室町戦国の物語2

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太平記 [上]

雑学の世界・補考

太平記 巻第二十一 

 

天下(てんが)時勢粧(じせいさうの)事(こと)
暦応(りやくおう)元年の末に、四夷八蛮(しいはちばん)悉(ことごと)く王化を助(たすけ)て大軍同時に起(おこ)りしかば、今はゝや聖運(せいうん)啓(ひらけ)ぬと見へけるに、北畠顕家(あきいへの)卿(きやう)、新田(につた)義貞(よしさだ)、共に流矢の為に命(いのち)を墜(おと)し、剰(あまつさへ)奥州(あうしう)下向の諸卒、渡海(とかい)の難風に放されて行方知(ゆきがたしら)ずと聞へしかば、世間(よのなか)さてとや思(おもひ)けん。結城上野入道が子息大蔵(おほくらの)少輔(せう)も、父が遺言(ゆゐごん)を背(そむい)て降人(かうにん)に出(いで)ぬ。芳賀(はが)兵衛(ひやうゑの)入道禅可(ぜんか)も、主(しう)の宇都宮(うつのみや)入道が子息加賀寿丸(かがじゆまる)を取篭(とりこめ)て将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)し、主従の礼儀を乱(みだ)り己(おのれ)が威勢を恣(ほしいまま)にす。
此(この)時新田(につたの)氏族(しぞく)尚(なほ)残(のこつ)て城々に楯篭(たてこも)り、竹園(ちくゑん)の連枝(れんし)時を待(まつ)て国々に御座(ござ)有(あり)といへ共(ども)、猛虎(まうこ)の檻(かん)に篭り、窮鳥の翅(つばさ)を削(そが)れたるが如(ごとく)に成(なり)ぬれば、戻眼空(むなし)く百歩(はくほ)の威(ゐ)を闔(おほひ)、悲心遠く九霄の雲を望(のぞん)で、只時々の変有(あら)ん事を待計(まつばかり)也(なり)。天下(てんが)の危(あやふ)かりし時だにも、世の譏(そしり)をも不知侈(おごり)を究め欲を恣(ほしいまま)にせし大家(たいか)の氏族、高・上杉の党類(たうるゐ)なれば、能(のう)なく芸(げい)無くして乱階(らんかい)不次の賞に関(あづか)り、例に非(あら)ず法に非(あらず)して警衛判断の識(しよく)を司(つかさど)る。
初(はじめ)の程こそ朝敵(てうてき)の名を憚(はばか)りて毎事(まいじ)天慮を仰ぎ申体(まうすてい)にて有(あり)しが、今は天下(てんが)只武徳に帰(き)して、公家(くげ)有(あつ)て何の用にか立(たつ)べきとて、月卿(げつけい)雲客(うんかく)・諸司格勤(しよしかくご)の所領は云(いふ)に及(およば)ず、竹園椒房(せうばう)・禁裡仙洞(きんりせんとう)の御領までも武家の人押領(あふりやう)しける間、曲水重陽(きよくすゐちようやう)の宴も絶(たえ)はて、白馬蹈歌(あをむまたふか)の節会(せちゑ)も行(おこなは)れず、如形儀計(ぎばかり)也(なり)。禁闕(きんけつ)仙洞さびかへり、参仕拝趨(さんしはいすう)の人も無(なか)りけり。況(いはん)や朝廷の政(まつりごと)、武家の計(はからひ)に任(まかせ)て有(あり)しかば、三家(さんけ)の台輔(たいふ)も奉行頭人(ぶぎやうとうにん)の前に媚(こび)を成し、五門の曲阜(きよくふ)も執事(しつじ)侍所の辺(へん)に賄(まひな)ふ。
されば納言(だうげん)宰相(さいしやう)なんど路次(ろし)に行合(ゆきあひ)たるを見ても、声を学(まな)び指を差(さし)て軽慢(きやうまん)しける間、公家の人々、いつしか云(いひ)も習はぬ坂東声(ばんどうごゑ)をつかい、著(き)もなれぬ折烏帽子に額を顕(あらは)して、武家の人に紛(まぎれ)んとしけれ共(ども)、立振舞(たちふるま)へる体(てい)さすがになまめいて、額付(ひたひつき)の跡以外(もつてのほか)にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙(とひ)に歩(あゆみ)を失(うしなひ)し人の如し。
佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道流刑(るけいの)事(こと)
此比(このころ)殊に時を得て、栄耀(えいえう)人の目を驚(おどろか)しける佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)が一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、例のばさらに風流を尽(つく)して、西郊(にしのをか)東山の小鷹狩(こたかがり)して帰りけるが、妙法院(めうほふゐん)の御前(おんまへ)を打過(うちすぐ)るとて、跡にさがりたる下部共(しもべども)に、南底(なんてい)の紅葉(もみぢ)の枝をぞ折(をら)せける。時節(をりふし)門主御簾(みす)の内よりも、暮(くれ)なんとする秋の気色(けしき)を御覧ぜられて、「霜葉(さうえふは)紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給(たまひ)けるが、色殊なる紅葉(もみぢ)の下枝を、不得心(ふとくしん)なる下部共(しもべども)が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官(ばうくわん)一人庭に立出(いで)て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折(をる)ぞ。」と制しけれ共(ども)、敢て不承引。
「結句(けつく)御所とは何(なん)ぞ。かたはらいたの言(こと)や。」なんど嘲哢(てうろう)して、弥(いよいよ)尚(なほ)大なる枝をぞ引折りける。折節(をりふし)御門徒の山法師(やまほふし)、あまた宿直(とのゐ)して候(さふらひ)けるが、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が狼籍(らうぜき)哉(かな)。」とて、持(もつ)たる紅葉の枝を奪取(うばひとり)、散々(さんざん)に打擲(ちやうちやく)して門より外(そと)へ追出(おひいだ)す。道誉聞之、「何(いか)なる門主にてもをわせよ、此比(このころ)道誉が内の者に向(むかつ)て、左様の事翔(ふるまは)ん者は覚(おぼえ)ぬ物を。」と忿(いかつ)て、自ら三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、妙法院(めうほふゐん)の御所へ押寄(おしよせ)て、則(すなはち)火をぞ懸(かけ)たりける。折節(をりふし)風烈(はげし)く吹(ふき)て、余煙十方に覆(おほひ)ければ、建仁寺の輪蔵(りんざう)・開山堂(かいさんだう)・並(ならびに)塔頭(たつちゆう)・瑞光菴(ずゐくわうあん)同時に皆焼上(やけあが)る。
門主は御行法(きやうぼふ)の最中(さいちゆう)にて、持仏堂に御座(ござ)有(あり)けるが、御心(おんこころ)早く後(うしろ)の小門より徒跣(かちはだし)にて光堂(ひかりだう)の中へ逃入せ給ふ。御弟子(おんでし)の若宮は、常の御所に御座(ござ)有(あり)けるが、板敷の下へ逃入(にげいら)せ給ひけるを、道誉が子息源三(げんさん)判官走懸(わしりかかつ)て打擲(ちやうちやく)し奉る。其外(そのほか)出世(しゆつせ)・坊官(ばうくわん)・児(ちご)・侍(さぶらひ)法師共、方々へ逃(にげ)散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火(ひやうくわ)四方(しはう)に吹覆(ふきおほふ)。在京の武士共(ぶしども)、「こは何事ぞ。」と遽騒(あわてさわい)で、上下に馳(は)せ違(ちが)ふ。事の由を聞定(ききさだめ)て後(のち)に馳(はせ)帰りける人毎(ひとごと)に、「あなあさましや、前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行哉(かな)。山門の嗷訴(がうそ)今に有(あり)なん。」と、云(いは)ぬ人こそ無(なか)りけれ。山門の衆徒此(この)事を聞て、「古より今に至(いたる)まで、喧嘩不慮(ふりよ)に出来(いでく)る事多(おほし)といへ共、未(いまだ)門主・貫頂(くわんちやう)の御所を焼払(やきはら)ひ、出世・坊官を面縛(めんばく)する程の事を聞(きか)ず。
早(はやく)道誉・秀綱(ひでつな)を給(たまはり)て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞(そうもん)し、武家に触れ訴ふ。此(この)門主と申(まうす)も、正(まさし)き仙院の連枝(れんし)にて御座(ござ)あれば、道誉が翔(ふるまひ)無念の事に憤(いきどほ)り思召(おぼしめし)て、あわれ断罪流刑(だんざいるけい)にも行(おこなは)せばやと思召(おぼしめし)けれ共(ども)、公家の御計(おんはからひ)としては難叶時節(をりふし)なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、飽(あく)まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴(りそ)も疲(つかれ)て、款状(くわじやう)徒(いたづら)に積り、道誉は法禁を軽(かろん)じて奢侈(しやい)弥(いよいよ)恣(ほしいまま)にす。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)、大宮(おほみや)・八王子の神輿(しんよ)を中堂へ上奉(あげたてまつ)て、鳳闕(ほうけつ)へ入れ奉(たてまつら)んと僉儀(せんぎ)す。
則(すなはち)諸院・諸堂の講莚(かうえん)を打停(うちとど)め、御願を停廃(ちやうはい)し、末寺・末社の門戸(もんこ)を閇(とぢ)て祭礼を打止(うちとどむ)。山門の安否(あんぷ)、天下(てんが)の大事(だいじ)、此(この)時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴(がうそ)難黙止覚(おぼ)へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流(をんる)に可被処歟(か)。」と奏聞しければ、則(すなはち)院宣(ゐんぜん)を成(なさ)れ山門を宥(なだめ)らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是(これ)には総(すべ)て休(やすま)るまじかりしか共(ども)、「時節(をりふし)にこそよれ、五刑の其一(そのひとつ)を以て山門に理(り)を付(つけ)らるゝ上は、神訴(しんそ)眉目(びぼく)を開くるに似たり。」と、宿老是(これ)を宥(なだめ)て、四月十二日に三社の神輿(しんよ)を御帰座(きざ)成し奉(たてまつ)て、同二十五日道誉・秀綱(ひでつな)が配所(はいしよ)の事定(さだまり)て、上総(かづさの)国(くに)山辺郡(やまのべこほり)へ流さる。
道誉近江の国分寺迄、若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、打送(うちおくり)の為にとて前後に相順ふ。其輩(そのともがら)悉(ことごとく)猿(さるの)皮(かは)をうつぼにかけ、猿(さるの)皮(かは)の腰当(こしあて)をして、手毎(てごと)に鴬篭(うぐひすこ)を持(もた)せ、道々に酒肴(さかな)を設(まうけ)て宿々に傾城(けいせい)を弄(もてあそ)ぶ。事の体(てい)尋常(よのつね)の流人(るにん)には替(かは)り、美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。是(これ)も只公家(くげ)の成敗(せいばい)を軽忽(きやうこつ)し、山門の鬱陶(うつたう)を嘲弄(てうろう)したる翔(ふるまひ)也(なり)。聞(きか)ずや古より山門の訴訟を負(おひ)たる人は、十年(じふねん)を過(すぎ)ざるに皆其(その)身を滅(ほろぼ)すといひ習(ならは)せり。治承には新大納言成親(なりちかの)卿(きやう)、西光・西景(さいけい)、康和には後二条(ごにでうの)関白、其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は不可勝計。
されば是(これ)もいかゞ有(あら)んずらんと、智ある人は眼(め)を付(つけ)て怪(あやし)み見けるが、果して文和三年の六月十三日(じふさんにち)に、持明院新帝、山名左京(さきやうの)大夫(だいぶ)時氏に被襲、江州へ臨幸成(なり)ける時、道誉が嫡子(ちやくし)源三(げんさん)判官秀綱(ひでつな)堅田にて山法師(やまほふし)に討(うた)る。其弟(そのおとと)四郎左衛門(しらうざゑもん)は、大和(やまとの)内郡(うちのこほり)にて野伏共(のぶしども)に殺(ころさ)れぬ。嫡孫(ちやくそん)近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟次郎左衛門(じらうざゑもん)二人(ににん)は、摂津国(つのくに)神崎(かんざき)の合戦の時、南方の敵に誅(ちゆう)せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申(まうし)ながら、是等(これら)は皆医王山王の冥見(みやうけん)に懸(かけ)られし故(ゆゑ)にてぞあるらんと、見聞(けんもん)の人舌を弾(ふるは)して、懼(おそ)れ思はぬ者は無(なか)りけり。
法勝寺塔(ほつしようじのたふ)炎上(えんしやうの)事(こと)
康永元年三月二十日に、岡崎の在家(ざいけ)より俄(にはかに)失火出来(いできたつ)て軈(やが)て焼(やけ)静まりけるが、纔(わづか)なる細(ほそくづ)一つ遥(はるか)に十(じふ)余町(よちやう)を飛去(とびさつ)て、法勝寺の塔の五重(ごぢゆう)の上に落留(おちとま)る。暫(しばし)が程は燈篭の火の如(ごとく)にて、消(きえ)もせず燃(もへ)もせで見へけるが、寺中の僧達(そうたち)身を揉(もう)で周章迷(あわてまよひ)けれ共(ども)、上(のぼる)べき階(はし)もなく打消(うちけす)べき便(たより)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に虚(そら)をのみ見上(あげ)て手撥(ひろげ)てぞ立(たた)れたりける。さる程(ほど)に此細(このほそくづ)乾(かわき)たる桧皮(ひはだ)に焼付(やけつき)て、黒煙(けぶり)天を焦(こがし)て焼(や)け上(あが)る。猛火(みやうくわ)雲を巻(まい)て翻る色は非想天の上までも上(のぼ)り、九輪(くりん)の地に響(ひびい)て落(おつる)声は、金輪際(こんりんざい)の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。
魔風(まふう)頻(しきり)に吹(ふい)て余煙四方(しはう)に覆(おほひ)ければ、金堂(こんだう)・講堂・阿弥陀堂・鐘楼(しゆろう)・経蔵・総社宮(そうしやのみや)・八足(やつあし)の南大門(なんだいもん)・八十六間の廻廊(くわいらう)、一時の程(ほど)に焼失して、灰燼(くわいじん)忽(たちまち)地に満(みて)り。焼(やけ)ける最中外(よそ)より見れば、煙の上に或(あるひ)は鬼形(きぎやう)なる者火を諸堂に吹(ふき)かけ、或(あるひ)は天狗(てんぐ)の形なる者松明(たいまつ)を振上(ふりあげ)て、塔の重々(ぢゆうぢゆう)に火を付(つけ)けるが、金堂(こんだう)の棟木(むなぎ)の落(おつ)るを見て、一同に手を打(うつ)てどつと笑(わらう)て愛宕(あたご)・大岳(おほだけ)・金峯山(きんふせん)を指(さし)て去(さる)と見へて、暫(しばし)あれば花頂山(くわちやうざん)の五重(ごぢゆう)の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。院は二条河原(にでうがはら)まで御幸成(ごかうなつ)て、法滅(ほふめつ)の煙に御胸を焦(こが)され、将軍は西門の前に馬を控(ひかへ)られて、回禄(くわいろく)の災(さい)に世を危(あやぶ)めり。
抑(そもそも)此(この)寺と申(まうす)は、四海(しかい)の泰平を祈(いのつ)て、殊(ことに)百王の安全を得せしめん為に、白河(しらかはの)院(ゐん)御建立(ごこんりふ)有(あり)し霊地(れいち)也(なり)。されば堂舎の構(かまへ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。本尊の錺(かざり)は、金を鏤(ちりば)め玉を琢(みが)く。中にも八角九重(はちかくくぢゆう)の塔婆(たふば)は、横竪(よこたて)共(とも)に八十四丈にして、重々(ぢゆうぢゆう)に金剛九会(こんがうきうゑ)の曼陀羅(まんだら)を安置(あんぢ)せらる。其奇麗崔嵬(そのきれいさいぐわい)なることは三国無双(ぶさう)の鴈塔(がんたふ)也(なり)。此(この)塔婆始(はじめ)て造出(つくりいだ)されし時、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)・震旦(しんだん)の昆明池(こんめいち)・我朝(わがてう)の難波(なんばの)浦(うら)に、其(その)影明(あきらか)に写(うつり)て見へける事こそ奇特(きどく)なれ。かゝる霊徳不思議(ふしぎ)の御願所(ごぐわんしよ)、片時(へんし)に焼滅する事、偏(ひとへ)に此(この)寺計(ばかり)の荒廃には有(ある)べからず。只今より後弥(いよいよ)天下(てんが)不静して、仏法も王法も有(あつ)て無(なき)が如(ごとく)にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼(かね)て呈(あらは)す物也(なり)と、歎(なげか)ぬ人は無(なか)りけり。
先帝崩御(ほうぎよの)事(こと)
南朝の年号延元三年八月九日(ここのか)より、吉野の主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)有(あり)けるが、次第に重(おも)らせ給(たまふ)。医王善逝(ぜんぜい)の誓約も、祈(いのる)に其験(そのしるし)なく、耆婆扁鵲(ぎばへんじやく)が霊薬も、施すに其験(そのしるし)をはしまさず。玉体日々に消(きえ)て、晏駕(あんか)の期(ご)遠からじと見へ給(たまひ)ければ、大塔(おほたふの)忠雲(ちゆううん)僧正(そうじやう)、御枕(おんまくら)に近付奉(ちかづきたてまつ)て、泪(なみだ)を押(おさへ)て申されけるは、「神路山(かみぢやま)の花(はな)二たび開(ひらく)る春を待(まち)、石清水(いはしみず)の流れ遂(つひ)に澄(すむ)べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進(すてまゐら)せらるゝ事はよも候はじとこそ存候(ぞんじさふらひ)つるに、御脈(おんみやく)已(すで)に替(かはら)せ給(たまひ)て候由(よし)、典薬頭(てんやくのかみ)驚申(おどろきまうし)候へば、今は偏(ひとへ)に十善の天位を捨(すて)て、三明(さんみやう)の覚路(がくろ)に趣(おもむか)せ給ふべき御事(おんこと)をのみ、思召(おぼしめし)被定候べし。
さても最期(さいご)の一念に依(よつ)て三界に生(しやう)を引(ひく)と、経文(きやうもん)に説(とか)れて候へば、万歳(ばんぜい)の後の御事(おんこと)、万(よろ)づ叡慮に懸(かか)り候はん事をば、悉(ことごと)く仰置(おほせおか)れ候(さふらひ)て、後生善所(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)をのみ、叡心に懸(かけ)られ候べし。」と申されたりければ、主上(しゆしやう)苦(くるし)げなる御息を吐(はか)せ給(たまひ)て、「妻子珍宝及王位(さいしちんはうきふわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうじゆうじふずゐしや)、是(これ)如来(によらい)の金言にして、平生(へいぜい)朕(ちん)が心に有(あり)し事なれば、秦(しんの)穆公(ぼくこう)が三良(さんりやう)を埋(うづ)み、始皇帝(しくわうてい)の宝玉を随へし事、一(ひとつ)も朕が心に取(とら)ず。只生々世々(しやうじやうせぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵(てうてき)を悉(ことごとく)亡(ほろぼ)して、四海(しかい)を令泰平と思計(おもふばかり)也(なり)。朕則(すなはち)早世の後(のち)は、第七(だいしち)の宮(みや)を天子の位に即奉(つけたてまつ)て、賢士(けんし)忠臣事を謀(はか)り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行(おこなひ)なくば、股肱(ここう)の臣として天下(てんが)を鎮(しづむ)べし。
思之故(ゆゑ)に、玉骨(ぎよくこつ)は縦(たとひ)南山の苔に埋(うづも)るとも、魂魄(こんばく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若(もし)命(めい)を背(そむき)義を軽(かろん)ぜば、君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細(ゐさい)に綸言を残されて、左の御手(おんて)に法華経(ほけきやう)の五(ごの)巻(まき)を持(もた)せ給(たまひ)、右の御手(おんて)には御剣(ぎよけん)を按(あんじ)て、八月十六日の丑剋(うしのこく)に、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。悲(かなしい)哉(かな)、北辰(ほくしん)位(くらゐ)高(たかく)して百官星の如(ごとく)に列(つらなる)と雖も、九泉(きうせん)の旅の路には供奉(ぐぶ)仕(つかまつる)臣一人もなし。奈何(いかんが)せん、南山地僻(さがり)にして、万卒(ばんそつ)雲の如(ごとく)に集(あつまる)といへ共、無常の敵の来(きたる)をば禦止(ふせぎとど)むる兵(つはもの)更になし。
只中流(ちゆうる)に舟を覆(くつがへし)て一壷(こ)の浪に漂(ただよ)ひ、暗夜(あんや)に燈(ともしび)消(きえ)て、五更(ごかう)の雨に向(むかふ)が如し。葬礼(さうれい)の御事(おんこと)、兼(かね)て遺勅(ゆゐちよく)有(あり)しかば、御終焉(ごじゆうえん)の御形(おんかたち)を改めず、棺槨(くわんくわく)を厚(あつく)し御坐(ござ)を正(ただしう)して、吉野山の麓、蔵王堂(ざわうだう)の艮(うしとら)なる林の奥に、円丘(ゑんきう)を高く築(つい)て、北向(きたむき)に奉葬。寂寞(じやくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)、鳥啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ。土墳(どふん)数尺(すしやく)の草(くさ)、一経(いつけい)涙(なんだ)尽(つき)て愁(うれへ)未尽(いまだつきず)。旧臣后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんばう)して、恨(うらみ)を天辺の月に添へ、覇陵(はりよう)の風に夙夜(しゆくや)して、別(わかれ)を夢裡(むり)の花(はな)に慕ふ。哀(あはれ)なりし御事(おんこと)也(なり)。
天下(てんが)久(ひさしく)乱(らん)に向ふ事は、末法(まつぼふの)風俗なれば暫く言(いふ)に不足。延喜天暦(えんぎてんりやく)より以来(このかた)、先帝程の聖主(せいしゆ)神武(じんむ)の君は未(いまだ)をはしまさざりしかば、何と無(なく)共(とも)、聖徳一(ひと)たび開(ひらけ)て、拝趨(はいすう)忠功の望(のぞみ)を達せぬ事は非じと、人皆憑(たのみ)をなしけるが、君の崩御(ほうぎよ)なりぬるを見進(まゐらせ)て、今は御裳濯河(みもすそがは)の流(ながれ)の末も絶(たえ)はて、筑波山の陰(かげ)に寄(よる)人も無(なく)て、天下(てんが)皆魔魅(まみ)の掌握に落(おつ)る世に成(なら)んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進(つきまとひまゐ)らせし卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は東海の波を蹈(ふん)で仲連(ちゆうれん)が跡(あと)を尋(たづね)、或(あるひ)は南山の歌を唱(となへ)て戚(ねいせき)が行(おこなひ)を学(まなば)んと、思々(おもひおもひ)に身の隠家(かくれが)をぞ求給(もとめたまひ)ける。
爰(ここ)に吉野(よしのの)執行(しゆぎやう)吉水(よしみづの)法印宗信(そうしん)、潜(ひそか)に此形勢(このありさま)を伝聞(つたへきき)て、急(いそぎ)参内(さんだい)して申(まうし)けるは、「先帝崩御(ほうぎよ)の刻(きざみ)被遺々勅、第七(だいしち)の宮(みや)を御位に即進(つけまゐら)せ、朝敵(てうてき)追伐(つゐばつ)の御本意を可被遂と、諸卿親(まのあた)り綸言(りんげん)を含(ふくま)せ給(たまひ)し事也(なり)。未(いまだ)日(ひ)を経(へ)ざるに退散隠遁(いんとん)の御企(おんくはたて)有(あり)と承及(うけたまはりおよび)候こそ、心ゑがたく存(ぞんじ)候へ。異国の例(れい)を以(もつて)吾朝(わがてう)の今を計(はかり)候に、文王草昧(さうまい)の主(あるじ)として、武王周(しう)の業(げふ)を起し、高祖(かうそ)崩(ほう)じ給(たまひ)て後(のち)、孝景(かうけい)漢の世を保(たもち)候はずや。今一人(いちじん)万歳(ばんぜい)を早(はやう)し給ふとも、旧労(きうらう)の輩(ともがら)其(その)功を捨(すて)て敵に降(くだら)んと思(おもふ)者は有(ある)べからず。
就中(なかんづく)世の危(あやふき)を見て弥(いよいよ)命(めい)を軽(かろん)ぜん官軍(くわんぐん)を数(かぞふ)るに、先(まづ)上野(かうづけの)国(くに)に新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、武蔵(むさしの)国(くに)に其家嫡(そのかちやく)左少将義宗(よしむね)、越前国(ゑちぜんのくに)に脇屋(わきや)刑部卿義助、同子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治、此外(このほか)江田・大館・里見(さとみ)・鳥山・田中・羽河(はねかは)・山名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・金谷(かなや)・堤・青竜寺(しやうりゆうじ)・青襲(あをそひ)・小守沢(こもりさは)の一族(いちぞく)都合(つがふ)四百(しひやく)余人(よにん)、国々に隠謀し所々に楯篭(たてごも)る。
造次(ざうじ)にも忠戦を不計と云(いふ)事なし。他家の輩(ともがら)には、筑紫(つくし)に菊池(きくち)・松浦鬼(まつらき)八郎(はちらう)・草野(くさの)・山鹿(やまが)・土肥(とひ)・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床(はねゆか)、淡路に阿間(あま)・志知(しうち)、安芸(あき)に有井、石見には三角(みすみの)入道・合(がふの)四郎、出雲伯耆に長年が一族共(いちぞくども)、備後には桜山、備前に今木(いまき)・大富(おほどみ)・和田・児島、播磨に吉河(よしかは)、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪(みわ)の西阿(せいあ)・真木(まき)の宝珠丸(はうじゆまる)、紀伊(きの)国(くに)に湯浅・山本・井遠(ゐとほの)三郎・賀藤(かとう)太郎、遠江には井介(ゐのすけ)、美濃に根尾(ねをの)入道、尾張(をはり)に熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)、越前には小国(をくに)・池・風間(かざま)・禰津(ねづ)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・大田信濃(しなのの)守(かみ)、山徒(さんと)には南岸(なんがん)の円宗院(ゑんじゆうゐん)、此外(このほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は数(かぞふる)に不遑。皆義心金石の如(ごとく)にして、一度(いちど)も変ぜぬ者共(ものども)也(なり)。
身不肖に候へども、宗信右(かく)て候はん程は、当山に於て又何(なん)の御怖畏(ごふゐ)か候べき。何様先(まづ)御遺勅(ごゆゐちよく)に任(まかせ)て、継体(けいたい)の君を御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せ、国々へ綸旨を成下(なしくださ)れ候へかし。」と申(まうし)ければ、諸卿皆げにもと思(おもは)れける処に、又楠帯刀(たてはき)・和田和泉(いづみの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)て、誠(まこと)に他事なき体(てい)に見へければ、人々皆退散の思(おもひ)を翻(ひるがへし)て、山中は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。
南帝受禅(じゆぜんの)事(こと)
同十月三日に、太神宮へ奉幣使(ほうへいし)を下され、第七(だいしち)の宮(みや)天子の位に即(つか)せ給ふ。夫(それ)継体君(けいたいのきみ)登極の御時(おんとき)、様々の大礼(たいれい)有(ある)べし。先(まづ)新帝受禅(じゆぜん)の日、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を被伝て、御即位(ごそくゐ)の儀式あり。其(その)明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士(うらべのしゆくねおんやうのはかせ)、軒廊(こんらう)にして国郡を卜定(ぼくぢやう)す。則(すなはち)行事所始(ぎやうじところはじめ)ありて、百司(はくし)千官次第の神事(じんじ)を執行(とりおこなは)る。同年の十月に、東の河原(かはら)に成(なつ)て御禊(おんはらひ)あり。又神泉苑(しんぜんゑん)の北に斎庁所(さいちやうしよ)を作(つくつ)て、旧主一日抜穂(ぬきぼ)を御覧ぜらる。竜尾堂(りようびだう)を立(たて)られ、壇上にして御行水有(おんぎやうずゐあり)て、回立殿(くわいりふでん)を建(たて)、新帝大甞宮(だいじやうきゆう)に行幸(ぎやうがう)あり。
其(その)日(ひ)殊に堂上(だうじやう)の伶倫(れいりん)、正始(せいし)の曲(きよく)を調(しらべ)て一たび雅音(がいん)を奏すれば、堂下(だうか)の舞人(まひびと)、をみの衣(ころも)を袒(かたぬい)て、五たび袖を翻(ひるがへ)す。是(これ)を五節(ごせち)の宴酔(えんすゐ)と云(いふ)。其後(そののち)大甞宮に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て御牲(おんにへ)の祭を行(おこなは)る程(ほど)に、悠紀(ゆうき)・主基(しゆき)、風俗の歌を唱(となへ)て帝徳を称じ、童女(いんご)・八乙女(やをとめ)、稲舂(いなつき)の歌を歌(うたう)て神饌(しんせん)を献(たてまつ)る。是(これ)皆代々(だいだい)の儲君(ちよくん)、御位(おんくらゐ)を天に継(つが)せ給ふ時の例なれば、三載(さんさい)数度(すど)の大礼、一も欠(かけ)ては有(ある)べからずといへども、洛外(らくぐわい)山中の皇居(くわうきよ)の事、可周備にあらざれば、如形三種(さんじゆの)神器(じんぎ)を拝せられたる計(ばかり)にて、新帝位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。
任遺勅被成綸旨事(こと)付(つけたり)義助攻落黒丸城事(こと)
同十一月五日、南朝の群臣(ぐんしん)相義(あひぎ)して、先帝に尊号を献(たてまつ)る。御在位(ございゐ)の間、風教(ふうかう)多(おほく)は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄(そのよせ)有(あり)とて、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)と諡(おくりな)し奉る。新帝幼主(えうしゆ)にて御座(ござ)ある上、君崩じ給(たまひ)たる後、百官冢宰(ちよさい)に総(すべ)て、三年政(まつりごと)を聞召(きこしめさ)れぬ事なれば、万機(ばんき)悉(ことごと)く北畠(きたばたけの)大納言(だいなごん)の計(はからひ)として、洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけの)卿(きやう)、二人(ににん)専(もつばら)諸事を被執奏。同十二月先(まづ)北国にある脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅(ごゆゐちよく)異于他上は、不替故義貞之例、官軍(くわんぐん)恩賞以下(いげ)の事相計(あひはかつ)て、可経奏聞之(の)由(よし)被宣下。其外(そのほか)筑紫の西征(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)、遠江(とほたふみの)井城(ゐのしろ)に御座(ござ)ある妙法院(めうほふゐん)、奥州(あうしうの)新国司(しんこくし)顕信(あきのぶ)卿(きやう)の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之(の)由(よし)、綸旨をぞ下されける。
義助は義貞討(うた)れし後勢(いきほひ)微(び)也(なり)といへども、所々の城郭(じやうくわく)に軍勢(ぐんぜい)を篭置(こめおき)、さまでは敵に挟(せば)められざりければ、何(いつ)まで右(かく)ても有(ある)べきぞ。城々の勢を一(ひとつ)に合(あはせ)て、黒丸(くろまる)の城に楯篭(たてこも)られたる尾張(をはりの)守(かみ)高経を責落(せめおと)さばやと評定有(あり)ける処に、先帝崩御(ほうぎよ)の御事(おんこと)を承(うけたまはつ)て、惘然(ばうぜん)たる事闇夜(あんや)に灯(ともしび)を失(うしな)へるが如し。さは有(あり)ながら、御遺勅(ゆゐちよく)他に異(こと)なる宣旨(せんじ)の忝(かたじけな)さに、忠義弥(いよいよ)心肝(しんかん)に銘(めい)じければ、如何にもして一戦(いつせん)に利を得、南方祠候(しこう)の人々の機(き)をも扶(たすけ)ばやと、御国忌(みこつき)の御中陰(ごちゆういん)の過(すぐる)を遅(おそし)とぞ相待(あひまち)ける。此(この)両三年越前の城三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)相交(あひまじはつ)て合戦の止日(やむとき)なし。
中にも湊(みなとの)城(じやう)とて、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢共(せいども)が終(つひ)に攻(せめ)落さゞりし城は、義助の若党(わかたう)畑(はたの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)が、纔(わづかに)二十三人(にじふさんにん)にて篭(こもつ)たりし平城(ひらじやう)也(なり)。南帝(なんてい)御即位の初(はじめ)天運図(と)に膺(あた)る時なるべし。諸卒同(おなじく)城(じやう)を出(いで)て一所(いつしよ)に集(あつま)り、当国の朝敵(てうてき)を平(たひら)げ他国に打越(うちこゆ)べき由を大将義助の方より牒(てふ)せられければ、七月三日に畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)三百(さんびやく)余騎(よき)にて湊(みなとの)城(じやう)を出(いで)て、金津(かなつ)・長崎・河合(かはひ)・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所(じふにかしよ)を打落(おとし)て、首を切(きる)事八百(はつぴやく)余人(よにん)、女童(をんなわらは)三歳の嬰児(えいじ)迄のこさず是(これ)を差(さし)殺す。
同五日に、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて西方寺(さいはうじ)の城より出(いで)て、和田・江守(えもり)・波羅密(はらみ)・深町(ふかまち)・安居(はこ)の庄内に、敵の稠(きびし)く構(かま)へたる六箇所(ろくかしよ)の城を二日に攻(せめ)落し、則(すなはち)御方(みかた)の勢を入替(いれかへ)て六箇所(ろくかしよ)の城を守らしむ。同五日、堀口兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)氏政、五百(ごひやく)余騎(よき)にて居山(ゐやま)の城より出(いで)て、香下(かした)・鶴沢・穴間(あなま)・河北(かはぎた)、十一箇所(じふいちかしよ)の城を五日が中(うち)に攻(せめ)落して、降人(かうにん)千(せん)余人(よにん)を引率(いんぞつ)し、河合(かはひの)庄(しやう)へ出合(いであ)はる。惣大将(そうだいしやう)脇屋(わきや)刑部卿義助は、禰津(ねづ)・風間(かざま)・瓜生(うりふ)・川島・宇都宮(うつのみや)・江戸・波多野(はだの)が勢、三千(さんぜん)余騎(よき)の将として、国府(こふ)より三手(みて)に分(わかれ)て、織田・々中・荒神峯(くわうじんがみね)・安古渡(はこのわたり)の城十七(じふしち)箇所(かしよ)を三日三夜に攻(せめ)落して、其(その)城(じやう)の大将七人(しちにん)虜(いけど)り士卒(じそつ)五百(ごひやく)余人(よにん)を誅(ちゆう)して、河合(かはひの)庄(しやう)へ打出(いで)らる。
同十六日四方(しはう)の官軍(くわんぐん)一所に相集(あひあつまつ)て、六千(ろくせん)余騎(よき)三方(さんぱう)より黒丸(くろまる)を相挟(はさみ)て未戦(いまだたたかはず)。河合孫五郎種経(たねつね)降人に成(なつ)て畑に属(しよく)す。其(その)勢を率(そつし)て、夜半に足羽(あすは)の乾(いぬゐ)なる小山の上に打上(のぼつ)て、終夜(よもすがら)城(じやう)の四辺(しへん)を打廻(うちまは)り、時を作り遠矢を射懸(かけ)て、後陣(ごぢん)の大勢集(あつま)らば、一番に城へ攻入(いら)んと勢(いきほひ)を見せて待明(まちあか)す。爰(ここ)に上木平九郎家光は、元は新田左中将(さちゆうじやう)の兵(つはもの)にて有(あり)しが、近来(このごろ)将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)して、黒丸の城に在(あり)けるが、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経の前に来(き)て申(まうし)けるは、「此(この)城(じやう)は先年新田殿(につたどの)の攻られしに、不思議(ふしぎ)の御運(ごうん)に依(よつ)て打勝(うちかた)せ給(たまひ)しに御習(ならひ)候(さふらひ)て、猶子細あらじと思召(おぼしめし)候はんには、疎(おろか)なる御計(おんはからひ)にて候べし。
其(その)故は先年此(この)所へ向(むかひ)候(さふらひ)し敵共(てきども)、皆東国西国の兵にて、不知案内(ふちあんない)に候(さふらひ)し間、深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こみ、堀溝(ほりみぞ)に堕入(おちいつ)て、遂(つひ)に名将流矢(ながれや)の鏑(かぶら)に懸(かか)り候(さふらひ)き。今は御方(みかた)に候(さふらひ)つる者共(ものども)が多く敵に成(なつ)て候間、寄手(よせて)も城の案内は能(よく)存知(ぞんちして)候。其(その)上(うへ)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうし)て日本一(につぽんいち)の大力(おほちから)の剛(かうの)者、命を此(この)城(じやう)に向(むかつ)て止(とどめ)んと思定(おもひさだめ)て向(むかひ)候なる。
恐(おそら)くは今時(いまどき)の御方(みかた)に、誰か是(これ)と牛角(ごかく)の合戦をし候べき。後攻(ごづめ)もなき平城(ひらじやう)に名将の小勢にて御篭(おんこもり)候(さふらひ)て、命を失(うしな)はせ給はん事、口惜(くちをし)かるべき御計(おんはからひ)にて候。只今夜の中(うち)に加賀(かがの)国(くに)へ引退(ひきしりぞか)せ給(たまひ)て、京都の御勢(おんせい)下向の時、力を合(あは)せ兵を集(あつめ)て、還(かへつ)て敵を御退治(ごたいぢ)候はんに、何(なん)の子細か候べき。」とぞ申(まうし)ける。細川出羽(ではの)守(かみ)・鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・浅倉・斉藤等(さいとうら)に至(いたる)まで、皆此(この)義に同(どう)じければ、尾張(をはりの)守(かみ)高経、五の城に火を懸(かけ)て、其(その)光を松明(たいまつ)に成(なし)て、夜間(よのま)に加賀(かがの)国(くに)富樫(とがし)が城へ落(おち)給ふ。畑が謀(はかりこと)を以て、義助黒丸の城(じやう)を落(おと)してこそ、義貞の討(うた)れられたりし会稽(くわいけい)の恥をば雪(きよめ)けれ。
塩冶判官(えんやはうぐわん)讒死(ざんしの)事(こと)
北国の宮方(みやがた)頻(しきり)に起(おこつ)て、尾張(をはりの)守(かみ)黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外(もつてのほか)に周章(しうしやう)して、助(たすけ)の兵を下さるべしと評定(ひやうぢやう)あり。則(すなはち)四方(しはう)の大将を定(さだめ)て、其(その)国々へ勢をぞ添(そへ)られける。高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師治(もろはる)は、大手の大将として、加賀・能登・越中(ゑつちゆう)の勢を率(そつ)し、加賀(かがの)国(くに)を経(へ)て宮(みや)の腰より向はる。土岐弾正少弼(せうひつ)頼遠は、搦手(からめて)の大将として、美濃・尾張(をはり)の勢を率(そつ)し、穴間(あなま)・郡上(ぐじやう)を経(へ)て大野郡(おほののこほり)へ向はる。
佐々木(ささきの)三郎判官氏頼は江州の勢を率(そつ)して、木目岳(きのめたうげ)を打越(うちこえ)て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路(ふなぢ)の大将として、出雲・伯耆の勢を率(そつ)し兵船(ひやうせん)三百艘を調(そろ)へ、三方(さんぱう)の寄手(よせて)の相近付(ちかづか)んずる黎(ころほひに)、津々浦々より上(あがり)て敵の後(うしろ)を襲(おそひ)、陣のあはいを隔(へだて)て、戦(たたかひ)を機変(きへん)の間に致すべしと、合図を堅く定(さだめ)らる。陸地(くがち)三方(さんぱう)の大将已(すで)に京を立(たち)て、分国(ぶんこく)の軍勢(ぐんぜい)を催(もよほさ)れければ、塩冶(えんや)も我(わが)国(くに)へ下(くだつ)て、其(その)用意(ようい)を致さんとしける最中(さいちゆう)に、不慮(ふりよ)の事出来(いでき)て、高貞忽(たちまち)に武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が為に討(うた)れにけり。
其宿意(そのしゆくい)何事ぞと尋(たづぬ)れば、高貞多年相馴(あひなれ)たりける女房を、師直に思懸(おもひかけ)られて、無謂討(うた)れけるぞと聞(きこ)へし。其比(そのころ)師直ちと違例(ゐれい)の事有(あつ)て、且(しばら)く出仕をもせで居たりける間、重恩(ぢゆうおん)の家人共(けにんども)是(これ)を慰(なぐさ)めん為に、毎日酒肴(さかな)を調(ととのへ)て、道々の能者(のうしや)共(ども)を召集(めしあつめ)て、其(その)芸能を尽(つく)させて、座中の興(きよう)をぞ促(もよほ)しける。或時(あるとき)月深(ふけ)夜閑(しづまつ)て、荻(をぎの)葉を渡(わたる)風身に入(しみ)たる心地しける時節(をりふし)、真都(しんいち)と覚都検校(かくいちけんげう)と、二人(ににん)つれ平家を歌(うたひ)けるに、「近衛(こんゑの)院(ゐん)の御時(おんとき)、紫宸殿(ししんでん)の上に、鵺(ぬえ)と云(いふ)怪鳥(けてう)飛来(とびきたつ)て夜な/\鳴(なき)けるを、源三位(げんざんみ)頼政(よりまさ)勅(ちよく)を承(うけたまはつ)て射て落したりければ、上皇限(かぎり)なく叡感有(あつ)て、紅(くれなゐ)の御衣(ぎよい)を当座(たうざ)に肩に懸(かけ)らる。
「此勧賞(このけんじやう)に、官位も闕国(けつこく)も猶(なほ)充(あたる)に不足。誠やらん頼政(よりまさ)は、藤壷の菖蒲(あやめ)に心を懸(かけ)て堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥(ふし)沈むなる。今夜(こんや)の勧賞(けんじやう)には、此(この)あやめを下さるべし。但し此(この)女を頼政(よりまさ)音(おと)にのみ聞(きい)て、未(いまだ)目には見ざんなれば、同様(おなじやう)なる女房をあまた出(いだ)して、引煩(わづら)はゞ、あやめも知(しら)ぬ恋をする哉(かな)と笑(わらは)んずるぞ。」と仰(おほせ)られて、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の侍女(じぢよ)の中より、花(はな)を猜(そね)み月を妬(ねた)む程の女房達(にようばうたち)を、十二人(じふににん)同様(おなじやう)に装束(しやうぞく)せさせて、中々(なかなか)ほのかなる気色(けしき)もなく、金沙(きんしや)の羅(うすもの)の中(うち)にぞ置(おか)れける。
さて頼政(よりまさ)を清涼殿の孫廂(まごひさし)へ召(めさ)れ、更衣(かうい)を勅使にて、「今夜(こんや)の抽賞(ちうしやう)には、浅香(あさか)の沼のあやめを下さるべし。其(その)手は緩(たゆむ)とも、自ら引(ひい)て我宿(わがやど)の妻と成(なせ)。」とぞ仰(おほせ)下されける。頼政(よりまさ)勅(ちよく)に随(したがつ)て、清涼殿の大床(おほゆか)に手をうち懸(かけ)て候(さふらひ)けるが、何(いづれ)も齢(よはひ)二八計(ばかり)なる女房の、みめ貌(かたち)絵に書共(かくとも)筆も難及程なるが、金翠(きんすゐ)の装(よそほひ)を餝(かざ)り、桃顔(たうがん)の媚(こび)を含(ふくん)で並居(なみゐ)たれば、頼政(よりまさ)心弥(いよいよ)迷ひ目うつろいて、何(いづれ)を菖蒲(あやめ)と可引心地(ここち)も無(なか)りけり。
更衣打笑(うちわらう)て、「水のまさらば浅香(あさか)の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政(よりまさ)、五月雨(さみだれ)に沢辺(さはべ)の真薦(まこも)水越(こえ)て何(いづれ)菖蒲(あやめ)と引(ひき)ぞ煩(わづら)ふとぞ読(よみ)たりける。時に近衛(こんゑ)関白殿(くわんばくどの)、余(あまり)の感に堪(たへ)かねて、自ら立(たつ)て菖蒲の前の袖を引(ひき)、「是(これ)こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政(よりまさ)にこそ下されけれ。頼政(よりまさ)鵺(ぬえ)を射て、弓箭(ゆみや)の名を揚(あげ)たるのみならず、一首(いつしゆ)の歌の御感(ぎよかん)に依(よつ)て、年月久(ひさしく)恋忍(こひしのび)つる菖蒲の前を給(たまはり)つる数奇(すき)の程こそ面目なれ。」と、真都(しんいち)三重(さんぢゆう)の甲(かふ)を上(あぐ)れば、覚一初重(しよぢゆう)の乙に収(をさめ)て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞(きく)に、簾中(れんちゆう)庭上諸共(もろとも)に、声を上(あげ)てぞ感じける。
平家はてゝ後(のち)、居残(ゐのこつ)たる若党(わかたう)・遁世(とんせいの)者共(ものども)、「さても頼政(よりまさ)が鵺(ぬえ)を射たる勧賞(けんじやう)に、傾城(けいせい)を給(たまはり)たるは面目なれ共(ども)、所領か御引出(おんひきで)物かを給(たまは)りたらんずるには、莫太(ばくたいの)劣(おとり)哉(かな)。」と申(まうし)ければ、武蔵守(むさしのかみ)聞(きき)もあへず、「御辺達(ごへんたち)は無下(むげ)に不当なる事を云(いふ)物哉(かな)。
師直はあやめほどの傾城(けいせい)には、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)、所領の二三十箇所(にさんじつかしよ)也(なり)とも、かへてこそ給(たまは)らめ。」とぞ恥(はぢ)しめける。かゝる処に、元は公家(くげ)のなま上達部(かんたちめ)に仕(つかへ)て、盛(さかん)なりし御代(みよ)を見たりし女房、今は時と共に衰(おとろへ)て身の寄辺無(よるべなき)まゝに、此(この)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ常に立寄(より)ける侍従(じじゆう)と申(まうす)女房、垣越(かきごし)に聞(きい)て、後(うしろ)の障子を引(ひき)あけて無限打笑(うちわらう)て、「あな善悪無(さがな)の御心(おんこころ)あて候や。事の様(やう)を推量候に、昔の菖蒲(あやめ)の前は、さまで美人にては無(なか)りけるとこそ覚(おぼえ)て候へ。楊貴妃(やうきひ)は、一笑(ひとたびゑめ)ば六宮(りくきゆう)に顔色無(なし)と申(まうし)候。縦(たとひ)千人(せんにん)万人の女房を双(なら)べ居(す)へて置(おか)れたり共、あやめの前誠(まこと)に世に勝(すぐ)れたらば、頼政(よりまさ)是(これ)を引(ひき)かね候べしや。
是(これ)程の女房にだに、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)をばかへても何か惜(をし)からんと仰(おほせ)候はゞ、先帝の御外戚早田宮(はやたのみや)の御女(おんむすめ)、弘徽殿(こうきでん)の西の台(たい)なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土(たうど)・天竺(てんぢく)にもかへさせ給はんずるや。 此(この)御方は、よく世に類(たぐひ)なきみめ貌(かたち)にて御渡(おんわた)りありと思食知(おぼしめししり)候へ。いつぞや雲の上人(うへびと)、花(はな)待(まち)かねし春(はる)の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞(きんりせんとう)の美夫人、九嬪更衣達(きうひんかういたち)を、花(はな)の譬(たとへ)にせられ候(さふらひ)しに、桐壷の御事(おんこと)は、あてやかにうちあらはれたる御気色(おんけしき)を奉見たる事なければ、譬(たとへ)て申さんもあやなかるべけれ共(ども)、雲井の外目(よそめ)も異(こと)なれば、明(あけ)やらぬ外山(とやま)の花(はな)にやと可申。梨壷(なしつぼ)の御事(おんこと)は、いつも臥沈(ふししづ)み給へる御気色(おんけしき)物がなしく、烽(とぶひ)の昔も理(ことわり)にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心(おんこころ)も空(そら)に知(しら)れしかば、「玉顔(ぎよくがん)寂寞(せきばく)として涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。」と喩(たと)ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様(おんさま)なるべし。
或(あるひ)は月もうつろふ本(もと)あらの小萩(こはぎ)、波も色ある井出(ゐで)の山吹、或(あるひ)は遍照(へんぜう)僧正(そうじやう)の、「我(われ)落(おち)にきと人に語るな。」と戯(たはむれ)し嵯峨野の秋の女郎花(をみなへし)、光(ひかる)源氏(げんじの)大将の、「白くさけるは。」と名を問(とひ)し、黄昏時(たそかれどき)の夕顔の花(はな)、見るに思(おもひ)の牡丹(ふかみぐさ)、色々様々の花共を取々(とりどり)に譬(たとへ)られしに、梅(むめ)は匂(にほ)ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香(そのか)もなし。柳は風を留(とどむ)る緑の糸(いと)、露の玉ぬく枝(えだ)異(こと)なれ共(ども)、匂(にほひ)もなく花(はな)もなし。梅(むめ)が香(か)を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌(このかたち)には譬(たと)へめとて、遂(つひ)に花(はな)のたとへの数(かず)にも入(いら)せ給はざりし上は、申(まうす)も中々(なかなか)疎(おろか)なる事にてこそ。」と云戯(いひたはむれ)て、障子を引立(ひきたて)て内へ入(いら)んとするを、師直目もなく打笑(うちわらう)て、
「暫(しば)し。」と袖をひかへて、「其(その)宮(みや)はいづくに御座(ござ)候ぞ。御年は何(いか)程(ほど)に成(なら)せ給ふぞ。」と問(とひ)けるに、侍従(じじゆう)立留(たちとどまつ)て、「近比(このごろ)は田舎人(いなかうど)の妻と成(なら)せ給(たまひ)ぬれば、御貌(おんかたち)も雲の上の昔には替(かは)り給(たまひ)、御年も盛り過(すぎ)させ給(たまひ)ぬらんと、思(おもひ)やり進(まゐらせ)て有(あり)しに、一日(ひとひ)物詣(ものまうで)の帰(かへる)さに参(まゐり)て奉見しが、古(いにしへ)の春待遠(まちどほ)に有(あり)し若木(わかき)の花(はな)よりも猶(なほ)色深く匂ひ有(あつ)て、在明(ありあけ)の月の隈(くま)なく指入(さしいり)たるに、南向(みなみむき)の御簾(みす)を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢(びん)のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂(にほひ)、芙蓉(ふよう)の眸(まなじり)、丹花(たんくわ)の脣(くちび)る、何(いか)なる笙の岩屋の聖(ひじり)なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚(おぼえ)てこそ候(さふらひ)しか。
うらめしの結(むすぶ)の神の御計(おんはからひ)にや。いかなる女院(にようゐん)、御息所(みやすどころ)とも奉見か、さらずば今程天下(てんが)の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔(たふ)の鳩(はと)の鳴く様(やう)にて、御副臥(おんそひぶし)もさこそこは/\しく鄙閑(ひなたけ)たるらんと覚(おぼゆ)る出雲の塩冶(えんや)判官(はうぐわん)に、先帝より下されて、賎(いやし)き田舎(ゐなか)の御棲(おんすまひ)にのみ、御身(おんみ)を捨(すて)はてさせ給(たまひ)ぬれば、只王昭君(わうせうくん)が胡国(ここく)の夷(えびす)に嫁(か)しけるもかくこそと覚(おぼえ)て、奉見も悲(かなし)くこそ侍(はんべ)りつれ。」とぞ語(かたり)ける。
武蔵守(むさしのかみ)いとゞうれしげに聞竭(ききつく)して、「御物語(おんものがたり)の余(あま)りに面白く覚(おぼゆ)るに、先(まづ)引出物(ひきでもの)申さん。」とて、色ある小袖十重(とかさね)に、沈(ぢん)の枕を取副(そへ)て、侍従(じじゆう)の局(つぼね)が前にぞ置(おか)れたる。侍従(じじゆう)俄(にはか)に徳付(つき)たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物(ひきでもの)やと思(おもひ)て、立(たち)かねたるに、武蔵守(むさしのかみ)近く居寄(ゐよつ)て、「詮(せん)なき御物語(おんものがたり)故(ゆゑ)に、師直が違例(ゐれい)はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病(やまひ)の付(つき)たる身に成(なつ)て候ぞや。さりとては平(ひら)に憑申(たのみまうし)候はん。此(この)女房何(いか)にもして我に御媒(おんなかだち)候(さふらひ)てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望(ごしよまう)に随(したがつ)て可進。」とぞ語(かたり)ける。
侍従(じじゆう)の局は、思寄(おもひよら)ぬ事哉(かな)。只独(ひとり)のみをはする人にてもなし。何(なに)としてかく共申出(まうしいづ)べきぞと思(おもひ)ながら、事の外(ほか)に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失(うしなは)れ、思(おもひ)の外(ほか)の目にもや合(あは)んずらんと恐(おそろ)しければ、「申(まうし)てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云(いは)ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)より様々の酒肴(さかな)なんど送り、「御左右(おんさう)遅(おそし)。」とぞ責(せめ)たりける。侍従(じじゆう)は辞(じ)するに言無(ことばなく)して、彼(かの)女房の方に行(ゆき)向ひ、忍(しのび)やかに、「かやうの事は申出(まうしいだす)に付(つけ)て、心の程も推量(おしはか)られ進(まゐら)せぬべければ、聞(きき)しばかりにてさて有(ある)べき事なれ共(ども)、かゝる事の侍(はんべ)るをば如何(いか)が御計(おんはからひ)候べき。露計(ばかり)のかごとに人の心をも慰(なぐさめ)られば、公達(きんだち)の御為に行末(ゆくすゑ)たのもしく、又憑(たのむ)方(かた)なき我等(われら)迄も立(たち)よる方無(なく)ては候はじ。
さのみ度重(たびかさ)ならばこそ、安濃(あこぎ)が浦に引綱(ひくあみ)の、人目に余る憚(はばかり)も候はめ。篠(ささ)の小(を)ざゝの一節(ひとふし)も、露かゝる事有(あり)共(とも)、誰か思寄(おもひよ)り候べき。」と、様々書(かき)くどき聞(きこ)ゆれ共(ども)、北(きた)の台(たい)は、「事の外(ほか)なる事哉(かな)。」と計(ばか)り打(うち)わびて、少(すこし)も云寄(いひよる)べき言葉(ことのは)もなし。さても錦木(にしきぎ)の千束(ちづか)を重(かさね)し、夷心(えびすごころ)の奥をも憐(あはれ)と思(おもひ)しる事もやと、日毎(ひごと)に経廻(へめぐり)て、「我(われ)にうきめを見せ、深き淵河(ふちかは)に沈(しづ)ませて、憐(あはれ)と計(ばかり)後(のち)の御情(おんなさけ)はあり共(とも)、よしや何かせん。只日比(ひごろ)参仕(まゐりつか)へし故宮(こみや)の御名残(おんなごり)と思召(おぼしめさ)ん甲斐には、責(せめ)て一言(ひとこと)の御返事(おんへんじ)をなり共承(うけたまはり)候へ。」と、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ければ、北(きたの)台(たい)もはや気色(けしき)打(うち)しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞(きこ)へそ。哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れば、高志(たかしの)浜のあだ浪(なみ)に、うき名の立(たつ)事もこそあれ。」と、かこち顔(がほ)也(なり)。
侍従(じじゆう)帰(かへつ)て角(かく)こそと語りければ、武蔵守(むさしのかみ)いと心を空(そら)に成(なし)て、度重(たびかさな)らばなさけによはることもこそあれ、文(ふみ)をやりてみばやとて、兼好(けんかう)と云(いひ)ける能書(のうしよ)の遁世者(とんせいしや)を呼寄(よびよせ)て、紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)の、取(とる)手もくゆる計(ばかり)にこがれたるに、言を尽(つく)してぞ聞(きこ)へける。
返事遅しと待(まつ)処に、使帰り来(き)て、「御文(おんふみ)をば手に取(とり)ながら、あけてだに見給はず、庭に捨(すて)られたるを、人目にかけじと懐(ふところ)に入(いれ)帰り参(まゐつ)て候(さふらひ)ぬる。」と語りければ、師直大(おほき)に気を損(そん)じて、「いや/\、物(もの)の用に立(たた)ぬ物は手書(てかき)也(なり)けり。今日より其兼好(そのけんかう)法師、是(これ)へよすべからず。」とぞ忿(いかり)ける。
かゝる処に薬師寺(やくしじ)次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、所用の事有(あつ)て、ふと差出(いで)たり。師直傍(かたはら)へ招(まねい)て、「爰(ここ)に文(ふみ)をやれ共(ども)取(とり)ても見ず、けしからぬ程(ほど)に気色(けしき)つれなき女房の有(あり)けるをばいかゞすべき。」と打笑(うちわらひ)ければ、公義(きんよし)、「人皆岩木(いはき)ならねば、何(いか)なる女房も慕(したふ)に靡(なびか)ぬ者や候べき。今一度(いちど)御文を遣(つかは)されて御覧候へ。」とて、師直に代(かはつ)て文を書(かき)けるが、中々(なかなか)言(ことば)はなくて、返すさへ手やふれけんと思(おもふ)にぞ我文(わがふみ)ながら打(うち)も置(おか)れず押返(おしかへ)して、媒(なかだち)此(この)文を持(もち)て行(ゆき)たるに、女房いかゞ思(おもひ)けん、歌を見て顔打(うち)あかめ、袖に入(いれ)て立(たち)けるを、媒(なかだち)さては便(たよ)りあしからずと、袖を引(ひか)へて、「さて御返事(おんへんじ)はいかに。」と申(まうし)ければ、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)。」と計(ばかり)云捨(いひすて)て、内へ紛入(まぎれいり)ぬ。
暫くあれば、使急帰(いそぎかへつ)て、「かくこそ候(さふらひ)つれ。」と語(かたる)に、師直うれしげに打案(うちあん)じて、軈(やがて)薬師寺を呼寄(よびよ)せ、「此(この)女房の返事に、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)と云捨(いひすて)て立(たた)れける。」と媒(なかだち)の申(まうす)は、衣小袖(きぬこそで)を調(ととのへ)て送れとにや。其(その)事ならば何(いか)なる装束(しやうぞく)なりともしたてんずるにいと安かるべし。是(これ)は何(なに)と云(いふ)心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是(これ)はさやうの心にては候はず、新古今の十戒(じつかい)の歌に、さなきだに重(おもき)が上の小夜衣(さよころも)我妻(わがつま)ならぬ妻(つま)な重(かさね)そと云(いふ)歌の心を以て、人目計(ばかり)を憚(はばかり)候物ぞとこそ覚(おぼえ)て候へ。」と、哥(うた)の心を尺(しやく)しければ、師直大(おほき)に悦(よろこび)て、「嗚呼(ああ)御辺(ごへん)は弓箭(ゆみや)の道のみならず、歌道にさへ無双(ぶさう)の達者(たつしや)也(なり)けり。いで引出(ひきで)物せん。」とて、金作(こがねつくり)の団鞘(まるさや)の太刀一振(ひとふり)、手づから取出(とりいだ)して、薬師寺にこそ引(ひか)れけれ。
兼好が不祥(ふしやう)、公義(きんよし)が高運(かううん)、栄枯一時に地を易(かへ)たり。師直此(この)返事を聞(きき)しより、いつとなく侍従(じじゆう)を呼(よび)て、「君の御大事(おんだいじ)に逢(あう)てこそ捨(すて)んと思(おもひ)つる命を、詮(せん)なき人の妻故(ゆゑ)に、空(むなし)く成(なら)んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必(かならず)侍従(じじゆう)殿(どの)をつれ進(まゐらせ)て、死出(しで)の山三途(さんづ)の河をば越(こえ)んずるぞ。」と、或時(あるとき)は目を瞋(いからかし)て云ひをどし、或時は又顔を低(たれ)て云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、侍従(じじゆうの)局(つぼね)もはや持(もて)あつかいて、さらば師直に此(この)女房の湯より上(あがつ)て、只顔(ただがほ)ならんを見せてうとませばやと思(おもひ)て、「暫く御待(おんまち)候へ。見ぬも非(あら)ず、見もせぬ御心(おんこころ)あては、申(まうす)をも人の憑(たのまれ)ぬ事にて候へば、よそながら先(まづ)其様(そのさま)を見せ進(まゐら)せ候はん。」とぞ慰(なぐさ)めける。
師直聞之より独(ひとり)ゑみして、今日(けふ)か明日(あす)かと待(まち)居たる処に、北(きたの)台(たい)の方に中居(なかゐ)する女童(をんなわらは)に、兼(かね)て約束したりければ、侍従(じじゆうの)局(つぼね)の方へ来(きたつ)て、「今夜このあれの御留主(るす)にて、御台(みだい)は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告(つげ)たりける。侍従(じじゆう)右(かく)と師直に申せば、頓(やが)て侍従(じじゆう)をしるべにて、塩冶(えんや)が館(たち)へ忍(しの)び入(いり)ぬ。二間(ふたま)なる所に、身を側(そば)めて、垣の隙(ひま)より闖(うかが)へば、只今此(この)女房湯より上(あが)りけりと覚(おぼえ)て、紅梅の色ことなるに、氷の如(ごとく)なる練貫(ねりぬき)の小袖の、しほ/\とあるをかい取(とつ)て、ぬれ髪の行(ゆく)ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚(そら)だきの煙匂計(にほふばかり)に残(のこつ)て、其(その)人は何(いづ)くにか有るらんと、心たど/\しく成(なり)ぬれば、巫女廟(ぶぢよべう)の花は夢の中(うち)に残り、昭君村(せうくんそん)の柳は雨の外(ほか)に疎(おろそか)なる心ちして、師直物(もの)の怪(け)の付(つき)たる様(やう)に、わな/\と振(ふる)ひ居たり。
さのみ程へば、主(あるじ)の帰る事もこそとあやなくて、侍従(じじゆう)師直が袖を引(ひき)て、半蔀(はじとみ)の外迄出(いで)たれば、師直縁(えん)の上に平伏(ひれふし)て、何(いか)に引立(ひきたつ)れ共(ども)起上(おきあが)らず。あやしや此侭(このまま)にて絶(たえ)や入(いら)んずらんと覚(おぼえ)て、兎角(とかう)して帰したれば、今は混(ひたす)ら恋の病(やまひ)に臥(ふし)沈み、物狂(くるは)しき事をのみ、寐(ね)ても寤(さめ)ても云(いふ)なんど聞(きこ)へければ、侍従(じじゆう)いかなる目にか合(あは)んずらんと恐しく覚(おぼえ)て、其行(そのゆく)え知(しる)べき人もなき片田舎へ逃下(にげくだり)にけり。此(これ)より後(のち)は指南(しるべ)する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様(やう)有(あり)と案出(あんじいだ)して、塩冶(えんや)隠謀の企(くはたて)有(ある)由を様々に讒(ざん)を運(めぐら)し、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)にぞ申(まうし)ける。
塩冶此(この)事を聞(きき)ければ、とても遁(のが)るまじき我(わが)命也(なり)。さらば本国に逃下(にげくだつ)て旗を挙(あげ)、一旗を促(もよほし)て、師直が為に命を捨(すて)んとぞたくみける。高貞三月二十七日(にじふしちにち)の暁、弐(ふたごこ)ろ有(ある)まじき若党(わかたう)三十(さんじふ)余人(よにん)、狩装束(かりしやうぞく)に出立(いでたた)せ、小鷹(こたか)手毎(てごと)にすへて、蓮台野(れんだいの)・西山辺(にしやまへん)へ懸狩(かけがり)の為に出(いづ)る様(やう)に見せて、寺戸(てらど)より山崎へ引違(ひきちがひ)、播磨路(はりまぢ)よりぞ落行(おちゆき)ける。身に近き郎等(らうどう)二十(にじふ)余人(よにん)をば、女房子共に付(つけ)て、物詣(ものまうで)する人の体(てい)に見せて、半時計(はんじばかり)引別(ひきわか)れ、丹波路(たんばぢ)よりぞ落しける。此比(このころ)人の心、子は親に敵(てき)し、弟は兄を失(うしな)はんとする習(ならひ)なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門(しらうざゑもん)、急(いそぎ)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ行(ゆき)て、高貞が企(くはたて)の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ告(つげ)たりける。師直聞之、此(この)事長僉儀(ながせんぎ)して、此(この)女房取(とり)はづしつる事の安からずさよと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)将軍(しやうぐん)へ参(まゐり)て、「高貞が隠謀の事、さしも急(きふ)に御沙汰(ごさた)候へと申候(まうしさふらひ)つるを聞召(きこしめし)候はで、此暁(このあかつき)西国を指(さし)て逃下候(にげくだりさふらひ)けんなる。
若(もし)出雲・伯耆に下著(げちやく)して、一族(いちぞく)を促(もよほし)て城に楯篭(たてこも)る程ならば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて有(ある)べう候也(なり)。」と申(まうし)ければ、「げにも。」と驚騒(おどろきさわが)れて誰をか追手(おひて)に下(くだ)すべきとて、其(その)器用をぞ撰(えらま)れける。当座(たうざ)に有(あり)ける人々、我をや追手(おひて)にさゝれんと、かたづを飲(のう)で、機(き)を攻(つめ)たる気色(きしよく)を見給(たまひ)て、此(この)者共(ものども)が中には、高貞を追攻(おつつめ)て討(うつ)べき者なしと思はれければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏と、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・太平(おほひら)出雲(いづもの)守(かみ)とを喚(よ)び寄(よせ)て、「高貞只今西国を指(さし)て逃下(にげくだ)り候なる。いづく迄も追攻(おつつめ)て打留(うちとめ)られ候へ。」と宣(のたまひ)ければ、両人共に一儀(いちぎ)にも及(およば)ず、畏(かしこまつ)て領状(りやうじやう)す。
時氏はかゝる事(こと)共(とも)知(しら)ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯(たい)し勢(せい)を率(そつ)せば、時剋(じこく)遷(うつり)て追(おつ)つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)にきせたりける物具(もののぐ)取(とつ)て肩に打懸(うちかけ)、馬の上にて高紐(たかひぼ)かけ、門前より懸足(かけあし)を出(いだ)して、父子主従七騎、播磨路(はりまぢ)にかゝり、揉(もみ)にもみてぞ追(おつ)たりける。直常も太平も宿所へは帰(かへら)ず、中間(ちゆうげん)を一人帰して、「乗替(のりがへ)の馬物具をば路へ追付(おつつ)けよ。」と下知(げぢ)して、丹波路(たんばぢ)を追(おう)てぞ下りける。道に行合(ゆきあふ)人に、「怪(あやし)げなる人や通(とほ)りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎(じふしごき)が程、女房をば輿(こし)にのせて急(いそ)がはしげに通(とほ)りつる。其合(そのあはひ)は二三里は過候(すぎさふらひ)ぬらん。」とぞ答へける。
「さては幾程も延(のび)じ。をくれ馳(はせ)の勢共(せいども)を待(まち)つれん。」とて、其(その)夜は波々伯部(はうかべ)の宿(しゆく)に暫く逗留(とうりう)し給へば、子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)・同左京(さきやうの)亮(すけ)以下(すけいげの)侍共(さぶらひども)、取(とる)物も取(とり)あへず、二百五十(にひやくごじふ)余騎(よき)、落人(おちうと)の跡を問々(とひとひ)、夜昼(よるひる)の境もなく追懸(おつかけ)たり。塩冶が若党共(わかたうども)も、追手(おひて)定(さだめ)て今は懸(かか)るらん。一足(ひとあし)もと急(いそぎ)けれ共(ども)、女性(によしやう)・少(をさなき)人を具足(ぐそく)したれば、兎角(とかう)のしつらいに滞(とどこほつ)て、播磨の陰山(かげやま)にては早追付(おつつか)れにけり。塩冶が郎等共(らうどうども)、今は落(おち)得じと思(おもひ)ければ、輿(こし)をば道の傍(かたはら)なる小家(こいへ)に舁入(かきいれ)させて、向(むかふ)敵に立向(たちむかひ)、をしはだぬぎ散々(さんざん)に射る。
追手(おひて)の兵共(つはものども)、物具(もののぐ)したる者は少(すくな)かりければ、懸寄(かけよせ)ては射落(いおと)し、抜(ぬい)てかゝれば射すへられて矢場(やには)に死せる者十一人、手負(ておふ)者は数を知(しら)ず。右(かく)ても追手(おひて)は次第に勢(せい)重(かさな)る。矢種(やだね)も已(すで)に尽(つき)ければ、先(まづ)女性(によしやう)をさなき子共を差殺(さしころ)して、腹を切らんとて家の内へ走り入(いつ)て見(みれ)ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜(よもすがら)の泪(なみだ)に沈(しづ)んで、さらず共(とも)我(われ)と消(きえ)ぬと見ゆる気色(きしよく)なるが、膝の傍(そば)に二人(ふたり)の子をかき寄(よせ)て、是(これ)や何(いか)にせんと、あきれ迷(まよ)へる有様を見るに、さしも武(たけ)く勇(いさ)める者共(ものども)なれ共(ども)、落(おつ)る泪(なみだ)に目も暮(くれ)て、只惘然(ばうぜん)としてぞ居たりける。
去(さる)程(ほど)に追手(おひて)の兵共(つはものども)、ま近く取巻(とりまい)て、「此(この)事の起りは何事ぞ。縦(たとひ)塩冶判官を討(うち)たり共、其(その)女房をとり奉らでは、執事(しつじ)の御所存に叶(かなふ)べからず。相構(あひかまへ)て其(その)旨を存知せよ。」と下知(げぢ)しけるを聞(きき)て、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)は、判官が次男の三歳に成(なる)が、母に懐(いだ)き付(つき)たるをかき懐(いだき)て、あたりなる辻堂(つじだう)に修行者(しゆぎやうじや)の有(あり)けるに、「此少(このをさなき)人、汝が弟子(でし)にして、出雲へ下(くだ)し進(まゐらせ)て、御命を助進(たすけまゐら)せよ。必ず所領一所(しよりやういつしよ)の主になすべし。」と云(いひ)て、小袖一重(ひとかさね)副(そへ)てぞとらせける。修行者(しゆぎやうじや)かい/゛\しく請取(うけとり)て、「子細(しさい)候はじ。」と申(まうし)ければ、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)無限悦(よろこび)て、元の小家(こいへ)に立(たち)帰り、「我は矢種(やだね)の有(あら)ん程は、防矢(ふせぎや)射んずるぞ。
御辺達(ごへんたち)は内へ参(まゐつ)て、女性少(をさ)なき人を差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、家に火を懸(かけ)て腹を切れ。」と申(まうし)ければ、塩冶が一族(いちぞく)に山城(やましろの)守(かみ)宗村(むねむら)と申(まうし)ける者内へ走(はし)り入(いり)、持(もつ)たる太刀を取直(とりなほ)して、雪よりも清く花よりも妙(たへ)なる女房の、胸の下をきつさきに、紅(くれなゐ)の血を淋(そそ)き、つと突(つき)とをせば、あつと云(いふ)声幽(かすか)に聞(きこ)へて、薄衣(うすぎぬ)の下に臥(ふし)給ふ。五(いつつ)になる少(をさなき)人、太刀の影に驚(おどろい)て、わつと泣(ない)て、「母御(ははご)なう。」とて、空(むなし)き人に取付(とりつき)たるを、山城(やましろの)守(かみ)心強(つよく)かき懐(いだ)き、太刀の柄(つか)を垣にあて、諸共(もろとも)に鐔本(つばもと)迄貫(つらぬか)れて、抱付(いだきつき)てぞ死(しに)にける。自余(じよ)の輩(ともがら)二十二人(にじふににん)、「今は心安し。」と悦(よろこび)て、髪を乱(みだ)し大裸(おほはだぬき)に成(なつ)て、敵近付(ちかづけ)ば走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)火を散(ちら)してぞ切合(きりあひ)たる。
とても遁(のがる)まじき命也(なり)。さのみ罪を造(つくつ)ては何(なに)かせんとは思(おもひ)ながら、爰(ここ)にて敵を暫(しばらく)も支(ささへ)たらば、判官少(すこし)も落延(おちのぶ)る事もやと、「塩冶爰(ここ)にあり、高貞此(これ)にあり。頚(くび)取(とつ)て師直に見せぬか。」と、名乗懸(なのりかけ)々々々(なのりかけ)二時計(ふたときばかり)ぞ戦(たたかひ)たる。今は矢種(やだね)も射尽(いつく)しぬ、切疵(きりきず)負(お)はぬ者も無(なか)りければ、家の戸口に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の中[に]走(わし)り入(いり)、二十二人(にじふににん)の者共(ものども)は、思々(おもひおもひ)に腹切(きつ)て、焼(やけ)こがれてぞ失(うせ)にける。焼(やけ)はてゝ後、一堆(いつたい)の灰を払(はらひ)のけて是(これ)を見れば、女房は焼野(やけの)の雉(きぎす)の雛(ひな)を翅(つばさ)にかくして、焼死(やけしに)たる如(ごとく)にて、未(いまだ)胎内(たいない)にある子、刃(やいば)のさき[に]懸(かけ)られながら、半(なかば)は腹より出(いで)て血と灰とに塗(まみれ)たり。又腹かき切(きつ)て多く重(かさな)り臥(ふし)たる死人(しにん)の下、少(をさな)き子を抱(いだい)て一つ太刀に貫(つらぬか)れたる、是(これ)ぞ何様(いかさま)塩冶判官にてぞあるらん。
され共(ども)焼損(やけそん)じたる首(くび)なれば取(とつ)て帰るに及ばずとて、桃井(もものゐ)も太平(おほひら)も、是(これ)より京へぞ帰り上(のぼ)りける。さて山陽道(せんやうだう)を追(おう)て下(くだ)りける山名伊豆(いづの)守(かみ)が若党共(わかたうども)、山崎財寺(たからでら)の前を打過(うちすぎ)ける処に跡(あと)より、「執事(しつじ)の御文(おんふみ)にて候、暫く御逗留(ごとうりう)候へ。可申事有(あり)。」とぞ呼(よばは)りける。何事やらんとて馬を引(ひか)へたれば、此(この)者三町(さんちやう)計(ばかり)隔(へだた)りて、「余(あま)りにつよく走(わしつ)て候程(ほど)に、息絶(たえ)てそれまでも参り得ず候。此方(こなた)へ打帰(うちかへら)せ給へ。」山名我身(わがみ)は馬より下(おり)、若党(わかたう)を四五騎(しごき)帰(かへ)して、「何事ぞ。あれ聞(きいて)、急馳(いそぎはせ)帰れ。」とぞ下知(げぢ)しける。五騎の兵共(つはものども)誠ぞと心得(こころえ)て、使の前にて馬より飛(とび)をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此(この)者莞爾(につこ)と打笑(うちわらひ)、「誠(まこと)には執事(つしづ)の使にては候はず。是(これ)は塩冶殿(えんやどの)の御内(みうち)の者にて候が、判官殿(はうぐわんどの)の落(おち)られ候(さふらひ)けるを知(しり)候はで伴をば不仕候。此(ここ)にて主の御為に命を捨(すて)て、冥途(めいど)にて此様(このさま)を語り申(まうす)べきにて候。」と云(いひ)もあへず抜合(ぬきあはせ)、時移(うつ)る迄ぞ切合(きりあひ)ける。
三人(さんにん)に手負(ておふ)せ我(わが)身も二太刀(ふたたち)切(きら)れければ、是(これ)迄とや思(おもひ)けん、塩冶が郎等(らうどう)は腹かき破(やぶつ)て死(しに)にけり。「此(この)者に出(いだ)しぬかれ時剋(じこく)移りければ、落人(おちうと)は遥(はるか)に延(のび)ぬらん。」とて、弥(いよいよ)馬を早め追懸(おつかけ)ける。京より湊河(みなとがは)までは十八里の道を二時計(ばかり)に打(うつ)て、「余(あま)りに馬疲(つかれ)ければ、今日はとても近付(ちかづく)事有(あり)がたし。一夜(いちや)馬の足を休(やすめ)てこそ追(お)はめ。」とて、山名伊豆(いづの)守(かみ)湊河(みなとがは)にぞとゞまりける。
其時(そのとき)生年(しやうねん)十四歳に成(なり)ける子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、気早(きばや)なる若者共(わかものども)を呼抜(よびぬい)て宣(のたまひ)けるは、「北(にぐ)る敵は跡(あと)を恐(おそれ)て、夜を日に継(つい)で逃(にげ)て下(くだ)る。我等(われら)は馬労(つかれ)て徒(いたづら)に明(あく)るを待(まつ)。加様(かやう)にては此(この)敵を追攻(おつつめ)て討つと云(いふ)事不可有。馬強(つよ)からん人々は我に同(どう)じ給へ、豆州(とうしう)には知(しら)せ奉らで、今夜此(この)敵を追攻(おつつめ)て、道にて打留(うちと)めん。」と云(いひ)もはてず、馬引寄(ひきよせ)て乗(のり)給へば、小林以下(いげ)の侍共(さぶらひども)十二騎、我(われ)も々(われも)と同(どう)じて、夜中に追(おつ)てぞ馳行(はせゆき)ける。
湊河より賀久河(かくがは)迄は、十六(じふろく)里(り)の道を一夜(いちや)に打(うつ)て、夜もはやほの/゛\と明(あけ)ければ、遠方人(をちかたびと)の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間(たえま)より、向(むかう)の方を見渡しければ、旅人とは覚(おぼえ)ぬ騎馬の客三十騎計(ばかり)、馬の足しどろに聞(きこ)へて、我先(われさき)にと馬を早めて行(ゆく)人あり。すはや是(これ)こそ塩冶よと見ければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)川縁(かはばた)に馬を懸居(かけすゑ)て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿(えんやどの)と見奉るは僻目(ひがめ)か、将軍を敵に思ひ、我等(われら)を追手(おひて)に受(うけ)て、何(いづ)くまでか落(おち)られぬべき。
踏留(ふみとどまつ)て尋常(じんじやう)に討死して、此長河(このちやうが)の流(ながれ)に名を残(のこ)され候へかし。」と、言(ことば)を懸(かけ)られて、判官が舎弟塩冶六郎(ろくらう)、若党共(わかたうども)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「某(それがし)は此(ここ)にて先(まづ)討死すべし。御辺達(ごへんたち)は細路(ほそみち)のつまり/\に防矢(ふせぎや)射て、廷尉(ていゐ)を落(おとし)奉れ。一度(いちど)に討死にする事有(ある)べからず。」と、無(なか)らん跡(あと)の事までも、委(くはしく)是(これ)を相謀(あひはかつ)て、主従七騎引返(ひつかへ)す。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵十二騎、一度(いちど)に河へ打入(うちいれ)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向(むかひ)の岸に鏃(やじり)をそろへ散々(さんざん)に射る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が胄(かぶと)の吹返(ふきかへ)し射向(いむけ)の袖に矢三筋(さんすぢ)受(うけ)て、岸の上へ颯(さつ)と懸上(かけあが)れば、塩冶六郎(ろくらう)抜合(ぬきあつ)て、懸違懸違(かけちがひかけちがひ)時移る程こそ切合(きりあひ)たれ。
小林左京(さきやうの)亮(すけ)、塩冶に切(きつ)て落されて已(すで)に打(うた)れんと見へければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)馳塞(はせふさがつ)て、当(たう)の敵を切(きつ)て落す。残り六騎の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)に打死しければ、其首(そのくび)を路次(ろし)に切懸(きりかけ)て、時剋(じこく)を移さず追(おつ)て行(ゆく)。此(この)間に塩冶は又五十町(ごじつちよう)計(ばかり)落延(おちのび)たりけれ共(ども)、郎等共(らうどうども)が乗(のつ)たる馬疲(つかれ)て、更にはたらかざりければ、道に乗捨(のりすて)歩跣(かちはだし)にて相従ふ。右(かく)ては本道を落(おち)得じとや思(おもひ)けん、御著宿(ごちやくのしゆく)より道を替(かへ)て、小塩山(をしほやま)へぞ懸(かかり)ける。山名続(つづい)て追(おひ)ければ、塩冶が郎等(らうどう)三人(さんにん)返合(かへしあはせ)て、松の一村(ひとむら)茂(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とり)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)に射る。
面(おもて)に前(すす)む敵六騎射て落し、矢種(やだね)も尽(つき)ければ打物(うちもの)に成(なつ)て切合(きりあつ)てぞ死(しに)にける。此(ここ)より高貞落延(おちのび)て、追手(おひて)の馬共皆疲(つかれ)にければ、「今は道にて追付(おひつく)事叶(かなふ)まじ。」とて、山陽道(さんやうだう)の追手(おひて)は、心閑(こころしづか)にぞ下(くだり)ける。三月晦日(つごもり)に塩冶出雲(いづもの)国(くに)に下著(げちやく)しぬれば、四月一日に追手(おひて)の大将、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて同国屋杉(やすぎ)の庄に著(つき)給ふ。則(すなはち)国中に相触(あひふれ)て、「高貞が叛逆(ほんぎやく)露顕(ろけん)の間、誅罰(ちゆうばつ)せん為に下向する所也(なり)。是(これ)を打(うち)て出(いだ)したらん輩(ともがら)に於(おいて)は、非職凡下(ぼんげ)を云(いは)ず、恩賞を申与(まうしあた)ふべき由。」を披露(ひろう)す。
聞之他人は云(いふ)に不及、親類骨肉(こつにく)迄も欲心に年来(としごろ)の好(よしみ)を忘(わすれ)ければ、自国他国の兵共(つはものども)、道を塞(ふさ)ぎ前(さき)を要(よぎつ)て、此(ここ)に待(まち)彼(かしこ)に来(きたり)て討(うた)んとす。高貞一日も身を隠(かく)すべき所無(なけ)れば、佐々布(ささふ)山に取上(とりのぼつ)て一軍(ひといくさ)せんと、馬を早めて行(ゆき)ける処に、丹波路(たんばぢ)より落(おち)ける若党(わかたう)の中間(ちゆうげん)一人走付(わしりつき)て、「是(これ)は誰(た)が為に御命をば惜(をし)まれて、城に楯篭(たてごも)らんとは思食(おぼしめし)候や。御台(みだい)御供(おんとも)申候(まうしさふらひ)つる人々は、播磨の陰山(かげやま)と申(まうす)所にて、敵に追付(おひつか)れて候(さふらひ)つる間、御台(みだい)をも公達(きんだち)をも皆差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、一人も残らず腹を切(きつ)て死(しに)て候也(なり)。
是(これ)を告申(つげまう)さん為に甲斐なき命生(いき)て、是(これ)迄参(まゐつ)て候。」と云(いひ)もはてず、腹かき切(きつ)て馬の前にぞ臥(ふし)たりける。判官是(これ)をきゝ、「時の間(ま)も離れがたき妻子(さいし)を失(うしなは)れて、命生(いき)ては何(なに)かせん、安からぬ物哉(かな)。七生(しちしやう)迄師直が敵と成(なつ)て、思知(おもひしら)せんずる物を。」と忿(いかつ)て、馬の上にて腹を切(きり)、倒(さかさま)に落(おち)て死(しに)にけり。三十(さんじふ)余騎(よき)有(あり)つる若党共(わかたうども)をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼(ここかしこ)へ遣(つかは)し、木村源三一人付順(つきしたがひ)て有(あり)けるが、馬より飛(とん)でをり、判官が頚を取(とつ)て、鎧直垂(よろひひたたれ)に裹(つつ)み、遥(はるか)の深田(ふかた)の泥中(どろのなか)に埋(うづん)で後、腹かき切(きつ)て、腸(はらわた)繰出(くりいだ)し、判官の頚の切口を陰(かく)し、上に打重(うちかさなつ)て懐付(いだきつき)てぞ死(しに)たりける。
後に伊豆(いづの)守(かみ)の兵共(つはものども)、木村が足の泥に濁(よごれ)たるをしるべにて、深田(ふかた)の中より、高貞が虚(むなし)き首を求出(もとめいだ)して、師直が方へぞ送りける。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ひとごと)に、「さしも忠有(あつ)て咎(とが)無(なか)りつる塩冶判官、一朝に讒言(ざんげん)せられて、百年の命を失(うしなひ)つる事の哀(あはれ)さよ。只晉(しん)の石季倫(せききりん)が、緑珠(りよくしゆ)が故(ゆゑ)に亡(ほろぼ)されて、金谷(きんこく)の花と散(ちり)はてしも、かくや。」と云(いは)ぬ人はなし。それより師直悪行積(つもつ)て無程亡失(ほろびうせ)にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云(いへ)る事、真(まこと)なる哉(かな)と覚(おぼ)へたり。
 
太平記 巻第二十二 

 

畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもんが)事(こと)
去(さる)程(ほど)に京都の討手大勢にて攻下(せめくだり)しかば、杣山(そまやま)の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国(ごかこく)の間に、宮方(みやがた)の城一所(いつしよ)も無(なか)りけるに、畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)、僅(わづか)に二十七人(にじふしちにん)篭(こも)りたりける鷹巣(たかのす)の城計(じやうばかり)ぞ相残りたりける。一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏政(うぢまさ)は、去年杣山(そまやま)の城より平泉寺(へいせんじ)へ越(こえ)て、衆徒(しゆと)を語(かたら)ひ、挙旗と被議けるが、国中(こくぢゆう)宮方(みやがた)弱(よわく)して、与力(よりき)する衆徒も無(なか)りければ、是(これ)も同(おなじ)く鷹巣(たかのすの)城(じやう)へぞ引篭(ひきこも)りける。
時能(ときよし)が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとて閣(さしお)きなば、何様(いかさま)天下(てんが)の大事(だいじ)に可成とて、足利尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)・高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師重(もろしげ)、両大将として、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、鷹巣城の四辺(しへん)を千百重(せんひやくぢゆう)に被囲、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向ひ城(じやう)をぞ取(とつ)たりける。彼(かの)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうす)は、武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)にて有(あり)けるが、歳十六(じふろく)の時より好(このんで)相撲(すまふを)取(とり)けるが、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に更に勝(かつ)者無(なか)りけり、腕の力筋太(すぢふとく)して股(もも)の村肉(むらにく)厚(あつ)ければ、彼薩摩(かのさつま)の氏長(うぢなが)も角(かく)やと覚(おぼえ)て夥(おびたた)し。
其後(そののち)信濃(しなのの)国(くに)に移住して、生涯山野江海(さんやかうかいの)猟漁(かりすなどり)を業(げふ)として、年久(ひさし)く有(あり)しかば、馬に乗(のつ)て悪所岩石(あくしよがんぜき)を落す事、恰も神変(じんべん)を得るが如し。唯造父(ざうほ)が御(ぎよ)を取(とつ)て千里に不疲しも、是(これ)には不過とぞ覚(おぼ)へたる。水練は又憑夷(ひようい)が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)をも自(みづから)可奪。弓は養由(やういう)が迹(あと)を追(おひ)しかば、弦(つる)を鳴(なら)して遥(はるか)なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落(おと)しつべし。謀(はかりこと)巧(たくみ)にして人を眤(むつび)、気健(すこやか)にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡(なび)け堅(かたき)に当る事、樊(はんくわい)・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚(あつま)る習ひなれば、彼が甥に所大夫房(ところのだいぶばう)快舜(くわいしゆん)とて、少しも不劣悪僧(あくそう)あり。又中間(ちゆうげん)に悪(あく)八郎(はちらう)とて、欠脣(いぐち)なる大力(だいぢから)あり。又犬獅子(けんじし)と名を付(つけ)たる不思議(ふしぎ)の犬一疋(いつぴき)有(あり)けり。
此(この)三人(さんにん)の者共(ものども)、闇にだになれば、或(あるひは)帽子甲(ばうしかぶと)に鎖(くさり)を著(き)て、足軽(あしがる)に出立(いでたつ)時もあり。或(あるひ)は大鎧(おほよろひ)に七物(ななつもの)持(もつ)時もあり。様々質(てだて)を替(かへ)て敵の向城(むかひじやう)に忍入(しのびいる)。先(まづ)件(くだん)の犬を先立(さきだて)て城の用心(ようじん)の様を伺(うかが)ふに、敵の用心(ようじん)密(きびしく)て難伺隙時は、此(この)犬一吠(ひとほえ)々(ほえて)走出(わしりいで)、敵の寝入(ねいり)、夜廻(よまはり)も止(やむ)時は、走出(わしりいで)て主に向(むかつ)て尾を振(ふつ)て告(つげ)ける間、三人(さんにん)共(とも)に此(この)犬を案内者(あんないしや)にて、屏(へい)をのり越(こえ)、城の中へ打入(うちいつ)て、叫喚(をめきさけん)で縦横無碍(むげ)に切(きつ)て廻りける間、数千(すせん)の敵軍驚騒(おどろきさわい)で、城を被落ぬは無(なか)りけり。
「夫(それ)犬は以守禦養人。」といへり。誠(まこと)に無心禽獣も、報恩酬徳(はうおんしうとく)の心有(ある)にや、斯(かか)る事は先言(せんげん)にも聞(きき)ける事あり。昔周(しう)の世衰へんとせし時、戎国(じゆうこく)乱(みだれ)て王化に不随、兵を遣(つかは)して是(これ)を雖責、官軍(くわんぐん)戦(たたかひ)に無利、討(うた)るゝ者三十万人、地を被奪事七千(しちせん)余里(より)、国危(あやふ)く士辱(はづか)しめられて、諸侯皆彼に降(くだらん)事を乞(こふ)。爰(ここ)に周王是(これ)を愁(うれへ)て(い)を安(やすん)じ給はず。時節(をりふし)御前(おんまへ)に犬の候(さふらひ)けるに魚肉を与(あたへ)、「汝若(もし)有心、戎国(じゆうこく)に下(くだつ)て、窃(ひそか)に戎王(じゆうわう)を喰殺(くひころ)して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千(さんぜん)の宮女を一人下(くだし)て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯(たはむれ)て被仰たりけるを、此狗(このいぬ)勅命を聞(きき)て、立(たち)て三声(みこゑ)吠(ほえ)けるが、則(すなはち)万里の路を過(すぎ)て戎国に下(くだつ)て、偸(ひそか)に戎王(じゆうわう)の寐所(ねところ)へ忍入(しのびいつ)て、忽(たちまち)に戎王(じゆうわう)を喰(くひ)殺し、其(その)頚を咆(くは)へて、周王の御前(おんまへ)へぞ進(まゐり)ける。
等閑(なほざり)に戯れて勅定(ちよくぢやう)ありし事なれ共(ども)、綸言(りんげん)難改とて、后宮(こうきゆう)を一人此狗(このいぬ)に被下て、為夫婦、戎国を其(その)賞にぞ被行ける。后(きさき)三千(さんぜん)の列(れつ)に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚かりし其(その)恩情を棄(すて)て、勅命なれば無力、彼(かの)犬に伴(ともなひ)て泣々(なくなく)戎国に下(くだつ)て、年久(ひさしく)住給(すみたまひ)しかば、一人の男子を生(うめ)り。其形(そのかたち)頭(かしら)は犬にして身は人に不替。子孫相続(あひつづい)て戎国を保ちける間、依之(これによつて)彼(かの)国(くに)を犬戎国(けんじゆうこく)とぞ申(まうし)ける。以彼思之、此犬獅子(このけんじし)が行(ゆく)をも珍しからずとぞ申(まうし)ける。
されば此(この)犬城中(じやうちゆう)に忍入(しのびいつ)て機嫌(きげん)を計(はかり)ける間、三十七(さんじふしち)箇所(かしよ)に城を拵(こしら)へ分(わかつ)て、逆木(さかもぎ)を引屏(ひきへい)を塗(ぬり)ぬる向城(むかひじやう)共(ども)、毎夜一二(ひとつふたつ)被打落、物具(もののぐ)を捨(す)て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方(みかた)に笑(わらは)れん事を恥(はぢ)て、偸(ひそか)に兵粮を入(いれ)、忍々(しのびしのび)酒肴(さかな)を送(おくつ)て、可然は我(わが)城(じやう)を夜討になせそと、畑を語(かたら)はぬ者ぞ無(なか)りける。
爰(ここ)に寄手(よせて)の中に、上木(うへき)九郎家光(いへみつ)と云(いひ)けるは、元(もと)は新田左中将(さちゆうじやう)の侍也(なり)けるが、心を翻(ひるがへ)して敵となり、責口(せめくち)に候(さふらひ)けるが、数百(すひやく)石(こく)の兵粮を通して畑に内通(ないつう)すと云(いふ)聞(きこ)へ有(あり)しかば、何(いか)なる者か為(したり)けん、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の陣の前に、「畑を討(うた)んと思はゞ、先(まづ)上木(うへき)を伐(きれ)。」と云(いふ)秀句(しうく)を書(かい)て高札(たかふだ)をぞ立(たて)たりける。是(これ)より大将も上木(うへき)に心を被置、傍輩(はうばい)も是(これ)に隔心(きやくしん)ある体(てい)に見(みえ)ける間、上木口惜(くちをしき)事に思(おもひ)て、二月二十七日(にじふしちにち)の早旦(さうたん)に、己(おのれ)が一族(いちぞく)二百(にひやく)余人(よにん)、俄(にはか)に物具(もののぐ)ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面(おもて)に当(あて)、かづき連(つれ)てぞ責(せめ)たりける。自余(じよ)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「城の案内知(しつ)たる上木が俄(にはか)に責(せむ)るは、何様(いかさま)可落様(やう)ぞ有(ある)らん。
上木一人が高名(かうみや)になすな。」とて、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向城(むかひじやう)の兵共(つはものども)七千人(しちせんにん)、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、岩根(いはね)を伝ひ、木の根に取付(とりつき)て、差(さし)も嶮(けは)しき鷹巣城(たかのすのじやう)の坂十八町(じふはちちやう)を一息(ひといき)に責上(せめあが)り、切岸(きりきし)の下にぞ著(つき)たりける。され共城には鳴(なり)を静めて、「事の様(やう)を見よ。」とて閑(しづま)り却(かへつ)て有(あり)けるが、已(すで)に鹿垣(ししかき)程近く成(なり)ける時、畑六郎(ろくらう)・所大夫(ところのだいぶ)快舜(くわいしゆん)・悪(あく)八郎(はちらう)・鶴沢源蔵人(げんくらうど)・長尾新左衛門(しんざゑもん)・児玉五郎左衛門(ごらうざゑもん)五人(ごにん)の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)の物具(もののぐ)に、太刀長刀の鋒(きつさき)を汰(そろ)へ、声々に名乗(なのつ)て、喚(をめい)て切(きつ)てぞ出(いで)たりける。
誠(まこと)に人なしと由断(ゆだん)して、そゞろに進み近づきたる前懸(さきがけ)の寄手(よせて)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)に驚散(おどろきちつ)て、互の助(たすけ)を得んと、一所(いつしよ)へひし/\と寄(よせ)たる処を、例(れい)の悪(あく)八郎(はちらう)、八九尺(はちくしやく)計(ばかり)なる大木(たいぼく)を脇(わき)にはさみ、五六十しても押(おし)はたらかしがたき大磐石(だいばんじやく)を、転懸(ころばしかけ)たれば、其(その)石に当(あた)る有様、輪宝(りんばう)の山を崩し磊石(らいせき)の卵(かひご)を圧(お)すに不異。斯(かか)る処に理を得て左右に激(げき)し、八方(はつぱう)を払(はらひ)、破(わつ)ては返し帰(かへし)ては進み、散々(さんざん)に切廻(きりまは)りける間、或(あるひは)討(うた)れ或(あるひは)疵(きず)を被(かうむ)る者、不知其数。乍去其(その)後は、弥(いよいよ)寄手(よせて)攻上(せめあが)る者も無(なく)て、只山を阻(へだて)川を境(さかう)て、向(むかひ)陣を遠く取(とり)のきたれば、中々(なかなか)兎角(とかう)もすべき様(やう)無し。
懸(かかり)し程(ほど)に、畑つく/゛\と思案して、此侭(このまま)にては叶ふまじ、珍(めづら)しき戦(たたか)ひ今一度(いちど)して、敵を散(ちら)すか散(ちら)さるゝか、二(ふたつ)の間に天運を見んと思(おもひ)ければ、我(わが)城(じやう)には大将一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)に、兵十一人を著(つけ)て残し留(とど)め、又我(わが)身は宗徒(むねと)の者十六人を引具(ひきぐ)して、十月二十一日の夜半(やはん)に、豊原(といはら)の北に当(あたり)たる伊地(いづち)山に打上(うちあがり)て、中黒(なかぐろ)の旌(はた)二流(ふたながれ)打立(うちたて)て、寄手(よせて)遅しとぞ待(まち)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)高経是(これ)を聞(きき)て、鷹巣城(たかのすのじやう)より勢を分(わかつ)て、此(ここ)へ打出(うちいで)たるとは不寄思、豊原(といはら)・平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、宮方(みやがた)と引合(ひきあひ)て旌(はた)を挙(あげ)たりと心得(こころえ)て、些(ちつと)も足をためさせじと、同(おなじき)二十二日の卯刻(うのこく)に、三千(さんぜん)余騎(よき)にてぞ押寄(おしよせ)られける。
寄手(よせて)初(はじめ)の程は敵の多少を量兼(はかりかね)て、無左右不進けるが、小勢也(なり)けりと見て、些(ちつと)も無恐処、我前(われさき)にとぞ進みたりける。
畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、敵外(そと)に引(ひか)へたる程は、態(わざと)あり共(とも)被知ざりけるが、敵已(すでに)一二町(いちにちやう)に責(せめ)寄せたりける時、金筒(かなどう)の上に火威(ひをどし)の胄(よろひ)の敷目(しきめ)に拵(こしら)へたるを、草摺長(くさずりなが)に著下(きくだし)て、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)に鍬形(くはがた)打(うつ)て緒(を)を縮(しめ)、熊野打(くまのうち)の肪当(ほうあて)に、大立揚(おほたてあげ)の脛当(すねあて)を、脇楯(わいだて)の下(した)まで引篭(ひきこめ)て、四尺(ししやく)三寸(さんずんの)太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の長刀茎短(くきみじか)に拳(にぎ)り、一引両(ひとつひきりやう)に三(みつすはま)の笠符(かさじるし)、馬の三頭(さんづ)に吹懸(ふきかけ)させ、塩津黒(しほづくろ)とて五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける馬に、鎖(くさり)の胄(よろひ)懸(かけ)させて、不劣兵十六人、前後左右に相随(あひしたが)へ、「畑将軍此(ここ)にあり、尾張(をはりの)守(かみ)は何(いづ)くに坐(ましま)すぞ。」と呼(よばはつ)て、大勢の中へ懸入(かけいり)、追廻(おひまは)し、懸乱(かけみだ)し、八方(はつぱう)を払(はらつ)て、四維(しゆゐ)に遮りしかば、万卒(ばんそつ)忽(たちまち)に散じて、皆馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。
是(これ)を見て、尾張(をはりの)守(かみ)高経・鹿草(かくさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)旗の下(もと)に磬(ひかへ)て、「無云甲斐者共(ものども)哉(かな)。敵縦(たとひ)鬼神(おにかみ)也(なり)とも、あれ程の小勢を見て引(ひく)事や有(ある)べき。唯(ただ)馬の足を立寄(たちよ)せて、魚鱗(ぎよりん)に引(ひか)へて、兵(つはもの)を虎韜(こたう)になして取篭(とりこめ)、一人も不漏打留(うちとめ)よや。」と、透間(すきま)も無(なく)ぞ被下知ける。懸(かかり)しかば三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、大将の諌言(かんげん)に力を得て、十六騎(じふろくき)の敵を真中(まんなか)にをつ取篭(とりこめ)、余(あま)さじとこそ揉(もう)だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗(のつ)たる馬は、項羽(かうう)が騅(すゐ)にも不劣程の駿足(しゆんそく)也(なり)しかば、鐙(あぶみ)の鼻に充落(あておと)され蹄(ひづめ)の下(した)にころぶをば、首(くび)を取(とつ)ては馳(はせ)通(とほ)り、取(とつ)て返しては颯(さつ)と破る。
相順(あひしたが)ふ兵も、皆似(に)るを友とする事なれば、目に当(あたる)敵をば切(きつ)て不落云(いふ)事なし。其膚(そのはだへ)不撓目(め)不瞬勇気に、三軍敢(あへ)て当(あた)り難く見へしかば、尾張(をはりの)守(かみ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、東西南北に散乱(さんらん)して、河より向(むかう)へ引退(ひきしりぞ)く。軍(いくさ)散じて後(のち)、畑帷幕(ゐばく)の内に打帰(うちかへり)て、其(その)兵を集(あつむ)るに、五騎は被討九人(くにん)は痛手(いたで)を負(おう)たりけり。其(その)中に殊更憑(たのみ)たる大夫房(だいぶばう)快舜(くわいしゆん)、七所まで痛手負(おう)たりしが、其(その)日(ひ)の暮程(ほど)にぞ死(しに)にける。
畑も脛当(すねあて)の外(はづれ)、小手(こて)の余(あま)り、切(きら)れぬ所ぞ無(なか)りける。少々(せうせう)の小疵(こきず)をば、物(もの)の数(かず)とも不思けるに、障子の板の外(はづれ)より、肩崎(かたさき)へ射篭(こめ)られたりける白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、何(いか)に脱(ぬき)けれ共(ども)、鏃(やじり)更に不脱けるが、三日の間苦痛を責(せめ)て、終(つひ)に吠(ほ)へ死(じに)にこそ失(うせ)にけれ。凡(およそ)此(この)畑は悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、罪障(ざいしやう)を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊(やきこぼ)ち、修善(しゆぜん)の心は露許(ばかり)もなく、作悪業事(ことは)如山重(かさなり)しかば、勇士(ゆうし)智謀の其芸(そのげい)有(あり)しか共(ども)、遂(つひ)に天の為にや被罰けん、流矢(ながれや)に被侵て死(しに)にけるこそ無慙(むざん)なれ。
君不見哉(や)、舁(げい)控弓、天に懸(かか)る九(ここのつ)の日を射て落し、(がう)盪舟、無水陸地(くがぢ)を遣(やり)しか共(ども)、或(あるひ)は其(その)臣寒(かんさく)に被殺、或(あるひ)は夏后小康(かこうせうかう)に被討て皆死名を遺(のこ)せり。されば開元(かいげん)の宰相宋開府(そうかいふ)が、幼君の為に武を黷(けが)し、其辺功(そのへんこう)を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思(おもひ)合(あは)せける許(ばかり)也(なり)。畑已(すで)に討(うた)れし後は、北国の宮方(みやがた)気を撓(たわま)して、頭(かしら)を差出(さしいだ)す者も無(なか)りけり。  
義助被参芳野事并(ならびに)隆資(たかすけ)卿(きやう)物語(ものがたりの)事(こと)
爰(ここ)に脇屋(わきや)刑部卿義助(よしすけ)は、去(さんぬる)九月十八日、美濃の根尾(ねを)の城に立篭(たてこもり)しか共(ども)、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠(よりとほ)・刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)に責(せめ)落されて、郎等(らうどう)七十三人(しちじふさんにん)を召具(めしぐ)し、微服潜行(びふくせんかう)して、熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)が城尾張(をはりの)国(くに)波津(はづ)が崎へ落(おち)させ給(たまひ)て、十(じふ)余日(よにち)逗留(とうりう)して、敗軍の兵を集めさせ給(たまひ)て、伊勢伊賀を経(へ)て、吉野殿(よしのどの)へぞ被参ける。
則(すなはち)参内(さんだい)し、竜顔(りようがん)に奉謁しかば、君玉顔殊に麗(うるは)しく照(てら)して前席、此(この)五六年が間の北征(ほくせい)の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其(その)命無恙して今此(ここ)に来(きた)る事、君臣水魚の忠徳再(ふたたび)可露故(ゆゑ)也(なり)と、御涙(おんなみだ)を浮(うかべ)させ御座(おはしまし)て被仰下。次(つぎの)日(ひ)臨時(りんじ)の宣下(せんげ)有(あつ)て一級を被加。加之(しかのみならず)当参の一族(いちぞく)、並(ならびに)相順(あひしたが)へる兵共(つはものども)に至るまで、或(あるひ)は恩賞を給(たまひ)、或(あるひは)官位を進められければ、面目人に超(こえ)てぞ見へたりける。
其(その)時分殿上(てんしやう)の上口(かみくち)に、諸卿被参候たりけるが、物語の次(ついで)に、洞院(とうゐんの)右大将実世(さねよ)未(いまだ)左衛門(さゑもんの)督(かみ)にて坐(ましませ)しが、被欺申けるは、「抑(そもそも)義助越前の合戦に打負(うちまけ)て美濃(みのの)国(くに)へ落(おち)ぬ。其(その)国(くに)をさへ又被追落て、身の置処(おきどころ)なき侭(まま)に、当山へ参りたるを、君御賞翫(ごしやうくわん)有(あつ)て、官禄を進ませらる事返々(かへすがへす)も不心得(こころえず)。是(これ)唯(ただ)治承の昔、権佐三位(ごんのすけさんみの)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)が、東国の討手(うつて)に下(くだつ)て、鳥の羽音(はおと)に驚(おどろい)て逃上(にげのぼり)たりしを、祖父清盛入道が計(はから)ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。
四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、つく/\と是(これ)を聞(きき)給ひけるが、退(しりぞい)て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣(おもむ)く処、其理(そのり)当(あた)るかとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、義助北国の軍(いくさ)に失利候(さふらひ)し事は全(まつたく)彼が戦(たたかひ)の拙(つたな)きに非(あら)ず。只聖運、時未到(いまだいたらず)、又勅裁(ちよくさい)の将の威を軽(かろ)くせられしに依(よつ)て也(なり)。高才(かうさい)に対して加様(かやう)の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情(ふぜい)にて候へ共(ども)、只其の一端(いつたん)を申(まうす)べし。昔周(しう)の未(いまだ)戦国の時に当(あたつ)て、七雄(しちゆう)の諸侯相争(あひあらそ)ひ互に国を奪はんと謀(はかり)し時、呉王闔廬(かふりよ)、孫子(そんし)と云(いひ)ける勇士(ゆうし)を大将として、敵国を伐(うた)ん事を計る。
時に孫氏、呉王闔廬に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「夫(それ)以不教之民戦(たたかは)しむる事、是(これ)を棄(すて)よといへり。若(もし)敵国を伐(うた)しめんとならば、先(まづ)宮中にあらゆる所の美人を集(あつめ)て、兵(つはもの)の前に立(たて)て、陣を張(は)り戈(ほこ)を持(もた)しめて後、我(われ)其命(そのめい)を司(つかさど)らむ。一日の中に、三度(さんど)戦(たたかひ)の術(じゆつ)を教へんに、命(めい)に随ふ事を得ば、敵国を滅(ほろぼ)さん事、立(たちどころ)に得つべし。」とぞ申(まうし)ける。呉王則(すなはち)孫子(そんし)が任申請、宮中の美人三千人(さんぜんにん)を南庭(なんてい)に出して、皆兵の前陣(ぜんぢん)に立(たて)らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈(ほこ)を取(とつ)て、「鼓(つづみ)うたば進んで刃(やいば)を交(まじ)へよ。金(かね)をうたば退(しりぞい)て二陣の兵に譲(ゆづ)れ。敵ひかば急に北(にぐ)るを追へ。敵返さば堪(こらへ)て弱(よわき)を凌(しの)げ。
命を背(そむ)かば我(われ)汝等(なんぢら)を斬らん。」と、馬を馳(はせ)てぞ習はしける。三千(さんぜん)の美人君の命(めい)に依(よつ)て戦(たたか)ひを習はす戦場へ出(いで)たれども、窈窕(えうてう)たる婉嫋(ゑんじやく)、羅綺(らき)にだもたへざる体(てい)なれば、戈をだにも擡(もたげ)得ざれば、まして刃を交(まじふ)るまでもなし。あきれたる体(てい)にて打笑(うちわらひ)ぬる計(ばかり)也(なり)。孫氏是(これ)を忿(いかつ)て、殊更呉王闔廬(かふりよ)が最愛の美人三人(さんにん)を忽(たちまち)に斬(きつ)てぞ捨(すて)たりける。是(これ)を見、自余(じよ)の美人相順(あひしたがう)て、「士卒(じそつ)と共に懸(かけ)よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止(とどま)る。聚散(しゆさん)応変、進退当度。是(これ)全(まつたく)孫氏が美人の殺す事を以て兵法(ひやうはふ)とはせず、只大将の命(めい)を士卒(じそつ)の重んずべき処を人にしらしめんが為也(なり)。呉王も最愛の美人を三人(さんにん)まで失ひつる事は悲しけれ共(ども)、孫氏が教へたる謀(はかりこと)誠(まこと)に当(あた)れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡(ほろぼ)されてげり。されば周(しう)の武王、殷の紂王を伐(うた)ん為に、大将を立(たて)ん事を太公望(たいこうばう)に問(とひ)給ふ。
太公望答曰(こたへていはく)、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者(ようしや)為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也(なり)。」といへり。
古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡(ほろぼ)し国を治(をさむ)る道は候事なれ。去(さる)程(ほど)に此間(このあひだ)北国の有様を伝へ承(うけたまは)るに、大将の挙状(きよじやう)を不帯共、士卒直(ぢき)に訴(うつたふ)る事あれば、軈(やが)て勅裁を被下、僅(わづか)に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支(ささ)へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之(これによつて)大将威軽(かろく)、士卒(じそつの)心恣(ほしいまま)にして、義助遂に百戦の利を失へり。
是(これ)全(まつたく)戦ふ処に非(あら)ず。只上(かみ)の御沙汰(ごさた)の違(たがふ)処に出たり。君忝(かたじけなく)も是(これ)を思召(おぼしめし)知るに依(よつ)て、今其(その)賞を被重者也(なり)。秦(しんの)将(しやう)孟明視・西乞術(せいきつじゆつ)・白乙丙(はくいつへい)、鄭(ていの)国(くに)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て帰(かへり)たりしを秦(しんの)穆公(ぼつこう)素服郊迎(そぶくかうげい)して、「我(われ)不用百里奚・叔(けんしゆく)言辱(はづか)しめられたり。三子(さんし)は何の罪かある。其(その)専心毋懈。」と云(いひ)て三人(さんにん)の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽(つくし)て宣(のべ)られければ、さしも大才の実世(さねよの)卿(きやう)、言(ことば)なくしてぞ立(たた)れける。「何ぞ古の維盛(これもり)を入道相国賞せしに同(おなじく)せん哉(や)。」と被申しかば、実世(さねよの)卿(きやう)言(こと)ば無(なく)して被退出けり。  
作々木信胤(ささきのぶたね)成宮方(みやがた)事(こと)
懸(かか)る処に伊予(いよの)国(くに)より専使(せんし)馳来(はせきたつ)て、急ぎ可然大将を一人撰(えらび)て被下、御方(みかた)に対して忠戦を可致之(の)由(よし)を奏聞(そうもん)したりしかば、脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)を可被下公議定(さだまり)けり。され共(ども)下向(げかう)の道、海上も陸地(くがぢ)も皆敵陣也(なり)。如何して可下、僉議(せんぎ)不一ける処に、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、佐々木(ささきの)飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)信胤(のぶたね)早馬(はやむま)を打て(うつ)て、「去月二十三日(にじふさんにち)小豆島(せうどしま)に押(おし)渡り、義兵を挙(あぐ)る処に、国中(こくぢゆう)の忠ある輩(ともがら)馳加(はせくははつ)て、逆徒(ぎやくと)少々打順(うちしたが)へ、京都運送の舟路(ふなぢ)を差塞(さしふさい)で候也(なり)。
急(いそぎ)近日大将御下向有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。諸卿是(これ)を聞(きき)て、大将進発(しんばつ)の道開(ひらけ)て、天運機を得たる時至りぬと、悦給(よろこびたまふ)事限(かぎり)なし。抑(そもそも)此(この)信胤と申(まうす)は、去建武(さんぬるけんむの)乱の始(はじめ)に、細川卿律師(きやうのりつし)定禅(ぢやうぜん)に与力(よりき)して、備前備中の両国を平(たひら)げ、将軍の為に忠功有(あり)しかば、武恩に飽(あき)て、恨(うらみ)を可含事も無(なか)りしに、依何今俄(にはか)に宮方(みやがた)に成(なる)ぞと、事の根元(こんげん)を尋ぬれば、此比(このころ)天下(てんが)に禍(わざはひ)をなす例(れい)の傾城(けいせい)故とぞ申(まうし)ける。其比(そのころ)菊亭(きくてい)殿(どの)に御妻(おさい)とて、見目貌(みめかたち)無類、其品(そのしな)賎(いやし)からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共(ども)、元来心軽(かろ)く思定(おもひさだ)めたる方もなければ、何(なに)となく引手数(ひくてあま)たのうき綱(あみ)の、目もはづかなる其喩(そのたと)へも猶(なほ)事過(すぎ)て、寄瀬(よるせ)何(いづ)くにかと我(われ)ながら思分(おもひわか)でぞ有(あり)渡りける。
さはありながら、をぼろけにては、人の近付(ちかづく)べきにもあらぬ宮中(きゆうちゆう)の深棲(ふかきすまひ)なるに、何(いか)がして心を懸(かけ)し玉垂(たまだれ)の、間(ひま)求(もとめ)得たる便(たより)にか有(あり)けん、今の世に肩を双(ならぶ)る人もなき高(かうの)土佐(とさの)守(かみ)に通馴(かよひなれ)て、人しれず思結(おもひむすぼ)れたる下紐(したひぼ)の、せきとめがたき中なれば、初(はじめ)の程こそ忍(しのび)けれ、後は早山田(やまた)に懸(かか)るひたふるに打(うち)ひたゝけて、あやにくなる里居(さとゐ)にのみまかでければ、宮仕(みやづか)ひも常には疎(おろ)そかなる事のみ有(あり)て、主(あるじ)の左(ひだん)のをほゐまうち公(きみ)も、かく共(とも)しらせ給(たまひ)しかば、むつかしの人目を中の関守(せきもり)や、よひ/\ごとの深過(ふけすぐ)るをまたず共(とも)あれかしと被許、まかで出(いで)ける時もあり。懸(かかり)し程(ほど)に、此(この)土佐(とさの)守(かみ)に元(もと)相馴(あひなれ)て、子共数(あま)た儲(まうけ)たる鎌倉(かまくら)の女房有(あり)ける。
是(これ)は元来(もとより)田舎人(ゐなかうど)也(なり)ければ、物妬(ものねたみ)はしたなく心武々敷(たけだけしく)て、彼(かの)源氏の雨夜(あまよ)の物語に、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)の指をくひ切(きり)たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉(や)とは乍思、いなと云(いふ)べき方も無(なく)て、年を送(おくり)ける処に、土佐(とさの)守(かみ)伊勢(いせの)国(くに)の守護(しゆご)に成(なつ)て下向しけるが、二人(ににん)の女房を皆具足(ぐそく)して下らんとて、元(もと)の女房をば先(まづ)くだしぬ。御妻(おさい)を同様(おなじやう)にと待(まち)しか共(ども)、今日よ明日(あす)よとて少しうるさげなる気色(けしき)に見へしかば、土佐(とさの)守(かみ)猶(なほ)も思(おもひ)の色増(まし)て、伴行(ともなひゆ)かでは叶(かなふ)まじきとて、三日まで逗留(とうりう)して、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、さらばとて、夜半許(やはんばかり)に輿指(こしさし)寄せ、几帳(きちやう)指隠(さしかく)して扶乗(たすけのせ)られぬ。
土佐(とさの)守(かみ)無限うれしくて、道に少しも不休、軈(やが)て伊勢路(いせぢ)に趣(おもむき)けり。まだ夜を篭(こめ)て、逢坂(あふさか)の関(せき)の岩かど蹈鳴(ふみなら)し、ゆう付鳥(つけどり)に被送て、水の上なる粟津野(あはづの)の、露分行(ゆ)けばにほの海、流(ながれ)の末(すゑ)の河となる、勢多(せた)の橋を打渡れば、衣手(ころもで)の田上河(たながみがは)の朝風に、比良(ひら)の峯わたし吹来(ふききたつ)て、輿(こし)の簾(すだれ)を吹揚(ふきあげ)たり。出絹(だしぎぬ)の中(うち)を見入(みいれ)たれば、年の程八十許(ばかり)なる古尼(ふるあま)の、額(ひたひ)には皺(しわ)のみよりて、口には歯一(ひとつ)もなきが、腰二重(ふたへ)に曲(かがめ)てぞ乗(のつ)たりける。土佐(とさの)守(かみ)驚(おどろい)て、
「是(これ)は何様(いかさま)古狸(ふるたぬき)か古狐(ふるきつね)かの化(ばけ)たるにてぞ有(ある)らん。鼻をふすべよ。蟇目(ひきめ)にて射て見よ。」と申(まうし)ければ、尼泣々(なくなく)、「是(これ)は媚者(ばけもの)にても候はず。菊亭殿(きくていどの)へ年来(としごろ)参通(まゐりかよふ)者にて候を、御妻(おさい)の局(つぼね)へ被召(めされ)て、「加様(かやう)にて京に住(すみ)わびんよりは、我が下(くだ)る田舎へ行(ゆき)て、且(しばら)くも慰めかし。」と被仰候(さふらひ)し間、さそふ水もがなと思ふ憂(うき)身にて候へば、うれしき事に思(おもひ)て昨日(きのふ)御局へ参りて候へば、被留進(まゐら)せて、妻戸(つまど)に輿(こし)を寄(よせ)たりしに、それに乗れと仰候(おほせさふらひ)しかば、何(なに)心もなく乗(のり)たる許(ばかり)にて候ぞ。」と申(まうし)ける。土佐(とさの)守(かみ)、「さては此(この)女房に出抜(だしぬか)れたる者也(なり)。彼御所(かのごしよ)に打入(うちいつ)て、奪取(うばひとら)ずば下(くだ)るまじき者を。」とて、尼をば勢多(せた)の橋爪(はしづめ)に打捨(うちすて)て、空輿(あきこし)を舁返(かきかへ)して、又京へぞ上(のぼ)りける。
元来(もとより)思慮なき土佐(とさの)守(かみ)、菊亭殿(きくていどの)に推寄(おしよせ)て、四方(しはう)の門を差篭(さしこめ)て、無残所捜(さが)しける。御所中の人々、「こは何(いか)なる事ぞ。」とて、上下周章騒(あわてさわぐ)事無限。何(いか)に求(もとむ)れ共(ども)なければ、此(この)女房の住(すみ)しあたりなる局(つぼね)に有(あり)ける女(め)の童(わらは)を囚(とら)へて、責問(せめとひ)ければ、「其(その)女房は通(かよふ)方(かた)多かりしかば、何(いづ)くとも差(さし)ては知(しり)がたし。近来(このころ)は飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とかや云(いふ)者にこそ、分(わき)て志深く、人目も憚(はばか)らぬ様(やう)に承(うけたまはり)候(さふらひ)しか。」と語りければ、土佐(とさの)守(かみ)弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、軈(やが)て飽浦(あくら)が宿所へ推寄(おしよせ)て討(うた)んと議(たばか)りけるを聞(きき)て、自科(じくわ)依難遁、身を隠(かく)しかね、多年粉骨(ふんこつ)の忠功を棄(すて)て、宮方(みやがた)の旗をば挙(あげ)ける也(なり)。折(をり)得ても心許すな山桜さそふ嵐に散(ちり)もこそすれと歌に読(よみ)たりしは、人(ひとの)心の花なりけりと、今更思知(おもひしつ)ても、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。  
義助予州(よしうへ)下向(げかうの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に四国の通路(つうろ)開(ひらき)ぬとて、脇屋(わきや)刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙(かうむつ)て、四国西国の大将を奉(うけたまはつ)て、下向とぞ聞(きこ)へし。年来(としころ)相順(あひしたが)ふ兵其数(そのかず)多しといへ共、越前美濃の合戦に打負(うちまけ)し時、大将の行末(ゆくへ)を不知して山林に隠忍(かくれしの)び、或(あるひ)は危難を遁(のがれ)て堺(さかひ)を隔(へだ)てしかば、芳野(よしの)へ馳来(はせきた)る兵五百騎(ごひやくき)にも不足けり。され共(ども)四国中国に心を通ずる官軍(くわんぐん)多く有(あり)しかば、今一日も可急とて、未明(びめい)に芳野を打立(うつたつ)て、紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り被通けるに、加様(かやう)の次(ついで)ならでは早晩(いつ)か参詣の志をも遂(と)げ、当来値遇(ちぐ)の縁(えん)をも可結と被思ければ、先(まづ)高野山(かうやさん)に詣(まうで)て、三日逗留(とうりう)し、院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)拝(をが)み廻(まは)るに、聞(きき)しより尚貴(たつと)くて、八葉(はちえふ)の峯空にそびへ、千仏(せんぶつ)の座雲(くも)に捧(ささ)げたり。
無漏(むろ)の扉(とぼそ)苔閉(とぢ)て、三会(さんゑ)の暁(あかつき)に月を期(ご)す。或(あるひ)は説法衆会(しゆゑ)の場(ぢやう)もあり、或(あるひ)は念仏三昧の砌(みぎり)もあり。飛行(ひぎやう)の三鈷(さんこ)地に堕(おち)、験(しるし)に生(おひ)たる一株(ちう)の松、回禄の余烟風(ほのか)に去(さつ)て、軒を焦(こが)せる御影堂(みえいだう)、香烟(かうのけぶり)窓(まど)を出(いで)て心細く、鈴(れい)の声(こゑ)霧に篭(こもつ)て物冷(さび)し。此(ここ)は昔滝口入道が住(すみ)たりし菴室(あんじつ)の迹(あと)とて尋(たづぬ)れば、旧き板間(いたま)に苔むして、荒(あれ)ても漏(もれ)ぬ夜の月、彼(かしこ)は古(いにしへ)西行法師が結置(むすびおき)し、柴の庵(いほり)の名残(なごり)とて立寄(たちよ)れば、払(はら)はぬ庭に花散(ちり)て、蹈(ふむ)に迹(あと)なき朝(あした)の雪、様々の霊場(れいぢやう)所々(ところどころ)の幽閑(いうかん)を見給(たまふ)にぞ、「遁(のがれ)ぬべくは角(かく)てこそあらまほしく。」と宣(のたまひ)し、維盛(これもり)卿(きやう)の心(こころの)中、誠(げにも)と被思知たる。
且(しばら)くも懸(かか)る霊地に逗留(とうりう)して、猶も憂(うき)身の汚れを濯度(すすぎたく)思はれけれ共(ども)、軍旅(ぐんりよ)に趣(おもむき)給ふ事なれば不協して、高野(かうや)より紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り、千里(せんり)の浜を打過(うちすぎ)て、田辺(たなべ)の宿(しゆく)に逗留(とうりう)し、渡海の舟を汰(そろ)へ給(たまふ)に、熊野の新宮別当(じんぐうのべつたう)湛誉(たんよ)・湯浅入道定仏(ぢやうぶつ)・山本(やまもとの)判官(はうぐわん)・東四郎(とうしらう)・西四郎(さいしらう)以下(いげ)の熊野人共(くまのとども)、馬・物具(もののぐ)・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我(われ)不劣と奉りける間、行路(かうろ)の資(たす)け卓散(たくさん)也(なり)。角(かく)て順風に成(なり)にければ、熊野人(くまのと)共(ども)兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)調(そろ)へ立(たて)、淡路の武島(むしま)へ送(おくり)奉る。
此(ここ)には安間(あま)・志知(しうち)・小笠原の一族共(いちぞくども)、元来(ぐわんらい)宮方(みやがた)にて城を構(かまへ)て居たりしかば、様々の酒肴(さかな)・引出物(ひきでもの)を尽(つく)して、三百(さんびやく)余艘(よさう)の舟を汰(そろ)へ、備前の小島(こじま)へ送(おくり)奉る。此(ここ)には佐々木(ささきの)薩摩(さつまの)守(かみ)信胤(のぶたね)・梶原三郎自去年宮(みや)方(がた)に成(なつ)て、島の内には又交(まじは)る人もなし。されば大船(だいせん)数(あま)た汰(そろ)へて、四月二十三日(にじふさんにち)伊予(いよの)国(くに)今張(いまばりの)浦(うら)に送著(おくりつけ)奉る。大館(おほたて)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)は、先帝(せんてい)自山門京へ御出(おんいで)有(あり)し時、供奉(ぐぶ)仕(つかまつつ)て有(あり)しが、如何(いかが)思(おもひ)けん降人(かうにん)になり、且(しばら)くは将軍に属(しよく)して居たりけるが、先帝偸(ひそか)に楼(ろう)の御所(ごしよ)を御出(おんいで)有(あつ)て、吉野に御座(ござ)有(あり)と聞(きき)て、軈(やが)て馳参(はせまゐり)たりしかば、君御感(ぎよかん)有(あつ)て伊予(いよの)国(くに)の守護(しゆご)に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。
又四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)子息少将有資(ありすけ)は此(この)国(くに)の国司(こくし)にて自去々年在国せらる。土居(どゐ)・得能(とくのう)・土肥(とひ)・河田・武市(たけいち)・日吉(ひよし)の者共(ものども)、多年の宮方(みやがた)にして、讃岐の敵を支(ささ)へ、西は土佐(とさ)の畑(はた)を堺(さか)ふて居たりければ、大将下向に弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て、竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如し。其(その)威漸(やうやく)近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至(ないし)九国の方までも、又大事(だいじ)出来(いでき)ぬと云はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば当国の内にも、将軍方(しやうぐんがた)の城僅(わづか)に十(じふ)余箇所(よかしよ)有(あり)けるも、未(いまだ)敵も向はぬ先に皆聞落(ききおち)してんげれば、今は四国悉(ことごとく)一統(いつとう)して、何事か可有と憑敷(たのもしく)思(おもひ)あへり。  
義助朝臣(あそん)病死(びやうしの)事(こと)付(つけたり)鞆(とも)軍(いくさの)事(こと)
斯(かか)る処に、同(おなじき)五月四日、国府(こふ)に被坐たる脇屋(わきや)刑部卿義助、俄(にはか)に病(やまひ)を受(うけ)て、身心悩乱(なうらん)し給ひけるが、僅(わづか)に七日過(すぎ)て、終(つひ)に無墓成給(なりたまひ)にけり。相順(あひしたが)ふ官軍共(くわんぐんども)、始皇(しくわう)沙丘(さきう)に崩じて、漢(かん)・楚(そ)機に乗(のる)事を悲(かなし)み、孔明(こうめい)籌筆駅(ちうひつえき)に死して、呉(ご)・魏(ぎ)便(たよ)りを得し事を愁(うれへ)しが如く、五更(ごかう)に灯(ともしび)消(きえ)て、破窓(はさう)の雨に向ひ、中流(ちゆうる)に舟を失(うしなひ)て、一瓢(いつぺう)の浪に漂ふらんも、角(かく)やと覚(おぼ)へて、此(この)事外(よそ)に聞(きこ)へなば、敵に気を得られつべしとて、偸(ひそか)に葬礼(さうれい)を致(いたし)て、隠悲呑声いへ共(ども)、さすが隠無(かくれなか)りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春、此(この)事を聞(きき)て、
「時をば且(しばら)くも不可失。是(これ)司馬仲達が弊(つひえ)に乗(のつ)て蜀(しよく)を亡(ほろぼ)せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、先(まづ)伊予の堺(さかひ)なる河江城(かはえのじやう)へ押寄(おしよせ)て、土肥(とひの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)を責(せめ)らる。義助に順付(したがひつき)たりし多年恩顧の兵共(つはものども)、土居・得能・合田(あひだ)・二(にの)宮(みや)・日吉・多田・三木・羽床(はゆか)・三宅(みやけ)・高市(たけいち)の者共(ものども)、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏(つねうぢ)を大将にて、兵船(ひやうせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)にて、土肥(とひ)が後攻(ごづめ)の為に海上に推浮(おしうか)ぶ。是(これ)を聞(きき)て、備後の鞆(とも)・尾(を)の道(みち)に舟汰(ふなぞろへ)して、土肥が城へ寄(よ)せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千(せん)余艘(よさう)にて推出(おしいだ)す。
両陣の兵船(ひやうせん)共(ども)、渡中(となか)に帆を突(つい)て、扣舷時を作る。塩(しほ)に追ひ風に随(したがつ)て推合(おしあひ)々々(おしあひ)相戦ひける。其(その)中に大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)が執事(しつじ)、岡部出羽(ではの)守(かみ)が乗(のり)たる舟十七艘、備後の宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信(かねのぶ)、左右に別(わかれ)て漕双(こぎなら)べたる舟四十(しじふ)余艘(よさう)が中へ分入(わけいり)て、敵の船に乗遷(のりうつり)々々(のりうつり)、皆引組(ひつくん)で海中へ飛入(とびいり)けるこそ、いかめしかりし行迹(ふるまひ)なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫(とも)・舳(へ)に櫓(ろ)を高く掻(かい)て、指下(さしおろ)して散々(さんざん)に射る。伊予・土佐(とさ)の舟は皆小舟なれば、逆櫓(さかろ)を立(たて)て縦横に相当(あひあた)る。両方の兵(つはもの)、よしや死して海底の魚腹に葬(さう)せらるゝ共、逃(にげ)て天下(てんが)の人口(じんこう)には落(おち)じ者をと、互に機を進め、一引(ひとひき)も不引終日(ひねもす)戦ひ暮(くら)しける処に、海上俄(にはか)に風来(きたつ)て、宮方(みやがた)の舟をば悉(ことごと)く西を差(さし)て吹(ふき)もどす。
寄手(よせて)の舟をば悉(ことごと)く伊予の地へ吹(ふき)送る。夜に入(いり)て風少(すこし)静まりければ、宮方(みやがた)の兵共(つはものども)、「是(これ)程(ほど)に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元(もと)の方へ漕返(こぎかへす)べき歟(か)。」と申(まうし)けるを、大将金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、「運(うん)を計(はか)り勝つ事を求(もとむ)る時こそ、身を全(まつたう)して功をなさんとは思へ。
只一人憑(たのみ)たる大将軍脇屋(わきや)義助は病(やまひ)に被侵失給(うせたまひ)ぬる上は、今は可為方なき微運(びうん)の我等(われら)が、生(いき)てあらば何許(いかばかり)の事か可有。命(いのち)を限(かぎり)の戦(たたかひ)して、弓矢の義を専にする許(ばかり)なるべし。されば運の通塞(つうそく)も軍(いくさ)の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆(とも)へ推寄(おしよせ)て、其(その)城(じやう)を追落(おひおと)して、中国の勢著(つ)かば西国を責随(せめしたが)へん。」とて、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、備後の鞆へ押寄する。城中(じやうちゆう)時節(をりふし)無勢(ぶせい)也(なり)ければ、三十(さんじふ)余人(よにん)有(あり)ける者共(ものども)、且(しばら)く戦(たたかひ)て皆討死しければ、宮方(みやがた)の士卒(じそつ)是(これ)に機(き)を挙(あげ)て、大可島(おほかしま)を攻城(つめのじやう)に拵(こしら)へ、鞆の浦に充満して、武島(むしま)や小豆島(せうどしま)の御方(みかた)を待(まつ)処に、備後・備中・安芸・周防四箇国(しかこく)の将軍の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。
宮方(みやがた)は大可島(おほかしま)を後(うし)ろに当(あて)て、東西の宿(しゆく)へ舟を漕寄(こぎよせ)て、打(うつ)てはあがり/\、荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦(たたかひ)たり。将軍方(しやうぐんがた)は小松寺(こまつでら)を陣に取(とり)て、浜面(はまおもて)へ騎馬の兵(つはもの)を出し、懸合合(かけあひあひ)揉合(もみあはせ)たり。互に戦屈(たたかひくつ)して、十(じふ)余日(よにち)を経ける処に、伊予の土肥(とひ)が城被責落。細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春は、大館左馬(さまの)助(すけ)氏明の被篭たる世田(せた)の城へ懸(かか)ると聞(きこ)へければ、土居・得能以下(いげ)の者共(ものども)、同(おなじ)く死なば、我(わが)国(くに)にてこそ尸(かばね)を曝(さら)さめとて、大可島(おほかしま)を打棄(うちすて)て、伊予(いよの)国(くに)に引返(ひつかへ)す。敗軍の士卒(じそつ)相集(あひあつまつ)て、二千(にせん)余騎(よき)有(あり)ける其(その)中より、日来(ひごろ)手柄(てがら)露(あら)はし名を被知たる兵を、三百(さんびやく)余騎(よき)勝(すぐ)り出(いだ)して、懸合(かけあひ)の合戦に勝負を決せんと云(いふ)。
是(これ)は細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)目に余る程の大勢也(なり)と聞(きき)、「中々何ともなき取集勢(とりあつめぜい)を対揚(たいやう)して合戦をせば、臆病武者(むしや)に引立(ひきたて)られて、御方(みかた)の負(まけ)をする事有(ある)べし。只一騎当千の兵を勝(すぐつ)て敵の大勢を懸破(かけやぶ)り、大将細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)と引組(ひつくん)で差違(さしちが)へんとの謀也(なり)。さらば敵の国中(こくぢゆう)へ入(いら)ぬ先(さき)に打立(うつたて)。」とて、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏を大将として、勝(すぐつ)たる兵三百騎(さんびやくき)、皆一様(いちやう)に曼荼羅(まんだら)を書(かき)て母衣(ほろ)に懸(かけ)て、兎(と)ても生(いき)ては帰(かへる)まじき軍(いくさ)なればとて、十死一生(じつしいつしやう)の日を吉日(きちにち)に取(とつ)て、大勢の敵に向ひける心の中(うち)、樊(はんくわい)も周勃(しうぼつ)も未得(いまだえざる)振舞(ふるまひ)也(なり)。
あはれ只勇士(ゆうし)の義を存する志程、やさしくも哀(あはれ)なる事はあらじとて、是(これ)を聞(きき)ける者は、皆胄(よろひ)の袖をぞぬらしける。去(さる)程(ほど)に細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、敵已(すで)に打出(うちいづ)るなれば、心よく懸合(かけあひ)の合戦を可致とて、千町(せんちやう)が原へ打出(うちいで)て、敵の陣を見渡せば、渺々(べうべう)たる野原に、中黒の旗一流(ひとながれ)幽(かすか)に風に飛揚して、僅(わづか)に勢の程三百騎(さんびやくき)許(ばかり)ぞ磬(ひか)へたる。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)是(これ)を見給(たまひ)て、「当国の敵是(これ)程の小勢なるべしとは思はぬに、余(あまり)に無(ぶ)勢に見(みえ)ければ、一定(いちぢやう)究竟(くつきやう)の者共(ものども)を勝(すぐつ)て、大勢の中を懸破(かけやぶり)、頼春に近づかば、組(くん)で勝負を決せん為にてぞあるらん。
然者(しからば)思切(おもひきつ)たる小勢を一息(ひといき)に討(うた)んとせば、手に余(あまつ)て討(うた)れぬ事有(ある)べし。只敵破(やぶ)らんとせば被破(やぶられ)て然(しか)も迹(あと)を塞(ふさ)げ、轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸(かか)らば、偽(いつはつ)て引退(ひきしりぞい)て敵の馬の足を疲(つか)らかせ、打物(うちもの)に成(なつ)て一騎合(あひ)に懸(かか)らば、あひの鞭(むち)を打(うつ)て推(おし)もぢりに射て落せ。敵疲(つかれ)ぬと見ば、荒手(あらて)を替(かへ)て取篭(とりこめ)よ。余(あまり)に近付(ちかづい)て敵に組(くま)るな。引(ひく)とも御方(みかた)を見放(みはなす)な。敵の小勢に御方(みかた)を合(あは)すれば、一騎に十騎を対(たい)しつべし。飽(あく)まで敵を悩(なや)まして、弊(つひえ)に乗(のつ)て一揉(ひともみ)々(もみ)たらんに、などか是等(これら)を可不討。」と、委細に手段(てだて)を成敗(せいはい)して、旗の真前(まつさき)に露(あらは)れて、閑々(しづしづ)とぞ進まれたる。金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)是(これ)を見て、「すはや敵は懸(かか)ると見へたるは。」とて、些(ちつと)も見繕(みつくろ)ふ処もなく、相懸(あひかか)りにむずと攻(せめ)て、矢一(ひとつ)射違(いちがふ)る程こそ有(あり)けれ、皆弓矢をば(はづ)し棄(すて)、打物(うちもの)に成(なつ)て、喚叫(をめきさけん)で真闇(まつくろ)にぞ懸(かけ)たりける。
細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)馬廻(むままはり)に、藤(とう)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)にて磬(ひか)へたるが、兼(かね)ての謀(はかりこと)也(なり)ければ、左右へ颯(さつ)と分れて引(ひか)へたり。此(この)中に大将有(あり)と思(おもひ)も不寄、三百騎(さんびやくき)の者共(ものども)是(これ)をば目にも懸(かけ)ず、裏へつと懸抜(かけぬけ)、二陣の敵に打(うつ)て懸る。此(この)陣には三木(みき)・坂西(ばんせい)・坂東(ばんとう)の兵共(つはものども)相集(あひあつまつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)甲(かぶと)の錣(しころ)を傾(かたぶけ)て、馬を立納(たてをさ)め、閑(しづ)まり却(かへつ)て磬(ひか)へたりけるが、勇猛強力(かうりき)の兵共(つはものども)に懸散(かけちら)されて、南なる山の峯へ颯(さつ)と引(ひい)て上(あが)りけるが、是(これ)もはか/゛\しき敵は無(なか)りけりとて、三陣の敵に打(うつ)て懸る。是(これ)には詫間(たくま)・香西(かうさい)・橘家(きつけ)・小笠原の一族共(いちぞくども)、二千(にせん)余騎(よき)にて引(ひか)へたり。
是(これ)にぞ大将は御座(おはす)らんと見澄(みすま)して、中を颯(さつ)と懸破(かけやぶつ)て、取(とつ)て返(かへ)し、引組(ひつくん)では差違(さしちがへ)、落重(おちかさなつ)ては頚を取らる。一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるに、宮方(みやがた)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)忽(たちまち)に蹄(ひづめ)の下に討死して、僅(わづか)十七騎にぞ成(なり)たりける。其(その)十七騎と申(まうす)は、先(まづ)大将金谷経氏(かなやつねうぢ)・河野(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)通郷(みちさと)・得能弾正(とくのうだんじやう)・日吉大蔵(ひよしおほくら)左衛門・杉原与一・富田(とんだ)六郎(ろくらう)・高市(たかいち)与三左衛門・土居備中(びつちゆうの)守(かみ)・浅海(あさみ)六郎(ろくらう)等(ら)也(なり)。彼等は一騎当千の兵(つはもの)なれば、自(みづから)敵に当(あた)る事十(じふ)余箇度(よかど)、陣を破る事六箇度(ろくかど)也(なり)といへ共(ども)、未(いまだ)痛手をも負(おは)ず又疲れける体(てい)も無(なか)りけり。一所に馬を打寄(うちよせ)て、馬も物具(もののぐ)も見知(しら)ねば、大将何共(いづれとも)知(しり)がたし。差(さ)せる事もなき国勢共(こくぜいども)に逢(あう)て、討死せんよりは、いざや打破(やぶつ)て落(おち)んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返(ひつかへ)し、七千(しちせん)余騎(よき)が真中(まんなか)を懸破(かけやぶつ)て、備後を差(さし)て引(ひい)て行(ゆく)。いかめしかりし振舞(ふるまひ)也(なり)。  
大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)篠塚(しのづか)勇力(ゆうりよくの)事(こと)
斯(かか)りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散(さん)じて、御方(みかた)の手負(ておひ)死人を注(しる)さるゝに、七百人(しちひやくにん)に余(あま)れりといへ共(ども)、宗徒(むねと)の敵二百(にひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、人皆気を挙(あ)げ勇(いさみ)をなせり。「さらば軈(やが)て大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)が篭(こもつ)たる世田(せた)の城へ寄(よせ)よ。」とて、八月二十四日早旦(さうたん)に、世田(せた)の後(うし)ろなる山へ打上(うちあがり)て、城を遥(はるか)に直下(みおろし)、一万(いちまん)余騎(よき)を七手に分(わけ)て、城の四辺(しへん)に打寄(うちよ)り、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構へたる。対陣(むかひぢん)已(すで)に取巻(とりまか)せければ、四方(しはう)より攻寄(せめよ)せて、持楯(もつだて)をかづき寄(よ)せ、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、夜昼(よるひる)三十日迄ぞ責(せめ)たりける。
城の内には宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき兵(つはもの)と憑(たのま)れし岡部(をかべ)出羽(ではの)守(かみ)が一族(いちぞく)四十(しじふ)余人(よにん)、皆日比の与(くみ)にて自害しぬ。其外(そのほか)の勇士共(ゆうしども)は、千町が原の戦(たたかひ)に討死しぬ。力尽(つき)食(じき)乏(とぼしう)して可防様(やう)も無(なか)りければ、九月三日の暁、大館左馬(さまの)助(すけ)主従十七騎、一の木戸口(きどぐち)へ打出(うちいで)て、屏(へい)に著(つき)たる敵五百(ごひやく)余人(よにん)を、遥(はるか)なる麓へ追下(おひおろ)し、一度(いちど)に腹を切(きつ)て、枕を双(ならべ)てぞ臥(ふし)たりける。防矢(ふせぎや)射ける兵共(つはものども)是(これ)を見て、今は何をか可期とて、或(あるひ)は敵に引組(ひつくん)で差違(さしちがふ)るもあり、或(あるひ)は己(おのれ)が役所に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の底に死するもあり。
目も当(あて)られぬ有様也(なり)。加様(かやう)に人々自害しける其(その)中に、篠塚伊賀(いがの)守(かみ)一人は、大手の一二の木戸(きど)無残押開(おしひらき)て、只一人ぞ立(たち)たりける。降人(かうにん)に出(いづ)る歟(か)と見ればさは無(なく)て、紺糸(こんいと)の胄(よろひ)に、鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)三寸(さんずん)有(あり)ける太刀に、八尺(はつしやく)余(あま)りの金撮棒(かなさいぼう)脇に挿(さしはさみ)て、大音(だいおん)揚(あげ)て申(まうし)けるは、「外(よそ)にては定(さだめ)て名をも聞(きき)つらん。今近付(ちかづい)て我をしれ。畠山庄司(しやうじ)次郎重忠(しげただ)に六代の孫(そん)、武蔵(むさしの)国(くに)に生長(そだつ)て、新田殿(につたどの)に一人当千と憑(たのま)れたりし篠塚伊賀(いがの)守(かみ)爰(ここ)にあり。
討(うつ)て勲功に預(あづか)れ。」と呼(よばはり)て、百騎(ひやくき)許(ばかり)磬(ひか)へたる敵の中へ、些(ちつと)も擬議(ぎぎ)せず走(わし)り懸る。其(その)勢(いきほひ)事柄(ことがら)勇鋭たるのみならず、兼(かね)て聞(きこえ)し大力(だいりき)なれば、誰かは是(これ)を可遮止。百(ひやく)余騎(よき)の勢東西へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞい)て、中を開(ひらい)てぞ通しける。
篠塚馬にも不乗弓矢を持(もた)ず、而(しか)も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付(ちかづく)事無(なく)て遠矢に射殺せ。返合(かへしあは)せば懸悩(かけなやま)して討(うて)。」とて、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者ども、二百(にひやく)余騎(よき)迹(あと)に付(つい)て追懸(おつかく)る。
篠塚些(ちつと)も不騒、小歌(こうた)にて閑々(しづしづ)と落行(おちゆき)けるを、敵、「あますな。」とて追懸(おつかく)れば立止(たちどまつ)て、「嗚呼(ああ)御辺達(ごへんたち)、痛く近付(ちかづい)て頚に中違(なかちがひ)すな。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打(うち)振れば、蜘(くも)の子を散(ちら)すが如く颯(さつ)とは逃げ、又村立(むらだつ)て迹(あと)に集(あつま)り、鏃(やじり)を汰(そろ)へて射れば、「某が胄(よろひ)には旁(かたがた)のへろ/\矢はよも立(たち)候はじ。すは此(ここ)を射よ。」とて、後(うし)ろを差向(さしむけ)てぞ休みける。
されども名誉の者なれば、一人なり共(とも)若(もし)や打止(うちとむ)ると、追懸(おつかけ)たる敵二百(にひやく)余騎(よき)に、六里の道を被送て、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、今張(いまばりの)浦(うら)にぞ著(つき)たりける。自此舟に乗(のり)て、陰の島へ落(おち)ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄(のりすて)て水主許(かこばかり)残れる舟数多(あまた)あり。是(これ)こそ我(わが)物よと悦(よろこん)で、胄(よろひ)著(き)ながら浪の上五町(ごちやう)許(ばかり)を游(およ)ぎて、ある舟に岸破(がは)と飛乗(とびの)る。水主(かこ)・梶取(かんどり)驚(おどろい)て、「是(これ)は抑(そもそも)何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是(これ)は宮方(みやがた)の落人(おちうと)篠塚と云(いふ)者ぞ。急(いそぎ)此(この)舟を出(いだ)して、我(われ)を陰の島へ送(おくれ)。」と云(いひ)て、二十(にじふ)余人(よにん)してくり立(たて)ける碇(いかり)を安々(やすやす)と引挙(ひきあ)げ、四十五尋(しじふごひろ)ありける檣(ほばしら)を軽々(かるがる)と推立(おしたて)て、屋形の内に高枕して、鼾(いびき)かきてぞ臥(ふし)たりける。
水主(かこ)・梶取(かんどり)共(ども)是(これ)を見て、「穴(あな)夥(おびたたし)、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)にはあらじ。」と恐怖して、則(すなはち)順風に帆を懸(かけ)て、陰の島へ送(おくり)て後、暇(いとま)を請(こう)てぞ帰(かへり)にける。昔も今も勇士(ゆうし)多しといへ共(ども)、懸(かか)る事をば不聞とて、篠塚を誉(ほめ)ぬ者こそ無(なか)りけれ。  
 
太平記 巻第二十三 

 

大森彦七(おほもりひこしちが)事(こと)
暦応(りやくおう)五年の春(はる)の比、自伊予国飛脚(ひきやく)到来して、不思議(ふしぎ)の註進(ちゆうしん)あり。其(その)故を委(くはし)く尋(たづぬ)れば、当国の住人(ぢゆうにん)大森彦七盛長と云(いふ)者あり。其(その)心飽(あく)まで不敵にして、力尋常(よのつね)の人に勝(すぐれ)たり。誠(まこと)に血気(けつき)の勇者(ようしや)と謂(いひ)つべし。去(さん)ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上(せめのぼ)り給(たまひ)し時、新田(につた)義貞(よしさだ)兵庫(ひやうごの)湊河にて支(ささ)へ合戦の有(あり)し時、此(この)大森の一族共(いちぞくども)、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)に随(したがつ)て手痛(ていた)く軍(いくさ)をし、楠正成に腹を切(きら)せし者也(なり)。
されば其(その)勲功異他とて、数箇所(すかしよ)の恩賞(おんしやう)を給(たまは)りてんげり。此悦(このよろこび)に誇(ほこつ)て、一族共(いちぞくども)、様々の遊宴(いうえん)を尽(つく)し活計(くわつけい)しけるが、猿楽(さるがく)は是(これ)遐齢延年(かれいえんねん)の方なればとて、御堂(みだう)の庭に桟敷(さじき)を打(うつ)て舞台を布(しき)、種々の風流を尽(つく)さんとす。近隣の貴賎是(これ)を聞(きき)て、群集(くんじゆ)する事夥(おびたた)し。彦七も其(その)猿楽の衆(しゆ)也(なり)ければ、様々の装束(しやうぞく)共(ども)下人(げにん)に持せて楽屋(がくや)へ行(ゆき)けるが、山頬(やまぎは)の細道を直様(すぐさま)に通るに、年の程十七八許(ばかり)なる女房の、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の五衣(いつつぎぬ)著て、鬢(びん)深く削(そぎ)たるが、指出(さしいで)たる山端(やまのは)の月に映じて、只独(ひとり)たゝずみたり。彦七是(これ)を見て、不覚(おぼえず)、斯(かか)る田舎(ゐなか)などに加様(かやう)の女房の有(ある)べしとは。何(いづ)くよりか来(きた)るらん、又何(いか)なる桟敷へか行(ゆく)らんと見居たれば、此(この)女房彦七に立(たち)向ひて、「路芝(みちしば)の露払(はらふ)べき人もなし。
可行方をも誰に問はまし。」とて打(うち)しほれたる有様、何(いか)なる荒夷(あらえびす)なりとも、心を不懸云(いふ)事非(あら)じと覚(おぼえ)ければ、彦七あやしんで、何(いか)なる宿(やど)の妻(つま)にてか有(ある)らんに、善悪(あやめ)も不知わざは如何(いか)がと乍思、無云量わりなき姿に引(ひか)れて心ならず、「此方(こなた)こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適(たまたま)用意(ようい)の桟敷候。御入(おんいり)候へかし。」と云(いひ)ければ、女些(ちと)打笑(うちわらう)て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云(いひ)て、跡に付(つき)てぞ歩(あゆみ)ける。羅綺(らき)にだも不勝姿、誠(まこと)に物痛(いたは)しく、未(いまだ)一足(ひとあし)も土(つち)をば不蹈人よと覚(おぼ)へて、行難(ゆきなやみ)たる有様を見て、彦七不怺、「余(あまり)に露も深く候へば、あれまで負進(おひまゐら)せ候はん。」とて、前(まへ)に跪(ひざまつき)たれば、女房些(すこし)も不辞、「便(びん)なう如何(いか)が。」と云(いひ)ながら、軈(やが)て後(うし)ろにぞ靠(よりかかり)ける。
白玉か何ぞと問(とひ)し古(いにし)へも、角(かく)やと思知(おもひしら)れつゝ、嵐のつてに散(ちる)花の、袖に懸(かか)るよりも軽(かろ)やかに、梅花の匂(にほひ)なつかしく、蹈(ふむ)足もたど/\しく心も空(そら)にうかれつゝ、半町許(ばかり)歩(あゆみ)けるが、山陰(やまかげ)の月些(すこし)暗(くら)かりける処にて、さしも厳(いつく)しかりつる此(この)女房、俄(にはか)に長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる鬼と成(なつ)て、二(ふたつ)の眼(まなこ)は朱(しゆ)を解(とい)て、鏡の面(おもて)に洒(そそき)けるが如く、上下の歯くひ違(ちがう)て、口脇耳の根まで広く割(さけ)、眉は漆(うるし)にて百入(ももしほ)塗(ぬつ)たる如(ごとく)にして額(ひたひ)を隠(かく)し、振分髪(ふりわけがみ)の中より五寸(ごすん)許(ばかり)なる犢(こうし)の角(つの)、鱗(いろこ)をかづひて生出(おひいで)たり。
其重(そのおもき)事大磐石(だいばんじやく)にて推(おす)が如し。彦七屹(きつ)と驚(おどろい)て、打棄(うちすて)んとする処に、此化物(このばけもの)熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴(つかん)で虚空(こくう)に挙(あが)らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組(ひつくん)で深田(ふかた)の中へ転落(ころびおち)て、「盛長化物(ばけもの)組留(くみと)めたり。よれや者共(ものども)。」と呼(よばは)りける声に付(つい)て、跡(あと)にさがりたる者共(ものども)、太刀・長刀の鞘(さや)を放(はづ)し、走寄(はしりよつ)て是(これ)を見れば、化物(ばけもの)は書(かき)消す様(やう)に失(うせ)にけり。
彦七は若党(わかたう)・中間共に引(ひき)起されたれ共(ども)、忙然(ばうぜん)として人心地もなければ、是(これ)直事(ただこと)に非(あら)ずとて、其(その)夜の猿楽は止(やめ)にけり。さればとて、是(これ)程まで習(なら)したる猿楽を、さて可有に非(あら)ずとて、又吉日(きちにち)を定(さだ)め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双(うちなら)べたれば、見物の輩(ともがら)群(ぐん)をなせり。猿楽已(すで)に半(なか)ば也(なり)ける時、遥(はるか)なる海上に、装束の唐笠(からかさ)程なる光物(ひかりもの)、二三百出来(いでき)たり。海人(あま)の縄(なは)焼(たく)居去火(いさりび)か、鵜舟(うぶね)に燃(とぼ)す篝火(かがりび)歟(か)と見れば、其(それ)にはあらで、一村(ひとむら)立(たつ)たる黒雲の中に、玉の輿(こし)を舁連(かきつら)ね、懼(おそろ)し気(げ)なる鬼形(きぎやう)の者共(ものども)前後左右に連(つら)なりたり。
其迹(そのあと)に色々に胄(よろう)たる兵(つはもの)百騎(ひやくき)許(ばかり)、細馬(さいば)に轡(くつわ)を噛(かま)せて供奉(ぐぶ)したり。近く成(なり)しより其貌(そのかたち)は不見。黒雲の中に電光(いなびかり)時々して、只今猿楽(さるがく)する舞台(ぶたい)の上に差覆(さしおほ)ひたる森の梢にぞ止(とどま)りける。
見物衆みな肝を冷(ひや)す処に、雲の中より高声(かうじやう)に、「大森彦七殿(おほもりひこしちどの)に可申事有(あつ)て、楠正成参(さん)じて候也(なり)。」とぞ呼(よばは)りける。彦七、加様(かやう)の事に曾(かつて)恐れぬ者也(なり)ければ、些(すこし)も不臆、「人死して再び帰る事なし。定(さだめ)て其魂魄(そのこんばく)の霊鬼と成(なり)たるにてぞ有(ある)らん。其(それ)はよし何にてもあれ、楠殿(くすのきどの)は何事の用有(あつ)て、今此(ここ)に現(げん)じて盛長をば呼給(よびたまふ)ぞ。」と問へば、楠申(まうし)けるは、「正成(まさしげ)存命(ぞんめい)の間、様々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家(いつけ)を傾(かたぶけ)て、先帝の宸襟を休(やす)め進(まゐら)せ、天下(てんが)一統(いつとう)に帰(き)して、聖主の万歳(ばんぜい)を仰(あふぐ)処に、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義(ただよし)朝臣(あそん)、忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)み、遂に君を傾(かたぶけ)奉る。
依之(これによつて)忠臣義士尸(かばね)を戦場に曝(さら)す輩(ともがら)、悉(ことごと)く脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)に成(なつ)て瞋恚(しんい)を含む心無止時。正成彼と共に天下(てんが)を覆(くつかへ)さんと謀(はかる)に、貪瞋痴(とんじんち)の三毒を表(へう)して必(かならず)三剣(みつつのつるぎ)を可用。我等(われら)大勢(おほぜい)忿怒(ふんぬ)の悪眼(あくがん)を開(ひらい)て、刹那(せつな)に大千界を見るに、願ふ処の剣(つるぎ)適(たまたま)我朝(わがてう)の内に三(みつつ)あり。
其一(そのひとつ)は日吉大宮(ひよしのおほみや)に有(あり)しを法味(ほふみ)に替(かへ)て申給(まうしたまは)りぬ。今一(ひとつ)は尊氏の許(もと)に有(あり)しを、寵愛(ちようあい)の童(わらは)に入り代(かはつ)て乞取(こひとり)ぬ。今一つは御辺(ごへん)の只今腰に指(さし)たる刀也(なり)。不知哉(や)、此(この)刀は元暦(げんりやく)の古(いにし)へ、平家壇(だん)の浦にて亡(ほろび)し時、悪(あく)七兵衛(しちひやうゑ)景清(かげきよ)が海へ落(おと)したりしを江豚(いるか)と云(いふ)魚(うを)が呑(のみ)て、讃岐の宇多津(うたつ)の澳(おき)にて死(しし)ぬ。海底に沈(しづん)で已(すで)に百(ひやく)余年(よねん)を経て後、漁父(ぎよふ)の綱(あみ)に被引て、御辺(ごへん)の許(もと)へ伝へたる刀也(なり)。
所詮(しよせん)此(この)刀をだに、我等(われら)が物と持(もつ)ならば、尊氏の代(よ)を奪はん事掌(たなごころ)の内なるべし。急ぎ進(まゐら)せよと、先帝の勅定(ちよくぢやう)にて、正成罷向(まかりむかつ)て候也(なり)。早く給(たまは)らん。」と云(いひ)もはてぬに、雷(いかづち)東西に鳴度(なりわたつ)て、只今落懸(おちかか)るかとぞ聞(きこ)へける。盛長是(これ)にも曾(かつ)て不臆、刀の柄(つか)を砕(くだけ)よと拳(にぎつ)て申(まうし)けるは、「さては先度(せんど)美女に化(ばけ)て、我を誑(たぶらか)さんとせしも、御辺達(ごへんたち)の所行(しよぎやう)也(なり)けるや。御辺(ごへん)存日(ぞんじつ)の時より、常に申通(まうしとほ)せし事なれば、如何なる重宝(ちようはう)なり共、御用(ごよう)と承(うけたまは)らんに非可奉惜。但(ただし)此(この)刀をくれよ、将軍の世を亡(ほろぼ)さんと承(うけたまはり)つる、其(それ)こそえ進(まゐら)すまじけれ。
身雖不肖、盛長将軍の御方(みかた)に参じ、無弐者と知(しら)れ進(まゐら)せし間、恩賞厚く蒙(かうむつ)て、一家(いつけ)の豊(ゆたか)なる事日比(ひごろ)に過(すぎ)たり。されば此(この)猿楽をして遊ぶ事も偏(ひとへ)に武恩の余慶(よけい)也(なり)。凡(およそ)勇士(ゆうし)の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦(たと)ひ身を寸々(つだつだ)に割(さか)れ、骨を一々に被砕共、此(この)刀をば進(まゐら)すまじく候。早御帰(おんかへり)候へ。」とて、虚空(こくう)をはたと睨(にらん)で立(たち)たりければ、正成以外(もつてのほか)忿(いか)れる言ばにて、「何共(なにとも)いへ、遂には取(とら)ん者を。」と罵(ののしつ)て、本(もと)の如く光(ひかり)渡り、海上遥(はるか)に飛去(とびさり)にけり。
見物の貴賎是(これ)を見て、只今天へ引(ひき)あげられて挙(あが)る歟(か)と、肝魂(きもたましひ)も身に添(そは)ねば、子は親を呼び、親は子の手を引(ひい)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃去(にげさり)ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休(やめ)にけり。其(その)後四五日を経て、雨一通(ひととほり)降過(ふりすぎ)て、風冷(すさまじく)吹(ふき)騒ぎ、電(いなびかり)時々しければ、盛長、「今夜何様(いかさま)件(くだん)の化物(ばけもの)来(きたり)ぬと覚ゆ。遮(さへぎつ)て待(また)ばやと思ふ也(なり)。」とて、中門(ちゆうもん)に席皮敷(しきかはしい)て胄(よろひ)一縮(いつしゆく)し、二所藤(ふたところどう)の大弓に、中指(なかざし)数(あまた)抜散(ぬきちら)し、鼻膏(はなあぶら)引(ひい)て、化物遅(おそし)とぞ待懸(まちかけ)たる。如案夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、さしも無隈つる中空(なかぞら)の月、俄(にはか)にかき曇(くもり)て、黒雲一村(ひとむら)立覆(たちおほ)へり。
雲(くもの)中に声有(あつ)て、「何(いか)に大森殿(おほもりどの)は是(ここ)に御座(おはし)ぬるか、先度(せんど)被仰し剣(けん)を急ぎ進(まゐら)せられ候へとて、綸旨(りんし)を被成て候間、勅使に正成又罷向(まかりむかつ)て候は。」と云(いひ)ければ、彦七聞(きき)も不敢庭へ立出(たちいで)て、「今夜は定(さだめ)て来給(きたりたまひ)ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初(はじめ)は何共なき天狗(てんぐ)・化物などの化(け)して候事ぞと存ぜし間、委細(ゐさい)の問答にも及(および)候はざりき。今慥(たしか)に綸旨(りんし)を帯(たい)したるぞと奉(うけたまはり)候へば、さては子細なき楠殿(くすのきどの)にて御座候(おはしさふらひ)けりと、信(しん)を取(とつ)てこそ候へ。
事長々しき様(やう)に候へ共、不審(ふしん)の事共(ことども)を尋(たづ)ぬるにて候。先(まづ)相伴(あひともな)ふ人数(あまた)有(あり)げに見へ候ば、誰人にて御渡(おんわたり)候ぞ。御辺(ごへん)は六道(ろくだう)四生(ししやう)の間、何(いか)なる所に生(うまれ)てをわしますぞ。」と問(とひ)ければ、其(その)時正成庭前(ていぜん)なる鞠(まり)の懸(かかり)の柳の梢に、近々と降(さがつ)て申(まうし)けるは、「正成が相伴(あひともなふ)人々には、先(まづ)後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)・兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)・新田左中将(さちゆうじやう)義貞・平馬助忠政(へいまのすけただまさ)・九郎大夫判官義経(よしつね)・能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、正成を加へて七人(しちにん)也(なり)。
其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)、計(かぞふ)るに不遑。」とぞ語(かたり)ける。盛長重(かさね)て申(まうし)けるは、「さて抑(そもそも)先帝は何(いづ)くに御座(ござ)候ぞ。又相随(あひしたがひ)奉る人々何(いか)なる姿にて御座(おはします)ぞ。」と問へば、正成答(こたへ)て云(いはく)、「先朝(せんてう)は元来(ぐわんらい)摩醯首羅王(まけいしゆらわう)の所変(しよへん)にて御座(おはすれ)ば、今還(かへつ)て欲界の六天に御座(ござ)あり。相順(あひしたがひ)奉る人人は、悉(ことごとく)脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)と成(なつ)て、或時は天帝と戦(たたかひ)、或時は人間に下(くだつ)て、瞋恚強盛(しんいがうせい)の人の心に入替(いれかは)る。」「さて御辺(ごへん)は何(いか)なる姿にて御座(おはしまし)ぬる。」と問へば、正成、「某(それがし)も最期の悪念に被引て罪障(ざいしやう)深かりしかば、今千頭王鬼(せんづわうき)と成(なつ)て、七頭(しちづ)の牛に乗れり。
不審あらば其(その)有様を見せん。」とて、続松(たいまつ)を十四五同時にはつと振挙(ふりあげ)たる、其(その)光に付(つい)て虚空(こくう)を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、一村立(ひとむらだつ)たる雲の中に、十二人(じふににん)の鬼共玉の御輿(おんこし)を舁捧(かきあげ)たり。其(その)次には兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)、八竜に車を懸(かけ)て扈従(こしよう)し給ふ。新田左中将(さちゆうじやう)義貞は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲(ひたかぶと)数百騎(すひやくき)にて後陣(ごぢん)に支(ささへ)らる。其迹(そのあと)に能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、三百(さんびやく)余艘(よさう)の兵船(ひやうせん)を雲の浪に推浮(おしうか)べ給へば、平馬助(へいまのすけ)忠政、赤旗一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、是(これ)も後陣(ごぢん)に控(ひか)へたり。
又虚空(こくう)遥(はるか)に引(ひき)さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些(すこし)も不違、紺地錦(こんぢにしきの)胄直垂(よろひひたたれ)に黒糸(くろいと)の胄(よろひ)著て、頭(かしら)の七(ななつ)ある牛にぞ乗(のり)たりける。此外(このほか)保元(ほうげん)平治に討(うた)れし者共(ものども)、治承養和(ぢしようやうわ)の争(あらそひ)に滅(ほろび)し源平両家(りやうけ)の輩(ともがら)、近比(このごろ)元弘建武(けんむ)に亡(ほろび)し兵共(つはものども)、人に知(しら)れ名を顕(あらは)す程の者は、皆甲胄(かつちう)を帯し弓箭(ゆみや)を携(たづさ)へて、虚空十里(じふり)許(ばかり)が間に無透間ぞ見へたりける。
此(この)有様、只盛長が幻(まぼろし)にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧(かへりみ)て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽(たちまち)に風に順(したがふ)雲の如(ごとく)、漸々(ぜんぜん)として消失(きえうせ)にけり。只楠が物云ふ声許(ばかり)ぞ残(のこり)ける。盛長是(これ)程の不思議(ふしぎ)を見つれ共(ども)、其(その)心猶も不動、「「一翳(いちえい)在眼空花(くうげ)乱墜(らんつゐ)す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足(たら)ん。縦(たとひ)如何なる第六天の魔王共が来(きたつ)て謂(い)ふ共、此(この)刀をば進(しん)ずまじきにて候。然らば例の手(て)の裏を返すが如なる綸旨(りんし)給(たまはり)ても無詮。早々(さうさう)面々(めんめん)御帰(おんかへり)候へ。此(この)刀をば将軍へ進(まゐらせ)候はんずるぞ。」と云捨(いひすて)て、盛長は内へ入(いり)にけり。
正成大(おほき)に嘲(あざわらう)て、「此(この)国(くに)縱(たとひ)陸地(くがち)に連(つら)なりたり共(とも)道をば輒(たやす)く通すまじ。況(まし)て海上を通るには、遣(やる)事努々(ゆめゆめ)有(ある)まじき者を。」と、同音にどつと笑(わらひ)つゝ、西を指(さし)てぞ飛去(とびさり)にける。其(その)後より盛長物狂敷(くるはしく)成(なつ)て、山を走(わが)り水を潜(くく)る事無休時。太刀を抜き矢を放(はな)つ事間無(ひまなか)りける間、一族共(いちぞくども)相集(あひあつまつ)て、盛長を一間(ひとま)なる所に推篭(おしこめ)て、弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)して警固の体(てい)にてぞ居たりける。
或夜又雨風一頻(ひとしきり)通(とほつ)て、電(いなづま)の影(かげ)頻(しきり)なりければ、すはや例の楠こそ来(きた)れと怪(あやし)む処に、如案盛長が寝(ね)たる枕の障子をかはと蹈破(ふみやぶつ)て、数十人(すじふにん)打入(うちいる)音しけり。警固の者共(ものども)起周章(おきふためい)て太刀長刀の鞘(さや)を外(はづ)して、夜討入(うちいり)たりと心得(こころえ)て、敵は何(いづ)くにかあると見れ共更になし。こは何(いか)にと思(おもふ)処に、自天井熊の手(て)の如くなる、毛生(おひ)て長き手を指下(さしおろ)して、盛長が本鳥(もとどり)を取(とつ)て中(ちゆう)に引(ひつ)さげ、破風(はふ)の口より出(いで)んとす。盛長中(ちゆう)にさげられながら件(くだん)の刀を抜(ぬい)て、化物(ばけもの)の真只中(まつただなか)を三刀(みかたな)指(さし)たりければ、被指て些(ちと)弱りたる体(てい)に見へければ、むずと引組(ひつくん)で、破風(はふ)より広庇(ひろびさし)の軒の上にころび落(おち)、取(とつ)て推付(おしつ)け、重(かさね)て七刀(ななかたな)までぞ指(さし)たりける。
化物(ばけもの)急所を被指てや有(あり)けん、脇の下より鞠(まり)の勢(せい)なる物ふつと抜出(ぬけいで)て、虚空を指(さし)てぞ挙(あが)りける。警固の者共(ものども)梯(はし)を指(さし)て軒の上に登(のぼつ)て見れば、一(ひとつ)の牛の頭(かしら)あり。「是(これ)は何様(いかさま)楠が乗(のり)たる牛か、不然ば其魂魄(そのこんぱく)の宿(やど)れる者歟(か)。」とて、此(この)牛の頭(かしら)を中門(ちゆうもん)の柱に結著(ゆひつけ)て置(おき)たれば、終夜(よもすがら)鳴(なり)はためきて動(うごき)ける間、打砕(うちくだい)て則(すなはち)水底にぞ沈(しづ)めける。其(その)次の夜も月陰(くもり)風悪(あらう)して、怪しき気色(けしき)に見へければ、警固の者共(ものども)大勢遠侍(とほさぶらひ)に並居(なみゐ)て、終夜(よもすがら)睡(ねむ)らじと、碁双六(ごすごろく)を打(うつ)てぞ遊びける。
夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、上下百(ひやく)余人(よにん)有(あり)ける警固の者共(ものども)、同時にあつと云(いひ)けるが、皆酒に酔(ゑへ)る者の如く成(なつ)て、頭(かう)べを低(たれ)て睡(ねぶ)り居たり。其(その)座中に禅僧一人眠(ねぶ)らで有(あり)けるが、灯(ともしび)の影(かげ)より見れば、大(おほき)なる寺蜘蛛(やまぐも)一つ天井より下(さがり)て、寝入(ねいり)たる人の上を這行(はひゆき)て、又天井へぞ挙(あが)りける。其(その)後盛長俄(にはか)に驚(おどろい)て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、人と引組(ひつくん)だる体(てい)に見へて、上が下にぞ返(かへ)しける。叶はぬ詮(せん)にや成(なり)けん、「よれや者共(ものども)。」と呼(よび)ければ、傍(そば)に臥(ふし)たる者共(ものども)起挙(おきあが)らんとするに、或(あるひ)は柱に髻(もとどり)を結著(ゆひつけ)られ、或(あるひ)は人の手を我(わが)足に結合(ゆひあは)せられて、只綱(あみ)に懸(かか)れる魚(うを)の如く也(なり)。
此(この)禅僧余(あま)りの不思議(ふしぎ)さに、走立(わしりたち)て見れば、さしも強力(かうりき)の者ども、僅(わづか)なる蜘(くも)のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取(とつ)て押(おさ)へたるぞ。火を持(もつ)てよれ。」と申(まうし)ければ、警固の者共(ものども)兎角して起挙(おきあが)り、蝋燭(らふそく)を灯(とぼい)て見(みる)に、盛長が押(おさ)へたる膝を持挙(もちあげ)んと蠢動(むぐめき)ける。諸人手に手を重(かさね)て、逃(にが)さじと推(おす)程(ほど)に、大(おほき)なる土器(かはらけ)の破(やぶ)るゝ音して、微塵(みぢん)に砕(くだ)けにけり。其(その)後手をのけて是(これ)を見れば、曝(され)たる死人の首(かうべ)、眉間(みけん)の半(なか)ばより砕(くだけ)てぞ残りける。盛長大息(おほいき)を突(つい)て、且(しば)し心を静めて腰を探(さぐつ)て見れば、早此(この)化物に刀を取(とら)れ、鞘許(さやばかり)ぞ残(のこり)にける。
是(これ)を見て盛長、「我已(すで)に疫鬼(えきき)に魂(たましひ)を被奪、今は何(いか)に武(たけ)く思ふ共(とも)叶(かなふ)まじ。我(わが)命の事は物(もの)の数ならず、将軍の御運如何。」と歎(なげき)て、色を変(へん)じ泪(なみだ)を流(なが)して、わな/\と振ひければ、聞(きく)者見(みる)人、悉(ことごとく)身(みの)毛(け)よ立(だつ)てぞ候(さふらひ)ける。角(かく)て夜少し深(ふけ)て、有明(ありあけ)の月中門(ちゆうもん)に差入(さしいり)たるに、簾(みす)を高く捲上(まきあげ)て、庭を見出(いだ)したれば、空より毬(てまり)の如くなる物光(ひかり)て、叢(くさむら)の中へぞ落(おち)たりける。何やらんと走出(わしりいで)て見れば、先(さき)に盛長に推砕(おしくだ)かれたりつる首(かうべ)の半(なかば)残(のこり)たるに、件(くだん)の刀自(みづから)抜(ぬけ)て、柄口(つかぐち)まで突貫(つきつらぬかれ)てぞ落(おち)たりける。不思議(ふしぎ)なりと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。軈(やが)て此頭(このかうべ)を取(とつ)て火に抛入(なげいれ)たれば、跳出(をどりいで)けるを、金鋏(かなはさみ)にて焼砕(やきくだい)てぞ棄(すて)たりける。
事静(しづまつ)て後、盛長、「今は化物よも不来と覚(おぼゆ)る。其(その)故は楠が相伴(あひともな)ふ者と云(いひ)しが我に来(きたる)事已(すで)に七度(しちど)也(なり)。是(これ)迄にてぞあらめ。」と申(まうし)ければ、諸人、「誠(げに)もさ覚ゆ。」と同ずるを聞(きき)て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人(しちにん)には限(かぎり)候はじ。」と嘲(あざわらう)て謂(いひ)ければ、こは何(いか)にと驚(おどろい)て、諸人空を見上(あげ)たれば、庭なる鞠(まり)の懸(かかり)に、眉太(まゆぶと)に作(つくり)、金黒(かねくろ)なる女の首(くび)、面(おもて)四五尺(しごしやく)も有(ある)らんと覚(おぼえ)たるが、乱れ髪を振挙(ふりあげ)て目もあやに打笑(うちわらう)て、「はづかしや。」とて後(うし)ろ向(む)きける。
是(これ)を見(みる)人あつと脅(おびえ)て、同時にぞ皆倒臥(たふれふし)ける。加様(かやう)の化物(ばけもの)は、蟇目(ひきめ)の声に恐(おそ)るなりとて、毎夜番衆(ばんしゆ)を居(すゑ)て宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)を射させければ、虚空にどつと笑(わらふ)声毎度に天を響(ひびか)しけり。さらば陰陽師(おんやうし)に門を封ぜさせよとて、符(ふう)を書(かか)せて門々に押(お)せば、目にも見へぬ者来(きたつ)て、符(ふう)を取(とつ)て棄(すて)ける間、角(かく)ては如何(いかが)すべきと思煩(おもひわづらひ)ける処に、彦七が縁者に禅僧の有(あり)けるが来(きたつ)て申(まうし)けるは、「抑(そもそも)今現(げん)ずる所の悪霊(あくりやう)共(ども)は、皆脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)たり。是を静(しづ)めん謀(はかりこと)を案ずるに、大般若経(だいはんにやきやう)を読(よむ)に不可如。其(その)故は帝釈(たいしやく)と、脩羅(しゆら)と須弥(しゆみ)の中央にて合戦を致す時、帝釈(たいしやく)軍(いくさ)に勝(かつ)ては、脩羅小身を現(げん)じて藕糸(ぐうし)の孔(あな)の裏(うち)に隠(かく)れ、脩羅又勝(かつ)時は須弥(しゆみ)の頂(いただき)に座して、手に日月を握り足に大海を蹈(ふむ)。
加之(しかのみならず)三十三天(さんじふさんてん)の上に責上(せめのぼつ)て帝釈の居所を追落(おひおと)し、欲界の衆生(しゆじやう)を悉(ことごと)く我有(わがう)に成(な)さんとする時、諸天善神善法堂に集(あつまつ)て般若(はんにや)を講じ給ふ。此(この)時虚空より輪宝(りんはう)下(くだつ)て剣戟(けんげき)を雨(ふら)し、脩羅の輩(ともがら)を寸々(つだつだ)に割切(さきき)ると見へたり。されば須弥の三十三天(さんじふさんてん)を領(りやう)し給ふ帝釈だにも、我叶(わがかなは)ぬ所には法威を以て魔王を降伏(がうぶく)し給ふぞかし。況乎(いはんや)薄地(はくち)の凡夫(ぼんぶ)をや。不借法力難得退治(たいぢ)。」と申(まうし)ければ、此(この)義誠(げに)も可然とて、俄(にはか)に僧衆を請(しやう)じて真読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を日夜六部(ろくぶ)迄ぞ読(よみ)たりける。
誠(まこと)に依般若(はんにや)講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮(くれ)程(ほど)に、導師(だうし)高座(かうざ)の上にて、啓白(けいびやく)の鐘打鳴(なら)しける時より、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)て、雲(くもの)上に車を轟(とどろ)かし馬を馳違(はせちがふ)る声無休時。矢さきの甲胄(かつちう)を徹(とほ)す音は雨の下(ふる)よりも茂(しげ)く、剣戟を交(まじふ)る光(ひかり)は燿(かかや)く星に不異。聞(きく)人見(みる)者推双(おしなべ)て肝を冷(ひや)して恐合(おそれあ)へり。此闘(このたたかひ)の声休(やみ)て天も晴(はれ)にしかば、盛長が狂乱本復(ほんぶく)して、正成が魂魄(こんぱく)曾(かつて)夢にも不来成(なり)にけり。さても大般若経(だいはんにやきやう)真読(しんどく)の功力(くりき)に依(よつ)て、敵軍に威を添(そへ)んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋(わきや)刑部卿義助、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)を始(はじめ)として、土居・得能に至るまで、或(あるひ)は被誅或(あるひ)は腹切(きつ)て、如無成(なり)にけり。
誠(まことなる)哉(かな)、天竺の班足王(はんぞくわう)は、仁王経(にんわうきやう)の功徳(くどく)に依(よつ)て千王を害する事を休(や)め、吾(わが)朝の楠正成は、大般若(だいはんにや)講読(かうどく)の結縁(けちえん)に依(よつ)て三毒を免(まぬが)るゝ事を得たりき。誠(まことに)鎮護(ちんご)国家の経王(きやうわう)、利益(りやく)人民の要法也(なり)。其(その)後此(この)刀をば天下(てんが)の霊剣なればとて、委細の註進を副(そへ)て上覧に備(そなへ)しかば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)是(これ)を見給(たまひ)て、「事実(まこと)ならば、末世(まつせ)の奇特(きどく)何事か可如之。」とて、上を作直(つくりなほ)して、小竹作(こたけつくり)と同(おなじ)く賞翫(しやうぐわん)せられけるとかや。沙(いさご)に埋(うづも)れて年久(ひさしく)断剣如(だんけんのごとく)なりし此(この)刀、盛長が註進に依(よつ)て凌天(りようてん)の光を耀(かかやか)す。不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)也(なり)。  
就直義病悩上皇御願書(ぐわんしよの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に諸国の宮方(みやがた)力衰(おとろへ)て、天下(てんが)武徳に帰(き)し、中夏静まるに似たれ共(ども)、仏神三宝(さんばう)をも不敬、三台(さんたい)五門の所領をも不渡、政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)ぬれば、世中(よのなか)如何(いか)がと申合(まうしあ)へり。吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の後、様々の事共(ことども)申せしが、車輪(しやりん)の如くなる光物(ひかりもの)都を差(さ)して夜々(よなよな)飛度(とびわた)り、種々の悪相(あくさう)共(ども)を現(げん)じける間、不思議(ふしぎ)哉(かな)と申(まうす)に合(あは)せて、疾疫(しつえき)家々に満(みち)て貴賎苦(くるし)む事甚(はなはだ)し。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)哉(かな)と申(まうす)に、同(おなじき)二月五日の暮(くれ)程より、直義朝臣(あそん)俄(にはか)に邪気に被侵、身心悩乱(なうらん)して、五体(ごたい)逼迫(ひつぱく)しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰(おほせ)て御祈(おんいのり)不斜(なのめならず)。
陰陽寮(おんやうれう)、鬼見(きけん)・泰山府君(たいさんぶくん)を祭(まつり)て、財宝を焼尽(やきつく)し、薬医(やくい)・典薬(てんやく)、倉公・華佗(くわた)が術(じゆつ)を究(きはめ)て、療治すれ共不痊。病(やまひ)日々に重(おもつ)て今はさてと見へしかば、京中(きやうぢゆう)の貴賎驚き合(あ)ひて、此(この)人如何にも成給(なりたまひ)なば、只小松大臣(こまつのおとど)重盛(しげもり)の早世(さうせい)して、平家の運命忽(たちまち)に尽(つき)しに似たるべしと思(おもひ)よりて、弥(いよいよ)天下(てんが)の政道は徒事(いたづらごと)なるべしと、歎(なげか)ぬ者も無(なか)りけり。
持明上皇此由(このよし)を聞召(きこしめ)し殊に歎き思食(おぼしめし)しかば、潜(ひそか)に勅使を被立て八幡宮(はちまんぐう)に一紙(いつし)の御願書(ごぐわんしよ)を被篭て、様々の御立願(ごりふぐわん)あり。其詞(そのことばに)云(いはく)、敬白祈願事右神霊之著明徳也(なり)。安民理国為本。王者之施政化也(なり)。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣(あそん)者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海(しかい)之(の)安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由(かげゆの)長官公時(きんとき)、御願書(ごぐわんしよ)を開(ひらい)て宝前(はうぜん)に跪(ひざまつ)き、泪(なみだ)を流(ながし)て、高らかに読上(よみあげ)奉るに、宝殿且(しばら)く振動して、御殿の妻戸(つまど)開く音幽(かすか)に聞へけるが、誠(まこと)に君臣合体(がつてい)の誠を感じ霊神擁護(おうご)の助(たすけ)をや加へ給(たまひ)けん。
勅使帰参して三日(みつかの)中に、直義朝臣(あそん)病(やまひ)忽(たちまち)平愈(へいゆう)し給ひけり。是(これ)を聞(きく)者、「難有哉(かな)、昔周(しうの)武王病(やまひ)に臥(ふし)て崩(ほう)じ給はんとせし時、周公旦(しうこうたん)天に祈(いのつ)て命に替(かは)らんとし給(たまひ)しかば、武王の病忽(たちまち)痊(いえ)て、天下(てんが)無為の化に誇(ほこる)に相似(あひに)たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無(なか)りけれ。又傍(かたはら)に吉野殿(よしのどの)方(がた)を引(ひく)人は、「いでや徒(いたづら)事な云(いひ)そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛(てんゆ)の偽(いつはり)を受(うけ)ん。只時節(をりふし)よく、し合(あは)せられたる願書也(なり)。」と、欺(あざむ)く人も多かりけり。  
土岐頼遠(ときよりとほ)参合御幸致狼籍事(こと)付(つけたり)雲客(うんかく)下車事(こと)
同(おなじき)九月三日は故伏見(ふしみの)院(ゐんの)御忌日(ごきにち)也(なり)しかば、彼(かの)御仏事殊更故院(こゐん)の御旧迹にて、執行(とりおこな)はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸(ごかう)なる。此(この)離宮はさしも紫楼紺殿(しろうこんでん)を彩(いろど)り、奇樹怪石を集(あつめ)て、見所(みどころ)有(あり)し栖(せいち)なれ共(ども)、旧主去座を、年久(ひさし)く成(なり)ぬれば、見しにも非(あら)ず荒(あれ)はて、一村薄(ひとむらずすきの)野(の)と成(なつ)て、鶉(うづら)の床(とこ)も露滋(しげ)く、八重葎(やへむぐら)のみ門を閉(とぢ)て、荻吹(ふき)すさむ軒端(のきば)の風、苔もり兼(かぬ)る板間(いたま)の月、昔の秋を思出(おもひいで)て今の泪(なみだ)をぞ催(もよほ)しける。
毎物曳愁添悲秋の気色(けしき)、光陰不待人無常迅速なる理(ことわり)、貴きも賎きも皆古(いにしへ)に成(なり)ぬる哀(あはれ)さを、導師富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を借(かつ)て数刻(すごく)宣説(せんぜつ)し給(たま)へば、上皇を奉始旧臣老儒悉(ことごとく)直衣(なほし)・束帯(そくたい)の袖を絞許(しぼるばかり)にぞ見へたりける。種々の御追善(ごつゐぜん)端多(はしおほく)して、秋の日無程昏(くれ)はてぬ。可憐九月初三(しよさん)の夜の月、出(いづ)る雲間(くもま)に影消(きえ)て、虚穹(こきゆう)に落(おつ)る雁(かり)の声、伏見の小田(をだ)も物すごく、彼方人(をちかたびと)の夕と、動(うごき)静まる程(ほど)にも成(なり)しかば、松明(たいまつ)を秉(とつ)て還御なる。夜はさしも深(ふけ)ざるに、御車(おんくるま)東洞院(ひがしのとうゐん)を登(のぼ)りに、五条(ごでう)辺(あたり)を過(すぎ)させ給ふ。
斯(かか)る処に土岐弾正少弼(ときだんじやうせうひつ)頼遠・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春(ゆきはる)、今(いま)比叡(ひえ)の馬場にて笠懸(かさがけ)射て、芝居の大酒に時刻を移し、是(これ)も夜深(ふけ)て帰(かへり)けるが、無端樋口(ひぐち)東洞院(ひがしのとうゐん)の辻にて御幸(ごかう)にぞ参り合(あひ)ける。召次(めしつぎ)御前(おんさき)に走散(わしりちつ)て、「何者ぞ狼籍(らうぜき)也(なり)。下(おり)候へ。」とぞ罵(ののしり)ける。
下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春は是(これ)を聞(きい)て御幸(ごかう)也(なり)けりと心得(こころえ)て、自馬飛下(とんでおり)傍(かたはら)に畏(かしこま)る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸(ごかう)も不知けるにや、此比(このころ)時を得て世をも不恐、心の侭(まま)に行迹(ふるまひ)ければ、馬をかけ居(すゑ)て、「此比(このころ)洛中(らくちゆう)にて、頼遠などを下(おろ)すべき者は覚(おぼえ)ぬ者を、云(いふ)は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原(きやつばら)蟇目(ひきめ)負(おふ)せてくれよ。」と罵(ののし)りければ、前駈御随身(せんぐみずゐじん)馳散(はせちつ)て声々に、「如何なる田舎人(ゐなかうど)なれば加様(かやう)に狼籍をば行迹(ふるまふ)ぞ。院の御幸(ごかう)にて有(ある)ぞ。」と呼(よばは)りければ、頼遠酔狂(すゐきやう)の気や萌(きざ)しけん、是(これ)を聞(きい)てから/\と打笑ひ、「何(な)に院と云ふか、犬と云(いふ)か、犬ならば射て落さん。」と云侭(いふまま)に、御車(おんくるま)を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て馬を懸(かけ)寄せて、追物射(おふものい)にこそ射たりけれ。
竹林院の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)、御後(おんうしろ)に被打けるが、衛府(ゑふ)の太刀を抜馳寄(ぬきはせよ)せ、「懸(かか)る浅猿(あさまし)き狼籍こそなけれ。御車(おんくるま)をとく懸破(かけわつ)て仕れ。」と、被下知けれ共(ども)、牛の胸懸(むながい)被切て首木(くびき)も折れ、牛童共(うしわらはども)も散々(ちりぢり)に成(なり)行き、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)も皆打落(うちおと)されて、御車(おんくるま)に当る矢をだに、防ぎ進(まゐ)らする人もなし。下簾(したすだれ)皆撥(かなぐり)落され三十輻(みそのや)も少々(せうせう)折(をれ)にければ、御車(おんくるま)は路頭に顛倒(てんたう)す。浅猿(あさまし)しと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。上皇は只御夢(おんゆめ)の心地(ここち)座(ましまし)て、何とも思召分(おぼしめしわけ)たる方も無(なか)りけるを、竹林院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)公重(きんしげ)卿(きやう)御前(おんまへ)に参られたりければ、上皇、「何(いかに)公重か。」と許(ばかり)にて、軈(やが)て御泪にぞ咽(むせ)び座(ましま)しける。
公重卿も進む泪(なみだ)を押へて、「此比(このころ)の中夏の儀、蛮夷僭上(ばんいせんじやう)無礼の至極(しごく)、不及是非候。而(しか)れ共(ども)日月未(いまだ)天に掛らば、照鑒(せうかん)何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些(すこし)叡慮を慰(なぐさま)させ御座(おはしま)す。「されば其(その)事よ。聞(きけ)や何(いか)に、五条(ごでう)の天神は御出(おんいで)を聞(きい)て宝殿より下(くだ)り御幸(ごかう)の道に畏(かしこま)り、宇佐八幡は、勅使の度毎(たびごと)に、威儀を刷(つくろひ)て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代(よ)と謂(いふ)からに、懸(かか)る狼籍を目(ま)の当(あたり)見つる事よ。今は末代(まつだい)乱悪(らんあく)の習俗にて、衛護(ゑご)の神もましまさぬかとこそ覚(おぼゆ)れ。」と被仰出て、袞衣(こんえ)の御袖(おんそで)を御顔に押当(おしあて)させ御座(おはしま)せば、公重卿も涙の中に書闇(かきくれ)て、牛童(うしわらは)少々(せうせう)尋出(たづねいだ)して泣々(なくなく)還御成(なり)にけり。
其比(そのころ)は直義(ただよし)朝臣(あそん)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の政務に代(かはつ)て天下(てんが)の権柄(けんぺい)を執(とり)給ひしかば、此(この)事を伝へ承(うけたまはつ)て、「異朝にも未(いまだ)比類を不聞。況(まし)て本朝に於ては、曾(かつて)耳目(じぼく)にも不触不思議(ふしぎ)也(なり)。其(その)罪を論ずるに、三族(さんぞく)に行(おこなう)ても尚(なほ)不足、五刑に下(くだ)しても何ぞ当らん。直(ぢき)に彼輩(かのともがら)を召出(めしいだ)して車裂(くるまざき)にやする、醢(ししびしほ)にやすべき。」と、大(おほき)に驚嘆(きやうたん)申されけり。頼遠も行春も、角(かく)ては事悪(あし)かりなんと思(おもひ)ければ、皆己(おの)が本国へぞ逃下(にげくだり)ける。此(この)上はとて、軈(やが)て討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)評定一決したりければ、下野(しもつけの)判官(はうぐわん)は不叶とや思(おもひ)けん、頚(くび)を延(のべ)て上洛(しやうらく)し、無咎由を様々陳(ちん)じ申(まうし)ける間、事の次第委細に糾明有(きうめいあつ)て、行春をば罪の軽(かろき)に依(よつ)て死罪を被宥讃岐(さぬきの)国(くに)へぞ被流ける。
土岐頼遠は、弥(いよいよ)罪科遁(のが)るゝ所無(なか)りければ、美濃(みのの)国(くに)に楯篭(たてこもつ)て謀反(むほん)を起さんと相議(あひぎ)して、便宜(びんぎ)の知音(ちおん)一族共(いちぞくども)を招寄(まねきよす)と聞へしかば、急ぎ討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)とて、先(まづ)甥の刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康(よりやす)を始(はじめ)として、宗(むね)との一族共(いちぞくども)に御教書(みげうしよ)を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角(かく)ては如何と思案して、潜(ひそか)に都へ上(のぼり)、夢窓国師をぞ憑(たのみ)ける。
夢窓は此比(このころ)天下(てんが)の大善知識(だいぜんちしき)にて、公家武家崇敬類(たぐ)ひ無(なか)りしかば、さり共(とも)と被憑仰しか共(ども)、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)程の大逆(だいぎやく)を緩(ゆる)く閣(さしお)かば、向後(きやうこう)の積習(せきしふ)たるべし。而(しか)れ共(ども)御口入(ごこうじゆ)難黙止(もだしがた)ければ、無力其(その)身をば被誅て、子孫の安堵(あんど)を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)に被渡て、六条河原(ろくでうかはら)にて終(つひに)被刎首けり。其弟(そのおとと)に周済房(しゆさいばう)とて有(ある)をも、既(すで)に可被切と評定有(あり)けるが、其(その)時の人数にては無(なか)りける由(よし)、証拠分明也(なり)ければ、死刑の罪を免(ゆるし)て、軈(やが)て本国へぞ下(くだ)りける。
夢窓和尚(むさうをしやう)の武家に出(いで)て、さりともと口入(こうじゆ)し給(たまひ)し事不叶しを、欺(あざむ)く者や仕(し)たりけん、狂歌を一首(いつしゆ)、天竜寺(てんりゆうじ)の脇壁(わきかべ)の上にぞ書(かき)たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計(しゆさいばかり)ぞ皿に残れる此(この)頼遠は、当代故(ことさ)ら大敵を靡(なび)け、忠節を致(いたせ)しかば、其(その)賞翫(しやうぐわん)も人に勝(すぐ)れ、其(その)恩禄も異他。さるを今浩(かか)る行迹(ふるまひ)に依(よつ)て、重(かさね)て吹挙(すゐきよ)をも不被用、忽(たちまち)に其(その)身を失ひぬる事、天地日月未(いまだ)変異(へんい)は無(なか)りけりとて、皆人恐怖して、直義(ただよし)の政道をぞ感じける。頃比(このごろの)習俗、華夷(くわい)変じて戎国の民と成(なり)ぬれば、人皆院・国王と云(いふ)事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸(ごかう)に参会(まゐりあひ)て、狼籍したりとて、被切進(まゐら)せたれ。」と申(まうし)ければ、道を過(すぐ)る田舎人(ゐなかうど)共(ども)是(これ)を聞(きき)て、「抑(そもそも)院(ゐん)にだに馬より下(おり)んには、将軍に参会(まゐりあひ)ては土を可這か。」とぞ欺(あざむ)きける。
さればをかしき事共(ことども)浅猿(あさまし)き中にも多かりけり。爰(ここ)に如何なる雲客(うんかく)にてか有(あり)けん、破(や)れたる簾(みす)より見れば、年四十(しじふ)余(あま)りなりけるが、眉(まゆ)作り金(かね)付(つけ)て、立烏帽子(たてゑぼし)引(ひき)かづき著たる人の、轅(ながえ)はげたる破車(やれぐるま)を、打てども行(ゆか)ぬ疲牛(つかれうし)に懸(かけ)て、北野の方へぞ通(とほ)りける。今程洛中(らくちゆう)には武士共(ぶしども)充満(じゆうまん)して、時を得る人其(その)数を不知(しらず)。誰とは不見、太く逞(たくま)しき馬共に思々(おもひおもひ)の鞍(くら)置(おい)て、唐笠(からかさ)に毛沓(けくつ)はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉(もみぢ)の枝、手毎(てごと)に折(をり)かざし、早歌交(さうかまじ)りの雑談(ざふだん)して、馬上二三十騎(にさんじつき)、大内野(おほうちの)の芝生(しばふ)の花、露と共に蹴散(けちら)かし、当(あた)りを払(はらつ)て歩(あゆ)ませたり。主人と覚(おぼ)しき馬上の客(きやく)、此(この)車を見付(みつけ)て、「すはや是(これ)こそ件(くだん)の院と云(いふ)くせ者よ。頼遠などだにも懸(かか)る恐(おそろしき)者に乗会(のりあ)ひして生涯を失ふ。まして我等(われらが)様(やう)の者いかにとゝがめられては叶(かなふ)まじ。いざや下(おり)ん。」とて、一度(いちど)にさつと自馬下(おり)、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭(かうべ)を地に著(つけ)てぞ畏(かしこま)りける。
車に乗(のり)たる雲客(うんかく)は、又是(これ)を見て、「穴(あな)浅猿(あさまし)哉(や)。若(もし)是(これ)は土岐が一族(いちぞく)にてやあるらん。院をだに散々(さんざん)に射進(まゐ)らする、況(まし)て吾等こゝを下(おり)では悪(あし)かりぬべし。」と周章騒(あわてさわ)ぎ、懸(かけ)もはづさぬ車より飛下(とびおり)ける程(ほど)に、車は生強(なまじひ)に先(さき)へ行馳(ゆきはす)るに、軸(ぢく)に当(あたつ)て立烏帽子(たてゑぼし)を打落し、本鳥放(もとどりはな)ちなる青陪従(あをばいじゆう)片手にては髻(もとどり)をとらへ、片手には笏(しやく)を取(とり)直し、騎馬の客の前に跪(ひざまつ)き、「いかに/\。」と色代(しきたい)しけるは、前代未聞(ぜんだいみもん)の曲事(くせごと)なり。其(その)日(ひ)は殊更聖廟(せいべう)の御縁日(ごえんにち)にて、参詣の貴賎布引(ぬのひ)き也(なり)けるが、是(これ)を見て、「けしからずの為体(ていたらく)哉(や)、路頭の礼は弘安の格式(かくしき)に被定置たり。其(それ)にも雲客(うんかく)武士に対(たい)せば、自車をり髻(もとどり)を放(はなせ)とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無(なか)りけり。  
 
