばれていたとも考えられるので、いま仮に政所としておく。この足利氏の家務執行機関政所が具体的にどのような機構を備えていたかは不明であるが、前掲史料の奉行人が重要な構成メンバーであったと考えたい。足利氏は何らかの基準によって所領を三群に分かち、それぞれに対応させて、南・三戸・上杉を頭人(とうにん)とする三番の奉行人を編成し、一番7-8名の合議により管轄所領の行政事務を担当せしめたのであろう。彼ら奉行人は原則として鎌倉に常駐していなければならなかったから、鎌倉に屋敷を与えられていたと思われ、前掲史料中、奉行人の第三グループに属する倉持新左衛門尉(家行)が子息師経に譲与し、乾元2年(1302)閏4月12日に足利貞氏の安堵を受けた所領の中には「鎌倉屋地・同屋形」が挙げられている(倉持文書)。清源寺本「高階系図」の注記に見られる「公方御沙汰頭人」・「公方御沙汰人」はこの奉行人にあたるのであろうか。
同系図にはほかに「身内侍所(みうちさむらいどころ)」・「御内引付頭人」の注を記載している。この注記を信ずるならば、足利氏においても、北条氏得宗家の「御内侍所」・「得宗方」に類似した被官の統率や訴訟裁判をつかさどる特殊機関がそれぞれ設けられていたことになる。現在までのところ、足利氏の御内侍所の存在を示す史料は管見に入らないが、ぼう大な被官群を統制するためにも、当然置かれていたと考えてよかろう。訴訟裁判機構については、「松雲公採集遺編類纂」所収長伝書写の、足利氏被官長彦三郎幸康と継母尼観阿および弟七郎師連の父の遺領をめぐる相論を裁定した元亨2年(1322)5月23日付足利貞氏裁許状写によって、ある程度その内容を知ることができる。すなわち訴訟審理はまず訴人=原告・論人=被告の間で三問三答の訴状・陳状(訴状に対する反駁状のこと)を交換させてその書面審理をおこない、ついで訴人・論人を「勘録(かんろく)の座(ざ)」(幕府の訴訟制度では引付の座とよばれる)に召し出して対決=口頭弁論をさせ、その上で判決をくだすという、幕府の引付制度にならった、きわめて整った訴訟手続きであった。この長氏一族の裁判では訴人幸康の非理が立証され、幸康には「奸訴(かんそ)の咎(とが)」によって所領一か所の没収が申し渡されている。
鎌倉時代の武家の中に家法をもつものがあったことはよく知られており、豊後国大友氏の「新御成敗状」や下野国宇都宮氏の「宇都宮家弘安式条」は整備された家法として有名である。足利氏の場合、領内の寺院に個別に下した規式の類が見られるだけで、まとまった法令は残されていない。ところで、鶏足寺文書応永13年(1406)8月19日付鎌倉府奉行人連署奉書(鶏足寺文書)は、智光寺の供僧職をめぐる鶏足寺と智光寺供僧らとの相論に関するものであるが、これに、智光寺側の主張として「去る嘉禎元年(1235)2月15日御法のごとくんば、禅家・女子・俗仁知行すべからずと云々(うんぬん)」とあり、もし、智光寺の創建が前に述べたように文永2年(1265)であるとすると、この嘉禎元年御法は智光寺に下されたものではなく、足利氏領内寺院に関する法令とみることができ、前述の整った訴訟手続きの存在を考えあわせると、足利氏においても、網野善彦が推測しているように(「蒙古襲来」「日本の歴史」10)、所領の統治支配のための独自の家法が存在していたものと思われる。
足利氏においても、北条氏の場合と同様、家政全般を統轄する執事が置かれていた。家時時代の高重氏(重円)・貞氏時代の高師氏(心仏)・同師行・同師重(貞忍)がそれで、代々高氏一族の惣領の立場にある者が任ぜられていたようである(尊氏時代の高師直も同じ)。彼らの活動を史料によって例示すると、
A 高重氏(重円)
○沙弥重円奉書
秦梨子郷は、不輸の地として、当給主にこれを充賜うところなり。早くその旨を存ぜしむべきの由、仰せ下さるるところなり。よって執達くだんのごとし。  弘安四年十一月五日 沙弥重円奉   額田郡公文所
弘安4年(1281)11月5日、主人足利家時の意を奉じ、三河国額田郡秦梨子郷を不輸の地として給主に宛賜わったことを額田郡公文所に伝達している。ほかに、鑁阿寺文書に文永8年(1271)3月15日付沙弥重円奉書写があり、これは主人家時の意をうけ、鑁阿寺寺務学頭明仏房に大御堂一切経会の無事遂行を賀し、あわせてその労をねぎらったものである。
B 高師氏(心仏)
○心仏奉書
若宮両界供僧職のこと、もとのごとく相違あるべからざるの由、申すベき旨に候なり。恐々謹言。   弘安九年三月二日  心仏   参河阿闍梨御房
弘安9年(1286)3月2日、 主人(おそらく足利貞氏)の意を帯し、鶴岡八幡宮両界供僧職安堵のことを参河阿闍梨教意に伝えている。
C 高師行
○左衛門尉師行奉書
去年十月分御料沙汰用途玖百文のこと、度々仰せ下され侯ところ、今に無沙汰と云々(うんぬん)、もっともその咎を招くか。所詮、来月二十五日以前に究済せしむべきなり。もしまたその足無くば、不日(ふじつ)代官をさし遣わし、結解(けちげ)をとげ、明かし申すべきなり。かれといい、これといい、もしなお対捍(たいかん)せしめば、定めて後悔あるかの由、仰せ下さるるところなり。よって執達くだんのごとし。  徳治三年五月廿八日 左衛門尉師行奉   穀積郷
徳治3年(1308)5月28日、主人貞氏の意を奉じ、陸奥国賀美郡穀積郷に対して、前年10月分の用途9百文を来月25日までに進納すべきことを命じ、もしそれができないのであれば、早々に代官をさし遣わして勘定を明らかにすべきことを通達している。入間田はこの師行を倉持氏の一族と推定しているが(入間田宣夫前掲論文)、高師行とすべきで、その系譜関係はつぎに掲げるとおりである。

 (重円)   (心仏)   左衛門尉
 重氏─┬─師氏─┬─師行─┬─師秋
      │      │      │ 称三戸六郎左衛門尉
      └頼基   │      └─師澄
   号南右衛門尉 └─師重─┬─師直
               (貞忍) │
                     └─師泰
D 高師重(貞忍)。
○沙弥貞忍奉書
熊野山本宮御師職のこと、式部大夫源義国以来、高坊法眼御坊に参着せしむる上は、貞氏一門においては同前たるべし。然る間、美作国稲岡南庄の内御師職名、もとのごとく知行せしめ、御祈祷の精誠を抽んずべきの由、仰せ下され侯ところなり。よって執達くだんのごとし。  元応二年二月十三日    沙弥貞忍奉   本宮高坊法眼御房
元応2年(1320)2月13日、足利貞氏の意を奉じ、高坊法眼に熊野山本宮御師職ならびに美作国稲岡南荘内御師職名(田在家)の安堵のことを通報している。
執事は足利氏の家務執行機関政所を主宰し、右の例に見られるように、主人の意を奉じ、被官などの所領・所識安堵の伝達、足利氏の私的支配下にある社寺への命令下達、財政問題処理の指示など、多方面にわたる活動を示している。
 これまで述べてきたことを図示するとつぎのようになる。
※一番左側に執事以下を「←被官群→」と括り、一番右側に、三番奉行人までを「中央」、その下を「地方」と括っている。☆には五本の斜線が引かれ、そのうちの三本が三つの公文所につながっている。*には三つに枝分かれした線が引かれ、そのうちの真ん中のものが下の地頭代・郷司につながっている。
                    足利氏
                      │
                     (執事)     (鎌倉)
     ┌─────┬─────┤
    侍所      勘録     政所
 (被官の統率)  (訴訟裁判)    ☆
                   (三番奉行人)
      賀美郡    額田郡    足利荘  (郡・荘)
      公文所    公文所    公文所
       *        *       *
      地頭代     郷司     地頭代  (郷・村)
       │        │       │
     (所務代官) (所務代官) (所務代官)
以上のように、足利氏は整った機構を備え、ぼう大な被官群を政所以下の各部に配置することによって、諸国に散在する所領の管理支配を一元的に実現していたのである。
つぎに、この足利氏の支配を支えていた被官たちの所領構成を見ることにしよう。前掲史料の奉行人第三グループに属する倉持新左衛門尉家行の正安2年(1300)年ごろの所領は、
下野国足利庄内赤見駒庭郷半分、同国府野屋敷給田畠、同木戸郷内屋敷田畠、同加子郷内屋敷田畠
陸奥国賀美郡穀積郷、同沼袋郷半分、同中新田郷内屋敷田畠
上総国市西郡内海郷、同勝馬郷内小堤田畠屋敷
相模国宮瀬村
三河国額田郡萱薗郷、同仁木郷内屋敷田畠、同便(賞)寺屋敷田畠
鎌倉屋地同屋形
の14か所をかぞえる。これらのうち、郷村名のみのものは家行が給主(地頭代・郷司)として管理支配をゆだねられていた所領であり、屋敷田畠は足利氏より与えられた給恩地であろう。
このような所領構成は、所領数こそ違え、他の被官にも共通していた。長季連が正和4年(1315)12月に父幸連より譲られ、文保2年(1318)年9月17日、足利貞氏の安堵を受けた所領は、能登国土田荘上村半分、三河国富永保内助吉名、下野国足利荘給田一町、相模国愛甲荘船子屋敷東野畠二段、同給田一町で、前二者が地頭代職、あとは屋敷給田畠からなっていた。また、有力被官高氏の場合も、後年の史料ではあるが、高師行の子孫小太郎師長の長禄3年(1459)12月日付本領注文に、三河国額田郡政所職をはじめ、東関における本領として足利荘内足次・渋垂郷・小曾祢郷・山形郷・岩井郷・荒萩郷があげられている(内閣文庫所蔵古文書)。額田郡政所職は額田郡公文所職の後身であり、足利荘内の各郷については、本来地頭代職であったのか、給恩地であったのか、いずれとも明らかではないが、その所領構成はほぼ推測できる。被官のなかでも有カな者は、各地の公文所職(政所職)地頭代職を兼ねていたが、彼らは、一族子弟や家人を現地に代官として配し、自身は鎌倉にあって、足利氏の家政機関政所などの奉行人としての職務に従事し、時に地方へ下向して所領経営の監督指揮にあたるという生活を送っていたものと思われる。
被官たちはほとんど例外なく足利氏の本領足利荘内に屋敷・田畠を与えられ、鎌倉もしくは鎌倉にほど近い相模国愛甲荘内にも屋敷・給田畠を持つ者が多かったが、このことは足利氏所領の有機的統一を保つうえで重要な意味をもっていた(入間田宣夫前掲論文)。また、たとえば木戸氏が地頭代職をもつ足利荘木戸郷(上杉家文書)内に倉持氏の屋敷・給田畠が存在し(倉持文書)、長氏の屋敷・給田畠がある相模国愛甲荘船子郷(「松雲公採集遺編類纂」所収長伝書写)は、梶原氏が地頭代として管理・支配にあたっている(「新編相模風土記稿」)というふうに、足利氏はそれぞれの郷に地頭代・郷司以外の被官の屋敷・給田畠を設定しているが、これは地頭代・郷司による所領の管理と農民支配を補強する上で効果的な方策であったといえよう。
被官たちの所領・所職は、何らかの理由がないかぎり、足利氏が勝手に没収したり、他の者に与えたりすることはなかった。また、被官たちの所領の譲与・相続については、下野中部の雄族宇都宮氏の場合、すでに弘安6年(1283)、これに介入し制限を加えているが(「宇都宮家式条」)、足利氏においては被官の相続問題に介入した事例は見出せない。親権が絶対視され、足利氏は単にその譲与に安堵=承認・保証を加えるだけであったようである。
したがって、被官たちの所領は、地頭代職や郷司職を含めて、分割相続によって細分化されていく傾向にあった。たとえば、倉持氏の陸奥国賀美郡穀積郷地頭代職の場合、数代の分割相続によって、鎌倉末期には、わずかに郷内の屋敷一か所を公事(租税・課役のこと)負担付きで知行するのみの者すら現われてくるほどである(倉持文書)。被官たちのこのような所領の零細化は、貨幣経済の進展とあいまって、彼らの窮乏と年貫公事負担能力の低下をもたらし、その結果、年貢公事の未進・対捍や一族間の所領相論が生じ、また、地頭代・郷司と、郷内に屋敷・給田畠を持つ被官との間にも、土地や農民の支配をめぐる紛争が頻発するようになってくる。
こうして、諸国に散在する多くの所領とぼう大な被官群の上に立つ足利氏は、鎌倉末期になると、北条氏専制による圧迫に加え、その支配体制自身の持つ数々の矛盾の激化により、存立の基盤をゆるがす危機に直面するに至る。ここにおいて、足利氏は、何らかの新しい方策をとり、それによってこの危機的状況を打開する必要に迫 られるのである。
 
足利尊氏と室町幕府

足利尊氏の挙兵
足利尊氏は嘉元3年(1305)、貞氏(1273-1331.59歳)の次子として生まれた。初名は又太郎高氏(以下、便宜上尊氏とよぶ)、母は上杉清子(?-1342)、同母弟に直義(初名高国)(1306-52.47歳)がある。その出生地については、丹波国八田郷梅迫(うめさこ)(現京都府綾部市梅迫町)に「尊氏誕生の井戸」と称するものがあるところから、同地とする説があるが(山越忍済「足利の鑁阿寺」)、やはり鎌倉とすべきであろう。「難太平記」は、尊氏の出生時の奇瑞として、産湯(うぶゆ)の時に、山鳩が二羽飛来し、一羽が尊氏の左肩に、一羽が杓(ひしゃく)の柄にとまったと伝えている。
尊氏は、兄左馬助高義の早世により、庶出の身ながら嫡子となり、元応元年(1319)10月、15歳で従五位下治部大輔に任ぜられた。翌元応2年(1320)9月に、治部大輔の官を辞し、以後、前治部大輔と称した(「足利家官位記」)。そして、間も なく、北条氏の一門赤橋久時(1272-1307.36歳)の娘登子(最後の執権守時(1295-1333.39歳)の妹)を妻に迎えた。
このころ、幕府では、北条高時(1303-33.31歳)が執権であったが、政治の実権は内管領の長崎高資(?-1333)が握り、専断をほしいままにしたので、政治は乱れ、御家人たちの不満が高まっていた。一方、朝廷では、13世紀半以降、皇統が持明院統と大覚寺統の両統に分裂し、皇位の継承をめぐる激しい対立が続いていた。幕府はこの解決策として両統が交互に即位するという方式を成立させたが、両統の対立は依然として解消しないまま、文保2年(1318)、大覚寺統の後醍醐天皇(1288-1339.52歳)が即位した。天皇は、父後宇多法皇(1267-1324.58歳)の院政停止を機に、政治の刷新をくわだて、記録所を設け、人材を登用して、親政をはじめた。しかし、皇位の継承は、天皇のあと、兄後二条(1285-1308.24歳)の皇子邦良(くによし)親王(1300-26.27歳)、ついで持明院統の量仁(かずひと)親王(光厳天皇.1313-64.52歳)と決定していたので、両派はそれぞれ幕府に働きかけて天皇の早急な退位の実現を画策した。
天皇は、このような情勢のなかで、自己の皇位を安定させ、理想とする天皇中心の政治を実現するためにも、また、年来学んできた宋学(そうがく)の名分思想の立場からも、幕府を倒す必要を痛感し、近臣たちとひそかに討幕の計画をすすめた。この計画は、正中元年(1324)、未然に発覚して失敗した。これを正中の変という。その後も天皇の倒幕の意志は変わらず、奈良や叡山の僧兵を味方に引き入れるなど、その準備工作をすすめた。しかし、これもまた、元弘元年(1331)、幕府の知るところとなり、主謀者日野俊基(?-1332)をはじめ文観(1278-1357.80歳)・円観(1281-1356.76歳)・忠円らが捕えられた。天皇は、同年8月、大和の笠置に逃れ、挙兵した。これに呼応して、河内の楠木正成(?-1336)が赤坂城で挙兵したのをはじめ各地に挙兵するものがあらわれた。
天皇挙兵の報に接した幕府は、9月2日、出兵を命じ、幕府軍は5日から7日にかけて鎌倉を出発した。足利尊氏はこの9月5日に父貞氏を失い、その仏事も終わらぬのに動員令を受けた。このことは尊氏の心中に北条氏に対する憎しみを深く刻みつけたことと思われる。
幕府の大軍の前に、やがて笠置城は落ちて天皇は捕えられ、神器も幕府が擁立した光厳天皇(量仁親王)に渡された。そして尊氏ら西上軍も11月には鎌倉に帰着した。
翌年3月、後醍醐天皇は隠岐に流され、事件の主謀著たちもそれぞれ処分されて、元弘の乱は終息したかにみえた。ところが、同年の末、赤坂落城後姿をくらましていた楠木正成が千早城で、天皇の皇子護良親王(1308-35.28歳)が吉野で挙兵し、元弘3年(1333)に入ると播磨の赤松則村(1277-1350.74歳)が挙兵するなど、各地で反幕勢力が立ちあがった。後醍醐天皇も、閏2月には隠岐を脱出して伯耆の名和長年(?-1336)に奉ぜられ、各地の武士に綸旨(りんじ)を下して討幕を呼びかけた。これを知った幕府は、大軍の派遣を決し、北条氏一門の名越高家(?-1333)と尊氏を大将として上洛させた。
尊氏は幕府の要求にしたがい、異心のない旨の起請文を書き、妻登子と嫡子で4歳の千寿王(義詮)(1330-67.38歳)を人質に置いて、3月27日、北条氏への背反を心に秘しながら、一族・被官以下3000余騎を率いて鎌倉を出発した(「太平記」)。途中、三河国で一族の吉良貞義に挙兵のことをはかったところ、貞義は、今では遅いくらいだといって、幕府への反逆を勧めたといい(「難太平記」)、また、近江国鏡(かがみ)の駅で細川和氏(1296-1342.47歳)と上杉重能(?-1349)がかねてひそかに賜わっていた後醍醐天皇の綸旨を尊氏に披露し、挙兵を促したともいわれる(「梅松論」)。尊氏は4月16日入京後、周到に挙兵の準備を進め、その機を窺っていたものと思われる。「太平記」は、尊氏が京着の翌日、使者を伯耆に遣わして天皇に帰順を表明し、朝敵追討の綸旨を賜わったといい、22日には、ひそかに上野国の同族岩松経家(?-1335)に北条氏追討の内書を送って挙兵を催促している(正木文書)。
尊氏は27日、六波羅の軍議にしたがい、山陰道を伯耆に向けて出京したが、この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家が、赤松則村と戦って敗死したのを好機に、ついに決意を固め、そのまま丹波国に入り篠村に陣した。そして同日、陸奥の結城宗弘(?-1338)、信濃の小笠原貞宗(1292-1347.56歳)、石見の益田氏や、島津周防五郎三郎、野介高太郎など各地の武士に軍勢催促状を発して、勅命により後醍醐天皇の味方に参ったから合力するよう、協力を呼びかけ(白河証古文書・小笠原文書・萩藩閥閲録・島津家文書・前田家所蔵文書)、29日には、大友貞宗(?-1333)・阿蘇惟時(?-1353)・島津貞久(1269-1363.95歳)ら九州の豪族にも密書を送って協力を要請した(大友文書・阿蘇家文書・島津家文書)。尊氏の挙兵は、従来、4月29日とされ、この日尊氏は、篠村八幡宮の社前で旗を揚げ、同社に願文を奉納して所願の成就を祈ったといわれている。この説の根拠は篠村八幡宮に伝わる尊氏の元弘3年4月29日付願文の存在であるが、近年、今枝愛真がこの願文を調査・研究し、後世の偽作であることを明らかにした。
尊氏は、挙兵後しばらく近国の武士の参集を待ち、5月7日、大挙して京都に攻め入ったので、これまで赤松軍の攻撃をよく防いできた六波羅軍もついに敗れ、六波羅は陥落した。尊氏は直ちに奉行所を設けて京都の治安の維持にあたり、また、諸国の武士で、彼の下に投ずる者も多かったから、早くも六波羅探題に代わる新しい勢力となった。
一方関東では、5月8日、上野の新田義貞(1301-38.38歳)が挙兵し、21日には鎌倉に攻め入り、翌22日、激戦の末、ついに鎌倉は陥り、北条高時以下は自害して果て、幕府は滅んだ。さきに鎌倉を脱出していた尊氏の嫡子千寿王は、5月9日武蔵国で義貞と会し、鎌倉攻めに加わっている。「太平記」は、千寿王の参加により倒幕軍に馳せ参ずる者がふえたことを述べ、「梅松論」は、鎌倉陥落後、義貞に属するものより、千寿王の下に参候するものの方が多かったと述べている。事実、常陸の武士大塚員成の申状によると、員成は鎌倉合戦の時、「若御料(千寿王)御座の由を承り及び、御方に馳せ参じ」て、新田一族大館幸氏に属して戦い、その後6月1日からは、千寿王の居所二階堂の後山の陣屋に勤仕したといっており(大塚文書)、これらから足利氏の動向が武士たちの去就に大きく作用したことがわかる。
高柳光寿は、正木文書応永33年(1426)7月日付の岩松満長代官申状に、北条氏追討のことは、尊氏より御教書(みぎょうじょ)を賜わり、満長の曾祖父岩松経家と新田義貞が両大将として退治したと記すことなどから、義貞の挙兵について、義貞の主体的行動を認めながらも、尊氏の慫慂(しょうよう)があったらしいこと、および、義貞の下に大軍を集結し得たのは、尊氏が広範囲の武士に倒幕への参加を呼びかけたからであろう、と推測している(「足利尊氏」)。事実と思われる。
尊氏は京都を占領すると、周到にも直ちに細川和氏兄弟を東下させて北条氏滅亡後の混乱の収拾にあたらせ、同時に鎌倉をおさえさせている。
なお、尊氏は挙兵の犠牲として庶長子竹若を失わねばならなかった。伊豆山にいた竹若は、父の挙兵を知って、伯父密厳院別当覚遍(加子基氏の子)らとひそかに上洛する途中、駿河国で幕使と行き合い殺された。同国の宝樹院(廃寺)はその菩提所である。
建武新政と足利氏

幕府滅亡とともに光厳天皇は廃され、6月5日、後醍醐天皇は京都に帰還し、いわゆる建武新政が始まる。 尊氏は、同日、内昇殿(うちのしょうでん)を許されて鎮守府将軍に任ぜられ、12日には従四位下左兵衛督(さひょうえのかみ)、弟直義も左馬頭(さまのかみ)となった。さらに8月5日には、尊氏は従三位に昇叙されて武蔵守を兼ね、天皇の偏諱を賜わって「高氏」を「尊氏」に改めた。このころ、倒幕に功のあった将士に恩賞が与えられ、尊氏は30か所、直義も15か所の所領・所職を得た。比志島文書に次のような所領目録が残っている。
足利殿(尊氏)
伊勢国柳御厨泰家跡 尾張国玉江庄貞直跡 遠江国池田庄泰家
駿河国泉庄同 同国佐野庄貞直跡 伊豆国仁科同
伊豆国治須郷同 武蔵久良郡 同国足立郡泰家
同国麻生郷時顕 三河国重原庄貞直 小山辺庄守時
同二宮庄 常陸国田中庄泰家 同国北郡大方禅尼
近江国池田庄 同国岸下御厨泰家 信乃国小泉庄
奥州外浜同 同国糠部郡同 上田庄同
佐渡国六斗郷同 筑前国同 豊前国門司関同
肥後国健軍社 日向国富庄同 同島津庄守時
左馬頭殿(直義)
相模国絃間郷貞直 同国懐島同 伊豆奈古谷郷
武蔵国赤塚 常陸国那河東維貞 遠江国谷和郷同
同国宇狩郷同 同国下西郷 伊与国久米良郷同
近江国広瀬郷貞直 備後国高野 播磨国垂水郷
備後国城山 佐渡国羽持郡同 同国吉岡同跡
これらはほとんど北条氏よりの没収地であり、大部分が地頭職であったと思われる。足利氏に対するこのような厚賞は、その行動が幕府打倒に決定的な役割を果したことから当然であった。
天皇は新政にあたり、記録所を復活して重要政務を審議させ、恩賞方・雑訴決断所を設けて、それぞれ恩賞問題や所領訴訟の処埋にあたらせた。これらの機関の職員は、雑訴決断所でその半数近くを武士が占めたほかは、大部分が公家で、記録所と恩賞方では武士は楠木正成・名和長年など数名をかぞえるのみである。尊氏は高い官位こそ与えられたが、政治の中枢には置かれなかった。武士の統轄と皇居の警備にあたる武者所の頭人の地位も新田義貞の一族に与えられ、足利氏からは、わずかに雑訴決断所の職員に被官の高師直(こうのもろなお)(?-1351)・上杉憲房(?-1336)らが加わっているにすぎない。
新政府は、地方には国司と守護を併置し、幕府打倒に功績のあった公家や武士をこれらに任じた。尊氏は武蔵の国司・守護と上総の守護を兼ねた。北畠顕家(1318-1338.21歳)が尊氏の武蔵守任命と同じ日に陸奥守となり、10月に義良(のりよし)親王(後村上天皇.1328-68.41歳)を奉じて陸奥に下向し、奥羽両国の行政にあたったのは、足利氏の関東における勢力を牽制するためであったが、これに対抗して尊氏側も、11月、直義が相模守の任命をうけ、12月には成義(なりよし)親王(1326-44.19歳)を奉じて鎌倉に下り、関東十か国を管轄下に置くことに成功した。これによって、足利氏は関東における地位を一層強固にすることとなったのである。
新政府はその初政より政策の上で不手際が多かった。恩賞では、誤って一つの土地を数人に与えたり、現に知行する者のいる土地を他人に与えるなどの混乱や、不公平も多く、そのうえ、内裏造営の費用を諸国の地頭に課すなどして、武士たちの期待を裏切ったばかりでなく、所領問題の処理でも、武士社会の慣習を無視した取り扱いをするなど、適切さを欠いたため、武士の間に、新政に失望し、武家政治の再興を願うものが多くなった。
このような情勢は公武の間に不和を生み、武士たちの衆望をになった尊氏(1305-58.54歳)と、尊氏に対してはやくから警戒心をいだいていた護良親王(1308-35.28歳)との対立が表面化した。親王は尊氏襲撃を企て、その機を窺ったが、尊氏が強大な兵力で身辺を固めたので、成功せず、建武元年(1334)10月、かえって尊氏の強い要求に屈した天皇の命によって捕えられ、翌月、鎌倉へ護送され東光寺に幽閉された。
建武2年(1335)7月、北条高時の遺子時行(?-1346)が関東で挙兵すると、新政に不満をいだく近国の武士たちが集まり、たちまち大勢力となった。時行は大軍を率いて鎌倉に迫り、これを迎え撃った直義(1306-52.47歳)は敗れ、幽閉中の護良親王を殺し、成良親王を奉じて西走した。尊氏はこの報に接すると、朝廷に自身東下して時行を討つべきことを請い、征夷大将軍と諸国惣追捕使に任ぜられるよう願った。しかし勅許は得られず、征夷大将軍には成良親王が任ぜられた。そこで尊氏は、8月2日、朝廷の許しのないまま出京し、三河国で直義勢と合流し、各地で反乱軍を撃破しつつ進み、19日には鎌倉を回復した。これを中先代(なかせんだい)の乱という。尊氏は諸将に恩賞を施し、そのまま鎌倉にとどまる気配を示した。
朝廷は尊氏を従二位に叙するとともに、勅使を派遣して尊氏の帰京を強く促した。しかし尊氏は動かなかった。「梅松論」によれば、直義が帰洛に強く反対したためという。11月に入ると、尊氏は新田義貞誅伐の奏状を朝廷にたてまつり、直義の名で義貞討伐の催促状を諸国の武士に発して兵を集めた。新政府に対する公然たる反抗である。これに対して、朝廷では新田義貞(1301-38.38歳)を大将として追討軍を下すことにした。12月、足利軍は箱根および竹の下に義貞軍と戦ってこれをやぶり、敗走する義貞軍を追って西上し、翌建武3年(延元元年)(1336)正月入京した。
京都に入ったのも束の間、北畠顕家軍が足利軍を追って奥州より長駆西上し、義貞軍とともに攻撃したので、足利軍は随所にやぶれ、尊氏は丹波を経て兵庫に出、2月2日ついに船で九州へ逃れた。
尊氏は、3月2日、筑前多々良浜(たたらがはま)で菊池軍に大勝したのをきっかけに、勢力をもりかえし、再起の態勢を整えていった。
4月3日、尊氏は一色範氏(?-1369)らを九州に残し、小弐・大友らの九州勢を従えて博多をたった。途中、中国・四国勢をあわせ、備後の鞆(とも)で二手に分かれて、尊氏は引き続き海路を、直義は陸路をとって東上し、同月25日、兵庫和田岬で新田義貞軍と戦って敗走させ、湊川で楠木正成の軍を全滅させた。後醍醐天皇は27日叡山に逃れ、29日には直義軍が京都に入った。尊氏も6月14日光厳上皇(1313-64.52歳)・皇弟豊仁親王(1321-80.60歳)を奉じて入京し、8月15日には親王が神器のないまま即位して光明天皇となる。
この後も両軍の戦闘が続いたが、後醍醐天皇側は名和長年(?-1336)らが戦死し、次第に敗色が濃くなった。天皇は義貞に命じて恒良(つねよし)(1324-38.15歳)・尊良(たかよし)(?-1337)両親王を奉じて北陸へ赴かせ、自身は、10月10日、かねてよりの尊氏の要請に応じて帰京し、11月2日、神器を光明天皇に授けた。こうして建武の新政はわずか2年半で終わりを告げたのである。
幕府の開設と内乱

11月7日、尊氏は二項十七条よりなる建武式目を公布して、幕府の再興を天下に宣言するとともに今後の施政の基本方針を示した。幕府の組織はこの基本方針にのっとり、ほぼ建武3年(1336)から4年(1337)にかけて整えられた。尊氏はこの間、北朝より権大納言に任ぜられ、さらに暦応元年(延元3年)(1338)8月11日には征夷大将軍(同日位階も正二位にすすむ)となって、ここに名実ともに室町幕府が成立することになる。
後醍醐天皇は建武3年(1336)12月21日、ひそかに京都を脱出して大和の吉野に走り、朝廷=南朝を開いて尊氏の擁立する京都の朝廷=北朝に対抗した。ここに二つの朝廷と二つの年号が併立する南北朝60年の内乱が始まることとなった。
天皇は足利氏討滅を全国に呼びかけ、各地に皇子・諸将を派遣して京都奪還のための勢力の扶植に努めた。これに対して尊氏は、一族を守護に任じて諸国に配置し、関東・九州など、前代以来の有力豪族が守護職を保持する地方には関東管領・九州探題を置いて南朝勢力に対抗させ、あわせて全国支配のための布石とした。
両軍の戦闘は各地で展開された。北陸に下った新田義貞は越前金ガ崎城に入り、その本拠地上野・越後と連絡をつけて活動を開始した。事態を重視した尊氏は越前守護斯波高経(1305-67.63歳)・若狭守護斯波家兼兄弟をこれに当たらせ、さらに執事高師直の弟師泰(?-1351)を救援にさし向けた。師泰らは建武4年(1337)3月、金ガ崎城を陥れて尊良親王を自殺させ、恒良親王を捕えた。斯波軍はその後も反撃する新田軍と激戦を交え、翌暦応元年(1338)閏7月、藤島の戦いで義貞を討取った。
奥州でも、北畠顕家(1318-38.21歳)は、足利軍の猛攻を受けて多賀(たが)国府を放棄し、建武4年(1337)正月、伊達郡の霊山(りょうぜん)に移っていたが、後醍醐天皇の命により再度西上の途につく。同年8月、10万の精鋭を率いて出発し、12月には鎌倉を衝いて義詮の補佐にあたっていた斯波家長を敗死させ、翌暦応元年(1338)1月には美濃に到着した。そこで尊氏は、高師冬(?-1351)を派遣してこれを防がせたが、師冬の軍勢は同国青野原で大敗を喫してしまった。顕家軍はこれより南進して伊勢に入り、伊賀をへて奈良に出、京都進撃の気配を示した。これに対して足利方は、高師直が大軍を率て南下し、2月、般若坂で顕家軍を撃破し、連戦の末、5月にいたり、和泉の石津で顕家を敗死させた。
北畠顕家・新田義貞のあいつぐ戦死は南朝側にとって大きな打撃となった。後醍醐天皇は頽勢を挽回するため、再び皇子を各地に派遣する策をとり、同年9月、懐良(かねなが)親王(?-1383)を征西大将軍として西国に下し、東国方面には、義良・宗良両親王に北畠親房(1293-1354.62歳)とその次子顕信(?-1380?)らをつけて下向させることにした。伊勢を出航した義良親王らの一行は、途中暴風雨にあい、義良親王(後村上天皇.1328-68.41歳)は伊勢に吹きもどされ、宗良親王(1311-85?.75歳?)は遠江に、親房は常陸に標着した。常陸に入った親房は南朝の拠点づくりに奪闘したが、やがて関東執事高師冬の東下によってしだいに圧迫され、康永2年(1343)11月、ついに吉野に帰った。
これよりさき、後醍醐天皇は、暦応2年(1339)、病におかされて、8月16日ついに吉野でその生涯を終え、義良親王が即位した。後村上天皇である。
尊氏は天皇崩御の報に接して悲嘆し、直ちに幕府の雑務沙汰を7日間停止して哀悼の意を表した。そして同年冬、天皇の菩提をとむらうため、洛西の地に天竜寺創建の工を起した。暦応4年(1341)7月の同寺地曳の際には、尊氏は直義とともにこれに臨み、自ら土を担っている(天竜寺造営記録)。尊氏は天皇に背きはしたが、天皇に対して深い敬愛の念をいだき続けたことを示すものといえよう。
これより南朝方はしだいに勢力を失い、貞和4年(1348)正月、楠木正行が河内の四条畷(しじょうなわて)で敗死し、後村上天皇も奥地の賀名生(あのう)に逃れ、南朝はここにまったく名ばかりの存在になってしまった。しかし、足利方も尊氏と直義兄弟の不和から内紛(観応の擾乱)がおこり、この間尊氏も一時南朝に降伏することなどがあった。延文3年(1358)4月30日、尊氏は背中にできた腫(はれ)物が原因で、54歳の波乱に満ちた生涯を京都二条万里小路邸で終えた。遺骸は洛北衣笠山の等持院に葬られた。法号は等持院殿仁山妙義。関東では長寿寺殿と称するが、これは尊氏の開基になる鎌倉の長寿寺が菩提所とされたためであろう。百筒日にあたる同年8月11日には、足利荘の鑁阿寺大御堂で追善のため曼荼羅供(まんだらく)が修せられている。
統一への動き

尊氏の死によって幕府の主となった子の義詮は、元徳2年(1330)6月18日の誕生で、母は北条久時の娘登子、妻は一門渋川義季(1314-35.22歳)の娘幸子である。
延文3年(1358)12月18日、義詮は征夷大将軍に任ぜられた。時に29歳。幕府権力を強化し、南朝を圧服させることが大きな課題として義詮一人の肩にかかってきたのである。幕府内部の二頭政治による権力の分裂は、直義(1306-52.47歳)の死によって解決され、将軍専制への道が開かれたが、そうなると、今度は将軍の補佐役として幕政全般を統轄する執事の地位をめぐる有力武将の対立抗争が起こるようになってくる。
義詮は将軍の権威を高めるために、一族の斯波義将(よしまさ)(1350-1410.61歳)を執事に任命するなどして、幕府の安定を計った。その間に諸国の武士もしだいに幕府に従うようになって、内乱収拾の方向に向かってはいたが有力武将の反抗がしばしば起きていた。実際の統一は三代の義満時代をまたなければならなかったのである。
義詮は貞治6年(1367)12月7日、38歳で世を去り、洛北衣笠山の麓に葬られた。法号は宝篋院殿道権瑞山。
義詮のあとをついだ義満(1358-1408.51歳)は、延文3年(1358)8月22日生まれで、時に10歳。母は石清水八幡宮の検校法印良清の娘で、義詮の妾であった紀長子。応安元年(1368)4月元服、同年12月30日に征夷大将軍に任ぜられた。
義詮の死にのぞんで任用された新管領細川頼之(1329-92.64歳)は、将軍義満が幼少であっただけに、何よりもまず将軍の地位を絶対化し、幕府の安定をはかることに努めた。その手始めとして、就任早々、まず五か条の禁制を発布して、幕府内の綱紀を正し、また、義満の元服の儀・判始(はんはじめ)・諸社参詣など、事あるごとに将軍の権威を高め、威厳を飾るための盛大な行事を催した。
南朝への戦略としては、頼之は、和平論者として南朝で孤立していた楠木正儀(くすのきまさのり)の誘引につとめ、応安2年(1369)2月には幕府に帰順させることに成功した。
一方、九州では南朝方が懐良親王を奉じて、依然として優勢をほこっていた。頼之は今川了俊(貞世)(1325-1420.96歳)を九州探題に起用してこれにあたらせることにした。了俊は応安4年(1371)九州に下向すると、少弐・大友・島津などの伝統的豪族や在地武士たちの誘引と組織化につとめ、巧みな軍略と用兵で、しだいに南朝方を圧迫していった。応安5年(1372)8月には大宰府を占領して懐良親王を筑後に走らせ、さらに応安7年(1374)8月には筑後に進攻して、親王らを肥後の菊池に追いこめ、九州のほぼ全土を回復した。
義満が成人するにつれて、管領頼之の幕政専断に対する諸将の不満は高まり、ついに康暦元年(1379)閏4月、斯波・土岐・山名・佐々木らの諸将が結束して、義満に頼之罷免をせまった。義満はやむなく頼之を免じ、これに代えて足利一族の名門斯波義将を管領に任命した。
頼之の罷免によって、その後見から解放された義満は22歳。幕政を親裁して、いよいよ専制君主への道を歩みはじめる。
そして宿将として勢力を振っていた土岐・山名両氏を討って守護勢力をおさえることに成功したのち、最後の課題である南朝との和平の交渉を推し進め、ついに目的を達した。明徳3年(1392)閏10月、南朝の後亀山天皇(?-1424)は京都に還幸し、北朝の後小松天皇(1377-1433.57歳)に譲国の形式で神器を授けて、両朝の合一が実現した。こうして室町幕府は全国を支配する統一政権となったのである。  
 
足利氏の家臣団

足利氏被官の構成
鎌倉後期の足利氏は整った所領管理支配組織を備えており、被官たちが足利氏の権力を直接に支える存在であったことは先に述べたところである。この点、当時の在地領主層がまだ惣領制と呼ばれる同族結合をその権力の基盤とし、一族団結の力で所領支配を実現していたのとは性格を異にしている。足利氏には、もともと根本被官と呼ばれる、平安末期以来の家人・郎等がおり、これらが被官の中心となっていたと思われるが、他に、鎌倉時代に入ってから、足利氏の被官の列に加わった者も多かったに違いない。
鎌倉時代の比較的早い時期の足利氏の権力構成を知る上で、ある程度、その手がかりを提供してくれる史料に、鑁阿寺大御堂棟札写(鑁阿寺所蔵「灌頂庭儀之図」裏書)がある。この棟札は、足利義氏(1189-1254.66歳)が天福2年(1234)、鑁阿寺大御堂を建立した際、その上棟にあたって棟木に打ち付けられた札で、弘安9年(1286)の雷火による大御堂炎上後、その復興にあたって取り出され、正応4年(1291)に写し置かれたもののようである。上段に大檀那足利義氏と大行事権律師重弘・大勧進阿闍梨了心を載せ、下段にはまず大工覚慶法師の名を記し、その下に巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)・艮(うしとら)に分けて番匠の名を列記しているが、中段は次のように
              私云野田大宮司殿
         藤原朝氏           私云公文所大進
        巽 私云源民部       僧円憲
         厨所允源季能
                私云大平
         左衛門尉高階惟行
        坤     私云小俣別当  左近将監
方方雑掌   阿闍梨禅阿
                私云真下 奉行人
         中務丞有道広経      私云藤左近
        乾             藤原兼資
                 私云刑部左衛門
         左衛門尉高階義定       私云菅宇三郎
        艮        私云佐野   小野有家
         刑部丞藤原範綱
方々雑掌・奉行人として11人の名を記載している。各人に付された「私云(わたくしにいう)……」の注記は、棟札書写当時の確かな所伝にもとづいて書き加えられたものとして、一応信頼してよいと思われる。
雑掌として名を列ねる藤原朝氏ら7名は、巽・坤・乾・艮の四方位に分けられた番匠のグループに対応する形式で記載されているところから、これを現場監督とみる考えもあるが(大河直躬「番匠」)、別に奉行人が記されているので、彼らは結縁衆として、この事業を助成し、上棟供養にあたって、番匠に支給する禄物や饗応物を奉加した人々であったと考えることもできる。どちらとも決め難いが、彼らが足利氏と関係の深い人々であったのは確かである。
7名のうち、「野田大宮司殿」の注記をもつ藤原朝氏は熱田大宮司で、夫人は足利義兼(?-1199)の娘(「尊卑分脈」)、この造営事業の大行事である重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭)とは兄弟の間柄である。阿闍梨禅阿はその注記から、小俣鶏足寺の別当であり、同寺がこのころすでに足利氏ないし鑁阿寺と深い関係にあったことがわかる。この二人はその地位や足利氏との関係からみて、足利氏の被官の列にあったとは考え難い。
残る5名の雑掌および三名の奉行人は被官もしくはそれに準ずる者たちであろう。このうち源民部・刑部左衛門尉・佐野刑部丞の名は、仁治2年(1241)2月日付、足利荘公文所宛足利義氏下文にも九郎入道・宇治江入道の名とともに見え、彼らが足利荘内の給主として鑁阿寺大師講の用途を負担していたことが知られる。また、大進円憲は足利荘の公文所として荘務を管掌した人物であるが、周易に通じ、建長元年(1249)には、鑁阿寺の講莚で「周易注疏」を講じている。
これら被官の出身・素性をいちいち明らかにすることはむずかしいが、この時期には、まだその範囲も狭く、根本被官以外は、足利荘内外の小在地領主や近隣に本拠をもつ鎌倉御家人の一族庶流の出身で、足利氏の被官となった者たちが大部分を占めていたものと思われる。たとえば、佐野刑部丞は安蘇郡佐野荘を本領とする御家人佐野氏の傍流であろうし、真下中務丞は武蔵七党の児玉党真下氏の末裔であろう。源民部は、肩書「厨所允」の意味が不明であるが、梁田御厨(やなだみくりや)の下級荘官の呼称と解することもできる。梁田御厨は足利義国(1091-1155.65歳)から義康(?-1157)・義清(?-1183)と伝領され、義清の討死後、領主権は義兼に移ったが、その際、義清の子孫に御厨の下級領主権が残されたと考えて、この源民部季能を義清の孫で細川氏の祖となる義季に比定したい。義清の後流である仁木・細川の両氏は、足利氏の一族ながらもその地位は低く、ほとんど被官なみのあつかいを受けていたのである。
大平左衛門尉惟行・刑部左衛門尉義定は足利氏の根本被官高氏の一族で、承久の乱には、ともに足利義氏に従って戦い軍功をあげたことは先述した。高(こう)氏一族の名は「吾妻鏡」にも見え、足利氏が椀飯を献ずる際などに、足利氏から将軍へ献上される馬を牽く役目を勤めている。この役目を勤めた者に、高氏以外では日記氏がある。嘉禎3年(1237)4月、将軍頼経(1218-56.39歳)が鎌倉大倉の足利義氏邸に来臨した時の記事に日記五郎の名が見え、建長6年(1254)正月、義氏が椀飯を献じた際には日記三郎の名が見える。「日記」の音は「仁木」に通ずるから、「仁木」を「日記」と書き誤まったと解することができ、したがって、この日記氏は足利義清の子孫の仁木氏に比定してよいであろう。
このように足利氏は、すでに鎌倉前期において、被官中心の権力組織を整えていたと推測されるのであるが、被官は、この段階では、高(こう)氏一族を中心に、仁木・細川氏や近隣の在地領主の傍流などによって構成されていたにすぎず、武力としてもそれほど規模の大きいものであったとは思われない。
ところが、鎌倉後期になると、被官の数は大幅に増加し、それと共に機構も整備されて、倉持文書の足利氏所領奉行注文にみられるように、三方制の所領奉行が置かれ、奉行人として22人の被官が名を列ねるに至る。その中で、高氏一族の南・三戸・彦部の3名を除くと、天福2年(1234)の棟札に見える苗字の者は源民部七郎1名にすぎないのに対して、寺岡(2)・設楽・駿河・横瀬・粟飯原・醍醐・堀松・海老名・有木・村上・上杉・倉持・梶原・小嶋・有富・明石・大炊助の17氏18名を数える圧倒的多数が新顔である。
これら諸氏のうち、寺岡氏の苗宇の地は足利荘寺岡郷であろう。その族人には、南北朝期に入ると、建武3年(1336)6月晦日、京都内野の合戦において将兵の戦功認知にあたった寺岡三郎左衛門尉(吉川家中并寺社文書)、康永4年(1345)の天竜寺供養に将軍尊氏(1305-58.54歳)の帯刀ならびに随兵として供奉した寺岡兵衛五郎師春・同九郎左衛門尉がある(「天竜寺供養日記」)。設楽氏は三河国設楽郡の出身で、同族に富永氏・黒瀬氏などがあり、ともに足利氏の被官である。
駿河氏は三浦氏の一流で、三浦義村(?-1239)の官途が駿河守であったところから、子孫のうちに駿河を称するものがあった。なかでも、義村の孫義行は三浦駿河六郎と称しているから(「尊卑分脈」宇都宮氏の項)、駿河六郎二郎はおそらくその子もしくは孫で、宝治元年(1247)の宝治合戦による一族誅滅の後、足利氏の庇護を受け被官の列に入ったものであろう。「天竜寺供養日記」に帯刀の一人として名の見える三浦駿河次郎左衛門尉藤村は駿河六郎二郎その人かも知れない。横瀬氏は武蔵国秩父郡横瀬郷出身、武蔵七党の丹党横瀬氏の流れをくむ者であろう。
粟飯原氏は北条氏得宗の被官の中にも見受けられるが、おそらく千葉氏の庶流であろう。南北朝期には粟飯原下総守清胤が出て、引付奉行人・政所執事・御厩別当など、幕府の要職を歴任している。
海老名氏は相模国愛甲郡海老名郷を本貫とする。建保元年(1213)の和田氏の乱で、和田義盛(1147-1213.67歳)に加担し討死した人々の中に、海老名兵衛・同太郎兵衛・同次郎・同三郎・同四郎の名が見えるから(「吾妻鏡」)、同氏は和田氏与同の咎によって所領を失い、その後何らかの縁故によって足利氏の庇護の下に入ったと考えられる。有木氏は上総国市西郡海郷有木の出身であろう。
上杉氏は、すでに述べたように、藤原氏北家庶流の公家出身と伝えられており、この家から足利家時の母や尊氏兄弟の生母(清子.?-1342)が出た。注文の上杉三郎入道は尊氏の母の父頼重に比定されている。同氏は南北朝初期より上野・越後の守護として新田氏勢力の切り崩しに活躍し、足利基氏(1340-67.28歳)が関東公方になると、憲顕(1306-68.63歳)が執事に起用され、観応の擾乱では直義方に付いたが、やがて執事に復帰し、以後その職を世襲して関東に勢威をふるったことはよく知られている。
倉持氏は足利氏被官中、最も多くの史料を今日に残している家である。その苗字の地は、豊田武によれば、上総国の市東・市西郡に近接する長柄郡車持(蔵持)郷であるという。同氏の足利氏被官としての所領構成については前にとり上げたが、同氏の史料上の初見は文永3年(1266)4月24日で、左衛門尉忠行が足利家時より陸奥国賀美郡穀積郷地頭代職に補任され、併せて足利荘内国府野(現伊勢町)の屋敷一所を宛行われている。なお、注文の倉持新左衛門尉は実名を家行といい、前記忠行の子である。
梶原氏は相模国に出自をもつ御家人梶原氏の後流であろうと思われる。南北朝初期に、梶原五郎左衛門尉が足利氏領の相模国愛甲荘船子郷内に所領を持っていたことが知られるが(「新編相模風土記稿」)、この人物は注文の梶原太郎左衛門尉の子孫であろう。明石氏は苗字からみて鎌倉幕府奉行人の家の出身で、法曹家としての専門的能力によって足利氏に仕えた人物もしくはその子孫と考えられる。
上記以外にも、足利氏の被官であったことが明らかなものが数氏ある。上総国市原(市東・市西)郡山倉郷を本拠とすると伝えられる(「中世史ハンドブック」)粟生氏の場合は、足利家時時代の弘安4年(1281)には、すでに足利氏の被官となっていたようであるが、嘉元3年(1305)8月14日、粟生四郎入道が足利貞氏より三河国額田郡秦梨子郷の郷司職を安堵されており、正和3年(1314)ごろには、同氏は秦梨子郷のほかに、同郡梅藪屋敷給田および足利荘寺岡郷内屋敷給田畠を知行している。
能登の雄族長氏の庶流にも、足利氏の被官となった木工左衛門尉幸連の系統があった。正和4年(1315)12月20日、幸連は子息たちに所領を譲与したが、そのうち、七郎季連に与えたのは、能登国土田荘上村半分・足利荘給田一町・相模国愛甲荘船子郷屋敷東野畠二段・同給田一町・三河国富永保内助吉名の五か所であった。季連は文保2年(1318)9月17日に、足利貞氏の安堵を受けたが、先に述べたように、兄彦三郎幸康が季連の相続に異議を唱え、訴訟におよんだ。この時の裁許状によって、同氏の所領は右の他に、三河国富永保久延名内田在家・上総国西谷郷内田在家・同富永内田地・足利荘冷水河(現通七丁目付近)屋敷田畠があったことが知られる。
足利荘木戸郷(現館林市域)を苗字の地とする木戸氏も被官の一員で、元徳4年(元弘2年)2月29日、木戸宝寿は、足利尊氏より、足利荘木戸郷・陸奥国賀美郡青塚郷・鎌倉屋地の領掌を外祖父木戸左近大夫家範の例にまかせて安堵されている(上杉家文書)。
また、後に室町幕府の政所執事の職を世裏する伊勢氏も、このころには被官となっており、前に触れたように、伊勢九郎宗継が貞氏時代の上総守護代として活躍している。そのほか、元弘3年(1333)4月、尊氏が丹波で旗揚げした際、願文を書いたといわれる疋田妙玄(「太平記」「難太平記」)や、同年5月新田義貞(1301-38.38歳)が鎌倉に攻め入った際、幼少の義詮(1330-67.38歳)を奉じてこれに加わった紀五左衛門尉も足利氏の被官と考えてよいであろう。
以上のような被官は、その地位・職掌や所領規模などからみて、被官の中でも比較的有力な者たちで、足利氏の近臣的な存在であったと考えることができる。彼らの子孫も、室町時代には多く将軍近臣ともいうべき奉公衆となっている。この他にも、彼ら有力被官を骨組みとする足利氏の所領管理支配機構の末端に組み込まれ、沙汰人などとして現地での所務にあたる、在地性の極めて強い小土豪・名主級の小被官が多数いた。
鎌倉後期における、右のような、足利氏被官の大幅な増加と範囲の拡大は、これを単に、所領の増加−義氏(1189-1254.66歳)のころに多くの新恩地を得た−に対応するものとして捉えるのみでは、十分に納得できる説明を得がたい。一体に、13世紀の後半は、農民の成長が広範にみられた時期で、それに伴い、領主・農民間の矛盾が激化して、領主階級は一様に所領支配の危機に直面しなければならなかったが、この事情は足利氏所領においても変わらなかったはずである。また、このころは蒙古襲来があり、幕府政治も、合議政治から北条氏得宗の専制政治に移行して、御家人に対する北条氏の圧迫が強まった時期であった。政権内部では得宗御内人と有力御家人の対立が激化し、やがて弘安8年(1285)11月、霜月の乱が起こって、安達泰盛(1231-85.55歳)をはじめとする有力御家人の多くが滅ぼされた。事件の累は足利氏にも及び、大きな犠牲をはらうことを余儀なくされている。この時期の足利氏は、このように、一家の存亡にかかわる重大な危機にさらされていたのであった。
足利氏は、こうした状況の下で、所領内村落の上層農氏を被官化し、支配機構の末端に位置づけることによって、所領支配の再編強化をはかり、一方では、没落した御家人や新興武士層の被官化を進めて、ひそかに北条氏の圧迫に抗し得る力を養い、もって事態に対処しようとしたものと思われる。
根本被官高氏

足利氏の被官の中で、最も名をあらわすのは高(こう)氏である。高氏の家系は、天武天皇(631-86.56歳)より出た高階氏の分流で、筑前守成佐の後裔という。「尊卑分脈」によれば、成佐が源頼義(988-1075.88歳)の妹を娶って河内守惟章をもうけ、その子惟頼は、実は源義家(1041-1108.68歳)の四男で3歳の時から養われて大高大夫と称し、その子高新五郎惟真は夜討のために足利で討たれて、堀内御霊宮にまつられたという。惟真の子惟範は、母は那須大夫範之の娘で、父の夜討の際に生まれたが、3歳から13歳まで祖父の許で養育され、その子刑部丞惟長は、「為足利庄依義兼申遣」って、頼朝の口入で陸奥国信夫郡を給わったという。清源寺本「高階系図」では、成佐の子を惟孝とし、その子大高大夫惟頼は、前九年の役の際、源頼義の副将軍となったと伝え、その子高新太郎惟貞は、母が源頼義の娘で、足利義国(1091-1155.65歳)の乳母となっていた関係から、義国の足利下向に従ったらしい。その子惟章は、父惟貞が足利荘で夜討のために討たれた時には母の胎内にあったが、母の兄那須大夫清文の許で養育され、長寛年中(1163-65)、足利太郎(俊綱か)改易のあとをうけて、八条院庁より足利荘下司職に補任され、その子惟長は、弟惟信と共に、寿永2年(1183)11月(閏10月の誤り)に、備中国水嶋の戦いで平家のために討たれたという。
両系図は共に、高氏の本姓を高階氏とするが、地方豪族がその家系を中央貴族のそれに付会することは間々見受けられるから、高氏の場合もそのまま信ずべきでないかもしれない。両系図では、人名に違いがみられるほか、源氏との関係、足利の地との関係についても、伝承に異同があって判然としないが、史科の上で確かめることはできない。ただ、「奥州後三年記」に、源義家の郎等として高七がみえ、「太平記」にも、元弘3年(1333)5月、尊氏(1305-58.54歳)が六波羅勢と戦った際、高氏の一族大高重成(だいこうしげなり)が、敵将陶山・河野を求めて、「八幡殿(源義家)ヨリ以来(コノカタ)、源氏代々ノ侍トシテ、流石(サスガ)ニ名ハ隠(カクレ)ナケレ共(ドモ)、時ニ取テ名ヲ知ラレネバ、然(シカル)ベキ敵ニ逢難(アイガタ)シ。是(コレ)ハ足利殿ノ御内(ミウチ)ニ大高二郎重成ト云者也(イウモノナリ)……」と高声に名乗ったことが記されているから、源義家のころから源氏と主従関係をもっていたことが推測される。足利の地との関係については、高氏が本来、足利の住人であったとも考えられるが、清源寺本「高階系図」の伝える如く、足利義国の下向に従って足利の地に来住したとも考えられ、源姓足利氏の足利地方への進出が、この地の豪族藤原姓足利氏との間に対立を生み、これに関連して、高惟貞(惟真)が夜討にあい足利で討たれたのであろう。
清源寺本「高階系図」は、つづいて鎌倉前期における一族の活躍を伝えている。それによれば、惟長の子惟忠・惟政兄弟は、建久元年(1190)正月、出羽で大河兼任が反乱を起こした際、足利義兼に従って戦い、軍功をあげている。また、承久の乱には、先に述べたように、惟長の弟惟重(「尊卑分脈」は惟長の子とする)・義定父子と惟長の孫大平惟行が足利義氏に供奉して従軍し、惟重は宇治川で戦死、義定は父子の勲功賞として近江国辺曾村を賜わり、惟行も他由(池田か)貫持を討取ったといい、宝治元年(1247)6月の宝治合戦の際には惟重の子重氏が戦闘に参加したという。
この一族は、「吾妻鏡」には、足利氏が椀飯を勤める際などに、献上される馬を牽く役として出てくる。すなわち、嘉禎3年(1237)4月、将軍頼経(1218-56.39歳)が義氏の大倉邸に来遊した時には大平太郎、仁治2年(1241)正月、義氏が椀飯を沙汰した際は高弥太郎、ついで建長2年(1250)・同3年・同6年の椀飯では大平太郎左衛門尉、康元元年(1256)正月、頼氏が勤仕した時には大平左衛門太郎がそれぞれ馬を牽いている。
ところで、清源寺本系図の記載内容を信ずる限り、高氏は足利氏の被官でありながら幕府の御家人でもあったのではないかと推測されるふしがある。先にあげた、義定が承久の乱の勲功賞として近江国辺曾村を賜わっていること、また、この所領は、義定の弟重氏の譜によると、その後、義定の後家を経て重氏に譲られ、重氏は正嘉元年(1257)5月19日に政所より安堵の下文を賜わっていること、義定の子に美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉があること、などである。勲功賞・政所下文の下賜や地頭職の保持をもって直ちに御家人身分の表徴とはなし得ないかも知れないが、惟章の譜の、足利荘下司職補任の記事に統いて、「下司職は本補地頭なり」と記されていることや、高氏が義家以来、源氏代々の家人であった事実を考えあわせるとき、高氏が頼朝(1147-99.53歳)から特に御家人身分を与えられたと考えることは必ずしも無理な推論ではあるまい。
なお、元弘3年(1333)4月27日、尊氏の挙兵に際して、軍勢催促状を受けた野介高太郎は、美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉の子孫かも知れない。
高氏は鎌倉時代を通じて多くの一族を分出したが、彼らは惣領を中心に一族のまとまりを保ちつつ、足利氏に奉公した。前述のように、執事の職には、重氏−師氏−師重と、惣領が代々就任し、一族の者たちも、奉行人や地頭代・郷司などとして、足利氏の家政にたずさわったのである。
高氏の庶流には、別掲系図にみられるように、足次(現館林市域)・泉(現和泉町)・田中・窪田(現久保田町)・恒見(現常見町)など足利荘内の郷名を名乗っている者がある。大平の地名は荘内に二か所(現桐生市域と現佐野市域)あるほか、足利氏所領の三河国額田郡内にも存在するので、何れとも決め難いが、彦部は足利義氏より孫家氏に与えられて斯波氏の所領となる陸奥国斯波郡内の彦部郷に、大高は彦部郷内大高名に当てることができる(「彦部家譜」)。彼らはそれぞれの住郷ないし本拠地の地名を苗字としたものであろう。
これに対して、嫡流の系統は高を称するが、その所領には、長禄3年(1459)12月、師行の子孫師長が提出した目録によると、足利荘内では足次郷(現館林市域)・渋垂郷(現上・下渋垂町)・小曾祢郷(現小曾根町)・山形郷(現佐野市域)・岩井郷・荒萩郷(現瑞穂野町)があった。また、重氏・師氏父子は松本とも称しているので、彼らの屋敷が松本郷(現小俣町)にあったと考えることができる。嫡流は三河国額田郡にも所領を持っていた。永仁4年(1296)3月1日、師氏は額田郡の比志賀郷を娘の稲荷女房に譲っており、文和4年(1355)8月23日、師泰の娘尼明阿(師冬の後家)は、父から譲られた重代相伝の所領同郡管生郷を同郡籠田の総持寺に寄進している。総持寺は師重の娘満目尼の開基になる尼寺であり、前記の師泰娘明阿は姪ひめいちを比丘尼(びくに)にして同寺へ入れ、父祖の菩提を弔わせている(総持寺文書)。また、師重の子輔阿闍梨貞円が同郡瀧村の古刹瀧山寺(ろうせんじ)の大勧進となっており(清源寺本「高階系図」)、嫡流はこの郡とも深い関係をもっていたようである。
嫡流師氏の弟頼基は、足利氏所領奉行注文に、奉行人第一グループの頭人として「南右衛門入道」と記されている人物で、以後この系統は南を苗字とする。清源寺本系図によれば、頼基は文永2年(1265)に足利荘内丸木郷(現名草下町)を知行したといわれる。名草中町の真言宗金蔵院の寺域は南氏の屋敷址と伝えられ、もとは「堀ノ内」と称したという(金蔵院碑)。現在も土塁の一部と堀跡とみられる凹地が残されており、おそらく方一町(約109m)程度の規模の屋敷であったと思われる。
高氏一族の活躍

