平安鎌倉の物語4

今物語發心集「源氏物語」考1「源氏物語」考2和泉式部日記・・・
 

雑学の世界・補考

今物語

藤原信実 (ふじわらののぶざね)
安元2年頃(1176)-文永3年以降 (1266)。鎌倉時代前期から中期にかけての公家、画家、歌人、寂西(法号) 。
父・隆信と同様に絵画・和歌に秀で、水無瀬神宮に伝わる国宝『後鳥羽院像』は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねることで主体の面影を捉える技法が特色である。大倉集古館所蔵の『随身庭騎絵巻』や佐竹本『三十六歌仙絵巻』などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の子孫はいわゆる似絵の家系として知られる八条家となり、室町時代中期頃まで続いた。
勅撰歌人として『新勅撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に122首が入集[1]。自撰歌集に『藤原信実朝臣集』がある。また、信実が編纂し、延応2年(1240年)前後に成立した説話集として『今物語』がある。
今物語
鎌倉時代の説話集。全一巻、五十三話。延応元年(1239)以降の成立。画家および歌人として高名だった藤原信実(1177?―1265?)が編んだといわれる。書名は当代の語り草を集めたという意。対象とする時代は鳥羽院政期〜鎌倉時代初期まで。歌物語風の説話を中心に、大宮人の色恋沙汰や風流な応酬から、失敗譚・滑稽譚までを簡潔流麗な和文体で記す。
藤原信実2
藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。
中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。
○ 山桜さきちるときの春をへてよはひは花のかげにふりにき (新勅撰110)
○ 春暮るる井手のしがらみせきかねて行く瀬にうつる山吹の花 (続後撰156)
○ けふのみとおもふか春のふる郷に花の跡とふ鶯のこゑ (続後拾遺154)
○ 室むろの海や瀬戸のはや舟なみたてて片帆にかくる風のすずしさ (拾遺風体集)
○ 庭のうへの水音ちかきうたたねに枕すずしき月を見るかな (玉葉388)
○ 霧隠れうたふ舟人声ばかりするがの海の沖にでにけり (信実集)
○ 月影も夜さむになりぬ橋姫の衣やうすき宇治の川風 (続拾遺296)
○ 下折れの音のみ杉のしるしにて雪のそこなる三輪の山もと (続後撰511)
○ 色ならばいづれかいかにうつるらん見せばや見ばやおもふ心を (続古今957)
○ きぬぎぬの袂にわけし月かげはたが涙にかやどりはつらん (続古今1159)
○ 行くを惜しみとまるをさそふ心こそともにかなしき別れなりけれ (続後拾遺531)  
 

 

〔一〕
大納言なりける人、内へまゐりて女房あまた物語しける所にやすらひければ、此人の扇を手ごとにとりて見けるに、辨の姿したりける人を書きたりけるを見て、此女房ども、鳴く音なそへそ野邊の松蟲と、口々にひとりごちあへるを、此人聞きてをかしと思ひたるに、奧のかたより只今人の來たるなめりと覺ゆるに、是はいかに鳴く音なそへそと覺ゆるはと、したり顔にいふ音のするを、この今きたる人しばしためらひて、いと人にくゝ優いうなるけしきにて、源氏の下襲したがさねのしりは短かゝるべきかはとばかり、忍びやかに答ふるを、このをとこあはれに心にくゝ覺えて、ぬしゆかしきものかな、誰ならんとうちつけに浮きたちけり。堪ふべくも覺えざりければ、後にえさらぬ人に尋ねければ、近衞院の御母ひが事かうのとのの御つぼねと咡きければ、いでやことわりなるべし。その後はたぐひなき物思ひになりにけり。
源氏榊 大かたの秋の別れもかなしきに鳴くねなそへそ野邊の松蟲
〔二〕
薩摩守忠度といふ人ありき。ある宮腹の女房に物申さんとて、局のうへざまにてためらひけるが、ことの外に夜ふけにければ、扇をはら/\と使ひ鳴らして聞き知らせければ、此局の心しりの女房、野もせにすだく蟲の音やと、ながめけるを聞きて、扇を使ひやみにけり。人しづまりて出あひたりけるに、この女房扇をばなどや使ひ給はざりつるぞと言ひければ、いさかしがましとかや聞えつればと言ひたりける、やさしかりけり。
(新撰朗詠) かしがまし野もせにすだく蟲の音よ我だに物はいはでこそ思へ
〔三〕
或殿上人さるべき所へ參りたりけるに、折しも雪降りて月朧なりけるに、中門のいたにさぶらひて、寢殿なる女房にあひしらひけるが、此朧月はいかゞし候ふべきと言ひたりければ、女房返事はなくて、取りあへず内より疊を推し出だしたりける心早さ、いみじかりけり。
新古今 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき
〔四〕
ある殿上人ふるき宮腹へ夜ふくる程に參りて、北の對たいの馬道めんだうにたゝずみ(*原文「たゞずみ」)けるに、局におるゝ人の氣色あまたしければ、ひき隱れてのぞきけるに、御局の遣水やりみづに螢の多くすだきけるを見て、さきに立ちたる女房の、螢火みだれ飛びて(*元稹、和漢朗詠集)と打ちながめたるに、つぎなる人、夕殿に螢飛んで(*長恨歌)とくちずさむ。しりに立ちたる人、かくれぬものは夏蟲の(*後撰集、大和物語)と、花やかにひとりごちたり。とり/〃\にやさしくも面白くて、此男何となくふしなからんも本意なくて、ねずなきをし出でたりける。さきなる女房、ものおそろしや、螢にも聲のありけるよとて、つや/\騷ぎたるけしきなく、うち靜まりたりける、あまりに色深く悲しく覺えけるに、今ひとり鳴く蟲よりもとこそと、取り成したりけり。是もおもひ入りたるほど奧ゆかしくて、すべてとり/〃\にやさしかりける。
(後拾遺集) 音もせでみさをに燃ゆる〔後拾遺には「おもひにもゆる」とあり。〕螢こそ鳴く蟲よりもあはれなりけれ
螢火亂飛秋已近 辰星早沒夜初長 夕殿螢飛思悄然
後撰 つゝめどもかくれぬ物は夏蟲の身よりあまれる思ひなりけり
〔五〕
近き御代に五節の比ころ、ゆかりにふれて誰たれとかやの御局へ、或女のやんごとなき忍びて參りたりける事ありけるを、ちと〔「みかど」の衍なるべし。〕聞召きこしめしていかで御覽ぜんと、おぼしけるまゝに、俄に推し入らせ給ひけり。取りあへずともし火を人の消ちたりければ、御ふところより櫛をいくらも取りいでて、火櫃ひびつの火にうち入れ給ひたりければ、奧まで見えて、よく/\御覽じけり。御心の風情ふぜい興ありて、いとやさしかりけり。
 

 

〔六〕
此比の事とかや、ある田舍人優いうなる女をかたらひて、キに住みわたりけるが、とみの事ありて田舍へ下りなんとしける其夜となりて、此女例ならずうちしめりて、うしろむきて寢たりけるを、男いたう恨みてけり。いつまでかかくも厭はれまゐらせん、只今ばかり向き給ひてあれかしと言ひけるに、この女、
今さらに背くにはあらず君なくてありぬべきかと習ふばかりぞ
と言ひたりければ、男めで惑ひて、田舍下りとまりにけるとかや。いとやさしくこそ。
〔七〕
大納言なりける人、日比ひごろ心をつくされける女房のもとにおはして、物語などせられけるが、世に思ふやうならで、明けゆく空も猶心もとなかりければ、あからさまの樣やうにて立ち出でて、隨身に心を合せて、今しばしありて、まことや今宵は内裏の番にて候ふものを、もし思おぼしめし忘れてやと、おとなへとヘへて、うちへ入りぬ。その儘にしばしありて、無骨こちなげに隨身いさめ申しければ、さる事あり、今夜はげに心おくれしにけりとて、とりあへず急ぎ出でんとせられける氣色けしきを見て、この女房心得て、やがていと恨しげなるに、をりふし雨のはら/\と降りたりければ、
ふれや雨雲のかよひぢ見えぬまでこゝろ空なる人やとまると
いうなる氣色にて、わざとならず打ちいでたりけるに、此大納言なにかの言ことはなくて、其夜とまりにけり。後までも絶えず音づれられけるはいとやさしくこそ。かく申すは後コ大寺左大臣〔實定〕ときこえし人の事とかや。
〔八〕
粟田口の別當入道といひける人、わかくて人を思ひけるに、やう/\かれ/〃\になりて、後におもひ出でて、絲の有りけるをやりたりければ、絲をば返して、歌をなんよみたりける。
わすられて思ふばかりのあらばこそかけても知らめ夏引の絲
(「かく」は「絲」の縁語。類想歌—「夏引きの手引きの糸の年経ても絶えぬ思ひにむすぼほれつつ」〔新古今集〕)
〔九〕
或藏人の五位の月くまなかりける夜、革堂(*行願寺)へ參りけるに、いと美しげなる女房の、ひとり參りあひたりける、見すてがたく覺えけるまゝに、言ひよりてかたらひければ、大方さやうの道には叶ひがたき身にてなんと、やう/\に言ひしろひけるを、猶堪へがたく覺えて、歸りけるにつきて行きければ、一條河原になりにけり。女房見かへりて、
玉みくり〔水草の名。三稜草。〕うきにしもなどねをとめて引きあげどころなき身なるらん
とひとりごちて、きよめ(*河原等に住み、清掃を業とした民。)が家の有りけるに入りにけり。男それしもいとあはれに不思議と覺えけり。
〔一〇〕
大納言なりける人、小侍從(*後出小大進女、実賢母。)と聞えし歌よみに通はれけり。ある夜物いひて曉かへられけるに、女の家の門をやりいだされけるが、きと見かへりたりければ、此女名殘を思ふかとおぼしくて、車寄くるまよせの簾すだれにすきて、ひとり殘りたりけるが、心にかゝり覺えてければ、供なりける藏人〔藤經尹〕に、いまだ入りやらで見送りたるが、ふり棄てがたきに、何とまれ言ひてことの給ひければ、ゆゝしき大事かなと思へども、程經ふべき事ならねば、やがて走り入りぬ。車寄の椽えんのきはにかしこまりて、申せと候ふとは、左右さうなくいひ出でたれど、何といふべき言ことの葉も覺えぬに、折しもゆふつけ鳥聲々に鳴き出でたりけるに、あかぬ別れの〔新古戀三、小侍從、「待つよひに更け行くかねの聲きけばあかぬわかれの鳥はものかは」〕といひける事の、きと思ひいでられければ、
新拾遺 物かはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどか悲しかるらん
とばかり言ひかけて、やがて走りつきて、車の尻にのりぬ。家に歸りて中門におりて後、さても何とか言ひたりつると問ひ給ひければ、かくこそと申しければ、いみじくめでたがられけり。さればこと使つかひにははからひつれとて、感のあまりにしる所〔領地〕などたびたりけるとなん。此藏人は内裏の六位など經て、やさし藏人といはれけるものなりけり。この大納言も後コ大寺左大臣の御事なり。  
 

 

〔一一〕
能登前司橘長政といひしは、今は世を背きて法名寂縁とかや申すなんめり。和歌の道をたしなみて、其名きこゆる人(*好士)也。新勅撰えらばれし時、三首とかや入りたりけるを、すくなしとてきりて出でたりける(*選歌を外させたこと)、すこしはげしきには似たれども、道を立てたる程はいとやさしくこそ。其人此比このころあるやんごとなき大臣家に、和歌の會せられけるに(*十月二十日の歌会)、述懷の歌をよみたりける。
あふげども我身たすくる~なつきさてやはつかの空を眺めん
と詠みたりければ、滿座感歎して此歌よみためて、主も稱美のあまりに、國の所ひとつやがて賜はせたりけり。道の面目、世の繁昌(*もてはやされること)、不思議の事也。末代にもさすがかゝるやさしき事の殘りたるにこそ。此事を聞きて祐侍從〔家驪ィの男〕いひやりける歌、
みがきける君に逢ひてぞ和歌の浦の玉も光をいとゞ添ふらん
〔一二〕
吉水前大僧正と聞えしは、今は慈鎭和尚と申すにや、天王寺の別當に成りて拜堂ありけるに、上童おほく具せられたりける中に、たれがしとかやいひける兒を、天王寺にありける女、堪へがたう思ひかけて、紅梅の檀紙に、心も及ばず葦手あしでを書きて、此この兒のもとへおこせたりける、ぬしも餘所よそながらもつや/\見知りたる人もなくて、むげに恥がましくありぬべかりけるに、此兒うち案ずるけしきなりければ、何とすべきにかと、人々まばゆく(*瞠目して)思ひたりけるに、やがてその葦手のうへに、
おぼつかななにはにかける言の葉ぞキにすめば知らぬあしでを
と書きてやりたりける、取りあへずいとあしからずや。
〔一三〕
宇治の左のおとゞ〔ョ長〕の御前に、銀を桐火桶きりびをけにつませられて、ョ政卿のいまだ若かりける時、召ありてきり火桶とわが名を、かくし題(*隠題)にて歌つかうまつりて、是をたまはれと仰事おほせごとありければ、とりもあへず、
宇治川のP々の白浪おちたぎりひを(*氷魚)けさいかによりまさるらん
とよみたりけり。めでさせ給ひけるとなん。
(*源平盛衰記)
〔一四〕
秦公春といひける隨身、宇治の左大臣殿につかうまつりけるが、御沓おんくつをまゐらせけるが、御沓のしきに千鳥を書かれたりけるを見て、
菟玖波 沓のうらにも飛ぶ千鳥かな
といひでたりけるを、取次ぐ殿上人も物もいはざりけるに、大殿おほいどのしばし御沓をはき給はで、
同 難波なるあしの入江をおもひ出て
と仰せられたりける、いとやさしかりけり。
〔一五〕
待賢門院の堀川、上西門院の兵衞おとゞひ(*兄弟姉妹)なりけり。夜深くなるまでさうしを見けるに、ともし火のつきたりけるに、油綿あぶらわた〔和名鈔、「容飾具云、澤。釋名云、人髪恒枯悴、以此令濡澤也。俗用脂緜二字(阿布良/和太)」〕をさしたりければ、よにかうばしく匂ひけるを、堀川、
菟玖波 ともし火はたきものにこそ似たりけれ
といひたりければ、兵衞とりもあへず、
同 ちやうじがしら(*灯心の先にできる燃え滓のかたまり・灯火)の香やにほふらん
とつけたりける、いと面白かりけり。〔此連歌の作者、菟玖波集と反對になれり。〕 
 

 

〔一六〕
或者所(*或所か。)の前を春の頃、修行者の不思議なるが通りけるが、檜笠ひがさに梅の花を一枝さしたりけるを、兒ども法師などあまた有りけるが、世にをかしげに思ひて、ある兒の梅の花笠きたる御房よといひて笑ひたりければ、此修行者立ちかへりて、袖をかき合せて、ゑみゑみと笑ひて、
身のうさの隱れざりけるものゆゑに梅の花笠きたる御房よ
と仰せられ候ふやらんと言ひたりければ、この者どもこはいかにと、思はずに思ひて、言ひやりたるかたもなくてぞ有りける。左右さうなく人を笑ふ事あるべくも無きことにや。
〔一七〕
或所にて此世の連歌の上手と聞ゆる人々より合ひて連歌しけるに、其門のしたに法師のまことに怪しげなるが、頭かしらはをつかみ〔髪のつかまるゝばかり生ひたる也。〕に生ひて、紙衣かみぎぬのほろ/\とあるうち著たるが、つく/〃\此連歌を聞きて有りければ、何程の事を聞くらんと、をかしと思ひて侍るに、此法師やゝ久しく有りて、うちへ入りて椽のきはにゐたり。人々をかしと思ひてあるに、遙かにありて、賦物ふしもの(*連歌の謎かけ題)は何にてやらんと問ひければ、其中にちと荒涼くわうりやうなる者にて有りけるやらん、餘りにをかしく侮あなづらはしきまゝに、何となく、
菟玖波 くゝりもとかず足もぬらさず
といふぞと言ひたりければ、此法師打聞きて二三返ばかり詠じて、面白く候ふものかなといひければ、いとゞをかしと思ふに、さらば恐れながら付け候はんとて、
名にしおふ花の白河わたるには
と言ひたりければ、いひ出だしたりける人を初めて、手をうちてあさみけり。さて此僧はいとま申してとてぞ走り出でける。後に此事京極中納言〔定家〕きゝ給ひて、いかなる者にかと、返す/〃\ゆかしくこそ、いかさまにても只者たゞものにてはよもあらじ、當世は是ほどの句などつくる人は有りがたし、あはれ歌よみの名人たちは、たゝ〔そくイ〕かう〔異本の「そくかう」とあるよし。そくかうは辱號にて、俗にいふ恥をかくの意。〕かきたりけるものかな、世の中のやうに恐しきものあらじ、よきもあしきも人を侮る事あるまじき事とぞいはれける。
〔一八〕
伏見中納言(*源師仲)といひける人のもとへ、西行法師行きて尋ねけるに、あるじはありきたがひたる程に、さぶらひの出でて、何事いふ法師ぞといふに、椽に尻かけて居たるを、けしかる法師のかくしれがましきぞと思ひたる氣色にて、侍共にらみおこせたるに、簾みすの内に箏の琴にて秋風樂を彈きすましたるを聞きて、西行此侍に物申さんといひければ、にくしとは思ひながら立寄りて、何事ぞといふに、簾のうちへ申させ給へとて、
ことに身にしむ秋の風かな
といひでたりければ、にくき法師のいひごとかなとて、かまち〔頰骨〕をはりてけり。西行はふはふ歸りてけり。後に中納言の歸りたるに、かゝるしれ物こそ候ひつれ、はりふせ候ひぬと、かしこ顔に語りければ、西行にこそありつらめ、不思議の事(*怪しからぬ事)なりとて、心うがられけり。此侍をばやがて追ひ出だしてけり。
〔一九〕
後白川院の御時、日吉社に御幸ありて一夜御泊りありて、次の日御下向ありけるに、雨の降りければ、御車近うつかうまつりける上達部かんだちめの中に、
菟玖波 きのふ日よしと思ひしものを
といふ連歌の出來たりけるを、おほかた付くる人なくて程へければ、左馬權頭なりける人(*右馬権頭藤原隆信かという。隆信は『今物語』の作者信実の父。)の、はるかに先なりけるを召しかへして、是付けよと仰せごと有りければ、ほどなく
同 今日は皆雨ふるさとへかへるかな
と付けたりければ、安かりけることを口惜しくも思ひよらざりけると、人々いひあへりけり。此左馬權頭、加茂の臨時祭の舞人なりけるに、曉つかひなりける人を打具うちぐして歸りたちにまゐりける〔一本「まゐりたる」〕が、雪いたく降りて袖にたまりけるを見て、
同 あをずりの竹にも雪はつもりけり
といひたりけるに、使なりける人は付けざりければ、秦兼任人長にんぢやう〔舞人陪從の長〕にて打具うちぐしてけるが、馬を打ちよせ/\氣色ばみければ、兼任が付けたると覺ゆるぞといはれて、下臈はいかでかとはゝしく〔誤字あるにや、不明。〕(*はばしく—憚る様子で)言ひけるを、猶せめ問はれて、
同 色はかざしの花にまがひて
と付けたりける、まことに兼久、兼方などが子孫と覺えて、いとやさしかりけり。
〔二〇〕
やんごとなき人のもとに、今參いままゐりの侍出來にけり。燒繪やきゑをめでたくするよし聞えければ、前によびて檀紙に燒繪をせさせけるに、何をか燒き侍るべきといひければ、水に鴛を燒けといはれけるに、打ちうなづきて、
菟玖波俳諧 水にはをしをいかゞ燒くべき
と口ずさみけるを、あるじ聞き咎めて、同じくは一首になせと言はれければ、かいかしこまりて、
同 波の打つ岩より火をば出だすとも
といへりければ、人々皆ほめにけり。 
 

 

〔二一〕
京極太政大臣〔宗輔〕と聞えける人、いまだ位あさかりける程に、雲居寺の程を過ぎられけるに、瞻西(*せんせい・せんさい)上人の家を葺きけるを見て、雜色をつかひにて、
菟玖波 ひじりの屋をばめかくし(*目隠し・女隠し)にふけ
といはせて、車を早くやらせけるに、雜色の走りかへる後うしろに小法師をはしらせて、
同 あめの下にもりて聞ゆることもあり
といはせたりける、その程の早さけしからざりけり。
〔二二〕
待賢門院の女房加賀といふ歌よみあり。
かねてより思ひしことぞふし柴のこるばかりなる歎きせんとは
といふ歌を、年比としごろよみてもちたりけるを、同じくはさりぬべき人に言ひむつびて、忘られたらんに讀みたらば、集などに入りたらんも優なるべしと思ひて、いかゞありけん、花園の左のおとゞ〔有仁〕に申しそめてけり。其後思ひの如くやありけん、此歌をまゐらせたりければ、大臣殿もいみじくあはれに思しけり。かひ/〃\しく千載集に入りにけり。世の人ふし柴の加賀とぞいひける。
〔二三〕
松殿〔基房〕の思はせ給ひける女房かれ/〃\になり給ひて後、はかなき御なさけだにも稀なりければ、我ながらあらぬかとのみ辿りわび、人の心の花(*移ろいやすい心)にまかせて、月日を空しく移り行くに、宮の鶯百もゝさへづりすれども、思ひあれば聞くことをやめつ、梁うつばりのつばくらめ並びすめども、身老ゆればねたまず、遲々ちゝたる春の日もひとりすめば、いとゞ暮れやらず、せうせう〔蕭々〕たる秋の夜は空しき床にあかし難くて過ぐしけるに、事のよすがや有りけん、むかへに御車をつかはされたりける、夢現ともわきかねつらん、嬉しとも思ひ定めず、さればとて今更待ちよろこび顔ならんも、いたうつれなく、身ながらもなか/\疎ましかりぬべければ、是にこそ日頃のつきせぬ歎きもあらはさめと思ひつよりて(*強りて)、たけに餘りたりける髪を押し切りて、白き薄樣うすやうにつゝみて、
今さらに再び物を思へとやいつもかはらぬおなじうき身に
と書付けて、御車に入れて參らせたりける、此人は後にはみそのの尼とて、近くまでも聞えしとかや。
〔二四〕
東山の片隅にあはれに〔一本「あばれて」とあり。〕人もかけ見ぬあばらやに、いとやさしくいまだ人馴れぬ女ありけり。庭の萩原招けども、風より外はとふ人もなく、軒端のきばの蓬よもぎしげれども、杉村ならねばかひなくて、月にながめ、嵐にかこちても、心をいたましむるたよりは多く、花を見、郭公を聞きても慰むべきかたは稀なることにて、明し暮すに、C水詣きよみづまうでのついでに、思はぬ外のさかしら出來て、至らぬ隈なかりし御心に、たゞ一夜の夢の契を結びまゐらせてける、是も前世を思へばかたじけなかりけれども、さしあたりて歎きに恨をそへて、心のうちリるゝまもなし。甲斐なくありふれど、今一度の言の葉ばかりの御なさけだに待ちかねて、よし是ゆゑ背くべき憂世うきよなりけりと思ひ立ちて、ありし御心知りのもとへつかはしける。
なか/\に問はぬも人の嬉しきはうき世を厭ふたよりなりけり
とばかり、心にくゝ幼をさなびれたる手にて、はなだ〔縹〕の薄樣に書きたるを、折をうかゞひて奏しければ、まことにさる事あり、尋ねざりける心おくれこそと御氣色ありければ、頓やがて走り向ひて尋ぬるに、さらぬだに荒れたる宿の人住むけしきもなきを、やゝ久しくやすらひて、老いたる女ひとり尋ねえて、事の樣やうをくはしく問ひければ、何といふ事は知り侍らず、あるじは天王寺へ參り給ひぬといへば、やがてそれより天王寺へまゐり、寺々をたづぬるに、龜井のあたりにおとなしき尼ひとり、女房二三人ある中に、いと若き尼の殊にたど/\しげなるがあり。此心しりを見付けて淺ましと思ひげにて、只やがてうつぶして泣くより外の事なし。かたへの者ども聲を立てぬばかりにて、劣る袖なくしぼりければ、御使も見捨てて歸るべき心地もせず。おとなしき尼は此人の母なりければ、事のやうに(*を)こまかに尋ねけれども、もとより是は思ひつる事なり、何しにかは君の御ゆゑにてさふらふべき、かしこくと言ひもあへず泣きて、其後は答へざりければ、よしなき御使をしてかはゆき事を見つるよと悲しくて、さりとても爰にて世をつくすべきならねば、立ちかへりぬ。此由を奏するに、はしたなの心の立てざまや、心おくれが咎とがに成りつるよとて、甲斐なかりけり。あはれにもやさしくも、長き世の物語にぞなりぬる。みそ野の尼の心といづれか深からん。
〔二五〕
或人事ありて遠き國へ流されけるに、年頃心ざし深かりける女の、姙はらみたるを見捨てて行きければ、いかばかりの別れにかありけん、其後此女尋ねゆかんとしけれども、父母ありける故にて、ゆるさゞりければ、只一人出て行きけるに、漸く其國までかゝぐり〔辿り〕つきにけり。腹なる子の生れんとしければ、片山かたやまに生みおとして、著たりける物にひきつつみて捨て置きて、血つきたる物など洗はんとて、人の家のありけるかたへ、漸うよろぼひ行きけるに、此家にはしを集むる音して、流され人の死にたるを葬らんとするなどいふ。殊に怪しく胸つぶれて、くはしく尋ねければ、京なる人を戀ひ悲みて、けさ失せ給ひたるなどいふに、たゞ此人なりけり。言葉もたゝず、わなゝかれけれど、からくして此死人のもとに行きて見れば、我男なりけり。悲しきこと限りなくて、枕がみにゐて、かく參りたるなり、今一度目見あはせ給へと泣きもまれて、此男いき出でて目を見合せて、此世にては今はいかにも叶ふまじきぞとばかり言ひて、頓やがて又死にけり。さてのみあるべきならねば、はふりけるに、その火に此女飛び入りて燒け死ににけり。腹の中の子を生みおとしけるは、罪の淺かりけるにやとぞ言ひあへりける。一人具したりける女の童わらはも共に火に入らんとしけれども、取りとめて此人の有樣をくはしく尋ね、生みおとしつる子などをも取りて、村の者の養ひけるとぞ。此事は近き程の事なり。  
 

 

〔二六〕
小式部内侍、大二條殿〔ヘ通〕におぼしめされける比、久しく仰せごとなかりける夕暮に、あながちに戀ひ奉りて、端近はしちかくながめ居たるに、御車の音などもなくて、ふと入らせ給ひたりければ、待ちえて夜もすがら語らひ申しける曉がたに、いさゝかまどろみたる夢に、絲の付きたる針を御直衣おんなほしの袖にさすと見て夢さめぬ。さて歸らせ給ひにけるあしたに御名殘を思ひ出でて、例の端近くながめ居たるに、前なる櫻の木に絲のさがりたるを怪しと思ひて見ければ〔一本「見れば」〕、夢に御直衣の袖にさしつる針なりけり。いと不思議なり。あながちに物を思ふ折には、木草なれどもかやうなることの侍るにや。其夜御渡りあること、誠にはなかりけり。
〔二七〕
小大進(*待宵小侍従母)と聞えし歌よみ、いとまづしくて太秦うづまさへ參りて、御前の柱に書き付けける歌、
なも藥師あはれみたまへ世の中にありわづらふも同じやまひを
とよみたりければ、程なく八幡の別當光Cに相具して、たのしく(*裕福に)成りにけり。子などいできて後、もろともに居たりける所近き所に、いもの蔓つるの這ひかゝりて、零餘子ぬかごなどのなりたりけるを見て、光C、
菟玖波俳諧 這ふほどにいも(*芋・妹)がぬかごはなりにけり
といひたりければ、程なく小大進、
同 今はもり(*傅)もや取るべかるらん
と付けたりける、おもしろかりけり。
〔二八〕
ある女房の加茂の糺たゞすに七日こもりて、まかり出づるとて、物に書きつけける。
鳥の子のたゞすの中にこもりゐてかへらん時はとはざらめやは
とよめりければ、あはれとや思召しけん、やがてめでたき人に思はれて、さいはひ人といはれけり。
〔二九〕
加茂に常につかうまつりける女房の、久しくまゐらざりける夢に、ゆふしでのきれに書きたりけるものを、直衣きたりける人の給はせけるを見れば、
おもひいづや思ひぞいづる春雨に涙とりそへ濡れし姿を
とありけるを見て、夢さめにけり。あはれと思ふ程に、手に物の握られたりけるを見ければ、ゆふしでのきれに墨三十一付きたるにて有り。ことにあはれにめでたく、涙もとどまらずぞありける。
〔三〇〕
嘉寺僧キ海惠といひける人の、いまだ若くて病大事にて限りなりける比、寢入りたる人俄に起きて、そこなるふみなど取り入れぬぞと、嚴しく言はれけれども、さる文なかりければ、うつゝならず覺えて、前なる者ども呆れ怪みけるに、みづから立ち走りて明障子あかりしやうじをあけて、立文たてぶみをとりて見ければ、ものども誠に不思議におぼえて見る程に、是をひろげて見て、しばし打案じて返事書きてさし置きて、又頓やがて寢入りにけり。起臥おきふしもたやすからずなりたる人の、いかなりける事にかと怪みける程に、しばし寢入りて汗おびたゞしく流れて起き上りて、不思議の夢を見たりつるとて語られける。大きなる猿の藍摺あゐずりの水干きたるが、立文たてぶみたる文〔「たる文」の三字は衍文にて不用なるべし。〕を持もて來つるを、人の遲く取り入れつるに、自ら是を取りて見つれば、歌一首あり。
新拾遺 たのめつゝこぬ年月を重ぬれば朽ちせぬ契いかゞむすばん
とありつれば、御返事には、
こゝろをばかけてぞョむゆふだすき七のやしろの玉のいがきに
と書きて參らせつる也、是は山王よりの御歌を給はりて侍る也と語られければ、前なる人淺ましく不思議に覺えて、是は只今うつゝに侍ること也、是こそ御文おんふみよ、又かゝせ給へる御返事よといひければ、正念に住して〔正氣になりて〕前なる文どもを廣げて見けるに、露たがふことなし。其後病怠りにけり。いと不思議なり。 
 

 

〔三一〕
延應元年(*一二三九年)正月十九日の曉、或人の夢にC水の地主(*じしゅ)よりとて御文ありけるを見ければ、
月日のみ杉の板戸のあけくれて過ぎにしかたは夢かうつゝか
と有りけり。いとあはれにめでたかりけり。
〔三二〕
八幡の袈裟御子がさいはひののち、打ちつゞき人に思はれて、大菩薩の御事をしり〔司り扱ふ〕まゐらせざりければ、若宮の御祟おんたゝりにてひとり持ちたりけるむすめ大事に病みて、目のつぶれたりけるを、こと祈りをせず、むすめを若宮の御前に具して參りて、膝のうへに横ざまにかき伏せて、
奧山にしをるしをりは誰がため身をかきわけて生める子のため
といふ歌を、~哥〔「~前」の衍なるべし。〕に泣く/\あまたゝび歌ひたりければ、頓やがて御前にて病やみ、目もさはさはとあきにけり。
〔三三〕
讚岐三位俊盛と聞えし人、春日の月まうでをしけるに、定まりたる事にて、夜泊よどまりにまゐりて曉下向しけるに、夜深かりけるたび雨降りていと所せかりける(*厄介だ)に、後生の事をかくほどに信を致して、佛にもつかうまつらば、いかばかりめでたかりなん、現世の事のみ思ひて、此宮にのみつかうまつることと思ひて、春日山を通りけるに、高き梢より、菩提の道も我山の道といふ御聲の聞えけるに、限りなく信おこりて、尊く覺えける。
〔三四〕
比叡の山横河よかはに住みける僧のもとに、小法師のありけるが、坊の前に柹の木のありけるを切りて焚かんとて、いちのきれ〔「柹のきれ」の衍か(柿—市—いち)〕を割りたりける中に、Kみのありけるが、文字に似たりけるを、怪しと思ひて坊主に見せたりければ、南無阿彌陀佛と云ふ文字にて有りける。不思議なども云ふばかりなくて、横河の長吏に法印〔一本「長吏乙法印」〕といひける人に見せたりければ、上西門院をりふし御社に御こもり有りけるに、持もて參りて御覽ぜさせければ、取らせ給ひて後白川院にまゐらせさせ給ひてけり。蓮華王院(*後白河院が開基。天台宗。)の寶藏に納まりけるを、我所にこそ置くべけれとて、憤り申しけるとなん。
〔三五〕
安貞(*一二二七年〜二九年)のころ河内國に百姓ありけるが、子に蓮花王といひける童わらはありけり。七つなりける年死にけるが、念佛申して西に向ひて、かたはらなる人に、我死にたらば七月〔一本「七日」〕といはんにあけて見よと、言ひて死にけり。其後人の夢に必ずあけよといふと見てあけてければ、舍利に成りにけり。是を取りて人にをがませんとて、かりそめに帳ちやうをして入れたりけるに、此帳を程なく蟲のくひたりけるを見ければ、
歸命蓮花王  大聖觀自在  廣度衆生界  父母善知識
とくひて、はての文字の所に蟲の死にてありける、いと不思議にめでたき事也。  
 

 

〔三六〕
鎌倉武士入道して、高野山〔一本山の字なし。〕の蓮花谷に行ふありけり。此者がぬる所にて、夜な/\女と物語をしける音のしければ、具したりける弟子ども、大方心得がたくて、便宜びんぎ〔ついで〕のありけるに、或弟子此入道に尋ねたりければ、さる事あり、吾女の鎌倉にありしが、夜な/\是へ來るなり、それに何事もいひあはせ、又古里の事の覺束なさも語り、世間の事もはからひなどしてある也といひければ、弟子いふばかりなく不思議に覺えて、不思議の餘りに、空阿彌陀佛〔僧の名〕にありのまゝに申しければ、空阿彌陀佛うち案じて、さることも多くあり、此女のいたく戀しく思ふによりて、魂などの通ふにこそ、此定このぢやうならば臨終の妨にも成りなんず、急ぎ祈るべきぞとて祈られけり。或時に念佛にて祈りて見んとて、蓮花谷の聖ひじり三四十人ばかりめぐりゐて、此入道を中にすゑて、念佛をせめふせて申したるに、入道同じく申しけるが、空阿彌陀佛の祕藏の本尊の帳に入りたるがおはしましける、そのかたをつく/〃\とまもりて、恐しげに思ひて、わな/\と震ひければ、空阿彌陀佛寄りて、など恐しげには思ひたるぞと問へば、其御本尊の御前に、かの女房がまうで來て、我を世に恨しげに見て候ふが、などやらん餘りにおそろしくと申しければ、其時空阿彌陀佛、門々不同八萬四、爲滅無明果業因、利劒即是彌陀號、一聲稱念罪皆除と、高く誦せられたりければ、此女の顔の中より二つにわれて散るやうに見えて失せにけり。是をば人は見ず、只入道ばかり見ていとゞ恐しくて、つん/\とかみへ躍りたるが、其後はもとの心になりて行ひけり。念佛の力のたふとき事、いとゞ人々たふとび合ひけり。本體ほんたいの女はつやつやさることなくて、元のやうに鎌倉にありけりとぞ聞えし。天魔のしわざか、又めの戀しと思ひけるが故にか、いと不思議なり。
〔三七〕
少輔入道〔寂蓮〕と聞えし歌よみ、ありまの社にまうでて、社の前なるものを見て、
此山のしゝいかめしく見ゆるかないかなる~の廣前ひろまへ(*御前)ぞこは
とよめりける、いと興ありてこそ聞えけれ。びんなき(*無躾な)さまにてぞ聞ゆる。すべてかやうの歌いみじく詠まれけるとかや。寄レ鳥述懷の歌に、
玉葉 このうち〔籠の中、此内〕も猶うらやまし山がらの身のほどかくす夕貌ゆふがほの宿
風の氣けありて灸治しけるに、人のとぶらひて侍りける返事に、
年へたる風のかよひぢたづねずは蓬が關〔蓬は灸をいふ。〕をいかゞすゑまし
此人うせて後、宇治なる僧の夢に、ありしよりことの外にほけたる樣さまにて、
我身いかにするがの山のうつゝにも夢にも今はとふ人のなき
とながめてける、いとあはれなり。此歌のさまうつゝに〔生時に〕其人の好まれし姿なるこそ、まことにあはれに侍りけれ。
〔三八〕
或人の夢に其正體もなきもの、影のやうなるが見えけるを、あれは何人〔一本「何の人」〕ぞと尋ねければ、紫式部也、そらごとをのみ多くしあつめて、人の心を惑はすゆゑに、地獄におちて苦を受くる事いと堪へがたし、源氏の物語の名を具して、なもあみだ佛といふ歌を、卷毎に人々によませて、わがくるしみを訪ひ給へといひければ、いかやうに詠むべきにかと尋ねけるに、
桐壺にまよはん闇もはる(*霧が晴る)ばかりなもあみだ佛と常にいはなん
とぞいひける。
〔三九〕
昔の周防内侍が家の、淺ましながら建久の比まで、冷泉堀川の西と北との隅に朽ち殘りて有りけるを、行きて見ければ、
我さへ軒のしのぶ草
〔金葉雜上、「家を人にはなちてたつとて柱に書きつけ侍りける、周防内侍、
住みわびて我さへ軒の忍ぶ草しのぶかたがたしげき宿かな」〕
と柱にむかしの手にて書き付けたりしが有りける、いとあはれなりけり。是を見てある歌よみ書きつけける。
これやその昔の跡とおもふにも忍ぶあはれのたえぬ宿かな
〔四〇〕
近ごろ和歌の道殊にもてなされしかば、内裏、仙洞、攝政家、何れもとり/〃\に底をきはめさせ給へり。臣下數多あまた聞えし中に、民部卿定家、宮内卿家驍ニて、家の風かぜたゆることなく、其道に名を得たりし人々なりしかば、此二人にはいづれも及ばざりけるに、或時攝政殿〔後京極良經〕、宮内卿を召して、當時たゞしき歌よみ多く聞ゆる中に、何れかすぐれ侍る、心に思はんやう有りのまゝにと御尋ね有りければ、いづれともわきがたく候ふとばかり申して、思ふやう有りげなるを、いかに/\とあながちに問はせ給ひければ、ふところより疊紙たゝうがみをおとして、やがて出でにけり。御覽ぜられければ、
新勅撰秋上 明けば又秋の半も過ぎぬべし傾かたぶく月のをしきのみかは
と書きたり。此歌は民部卿の歌也。かゝる御尋ねあるべしとは、いかで知るべき。只もとより面白くおぼえて、書き付けて持たれけるなめり。其後また民部卿を召して、さきのやうに尋ねらるゝに、是も申しやりたるかたなくて、
新勅撰冬 かさゝぎの渡すやいづこ夕霜の雲井に白き峯のかけはし
と、たかやかに咏ながめて出でぬ。是は宮内卿の歌なりけり。まめやかの上手の心は、されば一つなりけるにや。 
 

 

〔四一〕
後拾遺をえらばれける時、秦兼方といひける隨身、
金葉雜春 去年こぞみしに色もかはらず咲きにけり花こそ物は思はざりけれ
と云ふ歌をよみて、えらぶ人〔通俊をさす。〕のもとに行きて、此歌入れんと望みけるに、花こそといへるが、犬の名に似たると難じけるを聞きて、立ちざまに此殿は勅撰などうけたまはるべき人にてはおはせざりけるものを、花こそ宿のあるじなりけれといふ歌〔拾遺雜春、公任卿、「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」〕もあるはと言ひかけてける、いとはしたなかりけり(*恥かしいことだ)。
〔四二〕
西行法師が陸奧のかたに修行しけるに、千載集えらばると聞きて、ゆかしさにわざと上りけるに、知れる人行きあひにけり。此集の事ども尋ね聞きて、我よみたる、
鴫たつ澤の秋のゆふ暮
といふ歌や入りたると尋ねけるに、さもなしと言ひければ、さては上りて何にかはせんとて、やがて歸りにけり。
〔四三〕
或人歌よみ集めて、三位大進と聞えし人のもとに行きて見せ合せけるに、侍るといふ事をよみたりけるを、歌の言葉にあらずと言ひければ、ふるき歌にまさしく有りといひけり。よもあらじものをと言ふに、いで引き出でて見せ奉らんとて、古今を開きて、
山がつのかきほにはへるつゞら
〔古今戀四、竃、「山がつのかきほにはへるあをつゞら人はくれどもことづてもなし」〕
といふ歌を見せける、いとをかしかりけり。
〔四四〕
下毛野武正といひける隨身の、關白殿の北の對のうしろを、誠にゆゝしげにて通りけるに、局つぼねのざうし〔雜仕なるべし。〕、あなゆゝしはとふく秋とこそ思ひまゐらすれと言ひたりければ、ついふされ〔不詳〕と言ひてけり。女心うげにて隱れにけり。隨身所にて秦兼弘といふ隨身にあひて、北の對の女めの童わらはべに散々にのられ〔罵られ〕たりつると言ひければ、いかやうにのられつるぞと問はれて、鳩吹く秋とこそ思へといふに、兼弘は兼方が孫にて、兼久が子なりければ、かやうの事心得たる者にて、口得(*惜)しき事のたまひけるかな、府生殿を思ひかけて言ひけるにこそ、
み山出て鳩ふく秋の夕暮はしばしと人をいはぬばかりぞ
といふ歌の心なるべし、しばしとまり給へといひけるにこそ、無下に色なくいかにのり給ひけるぞと言ひければ、いで/\さては色直して參らんとて、ありつる局のしも口に行きて、物承らん、武正鳩ふく秋ぞ、よう/\と言ひ立てりける、いとをかしかりけり。
〔四五〕
鳥忠@の御時、花の盛さかりに法勝寺へ御幸ならんとしけるに、執行しゆぎやうなりける人見て(*「に」か。)とて參りけるに、庭のうへに所もなく花散り布きたりけるを、淺ましき事なり、只今御幸のならんずるに、今まで庭を掃かせざりけると、叱り腹立て、公文(*くもん。威儀師)の從儀師(*威儀師の他に置いた官)を召して、今までいかに掃除さうぢをばせざりけるぞ、不思議なりといひければ、ついひざまづきて、
散るもうし散りしく庭もはかまうし(*掃きたくない)花に物おもふ春の殿守とのもり
と申して、こや御房がはき侍らぬになど言ひければ、はゝかつひ〔不詳〕といひて猶叱りけり。  
 

 

〔四六〕
承久の頃住吉へ然るべき人の參らせ給ひけるに、折ふし~主經國京へ出たりけるが、人を走らせて、住の江殿など掃除せさせよと言ひやりたりけるに、餘りのきらめきに〔C潔にしすぎて〕、年比然るべき人々の書きおかれたる歌ども、柱、長押なげし、妻戸にありけるを皆削り捨ててけり。~主下りて是を見て、こはいかにせんと、足ずり〔ぢだんだふむこと。〕をして悲めども甲斐なかりけり。是を見てふるき尼の書き付けける。
世の中のうつりにければ住吉の昔の跡もとまらざりけり
是は承久の亂ののち、世の中あらたまりける時のこと也。
〔四七〕
松島の上人といふ人有りけり。修行者のあはんとて行きたりけるに、幽玄なる僧の出逢ひたりければ、いと思はずに覺えて、歸り入りたりける跡に、又ありける僧にあれは誰にておはしますにかと尋ねければ、あれこそ聖の御房よといひけるに、たふとげになんとやおはしますらんとこそ思ひつれと言ふを、ひじり物ごしに聞きてよめる歌、
紫の雲まつ嶋にすめばこそ空ひじり(*そらひじり—似而非聖)とも人のいふらめ
とよめりけり。此ひじりのもとへ肥後の右衞門入道といひけるもの行きて、かくておはします程何事か候ふと尋ねければ、させる事も侍らず、法花經などおぼえ奉りて、寢たるをり/\此嶋の松の葉毎に、金色の光の見えてかゞやく事などぞ侍ると言はれける、いとめでたかりけり。
〔四八〕
文學〔文覺に同じ。〕上人佐渡國に流されたりけるが、召し還されたりけるに、あるやんごとなき歌よみのもとより、
わかれしを悲しと聞きし老の身の今までありし嬉しきはいかに
と有りければ、かへし、
嬉しさも宮こに出し(*出じ)そはいかに今はかへりてかゝるおひせを(*「老い波」などか。)
此上人の歌に、
世の中に地頭ぬす人なかりせば人の心はのどけからまし
とよみて、我身は業平にはまさりたり、春の心はのどけからましといへる、何條(*どうして)春に心のあるべきぞといひけり。
〔四九〕
小侍從(*前出待宵小侍従)が子に法橋實賢と云ふもの有りけり。いかなりける事にか、世の人是をひきがへるといふ名をつけたりける。法眼ほふげんを望み申して、
法の橋のしたに年ふるひきがへる今ひとあがり飛びあがらばや
と申したりければ、やがて(*法眼に)なされにけり。
〔五〇〕
弘誓房といふ説經師、人の物をかりて多く成りてのち、還しやるとて其文のうちに書き付けける。
夜やさむき衣やうすきかるぜにの日比を經てはあと(*後と阿堵物)つかひつゝ 
 

 

〔五一〕
然るべき所に佛供養しけるに、堂のかざりより初めて、えもいはぬ聽聞ちやうもんの局の几帳きちやうの中に空炷そらだきの香みちていみじかりけるに、聽聞の人の多くあつまりて、耳を澄ましたるに、内よりおびたゞしく大きなる屁の音出できにけり。皆人興さめて侍るに、導師とりもあへず、放逸邪見の里にはついぐわ(*墜瓦、追賁〔ついひ〕)をもをしむ、聽聞隨喜の局よりおほへ(*大家、大屁)をこそうち出されたれと言ひたりける、淺ましくもをかしくも有りけり。
〔五二〕
或説經師の請用して殊にめでたくたふとく説法せんとしけるに、はこ〔大便〕のしたかりければ、事いそがしくなりて、よろづ急ぎて布施も取らず歸りて、物ぬぎちらして急ぎ樋殿ひどの〔便所〕へ行きたりけるに、屁ばかりひりて、又物もなかりけり。かゝるべしと知りたらば、高座の上にてもしばしこらへて、説經をもすべかりけるものをと、悔しく思ひてける程に、其次の日又人に呼ばれて説經しける程に、又はこのしたかりけるを、すかしてんと思ひて少し居なほるやうにしければ、まことの物おほく出にけり。此僧すべき方なくて、昨日ははこにすかされて屁をつかまつる、今日は屁にすかされてはこをつかまつると言ひて、走りおりて逃げ出にければ、うへの袴より垂り落ちて、堂の中きたなく成りにけり。聽聞の人鼻をおさへて興さめてけり。いとをかしかりけり。
〔五三〕
念佛者の中につちゆいふけつ〔一本「いふふつ」〕と云ふ僧有りけり。或所に板風呂〔蒸風呂の事をいふなるべし。〕と云ふ物をして、人々入りけるに、此僧目をやむ由いひければ、目をひさぎて入るは苦しかるまじき由を人々いひければ、さらばとて、目をゆひて〔目を布にてくゝりて〕板風呂の有樣も知らぬものの、目は見えざりければ、風呂の前にわき戸のうちのありけるに、風呂と心得て、裸にてかゝへたる所〔包みかくしたる所〕もうちとけてゐにけり。人々女房など見おこせたるに、裸なる法師のかくし所も打出して、あなぬるの風呂や、たけ/\と言ひてゐたりける、いとをかしかりけり。人々笑ひける聲を聞きて、あやしく思ひて目をあけて見れば、風呂にてもなき所にゐて、人々笑ひける時に、淺ましく覺えて走り逃げにけり。人々をかしく思ひあへりけり。

右今物語一帖者右京權大夫信實朝臣之抄也。信實者爲經入道寂超之孫、右京大夫髏M朝臣之子、少將内侍・辨内侍等之父。於歌並畫而堪能也。此書借洛東岡崎隱士村井古巖之藏書寫、且以横田茂悟・屋代詮賢本再三遂校合、聊注愚案。今爲鏤梓請詮賢C書畢。
天明六年丙午(*一七八六年)二月廿五日
檢校 保己一
右今物語一帖は右京權大夫信實朝臣の抄なり。信實は爲經入道寂超の孫、右京大夫髏M朝臣の子、少將内侍・辨内侍等の父なり。歌並びに畫に於て堪能なり。此の書、洛東岡崎の隱士村井古巖の藏書を借りて寫し、且つ横田茂悟・屋代詮賢(*輪池屋代弘賢)の本を以て再三校合を遂へ、聊か愚案を注す。今梓に鏤むる爲めに詮賢に請ひてC書きせしめ畢ぬ。 
 
發心集 / 鴨長明

 

「発心集」(ほっしんしゅう)鎌倉初期の仏教説話集。「方丈記」の作者として知られる鴨長明(1155−1216年)晩年の編著。建保四年(1216年)以前の成立。「長明発心集」とも。仏の道を求めた隠遁者の説話集で「閑居友」、「撰集抄」などの説話集のみならず、「太平記」や「徒然草」にまで影響を及ぼし、これぞ説話の本性というべきものを後世に伝えている。
流布本は全八巻・102話であるが、現存しない三巻本が最も原型に近いと考えられ、そのほか五巻62話の異本もある。伝本に古写本は無く、慶安四年片仮名本と寛文十年平仮名本が版本として刊行された流布本であり、神宮文庫本が五巻の近世写本である。
天竺・震旦よりは本朝に重心を置き、発心譚・遁世譚・極楽往生譚・仏教霊験談・高僧伝など、仏教関係の説話を集録。仏伝からの引用が多い。長明自身を含む隠遁者(西行が有名)が登場人物の主体をなす。盛名を良しとせず隠遁の道を選んだ高僧(冒頭の玄賓僧都の話など)をはじめ、心に迷いを生じたため往生し損なった聖、反対に俗世にありながら芸道に打ち込んで無我の境地に辿り着いた人々の生き様をまざまざと描き、編者の感想を加えている。人間の心の葛藤、意識の深層を透視したことで、従来の仏教説話集にはない新鮮さがある。
なお梁瀬一雄など一部の研究者からは、流布本の巻一〜六と巻七・八では、背景となる思想などが異なっているとして「流布本の巻七・八は別人による増補ではないか」との指摘がされている。
高尾稔など増補説に否定的な見解を取る研究者も多い。いずれにせよ古写本が現存していない状況のため、論争に決着をつけるのは困難な状況である。  
 

 


ほとけのをしへたまへる事あり、「心の師とはなるとも、こゝろを師とすることなかれ。」と。まことなるかな、此こと。人一期のあひだに思ひとおもふわざ、あくごうにあらずといふ事なし。もしかたちをやつし、衣をそめて、世のちりにけがれざる人すら、そとものかせぎ(*鹿)つなぎかたく、家のいぬつねになれたり。(*鹿は慈悲心、家狗は瞋恚の心を譬えるという。)いかにいはんや、因果のことはりをしらず、名利のあやまりにしづめるをや。むなしく五欲のきづなにひかれて、つゐに奈落のそこに入なんとす。心あらん人、たれかこのことをおそれざらんや。かゝれば事にふれてわが心のはかなくをろかなることをかへりみて、かのほとけのをしへのまゝに、心をゆるさずして此たび生死をはなれてとく淨土にむまれん事、たとへば牧士のあれたる駒をしたがへてとをきさかひにいたるがごとし。但此心に強弱あり、淺深あり、かつ自心をはかるに、善をそむくにもあらず、惡をはなるゝにもあらず、風のまへの草のなびきやすきがごとく、又浪のうへの月のしづまりがたきににたり。いかにしてかかくをろかなる心をゝしへんとする。ほとけは衆生の心のさま/〃\なるをかゞみ給ひて、因縁譬喩をもつてこしらへをしへたまふ。われらほとけにあひたてまつらましかば、いかなる法につけてかすゝめ給はまし。他心智(*他人の心を悟る智恵)も得ざれば、たゞわが分にのみ理をしり、をろかなるをゝしふる方便はかけたり。所説たへなれども、うる所は益すくなきかな。これによりみじかき心をかへりみて、ことさらにふかきみのりをもとめず、はかなくみること・きく事をしるしあつめつゝ、しのびに座の右にをけることあり。すなはちかしこきを見てはをよびがたくとも、こひねがふえんとし、をろかなるをみてはみづからあらたむるなかだちとせんと也。今これを云に、天竺震旦のつたへきくはとをければかゝず、佛菩薩の因縁は分にたへざればこれをのこせり。たゞ我國の人のみゝちかきをさきとして、うけ給ることのはをのみしるす。されば、さだめてあやまりはおほく、まことはすくなからん。もし又二たびとふにたよりなきをば、ところの名・人の名をしるさず。いはゞ雲をとり風をむすべるがごとし。たれ人かこれをもちひん。しかあれど人信ぜよとにもあらねば、かならずしもたしかなる跡をたづねず。道のほとりのあだことの中に、わが一念の發心をたのしむばかりにや、といへり。
玄敏僧都とんせいちくでんの事
「むかし玄敏僧都(*玄賓)といふ人ありけり。山しな寺(*興福寺)のやんごとなき智者なりけれど、世をいとふ心ふかくして、さらに寺のまじはりをこのまず。三輪河のほとり(*三輪山の北、檜原谷という。)にわづかなる草のいほりをむすびてなんおもひ入つゝすみける。桓武の御門の御時、此事きこしめしてあながちにめし出しければ、のがるべきかたなくて、なまじゐにまじはりけり。されどもなをほいならず思ひけるにや、奈良の御門(*平城天皇)の御代に大僧都になし給けるを辭し申とてよめる、
三輪川の きよきながれに すゝぎてし ころもの袖を 又はけがさじ
とてなん奉りける。
かゝるほどに弟子にもつかはるゝ人にもしられずして、いづちともなくうせにけり。さるべきところ/〃\尋ねもとむれどさらになし。いふかひなくて日比へにけれど〔は イ〕かのあたりの人はいはず、すべて世のなげきにてぞ有ける。
そのゝちとし比へて、弟子なりける人、事のたよりありてこしのかたへ行ける道にある所に大きなる河あり。渡し舟まちえてのりたるほどに、此わたしもりをみれば、かしらはをつゝかみ(*押っ掴み頭)といふほどをきたる法師のきたなげなるあさの衣きたるにてなむありける。『あやしのやうや。』と見る程に、さすがにみなれたるやうに覺ゆるを、『たれかはこれに似たり。』とおもひめぐらすほどに、うせて年ごろになりぬるわが師の僧都に見なしつ。『ひがめか。』とみれど、露たがふべくもあらず。いとかなしくて涙のこぼるゝをゝさへつゝさりげなくもてなしけり。かれも見しれるけしきながら、ことさらめみあはず(*「目見合はせず」か)。はしりよりて『いかでかくては。』ともいはまほしけれど、『いたく人しげゝれば、中/\あやしかりぬべし。のぼりざまに、よるなどゐたまへらん所にたづねゆきてのどかにきこえん。』とて、過にけり。
かくてかへるさに、そのわたりにいたりてみれば、あらぬわたしもり也。まづめくれ、むねもふたがりて、こまかにたづぬれば、『さる法師侍り。とし比此わたし守にて侍りしを、さやうの下らうともなく、つねに心をすまして念佛をのみ申て、かず/\に船ちんとる事もなくして、たゞ今うちくらふ物などの外は、物をむさぼる心もなく侍りしかば、此里の人のいみじういとおしうし侍りし程に、いかなる事かありけん、過ぬる比かきけつやうにうせてゆき方もしらず。』とかたるに、くやしくわりなく覺えて、其月日をかぞふれば、わが見あひたる時にぞありける。『身のありさまをしられぬ。』とて、又さりにける成べし。此事は物語(*『古事談』かという。)にもかきて侍る。」となん、人のほの/〃\かたりしばかりをかきけるなり。
又續古今のうたに、
山田もる そうづ(*案山子を「そほど」という。)の身こそ あはれなれ 秋はてぬれど と(*原文「と」の字なし。)ふ人もなし
これもかの玄敏の歌と申侍り。雲風のごとくさすらへゆきければ、田などもる時もありけるにこそ。
ちかき比、三井寺の道顯僧都(*藤原顕時の子)ときこゆる人侍りき。かの物がたりを見て、なみだをながしつゝ、「わたしもりこそげにつみなくて世をわたる道なりけれ。」とて、みづ海のかたに舟をひとつまうけられたりけるとかや。その事、あらましばかりにて、むなしく石山の河ぎしにくちにけれども、こひねがふ心ざしはなをありがたくぞ侍りし。
同人伊賀の國郡司につかはれ給事
伊賀の國にある郡司のもとにあやしげなる法師の「人やつかひ給ふ。」とてすぞろに入來る有けり。あるじこれをみて、「わそうのやうなるものをゝきては何にかはせん。いともちひる事なし。」といふ。法師のいふやう、「をのれらほどの者は、法師とておのこにかはる事なし。何わざなりとも、身にたへんほどのことはつかまつらん。」といへば、「さやうならばよし。」とてとゞむ。よろこびていみじうまごゝろにつかはるれば、ことにいたはる馬をなんあづけてかはせける。
かくて三年ばかりふるほどに、此あるじのおのこ、國の守のためにいさゝかたよりなきことをきこしめして、さかひのうちをゝはる。父おほぢの時より居つきたる物なりければ、所領もおほく、やつこもそのかずあり。他の國へうかれゆかん事かた/〃\ゆゝしきなげきなれど、のがるべきかたなくてなく/\出たつあひだに、此法師あるものにあひて、「此殿にはいかなる御なげき出きて侍るにか。」ととふに、「われらしき(*我々風情。あるいはお前たちごときの意か。)の人はきゝてもいかゞは。」とことの外にいらふるを、「何とてか身のあしきによらん。たのみたてまつりてもとし比になる。うちへだて給べきにあらず。」とてねんごろにとへば、事のおこりをありのまゝにかたる。法師のいふやう、「をのれが申さん事、もちひ給べきにあらねど、何かはたちまちにいそぎさり給ふべき。物は思はざる事も侍る物を。まづ京上(*「京上り」か。)していくたびも事の心を申入て、なをかなはずはその時にこそはいづかたへもおはせめ。をのれがほの/〃\しりたる人、國司の御あたりにははんべり。たづねて申侍らばや。」といふ。思ひの外に、人々、「いみじくもいふ物かな。」とあやしうおぼえて、あるじに此よしかたるに、ちかくよびよせてみづからたづねきゝ、ひたすらこれをたのむとしもなけれども、又おもふかたなきまゝに、此法師うちぐして京へ上りにけり。
その時、この國は大納言なにがしの給はりにてなんありけるに、京に至りつきてかのみもと近く行よりて、法師の云やう、「人を尋むと思ふに、此かたちあやしく侍るに、衣けさたづね給りてんや。」と云ふ。すなはちかりてきせつ。主の男をぐして、かれを門にをきて、(*僧は)さし入て「物申侍らん。」と云に、こゝらあつまれる物共、此人をみてはら/\とおりひざまづきてうやまふをみるに、伊賀のおとこ、門のもとよりこれをみてをろかに覺えんやは。「淺まし。」と守り奉る。
すなはちかくと聞て、大納言いそぎ出あひてもてなしさはがるゝさま、事の外也。「さても『いかに成給けるにか。』と思ふばかりなくて過侍りつるに、さだかにおはしけるこそ。」などかきくどきの給へり。それをばことずくなにて、「さやうの事は靜に(*そのうちのんびりと)申侍らん。今日はさして申べきこと有てなん。いがの國に年比あひ頼みて侍つるものゝ、はからざる外にかしこまりをかうぶりて、國の内をゝはるゝとて歎侍り。いとおしう侍るに、若深きおかしならずは、此法師に許し給りなんや。」と聞ゆ。「とかく申べきならず。さやうにておはしければ、わざとも(*とりわけ)思ひしるべき男にこそ侍るなれ。」とて、元よりもまさゞまに悦ぶべき(*より所領を下さるという)聽〔廳カ〕宣(*「庁宣」は国司が支配地へ下す公文書。)のたまはせたりければ、悦て出す(*「出づ」か)。
又伊賀の男あきれまどへるさま、理也。さま/〃\に思へど、あまりなる事は中々えうちいださず。「宿に歸りてのどかに聞えん。」と思ふ程に、衣けさの上に有つる聽宣さしをきて、きと(*さっさと)立出るやうにて、やがていづちともなくかくれにけりとぞ。これもかの玄敏僧都のわざになん。ありがたかりける心なるべし。
平等供奉山をはなれて異州に趣く事
中比、山に平等供奉(*『今昔物語集』に長増、『古事談』に平燈とするという。)とてやむごとなき人有けり。すなはち天台眞言の祖師(*高僧)也。ある時、かくれ所(*便所)にありけるが、にはかに露のむじやうをさとる心おこりて、「何としてかくはかなき世に、名利にのみほだされて、いとふべき身をおしみつゝ、むなしく明しくらすところぞ。」と思ふに、過にしかたもくやしく、とし比のすみかもうとましくおぼしければ、さらに立かへるべき心ちせず、白衣にてあしたさしはきおりけるまゝに、衣などだにきず、いづちともなく出て、西の坂をくだりて京のかたへくだりぬ。
いづくに行とゞまるべしとも覺えざりければ、ゆかるゝにまかせて淀の方へまどひありき、くだり船のありけるにのらんとす。貌(*かたち)などもよのつねならずあやしとてうけひかねども、あながちにたのみければのせつ。「さてもいかなる事によりて、いづくへおはする人ぞ。」ととへば、「さらに何事と思ひわきたる事もなし。さして行つく所もなし。たゞいづかたなりとも、おはせんかたへまからんと思ふ。」といへば、「いと心えぬ事のさまかな。」とかたぶきあひたれど、(*船人も)さすがになさけなくはあらざりければ、おのづから此舟のたよりに伊與の國にいたりにけり。さてかの國にいづちともなく迷ひありきて、乞食をして日をおくりければ、國の者ども「門乞食」とぞつけたりける。
山の坊には、「あからさまにて出給ぬるのちひさしうなりぬるこそあやしうなむ。」といへど、かくとはいかでか思ひよらん。「おのづからゆへこそあらめ。」などいふほどに、日もくれ夜もあけぬ。おどろきてたづねもとむれどさらになし。いふかひなくして、ひとへになき人になしつゝ、なく/\あとのわざ(*「後〔のち〕の業」に同じ。葬儀。)をぞいとなみあへりける。
かゝるあひだに、此國の守なりける人、供奉の弟子に淨眞(*静真)阿闍梨といふ人をとし比あひしたしみて、いのりなどせさせければ、國へくだるとて、はるかなるほどにたのもしからんとて、具して下りにけり。此門乞食、かくともしらでたちの内へ入にけり。物をこふあひだに、わらんべどもいくらともなくしりにたちてわらひさいなむを、此阿闍梨あはれみて、「物などとらせん。」とてまぢかくよぶ。おそれ/\えんのきはへ來たるをみれば、人のかたちにもあらず、やせおとろへ、物のはら/\とあるつゞりばかりきて、まことにあやしげなり。さすがに見しやうにおぼゆるを、よく/\おもひ出れば、わが師なりけり。あはれにかなしくて、すだれのうちよりまろび出て、縁のうへに引のぼす。守よりはじめてありとある人、おどろきあやしむあまり(*「あやしむ。あざり」か)、なく/\さまざまにかたらへど、詞ずくなにてしゐていとまをこひてさりにけり。
いふばかりもなくて、あさの衣やうのもの用意して、ある所をたづねけるに、ふつとえたづねあはず。はてには國の者どもにおほせて、山林いたらぬくまなくふみもとめけれどもあはで、そのまゝにあとをくらうして、つゐに行すゑもしらずなりにけり。その後はるかに程へて、人もかよはぬ深山のおくのC水のある所に「死人のある。」と山人のかたりけるに、あやしくおぼえてたづね行てみれば、此法師西にむかひて合掌して居たりけり。いとあはれにたうとく覺えて、阿闍梨なく/\とかくの事どもしけり。
今もむかしも、まことに心をおこせる人はかやうに古郷をはなれ、見ずしらぬところにて、いさぎよく名利をばすてゝうするなり。ぼさつのむしやうにん(*無生忍。無生の真理を悟ること。)をうるすらもと見たる人のまへにては神通をあらはすことかたしといへり。いはんや、今おこせる心はやむごとなけれど、いまだふたいのくらゐ(*不退の位。信心が固まった境地。)にいたらねば、事にふれてみだれやすし。古郷にすみ、しれる人にまじりては、いかでか一念のまうしんおこらざらむ。
千觀内供遁世籠居の事
千觀内供(*10世紀の人。橘俊貞の子。愛宕念仏寺を再興。念仏上人と呼ばれたという。)といふ人は、智證大師(*円珍)のながれ(*園城寺の学僧)、ならびなき智者なり。もとより道心ふかゝりけれど、いかに身をもてなしていかやうにおこなふべしとも思ひさだめず、おのづから月日をおくりけるあひだに、ある時公請ぐしやう(*「くじゃう」。朝廷から法会・講義に招請されること。)をつとめてかへりけるに、四條河原にて空也上人にあひたりければ、車よりおりてたいめんし、「さてもいかにしてか後世たすかる事は仕るべき。」と聞えければ、上人これをきゝて、「何さかさまごとはの給ふぞ。さやうの事は御房なんどにこそとひたてまつるべけれ。かゝるあやしの身はたゞいふかひなくまよひありくばかりなり。さらに思ひみだる事侍らず。」とてさりなんとし給ひけるを、袖をひかへてなを念比にとひければ、「いかにも身をすてゝこそ。」とばかりいひて、引はなちてあしばやに行過給ひにけり。
その時内供、河原にてしやうぞくぬぎかへて、車に入て、「ともの人はとく房へかへりね。我はこれより外へいなむずるぞ。」といひてみな返しつかはして、たゞひとり蓑尾(*箕面)といふ所にこもりにけり。されどなをかしこも心にかなはずやありけん、居所思ひわづらはれける程に、ひんがしのかたに金色の雲のたちたりければ、そのところを尋てそこにかたのごとくいほりをむすびてなん跡をかくせりける。すなはち今の金龍寺(*摂津国高槻の金龍〔こんりゅう〕寺)といふは是也。かしこにとしごろ行ひて、終に往生をとげけるよし、くはしく傳(*『日本往生極楽記』という。)にしるせり。此内供は人の夢に千手觀音の化身と見たりけるとかや。千觀といふ名は、かのぼさつの御名を略したるになん有ける。  
 

 

多武峰増賀上人遁世往生の事
増賀(*「ぞうが・そうが」)上人は經平のさいしやう(*参議橘恒平)の子、慈惠(*「じゑ」)僧正(*良源。元三〔がんさん〕大師。)の弟子なり。此人おさなかりしに、せきとく(*碩徳)人にすぐれたりければ、「ゆくすゑにはやむごとなき人ならん。」とあまねくほめあひたりけり。しかれども、心のうちにはふかく世をいとひて、名利にほだされず、極樂にむまれんことをのみぞ人しれずねがはれける。
思ふばかり道心のおこらぬ事をなげきて、根本中堂に千夜まいりて、夜ごとに千べんの禮をして道心をいのり申けり。はじめは禮のたびごとにいさゝかもこゑたつる事もなかりけるが、六七百夜になりては「つき給へ、/\。」としのびやかにいひて禮しければ、きく人、「此僧は何事を祈り『天狗つき給へ。』といふかな。」と、かつはあやしみ、かつはわらひけり。をはりがたになりて、「道心つき給へ。」とさだかに聞えける時、「あはれなり。」などぞいひける。
かくしつゝ千夜みちて後、さるべきにやありけん、世をいとふ心いとゞふかくなりにければ、「いかにしてか身をいたづらになさん。」とついでをまつほどに、ある時内論義(*「内論議」。正月、御前での議論会。)といふ事ありけり。さだまる事にて、論義すべきほどのおはりぬれば、饗(*「きゃう」)を庭になげすつれば、もろ/\の乞食方/\にあつまりてあらそひとりてくらふならひなるを、此宰相禪師にはかに大衆の中よりはしり出て、これを取てくふ。みる人、「此禪師は物にくるふか。」とのゝしりさはぐをきゝて、「我は物にくるはず。かくいはるゝ大衆たちこそ物にくるはるめれ。」といひてさらにおどろかず。「あさまし。」といひあふほどに、これをいて(*「ついで」か。)として籠居しにけり。後には大和の國たふのみね(*多武峰)といふ所にゐて、思ふばかりつとめおこなひてぞとしを送りける。
そのゝちたうとき聞えありて、時の后の宮の戒師(*「かいのし」。出家する人に戒を授ける僧。)にめしければ、なまじゐにまいりて、南殿のかうらんのきはによりて、さま/〃\に見ぐるしきことゞもをいひかけて、むなしく出ぬ。
又ほとけくやうせんといふ人のもとへ行あひだに、説法すべきやうなど道すがらあんずとて、「名利を思ふにこそ魔縁たよりをえてけり。」とて、行つくやおそきそこはかとなき事をとがめて、施主といさかひてくやうをもとげずしてかへりぬ。
これらのありさまは、「人にうとまれてふたゝびかやうの事をいひかけられじ。」となるべし。
又師の僧正よろこび申し給ひける時、前駈の數に入てからざけといふ物を太刀にはきて、骨限(*「ばかり」か。)なる女牛のあさましげなるにのりて、やかたにつかまつらん(*前駆をいたそう。「やかた口つかまつらん」という本文もある。)とて、おもしろく折まいりければ、見物のあやしみ思は〔おどろか イ〕ぬはなかりけり。かくて「名聞こそくるしかりけれ。かたい(*乞食)のみぞたのしかりける。」とうたひて、うちはなれにけり。僧正も凡人ならねば、かの「我こそやかたにうため(*「打つ」は馬〔牛〕を駆けさせる意か。「屋形」は師の乗物を指し、前駆する意をいうか。前同様、「やかた口うため」とする本文もある)。」とのたまふこゑの、僧正の耳には「かなしき哉。わが師惡道に入なむとす。」ときこえければ、車のうちにて「これも利生のためなり。」とこたへ給ひけるとかや。
此上人、いのち終らんとしける時、まづ碁盤をとりよせてひとり碁をうち、次に障泥あをり(*「あふり(アオリ)」。泥除けの馬具。)をこふて、これをかづきて小蝶と云舞のまねをす。弟子どもあやしみてとひければ、「いとけなかりし時、此二事を人にいさめられて、思ひながらむなしくやみにしか。心にかゝりたれば、『もし生死の執となる事もぞある。』と思ひて。」とこそいはれけれ。
すでに聖衆のむかへを見て、よろこびてうたをよむ。
みづはさす 八十あまりの 老の浪 くらげのほねに あひにけるかな
とよみておはりにけり。
此人のふるまひ、世の末には物ぐるひともいひつべけれども、境界(*習わしに従う生活)はなれんための思ひばかりなれば、それにつけても有がたきためしにいひをきけり。人にまじはるならひ、たかきにしたがひ、下れるをあはれむにつけても、身は他人の物となり、心は恩愛のためにつかはる。これこの世のくるしみのみにあらず、出離のおほきなるさはり也。きやうがひをはなれんより外には、いかにしてかみだれやすき心をしづめむ。
高野の南筑紫上人出家登山の事
中ごろ、高野に南づくしとてたうとき聖人(*『三外往生記』『閑居友』等に南筑紫・北筑紫という鎮西出身の僧の伝を載せるという。)ありけり。もとはつくしの者にて、所知などあまたある中に、かの國のれいとして門田おほくもちたるをいみじき事と思へるならひなるを、此おとこは家のまへに五十町ばかりなむもちたりける。
八月ばかりにやありけむ、あしたにさし出て見るに、ほなみゆら/\と出ととのほりて(*原文「出とくのほりて」)、露心よくむすびわたして、はる/〃\見えわたるに、思ふやう、「此國にかなへるきこえある人おほかり。しかれども、門田五十町もてる人はありがたくこそあらめ。下らうの分にはあはぬ身かな。」と心にしみて思ひゐたるほどに、さるべきしゆくぜん(*宿善)やもよほしけん、又思ふやう、「そも/\これは何事ぞ。この世のありさま、昨日ありと見し人、けふはなし。あしたにさかへる家、ゆふべにをとろひぬ。一たびまなこをとづる後、おしみたくはへたる物、なにのせんかある。はかなき執心にほだされて、ながく三途(*地獄)にしづみなむ事こそいとかなしけれ。」とたちまちに無常をさとれる心つよくおこりぬ。又おもふやう、「わが家に又かへり入なば、妻子ありけんぞくもおほかり。さだめてさまたげられなんず。たゞ此ところをわかれて、しらぬ世界に行て、佛道をおこなはん。」と思ひて、あからさまなる躰ながら(*ちょっと家を出た姿のまま)京へさしてゆく。
その時さすがに物のけしきやしるかりけん、ゆきゝの人あやしがりて、家につげたりければ、おどろきさはぎてけるさまことはりなり。其中にかなしくしけるむすめの十二三ばかりなる者ありけり。なく/\おひつきて、「我をすてゝはいづくへおはします。」とて袖をひかへたりければ、「いでや(*なんと)、おのれにさまたげらるまじきぞ。」とて、刀をぬき(*己の)かみをおしきりつ。むすめおそれおのゝきて、袖をばはなちてかへりにけり。かくしつゝ、これよりやがて高野の御山へ上りて、かしらをそりて、ほいのごとくなむおこなひけり。かのむすめ、おそれてとゞまりたりけれど、なをあとをたづねて、あまになりて、かの山のふもとにすみて、しぬるまで物うちすゝぎ、たちぬふわざをしてぞけうやう(*孝養)しける。
此聖人、後にはとくたかくなりて、たかきもいやしきも歸せぬ人なし。たうをつくりくやうせんとしける時、導師を思ひわづらふあひだに、夢にみるやう、「此堂は、その日その時、淨名居士(*維摩詰。後に「さまをやつし」た法師が登場することと呼応する。)のおはしまして供養し給ふべき也。」と人のつぐるよし見ければ、すなはちまくらしやうじにかきつけ、いとあやしけれど「やうこそあらめ。」とおもひて、おのづから日を送りけり。
まさしくその日になりて、堂しやうごんして心もとなく待ゐたれば、あしたより雨さへふりて、さらに外より人のさし入もなし。やう/\時になりて、いとあやしげなる法師のみのかさきたる、出來りておがみありくありけり。すなはちこれをとらへて、「待たてまつりけり。とく此堂をこそくやうし給はめ。」といふ。法師おどろきていはく、「すべてさやうのさいかく(*才覚・才学)の者にはあらず。あやしのものゝ、おのづから事のたよりありてまいり來れるばかりなり。」とて、ことの外にもてなしけれど、かねて夢のつげありしやうなどかたりて、かきつけたりし月日のたしかに今日にあひかなへることをみせたりければ、のがるべきかたなくて、「さらば、かたのごとく申上侍らん。」とてみの笠ぬぎすてゝ、たちまちに禮盤にのぼりて、なべてならずめでたく説法したりけり。此導師は、天台の明賢阿闍梨になむありける。かの山をおがまんとて、忍びつゝさまをやつしてまうでたりける也。これより此あじやりを高野には淨名居士の化身といふなるべし。
此上人は、ことにたうとき聞えありてぞ、白河院は歸依し給ひける。高野は此聖人の時よりことにはんじやうしにけり。つゐにりんじう正念にして往生をとげたるよし、くはしく傳(*『三外往生記』という。)に見えたり。おしむべき資材につけて厭心(*原文「厭」字の厂なし。)をおこしけん、いとありがたき心なり。二世の苦をうくる事は、たからをむさぼる心をみなもとゝす。人もこれにふけり、われもふかくぢやくする(*「著する」)ゆへに、あらそひねたみて、貪慾(*「とんよく」)もいやまさり、瞋恚もことにさかへけり。人のいのちをもたち、他のたからをもかすむ。家ほろび國のかたぶくまでも、皆是よりおこる。此ゆへに「よくふかければ、わざはひおもし。」ともとき、又「欲の因縁をもつて三惡道に墮す。」ともとけり。かゝれば「彌勒の世には、たからを見てはふかくおそれいとふべし。釋迦のゆいほう(*遺法)の弟子、これがために戒をやぶり罪をつくりて、地ごくにおちけるもの也。」とて、「どくじやをすつるがごとく、道のほとりにすつべし。」といへり。
小田原教壞上人水瓶を打破事
小田原といふ寺(*高野山の小田原谷)に、教壞上人(*教懐。藤原教行の子。小田原聖と称せられた。高野聖の祖の一人という。『高野山往生伝』に伝記があるという。院政期初めの頃の人。)といふ人ありけり。のちには高野にすみけるが、あたらしき水瓶(*「すいびょう」〔すいびん〕=水差し)のやうなどもおもふやうなるをまうけて、ことに執し思ひけるを、えんにうちすてゝおくの院へまいりにけり。かしこに念誦などして一心に信仰しける時、このすいびんを思ひ出して、「あだにならべたりつる物を。人やとらん。」とおぼつかなくて、心一向にもあらざりければ、よしなくおぼえて、かへるやをそきとあまだり(*雨垂り)の石だゝみのうへにならべて、うちくだき捨てけり。〔或云、水瓶を金瓶といへり。〕
又横川に尊勝のあじやり陽範といひける人、めでたき紅梅をうへて、又なき物にして、花ざかりにはひとへにこれをけうじつゝ、おのづから人のおるをもことにおしみさいなみける程に、いかゞ思ひなん(*「思ひけん」か)、弟子なども外へゆきて人もなかりけるひまに、心もなき小法師のひとり有けるをよびて、「よき(*手斧)やある。もてこよ。」といひて、此梅の木を土ぎはよりきりて、上にいさごうちちらし、あとかなくてゐたり。弟子かへりておどろきあやしみて、ゆへをとひければ、たゞ「よしなければ。」とぞこたへける。
これらはみな執をとゞむる事をおそれける也。教壞も陽範も、ともに往生をとげたる人なるべし。まことに、かりの家にふけりてながきやみにまよふ事、たれかはをろかなりと思はざるべき。然れども、せゞしやう/〃\(*世々生々=生々世々)にぼんなふのつぶね・やつこ(*奴隷)となりけるならひのかなしさはしりながら、我も人もえおもひすてぬなるべし。
佐國花をあひして蝶となる事
或人圓宗寺の八かう(*八講。法華八講会。)といふ事にまいりたりけるに、時まつほどやゝ久しかりければ、そのあたりちかき人の家をかりてしばらくたち入たりけるが、かくてその家をみれば、つくれる家のいとひろくもあらぬ庭に、前栽をえもいはず木どもうへて、上にかりやのかまへをしつゝ、いさゝか水をかけたりけり。いろ/\の花、かずをつくしてにしきをうちおほへるがごとく見えたり。ことにさま/〃\なる蝶いくらともなくあそびあへり。ことざまのありがたくおぼえて、わざとあるじをよび出て、此事をとふ。
あるじのいふやう、「これはなをざりの事にもあらず。おもふ心ありてうへて侍り。をのれは佐國と申て、人にしられたる博士の子にて侍り。かのちゝ世に侍りし時、ふかく花をけうじて、おりにつけてこれをもてあそび侍りき。かつはその心ざしをば詩にもつくれり。『六十餘國見れどもいまだあかず。他生にもさだめて花を愛する人たらん。』など作りおきて侍りつれば、おのづから生死の會執にもやまかりなりけんとうたがはしく侍りしほどに、あるものゝ夢に『蝶になりて侍る。』と見たるよしをかたり侍れば、つみふかくおぼえて、『しからば、もしこれらにもやまよひ侍るらん。』とて、心のおよぶ程うへて侍る也。それにとりて、たゞ花ばかりはなをあかず侍れば、あまづらみつなどを朝ごとにそゝき侍る。」とぞかたりける。
又六波羅寺の住僧幸仙といひける者は、とし比道しんふかゝりけるが、たちばなの木をあひし、いさゝかの執心によりてくちなはとなりて、かの木の下にぞすみける。くはしくは傳(*未詳)にあり。
かやうに、人にしらるゝはまれなり。すべて念々のまうしう、一々に惡身をうくる事は、はたしてうたがひなし。まことにおそれてもおそるべき事なり。
神樂岡C水谷佛種房の事
神樂岡のしみづ谷といふとっころに、佛種房とてたうとき聖人ありけり。たいめんしたる事はなかりしかども、ちかき世の人なりしかば、つゐにわうじやう人とて人のたつとみあひしをばつたへきゝ侍りき。
此聖人、そのかみ水のみといふ所にすみ侍りける比、木ひろひに谷へくだりけるあひだに、ぬす人いりにけり。わづかなる物ども、みなとりて「とをくにげぬ。」と思て、かへり見れば、もとのところなり。「いとあやし。」と思ひて「なをゆくぞ。」と思ふほどに、二時ばかりかの水のみの湯やをめぐりて、さらに外へさらず。そのときに、ひじりあやしみてとふ。答へていふやう、「我はぬす人なり。しかるに、とをくにげさりぬとおもへども、すべて行事を得ず。是たゞ事にあらず。今にいたりては、物をかへし侍らん。ねがはくはゆるし給へ。まかりかへりなん。」といふ。聖のいはく、「なじかはつみぶかくかゝる物をばとらんとする。たゞし、ほしう思ひてこそはとりつらん。さらに返しうべからず。それなしとも、我はことかくまじ。」といひて、ぬす人になをとらせてやりけり。大かた、心にあはれみふかくぞありける。
としをへて、かのC水谷にすみける時、あひたのみたるだんをつ(*檀越)あり。ふかくきえして、折ふしにはおくり物し、事にふれては心ざしをはこびつゝ過けるに、ことにこの聖わざと出きたりていふやう、「思ひかけずおぼしぬべけれど、年ごろたのみ奉りて侍るなり。此ほど夢のごとくなる(*いささかばかりの)庵室をつくるとて、たくみをつかひ侍りしが、魚をよげにくらひ侍りしがうらやましくて、うをのほしく侍れば、『この殿にはおほく侍るらん。』と思ひて、わざとまいれるなり。」といふ。あるじ、おろかなるおんな心に「あさまし。」と思ひの外におぼえけれど、よきやうにしてとり出したりければ、よく/\くらうて殘りをばかはらけをふたにおほひて、かみにひきつゝみて、「是をばあれにてたべん。」とて、ふところに入て出にけり。そのゝち此人ほいなくおぼえながら、さすがに心ぐるしく思ひやりて、「一日の御家づと夢がましく見え侍りしかば、かさねてたてまつるなり。」とて、さま/〃\にてうじておくりたりけれど、そのたびはとゞめず、「御心ざしはうれしく侍べり。されども、一日の殘りにたべあきて、今はほしくも侍らねば、これをかへしたてまつる。」となむいひたりける。これも「此世に執をとゞめじ。」と思ひけるにや。
此佛種房、ある時風氣ありてわづらひけり。かたのやうなる家あれこぼれて、つくろふ事なし。やまひをみる人もなければ、ひとりのみやみふせりけるに、時は八月十五夜の月いみじくあかゝりける夜、よひよりこゑをあげて念佛する事あり。まぢかき家/\たうとくなん聞え、きあつまりてみるに、板間もあはずあれたる家に、月のひかりこゝろのまゝにさし入たるより外にと(*戸)もなし。夜中うち過るほどに、「あなうれし。これこそは、とし比思ひつることよ。」といふをと(*「こゑ」か。後に念仏の「おと」とあり。)かべの外にきこえけり。そのゝちは念佛のおともせずなりぬ。夜あけて見ければ、西にむかひて端坐し、合掌してねぶるがごとくにてぞありける。此家はすこしもはなれず、あやしの下らうのいゑどもの軒つゞきになむ有ける。  
 