太平記 巻第二十四 

 

朝儀年中行事(てうぎねんぢゆうぎやうじの)事(こと)
暦応(りやくおう)改元(かいげん)の比(ころ)より兵革(ひやうがく)且(しばら)く静(しづま)り、天下(てんが)雖属無為京中(きやうぢゆう)の貴賎(きせん)は尚(なほ)窮困(きゆうこん)の愁(うれへ)に拘(かかは)れり。其(その)故は国衙(こくが)・荘園(しやうゑん)も本所の知行(ちぎやう)ならず。正税官物(せいぜいくわんぶつ)も運送の煩(わづらひ)有(あつ)て、公家は逐日狼戻(らうれい)せしかば、朝儀(てうぎ)悉(ことごとく)廃絶(はいぜつ)して政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)にける。夫(それ)天子は必(かならず)万機(ばんき)の政(まつりごと)を行(おこな)ひ、四海(しかい)を治(をさめ)給ふ者也(なり)。
其(その)年中行事(ねんぢゆうぎやうじ)と申(まうす)は、先(まづ)正月には、平旦(へいたん)に天地四方拝(しはうはい)・屠蘇白散(とそびやくさん)・群臣(ぐんしん)の朝賀(てうが)・小朝拝(こでうはい)・七曜(しちえう)の御暦(ごりやく)・腹赤(はらか)の御贄(みにへ)・氷様(ひのためし)・式兵(しきひやう)二省内外官(にしやうないげくわん)の補任帳(ふにんちやう)を進(たてまつ)る。
立春の日は、主水司(もんどつかさ)立春の水(わかみづ)を献(たてまつ)る。子日(ねのひ)の若菜(わかな)・卯(うの)日(ひ)の御杖(みつゑ)・視告朔(かうさく)の礼・中春両宮(ちゆうとうりやうぐう)の御拝賀(ごはいが)。五日(いつかは)東寺の国忌(こつき)・叙位(じよい)の議白(ぎびやく)。七日(なぬかは)兵部(ひやうぶの)省御弓(おんたらし)の奏(そう)。同日白馬節会(あをむまのせちゑ)。八日(やうかは)大極殿(だいこくでん)の御斉会(みさいゑ)。同日真言院(しんごんゐん)の御修法(みしほ)・太元の法・諸寺の修正(しゆしやう)・女叙位(によじよゐ)。十一日(じふいちにちは)外官(げくわん)の除目(ぢもく)。十四日(じふしにちは)殿上(てんしやう)の内論議(うちろんぎ)。十五日(じふごにちは)七種(ななくさ)の御粥(みかゆ)・宮内(くないの)省の御薪(みかまぎ)。十六日(じふろくにちは)蹈歌節会(たうかのせちゑ)・秋冬の馬料(むまれう)・諸司(しよし)の大粮(おほがて)・射礼(しやれい)・賭弓(のりゆみ)・年給(ねんきふ)の帳(ちやう)・神祇官(じんぎくわん)の御麻(みぬさ)。晦日(つごもり)には御巫(みかんのこ)御贖(みあかもの)を奉る。院の尊勝陀羅尼(そんしようだらに)。
二月には上(かみ)の丁日(ひのとのひ)尺奠(しやくてん)・上(かみ)の申(さるの)日(ひ)春日祭(かすがのまつり)。翌日(つぎのひ)卒川祭(いさがはのまつり)。上(かみ)の卯(うの)日(ひ)大原野祭(おほはらののまつり)・京官の除目(ぢもく)・祈年(としこひ)の祭(まつり)・三省考選(さんしやうかうせん)の目録(もくろく)・列見(れつけん)の位禄(ゐろく)・季(き)の御読経(みどつきやう)・仁王会(にんわうゑ)を被行。
三月には三日(みつかの)御節供(ごせつく)・御灯(ごとう)・曲水(きよくすゐ)の宴(えん)。七日(なぬかは)薬師(やくし)寺の最勝会(さいしようゑ)・石清水(いはしみづ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)・東大寺の花厳会授戒(けごんゑじゆかい)。同日鎮花祭(はなしづめのまつり)あり。
四月には朔日(ついたち)の告朔(かうさく)。同日掃部寮(かもんれう)冬の御座(ござ)を徹(てつ)して夏の御座を供(くう)ず。主水司(もんどづかさ)始(はじめ)て氷を献(たてまつ)り、兵衛(ひやうゑの)府(ふ)御扇(みあふぎ)を進(たてまつ)る。山科(やましな)・平野(ひらの)・松尾(まつのを)・杜本(もりもと)・当麻(たいま)・当宗(まさむね)・梅(むめの)宮(みや)・大神(おほわ)の祭・広瀬立田(ひろせたつた)の祭あり。五日は中務省(なかつかさのしやう)妃(ひ)・夫人(ふじん)・嬪(よめづかひ)。女御(にようご)の夏の衣服(いふく)の文(もん)を申す。同日准蔭(じゆおん)の位記(ゐき)。七日は擬階(ぎかい)の奏(そう)也(なり)。八日は潅仏(くわんぶつ)。十日は女官、春夏の時の飾(かざ)り物(もの)の文(もん)を奏す。内の弓場(ゆば)の埒(らち)。斉内親(いつきのないしん)王の御禊(みそぎ)。中の申(さるの)日(ひ)国(くにの)祭(まつり)。関白の賀茂詣(かものまうで)。中の酉(とりの)日(ひ)賀茂(かも)の祭。男女の被馬(かざりむま)。下(しも)の子(ねの)日(ひ)吉田(よしたの)宮(みやの)祭(まつり)。東大寺の授戒(じゆかい)の使。駒牽神衣(こまひきかんみそ)の三枝(さいぐさ)の祭(まつり)あり。
五月には、三日六衛府(ろくゑふ)、菖蒲(あやめ)并(ならびに)花を献(たてまつ)る。四日は走馬(はしりむま)の結番(つがひ)、并(ならびに)毛色(けいろ)を奏(そう)す。五日(いつかは)端午(たんご)の祭、薬玉御節供(くすだまのおんせく)・競馬(くらべむま)・日吉(ひよしの)祭・最勝講を被行。
六月には、内膳司(ないぜんのつかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。中務省(なかつかさのしやう)暦(れき)を奏す。造酒司(さけのつかさ)の醴酒(ひとよざけ)。神祇官(じんぎくわん)の御体(みたい)の御占(みうら)。月次(つきなみ)。神今食(じんごんじき)。道饗(みあい)。鎮火(ひしづめ)の祭。神祇官(じんぎくわん)の荒世(あらよ)の御贖(みあかもの)を奏す。東西(やまとかはち)の文部(ふんひとべ)、祓(はらへ)の刀(たち)を奏(そう)す。十五日(じふごにちは)祇薗(ぎをん)の祭(まつり)。晦日の節折(よをり)、大祓(おほはらひ)。
七月には、朔日の告朔(かうさく)。広瀬竜田(ひろせたつた)の祭(まつり)に可向。五位の定め。女官の補任帳(ふにんちやう)。二日(ふつかは)最勝寺(さいしようじ)の八講(はつかう)・七夕(たなばた)の乞巧奠(きつかうてん)。八日の文殊会(もんじゆゑ)。十四日(じふしにちは)盂蘭盆(うらぼん)。十九日(じふくにちは)尊勝寺(そんしようじ)の八講(はつかう)。二十八日(にじふはちにちは)相撲節会(すまうのせちゑ)。
八月には、上(かみ)の丁(ひのと)の尺奠(しやくてん)。明る日内論議(うちろんぎ)。四日(よつかは)北野祭(きたののまつり)。十一日(じふいちにちは)官(くわん)の定考(かうぢやう)・小定考(こかうぢやう)。十五日(じふごにちは)八幡放生会(やはたのはうじやうゑ)。十六日(じふろくにちは)駒引(こまひき)・仁王会(にんわうゑ)・季御読経(きのみどつきやう)あり。
九月には、九日(ここのか)重陽(ちようやう)の宴(えん)。十一日(じふいちにちは)伊勢の例幣(れいへい)・祈年(としこひ)・月次(つきなみ)・神甞(かんなめ)・新甞(にひなめ)・大忌風神(おほみかざかん)。十五日(じふごにちは)東寺の灌頂(くわんぢやう)。鎮花(はなしづめ)・三枝(さいぐさ)・相甞(あひなめ)・鎮魂(たましづめ)・道饗(みあい)の祭(まつり)あり。
十月には、掃部寮(かもんれう)夏の御座を徹(てつ)して、冬の御座を供(くう)ず。兵庫寮(ひやうごのれう)鼓吹(つづみふえ)の声を発(おこ)し、刑部(ぎやうぶの)省(しやう)年終(ねんしゆう)断罪(たえづみ)の文(ふん)を進(たてまつ)る。亥(ゐの)日(ひ)三度(みたび)の猪子(ゐのこ)。五日(いつかは)弓場始(ゆばはじめ)。十日(とをかは)興福寺(こうぶくじ)の維摩会(ゆゐまゑ)。競馬(くらべむま)の負方(まけかた)の献物(こんぶつ)。大歌始(おほうたはじめ)あり。
十一月には、朔日に内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)じ、中務省(なかつかさのしやう)御暦(おんれき)を奏(そう)す。神祇官(じんぎくわん)の御贖(みあかもの)。斎院(さいゐん)の御神楽(みかくら)。山科(やましな)・平野(ひらの)・春日(かすが)・森本(もりもと)・梅宮(うめのみや)・大原野(おほはらのの)祭。新甞会(しんじやうゑ)。賀茂(かもの)臨時(りんじの)祭(まつり)あり。
十二月には、自朔日同十八日まで内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。御体(みたい)の御占(みうら)。陰陽寮(おんやうれう)来年の御忌(おんき)を勘禄(かんろく)して、内侍(ないし)に是(これ)を進(たてまつ)る。荷(にの)前(さき)の使(つかひ)。御仏名(おんぶつみやう)。大寒(たいかん)の日、土牛(とご)の童子を立(たて)、晦日に宮内(くないの)省御薬を奏す。大禊(おほはらひ)。御髪上(みくしあげ)。金吾(きんご)四隊(したい)に列(つらなつ)て、院々(ゐんゐん)の焼灯(せうとうは)不異白日。沈香火底(ちんかうくわてい)に坐して吹笙と云(いひ)ぬる追儺(つゐな)の節会(せちゑ)は今夜也(なり)。委細に是(これ)を註(しる)さば、車に載(のす)とも不可尽。唯(ただ)大綱(たいかう)を申許(まうすばかり)也(なり)。
是等(これら)は皆代々(だいだい)の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機(すうぎ)なれば、一度(いちど)も不可断絶事なれ共(ども)、近年は依天下(てんが)闘乱一事(いちじ)も不被行。されば仏法も神道も朝儀(てうぎ)も節会(せちゑ)もなき世と成(なり)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。政道一事(いちじ)も無きに依(よつ)て、天も禍(わざはひ)を下す事を不知(しらず)。斯(かかりけ)れ共道を知(しる)者無(なけ)れば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心の無(なか)りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉(しつえきききん)、年々に有(あつ)て、蒸民(じようみん)の苦(くるし)みとぞ成(なり)にける。  
天竜寺(てんりゆうじ)建立(こんりふの)事(こと)
武家の輩(ともが)ら如此諸国を押領(あふりやう)する事も、軍用を支(ささへ)ん為ならば、せめては無力折節(をりふし)なれば、心をやる方も有(ある)べきに、そゞろなるばさらに耽(ふけり)て、身には五色を飾(かざ)り、食には八珍(はつちん)を尽し、茶の会酒宴(しゆえん)に若干(そくばく)の費(つひえ)を入(いれ)、傾城田楽(けいせいでんがく)に無量(むりやう)の財(たから)を与(あた)へしかば、国費(つひ)へ人疲(つかれ)て、飢饉疫癘(ききんえきれい)、盜賊(たうぞく)兵乱止(やむ)時なし。是(これ)全く天の災(わざはひ)を降(くだ)すに非(あら)ず。只国の政(まつりこと)無(なき)に依(よる)者也(なり)。而(しかる)を愚(おろか)にして道を知(しる)人無(なか)りしかば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心を弁(わきま)へざりけるにや。
夢窓(むさう)国師左武衛(さひやうゑの)督(かみ)に被申けるは、「近〔年〕天下(てんが)の様を見候に、人力を以て争(いかで)か天災(てんさい)を可除候。何様(いかさま)是(これ)は吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の時、様々の悪相を現(げん)し御座候(ござさふらひ)けると、其神霊(そのじんれい)御憤(おんいきどほり)深(ふかく)して、国土に災(わざはひ)を下し、禍(わざはひ)を被成候と存(ぞんじ)候。去(さる)六月二十四日の夜(よの)夢に吉野の上皇鳳輦(ほうれん)に召(めし)て、亀山(かめやま)の行宮(あんきゆう)に入御座(じゆぎよまします)と見て候(さふらひ)しが、幾程無(いくほどなく)て仙去(せんきよ)候。
又其(その)後時々(よりより)金龍(きんりよう)に駕(が)して、大井河(おほゐがは)の畔(ほとり)に逍遥(せうえう)し御座(おはしま)す。西郊(さいかう)の霊迹(れいせき)は、檀林皇后(だんりんくわうぐう)の旧記に任せ、有謂由区々(まちまち)に候。哀(あはれ)可然伽藍(がらん)一所御建立(ごこんりふ)候(さふらひ)て、彼御菩提(かのおんぼたい)を吊(とふら)ひ進(まゐら)せられ候はゞ、天下(てんが)などか静(しづま)らで候べき。菅原(すがはら)の聖廟(せいべう)に贈爵(ぞうしやく)を奉り、宇治の悪左府(あくさふ)に官位を贈(おく)り、讃岐(さぬきの)院(ゐん)・隠岐(おきの)院(ゐん)に尊号を諡(おくりな)し奉り、仙宮(せんきゆう)を帝都に遷進(うつしまゐらせ)られしかば、怨霊(をんりやう)皆静(しづまつ)て、却(かへつ)て鎮護(ちんご)の神(しん)と成(なら)せ給候(たまひさふらひ)し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、「此(この)儀尤(もつとも)。」とぞ被甘心ける。
されば頓(やが)て夢窓(むさう)国師を開山(かいさん)として、一寺を可被建立とて、亀山殿(かめやまどの)の旧跡(きうせき)を点(てん)じ、安芸・周防を料国(れうこく)に被寄、天竜寺(てんりゆうじ)をぞ被作ける。
此(この)為に宋朝(そうてう)へ宝(たから)を被渡しかば、売買(ばいばい)其利(そのり)を得て百倍(ひやくばい)せり。又遠国の材木をとれば、運載(うんたい)の舟更に煩(わづらひ)もなく、自(おのづから)順風を得たれば、誠(まこと)に天竜八部(てんりゆうはちぶ)も是(これ)を随喜(ずゐき)し、諸天善神も彼(かれ)を納受(なふじゆ)し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂(はつたう)・庫裏(くり)・僧堂・山門・総門・鐘楼(しゆろう)・方丈(はうぢやう)・浴室(よくしつ)・輪蔵(りんざう)・雲居庵(うんこあん)・七十(しちじふ)余宇(よう)の寮舎(れうしや)・八十四間の廊下(らうか)まで、不日(ふじつ)の経営(けいえい)事成(なつ)て、奇麗(きれい)の装(よそほひ)交(まじ)へたり。
此開山(このかいさん)国師、天性(てんせい)水石に心を寄せ、浮萍(ふへい)の跡を為事給(たまひ)しかば、傍水依山十境(じつきやう)の景趣(けいしゆ)を被作たり。所謂(いはゆる)大士応化(おうけ)の普明閣(ふみやうかく)、塵々和光(ぢんぢんわくわう)の霊庇廟(れいひべう)、天心浸秋曹源池(さうげんち)、金鱗(こんりん)焦尾三級岩(さんきふがん)、真珠(じんしゆ)琢頷龍門亭(りようもんちん)、捧三壷亀頂塔(きちやうだふ)、雲半間(うんはんけん)の万松洞(まんしようとう)、不言開笑拈花嶺(ねんげれい)、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋(とげつけう)。此(この)十景(じつけい)の其(その)上(うへ)に、石を集(あつめ)ては烟嶂(えんしやう)の色を仮(か)り、樹(き)を栽(うゑ)ては風涛(ふうたう)の声(こゑを)移(うつ)す。慧崇(ゑそう)が烟雨(えんう)の図(づ)、韋偃(ゐえん)が山水の景(けい)にも未得(いまだえざりし)風流也(なり)。康永(かうえい)四年に成風(せいふう)の功(こう)終(をはつ)て、此(この)寺五山第二(だいに)の列(れつ)に至りしかば、惣じては公家の勅願寺(ちよくぐわんじ)、別しては武家の祈祷所(きたうじよ)とて、一千人の僧衆(しゆ)をぞ被置ける。  
依山門嗷訴公卿僉議(くぎやうせんぎの)事(こと)
同八月に上皇臨幸(りんかう)成(なつ)て、供養(くやう)を可被逐とて、国々の大名共(だいみやうども)を被召(めされ)、代々(だいだい)の任例其役(そのやく)を被仰合。凡(およそ)天下(てんが)の鼓騒(こさう)、洛中(らくちゆう)の壮観(さうくわん)と聞へしかば、例の山門の大衆忿(いかり)をなし、夜々の蜂起(ほうき)、谷々(たにだに)の雷動(らいどう)無休時。あはや天魔の障碍(しやうげ)、法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(いできたり)ぬるとぞみへし。三門跡(さんもんぜき)是を為静御登山(ごとうさん)あるを、若大衆(わかだいしゆ)共(ども)御坊(ごばう)へ押寄(おしよせ)て、不日(ふじつ)に追下(おひくだ)し奉り、頓(やが)て三塔(さんたふ)会合(くわいがふ)して大講堂の大庭(おほには)にて僉議(せんぎ)しける。其詞(そのことば)に云(いはく)、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)建平安城(へいあんじやう)也(なり)。契将来於吾山、伝教(でんげう)大師(だいし)開比叡山(ひえいさん)也(なり)。
致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也(なり)。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也(なり)。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州(さうしう)尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺(てんりゆうじ)以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社(しちしや)之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜんの)大衆(だいしゆ)一同に皆尤(もつとも)々とぞ同じける。同(おなじき)七月三日谷々(たにだに)の宿老(しゆくらう)捧款状陳参(ちんさん)す。
其(その)奏状に云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)三千(さんぜん)大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺(てんりゆうじ)者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台(てんだい)顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也(なり)。
亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居(くわうきよ)之(の)遺基、為人処之栖界、何不傷哉(かな)。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居(くわうきよ)哉(かな)。
聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也(なり)。疎石独背之。山櫛藻、自安居所、俗士之奢侈也(なり)。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下(てんが)言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千(さんぜん)学侶忽為雷動、一紙(いつし)表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺(てんりゆうじ)供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之(の)由(よし)、所有其沙汰也(なり)。
山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王(みやうわう)之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門(しやもん)、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也(なり)。望請天裁急断葛藤、於天竜寺(てんりゆうじ)者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳(ごごひやくさい)之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等(しゆとら)誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千(さんぜん)大衆法師等上とぞ書(かき)たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此(この)事可有如何と僉議あり。
去(され)共(ども)大儀なれば満座閉口の処に、坊城(ばうじやうの)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「先(まづ)就山門申詞案事情、和漢の例を引(ひい)て、此宗(このしゆう)を好む世は必(かならず)不亡云(いふ)事なしと申(まうす)条、愚案短才の第一(だいいち)也(なり)。其(その)故は異国に此(この)宗を尊崇せし始(はじめ)を云(いへ)ば、梁(りやうの)武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺(だいどうじ)に禅坐し給(たまひ)しより以来(このかた)、唐(たうの)代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也(なり)。我朝(わがてう)には武臣相摸守(さがみのかみ)此(この)宗に傾(かたむい)て、九代累葉(るゐえふ)を栄(さか)へたり。
而(しかる)に幼帝の時に至(いたつ)て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初(はじめ)に当(あたつ)て、高時一家(いつけ)を亡(ほろぼせる)事は、全(まつたく)非禅法帰依咎、只政を乱り驕(おごり)を究(きはめ)し故(ゆゑ)也(なり)。何(なんぞ)必(かならず)しも治(をさま)りし世を捨(すて)て、亡びし時をのみ取(とら)んや。是(これ)濫謀訴(かんらんのぼうそ)也(なり)。豈(あに)足許容哉(かな)。其(その)上(うへ)天子武を諱(いみな)とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎(いはんや)此(この)夢窓は三代の国師として四海(しかい)の知識たり。
山門縱(たとひ)訴(うつたへ)を横(よこたへ)すとも、義を知(しり)礼を存せば、過言を止(とどめ)て可仰天裁。漫(みだりに)疎石法師を遠島へ遣(しかは)し、天竜寺(てんりゆうじ)を犬神人(いぬじんにん)に仰(おほせ)て可破却と申(まうす)条、奇怪至極也(なり)。罪科不軽。此(この)時若(もし)錯刑者向後(きやうこう)の嗷訴(がうそ)不可絶。早(はやく)三門跡(さんもんぜき)に被相尋、衆徒の張本(ちやうほんを)召出(めしいだ)し、断罪流刑(るけい)にも可被行とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、誠(まこと)に無余儀被申ける。
此(この)義げにもと覚(おぼゆ)る処に、日野(ひのの)大納言(だいなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)被申けるは、「山門聊(いささか)嗷訴(がうそ)に似て候へ共、退(しりぞい)て加愚案一義有(あり)と存(ぞんじ)候。其(その)故は日本(につぽん)開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺(えんりやくじ)専(もつぱら)とす。故(ゆゑ)に乱政行朝日は山門是(これ)を諌(いさめ)申し、邪法世に興る時は衆徒是(これ)を退(しりぞく)る例其来(そのきたること)尚(ひさし)矣。先(まづ)後宇多院(ごうだのゐんの)御宇(ぎよう)に、横岳(よこだけの)太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其(その)儀を被止畢(をはんぬ)。又以往(いわう)には土御門院(つちみかどのゐんの)御宇(ぎよう)元久三年に、沙門(しやもん)源空専修(げんくうせんじゆ)念仏敷演(ふえん)の時、山門訴申(うつたへまうし)て是(これ)を退治(たいぢ)す。
後堀河(ごほりかはの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)嘉禄(かろく)三年(さんねんに)尚(なほ)専修(せんじゆ)の余殃(よあう)を誡(いましめ)て、法然(ほふねん)上人の墳墓を令破却。又御鳥羽(ごとばの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)建久年中に、栄西(えいさい)・能忍等(のうにんら)禅宗を洛中(らくちゆう)に弘めし時、南都北嶺共(ともに)起(おこつ)て及嗷訴。而(しかる)に建仁寺建立(こんりふ)に至(いたつ)て、遮那(しやな)・止観(しくわん)の両宗を被置上(う)へ、開山以別儀可為末寺由(よし)、依被申請被免許候き。惣(すべ)て仏法の一事(いちじ)に不限。百王の理乱(りらん)四海(しかい)の安危、自古至今山門是(これ)を耳外(にぐわい)に不処、所謂(いはゆる)治承の往代に、平相国(へいしやうこく)清盛公(きよもりこう)、天下(てんが)の権(けん)を執(とつ)て、此(この)平安城(へいあんじやう)を福原の卑湿(ひしつ)に移せし時も、山門独(ひとり)捧奏状、終(つひ)に遷都(せんと)の儀を申止畢(まうしとどめをはん)ぬ。
是等(これら)は皆山門の大事(だいじ)に非(あら)ずといへども、仏法(ぶつぽふと)与王法以相比故(ゆゑに)、被裁許者也(なり)。抑(そもそも)禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴(たつと)ぶ処は祖師(そし)の行迹(かうせき)也(なり)。然(しかる)に今の禅僧之心操法則(しんさうほつそく)、皆是(これ)に相違(さうゐ)せり。其(その)故は、宋朝には西蕃(せいばん)の帝師とて、摩訶迦羅(まかから)天の法を修して朝家(てうか)の護持を致す真言師(しんごんし)あり。彼(か)れ上天(しやうてん)の下(した)、一人(いちじん)の上(うへ)たるべき依有約、如何なる大刹(だいせつ)の長老、大耆旧(ぎきう)の人も、路次(ろし)に行会(ゆきあふ)時は膝をかゞめて地に跪(ひざまづ)き、朝庭(てうてい)に参会する時は伸手沓(くつ)を取(とり)致礼といへり。
我朝(わがてう)には不然、無行(ぶきやう)短才なれども禅僧とだに云(いひ)つれば、法務・大僧正(だいそうじやう)・門主・貫頂の座に均(ひとし)からん事を思へり。只今父母の養育(やういく)を出(いで)たる沙弥喝食(しやみかつしき)も、兄を超(こえ)父を越(こえ)んと志あり。是先(これまづ)仁義礼智信の法にはづる。曾(かつ)て宋朝に無例我朝(わがてう)に始(はじま)れり。言(ことば)は語録(ごろく)に似て、其(その)宗旨を説(とく)時は、超仏越祖(てうぶつをつそ)の手段有(あり)といへども、向利に、他之権貴(ごんき)に媚(こぶ)る時は、檀那(だんな)に諂(へつら)ひ富人(とめるひと)に不下と云(いふ)事なし。
身には飾五色食には尽八珍(はつちん)、財産を授(うけ)て住持を望み、寄進(きしん)と号して寄沙汰をする有様、誠(まこと)に法滅の至りと見へたり。君子(くんしは)恥其言過其行と云(いへ)り。是(これ)豈(あに)知恥云乎(いはんや)。凡(およそ)有心人は信物化物(けもつ)をみじと可思。其(その)故は戒行(かいぎやう)も欠(かけ)、内証(ないしよう)も不明ば、所得の施物(せもつ)、罪業(ざいごふ)に非(あらず)と云(いふ)事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相(じんがむさう)なれば心に懸(かか)る事なし。中機は一念浮(うか)べ共(ども)、人我無理を観(くわん)ずる故(ゆゑ)に二念と相続(あひつい)で無思事。下機(げき)は無相の理までは弁(べん)ぜね共(ども)、慙愧懺悔(ざんぎさんげ)の心有(あつ)て諸人を不悩慈悲の心あり。此外(このほか)に応堕地獄者有(ある)べしと見へたり。
人の生渡を失はん事を不顧、他の難非(なんひ)を顕(あらは)す此等(これら)也(なり)。凡(およそ)寺を被建事も、人法(にんぼふ)繁昌(はんじやう)して僧法相対(あひたい)せば、真俗道(みち)備(そなはつ)て尤(もつとも)可然。宝堂荘厳(しやうごん)に事を寄(よせ)、奇麗厳浄(ごんじやう)を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持(ぢ)し人を謗(ばう)して徒(いたづら)に明(あか)し暮(くら)さば、仏法興隆とは申難(まうしがた)かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕(ずゐちくきふじ)して諸有(しよう)所得の心を離(はなれ)て清浄(しやうじやう)を修すべきに、今禅の体(てい)を見るに、禁裏仙洞(きんりせんとう)は松門茅屋(しようもんばうをく)の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客(けいしやううんかく)は木食草衣(もくじきさうえ)なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽(あ)けり。
祖師(そしの)行儀如此ならんや。昔(むかし)摩羯陀国(まかだこく)の城中(じやうちゆう)に一人の僧あり。毎朝(まいてう)東に向(むかつ)ては快悦(くわいえつ)して礼拝(らいはい)し、北に向(むかつ)ては嗟嘆(さたん)して泪(なみだ)を流す。人怪(あやし)みて其謂(そのいはれ)を問(とふ)に答(こたへ)て云(いはく)、「東には山中に乗戒(じようかい)倶(とも)に急なる僧、樹下(じゆげ)石上に坐して、已(すで)に証(しよう)を得て年久し。仏法繁昌(はんじやう)す。故(ゆゑ)に是(これ)を礼(らい)す。北には城中(じやうちゆう)に練若(れんにや)あり。数十の堂塔甍(いらか)を双(なら)べ、仏像経巻(きやうくわん)金銀を鏤(ちりばめ)たり。此(ここ)に住する百千の僧俗、飲食衣服(おんじきえぶく)一(ひとつ)として乏(とぼ)しき事なし。雖然如来の正法を究(きは)めたる僧なし。
仏法忽(たちまち)に滅(ほろぼ)しなんとす。故(ゆゑ)に毎朝嗟傷(さしやう)す。」と、是(これ)其証(そのしよう)也(なり)。如何に寺を被造共人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ有(あつ)ては其益(そのえき)なかるべし。朝廷の衰微歎(なげい)て有余。是(これ)を見て山門頻(しきり)に禁廷(きんてい)に訴ふ。言之者(は)無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申(うつたへまうす)処有其謂歟(か)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此(この)両義相(あひ)分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴(なり)を静めたり。良有(ややあつ)て三条(さんでうの)源(げん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦(たとひ)山門(さんもんの)申(まうす)処雖事多、肝要は只正法(しやうほふと)与邪法の論也(なり)。
然らば禅僧(ぜんそうと)与聖道召合(めしあは)せ宗論(しゆうろん)候へかしとこそ存(ぞんじ)候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の事は、三国の間先例(せんれい)多く候者を。朝参(てうさん)の余暇(よか)に、賢愚因縁経(いんねんきやう)を開(ひらき)見候(さふらひ)しに、彼祇園精舎(かのぎをんしやうじや)の始(はじめ)を尋(たづぬ)れば、舎衛国(しやゑこく)の大臣、須達長者(しゆだつちやうじや)、此(この)国(くに)に一(ひとつ)の精舎(しやうじや)を建(たて)仏を安置(あんち)し奉らん為に、舎利弗(しやりほつ)と共に遍(あまね)く聚落園林(しゆらくゑんりん)を廻(まはり)て見給ふに、波斯匿王(はしのくわう)の太子遊戯経行(いうげきやうぎやう)し給ふ祇陀園(ぎだゑん)に勝(すぐ)れたる処なしとて、長者、太子に此(この)地を乞(こひ)奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)、「吾(われ)逍遥優遊(せうえういういう)の地也(なり)。容易(たやすく)汝(なんぢ)に難与。但(ただし)此(この)地に布余(しきあま)す程の金(きん)を以て可買取。」とぞ戯(たはむ)れ給(たまひ)ける。
長者此(この)言誠(まこと)ぞと心得(こころえ)て、軈(やが)て数箇(すか)の倉庫を開き、黄金(わうごん)を大象に負(おふ)せ、祇陀園(ぎだゑん)八十頃(はちじつきやう)の地に布満(しきみち)て、太子に是(これ)を奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)是(これ)を見給(たまひ)て、「吾言(わがことば)戯(たはむ)れ也(なり)。汝大願を発(おこ)して精舎を建(たて)ん為に此(この)地を乞(こふ)。何の故(ゆゑ)にか我(われ)是(これ)を可惜。早(はやく)此金(このこがね)を以て造功(ざうこう)の資(たすけ)に可成。」被仰ければ、長者掉首曰(いはく)、「国を可保太子たる人は仮(かり)にも不妄語。臣又苟(いやしくも)不可食言、何ぞ此金(このこがね)を可返給。」とて黄金(わうごん)を地に棄(すて)ければ、「此(この)上は無力。」とて金を収取(をさめとつ)て地を被与。
長者大(おほき)に悦(よろこん)で、軈(やが)て此精舎(このしやうじや)を立(たて)んと欲(ほつ)する処に、六師外道(りくしげだう)、波斯匿王(はしのくわう)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「祇陀(ぎだ)太子(たいし)、為瞿曇沙門(しやもん)須達(しゆたつ)に祇陀園(ぎだゑん)を与(あたへ)て精舎を建(たて)んとし給(たまふ)。此(この)国(くに)の弊(つひえ)民の煩(わづらひ)のみに非(あら)ず。世を失ひ国を保(たもち)給ふまじき事の瑞(ずゐ)也(なり)。速(すみやか)に是(これ)を停(とどめ)給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王(はしのくわう)、外道(げだう)の申(まうす)処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給(たまひ)て、「さらば仏弟子(ぶつでし)と外道(げだう)とを召合(めしあは)せ神力を施(ほどこ)させ、勝負(しようぶ)に付(つけ)て事を可定。」被宣下しかば、長者是(これ)を聞(きい)て、「仏弟子(ぶつでし)の通力我(わが)足の上の一毛(いちもう)にも、外道は不及。」とぞ欺(あざむき)給ひける。
さらばとて「予参(よさん)の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、金鼓(きんこ)を打(うつ)て見聞(けんもん)の衆を集め給ふ。舎衛国(しやゑこく)の三億悉(ことごとく)集(あつまり)、重膝連座。斯(かか)る処に六師外道(りくしげだう)が門人、如雲霞早(はやく)参じて著座したるに、舎利弗(しやりほつ)は寂場樹下(じやくぢやうじゆげ)に禅座して定(ぢやう)より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗(しやりほつ)我(わが)師の威徳に臆して退復(たいふく)し給ふ。」と笑欺(わらひあざむ)ける処に、舎利弗定(ぢやう)より起(たつ)て衣服を整(ととの)へ、尼師壇(にしだん)を左の肩に著け、歩(あゆ)む事如師子王来り給ふ。此(この)時不覚外道共五体(ごたい)を地に著(つけ)て臥(ふし)ける。座定(さだまつ)て後(のち)外道が弟子(でし)労度差(らうとしや)禁庭に歩出(あゆみいで)て、虚空(こくう)に向ひ目を眠(ねぶ)り口に文咒(もんをしゆ)したるに、百囲(ひやくゐ)に余る大木(たいぼく)俄(にはか)に生出(おひいで)て、花散春風葉酔秋霜。見(みる)人奇特(きどく)の思(おもひ)をなす。
後に舎利弗(しやりほつ)口(くち)をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風(せんらんふう)となり、此(この)木を根より吹抜(ふきぬい)て地に倒(たふし)ぬ。労度差(らうとしや)又空に向(むかつ)て呪(しゆ)する。周囲三百里にみへたる池水俄(にはか)に湧出(ゆしゆつ)して四面皆七宝の霊池(れいち)となる。舎利弗(しやりほつ)又目を揚(あげ)て遥(はるか)に天を見給へば、一頭(いちづ)六牙(ろくげ)の白象(びやくざう)空中より下(くだ)る。一牙(いちげ)の上に各(おのおの)七宝の蓮花(れんげ)を生じ、一々の花の上に各七人(しちにん)の玉女あり。此象(このざう)舌を延(のべ)て、一口に彼(かの)池水を呑尽(のみつく)す。外道(げだう)又虚空(こくう)に向(むかつ)て且(しばらく)咒(しゆ)したるに、三(みつつ)の大山出現して上に百(ひやく)余丈(よぢやう)の樹木(うゑき)あり。其(その)花雲を凝(こら)し、其菓(そのこのみ)玉を連(つらね)たり。
舎利弗(しやりほつ)爰(ここ)に手を揚(あげ)て、空中を招き給ふに、一(ひとり)の金剛力士、以杵此(この)山を如微塵打砕(うちくだ)く。又外道如先呪(しゆ)するに、十頭(じふづ)の大龍雲より下(くだつ)て雨を降(ふらし)雷(いかつち)を振(ふる)ふ。舎利弗又頭を挙(あげ)て空中を見給ふに、一の金翅鳥(こんじてう)飛来(とびきたり)、此(この)大龍を割喰(さきくらふ)。外道又咒(しゆ)するに、肥壮(ひさう)多力の鉄牛(てつぎう)一頭(いちづ)出来(いできたつ)て、地を(はう)て吼(ほ)へ忿(いか)る。舎利弗一音(いちおん)を出(いだ)して咄々(とつとつ)と叱(しつ)し給ふに、奮迅(ふんじん)の鉄師子(くろがねのしし)走出(はしりいで)て此(この)牛を喰殺(くひころ)す。外道又座を起(たつ)て咒(しゆ)するに、長(たけ)十丈(じふぢやう)余(あまり)の一(ひとつの)鬼神を現(げん)ぜり。頭(かうべ)の上より火出(いで)て炎(ほのほ)天にあがり、四牙(よつのきば)剣(けん)よりも利(するど)にして、眼(まなこ)日月を掛(かけ)たるが如し。人皆怖(おそ)れ倒れて魂を消(けす)処に、舎利弗黙然(もくねん)として座し給ひたるに、多門天王(たもんてんわう)身には金色(こんじき)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、手に降伏(がうぶく)の鋒(ほこ)をつきて出現し給ふに、此(この)鬼神怖畏(ふゐ)して忽(たちまち)に逃去(にげさり)ぬ。
其後(そののち)猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)、炎(ほのほ)盛(さかん)に外道が身に懸(かか)りければ、外道が門人悉(ことごと)く舎利弗(しやりほつ)の前に倒れ臥(ふし)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)、礼(らい)をなし、「願(ねがはく)は尊者(そんじや)慈悲の心を起して哀愍(あいみん)し給へ。」と、己(おの)が罪をぞ謝(じや)し申(まうし)ける。此(この)時舎利弗慈悲忍辱(にんにく)の意を発(おこ)し、身を百千に化(け)し、十八(じふはち)変(へん)を現(げん)して、還(かへつ)て大座に著(つき)給ふ。見聞の貴賎(きせん)悉(ことごとく)宿福(しゆくふく)開発(かいほつ)し、随喜感動す。六師外道(りくしげだう)が徒(と)、一時に皆出家して正法宗(しやうほふしゆう)に帰服す。
是(これ)より須達(しゆだつ)長者願望(ぐわんまう)を遂(とげ)て、祇園精舎(ぎをんしやうじやを)建(たて)しかば、厳浄(ごんじやう)の宮殿微妙(みめう)の浄刹(じやうせつ)、一生(いつしやう)補処(ふしよ)の菩薩(ぼさつ)、聖衆(しやうじゆ)此(この)中に来至(らいし)し給(たま)へば、人天大会(にんてんだいゑ)悉(ことごとく)渇仰(かつがう)の頭(かうべ)を傾(かたぶけ)ける。又異朝に後漢の顕宗(けんそう)皇帝(くわうてい)、永平十四年八月十六日(じふろくにち)の夜、如日輪光明を帯(おび)たる沙門(しやもん)一人、帝(みかど)の御前(おんまへ)に来(きたつ)て空中に立(たち)たりと御夢(おんゆめ)に被御覧、夙(つと)に起(おき)て群臣(ぐんしん)を召(めし)て御夢(おんゆめ)を問給(とひたまふ)に、臣傅毅(ふぎ)奏曰(そうしていはく)、「天竺(てんぢく)に大聖(だいしやう)釈尊とて、独(ひとり)の仏出世(しゆつせ)し給ふ。
其(その)教法此(この)国(くに)に流布(るふ)して、万人彼化導(かのけだう)に可預御瑞夢(ずゐむ)也(なり)。」と合(あは)せ申(まうし)たりしが、果して摩騰(まとう)・竺法蘭(ぢくほふらん)、仏舎利(ぶつしやり)、並(ならびに)四十二章経(しやうきやう)を渡す。帝(みかど)尊崇し給(たまふ)事無類。爰(ここ)に荘老の道を貴(たつとん)で、虚無自然理(きよぶしぜんのり)を専(もつぱら)にする道士(だうし)列訴(れつそ)して曰(いはく)、「古(いにしへ)五帝三皇の天下(てんが)に為王より以来(このかた)、以儒教仁義を治(をさ)め、以道徳淳朴(じゆんぼく)に帰(き)し給ふ。而(しか)るに今摩騰(まとう)法師等(ほふしら)、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を伝へて、仏骨の貴(たつと)き事を説く。
内聖外王(だいせいぐわいわう)の儀に背(そむ)き、有徳無為(いうとくぶゐ)の道に違(たが)へり。早く彼(かの)法師を流罪(るざい)して、太素(たいそ)の風(ふう)に令復給(たまふ)べし。」とぞ申(まうし)ける。依之(これによつて)、「さらば道士(だうし)と法師とを召合(めしあは)せて、其(その)威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕(きんけつ)の東門(とうもん)に壇(だん)を高く築(つい)て、予参(よさん)の日をぞ被定ける。既(すでに)其の日に成(なり)しかば、道士(だうし)三千七百人(さんぜんしちひやくにん)胡床(こしやう)を列(つらね)て西に向ひ座す。沙門(しやもん)摩騰(まとう)法師は、草座(さうざ)を布(しい)て東に向ひ座したりけり。其後(そののち)道士等(だうしら)、「何様(いかやう)の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯(ただ)上天入地擘山握月術(じゆつ)を可致。」とぞ被宣下ける。
道士等(だうしら)是(これ)を聞(きい)て大(おほき)に悦び、我等(われら)が朝夕為業所なれば、此(この)術不難とて、玉晨君(ぎよくしんくん)を礼(らい)し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術(せんじゆつ)皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士(だうし)低面失機処に、摩騰(まとう)法師、瑠璃(るり)の宝瓶(はうびやう)に仏舎利を入(いれ)て、左右の手に捧(ささげ)て虚空(こくう)百(ひやく)余丈(よぢやう)が上に飛上(とびあがつ)てぞ立(たち)たりける。上(うへ)に著(つく)所なく下(した)に踏(ふむ)所なし。
仏舎利より放光明、一天(いつてん)四海(しかい)を照(てら)す。其(その)光金帳(きんちやう)の裏(うち)、玉(ぎよくい)の上まで耀(かかや)きしかば、天子・諸侯・卿大夫(けいたいふ)・百寮(ひやくれう)・万民悉(ことごとく)金色(こんじき)の光に映(えい)ぜしかば、天子自(みづから)玉(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、五体(ごたい)を投地礼(らい)を成し給へば、皇后(くわうぐう)・元妃(げんび)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、悉(ことごとく)信仰(しんがう)の首(かうべ)を地に著(つけ)て、随喜(ずゐき)の泪(なみだ)を袖に余す。懸(かか)りしかば確執(かくしつ)せし道士共(だうしども)も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百(さんぜんしちひやく)余人(よにん)即時(そくじ)に出家して摩騰(まとう)の弟子(でし)にぞ成(なり)にける。
此(この)日(ひ)頓(やが)て白馬寺(はくばじ)を建(たて)て、仏法を弘通(ぐづう)せしかば、同時に寺を造(つくる)事、支那四百州の中に一千七百三箇所(いつせんしちひやくさんかしよ)なり。自是漢土の仏法は弘(ひろま)りて遺教(ゆゐけう)于今流布(るふ)せり。又我朝(わがてう)には村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)応和元年に、天台(てんだい)・法相(ほつさう)の碩徳を召(めし)て宗論(しゆうろん)有(あり)しに、山門よりは横川(よかはの)慈慧(じゑ)僧正(そうじやう)、南都よりは松室(まつむろの)仲已講(ちゆうざんいかう)ぞ被参ける。予参(よさんの)日(ひ)に成(なり)しかば、仲(ちゆうざん)既(すでに)南都を出(いで)て上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるに、時節(をりふし)木津河(きづかは)の水出(いで)て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺(ほとり)に輿(こし)を舁居(かきすゑ)させて、案じ煩給(わづらひたまひ)たる処に、怪気(あやしげ)なる老翁一人現(げん)して、「何事に此(この)河の辺(ほとり)に徘(やす)らひ給(たまふ)ぞ。」と問(とひ)ければ、仲(ちゆうざん)、「宗論(しゆうろん)の為に召(めさ)れて参内(さんだい)仕るが、洪水(こうずゐ)に河を渡り兼(かね)て、水の干落(ひおつ)る程を待(まつ)也(なり)。」とぞ答(こたへ)給ひける。
老翁笑(わらつ)て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽(せんりんすゐきん)にだにも不及、以何可致宗論(しゆうろん)。」と恥(はぢ)しめける間、仲(ちゆうざん)誠(げにも)と思(おもひ)て、十二人(じふににん)の力者(りきしや)に、「只水中を舁通(かきとほ)せ。」とぞ下知(げぢ)し給ひける。輿舁(こしかき)、「さらば。」とて水中を舁(かい)て通るに、さしも夥(おびたた)しき洪水左右に(ばつ)と分れて、大河俄(にはか)に陸地(くがち)となる。供奉(ぐぶ)の大衆(だいしゆ)悉(ことごとく)足をも不濡渡(わたり)けり。慈慧(じえ)僧正(そうじやう)も、比叡山(ひえいさん)西坂下松(さがりまつ)の辺(へん)に車を儲(まうけ)させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出(みなぎりいで)、逆浪(さかなみ)浸岸茫茫たり。
牛童(うしわらは)扣轅如何と立(たち)たる処に、水牛(すゐぎう)一頭(いちづ)自水中游出(およぎいで)て車の前にぞ喘(あへ)ぎける。僧正(そうじやう)、「此(この)牛に車を懸替(かけかへ)て水中を遣(やれ)。」とぞ被仰ける。牛童(うしわらは)随命水牛に車を懸け一鞭(いちべん)を当(あて)たれば、飛(とぶ)が如く走出(はしりいで)て、車の轅(ながえ)をも不濡、浪の上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およぎ)あがり、内裏(だいり)の陽明門(やうめいもん)の前にて、水牛は書消様(かきけすやう)に失(うせ)にけり。両方の不思議(ふしぎ)奇特(きどく)、皆権者(ごんじや)とは乍云、類(たぐひ)少(すくな)き事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に清涼殿に師子(しし)の座を布(しい)て、問者(もんじや)・講師(かうし)東西に相対(あひたい)す。天子は南面にして、玉(ぎよくい)に統(とうくわう)を挑(かか)げさせ給へば、臣下は北面にして、階下(かいか)に冠冕(くわんべん)を低(うちた)る。
法席既(すで)に定(さだまつ)て、僧正(そうじやう)は草木成仏(さうもくじやうぶつ)の義を宣(のべ)給へば、仲(ちゆうざん)は五性(ごしやう)各別の理を立(たて)て難じて曰(いはく)、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣(のたまひ)しかば、慈慧僧正(そうじやう)則(すなはち)円覚経(ゑんかくきやう)の文を引(ひい)て、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性無性斉成仏道。」と誦(じゆ)し給ふ。仲(ちゆうざん)此(この)文に被詰て暫(しばらく)閉口し給(たまふ)処に、法相擁護(ほつしやうおうご)の春日(かすが)大明神(だいみやうじん)、高座の上に化現坐(けげんましまし)て、幽(かすか)なる御声(みこゑ)にて此(この)文点(もんてん)を読替(よみかへ)て教(をしへ)させ給(たまひ)けるは、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性も無性も斉(ひとしく)成仏道。」と、慈慧僧正(そうじやう)重(かさね)て難じて曰(いはく)、
「此(この)文点(もんてん)全(まつたく)法文(ほふもん)の心に不叶。一草(いつさう)一木各(かく)一因果、山河大地同一仏性の故(ゆゑ)に、講答(かうたふ)既(すで)に許具理仏性。若(もし)乍具理仏性、遂(つひに)無成仏時ば、以何曰仏性耶(や)。若(もし)又雖具仏性、言不成仏者、有情(うじやう)も不可成仏、有情(うじやう)の成仏(じやうぶつ)は依具理仏性故(ゆゑ)也(なりと)。」難じ給(たまひ)しかば、仲(ちゆうざん)無言黙止給(もだしたまひ)けるが、重(かさね)て答(こたへ)て曰(いはく)、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先(まづ)自身成仏(じやうぶつ)の証(しよう)を顕(あらは)し給はずば、以何散疑。」と宣(のたま)ひしかば、此(この)時慈慧僧正(そうじやう)言(ことば)を不出、且(しばし)が程黙座(もだしざ)し給ふとぞ見へし。
香染(かうぞめ)の法服(ほふふく)忽(たちまち)に瓔珞細(やうらくさいなん)の衣(ころも)と成(なつ)て、肉身卒(にはか)に変じて、紫磨黄金(しまわうごん)の膚(はだへ)となり、赫奕(かくやく)たる大光明十方に遍照(へんぜう)す。されば南庭(なんてい)の冬木(とうぼく)俄(にはか)に花開(ひらい)て恰(あたかも)春二三月の東風に繽紛(ひんぶん)たるに不異。列座(れつざ)の三公(さんこう)九卿(きうけい)も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下(によらいのもと)に来(きたる)かとぞ覚(おぼえ)ける。爰(ここ)に仲(ちゆうざん)少(すこし)欺(あざむけ)る気色(きしよく)にて、揚如意敲席云(いはく)、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦(じゆ)し給ふ。此(この)時慈慧僧正(そうじやう)の大光明忽(たちまちに)消(きえ)て、本(もと)の姿(すがた)に成(なり)給ひにけり。是(これ)を見て、藤氏(とうし)一家(いつけ)の卿相雲客(けいしやううんかく)は、「我氏寺(わがうぢでら)の法相宗(ほつさうしゆう)こそ勝(すぐ)れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給(たまひ)ける処に、門外に繋(つながれ)たる牛、舌を低(たれ)て涎(よだれ)を唐居敷(からゐしき)に残(のこ)せるを見給へば、慥(たしか)に一首(いつしゆ)の歌にてぞ有(あり)ける。草も木も仏になると聞(きく)時は情(こころ)有(ある)身のたのもしき哉(かな)是則(これすなはち)草木成仏(じやうぶつ)の証歌也(なり)。
春日(かすが)大明神(だいみやうじん)の示(しめし)給ひけるにや。何(いづ)れを勝劣(しようれつ)とも難定(さだめがたし)。理(ことわりなる)哉(かな)、仲(ちゆうざん)は千手(せんじゆ)の化身(けしん)、慈慧は如意輪(によいりん)の反化(へんげ)也(なり)。されば智弁言説(ちべんごんせつ)何(いづ)れもなじかは可劣、唯(ただ)雲間(うんかん)の陸士竜(りくしりよう)、日下(じつか)の荀鳴鶴(しゆんめいかく)が相逢(あひあふ)時の如く也(なり)。而(しかれ)ば法相(ほつさう)者(は)六宗の長者たるべし。天台(てんだい)者(は)諸宗の最頂(さいちやう)也(なり)と被宣下、共に眉目(びぼく)をぞ開(ひらき)ける。
抑(そもそも)天台(てんだい)の血脈(けつみやく)は、至師子尊者絶(たえ)たりしを、緬々(はるばる)世隔(へだたつ)て、唐朝の大師(だいし)南岳(なんがく)・天台(てんだい)・章安(しやうあん)・妙楽、自解仏乗(じげぶつじよう)の智を得て、金口(こんく)の相承(さうじよう)を続(つぎ)給ふ。奇特(きどく)也(なり)といへども、禅宗は是(これ)を髣髴(はうふつ)也(なり)と難じ申(まうす)。又禅の立(たつ)る所は、釈尊大梵王(だいほんわん)の請(しやう)を受(うけ)て、於利天(たうりてん)法を説(とき)給ひし時、一枝(いつし)の花を拈(ねん)じ給ひしに、会中(ゑちゆうの)比丘衆(びくしゆ)無知事。爰(ここに)摩訶迦葉(まかかせふ)一人破顔微笑(はがんみせう)して、拈花瞬目(ねんげしゆんもく)の妙旨(めうし)を以心伝心たり。
此(この)事大梵天王(てんわう)問仏決疑経(もんぶつけつぎきやう)に被説たり。然るを宋朝の舒王(じよわう)翰林(かんりん)学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此(この)経失(うしなひ)たりと申(まうす)条、他宗の証拠(しようご)に不足と、天台(てんだい)は禅を難じ申(まうし)て邪法と今も訴へ候上は、加様(かやう)の不審をも此次(このついで)に散度(さんじたく)こそ候へ。唯禅(ぜんと)与天台(てんだい)被召合宗論(しゆうろん)を被致候へかし。」とぞ被申ける。此(この)三儀是非(ぜひ)区(まちまち)に分れ、得失互に備(そなは)れり。
上衆(じやうしゆ)の趣(おもむき)何(いづ)れにか可被同と、閉口屈旨(くつしし)たる処に、二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)申させ給(たまひ)けるは、「八宗派(はちしゆうは)分れて、末流道(みち)異(こと)也(なり)といへども、共に是(これ)師子吼無畏(ししくむゐ)の説に非(あらず)と云(いふ)事なし。而(しか)るに何(いづ)れを取り何(いづ)れを可捨。縦(たとひ)宗論(しゆうろん)を致す共、天台(てんだい)は唯受(ゆゐじゆ)一人の口決(くけつ)、禅家は没滋味(もつじみ)の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季(げうき)なれば、如摩騰虚空(こくう)に立(たつ)人もあらじ、慈恵大師(だいし)の様(やう)に、即身(そくしん)成仏(じやうぶつ)する事もあるべからず。唯(ただ)如来(によらい)の権実(ごんじつ)徒(いたづら)に堅石(けんせき)白馬の論となり、祖師(そし)の心印空(むなし)く叫騒怒張(けうさうどちやう)の中に可堕。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の難(かた)き事我(われ)曾(かつて)听(きき)ぬ。如来滅後(めつご)一千一百年(いつせんいつぴやくねん)を経(へ)て後、西天(さいてん)に護法(ごほふ)・清弁(じやうべん)とて二人(ににん)の菩薩(ぼさつ)坐(ましまし)き。護法菩薩(ごほふぼさつ)は法相宗(ほつさうしゆう)の元祖(ぐわんそ)にて、有相(うさう)の義を談(だん)じ、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は三論宗(さんろんしゆう)の初祖(しよそ)にて、諸法の無相なる理を宣(のべ)給ふ。
門徒二(ふたつ)に分れ、是彼非此。或時此(この)二菩薩(にぼさつ)相逢(あひあう)て、空有(くうう)の法論を致し給ふ事七日七夜(なぬかななよ)也(なり)。共に富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を仮(かつ)て、智三千界を傾(かたぶけ)しかば、無心の草木も是(これ)を随喜(ずゐき)して、時ならず花を開(ひら)き、人を恐るゝ鳥獣も、是(これ)を感嘆(かんたん)して可去処を忘れたり。而(しか)れども論義遂(つひ)に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)を経(へ)て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩(ごほふぼさつ)は蒼天の雲を分ち遥(はるか)に都率天宮(とそつてんぐう)に上(のぼ)り給へば、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は青山の岩を擘(つんざき)、脩羅窟(しゆらくつ)に入給(いりたまひ)にけり。
其後(そののち)花厳(けごん)の祖師(そし)香象(かうざう)、大唐(だいたう)にして此空有(このくうう)の論を聞(きき)て、色即是空(しきそくぜくう)なれば護法の有(う)をも不嫌、空即是色(くうそくぜしき)なれば清弁(じやうべん)の空(くう)をも不遮と、二宗を会(ゑ)し給(たまひ)けり。上古の菩薩(ぼさつ)猶(なほ)以(もつて)如斯、況(いはんや)於末世比丘哉(や)。されば宗論(しゆうろん)の事は強(あながち)に無其詮候歟(か)。とても近年天下(てんが)の事、小大(なに)となく皆武家の計(はからひ)として、万(よろ)づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申(うつたへまうす)処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断(せいだん)候べきかとこそ存(ぞんじ)候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義(このぎ)可然と被同、其(その)日(ひ)の議定(ぎじやう)は終(はて)にけり。
さらばとて次(つぎの)日(ひ)軈(やが)て山門の奏状(そうじやう)を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)諸共(もろとも)に、山門の奏状を披見(ひけん)して、「是(これ)はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩(わづらひ)にもならず、適(たまたま)公家(くげ)武家帰仏法大善事を修(しゆ)せば、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍(しやうげ)を成(なさ)んとする条返々(かへすがへす)不思議(ふしぎ)也(なり)。所詮神輿入洛(しんよじゆらく)あらば、兵(つはもの)を相遣(あひつかは)して可防。路次に振棄(ふりすて)奉らば、京中(きやうぢゆう)にある山法師(やまほふし)の土蔵(どざう)を点(てん)じ、造替(つくりかへ)させんに何(なん)の痛(いたみ)か可有。非拠(ひぎよ)の嗷訴(がうそ)を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞(そうもん)をぞ被経ける。武家如斯申沙汰(まうしさた)する上は、公家何(なん)ぞ可及異儀とて、已(すで)に事厳重なりしかば、列参(れつさん)せし大衆(だいしゆ)、徒(いたづら)に款状(くわじやう)を公庭(きんてい)に被棄て、失面目登山(とうさん)ず。
依之(これによつて)三千(さんぜん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほり)不斜(なのめならず)。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日(じふろくにち)、三社の神輿(しんよ)を中堂へ上(あげ)奉り、祇園(ぎをん)・北野(きたの)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)、師子(しし)・田楽(でんがく)庭上(ていじやう)に相列(あひつらな)り、神人(じんにん)・社司(しやし)御前(ごぜん)に奉仕(ぶし)す。公武の成敗(せいばい)拘(かかは)る処なければ、山門の安否(あんぴ)此(この)時に有(あり)と、老若(らうにやく)共(ども)に驚嘆す。角(かく)ては猶(なほ)も不叶とて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)、剣(つるぎ)・白山(しらやま)・豊原(とよはら)・平泉寺(へいせんじ)・書写(しよしや)・法花寺(ほつけじ)・多武峯(たふのみね)・内山(うちやま)・日光・太平寺(たいへいじ)、其外(そのほか)の末寺末社(まつじまつしや)、三百七十(さんびやくしちじふ)余箇所(よかしよ)へ触送(ふれおく)り、同(おなじき)十八日、四箇の大寺に牒送(てふそう)す。先(まづ)興福寺(こうぶくじ)へ送る。
其牒状(そのてふじやうに)云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)牒興福寺(こうぶくじ)衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺(てんりゆうじ)供養儀令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一(だいいち)義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下(てんが)、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。火不消、忽起燎原之烟。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。
今般先蹤弗遠。而今就天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之(の)由(よし)有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下(てんが)之(の)謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺(てんりゆうじ)供養、院中之御沙汰(ごさた)、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中(らくちゆう)洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也(なり)。
尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿(げつけい)雲客(うんかく)等、供養以前悉以被放氏、其(その)上(うへ)猶押而有出仕之人者、貴寺山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之(の)由(よし)、不日可被触送也(なり)。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆(いつき)之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書(かき)たりける。
山門既(すで)に南都に牒送すと聞へしかば、返牒(へんでふ)未送(いまだおくらざる)以前にとて、院司(ゐんし)の公卿(くぎやう)藤氏の雄臣等(ゆうしんら)参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者(は)以非為理事不珍候。其(その)上(うへ)今度の儀は、旁(かたかた)申(まうす)処有其謂歟(かと)存(ぞんじ)候。就中(なかんづく)行仏事貴僧法事も天下(てんが)無為(ぶゐ)にてこそ其詮(そのせん)も候へ。神輿神木入洛有(じゆらくあつ)て、南都北嶺及嗷訴者、武家何(なん)と申共(まうすとも)、静謐の儀なくば法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)なるべし。角(かく)て又叡願も徒(いたづら)に成(なり)ぬと存(ぞんじ)候。只速(すみやか)に有聖断衆徒の鬱訴(うつそ)を被宥、其後(そののち)御心(おんこころ)安く法義大会(ほふぎだいゑ)をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠(げ)にも近年四海(しかい)半(なかば)は乱(みだれ)て一日も不安居、此(この)上に又南北神訴(しんそ)に及び、衆徒鬱憤(うつふん)して忿(いか)らば、以外の珍事(ちんじ)なるべしとて、枉諸事先(まづ)院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸(ごかう)可成。」被仰ければ、山門是(これ)に静りて、神輿忽(たちまち)に御帰座有(きざあり)しかば、陣頭警固(けいご)の武士も皆馬の腹帯(はるび)を解(とい)て、末寺末社の門戸(もんこ)も参詣の道をぞ開きける。  
天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事(こと)付(つけたり)大仏供養(くやうの)事(こと)
此(この)上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行(とりおこな)ひ、翌日に御幸(ごかう)可有とて、同(おなじき)八月二十九日、将軍並(ならびに)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)路次の行装(ぎやうさう)を調(ととのへ)て、天竜寺(てんりゆうじ)へ被参詣けり。貴賎岐(ちまた)に充満(みちみち)て、僧俗彼(か)れに成群、前代未聞(ぜんだいみもん)の壮観(さうくわん)也(なり)。先(まづ)一番に時の侍所(さむらひどころ)にて山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、声花(はなやか)に冑(よろ)ふたる兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)を召具(めしぐ)して先行(せんかう)す。
其(その)次に随兵(ずゐひやう)の先陣にて、武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・戸次(とつきの)丹後(たんごの)守(かみ)頼時・伊東大和(やまとの)八郎左衛門(はちらうざゑもんの)尉(じよう)祐煕(すけひろ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・東中務(ひがしのなかつかさの)丞(じよう)常顕(つねあき)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道(にふだうが)息男四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定・同近江(あふみの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)氏綱・大平(おほひら)出羽(ではの)守(かみ)義尚(よしなほ)・粟飯原(あひばら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・吉良(きら)上総(かづさの)三郎満貞・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)師兼(もろかぬ)、以上十二人(じふににん)、色々の糸毛(いとげ)の胄(よろひ)に烏帽子懸(ゑぼしかけ)して、太く逞(たくまし)き馬に、厚総(あつふさ)懸(かけ)て番(つがひ)たり。
三番には帯刀(たてはき)にて武田(たけだの)伊豆(いづの)四郎・小笠原七郎(しちらう)・同又三郎(またさぶらう)・三浦駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同越中(ゑつちゆうの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)美作次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同対馬(つしまの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)・同佐渡(さどの)四郎・海老名(えびなの)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)・平賀(ひらがの)四郎・逸見(へんみの)八郎(はちらう)・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽(そめつく)したる色々の直垂(ひたたれ)に、思々(おもひおもひ)の太刀帯(はい)て、二行に歩(あゆ)み連(つらね)たり。其(その)次に正(じやう)二位(にゐ)大納言征夷大将軍源(みなもとの)朝臣(あそん)尊氏(たかうぢ)卿(きやう)、小八葉(こはちえふ)の車の鮮(あざやか)なるに簾(すだれ)を高く揚(あげ)げ、衣冠(いくわん)正く乗給(のりたまひ)ける。
五番には後陣(ごぢん)の帯刀(たちはき)にて設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・同六郎(ろくらう)、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見(へんみの)又三郎(またさぶらう)・同源太・小笠原蔵人・秋山新(しん)蔵人(くらんど)・佐々木(ささきの)出羽(ではの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同近江(あふみの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・富永四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)守(かみ)・清久(きよくの)左衛門次郎(さゑもんじらう)・森(もりの)長門(ながとの)四郎・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊勢(いせの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)、以上十六人、衣服帯剣(たいけん)如先、行列の次等をぞ守(まもり)ける。
其(その)次に参議正三位(じやうさんみ)行兼(ぎやうけん)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)源(みなもとの)朝臣(あそん)直義(ただよし)、巻纓(まきふさの)老懸(おいかけ)に蒔絵(まきゑ)の細太刀帯(はい)て、小八葉(こはちえふ)の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守(とほたふみのかみ)宗継・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)師冬二人(ににん)は御剣(ぎよけん)の役。長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)広秀・同治部(ぢぶの)少輔(せう)時春御沓(おんくつ)の役。佐々木(ささきの)吉田(よしだの)源左衛門(げんざゑもんの)尉(じよう)秀長・同加地(かぢの)筑前三郎左衛門(さぶらうざゑもん)貞信は御調度(おんてうど)の役。和田越前守(ゑちぜんのかみ)宣茂(のぶしげ)・千秋(せんしう)三河(みかはの)左衛門大夫惟範(これのり)は御笠(おんかさ)の役、以上八人(はちにん)、布衣(ほい)に上括(うはくくり)して列を引(ひく)。
八番には高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・上杉弾正少弼(せうひつ)朝貞(ともさだ)・高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)重成・上杉左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)、布衣(ほい)に下括(したくくり)して、半靴(はんくつ)著(はい)て、二騎充(づつ)左右に打並(うちならび)たり。九番には、後陣(ごぢん)の随兵(ずゐひやう)、足利尾張(をはりの)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・千葉(ちばの)新介(しんすけ)氏胤・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・同山城三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)行光(ゆきみつ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義・同和泉(いづみの)守(かみ)義長・武田(たけだの)甲斐(かひの)前司(ぜんじ)盛信・伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高実(たかさね)、以上十人(じふにん)、戎衣甲冑(じういかつちう)何(いづ)れも金玉を磨(みがき)たり。十番には外様(とざま)の大名五百(ごひやく)余騎(よき)、直垂著(ひたたれぎ)にて相随(あひしたがふ)。
土佐(とさの)四郎・長井(ながゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)・同丹波(たんばの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・摂津(つの)左近(さこんの)蔵人(くらんど)・城(じやうの)丹後(たんごの)守(かみ)・水谷刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・二階堂(にかいだう)安芸(あきの)守(かみ)・同山城(やましろの)守(かみ)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)・薗田(そのた)美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・町野加賀(かがの)守(かみ)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・結城三郎・梶原河内(かはちの)守(かみ)・大内民部(みんぶの)大夫(たいふ)・佐々木(ささきの)能登(のとの)前司(ぜんじ)・太平(おほひら)六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)・狩野(かのの)下野三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)・島津下野(しもつけの)守(かみ)・武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同八郎(はちらう)・安保(あぶ)肥前(ひぜんの)守(かみ)・土屋三河(みかはの)守(かみ)・小幡(をばた)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)・疋田(ひきだ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・寺岡九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・田中下総(しもふさの)三郎・須賀(すかの)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・赤松美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・寺尾新蔵人、以上三十二人(さんじふににん)打混(うちこみ)に、不守次第打(うつ)たりけり。
此(この)後は吉良(きら)・渋河・畠山・仁木(につき)・細川を始(はじめ)として、宗(むね)との氏族、外様(とさま)の大名打混(うちこみ)に弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)し、思々(おもひおもひ)の馬鞍(むまくら)にて、大宮(おほみや)より西郊(にしのをか)まで、無透間袖を連(つらね)て支(ささ)へたり。薄馬場(すすきのばば)より、随兵(ずゐひやう)・帯刀(たてはき)・直垂著(ひたたれぎ)・布衣(ほい)の役人、悉(ことごとく)守次第列を引く。已(すで)に寺門に至(いたり)しかば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱検非違使(けびゐし)にて、黒袴著(ちやく)せる走下部(わしりしもべ)、水干(すいかん)直垂(ひたたれ)、金銀を展(のべ)たる如木(しよぼく)の雑色(ざふしき)、粲(さわやか)に胄(よろう)たる若党(わかたう)三百(さんびやく)余人(よにん)、胡床布衣(こしやうほい)の上に列居して山門を警固(けいご)す。
其行装(そのぎやうさう)辺(あた)りを払(はらつ)て見へたり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義朝臣(あそん)既(すで)に参堂有(あり)しかば、勅使藤(とうの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)、院司(ゐんじ)の高(かうの)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)泰成(やすなり)陣参して、即(すなはち)法会(ほふゑ)を被行。其(その)日(ひ)は無為(ぶゐ)に暮(くれ)にけり。明(あく)れば八月晦日(つごもり)也(なり)。今日は又為御結縁両上皇御幸(ごかう)なる。昨日には事の体(てい)替(かはつ)て、見物の貴賎も閭巷(りよかう)に足を立兼(たてかね)たり。御車(おんくるま)総門(そうもん)に至(いたり)しかば、牛を懸放(かけはな)して手引(ひき)也(なり)。御牛飼(うしかひ)七人(しちにん)、何(いづ)れも皆持明党(ぢみやうたう)とて綱取(とり)て名誉の上手(じやうず)共(ども)也(なり)。
中にも松一丸(まついちまる)は遣手(やりて)にて、綾羅(りようら)を裁(た)ち金銀を鏤(ちりば)めたり。上皇御簾(みす)を揚(あげ)て見物の貴賎(きせん)を叡覧あり。黄練貫(きねりぬき)の御衣(ぎよい)に、御直衣(おんなほし)、雲立涌(くもたてわき)、生(すずし)の織物、薄色(うすいろ)の御指貫(おんさしぬき)を召(めさ)れたり。竹林院(ゐんの)大納言(だいなごん)公重(きんしげの)卿(きやう)、濃香(こいかう)に牡丹(ぼたん)を織(おり)たる白裏(しろうら)の狩衣(かりぎぬ)に、薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、州流(すながし)に鞆絵(ともゑ)の藤(ふぢ)の丸(まる)、青鈍(せいどん)の生(すずし)の織物(もの)の指貫(さしぬき)にて、御車寄(みくるまよせ)に被参たり。左(ひだりの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)忠季卿、薄色の織襖(おりあう)の裏無(なし)に、蔦(つた)を紋にぞ織(おり)たりける。
女郎花(をみなへし)の衣(きぬ)、浮紋(うきもん)に浅黄(あさぎ)の指貫(さしぬき)にて供奉(ぐぶ)せらる。殿上人(てんじやうびと)には左中将(さちゆうじやう)宗雅(むねまさ)朝臣(あそん)、線綾(ふせんりよう)の女郎花(をみなへし)の狩衣(かりぎぬ)に、槿(あさがほ)を紋(もん)にぞ織(おり)たりける。薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、藤の丸の指貫(さしぬき)也(なり)。頭(とうの)左中弁宗光(むねみつ)朝臣(あそん)、線綾(ふせんりよう)の比金襖(ひきんあう)の狩衣、珍(めづら)しく見へたりける。右少将教貞(のりさだ)朝臣(あそん)、紫苑唐草(しをんからくさ)を織(おり)たる生青裏(すずしのあをうら)、紅(くれなゐ)の引繕木(ひきへぎ)はえ/゛\敷(しく)ぞ見へし。春宮権大進(とうぐうごんのたいしん)時光は、線綾(ふせんりよう)に萩を経青緯紫段(たてあをぬきむらさきのだん)にして、青く織(おり)たる女郎花の生(すずし)の衣(きぬ)二藍(ふたあゐ)の指貫也(なり)。此(この)後は下北面(げほくめん)の輩(ともがら)、中原(なかはらの)季教(すゑのり)・源(みなもとの)康定・同康兼・藤原(ふぢはらの)親有(みつあり)・安部(あべの)親氏(みつうぢ)・豊原(といはらの)泰長、御随身(みずゐじん)には、秦久文(はだのひさふん)・同久幸此等(ひさゆきこれら)也(なり)。
参会の公卿(くぎやう)には三条(さんでうの)帥(そつの)公季(きんすゑの)卿(きやう)・日野(ひのの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)・別当四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆蔭(たかかげの)卿(きやう)・春宮大夫(とうぐうのだいぶ)実夏(さねなつ)・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)、何(いづ)れも皆行装(ぎやうさう)当(あた)りを耀(かかや)かす。仏殿の北(きた)の廊(らう)四間(しま)を餝(かざつ)て、大紋(だいもん)の畳を重(かさ)ね布(し)き、其(その)上(うへ)に氈(せん)を被展たり。平敷(ひらしき)の御座其(その)北にあり。西の間(ま)に屏風(びやうぶ)を立隔(たてへだて)て御休所(みやすみところ)に構(かま)へたり。御前(おんまへ)に風流の島形(しまがた)を被居たり。
表大井河(おほゐがは)景趣、水紅錦(こうきん)を洗ひて、感興の心をぞ添(そへ)たりける。是(これ)は三宝院僧正(そうじやう)賢俊、依武命儲進(ちよしん)す。仏殿の裏二間(うちふたま)を拵(こしらへ)て御簾(みす)を懸(かけ)、御聴聞所(ごちやうもんところ)にぞ構(かま)へたる。其(その)北に畳を布(しき)て、公卿(くぎやう)の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄(まく)を打(うつ)て、左右の伶倫(れいりん)十一人、唐装束(からしやうぞく)にて胡床(こしやう)に坐す。左には光栄(みつよし)・朝栄(ともなが)・行重(ゆきしげ)・葛栄(かつよし)・行継(ゆきつぐ)・則重(のりしげ)也(なり)。右には久経(ひさつね)・久俊・忠春・久家・久種(ひさたね)也(なり)。鳳笙(ほうしやう)・竜笛(りようてき)の楽人(がくじん)十八人(じふはちにん)、新秋(にひあき)・則祐・信秋・成秋・佐秋(すけあき)・季秋・景朝(かげとも)・景茂(かげもち)・景重(かげしげ)・栄敦(よしあつ)・景宗(かげむね)・景継(かげつぐ)・景成(かげなり)・季氏(すゑうぢ)・茂政(みちまさ)・重方(しげかた)・重時是等(これら)也(なり)。
国師既(すで)に自山門進出(すすみいで)させ給へば、楽人(がくじん)巻幄乱声(らんじやう)を奏する事、時をぞ移しける。聴聞(ちやうもん)の貴賎、此(この)時感涙を流しけり。導師は金襴(きんらん)の袈裟(けさ)・鞋(くつ)著(はい)て、莚道(えんだう)に進ませ給へば、二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)執蓋(しつかい)、島津常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)・佐々木(ささきの)三河(みかはの)守(かみ)両人執綱(しつかう)にて、同(おなじ)く歩出(あゆみいで)たり。左右の伶倫(れいりん)何(いづ)れも皆幄(まく)より起(たつ)て、参向の儀有(あつ)て、万秋楽(まんじゆらく)の破(は)を奏して、舞台(ぶたい)の下に列を引けば、古清衆(こしやうじゆ)導師に従(したがう)て入堂あり。
南禅寺の長老智明(ちみやう)・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏(いちきよう)・万寿寺の友松(いうしよう)・真如寺の良元(りやうげん)・安国寺の至孝(しかう)・臨川寺の志玄(しげん)・崇福寺の慧聰(ゑそう)・清見寺(せいけんじ)の智琢(ちたく)、本寺当官にて、士昭首座(しせうしゆざ)、是等(これら)は皆江湖の竜象(りようざう)也(なり)。釈尊の十大弟子(でし)に擬して、扈従(こしよう)の装(よそほひ)厳重なり。其(その)後正面の戸(こよう)を閉(とぢ)て、願文(ぐわんもん)の説法数剋(すこく)也(なり)。法会(ほふゑ)終(はて)しかば、伶人本幄(ほんまく)に帰(かへつ)て舞(まひ)あり。
左に蘇合(そかふ)右に古鳥蘇(ことりそ)、陵王荒序(りようわうくわうじよ)・納蘓利(なつそり)・太平楽(らく)・狛杵(こまほこ)也(なり)。中にも荒序は当道の深秘(しんひ)にて容易(たやすく)雖不奏之、適(たまたま)聖主臨幸の法席也(なり)。非可黙止とて、朝栄(ともなが)荒序を舞(まひ)しかば、笙は新秋(にひあき)、笛は景朝(かげとも)、太鼓は景茂(かげもち)ぞ仕(つかまつり)たる。当道の眉目(びぼく)、天下(てんが)の壮観無比し事共(ことども)也(なり)。
此(この)後国師一弁(いちべん)の香を拈(ねん)じて、「今上皇帝(くわうてい)聖躬万歳(せいきゆうばんぜい)。」と祝(しゆく)し給へば、御布施(おんふせ)の役にて、飛鳥井(あすかゐ)新中納言雅孝(まさたかの)卿(きやう)・大蔵卿雅仲(まさなか)・一条(いちでうの)二位(にゐ)実豊(さねとよ)卿(きやう)・持明院三位(さんみ)家藤卿、殿上人(てんじやうびと)には、難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗有(むねあり)朝臣(あそん)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)資将(すけまさ)卿(きやう)・難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗清朝臣(あそん)・紙屋川(かみやがは)中将(ちゆうじやう)教季・持明院少将基秀・姉少路(あねがこうちの)侍従(じじゆう)基賢(もとかた)・二条(にでうの)少将(せうしやう)雅冬(まさふゆ)・持明院前(さきの)美作(みまさかの)守(かみ)盛政、諸大夫には、千秋(せんじゆ)駿河(するがの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・星野刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・佐脇(さわき)左近(さこんの)大夫(たいふ)、金銀珠玉を始(はじめ)として綾羅綿繍(りようらきんしう)はさて置(おき)ぬ。
倭漢(わかん)の間に名をのみ聞(きい)て未(いまだ)目には不見珍宝を持連立(もちつらねたて)て如山積上(つみあげ)たり。只是(これ)王舎城(わうしやじやう)の昔年(そのかみ)、五百(ごひやく)の車(くるま)に珍貨(ちんくわ)を積(つん)で、仏に奉りしも是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。総(すべ)て此(この)両日の儀を見る者、悉(ことごとく)福智(ふくち)の二報を成就(じやうじゆ)して、済度利生(りしやう)の道を広(ひろく)せし事、此(この)国師に過(すぎ)たる人は非じとて、改宗帰法、偏執(へんしふ)の心をぞ失(うしなひ)ける。さしも違乱(ゐらん)に及びし大法会(ほふゑ)の無事故遂(とげ)て、天子の叡願、武家の帰依(きえ)、一時に望み足(たん)ぬと喜悦(きえつ)の眉をぞ被開ける。
夫(それ)仏を作り堂を立つる善根(ぜんこん)誠(まこと)に勝(すぐ)れたりといへ共(ども)、願主聊(いささか)も慢(けうまん)の心を起す時は法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(しゆつたい)して三宝の住持(ぢゆうぢ)不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕(ちん)建寺事一千七百(いつせんしちひやく)箇所(かしよ)、僧尼を供養(くやう)する事十万八千人(じふまんはつせんにん)、有功徳乎(や)。」と問給(とひたまひ)しに、達磨、「無功徳(むくどく)。」と答(こたへ)給ふ。是(これ)誠(まこと)に無功徳云(いふ)には非(あら)ず。叡信(えいしんの)慢(けうまん)を破(やぶつ)て無作(むさ)の大善に令帰なり。吾朝(わがてう)の古(いにしへ)、聖武(しやうむ)天皇(てんわう)東大寺(とうだいじ)を造立(ざうりふ)せられ、金銅(こんどう)十六丈(じふろくぢやう)の廬舎那仏(るしやなぶつ)を安置(あんぢ)して、供養を被遂しに、行基(ぎやうぎ)菩薩(ぼさつ)を導師に請(しやう)じ給ふ。
行基(ぎやうぎ)勅使に向(むかつ)て申させ給(たまひ)けるは、「倫命(りんめい)重(おもう)して辞(じ)するに言(ことば)なしといへ共(ども)、如此の御願(ごぐわん)は、只冥顕(みやうけん)の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花(かうげ)を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧(ぼんそう)を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計(はから)ひ申されける。天子を始進(はじめまゐら)せて諸卿悉(ことごとく)世既(すでに)及澆季、如何(いかん)してか百万里の波涛(はたう)を隔(へだて)たる天竺より、俄(にはか)に導師来(きたつ)て供養をば可被遂と大(おほき)に疑(うたがひ)をなしながら、行基(ぎやうぎ)の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄(いふまで)に、導師をば未被定。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)ける朝(あさ)、行基(ぎやうぎ)自(みづから)摂津国(つのくに)難波(なんば)の浦に出(いで)給ひ、西に向(むかつ)て香花(かうげ)を供(くう)じ、坐具(ざぐ)を延(のべ)て礼拝(らいはい)し給ふに、五色の雲天に聳(そびえ)て、一葉(いちえふ)の舟浪に浮(うかん)で、天竺の婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)忽然(こつぜん)として来(きたり)給ふ。
諸天蓋(かい)を捧(ささげ)て、御津(みつ)の浜松、自(みづから)雪に傾(かたぶく)歟(か)と驚き、異香(いきやう)衣(い)を染(そめ)て、難波津(なにはつ)の梅(むめ)忽(たちまち)に春を得たるかと怪(あや)しまる。一時の奇特(きどく)こゝに呈(あらは)れて、万人の信仰(しんがう)不斜(なのめならず)。行基菩薩(ぼさつ)則(すなはち)婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)の御手(おんて)を引(ひい)て、伽毘羅会(かびらゑ)に共に契(ちぎり)しかい有(あり)て文殊(もんじゆ)の御貌(みかほ)相(あひ)みつる哉(かな)と一首(いつしゆ)の謌(うた)を詠(えい)じ給へば、婆羅門僧正(そうじやう)、霊山(りやうぜん)の釈迦の御許(みもと)に契(ちぎり)てし真如(しんによ)朽(くち)せず相(あひ)みつる哉(かな)と読(よみ)給ふ。
供養の儀則(ぎそく)は、中々(なかなか)言(ことば)を尽(つく)すに不遑。天花(てんげ)風に繽紛(ひんぷん)として梵音(ぼんおん)雲に悠揚(いうやう)す。上古(しやうこ)にも末代にも難有かりし供養也(なり)。仏閣供養の有様は、尤(もつとも)如此こそ有(ある)べきに、此の天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事に就(つい)て、山門強(あながち)に致嗷訴、遂(つひ)に勅会(ちよくゑ)の儀を申止(まうしや)めつる事非直事、如何様(いかさま)真俗共(とも)に慢(けうまん)の心あるに依(よつ)て、天魔波旬(はじゆん)の伺ふ処あるにやと、人皆是(これ)を怪(あやし)みけるが、果して此(この)寺二十(にじふ)余年(よねん)の中に、二度(にど)まで焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。  
三宅(みやけ)・荻野(をぎの)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)壬生地蔵(みぶぢざうの)事(こと)
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)三宅(みやけ)三郎高徳(たかのり)は、新田(につた)刑部卿義助(よしすけ)に属(しよく)して伊予(いよの)国(くに)へ越(こえ)たりけるが、義助死去の後、備前(びぜんの)国(くに)へ立帰(たちかへ)り児島に隠れ居て、猶(なほ)も本意を達せん為に、上野(かうづけの)国(くに)に坐(おはし)ける新田左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を喚(よび)奉り、是(これ)を大将にて旗を挙(あげ)んとぞ企(くはたて)ける。此比(このころ)又丹波(たんばの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)、将軍を奉恨事有(あり)と聞へければ、高徳(たかのり)潜(ひそか)に使者を通(つう)じて触送(ふれおく)るに、朝忠(ともただ)悦(よろこん)で許諾(きよだく)す。両国已(すで)に日を定(さだめ)て打立(うちたた)んとしける処に、事忽(たちまち)に漏聞(もれきこ)へて、丹波へは山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、高山寺(かうせんじ)の麓四方(しはう)二三里を屏(へい)にぬり篭(こめ)て食攻(じきせめ)にしける間、朝忠終(つひ)に戦屈(たたかひくつ)して降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)にけり。
児島へは備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の守護(しゆご)、五千(ごせん)余騎(よき)にて寄(よせ)ける間、高徳(たかのり)爰(ここ)にては本意を遂(とぐ)る程の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、大将義治を引具(ひきぐ)し、海上より京へ上(のぼつ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高(かう)・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧(たくみ)ける。「勢(せい)少(すくな)くては叶(かなふ)まじ、廻文(くわいぶん)を遣(つかは)して同意の勢を集(あつめ)よ。」とて、諸国へ此(この)由を触遣(ふれつかは)すに、此彼(ここかしこ)に身を側(そば)め形(かたち)を替(かへ)て隠れ居たる宮方(みやがた)の兵千(せん)余人(よにん)、夜を日に継(つい)でぞ馳(はせ)参りける。此勢(このせい)一所に集(あつま)らば、人に怪(あや)しめらるべしとて、二百(にひやく)余騎(よき)をば大将義治(よしはる)に付奉(つけたてまつ)て、東坂本(ひがしさかもと)に隠(かく)し置き、三百(さんびやく)余騎(よき)をば宇治・醍醐・真木(まき)・葛葉(くずは)に宿(やど)し置き、勝(すぐ)れたる兵三百人(さんびやくにん)をば京白河に打散(うちちら)し、態(わざ)と一所(いつしよ)には不置けり。
已(すで)に明夜(みやうや)木幡峠(こはたたうげ)に打寄(うちよせ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高・上杉が館(たち)へ、四手に分(わけ)て夜討に可寄と、相図(あひづ)を定(さだめ)たりける前の日、如何(いかが)して聞(きこ)へたりけん、時の所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道二百(にひやく)余騎(よき)にて夜討の手引(てびき)せんとて、究竟(くつきやう)の忍び共(ども)が隠れ居たる四条(しでう)壬生(みぶ)の宿(やど)へ未明(びめい)に押寄(おしよす)る。楯篭(たてごも)る所の兵共(つはものども)、元来死生(ししやう)不知の者共(ものども)なりければ、家の上へ走(わし)り上(あが)り、矢種(やだね)のある程射尽(いつく)して後、皆腹掻破(かきやぶつ)て死(し)にけり。是(これ)を聞(きい)て、処々(しよしよ)に隠(かくれ)居たる与党(よたう)の謀反人共(むほんにんども)も皆散々(ちりぢり)に成(なり)ければ、高徳が支度(したく)相違(さうゐ)して、大将義治相共(あひとも)に、信濃(しなのの)国(くに)へぞ落行(おちゆき)ける。
さても此(この)日(ひ)壬生(みぶ)の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討(うた)れける中に、武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、香勾(かうわ)新左衛門(しんざゑもん)高遠(たかとほ)と云(いひ)ける者只一人、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の命に替らせ給ひけるに依(よつ)て、死を遁(のが)れけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。所司代(しよしだい)の勢已(すで)に未明(びめい)に四方(しはう)より押寄(おしよせ)て、十重二十重(とへはたへ)に取巻(とりまき)ける時、此(この)高遠只一人敵の中を打破(うちやぶつ)て、壬生(みぶ)の地蔵堂の中へぞ走入(わしりいつ)たりける。何方(いづかた)にか隠(かくれ)ましと彼方此方(かなたこなた)を見る処に、寺僧(じそう)かと覚(おぼ)しき法師一人、堂の中より出(いで)たりけるが、此(この)高遠を打(うち)見て、「左様(さやう)の御姿(おんすがた)にては叶(かなふ)まじく候。此念珠(このねんじゆ)に其(その)太刀を取代(とりかへ)て、持(もた)せ給へ。」と云(いひ)ける間、げにもと思ひて、此(この)法師の云侭(いふまま)にぞ随(したがひ)ける。
斯(かか)りける処に寄手共(よせてども)四五十人(しごじふにん)堂の大庭へ走入(わしりいつ)て、門々をさして無残処ぞ捜(さが)しける。高遠は長念珠(ながねんじゆ)を爪繰(つまぐり)て、「以大神通方便力(いだいじんづうはうべんりき)、勿令堕在諸悪趣(もつりやうだざいしよあくしゆ)。」と、高らかに啓白(けいびやく)してぞ居たりける。寄手(よせて)の兵共(つはものども)皆見之、誠(まこと)に参詣の人とや思(おもひ)けん、敢(あへ)て怪(あやし)め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井(てんじやう)の上まで打破(うちやぶつ)て探(さが)せと許(ばかり)ぞ罵(ののし)りける。爰(ここ)に只今物切(ものきり)たりと覚(おぼ)しくて、鉾(きつさき)に血の著(つき)たる太刀を、袖の下に引側(ひきそば)めて持(もつ)たる法師、堂の傍(かたはら)に立(たち)たるを見付(みつけ)て、「すはや此(ここ)にこそ落人(おちうと)は有(あり)けれ。」とて、抱手(だきて)三人(さんにん)走寄(わしりよつ)て、中(ちゆう)に挙(あげ)打倒(うちたふ)し、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て、侍所(さぶらひところ)へ渡せば、所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道是(これ)を請取(うけとつ)て、詰篭(つめろう)の中にぞ入(いれ)たりける。
翌日(つぎのひ)一日有(あつ)て、守手(まもりて)目も不放、篭(ろう)の戸も不開して、此召人(このめしうと)くれに失(うせ)にけり。預人(あづかりうど)怪(あやし)み驚(おどろき)て其迹(そのあと)を見るに、馨香(けいきやう)座に留(とどま)りて恰(あたか)も牛頭旃檀(ごづせんだん)の薫(にほひ)の如し。是(これ)のみならず、「此召人(このめしうと)を搦捕(からめとり)し者共(ものども)の左右(さうの)手、鎧の袖草摺(くさずり)まで異香(いきやう)に染(そみ)て、其(その)匂(にほひ)曾(かつ)て不失。」と申合(まうしあひ)ける間、さては如何様(いかさま)非直事とて、壬生(みぶ)の地蔵堂の御戸(みと)を開かせて、本尊を奉見、忝(かたじけなく)も六道能化(りくだうのうげ)の地蔵薩(さつた)の御身(おんみ)、所々為刑鞭黒(つしみくろみて)、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)し其縄(そのなは)、未(いまだ)御衣の上に著(つき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。是(これ)を誡(いまし)め奉りぬる者共(ものども)三人(さんにん)、発露涕泣(はつろていきふ)して、罪障(ざいしやう)を懺悔(さんげ)するに猶(な)を不堪、忽(たちまち)に本鳥(もとどり)切(きつ)て入道し、発心修行(ほつしんしゆぎやう)の身と成(なり)にけり。彼(かれ)は依順縁今生(こんじやう)に助命、是(これ)は依逆縁来生(らいしやう)の得値遇事誠(まこと)に如来附属(によらいふぞく)の金言(きんげん)不相違、今世後世(こんぜごせ)能(よく)引導(いんだうす)、頼(たのも)しかりける悲願也(なり)。  
 
太平記 巻第二十五 

 

持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御即位(ごそくゐの)事(こと)付(つけたり)仙洞(せんとう)妖怪(えうくわいの)事(こと)
貞和(ぢやうわ)四年十月二十七日(にじふしちにち)、後伏見(ごふしみの)院(ゐんの)御孫(おんまご)御年十六(じふろく)にて御譲(おんゆづり)を受(うけ)させ給(たまひ)て、同日内裏(だいり)にて御元服(みげんぶく)あり。剣璽(けんし)を被渡て後、同二十八日(にじふはちにち)に、萩原(はぎはらの)法皇の第一(だいいち)の御子(みこ)、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給ふ。御歳十三にぞ成(なら)せ給ひける。卜部宿禰兼前(うらべのしくねかねさき)、軒廊(こんらう)の御占(みうら)を奉り、国郡(こくぐん)を卜定有(ぼくぢやうあつ)て、抜穂(ぬきぼ)の使を丹波(たんばの)国(くに)へ下さる。其(その)十月に行事所(ぎやうじところ)始め有(あつ)て、已(すで)に斉庁場所(さいちやうぢやうしよ)を作らむとしける時、院の御所(ごしよ)に、一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。二三歳許(ばかり)なる童部(わらんべ)の頭(かしら)を、斑(まだら)なる犬が噛(くはへ)て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。
平明(へいめい)に御隔子進(みかうしまゐら)せける御所侍(ごしよさぶらひ)、箒(はうき)を以て是(これ)を打(うた)むとするに、此(この)犬孫廂(まごびさし)の方より御殿の棟木(むなぎ)に上(のぼつ)て、西に向ひ三声(みこゑ)吠(ほえ)てかき消様(けすよう)に失(うせ)にけり。加様(かやう)の夭怪(えうくわい)、触穢(しよくゑ)に可成、今年の大甞会(だいじやうゑ)を可被停止、且(かつう)は先例を引(ひき)、且(かつう)は法令に任(まかせ)て可勘申、法家(ほふけ)の輩(ともがら)に被尋下。皆、「一年の触穢(しよくゑ)にて候べし。」と勘申(かんがへまうし)ける中に、前(さき)の大判事(だいはんじ)明清(あききよ)が勘状(かんじやう)に、法令の文(ぶん)を引(ひい)て云(いはく)、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜(よろしく)在叡慮。」とぞ勘申(かんがへまうし)たりける。爰(ここ)に神祇大副(しんぎのたいふ)卜部宿禰兼豊(うらべのしくねかねとよ)一人、大(おほき)に忿(いかつ)て申(まうし)けるは、「如法意勘進(かんしん)して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡(およそ)一陽(いちやう)分(わか)れて後、清濁汚穢(せいだくわゑ)を忌慎(いみつつし)む事、故(ことさ)ら是(これ)神道の所重也(なり)。而(しか)るを無触穢儀、大礼(たいれい)の神事無為(ぶゐに)被行、一流(ひとながれ)の神書(しんしよ)を火に入(いれ)て、出家遁世(しゆつけとんせい)の身と可罷成。」と無所憚申(まうし)ける。
若殿上人(わかてんじやうびと)など是(これ)を聞(きき)て、「余(あま)りに厳重なる申言(まうしこと)哉(かな)、少々は存(ぞんず)る処有(あり)とも残せかし。四海(しかい)若(もし)無事にして、一事(いちじ)の無違乱大甞会(だいじやうゑ)を被行ば、兼豊(かねとよ)が髻(もとどり)は不便(ふびん)の事哉(かな)。」とぞ被笑ける。され共(ども)主上(しゆしやう)も上皇も、此明清(このあききよ)が勘文(かんもん)御心(おんこころ)に叶ひてげにもと被思召ければ、今年(ことし)大甞会(だいじやうゑ)を可被行とて武家へ院宣(ゐんぜん)を被成下。武家是(これ)を施行(しかう)して、国々へ大甞会米(だいじやうゑまい)を宛課(あておほ)せて、不日(ふじつ)に責(せめ)はたる。近年は天下(てんが)の兵乱打続(うちつづい)て、国弊(つひえ)民苦(くるし)める処に、君の御位恒(つね)に替(かはつ)て、大礼(たいれい)止時(やむとき)無(なか)りしかば、人の歎(なげき)のみ有(あつ)て、聊(いささか)も是(これ)こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒(ことさわ)がしの大甞会(だいじやうゑ)や、今年(ことし)は無(なく)ても有(あり)なんと、世皆脣(くちびる)を翻(ひるがへ)せり。  
宮方(みやかたの)怨霊(をんりやう)会六本杉事(こと)付(つけたり)医師(いし)評定(ひやうぢやうの)事(こと)
仙洞(せんとう)の夭怪(えうくわい)をこそ、希代(きたい)の事と聞(きく)処に、又仁和寺(にんわじ)に一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立(ゆふだち)に逢(あひ)て可立寄方も無(なか)りければ、仁和寺(にんわじ)の六本杉の木陰(こかげ)にて、雨の晴間(はれま)を待(まち)居たりけるが、角(かく)て日已(すで)に暮(くれ)にければ行前(ゆくさき)恐(おそろ)しくて、よしさらば、今夜は御堂(みだう)の傍(かたはら)にても明(あか)せかしと思(おもひ)て、本堂の縁(えん)に寄居(よりゐ)つゝ、閑(しづか)に念誦(ねんじゆ)して心を澄(すま)したる処に、夜(よ)痛く深(ふけ)て月清明(せいめい)たるに見れば、愛宕(あたご)の山比叡の岳(だけ)の方より、四方輿(しはうごし)に乗(のり)たる者、虚空(こくう)より来集(きつどひ)て、此(この)六本杉の梢にぞ並居(なみゐ)たる。
座定(さだまつ)て後、虚空に引(ひき)たる幔(まん)を、風の颯(さつ)と吹上(ふきあげ)たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚(ごぐわいせき)、峯(みね)の僧正(そうじやう)春雅(しゆんが)、香(かう)の衣(ころも)に袈裟(けさ)かけて、眼は如日月光り渡り、觜(くちばし)長(ながう)して鳶(とび)の如(ごと)くなるが、水精(すゐしやう)の珠数(じゆず)爪操(つまぐり)て坐し給へり。其(その)次に南都の智教(ちけう)上人、浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正(そうじやう)、左右に著座(ちやくざ)し給へり。皆古(いにし)へ見奉(たてまつり)し形にては有(あり)ながら、眼の光(ひかり)尋常(よのつね)に替(かはつ)て左右の脇より長翅(ながきつばさ)生出(おひいで)たり。往来の僧是(これ)を見て、怪(あや)しや我(われ)天狗道(てんぐだう)に落(おち)ぬるか、将(はた)天狗(てんぐ)の我(わが)眼に遮(さへぎ)るかはと、肝心(きもたましひ)も身にそはで、目もはなたず守(まも)り居たる程に又空中より五緒(いつつを)の車の鮮(あざやか)なるに乗(のつ)て来(きた)る客(きやく)あり。
榻(しぢ)を践(ふん)で下(おるる)を見れば、兵部卿(ひやうぶきやうの)親王(しんわう)の未(いまだ)法体(ほつたい)にて御座(ござ)有(あり)し御貌(おんかたち)也(なり)。先に座(ざ)して待(まち)奉る天狗共(てんぐども)、皆席を去(さつ)て蹲踞(そんこ)す。暫(しばらく)有(あつ)て坊官かと覚(おぼ)しき者一人、銀の銚子(てうし)に金の盃(さかづき)を取副(とりそへ)て御酌(おんしやく)に立(たち)たり。大塔宮(おほたふのみや)御盃を召(めさ)れて、左右に屹(きつ)と礼有(あつ)て、三度(さんど)聞召(きこしめし)て閣(さしおか)せ給へば、峯(みねの)僧正(そうじやう)以下(いげ)の人人次第に飲流(のみなが)して、さしも興(きよう)ある気色(けしき)もなし。良(やや)遥(はるか)に有(あつ)て、同時にわつと喚(をめ)く声しけるが、手を挙(あげ)て足を引(ひき)かゝめ、頭(かしら)より黒烟(くろけぶり)燃出(もえいで)て、悶絶地(もんぜつびやくぢ)する事半時許(ばかり)有(あつ)て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦(こが)れ死(じに)にこそ死(しにに)けれ。
穴(あな)恐しや、是(これ)なめり、天狗(てんぐ)道の苦患(くげん)に、熱鉄(ねつてつ)のまろかしを日に三度(さんど)呑(のむ)なる事はと思(おもひ)て見(み)居たれば、二時計(ふたときばかり)有(あつ)て、皆生出(いきいで)給へり。爰(ここ)に峯(みねの)僧正(そうじやう)春雅(しゆんが)苦(くる)し気(げ)なる息をついて、「さても此(この)世中(よのなか)を如何(いかが)して又騒動せさすべき。」と宣(のたま)へば、忠円僧正(そうじやう)末座より進出(すすみいで)て、「其(それ)こそ最(いと)安き事にて候へ。先(まづ)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)は他犯戒(たぼんかい)を持(たもつ)て候間、俗人に於ては我(われ)程禁戒(きんかい)を犯(をか)さぬ者なしと思ふ我慢心(がまんしん)深く候。
是(これ)を我等(われら)が依(よる)所なる大塔宮(おほたふのみや)、直義が内室(ないしつ)の腹に、男子と成(なつ)て生(うま)れさせ給ひ候べし。又夢窓(むさう)の法眷(ほつけん)に妙吉侍者(めうきつじしや)と云(いふ)僧あり。道行(だうぎやう)共(ども)に不足して、我(われ)程の学解(がくげ)の人なしと思へり。此(この)慢心我等(われら)が伺(うかがふ)処にて候へば、峯の僧正(そうじやう)御房(ごばう)其(その)心に入替(いりかは)り給(たまひ)て、政道を輔佐(ふさ)し邪法を説破(せつは)させ給(たまふ)べし。智教上人は上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山(はたけやま)大蔵(おほくらの)少輔(せう)が心に依託(えたく)して、師直・師泰を失(うしな)はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守(むさしのかみ)・越後(ゑちごの)守(かみ)が心に入替(いりかはつ)て、上杉畠山を亡(ほろ)ぼし候べし。依之(これによつて)直義兄弟の中悪(なかあし)く成り、師直主従(しうじゆう)の礼に背(そむ)かば、天下(てんが)に又大(おほき)なる合戦出来(いでき)て、暫く見物は絶(たえ)候はじ。」と申せば、大塔宮(おほたふのみや)を始進(はじめまゐら)せて、我慢(がまん)・邪慢(じやまん)の小天狗共(こてんぐども)に至るまで、「いしくも計(はから)ひ申(まうし)たる哉(かな)。」と、一同に皆入興(じゆきよう)して幻(うつつ)の如(ごとく)に成(なり)にけり。
夜(よ)明(あけ)ければ、往来の僧京に出(いで)、施薬院師(せやくゐんし)嗣成(つぐなり)に、此(この)事をこそ語りたりけれ。四五日有(あつ)て後(のち)、足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の北方(きたのかた)、相労(あひいたは)る事有(あつ)て、和気(わけ)・丹波の両流の博士(はかせ)、本道・外科(ぐくわ)一代の名医数十人(すじふにん)被招請て脈を取(とら)せらるゝに、或(あるひ)は、「御労(おんいたは)り風より起(おこつ)て候へば、風を治(ぢ)する薬には、牛黄金虎丹(ごわうきんこたん)・辰沙天麻円(しんしやてんまゑん)を合(あは)せて御療治候べし。」と申す。
或(あるひ)は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収(をさむ)る薬には、兪山人降気湯(ゆさんじんががうきたう)・神仙沈麝円(しんせんちんじやゑん)を合(あは)せてまいり候べし。」と申(まうす)。或(あるひ)は、「此御労(このおんいたはり)は腹の御病(おんやまひ)にて候へば、腹病(ふくびやう)を治(ぢ)〔す〕る薬には、金鎖正元丹(きんさしやうげんたん)・秘伝玉鎖円(ひでんぎよくさゑん)を合(あはせ)て御療治(おんれうぢ)候べし。」とぞ申(まうし)ける。斯(かか)る処に、施薬院師(せやくゐんし)嗣成(つぐなり)少(すこ)し遅参(ちさん)して、脈を取進(とりまゐら)せけるが、何(いか)なる病(やまひ)とも不弁。病(やまひ)多しといへ共(ども)束(つかね)て四種を不出。雖然泯散(びんさん)の中に於て致料簡をけれ共(ども)、更に何(いづ)れの病(やまひ)共(とも)不見、心中に不審を成(なす)処に、天狗共(てんぐども)の仁和寺(にんわじ)の六本杉にて評定しける事を屹(きつ)と思出(おもひだ)して、「是(これ)御懐姙(ごくわいにん)の御脈(おんみやく)にて候(さふらひ)ける。
しかも男子にて御渡(おんわたり)候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞(きき)ける者共(ものども)、「あら悪(にく)の嗣成が追従(つゐしよう)や、女房の四十に余(あまつ)て始(はじめ)て懐姙(くわいにん)する事や可有。」口を噤(つく)めぬ者は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に月日重(かさなり)、誠(まこと)に只ならず成(なり)にければ、そゞろなる御労(おんいたは)りとて、大薬を合(あは)せし医師(いし)は皆面目(めんぼく)を失(うしなひ)て、嗣成一人所領を給(たまは)り、俸禄に預(あづか)るのみならず、軈(やが)て典薬頭(てんやくのかみ)にぞ申成(まうしな)されける。
猶(なほ)懐姙誠(まこと)しからず、月比(つきころ)にならば、何(いか)なる人の産(うみ)たらむ子を、是(これ)こそよとて懐(いだ)き冊(かしづ)かれむずらんとて、偏執(へんしふ)の族(やから)は申(まうし)合ひける処に、六月八日の朝、生産(せいざん)容易(たやすく)して、而(しか)も男子にてぞ坐(おは)しける。蓬矢(よもぎのや)の慶賀(けいが)天下(てんが)に聞(きこ)へしかば、源家の御一族(ごいちぞく)、其門葉(そのもんえふ)、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双(なら)べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻(はらまき)・太刀・々・馬・車・綾羅(りようら)・金銀(きんぎん)、我(われ)人にまさらんと、引出物(ひきでもの)を先立(さきだて)て、賀し申されける間、賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)し、僧俗門に立列(たちつらな)る。後の禍(わざはひ)をば未知(いまだしらず)、「哀(あつばれ)大果報(だいくわはう)の少(をさな)き人や。」と、云はぬ者こそ無(なか)りけれ。  
藤井寺合戦(ふぢゐでらかつせんの)事(こと)
楠帯刀(たてはき)正行(まさつら)は、父正成(まさしげ)が先年湊川へ下(くだ)りし時、「思様(おもふやう)あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝(なんぢ)は河内へ帰(かへつ)て、君の何(いか)にも成(なら)せ給はんずる御様(おんさま)を、見はて進(まゐら)せよ。」と申含(まうしふく)めしかば、其庭訓(そのていきん)を不忘、此(この)十(じふ)余年(よねん)我(わが)身の長(ひととなる)を待(まち)、討死せし郎従共(らうじゆうども)の子孫を扶持(ふち)して、何(いか)にも父の敵を滅(ほろぼ)し君の御憤(おんいきどほり)を休(やす)め奉らんと、明暮(あけくれ)肺肝(はいかん)を苦(くる)しめて思ひける。
光陰過安(すぎやす)ければ、年積(つもつ)て正行(まさつら)已(すで)に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌(ゑんき)に当(あた)りしかば、供仏施僧(くぶつせそう)の作善(さぜん)如所存致して、今は命惜(をし)とも不思ければ、其(その)勢五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)し、時々住吉(すみよし)天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打出(うちいで)々々(うちいで)、中島(なかじま)の在家少々焼払(やきはらつ)て、京勢(きやうぜい)や懸(かか)ると待(まち)たりける。将軍是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「楠が勢(せい)の分際(ぶんざい)思ふにさこそ有(あ)らめ。是(これ)に辺境(へんきやう)を侵奪(をかしうばは)れて、洛中(らくちゆう)驚き騒ぐこと、天下(てんがの)嘲哢(てうろう)武将の恥辱也(なり)。急ぎ馳向(はせむかつ)て退治(たいぢ)せよ。」とて、細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)を大将にて、宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)六角判官・長(ちやうの)左衛門・松田次郎左衛門(じらうざゑもん)・赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・舎弟(しやてい)筑前(ちくぜんの)守(かみ)範貞(のりさだ)・村田・奈良崎・坂西(ばんぜい)・坂東(ばんどう)・菅家(くわんけの)一族共(いちぞくども)、都合三千(さんぜん)余騎(よき)、河内(かはちの)国(くに)へ差下(さしくだ)さる。
此(この)勢八月十四日の午剋(むまのこく)に、藤井寺にぞ著(つい)たりける。此(この)陣より楠が館(たち)へは七里(しちり)を隔(へだて)たれば、縦(たと)ひ急々に寄する共(とも)、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢(きやうぜい)由断(ゆだん)して或(あるひ)は物具(もののぐ)を解(とき)て休息し、或(あるひ)は馬鞍(むまのくら)をおろして休める処に、誉田(こんだ)の八幡宮の後(うし)ろなる山陰(やまかげ)に、菊水の旗一流(ひとながれ)ほの見(み)へて、ひた甲(かぶと)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)、閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませて打寄(うちよ)せたり。
「すはや敵の寄(よせ)たるは。馬に鞍をけ物具(もののぐ)せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前(まつさき)に進(すすん)で、喚(をめい)て懸入(かけい)る。大将細川陸奥(むつの)守(かみ)よろいをば肩に懸(かけ)たれ共(ども)未(いまだ)上帯(うはおび)をもしめ得ず、太刀を帯(はく)べき隙(ひま)もなく見へ給(たまひ)ける間、村田の一族(いちぞく)六騎小具足計(こぐそくばかり)にて、誰(た)が馬ともなくひた/\と打乗(うちのつ)て、如雲霞群りて磬(ひか)へたる敵の中へ懸入(かけいつ)て、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。
され共(ども)つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族(いちぞく)六騎は一所(いつしよ)にて討(うた)れにけり。其(その)間に大将も物具(もののぐ)堅(かた)め、馬に打乗(うちのつ)て、相順(あひしたが)ふ兵百(ひやく)余騎(よき)しばし支(ささへ)て戦ふたり。敵は小勢(こぜい)也(なり)。御方(みかた)は大勢(おほぜい)也(なり)。縦(たとひ)進(すすん)で懸合(かけあは)するまではなく共、引退(ひきしりぞ)く兵だに無(なか)りせば、此軍(このいくさ)に京勢(きやうぜい)惣(すべ)て負(まく)まじかりけるを、四国中国より駈集(かりあつめ)たる葉武者(はむしや)、前に支(ささ)へて戦へば、後(うし)ろには捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、無力大将も猛卒も同様(おなじやう)にぞ落行(おちゆき)ける 。
勝(かつ)に乗(のつ)て時(とき)を作懸(つくりかけ)々々(つくりかけ)追(おひ)ける間、大将已(すで)に天王寺(てんわうじ)渡部(わたなべ)の辺(へん)にては危(あやふ)く見へけるを、六角判官舎弟(しやてい)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、返合(かへしあはせ)て討(うた)れにけり。又赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・舎弟(しやてい)筑前(ちくぜんの)守(かみ)三百(さんびやく)余騎(よき)命を名に替(かへ)て討死せんと、取(とつ)ては返(かへ)し/\、七八度(しちはちど)まで蹈留(ふみとどまつ)て戦(たたかひ)けるに、奈良崎も主従三騎討(うた)れぬ。粟生田(あふた)小太郎も馬を射られて討(うた)れにけり。此等(これら)に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危(あやふ)き命を助(たすかつ)て、皆京へぞ返(かへ)り上(のぼ)りにける。  
自伊勢進宝剣事(こと)付(つけたり)黄粱(くわうりやう)夢(ゆめの)事(こと)
今年(ことし)、古(いにしへ)安徳(あんとく)天皇(てんわう)の壇(だん)の浦にて海底に沈(しづ)めさせ給(たまひ)し宝剣出来(いできた)れりとて、伊勢(いせの)国(くに)より進奏(しんそう)す。其(その)子細を能々(よくよく)尋ぬれば、伊勢(いせの)国(くに)の国崎神戸(くさきかんべ)に、下野(しもつけの)阿闍梨(あじやり)円成(ゑんじやう)と云(いふ)山法師(やまほふし)あり。大神宮へ千日参詣の志有(あり)ける間、毎日に潮(うしほ)を垢離(こり)にかいて、隔夜(かくや)詣(まうで)をしけるが、已(すでに)千日に満(まんじ)ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行(ゆき)て遥(はるか)の澳(おき)を見るに、一(ひとつ)の光物(ひかりもの)あり。怪(あやし)く思(おもひ)て、釣(つり)する海人(あま)に、「あれは何物(なにもの)の光りたるぞ。」と問(とひ)ければ、「いさとよ何とは不知候。
此(この)二三日が間毎夜(まいよ)此光物(このひかりもの)浪の上に浮(うかん)で、彼方此方(かなたこなた)へ流(ながれ)ありき候間、船を漕(こぎ)寄せて取らんとし候へば、打失(うちうせ)候也(なり)。」とぞ答へける。かれを聞(きく)に弥(いよいよ)不思議(ふしぎ)に思(おもひ)て、目も不放是(これ)を守(まもり)て、遠渚(とほきなぎさの)海づらを遥々(はるばる)と歩行(あゆみゆく)処に、此(この)光物次第に礒へ寄(よつ)て、円成(ゑんじやう)が歩(あゆ)むに随(したがひ)てぞ流(ながれ)て来(きたり)ける。さては子細有(あり)と思(おもひ)て立留(たちとまり)たれば、光物些(ちと)少(ちいさ)く成(なつ)て、円成(ゑんじやう)が足許(もと)に来(きた)れり。懼(おそろ)しながら立寄(たちよつ)て取上(とりあげ)たれば、金にも非(あら)ず石にも非(あらざ)る物(もの)の、三鈷柄(さんこえ)の剣(けん)なんどのなりにて、長さ二尺(にしやく)五六寸(ごろくすん)なる物にてぞ有(あり)ける。
是(これ)は明月(めいげつ)に当(あたつ)て光を含(ふくむ)なる犀(さい)の角(つの)か、不然海底に生(おふ)るなる珊瑚樹(さんごじゆ)の枝かなんど思(おもひ)て、手に提(ひつさげ)て大神宮へ参(まゐり)たりける。爰(ここ)に年十二三許(ばかり)なる童部(わらんべ)一人、俄(にはか)に物に狂(くるひ)て四五丈飛上(とびあがり)々々(とびあがり)けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云(いふ)歌を高らかに詠じける間、社人村老(そんらう)数百人(すひやくにん)集(あつまり)て、「何(いか)なる神の託(たく)させ給ひたるぞ。」と問(とふ)に、物付(つ)き口走申(くちばしりまうし)けるは、「神代(かみよ)より伝(つたへ)て我(わが)国(くに)に三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)あり。縦(たと)ひ継体(けいたい)の天子、位を継(つが)せ給ふといへ共(ども)、此三(このみつ)の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是(これ)を見ずや、承久(しようきう)以後代々(だいだい)の王位軽(かろ)くして、武家の為に威を失(うしなは)せ給へる事、偏(ひとへ)に宝剣の君の御守(おんまもり)と成(なら)せ給はで海底に沈(しづ)める故(ゆゑ)也(なり)。
剰(あまつさ)へ今内侍所(ないしところ)・璽(しるし)の御箱(みはこ)さへ外都の塵に埋(うづも)れて、登極(とうきよくの)天子空(むなし)く九五(きうご)の位(くらゐ)に臨ませ給へり。依之(これによつて)四海(しかい)弥(いよいよ)乱(みだれ)て一天(いつてん)未静(いまだしづかならず)。爰(ここ)に百王鎮護(ちんご)の崇廟(そうべう)の神(かみ)、竜宮に神勅を被下て、元暦(げんりやく)の古(いにし)へ海底に沈(しづみ)し宝剣を被召出たる者也(なり)。すは爰(ここ)に立(たち)て我を見るあの法師の手に持(もち)たるぞ。便宜(びんぎ)の伝奏(てんそう)に属(つけ)て此(この)宝剣を内裏(だいり)へ進(まゐ)らすべし。云処(いふところ)不審あらば是(これ)を見よ。」とて、円成(ゑんじやう)に走懸(はしりかかつ)て、手に持(もち)たる光物を取(とつ)て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入(しにいり)たる体(てい)に見へて、物(もの)の気(け)は則(すなはち)去(さり)にけり。
神託不審あるべきに非(あらざ)れば、斎所(さいしよ)を始として、見及(およぶ)処の神人等(じんにんら)連署(れんしよ)の起請(きしやう)を書(かい)て、円成に与ふ。円成是(これ)を錦(にしき)の袋に入(いれ)て懸頚、任託宣先(まづ)南都(なんと)へぞ赴きける。春日(かすが)の社(やしろ)に七日参篭(さんろう)して有(あり)けるが、是(これ)こそ事の可顕端(はし)よと思ふ験(しるし)も無(なか)りければ、又初瀬(はつせ)へ参(まゐり)て、三日断食(だんじき)をして篭(こも)りたるに、京家(きやうけ)の人よと覚(おぼ)しくて、拝殿の脇に通夜(つや)したる人の有(あり)けるが、円成を呼寄(よびよせ)て、「今夜の夢に伊勢の国より参(まゐつ)て、此(この)三日断食(だんじき)したる法師の申さんずる事を、伝奏(てんそう)に挙達(きよたつ)せよと云(いふ)示現(じげん)を蒙(かうむつ)て候。御辺(ごへん)は若(もし)伊勢(いせの)国(くに)よりや被参て候。」とぞ問(とひ)ける。
円成うれしく思(おもひ)て、始(はじめ)よりの有様を委細(ゐさい)に語りければ、「我こそ日野(ひのの)大納言殿(だいなごんどの)の所縁(しよえん)にて候へ。此(この)人に属(つけ)て被経奏聞候はん事、最(いと)安かるべきにて候。」とて、軈(やが)て円成を同道し京に上(のぼつ)て、日野(ひのの)前(さきの)大納言(だいなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)に属(つい)て、宝剣と斎所(さいしよ)が起請(きしやう)とをぞ出(いだし)たりける。資明(すけあきらの)卿(きやう)事の様を能々(よくよく)聞給(ききたまひ)て、「誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の神託(しんたく)也(なり)。但(ただし)加様(かやう)の事には、何(いか)にも横句謀計(わうくぼうけい)有(あつ)て、伝奏(てんそう)の短才、人の嘲哢(てうろう)となす事多ければ、能々事の実否(じつぶ)を尋聞(たづねきき)て、諸卿げにもと信(しん)を取(とる)程の事あらば可奏聞。何様(いかさま)天下静謐(せいひつ)の奇瑞なれば引出物(ひきでもの)せよ。」とて、銀剣(ぎんけん)三振(みふり)・被物(きもの)十重(とかさね)、円成にたびて、宝剣をば前栽(せんざい)に崇(あが)め給へる春日(かすが)の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何(いか)にも日本記(にほんぎ)の家に可存知事なれば、委(くはし)く尋(たづね)給はんとて、平野の社(やしろ)の神主(かんぬし)、神祇(しんぎ)の大副兼員(たいふかねかず)をぞ召(めさ)れける。
大納言、兼員に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「抑(そもそも)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)の事、家々に相伝(さうでん)し来(きた)る義逼(まちまち)也(なり)といへ共、資明(すけあきら)は未是信(いまだこれをしんぜず)。画工闘牛(ぐわこうとうぎう)の尾を誤(あやまつ)て牧童に笑(わらは)れたる事なれば、御辺(ごへん)の被申候はん義を正路(せいろ)とすべきにて候。聊以(いささかもつて)事(ことの)次(ついで)に、此(この)事存知度(ぞんちしたき)事あり。委(くはし)く宣説(せんせつ)候へ。」とぞ被仰ける。
兼員(かねかず)畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「御前(おんまへ)にて加様(かやう)の事を申(まうし)候はんは、只養由(やういう)に弓を教へ、羲之(ぎし)に筆を授(さづ)けんとするに相似て候へ共(ども)、御尋(おんたづね)ある事を申さゞらむも、又恐(おそれ)にて候へば、伝(つたは)る処の儀一事(いちじ)も不残申さんずるにて候。先(まづ)天神七代と申(まうす)は、第一(だいいち)国常立尊(くにとこたちのみこと)、第二(だいに)国挟槌尊(くにさづちのみこと)、第三(だいさん)豊斟渟尊(とよくんぬのみこと)。此(この)時天地(あめつち)開(ひら)け始(はじめ)て空中に物あり、葦芽(あしかび)の如しといへり。其(その)後男神(をかみ)に泥土瓊(うひぢにの)尊(みこと)・大戸之道(おほとのちの)尊(みこと)・面足(おもたるの)尊(みこと)、女神(めかみ)に沙土瓊(すひぢにの)尊(みこと)・大戸間辺(おほとまべの)尊(みこと)・惶根(かしこねの)尊(みこと)。 此(この)時男女の形(かたち)有(あり)といへ共(ども)更に婚合(こんがふ)の儀なし。
其後(そののち)伊弉諾伊弉冊(いざなぎいざなみ)の男神(をかみ)女神(めかみ)の二神(ふたはしら)、天(あま)の浮橋(うきはし)の上にして、此下(このした)に豈(あに)国(くに)なからむやとて、天瓊鉾(あまのぬほこ)を差下(さしおろ)して、大海を掻捜(かきさぐ)り給ふ。其鉾(そのほこさき)の滴(しただり)、凝(こごつ)て一(ひとつ)の島となる、をのころ島是(これ)也(なり)。次に一(ひとつ)の州(くに)を産(うみ)給ふ。此州(このくに)余(あま)りに少(ちひさ)かりし故、淡路州(あはぢのくに)と名付(なづく)、吾恥(わがはぢ)の国と云(いふ)心なるべし。二神(ふたはしら)此(この)島に天降(あまくだ)り給(たまひ)て、宮造(みやつく)りせんとし給ふに、葦原生繁(おひしげつ)て所も無(なか)りしかば、此葦(このあし)を引捨(ひきすて)給ふに、葦を置(おき)たる所は山となり、引捨(ひきすて)たる跡(あと)は河と成(なる)。
二神(ふたはしら)夫婦(をつとめ)と成(なつ)て栖(すみ)給ふといへ共(ども)、未(いまだ)陰陽和合(いんやうわがふ)の道を不知給。時に鶺鴒(にはくなぶり)と云(いふ)鳥の、尾を土に敲(たたき)けるを見給(たまひ)て、始(はじめ)て嫁(とつ)ぐ事を習(ならひ)て、喜哉(あなにえや)遇可美小女焉(と)読給(よみたまふ)。是(これ)和歌の始(はじめ)なり。角(かく)て四神(ししん)を生(うみ)給ふ。日神(ひのかみ)・月(つきの)神・蛭子(ひるこ)・素盞烏尊(そさのをのみこと)是(これ)也(なり)。日(ひの)神と申(まうす)は天照太神(あまてらすおほんがみ)、是(これ)日天子(につてんし)の垂跡(すゐしやく)、月(つきの)神と申(まうす)は、月読(つきよみ)の明神(みやうじん)也(なり)。
此御形(このおんかたち)余(あま)りにうつくしく御坐(おはしまし)、人間の類(たぐひ)にあらざりしかば、二親(にしん)の御計(おんはから)ひにて天に登(のぼ)せ奉る。蛭子(ひるこ)と申(まうす)は、今の西宮(にしのみや)の大明神(だいみやうじん)にて坐(ましま)す。生(うま)れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪(かたは)に坐(おは)せしかば、いはくす船に乗(の)せて海に放(はな)ち奉る。かぞいろは何(いか)に哀(あはれ)と思ふらん三年(みとせ)に成(なり)ぬ足立(たた)ずしてと読(よめ)る歌是(これ)也(なり)。素盞烏(そさのをの)尊(みこと)は、出雲の大社(おほやしろ)にて御坐(おはしま)す。此尊(このみこと)草木を枯(から)し、禽獣の命を失ひ、諸(もろもろ)荒く坐(おは)せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或(あるひ)は天に上(のぼ)り、或(あるひ)は海に放たれ、或(あるひは)流し給(たまひ)し間、天照太神(あまてらすおほむかみ)此(この)国(くに)の主(あるじ)と成(なり)給ふ。
爰(ここ)に素盞烏(そさのをの)尊(みこと)、吾(われ)国(くに)を取らんとて軍(いくさ)を起(おこし)て、小蝿(さばへ)なす一千(いちせん)の悪神を率(そつ)して、大和(やまとの)国(くに)宇多野(うだの)に、一千(いつせん)の剣(つるぎ)を掘り立(たて)て、城郭(じやうくわく)として楯篭(たてこも)り給ふ。天照太神(あまてらすおほむかみ)是(これ)をよしなき事に思召(おぼしめし)て、八百万神達(やほよろづのかみたち)を引具して、葛城(かづらき)の天(あま)の岩戸(いはと)に閉(と)ぢ篭(こも)らせ給ひければ、六合内(くにのうち)皆常闇(とこやみ)に成(なつ)て、日月の光も見へざりけり。此(この)時に島根見尊(しまねみのみこと)是(これ)を歎(なげき)て、香久山(かぐやま)の鹿を捕(とら)へて肩の骨を抜き、合歓(はわか)の木を焼(やい)て、此(この)事可有如何と占(うら)なはせ給ふに、鏡を鋳(い)て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出(おんいで)と、占(うら)に出(いで)たり。
香久山の葉若(はわか)の下(もと)に占(うら)とけて肩抜(かたぬく)鹿は妻恋(つまごひ)なせそと読(よめ)る歌は則(すなはち)此(この)意也(なり)。さて島根見(しまねみの)尊(みこと)、一千(いちち)の神達(かみたち)を語(かたら)ひて、大和(やまとの)国(くに)天(あま)の香久山に庭火(にはび)を焼(た)き、一面の鏡を鋳(い)させ給ふ。此(この)鏡は思ふ様(やう)にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮(にちぜんぐう)の神体(しんたい)也(なり)。次に鋳(い)給ひし鏡よかるべしとて、榊(さかき)の枝に著(つけ)て、一千(いつせん)の神達(かみたち)を引(ひき)調子を調(そろ)へて、神歌(かみうた)を歌ひ給(たまひ)ければ、天照太神(あまてらすおほんがみ)是(これ)にめで給(たまひ)て、岩根手力雄尊(いはねたぢからをのみこと)に岩戸を少し開(ひら)かせて、御顔を差出(さしいだ)させ給へば、世界忽(たちまち)に明(あきらか)に成(なつ)て、鏡に移(うつ)りける御形永く消(きえ)ざりけり。此(この)鏡を名付(なづけ)て八咫(やた)の鏡とも又は内侍所(ないしところ)とも申(まうす)也(なり)。天照太神(あまてらすおほんがみ)岩戸を出(いで)させ給て、八百万(やほよろづの)神達(かみたち)を遣(つかは)し、宇多野(うだの)の城(じやう)に掘立(ほりたて)たる千の剣(つるぎ)を皆蹴破(けやぶつ)て捨(すて)給ふ。
是(これ)よりして千剣破(ちはやぶる)とは申(まうし)つゞくる也(なり)。此(この)時一千(いつせん)の悪神は、小蛇(さばへ)と成(なつ)て失(うせ)ぬ。素盞烏(そさのをの)尊(みこと)一人に成(なつ)て、彼方此方(かなたこなた)に迷行玉(まよひゆきたま)ふ程に、出雲(いづもの)国(くに)に行玉(ゆきたま)ひぬ。海上に浮(うかん)で流るゝ島あり。此(この)島は天照太神(あまてらすおほんがみ)も知(しら)せ給(たまふ)べき所ならずとて、尊(みこと)御手(おんて)にて撫留(なでとどめ)て栖(すみ)給ふ。故(ゆゑ)に此(この)島をば手摩島(たましま)とは申(まうす)也(なり)。爰(ここ)にて遥(はるか)に見玉へば、清地(すが)の郷(さと)の奥(おく)、簸(ひ)の川上(かはかみ)に八色(やいろ)の雲あり。
尊(みこと)怪(あやし)く思(おもひ)て行(ゆき)て見玉へば、老翁老婆(おきなうば)二人(ににん)うつくしき小女(をとめ)を中(なか)に置(おき)て、泣悲(なきかなし)む事切(せつ)也(なり)。尊彼泣(かのなく)故を問(とひ)給へば、老翁(おきな)答(こたへ)て曰(いはく)、「我をば脚摩乳(あしなづち)、うばをば手摩乳(てなづち)と申(まうす)也(なり)。此(この)姫は老翁老婆(おきなうば)が儲(まうけ)たる孤子(ひとりご)也(なり)。名をば稲田姫(いなたひめ)と申(まうす)也(なり)。近比(このごろ)此(この)所に八岐大蛇(やまたのをろち)とて、八(やつ)の頭(かしら)ある大蛇(をろち)、山(やまの)尾七(ななつ)谷七(ななつ)にはい渡(わたり)て候が、毎夜(まいよ)人を以て食とし候間、野人村老(やじんそんらう)皆食尽(くひつくし)、今日を限(かぎり)の別路(わかれぢ)の遣方(やるかた)もなき悲(かなし)さに、泣臥(なきふす)也(なり)。」とぞ語(かたり)ける。尊(みこと)哀(あはれ)と思食(おぼしめし)て、「此(この)姫を我にえさせば、此大蛇(このをろち)を退治(たいぢ)して、姫が命を可助。」と宣(のたまふ)に、老翁(おきな)悦(よろこび)て、「子細(しさい)候はじ。」と申(まうし)ければ、湯津爪櫛(ゆづつまぐし)を八作(やつつくつ)て、姫が髻(もとどり)にさし、八(やしぼり)の酒を槽(さかぶね)に湛(たたへ)て、其(その)上(うへ)に棚(たな)を掻(かき)て姫を置奉(おきたてまつり)、其(その)影を酒に移(うつ)してぞ待給(まちたまひ)ける。
夜半(よは)過(すぐ)る程に、雨荒(あらく)風烈(はげしく)吹過(ふきすぎ)て、大山の如動なる物来(きた)る勢(いきほ)ひあり。電(いなづま)の光に是(これ)を見れば、八(やつ)の頭(かしら)に各二(ふたつ)の角有(あり)て、あはいに松栢(まつかや)生茂(おひしげり)たり。十八(じふはち)の眼(まなこ)は、日月の光に不異、喉(のんど)の下なる鱗(いろこ)は、夕日を浸(ひた)せる大洋(たいやう)の波に不異。暫(しばし)は槽(さかぶね)の底なる稲田姫(いなたひめ)の影を望見(のぞみみ)て、生牲(いけにへ)爰(ここ)に有(あり)とや思(おもひ)けん、八千(はつせん)石(ごく)湛(たた)へたる酒を少しも不残飲尽(のみつく)す。尽(つき)ぬれば余所(よそ)より筧(かけひ)を懸(かけ)て、数万石(すまんごく)の酒をぞ呑(のま)せたる。
大蛇(をろち)忽(たちまち)に飲酔(のみゑひ)て惘然(ほれぼれ)としてぞ臥(ふし)たりける。此(この)時に尊(みこと)剣(けん)を抜(ぬい)て、大蛇(をろち)を寸々(つだつだ)に切(きり)給ふ。至尾剣(つるぎ)の刃(やいば)少し折(をれ)て切れず。尊怪(あやし)みて剣を取直(とりなほ)し、尾を立様(たてさま)に割(さき)て見玉へば、尾の中に一(ひとつ)の剣(けん)あり。此(これ)所謂(いはゆる)天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)也(なり)。尊是(これ)を取(とつ)て天照太神(あまてらすおほむがみ)に奉り玉ふ。「是(これ)は初当(そのかみ)我(われ)高天(たかまの)原より落したりし剣(つるぎ)也(なり)。」と悦(よろこび)玉ふ。其後(そののち)尊(みこと)出雲(いづもの)国(くに)に宮作(みやつくり)し玉(たまひ)て、稲田姫を妻(つま)とし玉ふ。八雲立(やくもたつ)出雲(いづも)八重垣(やへがき)妻(つま)篭(こめ)にやへ垣造(つく)る其(その)やへ垣を是(これ)三十一字(みそじひともじ)に定(さだまり)たる歌の始(はじめ)也(なり)。
其(それ)より以来(このかた)此剣(このけん)代代天子の御宝(みたから)と成(なつ)て、代十(よと)つぎを経(へ)たり。時に第十代の帝(みかど)、崇神(しゆじん)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、是(これ)を伊勢太神宮に献(たてまつ)り給ふ。十二代の帝(みかど)景行天皇(てんわう)四十年(しじふねん)六月に、東夷(とうい)乱(みだれ)て天下不静。依之(これによつて)第二(だいに)の王子(わうじ)日本武(やまとたけるの)尊(みこと)東夷征罰(とういせいばつ)の為に東国に下り給ふ。先(まづ)伊勢太神宮に参(まゐつ)て、事の由を奏し給ひけるに、「慎(つつしん)で勿懈。」直(ぢき)に神勅有(あつ)て件(くだん)の剣(けん)を下さる。尊(みこと)、剣を給(たまはり)て、武蔵野を過(すぎ)給ひける時、賊徒(ぞくと)相謀(あひはかつ)て広野(ひろの)に火を放(はなし)て、尊を焼殺(やきころ)し奉らんとす。燎原(のび)焔(ほのほ)盛りにして、可遁方(かた)も無(なか)りければ、尊(みこと)剣を抜(ぬい)て打払ひ給ふに、刃(やいば)の向ふ方の草木二三里が間、己(おの)れと薙伏(なぎふせ)られて、烟(ほのほ)忽(たちまち)に賊徒(ぞくと)の方に靡(なび)きしかば、尊(みこと)死を遁(のがれ)させ給(たまひ)て朝敵(てうてき)若干(そくばく)亡(ほろび)にけり。
依之(これによつて)草薙(くさなぎ)の剣(けん)とは申(まうす)也(なり)。此(この)剣未(いまだ)大蛇(をろち)の尾の中に有(あり)し程、簸(ひ)の河上(かはかみ)に雲懸(かか)りて、天更に不晴しかば、天(あま)の群雲(むらくも)の剣とも名付(なづ)く。其尺(そのしやく)僅(わづか)に十束(とつか)なれば又十束(とつか)の剣とも名付(なづけ)たり。天武(てんむ)天皇(てんわう)の御宇、朱鳥元年に亦(また)被召(めされ)て、内裏(だいり)に収(をさめ)られしより以来(このかた)、代々(だいだい)の天子の御宝(みたから)なればとて、又宝剣とは申(まうす)也(なり)。神璽(しいし)は、天照太神(あまてらすおほんがみ)、素盞烏(そさのをの)尊(みこと)と、共為夫婦(みとのまぐはひ)ありて、八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)をねふり給(たまひ)しかば、陰陽(いんやう)成生(せいせい)して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳(まさやあかつかつはやひあまのおしほみみの)尊(みこと)を生(うみ)給ふ。
此(この)玉をば神璽(しいし)と申(まうす)也(なり)。何(いづ)れも異説多端(たたんなり)、委細(ゐさい)尽(つく)すに不遑。蓬(ほうひつ)に伝(つたふ)る所の一説、大概是(これ)にて候。」と委細にぞ答申(こたへまうし)たりける。大納言能々(よくよく)聞給(ききたまひ)て、「只今何の次(つい)でとしもなきに、御辺(ごへん)を呼(よび)候(さふらひ)て、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)の様を委(くはし)く問(とひ)つる事は、別の子細なし。昨日伊勢(いせの)国(くに)より、宝剣と云(いふ)物を持参したる事ある間、不審を開(ひら)かん為に尋申(たづねまうし)つる也(なり)。委細の説大畧日来(ひごろ)より誰も存知(ぞんち)の前なれば、別に異儀なし。但(ただし)此(この)説の中に、十束(とつか)の剣(けん)と名付(なづけ)しは、十束ある故(ゆゑ)也(なり)と聞(きき)つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚(おぼゆ)る。其剣(そのけん)取出(とりいだ)せ。」とて、南庭(なんてい)に崇(あがめ)給へる春日(かすが)の社(やしろ)より、錦の袋に入(いれ)たる剣を取出(とりいだ)して、尺をさゝせて見給ふに、果(はた)して十束(とつか)有(あり)けり。
「さては無不審宝剣と覚(おぼゆ)。但(ただし)奏聞(そうもん)の段は一(ひとつ)の奇瑞(きずゐ)なくば叡信(えいしん)不可立。暫(しばらく)此(この)剣を御辺(ごへん)の許(もと)に置(おい)て、何(いか)なる不思議(ふしぎ)も一(ひとつ)祈出(いのりいだ)されよかし。」と宣(のたま)へば、兼員(かねかず)、「世は澆季(げうき)に及(および)て仏神の威徳も有(あつ)て無きが如くに成(なつ)て候へば、何(いか)に祈(いのり)候とも、誠(まこと)に天下の人を驚(おどろか)す程の瑞相(ずゐさう)、可出来覚(おぼえ)候はず、但(ただし)今も仏神の威光を顕(あらは)して人の信心を催(もよほ)すは、夢に過(すぎ)たる事はなきにて候。所詮(しよせん)先(まづ)此(この)剣を預け給(たまひ)て、三七日が間幣帛(へいはく)を捧(ささ)げ礼奠(れいてん)を調(ととのへ)、祈誓(きせい)を致し候はんずる最中(さいちゆう)、先(まづ)は両上皇、関白殿下、院司(ゐんじ)の公卿(くぎやう)、若(もしく)は将軍、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)なんどの夢に、此(この)剣誠(まこと)に宝剣也(なり)けりと、不審(ふしん)を散ずる程の夢想(むさう)を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申(まうし)て、卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)此(この)剣を給(たまはり)てぞ帰りける。
翌日(つぎのひ)より兼員此(この)剣を平野(ひらの)の社の神殿に安(あん)じ、十二人(じふににん)の社僧に真読(しんどく)の大般若経(だいはんにやきやう)を読(よま)せ、三十六人の神子(みこ)に、長時(ぢやうじ)の御神楽(みかぐら)を奉らしむるに、殷々(いんいん)たる梵音(ぼんおん)は、本地三身(ほんぢさんしん)の高聴(ちやう)にも達し、玲々(れいれい)たる鈴(すず)の声は垂迹五能(すゐしやくごのう)の応化(おうくわ)をも助くらんとぞ聞(きこ)へける。其(その)外金銀弊帛(へいはく)の奠(てん)、蘋蘊藻(ひんはんうんさう)の礼、神(しん)其神(そのしん)たらば、などか奇瑞(きずゐ)もこゝに現(げん)ぜざらんと覚(おぼゆ)る程にぞ祈りける。
已(すで)に三七日に満(まん)じける夜、鎌倉(かまくら)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)の見給(たまひ)ける夢こそ不思議(ふしぎ)なれ。所は大内(だいだい)の神祇(しんぎ)官かと覚(おぼ)へたるに、三公(さんこう)・九卿(きうけい)・百司(はくし)・千官、位に依(よつ)て列座(れつざ)す。纛(たう)の旗を建(たて)幔(まん)の坐(ざ)を布(しい)て、伶倫(れいりん)楽(がく)を奏し、文人(ぶんじん)詩を献ず。事の儀式厳重(げんぢゆう)にして大礼(たいれい)を被行体(てい)也(なり)。直義朝臣(あそん)夢心地(ゆめここち)に、是(これ)は何事の有(ある)やらんと怪(あやし)く思(おもひ)て、竜尾堂(りようびだう)の傍(かたはら)に徘徊(はいくわい)したれば、権(ごんの)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)出来(いできた)り給へるに、直義朝臣(あそん)、「是(これ)は何事の大礼(たいれい)を被行候やらん。」と問(とひ)給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進(まゐ)らせらるべしとて、中議(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)を被行候也(なり)。」とぞ被答ける。
さては希代(きたい)の大慶(たいけい)哉(かな)と思(おもひ)て、暫(しばらく)見居たる処に、南方より五色の雲一群(ひとむら)立出(たちいで)て、中に光明赫奕(かくやく)たる日輪(にちりん)あり。其(その)光の上に宝剣よと覚(おぼ)へたる一(ひとつ)の剣立(たち)たり。梵天(ぼんてん)・四王・竜神八部(りゆうじんはちぶ)蓋(かい)を捧げ列を引(ひい)て前後左右に囲遶(ゐねう)し給(たま)へりと見て、夢は則(すなはち)覚(さめ)にけり。直義朝臣(あそん)、夙(つと)に起(おき)て、此(この)夢を語給(かたりたまふ)に、聞(きく)人皆、「静謐(せいひつ)の御夢想(ごむさう)也(なり)。」と賀(が)し申さぬは無(なか)りけり。其聞(そのきこ)へ洛中(らくちゆう)に満(みち)て、次第に語(かたり)伝へければ、卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)、急ぎ夢の記録を書(かき)て、日野(ひの)大納言殿(だいなごんどの)に進覧(しんらん)す。大納言此(この)夢想の記録を以て、仙洞(せんとう)に奏聞(そうもん)せらる。
事の次第御不審(ごふしん)を非可被残とて、八月十八日の早旦(さうたん)に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日(よくじつ)是(これ)を取進(とりまゐら)せし円成阿闍梨(ゑんじやうあじやり)、次第を不経直任(ぢきにん)の僧都になされ、河内(かはちの)国(くに)葛葉(くずは)の関所(せきところ)を恩賞にぞ被下ける。只周(しう)の代に宝鼎(はうてい)を掘出(ほりいだし)、夏(か)の時に河図(かと)を得たりし祥瑞(しやうずゐ)も是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。此比(このころ)朝庭(てうてい)に賢才輔佐(ふさ)の臣多(おほし)といへ共(ども)、君の不義を諌(いさ)め政(まつりこと)の不善を誡(いまし)めらるゝは、坊城大納言経顕(つねあき)・日野(ひのの)大納言(だいなごん)資明(すけあきら)二人(ににん)のみ也(なり)。夫(それ)両雄は必(かならず)諍(あらそ)ふ習(ならひ)なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明(すけあきらの)卿(きやう)申破(まうしやぶ)らむとし、資明(すけあきらの)卿(きやう)の被執奏たる事をば経顕卿支申(ささへまう)されけり。
爰(ここ)に伊勢(いせの)国(くに)より宝剣進奏(しんそう)の事、日野(ひのの)大納言(だいなごん)被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参(ゐんざん)して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承(たづねうけたまはり)候へば、一向(ひたすら)資明(すけあきら)が阿党(あたう)の所より事起(おこつ)て候なる。佞臣(ねいしん)仕朝国有不義政とは是(これ)にて候也(なり)。先(まづ)思(おもひ)て見候に、素盞烏(そさのをの)尊(みこと)古(いにし)へ簸(ひ)の河上(かはかみ)にて切られし八岐(やまた)の蛇(をろち)、元暦(げんりやく)の比(ころ)安徳(あんとく)天皇(てんわう)と成(なつ)て、此(この)宝剣を執(とつ)て竜宮城へ帰り給ひぬ。其(それ)より後君(きみ)十九代春秋百六十(ひやくろくじふ)余年(よねん)、政(まつりこと)盛(さかん)に徳豊(ゆたか)なりし時だにも、遂(つひ)に不出現宝剣の、何故(なにゆゑ)に斯(かか)る乱世無道(ぶだう)の時に当(あたつ)て出来(いできた)り候べき。若(もし)我(わが)君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其(それ)よりも先(まづ)天下の静謐こそ有(ある)べく候へ。
若(もし)又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間(よのなか)に無定相事をば夢幻(ゆめうつつ)と申(まうし)候はずや。されば聖人に無夢とは、是(ここ)を以て申(まうす)にて候。昔漢朝(かんてう)にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才(けんさい)の臣を求(もとめ)給ふ由を聞(きき)て、恩爵(おんしやく)を貪(むさぼ)らん為に則(すなはち)楚国へぞ趣(おもむき)ける。路に歩疲(あゆみつかれ)て邯鄲(かんたん)の旅亭に暫(しばらく)休(やすみ)けるを、呂洞賓(りよとうびん)と云(いふ)仙術の人、此(この)客の心に願ふ事暗(あん)に悟(さとつ)て、富貴の夢を見する一(ひとつ)の枕をぞ借したりける。
客此(この)枕に寝(いね)て一睡(いつすゐ)したる夢に、楚国の侯王(こうわう)より勅使来(きたり)て客を被召。其(その)礼其贈物(そのおくりもの)甚(はなはだ)厚し。客悦(よろこん)で則(すなはち)楚国の侯門(こうもん)に参ずるに、楚王席を近付(ちかづけ)て、道を計り武を問(とひ)給ふ。客答ふる度毎(たびごと)に、諸卿皆頭(かうべ)を屈して旨(むね)を承くれば、楚王不斜(なのめならず)是(これ)を貴寵(きちよう)して、将相(しやうじやう)の位に昇(のぼ)せ給ふ。角(かく)て三十年(さんじふねん)を経て後、楚王隠れ給(たまひ)ける刻(きざみ)、第一(だいいち)の姫宮を客に妻(めあは)せ給ひければ、従官使令(しようくわんしれい)、好衣珍膳(かういちんぜん)、心に不叶云(いふ)事なく、不令目悦云(いふ)事はなし。座上に客常(つねに)満(みち)、樽中(そんちゆう)に酒不空。楽(たのし)み身に余(あま)り遊び日を尽(つく)して五十一年と申すに、夫人(ふじん)独(ひとり)の太子を産(うみ)給ふ。
楚王に位を可継御子(みこ)なくして、此孫子(このそんし)出来(いでき)にければ、公卿(くぎやう)大臣皆相計(はかつ)て、楚国の王に成(な)し奉る。蛮夷(ばんい)率服(そつふく)し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国(りつこく)を合(あはせ)、漢の文慧(ぶんけい)の九夷(きうい)を順(したが)へしに不異。王子(わうじ)已(すで)に三歳に成給(なりたまひ)ける時、洞庭(とうてい)の波上(はじやう)に三千(さんぜん)余艘(よさう)の舟を双(なら)べ、数百万人の好客(かうかく)を集(あつめ)て、三年三月の遊(あそび)をし給ふ。
紫髯(しぜん)の老将は解錦纜、青蛾(せいが)の御女(おんむすめ)は唱棹歌。彼(かれ)をさへや大梵高台(だいぼんかうたい)の花喜見城宮(きけんじやうぐう)の月も、不足見不足翫と、遊び戯(たはぶ)れ舞歌(まひうたう)て、三年三月の歓娯(くわんご)已(すで)に終(をはり)ける時、夫人(ふじん)彼(かの)三歳の太子を懐(いだい)て、舷(ふなばた)に立給(たちたまひ)たるが、踏(ふみ)はづして太子夫人(ふじん)諸共(もろとも)に、海底に落入(おちいり)給ひてげり。数万の侍臣周章(あわて)て一同に、「あらや/\。」と云(いふ)声に、客の夢忽(たちまち)に覚(さめ)てげり。倩(つらつら)夢中の楽(たのし)みを計(はか)れば、遥(はるか)に天位五十年(ごじふねん)を経(へ)たりといへ共(ども)、覚(さめ)て枕の上の睡(ねぶり)を思へば、僅(わづか)に午炊(ごすゐ)一黄粱(いちくわうりやう)の間を不過けり。客云(ここに)人間百年の楽(たのしみ)も、皆枕頭片時(しんとうへんし)の夢なる事を悟り得て、是(これ)より楚国へは不越、忽(たちまち)に身を捨(すて)て、世を避(さく)る人と成(なつ)て、遂(つひ)に名利に繋(つなが)るゝ心は無(なか)りけり。
是(これ)を揚亀山(やうきさん)が謝日月詩(しに)作(つくつ)て云(いは)く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是(これ)を邯鄲午炊(ごすゐ)の夢とは申也(なり)。就中(なかんづく)葛葉(くずは)の関は、年来(としごろ)南都の管領(くわんりやう)の地にて候を、無謂召放(めしはなさ)れん事、衆徒の嗷訴(がうそ)を招くにて候はずや。綸言再(ふたたび)し難しといへ共、過(あやまつては)則勿憚改と申(まうす)事候へば、速(すみやか)に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴(がうそ)事未萌前(いまだきざさざるさき)に可被止や候らん。」と委細に奏申(そうしまう)されければ、上皇もげにもとや思召(おぼしめし)けん、則(すなはち)院宣(ゐんぜん)を被成返ければ、宝剣をば平野社(ひらののやしろ)の神主(かんぬし)卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)に被預、葛葉(くずは)の関所(せきところ)をば如元又南都へぞ被付ける。  
住吉(すみよし)合戦(かつせんの)事(こと)
去(さんぬる)九月十七日(じふしちにち)に、河内(かはちの)国(くに)藤井寺の合戦に、細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)、無甲斐打負(うちまけ)て引退(しりぞき)し後、楠帯刀(たてはき)左衛門正行(まさつら)、勢(いきほ)ひ機に乗(のつ)て、辺境(へんきやう)常に侵(をか)し奪(うば)はるといへ共(ども)、年内は寒気(かんき)甚(はなはだしく)して兵(つはもの)皆指を墜(おと)し、手(て)亀(かがま)る事有(あり)ぬべければ、暫(しばし)とて閣(さしおか)れけるが、さのみ延引せば敵に勢(せい)著(つき)ぬべしとて、十一月二十三日(にじふさんにち)に軍評定(いくさひやうぢやう)有(あつ)て、同(おなじき)二十五日、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏を両大将にて、六千(ろくせん)余騎(よき)を住吉(すみよし)天王寺(てんわうじ)へ被差下。
顕氏は去(さん)ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負(うちまけ)て、天下の人口(じんこう)に落(おち)ぬる事、生涯(しやうがい)の恥辱(ちじよく)也(なり)と被思ければ、四国の兵共(つはものども)を召集(めしあつめ)て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢(てうろう)たるべし。相構(あひかまへ)て面々(めんめん)身命を軽(かろん)じて、以前の恥を洗(すす)がるべし。」と、衆を勇(いさ)め気を励(はげま)されければ、坂東(ばんどう)・坂西(ばんせい)・藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、五百騎(ごひやくき)づゝ一揆(いつき)を結(むす)んで、大旗(おほはた)小旗(こはた)下濃(すそご)の旗三流立(たて)て三手(みて)に分け、一足(ひとあし)も不引可討死と、神水(じんすゐ)を飲(のみ)てぞ打立(うちたち)ける。
事の(おぎろ)実(まこと)に思切(おもひきつ)たる体(てい)哉(かな)と、先(まづ)涼(すず)しくぞ見(みえ)たりける。大手(おほて)の大将山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、千(せん)余騎(よき)にて住吉(すみよし)に陣をとれば、搦手(からめて)の大将細川陸奥守顕氏、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて天王寺(てんわうじ)に陣を取る。楠帯刀正行是(これ)を聞(きき)て、「敵に足をためさせて、住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)両所に城郭(じやうくわく)を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐(おそれ)有(あり)ぬべし。不日(ふじつ)に押寄(おしよせ)て、先(まづ)住吉(すみよし)の敵を追払(おひはらひ)、只攻(つめ)につめ立(たて)て、急に追懸(おつかく)る程ならば、天王寺(てんわうじ)の敵は戦はで引退(ひきしりぞき)ぬと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)の暁天(げうてん)に、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)し、先(まづ)住吉(すみよし)の敵を追出(おひいだ)さんと、石津(いしづ)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、瓜生野(うりふの)の北より押寄(おしよせ)たり。
山名伊豆(いづの)守(かみ)是(これ)を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分(わけ)て相(あひ)戦へ。」とて、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)範貞に、摂津国(つのくに)播磨両国の勢を差副(さしそへ)て、八百(はつぴやく)余騎(よき)浜の手を防(ふせが)んと、住吉(すみよし)の浦の南に陣を取(とる)。土岐周済房(ときしゆさいばう)・明智(あけち)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・佐々木(ささきの)四郎左衛門(しらうざゑもん)、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、安部野(あべの)の東西両所に陣を張る。搦手(からめて)の大将細川陸奥(むつの)守(かみ)は、手勢(てぜい)の外(ほか)、四国の兵五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、態(わざ)と本陣を不離、荒手(あらて)に入替(いれかはら)ん為に、天王寺(てんわうじ)に磬(ひか)へたり。
大手の大将山名伊豆(いづの)守(かみ)・舎弟(しやてい)三河(みかはの)守(かみ)・原(はらの)四郎太郎(しらうたらう)・同四郎次郎(しらうじらう)・同四郎三郎は、千(せん)余騎(よき)にて、只今馬烟(むまけぶり)を挙(あげ)て進みたる先蒐(さきがけ)の敵に懸合(かけあは)せんと、瓜生野(うりふの)の東に懸出(かけいで)たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所(しかしよ)に有(あり)と見てければ、多からぬ我勢(わがせい)を数(あま)たに分(わけ)ば、中々可悪とて、本(もと)五手(いつて)に分(わけ)たりける二千(にせん)余騎(よき)の勢を、只一手(ひとて)に集(あつめ)て、瓜生野へ打(うつ)てかゝる。此(この)陣東西南北野遠(とほく)して疋馬(ひつば)蹄(ひづめ)を労(らう)せしかば、両陣互に射手(いて)を進(すすめ)て、時の声を一声挙(あぐ)る程こそあれ、敵御方(みかた)六千(ろくせん)余騎(よき)一度(いちど)に颯(さつ)と懸合(かけあつ)て、思々(おもひおもひ)に相戦(あひたたかふ)。半時許(はんじばかり)切合(きりあつ)て、互に勝時(かちどき)をあげ、四五町(しごちやう)が程両方へ引分(ひきわか)れ、敵御方(みかた)を見渡(わたせ)ば、両陣過半滅(ほろ)びて、死人(しにん)戦場に充満(みちみち)たり。
又大将山名伊豆(いづの)守(かみ)、切疵射疵(きりきずいきず)七所迄負(お)はれたれば、兵(つはもの)前(まへ)に立隠(たちかく)して、疵をすひ血を拭(のご)ふ程、少し猶預(いうよ)したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、和田新発意源秀(わだしんぼちげんしう)と名乗(なのつ)て、洗皮(あらひかは)の鎧(よろひ)に、大太刀小太刀二振(ふたふり)帯(はい)て、六尺(ろくしやく)余(あまり)の長刀(なぎなた)を小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませて小哥(こうた)歌(うたひ)て進みたり。其(その)次に一人、是(これ)も法師武者の長(たけ)七尺(しちしやく)余(あまり)も有(ある)らんと覚(おぼえ)たるが、阿間了願(あまのれうぐわん)と名乗(なのつ)て、唐綾威(からあやおどし)の鎧に小太刀帯(はい)て、柄(え)の長(ながさ)一丈(いちぢやう)許(ばかり)に見へたる鑓(やり)を馬の平頚(ひらくび)に引副(ひきそへ)て、少しも不擬議懸出(かけいで)たり。
其(その)勢(せい)事がら、尋常(よのつね)の者には非(あら)ずと見へながら、跡(あと)に続く勢無ければ、あれやと許(ばかり)云(いひ)て、山名が大勢さしも驚かで控(ひかへ)たる中へ、只二騎つと懸入(かけいつ)て、前後左右を突(つい)て廻(まはる)に、小手の迦(はづれ)・髄当(すねあて)の余(あま)り・手反(てへん)の直中(ただなか)・内甲(うちかぶと)、一分もあきたる所をはづさず、矢庭(やには)に三十六騎(さんじふろくき)突(つき)落して、大将に近付(ちかづか)んと目を賦(くば)る。三河(みかはの)守(かみ)是(これ)を見て、一騎合(あ)ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是(これ)を取篭(とりこめ)よ。」と、百四五十騎にて横合(よこあひ)に被懸たり。
楠又是(これ)を見て、「和田討(うた)すな続けや。」とて、相懸(あひがかり)に懸(かかつ)て責(せめ)戦ふ。太刀の鐔音(つばおと)天に響き、汗馬(かんば)の足音地を動(うごか)す。互に御方(みかた)を恥(はぢ)しめて、「引(ひく)な進め。」と云(いふ)声に退(しりぞく)兵無(なか)りけり。されども大将山名伊豆(いづの)守(かみ)已(すで)に疵を被(かうむ)り、又入替(いれかは)る御方(みかた)の勢(せい)はなし、可叶共(とも)覚(おぼ)へざりければ、歩立(かちだち)になる兵共(つはものども)、伊豆(いづの)守(かみ)の馬の口を引向(ひきむけ)て、後陣(ごぢん)の御方(みかた)と一処(いつしよ)にならんと、天王寺(てんわうじ)を差(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、追懸(おつかけ)々々(おつかけ)責(せめ)ける間、山名三川(みかはの)守(かみ)・原(はらの)四郎太郎(しらうたらう)・同四郎次郎(しらうじらう)、兄弟二騎、犬飼(いぬかひ)六郎(ろくらう)、主従三騎、返合(かへしあは)せて討(うた)れにけり。
二陣に控(ひかへ)たる土岐周済房(ときしゆさいばう)・佐々木(ささきの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)三百(さんびやく)余騎(よき)にて安部野(あべの)の南に懸出(かけいで)て、暫(しば)し支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、目賀田(めかだ)・馬淵(まぶち)の者共(ものども)、三十八騎一所(いつしよ)にて討(うた)れにける間、此(この)陣をも被破(やぶられ)て共に天王寺(てんわうじ)へと引(ひき)しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺(てんわうじ)の勢も、大河後(うしろ)にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引(ひか)れなば一人も生(いき)て帰る者不可有。先(まづ)橋を警固(けいご)せよとて、渡辺(わたなべ)を差(さし)て引(ひき)けるが、大勢の靡立(なびきたち)たる習(ならひ)にて、一度(いちど)も更に不返得、行先(ゆくさき)狭(せば)き橋の上を、落(おつ)とも云はずせき合(あひ)たり。
山名伊豆(いづの)守(かみ)は我(わが)身深手(ふかて)を負(おふ)のみならず、馬の三頭(さんづ)を二太刀切られて、馬は弱(よわ)りぬ、敵は手繁(てしげ)く懸る。今は落延(おちのび)じとや被思けん、橋爪(はじづめ)にて已(すで)に腹を切らんとせられけるを、河村山城(やましろの)守(かみ)只一騎返合(かへしあは)せて近付(ちかづく)敵二騎切(きつ)て落し、三騎に手を負(おはせ)て、暫し支(ささ)へたりける間に、安田弾正走寄(わしりよつ)て、「何(いか)なる事にて候ぞ。大将の腹切(きる)所にては候はぬ者を。」と云(いひ)て、己(おの)が六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の太刀を守木(もりき)に成(な)し、鎧武者を鎧の上に掻負(かいおう)て橋の上を渡るに、守木(もりき)の太刀にせき落されて、水に溺(おぼ)るゝ者数を不知(しらず)。
播磨国(はりまのくに)住人(ぢゆうにん)小松原(こまつばら)刑部左衛門は、主の三河(みかはの)守(かみ)討(うた)れたる事をも不知、天神の松原まで落延(おちのび)たりけるが、三川(みかはの)守(かみ)の乗(のり)給ひたりける馬の平頚(ひらくび)、二太刀切(きら)れて放(はなさ)れたりけるを見て、「さては三川(みかはの)守(かみ)殿(どの)は討(うた)れ給ひけり。落(おち)ては誰(た)が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返(ひつかへ)し、向ふ敵に矢二筋(ふたすぢ)射懸(いかけ)て、腹掻切(かききつ)て死(しに)にけり。其外(そのほか)の兵共(つはものども)、親討(うた)れ共子は不知、主(しゆ)討死すれ共(ども)郎従(らうじゆう)是(これ)を不助、物具(もののぐ)を脱(ぬ)ぎ棄(すて)弓を杖に突(つい)て、夜中に京へ逃上(にげのぼ)る。見苦(みぐる)しかりし分野(ありさま)也(なり)。 
 
太平記 巻第二十六 

 