元弘3年(1333)3月、幕府の命を受けた足利尊氏(1305-58.54歳)は大軍を率いて鎌倉を発し、京都に上ったが、この時、高(こう)氏の一族43人が尊氏に従って西上したという。建武新政がなると、高氏一族も恩賞に預かり、師直(?-1351)が三河権守、師泰(?-1351)が尾張権守、師久が豊前権守、大高重成が伊予権守になるなど、それぞれ官途を得、所領をも賜わったようである。
新政の下では、尊氏は警戒されて、中枢の地位にはつけなかったが、代わりに師直が上杉憲房(?-1336)、疋田妙玄とともに雑訴決断所の職員となって足利氏勢力を代表する立場にあった。
師直は、父師重隠退の後をうけて尊氏の執事となったらしく(「武家年代記」)、建武2年(1335)5月7日、尊氏の意をうけ、松尾社祢宜相世への寄付地の打渡しを豊前国門司関(尊氏の元弘新恩地の一つ)政所に命じている。
建武2年7月、北条時行(?-1353)が信濃で挙兵し鎌倉を侵攻した。これを迎え撃った直義(1306-52.47歳)は敗れて三河に走ったが、この時、南宗継の兄弟宗章は武蔵の土沢で討死したという。直義の敗報に接した尊氏は、8月初め、兵を率いて東下し、鎌倉を回復するが、高一族も尊氏に従って関東に下り、同月14日、駿河国府の戦いで師泰・師久・大高重成が分取りの高名(こうみょう)をあげ、19日の相模辻堂・片瀬原の合戦では重成が負傷している。鎌倉に入った尊氏・直義兄弟はそのまま鎌倉に留まり、関東の経営をすすめるが、この間、師泰は侍所の頭人として将士の統率と鎌倉警固の任にあたっている。
同年11月、尊氏が建武政府に反旗をひるがえすと、朝廷では新田義貞(1301-38.38歳)を主将とする討伐軍を東下させた。尊氏は師泰を派遣してこれを三河矢矧(やはぎ)に防がせたが、師泰は敗れて退き、救援の直義軍も駿可の手越河原で敗れた。12月、尊氏は鎌倉を出て箱根に向かい、ここで義貞軍を撃破し、直義らと合流して敗走する義貞軍を追って西上した。師直は途中、山徒のたて籠る近江伊岐代城を攻め落としている(「梅松論」)。足利軍は翌建武3年(1336)正月の京都争奪戦に敗れて、一旦九州に走り、再挙東上・入京するが、高一族は常に尊氏・直義の身辺で活躍し、その後もしばしば戦功をあげている。
建武3年(1336)11月、尊氏は幕府を再開し行政機構を整えたが、師直は尊氏の執事として尊氏管轄下の諸機関を統轄する一方、直義の管掌する引付方の頭人の一人として所領訴訟の審理に従事し、師泰も侍所の頭人に任ぜられて、尊氏の下で全国の守護や武士達の統率にあたった。そのうえ、師直・師泰らは幕府直属の軍勢の長として各地に発向し、南朝軍を撃破して、戦局を大きく変えるほどの活動をすることが多かったから、高一族の幕府内部における勢力はおのずから増大することになった。このころ、師直は三河権守から武蔵守に転じ、師泰も尾張権守から越後守に転じている。
建武3年(1336)10月、新田義貞が越前に走り金ガ崎城に拠ると、師泰は越前守護斯波高経(1305-67.63歳)の救援に赴き、翌建武4年(1336)3月には金ガ崎城を陥れて尊良親王および義貞の子義顕を自殺させた。同年、陸奥の北畠顕家(1318-38.21歳)が再度西上した時、武蔵守護として東国にあった師直の弟重茂は上杉憲顕らと顕家軍を利根川に防いで敗れ、一旦は逃れたが、翌暦応元年(1338)正月、武蔵の軍勢を率い、京都に向かう顕家を追って東海道を西上した(別府文書)。途中、三河で同国守護の従兄弟師兼や吉良満義が加わり、京都から軍勢を率いて馳せ下ってきた従兄弟の師冬(?-1351)と美濃青野原で顕家軍を狭撃したが再び敗れた。そこで師泰が細川頼春(1304?-52.49歳?)・佐々木氏頼(1326-70.45歳)・同道誉(1296-1373.78歳)らの諸将とともに急ぎ美濃に下ったが、2月、長途の軍旅に疲れた顕家の軍は師泰らとの決戦を避け、進路を転じて伊勢に入り、これを追う師泰らの軍と小規模な合戦をしつつ奈良に出て、一挙に京都を突こうとした。これに対して、師直は師冬らと大軍を率いて出京し、奈良般若坂で顕家軍を大いに撃破し、凱旋した。その後、顕家軍は勢力をもり返し、3月には天王寺で河内・和泉守護細川顕氏(?-1352)を破り、その一隊が男山に進出したので、師直は一族をあげて再度出撃し、男山・天王寺・堺などに戦い、5月、ついに顕家を和泉石津に倒した。尊氏の母上杉清子(?-1342)はこの合戦の模様を関東の一族に報じているが、その消息に、「ほそかハのひやうふのせう(細川兵部少輔)、むさしのかみ(武蔵守)かう(高)名とこそ申候へ、れいのくんせひ(軍勢)に(逃)け候けるが、この二人してかやうに候とこそ申候へ」とあり、師直が細川顕氏と並んで抜群の戦功をあげたことを述べている(上杉家文書)。 なお、「風雅和歌集」に、師直がこの戦いの後住吉社に詣でて詠んだ歌が収められている。
天降るあら人神のしるしあれば
世に高き名は顕れにけり
この一戦によって高一族の名が世に高められたとする師直の自負が窺われよう。
この戦勝は高(こう)氏の評価を一層高め、師泰が尾張、師秋が伊勢、大高重成が若狭の守護に任ぜられて、一族の守護国は従来の三河・武蔵・上総の三か国から6か国にふえ、重茂も暦応3年(1340)には引付頭人の一人となって、一族の幕府内における勢威は増大した。そして、幕政を主宰する直義に対して、師直を中心とする党派が形成され、やがて両派の間に対立がみられるようになった。
高氏一族の没落

幕府の内紛は逼塞していた南朝側に再起の機会を与えた。貞和3年(1347)9月、楠木正行(?-1348)が挙兵し、直義派の部将で河内・和泉守護の細川顕氏および救援に赴いた山名時氏(1303-71.69歳)の軍を撃破した。そこで師直は、細川顕氏に代わって河内・和泉守護となった弟師泰とともに発向し、翌貞和4年(1348)正月四条畷に正行と戦ってこれを倒し、さらに進んで吉野の行宮を攻略した。
直義方部将敗退のあとをうけた師直の勝利は幕府内における師直の権力をいちじるしく強め、直義との抗争がいちだんと激しくなっていった。この争いはさらに尊氏・直義の武力抗争に発展し、幕府内の分裂が深刻化した。これを観応の擾乱と呼んでいる。
                  土佐守
                  ┌師秋
                  │      三戸七郎
    ┌─師氏─┬師行─┼師澄──師親
    │      │     │播磨守
    │      │     └師冬
    │      │        武蔵守 武蔵五郎
    │      │     ┌─師直──師夏
    │      │     │ 越後守  左近大夫将監
 重氏┤      ├師重─┼─師泰──師世
    │      │     │ 豊前守  豊前五郎
    │      │     └─師久──師景
    │      │     刑部大夫 (高南遠江兵庫助)
    │      ├師春──師兼───宗久
    │      │     備前守 ┌ 師兼養子
    │      └師信──師幸  │
    │                                        │                   
    │南          遠江守  │
    └頼基──惟宗──宗継──┘   □は観応2年2月26日討死の者
観応2年(1351)になると尊氏は直義に講和を申し入れた。師直・師泰を出家させることで和議が成立し、2月、播磨に逃れていた尊氏は師直兄弟を伴って帰京することになった。ところが、高一族が摂津の武庫川付近にさしかかった時、さきに師直によって殺された上杉重能(?-1349)の養子能憲(1333-78.46歳)の軍勢が待ち伏せて襲い、高一族および家人数十人を殺した。「園太暦」はこの時討死した高一族として、師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前・豊前五郎・高南遠江兵庫助の8名を記している。この一族の関係を清源寺本「高階系図」によって示すと上図の如くである。
今日、菅田町の光得寺境内に鎌倉時代から南北朝時代ごろのものと推定される五輪塔が19基並んでいる。これらの墓石は、もと樺崎八幡宮の境内にあったのを、明治の初め神仏分離の際に現在地に移したものという。この中に師直の墓があり、地輪に「前武州大守道常大禅定門」「観応二年辛卯二月廿六日」と刻まれている。
高一族は直義・師直の対立に際して全員が一致した行動をとったわけではなかった。高一族の本来の嫡流である師秋父子は一族から離れて直義派に属し、観応2年(1351)7月の政変で、直義が京都を逃れて北国に走った時にも、父子三人が直義と行動をともにしている。
師直の没後高一族の惣領的地位についたのは誰であったか明らかではないが、師直の遺跡は子の師詮(?-1353)が相続したようである。師詮は丹後守護となったが(長福寺文書)、文和2年(1353)6月、楠木正儀・石塔頼房・山名時氏らの南朝軍が京都に進入した時、義詮の救援に向かい、西山で南軍と戦って敗れ、家人県(あがた)・阿保(あぼ)らとともに自殺した(「園太暦」)。師泰の遺跡は師幸の子師秀が継ぎ(清源寺本「高階系図」・総持寺文書)、河内守護となっている。
大高重成は、はじめは直義派に属していたが、師直の死後、尊氏・義詮側につき、観応3年(1352)5月、師直の弟重茂とともに雑務引付の頭人となった(「園太暦」)。重成は夢窓疎石(1275-1351.77歳)に帰依し、康永3年(1344)、直義と疎石の間でかわされた参禅の指針についての質疑応答をまとめた「夢中問答集」を刊行している。南宗継は終始尊氏と行動をともにし、観応2年11月、尊氏が直義討伐のため東下した際これにしたがい、鎌倉に滞留した尊氏の下で執事のような役をつとめている。一族と分かれて直義にしたがった師秋父子も、直義が死ぬと、やがて帰参して鎌倉府に出仕した。師秋の子師有は、関東執事畠山国清(?-1362)が没落した康安元年(1361)から上杉憲顕(1306-68.63歳)が復帰して関東管領(執事)に就任する貞治2年(1363)まで、短期間ではあるが関東執事となっている。
高一族は、このように、師直の死後も幕府の要職についたが、もはや師直時代のように威を内外にふるい幕政を左右するだけの力は持たなかった。そして、以後は、一族の中には、京都に出仕する者もあったが(「永享以来御番帳」)、多くは鎌倉にあって、関東公方の近習となっている。
 
左馬頭義氏 (足利義氏)

三郎義氏、母は北条時政の次女時子にして、後鳥羽天皇の文治5年(1189)、義兼、頼朝に随つて、奥州の藤原泰衡追討中に生れたり。
土御門天皇の元久2年(1205)6月、鎌倉将軍家の宿将畠山重忠、讒に遇うて誅せらるゝ時、三郎義氏17歳にて、討伐の軍に参加す。蓋し初陣ならむ。其の後、順徳天皇の建保元年(1213)5月、和田左衛門尉義盛、北条義時等の横暴を怒つて、兵を起す。世に之を建保の和田合戦と称す。由来和田の一族、其の勢強大なりしかば、幕軍、防戦大に苦めり。時に和田の勇士朝夷名三郎義秀、総門を破り、南庭に乱入して、鬼神の如き猛威を振ひ、之に手向ふ者皆命を殞(おと)さざるはなかりき。足利三郎義氏、当年25歳の若武者にして、また是れ万夫不当の勇士なり。政所前橋の傍にて、両勇遭遇し、何れ劣らぬ三郎同士の奮戦力闘、正に是れ平治の昔、源源太義平・小松重盛の両勇が、紫宸殿前に、追ひつ、追はれつ、桜橘樹を回匝(かいそう)せる光景、かくやと思ひ浮ばれたり。義秀、義氏の鎧袖を引掴む。義氏馬に一鞭して、隍(からぼり)西に飛越ゆれば、鎧袖中断して、馬倒れず、主落ちず。隍東空しく追者を呆然たらしむるのみなりしかば、敵も、味方も、驚嘆するばかりなりしは、源平屋島の合戦に於ける悪七兵衛景清と、三尾屋十郎との錣引を想像せしめて、心膽いとゞ寒からしめたりき。
順徳天皇の建保の晩年(1213−8)、北条義時、相模守より右京権大夫に進み、弟時房、其の後を受けて相模守となり、時房の武蔵守は、三郎義氏之を襲へり。承久元年(1219)正月、三代将軍実朝の、鶴ヶ岡八幡宮に於ける右大臣拝賀式には、義氏前武蔵守として現当武蔵守親広等と参列せり。然るに式場に於ける実朝将軍の横死に依りて、頼朝の血統断絶せしかば、北条氏は、予期せるものの如く、早くも当年2歳の貴公子九条頼経(左大臣道家の子)を鎌倉の主となさむが為に、翌2月、特使を京都に派遣せり。時に頼朝の弟阿野全成の遺子に、冠者時元尊卑分脈には隆元といふ者あり。実朝の凶変を聞くや、直に兵を駿河に集む。思ふに、時元は、おのが源氏の血族たり、且つは北条時政の外孫たるに依つて、実朝の後を襲がむとするに在りしならむ。然れども北条氏は、初めより将軍の継承者を、源氏の一族中より求むるを欲せざりしを以て、直に人に遣はし、討つて之を平げ、これに依りて、時元と志を同じうせる源家一統の野心を挫けり。
【東鑑】巻廿四 ○承久元年二月条
十五日申尅。駿河国飛脚参。申云、阿野冠者時元法橋全成子、母遠江守時政女去十一日、引率多勢、構城郭於深山。是申賜宣旨、可管領東国之由、相企云々。
十九日、依禅定二品(政子)仰、右京兆(義時)被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河国。是為誅戮阿野冠者也。
廿三日、駿河国飛脚参着。阿野自殺之由申之。
鶴ヶ岡八幡社前の凶変に際し、北条氏にして、源氏の一族中より、其の後継者を求むる意志あるに於ては、阿野冠者時元の如き、当然第一候補者たるべき資格者たりしなり。若し時元を除いて、之を他に物色せむとならば、北条氏と血縁浅からざ武蔵前司足利義氏、また其の資格を有する一人たるを失はざるべきなり。然るに聡明なる義氏は、時元輩の如き軽挙を敢てする者にあらず。敢てせずといへども、義氏の心中、政子・義時等の専横にあきたらざりしや必せり。かくて義氏を始として、源家の党類は、鳴を静めて、天意人和を得居る北条氏の為すがまゝを傍観し、発憤の機会を将来に待つ外なきに至りしなり。「増鏡」・「梅松論」其の機微を洞見して、左の如き評語を下せり。
【増鏡】第廿○月草の花条
承久よりこのかた、かしらさし出す源氏もなくて、うづもれすぐす云々。
【梅松論】上
関東誅伐の事、累代御心の底にさしはさまれき。
一は則ち源家一流が、承久以来、北条氏に対抗し得ずして、心ならずも雌服せるを説き、他は即ち北条氏誅伐の事、源氏累代の心底に鬱結せる宿題なるを説けるにあらずや。かくの如き秘密を、表にあらはし得ざる義氏は、勢北条氏の頤使(いし)に甘んぜざるを得ざりしなり。
仲恭天皇の承久三年(1221)承久の変起るや、武蔵前司義氏は、大将北条泰時の次将として、五万余騎を従ヘ、東海道よリ西上せり。諸軍行く行く官軍を破り、義氏は、三浦泰村と共に、宇治に向つて軍を進め、宇治川の橋上に戦ふ。官軍矢石を乱射して、能く防ぐ。泰時急を聞いて、来り援ひしも、尚利あらず。時たま時たま雨後にて、河水大に漲り、東軍溺死する者多し。義氏筏に乗つて先づ渡る。東軍之にならつて進み、終に全く官軍を撃破することを得たり。
変後、後堀河天皇の承久四年(貞応元年)(1222)二月、義氏は、北条義時の後を承けて、陸奥守に任官あり。貞応三年(元仁元年)(1224)9月、美作国に於て、新野保以下数箇所を受領せしが、やがて左馬頭に進み、正四位下に叙せられたり。
四条天皇の嘉禎三年(1237)四月、将軍頼経、大倉の新御堂上棟式に臨まるゝや、帰途、執権泰時以下を随へて、左馬頭義氏の第に入り、歓を尽し、夜に入つて帰館せらる。其の後、御堀河天皇の安貞以来(1227−8)長子五郎長氏・次子宮内少輔泰氏等、相尋いで幕府に出入し、父子相並んで、重きをなせり。北条泰時の女婿たる義氏に対する待遇の、露も漏さぬ親切振には、流石の義氏も、徒に心中の鬱結を秘めて、苦笑する外なかりしならむと想像せらる。
仁治二年(1241)四月、左馬頭・正四位下義氏は、五十三歳を以て、出家入道し、法名を正義と改む。同年(翌年の誤り)、執権泰時も隠退し、子経時之に代れり。後深草天皇の宝治元年(1247)6月、鎌倉屈指の強族三浦泰村一族の乱起る。謂はゆる宝治の三浦合戦是れなり。是の時、左馬頭入道正義は、足利の一門を率ゐて、北条氏を助け、戦後、其の恩賞として、三浦泰村の妹聟たる上総介秀胤の上総国に於ける遺跡を受領せり。
義氏のかゝる得意さに、時人は、「足利殿には、世々相州(北条氏宗家)の恩を戴き、徳を荷ひ、隔てなく相交はられ、一家の繁昌、恐らくは天下に肩を並ぶる者なからむ。」といひて、羨望せりといふ。太平記・神皇正統記外圏より見たる当時の足利氏は、実にかくの如きものにてありしならむ。
翌宝治二年(1248)十二月、足利左馬頭入道正義と、結城上野入道日阿(朝光)と、二元老の間に、一の争議勃発せり。足利氏は、右大将(頼朝)家の連枝、鎌倉御家人の筆頭、北条氏の近親たる関係上、固より重望を負へる名門なり。一方結城氏また鎌倉幕府開設前より、深く右大将の信任を得たる強族なり。而して又足利・結城二氏何れも広大なる領土を下野・常陸両国内に有し、東西相対の関係に在り。時に幕府は、泰時の孫時頼執権たりき。事件の内容は、或る人事に関し、足利家よりの照会文に対する結城家の回答文、礼を失せりといふに在り。是の時、入道正義は、痛く激昂せる体にて、「吾は是れ右大将家の御氏族なり。彼れ日阿、彼の時より仕へて現存する者、相互に未だ子孫に及ばざるに、忽ち往事を忘れて奇怪を現はす。争で誡めの沙汰なかるべき。」と豪語せるに対し、日阿は、少しも騒がず、「先づ之を御覧候へ。」とて、右大将家より結城家に賜はりたる謂はゆる御墨付を、時頼に提出せり。之に拠れば、正義の父上総介義兼と日阿(当時結城三郎)とは、同等の待遇たるべき旨記載しあり。時頼乃ち日阿の所持せる頼朝の文書を幕府に収め、時頼自筆の写に、自筆の状を添へて、之を日阿に授け、双方をすかし宥めしかば、結局正義の主張は破れて、大に其の自負心を傷つけられしなり。
【東鑑】巻卅九 ○宝治二年十二月条
廿八日辛未。今日、足利左馬頭入道正義与結城上野入道日阿、相論書札礼事、被宥仰両方、被閤之。此事、去比就雑人事、自足利、遣結城状云、結城上野入道、足利政所云々。日阿得此状、投返事云、足利左馬頭入道殿御返事、結城政所云々。僕卿禅門、其(甚)憤之、訴申子細云、「吾是右大将家御氏族也、日阿仕彼時、于今現存者也。相互未及子孫、忽忘往事、現奇怪、争無誡沙汰哉。」云々。仍被下彼状於日阿之時、日阿称不能費紙筆、而献覧一通文書。是則右大将家御時、注為宗之家子侍交名、被載御判之御書也。彼禅門厳閤、総州(義兼)与日阿于貶(時)結城七郎可為同等礼之由、分明歟。右京兆于貶(時)江間小四郎為家子専一也。相州披覧之、召留件正文於箱底、染御自筆文、被授日阿、剰被副送御自筆状。其詞云、
右大将家御書正文一通、給置候訖。被載曩祖潤色之間、為家規模之故也。但御用之貶(時)者、宣随命。且為後日、以自筆、所書進案文侯也云々。
日阿施面目云々。
右事件ありし後幾時ならずして、入道正義は、遂に全く意を政治に断ちしが、後深草天皇の建長6年(1254)11月、66歳を以て、大往生を遂げ畢ぬ。法楽寺殿と号す。足利市内に現存せる法楽寺は、其の墳墓の地なり。
義氏は、其の一代を通じて、建保(元年)に於ける和田合戦、承久(三年)に於ける宇治合戦、宝治(元年)に於ける三浦合戦等に、度々の戦功を樹て、門閥勲功並び高く、武将の典型たるに恥ぢざるのみならず。平素意を所領足利の治安に留め、父祖の霊位に、崇敬の誠を輸し、鑁阿守(寺)を再建して面目を一新し、且つ寺法を制定して、庶務を整理せるが如き、社寺編参照其の成蹟頗る見るべきものありき。
義氏また文学詞藻に造詣深かりしが、惜しいかな、其の余韻を聴くベき資料を存せず、僅に一首の詠草伝はれるのみなりき。
【続拾遺集】冬部
霰ふる雲の通路風さえて、
をとめのかざし玉ぞみだるゝ。
義氏の子は、長氏・泰氏・義継・有氏是れなり。次子泰氏家を継ぐ。
長氏
吉良太郎と称し、従五位下・左衛門尉・上総介たり。尊卑分脈長氏邑を三河に有し、同国に於ける吉良・今川等みな其の後なり。
義継
足利左馬四郎と称す。子孫また吉良を名のり、奥州管領たり。尊卑分脈

足利義氏(1189-1254.66歳)は善勝寺大納言隆顕(1243-?)の母方の祖父。「徒然草」第216段に、北条時頼・隆弁とともに登場する。
徒然草・第二百十六段
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻に打鮑(うちあわび)、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)にて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、いろいろの染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
その時見たる人の、ちかくまで侍りしが、語り侍りしなり。
現代語訳
最明寺入道が、鶴岡八幡宮に参詣したついでに、足利左馬入道の屋敷に、あらかじめ使者を遣わしたうえで、立ち寄られたことがある。そのとき、左馬入道が接待なさったが、その献立は最初のお膳には干した鮑(あわび)、二番のお膳には海老、三番にはかいもちいを出して、それで終った。その座には、その屋敷の主人夫婦と、隆弁僧正とが主人側の人として座っておられた。
一段落して、最明寺入道が、「毎年いただいている足利の染物が待ち遠しいことです」とおっしゃると、「用意してございます」と言って、さまざまの色に染めた反物(たんもの)三十疋(ぴき)を、その御前で女房どもに小袖に仕立てさせて、後でお届けなさったのであった。
そのときに一部始終を見ていたひとりで、最近まで存命だったある人が、私にその由を語ったのである。
(最明寺入道は鎌倉幕府第5代執権北条時頼(1227-1263)、足利左馬入道は足利義氏のこと。)
 
足利氏の誕生物語

時は1057年、場所は下野国足利。「殿、ここはなかなか良い土地ではありませんか。あの大河の流れは、一年中切れることは無いと聞きます。」高階惟章(たかしなこれあき)は、奥州遠征の帰途立ち寄った足利の地で、渡良瀬川を背にした陣営にくつろぐ主の源義家(みなもとのよしいえ)に目を輝かせて報告しました。主従の関係とはいえ、高階惟章の母冷泉局(れいぜいのつぼね)は、義家の乳母であったので幼い頃より二人は兄弟同様に育てられ、義家にとっては最も信頼のできる家臣の一人でした。「ほう、惟章、だいぶ気に入ったようではないか。ではあの大河の南半分を足利よりもらいうけ、そのうちの東半分を荘園として開拓したらどうだ?これでも私は元下野の国守、足利殿も私の頼みなら大河の南の未墾の地を譲ってくれよう。」当時、この足利の地は、平将門を倒して一躍関東の大豪族にのし上がった佐野唐沢山の主だった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である藤原系足利氏が治めておりました。東半分という言い方がおかしくて高階惟章は、思わずニヤリとしました。「で、西半分は殿が鋤鍬をもって開墾するのですか?」これには義家も大笑いして答えました。「いやいや、これでも私は源氏の頭領、そんなわけにもいくまい。だが叶うなら戦を忘れ、そんな暮らしをしてみたいものだ・・・。そうだ、私は平和を願い、足利の東の地に八幡宮を寄進しようぞ。」ふたりは久しぶりに心の奥から笑いあったのでした。かくして足利の地は三つに分割され、中心を東西に流れ足利を二分している渡良瀬川を挟み、北半分の足利中心地が土着の藤姓足利氏領、南半分のうち東側を梁田御厨荘(やなだみくりやのしょう)と呼び高階惟章が領有、西側を足利庄八幡郷大将陣(たいしょうじん)と呼び源義家が領有しました。これより30数年もたったある日の事、征夷大将軍となった源義家の元へ高階惟章が訪ねてきました。「殿、どうでしょう。私にはいつになっても実子ができません。そこで今度生まれた日野様の御子を養子にいただけないでしょうか。」日野有綱(ひのありつな)の娘は源義家とは、だいぶ年が離れていたが、義家には最も寵愛されていました。先年義家にとっては三男にあたる義国を出産し、今度の子は四男でした。「そうだな。では三歳となったら乳母とともに預けよう。」こうして義家四男源義頼(みなもとのよしより)は高階惟章の養子となり、名も高階惟頼(たかしなこれより)と改めました。このようなわけで源義国と高階惟頼は実の兄弟でした。兄弟の仲はよく、お互いに信頼しあっていました。家督争いで家が乱れた時も、二人の兄弟はけして争うような関係にはなりませんでした。義家の跡を取るはずの二男義親(よしちか)(長男は早世)が追放となった時、家督は当然三男の義国に譲られるべきでしたが、当時義国は新羅三郎義光(しんにさぶろうよしみつ)(武田祖)の配下として活躍しており、すでに義家にとっては反対勢力と化していましたから、家督は五男義忠(よしただ)から、次男義親の子為義(ためよし)へと義国、高階惟頼兄弟を避けて継がれていきました。二人は家督争いに巻き込まれるように京を追放され、野州足利の地へと逃れるように流れていったのでした。源義国は足利庄八幡郷に土着し、高階惟頼は養父の領地梁田御厨荘に土着しました。源義国、これから後、彼は足利義国と名乗り後の足利将軍家の開祖となるのです。高階惟頼、彼は義国の忠実な執事となり、後の足利家の名執事、高師直(こうのもろなお)の祖となるのです。
足利の地に土着した源義国には二人の有能な子がおりました。長男の義重(よししげ)と次男で正妻の子の義康(よしやす)でした。ある日の事、義国は、二人のわが子を呼び、告げました。「よいか、おまえたちは、いつも対等な兄弟だ、兄弟は決して争ってはならない。そこで二人に公平に私の財産を分け与える。子々孫々まで、仲良く相争うことのないよう、伝えよ。」そして、弟の義康には正妻の子として家嫡を継がせ足利の地を与え、兄の義重には足利の地と同等の広さの未開拓の隣地を切り開き新たな家を興すよう告げました。「足利の隣の地に新田を開き、一族を栄えさせよ。そう、義重、おまえは新田を開く者、これよりは新田義重と名乗るがよい。わしは足利の開拓を終えた身だ。今後は義重とともに新天地の新田で暮らそう。」こうして、二人の仲のよい兄弟は、足利義康、新田義重としてそれぞれの家に分かれたのでした。「我が源氏のしるしは丸に三本の筋が入っている。中央の一本は、長子の印として義重に、両の二本は次子の印として義康に与える。これよりは両家の家紋とするがよい。」こうして二引両(ふたっぴきりょう)の家紋の足利家、大中黒(おおなかぐろ)の家紋の新田家が起きたのでした。新しく領主となった足利義康には難問が待っていました。父義国の弟の高階惟頼の領地、梁田御厨荘の扱いでした。渡良瀬川の北に住む藤姓足利氏の足利家綱(いえつな)は、元より梁田御厨荘は源義家に譲った覚えはないと、その領有を主張し、高階惟頼と激しく対立していたのでした。「宮廷より梁田御厨荘の領有を正式に認められたというのに、未だに藤原の者達は梁田領に了解もなしに入り込み、荘官のごとく領民より租税と称して野武士のように穀物を奪って行く。もう忍耐も限度というものだ。」高階惟頼の子、高階惟真(たかしなこれまさ)は、熱血漢でしたので、足利義康の止めるのも聞かずに、藤姓足利氏に夜討ちをかけました。従兄弟ではありましたが、兄弟同様に育ち仲の良かった足利義康と高階惟真は、性格は正反対でした。夜半、渡良瀬川を渡り、藤姓足利氏の居城両崖山に向かいました。不意を突いた作戦は成功したかのように見えましたが、あらかじめ予測し体勢を整えていた藤姓足利の軍勢にたちまち取り囲まれ、高階惟真は、討ち死にしてしまったのでした。「よいか、私は戦さを嫌った。それがために、梁田御厨荘の領有問題の解決が遅れた。その結果がこれだ。私は誤っていたのだ。自らの領地領民を守る為には、戦かうよりない。われわれは誇り高き清和源氏。我が祖は天下国家の為に剣を持って戦ってきたのだ。恥じないような力を持たねばならない。」足利義康は、遺骸の無い高階惟真の墓前に一族の者を集め誓うのでした。足利義康は、その子、足利義兼(あしかがよしかね)と足利義清(よしきよ)(細川氏祖)に徹底した武人としての教育を行ないました。成人した義兼に父義康は、諭すように告げました。「よいか、この足利の地を守るのは力だ。今や都の者どもには、われわれの権利を守る力はない。これからは兄弟力をあわせ、この地を守るように。」すると、足利義兼から、思いもかけない言葉がかえってきたのです。「父上、守りさえすれば良いのでしょうか。祖義家公は、自らを捨てて天下国家の為に戦いました。我らも都に上って御国の為の戦いをすべきかと思います。」足利義康は、義兼の目に天下取りの野望に燃えた炎の目を見たのでした。「義兼、よくぞ言った。存分にやってみるがよい。」
世の中は騒然とした時代でした。伊豆の山中より天下取りの旗揚げをした源頼朝(みなもとのよりとも)は、やがて鎌倉の地に幕府を開き、武士の時代が到来したことを世の中に示す事になるのです。一度は敗北したものの房総半島より再起した源頼朝の元に、足利義兼は、わずか数騎を伴って、足利の田舎より駆けつけました。やがて鎌倉に入った頼朝には関東に敵はおりませんでした。さて、北条政子(ほうじょうまさこ)(頼朝の妻)の心を巧みに捕らえて源頼朝の厚遇を手中に治めた足利義兼は早速その威厳を示す目的で、鎌倉に広大な足利屋敷を構えました。それは北条一族の屋敷の規模にも匹敵する物であったといいます。むろん源頼朝は、あえてそれを許しました。そうすることで源氏の血の優位性を関東武士団にしらしめる必要があったからでした。しかし、同じ源氏一族でありながら、足利氏の親戚の新田氏に対する源頼朝の態度は、全く対象的に極度に冷たいものでありました。当時の新田荘は、新田一門の努力の開墾で、北関東屈指の規模に発展しており、いまだにわずかな領地を争っている程度の貧しい足利荘とは、比べものにならないほどの規模でした。新田義兼は、新田家の支族程度に没落した思っていた足利氏に頭ごなしの待遇がもたらされるのが、何とも我慢の出来ない事でした。財力的にも、関東武士団の中では、トップクラスの力を持つ新田氏だったのです。それに見合った鎌倉屋敷の建設許可を幕府に申し出ましたが、認められたのは市中に門構えもままならないような、わずかな場所でした。「新田義兼殿には、武士の頭領としての才覚は無かった。無かったのにも関わらず、大きな望みを持ちすぎたのだ。頼朝殿も、充分見抜いておられる。今の新生幕府には、新田殿の力は、ただ迷惑なだけなのだ。」足利義兼は新田義兼に同情しました。上州から越後にかけて巨大な勢力を持ちながら関東武士団の心を捕らえる事が出来なかったばかりに天下取りのいくさに遅れ、源頼朝の冷遇に耐えなければならない。ほんの数カ月前までは家臣とさえ思っていたたった数百石足らずの足利氏に先を越されてしまったのです。その屈辱感は、相当な物であるに違いありませんでした。足利義兼は源頼朝の忠実な家臣としてよく働きました。そうすることで地力を蓄えなければ小国の生きる道は無いと考えての事です。北条政子の義弟としての立場を彼は大いに利用しました。彼は、形の上でこそ源氏の天下ではあるが実態は北条政権であることを当初より正確に見抜いていました。彼はそのロビー外交手腕のすべてを北条氏にむけたのです。北条時政(ときまさ)の娘との間に生まれた足利義氏(よしうじ)の正妻に、北条泰時(やすとき)の娘をもらい受けたのもその一つでありました。また別腹の足利義純(よしずみ)には、畠山重忠(はたけやましげただ)と死別した北条時政の娘、つまり足利義兼の妻の姉妹にあたる年上の娘をもらい受けました。足利義兼の手腕は戦場の時以上に発揮しました。彼は足利郷での旧来よりの絹織物生産に全力を上げさせました。可能な限り高級に仕上げ、その大半を蓄財ではなく、外交に利用しました。これが絶大な力を発揮しました。金を積んでも入手できない高級品となると、多くの武家の女達が争って、つてをもとめて足利義兼の所へおとづれ請い求めます。これを政治賄賂として利用して、鎌倉での足利氏の地位はますます高まったのでした。やがて時は移り足利義兼の子足利義氏の代になると、その地位は不動の物となりました。宝治二年(1248)、結城朝光(ゆうきともみつ)は足利義氏よりの書状を手に、声を荒げ、家臣に何事かわめき散らしていました。「足利の田舎者が、このような書状をよこしおった。」家臣の一人が、放り投げられた書状を手に読み返し、不思議そうに主人に訪ねます。「ただの連絡事かと思いますが、なにかこの文面に不快な事でも?」「わからぬのか。たわけ。結びの肩書を見よ。」言われて家臣は、ハッとしました。そこには、「結城上野入道殿、足利政所」とあるではありませんか。結城家も足利家も幕府の御家人の立場、いわば同輩であり、当然主従の関係にはありません。書状では「結城政所殿、足利左馬頭入道」と相手を立てた書き方をするのが当然の礼儀であるのに、これでは相手を見下している事になります。ただちに結城朝光はさほど必要とは思われないこの書状の返書をかき、最後に、ことさら墨を濃くしたうえで「足利左馬頭入道殿、結城政所」と添えました。事は、ついに執権時頼の所にまで及び、時頼は、双方を呼び事情を聞きました。結城朝光は結城家が源頼朝の元で活躍した家系を示し、足利は我が名門結城よりはるかに家格は下であると主張しました。一方の足利義氏は結城氏は元々源氏の元で働く者であると主張し、そのうえで、我が足利は源氏の嫡宗が途絶えた今では、最も源氏宗家に近い、いわば源氏頭領である。つまり結城家は足利家より家格が下であると訴えました。幕府創設期にはたしかに名門結城氏であり、いかに源氏の血を引くとはいえ当時はなりあがりの足利氏のほうがはるかに家格は下と思われていました。しかし、執権時頼の裁定は御家人達を驚かせました。時頼は、双方を同格と裁定し、双方を宥め、事を治めたのです。ついに足利氏の力を幕府も認めざるを得ない時代がきた象徴的な出来事でした。足利氏は源氏の頭領としての地位を着々と手中に治めつつありました。
足利義氏は、嫡子に義父の北条泰時より一字をもらい、泰氏(やすうじ)と命名しました。すでに北条執権の力は国を安定させていました。北条一族でありしかも源氏の嫡流という名誉な地位を築いた足利家は、その勢力を全国に広げていったのでした。とくに三河地方は足利の経済基盤を大いに強めることになりました。ここは肥沃な土地で農生産物が豊かに取れ、しかも東西の経済交流の中間点として栄えました。足利義氏は、泰氏の兄にあたる長氏にこの地を与え、治めさせました。足利長氏は、やがて後の時代に戦国大名として名をはせる今川家、吉良家の祖となるのでした。また、いとこにあたる足利義実からは細川家、仁木家のやはり名家が誕生することになります。兄弟には畠山家、桃井家をそれぞれなのらせ、巨大な足利一門を全国に形成していったのでした。足利氏の勢力拡大は足利義氏の子、足利泰氏の代に最大になりました。その子らは、一色公深、石塔頼茂、渋川義顕、斯波家氏となり足利家を支える重臣となりました。北条氏の勢力拡大に平行して足利一門の黄金時代が築かれていったのです。ある日の事、足利泰氏の元に、奇妙な来客がありました。出で立ちこそ今から戦場に向かわんとするりりしい武士の姿ではありましたが、その言葉遣いは、どうみても似つかわしくない京なまりでした。それでもにわか仕込みのあずま言葉でうやうやしく挨拶をするので、思わず足利泰氏は吹き出してしまいました。「はあ?平石殿、そんなに私の言葉は奇妙ですか。」足利泰氏は、鎌倉御家人からは、特別の親しみをこめて平石殿と呼ばれていました。この京なまりの男もそれにならい足利泰氏を平石殿と呼んだのです。「いやいや、失礼した。貴殿は公家と見たが、いったいその格好はどうなされた。」足利泰氏は、この奇妙な来客にたいそう興味をもちました。「はい。私はご察しの通り、京は勧修寺(かんしゅうじ)家の者で名を重房(しげふさ)と申します。このたびの宗尊将軍の下向に従い鎌倉に参ったばかりでございます。」あいかわらずの京なまりで、しかし勉強したと思われる間違いの無い鎌倉言葉でした。「それが何故にそのような武家の格好をしておるのか?」聞くと、この勧修寺重房という男、鎌倉下りに際し、公家を捨てて武士になる決心をしたといいます。そのため京で武家の風習を習い、言葉も覚えたという事でした。「公家などと聞こえはいいが台所は火の車。そんな未来の無い公家には、もう飽き飽きいたしました。これからは武士の世であります。どうでしょう平石殿、私を家臣の末席に加えてはいただけませんでしょうか。」その目には、何とも言えぬ光がありました。「なぜにこのような鎌倉の末席の足利に?貴殿の家柄なら仕えるにふさわしい家がいくらでもあるだろうに。」勧修寺重房は、その言葉にニヤリと含み笑いをしました。「京では、家柄で家格が決められます。都の者達に聞けば鎌倉で一番家格が上なのはどこのお屋敷か決まっております。それは清和のみかどの血に最も近いお方でございます。伊豆の山賊の末裔などではございません。」その言葉にはさすがに足利泰氏は驚きました。そしてそれは足利家のだれもが潜在的に心の中に秘めた事でもあったのです。「おもしろい。勧修寺重房殿、都の事情に詳しい貴殿の能力を買って、ぜひ我が足利に来てもらおう。」勧修寺重房は、こうして足利氏に仕え、名も公家名字から武家名字の上杉と改め、上杉重房(うえすぎしげふさ)と名乗りました。後の時代に、足利本家をしのぐほどの関東の名門となる、上杉家の初代でした。
上杉重房は、頭の切れる男でした。次々と公家との橋渡しを実行し、京での足利氏の足場作りに奔走しました。こうして足利泰氏の絶大な信頼のもと三番奉行として足利一族内部での発言力はどんどん高まっていったのです。上杉重房の娘が側室として足利泰氏の跡取りの足利頼氏(よりうじ)の元に上がり血縁となった時、その立場は歴代の筆頭執事の高階氏に次ぐ地位にまで上っていました。やがてこの側室から生まれた男子が足利家始まって以来の北条家の母でない嫡子となったのです。足利家時(いえとき)でした。足利家時は、露骨なほどに母方の上杉氏を最も重用しました。本来なら家督を相続できる立場になかった自分を強力にバックアップし、現在の地位に導いてくれた上杉氏に絶大な信頼をよせていたのです。代が上杉重房から上杉頼重(よりしげ)になってもその気持ちに変化はありませんでした。何事に付けても上杉頼重の勧めにしたがい強大な足利氏の舵取りを行なっていったのです。もともと京の公家達に強いつながりを持っている上杉氏のフル回転で、足利家時は京での立場が大いに向上していました。京では足利家時は式部大夫と呼ばれ、鎌倉ではそれが足利家時の京かぶれを象徴するものとして陰口の際の陰称として使われていたほどでした。事実、足利家時は京の都に憧れていました。上杉頼重の働きで六波羅探題時茂の娘を妻に迎えてからは、毎夜毎夜聞かされる都の艶やかな話に、その気持ちはつのるばかりでした。文保元年、足利家時は三十五歳になっていました。その日、先年高階重氏より足利家執権を引き継いたばかりの高階師氏(たかしなもろうじ)が足利家時を訪ねました。「殿、我々は祖義兼公以来の関東武士でございます。もう少し御家人達を大切にしませんと・・・。」「またおまえの愚痴か。私は武士には、とんと愛想がつきておる。もう剣を取って野蛮な戦いをする時代ではない。だいたい、おまえのかぶれておる義兼公を始めとして歴代の足利一門のやってきた事といったら何だ。鎌倉将軍や執権殿に媚びるだけの家系ではないか。どこに関東武士の名誉などあると言うのだ。私は太刀を捨てて京屋敷に暮らすのが今の夢だ。少なくとも鎌倉殿にへつらってきた御先祖よりはましというものだ。」毎度この対立の繰り返しでした。古い関東武士気質の高階重氏には、モダンな上杉頼重に感化され切った足利家時が、どうにも歯がゆかったのです。「殿、今日はその事も有りますが、ぜひ殿に見ていただきたい物がございます。祖義兼公より足利家に代々継がれてきた秘宝でございます。これには、義兼公より伝えられた古文書が入っております。代々足利を継ぐ者は、これを読み、読んだ者はたとえわが子であろうとその内容を他の者に話してはならないという掟がございます。代々執権を務めております高階が大切に管理し、足利家の当主になった方に一度だけおみせする習わしになっております。ぜひ殿のお手で開けてくださいますようお願い申し上げます。」言われて眺めると、古めかしい、しかし管理の行き届いた黒漆の箱がそこに置かれてありました。年数の経つ父の花押の封印を破るとそこに緑青を吹いた錠がありました。懐剣で軽く叩くと簡単に錠は開けられました。中にはだいぶ変色した文書が入っていました。それをやおら取り上げ無造作に読みだした足利家時の顔がみるみる蒼白になっていきました。しばし呆然とその文書をながめていた足利家時は、ふらりと立ち上がると夢遊病のように奥の部屋に入っていったのでした。その日、足利家時は自害しました。古文書には、祖源義家が、死に際し自分は七代目の子孫に変わって天下を取ると遺言したとしたためてありました。そのためには歴代足利家を継ぐ者は、自分を犠牲にして七代目の成就の為に尽くせ。ひたすら耐え忍びその時の為に蓄えよ、ともありました。その七代目がまさに足利家時だったのです。足利家は、その大きな野望の為に代々の主君が恥を忍び権力者に媚び力を蓄えてきたのです。なのに足利家時はそんな先祖の所行を恥じ軽蔑し、武士を捨てたいとさえ思っていました。全てが義家公の生れ変りとなる自分の為にしたことなのに。足利家時は遺言を残し自害しました。「南無八幡大菩薩。私は足利家の悲願を成就させるべき立場にありながらこの所行。恥じ悔いております。願わくば、この命ささげますのでどうか三代後にふただび生れかわり真に天下を取らせたまえ。」
足利家時の自害は足利一族に衝撃を与えました。自害の理由を足利家執権の高階師氏に問いつめる家臣も多くいましたが、高階師氏は、重臣以外にその理由を明かすことを強く拒みました。噂は鎌倉中に流れたが、誰もその正しい理由はわかりませんでしたので、「足利一族には、悪い血が流れている。どうやら足利氏は代々頭に障害のある者が誕生するらしい。」などといった噂がもっともらしく飛び交いました。高階師氏は、幕府に対し足利家時がにわかの病死のため家督を長子に継がせるむねの届け出を淡々と行いました。「足利殿の子は何と申したかのう?」執権の北条貞時は、北条一族にも使わない丁寧な言い回しで、足利家時を足利殿と呼びました。「はい、烏帽子親の貞時(さだとき)様より一字をいただいた足利貞氏(さだうじ)と申します。」時の執権に烏帽子親になってもらい、その名をもらうのは足利家の伝統でした。足利義氏は北条義時から、足利泰氏は北条泰時から、足利頼氏は北条時頼から、足利家時は北条時宗からと、それぞれ名を貰っていたのです。家督を継いだ足利貞氏は熱血な青年でした。「本来、将軍は得宗より身分が上である。将軍とは、もともと関東武士団を統率し、天子様の元で天下に号令する役目をもっている。それなのに今の将軍は京都より招かれた人形ではないか。将軍には将軍にふさわしい関東武士で源氏の嫡流が任命されるべきである。」と公言してはばかりませんでした。これが意外にも鎌倉御家人の間に評判となりました。鎌倉御家人は源頼朝の元で戦った先祖をみな誇りとし、いかに勇敢に戦ったかを家の自慢としていました。源氏の嫡流の号令のもとで、天下の大業を行なうことは御家人たちの共通の夢だったのです。足利貞氏には美しい妻がありました。父方の親戚である上杉頼重(よりしげ)の娘です。足利貞氏は子どもの頃から上杉屋敷に遊びにいくたびに見かける美しい姫に憧れていました。家臣のなかには、元々足利一門ではない上杉の力が足利家の中でますます強くなる事を快く思わない者が多くいましたが、足利貞氏のたっての望みで父家時に許され娶った妻でした。上杉頼重の娘は清子(きよこ)といいました。清子は美しい姫でした。それと同時に決断力がある才女でもあったのです。「私の勤めは征夷大将軍の母になる事です。」足利家時の自害の本当の理由を告げられた清子は、はらはらと涙を流しながらも、足利貞氏に向かってはっきりと言い切ったのでした。「おお征夷大将軍とな。それは場合によっては北条に弓を引く事になる。なかなか大きな事を申す。」足利貞氏は驚きながらも、自分の心を理解してくれる妻を娶った事を誇りに思いました。足利貞氏はわが子を部屋に呼びました。嘉元3年(1305)に清子の産んだ長子は13歳に成長していました。「又太郎。我が父は祖義家公の遺言により義家公の生れ変りであった。義家公は八幡大菩薩の化身である。このたびその遺言により、そなたにすべてを託すとあった。つまりはそなたには本日より八幡大菩薩となったのである。このことしかと伝えたぞ。」又太郎は色白で貴公子にふさわしい顔立ちをしていました。そのきゃしゃな身体でうやうやしく父の前に礼する又太郎の顔は含み笑いをしていました。2年後、足利又太郎は元服し、従五位下、治部大輔に任ぜられ、名も得宗北条高時より一字をもらい、足利高氏(あしかがたかうじ)と名乗りました。こののち北条執権幕府を倒し、京都の室町に新幕府を開き十五代にわたり栄えることになる足利初代将軍足利尊氏の登場でした。
 
足利尊氏1 (1305-1358)

鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、鎮守府将軍八幡太郎源義家の子、義国を祖とする足利氏の嫡流。足利将軍家の祖。足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。
後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。
幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。北朝において後光厳天皇の新千載和歌集は尊氏の執奏によるもので、以後の勅撰和歌集が二十一代集の最後の新続古今和歌集まで全てで足利将軍の執奏によることとなった発端にあたる。後醍醐天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。
誕生から鎌倉幕府滅亡
尊氏は嘉元3年(1305)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。「難太平記」は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319)10月10日15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。「難太平記」は尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。元弘元年(1331)後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。「太平記」はこれにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。
元弘3年/正慶2年(1333)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、5月7日六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時、高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。
建武の新政から南北朝動乱
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。
後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334)尊氏は、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。
建武2年(1335)信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、8月2日勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐19日鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に会った尊氏は同年2月京都を放棄して赤松円心の進言を容れて九州に下った。
九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像の宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上る途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月京都を再び制圧した。
京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。
観応の擾乱から晩年
尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ(在職1338-1358)ここに、後に室町幕府と呼ばれることになる武家政権が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。南朝との戦いでは新田義貞の弟・脇屋義助を撃破し越前から駆逐することに成功。楠木正成の遺児・楠木正行も四条畷で討ち取り、吉野を焼き討ちにするなど戦果をあげた。
新政権において、尊氏は政務を直義に任せ、自らは武士の棟梁として君臨した。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した。二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こしていき、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていたが、師直派に擁立されてしまう。正平4年/貞和5年(1349)襲撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなったが、直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説がある。
尊氏は直義に代わって政務を担当させるため嫡男義詮を鎌倉から呼び戻し、代わりに次男基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350)尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝方に付き、桃井直常、畠山国清ら一部の譜代の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、尊氏も直義に摂津国打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高兄弟の出家を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351)和議が成立した。高兄弟は護送中に上杉能憲により謀殺されている。
直義は義詮の補佐として政務に復帰した。尊氏・義詮は佐々木道誉や赤松則祐の謀反を名目として近江・播磨へ出陣し、実際には直義・直冬追討を企てて南朝方と和睦交渉を行なった。この動きに対して直義は北陸方面へ脱出して鎌倉へ逃げた。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。平行して尊氏は直義を追って東海道を進み、駿河薩捶山(静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)などでの戦闘で撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は正平7年/観応3年(1352)2月に急死した。「太平記」は尊氏による毒殺の疑いを記している。
その直後に宗良親王、新田義興・義宗、北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を制圧すると、京都へ戻った。その後足利直冬が京都へ侵攻するが、結局直冬は九州へ去る。正平9年/文和3年(1354)京都を南朝に一時奪われるが、翌年奪還した。尊氏は自ら直冬討伐を企てるが、正平13年/延文3年4月30日(1358)、背中に出来た癰(よう、腫物)のため、京都二条万里小路邸にて死去した。享年54、尊氏の墓・等持院。
足利尊氏2

嘉元3-延文3(1305-1358)清和源氏。三河・上総の守護を勤めた足利貞氏の子。母は上杉頼重女、清子。庶腹であったが、父の正妻に子がなかったため嫡男として家を継いだ。幼名は又太郎。直義の同母兄。執権北条高時を烏帽子親として元服し、高時の名より一字を得て高氏を名乗る。
元応元年(1319)従五位下に叙され、治部大輔に任ぜられる。正慶2年(1333)3月幕府の命により後醍醐天皇方を討つため上洛するも、途中で討幕に翻意、六波羅探題を滅ぼして京を掌握した。鎌倉幕府滅亡後、建武中興の大功労者として後醍醐天皇より諱の一字を賜り尊氏と改名する。元弘4年(1334)正月、正三位に昇叙され、同年9月には参議に就任。建武2年(1335)7月、北条時行が信濃に挙兵し鎌倉を占領すると、翌月討伐のため関東に下向。この際征夷大将軍の地位を望んだが、天皇は征東将軍に任ずるに留めた。鎮定後、環京の命を拒絶して鎌倉にとどまり、建武政権に反旗を翻す。やがて尊氏追討に下向した新田義貞の軍を箱根に破り上洛したが、北畠顕家らの奥羽勢に敗れて九州へ落ち延びた。この際、光厳院に新田義貞追討の院宣を請い受け、やがて勢力を盛り返し摂津湊川に楠木正成を倒して再上洛。建武3年(1336)8月、光明天皇を即位させ、同年11月、建武式目を公布して室町幕府を開く。同月、権大納言に任ぜられ、翌暦応元年(1338)8月、待望の征夷大将軍に任命された。しかし前年末に後醍醐天皇は京より吉野に脱出して南朝を樹立、南北朝動乱の時代が幕を開けた。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御すると喪に服し、光厳院の命により亡き帝を弔うため天龍寺の造営を計画、康永4年(1345)に完成させて夢窓疎石を住持にすえた。
幕府の政務は弟の直義に委ねていたが、やがて執事高師直との対立を深めた直義は観応元年(1350)に蜂起し、高氏一族を滅ぼした。尊氏は直義を討つため南朝と和睦した上、関東に兵を率い直義を降伏させた(翌年、直義は急死。尊氏による毒殺とも言われる)。文和元年(1352)、光厳院の第三皇子後光厳天皇の即位を実現。その後、直義の養子直冬と結んだ南朝方に京都を奪われるなどしたが、文和4年(1355)3月、子の義詮とともに京都を恢復した。延文3年(1358)4月30日京都二条万里小路邸で病没。享年54。法名は仁山妙義。等持院と号し、鎌倉では長寿寺殿と称された。贈左大臣、のち贈太政大臣。墓所は等持院(京都市北区)。
和歌・連歌を好み、二条為定に師事、また頓阿を厚遇した。貞和元年(1345)冬、為定より三代集の伝授を受ける(新千載集)。延文元年(1356)、新千載集の撰進を企画、これは勅撰集の武家執奏の先蹤となった。元弘3年(1333)7月立后の月次御屏風和歌、暦応2年(1339)6月の持明院殿御会、建武2年(1335)の内裏千首、建武三年の住吉社法楽和歌、暦応2年(1339)の春日奉納和歌などに出詠。貞和・延文百首に詠進(続群書類従に「等持院殿御百首」として収録)。続後拾遺集初出。風雅集には16首、新千載集には22首入集。勅撰入集は計86首。
 
新田義貞1 (にったよしさだ・1298/1300-1337)

鎌倉時代末期の御家人、南北朝時代の武将。正式な名は源義貞(みなもとのよしさだ)。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系/河内源氏の棟梁/鎮守府将軍源義家の三男/源義国の子/贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国(上州)に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882)8月7日贈正一位。
新田氏(上野源氏)は、河内源氏三代目の源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国の長子の新田義重に始まり、新田荘(にったのしょう、現在の群馬県太田市周辺)を開発したが、義貞の時代には新田氏本宗家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。
文保2年(1318)10月の義貞の売券案が残っているが売主が新田「貞義」と誤記されており、幕府での新田本宗家の地位の低さをあらわしている。また、義貞の長子義顕の生母を安東氏とする史料があり、これを有力な御内人安東入道聖秀の娘であるとする説がある。これが事実とすれば、没落御家人の新田本宗家が得宗家御内人の安東氏の娘を娶ったことになる(または、聖秀の一族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤五郎重保(左衛門少尉)の娘の説もある)。
霜月騒動で上野国の守護が安達氏から得宗家へと替わり、上野でも得宗専制の影響が強くなってきたと見られ、必死になって権力にすがり付いて衰退する新田本宗家を立て直そうとする父・朝氏と義貞の涙ぐましい努力が垣間見える。また、その衰退に伴って新田本宗家の一族に対する影響力も下降線をたどっており、元亨2年(1322)に、一族の岩松氏系の岩松政経と本宗系に近い大舘氏の大舘宗氏が用水争いを起こした際、幕府に裁定を持ち込んでいる。おそらく義貞の裁定では収まらなかったのであろう。
挙兵から鎌倉
元弘元年(1331)から始まった元弘の変では、大番役も兼ねて鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成の千早城の戦いに参加している。しかし、義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう。これを理由のひとつとして、幕府は新田荘に対し多大の軍費を要求し、横暴的な取立てを行っており、義貞が幕府に背き挙兵を決意する直接のきっかけになったとも考えられる。
「太平記」と「梅松論」では、病気と称して新田荘に逼塞していた義貞が、軍費の取立てのため新田荘の検分に来た幕府の徴税使・金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)を捕えて、親連を幽閉し、彦四郎を斬ったことで、挙兵を決意したと記してある。両使が新田氏に銭6万貫を5日のうちに上納せよと命じ、これに義貞が反発したという。また、元弘の変で出兵中、ひそかに護良親王から北条氏打倒の令旨を受け取っていたとの説もある。
元弘3年/正慶2年(1333)5月8日、後醍醐天皇の呼びかけに応え、生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか150騎にすぎなかったと伝えられている。当初は利根川を超えて、一族が多数いる越後方面へ進軍する予定であったが、弟の脇屋義助に諭されて鎌倉攻めを決意したと伝えられる。
越後の一族も加わり、新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利高氏(後に尊氏)の嫡子千寿王(後に足利義詮)の軍と合流した。北条氏と累代の姻戚関係にある外様御家人最有力者である足利高氏の嫡男が加わったことにより、周辺の御家人も加わり、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。
さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田貞国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する(小手指原の戦い)。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となり、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退却する。幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する(分倍河原の戦い)。
新田軍は一度は大敗するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦氏一族の大多和義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破しており、恐らく足利高氏による六波羅探題滅亡の報が到達しており、幕府軍の増援隊の寝返りなどがあったのではないかとも考えられる。翌日、多摩川を渡り、幕府の関所である霞ノ関(東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家と決戦が行われ、新田軍が大勝利を収めている(関戸の戦い)。
藤沢(神奈川県藤沢市)まで兵を進めた義貞は、軍を化粧坂(けわいざか)切通し方面、極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面に分けて鎌倉を総攻撃。極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、干潮に乗じて稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導く。しかし、鎌倉陥落後、千寿王を補佐するために足利高氏が派遣した細川和氏・顕氏兄弟らと衝突し、居場所を失った義貞は上洛する。
建武政権
建武の新政においては、義貞は鎌倉攻めの功により1333年(元弘3)8月5日、従四位上に叙位。左馬助に任官。上野介、越後守等を兼任。同年10月には、播磨介を兼任。この年、武者所の長たる頭人となる。また、上野国・越後国両国守護を兼帯。翌年、播磨守と同国守護も兼帯。以後、左衛門佐、左兵衛督などの官職を歴任。
建武2年(1335)に信濃国で北条氏残党が高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領する中先代の乱が起きると、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま討伐に向かい、鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめる。尊氏は義貞を君側の奸であるとしてその追討を後醍醐に上奏するが、逆に後醍醐は義貞に尊氏追討令を発し、義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。
義貞は弟脇屋義助とともに矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、手越河原の戦い(静岡県静岡市駿河区)で足利直義・高師泰の軍を破るが、鎌倉から出撃した尊氏に箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破され、尾張国に敗走した後、京へ逃げ帰る。
翌建武3年(1336)正月、入京した尊氏と京都市外で再び戦い、奥州より上ってきた北畠顕家と連絡し、京都で楠木正成らと連合して足利軍を駆逐する事に成功。再入洛を目指す足利軍を摂津国豊島河原(大阪府池田市・箕面市、豊島河原合戦)で破る。この功により同年2月、正四位下に昇叙。左近衛中将に遷任。播磨守を兼任。さらに、九州へ奔る尊氏を追撃するものの、播磨国の白旗城で篭城した赤松則村(円心)に阻まれて断念。
尊氏は九州を平定し海路東上してくるが、義貞は白旗城に篭城する赤松軍を攻めあぐね、時間を空費する。楠木正成らと共同して戦った湊川の戦い(兵庫県神戸市)において義貞は和田岬に陣を構えて戦うが、足利水軍の水際防衛に失敗し、西宮(兵庫県西宮市)で再起をはかるが京へ敗走する。
北陸落ち
新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町)湊川の戦いの後、比叡山に逃れた宮方は、足利方に奪還された京都を取り戻すために賀茂糺河原などに攻め下るが阻まれる。後醍醐天皇は足利方との和議を進め、義貞を切り捨てて比叡山から下山しようとしたが、義貞の一族家臣堀口貞満が後醍醐に、「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止した。
後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出た義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任し官軍であることを担保することで決着し下山。義貞は両親王と子の義顕、弟の脇屋義助とともに北陸道を進み、折からの猛吹雪で凍死者を出したり足利方の執拗な攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入るが、まもなく高師泰・斯波高経率いる軍勢により包囲される。
義貞、義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうとするが失敗する。金ヶ崎城は延元2年/建武4年(1337)3月6日落城し、尊良親王、義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送される。
同年夏になると義貞は勢いを盛り返し、鯖江合戦で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還する。翌延元3年/建武5年(1338)閏7月、武家方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かうが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し戦闘の末戦死した。「太平記」においては、乗っていた馬が矢を受けて弱っていたため堀を飛び越えられず転倒し、左足が馬の下敷きになったところに流れ矢を眉間に受け、自分で首を掻き切ったと記述されている。
義貞がここで戦死したことは史実であるが、この死に方は事実とは考えられず、「史記」の項羽の最期や「平家物語」の義仲の最期の記述にヒントを得た「太平記」作者の創作であると思われる(義仲の最期も「平家物語」作者の創作である可能性が高い)。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である名刀鬼切丸もこの時足利氏の手に渡ったという。年月日不明ながら、正二位を贈位。大納言の贈官を受ける。
なお、江戸時代の明暦2年(1656)にこの古戦場を耕作していた百姓嘉兵衛が兜を掘り出し、領主である福井藩主松平光通に献上した。象嵌が施された筋兜で、かなり身分が高い武将が着用したと思われ、福井藩軍法師範井原番右衛門による鑑定の結果、新田義貞着用の兜として越前松平家にて保管された。明治維新の後、義貞を祀る藤島神社を創建した際、越前松平家(松平侯爵家)より神社宝物として献納された。兜は国の重要文化財に指定されている。
法名/源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位
墓所/福井県坂井市・長林山称念寺  
同時代では、南朝を主導していた北畠親房との確執があったとも言われ、親房の「神皇正統記」では「上野国に源義貞と云ふ者あり。高氏が一族也」と足利尊氏より格下の扱いを受け否定的に書かれている。また、「増鏡」には、「高氏の末の一族なる、新田小四郎義貞といふ者、今の高氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国よりいくさを起してけり」と書かれており、通称の小太郎を小四郎と、挙兵地の上野国を武蔵国と、それぞれ誤って述べられているばかりか、足利千寿王を鎌倉攻めの大将に立てたことにされてしまっている。
これは、新田氏の祖である新田義重が源頼朝の鎌倉幕府の創設に非協力的であったため、幕府成立後には源義国の系統を束ねる棟梁としての地位が義重の弟足利義康の子足利義兼の系統に変移し、新田氏のみならず源氏の系譜を持った武士をその支配下に置くという慣例が定着したためであるという説がある。実際に新田一族の中でも足利氏を武家の棟梁と考える者もおり、新田一族でも本宗家から遠い山名氏などは、義貞が挙兵した際、足利千寿王(義詮)の指揮下に入ってその後も足利方についている。
また、室町時代に成立した軍記物である「太平記」では、知略を巡らす智将として装飾的に描かれる楠木正成に対して、義貞には作者の共感が薄く、優柔不断で足利尊氏との棟梁争いに敗れる人物として描かれていると指摘される。その一例として、義貞が摂津豊島河原で尊氏を破り九州へ敗走させた後、勾当内侍との別れを惜しんで追撃を怠ったため、尊氏が勢力を盛り返し湊川で官軍を破って入京したという、義貞のだらしなさを強調する記述がある。
その一方、「梅松論」には、箱根の戦いに負けた新田軍の兵士が天竜川にかかる橋を切り落とそうとした際、「橋を落としてもまた架けるのはたやすい。新田軍は橋を切り落とし慌てて逃げたと言われるのは末代までの恥となる」と言い、土地の者に橋の番を頼んで兵を引いた。その後追撃してきた足利軍の将兵がこの発言を聞き「弓矢取る家に生まれたものは誰でも義貞のようにありたいものだ」と賞賛したと言う記述がある。
明治維新から戦前にかけては、皇国史観のもと、「逆賊」足利尊氏に対して後醍醐天皇に従った忠臣として楠木正成に次ぐ英傑として好意的に評価され、講談などで物語化された。戦後になると、一東国武将に過ぎなかった者が能力以上の大任を与えられた凡将との見方が現れ、戦略家としては凡庸であり愚将であると評価する意見もある。
しかし、「太平記」の物語描写のみからの評価を疑問視し、尊氏との人望の差はそもそも先祖からの家格の差が大きいことや、短期間で鎌倉を陥落させ、圧倒的な実力差があった尊氏を一時的にせよ撃破するなどの点から、武将としての資質を評価する意見もある。また、群馬県の郷土かるたである上毛カルタでは「歴史に名高い新田義貞」で親しまれている。
勾当内侍
軍記物の「太平記」では、九州へ落ちた尊氏を追討せよとの命を受けた義貞が、後醍醐天皇より下賜された女官である勾当内侍との別れを惜しみ時機を逸したとのエピソードが記されている。勾当内侍とは内侍司の役職の1つで、後醍醐天皇に仕えた一条経尹の娘をさす。年代などから実在は疑わしく架空の人物と考えられている。太平記では天皇の許しを得て義貞の妻となり、義貞は内侍との別れを惜しみ尊氏追討の機会を逃したと記されており、この事から義貞は皇国史観などでは南朝に殉じた武将として称えられる一方で、忠臣の楠木正成を死に追いやった張本人として厳しい評価もなされた。
内侍は義貞の戦死を聞いて琵琶湖に投身した、あるいは京都または堅田(滋賀県大津市)で義貞の菩提を弔ったなどの伝説が残されており、墓所と伝えられるものも複数存在する。
稲村ヶ崎の太刀
鎌倉攻撃の際に、大仏貞直の守る極楽寺切通しの守りが固く、さらに海岸は北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を海に投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になったという話が「太平記」などに見られ、文部省唱歌にも唄われた。
なお、「太平記」では、この日を元弘3年5月21日としているが、1915年に小川清彦がこの日前後の稲村ヶ崎における潮汐を計算したところ、同日は干潮でなく、実際には幕府軍が新田軍が稲村ヶ崎を渡れないと見て油断したところを義貞が海水を冒して稲村ヶ崎を渡ったとする見解を出した。これに対して、1993年になって石井進が小川の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、「太平記」が日付を誤って記しているとする見解を発表している。

