平安鎌倉の物語4

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雑学の世界・補考

今物語

藤原信実 (ふじわらののぶざね)
安元2年頃(1176)-文永3年以降 (1266)。鎌倉時代前期から中期にかけての公家、画家、歌人、寂西(法号) 。
父・隆信と同様に絵画・和歌に秀で、水無瀬神宮に伝わる国宝『後鳥羽院像』は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねることで主体の面影を捉える技法が特色である。大倉集古館所蔵の『随身庭騎絵巻』や佐竹本『三十六歌仙絵巻』などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の子孫はいわゆる似絵の家系として知られる八条家となり、室町時代中期頃まで続いた。
勅撰歌人として『新勅撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に122首が入集[1]。自撰歌集に『藤原信実朝臣集』がある。また、信実が編纂し、延応2年(1240年)前後に成立した説話集として『今物語』がある。
今物語
鎌倉時代の説話集。全一巻、五十三話。延応元年(1239)以降の成立。画家および歌人として高名だった藤原信実(1177?―1265?)が編んだといわれる。書名は当代の語り草を集めたという意。対象とする時代は鳥羽院政期〜鎌倉時代初期まで。歌物語風の説話を中心に、大宮人の色恋沙汰や風流な応酬から、失敗譚・滑稽譚までを簡潔流麗な和文体で記す。
藤原信実2
藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。
中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。
○ 山桜さきちるときの春をへてよはひは花のかげにふりにき (新勅撰110)
○ 春暮るる井手のしがらみせきかねて行く瀬にうつる山吹の花 (続後撰156)
○ けふのみとおもふか春のふる郷に花の跡とふ鶯のこゑ (続後拾遺154)
○ 室むろの海や瀬戸のはや舟なみたてて片帆にかくる風のすずしさ (拾遺風体集)
○ 庭のうへの水音ちかきうたたねに枕すずしき月を見るかな (玉葉388)
○ 霧隠れうたふ舟人声ばかりするがの海の沖にでにけり (信実集)
○ 月影も夜さむになりぬ橋姫の衣やうすき宇治の川風 (続拾遺296)
○ 下折れの音のみ杉のしるしにて雪のそこなる三輪の山もと (続後撰511)
○ 色ならばいづれかいかにうつるらん見せばや見ばやおもふ心を (続古今957)
○ きぬぎぬの袂にわけし月かげはたが涙にかやどりはつらん (続古今1159)
○ 行くを惜しみとまるをさそふ心こそともにかなしき別れなりけれ (続後拾遺531)  
 

 