正行(まさつら)参吉野事(こと)
安部野(あべの)の合戦は、霜月(しもつき)二十六日(にじふろくにち)の事なれば、渡辺(わたなべ)の橋よりせき落されて流るゝ兵五百(ごひやく)余人(よにん)、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共(ども)、秋(あきの)霜(しも)肉を破り、暁(あかつき)の氷膚(はだへ)に結(むすん)で、可生共不見けるを、楠有情者也(なり)ければ、小袖を脱替(ぬぎかへ)させて身を暖め、薬を与へて疵(きず)を令療。如此四五日皆労(いたは)りて、馬に乗る者には馬を引(ひき)、物具(もののぐ)失へる人には物具をきせて、色代(しきだい)してぞ送りける。されば乍敵其(その)情(なさけ)を感ずる人は、今日より後(のち)心を通(つうぜ)ん事を思ひ、其(その)恩を報ぜんとする人は、軈(やが)て彼(かの)手に属(しよく)して後、四条(しでう)縄手(なはて)の合戦に討死をぞしける。
さても今年(ことし)両度の合戦に、京勢(きやうぜい)無下(むげ)に打負(うちまけ)て、畿内(きない)多く敵の為に犯(をか)し奪はる。遠国(をんごく)又蜂起(ほうき)しぬと告(つげ)ければ、将軍左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の周章(しうしやう)、只熱湯(ねつたう)にて手を濯(あらふ)が如し。今は末々の源氏国々の催勢(もよほしぜい)なんどを向(むけ)ては可叶共不覚とて、執事(しつじ)高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山(とうせん)・東海二十(にじふ)余箇国(よかこく)の勢をぞ被向ける。
軍勢(ぐんぜい)の手分(てわけ)事定(さだまつ)て、未(いまだ)一日も不過に、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、十二月十四日の早旦(たん)に先(まづ)淀(よど)に著く。是(これ)を聞て馳加(はせくはは)る人々には、武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・逸見(へんみ)孫六入道・長井(ながゐ)丹後(たんごの)入道(にふだう)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三川(みかはの)入道(にふだう)・赤松信濃(しなのの)守(かみ)・小早河(こばやかは)備後(びんごの)守(かみ)、都合其(その)勢二万(にまん)余騎(よき)、淀・羽束使(はつかし)・赤井・大渡(おほわたり)の在家に居余て、堂舎仏閣に充満(みちみち)たり。
同二十五日武蔵守(むさしのかみ)手勢七千(しちせん)余騎(よき)を卒して八幡(やはた)に著(つ)く。此(この)手に馳加(はせくはは)る人々には、細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(だいぶ)頼章(よりあきら)・今河五郎入道・武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・同播磨(はりまの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)・同六角判官・同黒田判官・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・松田備前(びぜんの)三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田院(ただのゐんの)御家人(ごけにん)、源氏二十三人(にじふさんにん)、外様(とざまの)大名四百(しひやく)三十六人、都合其(その)勢六万(ろくまん)余騎(よき)、八幡(やはた)・山崎・真木(まき)・葛葉(くずは)・鹿島(かしま)・神崎(かんざき)・桜井(さくらゐ)・水無瀬(みなせ)に充満(じゆうまん)せり。
京勢(きやうぜい)如雲霞淀・八幡に著(つき)ぬと聞へしかば、楠(くすのき)帯刀(たてはき)正行(まさつら)・舎弟(しやてい)正時一族(いちぞく)打連(うちつれ)て、十二月二十七日(にじふしちにち)芳野の皇居(くわうきよ)に参じ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)を以て申けるは、「父正成弱(わうじやく)の身を以て大敵の威(ゐ)を砕(くだ)き、先朝の宸襟(しんきん)を休め進(まゐら)せ候(さふらひ)し後、天下無程乱(みだれ)て、逆臣(げきしん)西国(さいこく)より責(せめ)上り候間、危(あやふき)を見て命(めい)を致す処、兼(かね)て思(おもひ)定(さだめ)候(さふらひ)けるかに依て、遂(つひ)に摂州(せつしう)湊河にして討死仕(つかまつり)候(さうらひ)了(をはんぬ)。
其(その)時正行十三歳に罷成(まかりなり)候(さふらひ)しを、合戦の場へは伴(ともな)はで河内へ帰し死残(しにのこり)候はんずる一族(いちぞく)を扶持(ふち)し、朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)し君を御代に即進(つけまゐら)せよと申置て死て候。然(しかる)に正行・正時已(すでに)壮年に及(および)候(さふらひ)ぬ。此度(このたび)我と手を砕き合戦仕(つかまつり)候はずは、且(かつう)は亡父(ばうふ)の申しし遺言(ゆゐごん)に違ひ、且は武略の無云甲斐謗(そし)りに可落覚(おぼえ)候。有待(うだい)の身(み)思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世(さうせい)仕(つかまつる)事候なば、只君の御為には不忠の身と成(なり)、父の為には不孝(ふかう)の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸(かかり)合(あひ)、身命を尽(つく)し合戦仕て、彼等(かれら)が頭(かうべ)を正行が手に懸(かけ)て取(とり)候歟(か)、正行・正時が首(くび)を彼等に被取候か、其(その)二(ふたつ)の中に戦の雌雄(しゆう)を可決にて候へば、今生にて今一度(いちど)君の竜顔(りようがん)を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢(あへ)ず、涙を鎧の袖にかけて義心其(その)気色(きしよく)に顕(あらは)れければ、伝奏(てんそう)未(いまだ)奏せざる先(さき)に、まづ直衣(なほし)の袖をぞぬらされける。
主上(しゆしやう)則(すなはち)南殿(なでん)の御簾(みす)を高く巻(まか)せて、玉顔殊に麗(うるはし)く、諸卒を照臨(せうりん)有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮(えいりよ)先(まづ)憤(いきどほり)を慰(ゐ)する条、累代の武功返返(かへすがへす)も神妙(しんべう)也(なり)。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否(あんぴ)たるべし。進退(しんたい)当度反化(へんくわ)応機事は、勇士(ゆうし)の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非(あら)ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也(なり)。可退見て退(しりぞく)は、為全後也(なり)。朕(ちん)以汝股肱(ここう)とす。慎(つつしん)で命を可全。」と被仰出ければ、正行首(かうべ)を地(ぢ)に著(つけ)て、兔角(とかく)の勅答(ちよくたふ)に不及。只是(これ)を最後の参内(さんだい)也(なり)と、思定(おもひさだめ)て退出す。
正行・正時・和田新発意(わだしんぼち)・舎弟(しやてい)新兵衛・同紀(きの)六左衛門子息二人(ににん)・野田四郎子息二人(ににん)・楠将監(しやうげん)・西河子息・関地良円(せきぢりやうゑん)以下今度の軍に一足(ひとあし)も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人(しじふさんにん)、先皇(せんくわう)の御廟(ごべう)に参て、今度の軍(いくさ)難義ならば、討死仕(つかまつる)べき暇(いとま)を申て、如意輪堂(によいりんだう)の壁板(かべいた)に各名字を過去帳(くわこちやう)に書連(つらね)て、其(その)奥に、返らじと兼(かね)て思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとゞむると一首(いつしゆ)の哥を書留(かきとど)め、逆修(ぎやくしゆ)の為と覚敷(おぼしく)て、各鬢髪(びんはつ)を切て仏殿に投入(なげいれ)、其(その)日(ひ)吉野を打出て、敵陣へとぞ向(むかひ)ける。  
四条縄手(しでうなはて)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)上山(うへやま)討死(うちじにの)事(こと)
師直・師泰は、淀・八幡(やはた)に越年(をつねん)して、猶(なほ)諸国の勢を待調(まちそろへ)て、河内へは可向と議しけるが、楠已(すで)に逆(さ)か寄(よせ)にせん為に、吉野へ参て暇(いとま)申し、今日河内の往生院(わうじやうゐん)に著(つき)ぬと聞へければ、師泰先(まづ)正月二日淀を立て二万(にまん)余騎(よき)和泉の堺(さかひ)の浦に陣を取る。師直も翌日(よくじつ)三日の朝八幡を立て六万(ろくまん)余騎(よき)四条(しでう)に著く。此侭(このまま)軈(やが)て相近付(あひちかづく)べけれ共(ども)、楠定(さだめ)て難所(なんじよ)を前に当(あて)てぞ相待(あひまつ)らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲(てううん)の陣をなして、陰(いん)に設(まう)け陽(やう)に備(そな)ふ。
白旗一揆(いつき)の衆には、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)を旗頭(はたがしら)として、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)飯盛山(いひもりやま)に打上(うちあがり)て、南の尾崎(をさき)に扣(ひかへ)たり。大旗一揆(いつき)の衆には、河津(かはづ)・高橋二人(ににん)を旗頭として、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の峯に打上(うちあがり)て、東の尾崎に控(ひか)へたり。武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)は千(せん)余騎(よき)にて、四条縄手の田中に、馬の懸場(かけば)を前に残して控(ひか)へたり。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、二千(にせん)余騎(よき)にて、伊駒(いこま)の南の山に打上り、面(おもて)に畳楯(でふだて)五百(ごひやく)帖(でふ)突並(つきなら)べ、足軽の射手(いて)八百人(はつぴやくにん)馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹(ふとばら)射させて猶予(いうよ)する処あらば、真倒(まつさかさま)に懸落さんと、後(うし)ろに馬勢控(ひか)へたり。
大将武蔵守(むさしのかみ)師直は、二十(にじふ)余町(よちやう)引殿(ひきおくれ)て、将軍の御旗下(おんはたもと)に輪違(わちがひ)の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万(にまん)余騎(よき)、馬回(うままはり)に徒立(かちだち)の射手(いて)五百人(ごひやくにん)、四方(しはう)十(じふ)余町(よちやう)を相支(ささへ)て、如稲麻の打囲(うちかこ)ふだり。手分(てわけ)の一揆(いつき)互(たがひ)に勇争(いさみあらそう)て陣の張様(はりやう)密(きび)しければ、項羽(かうう)が山を抜く力、魯陽(ろやう)が日を返す勢(いきほひ)有共、此(この)堅陣(けんぢん)に懸(かけ)入て可戦とは見へざりけり。去(さる)程(ほど)に正月五日の早旦に、先(まづ)四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)大将として、和泉・紀伊(きいの)国(くに)の野伏(のぶし)二万(にまん)余人(よにん)引具(ひきぐ)して、色々の旗を手に差上(さしあげ)、飯盛山にぞ向ひ合ふ。
是(これ)は大旗・小旗両一揆(いつき)を麓(ふもと)へをろさで、楠を四条縄手へ寄(よせ)させん為の謀(はかりこと)也(なり)。如案大旗・小旗の両一揆(いつき)是(これ)を忻(たばか)り勢(ぜい)とは不知、是(これ)ぞ寄手(よせて)なるらんと心得(こころえ)て、射手(いて)を分て旗を進めて坂中までをり下(さがつ)て、嶮岨(けんそ)に待て戦(たたかは)んと見繕(みつくろ)ふ処に、楠帯刀(たてはき)正行・舎弟(しやてい)正時・和田新兵衛高家・舎弟(しやてい)新発意(しんぼち)賢秀(けんしう)、究竟(くつきやう)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、霞隠(かすみがく)れより驀直(まつしぐら)に四条縄手へ押寄せ、先(まづ)斥候(せきこう)の敵を懸散(かけちら)さば、大将師直に寄合て、勝負を決(けつ)せざらんと、少(すこし)も擬議(ぎぎ)せず進(すすん)だり。
県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)は白旗一揆(いつき)の旗頭にて、遥(はるか)の峯に控(ひかへ)たりけるが、菊水の旗只(ただ)一流(ひとながれ)、無是非武蔵守(むさしのかみ)の陣へ懸入(かけいら)んとするを見て、北(きた)の岡より馳(はせ)下(くだり)馬よりひた/\と飛下(とびおり)て、只今敵のましぐらに懸入(かけいら)んとする道の末を一文字(いちもんじ)に遮(さへぎつ)て、東西に颯(さつ)と立渡り、徒立(かちだち)に成てぞ待懸(まちかけ)たる。勇気尤盛(さかん)なる楠が勢、僅(わづか)に徒立なる敵を見て、何故か些(すこし)もやすらふべき。三手(みて)に分たる前陣の勢五百(ごひやく)余騎(よき)、閑々(しづしづ)と打て蒐(かか)る。京勢(きやうぜい)の中秋山弥次郎(やじらう)・大草(おほくさ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)二人(ににん)、真前(まつさき)に進て射落さる。
居野(ゐの)七郎(しちらう)是を見て、敵に気を付(つけ)じと、秋山が臥(ふし)たる上をつと飛越(とびこえ)て、「爰(ここ)をあそばせ。」と射向(いむけ)の袖を敲(たたい)て、小跳(こをどり)して進(すすん)だり。敵東西より差合(さしあは)せて雨の降様(ふるやう)に射る矢に、是(これ)も内甲草摺(うちかぶとくさずり)のはづれ二所箆深(のぶか)に被射、太刀を倒(さかさま)につき、其(その)矢を抜(ぬか)んとすくみて立たる所を、和田新発意(しんぼち)つと蒐(かけ)寄て、甲(かぶと)の鉢(はち)をしたゝかにうつ。打(うた)れて犬居(いぬゐ)に倒れければ、和田が中間走(はしり)寄て、頚(くび)掻(かき)切て差上(さしあげ)たり。是(これ)を軍の始として、楠が騎馬の兵五百(ごひやく)余騎(よき)と、県(あがた)が徒立(かちだち)の兵三百(さんびやく)余人(よにん)と、喚(をめ)き叫(さけん)で相戦ふに、田野(でんや)ひらけ平にして馬の懸引(かけひき)自在なれば、徒立の兵汗馬(かんば)に被懸悩、白旗一揆(いつき)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)太略討(うた)れにければ、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)も深手(ふかで)五所まで被(かうむつ)て叶はじとや思(おもひ)けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。
二番に戦屈(くつ)したる楠が勢を弊(つひえ)に乗て討んとて、武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて進(すすん)だり。楠が二陣の勢千(せん)余騎(よき)にて蒐(かかり)合ひ二手(ふたて)に颯(さつ)と分て、一人も余さじと取篭(とりこむ)る。汗馬(かんば)東西に馳(はせ)違(ちがひ)、追(おつ)つ返(かへし)つ旌旗(せいき)南北に開(ひらき)分れて、巻(まくつ)つ巻られつ互に命を惜(をし)まで、七八度(しちはちど)まで揉(もみ)合たるに、武田(たけだ)が七百(しちひやく)余騎(よき)残(のこり)少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵(きず)を被(かうむつ)て、朱(あけ)に成てぞ控(ひかへ)たる。
小旗一揆(いつき)の衆は、始より四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)の偽(いつはつ)て控(ひかへ)たる見せ勢(ぜい)に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒(いたづら)によそに直下(みおろし)て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲(つかれ)て麓(ふもと)に扣(ひかへ)たるを見て、小旗一揆(いつき)の中より、長崎彦九郎資宗(すけむね)・松田左近(さこんの)将監(しやうげん)重明(しげあきら)・舎弟(しやてい)七郎五郎(しちらうごらう)・子息太郎三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)高行・松田小次郎・河勾(かうわ)左京(さきやうの)進(しん)入道・高橋新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・青砥左衛門(あをとさゑもんの)尉(じよう)・有元(ありもと)新左衛門(しんざゑもん)・広戸(ひろと)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・舎弟(しやてい)八郎次郎・其(その)弟太郎次郎以下勝(すぐ)れたる兵四十八騎、小松原(こまつばら)より懸下りて、山を後(うしろ)に当て敵を麓に直下(みおろ)して、懸合々々(かけあひかけあひ)戦ふに、楠が二陣千(せん)余騎(よき)僅(わづか)の敵に被遮、進(すすみ)かねてぞ見へたりける。
佐佐木佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)は、楠が軍の疲足(つかれあし)、推量(おしはか)るに自余(じよ)の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守(むさしのかみ)の旗を見てぞ蒐(かか)らんずらん。去(さる)程ならば少し遣過(やりすご)して、迹(あと)を塞(ふさい)で討(うた)んと議(ぎ)して、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、飯盛山の南なる峯(みね)に打上(うちあがり)て、旗打立(うちたて)控(ひかへ)たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋(すこく)の戦ひに、馬疲れ気屈(くつ)して、少し猶予(いうよ)したる処を見澄(みすま)して、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手(みて)に分て、同時に時をどつと作て蒐下(かけおろ)す。楠が二陣の勢暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。
御方(みかた)は疲(つか)れたり。馬強(むまづよ)なる荒手(あらて)に懸立(かけたて)られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差(さし)て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣(ごぢん)既(すで)に破れて、残止る前陣の勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にも足(たら)じと見へたれば、怺(こらへ)じと見る処に、楠帯刀・和田新発意(しんぼち)、未(いまだ)討れずして此(この)中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署(れんしよ)の兵百四十三人(しじふさんにん)、一所に犇々(ひしひし)と打寄て、少しも後陣(ごぢん)の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹(あと)にぞ控(ひかへ)て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守(むさしのかみ)が兵は、御方(みかた)軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進(すすん)で是(これ)を打取(うちとら)んとて、先(まづ)一番に細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏、五百(ごひやく)余騎(よき)にて相当(あたる)。
楠が三百騎(さんびやくき)の勢、些(すこし)も不滞相蒐(かか)りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十(ごじふ)余騎(よき)討れて北をさして引退く。二番に仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて入替て責(せむ)るに、又楠が三百(さんびやく)余騎(よき)、轡(くつばみ)を双(ならべ)て真中(まんなか)に懸入り、火を散して戦ふに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章、四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・同参河(みかはの)入道(にふだう)両勢合(あはせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、東西より相近(ちかづい)て、手崎(てさき)をまくりて中を破(わらん)とするに、楠敢(あへ)て破られず。敵虎韜(こたう)に連(つらなつ)て囲(かこ)めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗(りようりん)に結て蒐(かか)れば竜鱗に進(すすん)で戦ふ。
三度(さんど)合て三度(さんど)分れたるに、千葉・宇都宮(うつのみや)が兵若干(そくばく)討れて引返す。此(この)時和田・楠が勢百(ひやく)余騎(よき)討れて、馬に矢の三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬは無りければ、馬を蹈放(ふみはなし)て徒立に成て、とある田の畔(くろ)に後(うしろ)を差宛(さしあて)て、箙(えびら)に差たる竹葉(ちくえふ)取出して心閑(こころしづか)に兵粮(ひやうらう)仕(つか)ひ、機(き)を助(たすけ)てぞ並居(なみゐ)たる。是(これ)程(ほど)に思切たる敵を取篭(とりこめ)て討んとせば、御方(みかた)の兵若干(そくばく)亡(ほろび)ぬべし。只後(うし)ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻(とりまく)体(てい)をば見せざりけり。されば楠縦(たとひ)小勢也(なり)とも、落(おち)ば落(おつ)べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚(くび)を取て返り参(さん)ぜずは、正行が首を六条河原(ろくでうかはら)に曝(さら)されぬと被思食候へと、吉野殿(よしのどの)にて奏(そう)し申たりしかば、其(その)言(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、又運命爰(ここ)にや尽(つき)けん、和田も楠も諸共に、一足(ひとあし)も後(うしろ)へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼(ののしりよばは)り、閑(しづか)に歩(あゆみ)近付(ちかづき)たり。
是を見て細川讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)・今河五郎入道・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)・南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)六角判官・同黒田判官・土岐周済房(ときしゆさいばう)・同明智(あけち)三郎・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)・松田備前(びぜんの)次郎・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田(ただの)院(ゐん)の御家人(ごけにん)を始として、武蔵守(むさしのかみ)の前後左右に控(ひかへ)たる究竟(くつきやう)の兵共(つはものども)七千(しちせん)余騎(よき)、我(われ)先(さき)に打取らんと、喚(をめ)き呼(さけん)で蒐(かけ)出たり。
楠是(これ)に些(すこし)も不臆して、暫(しばらく)息(いき)継(つが)んと思ふ時は、一度(いちど)に颯(さつ)と並居(なみゐ)て鎧(よろひ)の袖をゆり合せ、思様(おもふさま)に射させて、敵近付(ちかづけ)ば同時にはつと立あがり、鋒(きつさき)を双(ならべ)て跳(をど)り蒐(かか)る。一番に懸寄せける南次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)、馬の諸膝(もろひざ)薙(なが)れて落る処に、起(おこ)しも立(たて)ず討(うたれ)にけり。二番に劣(おと)らじと蒐入(かけいり)ける松田次郎左衛門(じらうざゑもん)、和田新発意(しんぼち)に寄合て、敵を切んと差(さし)うつぶく処を、和田新発意長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、松田が甲(かぶと)の鉢(はち)をはたとうつ。打(うた)れて錣(しころ)を傾(かたぶく)る処に、内甲(うちかぶと)を突(つか)れて、馬より倒(さかさま)に落(おち)て討(うた)れにけり。此(この)外目の前に切て落さるゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、小腕(こうで)打落されて朱(あけ)になる者二百(にひやく)余騎(よき)、追立々々(おつたておつたて)責(せめ)られて、叶はじとや思ひけん、七千(しちせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、開靡(ひらきなびい)て引(ひき)けるが、淀・八幡(やはた)をも馳(はせ)過て、京まで逃(にぐ)るも多かりけり。
此時若(もし)武蔵守(むさしのかみ)一足(ひとあし)も退(しりぞ)く程ならば、逃る大勢に引立(ひきたて)られて洛中(らくちゆう)までも追著(おひつけら)れぬと見へけるを、少(すこし)も漂(ただよ)ふ気色無(なく)して、大音声を揚(あげ)て、「蓬(きたな)し返せ、敵は小勢ぞ師直爰(ここ)にあり。見捨て京へ逃(にげ)たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜(をし)まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼(はがみ)をして、四方(しはう)を下知せられけるにこそ、恥(はぢ)ある兵は引留(ひきとどま)りて師直の前後に控(ひかへ)けれ。斯(かか)る処に土岐周済房(ときしゆさいばう)の手(て)の者共(ものども)は、皆打散(うちちら)され、我身も膝口切(きら)れて血にまじり、武蔵守(むさしのかみ)の前を引て、すげなう通(とほ)りけるを、師直吃(きつ)と見て、「日来(ひごろ)の荒言(くわうげん)にも不似、まさなうも見へ候者哉(かな)。」と言(ことば)を懸(かけ)られて、「何か見苦(みぐるしく)候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中(まんなか)へ蒐(かけ)入て、終(つひ)に討死してけり。
是を見て雑賀(さいが)次郎も蒐入(かけい)り打死す。已(すでに)楠と武蔵守(むさしのかみ)と、あはひ僅(わづか)に半町計(ばかり)を隔(へだて)たれば、すはや楠が多年の本望爰(ここ)に遂(とげ)ぬと見(みえ)たる処に、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、師直の前に馳塞(はせふさが)り、大音声を挙(あげ)て申けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源家累代(るゐだい)の執権(しつけん)として、武功天下に顕(あらは)れたる高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直是に有(あり)。」と名乗(なのつ)て、討死しける其(その)間に、師直遥(はるか)に隔(へだたつ)て、楠本意を遂(とげ)ざりけり。
抑(そもそも)多勢の中に、上山一人師直が命に代(かはつ)て、討死しける所存何事ぞと尋(たづぬ)れば、只一言の情(なさけ)を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此(この)陣へ可寄とは不思寄、上山閑(しづか)に物語せんとて、執事(しつじ)の陣へ行(ゆき)ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄(よせ)たりと打立(うちたち)ける間、上山我屋(わがや)に帰り物具せん逗留(とうりう)無(なか)りければ、師直がきせながの料(れう)に、同(おなじ)毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走(はしり)寄て、唐櫃(からひつ)の緒(を)を引切て鎧(よろひ)を取て肩に打懸(うちかけ)けるを、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)、鎧の袖を控(ひかへ)て、「是(これ)は何(いか)なる御事(おんこと)候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止(うばひとどめ)んと引合(ひきあひ)ける時、師直是(これ)を聞て馬より飛で下り、若党(わかたう)をはたと睨(にらん)で、「無云甲斐者の振舞哉(かな)。
只今師直が命に代らん人々に、縦(たとひ)千両万両の鎧也(なり)共(とも)何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉(かな)。」と還(かへつ)て上山を被感ければ、上山誠(まこと)にうれしき気色にて、此(この)詞(ことば)の情(なさけ)を思入たる其(その)心地(ここち)、いはねども色に現れたり。されば事の儀(ぎ)を不知して鎧を惜みつる若党(わかたう)は、軍の難義なるを見て先(まづ)一番に落けれ共(ども)、情(なさけ)を感ずる上山は、師直が其(その)命に代(かはつ)て討死しけるぞ哀(あはれ)なる。加様の事異国(いこく)にも其(その)例(れい)あり 。
秦(しんの)穆公(ぼくこう)と申す人、六国(りくこく)の諸侯と戦(たたかひ)けるに、穆公軍破(やぶれ)て他国へ落給ふ。敵の追(おふ)事甚(はなはだ)急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹(あと)にさがりたる乗替(のりがへ)の馬を待給ふ処に、穆公の舎人(とねり)共(ども)馬をば引て不来して、疲(つかれ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆高手小手(たかてこて)に縛(しば)りて、軍門の前に引居(ひきすゑ)たり。穆公自ら事の由(よし)を問ふに、舎人答(こたへ)て申(まうす)様、「召し替への御馬(おんむま)を引進(ひきまゐ)り候処に、戦に疲れ飢(うゑ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、此(この)御馬(おんむま)を殺して皆食(くらふ)て候間、死罪に行(おこな)ひ候はんが為に生虜(いけどり)て参て候。」とぞ申(まうし)ける。
穆公さしも忿(いか)れる気色なく、「死せる者は二度(ふたたび)生(いく)べからず。縦(たとひ)二度(ふたたび)生(いく)る共、獣(けだもの)の卑(いやし)きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢(うゑ)て馬を食せる人は必(かならず)病む事有(あり)。」とて其(その)兵共(つはものども)に酒を飲(のま)せ薬を与へて医療(いれう)を加(くはへ)られける上は、敢(あへ)て罪科(ざいくわ)に不及。其(その)後穆公軍に打負(うちまけ)て、大敵に囚(とら)はれ已(すでに)討れんとし給(たまひ)し時、馬を殺して食(くう)たりし兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、穆公の命に代り戦(たたかひ)ける程(ほど)に、大敵皆散じて穆公死を逃(のが)れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰(ばつ)をば軽(かろ)く行ひ宥(なだ)め賞(しやう)をば厚く与へしむ。若(もし)昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲(かこみ)を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申(まうす)べき。楠、上山を討て其(その)頭(くび)を見るに、太(ふとく)清(きよ)げなる男也(なり)。鎧を見るに輪違(わちがひ)を金物に掘透(ほりすか)したり。「さては無子細武蔵守(むさしのかみ)を討てげり。多年の本意今日已(すでに)達しぬ。是(これ)を見よや人々。」とて、此(この)頚を中(ちう)に投上(なげあげ)ては請取(うけとり)、請取ては手玉についてぞ悦(よろこび)ける。
楠が弟(おとと)次郎走(わしり)寄て、「何(いか)にやあたら首の損(そん)じ候に、先(まづ)旗の蝉本(せみもと)に著(つけ)て敵御方(みかた)の者共(ものども)に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒(きつさき)に指貫(さしつらぬき)差上(さしあげ)て是(これ)を見(みす)るに、「師直には非(あら)ず、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)が首也(なり)。」と申(まうし)ければ、大に腹立(ふくりふ)して、此(この)頭を投(なげ)て、「上山六郎左衛門(ろくらうざゑもん)とみるはひが目か、汝は日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者哉(かな)。我(わが)君の御為に無双(ぶさう)の朝敵(てうてき)也(なり)。乍去余(あまり)に剛にみへつるがやさしさに、自余(じよ)の頭共には混(こん)ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹(おしつつん)で岸の上にぞ指(さし)置たる。鼻田(はなた)弥次郎(やじらう)膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未(いまだ)討(うた)れざりけり。
安からぬ者哉(かな)。師直何(いづ)くにか有らん。」と云(いふ)声を力にして、内甲(うちかぶと)にからみたる鬢(びん)の髪を押のけ、血眼(ちまなこ)に成て遥(はるか)に北(きた)の方(かた)を見るに、輪違(わちがひ)の旗一流(ひとながれ)打立て、清(きよ)げなる老武者を大将として七八十騎が程控(ひか)へたり。「何様師直と覚(おぼゆ)る。いざ蒐(かか)らん。」と云(いふ)処に、和田新兵衛鎧の袖を引(ひか)へて、「暫(しばらく)思(おもふ)様(やう)あり。余(あまり)に勇(いさ)み懸て大事(だいじ)の敵を打漏(うちもら)すな。敵は馬武者也(なり)。我等(われら)は徒立(かちだち)也(なり)。追(おは)ば敵定(さだめ)て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等(われら)怺(こら)へで引退(ひきしりぞ)く真似(まね)をせば、此(この)敵、気に乗て追蒐(おつかけ)つと覚(おぼゆ)るぞ。敵を近々と引寄(ひきよせ)て、其中に是(これ)ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、落る処にて細頚(ほそくび)打落(うちおと)し、討死せんと思ふは如何に。」と云(いひ)ければ、被打残たる五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、「此(この)義可然。」と一同して、楯を後(うしろ)に引かづき、引退(ひきしりぞ)く体(てい)をぞみせたりける。
師直思慮深き大将にて、敵の忻(たばかつ)て引(ひく)処を推(すゐ)して、些(すこし)も馬を動かさず。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)西なる田中に三百(さんびやく)余騎(よき)にて控(ひかへ)たるが、是を見て引(ひく)敵ぞと心得(こころえ)て、一人も余さじと追蒐(おつかけ)たり。元来剛(かう)なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒(きつさき)の鎧の総角(あげまき)、甲の錣(しころ)二(ふた)つ三(み)つ打あたる程近付て、一同に咄(どつ)と喚(をめい)て、礒打(いそうつ)波の岩に当て返るが如(ごとく)取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)が兵共(つはものども)、可引帰程の隙もなければ、矢庭(やには)に討(うた)るゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、散々に切立(きりたて)られて、馬をかけ開(ひらい)て逃(にげ)けるが、本陣をも馳過(はせすぎ)て、二十(にじふ)余町(よちやう)ぞ引たりける。  
楠正行最期(さいごの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に師直と楠とが間、一町(いつちやう)許(ばかり)に成(なり)にけり。是(これ)ぞ願ふ処の敵よと見澄(みすま)して、魯陽(ろやう)二度(にど)白骨を連(つらね)て韓構(かんこう)に戦(たたかひ)ける心も、是(これ)には過(すぎ)じと勇(いさみ)悦(よろこび)て、千里を一足(ひとあし)に飛て懸らんと、心許(ばかり)は早(はや)りけれども、今朝の巳(みの)刻(こく)より申(さるの)時の終まで、三十(さんじふ)余度(よど)の戦に、息(いき)絶(たえ)気疲るゝのみならず、深手浅手負(おは)ぬ者も無りければ、馬武者を追攻(おつつめ)て可討様ぞ無りける。され共多(おほく)の敵共(てきども)四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちらし)て、師直七八十騎にて控(ひかへ)たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円(せきぢりやうゑん)・河辺石掬丸(かはべいしきくまる)、我先(さき)我先(さき)とぞ進たる。余(あまり)に辞理(じり)なく懸(かけ)られて、師直已(すでに)引色(ひきいろ)に見へける処に、九国(くこく)の住人(ぢゆうにん)須々木四郎とて、強弓(つよゆみ)の矢つぎ早(ばや)、三人(さんにん)張(ばり)に十三束二伏(じふさんぞくふたつぶせ)、百歩(ひやつぽ)に柳の葉を立て、百矢(ももや)をはづさぬ程の射手(いて)の有けるが、人の解捨(ときすて)たる箙(えびら)、竹尻篭(しこ)・(やなぐひ)を掻抱(かきだ)く許(ばかり)取集(とりあつめ)て、雨の降(ふる)が如く矢坪(やつぼ)を指てぞ射たりける。
一日著暖(きあたため)たる物具なれば、中(あたる)と当る矢、箆深(のぶか)に立(たた)ぬは無りけり。楠次郎眉間(みけん)ふえのはづれ射られて抜(ぬく)程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎(さき)、左の目尻(まじり)、箆深(のぶか)に射られて、其(その)矢、冬野の霜に臥(ふし)たるが如く折懸(をりかけ)たれば、矢すくみに立てはたらかず。其(その)外三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、矢三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬ者も無りければ、「今は是(これ)までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違(さしちが)へ北枕(きたまくら)に臥(ふし)ければ、自余(じよ)の兵三十二人(さんじふににん)、思々(おもひおもひ)に腹掻(かき)切て、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り臥す。
和田新発意(しんぼち)如何して紛(まぎ)れたりけん、師直が兵の中に交(まじ)りて、武蔵守(むさしのかみ)に差違(さしちがへ)て死(しな)んと近付(ちかづき)けるを、此(この)程河内より降参したりける湯浅本宮(ゆあさほんぐう)太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後(うしろ)へ立回(まはり)、諸膝切て倒(たふるる)所を、走寄て頚を掻(かか)んとするに、和田新発意(しんぼち)朱(しゆ)を酒(そそ)きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨(にら)む。其(その)眼終(つひ)に塞(ふさが)ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯浅臆(おく)してや有けん、其日より病付て身心悩乱(なうらん)しけるが、仰(あふの)けば和田が忿(いかり)たる顔天に見へ、俯(うつぶ)けば新発意(しんぼち)が睨める眼地に見へて、怨霊(をんりやう)五体(ごたい)を責(せめ)しかば、軍(いくさ)散(さん)じて七日と申に、湯浅あがき死(じに)にぞ死にける。
大塚掃部助(かもんのすけ)手負(ておう)たりけるが、楠猶跡(あと)に有共しらで、放馬(はなれうま)の有けるに打乗て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰(はせかへり)、大勢の中へ蒐(かけ)入て、切死(きりじに)にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝(まさとも)は、吉野殿(よしのどの)に参て事の由を申さんとや思(おもひ)けん、只一人鎧一縮(いつしゆく)して、歩立(かちだち)に成て、太刀を右の脇(わき)に引側(ひきそば)め、敵の頚一つ取て左の手に提(ひつさげ)て、東条の方へぞ落行(おちゆき)ける。安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)只一騎馳(はせ)合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨(みすて)て落られ候こそ無情覚(おぼえ)候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞(ことば)を懸(かけ)ければ、和田新兵衛打笑(うちわらう)て、「返(かへす)に難き事か。」とて、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の太刀の貝(かひ)しのぎに、血の著たるを打振て走(はしり)懸る。
忠実一騎相(いつきあひ)の勝負(しようぶ)叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留(とどま)れば正朝又落(おつ)、落行(おちゆけ)ば忠実又追懸(おつかけ)、々々(おつかく)れば止(とどま)り、一里許(ばかり)を過(すぐ)る迄、互(たがひに)不討不被討して日已(すで)に夕陽(せきやう)に及ばんとす。斯(かか)る処に青木(あをき)次郎・長崎彦九郎二騎、箙(えびら)に矢少し射残して馳(はせ)来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺(くさずり)の余(あまり)引合(ひきあはせ)の下、七筋(しちすぢ)まで射立(いたて)られて、新兵衛遂(つひ)に忠実に首をば取(とら)れにけり。
総(すべ)て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、相順(あひしたが)ふ兵百四十三人(しじふさんにん)、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双(ぶさう)の功に残せり。先年奥州(あうしう)の国司顕家(あきいへの)卿(きやう)、安部野にて討(うた)れ、武将新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、越前にて亡(ほろび)し後は、遠国に宮方(みやがた)の城郭(じやうくわく)少々有といへ共、勢未(いまだ)振(ふる)はざれば今更驚(おどろく)に不足。唯(ただ)此(この)楠許(ばかり)こそ、都近き殺所(せつしよ)に威(ゐ)を逞(たくまし)くして、両度まで大敵を靡(なび)かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮(えいりよ)を令悦、京都の敵も虎の山に靠(よりかかる)恐懼(きようく)を成(なさ)れつるに、和田・楠が一類(いちるゐ)皆片時(へんし)に亡びはてぬれば、聖運已(すで)に傾(かたぶき)ぬ。武徳誠(まこと)に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。  
芳野炎上(えんしやうの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に楠が館(たち)をも焼払(やきはら)ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰六千(ろくせん)余騎(よき)にて、正月八日和泉(いづみ)の堺の浦を立て、石川(いしかは)河原(かはら)に先(まづ)向城(むかひじやう)をとる。武蔵守(むさしのかみ)師直は、三万(さんまん)余騎(よき)の勢(せい)を卒(そつ)して、同十四日平田(ひらた)を立て、吉野の麓(ふもと)へ押寄する。
其(その)勢已(すで)に吉野郡(こほり)に近付(ちかづき)ぬと聞へければ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、急ぎ黒木(くろき)の御所に参て、「昨日正行已(すで)に討(うた)れ候。又明日師直皇居(くわうきよ)へ襲来仕(しふらいつかまつる)由聞へ候。当山(たうざん)要害(えうがい)の便(たより)稀(まれ)にして、可防兵更(さら)に候はず。今夜急ぎ天河(てんのかは)の奥加納(あなふ)の辺へ御忍(おんしのび)候べし。」と申(まうし)て、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を内侍典司(ないしのすけ)に取出させ、寮(れう)の御馬(おんむま)を庭前(ていぜん)に引立(ひきたて)たれば、主上(しゆしやう)は万づ思食分(おぼしめしわけ)たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木(くろき)の御所を立出させ給へば、女院(によゐん)・皇后・准后(じゆごう)・内親王(ないしんわう)・宮々を始進(はじめまゐら)せて、内侍・上童(うへわらは)・北(きたの)政所(まんどころ)・月卿(げつけい)雲客(うんかく)・郎吏(らうり)・従官・諸寮の頭(かみ)・八省(はつしやう)の輔(すけ)・僧正(そうじやう)・僧都・児(ちご)・房官に至るまで、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、周章(あわて)騒ぎ倒(たふ)れ迷(まよひ)て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分(わけ)て、吉野の奥へ迷入る。
思へば此(この)山中とても、心を可留所ならねども、年久(ひさしく)住狎(なれ)ぬる上、行末は猶(なほ)山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣(おもひやる)に付(つけ)ても、涙は袖にせき敢(あへ)ず。主上(しゆしやう)勝手(かつて)の宮(みや)の御前(おんまへ)を過(すぎ)させ給ひける時、寮(れう)の御馬(おんむま)より下(おり)させ給て、御泪の中に一首(いつしゆ)かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑(たのむ)かひ無(なき)に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜(をし)けれ異国の昔は、唐の玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)、楊貴妃(やうきひ)故(ゆゑ)に安禄山に傾(かたむけ)られて、蜀(しよく)の剣閣山(けんかくさん)に幸(みゆき)なる。我朝(わがてう)の古(いにしへ)は、清見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大友(おほとも)の宮(みや)に襲(おそ)はれて、此(この)吉野山に隠(かくれ)給(たまひ)き。
是(これ)皆逆臣(げきしん)暫(しばらく)世を乱るといへども、終(つひ)には聖主大化を施(ほどこ)されし先蹤(せんしよう)なれば、角(かく)てはよも有(あり)はてじと思食准(おぼしめしなぞらふ)る方(かた)は有ながら、貴賎男女周章騒(あわてさわい)で、「こはそも何(いづ)くにか暫(しばし)の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟(えいきん)更に無休時。
去(さる)ほどに武蔵守(むさしのかみ)師直、三万(さんまん)余騎(よき)を卒(そつ)して吉野山に押寄せ、三度(さんど)時の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ音もせず。さらば焼払(やきはら)へとて、皇居(くわうきよ)並(ならびに)卿相雲客(けいしやううんかく)の宿所(しゆくしよ)に火を懸(かけ)たれば、魔風(まふう)盛に吹懸て、二丈(にぢやう)一基(いつき)の笠鳥居(かさとりゐ)・二丈(にぢやう)五尺(ごしやく)の金の鳥居・金剛(こんがう)力士の二階(にかい)の門・北野天神示現(じげん)の宮(みや)・七十二間の回廊(くわいらう)・三十八所の神楽屋(かぐらや)・宝蔵(はうざう)・竃殿(へついどの)・三尊(さんぞん)光を和(やはら)げて、万人(ばんにん)頭(かうべ)を傾(かたぶく)る金剛蔵王(こんがうざわう)の社壇(しやだん)まで、一時に灰燼(くわいじん)と成ては、烟(けむり)蒼天(さうてん)に立登る。浅猿(あさまし)かりし有様也(なり)。
抑(そもそも)此(この)北野天神の社壇と申(まうす)は、承平四年八月朔日に、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人頓死(とんし)し給たりしを、蔵王(ざわう)権現左の御手(おんて)に乗(の)せ奉て、炎魔王宮(えんまわうぐう)に至(いたり)給ふに、第一(だいいち)の冥官(みやうくわん)、一人の倶生神(くしやうじん)を相副(そへ)て、此(この)上人に六道(ろくだう)を見せ奉る。鉄窟苦所(てつくつくしよ)と云(いふ)所に至て見給ふに、鉄湯(てつたうの)中に玉(たまの)冠(かぶり)を著て天子の形なる罪人あり。手を揚(あげ)て上人を招(まねき)給ふ。何(いか)なる罪人ならんと怪(あやしみ)て立寄て見給へば、延喜(えんぎ)の帝(みかど)にてぞ御座(おはしま)しける。上人御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て、「君御在位(ございゐ)の間、外には五常(ごじやう)を正して仁義を専(もつぱら)にし、内には五戒(ごかい)を守て慈悲(じひ)を先(さき)とし御坐(おはせ)しかば、何(いか)なる十地等覚(じふぢとうがく)の位にも到らせ給(たまひ)ぬらんとこそ存(ぞんじ)候(さうらひ)つるに、何故(なにゆゑ)に斯(かか)る地獄には堕(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と尋(たづね)申されければ、帝は御涙(おんなみだ)を拭(のご)はせ給て、「吾(われ)在位の間、万機(ばんき)不怠撫民治世しかば、一事(いちじ)も誤(あやま)る事無りしに、時平(しへい)が讒(ざん)を信じて、無罪菅丞相(くわんしようじやう)を流したる故(ゆゑ)に、此(この)地獄に堕(おち)たり。
上人今冥途(めいど)に趣(おもむき)給ふといへ共、非業(ひごふ)なれば蘇生(そせい)すべし。朕(ちん)上人と師資(しし)の契(ちぎり)不浅、早(はやく)娑婆(しやば)に帰(かへり)給はゞ、菅丞相(くわんしようじやう)の廟(べう)を建(たて)て化導利生(けだうりしやう)を専(もつぱら)にし給(たまふ)べし。さてぞ朕(ちん)が此(この)苦患(くげん)をば可免。」と、泣々(なくなく)勅宣(ちよくせん)有けるを、上人具(つぶさ)に承(うけたまはり)て、堅(かたく)領状(りやうじやう)申(まうす)と思へば、中十二日と申(まうす)に、上人生(いき)出給(たまひ)にけり。
冥土(めいど)にて正(まさし)く勅(ちよく)を承(うけたまは)りし事なればとて、則(すなはち)吉野山に廟(べう)を建(たて)、利生方便(はうべん)を施(ほどこ)し給(たまひ)し天神の社壇(しやだん)是(これ)也(なり)。蔵王権現と申(まうす)は、昔役優婆塞(えんのうばそく)済度(さいど)利生の為に金峯山(きんぶせん)に一千日篭(こもつ)て、生身(しやうじん)の薩(さつた)を祈(いのり)給(たまひ)しに、此(この)金剛蔵王、先(まづ)柔和忍辱(にうわにんにく)の相(さう)を顕(あらは)し、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の形にて地より涌出(ゆしゆつ)し玉ひたりしを、優婆塞(うばそく)頭(かうべ)を掉(ふつ)て、未来悪世の衆生を済度(さいど)せんとならば、加様(かやう)の御形にては叶(かなふ)まじき由を被申ければ、則(すなはち)伯耆の大山(たいせん)へ飛去(さり)給(たまひ)ぬ。
其(その)後忿怒(ふんど)の形を顕(あらは)し、右の御手(おんて)には三鈷(さんこ)を握(にぎつ)て臂(ひぢ)をいらゝげ、左の御手(おんて)には五(いつつの)指(ゆび)を以て御腰(おんこし)を押へ玉ふ。一睨(いちげい)大に忿(いかつ)て魔障降伏(ましやうがうぶく)の相(さう)を示し、両脚(りやうきやく)高く低(たれ)て天地経緯(けいゐ)の徳を呈(あらは)し玉へり。示現(じげん)の貌(かたち)尋常(よのつね)の神に替(かはつ)て、尊像(そんざう)を錦帳(きんちやう)の中に鎖(とざ)されて、其(その)涌出(ゆしゆつ)の体(てい)を秘せん為に、役(えん)の優婆塞(うばそく)と天暦(てんりやく)の帝(みかど)と、各手自(てづから)二尊(にそん)を作(つくり)副(そへ)て三尊(さんぞん)を安置し奉(たてまつり)玉ふ。
悪愛(をあい)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に示して、彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)し、賞罰(しやうばつ)を三千(さんぜん)世界に顕(あらは)して、人を悩(なやま)し物を利(り)す。総(すべ)て神明権迹(しんめいごんせき)を垂(たれ)て七千(しちせん)余坐、利生の新(あらた)なるを論ずれば、無二亦無三(むにやくむさん)の霊験(れいげん)也(なり)。斯(かか)る奇特(きどく)の社壇仏閣を一時に焼払(やきはらひ)ぬる事誰か悲(かなしみ)を含(ふく)まざらん。されば主(ぬし)なき宿の花は、只露に泣ける粧(よそほひ)をそへ、荒(あれ)ぬる庭の松までも、風に吟(ぎん)ずる声を呑(のむ)。天の忿(いか)り何(いづ)れの処にか帰(き)せん。此(この)悪行(あくぎやう)身に留(とま)らば、師直忽(たちまち)に亡(ほろび)なんと、思はぬ人は無りけり。  
賀名生(あなふ)皇居(くわうきよの)事(こと)
貞和(ぢやうわ)五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族(いちぞく)皆亡びて、今は正行が舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)正儀許(ばかり)生残(いきのこり)たりと聞へしかば、此(この)次(ついで)に残る所なく、皆退治(たいぢ)せらるべしとて、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰三千(さんぜん)余騎(よき)にて、石河々原に向城(むかひじやう)を取て、互(たがひ)に寄(よせ)つ被寄つ、合戦の止(やむ)隙(ひま)もなし。
吉野の主上(しゆしやう)は、天の河の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所に僅(わづか)なる黒木(くろき)の御所を造(つく)りて御座(ござ)あれば、彼唐尭虞舜(かのたうげうぐしゆん)の古へ、茅茨(ばうし)不剪柴椽(さいてん)不削、淳素(じゆんそ)の風も角(かく)やと思知(おもひしら)れて、誠なる方も有ながら、女院(にようゐん)皇后は、柴(しば)葺(ふく)庵(いほ)のあやしきに、軒(のき)漏(もる)雨を禦(ふせ)ぎかね、御袖(おんそで)の涙ほす隙(ひま)なく、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、木の下岩の陰に松葉を葺(ふき)かけ、苔(こけ)の筵(むしろ)を片敷(かたしき)て、身を惜(お)く宿とし給へば、高峯(たかね)の嵐吹落(ふきおち)て、夜(よる)の衣(ころも)を返せども、露の手枕(たまくら)寒ければ、昔を見する夢もなし。
況乎(いはんや)其郎従眷属(そのらうじゆうけんぞく)たる者は、暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾(ひろう)ては、雪を戴(いただ)くに膚(はだへ)寒く、幽谷(いうこく)の水を掬(むすん)では、月を担(にな)ふに肩やせたり。角(かく)ては一日片時(いちにちへんし)も有ながらへん心地(ここち)もなけれ共(ども)、さすがに消(きえ)ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑(たのみ)を懸(かけ)てや残るらん。  
執事兄弟奢侈(しやしの)事(こと)
夫(それ)富貴(ふつき)に驕(おご)り功に侈(おごつ)て、終(をはり)を不慎は、人の尋常(よのつね)皆ある事なれば、武蔵守(むさしのかみ)師直今度南方の軍に打勝て後、弥(いよいよ)心奢(おご)り、挙動(ふるまひ)思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄(てうろう)をも知(しら)ぬ事共(ことども)多かりけり。常の法には、四品(しほん)以下の平侍(ひらざむらひ)武士なんどは、関板(せきいた)打(うた)ぬ舒葺(のしぶき)の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此(この)師直は一条今出川に、故(こ)兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の御母堂(ごぼだう)、宣旨(せんじ)の三位(さんみ)殿(どの)の住荒(すみあら)し給ひし古御所(ふるごしよ)を点(てん)じて、棟門唐門(むねもんからもん)四方(しはう)にあけ、釣殿(つりどの)・渡殿(わたりどの)・泉殿(いづみどの)、棟梁(むねうつばり)高(たかく)造り双(ならべ)て、奇麗(きれい)の壮観を逞(たくまし)くせり。
泉水(せんすゐ)には伊勢・島(しま)・雑賀(さいが)の大石共を集(あつめ)たれば、車輾(きしり)て軸を摧(くだ)き、呉牛(ごぎう)喘(あへぎ)て舌を垂る。樹(うゑき)には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上(をのへ)の松・露霜染(そめ)し紅(くれなゐ)の八(や)しほの岡(をか)の下紅葉(したもみぢ)・西行法師が古(いにしへ)枯葉の風を詠(ながめ)たりし難波(なには)の葦(あし)の一村・在原(ありはらの)中将(ちゆうじやう)の東(あづま)に旅に露分(わけ)し宇津の山辺(やまべ)のつた楓(かへで)、名所々々の風景を、さながら庭に集(あつめ)たり。又月卿(げつけい)雲客(うんかく)の御女(おんむすめ)などは、世を浮草の寄方(よるかた)無(なく)て、誘引(さそふ)水あらばと打佗(わび)ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申(まうす)も無止事宮腹(みやはら)など、其(その)数を不知、此彼(ここかしこ)に隠(かくし)置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻(みやめぐり)に、手向(たむけ)を受(うけ)ぬ神もなし。」と、京童部(わらんべ)なんどが咲種(わらひぐさ)なり 。
加様(かやう)の事多かる中にも、殊更冥加(みやうが)の程も如何(いか)がと覚(おぼえ)てうたてかりしは、二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)の御妹(おんいもと)、深宮(しんきゆう)の中に被冊、三千(さんぜん)の数にもと思召(おぼしめし)たりしを、師直盜(ぬすみ)出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕(うちあらは)れたる振舞にて、憚(はばか)る方も無りけり。角(かく)て年月を経(へ)しかば、此(この)御腹(おんはら)に男子一人出来て、武蔵(むさし)五郎とぞ申(まうし)ける。さこそ世の末ならめ。忝(かたじけなく)も大織冠(たいしよくわん)の御末太政大臣(だいじやうだいじん)の御妹(おんいも)と嫁(か)して、東夷(とうい)の礼なきに下らせ給ふ。
浅猿(あさまし)かりし御事(おんこと)なり。是等(これら)は尚(なほ)も疎(おろそ)か也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰が悪行(あくぎやう)を伝(つたへ)聞(きく)こそ不思議(ふしぎ)なれ。東山の枝橋(えだはし)と云(いふ)所に、山庄(さんさう)を造らんとて、此(この)地の主を誰(たれ)ぞと問(とふ)に、北野の長者(ちやうじや)菅(くわんの)宰相(さいしやう)在登卿(ありのりきやう)の領地(りやうち)也(なり)と申ければ、軈(やが)て使者を立て、此(この)所を可給由を所望しけるに、菅(くわんの)三位(さんみ)、使に対面して、「枝橋(えだはし)の事御山庄(さんさう)の為に承(うけたまはり)候上は、子細あるまじきにて候。但(ただし)当家の父祖(ふそ)代々(だいだい)此(この)地に墳墓(ふんむ)を卜(しめ)て、五輪(ごりん)を立(たて)、御経を奉納(ほうなふ)したる地にて候へば、彼墓(かのはか)じるしを他所へ移し候はむ程は、御待(おんまち)候べし。」とぞ返事をしたりける。
師泰是(これ)を聞て、「何条(なんでう)其(その)人惜まんずる為にぞ、左様(さやう)の返事をば申(まうす)らん。只其(その)墓共皆掘崩(ほりくづ)して捨(すて)よ。」とて、軈(やが)て人夫(にんぶ)を五六百人(ごろつぴやくにん)遣(つかはし)て、山を崩し木を伐(きり)捨て地(ぢ)を曳(ひく)に、塁々(るゐるゐ)たる五輪(ごりん)の下に、苔(こけ)に朽(くち)たる尸(かばね)あり。或(あるひ)は々(せんせん)たる断碑(だんひ)の上(うへに)、雨に消(きえ)たる名もあり。青塚(せいちよ)忽(たちまち)に破て白楊(はくやう)已(すで)に枯(かれ)ぬれば、旅魂幽霊(りよこんいうれい)何(いづ)くにか吟(さまよ)ふらんと哀(あはれ)也(なり)。是(これ)を見て如何なるしれ者か仕(し)たりけん、一首(いつしゆ)の歌を書て引土(ひきつち)の上にこそ立たりける。
無(なき)人のしるしの率都婆(そとば)堀棄(ほりすて)て墓なかりける家作(いへつくり)哉越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)落書(らくしよ)を見て、「是は何様(なにさま)菅三位(くわんのさんみ)が所行(しよぎやう)と覚(おぼゆ)るぞ。当座の口論に事を寄(よせ)て差(さし)殺せ。」とて、大覚寺殿(だいかくじどの)の御寵童(ごちようどう)に吾護殿(ごごどの)と云ける大力(だいりき)の児(ちご)を語(かたらひ)て、無是非菅(くわんの)三位(さんみ)を殺させけるこそ不便(ふびん)なれ。此(この)人聖廟(せいべう)の祠官(しくわん)として文道(ぶんだう)の大祖(たいそ)たり。何事の神慮に違(ちが)ひて、無実(むじつ)の死刑に逢(あひ)ぬらん。只是(これ)魏(ぎ)の弥子瑕(びしか)が鸚鵡州(あうむしう)の土に埋(うづ)まれし昔の悲(かなしみ)に相似たり。又此(この)山庄(さんさう)を造りける時、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆陰(たかかげ)卿(きやう)の青侍(あをざぶらひ)大蔵(おほくらの)少輔(せう)重藤(しげふぢ)・古見(こみの)源左衛門(げんざゑもん)と云ける者二人(ににん)此(この)地を通(とほ)りけるが、立寄て見るに、地を引(ひく)人夫(にんぶ)共(ども)の汗を流し肩を苦しめて、休む隙(ひま)なく仕(つか)はれけるを見て、「穴(あな)かはゆや、さこそ卑(いや)しき夫(ぶ)也(なり)とも、是(これ)程までは打はらず共あれかし。」と慙愧(ざんき)してぞ過(すぎ)行(ゆき)ける。
作事奉行(さくじぶぎやう)しける者の中間是(これ)を聞て、「何者(なにもの)にて候哉覧(やらん)、爰(ここ)を通る本所(ほんじよ)の侍が、浩(かかり)ける事を申て過(すぎ)候(さうらひ)つる。」と語りければ、越後(ゑちごの)守(かみ)大に忿(いかつ)て、「安き程の事哉(かな)。夫(ぶ)を労(いたは)らば、しやつ原(ばら)を仕(つか)ふべし。」とて、遥(はるか)に行(ゆき)過(すぎ)たりけるを呼返して、夫(ぶ)の著たるつゞりを着替(きかへ)させ、立烏帽子(たてゑぼし)を引こませて、さしも熱(あつ)き夏の日に、鋤(すき)を取ては土を掻寄(かきよせ)させ石を掘(ほつ)ては(あをた)にて運ばせ、終日(ひねもす)に責仕(せめつか)ひければ、是(これ)を見る人々皆爪弾(つまはじき)をし、「命は能(よく)惜(をし)き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。
是等(これら)は尚(なほ)し少事(せうじ)也(なり)。今年石河川原(かはら)に陣を取て、近辺(きんぺん)を管領(くわんりやう)せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺(てんわうじ)の常燈料(じやうとうれう)所の庄を押(おさ)へて知行せしかば、七百年より以来(このかた)一時も更に不絶仏法常住の灯(とぼしび)も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪(ごくあく)の者か云出しけん。「此(この)辺の塔の九輪(くりん)は太略(たいりやく)赤銅(しやくどう)にてあると覚(おぼゆ)る。哀(あはれ)是を以て鑵子(くわんす)に鋳(い)たらんに何(いか)によからんずらん。」と申(まうし)けるを、越後(ゑちごの)守(かみ)聞てげにもと思(おもひ)ければ、九輪(くりん)の宝形(はうぎやう)一(ひとつ)下(おろし)て、鑵子(くわんす)にぞ鋳(い)させたりける。
げにも人の云(いひ)しに不差。膚(はだへ)(くぼみ)無くして磨(みが)くに光(ひかり)冷々(れいれい)たり。芳甘(はうかん)を酌(くみ)てたつる時、建渓(けんけい)の風味濃(こまやか)也(なり)。東坡(とうば)先生が人間第一(だいいち)の水と美(ほめ)たりしも、此(この)中よりや出たりけん。上(かみ)の好む所に下(しも)必(かならず)随(したが)ふ習(ならひ)なれば、相集(あひあつま)る諸国の武士共(ぶしども)、是(これ)を聞傅(ききつたへ)て、我劣らじと塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)を鋳させける間、和泉・河内の間、数百(すひやく)箇所(かしよ)の塔婆(たふば)共(ども)一基(いつき)も更に直(すぐ)なるはなく、或(あるひ)は九輪(くりん)を被下、ます形許(がたばかり)あるもあり。或(あるひ)は真柱(しんばしら)を切(きら)れて、九層許(きうぞうばかり)残るもあり。二仏の並座(ならびざす)瓔珞(やうらく)を暁の風に漂(ただよ)はせ、五智の如来は烏瑟(うしつ)を夜の雨に潤(うるほ)せり。只守屋(もりや)の逆臣(げきしん)二度(ふたたび)此(この)世に生(うま)れて、仏法を亡(ほろぼ)さんとするにやと、奇(あやし)き程(ほど)にぞ見へたりける。  
上杉畠山讒高家事(こと)付(つけたり)廉頗(れんぱ)藺相如(りんしやうじよが)事(こと)
此(この)時上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)と云(いふ)人あり。才短(たん)にして、官位人よりも高からん事を望み、功(こう)少(すくなく)して忠賞(ちゆうしやう)世に超(こえ)ん事を思(おもひ)しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟(ごきやうだい)の執事(しつじ)として、万づ心に任せたる事を猜(そね)み、境節(をりふし)に著(つけ)ては吹毛(すゐもう)の咎(とが)を争(あらそう)て、讒(ざん)を構(かまゆ)る事無休時。されども将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、執事兄弟無(なく)ては、誰(たれ)か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎(とが)をば耳にも不聞入給、只佞人讒者(ねいじんざんしや)の世を乱らん事を悲まる。夫(それ)天下を取て、世を治(をさむ)る人には、必(かならず)賢才輔弼(けんさいほひつ)の臣下有て、国の乱を鎮(しづ)め君の誤(あやまり)を正(ただ)す者也(なり)。
所謂(いはゆる)尭(げう)の八元(はちげん)・舜(しゆん)の八凱(はちがい)・周(しう)の十乱・漢の三傑・世祖(せいそ)の二十八将・太宗の十八学士(じふはちがくし)皆禄(ろく)厚く官高しといへ共、諸(もろもろ)に有て争(あらそ)ふ心(ここ)ろ無りしかば、互(たがひ)に非(ひ)を諌(いさ)め国をしづめて、只天下の無為(ぶゐ)ならん事をのみ思へり。是(これ)をこそ呼(よん)で忠臣とは申(まうす)に、今高(かう)・上杉(うへすぎ)の両家(りやうけ)中悪(なかあし)くして、動(やや)もすれば得失を差(さし)て其権(そのけん)を奪はんと、心に挿(さしはさみ)て思へる事、豈(あに)忠烈を存ずる人とせんや。言長(ながく)して聞(きく)に懈(おこたり)ぬべしといへ共、暫(しばらく)譬(たとへ)を取て愚(おろか)なる事を述(のぶ)るに、昔異朝(いてう)に卞和(べんくわ)と申(まうし)ける賎(いやし)き者、楚山(そざん)に畑(はた)を打(うち)けるが、廻(まは)り一尺(いつしやく)に余れる石の磨(みが)かば玉に可成を求(もとめ)得たり。
是(これ)私に可用物に非(あら)ず、誰にか可奉と人を待(まち)ける処に、楚(そ)の武王楚山に御狩(みかり)をし給ひけるに、卞和(べんくわ)此(この)石を奉て、「是(これ)は世に無類程の玉にて候べし。琢(みが)かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則(すなはち)玉磨(たまみがき)を召(めし)て是(これ)を被磨に、光更(さらに)無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常(よのつね)の石にて候也(なり)。」とぞ奏しける。武王大に忿(いかつ)て、「さては朕(ちん)を欺(あざむ)ける者也(なり)。」とて、卞和(べんくわ)を召出して其(その)左の足を切て、彼(かの)石を背(せなか)に負(おほ)せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此(この)刑(けい)に合へる事を歎(なげき)て、楚山の中に草庵(さうあん)を結て、此石を乍負、世に玉を知(しる)人のなき事をのみ悲(かなしん)で、年月久く泣居たり。其(その)後三年有て武王隠(かく)れ給(たまひ)しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣(なく)声あり。
文王怪(あやしみ)て泣(なく)故を問給へば、卞和(べんくわ)答(こたへ)て申さく、「臣昔此(この)山に入て畑(はた)を打(うち)し時一(ひとつ)の石を求(もとめ)得たり。是(これ)世に無類程の玉なる間、先朝(せんてう)武王に奉りたりしを、玉磨(たまみが)き見知らずして、只石にて候と申(まうし)たりし間、我(わが)左の足を被斬進(まゐら)せて不慮(ふりよ)の刑に逢(あひ)候(さうらひ)き、願(ねがはく)は此(この)玉を君に献(けん)じて、臣が無罪所を顕(あらは)し候はん。」と申(まうし)ければ、文王大に悦て、此(この)石を又或玉琢(あるたまみがき)にぞ磨(みが)かせられける。是も又不見知けるにや、「是(これ)全(まつた)く玉にては候はず。」と奏(そう)しければ、文王又大に忿(いかつ)て、卞和が右の足を切(きら)せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両(りやうの)足を切られて、五体(ごたい)苦(くるしみ)を逼(せめ)しか共、只二代の君の眼拙(つたな)き事をのみ悲(かなしん)で、終(つひ)に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成(なり)にける。
角(かく)て二十(にじふ)余年(よねん)を過(すぎ)けるに、卞和尚(なほ)命強面(つれなう)して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去(さる)程(ほど)に文王崩(ほう)じ給(たまひ)て太子成王(せいわう)の御代に成(なり)にけり。成王(せいわう)又或時楚山に狩(かり)し給(たまひ)けるに、卞和尚(なほ)先(さき)にもこりず、草庵の内より這(はひ)出て、二代の君に二の足を切(きら)れし故を語て、泣々(なくなく)此(この)石を成王(せいわう)に奉りける。成王(せいわう)則(すなはち)玉磨きを召(めし)て、是(これ)を琢(みが)かせらるゝに、其(その)光天地に映徹(えいてつ)して、無双(ぶさうの)玉に成(なり)にけり。是(これ)を行路(あんろ)に懸(かけ)たるに、車十七両を照しければ、照車(せうしや)の玉共名付け、是(これ)を宮殿にかくるに、夜十二街を耀(かかや)かせば、夜光の玉とも名付たり。誠(まこと)に天上の摩尼珠(まにしゆ)・海底の珊瑚樹(さんごじゆ)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。此(この)玉代代天子の御宝と成て、趙(てう)王の代に伝(つたは)る。
趙王是(これ)を重(おもん)じて、趙璧(てうへき)と名を替(かへ)て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚(あつめ)ね共(ども)書を照す光不暗、輦路(れんろ)に月を不得共(ども)路を分つ影(かげ)明(あきらか)也(なり)。此比(このころ)天下大(おほい)に乱(みだれ)て、諸侯皆威(ゐ)あるは弱きを奪(うば)ひ、大なるは小を亡(ほろぼ)す世に成(なり)にけり。彼(かの)趙国の傍(かたはら)に、秦王(しんわう)とて威勢の王坐(おはし)けり。秦王此(この)趙璧の事を伝(つたへ)聞て、如何にもして奪取(うばひとら)ばやとぞ被巧ける。異国には会盟(くわいめい)とて隣国(りんごく)の王互(たがひ)に国の堺(さかひ)に出合て、羊を殺して其(その)血をすゝり、天神地祇(てんじんちぎ)に誓(ちかひ)て、法を定め約を堅(かたく)して交(まじは)りを結ぶ事あり。此(この)時に隣国(りんごく)に見落されぬれば、当座(たうざ)にも後日にも国を傾けられ、位を奪(うばは)るゝ事ある間、互に賢才(けんさい)の臣、勇猛(ゆうまう)の士を召具(めしぐ)して才を(たくら)べ武を争(あらそふ)習(ならひ)也(なり)。
或時秦王会盟可有とて、趙王に触送(ふれおく)る。趙王則(すなはち)日(ひ)を定(さだめ)て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定(いまださだまらず)血未啜(いまだすすらざる)先(さき)に、秦王宴(えん)を儲(まうけ)て楽(がく)を奏し酒宴終日(ひねもす)に及べり。酒(さけ)酣(たけなは)にして秦王盃(さかづき)を挙(あげ)給ふ時、秦の兵共(つはものども)酔狂(すゐきやう)せる真似(まね)をして、座席(ざせき)に進(すすみ)出て、目を瞋(いからか)し臂(ひぢ)を張(はり)て、「我(わが)君今興(きよう)に和(くわ)して盃(さかづき)を傾(かたぶけ)むとし給ふ。趙王早く瑟(しつ)を調(しらべ)て寿(ことぶき)をなし給へ。」とぞいらで申(まうし)ける。趙王若(もし)辞(じ)せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟(しつ)を調べ給ふ。君の傍(かたはら)には必(かならず)左史右史(さしいうし)とて、王の御振舞(おんふるまひ)と言(ことば)とを註(しる)し留(とどむ)る人あり。
時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先(まづ)有酒宴、秦王盃を挙(あげ)給ふ時、趙王自(みづから)為寿、調瑟とぞ書付(かきつけ)ける。趙王後記に留(とどま)りぬる事心憂(こころう)しと被思けれ共(ども)、すべき態(わざ)なければ力なし。盃回(めぐつ)て趙王又飲(のみ)給ひける時に、趙王の臣下に、始(はじめ)て召仕(めしつか)はれける藺相如(りんしやうじよ)と云(いひ)ける者秦王の前に進出て、剣を拉(ぬ)き臂(ひぢ)をいらゝげて、「我(わが)王已(すで)に秦王の為に瑟(しつ)を調(しらべ)ぬ。秦王何ぞ我(わが)王の為に寿(ことぶき)を不為べき。秦王若(もし)此(この)事辞(じ)し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申(まうし)て、誠(まこと)に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞(じ)するに言(ことば)無ければ自(みづか)ら立て寿(ことぶき)をなし、缶(ほとぎ)を打(うつて)舞(まひ)給ふ。則(すなはち)趙の左大史進(すすみ)出て、其(その)年月の何日(いくか)の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙(あげ)給ふ時、秦王自ら酌(しやく)を取て缶(ほとぎ)を打畢(をはん)ぬと、委細の記録を書留(かきとどめ)て、趙王の恥をぞ洗(すすぎ)ける。
右(かく)て趙王帰らんとし給(たまひ)ける時、秦王傍(かたはら)に隠せる兵二十万騎(にじふまんぎ)、甲胄(かつちう)を帯して馳(はせ)来れり。秦王此(この)兵を差招(さしまねき)て、趙王に向て宣(のたまひ)けるは、「卞和(べんくわ)が夜光の玉、世に無類光ありと伝(つたへ)承(うけたまは)る。願(ねがはく)は此(この)玉を給て、秦の十五城を其(その)代(かわり)に献(けん)ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽(たちまち)に破(やぶれ)て永く胡越(こゑつ)を隔(へだつ)る思(おもひ)をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城(いちじやう)と云は方三百六十里(ろくじふり)也(なり)。其を十五合(あは)せたらん地は宛(あだかも)二三箇国(さんかこく)にも及(およぶ)べし。縦(たとひ)又玉を惜(をしみ)て十五城に不替共、今の勢にては無代(むたい)に奪(うばは)れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替(かへ)て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是(これ)を得て後十五城に替(かへ)たりし玉なればとて、連城(れんじやう)の玉とぞ名付(なづけ)ける。其(その)後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽(たちまちに)約を変(へんじ)て、一城(いちじやう)をも不出、玉をも不被返、只使を欺(あざむ)き礼を軽(かろく)して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲(あざけ)り甚(はなはだ)し。
爰(ここ)に彼(かの)藺相如(りんしやうじよ)、趙王の御前(おんまへ)に参て、「願(ねがはく)は君(きみ)臣(しん)に被許ば、我(われ)秦王の都に行向(ゆきむかつ)て、彼(かの)玉を取返して君の御憤(おんいきどほり)を休め奉るべし。」と申(まうし)ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已(すでに)国(くに)大に兵多(おほく)して、我が国の力及(および)がたし。縦(たとひ)兵を引て戦を致す共、争(いかで)か此(この)玉を取返(とりかへす)事を得んや。」と宣(のたま)ひければ、藺相如、「兵を引(ひき)力を以て玉を奪はんとには非(あら)ず。我(われ)秦王を欺(あざむい)て可取返謀(はかりこと)候へば、只御許容(きよよう)を蒙(かうむつ)て、一人(いちにん)罷向(まかりむかふ)べし。」と申(まうし)ければ、趙王猶(なほ)も誠しからず思(おもひ)給(たまひ)ながら、「さらば汝(なんぢ)が意に任すべし。」とぞ被許ける。
藺相如悦て、軈(やが)て秦(しんの)国(くに)へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟(けんげき)をも不帯、衣冠(いくわん)正しくして車に乗(のり)専使(せんし)の威儀を調(ととのへ)て、秦王の都へぞ参(まゐり)ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直(ぢき)に可奏事有て参たる由を申入(まうしいれ)ければ、秦王南殿(なでん)に出御(しゆつぎよ)成て、則(すなはち)謁を成し給ふ。藺相如畏(かしこまつ)て申けるは、「先年君王に献(けん)ぜし夜光の玉に、隠(かく)れたる瑕(きず)の少し候を、角共(かくとも)知(しら)せ進(まゐら)せで進(しんじ)置(おき)候(さふらひ)し事、第一(だいいち)の越度(をつど)にて候。凡(およそ)玉の瑕(きず)をしらで置ぬれば、遂(つひ)に主の宝(たから)に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此(この)玉の瑕(きず)を君に知(しら)せ進(まゐ)らせん為に参て候也(なり)。」と申(まうし)ければ、秦王悦て彼(かの)玉を取出し、玉盤(ぎよくばん)の上にすへて、藺相如が前に被置たり。
藺相如、此(この)玉を取て楼閣(ろうかく)の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫(それ)君子(くんし)は食言(しよくげん)せず、約の堅き事如金石。抑(そもそも)趙王心あきたらずといへ共、秦王強(しひ)て十五城を以て此玉に替(かへ)給ひき。而(しかる)に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是(これ)盜跖(たうせき)が悪(あく)にも過(すぎ)、文成(ぶんせい)が偽(いつはり)にも越(こえ)たり。此(この)玉全(まつた)く瑕(きず)あるに非(あら)ず。只臣が命を玉と共に砕(くだき)て、君王の座に血を淋(そそ)がんと思ふ故(ゆゑ)に参て候也(なり)。」と忿(いかつ)て、玉と秦王とをはたと睨(にら)み、近づく人あらば、忽(たちまちに)玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠(まこと)に思切たる眼(まな)ざし事(こつ)がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言(ことば)なく、群臣(ぐんしん)恐れて不近付。藺相如遂(つひ)に連城(れんじやう)の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。
趙王玉を得て悦び給ふ事不斜(なのめならず)。是(これ)より藺相如を賞翫(しやうくわん)せられて、大禄(たいろく)を与へ、高官を授(さづけ)給しかば、位外戚(ぐわいせき)を越(こえ)、禄(ろく)万戸(ばんこ)に過(すぎ)たり。軈(やが)て牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側(そばめ)て皆道を去る。爰(ここ)に廉頗(れんぱ)将軍(しやうぐん)と申(まうし)ける趙王の旧臣、代々(だいだい)功を積み忠を重(かさね)て、我に肩を双(なら)ぶべき者なしと思けるが、忽(たちまち)に藺相如に権(けん)を被取、安からぬ事に思(おもひ)ければ、藺相如が参内しける道に三千(さんぜん)余騎(よき)を構(かま)へて是を討(うた)んとす。藺相如も勝(すぐれ)たる兵千(せん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して、出仕しけるが、遥(はるか)に廉頗が道にて相待(あひまつ)体(てい)を見て戦(たたかは)むともせず、車を飛(とば)せ兵を引て己が館(たち)へぞ逃去(にげさり)ける。
廉頗が兵是(これ)を見て、「さればこそ藺相如、勢(いきほ)ひ只他の力をかる者也(なり)。直(ぢき)に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指(こゆび)にだにも及ばじ。」と、笑欺(わらひあざむ)ける間、藺相如が兵心憂(こころうき)事に思(おもひ)て、「さらば我等(われら)廉頗が館(たち)へ押寄せ、合戦の雌雄(しゆう)を決して、彼(かの)輩(ともがら)が欺(あざむき)を防がん。」とぞ望(のぞみ)ける。藺相如是(これ)を聞て、其(その)兵に向て涙を流(ながし)て申(まうし)けるは、「汝等未知(いまだしらず)乎、両虎(りやうこ)相闘(たたかう)て共に死する時、一狐(いつこ)其(その)弊(つひえ)に乗て是(これ)を咀(かむ)と云(いふ)譬(たとへ)あり。今廉頗と我とは両虎也(なり)。戦(たたかは)ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐(いつこ)也(なり)。弊(つひえ)に乗て趙をくらはんに、誰か是(これ)をふせがん。此(この)理を思う故(ゆゑ)に、我廉頗に戦(たたかは)ん事を不思一朝の欺(あざむき)を恥(はぢ)て、両国の傾(かたぶか)ん事を忘れば、豈(あに)忠臣にあらん哉(や)。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企(くはたて)を休(やめ)てけり。
廉頗又此(この)由を聞て黙然(もくねん)として大に恥(はぢ)けるが、尚(なほ)我が咎(とが)を直(ぢき)に謝(しや)せん為に、杖(つえ)を背(せなか)に負(おう)て、藺相如が許(もと)に行(ゆき)、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執(くわくしつ)の心を恥づ、願(ねがはく)は公我を此(この)杖にて三百打(うち)給へ、是(これ)を以て罪を謝せん。」と請(こう)て、庭に立(たち)てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是(これ)を可打。廉頗を引て堂上(だうじやう)に居(す)へ、酒を勧(すす)め交(まじはり)を深(ふかく)して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟(はさまれ)て、地せばく兵少しといへども、此二人(ににん)文を以て行(おこな)ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也(なり)。誠(まこと)に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮(とういなんばん)は如虎窺(うかが)ひ、西戎北狄(せいじゆうほくてき)は如竜見る折節、高(かう)・上杉の両家(りやうけ)、差(さし)たる恨(うらみ)もなく、又とがむべき所もなきに、権(けん)を争ひ威(ゐ)を猜(そねみ)て、動(ややもす)れば確執(かくしつ)に及ばんと互に伺隙事豈(あに)忠臣と云(いふ)べしや。  
妙吉侍者(めうきつじしやの)事(こと)付(つけたり)秦(しんの)始皇帝(しくわうていの)事(こと)
近来(このころ)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)、将軍に代(かはつ)て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨(しゆうし)に傾(かたむい)て夢窓(むさう)国師の御弟子(おんでし)と成り、天竜寺(てんりゆうじ)を建立(こんりふ)して陞座拈香(しんそねんかう)の招請(てうしやう)無隙、供仏施僧(くぶつせそう)の財産不驚目云(いふ)事無りけり。爰(ここ)に夢窓国師の法眷(はつけん)に、妙吉侍者と云ける僧是(これ)を見て浦山敷(うらやましき)事に思ひければ、仁和寺(にんわじ)に志一房(しいちばう)とて外法成就(げほふじやうじゆ)の人の有(あり)けるに、荼祇尼天(だぎにてん)の法を習(ならひ)て三七日行(おこな)ひけるに、頓法(とんぼふ)立(たちどころ)に成就(じやうじゆ)して、心に願ふ事の聊(いささか)も不叶云(いふ)事なし。
是より夢窓和尚(むさうをしやう)も此(この)僧を以て一大事(いちだいじ)に思ふ心著(つき)給ひにければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の被参たりける時、和尚(をしやう)宣(のたまひ)けるは、「日夜の参禅(さんぜん)、学道の御為に候へば、如何にも懈(おこた)る処をこそ勧め申(まうす)べく候へ共、行路(かうろ)程遠(とほう)して、往還(わうくわん)の御煩(おんわづらひ)其(その)恐(おそれ)候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申(まうす)法眷(はつけん)の僧の候(さうらふ)を参らせ候べし。語録(ごろく)なんどをも甲斐々々敷(かひがひしく)沙汰し、祖師(そし)の心印をも直(ぢき)に承当(しようたう)し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看(ごしやうかん)候(さふらひ)て御法談候べし。」とて、則(すなはち)妙吉侍者を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被遣ける。
直義(ただよし)朝臣(あそん)一度(いちど)此(この)僧を見奉りしより、信心胆(きも)に銘(めい)じ、渇仰(かつがう)無類ければ、只西天(てんの)祖達磨(だるま)大師(だいし)、二度(にど)我国に西来して、直指人心(ぢきしじんしん)の正宗(しようしゆう)を被示かとぞ思はれける。軈(やがて)一条堀川(いちでうほりかは)村雲(むらくも)の反橋(もどりばし)と云(いふ)所に、寺を立て宗風(しゆうふう)を開基(かいき)するに、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)日夜の参学(さんがく)朝夕の法談無隙ければ、其(その)趣(おもむき)に随(したが)はん為に山門寺門の貫主(くわんじゆ)、宗(しゆう)を改めて衣鉢(えはつ)を持ち、五山十刹(ごさんじつさつ)の長老も風(ふう)を顧(かへりみ)て吹挙(すゐきよ)を臨(のぞ)む。況乎(いはんや)卿相雲客(けいしやううんかく)の交(まじは)り近づき給ふ有様、奉行頭人(とうにん)の諛(へつらう)たる体(てい)、語るに言(ことば)も不可及。車馬門前に立列(たちつらね)僧俗堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)す。其(その)一日の布施物(ふせもつ)一座の引手物(ひきでもの)なんど集めば、如山可積。
只釈尊(しやくそん)出世の其(その)古(いにしへ)、王舎城(わうしやじやう)より毎日五百(ごひやく)の車に色々の宝を積(つん)で、仏に奉り給ひけるも、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へたりける。加様(かやう)に万人崇敬(そうぎやう)類(たぐ)ひ無りけれ共(ども)、師直・師泰兄弟は、何条(なんでう)其(その)僧の知慧(ちえ)才学(さいかく)さぞあるらんと欺(あざむい)て一度(いちど)も更(さらに)不相看、剰(あまつさ)へ門前を乗打(のりうち)にして、路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)時も、大衣(だいえ)を沓(くつ)の鼻に蹴さする体(てい)にぞ振舞ける。吉侍者是(これ)を見て安からぬ事に思(おもひ)ければ、物語の端(はし)、事の次(ついで)には、只執事兄弟の挙動(ふるまひ)、穏便(をんびん)ならぬ者哉と云沙汰(いひさた)せられけるを聞て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)、畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有(あり)けれ。
師直・師泰を讒(ざん)し失はんずる事は、此(この)僧にまさる人非じと被思ければ、軈(やが)て交(まじはり)を深(ふかく)し媚(こび)を厚(あつう)して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪(にく)しと思ふ高家の者共(ものども)の挙動(ふるまひ)なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政(まつりこと)を破る最(さい)たりと被讒申事多かりけり。中にも言(こと)ば巧(たくみ)に譬(たとへ)のげにもと覚(おぼゆ)る事ありけるは、或時首楞厳経(しゆりようごんきやう)の談義(だんぎ)已(すで)に畢(をはつ)て異国本朝の物語に及(および)ける時、吉侍者、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝(しくわうてい)と申(まうし)ける王に、二人(ににん)の王子(わうじ)坐(おはし)けり。兄をば扶蘇(ふそ)、弟をば胡亥(こがい)とぞ申(まうし)ける。扶蘇は第一(だいいち)の御子にて御座(おはせし)か共、常に始皇帝(しくわうてい)の御政(まつりこと)の治(をさま)らで、民をも愍(あはれ)まず仁義を専にし給はぬ事を諌(いさめ)申されける程(ほど)に、始皇帝(しくわうてい)の叡慮(えいりよ)に逆(さからう)てさしもの御覚(おんおぼ)へも無りけり。
第二(だいに)の御子胡亥は、寵愛(ちようあい)の后の腹にて御座(おは)する上、好驕悪賢、悪愛(をあい)異于他して常に君の傍(そば)を離れず、趙高(てうかう)と申ける大臣を執政(しつせい)に被付、万事只此(この)計(はから)ひにぞ任せられける。彼(かの)秦の始皇と申(まうす)は、荘襄王(さうじやうわう)の御子也(なり)しが、年十六(じふろく)の始め魏(ぎ)の畢万(ひつばん)、趙の襄公(じやうこう)・韓(かん)の白宣(はくせん)・斉(せい)の陳敬仲(ちんけいちゆう)・楚王・燕(えん)王の六国(りくこく)を皆滅(ほろぼ)して天下を一にし給へり。諸侯を朝(てう)せしめ四海(しかい)を保(たも)てる事、古今第一(だいいち)の帝(みかど)にて御坐(おはせし)かば、是(これ)をぞ始(はじめ)て皇帝(くわうてい)とは可申とて、始皇とぞ尊号(そんがう)を献(たてまつ)りける。
爰(ここ)に昔洪才(こうさい)博学の儒者共が、五帝三王の迹(あと)を追ひ、周公・孔子(こうし)の道を伝(つたへ)て、今の政(まつりこと)古(いにし)へに違(たがひ)ぬと毀(そしり)申(まうす)事、只書伝の世にある故(ゆゑ)也(なり)とて、三墳(さんふん)五典(ごてん)史書全経、総(すべ)て三千七百六十(さんぜんしちひやくろくじふ)余巻(よくわん)、一部も天下に不残、皆焼捨(やきすて)られけるこそ浅猿(あさまし)けれ。又四海(しかい)の間に、宮門警固(けいご)の武士より外は、兵具(ひやうぐ)を不可持、一天下(いちてんが)の兵共(つはものども)が持(もつ)処の弓箭兵仗(きゆうせんひやうぢやう)一(ひとつ)も不残集(あつめ)て是(これ)を焼棄て、其(その)鉄(くろがね)を以て長(たけ)十二丈(じふにぢやうの)金人(こんじん)十二人(じふににん)を鋳(い)させて、湧金門(ゆうきんもん)にぞ被立ける。
加様(かやう)の悪行(あくぎやう)、聖に違(たが)ひ天に背(そむ)きけるにや、邯鄲(かんたん)と云(いふ)所へ、天より災(わざはひ)を告(つぐ)る悪星(あくせい)一落て、忽(たちまち)に方十二丈(じふにぢやう)の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅(ほろび)て漢の代になるべき瑞相(ずゐさう)を示したりける。始皇是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)全(まつた)く天のする所に非(あら)ず、人のなす禍(わざはひ)也(なり)。さのみ遠き所の者はよも是(これ)をせじ四方(しはう)十里(じふり)が中を不可離。」とて、此(この)石より四方(しはう)十里(じふり)が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便(ふびん)なれ。 東南には函谷(かんこく)二(じかう)の嶮(けわしき)を峙(そばた)て、西北には洪河渭(こうがけいゐ)の深(ふかき)を遶(めぐ)らして、其(その)中に回(まはり)三百七十里(さんびやくしちじふり)高さ三里の山を九重に築上(つきあげ)て、口六尺(ろくしやく)の銅柱(あかがねのはしら)を立(たて)、天に鉄(くろがね)の網(あみ)を張(はり)て、前殿四十六(しじふろく)殿(どの)・後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)・千門万戸(ばんこ)とをり開き、麒麟(きりん)列(つらなり)鳳凰(ほうわう)相対(あいむか)へり。
虹(こう)の梁(うつばり)金の鐺(こじり)、日月光を放(はなち)て楼閣(ろうかく)互に映徹(えいてつ)し、玉の砂(いさご)・銀の床(ゆか)、花柳(くわりう)影を浮(うかべ)て、階闥(かいたつ)品々(しなじな)に分れたり。其(その)居所を高(たかく)し、其(その)歓楽(くわんらく)を究(きはめ)給ふに付(つけ)ても、只有待(うだい)の御命有限事を歎(なげき)給ひしかば、如何(いかにも)して蓬莱(ほうらい)にある不死の薬を求(もとめ)て、千秋万歳(まんぜい)の宝祚(はうそ)を保(たも)たんと思(おもひ)給ひける処に、徐福(じよふく)・文成(ぶんせい)と申(まうし)ける道士(だうし)二人(ににん)来て、我不死の薬を求(もとむ)る術(じゆつ)を知たる由申(まうし)ければ、帝無限悦(よろこび)給(たまひ)て、先(まづ)彼(かれ)に大官を授けて、大禄(たいろく)を与へ給ふ。
軈(やが)て彼が申(まうす)旨に任(まかせ)て、年未(いまだ)十五に不過童男丱女(どうなんくわんじよ)、六千人(ろくせんにん)を集め、竜頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟に載(の)せて、蓬莱(ほうらい)の島をぞ求めける。海漫々(まんまん)として辺(ほとり)なし。雲の浪・烟(けぶり)の波最(いと)深く、風浩々(かうかう)として不閑、月華星彩(せいさい)蒼茫(さうばう)たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々(ばうばう)として求(もとむ)るに所なし。蓬莱を不見否(いな)や帰らじと云(いひ)し童男丱女は、徒(いたずら)に舟の中にや老(おい)ぬらん。徐福文成(じよふくぶんせい)其(その)偽(いつはり)の顕(あらわ)れて、責(せめ)の我(わが)身に来らんずる事を恐(おそれ)て、「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の成祟と覚(おぼえ)候。皇帝(くわうてい)自(みづから)海上に幸(みゆき)成て、竜神(りゆうじん)を被退治(たいぢ)候(さうらひ)なば、蓬莱の島をなどか尋(たづね)得ぬ事候べき。」と申(まうし)ければ、始皇帝(しくわうてい)げにもとて、数万艘(すまんさう)の大船を漕双(こぎなら)べ、連弩(れんど)とて四五百人(しごひやくにん)して引て、同時に放(はな)つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。
是(これ)は成祟竜神(りゆうじん)、若(もし)海上に現(げん)じて出たらば、為射殺用意(ようい)也(なり)。始皇帝(しくわうてい)已(すで)に之罘(しふ)の大江を渡(わたり)給ふ道すがら、三百万人(さんびやくまんにん)の兵共(つはものども)、舷(ふなばた)を叩(たた)き大皷(たいこ)を打て、時を作る声止(やむ)時なし。礒山嵐(いそやまあらし)・奥津浪(おきつなみ)、互に響(ひびき)を参(まじ)へて、天維坤軸(てんゐこんぢく)諸共(もろとも)に、絶(た)へ砕(くだけ)ぬとぞ聞へける。竜神(りゆうじん)是(これ)にや驚(おどろ)き給(たまひ)けん。臥長(ふしたけ)五百丈(ごひやくぢやう)計(ばかり)なる鮫大魚(かうたいぎよ)と云(いふ)魚に変(へん)じて、浪の上にぞ浮出たる。
頭(かしら)は如師子遥(はるか)なる天に延揚(のびあが)り、背(せなか)は如竜蛇万頃(ばんきやう)の浪に横(よこたは)れり。数万艘(すまんさう)の大船四方(しはう)に漕分(こぎわか)れて同時に連弩(れんど)を放(はな)つに、数百万の毒(どく)の矢にて鮫大魚(かうたいぎよ)の身に射立ければ、此(この)魚忽(たちまち)に被射殺、蒼海(さうかい)万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝(しくわうてい)其(その)夜龍神と自(みづから)戦ふと夢を見給(たまひ)たりけるが、翌日より重き病を請(うけ)て五体(ごたい)暫(しばらく)も無安事、七日の間苦痛逼迫(ひつぱく)して遂(つひ)に沙丘(しやきう)の平台(へいだい)にして、則(すなはち)崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。始皇帝(しくわうてい)自詔(じぜう)を遺(のこ)して、御位をば第一(だいいち)の御子扶蘇(ふそ)に譲(ゆづ)り給(たまひ)たりけるを、趙高(てうかう)、扶蘇(ふそ)御位に即(つき)給ひなば、賢人才人(さいじん)皆朝家(てうか)に被召仕、天下を我(わが)心に任する事あるまじと思(おもひ)ければ、始皇帝(しくわうてい)の御譲(おんゆづり)を引破て捨(すて)、趙高が養君(やうくん)にし奉りたる第二(だいに)の王子(わうじ)胡亥(こがい)と申(まうし)けるに、代(よ)をば譲(ゆづり)給(たまひ)たりと披露(ひろう)して、剰(あまつさへ)討手を咸陽宮(かんやうきゆう)へ差遣(さしつかは)し、扶蘇(ふそ)をば討奉りてげり。
角(かく)て、幼稚(えうち)に坐(おは)する胡亥(こがい)を二世皇帝(にせいくわうてい)と称して、御位に即(つけ)奉り、四海(しかい)万機の政(まつりこと)、只趙高が心の侭(まま)にぞ行(おこな)ひける。此(この)時天下初(はじめ)て乱(みだれ)て、高祖(かうそは)沛郡(はいぐん)より起(おこ)り、項羽(かううは)楚より起て、六国(りくこく)の諸侯悉(ことごとく)秦を背(そむ)く。依之(これによつて)白起(はくき)・蒙恬(もうてん)、秦の将軍として戦(たたかふ)といへ共、秦の軍(いくさ)利(り)無(なく)して、大将皆討れしかば、秦又章邯(しやうかん)を上将軍(じやうしやうぐん)として重(かさね)て百万騎の勢を差下し、河北(かほく)の間に戦(たたかは)しむ。百般(ももたび)戦(たたかひ)千般(ちたび)遭(あふ)といへ共雌雄(しゆう)未決(いまだけつせず)、天下の乱止(やむ)時なし。爰(ここ)に趙高、秦の都咸陽宮(かんやうきゆう)に兵の少き時を伺見(うかがひみ)て二世皇帝(にせいくわうてい)を討奉り、我(われ)世を取(とら)んと思(おもひ)ければ、先(まづ)我が威勢(ゐせい)の程を為知、夏毛(なつけ)の鹿に鞍(くら)を置て、「此(この)馬に召(めさ)れて御覧候へ。」と、二世皇帝(にせいくわうてい)にぞ奉りける。
二世皇帝(にせいくわうてい)是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)非馬、鹿也(なり)。」と宣(のたま)ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召(めさ)れて、鹿(しか)・馬(むま)の間を御尋(おんたづね)候べし。」とぞ申(まうし)ける。二世則(すなはち)百司千官公卿(くぎやう)大臣悉(ことごと)く召集(めしあつめ)て、鹿・馬の間を問(とひ)給ふ。人皆盲者(めしひるもの)にあらざれば、馬に非(あら)ずとは見けれ共(ども)、趙高が威勢に恐(おそれ)て馬也(なり)と申さぬは無りけり。二世皇帝(にせいくわうてい)一度(いちど)鹿・馬の分(わかち)に迷(まよひ)しかば、趙高大臣は忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)めり。是(これ)より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣(さしつかは)し、二世皇帝(にせいくわうてい)を責(せめ)奉るに、二世趙高が兵を見て、遁(のが)るまじき処を知(しり)給(たまひ)ければ、自(みづから)剣の上に臥(ふし)て、則(すなはち)御自害(ごじがい)有てけり。
是(これ)を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦(たたかひ)ける章邯(しやうかん)将軍(しやうぐん)も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽(たちまち)に降人(かうにん)に成て、楚の項羽(かうう)の方へ出ければ、秦の世忽(たちまち)に傾(かたぶい)て、高祖(かうそ)・項羽(かうう)諸共(もろとも)に咸陽宮(かんやうきゆう)に入(いり)にけり。趙高世を奪(うばひ)て二十一日と申(まうす)に、始皇帝(しくわうてい)の御孫子嬰(しえい)と申(まうせ)しに被殺、子嬰は又楚(その)項羽(かうう)に被殺給(たまひ)しかば、神陵(しんりよう)三月の火九重(きうちよう)の雲を焦(こが)し、泉下(せんか)多少(たせう)の宝玉人間の塵(ちり)と成(なり)にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡(ほろび)し事は、只趙高が侈(おごり)の心より出来(いでくる)事にて候(さうらひ)き。されば古(いにしへ)も今も、人の代を保(たも)ち家を失ふ事は、其(その)内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守(むさしのかみ)・越後(ゑちごの)守(かみ)が振舞(ふるまひ)にては、世中(よのなか)静(しづま)り得じとこそ覚(おぼえ)て候へ。我(わが)被官(ひくわん)の者の恩賞(おんしやう)をも給(たまは)り御恩をも拝領して、少所(せうしよ)なる由を歎(なげき)申せば、何を少所と歎(なげき)給ふ。
其(その)近辺に寺社本所(ほんじよ)の所領(しよりやう)あらば、堺を越て知行せよかしと下知(げぢ)す。又罪科(ざいくわ)有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属(しよく)し、「如何(いかが)可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦(たとひ)如何(いか)なる御教書(みげうしよ)也(なり)とも、只押(おさ)へて知行せよ。」と成敗(せいばい)す。又正(まさし)く承(うけたまはり)し事の浅猿(あさま)しかりしは、都に王と云(いふ)人のまし/\て、若干(そくばく)の所領をふさげ、内裏(だいり)・院(ゐん)の御所(ごしよ)と云(いふ)所の有て、馬より下(おる)る六借(むつかし)さよ。若(もし)王なくて叶(かなふ)まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳(い)るかして、生(いき)たる院(ゐん)、国王をば何方(いづかた)へも皆流し捨(すて)奉らばやと云(いひ)し言(ことば)の浅猿(あさまし)さよ。
一人天下に横行するをば、武王是(これ)を恥(はぢ)しめりとこそ申(まうし)候。況乎(いはんや)己(おのれ)が身申沙汰(まうしさた)する事をも諛(へつらふ)人あれば改(あらため)て非を理になし、下(しも)として上を犯(をか)す科(とが)、事既(すで)に重畳(ぢゆうでふ)せり。其(その)罪を刑罰(けいばつ)せられずは、天下の静謐(せいひつ)何(いづ)れの時をか期(ご)し候べき。早く彼等(かれら)を討(うた)せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚(えうち)の若御(わかご)に天下を保(たも)たせ進(まゐら)せんと思召す御心(おんこころ)の候はぬや。」と、言(ことば)を尽(つく)し譬(たとへ)を引て様々に被申ければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)倩(つらつら)事の由を聞給(たまひ)て、げにもと覚(おぼゆ)る心著(つき)給(たまひ)にけり。是(これ)ぞ早仁和寺(にんわじ)の六本杉の梢(こずゑ)にて、所々の天狗共(てんぐども)が又天下を乱らんと様々に計りし事の端(はし)よと覚へたる。  
直冬(ただふゆ)西国下向(げかうの)事(こと)
先(まづ)西国静謐(せいひつ)の為とて、将軍の嫡男(ちやくなん)宮内(くないの)大輔(たいふ)直冬を、備前(びぜんの)国(くに)へ下さる。抑(そもそも)此(この)直冬と申(まうす)は、古へ将軍の忍て一夜(いちや)通ひ給たりし越前(ゑちぜん)の局(つぼね)と申(まうす)女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵(むさしの)国(くに)東勝寺(とうしようじ)の喝食(かつしき)なりしを、男に成(なし)て京へ上せ奉し人也(なり)。此由(よしの)内々申入るゝ人有(あり)しか共、将軍曾(かつて)許容(きよよう)し給はざりしかば、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印が許(もと)に所学して、幽(かすか)なる体にてぞ住佗(すみわび)給ひける。器用事(こつ)がら、さる体に見へ給(たまひ)ければ、玄慧法印事の次(ついで)を得て左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に角(かく)と語り申(まうし)たりけるに、「さらば、其(その)人是(これ)へ具足して御渡(おんわたり)候へ。事の様能々(よくよく)試(こころみ)て、げにもと思(おもふ)処あらば、将軍へも可申達。」と、始(はじめ)て直冬を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被招引ける。
是にて一二年過けるまでもなを将軍許容(きよよう)の儀無りけるを、紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)蜂起(ほうき)の事及難義ける時、将軍始(はじめ)て父子の号(がう)を被許、右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)に補任(ふにん)して、此(この)直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫(しばらく)静謐(せいひつ)の体にて、直冬被帰参しより後(のち)、早(はや)、人々是(これ)を重(おもん)じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給(たまひ)しか共、猶(なほ)座席(ざせき)なんどは仁木(につき)・細川の人々と等列(とうれつ)にて、さまで賞翫(しやうくわん)は未(いまだ)無りき。而るを今左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の計(はから)ひとして、西国の探題(たんだい)になし給ひければ、早晩(いつ)しか人皆帰服(きふく)し奉りて、付順(つきしたが)ふ者多かりけり。備後の鞆(とも)に座(おは)し給て、中国の成敗を司(つかさ)どるに、忠ある者は不望恩賞を賜(たまは)り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非(ひ)をかざりて、上を犯(をか)しつる師直・師泰が悪行、弥(いよいよ)隠れも無りけり。 
 
太平記 巻第二十七 

 

天下妖怪(えうくわいの)事(こと)付(つけたり)清水寺(きよみづでら)炎上(えんしやうの)事(こと)
貞和(ぢやうわ)五年正月の比(ころ)より、犯星客星(ぼんしやうきやくしやう)無隙現じければ旁(かたがた)其(その)慎(つつしみ)不軽。王位の愁(うれへ)天下の変、兵乱疫癘(えきれい)有べしと、陰陽寮(おんやうれう)頻(しきり)に密奏す。是をこそ如何と驚(おどろく)処に、同(おなじく)二月二十六日(にじふろくにちの)夜半許に将軍塚(しやうぐんづか)夥(おびたた)しく鳴動(めいどう)して、虚空(こくう)に兵馬の馳過(はせすぐ)る音半時許(はんじばかり)しければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎不思議(ふしぎ)の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷(ひや)す処に、明る二十七日(にじふしちにち)午(うまの)刻(こく)に、清水坂(きよみづさか)より俄(にはか)に失火出来て、清水寺(きよみづでら)の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台(ぶたい)・鎮守まで一宇(いちう)も不残炎滅す。
火災は尋常(よのつね)の事なれ共(ども)、風不吹大なる炎遥(はるか)に飛去て、厳重(げんぢゆう)の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡(およそ)天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄(くわいろく)定れる表事(へうじ)也(なり)。又同六月三日八幡(やはた)の御殿、辰刻(たつのこく)より酉(とりの)時(とき)まで鳴動す。神鏑(しんてき)声を添(そへ)て、王城を差て鳴て行(ゆく)。又同六月十日より太白(たいはく)・辰星(しんせい)・歳星(さいせい)の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来(しゆつらい)して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘(えきれい)兵革(ひやうかく)相続(あひつづき)、餓(がへう)満巷べしと天文博士(てんもんのはかせ)注説(ちゆうせつ)す。又潤(うるふ)六月五日戌(いぬの)刻(こく)に、巽方(たつみのかた)と乾(いぬゐの)方(かた)より、電光(いなびかり)耀(かかや)き出て、両方の光寄合て如戦して、砕(くだ)け散ては寄合て、風の猛火(みやうくわ)を吹上(ふきあぐ)るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形(いるゐいぎやう)の者見へて、乾(いぬゐ)の光退き行、巽(たつみ)の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪(えうくわい)、如何様(いかさま)天下穏(おだやか)ならじと申合にけり。  
田楽(でんがくの)事(こと)付(つけたり)長講見物(けんぶつの)事(こと)
今年多(おほく)の不思議(ふしぎ)打続(うちつづく)中に、洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を翫(もてあそ)ぶ事法に過たり。大樹(たいじゆ)是を被興事又無類。されば万人手足を空(そら)にして朝夕是が為に婬費(いんぴ)す。関東(くわんとう)亡びんとて、高時禅門好み翫(もてあそび)しが、先代一流(ひとながれ)断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮(とそう)の沙門(しやもん)有りけるが、四条(しでうの)橋を渡さんとて、新座本座の田楽(でんがく)を合せ老若(らうにやく)に分て能(のう)くらべをぞせさせける。四条川原(しでうがはら)に桟敷(さじき)を打つ。
希代(きたい)の見物なるべしとて貴賎の男女挙(こぞ)る事不斜(なのめならず)、公家には摂禄(せつろく)大臣家、門跡は当座主(ざす)梶井(かぢゐ)二品(にほん)法親王(ほふしんわう)、武家は大樹(たいじゆ)是を被興しかば、其(その)以下の人々は不及申、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸家(しよけ)の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷(さじき)を打(うつ)。五六八九寸(ごろくはちくすん)の安(あん)の郡(こほり)などら鐫貫(ゑりぬい)て、囲(わたり)八十三間(はちじふさんげん)に三重(さんぢゆう)四重(しぢゆう)に組上(くみあげ)、物も夥(おびたた)しく要(よこた)へたり。已(すでに)時刻に成しかば、軽軒香車(けいかんかうしや)地を争ひ、軽裘肥馬(けいきうひば)繋(つなぐ)に所なし。
幔幕(まんまく)風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若(らうにやく)、東西に幄(かりや)を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋(がくや)の幕には纐纈(かうけつ)を張(はり)、天蓋(てんがい)の幕は金襴なれば、片々(へんぺん)と風に散満して、炎を揚(あぐ)るに不異。舞台に曲縄床(きよくろくじようしやう)を立双べ、紅緑(こうりよく)の氈(せん)を展布(のべしい)て、豹虎(へうとら)の皮を懸(かけ)たれば、見(みる)に眼を照(てらさ)れて、心も空に成(なり)ぬるに、律雅調(しらべ)冷(すさまし)く、颯声(さつせい)耳を清(すます)処に、両方の楽屋より中門(ちゆうもんの)口(くち)の鼓を鳴し音取(ねとりの)笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭(くんらん)を凝(こら)し、粧(よそほ)ひ紅粉(こうふん)を尽したる美麗の童(わらは)八人(はちにん)、一様(いちやう)に金襴の水干(すいかん)を著(ちやく)して、東の楽屋より練(ねり)出たれば、白く清らかなる法師八人(はちにん)、薄化粧(うすげしやう)の金黒(かねくろ)にて、色々の花鳥を織尽(おりつく)し、染狂(そめくるはし)たる水干(すいかん)に、銀の乱紋(らんもん)打たる下濃(すそご)の袴に下結(したくくり)して拍子を打(うち)、あやい笠を傾(かたぶ)け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠(まこと)に由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。
一(いち)の簓(ささら)は本座の阿古(あこ)、乱(らん)拍子は新座の彦夜叉、刀玉(かたなたま)は道一、各神変(じんべん)の堪能(かんのう)なれば見物耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。角(かく)て立合終りしかば、日吉(ひよし)山王の示現(じげん)利生の新たなる猿楽を、肝に染(そみ)てぞし出したる。斯(かか)る処に新座の楽屋八九歳の小童(わらは)に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎(とらの)皮(かは)の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑(こうりよく)のそり橋を斜(なのめ)に踏(ふむ)で出たりけるが高欄(かうらん)に飛上り、左へ回(まはり)右へ曲(めぐ)り、抛(はね)返(かへり)ては上りたる在様(ありさま)、誠(まこと)に此(この)世の者とは不見、忽(たちまち)に山王神託(しんたく)して、此奇瑞(きずゐ)を被示かと、感興身にぞ余(あま)りける。されば百(ひやく)余間(よけん)の桟敷共怺兼(こらへかね)て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚(をめき)叫びける間、感声(かんせい)席(せき)に余(あま)りつゝ、且(しばし)は閑(しづま)りもやらず。浩(かかる)処に、将軍の御桟敷の辺より、厳(いつく)しき女房の練貫(ねりぬき)の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚(あぐ)るとぞ見へし。
大物(だいもつ)の五六(ごろく)にて打付たる桟敷傾(かたぶき)立て、あれや/\と云(いふ)程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒(しやうぎたふし)をするが如く、一度(いちど)に同(どう)とぞ倒(たふれ)ける。若干(そくばく)の大物(だいもつ)共(ども)落重りける間、被打殺者其数不知(しらず)。斯(かか)る紛れに物取(ものとり)共(ども)、人の太刀々(たちかたな)を奪て逃(にぐ)るもあり、見付て切て留るもあり。或(あるひ)は腰膝を被打折、手足を打切られ、或(あるひ)は己と抜たる太刀長刀に、此彼(ここかしこ)を突貫(つきつらぬか)れて血にまみれ、或(あるひ)は涌(わか)せる茶の湯に身を焼き、喚(をめ)き叫ぶ。只衆合叫喚(しゆうがふけうくわん)の罪人も角(かく)やとぞ見へたりける。
田楽(でんがく)は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党(わかたう)は、主の女房を舁負(かいおう)て逃(にぐ)る者を、打物(うちもの)の鞘をはづして追懸(おつかく)る。返し合(あはせ)て切合(きりあふ)処もあり。被切朱(あけ)に成(なる)者もあり。脩羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)、獄率(ごくそつ)の呵責(かしやく)、眼の前に有が如し。梶井(かぢゐの)宮(みや)も御腰(おんこし)を打損(そん)ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首(いつしゆ)の狂歌を四条川原(しでうがはら)に立たり。釘付にしたる桟敷の倒(たふる)るは梶井(かぢゐの)宮(みや)の不覚なりけり又二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽(でんがく)の将碁倒(たふし)の桟敷には王許(ばかり)こそ登(あが)らざりけれ是非直事。如何様天狗(てんぐ)の所行にこそ有らんと思合せて、後(のち)能々(よくよく)聞けば山門西塔(さいたふ)院(ゐん)釈迦堂の長講(ちやうかう)、所用有て下りける道に、山伏(やまぶし)一人行合て、「只今(ただいま)四条(しでう)河原(かはら)に希代(きたい)の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已(すで)に日中に成候。又用意(ようい)の桟敷なんど候はで、只今(ただいま)より其座に臨(のぞみ)候(さうらふ)共(とも)、中へ如何(いか)が入(いり)候べき。」と申せば、山伏(やまぶし)、「中へ安く入奉べき様候。只我(わが)迹(あと)に付き被歩候へ。」とぞ申ける。
長講、げにも聞(きこゆ)る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏(やまぶし)の迹に付て三足許(みあしばかり)歩(あゆ)むと思たれば、不覚四条(しでう)河原(かはら)に行至りぬ。早(はや)中門(ちゆうもんの)口(くち)打(うつ)程(ほど)に成ぬれば、鼠戸(ねづみと)の口も塞(ふさが)りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏(やまぶし)、「我(わが)手に付(つか)せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申(まうす)間、実(まことし)からずと乍思、手に取付たれば、山伏(やまぶし)、長講を小脇に挟(はさん)で三重(さんぢゆう)に構(かまへ)たる桟敷を軽々(かろがろ)と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。
長講座席(ざせき)座中の人々を見るに、皆仁木(につき)・細河(ほそかは)・高(かう)・上杉の人々ならでは交(まじは)りたる人も無ければ、「如何(いかで)か此(この)座には居候べき。」と、蹲踞(そんこ)したる体を見て、彼(かの)山伏(やまぶし)忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申(まうす)間、長講は様(やう)ぞあるらんと思て、山伏(やまぶし)と双(ならん)で将軍の対座(たいざ)に居たれば、種々の献盃(こんぱい)、様々の美物(びぶつ)、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏(やまぶし)と長講とに色代(しきたい)有て、替る替る始(はじめ)給ふ処に、新座の閑屋(かくや)、猿の面を著て御幣を差挙(さしあげ)、橋の高欄を一飛(ひととび)々(とび)ては拍子を蹈み、蹈(ふみ)ては五幣を打振て、誠(まこと)に軽げに跳(をどり)出たり。
上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是(これ)助けよ。」と、喚(をめ)き叫て感ずる声、半時許(はんじばかり)ぞのゝめきける。此時彼山伏(やまぶし)、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興(きよう)を醒(さま)させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推(おす)と見へけるが、二百(にひやく)余間の桟敷、皆天狗倒(てんぐたふし)に逢てげり。よそよりは辻風の吹(ふく)とぞ見へける。誠(まこと)に今度桟敷の儀、神明御眸(おんまなじり)を被廻けるにや、彼(かの)桟敷崩(くづれ)て人多く死ける事は六月十一日也(なり)。其(その)次の日、終日(しゆうじつ)終夜(しゆうや)大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原(かはら)の死人汚穢(わゑ)不浄を洗流し、十四日の祇園神幸(しんかう)の路をば清めける。天竜八部(てんりゆうはちぶ)悉(ことごとく)霊神(れいしん)の威(ゐ)を助(たすけ)て、清浄の法雨を潅(そそ)きける。難有かりし様(ためし)也(なり)。  
雲景(うんけい)未来記(みらいきの)事(こと)
此比(このころ)天下第一(だいいち)の不思議(ふしぎ)あり。出羽(ではの)国(くに)羽黒(はぐろ)と云所に一人の山伏(やまぶし)あり。名をば雲景とぞ申ける。希代(きたい)の目に逢(あう)たりとて、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉(ことごとく)有て、過にし春(はる)の比(ころ)より思立て都に上り、今熊野(いまぐまの)に居住して、華洛の名迹(めいせき)を巡礼する程(ほど)に、貞和(ぢやうわ)五年二十日の事なる天竜寺(てんりゆうじ)一見の為に西郊(にしのをか)にぞ赴(おもむき)ける。官(くわん)の庁(ちやう)の辺より年六十許(ばかり)なる山伏(やまぶし)一人行連(ゆきつれ)たり。彼(かの)雲景に、「御身(おんみ)は何(いづ)くへ御座(ござ)ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬(そうきやう)あつて建立(こんりふ)ある大伽藍(だいがらん)にて候なれば、一見仕(つかまつり)候(さうらは)ばやと存じて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参(まゐり)候也(なり)。」とぞ語(かたり)ける。
「天竜寺(てんりゆうじ)もさる事なれ共(ども)、我等(われら)が住む山こそ日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程(ほど)に、愛宕山(あたごやま)とかや聞ゆる高峯(たかね)に至(いたり)ぬ。誠(まこと)に仏閣(ぶつかく)奇麗(きれい)にして、玉を敷き金を鏤(ちりば)めたり。信心肝(きも)に銘(めい)じ身の毛竪(よだ)ち貴く思ければ、角(かく)てもあらまほしく思(おもふ)処に、此山伏(やまぶし)雲景が袖を磬(ひかへ)て、是まで参り給たる思出に秘所(ひしよ)共(ども)を見せ奉らんとて、本堂の後(うしろ)、座主(ざす)の坊と覚しき所へ行(ゆき)たれば、是又殊勝(しゆしよう)の霊地(れいち)なり。爰(ここ)に至て見れば人多く坐し給へり。或(あるひ)は衣冠(いくわん)正しく金(かねの)笏(しやく)を持給へる人もあり。或(あるひ)は貴僧高僧の形にて香染(かうぞめ)の衣(ころも)著たる人もあり。雲景恐しながら広庇(ひろびさし)にくゞまり居たるに、御坐を二帖(にでふ)布(しき)たるに、大なる金の鵄(とび)翅(つばさ)を刷(つくろ)ひて著座(ちやくざ)したり。
右の傍(わき)には長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる男の、大弓大矢を横(よこた)へたるが畏てぞ候(さふらひ)ける。左の一(いちの)座(ざ)には袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)に日月星辰(じつげつせいしん)を鮮(あざや)かに織たるを著給へる人、金の笏(しやく)を持て並居(なみゐ)玉ふ。座敷の体(てい)余(あまり)に怖(おそろ)しく不思議(ふしぎ)にて、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)に、「如何(いか)なる御座敷(おんざしき)候ぞ。」と問へば、山伏(やまぶし)答へけるは、「上座なる金の鵄(とび)こそ崇徳院(しゆとくゐん)にて渡(わたら)せ給へ。其(その)傍(そば)なる大男こそ為義(ためよし)入道(にふだう)の八男八郎(はちらうの)冠者(くわじや)為朝(ためとも)よ。左の座こそ代々(だいだい)の帝王、淡路(あはぢ)の廃帝(はいたい)・井上皇后(ゐかみのくわうぐう)・後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)・後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)、次第の登位(とうゐ)を逐(おつ)て悪魔王の棟梁(とうりやう)と成給ふ、止事(やんごと)なき賢帝(けんてい)達よ。其(その)坐の次なる僧綱(そうがう)達こそ、玄肪(げんばう)・真済(しんさい)・寛朝(くわんてう)・慈慧(じゑ)・頼豪(らいがう)・仁海(にんかい)・尊雲(そんうん)等(ら)の高僧達、同(おなじく)大魔王と成て爰(ここ)に集り、天下を乱候べき評定(ひやうぢやう)にて有。」とぞ語りける。
雲景恐怖しながら不思議(ふしぎ)の事哉と思つゝ畏居(かしこまりゐ)たれば、一座の宿老(しゆくらうの)山伏(やまぶし)、「是は何(いづ)くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺(ゑしやく)して、「さらば此(この)間京中(きやうぢゆう)の事共(ことども)をば皆見聞給ふらん。何事か侍(はんべ)る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比(このころ)は只(ただ)四条(しでう)河原(かはら)の桟敷の崩(くづれ)て人多く被打殺候事、昔も今も浩(かか)る事候はず、只天狗(てんぐ)の態(わざ)とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟(ごきやうだい)、此比(このころ)執事の故(ゆゑ)に御中(おんなか)不快(ふくわい)と候。是(これ)若(もし)天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎(きせん)申候。」とぞ答(こたへ)ける。
其(その)時(とき)此(この)山伏(やまぶし)申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒(てんだう)は惣(そう)じて天狗(てんぐ)の態許(わざばかり)にも非(あら)ず。故をいかにと云(いふ)に当関白殿(くわんばくどの)は忝(かたじけなく)も天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)の御末、天子輔佐(ふさ)の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井(かぢゐの)宮(みや)と申は、今上皇帝(きんじやうくわうてい)の御連枝(ごれんし)にて、三塔(さんたふ)の貫主(くわんじゆ)、国家護持(ごぢ)の棟梁(とうりやう)、円宗顕密(ゑんしゆうけんみつ)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護(かいだいのゑご)の人也(なり)。而(しか)るに此(この)桟敷と申は、橋の勧進(くわんじん)に桑門(さうもん)の捨人が興行(こうぎやう)する処也(なり)。
見物の者と云は洛中(らくちゆう)の地下人(ぢげにん)、商買(しやうばい)の輩(ともがら)共(ども)也(なり)。其に日本(につぽん)一州を治(をさ)め給ふ貴人達交(まじは)り雑居(ざつきよ)し給へば、正八幡(しやうはちまん)大菩薩(だいぼさつ)・春日(かすが)大明神(だいみやうじん)・山王権現の忿(いかり)を含ませ給ふに依て、此(この)地を頂(いただ)き給ふ堅牢地神(けんらうぢじん)驚給ふ間、其(その)勢(いきほひ)に応(おう)じて皆崩(くづれ)たる也(なり)。此(この)僧も其(その)比(ころ)京に罷(まかり)出しか共、村雲(むらくも)の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷(うつ)りて不見。」とぞ申ける。
雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢(けんせい)世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部(わらんべ)は一向天狗(てんぐ)にて御坐(おはしま)すと申候は、如何様(いかやう)の事にて候哉らん。」と問(とひ)ければ、此(この)僧の曰(いはく)、「其はさる事候。彼(かの)僧は殊にさかしき人にて候間、天狗(てんぐ)の中より撰(えら)び出して乱世の媒(なかだち)の為に遣(つかは)したる也(なり)。世中(よのなか)乱れば本の住所(すみところ)へ可帰也(なり)。さてこそ所多きに村雲(むらくも)と云(いふ)所に住(ぢゆう)するなれ。雲は天狗(てんぐ)の乗物なるに依ての故(ゆゑ)也(なり)。加様(かやう)の事努々(ゆめゆめ)人に不可知給。初て此(この)所へ尋来給へば、委細(ゐさい)の物語を申也(なり)。」とぞ語ける。
雲景、不思議(ふしぎ)の事をも見聞(みきく)者哉と思て天下の重事(ちようじ)、未来の安否(あんぴ)を聞(きか)ばやと思て、「さて将軍御兄弟(ごきやうだい)執事(しつじ)の間の不和(ふくわ)は、何(いづ)れか道理にて始終(しじゆう)通(とほ)り候べき。」と問へば、「三条殿(さんでうどの)と執事(しつじ)の不快(ふくわい)は一両月を不可過、大なる珍事(ちんじ)なるべし。理非の事は是非を難弁。此(この)人々身の難(なん)に逢ひ不肖(ふせう)なる時は、哀(あはれ)世を持たん時は政道をも能(よく)行(おこな)はんずる者をと思しか共、富貴(ふつき)充満(じゆうまん)の後は古への有増(あらまし)一事(いちじ)も不通。上(かみ)暗く下(しも)諛(へつらう)て諸事に親疎(しんそ)あれば、神明三宝の冥鑒(みやうかん)にも背(そむ)き、天下貴賎(きせん)の人望(じんばう)にも違(たがう)て、我(わが)非(ひ)をば知(しら)ず、人を謗(そし)り合ふ心あり。
只師子(しし)の虫の師子の肉を食(くらふ)が如し。適(たまたま)仁政(じんせい)と思事もさもあらず、只人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ也(なり)。夫(それ)仁(じん)とは施慧四海(しかい)、深く憐民云仁。夫(それ)政道と云は治国憐人、善悪親疎(しんそ)を不分撫育(ぶいく)するを申也(なり)。而るに近日の儀、聊(いささか)も善政を不聞欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして君臣父子の道をも不弁、只人の財(たから)を我有(がう)にせんと許(ばかり)の心なれば不矯飾無云事。仏神能(よく)知見(ちけんし)御座(おはしま)さねば、我が企(くはたつ)る処も不成、依果報浅深、聊(いささか)取世持国者有といへ共、真実の儀に非(あら)ず。されば一人として治世運(うん)長久に不持也(なり)。君を軽(かろ)んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾(かつて)其(その)外の政道何事か可有。
然間(しかるあひだ)悪逆の道こそ替れ。猜(そね)みもどき合ふ輩(ともがら)、何(いづ)れも無差別亡(ほろ)びん事無疑。喩(たと)へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科(ぼんくわ)の得失を指合(さしあふ)が如し。されば近年武家の世を執事(とること)頼朝(よりとも)卿(きやう)より以来(このかた)、高時に到るまで已(すで)に十一代、蛮夷(ばんい)の賎(いや)しき身を以て世の主たる事必(かならず)本儀にはあらね共、世澆季(げうき)に及ぶ験(しるし)に無力。時(ときと)与事只一世の道理に非(あら)ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故(ゆゑ)に下剋上(げこくじやう)の一端(いつたん)にあり。高貴清花(かうきせいぐわ)も君主一人(いちのひと)も共に力を不得、下輩下賎(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む。依之(これによつて)天下武家と成也(なり)。
是(これ)必(かならず)誰為(たれがわざ)にも非(あら)ず、時代機根(きこん)相萌(あひきざし)て因果業報(いんぐわごふはう)の時到(いた)る故(ゆゑ)也(なり)。君を遠島(ゑんたう)へ配(はい)し奉り悪を天下に行(おこなひ)し義時を、浅猿(あさまし)と云しか共、宿因(しゆくいん)のある程は子孫無窮(ぶきゆう)に光栄せり。是又涯分(がいぶん)の政道を行ひ、己(おのれ)を責(せめ)て徳を施(ほどこ)しゝかば、国豊(ゆたか)に民不苦。されども宿報漸(やうや)く傾(かたぶ)く時、天心に背(そむ)き仏神捨給ふ時を得て、先朝(せんてう)高時を追伐(つゐばつ)せらる。是(これ)必(かならず)しも後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)の聖徳の到(いた)りに非(あら)ず、自滅(じめつ)の時到る也(なり)。
世も上代、仁徳(じんとく)も今の君主に勝(まさ)り給し後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御時(おんとき)は、上(かみ)の威も強く下(しも)の勢も弱(よわかり)しかども下(しも)勝ち上(かみ)負ぬ。今末世濁乱(ぢよくらん)の時分なれ共(ども)、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃(こうはい)なるべし。是(これを)以(もつて)可心得(こころえ)給。」と語りければ、雲景重(かさね)て申さく、「先代尽(つき)て亡(ほろび)しかば、など先朝久(ひさしく)御代をば治御座(をさめおはしまし)候はぬ。」と問ければ、「其(それ)又有子細事に候。先朝随分賢王(けんわう)の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育(じんとくぶいく)の叡慮(えいりよ)は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依(きえ)有(ある)様に見へしか共、慢(けうまん)のみ有て実儀(じつぎ)不御座。され共其(それ)程の賢王(けんわう)も末代には有まじければ何事にもよき真似(まね)をばすべし。
是を以て暫(しばらく)なれ共加様(かやう)の所を以て其(その)御器用(ごきよう)に当り、運の傾(かたぶ)く高時、消方(きえがた)の灯(とぼしびの)前の扇と成(なら)せ給ひて亡(ほろぼ)し給ひぬ。其理に答(むくう)て累代(るゐだい)繁栄四海(しかい)に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠(まことに)尭舜(げうしゆん)の功(こう)、聖明(せいめい)の徳御坐(おはせ)ねば、高時に劣(おと)る足利(あしかが)に世をば奪(うばは)れさせ給ぬ。今持明院殿(ぢみやうゐんどの)は中々執権開運武家に順(したがは)せ給て、偏に幼児(えうじ)の乳母(めのと)を憑(たのむ)が如く、奴(やつこ)と等(ひと)しく成て御座(おはします)程(ほど)に、依仁道善悪還(かへつ)て如形安全(あんせん)に御坐(おはします)者也(なり)。
是も御本意には有(あら)ね共、理をも欲(よく)心をも打捨て御座(おはしま)さば、末代邪悪(じやあく)の時中々御運を開(ひらか)せ給ふべき者也(なり)とても王法は平家の末より本朝(ほんてう)には尽(つき)はてゝ、武運ならでは立(たつ)まじかりしを御了知(ごれうち)も無(なく)て、仁徳(じんとく)聖化(せいくわ)は昔に不及して国を執(と)らん御欲心許(よくしんばかり)を先とし、本(もと)に代を復(ふく)すべしとて、末世の機分(きぶん)戎夷(じゆうい)の掌(たなごころ)に可堕御悟(おんさとり)無(なか)りしかば、御鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御謀叛(ごむほん)徒(いたづら)に成て、公家の威勢(ゐせい)其時より塗炭(とたん)に落(おと)し也(なり)。されば其(その)宸襟(しんきん)を為休先朝(せんてう)高時を失給しか共、尚(なほ)公家(くげの)代をば執(とら)せ給はぬ者也(なり)。さても三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を本朝(ほんてう)の宝として神代(じんだい)より伝る璽(しるし)、国を理(をさめ)守(まもる)も此神器(じんぎ)也(なり)。
是は以伝為詮。然(しかる)に今の王者此(この)明器を伝(つたふ)る事無て位を践御座(ふみおはします)事、誠(まこと)に王位共難申。然共(しかれども)さすが三箇(さんか)の重事(ちようじ)を執行(とりおこな)はせ給へば、天照太神(あまてらすおほんがみ)も守らせ給(たまふ)覧(らん)と憑敷(たのもしき)処もある也(なり)。此(この)明器(めいき)我(わが)朝(てう)の宝として、神代の始より人皇(にんわう)の今に到るまで取(とり)伝(つたへ)御座(おはします)事、誠(まこと)に小国也(なり)といへ共、三国に超過(てうくわ)せる吾(わが)朝(てう)神国の不思議(ふしぎ)は是也(なり)。されば此神器(じんぎ)無(なか)らん代は月入て後の残夜(ざんや)の如し。末代のしるし王法を神道(しんたう)棄(すて)給ふ事と知べし。此(この)重器(ちようき)は平家滅亡の時、安徳(あんとく)天皇(てんわう)西海に渡(わたし)奉(たてまつり)て海底に沈(しづめ)られし時、神璽(しんじ)内侍所(ないしどころ)をば取(とり)返し奉しか共宝剣は遂(つひ)に沈(しづみ)失(うせ)ぬ。
されば王法悪王ながら安徳(あんとく)天王(てんわう)の御時(おんとき)までにて失はてぬる証(しよう)は是也(なり)。其(その)故は後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の始て三種(さんじゆ)の重器(ちようき)無(なく)して元暦(げんりやく)に践祚(せんそ)有しに、其(その)末流(まつりうの)皇統(くわうとう)継体(けいたい)として、今に御相承(しやうじようの)佳模(かも)とは申せ共、今思へば彼(かの)元暦(げんりやく)よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道(わうだう)に勝し表示(へうじ)には、宝剣は其(その)時(とき)までにて失にき。仍(すなはち)武威昌(さかん)に立て国家を奪(うばふ)也(なり)。
然共(しかれども)其(その)尽(つき)し後百(ひやく)余年(よねん)は武家雅意(がい)に任(まかせ)て天下を司(つかさど)ると云共、王位も文道も相残る故(ゆゑ)に、関東(くわんとう)如形政道をも理(をさ)め君王をも崇(あが)め奉る体にて、諸国に総追捕使(そうつゐぶし)をば置たれども、諸司(しよし)要脚(えうきやく)の公事(くじ)正税(しやうぜい)、仏神の本主(ほんしゆ)、相伝(さうでん)の領(りやう)には手を不懸目出(めでた)かりしに、時代純機(じゆんき)宿報の感果(かんくわ)ある事なれば、後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)武家を亡(ほろぼ)し給ふに依て、弥(いよいよ)王道衰(おとろへ)て公家、悉(ことごとく)廃(すた)れたり。
此(この)時(とき)を得て三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)徒(いたづら)に微運(びうん)の君に随て空(むなし)く辺鄙外土(へんぴぐわいと)に交(まじは)り給ふ。是神明吾朝(わがてう)を棄(すて)給ひ、王威無残所尽し証拠(しようご)也(なり)。是(これ)元暦(げんりやく)の安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御時(おんとき)に相同じ。国を受(うけ)給ふ主に随(したがひ)給はぬは、国を不守験(しるし)也(なり)。されば神道王法共になき代なれば、上(かみ)廃(すた)れ下驕(おごつ)て是非を弁(わきまふ)る事なし。然れば師直(もろなほ)・師泰(もろやす)が安否、将軍兄弟の通塞(つうそく)も難弁。」とぞ語ける。
雲景重て申けるは、「さては早(はや)乱悪の世にて下(しも)上(かみ)に逆(さか)ひ、師直(もろなほ)・師泰我侭(わがまま)にしすまして天下を持(たも)つべき歟(か)。」と問へば、「いやさは不可有。如何(いかに)末世濁乱(まつせぢよくらん)の義にて、下(しも)先(まづ)勝(かつ)て上を可犯。され共又上(かみ)を犯(をかす)咎(とが)難遁ければ、下又其(その)咎(とが)に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人(いちじんの)君主を軽(かろん)じ給へば、執事(しつじ)其(その)外家人等(けにんら)も又武将を軽(かろん)じ候。是(これ)因果の道理也(なり)。されば地口天心を呑(のむ)と云変(へん)あれば、何(いか)にも下刻上(げこくじやう)の謂(いはれ)にて師直(もろなほ)先(まづ)可勝。自是天下大に乱(みだれ)て父子兄弟怨讎(をんしう)を結び、政道聊(いささか)も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。
雲景、「今加様に世間の事鑒(かがみ)を懸て宣(のたま)ひつる人は誰(たそ)。」と尋(たづぬ)れば、「彼(かの)老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山(あたごやま)の太郎坊にて御座(おはします)。」と答へける。尚(なほ)も天下の安危(あんき)国(くに)の治乱(ちらん)を問(とは)んとする処に、俄(にはか)に猛火(みやうくわ)燃(もえ)来(きたり)て、座中の客七顛(しちてん)八倒(ばつたう)する程(ほど)に、門外へ走(はしり)出ると思たれば、夢の覚(さめ)たる心地して、大内(たいだい)の旧迹(きうせき)大庭(には)の椋(むく)の木の本に、朦々(もうもう)としてぞ立たりける。四方(しはう)を見廻したれば、日已(すで)に西の山(やまの)端(は)に残て、京へ出る人多ければ、其に伴(ともな)ひて我(わが)宿坊にたどり来て、心閑(こころしづか)に彼(かの)不思議(ふしぎ)を案ずるに、無疑天狗道に行(ゆき)にけり。是は只非可打棄、且(かつう)は末代の物語、且(かつう)は当世の用心(ようじん)にもなれかしと思しかば、我(わが)身の刑(けい)を不顧、委細に書載(かきのせ)、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書(かき)添(そへ)、貞和(ぢやうわ)五年潤(うるふ)六月三日と書付て、伝奏(てんそう)に付て進奏す。誠(まこと)に怪異(けい)の事共(ことども)也(なり)。  
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)欲誅師直事(こと)
斯(かか)りし処に、師直・師泰等(もろやすら)誅罰(ちゆうばつ)の事、上杉・畠山が讒尚(なほ)深く、妙吉侍者荐(しきり)に被申ければ、将軍に知(しら)せ奉らで、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)窃(ひそか)に上杉・畠山・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)・斉藤五郎左衛門(ごらうざゑもん)入道五六人に評定(ひやうぢやう)有て、内内(ないない)師直兄弟を可被誅(ちゆうせらるべき)謀をぞ被議ける。大高伊予(いよの)守(かみ)は大力也(なり)。宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)は物馴(ものなれ)たる剛(かう)の者なればとて、彼等二人(ににん)を組(くみ)手に定め若(も)し手に余る事あらば、討洩(うちもら)さぬ様に用心(ようじん)せよとて、器用(きよう)の者共(ものども)百(ひやく)余人(よにん)に物具(もののぐ)せさせて窃に是を隠(かくし)置(おき)、師直をぞ被召(めされ)ける。
師直は夢にも可思寄事ならねば、若党(わかたう)中間は皆遠侍(とほさぶらひ)大庭に並居(なみゐ)て、中門の唐垣(からがき)をかけへだてられ、師直只一人六間(むま)の客殿に座(ざ)したり。師直が今の命は風待(まつ)程の露よりも危(あやふ)しと見へける処に、殊更此(この)事勝(すぐれ)て申沙汰(まをしさた)したりける粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤(きよたね)、俄(にはか)に心替(こころがは)りして告(つげ)知(しら)せばやと思ひければ、些(ちと)色代する様にして、吃(きつ)と目くはせをしたりければ、師直心早(こころはやき)者なりければ、軈(やが)て心得(こころえ)て、かりそめに罷(まかり)出る体にて、門前より馬に打(うち)乗(のり)、己(おの)が宿所にぞ帰(かへり)ける。其(その)夜軈(やがて)粟飯原(あいはら)・斉藤二人(ににん)、執事の屋形に来て、「此間三条殿(さんでうどの)の御企(おんくはたて)、上杉・畠山の人々の隠謀(いんぼう)、兔(と)こそ候(さうらひ)つれ角(かく)こそ候(さうらひ)つれ。」と語りければ、執事様々の引出物(ひきでもの)して、「猶も殿中(でんちゆうの)様の事は内々告(つげ)承(うけたまはり)候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。
師直是より用心(ようじん)密(きびし)くして、一族(いちぞく)若党(わかたう)数万人(すまんにん)、近辺の在家に宿(やど)し置き、出仕を止め虚病(きよびやう)してぞ居たりける。去年の春より越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、楠(くすのき)退治(たいぢ)の為に河内(かはちの)国(くに)に下て、石川々原に向城(むかひじやう)を構(かまへ)て居たりけるを、師直使を遣(つかはし)て事の由(よし)を告たりければ、畠山左京(さきやうの)大夫(だいぶ)清国紀伊(きいの)国(くに)の守護(しゆご)にて坐(おは)しけるを呼(よび)奉(たてまつり)て、石川(いしかはの)城(じやう)をふまへさせて、越後(ゑちごの)守(かみ)は急ぎ京都へぞ帰(かへり)上(のぼり)ける。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)は師泰が大勢にて上洛(しやうらく)する由聞給て、此者が心をとらでは叶(かなふ)まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道を使にて、「武蔵守(むさしのかみ)が行事(ぎやうじ)、万(よろづ)短才庸愚(ようぐ)の事ある間、暫く世務の綺(いろひ)を止る処也(なり)。自今後は越後守を以て、管領に居(すゑ)せしむる者也(なり)。政所(まんどころ)以下の沙汰、毎事(まいじ)慇懃(いんぎん)に沙汰せらるべし。」とぞ委補(ゐふ)せられける。
師泰此(この)使に対して、「仰(おほせ)畏て候へ共、枝を切て後根を断(たた)んとの御意にてぞ候覧(らん)。何様罷(まかり)上(のぼり)候(さふらひ)て、御返事(おんへんじ)をば申入(まうしいれ)候べし。」と、事の外なる返事申て、軈(やが)て其(その)日(ひ)石河の陣をぞ打出ける。甲胄(かつちう)を鎧(よろ)ひたる兵三千(さんぜん)余騎(よき)にて打立て、持楯(もちたて)・一枚楯、人夫七千(しちせん)余人(よにん)に持せて混(ひたすら)合戦の体に出立(いでたち)て、態(わざと)白昼に京へ入る。目を驚(おどろか)す有様也(なり)。
師泰執事の宿所に著て、三条殿(さんでうどの)と合戦の企(くはたて)有(あり)と聞へければ、八月十一日の宵(よひ)に、赤松入道円心と子息律師(りつし)則祐(そくいう)、弾正少弼(だんじやうのせうひつ)氏範(うぢのり)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて武蔵守(むさしのかみ)の屋形へ行(ゆき)向(むかふ)。師直急ぎ対面有て、「三条殿(さんでうどの)無謂師直が一家(いつけ)を亡(ほろぼ)さんとの御意、事已(すで)に喉(のんど)に迫(せまり)候間、将軍へ内々事の由を歎(なげき)申て候へば、武衛(ぶゑい)左様の企に及(およぶ)条(でう)、事の体不隠便、速(すみやか)に其(その)儀を留て讒者(ざんしや)の罪を緩(ゆる)くすべからず。
能々(よくよく)制止(せいし)を可加。若(もし)猶(なほ)不叙用して討手を遣(つかは)す事あらば、尊氏必(かならず)師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿(さんでうどの)の討手に向て矢一(ひとつ)仕(つかまつ)らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安(こころやすく)候。尚(なほ)も只難義に覚へ候は、左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)備後(びんご)に被坐候へば、一定(いちぢやう)中国の勢を引て被責上ぬと覚(おぼゆ)る許(ばかり)にて候。今夜急ぎ播磨へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、山陰・山陽(せんやう)の両道を杉坂(すぎざか)・舟坂(ふなさか)の殺所(せつしよ)にて支(ささへ)て給り候へ。」とて、一献(いつこん)を勧(すす)められけるが、「此(この)太刀は保昌(ほうじやう)より伝て代々(だいだい)身を不放守(まもり)と存(ぞんじ)候へ共、是を可進。」とて懐剣(くわいけん)と云太刀を錦(にしき)の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。
円心軈(やがて)領掌(りやうじやう)し、其(その)夜都を立て播磨国(はりまのくに)に馳下(はせくだり)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分て、備前の舟坂(ふなさか)・美作(みまさか)の杉坂、二(ふたつ)の道を差塞(さしふさぎ)、義旗(ぎき)雲竜を靡(なび)かして回天(くわいてん)の機をぞ露(あらは)しける。されば直冬(ただふゆ)大勢にて上らんと被議けるが、其(その)支度(したく)相違したりけり。  
御所囲(かこむ)事(こと)
去(さる)程(ほど)に洛中(らくちゆう)には、只今(ただいま)可有合戦とて周章(あわて)立て、貞和(ぢやうわ)五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下(かみしも)へ馳違(はせちが)ふ。馬の足音草摺(くさずり)の音、鳴休(なりやむ)隙も無りけり。
先(まづ)三条殿(さんでうどの)へ参りける人々には、吉良(きら)左京(さきやうの)大夫(たいふ)満義(みつよし)・同上総(かづさの)三郎満貞(みつさだ)・石堂(いしだう)中務大輔(なかつかさのたいふ)頼房(よりふさ)・同左馬(さまの)頭(かみ)頼直(よりなほ)・石橋左衛門(さゑもんの)佐(すけ)和義(まさよし)・子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)宣義(のぶよし)・尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいぶ)高経・子息民部(みんぶの)少輔(せう)氏経・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・荒河(あらかは)三河(みかはの)守(かみ)詮頼(のりより)・細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春・同兵部大輔(たいふ)顕氏・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・同左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)・同弾正少弼(だんじやうのせうひつ)朝貞(ともさだ)・
長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいぶ)広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋(せんじゆ)三河(みかはの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)惟範(これのり)・大高伊予(いよの)守(かみ)重成(しげなり)・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)朝重・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)顕清(あききよ)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)義宗・勝田(かつた)能登(のとの)守(かみ)助清・狩野下野(しもつけの)三郎・苑田美作(そのだみまさかの)守(かみ)・波多野(はだの)下野(しもつけの)守(かみ)・同因幡(いなばの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・和久(わくの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・斉藤左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)利康(としやす)・飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道・須賀壱岐(すがのいきの)守(かみ)清秀・秋山新蔵人朝政(ともまさ)・島津四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、是等(これら)を宗(むね)との兵として都合其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、轅門(ゑんもん)を固(かため)て扣(ひかへ)たり。
執事師直の屋形へ馳加(はせくはは)る人々には、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・今川五郎入道心省(しんしやう)・同駿河(するがの)守(かみ)頼貞・吉良(きら)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)貞経・大島讃岐守(さぬきのかみ)盛真(もりさね)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)頼勝(よりかつ)・桃井(もものゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)義盛・畠山宮内(くないの)少輔(せう)国頼・細河(ほそかは)相模(さがみの)守(かみ)清氏・土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康・同明智(あけち)次郎頼兼(よりかぬ)・同新蔵人頼雄(よりたか)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱(ひでつな)・同四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定(ひでさだ)・同近江(あふみの)四郎氏綱・佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)氏頼・舎弟(しやてい)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)直綱(なほつな)・同五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)定詮(さだのり)・同大原判官時親(ときちか)・千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)・
宇都宮(うつのみやの)三河(みかはの)入道(にふだう)・武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・逸見(へんみ)八郎(はちらう)信茂・大内(おほち)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・結城(ゆふき)小大郎・梶原(かぢはら)河内(かはちの)守(かみ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義(もろよし)・同和泉(いづみの)守(かみ)・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・同駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもん)・大友(おほとも)豊前(ぶぜんの)太郎頼時・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高真(たかさね)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠真(ただざね)・小田伊賀(いがの)守(かみ)・田中下総(しもふさの)三郎・
伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・木村長門(ながとの)四郎・小幡(をばた)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・海老名(えびな)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)季直(すゑなほ)・大平(おほひら)出羽守義尚(よしなほ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・二階堂(にかいだう)山城(やましろの)三郎行元(ゆきもと)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)秀長・伊勢勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)三郎・清久(きよく)左衛門次郎(さゑもんじらう)・富永(とみなが)孫四郎(まごしらう)・寺尾新蔵人・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・富樫介(とがしのすけ)を始として、多田(ただの)院(ゐんの)御家人(ごけにん)・常陸(ひたちの)平氏・甲斐(かひの)源氏・高家(かうけ)の一族(いちぞく)は申(まうす)に不及、畿内(きない)近国の兵、芳志恩顧(はうしおんこ)の輩(ともがら)、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)寄(よる)間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)、一条大路(いちでうのおほぢ)・今出河(いまでかは)・転法輪(てんぱふりん)・柳が辻・出雲路(いづもぢ)河原(かはら)に至るまで、無透間打込(うちこみ)たる。
将軍是に驚かせ給ひ、三条殿(さんでうどの)へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分(くわぶん)の奢侈(しやし)身に余て忽(たちまち)主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇(じやうべん)に絶(たえ)たり。此(この)上は如何様(いかさま)其(それ)へ寄(よす)る事も可有、急(いそぎ)是へ御渡(おんわたり)候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳(はせ)集(あつまり)たる兵共(つはものども)を召具(めしぐ)して、将軍の御所、近衛東洞院(ひがしのとうゐん)へぞ御坐(おはし)ける。此(この)事の様を見、不叶とや思けん、初(はじめ)馳集たる兵共(つはものども)、五騎十騎(じつき)落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒(むねと)の御一族(ごいちぞく)、近習の輩(ともがら)無弐忠を存する兵僅に千騎(せんぎ)にも不足けり。
明(あく)れば八月十三日(じふさんにち)の卯(うの)刻(こく)に、武蔵守(むさしのかみ)師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞(うんか)の兵を相卒(そつし)て、法成(はふじやう)寺河原(かはら)に打出て、二手(ふたて)にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重(とへはたへ)に囲みて、三度(さんど)時(とき)をぞ揚(あげ)たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は七千(しちせん)余騎(よき)を引分て、西南の小路を立切(たちきり)、搦手(からめて)にこそ廻(まはり)けれ。四方(しはう)より火を懸て焼責(やきぜめ)にすべしと聞へしかば、兵火の余烟(よえん)難遁とて、其辺近(ちかき)卿相(けいしやう)雲客(うんかく)の亭(てい)、長講堂・三宝院(さんぼうゐん)へ資財雑具(ざふぐ)を運び、僧俗男女東西に逃迷(にげまよ)ふ。内裏も近ければ、軍勢(ぐんぜい)事に触(ふれ)て狼藉をも可致とて、俄(にはか)に竜駕(りようが)を被促持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ行幸なる。摂禄(せふろく)大臣諸家(しよけ)の卿相(けいしやう)、周章騒(あわてさわい)で馳参(はせまい)る。
宮中の官女上達部(かんたちめ)、徒歩(かち)にて逃(にげ)ふためけば、八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・大吏・外記(げき)、悉(ことごとく)階下庭上に立連(つらなる)。禁中変化(へんくわ)の有様は目も不被当事共(ことども)也(なり)。暦応以来(りやくおうよりこのかた)は天下武家に帰し、世上も少(すこし)穏(おだやか)なりしに、去年楠正行乱(らん)を起せしか共討死せしかば、弥(いよいよ)無為(ぶゐ)の世に成すと喜(よろこび)合(あふ)処に、俄(にはか)に此乱出来ぬれば、兔(と)にも角(かく)にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、師直・師泰縦(たとひ)押寄(おしよする)と云共、防戦(ふせぎいくさ)に及(およば)ん事返(かへつ)て恥辱なるべし。兵門前に防(ふせが)ば、御腹(おんはら)召(めさ)るべしとて、小具足許(こぐそくばかり)にて閑(しづま)り返て御座(おはし)けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共(ども)、さすが押寄(おしよす)る事はなく、徒(いたづら)に時をぞ移しける。
去(さる)程(ほど)に須賀(すがの)壱岐(いきの)守(かみ)を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖(るゐそ)義家朝臣(あそん)、天下の武将たりしより以来(このかた)、汝が累祖(るゐそ)、当家累代(るゐだい)の家僕(かぼく)として未(いまだ)曾(かつて)一日も主従の礼儀を不乱。而(しかる)に以一旦(いつたん)忿忘余身恩、穏(おだやか)に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦(たとひ)尊氏を賎(いやし)とす共天の譴(せめ)をば不可遁。心中に憤(いきどほ)る事有らば退(しりぞい)て所存を可申。但(ただし)讒者(ざんしや)の真偽(しんぎ)に事を寄(よせ)て国家を奪(うばは)んとの企(くはたて)ならば、再往(さいわう)の問答に不可及。白刃(はくじん)の前に我(わが)命(めいを)止めて忽(たちまち)に黄泉(くわうせん)の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干(そくばく)の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣(ざんしん)の申処を御承引候(さふらひ)て、無故三条殿(さんでうどの)より師直が一類(いちるゐ)亡(ほろぼ)さんとの御結構(ごけつこう)にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本(ちやうぼん)を給(たまはつ)て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯(さつ)と下(おろ)させ、楯を一面に進(すすめ)て両殿を囲(かこみ)奉り、御左右遅しとぞ責(せめ)たりける。
将軍弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、「累代(るゐだい)の家人(けにん)に被囲て下手人(げしにん)被乞出す例(れい)やある。よし/\天下の嘲(あざけり)に身を替(かへ)て討死せん。」とて、御小袖(おんこそで)と云(いふ)鎧(よろひ)取て被召(めされ)ければ、堂上(だうじやう)堂下(だうか)に集(あつま)りたる兵、甲(かぶと)の緒(を)をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷(ひや)しける処に、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)被宥申けるは、「彼等奢侈(しやし)の梟悪(けうあく)法に過(すぐ)るに依て、一旦(いつたん)可誡沙汰由相計(あひはかる)を伝(つたへ)聞き、結句(けつく)返(かへつ)て狼藉(らうぜき)を企(くはたつ)る事、当家の瑕瑾(かきん)武略の衰微(すゐび)是に過(すぎ)たる事や候べき。然(しかしながら)此(この)禍(わざはひ)は直義を恨(うらみ)たる処也(なり)。
然(しかる)を軽々敷(かろがろしく)家僕に対して防戦(ばうせん)の御手(おんて)を被下事口惜(くちをしく)候べし。彼(か)れ今讒者を差(さし)申す上は、師直が申請(こふ)るに任せ、彼等を被召出事何の痛(いたみ)候べき。若(もし)猶予(ゆよ)の御返答あらんに、師直逆威(ぎやくゐ)を振ひ忠義を忘れば、一家(いつけ)の武運此(この)時(とき)軽(かろく)して、天下の大変親(まのあた)りあるべし。」と堅(かたく)制し被申しかば、将軍も諌言違(たがふ)処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)に政道綺(いろ)はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦(きえつ)の眉を開き、囲(かこみ)を解(とい)て打帰る。次の朝軈(やがて)妙吉侍者を召取(めしとら)んと人を遣(つかは)しけるに、早(はや)先立(さきだち)て逐電(ちくてん)しければ行方も不知(しらず)。財産(ざいさん)は方々へ運び取り、浮雲(ふうん)の富貴(ふつき)忽(たちまち)に夢のごとく成にけり。  
右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)鎮西(ちんぜい)没落(ぼつらくの)事(こと)
斯(かかり)し後は弥(いよいよ)師直権威(けんゐ)重く成て、三条殿(さんでうどの)方(がた)の人々は面を低(た)れ眉を顰(ひそ)む。中にも右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は、中国の探題にて備後の鞆(とも)に御座(おはし)けるを、師直近国の地頭・御家人に相触(あひふれ)て討(うち)奉れと申遣(まうしつかは)したりければ、同九月十三日(じふさんにち)、杉原又四郎に百(ひやく)余騎(よき)にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣(ただふゆあそん)既(すで)に被誅給ひぬべかりしを、礒部(いそべ)左近(さこんの)将監(しやうげん)が若党(わかたう)散々に防(ふせぎ)けるが、何(いづ)れも究竟(くつきやう)の手足(てだれ)にて志(こころざ)す矢坪(やつぼ)を不違射ける矢に、十六騎(じふろくき)に手負(ておほ)せて、十三騎馬より倒(さかさま)に射て落(おと)したりければ、杉原少し疼(ひるん)で不懸得ければ、其間に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)は、河尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が船に乗て、肥後(ひごの)国(くに)へぞ被落ける。
志ある者は小舟に乗て追付(おつつき)奉る。此(この)佐(すけ)殿(どの)は武将の嫡(ちやく)家にて、中国の探題に被下て人皆順靡(したがひなびき)奉り、富貴(ふつき)栄耀(えいえう)の門を開き、置酒好会(かうくわい)の席を舒(の)べ、楽(たのしみ)未(いまだ)央(なかばならざり)しに、夢の間に引替て、心筑紫(つくし)に落塩(おちじほ)の鳴戸(なると)を差(さし)て行(ゆく)舟は、片帆(へんぱん)は雲に泝(さかのぼ)り、烟水(えんすゐ)眼(まなこ)に范々(ばうばう)たり。万里漂泊(へうはく)の愁(うれへ)、一葉(いちえふ)扁舟(へんしう)の浮(うき)思ひ、浪馴衣(なみなれごろも)袖朽(くち)て、涙忘るゝ許(ばかり)也(なり)。一年(ひととせ)父尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、京都の軍に利無(なく)して九州へ落(おち)給(たまひ)たりしが、無幾程帰洛の喜(よろこび)に成(なり)給ひし事遠からぬ佳例(かれい)也(なり)と、人々上には勇め共、行末も如何(いか)がしらぬひの、筑紫に赴(おもむく)旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明(げつめい)にして、旅泊(りよはく)の思(おもひ)も切なりければ、直冬、梓弓(あづさゆみ)我こそあらめ引連(ひきつれ)て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。  
左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)上洛(しやうらくの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に三条殿(さんでうどの)は、師直・師泰が憤(いきどほり)猶(なほ)深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来(ぐわんらい)政務を謙譲(けんじやう)し給へば、自関東(くわんとう)左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)を急ぎ上洛(しやうらく)あらせて、直義(ただよし)に不相替政道を申(まうし)付(つけ)、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此(この)左馬(さまの)頭(かみ)と申すは千寿王丸(せんじゆわうまる)と申て久(ひさし)く関東(くわんとう)に居(す)へ置(おか)れたりしが、今は器(き)にあたるべしとて、権柄(けんぺい)の為に上洛(しやうらく)あるとぞ聞へし。同十月四日左馬(さまの)頭(かみ)鎌倉(かまくら)を立て、同二十二日入洛(じゆらく)し給けり。
上洛(しやうらく)の体由々敷(ゆゆしき)見物也(なり)とて、粟田口(あはたぐち)・四宮河原(しのみやがはら)辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷(ちまた)をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉(ことごとく)勢多(せた)まで参向す。東国の大名も川越(かはこえ)・高坂(かうさか)を始として大略送りに上洛(しやうらく)す。馬具足奇麗(きれい)也(なり)しかば誠(まこと)に耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。其(その)美(び)を尽(つく)し善を尽(つく)すも理(ことはり)哉、将軍の長男にて直義の政務に替(かは)り天下の権(けん)を執(と)らん為に上洛(しやうらく)ある事なれば、一涯(ひときわ)珍(めづ)らか也(なり)。今夜将軍の亭(てい)に著(つき)給へば、仙洞より勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、典厩(てんきう)上洛(しやうらく)の事を賀(が)し仰(おほせ)らる。同二十六日(にじふろくにち)三条(さんでうの)坊門(ばうもん)高倉(たかくら)、直義朝臣(あそん)の宿所へ被移住、頓(やが)て政務執行(しつかう)の沙汰始あり。目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。  
直義朝臣(あそん)隠遁(いんとんの)事(こと)付(つけたり)玄慧(げんゑ)法印末期(まつごの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に直義は世の交(まじはり)を止(やめ)、細川兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)顕氏の錦小路(にしきのこうぢ)堀川(ほりかは)の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角(かく)て始終(しじゆう)御憤(おんいきどほり)を被止まじければ、身の為悪(あし)かるべしとて、偸(ひそか)に可奉失由内々議すと聞へければ、其(その)疑(うたがひ)を散ぜん為に、先(まづ)世に望(のぞみ)なく御身(おんみ)を捨はてられたる心中を知(しら)せんとにや、貞和(ぢやうわ)五年十二月八日、御歳四十二にして御髪(かみ)を落(おろ)し給ひける。
未(いまだ)強仕(きやうし)の齢(よはひ)幾程も不過に、剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿に帰(き)し給ひし事、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことはり)と乍云、うたてかりける事共(ことども)也(なり)。斯(かかり)しかば天下の事綺(いろひ)し程こそあれ、今は大廈高墻(たいかかうしやう)の内に身を置き、軽羅褥茵(けいらじよくいん)の上に非可楽とて、錦小路堀河(にしきのこうぢほりかは)に幽閉閑疎(いうへいかんそ)の御住居(おんすまゐ)、垣に苔むし軒に松旧(ふり)たるが、茅茨(ばうし)煙に篭(こもつ)て夜の月朦朧(もうろう)たり。
荻花(てきくわ)風に戦(そよい)で暮(くれ)の声蕭疎(せうそ)たり。時遷(うつり)事去(さり)て、人物(じんぶつ)古(ふるき)に非(あらざ)る事を感じ、蘿窓草屋(らさうさうをく)の底に座来(ざらい)して、経巻を抛(なげうたるる)隙(ひま)も無(なか)りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌(たけ)ぬ。冷然(さび)しさまさる簾(みすの)外には、香盧峯(かうろほう)の雪も浦山敷(うらやましく)、身の古(いにしへ)はあだし世の、夢かとぞ思ふ思(おもひ)きや、雪踏(ふみ)分(わけ)し小野(をの)の山、今更思ひしられつゝ、問(とふ)人もがなと思へども、世の聞耳(ききみみ)を憚(はばかつ)て事問(こととふ)人も無(なか)りしに、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共(ものがたりども)して慰(なぐさめ)奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包(ひとつつみ)送(おくり)給ふとて、其裹紙(つつみがみ)に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴(ともな)ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首(いつしゆ)の小詩に九回(きうくわい)の思(おもひ)を尽して奉る。其後無程法印身罷(みまかり)にけり。慧源禅巷(ゑげんぜんかう)哀に思て、自(みづから)此(この)詩の奥に紙を継(つい)で、六兪般若(りくゆはんにや)の真文(しんもん)を写して、彼追善(かのつゐぜん)にぞ被擬ける。  
上杉畠山流罪(るざい)死刑(しけいの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗をば、所領を没収(もつしゆ)し、宿所を破却(はきやく)して共に越前国へ流遣(ながしつかは)されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑(たのま)れけるにや、暫(しばし)の別を悲(かなしみ)て、女房少(をさなき)人々まで皆伴(ともなう)て下(くだり)給へ共、馴(なれ)ぬ旅寝の床(とこ)の露、をきふし袖をや濡すらん。日来(ひごろ)より翫(もてあそ)びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍(むまのくら)にかけ、旅館の月に弾(だん)じ給へば、王昭君(わうぜうくん)が胡角(こかく)一声霜後(さうごの)夢、漢宮(かんきゆう)万里月前(まへの)腸(はらわた)と、胡国の旅を悲(かなしみ)しも角(かく)やと思(おもひ)知(しら)れたり。
嵐の風に関(せき)越て、紅葉をぬさと、手向(たむけ)山、暮(くれ)行(ゆく)秋の別(わかれ)まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂(まさご)の数よりも、思へば多き歎(なげき)哉(かな)。絶(たえ)ぬ思(おもひ)を志賀(しがの)浦(うら)、渚(なぎさ)によする佐々浪(さざなみ)の、返るを見るも浦山敷(うらやましく)、七座(しちざの)神を伏拝み、身の行末を祈(いのり)ても、都に又も帰(かへる)べき、事は堅田(かただ)に引(ひく)網の、目にもたまらぬ我(わが)泪(なみだ)、今津(いまづ)・甲斐津(かひづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、湖水の霧に峙(そばたち)て、波間(なみま)に見へたる小島(こじま)あり。是なんめり、都良香(とりやうきやう)が古(いにしへ)、三千(さんぜん)世界は眼(めの)前に尽(つき)ぬと詠ぜしかば、十二因縁(いんえん)は心(こころの)裡(うち)に空(むなし)と云(いふ)下(しもの)句を、弁才天の続(つぎ)給(たまひ)し竹生島(ちくぶしま)よと望(のぞみ)見て、暫(しばらく)法施(ほつせ)を奉る。
焼(やか)ぬ塩津(しほづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、思ひ越路(こしぢ)の秋の風、音は荒血(あらち)の山越て、浅茅(あさぢ)色付(いろづく)野を行(ゆけ)ば、末こそしらね梓弓(あづさゆみ)、敦賀(つるが)の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。稠(きびし)く守る武士(もののふ)の、矢田野(やたの)は何(いづ)く帰(かへる)山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭(こもり)けん、火打(ひうち)が城を見上(みあぐ)れば、蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上三千界、石火の光の中一刹那(いつせつな)、哀あだなる憂世(うきよ)哉(かな)と、今更驚(おどろく)許(ばかり)也(なり)。無常の虎(とら)の身を責(せむ)る、上野(うへの)の原を過(すぎ)行(ゆけ)ば、我ゆへさはがしき、月の鼠(ねずみ)の根をかぶる、壁草(いつまでぐさ)のいつまでか、露の命の懸るべき。
とても可消水の泡(あわ)の流(ながれ)留(とどま)る処とて、江守(えもり)の庄(しやう)にぞ着にける。当国の守護代(しゆごだい)細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、八木光勝(やぎのみつかつ)是を請取(うけとり)て、浅猿気(あさましげ)なる柴の庵の、しばしも如何(いか)が栖(すま)れんと、見るだに物憂(ものうき)住居なるに、警固を居(す)へてぞ置れたりける。痛(いたはしき)哉(かな)都にてはさしも気高(けだか)かりし薄桧皮(うすひはだ)の屋形の、三葉四葉(みつばよつば)に作(つくり)双(ならべ)て奇麗(きれい)なるに、車馬門前に群集(くんじゆ)し賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に充満(じゆうまん)して、声花(はなやか)にこそ住(すみ)給(たまひ)しに、今は引替(ひきかへ)たる鄙(ひな)の長途(ちやうぢ)に、やすらふだにも悲(かなし)きに、竹の編戸(あみど)松の垣、時雨(しぐれ)も風もたまらねば、袂(たもと)の乾(かは)く隙(ひま)もなし。
されば如何(いか)なる宿業(しゆくごふ)にてか斯(かか)る憂(うき)目に逢(あふ)らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶(なほ)も師直不足にや思(おもひ)けん、後の禍(わざはひ)をも不顧、潜(ひそか)に討手を差下し、守護代(しゆごだい)八木(やぎ)の光勝(みつかつ)に云(いひ)合(あは)せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随(したがふ)者也(なり)けるが、武蔵守に被語て俄(にはか)に心変(へん)じければ、八月二十四日の夜半許(ばかり)に、伊豆(いづの)守(かみ)の配所(はいしよ)、江守の庄へ行(ゆき)て、「昨日の暮程に高(かうの)弁(べん)定信大勢にて当国の府に著(つき)て候を、何事やらんと内々相尋(たづね)て候へば、旁(かたがた)を討(うち)進(まゐら)せん為に下(くだり)て候なる。
加様(かやう)にて御座(おわしまし)候(さふらひ)ては、争(いかで)か叶はせ給(たまひ)候べき。今夜急(いそぎ)夜に紛(まぎ)れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍(しの)ばせ給(たまひ)て、将軍へ事の子細を申入(まうしいれ)させ給(たまひ)候はゞ、師直等(もろなほら)は忽(たちまちに)蒙御勘気、御身(おんみ)の罪は軽(かろく)成て、などか帰参の御事(おんこと)無(なか)るべき。警固の兵共(つはものども)にも道の程の御怖畏(ごふゐ)候まじ。只はや討手の近付(ちかづき)候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげに申ければ、出抜(だしぬく)とは夢にも知(しり)給はず、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、女房少(をさな)き人々まで皆引具(ひきぐ)して、上下五十三人(ごじふさんにん)、歩(かち)はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交(こさめまじり)に降(ふる)時雨(しぐれ)、面を打(うつ)が如くにて、僅に細き田面(たのも)の道、上は氷れる馬ざくり、蹈(ふめ)ば深泥(しんでい)膝にあがる。簑(みの)もなく笠も著ざれば、膚(はだへ)までぬれ徹(とほ)り、手亀(かがま)り足寒(ひ)へたるに、男は女の手を引、親は少(をさな)き子を負(おう)て、何(いづ)くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭(まま)に落(おち)行(ゆく)心(こころの)中こそ哀なれ。
八木光勝兼て近辺に触回(ふれまは)り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討(うち)止(とめ)よ。」と申(まうす)間、江守・浅生水(あさふづ)・八代(やしろの)庄(しやう)・安居(あこ)・波羅蜜(はらみ)の辺に居たる溢者(あぶれもの)共(ども)、太鼓(たいこ)を鳴し鐘を撞(つき)て、「落人あり打(うち)止(とめ)よ。」と騒動(さうどう)す。上杉・畠山是に驚(おどろき)て、一足(ひとあし)も前へ落(おち)延(のび)んと倒れふためきて、足羽(あすは)の渡へ行著(ゆきつき)たれば、川の橋を引(ひき)落(おと)して、足羽・藤島(ふぢしま)の者共(ものども)、川向(かはむかふ)に楯を一面に衝双(つきなら)べたり。
さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水(あさふづ)の橋をはねはづして、迹にも敵充満(みちみち)たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責(せめ)らるらんも、角(かく)やと思ひしられたり。是までも主の先途(せんど)を見はてんと、付順(つきしたが)ひたりける若党(わかたう)十三人(じふさんにん)、主の自害を勧(すす)めん為、押膚(おしはだ)脱(ぬい)で皆一度(いちど)に腹をぞ切たりける。畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)もつゞいて腹掻(かき)切(きり)、其刀を引抜(ひきぬい)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)の前に投(なげ)遣(やり)、「御腰刀(おんこしがたな)は些(ちと)寸延(のび)て見へ候、是にて御自害(ごじがい)候へ。」と云(いひ)もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。
伊豆(いづの)守(かみ)其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世(うきよ)の名残惜(をしみ)かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許(ばかり)にて、坐(そぞろ)に時をぞ移されける。去(さる)程(ほど)に八木光勝が中間共に生捕(いけど)られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔(と)も角(かく)もあれ強(あながち)見る処に非(あら)ず。只最後の死様(しにざま)をこそ執(しつ)する事なるに、蓬(きたな)くも見へ給ひつる死場(しにば)哉と、爪弾(つまはじき)せぬ人も無りけり。女房は年此(としごろ)日来(ひごろ)のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣(なき)悲みて其淵瀬(ふちせ)に身をも沈めんと、人目の隙(ひま)を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖(ひじり)、兔角(とかく)止(とど)め教訓して、往生院(わうじやうゐん)の道場(だうじやう)にて髪剃(そり)落(おと)し奉て、無迹(なきあと)を訪(とぶらふ)外は更(さらに)他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然(しかしながら)武家の執事の手に落て、今に乱(みだれ)ぬとぞ見へたりける。  
大嘗会(だいじやうゑの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に年内頓(やが)て大礼(たいれい)可有と、重(かさね)て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引(えんいん)如何(いかが)とて、可被果遂にぞ定(さだま)りける。夫(それ)大礼(たいれい)と申は、大内回禄(だいだいくわいろく)の後は代々(だいだい)の流例(りうれい)として、大極殿(だいごくでん)の儀式を被移て大政官の庁(ちやう)にて是を被行。内弁(ないべん)は洞院(とうゐんの)太政大臣(だいじやうだいじん)公資(きんすけ)公(こう)とぞ聞へし。即位の内弁を大相国(たいしやうこく)勤仕(きんし)の事先縦(せんしよう)邂逅(たまさか)なり、或(あるひ)は不快(ふくわい)也(なり)と僉議(せんぎ)区(まちまち)也(なり)しを、勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕卿勧(すすん)で被申けるは、「相国(しやうこく)の内弁の先例両度也(なり)。
保安(ほうあん)・久寿(きうじゆ)の両主也(なり)。保安は誠(まこと)に凶(きよう)例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争(いか)でか可被嫌。其(その)上(うへ)今の相国(しやうこく)は時に当る職に達し、世に聞たる才幹(さいかん)なり。されば君主も義を訪(と)ひ政道を(とひ)給へば、一人(いちじんの)師範其(その)身に当れり。諸家(しよけ)も礼を学(まなび)和漢の鑒(かがみ)と仰て、四海(しかい)の儀形(ぎけい)人を恥(はぢ)ず。」と被申しかば、皆閉口(へいこう)して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁(げべん)は三条(さんでうの)坊門(ばうもん)源(げん)大納言(だいなごん)家信(いへのぶ)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやう)広通(ひろみち)・冷泉(れんぜいの)宰相(さいしやう)経隆也(なり)。
左の侍従(じじゆう)は花山(くわざんの)院(ゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)、右の侍従(じじゆう)は菊亭三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)公真(きんさね)也(なり)。御即位の大礼(たいれい)は四海(しかい)の経営(けいえい)にて、緇素(しそ)の壮観可比事無(なけ)れば、遠近踵(くびす)を継(つい)で群(ぐん)をなす。両院も御見物の為に御幸(ごかう)成て、外弁(げべんの)幄(かりや)の西南の門外に御車(おんくるま)を被立。天子諸卿冕服(べんふく)を著(ちやく)し諸衛(しよゑ)諸陣大儀を伏す。四神(ししんの)幡(はた)を(つぼ)に立て、諸衛(しよゑ)鼓を陣(ぢんに)振る。紅旗(こうき)巻風画竜(ぐわりよう)揚(あが)り、玉幡(ぎよくはん)映日文鳳(ぶんほう)翔(かけ)る、秦(しんの)阿房宮(あばうきゆう)にも不異、呉の姑蘇台(こそだい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難(ありがた)かりし様(ためし)也(なり)。此(この)日(ひ)何(いか)なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日(にじふろくにち)、天子登壇(とうだん)即位して数度の大礼(たいれい)事ゆへなく被行しかば、今年は目出度(めでたく)暮(くれ)にけり。
 
太平記 巻第二十八

 

義詮(よしのり)朝臣(あそん)御政務(ごせいむの)事(こと)
貞和六年月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て、観応(くわんおう)に移る。去年八月十四日に、武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰等(もろやすら)、将軍の御屋形を打(うち)囲(かこみ)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)を責出(せめいだ)し、配所(はいしよ)にて死罪に行ひたりし後、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)卿(きやう)出家して、隠遁(いんとん)の体(てい)に成給ひしかば、将軍の嫡男(ちやくなん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)、同(おなじき)十月二十三日(にじふさんにち)鎌倉(かまくら)より上洛(しやうらく)有て、天下(てんか)の政道を執行(とりおこな)ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計(はから)ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰(あたかも)魯(ろ)の哀公(あいこう)に季桓子(きくわんしが)威(ゐ)を振(ふる)ひ、唐の玄宗に楊国忠(やうこくちゆう)が驕(おごり)を究(きは)めしに不異。  
太宰少弐(だざいのせうに)奉聟直冬事(こと)
右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬は、去年の九月に備後を落(おち)て、河尻肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が許(もと)に坐(おは)しけるを、可奉討由(よし)自将軍御教書(みげうしよ)を被成たりけれ共(ども)、是は只武蔵守(むさしのかみ)師直が申沙汰する処也(なり)。誠(まこと)に将軍の御意より事興(おこつ)て被成御教書に非(あら)ずと、人皆推量を廻(めぐら)しければ、後の禍(わざはひ)を顧(かへりみ)て、奉討する人も無(なか)りけり。斯(かかる)処に太宰(だざいの)少弐(せうに)頼尚(よりひさ)如何思(おもひ)けん、此(この)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を聟(むこ)に取て、己(おのれ)が館(たち)に奉置ければ、筑紫九国(つくしくこく)の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方(みやがた)、将軍方(しやうぐんがた)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)方とて国々三(みつ)に分れしかば、世中(よのなか)の総劇(そうげき)弥(いよいよ)無休時。只漢の代傾(かたぶき)て後、呉魏蜀(ごぎしよく)の三国鼎(かなへ)の如くに峙(そばたち)て、互(たがひ)に二(ふたつ)を亡(ほろぼ)さんとせし戦国の始に相似たり。  
三角(みすみの)入道(にふだう)謀叛(むほんの)事(こと)
爰(ここに)石見(いはみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、三角(みすみの)入道(にふだう)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬の随下知、国中(こくぢゆう)を打順(うちしたが)へ、庄園を掠領(かすめりやう)し、逆威(ぎやくゐ)を恣(ほしいまま)にすと聞へければ、事の大(おほい)に成(なら)ぬ前に退治(たいぢ)すべしとて、越前守(ゑちぜんのかみ)師泰六月二十日都を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を卒(そつ)し石見(いはみの)国(くに)へ発向(はつかう)す。
七月二十七日(にじふしちにち)の暮程に江河(がうのかは)へ打臨(うちのぞ)み、遥(はるかに)敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和(さわの)善四郎が楯篭(たてこもり)たる城よと覚(おぼえ)て、青杉(あをすぎ)・丸屋(まるや)・鼓崎(つづみがさき)とて、間(あひだ)四五町(しごちやう)を隔(へだて)たる城三(み)つ、三壷(さんこ)の如(ごとく)峙(そばだつ)て麓(ふもと)に大河(たいが)流(ながれ)たり。城より下向(おりむか)ふたる敵三百(さんびやく)余騎(よき)、河より向(むかひ)に扣(ひかへ)てこゝを渡せやとぞ招(まねき)たる。寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、皆河端(かはばた)に打臨(うちのぞん)で、何(いづ)くか渡さましと見るに、深山(みやま)の雲を分て流(ながれ)出たる河なれば、松栢(しようはく)影を浸(ひた)して、青山(せいざん)も如動、石岩(せきがん)流(ながれ)を徹(とほし)て、白雪(はくせつ)の翻(ひるが)へるに相似たり。
「案内も知(しら)ぬ立河(たてかは)を、早(はや)りの侭(まま)に渡し懸(かけ)て、水に溺(おぼれ)て亡びなば、猛(たけ)く共何の益(えき)かあらん。日已(すで)に晩(ばん)に及(および)ぬ。夜に入らば水練(すゐれん)の者共(ものども)を数(あま)た入(いれ)て、瀬踏(せぶみ)を能々(よくよく)せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣(ひか)へたる処に、森(もりの)小太郎・高橋九郎左衛門(くらうざゑもん)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて一陣に進(すすん)だりけるが申けるは、「足利(あしかがの)又太郎(またたらう)が治承(ぢしよう)に宇治河を渡し、柴田橘六(しばたきちろく)が承久(しようきう)に供御(くご)の瀬を渡したりしも、何(いづ)れか瀬踏をせさせて候(さうらひ)し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防(ふせが)んとて敵は向(むかひ)に扣(ひか)へたるらめ。此(この)河の案内者(あんないしや)我に勝(まし)たる人不可有。つゞけや殿原(とのばら)。」とて、只二騎真先(まつさき)に進(すすん)で渡せば、二人(ににん)が郎等(らうどう)三百(さんびやく)余騎(よき)、三吉(みよし)の一族(いちぞく)二百(にひやく)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と馬を打(うち)入(いれ)て、弓の本弭末弭(もとはずうらはず)取違(とりちがへ)疋馬(ひつば)に流(ながれ)をせき上(あげ)て、向(むかひ)の岸へぞ懸襄(かけあがつ)たる。
善四郎が兵暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、散々に懸(かけ)立(たて)られて後(うしろ)なる城へ引退(ひきしりぞ)く。寄手(よせて)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て続(つづい)て城へ蒐入(かけいら)んとす。三(みつ)の城(じやう)より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭(とりこめ)て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百(ひやく)余人(よにん)、痛手を負(おひ)、石弓に被打、進(すすみ)兼(かね)たるを見て、越後(ゑちごの)守(かみ)、「三吉討(うた)すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口(やまぐちの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)、赤旗・小旗・大旗の一揆(いつき)、千(せん)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て懸(かか)る。
荒手(あらて)の大勢に攻(せめ)立(たて)られて、敵皆城中(じやうちゆう)へ引(ひき)入れば、寄手(よせて)皆逆木(さかもぎ)の際(きは)まで攻(せめ)寄(よせ)て、掻楯(かいだて)かひてぞ居たりける。手合(てあはせ)の合戦に打(うち)勝(かつ)て、敵を城へは追篭(おひこめ)たれ共(ども)、城の構(かまへ)密(きび)しく岸高く切(きり)立(たち)たれば、可打入便(たより)もなく、可攻落様もなし。只徒(いたづら)に屏(へい)を隔(へだ)て掻楯(かいだて)をさかうて、矢軍(やいくさ)に日をぞ送(おくり)ける。
或(ある)時(とき)寄手(よせて)の三吉一揆(いつき)の中に、日来(ひごろ)より手柄を顕(あらは)したる兵共(つはものども)三四人寄(より)合(あひ)て評定しけるは、「城の体(てい)を見るに如今責(せめ)ば、御方(みかた)は兵粮(ひやうらう)につまりて不怺共(とも)、敵の軍に負(まけ)て落(おつ)る事は不可有。其(その)上(うへ)備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通(かよは)する者多しと聞ゆれば、後(うしろ)に敵の出来(いできた)らんずる事無疑。前には数十箇所(すじつかしよ)の城(じやう)を一(ひとつ)も落さで、後(うし)ろには又敵道を塞(ふさぎ)ぬと聞(きこえ)なば、何(いか)なる樊(はんくわい)・張良(ちやうりやう)ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成(なら)ぬ前に、此(この)城(じやう)を夜討に落(おと)して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付(つけ)進(まゐら)せん。」と申ければ、
「此(この)義尤(もつとも)可然。されば手柄(てがら)の者共(ものども)を集(あつめ)よ。」とて、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵の中より、世に勝(すぐれ)たる剛(かう)の者をえり出すに、足立(あだち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・子息又五郎・杉田弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)・後藤左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)種則(たねのり)・同兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則・熊井(くまがゐ)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)政成(まさなり)・山口新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・城所(きところの)藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田(かんだの)八郎(はちらう)・奴可(ぬかの)源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生(うりふ)源左衛門(げんざゑもん)・富田(とた)孫四郎(まごしらう)・大庭(おほには)孫三郎(まごさぶらう)・山田又次郎・甕(もたひ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・那珂(なか)彦五郎、二十七人(にじふしちにん)をぞすぐりたる。
是等は皆一騎当千(いつきたうぜん)の兵にて、心きゝ夜討に馴(なれ)たる者共(ものども)也(なり)とは云(いひ)ながら、敵千(せん)余人(よにん)篭(こもつ)て用心(ようじん)密(きび)しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵(よひ)の間(ま)に、えい声を出して、先立(さきだつ)人を待調(まちそろ)へさせ筒(どう)の火(ひ)を見せて、さがる勢を進ませて、城の後(うしろ)なる自深山匐々(はふはふ)忍(しのび)寄(より)て、薄(すすき)・苅萱(かるかや)・篠竹(しのだけ)なんどを切て、鎧(よろひ)のさね頭(がしら)・胄(かぶと)の鉢付(はちつけ)の板にひしと差(さし)て、探竿影草(たんかんえいさう)に身を隠し、鼓(つづみ)が崎(さき)の切岸(きりぎし)の下、岩尾(いはほ)の陰(かげ)にぞ臥(ふし)たりける。
かるも掻(かき)たる臥猪(ふすゐ)、朽木(くちき)のうつぼなる荒熊(あらくま)共(ども)、人影に驚(おどろき)て、城の前なる篠原(ささはら)を、二三十つれてぞ落(おち)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)始(はじめ)は夜討の入(いる)よと心得(こころえ)て、櫓々(やぐらやぐら)に兵共(つはものども)弦音(つるおと)して、抛続松(なげだいまつ)屏(へい)より外へ投出々々(なげだしなげだし)、静返(しづまりかへつ)て見(みえ)けるが、「夜討にては無(なく)て後(うし)ろの山より熊の落(おち)て通(とほ)りけるぞ、止(とどめ)よ殿原。」と呼(よば)はりければ、我先に射て取らんと、弓押(おし)張(はり)靭(うつぼ)掻著々々(かつつけかつつけ)、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、落(おち)行(ゆく)熊の迹を追(おう)て、遥(はるか)なる麓へ下(さがり)ければ、城に残る兵纔(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なり)にけり。
夜は既(すで)に明(あけ)ぬ。木戸は皆開(ひらき)たり。なじかは少しも可議擬、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)、打物(うちもの)の鞘(さや)を迦(はづ)して打(うちて)入(いる)。城の本人佐和(さわ)善四郎並(ならびに)郎等(らうどう)三人(さんにん)、腹巻取(とつ)て肩に投(なげ)懸(かけ)、城戸口(きどぐち)に下合(おりあう)て、一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるが、善四郎膝口切(きら)れて犬居(いぬゐ)に伏せば、郎等(らうどう)三人(さんにん)前に立塞(たちふさ)ぎ暫し支(ささへ)て討死す。其(その)間に善四郎は己(おのれ)が役所(やくしよ)に走(はしり)入(いり)、火を懸(かけ)て腹掻(かき)切(きつ)て死(しに)にけり。其(その)外四十(しじふ)余人(よにん)有ける者共(ものども)は、一防(ひとふせぎ)も不防青杉の城(じやう)へ落(おち)て行(ゆく)。熊狩(くまがり)しつる兵共(つはものども)は熊をも不追迹へも不帰、散々(ちりぢり)に成てぞ落(おち)行(ゆき)ける。
憑切(たのみきつ)たる鼓崎(つづみがさき)の城(じやう)を被落のみならず、善四郎忽(たちまちに)討れにければ、残(のこり)二(ふたつ)の城(じやう)も皆一日有て落(おち)にけり。兵、伏野飛雁(ひがん)乱行と云(いふ)、兵書の詞(ことば)を知(しら)ましかば、熊(くま)故(ゆゑ)に城をば落されじと、世の嘲(あざけり)に成(なり)にけり。其(その)後越後(ゑちごの)守(かみ)、石見勢(いはみぜい)を相順(あひしたがへ)て国中(こくぢゆう)へ打(うち)出(いで)たるに、責(せめ)られては落(おち)得じとや思(おもひ)けん、石見(いはみの)国中(こくぢゆう)に、三十二箇所(さんじふにかしよ)有ける城共、皆聞落(ききおち)して、今は只三角(みすみ)入道が篭(こもり)たる三隅(みすみ)城(じやう)一(ひとつ)ぞ残(のこり)ける。此(この)城(じやう)山嶮(けはし)く用心(ようじん)深ければ、縦(たとひ)力責(ちからぜめ)に攻(せむ)る事こそ不叶共、扶(たすけ)の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何(いつ)までか怺(こらへ)て城にもたまるべき。只四方(しはう)の峯々に向城(むかひじやう)を取(とつ)て、二年三年にも攻(せめ)落せとて、寄手(よせて)の構(かまへ)密(きび)しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚(おぼえ)ける。  
直冬朝臣(ただふゆあそん)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつの)事(こと)
中国は大略静謐(せいひつ)の体(てい)なれ共(ども)、九州又蜂起(ほうき)しければ、九月二十九日、肥後(ひごの)国(くに)より都へ早馬(はやうま)を立(たて)て注進しければ、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬、去月十三日(じふさんにち)当国に下著(げちやく)有て、川尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が館(たち)に居(きよ)し給ふ処に、宅磨(たくま)別当太郎守直(もりなほ)与力(よりき)同心して国中(こくぢゆう)を駆催(かりもよほす)間、御方(みかた)に志を通ずる族(やから)有といへ共、其(その)責(せめ)に不堪して悉(ことごとく)付(つき)順(したが)はずと云(いふ)者なし。
然(しかる)間川尻(かはじり)が勢如雲霞成て宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)が城を囲むに、一日(いちにち)一夜(いちや)合戦して討るゝ者百(ひやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る兵不知数。遂(つひ)に三河(みかはの)守(かみ)城(じやう)を被責落、未(いまだ)死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥(いよいよ)大勢に成て鹿子木大炊助(かのこぎおほひのすけ)を取(とり)巻(まく)間、後攻(ごづめ)の為少弐(せうに)が代官宗利(むねとし)近国を相催(あひもよほ)すといへ共、九国二島(くこくにたう)の兵共(つはものども)、太半兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通ずる間、催促に順(したが)ふ輩(ともがら)多からず。事已(すで)に及難儀候、急(いそぎ)御勢(おんせい)を被下べし。」とぞ申ける。将軍此(この)注進に驚(おどろき)て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守(むさしのかみ)に間給ひければ、
師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々(すゑずゑ)の御一族(ごいちぞく)、乃至(ないし)師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自(みづから)御下(おんくだり)候(さうらひ)て、御退治(ごたいぢ)なくては叶(かなふ)まじきにて候。其故は九国の者共(ものども)が兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志(おんこころざし)を被通事は候はんと存ずる者にて候也(なり)。天下の人(ひとの)案に相違して、直(ぢき)に御退治(ごたいぢ)の御合戦候はゞ、誰か父子の確執(かくしつ)に天の罰(ばつ)を顧(かへりみ)ぬ者候べき。将軍の御旗下(おんはたもと)にて、師直命を軽(かろん)ずる程ならば、九国・中国悉(ことごとく)御敵(おんてき)に与(くみ)すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強(あながち)に勧(すす)め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を残(のこし)置(おき)奉て、十月十三日(じふさんにち)征夷(せいい)大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源尊氏(みなもとのたかうぢ)卿(きやう)、執事武蔵守(むさしのかみ)師直を召具し、八千(はつせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)し、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬為誅罰とて、先(まず)中国へとぞ急(いそぎ)給ける。  
錦小路(にしきのこうぢ)殿(どの)落南方事(こと)
将軍、已(すでに)明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房許(ばかり)を召具(めしぐ)して、いづち共不知落(おち)給(たまひ)にけり。是を聞(きき)て世の危(あやぶみ)を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類(いちるゐ)今に滅(ほろび)ん。」とぞ囁(ささやき)ける。事の様を知らぬ其(その)方様(かたさま)の人々女姓(によしやう)なんどは、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、こはいかに成(なり)ぬる世中(よのなか)ぞや。御共に参(まゐり)たる人もなし。御馬(おんむま)も皆厩(むまや)に繋(つなが)れたり。徒洗(かちはだし)にては何(いづ)くへか一足(ひとあし)も落(おち)させ給ふべき。是は只武蔵守(むさしのかみ)の計(はからひ)として、今夜忍(しのび)やかに奉殺者也(なり)。」と、声も不惜泣(なき)悲(かなし)む。
仁木(につき)・細川の人々も執事の尾形に馳集(はせあつまつ)て、「錦小路殿(にしきのこうぢどの)落(おち)させ給ひて候事、後の禍(わざはひ)不遠と覚(おぼえ)候へば、暫(しばらく)都に御逗留(ごとうりう)有て在所(ざいしよ)をも能々(よくよく)可被尋や候(さうらふ)らん。」と被申ければ、師直、「穴(あな)こと/゛\し、縦(たとひ)何(いか)なる吉野十津河(とつかは)の奥、鬼海(きかい)高麗(かうらい)の方へ落(おち)給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与(くみ)し奉(たてまつる)べき。首を獄門(ごくもん)の木に曝(さら)し、尸(かばね)を匹夫(ひつぷ)の鏃(やじり)に止(とど)め給はん事、三日が内を不可出。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつ)の事、已(すで)に諸国へ日を定(さだめ)て触遣(ふれつかは)しぬ。
相図(あいづ)相違せば事の煩(わづらひ)多かるべし。暫(しばらく)も非可逗留(とうりう)処。」とて、十月十三日(じふさんにち)の早旦に師直遂(つひ)に都を立て、将軍を先立(さきだて)奉り、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)駆具(かけぐ)して、十一月十九日に備前の福岡に著(つき)給ふ。爰(ここ)にて四国中国の勢を待(まち)けれ共(ども)、海上は波風荒(あれ)て船も不通山陰道(せんおんだう)は雪降積(ふりつもつ)て馬の蹄も立(たた)ざれば、馳(はせ)参る勢不多。さては年明(あけ)てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒(いたづら)に日をぞ送られける。  
自持明院殿(ぢみやうゐんどの)被成院宣事(こと)
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、師直が西国へ下らんとしける比(ころ)をひ、潜(ひそか)に殺し可奉企(くはたて)有(あり)と聞へしかば、為遁其死忍(しのん)で先(まづ)大和国へ落て、越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)を憑(たの)まれたりければ、近辺の郷民(きやうみん)共(ども)同心に合力して、路々を切塞(きりふさ)ぎ四方(しはう)に関を居(すゑ)て、誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房以下、少々志を存(ぞんず)る旧好(きうかう)の人々馳(はせ)参りければ、早(はや)隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙(とひ)の間に区(まちまち)也(なり)。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先(まづ)京都へ人を上せ、院宣を伺(うかがひ)申されければ、無子細軈(やが)て被宣下、剰(あまつさへ)不望鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に被補。其(その)詞(ことばに)云(いはく)、被院宣云(いはく)、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉(かな)。爰退治(たいぢ)凶徒(きようと)、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道(ごきしちだう)之軍勢(ぐんぜい)企上洛(しやうらく)、可令守護(しゆご)天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)  
慧源禅巷(ゑげんぜんかう)南方合体(なんぱうがつていの)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)合戦(かつせんの)事(こと)
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道、都を仁木(につき)・細川・高家の一族共(いちぞくども)に背(そむ)かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)は、皆吉野の王命に順(したがう)て、今更武家に可付順共不見ければ、澳(おき)にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、進退歩(あゆみ)を失へり。越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)、「角(かく)ては何様(いかさま)難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿(よしのどの)の御方(みかた)へ御参候(さふらひ)て、先非(せんぴ)を改め、後栄(こうえい)を期(ご)する御謀(はかりこと)を可被廻とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、
「尤此(この)儀可然。」とて、軈(やが)て専使(せんし)を以て、吉野殿(よしのどの)へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居(くわうきよ)於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏(たかうぢの)卿(きやう)企上洛(しやうらく)、応勅決戦、帰天下於一統(いつとう)皇化候事、乾臨定被残叡感候歟(か)。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類(いちるゐ)悉残朝敵(てうてき)之名条歎有余処也(なり)。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海(しかい)之(の)逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日(ここのか)沙弥慧源進上四条(しでうの)大納言殿(だいなごんどの)と委細の書状を捧(ささげ)て、降参の由をぞ被申たる。則(すなはち)諸卿参内して、此事如何(いか)が可有と僉議ありけるに、先(まづ)洞院(とうゐんの)左大将実世(さねよ)公(こう)被申けるは、
「直義入道が申処、甚(はなはだ)以(もつて)偽(いつは)れり。相伝譜代(ふだい)の家人(けにん)、師直・師泰が為に都を被追出身の措(おき)処なき間、聊(いささか)借天威己(おのれが)為達宿意、奉掠天聴者也(なり)。二十(にじふ)余年(よねん)の間一人(いちじん)を始(はじめ)進(まゐら)せて百司千官悉(ことごとく)望鳳闕之雲、飛鳥之翅事、然(しかしながら)直義入道が不依悪逆乎。而(しかるに)今幸(さいはひに)軍門に降(くだ)らん事を請(こ)ふ、此(これ)天の与(あたふ)る処也(なり)。乗時是を不誅後の禍(わざはひ)噛臍無益。只速(すみやか)に討手を差(さし)遣(はし)て首を禁門の前に可被曝とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ける。次に二条(にでうの)関白左大臣殿(くわんばくさだいじんどの)暫(しばらく)思案して被仰けるは、「張良(ちやうりやう)が三略の詞(ことば)に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。
是己(おのれが)謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却(かへつ)て無弐故(ゆゑ)也(なり)。されば章邯(しやうかん)楚に降(くだつ)て秦忽(たちまち)に破れ、管仲許罪斉(せい)則治(をさまりし)事、尤(もつとも)今の世に可為指南。直義入道御方(みかた)に参る程ならば、君天下を保(たもた)せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区(まちまち)にこそ被申けれ。
諌臣両人の異儀、得失互に備(そな)ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良(やや)久(ひさしく)ある処に、北畠(きたばたけの)准后禅閤(じゆごうぜんかふ)喩(たとへ)を引て被申けるは、「昔秦の世已(すで)に傾(かたぶ)かんとせし時、沛公(はいこう)は沛郡(はいぐん)より起り項羽(かうう)は楚より起る。六国(りくこく)の諸候の秦を背(そむ)く者彼両将に付(つき)順(したがひ)しかば、共に其(その)威漸(やうやく)振(ふるう)て、沛公(はいこう)が兵十万(じふまん)余騎(よき)、漢の濮陽(ぼくやう)の東に軍(いくさ)だちし、項羽(かうう)が勢(せい)は四十万騎(しじふまんぎ)、定陶(ていたう)を攻(せめ)て雍丘(ようきう)の西に至る。
沛公(はいこう)、項羽(かうう)相共(あひとも)に古(いにしへ)の楚王の末孫心(そんしん)と云(いひ)し人、民間に下て羊を飼(かひ)しを、取立(とりたて)義帝(ぎてい)と号し、其(その)御前(おんまへ)にて、先(まづ)咸陽(かんやう)に入て秦を亡(ほろぼ)したるらん者、必(かならず)天下に王たるべしと約諾(やくだく)して、東西に分れて責(せめ)上る。角(かく)て項羽(かうう)已(すで)に鉅鹿(きよろく)に至(いたる)時(とき)、秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)、百万騎にて相(あひ)待(まち)ける間、項羽(かうう)自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)にて河を渡て後(のち)、船を沈(しづ)め釜甑(ふぞう)を破て盧舎(ろしや)を焼(やく)。是(これ)は敵大勢にて御方(みかた)小勢也(なり)。
一人も生(いき)ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝(かつ)事非じと思ふ故(ゆゑ)に、思(おもひ)切(きつ)たる心中を士卒に為令知也(なり)。於是秦の将軍と九たび遇(あう)て百たび戦(たたかふ)。忽(たちまち)に秦の副将軍(ふくしやうぐん)蘇角(そかく)を討て王離を生虜(いけどり)しかば、討(うた)るゝ秦の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)、章邯(しやうかん)重(かさね)て戦ふ事を不得、終(つひ)に項羽(かうう)に降(くだつ)て還(かへつ)て秦をぞ責(せめ)たりける。項羽(かうう)又新安城(しんあんじやう)の戦(たたかひ)に打(うち)勝(かつ)て首を切(きる)事二十万(にじふまん)、凡(すべ)て項羽(かうう)が向ふ処不破云(いふ)事なく、攻(せむ)る城は不落云(いふ)事無(なか)りしか共、至(いたる)所ごとに美女を愛し酒に淫(いん)し、財を貪(むさぼ)り地を屠(はふり)しかば、路次(ろし)に数月(すげつ)の滞(とどこほり)有て、末だ都へは不責入。
漢の元年十一月に、函谷関(かんこくくわん)にぞ著(つき)にける。沛公(はいこう)は無勢(ぶせい)にして而(しか)も道難処(なんしよ)を経(へ)しか共、民を憐み人を撫(ぶ)する心深(ふかく)して、財をも不貪人をも不殺しかば、支(ささへ)て防ぐ城もなく、不降云(いふ)敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽(かうう)に三月先立(さきだち)て咸陽宮(かんやうきゆう)へ入にけり。而共(しかれども)沛公(はいこう)志(こころざし)天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山(りざん)の宝玉をも不散、剰(あまつさへ)降(くだ)れる秦の子嬰(しえい)を守護(しゆご)し奉て、天下の約を定めん為に、還(かへつ)て函谷(かんこく)へ兵を差(さし)遣(つかは)し、項羽(かうう)を咸陽へ入(いれ)立(たて)じと関の戸を堅(かたく)閉(とぢ)たりける。
数月(すげつ)有て項羽(かうう)咸陽へ入らんとするに、沛公(はいこう)の兵函谷関を閉(とぢ)て項羽(かうう)を入(いれ)ず。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て当陽君(たうやうくん)に十二万騎(じふにまんぎ)の兵を差副(さしそへ)、函谷関を打(うち)破(やぶつ)て咸陽宮へ入(いり)にけり。則(すなはち)降(くだ)れる子嬰(しえい)皇帝(くわうてい)を殺(ころし)奉(たてまつつ)て咸陽宮に火を懸(かけ)たれば、方三百七十里(さんびやくしちじふり)に作(つくり)双(ならべ)たる宮殿楼閣(くうでんろうかく)一(ひとつ)も不残焼(やけ)て、三月まで火不消、驪山(りざん)の神陵(しんりやう)忽(たちまち)に灰塵(くわいぢん)と成(なる)こそ悲しけれ。此(この)神陵と申は、秦(しんの)始皇帝(しくわうてい)崩御(ほうぎよ)成(なり)し時、はかなくも人間の富貴(ふつき)を冥途(めいど)まで御身(おんみ)に順(したが)へんと思して、楼殿(ろうでん)を作(つくり)瑩(みが)き山川(さんせん)をかざりなせり。
 天には金銀を以て日月を十丈(じふぢやう)に鋳(い)させて懸け、地には江海を形取(かたどつ)て銀水を百里に流せり。人魚の油十万(じふまん)石(ごく)、銀の御錠(あぶらつき)に入(いれ)て長時(ぢやうじ)に灯(とぼしび)を挑(かかげ)たれば、石壁(せきへき)暗しといへ共青天白日の如く也(なり)。此中に三公(さんこう)已下の千官六千人(ろくせんにん)、宮門守護(しゆご)の兵一万人、後宮(こうきゆう)の美人三千人(さんぜんにん)、楽府(がくふ)の妓女(ぎによ)三百人(さんびやくにん)、皆生(いき)ながら神陵の土に埋(うもれ)て、苔(こけ)の下にぞ朽(くち)にける。始作俑人無後乎と文宣(ぶんせん)王の誡(いましめ)しも、今こそ思(おもひ)知(しら)れたれ。始皇帝(しくわうてい)如此執覚(しつしおぼして)様々の詔(せう)を被残神陵なれば、さこそは其妄執(まうしふ)も留(とどめ)給(たまふ)らんに、項羽(かうう)無情是(これ)を堀(ほり)崩して殿閣(でんかく)悉(ことごとく)焼払(やきはらひ)しかば、九泉(きうせん)の宝玉二度(ふたたび)人間に返るこそ愍(あはれ)なれ。此時項羽(かうう)が兵は四十万騎(しじふまんぎ)新豊(しんほう)の鴻門(こうもん)にあり。
沛公(はいこう)が兵は十万騎(じふまんぎ)咸陽の覇上(はじやう)にあり。其間相(あひ)去(さる)事三十里(さんじふり)、沛公(はいこう)項羽(かうう)に未(いまだ)相(あひ)見(まみえず)。於是(ここに)范増(はんぞう)といへる項羽(かうう)が老臣、項羽(かうう)に口説(くどい)て云(いひ)けるは、「沛公(はいこう)沛郡に有(あり)し時、其(その)振舞(ふるまひ)を見しかば、財を貪(むさぼり)美女を愛する心尋常(よのつね)に越(こえ)たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是(これ)其(その)志天下にある者也(なり)。我人を遣(つかは)して窃(ひそか)に彼(かの)陣中(ぢんちゆう)の体(てい)を見するに、旗(はたの)文(もんに)竜虎(りようこ)を書けり。
是(これ)天子の気に非(あらず)や。速(すみやか)に沛公(はいこう)を不討ば、必天下為沛公(はいこう)可被傾。」と申ければ、項羽(かうう)げにもと聞(きき)ながら、我(わが)勢の強大なるを憑(たのみ)て、何程の事か可有と思(おもひ)侮(あなどつ)てぞ居たりける。斯(かか)る処に沛公(はいこう)が臣下(しんかに)曹無傷(さうぶしやう)と云ける者、潜(ひそか)に項羽(かうう)の方へ人を遣(つかは)して、沛公(はいこう)天下に王たらんとする由をぞ告(つげ)たりける。項羽(かうう)是を聞て、此(この)上は無疑とて四十万騎(しじふまんぎ)の兵共(つはものども)に命(めい)じて、夜明ば則(すなはち)沛公(はいこう)の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。
爰(ここ)に項羽(かうう)が季父(をぢ)に項伯(かうはく)と云(いひ)ける人、昔より張良(ちやうりやう)と知音(ちいん)也(なり)ければ、此(この)事を告(つげ)知(しら)せて落さばやと思(おもひ)ける間、急(いそぎ)沛公(はいこう)の陣へ行(ゆき)向ひ張良を呼出して、「事の体(てい)已(すで)に急也(なり)。今夜急ぎ逃(にげ)去て命許(ばかり)を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来(もとより)義を重(おもん)じて、節に臨(のぞ)む時命を思ふ事塵芥(ぢんかい)よりも軽(かろく)せし者也(なり)ければ、何故(なにゆゑ)か事の急なるに当(あたつ)て、高祖(かうそ)を捨(すて)て可逃去とて、項伯が云(いふ)処を沛公(はいこう)に告ぐ。沛公(はいこう)大(おほい)に驚て、「抑(そもそも)我兵を以て項羽(かうう)と戦(たたかは)ん事、勝負(しようぶ)可依運や。」と問(とひ)給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎(じふまんぎ)、楚は是(これ)四十万騎(しじふまんぎ)也(なり)。平野にて戦(たたかは)んに、漢勝(かつ)事を難得。」とぞ答へける。
沛公(はいこう)、「さらば我(われ)項伯を呼(よび)て、兄弟の交(まじはり)をなし婚姻(こんいん)の義を約して、先(まづ)事の無為(ぶゐ)ならんずる様を謀(はか)らん。」とて項伯を帷幕(ゐばく)の内へ呼(よび)給(たまひ)て、先(まづ)旨酒(ししゆ)を奉じ自(みづから)寿(ことほぎ)をなして宣ひけるは、「初(はじめ)我と項王と約を成(なし)て先(まづ)咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。我項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事七十(しちじふ)余日(よにち)、而(しか)れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関(せき)に入て秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづくる)処に非(あら)ず。吏民(りみん)を籍(せき)し府庫(ふこ)を封(ほう)じて項王の来(きたり)給はん日を待(まつ)。是(これ)世の知る処也(なり)。兵を遣(つかは)して函谷関を守らせし事は、全く項王を防(ふせぐ)に非(あら)ず。他(たの)盜人(ぬすびと)の出入と非常とを備へん為也(なり)き。願(ねがはく)は公速(すみやか)に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。
我則(すなはち)旦日(たんじつ)項王の陣に行(ゆき)て自(みづから)無罪故を可謝。」と宣(のたまへ)ば、項伯則(すなはち)許諾(きよだく)して馬に策(むちうつ)てぞ帰にける。項伯則(すなはち)項王の陣に行て具(つぶさ)に沛公(はいこう)の謝(しや)する処を申けるは、「抑(そもそも)沛公(はいこう)先(まづ)関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高(たかく)し食を安(やすん)ずる事を得ましや。今天下の大功は然(しかしながら)沛公(はいこう)にあり。而(しか)るを小人の讒(ざん)を信じて有功人を討(うた)ん事大なる不義也(なり)。不如沛公(はいこう)と交(まじはり)を深(ふかく)し功を重(おもん)じて天下を鎮(しづ)めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽(かうう)げにもと心服して顔色(がんしよく)快(こころよ)く成(なり)にけり。
暫(しばし)あれば沛公(はいこう)百(ひやく)余騎(よき)を随(したが)へて来て項王に見(まみ)ゆ。仍(すなはち)礼謝して曰(いはく)、「臣項王と力を勠(あはせ)て秦を攻(せめ)し時、項王は河北(かほく)に戦ひ臣は河南(かなん)に戦ふ。不憶き、万死を秦(しん)の虎口(ここう)に逋(のが)れて、再会を楚の鴻門(こうもん)に遂(とげ)んとは。而(しか)るに今佞人(ねいじん)の讒(ざん)に依(よつ)て臣項王と胡越(こゑつ)の隔(へだて)有らん事豈可不悲乎。」と首(かうべ)を著地宣へば、項羽(かうう)誠(まこと)に心解(とげ)たる気色(けしき)にて、「是(これ)沛公(はいこう)の左司馬曹無傷(さうぶしやう)が告(つげ)知(しら)せしに依(よつ)て頻(しきり)に沛公(はいこう)を疑(うたがひ)き。
不然何(なにを)以(もつ)てか知(しる)事あらん。」と、忽(たちまち)に証人(しようにん)を顕(あらは)して誠(まこと)に所存なげなる体(てい)、心浅くぞ見へたりける。項羽(かうう)頻(しきり)に沛公(はいこう)を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮(むい)て坐し、范増(はんぞう)は南に嚮(むき)たり。沛公(はいこう)は北に嚮て坐し、張良は西(にしに)嚮て侍り。范増(はんぞう)は兼(かね)てより、沛公(はいこう)を討(うた)ん事非今日ば何(いつ)をか可期と思(おもひ)ければ、項羽(かうう)を内へ入(いれ)て、沛公(はいこう)と刺(さし)違(ちが)へん為に、帯(はい)たる所の太刀を拳(にぎつ)て、三度(さんど)まで目加(めくはせ)しけれ共(ども)、項羽(かうう)其心を不悟只黙然(もくねん)としてぞ居たりける。
范増(はんぞう)則(すなはち)座を立て、項荘(かうさう)を呼(よび)て申けるは、「我為項王沛公(はいこう)を討(うた)んとすれ共項王愚(おろか)にして是を不悟。汝早(はやく)席に帰て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)せよ。沛公(はいこう)盃(さかづき)を傾(かたぶけ)ん時、我(われと)与汝剣を抜(ぬい)て舞ふ真似(まね)をして、沛公(はいこう)を坐中にして殺(ころさ)ん。而(しか)らずは汝が輩(ともがら)遂(つひ)に沛公(はいこう)が為に亡(ほろぼ)されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流(ながし)て申ければ、項荘一義に不及。則(すなはち)席に帰て、自(みづから)酌を取て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)す。沛公(はいこう)盃を傾(かたぶく)る時、項荘、「君王今沛公(はいこう)と飲酒(いんしゆ)す。
軍中楽(がく)を不為事久し。請(こふ)臣等(しんら)剣を抜(ぬい)て太平の曲を舞(まは)ん。」とて、項荘剣を抜(ぬい)て立(たつ)。范増(はんぞう)も諸共に剣を指(さし)かざして沛公(はいこう)の前に立(たち)合(あひ)たり。項伯彼等が気色(けしき)を見、沛公(はいこう)を討せじと思(おもひ)ければ、「我(われ)も共に可舞。」とて同(おなじく)又剣を抜(ぬい)て立(たつ)。項荘南に向へば項伯北に向(むかつ)て立。范増(はんぞう)沛公(はいこう)に近付(ちかづけ)ば項伯身を以て立(たち)隠す。依之(これによつて)楽已(すで)に徹(をはら)んとするまで沛公(はいこう)を討(うつ)事不能。少し隙(ひま)ある時に張良門前に走(はしり)出て誰かあると見るに、樊(はんくわい)つと走(はしり)寄て、坐中(ざちゆう)の体(てい)如何と問ければ、張良、「事甚(はなはだ)急也(なり)。今項荘剣を抜(ぬい)て舞ふ。
其意常に沛公(はいこう)に在(あり)。」と答(こたへ)ければ、樊(はんくわい)、「此(これ)已(すで)に喉(のんどに)迫(せま)る也(なり)。速(すみやか)に入て沛公(はいこう)と同(おなじく)命を失(うしなは)んにはしかじ。」とて、胄(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、鉄(くろがね)の楯(たて)を挟(はさみ)て、軍門の内へ入(いら)んとす。門の左右に交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百(ごひやく)余人(よにん)、戈(ほこ)を支(ささ)へ太刀を抜(ぬい)て是を入(いれ)じとす。樊(はんくわい)大に忿(いかつ)て、其(その)楯を身に横(よこた)へ門の関(くわん)の木七八本押(おし)折(をつ)て、内へつと走(はしり)入れば、倒(たふ)るゝ扉(とびら)に打(うち)倒され、鉄(くろがね)の楯につき倒されて、交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百人(ごひやくにん)地に臥(ふ)して皆起(おき)あがらず。
(はんくわい)遂(つひ)に軍門に入て、其(その)帷幕(ゐばく)を掲(かかげ)て目を嗔(いから)し、項王をはたと睨(にらん)で立(たち)けるに、頭(かしら)の髪(かみ)上にあがりて胄の鉢(はち)をゝひ貫(つらぬ)き、師子(しし)のいかり毛(げ)の如く巻て百千万の星となる。眦(まなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)て、光(ひかり)百練(ひやくれん)の鏡に血をそゝぎたるが如(ごとく)、其(その)長(たけ)九尺(くしやく)七寸(しちすん)有て忿(いか)れる鬼鬚(ひげ)左右に分れたるが、鎧突(よろひづき)して立(たつ)たる体(てい)、何(いか)なる悪鬼羅刹(あくきらせつ)も是には過(すぎ)じとぞ見へたりける。項王是を見給(たまひ)て、自(みづから)剣を抜懸(ぬきかけ)て跪(ひざまづい)て、「汝何者(なにもの)ぞ。」と問(とひ)給へば、張良、「沛公(はいこう)の兵に樊(はんくわい)と申(まうす)者にて候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。項羽(かうう)其時に居直(ゐなほつ)て、「是(これ)天下の勇士(ゆうし)也(なり)。彼(かれ)に酒を賜(たま)はん。」とて、一斗(いつと)を盛る巵(さかづき)を召(めし)出して樊(はんくわい)が前にをき、七尾許(ななつをばかり)なる(きのこ)の肩を肴(さかな)にとつて出されたり。
(はんくわい)楯を地に覆(ふせ)剣を抜(ぬき)て(きのこ)の肩を切て、少(すこし)も不残噛食(かみくう)て巵(さかづき)に酒をたぶ/\と受て三度(さんど)傾(かたぶ)け、巵(さかづき)を閣(さしおい)て申(まうし)けるは、「夫(それ)秦王虎狼(こらう)の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之(これによつて)秦を不背云(いふ)者なし。爰(ここ)に沛公(はいこう)と項王と同(おなじ)く義兵を揚(あげ)、無道(ぶだう)の秦を亡(ほろぼ)して天下を救はん為に、義帝(ぎてい)の御前(おんまへ)にして血をすゝりて約せし時、先(まづ)秦を破(やぶり)て咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。然るに今沛公(はいこう)項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事数月(すげつ)、然共(しかれども)秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづく)る所非(あら)ず。宮室(きゆうしつ)を封閉(ほうへい)して以て項王の来(きたり)給はん事を待(まつ)、是(これ)豈(あに)沛公(はいこう)の非仁義乎。
兵を遣(つかは)して函谷関を守(まもら)しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也(なり)き。其功の高(たかき)事如此。未(いまだ)封侯(ほうこう)の賞(しやう)非(あら)ずして剰(あまつさへ)有功(いうこう)の人を誅(ちゆう)せんとす。是(これ)亡秦(ばうしん)の悪を続(つい)で自(みづから)天の罰を招く者也(なり)。」と、少(すこし)も不憚項王を睨(にらみ)て申せば、項王答(こたふ)るに言(こと)ば無(なく)して只首(かうべ)を低(たれ)て赤面す。樊(はんくわい)は加様(かやう)に思(おもふ)程云(いひ)散(ちら)して、張良が末座に著(つく)。暫(しばらく)有て沛公(はいこう)厠(かはや)に行(ゆく)真似して、樊(はんくわい)を招(まねい)て出給ふ。潜(ひそか)に樊(はんくわい)に向(むかつ)て、「先(さき)に項荘が剣を抜(ぬい)て舞つる志偏(ひとへ)に吾を討(うた)んと謀(はか)る者也(なり)。座久(ひさしく)して不帰事危(あやふき)に近し。
是より急(いそぎ)我(わが)陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊(はんくわい)、「大行(かう)は不顧細謹、大礼(たいれい)は不必辞譲、如今人は方(まさ)に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞(じ)することをせんや。」とて、白璧(はくへき)一双(いつさう)と玉の巵(さかづき)一双(いつさう)とを張良に与(あたへ)て留(とどめ)置き、驪山の下より間道(かんだう)を経て、竜蹄(りようてい)に策(むち)を進め給へば、強(きんきやう)・紀信(きしん)・樊(はんくわい)・夏侯嬰(かこうえい)四人、自(みづから)楯を挟(はさ)み戈(ほこ)を採(とつ)て、馬の前後に相(あひ)順(したが)ふ。其(その)道二十(にじふ)余里(より)、嶮(けはし)きを凌(しの)ぎ絶(たえ)たるを渡て、半時を不過(すぎ)覇上(はじやう)の陣に行(ゆき)至りぬ。初め沛公(はいこう)に順(したが)ひし百(ひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)は、猶(なほ)項王の陣の前に並居(なみゐ)て、張良未(いまだ)鴻門にあれば人皆沛公(はいこう)の帰(かへり)給へるを不知(しらず)。
暫(しばらく)有(あつて)張良座に返て謝(しや)して曰、「沛公(はいこう)酔(ゑひ)て坏(さかづき)を酌(くむ)に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良(りやう)をして、謹(つつしん)で足下(そつか)に可献之と被申置。」とて、先(まづ)白璧(はくへき)一双(いつさう)を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠(まこと)に天下の重宝也(なり)。」と感悦して、坐上に置て自(みづから)愛し給ふ事無類。其(その)後張良又玉斗(ぎよくと)一双(いつさう)を捧(ささげ)て范増(はんぞう)が前にぞ置たりける。范増(はんぞう)大に忿(いかつ)て、玉斗を地に投(なげ)剣を抜(ぬい)て突摧(つきくだ)き、項王をはたと睨(にらみ)て、「嗟(ああ)豎子(じゆし)不足与謀奪項王之天下者必沛公(はいこう)なるべし。奈何(いかんか)せん吾(わが)属(ともがら)今為之虜(とりこ)とならん事。白璧(はくへき)重宝也(なり)といへ共豈(あに)天下に替(かへ)んや。」とて、怒(いかる)る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。
項王猶(なほ)も范増(はんぞう)が心を不悟、痛く酔(ゑひ)て帳中に入(いり)給へば、張良百(ひやく)余騎(よき)を順(したがへ)て覇上に帰りぬ。沛公(はいこう)の軍門に至て、項王の方へ返忠(かへりちゆう)しつる曹無傷を斬(きつ)て、首を軍門に被懸。浩(かか)りし後は沛公(はいこう)項王互に相(あひ)見(まみ)ゆる事なし。天下は只項羽(かうう)が成敗(せいばい)に随て、賞罰(しやうばつ)共(とも)に明(あきらか)ならざりしかば、諸侯万民皆共(ともに)、沛公(はいこう)が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。
其後項羽(かうう)と沛公(はいこう)と天下を争(あらそふ)気已(すで)に顕(あらは)れて、国々の兵両方に属(しよく)せしかば、漢楚二(ふたつ)に分れて四海(しかい)の乱無止時。沛公(はいこう)をば漢の高祖(かうそ)と称(しよう)す。其手に属(しよく)する兵には、韓信・彭越(はうゑつ)・蕭何(せうか)・曹参(さうさん)・陳平(ちんぺい)・張良・樊(はんくわい)・周勃(しうぼつ)・黥布(げいほ)・盧綰(ろくわん)・張耳(ちやうじ)・王陵(わうりよう)・劉賈(りうか)・商(れきしやう)・潅嬰(くわんえい)・夏侯嬰・傅寛(ふくわん)・劉敬(さいけい)・強(きんきやう)・呉(ごぜい)・食其(れきいき)・董公(とうこう)・紀信・轅生(ゑんせい)・周苛(しうか)・侯公(こうこう)・随何(ずゐか)・陸賈(りくか)・魏(ぎの)無知(ぶち)・斉孫通(しゆくそんつう)・呂須(りよしゆ)・呂巨(りよこ)・呂青(りよせい)・呂安(りよあん)・呂禄(りよろく)以下の呂氏三百(さんびやく)余人(よにん)都合其(その)勢三十万騎(さんじふまんぎ)、高祖(かうそ)の方にぞ属(しよく)しける。
楚の項羽(かうう)は元来(もとより)代々(だいだい)将軍(しやうぐん)の家也(なり)ければ、相(あひ)順(したが)ふ兵八千人(はつせんにん)あり。其外今馳著(はせつき)ける兵には、櫟陽(やくやうの)長史欣(ちやうしきん)・都尉(とゐ)董翳(とうえい)・塞王(さいわう)司馬欣(しばきん)・魏王(ぎわう)豹(へう)・瑕丘(かきうの)申陽(しんやう)・韓王(かんわう)・成(せい)・趙(てうの)司馬(しばがう)・趙(てうの)王歇(わうけつ)・常山王(じやうざんわう)張耳(ちやうじ)・義帝(ぎてい)柱国共敖(ちゆうこくきようがう)・遼東(れうとうの)韓広(かんくわう)・燕(えんの)将臧荼(ざうと)・田市(でんし)・田都(でんと)・田安(でんあん)・田栄(でんえい)・成安君(せいあんくん)陳余(ちんよ)・番君将(ばんくんがしやう)梅(ばいけん)・雍王(ようわう)章邯(しやうかん)、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢にて項羽(かうう)に降(くだつ)て属(しよく)せしかば、項氏十七人(じふしちにん)、諸侯五十三人(ごじふさんにん)、都合其(その)勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加(くは)りける。
漢の二年に項王城陽(せいやう)に至て、高祖(かうそ)の兵田栄(でんえい)と戦ふ。田栄が軍破れて降人(かうにん)に出ければ、其老弱婦女(らうじやくふぢよ)に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋(うづめ)て是を殺す。漢王又五十六万人を卒(そつ)して彭城(はうせい)に入る。項羽(かうう)自(みづから)精兵(せいびやう)三万人を将(ひきゐ)て胡陵(こりよう)にして戦ふ。高祖(かうそ)又打負(うちまけ)ければ、楚則(すなはち)漢の兵十(じふ)余万人(よまんにん)を生虜(いけどつ)て水(すゐすゐ)の淵(ふち)にぞ沈めける。水為之不流。高祖(かうそ)二度(にど)戦負(まけ)て霊壁(れいへき)の東に至る時、其(その)勢纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)也(なり)。項王の兵三百万騎、漢王を囲(かこみ)ぬる事三匝(さんさふ)、漢可遁方も無(なか)りける処に、俄(にはか)に風吹(ふき)雨荒(あらう)して、白日忽(たちまち)に夜よりも尚(なほ)暗かりければ、高祖(かうそ)数十騎(すじつき)と共に敵の囲(かこみ)を出て、豊沛(ほうはい)へ落(おち)給ふ。
是を追て沛郡へ押(おし)寄(よせ)ければ、高祖(かうその)兵共(つはものども)爰(ここ)に支(ささ)へ彼(かし)こに防(ふせい)で、打死する者二十(にじふ)余人(よにん)、沛郡の戦にも又漢王打(うち)負(まけ)給ひければ、高祖(かうそ)の父大公、楚の兵に虜(とらは)れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯(しうりよこう)と蕭何(せうか)が兵を合(あは)せて二十万(にじふまん)余騎(よき)、陽(けいやう)に至る。項王勝(かつ)に乗て八十万騎(はちじふまんぎ)彭城(はうせい)より押(おし)寄(よせ)て相(あひ)戦ふ。此時漢の戦纔(わづか)に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢(いきほひ)を振(ふつ)て未(いまだ)重(かさね)て不戦、共に広武(くわうぶ)に張陣川を隔(へだて)てぞ居たりける。或(ある)時(とき)項王の陣に高き俎(まないた)を作て、其(その)上(うへ)に漢王の父大公を置て高祖(かうそ)に告(つげ)て云(いは)く、「是(これ)沛公(はいこう)が父に非(あらず)や。沛公(はいこう)今首を延(のべ)て楚に降(くだ)らば太公と汝が命を助(たすけ)ん。沛公(はいこう)若(もし)楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。
漢王是を聞て、大に嘲(あざわらう)て云(いはく)、「吾項羽(かうう)と北面にして命(めい)を懐王(くわいわう)に受(うけ)し時、兄弟たらん事を誓(ちかひ)き。然れば吾(わが)父は即(すなはち)汝が父也(なり)。今而(しかる)に父を烹殺(にころ)さば幸(さいはひ)に我に一盃(いつぱい)の羹(あつもの)を分(わか)て。」と、欺(あざむか)れければ、項王大(おほい)に怒(いかつ)て即(すなはち)大公を殺さんとしけるを、項伯堅(かたく)諌(いさめ)ければ、「よしさらば暫(しば)し。」とて、大公を殺(ころす)事をば止めてけり。漢楚久(ひさしく)相支(ささへ)て未勝負を決、丁壮(ていさう)は軍旅(ぐんりよ)に苦(くるし)み老弱(らうじやく)は転漕(てんさう)に罷(つか)る。
或(ある)時(とき)項羽(かうう)自(みづから)甲胄を著し戈(ほこ)を取、一日に千里を走(わし)る騅(すゐ)と云(いふ)馬に打(うち)乗(のり)て、只一騎(いつき)川の向(むかひ)の岸に控(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「天下の士卒戦に苦む事已(すで)に八箇年(はちかねん)、是我と沛公(はいこう)と只両人を以ての故(ゆゑ)也(なり)。そゞろに四海(しかい)の人民を悩(なやま)さんよりは、我と沛公(はいこう)と独身(ひとりみ)にして雌雄(しゆう)を決すべし。」と招(まねい)て、敵陣を睨(にらん)でぞ立たりける。爰(ここ)に漢皇(かんくわう)自(みづから)帷幕(ゐばく)の中より出て、項王をせめて宣(のたまひ)けるは、「夫(それ)項王自(みづから)義無(なく)して天罰を招く事其罪非一。始(はじめ)項羽(かうう)と与(とも)に命を懐王に受(うけ)し時、先(まづ)入て関中を定(しづ)めたらん者を王とせんと云(いひ)き。
然(しかる)を項羽(かうう)忽(たちまち)に約を背(そむい)て、我を蜀漢(しよくかん)に主たらしむ。其(その)罪一(ひとつ)。宋義、懐王の命を受て卿子(けいし)冠軍(くわんぐん)となる処に、項羽(かうう)乱(みだり)に其(その)帷幕(ゐばく)に入て、自(みづから)卿子冠軍の首を斬(きつ)て、懐王我をして是を誅(ちゆう)せしめたりと偽(いつはつ)て令(れい)を軍中に出す。其(その)罪二(ふたつ)。項羽(かうう)趙(てう)を救(すくう)て戦(たたかひ)利有(あり)し時、還(かへつ)て懐王に不報(ほうぜず)、境内(きやうだい)の兵を掃(はらう)て自(みづから)関に入る。其(その)罪三(みつ)。懐王堅(かた)く令(れい)すらく、秦に入らば民を害し財を貪(むさぼ)る事なかれと。項羽(かうう)数月(すげつ)をくれて秦に入し後、秦の宮室(きゆうしつ)を焼き、驪山(りざん)の塚を堀(ほり)て其(その)宝玉を私にせり。
其(その)罪四(よつ)。又降(くだ)れる秦王子(わうじ)嬰(しえい)を殺して、天下にはびこる。其(その)罪五(いつつ)。詐(いつはつ)て秦の子弟を新安城(しんあんじやう)の坑(あな)に埋(うづめ)て殺せる事二十万(にじふまん)。其(その)罪六(むつ)。項羽(かうう)のみ善(よき)地に王として故主を逐誅(ちくちゆうし)たり。畔逆(はんげき)是より起る。其(その)罪七(ななつ)。懐王を彭城(はうせい)に移して韓王の地を奪(うばひ)、合(あは)せて梁楚に王として自(みづから)天下を与(あづか)り聞く。其(その)罪八(やつ)。項羽(かうう)人をして陰(ひそか)に懐王を江南に殺せり。其(その)罪九(ここのつ)。此(この)罪は天下の指(さす)所、道路(だうろ)目を以てにくも者也(なり)。
大逆(たいぎやく)無道(ぶだう)の甚(はなはだしき)事、天豈(あに)公(こう)を誡(いましめ)刑(けい)せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽(かうう)と独(ひとり)身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜(ぬく)といへ共我(わが)義の天に合(かなへ)るには如(しか)じ。而(しか)らば刑余(けいよ)の罪人をして甲兵(かふへい)金革(きんかく)をすて、挺楚(ていそ)を制して、項羽(かうう)を可撃殺。」と欺(あざむい)て、百万の士卒、同音に箙(えびら)を敲(たたい)てどつと笑ふ。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て自(みづから)強弩(きやうど)を引て漢王を射る。其(その)矢河の面(おも)て四町(しちやう)余を射越して漢王の前に控(ひかへ)たる兵の、鎧の草摺(くさずり)より引敷(ひつしき)の板(いたの)裏(うら)をかけず射徹(いとほ)し、高祖(かうそ)の鎧の胸板(むないた)に、くつまき責(せめ)てぞ立たりける。
漢の兵に楼煩(ろうはん)と云けるは、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、馬の上の達者にて、三町(さんちやう)四町(しちやう)が中の物をば、下針(さげばり)をも射る程の者也(なり)けるが、漢王の当(たう)の矢を射んとて矢比(やごろ)過(すぎ)て懸(かけ)出たりけるを、項羽(かうう)自(みづから)戟(ほこ)を持て立(たち)向ひ、目を瞋(いから)かし大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「汝何者(なにもの)なれば、我に向(むかつ)て弓を引(ひか)んとはするぞ。」と怒(いかつ)てちやうどにらむ。其(その)勢(いきほひ)に僻易(へきえき)して、さしもの楼煩(ろうはん)目敢(あへ)て物を不見、弓を不引得人馬共に振(ふる)ひ戦(わなない)て、漢王の陣へぞ逃(にげ)入(いり)ける。漢王疵(きず)を蒙(かうむつ)て愈を待(まつ)程(ほど)に、其(その)兵皆気を失ひしかば、戦毎(たたかふごと)に楚勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。
是(これ)只范増(はんぞう)が謀(はかりこと)より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何(いか)にもして此(この)范増(はんぞう)を討(うた)んとぞ計りける。或(ある)時(とき)項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先(まづ)酒を勧(すす)めんとしけるに、大(たいらう)の具(そな)へを為(なし)て山海の珍(ちん)を尽(つく)し旨酒(ししゆ)如泉湛(たたへ)て、沙金四万(しまん)斤(きん)、珠玉・綾羅(りようら)・錦綉(きんしう)以下の重宝、如山積(つみ)上(あげ)て、引出物(ひきでもの)にぞ置たりける。
陳平が語る詞毎(ことばごと)に、使者敢(あへ)て不心得(こころえず)、黙然(もくねん)として答(こたふ)る事無(なか)りける時に、陳平詐(いつはり)驚(おどろい)て、「吾公を以て范増(はんぞう)が使也(なり)と思て密事(みつじ)を語(かたる)、今項王の使なる事を知て、悔(くゆ)るに益(えき)なし。是(これ)命(めい)を伝(つたふ)る者の誤(あやまり)也(なり)。」と云て、様々に積(つみ)置(おき)ける引出物(ひきでもの)を皆取(とり)返(かへ)し、大(らう)の具(そな)へを取入て、却(かへり)て飢口(きこう)にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰(かへつ)て此(この)由(よし)を項王に語る。項王是より范増(はんぞう)が漢王と密儀を謀(はかつ)て、返忠(かへりちゆう)をしけるよと疑(うたがひ)て、是が権を奪(うばひ)て誅(ちゆう)せん事を計る。
范増(はんぞう)是(これ)を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定(さだまり)ぬ。君王自(みづから)是(これ)を治(をさ)め給へ。我已(すで)に年八十(はちじふ)余、命の中に君が亡(ほろび)んを見ん事も可悲。只願(ねがはく)は我首を刎(はね)て市朝(してう)に被曝歟(か)、不然鴆毒(ちんどく)を賜(たまう)て死を早(はやう)せん。」と請(こひ)ければ、項王弥(いよいよ)瞋(いかつ)て鴆毒を呑(のま)せらる。范増(はんぞう)鴆(ちん)を呑(のみ)て後未(いまだ)三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已(すで)に八箇年(はちかねん)自(みづから)相(あひ)当る事七十(しちじふ)余度(よど)に及ぶまで、天下楚を背(そむく)といへ〔共〕、項羽(かうう)度(たび)ごとに勝(かつ)に乗(のり)し事は、只楚の兵の猛(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。范増(はんぞう)謀(はかりこと)を出して民をはぐゝみ、士を勇(いさ)め敵の気を察(さつ)し、労(らう)せる兵を助け化(くわ)を普(あまね)く施(ほどこ)して、人の心を和(くわ)せし故(ゆゑ)也(なり)。
されば范増(はんぞう)死を賜(たまひ)し後、諸侯悉(ことごとく)楚を負(そむい)て漢に属(しよく)せる者甚(はなはだ)多し。漢楚共に陽の東に至て久(ひさしく)相(あひ)支へたる時に、漢は兵盛(さかり)に食多(おほく)して楚は兵疲(つか)れ食絶(たえ)ぬ。此(この)時(とき)漢の陸賈(りくか)を楚に使して曰(いはく)、「今日より後は天下を中分(ちゆうぶん)して、鴻溝(こうこう)より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請(こひ)給ふに、項王悦(よろこび)て其(その)約を堅(かたく)し給ふ。仍(よつて)先に生取(いけどつ)て戦の弱き時には、是を烹殺(にころ)さんとせし漢王の父太公を緩(ゆる)して、漢へぞ送られける。軍勢(ぐんぜい)皆万歳を呼(よば)ふ。角(かく)て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有(たもつ)て諸侯皆付(つき)順(したが)ふ。
楚は兵罷(つかれ)て食尽(つき)たり。是天の楚を亡(ほろぼ)す時也(なり)。此時不討只虎を養(やしなう)て自(みづから)患(うれへ)を遺(のこし)侯者なるべし。」漢王此(この)諌(いさめ)に付(つき)て即(すなはち)諸候に約し、三百(さんびやく)余万騎(よまんぎ)の勢にて項王を追懸給ふ。項羽(かうう)僅(わづか)十万騎(じふまんぎ)の勢を以て固陵(こりよう)に返し合(あはせ)て漢と相(あひ)戦ふ。漢の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)討(うた)れて引退(ひきしりぞ)く。是を聞て韓信、斉(せいの)国(くに)の兵三十万騎(さんじふまんぎ)を卒(そつ)して、寿春(じゆしゆん)より廻(まはつ)て楚と戦ふ。彭越(はうゑつ)、彭城(はうせい)の兵二十万騎(にじふまんぎ)を卒(そつ)して、城父(せいほ)を経(へ)て楚の陣へ寄せ、敵の行(ゆく)前(さき)を遮(さえぎつ)て張陣。大司馬周殷(しういん)、九江の兵十万騎(じふまんぎ)を卒(そつ)して、楚の陣へ押(おし)寄せ水を阻(へだて)て取(とり)篭(こむ)る。東南西北悉(ことごとく)百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取(とり)巻(まき)たれば、項羽(かうう)可落方無(なく)て、垓下(がいか)の城(じやう)にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重(すひやくぢゆう)、四面皆楚歌するを聞て項羽(かうう)今宵(こよひ)を限(かぎり)と思はれければ、美人虞氏(ぐし)に向て、泪(なみだ)を流し詩を作(つくつ)て悲歌慷慨(ひかかうがい)し給ふ。
虞氏悲(かなしみ)に不堪、剣を給(たまはつ)て自(みづから)其(その)刃(やいば)に貫(つらぬか)れて臥(ふし)ければ、項羽(かうう)今は浮世に無思事と悦(よろこび)て、夜明(あけ)ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先(まづ)四面を囲みぬる漢の兵百万余騎(よき)を懸(かけ)破り、烏江(をうがう)と云川の辺に打出給ひ、自(みづから)泪(なみだ)を押(おさへ)て其(その)兵に語(かたつ)て曰(いはく)、「吾兵を起してより以来、八箇年(はちかねん)の戦に、自(みづから)逢(あふ)事七十(しちじふ)余戦、当る所は必(かならず)破る、撃つ所は皆服す。未(いまだ)嘗(はじめ)より一度(いちど)も不敗北遂に覇(は)として天下を有(たも)てり。然(しかれ)共(ども)今勢(いきほ)ひ尽(つき)力衰(おとろ)へて漢の為に被亡ぬる事、全(まつたく)非戦罪只天我を亡(ほろぼ)す者也(なり)。故(ゆゑ)に今日の戦に、我必(かならず)快(こころよ)く三度(さんど)打勝て、而も漢の大将の頚を取(とり)、其旗を靡(なび)かして、誠(まこと)に我(わが)言(いふ)処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分(わけ)、漢の兵百万騎を四方(しはう)に受て控(ひか)へたる処に、先(まづ)一番に漢の将軍淮陰侯(わいいんこう)、三十万騎(さんじふまんぎ)にて押(おし)寄(よせ)たり。
 項羽(かうう)二十八騎を迹(あと)に立て、真前(まつさき)に懸(かけ)入(いつ)て、自(みづから)敵三百(さんびやく)余騎(よき)斬(きつ)て落(おと)し、漢(かんの)大将の首を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、本(もと)の陣へ馳(はせ)返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎(にじつき)に成にけり。其(その)勢を又三所に控(ひか)へさせて、近(ちかづ)く敵を待(まち)懸(かけ)たるに、孔(く)将軍(しやうぐん)二十万騎(にじふまんぎ)、費(ひ)将軍(しやうぐん)五十万騎(ごじふまんぎ)にて東西より押(おし)寄(よせ)たり。項王又大(おほい)に呼(をめい)て山東より馳(はせ)下(くだり)、両陣の敵を四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸(かけ)散(ちら)し、逃(にぐ)る敵五百(ごひやく)余人(よにん)を斬(きつ)て落(おと)し、又大将都尉(とゐ)が頭を取(とり)、左の手に提(ひつさげ)て、本の陣へ馳(はせ)返り、其(その)兵を見給ふに纔(わづか)七騎に成(なり)にけり。
項羽(かうう)自(みづから)漢の大将軍三人(さんにん)の頭を鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て指(さし)揚(あげ)、七騎の兵に向て、「何(いか)に汝等(なんぢら)我(わが)言(いふ)所に非(あら)ずや。」と問(とひ)給へば、兵皆舌を翻(ひるがへし)て、「誠(まこと)に大王の御言(おんことば)の如し。」と感じける。項羽(かうう)已(すで)に五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を被(かうむり)てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江(をうがう)の辺に打臨(うちのぞみ)給ふ。爰(ここ)に烏江の亭(てい)の長(ちやう)と云(いふ)者、舟を一艘(いつさう)漕(こぎ)寄せて、「此(この)川の向は項王の御手(おんて)に属(しよく)して、所々の合戦に討死仕りし兵共(つはものども)の故郷にて候。地狭(せば)しといへ共其(その)人数十万人あり。此(この)舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。
漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願(ねがはく)は大王急ぎ渡て命をつぎ、重(かさね)て大軍を動かして、天下を今一度(ひとたび)覆(くつがへ)し給へ。」と申ければ、項王大(おほい)に哈(あざわらう)て、「天我を亡(ほろぼ)せり。我何(いか)んか渡る事をせん。我昔江東(かうとう)の子弟八千人(はつせんにん)と此(この)川を渡(わたつ)て秦を傾(かたぶ)け、遂(つひ)に天下に覇(は)として賞(しやう)未(いまだ)士卒に不及処に、又高祖(かうそ)と戦ふ事八箇年(はちかねん)、今其子弟一人も還(かへ)る者無(なく)して、我独(ひとり)江東に帰らば、縦(たとひ)江東の父兄(ふけい)憐(あはれん)で我を王とすとも、我何の面目有てか是(これ)に見(まみ)ゆる事を得ん。彼(かれ)縦(たとひ)不言共、我独(ひとり)心に不愧哉(や)。」とて、遂(つひ)に河を不渡給。され共(ども)、亭の長が其(その)志を感じて、騅(すゐ)と云(いひ)ける馬の一日に千里を翔(かけ)るを、只今(ただいま)まで乗(のり)給ひたるを下(くだし)て、亭の長にぞたびたりける。
其(その)後歩立(かちだち)に成て、只三人(さんにん)猶(なほ)忿(いかつ)て立(たち)給へる所へ、赤泉侯(せきせんこう)騎将として二万(にまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進み、項王を生取(いけどら)んと馳(はせ)近付(ちかづく)。項王眼を瞋(いからか)し声を発(はつ)して、「汝何者(なにもの)なれば我を討(うた)んとは近付(ちかづく)ぞ。」と忿(いかつ)て立(たち)向(むかひ)給ふに、さしもの赤泉侯其(その)人こそあらめ、意(こころ)なき馬さへ振(ふる)ひ戦(わなない)て、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に漢の司馬呂馬童(りよばどう)が遥(はるか)に控(ひかへ)たりけるを、項王手を挙(あげ)て招き、「汝は吾年来(としごろ)の知音(ちいん)也(なり)。我聞(きく)、漢我(わが)頭(くび)を以て千金の報(はう)万戸(ばんこ)の邑(いふ)に購(あがなふ)と、我今汝が為に頭を与(あたへ)て、朋友(ほういう)の恩を謝すべし。」と云。
呂馬童(りよばどう)泪を流して敢(あへ)て項羽(かうう)を討んとせず。項羽(かうう)、「よしやさらば我と我(わが)頚(くび)を掻(かき)切(きつ)て、汝に与へん。」とて、自(みづから)剣を抜(ぬい)て己が首を掻(かき)落(おと)し、左の手に差(さし)挙(あげ)て立(たち)すくみにこそ死(しに)給ひけれ。項王遂(つひ)に亡(ほろび)て、漢七百(しちひやく)の祚(そ)を保(たもち)し事は、陣平・張良が謀(はかりこと)にて、偽(いつはつ)て和睦(わぼく)せし故(ゆゑ)也(なり)。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申(まうす)旨に任(まかせ)て先(まづ)御合体(ごがつてい)あらば、定(さだめ)て君を御位に即進(つけまゐら)せて、万機(ばんき)の政(まつりこと)を四海(しかい)に施(ほどこ)されん歟(か)。聖徳普(あまねく)して、士卒悉(ことごとく)帰服し奉らば、其(その)威(ゐ)忽(たちまち)に振(ふるひ)て逆臣等(げきしんら)を亡(ほろぼ)されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学(さいかく)と覚へて、言(こと)ば巧(たくみ)に申されければ、諸卿げにもと同心して、即(すなはち)勅免の宣旨をぞ被下ける。
被綸言云(いはく)、温故知新者、明哲之所好也(なり)。撥乱復正者、良将之所先也(なり)。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日(じふさんにち)左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿(にふだうどの)とぞ被成ける。是ぞ誠(まこと)に君臣永(ながく)不快(ふくわい)の基(もとゐ)、兄弟忽(たちまち)向背の初(はじめ)と覚へて、浅猿(あさまし)かりし世間(よのなか)なり。 
 