群馬県太田市新田反町町896にある反町薬師(そりまちやくし・真言宗/瑠璃山妙光院照明寺)は、新田義貞の挙兵時の屋敷跡と伝えられ、「反町館跡」とも呼ばれる。館跡は「新田荘遺跡」の一部として2000年に国の史跡に指定されている。
新田義貞2

鎌倉幕府を直接滅ぼし、一時は足利尊氏のライバルとして武家の棟梁の地位を争った新田義貞。群馬県の「上州かるた」では「歴史に名高い新田義貞」とうたわれ地元民の誇りである事が伺われる。しかし尊氏や後醍醐天皇の影に隠れる形になり存在感は一般的に薄い。戦前の皇国史観においては忠臣として顕彰されたものの楠木正成と比較して扱いは小さいものであった。戦後になると義貞の待遇は更に悪化し、時には暗愚の将としての評価すら見かける事もある。
新田氏
新田氏は上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人であり、源義国(義家の子)の長男・義重が新田荘の下司職となった事に始まる。因みに弟・義康は足利氏の祖となっている。
治承4年(1180)源頼朝が挙兵した時点では平氏に服属しており、頼朝を討つためと称して領国に帰り兵を集めた。しかし頼朝と戦う訳でなく、臣従する訳でもなく中立的立場を保って日和見を決め込んでいた。
そして北関東での頼朝の優位が確立した同年12月になって初めて鎌倉に参陣、その出処進退のため頼朝から叱責された。また、頼朝が義重の娘を側室にしようとした際、政子の怒りを恐れて応じず頼朝の怒りをかっている。そうした経過もあって義重は頼朝から冷遇される事となった。ただし、義重が死去した際には「源氏の遺老、武家の要須」であるとして将軍・頼家が蹴鞠を慎んだと言う話もあり一定の敬意は払われていたようだ。
その後も新田氏の受けた待遇は恵まれていたとは言い難い。四代目の政義は京都大番役中に無許可で出家し所領没収されている。しばらくは分家の世良田頼氏が代わって新田一族を代表し出仕していたが、執権北条時宗とその兄・時輔の争いに巻き込まれ連座で処罰されている。その他の新田氏惣領に関しては明らかな事績が知られていない。先祖を同じくする足利氏が代々北条氏と縁戚関係を結び鎌倉政権下で有数の有力者となっていた事と比較すると雲泥の差といえる。
そうした中で新田氏は地方豪族として新田荘・八幡荘を拠点として周辺に勢力を伸ばしていく。東北に額戸氏、東南に里見氏、西南に世良田氏と山名氏、南に岩松氏などの一族を配して現地支配を固めていき、越後にも一族は勢力を扶植していった。新田荘周辺は渡良瀬川による扇状地で、周辺の湧き水を水源とする農耕地帯であった。東には八王子丘陵があり、更に東には園田御厨がある。こうした地形は新田一族を素朴な騎馬戦士として鍛錬する事となった。
北の鹿田天神山からは良質な凝灰岩が産出され、この地域における石材供給源として大きな利益を上げていた。また東山道が通っており、貢馬・石材の運搬路として、また軍用路として重要地点であった。新田一族の菩提寺である長楽寺がある世良田は門前町として周辺の商工業者を集めていた。また、家臣の長浜氏・由良氏は武蔵・上野国境地帯である武蔵国長浜郷に拠点を持っていた。その地域は鎌倉街道が甲斐・信濃方面と越後方面に分かれており、東を神流川・北を烏川が流れ軍事上の要地であると共に水上交通でも重要地点であった。
そうした交通面での重要性から長浜郷では朝市が設けられていた。新田氏は一地方豪族ではあったが、商工業が台頭する中で収入源を確保し経済的にもそれなりに豊かであったと言えそうである。
義貞は、第十代目・氏光の子として永仁元年(1298)から正安2年(1300)の間に誕生したと言われている。若い頃の事跡については殆ど知られていないが、文保2年(1318)に八木沼郷の田地を売却した事が文書から判明している。この当時の新田氏の経済的苦境を表しているとも言われるが、長楽寺再建のための臨時資金が目的であり必ずしも貧困とはいえないとする説もある。
因みに長楽寺再建の際には新田一族のみならず周辺の御家人からの出資も受けている。新田荘に隣接する渕名荘は得宗領であり、義貞が得宗家臣・安東聖秀の姪を正室に迎えているのは得宗との関係が重要となっていた事を示唆している。
時代情勢
12世紀末の鎌倉幕府の成立以降は西を朝廷が、東を幕府が支配する形が出来上がっていた。そして承久の乱の後は幕府の優位が確立される。そして元寇を契機にして防衛のため西国・非御家人にも幕府は支配を及ぼすようになった。更にこの頃、皇室は後深草・亀山兄弟の嫡流争いを基に持明院統・大覚寺統に分裂し、幕府の調停を仰ぐ。そうした中で幕府の権限が強化され、国司の権限であった田文作成が守護の手に移り土地把握力が低下。
一方で幕府は朝廷内の争いに巻込まれた上、西国の商業発展やそれに伴う「悪党」即ち武装した非農業民の台頭に悩まされる。それに対応するため幕府の首班である北条氏は一族の総領(得宗)の下で専制傾向を強化する。しかしこれは将軍体制化にある御家人達の反発を買うこととなり、更に朝廷や非農業民の不満も一身に負う様になった。時の得宗・北条高時の力量不足もあり政治混乱の兆しが見え始める。一方非農業民も日本を背負える程の実力はまだなく、一朝事あれば乱世に突入すると思わせる状態であった。
そうした中で14世紀前半に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は親政を行う中で鎌倉幕府の打倒を目論むようになる。傍流であった己の血統に皇位を受け継がせ、皇位継承に干渉する幕府を倒し天皇による専制政権樹立を志向していた。元弘元年(1331)後醍醐は挙兵し笠置山に篭ったが幕府の大軍により陥落して捕らわれ、持明院統・量仁親王(光厳天皇)に譲位した上で隠岐に流された。しかし、後醍醐の誘いに応じて河内で挙兵していた楠木正成は元弘3年(1333)幕府軍を翻弄した上で金剛山の千早城に篭る。
威信を傷つけられた幕府は大軍でこれを囲むが攻めあぐねた。これを受けて、かねてから幕府に不満を抱く豪族が各地で立ち上がる。彼等はこの頃盛んになった商業を背景とする新興豪族やかつて幕府に敵対し不遇に陥った地方豪族が中心であった。
義貞起つ
義貞は、幕府軍が楠木正成の篭る千早城を攻めた際にその「搦手衆」の一員として里見氏や山名氏と共に参加していた。その際、義貞は幕府軍の苦戦と威信低下を見て取り、実質的に討幕軍の総大将であった護良親王(後醍醐の子)を経由して綸旨を獲得したと「太平記」は伝える。戦いが持久戦となり国許の不安から帰国する者たちも現れる中、それに混じって決起する準備をし時期を待つため彼も新田荘に帰った。
時を同じくして、鎌倉はかさむ戦費を調達するため関東各地から有徳銭の徴収を行っていた。義貞の下にも紀親連・黒沼入道が派遣される。新田領は長楽寺門前町の世良田を抱えており上野における経済の重要地であったため、戦費負担が期待されたのである。義貞は二人を捕え、黒沼を斬った。これは幕府への反逆行動を意味しており、これを切っ掛けにして倒幕派として挙兵するに至る。
時は元弘3年(1333)5月8日生島明神で義貞は弟・脇屋義助をはじめ一族である大館宗氏・堀口貞満・岩松経家・里見義胤・江田光義・桃井尚義ら150騎と共に決起した。神前での同志の誓いを表す一味神水を行い新田の家紋・大中黒(円の中に太く一文字)の旗を掲げ綸旨を拝した上で東山道を西に出て上野の中央部に進撃した。八幡荘に来たところで二千騎が合流。これは里見・鳥山・田中・大井田・羽川など越後在住の新田一族による軍勢で、「天狗山伏が触れ回ったため駆けつけた」と言われている。
恐らくは挙兵に当たって修験者を密使として利用してかねて示し合わせていた一族と連携したものであろう。越後は修験道の本場であり、修験者は行動しやすい環境であったと思われる。更に、甲斐・信濃・越後から豪族が約五千騎を率いて加わった。最初に義貞が西に向かったのは彼らとの合流が目的だったのである。もう一つ、上野中央部の北条方に圧力をかける狙いもあったであろう。そうした目的を果たした上で、新田軍は鎌倉へ向けて南下を始める。
鎌倉攻め
新田の挙兵を受けた鎌倉方は迎撃体制を整えていた。11日金沢貞将が下総・下河辺荘方面に出陣し東関東を抑えると共に側面から新田の背後に回りこもうと図っている。新田軍の正面には桜田貞国・長崎高重らが入間川方面に進軍し迎え撃たんとしていた。5月11日小手指原(所沢市周辺)で両軍は遭遇し合戦となった。新田勢が以外に大軍である事に用心して北条方はす住まず守りを固め、新田軍は入間川を渡り攻勢に出る。
戦闘を30回以上繰り返すものの決着はつかず双方痛み分けで一旦陣に引き上げた。翌12日夜明けと共に義貞は再び攻撃をかけ、北条方は軍勢を広げて迎え撃ち新田軍を包み込もうとする。一方で新田は固まって突破を図り激しい戦闘の末に新田軍が鎌倉方を打ち破った。
同じ頃、世良田で足利高氏(後の尊氏)の嫡男・千寿王(後の義詮)が挙兵していた。同じ源氏でも義貞と違い幕府有数の有力者であった高氏は、畿内への援軍の将として出陣していた。しかし5月7日に後醍醐方に寝返り、京の幕府拠点であった六波羅探題を落とした。有力者ゆえの粛清への恐怖や天下への野心が足利氏挙兵の動機であったと言われる。これに先立って千寿王は家臣・紀政綱に伴われて鎌倉の屋敷を脱出、世良田に逃れて挙兵したのである。
新田の重臣である船田氏に紀氏出身者がおり、その縁を頼ったものと思われる。千寿王が新田軍に合流したのが5月12日の事であった。名門・足利氏の嫡男が参加した事で馳せ参じる豪族も増加、軍勢は更に膨れ上がる結果になった。義貞と共に兵した岩松経家には事前に高氏から命令書が与えられており、一説では経家と義貞が同格の大将であったとさえ言われる。
挙兵時期がほぼ同じであった事もあわせて足利・新田の連携が緊密であった事をうかがわせるが、同時に新田氏の勢威が足利氏の足元にも及ばない現実も明らかにしている。同時代の記録である「増鏡」「神皇正統記」は義貞を高氏の一門としか認識しておらず、千寿王を大将として義貞が代官を務めたと見る向きさえあったのだ。
5月15日今度は北条泰家(得宗・高時の弟)率いる一万余騎の軍勢と分倍河原で衝突。北条軍はまず三千の射手を前面に立てて矢を激しく射掛けたため、新田軍は進めず立ち往生する。そこに北条方の騎馬戦士が攻撃をかけた。一方、義貞は精鋭を選抜して自らこれを率い敵中に突撃をかけるものの及ばず、一旦堀重に退却した。しかし勝利した北条方も少なからず損害を蒙っており追撃する余力はなかった。
引き上げた義貞の下に三浦義勝が六千の軍勢と共に合流、再戦を進言した。義勝は足利氏の執事・高一族から養子に入っておりその縁で寝返ってきたものである。翌日、先陣を務めた三浦軍は敵への至近距離まで旗を立てず声も上げないで接近し北条軍に奇襲を仕掛けた。前日の激戦で疲労していた北条方は不意を疲れて混乱に陥り、そこへ義貞本軍が突入して泰家らを敗走させた。
その後、義貞は味方の一手を下総の千葉氏・小山氏と合流させるため別働隊として派遣。17日には村岡合戦で北条方の反撃を受けるが大勢に影響は見られなかった。同日、下総方面に向かった金沢貞将の部隊が鶴見で敗北。時を同じくして畿内での六波羅探題滅亡の報が入り、鎌倉方は意気消沈すると共に新田・足利軍の士気は天を衝かんばかりとなった。
軍の再編成を経て18日新田軍は軍勢を三方向から鎌倉攻撃に入る。大館宗氏・江田行義の率いる一万が極楽寺方面から、堀口貞満・大嶋守之の一万が巨福呂坂方面、義貞自らの数万が化粧坂方面から攻撃をかけた。一方、幕府方も極楽寺方面に大仏貞直の五千、巨福呂坂に赤橋守時の六千、化粧坂に金沢貞顕の三千を配置して市街地に後詰として一万を控えさせていた。鎌倉は三方を山・残りを海に囲まれ、通路は狭く切り立った要害である。
幕府方は街道に逆茂木を備えて防御し、海には軍船を浮かべて守備を固めていた。同日に新田軍は各所に放火して攻撃を開始。巨福呂坂方面の赤橋守時が激戦の末に自害しまずこの方面が突破された。守時は執権(幕府執政)の地位に就いてはいたが実権はなく、妹が足利高氏の妻となっていたため寝返りの疑いを一門からかけられていた。そうした憤懣を込めての奮戦であり最期であったろうと思われる。
一方、極楽寺方面では一旦新田軍が突入に成功するものの大仏勢に押し戻され指揮官の大館宗氏が討ち取られる事態になった。そこで義貞は21日自ら極楽寺方面に救援に向かった。その辺りの道は険しく、敵は木戸を構え逆茂木を作り防備を固めており、海からは水軍が矢を射掛ける構えを見せていた。「太平記」によれば義貞がこの時に黄金の太刀を海に投じて竜神に祈りを捧げ、それに応じて海が引いて大干潟ができ新田軍はそれに乗じて突破する事ができたと言う。
尤も、恐らくは事前に干潮時刻を知って突破したと思われる。守る鎌倉方も干潮については知っていたであろうが、予想を超えた大干潟ができたとも言われている。或いは、味方の士気を高めるために干潮時刻にあわせて義貞がパフォーマンスを行った可能性はある。
こうして新田軍は鎌倉市街に乱入、高時ら幕府首脳・北条一門は東勝寺に逃れて防戦した。大仏貞直は最後まで持ち場を守り討ち死に。金沢貞将もその奮戦を高時に称えられ餞に六波羅探題職(既に六波羅探題はなく今や幕府自体が滅亡に瀕しており実体はない)に任じられ、それを冥土の土産として敵中に乱入し最期を遂げた。22日激戦の末に高時ら北条一門283人は自害を遂げた。源頼朝による政権樹立以来、約130年の歴史を誇った鎌倉政権はこうして滅亡したのである。
建武政権の下で
鎌倉を占拠した後、足利と新田の間で主導権争いが起こった。参加した豪族たちはどちらの陣営につくべきかを見定めていたようで、中には双方に着到状を提出した者もいた。義貞は勝長寿院を本陣として北条の残党狩りを行い、足利方は二階堂に陣を設けていた。京で治安維持に当たっていた高氏は配下の細川和氏・頼春・師氏を鎌倉に派遣し千寿王を補佐させ義貞に対抗させている。
結局は家柄で勝る足利に参陣する者が多数となり、義貞は不利を悟り対立を避けて6月に上洛した。もっとも、無位無官の一御家人に過ぎなかった義貞に馳せ参じる者が決して少なくなかった事は倒幕戦で義貞が指揮官として卓越した力量を見せた証であろう。
さて、京では後醍醐天皇が律令的古代帝国・中世王朝的官職一家相伝・幕府政治のいずれでもない、新しい政治体制を構想していた。中央では経済・警察などの主要官職に近臣を就けて天皇に全権力が直結する様に図り、地方では公領の徴税を司る国司と軍事・警察を担う守護の併置により分権・牽制をさせる。また、各国の寺社の支配再編にも意欲的であった。天皇が目指したのは商工業の力を利用した天皇専制による中央集権体制だったのである。勃興しつつある商業などを軍事・経済基盤にして政権を支えさせようとした。
義貞は、その戦功を認められ従四位上の位を与えられ上野・播磨・越後国司に任じられた。また、長男・義顕は従五位上で越後国司、義助は駿河国司に任じられたと言われる。更に、新たに設けられた皇居警備を担う武者所において新田一門は主要な位置を占めた。五番編制のうち、一番に義顕・一井貞政、二番に堀口貞義、三番に江田行義、五番に脇屋義治(義助の子)が名を連ねている。足利尊氏(高氏から改名)が功績一番として篤く賞されてはいたが、危険分子として警戒されてもいた。そうした中で、屈強な東国武者を抱える新田一族は朝廷がそれに対抗するための武力として期待されていたのである。
義貞は後醍醐天皇による建武政権下で、上野・越後において在地豪族の所領安堵や判決執行に従事し支配を固めようとした。越前には一族の堀口貞義を派遣し同様に勢力扶植に励んだのである。
尊氏との対立
建武政権は早い段階から、その強引な政策や恩賞への不満から強い反発を生んだ。中でも、恩賞の問題は深刻で全国の豪族全てが満足するような処理は困難であった。しかも実務処理・裁判における混乱や経済基盤に不安を抱えていた天皇が側近・寵妃の名義で自身に土地を集中させた事も人々の不満に拍車をかけた。しかも、朝廷にはそれを押さえつけられるだけの軍事・社会的実力を備えてはいなかったのである。京の風俗・政権の現状を皮肉った「二条河原の落書」が出現したのもこの頃である。
こうした中で足利尊氏と護良親王が豪族たちの指導者の地位を争って対立していた。尊氏は源氏の棟梁として再び武家による政権樹立を目論んでいたし、護良はそれを危険視して自身の下に豪族たちをまとめようと考えていた。後醍醐天皇は双方を警戒していたようであるが、護良を密かに支援して勢力で勝る尊氏を討たせようとした。楠木正成や義貞もこの謀議には一枚噛んでいたようである。
しかし双方の勢力差は大きく、天皇は尊氏方による讒言もあって護良を切り捨て足利直義(尊氏の弟)がいる鎌倉に流罪とした。こうして尊氏は自らの対抗馬をまず一人葬り去ったのである。
建武2年(1335)7月信濃で高時の子・時行が挙兵し鎌倉に攻め寄せた。直義率いる足利軍が鎌倉を防御するも敗れ、北条氏残党が鎌倉を奪回する。それを受けて尊氏は直義救出のため無断で出陣し時行を打ち破って鎌倉に入った。そして尊氏は独断専行で論功行賞を行う。義貞の勢力圏である上野守護にも上杉憲房が任じられている。事実上の朝廷への反逆である。
10月に入ると、尊氏から朝廷に義貞を弾劾し討伐を申し入れる旨が奏上された。曰く、@義貞は幕府の使者を斬った罪を免れるため尊氏の挙兵に乗じて蜂起したに過ぎないA義貞が苦戦する中で千寿王が参加し大軍となることで勝利できたB尊氏が北条討伐の苦心をしているときに策を巡らし讒言を横行させている、放置すれば大逆の災いとなるであろう、と。
これに対し、義貞はすぐに反論し尊氏を非難している。@尊氏は日和見で、名越高家の討死を機に寝返ったに過ぎないA義貞挙兵は5月8日で尊氏は7日であり、京と関東の距離から言っても義貞が尊氏の挙兵を聞いて起った訳でないのは明らかB京占領後に京を専断し護良の従者を斬ったC鎌倉で将軍に奉じた成良親王を蔑ろにして専横D関東で乱鎮圧後の勅裁を用いていないE倒幕の功臣である護良親王を陥れて殺害した、という内容である。
嘗て関東で見られた足利と新田の対立が再び表面化した。どちらの言い分を採用するかで朝廷の論議はしばらく揺れたが、結局は尊氏を討伐する方針で評議は決した。直接的には、護良の死に立ち会った女官の証言や直義名義での西国方面への義貞討幕軍督促状が決定打となったとされる。実際には、関東で自立の動きを見せ始めた最大実力者・尊氏に対し妥協するか対決するかが問題となり後者が採られたという事であろう。後醍醐の政治方針から言えば当然である。これを認めては何のために鎌倉政権を打倒したか分からない。
11月8日義貞は朝廷から節度使に任じられ錦旗・節刀を賜った。ここに朝廷軍総司令官として尊氏を討伐する責任を負う事となったのである。護良親王亡き後となっては、尊氏への対抗馬を勤められる武将は家柄・実績から判断して、足利と並ぶ源氏の嫡流で鎌倉討伐の英雄である義貞しかいないと判断されたのであろう。
また、朝廷としては尊氏や護良と比較して家柄・社会的実力に劣る義貞なら朝廷の威信を必要とするため操縦しやすいと踏んだとも考えられる。ともあれ、義貞はここで尊氏と対抗する存在として公式に認められた。朝廷軍は二手に分けられ、東山道を大智院宮・洞院実世らを奉じて江田行義・大館氏義が率いる一万の軍勢が、東海道を義貞自らが率い義助・義治や堀口貞満・綿打・里見・桃井・鳥山・細谷ら新田一族に加えて千葉貞胤・宇都宮公綱や大友・大内といった有力豪族も加わった数万の軍勢が東下した。
箱根・竹ノ下の戦い
足利氏による政権樹立のために動き出し、当面のライバルとなる義貞との対立に踏み出した尊氏であったが、天皇を向こうに回して戦うことには消極的であった。尊氏は当初は出陣せず、寺に篭り出家して朝廷への恭順を示そうとした。自立への動きを見せた後としては余りに覚悟の足りない態度といわざるを得ない。そこで足利方は直義が上杉憲房・細川和氏・佐々木導誉らを主力に吉良・石塔・桃井・上杉・細川ら一族のほかに武蔵七党・土岐・小山ら有力豪族による軍勢を率いて出撃し三河矢作川に陣を布いた。
11月25日義貞は矢作川西岸に到達。自陣側に馬を駆けさせられる間隔を空けた上で、砂州に射手を出し矢を射掛けて足利軍を挑発した。それを受けて吉良満義・土岐頼遠・佐々木導誉ら六千が渡河し新田軍左翼を攻撃。堀口・桃井・山名の五千がこれを迎え撃つ。高師直ら一万強は新田軍右翼に攻め寄せ、大嶋・糠田・岩松ら七千が迎撃した。両翼とも防戦する新田軍が優勢に戦いを進め、中央では仁木・細川ら一万が義貞の本隊七千に攻撃をかける。義貞は盾を隙間なく並べ密集して敵騎兵を受け止める。戦闘で敵に疲労から来る間隙が生じた一瞬を見て義貞は突撃を命令し、足利軍は崩れ立った。
敗れた足利勢は鷺坂に撤退するが、今度は宇都宮・仁科ら先の合戦に加わらなかった三千の新手が奇襲をかけたため更に手越河原まで敗走し直義直属の部隊と合流した。12月2日義貞は手越河原に進出し、両軍はそれぞれ数万ずつの軍勢で日中に正面から戦闘、夜になり引き上げて休息を取った。夜が更けた後、義貞は弓の名手を選抜して藪の影を伝い敵陣の後方に回らせ矢を射掛けさせた。
不意を突かれた足利軍は、これまでの敗軍で士気が下がっていた事と昼間の疲れもあり潰走状態となり伊豆国府まで撤退した。足利軍から新田軍への投降が相次ぎ、新田軍は一気に膨れ上がる。義貞は、これらの軍を再編成する必要に迫られた事や箱根の要害を前にした事から進撃速度を鈍らせざるを得なかった。一説では奥州の北畠顕家が南下するのを待ち挟撃する意図が在ったとも言われるが真相は不明である。
一方で直義は箱根に六千の軍勢で立て篭もり兄・尊氏の出陣を激しく促す。尊氏は、足利家の存在そのものが危機に瀕している事を認識し出陣。小山氏ら鎌倉に後詰として残っていた二千を先陣としたが尊氏出馬を聞き約一万の軍勢が集まった。11日朝、尊氏は箱根山を越え足柄明神の南・竹ノ下に出て、尊良親王を奉じる脇屋義助軍七千に奇襲を掛けた。義助らは驚き潰走、箱根では義貞が直義と対峙し優勢に戦いを進めていたが敗報を聞き挟撃を恐れて撤退。翌日、新田軍は佐野山で陣を立て直し勢い付いた足利軍と激戦を演じるが大友貞載の寝返りで敗北、13日伊豆国府も失った。
義貞は敵陣を突破し敗軍をまとめながら東海道を下る。天竜川では船橋を掛けて西に逃れるが、渡る際に混乱が生じ橋桁が落ちるなど難儀をしている。全軍が渡り終えた後に部将が橋を落そうとしたが、義貞は「敗軍の我等でさえ掛けられた橋を勢いに乗った敵がまた架けるのに造作はない。橋を落とした所で我等が慌てて逃げたと笑い者になるだけで意味が無い。」と述べて橋を残させたと「梅松論」は伝える。追撃してきた足利軍はこの有様を知り、涙を流し感嘆して「疑いなき名将」と義貞を称えたと言う。
面子に拘り橋を落とさなかった事で足利軍の進撃速度を速めたと義貞が非難されることも多いが、これには義貞としても事情があった。義貞は、元来は無位無官の地方豪族に過ぎない。つまり、今回従軍した有力豪族たちは数年前までは義貞と同格かそれ以上の家格だったのである。また、新田一族内部でさえ惣領・義貞に対抗する動きがあったのである。そうした連中を統率するためには威信を見せ続ける必要がある。
なりふり構わず周章する様子を見せようものなら、忽ちに彼らは義貞を見限り軍が崩壊する事は想像に難くない。義貞としては弱みを見せるわけには行かず余裕があるところを常に示す必要があったのである。前述の稲村ヶ崎での逸話をはじめとして、義貞に派手なパフォーマンスが目立つのはそうした理由がある。
京都攻防戦
義貞の敗北が影響してか、高松の細川定禅・備前の佐々木信胤らを始めとして各地の不平分子が反乱した。そして、勢いに乗る足利方は一気に上京しようとしていた。その中で叡山の僧兵たちが近江伊岐代館に篭り京都防衛のための時間稼ぎを図る。しかし12月10日高師直軍により一日で落城した。
朝廷側は、京都防衛のため軍勢を展開して防衛線を布いた。瀬田を名和長年・千種忠顕・結城親光らの三千が守り川に大木を流し乱杭を打って防衛体制を築いた。宇治には楠木正成の五千が橋板を外し中州に大石を積み逆茂木を組む。山崎には義助が洞院公泰・文観・宇都宮氏・大友氏らの七千を率いて堀・塀を作り櫓を建設していた。そして義貞は、大渡に里美・鳥山・山名ら一族を中心とする一万の軍勢を率いて布陣した。橋板を落とし、盾を並べて櫓を構え、馬が通れそうなところに逆茂木を作って足利軍を待ち受けた。
年が明けて足利軍が上京、尊氏は宇治を避けて八幡に布陣し直義は瀬田、畠山高国は山崎に進出した。また、西からは細川定禅・赤松円心ら二万余が上洛して参加していた。義貞の率いる本隊では、筏を組み渡河を図る足利軍が乱杭にかかり進めないところを見計らい矢を射掛けたり、足利方の数人が奮戦して板の外された橋を渡り後続が続いた際に仕掛けを発動させて橋桁を落として敵を川に呑ませたりと善戦していた。1月10日細川・赤松軍が山崎に突入。
義助は奮戦し支えようとするが元来が寄せ集め部隊である上に兵数で劣るため限界がありついに突破される。義貞はこれを見て守備を放棄し足利軍の追撃を受けつつも京に引き上げた。劣勢の兵力で京都守備をする事にそもそも限界があったといえる。
この日、後醍醐天皇は京を逃れ比叡山に避難した。一方、長らく比叡山と敵対関係にある園城寺は対抗して入京した足利方につく。1月16日奥州から駆けつけた北畠顕家の五千が坂本に到着。義貞はこれと合同してすぐに園城寺に攻撃をかけた。顕家の二千、義貞の三千、義助の千五百が合同して出撃し数千の足利方に攻撃をかける。北畠軍は数に勝る敵軍を相手に苦戦したが、義貞はこれに加勢して追いたて更に細川定禅軍六千にかかった。蹴散らされた足利方は園城寺に逃げ込み門を閉ざすが新田軍はこれを突破し園城寺を炎上させた。
義貞は更に洛中の足利本軍に迫り、配下の軍勢二万を将軍塚から真如堂・法勝寺を経て二条河原まで展開させた。この際、兵力に劣っていたため山を背にして布陣し兵数が敵に読まれないよう気を配ったという。一方で足利軍は、尊氏・直義が二条河原に本陣を置き、数万の兵を糺の森から七条河原にかけて布陣。前哨戦として高師泰が将軍塚に攻め上ったところ、義助の率いる数千は射手に盾の後ろから矢を浴びせさせ敵が崩れたところに突撃して撃退している。
1月16日両軍が衝突し乱戦となるが、足利方は統制に苦しみ新田軍を圧倒できない。そこへ足利軍に潜んでいた新田兵が突然に新田の旗を敵の真ん中で掲げて鬨の声を挙げて撹乱したため足利方が同士討ちに陥る一幕もあったものの、側近・船田義昌を失うなど新田軍の被害も大きく義貞は京奪回を果たせず一旦引き上げた。
更に1月27日楠木正成・名和長年・結城宗広らが三千で一乗寺下松へ、北畠顕家五千が山科へ、洞院実世が赤山禅院へ、叡山僧兵数千が鹿ケ谷へ、そして義貞の二万が北白川へと布陣し足利軍に総攻撃をかけた。再び激戦となり上杉憲房らを失った足利方が京を一旦放棄し新田軍が京に入るが、今度は細川定禅が少数の兵で新田軍に夜襲をかけ京を奪回している。翌日には糺の森から楠木軍三千が進軍し、盾を繋いで進み騎兵を防ぎながら上杉勢を翻弄した。
一方で北畠軍五千は粟田口から四条・五条に侵入するが尊氏自らが数万の兵で迎撃し苦戦を強いられた。そこへ義貞の率いる二万が到着して突撃をかけ足利軍を撃退し京から再び追い散らしたが新田軍も大きな損害を受けて引き上げた。この時、義貞・正成が討ち取られたとの噂が足利軍に流れており、「太平記」によれば足利軍を油断させるための正成の謀であったという。この夜、大原・鞍馬に向けて数千の松明が移動するのを見た足利軍は、朝廷方が逃亡すると思い込み追撃のため軍勢を派遣し洛中は手薄となった。
翌30日早朝、朝廷軍は二条河原に進出して足利軍本隊を奇襲。潰走した足利方は京を逃れ摂津に向かった。2月10日西宮で楠木軍が足利軍を捕捉し戦闘となるが勝敗はつかなかった。翌11日朝廷軍は豊島河原で足利方を攻撃。北畠軍は多数の足利方を撃破できず苦戦するが、義貞の数千がこれに加勢し激戦となる。更に正成が神崎に迂回したため足利軍は挟撃を恐れて撤退した。足利軍が軍の再編成を試みるため西国に逃れるのは翌日12日の事であった。
白旗城での苦戦
2月初頭には後醍醐天皇は比叡山から帰京し花山院を皇居とした。尊氏を追い落とした功績を認められ義貞は左近衛中将、義助は右衛門佐に任じられる。無位無官の地方豪族に過ぎなかった義貞の絶頂であった。2月25日兵乱が続く世を憂いて「延元」と改元された。
一方、京を追い落とされた尊氏は瀬戸内地域における水陸交通の要地に一族・腹心を置いて現地有力者と共に足場を固めさせ西国を支配下に置こうとしていた。
四国に細川和氏・頼春・師氏・顕氏・定禅、播磨に赤松円心、備前三石に石橋和義・松田盛朝、備中鞆尾に今川俊氏・政氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防に大嶋義政・大内弘世、長門に斯波高経・厚東武実という配置である。全国的に朝廷への不満が高まっているのを背景に、尊氏は現地豪族の支持を集め背後を固めながら九州へ海路で逃れたのである。
これに対する義貞ら朝廷軍の対応は迅速とはいえなかった。朝廷は新たに降伏してきた者を組み入れて軍の再編成を行ったり、凶作を背景として難航する兵糧集めをしたり、東国を中心に調略を行ったり、奥州失陥を防ぐため北畠顕家らを再度派遣する事に力を注いでおり寧ろ足元を固める事に精一杯であった。尊氏を追撃できず、その勢力挽回と反攻を手を拱いて見るしかない状況に焦燥を感じる朝廷方の武将は少なくなかったであろう。
天下の人心は尊氏に傾いているため新田を切り捨ててでも尊氏と講和するべきだと楠木正成が献策したと「梅松論」が伝えているが、事実かは兎も角としてそうした風説がこの時期にあったのであろう。「太平記」によれば義貞は朝廷から賜った美女・勾当内侍への愛に溺れていたと言われるが、事実ならこうした情勢への焦りを紛らわせていたのかも知れぬ。朝廷の追撃が遅れたのを義貞の無能に帰する向きが多いが、そもそも義貞は天皇の管轄下で軍を動かす朝廷軍指揮官に過ぎず政略・国家戦略に関してはどの程度権限があったであろうか。
義貞個人よりも朝廷の事情によるところが大きかったと思われる(更に言えば行動の遅延により追撃の好機を逃したという記述は足利方にもしばしば見られ、個人能力より軍再編成などの事情による事を裏付けている)。
もっとも、義貞もこの時期に病に倒れており自身の出陣は叶わぬ状態ではあった。江田行義・大館氏明に三千の兵を与えて先行させた後、義貞が出馬したのは3月である。播磨白旗城に篭る赤松円心に対し、まずは播磨守護職を条件として帰順させようと図るが不調に終わり敵に時間稼ぎを許す結果となった。交渉決裂の後、城を包囲し攻城戦を展開するも攻めあぐね時間を重ねる。
播磨は農業生産力が高いのみならず交通の要所であり、西国を攻めるには手中にする事は必須条件であった。義貞としては権限を与えられた土地でもあり、兵糧や背後の安全を確保するためのみならず自らの威信を保つためにも播磨を平定する必要があったのである。
しかしながら、城塞を攻略するのは容易ではないのが通例である。白旗城攻撃に難航する事で威信低下を招くのみならず、反攻してきた尊氏を食い止める事が難しくなる。そこで主力を白旗城に置く一方で別働隊を編成して中国攻略を行った。まず江田行義率いる二千の軍勢を美作へ派遣し奈義能勢・菩提寺の城を攻略。更に大井田氏経や菊池・宇都宮ら五千に備中福山を落とさせた。義助は備前に向かった。精鋭を選抜して地元民の案内で間道を通じて三石の西から奇襲させ敵に打撃を与えてから三石城を包囲攻撃している。
一方、尊氏は3月2日多々良浜で菊池氏を破り九州を平定、4月初旬には赤松からの援軍督促もあり水陸両路から西上を開始。水軍・陸軍ともそれぞれ数万に上る大軍であったと言われ、福山城を守る江田行義は5月18日足利軍来襲の際には篭城準備を整える暇がなく城を放棄して撤退した。
また、三石を包囲していた義助も兵庫へ撤退した。義貞は全軍を兵庫に集結させここで足利軍を迎え撃つ事とした。義貞自身は味方が無事到着したのを確認して最後に渡河し兵庫に至っている。その上で、朝廷に急を告げて援軍を要請。元来が関東の地方豪族であった義貞は、西国においてその勢力・人的結合を有していなかったしそれを築き上げる時間もなかった。それが中国遠征の失敗に繋がったのである。
湊川の戦い
兵庫は、古来より畿内への入り口として重要な港であった。12世紀後半の源平争乱においても一時期は都を置くなど平氏が重要拠点として重視しており、上京を図る平氏を源範頼・義経が撃退した一ノ谷の戦いもこの地で行われている。義貞がこの地を決戦の場として選んだのはそうした背景があった。
義貞から急報を受けた朝廷は、正成を召して戦略を問う。正成はこの時、義貞を召し返した上で比叡山に避難して尊氏を京に招きいれ、河内で自分が後方の補給を撹乱して義貞と共に尊氏を包囲・挟撃する作戦を具申した。しかし年二度にわたる天皇の避難が更なる威信低下・人心離反を招く事を恐れた朝廷はこれを受け入れず、兵庫での決戦を命じた。正成は状況に絶望し討ち死にを覚悟したといわれる。
正成が兵庫に到着し義貞と対面したのが5月24日。義貞はこの時、正成の策の正しさを認めると共にこれまでの不首尾を自嘲し、この戦いでは勝敗を度外視して命運をかけると述懐。これに対し正成は、世間の勝手な言い草を気に留めないよう説くと共にこれまでの義貞の功績を称えて慰め、これまでの義貞の動向が理に適っていると励ましている。
5月25日朝、細川定禅の四国水軍五百艘が湊川と兵庫島を左に見て神戸方面へ進撃。錦の旗・天照大神八幡大菩薩の旗を掲げた尊氏の御座船・数千艘の軍船が続く。水軍で二,三万に及んだと言う。陸上では中央から直義・高師泰が率いる播磨・美作・備前の兵、山手から斯波高経の安芸・周防・長門の兵、浜手から少弐頼尚率いる筑前・豊前・肥前・山鹿・麻生・薩摩の兵が進軍。陸軍は二万ほどと考えられる。
一方、兵力に劣る朝廷側は水陸両面から迫る足利軍に対し各個撃破によって勝利の可能性を見出そうとした。兵庫港の船舶停泊地である経ヶ島に脇屋義助千五百、灯篭堂南の浜に大館氏明九百を配置して尊氏や細川定禅率いる水軍の上陸を阻止しようとする。一方で正成・正季二千が会下山一帯から夢野付近に布陣し直義軍に当たる。兵庫は平地が狭く幅の広い川も多い湿地帯で大軍の移動に適さず、この地の利を生かして直義軍を撃破する方針であった。
楠木軍は軽装の歩兵を中心とし四天王寺や洛中での野戦でも実績を上げた部隊でありこの戦闘でも臨機応変な戦いぶりが期待されていた。そして足利陸軍を退けた後に全軍を挙げて水軍を撃つ作戦であったろう。和田岬に総大将新田義貞が最精鋭部隊を率いて陸・水両方面に睨みを利かしどちらの戦況にも対応できるよう陣取っていた。その数は七千五百程。正成や義貞は絶望的な思いを抱きもしたであろうし討死の覚悟もしたであろう。しかし飽くまでも最後まで勝利の可能性を模索もしていたのである。
足利の陸軍は山手軍が鹿松峠から大日峠を超え、大手軍は上野山から会下山に通じる道を進み、浜手軍は水軍と連絡しながら海岸沿いに進み楠木勢に迫った。一方で水軍も戦端を開いていた。開戦に先立ち新田軍の本間重氏が鶚を足利の船に射落とし、更に射手を知ろうとした足利軍に自分の名を刻んだ矢を射た。足利方の返し矢が陸に届かず敵味方の嘲笑を浴びた為、憤慨した細川勢二百人が経ヶ島から強行上陸して殲滅される。
その後に尊氏の御座船から戦鼓が鳴り響き、水軍・陸軍もそれに合わせ鬨を上げた。細川の水軍は船舶停泊所である経ヶ島でなく紺辺から上陸、新田の後方撹乱を図る。新田本隊は、水軍の上陸を阻止して陸軍を撃破する計画が頓挫するのみならず退路を絶たれる体制となったためそれを防ぐため陣を引払い細川勢を追う。そして細川勢と戦闘を開始したが、その間に経ヶ島に尊氏本隊が上陸し新田軍と楠木軍は分断された。
「太平記」によれば、義貞は包囲の突破と楠木勢救出を目論んでか一旦兵庫に引き返し尊氏本隊と戦闘に入るが、兵力差は如何ともし難く劣勢に陥る。足利軍は義貞に矢の雨を降らせて討ち取ろうとするが、義貞は「鬼丸」「鬼切」の太刀を両手に持ち矢を切り払って防いだ。そこへ小山田高家が来援し身代わりとなってようやく義貞を逃れさせた。義貞は敗軍をまとめ細川定禅の軍勢を突破するのが精一杯の状態に陥り、楠木勢救出どころではなくなっていた。
敵軍の包囲に残された正成らは一時は直義を追い詰めるという激烈な戦闘の末に自害。一説には義貞は正成を見下してこの際も見捨てて退いたと言われるが元弘以来正成が廷臣の信任を一身に受けてきた事を考えるとこれは穿ち過ぎであろう。
こうして、朝廷は足利軍を食い止める力を失い足利軍は一気に上洛へと弾みをつけた。大きな犠牲を払い大敗を喫した義貞に残された道は、可能な限り戦力を残して他日の反攻に備える事のみであった。義貞は京へと撤退し天皇と合流する。
北陸へ
湊川での大敗を受け、衝撃を受けた朝廷は27日義貞らに守護されて比叡山へと再び避難する。それを追うようにして足利勢が入京したのが30日。朝廷軍は比叡山に篭城して北陸や奥州からの援軍を再び待つ方針であった。直義の指揮する足利軍は京から攻め入る大手軍と東坂本方面からの搦手軍に分かれ比叡山へ進攻。6月5日の戦いでは雲母坂で千草忠顕が戦死するなど朝廷軍は大きな損害を受ける。
しかし足利軍も険阻な叡山を攻め倦んでおり、義助は城砦に数千の兵で立て篭もり、琵琶湖上に停泊する水軍の助けもあって高師重の度重なる攻撃を撃退していた。6月20日逆に師重が新田軍の奇襲を受けて討死する事態となる。直義は叡山攻撃から撤退し、戦場は洛中に移った。
6月30日早朝、義貞は内野で細川勢に攻勢をかけて撃退し、大宮猪熊から東寺の尊氏本陣まで攻め寄せて門の扉に矢を射込み尊氏に一騎打ちを申し込んで挑発した。結局は果たせず多勢に無勢で包囲されぬうちに徹底を余儀なくされている。兵力に劣る新田軍としては、中央突破して敵の中枢を破るほかに道はなかったのである。この時に猪熊方面に進軍した名和長年が討死、楠木正成・結城親光・千草忠顕らに続き「三木一草」(建武政権での後醍醐の寵臣)は全滅した。
その後も京に出撃を繰り返したが戦況を打開する事はできなかった。兵力で勝る足利方が次第に優位を確立し、9月に入ると小笠原氏・佐々木導誉が近江を制圧し叡山への糧道を断った。叡山僧兵達が尾張・美濃方面への通路を切り開こうとしたが果たせず、後醍醐軍は兵糧攻めに合うこととなる。
11月尊氏と後醍醐の間で和平交渉が持たれた。条件は持明院統・光明天皇(8月に尊氏により擁立された)への譲位、皇太子は成良親王(後醍醐の皇子)とする、皇位は両統迭立で継承と言うものであったと思われる。これ以上戦いを継続するとジリ貧に追い込まれ全てを失う事が目に見えていた中、後醍醐にとって悪い条件ではなかった。天皇は独断で和睦を決定、これまで朝廷軍の総大将として働いてきた義貞を切り捨てる事にしたようである。
足利と妥協して最悪でも子孫の皇位継承資格を確保し、状況によっては再起を図るにせよまずは叡山に閉じ込められた現状を打開する必要があると判断したのであろう。この時期になると朝廷軍の士気低下は相当広がっていたようで、江田行義・大館氏明といった新田一族の中からでさえ義貞を捨てて天皇に従う者が現れていた。
一方、義貞は和睦については全く聞かされていなかった。洞院実世から聞かされても本当にはせず取り合わなかったといわれる。しかし堀口貞満が天皇の下に押しかけて激しく詰問し、これまでの新田氏の忠誠を挙げそれを見捨てる天皇の無情・無節操を非難した。次いで義貞が三千人を連れて天皇の下に参上しこれを取り囲んだ。この際の義貞は怒りの色に満ちてはいたものの尚も礼節を欠く事はなかったという。
義貞とその家臣たちに取り囲まれた後醍醐は、この度の和睦は時節を待つための方便であり知らせなかったのは外に漏れるのを恐れたからだと陳弁。この時に義貞は和睦を認め自らは越前に落ち延びる代わり、朝敵の汚名を受けないよう皇太子恒良親王と尊良親王を擁立する事を妥協案として願い出ている。「太平記」によればこの時に後醍醐は恒良に三種の神器を譲渡し譲位したと伝えられる。
こうして後醍醐天皇は下山して足利方に身を委ね、義貞らは一族や洞院実世・千葉貞胤・宇都宮泰藤らを伴い越前へ向かった。出発に先立ち、義貞は日吉山王社に参詣し太刀「鬼切」を奉納している。船で塩津・海津に上陸、斯波高経の軍勢が街道を遮断していたため東近江の峠を越える事とした。まだ冬には早かったが特に寒冷であり、吹雪に遭遇した新田軍はこの峠越えで多くの凍死者を出した。
千葉貞胤は脱落して足利方に降伏、多くの者が討たれる。木曾杉の年輪からは、この年が特に寒冷であったことが分かると言う。11月13日多くの犠牲を払いながらも義貞らは敦賀に到着し気比大宮司の迎えを受けて金ヶ崎城に入った。
金ヶ崎篭城戦
金ヶ崎は、天筒山脈が海に向かって延びた岬に建設された要害である。そこに拠点を置いた義貞は、叡山で皇位を譲り受けた恒良の綸旨を発布して周囲の豪族を味方につけようとした。また、長男・義顕に二千の兵を与えて越後に赴かせるとともに義助に千の兵を与え現地豪族・瓜生保が守る杣山城へ向かわせて勢力拡大を図る。
義貞としては天筒山に本城を置き金ヶ崎は詰の城としたかったところであったが、そうして守りきれるだけの兵力がなかった。義助・義顕を派遣したのは現地豪族や越後にいる一族の力でそれを補おうとしたためである。そして、海上交通を利用して越後などと連絡を取る方針であったろう。
間もなく、越前守護・斯波高経が現地豪族の兵を動員して金ヶ崎城を包囲したため義助・義顕はすぐに救援のためとって返した。この際、義顕が旗を多く立てて援軍が来たと呼びかけ足利方の動揺を誘いそれに合わせて城から義貞が打って出たため足利軍は混乱し同士討ちに陥った。こうして一旦は足利軍を撃退する事に成功する。
これで新田軍は意気上がり、瓜生氏が脇屋義治(義助の子)を擁立して挙兵し新善光寺を陥落させる。また、平泉寺も新田方に心を寄せるようになった。この時期は、金ヶ崎で舟遊びをして恒良らを慰める一幕もあり比較的余裕が認められていた。
しかし、越前での敗戦を知った尊氏は延元2年(1337)1月高師泰を大将とした数万の軍勢を派遣。再び包囲された金ヶ崎を救援するため瓜生保らが出撃するが今川軍に迎撃され保は討死した。金ヶ崎では厳冬の最中であり兵糧の蓄えができておらず、やがて食糧難に陥り軍馬を殺してその肉を食い、更には死者の肉で生き延びる凄惨な状況に陥った。義貞は2月5日杣山へ脱出し援軍を編成するも、3月6日金ヶ崎は落城、恒良親王は捕えられ尊良親王・義顕は自刃した。こうして義貞の北陸経略は一旦頓挫したのである。
なお、目を京に移せば、尊氏と和睦した後醍醐は光明天皇に神器を譲渡し上皇とされて幽閉されていたが、延元元年(1336)11月21日脱出し吉野へ逃れて自分が正統な天皇である事を宣言した。これ以降、尊氏が擁立する持明院統の京都朝廷を北朝、後醍醐天皇とその子孫による朝廷を南朝と呼ぶ。それにしても、結果としては後醍醐は尊氏のみならず義貞・恒良をも欺いてみせたことになる。
ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国7年(北朝貞和2年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。
義貞の反撃
一旦は北陸経略が挫折した義貞であるが、杣山城で軍を再編成して徐々に巻き返しを行っていく。まずは畑時能に越前・加賀国境に細呂木城を築かせた上で、加賀の豪族である山峯氏・上木氏らを調略して大聖寺城を手に入れ加賀を勢力化に置く事に成功している。また平泉寺も新田軍に再び誼を通じるようになった。
義貞の勢力が再び拡大するのを見た斯波高経はこれを討伐しようとするが、逆に延元3年(1338)2月に義貞が三千の兵で越前国府に攻め入った。高経は出撃してこれを迎え撃ち激戦となるが、その間に平泉寺僧兵や杣山の軍勢が背後に回りこみ火を放ったためこれを見た斯波軍は潰走。
高経は国府のみならず新善光寺城をも捨てて逃れた。これを受けて越前国内七十箇所以上の城が新田軍の支配化に靡くことになる。時を同じくして大井田・中条・鳥山・風間といった越後の新田一族が数万の軍勢で越中・加賀に侵入。短期間で北陸一帯に義貞は覇を唱える事となった。
しかし高経は黒丸城に篭って捲土重来を図っており、北陸を完全に押さえるにはこれを陥落させる必要があった。不安定な情勢に乗じて北陸の大半を手に入れたものの、これは裏を返せば何かの契機で簡単に形勢が逆転しうるという事を意味していたからである。
この時期、北畠顕家が再び奥州から上洛を開始し各地で足利方を破り美濃に迫っていた。そして義貞と顕家の攻勢は全国の南朝方を勇気付け、各地で蜂起が行われた。後醍醐と共に足利と和睦した江田行義・大館氏明はそれぞれ丹波・四国で挙兵し、得能氏・土居氏も四国で蜂起した。また金谷経氏は播磨で吉川氏と共に挙兵し遠江では井伊氏が立ち上がっている。これを受けて、吉野の後醍醐天皇から義貞にもこれと協力して京を奪回するよう綸旨が届けられる。
しかし義貞としては高経を駆逐しない限り北陸が安定しないため動けない状態にあった。そこで比叡山と連絡を取った上で代理として義助に三千の軍勢を与えて南下させている。一方で顕家は延元3年1月28日に青野原で足利方を破った後、思いの外に被害が大きかったため父・親房が拠点を定めている伊勢に逃れて軍勢を再編したが、その後に奈良・石津で高師直に破れ5月22日討死。八幡に布陣して京を窺っていた顕信(顕家の弟)による北畠軍別働隊も7月に撃退され、新田軍との連携による京奪回は果たせなかったのである。
藤島に散る
斯波高経は、事態を打開するために平泉寺に藤島荘の安堵を条件として足利方に付くよう働きかけていた。平泉寺はこれを了承して藤島城に立て篭もり義貞に反旗を翻したのである。義貞は黒丸城を包囲すると共に、藤島城を攻略して越前を安定化させようと図った。閏7月2日義貞は河合荘に数万の軍勢を集結させて出陣。この時の壮観さは、尊氏を倒せる者がいるとすれば義貞に違いないと人々に確信させる程のものであったという。義貞は黒丸城の支城群を孤立させるため城砦を築かせ、藤島城を攻撃させた。
藤島城攻撃がはかばかしくないのを見た義貞は、自ら兵士たちを督戦するために少数の側近を従えて藤島に向かう。丁度そこで黒丸城から藤島城へ救援に向かう足利方の軍勢三百がこれと遭遇し、深田で矢を射掛けてきた。義貞らは少数で盾も持たず、水田では騎馬の機動力を発揮して逃れる事もできない。義貞は馬を射止められて立ち上がろうとしたところに眉間に矢を受けて落命。享年は37歳とも39歳とも言われる。武家の棟梁を争う武将としてはあっけない最期であった。
討ち取った斯波勢も当初は身分の高い人物としか分からなかったが、左眉の傷跡や所持していた太刀・後醍醐天皇の感状から義貞であると判明。遺体は時宗僧により往生院で荼毘に付され、首は京に送られて晒されたという。
「太平記」は、義貞戦死のくだりに続いてその後の勾当内侍について語っている。義貞は北陸へ下る際に危険を慮って内侍を今堅田に留めるが、彼女は義貞への慕情止みがたく越前へと向かう。しかしそこで義貞の討死を知り、同じ場所で死のうとするも周囲がそれを留めて杣山を経て京に返した。京で内侍は義貞の首が獄門に懸けられているのを目にし、悲しみの余り嵯峨野往生院で出家し義貞の菩提を弔ったという。
また、琴ヶ濱で身を投げたという伝説もあり、今堅田には彼女を祭る野上神社や彼女の墓が、本堅田には菩提寺である泉福寺が残っている。「太平記」を語る芸能者により彼女の物語も広められ、ゆかりの地の人々によって語り継がれたのである。義貞は不慮の事故ともいえる出来事であっけなく最期を遂げてしまったため、彼女の伝説により英雄義貞の最期を飾ろうとしたものであろう。
新田氏その後
義貞の死によって、尊氏は武家の棟梁を争う当面のライバルがいなくなった。同年8月に尊氏は北朝朝廷より征夷大将軍に任じられ名実共に頼朝の再来とも言うべき立場となる。一方で南朝は東国に北畠親房らによって勢力扶植して反攻を目論むが捗捗しくは行かず延元4年(1339)8月に後醍醐天皇が崩御。
義貞の死後、総大将を失った新田軍は一気に空中分解し再び足利方が有利となる。しばらくは脇屋義助が北陸で形成挽回を図るが、その威信は義貞に遠く及ばず北陸経営の挫折をやむなくされる。興国2年(1341)に義助は懐良親王を奉じて伊予今治で勢力扶植に励むものの翌年に病没。
義貞の次男義興・三男義宗は関東を中心に抗戦を続ける。一時は足利政権内での尊氏・直義両派閥による内紛に乗じて鎌倉を占領するが長くは続かず、正平13年(1358)に矢口渡で義興は謀殺される。
その他の新田一族も各地で足利方への抵抗を続けていた。伊予の大館氏明は義助病没後間もなく細川頼春により滅ぼされる。その子孫は足利方に降伏し政所奉行として活躍した。丹後の江田行義や播磨の金谷経氏は正平年間に活動が途絶える。大井田氏経は越後山間部で活動し北陸における南朝方の拠点を確保した。また大井田義氏も三河・石見で活動している。その他、岩松氏は南朝・北朝に分かれて属しており、北九州でも新田禅師や岩松氏といった新田一族の活動が確認され、土佐でも綿打入道が足利軍と戦っている。南朝方の新田一族は多くが足利方によって滅亡に追いやられていく。
一方、足利方として活動した者も少なくなかった。里見義宗は足利方について奉公衆となっている。大嶋義政は尊氏が義貞に破れ西国に逃れるときに周防の大将に任じられ直義との内紛でも尊氏方として活躍。その子の義高は一時期三河守護となっている。世良田義政も一時期上総守護として活動している。また、山名時氏が足利方として活躍し尊氏・直義の争いでも巧みに立ち回って勢力を伸ばし一時は一族の守護する国が十一ヶ国に上って「六分の一殿」と称されるまでになった事は余りに有名であろう。

最後に、義貞の力量や敗因について評価してみたい。義貞が愚将と評価される根拠は以下のように要約できそうである。
長じているのは平地での騎馬戦のみ / 対陣した尊氏が評しての言葉が元になっているが、実際にはこの戦いで義貞は弓兵を効果的に用いて山岳戦で足利軍を破っている。その他にも弓兵・歩兵や時には水軍を用いて足利軍を翻弄している事は上述の戦闘描写で読み取れるであろう。
討死した時の軍編成は盾もない騎馬戦士のみであり弓を持った歩兵を擁する足利方と比べ時代遅れ / 急いで戦場に急行している際に敵に遭遇するという突発事故に近い状況であり、義貞の無用心さを攻める事はできるが軍編成に一般化して論じる事はできない。弓兵・歩兵も使いこなしている事から考えて、新田軍の編成が同時代の標準と比較して特に遅れているとはいえないであろう。
尊氏との戦で一騎打ちに拘る時代錯誤 / 尊氏も一騎打ちに応じようとして側近に留められている描写があり義貞と大差があるとはいえない。また、兵力で劣る義貞としては一気に敵を突破して中枢を討ち取る他に打開策はなく、一概に責める事はできない。なお、軍事的側面のみならず社会的にも関東の一土豪に過ぎなかった義貞は貨幣経済の発達した時代に適応できなかったと言う論も見かけるが、冒頭で述べたように新田氏も貨幣経済による恩恵を相当に受けている存在であり義貞も正成らと同様に時代の子であったといえる。
しばしば絶好の機会を逃しており機を見るに鈍 / 決断の鈍さゆえに機会を逃し敵殲滅できなかったという描写は足利方にもしばしば見られており義貞のみではない。義貞は朝廷軍の指揮官に過ぎずその戦略は朝廷の方針に大きく束縛を受ける。また、義貞個人の決断よりも様々な状況や束縛で動くに動けなかったと見るほうが妥当である。
「犬死」と評価される最期 / 「太平記」が「犬死」と酷評しているのは義貞でなく彼を救えなかった部下であり、「神皇正統記」は元来が貴族自尊主義により義貞ら武家への評価が低い(正成に至っては戦死について触れられてさえいない)ため割り引いて考える必要がある。
しかし、詳細に検討すればこれらの論拠は必ずしも当を得たものでない事が分かる。先入観を除いて評価してみると、義貞は少なくとも軍事指揮官としてはかなり優秀であった事が分かる。勇猛であるだけでなく、戦術面では正成のような奇策を弄する事は少ないものの十分に柔軟であり、戦略面でも様々な束縛の下で最善を尽くしているといえる。また人柄は実直であり部下思いであったことも知られる。しかし正統派の武人である事が逆に災いして後醍醐天皇・足利尊氏・楠木正成といった個性的な人物と比較して影が薄くなったのは否めない。
しかし、尊氏が政治的な面にまで視野に入れて広く根回しを行っていたのと比べ、義貞は政治的な駆け引きや政略・国家戦略に長じていたとはいえない。尤も、尊氏もしばしば読みの甘さが指摘されているし義貞は晩年にはそれなりに政治的工作を行うようになっており両者の差は余り大きなものではないのかもしれない。ただ、尊氏が政治的力量に優れた弟・直義や執事・高師直による補佐を受けられたのと異なり、義貞には周囲に政治に長じた人物が存在しなかった。
そして義貞もその軍事的力量でカリスマとして台頭したが、尊氏には直情的な義貞にはない不思議な人間的魅力があった。加えて何より、尊氏は不可解なまでに強運でありここ一番で不運に泣かされる事の多かった義貞とは対照的である。家系の経済・軍事力で劣っている以上は個人的力量で大きく上回っていない限り逆転は難しいのだが、尊氏が相当な傑物であった事は義貞にとっては悲劇であった。
また、義貞は尊氏と比べて家柄で大きく遅れを取っていたため、彼と対抗するには朝廷軍の司令官として天皇の権威を借りる必要があった。しかしそれが朝廷への不人気の煽りを受け、豪族たちの広い支持を集める事ができなくなった原因となった。尊氏が「頼朝時代の再興」を公約に掲げ体制に不満を持つ豪族たちの受け皿となったこととは対照的である。
豪族たちの期待の星である武家政権の棟梁であった尊氏と異なり、義貞は朝廷の傀儡としか見られなかった。朝廷の不人気に関しての責任は義貞でなく後醍醐が負うべきであるが。晩年には北陸で御教書を発布し尊氏同様に武家の棟梁として振舞うようになるが、その時は両者の勢力が隔絶しており余りにも遅すぎた。
上記のように義貞は尊氏と争うにはかなりの不利があったにもかかわらず、後醍醐と尊氏の対立が不可避となる中で尊氏と家柄・力量・実績・人望で曲がりなりにも対抗できる人物が義貞しかいなかった。尊氏から見ても、「頼朝の再来」として武家の棟梁を目指す際に、名目上で競争相手となり敵手となるべき存在は天皇でもなく正成でもなく自身同様に源氏の嫡流である義貞しかありえなかったのである。
こうなると黙っていても周囲が義貞を尊氏と争わざるを得ない方向へと持っていく。なまじ力量があり時流に乗って名を挙げたが故に強力な宿敵相手に絶望的な戦いを強いられた。それが義貞にとって、そして新田氏にとっての悲劇であった。
 
足利氏にとっての足利 (南北朝・室町時代の東国史教材化のために)