 

天王寺聖隱コの事
ちか頃、天王寺にひじりありけり。ことばのすゑごとに「るり」といふ二文字をくはへていひければ、やがて字の名につけて瑙璃とぞいひける。そのすがた、ぬのゝつゞり・かみぎぬなどのいふばかりなくゆかしげに(*昔の後をとどめないほどに、という意か。)やれはらめきたるを、いくらともなくきふくれて、布袋のきたなげなるに、こひあつめたる物をひとつにとり入て、ありき/\これをくらふ。わらんべいくらともなくわらひあなづれど、さらにとがめはらだつ事なし。いたくせたむる(*「責むる」=苛める)時は、ふくろより物をとり出してとらすれば、わらんべどもきたながりてこれをとらず。すつれば又とりて入つゝ、つねにはさま/〃\のすぞろごとをうちいひて、ひたすら物ぐるひにてなむ有ける。さしてそこに跡とめたりとみゆるところなし。かきのね・木のした・ついぢにしたがひて夜をあかす。
そのころ大塚といふところに、やむごとなき智者有けり。ある時、「雨のふりてまかりよるべき所もなければ、この縁のかたはしにさぶらはむ。」といひければ、れいならずあやしく覺えけれど、さながらおきつ。夜ふけて聖がいふやう、「かくたま/\まいりよりて侍べり。としごろおぼつかなく思ひ給へる事ども、はるけ侍らばや。」といふ。事の外におぼゆれど、よのつねの人のやうにあひしらふ程に、やう/\天台宗の法門どものえもいはぬことはりどもたづねつ。又あるじ、あさましくめづらかに覺えてよもすがらねず、さま/〃\にとひこたへて、明ぬれば、「今はいとま申侍らん。」とて、「心にいぶかしく思ひ給へる事ども、おかしく、今よひさぶらひてはるけ侍りぬ。」とてさりぬ。又此事ありがたくたうとく覺えけるまゝに、そのあたりの人どもにかたりたりければ、そしりいやしめし心をあらためて、かたへは權者(*仏菩薩の化身・高徳の僧)のうたがひをなしてたうとみけり。
されど、その有さまはさき/〃\に露かはらず。「さることやありける。」と人のとふ時には、うちわらひてそゞろごとにぞいひなしける。かやうに人にしられぬることをうるさくや思ひけん、つゐには行がたもしらせずなりにけり。としへて人かたりけるは、和泉の國に乞食しありきけるが、おはりには人もきよらぬ所の大きなる木のもとに、した枝にほとけかけたてまつりて、西にむかひ合掌して居ながらまなこをとぢてなむありける。その時はしれる人もなくて、後に見つけたりけるなり。
又近頃世に佛みやうといふ乞食ありけり。それもかのひじりのごとく物ぐるひのやうにて、くひ物はうを・鳥をもきらはず、著物はむしろ・こもをさへかさねきつゝ、人のすがたにもあらず。あふ人ごとに、かならず「あま人・法師・おとこ人・女人等しやう/〃\。」といひおがむわざをしければ、それを名につけてなむ、見とみる人みなつたなくゆゝしき者とのみ思ひけれど、げにはやうありけるものにや。阿證房といふひじりをとくい(*親しい友人)にして、思ひかけぬ經論などをかりて、人にもしらせず、ふところに引いれてもて行て、日比へてなむかへす事をつねになんしける。つゐに切提のうへに、西にむかひて合掌たんざしてをはりにけり。
これらは、すぐれたる後世しやのひとつのありさま也。「大隱は朝市にあり。」(*王康琚「反招隠詩」)といへる、すなはち是也。かくいふ心は、賢き人の世をそむくならひ、わが身は市の中にあれども、そのとくをよくかくして人にもらさぬなり。山林にまじはりあとをくらふするは、人の中にありてコをえかくさぬ人のふるまひなるべし。
高野の邊の上人僞て妻女をまうくる事
高野のほとりに、とし比おこなふひじりありけり。もとは伊勢のくにの人なりけり。おのづからかしこにゐつきたるなり。行コあるのみならず、人の歸依にていとまづしくもあらざりければ、弟子などもあまた有けり。年やう/\たけて後、ことにあひ頼みたる弟子をよびていひけるやう、「きこゑばやと思ふ事の日頃侍るを、その心のうちをはゞかりてためらひ侍りつるぞ。あなかしこ/\(*決して)、たがへ給ふな。」といふ。「何事なりとものたまはむこと、いかでたがへ侍らん。又へだて給ふべからず。すみやかにうけたまはらん。」といへば、「かく人をたのみたるやうにて過す身は、さやうのふるまひ思ひよるべき事ならねども、年たかくなりゆくまゝに、かたはらもさびしく、ことにふれてたづきなく覺ゆれば、さもあらん人をかたらひて、よるのとぎにせばやとなむ思ひたる也。それにとりて、いたうとしわかゝらん人はあしかりなむ。物の思ひやりあらん人を忍びやかにたづねて、わがとぎにせさせ給へ。さて世の中のことをば、それ(*あなた)にゆづり申さん。たゞわがありつるやうに此坊のぬしにて、人の祈りなどをもさたして、我をばおくの屋にすへて、二人がくひ物ばかりを、かたのやうにしておくり給へ。さやうになりなん後は、そこの心のうちもはづかしかりぬべければ、たいめんなどもえすまじ。いはんやその外の人にはすべて世にある物ともしるべからず。死うせたる物のやうにて、わづかにいのちつぐべくばかり沙汰し給へ。これをたがへ給はざらんばかりぞ、とし比のほいなるべし。」とかきくどきつゝいふ。淺ましく思はずにおぼえながら、「かやうに心をかずかたらはする、ほいに侍り。いそぎたづね侍らん。」といひて、ちかくとをくきゝありきけるほどに、おとこにおくれたりける人のとし四十ばかりなる有けるを聞いでゝ、念比にかたらひてたよりよきやうにさたしすへつ。
人もとをさず、我もゆくこともなくて過けり。おぼつかなくも物いひあはせまほしきおりもあれど、さしも契りしことなれば、いぶせながらすぐるほどに、六年へてのち、此女人うちなきて、「このあかつき、はやおはり給ひぬ。」とてきたる。おどろきて行てみれば、持佛堂の内にほとけの御手に五色の糸かけて、それを手にひかへて、けうそくにうちよりかゝりて念佛しける手もちともかはらずすゞのひきかけられたるも、たゞいきたる人のねぶりたるやうにて、露もれいにたがはず、壇には行ひの具うるはしくおき、鈴の中にかみをおしいれたりけり。いと悲しくて、事の有さまをこまかにとへば、女のいふやう、「とし比かくて侍りつれども、例のめをとのやうなる事なし。よるはたゝみをならべて、われも人も目さめたる時は生死のいとはしきやう、淨土ねがふべきやうなどをのみ、こま/〃\とおしへつゝ、よしなき事をばいはず、ひるはあみだの行法三度ことかく事なくて、ひま/\には念佛をみづからも申、又我にもすゝめ給ひて、はじめつかた二月三月までは心をおきて、『かくよのつねならぬありさまをわびしくやは思ふ。さらばこゝろにまかすべし。もしうとき事になるとも、かやうにえんをむすぶもさるべき事なり。此ありさまをゆめ/\人にかたるな。もし又たがひに善知識とも思ひて、後世までのつとめをもしづかにせんとならば、こひねがふところなり。』とのたまひしかば、『さら/\御心おき給ふべからず。とし比あひぐしたりし人をはかなく見なして、いかでかその後世をもとぶらはざらむ。我も『又かゝるうき世にめぐりこじ。』とねがひいとふ心は侍りしかど、さても一日たちめぐるべきやうもなき身にて、ほいならぬかたにて見たてまつれば、なべての女のやうにおぼすにや。ゆめ/\しかにはあらず。いみじき善知識と人しれずよろこびてこそすぎ侍りし。』と申しかば、『かへす/\うれしき事。』とて、いまかくれ給へることもかねてしりて、『おはらん時、人になつげそ。』とありしかば、かくとも申さず。」とぞいひける。
美作守顯能家に入來る僧の事
美作守あきよしのもとに、なまめきたる僧の入來りて、經をよにたうとくよむあり。あるじきゝて、「なにわざし給ふ人ぞ。」といふ。ちかくよりていふやう、「乞食に侍り。但、家ごとに物こひありくわざをばつかまつらず。西山なる寺にすみ侍るが、いさゝかのぞみ申べき事ありてなん。」といふ。物ざま無下に思ひくたすべきにはあらざりければ、こまやかにたづねとふ。「申すにつけていとことやうには侍れど、あるところのなま女房をあひかたらひて、物すゝがせなどし侍りし程に、はからざる外にたゞならず成て、この月にまかりあたりて侍るを、ひとへにわがあやまちなれば、『ことさらこもりゐて侍らむほど、かれがいのちつぐばかりの物あたへ侍らばや。』と思ひ給へるが(*「給ふるが」とあるべきところ)、いかにも/\ちからをよび侍らねば、もし御あはれみや侍るとてなむ。」といふ。
事のおこりはげにもとはおぼえずなれど、「さこそ思ふらめ。」といとおしく覺えて、「いとやすき事にこそ。」とておしはからひて、人ひとりにもたせてそへてとらせんとす。此僧のいふやう、「かた/〃\きはめてつゝましく侍り。ことさら『そことはしられじ。』と思ひ給へるなり。身づからもちてまからむ。」とて、もたるゝ程おふていでぬ。あるじなをあやしく思ひて、さやうのかたにいふかひなき者をつけてやる。さまをやつして見がくれにゆきけるほどに、北山のおくにはる/〃\とわけ入て、人もかよはぬ深谷に入にけり。一間ばかりなるあやしき柴のいほりのうちに入て、物うちならべて、「あなくるし。三ほう(*三宝)のたすけなれば、安居(*「あんご」)の食もまうけたり。」とひとりうちいひて、あしうちあらひてしづまりぬ。此つかひ、「いとめづらかにもあるかな。」ときゝけり。日くれて、こよひかへるべくもあらねば、木かげにやはらかくれゐにけり。夜ふくるほどに、ほけきやうをよもすがらよみ奉るこゑいとたうとくて、なみだもとゞまらず。
明るやおそしとたちかへりて、あるじに有つるやうをきこえければ、おどろきながら、「さればよ。たゞものにはあらずと見き。」とて、かさねて消息をやる。「思ひがけず安居の御れうとうけ給はる。しかあらば、一日の物はすくなくこそ侍らめ。これをたてまつる。なをもいらん事候はゞ、かならずの給はせよ。」といはせたりければ、きやう打よみて何とも返事いはざりけり。とばかり待かねて、物をばいほりのまへにとりならべてかへりぬ。日ごろへて、「さてもありつる僧こそ不審なりけれ。」とておとづれたりけれど、そのいほりには人もなくて、さきにえたりし物をば外へもちいにけるとおぼしくて、後の送り物をばさながらおきたりければ、鳥けだものくひちらしたるやうにて、こゝかしこにこぼれちりてぞありける。
まことに道心ある人は、かく我身のとくをかくさんと、とがをあらはして、たうとまれん事をおそるゝなり。もし人世をのがれたれども、「いみじくそむけりといはれん。たうとくおこなふよしをきかれむ。」と思へば、世俗のみやうもん(*名聞)よりもはなはだし。此ゆへに、ある經に、「出世の名聞は、たとへば血をもつて血をあらふがごとし。」とゝけり。もとの血はあらはれておちもやすらん。しらず、今の血は大きにけがす。おろかなるにあらずや。  
 

 

安居院聖京中に行時隱居僧にあふ事
近比あぐゐにすむひじりありけり。なすべき事ありて京へ出けるみちに、大路づらなる井のかたはらに、げすのあまの物あらふありけり。此ひじりを見て、「こゝに人の『あひたてまつらん。』と侍るなり。」といふ。「たれと申ぞ。」といへば、「今たいめんしてぞ(*原文「たいめんてぞ」)のたまはせんずらん。」といひて、「たゞきとたち入給へ。」とせつ/\にいひければ、思はずながら尼をさきにたてゝゆき入てみれば、はるかにおくぶかなる家のちいさくつくれるに、としたけたる僧一人あり。
そのいふことをきけば、「いまだしりたてまつらざるに、申はうちつけなれど、かくてかたのごとく後世のつとめをつかまつり侍りつれど、しれる人もなければ善智識もなし。又まかりかくれなんのちはとかくすべき人もおぼえ侍らぬによりて、『たれにても後世者とみゆる人すぎ給はゞ、かならずよびたてまつれ。』とうはのそらに申て侍りつる也。さてもしうけひき給はゞ、あやしげなれど、あとにのこるべき人もなし、ゆづり奉らんと思ひ給へる(*「給ふる」。以下、一々断らない。)なり。それにとりて、かくて侍るを、あしくも侍らず、中/\しづかに侍るを、となりに撿非違使の侍りつるあひだに、罪人をせめとへるをとなどのきこえてうるさく侍りつれば、『まかりさりなばや。』と思ひ給へれど、『さてもいく程もあるまじき身を。』となむ思ひわづらひ侍る。」など、こまやかにかたる。
此ひじり、「かやうにうけ給はる、さるべきにこそ。のたまはする事はいとやすきことに侍り。」とて、あさからず契りて、おぼつかなからぬほどにゆきとぶらひつゝ過けり。そのゝち、いく程なくかくれける時、ほいのごとく行あひて、これを見あつかふ。彌勒の持者なりければ、其みやうがうをとなへ、眞言などみてゝ(*十分に唱えて)、りんじうおもふやうにておはりにけり。いひしがごとく、とかくの事など又口入(*干渉)する人もなし。されど此家をば、そのあまになむとらせたりける。さて、かのあまに、「(*亡くなった僧は)いかなる人にておはせしぞ。又何事のえんにて世をばわたり給ひしぞ。」などとひければ、「我もくはしき事、はたえしり侍らず。思ひがけぬゆかりにてつきたてまつりて、とし比つかうまつりつれど、誰とか申けん。又しれる人のたづね侍るもなかりき。たゞつく/〃\とひとりのみおはせしに、時料(*「斎料」=〔僧にとって〕米銭)は二人が程を、たれ人ともしらぬ人の、うするほどをはからひてまかりすぎし。」とぞかたりける。これもやうある人にこそ。
禪林寺永觀律師の事
永觀律師(*「ようくゎん・えいくゎん」。十一世紀の僧。文章生源国経の子。東大寺で三論宗を学んだ。)といふ人ありけり。とし比念佛の心ざしふかく、名利を思はず、世をすてたるがごとくなりけれど、さすがにあはれにもつかまつりしれる人をわすれざりければ、ことさらふかき山をもとむる事もなかりけり。東山禪林寺といふところに籠居しつゝ、人にものをかしてなむ、日をおくるはかりごとにしける。かる時も返す時も、たゞきたる人の心にまかせてさたしければ、『中/\ほとけの物を。』とて、いさゝかも不法の事はせざりけり。いたくまづしきものゝ、かへさぬをばまへによびよせて、物のほどにしたがひて、念佛を申させてぞあがはせける。
東大寺別當のあきたりけるに、白河院この人をなし給ふ。きく人みゝをおどろかして、「よもうけとられじ。」といふほどに、思はずにいなび申事なかりけり。その時、としごろの弟子・つかはれし人など、我も/\とあらそひて東大寺の庄園をのぞみにけれども、一所も人のかへりみにもせずして、みな寺の修理の用途によせられたりけり。身づから本寺にゆきむかふ時には、ことやうなる馬にのりて、かしこにゐるべきほどの時料、小法師にもたせてぞ入ける。かくしつゝ三年の内に修理事おはりて、すなはち辭し申す。君又とかくのおほせもなくて、こと人を(*別当に)なされにけり。よく/\人の心をあはせたるしわざのやうなりければ、時の人は「てらのやぶれたる事を、『此人ならでは心やすくさたすべき人もなし。』とおぼしめしておほせつけゝるを、律師も心え給ひたりけるなんめり。」とぞいひける。ふかくつみをおそれけるゆへに、とし比寺の事おこなひけれど、寺物を露ばかりも自用の事なくてやみにけり。
此禪林寺に梅の木あり。實なる比になりぬれば、これをあだにちらさず、年ごとにとりて、藥王寺といふところに、おほかる病人に、日々といふばかりにほどこさせられければ、あたりの人、此木を「悲田梅」とぞ名づけたりける。いまも事のほかに古木になりて、花もわづかにさき、木立もかしげつゝ、むかしのかたみにのこりて侍るとぞ。
ある時、かの堂にきやく人のまうで來たりけるに、算(*算木)をいくらともなくおきひろげて、人にはめもえかけざりければ、客人のおもふやう、「律師は出擧(*「すいこ」。金貸し・利稲。)をして、いのちつぐばかりを事にし給へり。」ときくにあはせて、「その利のほどかぞへ給ふにこそ。」と見ゐたる程に、おきはてゝとりおさめて、たいめんせらる。その時、「算をき給ひつるは何の御ようぞ。」ととひければ、「とし比申あつめたる念佛のかずのおぼつかなくて。」とこたへられける。「さまでおどろくべき事ならねど、ぬしがらにたうとくおぼえし。」とのちに人のかたりけるなり。
内記入道寂心の事
村上の御代に、内記入道寂心(*慶滋保胤)といふ人ありけり。そのかみ、宮づかへける時より、こゝろに佛道をのぞみねがふて、事にふれてあはれみぶかくなんありける。大内記にてしるす(*〔行事などを〕記録する)べきことありて、うちへまいりけるに、左衛門の陣のかたに、女のなみだをながしてなきたてるあり。「何事によりてなくぞ。」ととひければ、「主のつかひにて、石のおび(*石帯。束帯の袍の腰を締める。)を人にかりて、もちてまかりつるみちにおとして侍れば、主にもおもくいましめられんずらむ。さばかりの大事の物をうしなひたるかなしさに、かへるそらもおぼえず、思ひやるかたなくて。」となんいふ。心のうちをはかるに、「げにさう思ふらん。」といとおしくて、わがさしたるおびときてとらせてけり。「もとのおびにあらねど、むなしううしなひて申かたなからんよりも、これをもちてまかりたらんは、おのづからつみもよろしからん。」とて、手をすりよろこびてまかりにけり。さて方角におびもなくてかくれゐたりけるほどに、事はじまりにければ、「おそし、/\。」ともよほされて、こと人のおびをかり、それにて(*原文「そて」)其公事をばつとめける。中つかさの宮の文ならひ給ひける時も、すこしおしへだてまつりては、ひま/\に目をひさぎ(*塞ぎ)つゝ、常にほとけをぞ念じ奉りける。
ある時、かのみやより馬をたまはらせたりければ(*下さったので。「給はる」は「給ふ」の意。)、のりてまいりける道のあひだ、堂塔のたぐひはいはず、いさゝかそとば一本あるところにはかならず馬よりおりてくきやうらいはい(*恭敬・礼拝)し、又草のみゆるところごとに馬のはみとまるに、心にまかせつゝこなたかなたへゆくほどに、日たけて、あしたに家を出る人、ひつじ・さるの時までになむなりにける。とねりいみじく心づきなくおぼえて、馬をあらゝかにうちたりければ、なみだをながし、こゑをたてゝなきかなしみていはく、「おほかるちくしやうの中にかくちかづく事は、ふかきしゆくえんにあらずや。過去の父母にもやあるらむ。いかに大きなるつみをばつくるぞ。」と、「いとかなしき事なり。」とおどろきさわぎければ、とねりいふばかりなくてまかりてぞ立かへりたる。
かやうの心也ければ、『池亭記』とてかきおきたる文にも、「身は朝にありて心は隱にあり。」とぞ侍るなる。年たけて後、かしらおろして横川にのぼり、法文ならひけるに、増賀上人いまだ横川にすみ給ひけるほどに、これをおしゆ(*御主)とて、「止觀の明靜なること、前代いまだきかず。」とよまるゝに、此入道たゞなきになく。ひじりさる心にて、「かくやはいつしかなくべき。あなあいぎやうなの僧の道心や。」とて、こぶしをにぎりてうち給ひければ、我も人もこうとまかりて立にけり。ほどへて「さてしもやは侍るべき。此文うけたてまつらむ。」といふ。「さらば。」と思ひてよまるゝに、さきのごとくなく。又はしたなくさいなまるゝほどに、後のことばもきかでやみにけり。日比へて、なをこりずまに御けしきとりて、おそれ/\うけ申けるにも、たゞおなじやうにいとゞなきける時、そのひじりもなみだをこぼして、「まことにふかき御のりのたうとくおぼゆるにこそ。」とあはれがりて、しづかにさづけられけり。かくしつゝ、やむごとなくコいたりにければ、御堂の入道殿(*藤原道長)も御戒などうけ給ひけり。さて、聖人わうじやうしける時は、(*御堂入道は)御諷誦などし給ひて、さらしぬの百千たまはせけり。請文(*「うけぶみ」=受取状)には、「三河入道しうく(*「秀句」か。)かきとめたりける。」とぞ。
「むかしずいのやうてい(*隋の煬帝〔ようだい〕)の智者にほうぜし千僧ひとりをあまし、今左せうしやうの寂公をとぶらふさらし布もゝちにみてり。」とぞかゝれたりける。
三河聖人寂照入唐往生の事
參河のひじりといふは、大江のさだもと(*大江定基。寂心の弟子。)といふはかせこれなり。三河のかみになりたりける時、もとのめをすてゝ、たぐひなくおぼえけるおんなをあひぐして下りけるほどに、國にておんなやまひをうけてつゐにはかなくなりにければ、なげきかなしむことかぎりなし。れんぼのあまりに、とりすつるわざもせず日ごろふるまゝに、なりゆくさまをみるにいとゞうき世のいとはしさ思ひしられて、心をおこしたりける也。かしらおろして後、乞食しありきけるに、「『わがだうしんはまことにおこりたるや。』とこゝろみむ。」とて、妻のもとへ行て物をこひければ、おんなこれを見て、「われにうきめ見せしむくひにかゝれとこそは思ひしか。」とて、うらみをしてむかひたりけるが、何ともおぼえざりければ、「御とくにほとけになりなんずる事。」とて、手をすりよろこびていでにけり。
さてかの内記のひじり(*前出寂心)の弟子になりて、ひがし山によいりんじ(*如意林寺)にすむ。そのゝち横川にのぼりて、源信僧都にあひ奉てぞ、ふかきみのりをばならひける。かくてつゐにもろこしへわたりて、いひしらぬしるしどもあらはしたりければ、大師の名をえて圓通大師とぞ申ける。わうじやうしけるに、ほとけの御むかひの樂をきゝて、詩をつくりうたをよまれたりけるよし、もろこしよりしるしをくりて侍り。
笙歌遙聞孤雲上 聖衆來迎落日前  雲の上にはるかに樂のおとすなり人やきくらんひがみゝかもし
仙命上人の事 并 覺尊上人事
ちかきころ、山に仙命聖人とてたうとき人有けり。そのつとめ理觀をむねとして、つねに念佛をぞ申ける。ある時、ぢぶつだうにてくはんねん(*観念=瞑想)するあひだに、そらに聲ありて、「あはれ、たうときことをのみくはんじ給ふ物かな。」といふ。あやしみて、「たそ、かくはのたまふぞ。」とゝひければ、「我は當所三聖なり。ほつしんし給ひし時より、日に三度あまかけりてまもりたてまつる也。」とぞこたへ給ひける。このひじりさらにみづから朝夕の事をしらず。一人つかひける小法師、山の坊ごとに一度めぐりて一日のかれい(*「かれいひ」か。)をこふてやしなひける外には、何も人の施をばうけざりけり。  
 

 

数寄の楽人(時光茂光の数寄天聴に及ぶ事)
中ごろ、市正時光といふ笙吹きありけり。茂光といふ篳篥師と囲碁を打ちて、同じ声に裹頭楽 (かとうらく)を唱歌にしけるが、おもしろくおぼえけるほどに、内よりとみのことにて時光を召しけり。
御使ひ至りて、この由を言ふに、いかにも、耳にも聞き入れず、ただもろともにゆるぎあひて、ともかくも申さざりければ、御使ひ、帰り参りて、この由をありのままにぞ申す。いかなる御戒めかあらむと思ふほどに、
「いとあはれなる者どもかな。さほどに楽にめでて、何ごとも忘るばかり思ふらむこそ、いとやむごとなけれ。王位は口惜しきものなりけり。行きてもえ聞かぬこと。」
とて、涙ぐみ給へりければ、思ひのほかになむありける。
これらを思へば、この世のこと思ひ捨てむことも、数寄はことにたよりとなりぬべし。

そう遠くはない時の話、市を監督する立場についていた時光という笙の吹きてがいました。時光が、茂光という篳篥の笛の演奏家と囲碁をうちながら、一緒に篳頭楽という曲を口ずさんで楽しくなっていたところ、帝が急ぎの用事があるとのことで時光のことをお呼びになられました。
帝の使者がやってきて、その旨(帝が呼んでいること)を伝えたのですが、決して耳にも聞き入れず、茂光と一緒になってただただ体を揺らしていて、何も申し上げなかったので、(帝の)使いは帝の元に戻って、この旨をありのままに帝に申し上げます。どのような処罰があるのだろうかと使者が思っていたところ、
「立派な者たちなことよ。そのように音楽に夢中になって、他のことは忘れてしまうぐらい没頭していることこそ、尊ぶべきことよ。王位というのははがゆいものだなぁ。(2人のもとに)行って、彼らの音楽を聴くこともできない。」
とおっしゃって、涙ぐまれたので、使者は意外に思ったのでした。
この人たちのことを考えると、俗世に対する思いを断ち切るようにすることは、好きなことに没頭して(周りが見えなくなる)ことに通ずるものがあるに違いない。
蓮花城、入水のこと
近きころ、蓮花城といひて、人に知られたる聖ありき。登蓮法師、相知りて、ことにふれ、情けをかけつつ過ぎけるほどに、年ごろありて、この聖の言ひけるやうは、
「今は年に添へつつ弱くなりまかれば、死期の近づくこと、疑ふべからず。終はり正念にてまかり隠れむこと、極まれる望みにて侍るを、心のすむとき、入水をして終はり取らむと侍る。」
と言ふ。登蓮聞きおどろきて、
「あるべきことにもあらず。いま一日なりとも、念仏の功を積まむとこそ願はるべけれ。さやうの行は、愚痴なる人のする業なり。」
と言ひていさめけれど、さらにゆるぎなく思ひかためたることと見えければ、
「かく、これほど思ひ取られたらむに至りては、とどむるに及ばず。さるべきにこそあらめ。」
とて、そのほどの用意なんど、力を分けて、もろともに沙汰しけり。
つひに、桂川の深き所に至りて、念仏高く申し、時経て水の底に沈みぬ。その時、聞き及ぶ人、市のごとく集まりて、しばらくは貴み悲しぶこと限りなし。登蓮は、年ごろ見慣れたりつるものを、とあはれにおぼえて、涙を押さへつつ帰りにけり。
かくて、日ごろ経るままに、登蓮、物の怪めかしき病をす。あたりの人あやしく思ひて、事としけるほどに、霊あらはれて、
「ありし蓮花城。」
と名のりければ、
「このこと、げにとおぼえず。年ごろ相知りて、終はりまでさらに恨みらるべきことなし。いはむや、発心のさま、なほざりならず、貴くて終はり給ひしにあらずや。かたがた、何のゆゑにや、思はぬさまにて来たるらむ。」
と言ふ。物の怪の言ふやう、
「そのことなり。よく制し給ひしものを、我が心のほどを知らで、いひがひなき死にをして侍り。さばかり、人のためのことにもあらねば、その際にて思ひ返すべしともおぼえざりしかど、いかなる天魔の仕業にてありけむ、まさしく水に入らむとせし時、たちまちに悔しくなむなりて侍りし。されども、さばかりの人中に、いかにして我が心と思ひ返さむ。
あはれ、ただ今、制し給へかし、と思ひて目を見合はせたりしかど、知らぬ顔にて、『今はとく、とく。』ともよほして沈みてむ恨めしさに、何の往生のこともおぼえず。すずろなる道に入りて侍るなり。このこと、我がおろかなる咎なれば、人を恨み申すべきならねど、最期に口惜しと思ひし一念によりて、かくまうで来たるなり。」
と言ひける。

最近のことですが、蓮花城といって、有名な聖人がいました。登蓮法師は(蓮花城と)親交があって、何かにつけて(蓮花城に対して)面倒をみて時が過ぎるうちに、数年経って、この聖(蓮花城)が言うことには、
「昨今、年をとるにつれて弱くなってまいりましたので、死期が近づいていることを疑うことがありません。最期には邪念を払った心のままで死ぬことが、最上の望みなのですが、心が澄んでいるときに、入水をして死のうと思っております。」
といいました。登蓮法師は聞き驚いて、
「そうすべきことではありません。もう一日であっても、念仏の修行を積もうと祈願すべきです。そのような行い(入水)は、愚かな人のすることです。」
と言って諌めたのですが、(蓮花城の様子が)いっそう揺るぎなく(心に)思い固めたことであると思われたので、
「このように、これほど(強く)決心されたのであれば、(私も)引き止めることはできません。そうなる運命なのでしょう。」
といって、(その蓮花城が入水をするための)用意などを、力を貸して、一緒に準備したのでした。
ついに(入水の日を迎え)、桂川の深い所にまできて、念仏を声高く唱え、時間がたってから(蓮花城は)水の底に沈みました。その時は(蓮花城が入水すると)聞いた人が、市場のように集まっていて、しばらくの間、(蓮花城の死を)尊み悲しむことこのうえありません。登蓮は、長年慣れ親しんだ(間柄だった)のになぁと、悲しく思って、涙を抑えながら帰っていきました。
こうして、日が過ぎるうちに、登蓮は、物の怪がついたような病気になりました。近所の人があやしく思って、一大事だといっているうちに、霊が(登蓮の前に)現れて
「ありし日の蓮花城です。」
と名のったので、(登蓮は)
「これは、本当のこととは思えません。長年親交があって、最期まで少しも恨まれることはありません。ましてや、(あなたの)発心の様は、いいかげんなものではなく、尊くお亡くなりになられたではありませんか。いずれにしても、何の理由があって、思いもしない容姿で来たのですか。」
と言います。物の怪が言うことには、
「そのことでございます。よく(入水を)止めてくださったものを、(私は自分の)心のほどを知らないで、どうしようもない死に方をしました。それほど、人のためにしたことでもないので、入水の間際で思い返すこともないと思っていたのですが、どのような天魔の所業であったのでしょうか、まさに水に入ろうとした時に、たちまちに後悔の気持ちが出てきたのです。しかしながら、あのような(大勢の)人の中に、どうやって自分の考で引き返すことができましょうか、いやできません。あぁ、今、入水を止めてください、と思って(あなたの)目を見合わせたりしたのですが、(あなたは)知らぬ顔で、『今は早く、早く』とせきたてるので(それを見ながら)沈んでいった恨めしさに、少しも往生のことを考えもしませんでした。(そのせいで)予期せぬ道に入ったのでございます。このことは、私が愚かだったことの罰なので、人を恨み申し上げるべきではないのですが、死に際に残念だと思った一念によって、このように参ったのです。」
と言いました。
叡実、路頭の病者を憐れむ事
山に叡実阿闍梨といひて、貴き人ありけり。帝の御悩み重くおはしましけるころ、召しければ、たびたび辞し申しけれど、重ねたる仰せ否びがたくて、なまじひにまかりける道に、あやしげなる病人の、足手もかなはずして、ある所の築地のつらに平がり臥せるありけり。
阿闍梨これを見て、悲しみの涙を流しつつ、車よりおりて、あはれみとぶらふ。畳求めて敷かせ、上に仮屋さしおほひ、食ひ物求めあつかふほどに、やや久しくなりにけり。勅使、
「日暮れぬべし。いといと便なき事なり。」
といひければ、
「参るまじき。かく、その由を申せ。」
といふ。御使ひおどろきて、ゆゑを問ふ。阿闍梨言ふやう、
「世を厭ひて、心を仏道に任せしより、帝の御事とても、あながちに貴からず。かかる病人とてもまたおろかならず。ただ同じやうにおぼゆるなり。それにとりて、君の御祈りのため、験あらん僧を召さんには、山々寺々に多かる人誰かは参らざらん。さらに事欠くまじ。この病者に至りては、厭ひ汚む人のみありて、近づきあつかふ人はあるべからず。もし我捨てて去りなば、ほとほと寿も尽きぬべし。」
とて、彼をのみあわれみ助くる間に、つひに参らずなりにければ、時の人ありがたきことになん言ひける。
この阿闍梨、終はりに往生を遂げたり。くはしく伝にあり。

山に叡実阿闍梨といって、尊い人がいました。帝のご病気が重くていらっしゃったころに、(帝が阿闍梨を宮廷に)召されたのですが、(阿闍梨は)何度も辞退申し上げたのですが、度重なるご命令を断ることができなくて、しぶしぶ参上する道中に、みすぼらしい病人で、足も手も思うようにならない状態で、とある場所の築地のそばに平べったくなって伏せている人がいました。
阿闍梨はこれを見て、悲しみの涙を流しながら、車からおりて、同情し見舞いました。敷物を探し求めて敷かせて、上を仮の小屋で覆い、食べ物を探し求めて世話を焼いているうちに、だいぶ時間がたってしまいました。(迎えに来た)勅使が
「日が暮れてしまうでしょう。非常に都合の悪い事です。」
と言ったので(阿闍梨は)、
「参内はしないでしょう。このように、その旨を申し上げてください。」
と言います。勅使は驚いて、理由を尋ねます。(すると)阿闍梨が言うことには、
「世俗を嫌がって、心を仏道にまかせてからは、帝のご用事とはいっても、一途に尊いということではありません。このような病人といっても粗略にはできません。ただ同じように思われるのです。それに、帝の(病気をはらうための)御祈祷のために、効き目のある僧を召そうとすれば、山々寺々にたくさんいる僧のうち誰かが参上しないことがありましょうか、いや参上するはずです。決して事欠くことはないでしょう。この病人にいたっては、いやがり汚がる人だけがいて、近づいて世話を焼く人はいないでしょう。もし私が(この人を)見捨てて去ったならば、すぐに寿命が尽きてしまうでしょう。」
といって、彼(病人)だけを同情して助けているうちに、とうとう参上しないでしまったので、世間の人々は、貴重なことであると言いました。
この阿闍梨は、最後に往生を遂げました。詳しくは往生伝にあります。 
 
発心集2 

 

発心集は鎌倉初期の仏教説話集で鴨長明(1155〜1216年)の編著である。慶安四年(1651年)に刊行された流布本は、全八巻で百二話が集録されている。その中味は発心(悟りを得ようとする心を起こすこと)、遁世(隠棲して世間の煩わしさから離れること)、極楽往生(苦しみの多いこの世から極楽浄土に生まれ変わること)、仏教霊験(仏の力による摩訶不思議な現象)、高僧伝(仏法に通じ徳が高い僧が行なった、普通の人では真似できない行動)などに関する話が収められている。
発心集の序のなかで鴨長明は「発心集は見聞きした事を書きとめたもので、賢い人の行動を見ては自分にはとてもできないと思いながらも目標とし、愚かな人の行動を見てはむしろ自分の態度を反省するきっかけとする、こうした目的のために書き留めたものだ」と述べている。
発心集のなかには、越前や若狭の土地が舞台となっている物語がないか捜してみたが、残念なことに見当たらない。しかし「コシ」という記載がある物語があり、これは冒頭の第一話にある。原文を読んでも越の国が今のどのあたりのことかは判然としかねるが、そこに出てくる大きな川を九頭竜川として想像してみよう。
なお以下、便宜の口語訳は、物語の大筋に重点をおいた意訳である。
発心集第一 玄敏げんびん僧都、遁世とんせい逐電ちくでん事(玄敏僧都、遁世逐電のこと)
昔、玄敏僧都という人がいた。山階やましな寺の高貴で博識な僧であったけれど、現世を厭う気持ちが強くて、他の僧との交わりを好まなかった。玄敏の高名な噂を耳にした桓武天皇が、無理に召し出されたので仕方なく出仕した。しかし、桓武天皇の第一皇子の平城へいぜい天皇が大僧都の位をお与えなさろうとするのを、再び世俗にまぎれたくないとして辞退した。そうこうしているうちに、弟子にも使用人にも気づかれることなく、どこへともなくいなくなってしまった。その後、何年か経って、玄敏の弟子が越の国の方へ用務があって出かけた道中に、大きな川があった。
(原文)其後、年来としごろ経テ、第子でしナリケル人、事ノ便アリテ、コシノ・・・方ヘ行ケル道ニ、或所ニ大ナル河・・・・アリ。(傍点小生)
川を渡るために渡し舟に乗り、その渡し守を見ると、汚そうな麻の着物をきた法師であった。「誰かに似ているなあ」と思っていると、居なくなって何年も経った自分の師の玄敏僧都であった。お互いに気が付いた様子で、走り寄って声をかけたかったが、舟には人も多くいたので変に思われるだろうと思い、「帰りにゆっくり話そう」と思ってその場は通り過ぎた。こうして、(何日か後)帰りにその渡しに来てみると別の渡し守であった。尋ねてみると、「いつも念仏ばかりを唱えていて、多く船賃を取ることもなく、食い扶持以上のものは欲しなかった。里の人も好感をもっていたが、先日急にいなくなった」ということであった。
これが冒頭の話の前半部分にある「コシ」という記載のある場面である。この玄敏僧都にまつわる話は、冒頭に続く第二話にも紹介されている。
発心集第一 同人、伊賀国郡司被仕つかは給たまふ事(同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふこと)
玄敏僧都は、伊賀国のある郡司のところに(身分を明かさず)頼み込んで使用人となった。三年ぐらい経ったころ、この郡司が国守に対して具合の悪いことをして郡司の任を解かれ、伊賀国から追放の処分になった。このことを伝え聞いた玄敏は、郡司に対し「京に上って事情を説明し、それでも駄目であったら国を去ればよい」と諭した。郡司と玄敏はともに上京し、伊賀の国を領していた大納言の屋敷に行くと、玄敏の姿を見た屋敷の人々は膝をつき、大納言も急いで玄敏をもてなした。そして、玄敏から大納言に事情を説明すると、郡司の処分取消どころか、これまで以上の待遇が決まった。郡司はあまりにも想像外のことで言葉が出ず、「宿に帰ってゆっくりお礼を申し上げよう」と思っていたところ、玄敏はいつのまにか居なくなってしまった。
以上の冒頭の二話は盛名をよしとせず隠遁の道を選んだ玄敏僧都に関する高僧伝である。その他、面白いと思った説話を以下に記載する。
発心集第四 肥州ノ僧、妻為なる魔事 可べき恐おそるる悪縁事(肥州の僧、妻、魔と為ること 悪縁を恐るべきこと)
肥後の国にある僧がおり、以前は戒律どおりの僧であったが、中年になってから妻帯した。しかしながら、極楽往生をあきらめず修行に努めた。妻は愛情深くこの僧によく仕えたが、僧は妻に気を許さず、「私が死んだ際も決して妻には知らせないで欲しい」と相知れた僧に伝えていた。その後、この僧は思う通りに死を迎え、西に向って息絶えた(往生した)。
しばらくして、彼の妻にこのことを伝えると、妻はにわかに豹変して「何世代も前から繰り返しこの僧が往生するのを妨げるために近づいてきた。せっかく親しくなったのに今日取り逃がした」と悔しがった。(残念ながら、この妻の正体や夫との因縁に関する話は出てこない)。
長明は「どんなに修行を積んだものでも悪縁で妻子をもってしまうことはある、自分のような凡夫は女性には近づかないのに越したことはない」と結んでいる。
(原文)ソノ発心ノホド隠レナケレド、悪縁ニアヒテ妻子ヲマウクルタメシ多カリ。我モ人モ凡夫ナレバ、タダ近ヅカヌニハシカヌ也。
一方で夫婦の愛の深さを示す説話も収められている。
発心集第五 亡妻ぼうさい現身げんしん、帰来かえりきたる夫おっと家いえ事(亡妻現身、夫の家に帰り来たること)
片田舎に男がいた。長年互い信頼して連れ添った妻があった、子を産んでから重く病気を患ったので、男はつきっきりで看病した。いまはの臨終のときに妻の髪が乱れていたので、傍らの手紙を裂いて、それで髪を結んでやった。
その後も「なんとかしてもう一度妻の生前の姿を見てみたい」と涙にむせびながら暮らしていた。とある夜この死んだ妻が夫の寝所へやってきた。妻がいうには「今一度、夫のあなたに会いたいという思いが深かったので、こうしてやってくることができた」ということであった。夜明けになって、妻は帰りがけに何かを落した様子であったが、何を探しているのか分からなかった。明るくなってから妻の去った跡をみると、それは妻の臨終の際に髪を結わえた手紙の切れ端とそっくりであった。残してあった手紙にあてがってみると、妻とともに火葬されたはずの手紙の切れ端であった。
また、ある人の言った話では、「蜻蛉かげろうという虫は、生き物のなかでも特に夫婦の契りが深い。つがいの蜻蛉を別々の銭に貼り付けて市場にもっていき、別々の人に売ってしまう。その後その銭は転々と人手を渡るが、その日のうちに、必ずもとのように貫つらぬき銭ぜにとして、同じ縄に貫かれて再び巡り合う」ということである。
なおこの蜻蛉の話は意味がやや不分明であるが、「青蚨せいふ(かげろう)の母と子の血を取って別の銭に塗っておくと、一方の銭を使っても、もう一方の銭を慕って飛びかえってくる」という中国の「捜神そうじん記」の故事(子母しぼ銭せんという言葉の由来でもある)が少し変化して伝わったものであろう。
さて、長明は「虫の夫婦の契りを書き記したところで、人間が見習えることはないが、人間の場合に置き換えて類推することはできる。私たち人間が(かげろうの夫婦の契りほど)深く志を持って、仏法に巡り合いたいと願えば、蜻蛉の夫婦と同じように願いはかなう。たとえ、業に引きづられて、思ってもみない道に入ったとしても、(仏は)折に触れて必ず現れなさって、お救いくださるに違いない。」と夫婦の思いの深さを信仰心に置き換えて結んでいる。
(原文)昔イモセノ契ちぎり、シルシテ用事ようじナケレド、何ニツケテモ思フベシ。我等フカキ志ヲイタシテ、仏法ニ値遇ちぐシ奉ラント願ハバ、ナジカハ、カゲロウノ契リニコトナラン。タトヒ業ごうニヒカレテ、思ハヌ道ニ入トモ、折々ニハ必ズアラハレテスクヒ給フベシ。 
 
「源氏物語」考1 

 

いつ書かれたか
今年は『源氏物語』が書き上げられてから千年目だということで、「源氏物語千年紀」と称して、式部を記念するイベントが各地で催されています。
その根拠となっているのは、『紫式部日記』寛弘五年(1008年)条のいくつかの記事によります。
(1) 十一月一日の敦成(あつなり)親王(のちの後一条天皇)の御五十(いか)日の祝いの席上、紫式部が当時の文壇の大御所の藤原公任(きんとう)から、「このわたりに若紫やさぶらふ(若紫さんはいらっしゃいませんか)」と、『源氏物語』のヒロインの名で呼ばれたこと。
(2) 十一月十七日の中宮彰子(あきこ)の内裏還啓に先立って、内裏に持参する書物作りが行なわれた際、紫式部が私室に隠しておいた物語の本を中宮の父親の藤原道長が探して、次女の尚侍妍子(ないしのかみけんし)に与えてしまった。それはまだ十分に手入れをしていない本で、「心もとなき名」(気がかりな評判)をとったことであろうとある。この物語の本は『源氏物語』であったと考えられること。
(3) 寛弘六年(1009年)条に、一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませて聞いて、「紫式部は日本紀(『日本書紀』以下の国史)を読んでいるに違いない」と言ったので、紫式部に「日本紀の御局(みつぼね)」というニックネームがついたと記されていること。
(4) 同じ六年六月条に、中宮彰子の前に『源氏物語』が置かれており、それを見た道長から、紫式部が「すき者と」の歌をよみかけられたこと。
以上の記事によって、ほぼ寛弘五年(1008年)中には、『源氏物語』は執筆され終っていたものと考えられています。
どんな物語
一言でいうと、光源氏という貴公子の生涯と、その没後における一族の生活を綴った物語です。全五十四帖から成り、「桐壺」から「幻」までの正編四十一帖では光源氏の生誕から起筆し、藤壺・葵の上・紫の上・女三の宮らヒロインとの物語が展開し、出家直前までの生涯が描かれます。後編の「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖では、源氏没後の周囲の人々の生活を述べ、特に源氏の外孫である匂宮と、源氏の義子薫の生い立ちがくわしく語られます。ついで続編の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖では、宇治の八宮の姫君たち、大君・中の君・浮舟らを女主人公として、匂宮と薫との性格の対照と、恋愛における葛藤が描かれています。
正編は光源氏の恋愛生活を中心とし、続編は匂宮と薫の恋物語が主テーマになっているようにも思われます。実は恋愛は筋を運ぶ不可欠な要素にはなっていても、作者の本意はむしろこの世の権勢や恋愛の争闘における男女の宿命と、それに耐えていく美しい心ばえや、四季おりおりの風景美や、年中行事の人事美、音楽・絵画・書道・歌道等の芸術文化、儒学や陰陽道などの学問文化等を描くところにあります。また放恣な男性と優柔な女性との間に生ずる霊肉の葛藤や、一夫多妻制の中での男女の生きざまや、無常観から来る宗教的欲求やその挫折など、いわば人生の総価値批評が中心の主題になっているのです。
正編の末巻「幻」はあの世の紫の上の霊魂を尋ねることのできる幻術士の意で、桐壺の更衣の魂を尋ねてくれる幻術士を求めた第一帖「桐壺」に呼応しています。また続編の「夢浮橋」巻にも呼応していて、この世のすべては夢幻であると、紫式部は言いたかったのかも知れません。
巻名はだれがつけた
結論から先に述べると、『源氏物語』の巻の名は作者の紫式部自身がつけたものです。
根拠の一つは、「手習」の巻に、横川の僧都の妹尼らの住む小野の草庵について、「かの夕霧の御息所(みやすどころ)のおはせし(イラッシャッタ)山里よりは、今すこし(奥ニ)入りて」とあります。御息所は天皇のお子さんを生んだお妃を言います。夕霧は天皇ではありません。したがって「夕霧の御息所」というのは、「夕霧」の巻に(出て来る)御息所という意味になります。実際「夕霧」の巻には夕霧が恋をした落葉の宮(女二の宮)の母である一条の御息所が出て来ます。「手習」の巻ではるかに前に出て来る御息所を「夕霧」の巻のと言っているのですから、原作にすでに巻名がついていたことになります。
もう一つの根拠は、『源氏物語』の冒頭の巻々の名は、二巻で一対の命名になっているということです。「桐壺」と「帚木」、「空蝉」と「夕顔」(はかない動物と植物)、「若紫」と「末摘花(紅花)」、「紅葉賀」と「花宴」、「葵」と「榊」(神聖な草と木)、つぎの「花散里」のあとの、「須磨」と「明石」。こういう二巻で一対の命名法は、たとえば人物造型においても、光源氏と頭中将、夕霧と柏木、匂宮と薫という対比描写がなされており、これと共通する手法で、紫式部の個性的な命名法であると考えられます。そこで『源氏物語』の巻名は執筆の最初から、作者の紫式部によって命名されたものだということができます。
物語の時代設定
「いづれの御時にか、女御・更衣あまた侍ひ給ひける中に…」で始まる『源氏物語』の「いづれの御時」とは、作者紫式部の活躍していた一条天皇(在位986年〜1011年)の時代をさかのぼること百年ほど前の醍醐天皇(在位897年〜930年)のころと考えられています。
『源氏物語』には琴(きん)の琴(こと)(七絃)の叙述が非常に多く、源氏自身も琴の名手です。実はこの楽器は延喜(901年〜23年)のころまでは弾かれていましたが(『河海抄』)、一条天皇のころにはすたれて、箏の琴(十三絃)の時代になっていました。
正月十四日には舞人が舞踏唱歌する男踏歌が行なわれたことが「末摘花」「初音」「竹河」等の巻に描かれています。この行事は円融天皇の天元六年(983年)正月に行なわれたのが最後でした(『花鳥余情』)。
なお、冒頭にいう「女御・更衣あまた侍」っていたのも醍醐天皇(皇后以下計二十三名)や村上天皇(中宮以下計十一名)の時代でした。
『源氏物語』の皇位継承は、桐壺帝−朱雀帝(桐壺一男)−冷泉帝(桐壺十男)−今上帝(朱雀一男)となりますが、それは実際の、醍醐−朱雀(醍醐十三男)−村上(醍醐十七男)−冷泉(村上二男)天皇の系譜に重ね合わせることができます。したがって『源氏物語』の時代設定は、一条天皇の時代より、五十年から百年ぐらい前の醍醐・村上両朝(897年〜967年)前後に置かれているようです。
光源氏に愛された人
光源氏が愛した女性は、最初の正妻であった葵の上(左大臣の娘)をはじめとして、六条の御息所(前皇太子未亡人)・空蝉(伊予介の後妻)・軒端荻(伊予介前妻の娘)・夕顔(義兄頭中将の愛人)・藤壺(義母)・紫の上(藤壺の姪)・末摘花(故常陸宮の娘)・源典侍(老女官)・朧月夜(兄朱雀帝の尚侍)・花散里(桐壺帝麗景殿の女御の妹)・五節の君(大宰大弐の娘)・明石の御方(明石入道の娘)・女三の宮(朱雀帝第三皇女)らがおり、この他にも侍女の中務の君・中納言の君らも源氏から愛されています。また作中にはその名を記されていない愛人たちも相当いたようですし、男女関係はなかったものの源氏から愛された朝顔の斎院(源氏の従姉妹)や玉鬘(夕顔の娘)らもいます。
『源氏物語』では、女性が光源氏に愛されることは、その女性にとって最高のしあわせであるという前提があります。したがって源氏の愛を受けた女性たちは、そのときどきでしあわせを感じたと思いますが、自分に夫がいたり、身分や年齢の差があったり、容姿に自信がなかったりで、十分にしあわせにひたり切れない女性もいました。また源氏に生活上の保護は受けながらも、契りを交わすこともなくなった女性たちも少なくありません。
はたから見れば、光源氏から生涯愛されつづけた紫の上が一番しあわせであったかのようにも思われますが、彼女自身は女三の宮の降嫁以来源氏に対する不信感に悩まなくてはなりませんでした。むしろ光源氏との愛の陶酔のさなかに物怪(もののけ)に取り殺された夕顔や、源氏に手厚くもてなされたその娘の玉鬘などが、本人のしあわせ感は最高だったのではないでしょうか。
源氏物語の伝本
わたしたちが現在読むことのできる『源氏物語』の本文は、すべて鎌倉時代以後の写本にもとづいたものです。紫式部の自筆の本や、『紫式部日記』に記されている中宮彰子やその妹の妍子が所持した本などは、現在伝わっていません。『源氏物語』の本文を伝えている最古のものは、『源氏物語絵巻』の詞書の本文です。筆者とされる藤原隆能は近衛朝久寿二年(1151年)に三河守となっています。『源氏物語』の成立からすでに百五十年もたっています。その本文は以下に述べる別本系のものです。
現存する『源氏物語』の伝本はつぎの三系統に分類されています。
(1) 青表紙本 藤原定家が家の本とした証本。定家はもと完本を所持したが、建久年間(1190〜99年)盗難にあい、その後元仁元年(1224年)から翌年にかけて、家人たちに五十四帖を書写させ、借用の本などで校合したという。定家自筆の原本は「花散里」「柏木」「行幸」「早蕨(さわらび)」等数帖で、その伝写本が数多く伝存する。名称は表紙の色による。
(2) 河内本 河内守源親行が父光行の遺志を受けつぎ、二十一種類の伝本によって本文を取捨選択して完成したもの。第二次の校訂は建久七年(1255年)に終った。
(3) 別本 青表紙本・河内本のいずれにも属さない本文を持つ伝本。
定家は道長の六男長家五代の孫です。道長家からの『源氏物語』が定家に伝えられたとしてもおかしくはありません。現在一番流布しているのは青表紙本系統の本文です。
物語の三大滑稽人物
『源氏物語』の登場人物は四百三十余人に達しています。しかも主要人物から端役に至るまで、各人物に個性的な性格を持たせていることは驚くべきことです。その四百人以上の登場人物の中で、笑われ者として描かれている末摘花・源典侍(げんのないしのすけ)・近江の君の三人の女性を、三大滑稽人物とか三滑稽と称しています。
もっともこれら三人の滑稽のよって来るところは各人各様で、個性的に描かれています。末摘花は故常陸宮晩年の姫君で、窮乏・孤独の人。その容姿はやせていて胴長。しかも救いがたいのは額の広すぎ、中央に突き出す鼻が「普賢菩薩の乗り物(象)」のよう。性格は内気で和歌は格式一点張りの有様です。もっとも髪が長いのと父の遺言を守って、邸を手離さなかった点は評価されます。
源典侍は修理大夫や頭中将と関係を持つ好色の老女(五十七、八歳)で、源氏をも慕います。七十歳を越えた晩年には朝顔斎院の侍女となっていて、斎院を訪れた源氏になおも色めかしく話しかけたりしました。琵琶にすぐれ、歌謡を好みました。
近江君は内大臣(かつての頭中将)のご落胤で、髪も整い、愛嬌もある容姿です。しかし立居振舞いが軽率で、教養に乏しく、早口。源氏の養女玉鬘の引立て役として設定されています。
この三人は、容貌の醜さ(末摘花)・好色(源典侍)・教養のなさ(近江君)等で笑いものになっています。けれども何らかの美点も備えていることになっており、紫式部の各人物への配慮が感じられるのです。
書名ははじめから付けられていた
『源氏物語』の書名は、『紫式部日記』寛弘五年(1008)十一月一日条に「『源氏』にかかるべき人見え給はぬに」とあり、また同六年正月条につづく書簡文に「『源氏の物語』人に読ませ給ひつつ」とあり、さらに同年六月条に、「『源氏の物語』御前にあるを」とあるので、『(光)源氏の物語』と最初は「物語」の前に「の」を入れて呼んでいたことになります。つまり源氏の姓を頂戴して臣籍に降下した皇子、光源氏を主人公とする物語の意で付けられたことがわかります。
『源氏物語』のことをいち早く伝えている『更級日記』冒頭部(寛仁四年〈1020〉以前)には、「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」とあり、また作者の菅原孝標の女が上京した治安元年(1021)三月条には、「紫のゆかり」「この『源氏の物語』、一の巻よりして」「『源氏』の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら」等と見えています。いずれにしても『源氏物語』は『源氏の物語』、略して『源氏』とか『源語』とも呼ばれていたのです。つまり物語の主人公の名で呼ぶのが一般的で、紫の上がヒロインであることを強調すると、『紫(の)物語』となり、後世には『紫語』『紫文』『紫史』などとも呼ばれています。  これは『竹取物語』は『竹取の翁の物語』であり、『伊勢物語』が『在(五)中将』、『うつほ物語』の初巻を「俊蔭」、さらには『平中物語』など、主人公の名で呼ぶのが書名の基本であったこととも共通するところなのです。
「もののあはれ」
よく『源氏物語』は「あはれ」の文学であり、『枕草子』は「をかし」の文学であると言われます。「をかし」は動詞「招(を)き」の形容詞形。好意をもって招き寄せたい気がするの意が原義。招き寄せたい、興味が引かれて面白い、美しくて心が引かれる、かわいらしい等々の意味になります。実は『源氏物語』の「をかし」の用例の方が『枕草子』の用例数より多いのですが、『枕草子』は『源氏物語』の五分の一ほどの頁数ゆえに、「をかし」の出て来る頻度が大きいので、「をかし」の文学とも称されるわけです。
「あはれ」は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とあるように、感動詞「あ」と「はれ」との複合した語です。その原義は広く喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味しました。平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになりました。なお、「もののあはれ」の「もの」は広く漠然というときに、その語の上に添えることばで、「もののあはれ」といっても本質的には「あはれ」と同じことだと宣長は説いています。
『源氏物語』には「もののあはれ」の情調が至るところにあふれています。自然描写といい、人事描写といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。「(ものの)あはれ」の文学といわれるゆえんです。
紫式部の名の由来
『源氏物語』の作者とされる紫式部の呼称は、実は彼女が長和三年(1014)に亡くなって、その後『源氏物語』が広く世間に知られるようになってからのニックネームです。彼女自身は自分が紫式部と呼ばれたことは知らなかったのです。
紫式部は一条天皇の寛弘二年(1005)十二月二十九日に、彰子中宮の許に出仕したのですが、そのときの女房名は、藤式部と称されました。これは父藤原為時が花山朝(984‐86在位)で蔵人式部丞の任にあったので、その姓と官職名をふまえて、藤式部と呼ばれたのです。
『源氏物語』より百年近くあとに成立した『栄花物語』には紫式部として登場します。この紫式部の呼称の由来は、寛弘五年(1008)十一月一日の後一条天皇生誕五十(いか)日の儀の饗宴の席上で、当時の文壇の指導者であった藤原公任が式部に「わか紫やさぶらふ」と話しかけた事実にもとづいたものと思われます(『紫式部日記』参照)。ヒロイン紫の上の物語の作者として、紫式部の呼称はふさわしいものとされ、時代とともに知られていったのでしょう。
なお、紫式部の本名はわかっておりません。当時の風習として、結婚以前は為時の大君とか中の君・三の君などと呼ばれていたことでしょう。紫式部には早世した姉がいたとされます。成人式のときに披露された名前は、当時の慣例で父の為時の字をもらって、長女が為子、二女の式部は時子といわれた可能性はあります。 
 

 

義母の藤壺を思慕した光源氏
藤壺は先帝の女四の宮。源氏の生母の桐壺の更衣に酷似していたので、求められて桐壺帝の后として入内。源氏より五歳年上だったので、幼い源氏は母の面影を藤壺の宮に求めて、慕いつづけました。源氏は宮にひそかに通じましたが、源氏十八歳・藤壺二十三歳の四月、彼女が病気で三条邸に里下りしていた折、一夜を共にした結果、宮は懐妊。翌春のちの冷泉帝になる皇子を出産します。源氏はその後も再三藤壺に迫りますが、桐壺帝への不義を反省し、また皇子の将来を考えて、源氏の求愛を絶ちます。桐壺帝の一周忌には二十九歳で出家、その後も幼い皇子を見守りつづけ、皇子はついに冷泉帝として即位。その四年後藤壺中宮は三十七歳で亡くなります。
ところで源氏は「桐壺」の巻で、高麗の相人から、天皇になる相でありながら天皇でもなく、ましてや摂政・関白といった臣下になる相ではない、つまり天皇に匹敵する地位につくという予言を受けます。それは源氏三十九歳の「藤裏葉」の巻で受けた「准太上天皇」という地位で、これ以降源氏は「六条院」という院号を授けられるのです。
その院号は臣下に、退位した天皇と同じ待遇を授けることです。天皇の母后である詮子(一条帝の母)が東三条院の院号を授かってから制度化されました。それを天皇の父君である源氏にも授けたわけです。したがって源氏が冷泉帝の父君でなければならないのです。一見単なる不倫の関係のように見えて、実は源氏が予言どおりの地位に至るには、冷泉帝が源氏の子である必要があったのです。紫式部はそのために源氏と藤壺の宮の不倫物語を書いたわけなのです。
「桐壺」
『源氏物語』第一巻は「桐壺」の巻と称され、また当巻のヒロインは「桐壺の更衣」、天皇も「桐壺の帝」と言われています。「桐壺」の「壺」とは屋敷内の庭、つまり中庭のことです。その中庭に桐が植えられていると、その建物を桐壺と称し、そこに住む更衣(こうい)(女御につぐ天皇の后妃)を桐壺の更衣、その更衣を寵愛された帝を桐壺の帝と言ったのです。
内裏の天皇の住まいを清涼殿(せいりょうでん)と言いますが、その北側後方には、后妃たちの住む建物がいくつもあり、これらを総称して後宮(こうきゅう)と言います。それらは弘徽殿(こきでん)・登華殿(とうかでん)・麗景殿(れいけいでん)・宣耀殿(せんようでん)をはじめとして、中庭に各種の木を植えた飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)・凝花舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)・昭陽舎(しょうようしゃ)(梨壺)・淑景舎(しげいしゃ)(桐壺)があり、また襲芳舎(しゅうほうしゃ)は雷の鳴ったときの天皇の避難所で、雷鳴(らいめい)の壺とも言われます。後宮には以上のほか、五節(ごせち)の舞いの試演が行なわれる常寧殿(じょうねいでん)や裁縫所である貞観殿(じょうがんでん)もあり、これは御匣殿(みくしげどの)とも呼ばれました。
要するに後宮は奥向きの御殿で、后妃や女官の居住地域なのです。桐壺の本来の名称である淑景舎は、おだやかで、よい景色の殿舎という意味になります。清涼殿からは最も離れたところにあり、身分の低い后妃の居所でした。ところがその桐壺の更衣を帝が最も寵愛したものですから、他の后妃たちから大変な嫉妬や嫌がらせを受けることになってしまったのです。
なお、この桐壺は更衣亡きあとは、光源氏の居所となります。後には源氏の娘の明石中宮が入ることになり、源氏一家が伝統的に入る建物となっています。
「雨夜の品定め」
『源氏物語』第二巻「帚木」(ははきぎ)の巻の冒頭に語られている女性論で、光源氏十七歳の夏、五月雨(さみだれ)(梅雨)がつづくある夜に行なわれたので、「雨夜の品定め」というのです。場所は源氏の居室の桐壺。そこに義兄の頭中将(とうのちゅうじょう)・左馬頭(ひだりのうまのかみ)・藤式部丞(とうのしきぶのじょう)が参上。いずれも源氏よりも女性体験が豊かで、その経験から女性評論が行なわれるのです。
はじめに、パーフェクトな女性はめったにいず、中品(ちゅうぼん)(殿上人・受領階級などの中流階級)の女性に、個性的ですぐれた者が少なくないと論じます。とりわけさびしく荒れ果ててツル草に覆われたような予想外の所で、可憐な娘に出会ったりすると、不思議に心引かれるとも言っています。
つぎに生涯の妻を選ぶ基準は、(1)貞淑であること、つまり浮気をしないこと。(2)(夫が浮気しても)嫉妬をしないこと。この二つの条件が満たされれば、容姿とか階級などは問題にせず、こういう女性こそ一生の伴侶とすべきであるという結論に達します。
そのあと、生涯の伴侶にはむかない、具体的な実話として、左馬頭は指食い女(妬婦)と木枯しの女(浮気女)のことを、また、頭中将は常夏の女(内気な女。のちの夕顔)、それに藤式部丞は蒜(ひる)食い女(賢女)との体験談を語って散会となります。
これまで葵の上とか六条御息所とか藤壺らの上品の上の女性しか知らなかった光源氏は、この「雨夜の品定め」の教育を受けて、多彩な好き人としての才能を発揮して行くことになります。のみならず『源氏物語』の以後のストーリーそのものも、この「雨夜の品定め」の議論にのっとって、展開して行くのです。
「帚木」
『源氏物語』第二帖の巻名は「帚木」(ははきぎ)と言います。「帚」はホウキ。本によっては「箒」を用いる場合もありますが、そのときは竹ボウキが原意。つまり「帚木」はホウキの木という意味になります。それが空蝉(うつせみ)という女性の別名になっており、その帚木が第二巻のヒロインであるところから、巻名ともなっているのです。
ただし、このホウキの木は、ただのホウキの木ではありません。この木は園原山(長野県下伊那郡阿智村智里に所在。飯田市と岐阜県中津川市とのほぼ中間)の中腹にあった檜(ひのき)の一種で、周囲六メートル余り、地上二十二メートルの大木で、枝が四方にのび、遠くから見るときはまるでホウキを立てたように見えていて、近寄るとどれがその木かわからなくなってしまうという、不思議な大木だったということです。(『観光の飯田』86号、昭49・9刊)。現在はその根元だけが残っているそうです。
光源氏は十七歳の夏、方違(かたたが)えに赴いた中川の紀伊守邸で、紀伊守の父・伊予介の後妻である空蝉とはからずも契りを交します。彼女を忘れられない源氏は、空蝉の弟の小君に手引きをさせて再び中川邸を訪れますが、空蝉は身を隠して、源氏の求愛を拒否します。そのとき源氏は空蝉を園原の帚木にたとえて、
帚木の心を知らでそのはらの道にあやなく惑ひぬるかな
(近づくと見えなくなる帚木のようなあなたの心を知らずに、園原を行く旅人のように、わけもわからず迷ってしまったことよ。)
とよみかけます。空蝉の返歌。
数ならぬ伏屋(ふせや)に生(お)ふる名の憂(う)さにあるにもあらず消ゆる帚木
(いやしい伏屋〈園原にある施し小屋〉の生まれと言われるのがつらいので、居たたまれぬ思いで帚木のように消える私です)
近づくと消える園原の帚木に空蝉はたとえられ、そのヒロインの物語を語るので、巻名も帚木と付けられたわけです。
三箇の大事
「源氏物語の三箇の秘事(訣)」ともいい、また単に「三箇の大事」ともいいます。これは中世(鎌倉〜室町時代)の『源氏物語』の注釈家が『源氏物語』中の三つの語句について秘伝としたものです。師匠から弟子へ秘説相承の形で伝授するもので、『古今集』の伝授、つまり古今伝授における三木三鳥(一説=をがたまの木・めどにけづり花・かはな草、百千鳥・喚子鳥・いなおほせ鳥)のようなものといえます。
その三箇の大事とは、(1)揚名介(ようみょうのすけ)(夕顔巻)、(2)三つが一つ(葵)、(3)とのゐものの袋(賢木)の三項についての難義です。
さいわいなことに、近世(江戸時代)の国学の発展によって、これら三箇の大事もその意味が解明され、現代のわれわれも気軽に解釈できるようになりました。すなわち、
(1)は、名ばかりの介ということ。つまり職務も給与もない名義だけの地方官の次官をいいます。これは年官年爵の制度によって、ある人を名儀だけ介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などに任じ、その得分を年官・年爵を受けられる三宮(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮)、またはこれに准ずる人に与えることから起こりました。
(2)は、三分の一ということ。
(3)は、宿直の物(衣冠や直衣〈のうし〉など)を入れる袋、つまり番袋(ばんぶくろ)(寝具を入れる大きな布袋)をいいます。
これらの語句は、中世には公家(くげ)(公卿・殿上人)の風俗が変わったためにわからなくなり、いろいろな解釈や説が出たわけです。
紫式部堕獄(だごく)説
紫式部は『源氏物語』に、むやみと浮薄でなまめかしい話を書き集めて、多くの読者を堕落させたので、地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説です(『今鏡』参照)。平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに説かれました。
『源氏物語』は現在でこそ世界的な名作の一編として尊重されていますが、実はこの作品は光源氏の好色物語であるという見解も、この物語の成立当初からあったのです。
たとえば『源氏物語』が全部完成した直後の寛弘六年(1009)夏ごろ、左大臣藤原道長は中宮彰子(あきこ)の前にある『源氏物語』を見て、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(そなたは好き者だと評判に立っているから、見る人が自分のものにしないで、そのまま見過すことはあるまいと思うことだ)と、紫式部によみかけています(『紫式部日記』参照)。
もちろんこれは冗談で言ったのですが、『源氏物語』が正当に評価されなかった一面を伝えています。これが平安末期以降になると、前述の堕獄説に発展するのです。
紫式部のファンたちはこの堕獄説に心を痛めました。地獄に堕ちている式部を救済しようと、『源氏一品経(いっぽんきょう)』(永万二年〈1166〉直後成立)のようなお経を作って、式部の善行を称え、『法華経』を書写して、平安な成仏を祈願しました(『宝物集』『今物語』参照)。
また閻魔(えんま)庁の役人になった小野篁(たかむら)に救ってもらうために、篁の墓の傍に紫式部の墓を作ったり(京都市北区西御所田町に所在)、篁ゆかりの千本閻魔堂に式部の供養塔を設けたりしているのです。
古人の評価
『源氏物語』の成立が初めて確認できるのは、寛弘五年(1008)十一月一日の敦成親王(のちの後一条天皇)御五十日(いか)の賀宴の席で、左衛門督藤原公任(きんとう)から紫式部が、「あなかしこ(ごめんください)、このわたりに若紫やさぶらふ(若紫さんはおられませんか。)」と声をかけられた時だと言われています。これがきっかけで彼女は紫式部と呼ばれるに至ったのです。そこで平成二十四年度から、この十一月一日を古典の日とすることが法律で定められました。
公任が紫式部を若紫に見立てようとしたのは、紫の上の少女時代の可憐で、無邪気で、清楚なイメージを高く評価していたからでしょう。つまりそういうすてきな人物を描いている『源氏物語』を文学的な感動を与えてくれる作品であると評価していたからに他なりません。
このような『源氏物語』の根本は、人の心を動かすもの、感動であるという評価は、『更級日記』の作者菅原孝標(たかすえ)の娘をはじめとして、中世の歌人である藤原俊成や定家、それに俊成の娘の『無名草子』などにも受けつがれ、『源氏物語』評価の本流となるのです。
一方、同じころ『源氏物語』を女房に読ませて聞いていた一条天皇は、「この人(作者紫式部)は『日本紀』をこそ読み給ふべけれ」と仰しゃったことから、紫式部は「日本紀の御局(みつぼね)」というあだ名がつきました。一条天皇は『源氏物語』の知的な要素を評価したわけです。
なお、これは前回にも指摘しましたが、左大臣藤原道長は、紫式部に「好き者と名にし立てれば云々」と歌をよみかけました。これは冗談半分とはいえ、『源氏物語』を好色小説と見立てているところからの発言です。
このように、『源氏物語』を(一)文学的な感動を与える作品、(二)知識を与えてくれる物語、(三)好色物語、という三つの評価が『源氏物語』の成立当時からあったことがわかります。
紫式部の生涯
紫式部は円融天皇の天延元年(973)に生まれました。父は式部丞藤原為時、母は常陸介藤原為信の娘です。父方も母方も式部が生まれた当時は、いわゆる受領階級で、中流貴族の家柄でありました。姉と弟惟規のほか、異母弟二人と異母妹一人がおります。
式部は幼時より聡明で、父為時が弟の惟規に漢詩文を教えていた時、傍で聞いていて、惟規よりも早く覚えたので、「そなたが男の子だったらな」と、父を嘆かせたと『紫式部日記』に記されています。
母は早世したようですが、一条天皇の長徳二年(996)父為時が越前守に任じられ、式部も弟惟規とともに同行。福井県武生(たけふ)の国司館に居住。その間親戚でもあり、また父の以前の役所の上役でもあった左衛門権佐藤原宣孝(のぶたか)から求婚を受け、長保元年(999)上京して結婚。このとき式部は27歳、宣孝は48歳でした。
この年一人娘の賢子(大弐三位〈だいにのさんみ〉)が生まれましたが、同三年(1001)宣孝が病死。そのころから『源氏物語』を執筆。式部の才能が認められて、寛弘二年(1005)十二月鷹司殿倫子(左大臣藤原道長室)の要請で一条天皇中宮彰子(あきこ)に出仕しました。女房名は藤式部(とうしきぶ)。
寛弘五年(1008)十一月一日の敦成(あつなり)親王御五十日(いか)の賀宴で、当時の文壇の大御所の左衛門督藤原公任(きんとう)から「若紫やさぶらふ」と声をかけられ、これがきっかけで、のちには紫式部と呼ばれることになりました。翌六年『源氏物語』五十四帖完成。同七年(1010)には『紫式部日記』を、長和二年(1013)には『紫式部集』を著わしました。
長和三年(1014)清水寺に参詣して皇太后宮彰子の病気平癒の灯明を献上。同年二月42歳の生涯を終えました。
登場人物の名づけ親
『源氏物語』の登場人物は四百三十人近くにのぼると言われています。(岡一男博士『源氏物語事典』昭39刊)。それらの作中人物の多くは官職位や居所・出生順によって、左大臣・頭中将・衛門督・二条の君・桐壺の更衣・二の宮・女三の宮などと呼ばれ、実名で呼ばれるのは、惟光・良清らのように、地下(じげ)人以下の身分の低い者に限られています。
この他作中にさまざまな条件から、固有名詞として用いられているものでは、光源氏・匂兵部卿・薫中将・末摘花・花散里・有明の君(朧月夜)・夕顔・空蝉・紫の上などがあります。
以上は作者の命名によるものですが、これ以外に読者によって命名され、古来通用して来たものには、次の三種があります。
(1) その人物の、主に印象に残る事件や事実を記した巻名を、そのまま人物に利用したもの。葵の上・総角の大君・東屋の君(浮舟)・浮舟・薄雲女院・柏木権大納言・梅枝左大臣・玉鬘尚侍・蛍兵部卿宮・夕霧左大臣など。
(2) 本人のよんだ、または本人についてよんだ歌などによって、名づけられたもの。落葉宮・朧月夜・雲井雁など。
(3) 一身上のことにからむもの。出生地による明石御方、身体的特徴を示す髭黒、春秋優劣論で秋をあげた秋好中宮など。
『源氏物語』の登場人物の名称は、作者が名づけたものより、熱心な読者たちによって命名されたものが多いのです。それらが作中人物の系図などにもメモされ、時代を経るにしたがって定着して来たわけです。
文章の「すべらかし」調
『源氏物語』の文章が一見難解に感じられるのは、書き出しから句点までの間が長い、「すべらかし」調の文体にあるとも言えます。たとえば『枕草子』初段の冒頭の、
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく。山際少しあかりて、紫だちたる。雲の細くたな引きたる。
の一文と、『源氏物語』「桐壺」巻の起筆の、
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。
という文章とを比較してみると、前者がポツポツと切れた簡潔な文体であるのに対して、『源氏物語』の方は、一文がとても長いということに気づくでしょう。その途中を「か」とか「に」とか「が」といった接続語でつないで、切れ目がありません。こういう文章を、女性の背後にまで長く垂れ下げる髪型の名を借りて、「すべらかし」調(流)といっています。
なぜ紫式部の文章は長文で、清少納言のそれは短文なのでしょうか。「文は人なり」(ビュホン)という言葉があります。文章はそれを書く人の性格や思考や健康状態まであらわすと言われています。
総じて短文型の作家は呼吸器官が弱く、肺活量が少ないのではないかと考えられます。これに対して長文型の作家は、心肺機能が強健で、一呼吸の間隔が長いために、文章も切れ目のない、長々しいものになるのでしょう。短文型の清少納言よりも「すべらかし」調の紫式部の方が心肺機能は強かったと考えられるわけです。  
 

 