太平記 巻第二十九

 

宮方(みやがた)京攻(きやうぜめの)事(こと)
暫時(ざんじ)の智謀事(こと)成(なり)しかば、三条(さんでうの)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)と吉野殿(よしのどの)と御合体(ごがつてい)有て、慧源は大和の越智(をち)が許(もと)に坐(おはし)ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)、我(われ)も我(われ)もと三条殿(さんでうどの)に馳参(はせまゐ)る。是のみならず、洛中辺土(らくちゆうへんど)の武士共(ぶしども)も、面々に参ると聞へしかば、無弐(むに)の将軍方(しやうぐんがた)にて、楠退治(たいぢ)の為に、石河々原に向城(むかひじやう)を取て被居たりける畠山阿波将監(あはのしやうげん)国清も、其(その)勢(せい)千(せん)余騎(よき)にて馳参る。謳歌(おうか)の説巷(ちまた)に満(みち)て、南方(なんぱう)の勢已(すで)に京へ寄すると聞へけれ。
京都の警固(けいご)にて坐(おはし)ける宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)朝臣(あそん)より早馬(はやうま)を立て、備前の福岡(ふくをか)に、将軍九州下向の為とて座(おは)しける所へ、急を被告事頻並(しきなみ)也(なり)。依之(これによつて)将軍(しやうぐん)より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角(みすみ)の城(じやう)退治(たいぢ)せんとて居たりけるを、其(その)国(くに)は兔(と)も角(かく)もあれ、先(まづ)京都一大事(いちだいじ)なれば、夜を日に継(つい)で可上洛(しやうらく)由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数(ひかず)を経ければ、師泰が参否の左右を待(まつ)までもなしとて、将軍急(いそぎ)福岡を立て、に千(せん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し給ふ。入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)此(この)由を聞て、さらば京都に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)義詮を責落(せめおと)せとて、観応二年正月七日、七千(しちせん)余騎(よき)にて八幡山(やはたやま)に陣を取る。桃井(もものゐ)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)直常、其比(そのころ)越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)にて在国したりけるが、兼て相図(あひづ)を定(さだめ)たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催(あひもよほ)し、七千(しちせん)余騎(よき)にて夜を日に継(つい)で責上(せめのぼ)る。
折節雪をびたゝしく降(ふつ)て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下(おろ)し、橇(かんじき)を懸(かけ)させ、二万(にまん)余人(よにん)を前に立て、道を蹈(ふま)せて過(すぎ)たるに、山の雪氷(こほつ)て如鏡なれば、中々馬の蹄(ひづめ)を不労して、七里(しちり)半(はん)の山中をば馬人容易(たやすく)越(こえ)はてゝ、比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。足利宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮は其比(そのころ)京都に坐(おは)しけるが、八幡山(やはたやま)、比叡坂本に大敵を請(うけ)て、非可由断、著到(ちやくたう)を付(つけ)て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎(さんまんぎ)と註(しる)したりけるが、翌日(つぎのひ)は一万騎(いちまんぎ)に減ず。翌日は三千騎(さんぜんぎ)になる。是は如何様(いかさま)御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)敵になると覚ゆるぞ。
道々に関を居(すゑ)よとて、淀・赤井・今路(いまみち)・関山(せきせん)に関を居(すゑ)たれば、関守共に打連(うちつれ)て、我(われ)も我(われ)もと敵に馳著(はせつき)ける程に、同(おなじき)十二日の暮程には、御内(みうち)・外様(とさま)の御勢(おんせい)五百騎(ごひやくき)に不足とぞ注(しる)したる。さる程に十三日(じふさんにち)の夜より、桃井(もものゐ)山上に陣を取(とり)ぬと見へて、大篝(おおかがり)を焼(た)けば、八幡山(やはたやま)にも相図(あひづ)の篝を焼(たき)つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗(むね)との人人評定有て、「合戦は始終(しじゆう)の勝こそ肝要(かんえう)にて候へ。此(この)小勢にて彼(かの)大敵にあわん事、千に一も勝(かつ)事を難得覚(おぼえ)候。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)已(すで)に西国(さいこく)より御上(おんのぼり)候なれば、今は摂津国(つのくに)辺にも著(つか)せ給(たまひ)て候(さうらふ)覧(らん)。只京都を無事故御開(ひらき)候(さふらひ)て、将軍の御勢(おんせい)と一になり、則(すなはち)京都へ寄(よせ)られ候はゞ、などか思ふ図(づ)に合戦一度(いちど)せでは候べき。」と被申ければ、
義詮卿、「義は宜(よろしき)に順(したが)ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落(おち)給へば、同日の午(うまの)刻(こく)に、桃井(もものゐ)都へ入(い)り替(かは)る。治承(ぢしよう)の古(いにし)へ平家都を落(おち)たりしか共(ども)、木曾(きそ)は猶(なほ)天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是(これ)全(まつたく)入洛(じゆらく)を非不急、敵を欺(あざむ)かざる故なり。又は軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)を静めん為なりき。武略に長(ちやう)ぜる人は、慎(つつし)む処加様(かやう)にこそ堅かるべし。今直常敵の落(おち)ぬといへばとて、人に兵粮(ひやうらう)をもつかはせず、馬に糠(ぬか)をもかはせず、楚忽(そこつ)に都へ入替る事其(その)要(えう)何事ぞや。
敵若(もし)偽(いつはつ)て引退き、却(かへつ)て又寄(よせ)来(きたる)事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井(もものゐ)を引(ひく)者は、敵御方勝負を決すべきならば、争(いかで)か敵を欺(あざむか)ざるべき。未(いまだ)落(おち)ぬ先にも入洛すべし。まして敵落(おち)なば、何しにすこしも擬議(ぎぎ)すべき。如何(いか)にも入洛(じゆらく)を急(いそぎ)てこそ、日比(ひごろ)の所存も達しぬべけれ。若(もし)敵偽(いつはつ)て引退き、又帰寄(かへしよす)る事あらば、京都にて尸(かばね)を曝(さら)したらん事何か苦(くるし)かるべき。又軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)は、入洛の遅速(ちそく)に依(よる)べからず。其(その)上(うへ)深き了簡もをはすらんと、申(まうす)族(やから)も多かりけり。  
将軍上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)阿保秋山河原(かはら)軍(いくさの)事(こと)
義詮心細く都を落(おち)て、桂河を打渡り、向(むかふの)明神を南へ打過させ給(たまは)んとする処に、物集女(もづめ)の前西(にし)の岡(をか)に当て、馬煙(うまけぶり)夥(おびたた)しく立て、勢の多少は未見(いまだみず)、旗二三十流翻(ひるがへし)て、小松原(こまつばら)より懸出(かけいで)たり。義詮馬を控(ひかへ)て、「是は若(もし)八幡より搦手(からめて)に廻(まは)る敵にてや有らん。」とて、先(まづ)人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守(むさしのかみ)師直、山陽道(せんやうだう)の勢を駆具(かりぐ)し、二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して上洛(しやうらく)し給ふにてぞ有ける。
義詮を始奉て、諸軍勢(しよぐんぜい)に至るまで、只窮子(くうし)の他国より帰て、父の長者に逢へるが如(ごとく)、悦び合(あふ)事限(かぎり)なし。さらば軈(やがて)取て返して洛中(らくちゆう)へ打寄せ、桃井(もものゐ)を責落(せめおと)せと、将軍父子の御勢(おんせい)都合(つがふ)二万(にまん)余騎(よき)を桂川より三手(みて)に分て、大手は武蔵守(むさしのかみ)を大将として、仁木(につき)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)・細河(ほそかは)阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・今河駿河(するがの)守(かみ)、五千(ごせん)余騎(よき)四条(しでう)を東へ押寄(おしよす)る。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、手勢七百(しちひやく)余騎(よき)を引分て、東寺の前を東へ打通(うちとほ)りて、今比叡(いまひえい)の辺に控(ひか)へ、大手の合戦半(なかば)ならん時、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方より、敵の後(うしろ)へ蒐出(かけいで)んと、旗竿(はたざを)を引側(ひきそば)め笠符(かさじるし)を巻隠し、東山へ打上る。
将軍と宰相(さいしやうの)中将殿(ちゆうじやうどの)は、一万(いちまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あはせ)、大宮(おほみや)を上(のぼり)に打通(うちとほ)り、二条(にでう)を東へ法勝寺(ほつしようじ)の前に打出んと、相図(あひづ)を定(さだめ)て寄せ給ふ。是は桃井(もものゐ)東山に陣を取たりと聞(きこえ)ければ、四条(しでう)より寄(よす)る勢に向て、合戦は定(さだめ)て川原(かはら)にてぞ有んずらん。御方偽(いつはつ)て京中(きやうぢゆう)へ引退(ひきしりぞ)かば、桃井(もものゐ)定(さだめて)勝(かつ)に乗(のつ)て進まん歟(か)、其(その)時(とき)道誉(だうよ)桃井(もものゐ)が陣の後へ蒐出(かけいで)て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮(さへぎ)られて、進退度(ど)を失はん時、将軍の大勢北白河(きたしらかは)へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井(もものゐ)武(たけ)しと云共(いふとも)引かではやはか戦(たたかふ)と、謀(はかりこと)を廻(めぐら)す処也(なり)。
如案中の手大宮(おほみや)にて旗を下(おろ)して、直(すぐ)に四条川原(しでうがはら)へ懸出たれば、桃井(もものゐ)は東山を後(うしろ)にあて賀茂河を前に堺(さかう)て、赤旗一揆(いつき)・扇一揆(いつき)・鈴付(すずつけ)一揆(いつき)・二千(にせん)余騎(よき)を三所に控(ひかへ)て、射手(いて)をば面(おもて)に進ませ、帖楯(でふたて)二三百帖(にさんびやくでふ)つき並(なら)べて、敵懸らば共に蒐(かか)り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静(しづま)り返て待懸(まちかけ)たり。
両陣旗を上(あげ)て、時の声をば揚(あげ)たれ共(ども)、寄手(よせて)は搦手(からめて)の勢の相図を待て未(いまだ)懸(かけ)ず。桃井(もものゐ)は八幡の勢の攻寄(せめよせ)んずる程を待て、態(わざと)事を延(のば)さんとす。互に勇気を励(はげま)す程に、或(あるひ)は五騎十騎(じつき)馬を懸居懸廻(かけすゑかけまはし)、かけ引(ひき)自在に当らんと、馬を乗浮(のりうかぶる)もあり。或(あるひ)は母衣袋(ほろふくろ)より母衣(ほろ)取出して、是(ここ)を先途(せんど)の戦と思へる気色顕(あらは)れて、最後と出立(いでたつ)人もあり。斯(かか)る処に、桃井(もものゐ)が扇一揆(いつき)の中より、長(たけ)七尺(しちしやく)許(ばかり)なる男の、ひげ黒に血眼(ちまなこ)なるが、火威(ひをどし)の鎧に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、鍬形(くはがた)の間に、紅(くれなゐ)の扇の月日出したるを不残開て夕陽(せきやう)に耀(かかや)かし、樫木(かしのき)の棒の一丈(いちぢやう)余(あま)りに見へたるを、八角に削(けづつ)て両方に石突(いしづき)入れ、右の小脇に引側(ひきそば)めて、白瓦毛(しろかはらけ)なる馬の太く逞(たくま)しきに、白泡かませて、只一騎(いつき)河原面(かはらおもて)に進出て、高声に申けるは、「戦場(せんぢやう)に臨(のぞ)む人毎(ひとごと)に、討死を不志云(いふ)者なし。
然(しかれ)共(ども)今日の合戦には、某(それがし)殊更(ことさら)死を軽(かろん)じて、日来(ひごろ)の広言(くわうげん)をげにもと人に云(いは)れんと存(ずる)也(なり)。其(その)名人に知らるべき身にても候はぬ間、余(あまり)にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申(まうす)にて候也(なり)。是は清和源氏の後胤(こういん)に、秋山新蔵人(しんくらんど)光政と申(まうす)者候。出王氏雖不遠、已(すで)に武略の家に生(うま)れて、数代只弓箭(きゆうせん)を把(とつ)て、名を高(たかく)せん事を存ぜし間、幼稚(えうち)の昔より長年(ちやうねん)の今に至(いたる)まで、兵法を哢(もてあそ)び嗜(たしな)む事隙(ひま)なし。但(ただし)黄石公(くわうせきこう)が子房(しばう)に授(さづけ)し所は、天下の為にして、匹夫(ひつぷ)の勇に非ざれば、吾未学(いまだまなばず)、鞍馬(くらま)の奥僧正(そうじやうが)谷にて愛宕(あたご)・高雄(たかを)の天狗共(てんぐども)が、九郎判官義経に授(さづけ)し所の兵法に於ては、光政是(これ)を不残伝へ得たる処なり。
仁木・細河(ほそかは)・高家(かうけ)の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出(おんいで)候へ。声花(はなやか)なる打物(うちもの)して見物の衆の睡(ねぶり)醒(さま)さん。」と呼(よば)は(ッ)て、勢(いきほ)ひ当りを撥(はらう)て西頭(にしがしら)に馬をぞ控(ひか)へたる。仁木・細河(ほそかは)・武蔵守が内に、手柄(てがら)を顕(あらは)し名を知(しら)れたる兵多(おほし)といへ共、如何思(おもひ)けん、互に目を賦(くばつ)て吾是に懸合て勝負をせんと云(いふ)者もなかりける処に、丹(たん)の党(たう)に阿保(あふ)肥後(ひごの)守(かみ)忠実(ただざね)と云ける兵、連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に厚総(あつぶさ)懸て、唐綾威(をどし)の鎧(よろひ)竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の貝鏑(かひしのぎ)の太刀を抜(ぬい)て、鞘(さや)をば河中へ投(なげ)入れ、三尺(さんじやく)二寸(にすん)の豹(へう)の皮の尻鞘(しりざや)かけたる金作(こがねづくり)の小太刀帯副(はきそへ)て、只一騎(いつき)大勢の中より懸出て、「事珍(めづら)しく耳に立(たて)ても承(うけたまは)る秋山殿の御詞(おんことば)哉(かな)。
是は執事の御内(みうち)に阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実と申(まうす)者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮(あけくれ)は山野(さんや)の獣(けだもの)を追ひ、江河の鱗(うろくづ)を漁(すなどつ)て業(げふ)とせし間、張良が一巻(いつくわん)の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾(かつ)て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発(はつ)する処は、勇士(ゆうし)の己(おの)れと心に得(う)る道なれば、元弘建武以後三百(さんびやく)余箇度(よかど)の合戦に、敵を靡(なび)け御方(みかた)を助け、強きを破り堅(かた)きを砕(くだ)く事其(その)数を不知(しらず)。白引(すびき)の精兵(せいびやう)、畠水練(はたけすゐれん)の言(ことば)にをづる人非じ。忠実が手柄の程試(こころみ)て後、左様の広言をば吐(き)給へ。」と高(たから)かに呼(よば)は(ッ)て、閑々(しづしづ)と馬をぞ歩ませたる。
両陣の兵あれ見よとて、軍(いくさ)を止(とめ)て手を拳(にぎ)る。数万の見物衆は、戦場とも不云走(はしり)寄て、かたづを呑(のみ)て是を見る。誠(まこと)に今日(こんにち)の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近(あひぢか)になれば阿保と秋山とにつこと打笑(うちわらう)て、弓手(ゆんで)に懸違(かけちが)へ馬手(めて)に開(ひらき)合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流(うけなが)す。阿保持て開(ひらい)てしとゞ切れば、秋山棒にて打側(うちそむ)く。三度(さんど)逢(あひ)三度(さんど)別ると見へしかば、秋山は棒を五尺(ごしやく)許(ばかり)切折(きりをら)れて、手本僅(わずか)に残り、阿保は太刀を鐔本(つばもと)より打折(うちをら)れて、帯添(はきぞへ)の小太刀許(ばかり)憑(たのみ)たり。
武蔵守(むさしのかみ)是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共(ども)、力量(りきりやう)なき者なれば、力勝(ちからまさ)りに逢(あう)て始終は叶はじと覚(おぼゆ)るぞ、あれ討(うた)すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟(くつきやう)の精兵(せいびやう)七八人(しちはちにん)河原面(かはらおもて)に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件(くだん)の棒を以て、只中(ただなか)を指(さし)て当る矢二十三筋(にじふさんすぢ)まで打落す。忠実も情ある者也(なり)ければ、今は秋山を討(うた)んともせず、剰(あまつさへ)御方(みかた)より射(いる)矢を制して矢面にこそ塞(ふさが)りけれ。かゝる名人を無代(むたい)に射殺さんずる事を惜(をしみ)て、制しけるこそやさしけれ。角(かく)て両方打除(うちのき)て、諸人の目をぞさましける。されば其比(そのころ)、霊仏霊社の御手向(おんたむけ)、扇団扇(あふぎうちは)のばさら絵にも、阿保・秋山が河原(かはら)軍とて書(かか)せぬ人はなし。
其後合戦始て、桃井(もものゐ)が七千(しちせん)余騎(よき)、仁木・細河(ほそかは)が一万(いちまん)余騎(よき)と、白河を西へまくり東へ追靡(おひなび)け、七八度(しちはちど)が程懸(かけ)合(あひ)たるに、討(うた)るゝ者三百人(さんびやくにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。両陣互に戦(たたかひ)屈(くつ)して控(ひかへ)息を継(つぐ)処に、兼(かねて)の相図を守て、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、思も寄らぬ中霊山(なかりやうぜん)の南より、時をどつと作て桃井(もものゐ)が陣の後(うしろ)へ懸(かけ)出たり。桃井(もものゐ)が兵是(これ)に驚きあらけて、二手(ふたて)に分(わかれ)て相(あひ)戦ふ。
桃井(もものゐ)は西南の敵に破立られて、兵引色(ひきいろ)にみへける間、兄弟二人(ににん)態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足(ひとあし)も引(ひく)事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去(さる)程(ほど)に日已(すで)に夕陽(せきやう)に及て、戦数剋(すこく)に成ぬれども、八幡の大勢は曾(かつて)不攻合せ、北国の兵気疲(つか)れて暫(しばらく)東山に引(ひき)上(あげ)んとしける処に、将軍並(ならびに)羽林(うりん)の両勢五千(ごせん)余騎(よき)、二条(にでう)を東へ懸(かけ)出て、桃井(もものゐ)を山上へ又引返させじと、跡を隔(へだて)てぞ取巻ける。桃井(もものゐ)終日(ひねもす)の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方(さんぱう)の大敵に囲(かこま)れて、叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、粟田口(あはたぐち)を東へ山科越(やましなごえ)に引(ひい)て行(ゆく)。され共尚(なほ)東坂本(ひがしさかもと)までは引返さで、其(その)夜は関山(せきさん)に陣を取て、大篝(おほかがり)を焼(たい)てぞ居たりける。  
将軍親子御退失事(こと)付(つけたり)井原(ゐはらの)石窟(いはやの)事(こと)
将軍都へ立帰(たちかへり)給て、桃井(もものゐ)合戦に打負(うちまけ)ぬれば、今は八幡(やはた)の御敵(おんてき)共(ども)も、大略将軍へぞ馳参(はせまゐ)らんと、諸人推量を廻(めぐら)して、今はかうと思(おもは)れけるに、案に相違して、十五日の夜半許(ばかり)に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加(くはは)りける。「こはそも何事ぞ。戦(たたかひ)に利あれば、御方の兵弥(いよいよ)敵になる事は、よく早(はや)尊氏を背(そむ)く者多かりける。角(かく)ては洛中(らくちゆう)にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退(ひきしりぞい)て、中国の勢を催(もよほ)し、東国の者共(ものども)に牒(てふ)し合(あはせ)て、却(かへつ)て敵を責(せめ)ばや。」と、将軍頻(しきり)に仰(おほせ)あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同(どう)じて、正月十六日(じふろくにち)の早旦に丹波路(たんばぢ)を西へ落給ふ。
昨日は将軍都に立帰て桃井(もものゐ)戦(たたかひ)に負しかば、洛中(らくちゆう)には是を悦(よろこ)び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井(もものゐ)軈(やが)て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中(らくちゆう)には潜(ひそか)に悲む。吉凶は糾(あざなへ)る縄の如く。哀楽(あいらく)時(とき)を易(かへ)たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺(とうれい)の暁(あかつき)の霞と共に立隔(たちへだた)り、今日は旅を山陰(やまかげ)の夕(ゆふべ)の雲に引別(ひきわかれ)て、西国へと赴(おもむ)き給ひけるが、名将一処に集(あつま)らん事は計略なきに似たりとて、御子息(ごしそく)宰相(さいしやう)中将殿(ちゆうじやうどの)に、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を相副(あいそへ)て二千(にせん)余騎(よき)、丹波の井原(ゐはらの)石龕(いはや)に止めらる。
此寺の衆徒(しゆと)、元来無弐(むにの)志を存せしかば、軍勢(ぐんぜい)の兵粮、馬の糟藁(ぬかわら)に至るまで、如山積上(つみあげ)たり。此(この)所は岸高く峯聳(そびえ)て、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)なれば、城郭(じやうくわく)の便りも心安(こころやす)く覚へたる上、荻野(をぎの)・波波伯部(はうかべ)・久下(くげ)・長沢(ながさは)、一人も不残馳参て、日夜(にちや)の用心(ようじん)隙(ひま)無(なか)りければ、他日窮困(きゆうこん)の軍勢共(ぐんぜいども)、只翰鳥(かんてう)の(げき)を出、轍魚(てつぎよ)の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公(しやうこう)登山(とうざん)し給(たまひ)し日より、岩室寺(いはやでら)の衆徒、坐(ざ)醒(さま)さずに勝軍(しようぐん)毘沙門(びしやもん)の法をぞ行(おこなひ)ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁(うんげう)僧都、巻数(くわんじゆ)を捧(ささ)げて参(まゐり)けり。
相公則(すなはち)僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験(れいけん)顕(あらは)し給ひし様(やう)など、様々(さまざま)問(とひ)ける次(ついで)に、「さても何(いづ)れの薩(さつた)を帰敬(ききやう)し、何(いか)なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡(ほろぼ)す要術(えうじゆつ)に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏(かしこまつ)て申けるは、「凡(およそ)、諸仏薩(さつた)の利生(りしやう)方便区々(まちまち)にして、彼を是(ぜ)し此を非(ひ)する覚へ、応用言(こと)ば辺々に候へば、何(いづ)れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥(しゆみ)の四方(しはう)を領(りやう)して、鬼門(きもん)の方を守護(しゆご)し、摧伏(さいぶく)の形を現(げん)じて、専ら勝軍(しようぐん)の利を施(ほどこ)し給ふ事は、昆沙門(びしやもん)の徳にしくは候べからず。是(これ)我(わが)寺の本尊にて候へばとて、無謂申(まうす)にて候はず。古(いにしへ)玄宗皇帝(くわうてい)の御宇(ぎよう)、天宝十二年に安西(あんせい)と申(まうす)所に軍起て、数万の官軍(くわんぐん)戦ふ度毎(たびごと)に打負(うちまけ)ずと云(いふ)事なし。
「今は人力の及(およぶ)処に非(あら)ず如何(いか)がすべき。」と玄宗有司(いうし)に問給ふに、皆同(おなじ)く答て申さく、「是(これ)誠(まこと)に天の擁護(おうご)に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵(ふくうさんざう)を召(めさ)れて、大法を行(おこなは)せらるべき歟(か)。」と申ける間、帝則(すなはち)不空三蔵を召(めされ)て昆沙門(びしやもん)の法を行(おこなは)せられけるに、一夜(いちや)の中に鉄(くろがね)の牙(きば)ある金鼠(きんそ)数百万安西(あんせい)に出来て、謀叛(むほん)人の太刀・々(かたな)・甲(かぶと)・胄(よろひ)・矢の筈(はず)・弓の弦に至(いたる)まで、一も不残食破(くひやぶ)り食切(くひきり)、剰(あまつさへ)人をさへ咀殺(かみころ)し候(さふらひ)ける程に、凶徒(きようと)是を防(ふせ)ぎかねて、首(かうべ)をのべて軍門に降(くだり)しかば、官軍(くわんぐん)矢の一をも不射して若干(そくばく)の賊徒(ぞくと)を平げ候き。
又吾朝(わがてう)に朱雀(しゆしやく)院(ゐん)の御宇に、金銅(こんどう)の四天王(してんわう)を天台山に安置(あんぢ)し奉て、将門を亡(ほろぼ)されぬ。聖徳太子(しやうとくたいし)昆沙門(びしやもん)の像を刻(きざみ)て、甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に戴(いただい)て、守屋の逆臣(げきしん)を誅(ちゆう)せらる。此等の奇特(きどく)世の知(しる)処、人の仰(あふ)ぐ処にて候へば、御不審(ごふしん)あるべきに非(あら)ず。然るに今武将幸(さいはひ)に多門(たもん)示現(じげん)の霊地(れいち)に御陣を召(めさ)れ候事、古(いにしへ)の佳例(かれい)に違(ちがふ)まじきにて候へば、天下を一時に静(しづめ)られて、敵軍を千里の外に掃(はら)はれ候(さうらは)ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑(たのも)し気に被申たりければ、相公(しやうこう)信心を発(おこさ)れて、丹波(たんばの)国(くに)小川(こかはの)庄(しやう)を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。  
越後守自石見引返事(こと)
越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、此(この)時(とき)まで三角(みすみの)城(じやう)を退治(たいぢ)せんとて猶(なほ)石見(いはみの)国(くに)に居たりけるを、師直が許(もと)より飛脚を立(たて)て、「摂津(せつつの)国(くに)播磨(はりま)の間に合戦(かつせんの)事已(すで)に急也(なり)。早く其(その)国(くに)の合戦を閣(さしおい)て馳上(はせのぼ)らるべし。若(もし)中国の者共(ものども)かゝる時の弊(つひえ)に乗(のつ)て、道を塞(ふさが)んずる事もや有んずらんと存(ぞんじ)候間、武蔵五郎を兼(かね)て備前へ差遣(さしつかは)す。中国の蜂起(ほうき)を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)使に驚て石見を立て上(のぼ)れば、武蔵五郎の相図を違(ちが)へじと播磨(はりま)を立て、備後の石崎(いはさき)にぞ付(つき)にける。将軍は八幡(やはた)比叡山(ひえいさん)の敵に襲(おそは)れて、播磨(はりま)の書写(しよしや)坂本へ落下り、越後(ゑちごの)守(かみ)は三角(みすみの)城(じやう)を責兼(せめかね)て、引退(ひきしりぞく)と聞へしかば、上杉弾正少弼(だんじやうせうひつ)八幡より舟路(ふなぢ)を経て、備後の鞆(とも)へあがる。
是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共(つはものども)、我劣(おとら)じと馳付(はせつき)ける程に、其(その)勢雲霞の如(ごとく)にて、靡(なびか)ぬ草木もなかりけり。去(さる)程(ほど)に武蔵五郎、越後守を待付(まちつけ)て、中国には暫(しばし)も逗留(とうりう)せず、やがて上洛(しやうらく)すと聞へければ、上杉取(とる)物も取敢(とりあへ)ず、跡を追て打止(うちとめ)よとて、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)、正月十三日(じふさんにち)の早旦に、草井地(くさゐぢ)より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後(ゑちごの)守(かみ)は夢にも是を知(しら)ず、片時(へんし)も行末を急ぐ道なれば、疋馬(ひつば)に鞭を進(すすめ)て勢山(せやま)を打越(うちこえ)ぬ。小旗(こばた)一揆(いつき)・川津(かはづ)・高橋・陶山(すやま)兄弟は、遥(はるか)の後陣(ごぢん)に引殿(ひきおくれ)て、未(いまだ)竜山(たつやま)の此方(こなた)に支(ささへ)たり。
先陣後陣(せんぢんごぢん)相阻(あひへだたつ)て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸(さきがけ)の五百(ごひやく)余騎(よき)、一の後陣(ごぢん)に打(うち)ける陶山が百(ひやく)余騎(よき)の勢を目に懸て、楯のはを敲(たたい)て時を作る。陶山元来軍の陣に臨(のぞ)む時、仮(かり)にも人に後(うしろ)を見せぬ者共(ものども)なれば、鬨(ときのこゑ)を合(あはせ)て、矢一筋(ひとすぢ)射違(いちがふ)るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責(せめ)けれども、魚鱗鶴翼(ぎよりんかくよく)の陣、旌旗電戟(せいきでんげき)の光、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して、万方(ばんぱう)に相当れば、野草(やさう)紅(くれなゐ)に染(そみ)て汗馬(かんば)の蹄(ひづめ)血を蹴(け)たて、河水派(みなまた)せかれて、士卒(しそつ)の尸(かばね)忽(たちまち)流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔(へだたつ)て知(しら)ず、後陣(ごぢん)にはつゞく御方(みかた)もなし。只今(ただいま)を限(かぎり)と戦(たたかひ)ける程に、陶山又次郎高直(たかなほ)、脇の下・内胄(うちかぶと)・吹返(ふきかへし)の迦(はづれ)、三所(みところ)突(つか)れて打(うた)れにけり。
弟(おとと)の又五郎是(これ)を見て、哀れよからんずる敵に組(くん)で、指違(さしちがへ)ばやと思(おもふ)処に、火威(ひをどし)の鎧紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)懸たる武者一騎(いつき)、合近(あひぢか)に寄合ふたる。「誰(た)そ。」と問(とへ)ば、土屋(つちや)平三と名乗(なのる)。陶山莞爾(につこ)と笑(わらう)て、「敵をば嫌(きらふ)まじ、よれ組(くま)ん。」と云(いふ)侭(まま)に、引組で二疋が中へどうど落(おつ)る。落付(おちつく)処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押(おさへ)て頚(くび)をかゝんとするを見て、道口(みちくち)七郎(しちらう)落合て陶山が上に乗懸(のりかか)る。陶山下(さんげ)なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴(つかん)で、捩頚(ねぢくび)にせんと振返(ふりかへり)て見ける処を、道口が郎等(らうどう)落重て陶山がひつしきの板を畳上(たたみあげ)、あげさまに三刀(みかたな)指(さし)たりければ、道口・土屋は助(たすかり)て陶山は命を留(とどめ)たり。
陶山が一族(いちぞく)郎等(らうどう)是(これ)を見て、「何の為に命を惜(をし)むべき。」とて、長谷(はせの)与一・原(はらの)八郎左衛門(はちらうざゑもん)・小池新平衛以下の一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、大勢の中へ破(わつ)ては入(いり)、/\、一足(ひとあし)も引(ひか)ず皆切死(きりじに)にこそ死にけれ。上杉若干(そくばく)の手(ての)者を打(うた)せ乍(なが)ら、後陣(ごぢん)の軍には勝にけり。宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信は、始(はじめ)七十騎(しちじつき)にて中の手に有けるが、後陣(ごぢん)の軍に御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞て、何(いつ)の間にか落失(おちうせ)けん、只六騎に成にけり。兼信四方(しはう)を屹(きつ)と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病(おくびやう)の奴原(やつばら)は、足纏(あしまとひ)に成(なる)に、落失(おちうせ)たるこそ逸物(いちもつ)なれ。敵未(いまだ)人馬の息を休(やすめ)ぬ先に、倡(いざや)懸(かか)らん。」と云侭(いふまま)に、六騎馬の鼻を双(ならべ)て懸入(かけいる)。
是(これ)を見て、小旗(こばた)一揆(いつき)に、河津・高橋、五百(ごひやく)余騎(よき)喚(をめい)て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立(ひきたち)て、一度(いちど)も遂に返さず、混引(ひたひき)に引(ひき)ける間、上杉深手を負(おふ)のみに非(あら)ず、打(うた)るゝ兵三百(さんびやく)余騎(よき)、疵(きづ)を蒙(かうむ)る者は数を知(しら)ず。其(その)道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当(すねあて)・弓矢・太刀・々(かたな)を捨(すて)たる事、足の踏所(ふみどころ)も無りけり。備中の合戦には、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰念なく打勝(うちかち)ぬ。是(これ)より播磨(はりま)までは、道のほど異なる事あらじと思(おもふ)処に、美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、芳賀(はが)・角田(つのだ)の者共(ものども)相集て七百(しちひやく)余騎(よき)、杉坂(すぎさか)の道を切塞(きりふさい)で、越後(ゑちごの)守(かみ)を打留んとす。只今(ただいま)備中の軍に打勝て、勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ河津・高橋が両(りやう)一揆(いつき)、一矢(ひとや)をも射させず、抜(ぬき)つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落(おち)て、大略皆討(うた)れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写(しよしや)坂本へ馳(はせ)参る。  
光明寺合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)師直怪異(けいの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に八幡より、石堂(いしたう)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)を大将にて、愛曾(あそ)伊勢(いせの)守(かみ)、矢野(やのの)遠江守(とほたふみのかみ)以下五千(ごせん)余騎(よき)にて書写坂本へ寄(よら)んとて下向しけるが、書写坂本へは越後(ゑちごの)守(かみ)が大勢にて著たる由を聞て、播磨(はりま)の光明寺に陣を取て、尚(なほ)八幡へ勢をぞ乞(こは)れける。将軍此(この)由を聞給て、光明寺に勢を著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)是(これ)を打散(ちら)さんとて、同(おなじき)二月三日将軍書写坂本を打立て、一万(いちまん)余騎(よき)の勢を卒(そつし)、光明寺の四方(しはう)を取巻(とりまき)給ふ。石堂(いしたう)城(じやう)を堅(かため)て光明寺に篭(こもり)しかば、将軍は引尾(ひきを)に陣を取り、師直は泣尾(なきを)に陣をとる。名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことわり)寄手(よせて)の為に、何(いづ)れも忌々(いまいま)しくこそ聞へけれ。
同四日より矢合(やあはせ)して、寄手(よせて)高倉(たかくら)の尾(を)より責上(せめのぼ)れば、愛曾(あそ)は二王堂の前に支(ささへ)て相戦ふ。城中(じやうちゆう)には死生(ししやう)不知のあぶれ者共(ものども)、此(ここ)を先途(せんど)と命を捨(すて)て戦ふ。寄手(よせて)は功(こう)高く禄(ろく)重き大名共(だいみやうども)が、只御方の大勢を憑(たの)む許(ばかり)にて、誠(まこと)に吾(われ)一大事(いちだいじ)と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、七百(しちひやく)余騎(よき)にて泣尾(なきを)へ向ひたりけるが、遥(はるか)に城の体(てい)を見て、「敵は無勢(ぶせい)なりけるを、一責(ひとせめ)々(せめ)て見よ。」と下知しければ、浦上(うらかみ)七郎兵衛行景(ゆきかげ)・同五郎左衛門(ごらうざゑもん)景嗣(かげつぐ)・吉田弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)盛清(もりきよ)・長田(ながた)民部(みんぶの)丞(じよう)資真(すけさね)・菅野(すげの)五郎左衛門(ごらうざゑもん)景文(かげぶん)、さしも岨(けは)しき泣尾(なきを)の坂を責上(せめのぼつ)て、掻楯(かいだて)の際(きは)まで著(つき)たりける。
此(この)時(とき)に自余(じよ)の道々よりも寄手(よせて)同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵(こよひ)か明日(あす)か心落(こころおち)に落(おち)んずる城を骨折(ほねをり)に責(せめ)ては何(なに)かすべきとて、数万の寄手(よせて)徒(いたづら)に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入(せめいる)寄手(よせて)一人も不残掻楯の下に射臥(いふせ)られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退(しりぞけ)て城中(じやうちゆう)聊(いささか)気を得たりといへ共、寄手(よせて)は大勢也(なり)。城の構(かまへ)未拵(いまだこしらへず)、始終いかゞ有(ある)べからんと、石堂・上杉安き心も無(なか)りける処に、伊勢の愛曾(あそ)が召仕ひける童(わらは)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、十丈(じふぢやう)許(ばかり)飛上りて跳(をど)りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居(のりゐ)させ給て、此(この)城(じやう)守護(しゆご)の為に、三本杉の上に御坐(ござ)あり。
寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なりとも、吾角(かく)てあらん程は城を被落事有べからず。悪行(あくぎやう)身を責(せめ)、師直・師泰等(もろやすら)、今七日が中に滅(ほろぼ)さんずるをば不知や。あらあつや堪(たへ)がたや。いで三熱(さんねつ)の焔(ほのほ)さまさん。」とて、閼伽井(あかゐ)の中へ飛漬(とびつか)りたれば、げにも閼伽井の水湧(わき)返てわかせる湯の如し。
城中(じやうちゆう)の人々是を聞て渇仰(かつがう)の首(かうべ)を不傾云(いふ)事なし。寄手(よせて)の赤松(あかまつ)律師(りつし)も此(この)事を伝(つたへ)聞て、さては此(この)軍墓々(はかばか)しからじと、気に障(さは)りて思(おもひ)ける処に、子息肥前(ひぜんの)権守(ごんのかみ)朝範(とものり)が、胄(かぶと)を枕にして少し目睡(まどろみ)たる夢に、寄手(よせて)一万(いちまん)余騎(よき)同時に掻楯(かいだて)の際(きわ)に寄て火を懸しかば、八幡山(やはたやま)・金峯山(きんぶぜん)の方より、山鳩(やまはと)数千(すせん)飛来て翅(つばさ)を水に浸(ひた)して、櫓(やぐら)掻楯(かいだて)に燃著(もえつく)火を打消(うちけす)とぞ見へたりける。朝範軈(やが)て此(この)夢を則祐に語る。則祐是(これ)を聞て、「さればこそ此(この)城(じやう)を責(せめ)落さん事有難(ありがた)しなどやらんと思(おもひ)つるが、果して神明の擁護(おうご)有けり。
哀(あはれ)事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思(おもひ)ける処に、美作(みまさか)より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐(そくいう)光明寺の陣を捨(すて)て白旗(しらはたの)城(じやう)へ帰にけり。軍の習(ならひ)、一騎(いつき)も勢の加(くはは)る時には人の心勇(いさ)み、一人もすく時は兵の気たゆむ習(ならひ)なれば、寄手(よせて)の勢次第に減ずるを見て、武蔵守(むさしのかみ)が兵共(つはものども)弥(いよいよ)軍(いくさ)懈(おこたつ)て、皆帷幕(ゐばく)の中に休息(きうそく)して居たりける処に、巽(たつみ)の方より怪気(あやしげ)なる雲一群(ひとむら)立出て風に随(したがつ)て飛揚(ひやう)す。百千万の鳶烏(とびからす)其(その)下に飛(とび)散(ちつ)て、雲居る山の風早み、散乱(ちりみだ)れたる木葉(このは)の空(そら)にのみして行(ゆく)が如し。近付(ちかづく)に随て是(これ)を見れば、雲にも霞にも非(あら)ず、無文(むもん)の白旗一流(ひとながれ)天より飛降(とびさがる)にてぞ有ける。
是(これ)は八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)の手を加へ給ふ奇瑞(きずゐ)也(なり)。此(この)旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝(うちかた)んずらんとて、寄手(よせて)も城中(じやうちゆう)も手を叉(あざ)へ礼を成して、祈念を不致云(いふ)人なし。此旗城の上に飛上飛下(とびあがりとびさがつ)て暫(しばら)く翩翻(へんほん)しけるが、梢の風に吹(ふか)れて又寄手(よせて)の上に翻(ひるがへ)る。数万(すまん)の軍勢(ぐんぜい)頭(かうべ)を地に著て、吾(わが)陣に天降(あまくだ)せら給ふと信心を凝(こら)す処に、飛鳥(ひてう)十方に飛散(とびちつ)て、旗は忽(たちまち)に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同(おなじ)く見て、「目出(めでた)し。」と感じける声、暫(しば)しは静(しづま)りも得ざりけり。
師直甲(かぶと)を脱(ぬい)で、左の袖に受留(うけと)め、三度(さんど)礼して委(くはし)く是(これ)を見れば、旌(はた)にはあらで、何(なに)共(とも)なき反古(ほんぐ)を二三十枚続集(つぎあつめ)て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢(こずゑ)の花ぞ散(ちり)行(ゆく)限(かぎり)あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯(しもがれ)にけり師直傍(かた)への人に、「此(この)歌の吉凶(きつきよう)何(いかが)ぞ。」と問(とひ)ければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に、穴(あな)浅猿(あさまし)や、高き梢の花ぞ散行(ちりゆく)とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然(しか)も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂(ざわうだう)を被焼たりし罪、一人にや帰(き)すらん。武蔵野の草はみながら霜枯(かれ)にけりとあるも、名字(みやうじ)の国なれば、旁(かたがた)以(もつて)不吉なる歌と、忌々(いまいま)しくは思ひけれ共(ども)、「目出(めでた)き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺(えしやく)しける。  
小清水(こしみづ)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)瑞夢(ずゐむの)事(こと)
去程(さるほど)に其(その)日(ひ)の暮程に、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔(いしたうなかつかさのたいふ)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・上杉蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)を大将にて、七千(しちせん)余騎(よき)を光明寺の後攻(ごづめ)の為にとて、被差下也(なり)。前には光明寺の城(じやう)堅(かた)く守て、後(うしろ)に荒手(あらて)の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて候べし。只先(まづ)其(その)城(じやう)をば閣(さしおか)れ候(さふらひ)て、討手の下向(げかう)を相支(あひささ)へ、神尾(かんのう)・十林寺(じふりんじ)・小清水(こしみづ)の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦(いつせん)に利を得ば、敵所々に軍(いくさ)すと云ふ共、いつまでか怺(こら)へ候べき。是只一挙(いつきよ)に戦を決して、万方に勝事(かつこと)を計る処にて候べし。」と、追々早馬(はやうま)を打(うた)せて、一日に三度(さんど)までこそ申されけれ。
将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如(ごとく)ならば、敵は小勢也(なり)。御方は是に十倍せり。岨(けは)しき山の城(じやう)を責(せむ)ればこそ叶はね、平場(ひらば)に懸合(かけあひ)て勝負を決せんに、御方不勝と云(いふ)事不可有。さらば此(この)城(じやう)を閣(さしおい)て、先(まづ)向(むかふ)なる敵に懸(かか)れとて、二月十三日(じふさんにち)、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立(おんたち)有て兵庫湊川(ひやうごのみなとがは)へ馳(はせ)向はる。
畠山阿波(あはの)守(かみ)国清は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて播磨(はりま)の東条(とうでう)に有けるが、此(この)事を聞て、さては何(いづ)くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向(むかは)めとて、湯山(ゆのやま)を南へ打越(うちこえ)て、打出(うちで)の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭(たてこもり)つる石堂右馬(うまの)頭(かみ)・上杉左馬(さまの)助(すけ)も光明寺をば打捨(うちすて)て皆畠山が陣へ馳加(はせくはは)る。同(おなじき)十七日(じふしちにちの)夜、将軍執事(しつじ)の勢二万(にまん)余騎(よき)御影浜(みかげのはま)に押寄(おしよせ)、追手(おふて)搦手(からめて)二手(ふたて)に分らる。「軍は追手(おふて)より始て戦(たたかひ)半(なかば)ならん時、搦手(からめて)の浜の南より押寄(おしよせ)て、敵を中に取篭(とりこめ)よ。」と被下知ける。
薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)は、今度の戦如何様(いかさま)大勢を憑(たのみ)て御方為損(しそん)じぬと思ひければ、弥(いよいよ)吾(わが)大事(だいじ)と気を励(はげま)しけるにや、自余(じよ)の勢(せい)に紛(まぎ)れじと、絹三幅(みはば)を長さ五尺(ごしやく)に縫合(ぬひあは)せて、両方に赤き手を著(つけ)たる旌(はた)をぞ差たりける。一族(いちぞく)の手勢二百(にひやく)余騎(よき)雀(すずめの)松原の木陰(こかげ)に控(ひかへ)て、追手(おふて)の軍(いくさ)今や始まると待(まつ)処に、兼(かね)ての相図(あひづ)なれば、河津左衛門(かはづさゑもん)氏明(うぢあきら)・高橋中務英光(ひでみつ)、大旌(おほはた)一揆(いつき)の六千(ろくせん)余騎(よき)、畠山が陣へ押寄(おしよせ)て時を作る。
畠山が兵静(しづま)り返て、態(わざ)と時の声をも不合、此(ここ)の薮陰(やぶのかげ)、彼(かし)この木陰(こかげ)に立隠(たちかくれ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々に射けるに、面(おもて)に立つ寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、馬より真倒(まつさかさま)に射落されければ、後陣(ごぢん)はひき足に成て不進得。河津左衛門(かはづさゑもん)是(これ)を見て、「矢軍許(やいくさばかり)にては叶(かなふ)まじきぞ、抜て蒐(かか)れ。」と下知して、弓をば薮(やぶ)へからりと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)七寸(しちすん)の太刀を抜(ぬい)て、敵の群(むらが)りたる中へ会尺(ゑしやく)もなく懸入(かけいら)んと、一段(いちだん)高き岸の上へ懸上(かけあがり)ける処に、十方より鏃(やじり)を汰(そろへ)て射ける矢に、馬の平頚(ひらくび)草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深(のぶか)に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱(あけ)に成て下立(おりたつ)たり。
是(これ)を見て畠山が二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめい)て蒐(かか)りければ、跡に控(ひかへ)たる寄手(よせて)の大勢共荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あはせ)て一度(いちど)にはつとぞ引たりける。石堂右馬(うまの)頭(かみ)が陣は、是より十(じふ)余町(よちやう)を隔てたれば、未(いまだ)御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌(はた)の三流(みながれ)見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云(いは)れければ、原三郎左衛門(さぶらうざゑもん)義実(よしざね)只一騎(いつき)、馳向て是を見(みる)に、三幅(みはば)の小旗に赤き手を両方に著(つけ)たり。さては敵也(なり)と見課(みおほせ)て馳(はせ)帰(かへり)けるが、徒(いたづら)に馬の足を疲(つから)かさじとや思(おもひ)けん、扇を挙(あげ)て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬(ひか)へたる勢(せい)は敵にて候ぞ。而(しか)も追手(おふて)の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼(よばは)りける。
元より気早(きばや)なる石堂・上杉の兵共(つはものども)是(これ)を聞て何かは少しも可思惟。七百(しちひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、馬の轡(くつばみ)を並(なら)べて喚(をめい)て懸(かかり)けるに、薬師寺が迹に扣(ひかへ)たる執事兄弟の大勢共、未(いまだ)矢の一(ひとつ)をも不被射懸、捨鞭(すてむち)を打てぞ逃(にげ)たりける。梶原(かぢはら)孫六・同(おなじく)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)二人(ににん)は追手(おふて)の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町(ろくしちちやう)落(おち)たりけるが、後代の名をや恥(はぢ)たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸(かけ)入る。暫(しばし)が程は二人(ににん)一所にて戦(たたかひ)けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦(たたかひ)ける。
孫六は敵三騎切て落(おと)して、裏へつと懸(かけ)抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛(まぎ)れて助からんよと思(おもひ)て、笠符(かさじるし)を取て袖の下に収(をさ)め、西(にしの)宮(みや)へ打通て、夜に入(いり)ければ、小船(こぶね)に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は偏(ひとへ)に敵に紛(まぎ)れもせず、懸(かけ)入ては戦ひ戦ひ、七八度(しちはちど)まで馬烟(うまけぶり)を立(たて)て戦(たたかひ)けるが、藤田小次郎と猪股(ゐのまた)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)と、二騎に被取篭討(うた)れにけり。
後(のち)に、「あはれ剛(かう)の者や、誰と云(いふ)者やらん。名字を知(しら)ばや。」とて是(これ)を見るに、梅花を一枝(いつし)折て箙(えびら)の上に著(つけ)たり。さては元暦(げんりやく)の古(いにしへ)、一谷(いちのたに)の合戦に、二度(にど)の懸して名を揚(あげ)し梶原平三(へいざう)景時が、其(その)末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門(じらうざゑもん)公義は御方(みかた)の追手(おふて)搦手(からめて)二万(にまん)余騎(よき)、崩(くづ)れ懸て引(ひけ)共(ども)少(すこし)も不騒、二百五十騎(にひやくごじつき)の勢にて、石堂・上杉が七百(しちひやく)余騎(よき)の勢を山際(やまぎは)までまくり付(つけ)て、続く御方を待(まつ)処に、一騎(いつき)も扣(ひかへ)たる兵なければ、又浪打際に扣(ひかへ)て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著(つけ)たる旌(はた)は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸(おひかけ)たり。
公義が二百五十騎(にひやくごじつき)、敵後に近付(ちかづけ)ば、一度(いちど)に馬を屹(きつ)と引返して戦ひ、敵先を遮(さへぎ)れば、一同にわつと喚(をめい)て懸破(かけやぶ)り、打出(うちでの)浜の東より御景(みかげの)浜の松原まで、十六度(じふろくど)迄返して戦(たたかひ)けるに、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は敵に被懸散、一所に控(ひかへ)たる勢とては、弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬(よしふゆ)・勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義治(よしはる)、已上六騎に成にけり。兵共(つはものども)暫(しばらく)馬の息を継(つが)せて傍(かたはら)を屹(きつ)と見たるに、輪違(わちがひ)の笠符(かさじるし)著(つけ)たる武者一騎(いつき)、馬を白砂(しらす)に馳(はせ)通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬是(これ)を見て、「是は松田左近(さこんの)将監(しやうげん)と覚(おぼゆ)る。目(めの)前にて討(うた)るゝ御方を不助云(いふ)事やあるべき。」とて、六騎抜連(ぬきつれ)て懸れば、七騎の敵引退(ひきしりぞき)て松田は命を助(たすかり)てげり。
松田・薬師寺七騎に成て暫(しば)し扣(ひかへ)たる処、彼等(かれらが)手(て)の者共(ものども)彼方(かなた)より馳付(はせつい)て、又百騎(ひやくき)許(ばかり)に成(なり)ければ、石堂・畠山先懸(さきがけ)して兵を三町(さんちやう)許(ばかり)追返したるに、敵も勇気や疲(つか)れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立(たつ)処の矢少し折懸(をりかけ)て湊川へ馳帰(はせかへり)たれば、敵の旌(はた)をだにも不見して引返しつる二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、勇気を失(うしなひ)、落方(おつるかた)を求(もとめ)て、只泥(どろ)に酔(よひ)たる魚の小水にいきづくに異(ことな)らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣(しようれつ)、天地各別(かくべつ)なり。何事にか是(これ)程(ほど)に無念可打負。是(これ)非直事と思ふに合て、其前(さき)の夜、武蔵五郎・河津左衛門(かはづさゑもん)と、少(すこし)も不替二人(ににん)見たりける夢こそ不思議(ふしぎ)なれ。
所は何(いづ)く共不知渺々(べうべう)たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族(いちぞく)其(その)郎従数万騎打集(うちあつまり)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て控(ひかへ)たる。東には錦小路(にしきのこうぢ)禅門・石堂・畠山・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、千(せん)余騎(よき)にて相向ふ。両陣鬨(ときのこゑ)を合(あは)せて、其(その)戦未(いまだ)半(なかばなる)時(とき)、石堂・畠山が勢旌(はた)を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐(おひかく)る処に、雲の上より錦の旌(はた)一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、勢の程百騎(ひやくき)許(ばかり)懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王(ざわう)権現、頭に角生(つのおひ)て八(やつ)の足ある馬に被召(めされ)たり。小守(こもり)勝手(かつて)の明神、金の鎧に鉄(くろがね)の楯を引側(ひきそば)めて、馬の前後に順(したが)ひ給ふ。
右は天王寺(てんわうじ)の聖徳太子(しやうとくたいし)、甲斐(かひ)の黒駒(くろこま)に白鞍(くら)置て被召(めされ)たり。蘇我馬子(そがのむまこの)大臣甲胄(かつちう)を帯し、妹子(いもこの)大臣・跡見(あとみ)の赤梼(いちひ)・秦河勝(はだのかはかつ)、弓箭(きゆうせん)を取て真前(まつさき)に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢(おんせい)を小勢と見て、中に篭(こめ)て討(うた)んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知(げぢ)し給へば、小守・勝手・赤梼(いちひ)・河勝(かはかつ)、四方(しはう)に颯(さつ)と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵(むさしの)五郎・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)が眉間(みけん)の真中を徹(とほつ)て、馬より倒(さかさま)に地を響(ひびか)して落(おつ)ると見て、夢は則(すなはち)醒(さめ)にけり。朝に此(この)夢を語て、今日の軍如何(いかが)あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此(この)後とても、角(かく)ては憑(たのも)しくも不思と、聞(きく)人心に思(おもは)ぬはなし。此夢の記録(きろく)吉野の寺僧(じそう)所持(しよぢ)して、其隠(そのかくれ)なき事也(なり)。  
松岡(まつをかの)城(じやう)周章(あわての)事(こと)
小清水(こしみづ)の軍に打負(うちまけ)て、引退(ひきしりぞく)兵二万(にまん)余騎(よき)、四方(しはう)四町(しちやう)に足(たら)ぬ松岡(まつをか)の城(じやう)へ、我(われ)も我(われ)もとこみ入(いり)ける程に、沓(くつ)の子を打たるが如(ごとく)にて、少(すこし)もはたらくべき様も無(なか)りけり。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、宗(むね)との人々より外(ほか)は内(うち)へ不可入とて、人の郎従若党(らうじゆうわかたう)たる者は、皆そとへ追出して、四方(しはう)の関(きどを)下(おろ)したれば、元来落心地(おちごこち)の付たる者共(ものども)、是に事名付(なづけ)て、「無憑甲斐執事の有様哉(かな)。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連(うちつれ)/\(うちつれ)落行(おちゆく)。
今は定(さだめ)て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或(あるひ)は釣(つり)する海人(あま)に紛(まぎ)れて、破れたる簔(みの)を身に纏(まと)ひ、福良(ふくら)の渡(わたし)・淡路(あはぢ)の迫門(せと)を、船にて落(おつ)る人もあり。或(あるひ)は草苅(くさかり)をのこに窶(やつれ)つゝ、竹の簣(あじか)を肩に懸(かけ)、須磨の上野(うへの)・生田(いくた)の奥へ、跣(はだし)にて逃(にぐ)る人もあり。運の傾(かたぶ)く僻(くせ)なれ共(ども)、臆病神(おくびやうがみ)の著(つき)たる人程見苦(みぐるし)き者はなし。夜已(すで)に深ければ、さしもせき合(あひ)つる城中(じやうちゆう)さび返て、更に人ありとも見へざりけり。
将軍執事兄弟を召(めし)近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「無云甲斐者共(ものども)が、只一軍(ひといくさ)に負(まけ)たればとて、落行(おちゆく)事こそ不思議(ふしぎ)なれ。さりとも饗庭命鶴(あいばみやうづる)・高橋・海老名(えびな)六郎(ろくらう)は、よも落去(おちさら)じな。」と問給へば、「それも早落(おち)て候。」「長井治部少輔(ながゐぢぶのせう)・佐竹(さたけ)加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内(みうち)の御勢(おんせい)、師直が郎従・赤松信濃(しなのの)守(かみが)勢、彼是(かれこれ)五百騎(ごひやくき)に過(すぎ)候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中(よのなか)今夜を限りござんなれ、面々に其用意(ようい)有べし。」とて、鎧をば脱(ぬぎ)て推除(おしのけ)小具足許(こぐそくばかり)になり給ふ。
是(これ)を見て高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)師世・高(かうの)豊前五郎・高(かうの)備前守・遠江(とほたふみの)次郎・彦部(ひこべ)・鹿目(かめ)・河津以下、高家の一族(いちぞく)七人(しちにん)、宗(むね)との侍二十三人(にじふさんにん)、十二間の客殿(きやくでん)に二行に坐を列(つらね)て、各諸天(しよてん)に焼香(せうかう)し、鎧直垂(よろひひたたれ)の上をば取て抛除(なげのけ)、袴許(はかまばかり)に掛羅(くわら)懸(かけ)て、将軍御自害(ごじがい)あらば御供(おんとも)申さんと、腰の刀に手を懸(かけ)て、静(しづま)り返てぞ居たりける。厩侍(むまやざぶらひ)には、赤松信乃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)上坐(じやうざ)して、一族(いちぞく)若党(わかたう)三十二人(さんじふににん)、膝を屈(くつ)して並居(なみゐ)たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽(さかだる)に酒を湛(たた)へ、銚子(てうし)に盃(さかづき)取副(そへ)て、家城(やぎ)源十郎師政酌(しやく)をとる。
信濃(しなのの)守(かみの)次男信濃五郎直頼(なほより)が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也(なり)。哀(とりのまさにしなんとするときそのなくことやなし)。人之将死其言也(なり)。善(ひとのまさにしなんとするときそのいふことよし)と云(いへ)り。吾(わが)一言汝が耳に留(とどま)らば、庭訓(ていきん)を不忘、身を慎(つつしみ)て先祖を恥(はぢ)しむる事なかるべし。将軍已(すで)に御自害(ごじがい)あらんずる間、範資も御供(おんとも)申さんずるなり。日来(ひごろ)の好(よしみ)を思はゞ家の子若党共(わかたうども)も、皆吾と共に無力死に赴(おもむ)かんとぞ思定(おもひさだめ)たるらん。但汝は未(いまだ)幼少なり。
今共に腹を不切共、人強(あながち)に指をさす事有まじ。則祐(そくいう)已(すで)に汝を猶子(いうし)にすべき由(よし)、兼(かね)て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真(まこと)の父と憑(たのみ)て、生涯を其安否(そのあんぴ)に任(まか)するか、不然は又僧法師にもなりて、吾(わが)後生をも訪(とぶ)らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々(なくなく)庭訓を残して涙を押拭(おしのご)へば、坐中の人々げにもと、同(おなじ)く涙を流しけれ。直頼熟(つくづく)と父の遺訓(ゆゐきん)を聞て、扇取直(とりなほ)して申けるは、
「人の幼少(えうせう)程と申(まうす)は、五(いつつ)や六(むつ)や乃至(ないし)十歳に足(たら)ぬ時にてこそ候へ。吾已(すでに)善悪をさとる程に成(なり)て、適(たまたま)此(この)坐に在合(ありあひ)ながら、御自害(ごじがい)を見捨(みすて)て一人故郷(こきやう)へ帰ては、誰をか父と憑(たの)み、誰にか面(おもて)を向(むかふ)べき。又禅僧に成たらば、沙弥(しやみ)喝食(かつしき)に指をさゝれ、聖道(しやうだう)に成たらば、児(ちご)共(ども)に被笑ずと云(いふ)事不可有。縦(たとひ)又何(いか)なる果報(くわはう)有て、後の栄花(えいぐわ)を開(ひらき)候とも、をくれ進(まゐら)せては、ながらふべき心地もせず。色代(しきだい)は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先(まづ)飲(のみ)て思(おもひ)ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾(かたぶく)る体(てい)にて、糟谷(かすや)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)保連(やすつら)にさし給へば、三度(さんど)飲て、糟谷新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)伊朝(これとも)・奥(おく)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・岡本(をかもと)次郎左衛門(じらうざゑもん)・中山(なかやまの)助五郎(すけごらう)、次第に飲下(のみくだし)、無明(むみやう)の酒の酔(よひ)の中に、近付(ちかづく)命ぞ哀なる。  
師直師泰出家(しゆつけの)事(こと)付(つけたり)薬師寺遁世(とんせいの)事(こと)
斯(かか)る処に、東の木戸(きど)を荒らかに敲(たた)く人あり。諸人驚(おどろき)て、「誰(た)そ。」と問へば、夜部(ゆうべ)落(おち)たりと沙汰せし饗庭命鶴丸(あいばみやうづるまる)が声にて、「御合体(ごがつてい)に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽(そこつ)に御自害(ごじがい)候な。」とぞ呼はりける。
こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴(みやうづる)将軍(しやうぐん)の御前(おんまへ)に参て、「夜部(ゆうべ)事の由をも申さで、罷出(まかりいで)候(さふらひ)しが、早落たりとぞ思召(おぼしめし)候(さうらひ)つらん。御方の軍勢(ぐんぜい)の気を失(うしなひ)、色を損(そん)じたる体を見候(さふらひ)しに、角(かく)ては戦ふ共難勝、落(おつ)共(とも)延(のび)させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)が陣へ罷向(まかりむかひ)候(さふらひ)て、御合体(ごがつてい)の由を申て候へば、錦小路殿(にしきのこうぢどの)も、只暮々(くれぐれ)其(その)事をのみこそ仰(おほせ)候へ。
執事兄弟の不義も、只一往(いちわう)思(おもひ)知(しら)するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気(どうき)兄弟の愛也(なり)。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好(よしみ)也(なり)。禽獣(きんじう)も皆其(その)心あり。況(いはんや)人倫(じんりん)に於(おい)てをや。縦(たとひ)合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細(ゐさい)に申(まうし)ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其(その)夜の自害は留(とどま)りてげり。さても三条殿(さんでうどの)は御兄弟(ごきやうだい)の御事(おんこと)なれば、将軍をこそ悪(にくし)と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚(なほ)もにくしと思召(おぼしめさ)ぬ事不可有。
げにも頭(かうべ)を延(のべ)て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城(じやう)へ遣進(やりまゐら)せて、師直は四国へや落(おつ)ると評定(ひやうぢやう)有けるを、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、「など加様(かやう)に無力事をば仰候ぞ。六条(ろくでうの)判官(はうぐわん)為義が、己(おのれ)が咎(とが)を謝(しや)せん為に、入道に成て出候(さふらひ)しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎(はね)候(さふらひ)しぞかし。縦(たとひ)御出家候(さふらひ)て、何(いか)なる持戒持律(ぢかいぢりつ)の僧と成(なら)せ給(たまひ)て候(さうらふ)共(とも)、三条殿(さんでうどの)の御意(みこころ)も安まり、上杉・畠山の一族(いちぞく)達、憤(いきどほり)を散(さんじ)候べしとは覚(おぼえ)候はず。
剃髪(ていはつ)の尸(かばね)墨染(すみそめ)の衣の袖に血を淋(そそき)て、憂名(うきな)を後代(こうだい)に残(のこさ)れ候はん事、只口惜(くちをし)かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城(じやう)へ入進(いれまゐら)せて、師直を四国へ落さばやと承(うけたまはり)候事も、都(すべ)て可然共覚(おぼえ)候はず。細川陸奥(むつの)守(かみ)も、三条殿(さんでうどの)の召(めし)に依て、大勢早三石(みついし)に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州(せつしう)の軍に負(まけ)て、赤松へ引(ひか)せ給(たまふ)と聞(きき)て、打止(うちとめ)奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落(おち)させ給はん事も不可叶。用意(ようい)の舟も候はで、此彼(ここかしこ)の浦々にて、渡海(とかい)の順風を待(まち)て御渡(おんわた)り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一(ひとつ)をも、墓々敷(はかばかしく)射出す人候べき。
御方(みかた)の兵共(つはものども)の有様は、昨日の軍に曇(くも)りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申(まうす)事候間、人の心の習ひ、敵に打懸(うちかか)らんとする時は、心武(たけ)くなり、一足(ひとあし)も引(ひく)となれば、心臆病(おくびやう)に成(なる)者にて候。只御方の勢の未(いまだ)すかぬ前(さき)に、混(ひたすら)討死と思召(おぼしめし)定(さだめ)て、一度(いちど)敵に懸りて御覧候より外は、余義(よぎ)あるべし共覚(おぼえ)候はず。」と、言(ことば)を残さで申けれ共(ども)、執事兄弟只曚々(もうもう)としたる許(ばかり)にて、降参出家の儀に落(おち)伏しければ、公義泪(なみだ)をはら/\と流して、「嗚呼(ああ)豎子不堪倶計と、范増(はんぞう)が云(いひ)けるも理(ことわ)り哉(かな)。
運尽(つき)ぬる人の有様程、浅猿(あさまし)き者は無(なか)りけり。我此(この)人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世(うきよ)を捨(すて)て、此(この)人々の後生(ごしやう)を訪(とぶらは)んには。」と、俄(にはか)に思(おもひ)定(さだめ)て、取(とれ)ばうし取(とら)ねば人の数ならず捨(すつ)べき物は弓矢也(なり)けりと、加様(かやう)に詠(えい)じつゝ、自(みづから)髻(もとどり)押きりて、墨染に身を替(かへ)て、高野山へぞ上りける。三間(さんけんの)茅屋(ばうをく)千株(せんしゆの)松風、ことに人間の外の天地也(なり)けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山(たかのやま)憂世(うきよ)の夢も覚(さめ)ぬべしその暁を松の嵐にと読(よみ)て、暫(しば)しは閑居幽隠(いういん)の人とぞ成たりける。仏種は縁(えん)より起(おこる)事なれば、かやうに次(ついで)を以て、浮世を思(おもひ)捨(すて)たるは、やさしく優なる様なれ共(ども)、越後(ゑちごの)中太(ちゆうた)が義仲(よしなか)を諌(いさめ)かねて、自害をしたりしには、無下(むげ)に劣りてぞ覚(おぼえ)たる。  
師冬自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)諏方(すは)五郎(ごらうの)事(こと)
高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)は師直が猶子(いうし)也(なり)しを、将軍の三男(さんなん)左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の執事になして、鎌倉(かまくら)へ下りしかば、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)と相共(あひとも)に東国の管領(くわんれい)にて、勢(いきほひ)八箇国(はちかこく)に振(ふる)へり。
西国こそ加様(かやう)に師直を背(そむ)く者多く共、東国はよも子細非(あら)じ、事の真(まこと)に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉(かまくら)へ下(くだり)て師冬と一(ひとつ)にならんと、執事兄弟潜(ひそか)に被評定ける処に、二十五日の夜半許(ばかり)に、甲斐(かひの)国(くに)より時衆(じしゆう)一人来て、忍(しのび)やかに、「去年の十二月に、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が養子に、左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)、父が代官にて上野(かうづけ)の守護(しゆご)にて候(さふらひ)しが、謀叛(むほん)を起(おこし)て鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)を仕る由聞へしかば、父民部(みんぶの)大輔(たいふ)是(これ)を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則(すなはち)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)と同心して、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越へ、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)武蔵(むさし)の七党(しちたう)を付順(つけしたが)ふ。
播州師冬是(これ)を被聞候(さふらひ)て、八箇国(はちかこく)の勢を被催に、更に一騎(いつき)も不馳寄。角(かく)ては叶(かなふ)まじ。さらば左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を先立(さきだて)進(まゐら)せて上杉を退治(たいぢ)せんとて、僅に五百騎(ごひやくき)を卒(そつ)して、上野へ発向(はつかう)候(さふらひ)し路次(ろし)にて、さりとも弐(ふたごこ)ろ非じと憑切(たのみきつ)たる兵共(つはものども)心変りして、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を奪(うばひ)奉る間、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どのの)御後見(おんうしろみ)三戸(みとの)七郎(しちらう)は、其(その)夜同士打(どうしうち)せられて半死半生に候(さふらひ)しが、行方を不知成(なり)候(さうらひ)ぬ。
是より上杉には弥(いよいよ)勢加り、播州師冬には付順(つきしたが)ふ者候はざりし間、一歩(いつほ)も落て此方(こなた)の様をも聞(きか)ばやとて、甲斐(かひの)国(くに)へ落(おち)て、州沢(すざはの)城(じやうに)被篭候処に、諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)六千(ろくせん)余騎(よき)にて打寄(うちよせ)、三日三夜の手負討死(ておひうちじに)其(その)数を不知(しらず)。敵皆大手へ向ふにより、城中(じやうちゆうの)勢大略(たいりやく)大手にをり下(くだつ)て、防(ふせぎ)戦ふ隙(ひま)を得て、山の案内者(あんないしや)後(うしろ)へ廻(まはつ)て、かさより落(おと)し懸(かか)る間、八代(やしろ)の某(なにがし)一足(ひとあし)も不引討死仕る。
城已(すで)に落(おち)んとし候(さうらふ)時(とき)、御烏帽子々(おんえぼしご)に候(さうらひ)し諏方(すは)五郎、初(はじめ)は祝部(はふり)に属(しよく)して城を責(せめ)候(さうらひ)しが、城の弱りたるをみて、「抑(そもそも)吾(われ)執事の烏帽子々(えぼしご)にて、父子の契約を致しながら、世挙(こぞつ)て背(そむ)けばとて、不義の振舞をば如何(いか)が可致。曾参(そうしん)は復車於勝母之郷、孔子(こうし)は忍渇於盜泉之水といへり。君子(くんし)は其於不為処名をだにも恐る。況乎(いはんや)義の違ふ処に於乎(おいてをや)。」とて、祝部(はふり)に最後の暇(いとま)乞(こう)て城中(じやうちゆう)へ入り、却(かへつ)て寄手(よせて)を防(ふせ)ぐ事、身命(しんめい)を不惜。
去(さる)程(ほど)に城の後(うし)ろより破れて、敵四方(しはう)より追(おひ)しかば、諏方(すはの)五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切(かききつ)て臥(ふし)給ふ。此外(このほか)義を重(おもん)じ名を惜(をし)む侍共(さぶらひども)六十四人、同時に皆自害して、名を九原(きうげん)上の苔(こけ)に残し、尸(かばね)を一戦(いつせんの)場(ば)の土に曝(さら)さる。其(その)後は東国・北国残りなく、高倉殿(たかくらどの)の御方(みかた)へ成(なり)て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々(なくなく)執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に順付(したがひつき)ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥(むつの)守(かみ)に属(しよく)して既(すで)に須磨(すまの)大蔵谷(おほくらだに)の辺まで寄(よせ)たりと告(つげ)たり。
今は東国をこそ、さり共と憑(たのみ)たれば、師冬さへ討れにけり。さては何(いづ)くへか落(おち)誰をか可憑とて、さしも勇(いさみ)し人々の気色、皆心細(こころぼそく)見へたりける。命は能(よく)難棄物也(なり)けり。執事兄弟、かくても若(もし)命や助かると、心も発(おこ)らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳(も)なし衣(ごろも)に提鞘(さげさや)さげて、降人(かうにん)に成て出ければ、見(みる)人毎(ひとごと)に爪弾(つまはじき)して、出家の功徳(くどく)莫太(ばくだい)なれば、後生(ごしやう)の罪は免(まぬか)る共、今生(こんじやう)の命は難助と、欺(あざむか)ぬ人は無(なか)りけり。  
師直以下被誅事(こと)付(つけたり)仁義(じんぎ)血気(けつき)勇者(ようしやの)事(こと)
同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)に、将軍已(すで)に御合体(ごがつてい)にて上洛(しやうらく)し給へば、執事兄弟も、同遁世者(とんせいしや)に打紛(うちまぎれ)て、無常の岐(ちまた)に策(むち)をうつ。折節春雨しめやかに降(ふり)て、数万(すまん)の敵此彼(ここかしこ)に控(ひかへ)たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮(はす)の葉笠を打傾(かたぶ)け、袖にて顔を引隠(ひきかく)せ共、中々紛(まぎ)れぬ天(あめ)が下(した)、身のせばき程こそ哀なれ。
将軍に離れ奉ては、道にても何(いか)なる事かあらんずらんと危(あやぶみ)て少しもさがらず、馬を早めて打(うち)けるを、上杉・畠山の兵共(つはものども)、兼(かね)て儀(ぎ)したる事なれば、路の両方に百騎(ひやくき)、二百騎(にひやくき)、五十騎(ごじつき)、三十騎(さんじつき)、処々(ところどころ)に控(ひか)へて待(まち)ける者共(ものども)、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔(へだて)んと鷹角(たかづの)一揆(いつき)七十(しちじふ)余騎(よき)、会尺色代(ゑしやくしきたい)もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔(おしへだて)られて、武庫(むこ)川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔(へだて)山を阻(へだて)て、五十町(ごじつちよう)許(ばかり)に成(なり)にけり。
哀なる哉、盛衰(せいすゐ)刹那(せつな)の間に替(かは)れる事、修羅(しゆら)帝釈(たいしやく)の軍に負(まけ)て、藕花(ぐうげ)の穴に身を隠し、天人の五衰(ごすゐ)の日に逢(あひ)て、歓喜苑(くわんぎゑん)にさまよふ覧(らん)も角(かく)やと被思知たり。此人(このひと)天下の執事にて有つる程は、何(いか)なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾(せんしよう)の禄(ろく)、万戸(ばんこ)の侯(こう)を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪(たきぎ)を負(おう)て焼原を過ぎ、雷(らい)を戴(いただい)て大江を渡(わたる)が如(ごとく)恐れき。何況(いかにいはんや)将軍(しやうぐん)と打双(うちならべ)て、馬を進め給はんずる其(その)中へ、誰か隔(へだ)て先立(さきだつ)人有(ある)べきに、名も知ぬ田舎(ゐなか)武士、無云許人の若党共(わかたうども)に押隔(おしへだて)られ/\、馬ざくりの水を蹴懸(けかけ)られて、衣深泥(しんでい)にまみれぬれば、身を知る雨の止(やむ)時(とき)なく、泪(なみだ)や袖をぬらすらん。
執事兄弟武庫川(むこがは)を打渡て、小堤(こつつみ)の上を過(すぎ)ける時、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)が中間二人(ににん)走寄(わしりより)て、「此(ここ)なる遁世者(とんせいしや)の、顔を蔵(かく)すは何者(なにもの)ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著(き)られたる蓮葉笠(はすのはがさ)を引切(ひつきつ)て捨(すつ)るに、ほうかぶりはづれて片顔(かたかほ)の少し見へたるを、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)、「哀(あはれ)敵や、所願の幸哉(かな)。」と悦て、長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、筒中(どうなか)を切て落さんと、右の肩崎(かたさき)より左の小脇(こわき)まで、鋒(きつさき)さがりに切付(きりつけ)られて、あつと云(いふ)処を、重(かさね)て二打(ふたうち)うつ、打(うた)れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛(とん)で下(お)り、頚を掻(かき)落(おと)して、長刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差上(さしあげ)たり。
越後(ゑちごの)入道(にふだう)は半町許(ばかり)隔たりて打(うち)けるが、是(これ)を見て馬を懸(かけ)のけんとしけるを、迹(あと)に打ける吉江(よしえ)小四郎、鑓(やり)を以て胛骨(せぼね)より左の乳(ち)の下へ突徹(つきとほ)す。突(つか)れて鑓に取(とり)付(つき)、懐(ふところ)に指(さし)たる打刀(うちがたな)を抜(ぬか)んとしける処に、吉江が中間走(はしり)寄(より)、鐙(あぶみ)の鼻を返して引落す。落(おつ)れば首を掻切(かききつ)て、あぎとを喉(のんど)へ貫(つらぬき)、とつ付(つけ)に著(つけて)馳(はせ)て行(ゆく)。高(かうの)豊前(ぶぜんの)五郎をば、小柴(こしば)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を討(うつ)。
高(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)をば、井野(いのの)弥四郎(やしらう)組(くん)で落て首を取る。越後(ゑちごの)将監(しやうげん)をば、長尾彦四郎(ひこしらう)先(まづ)馬の諸膝(もろひざ)切て、落る所を二太刀(ふたたち)うつ。打(うた)れて少(すこし)弱る時、押へて軈(やが)て首を切る。遠江(とほたふみ)次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組(ひつくん)で差殺す。彦部(ひこべ)七郎(しちらう)をば、小林掃部助(かもんのすけ)後(うしろ)より太刀にて切(きり)けるに、太刀影(たちかげ)に馬驚(おどろき)て深田の中へ落(おち)にけり。彦部引返(ひつかへし)て、「御方はなきか、一所に馳寄(はせよつ)て、思々(おもひおもひ)に討死せよ。」と呼(よばは)りけるを、小林が中間(ちゆうげん)三人(さんにん)走(はしり)寄て、馬より倒(さかさま)に引落(ひきおと)し踏(ふま)へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。
梶原孫六をば佐々宇(ささう)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を打(うつ)。山口新左衛門(しんざゑもん)をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十(じふ)余町(よちやう)前に打(うち)けるが、跡に軍有て執事の討(うた)れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀(うちがたな)を抜(ぬい)て戦(たたかひ)けるが、自害を半(なかば)にしかけて、路の傍(かたはら)に伏(ふし)たりけるを、阿佐美(あさみ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)、年来(としごろ)の知音(ちいん)なりけるが、人手に懸(かけ)んよりはとて、泣々(なくなく)首を取てけり。鹿目(かのめ)平次左衛門は、山口が討(うた)るゝを見て、身の上とや思(おもひ)けん、跡なる長尾三郎左衛門(さぶらうざゑもん)に抜(ぬい)て懸りけるを、長尾少(すこし)も不騒、「御事(おんこと)の身の上にては候はぬ者を、僻事(ひがごと)し出して、命失はせ給ふな。」と云(いは)れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行(ゆき)けるを、長尾中間(ちゆうげん)にきつと目くはせしたれば、中間二人(ににん)鹿目(かのめ)が馬につひ傍(そう)て、「御馬(おんむま)の沓(くつ)切(きつ)て捨(すて)候はん。」とて、抜(ぬい)たる刀を取直し、肘(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)刺(さし)て、馬より取て引落(ひきおと)し、主に首をばかゝせけり。
河津(かはづ)左衛門は、小清水の合戦に痛手(いたで)を負(おひ)たりける間、馬には乗得(のりえ)ずして、塵取(ちりとり)にかゝれて、遥(はるか)の迹(あと)に来けるが、執事こそ已(すで)に討れさせ給(たまひ)つれと、人の云(いふ)を聞て、とある辻堂(つじだう)の有けるに、輿(こし)を舁居(かきすゑ)させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西(さいの)左衛門四郎是(これ)を生虜(いけどつ)て、高手小手に禁(いましめ)て、其(その)日(ひ)の暮をぞ相待ける。此人は二条(にでうの)前(さきの)関白太臣の御妹、無止事御腹(おんはら)に生(うま)れたりしかば、貌容(はうよう)人に勝(すぐ)れ心様(こころざま)優にやさしかりき。されば将軍も御覚(おんおぼ)へ異于他、世(よの)人ときめき合へる事限なし。
才あるも才なきも、其(その)子を悲むは人の父たる習(ならひ)なり。況乎(いはんや)最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈(ふま)せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終(つきはて)たる果報ぞや。年未(いまだ)十五に不満、荒き武士に生虜(いけどられ)て、暮(くるる)を待間(まつま)の露の命、消(きえ)ん事こそ哀なれ。夜に入(いり)ければ、誡(いましめ)たる縄をときゆるして已(すで)に切(きら)んとしけるが、此(この)人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速(すみやか)に髻(もとどり)を切て僧か念仏衆かに成(なら)せ給(たまひ)て、一期(いちご)心安(こころやす)く暮らさせ給へ。」と申ければ、先(まづ)其(その)返事をばせで、「執事は何と成(なら)せ給(たまひ)て候とか聞へ候。」と問ければ、西(さいの)左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也(なり)。」と答ふ。「さては誰が為にか暫(しばし)の命をも惜み候べき。死手(しで)の山三途(さんづの)大河とかやをも、共に渡らばやと存(ぞんじ)候へば、只(ただ)急ぎ首を被召(めされ)候へ。」と、死を請て敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)れば、切手(きりて)泪(なみだ)を流して、暫(しば)しは目をも不持上、後(うし)ろに立て泣居たり。
角てさてあるべきにあらねば、西に向(むかひ)念仏十遍許(ばかり)唱(となへ)て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共(つはものども)十方に分散して、残る人なしと云(いひ)ながら、今朝松岡(まつをか)の城(じやう)を打出るまでは、まさしく六七百騎(ろくしちひやくき)もありと見しに、此(この)人々の討(うた)るゝを見て何(いづ)ちへか逃(にげ)隠れけん、今討(うた)るゝ処十四人の外は、其(その)中間下部(しもべ)に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来(ひごろ)皆度々の合戦に、名を揚(あげ)力を逞(たくま)しくしたる者共(ものども)なり。縦(たとひ)運命尽(つき)なば始終(しじゆう)こそ不叶共、心を同(おなじく)して戦はゞ、などか分々(ぶんぶん)の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著(うちつけ)たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代(むたい)に皆討れつる事、天の責(せめ)とは知(しり)ながら、うたてかりける不覚(ふかく)哉(かな)。
夫(それ)兵は仁義(じんぎ)の勇(ゆう)者、血気(けつき)の勇者(ようしや)とて二(ふた)つあり。血気の勇者(ようしや)と申(まうす)は、合戦に臨毎(のぞむごと)に勇(いさみ)進んで臂(ひぢ)を張り強きを破(やぶ)り堅きを砕(くだ)く事、如鬼忿神(ふんしん)の如く速(すみや)かなり。然共(しかれども)此(この)人若(もし)敵の為に以利含(ふく)め、御方の勢を失ふ日は、逋(のが)るに便(たより)あれば、或(あるひ)は降下(かうにん)に成て恥(はぢ)を忘れ、或(あるひ)は心も発(おこ)らぬ世を背(そむ)く。如此なるは則(すなはち)是(これ)血気の勇者(ようしや)也(なり)。仁義の勇者(ようしや)と申(まうす)は必(かならずし)も人と先を争(あらそ)い、敵を見て勇むに高声多言(かうじやうたげん)にして勢(いきほひ)を振ひ臂(ひぢ)を張(はら)ざれ共(ども)、一度(いちど)約をなして憑(たのま)れぬる後は、弐(ふたごころ)を不存ぜ心不変して臨大節志を奪(うばは)れず、傾(かたぶく)所に命を軽(かろん)ず。
如此なるは則(すなはち)仁義の勇者(ようしや)なり。今の世聖人(せいじん)去て久(ひさし)く、梟悪(けうあく)に染(そま)ること多ければ、仁義の勇者(ようしや)は少(すくな)し。血気の勇者(ようしや)は是(これ)多し。されば異朝(いてう)には漢楚(かんそ)七十度(しちじふど)の戦、日本(につぽん)には源平三箇年の軍に、勝負互に易(かはり)しか共、誰か二度(にど)と降下(かうにん)に出たる人あるべき。今元弘(げんこう)以後君と臣との争(あらそひ)に、世の変ずる事僅(わづか)に両度に不過、天下の人五度(ごど)十度(じふど)、敵に属(しよく)し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故(ゆゑ)に天下の争(あらそ)ひ止(やむ)時(とき)無(なく)して、合戦雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせず)。是(ここ)を以て、今師直・師泰が兵共(つはものども)の有様を見るに、日来(ひごろ)の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此(この)時(とき)に、千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)も討死して、後代の名を挙(あげ)ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王(ぶんせんわう)の聖言(せいげん)、げにもと被思知たり。 
 
太平記 巻第三十

 

将軍御兄弟(ごきやうだい)和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)天狗(てんぐ)勢汰(せいぞろへの)事(こと)
志(こころざし)合(がつする)則(ときは)胡越(こゑつ)も不隔地。況(いわん)や同(おなじ)く父母の出懐抱浮沈(ふちん)を共にし、一日も不離咫尺、連枝(れんし)兄弟の御中也(なり)。一旦(いつたん)師直・師泰等(もろやすら)が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉(こつにく)を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿(たかくらどの)と御合体(ごがつてい)有(あり)ければ、将軍は播磨より上洛(しやうらく)し、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮(よしのり)は丹波(たんばの)石龕(いはや)より上洛(しやうらく)し、錦小路殿(にしきのこうぢどの)は八幡より入洛(じゆらく)し給ふ。三人(さんにん)軈(やがて)会合(くわいがふ)し給(たまひ)て、一献(いつこん)の礼有(あり)けれ共(ども)、此(この)間の確執(かくしつ)流石(さすが)片腹いたき心地して、互(たがひ)の言(こと)ば少く無興気(ぶきようげ)にてぞ被帰ける。
高倉殿(たかくらどの)は元来(ぐわんらい)仁者(じんしや)の行(かう)を借(かつ)て、世の譏(そしり)を憚(はばか)る人也(なり)ければ、いつしか軈(やがて)天下の政(まつりこと)を執(とつ)て、威(ゐ)を可振其(その)機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来(ひごろ)に勝(すぐ)れて、其被官(そのひくわん)の族(やから)、触事に気色は不増云(いふ)事なし。車馬門前に立列(つらなつ)て出入側身を、賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)して、揖譲(いふじやう)の礼を慎(つつし)めり。如此目出度(めでたき)事のみある中に、高倉殿(たかくらどの)最愛の一子(いつし)今年四(よつ)に成(なり)給ひてけるが、今月二十六日(にじふろくにち)俄(にはか)に失(うせ)給ひければ、母儀(ぼぎ)を始(はじめ)奉(たてまつり)上下万人泣(なき)悲(かなし)む事限なし。さても西国東国の合戦、符(わりふ)を合(あは)せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上(のぼり)ければ、等持寺(とうぢじ)の長老旨別源(しべつげん)、葬礼を取営(いとなみ)て下火(あこ)の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云(いふ)句の有(あり)けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。
此二十(にじふ)余年(よねん)執事の被官(ひくわん)に身を寄(よせ)て、恩顧(おんこ)に誇る人幾千万(いくせんまん)ぞ。昨日まで烏帽子の折様(をりやう)、衣紋(えもん)のため様をまねて、「此(これ)こそ執事の内(うちの)人よ。」とて、世に重んぜられん事を求(もとめ)しに、今日はいつしか引替(ひきかへ)て貌(かたち)を窶(やつ)し面を側(そば)めて、「すはや御敵(おんてき)方(がた)の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼(きようく)す。用(もちゆる)則(ときは)鼠(ねずみ)も為虎、不用(もちゐざる)則(ときは)虎も為鼠と云(いひ)置(おき)し、東方朔(とうばうさく)が虎鼠(こそ)の論、誠(まこと)に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠(まこと)に繊芥(せんかい)の隔(へだて)もなく、和睦(わぼく)にて所存もなく坐(おはし)けれ。其門葉(そのもんえふ)に有て、附鳳(ふほう)の勢(いきほ)ひを貪(むさぼつ)て、攀竜(はんりよう)の望(のぞみ)を期する族(やから)は、人の時を得たるを見ては猜(そね)み、己が威を失へるを顧(かへりみ)ては、憤(いきどほり)を不含云(いふ)事なし。
されば石塔(いしたふ)・上杉・桃井(もものゐ)は、様々の讒(ざん)を構(かまへ)て、将軍に付(つき)順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木(につき)・細川・土岐・佐々木(ささき)は、種々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、錦小路殿(にしきのこうぢどの)に、又人もなげに振舞ふ者共(ものども)を滅さばやとぞ巧(たくみ)ける。天魔波旬(はじゆん)は斯(かか)る所を伺(うかが)ふ者なれば、如何なる天狗共(てんぐども)の態(わざ)にてか有けん、夜にだに入(いり)ければ、何(いづ)くより馳寄(はせよする)共(とも)知(しら)ぬ兵共(つはものども)、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)、鹿(しし)の谷・北白河・阿弥陀け峯(みね)・紫野辺に集(あつまり)て、勢ぞろへをする事度々(どど)に及ぶ。
是(これ)を聞て将軍方(しやうぐんがた)の人は、「あはや高倉殿(たかくらどの)より寄(よせ)らるゝは。」とて肝(きも)を冷(ひや)し、高倉殿(たかくらどの)方(がた)の人は、「いかさま将軍より討手を向(むけ)らるゝは。」とて用心(ようじん)を致す。禍(わざはひ)利欲(りよく)より起(おこつ)て、息(やむ)ことを得ざれば、終(つひ)に己(おのれ)が分国(ぶんこく)へ下て、本意(ほい)を達せんとや思(おもひ)けん、仁木左京大夫頼章(よりあきら)は病と称(しよう)して有馬の湯へ下る。舎弟(しやてい)の右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)は伊勢へ下(くだ)る。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春(よりはる)は讃岐(さぬき)へ下る。
佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)は近江へ下る。赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範・甥の弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・舎弟(しやてい)信濃五郎範直(のりなほ)は、播磨へ逃下(にげくだ)る。土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康(よりやす)は、憚(はばか)る気色もなく白書に都を立て、三百(さんびやく)余騎(よき)混(ひたす)ら合戦(かつせんの)用意(ようい)して、美濃(みのの)国(くに)へぞ下りける。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、初(はじめ)より上洛(しやうらく)せで赤松に居たりけるが、吉野殿(よしのどの)より、故兵部(ひやうぶの)卿(きやう)親王(しんわう)の若宮を大将に申(まうし)下し進(まゐら)せて、西国の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て、近国の勢を集(あつめ)て、吉野・戸津河(とつかは)・和田・楠と牒(しめ)し合せ、已(すで)に都へ攻上(せめのぼら)ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息(やむ)時(とき)非じと、世の人安き心も無(なか)りけり。  
高倉殿(たかくらどの)京都退去(たいきよの)事(こと)付(つけたり)殷(いんの)紂王(ちうわうの)事(こと)
同七月晦日、石塔入道・桃井(もものゐ)右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)直常二人(ににん)、高倉殿(たかくらどの)へ参て申けるは、「仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)、皆己(おのれ)が国々へ逃(にげ)下て、謀叛(むほん)を起し候なる。是(これ)も何様(いかさま)将軍(しやうぐん)の御意を請(うけ)候歟(か)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御教書(みげうしよ)を以て、勢を催(もよほ)すかにてぞ候らん。又赤松(あかまつ)律師(りつし)が大塔(おほたふの)若宮を申下(くだし)て、宮方(みやがた)を仕(つかまつ)ると聞へ候も、実は寄事於宮方(みやがた)に、勢を催して後、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参らんとぞ存(ぞんじ)候らん。勢も少く御用心(ごようじん)も無沙汰にて都に御坐(おはしまし)候はん事如何とこそ存(ぞんじ)候へ。
只(ただ)今夜々紛(よまぎ)れに、篠峯(ささのみね)越に北国の方へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、木目(きのめ)・荒血(あらち)の中山(なかやま)を差塞(さしふさ)がれ候はゞ、越前に修理(しゆりの)大夫(だいぶ)高経、加賀に富樫介(とがしのすけ)、能登に吉見(よしみ)、信濃に諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)、皆無弐(むに)の御方(みかた)にて候へば、此(この)国々へは何(いか)なる敵か足をも蹈入(ふみいれ)候べき。甲斐(かひの)国(くに)と越中とは我等(われら)が已(すで)に分国(ぶんこく)として、相交(あひまじは)る敵候はねば、旁以(かたがたもつて)安かるべきにて候。先(まづ)北国へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、東国・西国へ御教書(みげうしよ)を成下(なしくだ)され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀(よぎ)もなく申ければ、禅門少しの思安(しあん)もなく、「さらば軈(やが)て下(くだ)るべし。」とて、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、御前(おんまへ)に有逢(ありあひ)たる人々許(ばかり)を召具して、七月晦日の夜半許(ばかり)に、篠(ささ)の峯越に落(おち)給(たまふ)。
騒がしかりし有様也(なり)。是(これ)を聞て、御内(みうち)の者は不及申、外様(とざま)の大名、国々の守護(しゆご)、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)三百(さんびやく)余人(よにん)、在京人(ざいきやうにん)、畿内(きない)・近国・四国・九州より、此(この)間上(のぼ)り集(あつま)りたる軍勢共(ぐんぜいども)、我(われ)も我(われ)もと跡を追て落(おち)行(ゆき)ける程に、今は公家被官(くげひくわん)の者より外、京中(きやうぢゆう)に人あり共更(さら)に不見けり。
夜明ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)将軍(しやうぐん)の御屋形へ被参て、「今夜京中(きやうぢゆう)のひしめき、非直事覚(おぼえ)て候。落行ける兵共(つはものども)大勢にて候なれば、若(もし)立帰(たちかへり)て寄(よす)る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些(すこし)も不騒給、「運は天にあり、何の用心(ようじん)かすべき。」とて、褒貶(はうへん)の探冊(たんじやく)取出し、心閑(こころしづか)に詠吟(えいぎんし)、打嘯(うそぶい)てぞ坐(おはし)ける。高倉殿(たかくらどの)已(すで)に越前の敦賀(つるがの)津に坐(おは)して、著到(ちやくたう)を著(つけ)られけるに、初(はじめ)は一万(いちまん)三千(さんぜん)余騎(よき)有けるが、勢日々に加て六万(ろくまん)余騎(よき)と注せり。此(この)時(とき)若(もし)此(この)大勢を率(そつ)して京都へ寄(よせ)たらましかば、将軍も宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も、戦ふまでも御坐(おはし)まさじを、そゞろなる長僉議(ながせんぎ)、道も立(たた)ぬなま才学(さいがく)に時移(うつり)て、数日(すじつ)を徒(いたづら)に過にけり。
抑(そもそも)是(これ)は誰が依意見、高倉殿(たかくらどの)は加様に兄弟叔父(をぢ)甥(をひ)の間、合戦をしながらさすが無道(ぶだう)を誅(ちゆう)して、世を鎮めんとする所を計(はから)ひ給ふと尋(たづぬ)れば、禅律(ぜんりつ)の奉行(ぶぎやう)にて被召(めされ)仕ける南家の儒者、藤原少納言有範(ありのり)が、より/\申(まうし)ける儀(ぎ)を用ひ給ひける故とぞ承(うけたまは)る。「さる程に昔殷(いん)の帝武乙(ぶいつ)と申しゝ王の位に即(つい)て、悪を好む事頻(しきり)也(なり)。我(われ)天子として一天(いつてん)四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)るといへ共、猶(なほ)日月の明暗を心に不任、雨風の暴(あら)く劇(けは)しき事を止(とめ)得ぬこそ安からねとて、何(いか)にもして天を亡(ほろぼ)さばやとぞ被巧ける。
先(まづ)木を以て人を作て、是(これ)を天神と名(なづ)けて帝自(みづから)是(これ)と博奕(ばくえき)をなす。神真(まこと)の神ならず、人代(か)は(ッ)て賽(さい)を打ち石を仕(つか)ふ博奕なれば、帝などか勝(かち)給はざらん。勝(かち)給へば、天負(まけ)たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎(は)ね、打擲蹂躪(ちやうちやくじうりん)して獄門(ごくもん)に是(これ)を曝(さら)しけり。又革(かは)を以(もつて)人を作て血を入て、是(これ)を高き木の梢に懸(か)け、天を射ると号(がう)して射るに、血出て地に洒(そそ)く事をびたゝし。加様(かやう)の悪行(あくぎやう)身に余(あま)りければ、帝武乙(ぶいつ)河渭(かゐ)に猟(かり)せし時、俄(にはか)に雷(いかつち)落懸りて御身(おんみ)を分々(つだつだ)に引裂(さき)てぞ捨たりける。其(その)後御孫の小子帝位に即(つき)給ふ。
是(これ)を殷(いん)の紂王(ちうわう)とぞ申(まうし)ける。紂王(ちうわう)長(ひととな)り給(たまひ)て後、智は諌(いさめ)を拒(こばみ)、是非の端(はし)を餝(かざ)るに足れり。勇は人に過(すぎ)て、手づから猛獣(まうじう)を挌(とりひしぐ)に難しとせず。人臣に矜(ほこ)るに能(のう)を以てし、天下にたかぶるに声(な)を以てせしかば、人皆己(おのれ)が下より出たりとて、諌諍(かんさう)の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己(だつき)と云(いふ)美人を愛して、万事只是(これ)が申侭(まうすまま)に付(つき)給ひしかば、罪無(なく)して死を賜ふ者多く只積悪(せきあく)のみあり。鉅鹿(きよろく)と云(いふ)郷(がう)に、まはり三十里(さんじふり)の倉を作りて、米穀(べいこく)を積余(つみあま)し、朝歌(てうか)と云(いふ)所に高さ二十丈(にじふぢやう)の台(うてな)を立て、銭貨を積満(つみみて)り。
又沙丘(しやきう)に廻(まはり)一千里の苑台(ゑんだい)を造(つくり)て、酒を湛(たた)へ池とし、肉を懸(かけ)て林とす。其中に若く清らかなる男三百人(さんびやくにん)、みめ貌(かたち)勝(すぐ)れたる女三百人(さんびやくにん)を裸(はだか)になして、相逐(あひおつ)て婚姻(こんいん)をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟を浮(うかべ)て長時(ちやうじ)に酔(ゑひ)をなし、肉の林には、北里の舞、新婬(しんいん)の楽(がく)を奏して不退(ふたい)の楽(たのしみ)を尽す。天上の婬楽快楽(いんらくけらく)も、是には及ばじとぞ見へたりける。或(ある)時(とき)后(きさき)妲己(だつき)、南庭の花の夕ばえを詠(えいじ)て寂寞(せきばく)として立(たち)給ふ。紂王(ちうわう)見(みる)に不耐して、「何事か御意に叶(かなは)ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀(あはれ)炮格(はうかく)の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣(のたまひ)ければ、紂王(ちうわう)、「安き程の事也(なり)。」とて、軈(やが)て南庭に炮格を建(たて)て、后の見物にぞ成(なさ)れける。
夫(それ)炮格の法と申(まうす)は、五丈の銅(あかがね)の柱を二本東西に立て、上に鉄(くろがね)の縄(なは)を張(はり)て、下炭火(すみび)ををき、鉄湯炉壇(ろだん)の如くにをこして、罪人の背(せなか)に石を負(おふ)せ、官人戈(ほこ)を取て罪人を柱の上に責上(せめのぼ)せ、鉄(くろがね)の縄を渡る時、罪人気力に疲(つかれ)て炉壇の中に落入(おちいり)、灰燼(くわいじん)と成て焦(こが)れ死ぬ。焼熱(せうねつ)大焼熱の苦患(くげん)を移せる形なれば炮格(はうかく)の法とは名(なづ)けたり。后是(これ)を見給て、無類事に興(きよう)じ給ひければ、野人村老(やじんそんらう)日毎(ひごと)に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此(この)時(とき)周(しう)の文王未(いまだ)西伯(せいはく)にて坐(おはし)けるが、密(ひそか)に是(これ)を見て人の悲み世の謗(そしり)、天下の乱と成ぬと歎(なげき)給ひけるを、崇侯虎(そうこうこ)と云ける者聞て殷(いんの)紂王(ちうわう)にぞ告(つげ)たりける。
紂王(ちうわう)大に忿(いかつ)て、則(すなはち)西伯を囚(とら)へて里(いうり)の獄舎(ひとや)に押篭(おしこめ)奉る。西伯が臣に夭(くわうえう)と云ける人、沙金(しやきん)三千両・大宛(たいゑんの)馬百疋・嬋妍幽艶(せんけんいうえん)なる女百人(ひやくにん)を汰(そろ)へて、紂王(ちうわう)に奉て、西伯の囚(とらはれ)を乞受(こひうけ)ければ、元来色に婬(いん)し宝を好む事、後の禍(わざはひ)をも不顧、此(この)一を以(もつ)ても西伯を免(ゆる)すに足(たん)ぬべし、況哉(いはんや)其多(そのおほき)をやと、心飽(あく)まで悦て、則(すなはち)西伯をぞ免(ゆる)しける。西伯故郷に帰て、我命の活(いき)たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢(あう)て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人(じふにん)二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如(ごとく)哀(あはれ)に悲く覚しければ、洛西(らくせい)の地三百里を、紂王(ちうわう)の后に献(けん)じて、炮格の刑(けい)を被止事をぞ被請ける。
后も同(おなじ)く欲に染(そ)む心深くをはしければ、則(すなはち)洛西の地に替(かへ)て、炮格の刑を止(とめ)らる。剰(あまつさへ)感悦猶(なほ)是(これ)には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞(ふえつ)を賜(たまはつ)て、天下の権(けん)を執(とり)武を収(をさめ)ける官を授(さづけ)給ひければ、只龍の水を得て雲上(うんじやう)に挙(あが)るに不異。其(その)後西伯渭浜(ゐひん)の陽(きた)に田(かり)せんとし給ひけるに、史編(しへん)と云ける人占(うらなう)て申けるは、「今日の獲物(えもの)は非熊非羆、天君(きみ)に師を可与ふ。」とぞ占(ひ)ける。西伯大(おほい)に悦(よろこび)て潔斉(けつさい)し給ふ事七日、渭水(ゐすゐ)の陽(きた)に出て見給ふに、太公望(たいこうばう)が半簔(はんさ)の烟雨(えんう)水冷(すさまじう)して、釣を垂(た)るゝ事人に替(かは)れるあり。
是(これ)則(すなはち)史編が占(うらな)ふ所也(なり)とて、車の右に乗(の)せて帰(かへり)給ふ。則(すなはち)武成王(せいわう)と仰(あふぎ)て、文王是(これ)を師とし仕(つか)ふる事不疎、逐に太公望が謀(はかりこと)に依て西伯徳(とく)を行ひしかば、其(その)子武王の世に当て、天下の人皆殷(いん)を背(そむい)て周(しう)に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百(はつぴやく)余年(よねん)を保(たも)ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公(うりんしやうこう)の淫乱(いんらん)、頗(すこぶ)る殷(いんの)紂王(ちうわう)の無道(ぶだう)に相似(あひに)たり、君仁(じん)を行はせ給ひて、是(これ)を亡(ほろぼ)されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比(ひ)し、我(わが)身をば太公望に准(なぞらへ)て、時節(をりふし)に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹(かうせき)、泰伯が有徳の甥(をひ)、文王に譲(ゆづり)し仁にも非(あら)ず。又周公の無道(ぶだう)の兄(このかみ)、管叔を討せし義にも非(あら)ず。権道覇業(けんだうはげふ)、両(ふたつ)ながら欠(かけ)たる人とぞ見へたりける。  
直義追罰(つゐばつの)宣旨(せんじ)御使(おんつかひの)事(こと)付(つけたり)鴨社(かものやしろ)鳴動(めいどうの)事(こと)
同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)追討(つゐたう)の宣旨を給て、近江(あふみの)国(くに)に下著(げちやく)して鏡(かがみの)宿(しゆく)に陣を取る。都を被立時までは其(その)勢纔(わづか)に三百騎(さんびやくき)にも不足けるが、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・子息近江(あふみの)守(かみ)秀綱(ひでつな)は、当国勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して馳(はせ)参る。仁木右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)義長(よしなが)は伊賀・伊勢の兵四千(しせん)余騎(よき)を率して馳参る。
土岐刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康は、美濃(みのの)国(くに)の勢二千(にせん)余騎(よき)を率して馳参りける間、其(その)勢無程一万(いちまん)余騎(よき)に及ぶ。今は何(いか)なる大敵に戦ふ共、勢の不足(ふそく)とは不見けり。去(さる)程(ほど)に高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、石塔・畠山・桃井(もものゐ)三人(さんにん)を大将として、各二万(にまん)余騎(よき)の勢を差副(さしそへ)、同九月七日近江(あふみの)国(くに)へ打出、八相山(はつさうやま)に陣を取る。両陣堅く守て其(その)戦を不決。其(その)日(ひ)の未(ひつじ)の剋に、都には鴨(かも)の糾(ただす)の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久(ひさしく)して、流鏑矢(かぶらや)二筋(ふたすぢ)天を鳴響(なりひびか)し、艮(うしとら)の方を差(さし)て去ぬとぞ奏聞しける。是(これ)は何様(いかさま)将軍(しやうぐん)兄弟の合戦に、吉凶(きつきよう)を被示怪異(けい)にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日(よくじつ)の午(うまの)剋に、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)が手(て)の者共(ものども)に、多賀(たがの)将監(しやうげん)と秋山新蔵人と、楚忽(そこつ)の合戦し出して、秋山討(うた)れにければ、桃井(もものゐ)大に忿(いかつ)て、重て可戦由を申けれ共(ども)、自余(じよ)の大将に異儀(いぎ)有て、結句(けつく)越前国(ゑちぜんのくに)へ引返す。
其(その)後畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)国清、頻(しきり)に、「御兄弟(ごきやうだい)只(ただ)御中なをり候(さふらひ)て、天下の政務を宰相殿に持(もた)せ進(まゐら)せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容(きよよう)し不給ければ、国清大に忿(いかつ)て、己が勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て、将軍へぞ参(まゐり)ける。此(この)外縁(えん)を尋(たづね)て降下(かうにん)になり、五騎十騎(じつき)打連(うちつれ)々々(うちつれ)、将軍方(しやうぐんがた)へと参(まゐり)ける間、角(かく)ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井(もものゐ)頻(しきり)に勧(すすめ)申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道(ほくろくだう)を打通(うちとほ)り、鎌倉(かまくら)へぞ下り給ひける。  
薩多山(さつたやま)合戦(かつせんの)事(こと)
将軍は八相山(はつさうやま)の合戦に打勝て、軈(やがて)上洛(しやうらく)し給ひけるを、十月十三日(じふさんにち)、又直義入道可誅罰之(の)由(よし)、重被成宣旨ければ、翌日軈(やがて)都を立て鎌倉(かまくら)へ下(くだり)給ふ。混(ひたすら)に洛中(らくちゆう)に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙(ひま)を窺(うかが)はれつべしとて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)をば、都の守護(しゆご)にぞ被留ける。将軍已(すで)に駿河(するがの)国(くに)に著(つき)給ひけれ共(ども)、遠江より東(ひが)し、東国・北国の勢共(せいども)、早(はや)悉(ことごとく)高倉殿(たかくらどの)へ馳属(はせつい)てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角(かく)て無左右鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)ん事難叶。先(まづ)且(しばら)く要害に陣を取てこそ勢をも催(もよほさ)めとて、十一月晦日(つごもり)駿河(するがの)薩山(さつたやま)に打上り、東北に陣を張(はり)給ふ。
相順(あひしたが)ふ兵には、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清兄弟四人・今河五郎入道心省(しんしやう)・子息伊予守・武田(たけだの)陸奥守・千葉介・長井(ながゐ)兄弟・二階堂(にかいだう)信濃入道・同山城判官、其(その)勢(せい)僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)には不過けり。去(さる)程(ほど)に将軍已(すでに)薩山(さつたやま)に陣を取て、宇都宮(うつのみや)が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿(たかくらどの)先(まづ)宇都宮(うつのみや)へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常に、長尾(ながを)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、並(ならび)に北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の勢(せい)を付て、一万(いちまん)余騎(よき)上野(かうづけの)国(くに)へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉(かまくら)を立て、薩山(さつたやま)へ向ひ給ふ。
一方には上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)憲顕(のりあき)を大手の大将として、二十万(にじふまん)余騎(よき)由井(ゆゐ)・蒲原(かんばら)へ被向。一方には石堂入道・子息右馬(うまの)頭(かみ)頼房を搦手(からめての)大将として、十万(じふまん)余騎(よき)宇都部佐(うつぶさ)へ廻(まはつ)て押寄する。高倉禅門は寄手(よせて)の惣大将(そうだいしやう)なれば、宗(むね)との勢十万(じふまん)余騎(よき)を順(したが)へて、未(いまだ)伊豆(いづの)府(こふ)にぞ控(ひかへ)られける。彼(かの)薩山(さつたやま)と申(まうす)は、三方(さんぱう)は嶮岨(けんそ)にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙(そばだて)り。敵縦(たと)ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手(よせて)は五十万騎(ごじふまんぎ)、防ぐ兵三千(さんぜん)余騎(よき)、而(しか)も馬疲れ粮(かて)乏(とぼ)しければ、何(いつ)までか其(その)山に怺(こら)へ給ふべきと、哀なる様に覚(おぼえ)て、掌(たなごころ)に入れたる心地しければ、強(あながち)急に攻落さんともせず、只(ただ)千重(せんぢゆう)万重に取巻たる許(ばかり)にて、未(いまだ)矢軍(やいくさ)をだにもせざりけり。
宇都宮(うつのみや)は、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)が勧(すすめ)に依て、兼てより将軍に志を存(ぞんじ)ければ、武蔵守(むさしのかみ)師直が一族(いちぞく)に、三戸(みとの)七郎(しちらう)と云(いふ)者、其(その)辺に忍(しのび)て居たりけるを大将に取立て、薩山(さつたやま)の後攻(ごづめ)をせんと企(くはたて)ける処に、上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、大胡(おほご)・山上(やまかみ)の一族共(いちぞくども)、人に先をせられじとや思(おもひ)けん。新田(につた)の大島(おほしま)を大将に取立て五百(ごひやく)余騎(よき)薩山(さつたやま)の後攻の為とて、笠懸(かさがけ)の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百(さんびやく)余騎(よき)にて騎上野(かうづけの)国(くに)警固(けいご)の為に、兼てより世良田(せらだ)に居たりけるが、是(これ)を聞(きく)と均(ひとし)く笠懸の原へ打寄(うちよせ)、敵に一矢をも射させず、抜連(ぬきつれ)て懸立ける程に、大島が五百(ごひやく)余騎(よき)十方に被懸散、行方も不知成(なり)にけり。
宇都宮(うつのみや)是(これ)を聞て、「此(この)人々憖(なまじひ)なる事為(し)出して敵に気を著(つけ)つる事よ。」と興(きよう)醒(さめ)て思(おもひ)けれ共(ども)、「其(それ)に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮(うつのみや)を立て薩山(さつたやま)へぞ急(いそぎ)ける。相伴(あひともな)ふ勢(せい)には、氏家(うぢへ)大宰(だざいの)小弐(せうに)周綱(ちかつな)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同備中(びつちゆうの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)貞経・同肥後(ひごの)守(かみ)・紀党(きのたうには)増子(ましこ)出雲(いづもの)守(かみ)・薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)進義夏・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義春・同掃部(かもんの)助(すけ)助義・武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)猪俣(ゐのまた)兵庫(ひやうごの)入道(にふだう)・安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・岡部(をかべ)新左衛門(しんざゑもん)入道・子息出羽(ではの)守(かみ)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)千五百騎(せんごひやくき)、十六日(じふろくにち)午(うまの)剋に、下野(しもつけの)国(くに)天命宿(てんみやうのしゆく)に打出たり。
此(この)日(ひ)佐野(さの)・佐貫(さぬき)の一族(いちぞく)等(ら)五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくははり)ける間、兵皆勇進(いさみすすん)で、夜明れば桃井(もものゐ)が勢には目も不懸、打連(うちつれ)て薩山(さつたやま)へ懸(かか)らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸(みとの)七郎(しちらう)、俄(にわか)に狂気に成て自害をして死にけり。是(これ)を見て門出(かどで)悪しとや思(おもひ)けん、道にて馳著(はせつき)つる勢共(せいども)一騎(いつき)も不残落(おち)失(うせ)て、始(はじめ)宇都宮(うつのみや)にて一味同心せし勢許(ばかり)に成(なり)ければ、僅(わづか)に七百騎(しちひやくき)にも不足けり。
角(かく)ては如何(いか)が有(あら)んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫(しばらく)思案して、「吉凶(きつきよう)は如糾索いへり。是(これ)は何様(いかさま)宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)、大将を氏子に授(さづけ)給はん為に、斯(かか)る事は出来る也(なり)。暫(しばらく)も御逗留(ごとうりう)不可有。」と申(まうし)ければ、諸人げにもと気を直(なほ)して路に少しの滞(とどこほり)もなく、引懸(ひきかけ)々々(ひきかけ)打(うつ)程(ほど)に、同(おなじき)十九日の午(うまの)剋に、戸禰河(とねがは)を打渡て、那和庄(なわのしやう)に著(つき)にけり。
此(ここ)にて跡に立たる馬煙(うまけぶり)を、馳著(はせつ)く御方(みかた)歟(か)と見ればさにあらで、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)・長尾左衛門、一万(いちまん)余騎(よき)にて迹(あと)に著て押寄(おしよせ)たり。宇都宮(うつのみや)、「さらば陣を張(はつ)て戦へ。」とて、小溝(こみぞ)の流れたるを前にあて、平々(へいへい)としたる野中(のなか)に、紀清(きせい)両党七百(しちひやく)余騎(よき)は大手に向て北(きた)の端(はし)に控(ひかへ)たり。氏家(うぢへ)太宰(だざいの)小弐(せうに)は、二百(にひやく)余騎(よき)中の手に引(ひか)へ、薬師寺入道元可(げんか)兄弟が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)は、搦手(からめて)に対して南の端(はし)に控(ひかへ)、両陣互に相待て、半時計(はんじばかり)時(とき)を移す処に、桃井(もものゐ)が勢七千(しちせん)余騎(よき)、時の声を揚(あげ)て、宇都宮(うつのみや)に打て懸る。長尾左衛門が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、魚鱗に連(つらなつ)て、薬師寺に打て係(かか)る。
長尾孫六・同平三、二人(ににん)が勢五百(ごひやく)余騎(よき)は皆馬より飛下(とびお)り、徒立(かちだち)に成て射向(いむけ)の袖を差簪(かざ)し、太刀長刀の鋒(きつさき)をそろへて、閑々(しづしづ)と小跳(こをどり)して、氏家が陣へ打て係(かか)る。飽(あく)まで広き平野(へいや)の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方(みかた)一万(いちまん)二千(にせん)余騎(よき)、東に開け西に靡(なび)けて、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(ばかり)戦(たたかひ)たるに、長尾孫六が下(おり)立たる一揆(いつき)の勢五百(ごひやく)余人(よにん)、縦横(じゆうわう)に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井(もものゐ)も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落(おち)行(ゆき)けり。軍(いくさ)畢(をはつ)て四五箇月の後までも、戦場(せんぢやう)二三里が間は草腥(なまぐさう)して血原野(げんや)に淋(そそ)き、地嵬(うづだか)くして尸(かばね)路径(ろけい)に横(よこたは)れり。
是(これ)のみならず、吉江(よしえ)中務が武蔵(むさしの)国(くに)の守護代(しゆごだい)にて勢を集(あつめ)て居たりけるも、那和(なわ)の合戦と同日に、津山(つやま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)並(ならびに)野与(のいよ)の一党に被寄、忽(たちまち)に討(うた)れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云(いふ)者一人もなく成(なり)て、宇都宮(うつのみや)に付(つく)勢三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。宇都宮(うつのみや)已(すで)に所々の合戦に打勝て、後攻(ごづめ)に廻(まは)る由(よし)、薩山(さつたやま)の寄手(よせて)の方へ聞へければ、諸軍勢(しよぐんぜい)皆一同に、「あはれ後攻の近付(ちかづか)ぬ前に薩山(さつたやま)を被責落候べし。」と云(いひ)けれ共(ども)、傾(かたぶ)く運にや引(ひか)れけん、石堂・上杉、曾(かつて)不許容ければ、余(あま)りに身を揉(もう)で、児玉党(こだまたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、極(きは)めて嶮(けは)しき桜野(さくらの)より、薩山(さつたやま)へぞ寄(よせ)たりける。
此(この)坂をば今河上総(かづさの)守(かみ)・南部(なんぶの)一族(いちぞく)・羽切(はきり)遠江守(とほたふみのかみ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて堅めたりけるが、坂中に一段(いちだん)高き所の有(あり)けるを切払(きりはらう)て、石弓を多く張(はり)たりける間、一度(いちど)にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、楯の板ながら打摯(うちひし)がれて、矢庭(やには)に死する者数を不知、後陣(ごぢん)の兵是(これ)に色めいて、少し引色(ひきいろ)に見へける処へ、南部・羽切抜連(ぬきつれ)て係(かか)りける間、大類(おほるゐ)弾正・富田以下を宗(むね)として、児玉党十七人(じふしちにん)一所にして被討けり。
「此(この)陣の合戦は加様(かやう)也(なり)とも、五十万騎(ごじふまんぎ)に余(あま)りたる陣々の寄手共(よせてども)、同時に皆責上(せめのぼ)らば、薩山(さつたやま)をば一時に責(せめ)落すべかりしを、何(なに)となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討(うた)れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲(わらひあざ)ける心の程こそ浅猿(あさまし)けれ。
去(さる)程(ほど)に同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)、後攻の勢三万(さんまん)余騎(よき)、足柄山(あしがらやま)の敵を追散(おつちら)して、竹下(たけがした)に陣を取る。小山(をやま)判官(はうぐわん)も宇都宮(うつのみや)に力を合て、七百(しちひやく)余騎(よき)同日に古宇津(こうつ)に著(つき)ければ、焼続(たきつづ)けたる篝火(かがりび)の数、震(おびたたし)く見へける間、大手搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)の寄手共(よせてども)、暫(しばらく)も不忍十方へ落て行(ゆく)。
仁木越後守義長(よしなが)勝(かつ)に乗て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて逃(にぐ)る勢を追立て、伊豆(いづの)府(こふ)へ押寄(おしよせ)ける間、高倉禅門一支(ひとささへ)も不支して、北条へぞ落行(おちゆき)給ひける。上杉民部(みんぶの)太輔(たいふ)・長尾左衛門が勢二万(にまん)余騎(よき)は、信濃を志(こころざし)て落けるを、千葉(ちばの)介(すけ)が一族共(いちぞくども)五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて追蒐(おつかけ)、早河尻(はやかはじり)にて打留めんとしけるが、落行(おちゆく)大勢に被取篭、一人も不残被討けり。
さてこそ其(その)道開けて、心安(こころやす)く上杉・長尾左衛門は、無為(ぶゐ)に信濃の国へは落(おち)たりけれ。高倉禅門は余(あまり)に気を失て、北条にも猶(なほ)たまり不得、伊豆の御山(おやま)へ引て、大息ついて坐(おは)しけるが、忍(しのび)て何地(いづち)へも一まど落(おち)てや見る、自害をやすると案じ煩(わづらひ)給ひける処に、又和睦(わぼく)の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)を御迎に被進たりければ、今の命の捨難(すてがた)さに、後の恥(はぢ)をや忘れ給ひけん、禅門降人(かうにん)に成て、将軍に打連(うちつれ)奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉(かまくら)へぞ帰(かへり)給ひける。  
慧源(ゑげん)禅門逝去(せいきよの)事(こと)
斯(かかり)し後は、高倉殿(たかくらどの)に付順(つきしたが)ひ奉る侍の一人もなし。篭(ろう)の如くなる屋形(やかた)の荒(あれ)て久(ひさし)きに、警固(けいご)の武士を被居、事に触(ふれ)たる悲(かなし)み耳に満(みち)て心を傷(いたま)しめければ、今は憂世(うきよ)の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎(なげき)給ひけるが、無幾程其(その)年の観応三年壬辰(みづのえたつ)二月二十六日(にじふろくにち)に、忽(たちまち)に死去し給ひけり。
俄(にはか)に黄疽(わうだん)と云(いふ)病に被犯、無墓成(なら)せ給(たまひ)けりと、外には披露(ひろう)ありけれ共(ども)、実(まこと)には鴆毒(ちんどく)の故(ゆゑ)に、逝去(せいきよ)し給(たまひ)けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡(ほろぼ)し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵(をんでき)の為に毒を呑(のみ)て、失(うせ)給(たまひ)けるこそ哀なれ。三過門間(あひだの)老病死(らうびやうし)、一弾指頃去来今(だんしきやうこらいこん)とも、加様(かやう)の事をや申べき。因果歴然(れきぜん)の理(ことわり)は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬(むく)ひけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。さても此(この)禅門は、随分(ずゐぶん)政道をも心にかけ、仁義をも存(ぞんじ)給(たまひ)しが、加様に自滅(じめつ)し給ふ事、何(いか)なる罪の報(むくひ)ぞと案ずれば、此(この)禅門依被申、将軍鎌倉(かまくら)にて偽(いつはり)て一紙(いつし)の告文(かうぶん)を残されし故(ゆゑ)に其(その)御罰(おんばつ)にて、御兄弟(ごきやうだい)の中も悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、終に失(うせ)給(たまふ)歟(か)。
又大塔宮(おほたふのみや)を奉殺、将軍(しやうぐんの)宮(みや)を毒害(どくがい)し給(たまふ)事、此(この)人の御態(おんわざ)なれば、其(その)御憤(おんいきどほり)深して、如此亡(ほろび)給ふ歟(か)。災患(さいくわん)本(もと)無種、悪事を以て種とすといへり。実(まこと)なる哉、武勇(ぶよう)の家に生れ弓箭(きうせん)を専(もつぱら)にすとも、慈悲を先とし業報(ごふはう)を可恐。我が威勢のある時は、冥(みやう)の昭覧(せうらん)をも不憚、人の辛苦をも不痛、思(おもふ)様に振舞(ふるまひ)ぬれば、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来り、我と身を責(せむ)る事、哀に愚(おろ)かなる事共(ことども)也(なり)。  
吉野殿(よしのどの)与相公羽林御和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)松折(をるる)事(こと)
足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は、将軍鎌倉(かまくら)へ下り給(たまひ)し時京都守護(しゆご)の為に被残坐(おは)しけるが、関東(くわんとう)の合戦の左右は未(いまだ)聞へず、京都は以外に無勢(ぶせい)也(なり)。角(かく)ては如何様(いかさま)、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦(いつたん)事を謀(はかつ)て、暫(しばらく)洛中(らくちゆう)を無為(ぶゐ)ならしめん為に、吉野殿(よしのどの)へ使者を立て、「自今以後は、御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)と、国衙(こくが)の郷保(がうほ)、並(ならび)に本家領家(ほんけりやうけ)、年来(としごろ)進止(しんし)の地に於ては、武家一向(いつかう)其(その)綺(いろひ)を可止にて候。只承久(しようきう)以後新補(しんぽ)の率法(りつはふ)並(ならびに)国々の守護職(しゆごしよく)、地頭御家人(ごけにんの)所帯(しよたい)を武家の成敗に被許て、君臣和睦(わぼく)の恩慧(おんけい)を被施候は、武臣七徳の干戈(かんくわ)を収(をさめ)て、聖主万歳(ばんぜい)の宝祚(ほうそ)を可奉仰。」頻(しきり)に奏聞をぞ被経ける。
依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)有て、先に直義入道和睦(わぼく)の由を申て、言(ことばの)下に変じぬ。是も亦偽(いつはつ)て申(まうす)条無子細覚(おぼゆ)れ共(ども)、謀(はかりこと)の一途(いちづ)たれば、先(まづ)義詮が被任申旨、帝都還幸(くわんかう)の儀を催(もよほ)し、而(しかうして)後に、義詮をば畿内(きない)・近国の勢を以て退治(たいぢ)し、尊氏をば義貞が子共に仰(おほせ)付(つけ)て、則被御追罰(ついばつ)何の子細か可有とて、御問答再往(さいわう)にも不及、御合体(ごがつてい)の事子細非(あら)じとぞ被仰出ける。両方互に偽(いつはり)給へる趣、誰かは可知なれば、此(この)間持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(がた)に被拝趨ける諸卿、皆賀名生(あなふ)殿(どの)へ被参。
先(まづ)当職(たうしよく)の公卿には二条(にでうの)関白太政大臣(だいじやうだいじん)良基(よしもと)公(こう)・近衛(このゑの)右大臣道嗣(みちつぐ)公(こう)・久我(こがの)内大臣(ないだいじん)右大将(うだいしやう)通相(みちすけ)公(こう)・葉室(はむろの)大納言(だいなごん)長光(ながみつ)・鷹司(たかつかさの)大納言(だいなごん)左大将冬通(ふゆみち)・洞院(とうゐん)大納言(だいなごん)実夏(さねなつ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)公忠(きんただ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・今小路(いまこうぢ)大納言(だいなごん)良冬(よしふゆ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらついぢ)大納言(だいなごん)忠季(ただすゑ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・
二条(にでうの)中納言(ちゆうなごん)師良(もろよし)・華山院(くわざんのゐん)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・葉室(はむろの)中納言(ちゆうなごん)長顕(ながあき)・万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)仲房(なかふさ)・徳大寺中納言実時(さねとき)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)為明(ためあきら)・勘解由小路(かげゆこうぢ)左大弁(さだいべん)宰相兼綱(かねつな)・堀河(ほりかはの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)・三条(さんでうの)宰相(さいしやう)公豊(きんとよ)・坊城(ばうじやうの)右大弁宰相経方(つねまさ)・日野(ひのの)宰相(さいしやう)教光(のりみつ)・中御門(なかみかど)宰相(さいしやう)宣明(のぶあきら)、殿上人(てんじやうびと)には日野(ひのの)左中弁時光(ときみつ)・四条(しでうの)左中将(さちゆうじやう)隆家(たかいへ)・日野(ひのの)右中弁(うちゆうべん)保光(やすみつ)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)親顕(ちかあき)・日野(ひのの)左少弁(させうべん)忠光(ただみつ)・右少弁平(たひらの)信兼(のぶかぬ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)嗣房等(つぐふさら)也(なり)。
此(この)外先官(せんぐわん)の公卿、非参議(ひさんぎ)、七弁(しちべん)八座(はちざ)、五位六位、乃至(ないし)山門園城(をんじやう)の僧綱(そうがう)、三門跡(さんもんぜき)の貫首(くわんしゆ)、諸院家(しよゐんげ)の僧綱、並(ならび)に禅律の長老、寺社の別当神主(かんぬし)に至(いたる)まで我先(さき)にと馳(はせ)参りける間、さしも浅猿(あさまし)く賎(いや)しげなりし賀名生(あなふ)の山中、如花隠映(いんえい)して、如何(いか)なる辻堂、温室(をんしつ)、風呂までも、幔幕(まんまく)引かぬ所も無(なか)りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任(じよゐてんにん)は、悉(ことごとく)持明院殿(ぢみやうゐんどの)より被成たる官途(くわんと)なればとて各一汲(いつきふ)一階を被貶けるに、三条(さんでうの)坊門(ばうもん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)と、御子(みこ)左(ひだりの)大納言(だいなごん)為定(ためさだ)卿(きやう)と許(ばかり)は、本(もと)の官位に被復せけり。
是(これ)は内々吉野殿(よしのどの)へ被申通ける故(ゆゑなり)。京都より被参仕たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候(しこう)の公卿殿上人(てんじやうびと)をば、多年の労(らう)功(こう)ありとて、超涯不次(てうがいふじ)の賞を被行ける間、窮達(きゆうたつ)忽(たちまち)に地を易(かへ)たり。故三位殿(さんみどの)御局(つぼね)と申(まうし)しは、今天子の母后(ぼこう)にて御坐(おはしま)せば、院号蒙(かうむら)せ給(たまひ)て、新待賢門院(しんたいけんもんゐん)とぞ申ける。北畠入道源(みなもとの)大納言(だいなごん)は、准后(じゆごう)の宣旨を蒙(かうむり)て華(はな)著(つけ)たる大童子(おほわらは)を召具(めしぐ)し、輦(てぐるま)に駕(が)して宮中を出入すべき粧(よそほひ)、天下耳目(じぼく)を驚かせり。
此(この)人は故奥州(こあうしう)の国司顕家(あきいへ)卿(きやう)の父、今皇后(くわうごうの)厳君(げんくん)にてをはすれば、武功と云(いひ)華族(くわしよく)と云(いひ)、申(まうす)に及(およば)ぬ所なれ共(ども)、竹園摂家(ちくゑんせつけ)の外に未(いまだ)准后(じゆごう)の宣旨を被下たる例(れい)なし。平相国(へいしやうこく)清盛入道出家の後、准后(じゆごう)の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非(あら)ず、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の外祖(ぐわいそ)たり。又忠盛が子とは名付(なづけ)ながら、正(まさし)く白河(しらかはの)院(ゐん)の御子なりしかば、華族(くわしよく)も栄達も今の例には引(ひき)がたし。日野(ひのの)護持院(ごぢゐん)僧正(そうじやう)頼意(らいい)は、東寺の長者醍醐(だいご)の座主(ざす)に被補て、仁和寺(にんわじ)諸院家(しよゐんげ)を兼(かね)たり。大塔(おほたふの)僧正(そうじやう)忠雲は、梨本(なしもと)大塔(おほたふ)の両門跡を兼(かね)て、鎌倉(かまくら)の大御堂(おほみだう)、天王寺(てんわうじ)の別当職に被補。此(この)外山中伺候の人々、名家(めいか)は清華(せいぐわ)を超(こえ)、庶子(しよし)は嫡家(ちやくけ)を越て、官職雅意(がい)に任(まかせ)たり。
若(もし)如今にて天下定らば、歎(なげく)人は多(おほく)して悦(よろこぶ)者は可少。元弘(げんこう)一統(いつとう)の政道如此にて乱(みだれ)しを、取て誡(いましめ)とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩(くれ)て、あらたまの春立(たち)ぬれども、皇居(くわうきよ)は猶(なほ)も山中なれば、白馬蹈歌(あをむまたうか)の節会(せちゑ)なんどは不被行。寅(とら)の時の四方拝(しはうはい)、三日の月奏許(ぐわつそうばかり)有て、後七日(ごしちにちの)御修法(みしほ)は文観(もんくわん)僧正(そうじやう)承(うけたまはり)て、帝都の真言院(しんごんゐん)にて被行。十五日過(すぎ)ければ、武家より貢馬(くめ)十疋(じつぴき)・沙金(しやきん)三千両奏進之。其(その)外別進(べつしんの)貢馬三十疋(さんじつぴき)・巻絹(まききぬ)三百疋・沙金五百両(ごひやくりやう)、女院(にようゐん)皇后三公(さんこう)九卿(きうけい)、無漏方引進(ひきまゐらす)。
二月二十六日(にじふろくにち)、主上(しゆしやう)已(すで)に山中を御出(おんいで)有て、腰輿(えうよ)を先(まづ)東条へ被促。剣璽(けんじ)の役人計(ばかり)衣冠正(ただし)くして被供奉。其(その)外の月卿・雲客・衛府(ゑふ)・諸司(しよし)の尉(ゐ)は皆甲胄を帯して、前騎後乗(こうじよう)に相順(あひしたが)ふ。東条に一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、翌日頓(やが)て住吉(すみよし)へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野(まきの)・三輪(みわ)・湯浅(ゆあさ)入道・山本判官・熊野の八庄司(しやうじ)吉野十八郷(じふはちがう)の兵、七千(しちせん)余騎(よき)、路次(ろし)を警固仕(つかまつ)る。皇居(くわうきよ)は当社の神主(かんぬし)津守国夏(つもりのくになつ)が宿所を俄(にはか)に造(つくり)替(かへ)て臨幸なし奉りけり。国夏則(すなはち)上階(じやうかい)して従三位(じゆさんみ)に被成。先例未(いまだ)なき殿上の交(まじは)り、時に取ての面目なり。
住吉(すみよし)に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議(ふしぎ)あり。勅使(ちよくし)神馬(じんめ)を献(たてまつ)て奉幣(ほうへい)を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬(たまがき)の前なる大(おほいなる)松一本中より折(をれ)て、南に向て倒(たふ)れにけり。勅使(ちよくし)驚て子細を奏聞しければ、伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房卿、「妖(えう)は不勝徳。」と宣(のたまひ)てさまでも驚(おどろき)給はず。伊達(だて)三位(さんみ)有雅(いうが)が武者所(むしやどころ)に在(あり)けるが、此(この)事を聞て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)度の臨幸(りんかう)成(なら)せ給はん事は難有。其(その)故は昔殷(いんの)帝大戊(たいぼう)の時、世の傾(かたぶか)んずる兆(しるし)を呈(あらは)して、庭に桑穀(くは)の木一夜(いちや)に生(おひ)て二十(にじふ)余丈(よぢやう)に迸(はびこ)れり。帝大戊懼(おそれ)て伊陟(いちよく)に問(とひ)給ふ。伊陟が申(まうさ)く、「臣聞(きく)妖(えう)は不勝徳に、君の政の闕(かく)る事あるに依て、天此(この)兆(しるし)を降(くだ)す者也(なり)。君早(はやく)徳を脩(をさ)め給へ。」と申(まうし)ければ、帝則(すなはち)諌(いさめ)に順(したがひ)て正政撫民、招賢退佞給(たまひ)しかば、此(この)桑穀(くは)の木又一夜(いちや)の中に枯(かれ)て、霜露の如くに消(きえ)失(うせ)たりき。
加様の聖徳を被行こそ、妖(えう)をば除(のぞ)く事なるに、今の御政道に於て其(その)徳何事なれば、妖(えうは)不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々(かへすがへす)も難心得(こころえがたく)才学(さいかく)哉(かな)。」と、眉を顰(ひそめ)てぞ申(まうし)ける。其(その)夜何(いか)なる嗚呼(をこ)の者かしたりけん。此(この)松を押削(おしけづり)て一首(いつしゆ)の古歌を翻案(ほんあん)してぞ書たりける。君が代の短(みじか)かるべきためしには兼てぞ折(をれ)し住吉(すみよし)の松と落書にぞしたりける。住吉(すみよし)に十八日御逗留(ごとうりう)有て、潤(うるふ)二月十五日天王寺(てんわうじ)へ行幸なる。
此(この)時(とき)伊勢の国司中(なかの)院(ゐんの)衛門(ゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して被馳参けり。同(おなじき)十九日八幡(やはた)へ行幸成て、田中法印が坊を皇居(くわうきよ)に被成、赤井・大渡(おほわたり)に関を居(す)へて、兵山上山下(さんげ)に充満(みちみち)たるは、混(ひたす)ら合戦の御用意(ごようい)也(なり)と、洛中(らくちゆう)の聞へ不穏。依之(これによつて)義詮朝臣(よしあきらあそん)、法勝寺(ほつしようじ)の慧鎮(ゑちん)上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免(ちよくめん)を可蒙由(よし)申入るゝ処に、照臨已(すで)に下情(かじやう)を被恤、上下和睦の義、事定(さだま)り候(さうらひ)ぬる上は、何事の用心(ようじん)か候べきに、和田・楠以下の官軍(くわんぐん)等(ら)、混(ひたすら)合戦の企(くはたて)ある由(よし)承(うけたまはり)及(および)候。如何様(いかやう)の子細にて候やらん。」と被申たり。
主上(しゆしやう)直(ぢき)に上人に御対面有て、「天下未(いまだ)恐懼(きようく)を懐(いだ)く間、只非常を誡(いまし)めん為に、官軍(くわんぐん)を被召具いへ共、君臣已(すで)に和睦の上は更に異変の義不可有。縦(たとひ)讒者(ざんしや)の説あり共、胡越(こえつ)の心を不存ば太平の基(もとゐ)たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言(りんげん)已(すで)に如此。士女(しぢよ)の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、京都の軍勢(ぐんぜい)、曾(かつ)て今被出抜とは夢にも不知、由断(ゆだん)して居たる処に、同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)の辰(たつの)刻(こく)に、中(なかの)院(ゐんの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、三千(さんぜん)余騎(よき)にて鳥羽より推寄(おしよせ)て、東寺の南、羅城門(らしやうもん)の東西にして、旗の手を解(とき)、千種(ちぐさの)少将(せうしやう)顕経五百(ごひやく)余騎(よき)にて、丹波路(たんばぢ)唐櫃越(からうとごえ)より押寄(おしよせ)て、西の七条に火を上(あぐ)る。和田・楠・三輪・越知(をち)・真木・神宮寺(じんぐうじ)、其(その)勢都合五千(ごせん)余騎(よき)、宵より桂川を打渡て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)ぬ間(ま)に、七条大宮(しちでうおほみや)の南北七八町(しちはちちやう)に村立(むらだつ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。
東寺・大宮(おほみや)の時(ときの)声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄(よせ)たり。」と、京中(きやうぢゆう)の貴賎上下遽騒(あはてさわぐ)事不斜(なのめならず)。細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏は、千本(せんぼん)に宿して居たりけるが、遥(はるか)に西七条の烟を見て、先(まづ)東寺へ馳寄(はせよ)らんと、僅に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、西の朱雀(しゆしやか)を下りに打(うち)けるが、七条大宮(しちでうおほみや)に控(ひかへ)たる楠が勢に被取篭、陸奥(むつの)守(かみ)の甥(をひ)、細河(ほそかは)八郎(はちらう)矢庭(やには)に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指(さし)てぞ落(おち)ける。細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)は、時の侍所(さぶらひどころ)也(なり)ければ、東寺辺へ打出て勢を集(あつめ)んとて、手勢三百騎(さんびやくき)許(ばかり)にて、是(これ)も大宮(おほみや)を下りに打(うち)けるが、六条(ろくでう)辺にて敵の旗を見て、「著到(ちやくたう)も勢汰(せいぞろへ)も今はいらぬ所也(なり)。
何様まづ此(これ)なる敵を一散(ちら)し々(ちら)さでは、何(いづ)くへか可行。」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)控(ひかへ)たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧(たくみ)有(あり)て、一枚楯の裏の算(さん)を繁(しげ)く打て、如階認(こし)らへたりければ、在家(ざいけ)の垣に打懸々々(うちかけうちかけ)て、究竟(くつきやう)の射手(いて)三百(さんびやく)余人(よにん)、家の上に登(のぼり)て目の下なる敵を直下(みおろ)して射ける間、面を向(むく)べき様も無(なく)て進(すすみ)兼(かね)たる処を見て、和田・楠五百(ごひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(ならべ)てぞ懸(かけ)たりける。讃岐守(さぬきのかみ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、左右へ颯(さつ)と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守(さぬきのかみ)が乗たる馬、敵の打(うつ)太刀に驚(おどろき)て、弓杖(ゆんづゑ)三杖(みつゑ)計(ばかり)ぞ飛(とび)たりける。飛(とぶ)時(とき)鞍(くら)に被余真倒(まつさかさま)にどうど落つ。落(おつ)ると均(ひとし)く敵三騎落合(おちあひ)て、起(おこ)しも不立切(きり)けるを、讃岐守(さぬきのかみ)乍寐二人(ににん)の敵の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、起揚(おきあが)らんとする処を、和田が中間走(わしり)懸て、鑓(やり)の柄(え)を取延(とりのべ)て、喉吭(のどぶえ)を突(つい)て突倒す。倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。  
相公(しやうこう)江州落(がうしうおちの)事(こと)
細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)は被討ぬ。陸奥(むつの)守(かみ)は何地(いづち)共(とも)不知落行(おちゆき)ぬ。今は重(かさね)て可戦兵無(なか)りければ、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、僅(わづか)に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、近江を差(さし)て落(おち)給(たまふ)。下賀(げが)・高山(たかやま)の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落(やきおと)しぬ。舟はこなたに一艘(いつさう)もなし。山門へも、大慈院(だいじゐんの)法印を天王寺(てんわうじ)より被遣て、山徒(さんと)皆君の御方(みかた)に成(なり)ぬと聞へつれば、落行(おちゆく)処を幸(さいは)いと、勢多へも定(さだめ)て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬(きた)なく是(ここ)まで落(おち)て、尸(かばね)を湖水(こすゐ)の底に沈め、名を外都(ぐわいと)の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱(ちじよく)哉と後悔せぬ人も無りけり。
敵の旗の見へば腹を切(きら)んとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、鎧をば皆脱置(ぬぎおき)て、腰(こしの)刀許(ばかり)にて、白沙(しらす)の上に並居(なみゐ)給ふ。爰(ここ)に相模(さがみの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に曾我左衛門と云(いひ)ける者、水練(すゐれん)の達者(たつしや)也(なり)ければ、向の岸に游(およ)ぎ著て、子舟の有(あり)けるを一艘(いつさう)領(りやう)して、自(みづから)櫓(ろ)を推(お)して漕(こぎ)寄する。則(すなはち)大将を始(はじめ)として、宗(むね)との人々二十(にじふ)余人(よにん)一艘(いつさう)に込乗(こみのつ)て、先(まづ)向の岸に著(つき)給ふ。其(その)後又小舟三艘(さんざう)求(もとめ)出して、百五十騎(ひやくごじつき)の兵共(つはものども)皆渡してけり。是(これ)までも猶(なほ)敵の追て懸る事無ければ、棄(すて)たる馬も物具(もののぐ)も次第/\に渡し終(はて)て、舟蹈返(ふみかへ)し突(つき)流(なが)して、「今こそ活(いき)たる命なれ。」と、手を拍(うつ)て咄(どつ)とぞ被笑ける。
大将軍無事故、近江の四十九院(しじふくゐん)に坐(おは)する由聞へければ、土岐・大高伊予(いよの)守(かみ)、東坂本(ひがしさかもと)へ落(おち)たりけるが、舟に乗て馳参る。佐々木(ささき)の一党は不及申、美濃・尾張(をはり)・伊勢・遠江の勢共(せいども)、我(われ)も我(われ)もと馳参る程に、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)又大勢を著て、山陽・山陰に牒(てふ)し合(あは)せ、都を攻(せめ)んと議し給ふ。  
持明院殿(ぢみやうゐんどの)吉野(よしのへ)遷幸(せんかうの)事(こと)付(つけたり)梶井(かぢゐの)宮(みやの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に敵は都を落(おち)たれ共(ども)、吉野の帝は洛中(らくちゆう)へ臨幸も不成、只(ただ)北畠入道准后(じゆごう)・顕能(あきよし)卿(きやう)父子計(ばかり)京都に坐(おは)して、諸事の成敗を司(つかさど)り給(たまひ)て、其(その)外の月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、皆主上(しゆしやう)の御坐(まします)に付(つい)て、八幡(やはた)にぞ祠候(さふらひ)し給(たまひ)ける。同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)、中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)具忠(ともただ)を勅使(ちよくし)にて、都の内裡(だいり)に御坐(おはしま)す三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を吉野の主上(しゆしやう)へ渡し奉る。是(これ)は先帝山門より武家へ御出(おんいで)し有し時、ありもあらぬ物を取替(とりかへ)て、持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ被渡たりし物なればとて、璽(しるし)の御箱(みはこ)をば被棄、宝剣と内侍所(ないしところ)とをば、近習(きんじゆ)の雲客に被下て、衛府(ゑふ)の太刀(たち)・装束(しやうぞく)の鏡にぞ被成ける。
げにも誠の三種(さんじゆの)神器(じんぎ)にてはなけれ共(ども)、已(すで)に三度(さんど)大嘗会(じやうゑ)に逢(あひ)て、毎日の御神拝(ごじんぱい)・清署堂(せいしよだう)の御神楽(みかぐら)、二十(にじふ)余年(よねん)に成(なり)ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余(あまり)に無恐凡俗(ぼんぞく)の器物に被成ぬる事、如何(いかが)あるべからんと、申す族(やから)も多かりけり。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)北畠右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、兵五百(ごひやく)余騎(よき)を率して持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ参り、先(まづ)其(その)辺の辻々門々を堅(かた)めさせければ、「すはや武士共(ぶしども)が参りて、院・内を失ひ進(まゐ)らせんとするは。」とて女院・皇后御心(おんこころ)を迷はして臥(ふし)沈ませ給ひ、内侍・上童(うへわらは)・上臈・女房などは、向後(ゆくへ)も不知逃(にげ)ふためいて此彼(ここかしこ)に立吟(さまよ)ふ。
され共顕能卿、穏(おだやか)に西の小門より参て、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆蔭(たかかげ)卿(きやう)を以て、「世の静(しづま)り候はん程は、皇居(くわうきよ)を南山に移し進(まゐ)らすべしとの勅定(ちよくぢやう)にて候。」と被奏ければ、両院・主上(しゆしやう)・東宮あきれさせ給へる許(ばかり)にて、兔角(とかう)の御言(おんことば)にも不及、只御泪(なみだ)にのみほれさせ給(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袂(おんたもと)絞(しぼ)る計(ばかり)に成(なり)にけり。良(やや)暫(しばらく)有て、新院泪(なみだ)を抑(おさへ)て被仰けるは、「天下乱(らん)に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非(あらざ)れば一事(いちじ)も世の政(まつりこと)を御心(おんこころ)に不任。北辰(ほくしん)光消(きえ)て、中夏(ちゆうか)道闇(くらき)時(とき)なれば、共に椿嶺(ちんれい)の陰(かげ)にも寄り、遠く花山(くわざん)の跡をも追(おは)ばやとこそ思召(おぼしめし)つれ共(ども)、其(それ)も叶はぬ折節の憂(う)さ豈(あに)叡察(えいさつ)なからんや。今天運膺図に万人望(のぞみ)を達する時至れり。
乾臨(けんりん)曲(まげ)て恩免(おんめん)を蒙(かふむ)らば、速(すみやか)に釈門(しやくもん)の徒(と)と成て、辺鄙(へんぴ)に幽居(いうきよ)を占(しめ)んと思ふ。此(この)一事(いちじ)具(つぶさ)に可有奏達。」と被仰出けれ共(ども)、顕能再往(さいわう)の勅答に不及、「已(すで)に綸命(りんめい)を蒙(かふむ)る上は、押へては如何(いか)が奏聞を経(へ)候べき。」とて、御車(おんくるま)を二両差寄(さしよ)せ、「余(あま)りに時刻移(うつり)候。」と急げば、本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・東宮、御同車(ごどうしや)有て、南の門より出御(しゆつぎよ)なる。さらでだに霞(かす)める花の木(こ)の間(ま)の月、是(これ)や限の御泪に、常よりも尚(なほ)朧(おぼろ)也(なり)。
女院・皇后は、御簾(みす)の内、几帳(きちやう)の陰(かげ)に臥沈(ふししづ)ませ給へば、此(こ)の馬道(めだう)、彼(かし)この局(つぼね)には、声もつゝまず泣(なき)悲(かなし)む。御車(おんくるま)を暁(あかつき)の月に輾(きしつ)て、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(くだ)りに過(すぎ)ければ、故卿の梢漸(やうやく)幽(かすか)にして、東嶺(とうれい)に響く鐘の声、明行(あけゆく)雲に横(よこた)はる。東寺までは、月卿(げつけい)雲客(うんかく)数(あま)た被供奉たりけれ共(ども)、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条(さんでうの)中将(ちゆうじやう)実音(さねとし)・典薬頭(てんやくのかみ)篤直計(あつなほばかり)を召具(めしぐ)せられて、見馴(みなれ)ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成(なり)たれば、夜は早若々(ほのぼの)と明(あけ)はてぬ。此(ここ)に御車(おんくるま)を駐(とどめ)て、怪(あや)しげなる網代輿(あじろこし)に召替(かへ)させ進(まゐ)らせ、日を経て吉野の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所へ御幸成し奉る。
此(この)辺の民共が吾(わが)君とて仰(あふぎ)奉る吉野の帝の皇居(くわうきよ)だにも、黒木の柱、竹椽(たけたるき)、囲(かこ)ふ垣(かき)ほのしばしだにも栖(すま)れぬべくもなき宿(やど)り也(なり)。況(いはんや)敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居(すまゐ)なれば、年経(へ)て頽(くづれ)ける庵室(あんじつ)の、軒を受(うけ)たる杉の板屋(いたやの)、目もあはぬ夜の寥(さび)しさを事問(とふ)雨の音までも御袖(おんそで)を湿(ぬら)す便りなり。衆籟(しゆらい)暁(あかつき)寒(さむう)して月庭前(ていぜん)の松に懸り、群猿(ぐんえん)暮に叫(さけん)で風洞庭(とうてい)の雲を送る。外(よそ)にて聞(きき)し住憂(すみう)さは数にもあらぬ深山(みやま)哉と、主上(しゆしやう)・上皇いつとなく被仰出度(た)び毎(ごと)に御泪の乾(かは)く隙(ひま)もなし。梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は此(この)時(とき)天台(てんだいの)座主(ざす)にて坐(おは)しけるが、同(おなじ)く被召捕させ給て、金剛山(こんがうせん)の麓にぞ坐(おは)しける。
此(この)宮(みや)は本院(ほんゐん)の御弟(おとと)、慈覚(じかく)大師(だいし)の嫡流(ちやくりう)にて、三度(さんど)天台(てんだいの)座主に成(なら)せ給ひしかば、門迹(もんぜき)の富貴(ふつき)無双、御門徒(ごもんと)の群集(くんじゆ)如雲。師子(しし)・田楽(でんがく)を被召(めされ)、日夜に舞(まひ)歌はせ、茶飲み、連歌士(れんがし)を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給(たまひ)しかば、世の譏(そし)り山門の訟(うつたへ)は止(やむ)時(とき)無りしか共、御心(おんこころ)の中の楽(たのしみ)は類(たぐひ)非じと見へたりしに、今引(ひき)替(かへ)たる配所の如くなる御棲居(すまゐ)、山深く里遠くして鳥の声だにも幽(かす)かなるに、御力者(おんりきしや)一人より外(ほか)は被召(めされ)仕人もなし。
隙(ひま)あらはなる柴(しば)の庵(いほ)に袖を片敷(かたしく)苔筵(こけむしろ)、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給ふに就(つけ)けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中(よのなか)角(かく)ても遂(つひ)にはてなば三千(さんぜん)の貫頂(くわんちやう)の名を捨(すて)て混(ひたすら)桑門(さうもん)の客(かく)と成(なら)んと思食(おぼしめし)けるこそ哀なれ。天下若(もし)皇統に定て世も閑(しづか)ならば、御遁世(ごとんせい)の御有増(あらまし)も末(すゑ)通(とほ)りぬべし。若(もし)又武家強(つよう)て南方の官軍(くわんぐん)打負けば、失(うしな)ひ奉る事も何様(いかさま)有(あり)ぬべしと思召(おぼしめし)つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭(このまま)にて、頓(やが)てもさらば静まれかしと、還(かへつ)て御祈念(きねん)も深かりけり。 
 
太平記 巻第三十一

 