はじめに
尊氏は足利生まれか?
「中世になると同族意識が強化されて、一族が本拠地の名字を共通の称とするようになった。「名字の地」とは、そうした名字の由来となった先祖伝来の土地(所領)のことをいう。在地領主たちは、獲得した所領のなかに居を構え、その地名を屋号と号した。たとえば、足利氏の場合、源義家の子義国が下野国足利の地を譲られたことにはじまる―。」
勤務高で採用している資料集の記述の一部である。日本史の授業で、南北朝〜室町時代の政治史を説明するとき、足利尊氏の事績について当然触れることとなる。しかし、教科書に現れる尊氏の登場は唐突で、鎌倉幕府を倒して室町幕府を開くことができた彼の力の源泉とは何であったのか、全くというほど説明がされていない。
疑問に思い『国史大辞典』など詳細な事典類を調べてみても、意外なことに尊氏の前半生は確実な史料には現われず、謎に包まれている。そもそも彼の出生地も名字の地の「足利」であるという確証はない。鎌倉説や丹波綾部説もある。やがて南北朝の内乱で全国各地を転戦する尊氏であるが、その生涯をたどっても、彼が足利に逗留・滞在したという記載すら管見の限り見当たらないのである。
こうした尊氏の生い立ちと、冒頭で引用した文章を併せ考察してみると、大きな矛盾に突き当たってしまう。それでは尊氏ひいては足利氏にとって名字の地である「足利」の地とは一体どんな存在であったのだろうか。
近年の研究では、「一所懸命」や「草深い農村に基盤を置いた在地領主」といったイメージだけではとらえきれない多角的な側面を東国武士が持っていたことは既に指摘されている。当然、教育現場でも積極的に取り入れていくべきであろう。そこで本稿では最初に尊氏が歴史の表舞台に登場する前段階として、鎌倉時代の足利氏の族的性格に簡単に触れておきたい。
尊氏の室町幕府創設後、次男義詮の子孫は足利の地を遠く離れ、京都において将軍職を世襲する。また鎌倉にも関東を統括する鎌倉府の長官として、尊氏の三男基氏の子孫が鎌倉公方として赴任していくのである(系譜関係については後掲の「源姓足利氏系図」を参照されたい)。政権の担当者として君臨するようになった彼らにとって、名字の地「足利」はどのような存在だったのであろうか。「足利」の持つ政治・経済・文化など様々な側面から探ってみたい。
高校の教科書等では、南北朝・室町時代の説明がどうしても京都中心の記述に重点が置かれてしまうのは致し方ないことだが、神奈川県あるいは関東地域で生徒たちに日本史を教えるなら、もう一つの足利氏、すなわち鎌倉公方を核とする東国秩序が存在していたことを説明する必要があるのではないだろうか。その中で「足利」の地がどのような位置を占めるのか、考察してみたい。
ちなみに、近年中世東国史が著しく進展した結果、足利荘をめぐる「京都=室町将軍」と「鎌倉=鎌倉公方」の関係については、多くの先学が重要な論点を提示している。本稿はそれら先学に多くを依拠していることをあらかじめお断りしておきたい。  
一 鎌倉時代の足利氏
まず、尊氏を生み出した足利氏という氏族が鎌倉時代後期どのような氏族であったのか。いくつかの史料から一端を探ってみたい。
吉田兼好の1『徒然草』二一六段には、鎌倉幕府五代執権の北条時頼が鶴岡八幡宮の参詣のついでに足利義氏の邸宅に立ち寄った話が記されている。そこで時頼は、豪華な摂待を受けた後、「年毎に給はる足利の染物」を所望した。そこで義氏はかねてから用意してあった染物三十を女房たちに小袖に仕立てさせて時頼に送ってよこし、その豪勢さが人々の語り草になったと締めくくっている。
義氏は尊氏より五代前の鎌倉中期の足利当主である。足利氏は代々北条氏から妻を迎えている。義氏の妻は時頼の父の妹にあたり、当然、足利氏は御家人としての地位も高かった。足利氏の邸宅が鎌倉の鶴岡八幡宮近辺に構えられており、普段より当主は鎌倉に居住して幕府の重鎮と交流していたのであろう。そして同氏の豊かな財力は、兼好が特筆するほどのものであったのである。また、「足利の染物(織物)」は執権時頼にも毎年所望される品質を誇っていたことも窺えて興味深い。近世以降、全国的に著名となる足利織物の原型が、既にこの時期存在していたことの証左であろうか。
鎌倉御家人足利氏の所領は下野足利荘を本貫の地として全国各地に散在する所領を有していた。鎌倉時代後期と推定される2「足利氏所領奉行人注文」と題される史料が『倉持文書』に収められている。有力御家人の所領構造の全貌を窺うことのできる貴重な史料として著名である。
それによると、注文には足利当主の所領が三群に分けて記載され、それぞれに担当奉行人が定められて所領経営にあたっていた。上総と三河の守護職をはじめとして郡・郷・村など様々な規模の所領が全国一七ヶ国に三六ヶ所が挙げられている(後掲の足利氏所領分布図を参照)。第一群は本貫足利荘を筆頭に陸奥から北関東にかけての所領がまとめられており、足利氏の有力被官高一族の南頼基以下七名が担当する。第二群は守護国上総を筆頭に相模など主に南関東地域の所領がまとまる。それを被官三戸氏や寺岡氏ら七名が担当した。第三群は守護国三河を筆頭に西日本(三河〜丹波)の所領がまとまる。ここの筆頭奉行人は上杉頼重で、以下八名が担当していた。ちなみに頼重は尊氏の母清子の父にあたる。やがて上杉氏は高氏と並んで足利尊氏の幕府創立を支える役割を担ってゆくが、既に鎌倉後期には足利宗家の有力被官となっていたのである。
そして全国に散らばる所領を管理するため、中央に政所(=所領支配)が置かれ、各地方の所領にある公文所という現地支配機関を統轄していたという。その他足利家には勘禄(=裁判)、侍所(=家臣団統制)らの諸機関が置かれていたらしく、同氏の家政機関はかなり整備・充実していたものであった。そしてこれらは北条得宗家と極めて酷似したものであったらしい。
建治元(一二七五)年五月付けの3「六条八幡宮造営注文写」という史料がある。京都にある六条八幡宮を修造するために鎌倉幕府が配下の御家人に賦課した際の帳簿であり、御家人たちはその所領規模や財力によって造営料を納入した。記載されている御家人は総勢四六九名、合計六六四一貫文が賦課されている。
注目すべきは鎌倉居住の「鎌倉中」、六波羅探題が管轄する「在京」、そして各国の本貫地にいる「国御家人」に分けられており、これによって幕府が全国の御家人をどのように把握していたかを知ることができるため、多くの御家人研究に利用されてきた。それに依ると「鎌倉中」の御家人一二三人が全体の七割近くの四五七七貫文を負担しており、その筆頭は時の執権北条時宗で、五〇〇貫文という抜きん出る存在であった。続いて同義政(三〇〇貫)、同時房跡(三〇〇貫)、同政村(二〇〇貫)ら北条一門が続く。
一方御家人では長井義秀跡(一八〇貫)、安達義景跡(一五〇貫)千葉頼胤ヵ(一〇〇貫)等が有力な金額を負担している。さて足利氏はどうかといえば、「足利左馬入道」=足利義氏が「鎌倉中」の六番目に記載され、二〇〇貫文を負担している。これは北条一門を除く御家人中一番の負担額である。『徒然草』で兼好が書き留めた足利氏の富裕さは伊達ではなかった。
注目すべきは足利氏の負担額の巨大さもさることながら、幕府が足利氏を「鎌倉中」の御家人として把握されていた事実である。冒頭で述べたように足利氏発祥の地は下野足利荘であるが、この帳簿の「下野」部分には「上野次郎」(六貫文)以下七名の御家人が僅かな負担額とともに記載されているに過ぎない。
鎌倉後期において幕府は足利氏を下野御家人とは見なしていなかったのである。おそらく足利家当主は鎌倉に基盤を移してからかなりの年月が経っていたものと思われる。北条氏や有力御家人とのサロンが形成されていたのであろう。1でみた『徒然草』の記載はその一齣であった。また2でみたような奉行人ら主要な家政機関も鎌倉に置かれており、全国の散在する所領へ鎌倉から指示が発せられたものと思われる。逆に各所領からの収益は、鎌倉に集められたのではなかろうか。足利からの染物(織物)もその一つであろう。
僅か1〜3の史料からであるが、鎌倉後期の足利氏は都市的性格の強い一族であった、ということがいえないだろうか。地方の富を中央に吸い上げる家産システムは、北条一族とよく似ている。北条氏を京都の貴族や寺社など権門と同様に「荘園領主的」であると評価する先学もあるが、足利氏も多少ともそのような性格を有していた氏族ではないだろうか。「地方の田畑で農作業を指揮し、騎射等の武芸に励む」という、鎌倉武士のイメージだけでは決して足利氏を評価したことにはならない。
これらを踏まえ、改めて尊氏の前半生を考えてみれば、鎌倉で出生したのかはともかく、都市鎌倉の上級サロンの空間で多くの時を過ごしたものと考えられよう。彼が鎌倉幕府を倒し、南北朝の内乱を転戦しながらも、本貫地の足利に執着しなかった(もちろん重要な所領の一つであったことに違いないが)理由の一つもここにあるのではないだろうか。  
二 足利荘と鑁阿(ばんな)寺・樺崎寺
前節で見たように足利氏は全国に散在する所領の収益を鎌倉に集めて家政を運営していたため、当主が足利へ赴くことも頻繁にはなかったものと思われる。
先述のように南北朝・室町時代に至って足利氏は鎌倉御家人から将軍あるいは公方へと雄飛し、その子孫はそれぞれ京都・鎌倉の地でそれぞれ政権を運営していったため、ますます足利の地とは縁遠いものとなっていたに相違あるまい。こうした中で彼らにとって名字の地である「足利」をどのように捉えていたのであろうか。
残念ながら直接それを語るような史料は存在しない。だが、それを窺う一つの手かがりとして、足利にある鑁阿寺と樺崎寺(今は廃寺)という二つの寺院に注目してみたい。
現在足利市街の中心部に位置する鑁阿寺は、出家した源姓足利氏二代目義兼が鑁阿と号して隠棲し、建久七年(一一九六)屋敷内の一角に持仏堂を立てたことに始まるという。同寺所蔵の『鑁阿寺文書』は、東国中世史を研究するうえで屈指の質量を誇っている。
一方樺崎寺は、現在廃寺となっているが、やはり義兼が文治五年(一一八九)、奥州合戦の戦勝祈願のために創建したと伝えられ、足利氏の墓所・廟所となっていった。近年発掘調査が進み、浄土庭園を持つ壮麗な伽藍の全貌が次第に明かになりつつあり、注目されている。鎌倉時代以来、両寺はセットで足利氏の重要な寺院として機能し続けていく。『鑁阿寺文書』群中に収められている「鑁阿寺・樺崎縁起并仏事次第」は、室町期の成立との推定がされている。
このなかに「就天下之恢異鳴動於于今在之(足利氏の天下に災いの起きたときには寺院が鳴動する)」、「此寺之繁昌者、則子孫之繁昌、此寺之衰微者、子孫深慎而己(この寺の繁栄衰退と足利氏の命運は一体的なものである)」、「右當寺者為代々先君御菩提所、都鄙之将軍家御墓、五輪石塔並甍、御仏事無怠轉、期松栢不朽之千歳者也(この寺は足利家代々の菩提所であり、都=将軍・鄙=鎌倉公方の五輪塔群が並んでいる。仏事を怠りなくすれば不朽の繁栄を期すであろう)」等、両寺と足利氏との一体的関係を強調する表現が散見される。即ち南北朝・室町期の足利氏にとって鑁阿・樺崎両寺の存在する足利の地は、遠く離れたとはいえ、自己の正当性・繁栄を担保する神聖な地と認識していたのであろう。しかし、この地が鎌倉府の管轄する関東に存在することに留意しておきたい。将軍にとって自己の正当性を示す足利は「飛び地」であった。
周知のように鎌倉府は関東八ヶ国(後に奥羽二国を追加)を管轄する幕府の出先機関として、尊氏三男の基氏が公方として赴任したことに始まる。評定衆や政所、諸奉行など幕府同様の政務機関を揃えて次第に独立した東国支配を行うようになってゆく。
鎌倉府の年中行事を記載した『殿中以下年中行事』という史料には、「京都鎌倉ノ御両殿ハ天子ノ御代官トシテ諸侍之忠否浅深ヲ記シ御政務有ルヘキ職ニテ御座アル間、大樹御申也」とあり、鎌倉公方が将軍と同等に天下を支配する正当性を高らかに謳っている。
こうした両者が次第に対立の度を増す中で、足利の地がどのように位置付けられていくのであろうか。先学が指摘するように将軍・鎌倉公方の両者の関係が、最も先鋭に反映される場所であった。次節では京都・鎌倉の両政権の間で翻弄される足利の地の持つ様々な側面について検討しておきたい。  
三 資南北朝・室町時代の足利荘の諸相  
a.経済的・政治的側面
平安末期の康治元年(一一三七)年、足利荘は立券された。やがて源平の内乱の中で、藤原姓足利氏を圧倒して進出してきた源姓足利氏が、当地の実質的な支配権を確立する。下野国西南部に位置する足利荘は、足利郡の全域と安蘇郡の一部にまたがる広大な領域を有していたため、そこから揚がる収益も莫大なものとなったであろう。足利氏所領群の中でも経済的に最も重要な一つであった。
南北朝・室町時代の足利荘の管理形態は、諸先学によって詳細な検討が行われている。即ち基本的には将軍名字の地として尊氏以下将軍の直轄所領であったと思われるが、関東に存在したために管理は鎌倉公方に委任させていたようである。
鎌倉時代の足利荘は、郷や村の単位で根本被官たちへ分与されていたが、南北朝の動乱以降は将軍の奉公衆(家臣)の所領や鎌倉公方配下の在地領主や鎌倉寺院の所領などが複雑に入り組み、しばしば京都・鎌倉の間で調整がなされている。例えば貞治元年(一三六二)十二月、鎌倉公方足利基氏は、奉公衆の高師有に県下野入道が領有していた荘内の県郷を高氏の本領であることを理由に還付した(『鎌倉市立図書館所蔵文書』)。しかし県下野入道はこれを不満として将軍足利義詮へ申し入れて鎌倉府に返還を申し込んできた。だが、師有は県郷を鎌倉の建長寺宝珠庵に寄付してしまったようで(『保坂潤治氏所蔵文書』)、県入道の訴えも実現しなかった。将軍・公方両者の調整も、在地での複雑な領有関係の前に円滑に進められたとはいえないようである。京都・鎌倉の関係は、多少の緊張関係をはらみながらも、しばらくは小康を保ちえたために鎌倉府の足利荘の管理は続いた。
しかし四代公方足利持氏の代になると、将軍に対してしばしば反抗的な態度が目立つようになり、両者の関係は緊張の度を一挙に増すようになる。当然、足利荘の管理態勢にも政治状況が反映された。すなわち幕府の代官が派遣されて直接支配に乗り出してきたのである。応永二四年(一四一七)十一月に室町幕府管領細川満元は、足利荘代官香河元景へ足利荘山河郷内の田畠等を奉公衆進士氏へ打渡しの執行を命じている。香河元景は満元の家臣である。また、同二九年五月には鑁阿寺に対して「恒例・臨時諸役并七社神事」について神保慶久が現地で指示を出している(いずれも『鑁阿寺文書』)が、慶久は時の管領畠山満家の家臣であった。幕府が鎌倉府の手を介さずに直接支配に乗り出した理由は、収益を確実に得ようとする目的もあったが、それだけではなかったらしい。
歴代将軍の政治顧問として活躍した醍醐寺三宝院の僧満済の日記『満済准后日記』応永三十年六月五日条には、「関東之儀毎事物怱歟、剰武蔵国へ可有進発由其聞有也」と関東=持氏の不穏な動きが幕閣の間で話題となっていることが記されている。その情報源は「其後畠山修理大夫自足利庄代官神保方注進トテ持参」とあって、足利荘代官で畠山被官の神保慶久であった。先学も指摘するように、幕府が管領家臣を足利に派遣して直接支配に乗り出したもう一つの理由がここにあった。足利荘が鎌倉府の動静をいち早く京都に知らせる幕府の情報基地となっていた意味合いも大きかったのである。
これに対して公方持氏は、足利荘の幕府支配に公然と反発する。正長三年(一四三〇)五月三日、鑁阿寺・樺崎両寺の寺領に対して「恒例・臨時之諸役」の一切を免除し、惣政所などの役人の「不入」を命じた(『鑁阿寺文書』)。当時将軍は六代義教の代に入っており、両者の衝突は一触即発の様相を呈していた。公方持氏はこの政治的に微妙な時期に敢えて幕府管轄下の足利荘に干渉してきたのである。そもそもこの文書に記された「正長三年」の年号は存在しない。「正長」は前年九月に「永享」と改元されていたのであるが、持氏は幕府の意向に従わなかったのである。足利氏の正当性を象徴するこの地に対して「正長」年号で発給したこの文書は、持氏の強烈なメッセージが込められているといえよう。一方の将軍義教の方も妥協するつもりはなかった。幾度となく「関東征伐」を幕閣に諮っているが、管領や有力守護大名、満済等の説得によってようやく諌められている。鎌倉府でも関東管領上杉憲実の奔走によって最悪の事態だけは回避されている状態であった。
しかし憲実必死の努力も空しく、公方持氏の将軍義教への反抗は止むことがなかった。永享十年(一四三八)六月、万策尽きた上杉憲実の要請を受ける形で義教は持氏討伐を諸大名に指令、全面対決となった。「永享の乱」である。このとき将軍義教が持氏討伐の理由としていくつが掲げている。将軍に賀使を遣わさなかったこと、那須氏や佐竹氏など将軍に忠誠を誓っていた関東の諸豪族(京都扶持衆)らを無断で次々に討伐したこと等であったが、何より第一に掲げたのは、「関東不義以外候哉、已御料所足利庄お為始、京都御知行所々不残一所悉押領(以上『満済准后日記』)」であった。御料所足利荘の横領、これが永享の乱=持氏滅亡の最も大きな要因の一つであったことは抑えておくべきであろう。  
b.宗教的な側面 鎌倉と足利
鎌倉時代には足利氏という一御家人の氏寺・廟所に過ぎなかった鑁阿・樺崎寺が、やがて足利氏が政権の頂点に君臨するに至ってどのように変化していくのかみていきたい。周知のように南北朝・室町期に至っても鎌倉の鶴岡八幡宮(当時は宮寺)は武家の精神的な拠り所として依然大きな位置を占めていた。足利氏もまた自己の正当性を支えるため、鶴岡八幡宮の宗教的権威を利用しようと試みるのは当然であろう。
『鶴岡社務記録』や『鶴岡八幡宮社務職次第』といった記録類をみると、最高職の歴代別当には一八代頼仲(足利一門の仁木師義子息)、二十代には弘賢(足利一門の加子七郎子息)、二二代は快尊(上杉禅秀の子息)、二四代尊仲(足利一門一色道慶の子息)と足利一族が就任していることがわかる。特に一八代頼仲は康永二年(一三四三)八月に「堀内拝堂」ために「足利下向」しており、十一月まで滞在しているのである。恐らく堀内=鑁阿寺の何らかの行事に参加したものであろうが、東国の宗教界のトップである鶴岡別当が、一地方寺院に三カ月も滞在するのは異例のことといえよう。また、弘賢や快尊、尊仲といった足利一門の別当たちの事績をみると、いずれも「鑁阿寺・赤御堂(=樺崎寺)別当職」を兼帯していることが確認される。ここに宗教界の頂点である鶴岡社と足利氏由緒の鑁阿・樺崎両寺を一体化させようとする、足利氏の積極的姿勢を看取することができるだろう。特に将軍への対抗意識の強かった鎌倉公方の積極的な保護がみられる。観応二年(一三五一)九月公方基氏は「足利荘内借宿郷佐々木近江守妻跡」の地を鑁阿寺に寄進している(『鑁阿寺文書』)。これを手初めにその後の歴代公方も所領寄進や諸役免除などを続け、鑁阿・樺崎両寺への保護を示す史料は数多く残されている。
これに対して鑁阿・樺崎両寺も精神的に足利氏を支えていく。年未詳十二月二九日付の二代公方足利氏満書状(『東大文学部所蔵文書』)には、樺崎寺からの祈祷の巻数一箱が到来したことを謝す内容が記されている。おそらく鎌倉公方の繁栄を祈祷したのであろう。「天下静謐」や「歳末祈祷」等、様々な名目で足利氏繁栄の祈祷が行われたのであった。  
c.儀礼的な側面
これまでみてきたように、足利の地が足利氏にとって支配の正当性を象徴するような場所に位置付けられていたため、鎌倉公方の諸行事にも「足利」は効果的に用いられた。先述のように『殿中以下年中行事』という記録は鎌倉府の諸行事を記した故実書であるが、その冒頭に正月一日の早朝に鎌倉公方の使用する「御手水」はわざわざ「足利ヨリ」鎌倉にやってきた「御歳男」が用意するのが恒例となっていた、という記載がある。
また、足利にある古刹鶏足寺の記録(『鶏足寺血脈』)によれば、二代公方氏満が下野の小山氏討伐に際して「(鑁阿寺)千手院」に逗留している。これは「代々御廟陵御参御志也」という理由からであった。おそらく鎌倉公方が出陣の際には、歴代足利氏当主の御廟に対して象徴的な何らかの儀礼があったのではないだろうか。  
d.「都市的な場」としての足利
足利荘は下野・上野・武蔵の国境に位置していたため、古代より東山道が通過し駅家も置かれ、北関東の軍事・交通の要衝であった。それでは中世の足利氏支配の下での足利荘はどのような様相を呈していたのであったろうか。応永三四年(一四二七)六月以来、この一帯で大規模な洪水があったらしく、中でも「足利町邊ニハ四百八十人流死ス」(『鶏足寺血脈』)との記録がある。「足利町」との記載から足利には町場の存在が確認できること、また死者の数値から町場には相当な人々が集っていたことが窺えよう。そしてその町場の賑わいは鎌倉時代に溯るものと思われる。宝治二年(一二四八)七月付の足利義氏置文は鑁阿寺境内における禁止条項を定めているが、その中に「童部狼藉」「牛馬放入」と共に「市人往反」を禁じている。「市人」とは商人のことであろうか。門前を商人が頻繁に往来する町場の風景が広がっていたのであろう。その他足利には「河原町」という町名も確認される。そこには職人として鍛治が集住していた(「年未詳十一月二九日泰詮書状」)。また、南北朝期と思われる「大御堂御修正檀供分配日記」という記録には「繪所(室内の装飾などの職人ヵ)」「経師(表具職人ヵ)」「番匠(大工)」「檜師(未詳)」「土器作(カワラケを作る職人ヵ)」など鑁阿寺から餅を賜った様々な職人たちが列記されている(以上いずれも『鑁阿寺文書』所収)。
これら町場の存在や商人・職人の集住の様子から、中世の足利が「都市的な場」としてかなりの賑わいを見せていたことは疑いないであろう。為政者にとっても北関東の流通拠点としても足利は是非とも掌握しておきたい場所であったのである。  
e.足利の文化水準の高さ
足利家の墓所・廟所とされる樺崎寺は現在廃寺となってしまったものの、平成十三年に国史跡として指定されて以来、保存整備のために発掘調査が継続して行われている。その結果、足利義兼入滅の場である赤御堂を中心に多宝塔や歴代当主の五輪塔が立ち並んでいた御廟跡(五輪塔群は近隣の光得寺に移動している)、寺の管理機能を持つ様々な堂宇の跡、大規模な浄土庭園式の園池遺構も認められた。その出土遺物も舶来の青白磁や漆椀、大量の瓦片が発見され、中でも三鈷杵文様の軒瓦は、他に京都でしか類例がない珍しいものであるという。また現在近隣の光徳寺に安置されている大日如来像は、もとは樺崎寺のものであり、運慶の真作であることが認められている。これだけでも関東屈指の武士団である足利氏の財力とその文化水準の高さを示していよう。
一方、義兼の持仏堂から発展した鑁阿寺も次第に足利歴代当主の保護の下に伽藍が整備されていくが、こちらは仏典や漢籍の購読が行われ、学問の研鑽に励む多くの僧侶の集う場所となっていたようである。宝治三年(一二四九)正月七日に読書始なる行事が寺内で行われ、テキストとして『大日経疏』、『周易』が選ばれている(『鑁阿寺文書』)。金沢文庫に代表される北条氏同様、足利氏も学問活動に一定の保護を与えていたのではないか。同寺にはかなりの蔵書も寺内にはあったのではなかろうか。
このように足利の高い文化的水準を考えると、後に「坂東の大学」と評される足利学校が何故ここに再興されたのか、その一因を求めることもできよう。
ちなみに『鎌倉大草紙』という室町時代の関東の戦乱を描いた軍記物には「足利は京都并びに鎌倉御名字の地にて他に異なりと、かの足利の学校を建立して、種々の文書を異国より求め収めける」と足利氏の名字の地としての特殊性に求めている。  
 
東国武士と新田一族の盛衰

 
 
はじめに  
新田氏といってすぐに思い浮かぶのは1333年に鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞であろう。とくに、小学校までを群馬県ですごした人に「歴史に名高い・・・」と問えば、ほぼ全員が「新田義貞」と答えるであろう。これは、『上毛カルタ』の影響が大きい。現在でも、冬にはかるた大会が行われ、子どもたちは子ども会の行事等でこの上毛カルタに取り組む。そういったこともあり、群馬県人にとっては新田氏=義貞という図式が成り立っているとさえ言えるかもしれない。新田氏の中でもっともよく知られている義貞、しかし、鎌倉を攻め滅ぼして、その後は悲劇的な最後をむかえたということぐらいしか、小・中学校の授業でも教えていない。子どもたちにとっては、身近な悲劇的なヒーローのような存在であろうか。私自身もそのように感じてきていた。それでは、実際の義貞はどのような人物だったのだろうか。イメージどおりの人物なのだろうか。これまでの研究成果をもとに義貞の本当の姿を教える必要があるだろう。
歴史の中で新田氏を見た場合、個人の次元で見ることはできない。例えば、義貞のケースで考えてみても、鎌倉幕府との関係、討幕後も後醍醐との関係を見ていく必要がある。
本論文でいえば新田氏を知るためには、彼らの活動だけでなく、生活した地域を理解することも必要である。とくに、新田氏とその生活の基盤であった新田荘は、不可分の関係でもあり、新田氏を理解するためには欠かすことはできない。
新田荘遺跡は平成12年11月1日に国指定史跡に指定されている。この史跡は広域に存在する複数の中世遺跡を荘園として面的に捉え、一つの史跡にしたところが特徴的である。このようなケースは大阪府泉佐野市日根荘遺跡(平成10年12月8日指定)に次いで2例目で非常に稀である。新田荘遺跡と新田氏は不可分の関係であり、新田氏を学ぶことにより、郷土の歴史や地域文化遺産への関心も高めることが期待できるのではないだろうか。これは、現行学習指導にも書かれている地域学習にもなろう。また、新田氏の活躍した時代は平安末期から鎌倉・南北朝時代と武士がその時代の重要な役目を担った時期であった。新田氏の活動を示すことによって、子どもたちに武士のいきいきとした姿の一面を見せることができ、新田氏の学習を通してを武士を学ぶこともできるのではないだろうか。
群馬県の教員になる私は、地域教材となる新田氏を研究し、本当の姿を子どもたちに見せたいと思っている。そこで、本論文においては、以下の事を論述していきたい。
1 新田氏の性格
かつて、武士の歴史は中央の皇族や貴族が地方に土着し、開発領主となることによって始まると考えられていた。教科書には今でもそう書かれている。そして新田荘と新田氏は、開発領主が自分の土地を守るために現われた東国荘園の典型である寄進地系荘園の成立とその展開の中で述べられてきた。しかし、それは事実なのだろうか。近年の研究では京都とのつながり、武者としての一面があることもわかってきた。所領を広げるために、東国にいるだけではなく、京都とのつながりも重要であった。京都側に働きかけをし、目的を達成していくのが開発領主の一般であった。これまでは土着のイメージが強かった新田氏。新しい研究成果をもとに、新たな新田氏像を描きだす。
2 武士の成長と坂東の社会
高校の日本史の教科書には、前九年・後三年合戦で東国の武士団を率いて戦いに勝利した源義家は、東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった。そして、東国の武士団は武家の棟梁で源氏の嫡流である頼朝のもとに集結し、最終的に平氏を倒し鎌倉幕府を開くことになった、と書かれている。
最近の研究の中には、そもそも義家は武家の棟梁になれず、義家のひ孫で、頼朝の父親でもある源義朝も武家の棟梁になることも失敗し、武家の棟梁としての完成形が「鎌倉殿」であったというものもある。武士発展史とも言えるこの説では、頼朝が初の「武家の棟梁」ということになり、義家が残した実績や遺産を無視したことになる。また、頼朝が初の「武家の棟梁」ならば、なぜ急に頼朝が急に現われたのかの説明が充分ではない。
それでは、実際はどのような状況だったのか。平忠常・前九年・後三年と三回の反乱を鎮圧することによって、義家は王朝国家の軍事指揮権を媒介に東国武士との間に軍事的主従制を形成して王朝国家の軍事指揮官の地位を獲得して「武家の棟梁」と仰がれるようになった。しかし、院政期になると、院による抑圧、内紛や伊勢平氏の台頭などにより源氏にとって冬の時代ともいうべき時期をすごした。そんな冬の時代でも、義家の残した実績は完全に消えることはなかった。頼朝の父親である義朝は相模を中心とする南関東に拠点を築き、再構築をめざした。義朝は平治の乱で敗れ討たれるが、その息子である頼朝が平氏打倒に立ち上がった時、彼らの遺産が大いに頼朝を助けることとなった。保元平治の乱〜頼朝による幕府成立までの坂東社会の様子を明らかにしていく。  
第1章 十二世紀初頭の両毛

■第1節 上野国の交通体系
第1項 2つの河川体系
当時の関東地方の水系は3つの水系からなっていた。利根川・渡良瀬川・鬼怒川の三つの河川である。現在では、渡良瀬川と鬼怒川はそれぞれ利根川の一支流であるが、当時は独自の水系であった。利根川と渡良瀬川は並行し江戸湾に流れ込み、鬼怒川は太平洋へと流れていた。この3つの河川が現在のような流路になったのは江戸時代の利根川の東遷などの大改修を行ってからである。
利根川はかつて墨田川とも呼ばれている(1)。
(史料1)『義経記』
「治承四年九月十一日、武蔵と下野(総)の境なる松戸の庄、市河といふ所に着き給ふ、御勢八萬九千とぞ聞こえける、爰に坂東に名を得たる大河一つあり、此の河の水上は、上野の国刀根の庄、藤原という所より落ちて水上とほし、末に下りては在五将の墨田河とぞ名づけたる、」
源頼朝は石橋山での戦いで敗れ、海路安房に逃れた。その安房の地で、三浦一族と合流し、頼朝から連絡を受けた下総の千葉介常胤は下総国の目代を攻め殺してから、頼朝を国府に迎えた。また、その後上総介広常も参陣した。この翌月の10月6日には相模国鎌倉に入るわけであるが、ちょうど、房総三カ国の敵対勢力は一掃され、江戸湾に注ぎ込む利根川・渡良瀬川の両大河を渡ろうとしているところであった(2)。この史料からも利根川は現在のように銚子沖の太平洋に流れ込むのではなく、かつては江戸湾に流れ込んでいたことを確認することができる。
渡良瀬川はかつて太日川(ふといがわ・ふとひがわ)と呼ばれていた。現在のような利根川の最大の支流ではなく、一つの独立した河川だった。利根川と並行する形で江戸湾に流れ込んでいた。舟運が盛んで、渡良瀬川流域の荘園や御厨からの年貢は船によって運ばれていた。
鬼怒川は栃木・群馬県境の鬼怒沼を水源としている。現在は、利根川の一支流であるが、これは江戸時代以降の利根川の東遷による大改修によって利根川に合流することとなったためである。それまでは、独立した河川であった。
鬼怒川と呼ばれるのは明治時代になってからで、古くは毛野川(けのがわ)と呼ばれ、『常陸国風土記』にもその名が記されている。鬼怒川は下流になると絹川・衣川(ともにきぬがわ)と呼ばれて、十一世紀前半の平忠常の乱に関して、
(史料2)『今昔物語集』
「衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ」
と記されており、流下先は内海であったことがわかる。この内海周辺では、漁猟や塩焼に携わりつつ舟運の担い手となった人々がいて、「海夫」と呼ばれていた。この内海が海の民を生み出すこととなったのである。
(1)利根川の下流部分を墨田川と呼んでいた
(2)利根川が江戸湾に流れ込む流路は現在の隅田川であり、渡良瀬川が江戸湾に流れ込む流路は現在の江戸川の流路とほぼ同じであった
利根川水系
現在の利根川は、群馬・新潟県境付近の大水上山(利根岳、1830メートル)に発し南流する。沼田・渋川・前橋を流れ、玉村町付近から埼玉県との境界をなしながら東流する。そして、栃木・埼玉県境となり、茨城・千葉県境を東流し銚子市付近で太平洋に注いでいる。坂東太郎とも称され、日本最大の河川である。
かつての利根川は現在とは流路がかなり違う。群馬県内を流れているときの利根川が現在の流路になった時期は、14世紀〜15世紀のころであると推定されている。幕末の富田永世による『名跡志』、正徳年間とされる北群馬郡榛東村新井の『新井村根元帳』、『喜連川判鑑』、『会津塔寺村八幡宮長帳』、『鶏足寺世代血脈』などの古文書等の記録から、現在最も有力とされるのは応永年間(1394〜1428)の洪水による流路の変更である。
(史料1)『名跡志』
「今ノ利根川ハ応永ノ変流ニテ、広瀬川ハ古利根川也」
と書かれていて、応永年間の洪水によって利根川の流路が変わったことがわかる。この洪水を裏付けるものとして、
(史料2)『新井村根元帳』
「応永三拾四年丁未年、世上供(洪)水ニ而比時流出す」
と書かれており、応永34年の洪水で桃井八幡が流されたことが分かる。また、その他にも、
(史料3)『赤城神社年代記』
「応永卅四年丁未、今年秋八月洪水」
(史料4)『喜連川判鑑』
「(応永)三十四、四月二十七日ヨリ霖雨百余日、晴天不見、九月三日大風洪水」
(史料5)『会津塔寺八幡宮長帳』
「此年八月六日大水増後度廿七日洪水、九月四日洪水、人民多死失ス」
などと書かれている。この年の洪水には多くの記録が残されており、利根川の流路の変更をもたらしたと考えられている。この洪水の具体的な被害は、鎌倉極楽寺領・玉村御厨で風損・水損によって年貢徴収が困難をきわめ、年貢減免を求める農民の訴状も提出されていることから分かる(応永三四年十一月十六日「比丘思明・亮託連署書状」金沢文庫蔵持犯文集紙背文書)。
利根川の流路が変わった時期については他にも多くの説がある。寛政十年(1798)伊勢崎藩家老関重嶷が編纂した『伊勢崎風土記』では嘉元元年(1303)年説を述べている。
(史料6)『伊勢崎風土記』
「或曰、嘉元元年利根川始流厩橋野西、正流反為比利根」
と記しており、嘉元元年(1303)に利根川は厩橋の西の現在と同じ流路になったと述べている。しかし、この嘉元元年説を裏付ける洪水の記録は、
(史料7)『鎌倉大日記』
「(嘉元元年)五月廿日夜、大雨大風」
と記しているこの史料のみである。
また、なかには15世紀末や16世紀という考えもある。このように多くの説があるように利根川はたびたび氾濫し、流路も氾濫のたびに少々変動していたことがわかる。このようにたびたび氾濫を繰り返していた利根川だが、応永三四年の洪水によって現在の流路になったと考えられる。
このかつての利根川の流路だが、前橋市の北端から東南に流れを変えていた。現在の桃木川や広瀬川を流れていたと思われている。そして、佐波郡の境町平塚のあたりにいたる。
そこからは現在の流れとほぼ同じ流路をたどるが、酒巻付近から南に流れをかえ、最後は現在の荒川とほぼ同じ流路をとりながら、江戸湾に流れ込んでいた。
渡良瀬川水系
現在の渡良瀬川は、栃木県の北西部、上都賀郡足尾町西方の庚申山北側に発する松木川を源流とし、久蔵沢・仁田元沢を合わせて渡良瀬川となる。その後南西に流れを変え、小河川を合流しながら勢多郡東村にて群馬県内に入る。足尾山地と赤城山の間を南西に向かった後、大間々町の北部で南東に流路をまげ、桐生市を通り、太田市と栃木県足利市、館林市と栃木県佐野市の間を流下する。そして、埼玉県北川辺町の南東において利根川に注いでいる。現在、渡良瀬川は利根川の一支流である。
渡良瀬川も利根川と同様、当時の流路と現在の流路は違う。一つの独立した水系であった。渡良瀬川は上流が多雨地帯で、中流域から下は土砂の流出が多いため、氾濫のたびに流路の変更をくりかえしていた。足利市の対岸付近では現在の矢場川を流れ、上野・下野の国境をなしていた。足利市街地へとまわるようになったのは、永禄年間(1558−70)と伝えられている。そして、邑楽郡の東端で現在の流路と同じ場所を流れるようになる。そして、古河市の西部で合ノ川に連なり、現在の江戸川の流れを通って、江戸湾へと流れ込んでいた。
2つの河川体系があることが上野国と新田氏に及ぼした意義について
利根川水系と渡良瀬川水系。この2つの河川体系はともに江戸湾に注ぎ込んでいた。現在の利根川のように銚子沖に流れていくのとでは利便性が違ってくる。太平洋に面する銚子沖と、内海の江戸湾では波の高さが違い、川をのぼるのは江戸湾のほうがより楽であった。そして、物資の輸送とくに伊勢神宮領の各御厨から年貢を運送する際、江戸湾からのほうが送りやすかった。
上野国は、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火によって甚大な被害を被った。その後、復興活動が盛んになり、私領が形成されていった。新田義重による新田荘開発もその一つの動きである。浅間山の噴火、その復興に伴う私領形成、そしてその後荘園形成へと続くのであるが、上野国において活発な荘園形成を行っていたものには伊勢神人が挙げられる。
坂東において伊勢神宮の御厨は広く分布しているが、その数が圧倒的に多いのが上野国である。次いで下総・武蔵の御厨の分布の数が多いが、上野国の半分である。この三カ国に共通することは、渡良瀬川(下流では江戸川)の流域ということである。
伊勢の神人は渡良瀬川をのぼって上野国に到り噴火からの復興過程で形成された私領を集積し、荘園化(=御厨化)していったのである。上野国に他の坂東諸国よりも多く伊勢神宮の御厨があるのは、新田義重によって開発された新田郡の「こかんの郷々」のような土地が浅間山の噴火によって発生したからであろう。火山災害からの復興の中で形成された私領を伊勢の神人たちは集積し御厨とすることができた。それゆえ、他の国々よりも多くの伊勢神宮領が上野国に誕生したのであろう。
この二つの河川体系が存在することによって伊勢神宮領が増大したが、新田義重は新田荘の北東に位置する薗田御厨における伊勢神宮内の混乱に乗じ、薗田御厨司の薗田氏からその座を奪おうと相論を引き起こしている。おそらくは所領拡大をめざしての行為であったのだろう。  
 
第2項 陸運の体系
上野国の陸上交通は、鎌倉へと向かう鎌倉街道と京都へと向かう古代東山道の二本の街道が非常に重要であった。この二本が中世の上野国にとっては幹線道路といえよう。そして、その二本の幹線道路に結ばれる幾筋かの道がある。その中には鎌倉街道からわかれ世良田に向かう支道もある。
鎌倉街道と東山道が交差する場所や鎌倉街道・東山道と上野国内の重要な河川が交差する場所のような交通の要衝には多くの宿が作られていった。
鎌倉街道
鎌倉街道は源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって整備された。鎌倉を中心とし、放射状に走る主要な道筋である。上ツ道・中ツ道・下ツ道の三道からなる。このうち、上野国に至るものは上ツ道である。上ツ道は、化粧坂−洲崎−飯田−関戸−分倍−府中−久米川−堀兼−菅谷−鉢形から上野や信濃方面へと通じた。上ツ道の支道として、新田荘へと向かう道も存在する。
この鎌倉街道は、大番役その他で諸国の武士たちが鎌倉を往復するために使用した。『吾妻鏡』などでは「鎌倉往還」などとも呼ばれている。「鎌倉街道」と言われるのは江戸時代の頃からであると推定されている。
この上ツ道は、建久四年(1193)の源頼朝の入間野・那須野の狩りや、元弘三年(1333)新田義貞が幕府打倒の挙兵をしたさい、新田軍は鎌倉街道を攻め上っていき、鎌倉を攻略した時のルートであった。また、新田義貞の死後、その息子の義興・義宗が挙兵したときにもこのルートで新田軍は攻め込んでいる。
古代東山道
東山道は、律令国家の整備に伴って「官道」として、各国国府への命令使(在庁官人の着解任の道としても)の下達と、各国からの上申使等や租庸調の京都への運脚道として設定された。この東山道は近畿地方から中部・関東地方の山地沿いを経て東北地方へと続いた道であった。上野国内では、碓氷・群馬・佐井・新田の各郡を通過し、下野国へと続いている。この古代東山道は中世になっても重要な交通路で、東国と京都をつないでいた。
そして、この古代東山道沿いには多くの荘園や御厨が存在している。
また、元弘三年(1333)の新田義貞挙兵の際には、義貞は古代東山道を西へ向かい、国府に圧力をかけつつ、信濃や越後からの援軍と合流するために進んだのもこの古代東山道である。
2つの陸運体系があることが上野国と新田氏に及ぼした意義について
現在、地域区分を考える際に、関東地方は東京を中心にして一つくくりにして考えられている。そして、その関東地方を北と南に分ける場合は、北関東が群馬・栃木・茨城の三県で、南関東が埼玉・東京・神奈川・千葉の一都三県である。
しかし、十二世紀の関東は現在と状況が大きく異なる。古代律令体制の下で整備された五畿七道の影響がいまだに残っていたのである。この五畿七道とは古代の行政区分であり、官道でもあった。この五畿七道のもとでは、関東地方は東山道と東海道に分けられる。東山道が上野・下野の二カ国であり、東海道に属するのが武蔵・常陸・下総・相模・上総・安房であった。現在の感覚とはことなり、常陸(=茨城)は南関東であり、北関東は上野・下野の二カ国であった。
当時の上野国は、信濃国との関係が非常に強かった。信濃の源義仲が治承四年に挙兵し、平家家人の小笠原頼直を討つと上野国に進出する。間もなく義仲は信濃に戻るが、上野国の武士の中には義仲に従ったものもいる。また、その後起こる中先代の乱でも、北条時行き率いる軍勢は信濃から東山道を通り上野へと入り、その後、鎌倉へと向かう。また、戦国時代になっても、信濃を平定した武田信玄も信濃から上野へと侵攻している。
上野国から信濃国へと続く東山道はやがて京都に到る。鎌倉に頼朝の政権が登場するまでは、上野国は京都への志向が強かった。新田氏の祖である義国・義重父子は京武者の性格を持っていた。父の義国が隠退した後、京都へ上った義重は京武者として義国のあとを受け継ぎつつ、仁安年中(1166〜69)には平重盛に仕えている。この間、上野国と京都を頻繁に往復していた。義重がこのような行動をとったのは、京武者として活躍した義国の息子であるだけでなく、上野国という東山道に属する国に本拠地があったことも影響しているだろう。
上野国に本拠地をもっているということはその後の義重の行動にも影響を与えている。
義重が示した「自立の志」がそれである。おそらく義重が「自立の志」を示したのは、上野国は平氏政権の京都からは遠く離れている。そして、頼朝が鎌倉で勢力を拡大しているといっても、それは南関東のことで、北関東の自分とは別の世界という認識があったのかもしれない。
しかし、義重が「自立」できていたのもわずか3ヶ月であった。治承四年(1180)十二月下旬には頼朝の陣営に屈している。『吾妻鏡』に「これより以降、東国武士は頼朝を鎌倉の主人として推戴することとなった」と記されているように、この頃には坂東に軍事政権が誕生することとなった。そして、鎌倉に軍事政権が生まれることによって各地と鎌倉を結ぶ道が整備されていくこととなる。これが鎌倉街道であるが、この鎌倉街道の整備によって、北関東と南関東は一体化していくこととなった。
上野国の陸運は、源頼朝が鎌倉に政権を築くまでは京都へのベクトルが大きかったが、頼朝の軍事政権の登場後、鎌倉へのベクトルも生まれることとなった。このことは新田氏へも大きな影響を与えた。当初は北関東と南関東は別個のものという認識で、「自立の志」を示せた。しかし、上野国と鎌倉を結ぶ陸運が登場することによって関東の社会は一体化した。さらに、鎌倉に拠点をおいた頼朝の勢力の拡大もあり、義重に「自立」の不可能さを知らしめ、新田氏を幕府の一御家人として位置づけることとなったのである。  
東山道(あずまやまみち)
古代の律令のよる官道の一つで、延喜式に依れば近江国勢多駅を起点とし、美濃国・信濃国・上野国・下野国を経て陸奥国に通じていた。信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠)を越え阿智駅に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良・賢錐・宮田・深沢の各駅を経て善知鳥峠を越えて筑摩郡に入り、覚志駅を経て、錦織駅で本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅に出て、亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅・長倉駅を経て、碓氷坂を過ぎ、上野国坂本駅へ至る路であった。なお筑摩郡錦織駅から分かれて北へ向かい、更級郡麻績駅を経て犀川を亘理駅で渡り、多古・沼辺駅を経て越後国に至る支路があった。この支路については信濃坂が難路であったので、和銅六年(713)、駅路でない直路の吉蘇路(きそじ)を通ぜしめて覚志駅で伊那から遡上してきた道と結んでいる。
この駅路東山道の原初の道は、大和国から伊勢・尾張・美濃の各国を経て信濃坂を越え、天竜川沿いに北上し、宮田駅を過ぎてから北東へ向かい、杖突峠を越えて諏訪郡へ出、更に東北進して雨境峠を越えて佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。筑摩郡を経由する道は大宝二年(702)に開通。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠。北の碓氷坂及びその中間にある現保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河が存在していることもあって、大和朝廷における陸奥・出羽の開発に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃までその主要道路とされていた。 
■第2節 新田氏と源姓足利氏と藤姓足利氏
第1項 秀郷流藤姓足利氏と義国流源姓足利氏
「足利氏」というキーワードからどのようなことがらや人物が連想されるか、という問いがあったとする。おそらく、その答えには金閣や銀閣、それを作った3代将軍義満、8代将軍義政がすぐ出てくるであろう。この有名な建築物の他にも、それぞれの将軍時代に起こった南北朝の合体や応仁の乱も思い出されるかもしれない。また、室町幕府の初代将軍である尊氏や最後の将軍となった義昭の名が思い浮かぶかもしれない。
今ここで挙げられたものはすべて義国流源姓足利氏に関することがらや人物等である。
しかし、この十二世紀の両毛では、その子孫が室町幕府を開くことになる源義国の流れをくむ源姓足利氏と藤原秀郷の流れをくむ藤姓足利氏の2つの足利氏が存在していたのである。この時代では源姓足利氏よりも藤姓足利氏の方が大きな勢力を誇っていた。
かつては9世紀に土着した皇孫・貴族がそのまま発展して武士として成長していったと考えられていた。しかし、現在ではもはやこのようには考えられていない。野口実氏の説(1)によると、坂東の地において武士団は大きく分けて二回に分けて形成されている。その1回目は、九世紀末〜十世紀初頭である。その頃の坂東は俘囚反乱や群盗(党)事件の多発によって治安が悪化していた。朝廷は平・源・藤原などの皇孫・貴族を国司などに任じ下向させた。これらの中央貴族の下向が、武士団形成の第一波であった。彼らは、軍事的役割に加え、貴種として律令的王威を坂東で再生させる役割も担っていたと考えられている。
現地の豪族層を婚姻などを通じ統率・組織し、勢力を扶植する者もいた。しかし、彼らは完全に土着せずに、中央などでも活動し官位や官職を得る「留住(2)」という存在形態をとった。辺境軍事貴族などとも呼ばれている(3)。彼らは十一世紀以降徐々に在地領主化していき、地域社会に根を下ろしていくこととなる。そして、在庁化し、国衙の公権を利用し、他地域にも進出していったと考えられている(4)。
第二回目の波は、十一世紀末〜十二世紀ごろにやってくる。その時期は院政期と重なっている。白河院政末期から鳥羽院政の頃になると、院に盛んに荘園が形成・寄進されるようになる。院の女官らは積極的に荘園を集めようと活動した。ここで中央と地方をつないだ者は、かつての中央軍事貴族ではなかった。すでにかれらは中央での権力を失い、地方豪族化しており、中央権力と直接結びつきにくくなっていた。ここで仲介役となったのが河内源氏などの「京武者」であった。寄進を依頼した開発領主が下司職となり在地管理を行い、河内源氏はより上位の所職で荘務に関わったと考えられている。そして、開発領主を郎党化し、主従関係や婚姻関係などの人的関係の形成によって地方進出が行われることとなった。この目的は、河内源氏嫡流の権威低下によって動揺した坂東の家人や所領の吸収だけではなく、馬などの物資の確保もあるだろう。地方に活動の拠点を作るだけではなく、京都との関係もそれまで以上に強化しようとした。その結果を川合康氏は、鳥羽院政期以来の広域的領有を志向する在地領主制の運動とそれを容認する荘園公領制が、各地に地域的な領主間競合・矛盾を生み出した(5)としており、この動きが各地に領主間の争いごとを、つまり第一波で登場した武士団と第二波で登場した武士団の対立を生み出すきっかけになったのである。
この第一波で形成される武士団に該当するのが、秀郷流藤姓足利氏で、第二波で形成される武士団に該当するのが、義国流源姓足利氏なのである。この両者は同時期に足利郡内に所領を保持していたが、当初源姓足利氏は藤姓足利氏と京都とをつなぐ役割を持っていたので両者が真正面から激突することはなかった。しかし、源姓足利氏が徐々に在地の経営を強めていくことによって両者は競合しあう関係へと変わっていった。この両者の対立は治承寿永の内乱へと持ち込まれた。志田義広が野木宮合戦で小山朝政に敗れると義広と同盟関係にあった藤姓足利氏の勢力は没落することとなったのである。
(1)野口実『坂東武士団の成立と発展』 (1982 弘生書林) / (2)留住とは、九世紀ごろ貴族や皇族が地方へ下り、現地の豪族を婚姻などを通じて統率し、勢力を扶植しつつもそのまま土着することなく、中央などでも活動し官位・官職を得ている状態をさす。 /(3)須藤聡「奥羽周辺地域の武士団形成 ―下野国を中心に―」(『群馬歴史民俗』23巻 2002 群馬歴史民俗研究会) / (4)(2)と同じ / (5)川合康「治承・寿永の内乱と地域社会」(『歴史学研究』730 1999.11 歴史学研究会)第2項 藤姓足利氏 ―鎮守府将軍藤原秀郷の流れをくむ軍事貴族―
秀郷流藤原氏の成立
藤原秀郷の曽祖父藤成が下野の国司として赴任してから下野国とのかかわりが生まれることとなった。藤成が下野を離れた後も現地の豪族の娘との間に生まれた豊沢は下野で成長した。さらに豊沢の子の村雄も現地の豪族の娘との間に子をもうけた。それが秀郷である。
秀郷の曽祖父の藤成は、弘仁元年(810)以前に下野の介または掾として赴任したとされる。この時の具体的な事象は不明だが、後年播磨介のときに俘囚の管理をしていることなどから、下野国でも同様の軍事的な役割を果たしていた可能性が高い(1)。代々現地豪族の娘との婚姻を重ねながら、下野国の軍事・警察に関わる在庁官人になっていったのである。
大ムカデを退治したという伝承がある藤原秀郷だが、俵(田原)藤太秀郷として名の方が親しまれているかもしれない。この秀郷は、当初は反国家・国司的な存在であった。
(史料1)『日本紀略』延喜十六年(916)八月十二日条には「下野國言。罪人藤原秀郷。同兼有。高郷。興貞等十八人。重仰國宰。随其罪科。各令配流之由。重下知之。」
と書かれている。ここに見える高郷は『尊卑分脈』によれば秀郷の弟であり、秀郷はこの頃、一族与党を主体に武力集団を率いて、下野国に跳梁していた。また、延長七年(929)にも、下野国は朝廷に対して秀郷の濫行を訴えている。朝廷はその糾明のため、下野国以外の近隣諸国に対して「人兵」を差し向けるよう指示している官符五通を出している(『扶桑略紀』)。
そんな秀郷に転機が訪れるのは、平将門の反乱であった。天慶二年(939)に挙兵し、常陸国衙を攻撃した将門は、同年末には坂東諸国を占拠し、新皇と称した。翌年二月、秀郷は平貞盛らとともに将門打倒の兵を起こした。そして、将門を破り、翌月には将門の首を掲げて都に凱旋した。
この軍功によって、官田功爵をもって殊功の輩を遇するという旨の官符の通り、秀郷は従四位下・下野守に任ぜられ、後には武蔵守にもなり、鎮守府将軍になった可能性もある。
こうして、地方豪族としては異例の大抜擢を受けたわけだが(4)、本来、秀郷は将門とほぼ同質の存在であった。将門を討つことによってそれまでの基盤を国家から認められ坂東北部に軍事的支配権を確立し、有力な中央軍事貴族としての地位を認められたのであった。
(1)下向井龍彦『武士の成長と院政』(講談社 日本の歴史07 2001) / (2)須藤聡「下野国中世武士団の成立 ―治承・寿永の乱以前の実情―」(『知られざる下野の中世』2005 橋本澄朗、千田孝明編 随想舎) / (3)野口実『坂東武士団の成立と発展』(1982 弘生書林) / (4)この後、中央では軍制改革が行われて、これ以降は異例ではなくなる。
中央軍事貴族から地方豪族へ
秀郷以後、その子孫達は十一世紀前半の頼行・行範兄弟まで中央軍事貴族・摂関家家人として活動した。秀郷の子孫では、千晴・千常・文脩・兼光・頼行が次々に鎮守府将軍に任命された(1)。これは、将門の乱を鎮圧した強力な武力を誇り、かれらの本拠が陸奥国に隣接する下野国であった秀郷の子孫ということが鎮守府将軍に任ぜられる存在にしたと言えよう。千晴・千常兄弟は武蔵国や相模国にも勢力を持つようになり、他の一族の中には下野国だけではなく、坂東・陸奥にかけて広域的に活動していた。
かつては、安和の変の結果、千晴が失脚すると、その子孫の勢力は中央において全く失墜したかのように考えられていた。しかし、実際はそうではない。中央官人としての秀郷流藤原氏が存在した。摂関家の家人としてたびたびこの一族の名を史料で見つけることができる。
秀郷流藤姓足利氏が、下野国を中心とする在地の傾向を濃くするのは十一世紀半ばからである。この時期、坂東を基盤としながらも中央に進出し、鎮守府将軍を相承した嫡流の兼光系が中央における地位を失ったのである(2)。一つの転換がここにあったのは間違いないであろう。最後の鎮守府将軍となった頼行は、下野国と京都とを頻繁に往来していたことが指摘されている。頼行に「下野国住」と記されている系図(上山家蔵「湯浅氏系図」)もあり、下野国との関係を強化していたことがうかがえる。そして、頼行以降は地方に地盤を求めていくこととなり、在地との結びつきを強めていくのだった。
十一世紀後半になってくると、頼行の子の淵名兼行の系統は、下野国の南西部から上野国の東部にかけて一大勢力を形成した。一方、行高(行尊)の系統は、武蔵国太田荘に本拠地をおき、その子孫達は下野国南部や武蔵・下総・常陸などに勢力を広げていった(3)。
(1)『北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団― 』(1999 山川出版社 入間田宣夫・小林真人・斉藤利男) / (2)この頃から桓武平氏も鎮守府将軍に任命されなくなってくる / (3)須藤聡「下野国中世武士団の成立 ―治承・寿永の乱以前の実情―」(『知られざる下野の中世』2005 橋本澄朗、千田孝明編 随想舎)
藤姓足利氏・小山氏の成立
「淵名大夫」兼行は、十一世紀後半に上野国の佐位郡淵名を拠点に開発を開始した人物と考えられている。この系統からは淵名・足利・林・長沼・薗田・大胡・佐貫・佐位・那波・山上・佐野・部矢古・深栖・利根・阿曽沼・木村などの一族が生まれている。その子の「足利大夫」成行は最初に足利に進出した人物と考えられている。その子の家綱は、足利荘を本拠地としながらも上野国に進出し、その子の「足利太郎」俊綱も「数千町」を有し「郡内棟梁」と称されるほどの足利の有力な豪族であった。また、俊綱は小山氏と並び「一国之両虎」とも呼ばれ、下野有数の武士団の棟梁であった。後に、治承四年(1180)の宇治川の戦いにおいて俊綱の嫡男忠綱が一族を率いて以仁王軍の撃破に大活躍している。このように、平安末期の藤姓足利氏は、一大勢力をふるう豪族的武士団になっていったのである。
「一国之両虎」のもう一方の小山氏は、行高の太田氏の系統に属する。行光までは太田と称するが、政光の頃からは小山と称するようになる。行光の父の行政が「太田大夫」を称していたが、政光は小山を本拠とし、「小山四郎」を名乗っている。この一族からは、下河辺・大河戸・大方・長沼・結城などの諸氏を輩出している。
政光は下野国衙において、権大介職・御厨別当職を兼帯していて、在庁官人の実質的支配を行い、苗字地で「重代屋敷」たる小山荘(寒河御厨)、および国府郡内の国衙領を中心に、近隣に支配を及ぼしていた。下総や武蔵・常陸の国境あたりまで勢力を伸ばしていた可能性もあろう。また、小山氏は鎌倉政権誕生のはるか前から、下野国における警察権・軍事統制権を掌握していた。まさに、「一国之両虎」のもう一方に相応しい力を持っていたといえよう。
(1)須藤聡「下野国中世武士団の成立 ―治承・寿永の乱以前の実情―」(『知られざる下野の中世』2005 橋本澄朗、千田孝明編 随想舎) / (2)野口実『坂東武士団の成立と発展』(1982 弘生書林) / (3)『栃木県の歴史』(県史9 山川出版社 1998)  
第3項 源姓足利氏 ―地方棟梁を目指す在京武者―
源姓足利氏の祖とされるのが、源義康である。義康の父親は源義家の三男の義国。母親は信濃守源頼房(=鳥羽院の北面)の娘であった。この義康は、父義国の京武者としての地位を受け継ぐこととなる。義康は有力な鳥羽院の北面であった。久安三年(1147)から急死する保元二年(1157)までの間、中央で活躍している。
康治元年(1142)十月、義国・義康親子の手によって(中心となったのは義国)立券・成立したとされているのが、安楽寿院領足利荘である。義国が父八幡太郎義家から受け継いだ開発私領をもとにしている、といわれているが、義家以来の開発私領が存在したかを疑う意見もある。
この翌年の康治二年(1143)、義国は足利荘に続いて、強引に梁田御厨を伊勢神宮の二宮領化をはかっている。それまでは内宮領として存在していたが、義国が二宮領化を名目に簗田御厨の範囲を簗田郡全域に強引に拡大した。ここで、二宮領の際には私領を内部に持っていた藤姓足利家綱と争論になっている。義国が領域の拡大と「本領主」の地位を得ようとしたため、家綱などが反発したのである。ここで、義国は朝廷ではなく院に訴えている。おそらく、自身の鳥羽院北面の縁を使って有利に働くことを見込んでのことであろう。峰岸純夫氏によれば、天養元年の院宣こそ、義国が勝訴した決定に当たるとしている。
久安六年(1150)の乱闘事件によって、義国は足利の別業に隠退を余儀なくされた。
この後、父義国の「京武者」としての地位を義康が受け継ぐこととなった。さらにこのとき、義康は足利荘も譲り受けている。これによって、京都での活動を本格化させ「京武者」源義康が誕生する。義康は、北面の武士として、鳥羽法皇に仕え、厚い信頼を得た。その後おこった保元の乱(保元元年、1156)では、平清盛・源義朝に次ぐ100余騎を率いて活躍する。そして、乱後の論功行賞において昇殿の栄誉に浴することとなった。
しかし、義康はその翌年には急死してしまう。義康には3人の子どもが残されていたが、いずれもまだ幼く、京都で築き上げていた地位をそのまま継承することはできなかった。
そして、有力軍事貴族としての地位は次第に失われていくこととなった。しかし、その後成立した鎌倉幕府において源姓足利氏は執権北条氏の娘を娶るなど、北条氏との関係を密にしてゆき、幕府における有力者となっていったのである。
(1)須藤聡「下野国中世武士団の成立 ―治承・寿永の乱以前の実情―」(『知られざる下野の中世』2005 橋本澄朗、千田孝明編 随想舎) / (2)須藤聡「奥羽周辺地域の武士団形成 ―下野国を中心に―」(『群馬歴史民俗』23巻 2002 群馬歴史民俗研究会) / (3)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」(『群馬歴史民俗』16巻 1995 群馬歴史民俗研究会)  
第4項 新田氏の位置
新田氏は新田荘を中心とする勢力である。義国の子、義重が新田荘の開発を行った。義重は父の義国の隠退後、父に変わって在京活動を開始している。仁平三年(1153)に内舎人となり、保元四年(1159)大炊助、仁安三年(1168)従五位下になったあとも、治承四年(1180)九月まで一応在京活動を続けている。この間、平氏が政権をとると、義重も平氏に仕えるようになった。九月に平氏の命で下向するのだが、その間新田荘を中心とする活動を活発化させながらも平宗盛に仕え、京都との関係を持ち続けていた。
今まで義重は在地化した存在であると考えられていた。しかし、義重は決して常に地元にいたわけではない。最近は京での活躍もわかってきた。弟の義康ほどではないが、京武者であった。義重は京武者兼在地の性格を持っていたと言えるであろう。
(1)『群馬県史 通史編3 中世』  
■第3節 荘園公領制の形成
(史料1)『中右記』
「天仁元年九月五日壬子 (中略) 左中弁(藤原)長忠、陣頭に於て云く、近日上野国司解状を進めて云く、国の中に高山あり、麻間峯と称す、而るに治暦間より峯の中に細煙を出来す、その後微々なり、今年七月廿一日より猛火山嶺を焼き、その煙天に属し、砂礫国に満つ、煨(灰)燼庭に積る、国内田畠これより已にもって滅亡す、一国の災いまだ此の如き事あらず、希有の怪により記し置くところなり、・.・」
中御門宗忠の日記に書かれていた事柄である。希有の怪と感じるほどだったからその日記に記したのであろう。
天仁元年(1108)、浅間山は大噴火を起こした。この噴火は上野国に甚大な被害をもたらした。浅間山から50キロ離れている前橋で20cm、80キロ離れている太田や足利でも5cm以上の厚さの火山灰が検出される。当時は現在の三倍ほど積もっていたと推定されているので、上野国には分厚い火山灰が積もっていたことがわかる。
上野国では早い時期から災害からの復興が進められた。この復興活動は、上野国における荘園形成の動きをもたらし、各地に荘園が形成されていった。
第1項 天皇家領
天皇家領に分類されるものには、天皇家直領といえる後院領・諸司領と天皇家領荘園といえるような御願寺領・女院領にわけられる。上野国において見られる天皇家領はすべて御願寺領である。
浅間山の噴火からの復興の際、荘園形成が上野国東部から下野国の西部にかけての国境を挟む縁辺地域で進んだ。その結果、郡規模の領域を持つ広大な御願寺領荘園が形成されることとなった。法金剛院領淵名荘(佐位郡)、金剛心院領新田荘(新田郡)、安楽寿院領足利荘(下野国足利郡)、さらに、利根郡には安楽寿院領の土井出・笠科荘が成立している。
新田荘は金剛心院(鳥羽院御願寺)が造営された久寿元年(1154)から保元二年(1157)までの間に立荘されたことはほぼ間違いないであろうし、康治元年(1142)、同二年(1143)に立荘された足利荘、土井出・笠科荘は保延三年(1137)の安楽寿院(鳥羽院御願寺)の造営に伴って立荘されたものである。淵名荘に関しては、立荘の事情を知りうる史料は残されていないが、おそらくは他の荘園と同様に、御願寺造営の際に立荘されたのであろう。そうすると、太治五年(1130)の法金剛院(鳥羽中宮御願寺)造営に伴って立荘されたと考えられるであろう。
いずれの荘園も、秀郷流藤姓足利氏、義国流源姓足利氏・新田氏などそれぞれの地域を基盤とした勢力がこれらの御願寺領立荘に関わっていることがわかる。彼らは国衙のみならず中央とも関係を持っていた。彼らが形成した私領を院の近臣たちが収集に奔走した。
院勢力との結びつきは天皇家とのつながりを生み出す。この天皇家との結びつきが、義康・義重の活躍への足場となったのである。
(1)『群馬県史 通史編3 中世』 / (2)鎌倉佐保「浅間山大噴火と中世荘園の成立」(『中世東国の世界1 北関東』2003 高志書院 浅野晴樹 齊藤慎一編)
第2項 摂関家領
上野国から下野国にかけての摂関家領荘園の立荘状況を調べてみると、下野国には、佐野荘・中村荘・中泉荘・塩谷荘などの大規模な荘域を誇る摂関家領の荘園が立荘されている。それに対して、上野国には十二世紀末以降に存続した摂関家領が見られないのである(2)。もちろん、立荘へむけた動きが全くなかったわけではなく、大規模な荘園を立荘した時期もあった。
まずは、史料で確認される立荘された荘園を見ていく。上野国において、史料で確認される荘園となると土井荘(3)があげられる。少納言の藤原惟信が当時停廃されていた土井荘を再び立てようとした。摂関家家司であった惟信は、摂関家の権威を使って国司へ働きかけを行い、免判を得て再立荘をはかったものと考えられている(4)。だが、このとき問題が起こる。この土井荘は、延久の荘園整理令(1069)によって停止させられたことがわかったからであった。この時停止になった理由は、賀茂祭ならびに内蔵寮の官物の紅花の煩いが毎年あったというものであった。このときは、惟信がしっかりと国司に紅花を納めるのならば、立荘は認めてもよいだろうということになったのであった。
次は摂関家領設立の動きを見ていく。元永二年(1119)関白藤原忠実は上野国の5千町歩を荘園化しようとした。
(史料1)『中右記』元永二年三月二十五日条
「巳時ばかり院より召有り、則ち馳せ参ず、御前に召して仰せられて云く、上野国司申すところあり、返(近)日関白家此の国中に庄を立つる事あり、是れ(平)知信寄せ申するなり、件んの庄五千町に及ぶ、斎院禊祭料紅花、彼庄の地利なり、仍ち弁済あたわずてへり、此の事如何、縦ひ山川藪澤といえども、一国の中五千町に及ぶは甚だ不便なり、便宜あるの時此の旨を以って関白に伝うべきなり、頗る以って便ならずてへり、予申して云く、此の事全く知らず候なり、仰せの旨を以って関白に伝うべく候、」
この史料に書かれていることは、関白(藤原忠実)家が上野国に荘園を立てようとしているのだが、平知信が寄進したこの土地は五千町歩にも及んでいる。しかも、賀茂斎院の禊祭料の紅花はこの土地の税である。もし、荘園になってしまったら弁済されなくなってしまう。白河上皇は、山川藪澤とはいっても五千町歩もの土地を荘園にしてしまうのははなはだ不便である、この旨を関白に伝えるように、と中御門宗忠に命じたというものである。
これを聞いた関白忠実は、結局立荘をとりやめることとなった。
また、この件以外では、大治四年(1129)に藤原実隆が上野国内の所領の「免判(=荘園化)」を求めている。
摂関家は国司に対して免判を求め、公領を含めた国免荘の立荘を実現しうる存在であったが、その立荘や停廃は政治的関係に左右されがちであった。それは、上野国において一度形成された荘園が停廃され、公領となったり、十二世紀以降に上野国に摂関家領の荘園は一つも残らなかったことからもわかる。
(1)『群馬県史 通史編3 中世』 / (2)鎌倉佐保「浅間山大噴火と中世荘園の成立」(『中世東国の世界1 北関東』2003 高志書院 浅野晴樹 齊藤慎一編) / (3)後に安楽寿院領として立荘された土井出荘は、土井荘とも称されており(安楽寿院古文書年月日未詳安楽寿院領庄々未済注文)、土井出荘=土井荘という考えもある / (4)(2)と同じ  
第3項 伊勢神宮領
上野の荘園公領制を語るのに不可欠なのが伊勢神宮領である。坂東諸国における伊勢神宮領の御厨分布数を調べてみると、上野国の分布数は圧倒的に多い。坂東諸国で上野国の次に多い下総・武蔵国の倍もある(1)。それでは、なぜこれだけの数の伊勢神宮御厨が上野国には存在するのか。
ここでポイントとなるのが、天仁元年(1108)の浅間山の大噴火による災害であろう。火山災害からの復興活動を通して私領が形成されていった。この私領を伊勢神宮に寄進することによって多くの御厨が誕生することとなったのであった。
この時期は神宮権禰宜層が伊勢神宮外で活発な活動を行っている。そして、御厨寄進の仲介者となっていた(4)。十二世紀初頭から半ばにかけては坂東各地に権禰宜を口入神主とする御厨形成が進行していた時期であった。上野国も同様に御厨形勢が進んでいた。しかし、上野国は御厨の分布が坂東諸国の中で群を抜いている。その理由としては、やはり浅間山の噴火・復興活動による私領形成、そしてその私領を収集・荘園化(=御厨化)できたことが大きいのであろう。
坂東諸国で活発な活動をみせ、多くの御厨を作ったが、それらの大半は海の近くに分布している。そんななか、注目すべきは渡良瀬川水系である。すでに第一節でも述べたが、伊勢の神人らは渡良瀬川をのぼり、その流域に多くの御厨を形成した。上野国においても、渡良瀬川流域の方が利根川流域よりも形成された御厨の数が多いことも説明できよう。
浅間山の噴火と渡良瀬川。この二つが伊勢神宮と上野国を結びつけ、上野国に数多くの伊勢神宮領をもたらしたと言えるだろう。
(1)伊勢神宮御厨分布数 / 上野国・・・10 下野国・・・2 常陸国・・・1 武蔵国・・・5 下総国・・・6 上総国・・・1 安房国・・・3 相模国・・・1 伊豆国・・・3  / (2)『群馬県史 通史編3 中世』 / (3)鎌倉佐保「浅間山大噴火と中世荘園の成立」(『中世東国の世界1 北関東』2003 高志書院 浅野晴樹 齊藤慎一編) / (4)棚橋光男『中世成立期の法と国家』(1983 塙書房)  
第4項 国衙領
国衙領を見ていくと、国衙周辺に多いことがわかる。国衙から遠くなるほど荘園化しやすい傾向が上野国でも見受けられる。
上野国の国衙領は、東毛地域では大室荘・大胡荘・山上保・佐貫荘である。西毛地域では、碓氷荘・磯部郷・瀬下郷・岡本郷・丹生郷・黒河郷・板倉郷・山名郷・石原郷である。
中毛地域の国衙領は、桃井郷・渋川保・有馬保・公田郷・勾田村・綿貫保・島名郷である。
北毛地方の国衙領は、隅田荘・利根荘・沼田荘・三原荘・吾妻荘である。
国境周辺を中心に大規模荘園や伊勢神宮領が相次いで形成されているのとは対照的に国衙周辺には公領が優勢である。これは一国単位でみた荘園公領の地域的分布の一般的傾向と一致する。国衙を中心に在庁官人層を中心に再開発が進められたのであろう。それとともに、国衙周辺では特に荘園形成が抑止されたことが読み取れる。発掘調査によれば、国衙周辺の遺跡では、火山災害後、それまでの条里地制を生かす形で水田の復旧が成されており、火山災害の被害が甚大であった国衙周辺では意外と早い時期から復興が進められていたのであった。
(1)『群馬県史 通史編3 中世』 / (2)鎌倉佐保「浅間山大噴火と中世荘園の成立」(『中世東国の世界1 北関東』2003 高志書院 浅野晴樹 齊藤慎一編)  
第5項 上野国における荘園公領制
荘園公領制が形成されたこの時代、全国は荘園と公領に分けられた。公領(=国衙領)以外の土地は天皇家や摂関家、伊勢神宮領など権門勢家の土地となっていった。それでは、上野国の荘園公領制にはどのような特徴があるのだろうか。
第3節では、第1項から第4項までで上野国の荘園や公領を見てきた。そこから、上野国の荘園公領制の特徴が浮かび上がらせるために、上野国の隣の下野国と比較してみることとする。『栃木県史 通史編3・中世(1)』に書かれている下野国の荘園を種類ごとに分類すると、以下のようになった。天皇家領荘園が4ヶ所、摂関家領荘園が6ヵ所、伊勢神宮領が2ヶ所、その他の寺院領が6ヵ所というように分けられる(2)。この分類でその他の寺院領になった6ヶ所のうち、3ヶ所は東大寺の便補保であった。東大寺は、伊勢神宮のように自ら積極的に所領獲得に動いたわけではなく、これらの所領は天皇家から与えられたものであり、事実上天皇家領ともいえる存在である。よって、下野国の荘園は、それぞれ7ヶ所・6ヵ所ずつの荘園を持つ天皇家領・摂関家領を中心に伊勢神宮領やその他の寺院領の荘園も見られる、という状況だった。
それに対して、上野国の荘園の状況は、ここまでの項で見てきたように、御願寺領荘園が多く、摂関家領がまったく見られないほか、伊勢神宮領が坂東諸国の中でも圧倒的に多い点に特徴があるといえよう。
それでは、なぜ隣国の下野国の荘園の構成とここまで大きな差が生じたのだろうか。その答えは、それぞれの荘園が立荘された時期の違い、ということになる。荘園公領制が形成される11世紀後半から12世紀ごろ、摂関家領荘園は、急激に増加する。道長の時代には数十程度だった所領も、頼道や師実の時代には百数十を数えるほどに増えた。そして、荘園整理令で停廃され、公領とされる荘園も数多く生まれた。摂関家領のピークを迎えるのは、師実の孫の忠実の時代だった。11世紀の摂関家領の急激な増加は主に在地からの寄進であったが、12世紀になって忠実の時代になってからの増加の理由は、親族領地の所領をかき集めたためであった。院政が始まると、在地からの寄進は天皇家(=皇室)にされるようになったのだった。摂関家の政治的地位が低迷し、それに代わる形として天皇家が浮上したためだった。そして、主に御願寺領という形で天皇家領は急激に増えていくのであった。
上野国に摂関家領が存在しないのは、荘園整理令での停廃や立荘すると都合が悪いことから立荘が許可されなかったことにより、その姿を消したためだった。その後、上野国において天皇家領(上野国では御願寺領)や伊勢神宮領が増えるのは、浅間山からの復興で私領が形成され、その私領を荘園として形成しようと動いた、院の近臣や伊勢の神人たちの活発な活動があったからであった。上野国には摂関家領が残らず、天皇家領と伊勢神宮領が多かったのに対し、下野国では摂関家領荘園がまだ残っており、天皇家領とともに荘園公領制の中心をなしていたのであった。
そして、荘園公領制を考える際、荘園と武士はきってもきれない関係があるといえよう。
荘園ができるためには、武士の存在が必要なのである。上野国に誕生した荘園や御厨の形成には武士が絡んできている。第1節で見た天皇家領や第3節で見た伊勢神宮領が形成されるにはそれぞれ院の近臣や女官、伊勢の神人の活動は必要であるが、それ以前に私領が形成されてないといけない。私領を形成していたのは在地の武士であった。また、第2節で摂関家領の形成を見てきたが、大規模な荘園を形成しようとするには、すでにそれだけの私領がなければいけない。そして、そのことは下野国でもいえることであった。やはり、その土地の有力者である在地領主から集めたのであろう。この荘園公領制が安定した秩序になるのは鎌倉幕府が登場してからであるが、それまでの不安定さが、藤姓足利氏、源姓足利氏・新田氏を生み、その土地を代表させる勢力へと成長させていったといえるであろう。
(1)『栃木県史 通史編3 中世』 (1984年 栃木県史編さん委員会) / (2)下野国の荘園などとして、全部で26の荘園が挙げられていたが、この時期(=12世紀)にはまだ成立していないもの、逆にすでになくなってしまったものなどもあり、それらを取り除いた数である  
第2章 新田荘立荘と新田氏成立