「二条院」
二条院は光源氏の生家であり、少青年期をここで過ごし、六条院が出来るまでは(「少女」巻)、この二条院が源氏の住居でありました。
一般的に言えば、二条通りに邸宅が面していれば、二条院とか二条第とか呼ばれることになります。たとえば村上天皇母后の藤原隠子の二条院(二条の北、堀川の東)・一条天皇の中宮定子が入った小二条第(二条の北、東の洞院の西)・藤原定家の二条京極家(二条の北、京極の西)・二条富小路の内裏(二条の南、富小路の西)等々、王朝時代の貴族の豪壮な邸宅が二条通りの南北沿いに、何棟も存在していました(『二中暦』『拾芥抄』等)。
光源氏の二条院は、「賢木」の巻の斎宮母娘(六条御息所とのちの秋好中宮)が伊勢へ下向する条に、一行が内裏を出て、「二条より洞院(とうゐん)の大路を折れ給ふほど、二条の院の前なれば」とあるので、二条通りの南、東の洞院通りの東にあったことになります。
実はここには入道大相国兼家が造り、道長を経て、頼通の弟の教通に伝領された二条殿があったとされています。それで教通を二条関白とも言うのです(『拾芥抄』)。当然ながら紫式部存生の時代には、道長の屋敷の一つでもあったわけです。光源氏のモデルとして式部が誰をイメージしていたかがわかるでしょう。
源氏の二条院は、桐壺の更衣の母の邸でありました。そこで更衣が生育し、光源氏が伝領。源氏は須磨に流謫する際、二条院や所領などを皆紫の上に贈ります(「須磨」)。紫の上が亡くなった後(「御法」)、この邸は養女の明石中宮に伝わって、その子の匂宮の居邸となり、匂宮は宇治の中の君を当邸の西の対に迎えたのでした(「早蕨」)。源氏一族のヒロインの住居が二条院なのですね。
物語に描かれた結婚形態
現代の結婚形態と根本的に異るところは、「通い婚」「婿取り婚」だったということです。現在では結婚すれば夫婦ははじめから同居するのが当然ですが、王朝時代には男が女の許に通うというところから始まり、妻が生涯の伴侶と確信できれば、いずれは男の家に妻を引取るか、あるいは妻の家に婿として迎えられるかの、どちらかになります。
夫と妻が一つ屋根のもとで暮すことになっても、二人の部屋は別々であり、夫が妻の許を訪れるという「通い婚」形式がとられます。
光源氏ははじめ左大臣の娘の葵の上の許に通っておりました。夕霧の出産後、彼女が急死したので、源氏が左大臣邸に住んだり、葵の上を自邸の二条院に引取るということはありませんでした。
その後北山で発見した紫の上を二条院に引取り、のちに結婚しますが、東の対に住む源氏が西の対の紫の上の許に通うという形態が取られます。
源氏が四十歳のとき、兄の朱雀院の姫宮である女三の宮を六条院に迎えます。皇女や后妃の場合は、主に「嫁取り婚」になります。このとき源氏は紫の上と同居する東の対から寝殿の女三の宮の許に通います。女三の宮の降嫁によって紫の上は侍女扱いになったといえます。七年後、紫の上は二条院へ移ります。妻は通い婚の形式が取られる女性ということになります。紫の上が二条院に移って再び女主人として尊重されたということです。
なお、『源氏物語』では、生涯の伴侶になる女性との結婚の際には、男君の三日夜通いや三日夜の餅の描写があります。行きずりの恋人や単なる愛人の場合は、そういう描写はありません。また一つの邸宅には一人の妻しかおりません。複数いるとすれば、妻以外の親しい女性は、侍女などで、男主人から愛されている女性であるということになります。
「紅葉賀(もみじのが)」
『源氏物語』第七帖は「紅葉賀」の巻と呼ばれています。これは退位された天皇のお住居の「朱雀院(すざくいん)」で、十月の紅葉の盛りに年の御賀があるところからの命名です。本文に「試みの日かく尽しつれば、紅葉の蔭やさうざうしく」とあります。
当時の貴族は四十歳から十年目ごとに、四十(よそじ)の賀・五十(いそじ)の賀などといって、長寿を祝う会が催されました。その年齢の数だけのお寺、すなわち四十か寺・五十か寺などに誦経や祈祷をさせ、またしかるべき場所で、楽人を召し、管絃の遊びなどを行なって、お祝いをしました。それが紅葉の季節に行なわれたので、「紅葉賀」と称するのです。
朱雀院には隠退した天皇がいたはずです。その先皇は現在の天皇である桐壺帝の父帝か兄帝であったと推測されます。桐壺帝には弘徽殿女御との間に一男(のちの朱雀院)と二女がおり、そののち桐壺の更衣が生んだ光源氏以下、他のお后との間に生まれた蛍兵部卿宮とか帥宮(「蛍」巻参照)とか宇治八宮がおり、また藤壺の宮との子とされる冷泉院は十の宮とされています。
今、仮に桐壺帝が二十歳余りで長子ののちの朱雀院をもうけたとすると、「紅葉賀」巻では、四十一〜四十二歳。朱雀院は二十一〜二十二歳。光源氏は三歳年下で十八〜十九歳となります。そこで「紅葉賀」の祝福を受けた先皇は、六十賀の祝福を受けたのでしょう。そうすると桐壺帝とは十八〜十九歳の差となりますので、この先帝は桐壺帝の父君であったことになります。
この祝賀の折に源氏は青海波を舞って人々を感動させますが、年の賀の際にはしばしば直系の孫児が舞いを舞うのが習わしでした。やはり源氏の祖父、つまり桐壺院の父帝の年の賀であったものと推測されます。
近親結婚
たとえば光源氏と葵の上の結婚では、桐壺帝の二男である光源氏と、桐壺帝妹の大宮の生んだ葵の上とはいとこの間柄で結婚したことになります。源氏の子の夕霧は母は葵の上。その妻の雲井雁は葵の上の弟の頭中将(のちの内大臣・太政大臣)の娘ですから、二人はやはりいとこの間柄であります。さらに夕霧の娘の六の君は、夕霧の妹の明石中宮の三男の匂宮と結婚しますが、これもいとこの間柄です。源氏も夕霧も夕霧娘の六の君も結婚相手はすべていとこでした。
弘徽殿大后と桐壺帝の間に生まれた朱雀院は、大后の妹の朧月夜の尚侍と結婚しますが、これはおばとおいとが結婚したことになります。
なお、光源氏が四十歳になって新たに六条院へ迎えた女三の宮は、母は藤壺中宮の異腹の妹の藤壺女御でしたから、紫の上のいとこに当ります。宇治の八宮が北の方に先立たれて、ひそかに愛したのはその姪の中将の君でした。これも身内意識による結婚ということになるでしょう。
実は、こういう近親結婚は、当時の貴族社会ではあたり前のことでした。たとえば一条天皇と彰子中宮および定子皇后とは、どちらもいとこ同士の結婚でした。その一条天皇の長男の後一条天皇は彰子の妹の威子と結婚していますから、おばとおいとの間柄になります。
雲井雁の父である内大臣は、娘と夕霧との結婚を最初は「めづらしげなきあはひ(縁組み)」だとして反対しました(「少女」巻)。それほどに近親結婚はありふれた縁組みとされていたのです。
近親結婚は、自分たち一族の財産を他氏に譲ることなく、身内中で処分するという観点から行なわれたのです。それによって長い間北家藤原氏や、『源氏物語』源家の栄華が保たれたというわけです。
結婚を拒否する女性
『源氏物語』には光源氏や夕霧や匂宮の求愛を受け入れる女性がいる一方、これをかたくなに拒否して、独身を貫き通す女性も散見します。たとえば、正編では朝顔や、「宇治十帖」の故八の宮の長女である大君らであり、また一度は強引な源氏に身を許したものの、以後は源氏の求愛を拒みつづけた空蝉などもいます。
空蝉は故中納言の娘で、父の死後老受領の伊予介(いよのすけ)の後妻になっていました。源氏に好意は抱いてはいたものの、身分の差に加えて、年上であったこと、それに容姿に自信のなかったことなどで、源氏の求愛を拒みました。
大君は八の宮の逝去後、薫の求愛を受けましたが、没落した宮家の姫君であり、また薫よりも年上であり、さらに妹の中の君より容姿は劣っていました。大君は中の君を薫に勧めたのですが、自分が中の君の母親がわりになって世話をしたい。しかし自分には母親がおらず、何の相談もできず、助けも得られないので、結婚は無理だとあきらめたようです。同様のことは空蝉も、未婚で両親の揃った身であれば源氏の求愛を受け入れられたかも知れないと言っています。女性の結婚には母親の存在が大切であったことがわかります。
朝顔は源氏のいとこであり、父の式部卿宮も二人の結婚に賛成していました。朝顔は源氏の求愛を「帚木」の巻以来ずっと受けて来ましたが、源氏の浮気な性格に不信を抱いていたので、消極的になったようです。実は大君も匂宮の中の君に対する夜離れがつづくのを見て、自分はそうした苦労をしたくないと、いよいよ独身で通す気持ちになりました。
内親王は一般に独身で生涯を終ることが多く、斎院であった朝顔や八の宮の娘大君には、そういう貴種ゆえのプライドから来る結婚拒否の思いもあったようです。身分・年齢・容姿、それにプライド等が結婚拒否の要因なのですね。
光源氏の容貌・容姿
京都は嵯峨の清涼寺の宝物館の入口に背丈二メートル余りのかなり大きな阿弥陀仏が鎮座しています。その説明書きによりますと、この阿弥陀仏は当寺に住んでいた源融(みなもとのとおる)(822−95、左大臣・従一位。嵯峨天皇の子)の顔そっくりに作られたものであり、その融は光源氏のモデルとされているから、この阿弥陀仏の顔は光源氏のそれであるといった趣旨のことが書かれています。その阿弥陀仏は丸くふくよかで円満な顔立ちであり、光源氏の顔立ちにふさわしい風格が感じられます。
もっとも『源氏物語』を読んだだけでは、光源氏の顔にひげがあったかどうかもわかりません。藤原隆能(たかよし)(1155年任参河守)も作者の一人とされている『源氏物語絵巻』(徳川美術館他蔵)の「柏木」帖には、光源氏が幼い薫を抱いている姿が描かれています。光源氏は下ぶくれの丸い顔立ちで、濃いまゆ毛に細い切れ長の目、口ひげ・あごひげなども描かれています。ただしこの『源氏物語絵巻』の登場人物は、すべて豊かな下ぶくれの顔に、目は細い一線を長めに引き、鼻はやはり細い線で鉤形を描いて表現するという“引目鉤鼻(ひきめかぎはな)”の描法で画かれていますので、この「柏木」帖の光源氏の顔立ちにも個性を見出すことはむずかしいようです。
『源氏物語』の中で、光源氏の容姿についてやや具体的にふれているのは、「帚木」巻の終りの条で、空蝉の夫の老伊予介(いよのすけ)にふれながら、「されど、頼もしげなく、首細しとて」空蝉が自分をあなどっていると、彼女の弟に訴える場面が唯一のものです。光源氏がほっそりしたやさ男であったことがわかります。
光源氏の容貌や容姿について、具体的に描かなかったのは、読者にそれぞれ自由に理想的で好ましい光源氏を思い浮かべてほしいという、作者紫式部の意図によるものなのです。
物語の遺跡
『源氏物語』の舞台としては、京都の内裏や二条院・六条院などの邸宅をはじめとして、清水寺・賀茂神社等の社寺、比叡山や逢坂関・賀茂川・桂川等々が登場します。京都市外では、宇治・石清水神社、石山寺・長谷寺・須磨・明石などもよく知られています。
これらは実在する地名や社寺等をそのまま用いる場合と、架空のものを用いる場合とがあります。そこで宇治の八の宮邸はどこにあるのかとか、北山の僧都の寺院は鞍馬寺がモデルではないかなど、『源氏物語』の遺跡にまつわる伝承が生じて来るわけです。
とりわけ架空の登場人物の住居や墓がはっきりと伝承されている場合があり、『源氏物語』の熱烈なファンのなせるわざとはいえ、その熱意に感動してしまいます。ここではその代表的な例を、一、二紹介しましょう。
○ 夕顔の墓 京都市下京区堺町通松原上ル夕顔町の富江氏邸の庭園内にあります。非公開。五輪の塔の墓で、江戸時代・貞享元年(1684)に成った『莵藝泥赴(つぎねふ)』にすでに紹介されており、「夕顔の宿といふは、いとあやし」とあります。京都のどまん中に夕顔の墓があるのが面白いですね。
○ 玉鬘の大銀杏(おおいちょう) 奈良県桜井市初瀬の長谷寺の、東参道から寺の駐車場越しの、初瀬川を隔てた向う側の素盞雄(すさのお)神社の所にあります。この大銀杏の所は玉鬘一行が滞在した宿坊の故地といい、玉鬘が晩年ここに隠棲した「玉鬘庵」があったとされます。本居宣長の明和九年(1772)刊の『菅笠日記』にも紹介されています。
○ 明石入道の墓・光源氏の浜の館等 前者は明石市大観町の善楽寺(戒光院)に所在。後者は善楽寺に隣接する無量光寺に所在。いずれも明石藩主松平忠国(1597−1659)の発議で明石関係の『源氏』ゆかりの地が制定された由です。
いずれにしてもこれらの遺跡は、架空ではない、現実の話として受けとめられていたのですね。
物語の構成
『源氏物語』は全五十四帖から成りますが、ストーリーに即して、その構成を鳥瞰してみると、以下のようになります。
T「桐壺」の巻〜「幻」の巻まで(正編四十一帖) 光源氏の生誕から紫の上の喪にこもる五十二歳の歳暮までを描く。
U「匂宮」「紅梅」「竹河」の三巻(後編四十二〜四十四帖) 源氏薨後の源家一家(匂宮)・故太政大臣(頭中将)の次男の按察大納言家(紅梅)・故太政大臣髭黒の夫人玉鬘一家(竹河)の近況や、特に源氏の外孫である匂宮と源氏の義子である薫との生い立ちを、薫を主人公に語る。
V「橋姫」〜「夢浮橋」の、いわゆる「宇治十帖」(続編四十五〜五十四帖) 宇治八の宮の姫君たち、大君・中君・浮舟らを女主人公として、薫と匂宮との性格の対照と、恋愛における両者の葛藤、二人にはさまれた浮舟の出家等が描かれている。
もっともTの正編が全体の分量からいうと、長編すぎるので、
TのA 「桐壺」から「明石」の巻までの十三帖 光源氏生誕から、右大臣家の朧月夜との密会露見で、須磨・明石に流寓するまでを描く。
TのB 「澪標」から「藤裏葉」の巻までの二十帖 源氏の召還から、源氏の子である冷泉院の即位、源氏はついに太上天皇にのぼり、六条院と号するまでを語る。
TのC 「若菜上」から「幻」の巻までの八帖 四十歳の六条院に女三の宮が降嫁。柏木と宮との密通・薫誕生、紫の上の死去・光源氏が紫の上を追憶しつつ、五十二歳の年の暮れを迎えるまでを述べる。
と、分けて、全編を五部構成で考えると、この物語をいっそう理解しやすくなるでしょう。
乳母(めのと)
乳母は生母に代り、子ども(主人)に乳を飲ませ、養育する女性です。その子どもの監督者のような立場にいて、ふつうの女房とは別格の人です。ときには母親以上に子どもに影響力を発揮します。
男の子の乳母は、その子が成人式を迎えると、お役御免となって、実家に帰ります。女の子の乳母は、その子が成人し、結婚しても、とつぎ先に同行するなど、一生涯子ども(主人)に付き添い、世話をします。
貴族の家では、若君や姫君の世話をする乳母は一人とは限りません。光源氏の乳母には最も重んぜられた大弐の乳母のほか、左衛門の乳母などがいました。夕顔の乳母にも右近の母や、大宰少弐の妻であった乳母がおりました。
乳母は原則として自分の子を出産し、そのお乳で主家の子女(主人)を育てます。そこで乳母の実子、つまり乳母子も、お乳をあげる主人と同年齢のことが多く、主人に対しては格別近しい関係にありました。万一乳母が亡くなったりしますと、残された主人に今度は乳母子が仕えるのが一般です。末摘花に仕えていた侍従などもその一人です。
光源氏の乳母子(大弐の三位の子)の惟光(これみつ)は、幼いときから源氏のお供をし、その秘密などにもかかわりました。その後惟光の娘の藤典侍(とうないしのすけ)が夕霧の側室になるなどして、最後には公卿となりました。乳母子の出世頭といってもよいでしょう。
貴族の姫君は子どもを出産しても授乳をしない、というのが原則のようです。もっとも夕霧の北の方の雲井雁はみずから授乳をしており、その姿が『源氏物語絵巻』「横笛」巻の一シーンにも描かれています。母性本能を発揮した姫君もいたわけです。
物語と和歌
答えは七九五首です。一巻あたり一四・七首もの和歌がよみ込まれていることになります。
歌数の多い巻は、「須磨」48首・「賢木」33首・「総角(あげまき)」31首・「明石」30首・「若菜下」29首・「手習」28首・「夕霧」「幻」26首・「若紫」25首・「葵」「若菜上」「宿木」24首などです。
「須磨」は光源氏が政争に破れて、みずから須磨の浦に閉じ籠ることになった次第を述べた巻です。人々との別れの贈答歌や須磨での独詠歌などで、48首の多数にのぼりました。「賢木」の33首は前半の伊勢へ下る六条御息所との贈答歌と、後半の藤壺や朧月夜尚侍との贈答歌が中心です。「総角」は「若菜上」・「若菜下」・「宿木」につぐ長編の巻です。八の宮への追悼歌や、匂宮と中の君との結婚関連の贈答歌、それに亡くなる大君と薫との贈答歌などが主だったものです。
逆に歌数の少ない巻は、「匂宮」「夢浮橋」1首・「空蝉」「篝火(かがりび)」2首・「関屋」3首・「花散里」「野分」「紅梅」4首・「蓬生」6首などです。
これらの巻は大半が短編です。歌数は当然少なくなります。また「匂宮」は「幻」までの正編と、「橋姫」からの続編「宇治十帖」をつなぐ後編(「匂宮」「紅梅」「竹河」)の冒頭にあって、説明的な内容であることが一首だけの結果になったのでしょう。同様のことは五十四帖の最終巻である「夢浮橋」についても言えると思います。
紫式部の和歌は家集の『紫式部集』(全一二八首)にも89首載っています。他に『紫式部日記』や『栄花物語』等にも式部の詠草が若干首見えています。したがって紫式部の和歌は約九百首が現存していることになります。  
 

 

「総角」の巻名由来
『源氏物語』第四十七帖は「総角(あげまき)」巻です。「あげまき」は、「総角」の他「揚巻」とも書き、上げて巻く、というのが原義です。つまり髪の結い方の一つで、子どもが十二、三歳までは、髪を垂らしてうなじにまとめた「うなゐ」の形を、加齢によって、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作った髪型です。転じて髪を総角に結った若者も称し、さらに転じて、上部を三つの輪に結んで、まん中に房を垂れた、紐の結び方の名ともなりました。
この紐結びの総角は、文箱やすだれや仏具などの飾りとされました。また鎧の背の逆板(さかいた)の中央の輪につけて垂らしたりもしました。
「総角」巻の場合は、父八の宮の一周忌が近づき、仏や僧侶に奉る香や香炉をのせる机(名香)の四隅に結び垂らすための、総角結びを作っている大君に、薫が意中を告げて、
総角に長き契りを結びこめ同じところによりもあはなむ
(総角結びの中に末長い契りを結びこめ、同じところで結び目が出会うように、私もあなたといつまでも逢える契りを結びたいことです。)
とよみかけました。この薫の歌は、催馬楽の「総角」の、「総角や とうとう 尋(ひろ)ばかりや とうとう 離(さか)りて寝たれども まろびあひけり とうとう か寄りあひけり とうとう」の句が下敷きとなっています。この薫の歌から「総角」巻の名が付けられたのです。
光源氏の須磨への籠居
光源氏は「賢木」の巻の終わりで、朧月夜の尚侍(ないしのかみ)に会うために、太政大臣(もとの右大臣)邸へ毎晩通いましたが、その人もなげな振る舞いに激怒した弘徽殿の大后と太政大臣は、源氏を政界から抹殺しようとします。「須磨」の冒頭近くには、「さしてかく官爵を取られ」ない人の話があるので、源氏はすっかり官爵も取りあげられたのでした。それにもかかわらず、平然と都にいると、流罪など恐ろしい罪科に処せられるかも知れません。隠岐や太宰府に流された小野篁(たかむら)・菅原道真(みちざね)・源高明(たかあきら)の例もあります。そこで源氏はみずから都からあまり遠くない須磨に籠居しようと決意したのです。
須磨は業平の兄行平中納言も一時わび住まいをし、「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答えよ」とよんだ所です。またかつて源良清から北山で、ここは景色のよい浦だと聞いたこともあります(「若紫」巻参照)。ただ現在は海人(あま)の苫屋(とまや)さえまれな寂しい所だということで、ためらわれましたが、他によい場所もなく、何よりも源氏の生活を支える経済的基盤=荘園があったので、須磨行きを決意したのです。
そんな荒涼とした海浜に妻の紫の上を連れて行くことは断念しましたが、それはその後須磨から明石に移って、ここで明石の御方との間に姫君をもうけるためだったのです。紫の上と同居ではそれは困難だからです。
なお、貴種流離譚(りゅうりたん)といって、高貴な人物は一時地方へ流離し、そこで苦労をし、また子どもをもうけ、再び中央へ凱旋(がいせん)するという話型があります。たとえばヒコホホデミの命(みこと)が竜宮でトヨタマ姫と出会い、ウガヤフキアヘズの命(神武天皇の父君)をもうけるようなケースです。
光源氏の須磨下りは、一見懲罰を避けるためと見えて、実は源氏一家の繁栄をもたらす明石姫君を得るための旅でもあったのです。
「夢浮橋」の巻名由来
『源氏物語』五十四帖の最終巻は「夢浮橋(ゆめのうきはし)」です。第一帖の「桐壺」の巻から第五十三帖の「手習」巻までは、巻中の語句や、和歌の意味・用語などから巻名がつけられています。ところが「夢浮橋」の語は巻中には出て来ず、何に由来しているのかが判然としません。
ただし「夢浮橋」巻には、「夢」の語が五個所出て来ます。「浮橋」の本来の意味は、水上にイカダとか多くの舟を浮かべて、その上に板を渡した橋をいいます。本格的で堅固な橋に較べると、安定せず、危なっかしく感じられます。それははかない意の「夢」とほぼ同じ意味になります。そこで「浮橋」には取り立てての意味はなく、「夢」に添えたことばであるとも考えられます。
正編の最終巻四十一帖の「幻」巻は、「桐壺」巻の幻(故更衣の魂を探す幻術士)に呼応して、紫の上の魂のありかを訪ねて行く幻術士を意味します。同時にそれが「夢・幻」の「幻」の意をも表します。その「幻」に呼応するのが「夢」なのですから、「夢浮橋」=「夢」と解釈しても問題はないでしょう。
「薄雲」巻で源氏が大堰の明石の御方を訪ねて、別れ際に、「夢のわたりの浮橋か」としきりに嘆く姿が描かれています。藤原定家はここの個所には、「世の中は夢の渡りの浮橋かうち渡りつつ物をこそ思へ」(出典未詳)の一首が引用されていると指摘しています(『奥入』)。
大意は、男女の仲は、夢の渡し場にかかっている浮橋のように、はかなく頼りないものなのか。あの人の許を訪ねては、物思いをするばかりだ、というのです。大君に先立たれ、中君は匂宮に嫁ぎ、浮舟からは見捨てられた薫の心境は、この引歌の内容と重なります。この歌を作者は念頭に置いて、はかなく、頼りない男女の仲を「夢浮橋」の語で伝えているものと思われます。
光源氏の経済基盤[1] 
『源氏物語』や『伊勢物語』等のどこを読んでも光源氏や業平らが、おカネを出して何かを買ったとか、あるいは給料日に給料を受け取ったとかいうような記事は、一切出て来ません。つまりこれは貨幣が実質的にはほとんど流通していなかったという事実を示しているのです。
市場では、銭(貨幣)も多少は使われたでしょうが、多くは米や絹布やその他の産物等で物々交換が行なわれていたのでしょう。ただし光源氏や業平らの貴族たちは、めったなことでは、そういう市場などには行かなかったはずです。
光源氏をはじめとする貴族階級は、想像以上に荘園という私有地(田畑・牧場など)を持っていたのです。たとえば源氏は朧月夜事件で須磨に隠棲しますが、「近き所々の御庄の司(つかさ)召して、さるべきことどもなど、良清の朝臣、親しき家司にて、仰せ行」った結果、あっという間に見ごとな住居が落成するのです。
薫は宇治の八の宮の亡くなったあと、大君・中君・浮舟らの世話をすることになりますが、それは薫が宇治の地に多数の荘園を持っていたから、できたことなのです。夕霧も正妻となる落葉の宮(柏木前夫人)を小野の地に訪ねて求婚しつづけますが、従者たちを近所の荘園に待機させています。
光源氏ら中央の権門の荘園は不輸租田といって租税が免除されています。そこで地方の豪族があらそって土地を権門に寄進し、豪族自身はその荘司となって、国司の誅求(ちゅうきゅう)から免れようとする傾向が生じました。その結果権門・勢家には荘園が集中し、これをさらに堅固に保持するためには、官位昇進を図ったり、子女を宮廷に宮使えさせたり、他の権門の貴公子と通婚させたりなどして、荘園の停廃・奪取を防いだのです。光源氏らの経済を支えていたのは、実はこの荘園経済だったのです。
弘徽殿の大后のモデル
弘徽殿の大后は右大臣の長女で、桐壺帝の東宮時代からの女御であり、朱雀院・一品宮・斎院を生みました。後に入内した故大納言の娘である桐壺の更衣が帝寵を独占するに及んで、嫉妬。更衣はいじめ抜かれて早世しましたが、その子である光源氏をも幼少時代から憎みつづけました。ことに妹の朧月夜と源氏の密会発覚の折には、源氏非難の急先鋒となって、源氏の官職位剥奪を画策、源氏の須磨流謫の契機となりました。源氏の支援する東宮(冷泉院)を廃して、八の宮(宇治の八の宮)の擁立を謀って失敗。源氏が帰京し、政権を回復後も、大后はぐちっぽく、わがままで朱雀院を困らせました。『源氏物語』随一の悪役として描かれています。
歴史上、ひどく嫉妬深かった后妃としては、仁徳天皇の皇后の磐之媛(いわのひめ)の命(みこと)が有名です。天皇の寵愛した黒日売(くろひめ)は皇后の嫉妬を恐れて吉備へ船で逃げ帰ろうとしますが、磐之媛は黒日売を船から引きずり下ろさせて徒歩で帰らせました。また皇后が紀州へ出かけている間に天皇が八田皇女(やたのみこ)と結婚したことを知って、怒った皇后は皇居難波高津宮へ帰らず、山城の筒城(つづき)にとどまったこともありました。こうした磐之媛の嫉妬伝説なども紫式部は参考にしたかも。
物語の時代設定とされる村上朝の藤原師輔の二女で、貞観殿の尚侍登子は、晩年の村上天皇から寵愛されました。その姉の中宮安子が、この登子にはげしく嫉妬したことは、『栄花物語』や『大鏡』などにも見えます。その安子は、垂れ目でかわいらしかった従妹の宣耀殿の女御芳子に対してもたいそう嫉妬しています。桐壺の更衣はこの登子と芳子とを合わせたようなイメージもあります。安子は現実に弘徽殿に住んでいました。
なお、漢の高祖の戚夫人(せきふじん)は、高祖との間に趙王如意をもうけ、この如意を恵帝が太子であったころ、これを廃して如意を代りにと図りました。しかし事の成らないうちに高祖が亡くなり恵帝が即位。恵帝の母の呂太后は報復のため、戚夫人の手足を断ち、目や耳をとり、声を断つ薬を飲ませて、最後には厠の中へ投げ入れて、人彘(じんてい)(豚)と人々に呼ばせたうえ、如意も呼びつけて毒殺したということです。呂太后の嫉妬の怖さはきわ立っていますね。
以上のような嫉妬深い内外の后妃たちが、悪后と称される弘徽殿の女御のモデルになっているようです。しかし特定の人物と直結するものではなく、読者にそうではないかと想像させる手法をとっているところが、紫式部らしい創作手法なのです。
桐壺の更衣のモデル
前稿35に弘徽殿の大后のモデルについて述べましたが、そのモデルとされる村上天皇の中宮安子にはげしく嫉妬をされた実妹の貞観殿尚侍登子や、安子の従妹にあたる宣耀殿女御などが、更衣のモデルであったかも知れません。もっとも登子には子どもはなく、また芳子には二人の皇子(六・八の宮)がおりましたので、登子と芳子とを合わせると、桐壺の更衣のモデルになるようにも考えられます。
なお、呂太后にいじめ抜かれて殺された戚夫人などの生涯も参考になったことでしょう。もっとも戚夫人への報復は高祖の死後のことです。呂太后は弘徽殿大后のモデルにはなったでしょうが、その嫉妬の対象は、更衣というよりむしろ桐壺院崩御後に、東宮(冷泉院)を擁立する藤壺中宮や光源氏に向けられている物語に反映しているとも言えます。
『続日本後記』承和六年(839)六月三十日条には、「女御藤原朝臣沢子卒。(中略)寵愛之隆(さか)ンナルコト独リ後宮ニ冠タリ。俄(にはか)ニ病ミテ困篤(こんとく)ス。之(これ)ヲ小車ニ載セ禁中ヨリ出(い)ダス。纔(わづか)ニ里第ニ至リ便(すなは)チ絶ユ。天皇之ヲ聞キテ哀悼シタマフ。中ノ使ヲ遣ハシテ従三位ヲ贈ルナリ」と見えます。この仁明天皇女御沢子の薨去の記事は、桐壺の更衣のそれとよく似ています。この沢子は北家藤原氏の支流の、従五位下紀伊守総継(贈太政大臣)の娘でした。桐壺の更衣は故按察大納言の娘でしたが、それよりもずっと低い身分の出身です。
沢子は仁明天皇の寵愛を受け、三皇子・一皇女(宗康・時康・人康・新子)を生みました。そのうちの仁明帝第三皇子の時康親王が元慶八年(884)に即位した五十八代光孝天皇です。母の沢子は贈皇太后となり、外祖父総継は贈太政大臣とされました。何やら光源氏が実子の冷泉院の即位によって、遂には六条院の院号を授けられたのと通ずるところがありますね。
紫式部観音化身説
『源氏物語』のすぐれていることを強調して、女性の紫式部が一人でこんな大作品を書けるはずはない。これは観音菩薩などが、式部に変身してこの物語を書き、その教えを説いているのである。紫式部は実は観音様なのだという説です。
平安時代末期、末法思想なども流布して、仏教の信仰が盛んになった時代に考えられた説なのです。嘉応二年(1170)に書かれたことになっている『今鏡』に、紫式部が女の身で、あれほどの源氏物語を書いたのは、妙音菩薩や観音菩薩などが女性に変身して、仏法を説いて、人を導いているのだろう、と記されたのが、この説の最初です。
つづいて『無名草子』(1200年ごろ成立)に、「この『源氏』作り出(い)でたることこそ、思へど思へど、この世一つならず(前世の因縁にもよろうかと)めづらかにおぼほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりける験(しるし)にや(仏に祈願したお蔭)とこそおぼゆれ」とあります。仏が変身したわけではありませんが、仏の力で『源氏物語』は出来たもののようです。
さらに『源氏物語』の注釈書である『河海抄』(1362年ごろ成る)にも石山寺に参籠して、観音菩薩によい物語が書けるようにとお祈りをしていたところ、十五夜の月が湖水に映って心は清澄。突如「須磨」巻の着想を得たので、仏前にあった『大船若経』の料紙を借用して、これを書いたとあります。この場合、観音様が紫式部に乗り移ったようでもあります。
紫式部を観音の化身とする考え方は、能作者によって一般化され、『源氏供養』には、「紫式部と申すは、かの石山の観世音」とあります。観音様は現世の利益(りやく)をかなえてくれるといいます。『源氏物語』を読めば、何かご利益があるようですね。
光源氏の経済基盤[2]
光源氏に限らず、夕霧でも薫でも、給料を支給されたとか、金銭のやり取りをしたとかといった記事は、『源氏物語』のどこにも書かれていません。これは宮仕えをする家司や女房たちについても言えることで、一体当時はどういう経済的な仕組みになっていたのでしょうか。
それは一言でいえば、荘園経済であったということになります。たとえば光源氏は須磨に一時身を隠しますが、その瀟洒(しょうしゃ)な住居は、「近き所々の司(つかさ)召して、然るべきことどもなど、良清の朝臣、親しき家司にて、仰せ行な」って、あっという間に出来上がるのです(「須磨」)。
夕霧が落葉の宮(柏木未亡人)の母君である一条御息所の葬儀の援助をしたときは、「近き御庄の人々召し仰せて、さるべきことども仕うまつるべく、掟(お)きて定めて出で給」うたともあります(「夕霧」)。
薫は宇治の八の宮邸の後事を託されると、「このわたり近き御庄どもなどに、そのことどもも宣ひあづけなど、まめやかなること(生活上の手当て)どもをさへ定め置き給」うたとあります(「早蕨」)。
『源氏物語』には、二十例ほどの庄園の記事があります。庄(荘)園とは貴族の私的な所有地です。当然そこで働く農民たちも、庄園の持ち主、つまり貴族たちの財産となります。
庄園からは米や布や木材や炭など、あらゆる生活物資を徴集することができます。しかも光源氏や夕霧や薫ら上流貴族の庄園では税金を免除されることが少なくありません。したがって庄園は彼らの金庫であり、財布でもあります。
光源氏らが私的に遠出をする所は、みな近くに自分の庄園がある土地と決まっています。その庄園から衣食住の補給を受け、時には葬儀などの行事に至るまで、全ての支援が受けられるので、お金はほとんど必要ないわけです。
物語の登場人物
『源氏物語』に登場する人物は、四百三十余人に達しています。単に子ども何人とか、娘が三人とか、数人の従者や家司といった記述もありますから、そういう人物をも数え上げたら、もっと多人数になるでしょう。
その主要人物の性格描写は精彩で、個性的であり、遺伝の事実にまで注意しています。たとえば光源氏の性格は、父の桐壺帝の性格と母の更衣の性格を受けて、色好みの性格である一方、内心はまじめで、芸術的才能も豊かであるとされています。また頭の中将の負けぎらいで、しかも熱情的な性格が、その娘の雲井の雁や柏木に反映していたり、一方いささか滑稽味のあるところが、近江の君に顕著に伝わっていることがわかります。
夕霧はまじめな性格だと思われていたのに、三十歳すぎになって落葉の宮に心を奪われてしまいます。父の源氏の遺伝もありますが、端厳な母の葵の上の影響ということも考えられているのでしょう。
源氏の孫の匂宮は好色な性格とされ、また柏木の子の薫も、優柔不断である一方、相手に執着する性格とされています。これも性格の父子相伝といえます。
このように各人物の性格をきわ立たせる紫式部の筆法はみごとと言うほかありません。脇役についても、たとえば、紫の上の飼っていた雀の子を逃がしてしまったいぬきは、その後も紫の上の人形をこわすなどして、いたずらっ子として統一的に描かれています。
その他、光君のマザー・コンプレックスの傾向も活写。才芸などについても源氏は琴(きん)の名手とされ、蛍兵部卿の宮は琵琶、柏木の弟の紅梅の右大臣は唱歌にすぐれ、大宮、その子の頭の中将らは和琴、明石入道、その娘の明石の御方は箏の琴、柏木、その子の薫は笛の名手というように楽音も一家に伝統的に伝わっていると、式部は個性的に書きわけているのです。
物語に登場する敵役(かたきやく)
物語や小説にはしばしば敵役、つまり憎まれ役が登場します。『源氏物語』では、なんといっても弘徽殿の大后にまさる敵役はおりません。彼女は右大臣の娘で、桐壺帝の東宮時代からの女御で、朱雀院・一品宮・斎院を出生。あとから参内した故大納言の娘の桐壺の更衣に君寵のあついのを嫉妬し、その関係で幼少時代から源氏を憎みつづけました(桐壺)。
殊に妹の朧月夜との密会発覚の際は、源氏を非難、官職剥奪を朱雀院に進言し、実現(賢木・須磨)。源氏は須磨・明石に流浪。その帰洛に猛反対しました。源氏の帰京後、朱雀院退位の際には大きなシヨックを受け、やがて病気で衰弱。源氏の流浪中には冷泉院を東宮からしりぞけ源氏の弟の宇治八の宮の擁立を図って失敗しています(橋姫)。
源氏は晩年の大后を見舞い、厚遇しますが、后は源氏が天下を掌握する運命だったと悟る一方、加齢に及んでやかましさもひどくなります(少女)。源氏三十九歳の九月に死去(若菜上)。大后は源氏を政敵として暗躍するために、始終憎まれ役として描かれています。
この大后の悪どさには及びもつきませんが、紫の上の継母にあたる式部卿の宮の大北の方も、嫉妬と呪詛(じゅそ)に終始した女性です。紫の上の母もそのために早く亡くなりました(若紫)。源氏の須磨流謫の折には、紫の上の不運を口にし(須磨)、髭黒大将と玉鬘の結婚の件でも、源氏の仕打ちだと呪いました(真木柱)。孫娘の真木柱の婿に迎えた蛍兵部卿の宮に対しては、その不熱心を恨みました(若菜下)。弘徽殿の大后が源氏の敵役とすれば、こちらは主として紫の上の敵役ということができます。
なお、末摘花の叔母なども、受領の妻になったのを非難された、その仕返しに、落ちぶれた末摘花を皮肉り、九州へ連れて行って、娘たちの教育係にしようと、執拗に迫ります(蓬生)。この叔母も、零落しても気高さを失わぬ末摘花に嫉妬する敵役に仕立てられているのです。  
 

 

女君たちの命日
『源氏物語』には開巻「桐壺」の巻からして、更衣の死やその母君の死が描かれ、以下夕顔(「夕顔」巻)・紫の上の祖母君(「若紫」巻)・葵の上(「葵」巻)・六条御息所(「澪標」巻)・藤壺(「薄雲」巻)・葵の上母の大宮(「藤袴」巻)・落葉の宮母の一条御息所(「夕霧」巻)・紫の上(「御法」巻)・女二の宮母の藤壺女御(「宿木」巻)・宇治の大君(「総角」巻)らの死が述べられています。
彼女たちのうち、亡くなった月日の記されているのを、早い順に並べてみます。
藤壺 三月(三十七歳)
大宮 三月二十日
桐壺の更衣 夏
藤壺女御 夏
紫の上 八月十五日
夕顔 八月十六日
葵の上 八月中旬
六条御息所 八月
一条御息所 八月下旬
宇治の大君 十一月中旬(豊明の夜)
以上によると、紫の上や夕顔・葵の上・六条御息所ら光源氏の主な妻室や愛人たちは、ほとんどが八月十五夜ごろの死去とされています。これはたぶん八月十五夜に月に昇って行ったかぐや姫のイメージに重ね合わせて、彼女たちが佳人で、薄命であったことを強調しているのでしょう。
藤壺は源氏の永遠の恋人ですが、義母であり、源氏の愛を受け入れるわけにはいかなかったのですから、他の恋人や妻室とは違う扱いになっています。桜の季節の臨終は、格段の美しい逝去を迎えたというべきでしょう。なお、薫の恋人の大君ははなやかな豊明の日に亡くなっていますが、寒い十一月で、世俗のにぎわいをよそに、凛(りん)とした清らかな臨終を迎えた印象を受けます。紫式部が女君たちの命日にまで気配りをして書いていたことがよくわかるのです。
平安貴族の住居
平安貴族の典型的な住居は寝殿造りです。寝殿を中心に東西北の対屋(たいのや)・泉殿・釣殿(つりどの)等があり、寝殿と対屋以下とは渡殿(わたどの)(廊)で結ばれています。
東西両対屋と池に突き出る釣殿及び泉殿とは回廊で結ばれ、その回廊の中心部に中門があります。中門付近に車宿(くるまやど)り(車庫)があり、西の対の後方には雑舎(使用人の住居・年貢や特産品などを入れる建物など)が置かれました。
これらの外側にはさらに築地(土塀)が築かれ、その東西南北の各中心に総門が設けられました。
ふつう左右対称的に整然と築造されることが多いが、実際には地画や泉(池)の位置などで、必ずしも左右対称とは限りません。
寝殿造の特色は、各々の建物を廊(渡殿)でつないでいること、中門廊のあること、寝殿の正面に池を伴った庭を造り、遣り水(やりみず)(小川)を引き入れること、などがあげられます。
公卿など上流階級の住宅の敷地は一町四方(約四千五百坪)がふつうですが、光源氏の六条院のように二町四方の大邸宅もあり、その立地条件や邸主の地位、貧富の差などにより規模はさまざまでした。
寝殿は、寝る所の意ではなく、主人の居間、客人応接の間のことです。その構造は五間四面・七間四面などいくつかあります。全て板敷きで、中央の母屋、その外側に廂(ひさし)・さらに孫廂のある場合もあり、おもてに面して簀子(すのこ)があります。
簀子には高欄(こうらん)(手すり)をめぐらし、柱の間に格子(こうし)、四隅に妻戸(つまど)があります。屋根は桧皮葺(ひわだぶ)き。南に向き中央に五段の階段があります。庭に掘った池には中島を築き、遣り水を流し、前栽(せんざい)を植えました。
十円玉の裏には平等院の寝殿と東西の対屋が彫られています。また宇治上神社の本殿は寝殿造りの遺構として有名です。なお、お寺の構造に寝殿造りの面影が残るものも少なくありません。
宇治の八の宮の出家
結論から述べれば、八の宮が仏事に専念できたのは、大君・中君の世話を薫に依頼することができたからです。それまでは、八の宮は出家を望みながらも、姫君たちに引かれて、これを果さず、いわゆる俗聖(ぞくひじり)[優婆塞(うばそく)=在俗のまま仏門に入って修行する男子]として暮らして来たのです。
八の宮は光源氏の異母弟(御母は大臣家の女御)ですが、早く両親に死別したために、しっかりした後見もなく、学問や処世の心得もおぼつかない中で、音楽にはすぐれていました。
冷泉院が東宮のころ、弘徽殿大后の画策でこの八の宮を東宮に立てようとしましたが、光源氏が明石から帰京後は沈倫。京都の邸まで火事で焼け、宇治の山荘に移り住みました。
頼りに出来たのは、北の方(父は大臣)だけでしたが、その北の方が中君出産の際、「ただこの君を形見に見給ひて、あはれと思せ」と遺言して先立ったので――このことのあったのは「柏木」の巻<源氏四十八歳>の時代に当ります――、そこで出家の本意を強く抱いたのですが、残された姫君たちのことを思うと、これを遂げることはできなかったのです。
その後、宇治の阿闍梨(あじゃり)の引き合わせで、来世に深く心をかけている薫が八の宮の許に訪れるようになりました。それに伴い、冷泉院からの御使いも立ち、さびしい山里にも人が出入りするようになりました(以上「橋姫」巻)。
三年ほどして、八の宮は薫の誠実な性格に引かれ、後生のさわりになる姫君たちの後見を薫に頼みました。薫二十三歳の秋半ば、八の宮は山寺に参籠、その念仏結願の日から病んで、八月二十日ごろの夜、亡くなったのです(「椎本」巻)。
八の宮は姫君たちを見捨てたわけではありません。出家はとげずに、俗聖として生涯を全うしました。
読まれつづけている訳
それは何よりも『源氏物語』が、読んで面白いからです。紫式部が亡くなって(1014年)間もなくの1021年に、『更級日記』の作者である菅原孝標(たかすえ)の娘は、叔母から『源氏物語』をもらって、「几帳の内にうち臥して(中略)、昼は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、灯(ひ)を近くともして、これを見るより他のことはな」かったと記しているほど、『源氏物語』に熱中しました。
現代では各地で古典講座が盛んですが、長期間にわたりおおぜいの聴講生が参加しつづけるのは、源氏物語講座をおいて他にありません。
『源氏物語』には、恋愛・人生・生死・芸術・学問・宗教などの、私たちにとっての根源的な問題が追求されています。いわば人生の真実が述べられているわけで、それが私たちを感動させ、興味をわき立たせてくれるのです。しかもそれらのテーマは、ストーリーの展開とともに深化・発展しています。読者はこれからどうなるのか、どう解決するのか等々の関心を最後まで抱きつづけ、ストーリーに引きずり込まれて行くのです。多彩な登場人物の中には自分を重ね合わせることのできる場合もあります。
その内容的な面白さは、流麗な文体(いわゆる「すべらかし」の文体)で綴られ、一種のリズム感まで生じています。心理描写や聴覚描写もすぐれ、詠嘆的な「もののあはれ」の情調で統一されています。つまり内容だけでなく表現にも魅惑されるのです。
西欧の文学史では、紫式部は『ドンキホーテ』(1605年 前編成立)の作者・セルバンテスにつぐ、世界的作家として評価されているということです(ドナルド・キーン氏による)。それは『源氏物語』が読んで面白いからこその評価でしょう。
なお、外面的な要因として、いわゆる定家などの和歌の家で『源氏物語』が大切にされて来たことがあげられますが、これについてはまた別の機会に述べたいと思います。
注釈書
『源氏物語』の注釈書は平安時代末期ごろからのものが見られます。その最古のものは『源氏釈(げんじしゃく)』、別に『伊行(これゆき)釈』とか『釈(あらわかし)』とも言われます。
本書は三蹟の一人藤原行成の六代の孫である世尊寺伊行(――1175年)の著。物語の本文を引抄しながら、詩歌や故事などの引拠・出典を主として明らかにしようとしたもの。文法や語法などの説明がないのは、時代が物語本文の源泉を求めるのに専らであったからです。
注釈としてはきわめて簡潔ですが、藤原定家の『奥入(おくいり)』を始めとする諸注釈書にひんぱんに引用されるなど、注釈史上の価値が大きいとされています。
たとえば桐壺の更衣が亡くなったのち、女房たちが更衣を恋いしのぶ条で、「『なくてぞ』とは、かかる折にやと見えたり」とありますが、その「なくてぞ」は、「ある時はありのすさび(生きているというだけで)憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」の一首に拠っていると、最初に指摘しているのが『釈』なのです。もっともこの「ある時は」の歌の出典は不明で、『釈』にはその出所が未詳な歌をおうおうあげているところもあります。ともあれ、『源氏物語』本文の拠りどころを明らかにしようとしたところに、『源氏物語』の奥深さに迫ろうとした伊行の努力が見られるわけです。
『釈』の本文には、略本や増補本などがあり、専門家によってそれらの関係がしだいに明らかになって来ています。『源氏物語大成』巻七や、『国語国文学研究史大成・源氏物語上』などに『釈』は収められています。
「かがやく日の宮」巻
藤原定家の『源氏物語』の注釈書である『奥入(おくいり)』に、「空蝉」巻は、
二の並びとあれど、帚木のつぎ也。並びとは見えず。
一説には、
二かがやく日の宮(この巻なし)
並びの一帚木(空蝉は奥に籠めたり)
二夕顔
とあるのが初見です。
「並び」とは、本筋の巻に対して、時間的に副筋の巻が平行していることを言います。したがってこの『奥入』の文章は、前半は「空蝉」の巻は、二(の「帚木」)の巻の「並び」というが、実は「帚木」の巻の次巻であるということで、これは現在の『源氏物語』の巻順を容認した説であります。
つぎに一説として、二の巻は「かがやく日の宮」であり、その並びの一が「帚木」巻で、「空蝉」は「帚木」巻内に書きこめられていて、一巻をなしていなかったということ。「かがやく日の宮」の並びの二巻目は「夕顔」であったということを伝えています。
つまり『奥入』の一説によると、『源氏物語』は、一「桐壺」、二「かがやく日の宮」、三「帚木」、四「夕顔」という構成であったということになります。
そこで学者の中には、たとえば「かがやく日の宮」巻の存在を肯定し、そこでは女主人公藤壺を特に印象的に描き、六条御息所や朝顔・花散里らへの源氏の恋物語や正妻葵の上の冷ややかな情態も語られていた等と説く向きもありました。
もっとも、『奥入』自体に「かがやく日の宮」は「この巻なし」と注記されています。それに、「桐壺」「帚木」、「空蝉」「夕顔」、「若紫」「末摘花」…と二巻一対の巻名で構成されている中に、「かがやく日の宮」という、長ったらしい名称の巻が入っていたとは到底考えられません。「かがやく日の宮」の巻は『奥入』の注記のように、はじめから存在していなかったと考えてよいでしょう。
「澪標」の巻名由来
「澪標」は「みをつくし」と読みます。すなわち「水脈(=水緒、みを)つ串(くし)」の意で、流れのある所、つまり船の通り路に、水先案内のために、水路の標識としてさす杭(くい)を言うわけです。特に水路の多い難波のものが名高く、この語に和歌で、「身を尽し」を掛けて使われることが少なくありません。
『百人一首』にも入っている、元良親王が宇多天皇の女御の京極御息所との不義を世間で噂された折の歌は、「みをつくし」をよみ込んだ代表作の一つです。
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
(会えずに悩み尽したので、もう何を言われても同じこと。この身を滅ぼしてでも、あなたに会いたいと思う)
光源氏や業平にも劣らぬ、無理な恋に命をかける親王の激しい恋情が伝わって来ます。
「澪標」巻では、光源氏が難波の住吉神社へ都へ帰還できたお礼参りに行った折、たまたま住吉参詣に来た明石の御方一行が、源氏らの威勢に圧倒されて引き返します。それをあとで知った源氏が、御方への恋情をつのらせ、難波の地から先の元良親王の歌を想起して、
みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり会ひぬる縁(えに)は深しな
(身を尽して恋いこがれている甲斐があって、こんな所にまで来てめぐり会った二人の縁は深いことであるよ)
と書いて御方へ送ります。御方の返歌は、
数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ
(いやしい身とて、何ごとにも甲斐のない私ですのに、どうして高貴なあなたを身を尽すほど恋い親しんでしまったのでしょう)
というので、こちらにも「みをつくし」がよみ込まれています。この両首が巻名の由来となったのです。
物語に描かれた病気
「近代文学は病気から始まる」と言った評論家がいたそうですが、それは『源氏物語』でも同じです。「若紫」巻にわらわやみを患った光源氏は北山の聖のもとを訪れ、加持祈祷をしてもらいますが、その治療のあい間に、生涯の伴侶となる幼女の紫の上に出会うといった事例です。
(1) このわらわやみは、瘧(おこり)・「えやみ」ともいい、隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリヤを指します。当時の京都はマラリヤ蚊の発生に都合のよい気候・風土等であったと言われます。
(2) しはぶきやみ「夕顔」巻に、夕顔急死のショックで寝込んでいる源氏を見舞う頭中将に、源氏が「この暁よりしはぶきやみにや侍らむ、頭いと痛くて苦しければ云々」と欠勤の言い訳けをする条があります。咳病(がいびょう)とも呼ばれ、咳と頭痛を主要症状とする気管支炎や流行性感冒に相当するものです。
(3) 風病(ふびょう)風・風の病・みだり風などとも呼ばれます。「宿木」巻に、明石中宮が「御かぜにおはしましければ」などとあります。風邪のほか、中風などの神経系疾患をもさしています。
(4) 脚病(かくびょう)あしのけ(脚の気)とも。かつけ(脚気)のこと。「夕霧」巻に「脚の気ののぼりたる心地す」等とあります。
(5) 腹の病「空蝉」巻に「腹を病みて」等とあります。腸炎や下痢・便秘などの類です。
(6) 胸の病胸のけとも。「若菜」下巻で、紫の上が「胸はときどきおこりつつ」等とあります。胸部全般にわたる種々の病気が含まれ、また結核性疾患もさします。
(7) 歯の病「賢木」巻に冷泉院のみそっ歯の記事があります。また「総角」巻に「弁の歯はうちすきて愛敬なげに」とあるのは、年老い、歯の脱けた状態を言っています。
(8) 目の病「明石」巻に朱雀院が夢で桐壺院ににらまれて、「御目わづら」ったとあります。ヒステリー性失明症といわれます。
要するに、現代の私たちと同様、『源氏物語』の時代にも、沢山の病気があったということがわかります。
紫式部の教養
村上天皇の宣耀殿女御芳子(―967)は姫君のとき、父の小一条左大臣師尹(もろただ)から、「一つには御手を習ひ給へ。つぎには琴(きん)の御琴をいかで人に弾きまさらむと思せ。さて『古今』の歌二十巻を皆うかべさせ給はむを御学問にはせさせ給へ」と言われたといいます(『枕草子』)。当時の姫君は、書道と音楽と和歌をマスターすることが教養の基本であったことがわかります。
『源氏物語』でもこの三つが教養の基本であったことは明白ですが、女性の場合、裁縫や染色の技術なども重視されています。「帚木」巻の雨夜の品定めに登場する左馬頭の妻であった指食い女は、染色は秋の女神の立田姫に、裁縫は七夕の織姫にもたとえられるほどの上手であったと称えられています。
紫式部も自室で、「内匠(たくみ)の蔵人は長押(なげし)の下にゐて、あてきが縫ふものの、かさね・ひねりなど、つくづくとしゐたるに」(『日記』寛弘五年十二月条)と記していることから推しても、裁縫には相当自信があったことでしょう。
管絃(音楽)の場面は『源氏物語』の至る所に記されていますが、『紫式部集』には知人から「参りて、御手より得む」と、筝の琴の教授を依頼されたことが記されています。彼女の演奏の腕前が想像されます。
式部の和歌の実力が抜群であったことは、『後拾遺集』以下の勅撰集に六十一首も採られており、『源氏物語』中の約八百首も含めて、千首近くの詠草が残されている事実によっても証明されます。和泉式部を「まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ」と評し、赤染衛門を「われかしこげに思ひたる人」とも評しています。(『日記』)。
紫式部は囲碁や漢詩文にもすぐれていました。あの高名の清少納言を「真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」と批判しています(『日記』)。漢詩文に断然自信のあったことがよくわかりますね。
古注の集大成『河海抄』
江戸時代の『源氏物語』の注釈書を新注というのに対して、室町時代以前の注釈書を古注と呼んでいます。国研Web文庫45にも述べましたが、『源氏物語』の注釈書の最初は、世尊寺伊行の『源氏物語釈(しゃく)』です。その後藤原定家(『奥入』)・源光行(『水原抄』『原中最秘抄』)・素寂(『紫明抄』)・長慶天皇(『仙源抄』)らの注釈書が書かれました。
その初期の業績を受けて、それらを集大成した一冊が源(四辻)善成の『河海抄』二十巻です。善成(1326−1402)は博学で有名な順徳天皇の曽孫。文和五年(正平十一年、1356)源姓を賜りましたが、祖父の善統親王が四辻宮と号したので、四辻を名乗りました。永徳元年(弘和元年、1381)従一位、応永二年(1395)左大臣、同年出家法名常勝。歌人としても著名です。
『河海抄』は一名『一葉抄』ともいい、貞治(1362−68)の初めごろに、足利二代将軍義詮の求めによって著述されたものです。善成は光源氏の家臣の惟光・良清を模して、自分を「正六位上物語博士源惟良」と署名しています。
本書の冒頭には、料簡の部を設け、物語創作の由来や、作者の伝記などを記述。注釈では本文に対して語句の解釈や、引歌・故事の考証をくわしく行ないました。博引傍証で、当時の風習の説明など、まことに有益です。
本居宣長は、『源氏物語玉の小櫛』(寛政五年〈1793〉起稿)の一の巻「注釈」に、「注釈は、河海抄ぞ第一の物なる。それよりさきにも、これかれとあれども、ひろからずくはしからざるを、かの抄は、やまともろこし、儒仏のもろもろの書どもを、ひろく考へいだして、何事も、をさをさのこるくまなく、解きあきらめられたり」と絶賛しています。
なお、善成の手によって、『河海抄』中の秘義秘説三十二条を集めた『珊瑚(さんご)秘抄』一冊があります。  
 

 

世界文学史上の『源氏物語』
『源氏物語』(寛弘五年〈1008〉成立)が海外に紹介された最初は、明治十五年(1882)刊の末松謙澄訳(「絵合」まで)ですが、広く世界に知られたのは大正十四年(1925)から昭和五年(1930)にかけて刊行されたアーサー・ウェーリーの英訳“The Tale of Genji”六冊によってです。ドナルド・キーン氏によれば、翻訳の第一巻が出ると、多くの関心が寄せられ、ウェーリーに会う人々は、「すべてのイギリス人が、あなたを崇拝するでしょうね」と言ったといいます(『世界の源氏物語』二〇〇七年ランダムハウス・講談社刊)。これを契機として『源氏物語』は高い評価を受けることになり、現在の西欧の文学史での紫式部の評価は、『ドン・キホーテ』(一六〇五年刊、続編一六一五年刊)の作者のセルバンテスにつぐものとされているそうです(同上)。
『源氏物語』は虚構によって人生の真実を述べるという小説(novels)の手法をとった世界最古の長編小説です。『源氏物語』以前の唐代(618−907)小説は、たとえば陳鴻の『長恨歌伝』に見るようにごく短編で漢文の作品でもあります。また九世紀に初めてアラビア語で書かれた『アラビアン・ナイト』は、説話の集成で、全編を貫く小説的な構想がありません。
中国で口語で書かれた(=白話体の)小説は、一三九八年成立の『三国志演義』や『水滸伝』まで待たなくてはなりません。また西欧では、イタリアのダンテの『神曲』(1304成立)や、イギリスのシェークスピア(1564−1616)、先述のセルバンテスらの登場が小説のさきがけと考えられます。
こういう世界的名著の位置づけから見ますと、『源氏物語』の小説的独創の偉大さがよくわかるでしょう。質量ともに断然諸国の作品を圧倒して出現した『源氏物語』は、外国の古代文学が男性的な精神であるのに対して、女性的フェミニズムの精神を発揮している点でもユニークなのです。
紫式部の学問観
紫式部の学問観は、「少女」の巻で大学教育を夕霧に受けさせた条によく述べられています。夕霧が十二歳になり元服するとき、親王の子は四位に、一世の源氏の息は五位に叙する慣例を破り、六位に叙して、浅黄(うす緑)の袍(ほう)で、もと殿上童でしたから、再び殿上の間に出仕できる、還(かえり)昇殿をするということにしたのです。そうしたのは、大学での学問を学ばせるためです。
源氏は二条の東院に大学寮の博士や教官を招き、字(あざな)を付ける儀式や入学式を行ない、『孝経』や『論語』『史記』以下の漢籍を学ばせます。聡明で努力家の夕霧は、大学寮での寮試に合格して、擬文章生となり、翌春には式部省の課試をとき、文章生(進士)となり、秋には晴れて五位(紅色)に叙せられ、侍従に任命されます。
当時の貴族の子弟は元服の折、なんなく四位・五位を授けられるのですから、苦労して学問などする者はほとんどおりませんでした。源氏自身も父の桐壺帝から習ったものの、根本から学習したわけではないと謙遜しています。そして「はかなき(学問のない頼りない)親に賢き子のまさる例は」めったになく、それが子々孫々につづいていけば、将来は心細い状態になってしまうだろうと心配します。
つぎに、気ままに遊んで、思いのままの官職位を授けられて昇進しても、権勢におもねる人々は、内心鼻であしらいながらも、お追従を言います。しかし時勢が移って、頼っていた人が亡くなったりすると、人から軽んぜられても、学問のない悲しさ、なんの対応もとれずに没落すると語っていますが、これは当時の貴族社会の人々の怠慢さへの紫式部の痛烈な批判であるといえます。
結論として、式部は「才をもとしてこそ大和魂の世に用いらる方も強う侍らめ」と述べています。才は漢才(学問)で、大和魂はその学問をもとに発揮する実務の才を言います。学問があるからこそその実務の才が世間から重んじられると言っているのです。
光源氏薨後の夫人たち
光源氏は自分が須磨に退居する際には、親しい家司で、時勢になびかぬ人々だけを、二条院の留守役にしたといいます(須磨)。また自分の侍女をはじめ、万事を皆紫の上に引きつぎ、荘園や牧場をはじめ、しかるべき家屋(二条院など)や所領の権利証なども全て紫の上へ譲り、それ以外の御倉町(倉庫)や納殿(日用品等の保管庫)の管理は、家司と少納言の乳母に託したと記されています(同上)。
一時的に都を離れるときでさえ、源氏はこんなに紫の上の生活が心配ないように配慮しているのです。ましてや自分の亡きあとのことはいっそう慎重に考えたことでしょう。
幸か不幸か、紫の上は源氏に先立ち亡くなってしまいました。もし源氏が先立つことになった場合は、養女の明石中宮や中宮の子の匂宮の世話を受けたことでしょう。臨終の際、明石中宮が「(紫の上の)御手をとらへ奉りて、泣く泣く見奉り給ふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見え給」うたとあります(御法)。なお、ひそかに思慕する夕霧も紫の上の世話を熱心にしたことでしょう。
夫人ではありませんが、その明石中宮は、裳着のとき、着裳役を秋好中宮に依頼。源氏が「思し棄つまじきを頼みにて」お願いしたと言っています(梅枝)。また匂宮も母中宮に孝養を尽すことでしょう。
中宮の実母の明石の御方は、おおぜいの孫宮たちの「御後見をしつつ、あつかひ聞え給へり」という後半生で、夕霧は「いづかたの御ことをも、昔(光源氏)の御心おきて(ご遺志)のままに、改め変ることなく、あまねき親心(公平な親孝行)に仕うまつり給」うたということです(匂宮)。
花散里は夕霧の養母であるうえ、姉が桐壺帝の麗景殿の女御で、家柄もよかったはずです。源氏の臨終をみとったのも彼女だったでしょう。二条の東院を遺産相続しています(匂宮)。
なお、女三の宮は父朱雀帝から三条の宮を贈られ、孝行息子の薫の手厚い保護を受けました。源氏の夫人たちは皆しあわせな老後を送ったのです。
物怪(もののけ)
最近も「もののけ姫」と題したアニメ映画が上映されたりしましたが、王朝時代の物怪は、一般の人には目に見えない魔物や妖怪(ようかい)を言います。また人間の怨霊(おんりょう)、つまり死霊(しりょう)や生霊(いきりょう)をもさします。
これらの妖怪や怨霊は、健康な人に取りつくことはありません。精神や身体の疲れているときとか、お産のときなどの弱目(よわりめ)に、取りつくことが多いのです。
お産や病気で苦しんでいるのは、だいたいこの物怪がその人に取りついて、悪さをしているものと解釈されます。
葵の上が夕霧出産の際、苦しんだのは、葵祭の車争いで負けた六条御息所の怨霊(生霊)が葵の上に取りついていたからなのです。生きている御息所から生霊が抜け出して、葵の上に取りついたというわけです。
夕顔が某の院で急死したのは、この院に住みついていた魔物に取りつかれてのことであったとされています。きっと魔物が弱々しく、可憐な夕顔に魅入ったのでしょう。
物怪を退治するのは修験道の行者である験者や高徳の僧侶たちです。たとえばわらやみに悩んでいた光源氏は北山の聖の加持、祈祷で回復しました。重い病人などの場合は、まじないや祈祷によって、その病人に取りついている物怪を、よりまし(寄呪・神子・託人)に移します。よりましは催眠術などに反応しやすい童女が一般的です。魔物を退散させるときには、験者しか見ることのできない護法童子という神童も使うとされています。
物怪の乗り移ったよりましは、我を忘れ、物怪そのものとなって、泣いたり、わめいたり、狂ったりして、自分の正体を明かしたり、病人に取りついた理由や、これこれのことをしてくれれば去って行くなどと告げます。
そこで験者のまじないによって物怪がよりましからも退散すれば、病人は回復するというわけです。最後によりましにも加持などすると、よりましも正気に戻って、その気分もさわやかになるのです。
「宿木(やどりぎ)」
『源氏物語』第四十九巻は、「宿木(やどりぎ・寄生とも)」と言います。
この巻では、中の君が匂宮の皇子を懐妊。その匂宮は夕霧の六の君と結婚したため、中の君は宮に不信感を抱き、その中の君にともすれば薫が近づきます。せっぱつまった中の君は、異母妹の浮舟のことを薫に語ります。
晩秋薫は宇治を訪ね、八の宮や大君の菩提を弔うために、山荘の寝殿を阿闍梨の山寺の御堂に移築する指図をして帰京します。途中、深山木に這いかかる「こだに」を手折って、「宿木と思ひ出でずは木の下の旅寝もいかにさびしからまし――昔、宿ったという思い出がなかったならば、この深山木の下(宇治の山荘)での旅寝もどんなにさびしいことでしょう」という歌を添えて中の君に贈りました。ここから当巻の「宿木」の名が出ました。以上が本巻の前半の話です。
ところでふつう「宿木」というのは、他の樹木に寄生した木で、「ほや」と言われるものや、広葉樹に寄生するヤドリギ科の常緑低木を指します。もっともこの「宿木」巻では、八の宮邸の「いと気色ある深山木に宿りたる蔦(つた)の色ぞまだ残りたる。『こだに』など少し引き取らせて」、前述の歌を薫がよんだことになっています。のちにこれを見た匂宮も「をかしき蔦かな」と言っています。
「こだに」は、苦丹・苦肚・木丹等と書かれる「くだに」と同じものだとすると、これまた定説はなく、これはボタン・リンドウ・ホホズキなどと言われていますから、「宿木」巻の「こだに」とは違うことになります。
賀茂真淵などは、「こだに」は、「これをだに」の本文の間違いであると説いています(『源氏物語新釈』)。また一条兼良は「こだには木に付きたる虫の名也」とも言っています(『花鳥余情』)。
ともあれ、この「宿木」は深山木にからみついた「蔦」であったことは確かで、その光景から宇治山荘に宿った薫自身の姿を重ねて合わせているのです。
女君たちの魅力
○ 明石の御方 自分の立場(出自・身分など)を客観的に見る賢さがある。源氏への思いや、わが子の出世・一家の繁栄のために自己を抑制、謙虚に生きた。
○ 朝顔 源氏の求愛を浮薄なものと否定。独身でとおした気高さ。
○ 浮舟 はじめは薫と匂宮との間で翻弄されたが、入水後助けられてからは、自分の生き方を決めて、強く生きて行く。
○ 空蝉 自分の分際(身分・年齢・容姿)を考えて、一度は許したものの、その後の源氏の求愛を拒絶。自分の意思を貫いた。
○ 落葉宮 夕霧の求愛をかたくなに拒みつづけたが、周囲の希望もあって結婚、正妻となる。夕霧を引きつける高貴で、優雅な人柄。反面したたかな強さもある。
○ 朧月夜 朱雀院に愛されたが、最後まで源氏が好きだった。明るく、大肚。
○ 雲井雁 優雅な内大臣の娘であったが、出産後子育てに熱中。一時夕霧の愛を失う。無邪気で、ナイス・バディ。
○ 末摘花 ぶ器量で、頑固だが、亡父のいさめを守る。ブレず、誇りが高い。
○ 玉鬘 思慮深い。身のほどをわきまえ、源氏の求愛をさけ、髭黒と結婚して、しあわせな家庭を築く。
○ 花散里 地味で女性的な魅力は乏しいが、分をわきまえ、子育て上手。人柄もよい。
○ 藤壺 源氏との間に冷泉院をもうけるが、その後は冷泉院を守るために、源氏との愛を断った。自制心と判断力があった。
○ 紫上 才色兼備でありながら、控えめ。他の女君たちへの心配りもあり、源氏を支え、強く賢く生きた。女三宮の六条院降嫁の際には、動揺を隠して源氏を支援。
○ 夕顔 一見か弱く、無邪気だが、それなりの教養もあり、しかもコケティッシュである。
○ 六条御息所 教養が深く、自尊心の強い女性の典型。源氏への思いをうまく表せず、嫉妬・嘆き・怨念から物怪になった。屈折した思い、女心のやるせなさなどが読者を引きつける。
六条院
源氏三十五歳の八月に完成した本邸(「少女」巻)です。六条京極あたりに四町(一町は約四四〇〇坪)という広大な敷地をしめて造営しました。その一部には、旧六条御息所邸や紫の上の祖母が伝えた邸の土地なども含まれていたようです。
土地を四つに分けて、おのおの寝殿・対の屋を造り、それぞれ四季の趣をこらした庭園をしつらえ、妻や養女など親しい女性たちを好みに従って住まわせました。
辰巳(東南)の町=源氏と紫の上 春の山 五葉・紅梅・桜・藤・山吹・岩つつじ丑寅(東北)の町=花散里(のちに玉鬘も)夏の蔭 泉・呉竹・花橘・撫子・バラ・くだに未申(西南)の町=秋好中宮秋の林 紅葉・秋の野戌亥(西北)の町=明石の御方冬の林 松林・菊の籬(まがき)・柞(ははそ)原
この六条院のモデルは、『うつほ物語』「吹上」上巻に、紀伊国牟婁(むろ)の郡に、神奈備(かんなび)の種松が、今は亡き自分の娘の生んだ嵯峨の院の子である涼(すずし)のために、四面八町の内に四季をわけて住まわせたとあるのによるかとも言われています。
『源氏物語』の四季観は、四季折々の風情をめで、優美な「もののあはれ」の情趣を味わうところにあり、その理想的な姿が六条院の庭園でありました。その上これらの庭園は住む人があってこそ意味が生ずるのであって、たとえば六条院の春の庭も紫の上によっていっそう趣が増すのです。
この春夏秋冬の六条院の庭園の景勝を、趣味の限りを尽して楽しむのは光源氏であります。それは極楽浄土もかくやと思われるほどの景観であり、その上に成り立つ六条院は、光源氏の栄華の象徴でもあったのです。
女三の宮と柏木との関係を知った光源氏の対処
光源氏は四十賀のあと、兄朱雀院のたっての要請で、十五、六歳の院の女三の宮を正妻として迎えることになりました。宮は発育も不十分で、ひたすら子どもじみ、いたって小柄でありました。皮肉にも、その容姿は無類に愛らしく、その可憐な美しさが、かねて思慕しつづけていた柏木の心を盲目にし、やがては薫出生という深刻な事態にまで至るのです。
源氏四十七歳の四月の御禊前夜、柏木は小侍従の手引きで女三の宮に忍び逢います。女三の宮はこのとき、二十一、二歳。源氏との結婚生活は八年目に入っていました。
女三の宮は熱愛する柏木に対して、特に恋愛感情を示すこともなく、ひたすら源氏をおそれるばかり。同年六月に至り、懐妊を不審に思いながらも、女三の宮をあわれに思い、口に出しませんでしたが、翌朝柏木の文を発見、真相を知ります。
ここで源氏は、女三の宮の不用心を心中で批判し、文の発見者が自分であってよかったと考えます。同時に柏木の長年の思いがかなったことなどを、万一人目にふれることをも考えずに、はっきりと書いていることを批判します。
つぎに、后妃と臣下の関係は、天皇に仕えている者同志でのこと。女三の宮は自分の唯一の正妻で、これにかかわった柏木を批難。ここで父の桐壺院も源氏と藤壺との秘密を内心知りながら、知らぬふりをしていたのではないかと推測し、その因果応報におののきます。源氏はこの一件を表沙汰にしないことにします。手引きをした小侍従を叱ることもしません。
その後、女三の宮には父院を悲しませるようなことはしないようにと、それとなく説教。柏木にも宴席で、「さかさまにゆかぬ年月よ。老いはえのがれぬわざなり」と言ってじっと見つめます。柏木はこの一言で病床に伏せります。秘密を保ちながら、光源氏はチクリ、チクリと復讐をして行くのです。
紫式部の住居
紫式部の住居については、『源氏物語』の古注釈の代表である『河海抄』(四条〈源〉善成作。1362年ごろ成立)の冒頭の料簡(りょうけん。考察の意)に、
旧跡は正親町以南、京極西頰、今東北院向也、此院は上東門院御所跡也
と伝えているのが、唯一の記録です。
すなわち、紫式部の旧居は、正親町(おおぎまち)小路より南にあって、京極通りの西側にあった。その当時の東北院の向い側にあったが、この東北院は紫式部の仕えた上東門院彰子の住んだ御所のあとであるというのです。
そこは現在の地図にあてはめてみると、京都御所の東側に寺町通りが南北につづいていますが、これは昔の中川のあとであります。その京都御所の西側、北から三分の一ぐらいの所に中立売(なかだちうり)御門がありますが、この中立売通りを東側までのばして来れば、これがほぼ往昔の正親町小路にあたるでしょう。
京極通りは中川、つまり寺町通りの西側にあって、これは御所の南にある御幸町(ごこうまち)通りに重なるはずです。
つまり『河海抄』のいう「正親町以南、京極西頰(にしつら)」というのは、東に延長された中立売通りより南で、北に延長された御幸町通りの西側にあったということになります。そこは現在の梨木神社の西側の御所内であったことになりましょう。
最近は梨木神社東側にある廬山寺(ろざんじ。ききょうの花で著名)が紫式部の旧邸あとだと評判になっています。しかし当寺は寺町通りの東側にあって、昔は中川(寺町通り)から東側は洛外とされていました。式部邸は洛中にあった模様で(為時はみずからを「洛中泰適の翁」と称しています)、当寺が紫式部邸であったとは思われません。
物語に実在の人物が登場する訳
『源氏物語』は虚構の物語ですが、たとえば開巻「桐壺」に、
このごろ明け暮れご覧ずる、「長恨歌」の御絵、亭子院(宇多天皇)の書かせ給ひて、伊勢・貫之によませ給へる、大和言の葉をも、もろこしのうたをも、ただその筋を枕ごとに(桐壺帝は)せさせ給ふ。
とあります。宇多天皇(887年−97年在位)の筆になる「長恨歌」の御絵、それに付けられた伊勢(877年?−939年)や紀貫之(868年−946年)の画賛の和歌につけ、漢詩につけ、桐壺帝はもっぱら玄宗・楊貴妃の悲恋のことを明け暮れの話題にしている、というのです。つまり架空の桐壺帝ではありますが、宇多天皇や伊勢や貫之の作品を読んでいるのですから、ひょっとしたら桐壺帝は宇多天皇のお子さんである醍醐天皇(897年−930年在位)あたりがモデルになっているのではないかという想像が出来ます。
さらに「須磨」の巻には、光源氏が須磨の景色を上手に画いたところ、従者たちが、
このごろの上手にすめる、千枝・常則などを召して、作り絵仕うませらばや、と心もとながり合へり。
とあります。千枝や常則は村上天皇の天暦(947年−57年)ごろの高名の絵師です。村上天皇は醍醐天皇のお子さんです。桐壺帝や源氏は醍醐天皇や村上天皇の時代に実在しているかのように書かれているのです。
つまり実在の人物を物語に取り入れることによって、『源氏物語』は架空の物語ではなく、事実にもとづく物語である、本当にあった話なのだ、という現実感を読者に印象づけることになるのです。
なお、「宇治十帖」に特筆される横川の僧都は、紫式部と同時代の横川の僧都・源信のイメージとも重なります。これによって作中人物がよりよく理解されて、物語世界の奥行きを拡げる働きをしていると言えましょう。 
 

 

紫式部と藤原道長の関係
紫式部は寛弘二年(1005)十二月二十九日に、時の権力者左大臣藤原道長の長女の一条天皇中宮彰子に出仕しました。もっとも厳密にいうと、道長の北の方の鷹司殿倫子家の女房として迎えられ、中宮彰子の女房として仕えたのです。
『紫式部日記』寛弘六年(1009)夏条によると、式部が渡殿の局に寝た夜、一晩中道長に戸をたたかれたけれども、「恐ろしさに、音もせで、明かした」その朝に、
夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる
(一晩中水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口をたたきあぐねたことだ)
返し
ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし
(そのままではすますまいと熱心に戸をたたく水鶏〈道長様〉のことゆえ、戸を開けたらどんなに後悔することになったでしょう)
という歌の贈答が行なわれています。
同じ『日記』に、式部は道長から「すきもの」と言われたり、式部の気持ちしだいで愛してあげようといった類の贈答も見えています。
さらに後世のものですが、『尊卑分脈』には、式部一家の系図が載っており、式部につけられた注記の中に「御堂関白道長妾云々」という一条があります。
そこで一部の人の説に、紫式部は道長の愛人だったというのがあるのです。ただし先述の『紫式部日記』には、式部が道長の求愛を受け入れたなどとは、どこにも書かれておりません。さらに『日記』寛弘五年十一月一日条に若宮の御五十日(いか)の日、酔った道長に同僚と一緒にとらえられたとき、紫式部は思わず「いとわびしく恐ろしければ」と書いているのです。この一言だけでも式部が道長を愛していたなどとは考えられないことがよくわかりますね。
伊勢物語の影響
『源氏物語』に影響した先行文学は、『和泉式部日記』『蜻蛉日記』『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』『住吉物語』『交野少将物語』(散逸)『唐守』(同上)等多数に及びますが、その中でも断然『源氏物語』の源泉となっているのが『伊勢物語』です。
『伊勢物語』は『竹取物語』と共に物語の中では最も古いものの一つで、主人公とされる在原業平の亡くなった元慶四年(880)以前に原本は成立していたようです。定家本で百二十五段から成り、昔男(業平)の元服から終焉に至るまでを、各段和歌を中心に話が展述される歌物語です。
『源氏物語』の主人公光源氏のイメージは「体貌閑麗」「善く和歌を作る」と評されて、多くの女性とかかわった業平像に由来します。源氏の活躍は中将のときから始まりますが、業平は最終の官職が中将でした。業平の愛した二条の后高子は『伊勢物語』中の代表的なヒロインでしたが、叔母の五条の后順子邸の西の対に住んでいました。『源氏物語』のヒロイン紫の上も二条院の西の対に住んでいました。
『伊勢物語』の初段は、昔男が奈良の京春日野の里で、美人姉妹を見つけて、「春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ限り知られず」の歌をよみかけるという話ですが、この歌は「帚木」の巻の冒頭に引かれて、源氏の元服直後からのしのび歩きをそれとなく暗示しています。さらに「若紫」巻での源氏の北山行への影響があり、巻名もこの業平歌によっているのです。
このような『伊勢物語』による『源氏物語』への影響は多数の巻々に見られます。
なお、業平は五十六歳で亡くなっています。『源氏物語』は源氏五十二歳の年末までが「幻」巻。その後おそらくは業平にならって五十六歳ぐらいで源氏も亡くなったと紫式部は示唆しているようです。
「鈴虫」の巻名由来
『源氏物語』巻三十八帖目は、「鈴虫」の巻です。全五十四帖のうち、昆虫の名が付いている巻々は、第三帖の「空蝉」・二十四帖「胡蝶」・二十五帖「蛍」・五十二帖「蜻蛉」と、それに「鈴虫」の計五帖あります。これらの虫のうち、鳴く虫は鈴虫だけです。ふつう鈴虫はリーン・リーンと鳴くとされています。
源氏五十歳の夏、蓮の花盛りに入道女三の宮の持仏供養が盛大に行なわれました。秋になって、女三の宮 の住む寝殿の西の渡殿の前をいちめんに野原につくり、秋草おい茂る野らに虫を多数放ちました。
十五夜に源氏が女三の宮の仏間を訪れますと、秋の虫の声がいろいろ聞こえ、その中でも「鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかしく」聞こえます。源氏は秋好中宮の御所で野辺の松虫を庭に放したが、あまり鳴かなくなったのに対して、「鈴虫は心安く、今めいたるこそらうたけれ(鈴虫は気軽に、陽気に鳴くのがいじらしい。まるであなたみたいだね)と言いかけますと、女三の宮は、
大方の秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声
(一体に秋はつらいもの。私に飽きた源氏の君をもつらいものだと知りましたが、まだ心引かれる鈴虫の声ですこと。源氏の君の声にも心引かれることです)。
とよんで返します。
以上の一首を含む鈴虫の場面から、巻名「鈴虫」が付けられたものと思われます。なお、そのあとで、兵部卿の宮や夕霧以下の殿上人が六条院に参上、そこへ冷泉院からのたよりがあって、全員院参。ここで院・源氏・夕霧と並んで着座しているところが『源氏物語絵巻』に描かれ、さらにこれをもとにして、最近はあまり流通していない二千円札の絵柄となっています。
またアーサー・ウェリーの英訳『源氏物語』には残念ながら「鈴虫」の巻は省略されています。全訳ではないのですね。
「侍従」女房の役割
『源氏物語』の中には、「侍従」とか「小侍従」と呼ばれる女房が何人か出て来ます。
(1) 侍従の君 / 末摘花の乳母子。忠実に仕えたが、のち末摘花の叔母の夫である太宰大弐の甥と結婚して九州へ下った(末摘花・蓬生)。
(2) 小侍従 / 雲井雁の乳母子。雲井雁の許へ夕霧が忍んで来て、戸外から呼びかけたが、出て来なかった(少女・橋姫)。
(3) 小侍従 / 女三の宮の乳母の侍従の乳母の娘。柏木を女三の宮の許に導いた(若菜下)。
(4) 侍従の君 / 浮舟の女房。薫が浮舟を宇治へ伴うときに同伴。匂宮と浮舟の仲を取り持ち、匂宮に好意を抱く。浮舟失踪後は明石中宮に仕えた(東屋・浮舟・蜻蛉)。
(5) 侍従の君 / 小野の妹尼君の女房。浮舟が身を寄せてからは浮舟の係となった(手習)。
(6) 侍従の内侍 / 平典侍らと絵合に出席(絵合)。
「侍従」というのは、本来中務省に属し、天皇に近侍して、「遺(のこ)りたるを拾ひ、欠けたるを補ふ官」で、もとは定員八名。そのうち三人は少納言が兼任し、五人は君達が任命されます(『百寮訓要抄』『職原鈔』)。『源氏物語』には、式部卿の宮の子(真木柱)・蛍兵部卿の宮の子(梅枝)・蜻蛉式部卿の宮の子(蜻蛉)・夕霧の四男(侍従の宰相、椎本)らの侍従が登場しています。
ところで、女房名は父兄や夫や家の官職によって付けられることが一般です。たとえば紫式部(父為時が式部丞)・和泉式部(夫道貞が和泉守・式部は父の大江匡致の旧官名によるか)などの例でわかると思います。
そこで、女房名の侍従と小侍従ですが、(1)〜(3)の例によると、乳母子の女房名とされることが多かったのではないかと思います。役柄は、男性官吏の場合と同じで、主君に近侍して、その遺漏するところを補うようにということで、「侍従」と付けられたのでしょう。
光源氏が認めた女君
『源氏物語』には容貌・容姿も美しく、かつ上品で、利発で、趣味・教養にすぐれている、いわゆる才色兼備の女性が何人も登場しています。たとえば「朝顔」巻末で、雪の降り積った二条院の庭を眺めながら、源氏が紫の上と女君たちの批評をする条があります。
○ 藤壺 柔らかにおびれたるものから、深うよしづきたる所の、並びなくものし給ひしを(女らしく、内気ながら、奥深く趣ある点で、たぐいまれである)。
○ 紫の上 (藤壺のお血筋で、よく似ておられるが)、少しわづらはしき気添ひて、かどかどしさの進み給へるや苦しからむ(少し嫉妬心があって、きかぬ気のまさっておられるのが、困ったものです)。
○ 朝顔 さうざうしきに、何とはなくとも聞こえ合はせ、われも心づかひせらるべき御あたり…(物さびしい折に、ちょっとしたことでも相談し合い、こちらも気づかいされる御方で…)。
○ 朧月夜 なまめかしう、かたちよき女のためしには、なほ引き出でつべき人ぞかし(優美で、美人の例には、やはり引き出したい方ですよ)。
○ 花散里 心ばへこそふり難く、らうたけれ(性質は、実に昔と変らず、かれんです)。
また「玉鬘」巻末の、歳暮の衣張りの条では、女君たちにふさわしい衣料が贈られており、間接的に女君たちの個性が確認できます。
○ 紫の上 紅梅のいと紋浮きたる葡萄(えび)染めの御小袿、今様色(濃い紅梅色)のいとすぐれたる(袿)。
○ 明石姫君 桜の細長に、つややかなる掻練(かいねり)(の袿)。
○ 花散里 浅縹(はなだ)の海賦(かいぶ)の織り物(小袿)、織りざまなまめきたれど、にほひやかならぬに、いと濃き掻練(袿)。
○ 玉鬘 曇りなく赤き(袿)に、山吹の花の細長。
○ 末摘花 柳の織り物の、よしある唐草を乱れ織れる(袿)も、いとなまめきたる…。
○ 明石の御方 梅の折り枝・蝶・鳥飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きがつややかなる(袿)重ねて。
○ 空蝉 青鈍(にび)の織物、いと心ばせあるを見つけ給ひて、御料にあるくちなし(黄色)の御衣、ゆるし色(薄紅色)なる添へ給ひて。
実に美々しく、絢爛豪華で、それでいて同じ衣料はありません。女君たちの個性が衣裳で類推されるわけです。
ところで、同じく「玉鬘」巻で右近と長谷詣でで出会った玉鬘の乳母とが、玉鬘の将来を話し合う条で、右近は、
大臣(源氏)は(中略)、当帝(冷泉帝)の御母后と聞こえし(藤壺)と、この(明石)姫君の御かたちとをなむ、『よき人(美人)とはこれを言ふにやあらむと覚ゆる』と聞こえ給ふ。見奉り並ぶるに、かの后の宮(藤壺)をば知り聞こえず。(明石)姫君は清らにおはしませど、まだ片なりにて(お小さくて)、生ひ先ぞ推し量られ給ふ。上(紫の上)の御かたちは、なほ誰か並び給はむとなむ見え給ふ。殿もすぐれたりと思しためるを、言に出でては、何かは数(かぞ)へのうちには聞こえ給はむ。『われに並び給へるこそ(私ほどの男に立ち並ばれるとは)、君はおほけなけれ(あなたも身に過ぎていますね)』となむ、戯れ聞こえ給ふ。
と言っています。つまり光源氏は、一に藤壺、二に紫の上(これは謙遜して口には出さない由)、三に明石姫君を「よき人(美人)」と言っているということになります。光源氏は生涯藤壺への思慕を抱きつづけたということですね。
紫式部の墓
紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362〜68年ごろ初稿本成立)に、
式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802〜52)墓との二つが並んでいます。
実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
紫式部は人々をたぶらかす狂言綺語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。
「雲隠」巻は原作にあったのか
光源氏の物語は、彼の五十二歳の大晦日の話までを語る「幻」の巻(第四十一帖)で終ります。次巻「匂宮」の巻は源氏が生きていれば六十一歳になるはず。その間丸八年間のブランクがあります。この期間に源氏は出家し、死去していることになります。
ところがその「幻」と「匂宮」両巻の間に、古来巻名のみあって本文のない「雲隠(くもがくれ)」の巻が置かれています。結論を先に述べれば、この「雲隠」の巻名は紫式部が名付けた巻名ではなく、原作にはなかったものと考えられます。
というのもこの「雲隠」巻は、文献的には高野山正智院蔵の『白造紙(しろぞうし)』(正治元年=1199ごろ書写)の源氏目録に見えるものが最も古い例だとされています。また安居院聖覚の『源氏一品経』(嘉禎三年=1237までに成立)や『無名草子』(建仁二年=1201ごろ成立)にも「雲隠」巻に関することは一言も書いてありません。ですから「雲隠」巻は、鎌倉時代以降に生じたものだということができます。
「雲隠」の語は、『万葉集』や『栄花物語』などでは人の死に多く用いられていますが、『源氏物語』中の五例では、いずれも姿を消すの意に用いています。
「雲隠」の巻名があっても、本文のないわけについては、偉大な光源氏の出家と死とを作者が省筆したものと考えられます。その省筆個所に後人が巻名を思いついて付けたのでしょう。のちには「幻」巻につづく巻々として、『すもり六帖』とか『雲隠六帖』と称する物語も書かれています。
原作にない巻名が付けられたり、また続編が綴られたりしているのは、『源氏物語』がいかにおおぜいの愛読者たちから熱烈歓迎を受けていたかを物語るものでしょう。
男君たちの魅力
○ 明石入道 一家再興の夢を信じ、その実現を娘に託して、遂に成功。住吉の神を信仰、信念を曲げない。出家らしからぬ俗人めいた言動もあったが、繁栄すると見届けると隠棲。
○ 薫 女三の宮の子。源氏の子とされるが、実父は柏木。幼少時から自分の出生に疑問を抱きつづけ、宇治の八の宮に仏教を学ぶが、出家もできず、八の宮の姫君たち、大君・中の君・浮舟との恋に失敗。優柔不断。
○ 桐壺帝 最愛の子光源氏と最愛の后藤壺とに裏切られながらも、二人を愛しつづける懐の深さ。治世はおさまり、権威があった。
○ 惟光 乳母子として光源氏のために身命を尽して奉仕。のちには娘が夕霧と結ばれ、惟光は公卿に昇任。サクセス物語を実現。
○ 頭の中将(内大臣) 常に源氏に負けまいと競争心を持っていて、雲井雁と夕霧の結婚にもはじめは反対。一方不遇な須磨の源氏を見舞ったり、紫の上亡きあと、源氏をしばしば慰めに訪れるなど、友情も持っていた。少し派手で、近江の君などを相手にユーモアも持ち合わせていた。
○ 匂の宮 源氏の娘の明石中宮と今上との間に生まれる。好色で、情熱があり、行動的。宇治の中の君との間に一子をもうける。その異母妹の浮舟を薫から奪い、三角関係になった。歌も絵も香道も上手であった。
○ 光源氏 全てが自分の思いどおりに働くという確信と自信、うぬぼれの持ち主。権力維持の方策を冷静に考える人。単なる浮気男ではなく、自分を愛する女性は忘れず、最後まで面倒を見るという誠実さがある。須磨・明石流謫の間に漁夫や山住みの者などとも交流し、聖人の風格をも備えるに至る。母桐壺の更衣の面影を求めつづけるマザ・コン気味のところもあった。
○ 髭黒大将 「色黒く髭がちに見える」ので髭黒と呼ばれる。今上の母女御、承香殿の兄で、真木柱の父。女房の手引きで玉鬘を妻とし、前妻とは離婚。「ひたおもむきにすす」む性格。夕霧政権のできるまでの橋渡しの役でもあった。
○ 蛍兵部卿の宮 源氏の異母弟。絵画・和歌・音楽・文芸などの諸道に通じ、各種会合での判者をつとめる。身内の中では源氏の一番の理解者。
○ 夕霧 学問に励み、雲井雁との恋を成就させた純粋さ。後年親友の未亡人の落葉の宮への一途な恋を実現。晩年、薫や匂の宮らのお目付け役として、煙たがられる。まじめなだけに、一途になりすぎて、周囲から疎んぜられるところがある。
物語に見える音楽
源氏物語の時代、つまり平安朝の貴族社会においては、音楽は和歌と並んで、高度の教養の一つでした。宮廷はもとより貴族の家々では、会議や行事などには必ず管絃の遊び(音楽の集い)が催され、うたが口ずさまれ、舞いが舞われることも少なくありませんでした。
音楽が重視されたのは、孔子らが説いたと言われるように、音楽は人と人とを和合させるものであり、君臣相和する円満な世界を作り出す力があると信じられていたからです。会議や勝負事などで対立することがあっても、そのあと管絃の遊びを催せば、意見の対立もモヤモヤも解消して、良好な人間関係が築かれるというわけです。
楽器には絃楽器(ひきもの)として、琴(きん)(七絃)・箏(そう)(十三絃)・琵琶(びわ)(四絃)・和琴(わごん)(六絃)などがあります。また管楽器(吹きもの)として、篳篥(ひちりき)(約二十センチの竹管。表に七孔・背に二孔あり)・高麗笛(こまぶえ)(三韓伝来の楽器。横笛よりも細く短い。六孔)・横笛(よこぶえ)(中国伝来。七孔・長さは一尺三寸)・尺八(唐の律尺で一尺八寸=現尺一尺四寸五分余り。表に四孔・背に一孔。竹製の縦笛)・笙(しょう)(中国伝来。縦に十七管を束ね、下の吹口から吹く)があり、打楽器(打ちもの)には、羯鼓(かっこ)(台に据えて二本のばちで両面を打つ)・鉦鼓(しょうこ)(青銅製。皿〈さら〉形で、つるして撞木〈しゅもく〉でたたく)・太鼓(たいこ)(木製。大太鼓は直径六尺三寸ほど。二人が荷ってたたく荷太鼓は直径二尺七寸ほど。釣〈つり〉太鼓は直径一尺八寸)・拍子(ひょうし)(長い木板二枚を用い、笏〈しゃく〉を割った形に見えるので、笏拍子ともいう。日本特有の楽器)などがあります。
これらのうち、打楽器や管楽器はふつうは地下(じげ)の専門の楽人が担当し、庭上や築山のうしろなどで演奏します。屋内では殿上人・公卿・女房らが絃楽器を受け持ちます。紫式部は専門の師匠の才芸はそれとして、「家の子(良家の子弟)の中には、なほ人に抜けぬる人」がいると述べています(絵合・若菜下)。柏木の和琴・蛍兵部卿の宮の琵琶などのすぐれていることが強調され(若菜下)、また明石の御方は箏にすぐれていましたが(明石)、これは家の伝統を受けついだ結果によると説いています。柏木の横笛がのちに薫に伝わり、その吹き方が内大臣家の流儀であるのを、宇治の八の宮に不審がられた場面もありました(椎本)。なお、光源氏はどの楽器にもすぐれていましたが、特に琴(きん)の名手とされているようです。
邦楽(雅楽)の旋法には、呂旋と律旋とがありますが、宮中での公式の演奏(中国伝来の正楽)は呂旋であり、また日本古来の俗楽由来のものが律旋で、これは沖縄の民謡に近いものとも言われています。よく「ろれつが回らない」などと言いますが、この音楽の呂・律に由来するものです。
この律旋・呂旋により作曲する場合、壱越調(いちこつちょう)・平調(ひょうじょう)・双調(そうじょう)・黄鐘調(おうじきちょう)・盤渉調(ばんじきちょう)・太食調(たいじきちょう)などの調子ができます。これらの調子は、「時の音」と称し、四季に配して演奏され、春は双調、夏は黄鐘調、秋は平調、冬は盤渉調と原則的に決められており、壱越調・太食調は随時に演奏されるものとなっていました。
当時の貴族にとって音楽の才能がないことは立身出世にもひびく致命的なことにもなりかねません。しかしそういう人たちには、お経を美声でよみ上げる「読経あらそひ」という遊びのあったことが『紫式部日記』の中に見えています。
年立ての矛盾
『源氏物語』の事件を、光源氏の年齢(正編)および源氏死後は、薫の年齢(後編)でついで、年表ふうに記した年紀を、年立てといいます。私たちが長編の『源氏物語』を読むときには、この年立てに導かれて読むことが少なくなく、物語の理解に欠かせないものです。
中世以降本居宣長以前に作られたものを「旧年立て」(河内守源光行一流の『水原抄』からあったといわれますが、主として一条兼良が立案し、同冬良が伝えたもので、北村季吟の『湖月抄』に収められています)と呼びます。
「旧年立て」も非常な労作ですが、たとえば「澪標」巻で元服・受禅する冷泉院は、「若菜下」で譲位しますが、治世十八年の旨の記述があります。しかるに「旧年立て」では十九年目になっています。また玉鬘は「玉鬘」巻で二十歳と明記されていますが、「旧年立て」ではこれが二十二歳となるような矛盾が生じています。
このような「旧年立て」の矛盾を解決しようとしたのが、宣長の『源氏物語年紀考』(のち『源氏物語玉の小櫛』に収める)で、これを「新年立て」といいます。
この「新年立て」は北村久備の『菫(すみれ)草』にも継承されているもので、きわめて合理的にできています。けれどもやはり原作の内蔵する矛盾は解決しがたく、「旧年立て」の持たなかった新しい他の矛盾を作ってしまいました。
たとえば「少女」巻に明石の御方の六条院入りが十月と記され、次の「玉鬘」巻では明石の御方のいる六条院へ玉鬘が入ったのも十月と記されています。「旧年立て」では「玉鬘」の巻を「少女」の巻の次の年とするのですが、「新年立て」では両巻を同年のこととする矛盾が生じているのです。
年立ての矛盾は作者の思い違いや、構想の問題などにも関係するでしょうが、作者が正確無比な年紀を意識せず、大まかな年紀を見すえて物語を書いた結果なのでありましょう。その手法は「なにがしの院」とか「北山」とかいった場所などの具体名はあげず、読者の想像力をかき立てる手法に共通するものがあるように思われます。 
 