〔一〕
大納言なりける人、内へまゐりて女房あまた物語しける所にやすらひければ、此人の扇を手ごとにとりて見けるに、辨の姿したりける人を書きたりけるを見て、此女房ども、鳴く音なそへそ野邊の松蟲と、口々にひとりごちあへるを、此人聞きてをかしと思ひたるに、奧のかたより只今人の來たるなめりと覺ゆるに、是はいかに鳴く音なそへそと覺ゆるはと、したり顔にいふ音のするを、この今きたる人しばしためらひて、いと人にくゝ優いうなるけしきにて、源氏の下襲したがさねのしりは短かゝるべきかはとばかり、忍びやかに答ふるを、このをとこあはれに心にくゝ覺えて、ぬしゆかしきものかな、誰ならんとうちつけに浮きたちけり。堪ふべくも覺えざりければ、後にえさらぬ人に尋ねければ、近衞院の御母ひが事かうのとのの御つぼねと咡きければ、いでやことわりなるべし。その後はたぐひなき物思ひになりにけり。
源氏榊 大かたの秋の別れもかなしきに鳴くねなそへそ野邊の松蟲
〔二〕
薩摩守忠度といふ人ありき。ある宮腹の女房に物申さんとて、局のうへざまにてためらひけるが、ことの外に夜ふけにければ、扇をはら/\と使ひ鳴らして聞き知らせければ、此局の心しりの女房、野もせにすだく蟲の音やと、ながめけるを聞きて、扇を使ひやみにけり。人しづまりて出あひたりけるに、この女房扇をばなどや使ひ給はざりつるぞと言ひければ、いさかしがましとかや聞えつればと言ひたりける、やさしかりけり。
(新撰朗詠) かしがまし野もせにすだく蟲の音よ我だに物はいはでこそ思へ
〔三〕
或殿上人さるべき所へ參りたりけるに、折しも雪降りて月朧なりけるに、中門のいたにさぶらひて、寢殿なる女房にあひしらひけるが、此朧月はいかゞし候ふべきと言ひたりければ、女房返事はなくて、取りあへず内より疊を推し出だしたりける心早さ、いみじかりけり。
新古今 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき
〔四〕
ある殿上人ふるき宮腹へ夜ふくる程に參りて、北の對たいの馬道めんだうにたゝずみ(*原文「たゞずみ」)けるに、局におるゝ人の氣色あまたしければ、ひき隱れてのぞきけるに、御局の遣水やりみづに螢の多くすだきけるを見て、さきに立ちたる女房の、螢火みだれ飛びて(*元稹、和漢朗詠集)と打ちながめたるに、つぎなる人、夕殿に螢飛んで(*長恨歌)とくちずさむ。しりに立ちたる人、かくれぬものは夏蟲の(*後撰集、大和物語)と、花やかにひとりごちたり。とり/〃\にやさしくも面白くて、此男何となくふしなからんも本意なくて、ねずなきをし出でたりける。さきなる女房、ものおそろしや、螢にも聲のありけるよとて、つや/\騷ぎたるけしきなく、うち靜まりたりける、あまりに色深く悲しく覺えけるに、今ひとり鳴く蟲よりもとこそと、取り成したりけり。是もおもひ入りたるほど奧ゆかしくて、すべてとり/〃\にやさしかりける。
(後拾遺集) 音もせでみさをに燃ゆる〔後拾遺には「おもひにもゆる」とあり。〕螢こそ鳴く蟲よりもあはれなりけれ
螢火亂飛秋已近 辰星早沒夜初長 夕殿螢飛思悄然
後撰 つゝめどもかくれぬ物は夏蟲の身よりあまれる思ひなりけり
〔五〕
近き御代に五節の比ころ、ゆかりにふれて誰たれとかやの御局へ、或女のやんごとなき忍びて參りたりける事ありけるを、ちと〔「みかど」の衍なるべし。〕聞召きこしめしていかで御覽ぜんと、おぼしけるまゝに、俄に推し入らせ給ひけり。取りあへずともし火を人の消ちたりければ、御ふところより櫛をいくらも取りいでて、火櫃ひびつの火にうち入れ給ひたりければ、奧まで見えて、よく/\御覽じけり。御心の風情ふぜい興ありて、いとやさしかりけり。
 

 