新田荘は新田郡(1)が中心となって成立した荘園である。この新田荘は大間々扇状地から利根川にかけての一帯に成立しており、その荘域は旧新田郡を中心に、太田市や旧佐波郡境村の一部を含む広大なものである。新田荘が成立したとき、その荘域は、新田郡全域ではなかった。義重は、歴代の上野介とも関係を持ちながらその荘域を拡大することに成功するのであった。この章では、新田荘の立荘と源姓新田氏が成立していく様子を見ていくこととする。  
■第1節 源義国
第2章はまずこの第1節で源義国を扱うことから始まる。それでは、なぜこの義国を深く語る必要があるのか。それは、ただ単に義国が新田氏や足利氏の祖先であり、新田荘の誕生に関わっていたからだけではない。かつての義国は典型的な在地領主として語られてきた。しかし、須藤聡氏らの研究によって義国は在地領主ではことがわかった。「京武者」としての姿も浮かび上がってきたのである。そして、近年新たに見えてきた義国像(=京武者像)、義国の活動はその後の新田氏の活動にも大きな影響を与えることとなったのである。新たに見えてきた義国像をもとにして、新田氏像を描きなおす必要が出てきたのである。そこで、まず第1節を源義国の活動を見ていくこととする。
新田郡の中世は源義重とともに始まったといえよう。義重が新田郡へいつやってきたのかを示す史料は見つかっていないが、これまでの研究では、父の義国が勅勘をこうむって下野国の足利の別業(私領のある別宅)に隠退した久安六年(1150)のころとする説が有力である。この義国の足利別業への隠退の際に、義重も父と一緒に下向した。弟の義康は足利の地に、義重は足利とはさほど離れていない上野国新田郡に拠点をおいたと考えられている(2)。しかし、この説にはいくつかの疑問が生じる。それでは、まずは義国・義重親子はどのようにして上野国とのかかわりをもつようになったのかを見ていくこととしたい。
義重の父親である源義国は八幡太郎の名で知られる源義家の三男として生まれた。『尊卑分脈』によると、義国の母は、摂関家家司で、文章博士・大学頭・中宮亮などを歴任した藤原有綱の娘であった。母方は中級貴族の家柄であり、父の義家は「武家の棟梁」だけではなく、都においては正四位下に叙せられるなど中級貴族であった。義国はどこでどのように育ったのかはわかっていないが、両親ともに中級貴族の家柄であることから、単なる地方の武者としてではなく、中級貴族の子弟として貴族社会に確固たる基盤を持って生まれてきたといえるであろう(3)。
義国はその前半生も不明な点が多い。いつごろかは不明だが坂東に下っている。『永昌記』嘉承元年(1106)六月十日条によれば、この年、常陸国において、叔父の源義光・平重幹ら常陸平氏と合戦していたことがわかる。この年に合戦を起こしていたとすると、この時期にはもうそれなりの年齢になっていたことが分かる。1080年から1090年ごろにはすでに生まれていたことになるだろう。須藤聡氏は、その論文(4)の中で、都にいて白河院殿上人として晩年を送っていた父の義家に代わって、東国で勢力拡大・在地経営にあたっていた義国が、常陸国を中心に勢力を得ていた叔父一族と衝突したのである、と述べている。
その後、義国の運命を変える事件が起こる。義国が叔父一族と常陸国で戦っていたその翌月、父の義家が京都にて死亡する。この五年前の康和三年(1101)義家の嫡男の対馬守義親が九州で人民を殺害し、公物を奪い取り、大宰府の命に背いて解官され、追討使を派遣されることになってしまった。朝廷は追討使の派遣を決めるが、父の義家は義親を召喚させようとした。しかし、義家が召喚のために派遣した腹心の郎党の下野権守藤原資通は義親に与し、逆に追討使を殺害してしまったのである。義親がようやく隠岐に配流となったのは翌年の年末になってからであった(5)。義親の失脚後、義家の後継者となったのは、義国の同母弟の義忠であった。義国の運命を変える事件というのは、義家亡き後の義家流の後継者となって順調に出世していた義忠が殺害される事件であった。
この事件は天仁二年(1109)二月三日の夜、源義忠が何者かによって殺害された。
義忠は鳥羽天皇が東宮のときに帯刀長を務め、その後も左衛門尉、検非違使に任ぜられるなど出世していた。この事件では、叔父である美濃前司源義綱一族が犯人とされ、源為義(=義親の子で、源義忠の養子になる)・美濃源氏の源光国の手で追討された。このとき討たれた義綱は、後三年合戦の後、白河院によって冷遇され続けた兄義家に代わりうる対抗馬として育てられた存在であった。しかし、すでに義家は存在しておらず、その嫡男義親は失脚、さらに前年の正月には出雲において平正盛率いる追討軍に討たれており、源氏の嫡流は停滞気味であった。また、源氏に代わる存在として、追討使として活躍した伊勢平氏も台頭しており、義綱はもはや不要な存在であったといえよう。そこへ義家流の正統後継者となった義忠が殺害された。容疑は叔父義綱の子の義明にかけられ討たれた。そしてそれに怒り、近江に出奔した義綱を今度はわずか14歳の為義に討たせた(6)。この事件に関しては、一般的に院の策謀によって内紛を助長したように捉えられている。上横手雅敬氏はこの事件を、むしろ謀反人義親の息子の為義が勲功を挙げることによって、名将の義家の養子としてなお消えぬ名声をうけて登場する機会が与えられることによって、源氏は瓦解をまぬがれたとみている。
たしかに、嘉承二年(1107)7月、時の堀川天皇が死んで宗仁親王(後の鳥羽天皇)が即位する際、皇位をめぐって輔仁親王一派の襲撃に備えるために「光信・為義・保清三人ノケビイシ」に天皇を警護させたと『愚管抄』にも書かれていることから、為義を側近の武力として考えていたのかもしれない。しかし、それ以上に為義の若さに目をつけたのではないだろうか。為義が叔父の義綱を討ったのは14歳のときである。元服してからそれほど時間も経っておらず、政治経験もまだまだ浅い。それに対して、叔父の義綱は義忠殺害事件当時70歳弱であり、政治経験も豊富であった。朝廷(=院)の立場からすれば、老練な義綱よりも、まだまだ若く朝廷(=院)の言うことを聞きやすいと思われる為義を手なずけようとしたのではないだろうか。そして、台頭する伊勢平氏が言うことを聞かなくなったときに備えて、為義に勲功を挙げさせて、朝廷(=院)のカラーに染めてしまおうという狙いがあったのではないだろうか。やはり、朝廷(=院)の策謀によって義綱一族は都から抹殺されたとしか思えない。
この事件の真相はもう一人の叔父義光が、嫡流を継げなかったことで義忠を恨み、郎従の鹿島三郎に命じて殺害したものとされている。この問題はただ嫡流になれなかった、というだけではなく、義家流と義光流の河内源氏内部の争いが原因ではないだろうか(7)。勢力拡大を目指す両者が坂東でぶつかった、それが嘉承元年の義国と義光の合戦であり、都においては、義忠暗殺という形で姿を現したといえるのではないだろうか。
謎の多いこの義忠暗殺事件だが、この事件が義国の運命を変えることになったのである。
この事件をきっかけに義国は都で活動し始めるようになったのだ。それまでは義忠とタッグを組んで、義忠は京都で、義国は東国で活動していたが、京都における足がかりを失ってしまったこともあり、自らがその役目を負わざるを得なくなったのであった。実際、義国の京都での活動はこの事件から5年後より見られるようになる。
永久二年(1114)八月、義国は使庁で為義と雑物を奪い取ったとして上野国司から検非違使庁に訴えられた「朗等家綱」の召進をめぐって争っている。このとき、義国は使庁で召問されていることから、在京していることがわかる。このときの在京が一時的なものか永続的なものかはわからないが、この後の義国の活動を見ていくと、まもなく活動の拠点を都に移していったことがわかる。
須藤聡氏の研究によって、義国は諸司助→兵部丞→式部丞→従五位下・式部大夫→加賀介、という官途をたどり、昇進を遂げたことが明らかにされた(8)。こうした京官をたどることができたのも、義国が単なる地方武者ではなく、一中級貴族として中央政界において確実に位置づけられていたことにほかならない。義国の貴族的な面は婚姻関係からもうかがい知ることができる。『尊卑分脈』によると、義国の妻は二人いたことがわかる。一人目は、後に源姓足利氏の祖となる義康の母となる信濃守源有房の娘である。この源有房は、村上源氏の出身で、鳥羽院の北面であり、詳しい官職はわかっていないが、貴族であった。
そして、二人目が義重の母親となった上野介藤原敦基の娘である。この藤原敦基は、藤原式家の流れをくんでおり、敦基自身は蔵人、式部丞、文章博士、上野介等を歴任し、正四位下に到った文官であった。こうした家柄との婚姻も義国の在京性や諸大夫層としての地位を物語っているといえるのだろう。こうした婚姻など人的な面を見ていっても義国は貴族社会との深いつながりを読み取ることができるのである。
このように義国からは京都の貴族社会の一員としての姿を見て取ることができるのであるが、当然武士としての一面も持ち合わせていた。天承元年(1131)九月の鳥羽の城南寺で行われた流鏑馬では、兵部丞源義国も射手を献じている記録が残されている。これは、白河院政期に始まって鳥羽院政期にさかんとなった院の私的な行事の一つで、御霊会の一種であり、流鏑馬はその中心行事であった。その流鏑馬は毎年院の北面(9)により勤仕されたものであった。また、久安三年(1147)夏の祇園闘乱事件の際に、鳥羽法皇は比叡山の麓の坂本に武士を派遣しているのだが、義国の代官として義康が派遣されている武士の中に見つけることができる。また、すでに「朗等家綱」をめぐって義国は為義と争ったことを述べているが、この家綱は上野から下野に大勢力を誇った藤姓足利氏の家綱である。当時は、複数の主に同時期に仕えることは決して不思議なことではなかった。この家綱は義国と為義両者と主従関係を結んでいたのであった。義国は京都における活動のみならず、東国へも下り所領経営を行っていたことが「朗等家綱」問題からも浮かび上がってくるといえよう。
最後に、源義国についてまとめていくことにする。義国は若かりし頃、東国において自ら所領経営に励んでいた。しかし、弟の死をきっかけとして活動の拠点を移していく。その活動は上京した1110年代から下野国足利の別業に隠退を余儀なくされる1150年までの40年間続けられた。その間、京官を歴任し、中級貴族として活躍した。この活動を支えたものは鳥羽院であるといえよう。在京中の義国は院の北面に加わり軍事力を奉仕して、その地位を獲得・保持していた。こうして、義国は「京武者」としての性格も持っていた。義国は武者というよりは中級貴族のカラーが濃いようだが、40年に渡る長い時間築きあげた在京武力は保元の乱において、息子の義康が平清盛・源義朝に次ぐ軍事力を動員できるものとなったのである。このような義国の在京活動は義国流源氏(息子の義康や義重流)が貴族社会における京武者としての地位を築くことになったのである。
義国はこうした中央での地位を背景に在地経営も着実に軌道に乗せることに成功した。
それは、康治元年(1142)十月の足利荘の成立に見ることができよう。さらに近隣の簗田御厨の本領主職も獲得している。これらは院との結びつきの強さゆえ成し遂げられたものであるといえよう。こうした東国での活動の活性化は藤姓足利氏を中心に在地の勢力との対立を生み出すこととなったが、源姓足利氏や新田氏の活動する基盤を築いていったといえるであろう。
(1)ここでの「郡」とは、古代律令制の時代に整備された「国−郡−里(郷)」の地方政治組織の一つである / (2)『群馬県史 通史編3 中世』 (1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (3)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会) / (4)同上 / (5)『白河法皇』 (2003 美川圭 NHKブックス) / (6)義綱は近江で捕らえられ、佐渡に流罪。その後、長承元年に討たれる。 / (7)前掲須藤論文と同じ / (8)同上 / (9)白河上皇が組織した側近集団。上・下にわかれ、上北面は中級貴族層からなっており、下北面は五位・六位の主に武士層からなる武力組織  
■第2節 新田荘立荘と新田氏成立
第1項 新田荘立荘
新田荘の立荘は義重の活躍が非常に大きなウェートを占めている。しかし、新田荘の立荘の前提となる私領の形成には父義国との親子タッグによって急速に進められたと考えられている。
(史料1)大般若経断簡裏書(1)
「上野国新田庄(住ヵ)式部大夫加賀介従五位下義国」
と書かれており、新田郡に住んでいたことがわかる。久安六年(1150)の父義国が隠退したのはとなりの下野国の足利の別業であった。これまでは、父とともに息子の義重・義康兄弟は下向したと考えられていた。しかし、この通説は本当なのだろうか。
実際はこれを機に義重・義康兄弟が京都で活動し始めるのではないだろうか。当初、義国は下野国の足利に隠退した。前節でも簡単に触れたが、足利荘は康治元年(1142)十月に足利郡内の私領を鳥羽上皇の御願寺である安楽寿院に寄進することによって成立した荘園である。これは田が約98町・畠が106町にも及ぶ広大な土地であった。足利は天仁元年(1108)の浅間山の大噴火でも新田郡ほどの被害は受けず、「こかんの郷々」のような土地が大量に生まれることはなかった。被害もそれほどではなく、復興も上野国と比べれば早かったであろう。また、当時は藤姓足利氏の勢力は強大で、義国や義康が足利付近で獲得し開発できる土地はそれほど残されていなかったであろう。それに対し、新田郡は火山の被害を大きく受け、さらにはまだ開かれていない土地も多かったこともあり、義国は新田に住を移し、新田郡の開発・私領形成に努めたのであろう。義家と義国がそうであったように、義国と義重・義康父子も一方が京都で活動しもう一方が東国で在地経営を行っていたのであろう。父の義国が京武者・中級貴族として活躍している間には、義康は足利で、義重は新田で在地経営を行っていたのであろう。そして、父の隠退後は、代わって息子たちが京都へ上って活動したのであろう。そして、義重の代わりに父の義国が新田荘の経営を推進したと考えられないだろうか。
義重が初めて官職を得るのは仁平元年(1153)のことであった。弟の義康は久安三年(1147)七月の祇園闘乱事件で義国の代理として僧兵防御に派遣されたときは、まだ無官であった。しかし、次に史料に現われる仁平二年(1152)の正月には右衛門尉に任官されていることが『山槐記』仁平二年正月二十八日条に記されている。ただ、このとき「元大膳亮」と記されているので、これより前にすでに官職をもっていたことがわかる。義康は兄の義重よりも一足早く京都における活動を開始しているが、これはすでに足利荘の立荘からしばらく経った足利荘を経営し、少し余裕ができた義康と、まだまだ開発途上の新田郡の開発に集中する義重のそれぞれの所領の開発の進度差であったと考えられるだろう。
久寿元年(1154)八月九日は、鳥羽上皇の御願寺である金剛心院落慶供養の日であった。鳥羽上皇は生母を供養するために鳥羽離宮に金剛心院を建立したのであった。このころ、新田郡では義国・義重父子が精力的に開発を進めていた。ちなみに、義国はこの翌年の久寿二年(1155)に亡くなっているので、それまではともに新田郡の開発をしていたものと思われる。そして、金剛心院が建立されるころまでに新田郡に「こかんの郷々(2)」と呼ばれる十九郷を成立させている。
義国・義重父子は、新田郡の「空閑地」を開発していったのだが、このような大規模な開発にはかなりの労働力を必要とする。おそらくは周辺地域の人民を徴集して働かせたものと思われる。このような一般の人民を徴集するには、義国・義重父子に人件費を払えるだけのある程度の私財と、公権力をもっていないとできないだろう。そこで、義重のまわりにいる女性から公権力との関わりを見ていくこととする。まずは義重の母親に注目する。
すでにここまでに触れてきているが、この女性の父親は上野介を務めたことのある藤原敦基である。上野国の実質上の長官(3)である上野介だった父親を持つ娘を母にしていたことから、上野国の国庁との縁もあったのではないかと考えられている(4)。次に義重の妻について見ていくこととする。ここで注目されるのは、義重の長男の義俊である。下野国足利の『鑁阿寺系図』によると、この義俊には「別腹殊賤」と記されている。これは、義重には在地豪族の妻がいたことを予想させる。『新田町誌』では、この在地豪族が郡司であれば、その権限をも背景にして労働力を編成したのではないか、と述べているが、おそらく義重は在地豪族との婚姻を重ねながら公権力を背景に労働力を獲得していったのであろう。
このように在地の権力を吸収しながら、「こかんの郷々」とよばれる広大な土地を開発していき、私領を形成していったのだった。
(史料2)左衛門督家政所下文
一般に、この史料2の「左衛門督家政所下文」で義重が新田荘下司職に補任されたことによって新田荘は成立したと考えられている。すでに述べたが、義重は「こかんの郷々」
と呼ばれる19郷を成立させていた。この19郷の支配をより確実なものとするために、花山院藤原忠雅(=領家)に寄進して、さらに忠雅はこれを金剛心院(=本家)に寄進している。この際、義重が寄進したのは6郷のみである、という山本隆志氏の説(5)も有力だが、いずれにせよ義重が現地での支配権を確固たるものにしていったのは間違いないだろう。
ここで、2つの点で問題が生じる。まず一つ目は、本当にこの年に荘園が形成されたのか、という点である。保元元年(1156)の保元の乱後に、後白河天皇は荘園整理令を出している。十月には記録所も復活し、いよいよ書類審査機関も整ってきていた。したがって、新田荘が成立したのはこの下司職に補任される前であったと考えられるのではないだろうか。この考えは、この下文のあてどころが「上野国新田御庄官等」とあり、すでにこのときまでには荘官組織が形成されていたと考えられることからわかる。
二つ目は、義重はどのようにして領家の花山院忠雅と知り合いになったのだろうか、という点である。その前にまずこの史料2の「左衛門督家政所下文」についてだが、これは「左衛門督」の職務についている人の家政機関から出されたことを意味している。そして、この下文が出された保元二年当時、左衛門督の職務についていた人物は摂関家藤原基実と花山院家藤原忠雅の二人であった。昔から基実説・忠雅説の対立があったが、『兵範記』などから忠雅説が正しいと考えられるようになってきている(6)。
左衛門督家政所下す上野国新田御庄官等下司職に補任す
源義重右の人、地主たるに依って、下司職に補任すくだんの如し、御庄官等宜しく承知すべし、くだんに依って之を用いよ、敢えて違失すべからず、故に下す、
保元二年三月八日案主宮内録菅野
令前中務録山(花押)
別当散位三善朝臣(花押)
散位紀朝臣(花押)
散位中原朝臣
大監物藤原朝臣(花押)
散位藤原朝臣(花押)
明法博士中原朝臣
さて、義重と忠雅の出会いだが、『群馬県史』(7)では、仁平三年(1153)の義重の内舎人就任前後に当時左衛門督であった忠雅と出会ったのだろう、としている。この年は義重が京都での活動を本格化させた年でもあり、金剛心院の造営が開始された年でもあり、藤原重家が上野介に就任した年でもあった。この頃から新田荘の立荘への動きが急に活発になってくるのだが、それは領家となった忠雅と上野介となった重家、さらに金剛心院の堂舎造営を請け負った備後守藤原家明が婚姻を通じて義理の兄弟となっていたことが大きかった。
義重の在京活動を支えていたのは花山院忠雅だった。後白河院の近臣であった忠雅の支援によって義重は大炊介に任官することができた。これは、院の近臣の忠雅の仲介によって義重は後白河上皇に近づきその女御j子に仕えるようになった。そして、その奉仕の結果大炊介になれたのであった(8)。この花山院忠雅は摂関家の藤原忠通家とも強いつながりがあった。義重やその息子の義兼は忠道家と結びついた忠雅の仲介・推挙によって、摂関家藤原忠通家出身の女院とつながりを持つことができたのであった。また、忠雅の息子が平清盛の娘と結婚したことによって、平氏とのつながりも生まれるのであった。
このように義重は花山院忠雅と深く結びついていた。この関係は、義重が「京武者」として京都で活動するために欠かすことのできないつながりであった。忠雅との関係があったからこそ「京武者・源義重」がありえたのである。この関係は新田荘立荘にも重要な役目を果たしたことはすでに述べた。この後の嘉応二年(1170)新田荘は新田郡全域に拡大するのであるが、これは義重の努力はもとより、新田荘の領家の忠雅と清盛らの中央での力がもたらしたものであろう。新田荘はこうした義重の中央での活動や院の近臣の忠雅との結びつきによって生まれたものだったのである。
(1)義国の孫の足利義清によって寿永二年(1183)に記された / (2)こかん(空閑)とは開発可能な土地であり、かつ開発によって耕地化された土地を意味する (『新田義貞』 人物叢書 新装版 峰岸純夫 2005 吉川弘文館)より / (3)上野国は親王任国であり、上野介が実質上の長官であった / (4)『新田町誌』 (第四巻 特集編 新田荘と新田氏 1984 新田町誌編さん室) / (5)同上 山本隆志「新田荘成立と新田氏」 / (6)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (7)同上 / (8)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会)  
第2項 源義重
源義重は、中央と地方両方の顔をもっていた。父の義国と同様、かつて語られていたような在地領主ではない。かといって純粋な京武者ではない。在地と京武者その両方を持ち合わせていたのがこの源義重であった。
源義重はこれまでは在京性の強い弟の義康に対して、在地性が強い存在と見られてきたが、近年の研究では、義重は京都でも積極的に活動していたことがわかってきた。しかし、京武者としての一面をピックアップしすぎたためか、在地での活動していたことも見落としがちである。そこで、義重の活動を見ながら、その性格を明らかにしていくこととする。
まずは、近年明らかになってきた京都での義重の活動を整理してみる。最初に、義重の就いた官職から確認していくことにする(1)。義重がはじめて官職に就くのは仁平三年(1153)であった。父の義国が久安六年(1150)に闘乱事件を引き起こしてしまい、下野国の足利の別業に隠退した。父の代わりにすでに在京活動を始めていた弟の義康とともに京都での活動を義重も開始するのであった。そして、京都での活動を開始したことで、最初の官職に就くことができたのであろう。そんな義重が任ぜられたのが内舎人だった。
この内舎人は、当時の補任例から見ても、無官の下級官人が初めて任ぜられる官職であったことがわかる(2)。おそらくこの後も京都での活動は続けていたのであろう。保元四年(1159)正月二十九日に、義重は大炊介に任ぜられている。その後平治の乱が起こったあとも義重は京都での活動を続けていて、仁安三年(1168)の正月に、従五位下に叙せられている。須藤氏は、経緯が不明なこの叙位を、長年にわたる大炊介としての活動や、私主への奉公の成果と捉えているが、おそらくその通りであろう。この後、義重は新たな官職を得た様子はないようだが、治承四年(1180)九月に平氏の命で東国に下るまで京都での活動を続けている。
さて、京都での活動を行い、「京武者」としての源義重像が少しずつ浮かんできたが、義重はどのような人たちと関係を築いていたのだろうか。義重自身、父の義国が築き、それを継承した弟で、保元の乱からわずか一年後に急逝した義康の後を引き継ぐ形となった(3)。
義国や義康が築いた人脈・人的ネットワークも義重は活用したことだろう。義重の在京活動を支えていたのは藤原(花山院)忠雅とのつながりであった。第1項の新田荘立荘でもすでに述べてきたが、領家と開発領主(=下司職)という関係があった。この両者には新田荘を介した上下関係だけにとどまらなかった。須藤氏が指摘したとおり(4)、これまで新田荘の成立・拡大についてその関係は述べられていたが、義重の在京活動を支えていたという指摘はほとんどなかったといえよう。忠雅と義重の関係は京都を舞台にして続いていたのであった。後に、忠雅が平治の乱の勝者平清盛に接近していく。また、後白河院の近臣として急激に出世していく。忠雅との関係が強い義重は忠雅経由で平氏との関係を持つようになり、また、忠雅経由で後白河上皇へも近づくこととなった。
(史料1)(5)
「大炊寮助。正六位上源朝臣義重。女御藤原朝臣j子去年未給」
この女御j子という人物は、保元二年の頃に後白河のもとに入内し、まもなく女御となった人物である。父親は内大臣藤原公教である。この史料からは、義重が女御j子の年給で大炊助になったことがわかる。この任官には女御だけでなく、後白河の意向も反映されていたことだろう。義重が後白河とつながっていたことがわかる。『尊卑分脈』によると、義重には「九条院判官代」とも記されている。この九条院とは、近衛天皇の皇后であり、『尊卑分脈』に書かれていることが正しければ、義重は近衛・後白河の両帝に近づいていたことになる。義国や義康が鳥羽院の北面の信濃守源有房との婚姻関係もあり、鳥羽に接近したように、忠雅を仲介に義重も鳥羽の息子たちとの接点を持ったのだろう。このように、義重の在京活動は(息子の義兼も)、忠雅との縁で支えられていたといえるであろう。この縁があったからこそ、義重は京武者の地位を維持できたのであった。
次に、義重の在地での活動を整理してみる。義重は在地でも積極的に活動していた。かつて、義重が在地領主として捉えられていた理由もここにあるだろう。
まず、義国が京都で活動していた頃、義重は新田郡において開発に励んでいたのであろう。弟の義康が父の代わりに僧兵防御に出陣したり、義重よりも先に官職を得ている点からもそのように考えられる。また、父の義国が失脚後、上京した義重の代わりに新田郡の開発・在地経営を行っていたが、その死後は義重がその仕事も担っている。そして、義重の現地における活動(=開発)の成果が、嘉応二年(1170)の新田荘の新田郡全域への拡大へとつながったのであろう。この拡大へは、中央における新田荘の領家の忠雅と平清盛の強大な力がもたらしたものであった(6)。忠雅は、この二年前の仁安三年(1168)には太政大臣に補任されている。また、その前年には清盛も太政大臣になっていた。この両者はそれぞれの子どもの婚姻関係で結ばれていた。そして、新田荘の領家でもある忠雅は清盛に働きかけ、時の上野介の藤原範季を動かし、新田郡内に残っていた国衙領(=公領)を分割して、一郡全体を荘園化することに成功したのであった(7)。これも義重が京都(=中央の公権力)と結びついていたからこそできた新田荘の拡大であろう。義重は、なおも在地での活動を活発化していく。一郡規模となった新田荘と隣接する薗田御厨を収奪しようと、薗田御厨司と相論を引き起こしている。
さらに、義重は自身の息子たちを拡大した新田荘や八幡荘付近に配置した。山名や里見など、入り婿の形で自分の息子を送り込んだと思われる。さらなる所領拡大をめざしていたのかもしれない。さらに、南関東で一大勢力を築いた源義朝の息子の悪源太義平に娘を嫁がせている。おそらくは、武蔵北部や西上野に影響力を持っていた義賢や秩父一族への対抗策であったろう。義朝勢力と結ぶことで上野、北関東に与える義重の影響力を大きくする狙いもあったのではなかろうか。これも義重の在地での活動の一つであろう。その積極的な在地での活動が浮かび上がってきたといえよう。
ここまで義重の京都・在地でのそれぞれの活動を見てきた。須藤氏は、義重の内舎人(1153)→大炊助(1159)→従五位下(1168)という昇進についてかなり地味な感じを受け、諸大夫層というよりは、むしろ侍層に属する貴族によく見られるものだ、と述べている(8)。実際、義重の官途は父の義国よりも、その父よりもより上位の職に就いた義康よりも低い位の官途でしかなかった。これはなぜなのだろうか。1150年代から下向する1180年までのおよそ30年間、京都での活動を行っていた。しかし、京都での人脈を駆使して、より在地で積極的な活動を展開したからではないだろうか。義重は父や弟よりも京武者のカラーが薄く、在地領主としてのカラーがより濃いのである。この親子の中で一番積極的に在地での活動をおこなっていたのは義重であったのは間違いない。
義重は、京武者である。また、義重は在地領主である。しかし、どちらかを強調して語ることはできない。義重はまさに京武者と在地領主両方の性格を持っていたのであった。
(1)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会) / (2)同上 / (3)義康の遺児はいずれもみな幼く、義康の京武者としての遺産をそのまま引き継ぐことはできなかった / (4) (1)と同じ / (5)同上 / (6)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (7)同上 / (8) (1)と同じ  
第3項 新田氏成立
何をもって新田氏が成立したとするのか。非常に難しい問題である。一般的に、新田氏が生まれたのは新田荘が誕生したときとほぼ同じと考えられている。しかし、この通説で本当にいいのだろうか。
よく、『吾妻鏡(1)』や『保元物語(2)』などの記述から、義国の子どもの義重や義康は新田や足利を名乗っていたかのように考えてしまう。
(史料1)『吾妻鏡』治承四年十二月廿二日条
「新田大炊介入道上西召さるに依りて参上す。・・・」
(史料2)『保元物語』(関白殿本官ニ帰復シ給フ事付ケタリ武士に勧賞ヲ行ハルル事)
「夜ニ入リテ、勧賞行レケリ。安芸守清盛、勲功ア(ッ)テ播磨守ニ移ル。下野守義朝、左馬権守ニ移ル。本は右馬介也ケリ。足利陸奥新判官義康、義朝、始テ殿上ヲ免ルサル。義康ヲバ、蔵人判官と申ケリ。・・・」
これらの史料から判断する限り、そのときにはすでにそれぞれが新田・足利を名乗っていたかのように思ってしまう。しかし、ここで注意すべき点はそれぞれの本が完成した時期である。『吾妻鏡』も『保元物語』も完成したのは鎌倉時代になってからであった。したがって、彼らがそのとき本当に新田や足利と名乗っていたのかはわからない。そこで、当時の貴族の日記を見ることにする。貴族の日記は、『吾妻鏡』や『保元物語』のように後の時代になってから書かれているということはないからである。
(史料3)『兵範記(3)』保元元年七月五日条
「・・・召仰検非違使等令停止京中武士、左衛門尉平基盛、右衛門尉惟繁、源義康等、参入奉了、去月朔以後、下野守義朝并義康等、参宿陣頭守護禁中、・・・」
(史料4)『山槐記(4)』治承四年五月廿六日
「・・・後聞、被切頸輩、・・・検非違使藤原忠綱切四人、・・・、源義清、足利判官代云々、義康子、・・・」
(史料5)『兵範記(5)』仁安二年正月廿七日条
「丙寅 微雪、今日可有女御殿侍始、可補職事由、・・・家司職事、・・・侍長以下、長源朝臣義兼、・・・」
史料として、以上の3つをとりあげてみることとする。まず、史料3は、保元元年(1156)に鳥羽法皇が院宣を出し、六月から義朝などと内裏を守護していたことを示すものである。ここで注目すべきは義康が「足利」義康ではなく「源」義康と記されていることである。ここで続けて史料4を見ていくことにする。この『山槐記』の治承四年五月廿六日条の源義清の脇に「後聞、此頸非義清、義清不交戦場、宮(○イ无)云々、」と追加で書かれている。以仁王と源頼政が挙兵し、宇治で敗れた戦いで、彼らに味方したものへの処罰の中で、検非違使に首を切られたものの中に源義清が挙げられている。その後、ここで首を切られたのは義清ではなかった、というのがここに書かれている内容である。ここでも注目すべき点は、「源」義清と記されていることである。この義清は史料3で扱った義康の息子であるが、彼もまた「足利」義清ではなく「源」義清なのである。続いて史料5であるが、この史料は仁安二年(1167)正月の、平滋子(=後白河上皇の女御)の侍所はじめに際して、義重の息子の義兼が「侍長」として登場してくるものである(6)。ここで登場した義兼も「新田」ではなく、「源」義兼として登場したのである。それでは、これをいったいどのように考えたらいいのだろうか。
ここからわかることは、義康や義重はそれぞれ「新田義重」・「足利義康」ではなく、「源義重」であり、「源義康」であったのだ。それぞれの息子である義兼や義清も当然、「源」であったのだ。史料4で義清に足利判官代と記されているが、この「足利」は字であった。
そもそも字とは実名に対する呼び名であり、平安時代になり、氏族制社会が崩壊するにともなって普及したものだった。それが、平安時代の後期になると、「字」に地名をつける例が出てきたのだった(7)。したがって、見つけることはできなかったが、義重が貴族の日記にその名を登場させるとしたら、義清のケースから考えてみて「源義重 字は新田大夫」などと記されていたのではないだろうか。
それでは、新田氏の誕生はどのように考えたらよいのだろうか。豊田武氏はその著書『苗字の歴史』のなかで、平安末期以来、武士は開発の本宅または本宅の地を名字地とした。
そして、源平の争乱の頃にほぼ定着し、この名字を用いる新しい同族団が出現した。そして、そのような地方武士団が直接の先祖としたのは彼らが本拠とする本領を開発し、権門勢家に認められた人物(8)、と述べている。ここから考えると、新田荘が成立する前から父義国のかわりに在地経営をし、父の隠退後は、父に代わって在京活動をしつつ新田郡での開発を進め、新田荘下司職に任ぜられた義重が新田氏の祖であるといえるのではないだろうか。新田荘と新田氏の歴史は義重によって開かれたのであった、ということになるだろう。しかし、これまで見てきたように義重流も義康流も新田や足利が字ではあっても名字になったとは言えないだろう。あくまで仮説の域を出ないが、鎌倉幕府の成立以降に名字は成立し、新田氏・足利氏が成立したと言えるのではないだろうか。
治承・寿永の内乱で義経とともに平氏と戦った源氏の大将に頼朝の弟の範頼がいる。建久三年(1193)五月二十八日、曾我兄弟のあだ討ち事件が起こった。この事件で、頼朝も暗殺されたという噂が流れた。この事件のとき、鎌倉にいて留守番をしていた範頼は、頼朝の妻の北条政子に対して「自分が無事だから、源氏は問題ない」というような発言をしたという。無事であった頼朝が鎌倉に戻ってから、この範頼発言は謀反として問題化されてしまう。この後、八月十七日になって範頼は伊豆に配流されてしまう。詳しくはわかっていないが、この直後に範頼は誅殺されたといわれている。頼朝はこれ以外にも同じ源氏を攻め滅ぼした例もある。自分の代わりとなりうる存在は目障りであり、危険な存在に映ったのだろう。頼朝とその子どもたち以外は「源」を名乗れない状況になっていったのではないだろうか。頼朝流以外の源氏がそれまでの字を名字としていったのはこの時期であったが、そうした理由があったからであろう。これは義重流にとっても大きな転換点となった。それまでの「源」から名字として「新田」を名乗るようになり、新田氏が成立したのは鎌倉幕府の成立をきっかけとするものだったのであった。
(1)『吾妻鏡』 (第一 新訂増補 国史大系 1932 黒板勝美編 吉川弘文社)を使用 / (2)『保元物語 平治物語 承久記』 (新日本古典文学大系43 1992 栃木孝惟ら校注 岩波書店) / (3)『増補 史料大成』 (第十九巻 兵範記 二 1965 株式会社臨川書店内増補「史料大成」刊行会編 臨川書店) / (4)『増補 史料大成』 (山槐記 三 1965 株式会社臨川書店内増補「史料大成」刊行会編 臨川書店) / (5)『増補 史料大成』 (第二十巻 兵範記 三 1965 株式会社臨川書店内増補「史料大成」刊行会編 臨川書店) / (6)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会) / (7)『苗字の歴史』 (豊田武 1971 中央公論社) / (8)同上  
第4項 新田氏と足利氏の関係
新田氏と足利氏の関係についてこの項では見ていくこととする。便宜上、ここでいう新田氏とは義重流を指し、足利氏とは義康流を指すこととする。新田氏と足利氏この両氏の祖が、源義国である。義国が京都で活動していた頃、その息子である義重は、新田郡で、義康は父と一緒に京都で活動していた。そして、父の死後も、義重・義康兄弟は連携して活動していた。ともに義国の息子でもあり、義国流源氏という意識があったのかもしれない。
しかし、この関係も長くは続かなかった。すでに述べたが、義康が若くして亡くなったとき、彼の息子は幼く、義康の京武者としての遺産をそっくりそのまま引き継ぎことはできなかった。
(図1) 義国流源氏家系図(1)
しかし、義康の息子達は鳥羽院とのつながりは維持していた。鳥羽の娘の八条院や上西門院の蔵人や判官代として仕えていた。それに対して、義重やその息子の義兼は九条院(2)や皇嘉門院(3)などに仕えるなど、鳥羽の息子達と結びついていた。少しずつ、別のものとして行動しているのが見えてくる。
治承・寿永の内乱のころになると、それぞれが完全に別個のものとして行動していくこととなったのであった。義康の息子の義清・義長は、義仲と行動をともにし、義兼は頼朝に早い時期に帰参する。それに対して、義重は京都から戻ってから、自立の志を示している。
義国流は、早い時期から新田・足利で別々の動きを見せ始めた。そして、完全に別の武士団として行動するに到ったのが治承・寿永の乱だったのであった。
(1)尊卑分脈をもとに筆者作製 / (2)九条院は近衛天皇の皇后 / (3)皇嘉門院は、崇徳天皇の皇后  
■第3節 新田氏の性格
新田氏(=義重流源氏)は、源平よりは1ランクした、一般豪族よりは1ランク上の存在といえよう。まさに、義重はそのようなポジショニングであった。義重は武家の棟梁にはなれないが、他の一般豪族よりは頭一歩抜け出た存在であった。
義範 九条院判官代
義重 義俊 皇嘉門院蔵人
義兼 鳥羽院北面 八条院蔵人
義国 義康 義兼 上西門院并八条院等判官代
義清 八条院蔵人判官代上西門院蔵人
季邦 義長
これは、新田氏の限界を示しているともいえる。京武者としての性格を保持していたが、平氏のような完全な京武者にはなれず、完全に在地領主となった一般的な豪族とは異なり、京都とのつながりを自ら保持している。まさに源平よりは1ランク下で、一般豪族よりは1ランク上の存在なのである。
義重流源氏の行動からも新田氏のそんな性格が見えてくる。新田荘が一郡規模に拡大されたとき、義重は京武者であり、貴族化していたとはいえ、武家の棟梁であった平清盛に仕えていて、その権力を背景に、上野介に働きかけてもらい一郡規模に新田荘を拡大させることに成功したのである。また、その直後、隣接する薗田御厨を奪おうと相論をおこしているのだが、これは義重が自身の背景にひかえている清盛・忠雅との連携、また一般豪族と自分自身との官位の差、また、所領拡大のねらいなどがあったのだろう。
義重の息子たちが山名や里見などを名乗るようになっていくのだが、これも義重流の新田氏が一般豪族よりもランクが高いことを意味している。源氏や平氏よりは1ランク落ちるが、新田氏は一般豪族よりもランクが高い。一般豪族からすれば、新田氏は貴種であったのだ。義重の息子を受け入れる側からすれば、他の一般豪族よりも、高い地位を得られることとなる。また、息子を送り出す義重の立場からすれば、息子が各地を治める豪族の家に婿入りすることで、半ば自身の勢力を広げることにつながる。これは両者にとって大きなメリットだったのである。
新田氏は、こうした地方の状況、さらには武士社会における新田氏のポジションによってこのような性格を持つようになっていったのである。  
第3章 古代末期内乱の時代から鎌倉時代の新田氏