 

桐壺・帚木
1 桐壺
いつの御代であったか、帝が多くの女御・更衣の中で、故大納言の娘の桐壺の更衣を寵愛されたが、右大臣の娘の弘徽殿の女御をはじめ他の后妃たちから嫉妬・羨望はげしく、病床につく日が多く、男御子(第二皇子・光君)を生むと間もなく亡くなり、その母君も逝去する。
帝はこの母無し子の若宮を寵愛。高麗人の観相や倭相(やまとそう)などによって、この若宮が天皇になる相はありながら、そうなると国が乱れ、またただの人臣で終る方とも見えないと相するので、臣籍に降し、源氏の姓を授けた。
そのころ桐壺の更衣そっくりの先帝の女四の宮藤壺が入内。若宮も母恋しの心情から深く心にかけた。二人の美しさに、世の人は「光る源氏」「輝く日(妃)の宮」と称した。
若宮は十二歳で元服、加冠役の左大臣の一人娘の葵の上(十六歳)と結婚。美しいが取りすました葵の上の許に通うことは少なく、藤壺の宮が慕わしく、宮中に宿直(とのい)がちで、故母更衣の二条院を立派に修理。「思ふやうならむ人(藤壺)」と住みたいと嘆くのであった。
「光る君」という名は、あの高麗の相人が若宮の容貌に感嘆して付けたとも言い伝えられている。
2 帚木(ははきぎ)
源氏十七歳の夏。五月雨の一夜、御物忌(ものい)みで、源氏の宿直所の桐壺に、義兄の頭の中将や粋人の左馬頭や藤式部丞がやって来て、上・中・下の女性の品定めをするが、中流(受領階級)の女性に個性的で、魅力ある女性がいること。また妻とするには貞淑で、嫉妬をしない女性を選ぶべきこと。さらには思いがけない所に素敵な女性がいるといった話から、各々の体験談に花を咲かせた。源氏はこれによって中流の女性に興味を持つようになった。
翌日久しぶりに左大臣邸に帰ると、葵の上のご機嫌が悪い。たまたま今宵は内裏からは方塞がりだというので、方違えに、左大臣邸へお出入りの紀伊守の中川の新邸に向った。
ちょうど、紀伊守父の伊予介の後妻の空蝉が居合わせた。その夜、源氏は無理に空蝉と逢った。帰邸した後、空蝉の弟の小君に託してしばしば彼女に文を送り、再び中川の宿を訪れて空蝉に逢おうとするが、彼女は信州園原の伏屋にある帚木のように、姿を消してしまった。
空蝉・夕顔
3 空蝉(うつせみ)
源氏十七歳の夏。源氏はこりずまに空蝉の弟の小君に案内させて紀伊守邸に忍び込む。空蝉は継娘の軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打っていた。やがて母娘は同室で就寝していたところへ、源氏が忍び込むと、空蝉は小袿を脱ぎすべして逃げてしまう。源氏はやむなくその継娘の軒端荻と一夜を明かし、空蝉の小袿をひそかに持ち帰り、恨みを述べた歌を小君に持たせた。
4 夕顔(ゆうがお)
源氏十七歳夏〜十月。源氏が六条京極の前東宮妃に忍び通っていたころ、五条辺りの大弐の乳母(惟光の母)の病(やまい)を見舞った。このとき隣家の板べいに夕顔の花が白く咲くのを見て、一枝所望したところから、和歌の贈答となり、当家の女(夕顔)のもとに乳母子惟光の手引きで通うことになった。たまたま中秋名月の暁に周囲の騒々しさを逃れて、女を近くの廃院に誘った。ここで静かに語り暮して、夜臥すと、貴女姿の物怪(もののけ)が現われ、女を取り殺した。源氏は悲嘆し、葬送後、重くわずらう。女の侍女の右近の話で、この女が雨夜の品定めで聞いた頭中将の愛人で、本妻に追われて姿を隠していたことを知った。その形見の遺児(玉鬘)を源氏は引き取ろうと思うが、乳母たちがやかましいので、夕顔の宿に事情を知らせることもできない。一方、軒端の荻は少将を聟にとった。また空蝉は老夫の伊予介と十月に任国に下ることになった。空蝉には櫛や扇を餞別に贈り、あの夜持ち帰った小袿も、歌を添えて返した。
若紫・末摘花
5 若紫(わかむらさき)
源氏十八歳の春。源氏はわらわ病み(=おこり)をわずらって、三月末北山の聖の許に加持を受けに行く。山頂から花盛りの京を見やると、源氏の絵心が動き、従者たちは富士・浅間など名勝の話や、近国の明石の浦に住む変り者の前播磨守入道とその美しい娘について噂をする。
夕方、眼下の庵室をのぞき見して雀の子を逃されて泣く美少女と尼君とを見つける。のちに当寺の僧都の話から、尼が僧都の妹で、この尼君の亡くなった娘が、藤壺の兄の兵部卿宮との間にこの少女をもうけたことを知る。
道理で自分の恋慕する藤壺にこの少女が似ているとわかり、早速結婚を申し込んだが、僧都も尼君も冗談だと思って取り合わなかった。
帰京した源氏は、病気で里下りしていた藤壺と、王命婦に案内させて、夢のような一夜を明かした。その結果、藤壺は懐妊する。
その後、北山の少女は尼君が亡くなり、父宮に引き取られようとしていたのを、源氏は危うく連れ出し、私邸の二条の院に迎えたのであった。
6 末摘花(すえつむはな)
源氏十八歳の春。あの夕顔を忘れられない源氏が、乳母子の大輔の命婦から故常陸宮の姫君のことを聞き、頭の中将と恋争いになったが、源氏が勝利を得る。冬の早朝、ふと雪の光で見た彼女の顔は、鼻は長く、その先は赤く、奇妙な容貌であった。
帰邸後、源氏は自分の鼻に戯れに朱をつけて、紫の上を心配させた。
女君を選ぶ
(1) 最も好きな女君
1紫の上(43%) 2空蝉・桐壺の更衣・花散里(各9%) 3明石の御方・秋好中宮・浮舟・朧月夜・末摘花・玉鬘・藤壺(各4%)
紫の上の人気がダントツです。美人で、聡明で、やさしく、文句の付けようがありませんね。空蝉や花散里など一見地味で、分をわきまえる女性もそこそこに人気があることがわかります。
(2) 生涯の伴侶にしたい女君
1紫の上(33%) 2明石の御方(27%) 3花散里(16%) 4雲井の雁・玉鬘・宇治の中の君・六条御息所(各5%)
生涯の伴侶も紫の上が理想のようですね。明石の御方や花散里が結構健闘していますが、二人とも自分の立場や運命を受けとめて、ガタガタ騒いだりしない性格の持ち主である点が共通しているようです。
(3) 恋人にしたい女君
1朧月夜(33%) 2夕顔(27%) 3紫の上(13%) 4雲井の雁・玉鬘・軒端の荻・花散里(各6%)
朧月夜は源氏と兄の朱雀帝に愛されました。夕顔は頭の中将と源氏の恋人でした。二人とも美人で、素直なのですが、少し意志の弱いところがあったようです。恋人のイメージとしては少し遊び心のある女性が現代の『源氏物語』の読者の関心を引いたのかも知れませんね。
(4) 友人にしたい女君
1朝顔(44%) 2明石の御方(33%) 3朧月夜(22%)
内容的に(3)の設問と重なるところがあったようで、回答数は多くはありませんでした。色恋沙汰を抜きにした友人としては、やはり独身を貫きながらも、趣味・教養の力を発揮した朝顔や、明敏で、控え目な明石の御方の人気が目立ちました。
この四項目のどれにも推挙されなかった主要な女君には、葵の上や女三の宮や落葉の宮・宇治の中の君・明石中宮・弘徽殿の大后・大宮(左大臣北の方)・源典侍らがいます。お気の毒な女君もいますが、読者の好尚に合わないところや、その人物性に欠陥のあるケースもあるようです。このWeb文庫の読者のご意見はどうでしょうか。
『山路の露』
『源氏物語』の、出家した浮舟と、それを知ったものの薫がとうとう会えずに終るという結末に、物足りなさを抱いた後世の愛読者が、続編を綴りました。
その一つに、平安末から鎌倉初期に書かれたとされる『山路の露』があります。現在流布本(続群書類従物語部などに所収)と古本(池田亀鑑・日本古典全書源氏物語七所収)とが知られていますが、両者共にかなりの欠脱があります。あらすじは次のとおりです。
薫はその後も小君を小野の浮舟の許にたびたび遣わしたが、浮舟は相変らず面会を拒否するので、薫はいよいよ心が乱れ、彼女の草庵にみずから忍んで行こうと思う。
北の方の女二の宮を訪れても、浮舟のことがしのばれ、また中の君は匂宮の歴然とした北の方である今となっては、ようやく疎遠となり、また故大君の面影を思い出すのであった。
一方浮舟は一心に勤行していたが、尼君たちは薫の好意を語り、彼女が薫の愛を受け入れないのを惜しんでいる。秋が深まるころ浮舟は母を恋しく思い出す。
薫はこのころ病んで、母の女三の宮などが心配したが、ようやく回復。再び小君を小野に遣わす。浮舟は尼君たちのすすめもあって小君に会い、母への手紙を託すが、薫には書かない。小君は困惑しつつもこの旨を薫に報告し、母への手紙を見せる。そこには、
厭いつつ棄てし命の消えやらで再び同じ憂き世にぞ住む
(生きているのがいやになって命を捨てたのに、とうてい死に切れず、再び以前と同じ憂き世に住んでいます)
迷はせし心の闇を思ふにもまことの道は今ぞうれしき
(母君の心をまっ暗にさせましたが、今は仏道に入って無事に生きており、ご安心いただけるのは、うれしい次第です)
という二首の和歌が記されていた。
薫はついに小野に浮舟を訪ね、彼女のつれない心情を恨む。浮舟が心を動かさないので、薫は暗い気持ちで暁の露を分けて帰る。
他方、母は浮舟からの手紙に接して、その生存に驚いて訪ね、夜を徹して語る。母の下山後、浮舟は勤行に専心する。
薫は左大将兼内大臣に任ぜられる。北の方の女二の宮は懐妊する。年の暮れ、薫はねんごろに尼君たちに贈り物をし、浮舟をいかにしたものかと心を悩ましている。中の君にも歳暮の挨拶をするが、浮舟のことは話さなかった。
話は「夢浮橋」からほとんど進展せず、ただ匂宮と中の君、中の君と薫との間が安定してきていること、また薫が浮舟と面会したことや浮舟の母が娘の生存を知って喜ぶというのが話の山場になっています。作者が「宇治十帖」のよき理解者であったことは確かのようです。
『源氏物語奥入(おくいり)』
『源氏物語奥入』は、別に『定家卿釈』とか『難題抄』とも言われます。『源氏物語』の本文研究や、これを和歌創作の源泉と仰いだ藤原定家(1162〜1241年)の『源氏物語』の注釈書です。元来、定家が自家蔵本の『源氏物語』の各巻の奥に書き入れていた注記を、のちに一巻にまとめたところから『奥入』の名があります。
内容は故事・引歌・出典の考証が主で、要語の注解とはいいながら、語義・語法の説明は見られません。成立上、一次本(大島本など)と、その後の考察をも加えた二次本(定家自筆本)とに分けられ、両者とも『源氏物語大成』巻七に収められています。たとえば、「朝顔」巻については、以下のとおりです。
(一次本) 世俗しはすの月夜といふ
たまさかにゆきあふみなるいさらかは いさとこたへてわかなもらすな 此哥強不可入歟
(二次本)
こひせじのみそぎは神もうけずとか人を忌る罪深しとて
君が門今ぞ過行いでて見よ恋する人のなれるすがたを
(以下四首略)
世俗しはすの月夜といふ(以下一次本と同じ)
総じて注釈としてより注釈史上の価値の方が大きいといえます。なお、本書は嘉禄三年(1227)十月以降の成立と考えられています。この月、定家は室町殿本『源氏物語』を家本の青表紙本によって訂正したということで(『明月記』)、『源氏物語』に一段と関心をそそいでいた時期でした。
源氏香
源氏香は、江戸時代初期、当代文化の指導者後水尾(ごみずのお)天皇(1596年〜1688年、修学院離宮を造営)の文学愛好の精神と香との結合から生まれた組香(二種以上の香を焚いて香の異同を判別するもの)の一種です。その目的はあくまでも『源氏物語』を味わう優雅な楽しい遊びにありました。
この組香の方式は、香五種を、一種五包ずつ合計二十五包をうち混ぜ、その中の五包を取って焚き、香の異同を判別するのです。現在はふつう豆炭の類を入れた、直径四、五センチの小香炉の上に、石英の板(プレパラート)二枚にごく少量の香料をはさんで暖め、発生する香りを聞く(香りをかぐこと)方法をとっています。
縦に五本の線を並べて書き、右から一炉から五炉までとし、同香の頭を横に結ぶことによって、五十二の図を作ります。これを第一巻「桐壺」と最終巻「夢浮橋」とを除いた五十二帖に当てた図で回答するものです。
たとえば聞く者が、五度とも別々の香で同種なしと聞けば、名乗紙(なのりし)にと図を記し、これを「帚木」と名乗ります。全部が同種と思われるならば、と書いて「手習」と判断します。最初の二度は同種で、三、四度目も同種、最後がまた最初と同様に聞いたときは。これは「総角(あげまき)」です。
香にはもと図はなかったのですが、書きとめるためにこの源氏図ができたのです。その図は「若紫」()で、が二つ記されるのは、光源氏の葵の上と紫の上との関係を示した意味深いものであるとされました(三条西尭山)。『源氏物語』をよりよく味わうための香道であったことがわかるでしょう。
この組合せ五十二種に、「桐壺」(、「賢木」に同じ)・「夢浮橋」(、実在しない)を加え、五十四帖全部が組香されて、「源氏千種(ちぐさ)香」として流行したのは、享保(1716〜36年、徳川八代将軍吉宗の時代)のころでした。
なお、「源氏物語ミュージアム」のある宇治市の宇治橋の歩道には、源氏香の図柄のタイルがはめこまれています。源氏香のスペシャリストを目指す人にとっては、恰好のトレーニングになるでしょう。
平安時代の風呂
このテーマは私が四十代の末に、市民向けの源氏物語講座をはじめて担当した時に、最初に受けた質問です。源氏物語講座なのに、質問が風呂とは?と、あわてましたが、「帚木」巻で空蝉が侍女の中将の君を呼ぶと、別の女房が「下(しも)に湯におりて、『ただ今参らむ』と侍る」という条で、当時の湯(風呂)とは?、という質問が出たわけです。
厳密にいうと「風呂」と「湯」とは異なります。「風呂」は「風炉」で、風を通して火力によって水を沸かす形式のもので、平安時代末から近世初期にかけては、戸棚式の蒸風呂であったと言われます。その後は湯を十分に沸かす形式のものとなり、弥次さん、北さんは鉄製の風呂に素足で入って、大騒ぎになったという『膝栗毛』の話もあります。
一方、光源氏の時代は「湯」、つまり湯浴(ゆあ)み、行水式のものでした。浴槽に別に沸かした湯を入れ、水で調節して身体を洗うわけです。当時の天皇の浴槽は、長さ五尺二寸(約一・五六m)、幅二尺一寸(約六三cm)、深さ一尺七寸(約五一cm)、その板の厚さは二寸(約六cm)と決まっていました(『延喜式』巻三十四)。
案外小さな浴槽ですね。たぶん後世のように、この湯船に天皇自身が入ることはなかったのではないかと思います。そこから汲み出した湯で身体をきれいにしたのでしょう。もちろん湯殿担当の女房たちが奉仕したはずです。
『土佐日記』には、船で上京の途中、女性たちが海辺で水浴みをしたという記事があります。また『紫式部日記』には後一条天皇が誕生したとき、寝殿の東廂に湯殿を設けて、産湯(うぶゆ)の儀式をしたことが記されています。
前述の「帚木」巻の空蝉が滞在している邸は前妻の子の紀伊守の新築の邸です。しかし湯浴みをしている所は「下(しも)」とありますので、湯殿はいわゆる寝殿造りの主な建物に付属して設けた「下の屋」(ふつうは敷地内の西北隅などに所在)にあったことがわかります。
なお、天皇の湯浴みする所は、清涼殿と後涼殿との間の朝餉の壺の北側の「御湯殿」です。清涼殿内にも、東北隅の御手水の間の北隣に「御湯殿の間」がありますが、これはお茶(お湯)を用意する所です。
『九条右丞相遺誡』によると、当時は五日に一回湯浴みをすることになっていたようです。毎月一日に湯浴みをすると短命になるとか、八日なら長命になるとか、亥の日は恥をかくとか、いろいろと日によって制約があったようです。女性の洗髪などは年に数回とされており、薫香類が尊重されたのもうなずけます。
牛車(ぎっしゃ)
明治以前の動力によらない時代の乗物には、車(輦車〈てぐるま〉・牛車)・輿(こし)・馬・船等がありました。船の一部は風力なども利用しますが、ほとんどは人力や牛馬の力による乗物しか存在しませんでした。
輦車は人力で引く車で、腰車(こしぐるま)・小車(おぐるま)ともいいます。皇太子の晴れの折の乗用で、また特に勅許のある場合に限り、宮城門から各殿舎まで乗車が許されます。これを「輦車の宣旨」といいます。桐壺の更衣が宮中から退室するとき、この宣旨を受けました(桐壺巻)。また尚侍の玉鬘が宮中から髭黒邸へ退出するときや(真木柱巻)、明石の御方が入内した姫君の後見のため参内するときにも、この宣旨を受けました(藤裏葉巻)。
牛車 牛に引かせる車で、乗用のためのもの。荷車などは牛車とはいいません。いろいろの種類のものがありますが、『源氏物語』や『紫式部日記』等に見えている牛車には、以下のような車があります。
(1) 檳榔毛車(びろうげのくるま) 毛車(けぐるま)ともいう。檳榔の葉を細く割いて屋根を葺いた車で、物見(窓)はなく、内側は格子で青末濃(あおすそご)の下簾があります。上皇以下四位以上、及び僧正・大僧都の乗用。なお参議(三位)以下には下簾がありません。「宿木」巻に見える「檳榔毛の黄金づくり」は、金の金具を用いたものです。『紫式部日記』の内裏還啓条に見える「黄金づくり」の車などが、これに当るものでしょう。
(2) 糸毛車(いとげのくるま) 車の庇を色糸で飾った車。物見はなく、前後の屋形が外へそる所(眉〈まゆ〉)の下に庇があります。青糸毛は皇后・親王・摂関、紫糸毛は女御・更衣・尚侍・典侍、赤糸毛は賀茂祭の女使の乗用でした。『紫式部日記』の内裏還啓の条に、道長夫人の殿の上と少輔の乳母が若宮(敦成親王)を抱いて乗ったとあります。「宿木」巻には女二の宮の乗る「庇の御車」がこれに当りますが、同巻に「庇なき糸毛も二つ」ともあるので、庇のないものもあったようです。
(3) 網代車(あじろぐるま) 竹または桧皮を網代に組んで、屋形と左右の脇を張り、青地黄文に塗り、袖(屋の両側の突出した部分)だけは白地に家紋をつけたもの。大臣以下四、五位、督・佐までの乗用。「須磨」巻に「網代車のうちやつれたるにて」とあるほか、「葵」「若菜上」「宿木」諸巻にも見えていて、男女を含めて、貴族たちの最もポピュラーな乗用車でありました。
この他(4)半蔀車(はじとみのくるま) (屋形は桧皮〈ひわだ〉・物見には半蔀がつけてある)・(5)八葉車(はちようのくるま) (萌黄の網代に黄の九曜文をつけた車。大小の別がある)・(6)唐車(からぐるま) (唐庇車〈からびさしのくるま〉とも。屋根が唐棟のような形をしており、牛車の中では最大・最高のもの)などがあります。
牛車は後方から乗り、轅(ながえ)のある前方から降ります。姫君などは車を回転させて、轅を渡殿の廊などにさし込み、ときに板などを渡して、降ります。
牛車は定員四人がふつうですが、二人で乗ることも多く、その場合対面式に乗り、上位の者が進行方向に背を向けて前方左に、下位の者が進行方向に向かって、後方右手にすわったようです。内部には現在の畳のようなものが敷いてあったと思われます。
貴族の日常生活
王朝貴族の日常生活の軌範を示した書物に、藤原道長の祖父の右大臣師輔(908〜60年)がその晩年(947年以降)に執筆した『九条殿遺誡(ゆいかい)』があります。日々の生活習慣や、作法・規範等が綴られており、摂関家はもとより、これにつづく貴族の家々でも、生活の模範としてこの『遺誡』が尊重されていたようです。のちの兼好法師も「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」の一文を、『徒然草』第二段に引いています。
日常の生活についての『遺誡』の記すところを以下にまとめてみます。
(1) 起床したら自分の生年に当る星(たとえば卯・酉年生まれなら「文曲〈ぶんきょく〉」。その一生を支配するとされました)の名を七回小声で称すること。
(2) 鏡を取って顔を見、暦(こよみ)を見て日の吉凶を知ること。
(3) 楊枝を取って西に向かい手を洗うこと(つまり歯みがきと洗顔ですね)。
(4) 仏名を誦(じゅ)して、氏神を祈念すること。
(5) 昨日のことを記せ(日記をつけること)。
(6) 粥(しるがゆ)を服す。
(7) 頭(かしら)を梳(けず)り(三日に一度)、手足のつめを切ること(丑の日に手のつめ、寅の日に足のつめを切る)。
(8) 五日に一回沐浴(ゆするあみ)(湯や水で身体を洗うこと)を行なう。
(9) 出仕予定の時は、衣冠を着て、怠らぬこと。
a 人と会って、多言せぬこと。
b 人の行なうことを批評しない。他人のことを言わない。口は災いのもとである。
c 公事(くじ)について文書を心を傾けて見ること。
(10) 朝(巳=10時)・暮(申=4時)の食事は多食多飲をしないこと。時刻どおりに食事はとること。
この他、生活全般の注意も書いてあります。兼好法師の引いた倹約の勧めのほか、君には忠貞の心を尽し、親には孝敬の誠を尽すこと。兄をうやまい、弟を愛せ。頼るところのない姉妹はていねいに援助するように。病気でない限り毎日親に面会せよ、等々。
さらに高声悪狂の人とは付き合ってはならないとか、他人の物を借りるなとか、大雨・雷鳴・地震・水火の時は、すぐに親を見舞うこと等々、何やら『源氏物語』の光源氏や夕霧の行動等に重なるものが少なくありません。おそらく貴族の人々の模範とされて来た『遺誡』であり、彼らの日常生活の一面を如実に伝えているものと考えられます。  
 

 

大災害が描かれていない
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の一文で始まる鴨長明の『方丈記』には、作者の体験した京都の大火や飢饉・地震等の悲惨な実体が克明に描かれています。長明はこれらの事件に遭遇して、世の無常を悟り、人里離れた日野山の方丈の庵に入って安堵の余生を送ったと記しています。
一方、『源氏物語』には大火や飢饉・地震等の大災害はめったなことでは描かれません。主な災害の記事では、
(1) 「須磨」巻々末で、三月上巳の日、源氏が海に出ると、祓半ばに疾風迅雷、海上はたちまち大暴風雨となり、あわてて帰館。それから「明石」巻冒頭に移って、暴風雨は衰えず、その上落雷で源氏の館は廊を炎上。その夜のうたたねの夢に亡き桐壺帝があらわれ、住吉明神の導くままに須磨の浦を去るようにと啓示を受けていた時に、同じく夢のお告げがあったとする明石入道の迎えの船で明石に渡るということになります。
(2) 「野分」の巻に、野分(台風)が激しく吹いたことを記します。夕霧が父源氏を見舞いに来たとき、激しい風で開いた妻戸や簾の所から紫の上の高貴な姿を見ることになります。
(3) 「椎本」の巻、薫二十四歳の春、三条の宮が焼亡し、入道女三の宮と薫は六条院に移ります。薫は当院を里邸とする匂宮と、宇治の姫君たちについて、くわしく相談する機会を得ます。
(4) 「賢木」の巻、夏の日のこと、右大臣邸で朧月夜尚侍と密会していた源氏が、激しい雷雨の見舞いに来た右大臣に発見されます。
以上の四件が『源氏物語』に描かれた災害がらみの主な話ということになりますが、いずれの場合も災害そのものを描こうとしたものではありません。その災害がきっかけになって、ストーリーが変化・発展することになっています。災害は物語の動機として使われているのです。
紫式部の時代にも災害は起こっています。『源氏物語』の書かれた寛弘五年(1008)には諸国に疫病がはやり、翌六年には内裏・一条院が焼失、同八年(1011)にも法興院が焼けたり、京都が火災。また寛弘元年(1004)には京都に旱魃が起こっています。ただ地震だけは、彼女の生まれた天延元年(973)や三歳の貞元元年(976)に遭遇しているだけなので(以上『日本紀略』『百錬抄』等参照)、あまり実体験の自覚はなかったかも知れません。
いずれにしても、災害そのものから生ずる恐怖感や悲惨な思いはそれほど描かれていません。いずれもストーリーの動機として利用されているにすぎません。これは『源氏物語』が光源氏の栄華の物語で、その光や栄華を強調することはあっても、陰や衰微を描く物語ではなかったからでありましょう。(ただし「須磨」は源氏の不遇を描き、暴風雨・落雷・火災等の恐怖が強調されています。)
宿世観
「宿世(すくせ)」とは、過去の世を意味し、転じて宿世の因縁の意に用います。つまりこの世の事実はすでに生まれる前において運命づけられているものだとする思想です。過去の因は現在の果となり、それはまた当然未来にも及ぶものと考えられたわけです。
『源氏物語』には、全編にわたって、この「宿世」の語が六八回、「御宿世」が四六回、それに「宿世宿世」他が七回、合計一一九回も使用されています。(『源氏物語大成』索引篇による)。
女が男を恨んで姿を隠したものの、「宿世浅からで、尼にもなさで、(男が女を)尋ね取りたらむも」(帚木)とあるのは、トラブルがあっても、男女が別れずにすんだのは、前世からそう定められていたからだと言うのです。
夕顔の四十九日の法事を比叡山の法華堂で源氏が誰の法事とも明かさずに催したところ、僧侶たちは、「かう思(おぼ)し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」と言ったとあります(夕顔)。源氏をこれほどまでに嘆かせるのも、前世の因縁がとりわけ高かったのであろう、つまりこの故人(=夕顔)と源氏とのこうなるはずの前世からの因縁が、とりわけ深かったのであろうと、僧侶たちは言っているのです。
「若紫」巻の明石入道の噂が話題になっているところで、「『その心ざし遂げず、この思ひ置きつる宿世違はば、海に入りね』と常に(娘に)遺言し置きて侍るなる」とあるのは、入道が娘に自分のかねて思い定めた運命のとおりにならなかったら、海に投身せよと言っているのです。そう入道が考えたのも、これすべて前世からこうなるべく定められていたからなのです。
これらの例を通してわかることは、この世における事実が痛切で、人間の考えではとうてい理解できないような場合には、そのもとは前世によってもう決まっていたという宿世観で乗り切ることになります。強引に男が女と契りを結んだような場合、「これも宿世なめり」ということになって、男は自分の行為を宿世だといって女を説得し、逆に女もこうなったのは前世から定められていた宿世なのだと、あきらめるのです。
したがって「宿世観」によれば困難な状況も、人知の及ばぬ前世の因縁によるものだとして、そう深刻にはならぬという長所があります。一方、困難な問題・状況を真剣に考えることもなく、無反省になるという短所もあるということになります。王朝貴族の決断力のなさや無分別な行動をとる向きもあるのは、こういう宿世観が信じられていたからなのです。
僧侶
主要な僧籍の人物をあげてみましょう。
(1) 阿闍梨(夕顔) 惟光の兄。源氏が大弐の乳母(惟光母)を見舞った折初対面。その後叡山へ帰る。夕顔の四十九日の供養を比叡法華堂で行なう。
(2) 北山の僧都(若紫・紅葉賀・須磨・若菜下) 紫の上の祖母(北山の尼君)の兄。北山に三年籠り中。源氏が北山の聖の所に来ているとき対面。紫の上の素姓を語る。のちに紫の上が源氏に引き取られたことを喜び、尼君の法事を行なう。源氏須磨退居の折には、源氏・紫の上のために祈祷。紫の上重厄の年にはすでに故人となっていた。
(3) 北山の聖(若紫) 北山の岩屋に住み、訪れた源氏のわらわ病みの加持祈祷を行なった。
(4) 雲林院の律師(賢木) 桐壺の更衣の兄。源氏がその坊に参籠した。
(5) 醍醐の阿闍梨(蓬生・初音) 末摘花の兄弟の禅師。京に出たとき末摘花邸を訪うが、彼女の生活の世話など思いもかけない。彼女の唯一の豪華な防寒着の黒貂(ふるき)の皮衣までもらい去る。
(6) 明石の入道(若紫・須磨・明石・澪標・松風・薄雲・少女・若菜上、下) 明石の御方の父。大臣の子で、源氏の母桐壺の更衣とは従兄妹。その娘の出生前に瑞夢を見て、その将来に望みをかけ、近衛中将を捨てて、経済的な地盤を得るため播磨守となった。だが現地の人々にも少し侮られて、面目を失い、そのまま土着。源氏の須磨退居を、住吉の神の導きと喜び、霊夢によって、源氏を明石に迎えた。娘の婿に源氏を迎え、姫君が誕生。やがて母娘と入道室の母尼は上京。その後姫君が入内し、皇子誕生の知らせを受けて、深山に入って消息を絶った。
(7) 夜居の僧都(薄雲) 藤壺中宮の母后(先帝后)のときからの祈祷僧。藤壺中宮の薨去後、冷泉帝に実父が源氏であることを告げた。
(8) 小野の律師(夕霧) 一条御息所の祈祷僧。夕霧が落葉の宮の許に泊まったのを目撃して、御息所に忠告した。
(9) 宇治の阿闍梨(橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・蜻蛉・手習) 宇治の山寺に籠居、八の宮の仏道精進やその姫君(大い君・中の君)のことを、冷泉院へ参上して語った。これを聞いた薫は以後宇治の八の宮邸へ通うことになる。八の宮が阿闍梨の寺で参籠中病にかかるも下山をいましめ、八の宮はそのまま逝去。大い君・中の君が父宮の遺骸に会いたいと願うのも許さなかった。大い君の重態の折には修法を施す。八の宮邸の寝殿を寺に改修して寄進をうける。浮舟の四十九日や一周忌の法要も依頼された。
(10) 横川の僧都1(賢木) 藤壺の中宮の伯父。藤壺出家のとき、その髪を削る。
(11) 横川の僧都2(手習・夢浮橋) 比叡山横川の六十余歳の高僧。実在の名僧(源信僧都)の面影がみとめられる。母の小野の大尼君が妹尼君と初瀬詣での帰りに宇治で病気になったので、下山、宇治院で母の介護をしている折に、失神していた浮舟を助け、尼君たちとともに小野に住まわせた。快方に向かわぬ浮舟のたのめに、弟子たちの反対を押し切って下山。加持祈祷によって浮舟の物の怪も退散。秋、女一の宮の物の怪祈祷のための下山の途中、小野に立ち寄り、浮舟の懇願により授戒。僧都が明石中宮に浮舟のことを語ったのを、薫が伝え聞いて、彼女の身の上を説明。尼にしたことを後悔。その後薫が小野への案内を乞うため、叡山に僧都を訪ねた。
以上を通じて言えることは、いうまでもなく臨終や病気・物の怪退散のときの僧侶の活躍はいうまでもありません。その他、秘密や人の素姓などを明らかにする役回りがあり、また明石の入道のような頑固でユーモラスで、それでいて信仰心のあつい僧侶や、おおらかで人間味のあふれる横川の僧都らがいる一方、小野の律師や宇治の阿闍梨のような、厳しい言動の目立つ僧侶も登場しています。
紫式部には定暹(じょうしん)という異腹で、三井寺の阿闍梨になった兄がおります。父の為時は式部の亡くなったあと、越後守を任期途中でやめて、長和五年(1016)に三井寺で出家しています(『小右記』)。おそらく定暹の手引きがあったものと思いますが、末摘花の兄の醍醐の阿闍梨などに、その面影が反映しているかも知れません。なお、登場の僧侶たちの大半は叡山系の僧侶で、末摘花の兄だけが高野山系(真言宗)の僧侶です。
いずれにしても、これらの僧侶の登場が、『源氏物語』の内容を濃密に、かつ面白くしていることは確かなのです。
物語の主役
『源氏物語』のドラマ性を支えている登場人物は、圧倒的に「親に先立たれた子」どもであります。光源氏や紫の上はむろんですが、源氏の恋人の藤壺・女三の宮・六条御息所・空蝉・軒端荻・夕顔・末摘花らは登場したときから「(両親または片親に)先立たれた子」であり、花散里も記述はないが、たぶん両親はすでにいなかったのでしょう。そのほか冷泉院・秋好中宮・玉鬘・夕霧・落葉の宮・宇治の大君・中君らも母親に先立たれています。また桐壺の更衣や秋好中宮の父親は早世しています。なお雲井の雁や真木柱・浮舟らは両親の離婚の憂き目に会っており、薫の場合は父に先立たれ、母の女三の宮の出家にも遭遇するという悲劇を背負っています。
まともに両親が揃っているのは、朱雀院・今上帝・春宮・冷泉院女御(弘徽殿)・葵の上・頭の中将・柏木・明石の御方・明石の姫君(ただし紫の上の養女)・匂宮らということになりましょう。それは主として左大臣および朱雀院の血筋を主に引く人々と、明石入道の血筋に連なる人々です。前者は生まれながらにして「やんごとな」い階級に生まれた人々であり、その生涯はまず平穏であり、安定しています。後者の入道の場合は、受領階級から后妃を出すというドラマチックな筋立てからしても、きわめて特異なケースです。
実は『竹取物語』のかぐや姫は、竹取の翁夫妻が月から授かった養女でありましたし、『伊勢物語』の昔男も父に先立たれた、母宮の「ひとつ子」という境遇にあります。『うつほ物語』の俊蔭の娘も両親はおりません。『落窪物語』の落窪姫は母親に先立たれております。
物語の主役たちは、厳しい家庭環境にあって、話題性・冒険性・特異性にとんでいなければならないのです。貴族社会のまともな、ありふれた生活を描いてみたところで、読者の興味をひくことはできないのです。
「親に先立たれた子」どもたちの命運はいかに? 彼らに心引かれるヒーローやヒロインたちも同じく「親に先立たれた子」どもたちです。人生の試練をどのように乗り切れるのか。とりわけ姫君たちは嫁ぐ相手次第でしあわせにも不幸にもなるのです。そこから物語の話題性・冒険性・特異性が生じて、読者の興味を引きつけ、想像力を駆り立て、物語を読み込ませるのですね。
これは、たとえば児童文学やアニメーションの世界での主人公が薄幸な境遇に置かれていることが少なくないのと、同じ理由なのです。主役の条件の一つは、「親に先立たれた子」どもであるということになります。 
 
「源氏物語」考2 

 

1
少し遅めですが、あけましておめでとうございます。乙未(いつび/きのとひつじ)の正月です。新しい年の「話し初め・書き始め」なので、ぼくも幾分あらたまる気持ちをもって『源氏物語』をめぐるぼくなりの話をしたいと思います。納得できるものになるかどうかは保証のかぎりではありません。
正月の『源氏』といえば、巻22の「玉鬘」(たまかずら)とそれに続く巻23の「初音」(はつね)です。紆余曲折のあげくついに太政大臣になった光源氏が、完成した六条院に住まう女君たちに正月の晴れ着を配るという有名な場面が入ります。六条院、わかりますか。溜息が出ますねえ。辰巳の春の町には紫の上が、未申の方位の秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住み、丑寅にあてがわれた夏の町には花散里(はなちるさと)が、戌亥の冬の町には明石の君が住むという、なんとも按配のいい、すこぶる華やかな源氏絶頂期の結構です。
日本の建築文化史にとって六条院というヴァーチャルな寄与は、もっともっと研究されていいものです。源融(みなもとのとおる)の河原院や東三条殿や土御門殿などをモデルにしたんだろうと思いますが、ざっと250メートル四方、6万3500平米という大きさ。なにしろ四町ぶんでした。巻25の「蛍」に描写されていることですが、端午の節会では邸宅内の馬場で競射が、川の流れでは鵜飼ができたくらいです。
だいたいどんなところだったのか。ごくかんたんな全体像なら宇治の「源氏物語ミュージアム」に行かれれば模型があります。風俗博物館の五島邦治さんが監修して四分の一の模型をいろいろの撮影角度で収めて一冊にした『源氏物語 六条院の生活』(青幻舎)という本もある。老舗の「井筒」さんの先代も、この六条院を三分の一くらいに復元したいと言っておられましたね。「井筒」は黒沢明の『乱』をはじめ、ワダエミさんが映画衣裳づくりのときにいろいろ協力してもらっている法衣屋さんです。
六条院は六条京極にありました。現在の京都人にとって六条という地域はちょっとピンとこない界隈かもしれません。しかし、桜と柳をみごと交互にこきまぜた75メートル幅の朱雀大路が賑わっていた当時は、東山山麗寄りとはいえ存分に目立つところでした。ただし、そこは紫宸殿や清涼殿がある「御所」ではない。センターではないのです。そのことに光源氏が王権のトップに座れなかった複雑な事情が、もっといえば光源氏に「血」をたらした桐壺の帝がメインストリームから外れた事情が、暗示されています。『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。グレン・グールドがいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。
ま、その話はまたあとでするとして、この「玉鬘」から「真木柱」(まきばしら)までは俗に「玉鬘十帖」とも言って、光源氏30代後半の最もきらびやかで雅びなシリーズが描かれている巻立てです。六条院を舞台に源氏意匠のコアコンピタンスが派手に揃ったという場面集です。そういう正月のハレの王朝文化や六条院のみごとな結構と趣向の話のまま、なんとなく『源氏』の全体像に入っていければ、それこそ正月らしくていいんですが、いやいや、なかなかそうもいきません。『源氏』はなかなかなもの、容易じゃないんです。
たんに源氏っぽいものというだけなら、京都の呉服屋に育った者にとってはそこそこ親しみやすいものでした。母がたいそうな源氏好きでしたし、百人一首の得意な母が最初に教えてくれたのも、紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」と、清少納言の「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」と、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」、そして「むすめふさほせ」でした。こんな母に対して、父のほうは反物(たんもの)を広げ、「これ、琳派源氏やしなあ」などと言って、ちょっと源氏意匠の着物を低く見ていたりしていたのですが、そういうことを含めて源氏的なるものは、近くで出入りしていたのです。
でも、こういうことは印象源氏であって、どこかあやふやです。それなら文章源氏のほうはどうだったかというと、なかなかちゃんとは読めません。ぼくの場合は家にあった「谷崎源氏」を高校時代に拾い読みしたのが最初の源氏体験です。そのあと、これまた家にあった「舟橋源氏」や「円地源氏」を覗くんですが、なぜかふいに戯曲めいたものにしたくなって、伊丹十三を光源氏に想定し、そのほか八千草薫とか草笛光子とか磯村みどりとか嵯峨三智子を適当に配して妄想を駆りたて、拙(つたな)いシノプシスにとりくんだりしたものでした。こんな一知半解なことをする気になったのは、小学校の頃に両親に連れられて見た長谷川一夫主演の『源氏物語』がちっともおもしろくなかったのと、昭和32年のテレビドラマの『源氏』が松本幸四郎の光源氏でがっかりしたこと、さらに次の年の大映の『源氏』で寿美花代が藤壷をやっていたのに呆れたことなどが作用したんだと思います。もっとも、のちに長谷川一夫の『源氏』(吉村公三郎監督)をあらためて見たことがあるのですが、けっこうよく出来ていました。吉村監督はどうも本気で「もののあはれ」を演出しようとしたようですね。
いずれにせよ谷崎源氏をちらちら覗いたということは、その後のぼくの日本についての渉猟にとって、それなりに役立ちました。ちなみに、そのころ母が「円地文子のものは気色(きしょく)が悪いなあ」と言っていたのが耳に残っています。きっと艶っぽくなりすぎていると感じたのでしょう。その後、二十代になって与謝野晶子の『新訳源氏物語』を読むのですが、これは初めてぴったりしたものを感じました。全訳ではありませんが、さすが晶子です。晶子独特のコンデンセーションをしている。コンデンスしているのですが、実にうまく書いてある。いまでも源氏ヴァージンの諸君には、これを読むと紫式部の構想や気分や狙いがかなり見当つくんじゃないかと薦めています(晶子はのちに全訳も試みます)。といったようなことは、ああだこうだと通り過ぎてきたのですが、『源氏物語』に本気でとりくんだということはしていません。紙人形作家の内海清美さんが『源氏物語』展をしたときの図録とか、女性誌の源氏特集にエッセイを書いたとか、国宝の源氏絵巻について番組で話したことなどはあるものの、まとめて源氏について何かの話をするのは初めてです。
十年前ほど前、千夜千冊が世の中に知られるようになってくると、「源氏はいつ書くんですか」と周辺から何度も訊かれるようになりました。「うん、まあそのうち」と曖昧なことを言ってきたのですが、なかなかその気になれません。昨年末に、2014年のラストの二夜を孟子とバルザックに決めてから、やっと新年は「源氏でいこう」という気になったというのが本音です。孟子もバルザックもずうっと気になっていながら手を付けられなかったので(そういう相手はいっぱいいますけれど)、これを果たしたら源氏だなと思ったんですね。まあ、観念したようなもんです。おかげで年末年始は源氏漬け。そのくらい『源氏物語』というのはぼくにとっては容易じゃない相手です。
知っての通り、『源氏』が書かれたのは11世紀の初頭のことでした。遅くとも1010年代にはほぼ完成しています。これは大変なことです。あのダンテの『神曲』にして14世紀の半ば。それより300年早い。しかもべらぼうに長い大作で、それを一人の女性が書いた。前代未聞です。こんな作品は世界中を探してもまったくありません。わずかにペトロニウスの『サチュリコン』があるくらいでしょう。同時代、フランスでは『ロランの歌』が、イギリスでは『アーサー王の物語』が、ドイツでは『ニーベルンゲンの歌』などが出来ていたとおぼしいけれど、これらはいずれも伝承や詩歌が集合知によってまとまったもので、誰か一人が書いたわけではありません。日本でいえば『竹取』や『伊勢』や『大和物語』にあたる。それを紫式部が一人で書いてしまったのです。
なぜこんな快挙が成立したのかということは、式部に比類ない文才や才気があったことはむろんですが、いろいろの理由が想定できます。そのころの日本の宮廷文化の事情、『源氏』の物語様式が「歌物語」という様式を踏襲したこと、真名仮名まじりの文章を女性が先導できたこと、藤原一族の複雑な権勢変化が同時進行していたこと、平安朝の「後宮」がもたらした恋愛文化が尋常ではなかったということなどなどが、なんだか桃と桜と躑躅が一緒に咲いたように参集したのです。とりわけ女君たちと宮仕えの女房たちが、今日では想像がつかないほどに格別な「女子界」をつくりだしていたことは、たとえば500年後にヨーロッパに開花した宮廷女性文化やロココ文化とくらべても、かなり風変りで奇蹟的なことでした。何でもありそうな古代中世の中国にも、こんな「女子界」はありません(中国には仮名文字がないのです)。と、まあ、きっとそんな具合に、説明するにはキリがないくらいの「女書き」をめぐる可能性が寄り集まって、あの時期、紫式部に結晶したんだと思います。それでも、仮りに以上のようなことが複合的に説明できたからといって、『源氏』五十四帖があらわした「世」(よ)というものに接近できるかというと、そうはいきません。接続はできても接近はできない。接続は点と線を差し込めばいいんですが、接近には「景色」がほたほた抱けるように見えてこなければならないのです。
本居宣長や折口信夫は源氏観として、その根本に「もののあはれ」や「いろごのみ」があることを主張しました。大筋当たっている根本的な摑まえ方だとは思われますが、ぼくがこれまでいろんなものを読んだかぎりでは、この「源氏=もののあはれ」や「源氏=いろごのみ」を深々と景色解説できていたものは、残念ながらありません。輪郭や感覚はおおかた議論されているのですが、それがたとえば光源氏と藤壷の名状しがたい関係などに代表されているだろうこともわかりやすい説明ですが、とはいえ「もののあはれ」の景色が本格的に大研究されたことがない。『源氏』は全篇に男女の恋愛をめぐる交流と出来事がずうっと出入りしています。その浮気ぶり、不倫ぶりは目にあまるほどですが、だからといって『源氏』を好色文学とは言えません。そこで折口は「いろごのみ」というふうに言った。折口ならではの網打ちでした。しかし「いろごのみ」って好色のことじゃんかと思ってしまうと、これはかなり勘違いになるのです。まして源氏や男君たちを、芸能ニュースよろしく「稀代のプレイボーイ」として片付けるわけにもいかない。『源氏』はたんなる好色文学じゃないんです。なぜなのか。これは「もののあはれ」や「いろごのみ」には、古代このかたの日本人の栄枯盛衰の本質にかかわる見方や観念形態が動向されているからで、それを『源氏』のテキストから引き抜いたセクシャルな人間関係だけから解読すると、あまりにオーバーフローするのです。
「いろごのみ」というキーワードは『源氏』まるごとにあてはまるコンセプトではあるんですが、そこには「色恋沙汰」といった意味にはとどまらないものがひそんでいます。本来の意味は、古代の神々の世界において、国々の神に奉る巫女たちを英雄たる神々が「わがもの」とすることによって、武力に代わる、ないしは武力に勝る支配力を発揮するという、そのソフトウェアな動向のこと、ソフトパワーのようなもの、それが「いろごのみ」です。つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。色恋沙汰を綴っているようで、それはいちがいに個人に属するものとはかぎらないんですね。
一方、「もののあはれ」のほうは日本人の古来からのメタコミュニケーションにかかわる揺れ動く情感のようなもので、むしろ個人意識にこそ発します。
『源氏』でいえば巻39「夕霧」に、雲居雁(くもいのかり)の「あはれをもいかに知りてか慰めむ在るや恋しき亡きや恋しき」という歌がありますが、この感じです。夕霧が柏木追悼にことよせて、ひそかに落葉の宮に近づこうとしているとき、その本心をはかりかねた雲居雁が詠んだ歌ですね。この「もののあはれ」の感覚は「揺れ動くのにしみじみしてしまう感じ」というものです。こうした情感は『源氏』以前の古代歌謡にも万葉にも、むろん古今にも見られた日本的情緒の本質です。ただ、それは必ずもって「歌」によってこそあらわせるものでした。宣長ふうにいえば「ただの詞(ことば)」ではなく「あやの詞」でしかあらわせない。紫式部はそのへんも充分に感知していたんです。まあ、このへんのことはもう少し話を話を進めたあとで、別の角度から話したいと思います。
ようするに『源氏』には「なにもかも」がひそんでいるかのように、われわれの前に姿をあらわしたのです。その可能性に満ちている。そう思わざるをえませんね。これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピアだって近松だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。当然、オーバーフローやオーバーワークしたくなりますよね。ぼくもその「なにもかも」には、日本人が長らく感じてきた「世」(よ)というものについての寂しい思いや、「無常」という驚くべき価値観や、さらには力のあるものに何かを感じながらもそれを特定できない「稜威」(いつ)といった敬神的感覚なども入っていて、それが「もののあはれ」や「いろごのみ」として表象されていると思ってきたのですが、さあ、それをいざちゃんと説明しようとなると、難しい。『源氏』から離れていってしまうこともあるのです。お正月だからといって「玉鬘」や「初音」にかこつけて源氏語りをしていくというふうには、なかなかならないのです。というわけで、今夜はいま述べたような本質論や日本論にはあまり踏み込まないで、物語の中身のほうと紫式部の比類ない表現編集力のほうについて彷徨したいと思います。
でもね、『源氏』は自由に読んだっていっこうにかまわない。それで十分に愉しめます。先にそのことを話しておきますが、光源氏をかこむ女性たちを比較する論評や案内が出回っていますよね。あれはあれで大いにおもしろい読み方です。秋山虔さんの『源氏物語の女性たち』(小学館ライブラリー)をはじめ、30冊くらい、いや、もっとかな、その手の本やガイドが出ていると思います。秋山さんは天皇社会文化の基軸を見据えて源氏研究に生涯を捧げた人ですね。ぼくは高校時代にIFという読書派の女生徒から、「松岡さんは『源氏』の女性なら誰が好き?」と言われてどぎまぎしたことがあります。彼女はぼくが大好きだった女生徒なんですが、そんな謎かけをされた。さあ、紫の上か藤壷か、そのときはちょうど宇治十帖を読んでいたときだったので浮舟と言うのか、そんなこと言うと嫌われるかなとか、それとも女三の宮にするか、でも地味だしなとか、どぎまぎしながらも結局は「ま、それぞれいいところがあるからね」などと、まことにつまらない返事をしたものです。そんなことだから、その後の大失恋に至ったのですが。
みなさんは誰が好みですか。きっといろいろ分かれるでしょうね。ぼくもけっこう変わってきた。完訳を果たした瀬戸内寂聴さんは、若い頃の瀬戸内晴美の頃は、理想的な女性として描かれている紫の上とか貞淑の鏡のような花散里(はなちるさと)より、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)や朧月夜や明石の君、あるいは源氏には愛されなかった女三の宮(おんなさんのみや)などに惹かれたと書いていましたね。なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。
こんなふうに、登場する女性像から『源氏』を語るのはけっこう愉快で、それでいて滋味ある見方にもなりうるのですが、『源氏』の読み方や楽しみ方はそれにはとどまらない。だいたい『源氏』はシャーロッキアンのようにいろいろ読んでいいのです。大きい構造からも読めますが、小さな窓越しにも調度の肩越からも愉しめます。たとえば、『源氏』には「かいま見る」(垣間見)ということがやたらに出てくるんですが、どのくらい「覗き見の場面」があるかをピックアップしてみるのもおもしろい。巻5の「若紫」では、北山に赴いていた源氏が美少女を垣間見て、この少女を連れ帰ることを思い立ちます。「限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれる」と感じたからです。そこで連れ帰ってすばらしい女性に仕立て上げ、自分の奥さんにしようというのです。いわばマイフェアレディです。この美少女こそ、のちの紫の上でした。ですから、この少女との出会いは源氏全篇に流れる「紫のゆかり」の系譜が、桐壺の更衣、藤壷をへて紫の上に及んで、さらに“紫化(むらさきか)”していったということの強調なのですから、この垣間見はたいへん重大なきっかけだったのです。ぼくは垣間見のことを「数寄見」とさえ捉えているほどですね。そのほか「野分」(のわき)では、夕霧(光源氏の長男)が紫の上、玉鬘、明石の中宮を次々に垣間見ますし、「橋姫」での薫が大君(おおいぎみ)を垣間見たことも、その後の宇治十帖の混沌を予告しています。垣間見は物語に「数寄の構造」をつくるんです。
垣間見は男が女を垣間見るとはかぎりません。逆もある。ということは『源氏』は男女リバースの覗き見文学であって、相互侵犯文学であって、つまりは不倫文学のバイブルでもあるということなんです。人妻、ギャル、少女、年増、美人、ブス、熟女、やさ男、イケメン、少年、おやじ、髭男、身分の差、貧富の差を問わず、男女の交情がのべつまくなく描かれます。さすがにパワハラは出てきませんが、ストーキングやセクハラはしょっちゅうです。あからさまなレイプはないけれど、和姦はしょっちゅうです。それでも、そこには『源氏』なりの特徴もありました。
『源氏』以前の代表的な物語に『落窪物語』や『宇津保物語』があります。その『落窪』では寝所に侵入するなり服を脱いで添い寝してくる男君に、「怖くて心細くて、震えながら泣いていた」という場面があって、それは「着ている衣が見苦しいのと、とくに下着が汚れてたので、それが恥ずかしくて、たったいま死にたいほどの気持ちになったので泣いたのだ」という叙述が入ります。『宇津保』には父母のない女君が寺社参詣に来た男君に犯される場面があるんですが、その前に歌の贈答があったり、女のほうも琴(きん)を鳴らして応接したりしている。つまり下着が気になったとか贈答歌があったとか、それなりの応接があったとか、『源氏』以前の物語では説明がつく交情になっているんです。いわば弁解付きのセクハラものが前時代には多かった。ところが『源氏』はこういう前代の物語様式を継承していながらも、男女の交わりをその場の理由で叙述していない。そういう文意の特徴がはっきりしているのです。その場ではあからさまな情交がおこっているのですが、その理由を源氏や男君たちも女君たちも、容易に説明できないように書いてある。そこでは「説明しがたいもの」が暗示されているだけなのです。このへん、どうしてそんなふうに書いてあるのか、その物語技法の深みを見ていくのも、なかなか興味深い読み方です。
もちろん、もっとカジュアルにもっとポップに、もっと現代に引き付けて読む手もあります。田辺聖子が翻案した『新源氏物語』(新潮文庫)や橋本治の『窯変源氏物語』全14巻(中公文庫)、あるいはいまは中断しているようですが、マンガになった江川達也が性的表象を重視した『源氏物語』(集英社)なんかがそういうものですね。そうしたなか、コミックの得意手をふんだんに綾なしてみせたのは、大和和紀の先駆的な『あさきゆめみし』全13巻(講談社)ですかねえ。まだヴィジュアルな史料が乏しかった1979年からの連載だったけれど、たいへんうまく源氏的なるものを扱ってました。さらにフェミニズムの立場から読むとか、ジェンダー的に突っ込んでみるという手もあるでしょう。大塚ひかりという古典エッセイストの『源氏の男はみんなサイテー』(マガジンハウス)とか『ブス論で読む源氏物語』(講談社)などは、そういう思いきってドライな源氏読みです。ついでながら、現代語訳の『源氏』がどのくらい読まれているか、見当がつきますか。晶子訳が172万部、谷崎源氏が83万部、円地源氏が103万部で、田辺聖子訳が250万部、瀬戸内訳が220万部。『あさきゆめみし』はなんと1800万部だそうです。しかし、『源氏』から男と女の関係式ばかり抜き出していては、いささかもったいない。
そもそも『源氏』はその全体が「生と死と再生の物語」として読めるようになっています。これは大切な見方です。それとともに「もののけ」を含めた「もの・かたり」の大きなうねりが脈動しています。「もののけ」は葵の上を呪殺しただけではなく、何度も出没しますからね。王朝期、「つくる」というと「物語を書く」ことをさしました。紫式部はその「もの」の「語り」をどういう作り方にするか、そうとう意欲をもって取り組んだはずです。そこで「本歌取り」ならぬ「物語取り」の手法もいろいろ工夫した。暗示や例示、仮託や暗喩の語りも駆使します。だから『源氏』からは驚くほど多様なナラティビティや趣向や属性を、今日なお読みとることが可能です。式部はそうした「もの」に寄せたフィクションの力を確信していました。巻25の「蛍」には、源氏の養女になった玉鬘(たまかずら)が物語に熱中していたので、源氏が自分がどのように物語について感じているかを述べる有名なくだりが出てきます。そこで源氏は「物語というのは虚構(そらごと)だからすばらしいんだ」という持論を述べてみせるのですが、これは式部が源氏を借りて自分の物語観を吐露しているところです。さらに「日本書紀なんてリアルで瑣末なことばかり書いていて、かなり片寄っている」とも、源氏に言わせています。
日本の言葉の奥行き、すなわち大和言葉や雅語の使い勝手をまさぐるために『源氏』を読むということも、得がたい作業です。これは国学者たちが挑んできた王道のひとつです。たとえば「らうたし」とか「らうたげ」という言葉が夕顔や女三の宮に使われているのですが、これは「うつくし」とも「いとほし」とも違います。「うつくし」は小さいものや幼いものへのいたわりで、「いとほし」は相手への同情を含む気の毒な感覚から生まれた言葉なのですが、「らうたし」は弱いものや劣ったものを庇(かば)ってあげたくなる気持ちをもった「可憐だ、愛らしい」という意味なんです。夕顔や女三の宮をそのように見ることは「らうたし」からも推しはかることができるんですね。このへんのことは国文学の研究書がそれこそとことんやっているので、そういうものを繙(ひもと)くとすぐに見えてくる奥行きですが、こうした「言葉読みの可能性」をわかりやすく、かつおもしろい仮説を提供しているのは、ぼくにとっては、国語学の大野晋さんと作家の丸谷才一さんが対談しながら全巻を巻ごとに紐解いていった『光る源氏の物語』上下(中央公論社)でした。これ、けっこうおすすめです。
それから忘れないうちに加えておきますが、『源氏』が描く衣裳や色彩や、源氏絵と呼ばれてきた絵画を通した源氏体験をするのも、また源氏調度や源氏香などに分け入って源氏理解をするのも、なかなかオツなものです。ぼくはどちらかというと、こちらのほうに子供の頃から親しんできました。源氏色については吉岡幸雄さんがみごとな再生をされました。『源氏物語の色事典』(紫紅社)はたいへんなプレゼンテーションでしたねえ。吉岡さんの色の再現と色彩文化にまつわる造詣にたちまち引き込まれます。以前、ホテルオークラで公開対談をしたときは、すばらしい源氏色の由来を茜や紅で染めた布で説明してくれました。紫式部の色彩表現感覚は、かなり独特なのです。赤だ、緑だ、白だとは書かない。「若菜」には洗い髪の色合を綴った息を呑むような表現がありますね。「(洗った髪が)露ばかりうちふくみ迷ふ筋なくて、いと清らにゆらゆらとして、青み給へるしも色は真青に白く美しげに透きたるやうに見ゆる‥‥」というあたりです。溜息が出ます。
源氏絵をじっくり見るのも「源氏読み」のひとつです。源氏絵はなんといっても国宝の源氏物語絵巻が「鈴虫」「関屋」「夕霧」「柏木」「宿木」(やどりぎ)など19場面をのこしているのが基本の基本ですが(ぼくもこの撮影に何度か立ち会いましたが)、宗達が「関屋」「澪標」(みおつくし)をユニークな一枚絵に描いたように、王朝ルネサンスとしての源氏絵は国宝の絵巻だけでなく、白描(はくびょう)の源氏絵、永徳らの源氏屏風、土佐光吉の「源氏物語画帳」、住吉具慶の源氏絵巻など、いろいろあるんです。これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・コンビナトリアをおこして伝わってくる。いわばバーバラ・スタフォードのイメージング・サイエンスのような見方ができるように描かれているんですね。こうしたヴィジュアル源氏を愉しむには、秋山虔・小町谷照彦の『源氏物語図典』(小学館)、三田村雅子の『源氏物語 物語空間を読む』(ちくま新書)、『源氏物語 感覚の論理』(有精堂出版)、三谷邦明との共著の『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川選書)などが参考になります。
このほか、お能にも『源氏』の各巻を本説(ほんぜつ)とした幾つもの作品があるので、これを通してみるのもさまざまな源氏体験ができます。夕顔をシテとする『夕顔』や『半蔀』(はじとみ)、六条御息所をシテとする『葵上』や『野宮』(ののみや)、彷徨する主人公を謡う『玉鬘』や『浮舟』、光源氏がシテになる『須磨源氏』(光源氏が出てくるのはこれだけですね)、紫式部にアヤをつけた『源氏供養』など、それなりの源氏ものがあります。ただ、ちょっと意外なのは世阿弥が源氏をあまり好まなかったようだということで、これについてはまだ本気の研究がないのではないかと思います。きっと紫式部の時代は田楽の流行の段階で、世阿弥はこれを脱したかったから、あえて『源氏』に入らないようにしたのかもしれません。その逆に、もしも世阿弥が『源氏』を能楽していたらなと思うときもあります。
というふうに、源氏読みや源氏体験にはいろいろのアプローチがあっていいのですが、でも王道中の王道は、やはり「歌」にカーソルを合わせつつ「歌物語としての源氏」を読むということだろうと思います。なにしろ800首近く、795首の和歌が『源氏』に入っているんです。それを式部がすべて登場人物に即して歌い分けました。こんな例はほかにありません。それだけでなく、「引歌」(ひきうた)というんですが、前代の和歌がおびただしく引用されてもいます。藤原俊成が「六百番歌合」の判詞(評判)で「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と言ったように、『源氏』はそれ自体が歌詠みが必ず通るアーカイブだったのです。それゆえ中世から近世にかけて、日本を代表する歌人や連歌師や俳人たちが源氏注釈をしながら、このアーカイブを探索しました。四辻善成の先駆的な評釈『河海抄』を筆頭に、一条兼良の『花鳥余情』(かちょうよせい)、三条西実隆の『細流抄』、北村季吟の『湖月抄』など、ずらりと揃っている。これらを総合的に点検し、巨きな視野で仕上げていったのが賀茂真淵の『源氏物語新釈』であり、それにさらに磨きをかけたのが本居宣長の『玉の小櫛』です。ちなみに『湖月抄』までを源氏ギョーカイでは「旧注」と言いまして、それ以降は「新注」です。
ただし、こういうふうな源氏の歌世界に入っていくには、多少なりとも和歌をたのしめなくてはなりません。和歌を読みくらべたりすることがおもしろくなると、『源氏』はたまりません。それはプロの歌人にとっても同じこと、塚本邦雄の『源氏五十四帖題詠』(ちくま学芸文庫)を一度、手にとってみてください。五十四帖全巻に対して塚本さんが一首ずつを新たに詠み、それを含めて各巻の趣向を解説してしまうという、とんでもなくアクロバティックな遊びでした。ちょっとだけ紹介しますかね。たとえば「桐壺」は「桐に藤いづれむらさきふかければきみに逢ふ日の狩衣は白」を、「夕顔」には「その夏のわざはひの夢わがために一茎ゆふがほぞ裂かれし」を、「玉鬘」が「きのふ初瀬にめぐりあひたるゆかりとて日蔭の花のあはれ移り香」で、「橋姫」が「宇治十帖のはじめは春の水鳥のこゑ橋姫をいざなふごとし」というふうに。七七五七七の字余り塚本節も滲み出しての、塚本邦雄以外の誰にもできそうもないプレゼンテーションでした。
枕の話ばかりしてしまいました。それでは、そろそろ本題に入ることにします。作者のことから入ります。そもそも紫式部とはどういう女性なのか。いったいなぜ『源氏物語』などという長大なものを書いたのか。時代背景は何を見せていたのか。ここからが今夜の源氏彷徨です。
一言でいえば、紫式部は受領(ずりょう)の子です。娘時代の本名は小市(こいち)といいます。小市の家は藤原北家の一門ではあったものの、祖父の代では受領レベル(諸大夫)の身分になっていましたから、栄華を極めていった藤原道長の家系とはほど遠い家柄です。でも4代ほど前の醍醐天皇のころは、それなりに優遇されていたんです。小市の曽祖父、兼輔(かねすけ)の時代です。それがだんだん落ちぶれてきた。落ちぶれたといっても落魄したわけではなく、ずるずると「家の位」が後退したという程度なんですが、ここが『源氏』が書かれた時代背景としてけっこう大事なところです。なぜならこのことは、小市にとって「くちおしき宿世」だったんです。小市は長生きをした祖母から往時の華やかな日々のことを聞いて、いささか悔しい思いをもっていた。なぜ父の世代でそうなってしまったのか、なぜ祖母はその懐古話をしてくれたのか。ここに執筆のモチベーションの一端があるのです。『源氏』の冒頭が「いづれの御時(おんとき)にか、すぐれて時めきたまふありけり」というふうに始まっているのは誰もが知っていることでしょうが、この「いづれの御時」という御時は、実は小市から見ると4代昔の醍醐天皇の御時のこと、曽祖父の御時のことだということなんですね。
もう少し言っておくと、父の藤原為時は漢学者でした。菅原文時を師として漢籍を学び、慶滋保胤(よししげやすたね)や文雅に長じた具平(ともひら)親王らとも親交を結んでいます。花山天皇に大事にされたこともあった。けれども花山帝は藤原兼家の策略で2年たらずで出家退位しましたから、そのあとは長く文章生散位(もんじょうのしょう・さんに)のまま捨ておかれた身分でもありました。おまけに妻を病気で失った。そういうこともあって小市たちは片身の狭い思いがしていたんですね。小市は幼くしてお母さんを喪(なく)していたのです。このロストマザー体験も見逃せません。
こうした家柄の浮沈に関する出来事は、その後の小市の生涯の人生観と、紫式部としての物語作りのスタンスを決めていきます。宮廷社会で生きるとは、そういうものでした。それはまたあとでお話しするとして、さて、ところで、父の為時が不遇の散官時代をへて長徳2年(996)に越前守となると、小市は翌年に結婚します。いくつくらいの時だったと思いますか。10代後半? 20代になってから? そのころとしてはかなり遅い29歳前後です。相手は46歳の藤原宣孝で、山城守という職掌です。この旦那さんは『枕草子』によると、まあまあ明るい茶目っけもある貴族だったようですが、けれども長保3年(1001)、夫は折からの疫病に倒れて死んでしまいます。小市は、同じ年に身罷った東三条女院の詮子の死と思いを重ねて、「雲の上も物思ふ春は墨染に霞むそらさへあはれなるかな」と詠んでいる。わずか数年の結婚生活でした。今度はロストハズバンド体験でした。で、小市はそれから数年後に一条天皇の内裏に宮仕えすることになるのです。中宮の彰子(しょうし)の女房として出仕しなさいという誘いがきたのです。彰子は道長の娘ですね。そしてここから先が「紫式部」となるわけなのですが、小市は当初、この出仕にけっこう迷っています。
女房というのは、宮廷や貴族の館に局(つぼね)をもらって仕える高級女官のことです。天皇に仕える「上の女房」(内裏女房)と後宮の后に仕える「宮の女房」とがありました。小市の場合は一条天皇に入内(じゅだい)した中宮の彰子(しょうし)に仕える女房として声がかかったので、「宮の女房」です。当時はこうした女房が後宮サロンをつくり、それぞれ妍(けん)を競いあっていました。道隆の娘の定子(ていし)のサロンには清少納言が、彰子のサロンには和泉式部が入っています。しかし小市は、どうも出仕の決意が定まらない。「数ならぬ心に身をば任せねど身に随ふは心なりけり」と歌っている。ともかく最初のうちはぐずぐずしていたようで、里に帰ってしまったこともあったようです。それでも、結局は決断する。何かを決意したようです。キャリアウーマンとして、栄華に酔いしれる宮廷社会の実態を見てみようという決意だったかもしれないし、かつての曽祖父の時代の宮廷感覚を取り戻したかったのかもしれません。このあたりのことは、杉本苑子さんに『散華』(上下・中公文庫)という小説があるので、読まれるといい。現代語による会話が少し興ざめしてしまうところがありますが、紫式部の生涯を小説にしたものとしては、小市から式部になっていく心情と境遇に沿って女心のカーソルを動かしているので、そこそこわかりやすいと思います。歴史的なプロフィールについては、今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)、清水好子『紫式部』(岩波新書)などが参考になるでしょう。
紫式部という名称は自分から名のったのではありません。自分でつけたペンネームでもありません。これは「候名」(さぶらいな)あるいは「女房名」というもので、仕事上の呼び名です。候名や女房名には、本人が帰属する家を代表する者の官職名を用います。紫式部の「式部」は父親が式部丞という官職に就いたことに由来します。清少納言は兄弟に「少納言」がいたから、伊勢は父親が伊勢守だったから、相模は夫が相模守だったから、それぞれそう呼ばれました。清少納言の「清」は清原氏の出自であることを示します。だから念のために言っておきますが、セイショー・ナゴンではなくセイ・ショーナゴン。ドンキ・ホーテではなくドン・キホーテであるように。どうしてこんなふうなハンドルネームのようなもの、まさに水商売の源氏名のようなものがついたかというと、宮廷にかかわる女房は実名を伏せるという仕来りになっていたからでした。ですから女房たちは系図にもめったに実名が記されません。
それで「紫式部」という候名ですが、これは通称です。実際には小市の父の姓は藤原なので、おそらくは「藤式部」(とうしきぶ)と呼ばれていたはずです。それが『源氏』が有名になり、ヒロインの紫の上に宮廷の人気が集まったので、また『源氏』の物語の全体が「紫のゆかり」が導きの糸になっていたので、いつしか「紫の式部」になったのではないかというのが、学界の定説です。ま、そのくらい同時代によく読まれていたということでもあるわけです。これは有名なエピソードですが、当代きっての知的ダンディの藤原公任が彰子の皇子出産の祝宴に出ていたときに式部に出会い、「すみません、このあたりに紫の方はいらっしゃいますか」と冗談めかして尋ねたという話がのこっています。ついでながら、角田文衞さんは長年の研究を通して、紫式部の本名が実は「香子」(かおりこ/たかこ/こうし)だったということを調べ上げました。『紫式部伝』(法藏館)という大著になっています。大論争がおこった仮説だったのですが、いまなお賛否両論です。
さて、夫に死なれ、中宮に出仕する誘いがあって、小市がひそかに決断したのが物語を「つくる」ということでした。寛弘5年(1008)の日記(のちに『紫式部日記』となったもの)に、「はかなき物語などにつけてうち語らふ人」になりたいといったことを書いています。こうして、何年何月何日とは確定できないのですが、夫を亡くして6、7年、宮仕えをして3年、小市は『源氏』をほぼ書き了えているんです。ということは、もう少し前から草稿を綴っていたんだと思います。草稿段階でどんな構想ができあがっていたのか、そこはわかりません。おそらく、主人公を大胆にも天皇の第二皇子にしたことが決定的なトリガーになったんではないかと思います。「世になく清らなる玉の男みこ」としての「光の君」ですね。「かかやく日の宮」とも呼ばれた。式部は源融や源高明や藤原伊周(これちか)などを参考モデルにしたようです。まあ、合体ロボのような超イケメンです。この「光の君」の父は桐壺の帝というふうにしました。それこそ曽祖父の時代の醍醐天皇や村上天皇がモデルです。その帝が選んだのが桐壺の更衣です。帝(みかど)の寵愛を独占したために同輩から疎まれ、さまざまな陰湿な「いじめ」にあったという設定にしました。ついで、その帝と更衣のあいだに輝くような「光の君」が授けられたのに、母なる更衣が死んでしまうというイニシャルステージを思いついたことで、あらかたの構想ができたはずです。式部は、漢の武帝と李夫人の秘話や白楽天の『長恨歌』が詠んだ玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋などをヒントに、日本の宮廷社会のあからさまな日々を綴ることにしたんですね。その後、どんなふうに書き進めたのかということもわかっていないのですが、おそらく4〜5年で書き上げたのだろうと思います。すごいですね。没頭したんでしょうね。それにしても、この物語を一気に読めた同時代の王朝貴族、宮廷文化、後宮社会というものの文化水位というのも、驚くべきものだったと思います。
ということで作者像のことはこのへんにして、それではそろそろ『源氏物語』という大河小説のような物語がどんな「しかけ」や「しくみ」になっているのかということを、ざっと見ておこうと思います。
ご存知のように『源氏』は五十四帖でできています。五十四帖になったのは藤原定家の校訂本以来のことで、それ以前には異同がいくつかあったようですが、それはともかく、源氏といえば五十四帖です。そのなかに、たくさんのエピソードやプロットが散りばめられているのですが、それらすべては時の流れに従って話が進行するようになっています。光源氏をはじめとする主人公たちの成長、登場人物の生老病死、季節の変化、節会と行事のめぐり移り、調度の出入りや装束のメッセージ、神社仏閣への参詣、さらには「もののけ」の出没などが織りなされ、それが五十四帖に連続的に及びます。とはいえ、むろんベタには書いてはいない。王朝クロニクルともかぎりません。光源氏が生まれて12歳の元服のときに葵の上と結婚させられるまでが巻1の「桐壺」ですが、次の巻2「帚木」(ははきぎ)では17歳にとぶ。桐壺の帝が亡くなって、朧月夜との密通がバレてしまってピンチにたった源氏の話は巻10の「賢木」(さかき)が描いて、ここに大きなターニングポイントがあらわれるのですけれど、次に源氏が須磨・明石に退却するところも2〜3年とんでいます。
おびただしい登場人物についても、必ずしも追跡描写があるわけではありません。囲碁の布石のようにしっかり伏線は綴られているのだけれど、忘れたころに再記述や後追い記述がされるということもしょっちゅうです。トレーサビリティを微妙にしておくことが、式部の魂胆であり意図だったのです。巻3「空蝉」(うつせみ)で源氏と一夜の契りを交わした空蝉のその後は巻16「関屋」にとびますし、巻6「末摘花」(すえつむはな)の後日譚は巻15「蓬生」(よもぎう)を読むまではわからない。しかし、ときどきとんでいたからといって、『源氏』の物語構造はゆるぎません。プロットはけっこう複雑ではあるけれど、かなりしっかりした構造です。ぼくは長らくレヴィ=ストロースが言うように「構造は関係である」と確信してきたのですが、『源氏』はまさに「物語=構造=関係」になっているんです。
物語には母型(マザータイプ)というものがあります。とくに古典は母型をもっている。母型を支えているのはワールドモデルです。『源氏』のワールドモデルは何なのでしょうか。「都」ではありません。「宿世」(すくせ)です。『源氏』はこの宿世と物語構造を融即させました。かくて『源氏』の物語構造は、結果的に大きく3部構成に分かれることになりました。これは研究者たちが便宜的に区分けしたものですが、こういうふうに見るのはわかりやすいので、ぼくもこれを使わせてもらいます。
第1部は「桐壺」「帚木」「夕顔」から「須磨」「明石」をへて「野分」「玉鬘」「梅枝」、巻33の「藤裏葉」に及ぶという、けっこうな長丁場です。この進行のなかで二つのストリームが交差します。複数の予言的な暗示が幾つか提示され、その予言にもとづいたロングストリームの物語がうねるように進行しているなか、ショートヴァージョンのエピソードがしばしば絡んで、しだいに光源氏の特徴と野望があきらかになっていく。それとともに、その複雑な心情を浮き上がらせるというふうになっているのです。ロングストリームの話の根底に流れるメタモチーフは、母の桐壺の更衣の「面影」です。その面影が先帝の四の宮だった藤壷へ移り、さらにその姪の紫の上に投影されていく。この面影が「うつる」(移・映・写)ということこそ、源氏全体に出入りしている最も重要な特色のひとつです。ところが藤壷との密通によって罪の子が誕生すると、この子が冷泉院となって帝位につくのですが、この面影のストリームは潜在的な王権の可能性のほうに転化していきます。源氏は太政大臣、また准太上天皇(じゅんだじょうてんのう)にまで昇りつめるけれども、それは摂関家の権力でもなく、また天皇の権威でもない別様のものなのです。あくまで源氏独特のものです。そこにあらわれるのが六条院という「雅びの王国」の結構だったわけでした。ショートヴァージョンのほうは、源氏が空蝉、夕顔、末摘花、夕顔の遺児の玉鬘らとどういうふうに交わったかという話の連鎖です。これらの女性はロングストリームの物語には登場しません。けれどもそのぶんたいへん印象深く描かれます。
そういうなか、源氏は葵の上を正妻にします。これは政略結婚のようなものですが、その葵の上は夕霧を産んだあと、六条御息所に排除され、さらにその生霊(いきりょう)に取り憑かれて殺されるという、まるでシェイクスピア並みの悲劇か、ホラー小説に匹敵するような驚くべきの事態を出来(しゅったい)させます。三島由紀夫がこの顛末を現代劇に置きなおしましたね。こうしてさしもの華やかさに彩られた六条院の邸宅も、死霊によって揺さぶられる屋敷と化していきます。六条院は増築を重ねて広大なものになったのですが、その「秋の町」の結構は実は六条御息所の邸宅を吸収したものでした。この土地はそういうゲニウス・ロキ(地霊)をもっていた。上田秋成が『雨月』の「浅芽が宿」に換骨奪胎しています。かくて源氏その人は須磨・明石に移っていく。あとで説明しますが、そうなった表向きの理由は弘徽殿の女御の妹である朧月夜の官能力にあるのですが、ぼくはここは紫式部が源氏に「侘び」を選択させたところだと見ています。須磨・明石のくだりは神話の物語類型から言うと「貴種流離譚」に当たります。
源氏が落ち着いた先は明石の入道の邸宅です。入道が娘の明石の君を縁付けたいと申し出ると、源氏はこれを受け入れ、二人のあいだに生まれた子は今上帝の中宮になって、源氏一族の繁栄のシンボル力のように見えてきます。しかし源氏はまだ「侘び」のなかにいる。ここに浮上してくるのが玉鬘(たまかずら)と夕霧です。玉鬘は頭中将と夕顔のあいだに生まれた子で、源氏が引き取って養女にしていたのですが、たいそう美しく育った。そこでみんなが言い寄るようになっていく。養父の源氏さえ妖しい気分になります。この玉鬘をめぐる話が巻22の「玉鬘」から巻31の「真木柱」まで続いて「玉鬘十帖」とも呼ばれるんですね。一方の夕霧は光源氏と葵の上のあいだに生まれた長男です。雲居雁(くもいのかり)とのあいだに4男3女、藤内侍(とうないしのすけ)とのあいだに2男3女、さらに落葉の君とも結婚するという「まめ人」ですが、のちのち源氏が亡くなったあとは大いに権勢をふるいます。ですから物語の男主人公としては、光源氏から夕霧へとバトンタッチされていくというふうになっているわけです。けれども、そこには静かな逸脱のストリームが流れているんですね。
第2部は巻34「若菜」上から巻41の「幻」までです。源氏はもう40代になっている。ここでは女三の宮が六条院に降嫁してきたことがきっかけになって、それまでの六条院の栄華が目に見えてくずれ、源氏と紫の上のあらまほしい関係が世俗にまみれていくという進行をとります。結局、栄華を手にするようになったのは明石の君の一族です。ここに登場してくるのが柏木ですね。柏木は蹴鞠(けまり)の日に垣間見した女三宮に懸想(けそう)していて、落葉の宮との結婚に満足していない。それでも強引に密通して思いをとげます。こうして生まれてきたのが次の第3部で活躍する薫です。
ここから事態がしだいに複雑になってきて、源氏の心も右に左に乱れていきます。源氏は藤壷との罪の因果応報を感じながら、五十日(いか)の祝いで薫を抱くのですが、そこにはうっすらと苦渋の表情があらわれています。柏木は柏木で、源氏に女三宮との秘め事を知られて自滅するかのように死んでいき、女三宮は出家してしまいます。実直だったはずの夕霧も落葉の君に恋慕するというふうに踏み外す。その豹変ぶりに雲居雁は失望して実家に戻ってしまいます。すべての歯車がちょっとずつ狂ってくるんですね。源氏もだんだん常軌を逸した言動を見せる。とうとう紫の上はすべてを諦観してこの世を去ってしまいます。これでは源氏はどうしょうもない。紫の上を哀悼しながら出家の道を選ぼうとするというふうになって、「幻」の巻で光源氏は消えていく。実際には源氏の死の場面は描かれていないんですが、そのことは第3部の宇治の物語で、源氏は嵯峨の地に出家して亡くなったというふうに回想されることになります。かくて第2部はしだいに仏道の求道感覚が色濃くなって閉じられます。けれども抹香くさくはなりません。かなり式部は工夫したでしょうね。
第3部は「幻」の巻から8年がたって始まります。「匂宮」「紅梅」「竹河」ときて、「橋姫」から「夢浮橋」までがいわゆる宇治十帖です。宇治十帖はぼくが高校時代に惹かれたところで、いまその理由を考えてみると、薫が生まれながらの疑念を抱えていて、その体に仏身をおもわせるような芳香がそなわっていたりするところに惹かれたのかもしれません。薫は源氏の形見の子として扱われますが、実は柏木と女三の宮のあいだに生まれています。薫は何か2つの陰陽のスティグマをもっているのです。もう一人、第3部で鮮烈な印象を放つのが浮舟です。薫がひっそりと宇治に移り住まわせていたところ、匂宮(におうのみや)が薫と偽って宇治に乗りこんで接触すると、それまであえて距離をとっていた薫が浮舟に耽溺します。それでどうなったのか。宇治十帖はこの浮舟の物語になっていきます。
話の流れとしては、源氏は死んでしまっているので、新たな主人公として薫と匂宮が中心になって進みます。舞台はもはや洛中ではなく、洛外の宇治や小野の里といった閑静な「凹んだ場所」です。前半で描かれるのは、源氏亡きあとの人物たちのその後の動向と、柏木の遺児の薫の言動、そして匂宮のふるまいです。とくに薫の「まめ」と匂宮の「すき」が対照的に描写されます。光源氏は「まめ」と「すき」の両方を兼ね備えていたのですが、もはやそういう統合像をもったヒーローはいないんですね。この薫と匂宮にあたかも逆対応するかのようにかかわってくるのが、八の宮とその女君たちです。大君(おおいぎみ)、中の君、浮舟などが登場する。八の宮は『源氏』全巻のなかでも、きわめて特異なキャラクターですね。そもそも薫は八の宮の求道的な姿勢に関心をもって宇治に赴くようになったのですが、そこに匂宮が介入してきます。そういうなかで薫は大君に求婚をする。けれども大君は父親の遺言に縛られて応じられないままに病死します。結局、中の君は匂宮と結婚しました。浮舟はどうかというと、薫と匂宮の板挟みにあって、宇治十帖を象徴するかのように宇治川に入水する。浮舟は紫式部が最後に用意した「面影」です。これまでの女君たちとはまったく違っている。だから、いったい最後の最後になって、なぜ浮舟なのかということですね。物語のほうも、これで最後です。浮舟が横川の僧都(よかわのそうず)に助けられて小野の里に暮らし、やがて出家するというふうに五十四帖は終わっていくのです。なんとも不思議なエンディングです。男の主人公は、光源氏、夕霧、匂宮、薫、そして横川の僧都というふうに変移していったわけでした。
以上がおおざっぱな3部構成の流れです。詳しいことは省いて起承転結の流れだけをスキーミングしたので、これで『源氏』の物語性が編み出せるわけではありませんが、いまはこんな流れだけをかいつまみました。ぼくとしては『源氏』が以上のような「ゆるやかな崩れ」を追っているということを強調しておきたかったのです。たくさんの「小さな芽生え」と、重なりあい離れあっていく「ゆるやかな崩れ」。『源氏』はこの離合の組み合わせで織られているのです。そこにはつねに「別様の可能性」がコンティンジェントに見え隠れして、そのたびに「面影」が濃淡の色合いを変えて出入りするのです。なぜ、そんなふうになるのかといえば、そもそもにおいて「当初の過ち」があったからです。それを式部が「宿世」と捉えたかったからです。このことについては、その他の重大な見方、たとえば天皇の問題、藤原氏の問題、無常の問題、記憶と想起の問題などなどとともに採りあげます。では、この流れを巻立ての順に一つひとつ見ていくと、どうなるか。 
 