新田起義兵事(こと)
吉野殿(よしのどの)武家に御合体(ごがつてい)有(あり)つる程こそ、都鄙(とひ)暫(しばら)く静(しづか)也(なり)つれ。御合体(ごがつてい)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、合戦に及(および)し後、畿内(きない)・洛中(らくちゆう)は僅(わずか)に王化に随(したがふ)といへ共、四夷八蛮(しいはちばん)は猶(なほ)武威に属(しよく)する者多かりけり。依之(これによつて)諸国七道の兵彼(かれ)を討ち是(これ)を従へんと互(たがひ)に威を立(たつ)る間、合戦の止(やむ)時(とき)もなし。已(すでに)闘諍堅固(とうじやうけんご)に成(なり)ぬれば、是(これ)ならずとも静(しづか)なるまじき理(ことわり)也(なり)。元弘建武の後より、天下久(ひさし)く乱(みだれ)て、一日も未(いまだ)不治。心あるも心無(こころなき)も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家(かくれが)を求(もとめ)ぬ方もなけれど、何(いづ)くも同じ憂世(うきよ)なれば、厳子陵(げんしりよう)が釣台(てうだい)も脚(あし)を伸(のぶ)るに水冷(すさまじ)く、鄭大尉(ていたいゐ)が幽栖(いうせい)も薪(たきぎ)を担(にな)ふに山嶮(けは)し。
如何なる一業所感(いちごふしよかん)にか、斯(かか)る乱世に生(うま)れ逢(あう)て、或(あるひ)は餓鬼道(がきだう)の苦を乍生受(うけ)、或(あるひ)は脩羅道(しゆらだう)の奴(やつこ)と不死前(さき)に成(なり)ぬらんと、歎かぬ人は無(なか)りけり。此(この)時(とき)、故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・三男(さんなん)少将(せうしやう)義宗(よしむね)・従父兄弟(いとこ)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)三人(さんにん)、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所(ざいしよ)を定めず身を蔵(かくし)て、時を得ば義兵(ぎへい)を起さんと企(くはた)て居たりける処へ、吉野殿(よしのどの)未(いまだ)住吉(すみよし)に御坐有(あり)し時、由良(ゆら)新左衛入道信阿(しんあ)を勅使(ちよくし)にて、「南方と義詮と御合体(ごがつてい)の事は暫時(ざんじ)の智謀也(なり)と聞ゆる処也(なり)。
仍(すなはち)節(せつ)に迷ひ時を過すべからず。早(はやく)義兵を起(おこし)て、将軍を追討(つゐたう)し、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人(さんにん)の人々に逢(あう)て事の子細を相触(あひふれ)ける間、さらば軈(やが)て勢(せい)を相催(あひもよほ)せとて、廻文(くわいぶん)を以て東(とう)八箇国(はちかこく)を触廻(ふれまは)るに、同心の族(やから)八百人(はつぴやくにん)に及べり。中にも石堂(いしたう)四郎入道は、近年高倉殿(たかくらどの)に属(しよく)して、薩山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、無甲斐命計(ばかり)を被助、鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、大将に憑(たのみ)たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀(あはれ)謀反(むほん)を起す人のあれかし、与力(よりき)せんと思ひける処に、新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)・同少将の許(もと)より内状を通(つう)じて、事の由(よし)を知(しら)せたりければ、流れに棹(さをさす)と悦(よろこび)て、軈(やが)て同心してけり。
又三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしなの)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)二郎・小俣(をまた)宮内少輔(せう)も高倉殿(たかくらどの)方(がた)にて、薩山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞(きく)処、口惜(くちをし)き者哉、哀(あはれ)謀反を起さばやと思(おもひ)ける処に、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の方より、憑(たの)み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸(さいはひ)哉と悦(よろこび)て、則(すなはち)与力(よりき)して、此(この)人々密(ひそか)に扇谷(あふぎのやつ)に寄合て評定(ひやうぢやう)しけるは、「新田の人々旗を挙(あげ)て上野(かうづけの)国(くに)に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定(さだめ)て鎌倉(かまくら)にてはよも待(まち)給はじ、関戸(せきと)・入間河(いるまがは)の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等(われら)五六人が勢何(な)にと無(なく)とも、三千騎(さんぜんぎ)はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態(わざ)と馬廻(うままは)りに扣(ひかへ)て、合戦已(すで)に半ばならんずる最中(さいちゆう)、将軍を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)奉り、一人も不残打取(うちとつ)て後に御陣へは参(まゐり)候べし。」と、新田の人々の方へ相図(あひづ)を堅く定(さだめ)て、石堂入道・三浦介・小俣(をまた)・葦名は、はたらかで鎌倉(かまくら)にこそ居たりけれ。
諸方の相図(あひづ)事定りければ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義治(よしはる)、閏(うるふ)二月八日、先(まづ)手勢八百(はつぴやく)余騎(よき)にて、西上野に打出らる。是(これ)を聞て国々より馳参(はせまゐり)ける当家他門の人々、先(まづ)一族(いちぞく)には、江田(えだ)・大館(おほたち)・堀口・篠塚(しのづか)・羽河(はねかは)・岩松(いはまつ)・田中・青竜寺(しやうりゆうじ)・小幡(をはた)・大井田(おほゐた)・一井(いちのゐ)・世良田(せらた)・篭沢(こもりざは)、外様(とざま)には宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)三郎・天野(あまの)民部大輔(たいふ)政貞・三浦近江守・南木(なんぼく)十郎・西木(さいぼく)七郎(しちらう)・酒勾(さかわ)左衛門・小畑左衛門・中金(なかかね)・
松田・河村(かはむら)・大森・葛山(かつらやま)・勝代(かつしろ)・蓮沼(はすぬま)・小磯(こいそ)・大磯・酒間(さかま)・山下(やまもと)・鎌倉(かまくら)・玉縄(たまなは)・梶原(かぢはら)・四宮(しのみや)・三宮(さんのみや)・南西(なんさい)・高田・中村、児玉党(こだまたう)には浅羽(あさば)・四方田(よもだ)・庄(しやう)・桜井・若児玉(わかこだま)、丹(たん)の党には安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・舎弟(しやてい)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・加治(かぢ)豊後(ぶんごの)守(かみ)・同丹内左衛門(たんないさゑもん)・勅使河原(てしがはらの)丹七郎(たんしちらう)・西党(さいたう)・東党(とうたう)・熊谷(くまがや)・太田・平山・私市(きさいち)・村山・横山・猪俣(ゐのまた)党、都合其(その)勢十万(じふまん)余騎(よき)、所々に火を懸(かけ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越る。
依之(これによつて)武蔵・上野より早馬を打て鎌倉(かまくら)へ急を告(つぐ)る事、櫛の歯を引(ひく)が如し。「さて敵の勢(せい)は何程(いかほど)有(ある)ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎(にじふまんぎ)には劣(おとり)候はじ。」とぞ答(こたへ)ける。仁木・細川の人々是(これ)を聞て、「さてはゆゝしき大事(だいじ)ごさんなれ。鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢、千騎(せんぎ)にまさらじと覚(おぼゆる)也(なり)。国々の軍勢(ぐんぜい)は縦(たとひ)参る共、今の用には難立。千騎(せんぎ)に足らぬ御勢(おんせい)を以て、敵の二十万騎(にじふまんぎ)を防(ふせが)ん事は、可叶共覚(おぼえ)候はず。只先(まづ)安房(あは)・上総(かづさ)へ開(ひらか)せ給て、御勢(おんせい)を付(つけ)て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞(きき)給て、「軍の習(ならひ)、落(おち)て後(のち)利ある事千に一の事也(なり)。
勢を催(もよほ)さん為に、安房・上総へ落(おち)なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共(ものども)は、縦(たとひ)尊氏に志有(あり)共(とも)、敵に隔(へだて)られて御方(みかた)に成(なる)事あるべからず。又尊氏鎌倉(かまくら)を落(おち)たりと聞かば、諸国に敵に成(なる)者多かるべし。今度に於ては、縦(たとひ)少勢なりとも、鎌倉(かまくら)を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如(しか)じ。」とて、十六日(じふろくにち)の早旦に、将軍僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、敵の行合(ゆきあは)んずる所までと、武蔵(むさしの)国(くに)へ下り給ふ。鎌倉(かまくら)より追著(おつつき)奉る人々には、畠山上野(かうづけ)・子息伊豆(いづの)守(かみ)・畠山左京(さきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)・舎弟(しやてい)大夫(たいふの)将監(しやうげん)・其(その)次式部(しきぶの)大夫(たいふ)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)・
舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)・岩松(いはまつ)式部(しきぶの)大夫(たいふ)・大島讃岐守(さぬきのかみ)・石堂左馬(さまの)頭(かみ)・今河五郎入道・同式部(しきぶの)大夫(たいふ)・田中三郎・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・同土佐(とさの)修理(しゆりの)亮(すけ)・太平(おほひら)安芸(あきの)守(かみ)・同出羽(ではの)守(かみ)・宇津木平三・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)・山城(やましろの)判官(はうぐわん)・曾我兵庫(ひやうごの)助(すけ)・梶原弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・饗庭命鶴(あいばみやうづる)・和田筑前(ちくぜんの)守(かみ)・長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・同備前(びぜんの)守(かみ)・同治部(ぢぶの)少輔(せう)・子息右近(うこんの)将監(しやうげん)等(ら)也(なり)。元より隠謀有(あり)しかば、石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)・小俣(をまた)少輔(せう)次郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)次郎、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)は、他勢を不交、将軍の御馬(おんむま)の前後に透間(すきま)もなくぞ打たりける。
久米河(くめがは)に一日逗留(とうりう)し給へば、河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・同唐戸(からと)十郎左衛門・江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・高坂(かうさか)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同掃部(かもんの)助(すけ)・豊島(としま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・同肥後(ひごの)守(かみ)・土肥(とひ)次郎兵衛入道(ひやうゑにふだう)・子息掃部助(かもんのすけ)・舎弟(しやてい)甲斐(かひの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・二宮(にのみや)但馬(たぢまの)守(かみ)・同伊豆(いづの)守(かみ)・同近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・曾我(そが)周防(すはうの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・
渋谷木工左衛門(もくざゑもん)・同石見(いはみの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・子息信濃(しなのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・小早河(こばやかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・豊田(とよた)因幡(いなばの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・那須(なす)遠江守(とほたふみのかみ)・本間(ほんま)四郎左衛門(しらうざゑもん)・鹿島(かしま)越前守(ゑちぜんのかみ)・島田備前(びぜんの)守(かみ)・浄法寺(じやうほふじ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・白塩(しらしほ)下総(しもふさの)守(かみ)・高山越前守(ゑちぜんのかみ)・小林右馬助(うまのすけ)・瓦葺(かはらふき)出雲(いづもの)守(かみ)・見田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・古尾谷(ふるをや)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・長峯(ながみね)石見(いはみの)守(かみ)・都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の陣へ馳(はせ)参る。
已(すで)に明日矢合(やあはせ)と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦(みうらの)介(すけ)を呼(よび)のけて宣ひけるは、「合戦已(すで)に明日と定められたり。此(この)間相謀(あひはかり)つる事を、子息にて候右馬(うまの)頭(かみ)に、曾(かつ)て知(しら)せ候はぬ間、此(この)者一定(いちぢやう)一人残(のこり)止(とどまつ)て、将軍に討(うた)れ進(まゐら)せつと覚(おぼえ)候。一家(いつけ)の中を引分て、義卒(ぎそつ)に与(くみ)し、老年の頭(かうべ)に胄(かぶと)を戴(いただ)くも、若(もし)望み達せば、後栄(こうえい)を子孫に残さんと存ずる故(ゆゑ)也(なり)。されば此(この)事を告(つげ)知(しら)せて、心得(こころえ)させばやと存ずるは如何(いか)が候べき。」と問(とひ)給ひければ、三浦、「げにも是(これ)程の事を告進(つげまゐら)せられざらんは、可有後悔覚(おぼえ)候。急(いそぎ)知(しら)せ進(まゐ)らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬(うまの)頭(かみ)を呼(よび)て、「我薩山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、今降人(かうにん)の如くなれば、仁木・細川等に押(おし)すへられて、人数ならぬ有様御辺も定(さだめ)て遺恨(ゐこん)にぞ思(おもふ)らん。
明日の合戦に、三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)の人々と引合て、合戦の最中(さいちゆう)将軍(しやうぐん)を討(うち)奉り、家運(かうん)を一戦(いつせん)の間に開(ひら)かんと思(おもふ)也(なり)。相構(あひかまへ)て其旨(そのむね)を心得(こころえ)て、我(わが)旗の趣(おもむく)に可被順。」と云(いは)れければ、右馬(うまの)頭(かみ)大に気色(きしよく)を損(そん)じて、「弓矢の道弐(ふたごこ)ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑(たのま)れ進(まゐら)せたる身にて候へば、後矢(うしろや)射て名を後代(こうだい)に失はんとは、えこそ申(まうす)まじけれ。
兄弟父子の合戦古(いにしへ)より今に至(いたる)まで無き事にて候はず。何様三浦(みうらの)介(すけ)・葦名判官、隠謀(いんぼう)の事を将軍に告(つげ)申さずは大なる不忠なるべし。父子(ふしの)恩義已(すで)に絶(たえ)候(さうらひ)ぬる上は、今生(こんじやう)の見参(げんざん)は是(これ)を限りと思召(おぼしめし)候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興(きよう)を醒(さま)して、急ぎ三浦が許(もと)に行(ゆき)て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候(さうらひ)けり。
此(この)事右馬(うまの)頭(かみ)に不知、敵の中に残(のこり)て討(うた)れもやせんずらんと思ふ悲(かなし)さに、告知(つげしら)せて候へば、以外(もつてのほか)に気色(きしよく)を損じて、此(この)事将軍に告(つげ)申さでは叶(かなふ)まじきとて、帰(かへり)候(さうらひ)つるは如何(いかに)。此(この)者が気色、よも告(つげ)申さぬ事は候はじ、如何様(いかさま)軈(やが)て討手を向(むけ)られんと覚(おぼえ)候。いざゝせ給へ。今夜(こんや)我等(われら)が勢(せい)を引分(ひきわけ)て、関戸(せきと)より武蔵野へ回(まはつ)て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致(いたし)候はん。」と宣ひければ、多日(たじつ)の謀(はかりこと)忽(たちまち)に顕(あらは)れて、却(かへつ)て身の禍(わざはひ)に成(なり)ぬと恐怖(きようふ)して、三浦・葦名・二階堂(にかいだう)手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を引分(ひきわけ)、寄手(よせて)の勢(せい)に加(くはは)らんと関戸を廻(まはつ)て落行(おちてゆく)。是(これ)ぞはや将軍の御運尽(つき)ざる所なれ。  
武蔵野合戦(かつせんの)事(こと)
三浦が相図(あひづ)相違したるをば、新田武蔵守(むさしのかみ)夢にも不知、時刻よく成(なり)ぬと急ぎ、明れば閏(うるふ)二月二十日の辰(たつの)刻(こく)に、武蔵野の小手差原(こてさしはら)へ打臨(うちのぞ)み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗五万(ごまん)余騎(よき)、白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・頭黒(かしらくろ)、打輪(うちわ)の旗は児玉党、坂東(ばんどうの)八平氏(はちへいじ)・赤印(あかじるし)一揆(いつき)を五手(いつて)に引分て、五所(いつところ)に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)を大将にて、其(その)勢都合二万(にまん)余騎(よき)、かたばみ・鷹の羽・一文字(いちもんじ)・十五夜の月弓(つきゆみ)一揆(いつき)、引ては一(ひと)りも帰(かへら)じと是(これ)も五手に一揆(いつき)して四方(しはう)六里に引(ひか)へたり。
一方には脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を大将にて、二万(にまん)余騎(よき)、大旗・小旗・下濃(すそご)の旗、鍬形(くはがた)一揆(いつき)・母衣(ほろ)一揆(いつき)、是(これ)も五箇所(ごかしよ)に陣を張り、射手(いて)をば左右に進ませて懸手(かけて)は後(うしろ)に控(ひか)へたり。敵小手差原(こてさしばら)にありと聞(きこ)へければ、将軍十万(じふまん)余騎(よき)を五手に分て、中道(なかみち)よりぞ寄(よせ)られける。先陣は平一揆(たひらいつき)三万(さんまん)余騎(よき)、小手(こて)の袋・四幅袴(よのはかま)・笠符(かさじるし)に至るまで一色(いつしき)に皆赤かりければ、殊更耀(かかやい)てぞ見へたりける。二陣には白旗一揆(しらはたいつき)二万(にまん)余騎(よき)、白葦毛(しろあしげ)・白瓦毛(しろかはらけ)・白佐馬(しろさめ)・毛(つきげ)なる馬に乗て、練貫(ねりぬき)の笠符に白旌(しらはた)を差(さし)たりけるが、敵にも白旌有(あり)と聞て俄(にはか)に短(みじか)くぞ切たりける。
三陣には花一揆(はないつき)、命鶴(みやうづる)を大将として六千(ろくせん)余騎(よき)、萌黄(もよぎ)・火威(ひをどし)・紫糸(むらさきいと)・卯(う)の花の妻取(つまどつ)たる鎧に薄紅(うすくれなゐ)の笠符をつけ、梅花一枝(ひとえだ)折て甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に差たれば、四方(よも)の嵐の吹(ふく)度(たび)に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆(いつき)とて三万(さんまん)余騎(よき)、二引両(ふたつひきりやう)の旌(はた)の下(もと)に将軍を守護(しゆご)し奉て、御内(みうち)の長者・国大名、閑(しづか)に馬を引(ひか)へたり。五陣は仁木左京大夫頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)義氏、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、笠符をも不著、旌をも不差、遥(はるか)の外(よそ)に引のけて、馬より下(おり)てぞ居たりける。是(これ)は両方大勢の合戦なれば、十度(じふど)二十度(にじふど)懸合々々戦(たたかは)んに、敵も御方も気を屈(くつ)し、力疲れぬ事不可有。其(その)時(とき)荒手(あらて)に代(かは)りて、敵の大将の引(ひか)へたらんずる所を見澄(みすま)して、夜討せんが為也(なり)けり。
去(さる)程(ほど)に新田・足利両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)二十万騎(にじふまんぎ)、小手差原に打臨(うちのぞん)で、敵三声(みこゑ)時(とき)を作れば御方(みかた)も三度(さんど)時(とき)の声を合(あは)す。上は三十三天(さんじふさんてん)までも響き、下は金輪際迄(こんりんざいまで)も聞ゆらんと震(おびたた)し。先(まづ)一番に新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、平一揆(たひらいつき)が三万(さんまん)余騎(よき)と懸合(かけあはせ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ合(あう)つ分(わか)れつ、半時計(はんじばかり)相戦て、左右へ颯(さつ)と引除(ひきのき)たれば、両方に討(うた)るゝ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者は未(いまだ)計(かぞふ)るに不遑。二番に脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、白旗一揆(しらはたいつき)が二万七千(にまんしちせん)余騎(よき)と、東西より相懸(あひがか)りに懸て、一所に颯(さつ)と入乱(いりみだ)れ、火を散(ちら)して戦ふに、汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音、太刀の鐔音(つばおと)、天に光り地に響(ひび)く。
或(あるひ)は引組(ひつくん)で頚(くび)を取(とる)もあり被取もあり、或(あるひ)は弓手妻手(ゆんでめて)に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄(ばてい)に被蹴懸紅葉(もみぢ)に酒(そそ)く雨の如く、尸(かばね)は野径(やけい)に横(よこたはつ)て尺寸(せきすん)の地も不余さ。追靡(おひなび)け懸立(かけたて)られ、七八度(しちはちど)が程戦て東西へ颯(さつ)と別れたれば、敵御方(みかた)に討るゝ者又五百人(ごひやくにん)に及べり。三番に饗庭(あいば)の命鶴(みやうづる)生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、容貌(ようばう)当代無双(ぶさう)の児(ちご)なるが、今日花一揆(はないつき)の大将なれば、殊更(ことさら)花を折て出立(いでたち)、花一揆(はないつき)六千(ろくせん)余騎(よき)が真前(まつさき)に懸出たり。
新田武蔵守(むさしのかみ)是(これ)を見て、「花一揆(はないつき)を散(ちら)さん為に児玉党を向はせ、打輪(うちわ)の旗は風を含(ふく)める物也(なり)。」とて、児玉党七千(しちせん)余騎(よき)を差向(さしむけ)らる。花一揆(はないつき)皆若武者(わかむしや)なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦(ひとたたかひ)々(たたかふ)とぞ見(み)へし。児玉党七千(しちせん)余騎(よき)に被揉立、一返(ひとかへし)も返(かへ)さずはつと引(ひく)。自余(じよ)の一揆(いつき)は、かくる時は一手(ひとて)に成(なつ)て懸り、引(ひく)時(とき)は左右へ颯と別れて、荒手(あらて)を入替(いれかへ)さすればこそ、後陣(ごぢん)は騒(さわ)がで懸違(かけちがひ)たれ。是(これ)其軍立(そのいくさだち)無甲斐、将軍の後(うしろ)に引(ひか)へておはする陣の中へ、こぼれ落て引(ひく)間(あひだ)、荒手(あらて)は是(これ)に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時(かちどき)を作懸々々(つくりかけつくりかけ)、責付(せめつけ)て追懸(かく)る。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、些(すこし)引退(ひきしりぞい)て一度(いちど)に返せと云(いふ)程こそ有(あり)けれ、将軍の十万(じふまん)余騎(よき)、混引(ひたひき)に引立て、曾(かつ)て後(うしろ)を不顧。新田武蔵(むさしの)守(かみ)義宗、旗より先に進(すすん)で、「天下の為には朝敵(てうてき)也(なり)。
我為(わがため)には親の敵也(なり)。只今(ただいま)尊氏(たかうぢが)頚を取て、軍門に不曝、何(いつ)の時をか可期。」とて、自余(じよ)の敵共(てきども)の南北へ分れて引(ひく)をば少(すこし)も目に懸(かけ)ず、只二引両(ふたつびきりやう)の大旗の引くに付て、何(いづ)くまでもと追蒐(おつかけ)給ふ。引(ひく)も策(むち)を挙げ、追(おふ)も逸足(いちあし)を出せば、小手差原より石浜(いしはま)まで坂東道(ばんどうみち)已(すでに)四十六里を片時(へんし)が間(ま)にぞ追付たる。将軍石浜を打渡(わたり)給ひける時は、已(すで)に腹を切(きら)んとて、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)切て投捨(なげす)て高紐(たかひぼ)を放(はな)さんとし給ひけるを、近習(きんじふ)の侍共(さぶらひども)二十(にじふ)余騎(よき)返(かへし)合(あはせ)て、追蒐(おつかく)る敵の河中まで渡懸(わたしかけ)たると、引組々々(ひつくみひつくみ)討死しける其(その)間に、将軍急(きふ)を遁(のが)れて向の岸にかけ上り給ふ。
落行(おちゆく)敵は三万(さんまん)余騎(よき)、追懸る敵は五百(ごひやく)余騎(よき)、河の向の岸高(たかく)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、数万騎の敵返合(かへしあは)せて、此(ここ)を先途(せんど)と支(ささへ)たり。日已(すで)に酉(とり)のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗続(つづ)ひて渡すに不及、迹(あと)より続く御方(みかた)はなし。安からぬ者哉と牙(きば)を嚼(かみ)て本陣へと引返さる。又将軍の御運(うん)のつよき所なり。新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)と脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)とは一所に成て、白旗一揆(しらはたいつき)が二三万騎(にさんまんぎ)北に分れて引(ひき)けるを、是(これ)ぞ将軍にておはすらん。
何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て討(うた)んとて、五十(ごじふ)余町(よちやう)迄(まで)追懸て行(ゆく)処に、降参の者共(ものども)が馬より下(おり)、各(おのおの)対面して色代(しきたい)しける程に、是(これ)に会尺(ゑしやくせ)んと、所々にて馬を控(ひか)へ会尺(ゑしやく)し給ひける間、軍勢(ぐんぜい)は皆北(にぐる)を追て東西へ隔(へだた)りぬ。義興と義治(よしはる)と僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)は、元来(ぐわんらい)加様(かやう)の所を伺(うかがう)て未(いまだ)一戦(いつせん)もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是(これ)を見て、「末々(すゑずゑ)の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何(なに)かせん。あはれ幸(さいはひ)や、天の与へたる所哉(かな)。」と悦(よろこび)て、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、只一手(ひとて)に成て押寄たり。
敵小勢なれば、定(さだめ)て鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、取篭(とりこめ)んずらんと推量して、義興・義治(よしはる)魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)て、轡(くつばみ)をならべて、敵の中を破(わら)んと見繕(みつくろ)ふ処に、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)是(これ)を屹(きつ)と見て、「敵の馬の立様(たてやう)・軍立(いくさだち)、尋常(よのつね)の葉武者に非(あら)ず。小勢なればとて、侮(あなど)りて中を破(わ)らるな。一所に馬を打寄て、敵懸(かか)る共懸合(かけあは)すな。前後に常に目を賦(くばつ)て、大将と覚(おぼ)しき敵あらば組(くん)で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽(つく)させて御方(みかた)少(すこし)も不漂、無勢(ぶせい)に多勢不勝や。」と、委細(ゐさい)に手立(てだて)を成敗(せいばい)して一処に勢をぞ囲(かこみ)たる。
案に不違義興・義治(よしはる)、目の前に引(ひか)へて欺(あざむ)く敵に怺(こら)へ兼(かね)て、三百(さんびやく)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、敵の真中(まんなか)を懸破(かけわり)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたて)んと喚(をめい)て懸りけれ共(ども)、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)些(すこし)も不轟。「真中(まんなか)を破(わ)らるな。敵に気を尽(つく)させよ。」と下知して、弥(いよいよ)馬を立寄(たちよせ)、透間(すきま)もなく引(ひか)へたれば、面(おもて)にある兵計(ばかり)互(たがひ)に討(うた)れて颯(さつ)と引(ひき)けれ共(ども)、追ても更に不懸、裏へ通(とほ)りて戦へども、面は些(すこし)も不騒、東へ廻(まは)れ共西は閑(しづか)なり。
北へ廻れ共南は曾(かつて)不轟。懸寄(かけよす)れば打違(うちちがひ)、組(くん)で落れば落重(おちかさな)る。千度百度(ちたびももたび)懸(かく)れ共(ども)、強陣(がうぢん)勢堅くして大将退(しりぞ)く事無(なけ)れば、義興・義治(よしはる)気疲れて東を差(さし)て落て行(ゆく)。二十(にじふ)余町(よちやう)落延(おちのび)て、誰々(たれたれ)討(うた)れたると計(はか)るに、三百(さんびやく)余騎(よき)有(あり)つる兵共(つはものども)、百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて二百(にひやく)余騎(よき)ぞ残りける。義興甲(かぶと)の錣(しころ)・袖の三(さん)の板切落されて、小手の余(あま)り・臑当(すねあて)のはづれに、薄手(うすで)三所負(お)ひたり。義治(よしはる)は太刀かけ・草摺(くさずり)の横縫(よこぬひ)、皆突切(つきき)れて威毛計(をどしげばかり)続(つづき)たるに、鍬形(くわかた)両方被切折、星も少々削(けづ)られたり。
太刀は鐔本(つばもと)より打折(うちをれ)ぬ。中間(ちゆうげん)に持(もた)せたる長刀を持(もた)れけるが、峯はさゝらの子(こ)の如く被切て、刃(やいば)は鋸(のこぎり)の様にぞ折(をれ)たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下(おり)て乗替(のりがへ)にのり給へば、倒れて軈(やが)て死にけり。両大将如此、自(みづから)戦て疵(きず)を被(かうむ)る上は其已下(そのいげ)の兵共(つはものども)痛手(いたで)を負(おひ)、切疵(きりきず)の二三箇所(にさんかしよ)負(おは)ぬ者は希(まれ)也(なり)。新田武蔵守(むさしのかみ)、将軍をば打漏しぬ。今日は日已(すで)に暮(くれ)ぬれば、勢を集(あつめ)て明日石浜へ寄(よせ)んとて小手差原へ打帰る。「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)何(いづ)くにか引(ひか)へ給(たまひ)ぬる。」と行合ふ兵共(つはものども)に問(とひ)給へば、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)と脇屋殿(わきやどの)とは、一所に引(ひかへ)て御渡(おんわた)り候つるが、仁木殿に打負(うちまけ)て、東の方へ落させ給(たまひ)候つる也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。
さて爰(ここ)に見へたる篝(かがり)は、敵歟(か)御方(みかた)かと問(とひ)給へば、「此(この)辺に御方は一騎(いつき)も候まじ。是(これ)は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆(しらはたいつき)の者共(ものども)が、焼(たい)たる篝(かがり)にてぞ候覧(らん)。小勢にて此(この)辺に御坐(おはしまし)候はん事は如何(いかが)と覚候へば、夜に紛(まぎれ)て急ぎ笛吹峠(うすひのたうげ)の方へ打越させ給(たまひ)候(さふらひ)て、越後・信濃(しなのの)勢を待調(まちそろ)へられ候(さふらひ)て、重(かさね)て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守(むさしのかみ)暫(しばらく)思案して、「げにも此(この)義然(しかる)べし。」とて、「笛吹峠(うすひのたうげ)は何(いづ)くぞ。」と、問々(とひとひ)夜中に落給ふ。  
鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと)
新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)二人(ににん)は、纔(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)に被打成、武蔵守(むさしのかみ)に離れぬ、御方(みかた)の勢共(せいども)は何地(いづち)へか引(ひき)ぬらん。浪にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、皆馬より下居(おりゐ)て休まれけるが、「此(この)勢にては上野(かうづけ)へも帰り得まじ。落て可行方(かた)もなし。可打死命なれば、鎌倉(かまくら)へ打入て、足利左馬(さまの)頭(かみ)に逢(あう)て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此(この)義に同(どう)じて、混(ひたす)ら討死せんと志(こころざ)し、思々(おもひおもひ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、鎌倉(かまくら)へとぞ趣(おもむか)れける。
夜半過(すぐる)程(ほど)に関戸(せきと)を過(すぎ)給(たまひ)けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚(おぼえ)て、西を指(さし)て下(くだ)る勢に行合給て、是(これ)は搦手(からめて)に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉(かまくら)までも不行著して、関戸にてぞ、尸(かばね)をば可曝にて有(あり)けりと、面々(めんめん)に思(おもひ)定(さだめ)て一処に馬を懸寄(かけよ)せ、「是(これ)は誰殿(たれどの)の勢(せい)にて御渡(おんわたり)候ぞ。」と問(とは)れければ、「是(これ)は石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)、新田殿(につたどの)へ御参(おんまゐり)候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。義興・義治(よしはる)手を拍(うつ)て、こはいかにと悦(よろこび)給ふ事無限。只魯陽(ろやう)が朽骨(きうこつ)二(ふた)たび連(つらなつ)て韓搆(かんこう)と戦を致(いたせ)し時、日を三舎(さんしや)に返しゝ悦(よろこび)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ覚(おぼえ)ける。
軈(やが)て此(この)勢と打連(うちつ)れて、神奈河(かみながは)に著て鎌倉(かまくら)の様を問(とひ)給へば、「鎌倉(かまくら)には将軍の御子息(ごしそく)左馬(さまの)頭(かみ)基氏を警固(けいご)し奉て、南(みなみ)遠江守(とほたふみのかみ)、安房・上総の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、けはひ坂・巨福呂(こふくろ)坂を切塞(きりふさい)で用心(ようじん)密(きびし)く見へ候(さうらひ)しが、昨日の朝(あした)敵三浦に有(あり)と聞て、打散(うちちら)さんとて向はれ候(さうらひ)しか共、虚言(そらごと)にて有(あり)けりとて、只今(ただいま)鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへらせ)給(たまひ)て候よ。」とぞ語りける。
「さては只今(ただいま)の合戦ごさんなれ、爰(ここ)にて軍の用意(ようい)をせよ。」とて、兵粮(ひやうらう)を仕(つか)ひ馬に糟(ぬか)かはせて、三千(さんぜん)余騎(よき)二手(ふたて)に分て、鶴岳(つるがをか)へ旗指(はたさし)少々差遣(さしつかはし)て大御堂(おほみだう)の上より真下(まつくだり)にぞ押寄(おしよせ)たる。鎌倉勢(かまくらぜい)は只今(ただいま)三浦より打帰て、未(いまだ)馬の鞍をもをろさず鎧の上帯(うはおび)をも解(とか)ぬ程なれば、若宮小路(わかみやこうぢ)へ打出て、只一所に引(ひか)へたり。
小俣(をまた)小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝(すぐつ)て、敵の村立(むらだつ)て引(ひか)へたる中へつと懸入(かけいり)、火を散(ちらし)て切乱(きりみだ)す。三浦・葦名(あしな)・二階堂(にかいだう)の兵共(つはものども)、案内は知たり、人馬は未疲(いまだつかれず)、此谷彼(ここのやつかしこ)の小路(こうぢ)より、どつと喚(をめい)ては懸入り、颯(さつ)と懸破(かけわつ)ては裏へ抜(ぬけ)、谷々(やつやつ)小路々々に入乱(いりみだれ)てぞ戦(たたかひ)たる。
兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、浜面(はまおもて)の在家(ざいけ)のはづれにて、敵三騎切て落(おと)し、大勢の中をつと懸抜(かけぬけ)ける処にて、小手の手覆(たおほひ)を切(きり)ながさるゝ太刀にてゝ手綱(たづな)のまがりをづんと切(きら)れて、弓手(ゆんで)の片手綱(かたたづな)土にさがり馬の足に蹈(ふま)れけるを、太刀をば左の脇に挟(はさ)み、鐙(あぶみ)の鼻に落(おち)さがり、左右の手縄(たづな)を取合(とりあはせ)て結(むすば)れけるを、敵三騎能(よき)隙(ひま)哉と馳寄(はせよせ)て、胄(かぶと)の鉢(はち)と総角著(あげまきつけ)とを三打(みうち)四打(ようち)したゝかに切けれ共(ども)、義興些(すこし)も不騒、閑(しづか)に手綱(たづな)を結て鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。」と、高声(かうじやう)に二声(ふたこゑ)三声(みこゑ)感じて御方の勢にぞ馳著(はせつき)たる。
塔辻(たふのつじ)の合戦難義也(なり)と見へければ、脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)と、小俣(をまた)小輔二郎と一手(ひとて)に成て、二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめ)ひて懸られけるに、南遠江守(とほたふみのかみ)被懸立て、旗を巻(まい)て引退くを見て、谷谷(やつやつ)に戦(たたかひ)ける兵共(つはものども)、十方へ落散(おちちり)ける間、一所に打寄(うちよる)事不叶して、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)思々(おもひおもひ)に落て行(ゆく)。され共三浦・石堂が兵共(つはものども)、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守(とほたふみのかみ)は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜(いしはま)を差(さし)て被落けり。新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、二月十三日(じふさんにち)の鎌倉(かまくら)の軍に打勝てこそ、会稽(くわいけい)の恥を雪(きよむ)るのみに非(あら)ず、両大将と仰(あふ)がれて、暫(しばら)く八箇国(はちかこく)の成敗に被居けり。  
笛吹峠(うすひのたうげ)軍(いくさの)事(こと)
新田武蔵守(むさしのかみ)は、将軍の御運に退緩(たいくわん)して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵(むさしの)国(くに)を前になし、越後・信濃を後(うしろ)に当て、笛吹(うすひの)峠に陣を取てぞおはしける。
是(これ)を聞て打よる人々には、大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・中条(ちゆうでう)入道・子息佐渡(さどの)守(かみ)・田中修理(しゆりの)亮(すけ)・堀口近江(あふみの)守(かみ)・羽河(はねかは)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・荻野(をぎの)遠江守(とほたふみのかみ)・酒勾(さかわ)左衛門四郎・屋沢(やざわ)八郎(はちらう)・風間(かざま)信濃(しなのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)村岡(むらをか)三郎・堀兵庫(ひやうごの)助(すけ)・蒲屋(かまや)美濃(みのの)守(かみ)・長尾右衛門(うゑもん)・舎弟(しやてい)弾正忠(だんじやうのちゆう)・仁科(にしな)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・高梨(たかなし)越前守(ゑちぜんのかみ)・大田滝口(たきぐち)・干屋(ほしや)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・矢倉(やくら)三郎・藤崎(ふぢさき)四郎・瓶尻(みかじり)十郎・五十嵐文四(いがらしぶんし)・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野(しげの)八郎(はちらう)・禰津(ねづ)小二郎・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・神家(じんけの)一族(いちぞく)三十三人(さんじふさんにん)・繁野(しげのの)一族(いちぞく)二十一人、都合其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、先朝第二(だいにの)宮(みや)上野(かうづけの)親王(しんわう)を大将にて、笛吹(うすひの)峠へ打出る。
将軍小手差原(こてさしはら)の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参(はせまゐら)れける人々には、千葉(ちばの)介(すけ)・小山(をやまの)判官(はうぐわん)・小田(をだの)少将(せうしやう)・宇都宮(うつのみや)伊予(いよの)守(かみ)・常陸大丞(ひたちのたいじやう)・佐竹右馬助(うまのすけ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・白河権(ごんの)少輔(せう)・結城(ゆふき)判官(はうぐわん)・長沼判官・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・高坂(かうさか)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・江戸(えど)・戸島(としま)・古尾谷(ふるをや)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・三田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・土肥(とひの)兵衛入道(ひやうゑにふだう)・土屋(つちや)備前(びぜんの)々司・同修理(しゆりの)亮(すけ)・
同出雲(いづもの)守(かみ)・下条小三郎・二宮(にのみや)近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同能登(のとの)守(かみ)・曾我(そが)上野(かうづけの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)・曾我三河(みかはの)守(かみ)・同周防(すはうの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同石見(いはみの)守(かみ)・石浜(いしはま)上野(かうづけの)守(かみ)・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・子息安芸(あきの)守(かみ)・同薩摩(さつまの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・小笠原・坂西(はんぜい)・一条三郎・板垣(いたがき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・逸見(へんみ)美濃(みのの)守(かみ)・白州(しらす)上野(かうづけの)守(かみ)・天野(あまの)三河(みかはの)守(かみ)・同和泉(いづみの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・長峯(ながみね)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の御陣へ馳参る。
鎌倉(かまくら)には、義興・義治(よしはる)七千(しちせん)余騎(よき)にて、著到(ちやくたう)を付(つく)ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、二万(にまん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりと聞ゆ。何(いづ)くへ可向と評定有(あり)けるが、先(まづ)勢(せい)の労(らう)せぬ前(さき)に、大敵に打勝(うちかち)なば、鎌倉(かまくら)の小勢は不戦共可退散、衆議一途(いちづ)に定(さだまり)て、将軍同(おなじき)二月二十五日石浜を立て、武蔵(むさしの)府(ふ)に著(つき)給へば、甲斐(かひの)源氏・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・武田(たけだの)上野(かうづけの)守(かみ)・同甲斐(かひの)前司(ぜんじ)・同安芸(あきの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・舎弟(しやてい)薩摩(さつまの)守(かみ)・小笠原近江(あふみの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・一条四郎・板垣(いたがき)四郎・逸見(へんみ)入道・同美濃(みのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)下野(しもつけの)守(かみ)・南部(なんぶ)常陸(ひたちの)守(かみ)・下山(しもやま)十郎左衛門、都合二千(にせん)余騎(よき)にて馳参る。
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)将軍笛吹(うすひの)峠へ押寄(おしよせ)て、敵の陣を見給へば、小松生茂(おひしげつ)て前に小河流(ながれ)たる山の南を陣に取て、峯には錦(にしき)の御旗(おんはた)を打立(うちたて)、麓には白旗・中黒・棕櫚葉(しゆろのは)・梶葉(かじのは)の文書(もんかき)たる旗共(はたども)、其(その)数満々(みちみち)たり。先(まづ)一番に荒手(あらての)案内者(あんないしや)なればとて、甲斐(かひの)源氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。新田武蔵守(むさしのかみ)と戦ふ。是(これ)も荒手(あらて)の越後勢(ゑちごぜい)、同三千(さんぜん)余騎(よき)にて相懸りに懸りて半時許(はんじばかり)戦ふに、逸見(へんみ)入道以下宗(むね)との甲斐源氏共百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて引退く。二番に千葉・宇都宮(うつのみや)・小山(をやま)・佐竹が勢(せい)相集(あひあつまり)て七千(しちせん)余騎(よき)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が陣へ押寄(おしよせ)て入乱々々(いりみだれいりみだれ)戦ふに、信濃勢二百(にひやく)余騎(よき)討(うた)れければ、寄手(よせて)も三百(さんびやく)余騎(よき)討れて相引(あひびき)に左右へ颯(さつ)と引(ひく)。
引けば両陣入替(いれかはつ)て追つ返つ、其(その)日(ひ)の午刻(むまのこく)より酉(とりの)刻(こく)の終(をはり)まで少しも休む隙(ひま)なく終日(ひねもす)戦ひ暮してけり。夫(そ)れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲(てううん)の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申(まうす)は、先(まづ)後(うしろ)に山をあて、左右に水を堺(さか)ふて敵を平野に見下(みおろ)し、我(わが)勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒(こほんらうそつ)替る/\射手(いて)を進めて戦ふ者也(なり)。此(この)陣幸(さいはひ)に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守(むさしのかみ)若武者(わかむしや)なれば、毎度広(ひろ)みに懸出て、大勢に取巻(とりまか)れける間、百度(ももたび)戦ひ千度(ちたび)懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂(つひ)に打負(うちまけ)て、笛吹(うすひの)峠へぞ引上りける。
上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が兵に、長尾弾正・根津(ねづ)小次郎とて、大力の剛(かうの)者あり。今日の合戦に打負(うちまけ)ぬる事、身一の恥辱(ちじよく)也(なり)と思(おもひ)ければ、紛(まぎ)れて敵の陣へ馳入(はせいり)、将軍を討奉らんと相謀(はかつ)て、二人(ににん)乍(なが)ら俄(にはか)に二(ふた)つ引両(びきりやう)の笠符(かさじるし)を著替(つけか)へ、人に見知(みしら)れじと長尾は乱髪(みだれがみ)を顔へ颯(さつ)と振り懸け、根津は刀を以(もつ)て己が額(ひたひ)を突切(つききり)て、血を面(おもて)に流しかけ、切て落(おと)したりつる敵の頚(くび)鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、とつ付(つけ)に取著(とりつけ)て、只(ただ)二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢(ぐんぜい)道に横(よこたはつ)て、「誰が手(て)の人ぞ。」と問(とひ)ければ、
「是(これ)は将軍の御内(みうち)の者にて候が、新田の一族(いちぞく)に、宗(むね)との人々を組討(くみうち)に討て候間、頚実検(くびじつけん)の為に、将軍の御前(おんまへ)へ参(まゐり)候也(なり)。開(あけ)て通され候へ。」と、高らかに呼(よばはり)て、気色(きしよく)ばうて打通れば、「目出(めで)たう候。」と感ずる人のみ有て、思(おもひ)とがむる人もなし。「将軍は何(いづ)くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引(ひか)へさせ給ひて候也(なり)。」と、指差(ゆびさし)て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔(あひへだ)たる事草鹿(くさじし)の的山計(あづちばかり)に成(なり)にける。「あはれ幸(さいはひ)や、たゞ一太刀(ひとたち)に切て落さんずる者を。」と、二人(ににん)屹(きつ)と目くはせして、中々馬を閑々(しづしづ)と歩ませける処に、猶(なほ)も将軍の御運や強かりけん、見知(みしる)人有て、「そこに紛(まぎれ)て近付(ちかづく)武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼(よばは)りければ、将軍に近付(ちかづき)奉らせじと、武蔵・相摸の兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)中を隔(へだ)て左右より颯(さつ)と馳寄る。
根津と長尾と、支度(したく)相違(さうゐ)しぬと思(おもひ)ければ、鋒(きつさき)に貫(つらぬ)きたる頚を抛(なげ)て、乱髪(みだれがみ)を振揚(ふりあげ)、大勢の中を破(わつ)て通る。彼等二人(ににん)が鋒(きつさき)に廻(まは)る敵、一人として甲(かぶと)の鉢(はち)を胸板(むねいた)まで真二(まつふたつ)に破著(わりつ)けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也(なり)。是等(これら)は只二騎なり、十方より矢衾(やぶすま)を作て散々に射ける間、叶はじとや思(おもひ)けん、「あはれ運強(つよ)き足利殿(あしかがどの)や。」と高らかに欺(あざむい)て、閑々(しづしづ)と本陣へぞ帰りける。夜に入(いり)ければ、両陣共に引退(ひきしりぞき)て陣々に篝(かがり)を焼(たき)たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方(しはう)五六里に及て、銀漢(ぎんかん)高くすめる夜に、星を列(つらぬ)るが如くなり。笛吹(うすひの)峠を顧(かへりみ)れば、月に消行(きえゆく)蛍火(ほたるび)の山陰(やまかげ)に残るに不異。義宗也(これ)を見給て、「終日(ひねもす)の合戦に、兵若干(そくばく)討れぬといへ共、是(これ)程まで陣の透(すく)べしとは覚(おぼえ)ぬに、篝(かがり)の数の余(あま)りにさびしく見(みゆ)るは、如何様(いかさま)勢の落行(おちゆく)と覚(おぼゆ)るぞ。道々に関を居(すゑ)よ。」とて、栽田山(うえたやま)と信濃路(しなのぢ)に、稠(きびし)く関を居(すゑ)られたり。
「夫(それ)士率将を疑ふ時は戦不利云(いふ)事あり。前には大敵勝(かつ)に乗て、後(うしろ)は御方(みかた)の国国なれば、今夜一定(いちぢやう)越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢(ぐんぜい)不可有。舟を沈(しづ)め糧(かて)を捨て、二度(ふたた)び帰(かへら)じと云(いふ)心を示すは良将の謀(はかりこと)なり。皆馬の鞍(くら)をゝろし鎧(よろひ)を脱(ぬい)で、引(ひく)まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱(ぬぎ)給へば士率悉(ことごとく)鞍をおろして馬を休む。
宵(よひ)の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許(ばかり)に続松(たいまつ)をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、篝計(かがりばかり)を焼棄(やきすて)て、信濃へ落(おち)にければ、新田武蔵守(むさしのかみ)、其(その)暁越後へ落(おち)られけり。斯(かか)りし後は、只今(ただいま)まで新田・上杉に付順(つきしたがひ)つる武蔵・上野の兵共(つはものども)も、未(いまだ)何方(いづかた)へも不著して、一合戦(ひとかつせん)の勝負を伺(うかが)ひ見つる上総・下総の者共(ものども)も、我前(さき)にと将軍へ馳参りける程に、其(その)勢無程百倍(ひやくばい)して、八十万騎(はちじふまんぎ)に成(なり)にけり。
新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)は、六千(ろくせん)余騎(よき)にて尚(なほ)鎌倉(かまくら)にをはしけるが、将軍已(すで)に笛吹(うすひの)峠の合戦に打勝て、八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して、鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)給ふ由(よし)聞へければ、義興も義治(よしはる)も、只此(ここ)にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共(ものども)、「某等(それがしら)が所領の内、相摸河の河上に究竟(くつきやう)の深山(みやま)候へば、只それへ先(まづ)引篭(ひきこも)らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃(しなの)の大将達へも被牒合候(さふらひ)て、天下の機を得、諸国の兵を集(あつめ)てこそ重(かさね)て御合戦も候はめ。」と、より/\強(しひ)て申(まうし)ければ、義興・義治(よしはる)諸共(もろとも)に、三月四日鎌倉(かまくら)を引て、石堂・小俣(をまた)・二階堂(にかいだう)・葦名判官・三浦(みうらの)介(すけ)・松田・河村・酒勾(さかわ)以下、六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、国府津山(こふづやま)の奥にぞ篭(こも)りける。  
八幡(やはた)合戦事(こと)付(つけたり)官軍(くわんぐん)夜討(ようちの)事(こと)
都には去月二十日の合戦に打負(うちまけ)て、足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)殿(どの)は近江(あふみの)国(くに)へ落させ給ひ、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)は、皆捕(とら)はれさせ給て、賀名生(あなふ)に遷幸(せんかう)成(なり)ぬ。吉野の主上(しゆしやう)は猶(なほ)世を危(あやぶみ)て、八幡に御座(ござ)あり。月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、西山・東山・吉峯(よしみね)・鞍馬の奥などに逃隠(にげかく)れてをはすれば、帝城の九禁(きうきん)いつしか虎賁猛将(こふんまうしやう)の備(そな)へもなく、朝儀(てうぎ)大礼(たいれい)の沙汰も無(なく)て、野干(やかん)の棲(すみか)と成(なり)にけり。
桓武(くわんむ)の聖代此(この)四神(ししん)相応(さうおう)の地を撰(えらん)で、東山に将軍塚(しやうぐんづか)を築(つか)れ、艮(うしとら)の方に天台山を立て、百王万代(ばんだい)の宝祚(はうそ)を修(しゆ)し置(おか)れし勝地(しようち)なれば、後五百歳(ごごひやくさい)未来永々(みらいやうやう)に至るまで、荒廃(くわうはい)非(あら)じとこそ覚(おぼえ)つるに、こはそも何(いか)に成(なり)ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は、近江の四十九院(しじふくゐん)に、はる/゛\とをはしけれ共(ども)、土岐・佐々木(ささき)が外は、相従ふ勢も無(なか)りしが、東国の合戦に、将軍勝(かち)給(たまひ)ぬと聞へて、後(うしろ)より勢の付(つき)奉る事如雲霞。さらば軈(やが)て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院(しじふくゐん)を立て、三万(さんまん)余騎(よき)先(まづ)伊祇代(いぎす)三大寺にして手を分つ。
或(あるひは)漫々(まんまん)たる湖上に、山田・矢早瀬(やばせ)の渡舟(わたしぶね)の棹(さをさ)す人もあり。或(あるひ)は渺々(べうべう)たる沙頭(しやとう)に、堅田(かただ)・高島(たかしま)を経て駒に鞭(むち)うつ勢もあり。旌旗(せいき)水烟(すゐえん)に翻(ひるがへつ)て、竜蛇(りようじや)忽(たちまちに)天にあがり、甲胄(かつちう)夕陽(せきやう)に耀(かかやい)て、星斗(せいと)則(すなはち)地に列(つら)なる。中の院の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)具忠(ともただ)卿(きやう)、千(せん)余騎(よき)にて此(この)勢を防(ふせが)ん為に、大津辺(おほつへん)に控(ひかへ)られたりけるが、敵の大勢なる体(てい)を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未(いまだ)不近前(さき)に八幡(やはた)へ引返さる。
同(おなじき)十五日宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)京都に発向(はつかう)して、東山に陣をめさるれば、宮方(みやがた)の大将北畠(きたばたけ)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、都を去て淀(よど)・赤井に陣を取る。同(おなじき)十七日(じふしちにち)に宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)下京(しもぎやう)に御移(おんうつり)有て、東寺に御陣を召(めさ)るれば、顕能卿淀河(よどかは)を引て、八幡の山下(さんげ)に陣をとる。未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に宮方(みやがた)の大将陣を去(さる)事三箇度(さんがど)なれば、行末とてもさぞ有(あら)んずらめと、憑(たのみ)少なくぞ見(みえ)たりける。さは有り乍(なが)ら、八幡は究竟(くつきやう)の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内(きない)の官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたり。三方(さんぱう)は大河(たいか)隔(へだたつ)て橋もなく舟もなし。
宇治路(うぢぢ)を後(うしろ)へ廻(まは)らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退(しんたい)心安(こころやす)かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶(なほ)国々の勢を待(また)れける処に、細川陸奥(むつの)守(かみ)四国の勢を率(そつ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)せらる。又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、吉野殿(よしのどの)より宮を一人申(まうし)下(くだ)し進(まゐら)せて、今までは宮方(みやがた)を仕(つかまつ)る由(よし)にて有(あり)けるが、是(これ)もいかゞ思案したりけん。宮方(みやがた)を背(そむ)きて京都へ馳(はせ)来りければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如くに成て、勢(いきほひ)京畿(けいき)を掩(おほへ)り。
同三月二十四日、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)三万(さんまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、宇治路(うぢぢ)を回(まはつ)て木津河(こつがは)を打渡り、洞峠(ほらがたうげ)に陣を取(とら)んとす。是(これ)は河内・東条(とうでう)の通路(つうろ)を塞(ふさぎ)て、敵を兵粮に攻(つめ)ん為也(なり)。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門(じらうざゑもん)とを向(むけ)られけるが、楠は今年二十三、和田は十六(じふろく)、何(いづ)れも皆若武者(わかむしや)なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉(ことごと)く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉(ことごとく)度々(どど)の合戦に、身を捨(すて)討死仕(つかまつり)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。今日の合戦は又公私(こうし)の一大事(いちだいじ)と存ずる事にて候上は、命を際(きは)の合戦仕て、敵の大将を一人討取(うちとり)候はずは、生(いき)て再(ふたた)び御前(おんまへ)へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷(まかり)出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々(だいだい)の勇士(ゆうし)也(なり)と、感ぜぬ人は無(なか)りけり。
去(さる)程(ほど)に和田・楠・紀伊(きいの)国(くにの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、皆荒坂山(あらさかやま)へ打向て爰(ここ)を支(ささへ)んと引(ひか)へたれば、細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)悪五郎(あくごらう)、六千(ろくせん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。山路(やまぢ)嶮(けは)しく、峯高く峙(そばだち)たれば、麓より皆馬を蹈放(ふみはな)ち/\、かづき連(つれ)てぞ上(のぼり)たりける。
斯(かか)る軍(いくさ)に元来(ぐわんらい)馴(なれ)たる大和・河内の者共(ものども)なれば、岩の陰(かげ)、岸の上に走り渡て散々(さんざん)に射る間、面(おもて)に立つ土岐と細河(ほそかは)が兵共(つはものども)、射(い)しらまされて不進得。土岐悪五郎(あくごらう)は、其(そ)の比(ころ)天下に名を知(しら)れたる大力の早わざ、打物取て達者也(なり)ければ、卯(う)の花威(はなをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打て、水色の笠符(かさじるし)吹流させ、五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)の大太刀抜(ぬい)て引側(ひきそば)め、射向(いむけ)の袖を振(ふり)かざいて、遥(はるか)に遠き山路(やまぢ)を只(ただ)一息に上らんと、猪(ゐのしし)の懸(かか)る様(やう)に、莞爾(につこと)笑(わらひ)上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突(つい)たる楯をかはと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)の小長刀、茎短(くきみじか)に取て渡(わたり)合ふ。
爰(ここ)に相摸守(さがみのかみ)が郎従に、関左近(さこんの)将監(しやうげん)と云ける兵、土岐が脇よりつと走(はしり)抜(ぬけ)て、和田五郎に打て蒐(かか)る。和田が中間是(これ)を見て、小松の陰(かげ)より走出て、近々と攻(つめ)寄て、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)暫(しばらく)堅(かた)めて放つ矢、関将監(しやうげん)がゝらどうを、くさ目どほしに射抜(いぬか)れて、小膝をついてぞ臥(ふし)たりける。悪五郎(あくごらう)走(はしり)寄て引起(おこ)さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番(つが)ふて、悪五郎(あくごらう)が脇立(わいだて)のつぼの板、くつ巻(まき)せめてぞ射こうだる。
関将監(しやうげん)是(これ)を見て、今は可助く人なしと思(おもひ)けるにや、腰の刀を抜(ぬい)て腹を切(きら)んとしけるを、悪五郎(あくごらう)、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立(いたて)られたる矢をば、脇立(わいだて)ながら引切て投棄(なげすて)、かゝる敵を五六人切臥(きりふせ)、関将監(しやうげん)を左の小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、右手にて件(くだん)の太刀を打振(うちふり)々々(うちふり)、近付(ちかづ)く敵を打払て、三町(さんちやう)許(ばかり)ぞ落(おち)たりける。跡に続ひて何(いづ)くまでもと追懸(おひかけ)ける和田五郎も討遁(うちのが)しぬ。不安思ひける処に、悪五郎(あくごらう)が運や尽(つき)にけん、夕立(ゆふだち)に掘(ほれ)たる片岸(かたきし)の有(あり)けるを、ゆらりと越(こえ)けるに、岸の額(ひたひ)のかた土(つち)くわつと崩(くづ)れて、薬研(やげん)のやうなる所へ、悪五郎(あくごらう)落(おち)ければ、走(わしり)寄て長刀の柄(え)を取延(とりのべ)、二人(ににん)の敵をば討てげり。
入乱れたる軍(いくさ)の最中(さいちゆう)なれば、頚(くび)を取(とる)までもなし。悪五郎(あくごらう)が引切て捨(すて)たりつる、脇立許(わいだてばかり)を取て、討たる証拠(しようご)に備(そな)へ、身に射立(いたて)ふれたる矢ども少々折懸(をりかけ)て、主上(しゆしやう)の御前(おんまへ)へ参り合戦の体(てい)を奏し申せば、「初め申つる言(こと)ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむ)りながら、無恙して帰り参る条(でう)、前代未聞(ぜんだいみもん)の高名也(なり)。」と、叡感更(さら)に不浅。悪五郎(あくごらう)討(うた)れて官軍(くわんぐん)利を得たりといへ共、寄手(よせて)目に余る程の大勢なれば、始終此(こ)の陣には難怺とて、楠次郎左衛門(じらうざゑもん)夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵(てうてき)軈(やが)て入替て、荒坂山に陣を取る。
然(しかれ)ども官軍(くわんぐん)も不懸、寄手(よせて)も不攻上、八幡を遠攻(とほぜめ)にして四五日を経(へ)る処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国(さんかこく)の勢(せいを)卒(そつ)して上洛(しやうらく)す。路次(ろし)の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直(すぐ)に八幡へ推寄(おしよせ)て一軍(ひといくさ)せんとて淀より向はれけるが、法性寺(ほふしやうじ)の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)爰(ここ)に陣を取て、淀の橋三間(さんげん)引落(ひきおと)し、西の橋爪(はしづめ)に掻楯(かいだて)掻(かい)て相待(あひまち)ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏(いかだ)を作り渡せとて、淀の在家(ざいけ)を壊(こぼち)て筏を組(くみ)たれば、五月の霖(ながさめ)に水増(まさ)りて押流されぬ。
数日(すじつ)有て後、淀の大明神(だいみやうじん)の前に浅瀬有(あり)と聞出して、二千(にせん)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、流(ながれ)を截(きつ)て打渡すに、法性寺の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)只(ただ)一騎(いつき)、馬のかけあがりに控(ひか)へて、敵三騎切て落(おと)し、のりたる太刀を押直(おしなほ)して、閑々(しづしづ)と引て返れば、山名が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、「大将とこそ見奉るに、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)をば見せられ候者哉(かな)。」とて追懸(おひかけ)たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛(ひやうゑの)督(かみ)取て返してはつと追散(おつちら)し、返し合(あはせ)ては切て落(おと)し、淀の橋爪より御山(おやま)まで、十七度(じふしちど)迄(まで)こそ返されけれ。
され共馬をも切(きら)れず、我身も痛手を負(おは)ざれば、袖の菱縫(ひしぬひ)吹返しに立(たつ)処の矢少々折(をり)懸(かけ)て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、財園院(ざいをんゐん)に陣をとれば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)猶(なほ)守堂口(もりだうぐち)に支(ささへ)て防(ふせ)がんとす。四月二十五日、四方(しはう)の寄手(よせて)同時に牒(てふ)し合(あは)せて攻(せめ)戦ふ。顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、園殿口(そのどのぐち)に支(ささへ)て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢(ぐんぜい)は、佐羅科(さらしな)に支(ささへ)て戦ふ。
軍未(いまだ)半(なかば)なるに、高橋の在家(ざいけ)より神火燃(もえ)出て、魔風十方に吹懸(ふきかけ)ける程に、官軍(くわんぐん)烟(けむり)に咽(むせん)で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上(ひきあが)る。四方(しはう)の寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、則(すなはち)洞峠(ほらがたうげ)へ打上りて、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松・々田・飽庭(あくは)・宮(みやの)入道(にふだう)、一勢(いつせい)々々(いつせい)数十箇所(すじつかしよ)に陣を取(とり)、鹿垣(ししがき)結(ゆう)て、八幡山(やはたやま)を五重六重(いつへむへ)にぞ取巻(とりまき)ける。細河(ほそかは)陸奥(むつの)守(かみ)・同相摸守(さがみのかみ)は、真木(まき)・葛葉(くずは)を打廻(うちまはつ)て、八幡の西の尾崎(をさき)、如法経塚(によほふきやうづか)の上に陣を取て、敵と堀一重を隔(へだて)てぞ攻(せめ)たりける。五月四日、官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)が中より夜討に馴(なれ)たる兵八百人(はつぴやくにん)を勝(すぐ)りて、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に付(つけ)らる。
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)昼程(ひるほど)より此(この)勢を吾(わが)陣へ集(あつめ)て、笠符(かさじるし)を一様(いちやう)に著(つけ)させ、誰(た)そと問(とは)ば、進(すすむ)と名のるべしと約束して、夜已(すで)に二三更(にさんかう)の程也(なり)ければ、宿院(しゆくゐん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て如法経塚へ押寄(おしよせ)、八百人(はつぴやくにん)の兵共(つはものども)、同音に時をどつと作る。細河(ほそかは)が兵三千(さんぜん)余人(よにん)、暗さは闇(くら)し分内(ぶんない)はなし、馬放れ人騒(さわい)で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負(ておひ)、討(うた)るゝ者数を不知(しらず)。遥(はるか)なる谷底へ人なだれをつかせて追(おひ)落されければ、馬・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事、幾千万(いくせんまん)共(とも)難知。一陣破(やぶる)れば残党全(まつた)からじと見る処に、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松が陣は些(すこし)も動かず、鹿垣(ししがき)密(きびし)く結(ゆう)て用心(ようじん)堅(かたく)見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便(たよ)りも無(なか)りけり。
角(かく)ては何(いつ)までか可怺、和田・楠を河内(かはちの)国(くに)へ返(かへし)て、後攻(ごづめ)をせさせよとて、彼等両人を忍(しのび)て城より出して、河内(かはちの)国(くに)へぞ遣(つかは)されける。八幡には此後攻(このごづめ)を憑(たのみ)て今や/\と待(まち)給(たまひ)ける処に、是(これ)を我(わが)大事(だいじ)と思入れて引立(ひきたち)ける和田五郎、俄(にはか)に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替(かは)りて、心少(すこ)し延(のび)たる者也(なり)ければ、今日よ明日よと云(いふ)許(ばかり)にて、主上(しゆしやう)の大敵に囲まれて御座(ござ)あるを、如何(いかが)はせんとも心に不懸けるこそ方見(うたて)けれ。尭(げう)の子(こ)尭(げう)の如くならず、舜(しゆん)の弟(おとと)舜に不似とは乍云、此(この)楠は正成が子也(なり)。正行が弟也(なり)。何(いつ)の程にか親に替(かは)り、兄に是(これ)まで劣るらんと、謗(そし)らぬ人も無(なか)りけり。  
南帝八幡御退失(たいしつの)事(こと)
三月十五日より軍(いくさ)始(はじまり)て、已(すで)に五十(ごじふ)余日(よにち)に及べば、城中(じやうちゆう)には早兵粮(ひやうらう)を尽(つく)し、助(たすけ)の兵を待(まつ)方(かた)もなし。角(かく)ては如何(いか)が可有と、云囁(いひささやく)程こそあれ。軈(やが)て人々の気色(けしき)替(かはつ)て、只(ただ)落支度(おちじたく)の外はする態(わざ)もなし。去(さる)程(ほど)に是(これ)ぞ宗(むね)との御用(ごよう)にも立(たち)ぬべき伊勢の矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・熊野湯河庄司(くまののゆかはのしやうじ)、東西の陣に幕(まく)を捨(すて)て、両勢三百(さんびやく)余騎(よき)降人(かうにん)に成て出にけり。
城の案内敵に知れなば、落(おつ)る共落(おち)得じ。さらば今夜主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐらせ)よとて、五月十一日の夜半計(やはんばかり)に、主上(しゆしやう)をば寮(れう)の御馬(おんむま)に乗進(のせまゐら)せて、前後に兵共(つはものども)打囲(うちかこ)み、大和路(やまとぢ)へ向て落(おち)させ給へば、数万の御敵(おんてき)前(まへ)を要(よぎ)り跡(あと)に付て討留進(うちとめまゐ)らせんとす。依義軽命官軍共(くわんぐんども)、返し合せては防ぎ、打破ては落(おと)し進(まゐ)らするに、疵(きず)を被(かうむつ)て腹を切り、蹈留(ふみとどまつ)て討死する者三百人(さんびやくにん)に及べり。
其(その)中に宮一人討(うた)れさせ給ひぬ。四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)・円明院(ゑんみやうゐん)大納言(だいなごん)・三条(さんでうの)中納言(ちゆうなごん)雅賢(まさかた)卿(きやう)も討(うた)れ給ひぬ。主上(しゆしやう)は軍勢(ぐんぜい)に紛(まぎ)れさせ給はん為に、山本判官が進(まゐら)せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛(くりげ)なる馬にめされたるを、一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)追蒐進(おひかけまゐら)せて、「可然大将とこそ見進(まゐら)せ候。蓬(きたな)くも敵に被追立、一度(いちど)も返させ給はぬ者哉(かな)。」と呼(よば)はり懸て、弓杖(ゆんづえ)三杖(みつゑ)許(ばかり)近付(ちかづき)たりけるを、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)屹(きつ)と顧(かへりみ)て、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が云様哉(かな)。
いで己(おのれ)に手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛(とん)で下(お)り、四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を以て、甲(かぶと)の鉢を破(われ)を砕けよとぞ打(うた)れたる。さしもしたゝかなる一宮(いちのみや)、尻居(しりゐ)にどうど打居(うちすゑ)られて、目くれ胆(きも)消(きえ)にければ、暫(しばら)く心を静めんと、目を塞(ふさ)ぎて居たる間に、主上(しゆしやう)遥(はるか)に落延(おちのび)させ給ひにけり。古津河(こつかは)の端(はし)を西に傍(そう)て、御馬(おんむま)を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮(みや)の入道が兵共(つはものども)、二三百騎(にさんびやくき)にて取篭(とりこめ)奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁(のが)れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有(あり)けるにや、御鎧の袖・草摺(くさずり)に二筋(ふたすぢ)当りける矢も、曾(かつ)て裏をぞかゝざりける。
法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)までも尚(なほ)離れ進(まゐら)せず、只一騎(いつき)供奉(ぐぶ)したりけるが、迹(あと)より敵懸(かか)れば引返して追散(おひちら)し、敵前を遮(さへぎ)れば懸破て、主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐ)らせける処に、何(いづく)より来るとも不知御方の兵百騎(ひやくき)計(ばかり)、皆中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)著(つけ)て、御馬(おんむま)の前後に候(さうらひ)けるが、近付(ちかづく)敵を右往左往(うわうさわう)に追散して、かき消(けす)様に失(うせ)にければ、主上(しゆしやう)は玉体無恙して東条へ落(おち)させ給(たまひ)にけり。
内侍所の櫃(ひつ)をば、初め給(たまはつ)て持(もち)たりける人が田の中に捨(すて)たりけるを、伯耆(はうきの)大郎左衛門長生(ながなり)、著たる鎧を脱捨(ぬぎすて)て、自(みづから)荷担(かたん)したりける。迹より追(おふ)敵共(てきども)、蒔(まき)捨(すつ)る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋(ふた)に当る音、板屋を過(すぐ)る村雨(むらさめ)の如し。され共身には一筋(ひとすぢ)も不立ければ、長生(ながなり)兔角(とかく)かゝくり付(つい)て、賀名生(あなふ)の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立(たた)せ給ひたるらんと、浅猿(あさまし)くて御櫃を見進(まゐら)せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔(わづか)に薄き桧木板(ひのきいた)を射徹(いとほ)す矢の一筋(ひとすぢ)も無(なか)りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。
今度忻(たばかり)て京都を攻(せめ)られん為に、先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)へ行幸成(なり)たりし時、児島(こじま)三郎入道志純(しじゆん)も召(めさ)れて参りたりけるを、「是(これ)が一大事(いちだいじ)なれば急(いそぎ)東国・北国に下て、新田(につた)義貞(よしさだ)が甥(をひ)・子共に義兵を興(おこ)させ、小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)以下、便宜(びんぎ)の大名を語(かたら)ひて、天下の大功を即時(そくじ)に致す様に、智謀を運(めぐら)せ。」と仰(おほせ)出されければ、志純夜を日に継(つい)で関東(くわんとう)へ下(くだ)りたれば、東国の合戦早(はや)事散(さん)じて、新田義興・義治(よしはる)は河村の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、武蔵守(むさしのかみ)義宗は越後国(ゑちごのくに)にぞ居たりける。
勅使(ちよくし)東国・北国に行向(ゆきむかう)て、「君已(すで)に大敵に囲(かこま)れさせ給ひて助(たすけ)の兵、力労(つかれ)ぬ。若(もし)神竜(しんりよう)化(け)して釣者(てうしや)の為に捕(とら)はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争(あらそ)はん。」と、依義重可軽命習(ならひ)を申ければ、小山(をやま)五郎・宇都宮(うつのみや)少将(せうしやう)入道も、「勅定(ちよくぢやう)に随(したが)ふ也(なり)。」とて、東国静謐(せいひつ)の計略を可運由約諾(やくだく)す。義興・義治(よしはる)は尚(なほ)東国に止(とどまり)て将軍と戦ひ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・吉良(きら)三郎満貞(みつさだ)・石堂入道、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢(せい)を卒(そつ)し二手(ふたて)に成て上洛(しやうらく)し、八幡の後攻(ごづめ)を致して朝敵(てうてき)を千里の外に可退と、諸将の相図を定(さだめ)て、勅使(ちよくし)を先立(さきだち)てぞ上りける。
去(さる)程(ほど)に新田武蔵守(むさしのかみ)義宗は、四月二十七日(にじふしちにち)越後の津張(つばり)より立て、七千(しちせん)余騎(よき)越中(ゑつちゆう)の放正津(はうじやうづ)に著(つ)けば、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常、三千(さんぜん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。都合其(その)勢一万(いちまん)余騎(よき)、九月十一日前陣(せんぢん)已(すで)に能登(のとの)国(くに)へ発向(はつかう)す。吉良(きら)三郎・石堂も、四月二十七日(にじふしちにち)に駿河(するがの)国(くに)を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を駈催(かりもよほ)し、六千(ろくせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、五月十一日に先陣已(すで)に美濃の垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)に著(つき)しかば、八幡に力を勠(あは)せんと遠篝(とほかがり)をぞ焼(たき)たりける。
是(これ)のみならず信濃の下(しも)の宮(みや)も、神家(じんけ)・滋野(しげの)・友野・上杉・仁科(にしな)・禰津(ねづ)以下の軍勢(ぐんぜい)を召具(めしぐ)して、同日に信濃を立(たた)せ給ふ。伊予には土居(とゐ)・得能(とくのう)、兵船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗て、海上より責上(せめのぼ)る。東山(とうさん)・北陸(ほくろく)・四国・九州の官軍共(くわんぐんども)、皆我(わが)国々を立(たち)しかば、路次(ろし)の遠近に依て、縦(たとひ)五日三日の遅速(ちそく)は有(ある)とも、後攻(ごづめ)の勢こそ近づきたれと、云ひ立(たつ)程ならば、八幡の寄手(よせて)は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上(しゆしやう)は八幡を落(おち)させ給ひしかば、国々の官軍(くわんぐん)も力を落(おと)しはて、皆己(おのれ)が本国へぞ引返しける。是(これ)も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云(いひ)ながら、とすれば違ふ宮方(みやがた)の運の程こそ謀(はか)られたれ。 
 
太平記 巻第三十二

 

茨宮(いばらのみや)御位(おんくらゐの)事(こと)
今度吉野殿(よしのどの)と将軍と御合体(ごがつてい)の儀破れて合戦に及(およびし)剋(きざみ)、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)まで、皆南方の敵に囚(とらはれ)させ給て、或(あるひ)は賀名生(あなふ)の奥、或(あるひ)は金剛山(こんがうせん)の麓に御座(ござ)あれば、都には御在位(ございゐ)の君も御座(おはしま)さず、山門には時の貫首(くわんじゆ)も渡(わたら)せ給はず。此(この)平安城(へいあんじやう)と比叡山(ひえいさん)と同時に始まりて、已(すで)に六百(ろつぴやく)余歳(よさい)、一日も未(いまだ)斯(かか)る事をば不承及、是(これ)ぞ末法の世に成(なり)ぬる験(しるし)よと、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。
されども角(かく)ては如何(いかが)あるべきとて、天台(てんだいの)座主には、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)の御弟子(おんでし)、承胤(じよういん)親王(しんわう)を成(なし)奉る。此(この)宮(みや)は前門主の御振舞(おんふるまひ)に様替(やうかはつ)て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業(ぎやうごふ)不退(ふたい)にして只吾山(わがやま)の興隆をのみ御心(おんこころ)に懸(かけ)られたりければ、靡(なび)き奉らぬ衆徒も無(なか)りけり。さて御位には誰をか即(つ)け進らすべきと尋(たづね)求(もとめ)奉る処に、本院(ほんゐん)第二(だいに)の御子、三条(さんでう)の内大臣(ないだいじん)公秀(きんひで)の御女(おんむすめ)三位殿(さんみどの)の御局、後には陽禄(やうろく)門院と申しゝ御腹(おんはら)に生(うま)れさせ給たりしが今年十五に成(なら)せ給ふを、日野(ひのの)春宮(とうぐうの)権大進(ごんのたいしん)保光(やすみつ)に仰(おほせ)て、南方へ取(とり)奉らんとせられけるが、兔角(とかく)料理(れうり)に滞(とどこほつ)て、保光京都に捨置(すておき)奉りけるを尋出(たづねいだし)進(まゐら)せて、御位には即進(つけまゐら)せける也(なり)。
此(この)宮(みや)をば去年御継母(ごけいぼ)宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御計(おんはから)ひとして、妙法院(めうほふゐん)の門跡(もんぜき)へ御入室(ごにふしつ)有(ある)べしとて、已(すでに)御出家あらんとし給けるを、御外祖母(ごぐわいそぼ)広義門院より、内々(ないない)北斗堂の実(じつさん)法印に御占(うら)を問(とは)せ給たりければ、王位に即(つか)せ可給御果報御座(おはしま)す由を勘(かんがへ)申(まうし)たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止(とめ)られて、日野(ひのの)右大弁時光に預置進(あづけおきまゐら)せられける。其翌(そのあけ)の年観応三年八月二十七日(にじふしちにち)に俄(にはか)に践祚(せんそ)有(あり)しかば、兆前(てうぜん)の勘文(かんもん)更(さら)に一事(いちじ)も不違、実(じつさん)法印忽(たちまち)に若干(そくばく)の叡感(えいかん)の忠賞に預(あづか)りけり。  
無剣璽御即位無例事(こと)付(つけたり)院(ゐんの)御所炎上(えんしやうの)事(こと)
同九月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て文和(ぶんわ)と号す。其(その)年の十月に河原(かはら)の御禊(みはらひ)有て、翌(あけ)の月大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御即位の事は如何(いかが)有(ある)べからんと、諸卿(しよきやうの)異儀(いぎ)多かりけれ共(ども)、武家強(しひ)て申沙汰しける上は、只兔(と)も角(かく)も其(その)儀に随(したが)ふべしとて、織部(かんなめ)の祭をば致されけるとぞ承(うけたまは)る。夫(それ)人代(じんだい)百王の始は、鵜羽葺不合尊(うがやふきあはせずのみこと)の第四(だいしの)王子(わうじ)、神日本磐余彦尊(かんやまといはあれひこのみこと)、大和(やまとの)国(くに)畝火橿原(うねびかしはら)の宮(みや)にいまして、朝政(あさまつりこと)をきこしめしたりしより以来(このかた)、我(わが)君の御宇已(すで)に九十九代、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御位を続(つが)せ給ふ事は、未(いまだ)其例(そのれい)を不聞と、有職(いうしよく)を立(たつ)る人々の欺(あざむき)申さぬは無りけり。
帝都(ていと)今静(しづま)りて御在位(ございゐ)安泰(あんたい)なるに付(つけ)ても、先皇(せんくわう)・両院・梶井(かぢゐの)宮(みや)、南山(なんざん)の奥に御座(ござ)あれば、さこそ御心(おんこころ)を悩(なやま)さるらめと、主上(しゆしやう)御心(おんこころ)苦(くるし)き事に思召(おぼしめさ)れければ、何(いか)にもして南山より盜(ぬすみ)出し奉らんと方便を被廻けれ共(ども)、主上(しゆしやう)・両上皇は南山の警固の兵密(きび)しくて可有御出(おんいで)様(やう)も無りけり。遥(はるか)に程経て梶井(かぢゐの)宮(みや)許(ばかり)をぞ、兔角(とかく)して盜(ぬすみ)出し進(まゐら)せける。
同年の十月二十八日(にじふはちにち)に国母(こくぼ)陽禄門院隠(かくれ)させ給ひければ、天下諒闇(りやうあん)の儀にて、洛中(らくちゆう)に物(もの)の音をもならさゞる事三月(みつき)、禁裏椒庭(せうてい)殊更(ことさら)に物哀(ものあわれ)なる折節也(なり)。同(おなじき)二年二月四日、俄(にわか)に矢火出来(いでき)て院(ゐんの)御所持明院殿(ぢみやうゐんどの)焼(やけ)にけり。回禄(くわいろく)は天災(てんさい)にて尋常(よのつね)有(ある)事なれ共(ども)、近年打続き京中(きやうぢゆう)の堂社・宮殿残(のこり)少(すくな)く焼(やけ)失(うせ)ぬる事直事(ただこと)とも不覚(おぼえず)、只(ただ)法滅の因縁(いんえん)王城の衰微(すゐび)とぞ見へたりける。
元弘・建武の乱より以来回禄に逢(あひ)ぬる所々を数(かぞふ)れば、先(まづ)内裏・馬場殿(ばばどの)・准后(じゆごう)の御所・式部卿親王(しんわう)の常盤井殿(ときはゐどの)・兵部卿(ひやうぶきやうの)宮(みや)の二条(にでう)の御所・宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御旧宅・城南(ぜいなんの)離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院(じふらくゐん)・梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)・妙法院(めうほふゐん)の白河殿・大覚寺殿(だいかくじどの)の御旧迹(ごきうせき)・洞院左府(とうゐんさふ)の亭宅(ていたく)・大炊御門内府(おほひのみかどだいふ)の亭(てい)・吉田(よしだの)内府の北白河・近衛(このゑ)殿(どの)の小坂殿(こざかどの)・為世(ためよの)卿(きやう)の和歌所(わかどころ)・
大覚寺(だいかくじの)御山庄(さんさう)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)棲馴(すみなれ)し毘沙門堂(びしやもんだう)・頼基が天(あま)の橋立跡(あと)旧(ふり)て、塩竃(しほがま)の浦を摸(うつ)せし河原(かはらの)院(ゐん)・中書王の古を慕(したう)て立(たて)し花園(はなぞの)や、融(とほる)の大臣(おとど)の迹(あと)を慕(したふ)千種(ちぐさの)宰相(さいしやう)の新亭(しんてい)、雲客以下の家々は未(いまだ)数(かぞふ)るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑(ちくゑん)・椒房(せうばう)、三台九卿(さんだいきうけい)の曲阜(きよくふ)以下都(すべ)て三百二十(さんびやくにじふ)余箇所(よかしよ)、此(この)時(とき)に当て焼(やけ)にけり。
仏閣霊験(れいけん)の地には、法城寺・法勝寺(ほつしようじ)・長楽寺(ちやうらくじ)・清水寺(せいすゐじの)六僧房・双林寺(さうりんじ)・講堂・慶愛寺(けいあいじ)・北霊山(きたりやうぜん)・西福寺・宇治(うぢの)宝蔵(ほうざう)・浄住寺(じやうぢゆうじ)・六波羅(ろくはら)の地蔵堂・紫野の寺・東福寺(とうふくじ)・雪村(せつそん)の塔頭(たつちゆう)大龍庵(たいりようあん)・夢窓国師の建(たて)られし天竜寺(てんりゆうじ)に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の仏閣も皆此(この)時(とき)に焼(やけ)にけり。されば東山西郊(ゆしのをか)、京白河(しらかはの)在家(ざいけ)もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊(たうぞく)巷(ちまた)に満(みち)て、往来(わうらい)の道も不安、貝鐘(ばいしよう)の声も幽(かすか)にして、無明の睡(ねむり)も醒(さ)め難(がた)し。  
山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)為敵事(こと)付(つけたり)武蔵将監(しやうげん)自害(じがいの)事(こと)
山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は今度八幡(やはた)の軍に功有て、忠賞我に勝(まさ)る人非じと被思ける間、先年拝領して未(いまだ)当(たう)知行無(なか)りける若狭(わかさの)国(くに)の斉所(さいしよ)今積(いまづみ)を如本の可宛給由(よし)、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)に属(しよく)して申達(まうしたつ)せん為に、日々に彼の宿所へ行(ゆき)給ひけれ共(ども)、「今日は連歌の御会席(くわいせき)にて候。」「只今(ただいま)は茶会(ちやのくわい)の最中にて候。」とて一度(いちど)も対面に不及、数剋(すこく)立(たた)せ、暮(くる)るまで待(また)せて、只(ただ)徒(いたづら)にぞ帰しける。度重(たびかさ)なれば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大に腹立(ふくりふ)して、「周公旦(しゆこうたん)は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人(そにん)来れば髪を握(にぎつ)て合(あひ)、飯(はん)を食する時賓客(ひんかく)来れば哺(ほ)を吐(はい)て対面し給(たまひ)けり。
才乏(とぼ)しといへ共我大樹(たいじゆ)の一門(いちもん)に列(つら)なる身たり。礼儀を存せば、沓(くつ)を倒(さかさま)にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急(いそぎ)てこそ対面すべきに、此(この)入道(にふだう)加様(かやう)に無礼(ぶれい)に振舞(ふるまふ)こそ返々(かへすがへす)も遺恨(ゐこん)なれ。所詮(しよせん)叶はぬ訴詔(そしやう)をすればこそ、諂(へつら)ふまじき人をも諂(へつら)へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈(やが)て謀叛を起して天下を覆(くつがえ)し、無礼なりつる者共(ものども)に、思(おもひ)知(しら)せんずる物を。」と独言(ひとりごと)して、我(わが)宿所へ帰ると均(ひとし)く、郎等共(らうどうども)に角(かく)共(とも)いはず、唯一騎(いつき)文和(ぶんわ)元年八月二十六日(にじふろくにち)の夜半に伯耆を差(さし)て落(おち)て行けば、相順(あひしたがひ)し兵共(つはものども)聞伝(つたへ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)迹(あと)を追てぞ下りける。
伯耆(はうきの)国(くに)に著(つか)れければ、師氏先(ま)づ親父(しんぶ)左京大夫時氏の許(もと)に行(ゆき)て、「京都の沙汰の次第、面目を失(うしなひ)つる間、将軍に暇(いとま)をも申さず罷(まかり)下(くだり)候。」と語りければ、親父も大に忿(いかつ)て、軈(やが)て宮方(みやがた)の御旗(おんはた)を揚(あ)げ、先(ま)づ道誉(だうよ)が小目代(もくだい)にて、吉田肥前(ひぜん)が出雲(いづもの)国(くに)に有けるを追出し、事の子細を相触(あひふる)るに、富田(とんだの)判官(はうぐわん)を始として、伊田(いだ)・波多野(はだの)・矢部(やべ)・小幡(をばた)に至(いたる)まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国(しかこく)即時に打順(うちしたが)へてげり。さらば軈(やが)て南方へ牒送(てふそう)せよとて、吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経(ふ)るに、山陰道(せんおんだう)より攻(せめ)上らば、南方よりも官軍(くわんぐん)を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦(よろこび)て、五月七日伯耆(はうきの)国(くに)を立て、但馬・丹後(たんご)の勢(せい)を引具(ひきぐ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)丹波路(たんばぢ)を経て攻(せめ)上る。
兼(かね)て相図を差(さし)ければ、南方より惣大将(そうだいしやう)四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆俊(たかとし)・法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)康長(やすなが)・和田・楠・原・蜂屋(はちや)・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・湯浅・貴志(きじ)・藤波を始(はじめ)として、和泉・河内・大和・紀伊(きいの)国(くにの)兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)勝(すぐ)り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡(おほわたり)、西は梅津・桂の里・谷堂(たにのだう)・峯堂(みねのだう)・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼(たき)つゞけたる篝火(かがりび)の影、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。此(この)時(とき)将軍未(いまだ)上洛(しやうらく)し給はで、鎌倉(かまくら)にをはせしかば、京都余(あま)りに無勢(ぶせい)にて、大敵可戦様も無(なか)りけり。
中々なる軍して敵に気を著(つけ)ては叶(かなふ)まじとて、土岐・佐々木(ささき)の者共(ものども)、頻(しきり)に江州(がうしう)へ引退(ひきしりぞい)て、勢多にて敵を相待(あひまた)んと申けるを、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、「敵大勢なればとて、一軍(ひといくさ)もせでいかゞ聞逃(ききにげ)をばすべき。」とて、主上(しゆしやう)をば先(まづ)山門の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸なし進(まゐらせ)て、仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)三千(さんぜん)余騎(よき)を一処に集め、鹿谷(ししのたに)を後(うしろ)に当(あて)て、敵を洛川(らくせん)の西に相待たる。此(この)陣の様、前に川有て後に大山峙(そばだち)たれば、引場(ひきば)の思(おもひ)はなけれ共(ども)、韓信が兵書を褊(さみ)して背水(はいすゐの)陣を張(はり)しに違(ちが)へり。殊更(ことさら)土岐・佐々木(ささき)の兵、近江と美濃とを後に於(おい)て戦はんに、引て暫(しばらく)気を休めばやと思はぬ事や有(ある)べきと、未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に敵に心をぞはかられける。
去程(さるほど)に文和二年六月九日(ここのか)卯刻(うのこく)に、南方の官軍(くわんぐん)、吉良(きら)・石堂(いしたう)・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範三千(さんぜん)余騎(よき)、八条(はつでう)九条(くでう)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、相図の烟(けぶり)を上(あげ)たれば、山陰道(せんおんだう)の寄手(よせて)、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏・伊田(いだ)・波多野(はだの)、五千(ごせん)余騎(よき)、梅津・桂・嵯峨(さが)・仁和寺(にんわじ)・西七条に火を懸(かけ)て、先(まづ)京中(きやうぢゆう)へぞ寄(よせ)たりける。洛中(らくちゆう)には向ふ敵なければ、南方西国の兵共(つはものども)、一所に打寄て、四条川原(しでうがはら)に轡(くつばみ)を双(ならべ)て引(ひか)へたり。此(これ)より遥(はるか)に敵の陣を見遣(みやれ)ば、鹿谷(ししのたに)・神楽岡(かぐらをか)の南北に、家々の旗二三百流れ翻(ひるがへつ)て、四(よ)つ目結(めゆひ)の旗一流(ひとながれ)真前(まつさき)に進(すすん)で、真如堂の前に下(お)り合(あ)ふたり。
敵陣皆(みな)山に寄て木陰(こかげ)に引(ひか)へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原(かはら)に引(ひか)へたりけるが、敵を帯(おび)き出して勢の程を見んとて、射手(いて)の兵五百人(ごひやくにん)馬より下(おろ)し、持楯(もつたて)畳楯(でふたて)つきしとみ/\、閑(しづか)に田の畦(くろ)を歩(あゆま)せて、次第々々に相近付(あひちかづく)。爰(ここ)に佐々木(ささき)惣領(そうりやう)氏頼、其(そ)の比(ころ)遁世(とんせい)にて西山辺(にしやまへん)に隠れ居たりける間、舎弟(しやてい)五郎右衛門(うゑもんの)尉(じよう)世務(せむ)に代(かはつ)て国の権柄(けんぺい)を執(とり)しが、近江(あふみの)国(くに)の地頭・御家人、此(この)手に属(しよく)して五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)けるが、楠が勢に招(まねか)れて、胡録(えびら)を敲(たた)き時の声を揚げ喚(をめい)て懸る。楠が勢陽(やう)に開き陰(いん)に囲(かた)めて散々に射る。
射れ共佐々木(ささき)が勢(せい)ひるまず、錣(しころ)を傾けて袖をかざし、懸(かけ)入(いり)けるを見て、山名が執事小林左京(さきやうの)亮(すけ)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて横合(よこあひ)にあふ。佐々木(ささき)勢余(あま)りに手痛く懸(かけ)られて、叶はじとや思(おもひ)けん、神楽岡(かぐらをか)へ引上(ひきあが)る。宮方(みやがた)手合(てあはせ)の軍に打勝て、気を揚(あ)げ勇(いさみ)に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗(ききやう)一揆(いつき)、水色の旗を差上(さしあげ)、大鍬形(おほくはがた)を夕陽(せきやう)に耀(かかやか)し、魚鱗(ぎよりん)に連(つらな)りて六七百騎(ろくしちひやくき)が程控(ひか)へたり。小林是(これ)を見て人馬に息をも継(つが)せず、軈(やが)て懸(かけ)合(あは)せんとしけるを、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)扇を揚(あげ)て招止(まねきとど)め、荒手(あらて)の兵千(せん)余騎(よき)を引勝(ひきすぐつ)て相近付(あひちかづく)。
土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違(いちがふ)る程こそあれ。互に諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて懸入り、敵御方二千(にせん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と入(いり)乱(みだれ)て、弓手に逢ひ馬手(めて)に背(そむ)き、半時許(はんじばかり)切(きり)合(あひ)たるに、馬烟(むまけぶり)虚空(こくう)に廻(まはつ)て飆(つじかぜ)微塵(みぢん)を吹(ふき)立(たて)たるに不異。太刀の鍔音(つばおと)・時(とき)の音、大山(たいざん)を崩(くづ)し大地(だいち)を動(うごか)して、すはや宮方(みやがた)打勝(うちかち)ぬと見へしかば、鞍(くら)の上空(むな)しき放(はな)れ馬四五百疋、河より西へ走(わしり)出て、山名が兵の鋒(きつさき)に頚を貫(つらぬ)かぬは無(なか)りけり。細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏、是(これ)程御方(みかた)の打負(うちまけ)たるを見ながら、些(すこし)も機を不屈、尚(なほ)勇(いさみ)進(すすん)でぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮(うつのみや)民部(みんぶの)少輔(せう)・海東(かいとう)・和田・楠、皆荒手(あらて)なれば細河(ほそかは)と懸り合て、鴨川を西へ追渡(おひわた)し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。
千騎(せんぎ)が一騎(いつき)に成(なる)までも引(ひか)じとこそ戦(たたかひ)けれ共(ども)、将軍の陣あらけ靡(なびい)て後(うしろ)の御方(みかた)あひ遠(どほ)に成(なり)ければ、細河(ほそかは)遂(つひ)に打負(うちまけ)て四明(しめい)の峯(みね)へ引上(ひきあが)る。赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、いつも打(うち)ごみの軍(いくさ)を好まぬ者也(なり)ければ、手勢計(てぜいばかり)五六十騎(ごろくじつき)引分(ひきわけ)て、返す敵あれば、追立(おつたて)々々(おつたて)切て落す。名もなき敵共(てきども)をば、何百人切てもよしなし。哀(あはれ)よからんずる敵に逢(あは)ばやと願ひて、北白川(きたしらかは)を今路(いまみち)へ向て歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、洗(あら)ひ皮(かは)の鎧の妻(つま)取たるに竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、五尺(ごしやく)許(ばかり)なる太刀(たち)二振(ふたふり)帯(はい)て、歯の亘(わた)り八寸(はつすん)計(ばかり)なる大鉞(おほまさかり)を振(ふり)かたげて、近付(ちかづく)敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨(にらん)で閑(しづか)に落行(おちゆく)武者あり。
赤松遥(はるか)に是(これ)をみて、是(これ)は聞(きこゆ)る長山(ながやま)遠江守(とほたふみのかみ)ごさんめれ。其(そ)れならば組(くん)で討(うた)ばやと思(おもひ)ければ、諸鐙(もろあぶみ)合(あは)せて迹(あと)に追著(おつつき)、「洗革(あらひかは)の鎧は長山殿と見るは僻目(ひがめ)か、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)を見せらるゝ者哉(かな)。」と、言(ことば)を懸(かけ)て恥(はぢ)しめければ、長山屹(きつ)とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰(たそ)とよ。」「赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範よ。」「さてはよい敵。但(ただし)只一打(ひとうち)に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件(くだん)の鉞(まさかり)を以て開き、甲(かぶと)の鉢(はち)を破(われ)よ砕(くだ)けよと思(おもふ)様に打(うち)ける処を、氏範太刀を平(ひら)めて打背(そむ)け、鉞の柄(え)を左の小脇(こわき)に挟(はさみ)て、片手にてえいやとぞ引たりける。
引(ひか)れて二疋の馬あひ近に成(なり)ければ、互(たがひ)に太刀にては不切、鉞を奪(うば)はん奪(うばは)れじと引合(ひきあひ)ける程に、蛭巻(ひるまき)したる樫木(かしのき)の柄(え)を、中よりづんと引切て、手本(てもと)は長山(ながやまが)手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留(とどま)りける。長山今までは我に勝(まさ)る大力非じと思(おもひ)けるに、赤松に勢力を砕(くだ)かれて、叶はじとや思(おもひ)けん、馬を早めて落延(おちのび)ぬ。氏範大に牙(きば)を嚼(かみ)て、「無詮力態(ちからわざ)故(ゆゑ)に、組(くん)で討(うつ)べかりつる長山を、打漏しつる事の猜(ねた)さよ。ゝし/\敵は何(いづ)れも同(おなじ)事、一人も亡(ほろぼ)すに不如。」とて、奪(うばひ)取たる鉞にて、逃(にぐ)る敵を追攻(おつつめ)々々(おつつめ)切(きり)けるに、甲の鉢を真向(まつかう)まで破付(わりつけ)られずと云(いふ)者なし。流るゝ血には斧(をの)の柄(え)も朽(くつ)る許(ばかり)に成(なり)にけり。美濃勢には、土岐七郎(しちらう)を始(はじめ)として、桔梗一揆(いつき)の衆九十七騎まで討(うた)れぬ。近江勢には、伊庭(いばの)八郎(はちらう)・蒲生(がまふ)将監(しやうげん)・川曲(かわぐま)三郎・蜂屋(はちや)将監(しやうげん)・多賀中務(たがのなかづかさ)・平井孫八郎(はちらう)・儀俄(げが)五郎知秀(ともひで)以下、三十八騎討(うた)れぬ。
此外(このほか)粟飯原(あいはら)下野(しもつけの)守(かみ)・匹田(ひきだ)能登(のとの)守(かみ)も討死しつ。後藤筑後(ちくごの)守(かみ)貞重も生虜(いけどら)れぬ。打残されたる者とても、或(あるひ)は疵(きず)を被(かふむ)り或(あるひ)は矢種(やだね)射尽(いつく)して、重(かさね)て可戦共覚(おぼえ)ざりければ、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)も日暮(くれ)て東坂本(ひがしさかもと)へ落給ふ。是(これ)までも猶(なほ)細河相摸守(さがみのかみ)清氏は元の陣を不引退、人馬(じんば)に息を継(つが)せて、我に同(どう)ずる御方あらば、今一度(いちど)快(こころよ)く挑戦(いどみたたかう)て雌雄(しゆう)を爰(ここ)に決せんとて、西坂本に引(ひき)、其(その)夜は遂(つひ)に落(おち)給はず。
夜明(あけ)ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)より使者を立て、「重(かさね)て合戦の評定あるべし。先(まづ)東坂本(ひがしさかもと)へ被打越候へ。」と被仰ければ、此(この)上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本(ひがしさかもと)へ被参ける。此(この)時(とき)故武蔵守(むさしのかみ)師直が思者(おもいもの)の腹に出来たりとて、武蔵将監(しやうげん)と云(いふ)者、片田舎に隠(かくれ)て居たりけるを、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠等(ともただら)、俄(にはか)に取(とり)立(たて)て大将になし、丹波・丹後(たんご)・但馬三箇国(さんかこく)の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)を集(あつめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に力を合(あは)せん為に、西山の吉峯(よしみね)に陣を取てぞ居たりける。
京都の大敵にだに輙(たやす)く打勝て勇々(いさみいさみ)たる山名が兵共(つはものども)なれば、なじかは少しも可猶予、十一日(じふいちにちの)曙(あけぼの)に吉峯へ押寄(おしよせ)、矢一(ひとつ)も射させず、抜連(ぬきつれ)て切て上る。阿保(あふ)・荻野(をぎの)が兵共(つはものども)余(あま)りにつよく被攻て、一支(ひとささへ)も支(ささ)へず谷底へ懸落(かけおと)されければ、久下(くげ)五郎を始(はじめ)として討(うた)るゝ者四十(しじふ)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。希有(けう)にして逃延(にげのび)たる者共(ものども)も、弓矢・太刀・長刀を取捨(とりすて)て、赤裸(あかはだか)にて落(おち)て行(ゆく)。見苦(みぐる)しかりし有様也(なり)。武蔵将監(しやうげん)は、二町(にちやう)許(ばかり)落延(おちのび)たりけるを、阿保(あふ)と荻野と遥(はるか)に顧(かへりみ)て、「今は叶はぬ所にて候。御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ける間、馬上にて腹掻切(かきき)り、倒(さかさま)に落(おち)て死にけり。
此(この)首を取(とら)んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田(ぬまた)小太郎只(ただ)一騎(いつき)返(かへし)合(あは)せて戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。御方(みかた)はつゞかず、叶ふまじとや思(おもひ)けん、同(おなじく)腹掻切て、武蔵将監(しやうげん)が死骸を枕にしてぞ臥(ふし)たりける。其(その)間に阿保と荻野は落延(おちのび)て、無甲斐命を助(たすか)りけり。  
主上(しゆしやう)義詮没落(ぼつらくの)事(こと)付(つけたり)佐々木(ささきの)秀綱討死(うちじにの)事(こと)
義詮朝臣(よしあきらあそん)は、兼(かね)て佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱を警固に備(そな)ふれば、東坂本(ひがしさかもと)の事心安(こころやす)かるべし。爰(ここ)にて国々の勢をも催(もよほ)さんと被議けるが、吉野殿(よしのどの)より大慈院(だいじゐん)の法印を大将の為に山門へ呼(よび)寄(よせ)たりと沙汰しける間、坂本を皇居(くわうきよ)になされん事可悪とて、同六月十三日(じふさんにち)、義詮朝臣(よしあきらあそん)竜駕(りようが)を守護(しゆご)し奉て、東近江(ひがしあふみ)へ落給ふ。
行幸の供奉(ぐぶ)には、二条(にでうの)前(さきの)関白左大臣(くわんばくさだいじん)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらつぢ)大納言(だいなごん)忠秀(ただひで)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信(いへのぶ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・花山(くわざんの)院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・左大弁(さだいべん)俊冬(としふゆ)・右大弁経方(つねまさ)・左中弁時光(ときみつ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿(おんこし)を早めらる。
武士には足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を大将にて、細河相摸守(さがみのかみ)清氏・尾張(をはりの)民部(みんぶの)少輔(せう)・舎弟(しやてい)左京(さきやうの)権(ごんの)大夫(たいふ)・同左近(さこんの)将監(しやうげん)・今河駿河(するがの)守(かみ)頼貞(よりさだ)・同兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)助時(すけとき)・同左近(さこんの)蔵人(くらんど)・土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)・熊谷(くまがえ)備中(びつちゆうの)守(かみ)直鎮(なほつね)・佐々木(ささき)・山内(やまのうち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)信詮(のぶあきら)、是等(これら)を宗(むね)との人々として、都合其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)、和仁(わに)・堅田(かただ)の浜道に駒を早めてぞ被落ける。
爰(ここ)に故(こ)堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さざみつ)の子息掃部助(かもんのすけ)貞祐(さだすけ)が、此(この)四五年堅田に隠(かくれ)て居たりけるが、其(その)辺の溢者共(あぶれものども)を語て、五百(ごひやく)余人(よにん)真野(まの)の浦に出合て、落行(おちゆく)敵を打止(うちとめ)んとす。真前(まつさき)には住上を擁護(おうご)し奉て、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)御門徒(ごもんと)の大衆、済々(せいぜい)と召具(めしぐ)して落(おち)させ給へば、門主に恕(じよ)を置奉て弓を不引、矢を不放。此(この)間坂本の警固(けいご)にて居たりつる佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱、三百(さんびやく)余騎(よき)にて遥(はるか)の後陣(ごぢん)に通(とほ)りけるを、「是(これ)は山門の故敵(こてき)、時の侍所なれば、是(これ)を討留(とどめ)よ。」とて、堀口が兵五百(ごひやく)余人(よにん)東西より引裹(ひつつつん)で、足軽の射手(いて)山にそひ皋(さは)を阻(へだて)て散々に射ける間、佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・寺田八郎左衛門(はちらうざゑもん)・今村五郎一所にて皆討(うた)れにけり。
秀綱は憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)若党共(わかたうども)が、跡に蹈(ふみ)止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門(しらうざゑもんの)入道(にふだう)と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立(かちだち)の敵に馬の諸膝(もろひざ)ながれて、落(おつ)る処にて討(うた)れにければ、遥(はるか)に落延(おちのび)たる若党共(わかたうども)三十七人(さんじふしちにん)、返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。其(その)夜は塩津(しほづ)に腰輿(えうよ)を舁(かき)留(とどめ)奉りて、供奉(ぐぶ)の人々をも些(すこし)休め奉らんとせられけるを、塩津(しおづ)・海津(かいづ)の地下人(ぢげにん)共(ども)、軍勢(ぐんぜい)此(ここ)に一夜(いちや)も逗留(とうりう)せば、事に触(ふれ)て煩(わづらひ)あるべしと思(おもひ)ける間、此(ここの)道の辻、彼(かしこ)の岡山(をかやま)に取上(とりあげ)て、鐘を鳴(なら)し時を作りける程に、暫(しばし)の御逗留(ごとうりう)叶はで、主上(しゆしやう)又腰輿(えうよ)に召(めさ)れたれ共(ども)、舁進(かきまゐ)らすべき駕輿丁(かよちやう)も、皆逃失(にげうせ)て一人もなければ、細河相摸守(さがみのかみ)清氏、馬より飛(とん)で下(お)り徒立(かちだち)になり、鎧の上に主上(しゆしやう)を負進(おひまゐら)せて、塩津の山をぞ越(こえ)られける。
子推(しすゐ)が股(もも)の肉を切り、趙盾(てうとん)が車の片輪を扶(たすけ)しも、此(この)忠には過(すぎ)じとぞ見へし。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、或(あるひ)は長汀(ちやうてい)の月に策(むち)をあげ、或(あるひ)は曲浦(きよくほ)の浪に棹(さを)さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書(かき)し征路(せいろ)の篇(へん)も、今こそ被思知たれ。是(これ)より東は路次(ろし)の煩(わづらひ)も無(なか)りしかば、美濃の垂井(たるゐ)の宿の長者が家を皇居(くわうきよ)にして、義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の官軍(くわんぐん)皆四辺(しへん)の在家に宿を取て、皇居(くわうきよ)を警固し奉りけり。  
山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏京落(きやうおちの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏は、都の敵を輙(たやす)く攻(せめ)落(おと)して心中の憤(いきどほり)一時に解散(げさん)しぬる心地して、喜悦(きえつ)の眉を開(ひらく)事理(ことはり)也(なり)。勢著(つ)かばやがて濃州(ぢようしう)へ発向(はつかう)して、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を攻(せめ)奉らんと議せられけれ共(ども)、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀(まれ)也(なり)。剰(あまつさへ)洛中(らくちゆう)には吉野殿(よしのどの)より四条(しでうの)少将(せうしやう)を成敗(せいばい)の体(てい)にて置(おか)れたりける間、毎事(まいじ)山名が計(はからひ)にも非(あら)ず、又知行の所領も近辺に無(なか)りければ、出雲・伯耆より上り集(あつまり)たりし勢共(せいども)も、在京に労(つか)れて漸々(ぜんぜん)に落行(おちゆき)ける程に、日を経て無勢(ぶせい)に成(なり)にけり。
角(かく)ては如何(いかが)せん、却(かへつ)て敵に寄(よせ)られなば我(われ)も都を落されぬと、内々仰天(ぎやうてん)せられける処に、義詮朝臣(よしあきらあそん)、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢を率(そつ)して宇治・勢多より攻(せめ)上らるとも聞へ、又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)が中国より勢を卒(そつ)して上洛(しやうらく)すとも聞へければ、四方(しはう)の敵の近付かぬ先に早く引退(ひきしりぞ)けとて、数日(すじつ)の大功徒(いたづら)に、天下に時を不得しかば、四条(しでうの)少将(せうしやう)は官軍(くわんぐん)を卒(そつ)して南方に帰り、山名は父子諸共(もろとも)に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。  
直冬(ただふゆ)与吉野殿(よしのどの)合体(がつていの)事(こと)付(つけたり)天竺震旦(しんだん)物語(ものがたりの)事(こと)
翌年(よくねん)の春、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・脇屋(わきや)左衛門義治(よしはる)、共に相摸(さがみ)の河村の城(じやう)を落(おち)て、何(いづ)くに有共不聞しかば、東国心安(こころやす)く成て、将軍尊氏(たかうぢの)卿(きやう)上洛(しやうらく)し給へば京都又大勢に成(なり)にけり。さらば軈(やがて)山名を可被攻とて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)を先(まづ)播磨国(はりまのくに)へ下さる。山名伊豆(いづの)守(かみ)是(これ)を聞て、此度(このたび)は可然大将を一人取り立(たて)て合戦をせずは、我に勢の著(つく)事は有まじと被思ける間、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬の筑紫九国の者共(ものども)に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請(まねきしやう)じ奉り、惣大将(そうだいしやう)とぞ仰ぎける。
但(ただし)是(これ)も将軍に敵すれば、子として父を譴(せむ)る咎(とが)あり。天子に対すれば臣として君を無(ないがしろに)し奉る恐(おそれ)あり。さらば吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経て勅免(ちよくめん)を蒙(かうむ)り、宣旨に任(まかせ)て都を傾け、将軍を攻(せめ)奉らんは、天の忿(いか)り人の譏(そし)りも有(ある)まじとて、直冬潜(ひそか)に使を吉野殿(よしのどの)へ進(まゐら)せて、「尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の逆徒(ぎやくと)を可退治(たいぢ)由の綸旨(りんし)を下(くだし)給て、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院(とうゐんの)右大将(うだいしやう)頻(しきり)に被執甲ければ、再往(さいわう)の御沙汰(ごさた)迄もなく直冬が任申請、即(すなはち)綸旨をぞ被成ける。
是(これ)を聞て遊和軒朴翁(いうくわけんはくをう)難じ申(まうし)けるは、「天下の治乱興滅(ちらんこうめつ)皆(みな)大の理に不依と云(いふ)事なし。されば直冬朝臣(ただふゆあそん)を以て大将として京都を被攻事、一旦(いつたん)雖似有謀事(こと)成就(じやうじゆ)すべからず。其(その)故は昔天竺に師子国(ししこく)と云(いふ)国(くに)あり。此(こ)の国の帝他国より后(きさき)を迎へ給(たまひ)けるに、軽軒香車(けいけんかうしや)数百乗(すひやくじよう)、侍衛(じゑ)官兵十万人、前後四五十里(しごじふり)に支(ささへ)て道をぞ送り進(まゐら)せける。日暮(くれ)て或深山(あるしんざん)を通(とほ)りける処に、勇猛奮迅(ふんじん)の師子(しし)共(ども)二三百疋(にさんびやつぴき)走(はしり)出(いで)、追譴(おつせめ)々々(おつせめ)人を食(くひ)ける間、軽軒軸(ぢく)折(をれ)て馳(はす)れ共不遁、官軍(くわんぐん)矢射尽(いつくし)て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従(ぼくじゆう)、上下三百万人(さんびやくまんにん)、一人も不残喰殺(くいころ)されにけり。
其(その)中に王たる師子(しし)、彼后(かのきさき)を口にくはへて、深山幽谷の巌(いはほ)の中に置奉て、此(この)師子容顔(ようがん)美麗なる男の形に変じければ、后此(この)妻と成(なり)給(たまひ)て、思はぬ山の岩の陰(かげ)に、年月をぞ送らせ給(たまひ)ける。
始の程は后、かゝる荒き獣(けだもの)の中に交(まじは)りぬれば、我さへ畜類(ちくるゐ)の身と成(なり)ぬる事の心憂(こころう)さ、何に命のながらへて、一日片時(いちにちへんし)も過(すぐ)べしと覚えず、消(きえ)ぬを露の身の憂さに思召沈(おぼしめししづ)ませ給ひけるが、苔(こけ)深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干(こらうやかん)は媚(ばけ)て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)となり、師子は化(け)して万乗の君と成て、玉(ぎよくい)の座に粧(よそほひ)を堆(うづだか)くして、袞竜(こんりよう)の御衣に薫香(くんかう)を散ぜしかば、后早(はや)憂かりし御思も消果(きえはて)て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲(かなし)み、階老(かいらう)の枕の下に、夜の隔(へだ)つる程をだにかこたれぬべく思召す。
角(かく)て三年(みとせ)を過(すご)させ給(たまひ)ける程に、后たゞならず成(なり)給(たまひ)て男子を生(うみ)給へり。愍(あはれ)みの懐(ふところ)の中に長(ひととなつ)て歳十五に成(なり)ければ、貌形(みめかたち)の世に勝(すぐれ)たるのみに非(あら)ず、筋力(きんりよく)人に超(こえ)て、何(いか)なる大山を挟(はさん)で北海を飛越(とびこゆ)る共、可容易とぞみへたりける。或(ある)時(とき)此(この)子母の后に向て申けるは、「適(たまたま)人界(にんがい)の生を受(うけ)ながら、后は畜類の妻と成(なら)せ給ひ、我は子と成(なり)て候事、過去の宿業(しゆくごふ)とは申ながら、心憂(こころうき)事にて候はずや。可然(しかるべき)隙(ひま)を求(もとめ)て、后此(この)山を逃(にげ)出させ給へ。我負(おひ)奉て師子国(ししこく)の王宮(わうぐう)へ逃篭(にげこも)り、母を后妃の位に昇(のぼせ)奉り、我(われ)も朝烈(てうれつ)の臣と仕へて、畜類の果(くわ)を離れ候はん。」と勧(すすめ)申ければ、母の后無限喜(よろこび)て、師子の他(たの)山へ行(ゆき)たりける隙(ひま)に、后此(この)子に負(おは)れて、師子国の王宮へぞ参り給(たまひ)ける。
帝不斜(なのめならず)喜び思召(おぼしめし)て、君恩類(たぐひ)無(なか)りければ、後宮(こうきゆう)綺羅(きら)の三千(さんぜん)、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新(あたらし)き人来(きたりて)旧き人棄(すて)られぬ。眼の裏(うち)の荊棘(けいぎよく)掌上(たなごころのうへ)の花の如し。去(さる)程(ほど)に師子(しし)外の山より帰り来て后を尋(たづね)求(もとむ)るに、后も座(おはしま)さず、我(わが)子もなし。こは何(いか)なる事ぞと驚き周章(あわて)て、ばけたる貌(かたち)元の容(すがた)に成て、山を崩し木を堀倒し求(もとむ)れ共不得。さては人の棲(す)む里にぞ御坐(おはす)らんとて、師子国へ走(はしり)出て、奮迅(ふんじん)の力を出して吠忿(ほえいか)るに、何(い)かなる鉄(くろがね)の城(じやう)なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼(おそ)れ倒(たふれ)、死する者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をしらず。又不近付所も、家を捨(すて)財宝を捨(すて)逃去(にげさり)ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。
され共(ども)、此(この)師子王位にや恐(おそれ)けん、都の中へは未入(いまだいらず)、只王宮近き辺に来て、夜々(よなよな)地を揺(うごか)して吠嗔(ほえいか)り、天に飛揚(ひやう)して鳴叫(なきさけび)ける間、大臣・公卿・刹利(せつり)・居士(こじ)、皆宮中に逃篭(にげこも)る。時に公卿僉議有て、此(この)師子を退治(たいぢ)して進(まゐら)せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札(ふだ)を書てぞ被立ける。彼(かの)師子の子此(この)札を見て、さらば我(われ)父の師子を殺して一国を給(たまは)らんと思(おもひ)ければ、尋常(よのつね)の人ならば、百人(ひやくにん)しても引はたらかすまじかりける鉄(くろがね)の弓・鉄の矢を拵(こしら)へ、鏃(やじり)に毒を塗(ぬつ)て、父の師子をぞ相待(あひまち)ける。
師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺(くひころ)さんとて、禁門の前を過(すぎ)けるが、我(わが)子の毒の矢をはげて立向(たちむかひ)たるを見て、涙を流し地に臥(ふし)て申けるは、「我年久(ひさしく)相馴(あひなれ)し后と、二人(ににん)ともなき汝を失(うしなひ)て、恋(こひしく)悲(かなし)く思ふ故(ゆゑ)に、若干(そくばく)の人を失ひ多くの国土を亡(ほろぼ)しつ。然(しか)るに事の様を尋(たづね)きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有(あり)がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦(たとひ)我(わが)命を失ふ共悲(かなし)む処にあらずと思(おもひ)き。道々に被立たる札を見れば、我(わが)命を以(もつて)一国の抽賞(ちうしやう)に被報たり。
然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有(ある)べからず。命を惜(をし)むも子の為也(なり)。汝一国の主と成て栄花を子孫に及(およぼ)さば、我命全く不可惜。早く其(その)弓を引(ひき)其(その)矢を放(はなち)て我を射殺し、報国(はうこく)の賞に預(あづか)れ。」とて、黄(き)なる涙を流しつゝ、「爰(ここ)を射よ。」とて自(みづから)口(くち)をあきてぞ臥(ふし)たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶(なお)深く、子は人倫(じんりん)の身なれ共親を思ふ道無(なか)りければ、飽(あく)まで引て放つ矢に、師子喉(のんど)を射抜(いぬか)れて、地に伏(ふし)て忽(たちまち)に死(しに)けり。子、師子の頚(くび)を取て天子に是(これ)を奉る。一人(いちじん)万民悦(よろこび)合へる事限(かぎり)なし。
已(すで)に宣旨を下して其(その)賞を定(さだめ)られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重(かさね)て公卿僉議有て、勅宣(ちよくせん)に随(したが)ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但(ただし)忠賞の事は法を被定しかば、綸言(りんげん)今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)、百年が間を勘(かんがへ)て、天下の鰥寡孤独(くわんくわこどく)の施行(せぎやう)に引(ひか)れぬ。以彼思之、縦(たとひ)一旦(いつたん)利を得たり共終(つひ)には諸天の御とがめあるべし。又漢朝の古、帝尭(ていげう)と申けるいみじき聖徳(せいとく)の帝(みかど)御坐(おはしま)しけり。
天子の位にいます事七十年(しちじふねん)、御年已(すで)に老(おい)ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋(おんたづね)有ければ、大臣皆諛(へつらう)て、「幸(さいはひ)に皇太子にて御渡(おんわたり)候へば丹朱(たんしゆ)にこそ御譲(おんゆづ)り候はめ。」と申けるを、帝尭(ていげう)、「天下は是(これ)一人の天下に非(あら)ず、何を以てか太子なればとて、天下授(さづく)るに足(たら)ざらん者に位を譲て、四海(しかい)の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授(さづけ)給はず。
さても何(いづ)くにか賢人ありと、隠遁(いんとん)の者までも尋(たづね)求め給ひける処に、箕山(きさん)と云(いふ)所に許由(きよゆう)と申(まうし)ける賢人、世を捨(すて)光を韜(つつみ)て、只(ただ)苔深く松痩(やせ)たる岩の上に一瓢(いつぺう)を懸(かけ)て、瀝々(れきれき)たる風の音に人間迷情(めいせい)の夢を醒(さま)してぞ居たりける。帝尭(ていげう)是(これ)を聞召(きこしめし)て即(すなはち)勅使(ちよくし)を立(たて)られ、御位を譲(ゆづる)べき由を被仰けるに、許由遂(つひ)に勅答を不申。剰(あまつさへ)松風渓水(しやうふうけいすゐ)の清き音を聞て爽(さはやか)なる耳の、富貴(ふつき)栄花(えいぐわ)の賎(いや)しき事を聞て汚(けが)れたる心地しければ、潁川(えいせん)の水に耳を洗(あらひ)ける程に、同じ山中に身を捨(すて)隠居したりける巣父(さうふ)と云(いふ)賢人、牛を引て此(この)川に水を飼(かは)んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。」と問(とひ)ければ、許由(よし)、「帝尭(ていげう)の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚(けがれ)たる心地して候間洗ふ也(なり)。」とぞ答へける。
巣父首(かうべ)を掻(かい)て、「さればこそ此(この)水例(れい)よりも濁(にごつ)て見へつるを、何故(なにゆゑ)やらんと無覚束思ひたれば、此(この)事にて有けり。左様(さやう)に汚(けがれ)たる耳を洗(あらひ)たる水の流(ながれ)をば、牛にも飲(か)ふべき様なし。」とて徒(いたづら)に牛を引てぞ帰りける。帝尭(ていげう)さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈(くま)もなく尋(たづね)求(もとめ)給ふに、冀州(きしう)に虞舜(ぐしゆん)と云(いふ)賎(いやし)き人あり。其(その)父瞽叟(こそうは)盲(めしひて)母は頑(くわんぎん)也(なり)。弟(おとと)の象(しやうは)驕戻(おごりもとる)。虞舜は孝行の心深(ふかく)して、父母を養はん為に歴山(れきさん)に行て耕(たかや)すに、其(その)地の人畔(くろ)を譲り、雷沢(らいたく)に下て漁(すなど)るに、其(その)浦(うら)の人居(きよ)を譲る。
河浜(かひん)に陶(すゑものづくり)するに、器(うつはもの)苦(ゆがみ)窪(いしま)あらず。虞舜の行(ゆき)て居(を)る処、二年あれば邑(いう)をなし、三年あれば都(と)をなす。万人其(その)徳を慕(したう)て来(きたり)集(あつまり)し故(ゆゑ)也(なり)。舜年二十(はたち)にして孝行天下に聞へしかば、帝尭(ていげう)是(これ)に天下を譲らんと覚(おぼ)す心あり。先(まづ)内外に著(つけ)て其(その)行を御覧ぜんと覚(おぼ)して、娥皇(がくわう)・女英(ぢよえい)と申ける姫宮を二人(ににん)舜に妻(めあ)はせ給ふ。又尭(げう)の御子九人(くにん)を舜の臣となして、其(その)左右にぞ慎(つつし)み随(したが)はせられける。尭(げう)の二女己(おの)れが高きを以て夫(をつと)に驕(おご)らざれば、舜の母に嬪(よめづかひ)する事甚(はなはだ)不違。九男(きうなん)同(おなじ)く舜に臣として事(つかふ)ること礼敬更(さら)に不懈。帝尭(ていげう)弥(いよいよ)悦(よろこび)て、舜に又、倉廩(さうりん)・牛羊(ぎうやう)・衣(ちい)・琴(こと)一張を給ふ。舜如斯声誉(せいよ)上に達し父母に孝有しか共、継母(けいぼ)我(わが)子の象(しやう)を世に立(たて)ばやと猜(そね)む心深く有しかば、瞽叟(こそう)と象と三人(さんにん)相謀(あひはかつ)て舜を殺さんとする事度々(どど)也(なり)。
舜是(これ)をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌(かうてい)の心弥(いよいよ)慎(つつしみ)て、只(ただ)父母の意(こころ)に違(たが)へる事をのみ天に仰(あふい)でぞ悲(かなし)みける。或(ある)時(とき)瞽叟(こそう)舜を廩(くら)の上に登(のぼ)せて屋(やね)を葺(ふか)せけるに、母下より火を放(はなし)て舜を焼殺さんとす。舜始(はじめ)より推(すゐ)したりしかば、兼(かね)て持(もち)たる二の唐笠(からかさ)を張(はり)て、其柄(そのえ)に取付て飛下(とびおり)にけり。瞽叟不安思(おもひ)ければ、又象と相謀(あひはかつ)て舜に井をぞ堀(ほら)せける。
是(これ)は井已(すで)に深く成(なり)たらん時、上より土を下して舜を乍生埋(うづめ)ん為也(なり)。堅牢地神(けんらうぢじん)も孝行の子を哀(あはれ)にや覚(おぼ)しけん、井の底より上(あげ)ける土の中に半(なか)ば金(こがね)ぞ交(まじは)りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心(よくしん)に万事を忘(わすれ)ければ、土を揚(あげ)ける度毎(たびごと)に是(これ)を争ふ事限なし。其(その)間に舜傍(かたはら)に匿穴(くけあな)をぞ堀(ほつ)たりける。井已(すで)に深く成(なり)ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落(おと)して舜を埋(うづめ)ければ、舜潜(ひそか)に兼(かね)て堀(ほり)し匿穴(くけあな)より逋(のがれ)出て己(おの)れが宮へぞ帰(かへり)ける。舜如斯して生(いき)たりとは弟の象夢にも不知、帝尭(ていげう)より舜に給はりし財共を面々に分ち領(りやう)じけるに、牛羊(ぎうやう)・倉廩(さうりん)をば父母に与へ二女と琴(こと)一張とをば象我(わが)物にすべしと相計(あひはから)ふ。
象則(すなはち)琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮(みや)に行(ゆき)たれば、舜敢(あへ)て不死、二女は瑟(しつ)を調べ、舜は琴(こと)を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂(おどろい)て曰く、「我(われ)舜を已(すで)に殺しつと思(おもひ)て、鬱陶(うつたう)しつ。」と云(いひ)て、誠(まこと)に忸怩(はぢ)たる気色なれば、舜琴を閣(さしおい)て、其弟(そのおとと)たる言(こと)ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲(かなし)く思ひつらん。」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯(かかり)し後も舜弥(いよいよ)孝有て父母に事(つかふ)る道も不懈、弟を愛(あいす)る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕(あらは)れて、帝尭(ていげう)遂(つひ)に帝位を譲り給ひにけり。
舜天子の位を践(ふん)で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随(したが)ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌(つちくれ)を破(やぶる)事なし。国富み民豊(ゆたか)にして、四海(しかい)其(その)恩を仰ぎ、万邦其(その)徳を頌(しよう)せり。されば孔子(こうし)も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈(あに)為君忠あらんや。天竺・震旦(しんだん)の旧(ふる)き迹(あと)を尋(たづぬ)るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例(れい)是(これ)也(なり)。為父孝あれば賎(いや)しけれ共被賞。虞舜の徳是(これ)也(なり)。然(しかる)に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は父を亡(ほろぼ)さん為に君の命を仮(から)んとす。君是(これ)を御許容(きよよう)有て大将の号(がう)を被許事旁(かたがた)以(もつて)非道。山名伊豆(いづの)守(かみ)若(もし)此(この)人を取立(とりたて)て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木(さくぼく)の隠子朴翁(いんしはくをう)が眉(まゆ)を顰(ひそめ)て申(まうし)けるが、果してげにもと被思知世に成(なり)にけり。  
直冬上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)鬼丸(おにまる)鬼切(おにきりの)事(こと)
南方に再往(さいわう)の評定有て、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将として京都を可攻由(よし)、綸旨(りんし)を被成ければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、五千(ごせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、文和三年十二月十三日(じふさんにち)伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)給ふ。山陰道(せんおんだう)悉(ことごとく)順(したがひ)付て兵七千騎(しちせんぎ)に及びしかば、但馬(たぢまの)国(くに)より杉原越(すぎはらごえ)に播磨へ打て出(いでて)、先(まづ)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)義詮の鵤(いかるが)の宿(しゆく)にをはするをや打散す、又直(すぐ)に丹波へ懸て、仁木(につき)左京(さきやうの)太夫(たいふ)頼章(よりあきら)が佐野の城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て、我等(われら)を支(ささ)へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経の許(もと)より飛脚同時に到来(たうらい)して、只(ただ)急ぎ京都へ攻(せめ)上られ候へ。
北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒(てふ)せられける間、さらば夜を日に継(つい)で上(のぼら)んとて、山名父子七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、前後十里(じふり)に支(ささへ)て丹波(たんばの)国(くに)を打通るに、仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章当国(たうごく)の守護(しゆご)として敵を支(ささへ)ん為に在国(ざいこく)したる上、今は将軍の執事として勢(いきほ)ひ人に超(こえ)たれば、丹波(たんばの)国(くに)にて定(さだめ)て火を散(ちら)す程の合戦五度(ごど)も十度(じふど)もあらんずらんと覚(おぼ)へけるに、敵の勇鋭(ゆうえい)を見て戦(たたかう)ては中々叶はじとや思ひけん、遂(つひ)に矢の一(ひとつ)をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲(あざけ)るのみならず天下の口遊(くちずさみ)とぞ成(なり)にける。
都に有(あり)とある程の兵をば義詮朝臣(よしあきらあそん)に付(つけ)て播磨へ被下、遠国の勢(せい)は未(いまだ)上らず。将軍僅(わづか)なる小勢にて京中(きやうぢゆう)の合戦は中々悪(あし)かりぬと、思慮旁(かたがた)深かりければ、直冬已(すで)に大江山(おいのやま)を超(こゆ)ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上(しゆしやう)を取奉て江州(がうしうの)武作寺(むさてら)へ落(おち)給ふ。抑(そもそも)此(この)君御位に即(つか)せ給て後、未(いまだ)三年を不過、二度(ふたたび)都を落(おち)させ給ひ、百官皆他郷(たきやう)の雲に吟(さまよ)ひ給ふ、浅猿(あさまし)かりし世中(よのなか)なり。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十三日(じふさんにち)、直冬都に入(いり)給へば、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)す。
直冬朝臣(ただふゆあそん)此(この)七八箇年(しちはちかねん)、依継母讒那辺這辺(かなたこなた)漂泊(へうはく)し給(たまひ)つるが、多年の蟄懐(ちつくわい)一時に開けて今天下の武士に仰(あふが)れ給へば、只年に再(ふたた)び花さく木の、其(その)根かるゝは未知(いまだしらず)、春風(しゆんぷう)三月、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)するに不異。抑(そもそも)山名伊豆(いづの)守(かみ)は、若狭(わかさの)所領の事に付て宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に恨(うらみ)あり。
桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)は、故高倉禅門に属(しよく)して望(のぞみ)を不達憤(いきどほり)あれば、此(この)両人の敵に成(なり)給ひぬる事は少し其謂(そのいはれ)も有(ある)べし。尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経は忠戦自余(じよ)の一門(いちもん)に超(こえ)しに依て、将軍も抽賞(ちうしやう)異于他にして世其仁(そのじん)を重くせしかば、何事に恨(うらみ)有(ある)べし共覚(おぼえ)ぬに、俄(にはか)に今敵に成て将軍の世を傾(かたぶけ)んとし給ふ事、何の遺恨(ゐこん)ぞと事の起りを尋ぬれば、先年(せんねん)越前の足羽(あすは)の合戦の時、此(この)高経朝敵(てうてき)の大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞を討て、源平累代(るゐだい)の重宝(ちようはう)に鬼丸(おにまる)・鬼切(おにきり)と云(いふ)二振(ふたふり)の太刀を取(とり)給ひたりしを、将軍使者を以て、「是(これ)は末々(すゑずゑ)の源氏なんど可持物に非(あら)ず、急ぎ是(これ)を被渡候へ。当家の重宝として嫡流(ちやくりう)相伝すべし。」と度々被仰けるを、
高経堅く惜(をしみ)て、「此(この)二振の太刀をば長崎(ながさき)の道場に預(あづけ)置(おき)て候(さふらひ)しを、彼(かの)道場炎上(えんしやう)の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替(とりかへ)て、焼損(やきそん)じてぞ出されける。此(この)事有(あり)の侭(まま)に京都へ聞へければ、将軍大に忿(いかつ)て、朝敵(てうてき)の大将を討たりつる忠功抜群(ばつくん)也(なり)といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共(ことども)多かりける間、高経是(これ)を憤(いきどほつ)て、故高倉禅門の謀叛の時も是(これ)に与(くみ)し、今直冬(ただふゆ)の上洛(しやうらく)にも力を合(あはせ)て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。
抑(そもそも)此(この)鬼丸(おにまる)と申(まうす)太刀は、北条(ほうでうの)四郎時政天下を執(とつ)て四海(しかい)を鎮(しづ)めし後、長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)夜々(よなよな)時政が跡枕(あとまくら)に来て、夢共なく幻(うつつ)共(とも)なく侵(をか)さんとする事度々也(なり)。修験(しゆげん)の行者(ぎやうじや)加持(かぢ)すれ共不休。陰陽寮(おんやうれう)封(ふう)ずれ共不立去。剰(あまつさ)へ是故(これゆゑに)時政病を受(うけ)て、身心(しんしん)苦(くるし)む事隙(ひま)なし。或夜の夢に、此(この)太刀独(ひとり)の老翁(らうをう)に変じて告(つげ)て云(いは)く、「我常に汝を擁護(おうご)する故(ゆゑ)に彼夭怪(かのようくわい)の者を退(しりぞ)けんとすれば、汚(けが)れたる人の手を以て剣を採(と)りたりしに依て、金精(さび)身より出て抜(ぬけ)んとすれ共不叶。早く彼(かの)夭怪の者を退けんとならば、清浄(しやうじやう)ならん人をして我(わが)身の金清(さび)を拭(のご)ふべし。」と委(くはし)く教へて、老翁は又元の太刀に成(なり)ぬとぞ見(みえ)たりける。
時政夙(つと)に起(おき)て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴(あび)せて此(この)太刀の金精(さび)を拭(のご)はせ、未(いまだ)鞘(さや)にはさゝで、臥(ふし)たる傍(そば)の柱にぞ立掛(たちかけ)たりける。冬の事なれば暖気(だんき)を内に篭(こめ)んとて火鉢を近く取寄たるに、居(すゑ)たる台を見れば、銀(しろがね)を以て長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)を鋳(い)て、眼には水晶を入(いれ)、歯には金をぞ沈(しづ)めたる。時政是(これ)を見るに、此(この)間夜な/\夢に来て我を悩(なやま)しつる鬼形(きぎやう)の者は、さも是(これ)に似たりつる者哉と、面影ある心地して守(まも)り居たる処に、抜(ぬい)て立たりつる太刀俄(にはか)に倒れ懸りて、此(この)火鉢の台なる小鬼(せうき)の頭(かうべ)をかけず切てぞ落(おと)したる。
誠(まこと)に此(この)鬼や化(け)して人を悩(なやま)しけん、時政忽(たちまち)に心地直(なほ)りて、其(その)後よりは鬼形の者夢にも曾(かつ)て見へざりけり。さてこそ此(この)太刀を鬼丸(おにまる)と名付(なづけ)て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝(つたは)りける。相摸(さがみ)入道(にふだう)鎌倉(かまくら)の東勝寺にて自害に及(および)ける時、此(この)太刀を相摸入道(さがみにふだう)の次男少名(をさなな)亀寿(かめじゆ)に家の重宝なればとて取(とら)せて、信濃(しなのの)国(くに)へ祝部(はふり)を憑(たのみ)て落行(おちゆく)。
建武二年八月に鎌倉(かまくら)の合戦に打負(うちまけ)て、諏防(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始として宗(むね)との大名四十(しじふ)余人(よにん)大御堂(おほみだう)の内に走入(わしりいり)、顔の皮をはぎ自害したりし中に此(この)太刀有ければ、定(さだめて)相摸次郎時行も此(この)中に腹切てぞ有(ある)らんと人皆哀(あはれ)に思(おもひ)合へり。其(その)時(とき)此(この)太刀を取て新田殿(につたどの)に奉る。義貞不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸(おにまる)と云(いふ)重宝也(なり)。」と秘蔵(ひさう)して持(もた)れける剣也(なり)。是(これ)は奥州(あうしう)宮城(みやぎの)郡(こほり)の府に、三の真国(さねくに)と云(いふ)鍜冶(かぢ)、三年精進潔斎(しやうじんけつさい)して七重にしめを引(ひき)、きたうたる剣なり。
又鬼切(おにきり)と申(まうす)は、元(もと)は清和源氏の先祖摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)の太刀にてぞ有ける。其(その)昔大和(やまとの)国(くに)宇多(うだの)郡(こほり)に大(なる)森あり。此陰(このかげ)に夜な/\妖者(ばけもの)有て、往来の人を採食(とりくら)ひ、牛馬六畜(ぎうばろくちく)を掴裂(つかみさ)く。頼光是(これ)を聞て、郎等(らうどう)に渡辺源五綱(つな)と云(いひ)ける者に、彼(か)の妖者(ばけもの)討て参れとて、秘蔵(ひさう)の太刀をぞたびたりける。綱則(すなはち)宇多(うだの)郡(こほり)に行き甲胃(かつちう)を帯(たい)して、夜々(よなよな)件(くだん)の森の陰(かげ)にぞ待(まち)たりける。此妖者(このばけもの)綱が勢にや恐(おそれ)たりけん、敢(あへ)て眼に遮(さへぎ)る事なし。さらば形を替(かへ)て謀(たばか)らんと思(おもひ)て、髪を解乱(ときみだ)して掩(おほ)ひ、鬘(かつら)をかけ、かね黒(ぐろ)に太眉(おほまゆ)を作り、薄衣(うすぎぬ)を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通(とほ)りける。
俄(にはか)に空掻曇(かきくもり)て、森の上に物(もの)の立翔(かけ)る様に見へけるが、虚空(こくう)より綱が髪を掴(つかん)で中(ちう)に提(ひつさげ)てぞ挙(あがつ)たりける。綱、頼光(よりみつ)の許(もと)より給(たまは)りたる太刀を抜(ぬい)て、虚空を払斬(はらひぎり)にぞ切たりける。雲の上に唖(あ)と云(いふ)声して、血の颯(さつ)と顔(かほ)に懸りけるが、毛の黒く生(おひ)たる手(て)の、指三(みつ)有て爪の鉤(かがまり)たるを、二の腕よりかけず切てぞ落(おと)しける。綱此(この)手を取て頼光に奉る。頼光是(これ)を秘(ひ)して、朱(しゆ)の唐櫃(からひつ)に収(をさめ)て置(おか)れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢(せんむ)の博士(はかせ)に夢を問(とひ)給(たまひ)ければ、七日が間の重き御慎(おんつつしみ)とぞ占(うらな)ひ申ける。
依之(これによつて)堅(かたく)門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、七重に七五三(しめ)を引(ひき)四門に十二人(じふににん)の番衆を居(すゑ)て、毎夜(まいよ)宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)をぞ射させける。物忌(ものいみ)已(すで)に七日に満じける夜、河内(かはちの)国(くに)高安の里より、頼光(よりみつ)の母義(ぼぎ)をはして門をぞ敲(たたか)せける。物忌の最中(さいちゆう)なれ共(ども)、正(まさ)しき老母(らうぼ)の、対面の為とて渺々(はるばる)と来り給(たまひ)たれば、力なく門を開(ひらき)て、内へいざなひ入奉て、終夜(よもすがら)の酒宴にぞ及びける。頼光酔(ゑひ)に和(くわ)して此(この)事を語り出されたるに、老母(らうぼ)持たる盃(さかづき)を前に閣(さしお)き、「穴(あな)をそろしや、我傍(わがあたり)の人も此妖物(このばけもの)に取(とら)れて、子は親に先立(さきだち)、婦(め)は夫(をつと)に別れたる者多く候ぞや。さても何(いか)なる者にて候ぞ。哀(あはれ)其(その)手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃(ひつ)の中より件(くだん)の手を取出して老母(らうぼ)の前にぞ閣(さしおき)ける。
母是(これ)を取て、暫(しばら)く見る由(よし)しけるが、我(わが)右の手(て)の臂(ひぢ)より切られたるを差出して、「是(これ)は我(わが)手にて候(さうらひ)ける。」と云て差合(さしあはせ)、忽(たちまち)に長(たけ)二丈(にぢやう)計(ばかり)なる牛鬼(うしおに)と成て、酌(しやく)に立たりける綱(つな)を左の手に乍提、頼光(よりみつ)に走蒐(わしりかか)りける。頼光(よりみつ)件(くだん)の太刀を抜(ぬい)て、牛鬼の頭(かうべ)をかけず切て落す。其頭(そのかうべ)中(ちう)に飛揚(とびあが)り、太刀の鋒(きつさき)を五寸(ごすん)喰(くひ)切て口に乍含、半時許(はんじばかり)跳上(をどりあが)り/\吠忿(ほえいか)りけるが、遂(つひ)には地に落(おち)て死(しに)にけり。
其形(そのむくろ)は尚(なお)破風(はふ)より飛出て、遥(はるか)の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作(つくり)に破風をせざるは此故(このゆゑ)也(なり)。其比(そのころ)修験清浄(しゆげんしやうじやう)の横川(よかは)の僧都覚蓮(がくれん)を請(しやう)じ奉て、壇上に此(この)太刀を立(たて)、七五三(しめ)を引(ひき)、七日加持し給(たまひ)ければ、鋒(きつさき)五寸(ごすん)折(をれ)たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍(たちまち)に如元生(おひ)出にけり。其(その)後此(こ)の太刀多田(ただの)満仲(まんぢゆう)が手に渡て、信濃(しなのの)国(くに)戸蔵山(とかくしやま)にて又鬼を切たる事あり。
依之(これによつて)其(その)名を鬼切(おにきり)と云(いふ)なり。此(この)太刀は、伯耆(はうきの)国(くに)会見(ゑみの)郡(こほり)に大原五郎太夫安綱(やすつな)と云(いふ)鍜冶、一心清浄(しやうじやう)の誠(まこと)を至し、きたひ出したる剣也(なり)。時の武将田村(たむら)の将軍に是(これ)を奉る。此(これ)は鈴鹿(すずか)の御前(ごぜん)、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合(つるぎあはせ)の剣是(これ)也(なり)。其(その)後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮(おほみや)より夢の告(つげ)を以て、御所望有て御殿に被納。其(その)後摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)、太神宮参詣の時夢想あり。「汝(なんじ)に此(この)剣を与(あたふ)る。是(これ)を以て子孫代々(だいだい)の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示(しめし)給ひたる太刀也(なり)。されば源家に執(しつ)せらるゝも理(ことわり)なり。  
神南(かうない)合戦(かつせんの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に、将軍は持明院の主上(しゆしやう)を守護(しゆご)し奉て、近江(あふみの)国(くに)四十九院(しじふくゐん)に落止(おちとどま)り、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は西国より上洛(しやうらく)せんずる敵を支(ささ)へん為に、播磨の鵤(いかるが)に兼(かね)て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木(ささき)・仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて四十九院(しじふくゐん)へ馳(はせ)参る。四国・西国の兵二万(にまん)余騎(よき)、鵤(いかるが)へ馳集る。畠山尾張(をはりの)守(かみ)も東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を率(そつ)して、今日明日の程に参著仕(さんちやくつかまつ)るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢(おんせい)、只(ただ)竜(りよう)の天に翔(かけつ)て雲を起し、虎の山に靠(よりかかつ)て風を生(しやうずる)が如し。
東西の牒使(てふし)相図(あひづ)の日を定めければ、将軍は三万(さんまん)余騎(よき)の勢にて、二月四日東坂本(ひがしさかもと)に著(つき)給ふ。義詮朝臣(よしあきらあそん)は七千(しちせん)余騎(よき)にて、同日の早旦に、山崎の西、神南(かうない)の北なる峯に陣を取(とり)給ふ。右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺(みゐでら)の衆徒、皆(みな)将軍(しやうぐん)に志を通ずる由聞へければ、只洛中(らくちゆう)にして東西に敵を受(うけ)て繕(つくろう)て合戦をすべしとて、一手(ひとて)は右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将にて、尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経・子息兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六千(ろくせん)余騎(よき)、東寺を攻(つめ)の城(じやう)に構(かま)へて、七条より下九条(くでう)まで家々小路(こうぢ)々々(こうぢ)に充満(みちみち)たり。
一手(ひとて)は山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立(あだち)・河村(かはむら)・久世(くぜ)・土屋(つちや)・福依(ふくより)・野田・首藤沢・浅沼・大庭(にわ)・福間(ふくま)・宇多河(うだがは)・海老名(えびな)和泉(いづみの)守(かみ)・吉岡安芸(あきの)守(かみ)・小幡(をばた)出羽(ではの)守(かみ)・楯(たての)又太郎(またたらう)・加地(かぢ)三郎・後藤壱岐(いきの)四郎・倭久(わくの)修理(しゆりの)亮(すけ)・長門山城(やましろの)守(かみ)・土師(とじ)右京(うきやうの)亮(すけ)・毛利因幡(いなばの)守(かみ)・佐治(さぢ)但馬(たぢまの)守(かみ)・塩見源太以下其(その)勢(せい)合(あはせ)て五千(ごせん)余騎(よき)、前に深田(ふけた)をあて、左に河を堺(さかう)て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。
河より南には、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊・法性寺右衛門(うゑもんの)督(かみ)康長を大将として、吉良(きら)・石堂(いしたう)・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺(さかへ)・宇野・崎山(さきやま)・佐美(さみ)・陶器(すゑ)・岩郡(いはくり)・河野辺(かわのへ)・福塚(ふくづか)・橋本を始(はじめ)として、吉野の軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)、八幡(やはた)の山下(さんげ)に陣を取る。
山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、始の程は待て戦(たたかは)んとて議したりけるが、神南(かうない)の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来(ひごろ)の議を翻(ひるがへ)して、八幡に引(ひか)へたる南方の勢と一(ひとつ)に成て、先(まづ)神内(かうない)の宿(しゆく)に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯(はるび)を堅めて二の尾(を)よりあげたり。此(この)陣始(はじめ)より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・子息弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・五郎直頼(なほより)・彦五郎範実(のりざね)・肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)、並(ならびに)佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が手(ての)者・黄旗(きはた)一揆(いつき)、彼是(かれこれ)合(あはせ)て二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたり。
南の尾崎(をさき)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)、西国・中国の勢相共(あひとも)に、二千(にせん)余騎(よき)堅(かた)めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)の陣なれば、道誉(だうよ)・則祐(そくいう)以下老武者、頭人(とうにん)・評定衆・奉行人、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、油幕(ゆばく)の内に布皮(しきかは)を敷(し)き双(なら)べ、袖を連(つらね)て並居(なみゐ)たり。嶮(けはし)き山の習として、余所(よそ)はみへて麓は不見。何(いづ)れの陣へか敵は先(まづ)蒐(かか)らんと、遠目(とほめ)仕(つか)ふて守(まも)り居たる所に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を先(さき)として、出雲・伯耆の勢二千(にせん)余騎(よき)、西の尾崎へ只一息(ひといき)に懸上(かけあげ)て、一度(いちど)に時をどつと作る。
分内(ぶんない)狭(せば)き両方の峯に馬人身を側(そば)むる程に打寄(うちよせ)たれば、互に射違(いちがふ)るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明(もとあきら)と云ける強弓(つよゆみ)の手垂(てだ)れ、一段(いちだん)高き岩の上に走(わし)り上て、三人(さんにん)張りに十四束(じふしそく)三伏(みつぶせ)、飽(あく)まで引て放(はなし)けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共(つはものども)進(すすみ)かねて、少し白(しろ)うてぞ見へたりける。
是(これ)を利にして、佐々木(ささき)が黄旗一揆(いつき)の中より、大鍬形に一様(いちやう)の母衣(ほろ)懸(かけ)たる武者三人(さんにん)、己が結(ゆう)たる鹿垣(ししがき)切て押破り、「日本一(につぽんいち)の大剛の者、近江(あふみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)江見(えみの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)・蓑浦(みのうら)四郎左衛門(しらうざゑもん)・馬淵(まぶち)新左衛門(しんざゑもん)、真前(まつさき)懸(かけ)て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼(よば)は(ッ)て、斬死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明・一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)・粟飯原(あいはら)彦五郎・海老名新左衛門(しんざゑもん)四人、高声(かうしやう)に名乗て川を渡し城へ切て入(いる)。
「合戦こそ先懸(さきがけ)は一人に定まれ。加様(かやう)の広(ひろ)みの軍には、敵と一番に打違(うちちがへ)たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠(しようご)に立てたび候へ。」と呼(よば)は(ッ)て、寄手(よせて)数万の中へ只四人切て入る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大音声を揚(あげ)て、「前陣戦労(たたかひつか)れて見ゆるぞ。後陣(ごぢん)入替てあの敵討(うて)。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄(はやりを)の若武者共(わかむしやども)、二十(にじふ)余人(よにん)馬より飛下飛下(とびおりとびおり)、勇々(いさみいさん)で抜連(ぬきつれ)て渡(わたり)合ふ。後(うし)ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引(ひく)な。」と力を合て喚(をめ)き叫ぶ。前には五十(ごじふ)余人(よにん)の者共(ものども)颯(さつ)と入乱れて切合ふ。
太刀の鐔音鎧突(つばおとよろひづき)、山彦(やまびこ)に響き暫(しばし)も休(やむ)時(とき)なければ、山岳(さんがく)崩(くづれ)て川谷(せんこく)を埋(うづ)むかとこそ聞へけれ。此(この)時(とき)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもん)已下、面(おもて)に立(たつ)程の兵五十(ごじふ)余人(よにん)討(うた)れにけり。二陣の南尾(みなみを)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)大将にて、四国・中国の兵共(つはものども)が二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたりけるが、此(ここ)は殊更(ことさら)地僻(さが)り谷深く切れて、敵の上(のぼる)べき便(たより)なしと思(おもひ)ける処(ところに)、山名伊豆(いづの)守(かみ)を先として小林民部(みんぶの)丞(じよう)・小幡(をばた)・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後(たんご)・因幡の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、さしも岨(けはし)き山路(やまぢ)を盤折(つづらをり)にぞ上たりける。
此(この)陣には未(いまだ)鹿垣(ししがき)の一重(ひとへ)も結(ゆは)ざれば、両方時の声を合(あは)せて矢一筋(ひとすぢ)射違る程こそ有けれ。軈(やが)て打物(うちもの)に成(なり)て乱(みだれ)合ふ。先(まづ)一番に進(すすん)で戦(たたかひ)ける四国勢の中に、秋間(あきま)兵庫(ひやうごの)助(すけ)兄弟三人(さんにん)・生稲四郎左衛門(しらうざゑもん)一族(いちぞく)十二人(じふににん)一足(ひとあし)も引かで討(うた)れにけり。是(これ)を見て坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)・藤家(とうけ)・橘家(きつけ)の者共(ものども)少し飽(あぐ)んで見へけるを、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)須々木(すずき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)父子兄弟六人入替て戦(たたかひ)けるが、つゞく御方(みかた)なければ是(これ)も一所にて討(うた)れにけり。
是(これ)より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部(みんぶの)丞(じよう)得(え)たり賢(かしこ)しと、勝(かつ)に乗て短兵(たんぺい)急に拉(とりひしが)んと、揉(もみ)に揉(もう)で責(せめ)ける間、四国・中国の三千(さんぜん)余騎(よき)、山より北へまくり落されて、遥(はるか)に深き谷底へ、人雪頽(ひとなだれ)をつかせて落重(おちかさ)なれば、敵に逢(あう)て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫(つらぬか)れて死する兵数(かず)を不知(しらず)。
是(これ)を見て山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)弥(いよいよ)気に乗て真前(まつさき)に進む上は、相順(あひしたが)ふ兵共(つはものども)誰かは少しも擬議(ぎぎ)すべき、我先(さき)に敵に合(あは)んと争ひ前(すす)まずと云(いふ)者なし。中にも山名が郎等(らうどう)、因播(いなばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に福間(ふくまの)三郎とて、世に名を知(しら)れたる大力の有(あり)けるが、七尺(しちしやく)三寸(さんずん)の太刀だびら広(ひろ)に作りたるを、鐔本(つばもと)三尺(さんじやく)計(ばかり)をいて蛤歯(はまぐりば)に掻合(かきあは)せ、伏縄目(ふしなはめ)の鎧(よろひ)に三鍬形(みつくはがた)打たる甲(かぶと)を猪頚(ゐくび)に著なし、小跳(こをどり)して片手打(かたてうち)の払切(はらひぎり)に切て上(あが)りけるに、太刀の歯(は)に当る敵は、どう中(なか)諸膝(もろひざ)かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或(あるひ)は中(ちう)にづんど打上(うちあげ)られ、或(あるひは)尻居(しりゐ)にどうど打倒されて、血を吐(はい)てこそ死にけれ。
両陣已(すで)に破(やぶれ)し後、兵皆(みな)乱(みだれ)て、惣大将(そうだいしやう)の御勢(おんせい)と一所にならんと、崩(くづ)れ落(おち)て引(ひき)ける間、伊田・波多野の者共(ものども)、「余すな洩(もら)すな。」と喚(をめ)き叫(さけん)で追懸(おひかけ)たり。石巌(せきがん)苔(こけ)滑(なめら)かにして荊棘(けいきよく)道を塞(ふさぎ)たれば、引(ひく)者も不延得返す兵敢(あへ)て不討云(いふ)事なし。赤松弥次郎(やじらう)・舎弟(しやてい)五郎・同彦五郎三人(さんにん)引留りて、「此(ここ)を返さで引(ひく)程ならば、誰かは一人可生残。命惜(をし)くは返せや殿原(とのばら)、返せや一揆(いつき)の人々。」と恥しめて罵(ののしり)けれ共(ども)、蹈(ふみ)留る者無(なか)りければ、小国(をくに)播磨(はりまの)守(かみ)・伊勢(いせの)左衛門太郎・疋壇(ひきだ)藤六・魚角(うをすみ)大夫房・佐々木(ささき)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・同能登(のとの)権(ごんの)守(かみ)・新谷(にひのや)入道・薦田(こもだ)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・河勾(かうわ)弥七・瓶尻(かめじり)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・粟生田(あはふだ)左衛門次郎(さゑもんじらう)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。
河原(かはら)兵庫(ひやうごの)助(すけ)重行(しげゆき)は、今度の軍に打負(うちまけ)ば、必(かならず)討死せんと兼(かね)て思(おもひ)儲(まうけ)けるにや、敵の已(すで)に押寄(おしよせ)んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身(わがみ)独(ひとり)の喜び哉(かな)。元暦(げんりやく)の古へ、平家一谷(いちのたに)に篭(こも)りしを攻(せめ)し時、一の城戸(きど)生田(いくたの)森の前にて、某が先祖河原(かはら)大郎・河原(かはら)次郎二人(ににん)、城の木戸(きど)を乗越て討死したりしも二月也(なり)。
国も不替月日も不違、重行同(おなじ)く討死して弥(いよいよ)先祖の高名を顕(あらは)さば、冥途黄泉(めいどくわうせん)の道の岐(ちまた)に行合て、其尊霊(そのそんりやう)さこそ悦(よろこび)給はんずらめ。」と、泪(なみだ)を流して申けるが、云(いひ)つる言(ことば)少しも不違、数万人(すまんにん)の敵の中へ只一騎(いつき)懸入て、終(つひ)に討死しけるこそ哀(あはれ)なれ赤松肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)は、此(この)陣を一番に破られぬる事、身独(ひとり)の恥と思(おもひ)ければ、袖に著(つけ)たる笠符(かさじるし)を引隠(かくし)て、敵の中へ交(まじはつ)て、
よき敵にあはゞ打違(うちちが)へて死なんと伺見(うかがひみ)ける処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が引(ひく)敵を追立て、敵を少(すこし)も足ためさせずして、只何(いづ)くまでも追攻々々(おつつめおつつめ)討て、前(さき)へ通れと兵を下知して、弓手(ゆんで)の方を通(とほ)りけるを、朝範吃(きつ)と打見て、「哀(あはれ)敵や。」と云(いふ)侭(まま)に、走(わしり)懸て追様(おつさま)に、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が甲(かぶと)を破(われ)よ砕(くだけ)よとしたゝかにちやうど打(うた)れて吃(きつ)と振返れば、山名が若党(わかたう)三人(さんにん)中に隔(へただつ)て、肥前(ひぜんの)守(かみ)が甲(かぶと)を重(かさ)ね打(うち)に打て打落す 。
落(おち)たる甲を取て著(き)んとて、差(さし)うつぶく処に、小鬢(こびん)のはづれ小耳(こみみ)の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏(めくれ)て、朝範犬居(いぬゐ)に動(どう)と臥せば、敵押へてとどめを差(さし)てぞ捨(すて)たりける。され共此(この)人死業(しにごふ)や不来けん、敵頚(くび)をも不取。軍散じて後、草の陰(かげ)より生(いき)出て助りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。一陣二陣忽(たちまち)に攻(せめ)破られて、山名弥(いよいよ)勝に乗ければ、峯々に控(ひかへ)たる国々の集勢(あつめぜい)共(ども)、未戦(いまだたたかはざる)先(さき)に捨鞭(すてむち)を打て落行(おちゆき)ける程に、大将羽林公(うりんこう)の陣の辺には僅(わづか)に勢百騎(ひやくき)計(ばかり)ぞ残(のこり)ける。
是(これ)までも猶(なほ)佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)二人(ににん)、小(すこし)も気を不屈、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)りて、「何(いづ)くへか一足(ひとあし)も引(ひき)候べき。只(ただ)我等(われら)が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害(ごじがい)候へ。」と、大将をおきて奉て、弥(いよいよ)勇(いさみ)てぞ見へたりける。大将の陣無勢(ぶせい)に成て、而(しか)も四目結(よつめゆひ)の旗一流(ひとながれ)有(あり)と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑(そもそも)我此(こ)の乱(らん)を起(おこ)す事、天下を傾(かたぶ)け将軍を滅(ほろぼ)し奉らんと思ふに非(あら)ず、只(ただ)道誉(だうよ)が我に無礼(ぶれい)なりし振舞を憎しと思(おもふ)許(ばかり)也(なり)。
此(ここ)に四目結(よつめゆひ)の旗は道誉(だうよ)にてぞ有(ある)らん。是(これ)天の与(あたへ)たる処の幸也(なり)。自余(じよ)の敵に目な懸(かけ)そ。あの頚(くび)取て我に見せよ。」と、歯嚼(はがみ)をして前(すす)まれければ、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、我先にと勇み前(すす)んで大将の陣へ打て懸る。敵の近(ちかづく)事二町(にちやう)許(ばかり)に成(なり)にければ、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、帷幕(ゐばく)を颯(さつ)と打挙(うちあげ)て、「天下(てんがの)勝負此(この)軍に非(あら)ずや。何(いつ)の為にか命を可惜。名将の御前(おんまへ)にて紛(まぎれ)もなく討死して、後記(こうき)に留めよや。」と下知しければ、「承(うけたまはり)候。」とて、平塚(ひらつか)次郎・内藤与次・近藤大蔵(おほくらの)丞(じよう)・今村宗五郎・湯浅新兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)・大塩次郎・曾禰(そね)四郎左衛門(しらうざゑもん)七人(しちにん)、大将の御前(おんまへ)をはら/\と立て抜(ぬい)て懸る。
敵に射手(いて)は一人もなし。向(むか)ふ敵を御方(みかた)の射手(いて)に射すくめさせて、七人(しちにん)の者共(ものども)鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖汰合(ゆりあは)せ、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)鍔本(つばもと)に火を散(ちら)し、鋒(きつさき)に血を淋(そそ)ひで切(きつ)て廻(まはり)けるに、山名が前懸(さきがけ)の兵四人目の前に討(うた)れて、三十人(さんじふにん)深手を負(おひ)ければ、跡につゞける三百(さんびやく)余人(よにん)進(すすみ)兼(かね)てぞ見へたりける。
是(これ)を見て平井新左衛門(しんざゑもん)景範(かげのり)・櫛橋(くしはし)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・桜田左衛門俊秀(としひで)・大野弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)氏永(うぢなが)、声々に、「つゞくぞ引(ひく)な。」と、御方の兵に力を付(つけ)て、喚(をめい)てぞ懸(かかり)たりける。かさに敵を請(うけ)たる徒立(かちだち)の勢なれば、悪手(あらて)の馬武者に中を懸破(かけわ)られて足をもためず、両方の谷へ雪下(なだれおり)て引(ひく)を見て、初め一陣二陣にて打散(うちちら)されつる四国・中国の兵、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)来て、忽(たちまち)に千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、跡なる勢を麾(さしまねい)て、猶(なほ)蒐入(かけいら)んと四方(しはう)を見廻す処に、南方の官軍共(くわんぐんども)、跡に千(せん)余騎(よき)にて控(ひかへ)たりけるが、何と、云(いふ)儀(ぎ)もなく、崩(くづれ)落(おち)て引(ひき)ける間、矢種(やだね)尽(つ)き気疲れたる山名が勢、心は猛(たけ)く思へ共不叶、心ならず御方に引立(ひきたて)られて、山崎を差(さし)て引退く。
敵却(かへつ)て勝(かつ)に乗(のり)しかば、嶺(みね)々谷々(たにだに)より、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)道を要(よこた)へ前を遮(さへぎつ)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたつ)る。中にも内海(うつみの)十郎範秀(のりひで)は、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて、甲(かぶと)の鉢・胄(よろひ)の総角(あげまき)、切付(きりつけ)々々(きりつけ)行(ゆき)けるが、鐔本(つばもと)より太刀をば打折(うちをり)ぬ。馬は疲れぬ。徒立(かちだち)に成てぞ立たりける。弓手(ゆんで)の方を屹(きつ)と見たれば、噎(さも)爽(さはやか)に鎧(よろ)ふたる武者一騎(いつき)、三引両(みつびきりやう)の笠符(かさじるし)著(つけ)て馳(はせ)通(とほ)りけるを、哀(あはれ)敵やと打見て、馬の三頭(さんづ)にゆらりと飛(とび)乗り、敵と二人(ににん)馬にぞ乗たりける。
敵是(これ)を御方ぞと心得(こころえ)て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著(だきつき)給へ。助(たすけ)奉らん。」と云(いひ)ければ、「悦(よろこび)入て候。」と云(いひ)もはてず、刀を抜(ぬい)て前なる敵の頚(くび)を掻落(かきおと)し、軈(やがて)其(その)馬に打乗て、落行(おちゆく)敵を追て行く。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が兵共(つはものども)始(はじめ)因幡を立(たち)しより、今度(こんど)は必(かならず)都にて尸(かばね)を曝(さら)さんと思(おもひ)儲(まうけ)し事なれば、伊田・波多野・多賀谷(たがたに)・浅沼・藤山・土屋・福依(ふくより)・石原・久世(くぜ)・竹中・足立・河村(かはむら)・首藤(すどう)・大庭(おほには)・福塚(ふくづか)・佐野・火作(こつくり)・歌(うだ)・河沢(かはざは)・敷美(しきみ)以下、宗(むね)との侍八十四人、其(その)一族(いちぞく)郎従二百六十三人(にひやくろくじふさんにん)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)四五町(しごちやう)が中にて討(うた)れにけり。
右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は小林民部(みんぶの)丞(じよう)が跡に蹈(ふみ)止て防矢(ふせぎや)射けるを、討(うた)せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面(おもて)も不振戦はれける程に、左の眼を小耳(こみみ)の根へ射付(いつけ)られて目くれ肝(きも)消(け)しければ、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て、些(すこし)心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降(ふる)如く射る矢、馬の太腹(ふとはら)・草脇(くさわき)に五筋まで立(たち)ければ、小膝(こひざ)を折て動(どう)ど臥す。馬より下(お)り立て、鎧の草摺(くさずり)たゝみ上て、腰の刀を抜(ぬい)て自害をせんとし給(たまひ)けるを、河村弾正馳(はせ)寄て、己が馬に掻乗(かきの)せ、福間(ふくま)三郎が戦(たたかひ)疲れて、とある岩の上に休(やすみ)て居たりけるを招(まねい)て、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の馬の口を引(ひか)せ、河村は徒立(かちだち)に成て、追て懸る敵に走懸(わしりかかり)々々(わしりかかり)、切死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。
右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は乗替(のりがへ)の馬に乗て、些(ちと)人心は付(つき)たれ共(ども)、流るゝ血目に入て東西更(さら)に不見ければ、「馬廻(うままはり)に誰かある。此(この)馬の口を敵の方へ引(ひき)向(むけ)よ。馳入(はせいり)、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇(いさみ)けるを、福間三郎、「此方(こなた)が敵の方にて候。」とて、馬の口を下(くだ)り頭(がしら)に引(ひき)向け、自(みづから)馬手(めて)の七寸(みづつき)に付て、小砂(こすな)まじりの小篠原(こささはら)を、三町(さんちやう)許(ばかり)馳落(はせおとし)て、御方(みかた)の勢にぞ加(くは)りける。
爰(ここ)までは追てかゝる敵もなし。其(その)後軍は休(やみ)にけり。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は淀へ打帰て、此(この)軍に討(うた)れつる者共(ものども)の名字(みやうじ)を一々に書注(かきしる)して、因幡の岩常谷(いはつねだに)の道場(だうぢやう)へ送り、亡卒(ばうそつ)の後世菩提(ごせぼだい)をぞ吊(とぶら)はせられける。中にも河村弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は我(わが)命に代(かはつ)て討(うた)れつる者なればとて、懸(かかり)たる首を敵に乞受(こひうけ)て、空(むな)しき顔を一目見て泪(なみだ)を流(ながし)てくどかれけるは、「我此(この)乱を起して天下を覆(くつが)へさんとせし始(はじめ)より、御辺が我を以て如父憑(たの)み、我は御辺を子の如くに思(おもひ)き。
されば戦場に臨(のぞ)む度毎(たびごと)に、御辺いきば我(われ)もいき、御辺討死せば我(われ)も死なんとこそ契(ちぎり)しに、人は依儀に為我死し、我は命を助(たすけ)られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔(こけ)の下草の陰(かげ)にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立(さきだち)本(もと)の瀝(しづく)と後(おく)るゝ共、再会は必(かならず)九品(くほん)浄土(じやうど)の台(うてな)に有(ある)べし。」と泣々(なくなく)鬢(びん)を掻(か)き撫(なで)て、聖(ひじり)一人(いちにん)請(しやう)じ寄て、今まで秘蔵(ひさう)して被乗たる白瓦毛(しろかはらげ)の馬白鞍置(おき)て葬(さう)馬に引(ひか)せ、白太刀一振(ひとふり)聖(ひじり)に与(あたへ)て、討死しつる河村が後生菩提を問(とは)れける、情の程こそ難有けれ。昔唐(たう)の太宗戦に臨(のぞん)で、戦士を重くせしに、血を含(ふく)み疵(きず)を吸(すふ)のみに非(あら)ず、亡卒(ばうそつ)の遺骸(ゆゐがい)をば帛(はく)を散して収(をさめ)しも、角(かく)やと覚(おぼえ)て哀(あはれ)なり。 
 
太平記 巻第三十三

 