■第1節 保元・平治の乱と坂東武士
第1項 清和源氏嫡流家
1 源義朝の勢力
源義朝は源義家の孫為義の長男である。母親は白河院の近臣であり淡路守などを務めた藤原忠清の娘であった。義朝の幼少期は詳しくは分かっていない。おそらく、母親が院の近臣を父に持っていることからも京都で生まれ育ったのではないだろうか。
義朝が生まれ成長していた頃、義家以降の河内源氏はまさに冬の時代ともいえる時期であった。そこで、父の為義は長男の義朝を坂東に下向させ、河内源氏の勢力復興のため、東国武士の主従関係を再編・再生させる重要な役割を担わせた、と一般的には理解されている。それでは、義朝はどのような目的を持って坂東に下向したのであろうか。
坂東に下向したころの義朝は「上総曹司」と称されていた。この呼び名から、義朝は国司として下向したのではなく、官職も有していなかったことがわかる。このとき、次の2でふれる弟の義賢は東宮帯刀長(1)になっていた。義朝は廃嫡され、弟の義賢が嫡男となっていたのである。これと同じ現象はのちの平治の乱の直前にも見られる。義朝自身の息子で、三男の頼朝は京都で朝廷に仕えていた。しかし、そのころ兄の義平はとくに官職を得ないまま相模国を中心に活動していたのと共通する現象である。元木泰雄氏の指摘の通り(2)、義朝は廃嫡され、坂東に追いやられた可能性が高いのではないだろうか。この理由は、為義が藤原忠実に仕える際に、忠実を蟄居に追い込んだ白河院の近臣の娘を母とする義朝が避けられたからではないだろうか。
廃嫡された義朝だが、摂関家とは深くむすびついていた。下向した義朝は「上総曹司」と称されたように、平忠常の子孫である上総介常澄に受け入れられたものと思われる。この常澄は、ただ単に河内源氏の祖の頼信に臣従して以来の家人というだけではなかった。
彼は摂関家領の菅生荘の荘官でもあった。次に義朝は三浦氏とも提携する。永治元年(1141)、三浦義明の娘との間に長男の義平をもうけている。そして、鎌倉の「楯」(=舘)にも居住するようになったのだった。この三浦氏の本領の三崎荘も摂関家領であった。さらに、義朝の次男の朝長のケースで考えてみても、朝長の母親の父は相模国の豪族で京都でも活動をしていた波多野遠義であるが、この波多野氏も摂関家領の波多野荘の荘官である(3)。彼らは、代々河内源氏と関係を持っていた武士団ではあるが、彼らとの主従関係は摂関家の家政機関の媒介によって維持されていたのであった(4)。義朝の下向と摂関家の家政機関とは密接な関わりを持っていたものであった。この義朝の下向には父親の為義の主君である摂関家の大殿忠実の影響が大きいのであった。
この後、義朝は下総の千葉氏の所領の相馬御厨や大庭氏の大庭御厨に対して行動を起こしている。この活動は、背後に摂関家の支援を受けながら、上総介や三浦氏との連合でそれぞれ千葉氏・大庭氏に対する圧力を加える軍事行動を起こしたものであり、武士団対立の調停者としての役割を果たすものであった。また、義朝は鎌倉周辺に活動の基盤となる所領を形成しようとしていた。しかし、三浦氏をはじめとする周辺の武士団との衝突は見当たらない。これは、義朝が他の豪族たちより高次元の存在であり、東国武士と同一の次元で所領を争うことがなく、調停的な役割を担っており、地域の調停者として広域の武士を組織するような権力を持つようになったことを示している(5)。
この後、久安三年(1147)になると、義朝は待賢門院の側近であり、熱田大宮司家の藤原季範の娘との間にのちの頼朝をもうけることとなった。この熱田大宮司家との婚姻は、摂関家を媒介にして行われたものであろう(6)。当時はまだ、待賢門院のでた閑院流は忠実や頼長と連携していたから、そのつながりで義朝と院の近臣とのつながりをもたらしたのであろう。後には、義朝の嫡男は頼朝になるが、一豪族の波多野氏の娘から生まれた息子より、院の近臣の娘から生まれた頼朝を嫡男にした方がメリットが大きいという考えからの行為なのだろう。
このように義朝は東国に数年間居住することによって、南関東を基盤に一定の勢力を持つようになった。後に、頼朝が挙兵したときに義朝の活動で再生された坂東の武士団との結びつきが大いにものをいったであろう。こうした義朝の活動だが、その背景には摂関家領の拡大・安定、あるいは鳥羽院関係者の知行国の支配権の強化があった。中央の権威と結びつき、それを利用することによって武士団を把握し、自らの勢力を築いていくことが出来た、といえるのだった。
その後の義朝は長男の義平に南関東の基盤を譲り、京都へ再び上った。そして、仁平三年(1153)八月には、下野守に就任することとなった。さらに同日には叙爵された。
鳥羽院に接近したことによってもたらされた急激な出世だった。義朝はこの後、院へより近づいていった。そして、鳥羽院から厚い信頼を得るようになった。その後、義朝は平治の乱で敗れるまで京都で活動していくこととなった。
(1)その任務は皇太子である体仁親王(=後の近衛天皇)の警護隊長 / (2)『保元・平治の乱を読みなおす』 (元木泰雄 2004 NHKブックス) / (3)同上 / (4)元木泰雄「源義朝論」 (『古代文化』54 2002 古代學協會) / (5)同上 / (6) (2)と同じ
2 秩父氏と源義賢
源義賢は為義の次男である。兄にはさきほど述べた義朝がいる。前項でもすでに述べているが、本来は兄の義朝が嫡男であった。しかし、父為義が仕えていたのは摂関家の大殿の忠実であったこともあり、義朝は廃嫡され、義賢が嫡男となった。
この義賢は父の為義が摂関家の忠実・頼長父子の家人となっていたこともあり、頼長に仕えることとなった。摂関家とのつながりなどから義賢は順調に出世していった。体仁親王の東宮の帯刀長を務めたことから帯刀先生などと呼ばれていた。しかし、この義賢は不祥事をおこしてしまう。保延六年(1140)滝口武者の源備殺害事件で殺人犯をかくまうという失策を犯してしまう。そして、この失策によって東宮帯刀先生の地位を失ってしまったのだ。しかしこの後、康治二年(1143)には能登の荘園の預所に補任された。
これは義賢が頼長に「心身ともに」仕えるようになるなど、両者の強い結びつきがあったからであろう。こうした男色は武士社会に広がっているが、その背景には人格的とも称される主従関係が存在していたのだった。この場合は公家と武士だが、この二人にもそのような関係が生まれていたのであろう(1)。
そんな義賢だが、どうやら仁平三年(1153)の夏ごろから上野国の多胡郡に居住していたようである。
(史料1)『延慶本平家物語』
「彼義賢去仁平三年夏比ヨリ、上野国多胡郡ニ居住シタリケルカ、秩父次郎大夫重隆カ養君ニナリテ、武蔵国比企郡ヘ通ケルホトニ、當国ニモ不レ限、隣国マテモ隨ケリ」
と書かれている。ここからは、義賢が仁平三年の夏ごろから上野国の多胡郡に移り住み、秩父重隆の婿(事実上の主君格)となり、多胡郡から北武蔵の比企郡に通うようになり、その勢力は上野国から武蔵国にまで及んだことがわかる。義賢は多胡郡に居を定め、秩父重隆の婿となってからも本拠を多胡郡としている。後に、治承・寿永の内乱が起こったとき、義賢の息子の義仲は信濃から多胡郡へと兵を進めている。おそらく、義賢と多胡郡の武士との間に主従関係があったのであろう。義仲の多胡郡入部はこうした義賢と多胡郡との結びつきの強さを示している(2)。
一方、義賢を迎え入れた秩父氏は武蔵国留守所検校職を持っていた。これは国衙在庁職であり、武蔵国内の党的武士団(=武蔵七党)に対する指揮権のほか、「国検の時の事書等、国中の文書の加判、及びに机催促の加判」などの事務的職掌も持っていた(3)。秩父氏は武蔵国の中心的な豪族であったといえよう。そんな武蔵でも屈指の豪族だが、このころは南から義朝・義平父子の勢力が、北の上野国の東部では新田氏の勢力が、さらに下野国を中心に北関東に大勢力を持っていた藤姓足利氏の勢力に挟まれていて苦しい時期だった。そこで、義賢に白羽の矢が立ったのであろう。
それでは、義賢は秩父氏から白羽の矢が立てられただけで、坂東に下向したのだろうか。
義賢下向の理由はそれだけではないだろう。義賢が上野国の多胡郡にやってきたのは仁平三年(1153)であった。この年は兄の義朝が下野守になった年であった。このころまでに摂関家の側に立つ為義・義賢父子に対し、義朝は院に急接近していった。この二年前の仁平元年(1151)、左大臣の頼長は、美福門院のいとこで、鳥羽院からの寵愛をほしいままにしていた鳥羽院近臣の藤原家成を襲撃する事件が起こしている。すでに、院の近臣と摂関家との対立はピークに達していたのだった。義賢の下向は、敵方の院側についた義朝の坂東での勢力に対抗するための基盤を坂東に築くためだった。
こうして、義賢は下向し、秩父重隆の養君となった。そして、上野から武蔵にわたる一大勢力を築き上げるのだった。しかし、この後事件が起こる。
(史料2)『台記』
「久寿二年八月廿七日、壬寅、或る人□□□□源義賢、其の兄下野守義朝の子のために、武蔵国において殺さる」
この『台記』は、義賢が仕えた藤原頼長の日記である。同時代の史料で、さらには自分と主従関係を結んだ身近な存在が討ち死にした事件を記しているのである。義賢が久寿二年八月に義平に討たれたことは間違いないだろう。
(史料3)『吾妻鏡』 治承四年九月七日条
「丙辰、源氏木曽冠者義仲主は、帯刀先生の二男也、義賢、去久寿二年八月、武蔵の国大倉館において、悪源太義平主のために討ち亡ぼさる、時に義仲三歳の嬰児たる也、乳母の夫中三権守兼遠之を懐き信濃国木曽に遁れ、之を養育せしむ」
この『吾妻鏡』の記事からは、義賢は久寿二年八月、武蔵国の大倉館で義平によって討ち滅ぼされたことがわかる。
(史料4)『延慶本平家物語』(4)
「カクテ年月ヲフルホトニ、久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝カ一男悪源太義平カ為ニ大倉ノ館ニテ、(源)義賢・(秩父)重隆共ニ被討ケリ、其時義仲二歳ナリケルヲ、母泣々相具テ信乃国ニコヘテ、木曽仲三兼遠ト云者ニ合テ是養テ置給ヘ、世中ニヤウアル物ソカシ、ナムト打タノミケレハ、兼遠是ヲ得テ、穴糸惜トシテ木曽ノ山下ト云所テソタテケリ」
この史料からは、義賢とその義賢をかつぎ上げた秩父重隆が大倉館で討たれたこと、そしてその頃はまだ幼かった義仲は信濃に逃れて、仲三(中原)兼遠に養育されたことなどがわかる。
これら3つの史料からもわかるとおり、久寿二年八月、武蔵国大倉において合戦が行われた。この戦いは新田義重と婚姻関係を結び、北関東へも勢力を広げようとした源義平と南武蔵へ勢力を広げようとした源義賢・秩父重隆との戦いであった。一見すると、源氏同士の内紛のように見えるが、この戦いは京都の情勢と密接に結びついているものと捉えなくてはなるまい。この翌年の保元元年(1156)には保元の乱が起こっている。まさに、保元の乱の関東における前哨戦といえ、京都における政治的対立が反映されて起こった戦いであったのである。
(1)『保元・平治の乱を読みなおす』 (元木泰雄 2004 NHKブックス) / (2)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (3)『新編埼玉県史』 (通史編2 中世 1988 埼玉県教育委員会) / (4)史料4は史料1の続きである  
第2項 義国流源氏
この項では、義国流源氏の動向を見ていく。
義国、義重、義康この三人の父子はそれぞれが強く結びついていた。すでに前章の第2節第4項で述べたとおり、彼らには義国流源氏という意識があったと思われる。それは、それぞれに関連する彼らの行動からも読み取ることができた。しかし、義国が仁平五年(1155)六月に死亡し、義康が保元の乱の翌年に死亡すると、状況が変わってくる。
保元の乱の翌年の保元二年(1157)五月義康は急死した。父の死後も義重・義康兄弟はともに連携しながら活動していた。しかし、義康の死によって義国流として団結していた彼らは徐々に別々の武士として行動し始めるようになった。
父子三人や兄弟でともに行動していた頃は、みな鳥羽院に接近していった。父の義国が隠退した後、京武者としての地位を引き継いだ義康は鳥羽院の北面として活躍した。そして保元の乱では一軍を率いて活躍している。また、義重も京都での活動を開始していた。
しかし、義康の死以降、義重流と義康流の活動に違いがはっきりしてくる。義康の子どもたちは義康が死去したときには幼く、義康の持っていた京武者としての地位を直接引き継ぐことは出来なかった。『尊卑分脈』によると義康には義清・義長・義兼の三人の子どもたちがいたことがわかるが、彼らは幼くその地位を直接引き継ぐことはできなかった。義康に代わり兄の義重が京都で活動することが増えていくことになった。
第2章第2節第3項で示した系図からわかるように、義康の長男であった義清は上西門院と八条院などに判官代として仕えた。次男の義長は上西門院に蔵人して仕えた。そして、義康の三男で嫡子である義兼も八条院に蔵人として仕えていた。この蔵人とは、本来は天皇の私的な秘書官であり、もしくは天皇家の家司であった。また、判官代とは、上皇や女院に奉仕する院司のことである。義清・義長・義兼の三兄弟が仕えていたのは八条院と上西門院であった。この八条院と上西門院はともに鳥羽の娘であった。八条院は母に美福門院得子を持つ。一方、上西門院は母に待賢門院璋子を持つ。ともに母から所領を譲られており、とくに八条院は莫大な所領を譲られていた。義清ら三兄弟はこうして鳥羽上皇の娘たちに、父の義康と同じように鳥羽系列との関係を維持していた。
そんな義康流に対して、義重流では父の義重と息子で新田氏を名乗ることになる嫡男の義兼が義康流の三兄弟のように蔵人や判官代などといった職についていたことがわかっている。父の義重は九条院の判官代に、息子の義兼は皇嘉門院の蔵人として仕えていた。義重が仕えた九条院とは、母に美福門院得子を持つ近衛天皇の皇后の呈子であった。そして、義兼が仕えた皇嘉門院とは、待賢門院璋子を母に持つ崇徳天皇の皇后である聖子であった。
義重流の義重・義兼父子はこのように鳥羽の息子たち、その皇后に接近し、関係を築いていった。
このように、義重流・義康流は少しずつ行動を別にしていくのだが、その背景にはどのようなものがあるのだろうか。それは、義重流が平氏に接近したのに対し、義康流は平氏に接近しなかったことにある。それでは、彼らはなぜこのような行動にでたのか。
まずは義康流について考えていくこととする。彼らは八条院に仕えていた。八条院は、鳥羽上皇から美福門院・二条天皇へと続く皇統を受け継ぐ立場であった。かれらは、一貫してこの皇統に連なる武士団であった(1)。もっとも、義康の息子達は父が死んだときはみな幼く、それほど盛んな在京活動を行えたとは思えない。むしろ、長男の義清は矢田(簗田)と称しているところからも、彼らは在地での活動が中心だった可能性もあるだろう。
とくに平氏政権が樹立してからは、藤姓足利俊綱は、「郡内の棟梁」・「領掌数千町」と称されるほどの勢力を誇っていたため、在地での経営に力を入れざるを得ない状況でもあっただろう。
それに対して、義重流は義康流以上に京都での活動を行っていた。新田荘の立荘・拡大で義重とともに深く関係した藤原(=花山院)忠雅が義重の在京活動にも大いに関係していた。義重やその息子たちの在京活動は、忠雅との縁で支えられていった(2)。義重自身は、院の近臣でもある忠雅の仲介で、後白河上皇に近づきその女御j子に仕えるようになり、その奉仕の結果として大炊介に任官したと考えられている(3)。義重の息子の義兼は、仁安二年(1167)の正月、後白河上皇の女御平滋子の侍所始めに際して、「侍長」として登場してくる。第2章第2節第2項でもふれたが、義重やそのむすこたちは平氏に近づいていった。
こうして、義重流(=新田氏)と義康流(=足利氏)は別々のものとして行動していた。
これは、治承寿永の内乱が起こったときの両者の行動の大きな違いにも反映されることとなったのであった。義重流と義康流。このときすでに、両者は完全に別々の存在なっていた。義国・義重・義康父子は一族としてともに活動していたが、この時期になると、彼らの息子達は別々の道を歩むこととなったのである。
(1)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会) / (2)同上 / (3)同上  
第3項 保元・平治の乱に参加した坂東武士団
治天の君として君臨した鳥羽法皇は、保元元年(1156)七月二日の申の刻(午前四時ごろ)に鳥羽の安楽寿院御所において亡くなった。54歳だった(1)。この鳥羽法皇の死後から十日も経たない、七月十一日の未明、後白河側の平清盛・源義朝・源義康の軍勢が夜襲を仕掛けることによって戦いの火蓋がきられた。
それでは、この保元の乱に参加した坂東武士団を見ていきたい。義朝配下の武士としてこれらの名前を見つけることができる。
これらの面々が『保元物語』(上・主上三条殿ニ行幸ノ事付官軍勢沙汰ヘノ事、テキストとして岩波書店新日本古典文学大系『保元物語・平治物語・承久記』)に記されている義朝配下の武士たちである(2)。これを見ると、坂東の武士団も数多く参加していることがわかる。
その分布は上野・相模・武蔵・下野・常陸・安房などの坂東諸国、さらには東海道の諸国からの武士団も義朝の配下で戦っている。ここで注目すべきは武蔵国の武士が数多く参加していることである。これは、前年の大倉館での戦いによって義朝・義平の勢力が南関東だけではなく、武蔵国へもその勢力を広げたことを示しているといえよう。
乳母子 鎌田次郎正清 不明 川原ノ源太
近江 佐々木秀義、八島冠者(源重貞) 尾張 熱田大宮司の家子・郎等
三河 設楽ノ兵藤武士 遠江 横路、勝間田、井ノ八郎
駿河 入江右馬充、三郎、奥州十郎・四郎
相模 大庭景義・景親、山内首藤俊道・俊綱、海老名季定、波多野吉道
安房 安西、金摩利、沼平太、丸太郎 上総 介八郎 下総 千葉介常胤
武蔵 豊島四郎、安達遠光、中条新五・新六、成田八郎、箱田次郎、川上太郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、長井斎藤真守(実盛)・同三郎、横山悪次、平山六二、源五二郎、熊谷直実、榛沢成清、岡部六郎、近平六、酒匂三郎、手墓七郎、庄太郎・二郎、金子家忠、仙波七郎、河越、諸岡、秩父武者野 瀬下四郎、物射五郎、岡下ノ介、那波太郎 下野 八田四郎、足利太郎
常陸 中宮三郎、関次郎 甲斐 志保見五郎・六郎
信濃 舞田近藤武者、桑原安藤二・安藤三、木曽中太・弥中太、下根井太野太、根津新平、熊坂四郎、志津摩太郎・小次郎
鳥羽法皇が存命中だった六月一日、院命として有力軍事貴族たちを動員した。後白河側はさらに、七月五日には検非違使を、さらに『保元物語』のみの記述だが、「諸国ノ宰吏、兵士ヲ進ス」とあるように、諸国の国衙に組織されていた地方武士を動員した(3)。『保元物語』の記事が実際に正しければ、義朝の軍勢は坂東諸国を中心とする諸国の国衙から派遣された武士たちを中心に組織されたものといえる。おそらく、武蔵国の武士の名が他の国よりも多く見えるのは、武蔵国留守所検校職であり、武蔵国における武士団の統制権を持っていた秩父氏が義平に敗れ、実質上武蔵国留守所検校職は勝者である義朝・義平が握っていて、武蔵国の国衙を動かすことができたのであろう。
それでは、平清盛の配下の武士はどのような構成をしていたのだろうか。
これが保元の乱の際、平清盛が率いていた武士の面々である(4)。これを見ると、清盛の率いていた武士は一門と平家の郎等が多いことがわかる。また、本拠地である伊勢や伊賀からも参戦しているし、瀬戸内沿岸の諸国などから来た武士の名前も見える。
義朝の率いる武士と清盛の率いる武士にはどのような違いがあるのだろうか。清盛の率いていた武士たちは、軍事貴族としての清盛の影響を大きく受けた構成となっている。一門や郎等を中心に在京活動を支えてきた所領の武力を中心にした軍事構成であり、院政期的な軍事貴族の姿といえる(5)。それに対して、義朝の率いた武士からは一門はまったく見られない。父親の為義をはじめ、弟の頼賢等は敵の崇徳側についていた。義朝は自身の勢力圏である坂東の武士を数多く率いている。義朝は南関東での勢力を息子の義平にゆだねたあと、京都に上り京武者として活躍しているのだが、この保元の乱の軍事構成を見る限り、坂東諸国の武士を中心にその軍事力を構成していたのであろう。ただし、朝廷が諸国から武士を招集しているので、義朝が自らこれらの武士を招集できたかは疑問だが、清盛の軍事構成とは大きくことなっていることは認められるだろう。
保元の乱は、その戦闘自体はわずか2・3時間で終結した。勝利した後白河側と敗れた崇徳側には軍事力に大きな差があったのだ。『兵範記』には後白河側の本拠地の内裏高松殿に「雲霞のごとく」軍勢が集まったのに対し、崇徳側の本拠地の白河殿には『愚管抄』によれば「勢少ななる者ども」しか集まらなかったという。後白河側からの夜襲に白河殿は焼け落ち、崇徳側は逃走し、戦いは終わりを告げた。
一門 頼盛・教盛・経盛・重盛・基盛
郎等 筑後左衛門家貞、新左衛門貞能、新兵衛尉家季、余三兵衛景康、薩摩兵衛充、兵藤滝口兼季・兼通
(山城) 八幡美豆左近将監・太郎・次郎
河内 草香授、源大夫 伊勢 伊藤景綱、伊藤五、伊藤六、白子党
伊賀 山田是行、昭弥次郎、中シノ三郎
備前 難波経房・光兼 備中 瀬尾兼康
続いて、平治の乱の状況を見ていく。平治の乱は、保元の乱後、院の近臣として活躍した信西を討つために反信西派の院の近臣と二条天皇親政派の貴族たちによって、クーデターとして発生した事件であった。そのため、彼らと手を組んで乱に参加した義朝の軍勢は、ひそかに召集できる、つまりすべて彼の私的武力であった(6)。
ここに義朝に従って戦いに参加した面々を見ると、いずれも義朝個人と深い関係を持っていたことがわかる。隠密裏の行動であったから、このような少人数となったのであった。
この挙兵のあと、逃げきれないことを悟った信西は自殺し、反信西派の当初の目的は達成されたのだった。
義朝の挙兵は隠密裏に行われた。このとき、まだ京都近辺において郎等はほとんど存在していなかった。彼の本拠地は東国であり、多くの武士を動員することは出来なかった。
それに対して平清盛は伊勢・伊賀の所領を中心に京都近辺には多数の郎等がいた。この挙兵の際、清盛は紀伊国の田辺の辺りであった。このときわずかの供しかいなかったが、熊野参詣路を管理していた湯浅氏、熊野別当湛海などの協力を得て、無事に京都に戻ることに成功したのだった。
この後、一度はその手中に収めた二条天皇や後白河上皇に脱出されてしまう。これを機に、義朝・信頼側からの離脱、官軍となった清盛への降伏が相次ぐこととなった。そして、最終的に義朝軍を構成するのは一族やわずかな腹心のみというありさまであった。『吾妻鏡』などを見ても、この平治の乱の後、所領を没収されたりする東国武士はほとんど見られないような状態だった。これは、多くの東国の武士が参戦しなかったことをあらわしているのだ。
わずかな軍勢の義朝は、長男の義平の奮戦があったとされているが、衆寡敵せず敗れ去った。義朝は尾張で謀略によって討ち取られ、義平は京都に潜伏しているところを発見され、首を切られた。次男の朝長は東国への退避の途中で力尽き父の義朝自ら手にかけた。
そして、当時13歳でこれが初陣であった頼朝も捕らえられてしまった。頼朝はなんとか命は助けられたものの、伊豆に流されることとなった。また、頼朝の弟たちもそれぞれ配流や出家させられ、京都周辺から河内源氏は姿を消すことになったのだった。こうして、敗れ去った義朝は「武家の棟梁」にはなることができなかったのであった。
(1)『保元・平治の乱を読みなおす』 (元木泰雄 2004 NHKブックス)相模 三浦義澄、山内首藤俊通・俊綱、渋谷重国 上総 上総広常 武蔵 長井斎藤実盛、足立遠元、平山季重 / (2)元木泰雄「源義朝論」 (『古代文化』54 2002 古代學協會) / (3)同上 / (4)同上 / (5) (1)と同じ / (6)『源氏と坂東武士』 (野口実 2007 吉川弘文社)  
第4項 平家政権時の坂東社会
平治の乱の結果、源氏側の嫡流家は壊滅状態になった。この戦いの勝者は平清盛であった。その結果、義朝によって再構築された東国武士団とのむすびつきはいったん崩壊することとなってしまった。
第1項で義朝が相模を中心とする南坂東に一定の勢力を築いたことを述べた。その義朝は平治の乱の結果滅び、嫡流家も京都から追われることとなった。この戦いは、義朝に従属していた東国の武士たちにとって、後ろ盾となっていた義朝が死亡したことにより、さまざまな形で大きな痛手をもたらすこととなった(1)。一族内の内紛や周辺の豪族との争いに巻き込まれてしまうことがあった。下総の千葉氏は、相馬御厨において一定の権益を確保していたのだが、隣国の常陸の佐竹義宗に在地支配権を奪われてしまった。これは、義宗が国主の藤原親通が千葉常重から収公した相馬御厨を親通の次男の親盛から譲与された、と称して自分名義で伊勢神宮に寄進を行い、伊勢神宮側もそれを認めてしまったために起こった問題だった。そのときに出された寄進状には、上総常澄や千葉常胤は「大謀反人前下野守義朝朝臣」の「年来の郎従」であるから「王土(=日本の国土)」に存在すべからざる者であるという文言が記されていたのだった(『櫟木文書』)(2)。また、一時期千葉常重・常胤父子が世襲してきていた「下総権介職」も他氏のもとに移ってしまったようである。
それでは、こうした変化はなぜ起こったのだろうか。それは、平氏が政権を握ったからであった。平治の乱までは、源義朝という頼義・義家の系譜を継ぐ河内源氏の嫡流家が存在していた。しかし、戦いに敗れ、河内源氏は壊滅的な状況に追い込まれてしまった。そして、義朝の勢力下だった坂東諸国にも平家の影響力が及んでくるようになった。源氏の棟梁とも言えた義朝が敗死したのに対し、もう一方の平家の棟梁の平清盛は中央において仁安二年(1167)に自身が太政大臣になり、その一族も高位高官に就いた人物が多かった。そんな状況であったから、それまでも比較的平家と関係の深かった西日本の武士だけでなく、義朝と主従関係のあった武士たちにも平家の家人となった武士が現われてきた。
保元の乱では義朝に従ったものの、義朝死後は平家政権に接近し、「東国ノ御後見」と言われるほどの勢力を誇った大庭景親、頼朝挙兵後一度は敵対したが、その後降参した畠山重忠も、その父は義朝・義平と手を組んでいたように義朝の家人だった。しかし、平治の乱後は、景親と同じく平家政権に近づいていった。東国の武士たちはそのようにせざるを得なかったのであった。
それは上野国でも同じである。義朝と同じく河内源氏である源義重であるが、この義重も他の東国の武士たちと同じく平家へと接近していくのだった。治承寿永の内乱が発生したとき、義重は京都において平氏に仕えて、平宗盛に従っていた。他にも、多くの武士たちが平家に接近していった。上野国においても他の坂東諸国と同様に多くの武士たちが平家と関係を持つようになっていったのであった。
(1)『源氏と坂東武士』 (野口実 2007 吉川弘文社)  / (2)同上  
■第2節 頼朝の挙兵と有力武士団の行動
平治の乱後、政権を握ったのは平清盛であった。大納言や内大臣を経験し、仁安二年(1167)二月には従一位太政大臣にまでのぼりつめた。一門からも公卿に5人なり、受領や知行国も増加した。その後、清盛が外戚となる高倉が天皇となった。これをきっかけとして清盛は政治に徐々に介入し始めるきっかけになった。これは、直系の高倉のもとで院政をしている後白河とも軋轢を生じていくこととなった(1)。当初は、両者は見かけ上は協調しているかのようだった。下向井龍彦氏は、天皇の父で皇位決定権を持つ最高権力者たる後白河院と、天皇外戚で軍事力を独占して後白河院政を支えると清盛という、天皇を共有する二人の権力者が協調することによって、かろうじて宮廷社会は維持されていた。後白河院政は同時に清盛政権であった、と述べている(2)。
しかし、この二頭体制は長続きしなかった。決裂することになるまでにはいくつもの事件が起こっている。嘉応元年(1169)十二月から翌年春にかけての延暦寺大衆の強訴、安元二年(1176)七月の建春門院滋子(3)の死亡など、院と清盛の関係を冷やす事件が起こっている。そして、決定打になったのが治承元年(1177)の鹿ケ谷の陰謀事件である。この事件は、摂津源氏の源(=多田)行綱が後白河法皇と院の近臣が法勝寺僧俊寛の鹿ケ谷の山荘に集まって平氏打倒のクーデターを計画していると密告したことによって明るみにでたものだった。下向井氏は、このとき、清盛は比叡山攻めの直前で多くの兵士がいた。そんなときに誰がクーデターを起こそうと考えるのか、これは清盛によって仕組まれたできごとだった、と述べている(4)。いずれにせよ、この後清盛は院との対立姿勢を鮮明にしていく。この翌年の治承三年(1179)七月、清盛の嫡男であった重盛が死
去した。悲しみにくれたのか清盛は福原にこもり、国政への関与に消極的になっていく。
その間をついて後白河は重盛の知行国であった越前国を没収し、院の近臣に与えるなど反撃に打って出た。しかし、清盛はこのような院の仕打ちに怒り、十一月、後白河を鳥羽殿に幽閉するにいたった。そして、翌年には高倉天皇は清盛の娘の中宮徳子に産ませた当時三歳の言仁親王に譲位し、安徳天皇が誕生することとなった。
こうした行動は平氏を孤立させていくことにもつながった。あまりにも強引なその方法や権力の集中に対しては当然反発する勢力も出てくるものである。それが治承四年(1180)の以仁王の挙兵という形であらわれた。以仁王は後白河の第三皇子だった。しかし、母親は平氏との関係のうすい藤原季成の娘であったこともあり、三十歳を過ぎても親王宣下を受けられなかった。それでも以仁王は八条院の猶子となり、高倉帝に次ぐ皇位継承者として過ごしていた。しかし、平清盛が後白河を幽閉するというクーデターを起こし、安徳天皇が誕生することで、その可能性も否定されてしまった。そして、これまでの清盛ら平家一門に反感を持つ人々は以仁王のもとに集まることとなった。そして、治承四年(1180)四月九日、以仁王は自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえた激文(=令旨)を下し、諸国の源氏に決起を促がしたのだった(5)。この計画自体は平氏に察知されてしまい、平氏は以仁王を捕らえようとした。以仁王と源頼政は園城寺に逃げ込んだが、その後さらに興福寺へと移ろうとした。しかし、その途中で平家軍に追いつかれ、彼らは宇治川での戦いで敗れ討ち取られてしまった。  
第1項 坂東の有力武士団の行動
『吾妻鏡』によると、治承四年(1180)四月二十七日に以仁王からの令旨が伊豆国の北条館に八条院蔵人の行家によって届けられた。以仁王の令旨によって諸国の源氏や平氏政権下で抑圧されていた在地武士が蜂起し始めると、平氏は対応を誤ってしまう。彼らは、諸国の平氏家人奉行に対し、令旨に応じる可能性のある源氏の追討を命じたのであった。これによって、諸国の源氏は立ち上がらざるをえなくなったのであった(6)。頼朝は八月十七日伊豆国にて挙兵し、目代の山木兼隆を襲撃、討ち取った。そして、二十日には相模国に三百騎を率いて進軍した。それに対して、大庭景親は相模国の武士を中心に三千騎を率いていた。二十三日、両軍は石橋山において戦い、頼朝軍は惨敗し、海路安房へと逃げのびた。そして、房総半島の反対勢力を抑えながら、江戸湾を回りこむような形で相模国の鎌倉を本拠と定め、勢力を築いていくこととなった。
ここからは頼朝と義国流源氏以外の主な坂東の有力武士団の動向を見ていくこととする。
頼朝が挙兵したとき、すぐさま頼朝に味方したのは北条・三浦・千葉などの武士団だった(7)。
頼朝の挙兵後、いったんは平氏に味方し源氏と敵対しながら、途中から源氏についたものには、熊谷直実や畠山重忠などの名前をあげることができる。それに対して、頼朝と敵対し続け、ついには滅ぼされたものたちも多くいた。以下では、滅んでいったものたちとして、佐竹氏・藤姓足利氏・大庭景親を見ていくこととする。
まずは佐竹氏について。佐竹氏は、頼朝の遠祖八幡太郎源義家の弟で、新羅三郎義光の嫡系であった。義光は、後三年の合戦で兄の義家を助けるために、陸奥に下向し、左兵衛尉を解任される、という出来事がおきている。その後常陸に下向し、在地経営も行っていた。当時は藤原忠実と主従関係を結んでいたこともわかっている。そして、義家の息子で、甥に当たる源義国(源義重・源義康の父)と対立関係にあった。その間、常陸平氏の平重幹と協力関係にあり、子息の義業(義成)は、平重幹の子の清幹の婿となっている(8)。そして、清幹と重幹の娘との間に生まれた昌義が、常陸国久慈郡佐竹郷を本拠地として、佐竹氏の祖となったのであった。この佐竹氏も、源義重と同様に平氏政権に深く接近していった。治承・寿永の内乱期には、当主の佐竹隆義は常陸介に補任されていた。この隆義は、昌義と清原清衡との娘との間に生まれた。彼は、『吾妻鏡』によれば、「権威境外に及び、郎従国中に満つ」と称されるなど、奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)の猛者だった(9)。
治承四年(1180)十月、富士川の戦いが起こる。この戦いは、頼朝を追討するために派遣された平維盛を大将とする平氏軍との戦いである。この戦いでは、水鳥が集団で飛び立つ音を源氏軍の夜襲だと思い込んだ平氏軍はパニック状態となり、戦わずして逃げ帰ってしまったものであった。このとき、頼朝は追撃を指示したが、千葉常胤・三浦義澄・上総介広常らが、まずは地盤を固め、敵対する勢力を討ってからでも征西するのは遅くない、と進言して進軍をやめさせた。そして、鎌倉に戻った頼朝の矛先は常陸へ向く事になった。
当時の佐竹氏の当主の隆義は、在京しており、頼朝の挙兵には応じなかった。富士川の合戦に勝利した頼朝は、十一月の初めには常陸の国府へと入った。隆義の留守を守っていた息子たちは抵抗した。しかし、謀略によって息子の義政は討たれ、秀義は金砂山城に籠った。さらに金砂山城も叔父の内応によって陥落し、秀義はさらに奥地へと逃亡し、ここに佐竹氏の支配体制は崩壊してしまったのだった(10)。
続いて藤姓足利氏についてみていく。「一国の両虎」と称された藤姓足利氏。治承四年(1180)の宇治川の戦いで藤姓足利忠綱は大活躍した。平清盛から望みの恩賞を問われた際、「上野郡の大介と新田荘を屋敷所」に望んだ、という説話が残されている(11)。当時、義重と藤姓足利氏は対立関係であった。そこでこのような恩賞を望んだのであろう。藤姓足利氏は、このように平氏に急接近していた。それは、源姓足利氏が平氏に対して敵対していたことやライバル意識もそのような行動をとらせたのであろう。
この藤姓足利氏の運命を大きく変えることになったのが、野木宮合戦である。佐竹氏を征伐した直後、甥の頼朝に対して志田義広は臣下の礼をとった。しかし、盟友であった佐竹氏の遺領に配置された頼朝配下の御家人は義広や常陸平氏を牽制するかのようであった。
また、常陸鹿島社押領を訴えられ、頼朝から禁止させられるなど義広にとって不本意とも言えるような事態が起こった。さらに、同母兄の息子、源義仲はこの時期、越後の城氏を圧倒し、北陸道への平定を企図している状況で、志田義広にとって義仲は反頼朝を以て同盟することのできる格好の勢力といえた(12)。さらに、平維盛軍が下向する、という情報で頼朝は御家人を遠江や駿河などに派遣して防衛線を維持する必要があった。また、鎌倉に大軍を常時駐留させておくことも不可能であった。さらに北関東に広がる反頼朝の伏流、このような情勢を読んだ義広は、反頼朝の軍事行動に踏みきったのだった(13)。
義広の挙兵は寿永二年(1183)二月二十日。義広は直接鎌倉へと軍勢を進めず、いったん下野へと入った。同盟関係にあった藤姓足利氏や上野からの軍勢を待つためと、小山朝政の与同を促がすためだった。小山氏は下野大掾として代々押領使職を相承するなど、下野国内においてその発言力は大きかった。義広は小山氏を味方にすることで戦局を有利なものにしようと考えたのであろう。
朝政は、策略をめぐらし、義広に味方すると偽った。義広はいったん朝政の本拠へと兵を進めようとした。朝政は野木宮において義広を急襲した。混乱した義広軍はいったん陣を立て直すものの、鎌倉から急行した朝政への援軍が次々に到着し、勝敗は決した。
挙兵した志田義広に最初から味方していたのは藤姓足利忠綱であった。宇治川での戦いの後、父の俊綱、そして息子の忠綱ともども治承四年(1180)のうちに一応頼朝に恭順の意を示していたようだ(14)。しかし、ライバルの源姓足利氏の当主の義兼は源氏の一門として厚遇されていた。さらに、『吾妻鏡』にも書かれているように下野の国内における「一国の両虎」として権威を競った小山氏への対抗意識もあったのかもしれない。いずれにせよ、藤姓足利氏は頼朝の下から離れることになった。
しかし、同盟相手の志田義広が野木宮合戦において敗北すると、藤姓足利氏の勢力は一気に衰退してしまう。息子の忠綱は、その後西海へと落ちていったといわれている。忠綱のその後はさまざまな伝説はあるものの、不明である。父の俊綱はそのまま足利の地に残った。後に追討軍が派遣されると、その軍勢が到着する前に郎等の桐生六郎によって討ち取られてしまった。こうして、「郡内の棟梁」として源姓足利氏以上の権勢を誇っていた藤姓足利氏だが、その嫡流家はこうして滅亡してしまったのであった。
最後に大庭景親について。保元の乱の際、大庭一族からは平太景能(景義)と三郎景親の兄弟が参加している。この後、義朝が滅んだことで、大庭氏の当主となっていた景親は平氏へと接近していく。もともと源氏とのつながりが強く、滅んでしまうまで義朝は坂東で一大勢力を築いていた。坂東武士団の統括に苦戦していた平家にとっては、景親は非常に重要な存在であった。それは、「東国ノ御後見」と称されるほどの重要な存在であった。
大庭氏の本拠の相模国において、本来は軍事・警察機能は国衙在庁の有力者であった三浦氏や中村氏などが握っていたが、景親のもとに帰することになった(15)。
景親は以仁王と源頼政が挙兵したとき、在京していた。景親は官軍に属してその追討にあたり、さらに頼政の子孫を討つために「在京武士」を率いて本国に下着した。景親が相模に戻ってから半月後の八月十七日、頼朝が山木兼高を急襲し、血祭りに挙げた。大庭景親は、相模国を中心とする武士を率いていた。その勢は3000騎に達していた。石橋山において戦端は開かれ、景親は頼朝軍に圧勝した。
このように頼朝挙兵時の大庭景親は平氏政権との関連を背景にして大きな力を誇っていた。頼朝が房総半島・武蔵を平定し、鎌倉に入ろうとしたときにも、まだ千余騎を擁していた。そして、平維盛率いる源氏追討軍に参加しようとしていた(16)。しかし、富士川の戦いで平家軍が敗れたことは、景親は再起不能のダメージを受けてしまったことと同じであった。そして、十月二十三日に相模の国府にいた頼朝に出頭し降伏する。しかし、頼朝に敵対した罪により、斬罪に処された。こうして、「東国ノ御後見」と言われた大庭景親も頼朝の前に滅んだのであった。
このようにして、東国の武士団はあるものは頼朝に従い、またあるものは頼朝に敵対し、滅ぼされる運命となったものもいた。これらの治承・寿永の内乱期を乗り越えた武士団の中にも鎌倉幕府が滅んだときまで生き残らなかった武士団も多く存在した。鎌倉時代になってもちょっとしたミスをきっかけに滅ぼされた武士団も多かった。治承・寿永の内乱が終わっても、武士団にとっては厳しい日々がまだ続いていたのである。
(1)『武士の成長と院政』 (日本の歴史第07巻 2001 下向井龍彦 講談社) / (2)同上 / (3)後白河院の寵愛が深く、高倉天皇の生母であった。滋子は平清盛の妻の時子の妹 / (4) (1)と同じ / (5)同上 / (6)同上 / (7)三浦・千葉は石橋山での戦いには間に合わず、頼朝が安房に上陸してから合流した / (8)『源氏と坂東武士』 (2007 野口実 吉川弘文社) / (9)『茨城県の歴史』 (県史8 1997 長谷川伸三等 山川出版社) / (10)同上 / (11)須藤聡「下野国中世武士団の成立 −治承・寿永の乱以前の実情」 (『知られざる下野の中世』橋本澄郎、千田孝明編 2005 随想舎) / (12)『栃木県史』 (通史編3 中世 1984 栃木県史編さん委員会) / (13)同上 / (14)同上 / (15) (8)と同じ / (16)同上  
第2項 義国流源氏の行動
1 足利氏の行動
源姓足利氏は、行動パターンが2通りであった。義清・義長の行動と義兼の行動パターンの2つである。
まずは、義清と義長の行動についてみていくこととする。以仁王が挙兵し、宇治川の合戦において戦死したものの中に源義清の名前が見られる。これはすでに実際には義清が死んだものではなく、他の人の首であったことは述べているが、内乱の当初から、義清が反平氏の活動をしていた可能性を示しているといえよう。このとき、義清の首と考えられているのは、義清の息子の矢田蔵人三郎義房と考えられている(1)。義清はその後、しばらく活動の状況がわからないが、源義仲と行動をともにしたようである。同母弟の義長も兄の義清と行動をともにしたようである。寿永二年(1183)七月の義仲の入京に際して、義清は丹後・丹波方面からの入京を果たしたようである。
義清は義仲の命を受けて平家追討の大将軍として山陽道に出陣した。そして、閏十月一日備中国水島の戦いで、平知盛の水軍に敗れている。義清はそこで戦死している。また、弟の義長についても、『尊卑分脈』に「於備中水島与舎兄同時討死」と記されている。義長は、兄の義清と同時に水島で戦死したことがわかる(2)。こうして、義清と義長は源義仲の将として戦い、西海にて海の藻屑となったのであった。
それに対して、義兼は二人の兄とは行動を別にしている。治承四年八月の挙兵後まもなく頼朝のもとに帰順したと見られている。その名がはじめて確認できる十二月の段階ですでに有力な地位を築いていた。義兼がこのような行動をとり、頼朝からも優遇されたのは、彼らの母親が姉妹であったことも大きな影響を与えたのであろう。その後も、鎌倉幕府において地位を高めていったのであった。
このように義康の子どもたちは、立場こそ違うものの内乱開始とともに反平氏の活動を行っている。義康流が八条院に仕えていたことは大きい。八条院は、高倉天皇−安徳天皇と続く皇統と、それを支える平氏と対立していたのであった。積極的に平氏と対立する八条院との関係が強かったからこそ、義康の子どもたちは反平氏の活動が出来たのであった。
それゆえ、平氏打倒の兵を挙げた頼朝や義仲の陣に参加しやすかったのであった。こうした迅速な行動をとれる条件があったことは義兼が頼朝の信頼をより得やすくしたのであろう。
(1)須藤聡「平安末期清和源氏義国流の在京活動」 (『群馬歴史民俗』16 1995 群馬歴史民俗研究会) / (2)同上
2 新田義重の行動
義重は治承・寿永の内乱が始まってもしばらくは京都で平氏に仕えていた。治承四年九月の段階で、仕えていた平宗盛から東国に下向し、源氏の家人を追討するように命じられている。こうして、義重は京都を離れて九月下旬には上野国に着いたと考えられている。
しかし、その後の行動は独特のものであった。
(史料1)『吾妻鏡』治承四年九月条
「卅日己卯、新田大炊助義重入道法名上西、東国いまだ一揆せざるの時に臨み、故陸奥守(=源義家)嫡孫をもって、自立の志を拝むの間、武衛(=頼朝)御書を遣すといへども、返報に能わず、上野国寺尾館に引き籠り、軍兵を聚む」
治承寿永の内乱が勃発した当初、東国がまだ頼朝のもとに一つにまとまっていない段階で義重は京都から下ってきた。そして、頼朝に従うわけでも、当初の平氏の指示に従うわけでもなく、独自の「自立の志」を示し、頼朝からの誘いを無視して、源義家の嫡孫であると称して軍兵を集めていた。義重も「武家の棟梁」を目指していたのではないだろうか。
しかし、その自立も長くは続かなかった。義重の自立はわずか三ヶ月ほどであった。治承四年(1180)十二月下旬には頼朝の陣営に降った。
(史料2)『吾妻鏡』治承四年十二月二十二日条
「新田大炊助入道上西、召によって参上す、しかるに左右なく鎌倉中に入るべからざるの旨、仰せ遣わさるの間、山内の辺に逗留す」
義重は、頼朝の召に応じて参上した。しかし、許可なく鎌倉へは入れず、山内に逗留し、安達盛長のとりなしによってようやく頼朝に謁見できたのであった(1)。
頼朝はこの後も義重を疎んじることになった。自身に従わず、独自の動きをしたことが気に入らなかったのであろう。義家の嫡孫と称したことは頼朝と同列である、という認識が義重にはあったのであろう。義重にはそれだけの実力があった。しかし、逆にそのことが新田氏の鎌倉幕府での冷遇につながったともいえるであろう。
(1)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県)  
■第3節 鎌倉時代の新田氏
第1項 義重のこどもたち
義重の上野国における所領は、前述の新田荘のほか、西上野の八幡荘であった。この八幡荘は、高崎市の西南部から安中市の板鼻にかけての地域である。高崎市の八幡町には八幡宮も存在しており、この社にちなんで命名されたと考えられている。この八幡荘については史料も少なく、不明な点が多いが、新田氏の根本私領と考えられている(1)。また、後に治承・寿永の内乱で義重は寺尾城に籠ったが、その寺尾城はこの八幡荘の荘内にあったと考えられている。
ここからは、義重の後継者についてふれていくことにする。尊卑分脈によると、義重には7人の息子がいたことがわかる。義範・義俊・義兼・義季・経義・義光・義佐である。
彼らは、義重の残した所領にそれぞれの拠点を築き、新田一族の発展の礎を作ることとなった。
この七人の息子のうち新田氏の本宗家を継いだのは義兼であった。『尊卑分脈』によると、「正嫡、新田次郎、小新田」などと書かれており、義兼が義重の嫡男であったことがわかる。治承四年(1180)以降の内乱に際しては、義兼は父義重に従って上野に下り、父と行動を一緒にしていたと考えられている(2)。その後、義重が頼朝のもとに参陣した後も、その冷え切った関係上、その嫡男であった義兼の鎌倉出仕はしばらく見られなかった。義兼は頼朝供奉人として『吾妻鏡』にその名をあらわす。義重の存命中も義兼は御家人として鎌倉に出仕していた。また、新田荘の地頭職を得たのも義兼であった。こうして、義兼は御家人としての地位を固め、後の時代の一族の分出の基礎を固めることになったのであった(3)。
続いて、義俊を見ていくこととする。『尊卑分脈』を見ると、義俊には「新田太郎」と書かれており、義重の長男であったことが分かる。この義俊は、詳しいことはわからない。『尊卑分脈』には「号里見、号竹林」としか書かれていない。『新田岩松系図』には「竹林太郎、大新田を号す」と書かれているのみで、『長楽寺蔵源氏系図』にも「竹林を号す」とあるのみで、里見の注記は見当たらない。
義俊の子どもの義成は「里見を号す」、「里見冠者」などと書かれており、「里見」を称していたことがわかる。この義成は、頼朝が挙兵したとき、京都において平氏に仕えていた。
(史料1) 『吾妻鏡』 治承四年十二月二十二日条
「上西の孫子里見太郎義成、京都より参上す、日来平家に属すといえども、源家の御繁栄を伝え聞きて参ずるの由これを申す、その志祖父に異なり、早く昵近してたてまつるべき旨、これを免さる、義成語り申して云く、石橋合戦の後、平家しきりに計議を廻らし、源氏の一類においては、ことごとくもって誅亡すべき由、内々用意あるの間、関東に向いて武衛を襲うべきの趣、義成偽り申すのところ、平家これを喜びて免許せしむる間、参向す・・・」
京都で平氏に仕えていた里見義成は頼朝の挙兵を聞くと、関東へ下り、頼朝を討つとウソをついて平氏の許可を取って下向し、頼朝の陣に参加した。この義成の行動を、『吾妻鏡』は祖父と異なると記している。これ以降の幕府の活動においては、里見氏は義成が参加している。彼は78歳で文暦元年(1234)十一月二十八日に死去したが、(史料2) 『吾妻鏡』 文暦元年十一月二十八日条「前伊賀守従五位下源朝臣義成卒す、幕下将軍家寵士なり、親疎これを惜しまざるはなし」と記しており、幕府内の重要人物であったことを示している。
次は義範を見ていくことにする。この義範は山名を称している。「号山名三郎」と『尊卑分脈』にあることから、義範は義重の三男であったと思われる。この義範だが、『吾妻鏡』には早い時期から登場している。治承四年十二月十二日、源頼朝は新造御亭に移るのだが、その儀式において騎馬衆の中に山名冠者義範の名前を見ることができる。このときは、父の義重は未だに寺尾城に籠って「自立の志」を示していたが、義範はすでに頼朝の下にあった。義範の頼朝参陣は十一月もしくは十月にさかのぼるとされている(2)。
山名義範は、その後の源平の戦いに参陣し、活躍したようである。一ノ谷の戦いにおいて、搦手側の源義経の軍勢の中に「山名三郎義範」の名が見え、義経とともに平家軍を攻撃したことがわかる。これらの戦いにおける活躍によって文治元年(1185)八月十六日の小除目で、伊豆守に任ぜられることとなった。『尊卑分脈』の義範の注記に「平家追討源氏受領六人のうち」とされているのは、これをさしているのである。幕府成立後も、義範は鎌倉において重要な地位についていたのであった。
義季は世良田と称している。義重から、世良田など6郷を譲られている。幕府成立後に、これらの郷の地頭職を得たと考えられている。また、この義季は長楽寺の建立者でもあったと考えられている。文治四年一月以降には、鎌倉幕府に出仕している。これは、義兼と義季の兄弟がこの時期、一緒に幕府に出仕していたことを示している(5)。
経義は額戸を称している。額戸は現在の太田氏強戸と考えられており、新田荘の東北部にあたる。経義の息子の氏経は長岡氏を称したようである。しかし、詳しいことはほとんどわかっていない。
その他の兄弟二人に関しては情報量があまりにも少なく、ほとんどわからない。『尊卑分脈』には、他の義光・義佐にはほとんど書かれていることがない。義光には、「新田冠者」と書かれているのみであり、義佐には「小四郎、治承五年討たれるなり」と記されているのみであり、詳細は分からない。
このように、詳細の不明な義光・義佐兄弟を除く義重の息子達は新田荘の中に広がっていった。しかし、山名・里見を名乗ることになる義範や義俊は早い時期から父の義重からは独立して行動していた。頼朝の挙兵の際の対応などは、父の意向と彼らの行動は大きく異なっている。早い段階に頼朝に近づいた息子たちに対して自立の志を示した父。もしかしたら、父に自立の志を断念するように伝えたのかもしれない。
新田一族は早い段階からそれぞれが独立した傾向がある。後に義貞が挙兵した際にも、山名や里見は早い段階で足利側になっている。鎌倉幕府が成立した直後でも、山名・里見は新田氏系からは独立して奉公している。そして、代を重ねるごとに新田氏の一族という意識は薄くなっていったのではないだろうか。鎌倉幕府討伐後の、新田義貞軍から本来は一族であるはずの面々が離脱していったのにも、そういった事情が反映されていたのかもしれない。
(1)峰岸純夫 『新田義貞』 (人物叢書 2005 日本歴史学会編集 吉川弘文館) / (2)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (3)同上 / (4)『新田町誌』 (第四巻 特集編 新田荘と新田氏 1984 新田町誌編さん室) / (5)『新田義貞』 (2005 山本隆志 ミネルヴァ書房)  
第2項 新田氏の中の足利氏 ―岩松氏の存在―
新田氏の中の足利氏、岩松氏は独特の存在である。岩松氏を興したのは時兼であった。『尊卑分脈』によれば、時兼の父親は足利義兼の長男の義純である。そして、義兼の息子のこの義純は、新田義重に預けられることとなった。そして、義重の養子になった。鑁阿寺蔵『新田足利両家系図』にもこのことは書かれているが、さらに足利義兼が、「義純を新田大炊介義重に依頼し居を岩松に卜した」と見える。そして、この義純は義重の息子義兼の娘との間に時兼をもうけ、岩松氏をおこした。新田氏の中にかなり早い段階から足利系の血が流れることとなったのであった(1)。
新田本宗家は、義重のあとその息子の義兼があとを継いだ。義兼のあとはその息子の義房が継いだのだが、若くして亡くなってしまった。そのため、義兼後家が家督の地位にあった。この義兼後家は「新田尼」と呼ばれていた。そして、彼女は義兼遺領の扱いに心をくだいていたのだった。この新田尼は、自分の娘と足利義純との間に生まれた時兼に新田宗家所領を継がせようとした。このとき、義兼は幼少であり、一族内の反発もあっただろうが、新田尼は後見人として尽力した(2)。その結果、建保三年(1215)三月二十五日に、新田尼と時兼への地頭職安堵状を一挙に獲得することができた。
(史料1)将軍家政所下文
「将軍家政所下す 上野国新田庄内岩松・下今居・田中参箇郷住人早く夫義兼譲状に任せて後家を以て地頭職たらしむべき事右の人、彼の譲状に任せてくだんの職に補任す、有限の年貢課役に於ては、先例に任せて沙汰致すべきの状、仰するところくだんの如し、以て下す
建保三年三月廿二日 案主菅野(花押)(連署者略す)」
(史料2)将軍家政所下文案
「将軍家政所下す 上野国新田庄内拾弐箇郷住人早く源時兼を以て地頭職たらしむべき事田嶋郷 村田郷 高嶋郷 成墓郷 二児墓郷 上堀口郷 千歳郷 藪墓郷田部賀井郷 小嶋郷 米沢郷 上今居郷 右くだんの郷々、蔵人義兼後家所進の注文に任せて、彼の職に補任す、有限の年貢課 役に於ては、先例に任せて沙汰致すべきの状、仰するところくだんの如し、以て下す 建保三年三月廿二日 案主菅野在判(連署者略す)」
この史料1は、義兼後家に新田荘のうちの岩松郷・下今井郷・田中郷の三郷の地頭職を安堵したものである。そして、史料2は、時兼に新田荘の田嶋郷などの12郷の地頭職を安堵したものであった。この二通の将軍家政所下文によって、新田尼は自らとその孫の時兼が義兼の遺領の大半を継げる体制を作り上げたのだった(3)。
岩松氏はこのようにして新田一族内において勢力を徐々に拡大していくことになった。
鎌倉時代を通して成長していったのだった。鎌倉時代前期では新田尼の活躍によって、岩松氏は成長への基盤を築いていった。そして、時代が経過した鎌倉時代の後期には新田氏全体を代表するような存在へとなったのだった。岩松氏がこのような存在になれたのも、ここまで述べてきた新田尼の行動によるところが大きかったのだ。
新田義貞が挙兵したとき、岩松氏で当主だったのは時兼のひ孫の経家だった。本来は、新田系の有力諸子であるはずの岩松氏だが、彼らは足利高氏の指示に従って行動している。
経家の状況判断もあっただろうが、彼ら岩松氏は新田一族という意識よりも、足利一族という意識の方が強かったのかもしれない。こうして、早い時期から足利氏の血を含んでいた岩松氏は、新田一族の中でも独特の存在感を示していたのであった。
(1)『新田義貞』 (2005 山本隆志 ミネルヴァ書房) / (2)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (3)同上  
第3項 惣領職の没収と上野国の得宗領化
鎌倉に入った頼朝は着実に足元から地盤を固めていった。その後、弟の範頼や義経を自分の代わりに西国へと派遣し、平氏を徐々に追いつめていった。そして、寿永四年(1185)三月、義経らの源氏軍は、壇ノ浦において平氏を滅ぼすことに成功した。
その二年前の寿永二年(1183)になると、関東地方でも情勢は大きく変化してきた。
この年の二月、野木宮合戦において志田義広と彼と同盟した藤姓足利俊綱・忠綱父子が敗北した。この志田義広が信濃に逃げ込んだことによって、信濃から北陸道に向けて勢力を拡大していた源義仲と頼朝の関係は一挙に悪化してしまう。義仲は、嫡子の義高を人質に出すことによって対立を回避することに成功した。そして、父義賢の遺領上野から手を引くことになった。こうして、頼朝の勢力は北関東一体にも広がることになった。
この寿永二年(1183)十月になると、頼朝の権力は朝廷から公認されることとなった(=寿永二年十月宣旨)。これによって、頼朝は東国の国衙在庁支配権を追認されるのだった。これ以降、上野国においては、安達盛長が公権の行使を担当することとなった(1)。
上野国の守護は比企能員から始まるといわれているが、彼が守護権を行使した明徴はなく、安達氏が景盛・義景・泰盛と十三世紀初めより上野守護であったことは判明しており、景盛の父の盛長も早い時期から上野国において上野国奉行人(2)として公権を行使していることから、これを上野国の守護の始まりと考えている(3)。
安達氏は盛長以降も上野国における地位を継いでいた。奥州藤原氏を攻める戦いや畠山氏の追討戦、和田合戦などで上野国の御家人たちを率いて戦っている。また、上野国の御家人に対して京都大番役勤仕を促すなど、守護として活躍していた。安達氏は、評定衆として幕府で重要な地位を占めるほか、有力御家人とも婚姻を通じて結びつきを強めていた。
義景の妹の松下禅尼は、北条時氏に嫁ぎ、経時・時頼を生んだ。また、その息子の安達泰盛は、北条時宗が元服する際、その烏帽子親を務め、妹がその妻になるなど、北条氏との婚姻関係が特に強められている。新田氏も上野守護の安達氏のもと、御家人として奉公していたのであった。そんな時、事件が起こった。
義重の後継者であり、幕府が成立した頃に出仕していたのは義兼であった。その孫に政義という人物がいる。『吾妻鏡』によれば、幕府への出仕は嘉禎三年(1237)以降である。仁治二年(1241)四月二十九日、幕府は囚人逐電につき、「預人」の罪科をみとめ、「過怠料(=罰金)」を課して、鎌倉の大仏殿の造営費用にあてた。その中に新田太郎政義も含まれており、三千疋を弁償させられた。当時は、武士などの罪科人は御家人に預けられて、その監視の下で過ごす習慣があったのだ(4)。この三千疋は三十貫文・米三十石の値であり、相当大きな負担であった。そして、これだけの過料の負担を出来るのは、政義が新田氏の惣領の地位にいたからであった(5)。
政義はさらに失策を犯してしまう。寛元二年(1244)六月十七日、無許可で出家したため、所領が没収されるという罪科に処された。このとき、新田政義は大番役勤仕のために在京中であった。政義は、六波羅探題や大番役の指揮者であった上野国守護安達義景の息子の泰盛にも何の連絡もせずに、「所労と称し俄に出家」してしまったのだった。これを聞いた幕府は、所領没収と即座に御家人身分の剥奪、そして僧形のまま新田荘に帰り隠退させられてしまった。政義は新田荘由良郷別所に円福寺を建て、そこで過ごしたといわれている。彼の出家した理由や、どの土地を没収されたのかはわかっていない。
この政義の自由出家の結果、義重以降の新田惣領職は、嫡流家(=新田氏)から没収されてしまった。そして、没収された所領は「一族近親を以て代官として、よし季と遠江太郎時兼の老母とに領家職半分宛領たまひける」という処置となった。これによって、義季(=世良田氏系)と岩松時兼の老母(=祖母か)に半分ずつ所領が分けられた。新田本宗家の所領が、世良田氏系と岩松氏に分有されて事がわかる。
失脚した政義に代わって、鎌倉に出仕するようになったのは世良田頼氏だった。頼氏の鎌倉出仕は28年もの長きに渡った。政義に代わって新田一族を代表する形で幕府に出仕していた頼氏だったが、この頼氏も事件に絡まる形で失脚してしまう。文永九年(1272)二月、蒙古襲来を前にした緊張状態の中で、執権北条氏内部の権力争いに巻き込まれてしまったのである。執権北条時宗の兄で六波羅探題(南方)の北条時輔が謀反の疑いがあるとして討ち取られた。時輔が殺害されたほかに、北条一族で有力者の名越一族にも嫌疑がかけられた。頼氏もこの事件に関連し、佐渡に流罪となっている。
頼氏が幕府に出仕していたこの30年近くは、新田嫡流家にとってまさに冬の時代であった。しかし、頼氏が失脚することで、新田氏の惣領職は嫡流家に復活することになったのだった。惣領職が嫡流家に戻ったとき、政義の息子の政氏が当主となっていた。
さて、新田氏が大いに揺れていた間、上野国というより、鎌倉幕府の内部でも大いに変動が起きていた。頼朝死後の動揺期を乗り越え、承久の乱や宝治合戦も北条氏に協力した安達氏だったが、霜月騒動にて滅びることとなってしまう。
弘安七年(1284)七月、執権の北条時宗が死亡した。時宗とともに幕政を担っていたのは舅−婿の関係で結ばれていた安達泰盛だった。この時宗の死によって、幕府には大きな動揺が起こってしまった。時宗のあとを継いだのは北条貞時であった。この貞時は、泰盛にとって孫であった。乳母の夫は平頼綱であった。この頼綱は、得宗(北条氏の本家)の被官人(=御内人)のリーダーであった。御内人は、御家人よりもワンランク下の身分であったが、流通・交易などのさまざまな分野で活躍して、得宗家の権威によりつつ、幕府内においても発言力を大きくしていた(6)。そして、この両者が激突する。それが霜月騒動であった。ここで執権北条貞時は、平頼綱に味方し、安達氏を滅ぼした。そして、それまで安達氏が持っていた上野守護の地位も得宗家へと移ったのであった。
こうして、上野守護の地位を得た得宗家だったが、この時期には多くの守護職を独占していく。霜月騒動直後には日本全体の半分も占めるほどになっていた。こうして、上野国に与える得宗家の影響力は大きくなっていった。そこで、新田氏も得宗家へと接近していく。嫡流家に惣領職が戻ったとき、当主は政氏であったが、妻に左近大夫平秀時を迎えている。秀時は官途から北条長時(赤橋家)の一門と考えられている。その妻との縁で執権北条氏との関係を強めていった(7)。政氏は宝治合戦において活躍したらしく、三浦氏の没収所領と考えられる甘楽郡内の所領を与えられた。後に、その関係で義貞の妻となる娘を、甘楽郡惣地頭と考えられる安東左衛門尉五郎重保から迎えている(8)。
新田氏嫡流家は、こうして一度惣領職を失いながらも、再び惣領職を自らの手に戻すに到った。しかし、所領がすべて戻ったわけではなかった。半分は岩松氏へとわたった。やはり鎌倉時代は新田氏にとって苦難の時代であったといえよう。しかし、新田氏は滅びなかった。滅びなかったからこそ鎌倉時代末に義貞が登場し、新田氏はスポットライトを浴びることになったのだった。
(1)『群馬県の歴史』 (県史10 1997 西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編 山川出版社) / (2)安達盛長の息子の安達景盛は三河国奉公人にもなっていたが、「三河国守護人」ともいいかえられており、国奉行人と守護人が同一実態であったことを示している(『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県)より) / (3)『群馬県史』 (通史編3 中世 1989 群馬県史編さん委員会 群馬県) / (4)『新田義貞』 (人物叢書 新装版 2005 峰岸純夫 吉川弘文館) / (5)『新田義貞』 (2005 山本隆志 ミネルヴァ書房) / (6) (3)と同じ / (7) (4)と同じ / (8)同上  
おわりに ―義重の遺産と新田氏の底力―

本研究を通じて、新たな新田氏像を描き出すとともに、義重の残した遺産の大きさ、新田氏の底力を知ることが出来た。
新たな新田氏像を描き出すところでは、源義重を中心にかつての在地領主像や、近年の研究の成果で浮かび上がった盛んな在京活動を行う京武者像といった、在地からの視点もしくは京都からの視点といった一方向からの視点ではなく、その両方の視点から捉えるように心がけた。また、父の源義国や弟で足利氏の祖となる源義康との比較を行うことで、源義重とはどういった性格を持っていたのか考えてきた。源義重は単なる在地領主でもなければ、純粋な京武者でもない。その両者を兼ねそろえた京武者兼在地領主といえるような性格をもっていたのだった。父の義国や弟の義康よりも低い官途であったが、これは新田荘の開発・拡大に積極的に従事していたこと、また、父義国やその京武者の地位を直接引き継いだ弟の義康よりも官途が低かったこともこの義重の性格を示すことにつながるであろう。
さて、鎌倉時代を通じて新田氏は一般的に幕府から抑圧され続けていた、と考えられている。鎌倉幕府が成立したとき、新田氏の当主だった義重が頼朝から疎んじられて鎌倉に出仕しなかったこと、同じ義国流の足利氏が幕府において厚く信頼され、冷遇された新田氏とは対照的に厚遇されたのが足利氏だったこと、また一時期新田家の惣領職が嫡流家から離れてしまったことなどから、そのように考えられていた。そして、新田氏の氏寺とも考えられている長楽寺の住持補任に得宗北条高時の介入、さらに鎌倉時代末期の元弘三年(1333)、高時は新田荘の文化・経済の中心ともいえる世良田に「有徳の者が多い」という理由で兵糧米などを調達するための派遣している。こうした抑圧された状態で不満が募り、義貞は挙兵に到った、と考えられている。
しかし、怒りや苦しみからだけの理由で義貞は挙兵したのだろうか。もちろん、そのような理由もあっただろう。しかし、そういった感情が生まれたとしてもある程度の実力が備わっていなければ、挙兵などしないのではないだろうか。このように言うのは、義貞には、新田氏にはそれだけの実力があったと考えるようになったからだ。
鎌倉幕府を滅ぼしてから、後醍醐天皇の建武新政の挫折を経て南北朝時代へと突入する。
義貞は後醍醐側の総大将として、各地を転戦した。しかし、奮闘もむなしく最終的には暦応三年(1338)越前の藤島の戦いで戦死してしまう。義貞自身を武将として、政治家として評価しようとすると、采配ミスとも思えるようなことをしたり、政治経験の乏しさが見えてきてしまい、決して高い評価を与えることはできないだろう。しかし、当時官職を全く持たない人物が簡単に挙兵できるだろうか。
義重が死んだあと、その息子たちが蜂起する。長男の義顕は義貞より前に越前の金ヶ崎城で討ち死にしているが、次男の義興と三男の義宗、さらには一族の脇屋氏・大館氏・綿打氏などが南朝方として活躍している。義貞や北畠顕家の死後、南朝方は苦戦する。義興・義宗らは東国再建のため伊勢から船で下った。その後はしばらく潜伏するが、約10年後の正平七年(1352)義興・義宗兄弟は挙兵し、鎌倉に攻め入り攻略するなど南朝方として活躍した。その後も、義貞の意志を引き継いだ義興・義宗兄弟だが、徐々にその勢力は衰退し、1350年代には没落した。義貞の死後も20年弱に渡りたびたび蜂起した義興・義宗兄弟。彼らは厳しい状況にありながらも何度も反抗した。これもやはり義重の遺産・新田氏の底力があったからこそなせたのであろう。
こうして、新田氏嫡流家は歴史上からその姿を消すこととなった。しかし、新田氏の諸子の世良田義季によって建立されたといわれている長楽寺は「東關最初禅窟」といわれ、名僧知識と謳われた僧たちが数多く来訪し、その門前には有徳人と呼ばれた多くの富を持った人たちが暮らす「都市世良田」が存在していた。この世良田は新田荘の中心ともいえる場所にあり、ここからも新田氏の底力を感じずにはいられない。
今回は新たな新田氏像を描き出すことを目標に定めていた。研究を通じて、その目標はある程度達成されたものと思う。しかし、この研究を通じ、鎌倉末期からおこる新田義貞父子らの蜂起を改めて見つめなおす必要性を感じた。従来の説では決して説明しきれない部分も多い。改めて義重の遺産・新田氏の底力を考える必要があるだろう。
まとまらない部分もあり、新たに疑問も生じたが、それらは今後の課題とし、この辺で愚論を閉じたいと思う。  
<参考文献等>
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・『新編埼玉県史』 (通史編1 原始・古代 1987 埼玉県教育委員会)
・『新編埼玉県史』 (通史編2 中世 1988 埼玉県教育委員会)
・『栃木県史』 (通史編3 中世 1984 栃木県史編さん委員会)
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・『吾妻鏡』 (第三 新訂増補 国史大系 1932 黒板勝美編 吉川弘文社)
・『吾妻鏡』 (第四 新訂増補 国史大系 1932 黒板勝美編 吉川弘文社)
・『国司補任』 (第三 1990 宮崎康充編 続群書類従完成会)
・『国司補任』 (第四 1990 宮崎康充編 続群書類従完成会)
・『国司補任』 (第五 1991 宮崎康充編 続群書類従完成会)
・『群馬県の地名』 (日本歴史地名大系第一〇巻 1987 平凡社)
・『栃木県の地名』 (日本歴史地名大系第九巻 1988 平凡社)
・『埼玉県の地名』 (日本歴史地名大系第十一巻 1993 平凡社)
・『茨城県の地名』 (日本歴史地名大系第八巻 1982 平凡社)
・『尊卑分脈』 (第一篇 新訂増補 国史大系58 1966 黒板勝美編 吉川弘文館)
・『尊卑分脈』 (第二篇 新訂増補 国史大系59 1966 黒板勝美編 吉川弘文館)
・『尊卑分脈』 (第三篇 新訂増補 国史大系60上 1966 黒板勝美編 吉川弘文館)
・『尊卑分脈』 (第四篇 新訂増補 国史大系60下 1966 黒板勝美編 吉川弘文館)
・『新田義貞公根本史料』 (1942 群馬県教育委員会)
・『保元物語 平治物語 承久記』 (新日本古典文学大系43 1992 岩波書店)
・『史料綜覧』 (巻三 平安時代之三 1977復刻 東京大学出版社 東京大学史料編纂所)
・『増補 史料大成』 (山槐記 1965 臨川書店内増補「史料大成」刊行会編 臨川書店)
・『増補 史料大成』 (第二十巻 兵範記 1965 臨川書店内増補「史料大成」刊行会編 臨川書店)  
 
新田老談記 / 戦国時代の新田一族末裔

戦国時代、新田一族の末裔や新田遺臣の末裔たちは、かつての新田荘に築かれた金山城(太田金山城。群馬県太田市)に拠って、金山城主の由良氏の元で戦国の世を過ごしていました。「新田老談記」は金山城を中心に繰り広げられる軍記物語です。
当時、上野国と下野国の国境付近では、新田由良氏、足利長尾氏、小俣渋川氏の三者が緊密な同盟を結び、近隣の佐野氏や桐生氏、さらには越後の上杉謙信や小田原の北条氏に対抗していました。「新田老談記」では、北関東を舞台にした知られざる物語が展開されていきます。  
関東管領上杉憲政の没落
以前は、関東八ヶ国は管領上杉憲政(のりまさ)公の御支配で、平井城(群馬県藤岡市西平井)に大名・小名が毎日出仕往来し、平井城は門外に馬を置く場所もないほどのにぎわいであった。
また、今川家、結城晴朝、北条氏政、新田一族、太田道潅、佐竹義信、那須一族、武田信玄、越後の謙信、その他近国の小名まで、それぞれの家の面目を失うまいと領地の境界を警備して、一族・家人や民を憐れみ、仁義を守って目上を敬い、仏神を祭って、いつの御代よりも良い時代であった。
ところが、最近は大小名、上下共に心に奢りが生じて乱れに備えることを忘れ、また、それぞれの家の系図を自慢して、年頭や節句の礼の順を諍い、そこを恨むかと思うとこちらに不足を感じるといった具合である。
年頭の挨拶も省略して互いに疎遠になり、家来や百姓が領地から逃げ出しても対策を取らず、領地の境界もきちんと決めようとしない。国主や代官が腹を立てても構わず、憲政公から出された法令にも背いて、心の底に奢りを隠しながら高い位に連なっている。わがままな世の中になってしまった。
中でも北条氏政は大きな領地を持つ大名だったので、憲政公に背いて領地を掠め取り、ややもすれば出仕せず、わずかな誤解があってもそれを理由に憲政公に背き、ついには川越で夜戦を決行し、深谷の御座所から追放してしまった。氏政は憲政公の御家人の多くを討ち滅ぼし、忍、深谷、松山までも兵を出し、小田原の支配の地にしてしまった。
憲政公はなすすべもなく、謙信公を頼ってしばらく越後に引き退かれることとなった。
それ以後、氏政は麓辺の小名を掠めて出仕させ、その威勢は日毎に増し、月を重ねると共に強大になっていった。この時に至って、山中の小名や寺社の面々も、にわかに氏政に出仕を願い、音信をもよおし、小田原と行き来しない日はないほどであった。
氏政公としては、遠国の大名はどうでもよかったが、近国の小名で自分になびかない者がいるのが気がかりであった。甲州、越州、江戸、結城については出馬の5日前に沙汰をするようにしてあり、備えのある敵は恐れるに足らなかったが、念のために武蔵国寄居の城に北条安房守を差し置いた。それだけでは心許ないと、三百騎の加勢をつかわして梅沢八幡宮の前に新しく関を設け、山の上には遠見の番を置き、厳しく用心していた。
しかし、憲政公が敗れて退いた後は、近隣の小名はみな思い思いの大名に出仕するようになり、氏政公の旗下に入ることを願う者も多かった。 
上杉謙信と上野・下野の国人たち
そのような中にあって、新田金山の城主(由良氏)、足利の城主(長尾氏)、館林の勢、および、小俣の城主(渋川氏)、佐野の城主宗綱、以上の五人衆だけは、誰の旗下にも入らなかった。
足利、佐野、桐生の領地は入り組んでいるため、四五年前までは境界争いが頻繁にあり、夏になると苗を踏み倒し、作物を薙ぎ倒し合うのが常であった。そのため、境界に近い村里では寄居を構え、出城をあつらえ、物見番の侍に歩弓人を添え、近隣の百姓が集まって、国主や代官の下知を待たずに濫妨狼藉を防いでいた。
北条氏政公も武州や西上州にはたびたび出馬されたものの、新田、足利、館林のあたりまでは馬を進めたことはなかった。また、甲州の信玄公も碓氷峠を越えたことは無かった。
そこに、越後の謙信公が、武州松山、厩橋(現・前橋)まで乗っ取った勢いで新田・桐生・館林をも攻めようと、奥沢山の峰に陣場をあつらえ、まず那波、伊勢崎を攻めようと増田主税之助を大将として二百余騎で押し寄せた。ところが、敵は皆逃げ散って誰もいなくなっていたため、濫妨狼藉を思いのままにして帰って行った。
成田城(忍城。埼玉県行田市)も水攻めにしようと御用意されたが、左衛門(成田長泰)が聞き付けてすぐに和談を願ったので、それをお受け入れになった。
謙信公はどのように思し召したのか、新田、館林はお攻めになるべき御沙汰は無かった。しかしながら、東上州の境界を御巡見になると言って、佐野犬伏へ馬をお進めになった。
謙信公は、敵の城下でも恐れず通過されるのが常であった。
先年、深谷にお越しの折も謙信公は案内もなく御巡見されたが、それを見て、小幡、箕輪、鷹巣の者共(国峰城の小幡尾張守、箕輪城の長野業政、鷹巣城の小幡三河守)が境界に馬を進め、駆け合わそうとしたことがあった。しかし、謙信公の勢いを見て野心も失せ、そのまま引き退いた。その際、上泉伊勢守(剣豪として有名。後に新陰流の開祖となる)は油断していたため、ことのほか後れを取り、ようやくのことで引き退くことができた。 
上杉謙信の新田侵入
さて、謙信公は下野国へお通りになる途中、佐野・桐生の道筋の山々を御見物のため、鹿田山(群馬県新田郡笠懸町鹿)の峰で御弁当をお取りになり、広沢・境野の原を通って足利八幡へ向かった。
二千騎余りの人数が、あとになり先になり押し進んだが、案内を知らない細道だったため、左右の山すその田畑を踏みつけ、狼藉限りなかった。
その折、茶臼山寄居(群馬県桐生市広沢町)の物見の番頭として金井太左衛門という者が在番しており、この者が、謙信公がお通りになると聞いて雨沼のあたりに出て遠見していた。
謙信公の先陣の侍がこれを見つけて、走り寄って言った。
「これは何者。大軍を恐れず馬上にいるところをみると、近国の使者か。無礼至極なり。」
太左衛門はこれを聞いて、言った。
「さては越後の国主殿のお通りでございますか。それがしは新田の家人、金井太左衛門と申し、この山の在番をつかまつっている者です。ここから足利までは由良長尾一家の支配の地でございますから、御家人、外様の面々が狼藉せぬよう申し渡していただきたい。」
先陣の者共がこれを聞いて御大将に言上したところ、謙信公は機嫌のよい折だったので大笑され、
「我らの矛先をも恐れぬ無礼千万なやつめ。不届きな男だ。不憫ではあるが、このままにしておくと今後ますます無礼者が多くなるであろう。新田・足利からわざとたわけた男をつかわして慮外をさせ、謙信がどのような者か試そうとしているのであろう。先手の歩弓人に申しつけ、一人も逃さないようにせよ。また、寄居の番所も撫で切りにして通れ」と、仰せになった。
謙信公の仰せをうけたまわって、先陣の歩弓人が我先に押し進んで人々を追い払った。
太左衛門はこの様子を見て馬に乗って逃げ延びようとしたが、神明の森の町田屋敷の前で大勢に取り囲まれ、立ち腹を切って死んだ。
そこに太左衛門の寄騎の野村源七郎と梅田半九郎が引き返して来て、「今こそ討ち死にすべき時節が到来したようだ。引くなっ」と言いながら、二人で火花を散らして敵と斬り結んだ。梅田と野村の手にかかり、敵十三人までが斬られた。
梅田と野村は大勢に傷を負わせ、両人はまったく傷を負わないまま、互いに目と目をきっと見合わせ、寄居の番所に退いて、まず、妻子、年寄、子供を山の奥の谷に逃した。それから番所の峰に登って様子を見たところ、敵は寄居の城内に乱入して濫妨狼藉の限りをつくしていた。
近隣の百姓、坊主、山伏たちが竹槍や棒を取って騒いだが、懸け合わすでもなく、我先に逃げ去ってようやく命をながらえた。当番の面々で討って出た人々は、七八十人が撫で斬りにされてしまった。
番所の峰で銅鑼や鐘を叩き、ほら貝を吹き鳴らし、直ちに新田へ使者を送って知らせたので、由良信濃守殿も驚かれ、各所の番所に触れ回って早鐘を突き、近隣の人数に召集をかけた。
謙信公も新田の早鐘の音を聞いて驚き、先手の小荷駄にまぎれて急いで渡良瀬川を渡り、佐野・足利の境にある岡崎山(栃木県足利市寺岡町)で残りの軍勢の到着を待った。