 

2
どんな小説にも、どんな偉大な物語にも、調子が上がっていくところと、そうでもないところがあるものです。映画やテレビドラマがそうであるように、文学作品もそういうものです。調子のよしあしは筋書きや内容のつながりというより、だいたい文章の興奮度や透明度や稠密度でわかります。ははん、このへん来てるなという感じがやってくるんですね。『源氏』の場合は、畳みかけるような暗示感と、肝心の出来事や浮沈する心情を一言やワンフレーズで伏せていくところです。だいたい『源氏』は総数40万語で仕上がっている長丈な大河ドラマです。当然、緩んだり高まったりもする。それに40万語のうちの半分の20万語は助詞か助動詞です。だから、ちょっとしたことで調子が変わります。それでも『源氏』全巻のなかで調子が最初に上がっていくのは、巻7「紅葉賀」(もみじのが)から「花宴」(はなのえん)、「葵」へと続くところでしょうね。暗示的文章がみごとに連鎖する。
少し筋立てを言っておきますと、源氏19歳のとき、藤壺がようやく皇子を出産します。のちの冷泉帝ですね。気を揉んでいた桐壺の帝は胸をなでおろす。「紅葉賀」はその皇子の父親が光源氏であるかもしれないことを仄かに暗示して、「花宴」では心地よく酔った源氏が弘徽殿の三の口の細殿に忍びこんで見知らぬ女と交わる夢うつつな夜を描きます。その夢のような官能をもたらしたのは東宮(のちの朱雀帝)と契りを結んでいた朧月夜の君だったのです。はたして桐壺の帝は、わが子のこのような過ちをどう見ているのか。だいたい帝はどこまで知っているのか。そんなことを読者にやきもき感じさせるところなんですが、そこを紫式部は次のような文にして綴ります。「師走も過ぎにしが心もとなきに、この月はさりとも宮人も待ち聞え、内にもさる御心まうけどもあり。つれなくたちぬ」。師走を過ぎても藤壺が皇子をお産みにならないので、女官たちは正月にはと案じて待ちうけ、帝もそのご用意をなさっていたけれど、日はむなしく流れたというんですね。「御物の怪にやと世人も聞え騒ぐを、宮いとわびしう、この事により身のいたづらになりぬべき事とおぼし嘆くに御心地もいとくるしくて悩み給ふ」。こんなに出産が遅れているのは「もののけ」のたたりのせいかなどと人はうるさく噂する。藤壺はたいそう辛いお気持ちで、この遅れのせいで事が露見し、身の破滅となるのではないかと怖れを嘆くので、身も心もひどくお疲れになった様子だったと描写します。
式部は「この事」あるいは「事」とだけ書いてますね。その書き方で、源氏と藤壺の不義がこのあと何をもたらすのか、何がどのように露見するのか読者は気になるところだろうけれど、そこを藤壺の宮の「御心地もいとくるしくて悩み給ふ」とするだけで、何も解説しない。事態の本質的気配というか、その核心におよぶ人々の気分のアフォーダンスのかけらというか、それだけを示すんですね。それで無事に皇子が産まれると、「程よりは大きにおよすけ給ひてやうやう起きかへりなどし給ふ」(発育がよくてよかったが)、「浅ましきまでまぎれどころなき御顔つきを思し寄らぬ事にしあれば、また並びなきどちは、げに通ひ給へるにこそは思ほしけり」(驚くほど源氏の君に似通った顔立ちに、帝はすぐれている者は似通うというけれど、まったくそうだと思われたようだ)というふうに、今度はただその顔立ちの印象だけを残響させるだけなのですね。
ここに出入りするのは文章の上では一瞬の「面影」のイメージの擦過です。あとは連想するしかないことばかり。その連想もたいへんアイロニカルかファンタジックです。そして巻立てはそのまま「きさらぎの二十日(はつか)あまり、南殿の桜の宴させたまふ」に始まる「花宴」(はなのえん)に移り、そこでは今度は源氏が20歳の桜の宴を南殿(紫宸殿)で堂々と舞っている。映画の前シーンで謎を仄めかし、次のシーンではもう源氏の舞にカメラが寄っているんです。まるでその顔立ちに新しい皇子の貌(かんばせ)が宿っているかのように、ですね。そんな感じです。ところが舞いおわり、上達部(かんだちめ)たちと酒を酌みかわし、ほろ酔い気分になった源氏はなにやら動き出す。ほんとうは藤壺のところに行きたかったのに、戸がしまっているので向かいの細殿に入りこんで、「朧月夜に似るものぞなき」とだけ声にした見知らぬ女と一夜をあかします。一ケ月ほどたってこの「朧月夜の君」が右大臣の六の君であることを知るのですが、そんなことはここでは一言一句も綴りません。源氏が詠んだ歌「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」と、その女の歌「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」だけが示される。でも式部は一言、「艶になまめきたり」という一行だけを示す。これで充分なんですよ。
こういう、文章の明暗陰陽の効かしかた「ハイライトちょっと」と「シャドーのグラーデーション90パーセント網伏せ」といった表現術は、まったくもって巧妙です。ひたすら読者の想像力や連想力に訴えるだけの文体に徹している。実は『源氏』には「心内語」(しんないご)と「草子地」(そうしじ)というものが駆使されているんですね。「心内語」は作中人物が心に思う言葉のことなんですが、秋山虔さんが指摘したように、『源氏』の心内語は人の心情心理と、そのような心をもたらした状況との、「双方のけじめをつけない表現」になっているのです。「草子地」はいわゆる地の文にあたる文芸用語ですが、これも『源氏』では作者の詞、登場人物についての詞、状況描写の詞が巧みに交錯しているんです。ということは、『源氏』の文章文体はすこぶる「共示性」に富んでいるということになりますね。そのうえで、式部はそうした心内語と草子地をまぜながら、われわれの想像力や連想力に生じるアフォーダンスに“限り”をつけていくんです。仄めかしの範囲を限定して測っている。そういうことはミステリー作家なら誰だってできることだけれど、それは筋書きやプロットによる仄めかしの限定です。式部はそれを文章の調子だけで測っているというのは、憎いというか、じれったいというか、たいしたもんです。これこそがきっと「雅びのサスペンス」というものなんでしょうね。
こうして「葵」に話が進んだときは、1年以上がたっています。この切り替わりもまことにうまい。そのあいだに桐壺帝は退位して、朱雀帝の治世となっている。「御代替り」(みよがわり)がおこっていたのです。そういう「世」の代わりぐあいだけを語っておいて、ここに登場してくるのが六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。このあと御息所の生霊が葵の上に取り憑くという前代未聞のホラーな出来事がおこるのですが、これまで御息所についてはちょっとしか記述がなかったので、読者はこの女性が何者かはわかっていない。どのように御息所を再登場させるか。そこで式部は「まことや、かの六条の御息所の前坊の姫君、斎宮にゐたまひしかば、大将(源氏のこと)の御心ばへもいとたのもしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことづけて下(くだ)りやましなましと、かねてよりおぼしけり」というふうに、いったい源氏と御息所はどんな因縁をもつのかということを、ごく少々摘まんでみせます。どうも御息所は源氏に対する気持ちをがまんして、娘の斎宮と伊勢に下向しようかと迷っていたらしい。そのとき、葵の上がいよいよ懐妊するという、ここまでの物語の筋書きからすると最も正当な予兆があきらかになります。その直後、葵の上が御息所の生霊に苦しめられ、ついに男児(源氏の長男となった夕霧)を出産したにもかかわらず死んでいくというふうに、いまでは誰もが知っている恐るべくも意外な展開が波状的におこるわけですね。
要約すれば概略そういうことなんですが、式部の文章はさらに複相暗示的で、読んでいる者には得体の知れない「もののけ」のような「もの」ばかりが静かに跳梁跋扈しているかのように感じさせています。「大殿(おほいどの)には御もののけいたう起こりて、いみじうわづららひたまふ」「この御生霊(いきすだま)、故父大臣の御霊などいふものありと聞きたまふにつけて、おぼし続くれば、身一つの憂き嘆きよりほかに、人(葵の上)をあしかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむとおぼし知らるることもあり」といったふうに。こういうふうに「もの」の気配で文章を書くんですが、それだけではありません。式部はここで御息所の滲み出るような教養に源氏がたじたじになっていることを巧みに浮上させるように、文章を綴っている。ぼくはこのへんにも参りました。
こういう場面があります。
「深き秋のあはれまさりゆく風の音」が「身にしみけるかな」と感じられる夜を独り寝ですごした源氏が、翌朝ふと見ると、たちこめる霧の中の咲きかけの菊の枝に、濃い青鈍(あおにび)の付け文が結ばれているんですね。それが御息所の手紙で、「ちょっとご無沙汰してしまったあいだのこと、お察しください」とあって、一首がしたためられていた。「菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文(ふみ)つけて、さし置きて去(い)にけり。今めかしうもとて、見たまへば、御息所の御手なり。聞こえぬほどはおぼしいるらむや。人の世をあはれときくも露けきに おくるる袖を思ひこそやれ」というふうです。そして「今朝の空模様にそそのかされて、つい筆をとりました」と添えてあるんですね。これでは源氏は手も足も出ない。
式部は、このように独特の暗示的文章によって随所で登場人物にまつわる気配を自在に操り、宮中文化のあれこれに思いのたけをぶつけてもいるように思います。それがまた、当時の宮中に対するあてこすりになってはまずいことも手伝って、とんでもなくアンビバレントで優雅な文章と、そこに秘めた歌の雅びの表象力になっていくんですね。まあ、こんなふうに『源氏』を読むにはなるべくその原文に浸るにしくはないのですが、今夜はそうそう原文をいちいち照覧していくわけにもいきません。みなさんはどこかで原文を愉しんでください。
ということで、ここから『源氏物語』第2夜に入りますが、今夜はあらためて全巻の巻名をちゃんと並べ、ざっとどういうふうに巻立てがされているのか、かんたんな説明を割りふりながら一瞥しておこうと思います。これは物語の推移があらかたわかっていないと、『源氏』特有のディテールがなかなか立ち上がってこないだろうと思うからで、また、好きな場面や気になる場面だけをお話しているだけでは、なんだか訳知りなことでおわりかねないなという気になっているからでもあります。そういう訳知りはぼくの意図ではありません。ということは、このあとの話をするにも、やっぱりアウトラインが必要だろうということです。
ごくごく粗雑な簡易ペーパーをつくっておいたので、見てください。それを読みながらときどき話を補っていきます。『源氏』は時の流れに沿って綴られているのですが、前にも言ったようにクロニクルとして成立しているわけではありません。そこで中世このかた、源氏注釈が試みられるたびに物語や登場人物を年代順に並べることが流行してきました。これを源氏ギョーカイでは「年立」(としだて)といいます。このペーパーでも光源氏をはじめとする主な登場人物の「年立」が見えるようにするため、カッコ内に年齢と季節、主要登場人物の途中年齢と没したときの年齢を入れてあります。源氏をめぐる人物たちが、みんなとても若いことがわかると思います。加えて、それぞれの筋立てが何を本歌取りや物語取りをしたか、その巻がどんな問題を扱ったのか、ちょっとしたオムニシエントなメモを入れてあります。
それから、ほんの少しですが、主要な和歌を詠み手とともに掲げておきました。なんといっても『源氏』は歌物語であって、歌の交わしあいが“心境会話”になっているんですから、これは欠かせません。平安王朝期の和歌は一人で詠む独詠歌、二人で送りあう贈答歌、三人以上の唱和歌という3つのスタイルがありますが、『源氏』は圧倒的に贈答歌です。ちょっと例をあげておきますね。
たとえば巻10の「賢木」(さかき)に、さっきの場面と関連してこんな場面があります。源氏が久々に嵯峨の野宮(ののみや)に六条御息所をたずねたとき、二人は互いになんとも名状しがたい気持ちをもっていたんですね。御息所は源氏を振り切って娘の斎宮とともに伊勢に下向しようと思っている。源氏のほうは御息所の生霊が「もののけ」となって自分の正妻である葵の上に取り憑いた事件からというもの、自分たちがかかえこんでいる妄執の深さをかみしめています。とはいえ、二人は互いの未練を捨てきれない。そこで源氏が簀子(すのこ)に上がりこみます。御簾(みす)を隔てた庇(ひさし)の間(ま)には御息所が対座しています。源氏はきまりわるそうに榊の枝を少し手にとって御簾の下から差し入れて「榊の色のように昔ながらの代わらぬ心でいたいのに、こんなにも情けないあしらいをするんですか」などと未練がましいことを言う。そうすると、御息所が「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れるさかきぞ」と詠むんですね。この神垣には目印の杉もないのに、どこをどう間違われて榊を折って私のところに来られたのですかという歌です。そこで源氏が「少女子(おとめご)があたりと思へば榊葉(さかきば)の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」と返す。だって神にお仕えする乙女のいるあたりだと思って榊の葉の香りが懐かしいので折って来たのですという返歌です。『源氏』にはこういうやりとりがしょっちゅう挟まっています。いや、挟まっているというより、こういう応答によってメインの“心境会話”が進んでいくと言ったほうがいいでしょう。『源氏』はそういうものなんです。
では、もうひとつ。巻14の「澪標」(みをつくし)の、都に戻った源氏が願解(がんほどき)のために住吉神社に詣でると、そこで明石の君も恒例の住吉詣でをしていて二人が鉢合わせをするという場面。明石の君は気後れをしているんですね。そこで源氏が「みをつくし恋ふるしるしここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」と詠むと、やっと明石の君はこれに応じる余裕がちょっと出てくる。それで「数ならでなには(難波)のこともかひなきになどみをつくし思ひそめしか」と答える。源氏の一首は、身を尽くして恋い慕う甲斐があって、澪標のあるこの難波までやってきたら巡り会えましたね、あなたのと縁は深いんですよと詠んでいる。澪標と「身を尽くし」を掛けています。明石の君は「自分なんて人の数に入らないような身で、特別の甲斐なんて何もないのに、どうしてあなたのことを思うようになってしまったのでしょう」と返歌します。いろいろ掛詞(かけことば)や縁語が櫛されていてわかりにくいかもしれませんが、二人の心境や感情が十分に伝わってきます。贈答歌というのはこういう感じなんです。独特のコミュニケーションですね。メールやツイッターでもこんなふうにするといいんじゃないかと思うほど、暗示的な言葉の技量のかぎりが尽くされて、相互編集状態をつくりあげています。『源氏』はこんなふうに歌による文脈的編集力を見ながら読めるようにもなっています。だから、やっぱり和歌は欠かせない。ただし、以下のペーパーに掲げたのは代表的な和歌と気になる和歌だけです。あしからず。
というところで、それでは以下に『源氏物語』五十四帖をざざっと案内してみます。ペーパーに書いていないところは適当にカバーします。少し長くなりますが、どうもこれをしておかないと突っ込んだ話ができないんですね。突っ込んだ話は第3夜でやってみます。
第1部
1.「桐壺」きりつぼ (源氏誕生〜12歳元服。桐壺更衣没。藤壺入内16歳、葵の上16歳)
「いづれの御時にか」(おそらく醍醐天皇期)、桐壺の帝は弘徽殿の女御とのあいだに第一皇子として朱雀帝をもうけ、桐壺の更衣とのあいだに第二皇子としての光をもうける。更衣は女御たちからいじめられ、帝(みかど)が庇えばかばうほど憎まれる。その日々に耐えられず3歳の光の君をのこして病没する。その後、幼児の光の君に「源氏」姓が与えられ、帝には美しい藤壺が入内する。源氏は母の面影が似ている藤壺を慕い、宮中で源氏は「光る君」「かかやく日の宮」と呼ばれるほど人気を集める。12歳の元服のとき、左大臣家の葵の上と結ばれる。桐壺の悲嘆の描写は白楽天の『長恨歌』などを投影させている。
○ 桐壺更衣「かぎりとて別るる道の悲しきに いか(生く・行く)まほしきは命なりけり」
○ 桐壺帝「雲のうへも涙にくるる秋の月 いかですむ(澄む・住む)らむ浅茅生(あさぢふ)の宿」
○ 桐壺帝「いときなきはつもとゆひ(初めての元結)に長き世を契る心は結びこめつや」
○ 左大臣「結びつる心も深きもとゆひに 濃きむらさきの色しあせずは」
あまりにも有名な冒頭なのでとくに説明することもないと思いますが、ここにこれからの物語のすべてがイニシャライズされているということから言うと、いくら説明しても足りないところです。ともかくも桐壺の帝も光源氏も藤壺に桐壺の更衣の面影を求めたのです。この面影が『源氏』全巻につながっていくアーキタイプの面影です。桐壺の更衣の歌はイミシンですね。帝(みかど)に偏愛されてむりに正妃になるのですが、その日々はそうとう辛いものだったということが、この物語冒頭近くに掲げられている更衣の歌から察せられます。「いかまほしき」は「行く」「生く」「逝く」の掛詞。これが『源氏物語』の本文で最初に出てくる歌です。更衣は物語が始まってすぐに病気になります。そこで更衣の母が病気を治すために「里下り」(実家に戻る)させようとするのですが、帝は重篤になるまで手放さない。母が泣く泣く訴えてやっと実家に戻ったら、更衣はその夜のうちに死んでしまいます。なんとも苛烈な物語のスタートです。この更衣のモデルは、おそらく花山天皇に寵愛されながら早くに亡くなった姫子(藤原朝光の娘)や、やはり花山天皇に迎えられながら懐妊とともに周囲の憎しみをかって25歳そこそこで亡くなった祇子、あるいは一条天皇に迎えられながら出家した定子(藤原道隆の娘)などにあったのではないかと思います。
2.「帚木」ははきぎ (源氏17歳)
五月雨の夜、元服は頭中将(とうのちゅうじょう)・左馬頭(さまのかみ)らと世の女の品定めに興じる。結論として「中流の女」(中品の女)が評価されると、翌日、源氏はさっそく伊与介の後妻の空蝉と交わる。今後の源氏の行動パターンが予告される一帖。有名な「雨夜の品定め」は『法華経』、空海『三教指帰』などを踏襲している。
○ 光源氏「帚木の心を知らで園原(そのはら)の 道にあやなくまどひぬるかな」
○ 空蝉「数ならぬふせ屋(伏屋)に生ふる名のう(憂)さに あるにもあらず消ゆる帚木」
3.「空蝉」うつせみ (源氏17歳夏)
源氏は空蝉の弟の小君(こぎみ)をつてに執拗に空蝉との再度の交情を求めるが、空蝉は寝所に忍びこんできた源氏に薄衣(うすぎぬ)の小袿(こうちき)を残してたくみに逃れてしまう。源氏はその場に寝ていた軒端荻(のきばのおぎ)と交わる。こんな空蝉の「引かないやりかた」から、これはきっと紫式部自身をモデルにしているのではないかという説が出ている。
○ 光源氏「うつせみの身をかへてける木(こ)のもとに なほ人がら(人殻・人柄)のなつかしきかな」
○ 空蝉「うつせみの羽(は)におく露の木隠れて 忍び忍びに濡るる袖かな」
早くも源氏の「隠ろへごと」が綴られます。こっそり女性たちを口説くんですね。ただ空蝉(うつせみ)は目上の男との恋の戯れについて心得ている。誇りもある。源氏の甘い誘いに身も心もとろけそうになりながらも、辛うじて小袿一枚を残して生絹(すずし)の単(ひとえ)で逃げだしました。源氏は仕方なくというか、無謀にもというか、残っていた軒端荻(のきばのおぎ)と寝てしまうんですが、読んでいると、むしろ「はかない逢瀬」という情感が香りたってきます。それにしても貴族の情事というもの、かなりあやしいものです。そこで、当時の王朝社会のルールについて一言。そもそも、当時の結婚は男が女の住んでいる所に通うという「通い婚」です。その仕方は、女の家にときどき行く、女の家に住みつく、女が男の家で暮す、の3つがあります。このことから女の身分や家格や親族の勢力が重要になってくるんですね。女の実家が権力をもっていれば、男はそこへ行っていき婿(むこ)になり、その家の力を後ろ盾にして出世していけます。それほどアテにならなければ、男は女を自分の屋敷に引き取るんです。で、どうしたら結ばれるかというと、男のほうは人の噂や垣間見(かいまみ)でめらめら恋情を燃やし、なんらかの「やりとり」(手紙や部下のさぐりなど)で「脈」があるとなると、三日続けて通うんですね。これをしなければいけません。で、その三日間が成立したら二人で「三日夜(みっかよ)の餅」を食べ、女の邸で親族とともに「露頭」(ところあらわし)をすると、これで結婚なんです。でも、あとは夫が通ってくるのを待つだけ。来なければ「夜離」(よがれ)です。
4.「夕顔」ゆふがほ (源氏17歳夏から冬へ。夕顔没19歳)
五条の一隅で夕顔の咲く家に好奇心をもった源氏は、その家の女君の夕顔に気持ちを寄せ、二人は互いに身元をあかさぬまま魔性のような激しい恋情にのめりこむ。しかし夕顔は「もののけ」に取り憑かれて急死。源氏も病いに臥せる。のちに夕顔が頭中将の愛人だったことを知る。三輪山伝承、唐代の伝奇小説『任人伝』などが投影される。
○ 夕顔「心あてにそれかとぞ見る白露の 光(光・光の君)そへたる夕顔の花」
○ 光源氏「寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔」
○ 夕顔「前の世の契り知らるる身の憂さに ゆくすゑかねて頼みがたさよ」
○ 光源氏「夕露に紐とく花は玉鉾(たまぼこ)の たよりに見えしえにこそありけれ」
○ 夕顔「光ありと見し夕顔の上露(うわつゆ)は たそかれどきのそら目なりけり」
この「帚木」「空蝉」「夕顔」の3帖はあきらかにつながっています。式部が執筆にあたって最初に仕上げたエピソディックなプロトタイプと言っていいでしょうね。これで語り部としての自信がついたんだと思います。それとともに、桐壺の更衣と藤壺という「面影」の系譜をスタートさせた女性に対して、空蝉と夕顔を登場させて源氏の浮気心に免罪符を与えたんですね。おかげで源氏はこれ以降、やたらに「色好み」を発揮する。もうひとつ、とくに「夕顔」がそうなっているんですが、歌の贈答によって話を進行させるという方法が、この3帖でみごとに確立し、読者を「歌の雅び」にめくるめく導いていくといふうになっていきます。そういう3帖です。まさに宣長のいう「あやの詞(ことば)」の徹底です。
5.「若紫」わかむらさき (源氏18歳、藤壺23歳、紫の上10歳、明石の君9歳)
源氏が静養のために北山を訪れたとき、垣間見た美少女は藤壺によく似ていた。聞けば藤壺の姪である。源氏はこの少女を引き取って理想的女性に育て上げたいと思う。その一方、源氏はついに藤壺に迫り、夢のような逢瀬をとげてしまう。こうして藤壺は不義の子をもうけ、この子がやがて冷泉帝になるのだが、そこはこの段階では明かされない。二人はひそかに罪の深さにおののく。北山の少女のほうは源氏の自邸に引き取られる。彼女こそのちの紫の上だった。
○ 光源氏「見てもまた逢ふ夜(合う世)まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな」
○ 藤壺「世語りに人や伝へむたぐひなく 憂き身をさめぬ夢になしても」
○ 光源氏「手に摘みていつしかも見む紫(藤壺のこと)の 根にかよひける野辺の若草(少女・のちの紫の上のこと)」
源氏がのちの紫の上、当時10歳の少女を発見するという話。これで桐壺の更衣、藤壺、紫の上という「面影の系譜」がいよいよ始動するのですが、しかし源氏の思いはこのレールの上にあるとはかぎらない。つねにつねに揺動するんですね。フラクチエートする。それを「いろごのみ」と言うのですが、その意味にはなかなか深いものがあります。これについては、前夜にも少し触れましたが、次夜でもうちょっと踏み込みます。
6.「末摘花」すゑつむはな (源氏18歳春〜19歳春)
貧しく、鼻の先が赤い末摘花と一夜を共にしてしまった源氏は、なぜか実生活上の援助がしたくなる。末摘花は紅花(べにばな)のこと、鼻が長くて赤かったことにちなむ。大山津見(オオヤマツミ)神の妹が美しいコノハナサクヤヒメであったのに、姉のイワナガヒメが醜女だったエピソードを思わせる。
○ 光源氏「夕霧のはるるけしきもまだ見ぬに いぶせ(鬱悒)さそふる宵の雨かな」
○ 末摘花「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ 同じ心にながめ(長雨)せずとも」
○ 光源氏「なつかしき色ともなしに何にこの すゑつむ花(鼻)を袖に触れけむ」
○ 光源氏「紅(くれなゐ)の花ぞあやなくうとまるる 梅の立ち枝(え)はなつかしけれど」
末摘花のエピソードは「王朝のブス」の話としてかなり有名ですが、どうして顔も見ないで寝遊びができるのか、そこが不思議ですよね。むろん理由があります。宮廷社会では、まず女性は外出することがめったにない。外出するときは牛車に乗って簾(すだれ)を下ろしてしまうから中を覗くことができませんし、家の中でも男と話すときは御簾(みす)か衝立(ついたて)を通します。つまり、ほとんど「手さぐり」なんです。なかなかアイデンティファイできない。だからこそ視覚よりも触知感覚や匂いや香りが「手がかり」になるんですが、それゆえ、ちらりと顔が「垣間見」できたりすると、それだけでたいへんな衝撃になるわけです。
7.「紅葉賀」もみぢのが (源氏18歳初冬〜19歳秋。藤壺24歳、葵の上23歳)
紅葉の美しい頃、桐壺帝の遊宴が開かれている。源氏は御前で頭中将とともに「青海波」(せいがいは)を舞って絶賛される。翌年2月、藤壺は帝の第十皇子を産む。源氏そっくりの皇子であったが、実は源氏との不義の子だった。藤壺はこのことを隠すために出産時期については嘘をつく。それでも源氏は懲りずに源典侍(げんのないしのすけ)という老女官と戯れの交渉に耽る。
○ 光源氏「よそへつつ見るに心はなぐさまで 露けさまさるなでしこの花」
○ 藤壺「袖濡るる露のゆかりと思ふにも なほ疎(うと)まれぬやまとなでしこ」
8.「花宴」はなのえん (源氏20歳春、桐壺帝譲位・朱雀帝即位25歳。藤壺25歳)
宮中の南殿(なんでん=紫宸殿)で桜の宴が催され、源氏はまたまたその舞を絶賛される。その深夜、右大臣家の姫君である朧月夜(おぼろづきよ 実は六の君)と出会って濡れる。彼女は東宮(のちの朱雀帝)への入内が予定されていたが、源氏に心を奪われる。藤原俊成は全巻を通じて最も優麗な巻だと評した。
○ 光源氏「深き夜のあはれを知るも入(い)る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
○ 朧月夜「うき身世にやがて消へなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ」
朧月夜との戯れは、のちに発覚して源氏の位置を危ぶませるものとなるのですが、その話は例によってまだ伏せられたままです。朧月夜の君は弘徽殿の女御の妹でもありましたからね。それよりも、ここではこの巻をもって桐壺帝の治世下の源氏の青春期が閉幕したことを告げていることが重要です。そのため源氏研究の泰斗の一人である藤岡作太郎は「桐壺」から「花宴」までを第1期のストーリー群というふうに括りました。
9.「葵」あふひ (源氏22〜23歳。六条御息所29歳、葵の上没26歳。紫の上14歳)
桐壺の帝が譲位して朱雀帝が即位した。六条御息所が葵祭の見学に出掛けようとしたところ、葵の上の一行に難癖をつけられ牛車まで蹴散らされた。有名な「車争い」の場面だが、このあと屈辱にがまんできない御息所は呪いの生霊(いきすだま)となって葵の上にとりつき、夕霧(源氏の長男)出産直後の葵の上を死に致らしめる。葵の上の喪があけると、源氏は紫の上と新枕を交わす。
○ 六条御息所「袖濡るるこひぢ(泥・恋路)とかつは知りながらおりたつ田子(たご)のみづからぞ憂き」
○ 葵の上「嘆きわび空に乱るるわが魂(たま)を 結びとどめよしたがひのつま(褄)」
○ 六条御息所「人の世をあはれときくも露けきに おくるる袖を思ひこそやれ」
○ 光源氏「とまる身も消えしもおなじ露の世に 心置くらむほどぞはかなき」
葵の上と六条御息所との「車争い」から、御息所の生霊が葵の上に取り憑いて、葵の上が亡くなってしまうというたいへん有名なところです。しかもここで源氏の長男の夕霧が生まれるわけなので、この巻は『源氏』全体の最初の折り返しになります。ここで物語の屏風がゆっくり折れていくんですね。でも、うっかり「もののけ」(物の怪)をたんなるオカルト扱いしていると、見当違いになります。そもそも「もののけ」の「け」は病気や元気や習気(じっけ)などの「気」と同じ意味で、「もの」(霊)そのものの気配的属性です。ですからこの「け」が何かに取り憑くには生霊や怨霊がいったん「よりまし」(憑坐)を媒介にして、人に憑くんですね。「もののけ」はそういうツールメディアを使うんです。そんな「よりまし」は童子の姿をしていることも多い。葵の上の病気も験者がいろいろ祈祷したり調伏したりして、幾つかの「よりまし」を除去するのですが、一つだけぴたりと取り憑いたしつこいメディアがあって、この「もの」のせいで葵の上は亡くなってしまいます。このとき御息所も「もののけ」の動静に応じた夢を見る。そのあいだ葵の上は苦しみ、その途中で夕霧を出産する。なんとも凄い話です。しかし、もっと重要なことは、王朝文学においては「もののけ」が物語をまるでハッカーのように外側から支配しているということです。そう、ぼくは思っています。
10.「賢木」さかき (源氏23秋〜25歳夏、桐壺院崩御)
六条御息所母娘の伊勢下向が近づき、源氏は嵯峨野の秋に交流するも、御息所の決心は鈍らない。桐壺院が崩御。朧月夜は源氏との仲が知られて正式な入内ができず、尚侍(ないしのかみ)として朱雀帝に近侍する。この事態に弘徽殿の大后(おおきさき)ら右大臣の一派の専横が目立ってくる。それでも源氏は藤壺・朧月夜・朝顔らと危うい懸想(けそう)をくりかえす。藤壺はさすがにこのままでは東宮の位置を守ることは叶わぬとみて、自身は出家するのがいいだろうと落飾してしまう。ある雷雨の早朝、朧月夜のもとに忍んでいた源氏が見つけられた。激怒する右大臣と弘徽殿の大后はいよいよ源氏を失脚させようと、策謀をめぐらした。
○ 六条御息所「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊(さかき)ぞ」
○ 光源氏「少女子(をとめこ)があたりと思へば榊葉の 香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」
○ 光源氏「八州(やしま)もる国つ御神(みかみ)も心あらば 飽かぬわかれの仲(源氏と御息所)をことわれ」
○ 斎宮「国つ神そらにことわる仲ならば なほざりごとをまづやたださむ」
この「賢木」という一帖は、これだけで一篇の文芸作品になるくらい出来がいいですね。ここで朧月夜に惹かれる読者も多い。たしか丸谷才一さんがそうだった。流れの推移としては桐壺の帝が亡くなり、朱雀(すざく)帝の代になります。ここから源氏はいったん追い込まれるんですね。追い込んだのは右大臣一派で、物語の冒頭で桐壺の帝が更衣を選んだときすでに源氏系と対立していました。物語の中では名前は示されずにただ「右大臣」とあるだけですが、その娘が弘徽殿の女御です。弘徽殿の女御が一の宮を産み、その一の宮がいま朱雀帝として即位したので、右大臣の一族が外戚として権力を握ったわけです。だから源氏はこのあと須磨・明石に退却する。物語がゆっくり波乱含みになっていくところです。一方、この巻は紫式部の天つ神・国つ神をめぐる神祇観が出ているところとしても注目されます。「賢木」は榊のことです。
11.「花散里」はなちるさと (源氏25歳夏)
五月雨の晴れ間に、源氏は亡き桐壺帝の女御の一人だった麗景殿(れいけいでん)を訪れた。同じ庭内に住む妹の花散里は源氏の愛人でもあったが、この巻では源氏は姉妹とともに桐壺帝の懐かしい往時を偲んで語らう。
○ 光源氏「をちかへり(昔に戻る)えぞ忍ばれぬ郭公(ほととぎす) ほのかたらひし宿の垣根に」
○ 光源氏「橘の香をなつかしみ郭公 花散里をたづねてぞとふ」
きっとわかりにくいでしょうから、女御とか女房について、ちょっと説明しておきますと、女御というのは公卿(くぎょう)の娘で、それ以下の娘が更衣です。帝の第一のお后になるのが中宮ですが、これは女御の中から選ばれる。ですから桐壺の更衣が桐壺帝にいかに寵愛されようとも、決して中宮にはなれません。で、これら女御と更衣たちすべてが帝の夫人として後宮(こうきゅう)に入ります。一夫超多妻です。この後宮の一人ひとりの女御や更衣に女官として採用されているのが、女房なんですね。夕顔の右近、藤壺の女御の王命婦(おうみょうぶ)、若紫の少納言、みんな女房です。『源氏』はこの女房たちが見聞したことを語りなおしているという“女房見聞記”の形式なんです。だから敬語がやたらに多く、現代人のわれわれを悩ませるんですね。
12.「須磨」すま (源氏26春〜27歳夏。紫の上18歳、明石の君17歳)
このまま都にいたのでは身が危ういと感じた源氏は、ついに須磨への退出を試みる。須磨では閑居するしかなく、源氏は都の女君たちや伊勢に赴いた御息所などと文通して心を癒す。都のほうでも源氏を偲ぶ。翌3月3日、海辺で開運のための禊(みそぎ)をしていると、にわかに風雨が荒れて源氏は奇妙な夢を見る。この巻では源氏の風流韻事に耽る様子を通して、在原行平・在原業平・菅原道真・源高明、中国古代の周公旦らの事跡が明滅する。
○ 光源氏「身はかくてさすらへぬとも君があたり 去らぬ鏡の影は離れじ」
○ 紫の上「別れても影だにとまるものならば 鏡を見てもなぐさめてまし」
○ 花散里「月かげのやどれる袖はせばくとも とめても見ばやあかぬ光(光・光の君)を」
○ 朧月夜の君「涙河うかぶ水泡(みなわ)も消えぬべし 流れてのちの瀬をも待たずて」
○ 藤壺「見しはなくあるは悲しき世の果てを そむきしかひもなくなく(無く・泣く)ぞ経(ふ)る」
○ 光源氏「八百よろづ神もあはれと思ふらむ 犯せる罪のそれとなければ」
さあ、須磨ですね。須磨は在原行平に「津の国のすまといふ所にこもり侍ける」とあって、「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶとこたへよ」と歌われているところです。式部は「心すごき場所」というふうに書いていますね。源氏はその須磨に行くにあたって、紫の上を置いていきます。18歳になっていた紫の上は寂しがる。そこで源氏が「身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ」と歌に詠む。私の身はこうして遠くへさすらうことになったけれど、おまえのそばの鏡があれば私はここから離れてはいないんだよ、という歌ですね。これに返して紫の上は「別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし」と詠む。その鏡にあなたの姿がずっと留まっているなら、それを見て心を慰めることもできるでしょうけれど、という文句です。ここに「〜ならば〜まし」という言い方がありますが、これは「反実仮想」の用法というもので、ありえないことを仮定するときのレトリックです。紫の上は源氏の歌はありえないことを言っていると詠んだわけです。このへん、紫式部はいつも女性の観察認知力をさまざまな歌語のなかに組み入れていますね。
13.「明石」あかし (源氏27〜28歳秋。紫の上20歳。明石の入道60歳前後)
源氏が見た夢には亡き桐壺帝が現れ、早くこの地を去れと言っていた。それにあたかも呼応するかのように、長らく住吉神に願をかけてきた明石の入道の一行がやってきて、自分も「源氏を迎えよ」という住吉の夢告を受けたと言う。そこで明石に移った源氏はその地で入道の娘の明石の君と結ばれる。一方、都では凶事が続き、朱雀帝は眼病を患い、気弱になっている。そこで帝は弘徽殿の大后の反対を押し切って源氏の都への召還を決定した。源氏は懐妊した明石の君に琴(きん)をのこして帰洛する。身分不相応に心を痛める明石の君の「身のほど」の思想が語られる。
○ 光源氏「海にます神の助けにかからずは 潮の八百会(やほあひ)にさすらへなまし」
○ 光源氏「あはと見る淡路の島のあはれさへ 残るくまなく澄める夜(よ)の月」
○ 明石の入道「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと 思ひあかし(明石)の浦さびしさよ」
○ 光源氏「都出でし春の嘆きに劣らめや 年経る浦(明石の浦)を別れぬる秋」
○ 光源氏「このたびは立ち別るとも藻塩(もしほ)焼く 煙は同じかたになびかむ」
○ 明石の君「かきつめて海士(あま)のたく藻の思ひにも 今はかひ(貝)なくうらみ(浦見)だにせじ」
○ 光源氏「うち捨てて立つも悲しき浦波の なごりいかにと思ひやるかな」
○ 明石の君「年経つる苫屋(とまや)も荒れて憂き(浮き)波の帰るかたにや身をたぐへまし」
「須磨・明石」は全巻のなかでも最も壮大な景色が見えてくるところです。のちのち多くの芸能にも採り入れられました。ぼくも明石の住吉神社に行ってみて、そこが海に面して海境(うなさか)を越えて海神の力が寄りくるところだという実感をもったことがあります。光源氏が「住吉の神、近き境を鎮(しず)め護(まも)りたまふ。まことに迹(あと)を垂れたまふ神ならばたすけたまえ」と祈った感じがよく伝わってきた。この巻には神さまが出入りしているんですね。実際、源氏が救われたのは、夢にあらわれた桐壺の帝の「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りぬ」という夢告によるものだったわけですからね。だから「須磨・明石」は、都から離れた自然の風景を描きたくて式部の筆がすべったからではなくて、亡き桐壺の帝と住吉の神の威力がはたらいたからだとというふうになっているということが、この続き2巻の眼目なんです。その威力の行く先で明石の入道が都落ちの源氏を迎える。そういう構図です。では、なぜ源氏は流謫(るたく)の身になったのか。そこに藤原政権が糸を引く宮廷をめぐる権力争いが降ってきたからです。このへんのことはあとでも突っ込みます。一方において、「須磨・明石」には源氏が「侘び」に向かい、都の姫君たちとの歌のやりとりが一途に列挙されるという、かけがえのない歌物語になっています。気品と美貌をそなえた明石の君のとびぬけた詠歌の技法もたまりません。
14.「澪標」みをつくし (源氏29歳。朱雀帝退位32歳、冷泉帝即位11歳。六条御息所没35歳)
朱雀帝が「朧月夜に対する気持ちは源氏にはかなわない」という恋の恨み言を言う一方、源氏の召還を決めた。そのあと朱雀は退位して、東宮が冷泉帝として即位した。久々に都に帰った源氏も内大臣に昇進、わが子が帝になったので藤壺も異例の女院となった。一方、権中納言になっていた頭中将の娘は冷泉帝の後宮に入内して新たな弘徽殿の女御として、権力競争の一翼を担うことになる。明石の君は女児を出産。六条御息所はついに死去。
○ 明石の君「ひとりして撫づるは袖のほどなきに おほふ(覆ふ)ばかりの蔭をしぞ待つ」
○ 明石の君「数ならでなには(難波・何は)のこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
○ 惟光「住吉の松(待つ)こそものは悲しけれ 神代(かみよ)のことをかけて思へば」
15.「蓬生」よもぎふ (源氏28〜29歳。藤壺34歳)
末摘花の後日譚。源氏が荒廃した邸を通りかかり、自分を一途に待ちつづけていた末摘花のこころざしを感じ、行く末長く庇護しようと思う。彼女は十分な暮らしができなかったのである。宮家の姫君としてある程度の暮らしを維持することの困難が綴られる。このへん式部の筆はけっこうリアルになっている。
○ 末摘花「絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら 思ひのほかにかけ離れぬる」
○ 末摘花「亡き人を恋ふる袂(たもと)のひまなきに 荒れたる軒のしづくさへ添ふ」
16.「関屋」せきや (源氏29歳秋)
空蝉の後日譚。かつて一夜を交えた空蝉は夫の赴任地にいたが、それが終わって上京する。その途次の逢坂の関で石山参詣の源氏の一行と行き合わせた。源氏の詠む歌に感慨にふける。空蝉はその後、夫に死なれ、出家して尼となるのだが、のちに源氏に庇護されて二条東院に住むようになる。
○ 空蝉「行くと来(く)とせき(関)とめがたき涙をや 絶えぬ清水(しみづ)と人は見るらむ」
○ 空蝉「逢坂の関やいかなる関なれば しげきなげきの中を分くらむ」
巻14「澪標」からは都に帰った源氏の動向になるのですが、「蓬生」と「関屋」は末摘花と夕顔のその後の動向の話に耽ります。なんだか源氏に余裕が出てきているような運びですが、宮廷社会での見かけは実際にもそうなっていくんですね。さきほど、空蝉は紫式部自身がモデルになっているのではないかと言いましたが、「関屋」はその空蝉のその後が語られます。東国に下り、その後、夫に先立たれたので都に戻ってくる途中に石山詣で源氏の一行に出会うという「もののあはれ」を感じさせるシーンが描かれますね。「しげきなげきの中を分くらむ」がなんともいえない表現です。
17.「絵合」えあはせ (源氏31歳。斎宮女御所=秋好中宮22歳)
六条御息所の遺児の斎宮は冷泉院の後宮に入内、弘徽殿の女御と帝の寵愛を二分する。冷泉帝は絵を好んだので、二人の女御のもとに名品が集まり、二人は物語合せや絵合せで競う。絵合わせは斎宮側の勝利となり、そんなことが宮廷では有効で、源氏方の権勢も優位になっていく。実は平安期の史料では絵合せは見当らない。紫式部の考案だろう(つまり光源氏のアイデアだったというふうにした)。
○ 朱雀院「別れ路に添へし小櫛(おぐし)をかことにて はるけき仲と神やいさめし」
○ 斎宮女御「しめ(標)のうちは昔にあらぬここちして 神代のことも今ぞ恋しき」
18.「松風」まつかぜ (源氏31歳秋冬。明石の君22歳、明石の姫君3歳)
二条院東院が落成、西の対(たい)に花散里が入る。東の対に入る予定だった明石の君の母娘は嵯峨の大堰川(おおいがわ)のほとりの別荘に移り住む。源氏は紫の上に気兼ねしつつも明石の君を月に二度訪れる。大堰の山荘には結局、明石家三代の女性たちが住んで源氏を通わせたことになる。「反藤原」の呼吸が聞こえてくる。
○ 光源氏「契りしにかはらぬ琴の調べにて 絶えぬ心のほどは知りきや」
○ 明石の君「かはらじと契りしこと(琴・言)を頼みにて 松の響きに音(ね)を添へしかな」
19.「薄雲」うすぐも (源氏31歳冬〜32歳秋。藤壺没37歳)
明石の君を将来の后にと願う源氏は紫の上の養女として引き取り、二条院に移る。源氏32歳の年は天変地異が多く、そのなかで藤壺が37歳の生涯を終える。源氏が深い悲嘆にくれるとき、藤壺の加持僧が冷泉帝に「帝は実は源氏の子なのです」と告げ、帝ははげしく動揺する。このあと話は春秋優劣論になる。紫の上が春を好むのに対して斎宮が秋を好むことを知った源氏は、四季の花鳥風月を満喫できる豪壮な邸宅を造営したいと思う。これがのちの六条院となる。
○ 明石の君「いさりせしかげ忘られぬ篝火(かがりび)は 身の浮舟(憂き舟)やしたひ来にけむ」
○ 光源氏「浅からぬしたの思ひを知らねばや なほ篝火のかげは騒げる」
桐壺の更衣の面影を淡々と曳航してきた藤壺が亡くなります。源氏にとっては二人目の母の喪失です。死の床で藤壺は「高き宿世(すくせ)、世の栄えも並ぶ人なく、心の中(うち)に飽かず思ふことも人にまさりける身」というふうに、自身をふりかえる。「すぐれた果報に恵まれ、この世での栄華も並ぶ人のないものでしたけれど、それとともに胸ひとつに秘めた嘆きも際限のないものでした」というんですね。藤壺の死は源氏が抱いてきた「永遠の母性」のようなものがぷつりと切れることでもあったわけですが、ところが源氏はその母なる藤壺と密通をしたことで冷泉帝という不義の子をつくってしまってもいたわけですから、また、その子が帝になっていくのですから、その切断感と苦悩は帝の悲しみや苦悩に転化するとともに、源氏自身を苛(さいな)むものとなります。さあ、それで源氏はどうするかというと、ひとつには紫の上に注がれるはずなんですが、ところが性懲りもなく過去の女性遍歴にしばし酔っているようなんですね。ま、どこかの芸能人のようなもんです。その女性遍歴の回顧が次の「朝顔」で語られます。
20.「朝顔」あさがほ (源氏32歳秋から冬へ)
源氏は桃園式部卿宮(ももそのしきぶきょうのみや)の娘の朝顔に繰り返し懸想する。紫の上はこれに嫉妬するが、朝顔は心を開こうとしていなかった。12月の雪映えが美しい庭先を見ながら、源氏は紫の上に過往の女君たちのことをやや自慢げに語り、紫の上こそ藤壺の面影を継いでいるとまことしやかに話す。しかしその夜、源氏が夢うつつの状態でいるとき、藤壺の幻影があらわれた。気配を察した紫の上が声をかけると源氏は泣きじゃくり、紫の上はじっと体をかたくする。冬の月下の雪景色の描写が絶妙。
○ 光源氏「人知れず神のゆるしを待ちしまに ここらつれなき世を過ぐすかな」
○ 光源氏「なき人を慕ふ心にまかせても かげ見ぬみつの瀬にやまどはむ」
○ 朝顔「なべて世のあはればかりをとふからに 誓ひしことと神やいさめむ」
○ 朝顔「秋果てて霧の籬(まがき)にむすぼほれ あるかなきかにうつる朝顔」
21.「少女」をとめ (源氏33春〜35歳冬。太政大臣に就任。夕霧元服。雲居雁14歳。紫の上27歳)
源氏長男の夕霧が元服し、大学教育を受け、寮試に及第する。源氏はついに太政大臣となり、斎宮の女御も中宮(秋好中宮)となる。絶頂である。巻名の「少女」(おとめ)とは、権中納言(もとの頭中将)の次女の雲居雁(くもいのかり)の東宮入内の期待がなかなか叶わず、しかも雁が夕霧と相思相愛らしいことを知って、権中納言がむりやり雁を自邸につれ去ってしまったため、少年夕霧と少女雁が引き裂かれたことに由来する。源氏の方は最高の栄誉を得て、いよいよ完成した六条院に、春の町には紫の上が、秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が、夏の町には花散里が、冬の町には明石の君が住まうという、このうえない四季を牛耳る権勢を誇る。
○ 夕霧「あめ(天)にますとよをかびめ(豊受姫)の宮人も わが心ざすしめ(標)を忘るな」
○ 夕霧「ひかげにもしるかりけめやをとめ子が 天の羽袖(はそで)にかけし心は」
○ 光源氏「をとめ子も神さびぬらし天(あま)つ袖 ふる(古・振)き世の友よはひ経ぬれば」
元服した夕霧の周辺と、かねて造営中だった六条院が完成したことが主に語られる一巻です。源氏は太政大臣になり、なんだか自信をつけていった感じがします。とくに四季を配した区画をつくりあげた六条院の威容は鼻高々で、自慢したくてしょうがないんです。そもそも源氏はどんなところに住んでいたんでしょうね。むろん公務は内裏(だいり)でするのですが、光源氏は賜姓源氏として臣下に下ったのですから、内裏での描写は物語の初めのほうに限られています。あとはどうなっているかというと、もっぱら二条院に居た。ここは桐壺の更衣の実家(里第)です。紫の上を強引に連れてきたのも、ここですね。その後、須磨・明石から戻ってからここを拡張して二条東院を造営すると、ここに住みます。ほかに「絵合」「松風」には嵯峨の御堂があったこと、「松風」「薄雲」には桂の院もあったとなっていますから、かなり贅沢です。で、そのうえに六条院を大造営したんです。
22.「玉鬘」たまかづら (源氏35歳。秋好中宮26歳、明石の君26歳)
急死した夕顔の遺児に玉鬘がいた。彼女は4歳のときに乳母一家に伴われて筑紫に下っていたのだが、ようやく土地の豪族の求愛などから逃れて上京していた。けれども頼るものもなく、初瀬の長谷寺に参詣したおりに、亡き夕顔の女房で今は源氏に仕える右近とめぐり会った。右近がこの話を源氏にすると、源氏はよろこんで玉鬘を六条院に迎え、夏の町に住まわせる。正月、源氏は晴れ着を女君たちに配った。この「玉鬘」から「真木柱」までを「玉鬘十帖」とグルーピングすることがある。
○ 玉鬘「数ならぬ三稜(みくり)や何の筋なれば うき(浮・憂・泥)にしもかく根をとどめけむ」
○ 光源氏「恋ひわたる身はそれなれど玉かづら いかなる筋を尋ね来つらむ」
23.「初音」はつね (源氏36歳正月。紫の上28歳、玉鬘22歳)
源氏は紫の上と正月を祝い、六条院の庭内を満足げにめぐり、明石の君、花散里、玉鬘らの女君たちを次々に訪れ、さらに二条東院の空蝉や末摘花などもたずねる。四季の町を巡訪する源氏は、まるで古代の王さながらの「国見」(くにみ)をしているかのようである。
○ 光源氏「うす氷とけぬる池の鏡には 世にたぐひなきかげぞならべる」
○ 紫の上「くもりなき池の鏡によろづ代(よ)を すむ(澄・住)べきかげぞしるく見えける」
さあ、この巻23から巻29の「行幸」(みゆき)までは、四季の風物行事が次々に描かれる色彩鮮やかな王朝絵巻です。鶯の初鳴きの「初音」に始まって、3月の「胡蝶」、5月の「蛍」、6月の「常夏」(これは撫子の別名ですが)、そして7月の「篝火」(かがりび)、8月の台風の季節の「野分」というふうに、巻名が旧暦の移り変わりをあらわすんですね。ちなみにこれを花鳥風月の「うつろひ」で追うと、若菜、霞、梅(梅が枝)、桜(花)、葵、橘、時鳥(ほととぎす)、蛍、野分、朝顔・夕顔、松虫・鈴虫、女郎花(おみなえし)、萩、雁、紅葉(紅葉賀)、桐、雪といったふうになりますかね。
24.「胡蝶」こてふ (源氏36歳晩春〜初夏。秋好中宮26歳)
晩春3月、源氏は六条院春の町で船楽(ふながく)を催し、翌日は秋好中宮の季の御詠経(みどきょう)の仏事。紫の上と中宮は春秋くらべの贈答歌を詠み交わす。『源氏』にはこうした王朝文化の独特の催事がくりかえし描写される。のちの源氏文化の飛沫になっていくところ。
○ 紫の上「花園の胡蝶をさへや下草に 秋まつむし(松虫・待つ)はうとく見るらむ」
○ 光源氏「橘のかをりし袖によそふれば かはれる身とも思ほえぬかな」
○ 玉鬘「袖の香をよそふるからに橘の み(身・実)さへはかなくなりもこそすれ」
25.「螢」ほたる (源氏36歳5月。玉鬘22歳)
しばらく前から玉鬘のところには多くの懸想文(けそうぶみ)が寄せられている。人気の的なのだ。けれどもあろうことか源氏も養女の玉鬘に懸想する。煩わしく思う玉鬘に、源氏は蛍兵部卿がやってきた夜、玉鬘の身のまわりに蛍を放つという趣向を演出して歓心を買おうとする。長雨の頃、玉鬘たちが世の物語に熱中している。ここで源氏は「物語の本質は虚構(フィクション)であることにある。そのほうがずっといい」(ひたぶるにそらごとと言ひはてむ)と説く。「日本紀などはただ片ぞそばぞかし」(日本書記などはほんの片端にすぎない)とも言う。蛍火の薄明かりで女性の備忘が際立つ話は『伊勢』や『宇津保物語』にもある。物語虚構論は紫式部の思想の表明。
○ 玉鬘「声はせで身をのみこがす螢こそ 言ふよりまさる思ひなるらめ」
○ 玉鬘「あらはれていとど浅くも見ゆるかな あやめもわかず泣かれけるね(根・音)の」
26.「常夏」とこなつ (源氏36歳6月)
暑い夏の日、源氏は釣殿で涼をとりながら夕霧や内大臣の子息たちを相手に話しているところへ内大臣の公達たちが来る。源氏は内大臣には注文があるので、近江の君などを悪しざまに皮肉る。源氏一党と内大臣一党との対立が深まっていく一節。一方、源氏は玉鬘に和琴(わごん)を教えながら胸をときめかせる。巻名の「常夏」は撫子(なでしこ)の別名。
○ 光源氏「撫子(なでしこ)のとこなつかしき色を見ば もとの垣根を人や尋ねむ」
○ 玉鬘「山がつの垣ほに生(お)ひし撫子の もとの根ざしをたれか尋ねむ」
27.「篝火」かがりび (源氏36歳7月)
夕月夜に琴を枕に玉鬘に添い臥す源氏。もやもやした気分だが、それ以上には手は出さない。その気分、庭の篝火の煙のようなのである。柏木は玉鬘と源氏のそうした関係をまだ知らない。夕月夜にこちらは笛を吹くばかり。
○ 光源氏「篝火にたちそふ恋の煙こそ 世には絶えせぬ炎なりけれ」
○ 玉鬘「行方なき空に消ちてよ篝火の たよりにたぐふ煙とならば」
28.「野分」のわき (源氏36歳8月。夕霧15歳。柏木20歳)
仲秋8月、激しい野分が襲来した。その見舞いに六条院春の町を訪れた夕霧は、はからずも紫の上を垣間(かいま)見て、霞の間に咲く樺桜のような美しさに魂を抜かれる。その一方、玉鬘に戯れかかる父の源氏を垣間見て驚く。夕霧は秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、明石の君、玉鬘、花散里を見舞う源氏のお供もしている。15歳の夕霧が男と女の姿態を通して宮廷文化の官能に少しずつ気づいていくわけだ。
○ 玉鬘「吹き乱る風のけしきに女郎花(おみなえし) しをれしぬべきここちこそすれ」
○ 光源氏「した露になびかましかば女郎花 荒きかぜにはしをれざらまし」
○ 夕霧「風騒ぎむら雲まがふ夕(ゆふべ)にも 忘るる間なく忘られぬ君」
ここはなかなか読みごたえのある一巻ですね。われわれは夕霧の目によって源氏をとりかこむ女君たちの姿態や様態のバイアスにつきあわされるのですが、紫式部はこの手法で新たな人的景観と客観性を『源氏』に与えているんです。夕霧はハイティーンの15歳。もう十分に性に目覚めています。六条院を激しい野分が襲ったあと風雨見舞いに人が動く。そこで夕霧は廂(ひさし)の御座所にいる紫の上を見るんですね。心臓がとまるほどに美しい。いささか几帳面な性格の夕霧は、そのままどきどきしながら、それぞれに綺麗なお姉さんを見くらべていくと、父親の源氏の戯れている姿を見て違和感をおぼえるんですね。ここはぼくも父に連れられて祇園・先斗町に行った中学時代のことを思い出したところです。
29.「行幸」みゆき (源氏36歳12月〜37歳2月。玉鬘23歳)
冷泉帝が大原野に行幸し、源氏のはからいで玉鬘も同行した。玉鬘を帝の尚侍(ないしのかみ)として出仕(入内)させたい源氏は、玉鬘の父である内大臣を腰結(こしゆい)として裳着(もぎ)の儀をしようと計画していた。裳着は女子が成人になったことを記念したしるしである。内大臣(以前の頭中将)はいったんこの申し出を断ってきたが、二人は対面をはたして対立を切り抜け、玉鬘の儀式がとりおこなわれた。
○ 冷泉帝「雪深き小塩(をしお)の山にたつ雉(きじ)の 古きあとをも今日は尋ねよ」
○ 光源氏「あかねさす光は空にくもらぬを などてみゆき(深雪・行幸)に目をきらしけむ」
○ 内大臣「うらめしや沖つ玉藻をかづくまで 磯がくれける海士(あま)の心よ」
30.「藤袴」ふぢばかま (源氏37歳春〜秋。柏木22歳)
玉鬘の公開の裳着の儀によって、夕霧は自分と玉鬘が兄妹ではないことを知る。柏木(内大臣の長男)も玉鬘が実の妹だったことを知って戸惑う。玉鬘の出仕は10月と決まり、それまで求婚してきた男たちはそれぞれに苛立ち、思いおもいの歌を寄せてきた。
○ 鬚黒「数ならばいとひもせまし長月に 命をかくるほどぞはかなき」
○ 兵部卿「朝日さす光を見ても玉笹の 葉分けの霜を消たずもあらなむ」
○ 左兵衛督「忘れなむと思ふもものの悲しきを いかさまにしていかさまにせむ」
31.「真木柱」まきばしら (源氏37歳冬〜38歳冬。真木柱12歳。鬚黒32歳)
意外なことに鬚黒(ひげぐろ)が玉鬘をわがものにした。耐えかねた北の方は実家に引き取られると「もののけ」に病み憑かれ、火取りの灰を髭黒に浴びせる。北の方のそのときの歌「心さへ空にみだれし雪もよにひとり冴えつるかたしきの袖」。北の方の父の式部卿(もとの兵部卿)は娘を自邸に引き戻そうする。髭黒の娘の真木柱は父親と別れがたく、その心情を歌に詠み柱の割れ目に差しこんでおいた。ホラー少女マンガとして十分な傑作に変相できそうな一巻。シンデレラなどに通じる世界共通の「継子いじめ」の母型がいかされている。以上、「玉鬘」からここまでが「玉鬘十帖」。
○ 冷泉帝「などてかくはひあひ(灰合)がたき紫を 心に深く思ひそめ(初・染)けむ」
○ 玉鬘「いかならむ色とも知らぬ紫(三位の紫色)を 心してこそ人は染めけれ」
○ 近江の君「おきつ舟よるべ波路にただよはば 棹さし寄らむ泊り教へよ」
○ 夕霧「よるべなみ(波・並)風の騒がす舟人も 思はぬかたに磯づたひせず」
ここまでが玉鬘をめぐる十帖です。ちょっとまとめてふりかえると、玉鬘はそもそも夕顔の娘ですね。夕顔はかつては頭中将の隠し妻だったのですが、中将の北の方の脅しが気になって身をひいて、娘の玉鬘と所在をくらましていた。そのとき五条の夕顔花咲く宿で源氏に見いだされた。けれども「もののけ」で命を落としたというところまでが「夕顔」の巻の話です。その後、玉鬘は行方がわからない母の死を知ることなく、4歳から筑紫の国に下っているんですね。やっと20歳をすぎて乳母に連れられて都に戻ります。その、鄙(ひな)に育ったとは思えないほどとんでもなく美しい姿が源氏のお付きの右近に見つかり、源氏に引き取られてあの壮麗な六条院に住むようになりますと、周囲の男君たちがものにしたくて色めきたつんですね。どんなふうに玉鬘をめぐった男たちが色めきたったかというのが「玉鬘十帖」なんです。ただ、紫式部はここに少し仕掛けをしておいた。源氏が玉鬘の素性をあかさず自分の娘として育てたということ、今は内大臣になっている頭中将が父親であることを源氏のほかは誰も知らなかったこと、それが裳着の儀式のときにあきらかになっていったこと、こういう仕掛けをしておいたのです。ぼくはこういう仕掛けは式部の「当人主義」だと思います。当人だけが知っていることを暗示して、やたらに作家の記述がそこに踏みこまないようにしています。
32.「梅枝」むめがえ (源氏39歳春。紫の上31歳、夕霧18歳)
明石の姫君の入内が迫ってきた。源氏はその準備に余念がなく、「薫物(たきもの)合せ」などで遊ぶ。名筆の草子類なども数多く収集される。夕霧と雲居雁(くもいのかり)とが少し火花を散らす。
○ 前斎院「花の香は散りにし枝にとまらねど うつらむ袖に浅くしまめや」
○ 光源氏「花の枝(え)にいとど心をしむるかな 人のとがめむ香をばつつめど」
○ 夕霧「つれなさは憂き世の常になりゆくを 忘れぬ人や人にことなる」
○ 雲居雁「限りとて忘れがたきを忘るるも こや世になびく心なるらむ」
この薫物合せはかなりのものです。六条院のみんなに伝来の名香を配って調合を頼んでいるんです。源氏も紫の上とあえて居場所を離して腕をふるっている。兵部卿が招かれて判定の段となるんですが、それぞれが好みを尽くしていて香の素材を判じかねるほどだと書いてあります。宴では内大臣の子の弁の少将が催馬楽(さいばら)を舞って興を添えます。そのタイトルが「梅が枝」なんですね。まだあります。2月半ばがすぎると、今度は名筆の草子を集めて、いろいろその書きっぷりを競い論じたりしています。まさに王朝絵巻のおいしいところです。
33.「藤裏葉」ふぢのうらば (源氏39歳春秋。源氏、准太上天皇になる。明石の君30歳)
内大臣は夕霧と雲居雁との結婚を許可した。4月には明石の姫君が入内した。紫の上は心のうちを察して明石の君を姫君の後見役に推す。10月、源氏は異例の准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)の位についた。かくて源氏は摂関家にない権威と帝にはない権力を合わせもった絶対者として君臨することになる。
○ 光源氏「色まさる籬(まがき)の菊もをりをりに 袖うちかけし秋を恋ふらし」
○ 太政大臣「紫の雲にまがへる菊の花 濁りなき世の星かとぞ見る」
○ 夕霧「なれこそは岩もる(守・漏)あるじ見し人の ゆくへは知るや宿の真清水(ましみず)」
○ 雲居雁「なき人のかげだに見えずつれなくて 心をやれるいさらゐの水」
ここまでが第1部ですね。源氏はついに准太上天皇の位に昇りつめるのですが、それは天皇でもなく、またもはや誰の臣下でもない位です。准太上天皇というのは、譲位後の前天皇に準じる位なんです。けれども、その先はない。ふりかえれば、源氏は近衛中将→参議→右大将→大納言→内大臣→太政大臣というふうに公卿として次々に官位を昇ってきたのですが、ここで行きどまりなんですね。ここに「桐壺」で暗示されていた桐壺帝の「逸れ」が最高位にまで達したことが告げられているんです。
第2部
34.「若菜上」わかなのじょう (源氏39歳〜41歳。紫の上32歳、女三の宮14歳。夕霧19歳)
病いがちの朱雀帝はすぐにでも出家したいのだが、女三の宮の将来が心配なので、源氏に降嫁させようとする。源氏は彼女が藤壺の姪でもあるので承諾するが、このことで紫の上は心を痛める。源氏は紫の上と女三の宮との板挟みを感じて朧月夜と忍び逢う。明くる3月、明石の女御が東宮の皇子を出産、明石の入道もこの慶事をよろこぶ。
○ 秋好中宮「さしながら(すっかり・挿しながら)昔を今に伝ふれば 玉の小櫛(をぐし)ぞ神さびにける」
○ 朱雀院「さしつぎに見るものにもが万世(よろづよ)を 黄楊(つげ・告)の小櫛の神さぶるまで」
○ 紫の上「目に近くうつればかはる世の中を 行く末遠く頼みけるかな」
○ 光源氏「命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき 世の常ならぬなかの契りを」
○ 女三の宮「はかなくてうはの空にぞ消えぬべき 風にただよふ春のあは雪」
○ 女三の宮「背(そむ)く世のうしろめたくはさりがたき ほだしをしひてかけな離れそ」
第1部では源氏につながる女君たちが、源氏とそれぞれに、いわば放射状にトップダウン型で広がっていたのですが、第2部では女君たち間のつながりが浮上してきます。横にネットワーク連鎖していくんですね。それは当初こそ六条院に同居する男女の内部栄華をあらわすわけですが、やがては源氏の主語性が少しずつ薄れていくということでもあるわけです。秋好中宮の「さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける」はいいですねえ。宣長につながります。
35.「若菜下」わかなのげ (源氏41歳〜47歳。冷泉帝退位28歳。今上帝即位20歳)
冷泉帝が退位して、今上帝の御代になった。柏木の女三の宮に対する恋情がますます募っているなか、4年の歳月が流れた。源氏は紫の上・女三の宮・明石の君らをともない盛大な住吉詣をする。源氏47歳の早春、六条院で女楽(おんながく)を催す。紫の上は和琴(わごん)、女三の宮は琴(きん)、明石の君は琵琶、明石の女御は箏(そう)。その後、紫の上が病いに臥せる。「もののけ」に憑かれたらしい。病状は悪化するばかりなので加持調伏したところ、そこにあらわれたのは六条御息所の憑坐(よりまし)だった。一方で、柏木がついに女三の宮と思いをとげる。源氏は柏木の恋文を発見して、真相を知る。
○ 柏木「恋ひわぶる人(女三の宮のこと)のかたみ(片身・形見)と手ならせば なれよ何とて鳴く音(ね)なるらむ」
○ 光源氏「たれかまた心を知りて住吉の 神代を経たる松にこと問ふ」
○ 紫の上「住の江の松に夜ぶかく置く霜は 神のかけたる木綿鬘(ゆふかづら)かも」
○ 女三の宮「明けぐれの空に憂き身は消えななむ 夢なりけりと見てもやむべく」
○ 柏木「くやしくぞつみ(摘・罪)をかしける葵草 神のゆるせるかざしならぬに」
この巻は大きな流れの推移をまとめていますね。でも、その推移は源氏・女君・柏木がそれぞれに「宿世」を深く実感していくステージだったのです。前にも言っておいたように『源氏』のワールドモデルは「宿世」です。紫の上に御息所の霊が取り憑いたことはその象徴ですね。「宿世」イコール「もののけ」なんですよ。一方、源氏は自分の人生が栄耀栄華においても抜きん出ていたけれど、苦悩憂愁においても人に抜きん出ていたことを思い知ります。なんとも身に滲みることですね。そういう源氏はもう47歳になっていました。ところで、冒頭にあげた柏木の「恋ひわぶる人」の歌は、「何とて鳴く音」とありますが、これは猫のことです。東宮がたいへんな猫好きで、たくさん猫を飼っているんです。そこで柏木はこの東宮のために、女三の宮の猫をなんとか手に入れようとするというエピソードです。猫が「ねうねう」と「いとらうたげ」に鳴くのが、とてもかわいい。
36.「柏木」かしはぎ (源氏48歳春秋。薫誕生。朱雀院51歳。柏木没33歳、女三の宮22歳)
女三の宮が男児を出産。柏木との不義の子で、のちの薫である。源氏は暗然とし、女三の宮は出家してしまう。柏木も親友の夕霧に妻の落葉の宮の後事を頼んで、かき消えるように死ぬ。源氏は薫の五十日(いか)の祝いでわが子ならざるわが子を抱き、「あやにくな定め」を思う。夕霧は落葉の宮を見舞ううちに恋心をもつ。
○ 柏木「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ 絶えぬ思ひ(思う火)のなほや残らむ」
○ 少将の君「柏木に葉守(はもり)の神はまさずとも 人ならすべき宿の梢か」
このへんから何もかもが少しずつ複雑になっていきます。もはや主人公ではない源氏は48歳。あれほど女三の宮を愛していた柏木が亡くなり、女三の宮は薫を出産します。のちの新しい主人公です。しかしここには「逸れ」とともに「歪み」が生じていました。女三の宮の出家と柏木の死は、それぞれその「歪み」を覚悟していたことだったんだと思います。
37.「横笛」よこぶえ (源氏49歳春秋。薫2歳、夕霧28歳)
柏木の一周忌。秋、夕霧は落葉の宮母娘と語らい名曲「想夫恋」(そうぶれん)を琵琶で弾く。その折、夕霧は柏木遺愛の横笛を譲られるのだが、後日、夢に柏木があらわれ「横笛を伝えたい人は他にある」と言う。横笛は源氏に預けられた。
○ 夕霧「こと(琴・言)に出でて言はぬも言ふにまさるとは 人に恥ぢたるけしきをぞ見る」
○ 落葉の宮「深き夜のあはればかりは聞きわけど こと(琴・言)よりほかにえやは言ひける」
38.「鈴虫」すずむし (源氏50歳夏秋。紫の上42歳、秋好中宮41歳。夕霧29歳)
尼君となった女三の宮の持仏開眼供養。源氏は女三の宮の前庭を秋の風情に造作し、鈴虫・松虫などを放つ。源氏は冷泉院を訪れ詩歌管弦に興じるも、秋好中宮から亡き母(御息所)がいまなお成仏できずにいると聞かされ、愛憐執着のおそろしさを思う。
○ 光源氏「心もて草のやどりをいとへども なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」
○ 冷泉院「雲の上をかれ離れたるすみかにも もの忘れせぬ秋の夜の月」
○ 光源氏「はちす葉をおなじ台(うてな)と契りおきて 露のわかるるけふぞ悲しき」
人のあさましさやこの世の宿命が徘徊していくなか、物語はだんだん「救済とは何か」というほうに舵を切っていきます。それを象徴しているのが、登場人物たちの出家がふえていっているということでしょうね。「賢木」で藤壺が出家し、仏道にいる明石の入道が登場し、「澪標」で六条御息所が出家するあたりまではともかく、第2部になると、まず朱雀院が出家する。実は空蝉も出家して尼になっていました。紫の上も出家したいと訴えますが、これは源氏が承知しない。でも朧月夜の君は出家して源氏を悲しませ、そこへ女三の宮が薫を残して出家するわけです。このあと落葉の宮も剃髪したいと言いだしますからね。そして最後に源氏その人が巻40「御法」(みのり)で出家を決意するわけです。「無常の風」が吹きまくるばかりです。
39.「夕霧」ゆふぎり (源氏50歳秋冬。夕霧29歳。雲居雁31歳)
落葉の宮にのめりこむ夕霧。その行動に懸念する母(一条御息所)は消息(手紙)を送るのだが、嫉妬する北の方の雲居雁に奪われる。夕霧からの返事がこないことに悲嘆した一条御息所は死去。それでも夕霧は強引に婚儀をはこび、雲居雁はたまりかねて実家に戻る。
○ 落葉の宮「われのみや憂き世を知れるためしにて 濡れそふ袖の名をくたすべき」
○ 夕霧「おほかたはわれ濡衣を着せずとも 朽ちにし袖の名やは隠るる」
○ 夕霧「たましひをつれなき袖にとどめおきて わが心からまどはるるかな」
○ 夕霧「せくからに浅さぞ見えむ山川の 流れての名をつつみ(包・堤)はてずは」
○ 雲居雁「あはれをもいかに知りてかなぐさめむ あるや恋しき亡きや悲しき」
40.「御法」みのり (源氏51歳春秋。紫の上没43歳。匂宮5歳)
紫の上発願の法華経千部の供養が二条院でおこなわれる。死期の近いことを感じる紫の上は明石の君や花散里らと歌を詠みかわし、それとなく別れを告げ、まもなく死去。荼毘にふされる前の紫の上が美しい。茫然自失の源氏は、この悲しみに耐えた後に出家しようとひそかに決める。
○ 紫の上「惜しからぬこの身(実・菓)ながらもかぎりとて 薪(たきぎ)尽きなむことの悲しさ」
○ 明石の君「薪こる思ひはけふをはじめにて この世に願ふ法(のり)ぞはるけき」
○ 紫の上「絶えぬべき御法(みのり・身のり)ながらぞ頼まるる 世々にとむせぶ中の契りを」
○ 光源氏「ややもせば消えをあらそふ露の世に 後(おく)れ先だつほど経ずもかな」
○ 光源氏「のぼりにし雲居ながらもかへり見よ われあき(倦・秋)はてぬ常ならぬ世に」
41.「幻」まぼろし (源氏52歳で死去。薫5歳、匂宮6歳)
新年を迎えても源氏の悲傷はいっこうに癒されない。深まる春に紫の上への追慕が募るばかり。自身を回顧してみれば栄え映えしくもあったが、憂いにも満ちていた。季節が夏・秋・冬と移ろい、風物は少しずつ変わっていくものの、源氏の心は変われず、歳末に紫の上と交わした消息などを焼いた。
○ 光源氏「なくなくも帰りにしかな仮(雁)の世は いづこもつひの常世(とこよ・床の世)ならぬに」
○ 光源氏「おほかたは思ひ捨ててし世なれども 葵はなほやつみ(罪・摘)をかすべき」
○ 光源氏「大空をかよふ幻(まぼろし)夢にだに 見えこぬ魂(たま)の行方たづねよ」
○ 光源氏「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 年もわが世もけふや尽きぬる」
いよいよ源氏の最期です。「幻」にはその死の場面は描かれないのですが、のちの巻で源氏が嵯峨の地に出家して、仏道に入ってそのまま崩じたということが回想されるので、この第2部のおわりが光源氏の生涯の最期であったことがわかります。けっこうあっけない源氏のクロージングです。なぜこんな終わり方にしたのか。ぼくは式部が光源氏に倦きていたんじゃないかと思いますね。だって終盤、ほとんどターミナルケアしてませんからね。なお「幻」と次の「匂宮」とのあいだに、かつて「雲隠」(くもがくれ)という巻があったのではないかという議論があり、後世の写本や目録にそのタイトルが見えているのですが、いまではのちの付会だろうとして、否定されています。
第3部
42.「匂宮」におふのみや (薫14歳〜19歳。匂宮15歳)
源氏の死後、その跡を継ぐべき人物がいなかった王朝社会だが、なかで匂宮と薫が世間の声望を受けていた。薫には生まれながらに仏のような体香が放たれていた。冷泉院の寵愛を受け14歳で中将に19歳で三位中将に昇ったのに、自身の出生への疑念から出家に憧れている。そうした薫に匂宮は何かにつけて対抗心を抱き、麝香・伽羅などの名香を集めて薫物(たきもの)に熱中したりする。世間では誰もが二人を婿に望んだ。けれども薫には結婚の意思がない。
○ 薫「おぼつかな誰に問はましいかにして はじめも果ても知らぬわが身ぞ」
43.「紅梅」こうばい (薫24歳。玉鬘48歳。紅梅大納言54歳)
亡き太政大臣家の後日譚。柏木の死後、弟の按察(あぜち)大納言がその家系を保ち、真木柱(まきばしら)と再婚して大夫の君をもうけた。真木柱には蛍宮とのあいだにもうけた姫君(宮の御方)もいた。大納言は繊細な中の君(玉鬘との娘)を匂宮と添わせたいと願うのだが、匂宮は宮の御方に執心する。
○ 按察大納言「心ありて風の匂はす園の梅に まづうぐひすの訪はず(問はず)やあるべき」
○ 匂宮「花の香にさそはれぬべき身なりせば 風のたよりを過ぐさましやは」
○ 匂宮「花の香をにほはす宿にとめゆかば 色にめづとや人の咎めむ」
44.「竹河」たけかは (薫14歳〜19歳)
髭黒亡きあとの後日譚。玉鬘は3男2女を育ててきたが、いまは姫君たちが帝からも冷泉院からも蔵人少将からも所望されている。しかし玉鬘(尚侍の君)は源氏の形見というべき薫にこそ嫁がせたいと思ううち、正月下旬に薫の弾く和琴が柏木に似ていることに気が付いた。何かを察知したのである。そのほか、姫君たちの行く末は決まるようで決まらない。巻名は催馬楽「竹河」にもとづく。
○ 薫「竹河のはし(橋・端)うちいでしひと節(ふし)に 深き心の底は知りきや」
○ 尚侍の君「竹河に夜をふかさじといそぎしも いかなる節を思ひおかまし」
○ 大君「あはれてふ常ならぬ世のひと言も いかなる人にかくるものぞは」
○ 薫「流れてのたのめむなしき竹河に よは憂きものと思ひ知りにき」
ここまでは「匂宮三帖」とも言われるところなんですが、どうも文章・文体・運びそのほかちょっと出来が悪いので、古来、ここは偽書ではないかという説にもなっています。紫式部がこんな書き方をしないだろうというんですね。あるいは後世の補筆が入っているのかもしれません。でも、匂宮と薫の対比はいかにも式部がやりそうなことで、ぼくとしてはやはり五十四帖全部がひとつながりだと見ています。
45.「橋姫」はしひめ (薫20〜22歳。八の宮50代後半。大君24歳、中の君22歳)
話は変わって、そのころ世間から忘れられていた古宮がいた。若い日々に政争に巻きこまれて失意の日々をおくっていた八の宮である。宇治の山里で大君(おおいきみ)と中の君を男手で養うかたわら、仏道に励んでいた。薫は宇治の阿闍梨から八の宮の俗聖(ぞくひじり)ぶりの噂を聞いて親交を結ぶ。それから3年、八の宮の留守を訪ねた薫は月下に合掌する姫君たちの美しさを垣間見て、大君に惹かれる。思慮深い大君は薫をたしなめる。
○ 八の宮「うち捨ててつがひ(番)さりにし水鳥(みずどり)の かり(仮・雁)のこの世にたちおくれけむ」
○ 大君「いかでかく巣立ちけるとぞ思ふにも 憂き(浮き)水鳥の契りをぞ知る」
○ 八の宮「見し人も宿も煙になりにしを なにとてわが身消え残りけむ」
○ 八の宮「あと絶えて心すむ(澄・住)とはなけれども 世をうぢ山に宿をこそかれ」
○ 薫「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
ここからがぼくが若い頃好きだった「宇治十帖」です。八の宮の存在が告げられるところから物語が始まります。不運をかこってきた八の宮なんですが、そのぶん道心が深まっているんですね。その八の宮を薫が知って「法(のり)の友」となるのだけれど、薫の前には思慮深い魅力をもつ大君(おおいきみ)があらわれます。八の宮の「あと絶えて世をうぢ山」の歌はいかにも八の宮らしい歌ですね。こういうところ、紫式部はさすがに手を抜きません。巻名の「橋姫」は薫が大君に贈った「橋姫のこころをくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」から採ったのですが、本歌は古今和歌集の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」です。橋にいながら夫が通ってくるのを待つ橋姫のイメージです。もっとも橋姫伝説にはいろいろあって、橋のたもとで通りかかる旅人を襲ったり、開かずの箱を渡したり、目を抉ったり、けっこう恐ろしい橋姫もいる。いずれにしても「境界神」なんですね。「宇治十帖」はその橋姫をもって始まるんです。
46.「椎本」しひがもと (薫23〜24歳。八の宮没60歳前後)
薫から八の宮の姫君のことを聞いていた匂宮とのあいだに、消息の代理行為が介在し、ここで八の宮を通して、薫と匂宮と姫君たちがクロスする。八の宮が遺戒をのこして死去すると、姫たちは薫を頼る。いったい八の宮が何を遺戒したのか、物語はあきらかにしない。
○ 八の宮「山風に霞吹きとく声はあれど へだてて見ゆるをちの白波」
○ 匂宮「をちこちの汀(みぎは)に波はへだつとも なほ吹きかよへ宇治の川風」
○ 中の君「かざし折る花のたよりに山がつの 垣根を過ぎぬ春の旅人」
○ 八の宮「われなくて草の庵(いほり)は荒れぬとも このひとことはかれじとぞ思ふ」
47.「総角」あげまき (薫24〜25歳、大君没26歳)
薫は大君に夜通し意中を伝えるが、何事もない。大君は父の意思を守って独身を通し、むしろ薫が中の君と結ばれることを思い、薫は薫で中の君と匂の宮が結ばれれば、大君が自分を選ぶと考えていた。八の宮の遺戒のせいなのか、各自の関係はあやふやになっていき、そうしたなか大君は比類のない美しさをその相貌に漂わせて死んでいく。
○ 大君「ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に 長き契りをいかが結ばむ」
○ 薫「おなじ枝(え)をわきて染めける山姫に いづれか深き色と問はばや」
○ 大君「山姫の染むる心はわかねども うつろふかたや深きなるらむ」
○ 薫「しるべせしわれやかへりてまどふべき 心もゆかぬ明けぐれの道」
○ 大君「かたがたにくらす心を思ひやれ 人やりならぬ道にまどはば」
○ 匂宮「中絶えむものならなくに橋姫の かたしく袖や夜半(よは)に濡らさむ」
○ 中の君「絶えせじのわがたのみにや宇治橋の はるけきなかを待ちわたるべき」
宇治の大君はいいですねえ。八の宮の姫君です。妹が中の君。八の宮は処世力がなく、二人の娘の養育のために結婚もしていない。そこへ薫が訪ねてくるようになるのですが、3年ほどたった夜、八の宮の留守に大君が薫を応接するんですね。ここから薫の思慕がふくらんでいきます。大君は父が「この世は仮の世、来世の浄土に生まれるために功徳を積みなさい」という教えに生きている女性なので、薫が求道者の気持ちをもっているうちは迎え入れているんですが、八の宮が亡くなったのちついに薫が愛を告白すると、大君は頑なに交情を拒みます。この設定は紫式部の熟慮のうえのものでしょうね。薫は源氏の子として世に通っているけれど、実際には柏木と女三の宮とのあいだの罪の子です。凋落した日々だった八の宮家を栄えさせるには源氏一族の薫を受け入れればそれで栄達は保証されるのだけれど、それはできない。そこで妹の中の君を添わせようとします。けれどもこれでは今度は薫が承知できない。そこで薫は中の君が結婚してしまえば大君は自分の気持ちに靡くだろうと思い、匂宮を中の君の寝所に忍ばせるのですが、これがかえって大君を動揺させてしまうんですね。なにしろ匂宮は有名な「色好み」ですから、こんな結婚は中の君をダメにすると大君は思う。そんな心労がたたって大君は重篤になり、最後は薫に看取られて死んでいきます。紫式部の『源氏』全巻の仕上がりが冴えていくところです。
48.「早蕨」さわらび (薫25歳)
大君が亡くなり、薫が悲嘆にくれていた宇治の山里に早蕨の陽光がさしこんで、山寺の阿闍梨(あじゃり)からの山菜も届く。匂宮が中の君を迎えることになった。薫は中の君を譲ったことを香ばしく後悔する。
○ 阿闍梨「君にとてあまたの春を摘み(積み)しかば 常を忘れぬ初蕨(はつわらび)なり」
○ 中の君「この春はたれにか見せむ亡き人の かたみ(形見・筒)に摘める峰の早蕨(さわらび)」
○ 匂宮「祈る人の心にかよふ花なれや 色には出ずしたににほへる」
○ 薫「見る人にかこと寄せける花の枝(え)を 心してこそ折るべかりけれ」
○ 大輔「ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを 身を宇治川に投げてましかば」
49.「宿木」やどりぎ (薫24〜26歳。浮舟20歳前後。女二の宮14歳)
中の君は匂宮の男児を生み、薫は今上帝が勧める女二の宮と結婚するのだが、薫は納得していない。中の君が薫の懸想をそらそうと大君に似る異母妹に浮舟という乙女がいることを告げる。結婚よりも宇治の御堂の造営に熱心だった薫だったが、あるとき偶然に浮舟を垣間見て、亡き大君に貌(かんばせ)が酷似していることに感動する。
○ 匂宮「また人に馴れける袖の移り香を わが身にしめてうらみつるかな」
○ 中の君「み(見・身)なれぬる中の衣とたのみしを かばかりにてやかけ離れなむ」
○ 薫「やどりきと思ひいでずは木のもとの 旅寝もいかにさびしからまし」
○ 弁尼「荒れ果つる朽木のもとをやどりきと 思ひおきけるほどの悲しさ」
ついに浮舟がその姿をあらわすところです。『源氏物語』最後のヒロインですね。浮舟は八の宮とその女房の中将の君とのあいだに生まれているんですが、大君や中の君とはお母さんが違う。大君らは北の方から生まれ、浮舟は八の宮に仕えていた中将の君の娘です。しかも途中から宮家を出て、常陸守の後妻になっている。だから浮舟も関東で育っているんです。それでどうなったか、「東屋」がそこを綴ります。
50.「東屋」あづまや (薫26歳。中の君26歳)
浮舟の母の中将の君は薫の気持ちを知るのだが、身分違いを感じて左近少将を婿に選ぼうとしている。ところがこれはうまく話が進まず、中の君に浮舟を預けることにした。そこへ匂宮などが接近し、浮舟の動静を知った薫は彼女を宇治に移り住まわせ、彼女の成長を願う。
○ 薫「見し人の形代(かたしろ)ならば身に添へて 恋しき瀬々のなでもの(撫物)にせむ」
○ 中の君「みそぎ河瀬々にいださむなでものを 身に添ふ影とたれかたのまむ」
51.「浮舟」うきふね (薫27歳。匂宮28歳。浮舟22歳前後。横川の僧都60歳前後)
浮舟を忘れられない匂宮が従者をともない、薫と偽って宇治に乗りこんだ。浮舟は人違いと気づくのだが、匂宮の情熱に絆(ほだ)された。匂宮はさらに浮舟に執着して宇治の対岸の隠れ家で二夜を過ごす。匂宮との関係を知った薫は浮舟の不誠実を咎める手紙を送る。これで気が動転した浮舟は宇治川に入水してしまいたいと思い、書き置きをのこす。
○ 匂宮「年経(ふ)ともかはらぬものか橘の 小島の崎に契る心は」
○ 浮舟「橘の小島の色はかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」
○ 匂宮「峰の雪みぎはの氷踏みわけて 君にぞまどふ道をまどはず」
○ 浮舟「降りみだれみぎはに氷る雪よりも 中空(なかぞら)にてぞわれは消ぬべき」
○ 薫「水まさるをちの里人いかならむ 晴れぬながめ(眺め・長雨)にかきくらすころ」
○ 浮舟「かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に 浮きて世をふる身をもなさばや」
○ 浮舟「のちにまたあひ見むことを思はなむ この世の夢に心まどはで」
○ 浮舟「鐘の音の絶ゆるひびきに音(ね)をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ」
五十四帖全体のなかで、「若菜」上下と並んで最も構成と文章がすばらしく組み上がっているのが「浮舟」です。ここだけ取り出して映画にしたり宝塚の舞台にしたくなるのが、よくわかります。誰もが参考にしたくなる物語モデルですね。人物の心の動きとして注目しておくべきは、薫の浮舟に対する気持ちなんですが、薫にとっての浮舟はあくまで大君の面影の形代(かたしろ)だったということです。これは浮舟からするとせつないことで、心厚い薫を敬いながらも匂宮の情熱に体を合わせてしまう。けれどもそんなことをしていれば、当然、この二人の貴公子の板挟みになるわけで、そこで入水を決意するんですね。ただし、この決意は仏道の教えからするととんでもないことで、仏教では自死は仏罰に当たります。とすると、紫式部はここで別の思想を持ち出したということになります。それは古来の「処女塚」(おとめづか)の考え方でした。二人以上の男に求愛された女が自身の死によって男たちの争いを回避させるという話です。万葉にもよく歌われている。『源氏』はこのラストストリームにおいて、こうした「古代の母型」を持ち出すんです。
52.「蜻蛉」かげろふ (薫27歳)
浮舟の失踪の噂が駆けめぐる。母の中将の君は愕然とし、亡骸(なきがら)のないまま葬儀を営む。石山参籠中の薫は浮舟を放置したことを反省し、匂宮は自分の行為に臥してしまう。一方、明石の中宮の法華八講で女一の宮を垣間見た薫は、その美貌に目が眩んで妻(女二の宮)に一の宮と同じ恰好をさせる。しかしそんな戯れをしているものの、自分が八の宮の姫君たちを次々に失わせているような気がして、おのが宿世のつたなさを嘆く。
○ 薫「忍び音や君もなく(鳴く・泣く・亡く)らむかひもなき 死出(しで)の田長(たおさ)に心かよはば」
○ 匂宮「橘のかをるあたりはほととぎす 心してこそなくべなりけれ」
○ 薫「ありと見て手にはとられず見ればまた ゆくへもしらず消えし蜻蛉(かげろふ)」
53.「手習」てならひ (薫27歳。浮舟22歳前後。小野母尼80歳前後)
浮舟は死んでいなかった。水辺で正気を失い、「もののけ」に憑かれていたとおぼしい。「法師の霊」によるものだった。が、横川の僧都(よかわのそうず)の母尼・妹尼らの一行に助けられていたのである。さっそく小野の山里の屋敷で看病世話されるのだが、容易に回復しない。やっと意識が戻っても浮舟は素性や過去を語らず、いちずに出家を願うばかり。そこへ立ち寄った横川の僧都に浮舟は懇願して出家する。やっと浮舟に念仏と手習いの日々がおとずれた。薫は出家した浮舟の噂を聞き、訪ねたいと思う。
○ 浮舟「身を投げし涙の川のはやき瀬を しがらみかけてたれかとどめし」
○ 浮舟「はかなくて世にふる川(経る・古川)の憂き瀬には たづねもゆかじ二本(ふたもと)の杉」
○ 浮舟「なきものに身をも人をも思ひつつ 捨ててし世をぞさらに捨てつる」
○ 浮舟「限りぞと思ひなりにし世の中を かへすがへすもそむきぬるかな」
54.「夢浮橋」ゆめのうきはし (薫28歳。匂宮29歳。浮舟23歳前後)
横川の僧都のもとを訪れた薫は、僧都から浮舟の入水と出家のあらましを聞き、浮舟に取り次いでほしいと頼む。僧都は浮舟の弟の小君(こぎみ)に手紙を託すことにしたが、彼女を出家させたことを後悔し、このままでは女人を破戒者にさせかねないという危惧をもつ。僧都の文使いとして小君が浮舟のもとに派遣され、浮舟はここに薫の愛欲の罪が消えるようにしてほしいと書いてあることを読む。けれども浮舟は薫との対面を激しく拒んで「これは人違いの手紙だ」と言い張る。小君はやむなくこれを薫に伝えるが、薫は何かが判然としない。長きにわたった物語はそのことを告げて、悄然と幕を閉じる。
○ 薫「法の師とたづぬる道をしるべにて おもはぬ山に踏みまどふかな」
このラストはけっこう難解です。浮舟が自分のことを「けしからぬ」と思ってひたすら頑なになっていますし、薫も浮舟に何を求めているのかわからない。ただ紫式部だけがこの男女の未来を知っている、そんな終わり方です。浮舟は助けられてからぐんと深くなっているんですね。横川の僧都でさえその心境を左右できない。まして薫は浮舟の胸中に一歩も踏み込めない。すごい終わり方です。では、なぜ『源氏』はこんなふうに終わっているのか、そこを考えるには、もう一度、全容の隙間にひそむ王朝社会哲学のようなものを読み解く必要があります。