京軍(きやういくさの)事(こと)
昨日神南(かうない)の合戦に山名打負(うちまけ)て、本陣へ引返(ひつかへし)ぬと聞へしかば、将軍比叡山(ひえいさん)を打おり下て、三万(さんまん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)し、東山に陣をとる。仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)は、丹後(たんご)・丹波の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を順(したが)へて、嵐山(あらしやま)に取上(とりあが)る。京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡(やはた)に至るまでは、宮方(みやがた)の陣となり、東山・西山・山崎・西岡(にしのをか)は、皆将軍方(しやうぐんがた)の陣となる。其(その)中に有(あり)とあらゆる神社仏閣は役所(やくしよ)の掻楯(かいだて)の為に毀(こぼ)たる。山林竹木(さんりんちくぼく)は薪櫓(たきぎやぐら)の料(れう)に剪尽(きりつく)さる。
京中(きやうぢゆう)をば敵横合(よこあひ)に懸る時、見透(みすか)す様になせとて、東山より寄(よせ)て日々夜夜(にちにちやや)に焼仏ふ。白河をば敵を雨露(あめつゆ)に侵(をか)させて、人馬(じんば)に気を尽(つく)させよとて、東寺より寄(よせ)て焼仏ふ。僅(わづか)に残る竹苑(ちくゑん)・枡庭(せうてい)・里内裏(さとだいり)・三台(さんだい)・九棘(きうきよく)の宿所々々(しゆくしよしゆくしよ)、皆門戸(もんこ)を閉(とぢ)て人も無(なけ)れば、野干(やかん)の栖(すみか)と成(なり)はて、荊棘(けいきよく)扉(とぼそ)を掩(おほ)へり。
去程(さるほど)に二月八日、細川相摸守(さがみのかみ)清氏千(せん)余騎(よき)にて、四条大宮(しでうおほみや)へ押寄せ、北陸道(ほくろくだう)の敵八百(はつぴやく)余騎(よき)に懸(かけ)合て、追(おう)つ返(かへし)つ終日(ひねもす)に戦ひ暮して、左右へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)処に、紺糸(こんいと)の鎧(よろひ)に紫の母衣(ほろ)懸(かけ)て、黒瓦毛(くろかはらけ)なる馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て乗たる武者、年の程四十許(ばかり)に見へたるが、只(ただ)一騎(いつき)馬を閑々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ寄(より)て、「今日の合戦に、進む時は士率(しそつ)に先立(さきだち)て進み、引(ひく)時(とき)は士率に殿(おく)れて引(ひか)れ候(さうらひ)つるは、如何様(いかさま)細河相摸守(さがみのかみ)殿(どの)にてぞ坐(おは)すらん。声を聞ても我を誰とは知(しり)給はんずれ共(ども)、日已(すで)に夕陽(せきやう)に成(なり)ぬれば分明(ふんみやう)に見分(みわ)くる人もなくて、あはぬ敵にや逢(あは)んずらんと存ずる間、事新(あたらし)く名乗(なのり)申(まうす)也(なり)。
是(これ)は今度北陸道(ほくろくだう)を打順(うちしたが)へて罷上(まかりのぼ)りて候桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)にて候ぞ。あはれ相摸殿(さがみどの)に参り会(あう)て、日来(ひごろ)承(うけたまはり)及(および)し力の程をも見奉り、直常が太刀の金(かね)をも金引(かなびい)て御覧候へかし。」と、高声(かうしやう)に名乗(なのり)懸(かけ)て、馬を北頭(きたがし)らに立(たて)てぞ控(ひか)へたる。相摸守(さがみのかみ)は元来敵に少(すこし)も言(こと)ばを懸(かけ)られて、たまらぬ気の人なりければ、桃井(もものゐ)と名乗たるを聞て、少(すこし)も不擬議、是(これ)も只一騎(いつき)馬を引返(ひつかへし)て歩ませ寄る。あひ近(ぢか)に成(なり)ければ、互(たがひ)にあはれ敵や、天下の勝負只(ただ)我と彼(かれ)とが死生に可有。
馬を懸(かけ)合(あは)せ、組(くん)で勝負をせんと、鎧の綿嚼(わたがみ)を掴(つか)んで引著(ひきつけ)たるに、言(ことば)には不似桃井(もものゐ)が力弱く覚へければ、甲(かぶと)を引切(ひつきつ)て抛(な)げ捨て、鞍の前輪(まへわ)に押当(あて)て、頚(くび)掻切(かききつ)てぞ差挙(さしあげ)たる。軈(やが)て相摸守(さがみのかみ)の郎従十四五騎(じふしごき)来たるに、此(この)首と母衣(ほろ)とを持(もた)せて将軍の御前(おんまへ)へ参り、「清氏こそ桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)を討て候へ。」とて軍の様(やう)を申されければ、蝋燭(らつそく)を明(あきらか)に燃(とぼ)し是(これ)を見給ふに、年の程はさもやと覚へ乍(なが)らさすがそれとは不見へ、田舎に住(すみ)て早(は)や多年になりぬれば面替(おもがは)りしけるにやと不審(ふしん)にて、昨日降人(かうにん)に出たりける八田(やだ)左衛門大郎と云(いひ)ける者を被召(めされ)、「是(これ)をば誰(た)が頚(くび)とか見知(みしり)たる。」と問(とは)れければ、八田此(この)頚を一目見て、涙をはら/\と流し、
「是(これ)は越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に二宮(にのみや)兵庫(ひやうごの)助(すけ)と申(まうす)者の頚にて候。去月(きよぐわつ)に越前の敦賀(つるが)に著(つき)て候(さふらひ)し此時、二宮、気比(けひ)の大明神(だいみやうじん)の御前(おんまへ)にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見る程ならば、我(われ)桃井(もものゐ)と名乗て組(くん)で勝負を仕(つかまつ)るべし。是(これ)若(もし)偽(いつはり)申さば、今生(こんじやう)にては永く弓矢の名を失ひ後生にては無間(むげん)の業(ごふ)を受(うく)べしと、一紙(いつし)の起請(きしやう)を書て宝殿(はうでん)の柱に押(おし)て候(さうらひ)しが、果(はた)して討死仕(つかまつ)りけるにこそ。」と申ければ、其母衣(そのほろ)を取寄(とりよせ)て見給ふに、げにも、「越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)二宮兵庫(ひやうごの)助(すけ)、曝尸於戦場、留名於末代。」とぞ書たりける。
昔の実盛(さねもり)は鬢鬚(びんひげ)を染(そめ)て敵にあひ、今の二宮は名字を替(かへ)て命をすつ。時代隔(へだ)たるといへ共其(その)志相同(あひおな)じ。あはれ剛の者哉と惜(をし)まぬ人こそ無(なか)りけれ。二月十五日の朝は、東山の勢共(せいども)上京(かみきやう)へ打入て、兵粮(ひやうらう)を取(とる)由(よし)聞へければ、蹴散(けちら)かさんとて、苦桃(にがもも)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)・尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて東寺を打出、一条・二条(にでう)の間を二手(ふたて)に成て打廻(うちまは)る。是(これ)を見て細川相摸守(さがみのかみ)清氏・佐々木(ささきの)黒田判官、七百(しちひやく)余騎(よき)にて東山よりをり下(くだ)る。
尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)が後陣(ごぢん)に朝倉(あさくら)下野(しもつけの)守(かみ)が五十騎(ごじつき)許(ばかり)にて通(とほ)りけるを、追切(おひきつ)て討(うた)んと、六条河原(ろくでうかはら)より京中(きやうぢゆう)へ懸入る。朝倉少(すこし)も不騒、馬を東頭(ひがしがし)らに立て直(なほ)して、閑(しづか)に敵を待(まち)懸(かけ)たり。細川・黒田が大勢是(これ)を見て、あなづりにくしとや思(おもひ)けん。あはひ半町計(ばかり)に成て、馬を一足(ひとあし)に颯(さつ)とかけ居(すゑ)て、同音(どうおん)に時をどつと作る。朝倉少(すこし)も不擬議大勢の中へ懸(かけ)入て、馬烟(けぶり)を立(たて)て切合ふ。
左衛門(さゑもんの)佐(すけ)是(これ)を見て、「朝倉討(うた)すな、つゞけ。」とて、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取て返し、六条(ろくでう)東洞院(ひがしのとうゐん)を東へ烏丸(からすまる)を西へ、追つ返つ七八度(しちはちど)までぞ揉合(もみあひ)たる。細河度毎(たびごと)に被追立体(てい)に見へけるに、南部(なんぶ)六郎(ろくらう)とて世に勝(すぐれ)たる兵有(あり)けるが、只(ただ)一騎(いつき)踏止(ふみとどまつ)て戦ひ、返し合(あはせ)ては切て落(おと)し、八方(はつぱう)をまくりて戦ひけるに、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の兵共(つはものども)、箆白(のじろ)に成てぞ見へたりける。
左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の兵の中に、三村首藤左衛門(みむらすどうざゑもん)・後藤掃部助(かもんのすけ)・西塔(さいたふ)の金乗坊(こんじようばう)とて、手番(てつが)ふたる勇士(ゆうし)五騎あり。互に屹(きつ)と合眼(めくはせ)して、南部に組(くま)んと相近付く。南部尻目(しりめ)に見て、から/\と打咲(うちわら)ひ、「物々しの人々哉(かな)。いで胴(どう)切(きつ)て太刀の金の程見せん。」とて、五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)の太刀を以(もつ)て開(ひらい)て片手打(かたてうち)にしとゝ打(うつ)。
金乗房無透間つと懸寄てむずと組(くむ)。南部元来大力なれば、金乗を取て中(ちう)に差(さし)上(あげ)たれ共(ども)、人飛礫(ひとつぶて)に打(うつ)まではさすが不叶、太刀の寸延(のび)たれば、手本近(ちかく)してさげ切(きり)にもせられず、只(ただ)押殺さんとや思(おもひ)けん、築地(ついぢ)の腹に推当(おしあて)て、ゑいや/\と押(おし)けるに、已(すで)に乗たる馬尻居(しりゐ)に動(どう)と倒(たふ)れければ、馬は南部が引敷(ひつしき)の下に在(あり)ながら、二人(ににん)引組(ひつくん)で伏(ふし)たり。
四騎の兵馳寄(はせより)て、遂(つひ)に南部を打てければ、金乗(こんじよう)南部が首を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て馳返(はせかへ)る。此(これ)にて軍は止(やん)で敵御方(みかた)相引(あひびき)に京白河へぞ帰りにける。又同日の晩景(ばんげい)に、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)・土岐大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)にて七条河原(しちでうがはら)へ押寄せ、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・原・蜂屋(はちや)が勢二千(にせん)余騎(よき)と寄合(よせあはせ)て、川原(かはら)三町(さんちやう)を東西へ追つ返(かへし)つ、烟塵(えんぢん)を捲(まい)て戦(たたかふ)事二十(にじふ)余度(よど)に及べり。
中にも桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)が兵共(つはものども)、半(なか)ば過て疵(きず)を被(かうむり)ければ、悪手(あらて)を替(かへ)て相助(たすけ)ん為に、東寺へ引返しける程に、土岐の桔梗一揆(いつき)百(ひやく)余騎(よき)に被攻立、返し合(あはす)る者は切て落され、城へ引篭(ひきこも)る者は城戸(きど)・逆木(さかもぎ)にせかれ不入得。城中(じやうちゆう)騒(さわ)ぎ周章(あわて)て、すはや只今(ただいま)此(この)城(じやう)被攻落ぬとぞ見へたりける。
赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、郎等(らうどう)小牧(こまき)五郎左衛門(ごらうざゑもん)が痛手(いたで)を負(おう)て引兼(ひきかね)たるを助(たすけ)んと、馬(むまの)上より手を引立(ひきたて)て歩(あゆ)ませけるを、大将直冬(ただふゆ)朝臣(あそん)、高櫓(たかやぐら)の上より遥(はるか)に見給(たまひ)て、「返して御方(みかた)を助けよ。」と、扇を揚(あげ)て二三度(にさんど)まで招(まねか)れける間、氏範、小牧五郎左衛門(ごらうざゑもん)をかひ掴(つかんで)城戸(きど)の内へ投(なげ)入(いれ)、五尺(ごしやく)七寸(しちすん)の太刀の鐔本(つばもと)取延(とりのべ)て、只(ただ)一騎(いつき)返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)、馳並(はせならべ)々々(はせならべ)切(きり)けるに、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢を立破(たてわり)に胸板(むないた)まで破付(わりつけ)られ、或(あるひ)は胴中(どうなか)を瓜切(うりきり)に斬(きつ)て落されける程に、さしも勇める桔梗一揆(いつき)叶はじとや思(おもひ)けん、七条河原(しちでうがはら)へ引退て、其(その)日(ひ)の軍は留りけり。
三月十三日(じふさんにち)、仁木・細川・土岐・佐々木(ささき)・佐竹・武田(たけだ)・小笠原(をがさはら)相集(あひあつまつ)て七千(しちせん)余騎(よき)、七条西(にしの)洞院(とうゐん)へ押寄せ、一手(ひとて)は但馬・丹後(たんご)の敵と戦ひ、一手(ひとて)は尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経と戦ふ。此(この)陣の寄手(よせて)動(ややもすれ)ば被懸立体(てい)に見へければ、将軍より使者を立(たて)られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。那須は此(この)合戦に打出ける始(はじめ)、古郷(こきやう)の老母(らうぼ)の許(もと)へ人を下して、「今度の合戦に若(もし)討死仕(つかまつ)らば、親に先立(さきだ)つ身と成(なり)て、草の陰(かげ)・苔(こけ)の下までも御歎(おんなげき)あらんを見奉らんずる事こそ、想像(おもひやる)も悲(かなし)く存(ぞんじ)候へ。」と、申遣(まうしつかは)したりければ、老母(らうぼ)泣々(なくなく)委細(ゐさい)に返事を書て申送(おくり)けるは、古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、武士の家に生(うま)るゝ人、名を惜(をしみ)て命を不惜、皆是(これ)妻子に名残(なごり)を慕(した)ひ父母に別(わかれ)を悲(かなし)むといへ共、家を思ひ嘲(あざけり)を恥(はづ)る故(ゆゑ)に惜(をし)かるべき命を捨(すつ)る者也(なり)。
始め身体髪膚(しんていはつぷ)を我に受(うけ)て残傷(そこなひやぶら)ざりしかば、其(その)孝已(すで)に顕(あらはれ)ぬ。今又身を立(たて)道を行(おこなう)て名を後(のち)の世に揚(あぐ)るは、是(これ)孝の終(をはり)たるべし。されば今度(こんどの)合戦に相構(あひかまへ)て身命を軽(かろん)じて先祖の名を不可失。是(これ)は元暦(げんりやく)の古へ、曩祖(なうそ)那須(なすの)与一資高(すけたか)は、八島(やしま)の合戦の時扇を射て名を揚(あげ)たりし時の母衣(ほろ)也(なり)。」とて、薄紅(うすくれなゐ)の母衣(ほろ)を錦(にしき)の袋に入(いれ)てぞ送りたりける。さらでだに戦場に臨(のぞみ)て、いつも命を軽(かろん)ずる那須五郎が、老母(らうぼ)に義を勧(すす)められて弥(いよいよ)気を励(はげま)しける処に、将軍より別(べつ)して使を立(たて)られ、「此(この)陣の戦(たたかひ)難儀に及ぶ。向て敵を払へ。」と無与儀も被仰ければ、那須曾(かつ)て一儀(いちぎ)も不申畏(かしこまつ)て領状(りやうじやう)す。
只今(ただいま)御方(みかた)の大勢共立足(たつあし)もなくまくり立(たて)られて、敵皆勇み進める真中(まんなか)へ会尺(ゑしやく)もなく懸(かけ)入て、兄弟二人(ににん)一族(いちぞく)郎従三十六騎(さんじふろくき)、一足(ひとあし)も不引討死しける。那須が討死に、東寺の敵機(き)に乗らば、合戦又難儀に成(なり)ぬと危(あやふ)く覚へける処に、佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)と相摸守(さがみのかみ)清氏と両勢一手(ひとて)に成て、七条大宮(しちでうおほみや)へ懸(かけ)抜け、敵を西にうけ東に顧(かへりみ)て、入替々々半時許(はんじばかり)ぞ戦(たたかう)たる。東寺の敵も此(ここ)を先途(せんど)と思(おもひ)けるにや、戒光寺(かいくわうじ)の前に掻楯(かいだて)掻(かい)て打出(うちいで)々々(うちいで)火を散(ちら)して戦(たたかひ)けるに、相摸守(さがみのかみ)薄手(うすで)数所(あまたところ)に負(おう)て、すはや討(うた)れぬと見へければ、崇永(そうえい)弥(いよいよ)進(すすみ)て是(これ)を討(うた)せじと戦ふたる。
斯(かかる)処に土岐桔梗(ききやう)一揆(いつき)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、悪手(あらて)に替(かは)らんと進(すすみ)けるを見て、敵も悪手(あらて)をや憑(たのみ)けん、掻楯(かいだて)の陰(かげ)をばつと捨(すてて)半町計(ばかり)ぞ引(ひき)たりける。敵に息を継(つが)せば又立直(たてなほ)す事もこそあれとて、佐々木(ささき)と土岐と掻楯(かいだて)の内へ入て、敵の陣に入替(いれかは)らんとしけるが、廻(まは)る程も猶(なほ)遅くや覚へけん、佐佐木が旗差(はたさし)堀(ほりの)次郎、竿(さを)ながら旗を内へ投げ入(いれ)て、己(おのれ)が身は軈(やが)て掻楯を上り越てぞ入たりける。其(その)後相摸守(さがみのかみ)と桔梗一揆(いつき)と左右より回(まはつ)て掻楯の中へ入(いり)、南に楯を突双(つきならべ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を一所に集め、向城(むかひじやう)の如くにて蹈(ふま)せたれば、東寺に篭(こも)る敵軍の勢、気を屈(くつ)し勢を呑(のま)れて、城戸(きど)より外(そと)へ出ざりけり。
京中(きやうぢゆう)の合戦は、如此数日(すじつ)に及て雌雄(しゆう)日々(ひび)に替(かは)り、安否(あんぴ)今にありと見へけれ共(ども)、時の管領(くわんれい)仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)は、一度(いちど)も桂川より東へ打越(うちこえ)ず、只(ただ)嵐山より遥(はるか)に直下(みおろ)して、御方の勝(かち)げに見ゆる時は延上(のびあが)りて悦び、負(まく)るかと覚(おぼ)しき時は、色を変(へん)じて落支度(おちじたく)の外(ほか)は他事(たじ)なし。同陣に有(あり)ける備中の守護(しゆご)飽庭許(あいばばかり)ぞ、余(あま)りに見兼(かね)て、己(おのれ)が手勢許(ばかり)を引分(ひきわけ)て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈(たいか)は非一本支、山陰道(せんおんだう)をば頼章の勢(せい)に塞(ふさ)がれ、山陽道(せんやうだう)は義詮朝臣(よしあきらあそん)に囲(かこま)れ、東山・北陸(ほくろく)の両道は将軍の大勢に塞(ふさ)がつて、僅(わづか)に河内路(かうちぢ)より外はあきたる方(かた)無(なか)りければ、兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道も絶(たえ)ぬ。重(かさね)て攻(せめ)上るべき助(たすけ)の兵もなし。
合戦は今まで牛角(ごかく)なれ共(ども)、将軍の勢日々に随(したがひ)て重(かさな)る。角(かく)ては始終叶はじとて、三月十三日(じふさんにち)の夜に入て右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬朝臣(ただふゆあそん)、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)・堺(さかひ)の浦へぞ落(おち)られける。  
八幡御託宣(ごたくせんの)事(こと)
爰(ここ)にて落(おち)集(あつまつ)たる勢を見れば五万騎(ごまんぎ)に余れり。此(この)上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共(せいども)、猶(なほ)馳集(はせあつま)るべしと聞へしかば、暫(しばらく)此(この)勢を散(ちら)さで今一合戦(ひとかつせん)可有歟(か)と、諸大将(しよだいしやう)の異見区(まちまち)也(なり)けるを、直冬朝臣(ただふゆあそん)、「許否(きよひ)凡慮(ぼんりよ)の及ぶ処に非(あら)ず。八幡の御宝前にして御神楽(みかぐら)を奏し、託宣(たくせん)の言(ことば)に付て軍の吉凶(きつきよう)を知(しる)べし。」とて、様々(さまざま)の奉幣(ほうへい)を奉り、蘋(ひんぱん)を勧(すすめ)て、則(すなはち)神の告(つげ)をぞ待(また)れける。
社人(しやじん)の打つ鼓(つづみ)の声、きねが袖ふる鈴(すず)の音、深(ふ)け行(ゆく)月に神さびて、聞(きく)人信心を傾(かたぶけ)たり。託宣の神子(みこ)、啓白(けいびやく)の句、言(こと)ば巧(たく)みに玉を連(つら)ねて、様々(さまざま)の事共(ことども)を申(まうし)けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向(このたむけ)をば受(うく)る物かはと一首(いつしゆ)の神歌をくり返し/\二三反(にさんべん)詠(えい)じて、其後(そののち)御神(かみ)はあがらせ給(たまひ)にけり。諸大将(しよだいしやう)是(これ)を聞て、さては此(この)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を大将にて将軍と戦はん事は、向後(きやうこう)も叶(かなふ)まじかりけりとて、東山(とうせん)・北陸(ほくろく)の勢(せい)は、駒に策(むち)をうち己が国々へ馳下り、山陰(せんおん)・西海(さいかい)の兵は、舟に帆(ほ)を揚(あげ)て落て行(ゆく)。
誠(まこと)に征罰(せいばつ)の法、合戦の体は士卒に有(あり)といへ共、雌雄(しゆう)は大将に依(よ)る者也(なり)。されば周(しう)の武王は木主(もくしゆ)を作て殷(いん)の世を傾(かたぶ)け、漢(かんの)高祖(かうそ)は、義帝(ぎてい)を尊(たつとみ)て秦の国を滅(ほろぼ)せし事、旧記(きうき)の所載誰か是(これ)を不知(しらず)。直冬是(これ)何人ぞや、子として父を攻(せめ)んに、天豈(あに)許(ゆる)す事あらんや。始め遊和軒(いうくわけん)の朴翁(はくをう)が天竺・震旦(しんだん)の例(れい)を引て、今度の軍に宮方(みやがた)勝(かつ)事を難得と、眉を顰(ひそめ)て申(まうし)しを、げにも理(ことわり)なりけりとは、今社(こそ)思ひ知(しら)れたれ。東寺落(おち)て翌(あけ)の日、東寺の門にたつ。兔(と)に角(かく)に取立にける石堂(いしたう)も九重(くぢゆう)よりして又落(おち)にけり深き海高き山名と頼(たのむ)なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋(からはし)や塩の小路(こうぢ)の焼(やけ)しこそ桃井殿(もものゐどの)は鬼味噌(おにみそ)をすれ  
三上皇自芳野御出(おんいでの)事(こと)
足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)・尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常以下の官軍(くわんぐん)、今度諸国より責(せめ)上て、東寺・神南(かうない)度々(どど)の合戦に打負(うちまけ)しかば、皆己(おのれ)が国々に逃下(にげくだり)て、猶(なほ)此素懐(このそくわい)を達せん事を謀(はか)る。依之(これによつて)洛中(らくちゆう)は今静謐(せいひつ)の体(てい)にて、髪を被(かうむ)り衽(じん)を左にする人はなけれ共(ども)、遠国は猶(なほ)しづまらで、戈(ほこ)を荷(にな)ひ粮(かて)を裹(つつむ)こと隙(ひま)なし。爰(ここ)に持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)は皆(みな)去々年の春南方へ囚(とらは)れさせ給(たまひ)て、賀名生(あなふ)の奥に被押篭御坐(おはせ)しかば、とても都には茨(いばら)の宮(みや)已(すで)に御位に即(つか)せ給(たまひ)ぬる上は、山中の御棲居(おんすまゐ)余(あま)りに御痛(おんいた)はしければとて、延文(えんぶん)二年の二月に、皆賀名生(あなふ)の山中より出し奉て、都へ還幸(くわんかう)なし奉る。
上皇は故院の住(すみ)荒させ給(たまひ)し伏見殿に移らせ給て御座(ござ)あれば、参り仕(つかまつ)る月卿(げつけい)雲客(うんかく)の一人もなし。庭には草生滋(おひしげ)りて、梧桐(ごとう)の黄葉(くわうえふ)を踏(ふみ)分(わけ)たる道もなく、軒には苔(こけ)深くむして、見(みる)人からに袖ぬらす月さへ疎(うと)く成(なり)にけり。本院(ほんゐん)は去(さんぬる)観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智(しようくわうち)とぞ申(まうし)ける。御帰洛の後、本院(ほんゐん)・新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子(おんでし)に成(なら)せ給(たまひ)て、本院(ほんゐん)は嵯峨(さが)の奥小倉(をぐら)の麓に幽(かすか)なる御庵(おんいほ)りを結ばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座(ござ)有(あり)ける。
何(いづ)れも物さびしく人目枯(かれ)たる御栖居(おんすまゐ)、申(まうす)も中々疎(おろ)かなり。彼悉達(かのしつだ)太子(たいし)は、浄飯(じやうばん)王の宮(みや)を出て檀特山(だんどくせん)に分(わけ)入(いり)、善施(ぜんせ)太子(たいし)は、鳩留国(くるこく)の翁(おきな)に身を与へて檀施(だんせ)の行(ぎやう)を修(しゆ)し給ふ。是(これ)は皆十善の国を合(あは)せたる十六(じふろく)の大国を保(たもち)給ひし王位なれ共(ども)、捨(すつ)るとなれば其(その)位一塵(いちぢん)よりも猶(なほ)軽し。況(いはん)や我(わが)国(くに)は粟散辺地(ぞくさんへんち)の境(さかひ)也(なり)。縦(たとひ)天下を一統(いつとう)にして無為(ぶゐ)の大化(たいくわ)に楽(たのし)ませ給ふ共、彼(か)の大国の王位に比(ひ)せば千億にして其(その)一にも難及。加様(かやう)の理(ことわ)りを思食(おぼしめし)知(しら)せ給(たまひ)て、憂(うき)を便(たよ)りに捨(すて)はてさせ給ひぬる世なれば、御身(おんみ)も軽(かろ)きのみならず御心(おんこころ)も又閑(しづか)にして、半間(はんかん)の雲一榻(いつたふ)の月、禅余(ぜんよ)の御友(おんとも)と成(なり)にければ、中々御心(おんこころ)安くぞ渡らせ給(たまひ)ける。  
飢人(きにん)投身事(こと)
角(かく)て事の様を見聞(みきく)に、天下此(こ)の二十(にじふ)余年(よねん)の兵乱に、禁裏(きんり)・仙洞・竹苑(ちくゑん)・枡房(せうばう)を始(はじめ)として、公卿(くぎやう)・殿上(てんじやう)・諸司(しよし)・百官の宿所々々多く焼け亡(ほろび)て、今は纔(わづか)に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払(はらつ)て、京白川に武士(ぶし)の屋形(やかた)の外は在家(ざいけ)の一宇(いちう)もつゞかず。離々(りり)たる原上(げんじやう)の草、塁々(るゐるゐ)たる白骨(はつこつ)、叢(くさむら)に纏(まとは)れて、有(あり)し都の迹(あと)共(とも)不見成(なり)にければ、蓮府槐門(れんぶくわいもん)の貴族・なま上達部(かんだちめ)・上臈(じやうらふ)・女房達(にようばうたち)に至るまで、或(あるひ)は大井(おほゐ)、桂川の波の底の水屑(みくづ)となる人もあり、或(あるひ)は遠国に落下て田夫野人(でんぶやじん)の賎(いやし)きに身を寄せ、或(あるひ)は片田舎に立忍(しのび)て、桑門(さうもん)、竹(たけの)扉(とぼそ)に住(すみ)はび給へば、夜(よ)るの衣薄(うすく)して暁(あかつき)の霜冷(すさまじ)く、朝気(あさけ)の煙絶(たえ)て後、首陽(しゆやう)に死する人多し。
中にも哀(あはれ)に聞へしは、或る御所の上北面(じやうほくめん)に兵部(ひやうぶの)少輔(せう)なにがしとかや云(いひ)ける者、日来(ひごろ)は富栄(とみさかえ)て楽(たのし)み身に余(あま)りけるが、此(この)乱の後財宝は皆取散(とりちら)され、従類眷属(じゆうるゐけんぞく)は何地(いづち)共(とも)なく落(おち)失(うせ)て、只(ただ)七歳になる女子、九になる男子(なんし)と年比(としごろ)相馴(あひなれ)し女房と、三人(さんにん)許(ばかり)ぞ身に添(そひ)ける。都の内には身を可置露のゆかりも無(なく)て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思(おもひ)かねて、女房は娘の手を引(ひき)、夫(をつと)は子の手を引て、泣々(なくなく)丹波の方へぞ落行(おちゆき)ける。
誰を憑(たのむ)としもなく、何(いづ)くへ可落著共覚(おぼえ)ねば、四五町(しごちやう)行(ゆき)ては野原(のばら)の露に袖を片敷(かたしき)て啼明(なきあか)し、一足(ひとあし)歩(あゆん)では木の下草にひれ臥(ふし)て啼(な)き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許(ばかり)に丹波(たんばの)国(くに)井原(ゐはら)の岩屋(いはや)の前に流(ながれ)たる思出河(おもひでがは)と云(いふ)所に行至りぬ。都を出しより、道に落(おち)たる栗柿(くりかき)なんどを拾(ひろう)て纔(わづか)に命を継(つぎ)しかば、身も余(あま)りにくたびれ足も不立成(なり)ぬとて、母・少(をさな)き者、皆(みな)川のはたに倒れ伏(ふし)て居たりければ、夫(をつと)余(あま)りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行(ゆき)て、中門の前に彳(たたずん)で、つかれ乞(こひ)をぞしたりける。
暫(しばら)く有て内より侍・中間(ちゆうげん)十(じふ)余人(よにん)走(はしり)出て、「用心(ようじん)の最中(さいちゆう)、なまばうたる人のつかれ乞(ごひ)するは、夜討強盜(ようちがうだう)の案内見る者歟(か)。不然は宮方(みやがた)の廻文(くわいぶん)持て回(まは)る人にてぞあるらん。誡置(いましめおき)て嗷問(がうもん)せよ。」とて手取(とり)足取(とり)打縛(うちしば)り、挙(あげ)つ下(おろし)つ二時許(ばかり)ぞ責(せめ)たりける。
女房・少(をさな)き者、斯(かか)る事とは不思寄、川の端(はた)に疲(つか)れ臥(ふし)て、今や/\と待(まち)居たりける処に、道を通る人行(ゆき)やすらひて、「穴(あな)哀(あはれ)や、京家(きやうけ)の人かと覚(おぼ)しき人の年四十許(ばかり)なりつるが、疲(つか)れ乞(ごひ)しつるを怪(あやし)き者かとて、あれなる家に捕(とら)へて、上(あげ)つ下(おろし)つ責(せめ)つるが、今は責(せめ)殺(ころし)てぞあるらん。」と申(まうし)けるを聞て、此(この)女房・少(をさな)き者、「今は誰に手を牽(ひか)れ誰を憑(たのみ)てか暫(しばら)くの命をも助(たすか)るべき。後(おく)れて死なば冥途(めいど)の旅に独(ひとり)迷(まよ)はんも可憂。暫(しばらく)待(まち)て伴(ともな)はせ給へ。」と、声々に泣(なき)悲(かなしん)で、母と二人(ににん)の少(をさな)き者、互(たがひ)に手に手を取(とり)組(くみ)、思出河(おもひでがは)の深(ふかき)淵(ふち)に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。
兵部(ひやうぶの)少輔(せう)は、いかに責(せめ)問(とひ)けれ共(ども)、此(この)者元来(ぐわんらい)咎(とが)なければ、落(おち)ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是(これ)にもこりず、妻子の飢(うゑ)たるが悲しさに、又とある在家(ざいけ)へ行て、菓(このみ)なんどを乞集(こひあつめ)て、先(さき)の川端(かはばた)へ行(ゆき)て見るに、母・少(をさな)き者共(ものども)が著(つけ)たる小草鞋(こわらぢ)・杖なんどは有て其(その)人はなし。こは如何(いか)に成(なり)ぬる事ぞやと周章騒(あわてさわ)ぎて、彼方此方(かなたこなた)求(もとめ)ありく程に、渡より少(すこ)し下(し)もなる井堰(ゐせき)に、奇(あやし)き物(もの)のあるを立寄(たちより)て見たれば、母と二人(ににん)の子と手に手を取組(とりくみ)て流(ながれ)懸りたり。取上(とりあげ)て泣(なき)悲(かなし)め共、身もひへはてゝ色も早(はや)替りはてゝければ、女房と二人(ににん)の子を抱拘(だきかか)へて、又本(もと)の淵に飛入(とびいり)、共に空(むなし)く成(なり)にけり。
今に至(いたる)まで心なき野人村老(やじんそんらう)、縁(ゆかり)も知(しら)ぬ行客(かうかく)旅人までも、此(この)川を通る時、哀(あはれ)なる事に聞(きき)伝(つたへ)て、涙を流さぬ人はなし。誠(まこと)に悲しかりける有様哉と、思遣(おもひやら)れて哀なり。  
公家武家(くげぶけ)栄枯(えいこ)易地事(こと)
公家の人は加様に窮困(きゆうこん)して、溝壑(こうがく)に填(うづまり)道路に迷ひけれ共(ども)、武家の族(やから)は富貴(ふつき)日来(ひごろ)に百倍(ひやくばい)して、身には錦繍(きんしう)を纏(まと)ひ食には八珍(はつちん)を尽せり。前代相摸守(さがみのかみ)の天下を成敗(せいばい)せし時、諸国の守護(しゆご)、大犯(だいぼん)三箇条の検断(けんだん)の外は綺(いろ)ふ事無(なか)りしに、今は大小(だいせう)の事、共(とも)に只(ただ)守護(しゆご)の計(はから)ひにて、一国の成敗雅意(がい)に任すには、地頭後家人を郎従の如くに召仕(めしつか)ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押(おさ)へて管領(くわんりやう)す。
其(その)権威只(ただ)古(いにしへ)の六波羅(ろくはら)、九州の探題(たんだい)の如し。又都には佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)始(はじめ)として在京(ざいきやう)の大名、衆(しゆ)を結(むすん)で茶の会(くわい)を始め、日々寄合(よりあひ)活計(くわつけい)を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧(よそほひ)をして、皆曲(きよくろく)の上に豹(へう)・虎(とら)の皮を布(し)き、思々(おもひおもひ)の段子金襴(どんすきんらん)を裁(たち)きて、四主頭(ししゆちやう)の座に列(れつ)をなして並居(なみゐ)たれば、只百福荘厳(ひやくふくしやうごん)の床(ゆか)の上に、千仏の光を双(ならべ)て坐(ざ)し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈(しよくぜんはうぢやう)とて、座の囲(まはり)四方(しはう)一丈(いちぢやう)に珍(ちん)物を備(そな)ふなれば、其(それ)に不可劣とて、面五尺(ごしやく)の折敷(をしき)に十番の斎羹(さいかう)・点心(てんじん)百種・五味(ごみ)の魚鳥・甘酸苦辛(かんさんくしん)の菓子(くわし)共(ども)、色々様々居双(すゑなら)べたり。
飯後(はんご)に旨酒(ししゆ)三献(さんこん)過(すぎ)て、茶の懸物(かけもの)に百物、百の外に又前引(まへひき)の置物をしけるに、初度(しよど)の頭人(とうにん)は、奥染物(おくそめもの)各百充(づつ)六十三人(ろくじふさんにん)が前に積む。第二度(だいにど)の頭人は、色々の小袖十重充(とかさねづつ)置(おく)。三番の頭人は、沈(ぢん)のほた百両宛(づつ)、麝香(じやかう)の臍(ほそ)三充(づつ)副(そへ)て置(おく)。四番の頭人は沙金(しやきん)百両宛(づつ)金糸花(きんしくわ)の盆(ぼん)に入(いれ)て置(おく)。五番の頭人は、只今(ただいま)為立(したて)たる鎧(よろひ)一縮(いつしゆく)に、鮫(さめ)懸(かけ)たる白太刀、柄鞘(つかさや)皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋(ひうちぶくろ)をさげ、一様(いちやう)に是(これ)を引く。
以後の頭人二十(にじふ)余人(よにん)、我(われ)人に勝(すぐ)れんと、様(さま)をかへ数を尽して、如山積重(つみかさ)ぬ。されば其費(そのつひえ)幾千万(いくせんまん)と云(いふ)事を不知(しらず)。是(これ)をもせめて取て帰らば、互に以此彼(かれ)に替(かへ)たる物共とすべし。ともにつれたる遁世者(とんせいしや)、見物の為に集(あつま)る田楽(でんがく)・猿楽(さるがく)・傾城(けいせい)・白拍子(しらびやうし)なんどに皆取(とり)くれて、手を空(むなしく)して帰(かへり)しかば、窮民(きゆうみん)孤独の飢(うゑ)を資(たすく)るにも非(あら)ず、又供仏施僧(くぶつせそう)の檀施(だんせ)にも非(あら)ず。只金(こがね)を泥(でい)に捨て玉を淵(ふち)に沈(しづ)めたるに相(あひ)同じ。此(この)茶事過(すぎ)て後(のち)又博奕(ばくえき)をして遊びけるに、一立(ひとた)てに五貫(ごくわん)十貫(じつくわん)立(たて)ければ、一夜(いちや)の勝負に五六千貫負(まく)る人のみ有て百貫(ひやくくわん)とも勝つ人はなし。
此(これ)も田楽(でんがく)・猿楽・傾城・白拍子に賦(くば)り捨(すて)ける故(ゆゑ)也(なり)。抑(そもそも)此(この)人々長者(ちやうじや)の果報(くわはう)有(あり)て、地より物が涌(わき)ける歟(か)、天より財(たから)が降(ふり)けるか。非降非涌、只(ただ)寺社本所の所領を押へ取り、土民百姓の資財(しざい)を責取(せめとり)、論人(ろんにん)・訴人(そにん)の賄賂(わいろ)を取(とり)集めたる物共也(なり)。古の公人たりし人は、賄賂(わいろ)をも不取、勝負をもせず、囲碁(ゐご)双六(すごろく)をだに酷(はなはだ)禁ぜしに、万事の沙汰を閣(さしおい)て、訴人来れば酒宴茶の会(くわい)なんど云(いひ)て不及対面、人の歎(なげき)をも不知、嘲(あざけり)をも不顧、長時に遊び狂(くる)ひけるは、前代未聞(ぜんだいみもん)の癖事(ひがこと)なり。懸(かかり)し程に、延文三年二月十二日、故左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義入道慧源(ゑげん)、さしも爪牙耳目(さうげじぼく)の武臣たりしかば、従二位の贈爵(ぞうしやく)を苔(こけ)の下(した)なる遺骸(ゆゐがい)にぞ賜(たま)ひける。法体(ほつたい)死去の後、如此宣下(せんげ)無其例とぞ人皆申合(まうしあは)れける。  
将軍御逝去(ごせいきよの)事(こと)
同年四月二十日、尊氏(たかうぢの)卿(きやうの)背(せなか)に癰瘡(ようさう)出て、心地(ここち)不例御坐(おはし)ければ、本道(ほんだう)・外科(げくわ)の医師(いし)数を尽して参(まゐり)集る。倉公(さうこう)・華他(くわた)が術(じゆつ)を尽し、君臣佐使(さし)の薬を施(ほどこ)し奉れ共更(さらに)無験。陰陽頭(おんやうのかみ)・有験(うげん)の高僧集(あつまつ)て、鬼見(きけん)・太山府君(たいさんぶくん)・星供(しやうく)・冥道供(みやうだうく)・薬師(やくし)の十二神将(じふにじんじやうの)法・愛染明王(あいぜんみやうわう)・一字文殊・不動慈救(ふどうじく)延命(えんめい)の法、種々の懇祈(こんき)を致せ共、病(やまひ)日(ひ)に随て重くなり、時を添(そへ)て憑(たのみ)少(すくな)く見へ給ひしかば、御所中(ごしよぢゆう)の男女機(き)を呑(の)み、近習の従者涙を押へて、日夜(にちや)寝食(しんしよく)を忘(わすれ)たり。
懸(かか)りし程に、身体(しんたい)次第に衰へて、同(おなじき)二十九日寅(とらの)刻(こく)、春秋五十四歳にて遂(つひ)に逝去(せいきよ)し給(たまひ)けり。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さはさる事ながら、国家の柱石(ちゆうせき)摧(くだ)けぬれば、天下今も如何(いかが)とて、歎き悲(かなし)む事無限。さて可有非(あら)ずとて、中(なか)一日有て、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)等持院(とうぢゐん)に葬(さう)し奉る。鎖龕(そがん)は天竜寺(てんりゆうじ)の竜山(りようざん)和尚、起龕(きがん)は南禅寺(なんぜんじ)の平田(へいでん)和尚、奠茶(てんちや)は建仁寺(けんにんじ)の無徳(ぶとく)和尚、奠湯(てんたう)は東福寺(とうふくじ)の鑑翁(かんをう)和尚、下火(あこ)は等持院の東陵(とうりよう)和尚にてぞをはしける。哀(あはれ)なる哉、武将に備(そなはつ)て二十五年、向ふ処は必(かならず)順(したが)ふといへ共、無常の敵の来るをば防(ふせ)ぐに其(その)兵なし。
悲(かなしい)哉、天下を治(をさめ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)、命(めい)に随(したが)ふ者多しといへ共、有為(うゐ)の境(さかひ)を辞(じ)するには伴(ともなう)て行く人もなし。身は忽(たちまち)に化(け)して暮天(ぼてん)数片(すへん)の煙と立(たち)上り、骨(ほね)は空(むなし)く留(とどまつ)て卵塔(らんたふ)一掬(いつきく)の塵(ちり)と成(なり)にけり。別れの泪(なみだ)掻暮(かきくれ)て、是(これ)さへとまらぬ月日哉(かな)。五旬(ごじゆん)無程過(すぎ)ければ、日野(ひの)左中弁忠光(ただみつ)朝臣(あそん)を勅使(ちよくし)にて、従(じゆ)一位(いちゐ)左大臣の官を贈(おく)らる。宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、宣旨を啓(ひらい)て三度(さんど)拝せられけるが、涙を押へて、帰(かへる)べき道しなければ位山(くらゐやま)上(のぼ)るに付(つけ)てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使(ちよくし)も哀なる事に聞て、有(あり)の侭(まま)に奏聞しければ、君無限叡感(えいかん)有て、新千載集(しんせんざいしふ)を被撰けるに、委細(ゐさい)の事書(ことがき)を載(のせ)られて、哀傷(あいしやう)の部にぞ被入ける。勅賞(ちよくしやう)の至り、誠(まこと)に忝(かたじけな)かりし事共(ことども)なり。  
新待賢門院(しんたいけんもんゐん)並梶井(かぢゐの)宮(みや)御隠(おんかくれの)事(こと)
同四月十八日、吉野の新待賢門の女院(にようゐん)隠れさせ給(たまひ)ぬ。一方の国母(こくぼ)にて御坐(おは)しければ、一人(いちじん)を始め進(まゐら)せて百官皆(みな)椒房(せうばう)の月に涙を落(おと)し、掖庭(えきてい)の露に思(おもひ)を摧(くだ)く時節(をりふし)、何(いか)に有(あり)ける事ぞやとて、涙を拭(のごひ)ける処に、又同年五月二日、梶井(かぢゐの)二品(にほん)親王(しんわう)御隠(おんかくれ)有(あり)ければ、山門の悲歎(ひたん)、竹苑(ちくゑん)の御歎(おんなげき)更(さら)に類(たぐひ)なし。此等(これら)は皆(みな)天下の重き歎(なげき)なりしかば、知(しる)も知(しら)ぬも推並(おしなべ)て、世の中如何(いかが)あらんずらんと打ひそめき、洛中(らくちゆう)・山上・南方、打続(うちつづき)たる哀傷(あいしやう)、蘭省(らんしやう)露(つゆ)深く、柳営(りうえい)烟(けむり)暗(くらく)して、台嶺(たいれい)の雲の色悲(かなし)んで今年は如何(いか)なる歳なれば、高き歎(なげき)の花散(ちり)て、陰(かげ)の草葉に懸(かか)るらんと、僧俗男女共に押並(おしなべ)て袖をぞ絞(しぼ)りける。  
崇徳院(しゆとくゐんの)御事(おんこと)
今年の春、筑紫(つくし)の探題(たんだい)にて将軍より被置たりける一色左京(さきやうの)大夫(たいふ)直氏・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)大夫(たいふ)範光は、菊池(きくち)肥前(ひぜんの)守(かみ)武光(たけみつ)に打負(うちまけ)て京都へ被上ければ、小弐(せうに)・大友(おほとも)・島津(しまづ)・松浦(まつら)・阿蘇(あそ)・草野に至るまで、皆(みな)宮方(みやがた)に順(したが)ひ靡(なび)き、筑紫九国の内には、只(ただ)畠山治部(ぢぶの)大輔(たいふ)が日向(ひうが)の六笠(むかさ)の城(じやう)に篭(こもり)たる許(ばかり)ぞ、将軍方(しやうぐんがた)とては残りける。是(これ)を無沙汰(ぶさた)にて閣(さしお)かば、今将軍の逝去(せいきよ)に力を得て、菊池(きくち)如何様(いかさま)都へ責(せめ)上りぬと覚(おぼゆ)る。是(これ)天下の一大事(いちだいじ)也(なり)。
急(いそい)で打手(うつて)の大将を下さでは叶(かなふ)まじとて、故細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢの)子息、式部(しきぶの)大夫(たいふ)繁氏(しげうじ)を伊予(いよの)守(かみ)になして、九国の大将にぞ下されける。此(この)人先(まづ)讃岐(さぬきの)国(くに)へ下り、兵船をそろへ軍勢(ぐんぜい)を集(あつむ)る程に、延文四年六月二日俄(にはか)に病(やまひ)付て物狂(ものぐるひ)に成(なり)たりけるが、自(みづか)ら口走(くちばしつ)て、「我(われ)崇徳院(しゆとくゐん)の御領を落(おと)して、軍勢(ぐんぜい)の兵粮(ひやうらう)料所(れうしよ)に充行(あておこなひ)しに依て重病を受(うけ)たり。天の譴(せめ)八万(はちまん)四千(しせん)の毛孔(けのあな)に入て五臓(ござう)六府(ろつぷ)に余る間、冷(すず)しき風に向へ共盛なる炎(ほのほ)の如く、ひやゝかなる水を飲(のめ)共(ども)沸返(わきかへ)る湯の如し。あらあつや難堪や、是(これ)助(たすけ)てくれよ。」と悲(かなし)み叫(さけび)て、悶絶僻地(もんぜつびやくぢ)しければ、医師(いし)陰陽師(おんやうじ)の看病(かんびやう)の者共(ものども)近付(ちかづか)んとするに、当り四五間(しごけん)の中は猛火(みやうくわ)の盛(さかり)に燃(もえ)たる様に熱(ねつ)して、更(さら)に近付(ちかづく)人も無(なか)りけり。
病付(やみつき)て七日に当りける卯(う)の刻に黄なる旗一流(ひとながれ)差(さし)て、混(ひ)た甲(かぶと)の兵千騎(せんぎ)許(ばかり)、三方(さんぱう)より同時に時の声を揚(あげ)て押寄(おしよせ)たり。誰とは不知敵寄(よせ)たりと心得(こころえ)て、此(この)間馳集(はせあつまり)たる兵共(つはものども)五百(ごひやく)余人(よにん)、大庭(おほには)に走(はしり)出て散々に射る。箭種(やだね)尽(つき)ぬれば打物(うちもの)に成て、追つ返(かへし)つ半時許(はんじばかり)ぞ戦たる。搦手(からめて)より寄(よせ)ける敵かと覚(おぼえ)て、紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)掛(かけ)たる兵十(じふ)余騎(よき)、大将細川伊予(いよの)守(かみ)が頚(くび)と家人(けにん)行吉掃部助(ゆきよしかもんのすけ)が頚(くび)とを取て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、「悪(にく)しと思ふ者をば皆打取(うちとり)たるぞ。是(これ)看(み)よや兵共(つはものども)。」とて、二(ふたつ)の頚を差上(さしあげ)たれば、大手の敵七百(しちひやく)余騎(よき)、勝時(かちどき)を三声(みこゑ)どつと作て帰るを見れば、此寄手(このよせて)天に上り雲に乗(じよう)じて、白峯(しらみね)の方へぞ飛(とび)去(さり)ける。
変化(へんげ)の兵帰(かへり)去れば、是(これ)を防(ふせぎ)つる者共(ものども)、討(うた)れぬと見へつる人も不死、手負(ておひ)と見つるも恙(つつが)なし。こはいかなる不思議(ふしぎ)ぞと、互(たがひ)に語り互に問(とひ)て、暫(しばら)くあれば、伊予(いよの)守(かみ)も行吉(ゆきよし)も同時に無墓成(なり)にけり。誠(まこと)に濁悪(ぢよくあく)の末世(まつせ)と乍云、不思議(ふしぎ)なる事共(ことども)なり。  
菊池(きくち)合戦(かつせんの)事(こと)
小弐(せうに)・大友(おほとも)は、菊池(きくち)に九国を打順(うちしたがへ)られて、其(その)成敗に随(したがふ)事不安思(おもひ)ければ、細川伊予(いよの)守(かみ)の下向を待て旗を挙(あげ)んと企(くはたて)けるが、伊予(いよの)守(かみ)、崇徳院(しゆとくゐん)の御霊(ごりやう)に罰(ばつ)せられて、犬死(いぬじに)しぬと聞へければ、力を失(うしなひ)て機(き)を呈(あらは)さず。斯(かか)る処に畠山治部(ぢぶの)太輔(たいふ)が、未(いまだ)宮方(みやがた)には随(したが)はで楯篭(たてこもり)たる六笠(むかさ)の城(じやう)を責(せめ)んとて、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光五千(ごせん)余騎(よき)にて、十一月十七日(じふしちにち)肥後(ひごの)国(くに)を立て日向(ひうがの)国(くに)へぞ向(むかひ)ける。
道四日路(よつかぢ)が間、山を超(こえ)川を渡て、行先は嶮岨(けんそ)に跡は難所にてぞ有(あり)ける。小弐(せうに)・大友(おほとも)、菊池(きくち)が催促(さいそく)に応(おう)じて、豊後(ぶんごの)国中(こくぢゆう)に打出て勢汰(せいぞろへ)をしけるが、是(これ)こそよき時分なりと思(おもひ)ければ、菊池(きくち)を日向(ひうがの)国(くに)へ遣(や)り過(すご)して後、大友(おほとも)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)氏時、旗を挙(あげ)て豊後(ぶんご)の高崎(たかさき)の城(じやう)に取上る。宇都宮(うつのみや)大和(やまとの)前司(ぜんじ)は、河を前にして豊前の路を塞(ふさ)ぎ、肥前(ひぜんの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)は、山を後(うしろ)に当(あて)て筑後(ちくご)の道をぞ塞ぎける。
菊池(きくち)已(すで)に前後の大敵に取篭(とりこめ)られて何(いづ)くへか可引。只篭(こ)の中(うち)の鳥、網代(あじろ)の魚の如しと、哀(あはれ)まぬ人も無(なか)りけり。菊池(きくち)此(この)二十四年が間、筑紫九国の者共(ものども)が軍立手柄(いくさだててがら)の程を、敵に受け御方(みかた)になして、能(よく)知透(しりすか)したりければ、後(うし)ろには敵旗を上(あげ)道を塞(ふさぎ)たりと聞へけれ共(ども)、更に事ともせず、十一月十日より矢合(やあはせ)して、畠山治部(ぢぶの)太輔(たいふ)が子息民部少輔(みんぶのせう)が篭(こもり)たる三保(みつまた)の城(じやう)を夜昼十七日(じふしちにち)が中に責(せめ)落(おと)して、敵を打(うつ)こと三百人(さんびやくにん)に及べり。
畠山父子憑切(たのみきり)たる三保(みつまた)の城(じやう)落されて、叶はじとや思ひけん、攻(つめ)の城(じやう)にもたまらず、引て深山(みやま)の奥へ逃篭(にげこも)りければ、菊池(きくち)今は是(これ)までぞとて肥後(ひごの)国(くに)へ引返すに、跡を塞ぎし大敵共更(さら)に戦ふ事なければ、箭の一(ひとつ)をも不射己(おのれ)が館(たち)へぞ帰りける。是(これ)までは未(いまだ)太宰小弐(だざいのせうに)・阿蘇大宮司(あそのだいぐうじ)、宮方(みやがた)を背(そむ)く気色(けしき)無(なか)りければ、彼等(かれら)に牒(てふ)し合(あは)せて、菊池(きくち)五千(ごせん)余騎(よき)を卒(そつ)して大友(おほとも)を退治(たいぢ)せん為に豊後(ぶんごの)国(くに)へ馳向ふ。是(この)時(とき)太宰(だざいの)小弐(せうに)俄(にはか)に心替(こころがはり)して太宰府(だざいふ)にして旗を挙(あげ)ければ、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)是(これ)に与(くみ)して菊池(きくち)が迹を塞(ふさ)がんと、小国(をくに)と云(いふ)処に九箇所(くかしよ)の城(じやう)を構(かまへ)て、菊池(きくち)を一人も打漏(うちもら)さじとぞ企(くはたて)ける。
菊池(きくち)兵粮(ひやうらう)運送の路を止(とめ)られて豊後(ぶんご)へ寄(よす)る事も不叶、又太宰府へ向はんずる事も難儀也(なり)ければ、先(まづ)我肥後(ひごの)国(くに)へ引返してこそ、其(その)用意(ようい)をも致さめとて、菊池(きくち)へ引返しけるが、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)が構(かまへ)たる九箇所(くかしよ)の城(じやう)を一々に責(せめ)落(おと)して通るに、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)憑切(たのみきり)たる手(ての)者共(ものども)三百(さんびやく)余人(よにん)討(うた)れければ、敵の通路(つうろ)を止むるまでは不寄思、我(わが)身の命を希有(けう)にしてこそ落(おち)行(ゆき)けれ。
去(さる)程(ほど)に七月に征西(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)を大将として、新田の一族(いちぞく)・菊池(きくち)の一類(いちるゐ)、太宰府へ寄(よする)と聞へしかば、小弐(せうに)は陣を取て敵を待(また)んとて、大将太宰(だざいの)筑後(ちくごの)守(かみ)頼尚(よりひさ)・子息筑後(ちくごの)新小弐(せうに)忠資(ただすけ)・甥(をひ)太宰(だざいの)筑後(ちくごの)守(かみ)頼泰・朝井(あさゐ)但馬(たぢまの)将監(しやうげん)胤信(たねのぶ)・筑後(ちくごの)新左衛門(しんざゑもん)頼信(よりのぶ)・窪能登(くぼののとの)太郎泰助(やすすけ)・肥後(ひごの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)泰親(やすちか)・太宰(だざいの)出雲(いづもの)守(かみ)頼光(よりみつ)・山井(やまゐ)三郎惟則(これのり)・饗場(あいば)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)重高(しげたか)・同左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)行盛(ゆきもり)・
相馬(さうま)小太郎・木綿(こわたの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・西河(さいかの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・草壁(くさかべ)六郎(ろくらう)・牛糞(うしくそ)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、松浦党(まつらたう)には、佐志(さしの)将監(しやうげん)・田平(たひら)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)・千葉(ちば)右京(うきやうの)大夫(たいふ)・草野(くさの)筑後(ちくごの)守(かみ)・子息肥後(ひごの)守(かみ)・高木肥前(ひぜんの)守(かみ)・綾部(あやべ)修理(しゆりの)亮(すけ)・藤木(ふぢのき)三郎・幡田(はたた)次郎・高田筑前(ちくぜんの)々司・三原(みはら)秋月(あきづき)の一族(いちぞく)・島津上総(かづさの)入道(にふだう)・渋谷(しぶや)播磨(はりまの)守(かみ)・本間(ほんま)十郎・土屋(つちや)三郎・松田弾正少弼(だんじやうせうひつ)・河尻(かはじり)肥後(ひごの)入道(にふだう)・託間(たくま)三郎・鹿子木(かのこぎ)三郎、此等(これら)を宗(むね)との侍として都合其(その)勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)、杜(えずり)の渡(わたり)を前に当(あて)て味坂庄(あぢさかのしやう)に陣を取る。
宮方(みやがた)には、先帝第六の王子(わうじ)征西(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)、洞院(とうゐん)権大納言(ごんだいなごん)・竹林院三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)・春日(かすがの)中納言(ちゆうなごん)・花山院(くわざんのゐん)四位(しゐの)少将(せうしやう)・土御門(つちみかどの)少将(せうしやう)・坊城(ばうじやうの)三位(さんみ)・葉室(はむろの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)・日野(ひのの)左少弁(させうべん)・高辻(たかつじの)三位(さんみ)・九条(くでうの)大外記(だいげき)・子息主水頭(もんどのかみ)、新田(につたの)一族(いちぞく)には、岩松(いはまつ)相摸守(さがみのかみ)・瀬良田(せらだ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・田中弾正(だんじやうの)大弼(だいひつ)・桃井(もものゐ)左京(さきやうの)亮(すけ)・江田(えた)丹後(たんごの)守(かみ)・山名因幡(いなばの)守(かみ)・堀口(ほりぐち)三郎・里見(さとみ)十郎、侍大将には、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光・
子息肥後(ひごの)次郎・甥(をひの)肥前(ひぜんの)二郎武信・同孫三郎(まごさぶらう)武明(たけあきら)・赤星(あかほし)掃部助(かもんのすけ)武貫(たけつら)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)・賀屋(かや)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)・見参岡(みさをか)三川(みかはの)守(かみ)・庄(しやうの)美作(みまさかの)守(かみ)・国分(こくぶんの)二郎・故伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)が次男名和(なわ)伯耆(はうきの)権(ごんの)守(かみ)長秋(ながあき)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)・宇都宮(うつのみや)刑部(ぎやうぶの)丞(じよう)・千葉刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・白石(しらいし)三川(みかはの)入道(にふだう)・鹿島(かしま)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・大村弾正少弼(だんじやうせうひつ)・
太宰(だざいの)権(ごんの)小弐(せうに)・宇都宮(うつのみや)壱岐(いきの)守(かみ)・大野式部(しきぶの)太輔(たいふ)・派(みなまた)讃岐守(さぬきのかみ)・溝口(みぞぐち)丹後(たんごの)守(かみ)・牛糞(うしくそ)越前(ゑちぜんの)権(ごんの)守(かみ)・波多野(はだの)三郎・河野辺(かはのべ)次郎・稲佐(いなさ)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・谷山(たにやま)右馬助(うまのすけ)・渋谷(しぶや)三河(みかはの)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・島津上総四郎・斉所(さいしよ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・高山(たかやま)民部(みんぶの)太輔(たいふ)・伊藤摂津(つの)守(かみ)・絹脇(きぬわき)播磨(はりまの)守(かみ)・土持(つちもち)十郎・合田(あふた)筑前(ちくぜんの)守(かみ)、此等(これら)を宗(むね)との兵として、其(その)勢(せい)都合八千(はつせん)余騎(よき)、高良山(かうらさん)・柳坂(やなぎさか)・水縄山(みなふやま)三箇所(さんかしよ)に陣をぞ取たりける。
同七月十九日に、菊池(きくち)は先(まづ)己(おのれ)が手勢(てぜい)五千(ごせん)余騎(よき)にて筑後河(ちくごがは)を打渡り、小弐(せうに)が陣へ押寄す。小弐(せうに)如何(いかが)思(おもひ)けん不戦、三十(さんじふ)余町(よちやう)引退(ひきの)き大原(おほはら)に陣を取る。菊池(きくち)つゞひて責(せめ)んとしけるが、あはひに深き沼有て細道一つ有(あり)けるを、三所(みところ)堀(ほり)切て、細き橋を渡したりければ、可渡様(やう)も無(なか)りけり。両陣僅(わづか)に隔(へだて)て旗の文(もん)鮮(あざやか)に見ゆる程になれば、菊池(きくち)態(わざと)小弐(せうに)を為令恥、金銀にて月日を打て著(つけ)たる旗の蝉本(せみもと)に、一紙(いつし)の起請文(きしやうもん)をぞ押(おし)たりける。
此(これ)は去年太宰(だざいの)小弐(せうに)、古浦城(ふるうらのじやう)にて已(すで)に一色(いつしき)宮内(くないの)太輔(たいふ)に討(うた)れんとせしを、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)大勢を以(もつ)て後攻(ごづめ)をして、小弐(せうに)を助(たすけ)たりしかば、小弐(せうに)悦びに不堪、「今より後子孫七代に至(いたる)まで、菊池(きくち)の人々に向て弓を引(ひき)矢を放(はなつ)事不可有。」と、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に、血をしぼりて書(かき)たりし起請(きしやう)なれば、今無情心替(こころがは)りしたる処のうたてしさを、且(かつう)は訴天に、且(かつう)は為令知人に也(なり)けり。
八月十六日(じふろくにち)の夜半許(ばかり)に、菊池(きくち)先(まづ)夜討に馴(なれ)たる兵を三百人(さんびやくにん)勝(すぐつ)て、山を越(こえ)水を渡て搦手(からめて)へ廻(まは)す。宗(むね)との兵七千(しちせん)余騎(よき)をば三手(みて)に分て、筑後河の端(はた)に副(そう)て、河音(かはおと)に紛(まぎ)れて嶮岨(けんそ)へ廻(まは)りて押寄す。大手の寄手(よせて)今は近付(ちかづか)んと覚(おぼえ)ける程に、搦手(からめて)の兵三百人(さんびやくにん)敵の陣へ入て、三処に時の声を揚(あ)げ十方に走(はしり)散(ちつ)て、敵の陣々へ矢を射懸(いかけ)て、後(うしろ)へ廻(まはつ)てぞ控(ひかへ)たる。分内(ぶんない)狭(せば)き所に六万(ろくまん)余騎(よき)の兵、沓(くつ)の子(こ)を打たる様(やう)に役所(やくしよ)を作り双(ならべ)たれば、時の声に驚き、何(いづれ)を敵と見分たる事もなく此(ここ)に寄合(よせあはせ)彼(かしこ)に懸合(かけあひ)て、呼叫(をめきさけび)追つ返(かへし)つ同士打(どしうち)をする事数剋(すこく)也(なり)しかば、小弐(せうに)憑切(たのみきり)たる兵三百(さんびやく)余人(よにん)、同士打(どしうち)にこそ討(うた)れけれ。
敵陣騒乱(さわぎみだれ)て、夜已(すで)に明(あけ)ければ、一番に菊池(きくち)二郎、件(くだん)の起請(きしやう)の旗を進めて、千(せん)余騎(よき)にてかけ入(いる)。小弐(せうに)が嫡子(ちやくし)太宰(だざいの)新小弐(せうに)忠資(ただすけ)、五十(ごじふ)余騎(よき)にて戦(たたかひ)けるが、父が起請や子に負(おひ)けん。忠資忽(たちまち)に打負(うちまけ)て、引返(ひつかへし)々々(ひつかへし)戦(たたかひ)けるが、敵に組(くま)れて討(うた)れにけり。是(これ)を見て朝井(あさゐ)但馬(たぢまの)将監(しやうげん)胤信(たねのぶ)・筑後(ちくごの)新左衛門(しんざゑもん)・窪(くぼの)能登(のとの)守(かみ)・肥前(ひぜんの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、百(ひやく)余騎(よき)にて取て返し、近付く敵に引組(ひつくみ)々々差違(さしちがへ)て死(しに)ければ、菊池(きくち)孫次郎武明(たけあきら)・同越後(ゑちごの)守(かみ)・賀屋(かや)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・見参岡(みさをか)三川(みかはの)守(かみ)・庄(しやうの)美作(みまさかの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)刑部(ぎやうぶの)丞(じよう)・国分(こくぶん)次郎以下宗(むね)との兵八十三人(はちじふさんにん)、一所にて皆討(うた)れにけり。
小弐(せうに)が一陣の勢(せい)は、大将の新小弐(せうに)討(うた)れて引退(ひきしりぞき)ければ、菊池(きくち)が前陣の兵、汗馬(かんば)を伏て引(ひか)へたり。二番に菊池(きくち)が甥(をひ)肥前(ひぜんの)二郎武信・赤星掃部(かもんの)助(すけ)武貫(たけつら)、千(せん)余騎(よき)にて進めば、小弐(せうに)が次男太宰越後(ゑちごの)守(かみ)頼泰、並(ならびに)太宰出雲(いづもの)守(かみ)、二万(にまん)余騎(よき)にて相向ふ。初(はじめ)は百騎(ひやくき)宛(づつ)出合(いであひ)て戦(たたかひ)けるが、後には敵御方(みかた)二万(にまん)二千(にせん)余騎(よき)、颯(さつ)と入(いり)乱(みだれ)、此(ここ)に分れ彼(かしこ)に合(あひ)、半時許(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、組(くん)で落(おつ)れば下重(おりかさな)り、切て落せば頚(くび)をとる。戦未(いまだ)決(けつせざる)前(さき)に、小弐(せうに)方には赤星掃部(かもんの)助(すけ)武貫を討て悦び、寄手(よせて)は引返す。
菊池(きくち)が方には太宰(だざいの)越後(ゑちごの)守(かみ)を虜(いけどり)て、勝時(かちどき)を上(あげ)てぞ悦(よろこび)ける。此(この)時(とき)宮方(みやがた)に、結城(ゆふき)右馬(うまの)頭(かみ)・加藤大夫判官(たいふのはうぐわん)・合田(あふた)筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)・熊谷(くまがえ)豊後(ぶんごの)守(かみ)・三栗屋(みくりや)十郎・太宰(だざいの)修理(しゆりの)亮(すけ)・松田丹後(たんごの)守(かみ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・熊谷(くまがえ)民部(みんぶの)大輔(たいふ)以下、宗(むね)との兵三百(さんびやく)余人(よにん)討死しければ、将軍方(しやうぐんがた)には、饗庭(あいば)右衛門(うゑもんの)蔵人(くらんど)・同左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・山井(やまゐ)三郎・相馬(さうま)小太郎・木綿(こわた)左近(さこんの)将監(しやうげん)・西川(にしかは)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・草壁(くさかべ)六郎(ろくらう)以下、憑切(たのみきり)たる兵共(つはものども)七百(しちひやく)余人(よにん)討(うた)れにけり。
三番には、宮の御勢(おんせい)・新田の一族(いちぞく)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)一手(ひとて)に成て、三千(さんぜん)余騎(よき)、敵の中を破(わつ)て、蜘手(くもて)十文字(じふもんじ)に懸(かけ)散(ちらさ)んと喚(をめ)ひて蒐(かか)る。小弐(せうに)・松浦(まつら)・草壁・山賀(やまが)・島津・渋谷(しぶや)の兵二万(にまん)余騎(よき)、左右へ颯(さつ)と分れて散々(さんざん)に射る。宮方(みやがた)の勢射立(いたて)られて引(ひき)ける時、宮は三所(みところ)まで深手を負(おは)せ給(たまひ)ければ日野(ひのの)左少弁(させうべん)・坊城(ばうじやう)三位(さんみ)・洞院(とうゐん)権大納言(ごんだいなごん)・花山院四位(しゐの)少将・北山(きたやま)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)・北畠(きたばたけ)源(げん)中納言(ぢゆうなごん)・春日(かすがの)大納言(だいなごん)・土御門(つちみかど)右少弁・高辻(たかつじの)三位(さんみ)・葉室(はむろ)左衛門(さゑもんの)督(かみ)に至るまで、宮を落(おと)し進(まゐら)せんと蹈止(ふみとどまつ)て討(うた)れ給ふ。
是(これ)を見て新田の一族(いちぞく)三十三人(さんじふさんにん)、其(その)勢(せい)千(せん)余騎(よき)横合(よこあひ)に懸て、両方の手崎(てさき)を追(おひ)まくり、真中(まんなか)へ会尺(ゑしやく)もなく懸(かけ)入て、引組(ひつくん)で落(おち)、打違(うちちがへ)て死(しに)、命を限(かぎり)に戦(たたかひ)けるに、世良田(せらだ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・田中弾正(だんじやうの)大弼(だいひつ)・岩松(いはまつ)相摸守(さがみのかみ)・桃井(もものゐ)右京(うきやうの)亮(すけ)・堀口三郎・江田(えだ)丹後(たんごの)守(かみ)・山名播磨(はりまの)守(かみ)、敵に組(くま)れて討(うた)れにけり。菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光・子息肥後(ひごの)次郎は、宮の御手(おんて)を負(おは)せ給(たまふ)のみならず、月卿(げつけい)雲客(うんかく)・新田(につたの)一族(いちぞく)達若干(そくばく)討(うた)るゝを見て、
「何(いつ)の為に可惜命ぞや。日来(ひごろ)の契約(けいやく)不違、我に伴(ともな)ふ兵共(つはものども)、不残討死せよ。」と励(はげま)されて、真前(まつさき)に懸入る。敵此(これ)を見知(みしり)たりければ、射て落さんと、鏃(やじり)をそろへて如雨降射けれ共(ども)、菊池(きくち)が著(き)たる鎧(よろひ)は、此(この)合戦の為に三人(さんにん)張(ばり)の精兵(せいびやう)に草摺(くさずり)を一枚宛(づつ)射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵(こしらへ)て威(をどし)たれば、何(いか)なる強弓(つよゆみ)が射けれ共(ども)、裏かく矢一(ひとつ)も無(なか)りけり。馬は射られて倒(たふる)れ共乗手は疵(きず)を被(かうむ)らねば、乗替(のりかへ)ては懸(かけ)入(いり)々々(かけいり)、十七度(じふしちど)迄(まで)懸(かけ)けるに、菊池(きくち)甲(かぶと)を落されて、小鬢(こびん)を二太刀切(きら)れたり。
すはや討(うた)れぬと見へけるが、小弐(せうに)新左衛門(しんざゑもん)武藤(たけふぢ)と押双(おしならべ)て組(くん)で落(おち)、小弐(せうに)が頚を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、甲(かぶと)を取て打著(うちき)て、敵の馬に乗替(のりかへ)、敵の中へ破(わつ)て入(いり)、今日の卯(うの)剋より酉(とり)の下(さがり)まで一息をも不継相戦(あひたたかひ)けるに、新小弐(せうに)を始(はじめ)として一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、憑切(たのみきり)たる郎従四百(しひやく)余人(よにん)、其(その)外の軍勢(ぐんぜい)三千二百二十六人まで討(うた)れにければ、小弐(せうに)今は叶はじとや思(おもひ)けん、太宰府へ引退(ひきのい)て、宝万(はうまん)が岳(だけ)に引上(ひきあが)る。菊池(きくち)も勝軍(かちいくさ)はしたれども、討死したる人を数(かぞふ)れば、千八百(はつぴやく)余人(よにん)と注(しる)したりける。続(つづい)て敵にも不懸、且(しばら)く手負(ておひ)を助(たすけ)てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其(その)後は、敵も御方(みかた)も皆己(おのれ)が領知(りやうち)の国に楯篭(たてこもり)て、中々軍(いくさ)も無(なか)りけり。  
新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)自害(じがいの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に尊氏(たかうぢの)卿(きやう)逝去(せいきよ)あつて後、筑紫は加様(かやう)に乱れぬといへ共、東国は未(いまだ)静(しづか)也(なり)。爰(ここ)に故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の子息左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興・其(その)弟武蔵(むさしの)少将(せうしやう)義宗(よしむね)・故脇屋(わきや)刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)義助(よしすけの)子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)三人(さんにん)、此(この)三四年が間越後国(ゑちごのくに)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ半国許(ばかり)を打随(うちしたが)へて居たりけるを、武蔵・上野の者共(ものども)の中より、無弐由(よし)の連署(れんじよ)の起請(きしやう)を書て、「両三人(さんにん)の御中に一人(いちにん)東国へ御越(おんこし)候へ。大将にし奉て義兵を揚(あ)げ候はん。」とぞ申たりける。
義宗・義治(よしはる)二人(ににん)は思慮深き人也(なり)ければ、此比(このころ)の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早(おほはやり)にして、忠功人に先立(さきだ)たん事をいつも心に懸(かけ)て思はれければ、是非の遠慮を廻(めぐら)さるゝまでもなく、纔(わづか)に郎従百(ひやく)余人(よにん)を行(ゆき)つれたる旅人の様に見せて、窃(ひそか)に武蔵(むさしの)国(くに)へぞ越(こえ)られける。元来(ぐわんらい)張本(ちやうぼん)の輩(ともがら)は申(まうす)に不及、古(いにし)へ新田(につた)義貞(よしさだ)に忠功有(あり)し族(やから)、今(いま)畠山入道々誓(だうせい)に恨(うらみ)を含む兵、窃(ひそか)に音信(いんしん)を通じ、頻(しきり)に媚(こび)を入て催促(さいそく)に可随由(よし)を申(まうす)者多かりければ、義興今は身を寄(よす)る所多く成(なり)て、上野・武蔵両国の間に其(その)勢(いきほ)ひ漸(やうやく)萌(きざ)せり。
天に耳無(なし)といへ共是(これ)を聞(きく)に人を以(もつ)てする事なれば、互(たがひ)に隠密(おんみつ)しけれ共(ども)、兄(あに)は弟(おとと)に語り子は親に知(しら)せける間、此(この)事無程鎌倉(かまくら)の管領(くわんれい)足利左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)朝臣(あそん)・畠山入道々誓(だうせい)に聞へてげり。畠山大夫入道(たいふにふだう)是(これ)を聞(きき)しより敢(あへ)て寝食を安くせず、在所を尋(たづね)聞(きい)て大勢を差遣(さしつかは)せば、国内通計(つうげ)して行方を不知(しらず)。又五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)の勢を以て、道に待(まち)て夜討に寄(よせ)て討(うた)んとすれば、義興更(さら)に事共(こととも)せず、蹴散(けちら)しては道を通(とほ)り打破(やぶつ)ては囲(かこみ)を出て、千変万化(せんべんばんくわ)総(すべ)て人の態(わざ)に非(あら)ずと申ける間、今はすべき様(やう)なしとて、手に余(あま)りてぞ覚へける。さても此(この)事如何(いか)がすべきと、畠山入道々誓昼夜(ちうや)案じ居たりけるが、或(ある)夜潜(ひそか)に竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)を近付(ちかづけ)て、「御辺(ごへん)は先年(せんねん)武蔵野の合戦の時、彼(か)の義興の手に属(しよく)して忠ありしかば、義興も定(さだめ)て其旧好(そのきうかう)を忘れじとぞ思はるらん。されば此(この)人を忻(たばかつ)て討(うた)んずる事は、御辺(ごへん)に過(すぎ)たる人可有。
何(いか)なる謀(はかりこと)をも運(めぐら)して、義興を討て左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の見参に入(いれ)給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語(かたら)れける。竹沢は元来(ぐわんらい)欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして、人の嘲(あざけり)をも不顧古(いにし)への好(よし)みをも不思、無情者也(なり)ければ、曾(かつ)て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の疑(うたがひ)を散じて相近付(あひちかづき)候はん為に、某(それがし)態(わざと)御制法(せいはふ)候はんずる事を背(そむい)て御勘気(かんき)を蒙(かうむ)り、御内(みうち)を罷(まかり)出たる体(てい)にて本国へ罷(まかり)下て後(のち)、此(この)人に取寄り候べし。」と能々(よくよく)相謀(あひはかつ)て己(おのれ)が宿所へぞ帰(かへり)ける。兼(かね)て謀(はか)りつる事なれば、竹沢翌日(よくじつ)より、宿々(しゆくしゆく)の傾城(けいせい)共(ども)を数十人(すじふにん)呼(よび)寄(よせ)て、遊び戯(たはぶ)れ舞(まひ)歌(うたふ)。是(これ)のみならず、相伴(あひともな)ふ傍輩(はうばい)共(ども)二三十人(にさんじふにん)招集(まねきあつめ)て、博奕(ばくち)を昼夜(ちうや)十(じふ)余日(よにち)までぞしたりける。
或(ある)人是(これ)を畠山に告(つげ)知(しら)せたりければ、畠山大に偽(いつは)り忿(いかつ)て、「制法(せいはふ)を破る罪科(ざいくわ)非一、凡(およそ)破道理法はあれども法を破る道理なし。況(いはん)や有道(いうだう)の法をや。一人の科(とが)を誡(いましむ)るは万人を為助也(なり)。此(この)時(とき)緩(ゆる)に沙汰致さば、向後(きやうこう)の狼籍(らうぜき)不可断。」とて、則(すなはち)竹沢が所帯を没収(もつしゆ)して其(その)身を被追出けり。竹沢一言の陳謝(ちんじや)にも不及、「穴(あな)こと/゛\し、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)に仕(つか)はれぬ侍は身一(ひとつ)は過(すぎ)ぬ歟(か)。」と、飽(あく)まで広言(くわうげん)吐散(はきちら)して、己(おのれ)が所領へぞ帰(かへり)にける。
角(かく)て数日(すじつ)有て竹沢潜(ひそか)に新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)へ人を奉て申けるは、「親にて候(さうらひ)し入道、故新田殿(につたどの)の御手(おんて)に属(しよく)し、元弘の鎌倉(かまくら)合戦に忠を抽(ぬきん)で候(さうらひ)き。某(それがし)又先年武蔵野の御合戦の時、御方(みかた)に参て忠戦致し候(さうらひ)し条、定(さだめ)て思召(おぼしめし)忘(わすれ)候はじ。其(その)後は世の転変(てんぺん)度々(どど)に及て、御座(ござの)所をも存知仕(ぞんぢつかまつ)らで候(さうらひ)つる間、無力暫(しばら)くの命を助(たすけ)て御代(みよ)を待(まち)候はん為に、畠山禅門に属(しよく)して候(さうらひ)つるが、心中の趣(おもむき)気色に顕(あらは)れ候(さうらひ)けるに依て、差(さし)たる罪科(ざいくわ)とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収(もつしゆ)せらる。結句(けつく)可討なんどの沙汰に及び候(さうらひ)し間、則(すなはち)武蔵(むさし)の御陣を逃(にげ)出て、当時は深山幽谷(しんざんいうこく)に隠れ居たる体(てい)にて候。某(それがし)が此(この)間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内(みうちに)奉公の身と罷(まかり)成(なり)候(さうらひ)て、自然の御大事(おんだいじ)には御命に替(かは)り進(まゐら)せ候べし。」と、苦(ねんごろ)にぞ申入たりける。
兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)是(これ)を聞給て、暫(しばらく)は申(まうす)所誠(まこと)しからずとて見参をもし給はずして、密儀(みつぎ)なんどを被知事も無(なか)りければ、竹沢尚(なほ)も心中の偽(いつは)らざる処を顕(あらは)して近付(ちかづき)奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申(まうし)ける上臈女房の、年十六七(じふろくしち)許(ばかり)なる、容色(ようしよく)無類、心様(こころさま)優(いう)にやさしく坐(おはし)けるを、兔角(とかく)申(まうし)下して、先(まづ)己(おのれ)が養君(やうくん)にし奉り、御装束(しやうぞく)女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで、様々(さまざま)にし立て潜(ひそか)に兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の方へぞ出したりける。義興元来(もとより)好色(かうしよく)の心深かりければ、無類思通(おもひかよは)して一夜(いちや)の程の隔(へだて)も千年を経(へ)る心地に覚(おぼえ)ければ、常の隠家(かくれが)を替(かへ)んともし給はず、少し混(ひたた)けたる式(しき)にて、其方様(そのかたざま)の草のゆかりまでも、可心置事とは露許(ばかり)も思(おもひ)給はず。
誠(まこと)に褒(ほうじ)一たび笑(ゑん)で幽王(いうわう)傾国、玉妃(ぎよくひ)傍(かたはら)に媚(こび)て玄宗失世給(たまひ)しも、角(かく)やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀(はか)る道を教(をしへ)しを不知けるこそ愚かなれ。角(かく)て竹沢奉公の志(こころざし)切(せつ)なる由を申けるに、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)早(はや)心打解(うちとけ)て見参し給ふ。軈(やが)て鞍置(おき)たる馬三疋(さんびき)、只今(ただいま)威(をど)し立てたる鎧(よろひ)三領、召替への為とて引進(ひきまゐら)す。是(これ)のみならず、越後より著(つ)き纏(まとひ)奉て此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たる兵共(つはものども)に、皆一献(いつこん)を進(すす)め、馬・物具(もののぐ)・衣裳・太刀・々(かたな)に至(いたる)まで、用々に随て不漏是(これ)を引(ひき)ける間、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)も竹沢を異于也(なり)。思(おもひ)をなされ、傍輩(はうばい)共(ども)も皆是(これ)に過(すぎ)たる御要人(ごえうにん)不可有と悦ばぬ者は無(なか)りけり。
加様(かやう)に朝夕宮仕(みやづかひ)の労(らう)を積み昼夜無二(むに)の志を顕(あらはし)て、半年計(ばかり)に成(なり)にければ、佐殿今は何事に付ても心を置(おき)給はず、謀反(むほん)の計略、与力(よりき)の人数、一事(いちじ)も不残、心底(しんてい)を尽(つくし)て被知けるこそ浅猿(あさまし)けれ。九月十三夜は暮天(ぼてん)雲晴(はれ)て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会(くわい)に事を寄(よせ)て佐殿を我館(わがたち)へ入れ奉り、酒宴の砌(みぎり)にて討(うち)奉らんと議(ぎ)して、無二の一族(いちぞく)若党(わかたう)三百(さんびやく)余人(よにん)催(もよほ)し集め、我館(わがたち)の傍(かたはら)にぞ篭置(こめおき)ける。日暮(くれ)ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私(わたくし)の茅屋(ばうをく)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内(みうち)の人々をも慰め申(まうし)候はん為に、白拍子共少々召(めし)寄(よせ)て候。」と申(まうし)ければ、「有興遊(あそび)ありぬ。」と面々に皆悦(よろこび)て、軈(やが)て馬に鞍置(おか)せ、郎従共召集(めしあつめ)て、已(すで)に打出(いで)んとし給(たまひ)ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息(ごせうそく)あり。
披(ひらい)て見給へば、「過(すぎ)し夜の御事(おんこと)を悪(あし)き様なる夢に見進(まゐらせ)て候(さうらひ)つるを、夢説(ゆめとき)に問(とひ)て候へば、重き御慎(おんつつしみ)にて候。七日が間は門の内を不可有御出(おんいで)と申(まうし)候也(なり)。御心(おんこころ)得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是(これ)を見給て、執事(しつじ)井(ゐの)弾正を近付(ちかづけ)て、「如何(いかが)可有。」と問(とひ)給へば、井(ゐの)弾正、「凶(きよう)を聞て慎(つつし)まずと云(いふ)事や候べき。只(ただ)今夜の御遊(ぎよいう)をば可被止とこそ存(ぞんじ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。佐殿げにもと思(おもひ)給(たまひ)ければ、俄(にはか)に風気(ふうき)の心地有(あり)とて、竹沢をぞ被帰ける。
竹沢は今夜の企(くはたて)案に相違して、不安思(おもひ)けるが、「抑(そもそも)佐(すけ)殿(どの)の少将の御局の文を御覧じて止(とどま)り給(たまひ)つるは、如何様(いかさま)我企(わがくはたて)を内々(ないない)推(すゐ)して被告申たる者也(なり)。此女姓(このによしやう)を生(いけ)て置ては叶(かなふ)まじ。」とて、翌(あけ)の夜潜(ひそか)に少将の局を門へ呼(よび)出奉て、差殺して堀の中にぞ沈(しづ)めける。痛(いたはしい)乎(かな)、都をば打続きたる世の乱(みだれ)に、荒(あれ)のみまさる宮の中に、年経(へ)て住(すみ)し人々も、秋の木葉(このは)の散々(ちりぢり)に、をのが様々(さまざま)に成(なり)しかば、憑(たの)む影なく成(なり)はてゝ、身を浮草(うきくさ)の寄(よる)べとは、此(この)竹沢をこそ憑(たのみ)給ひしに、何故(なにゆゑ)と、思(おもひ)分(わき)たる方もなく、見てだに消(きえ)ぬべき秋の霜の下に伏(ふし)て、深き淵に沈(しづめ)られ給ひける今はの際(きは)の有様を、思遣(おもひやる)だに哀(あはれ)にて、外(よそ)の袖さへしほれにけり。
其(その)後より竹沢我(わが)力にては尚(なほ)討(うち)得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の隠れ居られて候所をば委細(ゐさい)に存知仕(つかまつつ)て候へ共、小勢にては打漏(うちもら)しぬと覚へ候。急(いそぎ)一族(いちぞく)にて候江戸遠江守(とほたふみのかみ)と下野守とを被下候へ。彼等(かれら)に能々(よくよく)評定(ひやうぢやう)して討(うち)奉(たてまつり)候はん。」とぞ申(まうし)ける。畠山大夫入道(たいふにふだう)大に悦(よろこび)て、軈(やが)て江戸遠江守(とほたふみのかみ)と其甥(そのをひ)下野(しもつけの)守(かみ)を被下けるが、討手を下す由兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)伝(つたへ)聞かば、在所(ざいしよ)を替(かへ)て隔(へだつ)る事も有(あり)とて、江戸伯父甥が所領、稲毛(いなげ)の庄(しやう)十二郷(じふにがう)を闕所(けつしよ)になして則(すなはち)給人(きふにん)をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽(いつは)り忿(いかつ)て、軈(やが)て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出(して)城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、一族(いちぞく)以下の兵五百(ごひやく)余騎(よき)招(まねき)集(あつめ)て、「只(ただ)畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵(ののし)りける。
程経て後、江戸遠江守(とほたふみのかみ)、竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)を縁(えん)に取て兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収(もつしゆ)せられ、伯父甥共に牢篭(らうろう)の身と罷(まかり)なる間、力不及一族共(いちぞくども)を引卒(いんぞつ)して、鎌倉殿(かまくらどの)の御陣に馳向(はせむか)ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但(ただし)可然大将を仰(あふぎ)奉らでは、勢の著(つ)く事有(ある)まじきにて候へば、佐殿を大将に憑(たのみ)奉らんずるにて候。先(まづ)忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へ御越(おんこし)候へ。鎌倉中(かまくらぢゆう)に当家の一族(いちぞく)いかなりとも二三千騎(にさんぜんぎ)も可有候。其(その)勢を付て相摸(さがみの)国(くに)を打随(うちしたが)へ、東(とう)八箇国(はちかこく)を推(おし)て天下を覆(くつがへ)す謀(はかりこと)を運(めぐ)らし候はん。」と、誠(まこと)に容易(たやす)げにぞ申たりける。
さしも志深き竹沢が執(しつし)申(まうす)なれば、非所疑憑(たのま)れて、則(すなはち)武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力(よりき)しつる兵どもに、事の由(よし)を相触(あひふれ)て、十月十日の暁に兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)は忍(しのん)で先(まづ)鎌倉(かまくら)へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼(かね)て支度(したく)したる事なれば、矢口(やぐち)の渡りの船の底を二所(ふたところ)えり貫(ぬい)て、のみを差(さ)し、渡の向(むかふ)には宵(よひ)より江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)、混物具(ひたもののぐ)にて三百(さんびやく)余騎(よき)、木の陰(かげ)岩の下に隠(かくれ)て、余る所あらば討(うち)止めんと用意(ようい)したり。
跡には竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)、究竟(くつきやう)の射手(いて)百五十人(ひやくごじふにん)勝(すぐつ)て、取て帰されば遠矢(とほや)に射殺さんと巧(たくみ)たり。「大勢にて御(おん)通(とほ)り候はゞ人の見尤(みとが)め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)の郎従共をば、兼(かね)て皆抜々(ぬけぬけ)に鎌倉(かまくら)へ遣(つかは)したり。世良田(せらだ)右馬助(うまのすけ)・井(ゐの)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・大島周防(すはうの)守(かみ)・土肥(とひの)三郎佐衛門・市河五郎・由良(ゆら)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・南瀬口(みなせくち)六郎(ろくらう)僅(わづか)に十三人(じふさんにん)を打連(うちつれ)て、更(さら)に他人をば不雑、のみを差(さし)たる船にこみ乗(のり)て、矢口(やぐちの)渡(わたり)に押出す。
是(これ)を三途(さんづ)の大河(たいが)とは、思(おもひ)寄(よら)ぬぞ哀(あはれ)なる。倩(つらつら)是(これ)を譬(たと)ふれば、無常の虎に追(おは)れて煩悩(ぼんなう)の大河を渡れば、三毒(さんどく)の大蛇(だいじや)浮(うかび)出て是(これ)を呑(のま)んと舌を暢(の)べ、其餐害(そのざんがい)を遁(のがれ)んと岸の額(ひたひ)なる草の根(ね)に命を係(かけ)て取(とり)付(つき)たれば、黒白二(ふたつ)の月の鼠が其(その)草の根をかぶるなる、無常の喩(たと)へに不異。此(この)矢口の渡(わたり)と申(まうす)は、面(おもて)四町(しちやう)に余(あま)りて浪嶮(けはし)く底深し。渡し守(も)り已(すで)に櫓を押て河の半(なか)ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓(ろ)かいを河に落(おと)し入れ、二(ふたつ)ののみを同時に抜(ぬき)て、二人(ににん)の水手同じ様に河にかは/\と飛(とび)入て、うぶに入てぞ逃去(にげさり)ける。
是(これ)を見て、向の岸より兵四五百騎(しごひやくき)懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚(おろか)なる人々哉(かな)。忻(たばか)るとは知(しら)ぬか。あれを見よ。」と欺(あざむい)て、箙(えびら)を扣(たたい)てぞ笑(わらひ)ける。去(さる)程(ほど)に水船に涌(わき)入て腰中許(こしなかばかり)に成(なり)ける時、井(ゐの)弾正、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を抱(いだき)奉て、中(ちう)に差揚(さしあげ)たれば、佐殿、「安からぬ者哉(かな)。日本一(につぽんいち)の不道人(ふたうじん)共(ども)に忻(たばか)られつる事よ。七生(しちしやう)まで汝等(なんぢら)が為に恨(うらみ)を可報者を。」と大に忿(いかつ)て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回(かきまはし)々々(かきまはし)、二刀(ふたかたな)まで切(きり)給ふ。
井(ゐの)弾正腸(はらわた)を引切て河中へかはと投(なげ)入れ、己(おのれ)が喉笛(のどぶえ)二所(ふたところ)さし切て、自(みづか)らかうづかを掴(つか)み、己(おのれ)が頚を後(うし)ろへ折(を)り付(つく)る音、二町(にちやう)許(ばかり)ぞ聞へける。世良田右馬助(うまのすけ)と大島周防(すはうの)守(かみ)とは、二人(ににん)刀を柄口(つかぐち)まで突違(つきちがへ)て、引組(ひつくん)で河へ飛入る。由良兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同新左衛門(しんざゑもん)は舟の艫舳(ともへ)に立(たち)あがり、刀を逆手(さかて)に取直して、互(たがひ)に己(おのれ)が頚を掻落す。土肥(とひの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・南瀬口(みなせくち)六郎(ろくらう)・市河五郎三人(さんにん)は、各(おのおの)袴(はかま)の腰(こし)引(ひき)ちぎりて裸(はだか)に成(なり)、太刀を口えくわへて、河中に飛(とび)入(いり)けるが、水の底を潜(くぐり)て向の岸へかけあがり、敵三百騎(さんびやくき)の中へ走(はしり)入り、半時計(はんじばかり)切(きり)合(あひ)けるが、敵五人(ごにん)打取り十三人(じふさんにん)に手負(ておほ)せて、同(おなじ)枕に討(うた)れにけり。
其(その)後水練(すゐれん)を入(いれ)て、兵衛(ひやうゑの)左(すけ)殿(どの)並(ならび)に自害討死の頚十三求(もとめ)出し、酒に浸(ひた)して、江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の御坐(おはします)武蔵(むさし)の入間(いるま)河の陣へ馳(はせ)参(まゐる)。畠山入道不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、小俣(をまた)少輔(せう)次郎・松田・河村を呼(よび)出して此(これ)を被見に、「無子細兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)にて御坐(おは)し候(さふらひ)けり。」とて、此(この)三四年が先に、数日(すじつ)相馴(あひなれ)奉(たてまつり)し事共(ことども)申(まうし)出て皆泪(なみだ)をぞ流しける。見る人悦(よろこび)の中に哀(あはれ)添(そう)て、共に袖をぞぬらしける。
此(この)義興と申(まうす)は、故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)が討(うた)れし後も、親父(しんぶ)猶(なお)是(これ)を嫡子(ちやくし)には不立、三男(さんなん)武蔵守(むさしのかみ)義宗を六歳(ろくさい)の時より昇殿(しやうでん)せさせて時めきしかば、義興は有(ある)にも非(あら)ず、孤(みなしご)にて上野(かうづけの)国(くに)に居たりしを、奥州(あうしう)の国司顕家卿、陸奥(むつの)国(くに)より鎌倉(かまくら)へ責(せめ)上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共(つはものども)、此(この)義興を大将に取立て、三万(さんまん)余騎(よき)にて奥州(あうしう)の国司に力を合(あは)せ、鎌倉(かまくら)を責(せめ)落(おと)して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠(まこと)に武勇(ぶよう)の器用(きよう)たり。尤(もつとも)義貞が家をも可興者也(なり)。」とて、童名(わらべな)徳寿丸(とくじゆまる)と申(まうし)しを、御前(おんまへ)にて元服(げんぶく)させられて、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)とぞ召(めさ)れける。
器量(きりやう)人に勝(すぐ)れ謀(はかりこと)巧(たくみ)に心飽(あく)まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉(かまくら)の軍にも大敵を破り、万卒(ばんそつ)に当る事、古今未(いまだ)聞(きかざる)処多し。其(その)後身を側(そば)め、只二三人(にさんにん)武蔵・上野の間に隠れ行(ありき)給ひし時、宇都宮(うつのみや)の清党(せいのたう)が、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取篭(とりこめ)たりしも不討得。其振舞(そのふるまひ)恰(あたか)も天を翔(かけり)地を潜(くぐ)る術(じゆつ)ありと、怪(あやし)き程の勇者(ようしや)なりしかば、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)も、京都の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)も、安き心地をばせざりつるに、運命窮(きはま)りて短才庸愚(たんさいようぐ)の者共(ものども)に忻(たばか)られ、水に溺(おぼ)れて討(うた)れ給ふ。
懸(かか)りし程に江戸・竹沢が忠功抜群(ばつくん)也(なり)とて、則(すなはち)数箇所(すかしよ)の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉(かな)。」と是(これ)を羨(うらや)む人もあり、又、「涜(きたな)き男の振舞(ふるまひ)哉(かな)。」と爪弾(つまはじき)をする人もあり。竹沢をば猶(なほ)も謀反与同(よとう)の者共(ものども)を委細(ゐさい)に尋(たづね)らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人(ににん)には暇(いとま)たびて恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守(とほたふみのかみ)喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開て、則(すなはち)拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日(にじふさんにち)の暮程に、矢口の渡(わたり)に下居(おりゐ)て渡の舟を待(まち)居たるに、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を渡し奉(たてまつり)し時、江戸が語らひを得て、のみを抜(ぬい)て舟を沈(しづ)めたりし渡守(わたしもり)が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴(さかな)を用意(ようい)して、迎(むかひ)の舟をぞ漕(こぎ)出しける。
此(この)舟已(すで)に河中を過(すぎ)ける時、俄(にはか)に天掻曇(かきくも)りて、雷(いかづち)鳴(なり)水嵐(すゐらん)烈(はげし)く吹漲(ふきみなぎ)りて、白波舟を漂(ただよ)はす、渡守周章騒(あわてさわい)で、漕戻(こぎもどさ)んと櫓(ろ)を押(おし)て舟を直しけるが、逆巻(さかまく)浪に打返されて、水手梶取(かんとり)一人も不残、皆水底(みなそこ)に沈(しづ)みけり。
天の忿(いかり)非直事是(これ)は如何様(いかさま)義興の怨霊(をんりやう)也(なり)と、江戸遠江守(とほたふみのかみ)懼(おそれ)をのゝきて、河端(かはばた)より引返(ひつかへし)、余(よ)の処をこそ渡さめとて、此(これ)より二十(にじふ)余町(よちやう)ある上(かみ)の瀬(せ)へ馬を早めて打(うち)ける程に、電行(でんかう)前(さき)に閃(ひらめい)て、雷(いかづち)大に鳴霆(なりはた)めく、在家(ざいけ)は遠し日は暮(くれ)ぬ。只今(ただいま)雷神(らいしん)に蹴殺(けころ)されぬと思ひければ、
「御助(おんたすけ)候へ兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)。」と、手を合(あは)せ虚空(こくう)を拝して逃(にげ)たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸(かけ)て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲(くろくも)一村(ひとむら)江戸が頭(かうべ)の上に落さがりて、雷電(らいでん)耳の辺に鳴閃(なりひら)めきける間、余(あま)りの怖(おそろし)さに後(うし)ろを屹(きつ)と顧(かへりみ)たれば、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、白栗毛なる馬の、額(ひたひ)に角(つの)の生(はえ)たるに乗(のり)、あひの鞭(むち)をしとゝ打(うち)て、江戸を弓手の物になし、鐙(あぶみ)の鼻に落(おち)さがりて、わたり七寸(しちすん)許(ばかり)なる雁俣(かりまた)を以て、かひがねより乳(ち)の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思(おもひ)て、江戸馬より倒(さかさま)に落(おち)たりけるが、やがて血を吐(は)き悶絶僻地(もんぜつびやくぢ)しけるを、輿(こし)に乗(のせ)て江戸が門へ舁著(かきつけ)たれば、七日が間足手をあがき、水に溺(おぼれ)たる真似(まね)をして、「あら難堪や、是(これ)助けよ。」と、叫び死(じに)に死(しに)にけり。
有為(うゐ)無常の世の習(ならひ)、明日を知(しら)ぬ命の中に、僅(わづか)の欲(よく)に耽(ふけ)り情なき事共(ことども)を巧(たく)み出し振舞(ふるまひ)し事、月を阻(へだて)ず因果歴然(いんぐわれきぜん)乍(たちまち)に身に著(つき)ぬる事、是(これ)又未来永劫(みらいやうごふ)の業障(ごふしやう)也(なり)。
其(その)家に生(うま)れて箕裘(ききう)を継(つぎ)弓箭(ゆみや)を取(とる)は、世俗の法(はふ)なれば力なし。努々(ゆめゆめ)人は加様(かやう)の思(おもひ)の外(ほか)なる事を好み翔(ふるま)ふ事有(ある)べからず。又其翌(そのあけ)の夜の夢に、畠山大夫(たいふ)入道殿(にふだうどの)の見給ひけるは、黒雲(くろくも)の上に大鼓(たいこ)を打て時を作る声しける間、何者(なにもの)の寄(よせ)来るやらんと怪(あやし)くて、音する方を遥(はるか)に見遣(みやり)たるに、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、長(たけ)二丈(にぢやう)許(ばかり)なる鬼に成(なり)て、牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)・阿放(あはう)・羅刹(らせつ)共(ども)十(じふ)余人(よにん)前後に随(したが)へ、火(ひの)車(くるま)を引て左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)のをはする陣中(ぢんちゆう)へ入(いる)と覚へて、胸打騒(うちさわぎ)て夢覚(さめ)ぬ。
禅門夙(つと)に起(おき)て、「斯(かか)る不思議(ふしぎ)の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言(こと)ばの未(いまだ)終(はて)ざるに、俄(にはか)に雷火(らいくわ)落懸り、入間河(いるまがは)の在家(ざいけ)三百(さんびやく)余宇(よう)、堂舎(だうしや)仏閣数十箇所(すじつかしよ)、一時に灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。是(これ)のみならず義興討(うた)れし矢口の渡(わたり)に、夜々(よなよな)光(ひかり)物出来て往来(わうらい)の人を悩(なやま)しける間、近隣(きんりん)の野人村老(やじんそんらう)集(あつまつ)て、義興の亡霊(ばうれい)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めつゝ、新田(につた)大明神(だいみやうじん)とて、常盤堅盤(ときはかきは)の祭礼、今に不絶とぞ承(うけたまは)る。不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)なり。 
 
太平記 巻第三十四

 

宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどのに)賜将軍宣旨事(こと)
鎌倉(かまくら)贈(ぞう)左大臣尊氏公薨(こう)じ給(たまひ)し刻(きざみ)、世の危(あやぶむ)事、深淵(しんえん)に臨(のぞん)で薄氷(はくひよう)を蹈(ふむ)が如(ごとく)にして、天下今に反覆(はんぷく)しぬと見へける処に、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の棟梁(とうりやう)共(とも)成(なり)ぬべき器用(きよう)と見へし新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、武蔵(むさしの)国(くに)にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順(うちしたが)へたりし菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光も、小弐(せうに)・大伴が翻(ひるがへつ)て敵に成(なり)し後は勢(いきほ)ひ少く成(なり)ぬと聞へしかば、宮方(みやがた)の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲(かなしみ)あつて、意に叶はぬ世のうさを歎(なげき)ければ、将軍方(しやうぐんがた)の武士共(ぶしども)は、樹(うゑき)を移(うつし)て春(はる)の花を看(みる)が如く、危き中にも待(まつ)事多(おほく)して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無(なか)りけり。
去(さる)程(ほど)に延分三年十二月十八日、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、二十九歳にて征夷将軍に成(なり)給ふ。日野(ひのの)左中弁時光を勅使(ちよくし)にて宣旨を下されければ、佐々木(ささきの)太郎判官秀詮(ひであきら)を以て宣旨を請取(うけとり)奉る。天下の武功に於ては申(まうす)に不及といへども、相続(さうぞく)して二代忽(たちまち)に将軍の位に備(そなは)り給ふ、目出(めでた)かりし世の様(ため)し也(なり)。抑(そもそも)此比(このごろ)将軍家に於て、我に増(まし)たる忠の者あらじと擘(ただむき)を振ふ輩(ともがら)多き中に、秀詮(ひであきら)宣旨を請(うけ)取(とり)奉る面目身に余る。其(その)故を聞(きけ)ば、祖父佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、去(さる)元弘の始(はじめ)、相摸(さがみ)入道(にふだう)が振舞(ふるまひ)悪逆無道(ぶだう)にして武運已(すで)に傾(かたぶく)べき時至(いたり)ぬとや見たりけん。平家を討て代(よ)を知(しり)給へと頻(しきり)に将軍を進め申せしが、果(はた)して六波羅(ろくはら)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の為に亡(ほろ)びにき。
然共(しかれども)四海(しかい)尚(なほ)乱(みだれ)て二十(にじふ)余年(よねん)、其(その)間に名を高くせし武士共(ぶしども)、宮方(みやがた)に参らば又将軍方(しやうぐんがた)に降(くだ)り、高倉禅門に属(しよく)するかと見れば右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬に与力(よりき)し、見を一偏(いつぺん)に決せず、道誉(だうよ)将軍方(しやうぐんがた)にして、親類太略(たいりやく)討死す。中にも秀詮(ひであきら)が父、源三判官秀綱(ひでつな)、去(さ)る文和二年六月に山名伊豆(いづの)守(かみ)が謀叛に依て、主上(しゆしやう)帝都を去(さら)せ御座(おはしま)して、越路(こしぢ)の雲に迷(まよは)せ給ふ。爰(ここ)に新田掃部助(かもんのすけ)、山名が謀叛に節(せつ)を得て、堅田浦(かたたのうら)にて君を襲(おそひ)奉(たてまつり)し時、秀綱返し合(あは)せ命を軽(かろん)ず。其(その)間に主上(しゆしやう)延(のび)させ御座(おはしま)す事、偏(ひとへ)に秀綱が武功に依(より)て也(なり)。其(その)忠他に異(こと)也(なり)とて、秀詮(ひであきら)を撰(えらび)出されけるとぞ。是(これ)は建久の古(いにしへ)、鎌倉(かまくら)右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)頼朝(よりとも)々臣、武将に備(そなは)り給(たまひ)し時鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、三浦荒二郎(くわうじらう)宣旨を請(うけ)取(とり)奉りし例とぞ見へし。  
畠山道誓上洛(しやうらくの)事(こと)
思(おもひ)の外に世の中閑(しづか)なるに付ても、両雄は必(かならず)争ふと云(いふ)習(ならひ)なれば、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)との御中、何様(いかさま)不和(ふくわ)なる事出来(いでき)ぬと、人皆(みな)危(あやし)み思へり。
是(これ)を聞て畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)に向て申されけるは、「故左大臣殿(さだいじんどの)の御薨逝(こうせい)の後天下の人皆(みな)連枝(れんし)の御中に、始終(しじゆう)如何様(いかさま)御不快の御事(おんこと)候(さうらひ)ぬと、怪(あやし)み思(おもひ)て候なる。昔漢(かんの)高祖(かうそ)崩御(ほうぎよ)成て後、呂氏(りよし)と劉氏(りうし)と互(たがひ)に心を置合(おきあひ)て、世中(よのなか)又乱れんとしけるを、高祖(かうそ)の旧臣(きうしん)、周勃(しうぼつ)・樊会等(はんくわいら)、兵を集め勢(せい)を合(あは)せて、世を治めたりとこそ承及(うけたまはりおよび)候へ。道誓誠(まこと)に不肖(ふせう)の身にて候へ共、且(しばら)く大将の号(がう)を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒(いんぞつ)して、京都へ罷(まかり)上て南方へ発向(はつかう)し、和田・楠を責(せめ)落(おと)し天下を一時に定(さだめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御疑(おんうたがひ)をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)、
「此(この)儀誠(まこと)に可然。早く東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を催(もよほし)て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山(はたけやま)入道(にふだう)は、元来上に公儀を借(かつ)て、下に私の権威を貪(むさぼら)んと思へる心ありければ、先(まづ)大名共(だいみやうども)の許(もと)に行向ひ、未(いまだ)非功忠賞の厚からん事を約し、未(いまだ)親(したしま)ざるに交(まじは)りの久(ひさし)からん事を語(かたら)ひ、一日も己(おのれ)を剋(せ)め礼に復する時は天下の人民帰仁習(ならひ)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名小名一人も不残、皆(みな)催促にぞ順(したが)ひける。
此(この)上は暫(しばらく)も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、武蔵(むさし)の入間河(いるまがは)を立て上洛(しやうらく)するに、相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)舎弟(しやてい)畠山尾張(をはりの)守(かみ)・其(その)弟式部(しきぶの)太輔(たいふ)、外様(とざま)には、武田(たけだの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)守(かみ)・逸見(へんみ)美濃(みのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・同掃部助(かもんのすけ)・武田(たけだの)左京(さきやうの)亮(すけ)・佐竹刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・戸島(とじま)因幡(いなばの)入道(にふだう)・
土屋(つちや)修理(しゆりの)亮(すけ)・白塩(しらしほ)入道・土屋(つちや)備前(びぜんの)入道(にふだう)・長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔(せう)入道・結城(ゆふき)入道・難波(なんば)掃部(かもんの)助(すけ)・小田(をだ)讃岐守(さぬきのかみ)・小山(をやまの)一族(いちぞく)十三人(じふさんにん)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)・子息伊賀(いがの)守(かみ)・高根沢(たかねざは)備中(びつちゆうの)守(かみ)・同一族(いちぞく)十一人、是等(これら)を宗徒(むねと)の大名として、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)・武蔵(むさし)の七党(しちたう)・紀清(きせい)両党、伊豆・駿河(するが)・三河・遠江の勢(せい)馳加(はせくははり)て、都合二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)と聞へしかば、前後七十(しちじふ)余里(より)に支(ささへ)て櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。
路次(ろし)に二十日余(あまり)の逗留(とうりう)有(あつ)て、京著(きやうちやく)は十一月二十八日(にじふはちにち)の午(うまの)刻(こく)と聞へしかば、摂政関白・月卿(げつけい)雲客(うんかく)を始(はじめ)として、公家武家の貴賎上下、四宮河原(しのみやがはら)より粟田口(あはたぐち)まで、桟敷(さじき)を打続け、車を立双(たてなら)べて、見物の衆二行に群(ぐん)をなす。げにも聞(きき)しに不違。天下久(ひさし)く武家の一統(いつとう)と成て、富貴(ふつき)に誇(ほこ)る武士共(ぶしども)が、爰(ここ)を晴(はれ)と出立たれば、馬・物具(もののぐ)・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅(りようら)を不飾云(いふ)事なし。
中にも河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)は、余(あま)りに風情(ふぜい)を好(このん)で、引(ひき)馬三十疋(さんじつぴき)、白鞍置て引(ひか)せけるが、濃紫(こきむらさき)・薄紅(うすくれなゐ)・萌黄(もよぎ)・水色・豹文(へうもん)、色々に馬の毛を染(そめ)て、皆舎人(とねり)八人(はちにん)に引(ひか)せたり。其(その)外の大名共(だいみやうども)一勢(いつせい)一勢(いつせい)引分て、或(あるひ)は同(おなじ)毛の鎧(よろひ)著て、五百騎(ごひやくき)千騎(せんぎ)打(うつ)もあり、或(あるひ)は四尺(ししやく)五尺(ごしやく)の白太刀に、虎(とらの)皮(かは)の尻鞘(しりざや)引篭(ひきこ)め、一様(いちやう)に二振(ふたふり)帯副(はきそへ)て、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)打(うつ)もあり。只(ただ)孟嘗君(まうしやうくん)が三千(さんぜん)の客悉(ことごとく)珠履(たまのくつ)をはいて春信君が富(とみ)を欺(あざむき)しも、角(かく)やと覚へて目も盻(あや)也(なり)。  
和田楠軍評定(ひやうぢやうの)事(こと)付(つけたり)諸卿分散(ぶんさんの)事(こと)
此比(このころ)吉野の新帝は、河内(かはちの)天野(あまの)と云(いふ)処を皇居(くわうきよ)にて御座(ござ)有(あり)ければ、楠左馬(さまの)頭(かみ)正儀(まさよし)・和田和泉(いづみの)守(かみ)正武(まさたけ)二人(ににん)、天野(あまの)殿(どの)に参じて奏聞しけるは、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して二十万騎(にじふまんぎ)、已(すで)に京都に著(つき)て候なる。
山陽道(せんやうだう)は播磨を限り、山陰道(せんおんだう)は丹波を堺(さか)ひ、東海・東山・南海・北陸道(ほくろくだう)の兵、数を尽して上洛(しやうらく)仕り候なれば、敵の勢(せい)は定(さだめ)て雲霞(うんか)の如くにぞ候覧(らん)。但(ただし)於合戦は、決定(けつぢやう)御方(みかた)の勝とこそ料簡(れうけん)仕て候へ。其故(そのゆゑ)は、軍に三の謀(はかりこと)候べし。所謂(いはゆる)天の時・地の利・人の和(くわ)にて候。此(この)内一も違(たが)ふ時は、勢ありと云(いへ)共(ども)、勝(かつ)事を不得とこそ見へて候へ。先(ま)づ天の時に付て勘(かんがへ)候へば、明年よりは大将軍(だいじやうぐん)西に在(あり)て東よりは三年塞(ふさがり)たり。
畠山冬至(とうじ)以後、東国を立て罷(まかり)上て候。是(これ)已(すで)に天の時に違(たがは)れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方(みかた)の陣、後(うしろ)は深山に連(つらなつ)て敵案内を不知、前に大河流(ながれ)て僅なる橋一(ひとつ)を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋(ちはや)の軍は中々不及申に。其(その)後建武の乱より以来(このかた)、細河帯刀(たてわき)・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・同越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)、今の畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)に至るまで、已(すで)に六箇度(ろくかど)此(この)処へ寄(よせ)て、猛勢(まうぜい)を振(ふる)ひ戦を挑(いどみ)しに、敵の軍遂(つひ)に不利。或(あるひ)は尸(かばね)を河南(かなん)の路に曝(さら)し或(あるひ)は名を敗北(はいぼく)の陣に失ひ候き。
是(これ)当山(たうざん)形勝(けいしよう)の地、要害の便(たより)を得たる故(ゆゑ)にて候。次には人の和(くわ)に付て思案を廻(めぐら)し候に、今度畠山が上洛(しやうらく)は、只勢(いきほひ)を公義に借(かつ)て忠賞を私に貪(むさぼら)んと志にて候なる。仁木・細川の一族共(いちぞくども)も彼(かれ)が権威を猜(そね)み、土岐・佐々木(ささき)が一類(いちるゐ)も其(その)忠賞を嫉(ねた)まぬ事や候べき。是(これ)又人の心の和(くわ)せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍(みつなが)ら違(たが)ひ候はゞ、縦(たとひ)敵百万の勢を合(あは)せて候(さうらふ)共(とも)、恐(おそるる)に足(たら)ぬ所にて候。
但(ただし)、今の皇居(くわうきよ)は余(あま)りにあさまなる処にて候へば、金剛山(こんがうせん)の奥、観心寺(くわんしんじ)と申(まうし)候処へ、御座を移し進(まゐら)せ候(さうらひ)て、正儀・正武等(まさたけら)は和泉・河内の勢(せい)を相伴(あひともな)ひ、千葉屋(ちはや)・金剛山に引篭(ひきこも)り、竜山(りゆうせん)・石川(いしかは)の辺に懸出々々(かけいでかけいで)、日々夜々に相戦(あひたたか)ひ、湯浅(ゆあさ)・山本・恩地(おんぢ)・贄河(にへかは)・野上(のがみ)・山本の兵共(つはものども)は、紀伊(きいの)国(くにの)守(かみ)護代、塩冶(えんや)中務に付て、竜門山(りゆうもんせん)・最初峰(さいしよがみね)に陣を張(はら)せ、紀伊川禿辺(かぶろへん)に野伏(のぶし)を出して、開合(ひらきあは)せ攻合(せめあは)せ、息をも継(つが)せず令戦、極めて短気なる坂東勢共(ばんどうぜいども)などか退屈せで候べき。退屈して引返す者ならば、勝(かつ)に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是(これ)庶幾(そき)する処の合戦也(なり)。」と、事もなげにぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて近侍(きんじ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)に至るまで、皆憑(たの)もしき事にぞ思食(おぼしめし)ける。
さらば軈(やが)て観心寺へ皇居(くわうきよ)を移し進(まゐ)らすべしとて臨幸なるに、無用(むよう)ならん人々を、そゞろに召具(めしぐ)させ給(たまふ)べからずと申(まうし)ける間、げにもとて伝奏(てんそう)の上卿(しやうきやう)両三人(さんにん)・奉行の職事(しきじ)一両輩(いちりやうはい)・護持僧(ごぢそう)二人(ににん)・衛府(ゑふの)官四五人(しごにん)許(ばかり)を召具せられ、此(この)外は何地(いづち)へも暫(しばら)く落忍(おちしのび)て、御敵(おんてき)退散(たいさん)の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣(だいじやうだいじん)・左右の大将・大中納言(だいちゆうなごん)・七弁(しちべん)・八史・五位・六位・後宮(こうきゆう)の美婦人(びふじん)・青上達部(なまかんだちめ)・内侍・更衣(かうい)・上臈女房・出世・房官に至るまで、或(あるひ)は高野(かうや)・粉川(こかは)・天河(てんのかは)・吉野・十津河(とつがは)の方に落行て、浅猿(あさまし)げなる山賎共(やまがつども)に、憂身(うきみ)を寄(よす)る人もあり、或(あるひ)は志賀の古郷(ふるさと)・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛(まぎ)れ居て、魂(たましひ)を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本(とんよくゐほん)と、如来の金言、今更(いまさら)に思(おもひ)知(らるる)こそ哀(あは)れなれ。  
新将軍南方進発(しんぱつの)事(こと)付(つけたり)軍勢(ぐんぜい)狼籍(らうぜきの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に足利新征夷(しんせいい)大将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)、延文(えんぶん)四年十二月二十三日(にじふさんにち)都を立て、南方の大手へ向(むかひ)給ふ。相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)一族(いちぞく)細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)・同兵部太輔(たいふ)・同掃部助(かもんのすけ)・同兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同右馬助(うまのすけ)・一色左京(さきやうの)大夫(たいふ)・今河上総(かづさの)介(すけ)・子息左馬(さまの)助(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)、他家には、土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)・舎弟(しやてい)美濃(みのの)入道(にふだう)・同出羽(ではの)入道(にふだう)・同宮内(くないの)少輔(せう)・
同小宇津(こうつ)美濃(みのの)守(かみ)・同高山(たかやま)伊賀(いがの)守(かみ)・同小里(をさと)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同猿子(ましこ)右京(うきやうの)亮(すけ)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・同蜂屋(はちや)近江(あふみの)守(かみ)・同左馬(さまの)助(すけ)義行(よしゆき)・同今峰(いまみね)駿河(するがの)守(かみ)・同舟木(ふなき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同明智(あけち)下野(しもつけの)入道(にふだう)・同戸山(とやま)遠江守(とほたふみのかみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)頼行(よりゆき)・同出羽(ではの)守(かみ)頼世(よりよ)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼近(よりちか)・
同飛弾(ひだの)伊豆(いづの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)信詮(のぶのり)・佐佐木六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官・河野(かうのの)一族(いちぞく)・赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)帥(そつの)律師(りつし)則祐(そくいう)・甥(をひの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)光範(みつのり)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)五郎直頼(なほより)・同彦五郎範実(のりざね)・諏防(すはの)信濃(しなのの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・
長尾(ながを)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・浅倉(あさくら)弾正、此等(これら)を始(はじめ)として、都合其(その)勢七万(しちまん)余騎(よき)、大島・渡辺・尼崎(あまがさき)・鳴尾(なるを)・西宮(にしのみや)に居余て、堂宮(だうみや)までも充満(みちみち)たり。畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)は搦手(からめて)の大将として、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢二十万騎(にじふまんぎ)引卒(いんそつ)して、翌日の辰(たつの)刻(こく)に都を立て、八幡の山下(さんげ)・真木(まき)・葛葉(くずは)に陣を取(とる)。是(これ)は大手の勢渡辺の橋を懸(かけ)ん時、敵若(もし)川に支(ささへ)て戦(たたかは)ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭(こめ)んと也(なり)。
大手の寄手(よせて)赤松判官光範は、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)にて、敵陣半(なか)ば我(わが)領知を篭(こめ)たれば、人より先(さき)に渡辺の辺に、五百(ごひやく)余騎(よき)にて打寄たり。河舟百(ひやく)余艘(よさう)取寄(とりよせ)て、河の面二町(にちやう)余に引並(ひきなら)べ、柱をゆり立(たて)、もやいを入(いれ)て、上にかぶ木を敷並(しきなら)べたれば、人馬打並て渡れ共曾(かつ)て不危。和田・楠爰(ここ)に馳向て、手痛く一合戦(ひとかつせん)せんずらんと、人皆思ひて控(ひかへ)たりけれ共(ども)、如何(いか)なる深き謀(はかりこと)か有(あり)けん、敢(あへ)て河を支(ささへ)ん共せざりけり。去(さる)間大手・搦手(からめて)三十万騎(さんじふまんぎ)、同日に河より南へ打越、天王寺(てんわうじ)・安部野(あべの)・住吉(すみよし)の遠里小野(うりふの)に陣を取る。
され共猶(なほ)大将宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は河を越(こえ)不給、尼崎に轅門(ゑんもん)を堅(かたく)してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥(そつの)律師(りつし)則祐は、大渡に打散て、斥候(せきこう)の備へを全(まつたう)し、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三千(さんぜん)余騎(よき)を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若(もし)戦(たたかひ)負(まけ)ば、荒手(あらて)に成て入替(いれかはり)、天下の大功を我(われ)一人の高名に称美(しようび)せられんとぞ儀(ぎ)せられける。
南方の兵の軍立(いくさだて)、始は坂東(ばんどう)の大勢の程を聞て、「城に篭(こもつ)て戦はゞ、取巻(とりまか)れて遂(つひ)に不被責落云(いふ)事有(ある)べからず。只深山幽谷(しんざんいうこく)に走(わしり)散て敵に在所(ざいしよ)を知れず、前に有(ある)かとせば後へ抜(ぬけ)て、馬に乗(のる)かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻(しきり)に懸(かか)らば難所(なんじよ)に引懸(ひきかけ)て返(かへし)合(あは)せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍(のいくさ)に敵を疲(つから)かして、雌雄(しゆう)を労兵(らうへい)の弊(つひえ)に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸(かけ)入(いら)ん共せず、爰(ここ)に日を経、彼(かし)こに時をぞ送りける。
さらば此方(こなた)も陣を前に取り、城を後(うしろ)に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄(にはか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)を拵(こしらへ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごも)る。福塚(ふくづか)・川辺(かはべ)・佐々良(ささら)・当木(まさき)・岩郡(いはくに)・橋本判官以下の兵は、平石(ひらいは)の城(じやう)を構(かまへ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて楯篭る。真木野(まきの)・酒辺(さかべ)・古折(ふるをり)・野原(のはら)・宇野(うの)・崎山(さきやま)・佐和(さわ)・秋山以下の兵は、八尾(やを)の城(じやう)を取り繕(つくろう)て、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて楯篭る。
此外(このほか)大和・河内・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の兵千(せん)余人(よにん)をば、竜泉峯(りゆうせんがみね)に屏(へい)を塗り、櫓(やぐら)を掻(かか)せて、見(み)せ勢(ぜい)になしてぞ置たりける。去(さる)程(ほど)に寄手(よせて)は同(おなじき)二月十三日(じふさんにち)、後陣(ごぢん)の勢三万(さんまん)余騎(よき)を、住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に入替(いれかへ)させて、後(うしろ)を心安(こころやす)く蹈(ふま)へさせ、先陣の勢二十万騎(にじふまんぎ)は、金剛山(こんがうせん)の乾(いぬゐ)に当りたる津々山(つづやま)に打上て陣を取(とる)。敵御方其(その)あはい僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)を隔(へだて)たり。
互(たがひ)に時を待て未(いまだ)戦(たたかは)ざる処に、丹下(たんげ)・俣野(またの)・誉田(こんだ)・酒勾(さかわ)・水速(みはや)・湯浅(ゆあさ)太郎・貴志(きじ)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)、弓を弛(はづ)し甲(かぶと)を脱(ぬい)で、降人(かうにん)に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵(いさみののしつ)て、さればこそ敵早(はや)弱りにけり。和田・楠幾程(いくほど)か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未(いまだ)騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只(ただ)両陣互(たがひ)に野伏(のぶし)を出(いだし)合(あは)せて、矢軍(やいくさ)する事隙(ひま)なし。元来(もとより)敵は物馴(ものなれ)て、御方(みかた)は案内を知(しら)ねば、毎度(まいど)合戦に寄手(よせて)の手負(ておひ)、討(うた)るゝ事数を不知(しらず)。角(かく)ては只(ただ)和田・楠が、兼(かね)て謀(はか)る案の内(うち)に落されたる事よと云(いひ)ながら、止事(やむこと)を不得ける。
去(さる)程(ほど)に始(はじめ)のほどこそ禁制(きんぜい)をも用ひけれ。兵次第(しだい)に疲れければ、神社仏閣に乱(みだれ)入て戸帳(とちやう)を下(おろ)し神宝を奪ひ合ふ。狼籍(らうぜき)手に余て不拘制止、師子(しし)・駒犬(こまいぬ)を打破(うちわつ)て薪(たきぎ)とし、仏像・経巻を売(うり)て魚鳥を買ふ。前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行也(なり)。先年高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻(せめ)て居たりし時、無悪不造(むあくふざう)の兵共(つはものども)が塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)に鋳(い)たりし事こそ希代(きたい)の罪業(ざいごふ)哉と聞(きき)しに、是(これ)は猶(なほ)其(そ)れに百倍(ひやくばい)せり。浅猿(あさまし)といふも疎(おろか)也(なり)。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已(すで)に是(これ)を以て亡(ほろび)き。前車の轍(てつ)未(いまだ)遠(とほからず)。畠山今是(これ)を取て不誡、後車の危(あやふ)き事在近。今度の軍(いくさ)如何様(いかさま)にも墓々(はかばか)しからじと、私語(ささや)く人も多かりけり。  
紀州竜門山(りゆうもんせん)軍(いくさの)事(こと)
四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)は、紀伊(きいの)国(くに)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、紀伊(きいの)国(くに)最初峯(さいしよがみね)に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)を大将にて、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・諏防祝部(すはのはふり)・千葉の一族(いちぞく)・杉原が一類(いちるゐ)、彼(か)れ此(こ)れ都合三万(さんまん)余騎(よき)、最初が峯へ差向(さしむけ)らる。此(この)勢則(すなはち)敵陣に相対したる和佐山(わさやま)に打上(うちあが)りて三日まで不進、先(まづ)己(おのれ)が陣を堅(かたう)して後に寄(よせ)んとする勢(いきほひ)に見へて、屏(へい)塗り櫓(やぐら)を掻(かき)ける間、是(これ)を忻(たばか)らん為に宮方(みやがた)の侍大将塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)、其(その)兵を引具して、最初峰(さいしよがみね)を引退て、竜門山(りゆうもんせん)にぞ篭(こも)りける。
畠山が執事、遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)是(これ)を見て、「すはや敵は引(ひき)けるぞ。何(いづ)くまでも追懸て、打取れ者共(ものども)。」とて馳向(はせむか)ふ。楯をも不用意、手分(てわけ)の沙汰もなく、勝(かつ)に乗る処は、げにもさる事なれ共(ども)、事の体(てい)余(あま)りに周章(あわてて)ぞ見へたりける。彼(かの)竜門山と申(まうす)は、岩(いは)竜頷(りゆうがん)に重(かさ)な(ッ)て路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐ)れり。岸は松栢(しようはく)深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠(こざさ)茂りて露に馬蹄(ばてい)を立(たて)かねたり。され共麓までは下(お)り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段(いちだん)平(たひら)なる所に馬を休めて、息を継(つが)んと弓杖(ゆんづえ)にすがり太刀を逆(さかさま)に突(つく)処に、軽々(かろがろ)としたる一枚楯に、靭(うつぼ)引付(ひつつけ)たる野伏共(のぶしども)千(せん)余人(よにん)、東西の尾崎(をさき)へ立渡り、如雨降散散(さんざん)に射る。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)が、僅なる谷底へ沓(くつ)の子を打(うつ)たる様に引(ひか)へたる中へ、差下(さしおろし)て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。
一矢(ひとや)に二人(ににん)は射らるれ共(ども)、はづるゝは更になし。進(すすん)で懸(かけ)散(ちら)さんとすれば、岩石(がんせき)前に差覆(さしおほう)て、懸上(かけのぼ)るべき便(たより)もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶(たえ)て、梯(はし)ならでは道もなし。いかゞせんと背(せなか)をくゞめて、引(ひき)やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛(きかはらけ)なる馬の太く逞(たくまし)きに、紺糸(こんいと)の鎧のまだ巳(み)の剋(こく)なるを著たる武者、濃紅(こきくれなゐ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、四尺(ししやく)許(ばかり)に見へたる長刀の真中(まんなか)拳(にぎつ)て、馬の平頚(ひらくび)に引側(ひきそば)め、塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)と名乗て真前(まつさき)に進めば、野上(のがみ)・山東・貴志(きし)・山本・恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・志宇津(しうつ)・禿(かぶろ)の兵共(つはものども)二千(にせん)余騎(よき)、大山も崩れ鳴雷(なるかみ)の落(おつ)るが如く、喚(をめ)き叫(さけん)で懸(かけ)たりける。
敵を遥(はるか)のかさに受(うけ)て、引心地(ひきごこち)付たる兵共(つはものども)なれば、なじかは一足(ひとあし)も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討(うた)るゝをも不顧、馬物具を脱捨(ぬぎす)て、さしも嶮(けはし)き篠原(ささはら)を、すべる共なく転(ころ)ぶ共なく、三十(さんじふ)余町(よちやう)を逃(にげ)たりける。塩谷は余(あま)りに深く長追して、馬に箭(や)三筋(さんすぢ)立(たち)、鑓(やり)にて二処つかれければ、馬の足立兼(たてかね)て、嶮岨(けんそ)なる処より真逆様(まつさかさま)に転(ころび)ければ、塩谷も五丈計(ばかり)岩崎(いはさき)より下に投(なげ)ふれければ、落付(おちつく)よりして目くれ東西に迷(まよひ)、起上(おきあがら)んとしける処を、蹈留(ふみとどまる)敵余(あまり)に多(おほき)に依て、武具(もののぐ)の迦(はづ)れ内甲(うちかぶと)を散々(さんざん)にこみければ、つゞく御方(みかた)はなし、塩谷終(つひ)に討(うた)れにけり。
半時許(はんじばかり)の合戦に、生慮(いけどり)六十七人(ろくじふしちにん)、討(うた)るゝ者二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)とぞ聞へし。其(その)外捨(すて)たる馬・物具・弓矢・太刀・刀(かたな)、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。其(その)中に遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が今度上洛(しやうらく)之(の)時(とき)、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の太刀もあり。又日本(につぽん)第一(だいいち)の太刀と聞へたる禰津(ねづ)小次郎が六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の丸鞘(まるさや)の太刀も捨(すて)たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也(なり)。此(この)禰津小次郎は自讃(じさん)に常に申けるは、「坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に弓矢を取(とる)人、駈合(かけあひ)の時根津(ねづ)と知らで駈合(かけあは)せ太刀打違(うちちがへ)んは不知、是(これ)禰津よと知(しり)たらん者、我に太刀打(うた)んと思(おもふ)人は、恐(おそら)くは不覚(おぼえず)。」と申(まうす)程の大力の剛(かう)の者なれ共(ども)、差(さし)たる事もせで力のある甲斐(かひ)には、人より先(さき)に逃(にげ)たりけり。  
二度(ふたたび)紀伊(きいの)国(くに)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)楠折(をるる)事(こと)
紀伊国の軍に寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れて、今は和佐山(わさやま)の陣にも御方(みかた)怺(こら)へ難(がた)しと云(いひ)たりければ、津々山の勢も尼崎(あまがさき)の大将も、興(きよう)を醒(さま)し色を失ふ。され共仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀(あはれ)同じくは津々山・天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)の勢共(せいども)も皆被追散裸(はだか)に成て逃(にげ)よかし。興(きよう)ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲(わらひ)ける。是(これ)をば御方とや云(いふ)べき敵とや申(まうす)べき。難心得(こころえがたく)所存(しよぞん)也(なり)。紀伊路(きのぢ)の向陣(むかひぢん)を追(おひ)落されなば津々山とても不可怺。
さらば敵の懸(かか)らぬ前(さき)に荒手(あらて)を副(そへ)て、尾張(をはりの)守(かみ)に力を付(つけ)よとて、同四月十一日、畠山式部(しきぶの)大夫(たいふ)・今河伊予(いよの)守(かみ)・細河左近(さこんの)将監(しやうげん)・土岐宮内(くないの)少輔(せう)・小原(をはら)備中(びつちゆうの)守(かみ)・佐々木(ささきの)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)・土岐(ときの)桔梗(ききやう)一揆(いつき)・佐々木(ささきの)黄一揆(きいつき)、都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)、重(かさね)て紀伊路(きのぢ)へぞ向(むけ)られける。中にも芳賀兵衛(ひやうゑの)入道(にふだう)禅可(ぜんか)は我(わが)身は天王寺(てんわうじ)に止(とめ)られて、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)公頼(きんより)を紀伊路へ向(むけ)られけるが、二三里が程打送て、泪(なみだ)を流(ながし)て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只(ただ)我等(われら)が一党也(なり)。
御方の大勢先度(せんど)の合戦に打負(うちまけ)て敵に機を著(つけ)ぬれば、今度の合戦は弥(いよいよ)手痛(ていた)からんと知(しる)べし。若(も)し合戦仕違(しちがへ)て引返しなば、只(ただ)少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付(つく)るのみならず、殊(こと)に仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)に笑(わらは)れん事、我一人が恥と存(ぞんず)べし。されば此(この)軍に敵を追(おひ)落さずは、生(いき)て二度(ふたたび)我に面(おもて)を不可向。是(これ)は円覚寺(ゑんがくじ)の長老より持ち奉りし御袈裟也(なり)。是(これ)を母衣(ほろ)に懸(かけ)て、後世(ごせ)の悪業(あくごふ)を助(たすか)れ。」とて、懐(ふところ)より七条の袈裟(けさ)を取出て泣々(なくなく)公頼に与ふ。公頼庭訓(ていきん)を受(うけ)て、子細に不及と領掌(りやうじやう)して両へ別れけるが、今生の対面若(もし)是(これ)や限(かぎり)なるべきと、名残惜(をし)げに顧(かへりみ)て、互(たがひ)に泪をぞ浮(うか)めける。恩愛の道深ければ、何(いか)なる鳥獣(てうじう)さへも子を思ふ心浅からず。況乎(いはんや)於人倫乎。況乎(いはんや)於一子(いつし)乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只(ただ)討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。
去(さる)程(ほど)に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊は、重(かさね)て大勢懸(かか)る由聞へしかば、尚(なほ)本(もと)の陣にてや戦ふ、平場(ひらば)に進(すすん)でや懸合ひにすると評定有(あり)けるに、湯川(ゆかはの)庄司(しやうじ)心替(こころがは)りして後(うしろ)に旗を挙(あ)げ、熊野路(くまのぢ)より寄する共(とも)披露(ひろう)し、船をそろへて田辺(たなべ)よりあがるとも聞へければ、此(この)陣角(かく)ては如何(いか)が可有と、案じ煩(わづらう)てをはしけるを見て、大手(おほて)の一の木戸(きど)を堅めたりける越智(をち)、降人(かうにん)に成て芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)が方へ出たりける。さらでだに猛(たけ)き清党(せいのたう)、兼(かね)て父に義を被勧、今又越智(をち)に力を被著、なじかは少しも滞(とどこほ)るべき。竜門(りゆうもん)の麓へ打寄ると均(ひとし)く、楯をも不突、矢の一(ひとつ)をも不射、抜連(ぬきつ)れて責(せめ)上(のぼり)ける程に、さしもの兵と聞へし恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・貴志(きし)・湯浅・田辺(たなべの)別当・山本判官、半時(はんじ)も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河(あぜがは)の城(じやう)へぞ篭(こも)りける。
芳賀(はが)二度(にど)めの軍に先度の恥をぞ洗(すすぎ)ける。今は是(これ)まで也(なり)。一功(ひとこう)なす上はとて、紀州の討手伊賀(いがの)守(かみ)、無恙津々山の陣へ帰(かへり)ければ、父の禅可悦喜(えつき)して、公私(こうし)の大崇(たいそう)是(これ)に過(すぐ)るは非(あら)じとぞ申ける。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊卿、竜門山の軍に打負(うちまけ)て阿瀬河へ落(おち)ぬと聞へければ、吉野の主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)し奉る月卿(げつけい)雲客(うんかく)、色を失ひ胆(きも)を銷(け)し給ふ。斯(かか)る処に又住吉(すみよし)の神主津守(つもりの)国(くに)久密(ひそか)に勘文(かんもん)を以て申けるは、今月十二日の午(うまの)剋に、当社の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久し。其(その)後庭前(ていぜん)なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁(しげ)く地に支(ささへ)て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。
諸卿此(この)密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶(きよう)を示し給(たまふ)条(でう)無疑。楠今官軍(くわんぐん)の棟梁(とうりやう)たり。楠倒(たふ)れば誰か君を擁護(おうご)し奉るべき。事皆不吉(ふきつ)の表事(へうじ)也(なり)。」と、私語(ささや)き合(あは)れけるを、大塔(おほたふの)忠雲僧正(そうじやう)不聞敢被申けるは、「好事(かうじ)も不如無と申(まうす)事候へば、まして此(この)事吉事なるべしとは難申。但(ただし)神凶(きよう)を告(つげ)給ふは、天未捨(いまだすてざる)者也(なり)。其(その)故は後漢(ごかん)の光武の昔、庭前(ていぜん)なる槐木(くわいぼく)の高さ二十丈(にじふぢやう)に余(あまり)たるが、不風吹根より抜(ぬけ)て倒(さかさま)にぞ立(たち)たりける。諸臣相見て皆(みな)恐怖しけるを、光武天の告(つげ)を悦(よろこび)て、貧(まづし)き民に財を省(はぶ)き余れるを以て不足(ふそくを)助(たすけ)給(たまひ)ければ、此槐木(このくわいぼく)一夜(いちや)に又如本成て一葉(いちえふ)も不枯けり。
又我(わが)朝(てう)には応和(おうわ)の年の末に、比叡山(ひえいさん)の三宮林(さんのみやはやし)の数千本(すせんぼん)の松一夜(いちや)に枯凋(かれしぼみ)て、霜を凌(しの)ぐ緑の色黄葉(くわうえふ)に成(なり)にけり。三千(さんぜん)の衆徒大に驚て、十善寺(じふぜんじ)に参て、各自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を奉り、前相(ぜんさう)何事ぞと祈誓(きせい)を凝(こら)さしめたりけるに、一人の神子(みこ)俄(にはか)に物に狂(くるひ)出て、「我に七社(しちしや)権現乗居(のりゐ)させ給へり。」とて託(たく)しけるは、「我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法を守て化縁(けえん)を三千(さんぜん)の衆徒に結び、外には国家の安全(あんせん)を致して利益(りやく)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に垂(た)る。雖然今衆徒の挙動(ふるまひ)一として不叶神慮、兵杖を横(よこた)へて法衣(ほふえ)を汚(けが)し、甲胄(かつちう)を帯して社頭を往来す。
嗚呼(ああ)自今後、三諦即是(さんたいそくぜ)の春(はる)の華(はな)誰(たれ)が袂(たもと)にか薫(にほ)はまし。四曼不離(しまんふり)の秋の月、何(いづ)れの扉(とぼそ)をか可照。此(この)上は我当山の麓に迹(あと)を垂(たれ)ても何(なに)かせん。只速(すみやか)に寂光(じやくくわう)の本土へこそ帰らめ。只(ただ)耳に留(とどま)る事とては、常行三昧(じやうぎやうさんまい)の念仏の音、尚(なほ)も心に飽(あか)ぬは、一乗(いちじよう)読讃(どくさん)の論義の声。」と、泣々(なくなく)託宣しけるが、額(ひたひ)より汗を流して、物(もの)の付(つき)は則(すなはち)醒(さめ)にけり。大衆(だいしゆ)是(これ)に驚て、聖真子(しやうしんじ)の御前(おんまへ)にして、常行三昧の仏名を唱(とな)へ、止観(しくわん)院(ゐん)の外陣(げぢん)にして一乗(いちじよう)読讃の竪義(りふぎ)を執(とり)行(おこな)ふ。
衣之神慮も忽(たちまち)に休まりけるにや、月に叫(さけぶ)峡猿(かふゑん)の声も暁(あかつき)の枕を不濡、戴霜林松(りんしよう)の色本(もと)の緑に成(なり)にけり。其(その)後住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の四海(しかい)の凶賊(きようぞく)を静め給ひし御託宣(ごたくせん)に曰(いはく)、「天慶(てんぎやう)に誅凶徒(きようと)昔は我為大将軍、山王は為副将軍(ふくしやうぐん)。承平に静逆党時(ときは)山王は為大将軍、我は為副将軍(ふくしやうぐん)。山王は鎮(とこしなへ)に飽一乗(いちじよう)法味に。故(ゆゑ)に勢力勝我に云云。」彼(かれ)を以て此(これ)を思ふに、叡慮徳に趣(おもむ)き、四海(しかい)の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵(てうてき)は還(かへつ)て御方(みかた)になり、禍(わざはひ)は転じて幸(さいはひ)に帰せん事、疑ふ処に非(あら)ず。」と被申ければ、群臣(ぐんしん)悉(ことごとく)此(この)旨に順(したが)ひ、君も無限叡信を凝(こら)させ給(たまひ)て、軈(やが)て住吉(すみよし)四所の明神、日吉(ひよし)七社(しちしやの)権現を勧請(くわんじやう)し奉て、座(ざ)さまさずの御修法(みしほ)を百日(ひやくにち)の間行はせらる。
主上(しゆしやう)毎朝(まいてう)に御行水を召(めさ)れて、玉体を投地に除災与楽(ぢよさいよらく)の御祈(おんいの)り、誠(まこと)に身の毛も弥立許(よだつばかり)也(なり)。天地も是(これ)に感応し、神明仏陀もなどか擁護(おうご)の御手(おんて)を垂れ給はざらんと、憑(たの)も敷(しく)ぞ見へたりける。  
銀嵩(かねがだけ)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)曹娥(さうが)精衛(せいゑいの)事(こと)
此比(このころ)吉野の将軍の宮(みや)と申(まうす)は、故兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(しんわう)の御子、御母は北畠(きたばたけの)准后(じゆごう)の御妹にてぞ御坐(おはし)ける。御幼稚の時より文武(ぶんぶ)二(ふたつ)の道何(いづれ)も達して見へさせ給ひしかば、此(この)宮(みや)ぞ誠(まこと)に四海(しかい)の逆浪(げきらう)をも静められて、旧主(きうしゆ)先帝の御追念をも休め進(まゐ)らせらるべき御機量にて御坐(おはします)とて、吉野の新帝登極(とうきよく)の後則(すなはち)被宣下、征夷将軍に成(な)し進(まゐ)らせらる。去(さ)る正平七年に、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、暫く事を謀(はかつ)て宮方(みやがた)に参ぜし時、此(この)宮(みや)を大将に申下し進(まゐ)らせたりしが、則祐忽(たちまち)に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人(めしうど)の如(ごとく)にして御座(ござ)有(あり)しを、但馬(たぢまの)国(くに)の者共(ものども)盜(ぬすみ)出し奉て、高山寺(かうせんじ)の城(じやう)へ入れ奉る。
本庄平太・平三、御手(おんて)に属(しよく)して、但馬・丹波の両国を打随(したがふ)るに、不靡云(いふ)者更になし。軈(やが)て播磨国(はりまのくに)を退治(たいぢ)せんとて山陽道(せんやうだう)へ御越有(あり)しに、則祐三千(さんぜん)余騎(よき)にて、甲山(かぶとやま)の麓(ふもと)に馳向て相戦ふ。軍未(いまだ)決(けつせず)、宮の一騎当千(いつきたうぜん)と憑(たの)み思召(おぼしめし)たりける本庄(ほんじやう)平太・平三、共に数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)て、兄弟同時に討(うた)れにければ、軍忽(たちまち)に破(やぶれ)て、宮は河内(かはちの)国(くに)へ落(おち)させ給ひにけり。
其(その)後も大将にし奉らんとて、国々より此(この)宮(みや)を申(まうし)けれ共(ども)、自然の事もあらば、此(この)宮(みや)をこそ大将にもし奉らんずれとて、何(いづ)くへも下し進(まゐら)せられず、武略の為に惜(をし)まれて、吉野の奥にぞ坐(おはし)ける。今紀伊(きいの)国(くに)の合戦に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)打負(うちまけ)て、阿瀬河(あぜがは)へ落(おち)給(たまひ)ぬ。和田・楠も津々山(つづやま)の敵陣に被攻て、機疲(つかれ)ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共(つはものども)を被相副候へ、自(みづから)出向て合戦を致(いたし)候はん。」と、宮頻(しきり)に被仰ける間、げにもとて、此(この)三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)氏範(うぢのり)に、吉野十八郷(じふはちがう)の兵を差副(さしそへ)て、宮の御方へぞ進(まゐら)せられける。
宮此(この)勢を付順(つきしたが)へさせ給(たまひ)て後、何(いか)なる物狂(ものぐる)はしき御心(おんこころ)や著(つき)けん。さらば此(この)時分に吉野の新帝を亡(ほろぼ)し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷(じふはちがう)を一円(いちゑん)に管領(くわんれい)せばやと思召(おぼしめし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。密(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て事の由(よし)を義詮朝臣(よしあきらあつそん)の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢(おんせい)二百(にひやく)余騎(よき)、野伏三千人(さんぜんにん)を召具して賀名生(あなふ)の奥に銀嵩(かねがだけ)と云(いふ)山に打上り、御旗(おんはた)を被揚、先の皇居(くわうきよ)賀名生の黒木(くろき)の内裡(だいり)を始(はじめ)として、其(その)辺の山中に隠居(かくれゐ)たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)の宿所々々を一々に焼払(やきはら)はる。
暫(しばし)が程は真実を知(しり)たる人少なければ、是(これ)は如何様(いかさま)大宋の伯顔(はくがん)将軍(しやうぐん)が城を焼て敵を忻(たばか)りし謀(はかりこと)歟(か)、不然は楚の項羽(かうう)が自(みづか)ら廬舎(ろしや)を焼て再び本の陣へ帰(かへら)じと誓ひし道歟(か)と、様々(さまざま)に推量を廻(めぐら)して、此(この)宮(みや)尚(なほ)も御敵(おんてき)に成(なら)せ給ひたりと知る人聊(いさゝか)も無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に探使(たんし)度々馳廻(はせまはつ)て宮の御謀叛(ごむほん)事已(すで)に急也(なり)と奏聞しければ、軈(やがて)其翌(そのあけ)の日二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)を大将軍として和泉・大和・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の勢千(せん)余騎(よき)を向(むけ)らる。
是(これ)を見てさらば御謀叛(ごむほん)の宮(みや)に可奉著様なしとて、吉野十八郷(じふはちがう)の者共(ものども)皆散々(ちりぢり)に落失(おちうしなひ)ける程に、宮の御勢(おんせい)僅(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)に成(なり)てげり。され共赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、今更(いまさら)弱きを見て捨(すつ)るは弓矢の道にあらず、無力処也(なり)。討死するより外の事有(ある)まじとて、主従二十六騎(にじふろくき)は、四方(しはう)に馳(はせ)向て散々に戦(たたかひ)ける程に、寄手(よせて)無左右近付(ちかづき)得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落(おち)させ給へば、氏範は降人(かうにん)に成て、又本国播州へ立返る。不思議(ふしぎ)なりし御謀反也(なり)。
抑(そもそも)故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)朝敵(てうてき)と成て、先帝外都(ぐわいと)にて崩御(ほうぎよ)なり、天下大に乱(みだれ)て今に二十七年、公家被官(ひくわんの)人悉(ことごとく)道路に袖をひろげ、武家奉公の族(やから)は、皆国郡に臂(ひぢ)を張る事は何故(なにゆゑ)ぞや。只尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、故兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)を殺し奉(たてまつり)し故(ゆゑ)也(なり)。天以(もつ)て許し給はゞ、天下の将軍として六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)などか此(この)宮(みや)に帰伏し奉らざらん。然(しから)ば旧主先皇も草の陰(かげ)にても喜悦の眉を開(ひらか)せ給はゞ、忠孝の御志(おんこころざし)を天神地祇(ちぎ)もなどか感応(かんおう)の御眸(おんまなじり)を添(そへ)させ給はざらん。
然(しから)ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛(ごむほん)起されて、先皇梁園(りやうゑん)の御尸(おんかばね)血をそゝき給へば、厳親幽霊(げんしんいうれい)も、いかに方見(うたて)しく覚すらんと、草の陰(かげ)さこそは露も乱(みだる)らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気(あさけ)の煙絶(たえ)て、柴の庵のしば/\も、事問通(とひか)はす人もなければ、筧(かけひ)の竹の浮節(うきふし)に堪(たへ)て、可住心地も無(なく)て明し暮しけるが、或(ある)時(とき)曹娥(さうが)と云ける一人の娘を携(たづさ)へて、他国へぞ落(おち)行(ゆき)ける。
洪河(こうが)と云(いふ)河を渡らんとするに、折節(をりふし)水増(まさ)りて橋もなく船もなし。行(ゆく)前(さき)遠(とほく)して可留里も遥(はるか)に過(すぎ)ぬれば、何(いつ)までか角(かく)ても可有。さらば自(みづから)此(この)娘を負(おう)てこそ渡らめと思(おもひ)て、先(まづ)川の淵瀬(ふちせ)を知(しら)ん為に、娘をば岸の上に置(おき)て、只一人河の瀬を蹈(ふ)み行(ゆき)ける時に、毒蛇俄(にはか)に浮(うかび)出て、曹娥が父を噛(くは)へて碧潭(へきたん)の底へぞ入(いり)にける。曹娥是(これ)を見て、手を揚(あげ)て地に倒(たふれ)て、如何(いかが)せんと佗(わび)て、悲(かなし)めども可助人もなし。一日二日は尚(なほ)も無墓心にて、若(もし)や流(ながれ)の末に浮出たると、河に傍(そう)て下(くだり)て見れ共(ども)、浮出たる事もなし。
若(もし)や岩のはざまに流(ながれ)懸りたると、岸に上り見れ共(ども)、散(ちり)浮ぶ木葉(このは)ならでは、せかれて留(とどま)る物もなし。日を暮(くら)し夜を明(あか)し、空(むなし)くをくれて独(ひとり)は可帰心地も無(なか)りければ、七日七夜(なぬかななよ)まで川の上にひれ臥(ふし)、天に叫(さけ)び地に哭(こく)して、「我(わが)父を失(うしなひ)つる毒蛇を罰してたび候へ。縦(たとひ)空(むなし)き形なり共、父を今一度(いちど)我に見せしめ給へ。」と、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)・堅牢地神(けんらうぢじん)に肝胆(かんたん)を砕(くだき)てぞ祈(いのり)ける。夫(それ)叶(かな)はぬ物ならば同(おなじ)水底(みなそこ)に沈(しづ)まんともだへあこがる。志誠(まこと)に蒼天(さうてん)にや答へけん、洪河(こうが)の水忽(たちまち)に血に成て流(ながれ)けるが、毒蛇遂(つひ)に河伯水神(かはくのすゐじん)に罰せられて、曹娥が父を乍呑其(その)身寸々(つだつだ)に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。
曹娥此(この)処に空(むなし)き骨(こつ)を収(をさめ)て、泣々(なくなく)故郷(こきやう)へ帰(かへり)にけり。彼(かの)処の人是(これ)を憐(あはれみ)て、此(ここ)に墳(つか)を築(きづ)き石を刻(きざみ)て、碑(ひ)の文を書て立たりける。其銘石(そのめいせき)今に残て、行客泪(なみだ)を落(おと)し騒人(さうじん)詩を題(だい)す、哀なりし孝行也(なり)。又発鳩(はつきう)山に精衛(せいゑい)と申(まうす)人、他国に行(ゆき)て帰るとて、難風に船を覆(くつがへ)されて、海中に沈(しづみ)て無墓成(なり)にけり。其(その)子未(いまだ)幼(いとけな)くて故郷(ふるさと)に独(ひとり)有(あり)けるが、父が海に沈(しづ)める事を聞て、其(その)江の辺(ほとり)に行て夜昼泣(なき)悲(かなしみ)けるが、尚(なほ)も思(おもひ)に堪(たへ)かね、遂(つひ)に蒼海(さうかい)の底に身を投(なげ)て死(しに)にけり。
其魂魄(そのこんぱく)一の鳥と成て、波の上に飛(とび)渡り、精衛々々と呼(よぶ)声、泪(なみだ)を不催云(いふ)事なし。怨念(をんねん)尽(つく)る事なければ、此(こ)の鳥自(みづか)ら大海(だいかい)を埋(うづめ)て、平地になさんと思ふ心を挿(さしはさみ)、毎日三度(さんど)草の葉木の朶(えだ)をくはえて、海中に沈(しづ)めて飛帰る。尾閭(びりよ)洩(もら)せ共不乾、七旱(しつかん)ほせ共(ども)曾(かつ)て一滴も不減大海なれば、何(いか)なる神通(じんつう)を以ても争(いかで)か埋(うづめ)はつべき。され共父が怨(あた)を報(はう)ぜん為に、此(この)鳥一枝(いつし)一葉(いちえふ)を含(ふくん)で、海中に是(これ)を沈(しづむ)る事哀(あはれ)なりける志也(なり)。されば此(この)精衛を題(だい)するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是(これ)を賛(ほめ)たり。君不見乎、精衛は卑(いやし)き鳥也(なり)。親の恩を報じて大海を埋(うめ)ん事を謀(はか)る。曹娥は幼(いとけな)き女なれ共(ども)、父の為に悲(かなしん)で、毒蛇を害(がい)する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如(しか)ず、何をか異(こと)也(なり)とせんやと、此(この)宮(みや)の御謀叛(ごむほん)を欺(あざむ)き申さぬ人はなし。  
龍泉寺(りゆうせんじ)軍(いくさの)事(こと)
竜泉の城(じやう)には和田・楠等(くすのきら)相謀(あひはかつ)て、初は大和・河内の兵千(せん)余人(よにん)を篭置(こめおき)たりけるが、寄手(よせて)敢(あへ)て是(これ)を責(せめ)ん共せざりける間、角(かく)ては徒(いたづら)に勢を置ても何(なに)かせん、打散(うちちら)してこそ野軍(のいくさ)にせめとて、竜泉の勢をば皆呼(よび)下(くだし)て、さしもなき野伏共(のぶしども)百人(ひやくにん)許(ばかり)見せ勢に残し置き、此(ここ)の木の梢、彼(かし)この弓蔵(ゆみかくし)のはづれに、旗許(ばかり)を結付(ゆひつけ)、尚(なほ)も大勢の篭(こも)りたる体を見せたりける。津々山の寄手(よせて)是(これ)を見て、「あなをびたゝし。
四方(しはう)手を立(たて)たる如くなる山に、此(この)大勢の篭(こも)りたらんずるをば、何(いか)なる鬼神共いへ、可責落者に非(あら)ず。」とろ々に云(いひ)恐(おそれ)て、責(せめ)んと云(いふ)人は一人もなし。只徒(いたづら)に旗許(ばかり)を見上(みあげ)て、百五十(ひやくごじふ)余日(よにち)過(すぎ)にけり。或(ある)時(とき)土岐桔梗一発の中に、些(ちと)なま才覚(ざいかく)ありける老武者、竜山(りゆうせん)の城(じやう)をつく/゛\と守り居たりけるが、其(その)衆中に語て云(いは)く、「太公が兵書の塁虚篇(るゐきよへん)に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也(なり)といへり。我此(この)三四日相近て竜泉の城(じやう)を見るに、天に飛(とぶ)鳶(とび)林に帰る烏(からす)、曾(かつ)て驚(おどろく)事なし。
如何様(いかさま)是(これ)は大勢の篭(こも)りたる体(てい)を見せて、旗許(ばかり)を此彼(ここかしこ)に立(たて)置(おき)たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此(この)一発許(ばかり)向て竜泉を責(せめ)落(おと)し、天下の称歎(しようたん)に備(そなへ)ん。」と云(いひ)ければ、桔梗一発の衆五百(ごひやく)余騎(よき)、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈(やが)て打立(うつたて)とて、閏(うるふ)四月二十九日の暁、桔梗一揆(いつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、忍(しのび)やかに津々山(つづやま)より下(おり)て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)はてぬ霧の紛(まぎ)れに、竜泉の一の木戸口(きどぐち)に推寄(おしよせ)、同音に時をどつと作る。
細川相摸守(さがみのかみ)清氏と、赤松彦五郎範実(のりざね)とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前(さき)を懸(かけ)られぬるは。但(ただし)城(じやう)へ切て入(いら)んずる事は、又一重(いちぢゆう)の大事(だいじ)ぞ。夫(それ)をこそ誠の先懸(さきがけ)とは云(いふ)べけれ。馬に鞍(くら)置け旗差(はたさし)急げ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ。相摸守(さがみのかみ)と彦五郎と、鎧取て肩に投(なげ)懸(かけ)、道々高紐(たかひぼ)堅(かため)て、竜泉の西の一の城戸(きど)、高櫓(たかやぐら)の下へ懸(かけ)上(あげ)たり。爰(ここ)にて馬を蹈放(ふみはな)し、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、赤松が手(て)の者に、田宮(たなみや)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・木所(きどころ)彦五郎・高見(たかみ)彦四郎(ひこしらう)、三騎続ひたり。
其迹(そのあと)を見れば、相摸守(さがみのかみ)の郎従六七十、かけ堀共云はず我先(さき)にと馳(はせ)来る。其(その)旗差、高岸(たかぎし)に馬の鼻を突(つか)せて、上(のぼり)かねたるを見て、相摸守(さがみのかみ)自(みづから)走(わしり)下(くだり)て、其(その)旗をおつ取て、切岸(きりぎし)の前に突立(つきた)て、「先懸(さきがけ)は清氏に有(あり)。」と高声(かうしやう)に名乗(なのり)ければ、赤松彦五郎城の中へ入(いり)、「先懸(さきがけ)は範実にて候。後の証拠(しようご)に立(たち)て給(たまは)り候へ。」と声々に名乗て、屏(へい)の上をぞ越(こえ)たりける。是(これ)を見て桔梗一揆(いつき)の衆に日吉(ひよし)藤田兵庫(ひやうごの)助(すけ)・内海(うつみ)修理(しゆりの)亮(すけ)光範(みつのり)、城戸(きど)を引破て込(こみ)入る。
城の中の兵共(つはものども)、暫(しばら)く支(ささ)へて戦(たたかひ)けるが、敵の大勢に御方(みかた)の無勢(ぶせい)を顧(かへりみ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、心閑(こころしづか)に防矢(ふせぎや)射て、赤坂(あかさか)を差して落(おち)行(ゆき)ける。暫(しばら)くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆(いつき)が竜泉へ寄(よせ)て責(せめ)けるは。但(ただ)し輙(たやす)くはよも責(せめ)落さじ。楯の板しめせ、射手(いて)を先立(さきだて)よ。」と、最(いと)騒(さわが)ず打立て、其(その)勢既(すで)に十万(じふまん)余騎(よき)、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早(はや)已(すで)に責(せめ)落されて、櫓掻楯(やぐらかいだて)に火を懸(かけ)けり。数万の軍勢(ぐんぜい)頭(かしら)を掻(かい)て、「安からぬ者哉、是(これ)程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙(きば)を喫(かま)ぬ者は無(なか)りけり。  
平石城(ひらいはのじやう)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)和田夜討(ようちの)事(こと)
今河上総(かづさの)守(かみ)・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態(わざと)他の勢を不交して、五百(ごひやく)余騎(よき)、同日の晩景(ばんげい)に平石(ひらいは)の城(じやう)へ押(おし)寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の(さん)を蹈(ふま)へ、甲(かぶと)の鉢(はち)を足だまりにして、城戸(きど)逆木(さかもぎ)を切破り、討(うた)るゝをも不云、手を負(おふ)をも不顧、我先(さき)にと込(こみ)入(いり)ける間、敵不怺して、其(その)日(ひ)の夜半計(ばかり)に金剛山(こんがうせん)を差(さし)て落(おち)にけり。
二箇所(にかしよ)の城(じやう)輙(たやす)く落されしかば、寄手(よせて)は勝(かつ)に乗て、竜(りよう)の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥(どろ)に吻(いきづく)が如し。如斯ならば、赤坂(あかさか)の城(じやう)も幾程か怺(こら)ふべき。暫時(ざんじ)に責(せめ)落(おと)して後、主上(しゆしやう)を生虜進(いけどりまゐ)らせ、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を取(とり)奉て、都へ返し入れ進(まゐ)らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静(しづま)りて、武家一統(いつとう)の世に成(なり)ぬと、思はぬ人は無(なか)りけり。竜門(りゆうせん)・平石(ひらいは)二箇所(にかしよ)の城(じやう)落(おち)しかば、八尾(やをの)城(じやう)も不怺、今は僅(わづか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)許(ばか)りこそ残りけれ。
此(この)城(じやう)さまでの要害共不見、只(ただ)和田・楠が館(たち)の当(あた)りを敵に無左右蹴散(けちら)されじと、俄(にはか)に構へたる城なれば、暫(しばらく)もやは支(ささふ)るとて、陣々の寄手(よせて)一所に集て二十万騎(にじふまんぎ)、五月三日の早旦(さうたん)に赤坂(あかさか)の城(じやう)へ押(おし)寄せ、城の西北三十(さんじふ)余町(よちやう)が間に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分て、先(まづ)向城(むかひじやう)をぞ構へける。楠は元来(ぐわんらい)思慮深きに似て急に敵に当る機(き)少(すくな)し。「此(この)大敵に戦はん事難叶。只(ただ)金剛山へ引隠(ひきかくれ)て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、
和田はいつも戦ひを先として、謀(はかりこと)を待(また)ぬ者なりければ、都(すべ)て此(この)儀に不同、「軍の習ひ負(まく)るは常の事也(なり)。只可戦所を不戦して身を慎(つつしむ)を以て恥とす。さても天下を敵に受(うけ)たる南方の者共(ものども)が、遂に野伏軍許(のぶしいくさばかり)しつる事のをかしさよと、日本国の武士共(ぶしども)に笑(わらは)れん事こそ口惜(くちをし)けれ。何様一夜討(ひとようち)して、太刀の柄(つか)の微塵(みぢん)に砕(くだく)る程切(きり)合(あは)んずるに、敵あらけて引退(ひきしりぞき)なば、軈(やが)て勝(かつ)に乗て討(うつ)べし。引(ひか)ずんば又力なく、其(その)時(とき)こそ金剛山の奥までも、引(ひき)篭(こもつ)て戦はんずれ。」とて、夜討に馴(なれ)たる兵三百人(さんびやくにん)勝(すぐつ)て、「問はゞ武(たけ)しと答へよ。」と、約束の名乗(なのり)を定(さだめ)つゝ、夜深(ふく)る程をぞ待(まち)たりける。
五月八日の夜なれば、月(つき)は宵(よひ)より入(いり)にけり。時剋(じこく)よく成(なり)ぬとて三百人(さんびやくにん)の兵共(つはものども)、一陣に進(すすん)で見へける結城(ゆふき)が向城へ忍(しのび)寄て、木戸口(きどぐち)にして時を作る。其(その)声に驚て、外(よそ)の陣には騒げ共、結城が陣は少(ちと)も不騒、鳴(なり)を静めて待(まち)懸(かけ)たり。射手(いて)は元来(もとより)櫓(やぐら)にあれば、矢間(やま)を引て差攻(さしつめ)々々(さしつめ)散々に射る。打物(うちもの)の衆は、掻楯逆木(かいだてさかもぎ)を阻(へだ)てゝ、上(のぼ)れば切て落(おと)し、越れば突落(つきおと)し、此(ここ)を先途(せんど)と防(ぎ)けれ共(ども)、和田和泉(いづみの)守(かみ)正武・真前(まつさき)に懸て切て入る。「日来(ひごろ)の言(ことば)を不忘して、続けや人々。」と喚(をめい)て、掻楯(かいだて)切て引破り、一枚楯引側(ひきそば)めて、城の中へ飛(とび)入(いり)ければ、相順(あひしたがふ)兵三百人(さんびやくにん)、続(つづい)て城へぞ込(こみ)入(いり)ける。
甲の鉢を傾(かたぶ)け、鎧の袖をゆり合(あは)せ/\切(きり)逢(あう)て、天地を動かし火を散(ちら)す。互に喚叫(をめきさけん)で半時計(はんじばかり)切(きり)合たるに、結城が兵七百(しちひやく)余人(よにん)、余に戦(たたかひ)屈して、已(すで)に引色(ひきいろ)に見へける処に、細川相摸守(さがみのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて敵の後(うしろ)へ廻(まは)り、「清氏後攻(ごづめ)をするぞ、引(ひく)な/\。」と呼(よばは)りけるに力を得て、鹿窪(かのくぼ)十郎・富沢(とみさは)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・茂呂(もろの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)三人(さんにん)、蹈止(ふみとどまり)々々(ふみとどまり)戦(たたかひ)けるに、和田が兵数十人(すじふにん)討(うた)れ、若干(そくばく)疵(きず)を被(かうむつ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、一方の掻楯(かいだて)蹈(ふみ)破て、一度(いちど)にばつと引たりけり。
爰(ここ)に結城が若党(わかたう)に、物部(もののべ)次郎郡司(ぐんじ)とて、世に勝(すぐれ)たる兵四人あり。兼(かね)てより、敵若(もし)夜討に入(いり)たらば、我等(われら)四人は敵の引返さんずるに紛(まぎ)れて、赤坂(あかさか)の城(じやう)へ入(いり)、和田・楠に打違へて死(しぬ)るか、不然は城に火を懸(かけ)て焼(やき)落すかと、約束したりけるが、少(ちと)も不違、引て帰る敵に紛(まぎれ)て、四人共に赤坂(あかさか)の城(じやう)へぞ入たりける。夫(それ)夜討強盜(がうだう)をして帰る時、立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りと云(いふ)事あり。是(これ)は約束の声を出して、諸人同時に颯(さつ)と立(たち)颯(さつ)と居、角(かく)て敵の紛(まぎ)れ居たるをえり出さん為の謀(はかりこと)也(なり)。
和田が兵赤坂(あかさか)の城(じやう)に帰て後、四方(しはう)より続松(たいまつ)を出し、件(くだん)の立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りをしけるに、紛(まぎ)れ入(いれる)四人の兵共(つはものども)、敢(あへ)て加様(かやう)の事に馴(なれ)ぬ者共(ものども)なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取(とり)篭(こめ)られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛(かう)の者とは、是(これ)をぞ誠(まこと)に云(いふ)べきと、褒(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此(この)城(じやう)にて敵を支(ささ)へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共(もろとも)に、其(その)夜の夜半許(ばかり)に、赤坂(あかさか)の城(じやう)に火を懸(かけ)て、金剛山の奥へ入(いり)にけり。  
吉野(よしのの)御廟(ごべう)神霊(しんれいの)事(こと)付(つけたり)諸国(しよこくの)軍勢(ぐんぜい)還京都事(こと)
南方の皇居(くわうきよ)は、金剛山の奥観心寺(くわんしんじ)と云(いふ)深山(みやま)なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候(せきこう)の御警固(おんけいご)に憑(たのみ)思召(おぼしめさ)れたる龍泉・赤坂(あかさか)も責(せめ)落されぬ。又昨日一昨日(おととひ)まで御方せし兵共(つはものども)、今日は多く御敵(おんてき)と成(なり)ぬと聞へしかば、山人・杣人(そまびと)案内者(あんないしや)として、如何様(いかさま)何(いづ)くの山までも、敵責(せめ)入(いり)ぬと申沙汰しければ、主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何(いかが)すべき。」と、懼恐(おぢおそ)れさせ給ふ事無限。
爰(ここ)に二条(にでうの)禅定(ぜんぢやう)殿下の候人(こうにん)にて有(あり)ける上北面、御方の官軍(くわんぐん)加様(かやう)に利(り)を失(うしな)ひ城を落さるゝ体(てい)を見て、敵のさのみ近付(ちかづか)ぬ先に妻子共(さいしども)をも京の方へ送り遣(つかは)し、我(わが)身も今は髻(もとどり)切て、何(いか)なる山林(さんりん)にも世を遁(のが)ればやと思(おもひ)て、先(まづ)吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨(すて)はてゝ主君に離れ、此境(このさかひ)を立(たち)去る事の悲(かなし)さに、せめて今一度(いちど)先帝の御廟(ごべう)へ参り、出家の暇(いとま)をも申さんと思(おもひ)て、只一人御廟(ごべう)へ参りたるに、近来(このごろ)は洒掃(しやさう)する人無(なか)りけりと覚(おぼえ)て、荊棘(けいぎよく)道を塞(ふさ)ぎ、葎(むぐら)茂(しげり)て旧苔(きうたい)扉(とぼそ)を閉(とぢ)たり。
何(いつ)の間(ま)にかくは荒(あれ)ぬらんと此彼(ここかしこ)を見奉るに、金炉香(きんろか)絶(たえて)草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更(ごかう)之夜。思(おもひ)有て聞く時は、心なき啼鳥(ていてう)も哀を催(もよほ)す歟(か)と覚へ、岩漏(いはもる)水の流(ながれ)までも、悲(かなしみ)を呑(のむ)音なれば、通夜(よもすがら)円丘(ゑんきう)の前に畏(かしこまつ)て、「つく/゛\と憂世(うきよ)の中の成行(なりゆ)く様を案じつゞくるに、抑(そもそも)今の世何(いか)なる世なれば、有威無道(ぶだう)者は必(かならず)亡ぶと云(いひ)置(おき)し先賢(せんけん)の言(ことば)にも背(そむ)き、又百王を守らんと誓ひ給(たまひ)し神約も皆誠ならず。
又いかなる賎(いやし)き者までも、死(し)ては霊(りやう)となり鬼(き)と成て彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)する理(ことわり)明(あきらか)也(なり)。況(いはんや)君已(すで)に十善の戒力(かいりき)に依て、四海(しかい)の尊位(そんゐ)に居し給ひし御事(おんこと)なれば、玉骨は縦(たとひ)郊原(かうげん)の土と朽(くち)させ給ふとも、神霊(しんれい)は定(さだめ)て天地に留て、其苗裔(そのべうえい)をも守り、逆臣(げきしん)の威(ゐ)をも亡(ほろぼ)さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯(をか)せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿(いかり)をも未見(いまだみず)。こはいかに成(なり)行(ゆく)世の中ぞや。」と泣々(なくなく)天に訴(うつたへ)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)礼をなす。余(あま)りに気くたびれて、頭(かうべ)をうな低(だれ)て少し目睡(まどろみ)たる夢の中に、御廟(ごべう)の震動する事良(やや)久し。
暫(しばらく)有て円丘(ゑんきう)の中より誠(まこと)にけたかき御声(みこゑ)にて、「人やある/\。」と召(めさ)れければ、東西の山の峯より、「俊基(としもと)・資朝(すけとも)是(これ)に候。」とて参りたり。此(この)人々は、君の御謀叛(ごむほん)申(まうし)勧(すすめ)たりし者共(ものども)也(なり)とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝(すけとも)は佐渡(さどの)国(くに)にて斬(きら)れ、俊基(としもと)は其(その)後鎌倉(かまくら)の葛原(くずはら)が岡(をか)にて、工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)に斬(きら)れし人々也(なり)。貌(かたち)を見れば、正(まさし)く昔見たりし体(てい)にては有(あり)ながら、面には朱(しゆ)を差(さし)たるが如く、眼の光耀(かかやい)て左右の牙(きば)銀針(ぎんしん)を立(たて)たる様に、上下(うへした)にをひ違(ちがひ)たり。
其(その)後円丘の石の扉(とぼそ)を排(ひら)く音しければ遥(はるか)に向上(みあげ)たるに、先帝袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を召(めさ)れ、宝剣を抜(ぬい)て右の御手(おんて)に提(ひつさ)げ、玉(ぎよくい)の上に坐(ざ)し給ふ。此(この)御容(おんすがた)も昔の竜顔には替(かはつ)て、忿(いか)れる御眸(おんまなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)、御鬚(おんひげ)左右へ分(わか)れて、只夜叉(やしや)羅刹(らせつ)の如(ごとく)也(なり)。誠(まこと)に苦(くる)し気(げ)なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔(ほのほ)はつと燃(もえ)出て、黒烟(くろけぶり)天に立(たち)上る。暫(しばらく)有て、主上(しゆしやう)俊基(としもと)・資朝(すけとも)を御前(おんまへ)近く召(めさ)れて、「さても君を悩(なやま)し、世を乱(みだ)る逆臣(げきしん)共(ども)をば、誰にか仰(おほせ)付(つけ)て可罰す。」と勅問あれば、
俊基(としもと)・資朝(すけとも)、「此(この)事は已(すで)に摩醯脩羅(まけいしゆら)王の前にて議定有(あり)て、討手を被定て候。」「さて何(いか)に定(さだめ)たるぞ。」「先(まづ)今南方の皇居(くわうきよ)を襲はんと仕候五畿七道(ごきしちだう)の朝敵共(てうてきども)をば、正成に申(まうし)付(つけ)て候へば、一両日(いちりやうにち)の間には、追(おつ)返し候はんずらん。仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)をば、菊池(きくち)入道(にふだう)愚鑑(ぐかん)に申(まうし)付(つけ)て候へば、伊勢(いせの)国(くに)にてぞ亡(ほろ)び候はんずらん。細川相摸守(さがみのかみ)清氏をば、土居(どゐ)・得能(とくのう)に申(まうし)付(つけ)て候へば、四国に渡て後(のち)亡(ほろび)候べし。東国の大将にて罷(まかり)上て候畠山(はたけやま)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)をば、殊更嗔恚強盛(しんいがうせい)の大魔王、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興が申(まうし)請(うけ)候(さふらひ)て、可罰由申(まうし)候(さうらひ)つれば、輙(たやす)かるべきにて候。
道誓(だうせい)が郎従共をば、所々にて首を刎(はね)させ候はんずる也(なり)。中に江戸下野(しもつけの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)二人(ににん)は、殊更に悪(にく)ひ奴(やつ)にて候へば、竜(たつ)の口(くち)に引居(ひきすゑ)て、我(わが)手に懸(かけ)て切(きり)候べしとこそ申候(さうらひ)つれ。」と奏し申ければ、主上(しゆしやう)誠(まこと)に御心(おんこころ)よげに打(うち)咲(えま)せ給て、「さらば年号の替(かは)らぬ先に、疾々(とくとく)退治(たいぢ)せよ。」と被仰て、御廟(ごべう)の中へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと見進(まゐら)せて、夢は忽(たちまち)に覚(さめ)にけり。上北面此示現(このじげん)に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語(かたり)ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝(おもひね)の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無(なか)りけり。
げにも其験(そのしるし)にてや有(あり)けん、敵寄せば尚(なほ)山深く主上(しゆしやう)をも落(おと)し進(まゐら)せんと、逃方(にげがた)を求(もとめ)て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居(くわうきよ)へは敵曾(かつて)不寄来、剰(あまつさ)へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治(たいぢ)今は是(これ)までぞ。」とて、同五月二十八日(にじふはちにち)、寄手(よせて)の総大将宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)尼崎(あまがさき)より帰洛し給(たまひ)しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木(ささき)・宇都宮(うつのみや)以下、都(すべ)て五畿七道(ごきしちだう)の兵二十万騎(にじふまんぎ)、我先にと上洛(しやうらく)して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云(いふ)夢も、げにやと思(おもひ)合(あは)せられて、如何様(いかさま)にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑(うたがひ)し人々も、却(かへつ)て是(これ)をぞ憑(たのみ)ける。 
 
太平記 巻第三十五

 

新将軍帰洛(きらくの)事(こと)付(つけたり)擬討仁木義長(よしなが)事(こと)
南方の敵軍、無事故退治(たいぢ)しぬとて、将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)帰洛し給ひければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎悦合(よろこびあ)へる事不斜(なのめならず)。主上(しゆしやう)も無限叡感有て、早速(さつそく)の大功、殊(ことに)以(もつて)神妙の由(よし)、勅使(ちよくし)を下されて仰(おほせ)らる。則(すなはち)今度御祈祷(ごきたう)の精誠(せいぜい)を被致つる諸寺の僧綱(そうがう)・諸社の神官(じんぐわん)に、勧賞(けんじやう)の沙汰有(ある)べしと被仰出けれ共(ども)、闕国(けつこく)も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比(そのころ)畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が所に、細河相摸守(さがみのかみ)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)以下、日々寄(より)合(あひ)て、此(この)間の辛苦(しんく)を忘(わすれ)んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊(あそび)けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山(はたけやま)入道(にふだう)密(ひそか)に其(その)衆中に私語(ささやき)けるは、「今は何をか可隠申。
道誓今度東国より罷(まかり)上り候(さうらひ)つる事、南方の御敵(おんてき)退治(たいぢ)の為とは乍申、宗(むね)とは仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)が過分(くわぶん)の挙動(ふるまひ)を鎮(しづめ)んが為にて候(さうらひ)き。旁(かたがた)も定(さだめ)てさぞ被思召候覧(らん)。彼が心操(こころばへ)曾(かつて)一家(いつけ)をも可治者とは不見。然(しかる)を今非其器用四箇国(しかこく)の守護職(しゆごしよく)を給(たまは)り、差(さし)たる忠無(なく)して、数百(すひやく)箇所(かしよ)の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁(かりすなどりを)為業内には将軍の仰(おほせ)を軽(かろん)じて毎事(まいじ)不拘成敗。然(され)ば今度南方退治(たいぢの)時(とき)も、敵の勝(かつ)に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲(かなしむ)。
是(これ)は抑(そも)勇士(ゆうし)の本意とや可申、忠臣の挙動(ふるまひ)とや可申。将軍尼崎(あまがさき)に御陣を被取二百(にひやく)余日(よにち)に及(および)しに、義長(よしなが)西宮(にしのみや)に乍居、一度(いちど)も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑(そも)斯(かか)る不忠不思議(ふしぎ)の者に大国を管領せさせ、大庄を塞(ふさが)せては、世の治(をさま)ると云(いふ)事や候べき。只此(この)次に仁木を被退治(たいぢ)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉(うれし)くこそ被思召候はんずらめ。
旁(かたがた)は如何(いかが)被思召候。」と問(とひ)ければ、細河相摸守(さがみのかみ)は、今度南方の合戦の時、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)、三河の星野(ほしの)・行明等(ぎやうみやうら)が、守護(しゆご)の手に属(しよく)せずして、相摸守(さがみのかみ)の手に付たる事(ことを)忿(いかつ)て、彼等が跡を闕所(けつしよ)に成て家人共(けにんども)に宛行(あておこな)はれたりしを、所存に違て思はれける人也(なり)。土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)は、故土岐頼遠(よりとほ)が子左馬(さまの)助(すけ)を仁木が養子にして、動(ややもす)れば善忠が所領を取て左馬(さまの)助(すけ)に申(まうし)与(あたへ)んとするを、鬱憤(うつぷん)する折節(をりふし)也(なり)。
佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)は、多年御敵(おんてき)なりし高山(たかやま)を打て其(その)跡を給(たまはり)たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給(たまはり)たりし所也(なり)とて、押(おさへ)て知行せんとするを、遺恨(ゐこん)に思ふ人なり。佐渡判官入道(はうぐわんにふだう)は、我身に取て仁木に差(さし)たる宿意はなけれ共(ども)、余に傍若無人(ばうじやくぶじん)なる振舞を、狼藉(らうぜき)なりと目にかけゝるとき也(なり)。今河・細河・土岐・佐々木(ささき)、皆義長(よしなが)を悪(にく)しと思ふ人共なりければ、何(いづ)れも不及異儀、「只此次(このついで)に討(うち)て、世を鎮(しづむ)るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然(さら)ば軈(やが)て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除(のけ)たる処に、推参(すゐさん)の遁世者(とんせいしや)・田楽童(でんがくわらは)なんど数多(あまた)出来ける程に、諸人皆目加(めくは)せして、其(その)日(ひ)は酒宴にて止(やみ)にけり。  
京勢(きやうぜい)重(かさねて)南方発向(はつかうの)事(こと)付(つけたり)仁木没落(ぼつらくの)事(こと)
斯(かか)る処に和田・楠等(くすのきら)、金剛山(こんがうせん)並に国見(くにみ)より出て、渡辺の橋を切落(きりおと)し、誉田(こんだ)の城(じやう)を
責(せめ)んとする由(よし)、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告(つげ)たりければ、先日数月(すげつ)の大功、一時に空(むなし)く成(なり)ぬと、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)周章(しうしやう)し給(たまひ)けれ共(ども)、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給(たまひ)て、大息(おほいき)突(つい)て御坐(おはし)けるに、聞(きく)と等(ひとし)く畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・細河相摸守(さがみのかみ)清氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・今河上総(かづさの)介(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)・武田(たけだの)弾正少弼(だんじやうせうひつ)・河越(かはごえ)弾正・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可以下、此(この)間一揆(いつき)同心の大名三十(さんじふ)余人(よにん)、其(その)勢都合七千(しちせん)余騎(よき)、公方(くばう)の催促をも不相待我先にと天王寺(てんわうじ)へぞ向(むかひ)ける。
後に事の様を案ずれば、是(これ)全く南方の蜂起(ほうき)を鎮(しづめ)ん為にては無りけり。只(ただ)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を亡(ほろぼ)さんが為に、勢を集めける企(くはたて)也(なり)。何(なに)とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田(こんだ)の城(じやう)をも不責、又金剛山の奥へ引篭(ひきこも)る。京勢(きやうぜい)、本より敵対治(たいぢ)の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺(てんわうじ)に集(あつまり)居、頭(かうべ)を差合(さしあは)せ諾(うなづい)て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を可討謀(はかりこと)をぞ廻(めぐら)しける。
只(ただ)二人(ににん)して云(いふ)事だにも天知(しる)地知(しる)我知(しると)いへり。況(いはん)や是(これ)程の大勢集て云(いひ)私語(ささや)く事なれば、なじかは可有隠。此(この)事軈(やが)て京都へ聞(きこえ)てげり。義長(よしなが)大に忿(いかつ)て、「こは何(いか)に某が討(うた)るべからん咎(とが)は抑(そも)何事ぞ。是(これ)只(ただ)道誓・清氏等(きようぢら)が、此次(このついで)に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企(くはたつ)らん。此(この)事を急ぎ将軍に申さでは叶(かなふ)まじ。」とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)計(ばかり)を召具し、急ぎ宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参て、「道誓・清氏こそ義長(よしなが)を可討とて、天王寺(てんわうじ)より二手(ふたて)に成て、打て上り候なれ。是(これ)は何様(いかさま)天下を覆(くつがへさ)んと存(ぞんず)る者共(ものども)と覚(おぼえ)候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云(いふ)者の誤(あやまり)にぞ有(ある)らん。千万(せんまん)に一もさる事あらば、義詮を亡(ほろぼ)さんとする企(くはたて)なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上(げこくじやう)の者共(ものども)に可与。」と宣へば、義長(よしなが)誠(まこと)に悦(よろこび)て、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。
義長(よしなが)分国よりの兵共(つはものども)、未(いまだ)一人も下さで置(おき)たりければ、天王寺(てんわうじ)の大勢、已(すで)に二手(ふたて)に作(なり)て、責上(せめのぼ)ると告(つげ)けれ共(ども)、敢(あへ)て物ともせず。
「さもあれ当手の軍勢(ぐんぜい)何程か有(ある)覧(らん)、著到(ちやくたう)を著(つけ)て見よ。」とて、国々を分て著到を付(つけ)たるに、手勢三千六百(ろつぴやく)余騎(よき)、外様(とざま)の軍勢(ぐんぜい)四千(しせん)余騎(よき)とぞ注しける。義長(よしなが)著到を披見(ひけん)して、「あはれ勢や、七千(しちせん)余騎(よき)は、天王寺(てんわうじ)の勢十万騎(じふまんぎ)にも勝(まさ)るべし。然(さら)ば手分(てわけ)をして敵を待(また)ん。」とて、猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)頼夏(よりなつ)に二千(にせん)余騎(よき)を著て四条大宮(しでうおほみや)に引(ひか)へさせ、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)に一千(いつせん)余騎(よき)を付(つけ)て東寺の辺に陣を張(はら)せ、我身は勝(すぐ)りたる兵相具して、宿所の四方(しはう)四五町(しごちやう)の程の在家を焼払(やきはら)ひ、馬の懸場(かけば)を広く成して、未(いまだ)惟幕(ゐばく)の中に並居(なみゐ)たり。
其(その)勢(いきほ)ひ事柄(ことがら)、げにも寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なり共、此(この)勢に二度(にど)三度(さんど)は何様(いかさま)懸(かけ)散(ちら)されんとぞ見へたりける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)若(もし)讒人の申(まうす)旨に付て細河・畠山に御内(みうち)通の事有(あり)なば、外様(とざま)の兵何様弐(ふたごこ)ろを仕つべく覚(おぼゆ)れば、中将殿(ちゆうじやうどの)を取篭(とりこめ)奉て、近習の者共(ものども)をあたり近く不可寄とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)を召具し、宿に入れば義長(よしなが)二百(にひやく)余騎(よき)にて、中将殿(ちゆうじやうどの)御屋形へ参じ、四方(しはう)の門を警固(けいご)して、曾(かつ)て御内外様(みうちとざま)の人を不近付、毎事己(おの)が所存の侭(まま)に申行ひければ、天王寺(てんわうじ)下向の軍勢共(ぐんぜいども)は、忽(たちまち)に朝敵(てうてき)の名を蒙(かうむつ)て、追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)・御教書(みげうしよ)を成(なさ)れ、義長(よしなが)は武家執事の職に居て、天下の権を司(つかさど)る。
只(ただ)五更(ごかう)に油(あぶら)乾(かはい)て、灯(とぼしび)正(まさ)に欲銷時増光不異。去(さる)程(ほど)に七月十六日(じふろくにち)に天王寺(てんわうじ)の勢七千(しちせん)余騎(よき)、先(まづ)山崎に打集て二手(ふたて)に分つ。一方に細河相摸守(さがみのかみ)を大将とし三千(さんぜん)余騎(よき)、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)を打過(うちすぎ)て、西の七条口より寄(よせ)んとす。畠山(はたけやま)入道(にふだう)・土岐・佐々木(ささき)を大将にて五千(ごせん)余騎(よき)、久我縄手(こがなはて)を経て東寺口より可寄とぞ定(さだめ)ける。今年南方既(すで)に静謐(せいひつ)して御敵(おんてき)今は近国に有(あり)共(とも)聞へねば、京中(きやうぢゆうの)貴賎、すは早(はや)世中(よのなか)心安(こころやす)く成(なり)ぬと悦(よろこび)合へる処に、又此(この)事出来にければ、こは如何(いかが)すべきと周章(あわて)騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通(とほ)り得ぬ程也(なり)。
折を得て疲労(ひらう)の軍勢(ぐんぜい)猛悪(まうあく)の下部(しもべ)共(ども)、辻々に打散て、無是非奪取(うばひと)り剥(はぎ)むくりければ、喚(をめ)き叫ぶ声物音(ものおと)も聞へず、京中(きやうぢゆう)只(ただ)上を下へぞ返しける。是(これ)までも猶(なほ)中将殿(ちゆうじやうどの)は、仁木に被取篭御座(おはしま)しけるを、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、忍(しのび)やかに小門より参て、「何(いか)なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失(うしな)はんと謀(はか)り候義長(よしなが)を、御一所して拘(かかへ)させ給(たまひ)候はゞ、可叶候歟(か)。彼(かれ)が挙動(ふるまひ)仏神にも被放、人望(じんばう)にも背(そむき)はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣(ちようしん)を、時宜(じぎ)をも不伺、左右なく討(うた)んと擬(ぎ)し、忽(たちまち)に京中(きやうぢゆう)に打て入(いる)彼等(かれら)が所存も一往(いちわう)御怖畏(ごふゐ)なきに非(あら)ず。
されば先(まづ)御忍(おんしのび)候べし。道誉(だうよ)只今(ただいま)仁木に対面して軍評定仕(つかまつり)候はんずる其(その)間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立(いでたた)せ給(たまひ)て、北(きた)の小門より御出(おんいで)候へ。御馬(おんむま)を用意(ようい)仕て候。何(いづ)くへも忍ばせ進(まゐら)せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思(おもひ)給(たまひ)ければ、風気の事有(あり)とて帳台(ちやうだい)の内へ入り宿衣(よぎ)引纏頭(ひきかづき)臥(ふし)給へば、仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)も、遠侍へ出にけり。暫(しばらく)有て佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、百騎(ひやくき)許(ばかり)にて馳(はせ)来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去(さる)程(ほど)に夜も痛(いた)く深(ふけ)ぬ。可見咎申人もなく成(なり)にければ、中将殿(ちゆうじやうどの)は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏(やなぎうら)の絹打纏頭(うちかづき)て、海老名(えびな)信濃(しなのの)守(かみ)・吹屋清(ふきやせいの)式部(しきぶの)丞(じよう)・小島次郎計(ばかり)を召具して、北(きた)の小門より出給へば、築地(ついぢ)の陰に、用意(ようい)の御馬(おんむま)に手綱打係(うちかけ)て引立(ひきたて)たり。
小島次郎そと寄り、掻懐(かいだ)き奉て馬に打乗(うちの)せ進(まゐら)せて、中間二人(ににん)に口引(ひか)せ、装束裹(しやうぞくのつつみ)持(もた)せて、四五町(しごちやう)が程は閑々(しづしづ)と馬を歩ませ、京中(きやうぢゆう)を過れば、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて、花苑(はなぞの)・鳴滝(なるたき)・並岡(ならびのおか)・広沢(ひろさはの)池を過(すぎ)て、時の間に西山の谷堂(たにのだう)へ落(おち)給ふ。是(これ)を夢にも不知ける仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)が運こそ浅猿(あさまし)けれ。中将殿(ちゆうじやうどの)今は何(いづ)くへも落著(おちつか)せ給(たまひ)ぬと思ふ程に成(なり)ければ、判官入道(はうぐわんにふだう)己(おのれ)が宿所へとてぞ帰(かへり)ける。其(その)後義長(よしなが)常の御方へ参て、「夜明(あけ)候はゞ、敵定(さだめ)て寄(よせ)つと覚へ候に、今は御旗(おんはた)をも被出候へとて参て候、軍勢共(ぐんぜいども)に御対面も候へかし。
余(あま)りに久(ひさし)く御宿篭(おんとのごも)り候者哉(かな)。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達(にようばうたち)一二人(いちににん)御寝所(ねどころ)に参て此(この)由を申さんとするに、宿衣(よぎ)を小袖の上に引係(かけ)被置たる許(ばかり)にて、下に臥(ふし)たる人はなし。女房達(にようばうたち)、「此(こ)は何(いか)なる御事(おんこと)ぞや。」と周章騒(あわてさわい)で、「穴(あな)不思議(ふしぎ)や、上(うへ)には是(これ)には御坐(ござ)も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長(よしなが)大に忿て、女房達(にようばうたち)近習の者共(ものども)の知(しら)ぬ事は有(ある)まじきぞ、四方(しはう)の門をさし人を出すなと騒動(さうどう)す。中務(なかつかさの)少輔(せう)は余(あまり)に腹を立て、貫(つらぬき)はきながら、召合(めしあは)せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一(につぽんいち)の云甲斐(いひがひ)なしを憑(たのみ)けるこそ口惜(くちおし)けれ。
只今(ただいま)も軍に打勝(うちかつ)ならば、又此(この)人我等(われら)が方へ手を摺(すり)てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散(はきちら)して、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の仁木が方(かた)に御坐(おはしま)しつる程こそ、此(この)人の難捨さに、国々の勢外様(とざま)の人々も、数多(あまた)義長(よしなが)が手には著順(つきしたが)ひつれ、仁木を討(うた)せん為に中将殿(ちゆうじやうどの)落(おち)給ひたりと聞へければ、我(われ)も々(われ)もと百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、打連(うちつれ)々々(うちつれ)寄手(よせて)の方へ馳著(はせつき)ける程に、今朝まで七千(しちせん)余騎(よき)と注(しる)したりし義長(よしながが)勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。
義長(よしなが)は暫(しばらく)はへらぬ体(てい)に打笑(うちわらう)て、「よし/\云甲斐なからん奴原(やつばら)は足纏(あしまとひ)になるに、落(おち)たるこそよけれ。」云(いひ)けるが、是(これ)を実に身に替(かは)り、命に替らんずる者と、憑(たの)み思(おもひ)たる重恩の郎従も、皆落(おち)失(うせ)ぬと聞へければ、早(はや)、言(ことば)もなく興(きよう)醒(さめ)、忙然(ばうぜん)としたる気色也(なり)。去(さる)程(ほど)に夜も漸(やうやう)深行(ふけゆけ)ば、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)の辺に、続松(たいまつ)二三万(にさんまん)燃(とぼ)し連(つれ)て、次第に寄手(よせて)の近付(ちかづく)勢(いきほ)ひ見へければ、義長(よしなが)角(かく)ては不叶とや思(おもひ)けん、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)をば、長坂(ながさか)を経て丹後(たんご)へ落す。
猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)をば、唐櫃越(からうとごえ)を経て丹波へ落す。我(わが)身は近江路へ係(かか)る由をして、粟田口(あはたぐち)より引違へ、木津河(きづがは)に添(そひ)伊賀路(いがぢ)を経て、伊勢(いせの)国(くに)へぞ落(おち)たりける。義長(よしなが)勢(いきほひ)尽(つき)都を落(おち)ぬと聞へしかば、中将殿(ちゆうじやうどの)も軈(やが)て都へ帰(かへり)入(いり)給ひ、寄手共(よせてども)も今度の軍は定(さだめ)て手痛(ていた)からんずらんと、あぐんで思(おもひ)けるが、安(あん)に相違して一軍(ひといくさ)もなければ、皆悦(よろこび)勇(いさん)で、軈(やが)て京へぞ入(いり)にける。  
南方蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)畠山関東(くわんとう)下向(げかうの)事(こと)
去(さる)程(ほど)に京都に同士軍(どしいくさ)有て、天王寺(てんわうじ)の寄手(よせて)引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)時(とき)を得て、山々峯峯に篝(かがり)を焼(たき)、津々浦々(つつうらうら)に船を集む。是(これ)を見て京都より被置たる城々の兵共(つはものども)、寄合(よりあひ)寄除(よりの)き私語(ささや)きけるは、、「前に日本国の勢共(せいども)が集て責(せめ)し時だにも、終(つひ)に退治(たいぢ)し兼(かね)て有し和田・楠也(なり)。まして我等(われら)が城に篭(こもつ)て被取巻なば、一人も帰(かへる)者不可有。」とて、先(まづ)和泉の守護(しゆご)にて置(おか)れし細河兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)、未(いまだ)敵の係(かか)らぬ前(さき)に落(おち)しかば、紀伊(きいの)国(くに)の城(じやう)湯浅(ゆあさ)の一党も、船に取乗て兵庫を差(さし)て落(おち)行(ゆく)。
河内(かはちの)国(くに)の守護代(しゆごだい)、杉原(すぎはら)周防入道は、誉田(こんだ)の城(じやう)を落て、水走(みはや)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、爰(ここ)に暫(しばら)く支(ささへ)て京都の左右を待(また)んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責(せめ)ける間、一日(いちにち)一夜(いちや)戦て、南都の方へぞ落(おち)にける。根来(ねごろ)の衆は、加様(かやう)に御方(みかた)の落(おち)行(ゆく)をも不知、与力同心の兵集て三百(さんびやく)余人(よにん)、紀伊(きいの)国(くに)春日山(かすがやま)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、二引両(ふたつひきりやう)の旗を一流(ひとながれ)打立(うちたて)て居たりけるを、恩地(おんぢ)・牲河(にへがは)・三千七百(さんぜんしちひやく)余騎(よき)の勢にて押寄(おしよせ)、城の四方(しはう)を取巻て、一人も不余討(うち)にけり。
熊野(くまの)には湯河(ゆかはの)庄司(しやうじ)、将軍方(しやうぐんがた)に成て、鹿(しし)の瀬(せ)・蕪坂(かぶらさか)の後(うしろ)に陣を取り、阿瀬河(あぜかは)入道定仏(ぢやうぶつ)が城を責(せめ)んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺(たなべの)別当、二千(にせん)余騎(よき)にて押寄せ、四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちら)し、三百三十三人(さんじふさんにん)が頚を取て、田辺の宿にぞ懸(かけ)たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様(かやう)の時をや申(まうす)べき。都には仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)落(おち)たりと、悦ばぬ人も無りけれ共(ども)、畿内遠国の御敵(おんてき)は、是(これ)に時を得て蜂起(ほうき)すと聞へければ、すはや世は又大乱(たいらん)に成(なり)ぬるはと、私語(ささや)かぬ人も無りけり。
其比(そのころ)何(いか)なる者の態(わざ)にや、五条(ごでう)の橋爪(はしづめ)に高札(たかふだ)を立(たて)て、二首の歌を書(かき)付(つけ)たり。御敵(おんてき)の種(たね)を蒔置(まきおく)畠山打返すべき世とは知(しら)ずや何程(いかほど)の豆を蒔(まき)てか畠山日本国をば味噌(みそ)になすらん又是(これ)は仁木を引(ひく)人の態(わざ)かと覚(おぼえ)て、一首(いつしゆ)の歌を六角堂の門の扉(とびら)に書(かき)付(つけ)たり。
いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山(はたけやま)入道(にふだう)、其比(そのころ)常に狐(きつね)の皮(かは)の腰当(こしあて)をして、人に対面しけるを、悪(にく)しと見る人や読(よみ)たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕(あらは)れにけれ又湯河庄司(ゆかはのしやうじ)が宿の前に、作者芋瀬(いもせ)の庄司(しやうじ)と書(かき)て、宮方(みやがた)の鴨頭(かうと)になりし湯川(ゆのかは)は都に入て何の香(か)もせず今度の乱(らん)は、然(しかしながら)畠山(はたけやま)入道(にふだう)の所行(しよぎやう)也(なり)と落書(らくしよ)にもし歌にも読(よみ)、湯屋風呂(ゆやふろ)の女童部(をんなわらんべ)までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思(おもひ)けん、暫(しばらく)虚病(きよびやう)して居たりけるが、如斯(かく)ては、天下の禍(わざはひ)何様(いかさま)我身(わがみ)独(ひとり)に係(かか)りぬと思(おもひ)ければ、将軍に暇(いとま)をも申さで八月四日の夜、密(ひそか)に京都を逃(にげ)出て、関東(くわんとう)を差(さし)てぞ下りける。
参河(みかはの)国(くに)は仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)多年管領(くわんりやう)の国也(なり)ければ、守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて矢矧(やはぎ)に出張(でばりし)て、道を差塞(さしふさ)ぎける間不通得、路次(ろし)に日数をぞ送りける。如斯何(いつ)までか中途(ちゆうと)に浮(うか)れて可有、中山道(なかせんだう)を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川(をがは)中務仁木(につき)に同心して、尾張(をはりの)国(くに)にて旗を揚(あぐ)る間、関東(くわんとう)下向の勢、畠山を始(はじめ)として、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・佐竹・宇都宮(うつのみや)に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹(あと)へも不帰得、忙然(ばうぜん)としてぞ居たりける。
山名伊豆(いづの)守(かみ)は、東国勢既(すで)に南方を退治(たいぢ)して、都へ帰(かへり)ぬと聞(きこえ)しかば、始(はじめ)は何様(いかさま)此次(このついで)に我(わが)方(かた)へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃(やじり)を磨(みがい)て、可防用意(ようい)をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)宮方(みやがた)になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆(いづの)守(かみ)軈(やがて)機(き)に乗て、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒し二手(ふたて)に分(わけ)て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・同律師(りつし)則祐(そくいう)が、所々の城(じやう)を責(せむ)るに・草木(くさぎ)・揉尾(そとを)・景石(かげいし)・塔尾(たふのを)・新宮(しんぐう)・神楽尾(かぐらを)の城(じやう)共、一怺(ひとこらへ)もせず、或(あるひ)は敵に成て却(かへつ)て御方(みかた)を責め、或(あるひ)は行方を不知落(おち)失(うせ)ぬ。脣(くちびる)竭(つき)て歯寒(さむく)、魯酒(ろしゆ)薄(うすく)して邯鄲(かんたん)囲(かこま)るとは、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。  
北野通夜(つや)物語(ものがたりの)事(こと)付(つけたり)青砥左衛門(あをとさゑもん/が)事(こと)
其比(そのころ)日野(ひのの)僧正(そうじやう)頼意(らいい)、偸(ひそか)に吉野の山中を出て、聊(いささか)宿願の事有ければ、霊験の新(あらた)なる事を憑(たのみ)奉り、北野の聖廟(せいべう)に通夜し侍りしに、秋も半(なかば)過(すぎ)て、杉の梢の風の音も冷(すさまじ)く成、ぬれば、晨朝(ありあけ)の月の松より西に傾き、閑庭(かんてい)の霜に映ぜる影、常よりも神宿(かみさび)て物哀(ものあはれ)なるに、巻(まき)残せる御経を手に持(もち)ながら、灯(とぼしび)を挑(かか)げ壁に寄傍(よりそう)て、折に触(ふれ)たる古き歌など詠じつゝ嘯(うそぶき)居たる処に、是(これ)も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚(おぼし)くて、南殿(なんでん)の高欄(かうらん)に寄懸(よりかかり)て、三人(さんにん)並居(なみゐ)たる人あり。如何(いか)なる人やらんと見れば、一人は古(いにし)へ関東(くわんとう)の頭人(とうにん)評定衆なみに列(つらなつ)て、武家の世の治(をさま)りたりし事、昔をもさぞ忍覧(しのぶらん)と覚(おぼえ)て、坂東声(ばんどうごゑ)なるが、年の程六十許(ばかり)なる遁世者(とんせいしや)也(なり)。
一人は今朝廷に仕へながら、家貧(まづし)く豊(ゆたか)ならで、出仕なんどをもせず、徒(いたづら)なる侭(まま)に、何となく学窓の雪に向て、外典(げでん)の書に心をぞ慰む覧(らん)と覚へて、体(てい)縟(なびやか)に色青醒(あをざめ)たる雲客(うんかく)也(なり)。一人は何(なに)がしの律師(りつし)僧都なんど云はれて、門迹辺(もんぜきへん)に伺候(しこう)し、顕密(けんみつ)の法灯(ほつとう)を挑げんと、稽古(けいこ)の枢(とぼそ)を閉(と)ぢ玉泉の流に心を澄(すま)すらんと覚へたるが、細(ほそ)く疲(つかれ)たる法師也(なり)。
初(はじめ)は天満天神の文字を、句毎(くごと)の首(かしら)に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現(げ)にもと覚(おぼゆ)る事共(ことども)多かり。先(まづ)儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘(かんがふ)るに、戦国の七雄(しちゆう)も終(つひ)に秦の政(せい)に被合、漢楚(かんそ)七十(しちじふ)余度(よど)の戦も八箇年(はちかねん)の後、世(よ)漢に定(さだま)れり。我朝にも貞任(さだたふ)・宗任(むねたふ)が合戦、先(さき)九年(くねん)後(のち)三年の軍、源平諍(あらそひ)三箇年、此(この)外も久(ひさしく)して一両年を不過。抑(そもそも)元弘より以来(このかた)、天下大に乱(みだれ)て三十(さんじふ)余年(よねん)、一日も未(いまだ)静(しづかな)る事を不得。今より後もいつ可静期(ご)共(とも)不覚(おぼえず)。是(これ)はそも何故(なにゆゑ)とか御料簡(れうけん)候。」といへば坂東声(ばんどうごゑ)なる遁世者(とんせいしや)、
数返(すへん)高らかに繰鳴(くりなら)し、無所憚申けるは、「世の治(をさま)らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申(まうす)に不及候へども、昔は民苦(みんく)を問(とふ)使とて、勅使(ちよくし)を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故(そのゆゑ)は、君は以民為体、民は以食為命、夫(それ)穀(こく)尽(つき)ぬれば民窮(きゆう)し、民窮(きゆう)すれば年貢(みつき)を備(そなふる)事なし。疲馬(ひば)の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤(りじゆん)を先として常に非法を行(おこな)ふ。
民の誤(あやま)る処は吏(り)り科(とが)也(なり)。吏(り)の不善(ふぜん)は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩(ともがら)を用れば暴虎を恣(ほしいまま)にして、百姓をしへたげり。民の憂(うれ)へ天に昇(のぼつ)て災変をなす。災変起れば国土乱る。是(これ)上(かみ)不慎下慢(しもあなど)る故(ゆゑ)也(なり)。国土若(もし)乱れば、君何(なんぞ)安からん。百姓荼毒(とどく)して四海(しかい)逆浪(げきらう)をなす。されば湯武(たうぶ)は火に投身、桃林(たうりん)の社(しや)に祭り、大宗(たいそうは)呑蝗、命を園囿(ゑんいう)の間に任す。己を責(せめ)て天意に叶(かなひ)、撫民地声を顧(かへりみ)給へと也(なり)。
則(すなはち)知(しん)ぬ王者の憂楽(いうらく)は衆と同(おなじ)かりけりと云(いふ)事を、白楽天も書置(かきおき)侍りき。されば延喜(えんぎ)の帝(みかど)は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍(あはれ)み給(たまひ)しだに、正(まさし)く地獄に落(おち)給(たまひ)けるを、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人は見給(たまひ)けるとこそ承(うけたまは)れ。彼(かの)上人、承平四年八月一日午時頓死(とんし)して、十三日(じふさんにち)ぞ御在(おはしま)しける。其(その)程夢にも非(あら)ず、幻(うつつ)にも非(あら)ず、金剛蔵王(こんがうざわう)の善巧方便(ぜんげうはうべん)にて、三界流転(さんがいるてん)の間、六道(ろくだう)四生(ししやう)の棲(すみか)を見給(たまひ)けるに、等活(とうくわつ)地獄の別処(べつしよ)、鉄崛(てつくつ)地獄とてあり。
火焔(くわえん)うずまき黒雲空(そら)に掩(おほ)へり。觜(くちばし)ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄(くろがね)の牙(きば)ある犬来て、罪人の脳(なう)を吸喰(すひくら)ふ。獄卒眼を怒(いからか)して声を振(ふる)事雷(いかづち)の如し。狼虎(らうこ)罪人の肉を裂(さき)、利剣(りけん)足の蹈所(ふみどころ)なし。其(その)中に焼炭(やきすみ)の如(ごとく)なる罪人有四人。叫喚(けうくわん)する声を聞(きけ)ば、忝(かたじけなく)も延喜の帝にてぞ御在(おはしまし)ける。不思議(ふしぎ)やと思(おもひ)て、立寄て事の様(やう)を問へば、獄卒答(こたへて)曰(いはく)、「一人は是(これ)延喜帝(えんぎのみかど)、残(のこり)は臣下也(なり)。」とて、鋒(ほこ)に指貫(さしつらぬい)て、焔(ほのほ)の中へ投(なげ)入(いれ)奉りけり。
在様(ありさま)業果法然(ごふくわほふねん)の理とは云(いひ)ながら、余(あま)りに心憂(こころうく)ぞ覚(おぼえ)ける。良(やや)暫(しばらく)有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇(おんいとま)奉宥、今一度(いちど)拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々(なくなく)宣(のたまひ)ければ、一人の獄卒是(これ)を聞て、いたはしげもなく鉄(くろがね)の鉾(ほこ)に貫(つらぬい)て、焔(ほのほ)の中より指(さし)出し、十丈(じふぢやう)計(ばかり)差上(さしあげ)て、熱鉄(ねつてつ)の地の上へ打(うち)つけ奉る。焼炭(やけすみ)の如(ごとく)なる御貌(おんかたち)散々に打砕(うちくだか)れて、其(その)御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々(くわつくわつ)。」と云(いひ)ければ、帝の御姿顕(あらはれ)給ふ。上人畏て只(ただ)泪(なみだ)に咽(むせび)給ふ。帝の宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)我を敬(うやまふ)事なかれ。冥途(めいど)には罪業(ざいごふ)無(なき)を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。
我は五種の罪に依て此(この)地獄に落(おち)たり。一には父寛平法皇の御命(ごめい)を背(そむ)き奉り久(ひさし)く庭上に見下(みおろ)し奉りし咎(とが)、二には依讒言、無咎才人(さいじん)を流罪したりし報(むく)ひ、三には自の怨敵(をんてき)と号(がう)して、他の衆生(しゆじやう)を損害(そんがい)せし咎(とが)、四には月中の斎日(さいじつ)に、本尊を不開咎(とが)、五には日本(につぽん)の王法をいみじき事に思(おもひ)て人間に著心(ぢやくしん)の深かりし咎(とが)、此(この)五を為根本、自余(じよ)の罪業無量(むりやう)也(なり)。 故(ゆゑ)に受苦事無尽(むじん)也(なり)。願(ねがはく)は上人為我善根を修(しゆ)してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾(おうだく)申す。
「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆(そとば)を立て、大極殿(だいごくでん)にして仏名懺悔(さんげの)法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾(ほこ)に指貫(さしつらぬき)、焔(ほのほ)の底へ投(なげ)入る。上人泣々(なくなく)帰(かへり)給(たまふ)時(とき)、金剛蔵王の宣(のたまは)く、「汝に六道(ろくだう)を見する事、延喜帝(えんぎのみかど)の有様を為令知也(なり)。」とぞ被仰ける。彼(かの)帝は随分(ずゐぶん)愍民治世給(たまひ)しだに地獄に落(おち)給ふ。況(まし)て其(それ)程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚(おぼえ)たり。又承久(しようきう)より已降(このかた)武家代々(だいだい)天下を治(をさめ)し事は、評定の末席(まつせき)に列(つらなつ)て承置(うけたまはりおき)し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。
夫(それ)天下久(ひさしく)武家の世と成(なり)しかば尺地(せきち)も其有(そのう)に非(あらず)と云(いふ)事なく、一家(いつけ)も其(その)民に非(あらず)と云(いふ)所無(なか)りしか共、武威(ぶゐ)を専(もつぱら)にせざるに依て地頭敢(あへ)て領家(りやうけ)を不侮、守護(しゆご)曾(かつ)て検断(けんだん)の外に不綺。斯(かか)りしか共尚(なほ)成敗(せいばい)を正(ただし)くせん為に、貞応(ぢやうおう)に武蔵(むさしの)前司(ぜんじ)入道、日本国の大田文(おほたぶみ)を作て庄郷(しやうがう)を分(わかち)て、貞永に五十一箇条の式目を定(さだめ)て裁許に不滞。されば上(かみ)敢(あへ)て不破法下又不犯禁を。世治(をさま)り民直(すなほ)なりしか共、我朝(わがてう)は神国の権柄(けんぺい)武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄(いてき)の眸(まなじり)に懸りしを社(こそ)歎きしか。されども上代には世を治(をさめ)んと思(おもふ)志深かりけるにや、泰時朝臣(あつそん)在京の時、明慧(みやうえ)上人に相看(しやうかん)して法談の次に仰(おほせ)られけるはく、「如何(いかに)してか天下を治め人民を安(やすん)じ候べき。」と被申ければ、上人宣(のたまは)く、「良医(りやうい)能く脈(みやく)を取て、其(その)病の根源を知て、薬を与へ灸(きう)を加(くはふ)れば、病自(おのづか)ら愈(いゆ)る様に、国を乱る源(みなもと)を能(よ)く知て可治給。
乱世の根源は只(ただ)欲を為本。欲心変じて一切万般(ばんばん)の禍(わざはひ)と成る。」と宣へば、泰時(やすときの)云(いはく)、「我雖存此旨、人々無欲(むよく)に成(なら)ん事難(かた)し。」と宣へば、上人(しやうにんの)云(いはく)、「太守(たいしゆ)一人無欲にならん事を思(おもひ)給はゞ、其(それ)に恥(はぢ)て万人自然(じねん)に欲心薄(うすく)成(なる)べし。人の欲心深(ふかく)訴来(うつたへきた)らば我(わが)欲の直らぬ故ぞと我を恥(はぢ)しめ可給。古人(いにしへびとの)云(いはく)、其(その)身直(すぐ)にして影不曲、其政(そのまつりこと)正(ただしく)して国乱るゝ事なしと云云。
又云(いはく)、君子居其室其言(そのことば)を出(いだす)事善なる則(ときは)、千里の外皆応之。善と云(いふ)は無欲也(なり)。伝(つたへ)聞(きく)、周(しうの)文王の時一国の民畔(くろ)を譲るも、文王一人の徳諸国に及(およぼ)す故(ゆゑに)、万人皆やさしき心に成(なり)し也(なり)。畔(くろ)を譲ると云(いふ)は、我(わが)田の堺(さかひ)をば人の方へは譲(ゆづり)与(あたふ)れども、仮(かり)にも人の地をして掠(かすめ)取(とる)事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠(かすめ)取(とれ)共(ども)、我(わが)物を人に遣(やる)事不可有。其比(そのころ)他国より為訴詔此(この)周(しう)の国を通るとて、此(この)有様を道(みちの)畔(ほとり)にて見て、我(わが)欲の深(ふかき)事を恥(はぢ)て、路より帰りけり。
されば此(この)文王我(わが)国(くに)を収(をさむ)るのみならず、他国まで徳を施(ほどこ)すも只此(この)一人の無欲に依てなり。剰(あまつさへ)此(この)徳満(みち)て天下を一統(いつとう)して取り百年の齢(よはひ)を持(たもち)き。太守一人小欲に成(なり)給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣(のたまひ)ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣(あつそん)の頓死(とんし)して譲状(ゆづりじやう)の無(なか)りし時倩(つらつら)義時の心を思(おもふ)に、我よりも弟をば鍾愛(しようあい)せられしかば、父の心には彼(かの)者にぞ取(とら)せ度(たく)思(おもひ)給(たまひ)て譲(ゆづり)をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時(ともとき)・重時(しげとき)以下に宗徒(むねと)の所領を与(あたへ)て、泰時は三四番めの末子(ばつし)の分限(ぶんげん)程少く取られけれ共(ども)、今までは聊(いささか)不足なる事なし。
如此万(よろ)づ小欲に振舞(ふるまふ)故(ゆゑ)にや、天下随日収(をさま)り、諸国逐年豊(ゆたか)也(なり)き。此(この)太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守(まもり)て云(いは)く、「泰時天下の政を司(つかさどつ)て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直(れんちよく)の中に無論。一方は定(さだめ)て姦曲なるべし。何(いつ)の日両方証文を持て来(きたる)べし。姦謀(かんぼう)の人に於ては、忽(たちまち)に罪科に可申行。姦智(かんち)の者一人国にあれば万人の禍(わざはひ)と成る。天下の敵何事か如之。疾々(とくとく)可帰給。」とて被立けり。
此(この)体を見るに、僻事(ひがこと)あらば軈而(やがて)いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或(あるひ)は和談(わだん)し或(あるひは)僻事(ひがこと)の方は私に負(まけ)て論所を去渡(のきわた)しける。凡(およそ)無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥(はぢ)しめ給(たまひ)しかば、人の物を掠(かす)め取(とら)んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書(しやくしよ)を調(ととの)へ判形を加へて、富祐(ふくいう)の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直(たちなほ)らば、本物計(ばかり)を借(か)り主(ぬし)に可返納。利分(りぶん)は我(われ)添(そへ)て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持(もち)たる人には、約束の本物を還(かへ)させ、自我方添利分、慥(たしか)に返し遣(つかは)されけり。貧者(ひんなるもの)には皆免(ゆる)して、我(わが)領内の米にてぞ主には慥(たしか)に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物(しちもつ)共(ども)も古物を用ふ。
衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著(ちやく)し給ふ。夜は灯(とぼしび)なく、昼は一食(いちじき)を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費(このつひえ)を補(おぎなひ)給(たまひ)けり。仍(すなはち)一度(いちど)食するに、士(し)来れば不終に急ぎ是(これ)にあひ一たび梳(かみけづる)にも訴(うつたへ)来れば先(まづ)是(これ)をきく。一寝(いつしん)一休(いつきう)是(これ)を不安して人の愁(うれへ)を懐(いだい)て待(また)んことを恐る。進(すすん)では万人を撫(なで)ん事を計(はか)り、退(しりぞい)ては一身(いつしん)に失(しつ)あらん事を恥づ。然(しかる)に太守逝去(せいきよ)の後、背父母失兄弟とする訴論(そろん)出来て、人倫(じんりん)の孝行日に添(そひ)て衰へ、年に随(したがつ)てぞ廃(すたれ)たる。一人正(ただし)ければ万人夫(それ)に随(したがふ)事分明也(なり)。
然る間猶(なほ)も遠国の守護(しゆご)・国司・地頭・御家人、如何(いか)なる無道猛悪(ぶだうまうあく)の者有てか、人の所領を押領(あふりやう)し人民百姓を悩(なやま)すらん。 自(みづから)諸国を順(めぐり)て、是(これ)を不聞は叶(かなふ)まじとて、西明寺(さいみやうじ)の時頼禅門密(ひそか)に貌(かたち)を窶(やつ)して六十(ろくじふ)余州(よしう)を修行し給(たまふ)に、或(ある)時(とき)摂津(つの)国(くに)難波(なには)の浦に行(ゆき)到(いたり)ぬ。塩汲(くむ)海士(あま)の業(わざ)共(ども)を見給(たまふ)に、身を安(やすく)しては一日も叶(かなふ)まじき理(ことわり)を弥(いよいよ)感じて、既(すで)に日昏(くれ)ければ、荒(あれ)たる家の垣間(かきま)まばらに軒傾(かたぶい)て、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏(もる)らめと見へたるに立寄て、宿を借(かり)給(たまひ)けるに、内より年老(おい)たる尼公(にこう)一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共(ども)、藻塩草(もしほぐさ)ならでは敷(しく)物もなく、磯菜(いそな)より外は可進物も侍らねば、中々宿を借(かし)奉ても甲斐なし。」と佗(わび)けるを、「さりとては日もはや暮(くれ)はてぬ。又可問里も遠ければ、枉(まげ)て一夜(いちや)を明し侍(はべら)ん。」と、兔角(とかく)云佗(いひわび)て留(とま)りぬ。
旅寝の床(ゆか)に秋深(ふけ)て、浦風寒く成(なる)侭(まま)に、折焼(をりたく)葦(あし)の通夜(よもすがら)、臥佗(ふしわび)てこそ明しけれ。朝に成(なり)ぬれば、主(あるじ)の尼公(にこう)手づから飯匙(いひがひ)取(とる)音して、椎(しひ)の葉折敷(をりしき)たる折敷(をしき)の上に、餉(かれいひ)盛(もり)て持出来たり。甲斐々々敷(かひがひしく)は見へながら、懸る態(わざ)なんどに馴(なれ)たる人共見へねば不審(おぼつかな)く覚(おぼえ)て、「などや御内(みうち)に被召(めされ)仕人は候はぬやらん。」と問(とひ)給へば、尼公泣々(なくなく)「さ候へばこそ、我は親の譲(ゆづり)を得て、此(この)所の一分の領主にて候(さうらひ)しが、夫(をつと)にも後(おく)れ子にも別(わかれ)て、便(たより)なき身と成(なり)はて候(さうらひ)し後、惣領(そうりやう)某(なにがし)と申(まうす)者、関東(くわんとう)奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押(おさへ)取て候へ共、京鎌倉(かまくら)に参て可訴詔申代官も候はねば、此(この)二十(にじふ)余年(よねん)貧窮孤独(びんぐうこどく)の身と成て、麻の衣の浅猿(あさまし)く、垣面(かきも)の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡(ぬる)る露の身の、消(きえ)ぬ程とて世を渡る。
朝食(あさけ)の烟(けぶり)の心細さ、只推量(おしはか)り給へ。」と、委(くはし)く是(これ)を語て、涙にのみぞ咽(むせ)びける。斗薮(とそう)の聖(ひじり)熟々(つくづく)と是(これ)を聞て、余に哀(あはれ)に覚(おぼえ)て、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取出し、卓(しよく)の上に立たりける位牌(ゐはい)の裏に、一首(いつしゆ)の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠(とほき)月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮(とそう)畢(をはつ)て鎌倉(かまくら)に帰(かへり)給ふと均(ひとし)く、此(この)位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収(もつしゆ)して、尼公が本領の上に副(そへ)てぞ是(これ)を給(たび)たりける。此(この)外到る所ごとに、人の善悪を尋(たづね)聞て委(くはし)く注(しる)し付(つけ)られしかば、善人には賞(しやう)を与へ、悪者には罰(ばつ)を加(くはへ)られける事、不可勝計。されば国には守護(しゆご)・国司、所には地頭・領家(りやうけ)、有威不驕、隠(かくれ)ても僻事(ひがこと)をせず、世帰淳素民の家々豊(ゆたか)也(なり)。
後の最勝園寺貞時(さいしようをんじさだとき)も、追先蹤又修行し給(たまひ)しに、其比(そのころ)久我(こがの)内大臣(ないだいじん)、仙洞の叡慮に違(ちが)ひ給て、領家悉(ことごとく)被没収給(たまひ)しかば、城南(ぜいなん)の茅宮(ばうきゆう)に、閑寂(かんせき)を耕(たがやし)てぞ隠居(いんきよ)し給ひける。貞時斗薮(とそう)の次(つい)でに彼故宮(かのこきゆう)の有様を見給て、「何(いか)なる人の棲遅(せいち)にてかあるらん。」と、事問(とひ)給(たまふ)処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具(つぶさ)に聞て、「御罪科差(さし)たる事にても候はず、其(その)上(うへ)大家の一跡、此(この)時(とき)断亡(だんばう)せん事無勿体候。など関東(くわんとう)様(さま)へは御歎(おんなげき)候はぬやらん。」と、此(この)修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此(この)御所の御様(おんさま)昔びれて、加様(かやう)の事申せば、去(さる)事や可有。
我(わが)身の無咎由に関東(くわんとう)へ歎かば、仙洞の御誤(おんあやまり)を挙(あぐ)るに似たり。縦(たとひ)一家(いつけ)此(この)時(とき)亡ぶ共、争(いか)でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来(たうらい)歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此(この)時(とき)にて候。」と語りければ、修行者感涙を押(おさへ)て立帰(かへり)にけり。誰と云(いふ)事を不知(しらず)。関東(くわんとう)帰居の後、最前(さいぜん)に此(この)事を有(あり)の侭(まま)に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領(こがのきうりやう)悉(ことごと)く早速(さつそく)に被還付けり。さてこそ此(この)修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過(すぎ)たる哀はなし。況乎(いはんや)烟霞(えんか)万里の道の末、想像(おもひやる)だに憂(うき)物を、深山路(みやまぢ)に行(ゆき)暮(くれ)ては、苔(こけ)の莚(むしろ)に露を敷き、遠き野原を分佗(わけわび)ては、草の枕に霜を結ぶ。
喚渡口船立(たち)、失山頭路帰る。烟蓑雨笠(えんさうりつ)、破草鞋(はさうあいの)底、都(す)べて故郷を思ふ愁(うれへ)ならずと云(いふ)事なし。豈(あに)天下の主(あるじ)として、身(み)富貴(ふつき)に居(きよ)する人、好(このん)で諸国を可修行哉(や)。只身安く楽(たのしみ)に誇(ほこつ)ては、世難治事を知る故(ゆゑ)に、三年の間只(ただ)一人、山川を斗薮(とそう)し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無(なか)りけり。又報光(はうくわう)寺・最勝園寺(さいそうをんじ)二代の相州(さうしう)に仕(つか)へて、引付(ひきつけ)の人数に列(つらな)りける青砥左衛門(あをとさゑもん)と云(いふ)者あり。
数十箇所(すじつかしよ)の所領を知行して、財宝豊なりけれ共(ども)、衣裳には細布(さいみ)の直垂(ひたたれ)、布の大口、飯(いひ)の菜(さい)には焼(やき)たる塩、干(ほし)たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻(きざやまき)の刀を差(さ)し木太刀を持(もた)せけるが、叙爵(じよしやく)後は、此(この)太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付(つけ)たりける。加様(かやう)に我(わが)身の為には、聊(いささか)も過差(くわさ)なる事をせずして、公方(くばうの)事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食(こつじき)、疲れたる訴詔人(そせうにん)などを見ては、分(ぶん)に随(したが)ひ品(しな)に依て、米銭絹布(けふ)の類を与へければ、仏菩薩(ぼさつ)の悲願に均(ひとし)き慈悲にてぞ在(あり)ける。
或(ある)時(とき)徳宗領(とくそうりやう)に沙汰出来て、地下の公文(くもん)と、相摸守(さがみのかみ)と訴陳(そぢん)に番(つがふ)事あり。理非懸隔(けんかく)して、公文(くもん)が申(まうす)処道理なりけれ共(ども)、奉行・頭人(とうにん)・評定衆、皆徳宗領に憚(はばかつ)て、公文(くもん)を負(まか)しけるを、青砥左衛門(あをとさゑもん)只(ただ)一人、権門(けんもん)にも不恐、理の当る処を具(つぶさ)に申立て、遂に相摸守(さがみのかみ)をぞ負(まか)しける。公文不慮(ふりよ)に得利して、所帯に安堵(あんど)したりけるが、其(その)恩を報ぜんとや思(おもひ)けん、銭を三百貫(さんびやくくわん)俵(たはら)に裹(つつみ)て、後ろの山より潜(ひそか)に青砥左衛門(あをとさゑもん)が坪(つぼ)の内へぞ入れたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)是(これ)を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿(さがみどの)を奉思故(ゆゑ)也(なり)。
全(まつたく)地下の公文を引(ひく)に非(あら)ず。若(もし)引出物(ひきでもの)を取(とる)べくは、上の御悪名を申留(とどめ)ぬれば、相摸殿(さがみどの)よりこそ、悦(よろこび)をばし給ふべけれ。沙汰に勝(かち)たる公文が、引出物(ひきでもの)をすべき様なし。」とて一銭をも遂(つひ)に不用、迥(はるか)に遠き田舎まで持送(もちおくら)せてぞ返しける。又或(ある)時(とき)此(この)青砥左衛門(あをとさゑもん)夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋(ひうちぶくろ)に入(いれ)て持(もち)たる銭を十文取(とり)はづして、滑河(なめりかは)へぞ落(おと)し入(いれ)たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過(すぐ)べかりしが、以外(もつてのほか)に周章(あわて)て、其(その)辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松(たいまつ)を十把(じつぱ)買(かひ)て下(くだり)、是(これ)を燃(とぼ)して遂(つひ)に十文の銭をぞ求(もとめ)得たりける。
後日に是(これ)を聞て、「十文の銭を求(もとめ)んとて、五十(ごじふ)にて続松を買て燃(とぼ)したるは、小利大損哉(かな)。」と笑(わらひ)ければ、青砥左衛門(あをとさゑもん)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て、「さればこそ御辺達(ごへんたち)は愚(おろか)にて、世の費(つひえ)をも不知、民を慧(めぐ)む心なき人なれ。銭十文は只今(ただいま)不求は滑河(なめりかは)の底に沈て永く失(うせ)ぬべし。某が続松(たいまつ)を買(かは)せつる五十(ごじふ)の銭は商人の家に止ま(ッ)て永(ながく)不可失。我損(わがそん)は商人の利也(なり)。彼と我と何の差別(しやべつ)かある。
彼此(かれこれ)六十の銭一をも不失、豈(あに)天下の利に非(あら)ずや。」と、爪弾(つまはじき)をして申ければ、難(なん)じて笑(わらひ)つる傍(かたへ)の人々、舌を振てぞ感じける。加様(かやう)に無私処神慮にや通じけん。或(ある)時(とき)相摸守(さがみのかみ)、鶴岡(つるがをか)の八幡宮に通夜(つや)し給ける暁(あかつき)、夢に衣冠(いくわん)正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直(なほ)くして、世を久(ひさし)く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門(あをとさゑもん)を賞翫(しやうくわん)すべし。」と慥(たしか)に被示と覚へて、夢忽(たちまちに)覚(さめ)てげり。
相摸守(さがみのかみ)夙(つと)に帰(かへり)、近国の大庄八箇所(はちかしよ)自筆に補任(ふにん)を書て、青砥左衛門(あをとさゑもん)にぞ給ひたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)補任を啓(ひら)き見て大に驚て、「是(これ)は今何事に三万貫に及ぶ大庄給(たまは)り候やらん。」と問(とひ)奉りければ、「夢想に依て、先(まづ)且(しばらく)充行(あておこなふ)也(なり)。」と答(こたへ)給ふ。青砥左衛門(あをとさゑもん)顔を振て、「さては一所(いつしよ)をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通(とほり)も歎(なげき)入(いり)て存(ぞんじ)候。物(もの)の定相(ぢやうさう)なき喩(たとへ)にも、如夢幻泡影如露亦如電(によむげんはうやうによろやくによでん)とこそ、金剛経にも説(とか)れて候へば、若(もし)某(それがし)が首を刎(はね)よと云(いふ)夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟(か)。報国の忠薄(うすく)して、超涯(てうがい)の賞(しやう)を蒙(かうむ)らん事、是(これ)に過(すぎ)たる国賊(こくぞく)や候べき。」とて、則(すなはち)補任(ふにん)をぞ返し進(まゐら)せける。
自余(じよ)の奉行共も加様(かやう)の事を聞て己(おのれ)を恥(はぢ)し間、是(これ)までの賢才は無(なか)りしか共、聊(いささか)も背理耽賄賂事をせず。是(ここを)以(もつて)平氏相州(さうしう)八代まで、天下を保(たもち)し者也(なり)。夫(それ)政道の為に怨(あた)なる者は、無礼(ぶれい)・不忠・邪欲(じやよく)・功誇(こうくわ)・大酒・遊宴・抜折羅(ばさら)・傾城(けいせい)・双六(すごろく)・博奕(ばくえき)・剛縁(かうえん)・内奏(ないそう)、さては不直(ふちよく)の奉行也(なり)。治(をさま)りし世には是(これ)を以て誡(いましめ)とせしに、今の代の為体皆是(これ)を肝要とせず。我こそ悪からめ。些(ちと)礼義をも振舞(ふるまひ)、極信(ごくしん)をも立(たつ)る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰(きづまり)の色代や。」とて、目を引(ひき)、仰(あふのき)に倒(たふれ)笑ひ軽謾(きやうまん)す。
是(これ)は只一の直(すぐ)なる猿が、九の鼻欠(はなかけ)猿に笑(わらは)れて逃(にげ)去(さり)けるに不異。又仏神領に天役課役(てんやくくわやく)を懸(かけ)て、神慮冥慮(みやうりよ)に背(そむ)かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料(せれう)を貪(むさぼる)事を業(げふ)とす。是(これ)然(しかしながら)上方(らうへかた)御存知なしといへ共、せめ一人に帰(き)する謂(いはれ)もあるか。角(かく)ては抑世の治(をさま)ると云(いふ)事の候べきか。せめては宮方(みやがた)にこそ君も久(ひさしく)艱苦(かんく)を嘗(なめ)て、民の愁(うれへ)を知食(しろしめ)し候。臣下もさすが知慧ある人多(おほく)候なれば、世を可被治器用(きよう)も御渡(おんわたり)候覧(らん)と、心にくゝ存(ぞんじ)候へ。」と申せば、鬢帽子(びんばうし)したる雲客打ほゝ笑(ゑみ)て、「何をか心にくゝ思召(おぼしめし)候覧(らん)。
宮方(みやがた)の政道も、只(ただ)是(これ)と重二(ぢゆうに)、重一(ぢゆういち)にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候(しこう)して候(さうらひ)しが、天下を覆(くつが)へさん事も守文(しゆぶん)の道も叶(かなふ)まじき程を至極見透(みすか)して、さらば道広く成て、遁世(とんせい)をも仕(つかまつ)らばやと存じて、京へ罷(まかり)出て候際(あひだ)、宮方(みやがた)の心にくき所は露許(ばかり)も候はず。先(まづ)以古思(おもひ)候に昔周(しう)の大王と申(まうし)ける人、(ひん)と云(いふ)所に御坐(おは)しけるを、隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)起(おこつ)て討(うた)んとしける間、大王牛馬珠玉等(とう)の宝を送て、礼を成(なし)けれ共尚(なほ)不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。
万民百姓是(これ)を忿(いかり)て、「其(その)儀ならば、よしや我等(われら)身命を捨(すて)て防ぎ戦(たたかは)んずる上は、大王戎(えびす)に向て和(わ)を請(こ)ふ事御坐(おは)すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我(われ)国(くに)を惜(をし)く思ふは、人民を養はんが為許(ためばかり)也(なり)。我若(もし)彼(かれ)と戦はゞ、若干(そくばく)の人民を殺すべし。其(それ)を為養地を惜(をしみ)て、可養民を失(うしなは)ん事何の益(えき)か有(ある)べき。又不知隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)、若(もし)我より政道よくは、是(これ)民の悦たるべし。何ぞ強(あながち)に以我主とせんや。」とて、大王(ひん)の地を戎(えびす)に与へ、岐山(きさん)の麓へ逃(にげ)去て、悠然として居給(たまひ)ける。
■(ひん)の地の人民、「懸(かか)る難有賢人を失(うしなひ)て、豈(あに)礼義をも不知仁義もなき戎(えびす)に随(したが)ふべしや。」とて、子弟老弱(じやく)引(ひき)連(つれ)て、同(おなじ)く岐山(きさん)の麓に来て大王に付(つき)順ひしかば、戎(えびす)は己(おのれ)と皆亡(ほろび)はてゝ、大王の子孫遂(つひ)に天下の主と成(なり)給ふ。周(しう)の文王・武王是(これ)也(なり)。又忠臣の君を諌(いさ)め、世を扶(たす)けんとする翔(ふるまひ)を聞(きく)に、皆今の朝廷(てうてい)の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人(ににん)坐(おは)しけり。兄の宮(みや)をば寧王(ねいわう)と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。
玄宗位に即(つか)せ給(たまひ)て、好色(かうしよくの)御心(おんこころ)深(ふかか)りければ、天下に勅を下して容色(ようしよく)如華なる美人を求(もとめ)給(たまひ)しに、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の顔色我(われ)も我(われ)もと金翠(すゐ)を餝(かざり)しかども、天子再(ふたた)びと御眸(おんまなじり)を不被廻。 爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄(やうげんえん)が女(むすめ)に楊貴妃と云(いふ)美人あり。養(やしなは)れて在深窓人未(いまだ)知之。天の生(な)せる麗質(れいしつ)なれば更に人間の類(たぐひ)とは不見けり。或人是(これ)を媒(なかだち)して、寧王(ねいわう)の宮(みや)へ進(まゐら)せけるを、玄宗聞召(きこしめし)て高力士(かうりきし)と云(いふ)将軍(しやうぐん)を差(さし)遣(つかは)し、道より是(これ)を奪(うばひ)取て後宮へぞ冊(かしつき)入(いれ)奉りける。
寧王(ねいわう)無限無本意事に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、御弟ながら時の天子として振舞(ふるまは)せ給(たまふ)事なれば、不及力。寧王(ねいわう)も同(おなじ)内裏(だいり)の内に御坐(ござ)有(あり)ければ、御遊(ぎよいう)などのある度毎(たびごと)に、玉の几帳(きちやう)の外(はづれ)金鶏障(きんけいしやう)の隙(ひま)より楊貴妃の容(かたち)を御覧ずるに、一度(ひとた)び笑(ゑ)める眸(まなじり)には、金谷千樹(きんこくせんじゆ)の花薫(にほひ)を恥(はぢ)て四方(しはう)の嵐に誘引(さそは)れ、風(ほのか)に見たる容貌(ようばう)は、銀漢(ぎんかん)万里の月妝(よそほひ)を妬(ねたみ)て五更(ごかう)の霧に可沈。雲居遥(はるか)に雷(いかつち)の中を裂(さけ)ずは、何故(なにゆゑ)か外(よそ)には人を水の泡(あわ)の哀とは思(おもひ)消(きゆ)べきと、寧王(ねいわう)思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、臥(ふし)沈み歎かせ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中こそ哀なれ。
天子の御傍(おんかたはら)には、大史の官とて、八人(はちにん)の臣下長時(ぢやうじ)に伺候(しこう)して、君の御振舞(ふるまひ)を、就善悪注(しる)し留め、官庫に収(をさむ)る習也(なり)。此(この)記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書(かき)置(おき)て、前王の是非を後王の誡(いましめ)に備(そなふ)る者也(なり)。玄宗皇帝(くわうてい)今寧王(ねいわう)の夫人(ふじん)を奪(うばひ)取(とり)給へる事、何様(いかさま)史書に被注留ぬと思召(おぼしめし)ければ、密(ひそか)に官庫を開(ひらか)せて、大夫の官が注(しる)す所を御覧ずるに、果(はた)して此(この)事を有(あり)の侭(まま)に注(しるし)付(つけ)たり。
玄宗大に逆鱗(げきりん)あつて、此(この)記録を引破て被捨、史官をば召(めし)出して、則(すなはち)首をぞ被刎ける。其(それ)より後大史の官闕(かけ)て、此職(このしよく)に居る人無(なか)りければ、天子非を犯(をか)させ給へども、敢(あへ)て憚(はばか)る方も不御坐。爰(ここ)に魯国(ろこく)に一人の才人(さいじん)あり。宮闕(きゆうけつ)に参て大史の官を望みける間、則(すなはち)左大史に成(な)して天子の傍(そば)に慎随(つつしみしたが)ふ。玄宗又此(この)左大史も楊貴妃の事をや記(しる)し置(おき)たる覧(らん)と思召(おぼしめし)て、密(ひそか)に又官庫を開(ひらか)せ記録を御覧ずるに、「天宝十年(じふねん)三月弘農楊玄女為寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。
玄宗弥(いよいよ)逆鱗(げきりん)有(あつ)て、又此(この)史官を召出し則(すなはち)車裂(くるまざき)にぞせられける。角(かく)ては大史の官に成(な)る者非じと覚(おぼえ)たる処に、又魯国(ろこく)より儒者一人来て史官を望(のぞみ)ける間、軈(やが)て左大史に被成。是(これ)が注(しる)す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海(しかい)無事也(なり)。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記(しる)したりける。己(おのれ)が命を軽(かろん)ずるのみに非(あら)ず、後(のちの)史官に至(いたる)まで縦(たとひ)万人死する共不記有(ある)べからずと、三族(さんぞく)の刑(けい)をも不恐注(しるし)留(とどめ)し左大史が忠心の程こそ難有けれ。
玄宗此(この)時(とき)自(みづから)の非を知(しろ)し食(め)し、臣の忠義を叡感(えいかん)有て、其(その)後よりは史官を不被誅、却(かへつ)て大禄(たいろく)をぞ賜(たまは)りける。人として死(しを)不痛云(いふ)事なければ、三人(さんにんの)史官全(まつた)く誅(ちゆう)を非不悲。若(もし)恐天威不注君非、叡慮無所憚悪(あし)き御翔(ふるまひ)尚(なほ)有(あり)ぬと思(おもひ)し間、死罪に被行をも不顧、是(これ)を注し留(とどめ)ける大史官の心の中、想像(おもひやる)こそ難有けれ。国(くにに)有諌臣其(その)国(くに)必(かならず)安(やすく)、家(いへに)有諌子其(その)家必(かならず)正し。されば如斯君も、誠(まこと)に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌(いさめ)申(まうす)人あらば、是(これ)程(ほど)に払棄(はらひすつ)る武家の世を、宮方(みやがた)に拾(ひろう)て不捕や。か程に安き世を不取得、三十(さんじふ)余年(よねん)まで南山の谷の底に埋木(うもれき)の花開(さ)く春を知(しら)ぬ様にて御坐(おはします)を以て、宮方(みやがた)の政道をば思ひ遣(やら)せ給へ。」と爪弾(つまはじき)をしてぞ語りける。
両人物語、げにもと聞(きき)居て耳を澄(すま)す処に、又是(これ)は内典(ないでん)の学匠(がくしやう)にてぞある覧(らん)と見へつる法師、熟々(つくづく)と聞て帽子(ばうし)を押除(おしのけ)菩提子(ぼだいじ)の念珠(ねんじゆ)爪繰(つまぐり)て申けるは、「倩(つらつら)天下の乱を案ずるに、公家の御咎(とが)共(とも)武家の僻事(ひがこと)とも難申。只(ただ)因果の所感とこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、仏に無妄語と申せば、仰(あふい)で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見(みる)に、増一阿含経(ぞういちあごんきやう)に、昔天竺に波斯匿王(はしのくわう)と申ける小国の王、浄飯王(じやうぼんわう)の聟(むこ)に成(なら)んと請(こ)ふ。
浄飯王(じやうぼんわう)御心(おんこころ)には嫌(きら)はしく乍思召辞するに詞(ことば)や無(なか)りけん、召仕はれける夫人(ふじん)の中に貌形(はうぎやう)無殊類勝(すぐれ)たるを撰(えらん)で、是(これ)を第三(だいさん)の姫宮と名付(なづけ)給て、波斯匿王(はしのくわう)の后にぞ被成ける。軈(やがて)此(この)后の御腹(おんはら)に一人の皇子出来させ給ふ。是(これ)を瑠璃(るり)太子(たいし)とぞ申ける。七歳に成(なら)せ給(たまひ)ける年、浄飯王(じやうぼんわう)の城(じやう)へ坐(おは)して遊ばれけるが、浄飯王(じやうぼんわう)の同じ床(ゆか)にぞ坐(ざ)し給(たまひ)たりける。
釈氏(しやくしの)諸王大臣是(これ)を見て、「瑠璃太子は是(これ)実(まこと)の御孫には非(あらず)、何故(なにゆゑ)にか大王と同位(どうゐ)に座(ざ)し給(たまふ)べき。」とて、則(すなはち)玉の床(ゆか)の上より追(おひ)下(おろ)し奉る。瑠璃太子少(をさな)き心にも不安事に思召(おぼしめし)ければ、「我(わが)年長(ちやう)ぜば必(かならず)釈氏を滅(ほろぼ)して此(この)恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十(にじふ)余年(よねん)を歴(へ)て後(のち)、瑠璃太子長(ひと)となり浄飯王(じやうぼんわう)は崩御(ほうぎよ)成(なり)しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒(そつ)して摩竭陀国(まかだこく)の城(じやう)へ寄(よせ)給ふ。
摩竭陀国(まかだこく)は大国たりといへ共、俄(にはか)の事なれば未(いまだ)国々より馳(はせ)参らで、王宮已(すで)に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種(せつりしゆ)に強弓(つよゆみ)共(ども)数百人(すひやくにん)有て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)を射越しける間、寄手(よせて)曾(かつて)不近付得、山に上(のぼ)り河を隔(へだて)て徒(いたづら)に日をぞ送りける。斯(かか)る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手(よせて)の方へ返忠(かへりちゆう)をして申けるは、「釈氏の刹利種(せつりしゆ)は五戒(ごかい)を持たる故(ゆゑ)に曾(かつ)て人を殺(ころす)事をせず。縦(たとひ)弓強(つよく)して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只(ただ)寄(よせ)よ。」とぞ教へける。寄手(よせて)大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄(よせ)けるに、げにも釈氏共の射る矢更(さら)に人に不中、鉾(ほこ)を仕(つか)ひ剣(けん)を抜(ぬい)ても人を斬(きる)事無(なか)りければ、摩竭陀国(まかだこくの)王宮忽(たちまち)に被責落、釈氏の刹利種悉(ことごとく)一日が中に滅(ほろび)んとす。
此(この)時(とき)仏弟子(ぶつでし)目連(もくれん)尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲(かなしみ)て、釈尊の御所(みもと)に参て、「釈氏已(すで)に瑠璃王(るりわう)の為に被亡て、僅(わづか)に五百人(ごひやくにん)残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々(やみなんやみなん)、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣(のたまひ)ける。目連尊者尚(なほ)も不堪悲に、「縦(たとひ)定業(ぢやうごふ)也(なり)共(とも)、以通力是(これ)を隠弊(いんへい)せんになどか不助や。」と思召(おぼしめし)て、鉄鉢(くろがねのはち)の中に此(この)五百人(ごひやくにん)を隠(かくし)入(いれ)て、利天(たうりてん)にぞ被置ける。摩竭陀国(まかだこく)の軍はてゝ瑠璃王(るりわう)の兵共(つはものども)皆本国に帰(かへり)ければ、今は子細非じとて目連神力の御手(おんて)を暢(のべ)て、利天(たうりてん)に置(おか)れたる鉢(はち)を仰(あふの)けて御覧ずるに、以神通被隠五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)、一人も不残死(しに)けり。
目連悲(かなしみ)て其(その)故を仏に問(とひ)奉(たてまつる)。仏答(こたへ)て宣(のたまは)く、「皆是(これ)過去の因果(いんぐわ)也(なり)。争(いかで)か助る事を得ん。其(その)故は、往昔(わうせき)に天下三年旱(ひでり)して無熱池(むねつち)の水乾(かは)けり。此(この)池に摩羯魚(まかつぎよ)とて尾首(をかしら)五十丈(ごじふぢやう)の魚あり。又多舌魚(たぜつぎよ)とて如人言(ものい)ふ魚あり。此(ここ)に数万人(すまんにん)の漁(すなとり)共(ども)集て水を換尽(かへつく)し、池を旱(ほし)て魚を捕(とら)んとするに、魚更(さら)になし。漁父(ぎよふ)共(ども)求(もとむ)るに無力空(むなし)く帰(かへら)んとしける処に、多舌魚岩穴(いはあな)の中より這(はひ)出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚(まかつぎよ)は此(この)池の艮(うしとら)の角に大なる岩穴を掘(ほつ)て水を湛(たたへ)、無量の小魚共を伴(ともな)ひて隠(かくれ)居たり。
早く其(その)岩を引除(ひきのけ)て隠(かくれ)居たる摩羯魚(まかつぎよ)を可殺。加様(かやう)に告(つげ)知(しら)せたる報謝(はうしや)に、汝等(なんぢら)我(わが)命を助(たすけ)よ。』と委(くはし)く是(これ)を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入(いり)にける。漁父共大に悦(よろこび)て件の岩を掘(ほり)起(おこ)して見(みる)に、摩羯魚(まかつぎよ)を始として五丈六丈ある大魚共其(その)数を不知集(あつまり)居たり。小水に吻(いきづ)く魚共なれば、何(いづ)くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許(ばかり)を生(いけ)たりけり。されば此(この)漁父と魚と諸共(もろとも)に生(しやう)を替(かへ)て後、摩羯魚(まかつぎよ)は瑠璃太子の兵共(つはものども)と成り、漁父は釈氏の刹利種(せつりしゆ)となり、多舌魚は今返忠(かへりちゆう)の大臣と成て摩竭陀国(まかだこく)を滅(ほろぼ)しける。
又舎衛国(しやゑこく)に一人の婆羅門(ばらもん)あり。其(その)妻一(ひと)りの男を産(うめ)り。名をば梨軍支(りぐんし)とぞ号(がう)しける。貌(かたち)醜(みにく)く舌強くして、母の乳を呑(のま)する事を不得。僅(わづか)に酥蜜(そみつ)と云(いふ)物を指(ゆび)に塗(ぬ)り、舐(ねぶら)せてぞ命を活(い)けたりける。梨軍支(りぐんし)年長(ちやう)じて家貧(まどし)く食に飢(うゑ)たり。爰(ここ)に諸の仏弟子(ぶつでし)達城に入て食を乞(こひ)給ふが、悉(ことごとく)鉢(はち)に満(みち)て帰(かへり)給(たまふ)を見て、さらば我(われ)も沙門(しやもん)と成て食に飽(あか)ばやと思ひければ、仏の御前(おんまへ)に詣(まう)でゝ、出家の志ある由を申(まうす)に、仏其(その)志を随喜(ずゐき)し給(たまひ)て、『善来比丘於我(ぜんらいびくおが)法中快修梵行得尽苦際(けしゆぼんぎやうとくじんくさい)。』と宣(のたま)へば、鬢髪(びんはつ)を自(みづから)落(おとし)て沙門(しやもん)の形に成(なり)にけり。
角(かく)て精勤修習(しやうごんしゆしふ)せしかば軈(やがて)阿羅漢(あらかんの)果(くわ)をぞ得たりける。さても尚(なほ)貧窮(びんぐう)なる事は不替。長時(ちやうじ)に鉢を空(むなし)くしければ仏弟子(ぶつでし)達是(これ)を憐(あはれみ)て、梨軍支(りぐんし)比丘(びく)に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐(ざせ)よ。参詣の人の奉(たてまつら)んずる仏供(ぶつく)を請(うけ)て食(くは)んに不足あらじ。』とぞ教(をしへ)られける。梨軍支(りぐんし)悦(よろこび)て塔の中に入て眠(ねぶり)居たる其(その)間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更(さら)に是(これ)を不知(しらず)。時に舎利弗(しやりほつ)五百人(ごひやくにん)の弟子(でし)を引て、他邦(たはう)より来て仏塔の中を見給(たまふ)に、参詣の人の奉る仏供あり。是(これ)を払集(あつめ)て、乞丐人(こつがいにん)に与へ給ふ。其(その)後梨軍支(りぐんし)眠(ねぶり)醒(さめ)て、食せんとするに物なし。足摺(あしずり)をしてぞ悲(かなしみ)ける。舎利弗(しやりほつ)是(これ)を見給て、『汝(なんぢ)強(あながち)に勿愁事、我今日汝を具(ぐ)して城に入り、旦那(だんな)の請(しやう)を可受。』とて伽耶城(がやじやう)に入て、檀那(だんな)の請(しやう)を受(うけ)給(たまふ)。
二人(ににん)の沙門(しやもん)已(すで)に鉢(はち)を挙(あげ)て飯(いひ)を請(う)けんとし給(たまひ)ける処に、檀那の夫婦俄(にはかに)喧(いさかひ)をし出して、共に打(うち)合(あひ)ける間、心ならず飯(いひ)を打(うち)こぼして、舎利弗(しやりほつ)・梨軍支(りぐんし)共に餓(うゑ)てぞ帰(かへり)給(たまひ)ける。其翌(そのあけ)の日又舎利弗、長者の請(しやう)を得て行(ゆき)給ひけるが、梨軍支(りぐんし)比丘を伴(ともな)ひ連(つれ)給ふ。長者五百(ごひやく)の阿羅漢(あらかん)に飯(いひ)を引(ひき)けるが、如何(いかが)して見はづしたりけん。梨軍支(りぐんし)一人には不引けり。
梨軍支(りぐんし)鉢を捧(ささげ)て高声に告(つげ)けれども人終(つひ)に不聞付ければ、其(その)日(ひ)も飢(うゑ)て帰(かへり)にける。阿難尊者此(この)事を憐(あはれみ)て、『今日我(われ)仏に随(したがひ)奉て請(しやう)を受(うく)るに、汝を伴(ともなつ)て飯(いひ)に可令飽。』と約し給(たまふ)。阿難既(すで)に仏に随て出給(たまふ)時(とき)に、梨軍支(りぐんし)に約束し給(たまひ)つる事を忘(わすれ)て、連(つれ)給はざりければ、今日さへ鉢を空(むなしく)して徒然(とぜん)としてぞ昏(くら)しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支(りぐんし)を忘(わすれ)たりし事を浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)て、是(これ)に与(あたへ)ん為に或(ある)家に行(ゆき)て飯(いひ)を乞(こひ)て帰(かへり)給(たまふ)。道に荒狗(あらいぬ)数十疋(すじつぴき)走(わしり)進ける間、阿難鉢を地に棄(すて)て、這々(はふはふ)帰(かへり)給(たまひ)しかば、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。第六日に、目連尊者(もくれんそんじや)梨軍支(りぐんし)が為に食(しよく)を乞(こう)て帰(かへり)給(たまふ)に、金翅鳥(こんじてう)空中より飛下(とびさがり)て、其(その)鉢を取て大海に浮べければ、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。
第七日に、舎利弗(しやりほつ)又食(しよく)を乞て、梨軍支(りぐんし)が為に持て行(ゆき)給(たまふ)に、門戸(もんこ)皆堅(かた)く鎖(さ)して不開。舎利弗(しやりほつ)以神力其(その)門戸を開(ひらい)て内へ入(いり)給へば、俄(にはか)に地裂(さけ)て、御鉢金輪際(こんりんざい)へ落(おち)にけり。舎利弗(しやりほつ)、伸神力手御鉢を取(とり)上げ飯(いひ)を食(くは)せんとし給(たまふ)に、梨軍支(りぐんし)が口俄(にはか)に噤(つぐみ)て歯を開く事を不得。兔角(とかく)する程に時已(すで)に過(すぎ)ければ、此(この)日(ひ)も食(くら)はで餓(うゑ)にけり。此(ここ)に梨軍支(りぐんし)比丘大に慚愧(ざんぎ)して、四衆の前にして、『今は是(これ)ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲(のみ)て即(すなはち)涅槃(ねはん)に入(いり)けるこそ哀なれ。諸(もろもろ)の比丘怪(あやしみ)て、梨軍支(りぐんし)が前生の所業(しよげふ)を仏に問(とひ)奉る。
于時世尊諸(もろもろ)の比丘に告(つげて)曰(いはく)、『汝等(なんぢら)聞け、乃往過去(ないわうくわこ)に、波羅奈国(はらないこく)に一人の長者有て名をば瞿弥(くみ)といふ。供仏施僧(くぶつせそう)の志日々に不止。瞿弥(くみ)已(すで)に死して後、其(その)妻相続(あひつづい)て三宝に施(ほどこし)する事同じ。長者が子是(これ)を忿(いかつ)て其(その)母を一室(いつしつ)の内に置き、門戸(もんこ)を堅く閉(とぢ)て出入を不許。母泣涕する事七日、飢(うゑ)て死なんとするに臨(のぞん)で、母、子に向て食を乞(こふ)に、子忿(いか)れる眼を以て母を睨(にらみ)て曰(いはく)、「宝を施行(せぎやう)にし給はゞ、何(なん)ぞ砂(いさご)を食(くら)ひ水を飲(のん)で飢(うゑ)を不止。」と云(いひ)て遂(つひ)に食物を不与。食絶(たえ)て七日に当る時母は遂(つひに)食に飢(うゑ)て死ぬ。其(その)後子は貧窮困苦(びんぐうこんく)の身と成て、死して無間地獄(むけんぢごく)に堕(だ)す。多劫(たごふ)の受苦事終(をはつ)て今人中(にんぢゆう)に生(うま)る。此(この)梨軍支(りぐんし)比丘是(これ)也(なり)。
沙門(しやもん)と成(なり)即(すなはち)得阿羅漢(あらかん)果事は、父の長者が三宝を敬(うやまひ)し故(ゆゑ)也(なり)。其(その)身食に飢(うゑ)て砂(すな)を食(くらう)て死せし事は、母を飢(うや)かし殺したりし依其因果也(なり)。』」と、釈尊正(まさ)に梨軍支(りぐんしが)過去の所業を説(とき)給(たまひ)しかば、阿難・目連・舎利弗等(しやりほつら)作礼而去(さり)給(たまふ)。加様(かやう)の仏説を以て思ふにも、臣君を無(なみ)し、子父を殺すも、今生一世の悪に非(あら)ず。武士は衣食(いしよく)に飽満(あきみち)て、公家は餓死(がし)に及(およぶ)事も、皆過去(くわこの)因果にてこそ候らめ。」と典釈(てんしやく)の所述(しよじゆつ)明に語りければ、三人(さんにん)共(とも)にから/\と笑(わらひ)けるが、漏箭(ろうせん)頻(しきり)に遷(うつつて)、晨朝(じんでう)にも成(なり)ければ、夜も已(すで)に朱(あけ)の瑞籬(みづがき)を立出て、己(おの)が様々(さまざま)に帰(かへり)けり。以是安(あん)ずるに、懸(かか)る乱の世間(よのなか)も、又静(しづか)なる事もやと、憑(たのみ)を残す許(ばかり)にて、頼意(らいい)は帰(かへり)給(たまひ)にけり。  
尾張(をはり)小河(をがは)東池田(ひがしいけだが)事(こと)
去(さる)程(ほど)に小河(をがは)中務(なかつかさの)丞(じよう)と、土岐東池田(ときひがしいけだ)と引合て、仁木(につき)に同心し、尾張(をはりの)小河(をがはの)庄(しやう)に城を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりけるを、土岐宮内(くないの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余(あま)り責(せめ)けるが、俄(にはかに)拵(こしらへ)たる城なれば、兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、小河も東池田も、共に降人(かうにん)に出たりけるを、土岐日来(ひごろ)所領を論ずる事有(あり)し宿意(しゆくい)に依て、小河中務をば則(すなはち)首を刎(はね)て京都へ上(のぼ)せ、東池田をば一族(いちぞく)たるに依て、尾張(をはり)の番豆崎(はづがさき)の城(じやう)へぞ送りける。
吉良(きら)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)も仁木が語(かたら)ひを得て、参河(みかはの)国(くに)の守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)兵庫(ひやうごの)助(すけ)と一に成て、矢矧(やはぎ)の東に陣を張(は)り、海道(かいだう)を差塞(さしふさ)ぎ、畠山(はたけやま)入道(にふだう)が下向を支(ささへ)たりけるが、大島左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義高(よしたか)、当国の守護(しゆご)を給て、星野・行明等(ぎやうめいら)と引(ひき)合ひ、国へ入(いり)ける路次の軍に打負(うちまけ)て、西郷(さいがう)伊勢へ落(おち)行(ゆき)ければ、吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)は御方(みかた)に成て、都へぞ出たりける。是(これ)のみならず、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)頼房(よりふさ)、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千(にせん)余騎(よき)にて近江(あふみの)国(くに)に打越(うちこえ)、葛木(かづらき)山に陣を取(とる)。
佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官、国中(こくぢゆう)の勢を集(あつめ)て飯守岡(いひもりがをか)に陣を張り数日(すじつ)を経(ふ)る処に、九月二十八日(にじふはちにち)早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日(すじつ)合戦に不及して徒(いたづら)に里氏を煩す事非本意上(うへ)、伊勢の京兆(けいてう)も定(さだめ)て未練にぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。今日吉日なれば敵を一当(ひとあて)々(あて)て可散。但(ただし)佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)が手(て)の者を分て守るなる市原(いちはら)の城(じやう)を責(せめ)落(おと)し、敵を一人も跡に不残、心安(こころやす)く合戦を可致。」とて打立(うちたち)ければ、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)も伊賀の名張(なばり)が一族(いちぞく)、
当国の大原・上野(うへの)の者共(ものども)付順(つきしたが)ひける間、手勢三百(さんびやく)余騎(よき)是(これ)も同(おなじ)く打立て、旗を靡(なび)け兵を進めければ、此(この)勢を見て佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立(うちたて)や者共(ものども)。」とて兵を集(あつめ)ける。譜代恩顧(ふだいおんこ)の若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)の外は、相順(あひしたがふ)勢も無(なか)りけり。敵は是(これ)が天下の要(かな)めなるべし。仁木京兆(けいてう)の憑(たのみ)たる桐(きり)一揆(いつき)を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)五百(ごひやく)余騎(よき)に、伊賀の服部(はつとり)・河合(かはひ)の一揆(いつき)馳(はせ)加て、廻天(くわいてん)の勢を振(ふる)ふ。其(その)様を見(みる)に、五百騎(ごひやくき)に足(たら)ぬ佐々木(ささき)が勢可叶とは見へざりけり。
され共佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)其(その)気勇健(ゆうけん)なる者なりければ、「此(この)軍天下の勝負(しようぶ)を計(はか)るのみに非(あら)ず。今日打負(うちまけ)なば弓矢の名を可失とて、僅(わづか)の勢を数(あま)たに成(なし)ては叶(かなふ)まじ。」とて、目賀田(めかだ)・楢崎(ならさき)・儀俄(げが)・平井・赤一揆(あかいつき)を旗頭(はたがしら)にて、河端(かはばた)に傍(そう)て引(ひか)へたり。青地(あをち)・馬淵(まぶち)・伊庭(いばの)入道(にふだう)・黄一揆(きいつき)を大将として、左手(さす)の河原(かはら)に陣を取(とる)。佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)に、吉田・黒田・二部(にいべ)・鈴村(すずむら)・大原・馬杉(ますぎ)を始(はじめ)として、宗(むね)との兵を馬回(まはり)に引(ひか)へさせて、敵の真中を破(わら)んと引(ひか)へたり。
弱(わうじやく)の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手(みて)の小勢を見(みる)に、中なる四目結(よつめゆひ)の大旌(おほはた)は、大将佐々木(ささき)と見るぞ。打取て勲功に預(あづか)れや。」と呼(よばはつ)て、長野が蝿払(はひはらひ)一揆(いつき)、一陣に進(すすん)で懸(かけ)出たり。元来佐々木(ささき)は機変控(きへんかけひき)を心に得て、死を一時に定(さだめ)たる気分なれば、何(なに)かは些(すこし)も可擬議、大勢の真中(まんなか)に懸入て十文字(じふもんじ)巴(は)の字に懸(かけ)散(ちら)し、鶴翼魚鱗(くわくよくぎよりん)に連(つらなつ)て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡(かけなびけ)て、後(うしろ)に小野の有(あり)けるに、西頭(にしがしら)に馬を立(たて)直(なほ)し人馬の息を継(つが)せければ、朱(あけ)に成たる放(はなれ)馬其(その)数を不知(しらず)。蹄(ひづめ)の下に切て落(おと)したる敵共(てきども)、算(さん)を散(ちらし)てぞ臥(ふし)たりける。
是(これ)を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山(てんまやま)へと志し、左になだれて引(ひき)ける間、機に乗たる佐々木(ささき)が若党共(わかたうども)、息をもくれず追懸(おひかけ)たり。引立たる者共(ものども)が、難所(なんしよ)に追懸(おひかけ)られて、なじかは可能。矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・工藤判官・宇野部(うのべ)・後藤弾正・波多野(はだの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)・同弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・佐脇(さいき)三河(みかはの)守(かみ)・高島次郎左衛門(じらうざゑもん)・浅香(あさか)・萩原(はぎはら)・河合(かはひ)・服部(はつとり)、宗(むね)との者共(ものども)五十(ごじふ)余人(よにん)、一所にて皆討(うた)れにけり。
軍散じければ、同(おなじき)十一月一日、彼(かの)首共を取て都に上(のぼ)せしかば、六条河原(ろくでうかはら)にぞ被懸ける。是(これ)を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉(あはれなるかな)、昨日までも詞をかはし肩を双(ならべ)て、見馴(みなれ)し朋友なれば、涙を拭(のごう)て首を見、悲(かなしみ)の思(おもひ)散満(さんまん)たり。懸(かか)りしかば仁木義長(よしなが)も、三千(さんぜん)余騎(よき)と聞へし兵皆落失(おちうせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。結句(けつく)憑(たのみ)たる連枝(れんし)仁木三郎は、今度(こんどの)軍に打負(うちまけ)て、其侭(そのまま)降参して出たりける。加様(かやう)に義長(よしなが)微々(びび)に成(なり)しかば、「軈(やが)て責(せめ)よ。」とて、佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)、両人討手を承(うけたまはり)て、七千(しちせん)余騎(よき)にて伊勢(いせの)国(くに)へ発向(はつかう)す。義長(よしなが)さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、兵減(げん)じ気疲れしかば、懸合て一度(いちど)も軍をせず、長野が城に楯篭(たてこも)る。要害よければ寄手(よせて)敢(あへ)て不近得。土岐・佐々木(ささき)は又大勢なれば、平場(ひらば)に陣を取れども、義長(よしなが)打出て散すに不及。両陣五六里を隔(へだて)て、玉笥(たまくしげ)二見(ふたみ)の浦の二年は、徒(いたづら)にのみぞ過(すご)しける。 
 