新田殿(由良信濃守成繁)は、金谷因幡守と横瀬勘九郎殿(由良御舎弟)を召して仰せになった。
「このたび謙信は、野州の東方を見物して佐野宗綱のもとを訪ねるとばかり聞き及んでいたが、広沢の番所(茶臼山の寄居)に置いた者共を蹴散らし、狼藉の上に撫で斬りにして通るとは、新田・足利の心底を伺うつもりであろうか。それとも、番所の者共が慮外の事をしでかしたのであろうか。いずれにしろ、これほどの狼藉者をそのままにしておいては、家の面目、敵の思うところ、民百姓にいたるまで恥ずかしい事である。さっそく筒胡、市場、八幡に人数を出して敵の様子を探れ。小俣や足利でも狼藉を働けば、前後左右から押し寄せて、謙信を討ち取ることになろう。」
さらに館林へは、足の速い馬を選んで堀越十郎左衛門を使者として送った。顕長公(足利長尾氏。実は由良国繁の実弟であるが、足利の長尾景長の養子となり足利長尾家の当主となっていた)も驚かれ、早鐘や太鼓を打たせて近隣の勢を召集し、上を下への大騒ぎになった。
金山城では加勢の人数を揃え、吉沢、丸山の峰に遠見番を置き、道や橋の普請をさせて、味方に都合のよい難所を構えて敵を迷わすことができるようにし、鳴りをひそめて静まり返っていた。
神明南馬場の前後や焼山の麓に走り集まった勢は数を知れず、謙信の軍勢を一人も逃さず、討ち洩らすはずも無いばかりのありさまであった。
彦間や桐生から集まった勢は、謙信方に心を寄せる者もあるかもしれない。はからずも新田勢が敗軍に及ぶこともあろうが、親類や友人であろうとも心を許すことはできない。笑いのうちに刀を研ぐのは珍しくないことである。
渡良瀬川の瀬には逆茂木を入れ、用心厳しく守りを固めた。
広沢寄居を濫妨狼藉した越後勢の先陣は、その日の申の刻(午後4時頃)、山川の前原で前後の勢を集め、青龍の備えを取って道中の難所で馬の足を休め、そこで侍や歩弓人に至るまで会合して、二千騎余りの勢になって謙信の待つ岡崎山に到着した。
謙信公は軍勢の到着を見てお喜びになり、二千騎余りを率いて佐野の城へ急いだ。
由良殿は明神の前まで御出馬になり、諸大将、諸物頭の面々に下知をくだしていたが、そこに足利から、「謙信は既に佐野へ向かった」と知らせて来た。由良殿はそれをお聞きになると、「口惜しき事かな」と言って御馬を召して引き返された。
足利勢も新田の早鐘の音に驚いて軍勢を揃え、弓、鉄砲を準備して待っていたが、謙信公は今朝辰の刻(午前8時頃)に小荷駄にまぎれて六七十騎で岡崎山に向かったと聞き、「口惜しき事かな。謙信が小荷駄にまぎれているとわかったら、足利勢だけでも安々と討ち取れたものを。籠の鳥を逃し、梁の魚を取り逃したような心地だ」と言って、奥歯を噛み鳴らして口惜しがった。 
上杉謙信との和睦
謙信公は岡崎山に馬を止めて残りの勢を待っていたが、しばらくして軍勢が揃ったので、諸大将に向かって仰せになった。
「新田・足利は謙信の矛先に驚き、早鐘を突いて近隣の者まで皆騒いでいる。由良・長尾が出て来たら後陣の備えを立て直し、無二無三の合戦を行うべし。その陣に、桐生、佐野、前橋から軍勢を招き寄せ、新田・足利は言うに及ばず、館林まで攻め込もうと思う」
諸物頭はそれをうけたまわって、「攻め込んで思いのままに濫妨狼藉を行い、越後の軍勢の矛先を見せてやりたい」と申し上げたので、謙信は御機嫌斜めならぬ様子だった。
そこに、佐野の家来の赤見、皆川、富士源太夫、広秡、竹沢がお迎えとして警護のために到着した。宗綱公も羽左間山のあたりまでおいでになった。謙信公は宗綱公と御対面になって喜ばれ、さっそく佐野の本城(唐沢山城。佐野市富士町・安蘇郡田沼町栃本)にお入りになった。そこに四五日逗留あそばされ、虎松殿(佐野宗綱の末弟)を御所望になり、越後に御同道された。
新田金山城では野村源七郎と梅田半九郎を召して今度の事件の初めから終わりまでをお尋ねになり、詳細を聞かれて、「太左衛門が謙信の軍勢に言ったことは、謙信ほどの大将には慮外千万の申し分であった」と仰せになり、両人に永楽銭を五貫文ずつ御褒美として下されて広沢番所を仰せ付けになった。
由良殿、長尾殿も小田原の氏政公のお取り成しがあったので、越後の謙信と和談あそばされた。それで、折にふれて使者を遣わし合うことになった。
謙信公は前橋に御逗留の際に女淵の城(群馬県勢多郡粕川村女淵西原・殿原)をお攻めになって落城させたあとは、長尾殿に城を預け、城代に足利から新井図書を置くことになった。
謙信公は、北条氏康公が武州川越まで御出馬されると聞いて、館林に出馬されたあと、羽生、飯野の城を撫で切りにしてお通りになった。成田勢と深谷勢は秋元越中守と岡部加賀守を大将として謙信を捕らえようと、大軍を催して待ちかまえていた。長尾顕長公もこれを聞いて、横槍を構えて様子を見よと仰せになったが、物見番から「氏康公親子は松山から小田原へ御帰陣になった」と知らせて来たので、謙信公は越後へ戻って行った。 
小俣城の合戦
下野国小俣(栃木県足利市小俣町)の城主、渋川相模守殿(渋川義勝)の領地は、佐野、桐生の領地と入り組んでいて、百姓たちの間で山や境界に関する争いが絶えなかった。そのため、佐野、桐生と小俣はことのほか仲が悪かった。
それが謙信の耳に入り、「適当な時に小俣を攻めるように」との内証の御沙汰があった。
謙信の家老の秋田(荻田)備後守が前橋へ入部する際にそれを言われ、秋田備後守は「これ幸い」と心得て、膳(ぜん)備中守(膳城主、膳宗次)と内談し、元亀三年四月二十日、下菱山、中里山、島山の三方から、突然、小俣の城に押し寄せた。
ちょうどその時、相模守殿(渋川義勝)は小田原へお越しあそばされて城を留守にしており、御家人や若侍など一騎当千の者たちは相模守殿のお供をしていて城にいなかった。城中や近隣の者も油断していた時だったため、上下ともに驚き騒ぎ、取るものも取りあえず小俣の御屋形に走り集まって評定を始めた。
評定の席で、まず籾山出羽守が、「越後勢は大軍で攻め寄せて来たため、由良殿と長尾殿が横槍を入れることもできないであろう。その上、籠城の準備もしていない。御留守ということもあり、ここは城を敵に明け渡して人命を失わないようにし、相模守殿が御無事であるからには後日旗をあげて城を取り返すのがよかろう」と、言った。
人々はそれに同意し、「今回敵と戦うのは、夏の虫が火に入るようなものだ」と、口を揃えて言った。
その時、城代の石井尊空が顔色を変えて人々に言った。
「戦いの勝敗は人数の多少に依るものではない。運を天にまかせ、義を胸に当て、命を軽んじ、名を四海に広め、子孫末代に名を残すべきだ。たとえ幾千万騎が来るとも恐れる必要はない。
それがしが愚案をめぐらすに、小俣の城を敵が攻めるとは考えられないことだったのに、この城に敵が攻め寄せた。これは、この城を攻めれば新田・足利から後詰めを出すに違いないので、三方の敵を一か所に集めて無二無三に滅ぼそうとの計略であろう。それにしても、向かい城に本意でない勝負を挑むのは、謙信の家の習いと異なっており、不思議なことだ。もしも由良殿と長尾殿が後詰めを出さない場合は、小俣城は城主の相模守殿が留守の上に、残っている一族・家人は小身の者ばかりだから、簡単に城を明け渡すと考えて攻め寄せたのであろう。敵の計略にむざむざと乗るのは口惜しい限りだ。
また、相模守殿が小田原で辛いことになるかもしれない。御先祖の式部大輔義国公から今の相模守義勝公まで何代も続いた家が、一戦にもおよばず城を明け渡したら、渋川の家の者共が人々に後ろ指さされることになって口惜しい事だ。このたびは、死すべき時節が到来したのだと、ただ一筋に思い切り、小勢なりといえどもこの城を枕に討ち死にする以外にあるまい。そうすれば小田原がそれを聞いて相模守殿を御取り立てになり、城主として戻ることもできよう。今我々が臆病なことをすれば、子孫までその根や葉を削ることになり、良くないことになろう。死すべき時に死なないで、いつ益があろうか。
討死を決した者は高く末代に名を残すことができる。日本無双の謙信公の軍勢を引き受けて討死できることは愁いの中の悦びである。尊空一家においては、別儀のある者はいない。もしや臆した者がいるのかっ」
このように、大きな目を見開いて強い調子で言ったので、集まった一族、寄騎、歩弓人にいたるまで、その義もっともと感じ、静まり返った。

こうして、籾山出羽守、窪澤豊前守、和泉備前守、桑子左近之助、別府、阿戸、小泉を初めとする面々が笛吹坂の前後に集まって、寄せ来る敵を待ち受けた。
石井尊空、同安芸守、同丹後守、大河土佐守、石渡弥五郎、神内平六、松本小太郎、山本雅楽之助、片岡金五郎、窪田金八郎を初めとする面々は、鶏足寺(けいそくじ)の山の峰に登って前後に備えを出し、石弓を構え、落し穴を掘らせて、登って来る敵を微塵にしようと準備した。
以上、集まった軍勢は、上下合わせて百五十人にも及ばない小勢であった。
尊空は人々に向かい、
「城主の御留守といい、小勢のことといい、大軍を引き受けて勝てる戦ではない。しかしながら、仏力・神力を頼み奉って加護をこうむれば、落城はあるまい。さいわい五大尊仏鶏足寺の法力は昔と少しも変わっていないであろう。敵退散の法を行おう」と、言った。
そこで、鶏足寺(けいそくじ)の住職の俊国法印が、昔の定宥法印に少しも劣らず、ただちに檀を設けて敵退散の秘法を行った。
ほどなく敵が小俣に乱入し、中島の左右の民家に火をかけて焼き払い、濫妨狼藉の限りを尽くし始めた。
籾山出羽守は砲を取り、前後左右の小山の上から弓や鉄砲を撃ちかけ、小岩をつぶてにして投げかけた。鬨の声に老人や子供の泣き叫ぶ声がまぎれて、山も崩れるかのような騒ぎだった。
膳備中守の案内で秋田備後守は搦手に廻り、くらやみ沢から攻め登った。ここには尊空一家と大河土佐守、加藤隼人、桑子左近を大将として、上下七十人ばかりが守っており、「この口を破られては末代までの家名の疵となってしまう」と、火や水のようになって戦った。谷から攻め登る敵は大勢だったので防ぎあぐねたが、矢玉も弾薬もないため、ただ大きな石や丸太を落としかけて防戦した。
すると、その日の申の下刻(午後4時過ぎ)、突然強風が吹き、大雨が降り始めて、攻め登る敵の正面から吹き付け始め、二時ばかりの間、さながら闇のようになって敵も味方も見えなくなってしまった。その風雨の中で、先頭に立って攻め登って来た膳備中守の一族家人五六十人は、城から落としかけた大岩や丸太の下敷きになって残らず死んでしまった。越後勢はこれを見てかなわないと思ったのか、沢や谷の大きな石のかげや大木のかげに隠れて逃げまどった。
激しい北風の大嵐だったので、敵味方の馬の色も見えなくなってしまった。敵は谷道の難所を進みかね、かといって上がるべき陣も無く、乗馬の武者は一人も無く、捨てられた馬どもが噛み合い、鳴き合い、心猛き兵も働くべきたよりを失って、暗闇の中を立ち迷った。
秋田備後守はこれを見て後陣の備えを立て直し、米沢山の麓に退いたが、くらやみ沢の勢は後へ退くこともできず立ちすくんでいた。堀切や谷の下に取り捨てられた弓矢、物の具、死人は数知れず、備後守は残った軍勢をようやく集め、大手口の軍勢と一緒になってあわてて前橋へ引き返して行った。
この合戦で、越後勢は人馬三百人ばかりを失った。
秋田備後守は、「膳備中守が敵に欺かれてくらやみ沢から攻め登ったために今回の敗軍に及んだのである。天気をうかがって、今度は正面から押し寄せて攻め落とせ」と諸物頭に向かって申された。それを聞いて、「自分の身のほどを知らない人だ」と、皆ささやきあった。
このたびの合戦では、小俣勢は大難をのがれた上に、城兵からは一人の死者も出なかった。尊空の忠義の理を守った一族家人の働きを讃えて、近国や他郷の人までが喜悦の眉を開き、「五大尊仏の御威徳は昔と少しも変わっていない。ありがたいことだ」と五大尊仏を拝まない者はいなかった。

この合戦の時、新田金山では由良殿(由良成繁)の御持病が再発したため、老中、御一族が集まり、荻野養意を召して御薬を差し上げていた。そこに小俣から三浦久四郎(渋川義勝家臣)が早馬で到着して、
「突然、思いもかけず、謙信公の御家人の秋田備後守が大軍を催して押し寄せ、膳備中守の案内で境野、三堀の河原に野陣を構えて濫妨狼藉を働いております。相模守殿(渋川義勝)は小田原からまだ御帰城になっておりません。こちらは小勢で、戦うことができません」と、言上した。
国繁公(由良成繁の嫡子)はそれを聞こし召して、「ただちに後詰めを出せ。館林にも告げ知らせよ」と言い、上を下への大騒ぎになった。ところが、大雨、大風のために早鐘の音も聞こえず、回状も届きかね、軍勢も揃わず、集まって渡良瀬川の川端に押し寄せた勢がいても、色の変わった濁流を恐れて川を渡れない者もいた。
その日の申の下刻過ぎ(午後5時頃)に再び小俣からの使者が到着して、
「越後勢は前橋から押し寄せて近辺を狼藉しながら思いのままに乱入して来ました。かねて備えもしていなかったため、いろいろとはかりごとをめぐらして防戦しました。そうしたところ、敵は突然の大雨、大風に攻めあぐんで、備中守とその一族家人は残らず討死いたしました。城は堅固に守られており、人の損害もありません」と、言上した。
由良殿(成繁)はそれを聞こし召して御喜悦斜めならず、「きっと尊空や土佐守が忠義をもって防戦したのであろう」と言って、小林虎之助を小俣の家老、城代の元へ使者としてつかわし、「このたび新田足利の後詰めの勢が出陣しかねていたところ、面々手勢の働きによって素早く敵を追い散らしたこと、神妙なる事である。そのうえ、味方の勢は損なわなかったとのこと、いよいよもって大きな悦びである」と仰せつかわした。大河土佐守を初めとして籠城した者達は、「ありがたき御使者かな」と喜んだ。
石井尊空は今回のできごとの詳細を伝えるために金山城に登城したので、御大将が御対面になり、ありがたい御上意の上、いろいろなものを拝領した。
由良殿(成繁)は膳備中守の討死の様子をお聞きあそばされ、「いくさの方便を知らない若武者だったためであろうか」とお笑いになり、「総じて、大将があまりに強すぎる場合は必ず軍法を損なうものだ」と、御機嫌よく仰せになった。尊空も喜び、いとまごいの挨拶をして宿所に帰って行った。 
膳城の没落
渋川相模守殿は小田原から小俣城に御帰城あそばされて、留守中の兵乱の詳細をお聞きになった。
「それは残念至極。秋田備後守をも討ち取れたものを。きっと膳備中守と一緒にいたのであろうが、味方が小勢だったので討ちもらしてしまったのであろう。しかしながら、諸勢の働きは、軍法、方便、各々知謀の働きをし、精を出されたのは前代未聞の働きである」と、喜ばれた。
上下の者を集めて三日間酒盛りをし、城代や物頭の面々には御褒美をくださり、さっそく金山へ登城されて合戦の物語をされた。
新田殿(由良成繁)は、「近くで遠慮もあるべきところなのに、このたび膳備中守が案内して越後勢を差し向けたのは、何の意趣があってのことか。さてさて、いわれのない振舞いではありませんか。それで、天命逃れ難く、一族家人と共に骸を野州仏手山の麓にさらすことになったのでしょう。さっそく膳の城(群馬県勢多郡粕川村大字膳字大門・城内)へ押し寄せ、死に残った者を討ち取り、追い散らすべきでしょう。新田、足利、小俣の軍勢で攻めれば手間取ることもないでしょう」と、御内談あそばされた。
義勝公ももっともと思われ、小俣に帰城すると一族家人を招いて内談し、元亀三年六月二十八日、石井安芸守を大将として上下百七十五騎で膳の城に押し寄せた。新田の加勢として、藤生紀伊守、金谷因幡守、増田伊勢守、鳥山伯耆守、木村伊豆守など上下二百騎余りが加わり、足利からは白石豊前守、杉本半七郎、小花源五郎、窪田金七郎、小菅弥太郎、宮崎五太夫、一川主馬之助を大将として上下百五十五人が加わった。
三か所の軍勢が集まり、「今度のいくさは晴れがましい合戦であるから、親類や友人がいようとも一歩も退かずに手柄をたてよう」と、全員勇んで進軍した。

さて、膳の城(群馬県勢多郡粕川村大字膳字大門・城内)では、突然のことなので城中に馳せ集まる兵もいなかった。主だった者はこの四月二十日に備中守(膳宗次)と一緒に討死してしまい、残った者は年寄りや子供、病人の類ばかりで、駆け向かって合戦をしようとする者は一人もいなかった。
備中守の子の春松はまだ四歳であった。父の宗次が討死したあとは、斎藤右近と鶴貝玄蕃がお守りして、御成長の後は一郡の主にも奉ろうと、謙信公に御目見えさせて安心していたが、このたび思いがけず小俣、足利、新田から軍勢を差し向けられ、そのような計画も潰える時が来たと思われた。
物頭の面々が集まって内談したが、大将のない評定だったので一向に埒があかなかった。
野村弾正が、「備中守が討死されたのは若気の至りで、強く働きすぎてのことだった。討って出て無二無三の働きをして一方の敵を打ち破れば、あるいは紀伊守などを討ち取ることもできるかもしれないが、このたびの寄せ手は小俣勢ばかりではない。新田・足利も後詰めしているので、どんなに戦っても味方が勝利できる見込みはない。城を明け渡して越後に退出し、謙信公の御旗下に入れてもらって本望を達するしかあるまい」と言ったため、大将もいない勢のこと、人々は一人、二人と城を出て落ちて行った。
寄せ手は合戦を望んだが、敵がいないのでは仕方なく、小俣、新田、足利の兵達は難なく城を乗っ取ることができた。
春松殿は、長島と鶴貝がお供して、まず前橋に立ち退いた。
ここに哀れだったのは、月日又四郎と斎藤友之助であった。龍玄寺の山林に逃げ込んで、なりを静めて隠れていたが、誰かがそれを見つけて、「ここに良き敵が大勢いるぞ」と言ったため、「一人も逃さぬ」と二重三重に取り囲まれることになった。
又四郎と友之助は囲まれたのを見て、とても逃れることはできないと覚悟を決め、是非無く討って出て火や水のように戦った。しかし、大勢に攻めたてられた上に家人は全員逃げ去って一人もおらず、又四郎と友之助ばかりになってしまった。二人はとてもかなわないと、太刀をひっかついで逃げ、ようやく死命をのがれることができた。
「無念至極。これほどの難儀に遭うとわかっていれば、膳の城を枕に討死していたものを」と言って後悔したが、このうえは妻子の行方をたずねようと、二人とも行方知れずにどこかに落ちて行った。
日も暮れてきたので、藤生紀伊守(新田由良家臣)、白石豊前守(足利長尾家臣)、石井安芸守(小俣渋川家臣)は軍勢を集めて鹿田山まで退き、前橋から後詰めがあればこの軍勢で攻めようと、二日の間そこに陣をはっていた。
その後、春松殿は謙信公のもとで成人されたが、膳の城には城代も置かれず、落城のまま放置された。
寄せ手は、村里、神社、仏堂、寺中、山林まで手当たり次第に残らず濫妨取りして帰って行った。
近隣の坊主や山伏は、「備中守が小俣攻めの案内などをしたばかりに、命を失ったのみならず、一族家人までことごとく路頭に迷い、百姓、坊主、山伏まで難儀に及んでしまった」と、口々に愚痴を言い合った。 
桐生家の乱れ
上州桐生の城主、桐生大炊助殿(助綱。祐綱とも)には御世継ぎの子息が無かったため、国も近く縁者でもある下野国佐野の城主天山殿の弟の又次郎殿(親綱。佐野昌綱五男)を御養子にされた。
佐野からのお供に荒井主税之助、茂木右馬之丞、山越出羽守、津府子形部の四人が御後見として付いて来て、諸々の仕置をまかせられ、これら四人が家臣として勤めることになった。それから間もなく、大炊助殿は死去された。
その後、又次郎殿の後見役の四人は、古来の家老の谷右京や大屋勘解由左衛門などには構わず、従来の武士、町人、百姓の仕置や諸法度を廃止し、もっぱら新法を行い古来の法を用いないようになった。そのため、良い侍は退出し、残ったのは新参者ばかりになってしまった。新参者のため、毎日のように喧嘩口論が絶えず、少しのことでも取り上げて評定するようになった。そして、不公平が生じ、坊主、山伏、百姓、町人の訴訟が起こると、勝った者からは礼金を取り、負けた者からは過料銭を取るという理不尽なことが行われるようになった。
津府子と山越は、自分たちと親しい侍は何の吟味も無いままに高い知行を取らせて召し抱え、気の合わない侍にはいろいろ難癖をつけて退去するように仕向けた。そのため、上泉伊勢守、八木伝七、根津采女などは退去して行方もわからなくなってしまった。彼らのあとには、津府子や山越が、上杉、越後、甲州、今川家などで追い払われた者たちを「大家から当家を望んでやって来た」などと言って取り成し、御前に報告もせずに取り立てていった。
四人衆のうちで荒井や茂木は、「同僚や役人に諮ることもせずに召し抱えるのは勝手が過ぎる」と、朝も夕も絶えず腹を立て、次第に四人衆も二つに割れてしまった。荒井と茂木は、「御家の滅ぶべき時は近い」と考えて、何事につけてもその日のことを考えていた。
古来からの第一の大身であった芥沢能登守や広瀬、一不、荒巻式部などは平座に落とされ、慮外千万の作法であった。彼らをはじめとする桐生家の五十三人の物頭衆は、氏政、謙信公、信玄公などにも名を知られていた武勇の士であった。「武勇にも依らずに序列が決められ、古参と新参の礼儀も無く、片腹痛い事だ」と、女や子供まで噂し合った。
領外の上下の者も、桐生家の諸仕置、方便の悪いことを悲しみ、「一日も早く違う御代になってほしいものだ。津府子と山越が討死か退去でもしたら、餅をつき、軍神を奉って祝おう」などと言って、二人を憎んだ。

桐生家中の里見上総入道殿(里見勝広。実尭とも)は、桐生大炊助殿の御代に浪人して甲州から桐生に来て桐生殿をお頼みになった人である。桐生殿は上総入道殿に赤萩の出城(群馬県桐生市川内町。仁田山、谷山、皿窪、用明、高津戸などの一帯の地域城)をお与えになり、仁田山八郎を添えて遣わされた。
里見上総入道殿の嫡子は随見(勝政)、二男は勝安といって、文武両道ともに人に勝れていたため、大炊助殿は「将来は一方の大将ともなるべき侍になるであろう」と、頼もしく思っていた。
やがて大炊助殿が御逝去され、又次郎殿の代になると、道理が廃れて上下の者が悲しむようになった。里見上総入道殿はその様子を見て、「笑止千万のこと」と思われ、書付けで又次郎殿に御意見を申し上げた。
山越と津府子はそれを知って、「これは推参至極。これほど太平ですべて平穏な時なのに、悪意をもってこのようなことを申す者は、いざという時には同士討ちを始め、裏切りをなし、敵に内通するに違いない」などとたびたび讒言した。
又次郎殿は彼らの讒言を信じてしまい、書付けの趣旨を用いることもなく、里見親子を憎むようになった。そのため、上総入道殿は出仕が滞りがちになり、随見は越後に退出して音信不通になってしまった。
津府子と山越はその後も讒言をいろいろ申し上げたので、又次郎殿もそれを聞き入れ、「随見と勝安の兄弟は暇乞いもせずに越後に退出し、その上、上総入道も先代の御恩を忘れて出仕しない。大秡(大貫)佐兵衛の悪口の沙汰も逃れ難い。入道に生害を申しつけるべし」と決定されてしまった。
津府子と山越はこれを聞いて、「延引すれば和談を訴える者が出て来るかもしれない。さっそく詰腹を切らせよう」と、まず、上総入道の配下の石原石見の元へ内通を申し込んだ。石原石見が直ちに了承したので、軍勢を催して赤萩の屋形へ押し寄せた。
山越出羽守が先頭に立ち、荒巻式部、津久井和泉、斎藤丹後、芥沢能登守、風間将監、水沼主税、内田主馬助、塩原左近、清水道仙の十一人が赤萩の畑ノ平に押し寄せて鬨の声を上げた。
入道は少しも驚く気配はなく、「きっと桐生から寄せて来たのであろう。随見と勝安の兄弟がいたら一戦花を散らして見物するのだが、今はあいにく留守だ。小勢でもあり、また、先代の大炊助殿の御恩を忘れがたい。ひとまず八山(谷山。群馬県桐生市川内町雷電山)に退いて、後日の沙汰を待ってみよう」と仰せになった。
石原兄弟はそれを聞いて「その儀、ごもっとも」と申し上げたが、その時、大秡(大貫)佐兵衛が石原を睨み付けながら、
「さてさてあさましき入道殿の御心かな。運命が尽きると才覚の花も開かないとは、今思い知った。何とか八山へ退くことができたとしても、それこそ運の尽きというもの。たとえ小勢であっても、押し寄せた敵に一筋の矢も射ないのでは、死んだあとまで御兄弟にどのように思われるか恥ずかしい。侍の名理も朽ちることになろう。里見家の末裔はその方(ほう)と我らだけだが、今まで肩を並べて座っていたのが口惜しい。各々方は一同さっそく八山に退出すればよい。そのあと、佐兵衛は心静かに討死いたそう。それにしても名残り惜しいのは御兄弟のこと。今生の縁は薄くとも、来世は同じ蓮の縁にあずかれるであろう。」と、大きく見開いた目に涙を浮かべて言った。
大秡佐兵衛の下人や一族は、わずか二十人にも満たなかった。その中でも一味同心の者は、嫡子大秡彦八郎、二男彦七郎、舎弟大秡源太左衛門、家人では篠田兄弟であった。これらの人々が、思いを決したありさまで、庭の真ん中に並んで、最後の盃を指しつさされつ酌み交わした。
桐生勢がまもなく屋形の前まで押し寄せて来たので、左兵衛は門外に乗り出し、大音声で言った。
「寄せて来た勢は、桐生又次郎殿の御出馬でありましょう。入道は、たった今、石原を連れて八山に退出いたし、以前のとおり決して御支配には背かないとのこと。それがし一家だけはここに残り、御出馬の面々に一矢ずつだけでも御馳走申したく存ずる。受けてみよっ」
こう言って、左右に並べた矢を取って、弦(つる)の音を響かせながら一矢ずつ心静かに射始めた。寄せ手は三百人ばかりが密集していたので、無駄な矢は一筋もなかった。その後、太刀を抜いて大勢の中に駆け入って、東西南北に切り廻り、人馬の区別なく当たるを幸いにまっしぐらに切ってまわった。寄せ手のうち、清水道仙、水沼主税之助などが、一族家人とともに十五六人討死した。
やがて味方も討たれて佐兵衛親子だけになり、弟の源太左衛門は生け捕られてしまった。佐兵衛は、「敵は大勢であるから、逃れられるとは思えぬ。よき敵と組んで刺し違えよう」と走り回ったが、次第に疲れ果ててきたので、「今はこれまで」と御屋形に火をかけ、門外に走り出て言った。
「今日御出陣になった衆は、敵が少なくて残念であろう。よくよく肝に銘じておけ。そのうち桐生へも新田、足利から攻め寄せて来るであろう。その時の出羽守の因果は、この左兵衛と同じだ」
こう言って、親子一緒に切って出て、山越出羽守と組んで戦おうとしたが、出羽守と出合うことはできず、荒巻兄弟、風間将監と渡り合って親子一緒に討死した。
「石原兄弟の裏切りがなければ桐生から攻め寄せることもなく、和談も入れられたであろうに」と、人々は噂し合った。
左兵衛の首は、桐生峠で獄門に懸けられた。

山越出羽守は桐生へ帰陣して、初めから終わりまで又次郎殿(桐生親綱)に報告した。
又次郎殿は、
「入道が八山に退出して降参すれば攻めなかったものを。そうすれば、水沼主水と清水道仙の討死も無かったであろうに。左兵衛は、敵にするにはいやな侍であった。弟の源太左衛門の首を直ちに切って獄門に懸けよ」と仰せになった。
源太左衛門が二十三で切られるのを、惜しまない者はいなかった。
里見入道殿は八山で謹慎されているとはいえ、石原の裏切りが露見したらどのような行動を取るかわからないので、又次郎殿は「入道も生害させよ」と石原石見に仰せ付け、ついに入道殿も御生害になった。
入道の首は石原兄弟に下され、その後石原兄弟は、又次郎殿の御家人になって勤めるようになった。
さて、越後に滞在していた随見と勝安の兄弟は、これらの趣をお聞きになって、
「なんと口惜しいことか。切腹や討死は武士の家には珍しくないとはいえ、左兵衛父子の働きは不憫千万なことであった。津府子と山越は讒言の敵だから、なんとかしてもう一度桐生へ戻り、彼らと刺し違えて本望を達したいものだ。裏切った奴らは意趣を報ずるまでもない。天命に背いて子孫を失うのは、逃れられないであろう」と言い、大炊助殿の御代の御恩を思って、「笑止千万なること」と、涙をお浮かべになった。 
桐生家の滅亡
新田の城主由良殿は、大沢下総守、林越中守、藤生紀伊守を召して仰せになった。
「桐生又次郎の家中には新参と古参のいさかいがあり、そのうえ、津府子刑部と山越出羽守の支配を嫌って、良い侍は歩弓人まで退出していると聞く。荒井主税助と茂木右馬丞は特に関与しておらず、津府子と山越の両人がことのほか奢っているという。桐生はいずれ破城になるだろうという噂が近隣に飛びかっているので、荒井と茂木がこちらに内通する気があるかどうかを確かめてから押し寄せ、新田の支配にしようと思う。このまま放置して他所から馬を入れられた場合、あとでやっかいなことになるであろう。どうかよく考えて、良いようにはからってほしい」
藤生紀伊守が承って、「仰せの趣きはそれがしが聞いていることと少しも違っておりません」と言った。
足利(長尾)顕長公は、
「直ちに追い散らしたいとは思うが、桐生又次郎は佐野の一族なので、佐野から後詰め、横槍を出されると手間取るかもしれない。ともかく新田・足利の軍勢を損なわないように計らっていただきたい」と、仰せになった。
大沢下総守はそれを承って、
「紀伊守の縁者が桐生にいるので、あちらの詳細を知っているでしょう。内通するかどうか確かめて、時を移さず実行いたしましょう」と、申し上げた。
藤生紀伊守は津久井和泉、斎藤丹後、関口尾張、中里若狭守、彦部加賀守を招き寄せて内談を行い、荒井、茂木と連絡を取った。そうしたところ、これらの人々のほかに大屋勘解由左衛門と谷右京進も加わった連判状が、紀伊守のもとに送られて来た。風間将監、佐下橋治部、荒巻式部、周藤帯刀は連判に加わっていなかったものの、紀伊守と連絡を取り、内応を了承した。
また、津久井左京は老齢であり、薗田、岩下、須長、下山などは桐生の昔からの御家人で、このところ又次郎に恨みを含んでいた。
その他、伊藤右近、大屋勘解由、鹿貫将監、白石掃部は山中五閑田攻めの際に謙信の御家人の秋田備後守に頼まれて先陣をつとめ、家人一族と共に既に討死していた。山中の幕下、芥沢、松島はどちらでもよいと考えており、八須、長沢、土屋、里見田、木村、森下垣、生方は最近召し抱えられた新参者なのでどうにでもなると思われた。
永井弥市、飯塚播磨守、稲垣主膳、内田庄之助などは高い知行をもらっており、津府子や山越の寄騎同然の者であった。敵の中では、この者ら五十三人ばかりが敵対すると予想された。そのほかの小身の者の中には、手ごわそうな者は一人もいなかった。
「さっそく軍勢を差し向けさせてほしい」と、新田では上から下まで願わない者はいなかった。

こうして、天正元年三月十二日、藤生紀伊守を大将として桐生殿の屋形へ押し寄せた。
先陣は荒戸寄山の麓に集まって、近隣から馳せ参じる軍勢を待った。新田から紀伊守への加勢として、小金井四郎右衛門、金谷因幡守、増田伊勢守、木村伊豆守、国定玄蕃、岡田石見守、芝上久助、広瀬長蔵、岸根彦五郎、畑六之助、松本重蔵、斎藤織之助、同甚九郎、浜田内匠之助、南佐渡守を先手として上下百七十五人が馳せ集まって境野原に陣を取り、紀伊守に使いを送った。
小金井四郎右衛門と藤生紀伊守が相談して、人数を三手に分け、天神森、もくら山の麓、東山の峰を通って三方から桐生に押し寄せた。
山越出羽守はこれを見て、上下五十人ばかりを召し連れて、どんなに奮戦しても勝てる道理はないものの、無二無三の働きをしてどうにかして小金井、藤生を討ち取り、本望を遂げようと準備した。
まず、十二日の朝、軍神への血祭りとして、藤生紀伊守に内通した罪によって岩間、中島、野口の首を切り、喰井坂の右の田中にさらした。
それから正蓮寺の近くまで乗り出して前後の敵の様子を見ると、野も山もみな敵勢が取り巻いて鬨の声を上げ、太鼓を打ち鳴らしていた。味方は籠の鳥のようになってしまっており、逃げられる様子は無かった。
よい敵の陣に駆け入って討死しようと思っていると、観音山の麓の川の前後に百人ばかりが布陣していた。
「これこそ大将の陣」と喜んで、まっしぐらに駆け入って、東西南北に切ってまわった。しかし、これは藤生と小金井の勢で、宗徒の侍から歩弓人にいたるまで一騎当千の集まりだったので、敵を真ん中に取り込める間もなく、左右に斬りつけてなぶり打ちに討ち取られる者もあり、出羽守も火花を散らして戦ったものの、敵はいよいよ勝ちに乗り、味方は次第に気力が失せて、行人塚の前まで引き退いた。
そこで山越出羽守が味方の様子を見ると、六十人いた者たちはほとんど討たれてしまい、残った二十人ばかりの者どもは、傷を五か所、三か所と負って半死半生でない者はいなかった。自分自身も八か所に傷を負っており、逃げられるはずもなかった。
「みな腹を切ってくれ。我らも切腹して、三途の川を一緒に渡ろう」と言うと、木村と岩下が、「これほどまでになって腹を切るということがありましょうか。百騎が一騎になるまで敵と戦って死に花を咲かせてこそ、心地も少しはよいでしょう」と言った。
出羽守はそれを聞いて、「それはもっとも。自分もそれを望んでいた。二十人全員、同じ枕に討死して、新田、桐生の武士の手本になってくれよう」と言って藤生紀伊守の陣中へ斬り込み、人馬の区別なく討ち捨て討ち捨て左右前後に走り回った。すでに紀伊守もあやうく見えたところに小金井四郎右衛門が下知して新手を入れ替え、火や水のように攻めたので、山越出羽守もついに討たれた。広瀬、一不、木村、岩下なども皆討たれたので、他には戦いを望む者は一人もいなくなった。
御屋形の又次郎殿は、津府子が御供たてまつり、山道を抜けて佐野へ引き退いた。
桐生の城代は横瀬勘九郎殿に仰せ付けられ、藤生紀伊守を添えて諸支配を改めた。
天正二年三月九日には由良殿も桐生に御入部あそばされ、山の方まで御覧になったあと、西方寺にお入りになり、住持と御対面された。大蔵院へは御使者を送っただけであった。また、地侍を残らず召し寄せ、津府子、山越と親しかった侍は歩弓人にいたるまで百人余りを追い払い、百姓、町人でも桐生殿に忠義だてする者は全員追放した。神社、仏堂へもそれぞれに気を配ったので、「御慈悲のある仰せ」と喜ばない者はいなかった。 
里見兄弟の帰還
里見随見、勝安の兄弟は越後へ退出したところ、謙信公から頼もしい挨拶を受けたため、そこで月日を送ることになった。兄弟は、越後でも数度の合戦で比類の無い武功を上げた。
桐生又次郎殿が御敗亡になったとお聞き及びになり、
「それがしが退出したあとも、万事うまくいっていなかったとみえる。かねてから予想していたこととは言いながら、残念な御代の有様かな。父の上総入道が御恩を受け、またそれがしども一族の名付親でもあり、あれこれ思い出すと懐かしい」と言いながら、涙を流された。
「入道殿の御切腹の儀は津府子と山越の讒言のゆえである。桐生殿を恨み申してはおらぬ。まず桐生へ立ち帰って、讒言の者を思いのままに討ち滅ぼし、城代の藤生紀伊守は桐生殿の敵だから、矢を一筋だけでも射て本望を達したいものよ」と、朝に夕に思われた。
そのことを縁者や知り合いに話されたところ、誰もが頼もしい人々で、一味同心の衆が百人ばかり出来た。人数が集まったので兄弟は喜悦し、天正五年九月初めにその人々を連れて上州桐生に参着した。
近隣の様子を聞くと、墨川沢入の人々は近年の騒動においてどちらの加勢もせず、家人、一族、家名の揃った面々である。「これは古伯入道(松島古伯)に好しみを通じ、他事には関わっていない者たちなので、今度のことをただ一筋に頼んでみよう」と考え、まず墨川神梅にお越しになられ、道伴(芥沢道伴。阿久沢、悪沢とも)と古伯入道(松島古伯)に初めから終わりまでお話しになった。(芥沢道伴と松島古伯ら「神梅(かんばい)衆」については、「新田老談記25」に説明が出て来る。奥州阿倍氏の一族の末裔といわれ、桐生の北の山間部を領していた。)
両人はそれを承って、「讒言の敵を討とうというお望みは至極もっともなこと。桐生をお攻めになるには、小勢ではとても無理でしょう。何故かというに、新田足利の矛先は今や日の出の勢いで、近隣も遠所も従わないところはないほどです。このようなことは引き受けたことはございませんが、甲山を御住宅としてお貸しいたしましょう」と言った。
両人は喜んで増築の普請を始めたが、しばらくして考えを変えて、高津戸(群馬県山田郡大間々町高津戸)に要害を普請して構えることにした。そこは桐生山中の境界で、地頭や領主の預かり知らないところだったので、要害を構えても誰にもとがめられない場所であった。先年、上総入道が皿窪の乱の時にこの山に陣を張り、桐生赤萩の要害を構えた場所である。(高津戸は、赤萩の地域城の西端に当たる。)
その場所は、西南には渡良瀬川が流れ、北は険阻な高い山で大木が繁り、人間が住めるかどうかも覚束ないほど険しい場所である。五町ほどのところにあちこち堀切や落し穴を設けて味方に有利なようにしてあり、三方は鳥の通うすべも無いほどの険しさであった。城の中は三段、四段に堀切をつくり、土手を築き、七尺ほどの柵を作った。
要害が完成して、「どのような武士であろうとも、とても忍び込むすべは無いだろう」と随見と勝安は喜んだ。
兄弟は、「父入道が生きているうちにこのような要害を構えることができれば、あのようなことにはならなかったであろうに。最近の乱のために、自分も他人も、考えることはすべて偽りの世の中となってしまった。」と、涙を流された。そして、越後から連れてきた同心の面々を集めて酒宴を催し、気持ちをお慰めになった。

酒宴の席で、随見が仰せになった。
「父の上総入道と松島古伯入道はずいぶん懇意にしていたうえ、孫の弥四郎とは姻戚に当たっている。ことによると、古伯入道が加勢してくれるかもしれない。」
それを聞いて、勝安は、
「それはもっともですが、芥沢能登守に同意してもらわないと、古伯殿は能登守に遠慮して加勢してくれないかもしれません」と、言った。
随見は「なるほど」と思い、ただちに芥沢と松島のもとに行って内談した。
しかし、芥沢は、
「古来から、両人の家人一族は、たとえ日本国中が敵味方に分かれて戦おうとも、どちらの加勢もせず、軍役も勤めず、この山中を堅固に守るのみです。疎略に扱うつもりではなく、古例なので致し方ありません」と言うばかりだった。随見は力を落として城に戻った。
やがて、小倉、須長から、高津戸のことを藤生紀伊守(由良家臣)のもとに知らせて来たので、紀伊守は驚き、石原石見、須長八蔵、薗田次郎を召し寄せて事の子細をお尋ねになった。
三人が言うには、
「神梅から高津戸の要害山までは、松島の領分と承っております。それで、山中の者どもを頼って、随見と勝安が住宅を構えたと聞き及んでおります。連れて来た侍は兄弟の知人や縁者で、浪人者たちです。新田足利の威勢を聞いて、仕官を望んで参ったのかもしれません。一説には、上総入道の生害を残念に思い、また、桐生又次郎殿が没落したのを聞き及んで、どうなったのか心元なく思って参着したのではないかとも取沙汰しております」とのことだった。
藤生紀伊守はそれをお聞きになって、「そうは言っても近隣の事なので、万事油断いたさぬように心掛けよ」と、仰せになった。
高津戸では、随見が家人の正木大蔵を召し寄せ、「近隣の清水をいつでも飲めるように準備し、俵物は、麦、米、小豆、なんでも集めて用意しておくように」と、仰せになった。そこで、付近の住民に頼んで、倉の米を数十俵調達し、高津戸の城内に備蓄した。
里見兄弟は、なんとかして石原、津府子、山越を討ち取り、桐生へも乱入したいと思し召し、佐野や足利へも時々ひそかに足を運んで仇を討つ機会をお待ちになった。このような兄弟の心中を思い、憐れまない者はいなかった。

新田(由良)国繁公は里見兄弟のことを聞いて、
「逆心者の子では無く、憎むべき者でもないが、近くにいる我らに一言の挨拶も無いところをみると、後日、山中の者どもをかたらって旗を揚げようとしているのかもしれぬ。仲間を召し抱えているところを見ると、何を考えているのか心配である。」と勘九郎殿(横瀬勘九郎。由良氏の一族)に相談した。
横瀬(勘九郎)殿は、それをうけたまわり、
「仰せのとおりです。我らもまさしくそのように取り沙汰しております。しかしながら、里見兄弟ごときに何ほどのことができましょうか。きっと石原兄弟を恨み、津府子と山越に意趣返しをするために時節を待っているのでしょう。こちらの領地で狼藉しない限りは、そのまま放置してもよいでしょう。彼らを討ち取るのは、いつでもすぐにできることでございます。」と、申し上げた。
国繁公もそれを聞いて頼もしく思われ、横瀬殿と連謡を出して内談を終わられた。
やがて、随見は、山越出羽守は討死したので、何とかして津府子刑部を討ちたいと思し召しになり、佐野へ忍んで行って様子をうかがった。しかし、討ち取れる様子もなかった。玖蘭原の遠藤織部と知り合いだったため、助力を頼んでみようとお考えになり、遠藤のもとをお訪ねになった。
遠藤は随見を家に招き入れ、親しく物語などして、随見は四五日御逗留になった。そのうち、随見がひそかに自分の考えを打ち明けると、織部はそれを聞いて、「近頃、津府子は病気になり、人前に出ることもできないという噂を聞いた。病人を襲うのも罪作りなことなので、ひとまず待った方がよい」と言った。
里見殿はそれをお聞きになって、「病人を討ってもしかたない。因果はただちに報いるものよ。」と、気持ちを和ませた。
そして、高津戸にお帰りになり、「この上は石原を討って入道の孝養にしよう」と、天正六年五月二日、里見兄弟、正木大蔵、大秡(大貫)長須丸、平山猪之助など上下二十三人で、石原を撫で斬りにしようと石原の家に押し寄せた。ところが、里見兄弟が近くにいるのを知って、かねてから用心して遠見番を置いてあったのか、家には一人もおらず、たった今逃げた様子であった。一党は、力無く高津戸に帰って行った。
その後は、石原親子は用心して足利の栗崎というところへ逃げ、用明の住宅には家人一族十四五人を配するようになった。 
高津戸城の合戦
新田殿はこの事情を聞き、藤生紀伊守を召して仰せになった。
「里見兄弟は、近頃、親や又次郎の敵討ちを望んで、大秡左兵衛の子供らと石原の家に押し寄せ、狼藉を働いたと聞いた。侍としての心指しはあっぱれだが、石原兄弟は我が旗下になって地侍なみに勤めている。目の前で石原を討たせるわけにはいかない。どうすればよいと思うか。」
紀伊守はそれを聞いて、
「仰せはごもっとも。追い散らして拠点をつぶさないと、いつまでも狼藉が続くことでしょう。しかしながら、越後の浪人が上下合わせて百四五十人もいると聞いております。小勢では、とてもかないません」と、申し上げた。
新田殿も後々のことを心配され、仰せになった。
「それでは、桐生・新田の軍勢を用明の城に集めて高津戸を攻める様子を見せれば、逃げ去るかもしれない。こちらに挨拶があって然るべきところなのに、まったく来る様子が無いのでは、彼らが何を考えているのか理解しがたい。彼らがこちらを攻めるべき理由もない。里見の家は、代々新田家に誼(よしみ)が深い家である。上総入道は、最近新田とのつき合いを断っていたが、それには理由がある。上総入道は、国府台の合戦で根津尾張守を攻める時、新田勢に加わらず、義信(義重?義宣?)方に加わったが、佐竹勢では上総入道のことを、『本来新田勢に与すべき侍なのにこちらに加わっているところをみると、横槍、裏切りをしでかすかもしれない。油断するな』と触れまわったため、面目を失って、その後は新田へも顔を出さなくなった。ようやく桐生大炊助を頼って桐生家の家臣となっていたが、桐生家は我々が先年滅ぼしてしまった。その子供なので、我々のところに顔を出さないのももっともである。しかしながら、狼藉者を許すこともできかねるので、ともかく押し寄せて追い散らし、抵抗するようなら撫で斬りにせよ。」
藤生紀伊守は仰せをうけたまわって、さっそく軍勢を催して高津戸へ押し寄せた。
まず、先陣は、関口尾張、荒井主税、茂木右馬亮、伏島外記、荒巻式部、周藤帯刀、大谷勘解由、福島権三郎、森下長左衛門、風間将監、佐下橋右近、岩水喜太郎、岩下織部、飯塚又五郎、常見隠岐、籾山太郎右衛門、伴田久六郎、箱島牛之助、江原与右衛門、下山監物、鹿貫将監、片山重蔵、宮寺左近、中里若狭、彦部加賀、斎藤丹後、伊藤右京、福島出雲、野村彦次郎、津久井左京、下山縫殿助、内田兵庫、峰岸志摩、稲垣源次郎、垣上甚四郎、堀内内蔵、木村縫殿之助、大沢弁之丞、薗田彦六、須長八蔵。これら桐生勢は紀伊守の旗下となり、我先にと乗り出した。
新田勢は後陣となり、金谷因幡守を大将として、丸橋越前守、金井田伝吉郎、引田善八郎、岡部石見守、木村伊豆守、長島外記、斎藤織之助、戸崎源三郎、渥美又兵衛、同源五左衛門、安藤次郎助、松井半之丞、寺島小兵衛、島田久五郎、板橋戸市郎、岡新三郎、堀越茂左衛門、高山平六、坂庭与一郎、生方隼人、沼団右衛門、中根内蔵之介、小林寅之助、河上民部、小泉左京、芝山大助、園田彦七郎、井上出羽守、梁瀬藤九郎、小田兵部右衛門、瀧野辰之助、宮寺市十郎、久永図書、以上宗徒の人々三十六騎。上下合わせて百五十人が、浅海原を通って桐原村の間々下に布陣し、桐生勢と同時に攻め寄せようと準備した。

やがて、藤生紀伊守は軍勢を揃えて用明の出城に入った。
高津戸ではこれを見て、随見、勝安、越後勢が喜び、
「いままでは戦うべき敵もいなくて旅陣に退屈していたが、新田・桐生の兵どもが攻め寄せてくるのは望むところ。懸かる時も退く時も、決して味方を見捨ててはいけない。敵は大勢、味方は小勢なので、もしも敵に取り囲まれたら何の働きもできずに死ぬことになろう。とにもかくにも同じ枕に討死して、新田・桐生の者どもの目を醒まさせてくれよう。」と、勇みたった。
天正六年九月中旬のことである。
新田・桐生勢は野も山も前後を取り囲み、高津戸の勢は籠の中の鳥のようになってしまった。越後勢の中には肝をつぶして書状をしたため、国元へ形見を送る者もいた。
やがて桐生勢の大屋勘解由左衛門、常見隠岐、荒巻式部が、「新田勢に先を越されては末代までの恥辱」と手勢に言い含めて抜け駆けを行い、まず、北の攻め口に攻め寄せて鬨の声をあげた。
城中では、わざと鬨の声を返さず、矢の一筋も射ずに静まりかえっていた。
新田の軍勢は鬨の声を聞き、「さては桐生勢は抜け駆けして押し寄せたようだ」と、これも我先に押し寄せた。渡良瀬川(わたらせがわ)を隔てて鬨の声を上げ、遠矢を射かける者もいた。
金谷因幡守(新田勢の大将)は采配を振るって、「川を渡れ」と下知したが、急なことだったので新田勢は川の流れを見て押し合いながら乱れるばかりで、なかなか川を渡ることができなかった。
そのすきに桐生勢は城に押し寄せ、落し穴を埋め、乱杭を抜き、城内に乱れ入ろうとした。

城内では、勝安がひとつのはかりごとを思い付き、敵が混乱したら討ち取ろうと、まず土手の上に上がって大音声で名乗りを上げた。
「かく申すは、いかなる者と思うであろうか。上総入道の次男、平四郎勝安なり。寄せ手は、いかなる遺恨があってこれほどの大軍を催されたのか。我々兄弟は近年越後を迷い、今、ここに居住している。もともと当国にて出生の者なるゆえ、懐かしく存じて住み着き、以前の友を頼み、ここを末代の子孫まで露命をつなぐ地と思っていた。しかるに、思いのほか難儀な取り沙汰をして悪く取り成した者がいたため、新田・足利殿もそれを信じて御立腹されたのであろう。しかしながら、我々が新田・足利殿を恨むべき道理もない。それがし兄弟の恨むべき者は、心有る方々は御存知かもしれぬ。このたびの合戦で我ら兄弟が討死して、彼らを安楽のままにしておくことは無念至極。願わくば、このたびは速やかに陣を引いていただけまいか。」
これを聞いて、新田・桐生の軍勢の中には、勝安の言い分を「もっとも」とする者もあり、「これほどの軍勢を催したからには、是非合戦をしよう」と言う者もあった。その間に、新田・足利の物頭は我先に川を越え、無二無三に攻め寄せてしまった。
城内の者どもはこれを見て一斉に太刀を抜き、火花を散らして戦った。
新田・桐生の勢はあまりに逸りすぎて、伴田久六、岩下織部、永島外記、板橋戸一郎など宗徒の侍十三人が討ち取られてしまった。その他、下々の歩卒や弓人も、落し穴や逆茂木に遮られて大勢が討死した。
藤生紀伊守と金谷因幡守は目の前でこれを見て、「もってのほか」と驚き、采配を取り直して用明の出城の堀切まで軍勢を引き、しばらく休息を取ることにした。
新田・桐生勢は、「小勢とあなどり、ただ一揉みにしようとしたばかりに大勢を討たれてしまった」と言って、口惜しがった。
その日は暮れたため、軍勢は用明の城で野陣を構え、「勝負は明日決しよう」と夜を明かした。 
里見兄弟の最期
随見と勝安は合戦に勝ってお喜びになった。そして、こう仰せになった。
「敵はまだ引き上げず、大部分が用明の城に集まっている。夜の明けるのを待って明日の早朝から押し寄せ、今日の恥辱をすすごうと思っているのであろう。それがし兄弟を初め、連れの衆も明日討死が決まったようなものだ。新田・足利・桐生の大軍勢を引き受けて勝てるとは思わないが、かくなる上は何とかして藤生か金谷を討ち取って、大炊助殿の孝養にしたいものだ。」
越後勢がそれを聞いて、「それはそうですが、明日を待つのは油断というもの。今夜こちらから用明に押し寄せ、無二無三の勝負を挑みましょう」と言うと、随見は、
「我々もそう思っていたところだ。皆、その志があるなら、うれしい限り。」と、仰せになった。
そこで、思い思いの武装をして、その夜の八つ頃、百人ほどの人数を三手に分けて、三方から鬨の声を上げて押し寄せた。
新田・桐生の軍兵は突然の鬨の声を聞いて驚き、昼間の合戦でくたびれて前後不覚に寝入っていた者も多かったので、太刀、長刀、槍を奪い合い、取り乱して乱杭や逆茂木に当たって死ぬ者や、味方と思ってなれなれしく敵に近付いて討たれる者までいる始末だった。
藤生紀伊守はこれを見て、「敵はわずか百五十人にも満たない人数。顔を知らない者は、たとえ味方でも討ち捨ててよい。松明を出せっ」と大音声で下知した。それを聞いて味方もほとんど正気を取り戻し、桐生・新田の勢が一か所に集まって、敵と味方を見分け合った。
その頃、越後勢も思いのままに引き上げようとしていたが、紀伊守がそれを見て、「一人も逃すなっ」と追いかけてさんざんに戦ったため、越後勢はそこで二十三人が枕を並べて討たれた。
この合戦で、新田勢では引田善八郎、渥美五兵衛、島田久五郎、藤沼源右衛門らが討たれ、桐生勢は木村縫殿之助、大沢牛之助、園田彦太郎、稲垣源次郎が討たれた。桐生・新田の勢は、上下合わせて八十六人が死に、槍傷を負った者は数知れなかった。

随見と勝安もやっとのことで高津戸に引き返し、そこで味方の討死・手負いを改めた。しかし、勝安も深手を負っており、手当てもできないうちに間もなく死んでしまった。
随見と越後勢は力を落とし、渡し船で竿を流してしまったような気持ちになって、泣きながら勝安を弔った。
随見は力を落とし、「我ら兄弟の揃っていた今まではいかなる鬼神といえども恐れはしなかったが、勝安が死んでしまった今となっては、生きていても何の楽しみも無い。すぐに死んで、勝安と同道したい」と言って、正木大蔵を藤生紀伊守の元に送り、次のように申し遣わせた。
「それがし兄弟、生国を懐かしんで住居を構えましたところ、いかなる讒言があってか軍勢を向けられ、筋無き戦をつかまつりました。我らも連れの勢も、みな浪人の武士です。誰かの取り成しで新田・足利の御家人にもなりたく思い、すぐにもお尋ねに預かることができるのではないかと待ち望んでおりましたところ、このような難儀に及んでしまいました。かくなる上は、兄弟の首をお送りいたします。残りの越後勢は、本国に帰していただきたく存じます。それがし兄弟に免じ、御赦免いただきたい。」
紀伊守は了承して、
「御使者の趣き、神妙なる事に候。その地を退かれれば、切腹されるには及びませぬ。越後の衆も、武士の作法など、頼もしき御心底の方々。速やかにその地を退出していただきたい。こちらは元来遺恨も無く、御兄弟のことも時節を待って国繁、顕長方にしかるべく取り成しましょう」と、返答した。
正木大蔵は喜んで高津戸に帰り、詳しく報告したので、越後勢も随見も喜んだ。しかし、随見は、「いま自分が死を逃れれば、末代まで里見の家の恥となってしまう」と言ってすぐに切腹され、兄弟の首を紀伊守の元に送らせた。
紀伊守はこれを見て、「これほどのことは望んでいなかったものを。何といたましき有様か」と言い、首実検のために新田殿の元に奉った。
新田殿は兄弟の首を御覧になり、「何と不憫な事か。彼らは里見の末裔。最期まで智仁勇の道を失わなかった。子孫があれば、取り立ててやりたい」と言って、涙を浮かべられた。
その後、首を正木大蔵に下されたので、ねんごろに弔い奉り、越後の者どもは力を落として涙と共に本国へ帰って行った。 
神梅衆との和談
上州勢多郡神梅(かんばい)の寄居の芥沢(阿久沢、悪沢とも)能登守と松島式部は代々武士の家名を失わず、各々支配を全うして、桐生大炊之助殿の子息又次郎殿の代まで桐生の旗下になっていたが、又次郎殿敗亡の後は、縁者の取り成しで小田原へ年に二三度参勤していた。
(注:この芥沢能登守(古伯入道)と松島式部(道伴)は里見兄弟を援助した人々で、高津戸の北の山間部、神梅を本拠地にしていた。)
新田殿はこれを聞こし召し、ある時、藤生と小金井に、「桐生領の悪沢(芥沢、阿久沢)・松島は、いかがいたしておる」と、お尋ねになった。
両人はそれを聞いて、「委細は存じません。小田原の旗下を望んだと取り沙汰しております」と、申し上げた。
新田殿はそれを聞き、
「さては桐生の没落と里見兄弟の生害を情けなく思い、近くにいるのに我らの旗下を望まないとみえる。無礼至極の者どもだ。もしもそうなら、桐生の地侍と新田の歩弓人を遣わして追い散らしてくれよう。新田の物頭や騎馬の者は一人も出してはいけない。相手はわずかばかりの人数の者どもである。そのうえ、新田の軍兵は山中の地理を知らないであろう。よろしく頼む」と、仰せ付けた。
藤生、小金井は、「このままでは、きっとそのうち小田原の旗下に入ることでしょう。時日を移さず押し寄せましょう」と言って、吉沢、広沢、境野、菱久方、荒戸、本宿、小倉、仁田山、高津戸の地下人七百五十人、侍としては大谷、岩本、森下、風間、茂木、板橋、荒井、戸山、荒巻、伊藤、小林、近藤、薗田、石原、須長、籾山、福田、垣上、常見、大沢、箱島、永井、稲垣、江原、加藤、栗原、鹿貫、片山、野田、下山、内田、高田らの地侍を連れて、相生峠を越えて塩原明神の森に集まった。
新田の軍勢は、金谷因幡守を大将として近隣の人数を催し、薗田、岡田、萩原、関口、中里、大沢、津久井、下山、伏島、野口、山下、彦部、小泉、木村、布目、梶板、橋寺、田川、川上、矢野、峰岸、島田、松下らの歩弓人を残らず因幡守に付け、尼向坂を越えて梨子の木坂の上の原に集まった。そして、桐生勢と相談して押し寄せようと、伊藤右京と木村縫之助を相談のために塩原へ遣わした。
夕暮れ時のことだったので、伊藤と木村は歩弓三十人ほどを連れて、よろ瀬山の麓を通り、大原へ出て、敵方の偵察でもしようと思いながら進んで行った。それを、松島織部の元へ行く途中の高草木、郷戸の者たちが見つけて、「敵が押し寄せたようだ。大軍ならばひとまず逃げ、小勢なら討ち取って軍神に奉ろう」と様子をうかがうと、上下五十人ほどだった。
そこで、「逃げずに切ってかかり夜中まで戦えば、敵は山中の案内を知らないだろうから、そこを取り囲んで戦えば一人も逃さず討ち取れるだろう」と考え、前もって上下五十人ほどの手の者に触れを出し、谷や沢から我先にと駆け出し、三百人ほどで伊藤右京と木村縫之助の元に攻め寄せた。
伊藤と木村はこれを見て、逃げられる様子も無かったため、「家人一族や歩弓人を討死させるのは不憫だが、ここで死ぬしかない」と思い、全員に下知して脇目も振らずに戦った。敵は大勢で、しかも夜だったので、戦ううちに道に迷い、一人も残らず討たれてしまった。
新田と桐生の者たちはこれを知らず、夜が明けたら早朝から押し寄せようと待っていたが、伊藤右京と木村縫之助は帰って来なかった。そのうち、彼らが討たれたとの連絡があったので、「さては山中の者どもは早くも備えを出していたか。それなら桐生勢と相談せずに押し寄せよ」と騒然となった。
金谷因幡守は驚いて、粗忽に攻め込んだらどうなるか予想がつかないと思い、藤生紀伊守と共に攻め込んで兵が損耗しないようにするため、その日は一日相談して日を暮らした。