以上、駆け足で五十四帖をたどってみました。詳しい筋立てやエピソードは現代語訳や解説本などで補っていただくとして、こういうアウトラインや物語構造を前提として、さあ、『源氏』から感じるべき問題や示唆は何かということ、あるいはこれを「日本という方法」から見るとどういうふうになるかということです。それでは源氏第3夜につないでいきたいと思います。宮崎慎也、小西静恵、久保田文也、橋本英人、中村碧らの編集工学研究所のスタッフの諸君が『源氏』のヴィジュアルのあれこれを配してくれたので、とくと参考にしてください。 
 

 

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エミール・シオランに、「私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ」という深い一行があります。『告白と呪詛』(紀伊国屋書店)に出てきます。シオランは観察と洞察のアフォリズムの異才で、“涙の反哲学者”ともいうべきルーマニア人ですが、ずっと母国語をさがしつづけているのです。シオランが生まれた頃のトランシルヴァニアでは、ルーマニア母語はもうぐちゃぐちゃになっていたからです。ぼくも『源氏』を読んでいるとまさにそういう気になります。この言葉って、ぼくの中のどの反応とつながっているのだろうと、何度も思わされるのです。国語ってふだん使っているのだから、自分は国語も母語も知っていると思ってしまうと、とんでもない偏見国語ニンゲンになってしまいます。それよりも、われわれはずっと国語からはぐれている歴史を走ってきてしまっていると思うべきでしょう。学校のセンセイが教える国語も一度、総点検したほうがいいですね。
国語すなわち母国語はまさに「マザー」というべきものです。実際にも“mother language”とも“mother tongue”とも言いますね。けれども、われわれが自分を生んでくれた母をしばしばぞんざいに扱っていたり、生まれ育った故郷をとんでもなく希薄なものにしてしまっているように、「母なる国語」もどこか薄明の彼方へ置いてきたと感じたほうがいいと思います。ぼくは今度、年末年始をはさんでほぼ一カ月ほど『源氏』に浸りきってみたのですが、そこに万葉でも新古今でもない、むろん明治以降の近代国語でもない「母なる国語」の“横切り(よぎり)”を感じるとともに、ぼくがしばらく「言葉としてのマザー」の探求をしていなかったことを思い知りました。
ついつい原点回帰に向かってしまうんです。「母なる国語」は原点まで行ってしまうと、これは行き過ぎで、かえってわからなくなります。母国語というもの、どこか途中から形成されているからです。それはルーマニアだってイタリアだってドイツだって同じです。原点まで行ってしまうと、そこにはアニミズムがあったり、神々がいたり、もっといえば縄文人やバイキャメラル・マインドがあったりするけれど、それらは母国語ではないんですね。国語はやはり言葉遣いや文化や習慣や、それから文字表記とともに形成されます。それは「生まれたもの」というより「育くまれたもの」に近い。「あった」ものではなく「なった」ものなんです。縄文このかた長らく無文字社会だった日本の場合は、漢字が入ってくるだけでは日本語表記は生まれなかったのです。万葉仮名の工夫に続いて、仮名文字や女文字が使われるようになって、やっと宮廷言語を形成させた。だからこれに接するにあたっては、当方の想像力をそこにうまく落ち着かせる思い切った方法を実感する必要があるんです。そういうことを、言語史全部見るとか文学史全部見るとか、そういうことをしたら見えるかというと、そうではないんですね。
『源氏』を3度にわたって現代語に移した谷崎は、「国語と云うものは国民性と切っても切れない関係にある」と『文章読本』(中公文庫)に書きました。日本語という国語の特徴は「語彙の少なさ」にあるとも言っている。たしかに谷崎源氏は訳すたびに言葉を削っています。参考のために引いてみると、その試みは『源氏』冒頭の彫琢にすでにあらわれています。「いづれの御時(おんとき)にか、女御更衣あまた侍(さぶら)ひ給ひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」というところ、次のように3段階に推敲しているんですね。
最初は「いつの頃の御代(みよ)のことであったか、女御や更衣が大勢伺候してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙つていらつしやるお方があつた」というふうに旧仮名文語調で訳しています。これはどう見てもぎこちない。次が「ですます調」になって、「いつの頃の御代(みよ)のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候してをられました中に、格別重い身分ではなくて、誰方(どなた)よりも時めいてをられる方がありました」というふうになる。ずっとすっきりしているだけでなく、ちょっと短くなっている。それから「高貴な家柄の出と云ふのではないが」というような「が」なくなっていますね。『源氏』には逆説的な「が」はめったに出てこないんです。そういう「しかし、だが」が出てくるのは『徒然』や『方丈記』です。式部の文章では「そういう高貴な出の方でない方がいて、それは」というふうに関係代名詞っぽく次々につながっていく。そこが特徴です。それで3度目の新々訳では、「何という帝の後代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいてる方がありました」というふうにまで絞られます。さすが谷崎ですね。「時めいてる方がいた」ではなくて、「ありました」というところも大事です。
こんなことを言っていると、うーん、『源氏』を読むってたいへんなことなんだと思われてしまいかねませんが、まあ、むろんそうなのですが、しかし、どう正確に読むということでもないとも思います。
歌人であって、折口信夫の最後の弟子であり、ずっと源氏講義を続けられている岡野弘彦さんは、『源氏』を読むことは日本人の「根生いのこころ」にかかわることだと、ことあるごとに言われています。「根生いのこころ」、それが『源氏』すべてが持っていると言われるんです。根生い、いいですねえ。まさにそういうことなんだろうと思います。
さて、源氏の第1夜と第2夜のここまでで、それなりに『源氏』の物語としてのアウトラインや登場人物のそれなりの特徴や、源氏読みで必要だろうと思われる構成要素をラフスケッチしてみました。それはそれでぼくなりにけっこう気をつかってスケッチしたのですが、事実誤認も見当違いもあったとも思います。ま、それは勘弁していただくとして、ここからはぼくが気になってきた源氏モンダイに好きに入っていきたいと思います。
とはいえ源氏モンダイといってもひとつにまとまるものでもないし、まとまってもいません。論者の数だけモンダイがあるといってもいい。だいたい源氏研究の歴史は14世紀の四辻善成『河海抄』(かかいしょう)を筆頭にそうとうに長く、またたいそう多様です。主要な研究書だけでも1000冊はゆうにこえるでしょう。いや、もっとかな。1桁ちがうかな。ともかくもそこには歌論もあれば物語構造論もあるし、作者論も儀式論もある。時代論・花鳥風月論・衣裳論・室内調度論から平安京都市論・敬語論・語彙用語論・絵巻論まで、何でもありです。なかには水野平次や中西進さんのように紫式部が好きだった白楽天との関係だけを掘り下げたものも、レヴィ=ストロースやバフチンの視点から『源氏』を読んだ藤井貞和や高橋亨さんたちの濃厚な研究もある。とうていぼくにはカバーできません。
実は紫式部学術賞まであるんです。紫式部顕彰会というところが出している。これは、1965年にユネスコが「世界の偉人」に初の日本人として紫式部を選んだんですが(知っていましたか)、そういうことに無関心な日本人にちゃんと紫式部や『源氏物語』のことを知らせようということで顕彰会ができて、そこから出ている学術賞です。ぼくもちらちら見ていました。初期のころの日向一雅の『源氏物語の準拠と話型』(至文堂)とか、川本重雄の『寝殿造の空間と儀式』(中央公論美術出版)、緑川真知子の『「源氏物語」英訳についての研究』(武蔵野書院)とか、おもしろかったですよ。とくに編集工学の立場から言うと、加藤昌嘉の『揺れ動く源氏物語』(勉誠出版)が「編集しつづけられてきた源氏」という観点からインターテキスト、トランステキストの源氏エディションの多様性を追っていて、なかなかでした。ただ、今夜のぼくはこれらを紹介したり点検したりするつもりはありません。以下に話すことは、先行する多くの研究成果にいろいろヒントをもらってはいるのですが、あくまでぼくが勝手に気になっている源氏モンダイです。
たとえば光源氏とは何者かということ。単純なようでいて、これがけっこうな難問なんです。桐壺の帝という天皇の子ですが、天皇ではない。準天皇のような不思議な位置になっただけです。冷泉帝のもとで内大臣から太政大臣になったのだから政権担当者なのですが、とうてい政治をしているとは思えない。人事をちょっと動かしたり、後宮(こうきゅう)対策に手をつけたくらいで、あとは女君に惚れ、交情し、歌を詠み、絵合(えあわせ)をしているばかり。いったい光源氏はこの物語のなかで何をしているのかといえば、色事に耽っているか、悩んでいるか、風流を遊んでいるか、そのいずれか。そうとうに変な主人公です。
それでも紫式部はそのような光源氏をこそ書きたかったのでしょう。それをもって「母なる国語」のロイヤルモデルないしはソーシャルモデルとしたかったのです。それが、その後は世界文芸史上でも希有の主人公になりえたなどということは、式部の与り知ったことではありません。でも、そうなりえた。ハムレット、光源氏、デズデモーナ、六条御息所、オフィーリア、浮舟、ですよね。ということは、この物語に書かれたような光源氏は、式部が書きたかった光源氏以外の何者でもない光源氏なんです。式部の国語の光源氏なのです。しかしながら、それにしてもたいそう曖昧な主人公です。いや、光源氏だけではなく、桐壺の帝から横川(よかわ)の僧都、朧月夜の君から女三の宮まで、みんな曖昧です。だいたい光源氏、柏木、夕霧は一人一人がセパレート・アイデンティティになってはいない。変動しつづける集合的人格帯みたいです。では、書き足りないのかといえば、そうではない。紫式部はそうしたくて、そうしたにちがいありません。そのため前夜にも説明したように、この物語には独特の「心内語」(しんないご)がかなり駆使されて、登場人物の気分と状況の推移との「双方のけじめをつけない表現」が連綿したわけです。
だから一番気になることは何かといえば、それをまとめて言うと、この物語の時代構造や登場人物がすべて曖昧になりえたのはなぜかということです。それなのに訴えるものがあんなにも豊富な物語になりえたのは、またまたなぜなのか。それはおそらく、ここに「母なる国語」とともに「日本という方法」が横溢しているからなんですね。それが11世紀にして世界文芸史上の最高傑作になりえた理由だろうと思います。ということは、ぼくが尋ねる源氏モンダイは、紫式部が綴った曖昧な表現のあちこちに「日本という方法」の何かの本来が散りばめられて編集されているのだろうと思えるかどうかにかかっているのです。それにはどこから辿っていけばわかりやすいのか。しばし前後左右にカーソルをあてていきたいと思います。
光源氏という「名前」のことから入ってみます。なぜこんなとこから入るのかはおいおいわかるでしょう。名前をめぐっては、少なくとも3つの謎があります。ひとつ、「光源氏」の本名は何なのか。ひとつ、なぜ「源氏」という姓がついたのか。ひとつ、なぜ朱雀帝や冷泉帝といったリアルな名前の人物が虚構の中にまじっているのか。物語は冒頭で、桐壺の更衣が輝くような子を産んだと書いてあり、みんなから「光の君」とか「玉の男皇子(おのみこ)」とか「かかやく日の宮」と呼ばれたとあります。この主人公はあとは「光源氏」とか「君」とか官職名とか敬称で綴られているだけです。本名は明示されてはいない。このことは、物語全体の最も暗示的な本質です。
桐壺の帝はこの子を東宮(春宮)に、すなわち皇太子にしようとするのですが、桐壺の更衣の実家に力がなくてあきらめました。それで「光の君」は第二皇子になったとあります。もともと日本の天皇はたくさんの夫人を娶り、たくさんの皇子を産んでもらい、そのなかから第一皇子を選ぶようになっています。どの子が第一皇子になるかどうかは、現在の皇室典範のように最初から長男にするとかというふうには決まっていない。第一皇子と決められた子を産んだ夫人が正妃なのです。第一皇子は弘徽殿(こきでん)の女御が産んだほうの子で、この子がのちに朱雀帝(すざくてい)になりました。第二皇子の「光の君」のほうはどうなったのか。「源氏」という姓をもらっただけでした。しかも「光源氏」が名前だとはどこにも書いていない。そう呼ばれたとあるだけです。どうも何か釈然としないところがあるでしょう。それはこの時代の物語の書き方としてやむえないことだったのか。それともこの釈然としないところこそがこの物語の本質を告げる何かにあたっていたのか。そこを少し覗いておく必要があります。ちなみに桐壺の帝にはほかにも何人もの皇子がいたのですが、わかりますか。冷泉帝が第十皇子で、「宇治十帖」で登場する八の宮が第八皇子です。
最初に、解(ほど)きやすいところから書いてみますが、弘徽殿の女御が産んだ第一皇子に「姓」がないのは、この子が今上天皇になったからです。日本の天皇には「姓」がないのです。これは天武・持統天皇の時代に『古事記』や『日本書紀』をつくったときからそうなっているのでありまして、天皇が「姓」をもたないことによって、天皇家がすべての臣下に「姓」を与えることができるというしくみをつくったからです。ただし、このことの本当の意味を考えるには、もうちょっと歴史をさかのぼったり(原点まで行きすぎてはダメですが)、日本という国のしくみ、とくに朝廷や摂関政治のことを考えたり、現在のわれわれの名前に関する社会習慣を問いなおしたりしたほうがいい。今夜はそこまで広げられないのでかなり絞りながらの話にしますが、それでもけっこう大事なモンダイがわさわさ出てきます。
日本人の名前は「姓名」でできていると、みなさんは思っているでしょうね。姓と名があって戸籍が成立していますからね。長嶋が姓で茂雄が名、松岡が姓で正剛が名ですよね。それから、われわれは苗字が「姓」のことだと思っている。シャチハタのハンコはこの苗字だけが捺せるようになっていて、それが姓名の「姓」だと思っているはずです。役所の書類や履歴書や病院のカルテにも「姓」と「名」を書く欄が分かれている。ところが、昔はそうではなかったのです。姓と苗字は歴史的には別のものでした。姓はもともとはカバネです。カバネは朝廷から官許されていたものでした。臣(おみ)、連(むらじ)、朝臣(あそん)、宿弥(すくね)というふうに、氏(うじ)のランク付けをあらわすものでした。その代表がいわゆる「八色(やくさ)の姓」です。古代では、このカバネと氏名(うじな)でワンセットです。蘇我大臣(そがのおおきみ)、物部大連(もののべのおおむらじ)、藤原朝臣(ふじわらのあそん)というふうにセットにしてあらわしていたんです。そして氏と名のあいだは、なぜか「の」でつないでいた。
このへんの話は、『源氏と日本国王』のときに書いておいたことでもあるんですが、おぼえてくれていますかね。次のような例を出しておきました。われわれは歴史を習っているうちに、こんな読み方をしてきたはずです。菅原道真はスガワラのミチザネ、平清盛はタイラのキヨモリ、源頼朝はミナモトのヨリトモ。そう、読んできた。タイラキヨモリとかミナモトヨリトモとは言わない。これらにはみんな「の」が入っています。この「の」は何なのか。一方、新田義貞、織田信長、徳川家康には「の」が入りません。オダのノブナガとかトクガワのイエヤスとは言わない。幸田露伴、伊藤博文、夏目漱石もコウダのロハン、イトウのヒロブミ、ナツメのソウセキではない。しかし藤原道長はフジワラのミチナガ、藤原定家はフジワラのテイカであって、フジワラミチナガ、フジワラテイカではありません。ついでにいえば藤原紀香はフジワラのノリカではありません。
いったいどうなっているのか。この話、どうでもいいようなことに見えて、そうではないんです。なぜ源・平・藤原・菅原に「の」がついて、新田・織田・徳川には「の」がついていないのか。ここには何かのルールがひそんでいるはずなんです。ついでに付け加えておくと、蘇我大臣、物部大連、藤原朝臣らが姓(カバネ)をもらったのに対して、一方では、カバネを与えられていない者たちもいました。この豪族たちが名前をもとうとすれば、「春日」「日下部」「采女」「馬飼」というふうに自分たちで呼称した。たいていは地名や仕事に因んだ名前です。なかには朝鮮語の発音に因んだ名前もあった。渡来系の、いわゆる帰化人の名前ですね。ただし、これらは同じ「姓」でもカバネではなく、セイあるいはショウといいます。
ここまでのことを少しまとめると、当初の「姓」は天皇が上から与えるフォーマルな名前であるということ、「賜姓」(しせい)だったということです。われわれがふだん慣れ親しんでいる苗字というのはあくまで私称だったのです。このしくみを維持するために、天皇家はあえて姓をもたないようにしたわけです。そのかわり天皇は姓を与えるほうにまわって、姓のプロデューサーになった。これが日本という国の特色のひとつです。朝廷とはそういうことをする“名配り機関”でもあったわけです。
天皇家が姓をもたないようにした理由としては、もうひとつ、大きな事情があります。それは中国では「易姓革命」(えきせいかくめい)といって、姓が易(かわ)れば王朝が変わる、易姓によって支配体制が変わるとみなされて、天子(皇帝)の姓の変更がおこることが革命なんだという制度思想があったのですが、これを日本が嫌ったという事情です。日本はこの制度を採用しなかったのです。天武・持統のときに藤原不比等らの考え方もとりいれて、天皇の継続的な位置を誰かが乗っ取ることをできないようにするため、すでに姓をもった者や一族は天皇にはなれないというふうにしたんですね。天皇に姓がなければ易姓革命がおこりようがない。そうすれば、天皇一家は万民に姓を与える唯一の一族でありつづけられるだろう、そう決めたんです。これで日本の天皇家は、これまで一度も「別の家格」による転覆劇がおこらなかったということになります。易姓革命はおこらなかった。武家政権による幕府はできても、天皇を乗っとることはできなかったのです。このことについては話したいことがヤマほどあって、うずうずしてしまうのですけれど、とくに孟子の「湯武放伐」(とうぶほうばつ)をどう解釈するのかという議論が欠かせないところですが、ただこのことについてはその骨子を案内しておいたので、ここではがまんして深入りしないでおきます。そのときも紹介しておいたことですが、詳しくは先頃亡くなられた松本健一さんの遺著にあたる『「孟子」の革命思想と日本』(昌平黌出版会)を読まれるといいでしょう。
というわけで、「光の君」は桐壺の帝すなわち現天皇から「源」という姓を賜ったわけでした。それで源氏になった。しかし、このことは光源氏がもはや天皇にはなれないということでもあったんですね。なっても准太上天皇まで。これが『源氏』全編に流れる「逸れた物語」という大きなストリームをつくっていた“宿命”というものです。いったん源氏という氏姓をもらってしまうと、もう天皇にはなれません。ということは、第一皇子(親王)にはなれない「光の君」の将来は、こうして最初から「逸れる」ことになったのです。そうではあるんですが、ただしこの話を理解するにはもうひとつ、源氏(ゲンジ)の「ジ」のほう、すなわち「氏」のほうのこともちょっと考える必要があります。「源」が姓(カバネ)なら、源氏の「氏」(うじ)とは何なのか。
「氏」には父系的な出自をもつ集団にルーツがあります。歴史学では氏族といいます。この氏族のリーダーは「氏の上」(うじのかみ)です。氏の上は氏人(うじびと)を統率し、部民(べのたみ)や奴婢(ぬひ)たちなどを隷属させて、その地の共有資産を管理します。そして氏神(うじがみ)を奉祀する。これが「氏」です。古代の氏族は祖先をたどれば、たいていは単一の祖先集団に行きつきます。たとえば蘇我氏は蘇我稲目(ソガのイナメ)がルーツ、大伴氏は大伴室屋(オオトモのムロヤ)がルーツ、藤原氏は藤原鎌足(フジワラのカマタリ)がルーツにあたっている。そうした氏が姓(カバネ)をもらって氏と姓をもった氏姓制度というものができあがったわけです。
それでは「源氏」という氏姓はどういうふうに生まれたのか。むろん『源氏物語』のなかで出てきた氏姓ではありません。やっぱり天皇から歴史的に賜った姓でした。源氏の賜姓は実は第52代天皇の嵯峨天皇の世に発しています。古代豪族時代のことでもないし、奈良時代のことでもない。平安初期のことです。それまではこんな氏姓はなかったんです。それを嵯峨天皇が自分の皇族に下そうと思いついた。もっとも家父長的な性格がやたらに強かった嵯峨天皇は精力絶倫でもありまして、50人もの皇子と皇女をつくった。それでそのうちの32人もの子に源氏の氏姓を渡してしまいます。これが嵯峨源氏です。なぜこんなことをしたのかというと、当時の天皇家の経済力がショートしてきたからです。50人も産んでいればそうなるでしょう。皇族たちの経済をこのまま維持続行することが難しくなった。皇族コストがもたなくなった。そこで源氏という氏姓をつくって、それまでの皇族を臣籍に降下させたわけです。天皇家のリストラであって、かつ天下りのようなものです。
同様のことを仁明天皇、清和天皇、宇多天皇、村上天皇も連打します。それで仁明天皇が親になった仁明源氏をはじめ、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などが、次々に生まれていったのです。嵯峨源氏はその兄貴格でした。親はそれぞれ異なるけれど、かれらはすべて新たな源氏の一族です。このことは、あまりに源氏をふやしすぎたので、のちのち源氏の一門どうしでの争いをおこさせます。それは前九年後三年の役や保元・平治の乱の「武家のあっぱれ」の時代のことであって、紫式部が描きたかった「公家のあはれ」の時代のことではありません。
もっとも「源氏」という賜姓(しせい)があったというだけでは、源氏も他の氏姓と同程度になってしまいます。かれらは源氏という氏姓をもらっても出自は准皇族なのですから、そこには何かもうひとつの冠(かんむり)がほしい。そこで登場したのが「氏の長者」(うじのちょうじゃ)という冠です。源氏は他のあらゆる氏たちのなかのリーダーだというお墨付きをもらった。氏の長者というのは、古代の氏の上の系譜を引く氏の統率者のことで、氏寺や氏社の祭祀、大学別曹や氏院の管理、氏爵(うじのしゃく)の推挙などを主に管掌したリーダーです。大伴・高階・中臣・忌部(いんべ)・卜部(うらべ)・越智・菅原・和気なども氏長者によって管轄されています。源氏の君たちはそのような氏の長者とも認められたのです。そうなると、源氏の一族には氏神をもつという新たな神仏の力の系譜も加わることになる。候補に上がったのが清和天皇期に創建された石清水八幡宮でした。源氏はこれでいくことにした。このブランディング・アイデアはよかったんでしょうね。当たったのです。折から清和源氏の源義家がその石清水八幡宮で元服したこと、義家が八幡太郎と称されたことなどが相俟って、源氏は八幡神を氏神とする一族になった。ということは八幡神はそもそもが応神天皇と神功皇后を祭神としてきたのですから、この系譜も源氏の氏神にかかわることになります。のちの源氏が八幡大菩薩の旗を掲げるのはこのためです。
言い忘れていましたが、現代のわれわれがカバネやショウとしての姓よりも苗字を重視するようになったのはどうしてかということですが、これは他の多くの事柄がそうであったように文明開化と近代国家のせいでした。
明治4年に「今後は位記・官記をはじめとする公文書に姓を除き苗字を用いるべし」という通達が出回り、明治8年には「苗字必称令」が公布された。これで、これまでの「姓」はすべて「苗字」に統括されてしまったんです。こうして太陽暦やメートル法やヨコ型紙幣と同じように、日本人は苗字を呼び合うハンコ社会になったんですね。もうひとつちなみに、豊臣秀吉の例を引きますが、秀吉はどうしていろいろ名前を変えたかというと、秀吉は「木下」「羽柴」が苗字です。その姓のほうは、天正10年に信長が本能寺で没したときに「平信長」と姓をつけていたことを承けて、初めは「平秀吉」となり、ついで天正13年の関白任官のときに「藤原秀吉」を名のり、その翌年に豊臣姓を賜って「豊臣秀吉」になったというふうになっています。このように秀吉は朝廷から姓を賜るごとに「平→藤原→豊臣」と改姓したわけなんですが、そのあいだ苗字のほうはずっと羽柴だったのです。まあ、念のため。
これで歴史的に天皇が姓をもたないこと、そのかわり源氏のような姓がしばしば天皇家からもたらされたという事情が見えてきたと思いますが、そのことと桐壺帝が光の君に「源氏」を賜姓した理由とは、少々違うモンダイがあるように思います。紫式部は時代の物語を本来的な曖昧に彩っておくために、「光の君」を光源氏にしたのですけれど、そのことに説得性をもたせるためには、光源氏の周囲の登場人物にもそのような曖昧性を付与する必要があったはずです。なにしろ『源氏』は男君はみんな「光の君」みたいで、女君はみんな「藤壺」みたいですからね。そこで、ここからの話は当時の宮廷社会とはどういうものであったのか、すなわち当時の朝廷のことや、天皇と摂関政治の関係のことをカバーしておきたいと思います。話はいろいろな面でだんだんつながります。
式部が『源氏』の舞台を「いづれの御時にか」と綴って、桐壺の帝を醍醐・村上の両天皇時代においたということは、よく知られています。ぼくもすでに述べておきました。よく知られているけれど、これはよほど重要なことです。式部にとって、第60代醍醐天皇の「延喜(えんぎ)の治」と醍醐の第14皇子だった62代村上天皇の「天暦(てんりゃく)の治」とが、なんといっても式部の「御時」の想定時代だったということは、『源氏』のワールドモデルとしては決定的なことなんです。まさに式部の曾祖父の兼輔(かねすけ)が活躍していた時期ですからね。
醍醐・村上の治世がどんな時代だったかというと、その前の宇多天皇のときの「寛平(かんぴょう)の治」とともに、のちに「聖代」と呼ばれるほどの天皇親政が前面に出た時代です。醍醐の延喜時代(901〜923)は古代律令制が維持された最後の時代で、『延喜式』などの格式(きゃくしき)の編纂が仕上がり、紀貫之らの梨壺の文人たちが活躍して『古今和歌集』ができた時代です。漢字仮名まじり文も、美しい料紙も、散らし書きも出てきた。村上時代(947〜957)には有名な天徳の内裏歌合(だいりうたあわせ)という、のちの歌合せにとっても和歌の歴史にとっても、そもそもの日本語の表現の歴史、つまり「母なる国語」の歴史にとってもきわめて重要な催しがなされています。とりわけ村上時代に摂政と関白がおかれなかったことが特筆されるのです。おそらくここに「御時」(おんとき)の特徴があります。式部はここに狙いを定めたのですね。『源氏』には摂政・関白が出てこないのですが、これは長きにわたった実際の平安王朝の歴史のなかでもたいへん特異だったのです。
摂政と関白による摂関政治はどういうものだったのか。このことも『源氏』が不満気に描いた宮廷権力像に大きくかかわっています。摂関がどのように出現したかといえば、藤原北家の冬嗣の息子の藤原良房が人臣として初めて太政大臣になり、続いて摂政になったことが起点です。そうするにあたって、良房は二つの戦略を行使しています。ひとつは他の有力貴族を失脚させることによって藤原北家に対する対抗心を挫いてしまうこと、もうひとつは皇室に北家の氏族の娘たちを嫁がせて皇子を産ませ、天皇の外祖父になって権力を握ることです。外祖父というのは母方の祖父ですね。実際にも良房は、842年の「承和の変」で伴氏と橘氏の両氏と藤原式家を失脚させ、ついでは文徳天皇に娘を嫁がせて清和天皇を誕生させた。良房の死後は、今度は養子の基経(もとつね)が摂政となり、光孝天皇のときは事実上の関白に就任して、天皇の権限の代行者の位置を得ています。
摂政は天皇が幼少だったり女性だったりするときに代わって政務を担当する役職のこと、関白は天皇が成人したのちも政務を代行する地位を与えられた役職です。関白という名称は中国から来た熟語ですが、日本的に変形して、天皇の意志を「関(あずか)り白(もう)す」という意味になって使われるようになりました。宇多天皇が藤原基経に「万機の巨細(こさい)、百官おのれに惣べ、みな太政大臣に関白し、然して後に奏下せよ」と命じたときの言葉が初見です。このように摂政も関白も、いずれも天皇と太政大臣以外では最高の地位に当たるのですが、その役目を受け持つのは、推古女帝のときの聖徳太子や斉明女帝のときの中大兄皇子が摂政めいていたように、古代では天皇の一族がほぼ担っていたんです。ところがそれを藤原冬嗣を中興とする藤原北家という「氏」が、まるまる独占しようというふうになっていった。これは摂関政治というよりも、藤原摂関体制です。
藤原摂関体制の流れの続きをもう少し追うと、基経によって摂政・関白がスタートしたあと、その子の藤原時平をへて(ここで時平と争っていた菅原道真が左遷されるわけですが)、醍醐天皇が重篤になったときに、幼い朱雀天皇の即位とともに藤原忠平が摂政となり、その朱雀が成人になるとそのまま忠平が関白にもなるという初めての例が出てきます。ただし忠平の死後、村上天皇の時代は摂政も関白もおかなかったので、さきほどから言っているように、ここに式部が理想とする「御時」がはからずも成立します。この時期が醍醐からの流れを含めて、天皇が親政したという「聖代」になったんです。でもこれはまさに「はからずも」の短い期間の親政で、村上天皇が崩御したのちに冷泉天皇が即位すると、またまた北家の藤原実頼(さねより)が関白に就く。「聖代」は短かったのです。紫式部の曾祖父が「聖代」の頃には晴れやかに充実していたのが、村上後の宮廷社会のなかではだんだん後退していったというのも、こうした時代背景によります。そしてなんとこれ以降は明治維新まで(後醍醐天皇の時代と秀吉・秀次の時代を除いて)、ずっと藤原北家による関白が常置されていくことになるんですね。幕末で勤王の志士たちが御所の関白を気にして動くのはそのためです。
藤原実頼は自身「揚名(ようめい)の関白」と嘆いたように、実力がふるえなかった関白です。こういうときはダークホースが出てきやすい。その隙を縫って冷泉期に台頭してきたのは藤原兼家(フジワラのカネイエ)でした。このあとすぐにわかると思いますが、兼家こそはのちの道長の御堂関白期の栄華を用意した張本人です。権謀術数にも長けていた。
忠平の子に右大臣になった藤原師輔(もろすけ)がいます。その師輔の三男が曰く付きの兼家です。蔵人頭(くろうどのかみ)、左衛門中将をへて安和1年(968)に従三位になり、そのまま中納言になったという出世頭です。師輔の長男は伊尹(これただ)といいます。安和2年、左大臣の源高明(たかあきら)が謀反の罪に問われて左遷されてしまうという、源氏モンダイにとってはきわめて意味深長でヤバイ事件がおこりました。「安和(あんな)の変」ですね。藤原摂関時代を確固たるものにしたほどの大きな事件で、見逃せません。それが紫式部が生まれる1年前のことでした。
源高明は醍醐天皇の第10皇子で、わずか7歳で源氏姓になった源氏のプリンスです。村上天皇の信任も厚く、奥さんの姉は村上天皇の中宮です。高明は有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく、『西宮記』(さいきゅうき)を著述するような才能もあり、実頼につぐ朝廷ナンバー2の呼び声も高かった。そのプリンス高明が自分の縁戚につらなる為平親王を皇位につけようとしたということで、謀反の罪をかぶせられたんですね。伊尹や兼家らによる陰謀でした。これが安和の変です。これは藤原氏が源氏に仕掛けた罠でした。高明はその罠に引っかかり、失脚した。ゲームに敗れたんです。案の定、冷泉天皇が退位して円融天皇が11歳で即位すると、伊尹が摂政となり、さらに太政大臣になる。伊尹には兼通と兼家という二人の弟がいるのですが、これは骨肉の争いをして兼家が勝ちます。そうなると兼家は自分をなんとか関白にしてもらいたいと円融天皇に願い出て、自分の娘を円融天皇の女御として入内させたのです。この娘が誰あろう、詮子(せんし)です。詮子は円融の第一皇子を産みます。懐仁(かねひと)親王です。誰だかわかりますか。すなわち一条天皇でした。これで事態は決定的です。兼家は寛和2年(986)にわずか7歳の一条天皇を即位させ、自分は摂政に就きます。紫式部は17歳になっていました。この年はぼくが好きな花山天皇が兼家の策謀で宮廷を逃げ出さざるをえなくなって、山科の花山寺で出家してしまった年でもありました。
だいたい話がつながってきましたね。この兼家の五男こそが、かの藤原道長なのです。あとはもはや推して知るべし、道長は長徳2年(996)に左大臣になり、紫式部が宜孝と結婚したあと、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させました。その彰子が西暦1000年ちょうどに中宮となった前後から、紫式部は『源氏』の物語構想をかためて書き始めているんですね。そして36歳のとき、式部は中宮彰子の女房として出仕したわけです。
この流れのなかでは、やはり源高明がその後の藤原摂関政治の強固な土台を築いた藤原兼家にしてやられたことが、式部の筋書きに大きな暗示を与えていたのだと思います。ここに「光の君」を「源氏」にしたかった理由も、朱雀帝や冷泉帝という歴史的に実在した帝の名をあえて虚実混合のためにまぜた理由も、ひいては『源氏=物語』というタイトルが定着していった理由も立ちのぼっていたように、ぼくは思います。ところで、これまで多くの学者によって光源氏のモデルが取り沙汰されてきましたが、そこには嵯峨源氏の源融(ミナモトのトオル)から村上天皇の第八皇子の具平(ともひら)親王まで、在原業平(ありわらのなりひら)から藤原道長まで、いろいろ候補があがっているのですが、ぼくには紫式部は醍醐源氏の源高明を光源氏のメインモデルにしていたように思われます。そのくらい高明にはいろいろの条件が揃っている。斎藤正昭の『源氏物語のモデルたち』(笠間書院)や西穂梓の『光源氏になった皇子たち』(郁朋社)を読まれると、もっともっとピンとくるでしょう。
ざっとこういうところが、式部が摂関政治の高揚以前の聖代という「御時」を選んだ理由の背景にある事柄です。わかりやすくいえば、醍醐・朱雀・村上・冷泉の4代が、桐壺帝・光源氏・夕霧・匂宮と続く『源氏物語』の4代に当たっているとみればいいのではないかと思います。それはまた、藤原兼輔・雅正・為時・紫式部という式部の4代にもほぼ対応しているとみなせます。夕霧と柏木の物語のところが、式部のお父さんの為時の代に当たっているんですね。しかし、このような「御時」(おんとき)の代々は容易な時代社会ではなかったとも言わなければなりません。なにしろしょっちゅう「もののけ」が出現した。そのつど宮廷の高級官僚たちはのべつ加持祈祷をせざるをえなかったのです。そのため宮廷社会の誰もがどこかで悔過(けか)や仏道への思いを抱かざるをえなかったのです。つまりはしだいに「無常」がはびこっていたのです。そこでここからは、式部が以上のような物語舞台を「母なる国語」として語るにあたって、なぜ曖昧な表現や描写で物語を埋め尽くしたかということにカーソルを動かして、少し深掘りしてみようと思います。式部は「人」ではなく「もの」を書こうとしたのです。ここからはぼくがずっと考えてきた大事なモンダイになります。
一言でいえば、『源氏物語』という作品は「うた」と「もの」による物語でできています。ただし、それは古代的なものではありません。平安王朝の、天皇と摂関が柔らかくも苛酷な鎬を削っている時代の「うた」と「もの」による物語です。それを紫式部はどうしてあんなにすばらしい物語にして綴れたのか。そのようにすることが「うた」と「もの」の物語になるだろうと思ったのですね。人ではなくて「うた」によって、事ではなくて「もの」によって物語を語ろうとすれば、それに応じた語り方が事件の顛末にも宮廷社会の本質にも及ぶだろうと思ったにちがいありません。だったら自分はいま「光の君」を中心にした皇室の出来事を思いついたのだけれど、この物語は摂関藤原一族の栄華の物語であってはならない。そこから逸れている「うた」と「もの」の『源氏の物語』を語るべきだろうということだったのではないかと思います。曖昧にしたかったのではなく、また何かに憚ったのでもなかったのです。『源氏』はほとんど主語をつかわないで物語を仕上げるという快挙をなしとげているのですが、それは表現を曖昧にしたいからではなく、物語という世界に日本古代から継承されてきた「うた」と「もの」が変移変質していたことを訴えたかったから、そうなったんですね。その「うた」と「もの」は古代を残照させてはいても、あくまでも醍醐・村上の聖代に近い「うた」や「もの」の物語でなくてはならない。たんなる摂関の物語にしてはならない。式部はそう考えたのだろうと思います。つまり『源氏』の主語は光源氏でも数々の登場人物でもなく、「うた」を通した「もの」だったのです。これが式部が選んだ「日本という方法」でした。
日本における物語はもともとが「もの・がたり」と「うた・がたり」でできています。古来の「もの・がたり」は神謡(かみうた)のなかの、ノリトとヨゴトの間から発生してきたのだろうと思います。ノリト(祝詞・詔詞)は神が一人称で語る無時法の呪言のようなもので、ヨゴト(奏詞)はその神に託して語られた言霊(ことだま)でした。いずれも「もの」の霊力を衰えさせないで漲らせるためのメッセージです。つまり当初においては神や祖霊のような「もの」による「かたりごと」が先行してあったのだろうと思います。けれども、その古代的な神や祖霊が時代社会がすすむにつれて「正体がわからないようなもの」になってきた。フルコト(古言)も忘れられたり、あまり使われなくなっていったのです。斎部広成(いんべのひろなり)の『古語拾遺』はまさにそのことについての苦情をしるしたものでした。こうした変遷のなか、ノリトやヨゴトの「神々しさ」と「縛り」がふたつながら薄れていって、そこに「もの」を「人」が語ったかのような、いわば人為的な「もの・がたり」の枠組みが発生してきたのです。そうすると『竹取』や『大和物語』や『伊勢物語』といった、いわゆる物語の変遷が生じてきます。しかし式部はそれだけでは満足できなかったのでしょう。そこに自分なりの「聖代」を入れて、新たな「根生い」を編集する気になったのです。
ひるがえって、本来の「うた・がたり」は古代豪族たちにおいては、氏族がその性格を宿らせて語ったものでした。たとえば大伴家持のルーツである大伴氏は歌力と武力の氏として、久米氏や佐伯氏とともに頭角をあらわした氏族です。その大伴氏は久米氏に久米歌がのこったように、大伴歌というスタイルをもっていたんでしょう。朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大伴金村の前の代に、その名も大伴談(おおとものかたり)という人物がいるのですが、この「かたる」は言葉によって相手に霊力を及ぼすという意味です。そういう霊力をもつ「うた」を含んだ出来事がやがて「うた・がたり」として伝えられてきたんだろうと思います。
しかし、神や祖霊の一人称の「もの・かたり」が二人称や三人称になって「人」による物語化がすすんだように、「うた・かたり」のほうも歌詠みという個人の一人称語りが突出するようになると、これらの「うた」をつなげることだけでも歌物語ができてきます。そうなると、古代的な「うた」は新たに「歌」あるいは「やまと歌」と呼ばれるようになって(つまり和歌になって)、個々の才能を競う歌合(うたあわせ)のツールにもなったんですね。けれどもそれは、もはや人麻呂が古代天皇霊を詠んだ長歌や反歌ではないのです。それゆえここからは、歌を人につなげた『伊勢物語』や『宇津保物語』のような物語ができあがっていったわけです。こうしたことを紫式部は歴史的な知識だけではなく(それもけっこうなものだったはずですが)、もっと大きな勘として、「日本という方法」の流れとしてわかっていたんだろうと思います。それなら、人麻呂でも『伊勢』でもない物語を、新たにどう書けばいいのか。式部が発見したのは「面影」を追い移っていくという編集方法です。その面影による物語は何かと言ったら、それは人や事そのものではなく、それらを反映した「もの」の物語なんですね。
では、その「もの」っていったい何なのか、ということですね。さらには、その「もの」を「あはれ」と感じる「もののあはれ」とは何なのか、また、その「もの」がシャドウやダークサイドで動いて「もののけ」(物の怪、物の気)になるとはどういうことなのか、ですね。まずは『源氏』が「もののけ」のふるまいを何度も描いたことについて、これは何だったのかということに触れてみます。夕顔や葵の上に取り憑いた「もののけ」とは何だったのか。『源氏』に出てくる「もののけ」はずばりいえば、前夜にぼくが言ったように、『源氏』という物語を外から支配していた「もの」たちです。『源氏』という時代社会、それは「宿世」(すくせ)というワールドモデルに投影されていた出来事の網目そのものですが、その宿世の網目にあまねく遍在していたものです。つまり醍醐から一条までの、良房から道長までの、物語の外に実在していたものでした。
いまさら言うまでもなく、古代語においては「もの」は「霊」でも「物」でもあるものです。「ものものし」といえば何だか霊っぽいものと物っぽいものが一緒に動いているようなことを言いますし、「ものすごし」といえば名状しがたい霊物混然たる力のようなものを言う。このような「もの」はあれこれの具体的な事物のことではなくて、対象があからさまにできない「もの」たちです。今でも「ものさみしい」とか「ものしずか」と言いますが、これって、そのへんに置いてある物が寂しかったり、調度や家具が静かだったりするわけではありません。「ものぐるい」とか「ものぐるしい」というのも、何かよくわからないものと付き合ってしまったなという気分です。そういう「もの」が古代では「畏れ多いもの」と結びついていた。そう、思ってください。いや、そう思うしかないでしょう。だから英語的にわかりやすくするならスピリットとかソウルとしたいところなんですが、それはまた「魂」(たま)という言葉があって、ちょっと違ってくるのです。古代における「もの」はもっと何か、その場におこっているさまざまなことを包括してしまうような力をもっていたんですね。
たとえば、三輪のオオモノヌシがそうした「もの」の大神でした。オオモノヌシは三輪山を御神体とした三輪神社(大神神社)に祀られていて、蛇神とも水神とも雷神ともいわれている大神ですが、その意味は、文字通り大きな包括力をもった神だったということでしょう。だからこの大神は大物主とも大霊主とも綴れますし、大神を「おおみわ」とも読めました。記紀神話では出雲で国造りをはたしたオオクニヌシ(大国主)ともつながっている。それは「もの」が三輪とか出雲とかといった「くに」の霊力でもありえたことを示しています。実際にも第10代の崇神(すじん)天皇のときに国中で疫病が大流行したのですが、そのとき天皇の枕元に立ったのがオオモノヌシでした。それで「私の子孫であるオオタタネコ(大田多根子)に私を祀らせなさい」と宣託した。オオタタネコは蛇神の大物主がイクタマヨリヒメ(活玉依姫)に産ませた娘ですね。さっそく捜し出して大神を祀らせところ、疫病がてきめんに退散したとあります。
こういうオオモノヌシのような「もの」は包括力そのもののようなので、分解できません。また容易に触れることもできません。いわば「稜威(いつ)なるもの」なのです。稜威というのはあまりにも畏れ多い威力があるので、なんら説明がつかない神威を感じる状態をあらわす格別な言葉です。しかしところが、このような稜威を発揮していたはずの包括的な「もの」が、古代天皇の時代が過ぎると、つまり「大王」(おおきみ)の時代の力が後退するにしたがって、だんだん希薄になり、どんどん縮退し、ときには分解されて、歪んで異様なものに変じていったのです。一言でいえば古代的な「もの」は平安期に向かうにしたがって「人に憑くもの」に変質していったんです。おそらく言霊(ことだま)が変質していったように。
いったい霊魂を伴う「もの」がそれ自体で変質するのかといえば、おそらくそうではないでしょう。神や国や森や川とともにあった「もの」が人に憑くようになったというのは、人の世のほうが変質していったからです。価値観が変化したからです。人の世がしだいにあさましくなって、人のほうが、かつては包括的な力をもっていた「もの」と対応できなくなってきたんです。そう考えたほうがいい。そうすると、そういう人の世から見ると、「もの」は「人に取り憑くもの」というふうに見えてくる。そのうち「もの」のほうもどんどん凝りかたまっていく。それはいつしか怨霊(おんりょう)とか御霊(ごりょう)とか悪霊とか、まとめて「もののけ」と呼ばれていくんです。それにしても、なぜ「もの」は「人に憑くもの」として扱われるようになったのか。このことは歴史的にも説明できることなので、そしてそのことは『源氏』とも大いに関係のあることなので、ちょっとそのあたりのほうへカーソルを動かしてみます。
平安時代は「平安」の名とはうらはらに「不安」をかかえて開幕します。ずばりいえば、平安時代は御霊という「もの」とともに始まった時代でした。しかもこの御霊はその後の4、50年のあいだに、たちまち「もののけ」(物の怪、物の気)の横行に変化していったのです。ごくおおざっぱにその流れを見ると、すでに天平年間、聖武天皇の寵愛が篤かった玄ム(げんぼう)が不遇のうちに死ぬと、世間は藤原広嗣の霊のせいで加害させられたんだと噂していました。このあたりから「もの」は人の世の憎しみや恨みのようなものに関連させられ始めたんですね。それとともに不遇の死を遂げた者の死者の霊が怨霊とか御霊だとみなされるようになった。平安時代が近づくと、この傾向がもっと前面に出てきます。とくに桓武天皇とその皇子(のちの平城天皇)が早良(さわら)親王の怨霊に苦しめられたことは、平安時代初期の最もよく知られた話になっていく。
桓武天皇の父は光仁天皇で、母は朝鮮から帰化していた高野新笠(たかのにいがさ)です。二人が生んだのが山部親王で、のちの桓武です。光仁天皇は聖武天皇の皇女の井上内親王を皇后として、他戸(おさべ)親王も産んでいます。山部親王にはほかに同母弟の早良親王もいて、二人の弟はともに皇位を継承する候補者でした。ここに密告事件がおこります。井上皇后が夫の光仁天皇を呪い殺そうとしたという噂を、藤原百川が密告したんですね。そのため井上皇后と他戸親王は大和の宇智に幽閉され、数年後に母子ともに死んでしまいます。おそらく殺されたんだと思いますが、ところがその後、藤原百川の甥っ子の種継が東宮職の一人に暗殺されるという事件がおこると、犯行の疑いが早良親王にかかり、親王は淡路に流されてそこで自害するという悲劇的な事態が出来(しゅったい)します。これが延暦4年(785)のこと。桓武天皇が平安遷都するのはわずかその9年後です。平安時代というのはまことに血腥いスタートを切っているんですね。けれども事態はそれでおさまらなかった。桓武とその皇太子が懊悩と病悩に大いに苦しみ、それが早良親王の怨霊のせいだとされたのです。そればかりか、桓武は死の間際には井上皇后と他戸親王の怨霊にも苦しめられたと告白してしまう。そういうふうになっていったんです。
いまぼくはこれらをとりあえず怨霊というふうに説明しましたが、当時は「たたるもの」として、正体不明の「もの」が動いているとみなされたのです。神の祟りではなくて、憎しみや恨みをもった人的な「もの」が祟るんですね。そしてついでは、非業の死をとげた者の霊魂が「御霊」とみなされることになる。このような御霊はたんなるイメージや惧れや危惧ではありません。噂だけのものでもない。その証拠に早良親王にまつわる一連の事件は、貞観5年(863)に、朝廷がこの御霊たちを鎮魂し慰撫する儀礼を神泉苑でおこなうというふうにまでなった。これが「御霊会」(ごりょうえ)です(のちに祇園祭になりますね)。御霊会はヴァーチャルなネガティブイメージを相手にしているのではありません。このとき鎮撫された御霊はリアルな6体が名指しされている。早良親王、伊予親王(桓武の子)、藤原吉子(きっし・伊予親王の母)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢(たちばなのはやなり・承和の変の首謀者)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ・謀反者)の6体です。御霊が特定されただなんて、まことに驚くべきことです。このあたりのこと、大森亮尚の『日本の怨霊』(平凡社)や山田雄司の『跋扈する怨霊』(吉川弘文館)を読むと、もっとびっくりすると思います。が、モンダイは御霊にとどまらない。この驚くべき得体の知れない御霊は、ついでは菅原道真の怨霊となったりして内裏を震撼とさせたりするのですが、やがて形と中身を変えて内裏(だいり)を徘徊する複数の「もののけ」として動きまわることになっていったのです。これで宮廷社会はぐらぐら揺れ動いてしまいます。なぜなら死者の霊が動いただけではなく、生霊(いきりょう)もまた「もののけ」として動いたのです。話はだんだん『源氏』の物語とまじります。
最初に「もののけ」の動向が目立ってきたのは仁明天皇期の承和年間です。承和4年に「物恠」(こう綴ってもいました)が出現したときは、退散を祈願して常寧殿(じょうねいでん)で読経と悔過(けか)をしています。翌年にも「物恠」があらわれたので、桓武天皇を祀った柏原山陵で僧侶たちが読経しています。さらに3年後には五畿内七道諸国と太宰府で疫神を祭って、伊勢大神宮に奉幣をするという大規模なことまでやっている。それでも「もののけ」はいっこうに収拾しない。ついに大極殿・紫宸殿・清涼殿で般若経や薬師経を読誦したり、真言院で息災法や陀羅尼法を修するということにまでなっていきます。内裏と「もののけ」は切っても切れなくなった因縁のようになったのです。これでは『源氏』の随所に「もののけ」が出没するのは当然です。
以上のスケッチで見当がついたかもしれませんが、「もののけ」は生きている者や死んでいる者の怨念が凝りかたまって、生霊(いきりょう)や死霊(しりょう)となっていった「もの」でした。これが異様な邪気を放ち、前夜にも説明したように「よりまし」(憑坐)を派遣して徘徊する。また人から人へ飛び移る。「もののけ」は「よりまし」にくっついて初めてその正体の一端をあらわすというふうになっていったんです。夕顔、六条御息所、葵の上、浮舟たちを苦しめたのが、こうした「もののけ」と「よりまし」が一対につながっていた「もの」なのです。「もののけ」に対しては、当初は退治や退散を念じて、調伏や祈祷によって霧散させるしかありません。お祓いです。ところがそれがだんだん治療の対象になっていった。まるで正体不明の病気をもたらしたウィルスのような扱いになって、医事の対象になっていくんです。これは、かつては神威のように感じられた「もの」も、いまや病気に罹る時代になってしまったということです。まことにやるせない。
紫式部が少女の頃から人に聞き、本を読んで見聞していたのは、このように「もの」がついに治療の対象になっていった時代だったんですね。式部も「もの」がお医者さんにかかっているようで、変な感じがしたでしょう。では、そのような「もの」を『源氏』はどう扱ったでしょうか。「もののけ」が憑いた病気の治療シーンとして描いたでしょうか。紫式部はそんなふうにはしていない。たんなる病気にはしなかったんですね。では、どうしたのか。ここが決定的なところなのですが、式部はそこに「もの」の「あはれ」を見たのです。淡々と「もの」のふるまいが変質していくさまを、綴ることにしたのです。これは『竹取』や『伊勢』ではできなかったことでした。それで、どうなったのでしょうか。かくしてここに『源氏物語』全帖におよぶ「もののあはれ」観が貫かれることになったのです。
話はいよいよ佳境に入ります。『源氏』が「もの」を「あはれ」とみなしていることを見破ったのは、なんといっても本居宣長でした。宣長は賀茂真淵に『源氏』の根本力を強く示唆されたのですが、師の解釈力をはるかにこえた見方を打ち立てます。宣長のカーソルは光源氏と藤壺の不義に当てられ、そこに「もののあはれ」がうずくまっていると見たのです。これ、ものすごい洞察でした。
宣長は『玉の小櫛』でこんなふうに書いています。まだ「もののあはれ」の前段ですが、そこから入ってみます。「然るにくすし(薬師)の事はかかずして、げんざ(験者)の事のみ多くかけるは、神仏のしるしをあふぎ、げんざの力をたのむは、物はかなくおほどかに、あはれなるかたに聞ゆるを、くすしをたのみて、薬を用ふるは、さかしだちて、すこしにくきかた有て、あはれならず」。宣長は、『源氏』にはしばしば病いにかかった者たちのことが書かれているが、たいていは医者のことよりも験者のことが書いてある。それは病人のことを神仏の加護にたのみ、験者の加持祈祷などをあてにしているからで、それこそがとりとめなくて「あはれ」なところで、すばらしいと言うのです。そして、病人に薬を与えるなどというのはさかしらなことである、そんなことをするのは「あはれならず」ではあるまいか。そうとも、宣長は言っているのです。
このような説明は宣長の「もののあはれ」についての見方の中心にあるものではないけれど、そのぶん式部の表現の向う先にかなり突き刺さってわかりやすいところだと思います。それというのも、たとえば上野勝之の詳細な『夢とモノノケの精神史』(京都大学出版会)などを読んでみると、宮廷の貴族たちは時代がすすむにしたがって「もののけ」をそうとう具体的な治療対象にしているんですね。そこには古代このかたの「もの」の霊力がどんどんなくなりつつあることが見えてくるのです。宣長はそのへんを知ってか知らずかはわかりませんが、『源氏』が書いているような「もの」の扱いこそが「あはれ」なんだと断じる気になったのです。
ところで少しだけ話を迂回させますが、『源氏』のなかで夕顔や葵の上が「もののけ」に苦しめられて、結局はおぞましくも死んでしまったこと、またそこに六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊などが関与していたことはよく知られているでしょうが、式部が『紫式部日記』の冒頭近くで「もののけ」に触れていることは、研究者以外にはあまり知られていないかもしれません。式部は『日記』には、彰子(しょうし)が「もののけ」に憑かれたことをとりあげているんです。彰子の場合も、葵の上と同様、皇子出産に際しての苦しみがきっかけでした。彰子は道長の娘で、一条天皇の中宮になっていたわけですから、ここで産まれた男児は次の皇位が約束されます。道長もそうなれば外祖父として君臨できる。だからとても大事な出産だったのですが、それがうまくいかない。ただちに「もののけ」の憑依だと診断されて、祈祷僧が呼ばれ、女房たちも憑坐に移し出すために侍らされ、さらには五大明王の壇が組まれて読経もおこなわれるというふうになります。
この一連の推移は、彰子が無事に皇子を産み、やがて後一条天皇になったというふうに落ち着くのですが(障子は葵のように死ななくてすむのですが)、この出来事を紫式部はかなり控えめに、淡々と書いているのです。すでに道長の屋敷で彰子の家庭教師のようなことをしていた式部ですから、あけすけに書けないことは当然ですが、『源氏』の本文と異なるのはそこに「もののけ」の正体を暗示すらしていないということです。研究者たち、たとえば坂本和子さんはその正体は道長の兄の道隆かその兄弟ではないか、山折哲雄さんはきっと道隆(道長の兄)の娘の定子(ていし)だったのではないかという説をたてていますが、式部は暗示すらしていません。ぼくはこのことがむしろ『源氏』には聖代でおこりそうな連想を、「日本という方法」の面影主義でもって描いた式部らしいことだと思うんです。ということで、ここからは「もののけ」ではない「もののあはれ」の話に入っていきたいと思います。やっと、ここまで辿り着きました。
周知のように「もののあはれ」は、宣長が『紫文要領』(しもんようりょう)や『源氏物語 玉の小櫛(おぐし)』において、『源氏』に最も顕著な情感であると指摘したキーコンセプトです。以来、さまざまに取り沙汰されてきた。「もののあはれ」というのは「もの」による「あはれ」のことです。宣長の説明によれば、「あはれといふは、もと見るもの聞くものの触るる事に心の感じて出づるなげきの声にて、今の俗言(よのことば)にもあはれといひ、はれといふ。これなり」というものです。見るもの、聞くもの、触るものに「あはれ」と感じることがあること、そのこと自体を実感するのが「もののあはれ」だという定義です。宣長以外は別の解釈もしています。たとえば『徒然草』では、「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまひときはは心も浮き立つものは春の気色にこそあめれ」というふうに、春秋を比較する感興に使っている。宣長はそういうこともあるけれど、むしろ「もののあはれ」は物語にこそ特有するもので、そこに儒仏の教えに頼らない価値判断が出入りするものなんだ、それが「もののあはれ」なんだと言いたいのです。さらには、こんなふうに書いている。ここからが「もののあはれ」の重要な説明になるのですが、それは『源氏』をどう読むかということの、最も劇的な見方にもなるはずです。
これでだいたいわかるように、誰もが感じてきた『源氏』における色好みや不実の行為を、式部があのように綴り切ったところが「もののあはれ」なのだというわけなのです。意外ですか。いや、意外じゃないでしょう。これこそが折口信夫が小林秀雄に、「小林さん、宣長は『源氏』ですよ」と言ったその心なんです。まさに岡野さんの言う「根生いの心」というものなんです。
「さて、物語はもののあはれを知る旨とはしたるに、その筋にいたりては儒仏の教へには背けることも多きぞかし」。物語は「もののあはれ」を知ることを中心にしたものなのだが、その筋道としては儒仏の教えに反することも多くなってくるものだと、まず宣長は世の常識を説明します。しかし、常識だけでは説明できないこともある。「そは、まづ人の情(なさけ)のものに感づることには、善悪邪正さまざまある中に、ことわりに違へることには感ずまじきわざなれども、情は我ながら我が心にもまかせぬことありて、おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」と進みます。教えに反することといっても、これは一筋では決めがたい。それというのも、人の「なさけ」(感情)が物事に動かされるというのは、世の善悪正邪がいろいろあるなかで、当たり前のことだろう。たしかに道理に反したことに感動していてはまずいだろうけれど、感情というものは自分でも自身の心の思うままにならないことも多々あって、なんとも忍びがたいことだっておこるのだと言うんですね。「おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」というところが、とても重要です。
そこで宣長は『源氏』の例に入ります。「源氏の君の上で言はば、空蝉の君、朧月夜の君、藤壺の中宮などに心をかけて逢ひ給へるは、儒仏などの道にて言はんには、よに上もなき、いみじき不義悪行なれば、ほかにいかばかりのよきことあらんにても、よき人とは言ひがたかるべきに」。光源氏が空蝉や朧月夜の君や藤壺に思いを寄せて男女の契りを結んだのは、儒教や仏教からすればひどい不義悪行になるし、ほかにどんな「よきこと」をしてみても「よき人」とは言うわけにはいかないはずなのだが、と断ったうえで、さらに次のようにきっぱりと書くんです。「その不義悪行なるよしをば、さしもたてては言はずして、ただその間のもののあはれの深き方(かた)をかへすがへす書きのべて、源氏の君をば旨とよき人の本(もと)として、よきことの限りをこの君の上に取り集め足る、この物語の大旨にして、そのよきあしきは儒仏などの書の善悪とは変はりあるけぢめなり」とというふうに。
宣長は、こう言っているんですね。『源氏』は不義悪行を特別視してああだこうだと言うのではなく、その不義悪行の「間のもののあはれ」の深いほうへ、話をかへすがへす書いている。そうすることで光源氏の「よきこと」さえ感じさせている。これこそはこの物語の「大旨」であって、儒教や仏教の本とは違うところなのだ、そこが「もののあはれ」というところなんだ、というふうに。なんとも絶妙ですね。『源氏物語』は「間のもののあはれ」をみごとに書いている、そこがすばらしい。物語とはこうでなくてはならないと言うんです。
宣長はいま引用したところに続いて、もっとドラスティックに次のように書きました。ざっと読んでみます。「さりとて、かのたぐひの不義をよしとするにはあらず。そのあしきことは今さら言はでもしるく、さるたぐひの罪の論ずることは、おのづからその方の書どもの世にここらあれば、もの遠き物語をまつべきにあらず。物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひをはなれて悟りに入るべき法(のり)にもあらず、また国をも家をも身をも治むべき教へにもあらず。ただ世の中の物語なるがゆゑに、さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、ただもののあはれを知れる方のよきを、とりたててよしとはしたるなり。この心ばへをものにたとへて言はば、蓮を植ゑてめでんとする人の、濁り手きたなくはあれども、泥水を蓄ふるごとし。物語は不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでにはあらず、もののあはれの花を咲かせんと料(しろ)ぞかし」だいたいわかると思いますが、世の現実のなかで不義密通が認められるわけではないけれど、それを断罪するのは儒仏の「したたかなる法や道」によるものであって、物語というのはそんなことでみんなに悟ってもらおうというものではない。むしろそういう危うい話を通して、ちょうど蓮を植えるのに泥から始めるように、物語もそのような泥を描きながら「もののあはれの花」を咲かせようとしているものなんだというのです。
かっこいいというか、きわどいというか。ああ、そこまで言っちゃったというか。なるほどそういうふうに切り返して言ってしまえばいいのかとも感じるかもしれませんが、これは逆説とか牽強付会とはまったく違います。宣長はパラドックスに遊ぶような国学者じゃありません。では、もう少し深々と。『紫文要領』には次のようにもあります。
「世中にありとしある事もさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる。これ、事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀(あはれ)をしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心、事の心をしるといふうもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」。宣長は、世の中のよろずの事を目で見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけ、そのよろずを心で味わえば、ありのままのことを知ることができるはずだと言うんですね。ここは宣長がぐっと踏み込んでいるところで、「物の心」や「事の心」を知ることがとりもなおさず「もののあはれ」を知ることになると結論付けている中核です。ありのままがわかるのは自分で弁(ゆきま)えるというのではなくて、「もののあはれ」に「物の心」や「事の心」自体が従うということなのであると言いたいわけです。宣長は「物の心」や「事の心」がそのまま「もののあはれ」になるのだから、いちいち世事のことなど持ち出すな。そんなことを持ち出さなくてもすむように、言葉や認識をもつべきだと、そこを言っているんですね。まさにエミール・シオランです。
それにしても、見たり聞いたり触ったりする気持ちが、そのまま「もののあはれ」になっていくようなことって、あるんでしょうか。あるんですね。それが『源氏物語』が書いてみせたことなんです。それを書くために式部は、藤原氏の摂関政治から逸れていく「姓」なき光源氏の一族を設定し、一見、ふしだらとも思える色好みの性格を男君たちに付与し、不義や不実を随所に立ちはだからせることで「もののけ」の襲来を描き、それらを総じてみせつつ、この物語に「もののあはれ」を出入りさせたのです。
さあ、これでぼくが次に何を書こうとしているか、およそ見当がついたことだろうと思います。そうなんですね。3夜にわたったこの源氏もさすがに終盤にさしかかってきたのですが、いよいよもって宣長の言う「もののあはれ」を折口の言う「いろごのみ」に重ねてしまおうというのです。これは第1夜に少なからず予告しておいたことでした。
折口の全集第15巻(中央公論社)に「源氏物語」があります。折口はそこで、光源氏の性格が「一つの事を思ひつめるといふ執着心の深いところ」にあると書きました。そして「執着の深い人は信頼できます」とも書いている。光源氏は執着心が深いので信頼できるのだ、女君たちはそのことを重々、承知していたのだというのです。これだけでピンときてもらうとたいへんありがたいのですが、それではわかりにくいでしょうから、この次に折口が説明していることを言いますと、『源氏』は「おもひくまなし」というところがいいんだ、これは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」なんだと言うんです。
「おもひくまなし」なんです。「思ひ隈なし」。なんともいい言葉です。しかし、なぜ「おもひくまなし」がいいいのか。折口はそれは「思ひやりの深い」ということなんだと説明し、さらに次のように書いて、あっと驚くことを断言してしまいます。「誰でも人の言ふ語が何でもわかると思ひますが、なかなかさうはいかないので、人の言つてゐる語の意味は本道にはわからないのです。ところが源氏といふひとはそれがよくわかる人でした。これは女の望んでゐた性格だつたのです。さういふ性格は何処から出てゐるかと言ひますと、日本の昔の典型的な男の共通してもつ性格といふものがありまして、そこから来てゐるわけなのです。只今では誤解されてきてゐますが、色好みといふのがそれなのです」。
うーん、唸るような断言ですね。もう、これでいいじゃん、です。「執着心が深いところ」「おもひくまなし」なところ、それが色好みなんだというのです。色好みは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」で、それは「思ひやりが深い」ということだというのです。まるで不倫不義を擁護しているかのようですね。これは参りますよねえ。しかし、折口はこのことに『源氏』の本質を見切っているのです。すでにぼくは第1夜に、古代の神々と英雄の時代では「いろごのみ」は武力に匹敵するソフトパワーであったということを書いておきました。そして、その古代的なソフトパワーは類的なものだったのだが、やがて宮廷社会が進むにつれて、いいかえればそこに藤原摂関政治が進んでいくわけですが、そのなかでしだいに個人的な事情に付与されてきたとも書いておきました。ということは、紫式部はこの宮廷物語において、光源氏や柏木や夕霧や薫たちを万事万端すみずみまで逸らせていくことによって、かの「いろごのみ」のソフトパワーを思ひ隈なく感じさせるようにしたということです。
だとすると、どうなるのでしょうか。そうなんですね。これは宣長が「目に見るつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる」と言っていることに重なってきて、それはとりもなおさず「もののあはれ」を源氏が体現しているということになるわけです。「いろごのみ=もののあはれ」「もののあはれ=いろごのみ」だったのです。
なんだか、ここまで言ってしまうと、もうとくに付け加えることがなくなったような気分です。だから、さあこれでぼくの源氏モンダイはおわりです、ありがとうございましたと言ってもいいのですが、でもそれではいささかそっけないエンディングでしょうから、しばらく余韻が続く話をして、締めたいと思います。
藤原北家が良房から道長に向かって絶頂期を演じているなか、紫式部の周辺はしだいに視野が狭められていったのですね。もっと身分がよくなりたい、待遇がよくなりたいというのではない。そうではなくて、ああ、あの佳き時代はおわったのだという感慨です。この感慨は、今夜はまったく触られずじまいだったのですが、折から忍び寄っている末法感ともつながって、式部のなかに無常観や諦念観を育てていたのだと思います。一方、宮廷社会では男も女も隠れて不義密通をしているばかり、これでは誰が「もののけ」に祟られようと地獄に堕ちようと仕方ありません。しかし、式部は曽祖父の代からずっと、この宮廷社会の一部に組み込まれたままの身であって、そこを脱けることは、藤壺や六条御息所や空蝉や女三の宮のように出家してみることかもしれないけれど、それは朱雀院だって出家しても何も新たなことはおこらなかったのだから、いっそ浮舟のように入水するしかないのかもしれないのです。
メランコリックになっていた式部はどうしたか。ここで自分の逡巡のすべてを「物語」に託すことを思いつくのです。見れば宮廷も後宮も、世俗化してしまった「もの」たちにさんざん冒されている。かつての「もの・かたり」の「もの」はどこかに退いているようなのです。それなら、その「もの」の本来を見つめる語り手を描きつつ、その語り手が宿世(すくせ)にまみれた宮廷社会を「物語」の中に移して描けば、どうなるか。きっと半分くらいはうまく書けるにちがいない。でも、もう半分はきっと兼家や道長の世のリアリズムに巻きこまれ、その賛美までではないにしても、あらかた肯定してしまうような物語になってしまうにちがいないと、おそらく式部は考えたのでした。
だったなら、どこをどう変えようか。ここで思いついたのが光り輝くような君でありながら、そもそもその父帝が時代の中枢から逸れていったような宿命をもった子としての、「光の君」の投入でした。ただ、この主人公はすれすれでなければいけない。ぎりぎりを感じていなければいけません。とはいえ栄達や充実から最初から見離されているのでは、話になりません。ほとんど摂関家に対峙できるほどの素質と身分と可能性と財力に満ちていながらも、なぜか静かに退落していくような「あはれ」を宿していてもらわなければ困るのです。そして、もうひとつ。この「光の君」とその周辺の男君や女君たちは、宮廷でおこっている情交や不義や密通そのままを身に受けていて、かつ、その他のどんな宮廷の者たちよりも熱心な「色好み」であってもらわなければならないのです。とはいえ、それでは「性」と「好色」が行動規範のすべてになりかねない。式部はそこで桐壺の更衣の面影を追うことが、この物語全体の導きの糸になると確信したのだと思います。それならその周りに男たちと女たちの貌(かんばせ)と振舞(ふるまい)を組み合わせ、チャプター(帖)ごとに眩く複相的で重層的なポリフォニーを進行させればどうか。きっとこの決心がついたので起筆することにしたのでしょう。
もちろん、これだけで『源氏』各帖が書けたわけではありません。宮廷行事、四季のうつろい、室礼(しつらい)と調度の変奏、そしてなによりもふんだんの「うた」が交わされなければ、物語にはなりません。こうしたことのいっさいを出入りさせながら、式部がずっと貫き続けたことは、第1にこの物語が「根生い」の物語であること、第2には「いろごのみ」がそのまま「もののあはれ」になりうる物語であること、第3にはそして何もかもを「少しずらす」ことによって成立する物語をめざすということだったと、思います。そのため、まずは醍醐・朱雀・村上・冷泉の「聖代」の起伏を物語の時代舞台に設定したのですね。ついではこれを桐壺帝、光源氏、夕霧、薫の連鎖に移しつつ、それだけではただのオクターブ移行になってしまうので、そこに頭中将やら柏木やら明石の入道の、また藤壺やら夕顔やら朧月夜やら女三の宮の、つまりは相似と対比を相剋させるようなオブリック・ネットワークをめぐらしたのです。これで、面影の追慕の流れは桐壺の更衣から藤壺へ、紫の上へと月照りのように連なり、そこへ末摘花や空蝉の逸脱も、須磨・明石への逃避もまずまず入って、大筋の「ずらし」や、これも大事な式部の狙いであったろう「やつし」も、入ることになったのです。それでも、ここにはまだ決定的な「もののあはれ=いろごのみ」を発動させるエンジンが搭載されていないのです。それは何かというと、「罪と愛」を対同させるというエンジンです。この雅びのエンジンが静かな唸りを上げていなければなりません。
かくしてここに、ひとつには継母の藤壺と光源氏が愛しあって、ついに不実不義の子を出生するという、そこで生まれた子が冷泉帝になるという、少々オイディプスなエンジンが作動することになりました。もうひとつは何か。これは言うまでもなく葵の上と六条御息所をめぐって唸りを上げるエンジンです。もう詳しいことは書きませんが、このエンジンは悶死していった葵の上が産んだ子がほかならぬ光源氏の長男として物語をバトンタッチしていく夕霧だったということに、いっさいのフォーカスが向えるようにするエンジンでした。この二つのエンジンで式部が用意した「罪と愛」のヴァリアントが奏でられました。そしてその楽曲そのものが「もののあはれ」につながっていったのです。
言い残したことはかぎりなくありますが、ざっとざっとはこういうことでしょう。それでも柏木と女三の宮の関係の推移と、光源氏と女三の宮のあいだに生まれた薫の役割など、気がかりですね。このあたりの話は、『源氏』の終盤で大きく逸れていく物語のバイファケーションとして、これまでの仕掛けを破りかねない何かを孕んでいると思われたところです。そしてそこには、「もののあはれ=いろごのみ」にすら倦いた紫式部の強靭な厭世観と仏道観を感じるのですが、その話をするには、さらにもう1夜が必要です。ここは勘弁です。
「水鳥を水の上とやよそに見む 我も浮きたる世をすぐしつつ」(紫式部) 
 
和泉式部日記

 


黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき
和泉式部の父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘でした。式部は幼名を御許丸といい、父の官名から「式部」、夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれます。
母は介内侍と呼ばれた女房でしたから幼い頃には母の仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ちます。この頃に幼い為尊親王・敦道親王と会う機会があったともいわれています。十九歳の時、父の片腕であった実直な橘道貞と結婚して、翌年には娘に恵まれます。後の小式部です。
受領の夫の赴任先の和泉の国へついて行っていましたが、いろいろあってか式部は京に先に帰っています。この夫には後々も未練を残しているように思われます。
また、式部は歌人として若いときから名をはせていました。
離れて住む夫・道貞への思いを詠った歌の上手さが冷泉院の第三皇子の弾正宮為尊親王を引き寄せたとも、昌子中宮の病気見舞いに来られたとき為尊親王が一目惚れしたともいわれますが、二人は激しい恋に落ちます。二四歳のときのことです。美貌を誇る皇子に実直な夫にはない魅力をみいだしたのでしょう。このことは世の評判になり、夫の道貞も宮中での二人の噂を耳にします。このため夫婦はいつのまにか疎遠になり、事実上離婚の状態になってしまいます。身分違いの恋に父も怒って勘当します。
それでも、式部にとっては恋人がすべてでした。
しかし、この恋は二年ほどで終わります。長保四(一〇〇二)六月一三日、弾正宮為尊親王は 二六歳の若さで病であっけなく夭折してしまったのでした。 さて、物語は、この悲しみにくれるなか、やがて一年が経とうというところから始まります。式部二六歳のときのことです。 
一、橘の花
夢よりも更に儚く終わった亡き為尊様との恋を思い返しては嘆きを深くする日々を送りますうちに、いつしか一年近い月日が流れ、はやくも四月の十日過ぎにもなってしまい、木の下は日ごとに茂る葉で暗さを増してゆきます。塀の上の草が青々としてきますのも、世の人はことさら目にも留めないのでしょうけれど、あわれにしみじみと感じられて、為尊様を喪った夏の季節がまた巡って来るのだと式部には感慨深く思われるのです。
そうした思いで式部が庭を眺めていた折のこと、近くの垣根越しに人の気配がしましたので誰だろうと思っていますと、亡き為尊様にお仕えしていた小舎人童なのでした。
しみじみと物思いにふけっていた時でしたので懐かしく、
「どうして長い間みえなかったの。遠ざかっていく昔の思い出の忘れ形見とも思っているのに。」と取り次ぎの侍女に言わせますと、
「これという用事もなしにお伺いするのは馴れ馴れしいこととご遠慮申し上げておりますうちにご無沙汰をしてしまいました。このところは山寺に参詣して日を過ごしておりましたが、そうしているのも心細く所在無く思われましたので、亡き宮様の御身代わりにとも思い、為尊様の弟君である帥(そち)の宮敦道様のもとにお仕えすることにいたしました。」と童は語ります。 「それは大層良いお話ですこと。けれど帥の宮様はたいそう高貴で近寄りがたいお方でいらっしゃるのではないの。為尊様のもとにいた時の様にはいかないのでしょう。」などと言いますと、
「そうではいらっしゃいますが、たいそう親しげでもいらっしゃいます。今日も『いつもあちらに伺うのか』とこちらのご様子をお尋ねになりますので『参ります。』と申し上げましたところ、『これを持って伺い、どうご覧になりますかといって差し上げなさい』と仰いました。」と、取り出したのは橘の花でした。
自然と『五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする』という古歌が思い出されて口ずさまれます。
童が、「それではあちらに参りますが、どのようにご返事申し上げましょうか。」と言いますので、式部は、ただ言葉のみでのご返事というのも失礼なようですし、「どうしましょう、帥の宮様は色好みな方という噂はないのですから、どうということもない歌ならかまわないでしょう。」と思い、
「かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると〔花橘の香は昔の人を思い出させるとか、けれども私はそれよりも、せめて昔と変わらぬあの方の声だけでも聞けないものかと、甲斐のない望みを抱いています。あなたのお声は兄宮様とそっくりなのでしょうか。〕」 と、橘の花に対して懐かしさを『ほととぎす』に見立て、『声ばかりこそ昔なりけれ』という素性法師の歌を踏まえたお返事をしたため、童に渡したのでした。
帥の宮がなんとなく落ち着かない思いで縁にいらっしゃる時、この童がまだ遠慮があるのか物陰に隠れるようにして何か言いたげでいるのをお見つけになられて、「どうであった」と声をかけますと、童はようやく近づいてきてお手紙を差し出します。
宮は式部の歌をご覧になられて、〔「兄上が人目も憚らず通い詰めていただけに、やはり並み一通りの女性ではない。」とでもお思いになられたのか、〕
「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや
〔兄の声が聞きたいとおっしゃるのですね。おなじ母から生まれ一緒に育った私の声も亡き兄と変わりないのは、ご存知ではないでしょう。お訪ねして、声を聞かせたいものです。〕」
とお書きになられて、その歌を童に渡し、「こんなことをしていると人には絶対言うな。いかにも色好みのように見られるからな。」と、童に口止めして奥にお入りになりました。〔しかし、噂が広がるのは避けられないと思われます。〕
一方、式部は敦道様からのお歌に心ひかれるものはありましたけれど、そういつもいつもご返事するのはと思いそのままにします。
ところが、宮は一度お便りを贈られたとなると、間もおかず、また、
「うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
〔はっきり言葉にして思いを打ち明けずとも良かったものを、どうして打ち明けてしまったのでしょう。そうしたことでかえって苦しいほどに思い嘆いている今日この頃です。〕 」
というお文(ふみ)をお書きになったのでした。
式部は、もともと思慮深くもない人でしたから、男気のない慣れない心の虚ろに耐えかねてか、ふと心動かされ、おそらく本気ではないこうしたとりとめのない宮のお歌にも目が留まって、宮にご返事を差し上げます。
「今日のまの心にかへて思ひやれながめつつのみ過ぐす心を
〔苦しいまでに嘆いているとおっしゃいますが、僅か今日一日のあなたの嘆きと比べてどうぞご想像なさってみてください。あの方を亡くして以来ずっと物思いに沈んだままで過ごしている私の苦しい心を。〕」
〔こんな式部を、世間の人々がは軽々しい女だと言うのでしょう。〕

夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、誰ならむと思ふほどに、さし出でたるを見れば、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。
あはれにもののおぼゆるほどに来たれば、「などか久しく見えざりつる。遠ざかる昔のなごりにも思ふを」など言はすれば、「そのこととさぶらはでは、馴れなれしきさまにや、とつつましうさぶらふうちに、日ごろは山寺にまかり歩きてなむ、いと頼りなくつれづれに思ひたまうらるれば、御かはりにも見たてまつらむとてなむ、師の宮に参りてさぶらふ」と語る。「いとよきことにこそあなれ。その宮は、いとあてにけけしうおはしますなるは。昔のやうにはえしもあらじ」など言へば、「しかおはしませど、いとけ近くおはしまして、『つねに参るや』と問はせおはしまして、『参り侍り』と申しさぶらひつれば、『これもて参りて、いかが見給ふ、とてたてまつらせよ』とのたまはせつる」とて、橘の花をとり出でたれば、「昔の人の」と言はれて、「さらば参りなむ。いかが聞こえさすべき」と言へば、ことばにて聞えさせむもかたはらいたくて、「なにかは、あだあだしくもまだ聞え給はぬを、はかなきことをも」と思ひて、
薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると
と聞えさせたり。
まだ端におはしましけるに、この童、かくれの方に気色ばみけるけはひを御覧じつけて、「いかに」と問はせ給ふに、御文をさし出でたれば、御覧じて、
おなじ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変らぬものと知らずや
と書かせ給ひて、賜ふとて、「かかること、ゆめ人に言ふな。すきがましきやうなり」とて、入らせ給ひぬ。
もて来たれば、をかし、と見れど、つねは、とて御返り聞えさせず。
賜はせそめては、また、
うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
とのたまはせたり。もとも心深からぬ人にて、慣らはぬつれづれのわりなくおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて、御返り、
今日の間の心にかへて思ひやれながめつつのみすぐす心を
二、逢瀬
こうして宮はしばしばお手紙をお遣わしになられ、式部もご返事を時々差し上げます。ものさびしさも少し慰められる思いで式部は日を過ごしていました。
また、宮からのお手紙があります。文面もいつもより心こもっている様子で、
「かたらはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ
〔お目にかかってお話したら心慰められることもあるのではないでしょうか、まさか、私と話しても話し相手にもならずせんないこととは思わないでください。〕
兄宮を偲んでしんみりとお話しもうしあげたいのですが、今夕にでもいかがでしょう」とお書きになっておられたので、式部は、
「なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき
〔心慰められると伺いましたらお話ししたいのですが、私の身についたつらさはお話したくらいではおっしゃるとおり「言う甲斐も無く」どうにもなりませんでしょう。〕
『何事もいはれざりけり身のうきはおひたる葦のねのみ泣かれて(何もことばにすることができません、我が身のつらさは、生えている葦の根ならぬ音(ね)を上げて泣くばかりですから。)[古今六帖]』の歌のように、泣くしかなく会ってもどうしようもありませんでしょう。」と申し上げます。
宮は、思いもかけない時にひそかに訪れようとお思いになられて、昼から心準備なさり、ここ数日お手紙を取次いで差し上げている右近尉をお呼びになって、「忍んで出かけたい。車の用意を」とおっしゃるいます。右近尉は、「例の式部のところに行くのであろう」と思ってお供します。わざわざ飾り気のない質素なお車でめだたないようにお出かけになられ、「お目にかかりたく伺いました」と取り次がせなさったところ、式部はさしさわりがあるという気がしますが、「居りません」と言わせるわけにもいきません。昼間も手紙のご返事をさしあげていますから、家にいながらお帰し申し上げるのは心ない仕打ち過ぎましょうと思い、お話だけだけでもいたしましょうと、西の端の妻戸に藁座をさしだしてお入れ申し上げます。世間の人の評判を聴いているからでしょうか、宮の艶めかしく優雅な姿は並々ではありません。
そのお美しさに心奪われながら、お話し申し上げていると、月がさし上りました。たいそう明るくまばゆいばかりです。
宮は「古めかしく奥まったところにこもり暮らす身なので、こんな人目に付く端近の場所に坐り慣れていないので、ひどく気恥ずかしい気がします、あなたのいらっしゃるところに座らせてくださいませんか。これから先の私の振る舞いを見てください、決してこれまでお逢いになっていらっしゃる男たちのような振る舞いはしませんから。」とおっしゃいますが、「妙なことを。今宵だけお話し申し上げると思っておりますのに、これから先とはいったいいつのことをおっしゃるのでしょう。」などと、とりとめのないことのようにごまかし申し上げるうちに、夜はしだいに更けて行きます。
このままむなしく夜を明かしてよいものか、と宮はお思いになられて、
「はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせん
〔はかない夏の短夜を仮寝の夢さえも見ないで夜を明かしてしまいましては、いったい何を今宵一夜の思い出話にできましょう。〕」
とおっしゃいます。式部は、
「夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見るよひぞなき
〔夜になって寝るというのは、私にとっては兄宮様との仲を思い起こして涙で袖が濡れるということです、涙で苦しむ我が身にはのんびりと夢を見る宵などありません。〕
まして、弟の宮様と共に夜を過ごす心にはなれないのです。」と申し上げます。
しかし宮は後に引けないと思ってか、「私は軽々しく出歩いて良い身分ではないのです。思いやりない振る舞いとあなたはお思いになるかもしれませんが、ほんとうに私の恋心はなんとも恐ろしく感じられるほどに高ぶっています」とおっしゃられて、おもむろに御簾の内にすべり入りなさいました。
まことにせつないことの数々をおささやきなさりお約束なさって、夜が明けましたので、宮はお帰りになりました。
お帰りなさるやすぐに、「今のお気分はいかがですか。私の方は不思議なまでにあなたのことが偲ばれます。」とお書きになり、
「恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし
〔恋しくてたまらないと言ってもあなたは世間並みのありふれた恋心だとお思いでしょう。しかし、逢瀬の後の今朝の恋しさといったら、たとえようもない激しいものです。〕」
という歌をお添えになります。そのご返事に式部は、
「世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
〔おっしゃるとおりまったくありふれたことだとは私にも思われません、情を交わした後の思いに苦しみ、今朝ははじめて恋のせつなさを知りました。〕」
とご返事申し上げはするものの、「なんと不思議な我が身のさだめなのだろう。故宮があんなにも私を愛してくださったのに。」と思うにつけて、我が身自身が悲しく思われて思い乱れておりました。
そんな折、例の童がやってきます。
「宮からのお手紙があるだろうか」と思ったのですが、そうではありませんでしたのを「つらく苦しい」と式部は思いますが、それはなんとも好きずきしい心ではないでしょうか。
式部は小舎人童が宮のもとにお帰りになるのにことづけて申し上げます。
「待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕暮れ
〔いづれあなたのおいでをお待ちすることになると思っておりましたが、これほど辛いということがありましたでしょうか、あなたのお出でを期待してもいない今日の夕暮れですが、お手紙もないので思いもかけない辛い思いでいます。〕」
宮は、和泉式部の歌をご覧になって、「ほんとうに心痛むことだ。」とお思いになられるものの、こうした女のもとへの夜歩きを続けることは続いてはなさいません。
北の方も、普通の夫婦のように仲むつまじくはしていらっしゃいませんが、毎夜毎夜外出するのも不審にお思いになるにちがいありません。また、兄宮が最期まで非難されなさったのも、この方のせいだった、と宮はお思いになられて慎まれますが、これも式部との仲を深い親密なものにしょうとはお思いなさらなかったからでしょう。
暗くなるころ、宮からのご返事があります。
「ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に
〔ひたすら待っているとでもあなたがおっしゃるなら、あなたの家に向けてためらわず行くはずのものですのに、「もしあなたのおいでを待ったとしても」などとおっしゃるとは。〕
私の思いがいいかげんなものではとあなたが思うのは残念なことです。」とありますので、式部は「いいえどういたしまして、私の方は、
かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれもむかしの縁こそあるらめ
〔あのような歌を差し上げましたが、こうしておいでがなくても不安だとは思われません。これもあなたとの仲が前世からの縁で結ばれているからでしょう。〕
とは存じておりますが、『なぐさむる言の葉にだにかからずは今も消ぬべき露の命を[後撰集](慰めてくれるお言葉さえも掛からないなら、今にも消えてしまいそうな露のような私の命です)』の歌のとおりです。」とご返事申し上げます。
宮は、式部のもとにいらっしゃろうとはお思いになりますが、新しい事態に気後れを感じられて、そのまま数日が過ぎていきました。 

かくて、しばしばのたまはするに、御返りも時々聞えさす。つれづれもすこしなぐさむ心地してすぐす。
また、御文あり。ことばなどすこしこまやかにて、
「語らはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ
あはれなる御物語り聞えさせに、暮れにはいかが」とのたまはせたれば、
「なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき
生ひたる蘆にて、かひなくや」と聞えつ。
思ひかけぬほどに、しのびてとおぼして、昼より御心まうけして、日ごろも御文とりつぎて参らする右近の尉なる人を召して、「しのびて、物へ行かむ」とのたまはすれば、さなめりと思ひてさぶらふ。あやしき御車にておはしまいて、「かくなむ」と言はせ給へれば、女、いと便なき心地すれど、「なし」と聞えさすべきにもあらず、昼も御返り聞えさせつれば、ありながら帰したてまつらむも、なさけなかるべし。ものばかり聞えむ、と思ひて、西の妻戸に円座さし出でて、入れたてまつるに、世の人の言へばにやあらむ、なべての御樣にはあらずなまめかし。これも、心づかひせられて、ものなど聞ゆるほどに、月さし出でぬ。いとあかし。「ふるめかしう奥まりたる身なれば、かかるところにゐ慣らはぬを、いとはしたなき心地するに、そのおはするところにすゑ給へ。よも、さきざき見給ふらむ、人のやうにはあらじ」とのたまへば、「あやし。今宵のみこそ、聞えさすると思ひ侍れ。さきざきはいつかは」など、はかなきことに聞えなすほどに、夜もやうやう更けぬ。かくて明かすべきにや、とて、
はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせむ
とのたまへば、
「夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見る宵ぞなきまいて」と聞ゆ。
「かろがろしき御歩きすべき身にてもあらず。なさけなきやうにはおぼすとも、まことにものおそろしきまでこそおぼゆれ」とて、やをらすべり入り給ひぬ。
いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば、帰り給ひぬ。すなはち、「今のほどもいかが。あやしうこそ」とて、
恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし
御返り、
世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
と聞えても、あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを、と悲しくて思ひ乱るるほどに、例の童来たり。御文やあらむ、と思ふほどに、さもあらぬを、心憂し、と思ふほどもすきずきしや。帰り参るに聞ゆ。
待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮れ
御覧じて、げに、いとほしうもとおぼせど、かかる御歩きさらにせさせ給はず。
北の方も、例の人の仲のやうにこそおはしまさねど、夜ごとに出でむも、あやしとおぼしめすべし。故宮の御はてまでそしられさせ給ひしも、これによりてぞかし、とおぼしつつむも、ねんごろにはおぼされぬなめりかし。暗きほどにぞ、御返りある。
「ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に
おろかにや、と思ふこそ苦しけれ」とあるを、「なにか、ここには、
かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれも昔のえにこそあるらめ
と思ひ給ふれど、なぐさめずは、つゆ」と聞えたり。
おはしまさむとおぼしめせど、うひうひしうのみおぼされて、日ごろになりぬ。
三、閉ざす真木の戸
四月の晦日に、式部は、
「ほととぎす世にかくれたるしのび音をいつかは聞かむけふもすぎなば
〔「五月待つ」というほととぎすは四月のうちは忍び音で鳴くと申しますが、その忍び音はいったいいつ聞けるでしょう、今日で四月が終ります、四月の内にはおいでいただけないのでしょうか。〕」
と歌を差し上げますが、宮のお近くには人々がたくさんお仕え申し上げていたときでしたから、ご覧に入れることが出来ません。翌朝になって使いが宮のもとに持って参りますと、宮は手紙をご覧になり、
「しのび音は苦しきものをほととぎす木高き声をけふよりは聞け
〔声を忍んでなくのはつらいものですが、五月になった今日からはほととぎすも高々と誇らしく鳴きましょう、これからは喜び溢れる私の声を聞いてください〕」
とお返事なさり、二、三日あっていつものように人目を忍んでお渡りになりました。
式部は、物詣でしようと精進潔斎している折でもあり、宮の訪れが遠のいているのも愛情がないのであろうと思いますから、特にお話申し上げもしないままに、仏道精進にかこつけ申し上げて、宮のお相手もせずに夜を明かしました。
翌朝、宮は、「風変わりな一夜を明かしたことです」などとおっしゃって、
「いさやまだかかるみちをば知らぬかなあひてもあはで明かすものとは
〔いやいやまだこんな恋の道があるとは知りませんでした、せっかくお会いしてもひとつ床に入りもしないで夜を明かすことがあろうとは。〕
驚きあきれました。」としたためます。
さだめしお驚きでいらっしゃるだろう、とお気の毒になり、式部は、
「よとともに物思ふ人はよるとてもうちとけてめのあふ時もなし
〔一生の間(毎晩)悩みに沈む私は、夜くつろいだ気持ちで寝るときもありませんし、あなたが近くに寄ることがあっても、気を許して添い臥すことはありません。〕
夜ごと眠れぬことや共寝しないというのは、私には珍しいこととも思われません」と申し上げたのでした。
翌五月四日、「今日お寺詣でにお出かけなさるのですか。いったいいつお帰りになるのでしょうか。いつにましてどんなにか待ち遠しく気がかりなことでしょう」と宮からお手紙があるので、式部は
「をりすぎてさてもこそやめさみだれてこよひあやめの根をやかけまし
〔降る五月雨もその季節が過ぎたらきっと止むように、悲しみも時の流れにきっと消えて、私もいづれ帰ってまいります。それとも今夜おいでですか。心乱しながらも、五月五日の前夜の雨降る今宵、万根を癒すという屋根に葺く菖蒲の根ではないですが、その文目(あやめ=道理)に従った音(悲しむ涙)で一緒に袖を濡らしましょうか。〕
というふうにでもお思いくださるべきでした。」とご返事申し上げ、物詣でに参籠しました。
三日ほどして帰りましところ、宮から、「たいそう気がかりになっておりましたので、参上してお逢いしよう思いますものの、先日はたいそうつらい目に会いましたから、なんとも気がふさぎ、また面目なくも思われまして、たいそう疎遠なことになってしまいましたが、ここ数日は、
すぐすをも忘れやするとほどふればいと恋しさにけふはまけなん
〔このままあなたのことを忘れられはしないかと思って過ごしていましたが、時間が経つと、たいそうあなたが恋しくなって、今日はその気持ちに負けてお訪ねすることにいたします。〕
私の並々でない気持ちを、いくら冷淡なあなたでもおわかりでしょう。」とあります。そのご返事を式部は、
「まくるとも見えぬものから玉かづら問ふ一すぢも絶えまがちにて
〔恋しい気持ちに負けたとおっしゃいますが、そうも思えません。玉葛(たまかづら)の蔓(つる)が長い一筋であるのに、その一筋の訪れも絶え間がちですから。〕」
と申し上げました。
宮は、お手紙の通りいつものお忍びでいらっしゃいました。
式部が「まさか今日はお越しではあるまい」と思いながら、ここ数日の勤行の疲れでうとうとしているときでした。宮の家来が門を叩きますが、それを聞きつける人もおりません。宮は、式部の数々の噂をお聞きになっていることもありましたので、きっと誰か男が来ているのだろうとお思いになり、そっとお帰りになられて、その翌朝、
「開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し
〔昨夜はあなたが開けてくださらなかった真木の戸口に立ちつづけて、これがあなたの薄情な気持ちの証拠なのだ、と思い知りました。〕
恋の辛さはここに極まると思うにつけて、しみじみ悲しいことです。」という宮のお手紙があります。
式部は「ほんとうに昨夜おいでになられたにちがいない。不用意にも寝てしまったものよ。」と思います。ご返事に、
「いかでかは眞木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む
〔どうして真木の戸を閉めたまま開けてもいないのに、私の気持ちが薄情かどうかおわかりになるのでしょうか〕
いろいろと変な邪推をなさっているようです。私の心を開けてお見せできれば「つらき心」などとは誤解されないでしょう。」と式部は記します。
宮はそれをご覧になって、この宵もまたお出ましになりたかったのですけれど、こうしたお忍び歩きをお側の者たちがお止め申し上げているだけでなく、内大臣(藤原公季・宮の母超子の父兼家の弟)や東宮(居貞親王・同母兄、後の三条天皇)といった方々がお聞きなさることがあったらたらいかにも軽薄な振る舞いと思われるだろうと、気おくれなさっておりますうちに、宮の次の訪れはたいそう間遠になるのでした。
五月雨が降り続いてたいそうものさびしいこの数日、式部は雲の切れ間もない長雨に、「私たちの仲はどうなっていくのだろう」とはてることのない物思いにふけり、「言い寄って来る男たちはたくさんいるが、現在ではなんとも思っていないのに、世間の人はあれこれ妙な噂を立てているようで、『いづ方にゆきかくれなむ世の中に身のあればこそ人もつらけれ[拾遺集](どこに姿を消そうか、人前に我が身があるからこそ他人もつらく当るのだろうから、姿を消しさえすればとやかく言われずに済むだろう)』という歌のとおり、どこぞに隠れてしまいたいもの」と思って過ごします。
そんな折、宮から、「五月雨のものさびしさはどうやって過ごしていらっしゃいますか」といって、
「おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたるけふのながめを
〔あなたはいつものとおりに五月雨が降っていると思っていらっしゃるでしょうが、実はあなたを恋い慕いつづける物思いが流す私の涙で雨が降りつづいている今日の長雨(景色)です。〕」
と詠んでこられたので、式部は「風流な時節を逃さずお手紙があるのがなんとも風情のあること」と思うのでした。また「ほんとうにしみじみとものさびしい時節だこと」と思って、
「しのぶらむものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
〔宮様が私のことを偲んで降る涙の雨とは存じませんでした、「数々に思ひ思はずとひがたみ身をしる雨は降りぞまされる[伊勢物語](あれこれと私のことを思ってくださっているのか、思ってくださっていないのか、お尋ねするのも難しいものですから、それ程にしか思われていない我が身の程を知っている雨は、このようにひどく降ってくるのでしょう。)」の歌のように、雨が降っているので私のもとに足を運んでくださらない、と思っておりました。伊勢物語ではこの後、男は蓑も笠も手にする余裕もないままに、ぐっしょりと濡れて、あわてふためいてやって来るのですが。〕」
と記して、その紙の一重を裏返して、透けて見えるのを見越して、
「ふれば世のいとど憂さのみ知らるるにけふのながめに水まさらなん
〔この世に生きるにつれて、つらい思いばかりを思い知らされます。降り続くこの長雨の大水に物思いにふける我が身は押し流されたいと思います。〕
そうして流れ出した私を待ち受け救ってくれる男の方(彼岸)はいるのでしょうか」と申し上げたのでした。これを、宮はご覧になられ折り返しすぐに、
「なにせむに身をさへ捨てむと思ふらむあまのしたには君のみやふる
〔どうしてまた大水に身までも捨てよう(出家しよう)とお思いなのですか、五月雨が降っていますが、天下に、あなただけが涙を流しているとお思いですか、私だってあなたと同じ思いで生きているのです。〕
歌に『なかなかにつらきにつけて忘れなば誰も憂き世やなげかざらまし[新後拾遺集](かえってつらいことがあるたびにそれを忘れてしまうのなら、誰もこの世を嘆かずにすむでしょう)』とありますが、あなたのことを忘れず思っているからこそ嘆いているのですよ」とご返事なさいます。 

つごもりの日、女、
ほととぎす世にかくれたる忍び音をいつかは聞かむ今日もすぎなば
と聞えさせたれど、人々あまたさぶらひけるほどにて、え御覧ぜさせず。つとめて持て参りたれば、見給ひて、
忍び音は苦しきものをほととぎす木高き声を今日よりは聞け
とて、二三日ありて、忍びてわたらせ給へり。女は、ものへ参らむとて精進したるうちに、いと間遠なるも心ざしなきなめりと思へば、ことにものなども聞えで、仏にことづけたてまつりて、明かしつ。つとめて、「めづらかにて、明かしつる」など、のたまはせて、
「いさやまだかかる道をば知らぬかなあひてもあはで明かすものとは
あさましく」とあり。さぞあさましきやうにおぼえしつらむ、といとほしくて、
「よとともに物思ふ人はよるとてもうちとけて目のあふ時もなし
めづらかにも思う給へず」と聞えつ。
又の日、「今日やものへは参り給ふ。さて、いつか返り給ふべからむ。いかに、まして、おぼつかなからむ」とあれば、
「をりすぎてさてもこそやめさみだれてこよひあやめの根をやかけまし
とこそ思ひ給うべかりぬべけれ」と聞えて、参りて三日ばかりありて返りたれば、宮より、「いとおぼつかなくなりにければ、参りてと思ひたまふるを、いと心憂かりしにこそ、もの憂く、恥かしうおぼえて、いとおろかなるにこそなりぬべけれど、日ごろは、
すぐすをも忘れやするとほどふればいと恋しさに今日はまけなむ
あさからぬ心のほどを、さりとも」とある、御返り、
まくるとも見えぬものから玉かづら問ふ一すぢも絶えまがちにて
と聞えたり。
宮、例の忍びておはしまいたり。女、さしもやは、と思ふうちに、日ごろの行ひに困じて、うちまどろみたるほどに、門をたたくに、聞きつくる人もなし。きこしめすことどもあれば、人のあるにや、とおぼしめして、やをら帰らせ給ひて、つとめて、
「開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し
憂きはこれにや、と思ふもあはれになむ」とあり。よべ、おはしましけるなめりかし、心もなく寝にけるものかな、と思ひて、御返り、
「いかでかは真木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む
おしはからせ給ふめるこそ。見せたらば」とあり。こよひもおはしまさまほしけれど、かかる御歩きを人々も制しきこゆるうちに、内の大殿、春宮などの聞しめさむこともかろがろしうおぼしつつむほどに、いとはるかなり。
雨うち降りて、いとつれづれなる日ごろ、女は雲間なきながめに、世の中をいかになりぬるならむとつきせずながめて、すきごとする人々はあまたあれど、ただ今はともかくも思はぬを、世の人はさまざまに言ふめれど、身のあればこそ、と思ひてすぐす。
宮より、「雨のつれづれは、いかに」とて、
おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたる今日のながめを
とあれば、折を過ぐし給はぬを、をかしと思ふ。あはれなる折しもと思ひて、
しのぶらむものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
と書きて、紙の一重をひき返して、
「ふれば世のいとど憂さのみ知らるるに今日のながめに水まさらなむ
待ちとる岸や」と聞えたるを御覧じて、たち返り、
「なにせむに身をさへ捨てむと思ふらむあまのしたには君のみやふる
誰も憂き世をや」とあり。
四、長雨
五月も末になりました。梅雨はしとしとと相変わらず降り止みません。
先日の式部からのご返事がいつもよりも物思いに沈んでいる様子であったのを、宮はしみじみいとおしいとお思いになられて、ひどく雨の降った夜が明けた早朝、「昨夜の雨の音は恐ろしいほどでしたが・・」などとお手紙をお送りになられる。
式部が、
「よもすがらなにごとをかは思ひつる窓打つ雨の音を聞きつつ
〔『白氏文集』の「蕭々暗雨打窓雨=蕭々たる暗き雨、窓を打つ声」のように窓を打つ雨の音を聞きながら一晩中眠れずに私が何を思っていたかご存知でしょうか、あなたのこと以外は考えませんでした。〕
家の内にいたのですが、『降る雨にいでてもぬれぬわが袖のかげにゐながらひぢまさるかな[貫之集](降る雨の中に出ても濡れることのない私の袖が、部屋にいるのにどんどん濡れて行きます。)』の歌のように、不思議なほど袖は涙でびっしょり濡れています。あなたのお運びがないからでしょう。」とご返事申し上げましたところ、
宮は、「やはり気が利いていて言葉を掛ける甲斐のあるひとだ。」とお思いになられて、ご返事をお送りなさいます。
「われもさぞ思ひやりつる雨の音をさせるつまなき宿はいかにと
〔私も同じようにあなたのことを偲んでおりました、激しい雨の音を遮る妻戸のうちに、頼りになる夫(つま)もいないあなたはどうお過ごしなのかと。〕」
この日の昼頃、「加茂川の水が増した。」といって、人々が見にでかけます。宮もご覧になられて、「今どうしていらっしゃいますか。大水を見に出かけました。
大水の岸つきたるにくらぶれど深き心はわれぞまされる
〔大雨で川の水が岸を浸すほどですが、その深さを比べてみますと、私の愛情のほうがずっとまさっています。〕
そういうふうに私の気持ちをご承知ですか。」とお便りなさいます。
式部はご返事に、
「今はよもきしもせじかし大水の深き心は川と見せつつ
〔『思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね[古今集](思ってはいるが、人目を慎む堤が高いので、これくらいはただの川に過ぎないと見ながらも、渡ってそちらに行くことができません)』と歌にあるように、今となってはもうあなたは決して、岸ならぬ、私のもとに『来』たりはなさらいのでしょう、深いお気持ちを『かは(これくらい)』と大水の川ようだと見せてはいらっしゃいますが。〕
お歌ばかりで甲斐のないことです。」と申し上げたのでした。
宮が式部のもとにいらっしゃろうとお思いになられて、香をたき身づくろいなさっていますところに、侍従の乳母が参上して、「お出かけになるのはどちらですか。お出かけのことを、お側の者らがとやかくお噂申し上げているようです。その女は、特に高貴な身分ではありません。お使いになろうとお思いなら、お邸に召しいれてお使いになってください。軽々しく足をお運びになるのは、ほんとうにみっともないことです。そんな中でも、あの方は、男たちがたくさん足を運んでいる女です。不都合なことも引き起こりましょう。みなよくないことは、右近の尉の何とかいう者が始めたことです。亡くなった兄宮様をも、この者がその人のもとにお連れ歩き申し上げていたのです。夜の夜中までお出歩きなさったら、いいことがあるはずはありません(それで亡くなられたのですよ、お兄様は)。このようなご外出に伴う右近の尉のけしからぬところは、大殿(内大臣公季)様に告げ申し上げるつもりです。世の中が今日明日どう動くか分からないような時です、大殿様のお心づもりもおありでしょうから、世の中の動きがどうなるか見届けなさるまでは、こんな軽率なご外出はなさらないのがよろしいでしょう。」と申し上げなさいます。
宮は「どこに行くものか。ものさびしいからなんとなく遊びで香を焚きしめているだけで、どこかにでかけるわけではない。また、あの人について大げさにいうべきではありません。」とだけおっしゃられて、「たしかにあの方は、不思議なほどつれない女ではあるが、それでもやはり期待通りの人なのだから、邸に呼んで召人(めしうど・愛人)として置いておければよいのだが。」などとお思いにはなられが、そんなことをしたら、今以上に聞き苦しい噂が立つだろうとあれこれ思い乱れているうちに、足が遠のいてしまわれるでした。
やっとのことで宮は式部のもとにいらっしゃられて、「思いがけなく、不本意ながら足が遠のいてしまいましたが、冷淡な男だとお思いくださいますな。これもあなたのこれまでの過ちのせいだと思います。こうして私が足を運ぶのを不都合だと思う男の方々がたくさんあると聞いていますので、あなたに迷惑がかかっては気の毒だと思って遠慮していたのです。また世間体からも差し控えているうちに、いっそう足が遠のいてしまいました。」と生真面目にお話なさされて、「さあいらっしゃい、今宵だけは。誰にも見つからない場所があります。ゆっくり二人きりでお話申し上げましょう。」といって車を寄せてむりやりにお乗せになりますので、式部はしぶしぶながらも乗ってしまいました。誰かが聞きでもしたらたいへんと案じながら行くのですが、たいそう夜も更けていましたので、気付く人もおりません。宮はそっとひとけのない廊に車をさし寄せてお降りになりました。「降りなさい。」と強引におっしゃいますので、式部は月が明るく目立ちますから、見苦しく情けない気持で車から降りたのでした。
宮は「どうですか、ひとけもない所でしょう。今日からはこんなふうにして誰にも知られぬようにお逢い申しましょう。あなたのお邸では他の男の客があるのではと思うと、気がねですから。」などとしみじみとお話しなさいます。
夜が明けると車を寄せて式部をお乗せになって、「お家までお見送りにも参るべきでしょうが、明るくなってしまうでしょうから、私が外出していたと誰かに見られてしまうのは具合よくありません。」といって、宮はその邸にお留まりになりました。
式部は、ひとり帰る道すがら、「なんとも変わった逢瀬だったこと、人はどんなふうに思うのだろう(またまた悪評が立つのだろうか)」と思います。夜明けにお別れする際の宮のお姿がなみなみでなく艶めかしく見えましたのが思い出されまして、
「よひごとに帰しはすともいかでなほあかつき起きを君にせさせじ
〔毎宵毎宵あなたをお帰ししたとしても、どうして夜明け前に起きて私を見送るなんてことをこれ以上あなたにさせられましょう。〕
このように宮に見送られる逢瀬はつろうございました。」と書き送りますと、宮からは、
「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らんよひはまされり
〔早朝朝露が置くころ起きてあなたを見送るつらさに比べると、なにもせずにむなしく帰る宵の方がもっとつらいものです。〕
決して一夜を共に明かさず宵のうちに帰ることは聞き入れられません。今夕は方塞がりです。お迎えに参りましょう。」とご返事があります。
「なんとも、みっともない、いつもいつも私の方から出かけるわけにはいかない」と式部は思いますが、宮は、昨夜のように車でいらっしゃいました。車をさし寄せて「早く、早く。」とおっしゃいますので、「なんともみっともないこと」と思いながらもそろそろとにじりでて乗りましたところ、昨夜と同じところで親しくお話しなさいます。
宮の北の方は、宮がその父・冷泉上皇の院の棟にいらっしゃっている、とお思いです。
夜が明けましたので、「『恋ひ恋ひてまれにあふ夜のあかつきは鳥のねつらきものにざりける[古今六帖](恋しくて恋しくてたまにあなたと逢う夜の夜明けは、別れの時刻を告げる鶏の声がつらいものです)』という気持ちです。」と宮はおっしゃり、そっと式部とともに車にお乗りになって送っていかれます。その道すがら、「こんなふうにお連れする時は必ず。」とお宮がおっしゃるのに、式部は「こんなふうにいつも連れ出されるというのはどうしたものでしょう。」と申し上げます。式部を邸にお送りなさってから、宮はご帰宅なさいました。
しばらくして宮から後朝(きぬぎぬ)のお文があります。「今朝は鶏の声に起こされて、憎らしかったので、殺しました。」とおっしゃり、鶏の羽にお手紙を付けて。
「殺してもなほあかぬかなにはとりのをりふし知らぬけさの一声
〔たとえ殺したってなお飽き足りない気持です、私たちの気持ちを推し量れない今朝のひと鳴きは許せませんでした。〕」
式部から宮へのご返事は、
「いかにとはわれこそ思へ朝な朝な鳴き聞かせつる鳥のつらさは
〔どんなにつれなく辛いことかは私の方が切に感じています、毎朝毎朝宮のおいでがなく虚しく夜が明けるのを鳴き聞かせる鶏の声を聞くつらさは。〕
と思いますにつけても、どうして鶏が憎くないことがありましょう。」というものでした。 

五月五日になりぬ。雨なほやまず。
ひと日の御返りの、つねよりももの思ひたるさまなりしを、あはれとおぼし出でて、いたう降り明かしたるつとめて、「今宵の雨の音は、おどろおどろしかりつるを」など、のたまはせたれば、
「夜もすがらなにごとをかは思ひつる窓打つ雨の音を聞きつつ
かげに居ながら、あやしきまでなむ」と聞えさせたれば、なほ言ふかひなくはあらずかし、とおぼして、御返り、
われもさぞ思ひやりつる雨の音をさせるつまなき宿はいかにと
昼つ方、川の水まさりたりとて、人々見る。宮も御覧じて、「ただ今いかが。水見になむ行き侍る。
大水の岸つきたるにくらぶれど深き心はわれぞまされる
さは知りたまへりや」とあり。御返り、
「今はよもきしもせじかし大水の深き心は川と見せつつ
かひなくなむ」と聞えさせたり。
おはしまさむとおぼしめして、薫物などせさせ給ふほどに、侍従の乳母、まうのぼりて、「出でさせ給ふは、何処ぞ。このこと人々申すなるは、なにのやうごとなき際にもあらず。つかはせ給はむとおぼしめさむ限りは、召してこそつかはせ給はめ。かろがろしき御歩きは、いと見苦しきことなり。そがなかにも、人々あまた来かよふ所なり。便なきことも、出でまうで来なむ。すべてよくもあらぬことは、右近の尉なにがしがしはじむることなり。故宮をも、これこそ率て歩きたてまつりしか。よる夜中と歩かせ給ひては、よきことやはある。かかる御ともに歩かむ人は、大殿にも申さむ。世の中は、今日あすとも知らず変りぬべかめるを、殿のおぼしおきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かかる御歩きなくてこそおはしまさめ」と、聞え給へば、「何処か行かむ、つれづれなれば、はかなきすさびごとするにこそあれ。ことごとしう人は言ふべきにもあらず」とばかりのたまひて、あやしうすげなきものにこそあれ、さるはいとくち惜しうなどはあらぬ物にこそあれ、呼びてやおきたらまし、とおぼせど、さても、まして聞きにくくぞあらむ、とおぼし乱るるほどに、おぼつかなうなりぬ。
からうじておはしまして、「あさましく、心よりほかにおぼつかなくなりぬるを、おろかになおぼしそ。御あやまちとなむ思ふ。かく参り来ること便悪し、と思ふ人々あまたあるやうに聞けば、いとほしくなむ、大方もつつましきうちに、いとどほど経ぬる」と、まめやかに御物語りし給ひて、「いざたまへ、こよひばかり、人も見ぬ所あり、心のどかにものなども聞えむ」とて、車をさし寄せて、ただ乗せに乗せ給へば、われにもあらで乗りぬ。人もこそ聞けと思ふ思ふ行けば、いたう夜更けにければ、知る人もなし。やをら人もなき廊にさし寄せて、下りさせ給ひぬ。月もいとあかければ、「下りね」としひてのたまへば、あさましきやうにて下りぬ。
「さりや、人もなき所ぞかし。今よりは、かやうにてを聞えむ。人などのあるをりにや、と思へば、つつましう」など、物語りあはれにし給ひて、明けぬれば、車寄せて乗せ給ひて、「御送りにも参るべけれど、あかくなりぬべければ、外にありと人の見むもあいなくなむ」とて、とどまらせ給ひぬ。
女、道すがら、あやしの歩きや、人いかに思はむ、と思ふ。あけぼのの御姿の、なべてならず見えつるも、思ひ出でられて、
「宵ごとに帰しはすともいかでなほあかつき起きを君にせさせじ
苦しかりけり」とあれば、
「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らむ宵はまされり
さらにかかることは聞かじ。よさりは方塞がりたり。御迎へに参らむ」とあり。あな見苦し、つねには、と思へども、例の車にておはしたり。さし寄せて、「早や、早や」とあれば、さも見苦しきわざかな、と思ふ思ふゐざり出でて乗りぬれば、昨夜の所にて物語りし給ふ。
上は、院の御方にわたらせ給ふ、とおぼす。
明けぬれば、「鳥の音つらき」とのたまはせて、やをら奉りておはしぬ。道すがら、「かやうならむ折は必ず」とのたまはすれば、「つねはいかでか」ときこ聞ゆ。おはしまして、帰らせ給ひぬ。
しばしありて、御文あり。「けさは、鳥の音におどろかされて、にくかりつれば、殺しつ」とのたまはせて、鳥の羽に、御文をつけて、
殺してもなほあかぬかなにはとりの折ふし知らぬけさの一声
御返し、
「いかにとはわれこそ思へ朝な朝な鳴き聞かせつる鳥のつらさは
と思ひたまふるも、にくからぬにや」とあり。
五、疑惑
二、三日ほどして、月がたいそう明るい夜、式部が縁先近くに座って月をみていますと、宮から「どうですか、月をご覧になっていますか」とお手紙があり、
「わがごとく思ひは出づや山のはの月にかけつつ嘆く心を
〔私がそうしているようにあなたも私のことを思い出しておいででしょうか、私は山の端に沈もうとする月にかこつけて(先日ともに見た月を思い出し「山の端の逃げて入れずもあらなむ(いつまでも一緒にいれたら)」と)嘆いているのですが。〕」
とありました。いつもの歌よりも趣き深い上に、宮のお屋敷で、月が明るかったあの時に一緒にいるのを誰かが見ていただろうか、などとふと思い出していたときでしたので、式部は、
「ひと夜見し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目は空にして
〔あの夜一緒に見た月と同じ月と思いますと思わずしみじみ眺めていますが、心も晴れずお出でもないので目は空に向いていても、あなたを思うと上の空です。〕」
とご返事申し上げ、なおも独りでぼんやりしているうちに、むなしく夜は明けてしまうのでした。
次の夜、宮がいらっしゃいましたが、式部の方では気付きませんでした。式部邸は、他の妹たちもそれぞれの部屋に住んでおりますので、妹の所に通ってきた車を、「車がある、きっと誰か男が来ているのだろう。」と宮は思い込みなさいます。不愉快ではありますが、そうはいっても、これで関係を絶ってしまおうとはお思いになられなかったので、お手紙をお送りになります。
「昨夜は私が参りましたことはお聞きになったでしょうか。それとも、(他の方と一緒で)お気づきになれなかったのでしょうか、と思うと、たいそう悲しくつらいことです」と記されて、
「松山に波高しとは見てしかどけふのながめはただならぬかな
〔「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山なみもこえなむ[古今集](あなた以外に浮気心を私が持ったら、末の松山を波が越えるでしょう、そんなことはどちらもありえません)」という歌がありますが、あなたが私を裏切って、松山に波が高まっていると思いましたが、今日の私の物思いは、ただごとではありません、この長雨についに波は松山を越えてしまうでしょう。〕」
というお歌が記してあります。
ちょうど雨が降っているときです。式部は「妙なことがあったものです。だれか宮にいつわりを申しあげたのでしょうか。」と思い、
「君をこそ末の松とは聞きわたれひとしなみには誰か越ゆべき
〔私に濡れ衣を着せるのは、あなたの方こそあなたの波が松山を越えて誰かいい人が出来て私を捨てようとなさっていらっしゃるのではないですか、いったい誰の波が同じように松山を越えようとするでしょう、私は心変わりなどしません。〕」
と申し上げたのでした。
宮は、この夜のことをなんとなく不愉快にお思いになられて、長い間お手紙もお送りにならずにいました。
しばらく後になって、
「つらしともまた恋しともさまざまに思ふことこそひまなかりけれ
〔私につらい思いをさせるあなたのことを薄情だともまた恋しいとも思い、心の安らぐ時がありません。〕」
とお詠みらられました。
式部は、ご返事としては、「申し開きせねばならない内容がないわけではありませんが、ことさらに言い訳めいてしまいますのも気後れいたしまして、
「あふことはとまれかうまれ嘆かじをうらみ絶えせぬ仲となりなば
〔あなたが私に逢ってくださるかどうか、今後がどうなったとしても嘆きませんが、あなたと恨みの絶えることのない仲となってしまったら嘆かずにはいられません。〕」
とだけ申し上げました。
こうして、この後はやはり宮との仲は遠のいていました。
月の明るい夜、式部は横になって、「かくばかり経がたくみゆる世の中にうらやましくもすめる月かな[拾遺集](このように過ごし難く見えるこの世の中に、うらやましいことに澄ん(住ん)でいる月ですこと。)」などと月を眺めては物思いにふけらずにいられなくて、宮にお手紙をさしあげます。
「月を見て荒れたる宿にながむとは見に来ぬまでも誰に告げよと
〔私が月を見ながら荒れ果てた家で一人淋しく物思いにふけっているとは、宮様がいらっしゃらなくても、宮様以外の誰に告げよというのでしょうか。〕」
樋洗(ひすまし)の女童に命じて、「右近尉に渡しておいで。」といって送ります。
宮は御前に人々を召してお話なさっていらっしゃる時でございした。(それゆえすぐにはお見せできず、)みなが退出してから右近尉がお手紙を宮にさしだしますと、「いつもの目立たない車で出かける準備をせよ。」とおっしゃって、式部のもとにいらっしゃいます。
式部はまだ端近で物思いにふけって月を眺めながら座っている時でしたが、誰かが邸に入ってくるので、簾を下ろしていますと、いつものように宮はいらっしゃる度毎の目新しい感じのするお姿で現れて、御直衣などたいそう着慣れて柔らかになっているのが、趣き深く見えます。何もおっしゃらずに、御扇に手紙を置いて、「あなたからのお使いが、私の返事を受け取らないままで帰りましたので、私が届けに参りました。」とおっしゃって簾の下からお差し出しになりました。式部は、お話し申し上げるにも場所が遠くて具合が悪いので、自分の扇を差し出して受け取りました。
宮も家の内に上ろう、とお思いになりました。そこで、前栽の趣深い中に進みなさって、「わがおもふ人は草葉のつゆなれやかくれば袖のまづしをるらむ[拾遺集](私の愛する人は草葉の露なのでしょうか、草葉に袖を掛けると露で濡れますが、それと同じに思いを懸けると涙で袖が濡れることです)」などとおっしゃいます。その様子は、たいそう優雅で気品があります。式部の近くにお寄りになって、「今宵はこのまま下がります。『たれにつげよ』と詠まれていましたが、あなたが誰に思いを寄せているのかを見定めようと思って参上したのです。明日は物忌みといいましたので、自宅にいないのもまずいと思って今日は下がります。」といってお帰りになろうとしますので、式部は、
「こころみに雨も降らなむ宿すぎて空行く月の影やとまると
〔試しに雨でも降ってほしいものです、それで我が家を通り過ぎて行く空の月の光が留まってくれるか、宮様もお泊りにまってくれないかと。〕」
と申し上げます。
宮は、式部が周りの人がいうよりも子供っぽくて、いじらしいとお思いになります。「いとしい方よ。」とおっしゃられてしばらく部屋にお上がりになって、お帰りになられるとき、
「あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく
〔残念なことに雲にかかる月が動くのに誘われて私の影も帰りますが、私の心はどこにも行きません。〕」
とお詠いになります。お帰りになってから、先程扇にお受けした宮のお手紙を見ますと、
「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
〔私ゆえに物思いにふけって月を眺めているとお告げでしたので、ほんとうかな、と思って見に出てきました。〕」
と記してあります。
式部は、「やはり宮は本当に風流でいらっしゃる。私のことをたいそうとんでもない女だとお聞きでいらっしゃるのを、なんとかして、考え直していただきたいもの」と思います。
一方宮もまた、「式部という方はつまらなくはない、もの寂しいときの慰めにしよう」とはお思いになりますが、お仕えしている人々が申し上げるには、「最近は源少将がおいでになるそうです。昼もいらっしゃるそうです。」とか、また、「治部卿の源俊賢様もいらっしゃるそうですよ。」などと口々に申し上げますので、宮は式部がひどく軽々しい人であるようにもお思いになられて、長い間お手紙もお送りになりません。
宮に仕える小舎人童がやってきました。樋洗の女童は、いつも語り合って親しくしていたので、「宮からのお手紙はあるのですか」というと、「お手紙はありません。先夜いらっしゃったときに、御門に車があったのをご覧になって、それからお手紙もお出しにならないようです。他の男が通っているようにお聞きになっているようすです。」などといって帰っていきます。
樋洗の女童から「小舎人童がこんなふうに言っています」と聞いて、式部は「ずっと長いあいだ何やかやと望みを私から申し上げることもなく、ことさら宮様におすがりすることもなかったけれど、時々こうして私を思い出してくださる間は、二人の関係は絶えないでいようと思っていましたのに、こともあろうに、こんなとんでもない噂のために私をお疑いなってしまわれた」と思うと、身も心もつらくて、「いく世しもあらじわが身をなぞもかくあまの刈藻に思ひみだるる(長くもないわが身がどうしてこう思い乱れるのだろう)。」と嘆いていますと、宮様からのお手紙が届きます。
「近ごろ妙に身体の具合が悪くてごぶさたいたしました。先日もそちらに参上しましたが、折悪く他の方の来ている時で帰るしかなかったのですが、本当に一人前扱いされていない気がしまして、
よしやよし今はうらみじ磯に出でてこぎ離れ行くあまの小舟を
〔ええもういいのです、今となってはもう「浦見」ならぬ「恨み」はしますまい、磯に出て岸からも私からも漕ぎ離れて行く漁師の舟ならぬあなたを。〕」
とありますので、あきれはてた噂をお聞きになっている上に、言い訳みたいなことを申し上げるのもきまりわるいのですが、今回限りはと思って、
「袖のうらにただわがやくとしほたれて舟流したるあまとこそなれ
〔「袖の浦」で藻塩を焼こうと潮を垂らしているうちに舟を流してしまった漁師のように、私の「袖の裏」に、ひたすら私の役(やく)として涙を流しているうちに、宮様に去られてよるべをなくしてしまいました。〕」
と式部は宮にご返事申し上げたのでした。 

二三日ばかりありて、月のいみじうあかき夜、端に居て見るほどに、「いかにぞ、月は見給ふや」とて、
わがごとく思ひは出づや山の端の月にかけつつ嘆く心を
例よりもをかしきうちに、宮にて、月のあかかりしに人や見けむと思ひ出でらるるほどなりければ、御返し、
ひと夜見し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目は空にして
と聞えて、なほひとりながめ居たるほどに、はかなくて明けぬ。
またの夜、おはしましたりけるも、こなたには聞かず。人々方々にすむ所なりければ、そなたに来たりける人の車を、車侍り、人の来たりけるにこそ、とおぼしめす。むつかしけれど、さすがに絶えはてむとはおぼさざりければ、御文つかはす。「昨夜は参り来たりとは聞き給ひけむや。それもえ知り給はざりしにや、と思ふにこそ、いといみじけれ」とて、
松山に波高しとは見てしかど今日のながめはただならぬかな
とあり。雨降るほどなり。あやしかりけることかな、人の空ごとを聞えたりけるにや、と思ひて、
君をこそ末の松とは聞きわたれひとしなみには誰か越ゆべき
と聞えつ。
宮は、ひと夜のことを、なま心憂くおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ。
つらしともまた恋しともさまざまに思ふことこそひまなかりけれ
御返りは、「聞こゆべきことなきにはあらねど、わざとおぼしめさむも、恥かしうて、
あふことはとまれかうまれ嘆かじをうらみ絶えせぬ仲となりなば」
とぞ聞えさする。
かくて、のちもなほ、間遠なり。
月のあかき夜、うちふして、うらやましくも、などながめらるれば、宮に聞ゆ。
月を見て荒れたる宿にながむとは見に来ぬまでも誰に告げよと
樋洗童して、「右近の尉にさしとらせて来」とてやる。お前に、人々して御物語りしておはしますほどなりけり。人まかでなどして、右近の尉さし出でたれば、「例の車に装束せさせよ」とて、おはします。
女は、まだ端に、月ながめて居たるほどに、人の入り来れば、簾うち下ろして居たれば、例のたびごとに目馴れてもあらぬ御すがたにて、御直衣などのいたう萎えたるしも、をかしう見ゆ。ものものたまはで、ただ御扇に文を置きて、「御使ひの取らで参りにければ」とてさし出でさせ給へり。女、もの聞こえむにも、ほど遠くて便なければ、扇をさし出でて、取りつ。宮も、のぼりなむとおぼしたり。前栽のをかしきなかに歩かせ給ひて、「人は草葉の露なれや」などのたまふ。いとなまめかし。近う寄らせ給ひて、「こよひはまかりなむよ。誰にしのびつるぞと見あらはさむとてなむ。あすは物忌みと言ひつれば、なからむもあやしと思ひてなむ」とて、帰らせ給へば、
こころみに雨も降らなむ宿すぎて空行く月の影やとまると
人の言ふほどよりもこめきて、あはれにおぼさる。「あが君や」とて、しばしのぼらせ給ひて、出でさせ給ふとて、
あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やは行く
とて返らせ給ひぬるのち、ありつる御文見れば、
我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
とぞある。なほいとをかしうもおはしけるかな、いかで、いとあやしきものにきこ聞しめしたるを、きこしめしなほされにしがな、と思ふ。
宮も、言ふかひなからず、つれづれの慰めにとはおぼすに、ある人々聞ゆるやう、「このころは、源少将なむいますなる、昼もいますなり」と言へば、「また治部卿もおはすなるは」など口々に聞ゆれば、いとあはあはしうおぼされて、久しう御文もなし。
小舎人童来たり。樋洗童例も語らへば、ものなど言ひて、「御文やある」と言へば、「さもあらず。ひと夜おはしましたりしに、御門に車のありしを御覧じて、御消息もなきにこそはあめれ。人おはしまし通ふやうにこそ聞しめしげなれ」など言ひて去ぬ。
「かくなむ言ふ」と聞きて、いと久しう、なによかよと聞えさすることもなく、わざと頼みきこゆることこそなけれ、時々もかくおぼし出でむほどは絶えであらむとこそ思ひつれ、ことしもこそあれ、かくけしからぬことにつけてかくおぼされぬる、と思ふに、身も心憂くて、「なぞもかく」と嘆くほどに、御文あり。
「日ごろは、あやしき乱り心地のなやましさになむ。いつぞやも参り来て侍りしかど、折悪しうてのみ帰れば、いと人気なき心地してなむ、
よしやよし今はうらみじ磯に出でてこぎ離れ行くあまの小舟を」
とあれば、あさましきことどもを聞しめしたるに、聞えさせむも恥かしけれど、このたびばかりとて、
袖のうらにただわがやくとしほたれて舟流したるあまとこそなれ
と聞えさせつ。
 

 

六、七夕
こんな手紙のやりとりをしているうちに、七月になりました。
七日七夕、色事の好きな男たちのもとから、「あなたは織女、私は彦星、今宵逢いましょう。」などという恋文がたくさん届きますが、式部は目にも留めません。「こんな風流な時節には、宮様は時機を見過さずにお手紙くださったものなのに、ほんとうに私のことを忘れてしまわれたのだろうか。」と思っている丁度その時に、宮からお手紙が届きます。見ると、ただ歌だけで
「思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとは
〔あなたは我が身を織女の立場に置いて、逢いたい人に逢えずに天の河原をぼんやり眺めることになるなどと思ったことは今までなかったことでしょう(いつも男の方の陰のあるあなたですから)、いや、年に一度の逢瀬もかなわぬ身とは思いもしなかったことです。〕」
と記してあります。
「そんな皮肉を言ってもやはり、宮様は風流な時節をお見過ごしなさらないようだ。」と思うとうれしくて、
「ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりのわが身と思へば
〔あなたが物思いにふけってながめていらっしゃるという空さえも私は見る気になれません、年に一度の七夕にあなたから忌み嫌われているほどの我が身だと思いますと悲しくて。〕」
と式部はお返ししましたが、宮はそれをご覧になるにつけても、やはり式部を思い切ることはできない、とお思いになられます。
七月の末ごろになって、宮から「たいそう疎遠になって不安になっておりますが、どうして時折お便りをくださらないのですか。私など人並みにも思ってくださらないのでしょう。」とお手紙が届きますので、式部が、
「寢覚めねば聞かぬなるらむをぎ風は吹かざらめやは秋の夜な夜な
〔あなたは安らかにお眠りで夜に目が覚めたりなさらないから耳になさらないでしょう、あなたを招く(をぐ)荻(をぎ)を吹く風が吹かないときがありましょうか、秋の夜毎に荻の風は吹き、私は寝ずにあなたのお出でをお待ちしています。〕」
と申し上げますと、すぐに宮から、
「いとしい方よ、私が安らかに寝ているとおっしゃるのですか。『人しれず物おもふときは難波なる葦の白根のしられやはする[古今六帖](誰にも知られないように物思いをしているときは、難波にある葦の白根ではないが、ひとり眠られぬ苦しさを誰が知っているでしょう。)』と歌にあります、私の思いはあなたにさえ知られないくらい深いのです。通り一遍の重いではありません、
をぎ風は吹かばいも寢で今よりぞおどろかすかと聞くべかりける
〔私を招く荻を揺らす風が吹くものなら(もしお招きなら)、眠りもしないで、「今起こすか(吹くか・招くか)」と思って聞きいりましよう。〕」
とご返事があります。
こうして二日ほどして、夕暮れに急に宮がお車を引き入れて式部の邸にお降りになりますので、夕暮れのまだ陽の出ている時で、明るいところではまだ顔をお見せ申し上げていないので恥ずかしく思いますが、どうしようもなくてお会いしました。宮は、とりとめのないことなどをお話なされてお帰りになりました。
その後、数日が経ちますのに、たいそう不安になるくらいに、お手紙も下さいませんので、式部は、
「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
〔おぼつかない気持ちのまま暮れて行く秋の数日を数えるうちに、よくわかりました、『いつとてもこひしからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり[古今集](いつもいつも恋しくないことはないのですが、秋の夕暮れは特に不思議なほど恋しく思われます)』という歌の気持が。それにしても先日はやはり不思議な訪れでした、他の人を訪れる途中のお立ち寄りだったのでしょうか。〕
『帰りにし雁ぞ鳴くなるむべ人はうき世の中をそむきかぬらむ[拾遺集](戻ってきた雁の鳴く声を聞くと、しみじみ人が恋われてなるほど人はつらいこの世に背を向けて出家しかねるのでしょう)』の歌ではないですが、宮様からのお便りがないからといって諦めきれず出家もしかねています。」と申し上げました。
宮から、「こんなふうに時が経って行くうちに間遠になってしまいました。けれども、
人はいさわれは忘れずほどふれど秋の夕暮れありしあふこと
〔『人はいさ心もしらず古里は花ぞ昔の香ににほひける[古今集](あなたはさあどうでしょう、人の心はわかりませんが、むかしなじみのこの地は、梅の花が昔のままの香りで私を歓び迎えてくれています)』ではありませんが、あなたはさあどうでしょうか、私はあなたのことを忘れません、どんなに時間が経っても、あの秋の夕暮れにお会いしたことを。〕」
とお手紙があります。
まことにとりとめもなく、頼みにもならないこのような歌のやり取りで、二人の仲を慰めておりますのも、思いみればあきれるほどに嘆かわしいことと式部は思います。 

かく言ふほどに、七月になりぬ。
七日、すきごとどもする人のもとより、たなばた、ひこぼしといふことどもあまたあれど、目も立たず。かかる折に、宮のすごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし忘れにけるかな、と思ふほどにぞ、御文ある。見れば、ただかくぞ。
思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとは
とあり。さは言へど、過ごし給はざめるは、と思ふもをかしうて、
ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりのわが身と思へば
とあるを、御覧じても、なほえ思ひはなつまじうおぼす。
つごもり方に、「いとおぼつかなくなりにけるを、などか時々は。人数におぼさぬなめり」とあれば、女、
寝覚めねば聞かぬなるらむ荻風は吹かざらめやは秋の夜な夜な
と聞えたれば、たち返り、「あが君や、寝覚めとか。『もの思ふ時は』とぞ、おろかに、
荻風は吹かばいも寝で今よりぞおどろかすかと聞くべかりける」
かくて二日ばかりありて、夕暮れに、にはかに御車をひき入れて下りさせ給へば、また、見えたてまつらねば、いと恥かしう思へどせむかたなく、なにとなきことなどのたまはせて、帰らせ給ひぬ。
そののち、日ごろになりぬるに、いとおぼつかなきまで、音もし給はねば、
「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
むべ人は」と聞えたり。「このほどに、おぼつかなくなりにけり。されど、
人はいさわれは忘れずほどふれど秋の夕暮れありしあふこと
とあり。
あはれにはかなく、頼むべくもなきかやうのはかなしごとに、世の中をなぐさめてあるも、うち思へばあさましう。
七、石山寺参詣
こうしているうちに中秋の八月にもなってしまいましたので、式部は、もの寂しさを慰めようと、石山寺に参詣して七日ほども籠ろうと詣でました。
宮は、「長い間会わないでいることだ。」とお思いになられて、お手紙を送ろうとしますが、小舎人童が、「先日、私は式部様のお邸に伺いましたが、今の時期は石山寺にいらっしゃるそうです。」と、人を通じて宮にご報告申し上げましたので、宮は「それでは、今日はもう日が暮れて遅い。明朝石山寺に出向け。」とおっしゃってお手紙をお書きになり童にお与えになりました。
翌朝、童が石山寺に行ってみると、式部は住み慣れた都が恋しく、こうした参籠につけても、昔とはうってかわった我が身のありさまよと思いますとたいそう物悲しくて、仏のお前にはおらず、端近で熱心に仏を祈り申し上げているときでした。
高欄の下のあたりに人の気配がするので、不審に思って見下ろしてみると、この童です。うれしくも思いがけない所になじみの童が来ましたので、「どうしたのか。」と侍女に問わせますと、宮のお手紙をさしだしますので、いつも以上に急いで開けて見ます。
「たいそう信心深く山にお入りになったことです。どうして、こうなさるとさえおっしゃってくださらなかったのでしょうか。私を仏道の妨げとまではお思いではないでしょうが、私を置き去りになさるのがつらく思われます。」とのお手紙で、
「関越えてけふぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひを
〔逢坂の関を越えて今日私が手紙を送るとあなたはわかっていましたか、決して私のあなたを思う想いはこんなことでは絶えることはないのだという心くばりをおわかりでしょうか。〕
いつ山をお出になるのでしょうか。」と記されています。
近くにいらしてさえ間遠にして不安にさせなさいましたのに、こうして遠くまでわざわざ見舞ってくださるのが面白く、式部は、
「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
〔石山寺は近江路(あふみぢ)にありますが、あなたは私と「逢ふ道(逢う方法)」を忘れてしまわれたようと思って見ておりましたのに、逢坂の関を越えて私に逢おうと見舞ってくれる人はいったいどなたでしょうか(あの冷たい宮様だとはとても思われません)。〕
いつ下山するかとお尋ねになっていますが、私がいいかげんな信仰心で山に入ったとお思いなのでしょうか。
山ながらうきはたつとも都へはいつかうち出の浜は見るべき
〔石山ではありますが浮くものは浮くようにどんなに憂いつらいことが絶たれたとしても、また山にいて辛いことが続いても、いつの日か都めざして琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょうか。〕」
と申し上げました。
お受け取りになった宮は、「つらくてももう一度石山へ行け。」と童に命じられて、
「先ほど『逢おうと見舞ってくれる人は誰でしょうか』とかおっしゃいましたが、あまりにあきれたおっしゃりようです。
たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
〔あなたに逢おうと逢坂山を越えて訪ねて行く甲斐もなく、私が誰だかわからないほどに忘れることがあってよいものでしょうか。〕
本当なのでしょうか、
うきによりひたやごもりと思ふともあふみの海はうち出てを見よ
〔つらさからひたすら参籠しようとお思いでも、どうぞ私に逢うために山を打ち出て淡海の海(琵琶湖)の打出の浜を見てください。〕
古歌に、『世の中の憂きたびごとに身をなげば深き谷こそ浅くなりなめ[古今集](俗世でつらいことがあるたびに身投げをしたら、屍で深い谷も浅くなるだろう)』というではありませんか、簡単に「憂きたびごとに山籠る」などと言わないでください。」とお手紙をお送りなさいました。
式部はただこんな歌を、
「関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめ
〔逢坂山の関ではありませんが、宮様との逢瀬を思って堰き止めることのできない私の涙は、逢う身もつらい(憂み)と淡海の海(琵琶湖)の水となってきっと流れ(泣かれ)出ているでしょう。〕」
と書いてその端に、
「こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
〔ためしに自分の決意の程を試してみようと石山寺に籠っています、そちらに真のお心があるのでしたらさあ都に帰ろうとどうぞ私に会いに来て誘ってみてください(あなたの熱意次第ではないでしょか)。〕」と記します。
宮は、あの方が思いもかけない時に迎えに行きたいものだとはお思いになられますが、どうしてそんなことができましょう。
こんなやりとりの後、式部は石山寺を出て都に帰ったのでした。
宮から「あなたから、『戻ってくるかどうか誘ってみて』といわれましが、あなたが慌しく石山寺から出てしまわれたから迎えに行けませんでした、
あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ
〔予想外でしたよ、仏の道の山籠もりを途中で止めにして都へ戻っておいでとはいったい誰が誘ったでしょうか(私がお迎えに行く前に)。〕」とお手紙があります。
これのご返事には式部はただ歌だけを返します。
「山を出でて冥きみちにぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
〔石山寺を出て、法(のり)の導きのない無明の闇に包まれる昏冥(くら)い俗世にたどたどしくもどりました、もう一度宮様との逢瀬を持ちたいばかりに。〕」
八月末ごろに、風が激しく吹いて、野分めいて雨など降る時に、式部が、いつもよりもなんとなく心細く思われて物思いにふけっておりますと、宮からのお手紙が届きます。いつものように、時節を心得たかのようなお便りをくださいましたので、ふだんの薄情の罪をもきっとお許し申し上げたに違いありません。
「嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
〔お逢いできないのを嘆きながら秋の空を眺めますと、雲が乱れ動き風が激しく吹いています(私の気持ちか、あなたの不安なお気持ちの現われでしょうか)。〕」
この宮のお歌への、式部のご返事、
「秋風は氣色吹くだに悲しきにかきくもる日は言ふ方ぞなき
〔秋風は、ほんのわずか吹くだけでさえ悲しい気持ちになりますのに、こんなに空がかき曇る日は、なんともいいようもなくわびしいものです(逢いに来て下さいませんの)。〕」
宮は、なるほどそんな気持ちなのであろうとお思いになりますが、いつものように、訪れることのないまま一月ほどが過ぎていきました。 

かかるほどに八月にもなりぬれば、つれづれもなぐさめむとて、石山にまうでて、七日ばかりもあらむとてまうでぬ。
宮、久しうもなりぬるかな、とおぼして、御文つかはすに、童「ひと日まかりてさぶらひしかば、石山になむ、このごろおはしますなる」と申さすれば、「さは、今日は暮れぬ。つとめて、まかれ」とて、御文書かせ給ひて、たまはせて、石山に行きたれば、仏の御前にはあらで、古里のみ恋しくて、かかる歩きもひきかへたる身のありさまと思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高欄の下の方に、人のけはひのすれば、あやしくて、見下ろしたれば、この童なり。 
あはれに、思ひかけぬ所に来たれば、「なにぞ」と問はすれば、御文さし出でたるも、つねよりもふとひき開けて見れば、「いと心深う入り給ひにけるをなむ。など、かくなむとものたまはせざりけむ。ほだしまでこそおぼさざらめ、おくらかし給ふ、心憂く」とて、
「関越えて今日ぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひを
いつか、出でさせ給ふ」とあり。
近うてだに、いとおぼつかなくなし給ふに、かくわざとたづね給へる、をかしうて、
「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
いつか、とのたまはせたるは、おぼろけに思ひたまへ入りにしかも
山ながら憂きはたつとも都へはいつか打出の浜は見るべき」
と聞えたれば、「苦しくとも行け」とて、「問ふ人とか。あさましの御もの言ひや。
たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
まことや、
憂きによりひたやごもりと思ふともあふみの海は打ち出てを見よ
『憂きたびごとに』とこそ言ふなれ」とのたまはせたれば、ただかく、
関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめ
とて、端に、
こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
思ひもかけぬに、行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。
かかるほどに、出でにけり。「さそひみよ、とありしを、いそぎ出で給ひにければなむ。
あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ」
御返し、ただかくなむ。
山を出でて冥き道にぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
つごもり方に、風いたく吹きて、野分立ちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の、折知りがほにのたまはせたるに、日ごろの罪も許しきこえぬべし。
嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
御返し、
秋風は気色吹くだに悲しきにかき曇る日は言ふ方ぞなき
げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほど経ぬ。
八、暁起きの文
九月二十日すぎの有明の月が西の空にある頃のことです。
宮は目をお覚ましになって、「たいそう長いこと訪れないままになってしまったことだ。きっと今頃はこの月は見ていることであろう、他の男も一緒なのだろうか。」とお思いになられ、いつもの小舎人童だけをお供としておでかけになり、門を叩かせなさいます。式部が、目を覚ましていてなにやかや思いつづけて横になっている時でした。
式部は、何もかも、最近は、秋という季節柄だろうか、なんとなく心細く、いつもよりもしみじみとものがなしく思われ、物思いにふけっていたのでした。
「変だわ、こんな時間に誰だろう」と思って、前に寝ている侍女を起こして下男に誰だか問わせようとしますが、侍女はすぐには起きません。やっとのことで起こしても、あちらこちらぶつかってうろたえているうちに、門を叩く音は止んでしまいました。「帰ってしまったのでしょうか。物思いもなく惰眠をむさぼっているのだろうと思われでもしたら、なんとも心ないのんきな様子だととられることになってしまうが、きっと私と同じ気持ちで悩んでまだ寝ていなかった人なのだ。誰なのだろう。」と式部は思います。
侍女に起こされてやっとのことで起きた下男が、「だれもいませんでした。みなさま空耳をお聞きになられて、夜の頃合いに惑わかされる、なんとも人騒がせなお邸の女房様方だ。」といって下男はまた寝てしまいました。
式部は、寝ないで、そのまま夜を明かしました。ひどく霧の懸かった空を物思いにふけってながめながら、明るくなったので、今朝の夜明け前に起きた事情をそのへんの紙に気楽に書き付けていますと、いつものように宮からのお手紙が届きます。ただ歌だけが記されています。
「秋の夜のありあけの月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな
〔秋の夜の有明の月が西に沈むまでお邸の前にとどまっている訳にもいかずとうとう帰って来てしまいました。〕」
式部は「なんとまあ、まことに私のことを期待はずれな女だとお思いになっていらっしゃることだろう。」と思うとともに、「やはり風流な時節をお見逃しなさらないこと。まことにしみじみと趣き深い空の様子をご覧になっていらしたのだ。」と思うにつけて、うれしくて、さっきの手遊びのように書いていたものを、そのまま手紙として結んで宮にお返し申し上げます。
式部から届いた文を宮は御覧になります。
「風の音が、木の葉一枚散り残ることがないほどに吹いているのは、いつもよりもものさみしく感じられます。ぶきみなくらい空が曇っているものの、ただ気持ちばかりの雨がさっと降るのは、なんとももの寂しく思われて、
秋のうちはくちはてぬべしことわりの時雨に誰か袖はからまし
〔今、秋も終わろうとしていますが、秋のうちに私の袖は涙で腐ってしまうでしょう、そうしたら、この後に来る初冬の時雨にはいったい誰の袖を借りればよいのでしょうか。〕
なげかわしいと思いますが、そんな私を知る人もおりません。草の色までも以前見たのと違って色づいてゆきますから、時雨が降る十月にはまだ早いと思われますのに、吹く風に、草がつらそうになびいているのを見るにつけ、ただいますぐにも消えてしまいそうな露のようなはかない我が身が危うく思われ、草葉にかこつけて悲しい気持ちのままに、奥にも入らずにそのまま端近で横になってみましたが、少しも寝られそうにありません。侍女たちはみんな気楽に寝ていますが、心乱れて思い定めることもできそうもありませんので、なすこともなく目だけ覚ましていて、ひたすらこの身を恨めしく思いながら横になっておりますと、雁がかすかに鳴いています。今頃宮様は私と同じようには思い悩んでいらっしゃらないだろう、たいそう堪えられないという気がしまして、
まどろまであはれいく夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして
〔まどろみもしないまま、ああ、幾夜になってしまっただろう、毎夜ただ雁の鳴き声を聞くことばかりを繰り返して。〕
とこんな状態で夜を明かすよりはと思って、妻戸を押し開けましたところ、大空に、西へ傾いている月の光が遠く澄み切って見える上に、霧が懸った空の雰囲気、鐘の暁を告げる声、鶏の鳴き声がひとつに融け響き合って、更に、過ぎていった日々や現在これからのことごとが思い合わされ、これほどまでに心深く感じられる時はありますまいと、袖を濡らす涙の滴までが、しみじみといつになく新鮮なのでした。
われならぬ人もさぞ見むなが月の有明の月にしかじあはれは
〔私ではない他の人もきっとそう思って見ていることでしょう、しみじみした情趣は夜の長い長月(九月)の有明の月に及ぶものはなかろうと。〕
たったいまうちの門を従者に叩かせる人がいるとしたら、私はどう感じるでしょう。いやほんとに、いったい誰が私以外にこうして寝られずに月を見て夜を明かしている人がいるでしょう。
よそにてもおなし心に有明の月を見るやとたれに問はまし
〔どこかよそででも私と同じ気持ちで有明の月を見ていますかと尋ねてみたくとも、いったい誰に問うたらいいのでしょう。〕」
宮のもとに差し上げ申そうかと思っていたところに、宮からお手紙が届いたので、そのまま宮に差し上げました式部の文でしたから、宮は、それを御覧になり、期待はずれとはお思いになりませんが、お訪ねにはならず、式部が物思いにふけっているうちに急いで手紙をとお思いになられて、お届けになります。
式部がものおもいにふけって外を見てすわっているところに、宮からの返事をもってきましたので、余りに早いお返事に、はりあいのない気もしますが、急いで開けてみますと、
「秋のうちはくちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな
〔秋のうちに涙で私の袖も朽ちてしまったのに、私だけでなくあなたも、朽ちたのは自分の袖だけだとお思いでしたね。〕
消えぬべき露の命と思はずは久しき菊にかかりやはせぬ
〔消えてしまいそうな露のようなはかない命だと思わないで、寿命の長い菊になぜあやからないのですか。〕
まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける
〔少しも眠りもせずに雲の上の雁の声を聞いているのは、あなたの心から出たことでしょう、他の人を思ったり私の愛情を疑ってのことでしょうか。〕
我ならぬ人も有明の空をのみおなし心にながめけるかな
〔本当に私だけでなくあなたも、有明の空をひたすら私と同じ気持ちで物思いにふけって眺めていたのですね。〕
よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きしけさぞくやしき
〔離れてはいてもあなただけはこの月を見ているだろうと思って足を運んだのですが、あなたが起きていらっしゃると気付かずに帰って来てしまった今朝のことがまことに残念です。〕
そのまま夜を明かすことも門を開けることもまことに難しいことでできませんでした。」とあります。
やはり手習いの文をお送り申し上げた甲斐はあったのでした。
こんなことがあって、九月末ごろに宮からお手紙が届きます。
ここ数日の、ごぶさたの気がかりさなどをおっしゃって、「妙な頼みですが、常日頃、手紙のやり取りをしていた人が遠くに行くそうなので、先方が感心しそうな別れの歌をひとつ贈ろうと思いますが、あなたからくださる歌だけがいつもすばらしいので、ひとつ私の代わりに一首作ってくれませんか。」とあります。
「まあ、何とも得意顔。」と式部は思いますが、「そんな代作の歌はお作り出来ませんでしょう。」と申し上げるのも、たいそう気が利きませんから、「おっしゃるとおりにどうして上手にお詠み申し上げられましょう。」とだけ申し上げて、
「惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも
〔あなたとの別れを惜しんで流さずにはいられない私の涙の中に、あなたの面影が留まって欲しいと思う、私の気持ちも知らないで、秋が去ってゆく時に、あなたが行ってしまうとしても。〕
ご使用いただけるようには詠えません、我ながらきまりわるいことでございます。」と記し、紙の隅に次のように書き添えます。
「それにしても、
君をおきていづち行くらむわれだにも憂き世の中にしひてこそふれ
〔宮を置き去りにしてその方はどちらに行くのでしょう、その方ほどに宮に愛されていない私でさえ、このつらい宮との仲をこらえてこの世を過ごしておりますのに。〕」
こう式部が記してきたので、宮は、
「望みどおりの歌でしたと申し上げるのも、いかにも歌を理解していると恰好をつけるようで気が咎めます。しかし、添えてあるお歌は余りに邪推が過ぎます。『つらい男女の仲』とありますがそんな関係ではないのですから。
うちすててたび行く人はさもあらばあれまたなきものと君し思はば
〔私を捨てて旅に出る人はそれはそれでどうでもよいのです、ふたつとない存在だと他ならぬあなたが私のことを思ってくださるのなら、〕
それならこの辛い世を生きていけるでしょう。」とご返事なさったのでした。 