太平記 巻第三十六

 

仁木京兆(につきけいてう)参南方事(こと)付(つけたり)大神宮御託宣(ごたくせんの)事(こと)
都には去年の天災(てんさい)・旱魃(かんばつ)・飢饉(ききん)・疫癘(えきれい)、都鄙(とひ)の間に発(おこつ)て、尸骸(しがい)路径(ろけい)に充満(じゆうまん)せし事、只事にあらず、何様改元(かいげん)有(ある)べしとて、延文(えんぶん)六年三月晦日に、康安(かうあん)に改(あらため)られける。其(その)夜四条(しでう)富小路(とみのこうぢ)より火出て、四方(しはう)八十六町まで焼(やけ)失す。改元(かいげん)の始(はじめ)に、洛中(らくちゆう)加様(かやう)に焼(やけ)ぬる事、先(まづ)不吉(ふきつ)の表示(へうじ)也(なり)。此(この)年号不可然と被申人多かりけれ共(ども)、武家既(すで)に宣下を承(うけたまはり)て国々へ施行(しかう)しぬるを、いつしか又改元(かいげん)有(あら)ん条無其例とて、終(つひ)に此(この)年号をぞ被用ける。
去(さる)程(ほど)に仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三年が間大敵に取(とり)巻(まか)れて、伊勢の長野の城(じやう)に篭(こも)りたれば、知行の地もなく、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)くなるに付て、憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)郎従漸々(ぜんぜん)に落(おち)失(うせ)て、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。土岐右馬(うまの)頭(かみ)氏光・外山(とやま)・今峯(いまみね)、兄弟三人(さんにん)、始(はじめ)は仁木に属(しよく)して城に篭(こも)りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て寄手(よせて)に加(くはは)り、兄の右馬(うまの)頭(かみ)は、猶(なほ)城(じやう)に留て仁木が方にぞ居たりける。
連枝(れんし)の間なれば、外山・今峯、何(いか)にもして右馬(うまの)頭(かみ)を助(たすけ)ばやと思(おもひ)て、潜(ひそか)に人を遣(つかは)し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有(ある)まじきにて候。」と、申遣(まうしつかは)したりければ、右馬(うまの)頭(かみ)使に向て、兔角(とかく)の返事をばせで、其(その)文を引返(ひつかへし)て、一首(いつしゆ)の歌を書(かき)てぞ返しける。連(つらな)りし枝の木葉(このは)の散々(ちりぢり)にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此(この)返事を見て、是(これ)程(ほど)に思(おもひ)切たる人なれば、語(かたら)ふ共甲斐(かひ)あるまじ。げにも連枝の兄弟散々(ちりぢり)に成て後、憂世(うきよ)を秋の霜の下に朽(くち)なん名こそ悲(かなし)けれと、泪(なみだ)ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落(おち)行(ゆく)気色を見て、我(わが)力にては遂(つひ)に可叶とも不思けるにや、義長(よしなが)潜(ひそか)に吉野殿(よしのどの)へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入(まうしいれ)たりける。
伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房(むねふさ)卿(きやう)、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長(よしなが)御方(みかた)に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍(くわんぐん)に属(しよく)するのみならず、伊勢の国司顕能(あきよし)卿(きやう)の城(じやう)も、心安(こころやす)く成(なり)ぬべしとて、則(すなはち)勅免の綸旨をぞ被成ける。是(これ)を承(うけたまはり)て、武者所(むしやどころ)に候(さうらひ)ける者共(ものども)が囁(ささや)き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方(みかた)に参ずる人々を見るに、何(いづ)れも以詐君を欺(あざむき)申さずと云(いふ)者なし。先(まづ)錦小路慧源(にしきのこうぢゑげん)禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等(もろやすら)が害を遁(のがれ)ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮(かつ)て、会稽(くわいけい)の恥を雪(すすぎ)たりし後、一日も更(さら)に天恩を重(おも)しとせず、其譴(そのせめ)身に留て遂(つひ)に毒害せられにき。
其(その)後又宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、御方に可参由を申て、君臣御合体(ごがつてい)の由なりしも、何(いつし)か天下を君の御成敗に任(まか)せたりし堅約(けんやく)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、義詮江州(がうしう)を差(さし)て落(おち)たりしは、其偽(そのいつはり)の果(はたす)所に非(あら)ずや。又右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)・石堂刑部卿頼房・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏等(ときうぢら)が、御方の由なるも、都(すべ)て実(まこと)共(とも)不覚(おぼえず)。推量するに、只勅命を借(かつ)て私の本意を達せば、君をば御位に即進(つけまゐら)する共、天下をば我侭(わがまま)にすべき者をと、心中に挟(さしはさむ)者也(なり)。今又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、大敵に囲(かこま)れたるが難堪さに、御方に参(さんずる)由を申(まうす)を、諸卿許容し給(たまふ)こそ心得(こころえ)ね。彼が平生(へいぜい)の振舞(ふるまひ)悪(あく)として不造云(いふ)事なし。
聊(いささか)も心に逆ふ時は、無咎人を殺(ころし)て誤(あやま)れりとも不思、気に合(あふ)時(とき)は、無忠賞を与(あたへ)て忽(たちまち)に是(これ)を取返す。先(まづ)多年の芳恩を忘(わすれ)て、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を背(そむ)く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国(しちかこく)の管領を、尚(なほ)あきたらず思(おもひ)し程の心なれば、此方の五箇国(ごかこく)・三箇国(さんかこく)の恩賞を、不足なしと可思や。若(もし)又彼(かれ)が如所存恩賞を被行、日本(につぽん)六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)に一所も残(のこる)処不可有。多年旧功(きうこう)の官軍共(くわんぐんども)、何(いづ)れの所にか身を可置。倩(つらつら)是(これ)を思(おもふ)に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進(まゐら)せ、人望に背(そむい)て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈(あに)聖運の助ならんや。只虎を養て自(みづから)患(うれひ)を招く風情(ふぜい)なるべき者を。」と申ければ、
又傍(かたはら)に仁木を引(ひく)者やと覚(おぼ)しくて申けるは、「此(この)人悪(わろ)き事はさる事なれ共(ども)、又直人(ただびと)とは不覚(おぼえず)。鎌倉(かまくら)にては鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、児(ちご)を切(きり)殺して神殿に血を淋(そそ)き、八幡(やはた)にては、駒方(こまがた)の神人(じんにん)を殺害(せつがい)して若干(そくばく)の神訴(しんそ)を負(お)ふ。尋常(よのつね)の人にて是(これ)程の悪行をしたらんに、暫(しばら)くも安穏(あんをん)なる事や候べき。仙輿(せんよ)国王の五百人(ごひやくにん)を殺し、斑足(はんぞく)太子(たいし)の一千(いつせん)の王を害せしも、皆権者(ごんじや)の所変(しよへん)とこそ承(うけたまは)れ。是(これ)も只(ただ)人を贔屓(ひいき)して申(まうす)に非(あら)ず。人の語り伝へし事の耳に留(とどまり)て候間申(まうす)にて候也(なり)。近年此(この)人伊勢(いせの)国(くに)を管領して、在国(ざいこく)したりしに、前々更(さら)に公家武家手を不指神三郡(かみさんぐん)に打入て、大神宮の御領(ごりやう)を押領(あふりやう)す。
依之(これによつて)祭主(さいしゆ)・神官等(じんぐわんら)京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。開闢(かいびやく)以来未(いまだ)斯(かか)る不思議(ふしぎ)やあるとて、厳密(げんみつ)の綸旨(りんし)御教書(みげうしよ)を被成しか共、義長(よしなが)曾(かつて)不承引。剰(あまつさへ)我を訴訟(そしよう)しつるが悪(にく)きとて、五十鈴川をせいて魚を捕(と)り、神路山(かみぢやま)に入て鷹を仕(つか)ふ。悪行日来(ひごろ)に重畳(ぢゆうでふ)せり。よしやさらば神罰に任(まかせ)て亡(ほろび)んを待(まて)とて、五百(ごひやく)余人(よにん)の神官等(じんぐわんら)榊の朶(えだ)に木綿(しで)を懸(かけ)、様々の奉幣(ほうへい)を捧(ささげ)て、只義長(よしなが)を七(しち)箇日(かにち)の内に蹴殺させ給へと、異口同音(いくどうおん)にぞ呪咀(じゆそ)しける。
七日に当りける日、十歳許(ばかり)なる童部(わらんべ)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、「我に大神宮乗居(のりゐ)させ給へり。」とて、託宣(たくせん)しけるは、「我本学覚如(ほんがくしんによ)の都を出て、和光同塵の跡(あと)を垂(たれ)しより以来(このかた)、本高跡下(ほんかうしやくげ)の秋の月不照云(いふ)処もなく、化属結縁(けぞくけちえん)の春(はる)の華不薫云(いふ)袖もなし。去(され)ば方便の門には罪有(ある)をも不嫌、利物(りもつ)の所には愚(おろか)なるをも不捨。抑(そもそも)義長(よしなが)が悪行を汝等(なんぢら)天に訴(うつたへ)て呪咀する事こそ心得(こころえ)ね。彼が三生の前に義長(ぎちやう)法師と云(いひ)し時、五部(ごぶ)の大乗経を書て此(この)国(くに)に納(をさ)めたりき。
其(その)善根今生に答(こたへ)て当国を知行する事を得たり。加様(かやう)の宿善ならずは彼(かれ)豈(あに)一日も安穏(あんをん)なる事を得んや。嗚呼(ああ)あたら善根や。若(もし)無上菩提の心に趣て、此(この)経を書(かき)たらましかば、速(すみやか)に離生死至仏果菩提なまし。只(ただ)名聞利養(みやうもんりやう)の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生(うま)れて、諸国を管領し、眷属(けんぞく)多くたなびくといへ共、悪行心に染(そみ)て、乱を好み人を悩(なやま)す。哀なる哉、過去の善根此(この)世に答(こたへ)て、今生の悪業(あくごふ)又未来に酬(むく)はん事を。」とかきくどきて泣(なき)けるが、暫(しばらく)寝入たる体にて物付(ものつき)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。加様(かやう)の事を以て思(おもふ)時(とき)は、義長(よしなが)も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初(はじめ)譏(そしり)つる者共(ものども)、「其(そ)れは不知、於悪行は天下第一(だいいち)の僻者(くせもの)ぞ。」と終夜(よもすがら)語て、明(あく)れば朝(てう)よりぞ退(しりぞき)てける。  
大地震並(ならびに)夏雪(なつゆきの)事(こと)
同年の六月十八日の巳(みの)刻(こく)より同(おなじき)十月に至るまで、大地をびたゝ敷(しく)動(うごい)て、日々夜々に止(やむ)時(とき)なし。山は崩(くづれ)て谷を埋(うづ)み、海は傾(かたむい)て陸(くが)地に成(なり)しかば、神社仏閣倒(たふ)れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。都(すべ)て山川・江河・林野・村落(そんらく)此(この)災に不合云(いふ)所なし。中にも阿波(あは)の雪(ゆき)の湊(みなと)と云(いふ)浦(うら)には、俄(にはか)に太山の如(ごとく)なる潮(うしほ)漲(みなぎり)来て、在家一千七百(いつせんしちひやく)余宇(よう)、悉(ことごと)く引塩(ひきしほ)に連(つれ)て海底に沈(しづみ)しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑(もくづ)と成(なり)にけり。
是(これ)をこそ希代(きたい)の不思議(ふしぎ)と見る処に、同六月二十二日、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)雪降(ふつ)て、氷寒(ひようかん)の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲(のみ)て身を暖め火を焼(たき)炉(ゐるり)を囲む人は、自(みづから)寒を防(ふせ)ぐ便りもあり、山路(さんろ)の樵夫(せうふ)、野径(やけい)の旅人(りよじん)、牧馬(ぼくば)、林鹿(りんろく)悉(ことごとく)氷に被閉雪に臥(ふし)て、凍(こご)へ死(しす)る者数を不知(しらず)。七月二十四日には、摂津国(つのくに)難波(なんばの)浦(うら)の澳(おき)数百町、半時許(ばかり)乾(ひ)あがりて、無量の魚共沙(すな)の上に吻(いきづき)ける程に、傍(あたり)の浦の海人共、網を巻(まき)釣(つり)を捨(すて)て、我劣(おとら)じと拾(ひろひ)ける処に、又俄(にはか)に如大山なる潮(うしほ)満(みち)来て、漫々(まんまん)たる海に成(なり)にければ、数百人(すひやくにん)の海人(あま)共(ども)、独(ひとり)も生きて帰(かへる)は無りけり。
又阿波(あはの)鳴戸(なると)俄(にはかに)潮(うしほ)去て陸(くが)と成る。高く峙(そばたち)たる岩の上に、筒のまはり二十尋(にじふひろ)許(ばかり)なる大皷(たいこ)の、銀のびやうを打て、面には巴(ともゑ)をかき、台には八竜を拏(ひこづら)はせたるが顕(あらはれ)出たり。暫(しばし)は見(みる)人是(これ)を懼(おぢ)て不近付。三四日を経(へ)て後、近き傍(あたり)の浦人共数百人(すひやくにん)集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張(はつ)たりける。尋常(よのつね)の撥(ばち)にて打たば鳴(なら)じとて、大なる鐘木(しゆもく)を拵(こしらへ)て、大鐘(おほがね)を撞(つく)様につきたりける。此(この)大皷(たいこ)天に響き地を動(うごか)して、三時許(ばかり)ぞ鳴(なつ)たりける。山崩(くづれ)て谷に答へ、潮(うしほ)涌(わい)て天に漲(みなぎ)りければ、数百人(すひやくにん)の浦人共、只今(ただいま)大地の底へ引(ひき)入(いれ)らるゝ心地して、肝魂(きもたましひ)も身に不副、倒るゝ共なく走(はしる)共(とも)なく四角(しかく)八方(はつぱう)へぞ逃(にげ)散(ちり)ける。
其(その)後よりは弥(いよいよ)近付(ちかづく)人無(なか)りければ、天にや上りけん、又海中へや入(いり)けん、潮(うしほ)は如元満(みち)て、大皷(たいこ)は不見成(なり)にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈(はげし)く吹て、虚空(こくう)暫(しばらく)掻(かき)くれて見へけるが、難波浦の澳(おき)より、大龍二(ふたつ)浮出て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)の中へ入ると見(みえ)けるが、雲の中に鏑矢(かぶらや)鳴(なり)響(ひびき)て、戈(ほこ)の光四方(しはう)にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体(てい)にぞ見へたりける。二(ふたつ)の竜去る時、又大地震(おびたたし)く動(うごい)て、金堂(こんだう)微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。され共四天は少しも損(そん)ぜさせ給はず。是(これ)は何様(いかさま)聖徳太子(しやうとくたいし)御安置(ごあんぢ)の仏舎利(ぶつしやり)、此(この)堂(だう)に御坐(おはしませ)ば、竜王是(これ)を取(とり)奉らんとするを、仏法護持の四天王(してんわう)、惜(をし)ませ給(たまひ)けるかと覚へたり。洛中(らくちゆう)辺土(へんど)には、傾(かたぶか)ぬ塔の九輪(くりん)もなく、熊野参詣の道には、地の裂(さけ)ぬ所も無(なか)りけり。旧記の載(のす)る所、開闢(かいびやく)以来(よりこのかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)なければ、此(この)上に又何(いか)様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐(おぢおそ)れぬ人は更(さら)になし。  
天王寺(てんわうじ)造営(ざうえいの)事(こと)付(つけたり)京都御祈祷(ごきたうの)事(こと)
南方には此(この)大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体(てい)を聞(きく)に、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂(さけ)たる地もなければ、是(これ)外の表事(へうじ)には非(あら)じと御慎(おんつつしみ)有て、様々の御祈(おんいのり)共(ども)を始(はじめ)らる。則(すなはち)般若寺(はんにやじ)円海(ゑんかい)上人勅(ちよく)を承(うけたまはり)て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)を作られけるに、希代(きたい)の奇特(きどく)共(ども)多かりけり。先(まづ)大廈(たいか)高堂の構(かまへ)なれば、安芸・周防・紀伊(きいの)国(くに)の杣山(そまやま)より、大木(たいぼく)を取(とら)んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人(ににん)して抱(いだ)き廻(まは)す程なる桧木(ひのき)の柱、六七丈なるかぶき三百本、何(いづ)くより来る共不知、難波の浦に流(ながれ)寄(より)て、塩の干潟(ひがた)にぞ留(とどま)りける。
暫(しばら)くは主ある材木にてぞ在(ある)らんと、尋(たづね)くる人を待(また)れけれ共求(もとめ)くる人も無(なか)りければ、さては天竜八部(てんりゆうはちぶ)の人力を助(たすけ)給(たまふ)にてぞ有(ある)らんとて、虹(こう)の梁(うつばり)・鳳(ほう)の甍(いらか)、品々(しなじな)に是(これ)をぞ用ひける。又柱立已(すで)に訖(をはり)、棟木(むなぎ)を揚(あげ)んとしけるに、巻(くるまき)の縄に信濃皮(しなのかは)むき千束(せんぞく)入(いる)べしと、番匠(ばんじやう)麁色(そしき)を出せり。輙(たやす)く可尋出物ならねば、上人信濃(しなのの)国(くに)へ下て便宜の人に勧進(くわんじん)せんと企(くはたて)給(たまひ)ける処に、難波堀江の汀(みぎは)に死蛇(しじや)の如くなる物流(ながれ)寄(より)たり。何(なに)やらんと近付(ちかづき)見れば、信濃皮むきにて打たる大綱(おほづな)、太(ふと)さ二尺(にしやく)長さ三十丈(さんじふぢやう)なるが十六(じふろく)筋(すぢ)まで、水(みづの)泡(あわ)に連(つらなつ)てぞ寄(より)たりける。
上人不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、軈(やが)てくるまきの綱(つな)に用ひらる。是(これ)第一(だいいち)の奇特(きどく)也(なり)とて、所用(しよよう)の後は、此(この)綱を宝蔵にぞ収(をさ)め給ひける。又三百(さんびやく)余人(よにん)有(あり)ける番匠(ばんじやう)の中に、肉食を止め酒を飲(のま)ぬ番匠あまたあり。上人怪(あやし)く思(おもひ)給ひて是(これ)がする業(わざ)を見給(たまふ)に、一人のする業(わざ)、余(よ)の番匠十人(じふにん)にも過(すぎ)たり。さればこそ直(ただ)人にては無(なか)りけれと、弥(いよいよ)怪(あやし)く覚(おぼ)して、日暮(くれ)て帰るを見送り給へば、何(いづ)くへ行(ゆく)共(とも)不見、かき消す様に失(うせ)にけり。其(その)数二十八人(にじふはちにん)有(あり)つるは、何様(いかさま)千手観音の御眷属(けんぞく)、二十八部衆にてぞ御坐(おは)すらんと、皆人信仰(しんがう)の手を合(あは)す。されば造営日あらずして奇麗(きれい)金銀を鏤(ちりばめ)たり。霊仏の威光、上人の陰徳(いんとく)、函蓋(かんかい)共(ども)に相応(さうおう)して、奇特(きどく)なりし事共(ことども)也(なり)。
都には東寺の金堂(こんだう)一尺(いつしやく)二寸(にすん)南へのきて、高祖(かうそ)弘法(こうぼふ)大師(だいし)南天へ飛(とび)去(さら)せ給(たまひ)ぬと、寺僧の夢に見(みえ)ければ、洛中(らくちゆう)の御慎(おんつつしみ)たるべしとて、青蓮院(しやうれんゐん)の尊道法親王(ほふしんわう)に被仰、伴僧(ばんそう)二十口(にじつく)八月十三日(じふさんにち)より内裏に伺候(さふらひ)して、大熾盛光(だいしじやうくわう)の法を行(おこなは)る。聖護院(しやうごゐん)覚誉(かくよ)親王(しんわう)は、二間(ふたま)に御参(おんまゐり)有て、九月八日より一七日、尊星王(そんしやうわう)の法をぞ修せられける。
是(これ)のみならず、近年絶(たえ)て無(なか)りつる最勝講(さいしようかう)を行(おこなは)る。初日(しよにち)は問者(もんじや)叡山(えいさん)の尋源(じんげん)・東大寺(とうだいじ)の深慧(しんゑ)、講師には、興福寺(こうぶくじ)の盛深(じやうじん)・同寺の範忠(はんちゆう)、第二日の問者は、東大寺(とうだいじ)の経弁(けいべん)・同良懐(りやうくわい)、講師は興福寺(こうぶくじ)の実遍(じつべん)・山門の慈俊(じしゆん)、第三日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の円守・山門の円俊、講師は、三井寺(みゐでら)の経深(けいじん)・興福寺(こうぶくじ)の覚成(かくせい)、第四日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の孝憲(けうけん)・同寺の覚家(かくげ)、講師は、叡山(えいさん)の良憲(りやうけん)・三井寺(みゐでら)の房深(ばうじん)、結日(けつにち)の問者は、東大寺(とうだいじ)の義実(ぎじつ)・興福寺(こうぶくじの)教快(けうくわい)講師は、山門(さんもんの)良寿(りやうじゆ)・興福寺(こうぶくじの)実縁(じつえん)、証義(しようぎ)は、大乗院の前(さきの)大僧正(だいそうじやう)孝学(かうがく)・尊勝院の慈能(じのう)僧正(そうじやう)にてぞ御坐(おはし)ける。講問朝夕(てうせき)に坐(ざ)を替(かへ)て、学海に玉を拾へる論談を決択(けつたく)して詞(ことば)の林に花開(さ)く。富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)、文殊(もんじゆ)の智恵も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。  
山名伊豆(いづの)守(かみ)落美作城事(こと)付(つけたり)菊池(きくち)軍(いくさの)事(こと)
斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・嫡子右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)・次男中務(なかつかさの)大輔(たいふ)、出雲・伯耆・因播、三箇国(さんかこく)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して美作へ発向(はつかう)す。当国の守護(しゆご)赤松筑前入道世貞(せいてい)、播州に在て未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に、広戸掃部(ひろとかもんの)助(すけ)が、名木(なぎ)杣二箇処(にかしよの)城(じやう)、飯田(いひだ)の一族(いちぞく)が篭(こもつ)たる篠向(ささむき)の城(じやう)、菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)の大見丈(たいけんぢやう)の城(じやう)、有元(ありもと)民部(みんぶの)大夫入道(たいふにふだう)が菩提寺(ぼだいじ)の城(じやう)、小原(をはら)孫次郎入道が小原の城(じやう)、大野の一族(いちぞく)が篭(こも)りたる大野(おほのの)城(じやう)、六箇所(ろくかしよ)の城(じやう)は、一矢(ひとや)をも不射降参す。
林野(はやしの)・妙見(めうけん)二(ふたつ)の城(じやう)は、二十日余(あま)り怺(こらへ)たりけるが、山名に兔角(とかく)すかされて、遂(つひ)には是(これ)も敵になる。今は倉懸(くらかけ)の城(じやう)一(ひとつ)残て、佐用(さよ)美濃(みのの)守(かみ)貞久・有元(ありもと)和泉(いづみの)守(かみ)佐久(すけひさ)、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたりけるを、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息中務(なかつかさの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、城の四方(しはう)の山々峯々二十三箇所(にじふさんかしよ)に陣を取て、鹿垣(ししがき)を二重三重(ふたへみへ)に結(ゆ)ひ廻(まは)し、逆木(さかもぎ)しげく引懸(ひきかけ)て、矢懸(やがか)り近くぞ攻(せめ)たりける。
播磨と美作との堺(さかひ)には、竹山・千草(ちくさ)・吉野・石堂(いしたう)が峯、四箇所(しかしよ)の城(じやう)を構(かまへ)て、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、百騎(ひやくき)づゝの勢を篭(こめ)たりける。山名が執事小林民部(みんぶの)丞(じよう)重長(しげなが)、二千(にせん)余騎(よき)にて星祭(ほしまつり)の岳(だけ)へ打上り、城を目の下に直下(みおろ)して、透間(すきま)もあらば打蒐(かか)らんと、馬の腹帯(はるび)を堅めて引(ひか)へたり。赤松筑前入道世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)律師(りつし)則祐・其(その)弟弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・宮内(くないの)少輔(せう)師範・掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)・筑前(ちくぜんの)五郎顕範(あきのり)・佐用(さよ)・上月(かうづき)・真島(ましま)・杉原の一族(いちぞく)相集て二千(にせん)余騎(よき)、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸(くらかけ)の城(じやう)を攻(せめ)ば弊(つひえ)に乗て後攻(ごづめ)をせんと企(くはた)つと聞へければ、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義、勝(すぐ)れたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、敵の近付(ちかづか)ん所へ懸合(かけあは)せんと、浮勢(うきぜい)に成て引(ひか)へたり。
赤松は右衛門(うゑもんの)佐(すけ)小勢也(なり)と聞て、先(まづ)此(この)敵を打散(うちちら)さんと打立(うちたち)ける処に、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)入道(にふだう)信禅(しんぜん)、俄(にはか)に敵に成て但馬(たぢまの)国(くに)へ馳(はせ)越(こえ)、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)と引合て播磨へ打て入(いら)んと企(くはたて)ける間、赤松、「さらば東(ひんがしの)方(かた)に城郭(じやうくわく)を構へ、路々に警固の兵を置け。」とて、法花(ほつけ)山に城を構へ、大山越(だいせんごえ)の道を切(きり)塞(ふさい)で、五箇所(ごかしよ)へ勢をぞ差向(さしむけ)ける。
依之(これによつて)進んで山名に戦(たたかは)んとするも勢少く、退(しりぞい)て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩(あゆみ)を失(うしなつ)て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬(うまの)頭(かみ)頼旨(よりむね)、讃岐(さぬきの)国(くに)の守護(しゆご)を相論(さうろん)して、四国(しこく)にをはするに触(ふれ)送て其(その)勢を呼(よび)越(おこ)し、備前・備中・備後、当国四箇国(しかこく)の勢を以て、倉懸(くらかけ)の城(じやう)の後攻(ごづめ)をせよとて、事の子細を牒送(てふそう)するに、右馬(うまの)頭(かみ)大に驚(おどろい)て、九月十日備前へ押渡(おしわたり)て後陣(ごぢん)の勢を待(まち)けるに、相順(あひしたが)ふ四箇国(しかこく)の兵共(つはものども)、己(おの)が国々の私戦(わたくしたたかひ)を捨(すて)かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の勢(せい)は、皆野心を含(ふく)める者共(ものども)なれば、非可憑とて、大将唐河(からかは)に陣を取り、徒(いたづら)に月日をぞ被送ける。
去(さる)程(ほど)に倉懸の城(じやう)には人多(おほく)して兵粮少(すくな)かりければ、戦ふ度に軍(いくさ)利(り)有(あり)といへ共、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食尽(つき)矢種(やだね)尽(つき)ければ、無力十一月四日遂(つひ)に城を落(おち)にけり。是(これ)より山名山陰道(せんおんだう)四箇国(しかこく)を合(あは)せて勢弥(いよいよ)近国に振(ふるふ)のみに非(あら)ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中(よのなか)如何(いかが)あらんと危(あやふ)く思はぬ人も無(なか)りけり。又筑紫には去ぬる七月(しちぐわつの)初に、征西将軍(しやうぐんの)宮(みや)、新田の一族(いちぞく)二千(にせん)余騎(よき)、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光三千(さんぜん)余騎(よき)、博多に打て出て香椎(かしひ)に陣を取(とる)と聞へしかば、勢の著(つか)ぬさきに追(おひ)落せとて、大伴(おほとも)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)・太宰(だざいの)小弐(せうに)五千(ごせん)余騎(よき)・宗像(むなかた)大宮司(だいぐうじ)八百(はつぴやく)余騎(よき)・紀井(きゐの)常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)三百(さんびやく)余騎(よき)、都合二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の勢、一手(ひとて)に成て大手へ向ふ。
上松浦(かみまつら)・下(しも)松浦の一党、両勢の兵三千(さんぜん)余騎(よき)は、飯守(いひもり)山に打(うち)上(あがり)て敵の後(うしろ)へぞ廻(まは)りける。寄手(よせて)は目に余る程の大勢にて、而(しか)も敵を取(とり)巻(まき)たり。宮方(みやがた)は対揚(たいやう)までもなき小勢にて、而(しか)も平場(ひらば)を陣に取(とり)たりけれ共(ども)、菊池(きくち)が気分元来(もとより)大敵を拉(とりひしぐ)心(こころ)ね也(なり)ければ敢(あへ)て事ともせざりけり。両陣の間(あはひ)僅(わづか)に二十(にじふ)余町(よちやう)を阻(へだて)たれば、数日(すじつ)互(たがひ)に馬の腹帯(はるび)を堅(かた)め、鎧の高紐(ひぼ)を弛(はづ)さで、懸(かか)りてや責(せむ)る、待(まち)てや闘(たたか)ふと、隙(ひま)を伺(うかが)ひ気をためらいて、徒(いたづら)に両月をぞ送りける。
菊池(きくち)が家の子城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)は、謀(はかりこと)ある者なりければ、山臥(やまぶし)・禅僧・遁世者(とんせいしや)なんどを、忍々(しのびしのび)に松浦が陣へ遣(つかは)して、其(その)陣の人々の中に、「たれがしは御方(みかた)へ内通の事あり、何(なに)がしは後矢(うしろや)射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共(ものども)に心を置(おか)で、犬死し給ふな。」なんど、様々(さまざま)にぞ申遣(まうしつかは)しける。是(これ)を聞て去(さる)事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互(たがひ)に心置(おき)合(あひ)て危(あや)ぶまぬ人も無(なか)りけり。其(その)後少し程経(へ)て、八月六日の暁、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)千(せん)余騎(よき)の勢にて飯守(いひもり)山に押(おし)寄(よせ)、楯(たて)の板を敲(たたい)て時をどつと作る。松浦党元来大勢也(なり)。城よかりければ、此(この)敵に可被落様は無(なか)りけるを、城中(じやうちゆう)に敵の内通の者多しと、敵の謀(はかつ)て告(つげ)たりしを誠と心得(こころえ)て、「御方(みかた)に討(うた)るな、目を賦(くば)れ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、我先にと落(おち)ける間、寄手(よせて)勝(かつ)に乗て追懸(おつかけ)々々(おつかけ)是(これ)を討(うつ)。
夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思(おもひ)つる松浦党をば、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)が謀(はかりこと)にて輙(たやす)く責(せめ)落(おと)しぬ。小弐(せうに)・大友(おほとも)を打(うち)散(ちら)さん事は指掌よりも可輙とて、菊池(きくち)、宮の御勢(おんせい)と一手(ひとて)に成て五千(ごせん)余騎(よき)、明(あく)る七日午刻(むまのこく)に香椎(かしひ)の陣へ押(おし)寄(よす)る。松浦党昨日搦手(からめて)の軍に打負(うちまけ)ぬと聞(きき)しより、哀(あはれ)引(ひか)ばやと思(おもふ)小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢共(せいども)なれば、何(なじ)かは一積(ひとたまり)も積(たま)るべき。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて我先にと落(おち)て行(ゆく)。道も不去得脱(ぬぎ)捨(すて)たる物具弓矢に目を懸(かけ)ずは、一日路(いちにちぢ)余(あま)り追(おは)れつる大手二万(にまん)余騎(よき)は、半(なかば)も生(いき)て本国へ可帰とは不見けり。  
秀詮(ひであきら)兄弟討死(うちじにの)事(こと)
又同年の九月二十八日(にじふはちにち)、摂津国(つのくに)に不慮(ふりよ)の事出来て、京勢(きやうぜい)若干(そくばく)討(うた)れにけり。事の起(おこり)を尋(たづ)ぬれば、当国の守護職(しゆごしよく)をば、故赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、無二の忠戦に依て将軍より給(たまは)りたりしを、範資死去(しきよの)後、嫡子大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)相続して是(これ)を拝領す。而(しか)るを去年宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、五畿七道(ごきしちだう)の勢を卒(そつ)して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也(なり)と、将軍近習の輩(ともがら)共(ども)つぶやきけるを、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、能次(よきつい)でとや思(おもひ)けん、南方の軍散(さん)じて後、光範差(さし)たる咎(とが)もなきに、摂津国(つのくに)の守護職(しゆごしよく)を可被召放由を申(まうし)て、則(すなはち)我(わが)恩賞にぞ申給(たまは)りける。
光範は今度の軍用と云(いひ)、合戦と云(いひ)、忠烈人に超(こえ)たりと思(おもひ)ければ、定(さだめ)て抜群(ばつくん)の恩賞をぞ給(たまは)らんずらんと思(おもひ)ける処に、夫(それ)こそ無(なか)らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領(くわんりやう)の守護職(しゆごしよく)を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁(じやうさい)なれば不及力、謹(つつしん)で訴詔(そしよう)をし居たりける。和田・楠是(これ)を聞て、能(よ)き時分也(なり)と思(おもひ)ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。
佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が嫡孫(ちやくそん)、近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)、兼(かね)て在国したりければ、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)向ひ、神崎(かんざき)の橋を阻(へだて)て防(ふせぎ)戦(たたかは)んと議(ぎ)しけるを、守護代(しゆごだい)吉田肥前房厳覚(ひぜんばうげんかく)、「何条(なんでう)さる事や候べき。近年赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)、当国の守護(しゆご)にて乍有、動(ややもす)れば和田・楠等(くすのきら)に境内(きやうない)を犯奪(をかしうばは)れんとする事、未練(みれん)の至(いたり)也(なり)とて、申給(たまは)らせ給ひける守護職(しゆごしよく)にて候に、敵の国を退治(たいぢ)するまでこそ無(なか)らめ、当国に打越(うちこえ)たる敵を、一人も生(いけ)て返したらんは、赤松に被笑のみに非(あら)ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽(かろん)ずる程ならば、一族(いちぞく)他門の兵共(つはものども)、誰か見放(みはな)つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て、厳覚真前(まつさき)に神崎(かんざき)の橋を打渡れば、後陣(ごぢん)の勢一千(いつせん)余騎(よき)も、続(つづい)て河を越したりける。
爰(ここ)にて敵の分際(ぶんさい)を問ふに、「楠は未(いまだ)河を不越、和田が勢許(ばかり)僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)にも不足見へて候。」と牛飼童部(うしかひわらんべ)共(ども)の語りければ、吉田肥前(ひぜん)から/\と笑(わらう)て、「哀(あはれ)甘身(あさまし)や、敵の種(たね)をば此(ここ)にて尽(つく)さすべし。
同(おなじく)は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最(いと)閑(しづか)に馬を飼(かう)てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是(これ)を見澄(みすま)して、河より西へ下部(しもべ)を四五人(しごにん)遣(つかは)して、「南方の御敵(おんてき)は西より被寄候ぞ。神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)を支(ささへ)させ給へ。」とぞ呼(よば)はらせける。佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)是(これ)を聞て、「敵さては差違(さしちがう)て迹(あと)より寄(よせ)けり。取て返して戦へ。」とて両方深田(ふかだ)なる道一(ひとつ)を一面に打(うち)並(ならべ)て、本の橋爪へと馬を西頭(にしがしら)に成(な)して歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、楠が足軽の野伏三百人(さんびやくにん)両方の深田へ立渡て、鏃(やじり)を支(ささ)へ散々(さんざん)に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹(あと)より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制(せい)せられて、後陣(ごぢん)より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚(ふくづか)、五百(ごひやく)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て追懸(おひかけ)たり。
中津河(なかつかは)の橋爪にて、白江(しらえの)源次六騎踏止(ふみとどまつ)て討死しける。是(これ)ぞ案内者(あんないしや)なれば、足立(あしだち)の善悪(ぜんあく)をも弁(わきま)へて一軍(ひといくさ)もせんずると、佐々木(ささき)が兼(かね)てより憑(たのみ)ける国人(くにうど)の中白一揆(しらいつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、一戦(いつせん)も不戦、物具・太刀・刀を取(とり)捨(すて)て、河中へ皆飛(とび)漬(つか)る。始はさしも義勢(ぎせい)しつる吉田肥前(ひぜん)、真先(まつさき)に橋を渡て逃(にげ)けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引(ひき)落(おとし)てければ、迹(あと)に渡る御方の兵三百(さんびやく)余騎(よき)は、皆水に溺(おぼれ)てぞ流れける。
佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)兄弟は、橋の辺まで落(おち)延(のび)たりけるが、県(あがた)二郎が、「橋の落(おち)て候ぞ、とても叶(かなは)ぬ所也(なり)。返(かへし)て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云(いひ)けるに恥(はぢ)しめられて、兄弟二騎引返(ひつかへし)て、矢庭(やには)に討(うた)れてけり。瓜生(うりふ)次郎左衛門(じらうざゑもん)父子兄弟三人(さんにん)も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚(ひらくび)射られて、刎(はね)落されければ、田の畔(くろ)の上に三人(さんにん)立双(たちならん)で、敵懸らば打(うち)違(ちがへ)て死なんとしけるが、遠矢(とほや)に皆射すくめられて、一所にて皆討(うた)れにけり。半時許(ばかり)の軍に、死する京勢(きやうぜい)二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)、此(この)内敵に討(うた)れて死する兵僅(わづか)に五六人には不過。其(その)外二百五十(にひやくごじふ)余人(よにん)は、皆河に流(ながれ)てぞ失(うせ)にける。楠父祖の仁慧(じんけい)をつぎ、有情者なりければ、或(あるひ)は野伏共(のぶしども)に生捕(いけどら)れて、被面縛たる敵をも不斬、或(あるひ)は河より被引上、無甲斐命生(いき)たる敵をも不禁置、赤裸(あかはだか)なる者には小袖を著せ、手負(ておう)たる者には薬を与へて、京へぞ返(かへし)遣(つかは)しける。身の恥は悲しけれ共(ども)、悦ばぬ者は無(なか)りけり。  
清氏叛逆(ほんぎやくの)事(こと)付(つけたり)相摸守(さがみのかみ)子息元服(げんぶくの)事(こと)
此等(これら)をこそ、すはや大地震の験(しるし)に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞(きく)処に、京都に希代(きたい)の事有て、将軍の執事細河相摸守(さがみのかみ)清氏・其(その)弟左馬(さまの)助(すけ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、三人(さんにん)共(とも)に都を落(おち)て、武家の怨敵(をんてき)と成(なり)にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)と、細河相摸守(さがみのかみ)清氏と内々怨を含(ふくむ)事有(あり)しに依て、遂(つひ)に君臣豺狼(さいらう)の心を結ぶとぞ聞(きこ)へし。先(まづ)加賀(かがの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)は、富樫(とがしの)介(すけ)、建武の始(はじめ)より今に至るまで一度(いちど)も変ずる事無(なく)して、而(しか)も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖(おんぽれつそ)に復(ふく)せしを、富樫(とがしの)介(すけ)死去せし刻(きざみ)其(その)子未(いまだ)幼稚也(なり)とて、道誉(だうよ)、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)を聟に取て、当国の守護職(しゆごしよく)を申(まうし)与(あたへ)んとす。
細河相摸守(さがみのかみ)是(これ)を聞て、さる事や可有とて富樫(とがしの)介(すけ)が子を取立て、則(すなはち)守護(しゆご)安堵の御教書(みげうしよ)をぞ申成ける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)其(その)一也(なり)。次に備前の福岡の庄は頓宮(とんぐう)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)が所領也(なり)。而(しか)るを頓宮が軍忠中絶(ちゆうぜつ)の刻(きざみ)、赤松(あかまつ)律師(りつし)是(これ)を申給る。後、頓宮、細河が手に属(しよく)して忠有しかば、細河是(これ)を贔屓(ひいき)して、安堵の御教書を申与ふ。然(しかれ)共(ども)則祐は道誉(だうよ)が聟也(なり)ければ、国を押へられ上裁を支(ささへ)られて、頓宮所領に還住(げんぢゆう)せず。是(これ)清氏が鬱憤の其(その)一也(なり)。次に摂津国(つのくに)守護職(しゆごしよく)をば道誉(だうよ)無謂申給て、嫡孫(ちやくそん)近江判官秀詮(ひであきら)に持(もた)せたりけるを、相摸守(さがみのかみ)本主(ほんしゆ)赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)に安堵せさせんと、時々(よりより)異見を献ずる事所憚なし。
依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤其(その)二也(なり)。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守(さがみのかみ)が館(たち)へをはして、七百番の謌合をして可遊也(なり)と兼(かね)て被仰ければ、相摸守(さがみのかみ)誠(まこと)に興(きよう)じ思(おもひ)て、様々の珍膳(ちんぜん)を認(こしらへ)、哥読(うたよみ)共(ども)数十人(すじふにん)誘引(いういん)して、已(すで)に案内を申ける処に、道誉(だうよ)又我(わが)宿所に七所を粧(かざつ)て、七番菜(しちばんさい)を調へ、七百種の課物(かけもの)を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を招請(せうしやう)し奉(たてまつり)ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾(かざり)は珍(めづらし)き遊(あそび)なるべしとて、兼日の約束を引(ひき)違(ちがへ)、道誉(だうよ)が方へをはしければ、相摸守(さがみのかみ)が用意(ようい)徒(いたづら)に成て、数寄(すき)の人も空(むなし)く帰(かへり)にけり。是(これ)又清氏が鬱憤の其(その)二也(なり)。加様(かやう)の事共(ことども)互(たがひ)に憤(いきどほり)深く成(なり)にければ、両人の確執(かくしつ)止む事を不得。上にはさりげなき体(てい)なれども、下には悪心を挿(さしはさ)めり。されば始終(しじゆう)は如何(いかが)と被思遣たり。
此(この)相摸守(さがみのかみ)は気分飽(あく)まで侈(おごつ)て、行迹(ぎやうせき)尋常(よのつね)ならざりけれ共(ども)、偏(ひとへ)に仏神を敬(うやま)ふ心深かりければ、神に帰服(きふく)して、子孫の冥加を祈(いのら)んとや思(おもは)れけん、又我(わが)子の烏帽子親に可取人なしとや思(おもひ)けん、九と七とに成(なり)ける二人(ににん)の子を八幡(やはた)にて元服(げんぶく)せさせ、大菩薩(だいぼさつ)の烏帽子々(えぼしご)に成(なし)て、兄をば八幡(はちまん)六郎(ろくらう)、弟をば八幡八郎(はちらう)とぞ名付(なづけ)ける。此(この)事軈(やが)て天下の口遊(くちずさみ)と成(なり)ければ、将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)は只当家の累祖(るゐそ)伊予(いよの)守(かみ)頼義三人(さんにん)の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅(しんら)三郎と名付(なづけ)しに異(ことなら)ず。心中にいかさま天下を奪(うばは)んと思ふ企(くはたて)ある者也(なり)。」と所存に違(たがひ)てぞ思はれける。佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)是(これ)を聞て、すはや憎(にく)しと思ふ相摸守(さがみのかみ)が過失は、一(ひとつ)出来にけるはと独(ひとり)笑(ゑみ)して、薮(やぶ)に(めくはせ)し居たる処に、外法成就(げほふじやうじゆ)の志一(しいち)上人鎌倉(かまくら)より上て、判官入道(はうぐわんにふだう)の許(もと)へをはしたり。
様々の物語して、「さても都は還(かへつ)て旅にて、万(よろ)づさこそ便(たより)なき御事(おんこと)にてこそ候らめ。誰か檀那(だんな)に成(なり)奉て、祈(いのり)なんどの事をも申入(まうしいれ)候。」と問(とは)れければ、「未(いまだ)甲斐々々敷(かひがひしき)知音(ちいん)檀那等(だんなとう)も候はで、いつしか在京難叶心地して候(さうらひ)つるに、細河相摸殿(さがみどの)よりこそ、此(この)一両日(いちりやうにち)が先に一大事(いちだいじ)の所願候。頓(とん)に成就(じやうじゆ)ある様に祈(いのつ)てたび候へとて、願書を一通封(ふう)して、供具(きようぐ)の料足(れうそく)一万疋副(そへ)て、被送て候(さうらひ)しか。」と、語り給ひければ、道誉(だうよ)、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切(こんせつ)に被所望。
生強(なましひ)に語りは出(いだ)しつ、さのみ惜(をし)まん事も難叶ければ、無力此(この)願書をぞ取寄(とりよせ)て披見(ひけん)させける。道誉(だうよ)此(この)願書を内へ持て入て、「只今(ただいま)些(ちと)急ぐ事候間外へ罷(まかり)出候。此(この)願書は閑(しづか)に披見(ひけん)候(さふらひ)て返(かへし)進(まゐらす)べし。明日是(これ)へ御渡(おんわたり)候へ。」とて、後(うしろ)の小門より出違(いでちが)ひければ、志一上人重(かさね)て云(いひ)入るゝに言(ことば)なくして、宿所へぞ帰り給ひける。道誉(だうよ)、其(その)翌日(よくじつ)此(この)願書を伊勢入道(いせのにふだう)が許(もと)へ持て行て、「是(これ)見給へ。相摸守(さがみのかみ)が隠謀の企(くはたて)有て、志一上人に付て、将軍を呪咀(しゆそ)し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上(うへ)は、所疑にて候はず。急(いそぎ)是(これ)を持参して、潜(ひそか)に将軍に見せ進(まゐら)せられ候へ。」とて、爪弾(つまはじき)をして懐(ふところ)よりぞ取(とり)出しける。
伊勢入道(いせのにふだう)不思議(ふしぎ)の事哉(かな)と思(おもひ)て、披(ひらい)て是(これ)を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海(しかい)、子孫永可誇栄花事。一宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就(じやうじゆ)者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判(うらはん)にこそせられけれ。伊勢入道(いせのにふだう)此(この)願書を読(よみ)畢(をはつ)て、眉を顰(ひそ)めて大息(いき)をつぐ事良(やや)久(ひさしく)して、手迹(しゆせき)は誰共知(しら)ね共、判形共に於ては疑(うたがひ)なければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の見参にこそ入(いれ)んずらめと思(おもひ)けるが、是(これ)を披露(ひろう)申なば、相摸殿(さがみどの)忽(たちまち)に身を可被失。 其(その)上(うへ)斯(かか)る事には、謀作(ぼうさく)謀計なんども有(ある)ぞかし。
卒爾(そつじ)にはいかゞ申入(まうしいる)べきと斟酌(しんしやく)して、深く箱の底にぞ収(をさ)めける。斯(かか)る処に羽林将軍俄(にはか)に邪気(じやき)の事有て、有験(うげん)の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増(まさ)る由聞へしかば、道誉(だうよ)急ぎ参て、「先日伊勢入道(いせのにふだう)の進(しん)じ候(さふらひ)し清氏が願書をば御覧ぜられ候(さうらひ)けるやらん。」と、問(とひ)奉るに、「未(いまだ)披露(ひろう)せず。」と宣ふ。「さては御労(おんいたはり)其(その)故と覚(おぼえ)候。」とて、急(いそぎ)伊勢入道(いせのにふだう)を呼(よび)寄(よせ)、件(くだん)の願書を召(めし)出して、羽林将軍に見せ奉る。其(その)後幾程無(なく)して邪気立去て、違例(ゐれい)本復(ほんぶく)し給(たまひ)ければ、「道誉(だうよ)が申(まうす)処偽(いつは)らで、清氏が呪咀疑(うたがひ)無(なか)りけり。」と、将軍是(これ)を信じ給ふ。
其(その)後又心付て、八幡に清氏願書を篭(こめ)ぬる事有(ある)べからずとて、内々社務(しやむ)を召(めし)て問(とは)れければ、「去(さる)願書は封(ふう)して神馬(じんめ)と送られて候が、頓(やが)て神殿にこめて候。」と申ければ、「其(それ)取(とり)出(いだし)て奉るべし、聊(いささか)不審あり。」と仰有(あり)ければ、軈(やが)て取(とり)出し持参しけり。是(これ)を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我(われ)世を取(とら)んとの発願(ほつぐわん)也(なり)。弥(いよいよ)疑(うたがふ)所なし。凡(およそ)志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特(きどく)の人と思ひ、同心に京・関東(くわんとう)を取(とら)んとて、其(その)祈祷の為に畠山吹挙(すゐきよ)にて上られけり。其(その)後よりは、兔(と)やして清氏を討(うた)まし、角(かく)やせましと、道誉(だうよ)一人に談合(だんかふ)有て、案じ煩(わづら)ひ給ひける処に、道誉(だうよ)俄(にはか)に病と称して為湯治湯山(ゆのやま)へ下りぬ。其(その)後四五日有て、相摸守(さがみのかみ)普請(ふしん)の為とて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)召(めし)具したり。将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「さては道誉(だうよ)に評定(ひやうぢやう)せし事、はや清氏に聞へてけり。
さらんに於(おい)ては却(かへつ)て如何様(いかさま)被寄ぬと覚(おぼゆ)るぞ。京中(きやうぢゆう)の戦は小勢にて叶(かなふ)まじ。要害(えうがい)に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許(ばかり)に、今熊野(いまくまの)に引(ひき)篭(こも)り、一の橋引(ひき)落(おと)して、所々掻楯(かいたて)掻(か)き車引(ひき)双(ならべ)て、逆木轅門(さかもぎゑんもん)を堅めて待(まち)懸(かけ)給へば、今川上総(かづさの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)参川(みかはの)入道(にふだう)以下、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)参る。俄(にはか)の事なれば、何事のひしめきと、聞(きき)定(さだめ)たる事はなけれ共(ども)、武士東西に馳(はせ)違(ちが)ひ、貴賎四方(しはう)に逃吟(にげさまよふ)。
相摸守(さがみのかみ)は天竜寺(てんりゆうじ)にて、京中(きやうぢゆう)のひしめきを聞て、何条(なんでふ)今時(いまどき)洛中(らくちゆう)に何事の騒ぎ可有。告(つぐ)る者の誤りにてぞあらんとて、騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りけるが、我(わが)身の上と聞(きき)定(さだめ)てければ、三百(さんびやく)余騎(よき)にて天竜寺(てんりゆうじ)より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進(まゐら)せて、「洛中(らくちゆう)の騒動何事とも存知仕(つかまつり)候はで、急(いそぎ)馳(はせ)参て候へば、清氏が身の上にて候(さうらひ)ける。罪科(ざいくわ)何事にて候やらん。若(もし)無実の讒(ざん)に依て、死罪を行(おこなは)れ候はゞ、政道の乱(みだ)れ御敵(おんてき)の嘲(あざけり)、不可過之。暫(しばらく)御糺明(ごきうめい)の後に、罪科の実否(じつぷ)を可被定にて候はゞ、頭(かうべ)を延(のべ)て軍門に参(まゐり)候べし。」とぞ申入(まうしいれ)たりけれ共(ども)、
「清氏が多日の隠謀、事已(すで)に露顕(ろけん)の上は、兔角(とかく)の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及(および)給はねば、色を失(うしなひ)て退出す。清氏此(この)上は陳じ申(まうす)に言(こと)ばなし。今は定(さだめ)て討手をぞ向(むけ)らるらん。一矢射て腹を切(きら)んとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)頼利(よりとし)・大夫将監(しやうげん)家氏・兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)将氏(まさうぢ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、いとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿(はたざを)取(とり)出し、馬の腹帯(はるび)を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参て七百(しちひやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。
今熊野には、始(はじめ)五百(ごひやく)余騎(よき)参して、「哀(あは)れ、我討手を承(うけたまはり)て向(むかは)ばや。」と義勢しける者共(ものども)、相摸守(さがみのかみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて控(ひか)へたりと聞へしかば、興醒顔(きようざめがほ)に成て、此(ここ)の坊中(ばうちゆう)彼(かしこ)の在家(ざいけ)に引(ひき)入り、荒(あら)く物をも不云、只(ただ)何方(いづかた)に落場(おちば)あると、山の方をぞ守りける。相摸守(さがみのかみ)は今や討手を給(たまは)ると、甲の緒(を)を縮(しめ)二日まで待(また)れけれども、向ふ敵無(なか)りければ、洛中(らくちゆう)にて兵を集め、戦を致さんと用意(ようい)したるも、且(かつう)は狼籍(らうぜき)也(なり)。
陣を去り都を落(おち)てこそ猶(なほ)陳じ申さめとて、二十三日(にじふさんにち)の早旦に、若狭を差(さ)して落(おち)て行(ゆく)。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)・細河大夫将監(しやうげん)二人(ににん)は、京に落(おち)留(とどま)りぬ。相順(あひしたが)ふ勢次第に減(げん)じぬと見へけるに、辺土(へんど)洛外の郎等共(らうどうども)、少々路に追付(おひつき)て、「将軍の御勢(おんせい)は、僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)に不足とこそ承(うけたまはり)候に、などや此(この)大勢にて都をば落(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と申せば、
相摸守(さがみのかみ)馬を引(ひか)へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一(だいいち)の取集勢(とりあつめぜい)四五百騎(しごひやくき)戦(わなな)き居たるを、清氏物(もの)の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆(さか)へざる義を思ふ故(ゆゑ)に、一(ひと)まども落(おち)てや陳じ申すと存(ぞんじ)て、無云甲斐体(てい)を人に見へつる悲(かなし)さよ。身不肖(ふせう)なれば、無罪討(うた)れ進(まゐ)らす共世の為に可惜命に非(あら)ず。只讒(ざん)人事を乱(みだつ)て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞(みきか)ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪(なみだ)を浮べ給へば、相順ふ兵共(つはものども)、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過(うちすぎ)て、長坂へ懸る処にて、舎弟(しやてい)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)といとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)二人(ににん)を近付(ちかづけ)て、「御辺達(ごへんたち)兄弟骨肉の義依不浅、我(わが)安否を見はてんと、是(これ)まで付(つき)纏(まと)ひ給ふ志、千顆(せんくわ)万顆(まんくわ)の玉よりも重く、一入再入(ひとしほふたしほ)の紅(くれなゐ)よりも猶(なほ)深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈(しづ)む上は力なし。
御辺達(ごへんたち)両人は讒(ざん)を負(おひ)たる身にも非(あら)ず、又将軍の御不審(ごふしん)を蒙(かうむつ)たる事もなき者が、何と云(いふ)沙汰もなく、我(われと)共(とも)に都を落(おち)て、路径(ろけい)に尸(かばね)を曝(さら)さん事後難なきに非(あら)ず。早く此(これ)より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計(はから)ひ給へ。是(これ)我を助(たすく)る謀(はかりこと)、又身を立(たつ)る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押(おさ)ふる泪に咽(むせん)で、暫(しば)しは返事にも不及。良(やや)暫(しばらく)有て、「心憂(こころうき)事をも承(うけたまはり)候者哉(かな)。縦(たとひ)是(これ)より罷(まかり)帰(かへり)て候(さうらふ)共(とも)、讒人君の傍(かたはら)に有て、憑(たのむ)影なき世に立(たち)紛(まぎ)れ候はゞ、何(い)つ迄(まで)身をか保(たもち)候べき。将軍には心を置進(おかしまゐら)せ、傍(かた)への人には指を差(ささ)れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何(いづ)くまでも伴(ともな)ひ奉て、安否を見はて進(まゐら)せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、
相摸守(さがみのかみ)、「さては弥(いよいよ)我に隠謀有(あり)けりと、世の人の思はんずる処が悲(かなし)く候へば、枉(まげ)て是(これ)より帰られ候(さふらひ)て、真実の志あらば、後日に又音信(おとづれ)も候へ。」と、強(しひ)て被申ければ、二人(ににん)の人々、「此(この)上の事は兔(と)も角(かく)も仰にこそ随(したが)ひ候はめ。」とて、泣々(なくなく)千本より打別れて、本の宿所へぞ帰(かへり)にける。京中(きやうぢゆう)には、合戦あらば在家は一宇(いちう)も不残と、上下万人劇騒(あわてさわ)ぎけるが、相摸守(さがみのかみ)無事故都を落(おち)にければ、二十四日、将軍軈(やがて)今熊野より本の館(たち)へ帰(かへり)給(たまふ)。何(いつ)しか相州(さうしう)被官(ひくわん)の者共(ものども)、宿所を替(かへ)身を隠(かくし)たる有様、昨日の楽(たのしみ)今日の夢と哀(あはれ)也(なり)。有為転変(うゐてんぺん)の世の習、今に始(はじめ)ぬ事なれ共(ども)、不思議(ふしぎ)なりし事ども也(なり)。  
頓宮(とんぐう)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)畠山道誓(だうせい/が)事(こと)
若狭(わかさの)国(くに)は、相摸守(さがみのかみ)近年管領(くわんりやう)の国にて、頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)兼(かね)て在国したりければ、小浜(をはま)に究竟(くつきやう)の城(じやう)を構(かまへ)て、兵粮数万石積(つみ)置(おき)たり。
相摸守此(ここ)に落付て、城の構へ勢の程を見(みる)に、懸合(かけあひ)の合戦をする共、又城に篭(こもつ)て戦(たたかふ)共(とも)、一年二年の内には輙(たやす)く落されじ物をとぞ思はれける。去(さる)程(ほど)に尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)氏頼、討手の大将を承(うけたまはり)て、北陸道(ほくろくだう)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、越前より椿峠(つばきたうげ)へ向ふ。仁木三郎搦手(からめて)の大将を承(うけたまはり)て、山陰道(せんおんだう)の勢二千(にせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、丹波より逆谷(さかさまたに)へ向(むかふ)と聞へければ、相摸守(さがみのかみ)大に笑(わらう)て、「穴(あな)哀の者共(ものども)や。此等(これら)を敵に受(うけ)ては、力者(りきしや)二三人(にさんにん)に杉材棒(すぎさいぼう)突(つか)せて差(さし)向(むけ)たらんに不足あるまじ。先(まづ)敦賀に朝倉(あさくら)某が先打(さきうち)にて陣を取たるを打散(うちちら)せ。」とて、中間を八人(はちにん)差遣(さしつかは)さる。
八人(はちにん)の中間共敦賀の津へ紛(まぎれ)入(いり)、浜面(はまおもて)の在家十(じふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。朝倉が兵三百(さんびやく)余騎(よき)時(とき)の声に驚(おどろき)て、「すはや相摸守(さがみのかみ)の寄(よせ)たるは。定(さだめ)て大勢にてぞ有(ある)らん。引て後陣(ごぢん)の勢に加(くは)れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引(ひき)ければ、相伴(あひともなふ)兵三百(さんびやく)余騎(よき)、馬物具を取捨(とりすて)て、越前の府へぞ逃(にげ)たりける。さればこそ思(おもひ)つる事よと、人毎(ひとごと)に云弄(いひもてあそ)ぶと沙汰せしかば、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)大に忿(いかつ)て、軈(やが)て大勢を卒(そつ)して十月二十九日椿峠へ打向ふ。
相摸守是(これ)を聞て、「今度は一人も敵と云(いふ)者を生(いけ)て遣(やる)まじければ、自身向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)を残し置(おき)、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)共(とも)に五百(ごひやく)余騎(よき)にて追手(おふて)の敵に馳(はせ)向ふ。敵陣難所なれば、待(まち)てや戦(たたかふ)、懸(かか)りやすると思安(しあん)して、未戦決(いまだたたかひけつせざる)処に、重恩他に異(こと)なれば、是(これ)ぞ弐(ふたごころ)有(ある)まじき者と憑(たのま)れける頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)俄(にはか)に心替(こころがはり)して、挙旗城戸(きど)を打て寄手(よせて)の勢を後(うしろ)より城へ引(ひき)入(いれ)ける間、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたがふ)兵共(つはものども)、可戦力尽(つき)はてゝ、右往左往に落(おち)て行(ゆく)。朽(くち)たる縄を以て、六馬をば紲(つなぎ)て留(とむ)るとも、只(ただ)難憑此比(このころ)の武士の心也(なり)。
清氏さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、角(かく)ては叶はじとや思(おもは)れけん、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)と只二騎打連(うちつれ)て篠峯(ささのみね)越に忍(しのん)で都へ紛(まぎれ)入(いる)。一夜(いちや)の程も洛中(らくちゆう)には難隠と思(おもは)れければ、兄弟別々に成て、相摸守(さがみのかみ)は東坂本(ひがしさかもと)へ打越(うちこ)へ、一日馬の足を休(やすめ)て天王寺(てんわうじ)へ落(おち)ければ、右馬(うまの)頭(かみ)は夜半に京中(きやうぢゆう)を打通(うちとほ)り、大渡(おほわたり)を経(へ)て、兼(かね)ての相図(あひづ)を不違天王寺(てんわうじ)へぞ落著(おちつき)ける。
相摸守(さがみのかみ)軈(やがて)石堂刑部卿の許(もと)へ使者を立(たて)、「清氏已(すで)に依讒者訴、無罪死罪を行(おこなは)れんと候(さうらひ)つる間、身の置所(おきどころ)なき余に、天恩を戴(いただい)て軍門に降参仕て候。旧好(きうかう)其(その)故も候へば、混(ひたす)ら貴方(きはう)を憑(たのみ)申(まうす)にて候。兔(と)も角(かく)も可然様に御計(おんはからひ)候へ。」とぞ言遣(いひつかは)されける。石堂刑部卿急(いそぎ)使者に対面して、先(まづ)兔角(とかく)の返事に不及、「こはそも夢か現(うつつ)か。」とて、良(やや)久(ひさし)く泪(なみだ)を袖に押(おさ)へらる。軈(やがて)参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議(あひぎ)して云(いはく)、「敵軍首(かうべ)を延(のべ)て帝徳に降(くだ)る。天恩何(なん)ぞ是(これ)を慧(めぐま)れざらん。早く軍門に慎仕(つつしみつか)へて、征伐の忠を専(もつぱら)にすべし。」と、恩免(おんめん)の綸旨(りんし)を下されしかば、石堂限なく悦(よろこび)て、則(すなはち)細河に対面し給ふ。
互(たがひ)に言(こと)ば無(なく)して泪に咽(むせ)び給ふ。暫(しばらく)有て、「世の転変今に始(はじめ)ぬ事にて候へ共、不慮(ふりよ)の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許(ばかり)、色代(しきだい)してぞ被帰ける。只秦の章邯(しやうかん)・趙高(てうかう)が讒(ざん)を恐れ、楚の項羽(かうう)に降(くだり)し時、面をたれ涙を流して言(こと)ばには不出ども、讒者の世を乱(みだ)る恨(うらみ)を含(ふくみ)し気色に不異。去(さる)程(ほど)に仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、京より伊勢へ落(おち)て、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたが)ふと聞へ、兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春は、京より淡路へ落(おち)て国中(こくぢゆう)の勢を相付(あひつけ)て、相摸守(さがみのかみ)に力を合(あは)せ、兵船を調(ととの)へて堺の浜へ著(つく)べしと披露あり。
摂津国(つのくにの)源氏松山は、香下(かしたの)城(じやう)を拵(こしらへ)て南方に牒(てふ)し合(あはせ)、播磨路(はりまぢ)を差塞(さしふさい)で、人を不通聞へければ、一方(ひとかた)ならぬ蜂起に、京都以外に周章(しうしやう)して、すはや世の乱出来ぬと危(あやぶま)ぬ人も無(なか)りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦(たとひ)起るとも、坂東(ばんどう)静(しづか)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢召上(めしのぼせ)て退治(たいぢ)せんに、何(なに)程の事か可有。」とて、強(あなが)ちに騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りける処に、康安元年十一月十三日(じふさんにち)、関東(くわんとう)より飛脚到来して、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)御敵(おんてき)に成て、伊豆(いづの)国(くに)に楯篭(たてこも)り候間、東国の路(みち)塞(ふさがつ)て、官軍(くわんぐん)催(もよほ)しに不応。」とぞ申ける。
其濫觴(そのらんしやう)何事ぞと尋(たづ)ぬれば、去々年の冬、畠山(はたけやま)入道(にふだう)南方退治(たいぢ)の大将として上洛(しやうらく)せし時、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・小名数を尽(つく)してぞ上りける。此(この)軍勢(ぐんぜい)長途(ちやうど)に疲れ数月(すげつ)の在陣にくたびれて、馬物具を売位(うるくらゐ)に成(なり)しかば、怺兼(こらへかね)て、畠山に暇(いとま)をも不乞抜々(ぬけぬけ)に大略本国へ下(くだり)ける。遥(はるか)に程経て、畠山関東(くわんとう)に下向して彼等(かれら)が一所懸命の所領どもを没収(もつしゆ)して、歎(なげ)け共耳にも不聞入、適(たまたま)披露する奉行あれば、大に鼻を突(つか)せ追(おひ)込(こみ)ける間、訴人(そにん)徒(いたづら)に群集(くんじゆ)して、愁(うれへ)を不懐云(いふ)者なし。暫(しばらく)は訴詔(そしよう)を経(へ)て廻(まは)りけるが、余に事興盛(こうせい)しければ、宗(むね)との者共(ものども)千(せん)余人(よにん)、神水(じんずゐ)を呑(のん)で、所詮(しよせん)畠山(はたけやま)入道(にふだう)を執権に被召(めされ)仕、毎事御成敗に随(したがふ)まじき由を左馬(さまの)頭(かみ)へぞ訴(うつたへ)申ける。
下(しも)として上(かみ)を退(しりぞく)る嗷訴(がうそ)、下刻上(げこくじやう)の至(いたり)哉(かな)と、心中には憤(いきどほり)思はれけれども、此(この)者どもに背(そむか)れなば、東国は一日も無為なるまじと覚(おぼ)して、軈(やが)て畠山が許(もと)へ使を立て、「去々年上洛(しやうらく)の時、南方退治(たいぢ)の事は次に成て、専(もつぱら)仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を討(うた)んと被謀候(さうらひ)し事、隠謀の其(その)一にて非(あらず)や。其(その)後関東(くわんとう)に下向して、差(さし)たる無罪科諸人の所帯(しよたい)を没収(もつしゆ)せられ候(さうらひ)ける事、只世を乱(みだ)して、基氏を天下の人に背(そむ)かせんとの企(くはたて)にてぞ候覧(らん)。叛逆(ほんぎやく)旁(かたがた)露顕(ろけん)の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速(すみやか)に討手をさし遣(つかは)すべし。」とぞ被云送ける 。
畠山は其比(そのころ)鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、此(この)上は陳じ申(まうす)とも叶(かなふ)まじとて、兄弟五人(ごにん)並(ならびに)郎従已下引具(ひきぐ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)伊豆(いづの)国(くに)を指(さ)して落(おち)て行(ゆく)。此(この)勢小田原の宿に著(つき)たりける夜、土肥掃部(とひのかもんの)助(すけ)、「御敵(おんてき)に成て落(おつ)る者に、矢一(ひとつ)射懸(いかけ)ずと云(いふ)事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押(おし)寄せ、風上(かざかみ)より火を懸(かけ)て、烟(けぶり)の下より切て入る。畠山が方に、遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)・斎藤・杉原、出向て散々(さんざん)に追払ふ。是(これ)程小勢なりける者をとて、時の興(きよう)にぞ笑(わらひ)合(あひ)ける。さて其(その)後は後陣(ごぢん)に防矢(ふせぎや)少々射させて、其(その)夜小田原の宿を落(おち)て、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこも)る。其(その)後畠山が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)、信濃へ越(こえ)て、諏防(すは)の祝部(はふり)と引(ひき)合て、敵に成(なる)と聞へしかば、東国・西国・東山道(とうせんだう)、一度(いちど)に何様(いかさま)起(おこ)り合(あひ)ぬと、洛中(らくちゆう)の貴賎騒(さわぎ)合(あへ)り。 
 
太平記 巻第三十七

 

清氏正儀(まさのり)寄京事(こと)
相摸守は、石堂刑部卿を奏者(そうしや)にて、「清氏不肖(ふせう)の身にて候へ共、御方に参ずる故(ゆゑ)に依て、四国(しこく)・東国・山陰・東山、太略義兵(ぎへい)を揚(あげ)候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、当時山名伊豆(いづの)守(かみ)と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我(わ)が国を立(たち)離れ候まじ。土岐・佐々木(ささき)等(ら)は、又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)と戦て、両陣相支(あひささへ)て上洛(しやうらく)仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有(ある)まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍(くわんぐん)に、合力を致(いたし)候へと仰(おほせ)下され候へ。清氏真前(まつさき)を仕て京都を一日が中に責(せめ)落(おと)して、臨幸を正月以前に成(なし)進(まゐら)せ候べし。」とぞ申ける。
主上(しゆしやう)げにもと思食(おぼしめし)ければ、軈(やが)て楠を召(めし)て、「清氏が申(まうす)所いかゞ有(ある)べき。」と仰(おほせ)らる。正儀暫(しばら)く思案して申けるは、「故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、正月十六日(じふろくにち)の合戦に打負(うちまけ)て、筑紫へ落(おち)て候(さふらひ)しより以来(このかた)、朝敵(てうてき)都を落(おつ)る事已(すで)に五箇度(ごかど)に及(および)候。然(しか)れども天下の士卒、猶(なほ)皇天(くわうてん)を戴(いただ)く者少く候間、官軍(くわんぐん)洛中(らくちゆう)に足を留(とどむ)る事を不得候。然も、一端(いつたん)京都を落さん事は、清氏が力を借(かる)までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責(せめ)られ候はん時、何(いづ)れの国か官軍(くわんぐん)の助と成(なり)候べき。若(もし)退(しりぞ)く事を恥(はぢ)て洛中(らくちゆう)にて戦(たたかひ)候はゞ、四国(しこく)・西国の御敵(おんてき)、兵船を浮べて跡を襲(おそ)い、美濃・尾張(をはり)・越前・加賀の朝敵共(てうてきども)、宇治・勢多より押寄(おしよせ)て戦を決せば、又天下を朝敵(てうてき)に奪(うばは)れん事、掌(たなごころ)の内に有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。但(ただ)し愚案短才(ぐあんたんさい)の身、公儀を褊(さみ)し申(まうす)べきにて候はねば、兔(と)も角(かく)も綸言(りんげん)に順(したが)ひ候べし。」とぞ申ける。
主上(しゆしやう)を始め進(まゐら)せて、竹園・椒房(せうばう)・諸司(しよし)・諸衛(しよゑ)に至るまで、住(すみ)馴(なれ)し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜(いちや)の程なり共、雲居(くもゐ)の花に旅ねしてこそ、後は其(その)夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義(せんぎ)一同して、明年よりは三年北塞(きたふさが)りなり、節分以前に洛中(らくちゆう)の朝敵(てうてき)を責(せめ)落(おと)して、臨幸を成(なし)奉るべき由儀定(ぎぢやう)あ(ッ)て、兵共(つはものども)をぞ被召(めされ)ける。  
新将軍京落(きやうおちの)事(こと)
公家(くげの)大将には、二条(にでう)殿(どの)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)卿(きやう)、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)・和田・楠・湯浅・山本・恩地(おんぢ)・牲川(にへかは)、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)にて、十二月三日住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に勢調(せいぞろ)へをすれば、細川兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春淡路の勢を卒して、兵船八十(はちじふ)余艘(よさう)にて堺(さかひ)の浜へつく。赤松彦五郎範実(のりざね)、「摂津国(つのくに)兵庫より打立てすぐに山崎へ攻(せむ)べし。」と相図を差(さ)す。
是(これ)を聞て京中(きやうぢゆう)の貴賎、財宝を鞍馬(くらま)・高雄へ持運び、蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を放取(はなしと)る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は二日より東寺に陣取(ぢんどり)て、著到を付(つけ)られけるに、御内(みうち)・外様(とざま)の勢四千(しせん)余騎(よき)と注せり。「さては敵の勢よりも、御方(みかた)は猶(なほ)多かりけり。外都(ぐわいと)に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)を、摂津国(つのくに)へ差(さし)下さる。当国は親父道誉(だうよ)が管領(くわんれい)の国なれば、国中(こくぢゆう)の勢を相催(あひもよほ)して、五百(ごひやく)余騎(よき)忍常寺(にんじやうじ)を陣に取て、敵を目の下に待(まち)懸(かけ)たり。今河伊予(いよの)守(かみ)に三河・遠江の勢を付(つけ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)山崎へ差(さし)向(むけ)らる。
吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・宇都宮(うつのみや)三河三郎・黒田判官を大渡(おほわたり)へ向(むけ)らる。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引(ひか)へさせ、羽林(うりん)の兵千(せん)余騎(よき)をば、東寺の内にぞ篭(こめ)られける。
同七日南方の大将河を越て、軍評定の有(あり)けるに、細川相摸守(さがみのかみ)進(すすみ)出て申されける様は、「京都の勢の分際(ぶんせい)をも、兵の気色をも皆見透(みすか)したる事にて候へば、此(この)合戦に於(おい)ては、枉(まげ)て清氏が申(まうす)旨に任(まかせ)られ候へ。先(まづ)清氏後陣(ごぢん)に引(ひか)へて、山崎へ打通(うちとほ)り候はんに、忍常寺に候なる佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)、何千騎候と云(いふ)共(とも)、よも一矢も射懸(いかけ)候はじ。山崎を今河伊予(いよの)守(かみ)が堅(かため)て候なる。是(これ)又一軍(ひといくさ)までも有(ある)まじき者にて候。
洛中(らくちゆう)の合戦に成(なり)候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍(くわんぐん)は、皆跣立(かちだち)に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰(かげ)に鑓(やり)長刀の打物(うちもの)の衆を五六百人(ごろつぴやくにん)づゝ調(そろ)えて、敵かゝらば馬の草脇(くさわき)・太腹(ふとばら)ついては跳(はね)落させ/\、一足(ひとあし)も前へは進(すすむ)とも一歩(いつほ)も後(うしろ)へ引く気色なくは、敵重(かさね)て懸(かけ)入る者候べからず。其(その)時(とき)石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手(ひとて)に成て敵の中を懸(かけ)破り、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を目に懸(かけ)候程ならば、何(いづ)くまでか落(おと)し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。」と申されければ、「此(この)儀誠(まこと)に可然。」とて、官軍(くわんぐん)中島(なかじま)を打越て、都を差(さし)て責(せめ)上る。げにも相摸守(さがみのかみ)の云つるに少(すこし)も不違、忍常寺(にんじやうじ)の麓を打通るに、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)は時の侍所也(なり)。
甥二人(ににん)まで当国にて楠に打(うた)れぬ。爰(ここ)にて先日の恥をも洗(すすが)んとて、手痛き軍をせんずらんと、思(おもひ)儲(まう)けて通(とほり)けるに、高秀、相摸守(さがみのかみ)に機(き)を呑(のま)れて臆(おく)してや有(あり)けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍(ひといくさ)あらんずらんと思ふ処に、今河伊予(いよの)守(かみ)も叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)も戦はで、鳥羽(とば)の秋山(あきやま)へ引退く。此(これ)を見て此彼(ここかしこ)に陣を取たる勢共(せいども)、未(いまだ)敵も近付(ちかづか)ざるに、落支度(おちじたく)をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先(まづ)京を落(おち)てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上(しゆしやう)をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)、苦集滅道(くづめぢ)を経て勢多を通(とほ)り、近江の武佐寺(むさでら)へ落(おち)給ふ。
君は舟臣は水、水能(よく)浮船、水又覆船也(なり)。臣能(よく)保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持(ふち)し奉り、今年の冬は清氏忽(たちまち)に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴(ぎちよう)が太宗を諌(いさめ)ける貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の文、げにもと思ひ知(しら)れたり。同日の晩景(ばんげい)に南方の官軍(くわんぐん)都に打入て、将軍の御屋形を焼(やき)払ふ。思(おもひ)の外に洛中(らくちゆう)にて合戦なかりければ、落(おつ)る勢も入(いる)勢も共に狼籍(らうぜき)をせず、京白川は中々に此(この)間よりも閑(しづか)なり。
爰(ここ)に佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)都を落(おち)ける時、「我(わが)宿所へは定(さだめ)てさもとある大将を入替(いれかはら)んずらん。」とて、尋常(じんじやう)に取(とり)したゝめて、六間(むま)の会所(くわいしよ)には大文(だいもん)の畳を敷双(しきなら)べ、本尊・脇絵(わきゑ)・花瓶(くわびん)・香炉・鑵子(くわんす)・盆(ぼん)に至(いたる)まで、一様(いちやう)に皆置(おき)調へて、書院には義之(ぎし)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしふ)、眠蔵(めんざう)には、沈(ぢん)の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取(とり)副(そへ)て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿(みさを)に懸(かけ)双(なら)べ、三石入許(ばかり)なる大筒に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)留(とどめ)置(おき)て、「誰にても此(この)宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細(こさい)を申置(おき)にけり 。
楠一番に打入(うちいり)たりけるに、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)出向て、「定(さだめ)て此弊屋(このへいをく)へ御入(おんいり)ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉(だうよ)禅門申置(おか)れて候。」と、色代(しきたい)してぞ出迎(いでむかひ)ける。道誉(だうよ)は相摸守(さがみのかみ)の当敵なれば、此(この)宿所をば定(さだめ)て毀焼(こぼちやく)べしと憤(いきどほ)られけれ共(ども)、楠此情(このなさけ)を感じて、其(その)儀を止(とめ)しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖(いちでふ)をも不失。剰(あまつさへ)遠侍の酒肴(さかな)以前のよりも結構(けつかう)し、眠蔵(めんざう)には、秘蔵(ひさう)の鎧に白太刀一振(ひとふり)置(おい)て、郎等(らうどう)二人(ににん)止(とめ)置(おき)て、道誉(だうよ)に替(けうたい)して、又都をぞ落(おち)たりける。道誉(だうよ)が今度の振舞(ふるまひ)、なさけ深く風情(ふぜい)有(あり)と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。例の古博奕(ふるばくち)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりけり。  
南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)落都(みやこをおつる)事(こと)
宮方(みやがた)には、今度京(みやこ)の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付(つき)順(したが)ひ進(まゐら)せんずらんと被思けるに、案に相違して、始(はじめ)て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池(きくち)・伊予(いよの)土居(どゐ)・得能(とくのう)、周防の大内介(おほちのすけ)、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、其(その)外の一族共(いちぞくども)、国々に多しといへども、或(あるひ)は道を塞(ふさ)がれ、或(あるひ)は勢(いきほ)ひ未(いま)だ叶(かなは)ざれば、一人も不上洛(しやうらく)。
結句伊勢の仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)は、土岐が向(むかひ)城(じやう)へよせて、打負(うちまけ)て城へ引篭る。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、丹波にて仁木三郎に打負(うちまけ)て都へ引返し、山名伊豆(いづの)守(かみ)は暫(しばらく)兵の疲(つかれ)を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実(のりざね)は、養父則祐(そくいう)様々に誘(こしら)へ宥(なだ)めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方(しやうぐんがた)機(き)を得ずと云(いふ)者なし。さらば軈(やが)て京へ責(せめ)上れとて越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)以下、三千(さんぜん)余騎(よき)にて近江(あふみの)武佐寺(むさでら)へ馳(はせ)参る。佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀・小原備中(びつちゆうの)守(かみ)は白昼に京を打通て、道誉(だうよ)に馳(はせ)加(くはは)る。
道誉(だうよ)其(その)勢を合(あはせ)て七百(しちひやく)余騎(よき)、野路(のぢ)・篠原(しのはら)にて奉待。土岐桔梗(ききやう)一揆(いつき)は、伊勢の仁木が向城(むかひじやう)より引(ひき)分(わけ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、鈴鹿山(すずかやま)を打越(うちこえ)て篠原の宿にて追付(おひつき)奉る。此(この)外佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永・今川伊予(いよの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)入道(にふだう)が勢、都合一万(いちまん)余騎(よき)、十二月二十四日に武佐寺(むさでら)を立て、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)先陣勢多に付(つき)にけり。丹波路(たんばぢ)より仁木三郎、山陰道(せんおんだう)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して責(せめ)上る。
播磨路(はりまぢ)よりは、赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)一千(いつせん)余騎(よき)にて兵庫に著く。残五百(ごひやく)余騎(よき)をば、弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)に付(つけ)て船に乗(の)せ、堺・天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよせ)て、南方の主上(しゆしやう)を取(とり)奉り、楠が跡を遮(さへぎら)んと二手(ふたて)に成てぞ上りける。宮方(みやがた)の官軍(くわんぐん)、始(はじめ)は京都にてこそ兔(と)も角(かく)もならめと申けるが、四方(しはう)の敵雲霞(うんか)の如く也(なり)と告(つげ)たりければ、是(これ)程(ほど)に能(よく)しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先(まづ)南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣(わけつかは)し、越前・信濃・山名・仁木に牒合(てふしあはせ)て、又こそ都を落さめとて、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)の晩景(ばんげい)程(ほど)に、南方の宮方(みやがた)宇治を経て、天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)へ落(おち)ければ、同(おなじき)二十九日将軍京へ入(いり)給ひけり。  
持明院新帝(しんてい)自江州(がうしう)還幸(くわんかうの)事(こと)付(つけたり)相州(さうしう)渡四国事(こと)
帝都の主上(しゆしやう)は、未(いまだ)近江へ武佐寺(むさでら)に御坐(ござ)有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心(おんこころ)苦敷(こころぐるし)く思食(おぼしめし)ける処に、康安元年十二月二十七日(にじふしちにち)に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)早馬を立(たて)て、洛中(らくちゆう)の凶徒等(きようとら)事故なく追(おひ)落(おと)し候(さうらひ)ぬ。急ぎ還幸(くわんかう)なるべき由を申されたりければ、君を始め進(まゐらせ)て、供奉(ぐぶ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)、奴婢僕従(ぬひぼくじゆう)に至るまで、悦(よろこび)あへる事尋常(よのつね)ならず。其翌(そのあけ)の朝軈(やが)て竜駕(りようが)を促(うなが)されて、先(まづ)比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸成て、此(ここ)にて御越年(ごをつねん)あり。佐々波(さざなみ)よする志賀の浦、荒(あれ)て久しき跡なれど、昔ながらの花園(はなぞの)は、今年を春と待顔(まちがほ)なり。
是(これ)も都とは思(おもひ)ながら馴(なれ)ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸(くわんかう)を勧(すす)め申されけれ共(ども)、「去年十二月八日都を落(おち)させ給ひし刻(きざみ)に、さらでだに諸寮司(つか)さ闕(かけ)たりし里内裏(さとだいり)、垣も格子も破(やぶれ)失(うせ)、御簾(みす)畳も無(なか)りければ、暫(しばら)く御修理(みしゆり)を加(くはへ)てこそ還幸(くわんかう)ならめ。」とて、翌年(よくねん)の春(はる)の暮月(ぼげつ)に至(いたる)まで、猶(なほ)坂本にぞ御坐(ござ)ありける。近日は聊(いささか)の事も、公家の御計(おんはからひ)としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰(おほせ)られたりけれ共(ども)、領掌(りやうじやう)は申されながら、いつ道行(ゆく)べしとも見へざりければ、いつまでか外都(ぐわいと)の御住居(おんすまゐ)も有(ある)べきとて、三月十三日(じふさんにち)に西園寺(さいをんじ)の旧宅(きうたく)へ還幸(くわんかう)なる、是(これ)は后妃(こうひ)遊宴の砌(みぎり)、先皇(せんくわう)臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤(ちりば)めて、客殿雲に聳(そびえ)たり。
丹青(たんぜい)を尽(つく)せる妙音堂、瑠璃(るり)を展(のべ)たる法水(ほつすゐ)院(ゐん)、年々に皆荒(あれ)はてゝ、見しにもあらず成(なり)ぬれば、雨を疑ふ岩下(がんか)の松風、糸を乱(みだ)せる門前の柳、五柳先生(ごりうせんじやう)が旧跡(きうせき)、七松居士(しちしようこじ)が幽棲(いうせい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て物さびたり。爰(ここ)にて今年の春を送らせ給(たまふ)に、兔角(とかく)して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本(もと)の里内裏へ還幸(くわんかう)なる。供奉(ぐぶの)月卿(げつけい)雲客(うんかく)は指(さし)たる行粧(かうさう)なかりしか共、辻(つじ)々の警固随兵(ずゐひやう)の武士共(ぶしども)皆傍(あたり)を耀(かかやか)してぞ見へたりける。「細川相摸守(さがみのかみ)清氏は、近年武家の執事として、兵の随付(したがひつき)たる事幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。
其(その)身又弓箭(ゆみや)を取て、無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)なりと聞へしかば、是(これ)が宮方(みやがた)へ降参しぬる事、偏(ひとへ)に帝徳の天に叶へる瑞相(ずゐさう)、天下の草創は必(かならず)此(この)人の武徳より事定(さだま)るべし。」と、吉野の主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐらせ)て、諸卿皆悦び思食(おぼしめし)ければ、則(すなはち)大将の任(にん)をぞ授(さづけ)られける。其(その)任案(あん)に相違して、去年の冬南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)相共に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を追(おひ)落(おと)して、暫(しばら)く洛中(らくちゆう)に勢を振(ふる)ひし時も、此(この)人に馳(はせ)付(つく)勢もなし。幾程なくて官軍(くわんぐん)又都を落されて、清氏河内(かはちの)国(くに)に居たれ共(ども)、其旧好(そのきうかう)を慕(したひ)て尋(たづね)来る人も稀(まれ)なり。只禿筆(とくひつ)に譬(たと)へられし覇陵(はりよう)の旧将軍(きうしやうぐん)に不異。清氏は為(せ)ん方なさに、「若(もし)四国へ渡りたらば、日来(ひごろ)相順(あひしたが)ひし兵共(つはものども)の馳(はせ)付(つく)事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波(あはの)国(くに)へぞ渡られける。  
可立大将(だいしやう/に\たつ/べき)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)立義帝(ぎてい/を\たつる)事(こと)
夫(それ)大将を立(たつ)るに道あり。大将其(その)人に非(あら)ざれば、戦に勝(かつ)事を得がたし。天下已(すで)に定て後、文を以て世を治(をさむ)る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故(ゆゑ)に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行(おこな)はせ大官を授(さづく)る事あり。所謂(いはゆる)魏徴(ぎちよう)は楚の君の旧臣なりしか共、唐(たうの)太宗是(これ)を用(もちゐ)給ふ。管仲は子糾(しきう)が寵人(ちようじん)たりしか共、斉(せい)の桓(くわん)公(こう)是(これ)を賞(しやう)せられき。天下未(いまだ)定(さだまらざる)時(とき)、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎(とが)ある人を罰する間、縦(たとひ)威勢ある者なれども、降人(かうにん)を以て大将とはせず。伝(つたへ)聞(きく)秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)は、四十万騎(しじふまんぎ)の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽(かうう)是(これ)を以て大将の印(いん)を不与。
項伯は、鴻門(こうもん)の会(くわい)に心を入(いれ)て高祖(かうそ)を助(たすけ)たりしか共、漢に下て後是(これ)に諸侯の国を不授。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)を、南方祗候(しこう)の諸卿誰(たれ)か存知し給はざるに、先(まづ)高倉左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)に、大将の号を授(さづけ)て、兄の尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を打(うた)せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討(うた)せんとし給ひしも不叶。又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)に大将を授(さづけ)て、世を覆(くつがへ)さんとせられしも不叶。今又細川相摸守(さがみのかみ)清氏を大将として、代々(だいだい)の主君宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を亡(ほろぼ)さんとし給ふ不叶。是(これ)只其(その)理に不当大将を立て、或(あるひ)は父兄(ふけい)の道を違(たが)へ、或(あるひ)は主従の義を背(そむ)く故(ゆゑ)に、天の譴(せめ)あるに非(あら)ずや。されば古も世を取(とら)んとする人は、専(もつぱ)ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪(うばは)んとて陣渉(ちんせふ)と云(いひ)ける者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て大沢(たいたく)より出たりしが、無程秦の右将軍白起(はくき)が為に被討ぬ。其(その)後又項梁(こうりやう)と云(いふ)者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て、楚国より出たりけるも、秦(しんの)左将軍(さしやうぐん)章邯に被打にけり。
爰(ここ)に項羽(かうう)・高祖(かうそ)等(ら)色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増(はんぞう)とて年七十三(しちじふさん)に成(なり)ける老臣、座中に進(すすみ)出て申けるは、「天地の間に興(おこる)も亡(ほろぶる)も、其(その)理に不依と云(いふ)事なし。されば楚は三戸(さんこ)の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必(かならず)楚王の子孫にあるべし。其(その)故は秦の始皇六国を亡(ほろぼ)して天下を並呑(へいどん)せし時、楚の懐王遂(つひ)に秦を背(そむく)事なし。始皇帝(しくわうてい)故(ゆゑ)なく是(これ)を殺して其(その)地を奪(うば)へり。是(これ)罪は秦に有て善(ぜん)は楚に残るべし。故(ゆゑ)に秦を打たんとならば、如何(いか)にもして、楚の懐王の子孫を一人取立(とりたて)て、諸卒皆命に随(したがふ)べし。」とぞ計(はからひ)申ける。
項羽(かうう)・高祖(かうそ)諸共(もろとも)に、此(この)義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋(たづね)求(もとめ)けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久(ひさし)く民間に降(くだつ)て、羊(ひつじ)を養(やしなひ)けるを尋(たづね)出て、義帝(ぎてい)と号(がう)し奉(たてまつり)て、項羽(かうう)も高祖(かうそ)も均(ひとし)く命を慎(つつし)み随(したが)ひける。其(その)後より漢楚(かんそ)の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負(うちまけ)しかば、秦の世終(つひ)に亡(ほろび)にけり。是(これ)を以て思(おもふ)に、故新田(につた)義貞(よしさだ)・義助兄弟は、先帝の股肱(ここう)の臣として、武功天下無双。其(その)子息二人(ににん)義宗・義治(よしはる)とて越前国(ゑちぜんのくに)にあり。共に武勇(ぶよう)の道父に不劣、才智又世に不恥。此(この)人々を召て竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)せしめ、武将に委任せられば、誰か其(その)家を軽(かろん)じ、誰か旧功を続(つが)ざらん。此等(これら)を閣(さしおい)て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上(しゆしやう)天下を被召事、千に一(ひとつ)も不可有。縦(たとひ)一旦(いつたん)軍に打勝(うちかた)せ給(たまふ)事有(ある)とも、世は又人の物とぞ覚(おぼ)へたる。  
尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)遁世(とんせいの)事(こと)
都には細川相摸守(さがみのかみ)敵になりし後は、執事と云(いふ)者なくして、毎事(まいじ)叶はざりける間、誰をか其(その)職に可置と評定ありけるが、此比(このころ)時(とき)を得たる佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が聟たるに依て、傍(かた)への人々皆追従(つゐしよう)にや申けん、「尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)殿(どの)に、増(まし)たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も心中に異儀無(なく)して、執事職を内々此(この)人に定め給ひにけり。父の大夫入道(たいふにふだう)は、元来(ぐわんらい)当腹(たうふく)の三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさを)寵愛(ちようあい)して、先腹の兄二人(ににん)を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)執事職に可居由を聞て、様々の非を挙(あげ)て、種々の咎(とが)を立て、此(この)者曾(かつ)て其(その)器用に非(あら)ざる由をぞ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ申されける。
中将殿(ちゆうじやうどの)も人の申(まうす)に付(つき)安き人にて御座(おはし)ければ、「げにも見子不如父。さらば当腹の三男(さんなん)を面(おもて)に立(たて)て、幼稚の程は、父の大夫入道(たいふにふだう)に、世務を執行(とりおこなは)さすべし。」と宣ひける。左衛門(さゑもんの)佐(すけ)是(これ)を聞て、父をや恨(うらみ)にけん、世をうしとや思ひけん、潜(ひそか)に出家して、いづちともなく迷(まよひ)出にけり。付(つき)随(したが)ふ郎従共二百七十人(にひやくしちじふにん)、同時に皆髻(もとどり)を切て、思々(おもひおもひ)にぞ失(うせ)にける。此(この)人誠(まこと)に父の所存をも不破、我(わが)身の得道をも願(ねがう)て、出家遁世(しゆつけとんせい)しぬる事類(たぐひ)少き発心なり。但(ただし)此比(このころ)の人の有様は、昨日は髻(もとどり)切て実(まこと)に貴(たつと)げに見ゆるも、今日は頭を裹(つつみ)て、無慚無愧(むざんむぎ)に振舞(ふるまふ)事のみ多ければ、此(この)遁世(とんせい)も又行末通(とほ)らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂(つひ)に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。  
身子声聞(しんししやうもん)、一角仙人、志賀寺上人(しやうにんの)事(こと)
凡(およそ)煩悩(ぼんなう)の根元を切り、迷者の絆(きづな)を離るゝ事は、上古にも末代にも、能(よく)難有事にて侍るにや。昔天竺に身子(しんし)と申ける声聞(しやうもん)、仏果を証(しよう)ぜん為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ひけるに、已(すで)に五波羅蜜を成就(じやうじゆ)しぬ。檀波羅蜜(だんばらみつ)を修するに至て、隣国(りんごく)より一人の婆羅門来て、財宝を乞(こふ)に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是(これ)を与ふ。次に眷属(けんぞく)及(および)居室を乞(こふ)に皆与へつ。次に身の毛を乞(こふ)に、一筋(ひとすぢ)も不残抜(ぬい)て施(ほどこし)けり。
波羅門猶(なほ)是(これ)に不飽足、「同(おなじく)は汝が眼を穿(くじつ)て、我に与へよ。」とぞ乞(こひ)ける。身子両眼を穿(くじつ)て、盲目の身と成て、暗夜(あんや)に迷(まよふ)が如(ごとく)ならん事、いかゞ在(ある)べきと悲(かなしみ)ながら無力、此(この)行の空(むなし)くならん事を痛(いたみ)て、自(みづか)ら二(にの)眼を抜(ぬい)て、婆羅門にぞ与へける。婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜(きたな)き物成(なり)けり。我何の用にか可立。」とて、則(すなはち)地に抛(なげ)て、蹂躙(じうりん)してぞ捨(すて)たりける。此(この)時(とき)に身子、「人の五体(ごたい)の内には、眼にすぎたる物なし。是(これ)程用にもなき眼を乞(こひ)取(とり)て、結句(けつく)地に抛(なげ)つる事の無念さよ。」と一念瞋恚(しんい)の心を発(おこ)しゝより、菩提の行(ぎやう)を退(しりぞけ)しかば、さしも功を積(つみ)たりし六波羅蜜(ろくはらみつ)の行(ぎやう)一時に破れて、破戒の声聞(しやうもん)とぞ成(なり)にける。
又昔天竺の波羅奈国(はらないこく)に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲(いんよく)の心ありければ、不覚して漏精(ろせい)したりける。其(その)かゝれる草の葉を妻鹿(めしか)食て子を生す。形は人にして額(ひたひ)に一の角(つの)ありければ、見る人是(これ)を一角仙人とぞ申ける。修行功積(つもつ)て、神通殊(こと)にあらたなり。或(ある)時(とき)山路に降(くだつ)て、松のしづく苔(こけ)の露、石岩(せきがん)滑(なめらか)なりけるに、此(この)仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降(ふ)らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。
不如此(この)竜王共を捕(とら)へて禁楼(きんろう)せんにはと思(おもひ)て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕(とら)へて、岩の中にぞ押篭(おしこめ)ける。是(これ)より国土に雨を降(ふら)すべき竜神(りゆうじん)なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃(かんばつ)して、山田のさなへさながらに、取らで其侭(そのまま)枯(かれ)にけり。君遥(はるか)に民の愁(うれへ)を聞召(きこしめ)して、「いかにしてか此(この)一角仙人の通力を失(うしなう)て、竜神(りゆうじん)を岩の中より可出す。」と問(とひ)給ふに、或智臣(ちしん)申けるは、「彼(かの)仙人縦(たと)ひ霞を喰(くら)ひ気を飲(のみ)て、長生不老の道を得たり共、十二の観(くわん)に於て未足(いまだたらざる)所あればこそ、道にすべりて瞋(いか)る心は有(あり)つらめ。心未(いまだ)枯木死灰(こぼくしくわい)の如(ごとく)ならずは、色に耽(ふけ)り香(か)に染(そ)む愛念などか無(なか)らんや。然(しか)らば三千(さんぜん)の宮女の中に、容色(ようしよく)殊(こと)に勝(すぐ)れたらんを、一人彼(かの)草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵(むしろ)を共にして、夜もすがら蘿洞(らとう)の夢に契(ちぎり)を結ばれば、などか彼(かの)通力を失はで候べき。」とぞ申ける。
諸臣皆此(この)儀に同じければ、則(すなはち)三千(さんぜん)第一(だいいち)の后、扇陀女(せんだによ)と申けるに、五百人(ごひやくにん)の美人を副(そへ)て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉(たま)の台(うてな)を出て、見るに悲(かなし)げなる草庵に立入(たちいり)給へば、苔(こけ)もるしづく、袖の露、かはく間(ま)もなき御涙(おんなみだ)なれ共(ども)、勅(ちよく)なれば辞(じ)するに言(こと)ばなくして、十符(とふ)のすがごもしき忍(しの)び、小鹿(をしか)の角(つの)のつかの間に、千年(ちとせ)を兼(かね)て契(ちぎり)給ふ。仙人も岩木(いはき)にあらざれば、あやなく后に思(おもひ)しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫(それ)仙道は露盤(ろはん)の気を嘗(なめ)ても、婬欲(いんよく)に染(そみ)ぬれば、仙の法皆尽(つき)て其験(そのしるし)なし。
されば此(この)仙人も一度(いちど)后に落されけるより、鯢桓(げいくわん)の審(しん)も破(やぶ)れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成(なり)しかば、仙人忽(たちまち)に病衰(びやうすゐ)して、軈(やが)て空(むなし)く成(なり)にけり。其(その)後后は宮中へ立帰り、竜神(りゆうじん)は天に飛(とび)去て、風雨時に随(したがひ)しかば、農民東作(とうさく)を事とせり。其(その)一角仙人は仏の因位(いんゐ)なり。其婬女(そのいんぢよ)は耶輙陀羅女(やしゆだらによ)これなり。又我朝(わがてう)には志賀寺の上人とて、行学勲修(ぎやうがくくんしゆ)の聖才をはしけり。速(すみやか)に彼(かの)三界の火宅(くわたく)を出て、永(なが)く九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)に生(うまれ)んと願(ねがひ)しかば、富貴(ふつき)の人を見ても、夢中の快楽(けらく)と笑ひ、容色の妙(たへ)なるに合ても、迷(まよひ)の前の著相(ちやくさう)を哀(あはれ)む。
雲を隣(となり)の柴(しば)の庵(いほ)、旦(しば)しばかりと住(すむ)程(ほど)に、手づから栽(うゑ)し庭の松も、秋風高く成(なり)にけり。或(ある)時(とき)上人草庵の中を立出て、手に一尋(いちじん)の杖を支(ささ)へ、眉に八字の霜を垂(た)れつゝ、湖水波閑(しづか)なるに向て、水想観(すゐさうくわん)を成(なし)て、心を澄(すま)して只一人立(たち)給(たまひ)たる処に、京極(きやうごく)の御息所(みやすどころ)、志賀の花園の春(はる)の気色を御覧じて、御帰(おんかへり)ありけるが、御車(おんくるま)の物見をあけられたるに、此(この)上人御目を見合(みあは)せ進(まゐら)せて、不覚心迷(こころまよう)て魂(たましひ)うかれにけり。遥(はるか)に御車(おんくるま)の跡を見送(みおくり)て立(た)たれ共(ども)、我思(わがおも)ひはや遣(やる)方(かた)も無(なか)りければ、柴(しば)の庵(いほり)に立帰て、本尊に向(むかひ)奉りたれ共(ども)、観念の床(ゆか)の上には、妄想(まうさう)の化(け)のみ立(たち)副(そひ)て、称名(しやうみやう)の声の中には、たへかねたる大息(おほいき)のみぞつかれける。
さても若(もし)慰(なぐさ)むやと暮山(ぼさん)の雲を詠(ながむ)ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓(かんさう)の月に嘯(うそぶ)けば、忘(わすれ)ぬ思(おもひ)猶(なほ)深し。今生の妄念(まうねん)遂(つひ)に不離は、後生の障(さはり)と成(なり)ぬべければ、我(わが)思(おもひ)の深き色を御息所に一端(いつたん)申(まうし)て、心安(こころやす)く臨終(りんじゆう)をもせばやと思(おもひ)て、上人狐裘(こきう)に鳩(はと)の杖をつき、泣々(なくなく)京極の御息所の御所へ参て、鞠(まり)のつぼの懸(かかり)の本に、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞ立たりける。余(よ)の人は皆いかなる修行者乞食(こつじき)人やらんと、怪(あやし)む事もなかりけるに、御息所御簾(みす)の内より遥(はるか)に御覧ぜられて、是(これ)は如何様(いかさま)志賀の花見の帰るさに、目を見合(みあは)せたりし聖(ひじり)にてやをはすらん。我故(われゆゑ)に迷はゞ、後世の罪誰(た)が身の上にか可留。よそながら露許(ばかり)の言(こと)の葉(は)に情をかけば、慰む心もこそあれと思召(おぼしめし)て、「上人是(これ)へ。」と被召(めされ)ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪(ひざまつき)て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣(なき)給ひける。
御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食(おぼしめされ)ければ、雪の如くなる御手(おんて)を、御簾の内より少し指(さし)出させ給ひたるに、上人御手(おんて)に取付(とりつき)て、初春の初(はつ)ねの今日の玉箒(たまははき)手に取(とる)からにゆらぐ玉の緒(を)と読(よま)れければ、軈(やが)て御息所取(とり)あへず、極楽の玉の台(うてな)の蓮葉(はちすば)に我をいざなへゆらぐ玉の緒(を)とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固(だうしんけんご)の聖人、久修練業(くしゆれんぎやう)の尊宿(そんしゆく)だにも、遂(とげ)がたき発心修行の道なるに、家富(とみ)若き人の浮世の紲(きづな)を離れて、永く隠遁の身と成(なり)にける、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道(にふだう)の心の程こそ難有けれ。  
畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)楊国忠(やうこくちゆうが)事(こと)
畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・同式部大輔(しきぶのたいふ)兄弟三人(さんにん)は、其(その)勢五百(ごひやく)余騎(よき)にて伊豆(いづの)国(くに)に逃下(にげくだ)り、三津(みつ)・金山・修禅寺(しゆぜんじ)の三(みつ)の城(じやう)を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりと聞へければ、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)先(ま)づ平一揆(たひらいつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を被差向。其(その)勢已(すで)に伊豆(いづの)府(こふ)に付(つき)て、近辺の庄園に兵粮(ひやうらう)を懸(かけ)、人夫(にんぶ)を駈(かり)立(たて)ける程に、葛山(かつらやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)と、平一揆(たひらいつき)と所領の事に就(つい)て闘諍(とうじやう)を引(ひき)出し、忽(たちまち)に軍をせんとぞひしめきける。
畠山が手(て)の者に、遊佐(ゆさ)・神保(じんほ)・杉原此(これ)を聞て、あはれ弊(つひえ)に乗る処やと思ひければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を三手(みて)に分(わけ)て、三月二十七日(にじふしちにち)の夜半に、伊豆(いづの)府(こふ)へ逆寄(さかよせ)にぞ寄せたりける。葛山(かつらやま)は、平一揆(たひらいつき)の者共(ものども)畠山と成(なり)合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆(たひらいつき)は、葛山(かつらやま)と引(ひき)合て、畠山御方(みかた)を打(うた)んとする物なりと心得(こころえ)て、共に心を置(おき)合(あひ)ければ、矢の一(ひとつ)をもはか/゛\しく不射出、寄手(よせて)三万騎(さんまんぎ)徒(いたづ)らに鎌倉(かまくら)を指(さし)て引退く。児女(じぢよ)の嘲(あざけ)り理(ことわり)なり。左馬(さまの)頭(かみ)不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈(やがて)武蔵・相摸・伊豆・駿河(するが)・上野・下野・上総(かづさ)・下総(しもふさ)八箇国(はちかこく)の勢、二十万(にじふまん)余騎(よき)をぞ被向ける。
畠山は此(この)十(じふ)余年(よねん)左馬(さまの)頭(かみ)を妹聟(いもとむこ)に取て、栄耀(えいえう)門戸に余るのみならず、執事の職に居(こ)して天下を掌(たなごころ)に握(にぎり)しかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の者共(ものども)の、命に替(かは)らんと昵(むつ)び近付(ちかづき)けるを、我身(わがみ)の仁徳(じんとく)と心得(こころえ)て、何(なに)となく共我(われ)旗を挙(あげ)たらんに、四五千騎も馳(はせ)加(くは)らぬ事はあらじと憑(たのみ)しに、案(あん)に相違して余所(よそ)の勢一騎(いつき)も不付、結句(けつく)一方の大将にもと憑(たのみ)し狩野介(かののすけ)も降参しぬ。又其(その)外相伝譜代(ふだい)の家人、厚恩(こうおん)異他郎従共も、日にそへ落(おち)失(うせ)て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重(かさね)て向ふ由を聞て、二(ふたつ)の城(じやう)に火を懸(かけ)て修禅寺(しゆぜんじ)の城(じやう)へ引(ひき)篭る。夢なる哉(かな)、昨日は海をはかりし大鵬(たいほう)の、九霄(きうせう)の雲に搏(はうつ)が如く、今日は轍(てつ)に伏(ふす)涸魚(かくぎよ)の、三升の水を求(もとむ)るに不異。「我(わが)身かゝるべしと知(しり)たらば、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)を、枉(まげ)て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。
早く報(むく)ひけるを、兼(かね)て不知こそ愚(おろか)なれ。抑畠山(はたけやま)入道(にふだう)去去年東国の勢を催(もよほし)立(たて)て、南方へ発向したりし事の企(くはたて)を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮(かつ)て、後(のち)に世を奪(うば)はんと謀(はかり)しに似たり。昔唐の玄宗位に即(つき)給ひし始、四海(しかい)無事なりしかば、楽(たのしみ)に誇(ほこ)り驕(おごり)をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心(おんこころ)にしめて、五雲の車に召(めさ)れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸(みゆき)して後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)を廻(まは)り、三千人(さんぜんにん)の后を御覧ずるに、玄献(げんけん)皇后・武淑妃(ぶしゆくひ)二人(ににん)に勝(まさ)る容色も無(なか)りけり。君無限此(この)二人(ににん)の妃に思食(おぼしめし)移りて、春(はる)の花秋の月、いづれを捨(すつ)べしとも思召さゞりしに、色ある者は必(かならず)衰へ、光ある者は終(つひ)に消(きえ)ぬる憂世(うきよ)の習(ならひ)なれば、此(この)二人(ににん)の后無幾程共に御隠(おんかくれ)ありけり。
玄宗余(あま)りに御歎(おんなげき)有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許(あひはかつ)て、いづくにか前の皇后・淑妃(しゆくひ)に勝(まさ)りて、君の御心(おんこころ)をも慰め進(まゐら)すべき美人のあると、至らぬ隅(くま)もなくぞ尋(たづね)ける。爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄(やうげんえん)が女(むすめ)に、楊貴妃と云ふ美人あり。是(これ)は其(その)母昼寝して、楊(やなぎ)の陰(かげ)にねたりけるに、枝より余る下(した)露、婢子(ひし)に落(おち)懸(かか)りて胎内に宿りしかば、更々(さらさら)人間の類(たぐひ)にては不可有、只天人の化(け)して此(この)土に来(きたる)物なるべし。紅顔翠黛(こうがんすゐたい)は元来天の生(な)せる質(かたち)なれば、何ぞ必(かならず)しも瓊粉金膏(けいふんきんかう)の仮(かり)なる色を事とせん。
漢の李夫人(りふじん)を写(うつせ)し画工(ぐわこう)も、是(これ)を画(ゑが)かば遂(つひ)に筆の不及事を怪(あやし)み、巫山(ふざん)の神女を賦(ふ)せし宋玉(そうぎよく)も、是(これ)を讃(さん)せば、自(みづか)ら言(ことば)の方(まさ)に卑(いやしからん)事を恥(はじ)なん。其(その)語るを聞ても迷(まよひ)ぬべし、況(いはん)や其(その)色を見ん人をや。加様(かやう)にはりなく覚へし顔色(がんしよく)なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁(ばいしやく)を求め、婚礼を厚(あつく)して、夫婦たらん事を望(のぞみ)しか共、父母かつて不許。秘(ひ)して深窓(しんさう)に有(あり)しかば、夭々(えうえう)たる桃花(たうくわ)の暁(あかつき)の露を含(ふくん)で、墻(かき)より余る一枝(いつし)の霞に匂(にほ)へるが如く也(なり)。或人是(これ)を媒(なかだち)して、玄宗皇帝(くわうてい)の連枝(れんし)の宮(みや)、寧王(ねいわう)の御方へ進(まゐら)せけるを、玄宗天威に誇(ほこつ)て濫(みだり)に高(かう)将軍(しやうぐん)を差遣(さしつかは)して、道より奪(うばひ)取て後宮(こうきゆう)へぞ冊(かしづき)入(いれ)奉(たてまつり)ける。
玄宗の叡感、寧王(ねいわう)の御思(おんおもひ)、花開(さく)枝の一方は折(をれ)てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是(これ)を題せり。尋常(じんじやう)の寒梅樹(かんばいじゆ)折(をれ)て軍持(ぐんじ)に上れば、一段(いちだん)の清香人の心を感ぜしむ。民屋(みんをく)粛颯(せうさつ)たるに衰楊柳(すゐやうりう)移(うつり)て宮苑(きゆうゑん)にいれば、千尺の翠条(すゐでう)、別(べつ)に春風長かるべし。さらでだにたへに勝(すぐ)れたる容色の上に、金翠(きんすゐ)を荘(かざ)り薫香を散ぜしかば、只歓喜園(くわんぎゑん)の花の陰(かげ)に舎脂(しやし)夫人(ふじん)の粧(よそほひ)をなして、春に和(くわ)せるに不異。一度(いちど)君王に面(おもて)をまみへしより、袖の中の珊瑚(さんご)の玉、掌(たなごころ)の上の芙蓉(ふよう)の花と、見る目もあやに御心(おんこころ)迷ひしかば、暫(しばらくも)其側(そのそば)を離れ給はず、昼は終日(ひねもす)に輦(てぐるま)を共にして、南内(なんだい)の花に酔(ゑひ)を勧(すす)め、夜は通宵(よもすがら)席を同(おなじく)して、西(せい)宮(みや)の月に宴(えん)をなし給ふ。
玄宗余(あまり)の柔(わり)なさに、世人の面に紅粉(こうふん)を施(ほどこ)し、身に羅綺(らき)を帯(おび)たるは、皆仮(かり)なる嬋娟(せんけん)にて真(まこと)の美質(びしつ)に非(あら)ず。同(おなじく)は楊貴妃の顕(あらは)したる膚(はだへ)を見ばやと思召て、驪山宮(りさんきゆう)の温泉に瑠璃(るり)の沙(いさご)を敷き、玉の甃(いしだたみ)を滑(なめらか)にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌(かたち)を御覧ずるに、白く妙(たへ)なる御はだへに、蘭膏(らんかう)の御湯を引かせければ、藍田(らんでん)日(ひ)暖(あたたかにして)玉低涙、嶺(ゆれい)雪融(とほりて)梅吐香かとあやしまるゝ程也(なり)。牛車(ぎうしや)の宣旨を被(かうむつ)て、宮中を出入せしかば、光彩(くわうさい)の栄耀(えいえう)門戸に満(みち)て、服用(ふくよう)は皆(みな)大長公主に均(ひとし)く、富貴(ふつき)甚(はなはだ)天子王侯にも越(こえ)たり。
此(この)楊貴妃のせうとに、楊国忠と云(いふ)者あり。元来家賎(いやしく)して、畝(けんほ)の中に長(ひと)となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非(あら)ず武にも非(あら)ざりしか共、后(きさき)の兄(あに)なりしかば、軈(やが)て大臣にぞなされける。此(この)時(とき)に安禄山と云(いひ)ける旧臣、権威爵禄(しやくろく)共(ども)に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共(ども)、すべき様なければ力不及。係(かか)る処に、天子色を重(おもん)じて政(まつりごと)を乱(みだ)り、小人高位に登(のぼつ)て国の弊(つひえ)を不知を見て、吐蕃(とばん)の国々皆王命を背(そむく)と聞へしかば、「誰をか打手に向(むく)べき。」と議(ぎ)せられけるに、楊国忠武威を恣(ほしいまま)にせん為に、大将の印(いん)を被授ば、罷(まかり)向て輙(たやす)く是(これ)を可静由を望(のぞみ)申ける間、是(これ)に上将軍(じやうしやうぐん)の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則(すなはち)五十万騎(ごじふまんぎ)の勢を卒して、大荒(だいくわうの)峯に陣を取る。夫(それ)大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。得一豆之飯与士喫、淋一樽(いつそん)之酒与兵飲とこそ申(まうす)に、此(この)楊国忠明(あく)れば旨酒(ししゆ)に漬(ひたつ)て、兵の飢(うゑ)たるを不知(しらず)。暮(くる)れば美女に纏(まとは)れて人の訴(そしり)をも不聞入。
只長時(ちやうじ)の楽(たのしみ)にのみ誇(ほこ)り、軍の事をば忘(わすれ)ても不云けるこそ浅猿(あさまし)けれ。去(さる)程(ほど)に兵疲れ将懈(おこた)りて、進む勢無(なか)りければ、吐蕃(とばん)の戎狄共(じゆうてきども)二十万騎(にじふまんぎ)の勢を引(ひき)て、逆寄(さかよせ)にこそ寄(よせ)たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦(いつせん)も不戦、楊国忠が五十万騎(ごじふまんぎ)、我先にと河を渡して、五日路(いつかぢ)まで逃(にげ)たりければ、大荒(だいくわう)の四方(しはう)七千(しちせん)余里(より)、吐蕃(とばん)に随(したが)ひ靡(なび)きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此(ここ)にも猶(なほ)たまり得ずして、都を差(さし)て引(ひき)けるが、今度大将を申請(まうしうけ)て、発向したる甲斐(かひ)もなく、一軍(ひといくさ)せで帰らん事、上聞(じやうぶん)其憚(そのはばかり)有(あり)ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲(つかれ)たる兵を一万人首を刎(はね)て、各鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、是(これ)皆吐蕃の徒(と)の頚(くび)なりと号(がう)して、都へぞ帰(かへり)参りける。
罪無(なく)して首を刎(はね)られたる兵共(つはものども)の親子兄弟幾千万、悲(かなしみ)を含(ふくみ)て声を呑(の)み、家々に哭(こく)すといへ共、楊国忠が漏(もれ)聞(きか)んずる事を恐(おそれ)て、奏し申(まうす)人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚(くび)となして獄門(ごくもん)の木に懸(かけ)られ、大荒(たいくわう)の地千里は、打平(うちたひら)げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上(かみ)乱れ下(しも)不背と云(いふ)事なれば、挙世、只楊国忠を滅(ほろぼ)さんずる事をぞ計(はか)りける。安禄山、此比(このころ)大荒(だいくわう)の境(さかひ)に吐蕃(とばん)を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦(よろこび)て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深(ふかく)して、「楊国忠を打(うつ)べしと、宣旨を給(たまはり)たり。」と披露(ひろう)して兵を催(もよほす)に、大荒(だいくわう)にて楊国忠に打(うた)れたりし、一万人の兵共(つはものども)の親類兄弟大に悦て、我先(さき)にと馳(はせ)集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎(しちじふまんぎ)に成(なり)にけり。
則(すなはち)崔乾祐(さいけんいう)を右将軍(うしやうぐん)とし子思明(ししめい)ら左将軍(さしやうぐん)として都へ上るに、路次(ろし)の民屋(みんをく)をも不煩、城郭(じやうくわく)をも不責、安禄山朝敵(てうてき)に成て長安へ責(せめ)上(のぼる)とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿(たんしいこしやう)を持(もち)て、士卒の疲をぞ労(いたは)りける。此(この)勢既(すで)に都より七十里(しちじふり)を隔(へだて)たる潼関(とうくわん)と云(いふ)山に打あがりて、初(はじめ)て旗の手をおろし、時の声をぞ揚(あげ)たりける。玄宗皇帝(くわうてい)は、折節驪山宮(りさんきゆう)に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣(げいしやううい)の舞をまはせて、大梵高台(ほんかうだい)の楽(たのしみ)も是(これ)には過(すぎ)じと思召(おぼしめし)ける処に、潼関(とうくわん)に馬烟(うまけぶり)をびたゝしく立て、漁陽(ぎよやう)より急(きふ)を告(つぐ)る鼓(へいく)、雷(いかづち)の如くに打つゞけたり。
探使(たんし)度々馳(はせ)帰て、安禄山が徒(と)、崔乾祐(さいけんいう)・子思明等(ししめいら)、百万騎にて寄(よせ)たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰(かじよかん)に三十万騎(さんじふまんぎ)を相副(あひそへ)て、咸陽の南へ被差向。安禄山既(すで)に潼関(とうくわん)の山に打挙(うちあが)りて、哥舒翰麓(ふもと)に馳(はせ)向ひたれば、かさよりまつくだりに懸(かけ)落されて、官軍(くわんぐん)十万(じふまん)余騎(よき)河水に溺(おぼれ)て死にけり。哥舒翰僅(わづか)に打(うち)なされて、一日猶(なほ)長安に支(ささへ)て居たりけるが使を馳(はせ)て、「幾度戦ふとも勝(かつ)事を難得。急ぎ竜駕(りようが)を被廻て蜀山(しよくざん)へ落(おち)させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未(いまだ)終(をはらざる)に、玄宗皇帝(くわうてい)と楊貴妃と、同(おなじ)く五雲の車に被召(めされ)て都を落給へば、楊国忠を始(はじめ)として、諸王千官悉(ことごと)く歩跣(かちはだし)なる有様にて、泣々(なくなく)大軍の跡に相順(あひしたがふ)。
哥舒翰長安の軍にも打負(うちまけ)て鳳翔県(ほうしやうけん)へ落(おち)ければ、安禄山が兵、君を追懸進(おつかけまゐらせ)て、旗の手五十町(ごじつちよう)計(ばかり)の跡に連(つらな)りたり。竜駕既(すで)に馬嵬(ばくわい)の坡(つつみ)を過(すぎ)させ給ひける時、供奉(ぐぶ)仕る官軍(くわんぐん)六万(ろくまん)余騎(よき)、道を遮(さへぎつ)て君を通し進(まゐら)せず。「是(これ)は何事ぞ。」と御尋(おんたづね)ありければ、兵皆戈(ほこ)をふせ地に跪(ひざまづい)て、「此(この)乱俄(にはか)に出来て天子宮闕(きゆうけつ)を去(さら)せ給ふ事、偏(ひとへ)に楊国忠が驕(おごり)を極(きは)め罪なき人を切(きり)たりし故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)れば楊国忠を官軍(くわんぐん)の中へ給て首を刎(はね)、天下の人の心を息(やす)め候べし。不然は縦(たとひ)禄山が鋒(ほこさき)には死すとも、天子の竜駕をば通し進(まゐら)すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸(おひかけ)たり。惜(をし)むとも不可叶と思召(おぼしめし)ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍(くわんぐん)大に喜て、楊国忠を馬より引落(ひきおと)し、戈(ほこ)の先に指貫(さしつらぬ)き、一同にどつとぞ笑(わらひ)ける。
是(これ)を御覧じける楊貴妃の御心(おんこころ)の中こそ悲(かなし)けれ。角(かく)ても官軍(くわんぐん)猶(なほ)あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進(まゐら)せざりければ、「此(この)上の憤(いきどほ)り何事ぞ。」と尋(たづね)らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海(しかい)の静(しづま)る期(ご)あるべからず。褒(ほうじ)周(しう)の世を乱(みだ)り、西施(せいし)呉の国を傾(かたぶけ)し事、統(とうくわう)耳を不塞。君何ぞ思召(おぼしめし)知らざらん。早く楊貴妃に死を給(たまは)らずは、臣等(しんら)忠言の為に胸を裂(さき)て、蒼天(さうてん)に血を淋(そそ)くべし。」とぞ申ける。玄宗是(これ)を聞食(きこしめし)て遁(のがる)まじき程を思召(おぼしめし)ければ、兔角(とかく)の御言(おんことば)にも不及、御胸もふさがりて、御心(おんこころ)消(きえ)て鳳輦(ほうれん)の中に倒(たふ)れ伏(ふ)させ給ふ。
霞の袖を覆(おほ)へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無(なか)るべきに、楊貴妃さてもや遁(のが)るゝと、君の御衣(ぎよい)の下へ御身(おんみ)を側(そば)めて隠れさせ給へば、天子自(みづから)御貌(おんかたち)を胸にかきよせて、「先(まづ)朕(ちん)を失(うしなひ)て後(のち)彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指(さし)も忿(いか)れる武士共(ぶしども)も皆戈(ほこ)を捨(すて)て地に倒る。其(その)中に邪見放逸(じやけんはういつ)なる戎(えびす)の有(あり)けるが、「角(かく)ては不可叶。」とて、玉体に取付(つか)せ給ひたる楊貴妃の御手(おんて)を引(ひき)放(はなし)て、轅(ながえ)の下へ引落(ひきおと)し奉り、軈(やが)て馬の蹄(ひづめ)にぞ懸(かけ)たりける。
玉の鈿(かんざし)地に乱(みだれ)て、行(ゆく)人道を過(すぎ)やらず。雪の膚(はだへ)泥(どろ)にまみれて、見(みる)人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌(おんかたち)をも擡(もたげ)させ給はず、臥(ふし)沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様(おんありさま)を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶(たえ)ぬ玉の緒の、長き恨とは成(なり)にけれ。其(その)後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀(しよく)へ落著(おちつか)せ給ひけり。則(すなはち)回(くわいきつ)十万騎(じふまんぎ)の勢を卒して馳(はせ)参る。厳武(げんぶ)・哥舒翰(かじよかん)又国々の兵(つはものを)催(もよほし)立(たて)て、五十万騎(ごじふまんぎ)蜀(しよく)の行在(あんざい)へぞ参りける。
安禄山が勢(せい)は、始(はじめ)楊国忠を打(うた)んとする由を聞てこそ、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)集りしか、今の如(ごとく)は只(ただ)天下を奪(うばは)んとする者なりけりとて、兵多く落(おち)失(うせ)ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時(ひととき)の夢とぞ見へたりける。加様(かやう)に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍(くわんぐん)は国々より参りけれ共(ども)、玄宗皇帝(くわうてい)は、楊貴妃の事に思(おもひ)沈(しづ)ませ給ひて、万機(ばんき)の政(まつりごと)にも御心(おんこころ)を不被懸、只(ただ)死しても生(うま)れ合(あふ)べくは、いきて命も何(なに)かせんと、思召(おぼしめす)外は他事もなし。厳武・哥舒翰・回等(くわいきつら)、角(かく)ては叶(かなふ)まじと思(おもひ)ければ、玄宗皇帝(くわうてい)の第二(だいに)の御子粛宗(しゆくそう)の、鳳翔県(ほうしやうけん)と云(いふ)所に隠(かくれ)てをはしけるを、天子と仰(あふぎ)奉て四海(しかい)に宣旨を下し、諸国の兵を催(もよほし)て、八十万騎(はちじふまんぎ)先(まづ)長安へぞ寄(よせ)たりける。
安禄山、崔乾祐(さいけんいう)・子思明(ししめい)を大将にて、是(これ)も八十万騎(はちじふまんぎ)長安に馳(はせ)向ふ。両陣相挑(あひいどんで)未(いまだ)戦(たたかはざる)処に、祖廟(そべう)の神霊百万騎の兵に化(け)し、黄なる旗を差(さし)て、哥舒翰が勢に加(くはは)り、崔乾祐と戦(たたかひ)ける間、安禄山が兵共(つはものども)に破れ立て、一時に皆亡(ほろび)にけり。朝敵(てうてき)忽(たちまち)に被誅て、洛陽則(すなはち)静(しづま)りければ、粛宗位を辞(じ)して、又玄宗を位に即(つけ)奉らん為に、官軍(くわんぐん)皆蜀(しよく)へ御迎(おんむかへ)にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静(しづま)りぬるに付(つけ)ても、只(ただ)楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召(おぼしめし)て、再(ふたた)び天子の位を践(ふま)せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬(ばくわい)の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心(おんこころ)に急がれて、軈(やが)て遷幸の儀則(ぎそく)を促(うなが)されける。
馬嵬の道の辺(ほとり)に鳳輦(ほうれん)を留(とめ)られて、是(これ)ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成(なり)し跡よとて御覧ずれば、長堤(ちやうてい)の柳の風にしなへるも、枕に懸(かか)りしねみだれ髪の、朝の面影御泪(なみだ)に浮び、池塘(ちたう)の草の露にしほれたるも、落(おち)て地に乱(みだれ)けん玉の鈿(かんざし)、角(かく)やと思食(おぼしめし)知られて、いとゞ御心(おんこころ)を悩まされ、うかれて迷ふ其魄(そのたましひ)の跡までも猶(なほ)なつかしければ、只日暮(くれ)夜明(あく)れ共(ども)、此(ここ)にて思(おもひ)消(きえ)ばやと思食(おぼしめし)けれ共(ども)、翠花(すゐくわ)揺々(えうえう)として東に帰れば、爰(ここ)をさへ亦(また)別(わかれ)ぬる事よと、御涙(おんなみだ)更(さら)に塞(せき)あへず、遥(はるか)に跡を顧(かへりみ)させ給ふに、蜀江(しよくかう)水緑(みどりにして)蜀山青(あをし)、聖主朝々(あさなあさな)暮々(ゆふべゆふべの)情(こころ)譬(たと)へて云はん方もなし。
日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住(すみ)玉(たま)ひし驪山の華清宮(くわせいきゆう)の荒(あれ)たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪(たへ)ぬ御悲のみ深く成(なり)行(ゆき)ければ、今は四海(しかい)の安危(あんき)をも叡慮に懸(かけ)られず、御位をさへ粛宗皇帝(くわうてい)に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙(おんなみだ)にしほれて、仙院の故宮(こきゆう)にぞ御座(おはし)ける。爰(ここ)に臨(りんかう)の道士(だうし)楊通幽(やうつういう)、玄宗の宮(みや)に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥(はるか)に君王展転(てんでん)の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋(たづね)て帰(かへり)参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則(すなはち)高官を授(さづけ)て大禄(たいろく)を与へ給ふ。
方士則(すなはち)天に登り地に入て、上は碧落(へきらく)を極め、下は黄泉(くわうせん)の底まで尋(たづね)求(もとむ)るに、楊貴妃更(さら)にをはしまさず。遥(はるか)に飛(とび)去て、天海万里の波涛(はたう)を凌(しの)ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱(ほうらい)・方丈(はうぢやう)・瀛州(えいしう)の三の島あり。一の亀是(これ)を戴(いただ)けり。中に五城峙(そばだち)て、十二の楼閣あり。其(その)宮門に金字(こんじ)の額(がく)あり。立寄て是(これ)を見れば、玉妃太真院(たいしんゐん)とぞ書(かき)たりける。楊貴妃さて此(この)中に御坐(おはし)けりとうれしく思(おもひ)て、門をあらゝらかに敲(たたき)ければ、内より双鬟(さうくわん)の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問(とふ)に、方士手を歛(をさめ)て、「是(これ)は漢家の天子の御使(おんつかひ)に、方士と申(まうす)者にて候が、楊貴妃の是(これ)に御坐(ござ)あると承(うけたまはり)て、尋(たづね)参て候。」と答(こたへ)申ければ、双鬟(さうくわん)の童女、「楊貴妃は未(いまだ)をうとのごもりて候。 此(この)由を申て帰(かへり)侍らん。」とて、玉の扉(とぼそ)を押(おし)たてゝ内へ入(いり)ぬ。
方士門の傍(かたはら)に立て、今や出(いづ)ると是(これ)を待(まつ)に、雲海沈々(ちんちんとして)洞天(とうてん)に日晩(くれ)ぬ。瓊戸(けいこ)重(かさな)り閉(とぢ)て、悄然(せうぜん)として無声。良(やや)有て双鬟(さうくわん)の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖(いふ)して、金闕(きんけつ)の玉の廂(ひさし)に跪(ひざまつ)く。時に玉妃夢さめて、枕を推(おし)のけて起き給ふ。雲鬢(うんくわん)刷(つくろ)はずして、羅綺(らき)にだも堪(たへ)ざる体、譬(たとへ)て言(いふ)に比類(ひるゐ)なし。左右(さうの)侍児(おもとひと)七八人(しちはちにん)、皆金蓮(きんれん)を冠(かぶり)にし、鳳(ほうせき)を著して相随(あひしたが)ふ。五雲飄々(へうへう)として、玉妃玉堂より出給ふ。
雲頭艶々(えんえん)として、暁月(げうげつ)の海を出(いづ)るに不異。方士泪(なみだ)を押(おさへ)て、君王展転(てんでん)の御思(おんおもひ)を語るに、玉妃つく/゛\と聞(きき)給ひて、含情凝睇謝君王。一別(して)音容(いんよう)両(ふたつながら)渺茫(べうばうたり)。昭陽殿(せうやうでんの)裡(うち)恩愛絶(たゆ)、蓬莱宮(ほうらいきゆうの)中日月長(ながし)となん恨(うらみ)給ひて、中々御言葉もなければ、玉(たまの)容(かたち)寂寞(せきばくとして)涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。只梨花(りくわ)一枝(いつし)春帯雨如し。将(まさに)方士帰去(かへん)なんとするに及て、「玉妃の御信(かたみ)を給(たまはり)候へ。尋(たづね)奉る験(しるし)に献(けん)ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿(かんざし)を半(なかば)擘(さき)て方士にたぶ。
方士鈿(かんざし)を給て、「是(これ)は尋常(よのつね)世にある物也(なり)。何ぞ是(これ)を以て験(しるし)とするに足(た)らんや。願(ねがはく)は玉妃君王に侍(はんべり)し時、人の曾(かつ)て不知事あらば、其(それ)を承(うけたまはり)て験(しるし)とせん。不然は臣忽(たちまち)に新垣平(しんゑんへい)が詐(いつはり)を負(おう)て、身斧鉞(ふゑつ)の罪に当(あたら)ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重(かさね)て宣(のたまは)く、「我七月七日長生殿(ちやうせいでんに)夜半(やはんに)無人上(うへ)の傍(そば)に侍りし時、牽牛織女(けんぎうしよくじよ)の絶(たえ)ぬ契(ちぎり)を羨(うらやみ)て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓(ちかひ)き。是(これ)は君王と我とのみ知れり。
是(これ)を以て験(しるし)とすべし。」とて泣々(なくなく)玉台を登り給へば、音楽雲に隔(へだた)り、団扇(だんせん)大に隠(かくれ)て、夕陽(せきやう)の影の裏(うち)に漸々(ぜんぜん)として消(きえ)去(さり)ぬ。方士鈿(かんざし)の半(なかば)と言の信(かたみ)とを受(うけ)て宮闕(きゆうけつ)に帰参(きさんし)、具(つぶさ)に此(これ)を奏するに、玄宗思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、伏(ふし)沈(しづま)せ給(たまひ)けるが、其(その)年の夏未央宮(びやうきゆう)の前殿にして、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)なりにけり。一念五百(ごひやく)生繋念無量劫(けねんむりやうこふ)といへり。況(いはん)や知(しら)ぬ世までの御契(ちぎり)浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫(きんじうぎよちゆう)に生を替(かへ)て、愛著(あいぢやく)の迷(まよひ)を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱(らん)、只安禄山・楊国忠が天威を仮(かつ)て、功に誇(ほこ)り人を猜(そねみ)し故なり。今関東(くわんとう)の軍、道誓が隠謀(いんぼう)より事起(おこつ)て、傾廃(けいはい)古(いにしへ)に相似たり。天驕(おごり)を悪(にく)み欠盈。譴脱(せめのが)るゝ処なければ、道誓の運命も憑(たの)みがたしとぞ見へたりける。 
 
太平記 巻第三十八 

 