〔六〕
此比の事とかや、ある田舍人優いうなる女をかたらひて、キに住みわたりけるが、とみの事ありて田舍へ下りなんとしける其夜となりて、此女例ならずうちしめりて、うしろむきて寢たりけるを、男いたう恨みてけり。いつまでかかくも厭はれまゐらせん、只今ばかり向き給ひてあれかしと言ひけるに、この女、
今さらに背くにはあらず君なくてありぬべきかと習ふばかりぞ
と言ひたりければ、男めで惑ひて、田舍下りとまりにけるとかや。いとやさしくこそ。
〔七〕
大納言なりける人、日比ひごろ心をつくされける女房のもとにおはして、物語などせられけるが、世に思ふやうならで、明けゆく空も猶心もとなかりければ、あからさまの樣やうにて立ち出でて、隨身に心を合せて、今しばしありて、まことや今宵は内裏の番にて候ふものを、もし思おぼしめし忘れてやと、おとなへとヘへて、うちへ入りぬ。その儘にしばしありて、無骨こちなげに隨身いさめ申しければ、さる事あり、今夜はげに心おくれしにけりとて、とりあへず急ぎ出でんとせられける氣色けしきを見て、この女房心得て、やがていと恨しげなるに、をりふし雨のはら/\と降りたりければ、
ふれや雨雲のかよひぢ見えぬまでこゝろ空なる人やとまると
いうなる氣色にて、わざとならず打ちいでたりけるに、此大納言なにかの言ことはなくて、其夜とまりにけり。後までも絶えず音づれられけるはいとやさしくこそ。かく申すは後コ大寺左大臣〔實定〕ときこえし人の事とかや。
〔八〕
粟田口の別當入道といひける人、わかくて人を思ひけるに、やう/\かれ/〃\になりて、後におもひ出でて、絲の有りけるをやりたりければ、絲をば返して、歌をなんよみたりける。
わすられて思ふばかりのあらばこそかけても知らめ夏引の絲
(「かく」は「絲」の縁語。類想歌—「夏引きの手引きの糸の年経ても絶えぬ思ひにむすぼほれつつ」〔新古今集〕)
〔九〕
或藏人の五位の月くまなかりける夜、革堂(*行願寺)へ參りけるに、いと美しげなる女房の、ひとり參りあひたりける、見すてがたく覺えけるまゝに、言ひよりてかたらひければ、大方さやうの道には叶ひがたき身にてなんと、やう/\に言ひしろひけるを、猶堪へがたく覺えて、歸りけるにつきて行きければ、一條河原になりにけり。女房見かへりて、
玉みくり〔水草の名。三稜草。〕うきにしもなどねをとめて引きあげどころなき身なるらん
とひとりごちて、きよめ(*河原等に住み、清掃を業とした民。)が家の有りけるに入りにけり。男それしもいとあはれに不思議と覺えけり。
〔一〇〕
大納言なりける人、小侍從(*後出小大進女、実賢母。)と聞えし歌よみに通はれけり。ある夜物いひて曉かへられけるに、女の家の門をやりいだされけるが、きと見かへりたりければ、此女名殘を思ふかとおぼしくて、車寄くるまよせの簾すだれにすきて、ひとり殘りたりけるが、心にかゝり覺えてければ、供なりける藏人〔藤經尹〕に、いまだ入りやらで見送りたるが、ふり棄てがたきに、何とまれ言ひてことの給ひければ、ゆゝしき大事かなと思へども、程經ふべき事ならねば、やがて走り入りぬ。車寄の椽えんのきはにかしこまりて、申せと候ふとは、左右さうなくいひ出でたれど、何といふべき言ことの葉も覺えぬに、折しもゆふつけ鳥聲々に鳴き出でたりけるに、あかぬ別れの〔新古戀三、小侍從、「待つよひに更け行くかねの聲きけばあかぬわかれの鳥はものかは」〕といひける事の、きと思ひいでられければ、
新拾遺 物かはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどか悲しかるらん
とばかり言ひかけて、やがて走りつきて、車の尻にのりぬ。家に歸りて中門におりて後、さても何とか言ひたりつると問ひ給ひければ、かくこそと申しければ、いみじくめでたがられけり。さればこと使つかひにははからひつれとて、感のあまりにしる所〔領地〕などたびたりけるとなん。此藏人は内裏の六位など經て、やさし藏人といはれけるものなりけり。この大納言も後コ大寺左大臣の御事なり。  
 

 