一方、山中の物頭どもも神梅(かんばい)の寄居に集まって善後策を相談したが、「ここはひとまず神梅の寄居を新田方に明け渡し、後日和談を願うべきだ」と言う者が多かった。
その日、郷戸、高草木の者どもが、
「我らが愚案しますに、新田殿は山中の古例である松島・悪沢(芥沢、阿久沢)の家のことや守護不入のことを知らずに、讒言によって軍勢を向けられたものと思います。どうか今回は和議をお願いいたします。昨晩の狼藉は新田勢も御無念でしょうから、次は無二無三の合戦となりましょう。そうすれば、どんなに必死になっても味方の勝利はありえません。山中の一族は残らず滅亡してしまいます。」と言ったので、道伴と古伯は、
「鳥海弥三郎、廚川次郎以来の家名も滅ぶべき時節が到来したか。驚くべきことではないが、家人一族が亡んでしまうのは情けない。今となっては和談がかなうとも思えないが、紀伊守方に申し出てみよ」と言って、松島弥四郎に犬目、平沢、多沢、和久丸らを添えて高津戸へ遣わした。
藤生紀伊守と金谷因幡守は、松島弥四郎に対面して事の子細を尋ねた。弥四郎は若輩だったので、代わりに犬目と平沢が進み出て質問に答えた。
「悪沢・松島家の由来を御説明いたします。天喜五年の春、阿部貞任が九州に流される時、上下七百三十人が奥州からお供つかまつりました。義家公が、『箱根山を越えて大勢を連れて行くことはできない。お供の人数は百人までにせよ』と仰せになったので、大部分の者は置き去りにされて、涙を流しながら貞任にお分かれいたしました。その際、貞任が、『行き先の国は、遥か彼方の国と聞いている。奥州への便りの中継ぎのために、このあたりに住め』と仰せ付けになり、松島・悪沢とその家人一族百人ばかりをここに残し置かれました。残りの者は、全員奥州に帰って行きました。義家公がその場で御朱印をしたためられ、末代までこの谷合の地をすべて住居として拝領しました。それ以来、この地に何代にもわたって住んで参りましたのに、誰が讒言を申し上げたのか、このように新田の軍勢を差し向けられたのは意外なことでございます。新田・足利にお取り成しをお願い申し上げます。」
(注:実際は、阿倍貞任(廚川二郎)は康平五年(1062)に奥州で討たれているはず。弟の阿倍宗任(鳥海弥三郎)は投降して京に送られたあと、康平七年(1064)に伊予に流されている。上記の説明は、宗任が上州を通過した時のことが誤って貞任の事蹟として伝えられたものと思われる。天喜五年(1057)という年号も誤り。)
紀伊守はこれを聞いて、「仰せの段はもっともではあるが、桐生又次郎の旗下になりながら、又次郎の敗亡ののちは目の前にいる新田の旗下に入らないなど、近頃いろいろと不届きな行いが多い。詫び言を述べたとて、聞く耳持たぬ。」と、言った。
犬目と平沢がそれを聞いて、「今後は新田の旗下となってあい勤めます。不届きについては御赦免いただければ、これからは山中の繁盛のために一族の中から一人証人を差し出します」と、申し上げた。
紀伊守も子細を聞いて、「赦免せずに山中の一族を滅亡させるのも、思えばかわいそうだ」と思い、新田へ事の子細を伝えた。
由良殿は聞こし召して、「最近の不届きは許し難いが、わずかな人数の者たちのことだから、思うとおりに処置せよ」と仰せになった。
紀伊守は喜び、山中へその旨を伝えたので、山中の者どももおおいに喜んだ。
ところが、小中と高草木の者どもはこの和談のことを知らずにあちこちで戦いを始めたため、郷戸、塩原、花輪、穴原の者どもは残らず撫で切りになってしまった。それを聞いて山中の者どもが皿窪、五閑田へ馳せ集まって情報を集めると、まだ使者の松島弥四郎、犬目、平沢、田沢、和久丸は高津戸から帰っておらず、「首尾がどうなったのか心もとない」と、三百人ばかりで平押しに押し出して来た。
新田勢は梨子木坂の上原からこれを見て、「敵は大勢で陣を張って押し寄せてきたようだ。『攻め寄せた新田勢が、逆に山中の勢に攻め寄せられた』などと近隣で取り沙汰されると恥ずかしい。川を越えて戦おう」と、我先に討って出た。そして、上下五百騎あまりが一斉に川を渡り、よろ瀬の西北に向かって火花を散らして戦った。
その合戦の最中に、「高津戸で和議が成立した」との連絡が入ったため、新田勢の中には陣を引く者もあれば、そのまま皿窪五・閑田まで追いかけて追い討ちする者もあり、また、向原、奈良坂の方へ逃げる勢もあった。
金谷因幡守は味方の様子を見て、早鐘を打って軍勢を集め、「新田から、このたびは山中の者どもを御赦免になるという連絡があった。全員帰陣せよ」と言って、新田・桐生の軍勢を引き上げさせた。
つまらないことから新田・桐生の者、百七八十人が死んでしまった。使者の松島弥四郎も討死し、犬目、平沢も深手を負って三日後に死んだ。
悪沢道伴は、新田殿との和議が成立したものの小田原(北条氏)がどう思うか心もとなく思い、討死した新田・桐生の者の首を小田原に持参して、今回の戦いのことを注進した。氏直公は御対面になって顛末をお聞きになると、お喜びになって御褒美を下された。
氏直公は、「山中の者としては、新田・足利と結ばなければ、近隣なので無礼になろう。今度の和談も、我らに遠慮した末のことであるからそれでよい。しかしながら、由良と長尾がすぐに注進して来ないのは、後日の罪過となろう」と、仰せになった。
悪沢道伴は小田原から戻り、松島式部、小中、高草木の者どもを連れて新田・足利に参上した。これまでの子細を述べて、金谷因幡守と小金井四郎右衛門の取り成しをもって、今後は旗下に入ることを約束して帰って行った。 
佐野宗綱の討死
十二月二十九日、佐野宗綱公が富士源太を召し寄せて、
「来る元日の朝、旗下の勢だけで足利へ押し寄せて、不意を襲おうと思う。宗綱が出馬したと聞けば、館林と新田の勢はすぐに集まって後詰めしようとするであろう。今回は名草へ出て、藤坂の寄居を踏み荒らしたあと、須花の小曾根筑前の屋敷を攻め、様子を見て足利の本城まで攻め込もうと思う。万一、新田・館林の軍勢が集まって佐野勢が退けなくなった時は、物頭と歩弓人を集めて戦わせよう。まず、旗本だけで出馬する」と、仰せになった。
源太がまだ御返答も申し上げないうちに、宗綱公はさらに仰せになった。
「佐野と足利はたびたび戦ったが、佐野勢はこれまで一度も後れをとったことがない。先年、若林、猿田、河崎の合戦の時は、野田・小曾根を越えて押し寄せ、館林城のあたりを狼藉して帰陣したものだ。あの時は、新田・足利の後詰めの大軍が来たので佐野へ引き返した。そのあと、免鳥城の合戦でも佐野方は負けず、足黒、西川辺の初苗合戦の時も郷人や歩弓人をたくさん討ち取った。あの時は、佐野方の討死は須花と樺崎を預けていた小野兵部だけだった。その時の遺恨のためか、足利勢は最近、免鳥領名草境の秣場を荒らし、麻畑を踏み散らし、たいへんな狼藉を働いている。山上道及や天徳寺などがどう思っているかと思うと恥ずかしい。」
そこに大秡(大貫)隼人が参上したので、宗綱公は隼人にも同じ事を仰せになった。隼人はそれを聞いて、
「仰せの趣き、承知つかまつりました。しかしながら、元旦の御出馬は避けていただけないでしょうか。大の月の晦日と正月元日の合戦は項羽も嫌ったほどで、合戦の日取りにはよくありません。三月の初めまで御延期いただけないでしょうか」と、申し上げた。しかし、御承引はなく、結局、大晦日の夜の丑の刻に触れ回って、突然の御出馬となった。
その頃、足利では顕長公が諸物頭を召して仰せになっていた。
「佐野宗綱は、近年の遺恨を晴らすため、軍勢を出して無二無三の合戦をしようとしており、近いうちに名草から攻め寄せるという風聞がある。特に、須花の小曾根筑前は小勢で心配なので、歩弓人をやって、里人にいたるまで油断なく守りを堅めるように。佐野が大軍で攻め寄せて来たら、新田・館林・小俣から加勢してもらい、前後左右に若武者を置いて、今度こそ一人も逃さず討ち取り、佐野を足利の支配の地としたい。」
そこで、足利では守りを厳しくかためていた。

佐野では、天正十一年十二月二十九日の丑の刻になって、突然、「名草・藤沢の寄居に押し寄せ、正月元日の早朝から小曾根筑前守の居城へ攻め寄せよ」と、諸物頭に触れて回った。しかし、人々はあちこちの山を隔てて散在していたので、宗綱公の思し召しのように軍勢が速やかに集合することはできなかった。
宗綱公は腹をたて、彦間の方へ馬を向けて、「馬廻りだけでも須花に乗り込んで合戦せよ」と仰せになると、馬に鞭をあててお進みになった。
それを見て、赤見、大秡(大貫)、富士源太を初めとする面々が、
「このたびは、まず佐野へ御帰陣ください。元旦の合戦なので歩弓・物頭も心勇まないように見えます。そのうえ、足利の遠見番所の早鐘の音が激しく聞こえます。後詰めも来るでしょうから、佐野方の勝利はありえません。雪も深くて、道もわからなくなっています」と、申し上げた。
しかし、宗綱公は、「もっともなれど、運は天にあると思うべし」と言いながら馬に鞭をあてたため、馬は一気に駆け出した。味方は一騎も連れていなかった。
藤坂山の北に馬を走らせていると、どこからか鉄砲の流れ弾が飛んで来て、内兜のしころを貫通したため、宗綱公は馬から落ちて息ができなくなった。お供が一人もいなかったので、是非なく田の畦道に腰掛けておすわりになっていた。
一方、足利では、彦間、須花、藤坂の者たちが残らず撫で切りにされたという連絡が入ったため、顕長公はおおいに驚かれ、鐘を打たせて近辺の勢を集め、後詰めに遣わされた。自身も御出馬されると言って、人数の手配を仰せ付けられ、新田と小俣にも急いで使いを出せと大騒ぎになった。そして、芳賀野右衛門、柳田隼人、山口播磨、杉本修理之助を初めとする人々を、駆けつけ次第、使いとして派遣した。
やがて、荒井図書、大沼田淡路、市川左衛門、久米伊賀守、岡田、関口、小菅、湯沢、小柴、小林、三保、川田を先陣として五十騎が平押しに押し出し、「佐野勢が帰陣したら本城までも追い討ちせよ」と下知して乗り出した。
新田と小俣の加勢は取るものも取り敢えず我先にと乗り出し、松田、栗谷を越えて藤坂山の峰まで押し上がった。すると、藤坂と須花の寄居は退去し、彦間の本城は堅固に守られているという連絡が入った。宗綱討死のことは、まだ誰も知らなかった。

さて、宗綱公は、あとに続く勢もなく一人でいたが、気分がいよいよ悪くなってきたので自害しようとしていた。
すると、そこに若侍が一人走り寄って来て、「これは良き鎧武者。佐野勢の大将分のお方とお見受け申す。すみやかに鎧かぶとをお渡しなされ」と、声をかけた。
宗綱はそれを聞こし召して、「それは簡単なこと。首と一緒に持って行くがよい。しかしながら、最後に名字を聞かせよ」と、仰せになった。
若侍はうけたまわって、「それがしは彦間勢のうち、豊島七衛門と申す者なり。鎧兜さえお渡しになれば、命はお助け申す」と、言った。
宗綱がそれを聞こし召して、「今このようなありさまに及んで、やさしき心指しを申すものよ。」などと言っているところに大勢が駆け寄って来たため、七衛門は、「人手に懸けるよりは御首を申しうけん」と言って組み伏せ、御首を取ってしまった。集まった勢はこれを見て、「この首は佐野宗綱ではないか」とあやしんだ。
しばらくすると佐野勢の間に、「宗綱公は藤坂山の畑田の隅で討死された」と口々に言い伝えられた。赤見、大秡、富士源太が驚き、宗綱公を探してあちこち尋ね回ってみると行方がわからないので、「おそらく、討死というのは本当だ」と心を煩わせ、弓矢も捨てて呆然としていた。
やがて、富士源太が、「かくなる上は、彦間本城に首があるに違いない。無二無三に乱入して御首を取り返そうではないか。もしも討死したとて本望だ。かねてから来世までも御供つかまつろうと決めたことだから」と、言った。
赤見内蔵之助はそれを聞いて、
「それは思いとどまるべきだ。たとえ大将が本当に討死されたとしても、我々までがこの合戦で討死してはいけない。もしも討死すれば、敵にとっては喜びの上の大喜びではないか。山中道及、天徳寺などもおわすことだから、指図もあるに違いない。しばらく御留守になったのと同じことだ。このような事態の時は心を静めて、敵が後日心もとないような思いをするように謀ることこそ軍(いくさ)の第一だ。大将はまだ二人もおわす。我々がまだいるからには、どんなに足利が盛んになろうとも、時節を待って顕長の御首を申し受けることもできよう。まずまず、このたびは速やかに帰陣すべきであろう」と言ったので、源太も思い詰めた剛心を和ませ、涙とともに帰陣した。 
戦勝祝い
正月五日、足利の御城に御一族と家人が集まって御祝いの礼式があった。おのおの召し出されてお盃をいただいたあと、顕長公が仰せになった。
「佐野と足利のたびたびの合戦に民百姓も疲れていたところ、諸物頭も油断なく、宗綱を討ち取ったこと、喜び斜めならず。各々の武力がまことだったゆえである。」
それを承って、物頭の一人が、
「このたびはまことに御めでたく、御家の長久のもといでございます。佐野・桐生は思し召しのとおりになりました。このうえは、西上州、野州、武蔵、常州までも御手に入ることでしょう」と申し上げた。
顕長公は御機嫌良く、まず御盃を小曾根筑前守に下され、次に豊島七衛門に下されてお言葉をかけられ、「七衛門尉、めでたし」と仰せになった。
それから他の面々にも御盃を下された。すると、御盃を頂戴しながら江戸豊後がはらはらと涙を流したので、座中の人々は不審に思った。長尾殿(顕長)も御気色を変えられ、「強敵を討ち取って共に喜ぶべきなのに憂えたような様子をするのは何故だ。佐野方に縁者でもいるのか」と仰せになった。
すると豊後は、
「御屋形様の仰せとも思われませぬ。たとえ親子兄弟で合戦に及んだとて、互いに恥を知って他人よりなお義理固く討死することは、よくあることでございます。それがし、愚案を申し上げたきことがあります。宗綱を討ち取ったうえは、まず急いで小田原へ注進されるべきです。今日まで注進せずにおいたのは、はばかりながら御油断でございます。小田原は、近国にあまた大名があるといえども、肩を並べる者もいない大名です。氏綱公から今の氏直公まで五代相続して繁栄し、御一門や譜代がいたるところに満ち満ちております。何とかして新田、足利、佐野、桐生、小俣をも御家人にしたいと思っていることでしょう。しかしながら、新田、足利はかねてから御昵懇で、これまではそれを実行に移してはおりません。しかし、佐野と桐生は討ち取られたので、今残っているのは新田・足利・小俣だけです。何と言っても小田原は並び無き大名なので、参勤しておくことが必要と存じます。また、彦間、藤坂の寄居などへは加勢を送って警戒するよう仰せ付けられるべきなのに、それもされておりません。佐野方に隙があるようなら押し寄せて無二無三の働きをしようと思うべきです。勝って兜の緒を締めたいものでございます」と、申し上げた。
国繁、顕長はそれを聞こし召して、「その方の考えるところには、一つも除くべきところがない。神妙にも申したものよ」と、御機嫌を直され、「しかしながら、小田原へ注進する暇もなく、また、寄せて来た敵を討たないでおくなどということがあろうか」と仰せになった。
豊後は、
「敵対する者を御退治になるのは当然のことです。今のような時は、三五七といって決まった用心の仕方があるのです。このたびの宗綱の討死も、士卒の働きと御一族が一心同体で和しておれば、たとえ運命が尽きていたとて、このようなことにはならなかったはずでございます。今回の合戦では、天徳寺や山上道及などは加わっておりませんでした。そのうえ元旦の朝に攻め寄せるなどということをしたので天罰を受けられたとみえます。浅葉、小曾根、荒井、その他の人々、それがしの申し上げたことが理でないと思し召すか。いずれも御心底、こころもとなし」と、目をかっと見開いて申し上げた。
座中の上下の面々は、一言の返答もできなかった。 
由良成繁の遺言
由良成繁公(由良国繁、長尾顕長兄弟の父)は御逝去のみぎり、御子たちと御一族に御遺言を数箇条残されたほか、次のようなことを仰せ聞かされた。
先祖義重公の時から居城は徳川である。そこは平地で一重の掘と屋敷しかないが、三徳があって城郭として優れている。今、金山を城にしていることは先祖に背くようではあるが、以前とは異なり、那波、伊勢崎、前橋も皆和談して味方同然になっているためである。
もしも西は箕輪、鷹巣、小幡、沼田、東は佐野、結城、榎本、栃木、壬生、小山から攻め寄せたとしても、この城を取り囲めるだけの人数が揃えられるとも思えない。もしも関八州を敵に回したらどうなるかはわからないが、城内のことがわかっているのは旗下の勢だけなので、敵を眼下に見てなぶり討ちにするのもたやすかろう。山の頂上には池がある。飲み水、薪、糧秣に飢えることもない。この山は、無類の名城である。楠正成の千破剣(ちはや)の城は五徳相応の名城で、一徳も外れたところが無いが、この城もそうである。しかし、そうはいっても、それを頼りに籠城してはいけない。
日本国中の勢を引き受けたとしても、東北は渡良瀬川、南は利根川で遮られている。いずれも近くに馬の足を入れさせないようにはかりごとを巡らせて大将の心の鬼を研げば、五十年、百年戦っても落城はしないであろう。
大将には、合戦のたびに異なる法がある。それは教えられることではない。
由良と長尾は兄弟であって、別儀があるはずもない。近隣の大名や国主から招かれようとも、兄弟が一緒に行くことは避けなければいけない。酒宴遊興も一緒に行ってはいけない。出陣の時も、同じ場所に布陣してはいけない。
近隣の小名を参勤させ、家人一族を大切にしなければいけない。逆心、不忠の輩は、決して許してはいけない。民の小さな過ちを取り沙汰してはいけない。神社仏堂を大破に及んではいけない。筋の無い合戦を催してはいけない。
このように仰せになって、ついに御逝去され、居並ぶ横瀬殿をはじめとする御一族、御家人が涙を流した。 
小田原幽閉
足利長尾殿は、宗綱を討ち取ったことを注進するために、御名代の横瀬勘九郎殿に久米伊賀守を添えて小田原に遣わされた。
氏直公は御対面になって初めから終わりまでお聞きになり、「新田・足利の働き、神妙なり。一族、家人の働きも感じ入るところなり」と、斜めならずお喜びになった。そして、横瀬殿と伊賀守に御褒美を下されて帰された。
同年正月二十五日、小田原は、前橋、新田、足利へ御名代として山上五衛門を御年例に遣わされた。中でも、由良と長尾には、懇ろな御口上があった。
「先年、由良殿は武勇をもって桐生又次郎を討ち取り、そのうえ、このたび長尾殿は宗綱を討ち取られました。両家の働きには感じ入りました。このうえは、甲州、野州までも御手に入れられるでしょう。まず、佐野宗綱の一族・家人が居城を守っていますから、何とかして佐野を支配の地にしたいものです。もしも壬生、結城、小山までも御出馬されるならば、こちらからも加勢の人数を送ります。寄居、鉢形の者どもにも、それをすでに言い含めてあります。両家が出馬して攻め落とした土地には、こちらは野心は持っていません。このたび山上五右衛門を遣わして申したことはそちらの思う通りに判断していただいてかまいません。よければ、御両家一緒の御訪問を望んでいます。」
これを聞いて、由良・長尾殿が思慮もなく山上五右衛門と同道して小田原へお越しになったのは笑止なことであった。
小田原に着いてみると、思ってもみなかったことに御対面もならず、しばらく待たされたあと山上五右衛門を通して次のように言われた。
「両家の参府は、珍重の至りである。両家の武力をもって佐野宗綱を討ち取った様子をただちに注進すべきところ、延引したのはもってのほかのこと。先年の淵名合戦の時も、それぞれ勝利したのに注進が無かった。また、北条安房守、伊勢大和守、田米伊賀守が佐野を攻めた時、成田の勢を案内にして行田、岩槻、目沼、川越の勢が残らず加勢に出て、それによって佐野前川原まで攻め寄せ、宗綱の二三の備えを切り崩し、旗本・後詰めの備えまで乱れたったことがあったが、周囲に備えていた佐野の家来の畑野治郎右衛門、富士源太、竹沢、大秡以下の者どもが旗本と一緒になって采配を取り直して必死で戦ったため、宗綱の備えも立ち直り、宗綱自身が采配を取って下知しながら戦ったため、行田、川越の勢の犬畑与十郎、早川田玄蕃を初め、宗徒の者ども十八人が討死してしまった。あの時、新田足利の両家から加勢を出して案内でもしていれば大勢の討死も無かったのに、各々高見の見物をしていたのは奇っ怪の至りである。このたび宗綱を討ち取った時も、ただちにその首を持参して注進すべきところだったのに延引したのは、すべて近年疎略にしてきたのと同じで、もってのほかのことである。逗留中、最近の不届きをゆっくりうけたまわろう。それまで、しばらく召し込めさせていただく。」
こう言って、前もって控えていた人数が出合い、手足を取って座敷牢に入れ奉り、番人を置いて厳しく監視を始めた。

そのあと、山川五右衛門が蓮池の門外に出て、由良・長尾殿の御供の人々に、
「新田足利両城主は近年氏直方に対して不届き無礼があるため、こちらに留めおくことになった。御供の面々はまかり帰るべしとの御上意である。委細はおっつけ城代一族の方に申しつかわすとのことである。全員そのようにこころえるべし」と、申し渡した。
御供の面々はこれを聞いて驚き、五右衛門に、
「これは、思いがけないことを仰せになる。そのようなことがあってお留め置きになるのなら、御両主のうちの一人にでも対面を願い、委細をうかがってから帰りたく存じます。命に代えても両主のうちせめて一人だけでも対面させていただく」と言いながら、城内に乱れ入ろうとした。
五右衛門はこれを聞いて、
「各々の思う所はもっともであるが、決して両将の大事に及ぶようなことは無い。まずはすみやかにお帰りください」と、言った。
その時、金井田伝吉郎、細谷善九郎、堀江彦助、林又十郎、金井新蔵、長島外記を初めとする面々が、「委細を聞かずにおめおめと帰ることはできません。御城内に御案内ください」と、目と目を見合わせながら言った。もしもかなわない時は、五右衛門を取り囲んでただちに討ち取り、城内へ乱入して氏直に一太刀入れて討死するかのような気色にみえた。
五右衛門は軍法第一の上手だったので、少しも騒がずに言った。
「各々が、それがしの申すことを少しも聞き入れないのは、不忠の至りと存じます。両主のためと存じ、それがしが罷り出て穏やかに説明しているのに、一時の血気にまかせて城内で狼藉でも働けば、御両主のためによろしくないことになりましょう。言われたとおりに御帰城されるべきところを、それぞれの義理ばかり立てようとするのでは、忠孝の道に違うことになりますぞ。」
そこに、城内にお供して行った国繁公の御家人、市川主馬之助、宮崎五太夫、江川海老之助、斎藤佐右衛門、芳野次郎八、小萱弥太郎、関口馬之助、岩崎弥太たちが汗を流しながら走って現れ、城内での出来事をつぶさに語ったので、それを聞いた供回りの面々も、両主の御命があることを知ってやや静まった。

御供の面々が静まったので、山上五右衛門は城内に戻って氏直公に供侍の様子を申し上げた。氏直公はそれを聞こし召して、
「さもありなん。もともと新田足利の家来は一騎当千の者ども。そのほうのはかりごとによって、無事に静まったとみえる。さっそく新田足利に討手をつかわし、家人一族を追い散らしたいものだが、まずその前に先方の出方をうかがってみよ」と仰せになった。
一方、御供の面々はいろいろ相談した結果、ともかく本国へ帰ることになり、外島外記が国繁公の御召し領の馬に乗って、小田原から新田までの四十里あまりの道のりを十時ばかりで馳せ戻った。その馬は、翌日の昼、死んでしまった。
金山の本城に登って小田原での出来事を申し上げると、横瀬殿(横瀬勘九郎)を初め、城代、老中はおおいに驚き、上を下へとたいへんな騒ぎになった。
足利、小俣、桐生へも、ただちに事の次第を連絡した。
御母公(妙印尼。由良国繁・長尾顕長兄弟の母)や横瀬殿、上下の面々は、「由良の出城や、寄居の民百姓も、事件のことを聞いてきっと騒動するに違いない。諸物頭に触れを回して、静かに対処するように申しつけないといけない。おっつけ小田原から軍勢が来るだろうから、一族物頭の面々は残らず金山に集まって軍議を尽くそう」と、こぶしを握りしめ、ひじをさすって、上を下への大騒ぎになった。
北条氏直公は、山上五右衛門と北条安房守を召して、「新田足利へ軍勢を出して、一族家人を追い払おうと思う。ただ、一応、使いを出して両家の一族家人がどう対応するか様子をうかがおうと思う」と仰せになった。
安房守はそれをうけたまわって、「ただちに軍勢を送った方がよいでしょう」と申し上げたが、五右衛門は、「まず使者を送った方がよいと存じます。新田足利の一族家人の出方を見てから、そのうえで対応すべきです。この両家は他の家とは違って、文武二道にすぐれた者が多い家です。はかりごとを用いずに支配の地とするのは困難と存じます」と、申し上げた。
氏直公はそれを聞いて、御使者として多米九郎、同次郎、平塚又五郎に歩弓三十人を添えて、新田足利の一族のもとに遣わした。その下し状には、次のように書かれていた。
このたび両家の大将を小田原に留め置くのは、近年の不届きのゆえである。そのうえ、今度宗綱を討ち取った際、ただちに注進すべきところ、山上五右衛門が行ってからようやく参府して報告するなど、恨むべきところが多い。両人は、この先三四年ほど小田原逗留と決まった。一族、家老、物頭も、残らず小田原に参府すべし。居城には、こちらから加番の軍兵を遣わす。少しでも滞る子細がある時は、そのように返答いたさるべし。 
小田原からの使者
金山本城では、新田足利の一族家人が集まり、両主の帰城を願って毎日いろいろと対策を相談していたが、そこに小田原から使者が来訪して、前記の旨を伝えたのであった。
本城で使者の口上と下し状の内容を聞いた面々は、横瀬勘九郎殿を初めとして、小金井四郎右衛門、矢場内匠之助、柳内修理之助、大沢下総守、林越中守、同伊賀守、鳥山浄仙などの侍大将一同、足利の御家人では、白石豊前守、大沼田淡路守、阿方源内、荒井図書、小沼弾正、南江左衛門、高山馬之助などである。
これら両家の物頭の面々が、三間十五間の広間に列座して、こぶしを握りしめ、汗を流しながら口上を聞いたのであった。
横瀬勘九郎殿は、使者の口上を聞こし召して、少しも騒がず仰せになった。
「両主が小田原に逗留の儀につき、氏直公がわざわざ留守の者にお知らせくださったこと、ありがたく存じ奉ります。はばかりながらお返事を願い奉りますので、ゆるゆると御休息くださり、明日になってから御帰りください。」
そして、「山海の珍物を用意して御馳走いたせ」と命じ、新田足利の郷力若侍を交えて、少しも手を抜かずに接待を始めた。
その間に、横瀬殿を初め老中、物頭は残らず北の曲輪に集まって善後策の相談をおこなった。
まず、大沢下総守が、「御両主がこのようになってしまったからは、どんなはかりごとを成したとて死んでお別れしたも同然。このたびの使者は帰すわけにいきません。使者は獄舎に入れ、足軽どもは四五人の耳鼻を削いで小田原に帰しましょう」と、言った。
それを聞こし召して、横瀬殿は、
「下総守の言われることももっともである。両主が深い考えもなく、一族にも相談せずに小田原に行ったのは、すでに運命も尽き、八幡大菩薩も見捨てさせたもうたものとみえる。口惜しきこと限りなし。そのうえ、この城に小田原からの加番を入れるなど、もってのほかのことである。おのおのがたやそれがしが在番しているため、小田原はすぐには加番を入れず、我々がどう対応するかをうかがうために、まずは穏やかに使者を送ったとみえる。しかしながら、両主の命をつなぐため、今度の使者は穏やかに返事をして帰した方がよいであろう」と、仰せになった。
新田足利の面々も、横瀬殿の仰せを「もっとも」と感じた。
小俣の義勝公は、
「新田足利の一人でも留め置かれたら、末代までの遺恨である。それがしと横瀬殿が、供まわりに新田足利小俣の大力の者を選んで、使者と共に小田原へ行くのはいかがか。小田原でまずは穏便に話しを進め、様子が良ければ由良・長尾を同道して帰り、万一首尾が悪ければ城中で狼藉して氏直の首を取ることもできよう。仮にしそんじたとて、安房守(北条氏邦)の首は取れるであろう。我々両人が討死するとしても、小田原には万人の墓を築いてくれよう。我らが討死したと聞いたら、新田足利小俣の軍勢は、両主ならびにそれがしと横瀬のために弔い合戦をしてくれ」と、涙を浮かべて仰せになった。
これを聞いて大沼田淡路守と小金井四郎右衛門が、
「もったいなき仰せ。大将二人を人質にされただけでも無念なのに、このうえ御両所が討死したら、敵は喜びのうえの大喜びです。このような時は、御心を静め、敵にはかられないように心掛けねばなりません。敵に強く出れば御両主のお命が危うくなります。なにとぞ、御両主のお命が助かるようなはかりごとをお願いいたします。小田原がこの城に攻めて来たら簡単には渡すわけにいきませんが、御両主のお命があるうちは、なにぶんにも穏やかに話しを進めて、そのあとではかりごとをめぐらせましょう」と、申し上げた。
義勝公と横瀬殿や物頭たちもそれに同意し、穏便な返事をして小田原からの使者を帰すことになった。 
小田原勢の襲来
相談が終わって、林越中守が小田原からの使者に言上した。
「このたびは、由良長尾の小田原逗留につき御念の入った御使者に預かり、ありがたく存じたてまつります。近年の疎略、不届きについて仰せ聞かされたことについては、思いがけないことでした。近隣に大名が多いとはいえ、小田原のことは新田足利は心からたのもしく存じ、朝夕あがめたてまつり、疎略に思うようなことは決してありません。そのようなことがあれば、このたび兄弟そろって参府つかまつるようなことは無かったでしょう。無礼に思し召すことがあったとしたら、お詫び申し上げます。このたび小田原にうかがう機会ができたのを喜んで参府いたしたのですから、なにとぞお許しいただき、今後はよろしく御支配にお任せいたします。居城については、御地から加番を仰せ付けられるには及びません。新田足利の一族が在番つかまつります。なにとぞ由良長尾の帰城を願いたてまつります。」
こう伝えて、使者を小田原に帰した。
使者が小田原に帰って、ことの趣きをつぶさに氏直公に申し上げると、氏直公は、
「赦免したいところだが、すでに幽閉してしまったからには、新田足利はこれを遺恨に思って末代まで北条家の大敵になるにちがいない。この機会に軍勢を出し、新田・足利・館林を攻め取って小田原の支配の地にいたそう」と言い、北条安房守を大将として、二千五百騎余りの軍勢を編成した。
侍大将としては、伊勢大和守、守田米主膳正、大道寺駿河守、山上五右衛門。成田左衛門を案内者として、忍、深谷、岩槻の軍勢を添え、天正十二年二月十八日には新田古戸の渡しを越え、川上は中瀬、小島、川下は小泉、吉田原、赤岩のあたりまで、川を背にして野陣を催した。そこでかがり火を焚いて全軍の到着を待ち、手分けして新田足利を攻めることになった。
忍、深谷、岩槻の勢は、花房内膳の旗下に入れて館林の押さえのために遣わした。
寄居、鉢形の軍勢三百五十騎は神原治部、浜島与一郎、大磯勘解由左衛門を大将として、強馬を選んで足利攻めのために光西寺原に布陣し、富士山の要害を撫で切りにしてから小泉の要害まで狼藉しようと、近辺の民家や神社仏閣へ乱入して火をかけ、言語を絶するばかりの狼藉を行った。
近隣の厩橋(前橋)、伊勢崎、大胡、山上の者どもはそれぞれに防備を固めて、「今回の小田原と新田の合戦はいつもの合戦とは違い、互いに大勢の討死が出るだろう」と、噂し合った。
近国の人々は、「新田足利は小田原の使者にどんな返事をしたのか。小田原の軍勢が突然攻め寄せて来て、今度の合戦でいよいよ新田足利は滅亡するに違いない」と噂し合い、持ち物も捨て、財宝は土に埋め、山奥にでも逃げ込もうと右往左往して大騒ぎになった。
北条安房守(氏邦)は中瀬村江原というところに御着きになると、一晩野陣を構え、だいたいの人数が揃ったところで平塚の渡しを越えて、木崎、徳川、江原、田中の民家を焼き払った。その後、脇屋、反町に陣宿を構えて、「金山の城を攻めよ」と人数の手分けをおこなった。 
金山城の守備
さて、金山では、新田足利の上下の面々が集まって評定をおこなった。評定の席で、横瀬勘九郎殿が仰せになった。
「このたびの合戦は新田足利どちらの大将もおられず、それがしと物頭の面々だけである。決して気を乱さず、何事も心を合わせ、上下が一つになって落城しないような軍法をおこなわないといけない。しかしながら、敵が無二無三に攻めたてようとも、味方は強く働かずにはかりごとを専らにするよう心がけよ。この金山城は、敵を眼下に見て戦う時の堅固さは、日本無双の名城と言ってよい。敵が広沢、桐生に乱れ入って長陣したとしても、兵糧に困ることもない。」
まず、桐生の地侍は藤生紀伊守を大将として、浅海、薮塚、長岡、大鷲の前に土塁を設け、山や谷には石弓を構えて守備を固めた。
寺井、由良、細谷、岩松の者どもは、鳥山主膳と金谷因幡守を大将として由良の出城に籠もり、敵の様子をうかがった。
金山本城では、横瀬勘九郎殿、小金井四郎右衛門、林越中守、大沢下総守、柳内修理、浜田内匠、畑六郎、江田兵蔵、堀口彦五郎、長島外記、矢場主計を初めとして、宗徒の大将三十九人が手分けして前後左右の持ち場をかためた。
長手口は、小金井四郎右衛門、柳内修理、大沢下総守を大将として、郷戸、鶴生田、成塚、萩原の郷人を谷々に籠めおき、後口にまわる敵の押さえとして、吉沢古郡の者どもは荒井主税と茂木右馬之丞の組下に入れ、岡田石見守、薗田彦七郎、伊藤重蔵、長谷川与惣左衛門、渥美源三郎、大宝寺勘太郎を初めとする面々と共に丸山の峰の寄居をかためた。
新田口の大将としては横瀬勘九郎殿を初め宗徒の大将十六人、熊野口には林越中守、同伊賀守、堀口彦五郎、矢場内匠之助、野山九郎兵衛を初めとする宗徒の人々十三人が、坂下の平地に集まり、石弓と落し穴をあつらえて寄せ手を待ち受けた。
焼山と金井の間には、懸田播磨守、矢木田清九郎、内田左衛門、窪田金蔵、松原勘解由、清水三郎左衛門、唐沢出羽守以下の百三十人が馬場の西に陣屋を設け、焼山の峰に物見番を置いて、鳴りを静めて待機した。
市場只上にはわざと勢を置かず、桐生と広沢には、山中の物頭の関口尾張守、風間将監、大谷勘解由左衛門、津久井左京、松島古伯、悪沢道伴、石原石見、彦部加賀守、以上、名ある侍百五十人の組下に郷人を入れ、五百人あまりが広沢の寄居に集まって、峰には遠見番を置き、金山で合戦が始まったら横槍を入れようと待機した。
小俣の城には義勝公が御家人、郷人を集め、桐生川の左右に乱杭逆茂木を置き、厳しく下知して中島笛吹坂に勢を揃え、もしも新田落城ということになったら全軍を上げて一合戦しようと待ち受けた。
羽鹿、大前、松田、栗谷、板倉の郷人、地侍たちは小俣の勢と一緒になって川端、備塚に伏せ、周囲の様子をうかがった。
山下、五十部、大岩の郷人、地侍は蓮台寺の前後に集まり、足利勢と一緒になって下知を待った。 
御母公の決意
足利の城には白石豊前守、立木図書、大沼田淡路守、市川右衛門、久米伊賀守、新井図書、小曾根筑前、南掃部、小沼正五郎、小菅縫殿助、江川左衛門、山川丹後を初めとする面々が集まって合戦の評定をおこなった。富士山にはわざと勢を置かないことにし、佐野勢がこのたびの合戦を幸いと横槍をいれるかもしれないので、龍舞、朝倉の者どもが川を東へ越えて、羽左間山に遠見番を設け、観音堂山に矢野九郎兵衛を大将とする伏兵を置いた。喜間、名草、藤坂、月谷、田島の郷人、地侍、地下人は全員要害山の麓に集まって、石弓木石を用意し、落し穴を掘って敵勢を待ち受けた。
館林御城には金谷因幡守を大将として大畑治部、久下越後守、江戸宗印、久保田若狭守、長谷川道伴、野田志摩守、大島弥平治、大窪甚五郎、設楽新八郎、葦沼左内、篠塚半弥など、宗徒の人々十三人と近辺の郷人歩弓が三百六十人あまり籠城した。高根、川俣、加保志、小曾根の周辺には落し穴、乱杭、逆茂木を並べ、敵が押し寄せて来たら手厳しく戦って討死しようと待ちかまえた。
新田金山では、御母公(妙印尼。由良国繁・長尾顕長兄弟の母)が老中、御一族の面々に、次のように仰せ付けられた。
「このたび小田原から大軍が攻めてくるという。はかりごとに遭って小田原に留め置かれてしまったうえは、兄弟の者にはもはや二度と会うことはできないでしょう。義重公の御代から当代まで、新田足利の地は中絶なく子孫相続を続けてきて、つきあいのある家の子も多かったとはいえ、当代この時に至ってはおのおのたちばかりです。きっと口惜しく思っているでしょう。我が身も、同じ思いです。このたび、むざむざと城を渡したら、新田代々の系図を捨てたも同じ。兄弟の者とは死に別れたと思い、何とかはかりごとを成して城を堅固に守り、新田の家名を残してほしい。もしも運命が尽きて、皆にその志が無い時は、敵が寄せて来る前に自害し、末世に再び生まれ変わって本望を遂げようと思う。」
このように仰せになり、御涙を流された。
御一族、老中、物頭の面々はこれをうけたまわって涙を浮かべない者はいなかった。
横瀬勘九郎殿と鳥山浄仙が、これを聞いて感じ入り、「たとえ仰せの旨が無くとも、御両主がかくのごときになってしまった上は、なおさら城を堅固に守ります。御兄弟の御命が今生にある上は、必ず御運が開けます。御家人の面々は忠意を揃え、たとえ討死に及ぶとも決して一歩も退くことはないように見えます」と、申し上げたので、御母公は斜めならずお喜びになった。 
成田からの使者
新田金山の城に一族老中物頭が集まり、根岸三弥が筆を取って着到の人数を記録した。着到の人数は、都合七百三十騎、上下合わせて三千人余りであった。
それを聞いて、小金井四郎左衛門が、
「新田足利の両大将は、果報よろしくまします。御大将のいないところに不慮にこのたびの大事に至ったのに、御一族、家人、民百姓に至るまで心指し深く、『たとえ御大将がいらっしゃらなくても、日頃の御情けに報いるために一命をたてまつって討死し、子孫に名を残そう』と、諸勢万民が申しています。このような念力が天に通じ地に渡れば、必ず八幡大菩薩の感応がないはずはありません」と、言った。
このように内談しているところに、成田左衛門尉(泰親。忍城主成田氏長の弟)から使者がやって来た。使者の言うには、
「このたび両城主は小田原に御逗留になり、そのうえ両所へ軍勢を向けられ、小田原の軍勢が近隣に満ちています。それがしは新田足利の儀は疎略には存じておりません。このごろ持病に責められて音信も途絶えてしまい、こころもとなく思っておりました。御一族か老中のどなたかに折入って内談したきことがあるので、御入来願い申します」との言上であった。
使者は橋本加右衛門という者で、もともと新田の出の侍であった。
横瀬殿と老中衆は、加右衛門に対面して言上の趣きを聞こし召され、
「忍と岩槻の者どもは、このたびの寄せ手に加わっていると取り沙汰しています。成田殿は新田足利とは重縁深く、御使者の趣き、委細かたじけなくは存じますが、御存知のとおり一族家人も東西に忙しいため、仁義を略し、ただ敵が寄せて来たら上下共に討死して両主の御供を来世まで願い奉るばかりです。いずこからお招きに預かろうともお断りしております」と仰せになって、使者を帰した。
使者が帰ってから、物頭の面々が口々に、
「成田方から使者が来たのははかりごとに違いありません。最近、忍、岩槻の勢が館林に集まり、飯野、大久保、北大島の沼辺に陣屋を設け、館林の者どもが新田足利の後詰めをしたらその留守を襲って城を乗っ取ろうとしており、羽田内膳と小森伊織を大将として百四十騎ほどが控えています」と、申し上げた。
横瀬殿は小金井四郎左衛門に、「成田は心変わりしたようだ。使者を送って様子を見てみたい」と仰せになり、増田伊勢守と広瀬長蔵に歩弓三十人を添えて遣わした。すると、成田殿は外出中とのことで、老役衆も現れないため、使者は是非無く帰って来た。
横瀬殿は、「やはり成田は心変わりしたとみえる。敵勢が寄せて来たら、成田の陣場を一文字に踏み潰して軍神に奉るべし。成田の一族家人の首を取った者には、百貫の褒美を取らせる」と、憤りを隠せない様子で仰せになった。物頭たちも、奥歯を鳴らして口惜しがった。
やがて、思ったとおり、「成田は那波、伊勢崎、前橋道見、朝場甚内などを誘って小田原方になり、こんどの合戦の案内として近々攻めて来る」と、脇屋の郷人が告げて来た。 
長手口の合戦
天正十二年六月上旬、小田原勢は、「まず金山から攻めよ」と、足利へは光西寺原に忍びの者を出しておいて、金山城の長手口と熊野口から攻め登って来た。
成田と朝葉を先手として、二千五百騎を二手に分け、長手口からは、北条安房守、田米伊勢守、山上五右衛門、成田左衛門尉を大将として上下合わせて五百人あまりが、鐘や太鼓を打ってわめき叫びながら攻め登って来た。
城中ではかねて用意してあったので、小金井四郎右衛門が坂の途中まで下り、名誉の侍百人余りと歩弓三百人を前後に引き連れ、峰の上には石弓、丸木、土俵を並べた。敵が攻め登って来たところで、「馬の前に落としかけよ」と采配を振るって下知したので、その場所で成田の勢、上下二百人ばかりが木や石に当たって死んだ。
大将はうしろから登って来たので、先陣の討死を知らずに押し太鼓を打ち、我先にと進む馬武者、歩弓人が石木弓に当たって次から次へと谷へ転げ落ち、風に木の葉を吹き乱すかのようなありさまであった。
後陣や中備えの敵には、矢を射込み、角のあるつぶて岩を投げ入れたので、退くこともできず、登ることもできず、身動きできずに死ぬ者が多かった。
山上五右衛門はこれを見て、後陣の備えを立て直し、鶴生田の縄手に退いた。そこで味方の様子を見ると、上下三百人あまりが討たれ、手負い半死は数知れなかった。
成田は一揆家人百人あまりを討たれてようやく逃げたが、乗って来た馬も深手を負って、坂の途中で谷へ跳ね入って死んでしまった。
その時、小金井四郎左衛門が大音声で、
「いかに、成田。この城の案内は、重ねては御無用。そちらは、これから明日の軍法のはかりごとに及ぶがよい。こちらは軽くお迎えの用意をしておこう。かわいそうなのは小田原勢のありさまかな。成田なんぞに案内させたので、思わぬ人馬の被害が出てしまったのだ。このたびは、さっさと帰るがよい」と、二三度四五度、木や石を叩いて囃したてながら言った。
城兵も、山も崩れるばかりに鬨の声を合わせた。
小田原勢は、もう一度攻め寄せたいなどと思うものは上下共に一人もおらず、やっとの思いで本陣目指して引き返して行った。 
熊野口の合戦
小金井四郎左衛門は敵を思いのままに麓まで追い落とし、敵の人馬が谷に落ちて死んだの見て、「これぞ名城の徳。新田の一族家人は一人も損なわなかった。このうえは、小田原勢がどんなに攻めても落城することはあるまい」と喜んで、小金井采女を坂の途中に残し置いて自身は本城に戻った。
本城で御母公と横瀬殿、鳥山浄仙に合戦の次第を報告したので、いずれも斜めならずお喜びになった。
それから遠見番所に登って四方の攻め口の様子を見物すると、熊野口に敵が充満しており、合戦の最中のようだった。
小金井四郎左衛門は、「横槍を入れて、敵を一人も逃さず討ち取れ」と、新田口の勢を引き連れて、寺ヶ入の坂の途中に陣を張って鬨の声をあげた。
熊野口の寄せ手は、浅葉甚内を案内者とし、北条陸奥守、伊勢大和守、前橋道見、松山外記を大将として、千三百五十騎以上であった。寄居、鉢形、川越の郷人合わせて二千人ばかりの勢を○(読めない)川の前後左右に残し、屈強な武者三百騎ほどが、鐘太鼓を打ちながら攻め登って来た。
この口は、大沢下総守と林越中守を大将として、茂木馬之丞、関口尾張守、増田伊勢守、外島源内、荒山兵蔵をはじめ二百七十人ばかりが谷間の薮陰に隠れ、なりをひそめていた。
浅葉甚内は攻め口の様子を見て、「長手口は大勢で守っているが、この口には小勢しかいないようだ。時間をかけず、本城へ乱入しよう」と、攻め登った。
この口は、前もって谷峰の難所に落し穴を隙間もなく設けてあったので、そこに敵二三百人が青龍の備えを取ってさしかかった時、林越中守と大沢下総守が采配を取り、谷峰に伏せておいた勢に下知して木や石を落としかけ、上手な射手を揃えて眼下の敵を射立てた。この口は特に険しい坂道で、登りかねているところをさんざんに射立てられ、敵は前後左右に色めきたった。
伊勢大和守と前橋道見はこれを見て、采配を振り回して麓に退こうとした。そこに、焼山切通しに伏せてあった勢が石弓を雨のように投げかけ、遠矢を射て鬨の声をあげたので、ほうほうの体で長岡、新井、浜田、在郷の広場へ退いて行った。
これを見た小金井四郎左衛門は、無二無三に追いかけた。敵が逃げて行く先には田畑や掘水があり、また、落し穴や堀切があらかじめ設けてあった。味方は案内を知っており、敵はそれを知らなかったので、馬を乗り入れて人馬もろとも落ち重なって死ぬ敵も多かった。
浅葉兄弟一族家人三十四人は、坂の途中で木や石に当たって、枕を並べて討死してしまった。
前橋道見は、焼山の南の深掘の中へ馬ごと乗り入れて出られなくなった。供廻りが馬を叩いて掘の外に出そうとしたところ、馬が驚いて道見を跳ね落とし、道見は腰の骨を折って半死半生になってしまった。生け捕られてはいけないと、供廻りが戸板に乗せて、あたふたと前橋に運んで行った。
四郎左衛門は本城に帰り、大沢下総守、林越中守などの物頭と互いに合戦の手立て・軍法を話して喜び合った。
そこに、御母公が合戦を御見学になりたいと、長持や釣台に乗せた酒肴を持って、鳥山浄仙と村田学寄をお供にして新田口の馬場までおいでになった。
御母公は合戦の始終をお聞きになって、
「このたびは、大将がいないのに一族、家人、郷人まで、何と深いお心指しを揃えてはげましたことか。国繁・顕長兄弟はこれほど果報いみじき大将と生まれながら、大難に遭って取り籠められてしまうとは、なんと情けないことか」と、涙を流された。
老中をはじめ御家門の面々や物頭が集まったところ、そこに御母公が酒肴を下さったので、それをいただいて合戦の疲れをいやした。
横瀬殿は、「成田左衛門の家人小森主膳の首と朝葉兄弟の首を長手鳥山の間で獄門に懸けよ。さっそく寺ヶ入古郡の者どもに触れ渡すべし」と仰せになり、彦右衛門と丹三郎を召して仰せ付けられた。
寄せ手の討死は、上下合わせて五百二十八人。手負いや半死は数知れなかった。城方を改めたところ、城内の死者は三十人で、他に、○川、由良、細谷の出城に集まっていた郷人が百人あまり討たれただけであった。 
小田原からの加勢
北条安房守(氏邦)、同陸奥守、山上五右衛門は合戦にさんざん利を失い、軍勢を集めて江田、反町の本陣へ引き返した。そして、合戦の様子を詳しく小田原に注進した。
氏直公は報告を聞かれて、大畑兵庫之助と桑山掃部を召し、
「このたびの合戦は、とても勝てそうにないという報告が来た。きっと、忍、岩槻、前橋の郷人や葉武者を吟味もせずに遣わして、大軍であることに油断して負けたのだろう。元来、新田の一族家人は、合戦に及んで一歩も退かず、敵を見て恐れず、千騎が一騎になるまで戦う手ごわい者どもである。両人を加勢として遣わすゆえ、まかり越して、合戦の了見をよくよく教えてやってくれ。近辺の郷人や葉武者を使うと、結局のところ足手まといになって、思いがけず寄せ手の手負いや死人が出るものだ」と仰せになった。
両人はうけたまわって、加勢三百騎あまりを率いてまかり下り、中條の渡しに着陣した。
そこで様子を聞くと、「小田原勢はさんざんに打ち負かされて、本陣は反町というところに退いた。朝葉兄弟と前橋道見も討死してしまった」というので、小森屋村と中條に勢を残し、三十騎ばかりで反町に急ぎ、安房守殿に対面して合戦の様子を詳しく聞いた。
その席で山上五右衛門が、「どんなにはかりごとをめぐらせても、味方を損じるばかりでこの城を落とすことはできそうにない。金山は名城で、日本無双の家人一族が五里十里四方に満ち満ちている。民百姓まで城主が虜になったのを悲しみ、無二無三の働きをして討死しようとしているかのようにみえる」と言ったので、物頭を初めとして集まった面々は肝をつぶしたような顔になり、一言の返事もできなかった。 
由良の合戦
合戦の最中、田米主膳と大道寺友之助は○川の岸に布陣して、長手口の大将が攻めあぐむようなら後詰めしようと考えていた。
その頃、由良の出城に、金井田伝吉郎、屋内伊織、片岡次郎兵衛、天笠甚太郎、大木内匠之助、および、細谷、岩松の郷人二百人ばかりが立て籠もっていた。金山で戦いが始まったのを知って金井田伝吉郎は、「今日の合戦に参加できなかったら、末代までの心残りとなろう」と、家人一族を率いて出城をひそかに抜け出し、いそいで金山城に向かった。
馬を走らす金井田たちを寄せ手が見つけて、「この出城の押さえとして残されていた者たちが、五騎七騎と落ちて行くようだ。討ち留めよ」と、我先に追いかけた。由良の城内でもこれを見つけて、「金井田を討たすな」と、我先に城から討って出て合戦が始まった。
本城の合戦よりも激しい戦いになり、敵と味方が入り乱れ、東西南北に走って互いに火花を散らしたので、新田方は百人あまりが討たれてしまった。寄せ手は六七十人が討死した。
伝吉郎は取って返して敵を追い散らし、七八騎の武者を斬って落とした。自分は負傷もせず、家人一族も怪我が無かったので、金山本城に登ろうと思ったが、出城の方もこころもとないと思い返して、再び由良へ一文字に帰って行った。 
戦線膠着
小田原勢は、北条安房守、同陸奥守、および、物頭の面々が集まって合戦の方便を相談したが、どうしたら勝てるのか見当もつかなかった。
田米主膳は、
「関東の近年の合戦にはすべて参加しているが、今度のように味方が働くべき方便を失ったことはなかった。たとえ小田原領内の軍勢を残らず集めたとしても、この新田の城を完全に包囲することはできない。とはいえ、山城のことなので、大勢が立て籠もって長陣をすれば、水がなくなるかもしれない。兵糧については、他国のことなので、(今のように完全に包囲できていない状態では)城内が飢えることはないと思う」と、言った。
山上五右衛門はこれを聞いて、
「仰せの段はもっともだが、長陣すれば寄せ手の大軍の方が難儀なことになろう。桐生、小俣、足利、館林までみな一族なので、なかなか落城はさせられそうにない。このことを、ただちに小田原に御注進すべきだ」と、言った。
安房守(北条氏邦)はこれらの意見を聞こし召して、
「おのおのの意見は捨てるべきでもないが、『小田原勢は、大軍を催し近辺の加勢を募ったあげく引き退いた』などと新田領内で茶飲み話にされるのも口惜しい。桑山や大畑を招き寄せる前なら軍勢を引くこともできたかもしれないが、ここで退いたら小田原の思し召しもどうかと思う。ともかく、もう一度合戦して、どうなるか結果をみてみたい」と、仰せになった。
しかし、物頭たちや陸奥守殿は、「合戦を何度やっても、ひどく負けることは無いでしょうが、勝つ可能性もありません。いたずらに長陣して歩弓人を討たれた末に引き退くのは、後々のために良くありません」と言うので、さらにいろいろ相談するうちに十四日も日数を送り、時間がたつばかりであった。
こうして、寄せ手も城内も、互いに長陣に疲れてきた。 
和談
金山では一族家人が集まり、各番所を用心厳しく守っていた。「夜討ちがあるかもしれない」と、各所に逆茂木を引き、また、水が少なくなっていることを敵に見せないために、池の土を上げて、いそいで西南に塀をつくり、五十間に渡って壁を塗った。そして、馬を引き出し、湯で馬を洗っているかのように白米を馬にかけて、水が少なくなっていることを悟られないようにした。
敵が長陣しているのは兵糧攻めに入ったのかもしれないが、兵糧や薪はまだ十分にあった。しかし、俵物を敵に濫妨狼藉されないように用心せよと、近辺の村々に触れた。
そうしたところ、新田の金龍寺と足利の長林寺から使僧がやって来て、
「このたびの合戦で新田足利が勝利したのは、本望の至り。我らも共に喜んでいるのは、籠城の勢と同じです。しかしながら、出家の身として、討死の忠孝も仏祖にはばかりがあります。かなわぬまでも、両寺で小田原に参府して和談を申し込み、両城主の御帰城を願い奉ろうと思います」と、申しのべた。
御母公、横瀬殿をはじめ、鳥山浄仙、小金井四郎左衛門らが、「両寺の思し召しはもっともです。御心底のとおり小田原へ行き、両城主の御帰城を仰ぎ奉りたい」と返事をしたので、使僧は寺に帰ってそれを両寺に伝えた。
両寺がいそいで小田原に参着し、和談の趣きを申しのべると、氏直公はそれを聞こし召して、「奇特千万なる両寺の志かな。近辺に寺社は多いが、この時に至って武士の心をなだめ、国土の乱を静めようと思し召すとは、感じ入るところである。お望みの旨は、成田左衛門の方に申し渡す」と言い、両寺は慇懃なお言葉をいただいたうえに、御馳走をふるまわれ、雪舟の掛軸を拝領して新田に帰って来た。 
両城主の帰城
北条氏直公は、成田左衛門(泰親)を召し寄せて両寺の御沙汰を仰せ聞かされ、
「新田足利は父の氏政公の代にも攻めず、また、越後、甲州、佐竹のいずれも攻めたことが無かったが、このたび新田足利へ軍勢を出したのは、近年不届きなことが多いため両城主を小田原に留め置いたのが原因である。今回加勢を出して、自ら出馬に及べば簡単に攻め落とせるであろうが、両寺の志や由良長尾の家人の忠孝の志には感心するところが多い。したがって、このたびは軍勢を退き、由良長尾を帰城させようと思う。しかしながら、一族のうちから人質を一人ずつ出させるようにせよ」と、左衛門に仰せ付けた。
成田はうけたまわって、さっそく両寺に使者を遣わしたので、ただちに新田足利に伝わって、天正十二年七月二十日に御帰城と決定された。やがて小田原勢も引き揚げたので、新田足利の上下は大喜びであった。
小金井四郎左衛門、藤生紀伊守、金井田伝吉郎を大将とするお迎えの人数、上下八百五十人余りが川越の原まで行き、そこから先はわざと小勢にして、両主と家人あわせて五十人程度であった。
林越中守が佐川の中尾にお待ち申し上げていたので、成田左衛門と山上五右衛門が両主を佐川の端までお送りになり、互いに礼儀を述べてしばらく酒盛りをした後、両人は小田原に帰って行った。江田兵庫助を小田原に残し、三十日ごとに交代して参勤することに決まった。
それから昼夜兼行で急いだので、間もなく中瀬の渡しにお着きになった。横瀬殿を大将として、新田足利の郷人や寺社仏塔の者までもがお迎えに出たが、その人数は、かれこれ五六万人にもなった。両主は金山本城にお入りになり、お喜びは限りなかった。
御母公も馬場まで出て御兄弟に対面され、「このたびの両所の苦労や、一族家人の忠功の物語は、一生の間話しても話し終わらないでしょう」と、喜びの涙を流された。
国繁公は、「このたび小田原の虜となり、既に命は無いものと思っていたが、金龍寺と長林寺の思し召しや、一族家人、民百姓までが悲しんで忠義深いことなどが、諸天、善神、八幡大菩薩に通じて、これを憐れみたもうたのであろう。それで、すみやかに帰城できるようにしてくれたのだろう」と、仰せになった。
その後、お祝いの酒盛りを始めた。顕長公もさっそく足利へ御帰城になり、お喜びは限りなかった。
両城主は金龍寺と長林寺に御参詣されて、御先祖の御墓を拝された。
その後、成田左衛門も新田足利に来て、このたびの一部始終の物語をされた。それを見て上下の人々は顔を見合わせ、「面の皮の厚いことだ」と囁き合った。 
小田原の合戦
佐野は天徳寺殿の御代になってますます繁栄したが、小田原から人質を催促されて、是非無く最年少の御舎弟、毘沙門殿を小田原に遣わした。
やがて上方から小田原を攻めるという御沙汰があったので、山上道及と天徳寺が相談されて上方勢に与することになり、道筋の難所を絵図にして上方に送ったところ、いろいろ御褒美に預かり、先陣の案内を仰せつかった。それが小田原に伝わったため、毘沙門殿は無情にも処刑されたという。
由良成繁公と長尾顕長公もいよいよ御繁栄になった。新田足利の武士、町人、寺社、仏閣、民百姓にいたるまで静謐で、上の御憐れみ深く、それによって領内は太平に治まり、最近では上下一緒に集まって酒宴や花見遊山を催し、喧嘩口論も無く、諸人の心も静かで、「こんなに良い世は今までどこにも無かっただろう」と、人々は喜んでいた。
そんなある日、突然、上方からの大軍が小田原に攻め寄せるという風聞が伝わって来て、小田原から新田足利へ、三百騎あまりの加勢を出せと言って来た。新田足利では、「最近の坪軍(つぼいくさ)とは違って、晴れがましい合戦になるだろう」と、騒いだ。
林越中守、金井田伝吉郎、茂木馬之丞、江田兵庫之助、小金井四郎右衛門、藤生紀伊守を大将とする三百六十人が、天正十七年十一月二十六日に新田を出て、成田左衛門の旗下に入って小田原へ向かった。
ほどなく相模国山田村に着陣して、諸大将が小田原へ入り、田米主膳と山上五右衛門の出迎えを受けて喜び合った。氏直公にも御対面になったが、御機嫌よく、小金井四郎右衛門には御馬を下され、その他の大将分へは御腰物や槍長刀などを拝領した。
新田足利と小田原の間の御使番の役には、長沢半十郎と早川田喜左衛門がなった。両人は無双の大力で、利根川が満水になっても川を越えることができた。そのほか、使いや飛脚が鋸で木を挽くように新田足利と小田原の間を行き来した。
間もなく、十二月の初めに上方勢が攻め寄せた。
山中城は新殿七左衛門を大将として百五十騎で守り、樫木、坂畑、塔ノ沢には石丸源太左衛門、石塚三郎左衛門、大道寺友之助、樋口主計、萩田左近、大磯久五郎、丸橋藤次郎を初めとする宗徒の侍、八十五人が、山の峰、谷の細道に木石、落し穴、堀切をあつらえて敵勢を待った。
寄居、岩槻、松山、大宮、八幡山の地侍、郷人も、久永但馬守に付いて北条安房守殿の下知を受け、出城や寄居に籠もって守りに付いた。
小田原は御領内も広く御一族や御家人も多かったが、御運命が尽きたためか、天正十八年の春に小田原まで落城し、御一族や名ある侍百五十人あまりが生け捕られ、討死は上下八百二十九人。情け無きありさまであった。
新田足利の加勢では、峰岸主税、栗原内膳、内田庄之助、山川左内、戸島甚五郎、渥美源四郎、籾山久兵衛、芳野次郎八など上下六十二人が討死し、そのうち五六人は生け捕られてしまった。
小田原落城以後は上方の御代となり、関東八国の大名小名も剛心を失い、太平に掟を守り、民百姓にいたるまで喜ばない者はいなかった。 
三家の没落
由良殿と長尾殿は、三百騎あまりの加勢を小田原に派遣した罪科を逃れ難かった。
桐生へ御退きになっていろいろ弁明されたが御赦免は無く、「しかしながら神妙なるありさま」と、常陸国に所替えとなることが決まった。
御家人がみな御前へまかり出て、「御供の用意を仕ります」と言上申し上げたが、国繁公は、「方々の申し分は忘れ難きことなれど、かくのごとき身となっては家人を大勢連れて行くことはできない。家人の縁が尽きなければ、まためぐりあうこともあろう」と、涙を御袖で隠しながら仰せになったのは、ありがたいことであった。
皆、「それは情けなき御上意。御先祖式部大輔義国公以来それがしどもまで、譜代相伝で中絶せず、代々重恩厚く頂戴して、それにどうやって報い奉ることができるのですか。このたびは、是非御供させてください」と申し上げて、涙を流した。
国繁公も御涙にくれていらっしゃったが、やがて、「最近うち続いた国土の乱れは、武士の身として片時も快い時が無かった。弓馬の道に生まれた身として、今日のような日が来ることはかねて期していた。このような流人の身となって、供を大勢連れて行くことはできない。上方にもどのように思われるかわからない」と仰せになって、各人に御盃をくださり、御家人たちに御涙とともに御暇を出された。主と家人の生き別れで、あまりに情けないありさまであった。
その後、由良殿は御供を少々召し連れて常陸国へお着きになり、牛久に居住された。御菩提所の金龍寺も随従して月日をお送りになり、もしや赦免の使いも来るのではないかと時節をお待ちになった。
足利長尾但馬守顕長公は佐竹義宣公の御取り成しでようやく御預人となり、小俣渋川相模守義勝公は、秋元越中守殿の御預かりで御住居、御知行、残らず召し上げられ、思いもよらないことに御浪人となってしまった。
その後、新田、足利、小俣の御家人は浪人となり、主人がどうしているかこころもとなく、時々連絡を取りながら月日を過ごした。先祖の知行の場所に住み着いた人もあれば、山奥へ引っ込む人もあり、その他、在々所々にちりじりになって住み着き、民百姓と縁者好しみを結んで農作を専らにして浮世を送り、主人が御赦免に預からせたまい、御運を開かせたまうのを朝夕待つばかりである。定め無きは武士の身、まことに情けないありさまで月日を送った。 
 

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