彗星客星(すゐせいきやくせいの)事(こと)付(つけたり)湖水(こすゐ)乾(かわく)事(こと)
康安二年二月に、都には彗星・客星(きやくせい)同時に出たりとて、天文博士共(てんもんのはかせども)内裏へ召(めさ)れて吉凶(きつきよう)を占(うらな)ひ申(まうし)けり。「客星は用明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、守屋(もりや)仏法を亡(ほろぼ)さんとせし時、始(はじめ)て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度(じふしかど)、其(その)内二度(にど)は祥瑞(しやうずゐ)にて、十二度(じふにど)は大凶(たいきやう)也(なり)。彗星は皇極天王(くわうごくてんわう)の御宇に、豊浦(とよらの)大臣の子、蘇我入鹿(そがのいるか)が乱を起して、中臣大兄皇子(おほえのわうじ)並(ならびに)中臣鎌子(なかとみかまこ)と合戦をしたりし時、始(はじめ)て此(この)星出たりしより、今に至(いたる)迄(まで)八十六箇度(はちじふろくかど)、一度(いちど)も未(いまだ)災難ならずと云(いふ)事なし。
尤(もつとも)天下の御慎(おんつつしみ)にて候べし。」と、博士一同に勘(かんがへ)申(まうし)ければ、諸臣皆(みな)色を失(うしなひ)て、「さればよ、此乱世(このらんせい)の上には、げにも世界国土が金輪際(こんりんざい)の底へ落入(おちいる)か、不然は異国の蒙古(もうこ)寄来(よせき)て、日本国を打取(うちとる)かにてこそあらめ。さる事有(ある)まじき世共(とも)不覚(おぼえず)。」と、面々に申合(まうしあは)れけり。誠(まこと)に天地人の三災(さんさい)同時に出来(いできたり)ぬと覚(おぼえ)て、去年の七月より日々に二三度(にさんど)の地震も未休(いまだやまず)、又今年の六月より同(おなじき)十一月の始まで旱魃(かんばつ)して、五穀(ごこく)も不登、草木も枯萎(かれしぼみ)しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥(どろ)に吻(いきづく)のみならず、人民共の飢死(うゑし)ぬる事、所々に数を不知(しらず)。
此(この)時(とき)近江の湖(みづうみ)も三丈六尺(ろくしやく)干(ひ)たりけるに、様々(さまざま)の不思議(ふしぎ)あり。白髭(しらひげ)の明神の前にて、奥(おき)に二人(ににん)して抱許(だくばかり)なる桧木(ひのき)の柱を、あはひ一丈(いちぢやう)八尺(はつしやく)づゝ立双(たてなら)べて、二町(にちやう)余に渡せる橋見へたり。「古人の語り伝(つたへ)たる事もなし、古き記録にも不載。是(これ)は何様(いかさま)竜宮城の道にてぞ有覧(あるらん)。」と云沙汰(いひさた)して、見る人日々に群集(くんじゆ)せり。又竹生島(ちくぶしま)より箕浦(みのうら)まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈(にぢやう)許(ばかり)に平に畳連(たたみつら)ねて、二河白道(じがはくだう)も角(かく)やと覚(おぼえ)たる道一通(ひととほり)顕(あらはれ)出たり。
是(これ)も如何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の通路(かよひぢ)にてぞ有(ある)らんとて、蹈(ふん)では渡る人なし。只傍(あたり)の浦に船を浮(うけ)て見る人如市也(なり)。此湖(このみづうみ)七度(しちど)まで桑原(くははら)に変ぜしを我見たりと、白髭明神(しらひげみやうじん)、大宮権現(おほみやごんげん)に向て被仰けると云(いふ)古の物語あれば、左様(さやう)の桑原にやならんずらんと見る人奇(あやし)み思へり。天地(てんち)の変(へん)は既(すで)に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思(おもふ)処に、国々より早馬(はやうま)を打て、宮方(みやがた)蜂起(ほうき)したりと、告(つぐ)る事曾(かつ)て休(やむ)時(とき)なし。  
諸国宮方(みやがた)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)越中(ゑつちゆう)軍(いくさの)事(こと)
山陽道(せんやうだう)には同年六月三日に、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏五千(ごせん)余騎(よき)にて、伯耆(はうき)より美作(みまさか)の院庄(ゐんのしやう)へ打越(うちこえ)て国々へ勢(せい)を差分(さしわか)つ。先(まづ)一方へは、時氏(ときうぢの)子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)を大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、備前・備中両国へ発向(はつかう)す。一勢(いつせい)は備前(びぜんの)仁万堀に陣を取て敵を待(まつ)に、其(その)国(くに)の守護(しゆごの)勢、松田・河村(かはむら)・福林寺(ふくりんじ)・浦上(うらかみ)七郎兵衛行景等(ゆきかげら)、皆(みな)無勢(ぶせい)なれば、出合ては叶はじとや思(おもひ)けん。又讃岐(さぬき)より細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、近日児島(こじま)へ押渡ると聞ゆるをや相待(あひまち)けん。皆(みな)城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て未曾戦(いまだかつてたたかはず)。
一勢(いつせい)は多治目(たぢめ)備中(びつちゆうの)守(かみ)、楢崎(ならさき)を侍大将にて、千(せん)余騎(よき)備中の新見(にひみ)へ打出たるに、秋庭(あきば)三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵粮も卓散(たくさん)なる松山の城(じやう)へ、多治目・楢崎を引入(ひきいれ)しかば、当国の守護(しゆご)越後(ゑちごの)守(かみ)師秀可戦様(やう)無(なく)して、備前の徳倉(とくら)の城(じやう)へ引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、郎従赤木(あかき)父子二人(ににん)落止(おちとどまつ)て、思(おもふ)程戦(たたかひ)て遂(つひ)に討死してけり。依之(これによつて)敵勝(かつ)に乗(のつ)て国中(こくぢゆう)へ乱(みだれ)入て、勢を差向(さしむけ)々々(さしむけ)責(せめ)出すに、一儀(いちぎ)をも可云様(やう)無(なけ)れば、国人(くにびと)一人も順(したが)ひ不付云(いふ)者なし。
只陶山(すやま)備前(びぜんの)守(かみ)許(ばかり)を、南海の端(はし)に添(そう)て僅(わづか)なる城を拵(こしらへ)て、将軍方(しやうぐんがた)とては残りける。備後へは、富田(とんだ)判官(はうぐわん)秀貞が子息弾正少弼(だんじやうせうひつ)直貞(なほさだ)八百(はつぴやく)余騎(よき)、出雲より直(すぐ)に国中(こくぢゆう)へ打出たるに、江田・広沢・三吉(みよし)の一族(いちぞく)馳著(はせつき)ける間、無程二千(にせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。富田其(その)勢を合(あはせ)て、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)が城を攻(せめ)んとする処に、石見(いはみの)国(くに)より足利左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)直冬、五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて富田に力を合(あはせ)戦(たたかはん)と、備後の宮内(みやのうち)へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)の許(もと)へ使に立(たて)て被仰けるは、「天下の事時刻(じこく)到来(たうらい)して、諸国の武士大略御方(みかた)に志(こころざし)を通ずる処に、其(その)方(かた)より曾(かつて)承(うけたまは)る旨(むね)なき間に、遮(さへぎつ)て使者を以(もつ)て申(まうす)也(なり)。
天下に人多(おほし)といへ共、別(べつ)して憑思(たのみおもひ)奉る志深し。今若(もし)御方(みかた)に参じて忠を被致候はゞ、闕所分(けつしよぶん)已下の事に於(おい)ては毎事(まいじ)所望に可随。」とぞ宣(のたま)ひ遣(つかはさ)れける。宮(みやの)入道(にふだう)道山(だうせん)先(まづ)城(じやう)へ使者の僧を呼(よび)入(いれ)て点心(てんじん)を調(ととのへ)、礼儀を厚(あつく)して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼(かの)禅門道山、僧に向て申(まうし)けるは、「天下に一人も宮方(みやがた)と云(いふ)人なく成(なり)て、佐殿(すけどの)も無憑方成(なら)せ給ひたらん時、さりとては憑(たのむ)ぞと承(うけたまは)らば、若(もし)憑(たのま)れ進(まゐら)する事もや候はんずらん。
今時(いまどき)近国の者共(ものども)多く佐殿に参りて、勢(せい)付(つか)せ給ふ間、当国に陣を召(めさ)れて参れと承(うけたまは)らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪(にく)し其(その)儀ならば討て進(まゐら)せよとて、御勢(おんせい)を向(むけ)られば、尸(かばね)は縦(たとひ)御陣の前に曝(さら)さる共、魂(たましひ)は猶(なほ)将軍(しやうぐん)の御方に止(とどまつ)て、怨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん事を計(はから)ひ候べし。抑(そもそも)加様(かやう)の使などには御内(みうち)外様(とざま)を不云、可然武士をこそ立(たて)らるゝ事にて候に、僧体(そうたい)にて使節に立(たた)せ給ふ条(でう)、難心得(こころえがたく)こそ覚(おぼえ)て候へ。
文殊(もんじゆ)の、仏の御使(おんつかひ)にて維摩(ゆゐま)の室(しつ)に入り、玄奘(げんじやう)の大般若(だいはんにや)を渡さんとて流沙(りうさ)の難(なん)を凌(しのぎ)しには様(やう)替(かは)りて、是(これ)は無慚無愧(むざんむぎ)道心の御挙動(おんふるまひ)にて候へば、僧聖(そうひじ)りとは申(まうす)まじ。御頚(おんくび)を軈(やが)て路頭(ろとう)に懸度(かけたく)候へ共、今度許(ばかり)は以別儀ゆるし申(まうす)也(なり)。向後(きやうこう)懸(かか)る使をして生(いき)て帰るべしとな覚(おぼ)しそ。御分(ごぶん)誠(まこと)に僧ならば斯(かか)る不思議(ふしぎ)の事をばよもし給はじ。只(ただ)此(この)城(じやう)の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌(かたち)を禅僧に作(つくり)立(たて)られてぞ、是(これ)へはをはしたるらん。
やゝ若党共(わかたうども)、此(この)僧連(つれ)て城の有様能々(よくよく)見せて後、木戸より外(そと)へ追(おひ)出し奉れ。」とて、後(うしろ)の障子を荒らかに引立(ひきたて)て内へ入れば、使者の僧今や失(うしな)はるゝと肝心(きもたましひ)も身にそはで、這々(はふはふ)逃(にげ)てぞ帰りける。「此(この)使帰らば佐殿(すけどの)定(さだめ)て寄せ給はんずらん。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利ありとて、逆寄(さかよせ)に寄て追散(おひちら)せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百(ごひやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)、佐殿の陣を取て御坐(おはします)宮内(みやのうち)へ押寄せ、懸立(かけたて)々々(かけたて)責(せめ)けるに、佐殿の大勢共、立(たつ)足もなく打負(うちまけ)て、散々(ちりぢり)に皆成(なり)にければ、富田(とんだ)も是(これ)に力を落(おと)して、己が本国へぞ帰りにける。
直冬(ただふゆ)朝臣(あつそん)、宮(みやの)入道(にふだう)と合戦をする事其(その)数を不知(しらず)。然共(しかれども)、直冬一度(いちど)も未(いまだ)打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札(ふだ)に書て、道の岐(ちまた)にぞ立(たて)たりける。
直冬はいかなる神の罰(ばつ)にてか宮にはさのみ怖(おぢ)て逃(にぐ)らん侍大将と聞へし森備中(びつちゆうの)守(かみ)も、佐殿より前(さき)に逃(にげ)たりと披露(ひろう)有(あり)ければ、高札(たかふだ)の奥に、楢(なら)の葉のゆるぎの森にいる鷺(さぎ)は深山下風(みやまおろし)に音(ね)をや鳴(なく)らん但馬(たぢまの)国(くに)へは、山名左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・舎弟(しやてい)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)を侍大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、大山(だいせん)を経(へ)て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬(たぢまの)国(くにの)守護(しゆご)仁木弾正少弼(につきだんじやうせうひつ)・安良(やすら)十郎左衛門、将軍方(しやうぐんがた)にて楯篭(たてこもり)たる城未(いまだ)落(おち)ざりける間、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・安保(あふ)入道信禅(しんぜん)已下の宮方(みやがた)共(ども)、我(わが)国(くに)を閣(さしおい)て、他国へ越(こえ)ん事を不心得(こころえず)。
さらば小林が勢許(せいばかり)にても、播磨へ打越んと企(くはたつ)る処に、赤松掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)大山(だいせん)に城を構(かまへ)て、但馬の通路(つうろ)を差塞(さしふさ)ぎける程に、小林難所(なんしよ)を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護(しゆご)仁木兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)義尹(よしたか)、兼(かね)て在国(ざいこく)して待(まち)懸(かけ)たる事なれば、軈(やが)て合戦有(あり)ぬとこそ覚(おぼえ)けるに、楚忽(そこつ)に軍(いくさ)しては中々悪(あし)かりぬとや被思けん、和久(わく)の郷(がう)に陣を取て、互(たがひ)に敵の懸(かか)るをぞ相待(あひまち)ける。「丹波は京近き国なれば暫(しばら)くも非可閣、急(いそぎ)大勢を下(くだ)して義尹(よしたか)に力を合(あは)せよ。」とて、若狭の守護(しゆご)尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道心勝(しんしよう)・遠江守(とほたふみのかみ)護今河(いまがは)伊予(いよの)守(かみ)・三河(みかはの)守護(しゆご)大島遠江守(とほたふみのかみ)三人(さんにん)に、三箇国(さんかこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て三千(さんぜん)余騎(よき)、京都より差下さる。
其(その)勢已(すで)に丹波の篠村(しのむら)に著(つき)しかば、当国の兵共(つはものども)、心を両方に懸(かけ)て、何方(いづかた)へか著(つか)ましと思案しける者共(ものども)、今は将軍方(しやうぐんがた)ぞ強からんずらんと見定(みさだめ)て、我先(われさき)にと馳付(はせつき)ける程に、篠村の勢(せい)は日々に勝(まさり)て無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名が勢(せい)は纔(わづか)に七百(しちひやく)余騎(よき)、国遠(とほく)して兵粮乏(とぼし)く馬・人疲れて城の構(かまへ)密(きび)しからず。
角(かく)ては如何(いかが)怺(こらふ)べき、聞落(ききおち)にぞせんずらんと覚(おぼえ)ける処に、小林右京(うきやうの)亮(すけ)伯耆(はうきの)国(くに)を出しより、「今度天下を動(うごか)す程の合戦をせずは、生(いき)て再(ふたた)び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少(すこし)も非可騒、一所にて討死せんと、気を励(はげま)し心を一にする兵共(つはものども)、神水(じんずゐ)を飲(のみ)て已(すで)に篠村を立(たつ)と聞しかば、何(いづ)くにても広みへ懸(かけ)合(あは)せて、組打に討(うた)んと議しける間、篠村の大勢是(これ)を聞て、却(かへつ)て寄(よせ)られやせんずらんと、二日路(ふつかぢ)を隔(へだて)たる敵に恐(おそれ)て一足(ひとあし)も先へは不進、
木戸を構(かま)へ逆木(さかもぎ)を引て、用心(ようじん)密(きびし)くては居たりけれ共(ども)、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退(ひきしりぞき)ければ、「御敵(おんてき)をば早(はや)追(おひ)落(おとし)て候。」とて、気色(きしよく)ばうてぞ帰洛(きらく)しける。越中には、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常信濃(しなのの)国(くに)より打越て、旧好(きうかう)の兵共(つはものども)を相語(あひかたら)ふに、当国の守護(しゆご)尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の代官鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)が、国の成敗(せいばい)みだりなるに依て、国人挙(こぞつ)て是(これ)を背(そむき)けるにや、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長倉・三沢の者共(ものども)、直常に馳(はせ)付(つき)ける程に、其(その)勢千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。
桃井(もものゐ)軈(やが)て勢(いきほ)ひに乗て国中(こくぢゆう)を押すに手にさわる者なければ、加賀(かがの)国(くに)へ発向(はつかう)して富樫(とがし)を責(せめ)んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千(さんぜん)余騎(よき)越中(ゑつちゆうの)国(くに)へ打越て三箇所(さんかしよ)に陣を取る。桃井(もものゐ)はいつも敵の陣未(いまだ)取(とり)をほせぬ所に、懸(かけ)散(ちらす)を以て利とする者なりければ、逆寄(さかよせ)に押寄(おしよせ)て責(せめ)戦(たたかふ)に、越前の勢一陣先(まづ)破(やぶれ)て、能登・越中(ゑつちゆう)の両陣も不全、十方に散てぞ落行(おちゆき)ける。
日暮(くる)れば桃井(もものゐ)本(もと)の陣へ打帰て、物具脱(ぬい)で休(やすみ)けるが、夜半計(ばかり)に些(ちと)可評定事ありとて、此(この)陣より二里許(ばかり)隔(へだて)たる井口(ゐのくち)が城へ、誰にも角(かく)とも不知して只(ただ)一人ぞ行(ゆき)たりける。此(この)時(とき)しも能登・加賀の者共(ものども)三百(さんびやく)余騎(よき)打連(うちつれ)て、降人(かうにん)に出たりける。執事に属(しよく)して、大将の見参に入(いら)んと申(まうす)間、同道して大将の陣へ参じ、事の由(よし)を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習(きんじふ)の人に尋ぬれ共(ども)、「何(いづ)くへか御入(おんいり)候(さふらひ)ぬらん。未(いまだ)宵(よひ)より大将は見へさせ給はぬ也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。陣を並べたる外様の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒(さわぎ)て、「我(われ)も何(いづ)くへか落行(おちゆか)まし。」と物具を著(きる)もあり捨(すつ)るもあり、馬に乗(のる)もあり、乗(のら)ぬもあり、混(ひた)ひしめきにひしめく間、焼捨(たきすて)たる火陣屋(ぢんや)に燃著(もえつい)て、燎原(れうげん)の焔(ほのほ)盛なり。
是(これ)を見て、降人に出たりつる三百(さんびやく)余騎(よき)の者共(ものども)、「さらばいざ落行(おちゆく)敵共(てきども)を打取て、我が高名にせん。」とて、箙(えびら)を敲(たた)き時を作て、追懸(おつかけ)々々(おつかけ)打(うち)けるに、返(かへし)合(あは)せて戦(たたかは)んとする人なければ、此(ここ)に被追立彼(かれ)に被切伏、討(うた)るゝ者二百(にひやく)余人(よにん)生虜(いけどり)百人(ひやくにん)に余れり。桃井(もものゐ)は未(いまだ)井口(ゐのくち)の城(じやう)へも不行著、道にて陣に火の懸(かか)りたるを見て、是(これ)は何様(いかさま)返忠(かへりちゆう)の者有て、敵夜討に寄(よせ)たりけりと心得(こころえ)て、立帰る処に、逃(にぐ)る兵共(つはものども)行合て息をもつきあえず、「只(ただ)引(ひか)せ給へ、今は叶(かなふ)まじきにて候ぞ。」と申合(まうしあひ)ける間不及力、桃井(もものゐ)も共に井口(ゐのくち)の城(じやう)へ逃篭(にげこも)る。
昼の合戦に打負(うちまけ)て、御服峯(ごふくのみね)に逃上(にげのぼ)りたる加賀・越前の勢共(せいども)、桃井(もものゐ)が陣の焼(やく)るを見て、何とある事やらんと怪(あやし)く思ふ処に、降人(かうにん)に出て、心ならず高名しつる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余騎(よき)、生捕(いけどり)を先に追立(おひたて)させ、鋒(きつさき)に頭(くび)を貫(つらぬい)て馳来り、「如鬼神申(まうし)つる桃井(もものゐ)が勢をこそ、我等(われら)僅(わづか)の三百(さんびやく)余騎(よき)にて夜討に寄(よせ)て、若干(そくばく)の御敵(おんてき)共(ども)を打取て候へ。」とて、仮名実名(けみやうじつみやう)事新しく、こと/゛\しげに名乗(なのり)申せば、大将鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)を始(はじめ)として国々の軍勢(ぐんぜい)に至(いたる)迄(まで)、「哀(あは)れ大剛(たいかう)の者共(ものども)哉(かな)。此(この)人々なくは、争(いかで)か我等(われら)が会稽(くわいけい)の恥をば濯(すす)がまし。」と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。後に生捕(いけどり)の敵共(てきども)が委(くはし)く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒(たふ)るゝ処に土を掴(つか)む風情(ふぜい)をしたりけるよとて、却(かへつ)て悪(にく)み笑(わらは)れける。  
九州探題(きうしうたんだい)下向(げかうの)事(こと)付(つけたり)李将軍陣中(ぢんちゆうに)禁女事(こと)
筑紫には、小弐(せうに)・大友(おほとも)以下の将軍方(しやうぐんがた)の勢共(せいども)、菊池(きくち)に追(おひ)すへられて、已(すで)に又九州宮方(みやがた)の一統(いつとう)に成(なり)ぬと見へければ、探題を下して、小弐(せうに)・大友(おほとも)に力を合(あは)せでは叶(かなふ)まじとて、尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左京(さきやうの)大夫(たいふ)氏経(うぢつね)を、九州の探題に成(なし)てぞ被下ける。左京(さきやうの)大夫(たいふ)先(まづ)兵庫に下て、四国・中国の勢(せい)を催(もよほ)しけれ共(ども)、付順(つきしたが)ふ勢も無(なか)りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎(にひやくしごじつき)の勢にて、已(すで)に纜(ともづな)を解(とき)けるに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)の屋形船(やかたぶね)を始(はじめ)として、士卒の小船共に至(いたる)まで、傾城(けいせい)を十人(じふにん)二十人のせぬ船は無りけり。
磯(いそ)に立双(たちならん)で是(これ)を見物しける者共(ものども)の中に、些(ちと)こざかしげなる遁世者(とんせいしや)の有(あり)けるが、傍(かた)への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国(くかこく)の大敵を亡(ほろぼ)さんとて、討手の大将を承(うけたまは)る程の人の、是(これ)程物を知らでは、何としてか大功を成(なさ)るべき。夫(それ)大敵に向て陣を張(は)り、戦を決せんとする時、兵気(ひやうき)と云(いふ)事あり。此(この)兵気敵の上に覆(おほう)て立(たつ)時(とき)は、戦必(かならず)勝(かつ)事を得、若(もし)陣中(ぢんちゆう)に女多く交(まじはつ)てある時は、陰気(いんき)陽気を消す故(ゆゑ)に、兵気曾(かつて)不立上。兵気立(たた)ざれば、縦(たとひ)大勢なりといへ共、戦(たたかひに)勝(かつ)事を不得いへり。
されば昔覇陵(はりよう)の李将軍と云(いひ)ける大将、敵国に赴(おもむい)て陣を張り旅(たむろ)を調(ととの)へて、単于(ぜんう)と戦を決せんとしけるに、敵僅(わづか)に三万(さんまん)余騎(よき)、御方(みかた)は是(これ)に十倍せり。兵気定(さだめ)て敵の上に覆(おほふ)らんと思(おもひ)て、李将軍先(まづ)高(たかき)山の上に打上(うちあが)り、両方の陣を見るに、御方(みかた)の陣にあがらんとする兵気、陰(いん)の気に押(おさ)れて、立(たた)んとすれ共不立得。李将軍倩(つらつら)是(これ)を案ずるに、何様(いかさま)是(これ)は我方の陣に女交(まじはつ)て、隠れ居たればこそ、加様(かやう)には有(ある)らんと推(すゐ)して陣中(ぢんちゆう)をさがすに、果(はた)して陣中(ぢんちゆう)に女隠れて三千(さんぜん)余人(よにん)交(まじは)り居たり。
さればこそ是(この)故(ゆゑ)に兵気は不上けりとて、悉(ことごとく)此(この)女を捕へて、或(あるひ)は水に沈(しづ)め或(あるひ)は追(おひ)失(うしなひ)て、後又高き山に打上て、御方(みかた)の陣を見(みる)に、兵気盛(さかり)に立て敵の上に覆へり。其(その)後兵を進めて闘(たたかひ)を決するに、敵四方(しはう)に逃(にげ)散(ちり)て勝(かつ)事を一時に得しかば、李将軍と云(いは)れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様(かやう)にこそあるに、大敵の国に臨(のぞ)む人の兵をば次にして、先(まづ)女を先立(さきだて)給ふ事不被心得(こころえ)。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城(じやう)にも不怺、浅猿(あさまし)き体(てい)にて上洛(しやうらく)し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎(あまがさき)にて出家して諸国流浪(るらう)の世捨人(よすてびと)と成(なり)にけり。  
菊池(きくち)大友(おほとも)軍(いくさの)事(こと)
左京(さきやうの)大夫(たいふ)已(すで)に大友(おほとも)が館(たち)に著(つき)ぬと聞へければ、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光、敵に勢(せい)の著(つか)ぬ先(さき)に打散(うちちら)せとて、菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)・宇都宮(うつのみや)・岩野・鹿子木(かのこぎ)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・下田帯刀(しもたたてはき)以下勝(すぐ)れたる兵五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)を責(せめ)ん為に、九月二十三日(にじふさんにち)豊後(ぶんごの)国(くに)へ発向す。
探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)是(これ)を聞(きく)に、「抑(そもそも)我九州静謐(せいひつ)の為に被下たる者が、敵の城(じやう)へ不寄して、却(かへつ)て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先(まづ)武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待(あひまつ)までもあるまじ。路次(ろし)に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未(いまだ)幼稚にて今年十一歳に成(なり)けるを大将にて、大宰小弐(だざいのせうに)・舎弟(しやてい)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・宗像(むなかたの)大宮司(だいぐうじ)・松浦(まつらの)一党都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)にて、筑前(ちくぜんの)国(くに)長者原(ちやうじやがはら)と云(いふ)所に馳(はせ)向て、路を遮(さへぎつ)てぞ待(まち)懸(かけ)たる。
同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に菊池(きくち)彦二郎(ひこじらう)五千(ごせん)余騎(よき)を二手(ふたて)に作り長者原(ちやうじやがはら)へ押寄て戦(たたかひ)けるに、岩野・鹿子木将監(かのこぎしやうげん)・下田帯刀(しもだたてはき)已下、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)三百(さんびやく)余騎(よき)討(うた)れて、其(その)日(ひ)の大将菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)、三所まで疵を被(かうむ)りければ、宮方(みやがた)の軍勢(ぐんぜい)已(すで)に二十(にじふ)余町(よちやう)引退く。
すはや打負(うちまけ)ぬと見へける処に、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、入替て戦(たたかひ)けるに、小弐(せうに)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)、二人(ににん)共(とも)に一所にて討(うた)れぬ。其(その)外松浦(まつら)・宗像大宮司(だいぐうじ)が一族(いちぞく)・若党(わかたう)四百(しひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)二度目(にどめ)の軍に打負(うちまけ)て、皆散々(ちりぢり)に成(なり)にけり。菊池(きくち)已(すで)に手合の軍に打勝(うちかち)しかば、探題の勇威(ゆうゐ)も恐(おそる)るに不足と蔑(あなどつ)て、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光悪手(あらて)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、舎弟(しやてい)彦次郎(ひこじらう)が勢に馳加て、豊後(ぶんご)の府(ふない)へ発向す。
是(これ)までも猶(なほ)探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)・松浦(まつら)・宗像(むなかた)が勢(せい)は七千(しちせん)余騎(よき)有(あり)けるが、菊池(きくち)に気を呑(のま)れて、懸合の合戦叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、探題と大友(おほとも)とは、豊後(ぶんご)の高崎(たかざきの)城(じやう)に引篭(ひきこも)り、大宰(だざいの)小弐(せうに)は、岡(をか)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、大宮司(だいぐうじ)は棟堅(むなかた)の城(じやう)に篭て、嶮岨(けんそ)を命に憑(たのみ)ければ、菊池(きくち)は豊後(ぶんご)の府(ふない)に陣を取り、三方(さんぱう)の敵を物共せず、三の城(じやう)の中を押隔(おしへだ)て、今年は已(すで)に三年まで、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。抑(そもそも)小弐(せうに)・大友(おほとも)は大勢にて城に篭(こも)り、菊池(きくち)は小勢にて是(これ)を囲む。菊池(きくち)が城必(かならず)しも皆剛なるべからず、小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢必(かならず)しも皆臆病なるべきに非(あら)ず。只士卒の剛臆(がうおく)は大将の心による故(ゆゑ)に、九国は加様(かやう)に成(なり)にける也(なり)。  
畠山兄弟修禅寺(しゆぜんじの)城(じやうに)楯篭(たてこもる)事(こと)付(つけたり)遊佐(ゆさ)入道(にふだうの)事(こと)
筑後(ちくご)には宮方(みやがた)蜂起すといへ共、東国は無程静(しづま)りぬ。去年より畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこもつ)て東(とう)八箇国(はちかこく)の勢と戦(たたかひ)けるが、兵粮(ひやうらう)尽(つき)て落方(おちかた)も無りければ、皆城中(じやうちゆう)にて討死せんとす。左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)より使者を以て、先非(せんぴ)を悔(くい)て子孫を思はゞ、首を延(のべ)て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)は、伊豆(いづの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)還補(くわんぷ)の御教書(みげうしよ)を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府(こふ)に居て、先(まづ)舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)を、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)の御坐(おは)する箱根(はこね)の陣へぞ参らせける 。
旧好(きうかう)ある人、万死を出て二度(ふたた)び見参に入(いる)事の嬉しさよなど云て一献を勧(すす)め、此(この)程無情あたりつる傍輩(はうばい)は、いつしか媚(こび)を諛(へつらう)て、言(ことば)を卑(いや)しくし礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に追従をしける間、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立止(たちやむ)隙(ひま)もなく、座上に酒肴(さけさかな)を置連(おきつら)ねぬ時も無りけり。角(かく)て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生(いなふ)平次潜(ひそか)に来て道誓に囁(ささや)きけるは、「降参御免(ごめん)の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞(きく)に合(あは)せて、豊島(としま)因幡(いなばの)守(かみ)俄(にはか)に陣を取易(とりかへ)て、道を差塞(さしふさ)ぐ体(てい)に見へて候。今夜急(いそぎ)何(いづ)くへも落(おち)させ給(たまふ)べし。」とぞ告(つげ)たりける。
道誓聞(きき)も不敢、舎弟(しやてい)式部(しきぶの)大輔(たいふ)に屹(きつ)と目加(めくは)せしけるが、仮初(かりそめ)に出る由にて、中間一人に太刀持(もた)せ、兄弟二人(ににん)徒(かち)にて、其(その)夜先(まづ)藤沢の道場までぞ落(おち)たりける。上人甲斐々々敷(かひがひしく)馬二疋、時衆(じしゆう)二人(ににん)相副(あひそへ)て、夜昼の堺(さかひ)もなく、馬に鞭を進めて上洛(しやうらく)しけるをば、知(しる)人更(さら)にも無(なか)りけり。舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深は、箱根(はこね)の御陣に有(あり)けるが、翌(つぎ)の夜或(ある)時(とき)衆の斯(かか)る事と告(つげ)けるに驚て、さては我(われ)も何(いづ)くへか落(おち)なましと案ずれ共(ども)、東西南北皆道塞(ふさが)りて可落方(かた)も無(なか)りければ、結城(ゆふき)中務(なかつかさの)大輔(たいふ)が陣屋に来て、平(ひら)に可憑由をぞ宣ひける。是(これ)を隠さんずる事は、至極(しごく)の難義なれ共(ども)、弓矢取(とる)身の習(ならひ)、人に被憑て叶はじと云(いふ)事や可有と思(おもひ)ければ、長唐櫃(からひつ)の底に穴をあけて気を出し、其(その)櫃の中に臥(ふ)させて、数十合舁連(かきつら)ねたる鎧唐櫃(よろひからひつ)の跡にたて、態(わざ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御馬(おんむま)廻(まはり)に供奉(ぐぶ)して、尾張(をはりの)守(かみ)をべ夜に紛(まぎれ)て、藤沢の道場へぞ送りける。
命程可惜者はなかりけり。此(この)人遂(つひ)には御免(ごめん)有て、越前の守護(しゆご)に被補、国の成敗穏(おだや)かにて土民を安(やすん)ぜしかば、鰐(わに)の淵(ふち)を去り、蝗(くわう)の境(さかひ)を出る許(ばかり)也(なり)。遊佐(ゆさ)入道性阿(せいあ)は、主の被落妝(よそほひ)を軈(やが)て知たりけれ共(ども)、暫(しばら)く人にあひしらひて、主を何(いづ)くへも落延(おちのび)させん為に少(すこし)も騒(さわぎ)たる気色を不見、碁(ご)・双六(すごろく)・十服茶など呑(のみ)て、さりげなき体にて笑戯(わらひたはぶれ)て居たりければ、郎従共も外様(とざま)の人も、可思寄様無(なか)りけれ共(ども)、遂(つひ)に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落(おち)たりと沙汰する程こそ有(あり)けれ。
軈(やが)て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只(ただ)一人京を志(こころざし)てぞ落(おち)行(ゆき)ける。兔角(とかく)して湯本(ゆのもと)まで落(おち)たりけるが、行合(ゆきあふ)人に口脇(くちわき)なる疵(きず)を隠さん為に、袖にて口覆(くちおほひ)して過(すぎ)けるを見る人中々あやしめて、帽子(ぼうし)を脱(ぬが)せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕(あらは)れて可遁様無(なか)りければ、宿屋の中門に走上(わしりあがり)て、自(みづから)喉(のど)ぶへ掻放(かきはな)ち返す刀に腹切て、袈裟(けさ)引被(ひきかづ)きて死(しに)にけり。江戸修理(しゆりの)亮(すけ)は竜口(たつのくち)にて生捕(いけどら)れて斬(きら)れぬ。其(その)外此(ここ)に隠れ、彼(かしこ)に落行(おちゆき)ける郎従共六十(ろくじふ)余人(よにん)、或(あるひ)は被捜出て切(きら)れ、或(あるひ)は被追懸腹を切る。
目も当(あて)られぬ有様也(なり)。畠山(はたけやま)入道(にふだう)兄弟、無甲斐命助(たすか)りて、七条の道場へ夜半許(ばかり)に落著(おちつき)たりけるを、聖二三日労(いたは)り奉て、道の案内者(あんないしや)少々相副(あひそへ)て、行路の資(たすけ)など様々に用意(ようい)して南方へぞ被送ける。道誓暫(しばら)く宇知郡(うちのこほり)の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨(りんし)を申(まうし)てたび候へ。」と、宣ひ遣(つかは)されたりけれども、楠さしも許容の分無(なか)りければ、宇知(うちの)郡(こほり)にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺(やましろわきへん)に、とある禅院律院、或(あるひ)は山賎(やまがつ)の柴(しば)の庵(いほ)、賎士(しづ)がふせ屋のさびしきに、袂(たもと)の露を片敷(かたしき)て、夜を重(かさ)ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許(ばかり)にて、朝三暮四(てうさんぼし)の資(たすけ)に心有(ある)人もがなと、身を苦しめたる有様、聞(きく)に耳冷(すさまじ)く、見(みる)に目も充(あて)られず。
幾程もなく、兄弟共に無墓成(なり)けるこそ哀なれ。人間の栄耀(えいえう)は風前(まへの)塵(ちり)と白居易(はくきよい)が作り、富貴(ふつきは)草頭(さうとうの)露と杜甫(とほ)が作りしも理(ことわ)り哉(かな)。此(この)人々去々年の春は、三十万騎(さんじふまんぎ)が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇(あふい)で、靡(なび)かぬ草木も無(なか)りしに、いつしか三年を不過、乍(たちまち)生恥(いきはぢ)を曝(さら)して、敵陣の堺(さかひ)に吟(さまよ)ひぬる事、更に直事(ただこと)とは不覚(おぼえず)。此(この)人に被出抜討(うた)れし新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)怨霊(をんりやう)と成て、吉野の御廟(ごべう)へ参(まゐり)たりけるが、「畠山をば義興が手に懸(かけ)て、乍生軍門に恥を曝(さら)さすべし。」と奏し申ける由(よし)、先立(さきだち)て人の夢に見て、天下に披露(ひろう)有(あり)しも訛(あやまり)にては無りけりと、今こそ思(おもひ)知(しら)れたり。  
細川相摸守(さがみのかみ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)西長尾(にしながを)軍(いくさの)事(こと)
讃岐には細川相摸守(さがみのかみ)清氏と細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)と、数月(すげつ)戦(たたかひ)けるが、清氏遂(つひ)に討(うた)れて、四国無事故閑(しづま)りにけり。其(その)軍の様を伝(つたへ)聞(きく)に、相摸守(さがみのかみ)四国を打平(うちたひら)げて、今一度(いちど)都を傾(かたぶけ)て、将軍を亡(ほろぼ)し奉らんと企(くはた)て、堺(さかひ)の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸(さがみの)守(かみ)がいとこの兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)淡路(あはぢの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつく)。其(その)弟掃部(かもんの)助(すけ)、讃岐(さぬきの)国(くに)の勢を相催(あひもよほし)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。
小笠原宮内(くないの)大輔(たいふ)、阿波(あはの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつき)ける間、清氏の勢(せい)は無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。其比(そのころ)右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)は、山陽道(せんやうだう)の蜂起(ほうき)を静(しづめ)んとて、備中(びつちゆうの)国(くに)に居たりけるが、此(この)事を聞て、備中・備前両国の勢千(せん)余騎(よき)を卒(そつ)し、讃岐(さぬきの)国(くに)へ押渡る。
此(この)時(とき)若(もし)相摸守(さがみのかみ)敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦(いつせん)も利あるまじかりしを、右馬(うまの)頭(かみ)飽(あく)まで心に智謀(ちぼう)有て、機変(きへん)時(とき)と共に消息(せうそく)する人也(なり)ければ、兼(かね)て母儀(ぼぎ)の禅尼を以て、相摸守(さがみのかみ)の許(もと)へ言遣(いひやり)けるは、「将軍群少の讒佞(ざんねい)を不被正、貴方(きはう)無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝(ちんじや)に言(ことば)無(なく)して寇讐(こうしう)に恨(うらみ)有(あり)し事、頼之尤(もつとも)其(その)理に服し候き。乍去、故左大臣殿(さだいじんどの)も、仁木(につき)・細川の両家(りやうけ)を股肱(ここう)として、大樹(たいじゆ)累葉(るゐえふ)の九功を光栄すべしとこそ被仰置候(さふらひ)しに、一家(いつけ)の好(よしみ)を放(はなれ)て敵に降り、多年の忠を捨(すてて)、戦(たたかひ)を被致候はん事、亡魂の恨(うらみ)苔(こけ)の下まで深く、不義の譏(そし)り世の末までも不可朽。頼之苟(いやしく)も此(この)理を存ずる故(ゆゑ)に、全(まつた)く貴方(きはう)と合戦を可致志を不廻。
往者(いんじを)不尤と申(まうす)事候へば、御憤(おんいきどほり)今は是(これ)までにてこそ候へ。枉(まげ)て御方(みかた)へ御参(おんまゐり)候へ。御分国已下、悉(ことごとく)日来(ひごろ)に不替可申沙汰にて候。若(もし)又其(そ)れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆(はんぶく)に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨(すて)て備中へ可罷返候。」言(ことば)を和(やはら)げ礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に和睦(わぼく)の儀を請(こは)れけるを、相摸守(さがみのかみ)心浅(あさく)信じて、問答に日数を経(へ)ける間に右馬(うまの)頭(かみ)中国の勢を待調(まちととの)へ城郭(じやうくわく)を堅く拵(こしらへ)て、其(その)後は音信(おとづれ)も無(なか)りけり。相摸守(さがみのかみ)の陣は白峯(しらみね)の麓、右馬(うまの)頭(かみ)の城(じやう)は歌津(うたつ)なれば、其(その)あはひ僅(わづか)に二里也(なり)。
寄(よせ)やする待(まち)てや戦ふと、互に時を伺(うかがう)て数日(すじつ)を送りける程に、右馬(うまの)頭(かみ)の勢、太略(たいりやく)遠国の者共(ものども)なれば、兵粮につまりて窮困(きゆうこん)す。角(かく)ては右馬(うまの)頭(かみ)は讃岐(さぬきの)国(くに)には怺(こらへ)じと見へける程に、結句備前の飽浦(あくら)薩摩(さつまの)権(ごんの)守(かみ)信胤(のぶたね)宮方(みやがた)に成て、海上に押浮(おしうかめ)、小笠原美濃(みのの)守(かみ)、相摸守(さがみのかみ)に同心して、渡海(とかい)の路を差塞(さしふさぎ)ける間、右馬(うまの)頭(かみ)の兵は日々に減じて落(おち)行き、相摸守(さがみのかみ)の勢(せい)は国々に聞へて夥(おびたた)し。只(ただ)魏(ぎ)の将司馬仲達(しばちゆうたつ)が、蜀の討手に向て、戦はで勝(かつ)事を得たりけん、其謀(そのはかりこと)に相似たり。
七月二十三日(にじふさんにち)の朝、右馬(うまの)頭(かみ)帷帳(ゐちやう)の中より出て、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)真行(さねゆき)を近付(ちかづけ)て宣ひけるは、「当国両陣の体(てい)を見るに、敵軍は日々にまさり、御方(みかた)は漸々(ぜんぜん)に減ず。角(かく)て猶(なほ)数日(すじつ)を送らば、合戦難儀に及(および)ぬと覚(おぼゆ)る。依之(これによつて)事をはかるに宮方(みやがた)の大将に、中院(なかのゐんの)源少将と云(いふ)人、西長尾(にしながを)と云(いふ)所に城を構(かまへ)てをはすなる。此(この)勢を差向(さしむけ)て可攻勢(いきほひ)を見せば、相摸守(さがみのかみ)定(さだめ)て勢を差分(さしわけ)て城へ入(いる)べし。其(その)時(とき)御方の勢(せい)城(じやう)を攻(せめ)んずる体(てい)にて、向城(むかひじやう)を取て、夜に入らば篝(かがり)を多く焼捨(たきすて)てこと道より馳(はせ)帰り、軈(やが)て相摸守(さがみのかみ)が城へ押寄せ、頼之搦手(からめて)に廻(まは)りて先(まづ)小勢を出し、敵を欺(あざむ)く程ならば、相摸守(さがみのかみ)縦(たとひ)一騎(いつき)なり共懸(かけ)出て、不戦云(いふ)事有(ある)べからず。
是(これ)一挙(いつきよ)に大敵を亡(ほろぼ)す謀(はかりこと)なるべし。」とて、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)に、四国・中国の兵五百(ごひやく)余騎(よき)を相副(あひそへ)、路次(ろし)の在家に火を懸(かけ)て、西長尾へ向(むけ)られける。如案相摸守(さがみのかみ)是(これ)を見て、敵は西長尾の城(じやう)を攻(せめ)落(おと)して、後(うしろ)へ廻(まは)らんと巧(たくみ)けるぞ。中(なかの)院(ゐん)殿(どの)に合力せでは叶(かなふ)まじとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)、いとこの掃部(かもんの)助(すけ)を両大将として、千(せん)余騎(よき)の勢を西長尾の城(じやう)へ差向(さしむけ)らる。新開元来(もとより)城(じやう)を攻(せめ)んずる為ならねば、態(わざ)と日を暮(くら)さんと、足軽少々差向(さしむけ)て、城の麓なる在家所々焼払(やきはらひ)て、向陣(むかひぢん)をぞ取たりける。
城は尚(なほ)大勢なれば、哀(あは)れ新開が寄(よせ)て責(せめ)よかし。手負少々射出して後、一度(いちど)にばつと懸(かけ)出て、一人も不残討(うち)留(とどめ)んとぞ勇(いさみ)ける。夜已(すで)に深ければ、新開向陣(むかひぢん)に篝(かがり)を多く焼(たき)残して、山を超(こえ)る直道(すぐみち)の有(あり)けるより引返して、相摸守(さがみのかみ)の城(じやう)の前白峯(しらみね)の麓へ押寄(おしよす)る。兼(かね)て定めたる相図なれば、同(おなじき)二十四日の辰(たつの)刻(こく)に、細川右馬(うまの)頭(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ廻(まは)り、二手(ふたて)に分れて時の声をぞ挙(あげ)たりける。
此(この)城(じやう)元来(もとより)鳥も難翔程に拵(こしらへ)たれば、寄手(よせて)縦(たとひ)如何(いか)なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易(たやすく)可攻落城ならず。其(その)上(うへ)新開(しんかい)、西長尾より引帰(ひつかへし)ぬと見へば、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)軈(やが)て馳(はせ)帰て、寄手(よせて)を追掃(おひはら)はん事、却(かへつ)て城方(しろがた)の利に成(なる)べかりけるを、相摸守(さがみのかみ)はいつも己(おのれ)が武勇(ぶよう)の人に超(こえ)たるを憑(たのみ)て、軍立(いくさだて)余(あま)りに大早(おほはやり)なる人なりければ、寄手(よせて)の旗の手を見ると均(ひとし)く、二の木戸(きど)を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷(あはせ)の小袖引(ひき)せたをりて、鎧許(ばかり)を取て肩に抛懸(なげかけ)て、馬上にて上帯(うはおび)縮(しめ)て、只(ただ)一騎(いつき)懸(かけ)出(いで)給へば、相順(あひしたが)ふ兵三十(さんじふ)余騎(よき)も、或(あるひ)はほうあてをして未(いまだ)胄(かぶと)をも不著、或(あるひ)は篭手(こて)を差して未(いまだ)鎧を不著、真前(まつさき)に裹連(つつみつれ)たる敵千(せん)余騎(よき)が中へ破(わつ)て入る。
哀れ剛の者やとは乍見、片皮破(かたかはやぶり)の猪武者(ゐのししむしや)、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守(さがみのかみ)敵を物とも思はざりけるも理(ことは)り哉(かな)。寄手(よせて)千(せん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、相摸守(さがみのかみ)一騎(いつき)に懸分(かけわけ)られて、魚鱗(ぎよりん)にも不進鶴翼(くわくよく)にも不囲得、此(こ)の塚(つか)の上彼(かしこ)の岡に打上りて、馬人共に辟易(へきえき)せり。
相摸守(さがみのかみ)は鞍の前輪(まへわ)に引付て、ねぢ頚(くび)にせられける野木(やぎ)備前(びぜんの)次郎・柿原(かきはら)孫四郎(まごしらう)二人(ににん)が首を、太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差(さし)挙げ、「唐土(たうど)・天竺・鬼海(きかい)・太元(たいげん)の事は国遠ければ未知(いまだしらず)、吾朝(わがてう)秋津島の中に生れて、清氏に勝(まさ)る手柄の者有(あり)とは、誰もやはいふ。敵も他人に非(あら)ず、蓬(きたな)く軍(いくさ)して笑はるな。」と恥(はぢ)しめて、只(ただ)一騎(いつき)猶(なほ)大勢の中へ懸(かけ)入(いり)給(たまふ)。飽(あく)まで馬強(つよ)なる打物(うちもの)の達者が、逃(にぐ)る敵を追立(おひたて)々々(おひたて)切て落せば、其鋒(そのきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は馬と共に尻居(しりゐ)に打居(うちすゑ)られ、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢を胸板(むないた)まで被破付、深泥(しんでい)死骸に地を易(かへ)たり。
爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)真壁(まかべ)孫四郎(まごしらう)と備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊賀掃部(いがかもんの)助(すけ)と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引(ひき)けるを、相摸守(さがみのかみ)追付て切(きら)んと、諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて責(せめ)られける処に、陶山が中間そばなる溝(みぞ)にをり立て、相摸守(さがみのかみ)の乗(のり)給へる鬼鹿毛(おにかげ)と云(いふ)馬の、草脇(くさわき)をぞ突(つい)たりける。此(この)馬さしもの駿足(しゆんそく)なりけれ共(ども)、時の運にや曵(ひか)れけん一足(ひとあし)も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守(さがみのかみ)は近付て、敵の馬を奪はんと、手負(ておう)たる体(てい)にて馬手(めて)に下(お)り立ち、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て立(たた)れたりけるを、真壁(まかべ)又馳(はせ)寄せ、一太刀(ひとたち)打ち当倒(あてたふさ)んとする処に、相摸守(さがみのかみ)走(はしり)寄て、真壁(まかべ)を馬より引(ひき)落(おと)し、ねぢ頚(くび)にやする、人竜礫(ひとつぶて)にや打つと思案したる様にて、中(ちう)に差(さし)上(あげ)てぞ立(たた)れたる。
伊賀掃部(かもんの)助(すけ)高光は懸合(かけあは)する敵二騎切て落(おと)し、鎧に余る血を笠符(かさじるし)にて押拭(おしのご)ひ、「何(いづ)くにか相摸殿(さがみどの)のをはすらん。」と東西に目を賦(くば)る処、真壁孫四郎(まごしらう)を中(ちう)に乍提、其(その)馬に乗(のら)んとする敵あり。「穴(あな)夥(おびたた)し。凡夫(ぼんぶ)とは不見、是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)にてぞをはすらん。是(これ)こそ願ふ処の幸よ。」と思(おもひ)ければ、伊賀掃部(かもんの)助(すけ)畠を直違(すぢかひ)に馬を真闇(まつくろ)に馳(はせ)懸(かけ)て、むずと組(くん)で引かづく。相摸守(さがみのかみ)真壁をば、右の手にかい掴(つかん)で投(なげ)棄(すて)、掃部(かもんの)助(すけ)を射向(いむけ)の袖の下に押へて頭(くび)を掻(かか)んと、上帯(うはおび)延(のび)て後(うしろ)に回(まは)れる腰の刀を引回(ひきまは)されける処に、掃部(かもんの)助(すけ)心早き者なりければ、組(くむ)と均(ひとし)く抜(ぬい)たりける刀にて相摸守(さがみのかみ)の鎧の草摺(くさずり)はねあげ、上様(あげさま)に三刀(みかたな)さす。刺(ささ)れて弱れば刎返(はねかへ)して、押へて頚をぞ取たりける。
さしもの猛将(まうしやう)勇士(ゆうし)なりしか共、運尽(つき)て討(うた)るゝを知(しる)人更(さら)に無(なか)りしかば、続(つづい)て助(たすく)る兵もなし。森次郎左衛門(じらうざゑもん)と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方(みかた)もなし。其(その)身は深田の泥の土にまみれて、頚(くび)は敵の鋒(きつさき)にあり。只(ただ)元暦(げんりやく)の古、木曾(きそ)義仲(よしなか)が粟津(あはづ)の原に打(うた)れ、暦応二年の秋の初(はじめ)、新田左中将(さちゆうじやう)義貞の足羽(あすは)の縄手(なはて)にて討(うた)れたりし二人(ににん)の体(てい)に不異。西長尾の城(じやう)に向(むけ)られたりつる左馬(さまの)助(すけ)、二十四日の夜明(あけ)て後、新開(しんかい)が引帰したるを見て、「是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)御陣の勢を外へ分(わけ)させて、差(さし)違ふて城へ寄(よせ)んと忻(たばかり)けるを。軍(いくさ)今は定(さだめ)て始(はじま)りぬらん。
馳返て戦へ。」とて、諸鐙(もろあぶみ)に策(むち)をそへて、千里を一足(ひとあし)にと馳(はせ)返り給へば、新開道に待(まち)受(うけ)て、難所に引懸(ひきかけ)て平野(ひらの)に開(ひらき)合(あは)せ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦たり。互(たがひ)に討(うち)つ討(うた)れつ、東西に地を易(か)へ、南北に逢(あう)つ別(わかれ)つ、二時許(ばかり)戦て、新開遂(つひ)に懸(かけ)負(まけ)ければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)兄弟、勝時(かちどき)三声(みこゑ)揚(あげ)させて、気色ばうたる体(てい)にて、白峯(みねの)城(じやう)へ帰(かへり)給ふ。斯(かか)る処に笠符(かさじるし)かなぐり捨て、袖・甲(かぶと)に矢少々射付(いつけ)られたる落武者共(おちむしやども)、二三十騎(にさんじつき)道に行合たり。
迹(あと)に追著(おひつき)て、「軍の様何(なに)と有(あり)けるぞ。」と問(とひ)給へば、皆泣声にて、「早(はや)相摸殿(さがみどの)は討(うた)れさせ給(たまひ)て候也(なり)。」とぞ答へける。「こは如何(いかに)。」とて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、敵早(はや)入替(いりかはり)ぬと覚(おぼえ)て、不見し旗の紋共関櫓(きどやぐら)の上に幽揚(いうやう)す。重(かさね)て戦(たたかは)んとするに無力、楯篭(たてこも)らんとするに城なければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)、落行(おちゆく)勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其(その)国(くに)に志有し兵共(つはものども)、此(この)事を聞て、何(いつ)しか皆(みな)心替(こころがはり)しければ、淡路にも尚(なほ)たまり得ず、小船一艘(いつさう)に取乗て、和泉(いづみの)国(くに)へぞ落(おち)られける。是(これ)のみならず、西長尾(にしながをの)城(じやう)も被攻ぬ前(さき)に落(おち)しかば、四国は時の間(ま)に静(しづま)りて、細川右馬(うまの)頭(かみ)にぞ靡順(なびきしたが)ひける。  
和田楠与箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)軍(いくさの)事(こと)
南方の敵軍和田・楠も、相摸守(さがみのかみ)に兼(かね)て相図を定(さだめ)て、同時に合戦を始(はじめ)んと議したりけるが、七月二十四日相摸守(さがみのかみ)討(うた)れて、四国・中国は太略細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之に靡順(なびきしたがひ)ぬと聞へければ、日来(ひごろ)の支度(したく)相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様(かやう)にて徒(いたづら)に日を送らば、敵は弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て、諸国の御方(みかた)降人(かうにん)になる者ありぬと覚(おぼゆ)れば、一軍(ひといくさ)して国々の宮方(みやがた)に気を直させんとて、和田・楠其(その)勢八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)し、野伏(のぶし)六千(ろくせん)余人(よにん)神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)へ打臨(うちのぞ)む。此比(このころ)摂津国(つのくに)の守護(しゆご)をば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が持(もち)たりければ、其(その)身は京都に有乍(ありなが)ら、箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)に勢百四五十騎(ひやくしごじつき)付(つけ)て、国の守護代(しゆごだい)にぞ置たりける。
催促(さいそく)の国人(くにうど)取合(とりあはせ)て、其(その)勢僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)、神崎(かんざき)の橋二三間(にさんげん)焼(やき)落(おとし)て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃(やじり)を汰(そろへ)て待(まち)懸(かけ)たり。和田・楠態(わざと)敵を忻(たばから)ん為に、神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)と株瀬(くひぜ)と二箇所(にかしよ)に打向て引(ひか)へたれば、此(ここ)を渡させじと、箕浦(みのうら)弥次郎(やじらう)・同四郎左衛門(しらうざゑもん)・塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・多賀将監(たがのしやうげん)・後藤木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則(やすのり)以下五十(ごじふ)余騎(よき)は株瀬(くひぜ)へ馳(はせ)向ふ。
守護代(しゆごだい)箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・伊丹(いたみ)大和(やまとの)守(かみ)・河原林(かはらばやし)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)・中白(なかじろ)一揆(いつき)三百(さんびやく)余騎(よき)は神崎(かんざきの)橋爪へ打臨(うちのぞ)む。橋桁(はしけた)は元来(もとより)焼落(おと)したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共(つはものども)、縦(たとひ)弥長(やたけ)に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日(じふろくにち)の夜半許(ばかり)に、和田・楠、元の陣に尚(なほ)控(ひか)へたる体(てい)を見せん為に、殊更(ことさら)篝(かがり)を多く焼続(たきつづ)けさせて、是(これ)より二十(にじふ)余町(よちやう)上なる三国(みくに)の渡より打渡(うちわたし)て、小屋野(こやの)・富松(とまつ)・河原林(かはらばやし)へ勢(せい)を差回(さしまは)して、敵を河へ追(おひ)はめんと取篭(とりこめ)たり。京勢(きやうぜい)は是(これ)を夢にも知(しら)ねば、徒(いたづら)に河向に敵未(いまだ)引(ひか)へたりと肝繕(きもづくろひ)して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃(もえ)出て、煙の下に旗の手数(あま)た見へたり。
是(これ)までも尚(なほ)敵川を越たりとは思(おもひ)も不寄、焼亡(ぜうまう)は御方(みかた)の軍勢共(ぐんぜいども)の手過(てあやま)ちにてぞ有(ある)らんと由断(ゆだん)して、明(あけ)行(ゆく)侭(まま)に後(うしろ)を遥(はるか)に見渡したれば、十(じふ)余箇所(よかしよ)に村雲(むらくも)立て引(ひか)へたる勢(せい)、旗(はた)共(ども)は、皆菊水の紋也(なり)。「さては敵早(はや)川を渡してけり。平場(ひらば)の懸(かけ)合(あひ)は叶(かなふ)まじ、城へ引篭(ひきこもつ)て戦へ。」とて、浄光寺(じやうくわうじ)の要害(えうがい)へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚(おぼえ)て、勝時(かちどき)を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是(これ)を見て中白(なかじろ)一揆(いつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)は、国人なれば案内を知て、何(いつ)の間(ま)にか落(おち)失(うせ)けん一騎(いつき)も不残留、只守護(しゆご)の家人僅(わづか)五十(ごじふ)余騎(よき)、思(おもひ)切たる体(てい)に見へて、二箇所(にかしよ)に控(ひか)へて居たりける。
両所に扣(ひか)へたる勢、一所に打(うち)寄らんとしけるが、敵の大勢に早(はや)中を隔(へだて)られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)東を差(さ)して落(おち)行(ゆく)に、両方深田なる細堤(ほそづつみ)を、敵立切(たちきり)て是(これ)を打(うち)留めんと、行前(ゆくさき)を遮(さへぎ)り道を要(よぎつ)て、取篭(とりこむる)事度々(どど)に及べり。され共箕浦懸(かけ)破ては通(とほ)り取て返(かへし)ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門(だんじやうざゑもん)は討(うた)れぬ。是(これ)を見て芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)、すげなう引(ひき)分(わか)れて落(おち)て行(ゆか)んとしけるを、「日比(ひごろ)の口には似ぬ者哉(かな)。」と箕浦に言(ことば)を被懸、一所に打寄て相伴(あひともな)ふ。
箕浦是(これ)を案内者(あんないしや)にて、数箇所(すかしよ)の敵の中を遁(のが)れ出、都を差(さし)てぞ上りける。下の手に扣(ひか)へたる者共(ものども)は、落方(おちがた)を失て惘然(ばうぜん)として居たるを、木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則、「兵共(つはものども)の掟(おきて)、面々存知(ぞんぢ)の前なれ共(ども)、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生(いき)んとすれば死(しぬ)る者にて候ぞ。只幾度(いくたび)も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣(ひか)へたらん所へ懸(かけ)入て戦はんに、討(うたる)れば元来(もとより)の儀、討(うた)れずは懸(かけ)抜(ぬけ)て、西を指(さし)て落(おち)て行(ゆか)んに、敵もさすが命を捨(すて)ては、さのみ長追をばし候はん哉(や)。と云(いふ)処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云(いふ)侭(まま)に、浄光寺前に百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵の方へ、馬を引返して歩(あゆ)ませ行く。
敵是(これ)を見て、是(これ)は何様(いかさま)降人(かうにん)に出(いづ)る者かと、少し猶余(いうよ)して扣(ひか)へたる処に、歩立(かちだち)なる石津(いしづ)助五郎(すけごらう)行泰に、矢二筋(ふたすぢ)三筋(さんすぢ)射させて、敵の馬の足少(ちと)しどろになれば、三騎の者どもをつと喚(をめい)て懸(かけ)入るに、百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵颯(さつ)と分れ靡(なび)きて、敢(あへ)て是(これ)に当(あた)らんとせず。只射手(いて)を進めて射させける程に、箕浦弥次郎(やじらう)討れぬ。同四郎左衛門(しらうざゑもん)深手を負(おう)て田中に臥(ふし)たり。塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・木村兵庫も、馬の平頚(ひらくび)・草脇(くさわき)二所射させて深田のあぜに下(おり)立たり。
すはや討(うた)れぬと見へけるが、木村兵庫放(はな)れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶(えんや)を、馬の上より手を引て尼崎(あまがさき)へ落(おち)て行く。敵迹(あと)に付ても追(おは)ざりければ、道場(だうぢやう)の内に一夜(いちや)隠れ居て翌(あけ)の夜京へぞ上りける。和田・楠等(くすのきら)只一軍(ひといくさ)に摂州の敵を追(おひ)落(おと)して勝(かつ)に乗(のる)といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶(なほ)兵庫の北なる多田部(たたへの)城(じやう)に篭(こもつ)て、兵庫湊河(みなとがは)を管領すと聞へければ、九月十六日(じふろくにち)、石堂右馬(うまの)頭(かみ)・和田・楠三千(さんぜん)余騎(よき)にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇(いちう)も不残焼払(やきはら)ふ。此(この)時(とき)赤松判官兄弟は、多田部・山路(やまち)二箇所(にかしよ)の城(じやう)に篭(こもつ)て、敵懸(かか)らば爰(ここ)にて利をせんと待(まち)懸(かけ)けるが、楠いかゞ思ひけん、軈(やが)て兵庫より引返しければ、赤松出会(いであふ)に不及、野伏少々城より出して、遠矢(とほや)射懸(いかけ)たる許(ばかり)にて、墓々敷(はかばかしき)軍は無(なか)りけり。
都には同九月晦日改元(かいげん)有て貞治(ぢやうじ)と号(がう)す。是(これ)は南方の蜂起(ほうき)さてもや静まると、諸卿申(まうし)合(あは)れし故(ゆゑ)也(なり)。げにも改元(かいげん)の験(しるし)にや、京都より武家の執事尾張(をはりの)大夫入道(たいふにふだう)、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮(にしのみや)の陣を引(ひい)て河内(かはちの)国(くに)へ帰りぬ。是(これ)を聞て山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏が勢の、丹波の和久(わく)に居たりしも、因幡(いなばの)国(くに)へぞ引返しける。今年天下已(すで)に同時に乱(みだれ)て、宮方(みやがた)眉(まゆ)開きぬと見へけるが、無程国々静(しづま)りけるも、天運の未(いまだ)至らぬ処とは云(いひ)ながら、先(まづ)は細川相摸守(さがみのかみ)が楚忽(そこつ)の軍して、無云甲斐討死をせし故(ゆゑ)也(なり)。  
太元(たいげんの)軍(いくさの)事(こと)
昔孔子(こうし)謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍(そば)にて聞(きき)ける子路、大に忿(いかつ)て曰(いはく)、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子(こうし)重(かさね)て子路を諌(いさめ)て曰(のたまはく)、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也(なり)。必也(なり)。臨事而懼、好謀而成者也(なり)。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪(うば)ふ事、只武(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。兼(かね)ては謀(はかりこと)を廻(めぐ)らし智慮を先とするにあり。今大宋(たいそう)国の四百州一時に亡(ほろび)て、蒙古(もうこ)に奪(うば)はれたる事も、西蕃(せいばん)の帝師が謀(はかりこと)を廻(めぐら)せしによれり。
其草創(そのさうさう)のよれる所を尋ぬれば、宋朝(そうてう)世を治(をさめ)て已(すで)に三十七代、其(その)亡(ほろび)し時の帝をば幼帝(えうてい)とぞ申ける。此(この)時(とき)太元(たいげん)の国主老(こくしゆらう)皇帝(くわうてい)、其比(そのころ)は未(いまだ)吐蕃(とばん)の諸侯にてありけるが、哀(あは)れ何(いか)にもして宋朝四百州・雲南万里(うんなんばんり)・高麗(かうらい)三韓(さんかん)に至るまで不残是(これ)を打(うち)取(とら)ばやと思ふ心、骨髄(こつずゐ)に入て止(やむ)時(とき)なし。或(ある)時(とき)彼(かの)老皇帝(らうくわうてい)此(この)事を天に仰(あふ)ぎ、少し目睡(まどろみ)給(たまひ)ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝(らうくわうてい)と楊子江(やうすがう)を隔(へだて)て陣を張(はり)て相対(あひたい)する事日久し。時に楊子江、俄(にはか)に水旱(ひ)て陸地(くがぢ)となる。
両陣の兵已(すで)に相近(あひちかづき)て戦はんとする処に、幼帝は其(その)身化(け)して勇猛忿迅(ゆうまうふんじん)の獅子(しし)となり、老皇帝(らうくわうてい)は形俄(にはか)に変じて白色柔和(はくしきにうわ)の羊(ひつじ)となる。両方の兵是(これ)を見て、弓をふせ戈(ほこ)を棄(すて)て、「天下の勝負は只(ただ)此(この)獅子と羊との戦(たたかひ)に可在。」と伺見(うかがひみ)る処に、羊獅子の忿(いか)れる形に懼(おそ)れて忽(たちまち)に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝(らうくわうてい)夢醒(さめ)て後(のち)心更(さら)に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給(たまひ)ければ、夙(つと)に起(おき)て西蕃(せいばん)の帝師(ていし)に此(この)夢を語り給ふ。
帝師是(これ)を聞て心の中に夢を占(うらなう)て謂(いはく)、「羊と云(いふ)文字は八点に王を書て懸針(かけはり)を余(あま)せり。八点は角(つの)なり、懸針(かけはり)は尾(を)なり。羊二(ふたつ)の角と一(ひとつ)の尾を失(うしな)はゞ王と云(いふ)字になるべし。是(これ)老皇帝(らうくわうてい)太元(たいげん)宋国(そうこく)高麗(かうらい)の国を合(あは)せ保(たもつ)て天下に主たるべき瑞相(ずゐさう)也(なり)。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿(いか)ると見へけるも、自滅(じめつ)の相(さう)也(なり)。獅子の身中に毒虫(どくちゆう)ありて必(かならず)其(その)身を食殺(くひころ)す。如何様(いかさま)幼帝の官軍(くわんぐん)の中に弐(ふたごころ)ある者出来て、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする事あるべし。」と占(うらなふ)。夢の理(ことわ)り明(あきらか)に両方の吉凶(きつきよう)を心に勘(かんが)へければ、「是(これ)大(おほい)なる吉夢(きつむ)也(なり)。
時を不易兵を召(めさ)れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師(ていし)勧(すす)め申されける。老皇帝(らうくわうてい)は元来(もとより)帝師が才智を信じて、万事を是(これ)が申(まうす)侭(まま)に用ひ給ひければ、重(かさね)て吉凶の故を尋(たづね)問(とふ)までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催(もよほ)して、楊子江の北(きた)の畔(ほとり)に打臨(うちのぞ)み、河の面三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)に浮橋(うきはし)を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国(たいそうこくの)幼帝此(この)事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相(はくがんじようしやう)を上将軍(じやうしやうぐん)として百万騎、襄陽(じやうやう)の守(しゆ)呂文煥(りよぶんくわん)を裨(ひ)将軍(しやうぐん)として三十万騎(さんじふまんぎ)、大金(たいきん)の賈似道(かじたう)・賈平相(かへいしやう)兄弟を副将軍(ふくしやうぐん)として、六十万騎(ろくじふまんぎ)を差(さし)下さる。
三軍の兵三百万騎、江南(かうなん)に打臨(うちのぞ)み、夜を日に継(つい)で、楊子江を前に直下(みおろし)て、三箇所(さんかしよ)に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進(すすみ)て、楊子江の南に控(ひか)へたりけるが、太元の兵共(つはものども)の浮橋をかけ陣を張(はり)たる体(てい)を見て、謀(はかりこと)を廻(めぐら)して不戦勝(かつ)事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里(ろくじふり)後(うしろ)に高く岨(けはし)き山を城に拵(こしらへ)て、四方(しはう)の屏(へい)を何(いか)に打破る共無左右破られぬ様に高く塗(ぬら)せて、内に数千間の家を透間(すきま)もなく作り並(なら)べ、櫓(やぐら)の上矢間(やま)の陰(かげ)に、人形を数千万(すせんまん)立(たて)置(おき)て、或(あるひ)は戈(ほこ)をさしまねき刃(やいば)を交(まじ)へ或(あるひ)は大皷(たいこ)を打(うち)弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理(しつらひ)、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一(ひとつ)開て、内に実(まこと)の兵を二百(にひやく)余人(よにん)留(とどめ)置き、敵城へ寄せば暫(しば)し戦ふ真似をしてふせぎ兼(かね)たる体(てい)を見せよ。敵勝(かつ)に乗て城中(じやうちゆう)へ責(せめ)入らば敵を皆内へ帯(おび)き入(いれ)て後(のち)、同時に数千(すせん)の家々に火を懸(かけ)て、己(おのれ)が身許(ばかり)隠して、堀(ほつ)たる土の穴より遁(のがれ)出て敵を皆可焼殺とぞ謀(はか)りける。
去(さる)程(ほど)に三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)の浮橋を已(すで)に渡(わたし)すましてければ、太元の兵三百万騎争(あらそ)ひ前(すすん)で橋を渡る。伯顔丞相兼(かね)て謀(たばかり)たる事なれば、矢軍些(ちと)する真似(まね)して、暫(しばらく)も不支引て行(ゆく)。太元の兵勝(かつ)に乗て、逃(にぐ)るを追(おふ)事甚(はなはだ)急也(なり)。宋国の兵猶(なほ)も偽(いつはり)て引(ひく)体(てい)を敵に推(すゐ)せられじと、楯・鉾(ほこ)・鎧・胄を取捨て、堀溝(ほりみぞ)に馬を乗(のり)棄(すて)て我先(さき)にと逃走(にげはし)る。是(これ)を謀(たばか)るとも不知ける羽衛(うゑ)斥候(せきこう)の兵、徒(いたづら)に命を軽(かろん)じて討死するも多かりけり。
日已(すで)に暮(くれ)ければ、宋国の兵城へ引篭(ひきこも)る真似(まね)をして後(うしろ)なる深山(みやま)へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗て、則(すなはち)是(これ)を討(うた)んと城の際(きは)までぞ攻(せめ)たりける。旗を進め戈(ほこ)をさしまねきて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、櫓(やぐら)の上屏(へい)の陰(かげ)に、兵袖を連ねて並居(なみゐ)たりとは見へながら、時の声も幽(かすか)に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是(これ)を見て、人形の木偶人(もくぐうにん)共(ども)に誠の人が少々相交(あひまじは)りてふせぐ真似(まね)するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引(とほびき)して気疲(つかれ)勢(いきほひ)尽(つき)はてけるぞ。時を暫(しばらく)も不可捨。攻(せめ)よや兵共(つはものども)。」と諌(いさ)め罵(ののしつ)て、責皷(せめつづみ)を打て楯を進めければ、城中(じやうちゆう)に少々残(のこし)置(おか)れたる兵共(つはものども)、暫(しばらく)有て火の燃(もえ)出る様に、家々に火を懸(かけ)て、ぬけ穴より逃走(にげさり)ける。
木偶人(もくぐうにん)誠(まこと)の兵ならねば、敵責入(せめい)れ共防(ふせ)ぐ者なし。太元三百万騎の兵共(つはものども)、勇み進(すすん)で二(ふた)つともなき木戸より城の中へ込入(こみい)り、或(あるひ)は偽(いつはり)て棄(すて)置(おき)たる財宝を争(あらそう)て奪(うばひ)合ひ、或(あるひ)は忻(たばかつ)て立(たて)置(おき)たる木人(もくにん)に向て、剣(けん)を拉(とりひし)ぎ戈(ほこ)を靡(なびかす)処に、三万(さんまん)余家(よか)作(つくり)双(なら)べたる城中(じやうちゆう)の家々より同時に火燃(もえ)出て、煙満城に炎(ほのほ)四方(しはう)に盛なり。
太元の兵共(つはものども)屏(へい)を上超(のぼりこえ)て火に遁(のが)れんとすれば、可取付便(たより)もなく橋もなし。責(せめ)入(いり)つる木戸より出んとするに烟(けぶり)に目くれて胆(きも)迷(まよう)て何(いづ)くを其方(そのかた)共(とも)不覚(おぼえず)、只猛火(みやうくわ)の中に走(はしり)倒れて、太元の兵三百万人(さんびやくまんにん)は皆焼死(やけしに)にけり。
太元(たいげんの)王は、多日の粉骨(ふんこつ)徒(いたづら)に一時の籌策(ちうさく)に被破(やぶられ)、大軍未(いまだ)帝都の戦を不致前(さき)に三百万人(さんびやくまんにん)まで亡びければ、此(この)事今は叶(かなふ)まじかりけりと、気を屈して黙止(もだ)されける処に、西蕃(せいばん)の帝師(ていし)太元(たいげんの)王に謁(えつ)して申(まうし)けるは、「大器は遅(おそ)くなるといへり。太元国の天下豈(あに)大器に非(あら)ずや。又機巧(きかう)は大真(たいしん)に非(あら)ず。成る事は微々(びび)にして破(やぶる)る事は大也(なり)。今宋国の節度使等(せつどしら)が武略の体(てい)を聞(きく)に、死を善道(ぜんだう)に守り命を義路(ぎろ)に軽(かろ)んずるに非(あら)ず、只尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)を以て大功の成らん事を意(い)とする者也(なり)。宋国り臣独(ひとり)智あつて元朝(げんてう)の人皆(みな)愚(おろか)ならんや。我今謀(はかりこと)を廻(めぐら)さば勝(かつ)事を一戦(いつせん)の前に得つべし。君益(ますます)志を天下の草創(さうさう)に懸(かけ)給へ。臣須(すべから)く以智謀、太宋国(たいそうこく)の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元(たいげんの)王大に悦て、「公が謀(はかりこと)を以て我若(もし)太宋国(たいそうこく)を得ば、必(かならず)公(こう)を上天の下、一人(いちじん)の上に貴(たつとん)で、代々(だいだい)帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。
帝師則(すなはち)形をかへ身を窶(やつ)して太宋国(たいそうこく)へ越(こえ)、江南の市(いち)に行(ゆき)て、哀(あはれ)身貧(まどしく)して子多く持(もち)たる人もがなと伺見(うかがひみ)る処に、年六十有余(いうよ)なる翁(おきな)の、一の剣(けん)を売(うり)て肉饅頭(にくまんぢゆう)を買(かふ)あり。帝師問て曰(いはく)、「剣(けん)をうりて牛を買ふは治(をさま)れる世の備(そな)へなり。牛を売(うり)て剣を買ふは乱(みだれ)たる時の事也(なり)。父老(ふらう)今剣(けん)を売て饅頭を買ふ。
其(その)用何事(なにごと)ぞや。」老翁答(こたへ)て曰(いはく)、「我嘗(かつて)兵の凶器(きようき)なる事を不知、若(わか)かりし時好(このん)で兵書を学びき。智は性の嗜(たしな)む処に出(いづ)る者なれば、呉氏(ごし)・孫氏(そんし)が秘(ひ)する処の道、尉潦(うつれう)・李衛(りゑい)が難(かた)しとする処の術(じゆつ)、一を挙(あげ)て占(うらな)へば、則(すなはち)三を反(へん)してさとりき。然(しか)れば乍坐三尺(さんじやく)の雄剣(ゆうけん)を提(ひつさげ)て、立処(たちどころ)に四海(しかい)の乱を理(をさ)めん事、我に非(あら)ずは誰(た)そやと、心を千戸万戸(せんこばんこ)の侯(こう)に懸(かけ)て思(おもひ)しに、我壮(さか)んなりし程は世治(をさま)り国静(しづか)なりし間、武に於(おい)て用(もちゐ)られず、今天下方(まさ)に乱れて、剣士(けんし)尤(もつとも)功を立(たつ)る時には、我已(すで)に老衰(らうすゐ)して其選(そのえらび)に不当、久(ひさし)く此(この)江南の市(いち)の上(ほと)りに旅宿して、僅(わづか)に三人(さんにん)の男子を儲(まうけ)たり。
相如(しやうじよ)が破壁(はへき)風寒(さぶく)して夜の衣短く、劉仲(りうちゆう)が乾鍋(かんくわ)薪(たきぎ)尽(つき)て朝の餐(ざん)空(むな)し。只老驥(らうき)の千里を思ふ心未(いまだ)屈(くつ)せざれ共(ども)、飢鷹(きおう)の一呼(いつこ)を待(まつ)身と成(なり)ぬ。故(ゆゑ)に此(この)剣を売(うり)て三子(さんし)の飢(うゑ)を扶(たすけ)んと欲する也(なり)。」と委(くはし)く身上(みのうへ)の羸(つかれ)を侘(わび)て涙を流してぞ立たりける。帝師重(かさね)て問て云(いはく)、「父老の言(ことば)を聞(きく)に、三人(さんにん)の子共飢(うゑ)て、公が百年の命已(すで)に迫(せま)れり。我三千両の金を持(もち)たり。願(ねがはく)は是(これ)を以て父老の身を買(かは)ん。父老何ぞ兔(と)ても無幾程老後の身を売(うり)て、行末遥(はるか)なる子孫の富貴(ふつき)を不欲せや。」と問(とふ)に、老翁眉(まゆ)を揚(あ)げ面を低(たれ)て、「誠(まこと)に公の言(ことば)の如く、我に三千両の金を被与、我豈(あに)三子(さんし)の飢(うゑ)を助(たすけ)て無幾程命を不捨や。」とぞ悦(よろこび)ける。
「さらば。」とて、帝師則(すなはち)老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先(まづ)使者を宋国の帝都へ遣(つかは)して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞(きこゆ)る上将軍(じやうしやうぐん)伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)が事を、都にいかゞ云沙汰(いひさた)するとぞ伺聞(うかがひきか)せける。使者都に上て家々に彳(たたず)み、事の体(てい)人の云沙汰する趣(おもむき)、能々(よくよく)伺(うかがひ)聞て太元に帰り、帝師に対(むかひ)て語(かたり)けるは、「伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是(これ)を重(おもん)ずる事、上天の威(ゐ)に超(こえ)たり。若(もし)此(この)勢を以て世を傾(かたぶけ)んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古(いにしへ)安禄山(あんろくさん)が兵を引て帝都を侵(をか)し奪(うばひ)しも、斯(かか)る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。
帝師使者の語るを聞て、今はかうと思(おもひ)ければ、三千両の金に身を売(うり)たりつる老翁を呼(よび)て、彼(かれ)が股(もも)の肉を切裂(きりさい)て、呂文煥(りよぶんくわん)・伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)三人(さんにん)が手迹(しゆせき)を学(まなび)て返逆籌策(ほんぎやくちうさく)の文を書(かき)、彼(かれ)が骨のあはひに収(をさめ)て疵(きず)を愈(いや)してぞ持(もた)せける。其(その)文に書(かき)けるは、「我等(われら)已(すで)に太元の軍に打勝て士卒の付順(つきしたがふ)事数を不知(しらず)。天已(すで)に時を与(あたへ)たり。不取却(かへつて)禍(わざはひ)有(ある)べし。然(しかれ)ば早(はやく)士を引(ひき)約(やく)を成(な)して帝都に赴(おもむか)んと欲す。若(もし)亡国の暗君を捨(すて)て有道(いうだう)の義臣に与(くみ)せんとならば、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする謀(はかりこと)を可致。」と書て、宮中の警固(けいご)に残し留(とどめ)られたる国々の兵の方へぞ遣(つかは)しける。
敵を討(うつ)手だて如此認(したため)て、帝師重(かさね)て老翁に向て申けるは、「汝先(まづ)帝都に上り怪(あやし)げなる体(てい)にて宮中を伺見(うかがひみ)るべし。去(さる)程ならば、宮門を守る兵共(つはものども)汝を捕へて嗷問(がうもん)すべし。縦(たとひ)水火の責(せめ)に逢(あふ)共(とも)、暫(しばらく)は勿落事。倒懸(たうけん)身を苦(くるし)め炮烙(はうらく)骨を砕(くだく)時(とき)に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等(かしようじやうら)が使として、謀反与力(むほんよりき)の兵共(つはものども)に事の子細を相触(あひふれ)ん為に、帝都に赴(おもむ)きたる由を白状(はくじやう)して、其験(そのしるし)是(これ)也(なり)とて、件(くだん)の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。
彼(かの)老翁已(すで)に三千両の金に身を売(うり)し上は、命を非可惜、帝師が教(をしへ)の侭(まま)に謀反催促(むほんさいそく)の状を数十通(すじつつう)身の肉を創(さい)て中に収(をさ)め、帝都の宮門へぞ赴(おもむき)ける。忽(たちまち)身を車裂(くるまざき)にせられ骨を醢(ひしほ)にせらるべきをも不顧、千金に身を替(かへ)て五刑(ごけい)に趣(おもむ)く、人の親の子を思(おもふ)道こそ哀なれ。老翁則(すなはち)帝都に上て、態(わざと)怪(あやし)げなる体(てい)に身を窶(やつ)し、宮門を廻(まはつ)て案内を見る由に翔(ふるま)ひける間、守護(しゆご)の武士是(これ)を捕(とら)へて、上(あげ)つ下(おろし)つ責(せめ)問(とふ)に、暫(しばし)は敢(あへ)て不落。嗷問(がうもん)度重(たびかさなつ)て骨砕(くだ)け筋(すぢ)断(たえ)ぬと見へける時に、「我は是(これ)伯顔将軍・呂文煥等(りよぶんくわんら)が謀叛催促の使也(なり)。」と白状(はくじやう)して、股(もも)の肉の中より、宮中洛外(らくぐわいの)諸侯の方へ、約をなし賞(しやう)を与(あたへ)たる数通の状をぞ取(とり)出(いだし)たりける。
典獄(てんごく)の官驚(おどろき)て此(この)由を奏聞しければ、先(まづ)使者の老翁を誅(ちゆう)せられて、軈(やが)て伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)が父子兄弟三族(さんぞく)の刑(けい)に行(おこなは)れて、或(あるひ)は無罪諸侯死を兵刃(へいじん)の下に給(たまは)り、或(あるひ)は功有(あり)し旧臣(きうしん)尸(かばね)を獄門(ごくもん)の前に曝(さら)せり。此(この)事速(すみやか)に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)、頭(かうべ)を延(のべ)て無罪由を陳じ申さん為に、太元(たいげん)の戦を打捨(うちすて)て都へ帰り上(のぼり)けるが、国々の諸侯道(みちを)塞(ふさぎ)て不通ける間、三人(さんにん)の将軍空(むなし)く帝師が謀(はかりこと)に被落て、所々にて討(うた)れにけり。
是(これ)より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無(なけ)れば、太元五百万騎の兵共(つはものども)、推(お)して都へ責(せめ)上るに、敢(あへ)て遮(さへぎ)るべき勢(せい)なければ、宋朝の幼帝宮室(きゆうしつ)を尽(つく)し宗廟(そうべう)を捨(すて)て、遂(つひ)に南蛮国へ落(おち)給ふ。太元の老皇帝(らうくわうてい)、軈(やが)て都に入替(いれかは)り給(たまひ)しかば、天下の諸侯皆(みな)順付(したがひつき)奉て、太宋国(たいそうこく)四百州、忽(たちまち)に太元の世に成(なり)にけり。さしもいみじかりし太宋国(たいそうこく)、一時に傾(かたぶき)し事も、天運図(と)に当る時とは云(いひ)ながら、只帝師が謀(はかりこと)によれる者也(なり)。今細河相摸守(さがみのかみ)、無双(ぶさうの)大力世に超(こえ)たる勇士(ゆうし)なりと聞へしか共、細河右馬(うまの)頭(かみ)が尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)に被落、一日の間に亡(ほろび)ぬる事、偏(ひとへ)に宋朝の幼帝、帝師が謀(はかりこと)に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申(まうす)べき。 
 
太平記 巻第三十九 

 

大内介(おほうちのすけ)降参(かうさんの)事(こと)
聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚(かぐ)は多ければ、人の心都(すべ)て不一致。肆(かるがゆゑ)に尭(げう)の代にすら四凶の族(ぞく)あり。魯国(ろこく)に小星卯(せうせいばう)あり。況(いはんや)時(とき)今澆季(げうき)也(なり)。国又卑賎(ひせん)也(なり)。因何に仁義を知(しる)人有(ある)べきなれ共(ども)、近年我朝(わがてう)の人の有様程うたてしき事をば不承。先(まづ)弓矢取(ゆみやとり)とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅(わづか)に欲心を含(ふくみ)ぬれば、御方に成るも早く、聊(いささか)も有恨、敵になるも易(やす)し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛(こうまう)より軽く、不撓志は麟角(りんかく)よりも稀也(なり)。
人数(ひとかず)ならぬ小者(こもの)共(ども)の中に、適(たまたま)一度(いちど)も翻(ひるがへ)らぬ人一両人有(あり)といへ共、其(そ)れも若(もし)禄(ろく)を与へ利を含めて呼(よび)出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止(とどま)る者、百歩に走るを如咲。見所(けんじよ)の高懸(たかがけ)とかやの風情(ふぜい)して、加様(かやう)の事を申(まうす)共(とも)、書伝の片端(かたはし)を聞たる人は古へを引て、さても百里奚(はくりけい)は虞(ぐ)の君を棄(すて)て、秦の穆(ぼく)公(こう)に不仕、管夷吾(くわんいご)は桓(くわん)公(こう)に降(くだつ)て公子糾(こうしきう)と不死しは如何に、とぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。それは誠(まこと)に似たる事は似たれ共(ども)、是(ぜ)なる事は是(ぜ)ならず。彼(かの)百里奚は、虞公の、垂棘(すゐきよく)の玉、屈産(くつさん)の乗(じよう)の賄(まひなひ)に耽(ふけつ)て路を晉(しん)に開(ひらき)しかば、諌(いさめ)けれ共叶(かなふ)まじき程を知て、秦の穆公に仕(つか)へき。管夷吾(くわんいご)は召忽(せうこつ)と共に不死、子路非仁譏(そし)りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王(ぶんせんわう)是(これ)を塞(ふさ)ぎ給へり。
されば古賢の世を治(をさ)めん為に二君に仕(つかへ)しと、今の人の欲を先として降人(かうにん)に成(なる)とは、雲泥(うんでい)万里の隔(へだて)其(その)中に有(あり)と云つべし。爰(ここ)に大内(おほうちの)介(すけ)は多年宮方(みやがた)にて周防・長門両国を打(うち)平(たひら)げて、無恐方居たりけるが、如何(いか)が思ひけん、貞治(ぢやうぢ)三年の春(はる)の比(ころ)より俄(にはか)に心変(へん)じて、此(この)間押(おさ)へて領知する処の両国を給(たまは)らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐(せいひつ)の基(もとゐ)たるべしとて、軈(やが)て所望の国を被恩補。依之(これによつて)今迄弐(ふたごころ)無(なか)りける厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)、長門(ながとの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)を被召放含恨ければ、則(すなはち)長門(ながとの)国(くに)を落て筑紫へ押渡り、菊池(きくち)と一に成て、却(かへつ)て大内(おほうちの)介(すけ)を攻(せめ)んとす。
大内(おほうちの)介(すけ)遮(さへぎつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して豊後(ぶんごの)国(くに)に押寄せ、菊池(きくち)と戦(たたかひ)けるが、第二度(だいにど)の軍に負(まけ)て菊池(きくち)が勢に囲(かこま)れければ、降(かう)を乞(こう)て命を助(たすか)り、己(おのれ)が国へ帰(かへつ)て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨(せんくわ)・新渡(しんと)の唐物(からもの)等(ら)、美(び)を尽(つく)して、奉行・頭人・評定衆・傾城(けいせい)・田楽(でんがく)・猿楽(さるがく)・遁世者(とんせいしや)まで是(これ)を引(ひき)与へける間、此(この)人に勝(まさ)る御用人有(ある)まじと、未(いまだ)見へたる事もなき先に、誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。世上の毀誉(きよは)非善悪、人間の用捨(ようしや)は在貧福とは、今の時をや申すべき。  
山名京兆(けいてう)被参御方事(こと)
山名左京(さきやうの)大夫(たいふ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は、近年御敵(おんてき)に成て、南方と引合て、両度まで都を傾(かたむけ)しかば、将軍の御為には上なき御敵(おんてき)なりしか共、内々属縁、「両度の不義全(まつた)く将軍の御世を危(あやぶ)め奉らんとには非(あら)ず。只(ただ)道誉(だうよ)が余(あまり)に本意無(なか)りし振舞(ふるまひ)を思(おもひ)知(しら)せん為許(ばかり)にて候(さうらひ)き。其(その)罪科を御宥免(いうめん)有て、此(この)間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。
げにも此(この)人御方に成(なる)ならば、国々の宮方(みやがた)力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後(たんご)・美作、五箇国(ごかこく)の守護職(しゆごしよく)を被充行ければ、元来多年旧功(きうこう)の人々、皆手を空(むなしく)して、時氏父子の栄花(えいぐわ)、時ならぬ春を得たり。是(これ)を猜(そねみ)て述懐(じゆつくわい)する者共(ものども)、多く所領を持(もた)んと思はゞ、只御敵(おんてき)にこそ成(なる)べかりけれと、口を顰(ひそめ)けれ共甲斐(かひ)なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦(ふ)せし風諭(ふうゆ)の詞(ことば)、げにもと思(おもひ)知(しら)れたり。  
仁木京兆(につきけいてう)降参(かうさんの)事(こと)
仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、差(さし)たる不義は無(なか)りしか共、行迹(ぎやうせき)余(あま)りに思ふ様也(なり)とて、諸人に依被悪、心ならず御敵(おんてき)になり、伊勢(いせの)国(くに)に逃(にげ)下て、長野の城(じやう)に楯篭(たてこも)りたりしを、初めは佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠両人討手を承(うけたまはり)、是(これ)を攻(せめ)けるが、佐々木(ささき)は他事に被召(めされ)て上洛(しやうらく)しぬ。土岐一人国に留て攻(せめ)戦(たたかひ)けれども、義長(よしなが)敢(あへ)て城を不被落。
此(この)時(とき)又当国の国司北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕信(あきのぶ)卿(きやう)、雲出川(くもでがは)より西を管領(くわんりやう)して、兵を出し隙(ひま)を伺(うかがう)て戦ひ挑(いどみ)し間、一国三(みつ)に分れて、片時も軍の絶(たゆ)る日もなし。角(かく)て五六年を経て後、義長(よしなが)日来(ひごろ)の咎(とが)を悔(くい)て降参すべき由を被申ければ、「此(この)人元来(もとより)忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静(しづま)るべし。」とて、義長(よしなが)を京都へ返し入られける。是(これ)は勢已(すで)に衰(おとろへ)たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従(あひしたがひ)し兵も身に不添、李陵(りりよう)が如在胡にして、旧交(きうかう)の友さへ来らねば、省(み)る人遠き庭上(ていじやう)の花、春(はるは)独(ひとり)春(はる)の色なり。鞍馬(あんば)稀(まれ)なる門前の柳、秋(あきは)独(ひとり)秋(あき)の風なり。  
芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)軍(いくさの)事(こと)
如斯近年は、敵に成(なり)たりつる人々は皆降参して、貞治改元(かいげん)の後より洛中(らくちゆう)西国静也(なり)といへ共、東国に又不慮の同士軍(どしいくさ)出来して里民(りみん)樵蘇(せうそ)を不楽。其(その)事の起りを尋(たづぬ)れば、此(この)三四年が先に、将軍兄弟の御中悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、合戦に及(および)し刻(きざみ)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、故高倉禅門の方にて、始(はじめ)は上野(かうづけの)国(くに)板鼻(いたばな)の合戦に宇都宮(うつのみや)に打負(うちまけ)て、後には薩山(さつたやま)の軍に御方(みかた)の負(まけ)をしたりしが、兔角(とかく)して信濃(しなのの)国(くに)へ逃(にげ)下り、宮方(みやがた)に成(なり)て猶(なほ)此(この)所存を遂(とげ)ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯(かか)る不義を致しけれども、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)基氏、幼少より上杉に懐(いだ)きそだてられたりし旧好(きうかう)難捨思はれければ、以別儀先(まづ)越後国(ゑちごのくに)守護職(しゆごしよく)を与(あたへ)て上杉をぞ被呼出ける。
此(この)時(とき)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)は、越後国(ゑちごのくに)の守護(しゆご)にて有(あり)けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補(おんぽ)の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀(はが)と越後国(ゑちごのくに)にて及合戦事数月(すげつ)也(なり)。禅可遂(つひ)に打負(うちまけ)しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族(いちぞく)若党(わかたう)其(その)数を不知落様(おちさま)に皆討(うた)れにけり。禅可是(これ)を忿(いかつ)て、「哀(あはれ)不思議(ふしぎ)も有て世中(よのなか)乱(みだれ)よかし。上杉と一合戦(ひとかつせん)して此(この)恨(うらみ)を散ぜん。」と憤(いきどほり)けり。
斯(かか)る処、上杉已(すで)に左馬(さまの)頭(かみ)の執事に成て鎌倉(かまくら)へ越(こゆ)ると聞へければ、禅可道に馳(はせ)向て戦はんとて、上野の板鼻(いたばな)に陣を取てぞ待(また)せける。然共(しかれども)上杉、上野(かうづけの)国(くに)へも不入先(さき)に、左馬(さまの)頭(かみ)宣(のたま)ひけるは、「何ぞ任雅意加様(かやう)の狼籍(らうぜき)を可致。所存あらば逐(おつ)て可致訴詔処に、合戦の企(くはたて)奇怪(きくわい)の至(いたり)也(なり)。所詮(しよせん)可加退治(たいぢ)。」とて、自(みづから)大勢を卒(そつ)して宇都宮(うつのみや)へぞ被寄ける。
禅可此(この)事を聞て、「さらば鎌倉殿(かまくらどの)と先(まづ)戦はん。」とて、我(わが)身は宇都宮(うつのみや)に有(あり)ながら、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)高貞・次男駿河(するがの)守(かみ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へぞ遣(つかは)しける。此(この)勢坂東路(ばんどうみち)八十里(はちじふり)を一夜(いちや)に打て、六月十七日(じふしちにちの)辰刻(たつのこく)に、苦林野(にがはやしの)にぞ著(つき)にける。小塚(こつか)の上に打(うち)上(あがり)て鎌倉殿(かまくらどの)の御陣を見渡せば、東には白旗一揆(しらはたいつき)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、甲胄の光を耀(かかやか)して、明残(あけのこ)る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆(たひらいつき)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)、戟矛(げきぼう)勢(いきほ)ひ冷(すさましく)して、陰森(いんしん)たる冬枯(ふゆがれ)の林を見(みる)に不異。中の手は左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と覚(おぼえ)て、二引両(ふたつひきりやう)の旗一流(ひとながれ)朝日に映じて飛揚(ひやう)せる其陰(そのかげ)に、左輔(さふ)右弼(いうひつ)密(きびし)く、騎射馳突(きしやちとつ)の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて控(ひか)へたり。
上より見越(みこせ)ば数百里に列(つらなり)て、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)、只今(ただいま)馳(はせ)参ると覚(おぼえ)て如雲霞見へたり。雲鳥(うんてう)の陣堅(かたく)して、逞卒(ていそつ)機(き)尖(するど)なれば、何(いか)なる孫呉(そんご)が術(じゆつ)を得たり共、千騎(せんぎ)に足(たら)ぬ小勢にて懸(かけ)合(あは)すべしと不覚(おぼえず)。芳賀伊賀(いがの)守(かみ)馬に打(うち)乗て、母衣(ほろ)を引繕(ひきつくろ)ひて申けるは、「平一揆(たひらいつき)・白旗一揆(しらはたいつき)は、兼て通ずる子細有(あり)しかば、軍の勝負(しようぶ)に付(つい)て、或(あるひ)は敵ともなり或(あるひ)は御方とも成(なる)べし。跡(あと)にさがりて只今(ただいま)馳(はせ)参る勢(せい)は、縦(たと)ひ何百万騎(なんびやくまんぎ)有(あり)と云(いふ)共(とも)、物(もの)の用に不可立。家の安否(あんぷ)身の浮沈(ふちん)、只一軍(ひといくさ)の中に定むべし。」と高声(かうしやう)に呼(よばはつ)て、前後に人なく東西に敵有(あり)とも思はぬ気色にて、真前(まつさき)にこそ進(すすん)だれ。
舎弟(しやてい)駿河(するがの)守(かみ)是(これ)を見て、「軍門に君(きみ)の命なし。戦場に兄(あに)の礼(れい)なし。今日の軍の先懸(さきがけ)は、我ならでは覚(おぼえ)ぬ者を。」と、嗚呼(をこ)がましげに広言(くわうげん)吐(はい)て、兄より先につと懸(かけ)抜(ぬけ)て懸(かけ)入(いる)上は、相従ふ兵共(つはものども)八百(はつぴやく)余騎(よき)誰(たれ)かは是(これ)に可劣、我(われ)先に戦はんと、魚鱗(ぎよりん)に成てぞ懸りける。
左馬(さまの)頭(かみ)の基氏、参然(さんぜん)たる敵の勇鋭(ゆうえい)を見ながら機を撓(たわ)め給はず、相懸(あひがか)りに馬を閑々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度(さんど)作て些(ちと)擬議(ぎぎ)したる処に、天も落ち地も裂(さく)るかと覚(おぼゆ)る許(ばかり)に、只一声時を作て左右に颯(さつ)と分る。芳賀(はが)が八百(はつぴやく)余騎(よき)を東西より引裹(ひつつつみ)て、弓手(ゆんで)に相付(あひつ)け馬手(めて)に背(そむ)けて、切ては落され、まく(ッ)つまくられつ半時許(はんじばかり)戦て、両陣互に地を易(かへ)、南北に分れて其(その)迹を顧(かへりみ)れば、原野(げんや)血に染(そみ)て草はさながら緑(みどり)をかへ、人馬汗を流(ながして)、堀(ほり)かねの池も血となる。左馬(さまの)頭(かみ)は芳賀が元の陣に取(とり)上(あが)り、芳賀は左馬(さまの)頭(かみ)の始の陣に打上て、共に其(その)兵を見るに、討(うた)れたる者百(ひやく)余人(よにん)、被疵者数を不知(しらず)。
「さても宗(むね)との者共(ものども)の中に、誰か討(うた)れたる。」と尋(たづぬ)る処に、「駿河(するがの)守(かみ)殿(どの)こそ、鎌倉殿(かまくらどの)に切(きり)落され給ふと見へつるが、召(めさ)れて候(さうらひ)し御馬(おんむま)の放(はな)れて候(さうらひ)つる。如何様(いかさま)討(うた)れさせ給(たまひ)てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀(いがの)守(かみ)流るゝ涙を汗と共に推拭(おしのごひ)て云(いひ)けるは、「只(ただ)二人(ににん)如影随(したが)ふて、死(しな)ば共にと思(おもひ)つる弟を、目の前にて被討、其(その)死骸何(いづ)くに有(あり)共(とも)不見、さてあると云(いふ)事や可有。」とて、切(きり)散(ちら)されたる母衣(ほろ)結継(むすびつい)で鎧ゆり直し、喚(をめ)ひてぞ懸(かけ)入(いり)ける。
鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)にも、軍兵七十(しちじふ)余人(よにん)討(うた)れたるのみならず、木戸(きど)兵庫(ひやうごの)助(すけ)、両方引(ひき)分(わかれ)つる時、近付(ちかづく)敵に引組(ひつくみ)て、落(おち)重(かさな)る敵に被討ければ、是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、鎌倉殿(かまくらどの)御眼(おんまなこ)血をときたる如くに成て宣(のたま)ひけるは、「此(この)合戦に必(かならず)死なば諸共(もろとも)に死し、生(いき)ば同(おなじく)生(いき)んと、深く契(ちぎり)し事なれば、命を惜(をしむ)べきに非(あら)ず。」とて、如編木子叩(たた)きなしたる太刀の歯本(はもと)を小刀にて削(けづ)り直(なほ)し、打(うち)振(ふつ)て懸足(かけあし)を出し給へば、左右の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)、大将の先に馳抜(はせぬけ)て、一度(いちど)に颯(さつ)と蒐(かか)り逢(あ)ひ、追廻(おひまはし)懸違(かけちが)へ、喚(をめ)き叫(さけん)で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許(ばかり)ぞ聞へける。
大将左馬(さまの)頭(かみ)、余(あま)りに手繁(しげ)く懸立(かけたて)々々(かけたて)戦(たたかひ)ける程に、乗(のり)給へる馬の三頭(さんづ)・平頚(ひらくび)三太刀斬(きら)れて、犬居(いぬゐ)にどうとぞ臥(ふし)たりける。 是(これ)を大将と見知(みしり)たる敵多かりければ、懸寄(かけよせ)々々(かけよせ)胄を打(うち)落さんと、後(うしろ)より廻(まは)る者あり、飛(とび)下(おり)々々(とびおり)徒立(かちだち)に成(なり)、太刀を打背(そむ)けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬(さまの)頭(かみ)元来(もとより)力人に勝(すぐ)れ、心飽(あく)まで早(はやく)して、膚(はだへ)撓(たわ)まず目(め)逃(のが)れず、黄石公(くわうせきこう)が伝へし処、李道翁(りだうおう)が授(さづけ)し道、機に膺(あたつ)て心とせし太刀きゝなれば、或(あるひ)は胄の鉢を真二(まつふたつ)に打(うち)破(わ)り、引(ひく)太刀に廻(まは)る敵を斬(きり)居(すゑ)、或(あるひ)は鎧のどう中を不懸打(うち)切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。
其刃(そのやいば)に胸を冷(ひや)して敵敢(あへ)て不近付。東西開(ひら)け前後晴(はれ)て、弥(いよいよ)大将馬に放(はな)れぬと、見知(みしら)ぬ敵も無(なか)りけり。大高(たいかう)左馬(さまの)助(すけ)重成(しげなり)遥(はるか)に是(これ)を見て、急(いそぎ)馳(はせ)寄り弓手(ゆんで)に下(おり)立て、「穴(あな)夥(おびたたし)の只今(ただいま)の御挙動(おんふるまひ)候や。昔の和泉(いづみ)・朝比奈(あさひな)も是(これ)まではよも候はじ。」と、覿面(てきめん)に奉褒、「早(はや)此(この)馬に召(めさ)れ候へ。」と申せば、左馬(さまの)頭(かみ)悦て、馬の内跨(うちまた)にゆらりと飛(とび)乗て、鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り様(ざま)に、「平家の侍(さむらひ)後藤兵衛が主の馬に乗て逃(にげ)たりしには、遥(はるか)に替(かは)りたる御振舞(おんふるまひ)哉(かな)。」と、「只今(ただいま)こそ誠(まこと)に大高(たいかう)の名は相応(さうおう)したれ。」と、互にぞ褒(ほめ)返されける。其(その)後左馬(さまの)助(すけ)は、放(はな)れ馬の有(あり)けるを取て打乗(うちのり)、所々に村立(むらだち)たる御方(みかた)の勢を相招き、又敵の中へ懸(かけ)入て、時移るまでぞ戦(たたかひ)ける。互に人馬を休めて、両方へ颯(さつ)と引(ひき)分(わかれ)たれば、又鎌倉殿(かまくらどの)の御陣は芳賀(はが)が陣となり、芳賀が陣は二度(ふたたび)鎌倉殿(かまくらどの)の御陣となる。
芳賀伊賀(いがの)守(かみ)御方の勢を見巡(みめぐら)して、「八郎(はちらう)がみへぬは、討(うた)れたるやらん。」と親の身なれば心元(こころもと)なげに申けるを、馬の前なる中間(ちゆうげん)、「放(はな)れ馬の数百(すひやく)疋走散(わしりちり)たる中に、毛色(けいろ)・鞍具足(くらぐそく)を委(くはし)く見て候へば、黒鴾毛(くろつきげ)なる馬に連蒻(れんじやく)の鞦(しりがい)懸(かけ)たるは、慥(たし)かに八郎殿(はちらうどの)召(めさ)れたりつる御馬(おんむま)にて候。早(はや)討(うた)れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其(その)馬に血や付(つき)たる。」と問ふに、「いや馬の頭(かしら)に矢一筋(ひとすぢ)立て見へ候へ共鞍(くら)に血は候はず。」とぞ答へける。
是(これ)を聞てさしも勇(いさ)める伊賀(いがの)守(かみ)、涙を一目に浮(うか)めて、「さては此(この)者幼稚(えうち)なれば被生捕けり。軍暫(しばら)くも隙(ひま)あらば、八郎(はちらう)如何様(いかさま)切られぬと覚ゆ。いさ今一軍(ひといくさ)せん。」と云(いひ)ければ、岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)富高(とみたか)聞(きき)も敢(あへ)ず莞爾(につこ)とうち笑(わらう)て、「子細候はじ。敵の大将を見知(みしら)ぬ程こそ、葉武者に逢(あう)て組(くん)で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下(おり)立たりつる若武者(わかむしや)は、慥(たしか)に鎌倉殿(かまくらどの)と見澄(みすま)したり。鎧の毛をしるしにして、組討(くみうち)に討(うち)奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安(こころやす)く紛(まぎ)れんと、笠符(かさじるし)を取て投(なげ)捨(すて)、時衆(じしゆう)に最期(さいご)の十念を受(うけ)て、思(おもひ)切たる機をぞ顕(あらは)しける。
左馬(さまの)頭(かみ)の御方(みかた)に、岩松治部(ぢぶの)大輔(たいふ)はよく慮(おもんばかり)有て軍の変(へん)を計(はか)る人なりければ、大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の鎧の毛を、敵何様(いかさま)見知(みしり)ぬらんと推量して、御大事(おんだいじ)に替(かは)らんと思はれければ、我(わが)今まで著給へる紺糸(こんいと)の鎧に、鎌倉殿(かまくらどの)の白糸の鎧を俄(にはか)に著替(きかへ)奉りてぞ控(ひか)へたる。暫(しばらく)有て両陣又乱(みだれ)合(あう)て入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦(たたかひ)ける。岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)白糸の鎧著たる岩松を左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)ぞと目に懸(かけ)て、組(くん)で討(うた)んと相近付く。岩松は又元来左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著替(きかへ)し上は、なじかは命を可惜。二人(ににん)共(とも)に閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませ寄(よつ)て、あはひ已(すで)に草鹿(くさじし)のあづち長(たけ)に成(なり)ける時、岩松が郎等(らうどう)金井(かなゐ)新左衛門(しんざゑもん)、岩松が馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、岡本(をかもと)と引組(ひつくみ)馬よりどうと落けるが、互に中(ちう)にて差違(さしちが)へて、共に命を止(とどめ)てけり。岩松は左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著かへ、金井(かなゐ)は岩松が命に代(かはつ)て討死す。
主従共に義を守(まもり)て節を重んずる忠貞(ちゆうてい)、難有かるべき人々也(なり)。其(その)外命を軽(かろん)じ義を重んじて、爰(ここ)にて勝負を決せんと、相互(あひたがひ)にぞ戦(たたかひ)ける。さて芳賀八郎(はちらう)は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪(たれかみ)なりければ、軍(いくさ)散じて後に、人を付(つけ)て被帰けるとかや。優(いう)にやさしとぞ申ける。去(さる)程(ほど)に芳賀が八百(はつぴやく)余騎(よき)の兵、昨日は二日路(ふつかぢ)を一夜(いちや)に打(うち)しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無(なく)て終日(ひねもす)戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、日已(すで)に夕陽(せきやう)に成(なり)ければ、被討残たる兵纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)を助(たすけ)て、宇都宮(うつのみや)へぞ帰(かへり)ける。
是(これ)を見て今まで戦を外(よそ)に見て、勝方に付(つか)んと伺(うかがひ)つる白旗一揆(しらはたいつき)、弊(つひえ)に乗て疲(つかれ)を攻(せめ)て、何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て打(うち)止(とめ)んと、高名がほに追たりける。是(これ)のみならず芳賀が勢打負(うちまけ)て引(ひく)と聞へしかば、後(おく)れ馳(ばせ)に御陣へ参りける兵共(つはものども)、橋を引(ひき)、路を塞(ふさい)で落さじとしける程に、道にても百(ひやく)余騎(よき)被討けり。辛(から)き命を助(たすかり)て、故郷に帰(かへり)ける者も、大略皆髪を切り遁世(とんせい)して、無きが如くに成(なり)にけり。
軍散じければ、軈(やが)て宇都宮(うつのみや)を退治(たいぢ)せらるべしとて、左馬(さまの)頭(かみ)八十万騎(はちじふまんぎ)の勢にて先(まづ)小山(をやま)が館(たち)へ打越給ふ。斯(かか)る処に、宇都宮(うつのみや)急ぎ参じて申けるは、「禅可が此(この)間の挙動(ふるまひ)、全く我同意したる事候はず。主従向背(きやうはい)の自科(じくわ)依難遁、其(その)身已(すでに)逐電(ちくてん)仕(つかまつり)ぬる上は、御勢(おんせい)を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)も深き慮(おもんばかり)やをはしけん、翌日(よくじつ)軈(やが)て鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへり)給(たまひ)にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云(いへ)り。禅可縦(たとひ)老僻(おいひがみ)て斯(かか)る悪行を企(くはた)つ共、子共若(もし)義を知て制(せい)し止(とどむ)る事あらば、豈(あに)若干(そこばく)の一族共(いちぞくども)を討(うた)せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故(ゆゑ)に、鎌倉殿(かまくらどの)の威勢弥(いよいよ)重く成(なり)しかば、大名一揆(いつき)の嗷儀(がうぎ)共(ども)、是(これ)より些(ちと)止(やみ)にけり。  
神木(しんぼく)入洛(じゆらくの)事(こと)付(つけたり)洛中(らくちゆう)変異(へんいの)事(こと)
尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝(だうてう)は、将軍御兄弟(ごきやうだい)合戦(かつせんの)時(とき)、慧源(ゑげん)禅門の方に属(しよく)して打負(うちまけ)しかば、鬱陶(うつたう)を不散、暫くは宮方(みやがた)に身を寄(よせ)けるが、若(わか)将軍(しやうぐん)義詮朝臣(よしあきらあつそん)より様々弊礼(へいれい)を尽(つく)して頻(しきり)に招請(せうしやう)し給(たまひ)ける間、又御方(みかた)に成て、三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を面に立て執事の職に居(すゑ)、武家の成敗をぞ意に任(まかせ)られける。去(さる)程(ほど)に越前国(ゑちぜんのくに)は多年の守護(しゆご)にて、一国の寺社本所領(ほんじよのりやう)を半済(はんせい)して家人共(けにんども)にぞ分行(わけおこなひ)ける。
其(その)中に南都の所領河口庄(かはぐちのしやう)をば、一円に家中の料所(れうしよ)にぞ成(なし)たりける。此(この)所は毎年維摩会(ゆゐまゑ)の要脚(えうきやく)たるのみに非(あら)ず、一寺の学徒是(これ)を以て、朝三(てうさん)の資(たすけ)を得て、僅に餐霞(ざんか)の飢(うゑ)を止(やめ)、夜窓(やさう)の燈(とぼしびを)挑(かかげ)て聚蛍(しゆけい)の光に易(か)ふ。而(しか)るを近年は彼(かの)依押領諸事の要脚悉(ことごとく)闕如(けつじよ)しぬれば、維摩の会場(ゑぢやう)には、柳条(りうでう)乱(みだれ)て垂手(すゐしゆ)の舞を列(つら)ね、講問(かうもん)の床(ゆか)の前には、鴬舌(あうぜつ)代(かはつ)て緩声(くわんしやう)の哥を唱(とな)ふ。
是(これ)一寺滅亡の基(もとゐ)、又は四海(しかい)擾乱(ぜうらん)の端(はし)たるべし。早く当社押領の儀を止(やめ)て、大会(たいゑ)再興の礼に令復給(たまふ)べしと、公家(くげ)に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。然(しかれ)共(ども)公家の勅裁(ちよくさい)はなれ共人不用、武家の奉書(ほうしよ)は憚(はばかつ)て渡す人なし。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)・氏人(うぢつと)の国民(くにたみ)等(ら)、春日(かすが)の神木を奉餝、大夫入道(たいふにふだう)々朝が宿所の前に奉振捨。其(その)日(ひ)軈(やが)て勅使(ちよくし)参迎(さんかう)して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自(みづから)玉(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、常の御膳(ごぜん)を降(く)ださる。摂家皆高門を掩(おほう)て、日(ひ)の御供(みく)を奉り給ふ。
今澆末(げうまつ)の風(ふう)に向て大本(たいほん)の遠(とほき)を見るに、政道は棄(すた)れて無(なき)に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀(あはれ)とく裁許(さいきよ)あれかしと人々申合(まうしあはれ)けれども、時の権威に憚(はばかつ)て是(これ)をと申沙汰する人も無(なか)りけり。禰宜(ねぎ)が鈴振る袖の上に、託宣(たくせん)の涙せきあへず、社人(みやうど)の夙夜(しゆくや)する枕の上に、夢想の告止(つげやむ)時(とき)なし。同五月十七日(じふしちにち)、何(いづ)くの山より出たり共知(しら)ず、大鹿(おほしか)二頭(ふたかしら)京中(きやうぢゆう)に走(わしり)出たりけるが、家の棟(むね)・築地(ついぢ)の覆(おほひ)の上を走渡(わしりわたつ)て、長講堂の南の門前にて四声(よこゑ)鳴(ない)て、何(いづく)の山へ帰る共見へずして失(うせ)にけり。
是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)の事と云(いひ)沙汰しける処に、同(おなじき)二十一日月額(さかやき)の迹(あと)有て、目も鼻も無(なく)て、髪長々と生(おひ)たる、なましき入道(にふだうの)頚(くび)一つ、七条東洞院(ひがしのとうゐん)を北へ転(まろび)ありくと見へて、書消(かきけ)す様に失(うせ)にけり。又同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)長講堂の大庭(おほには)に、こま廻(まは)して遊(あそび)ける童(わらは)の内に、年の程十許(ばかり)なるが、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、二三丈飛(とび)上(あがり)々々(とびあがり)、跳(をど)る事三日三夜也(なり)。参詣の人怪(あやしみ)て、何(いか)なる神の託(つか)せ給(たまひ)たるぞと問(とふ)に、物づき口うち噤(つぐみ)て、其(その)返事をばせで、人や勝つ神や負(まく)ると暫(しば)しまて三笠の山のあらん限(かぎり)はと、数万人(すまんにん)の聞(きく)所にて、高らかに三反(さんべん)詠じて物付は則(すなはち)醒(さめ)にけり。
見るも懼(おそろ)しく、聞(きく)に身の毛も竪(よだつ)神託共なれば、是(これ)に驚て、神訴(しんそ)を忽(たちまち)に裁許有(あり)ぬと覚へけれ共(ども)、混(ひたす)ら耳の外に処(しよ)して、三年まで閣(さしおか)れければ、朱(あけ)の玉垣徒(いたづら)に、引(ひく)人もなき御注連縄(みしめなは)、其(その)名も長く朽(くち)はてゝ、霜の白幣(しらゆふ)かけまくも、賢(かしこ)き神の榊葉(さかきば)も、落(おち)てや塵(ちり)に交(まじる)らんと、今更神慮の程被計、行末如何(いかが)と空(そら)をそろし。今程国々の守護(しゆご)、所々の大名共(だいみやうども)、独(ひとり)として寺社本所領(ほんじよのりやう)を押へて、不領知云(いふ)者なし。然共叶はぬ訴詔(そしやう)に退屈して、乍歎徒(いたづら)に黙止(もだし)ぬれば、国々の政(まつりこと)に僻事(ひがこと)多けれ共(ども)、其(その)人無咎に似たり。
然るに此(この)人独(ひとり)斯(かか)る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀(じゆそ)を負(おひ)けるも、只其(その)身の不祥(ふしやう)とぞ見へたりける処に、同(おなじき)十月三日道朝が宿所、七条東洞院(ひがしのとうゐん)より俄(にはか)に失火(しつくわ)出来(いでき)て、財宝一(ひとつ)も不残、内厩(うちむまや)の馬共までも多(おほく)焼(やけ)失(うせ)ぬ。是(これ)こそ春日(かすが)明神の御祟(たたり)よと、云(いひ)沙汰せぬ人も無(なか)りけり。されども道朝やがて三条高倉(さんでうたかくら)に屋形を立て、大樹(たいじゆ)に咫尺(しせき)し給へば、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立(たち)止(やむ)隙(ひま)もなく、庭上に酒肴(さけさかな)を舁列(かきつら)ねぬ時もなし。夫(それ)さらぬだにも、富貴(ふつき)の家をば鬼(き)睨之云(いへ)り。何(いかに)況(いはん)や神訴を負へる人也(なり)。是(これ)とても行末如何(いか)が有(あら)んずらんと、才ある人は怪しめり。  
諸大名讒道朝事(こと)付(つけたり)道誉(だうよ)大原野(おほはらの)花会(はなのくわいの)事(こと)
抑此管領職(このくわんれいしよく)と申(まうす)は、将軍家にも宗(むね)との一族(いちぞく)也(なり)ければ、誰かは其(その)職を猜(そね)む人も可有。又関東(くわんとう)の盛(さかん)なりし世をも見給(たまひ)たりし人なれば、礼儀法度(はつと)もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の世をも治(をさ)めんずる人よと覚(おぼえ)けるに、諸人の心に違(たが)ふ事のみ有(あり)て、終(つひ)に身を被失けるも、只(ただ)春日大明神(かすがだいみやうじん)の冥慮(みやうりよ)也(なり)と覚へたり。
諸人の心に違(たがひ)ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分(ごじふぶんの)一(いち)の武家役(ぶけやく)を毎年被懸けるを、此管領(このくわんれい)の時に二十分(にじふぶんの)一(いち)になさる。是(これ)天下の先例に非(あら)ずと憤(いきどほり)を含む処也(なり)。次に将軍三条(さんでう)の坊門(ばうもん)万里小路(までのこうぢ)に御所を立(たて)られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課(おほせ)て被造。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)も其(その)人数たりけるが、作事(さくじ)遅(おそく)して期日(ごにち)纔(わづか)に過(すぎ)ければ、法を犯(をか)す咎(とが)有(あり)とて新恩の地、大庄一所没収(もつしゆ)せらる。是(これ)又赤松が恨(うらみ)を含む随一(ずゐいち)也(なり)。
次には佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、五条(ごでう)の橋を可渡奉行を承(うけたまはり)て京中(きやうぢゆう)の棟別(むねべつ)を乍取、事大営(たいえい)なれば少し延引(えんいん)しけるを励(はげま)さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩(わづらひ)をも不成、厳密(げんみつ)に五条(ごでう)の橋を数日(すじつ)の間にぞ渡(わたし)にける。是(これ)又道誉(だうよ)面目を失ふ事なれば、是(これ)程の返礼をば致さんずる也(なり)とて、便宜(びんぎ)を目に懸(かけ)てぞ相待(あひまち)ける。
懸(かかる)処に、柳営(りうえい)庭前(ていぜん)の花、紅紫(こうし)の色を交(まじへ)て、其(その)興無類ければ、道朝種々の酒肴(さけさかな)を用意(ようい)して、貞治(ぢやうぢ)五年三月四日を点(てん)じ、将軍の御所にて、花(はなの)下(もと)の遊宴あるべしと被催。殊更道誉(だうよ)にぞ相触(あひふれ)ける。道誉(だうよ)兼(かね)ては可参由領状(りやうじやう)したりけるが、態(わざ)と引(ひき)違(ちが)へて、京中(きやうぢゆう)の道々の物(もの)の上手共、独(ひとり)も不残皆引具(ひきぐ)して、大原野(おほはらの)の花の本(もと)に宴(えん)を設(まう)け席を妝(よそほう)て、世に無類遊(あそび)をぞしたりける。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、軽裘肥馬(けいきうひば)の家を伴(ともな)ひ、大原や小塩(をしほ)の山にぞ趣(おもむ)きける。麓に車を駐(とどめ)て、手を採(とつ)て碧蘿(へきら)を攀(よぢのぼ)るに、曲径(きよくけい)幽(かすかなる)処に通じ、禅房花木(くわぼく)深し。寺門に当て湾渓(わんけい)のせゞらきを渉(わた)れば、路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐつ)て、橋雁歯(がんし)の危(あやふき)をなせり。
此(ここ)に高欄を金襴にて裹(つつみ)て、ぎぼうしに金薄(きんばく)を押し、橋板に太唐氈(たいたうのせん)・呉郡(ごぐん)の綾・蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、色々に布展(しきの)べたれば、落花上に積(つもつ)て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏(ふむ)に足冷(すさまじ)く歩(あゆ)むに履(くつ)香(かうば)し。遥(はるか)に風磴(ふうとう)を登れば、竹筧(ちくけん)に甘泉(かんせん)を分て、石鼎(せきてい)に茶の湯を立(たて)置(おき)たり。松籟(しようらい)声を譲(ゆづり)て芳甘(はうかん)春濃(こまやか)なれば、一椀(いちわん)の中に天仙をも得つべし。紫藤(しとう)の屈曲(くつきよく)せる枝毎(ごと)に高く平江帯(ひんごうたい)を掛(かけ)て、頭(ちとう)の香炉に鶏舌(けいぜつ)の沈水(ぢんずゐ)を薫(くん)じたれば、春風香暖(だん)にして不覚栴檀(せんだんの)林に入(いる)かと怪(あやし)まる。
眸(まなじり)を千里に供(くう)じ首(かうべ)を四山に廻(めぐらし)、烟霞(えんか)重畳(ちようでふ)として山川雑(まじ)り峙(そばだち)たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云(ここ)に聚(あつま)り、足を不移寸歩、四海(しかい)五湖(ごこ)の風景立(たちどころ)に得たり。一歩(いつほ)三嘆(さんたん)して遥(はるか)に躋(のぼれ)ば、本堂の庭に十囲(じふゐ)の花木(くわぼく)四本あり。
此(この)下に一丈(いちぢやう)余(あま)りの鍮石(ちゆうじやく)の花瓶(くわひん)を鋳懸(いかけ)て、一双(いつさう)の華に作り成(な)し、其交(そのあはひ)に両囲(りやうゐ)の香炉を両机に並べて、一斤(いつきん)の名香を一度(いちど)に焚上(たきあげ)たれば、香風四方(しはう)に散じて、人皆浮香(ふかう)世界の中に在(ある)が如し。其陰(そのかげ)に幔(まん)を引(ひき)曲(きよくろく)を立(たて)双(ならべ)て、百味の珍膳(ちんぜん)を調(ととの)へ百服の本非(ほんぴ)を飲(のみ)て、懸物(かけもの)如山積(つみ)上(あげ)たり。
猿楽優士(いうし)一たび回(めぐり)て鸞(らん)の翅(つばさ)を翻(ひるがへ)し、白拍子倡家(しやうか)濃(こまやか)に春鴬(しゆんあう)の舌を暢(のぶ)れば、坐中の人人大口(おほぐち)・小袖を解(とい)て抛与(なげあた)ふ。興(きよう)闌(たけなは)に酔(ゑひ)に和(くわ)して、帰路(きろ)に月無(なけ)れば、松明(たいまつ)天を耀(かかやか)す。鈿車(でんしやの)軸(ぢく)轟(とどろ)き、細馬(さいば)轡(くつばみ)を鳴(なら)して、馳散(はせち)り喚(をめ)き叫びたる有様、只三尸(さんし)百鬼(ひやくきの)夜深(ふけ)て衢(ちまた)を過(すぐ)るに不異。華(はな)開(ひらき)花落(おつ)る事二十日、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)ぜるが如しと、牡丹(ぼたん)妖艶(えうえん)の色を風せしも、げにさこそは有(あり)つらめと思(おもひ)知(しら)るゝ許(ばかり)也(なり)。此遊(このあそび)洛中(らくちゆう)の口遊(くちずさみ)と成て管領(くわんれい)の方へ聞へければ、「是(これ)は只(ただ)我申沙汰する将軍家の華下(はなのもと)の会(くわい)を、かはゆ気(げ)なる遊(あそび)哉(かな)と欺(あざむき)ける者也(なり)。」と、安からぬ事にぞ被思ける。
乍去是は心中の憤(いきどほり)にて公儀に可出咎(とが)にもあらず。「哀(あはれ)道誉(だうよ)、何事にても就公事犯法事あれかし。辛(から)く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処(ところに)、二十分(にじふぶんの)一(いち)の武家役を、道誉(だうよ)両年まで不沙汰間、管領すはや究竟(くつきやう)の罪科出来(しゆつらい)すと悦て、道誉(だうよ)が近年給(たまは)りたりける摂州の守護職(しゆごしよく)を改め、同国の旧領多田(ただの)庄(しやう)を没収(もつしゆ)して政所料所(まんどころれうしよ)にぞ成(なし)たりける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)不安。如何(いか)にもして此(この)管領を失(うしなは)ばやと思(おもひ)て、諸大名を語(かたら)ふに、六角入道(ろくかくにふだう)は当家の惣領(そうりやう)なれば無子細。赤松は聟也(なり)。なじかは可及異儀。此(この)外の太名共も大略は道誉(だうよ)に不諛云(いふ)者無(なか)りければ、事に触(ふれ)此(この)管領天下の世務に叶(かなふ)まじき由を、将軍家へぞ讒(ざん)し申ける。
魯叟(ろそう)有言、曰(いはく)、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或(あるひ)は其(その)衆阿党比周(あたうひしう)して好(よみん)ずる事あり。或(あるひ)は其(その)人特立不詳(とくりつふしやう)にして悪(にくま)るゝ事あり。毀誉(きよ)共(とも)に不察あるべからず。諸人の讒言遂(つひ)に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽(たちまち)に可討に定けり。此(この)事内々佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永に被仰て、江州(がうしう)の勢をぞ被召(めされ)ける。
道朝此(この)由を伝(つたへ)聞て、貞治四年八月四日晩景(ばんげい)に、将軍の御前(おんまへ)に参じて被申けるは、「蒙御不審(ごふしん)由内々告(つげ)知(しら)する人の候(さうらひ)つれ共(ども)、於身不忠不儀の事候はねば、申(まうす)人の謬(あやまり)にてぞ候らんと、愚意(ぐい)を遣(やり)候(さうらひ)つるに、昨日江州(がうしう)の勢共(せいども)、合戦の用意(ようい)にて、罷(まかり)上り候(さうらひ)ける由承(うけたまはり)及(および)候へば、風聞の説早(はや)実(まこと)にて候(さうらひ)けりと信(しん)を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器(ちようき)の職を汚(けが)し候(さうらひ)ぬれば、讒言も多く候覧(らん)と覚(おぼえ)候。然(しか)るを讒者の御糺明(ごきうめい)までも無(なく)て、御不審(ごふしん)を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老(すゐらう)の後に尸(かばね)を曝(さら)さん事何の子細か候べき。」と、恨(うらみ)の面に涙を拭(のごひ)て被申ければ、将軍も理に服したる体(てい)にて、差(さし)たる御言(おんことば)なし。
良(やや)久(ひさしく)黙然(もくねん)として涙を一目に浮べ給ふ。暫(しばらく)有て道朝已(すで)に退出せんとせられける時、将軍席を近付(ちかづけ)給(たまひ)て、「条々(でうでう)の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中(よのなか)我(わが)心にも任たる事にても無ければ、暫(しばら)く越前の方へ下向有て、諸人の申(まうす)処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈(やがて)被退出ぬ。
去(さる)程(ほど)に崇永兼(かね)て用意(ようい)したる事なれば、稠(きびし)くよろひたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒して将軍の御屋形へ馳(はせ)参り、四門を警固仕る。是(これ)より京中(きやうぢゆう)ひしめき渡て、将軍へと馳(はせ)参る武者もあり、管領へと馳(はす)る人もあり。柳営(りうえい)家臣の両陣のあはひ僅(わづか)に半町許(ばかり)あれば、何(いづ)れを敵何(いづ)れを御方共不見分。道朝始(はじめ)は一箭(ひとや)射て腹を切らんと企(くはたて)けるが、将軍より三宝院(さんぼうゐんの)覚済(かくせい)僧正(そうじやう)を御使(おんつかひ)にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定(さだま)りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪(あし)かりなん。敵共(てきども)に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許(ばかり)に、二宮(にのみや)信濃(しなのの)守(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、高倉面の門より、将軍家に押寄(おしよす)る体を見せて、鬨をぞ揚(あげ)たりける。
是(これ)を聞て、将軍家へ馳(はせ)参りたる大勢共、内へ入(いら)んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云(いふ)事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄(かぶと)を奪(うばは)れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知(しらず)。未戦先(さき)に、禍(わざはひ)蕭墻(せうしやう)の中より出たりとぞ見へたりける。此(この)ひしめきの紛(まぎ)れに、道朝は三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を卒し、長坂(ながさか)を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許(ばかり)も落延(おちのび)ぬらんと覚(おぼゆ)る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共(せいども)、疲れに乗て打止(うちと)めんと追懸(おひかけ)たり。二宮長坂峠に控(ひかへ)て少も漂(ただよ)へる機(き)を不見、馬に道草かふて嘲(あざわらう)たる声(こわ)ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置(おき)奉る故(ゆゑ)也(なり)。
今は都をも離れぬ。夜も明(あけ)ぬ。敵も御方も只今(ただいま)まで知り知られたる人々也(なり)。爰(ここ)にては我(われ)人の剛臆(がうおく)の程を呈(あらは)さでは何(いづ)れの時をか可期。馬の腹帯(はるび)の延(のび)ぬ先に早(はや)是(これ)へ御入(おんいり)候へ。我等(われら)が頚(くび)を御引出物(おんひきでもの)に進(まゐら)するか、御頚共(おんくびども)を餞(はなむけ)に給(たまは)るか、其(その)二の間に自他の運否(うんぴ)を定め候(さうらは)ばや。」と高声に呼(よばはり)て、馬の上にて鎧の上帯(うはおび)縮直(しめなほ)して、東頭(ひがしがしら)に引(ひか)へたり。其(その)勇気誠(まこと)に節に中(あたつ)て、死を軽(かろん)ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共(よせてども)、よしや今は是(これ)までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。
道朝、二宮を待(まち)付(つけ)て、越前へ下著(げちやく)し、軈(やが)て我(わが)身は杣山(そまやま)の城(じやう)に篭(こも)り、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を栗屋(くりや)の城(じやう)に篭(こめ)て、北国を打(うち)随(したが)へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下(くだ)せ。」とて、畠山尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・山名中務(なかつかさの)大輔(たいふ)・佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)高秀・土岐左馬(さまの)助(すけ)・佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官入道(はうぐわんにふだう)崇誉(そうよ)・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)範顕(のりあき)、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国(くにの)勢、相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)、同年の十月より二(ふたつ)の城(じやう)を囲(かこみ)て、日夜朝暮に攻(せめ)けれ共(ども)、此(この)城(じやう)可被落とも不見けり。
斯(かか)る処に翌年(よくねん)七月に道朝俄(にはか)に病に被侵逝去(せいきよ)しければ、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)様様(さまざま)に歎(なげき)申されけるに依て、同九月に宥免安堵(いうめんあんど)の御教書(みげうしよ)を被成、京都へ被召返。無幾程越中(ゑつちゆう)の討手を承(うけたまはり)て、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常を退治(たいぢ)したりしかば、軈(やがて)越中(ゑつちゆう)の守護職(しゆごしよく)に被補。是(これ)より北国は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。此濫觴(このらんしやう)抑道朝が僻事(ひがこと)は何ぞや。唯(ただ)依諸人讒言失身給(たまひ)し者也(なり)。されば楚の屈原(くつげん)が泪羅(べきら)の沢(さは)に吟(さまよう)て、「衆人皆酔(ゑへり)、我独(ひとり)醒(さめ)たり。」と、世を憤(いきどほり)しを、漁父笑(わらつ)て、「衆人皆酔(ゑへ)らば、何(なん)ぞ其糟(そのかす)を喰(くらつ)て其(その)汁(しる)をすゝらざる。」と哥(うたう)て、滄浪(さうらう)の舟に棹(さをさし)しも、げにさる事も有(あり)けりと、被思知世と成(なり)にけり。  
神木御帰座(ごきざの)事(こと)
大夫入道(たいふにふだう)々朝都を落(おち)て後、越前国(ゑちぜんのくに)河口(かはぐちの)庄(しやう)南都被返付しかば、神訴忽(たちまち)に落居(らくきよ)して、八月十二日神木御帰坐(ごきざ)あり。刻限卯(うの)時(とき)と被定(さだめられ)たるに、其(その)暁より雨闇(くら)く風暴(あら)かりしかば、天の忿(いかり)猶(なほ)何事にか残(のこる)らんと怪(あやし)かりしに、其期(そのご)に臨(のぞん)で雨晴(はれ)風定(しづま)りて、天気殊(こと)に麗(うるはし)かりしかば、是(これ)さへ人の意を感ぜしめたり。
先(まづ)南曹弁(なんさうべんの)嗣房(つぎふさ)参て諸事を奉行す。午刻(むまのこく)許(ばかり)に鷹司(たかつかさの)左大臣殿(さだいじんどの)・九条殿・一条殿、大中納言(だいちゆうなごん)・大理以下次第に参り給ふ。関白殿(くわんばくどの)御著座あれば、数輩(すはい)の僧綱(そうがう)以下、御座の前にして其(その)礼を致す。是(これ)時(とき)の長者の験(しるし)也(なり)。出御(しゆつぎよ)の程に成(なり)ぬれば、数万人(すまんにん)立(たち)双(ならび)たる大衆の中より、一人進(すすみ)出て有僉議。音声雲に響き、言語玉を連(つら)ねたり。僉議終(をはれ)ば幄屋(あくや)に乱声(らんじやう)を奏す。翕如(きふじよ)たる声の中に、布留(ふる)の神宝を出し奉るに、関白殿(くわんばくどの)以下、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)席を避(さけ)て皆跪(ひざまつ)き給ふ。
其(その)次に本社の御榊・四所の御正体(みしやうだい)、光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)としてゆすり出させ給へば、数千(すせん)の神官(じんくわん)共(ども)、覆面(ふくめん)をして各捧(ささ)げ奉る。両列(りやうれつ)の伶倫(れいりん)、道々還城楽(げんじやうらく)を奏して、正始(せいし)の声を調(しら)べ、神人警蹕(けいひつ)の声を揚(あげ)て非常を禁(いま)しむ。赤衣仕丁(せきえのじちやう)白杖(はくぢやう)を持て御前(おんまへ)に立(たち)、黄衣(くわうえの)神人神宝を頂戴(ちやうだい)して次々に順(したが)ふ。其(その)外の神司(かんつかさ)束帯を著して列(れつ)を引(ひく)。白衣(はくえの)神人、数千人(すせんにん)の国民等(こくみんら)歩列(あゆみつらな)る。時の関白良基(よしもと)公(こう)は、柳の下重(したがさね)に糸鞋(いとぐつ)を召(めし)、当(あた)りも耀(かかや)く許(ばかり)に歩み出させ給へば、前駆(ぜんく)四人左右に順(したが)ひ、殿上人(てんじやうびと)二人(ににん)御裾(おんきよ)をもつ。
随身(ずゐじん)十人(じふにん)有(あり)といへ共態(わざと)御先(おんさき)をばをはず。神幸に恐(おそれ)を成し奉る故(ゆゑ)也(なり)。其(その)次には鷹司(たかつかさの)左大臣・今出河大納言・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言(だいなごん)・九条(くでうの)大納言(だいなごん)・一条(いちでうの)大納言(だいなごん)・坊城(ばうじやうの)中納言(ちゆうなごん)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)・西園寺中納言・四条(しでうの)宰相(さいしやう)・洞院(とうゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)、殿上人(てんじやうびと)には、左中将(さちゆうじやう)忠頼(ただより)・右中将(うちゆうじやう)季村(すゑむら)・新中将(しんちゆうじやう)親忠(ちかただ)・左中弁嗣房(つぎふさ)・新中将(しんちゆうじやう)基信(もとのぶ)・蔵人(くらうど)右中弁(うちゆうべん)宣房(のぶふさ)・権右中弁(ごんのうちゆうべん)資康(すけやす)・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕(むねあき)・左少将為有(ためあり)・右少将兼時(かねとき)、行妝(ぎやうさう)を整(ととの)へ、威儀を正(ただし)くして、閑(しづか)に列(れつ)をなし給へば、供奉(ぐぶ)の大衆二万人、各(おのおの)貝(かひ)を吹(ふき)連(つらね)て、前後三十(さんじふ)余町(よちやう)に支(ささへ)たり。
盛(さかんなる)哉(かな)朝廷無事の化(くわ)、遠く天児屋根(あまのこやね)の昔に立(たち)返り、博陸具瞻(はくりくぐせん)の徳、再(ふたた)び高彦霊尊(たかみむすびのみこと)の勅を新(あらた)にし給へり。誠(まこと)に利物(りもつ)の垂迹(すゐじやく)、順逆の縁に和光(わくわう)し不給、今斯(かか)る神幸を拝し奉るべしやと、岐(ちまた)に満(みつ)る見物衆の、神徳を貴ばぬは無(なか)りけり。  
高麗人(かうらいじん)来朝(らいてうの)事(こと)
四十(しじふ)余年(よねん)が間本朝大に乱(みだれ)て外国(ぐわいこく)暫(しばらく)も不静。此(この)動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客(りよかく)緑林(りよくりん)の陰(かげ)を不過得、海上には海賊多(おほく)して、舟人白浪(はくらう)の難を去兼(さりかね)たり。欲心(よくしん)強盛(がうせい)の溢物(あぶれもの)共(ども)以類集りしかば、浦々島々多く盜賊(たうぞく)に被押取て、駅路(えきろ)に駅屋(えきや)の長(ちやう)もなく関屋(せきや)に関守(せきもる)人を替(かへ)たり。結句此賊徒(このぞくと)数千艘の舟をそろへて、元朝(げんてう)・高麗(かうらい)の津々泊々(とまりとまり)に押(おし)寄(よせ)て、明州(みやうしう)・福州(ふくしう)の財宝を奪(うばひ)取る。
官舎・寺院を焼(やき)払ひける間、元朝・三韓(さんかん)の吏民(りみん)是(これ)を防兼(ふせぎかね)て、浦近き国々数十箇国(すじつかこく)皆栖(すむ)人もなく荒(あれ)にけり。依之(これによつて)高麗国の王より、元朝皇帝(くわうてい)の勅宣(ちよくせん)を受(うけ)て、牒使(てふし)十七人(じふしちにん)吾(わが)国(くに)に来朝す。此(この)使異国の至正(しせい)二十三年八月十三日(じふさんにち)に高麗を立て、日本国貞治(ぢやうぢ)五年九月二十三日(にじふさんにち)出雲に著岸(ちやくがん)す。道駅を重(かさね)て無程京都に著(つき)しかば、洛中(らくちゆう)へは不被入して、天竜寺(てんりゆうじ)にぞ被置ける。
此(この)時(とき)の長老春屋和尚(しゆんをくをしやう)覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞(そのことばに)云(いはく)、皇帝(くわうてい)聖旨寰、征東行中書省、照得日本(につぽん)与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年(じふねん)庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十(じふ)余年(よねん)、海舶不通、辺界居民不能寧処。蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪(をかしうばふ)事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑(げんけい)を加(くはふ)るに拠(よんどころ)なしとて、返牒をば不被送。只来献(らいけん)の報酬とて、鞍(くら)馬十疋(じつぴき)・鎧二領(にりやう)・白太刀三振(ふり)・御綾(あや)十段・綵絹(さいけん)百段・扇子(せんす)三百本、国々の奉送使(ほうそうし)を副(そへ)て、高麗へぞ送り被著ける。  
自太元(たいげんより)攻日本(につぽんをせむる)事(こと)
倩(つらつら)三余(さんよ)の暇(いとま)に寄(よせ)て千古の記する処を看(み)るに、異国より吾朝(わがてう)を攻(せめ)し事、開闢以来(かいびやくよりこのかた)已(すで)に七箇度(しちかど)に及べり。殊更(ことさら)文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝(らうくわうてい)支那四百州を討取て勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治(たいぢ)かりしか共、輙(たやす)く太元の兵を亡(ほろぼ)して吾(わが)国(くに)無為(ぶゐ)なりし事は、只是(これ)尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みやうじよ)に依(より)し者也(なり)。其(その)征伐の法を聞けば、先(まづ)太元の大将万(まん)将軍(しやうぐん)、日本王畿五箇国(ごかこく)を四方(しはう)三千七百(さんぜんしちひやく)里(り)に勘(かんが)へて、其(その)地に兵を無透間立双(たちならべ)て是(これ)を数(かぞふ)るに、三百七十万騎(さんびやくしちじふまんぎ)に当れり。
此(この)勢を大船七万(しちまん)余艘(よさう)に乗て、津々浦々(つつうらうら)より推(おし)出す。此企(このくはたて)兼(かね)てより吾朝に聞へしかば、其(その)用意(ようい)を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳(はせ)集り、山陽・山陰の勢(せい)は帝都に馳参る。東山道(とうせんだう)・北陸道(ほくろくだう)の兵は、越前敦賀(つるが)の津をぞ堅(かた)めける。去(さる)程(ほど)に文永二年八月十三日(じふさんにち)、太元七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船、同時に博多の津に押寄(おしよせ)たり。大舶(たいはく)舳艫(ともへ)を双(ならべ)て、もやいを入(いれ)て歩(あゆみ)の板を渡して、陣々に油幕(ゆばく)を引き干戈(かんくわ)を立双(たちなら)べたれば、五島(ごたう)より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲(しゐ)三百(さんびやく)余里(より)俄(にはか)に陸地(くがち)に成(なり)て、蜃気(しんき)爰(ここ)に乾闥婆城(けんだつばじやう)を吐(はき)出せるかと被怪。日本(につぽん)の陣の構(かまへ)は、博多の浜端(はまばた)十三里に石の堤(つつみ)を高く築(きづい)て、前は敵の為に切立たるが如く、後(うしろ)は為御方平々(へいへい)として懸引(かけひき)自在也(なり)。
其陰(そのかげ)に屏(へい)を塗り陣屋を作て、数万の兵並居(なみゐ)たれば、敵に勢の多少をば見透(みすか)されじと思ふ処に、敵の舟の舳前(へさき)に、桔槹(はねつるべ)の如くなる柱を数十丈(すじふぢやう)高く立て、横なる木の端(はし)に坐を構(かまへ)て人を登せたれば、日本(につぽん)の陣内目の下に直下(みおろ)されて、秋毫(しうがう)の先をも数(かぞへ)つべし。又面の四五丈広き板を、筏(いかだの)如(ごとく)に畳鎖(たたみくさり)て水上に敷双(しきならべ)たれば、波の上に平なる路数(あま)た作(つくり)出されて、恰(あたかも)三条(さんでう)の広路(ひろみち)、十二の街衢(かいく)の如く也(なり)。此(この)路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の鉾(ほこ)たゆみて、多くは退屈してぞ覚(おぼえ)ける。皷を打て兵刃(へいじん)既(すで)に交(まじは)る時、鉄炮(てつぱう)とて鞠(まり)の勢なる鉄丸(てつぐわん)の迸(ほとばし)る事下坂輪(くだりざかりん)の如く、霹靂(へきれき)する事閃電光の如くなるを、一度(いちど)に二三千(にさんぜん)抛(なげ)出したるに、日本(につぽんの)兵多(おほく)焼(やき)殺され、関櫓(きどやぐら)に火燃(もえ)付(つき)て、可打消隙も無(なか)りけり。
上松浦(かみまつら)・下松浦(しもまつら)の者共(ものども)此(この)軍を見て、尋常(よのつね)の如(ごとく)にしては叶はじと思(おもひ)ければ、外(よそ)の浦より廻(まはつ)て、僅(わづか)に千(せん)余人(よにん)の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武(たけ)けれ共(ども)、九牛(きうぎう)が一毛(いちまう)、大倉(たいさう)の一粒(いちりふ)にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討(うつ)事は二三万人なりしか共、終(つひ)には皆被生捕、身を縲紲(るゐせつ)の下に苦しめて、掌(たなごころ)を連索(れんさく)の舷(ふなばた)に貫(つらぬか)れたり。懸(かか)りし後は重(かさね)て可戦様も無(なか)りしかば、筑紫九国の者共(ものども)一人も不残四国・中国へぞ落(おち)たりける。日本(につぽん)一州の貴賎上下如何(いか)がせんと周章騒(あわてさわ)ぐ事不斜(なのめならず)。諸社の行幸御幸(ぎやうがうごかう)・諸寺の大法秘法、宸襟(しんきん)を傾(かたぶけ)て肝胆(かんたん)を砕(くだ)かる。
都(すべ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)大小(だいせう)の神祇、霊験(れいけん)の仏閣に勅使(ちよくし)を被下、奉幣を不被捧云(いふ)所なし。如此御祈祷(ごきたう)已(すで)に七日満(まん)じける日、諏訪(すは)の湖(みづうみ)の上より、五色の雲西に聳(たなび)き、大蛇の形に見へたり。八幡(やはたの)御宝殿の扉(とびら)啓(ひら)けて、馬の馳(はせ)ちる音、轡(くつばみ)の鳴(なる)音、虚空(こくう)に充満(みちみち)たり。日吉の社二十一社(にじふいつしや)の錦帳(きんちやう)の鏡動(うご)き、神宝刃(やいば)とがれて、御沓皆西に向へり。住吉(すみよし)四所の神馬(じんめ)鞍の下に汗流れ、小守(こもり)・勝手(かつて)の鉄(くろがね)の楯(たて)己(おのれ)と立て敵の方につき双(なら)べたり。
凡(およそ)上中下二十二社の震動奇瑞(しんどうきずゐ)は不及申、神名帳に載(のす)る所の三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)乃至(ないし)山家村里(さんかそんり)の小社(ほこら)・櫟社(れきしや)・道祖(だうそ)の小神迄(まで)も、御戸(みと)の開(ひらか)ぬは無(なか)りけり。此(この)外春日野(ひの)の神鹿(しんろく)・熊野山(くまのさん)の霊烏(れいう)・気比(けひの)宮(みや)の白鷺(しらさぎ)・稲荷山の名婦(みやうぶ)・比叡山(ひえいさん)の猿、社々の仕者(ししや)、悉(ことごとく)虚空を西へ飛(とび)去ると、人毎(ひとごと)の夢に見へたりければ、さり共此(この)神々の助(たすけ)にて、異賊(いぞく)を退(しりぞ)け給はぬ事はあらじと思ふ許(ばかり)を憑(たのみ)にて、幣帛(へいはく)捧(ささげ)ぬ人もなし。
浩(かか)る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜(ねぎ)荒木田尚良(あらきたのひさよし)・豊受(とようけ)太神宮の禰宜度会貞尚等(わたらゑのさだひさら)十二人(じふににん)起請(きしやう)の連署(れんしよ)を捧(ささげ)て上奏しけるは、「二宮(にぐう)の末社(まつしや)風の社(みや)の宝殿の鳴動する事良(やや)久し。六日の暁天(げうてん)に及(および)て、神殿より赤(あかき)雲一村(ひとむら)立(たち)出て天地を耀(かかやか)し山川を照す。其(その)光の中より、夜叉羅刹(やしやらせつ)の如くなる青色の鬼神顕(あらは)れ出て土嚢(どなう)の結目(ゆひめ)をとく。火風其(その)口(くち)より出て、沙漁(しやぎよ)を揚(あ)げ大木(たいぼく)を吹(ふき)抜く。測(はかり)ぬ、九州の異狄等(いてきら)、此(この)日(ひ)即(すなはち)可滅と云(いふ)事を。事若(もし)誠有て、奇瑞(きずゐ)変(へん)に応ぜば、年来(としごろ)申請(まうしうく)る処の宮号(みやがう)、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。
去(さる)程(ほど)に大元(たいげん)の万(まん)将軍(しやうぐん)、七万(しちまん)余艘(よさう)のもやひをとき、八月十七日(じふしちにち)辰刻(たつのこく)に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已(すで)に渡中(となか)をさしゝし時、さしも風止(や)み雲閑(しづか)なりつる天気俄(にはか)に替(かはつ)て、黒雲一村艮(うしとら)の方より立覆(おほ)ふとぞ見へし。風烈(はげし)く吹(ふい)て逆浪(さかなみ)大に漲(みなぎ)り、雷(いかづち)鳴霆(なりはためい)て電光地に激烈す。大山も忽(たちまち)に崩れ、高天も地に落(おつ)るかとをびたゝし。異賊七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船共或(あるひ)は荒磯の岩に当て、微塵(みぢん)に打砕かれ、或(あるひ)は逆巻(さかまく)浪に打返されて、一人も不残失(うせ)にけり。
斯(かか)りけれ共(ども)、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥(えうめい)たる空中に飛(とび)揚(あが)りてぞ立たりける。爰(ここ)に呂洞賓(りよとうひん)と云(いふ)仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占(しめ)しけるは、「日本(につぽん)一州の天神地祇三千七百(さんぜんしちひやく)余社(よしや)来て、此(この)悪風を起し逆浪(げきらう)を漲(みなぎら)しむ。人力の可及処に非(あら)ず。汝(なんぢ)早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此(この)言を信じて、一箇の破船有(あり)けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌(しのぎ)て、無程明州の津にぞ著(つき)にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然(こつぜん)として来て申けるは、「汝日本(につぽん)の軍に打負(うちまけ)たる罪に依て、天子忿(いかつ)て親類骨肉、皆(みな)三族の罪に行(おこな)はれぬ。汝帝都に帰らば必(かならず)共(とも)に可被刑。早く是(これ)より剣閣(けんかく)を経て、蜀(しよく)の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州(ようしう)を攻(せめ)ばやと、羨念(うらやみおも)ふ事切(せつ)なり。至らば必(かならず)大功を建(たつ)べしと云て別れたるが、我汝が餞送(はなむけ)の為に嚢(なう)中を探(さぐ)るに、此(この)一物の外は無他。」とて、膏薬(かうやく)を一付与へける。其(その)銘に至雍発(しようはつ)とぞ書(かき)付(つけ)たりける。
万将軍呂洞賓(りよとうひん)が言に任(まかせ)て、蜀へ行(ゆき)たるに、蜀王是(これ)を悦(よろこび)給ふ事無限。軈(やが)て万将軍に上将(じやうしやう)の位を授け、雍州をぞ攻(せめ)させける。
万将軍兵を卒し旅(りよ)を屯(たむろし)て雍州に至るに、敵山隘(さんあい)の高く峙(そばだち)たるに、石の門を閉(とぢ)てぞ待(まち)たりける。誠(まこと)に一夫(いつぶ)忿(いかつ)て臨関に、万夫(ばんぷ)も不可傍と見へたり。此(この)時(とき)に万将軍、呂洞賓が我に与(あたへ)し膏薬の銘(めい)に至雍発(はつ)せよと書(かき)たりしは、此(この)雍州の石門に付(つけ)よと教へけるにこそと心得(こころえ)て、密(ひそか)に人をして、一付有(あり)ける膏薬を、石門の柱にぞ付(つけ)させたりける。付(つく)ると斉(ひとし)く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩(くづ)れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便(たより)を失(うしなひ)て、皆蜀王にぞ降(くだ)りける。此(この)功然(しかしながら)万将軍が徳也(なり)とて、軈(やが)て公侯の位に登せられける。
居(を)る事三十日有て、万将軍背(せなか)に癰瘡(ようさう)出たりけるが、日を不経して忽(たちまち)に死(しに)にけり。雍州の雍の字と癰瘡(ようさう)の癰字と声(いんせい)通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書(かき)けるは、雍州の石門に付(つけ)よと教(をしへ)けるか、又癰瘡(ようさう)の出たらんに付(つけ)よと占(しめ)しけるか、其(その)二の間を知(しり)難し。功は高(たかく)して命は短し。何をか捨(すて)何をか取(とら)ん。若(もし)休(やむ)事を不得して其(その)一を捨(すて)ば、命は在天、我は必(かならず)功を取(とら)ん。抑太元三百万騎の蒙古(もうこ)共(ども)一時に亡(ほろび)し事、全(まつたく)吾国の武勇(ぶよう)に非(あら)ず。只(ただ)三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の大小(だいせう)神祇、宗廟(そうべう)の冥助(みやうじよ)に依るに非(あら)ずや。  
神功皇后(じんぐうくわうごう)攻新羅給(たまふ)事(こと)
昔(むか)し仲哀天皇(てんわう)、聖文神武(せいぶんしんむ)の徳を以て、高麗(かうらい)の三韓を攻(せめ)させ給ひけるが、戦(たたかひ)利無(なく)して帰らせ給ひたりしを、神功皇后(じんぐうくわうごう)、是(これ)智謀武備(ぶび)の足(たら)ぬ所也(なり)とて、唐朝(たうてう)へ師(いくさ)の束脩(そくしゆ)の為(ため)に、沙金(しやきん)三万両を被遣、履道翁(りだうおう)が一巻(いつくわん)の秘書を伝(つたへ)らる。是(これ)は黄石(くわうせき)公(こう)が第五日の鶏鳴(けいめい)に、渭水(ゐすい)の土橋(つちはし)の上にて張良に授(さづけ)し書なり。さて事已(すで)に定て後、軍評定の為に、皇后諸(もろもろ)の天神地祇を請(しやう)じ給ふに、日本(につぽん)一万(いちまん)の大小(だいせう)の神祇冥道(みやうだう)、皆勅請(ちよくしやう)に随て常陸(ひたち)の鹿島(かしま)に来(きたり)給ふ。
雖然、海底に迹(あと)を垂(たれ)給(たまふ)阿度部(あとべ)の磯良(いそら)一人不応召。是(これ)如何様(いかさま)故(ゆゑ)あらんとて、諸の神達(かみたち)燎火(にはび)を焼(た)き、榊の枝に白和幣(しらにぎて)・青和幣取(あをにぎて)取(とり)懸(かけ)て、風俗(ふうぞく)・催馬楽(さいばら)、梅枝(むめがえ)・桜人(さくらひと)・石河(いしかは)・葦垣(あしがき)・此殿(このとの)・夏引(なつひき)・貫河(ぬきかは)・飛鳥井(あすかゐ)・真金吹(まかねふく)・差櫛(さしくし)・浅水(あさうづ)の橋、呂律(りよりつ)を調べ、本末を返(かへし)て数反(すへん)哥はせ給(たまひ)たりしかば、磯良(いそら)感に堪兼(たへかね)て、神遊(かみあそび)の庭にぞ参たる。
其貌(そのかたち)を御覧ずるに、細螺(したたみ)・石花貝(かき)・藻(も)に棲(すむ)虫、手足五体(ごたい)に取付て、更(さら)に人の形にては無(なか)りけり。神達(かみたち)怪(あやし)み御覧じて、「何故(なにゆゑに)懸(かか)る貌(かたち)には成(なり)けるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、磯良答(こたへ)て曰く、「我滄海(さうかい)の鱗(うろくづ)に交(まじはり)て、是(これ)を利(り)せん為に、久(ひさし)く海底に住(すみ)侍りぬる間、此(この)貌に成(なり)て候也(なり)。浩(かか)る形にて無止事御神前に参らんずる辱(はづか)しさに、今までは参り兼(かね)て候つるを、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)の御声(みこゑ)に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答(こたへ)申ける。
軈(やが)て是(これ)を御使(おんつかひ)にて、竜宮城に宝とする干珠(かんじゆ)・満珠(まんじゆ)を被借召。竜神(りゆうじん)即(すなはち)応神勅二(ふたつ)の玉を奉る。神功皇后(じんぐうくわうごう)一巻(いつくわん)の書を智謀とし、両顆(りやうくわ)の明珠を武備(ぶび)として新羅(しんら)へ向(むか)はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)已(すで)に五月(いつつき)に成(なら)せ給ひしかば、母后の御腹(おんはら)大に成て、御鎧を召(めさ)るゝに御膚(おんはだへ)あきたり。此(この)為に高良(かうら)明神の計(はからひ)として、鎧の脇立(わいだち)をばし出しける也(なり)。諏防(すは)・住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)を則(すなはち)副将軍(ふくしやうぐん)・裨(ひ)将軍(しやうぐん)として、自余(じよ)の大小(だいせう)の神祇、楼船(ろうせん)三千(さんぜん)余艘(よさう)を漕双(こぎなら)べ、高麗国へ寄給ふ。
是(これ)を聞て高麗の夷(えびす)共(ども)、兵船一万(いちまん)余艘(よさう)に取乗て海上に出向ふ。戦(たたかひ)半(なかば)にして雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせざる)時(とき)、皇后先(まづ)干珠(かんじゆ)を海中に抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)俄(にはか)に退(しりぞい)て海中陸地(ろくぢ)に成(なり)にけり。三韓(さんかんの)兵共(つはものども)、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下(おり)、徒立(かちだち)に成てぞ戦ひける。此(この)時(とき)に又皇后満珠(まんじゆ)を取て抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)十方より漲(みなぎ)り来て、数万人(すまんにん)の夷(えびす)共(ども)一人も不残浪に溺(おぼれ)て亡(ほろび)にけり。是(これ)を見て三韓の夷の王自(みづから)罪を謝(しやし)て降参し給ひしかば、神功皇后(じんぐうくわうごう)御弓の末弭(うらはず)にて、「高麗の王は我が日本(につぽん)の犬也(なり)。」と、石壁(せきへき)に書(かき)付(つけ)て帰らせ給ふ。
是(これ)より高麗我朝(わがてう)に順(したがひ)て、多年其貢(そのみつぎもの)を献(たてまつ)る。古は呉服部(くれはとり)と云(いふ)綾織(あやおり)、王仁(わうにん)と云(いふ)才人(さいじん)、我朝に来りけるも、此貢(このみつぎもの)に備(そなは)り、大紋(だいもん)の高麗縁(かうらいべり)も其篋(そのはこもの)とぞ承(うけたまは)る。其(その)徳天に叶ひ其化(そのくわ)遠(とほき)に及(および)し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易(たやすく)征伐せられしに、今無悪不造(ふざう)の賊徒等(ぞくとら)、元朝高麗を奪(うばひ)犯(をかし)、牒使(てふし)を立(たて)させ、其課(そのかけもの)を送らしむる事、前代未聞(ぜんだいみもん)の不思議(ふしぎ)なり。角(かく)ては中々吾朝(わがてう)却(かへつ)て異国に奪(うばは)るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共(ことども)也(なり)。されば福州の呉元帥王乙(ごげんすゐわういつ)が吾朝へ贈りたる詩にも、此(この)意を暢(のべ)たり。日本(につぽん)狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此(この)詩の言(ことば)に付て思ふに、日本(につぽん)一州に近年竹の皆枯失(かれうす)るも、若(もし)加様(かやう)の前表にてやあらんと、無覚束行末也(なり)。  
光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)行脚(あんぎやの)事(こと)
光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)は、正平七年の比、南山賀名生(あなふ)の奥より楚の囚(とらはれ)を被許させ給(たまひ)て、都へ還御成(なり)たりし後、世中(よのなか)をいとゞ憂き物に思召(おぼしめし)知(しら)せ給(たまひ)しかば、姑耶山(こやさん)の雲を辞(じ)し、汾水陽(ふんすゐやう)の花を捨(すて)て、猶(なほ)御身(おんみ)を軽く持たばやと思召けり。御荒増(おんあらまし)の末通(とほり)て、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の出塵(しゆつぢん)の徒(と)と成(なら)せ給(たまひ)しかば、伏見の里の奥光厳院(くわうごんゐん)と聞へし幽閑(いうかん)の地にぞ住(すま)せ給ひける。
是(これ)も猶(なほ)都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭(いと)はしく、浮世の事の御耳に触るも冷(すさまじ)く思召(おぼしめさ)れければ、来(きたりて)無所止、去(さりて)無住。柱杖頭辺(しゆぢやうとうへん)活路(くわつろ)通ずと、中峯(ちゆうほう)和尚の被作送行偈(そうあんのげ)、誠(まこと)に由(よし)ありと御心(おんこころ)に染(そみ)て、人工(にんぐ)・行者(あんじや)の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮(とそう)の為に立(たち)出させ給ふ。先(まづ)西国の方を御覧ぜんと思食(おぼしめし)て、摂津国(つのくに)難波の浦を過(すぎ)させ給ふに、御津(みつ)の浜松霞(かすみ)渡(わたり)て、曙(あけぼの)の気色(けしき)物哀(ものあはれ)なれば、迥(はるか)に被御覧て、誰待(まち)てみつの浜松霞(かすむ)らん我が日本(ひのもと)の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。
山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給(たまひ)て、猶(なほ)過(すぎ)うしと思召(おぼしめし)たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云(いふ)対句の時節に相叶(あひかなひ)たるにも、捨(すて)ぬ世ならば、何故(なにゆゑ)浩(かか)る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是(これ)より高野山を御覧ぜんと思召(おぼしめし)て、住吉(すみよし)の遠里小野(うりうの)へ出させ給ひたれば、焼痕(せうこん)回緑春容早(はやく)、松影穿紅日脚西なり。海天(かいてん)野景(やけい)歩(あゆむ)に随て新(あらた)なる風流に、御足たゆむ共不被思食。
昔は銷金軽羅(せうこんけいら)の茵(しとね)ならでは、仮(かり)にも蹈(ふま)せ給はざりし玉趾(ぎよくし)を、深泥湿土(しんでいしつと)の黯(くろめる)に汚(けが)れさせ給ひ御供(おんとも)の僧は、仕(つか)へて懸(かけ)し肘後(ちうご)の府に替(かは)れる一鉢(いつぱつ)を脇(わき)にかけ、今夜堺(さかひの)浦(うら)までも歩ませ給へば、塩干(しほひ)の潟(かた)にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜(いそな)取る海人(あま)共(ども)の、各つげの小櫛を差(さし)て、葦間に隠(かく)れ顕(あらは)れたる様を被御覧にも、「御貢(みつぎもの)備(そなへ)し民の営(いとなみ)、是(これ)程(ほど)に身を苦しめけるをしらで、等閑(なほざり)にすさびける事よ。」と、今更浅猿(あさまし)く思食(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。回首望東を、雲に聯(つら)なり霞に消(きえ)て、高く峙(そばた)てる山あり。道に休める樵(きこり)に山の名を問はせ給へば、「是(これ)こそ音に聞へ候金剛山の城(じやう)とて、日本国の武士共(ぶしども)の、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をも不知討(うた)れ候(さうらひ)し所にて候へ。」とぞ申ける。
是(これ)を聞食(きこしめし)て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)合戦と云(いふ)も、我一方の皇統(くわうとう)にて天下を争ひしかば、其亡卒(そのばうそつ)の悪趣(あくしゆ)に堕(だ)して多劫(たごふ)が間苦(く)を受けん事も、我罪障(わがざいしやう)にこそ成(なり)ぬらめ。」と先非を悔(くい)させ御坐(おはしま)す。経日紀伊(きいの)川を渡らせ給ひける時、橋柱朽(くち)て見るも危(あやふ)き柴橋(しばはし)あり。御足冷(すさまじ)く御肝(おんきも)消(きえ)て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半(なかば)に立(たち)迷(まよう)てをはするを、誰とは不知、如何様(いかさま)此(この)辺に、臂(ひぢ)を張り作(つく)り眼する者にてぞある覧(らん)と覚へたる武士七八人(しちはちにん)迹(あと)より来りけるが、法皇の橋の上に立(たた)せ給ひたるを見て、「此(ここ)なる僧の臆病気(おくびやうげ)なる見度(みたう)もなさよ。
是(これ)程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進(まゐ)らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿(あさまし)や。」とて、衣乍著飛(とび)入て引起し進(まゐら)せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬(ひた)りてしぼり不得。泣々(なくなく)傍(あたり)なる辻堂へ入れ進(まゐら)せて、御衣を脱替(ぬぎかへ)させ進(まゐら)せけり。古へも浩(かか)る事やあるべきと、君臣共に捨(すつ)る世を、さすがに思召(おぼしめし)出ければ、涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は、ぬれてほすべき隙(ひま)もなし。
行末心細き針道(はりみち)を経て御登山有(あり)ければ、山又(また)山、水又(また)水、登臨(とうりん)何(いづれの)日(ひか)尽(つく)さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺(だいかくじの)法皇の、此(この)寺へ御幸成りしに、供奉(ぐぶ)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸共(もろとも)に、一町(いつちやう)に三度(さんど)の礼拝をして、首(かうべ)を地に著(つ)け、誠(まこと)を致されける事も、難有かりける御願哉(かな)。予が在位の時も、代(よ)静(しづ)かなりせば、などか其芳躅(そのはうしよく)を不蹈と、思召(おぼしめし)准(なぞら)へらる。さて御山にも御著(おんつき)有(あり)しかば、大塔(だいたふ)の扉(とびら)を開(ひらか)せて両界の曼荼羅(まんだら)を御拝見あれば、胎蔵界(たいざうかい)七百(しちひやく)余尊(よそん)、金剛界(こんがうかい)五百(ごひやく)余尊(よそん)をば、入道太政大臣(だいじやうだいじん)清盛公(きよもりこう)、手(てづか)ら書(かき)たる尊容(そんよう)也(なり)。
さしも積悪(せきあく)の浄海、何(いか)なる宿善に被催、懸(かか)る大善根を致しけん。六大無碍(ろくだいむげ)の月晴(はる)る時有て、四曼相即(しまんさうぞく)の花可発春を待(まち)けり。さては是(これ)も只混(ひたすら)なる悪人にては無(なか)りけるよと、今爰(ここ)に思召(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾(いまだかたぶかず)、其(その)日(ひ)頓(やが)て奥の院へ御参詣有て、大師(だいし)御入定の室(むろ)の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁(けえん)は過(すぎ)ぬれ共(ども)、五時の説今耳に有(ある)かと覚え、慈尊の出世は遥(はるか)なれ共(ども)、三会(さんゑ)の粧(よそほひ)已(すで)に眼に如遮。
三日まで奥(おくの)院(ゐん)に御通夜有て暁(あかつき)立(たち)出させ給(たまふ)に一首(いつしゆ)の御製あり。高野(たかの)山迷(まよひ)の夢も覚(さむ)るやと其(その)暁を待(また)ぬ夜ぞなき安居(あんご)の間は、御心(おんこころ)閑(しづか)に此(この)山中にこそ御坐(ござ)あらめと思召(おぼしめし)て、諸堂御巡礼ある処に、只今(ただいま)出家したる者と覚(おぼし)くて、濃(こき)墨染にしほれたる桑門(よすてびと)二人(ににん)御前(おんまへ)に畏(かしこまつ)て、其(その)事となく只さめ/\とぞ泣(なき)居たりける。何者(なにもの)なるらんと怪(あやし)く思召(おぼしめし)てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡(おんわたり)有(あり)し時、橋の上より法皇を押(おし)落(おと)し進(まゐ)らせたりし者共(ものども)にてぞ有(あり)ける。
不思議(ふしぎ)や何事に今遁世(とんせい)をしけるぞや。是(これ)程無心放逸(はういつ)の者も、世を捨(すつ)る心の有(あり)けるかと思召(おぼしめし)て過(すぎ)させ給へば、此(この)遁世者(とんせいしや)御迹に随(したがひ)て、順覚に泣々(なくなく)申けるは、「紀伊川を御渡(おんわたり)候(さうらひ)し時、懸(かか)る無止事〔御事(おんこと)〕共知(しり)奉り候はで、玉体にあしく触(ふれ)奉(たてまつり)し事、余に浅猿(あさまし)く存(ぞんじ)候(さうらひ)て、此貌(このかたち)に罷(まかり)成(なり)て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪(たきぎ)を拾ひ、水を汲(くむ)態(わざ)にて候(さうらふ)共(とも)、三年が間常随(じやうずゐ)給仕(きふじ)申(まうし)候(さふらひ)て、仏神三宝の御とがめをも免(ゆるさ)れ候はん。」とぞ申ける。
「よしや不軽菩薩(ふきやうぼさつ)の道を行(ゆき)給(たまひ)しに、罵詈誹謗(めりひばう)する人をも不咎、打擲蹂躙(ちやうちやくじうりん)する者をも、却(かへつ)て敬礼(きやうらい)し給(たまひ)き。況(いはんや)我已(すでに)貌(かたち)を窶(やつ)して人其(その)昔を不知(しらず)。一時の誤(あやまり)何か苦(くるし)かるべき。出家は誠(まこと)に因縁(いんえん)不思議(ふしぎ)なれ共(ども)、随順(ずゐじゆん)せん事は怒々(ゆめゆめ)叶(かなふ)まじき。」由を被仰けれ共(ども)、此(この)者強(しひ)て片時(へんじ)も離れ進(まゐ)らせざりしかば、暁(あかつき)閼伽(あか)の水汲(くみ)に被遣たる其(その)間に、順覚を召具して潜(ひそか)に高野をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。
御下向は大和路(やまとぢ)に懸(かか)らせ給ひしかば、道の便(たより)も能(よろし)とて、南方の主上(しゆしやう)の御座(ござ)ある吉野殿(よしのどの)へ入らせ給ふ。此(この)三四年の先までは、両統(りやうとう)南北に分れて此(ここ)に戦ひ彼(かしこ)に寇(あた)せしかば、呉越(ごえつ)の会稽(くわいけい)に謀(はかり)しが如く、漢楚(かんそ)の覇上(はじやう)に軍(いくさだて)せしにも過(すぎ)たりしに、今は散聖(さんじやう)の道人(だうにん)と成(なら)せ給(たまひ)て、玉体を麻衣草鞋(まえさうあい)にやつし、鸞輿(らんよ)を跣行(せんかう)の徒渉(とせう)に易(かへ)て、迢々(はるばる)と此(この)山中迄(まで)分(わけ)入(いら)せ給(たまひ)たれば、伝奏未(いまだ)事の由を不奏先(さきに)直衣の袖をぬらし、主上(しゆしやう)未(いまだ)御相看(ごしやうかん)なき先に御涙(おんなみだ)をぞ流させ給(たまひ)ける。
是(ここ)に一日(いちにち)一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、様々の御物語(おんものがたり)有(あり)しに、主上(しゆしやう)、「さても只今(ただいま)の光儀(くわうぎ)、覚(さめ)ての後の夢、夢の中の迷(まよひ)かとこそ覚へて候へ。縦(たとひ)仙院の故宮(こきゆう)を棄(すて)て釈氏(しやくし)の真門(しんもん)に入(いら)せ給ふ共、寛平(くわんへい)の昔にも准(なぞら)へ、花山の旧(ふる)き跡をこそ追(おは)れ候べきに、尊体を浮萍(ふへい)の水上に寄(よせ)て、叡心(えいしん)を枯木(こぼく)の禅余(ぜんよ)に被付候(さうらひ)ぬる事、何(いか)なる御発心(ほつしん)にて候(さうらひ)けるぞや。
御羨(うらやましく)こそ候へ。」と、尋(たづね)申させ給(たまひ)ければ、法皇御泪に咽(むせび)て、暫(しばし)は御詞(おんことば)をも不被出。良(やや)有て、「聰明文思(そうめいぶんし)の四徳を集(あつめ)て叡旨に係(かけ)候へば、一言未挙(いまだあげざる)先に、三隅(さんぐう)の高察も候はん歟(か)。予元来(ぐわんらい)万劫煩悩(まんこふぼんなう)の身を以て、一種虚空(こくう)の塵(ちり)にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業(ぜんごふ)の嬰(かか)る所に旧縁(きうえん)を離(はなれ)兼(かね)て、可住荒増(あらまし)の山は心に乍有、遠く待(また)れぬ老の来る道をば留むる関も無(なく)て年月を送(おくり)し程に、天下の乱一日も休(や)む時無(なか)りしかば、元弘(げんこう)の始(はじめ)には江州(がうしう)の番馬(ばんば)まで落(おち)下り、五百(ごひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)が自害せし中に交(まじはり)て、腥羶(せいせん)の血に心を酔(よは)しめ、正平の季(すゑ)には当山の幽閑(いうかん)に逢(あう)て、両年を過(すぐ)るまで秋刑(しうけい)の罪に胆(きも)を嘗(なめ)き。
是(これ)程されば世は憂(うき)物にて有(あり)ける歟(か)と、初(はじめ)て驚(おどろく)許(ばかり)に覚(おぼえ)候(さうらひ)しかば、重祚(ちようそ)の位に望をも不掛、万機(ばんき)の政(まつりこと)に心をも不留しか共、一方の戦士我を強(しひ)して本主(ほんしゆ)とせしかば、可遁出隙(ひま)無(なく)て、哀(あはれ)いつか山深き栖(すみか)に雲を友とし松を隣(となり)として、心安(こころやす)く生涯を可尽と、心に懸(かけ)て念じ思(おもひ)し処に、天地命を革(あらため)て、譲位(じやうゐ)の儀出来しかば、蟄懐(ちつくわい)一時に啓(ひらけ)て、此(この)姿に成てこそ候へ。」と、御涙(おんなみだ)の中に語(かたり)尽(つく)させ給へば、一人諸卿諸共(もろとも)に御袖(おんそで)をしぼる許(ばかり)也(なり)。
「今は。」とて御帰(おんかへり)あらんとするに、寮(れう)の御馬(おんむま)を進(まゐら)せられたれ共(ども)、堅(かたく)御辞退有て召(めさ)れず。いつしか疲(つかれ)させ給ひぬれ共(ども)、猶(なほ)如雪なる御足に、荒々(あらあら)としたる鞋(わらぢ)を召(めさ)れて出立させ給へば、主上(しゆしやう)は武者所(むしやどころ)まで出御(しゆつぎよ)成て、御簾(みす)を被掲(かかげられ)、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は庭上の外まで送り進(まゐら)せて、皆泪にぞ立(たち)ぬれ給(たまひ)ける。
道すがらの山館野亭(さんくわんやてい)を御覧ぜらるゝにも、先年里(いうり)の囚(とらはれ)に逢(あは)せ給(たまひ)て、一日片時(いちにちへんし)も難過と、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給(たまひ)し松門茅屋(ばうをく)あり。戦図(せんと)に入(いる)山中ならずは斯(かか)る処にぞ住(すみ)なましと、今は昔の憂(うき)栖(すみか)を御慕(おんしたひ)有(あり)けるぞ悲(かなし)き。諸国御斗薮(とそう)の後、光厳院(くわうごんゐん)へ御帰(おんかへり)有て暫(しばらく)御座(ござ)有(あり)けるが、中使頻(しきり)に到て松風の夢を破り、旧臣常(つね)に参(まゐり)て蘿月(らげつ)の寂(じやく)を妨(さまたげ)ける程に、此(ここ)も今は住(すみ)憂(うし)と思召(おぼしめし)、丹波(たんばの)国(くに)山国と云(いふ)所へ、迹(あと)を銷(け)して移(うつら)せ給(たまひ)ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯(いちれん)句甘閑味給ふ。身の安(やすき)を得る処即(すなはち)心安(こころやす)し。出有江湖、入有山川と、一乾坤(けんこん)の外に逍遥(せうえう)して、破蒲団(はふとん)の上に光陰を送らせ給(たまひ)けるが、翌年(よくねん)の夏(なつの)比(ころ)より、俄(にはか)に御不予(ごふよ)の事有て、遂(つひ)に七月七日隠(かくれ)させ給(たまひ)にけり。  
法皇御葬礼(ごさうれいの)事(こと)
比(この)時(とき)の新院光明院殿も、山門(さんもんの)貫主(くはんじゆ)梶井(かぢゐの)宮(みや)も、共に皆禅僧に成(なら)せ給(たまひ)て、伏見殿に御座(ござ)有(あり)ければ、急ぎ彼遷化(かのせんげ)の山陰(やまかげ)へ御下り有て御荼毘(おんだび)の事共(ことども)、取(とり)営(いとなま)せ給(たまひ)て、後(うしろ)の山に葬(さう)し奉る。哀(あはれ)仙院芝山(しざん)の晏駕(あんが)ならましかば、百官泪(なみだ)を滴(したで)て、葬車の御迹に順(したが)ひ、一人(いちじん)悲(かなしみ)を呑(のん)で虞附(ぐふ)の御祭をこそ営(いとなま)せ給ふべきに、浩(かかる)る御事(おんこと)とだに知(しる)人もなき山中の御葬礼(ごさうれい)なれば、只徒(いたづら)に鳥啼(なき)て挽歌(ばんか)の響(ひびき)をそへ、松咽(むせん)で哀慟(あいどう)の声を助(たすく)る計(ばかり)也(なり)。
夢なる哉、往昔(わうじやく)の七夕には、長生殿にして二星一夜(いちや)の契(ちぎり)を惜(をしみ)て、六宮(りくきゆう)の美人両階の伶倫(れいりん)台下(だいか)に曲を奏して、乞巧奠(きつかうでん)をこそ備へさせられしに、悲(かなしい)哉(かな)、当年の今日は、幽邃(いうすい)の地にして三界八苦の別(わかれ)に逢(あう)て、万乗の先主・一山(いつさん)の貫頂(くわんちやう)、山中に棺(ひつぎ)を荷(にな)ふて御葬送を営(いとなま)せ給ふ。只千秋亭の月有待(うだい)の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随(したが)ふが如し。されば遶砌山川も、是(これ)を悲(かなしみ)て雨となり雲となる歟(か)と怪(あやし)まる。無心草木も是(これ)を悼(いたみ)て、葉落ち花萎(しぼ)めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多(おほし)といへ共、預(あらかじ)め勅を遺(のこ)されしに依て、参り集る人も稀(まれ)なりしかば、纔(わづか)に篭(こもり)僧三四人の勤(つと)めにて、御中陰(ごちゆういん)の菩提(ぼだい)にぞ資(たす)け奉りける。
御国忌(みこくき)の日ごとに、種々の作善積功(さぜんしこう)累徳(るゐとく)せらる。殊更に第三(だいさん)廻(くわい)に当りける時は、継体(けいたい)の天子今上皇帝(くわうてい)、御手自(おんてづから)一字三礼(いちじさんらい)の紺紙金泥(こんしこんでい)の法華経(ほけきやう)をあそばされて、五日八講(はつかう)十種供養あり。伶倫(れいりん)正始(せいし)の楽(がく)は、大樹緊那(たいじゆきんな)の琴の音(おと)に通じ、導師称揚(しようやう)の言は、富楼那尊者(ふるなそんじや)の弁舌を展(のべ)たり。結願の日に当て、薪(たきぎ)を採(とり)て雪を荷(にな)ふ夕郎は、千載(せんざい)給仕(きふじ)の昔の迹を重くし、水を汲(くみ)て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。是(これ)又善性・善子の珊提嵐国(さんだいらんこく)に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵(じやうざう)・浄眼(じやうげん)の妙荘厳王(めうしやうごんわう)を化(け)せし功にも越(こえ)たれば、十方の諸仏も明(あきら)かに此追賁(このつゐひ)を随喜(ずゐき)し給ひ、六趣の群類も定(さだめ)て其(その)余薫にこそ関(あづか)るらめと、被思知御作善(ごさぜん)也(なり)。 
 
太平記 巻第四十

 

中殿(ちゆうでん)御会(ごくわいの)事(こと)
貞治(ぢやうぢ)六年三月十八日、長講堂(ちやうかうだう)へ行幸あり。是(これ)は後白河法皇の御遠忌(ごゑんき)追賁(つゐひ)之(の)御為に、三日まで御逗留(ごとうりう)有て法花御読経(みどきやう)あり。安居院(あぐゐ)の良憲(りやうけん)法印・竹中(たけのうちの)僧正(そうじやう)慈照(じせう)、導師にぞ被参ける。難有法会(ほふゑ)なれば、聴聞の緇素(しそ)不随喜云(いふ)者なし。惣(そう)じて此(この)君御治天(ちてん)の間、万(よろ)づ継絶、興廃御坐(おはしま)す叡慮也(なり)しかば、諸事の御遊(ぎよいう)に於(おい)て、不尽云(いふ)事不御座。故(ゆゑ)に中殿(ちゆうでんの)御会(ごくわい)は、累世(るゐせ)の規摸(きぼ)也(なり)。然(しか)るを此(この)御世に未(いまだ)無其沙汰。仍連々に思食(おぼしめし)立(たち)しかば、関白殿(くわんばくどの)其(その)外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴(しんえん)は大儀なる上、毎度天下の凶事(きようじ)にて先規不快(せんきふくわいの)由(よし)、面々一同に被申ければ、重(かさね)て有勅定(ちよくぢやう)けるは、聖人有謂、詩三百一言(さんぱくいちげん)思無邪と。されば治(をさま)れる代の音(こゑ)は安(やすく)して楽(たのし)む。乱れたる代の音(こゑ)は恨(うらみ)て忿(いか)るといへり。
日本哥(やまとうた)も可如此。政(まつりこと)を正(ただ)して邪正(じやせい)を教へ、王道の興廃を知(しる)は此(この)道也(なり)。されば昔の代々(だいだい)の帝も、春(はる)の花の朝(あした)・秋の月の夜、事に付(つけ)つゝ哥を合(あは)せて奉らん人の慧(めぐ)み、賢愚(さかしくおろか)なるをも知食(しろしめし)けるにや。神代(じんだい)の風俗(ならはし)也(なり)。何(いづ)れの君か是(これ)を捨(すて)給(たまは)ん。聖代の教誡(けうかい)也(なり)。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴(しんえん)と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工(ぐわこう)の桜花(さくらばな)を叡覧有て土御門大納言師房(もろふさ)卿(きやう)に勅して、「新成桜花。」と云(いふ)題を令献、清涼殿に召群臣(ぐんしん)御製を被加、同(おなじく)糸竹(しちく)の宴会あり。
自爾以来(このかた)、白河(しらかはの)院(ゐん)応徳元年三月左大弁(さだいべん)匡房(ただふさ)に勅して「花契多春。」と云(いふ)題を令献、於中殿被講之。又堀河(ほりかはの)院(ゐんの)御代(みよ)永長元年三月権大納言(ごんだいなごん)匡房(ただふさ)卿(きやう)に課(おほせ)て、「花契千年。」と云(いふ)題を令献、宴遊を被伸。又崇徳(しゆとく)院(ゐんの)御宇(ぎよう)天承元年十月、権中納言師頼(もろより)に勅して、「松樹緑久。」と云(いふ)題を令献、宸宴(しんえん)有(あり)き。其(その)後建保六年八月順徳院光明峯寺(くわうみやうぶじ)の関白に勅して、「池月久澄。」と云(いふ)題を令献被講き。次(つぎに)後醍醐(ごだいごの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)元徳二年二月、権中納言為定(ためさだ)卿(きやう)に勅して、「花契万春。」と云(いふ)題にて、中殿の御会を被行之。此(この)外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度(にど)、中殿の御会(ごくわいの)先規(せんき)には不加侍にや。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)皆聖代(せいだいの)洪化(こうくわ)なり。
何ぞ不快の例(れい)といはんや。然(しかる)に今年の春は九城の裏(うち)の花香(かうばし)く、八島の外に風治(をさま)れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並(ならびに)序の事。関白可被献之(の)由(よし)強(しひ)て有勅定(ちよくぢやう)しかば、中殿の御会の事内々已(すで)に定りにけり。征夷将軍も、此(この)道に数奇(すき)給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比(ちかごろ)は建武の宸宴(しんえん)、贈(ぞう)左府の嘉躅(かしよく)非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚(ちよくくわん)の人々に賦題。「花多春友。」と云(いふ)題を、任建保例兼日(けんじつ)に関白被出けるとかや。既(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、母屋(もや)の廂(ひさし)の御簾(みす)を捲(まい)て、階(はし)の西の間(ま)より三間(さんげん)北にして、二間(ふたま)に各(おのおの)菅(すげ)の円座(ゑんざ)を布(しき)て公卿の座とす。
長治元年には雖為二行、今度は関白殿(くわんばくどの)の加様(かやう)に座を被設。御帳(みちやう)の東西には三尺(さんじやく)の几帳(きちやう)を被立、昼の御座の上には、御剣(ぎよけん)・御硯箱(すずりばこ)を被措たり。大臣の座(ざの)末(すゑ)、参議の坐の前には、各(おのおの)高灯台(たかとうだい)を被立たり。関白直廬(ちよくろ)より御参あれば、内大臣(ないだいじん)已下相随(あひしたが)ひ給ふ。任保安例今日既(すで)に直衣(なほし)始(はじめ)の事あり。前駆(せんく)・布衣(ほい)・随身(ずゐじん)の褐衣(かつい)如常なれば、差(さし)たる見事は無(なか)りけり。丑刻(うしのこく)許(ばかり)に将軍已(すで)に参内あり。其行妝(そのぎやうさう)見物の貴賎皆(みな)目を驚かせり。
公家家礼(けらい)の人々には、為秀(ためひで)・行忠(ゆきだだ)・実綱(さねつな)卿(きやう)・為邦(ためくに)朝臣(あつそん)なんど庭上に下(おり)て礼あり。左衛門の陣の四脚(よつあし)に、将軍即(すなはち)参入あり。先(まづ)帯刀(たてはき)十人(じふにん)左右に相番(あひつがう)て曳列。左は佐々木(ささきの)佐渡(さどの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)時秀、地白(ぢしろ)の直垂(ひたたれ)に金銀の薄(はく)にて四日結(よつめゆひ)を挫(おし)たる紅(くれなゐ)の腰に、鰄(かひらぎ)の金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は小串(こくし)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)詮行(のりゆき)、地緇(ぢぐろ)の直垂(ひたたれ)に、銀薄(ぎんばく)にて二雁(ふたつかり)を挫(おし)白太刀を佩(は)く。次(つぎに)伊勢七郎左衛門(しちらうざゑもん)貞行(さだゆき)、地白(ぢしろ)の直垂に、金薄(きんばく)にて村蝶(むらてふ)を押(おし)て白太刀を佩(はい)て左に歩(あゆ)む。右は斉藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)清永(きよなが)、地香(ぢかう)の直垂に、二筋違(ふたつすぢちがへ)の中に、銀薄にて菱(なでしこ)を押(おし)たる黄腰(きごし)に、鰄(かひらぎ)の太刀を佩(はい)たり。次に大内(おほち)修理(しゆりの)亮(すけ)、直垂に金薄にて大菱(おほびし)を押す。打鰄(うちざめ)に金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は海老名(えびな)七郎左衛門(しちらうざゑもんの)尉(じよう)詮季(のりすゑ)、地黒(ぢぐろ)に茶染(ちやぞめの)直垂に、金薄にて大笳篭(おほかご)を押して、黄なる腰に白太刀帯(はい)たり。
次(つぎに)本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易(かたみがはり)の直垂に金銀の薄(はく)にて十六(じふろく)目結(めゆひ)を押(おし)、紅(くれなゐ)の腰に白太刀を佩(は)く。右に山城四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)師政(もろまさ)、地白に金泥(こんでい)にて州流(すながれ)を書(かき)たる直垂に、白太刀佩(はい)て相随ふ。次に粟飯原(あいはら)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)詮胤(のりたね)、地黄(かりやす)に銀泥(ぎんでい)にて水を書(かき)、金泥にて鶏冠木(かへで)を書(かき)たる直垂に、帷(かたびら)は黄なる腰に白太刀を帯(はい)たり。由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。此(この)次に征夷大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮卿、薄色(うすいろ)の立紋(たてもん)の織物(おりもの)の指貫(さしぬき)に、紅(くれなゐ)の打衣を出し、常の直垂也(なり)。左の傍(わき)に山名民部少輔(みんぶのせう)氏清(うぢきよ)、濃(こき)紫の指貫に款冬(やまぶき)色の狩衣著(ちやく)して帯剣(たいけん)の役に随(したが)へり。
右は摂津掃部(かもんの)頭(かみ)能直(よしなほ)、薄色の指貫、白青(あさぎの)織物(おりもの)の狩衣著て沓(くつ)の役に候(こう)す。佐々木(ささきの)備前五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)高久、二重(ふたへ)狩衣にて御調度(おんてうど)の役に候(こう)す。本郷左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)詮泰(のりやす)は、香(かう)の狩衣にて笠の役に随(したが)ふ。今河伊予(いよの)守(かみ)貞世は侍所にて、爽(さはや)かに胄(よろう)たる随兵、百騎(ひやくき)許(ばかり)召具して、轅門(ゑんもん)の警固に相随(あひしたがふ)。此(この)外土岐伊予(いよの)守(かみ)直氏・山城中務少輔(なかつかさのせう)行元・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・佐々木(ささきの)尾張(をはりの)守(かみ)高信・安東信濃(しなのの)守(かみ)高泰・曾我美濃(みのの)守(かみ)氏助・小島掃部(かもんの)助(すけ)詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部(ひこべ)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)秀光。
藤民部五郎左衛門(ごらうざゑもん)盛時・八代(やしろ)新蔵人師国・佐脇(さわき)右京(うきやうの)亮(すけ)明秀・藁科(わらしな)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)家治・中島弥次郎(やじらう)家信・後藤伊勢(いせの)守(かみ)・久下(くげ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)・荻野(をぎの)出羽(ではの)守(かみ)・横地(よこち)山城(やましろの)守(かみ)・波多野出雲(いづもの)守(かみ)・浜名左京(さきやうの)亮(すけ)・長次郎、是等(これら)の人々思々(おもひおもひ)の直垂にて、飼(かう)たる馬に厚総(あつぶさ)係(かけ)て、折花尽美。将軍堂上(だうじやう)の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮(しきかは)を布(しい)て列居す。先(まづ)依別勅御前(おんまへ)の召あり。関白殿(くわんばくどの)御前(おんまへ)に被参。其(その)後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣(ないだいじん)・按察使実次(さねつぐ)・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従(じじゆう)宰相(さいしやう)行忠・小倉前宰相実名(さねな)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)為忠・富小路(とみのこうじ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実遠なんどぞ被参ける。関白殿(くわんばくどの)奉行(ぶぎやうの)職事(しきじ)仲光を召(めし)て、事の具否(ぐふ)を尋(たづね)らる。
軈(やが)て被伺出御。御衣は黄(きの)直衣・打の御袴也(なり)。関白殿(くわんばくどの)著座(ちやくざ)有て後、頭(とうの)左中弁嗣房(つぎふさ)朝臣(あつそん)を召(めし)て、公卿可著坐由を仰(おほ)す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣(ないだいじん)以下、次第に著座有(あり)しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直(ぢき)に御前(おんまへ)に進著せらる。爾後(そののち)嗣房朝臣(あつそん)・仲光・懐国(やすくに)・五位(ごゐの)殿上人(てんじやうびと)伊顕(これあき)なんど、面々の役に随(したがつ)て、灯台(とうだい)・円座(ゑんざ)・懐紙(くわいし)等(ら)を措(お)く。為敦(ためあつ)・為有・為邦朝臣(あつそん)・為重(ためしげ)・行輔(ゆきすけ)なんど迄著座ありしか共、右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)為遠は御前(おんまへ)には不著、殿上の辺(ほとり)に徘徊(はいくわい)す。
是(これ)は建保に定家卿如此の行迹(かうせき)たりし其例(そのれい)とぞ申合(まうしあひ)ける。富小路(とみのこうぢ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)・冷泉院(れんぜいゐん)中納言(ちゆうなごん)・藤中納言・鎌倉(かまくらの)大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行(しつかう)皆思々(おもひおもひ)也(なり)。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺(ふみくくみ)て膝行あり。故太閤(たいかう)元徳の中殿の御会に被参しに此(この)作法侍(はんべ)りけるとかや。右大臣依為読師、直(ぢき)に御前(おんまへ)の円座(ゑんざ)に著し給て、講師仲光を召す。
又序(じよ)を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是(これ)を読(よみ)上(あげ)たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首(いつしゆ)並(ならびに)序関白従(じゆ)一位(いちゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)良基上。夫天之仁者春也(なり)。地之和者花也(なり)。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新(つぐ)素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也(なり)。好文之主、未必携和語、兼之者我君也(なり)。一場偉観千載(せんざい)之(の)徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。
其辞曰、つかへつゝ齢(よはい)は老(おい)ぬ行末の千年も花になをや契(ちぎ)らん此(この)次に右大臣正二位(しやうにゐ)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実俊(さねとし)・内大臣(ないだいじん)正二位(しやうにゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)師良(もろよし)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)陸奥出羽按察使(あぜちし)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実継(さねつぐ)、此(この)次は征夷大将軍正二位(しやうにゐ)臣(しん)源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮(よしあきら)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言臣藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)時光・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為秀(ためひで)・権中納言従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)左衛門(さゑもんの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)忠光、此(この)次(つぎに)参議従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)侍従(じじゆう)兼(けん)備中(びつちゆうの)権(ごんの)守(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)行忠・
従三位(じゆさんみ)兼(けん)右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為遠(ためとほ)・蔵人内舎人六位上行(ぎやう)式部(しきぶの)大丞(だいじやう)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)懐国等(やすくにら)に至(いたる)迄、披講(ひかう)事終て、講師皆(みな)退(しりぞき)給(たまひ)ければ、講誦(かうじゆ)の人々、猶(なほ)可祗候由(よし)、依天気関白読師(どくし)の円座(ゑんざ)に著(つき)給(たまひ)しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂(さきにほ)ふ雲居の花の本つ枝(え)に百代(ももよ)の春を尚(なほ)や契覧(ちぎらん)講誦(かうじゆ)十返許(ばかり)に及(および)しかば、日已(すで)に内樋(うちひ)に耀(かかや)く程也(なり)。
されば物(もの)の色合さだかに、花の薫(にほひ)も懐(なつか)しく、霞(かすみ)立(たつ)気幸(けはひ)も最(いと)艶(えん)なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許(しむばかり)ぞ聞へける。御製の披講(ひかう)終て、各(おのおの)本坐に退(しりぞ)けば、伶人(れいじん)にあらざる人々も座を退(しりぞ)く。其(その)後軈(やが)て御遊(ぎよいう)始(はじま)り、笛は三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実知(さねとも)卿(きやう)、和琴(わごん)は左(ひだんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実綱、篳篥(ひちりき)は前(さきの)兵部卿(ひやうぶきやう)兼親(かねちか)、笙(しやう)は前(さきの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)刑時(のりとき)、拍子は綾小路(あやのこうぢ)三位(さんみ)成方(なりかた)、琴は公全(きんまさ)朝臣(あつそん)、付歌(つけうた)者(は)宗泰(むねやす)朝臣(あつそん)也(なり)。呂(りよ)には此殿(このとの)・鳥(とり)の破(は)・席田(むしろだ)・鳥(とり)の急(きふ)、律(りつ)には万歳楽(まんざいらく)・伊勢海(いせのうみ)・三台急(さんだいのきう)也(なり)けり。玉笙(ぎよくしやう)の声の中には鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)し、和琴の調(しらべ)の間には鬼神も感動するかとぞ覚(おぼえ)し。
此(この)宸宴に有御所作事邂逅(たまさか)也(なり)。建保には御琵琶にて有(あり)ける也(なり)。爾後(そののち)は稀(まれ)なる御事(おんこと)なるを、今此(この)御宇(ぎよう)に詩哥両度の宸宴(しんえん)に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸(かか)る大会(たいゑ)は聊(いささか)の故障(こしやう)もある事なるに、一事(いちじ)の違乱煩(わづらひ)なく無為(ぶゐ)に被遂行ぬれば、万邦磯城島(しきしま)の政道に帰(き)し、四海(しかい)難波津(なにはづ)の古風を仰(あふぎ)て、人皆柿本(かきのもと)の遺愛(ゐあい)を恋(こふ)るのみならず、世挙(こぞつ)て柳営(りうえい)の数奇(すき)を感嘆し、翌日午刻(むまのこく)許(ばかり)に人々被退出しかば、目出(めでたし)なんど云ふ許(ばか)りなし。
さても中殿の御会と云(いふ)事は、吾朝(わがてうに)不相応宸宴(しんえん)たるに依て、毎度天下に重事(ちようじ)起ると人皆申慣(ならは)せる上、近臣悉(ことごとく)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て諌言を上(たてまつり)たりしか共、一切(つやつや)無御承引終(つひ)に被遂行けり。さるに合(あは)せて、同三月二十八日(にじふはちにち)丑刻(うしのこく)に、夥敷(おびたたしく)大変西より東を差(さし)て飛(とび)行(ゆく)と見へしが、翌日(よくじつ)二十九日申刻(さるのこく)に天竜寺(てんりゆうじ)新造の大廈(たいか)、土木の功未終(いまだをへざるに)、失火忽(たちまち)に燃(もえ)出て一時の灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。
故(ことさら)に此(この)寺は、公家武家尊崇(そんそう)異于他して、五山第二(だいに)の招提(せうだい)なれば、聊爾(れうじ)にも攘災集福(じやうさいしゆふく)の懇祈(こんき)を専(もつぱら)にする大伽藍(がらん)なるに、時節こそあれ、不思議(ふしぎ)の表示(へうじ)哉(かな)と、貴賎唇(くちびる)をぞ翻(ひるがへ)しける。因慈将軍御参内(ごさんだい)の事は可有斟酌由(よし)、再三被経奏聞しか共、是(この)寺已(すで)に勅願寺たる上者(は)、最(もつとも)天聴を驚(おどろか)す所なれ共(ども)、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早(はやく)諸卿に被仰下しかば、此(この)問答に時遷(うつり)て、御参内(ごさんだい)も夜深(よふけ)過(すぐ)る程になり、御遊(ぎよいう)も翌日に及びけるとかや。浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)なり。  
左馬(さまの)頭(かみ)基氏逝去(せいきよの)事(こと)
角(かく)ては天下も如何(いか)んと危(あや)ぶめる処に、今年の春(はる)の比(ころ)より、鎌倉(かまくらの)左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)、聊(いささか)不例の事有(あり)と聞へしかば、貞治六年四月二十六日(にじふろくにち)、生年二十八歳(にじふはつさい)にて忽(たちまち)に逝去(せいきよ)し給(たまひ)けり。連枝(れんし)の鍾愛(しようあい)は多けれ共(ども)、此(この)別(わかれ)に至ては争(いかで)か可不悲。矧(いはん)や是(これ)は唯二人(ににん)、二翼両輪(によくりやうりん)の如くに華夷(くわい)の鎮憮(ちんぶ)と成(なり)給(たまひ)しかば、さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さもさる事ながら、関東(くわんとう)の柱石(ちゆうせき)摧(くだけ)ぬれば、柳営(りうえい)の力衰(おとろへ)ぬと、愁歎(しうたん)特(こと)に不浅。就之京都大に怖慎(おそれつつしみ)て、祈祷(きたう)なども可有と沙汰ありけり。  
南禅寺(なんぜんじと)与三井寺(みゐでら)確執(かくしつの)事(こと)
同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起(ほうき)して、公武(くぶ)に致列訴事あり。其謂(そのいはれ)を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺(なんぜんじ)為造営此比(このころ)被建たる於新関、三井寺(みゐでら)帰院の児(ちご)を関務(くわんむ)の禅僧是(これ)を殺害(せつがい)す。是(これ)希代(きたい)の珍事(ちんじ)とて寺門の衆徒鬱憤(うつふん)を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推(おし)寄(よせ)て、当務の僧共・人工(にんぐ)・行者(あんじや)に至(いたる)迄、打殺すのみならず、猶(なほ)も憤(いきどほり)を不休、南禅寺(なんぜんじ)を令破却、達磨宗(だるましゆう)の蹤跡(しようせき)を削(けづり)て、為令達宿訴、忽(たちまち)に嗷訴(がうそ)にぞ及(および)ける。
即(すなはち)山門・南都へ牒送(てふそう)して、四箇(しか)の大寺の安否を可定由(よし)、已(すで)に往日(わうじつ)の堅約(けんやく)也(なり)。何(なん)の余儀(よぎ)にか可及。一国に触訴(ふれうつたへ)て、事令遅々、神輿(しんよ)・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵(ののし)りければ、(すは)や天下の重事(ちようじ)出来ぬるはと、有才人は潜(ひそか)に是(これ)を危(あやぶ)みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句(けつく)山門には、東西両塔に様々(さまざま)の異儀(いぎ)有て、三塔(さんたふ)の事書、鳥使(てうし)翅(つばさ)を費許(つひやすばかり)也(なり)。然(しかれ)ば無左右可事行共不覚(おぼえず)、公方の御沙汰(ごさた)は、載許(さいきよ)無其期しかば、園城寺は款状(くわんじやう)徒(いたづら)に被抛て、忿(いかり)の中に日数をぞ送りける。  
最勝講(さいしようかう)之(の)時(とき)及闘諍事(こと)
去(さる)程(ほど)に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺(ほくれい)に課(おほせ)て、所作の人数をぞ被召(めされ)ける。興福寺(こうぶくじ)より十人(じふにん)、東大寺(とうだいじ)より二人(ににん)、延暦寺(えんりやくじ)より八人(はちにん)也(なり)。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存(しよぞんを)申(まうす)に依て、四箇(しか)の一寺は被除畢(をはんぬ)。証義(しようぎ)は前(さきの)大僧正(だいそうじやう)懐雅(くわいが)・山門の慈能(じのう)僧正(そうじやう)をぞ被召(めされ)ける。
講演論場(ろんぢやう)の砌(みぎり)には、学海智水を涌(わか)し、慧剣(ゑけん)を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等(しゆとら)、於南庭不慮(ふりよ)に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及(および)ける。紫宸殿(ししんでん)の東、薬殿(くすどの)の前には南都の大衆、西の長階(ながはし)の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差(わきざし)の太刀なんど用意(ようい)の事なれば、抜連(ぬきつれ)て切て懸(かか)る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争(いかで)か可叶。一歩(いつほ)も不践止、紫宸殿(ししんでん)の大床(おほゆか)の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚(りやうかく)・一心坊の越後(ゑちごの)注記(ちゆうき)覚存(かくそん)・行泉坊の宗運・明静(みやうじやう)房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の大衆腰刀許(こしがたなばかり)にて取て返し、勇(いさみ)誇(ほこつ)たる南都の衆徒の中へ、面(おもて)も不振切て入る。
中にも一心坊の越後(ゑちごの)注記は、南都若大衆の持たる四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を引(ひき)奪(うばう)て、我一人の大事(だいじ)と切て廻(まはり)けるに、奈良法師被切立、村雲(むらくも)立て見へける処に、手掻(てんがい)の侍従(じじゆう)房只一人蹈止(ふみとどまり)て、一足(ひとあし)も不退、喚叫(をめきさけん)で切合たり。追ひ廻(まは)し追(おひ)靡(なび)け、時移る程闘(たたかひ)けるに、山門の衆徒、始(はじめ)は小勢にて而(しか)も無(ぶ)用意(ようい)也(なり)ける間、叶(かなふ)べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方(ちゆうはう)の者共(ものども)、太刀・長刀の鋒(きつさき)を調(そろ)へ、四脚(よつあし)の門より込(こみ)入て、縦横無碍(じゆうわうむげ)に切て廻(まはり)しかば、南都の大衆は大勢也(なり)といへ共、怺兼(こらへかね)て、北(きた)の門より一条大路(いちでうのおほぢ)へ、白雲の風に雲珠巻(うずまく)が如(ごとく)にぞ、靉(たなびき)出たりける。
されば南庭の白砂(しらすの)上には、手蓋(てんがい)の侍従(じじゆう)を始(はじめ)として、宗(むね)との衆徒八人(はちにん)まで、尸(かばね)を双(ならべ)て切(きり)臥(ふせ)らる。山門方にも手負(ておひ)数(あま)た有(あり)けり。半死半生の者共(ものども)を、戸板・楯(たて)なんどに乗(の)せて、舁連(かきつらね)たる有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の事共(ことども)也(なり)。浅猿(あさましい)哉(かな)、紫宸北闕(ししんほくけつ)の雲の上、玄圃茨山(げんほしざん)の月の前には、霜剣(さうけん)の光冷(すさまじく)して、干戈(かんくわ)の場(には)と成(なり)しかば、御溝(ぎよこう)の水も紅(くれなゐ)を流し、著座の公卿大臣も束帯悉(ことごと)く緋(あけ)の色に染成(そめな)して、呆(あきれ)給(たまふ)許(ばかり)也(なり)。さしも是(これ)程の騒動なりしか共、主上(しゆしやう)は是(これ)にも騒がせ給(たまふ)御事(おんこと)もなく、手負(ておひ)・死人共を取捨(とりすて)させ、血を濯(あらひ)清めさせ、席を改(あらため)させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是(これ)則(すなはち)厳重(げんぢゆう)の御願、天下の大会(だいゑ)たるに、斯(かか)る不思議(ふしぎ)出来ぬれば、就公私不吉の前相(ぜんさう)哉と、人皆物を待(まつ)心地ぞせられける。  
将軍薨逝(こうせいの)事(こと)
斯(かか)る処に、同九月下旬の比(ころ)より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気(わけ)・丹波の両流は不及申、医療に其(その)名を被知程の者共(ものども)を召して、様々の治術(ぢじゆつ)に及(および)しか共、彼大聖(かのたいしやう)釈尊(しやくそん)、双林(さうりん)の必滅(ひつめつ)に、耆婆(ぎば)が霊薬も其験(そのしるし)無(なか)りしは、寔(まこと)に浮世の無常を、予(あらかじ)め示し置(おか)れし事也(なり)。何(いづれ)の薬か定業(ぢやうごふ)の病をば愈(いや)すべき。是(これ)明らけき有待転変(うだいてんべん)の理(ことわり)なれば、同(おなじき)十二月七日子刻(ねのこく)に、御年三十八にて忽(たちまち)に薨逝(こうせい)し給(たまひ)にけり。
天下久(ひさし)く武将の掌(たなごころ)に入て、戴恩慕徳者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)事を不知(しらず)。歎き悲(かなし)みけれ共(ども)、其(その)甲斐更(さら)に無(なか)りけり。さて非可有とて、泣々(なくなく)薨礼の儀式を取営(いとなみ)て、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)等持院(とうぢゐん)に奉遷。同(おなじき)十二日午刻(むまのこく)に、荼毘(だび)の規則(きそく)を調(ととのへ)て、仏事の次第厳重(げんぢゆう)也(なり)。
鎖龕(さがん)は東福寺(とうふくじの)長老信義堂(しんぎだう)、起龕(きがん)は建仁寺(けんにんじ)沢竜湫(たくりゆうしう)、奠湯(てんたうは)万寿寺(まんじゆじの)桂岩(けいがん)、奠茶(てんちやは)真如寺(しんによじの)清(せいぎん)西堂、念誦(ねんじゆは)天竜寺(てんりゆうじの)春屋(しゆんをく)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじの)定山和尚にてぞをはしける。文々(もんもん)に悲涙(ひるゐ)の玉詞(ぎよくし)を瑩(みが)き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速(すみやか)に出三界苦輪、直(ぢきに)到四徳楽邦給(たまひ)けんと哀なりし事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に今年は何(いか)なる年なれば、京都と鎌倉(かまくら)と相同(おなじ)く、柳営(りうえい)の連枝忽(たちまち)に同根空(むなし)く枯(かれ)給ひぬれば、誰か武将に備(そなは)り、四海(しかい)の乱をも可治と、危(あやふ)き中に愁(うれへ)有て、世上今はさてとぞ見へたりける。  
細河右馬(うまの)頭(かみ)自西国上洛(しやうらくの)事(こと)
爰(ここ)に細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、其比(そのころ)西国の成敗を司(つかさどつ)て、敵を亡(ほろぼ)し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍(とてつ)、少し先代貞永(ぢやうえい)・貞応(ぢやうおう)の旧規(きうき)に相似たりと聞へける間、則(すなはち)天下の管領職(くわんれいしよく)に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴(おなじおもむき)に定りしかば、右馬(うまの)頭(かみ)頼之を武蔵守(むさしのかみ)に補任(ふにん)して、執事職を司(つかさど)る。外相内徳(げさうないとく)げにも人の云(いふ)に不違しかば、氏族も是(これ)を重(おも)んじ、外様(とざま)も彼命(かのめい)を不背して、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の代に成て、目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。 
 

 

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