〔一一〕
能登前司橘長政といひしは、今は世を背きて法名寂縁とかや申すなんめり。和歌の道をたしなみて、其名きこゆる人(*好士)也。新勅撰えらばれし時、三首とかや入りたりけるを、すくなしとてきりて出でたりける(*選歌を外させたこと)、すこしはげしきには似たれども、道を立てたる程はいとやさしくこそ。其人此比このころあるやんごとなき大臣家に、和歌の會せられけるに(*十月二十日の歌会)、述懷の歌をよみたりける。
あふげども我身たすくる~なつきさてやはつかの空を眺めん
と詠みたりければ、滿座感歎して此歌よみためて、主も稱美のあまりに、國の所ひとつやがて賜はせたりけり。道の面目、世の繁昌(*もてはやされること)、不思議の事也。末代にもさすがかゝるやさしき事の殘りたるにこそ。此事を聞きて祐侍從〔家驪ィの男〕いひやりける歌、
みがきける君に逢ひてぞ和歌の浦の玉も光をいとゞ添ふらん
〔一二〕
吉水前大僧正と聞えしは、今は慈鎭和尚と申すにや、天王寺の別當に成りて拜堂ありけるに、上童おほく具せられたりける中に、たれがしとかやいひける兒を、天王寺にありける女、堪へがたう思ひかけて、紅梅の檀紙に、心も及ばず葦手あしでを書きて、此この兒のもとへおこせたりける、ぬしも餘所よそながらもつや/\見知りたる人もなくて、むげに恥がましくありぬべかりけるに、此兒うち案ずるけしきなりければ、何とすべきにかと、人々まばゆく(*瞠目して)思ひたりけるに、やがてその葦手のうへに、
おぼつかななにはにかける言の葉ぞキにすめば知らぬあしでを
と書きてやりたりける、取りあへずいとあしからずや。
〔一三〕
宇治の左のおとゞ〔ョ長〕の御前に、銀を桐火桶きりびをけにつませられて、ョ政卿のいまだ若かりける時、召ありてきり火桶とわが名を、かくし題(*隠題)にて歌つかうまつりて、是をたまはれと仰事おほせごとありければ、とりもあへず、
宇治川のP々の白浪おちたぎりひを(*氷魚)けさいかによりまさるらん
とよみたりけり。めでさせ給ひけるとなん。
(*源平盛衰記)
〔一四〕
秦公春といひける隨身、宇治の左大臣殿につかうまつりけるが、御沓おんくつをまゐらせけるが、御沓のしきに千鳥を書かれたりけるを見て、
菟玖波 沓のうらにも飛ぶ千鳥かな
といひでたりけるを、取次ぐ殿上人も物もいはざりけるに、大殿おほいどのしばし御沓をはき給はで、
同 難波なるあしの入江をおもひ出て
と仰せられたりける、いとやさしかりけり。
〔一五〕
待賢門院の堀川、上西門院の兵衞おとゞひ(*兄弟姉妹)なりけり。夜深くなるまでさうしを見けるに、ともし火のつきたりけるに、油綿あぶらわた〔和名鈔、「容飾具云、澤。釋名云、人髪恒枯悴、以此令濡澤也。俗用脂緜二字(阿布良/和太)」〕をさしたりければ、よにかうばしく匂ひけるを、堀川、
菟玖波 ともし火はたきものにこそ似たりけれ
といひたりければ、兵衞とりもあへず、
同 ちやうじがしら(*灯心の先にできる燃え滓のかたまり・灯火)の香やにほふらん
とつけたりける、いと面白かりけり。〔此連歌の作者、菟玖波集と反對になれり。〕 
 

 