九月廿日あまりばかりの有明の月に、御目さまして、いみじう久しうもなりにけるかな、あはれ、この月は見るらむかし、人やあるらむ、とおぼせど、例の童ばかりを御供にておはしまして、門をたたかせ給ふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのころは、折からにや、もの心細く、つねよりもあはれにおぼえて、ながめてぞありける。あやし、誰ならむ、と思ひて、前なる人を起こして問はせむとすれど、とみにも起きず。からうじて起こしても、ここかしこのものにあたり騒ぐほどに、たたきやみぬ。帰りぬるにやあらむ、いぎたなしとおぼされぬるにこそ、もの思はぬさまなれ、おなし心にまだねざりける人かな、誰ならむ、と思ふ。からうじて起きて、「人もなかりけり。空耳をこそ聞きおはさうじて、夜のほどろにまどはかさるる、さわがしの殿のおもとたちや」とて、またねぬ。
女は寝で、やがて明かしつ。いみじう霧りたる空をながめつつ、明かくなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ、例の御文ある。ただ、かくぞ。
秋の夜の有明の月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな
いでや、げに、いかに口惜しきものにおぼしつらむと、思ふよりも、なほ折ふしは過ぐし給はずかし、げにあはれなりつる空の気色を見給ひける、と思ふに、をかしうて、この手習ひのやうに書きゐたるを、やがてひき結びてたてまつる。
御覧ずれば、
「風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、
秋のうちはくちはてぬべしことわりの時雨に誰か袖はからまし
嘆かしと思へど、知る人もなし。草の色さへ見しにもあらずなり行けば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆる風に、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべき露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らで、やがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず。人はみなうちとけ寝たるにそのことと思ひ分くべきにあらねば、つくづくと目をのみさまして、名残りなううらめしう思ひ臥たるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる。人はかくしもや思はざるらむ、いみじうたへがたき心地して、
まどろまであはれ幾夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして
とのみして明かさむよりはとて妻戸をおしあけたれば、大空に、西へかたぶきたる月の影、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空の気色、鐘の声、鳥の音一つに響きあひて、さらに、過ぎにし方今行く末のことども、かかる折はあらじと、袖のしづくさへあはれにめづらかなり。
われならぬ人もさぞ見む長月の有明の月にしかじあはれは
ただ今この門をうちたたかする人あらむ、いかにおぼえなむ、いでや、誰かかくて明かす人あらむ。
よそにてもおなし心に有明の月を見るやとたれに問はまし」
宮わたりにや聞えましと思ふに、おはしましたりけるよと思ふままに、たてまつりたれば、うち見給ひて、かひなくはおぼされねど、ながめゐたらむに、ふとやらむとおぼして、つかはす。女、ながめ出だしてゐたるに、もて来たれば、あへなき心地して引き開けたれば、
「秋のうちは朽ちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな
消えぬべき露の命と思はずは久しき菊にかかりやはせぬ
まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける
我ならぬ人も有明の空をのみおなし心にながめけるかな
よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きしけさぞくやしき
いと開けがたかりつるをこそ」とあるに、なほもの聞えさせたるかひはありかし。
かくて、つごもり方にぞ御文ある。日ごろのおぼつかなさなど言ひて、「あやしきことなれど、日ごろもの言ひつる人なむ遠く行くなるを、あはれと言ひつべからむことなむ一つ言はむと思ふに、それよりのたまふことのみなむ、さはおぼゆるを、一つのたまへ」とあり。あなしたりがほと思へど、「さはえ聞こゆまじ」と聞えむも、いとさかしければ、「のたまはせたることは、いかでか」とばかりにて、
「惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも
まめやかには、かたはらいたきことにも侍るかな」とて、端に「さても、
君をおきていづち行くらむわれだにも憂き世の中にしひてこそふれ」
とあれば、「思ふやうなり、と聞えむも、見知りがほなり。あまりぞおしはかり過ぐい給ふ、憂き世の中と侍るは。
うちすてて旅行く人はさもあらばあれまたなきものと君し思はば
ありぬべくなむ」とのたまへり。
九、手枕の袖
こんなやりとりをしているうちに十月にもなった。
十月十日ごろに宮は式部の邸にいらっしゃった。建物の奥は暗くて不気味なので、端近くで横になられて、寝物語にしみじみと愛の限りをお話になるので、心にしみることも多く式部にとってはお話を伺う甲斐がないわけではない。月は、雲に隠れ隠れして、時雨が降る折である。わざわざしみじみした趣きの限りを作りだしたような風情なので、式部の思い乱れる心は、ほんとうに訳もなくぞくぞくするほどであったから、その様子を宮も御覧になり、「人は式部を浮気でけしからぬ女のようにいうが、おかしな話だ、こんなに純で可愛げではないか」などとお思いになる。
宮はいとしくあわれにお思いになって、式部がぐったり寝ているようにして思い乱れて横になっているのを、宮は押し起こしなさって、
時雨にも露にもあてでねたる夜をあやしくぬるる手枕の袖
〔時雨にも夜露にもあてないで共に寝た夜なのに、なんとも不思議と濡れてますよ、あなたの涙で私の手枕の袖は。〕
とおっしゃるが、式部は何事につけてもただただ割り切れないほどの深い縁を感じるばかりで、ご返事申し上げようという気持もしないので、何も申し上げずにいた。こうしてただ月影の中で涙を落としている式部を、宮はなんともいじらしいとご覧になり、「どうして返事もなさらないのですか。私がとりとめないことを申し上げるので、気にいらないようにお思いでしたでしょう。なんともいじらしいこと」とおっしゃるので、式部は「どうしましたことでしょうか、身も心も乱れる気がするばかりでどうにもならないのです。お言葉が耳に入らないのではありません。どうぞ見ていてください、『手枕の袖』とおっしゃったことを私が忘れる時がありましょうか」と、冗談めかして言い紛らわす。
しみじみと趣深かった夜の様子もこんなふうに過ぎたのであったろうか。
翌十月十一日の朝、宮は、式部には自分以外に頼りになる男はいないようだと気の毒にお思いになり、「ただ今どうしておいでですか」とお便りなされたので、式部はご返事に、
けさの間に今は消ぬらむ夢ばかりぬると見えつる手枕の袖
〔今朝のうちに、今ではもう消えてしまっているでしょう、夢のように儚い仮寝に私の涙で少しばかり濡れたあなたの手枕の袖は。〕
と申し上げた。
宮は「『手枕の袖を忘れません』といったとおりで、趣きある歌だ」とお思いになって、ご返事する。
夢ばかり涙にぬると見つらめどふしぞわづらふ手枕の袖
〔夢を見るあいだだけの儚い涙に濡れた程度とあなたはお思いでしょうが、あなたの涙でびっしょり濡れてその上に伏しかねるほどでした、私の手枕の袖は。〕
(「涙」は心の思いを語り伝えるもの、深い想いの形見です。また、寝具として使われた「衣(袖)」には、直接的でエロチックな意義も重なります。「袖を交はす」「袖を継ぐ」「袖を重ねる」は、情交の美的な表現です。ですから「手枕の袖」は熱き恋(情交)の象徴といえます。)
十月十日の夜の空の風情がしみじみと身にしみて思われたので、宮のお気持ちが動いたのだろうか、それ以降、宮は、いじらしいと気がかりに思われて、しばしば式部邸においでになって、式部の様子をご覧になりめんどうを見るということをお続けになるが、式部が噂と違って男馴れている女性ではなく、ただもう頼りになげに見えるにつけても、たいそういじらしいとお思いなさって、しみじみと語り合い情を交わしていらしたが、
「そんなふうにあなたはものさびしく物思いにふけっていらっしゃるようですが、思い定めることはないのですが、今はただもう何も考えず我が邸にいらっしゃってください。周囲の人も私の行いを似合わしくないと非難しているようです。私が時々にしか参上しないからでしょうか、他の男の姿が見えたこともないけれど、周囲の人がたいそう聞き苦しい噂を伝えるうえに、また何度もあなたのお邸に足を運んでもとぼとぼと帰る時の気持ちはもうやるせなかったのですが、それも、自分が一人前の男扱いされていない気がしておりましたので、『どうしようか』と思うこともしばしばありましたが、私の古風な人柄からでしょうか、あなたへお手紙を差し上げることが絶えるのをたいそうつらく思われておりましたが、そうかといって、このようにお邸に参上し続けることはできそうもないのでして、本当に、周囲の人が私の行状を耳にして制止することなどがありますから、『わするなよ程はくもゐになりぬともそらゆく月のめぐりあふまで[拾遺集](私のことを忘れないでください、離れた距離は地上と雲との遠さに離れても、空行く月がいつか雲にめぐりあうように、その時まで。)』という歌のように、次に逢うのがいつになるかわからなくなってしまうでしょう。もしおっしゃるとおりにものさびしいのでしたら、我が邸にいらっしゃってはどうですか。妻などもおりますが、不都合なことは起きますまい。もともと私は、こんなふうに出歩くわけにはいかない身分だったせいでしょうか、誰もいないところに膝をつきあわせて座るような女の人もいないし、仏事のお勤めするときでさえ、たったひとりでいるのですから、あなたと同じ気持ちでお話して情を交わし申し上げることが出来たら、私の心が慰められることがあるのではないか、と思うのです」などと宮がおっしゃるにつけて、
本当にいまさらそんな慣れない暮らしがどうして出来ましょうなどと式部は思い、更に、「宮のお兄様師貞親王に宮仕えするお話もそのままですし、そうかといって『み吉野の山のあなたに宿もがな世のうきときのかくれがにせむ[古今集](吉野山の彼方に住処があったらいいのに、そうしたら俗世がつらいときの隠れ家にしょう。)』の歌にある山の彼方に道案内してくれる人もいないし、このままこの邸で過ごすについては、『人しれぬねやはたえするほととぎすただ明けぬ夜の心ちのみして[清正集](ほととぎすの人知れぬ場所で鳴く声(独り寝)が絶えることがあろうか、明けない夜の中をさまようなような悲しみのうちに)』の歌のように、明けることのない闇に迷っている気がするので、つまらない戯れをいって言い寄ってくる男も多くいたから私をけしからぬ女のように世間で評判しているようだが、そうかといって、宮以外に格別に頼りになる男もいない。さあどうしたものだろうか、宮のおっしゃるとおりにお邸に行ってみようか。北の方はいらっしゃるけれど、ただもう邸内で別々に住んでおいでで、万事身の回りの世話は御乳母がしているそうだし、私があらわに人目につくように出て言い広めでもするなら別だろうが、適当な目立たない場所にいるなら、どうして差し障りがあろうか。少なくとも、私に他の男がいるという濡れ衣はいくらなんでも立ち消えになるだろう」と思って、
式部は宮に、「何事もただもう『あはれと思へ山桜花より外に知る人もなし〔前大僧正行尊〕(山桜よ、あわれと思ってくれ。お前の外に私を理解する人はいないのだから)』の歌ではありませんが「私を知る人はいない」とばかりと思いながら過ごしております間の慰めとしては、このような折に、たまにでも宮様のおいでを待ち申し上げて、ご返事申し上げることよりほかにございませんので、ただもうどうでも宮様のおっしゃるとおりに、とは思いますが、別れ別れでいても世間はきっと私とのお付き合いを見苦しいことに申しているでしょう。まして私がお邸に上がったら、やはり噂はほんとうだったと世間が見でもしたら、いたたまれなく。」と申し上げると、
「それは私の方こそあれこれ言われましょうが、あなたのことを見苦しいとは誰が思いましょう。うまく目立たない場所を用意して、お知らせ申しましょう」などと頼りになりそうにおっしゃって、まだ夜が明けぬうちにお帰りになる。
式部は格子を上げたままでいたが、「このまま一人宮のおでましを待って端近に伏していてどうなろうか、また、愛人の身で宮のお邸に上がったら物笑いの種になるだろうか」などといろいろ思い乱れながら横になっているところに、宮のお手紙が届く。
露むすぶ道のまにまに朝ぼらけぬれてぞ來つる手枕の袖
〔露が降りた道をたどりながら、あなたの涙で濡れたままの手枕の袖を更に別れの辛い涙と朝の露に濡らし着て、想いを深くして帰ってきました。〕
例の、手枕の袖の誓いはたわいもない話に過ぎないのに、お忘れにならずに手枕の袖にからむ歌を下さるのも心にしみる。式部はすぐにお返しする、
道芝の露におきぬる人によりわが手枕の袖もかわかず
〔道端の芝の露が結ぶ時に起きて行ったあなたのせいで、私の手枕の袖も涙で濡れたままで乾かないままです。〕
その夜の月がたいそう明るく澄み切っているので、式部の方でも宮の方でも月を眺めながら夜を明かして、翌朝、いつものように宮はお手紙をお送りになろうとして、「小舎人童は出仕しているか」とお尋ねになっている間に、式部の方でも、霜があまりに白いのにはっとしてのことだろうか、
手枕の袖にも霜はおきてけりけさうち見れば白妙にして
〔私の手枕の袖にも霜は置いております、今朝起きて見ると真っ白なんですよ。〕
と、宮のもとにお手紙を差し上げた。
宮は、悔しいことに先に手紙を送られてしまったと、お思いになり、
つま恋ふとおき明かしつる霜なれば(けさうち見れば白妙にして)
〔あなたを恋い慕って起き明かした私の思いを置いた早朝の霜なので、真っ白なんですよ。〕
と、返歌を作っていらっしゃる、まさしくその時に小舎人童が参上したので、ご機嫌が悪いまま、どうしたのかとお尋ねになるので、取り次ぎの者は、「早く参上しないから、宮様はひどくお責めなのだろう」と思うように童にお手紙を与えたので、童は式部のもとに持っていって、「まだ式部様のもとから宮様にお便り申し上げなさらないうちに、宮様は私をお呼びでいらしたのに、私が今まで参上しなかったといって叱ります」といって、お手紙を取り出した。
「昨夜の月はたいそう美しいものでしたね」と宮は記し、
ねぬる夜の月は見るやとけさはしもおき居て待てど問ふ人もなし
〔あなたは寝てしまって月は見ていませんでしたか、共寝した夜の月を見ていましたか、今朝は霜が置く時間まで起きてあなたの手紙が届くかと思って待っていたけれど、私のもとには持ってくる人もいません(ですから、こちらから手紙を送りました。〕
とあるので、「本当に、宮様が先に歌をお読みだったようだ」と見るにつけても興をそそる。
まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしも明かし顔なる
〔うとうともせず一晩中私が眺めた月をあなたも見ていると、霜が置くなか宮様が起きたままで夜を明かした証をたてようとしていますが、ほんとうでしょうか〕
と式部は申し上げて、このお使いの童が、「宮にひどく叱られました」というのがおかしくて、手紙の端に、
「霜の上に朝日さすめり今ははやうちとけにたる気色見せなむ
〔霜の上に、朝日が射しているようです、だから霜も融けているでしょうから、いまとなってはもう、この童を許している様子を見せてあげてほしいものです〕
童がたいそう困り果てているそうですよ」と書いた。
宮からは、
「今朝あなたが先を越して得意顔でおっしゃるのもたいそうくやしいことです。その原因を作ったこの童を殺してしまおうかとまで思います。
朝日影さして消ゆべき霜なれどうちとけがたき空の気色ぞ
〔朝日の光が射すと消える定めの霜ではあるが、霜は融けても、まだまだ気を許せない空の様子ではないが、なかなか許してやれない私の気分です。〕」
とお便りがあるので、式部は「お殺しになるおつもりとは、なんと」と思って、
君は来ずたまたま見ゆる童をばいけとも今は言はじと思ふか
〔あなたはいらっしゃらず、代りにたまに姿を見せて私の心を慰めてくれる童を、私のもとへ行け(生きろ)とももはやおっしゃらないつもりなのでしょうか〕
と式部が申し上げると、宮はお笑いになられて、
「ことわりや今は殺さじこの童しのびのつまの言ふことにより
〔なるほどおっしゃるとおりです、今となってはもうこの童を殺すまい、人に知られぬ妻であるあなたのお言葉にしたがって。〕
この童のお話しばかりで、『手枕の袖』の思いをお忘れになってしまわれたようですね」とお返事なさる。そこで式部が、
人知れず心にかけてしのぶるを忘るとや思ふ手枕の袖
〔誰にも知られないようにして心に賭けてひたすら恋い慕っていますのに、私が忘れるとあなたはお思いですか、あの「手枕の袖」の夜を。〕
と申し上げたところ、宮のお返しは、
もの言はでやみなましかばかけてだに思ひ出でましや手枕の袖
〔私のほうからお話ししないままでしたら、あなたは決して思い出しもなさらなかったでしょう、私がたいそう心震わせた「手枕の袖」の夜を。〕

かく言ふほどに、十月にもなりぬ。
十月十日ほどにおはしたり。奥は暗くて恐ろしければ、端近くうち臥させ給ひて、あはれなることの限りのたまはするに、かひなくはあらず。月は、曇り曇り、しぐるるほどなり。わざとあはれなることの限りをつくり出でたるやうなるに、思ひ乱るる心地は、いとそぞろ寒きに、宮も御覧じて、人の便なげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここにかくてあるよ、などおぼす。あはれにおぼされて、女寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、おしおどろかさせ給ひて、
時雨にも露にもあてで寝たる夜をあやしくぬるる手枕の袖
とのたまへど、よろづにもののみわりなくおぼえて、御いらへすべき心地もせねば、ものも聞えで。ただ月影に涙の落つるを、あはれと御覧じて、「などいらへもし給はぬ。はかなきこと聞ゆるも、心づきなげにこそおぼしたれ。いとほしく」と、のたまはすれば、「いかに侍るにか、心地のかき乱る心地のみして、耳にはとまらぬにしも侍らず。よし見給へ、手枕の袖忘れ侍る折や侍る」と、たはぶれごとに言ひなして、あはれなりつる夜の気色も、かくのみ言ふほどにや。
頼もしき人もなきなめりかしと心苦しくおぼして、「今の間いかが」とのたまはせたれば、御返し、
けさの間に今は消ぬらむ夢ばかりぬると見えつる手枕の袖
と聞えたり。「忘れじ」と言ひつるを、をかしとおぼして、
夢ばかり涙にぬると見つらめど臥しぞわづらふ手枕の袖
ひと夜の空の気色の、あはれに見えしかば、心がらにや、それよりのち心苦しとおぼされて、しばしばおはしまして、ありさまなど御覧じもて行くに、世に馴れたる人にはあらず、ただいとものはかなげに見ゆるも、いと心苦しくおぼされて、あはれに語らはせ給ふに、「いとかくつれづれにながめ給ふらむを、思ひおきたることなけれど、ただおはせかし。世の中の人も便なげに言ふなり。時々参ればにや、見ゆることもなけれど、それも、人のいと聞きにくく言ふに、またたびたび帰るほどの心地のわりなかりしも、人げなくおぼえなどせしかば、いかにせまし、と思ふ折々もあれど、古めかしき心なればにや、聞えたえむことの、いとあはれにおぼえて、さりとて、かくのみはえ参り来まじきを、まことに聞くことのありて、制することなどあらば、『空行く月』にもあらむ。もしのたまふさまなるつれづれならば、かしこへはおはしましなむや。人などもあれど、便なかるべきにはあらず。もとよりかかる歩きにつきなき身なればにや、人もなき所に、つい居などもせず、行ひなどするにだに、ただひとりあれば、おなし心に物語り聞えてあらば、なぐさむことやあると思ふなり」などのたまふにも、げに、今さらさやうにならひなきありさまはいかがせむなど思ひて、一の宮のことも聞えきりてあるを、さりとて『山のあなた』にしるべする人もなきを、かくて過ぐすも明けぬ夜の心地のみすれば、はかなきたはぶれごとも、言ふ人あまたありしかば、あやしきさまにぞ言ふべかめる、さりとてことざまの頼もしき方もなし、なにかは、さてもこころみむかし、北の方はおはすれど、ただ御方々にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母のみこそすなれ、顕證にて出でひろめかばこそはあらめ、さるべき隠れなどにあらむには、なでうことかあらむ、この濡れ衣はさりとも着やみなむ、と思ひて、「なにごともただ、われよりほかのとのみ思ひたまへつつ過ぐし侍るほどのまぎらはしには、かやうなる折たまさかにも待ちつけきこえさするよりほかのことなければ、ただいかにものたまはするままにと思ひたまふるを、よそにても見苦しきことに聞えさすらむ。ましてまことなりけりと見侍らむなむかたはらいたく」と聞ゆれば、「それは、ここにこそともかくも言はれめ。見苦しうは誰かは見む。いとよく隠れたるところつくり出でて聞えむ」など頼もしうのたまはせて、夜深く出でさせ給ひぬ。
格子をあげながらありつれば、ただひとり端に臥しても、いかにせましと、人笑へにやあらむと、さまざまに思ひ乱れて臥したるほどに、御文あり。
露むすぶ道のまにまに朝ぼらけぬれてぞ来つる手枕の袖
この袖のことは、はかなきことなれど、おぼし忘れでのたまふも、をかし。
道芝の露におきぬる人によりわが手枕の袖もかわかず
その夜の月の、いみじう明かくすみて、ここにも、かしこにも、ながめ明かして、つとめて、例の御文つかはさむとて、「童、参りたりや」と問はせ給ふほどに、女も、霜のいと白きに、おどろかされてや、
手枕の袖にも霜はおきてけりけさうち見れば白妙にして
と聞えたり。ねたう先ぜられぬるとおぼして、
つま恋ふとおき明かしつる霜なれば
とのたまはせたる、今ぞ人参りたれば、御気色あしうて問はせたれば、「とく参らでいみじうさいなむめり」とて取らせたれば、もて行きて、「まだこれより聞えさせ給はざりけるさきに召しけるを、今まで参らずとてさいなむ」とて、御文取り出でたり。「よべの月は、いみじかりしものかな」とて、
寝ぬる夜の月は見るやとけさはしもおき居て待てど問ふ人もなし
げに、かれよりまづのたまひけるなめりと見るも、をかし。
まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしも明かし顔なる
と聞えて、この童の「いみじうさいなみつる」と言ふがをかしうて、端に、
「霜の上に朝日さすめり今ははやうちとけにたる気色見せなむ
いみじうわび侍るなり」とあり。「けさしたり顔におぼしたりつるも、いとねたし。この童殺してばやとまでなむ、
朝日影さして消ゆべき霜なれどうちとけがたき空の気色ぞ
とあれば、「殺させ給ふべかなるこそ」とて、
君は来ずたまたま見ゆる童をばいけとも今は言はじと思ふか
と聞えさせたれば、笑はせ給ひて、
「ことわりや今は殺さじこの童しのびのつまの言ふことにより
手枕の袖は、忘れ給ひにけるなめりかし」とあれば、
人知れず心にかけてしのぶるを忘るとや思ふ手枕の袖
と聞えたれば、
もの言はでやみなましかばかけてだに思ひ出でましや手枕の袖
十、檀(まゆみ)の紅葉
こうしてこの後、ニ三日、宮からはなんのご連絡ございません。「宮邸へいらっしゃいと頼もしげにおっしゃったことも、こんなふうではどうなってしまったのだろうか。」とあれこれ思いつづけているので、式部は寝ることもでず、目を覚ましたまま横になっていますと、夜も随分と更けたようだと思っている頃に、誰かが門を叩きます。「誰からか、心当たりもないのに。」と思いますが、何者かと問わせると、なんと宮からのお手紙でございました。思いもしない時刻にお手紙をくださったので、『夜な夜なは眼のみさめつつ思ひやる心やゆきておどろかすらむ[後拾遺集](毎晩毎晩目は覚めてばかりであなたのことを思っている私の心が飛んで行って、あなたのことを目覚めさせているのでしょうか)』と歌にあるように心通じて私が宮様を目覚めさせて歌を下さったのだろうか、と、妻戸を押し開けて月の光のもとに読んでみますと、
「見るや君さ夜うち更けて山のはにくまなくすめる秋の夜の月
〔見ていらっしゃるでしょうか、あなたは、夜が更けたこの時間に、山の端に曇りなく澄んでいる秋の夜の月を。〕」とあります。
思わず月を眺め、またこの歌を繰り返し口ずさみますと、いつもよりもしみじみと宮のことが思われます。
門も開けずに宮のお手紙を受け取ったので、お使いが待ち遠しく思っているだろう、と思って、式部はすぐに返事を記します。
「更けぬらむと思ふものからねられねどなかなかなれば月はしも見ず
〔今ごろはもう夜も更けてしまったのだろうと思うものの私は眠れません。しかしだからといって、月を見るとかえってあなたを思い出してつらいので、月だけは見ないことにしています。〕」
こう式部がすぐに返してきましたので、同じように月を眺めていると返してくる予想が外れた気がして、「やはり放っておくことのできないひとだ。なんとかして私の近くに置いて、こんな風流なやりとりを聞きたいものだ。」と宮はご決心なさいます。
二日ほどして、宮は女性の乗る車飾りにして、そっと忍んでいらっしゃいました。
日の出ている明るい中などでは、まだ顔をご覧になることはなかったので、式部はきまりわるく思いますが、みっともないといって恥ずかしがって隠れなければならない間柄でもありません。また、おっしゃるようにお邸へお迎え入れくださる話が本当なのならば、恥じらい申し上げているわけにもいかないのではないかと思いまして、式部はにじり出でて出迎えました。宮は、ここ数日のごぶさたに気がかりだったことなどを親しげにお話になって、しばし横たわりお抱きなさってから、
「先日申し上げたとおり、早くご決心なさい。こうした外出が、いつまでも物慣れなく思われるのですが、そうかといって、こちらに参上しないでいると不安で、定まらない私たちの仲は、苦しいばかりです。」とおっしゃいます。
式部は「どうであれおっしゃるとおりにしようとは思いますが、『みても又またもみまくのほしければ馴るるを人はいとふべらなり[古今集](付き合い始めは、逢っても再び逢いたくなるものだから、親しくなりすぎるのをひとはいやがるのにちがいありません)』という歌にあるとおり、お邸に上がったら、飽きられてしまうのではないかと思って思いわずらっているのです」と申し上げます。
すると、宮は、「よろしい、見ていてください。『伊勢のあまのしほやきごろもなれてこそ人の恋しきこともしらるれ[古今六帖](伊勢の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、馴れ親しんでこそ、相手が恋しいという気持ちは自然と理解されるものです)』また、『志賀のあまのしほやき衣なるるとも恋とふものは忘れかねつも[万葉集](琵琶湖の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、いくら馴れ親しんでも、恋心というのは忘れ難いものです)』とあるように逢い慣れてこそ恋は優るでしょう。」とおっしゃられ、部屋をお出になりました。
式部の部屋の前近くの透垣のあたりに、美しい檀(まゆみ)の紅葉が、少しだけ紅くなっているのを、宮はお手折りになられ、高欄に寄りかかりなさって、
「ことの葉ふかくなりにけるかな
〔いろいろ言葉を交わしているうちに、この葉の紅みが深くなったように私たちの言葉も色濃くなりましたね。〕」
と、下の句を口になさいます。式部は連歌として上の句を、
「白露のはかなくおくと見しほどに
〔白露がちょっと降りたように見えただけ、そのようにかりそめのお言葉をいただいただけだと思っていますうちに、〕」
と、申し上げます。その式部の様子を、なんとも情篤く風流で趣き深い、と宮はお思いになられます。
また、その宮のご様子もたいそうすばらしいのです。御直衣をおめしになって、なんともいえないほど美しい袿(うちき)を下から覗かせなさっているご様子は、この上なく好ましく理想の男性に見えます。その姿をうっとり眺める式部は自分の目までも色好みになっているのではないか、という気さえするのです。
翌日、「昨日昼間訪れたときのあなたが見苦しく気恥ずかしいとお思いのご様子は、つらくはありましたが、いじらしくしみじみ心惹かれました。」と宮からお手紙がありますので、式部が、
「葛城の神もさこそは思ふらめ久米路にわたすはしたなきまで
〔「かづらきの久米路にわたす岩橋のなかなかにてもかへりぬるかな[後撰集](役の行者に命じられた葛城神は自分の醜さを恥じて夜しか仕事せず久米路に渡す橋が中ほどまでしかかけられませんでしたが、その橋のようにあなたのもとに行く途中で帰ってしまいましたよ)」の歌にあるように葛城の神は、昼間に姿を見せるのは「はしたなし(中途半端できまりわるい)」ときっと思ったのでしょう、私もそう思うのです、〕
どうしようもなくきまりわるく感じました」と申し上げますと、折り返し宮から、
「行ひのしるしもあらば葛城のはしたなしとてさてややみなむ
〔私に役の行者のような神通力がありましたならば、葛城の神がきまりわるいと思ったようにあなたが昼間は恥ずかしいと言うのをそのままにしましょうか、あなたに、きまりわるいと思わせないようにします。〕」
などとお返事があり、以前よりは時々おいでになったりしますので、式部はこのうえもなくものさみしさが慰められる気持がします。
こうしているうちに、また、よくない色好みな男たちが手紙を送ってよこし、また本人たちもやって来て門前をうろついたりするにつけても、悪い噂が立ったりしますので、宮の元に参上しようかしらと思いますが、あいかわらず気後れしていて、式部はきっぱりとも決心がつきません。
霜がたいそう白い早朝、式部が、
「わが上は千鳥もつげじ大鳥の羽にも霜はさやはおきける
〔私の境遇は「鳳の羽に、やれな、霜ふれり、やれな、誰がさいふ、千鳥ぞさいふ、かやくきぞさいふ、みそさぎぞ京より来てさいふ[風俗歌・大鳥の歌]」の千鳥も大鳥ならぬあなたに告げてくれないでしょうが、大鳥の羽根のようなあなたの袖にも霜は置き、私が起き明かしたようにあなたも起きておられましたか。〕」
と申し上げますと、宮が、
「月も見でねにきと言ひし人の上におきしもせじを大鳥のごと
〔月も見ずに寝てしまったといったあなたの袖の上に霜は置きもしていないでしょう、大鳥ならぬ私のようにはあなたは起きてなかったでしょう。〕」
とおっしゃられて、間もおかずその夕暮れにおいでになられました。
またの日、「最近の山の紅葉はどんなに趣き深かいでしょう。さあいらっしゃい、見に行きましょう。」とおっしゃるので、「たいそう楽しい話のようです。」と式部はご返事申し上げましたが、当日になって、「今日は物忌みですので。」と申し上げまして、式部が邸に留まっていますので、宮は「なんとも残念だ。この時節を過ごしたら花はきっと散ってしまうでしょう。」とおっしゃいます。
しかしその夜の時雨はいつもよりも強く、木々の木の葉が残りそうもなく激しく聞こえますので、目を覚まして、「日をへつつ我なにごとをおもはまし風の前なるこのはなりせば[和泉式部続集](私が風の前にある木の葉だったら、日々を過ごすにあたって私は何を悩む必要があったでしょうか(木の葉は悩みなく散ってゆくきますが、それがうらやましいことです。)」などと口ずさんで、「紅葉はきっとみな散ってしまっているでしょう。昨日見ないで残念なこと。」と思いながら夜を明かします。
早朝、宮から、
「神無月世にふりにたる時雨とやけふのながめはわかずふるらむ
〔神無月にはあたりまえすぎる時雨、夜に降っていた時雨というのか、今日の長雨は特別なこともないように降っていますが、これは私の涙です。今日の眺めをあたりまえのものとして特別な思いを持たずにあなたは過ぎる時を過ごしているのでしょう。〕
残念なことに紅葉は散ってしまったでしょう。」とお手紙がありました。
「時雨かもなににぬれたる袂ぞとさだめかねてぞわれもながむる
〔 時雨なのでしょうか、何で濡れた私の袂でしょうか、あなたを思って流した涙かもしれないと決めかねて、私も一晩中物思いにふけって時雨を見ながら明かしました。〕」
と式部がお返しし、さらに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
もみぢ葉は夜半の時雨にあらじかしきのふ山べを見たらましかば
〔紅葉した葉は、夜中の時雨できっと散ってしまったでしょう、昨日あなたと山辺を見ていればよかったのですが。〕」
と送りましたのを、宮は御覧になり、
「そよやそよなどて山べを見ざりけむけさはくゆれどなにのかひなし
〔まったくそのとおりです。どうして昨日山辺を見に行かなかったのでしょう、今朝となっては、悔いてもなんの意味もないでしょう。〕」
とおっしゃいまして、その手紙の端に、
「あらじとは思ふものからもみぢ葉の散りや残れるいざ行きて見む
〔紅葉はもうないだろうとは思いますが、もしかしたら紅葉した葉が散り残っているかもしれません、一緒に行って見てみましょう。〕」
と書き記されておりますので、式部もお返事を記します。
「うつろはぬ常磐の山も紅葉せばいざかし行きてとうとうも見む
〔紅葉するはずのない常緑の山でももし紅葉することがありましたら、さあ一緒に行ってたずねたずねてみたいもの、けれどそんなことはないでしょうから。〕
今行っても愚かなことでございましょう。」
先日宮がいらしたときに、「差し障りがあってお相手申し上げられません」と申し上げたことを宮はお思い出されて、
式部が、
「高瀬舟はやこぎ出でよさはることさしかへりにし蘆間分けたり
〔「みなといりの葦わけ小舟さはり多みわが思ふ人にあはぬ顔かな[拾遺集](水の流れが狭くなっているところに葦を分け入って入る小舟にさまたげが多いので、私の愛しているあなたに逢えないことです。)」の歌の障りもなくなりました、高瀬舟を早く漕ぎ出していらしてください、舟のさまたげだった葦の間を掻き分けてあなたのお越しをお待ちしておりますから。〕」
と申し上げましたことに対して、宮は「お忘れになったのですか、
山べにも車に乗りて行くべきに高瀬の舟はいかがよすべき
〔山辺にも車に乗って紅葉を見に行くはずなので、高瀬舟ではあなたのもとに寄せることはできません。〕」
と詠んでこられましたので、
「もみぢ葉の見にくるまでも散らざらば高瀬の舟のなにかこがれむ
〔山の紅葉が車で見に来る時までも散らないで待っているのならば、どうして紅葉に惹かれたりしましょう。紅葉狩りに高瀬舟を漕いでどうしましょう。私もまたあなたの来ないうちに散ってしまいましょうか。散るから恋焦がれるのです、どうぞ恋焦がれている私の所においで下さい。〕」
と式部はご返歌いたします。 

かくて、二三日、音もせさせ給はず。頼もしげにのたまはせしことも、いかになりぬるにかと思ひつづくるに、いも寝られず。目もさまして寝たるに、夜やうやう更けぬらむかしと思ふに、門をうちたたく。あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。思ひかけぬほどなるを、心やゆきてとあはれにおぼえて、妻戸おしあけて見れば、
見るや君さ夜うち更けて山の端にくまなくすめる秋の夜の月
うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使ひ待ち遠にや思ふらむとて、御返し、
更けぬらむと思ふものから寝られねどなかなかなれば月はしも見ず
とあるを、おし違へたる心地して、なほ口惜しくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ、とおぼし立つ。
二日ばかりありて、女車のさまにて、やをらおはしましぬ。昼などはまだ御覧ぜねば、恥かしけれど、さまあしう恥ぢ隠るべきにもあらず、また、のたまふさまにもあらば、恥ぢきこえさせてやはあらむずる、とてゐざり出でぬ。日ごろのおぼつかなさなど語らはせ給ひて、しばしうち臥させ給ひて、「この聞えさせしさまに、はやおぼし立て。かかる歩きのつねにうひうひしうおぼゆるに、さりとて参らぬはおぼつかなければ、はかなき世の中に苦し」とのたまはすれば、「ともかくものたまはせむままにと思ひたまふるに、『見ても嘆く』と言ふころにこそ思ひたまへわづらひぬれ」と聞ゆれば、「よし、見給へ。『塩焼き衣』にてぞあらむ」とのたまはせて、出でさせ給ひぬ。
前近き透垣のもとに、をかしげなる檀の紅葉の、すこしもみぢたるを折らせ給ひて、高欄におしかからせ給ひて、
ことの葉ふかくなりにけるかな
とのたまはすれば、
白露のはかなくおくと見しほどに
と聞えさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。宮の御さま、いとめでたし。御直衣に、えならぬ御衣出だし桂にし給へる、あらまほしう見ゆ。目さへあだあだしきにやとまでおぼゆ。
又の日、「きのふの御気色のあさましうおぼいたりしこそ、心憂きもののあはれなりしか」とのたまはせたれば、
「葛城の神もさこそは思ふらめ久米路にわたすはしたなきまで
わりなくこそ思ひたまうらるれ」と聞えたれば、たちかへり、
行ひのしるしもあらば葛城のはしたなしとてさてややみなむ
など言ひて、ありしよりは時々おはしましなどすれば、こよなくつれづれも慰む心地す。
かくてあるほどに、またよからぬ人々文おこせ、又みづからもたちさまよふにつけても、よしなきことの出で来るに、参りやしなましと思へど、なほつつましうて、すがすがしうも思ひたたず。
霜いと白き、つとめて、
わが上は千鳥もつげじ大鳥の羽にも霜はさやはおきける
と聞えさせたれば、
月も見で寝にきと言ひし人の上におきしもせじを大鳥のごと
とのたまはせて、やがて暮れにおはしましたり。
「このころの山の紅葉は、いかにをかしからむ。いざたまへ、見む」とのたまへば、「いとよく侍るなり」と聞えて、その日になりて、「今日は物忌み」と聞えてとどまりたれば、「あな口惜し。これ過ぐしてはかならず」とあるに、その夜の時雨、つねよりも木々の木の葉残りありげもなく聞ゆるに、目をさまして、「風の前なる」などひとりごちて、みな散りぬらむかし、きのふ見でと口惜しう思ひ明かして、つとめて宮より、
「神無月世にふりにたる時雨とや今日のながめはわかずふるらむ
さては口惜しくこそ」とのたまはせたり。
時雨かもなにに濡れたる袂ぞと定めかねてぞわれもながむる
とて、「まことや、
もみぢ葉は夜半の時雨にあらじかしきのふ山べを見たらましかば」
とあるを、御覧じて、
そよやそよなどて山べを見ざりけむけさは悔ゆれどなにのかひなし
とて、端に、
あらじとは思ふものからもみぢ葉の散りや残れるいざ行きて見む
とのたまはせたれば、
「うつろはぬ常磐の山も紅葉せばいざかし行きて問ふ問ふも見む
不覚なることにぞ侍らむかし」
ひと日、おはしましたりしに、「さはることありて聞えさせぬぞ」と申ししをおぼし出でて、
高瀬舟はやこぎ出でよさはることさしかへりにし蘆間分けたり
と聞えたるを、「おぼし忘れたるにや、
山べにも車に乗りて行くべきに高瀬の舟はいかがよすべき」
とあれば、
もみぢ葉の見に来るまでも散らざらば高瀬の舟のなにかこがれむ
とて。
 

 

十一、車宿り
その日も夕暮れになりましたので、宮はおいでになり、式部側が方塞(ふた)がりなので、目立たないように式部邸から連れ出しなさいます。
この頃は、四十五日の忌を避けようとなさって、宮は、従兄に当たられる道兼息兼隆(従三位右中将)邸にいらっしゃいます。それでなくてさえ物慣れない場所に行くことになりますので、「見苦しいことです。」と式部は申し上げますが、宮はむりやり連れていらして、式部を車に乗せたまま、誰の目にも付かない車宿りに車を引き入れて、式部を置いたまま宮だけがお邸にお入りになりましたので、車の中に取り残された式部は、恐い、と思います。宮は人が寝静まってからいらっしゃいまして、車にお乗りになって、いろいろと将来にわたることをおっしゃられて契られました。事情を知らぬ宿直の男たちがあたりを歩き回ります。いつもの右近の尉や小舎人童は近くにお仕えしています。
宮が、式部のことをしみじみといとしいものとお思いになるにつけても、いいかげんに過ごしてきた今までの態度を後悔なさるにしても、まことに身勝手なお振る舞いではあります。
夜が明けると、宮はすぐに式部邸にお送りなさり、誰も起きないうちにと急いで従兄の邸にお帰りになられて、早朝のうちに、
「ねぬる夜の寢覚めの夢にならひてぞふしみの里をけさはおきける
〔独りで寝る夜が続いて夢で寝覚める生活に慣れてしまって、あなたと伏して夢を見るはずなのに(伏見の里で)、共寝した夜なのに今朝は早々と起きてしまったことです。〕」
と後朝の歌を下さいますので、式部はお返しに、
「その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅ねをぞする
〔あなたと共寝したその夜から、私の境遇はどうなるものとも分からないので、意外なことにとんでもない車で明かすというような旅寝をしてしまいました。〕」
と申し上げます。
「こんなにも激しく身にあまる宮のお気持ちを、気付きもしないでつれない態度で振舞っていてよいものだろうか。他の事などはたいしたことではあるまい。」などと式部は思いますので、「宮のお邸に上ろう。」と決心します。宮の元に住み込むなどするものではないとまじめな忠告をする方々もいますが、耳にも入りません。「どうせつらい身なので、運命にまかせて生きてみよう。」と思うにつけても、「宮の元に住み込むという形での宮仕えは、私の望みというわけでもない。『いかならむいはほのなかに住まばかは世のうきことのきこえ来ざらむ[古今集](いったいどこの洞窟で暮らしたら、俗世のいやな噂が聞こえてこないだろうか。)』の歌のように、いっそのこと出家して嫌な噂の聞こえてこない場所で暮らしたいが、またそこでいやなことがあったらどうしましょう、ほんとうに本心からの出家ではないように人々は思ったり言ったりするだろうから、やはりこのまま出家せずに過ごしてしまおうか、親・兄弟の近くでお世話を申し上げたり、また昔のまま変わらないように見える娘(小式部内侍)の将来をも見定めたい。」と式部は思い立ちましたので、「せめて宮のお邸に上がり申し上げるまでは、困った不都合な噂をなんとかして宮のお耳にはいれさせまい。お近くでお仕えしていたら、変な噂が立ったとしても、きっと真実のほどはおわかり下さるでしょう。」と思い、言い寄ってきていた男たちの手紙に対しても、「いません。」と侍女たちにいわせて、まったく返事もしないのでした。
宮からお手紙があります。見ますと、「いくらなんでも他に男の方はいまいとあなたをあてにしていましたが愚かなことです。」などとだけ書いて、ほとんどなにもお書きにならず、「人はいさ我はなき名のをしければ昔も今もしらずとをいはむ[古今集](あなたはさあ、どうだか分かりませんが、私は浮き名の立つのが惜しいので、昔も今もあなたとは無関係だと言い張りましょう。)」とだけ書いてあるので、式部は胸つぶれるほどに驚き、嘆かわしく思います。今までも目も当てられない嘘の噂が沢山出てきましたが、「いくら噂が立ったとしても、実際にしてないことについてはどうしようもない。」と思いながらやりすごしていましたのに、今回は、本気で疑っていらっしゃるので、「宮のもとに上がろうと決心したことを耳にしたひともいるだろうに、宮に見捨てられるという愚かな目を見ることになりそうだ。」と思いますと悲しくて、ご返事申し上げようという気にもなれません。一方、それにしてもどういう噂を宮はお聞きになったのだろうか、と思うにつけてきまりわるくて、式部がご返事も申し上げないでいますので、宮は、「さっきの手紙にきまりわるがっているようだ。」とお思いになられて、「どうしてご返事も下さらないのですか。このままでは『噂どおりです』と思ってしまいます。こんなにも早く心変わりなさるものなのですね。ひとの噂を耳にしたけれど、『まさかそんなことはあるまい』と思いながら、『人言はあまのかる藻にしげくとも思はましかばよしや世の中[古今六帖](人の噂は海人の刈る藻のようにたくさんあっても、あなたが私を愛してくれればそれだけでいいのです、人の言うことなど問題ではありません。)』と思ってお手紙申し上げたのですが。」とお手紙がありますので、式部は少し気持ちが晴れて、宮のお気持も知りたく、どんな噂かも聞いてみたくて、
「本心で私のことをお思いでしたら、
今の間に君来まさなむ恋しとて名もあるものをわれ行かむやは
〔今この時にあなたにいらしてほしいのです、いくら恋しく、あかしを立てたく参上したいといっても、噂が立つでしょうから、私からお邸に行くわけにはまいりません。〕」
と申し上げますと、宮から、
「君はさは名の立つことを思ひけり人からかかる心とぞ見る
〔あなたはそれでは私とのことで噂になることを心配なさっているのですね、他の男とは平気なのに、私とのかかわりで噂が立つのを嫌がるのがあなたの気持ちと分かりました。〕
名(噂)が立つからとは、腹さえ立ちました。」とあります。
お邸に上がりかねている様子をご覧になられて、宮がきっとおふざけをなさっているのだろうと式部は思い、お手紙を見ますが、やはりつらく思われて、「やはりとても苦しいのです。どんな形でも私の心をご覧に入れたいものです。」と式部は申し上げました。
すると宮からは、
「うたがはじなほうらみじと思ふとも心に心かなはざりけり
〔あなたを疑うまい、やはり恨みごとは申すまい、と思っても、私のその信じる気持に私の疑いの心がついていかないのです。〕」
とあります。
式部がそのご返事に、
「うらむらむ心はたゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
〔私を恨んでいらっしゃるお気持ちを絶やさないでください、私もこのうえなく信頼しているあなたのことを疑っているのですから。それが恋というものでしょう。〕」
と申し上げます。
こんなやり取りをしているうちに、日が暮れましたので宮がおいでになりなした。
宮は「やはりあれこれ讒言するひとがいるので、まさかそんなことはあるまい、と思いながらも、疑いを記してしまったのですが、このような悪い噂を立てられまいとお思いなら、さあ、我が邸においでください。」などとおっしゃられて、夜が明けましたのでお帰りになられました。
こんなふうに絶えずお手紙はお書きになりますが、足をお運びになることはなかなか難しいのです。
雨がひどく降ったり風がはげしく吹いたりする日にも、宮が見舞ってくださらないので、「住む人も訪れる人も少ない淋しい我が家での風の音の侘びしさを思いやってくださらないらしい。」と思って、夕暮れころに式部がお手紙をさしあげます。
「霜がれはわびしかりけり秋風の吹くにはをぎのおとづれもしき
〔霜枯れはなんともさみしいことです(あなたのお気持ちが「離(か)れ」たのはつらいこと)、秋風が吹いているころには荻の葉ずれの音もしたのに(秋ごろは、私が「招(を)ぎ」ましたら宮も「訪れ」てくださいましたのに)。〕」
と申し上げましところ、宮からご返事がありました。そのくださったお手紙を見ますと、
「たいそうぶきみな風の音を、あなたはどう聞いておいでだろうと気の毒に思っております。
かれはててわれよりほかに問ふ人もあらしの風をいかが聞くらむ
〔冬になり枯れ果てて、男たちも離(か)れてしまって、私以外に見舞う人もいないでしょうから、荒々しい嵐の風の音をあなたはどういうお気持ちで聞いていらっしゃるでしょう。〕
あなたの様子を思い心配申すことは実に大層なものです。」とあります。
他に男がいないとまでおっしゃらせてしまったと読むのもなんともおかしいこと、と式部は思うのでした。
方違えの御物忌みのために、人目を忍んだ処にいらっしゃるからと、いつものようにお迎えの車が来ますので、「今となってはもう宮がおっしゃるのならなんでもそれに従って。」と思いますので、宮のお忍びの場所に参上しました。
心穏やかに宮はお話しなさり、式部も起きても寝てもお話し申し上げますし、ものさみしさもまぎれますので、宮のお邸に参上したいと思ったのでした。御物忌みが過ぎましたので、式部は住み慣れた自分の邸に帰ってきますと、この日のことがいつもの別れよりいっそう名残惜しく恋しく思い出され、やむにやまれませんので、歌を差し上げます。
「つれづれとけふ数ふれば年月のきのふぞものは思はざりける
〔今日つらつらと思い出の日々を思い数えてみますと、長い年月の中でお逢いしていた昨日だけはつらい思いをしませんでした。〕」
宮はご覧になってしみじみといとしくお思いになられて、「私も同じです。」とおっしゃり、
「思ふことなくて過ぎにしをととひときのふとけふになるよしもがな
〔何の物思いもつらい思いもなしに過ごした一昨日と昨日の幸せが、今日になる方法はないものでしょうか。〕
そう思うだけではどうにもなりません。ですからやはり我が邸に入ろうとご決心なさい。」とおっしゃいます。
しかし、式部はひどく気後れして、すっきりと決心がつかないまま、ただ物思いにふけって日を過ごします。
いろいろに色づいて見えた木の葉も散り果てて、空は明るく晴れているものの、だんだんと沈み切ってしまう陽射しが心細く思われますので、式部はいつものようにお便り申し上げます。
「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき
〔私を慰めてくださるあなたがいらっしゃるとは思うのですけれども、やはり一人こうして冬の日の暮れていきますのはなんとも悲しいものです。〕」
とありますので、宮は、
「夕暮れは誰もさのみぞ思ほゆるまづ言ふ君ぞ人にまされる
〔夕暮れは誰もがそんなふうにさみしく思われるものです、しかし誰よりも先にそれを口に出すあなたが、誰よりもさみしく感じているのでしょう。〕
と思うにつけてもお気の毒です。すぐにでも伺いたいとは思いますが、‥。」とお返しします。
翌日のまだ早い時間で、霜がたいそう白い時に、宮から「今のお気持ちはいかが。」とお手紙がありますので、式部は
「おきながら明かせる霜の朝こそまされるものは世になかりけれ
〔あなたのお越しを待って起きたままで夜を明かしました。とうとうお見えにならなかった今朝は冷たく霜が降りて、これ以上にひどい悲しみはこの世になかったことです。〕」
などと言い交わし申し上げます。
いつものように宮はしみじみしたお言葉をお書きになります。
「われひとり思ふ思ひはかひもなしおなし心に君もあらなむ
〔そちらへ行くこともならず、私がたったひとりであなたを恋しく思って悩みに悩んでも甲斐がありません、あなたも同じ気持ちで私を恋しく思って悩んでほしいものです。〕」
これへの式部のご返事。
「君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
〔私は宮様のように「あなたはあなた、私は私」と区別してもいませんので、二人の心が別々でありましょうか、いや、決して別々であろうはずはございません。〕」
こうしているうちに式部が風邪だったのでしょうか、おおげさではありませんが苦しんでいましたので、宮が時々見舞ってくださいます。
なんとかよくなってきたころに、「ご気分はいかがですか。」と宮がおたずねくださいましたので、式部が、「少しよろしくなっております。しばらく生きてお側にいたい、と思ってしまいましたことが罪深く思われますが、それにいたしましても、
絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな
〔宮様のお運びが絶えてしまったころは、絶えてしまえと思っていた私の命でしたが、こうしてお会いしますと宮様の愛情によって命を繋ぐ緒が再び惜しく生き長らえたいと思われます。〕」
と申し上げますと、宮は、「たいへんなことでした、ほんとうにほんとうに。」とおっしゃって、
「玉の緒の絶えむものかは契りおきしなかに心はむすびこめてき
〔あなたの命を繋ぐ緒が絶えるはずはありません、あなたとの仲も絶えることはありません。将来を約束した私たちの仲に(中に)変わらぬ心はしっかり結び込めてあるのですから。〕」
とお返しなさいます。
このように言い交わしているうちに、年も残り少なくなりましたので、宮のもとには春の頃に参上しよう、と式部は思います。 

その日も暮れぬれば、おはしまして、こなたのふたがれば、しのびてゐておはします。
このころは、四十五日の忌み違へせさせ給ふとて、御いとこの三位の家におはします。例ならぬ所にさへあれば、「見苦し」と聞ゆれど、しひてゐておはしまして、御車ながら人も見ぬ車宿りに引き立てて、入らせ給ひぬれば、おそろしく思ふ。人靜まりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契る。心えぬ宿直のをのこどもぞめぐり歩く。例の右近の尉、この童とぞ近くさぶらふ。あはれにもののおぼさるるままに、おろかに過ぎにし方さへくやしうおぼさるるも、あながちなり。
明けぬれば、やがてゐておはしまして、人の起きぬさきにと、いそぎ帰らせ給ひて、つとめて、
寝ぬる夜の寝覚めの夢にならひてぞふしみの里をけさは起きける
御返し、
その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅寝をぞする
と聞ゆ。
かばかり、ねんごろにかたじけなき御心ざしを見ず知らず、心こはきさまにもてなすべき、ことごとはさしもあらず、など思へば、参りなむ、と思ひ立つ。まめやかなることども言ふ人々もあれど、耳にも立たず。心憂き身なれば、宿世にまかせてあらむと思ふにも、この宮仕へ本意にもあらず、巌の中こそ住ままほしけれ、また憂きこともあらば、いかがせむ、いと心ならぬさまにこそ思ひ言はめ、なほかくてやすぎなまし、近くて親はらからの御ありさまも見きこえ、また昔のやうにも見ゆる人の上をも見さだめむ、と思ひ立ちにたれば、あいなし、参らむほどまでだに、便なきこといかで聞しめされじ、近くては、さりとも御覧じてむ、と思ひて、すきごとせし人々の文をも、「なし」など言はせてさらに返りごともせず。
宮より、御文あり。見れば、「さりともと頼みけるが、をこなる」など、多くのことどものたまはせで、「いさ知らず」とばかりあるに、胸うちつぶれて、あさましうおぼゆ。めづらかなる空言どもいと多く出で来れど、さはれ、なからむことはいかがせむとおぼえてすぐしつるを、これはまめやかにのたまはせたれば、思ひ立つことさへほの聞きつる人もあべかめりつるを、をこなる目をも見るべかめるかなと思ふに悲しく、御返りきこえむものともおぼえず。また、いかなること聞しめしたるにかと思ふに、恥かしうて、御返りもきこえさせねば、ありつることを恥かしと思ひつるなめりとおぼして、「などか御返りも侍らぬ。さればよとこそおぼゆれ。いととくも変る御心かな。人の言ふことありしを、よもとは思ひながら、『思はましかば』とばかり聞えしぞ」とあるに、胸すこしあきて、御気色もゆかしく、聞かまほしくて、「まことに、かくもおぼされば、
今の間に君来まさなむ恋しとて名もあるものをわれ行かむやは」
と聞えたれば、
「君はさは名の立つことを思ひけり人からかかる心とぞ見る
これにぞ、腹さへ立ちぬる」とぞある。
かくわぶる気色を御覧じて、たはぶれをせさせ給ふなめりとは見れど、なほ苦しうて、「なほいと苦しうこそ。いかにもありて御覧ぜさせまほしうこそ」と聞えさせたれば、
うたがはじなほ恨みじと思ふとも心に心かなはざりけり
御返り、
恨むらむ心は絶ゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
と聞えてあるほどに、暮れぬれば、おはしましたり。「なほ人の言ふことのあれば、よもとは思ひながら聞えしに、かかること言はれじとおぼさば、いざたまへかし」などのたまはせて、明けぬれば出でさせ給ひぬ。
かくのみ絶えずのたまはすれど、おはしますことはかたし。雨風などいたう降り吹く日しも、おとづれ給はねば、人少ななる所の風の音を、おぼしやらぬなめりかしと思ひて、暮れつ方、聞ゆ。
霜がれはわびしかりけり秋風の吹くには荻のおとづれもしき
と聞えたれば、かれよりのたまはせける、御文を見れば、「いとおそろしげなる風の音いかがとあはれになむ、
かれはててわれよりほかに問ふ人もあらしの風をいかが聞くらむ
思ひやりきこゆるこそいみじけれ」とぞある。のたまはせけると見るもをかしくて。
所かへたる御物忌みにて、しのびたる所におはしますとて、例の御車あれば、今はただのたまはせむにしたがひてと思へば、参りぬ。
心のどかに御物語り起きふし聞えて、つれづれもまぎるれば、参りなまほしきに、御物忌み過ぎぬれば、例の所に帰りて、今日はつねよりも名残り恋しう思ひ出でられて、わりなくおぼゆれば、聞ゆ。
つれづれと今日数ふれば年月のきのふぞものは思はざりける
御覧じて、あはれとおぼしめして、「ここにも」とて、
「思ふことなくて過ぎにしをととひときのふと今日になるよしもがな
と思へどかひなくなむ。なほおぼしめし立て」とあれど、いとつつましうて、すがすがしうも思ひ立たぬほどは、ただうちながめてのみ明かし暮らす。
色々に見えし木の葉も残りなく、空も明かう晴れたるに、やうやう入りはつる日影の、心細く見ゆれば、例の、聞ゆ。
なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき
とあれば、
「夕暮れは誰もさのみぞ思ほゆるまづ言ふ君ぞ人にまされる
と思ふこそあはれなれ。ただ今、参り来ばや」とあり。
またの日の、まだつとめて、霜のいと白きに、「ただ今のほどはいかが」とあれば、
起きながら明かせる霜のあしたこそまされるものは世になかりけれ
など聞えかはす。例のあはれなることども書かせ給ひて、
われひとり思ふ思ひはかひもなしおなし心に君もあらなむ
御返り、
君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
かくて、女、かぜにや、おどろおどろしうはあらねどなやめば、時々問はせ給ふ。よろしくなりてあるほどに、「いかがある」と問はせ給へれば、「すこしよろしうなりにて侍り。しばし生きて侍らばやと思ひ給ふるこそ、罪深く、さるは、
絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな」
とあれば、「いみじきことかな、かへすがへすも」とて、
玉の緒の絶えむものかは契りおきしなかに心は結びこめてき
かく言ふほどに、年も残りなければ、春つ方、と思ふ。
十二、雪降る日
十一月の初め頃、雪がひどく降る日に、宮から、
「神代よりふりはてにける雪なればけふはことにもめづらしきかな
〔神の世からずっと降りつづけてもう降り尽きたと思われる雪ですから、今日はことさら新鮮に感じられます、あなたのことを思いながら雪を見るのは初めてですし。〕」
とありますで、式部は、
「初雪といづれの冬も見るままにめづらしげなき身のみふりつつ
〔初雪が降るのは目新しいものと毎年見ていますが、目新しくもない我が身だけは、時がふり、古るびつづけると嘆かれます。〕」
などとお返したり、とりとめのないやりとりをしながら、日々を暮らし明かします。
宮からお手紙があります。「ずいぶんごぶさたで気がかりになりましたから、お邸におうかがいしてと思っていましたのに、周りののものらが漢詩(ふみ)を作るようなので行けなくなってしまいました。」とおっしゃいましたので、式部が、
「いとまなみ君来まさずはわれ行かむふみつくるらむ道を知らばや
〔暇がないので宮様がいらっしゃれないというのなら、私の方から行きましょう。そのために、漢詩(ふみ)を作るというあなたのもとへ踏みつけて行く道筋を知りたいものです。〕」
と詠みますと、宮は、おもしろく思われてお詠みになります。
「わが宿にたづねて来ませふみつくる道も数へむあひも見るべく
〔我が家にどうぞ訪ねて来てください、そうしたら漢詩(ふみ)を作る方法もお教えしましょう、なにはさておき相逢うために。〕」
いつもよりも霜のたいそう白く置く朝に、「どう思ってご覧になっていますか。」と宮がおっしゃいますので、式部がお返しした歌。
「さゆる夜の数かく鴫はわれなれやいくあさしもをおきて見つらむ
〔「暁の鴫のはねがきもも羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく[古今集](夜明け前のシギが何百回も羽根を嘴で掻いていますが、あなたがいらっしゃらない夜に私はなんども身悶えしています。)」という歌の冴え冴えとした夜に何度ももがいているシギは私のことをいっているのではないでしょうか、宮様のおいでのない朝を私はこれまで幾朝、霜を置く時間まで起きて見ていたでしょうか。〕」
そのころ、雨がはげしく降りましたので、更にこんな歌も送ります。
「雨も降り雪も降るめるこのころをあさしもとのみおき居ては見る
〔雨も降り雪も降っているような冬のこの何日かを、おいでのない宮様を待って、ご愛情が浅いのだと私は夜を起き明かしては朝の霜を見ています。〕」
その夜、宮がおいでになられて、いつものようにとりとめないお話をなさるにつけても、「私の邸にあなたをお連れ申し上げてからあと、私が寺にでも行ったり、法師にでもなったりして、姿を見せ申し上げなくなったら、裏切られたとお思いになるでしょうか。」と心細くおっしゃいますので、「どのようにお考えになるようになってしまわれたのだろうか。もしかしたらそんなことが起こりそうなのだろうか。」と思いますと、たいそう身にしみて悲しくて、思わず泣いてしまいます。
霙(みぞれ)めいた雨が静かに降る時です。
式部が泣いてしまったので、少しも眠らず、宮は来世に渡ってまでしみじみとお話になり、お契りになります。「情愛深く、どんなことでもこころよくお話しになさって私を疎んじないご様子なので、私の心の中もお目にかけよう。」と思い立ちもするものの、「宮が出家なさったら、私もこのまま出家するばかりのこと。」と思うと物悲しくて、何も申し上げずにしみじみと泣いていましたが、その様子を宮はご覧になられて、
「なほざりのあらましごとに夜もすがら
〔とりとめない将来を口にしたばかりに、一晩中、〕」
と上の句をおっしゃるので、式部が下の句を付けます。
「落つる涙は雨とこそ降れ
〔落ちる涙は雨が降るように流れました。〕」
宮のご様子は、いつもより頼りなげな感じで、そうしたことを口になされて、やがて夜が明けたのでお帰りになられました。
「この先これといった希望があるわけではないが、ものさびしさを慰めるために宮のお邸に上がる決心をしたのに、その上宮が出家なさったらどうすればよいだろうか。」などと式部は思い悩んでお手紙をさし上げます。
「うつつにて思へば言はむ方もなしこよひのことを夢になさばや
〔宮が出家なさるという話を現実だとして考えると、私は生きていきようもありません、だから、今宵のお話を夢にしてしまいたいものです。〕
と私は思いますが、どうしてそんなことをお考えなのでしょう。」と記して、端に、
 「しかばかり契りしものをさだめなきさは世のつねに思ひなせとや
〔あんなにもしっかりとずっといっしょにいようと約束しましたのに、定まりのないこの世のことですから、世にありふれたとるにたりない約束だったと思うようにせよとおっしゃるのでしょうか。〕
残念なことに思われます。」とありますので、宮はご覧になり、「まず私から後朝のお手紙を差し上げようと思っていたのに先にお便りをいただきまして、
うつつとも思はざらなむねぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは
〔出家の話は現実のこととも思わないでいただきたい、それは二人で寝た夜の悪夢に見えたつらいことなのですから、〕
私たちの仲を定め無き無常のものと思い込もうというのですか、なんと気の短いことでしょう。
ほど知らぬ命ばかりぞさだめなき契りてかはすすみよしの松
〔終わりのわからない寿命だけは定めようがありません、しかし、それまでは、『われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ[古今集](私が見ても悠久なことはわかります、住吉の岸の小さな松は人間の何世代分を過ごしてきたのだろうか。)』の枝を交わしている住吉の松のように、永遠の約束を交わして共に暮らしましょう。〕
私の愛しい方よ、将来の出家の話はけっして二度と口にいたしますまい。自分からまねいたことで、なんともやりきれません。」とお便りなさいます。
式部はその後、物悲しく感じるばかりで、つい溜息をつくしかありません。早くお邸に上がる準備をしていたらよかった、と思います。
昼頃、宮からお手紙が届きます。見ると、「古今和歌集」の歌が記してあります、
「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子 
〔ああなんとも恋しいことです、今すぐに逢いたい、山中の垣に咲いている大和撫子のような可愛いあなたに〕『古今和歌集』(恋四の六九五番))」
「あら、なんとも狂おしいほどのお気持ち」と式部は思わず口にして、やはり「伊勢物語」の歌で、
「恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
〔私のことが恋しいのでしたら、どうぞ私のうちにいらして逢ってください、神様がだめと禁止している道ではないのですから。〕『伊勢物語』(第七十一段)」
と式部がご返事申し上げますと、宮はふっと笑ってご覧になられます。
最近、宮はお経を繰り返しお読みになっていらしたので、
「あふみちは神のいさめにさはらねどのりのむしろにをればたたぬぞ
〔近江路を通ってあなたに逢うのは神の禁忌には触れませんが、私は今仏事の席におりますので、出かけるわけにはまいらないのです。〕」
とおっしゃいます。式部がご返事に、
「われさらばすすみて行かむ君はただ法のむしろにひろむばかりぞ
〔それなら私の方からすすんで行こうと思います、あなたはひたすら仏道の教えに連なり教えを広めているばかりですので。〕」
などと申し上げて日を過ごします。
雪が、ひどく降って、木の枝に降り掛かっていますので、その枝に歌をつけて、宮が、
「雪降れば木々の木の葉も春ならでおしなべ梅の花ぞ咲きける
〔雪が降ると、木々の木の葉も春ではないのに、いっせいに梅の花が咲いているようです。〕」
と詠んでこられたので、式部がご返歌します。
「梅ははや咲きにけりとて折れば散る花とぞ雪の降れば見えける
〔梅ははやくも咲いたのだと思って手折ってみると散ってしまいました、雪が降るのはまるで散る梅の花びらのように見えたことです。〕」

十一月ついたちごろ、雪のいたく降る日、
神代よりふりはてにける雪なれど今日はことにもめづらしきかな
御返し、
初雪といづれの冬も見るままにめづらしげなき身のみふりつつ
など、よしなしごとに明かし暮らす。
御文あり。「おぼつかなくなりにければ、参り来てと思ひつるを、人々文つくるめれば」とのたまはせたれば、
いとまなみ君来まさずはわれ行かむふみつくるらむ道を知らばや
をかし、とおぼして、
わが宿にたづねて来ませふみつくる道も数へむあひも見るべく
つねよりも霜のいと白きに、「いかが見る」とのたまはせたれば、
さゆる夜の数かく鴫はわれなれやいく朝霜をおきて見つらむ
そのころ、雨はげしければ、
雨も降り雪も降るめるこのころを朝霜とのみおき居ては見る
その夜、おはしまして、例のものはかなき御物語りせさせ給ひても、「かしこにゐてたてまつりてのち、まろがほかにも行き、法師にもなりなどして、見えたてまつらずは、本意なくやおぼされむ」と、心細くのたまふに、いかにおぼしなりぬるにかあらむ、またさやうのことも出で来ぬべきにや、と思ふに、いとものあはれにて、うち泣かれぬ。
みぞれだちたる雨の、のどやかに降るほどなり。
いささかまどろまで、この世ならずあはれなることを、のたまはせ契る。あはれに、なにごとも聞しめしうとまぬ御有様なれば、心のほども御覧ぜられむとてこそ思ひも立て、かくては本意のままにもなりぬばかりぞかし、と思ふに、悲しくて、ものも聞えで、つくづくと泣く気色を御覧じて、
なほざりのあらましごとに夜もすがら
とのたまはすれば、
落つる涙は雨とこそ降れ
御気色の例よりもうかびたることどもをのたまはせて、明けぬれば、おはしましぬ。
なにの頼もしきことならねど、つれづれのなぐさめに思ひ立ちつるを、さらに、いかにせまし、など思ひ乱れて、聞ゆ。
「うつつにて思へば言はむ方もなしこよひのことを夢になさばや
と思ひ給ふれど、いかがは」とて、端に、
「しかばかり契りしものをさだめなきさは世のつねに思ひなせとや
口惜しうも」とあれば、御覧じて、「まづこれよりとこそ思ひつれ、
うつつとも思はざらなむ寝ぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは
思ひなさむとこころみしかや。
ほど知らぬ命ばかりぞさだめなき契りてかはす住吉の松
あが君や、あらましごとさらにさらに聞えじ。人やりならぬ、ものわびし」とぞある。
女は、そののち、もののみあはれにおぼえ、嘆きのみせらる。とくいそぎ立ちたらましかばと思ふ。昼つ方、御文あり。見れば、
あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子
「あなもの狂ほし」と言はれて、
恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
と聞えたれば、うち笑ませ給ひて、御覧ず。
このころは、御経ならはせ給ひければ、
あふみちは神のいさめにさはらねどのりのむしろにをればたたぬぞ
御返し、
われさらば進みて行かむ君はただ法のむしろにひろむばかりぞ
など聞えさせすぐすに、雪いみじく降りて、ものの枝に降りかかりたるにつけて、
雪降れば木々の木の葉も春ならでおしなべ梅の花ぞ咲きける
とのたまはせたるに、
梅ははや咲きにけりとて折れば散る花とぞ雪の降れば見えける
十三、宮の邸へ
翌朝早く、宮から、
「冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける
〔冬の夜の間、あなたが恋しいせいで目もつむらないで、あなたにお逢いもできず衣の袖を片方しいた独り寝のままで夜が明けてしいました。〕」
とありますので、式部はお返しに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
冬の夜のめさへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな
〔冬の夜の寒さで目さえ凍る涙で閉じられて開けるのがつらく、明かし難い夜を明かしてしまったことです。〕」
などと詠んでいましたが、いつものようにこうしたとりとめもない歌でものさびしさを慰めながら日々を過ごすのは、なんとも甲斐もない虚しいことではなかったでしょうか。
宮はどうお思いになったのでしょうか、心細いことばかりをおっしゃられて、「やはり私はこの世の中(あなたとの情愛)を長く通すことはできないのでしょうか。」と記してありますので、
「くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ
〔呉竹の節(よ)ならぬ世々(よよ)に伝わる古い恋物語が思い起こされます、宮と別れた後で、宮との思い出を私ひとりが昔語りするのでしょうか。〕」
と式部が申し上げますと、
「くれ竹のうきふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも
〔呉竹の節(ふし)のように辛い節々のたくさんあるこの二人の仲ではもういたくないと思います、ほんのしばらくのあいだでも。〕」
などと詠んでこられまして、「誰にも気付かれないよう住まわせるところなどでは、住み慣れないところなので式部はきまりわるがるだろう、こちらでも聞き苦しい話だというに違いない。だが、今はもう私自身が行って連れて来よう。」とお考えになられて、十二月十八日、居待ちの月がたいそう美しい時に、宮は式部のもとにいらっしゃいました。
いつものように宮が「さあいらっしゃい」とおっしゃいますので、式部は、いつものように今夜だけのお出かけと思って、一人で車に乗ると、「誰か侍女を連れていらっしゃい。あなたの身の回りの世話をするひとを連れて行けたら、のんびりとお話申し上げられましょう。」とおっしゃいますので、「ふだんは、数日にわたる時でもこんなふうにおっしゃったこともないのに、もしかしたらそのままお邸にとお思いなのであろうか。」と思って、侍女を一人連れて行きます。
いつものところではなくて、侍女を置いても目立たなく気兼ねないようにしつらえてあります。やはりそうだったと式部は思って、「どうして目立つようにわざわざお邸に上がることがあろう、かえって、いつのまに上がったのだろうと、みんなが思ってくれたほうがよい。」などと思ううちに、夜が明けましたので、櫛の入った化粧箱などを取りに遣わします。
宮が部屋に入っておいでなので、しばらく目立たないようにこちらの格子は上げないでいます。暗いのは恐ろしくはありませんが、うっとうしい気分でいますと、宮が、「今にあちらの北の対屋にお移し申し上げましょう。この場所では外に近いので情趣がありません。」とおっしゃいますので、格子を下ろして、ひっそりと音を聞いてみますと、昼間は、女房たちや父・冷泉院にお仕えする殿上人らが参り集ってきます。「どうしてこのままここに置いておけましょう。また、身近に私の日常を見たらどんなにがっかりなさるだろう、と思うとつらいのです。」とおっしゃいますので、「私も近くで見られたらがっかりされるかもしれないと思っています。」と申し上げますと、宮はお笑いになって、「まじめなはなし、夜などに私があちらにいるときはお気をつけください。とんでもないやからが興味本位にあなたを覗き見たりしたら大変です。もうしばらくしたら、例の宣旨の乳母のいる離れにでもおいでになってごらんなさい。めったなことでは、そこには誰も寄って来ませんから。そこにも逢いにまいります。」などとおっしゃいます。
二日ほどして、宮が北の対屋に式部を連れていらっしゃることになりましたので、お邸の侍女たちはびっくりして、北の方に報告申し上げますと、「こんなことがないときでさえ、宮の振る舞いは見苦しかったけれど、なんら高貴な人でもないのに、こんなことをなさって。」と北の方はおっしゃり、「格別のご寵愛があるからこそひそかに連れていらしたのだろう。」とお思いになるにつけても、得心もできず、いつもよりもご不快でいらっしゃいます。一方、宮も当惑なさって、しばらくは北の方のもとにはいらっしゃいませんで、家の人々の噂も聞き苦しく、また北の方はじめ人々の様子も辛いので、もっぱら式部のもとにいらっしゃいました。
北の方が宮に、「こういうことがあると聞きますが、どうしておっしゃってくださらないのですか。私がお止め申し上げられることでもありません。ほんとにこのように我が身が人並みの扱いでなく笑いの種になって恥ずかしくたまらないのです。」と泣きながらお話し申し上げなさいましたので、「侍女を召し使おうとするのに、あなたにお心当たりがないはずはありません。あなたのご機嫌が悪いのにつれて、侍女の中将などが私をうとましく思っているのが不快なので、髪などを梳かせようと思って呼んだのです。こちらでも呼んでお使いなさい。」などと宮が北の方に申し上げなさいますので、北の方は、ひどく不愉快にお思いになりながらも、それ以上は何もおっしゃいません。
こうして数日立つうちに、式部はお仕えしなれて、昼でも宮のお近くにお控えします。髪を整えて差し上げたりしますから、宮はいろいろにお使いになさいまして、少しも宮の前から遠ざけなさいません。宮が北の方のお部屋に足をお運びなさることもまれになってゆきます。一方、北の方が思い嘆きなさることはこのうえありません。 

またの日、つとめて、
冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける
御返し、「いでや、
冬の夜の目さへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな」
など言ふほどに、例のつれづれなぐさめてすぐすぞ、いとはかなきや。
いかにおぼさるるにかあらむ、心細きことをのたまはせて、「なほ世の中にありはつまじきにや」とあれば、
くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ
と聞えたれば、
呉竹の憂きふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも
などのたまはせて、人知れずすゑさせ給ふべき所など、おきてならはである所なれば、はしたなく思ふめり、ここにも聞きにくくぞ言はむ、ただわれ行きて、ゐて去なむ、とおぼして、十二月十八日、月いとよきほどなるに、おはしましたり。
例の、「いざ、たまへ」とのたまはすれば、今宵ばかりにこそあれと思ひて、ひとり乗れば、「人ゐておはせ。さりぬべくは、心のどかに聞えむ」とのたまへば、例は、かくものたまはぬものを、もし、やがてとおぼすにや、と思ひて、人ひとりゐて行く。
例の所にあらで、しのびて人などもゐよとせられたり。さればよと思ひて、なにかはわざとだちても参らまし、いつ参りしぞとなかなか人も思へかし、など思ひて、明けぬれば、櫛の箱など取りにやる。
宮、入らせ給ふとて、しばしこなたの格子はあげず。おそろしとにはあらねど、むつかしければ、「今、かの北の方にわたしたてまつらむ。ここには近ければ、ゆかしげなし」とのたまはすれば、おろしこめてみそかに聞けば、昼は人々、院の殿上人など参りあつまりて、「いかにぞ、かくてはありぬべしや、近劣りいかにせむ、と思ふこそ苦しけれ」とのたまはすれば、「それをなむ思ひたまふる」と聞えさすれば、笑はせ給ひて、「まめやかには、夜などあなたにあらむ折は、用意し給へ。けしからぬものなどは、のぞきもぞする。今しばしあらば、かの宣旨のある方にもおはしておはせ。おぼろけにてあなたは人もより来ず、そこにも」などのたまはせて、二日ばかりありて、北の対にわたらせ給ふべければ、人々おどろきて、上に聞ゆれば、「かかることなくてだにあやしかりつるを、なにのかたき人にもあらず、かく」とのたまはせて、わざとおぼせばこそしのびてゐておはしたらめとおぼすに、心づきなくて、例よりもものむつかしげにおぼしておはすれば、いとほしくてしばしはうちに入らせ給はで、人の言ふことも聞きにくし、人の気色もいとほしうて、こなたにおはします。
「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。制しきこゆべきにもあらず、いとかう、身の人気なく人笑はれに恥かしかるべきこと」と泣く泣く聞え給へば、「人使はむからに、御おぼえのなかるべきことかは。御気色あしきにしたがひて、中将などがにくげに思ひたるむつかしさに、頭などもけづらせむとて、よびたるなり。こなたなどにも召し使はせ給へかし」など聞え給へば、いと心づきなくおぼせど、ものものたまはず。
かくて日ごろ経れば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらひて、御櫛なども参り、よろづにつかはせ給ふ。さらに御前も避けさせ給はず。上の御方にわたらせ給ふことも、たまさかになりもて行く、おぼし嘆くこと限りなし。
十四、北の方の退去
年が変わって正月元日、冷泉院の拝礼の式に、朝臣がたが数の限りを尽くして参院なさいます。宮も列席されているそのお姿を拝見しますと、たいそう若々しくてお美しく、多くの貴族の方々以上に優れていらっしゃいます。このお姿につけて、自分のみすぼらしい身分がきまりわるいと式部には感じられます。
北の方付きの女房たちが縁に出て座って見物していますが、ご列席の方々を見ずに、まず「噂の式部を見よう」と明かり障子に穴を開けて大騒ぎしていますのは、ひどく見苦しいことではありました。
日が暮れましたので、行事がみな終わりまして、宮は冷泉院の南院にお入りになりました。お見送りにきて公卿方が数の限りを尽くしておすわりになられて、管絃のお遊びがあります。そのたいそう趣き深いのにつけても、式部にはものさみしくわびしかった自邸での暮らしがまず思い出されます。
こうして式部が宮のお邸でお仕え申し上げていますうちに、身分の低い下仕えの召使いたちの中でも、聞き苦しいことをいうのを宮はお聞きになられ、「こんなふうに北の方がお思いになったりおっしゃったりしてよいはずはない。あまりにひどい。」と不愉快に思われましたので、北の方のお部屋にいらっしゃることもまれになっていきます。式部は、自分のせいでこんな状態にあるのをたいそうきまりわるく、いたたまれなく思われますが、どうしょうもないと、ただひたすら宮がとりはからいなさるのにしたがって、宮にお仕えしています。
北の方の姉君は、東宮の女御としてお仕えなさっています。その方が、実家に下がっていらっしゃいます時でしたが、お手紙が北の方に届きます。「何とかしてこちらにいらっしゃい。最近、人の噂になっている話は事実なのですか。あなただけでなく私までも人並み以下に扱われているように思われます。夜の内にこちらにいらっしゃい。」とありますので、北の方は、これほどのことでなくてさえ人は噂するものものを、ましてどんなことが言われていることかとお思いになられると、たいそうつらくて、お返事に、「お手紙いただきました。いつも思い通りにはいかない男女の仲ですが、最近は実際に見苦しいことまでおこっております。ほんのわずかのあいだでも、姉君のもとにおうかがいして、若宮様たちのお顔を拝見申し上げて、心を慰めたいと存じます。迎えをおよこしください。ここにいるよりは、つまらない話を耳にすることはないでしょうと思われまして。」などと申し上げなされて、実家に帰るのに必要な調度類をまとめさせなさいます。
北の方は、見苦しくきたならしい所を掃除させなされて、「しばらく里のもとにいるつもりです。このままここに私がいても、おもしろくなく、宮様にしても私のもとに足をお運びになられないこともご負担でいらっしゃるでしょうから。」とおっしゃいますと、周りの女房たちが口々に、「たいへん驚きあきれたことです。世間の人々が変な噂であざけり申し上げておりますよ、」「あの女がこちらに参りましたことについても、宮様が足をお運びになってお迎えになったそうなのですが、まったく目もあてられないありさまです、」「あのお部屋にあの女はいるのでしょうよ。宮様は、昼間っから三度も四度も足を運んでいらっしゃるそうです、」「ほんとうにちゃんと宮を懲らしめ申し上げなさいませ。宮様があまりに北の方様をないがしろになさっていらっしゃるから、」などと一斉に憎まれぐちを言いますので、それを聞く北の方はお心の中でたいそうつらくお感じになられます。
「もうどうでもよい、近くに見苦しいこと聞き苦しいことさえなければ。」と 北の方は お思いになり、「お迎えに来てください。」と姉君に申し上げなさいます。やがて、北の方のお兄様にあたられる方が、「女御様からのお迎えです。」と宮に申し入れなさいますので、「そういうことか。」と宮はお思いになられます。
北の方の乳母が部屋にある見苦しいものを掃除させているという話を聞いて、女房の宣旨が宮に、「こんなふうにして北の方様はお移りになられるようです。決して、ついちょっとという様子ではありません。東宮様(宮のお兄様)のお耳に入ると具合の悪い話でもあります。いらっしゃって、お止め申し上げてください」と騒がしく申し上げていますのを見るにつけて、式部はお気の毒で辛いのですけれど、自分からあれこれ口出ししてよいものでもないので、そのまま黙って聞いてお仕えしておりました。聞きづらい話の出ている間はしばらく退出していたいとは思いますが、それもやはり情けないようなので、そのままお仕えしておりましたが、それにつけてもやはり物思いの絶えない我が身だと嘆かわしく思うのでした。
宮が北の方のお部屋にお入りになると、北の方は、何気ない様子をしていらっしゃいます。「本当ですか、姉君である女御様のもとへいらっしゃると聞きましたが。どうして車を出すようにと私におっしゃらなかったのでしょうか。」と宮が北の方に申し上げなさいますと、北の方は「別にどうということではありません。先方から車をよこすから、とありましたので。」とだけいって後はなにもお話しなさりません。
宮の北の方のお手紙とか、北の方の姉君の女御様のお手紙の言葉などは、実際はこのままではないでしょう。想像の作り書きのようである、と原本には書いてあります。
   完  

年かへりて、正月一日、院の拝礼に、殿ばら数をつくして参り給へり。宮もおはしますを見まゐらすれば、いと若ううつくしげにて、多くの人にすぐれ給へり。これにつけてもわが身恥かしうおぼゆ。上の御方の女房、出で居て物見るに、まづそれをば見で「この人を見む」と穴を開けさわぐぞ、いとさまあしきや。
暮れぬれば、こと果てて、宮入らせ給ひぬ。御送りに上達部数をつくして居給ひて、御遊びあり。いとをかしきにも、つれづれなりし古里まづ思ひ出でらる。
かくてさぶらふほどに、下衆などのなかにも、むつかしきこと言ふをきこしめして、かく人のおぼしのたまふべきにもあらず、うたてもあるかな、と心づきなければ、うちにも入らせ給ふこといと間遠なり。かかるもいとかたはらいたくおぼゆれば、いかがはせむ、ただともかくもしなさせ給はむままにしたがひて、さぶらふ。
北の方の御姉、春宮の女御にてさぶらひ給ふ。里にものし給ふほどにて、御文あり。「いかにも。このころ人の言ふことはまことか。われさへ人気なくなむおぼゆる。夜のまにもわたらせ給へかし」とあるを、かからぬことだに人は言ふとおぼすに、いと心憂くて御返り、「うけたまはりぬ。いつも思ふさまにもあらぬ世の中の、このころは見苦しきことさへ侍りてなむ。あからさまにも参りて、宮たちをも見たてまつり、心もなぐさめ侍らむと思ひたまふる。迎へにたまはせよ、これよりも、耳にも聞き入れ侍らじと思ひたまへて」など聞えさせ給ひて、さるべきものなどとりしたためさせ給ふ。むつかしき所などかきはらはせなどせさせ給ひて、「しばしかしこにあらむ。かくて居たればあぢきなく、こなたへもさし出で給はぬも苦しうおぼえ給ふらむ」とのたまふに、「いとぞあさましきや。世の中の人のあさみきこゆることよ」「参りけるにも、おはしまいてこそ迎へさせ給ひけれ、すべて目もあやにこそ」「かの御局に侍るぞかし。昼も三たび四たびおはしますなり」「いとよく、しばしこらしきこえさせ給へ、あまりもの聞えさせ給はねば」などにくみあへるに、御心いとつらうおぼえ給ふ。
さもあらばあれ、近うだに見きこえじ、とて、「御迎へに」と聞えさせ給へれば、御兄の君達、「女御殿の御迎へに」と聞え給へば、さおぼしたり。御乳母の曹司なるむつかしきものどもはらはするを聞きて、宣旨「かうかうしてわたらせ給ふなり。春宮の聞しめさむことも侍り。おはしましてとどめきこえさせ給へ」と聞えさわぐを見るにも、いとほしう苦しけれど、とかく言ふべきならねば、ただ聞き居たり。聞きにくきころ、しばしまかり出でなばやと思へど、それもうたてあるべければ、ただにさぶらふも、なほもの思ひ絶ゆまじき身かな、と思ふ。
宮、入らせ給へば、さりげなくておはす。「まことにや、女御殿へわたらせ給ふと聞くは。など車のことものたまはぬ」と聞え給へば、「なにか、あれよりとてありつれば」とて、ものものたまはず。
宮の上御文書き、女御殿の御ことば、さしもあらじ、書きなしなめり、と本に。
その後のこと 
こうして日記は式部が宮の邸に行ったところで終わります。宮の邸での生活がどのようなものであったか。その喜びと華やかさは語られていません。また、それがこの日記を一層引き立てて面白くしています。しかし、実際は彼女のこの幸せも長くは続きはしませんでした。四年ほどで帥宮は二七歳の若さで病没します。残された彼女のはげしい慟哭は百首を超える哀傷歌に充分語られていて、それを読者も知っているということだったのでしょう。この物語は帥宮と式部の恋の賛歌と哀悼の記録なのです。
式部の親王哀悼の歌を拾ってみます。
今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな
(帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程に辛い思い出があればよかったのにと思われます。)
捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば
(捨て切ってしまおうと、そう思うことさえ切ないのです。あの人に馴染んだ我が身だと思いますと。)
かたらひし声ぞ恋しき俤はありしそながら物も言はねば
(語り合った声こそが恋しいことです。面影は生きていた時そのままですが、何も言ってくれませんので。)
はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは
(儚いものだと、まざまざと思い知った夢の如き世ですのに、この世から目を醒まさず眠りをむさぼっている私は人と言えましょうか。)
ひたすらに別れし人のいかなれば胸にとまれる心地のみする
(まったく別世界へ逝ってしまった人が、どうしてか私の胸にいつまでも留まっている心地がしてなりません。)
君をまたかく見てしがなはかなくて去年(こぞ)は消えにし雪も降るめり
(あなたを再びこんなふうに見てみたいのです。はかなくて去年には消えてしまった雪も年が巡ればまた降るようですから。)
なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里
(亡き人が訪れる夜だと聞きますけれど、あなたもいらっしゃいません。私の住まいは「魂無きの里」なのでしょうか。)
親王が二七歳の若さで男の子一人(後、出家して永覚と名乗りました)を残して亡くなったとき、式部は三十歳でした。喪が明けて三一歳のとき道長から声がかかり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の女)のもとに出仕します。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったでしょう。その華やかなサロンは源氏物語そのままで、紫式部や伊勢大輔・赤染衛門も仕えていました。この折のことは、また別の物語でしょう。式部は三三歳のとき、宮仕えが機縁となって道長の家臣(家司)で五十歳を過ぎた穏和な藤原保昌と再婚し、保昌について大和や丹後に赴きました。やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、四八歳の時には愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。没年は不明(五七〜五九歳)ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。なお、式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要があります。
和泉式部関連年表
年号(西暦) 数え齢  出来事
貞元元 (976) 居貞親王(三条天皇)生まれる(冷泉院:超子
貞元2 (977) 為尊親王(弾正宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元元 (978) 1歳和泉式部・前後3〜4年に生まれる(大江雅致:平保衡女)
天元3 (980) 3歳6月懐仁親王(一条天皇)生まれる(円融天皇:詮子)
天元4 (981) 4歳敦道親王(帥宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元5 (982) 5歳1月、冷泉院女御超子 薨去
永観2 (984) 7歳8月、花山天皇即位
寛和2 (986) 9歳6月、一条天皇即位、
   7月、居貞親王元服、立太子
永祚元 (989) 12歳 11月、為尊親王 元服
正暦元 (990) 13歳 7月、藤原兼家(62歳)薨去
正暦2 (991) 14歳 〔女+成〕子(藤原済時女)東宮妃として入内
正暦3 (992) 15歳 為尊親王 九の御方(藤原伊尹女)と結婚
正暦4 (993) 16歳 2月、敦道親王 元服
敦道親王 藤原道隆三女と結婚
長徳2 (996) 19歳 和泉式部、橘道貞と結婚
長徳3 (997) 20歳 小式部 生まれる(橘道貞:和泉式部)
長保元 (999) 22歳 夫・道貞 和泉守に任ぜられる
   11月、彰子(藤原道長女)入内
長保2(1000) 23歳 12月、皇后定子(24歳)崩御
長保3(1001) 24歳 弾正宮との恋はこの頃
長保4(1002) 25歳 6月13日、弾正宮(26歳)薨去
長保5(1003) 26歳 4月十余日、帥宮と、橘の贈答歌。帥宮と初めて契る。
   12月10日、帥宮の南院に入る
寛弘元(1004) 27歳 1月、帥宮妃(藤原済時女で東宮妃〔女+成〕子の妹)南院を出る
   2月、藤原公任の白河院で帥宮とお花見
   3月、道貞 陸奥守に任ぜられ赴任
寛弘2(1005) 28歳 賀茂祭を帥宮の車に同乗して見学
寛弘2(1005) 29歳 石蔵宮(永覚)生まれる(帥宮:和泉式部)
寛弘4(1007) 30歳 10月2日、帥宮(27歳)薨去
   性空上人没
寛弘5(1008) 31歳 2月8日、花山院(41歳)崩御
   和泉式部、中宮彰子に出仕〜1011
寛弘7(1010) 33歳 和泉式部、藤原保昌(20歳ほど年上)と結婚
寛弘8(1011) 34歳 6月、一条天皇(32歳)崩御。三条天皇即位
   10月、冷泉院(62歳)崩御
長和5(1016) 39歳 2月、後一条天皇即位
   4月、橘道貞没
寛仁元(1017) 40歳 5月、三条院(42歳)崩御
寛仁2(1018) 41歳 静円 生まれる(藤原教通:小式部)
万寿2(1025) 48歳 11月、頼仁 生まれる(藤原公成:小式部)
   11月、小式部(28歳)没
万寿3(1026) 49歳 1月、太皇太后彰子 落飾して上東門院と号する
万寿4(1027) 50歳 10月、式部、皇太后妍子の七々日供養に歌を献上
   12月、藤原道長(62歳)、藤原行成(56歳)薨去
長元9(1036)(59歳) 9月、藤原保昌(79歳)没
和泉式部の没年は不明、一説には、長元7年(1034年)頃
式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要がある。 
 

 

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