〔一六〕
或者所(*或所か。)の前を春の頃、修行者の不思議なるが通りけるが、檜笠ひがさに梅の花を一枝さしたりけるを、兒ども法師などあまた有りけるが、世にをかしげに思ひて、ある兒の梅の花笠きたる御房よといひて笑ひたりければ、此修行者立ちかへりて、袖をかき合せて、ゑみゑみと笑ひて、
身のうさの隱れざりけるものゆゑに梅の花笠きたる御房よ
と仰せられ候ふやらんと言ひたりければ、この者どもこはいかにと、思はずに思ひて、言ひやりたるかたもなくてぞ有りける。左右さうなく人を笑ふ事あるべくも無きことにや。
〔一七〕
或所にて此世の連歌の上手と聞ゆる人々より合ひて連歌しけるに、其門のしたに法師のまことに怪しげなるが、頭かしらはをつかみ〔髪のつかまるゝばかり生ひたる也。〕に生ひて、紙衣かみぎぬのほろ/\とあるうち著たるが、つく/〃\此連歌を聞きて有りければ、何程の事を聞くらんと、をかしと思ひて侍るに、此法師やゝ久しく有りて、うちへ入りて椽のきはにゐたり。人々をかしと思ひてあるに、遙かにありて、賦物ふしもの(*連歌の謎かけ題)は何にてやらんと問ひければ、其中にちと荒涼くわうりやうなる者にて有りけるやらん、餘りにをかしく侮あなづらはしきまゝに、何となく、
菟玖波 くゝりもとかず足もぬらさず
といふぞと言ひたりければ、此法師打聞きて二三返ばかり詠じて、面白く候ふものかなといひければ、いとゞをかしと思ふに、さらば恐れながら付け候はんとて、
名にしおふ花の白河わたるには
と言ひたりければ、いひ出だしたりける人を初めて、手をうちてあさみけり。さて此僧はいとま申してとてぞ走り出でける。後に此事京極中納言〔定家〕きゝ給ひて、いかなる者にかと、返す/〃\ゆかしくこそ、いかさまにても只者たゞものにてはよもあらじ、當世は是ほどの句などつくる人は有りがたし、あはれ歌よみの名人たちは、たゝ〔そくイ〕かう〔異本の「そくかう」とあるよし。そくかうは辱號にて、俗にいふ恥をかくの意。〕かきたりけるものかな、世の中のやうに恐しきものあらじ、よきもあしきも人を侮る事あるまじき事とぞいはれける。
〔一八〕
伏見中納言(*源師仲)といひける人のもとへ、西行法師行きて尋ねけるに、あるじはありきたがひたる程に、さぶらひの出でて、何事いふ法師ぞといふに、椽に尻かけて居たるを、けしかる法師のかくしれがましきぞと思ひたる氣色にて、侍共にらみおこせたるに、簾みすの内に箏の琴にて秋風樂を彈きすましたるを聞きて、西行此侍に物申さんといひければ、にくしとは思ひながら立寄りて、何事ぞといふに、簾のうちへ申させ給へとて、
ことに身にしむ秋の風かな
といひでたりければ、にくき法師のいひごとかなとて、かまち〔頰骨〕をはりてけり。西行はふはふ歸りてけり。後に中納言の歸りたるに、かゝるしれ物こそ候ひつれ、はりふせ候ひぬと、かしこ顔に語りければ、西行にこそありつらめ、不思議の事(*怪しからぬ事)なりとて、心うがられけり。此侍をばやがて追ひ出だしてけり。
〔一九〕
後白川院の御時、日吉社に御幸ありて一夜御泊りありて、次の日御下向ありけるに、雨の降りければ、御車近うつかうまつりける上達部かんだちめの中に、
菟玖波 きのふ日よしと思ひしものを
といふ連歌の出來たりけるを、おほかた付くる人なくて程へければ、左馬權頭なりける人(*右馬権頭藤原隆信かという。隆信は『今物語』の作者信実の父。)の、はるかに先なりけるを召しかへして、是付けよと仰せごと有りければ、ほどなく
同 今日は皆雨ふるさとへかへるかな
と付けたりければ、安かりけることを口惜しくも思ひよらざりけると、人々いひあへりけり。此左馬權頭、加茂の臨時祭の舞人なりけるに、曉つかひなりける人を打具うちぐして歸りたちにまゐりける〔一本「まゐりたる」〕が、雪いたく降りて袖にたまりけるを見て、
同 あをずりの竹にも雪はつもりけり
といひたりけるに、使なりける人は付けざりければ、秦兼任人長にんぢやう〔舞人陪從の長〕にて打具うちぐしてけるが、馬を打ちよせ/\氣色ばみければ、兼任が付けたると覺ゆるぞといはれて、下臈はいかでかとはゝしく〔誤字あるにや、不明。〕(*はばしく—憚る様子で)言ひけるを、猶せめ問はれて、
同 色はかざしの花にまがひて
と付けたりける、まことに兼久、兼方などが子孫と覺えて、いとやさしかりけり。
〔二〇〕
やんごとなき人のもとに、今參いままゐりの侍出來にけり。燒繪やきゑをめでたくするよし聞えければ、前によびて檀紙に燒繪をせさせけるに、何をか燒き侍るべきといひければ、水に鴛を燒けといはれけるに、打ちうなづきて、
菟玖波俳諧 水にはをしをいかゞ燒くべき
と口ずさみけるを、あるじ聞き咎めて、同じくは一首になせと言はれければ、かいかしこまりて、
同 波の打つ岩より火をば出だすとも
といへりければ、人々皆ほめにけり。 
 

 

〔二一〕
京極太政大臣〔宗輔〕と聞えける人、いまだ位あさかりける程に、雲居寺の程を過ぎられけるに、瞻西(*せんせい・せんさい)上人の家を葺きけるを見て、雜色をつかひにて、
菟玖波 ひじりの屋をばめかくし(*目隠し・女隠し)にふけ
といはせて、車を早くやらせけるに、雜色の走りかへる後うしろに小法師をはしらせて、
同 あめの下にもりて聞ゆることもあり
といはせたりける、その程の早さけしからざりけり。
〔二二〕
待賢門院の女房加賀といふ歌よみあり。
かねてより思ひしことぞふし柴のこるばかりなる歎きせんとは
といふ歌を、年比としごろよみてもちたりけるを、同じくはさりぬべき人に言ひむつびて、忘られたらんに讀みたらば、集などに入りたらんも優なるべしと思ひて、いかゞありけん、花園の左のおとゞ〔有仁〕に申しそめてけり。其後思ひの如くやありけん、此歌をまゐらせたりければ、大臣殿もいみじくあはれに思しけり。かひ/〃\しく千載集に入りにけり。世の人ふし柴の加賀とぞいひける。
〔二三〕
松殿〔基房〕の思はせ給ひける女房かれ/〃\になり給ひて後、はかなき御なさけだにも稀なりければ、我ながらあらぬかとのみ辿りわび、人の心の花(*移ろいやすい心)にまかせて、月日を空しく移り行くに、宮の鶯百もゝさへづりすれども、思ひあれば聞くことをやめつ、梁うつばりのつばくらめ並びすめども、身老ゆればねたまず、遲々ちゝたる春の日もひとりすめば、いとゞ暮れやらず、せうせう〔蕭々〕たる秋の夜は空しき床にあかし難くて過ぐしけるに、事のよすがや有りけん、むかへに御車をつかはされたりける、夢現ともわきかねつらん、嬉しとも思ひ定めず、さればとて今更待ちよろこび顔ならんも、いたうつれなく、身ながらもなか/\疎ましかりぬべければ、是にこそ日頃のつきせぬ歎きもあらはさめと思ひつよりて(*強りて)、たけに餘りたりける髪を押し切りて、白き薄樣うすやうにつゝみて、
今さらに再び物を思へとやいつもかはらぬおなじうき身に
と書付けて、御車に入れて參らせたりける、此人は後にはみそのの尼とて、近くまでも聞えしとかや。
〔二四〕
東山の片隅にあはれに〔一本「あばれて」とあり。〕人もかけ見ぬあばらやに、いとやさしくいまだ人馴れぬ女ありけり。庭の萩原招けども、風より外はとふ人もなく、軒端のきばの蓬よもぎしげれども、杉村ならねばかひなくて、月にながめ、嵐にかこちても、心をいたましむるたよりは多く、花を見、郭公を聞きても慰むべきかたは稀なることにて、明し暮すに、C水詣きよみづまうでのついでに、思はぬ外のさかしら出來て、至らぬ隈なかりし御心に、たゞ一夜の夢の契を結びまゐらせてける、是も前世を思へばかたじけなかりけれども、さしあたりて歎きに恨をそへて、心のうちリるゝまもなし。甲斐なくありふれど、今一度の言の葉ばかりの御なさけだに待ちかねて、よし是ゆゑ背くべき憂世うきよなりけりと思ひ立ちて、ありし御心知りのもとへつかはしける。
なか/\に問はぬも人の嬉しきはうき世を厭ふたよりなりけり
とばかり、心にくゝ幼をさなびれたる手にて、はなだ〔縹〕の薄樣に書きたるを、折をうかゞひて奏しければ、まことにさる事あり、尋ねざりける心おくれこそと御氣色ありければ、頓やがて走り向ひて尋ぬるに、さらぬだに荒れたる宿の人住むけしきもなきを、やゝ久しくやすらひて、老いたる女ひとり尋ねえて、事の樣やうをくはしく問ひければ、何といふ事は知り侍らず、あるじは天王寺へ參り給ひぬといへば、やがてそれより天王寺へまゐり、寺々をたづぬるに、龜井のあたりにおとなしき尼ひとり、女房二三人ある中に、いと若き尼の殊にたど/\しげなるがあり。此心しりを見付けて淺ましと思ひげにて、只やがてうつぶして泣くより外の事なし。かたへの者ども聲を立てぬばかりにて、劣る袖なくしぼりければ、御使も見捨てて歸るべき心地もせず。おとなしき尼は此人の母なりければ、事のやうに(*を)こまかに尋ねけれども、もとより是は思ひつる事なり、何しにかは君の御ゆゑにてさふらふべき、かしこくと言ひもあへず泣きて、其後は答へざりければ、よしなき御使をしてかはゆき事を見つるよと悲しくて、さりとても爰にて世をつくすべきならねば、立ちかへりぬ。此由を奏するに、はしたなの心の立てざまや、心おくれが咎とがに成りつるよとて、甲斐なかりけり。あはれにもやさしくも、長き世の物語にぞなりぬる。みそ野の尼の心といづれか深からん。
〔二五〕
或人事ありて遠き國へ流されけるに、年頃心ざし深かりける女の、姙はらみたるを見捨てて行きければ、いかばかりの別れにかありけん、其後此女尋ねゆかんとしけれども、父母ありける故にて、ゆるさゞりければ、只一人出て行きけるに、漸く其國までかゝぐり〔辿り〕つきにけり。腹なる子の生れんとしければ、片山かたやまに生みおとして、著たりける物にひきつつみて捨て置きて、血つきたる物など洗はんとて、人の家のありけるかたへ、漸うよろぼひ行きけるに、此家にはしを集むる音して、流され人の死にたるを葬らんとするなどいふ。殊に怪しく胸つぶれて、くはしく尋ねければ、京なる人を戀ひ悲みて、けさ失せ給ひたるなどいふに、たゞ此人なりけり。言葉もたゝず、わなゝかれけれど、からくして此死人のもとに行きて見れば、我男なりけり。悲しきこと限りなくて、枕がみにゐて、かく參りたるなり、今一度目見あはせ給へと泣きもまれて、此男いき出でて目を見合せて、此世にては今はいかにも叶ふまじきぞとばかり言ひて、頓やがて又死にけり。さてのみあるべきならねば、はふりけるに、その火に此女飛び入りて燒け死ににけり。腹の中の子を生みおとしけるは、罪の淺かりけるにやとぞ言ひあへりける。一人具したりける女の童わらはも共に火に入らんとしけれども、取りとめて此人の有樣をくはしく尋ね、生みおとしつる子などをも取りて、村の者の養ひけるとぞ。此事は近き程の事なり。  
 

 

〔二六〕
小式部内侍、大二條殿〔ヘ通〕におぼしめされける比、久しく仰せごとなかりける夕暮に、あながちに戀ひ奉りて、端近はしちかくながめ居たるに、御車の音などもなくて、ふと入らせ給ひたりければ、待ちえて夜もすがら語らひ申しける曉がたに、いさゝかまどろみたる夢に、絲の付きたる針を御直衣おんなほしの袖にさすと見て夢さめぬ。さて歸らせ給ひにけるあしたに御名殘を思ひ出でて、例の端近くながめ居たるに、前なる櫻の木に絲のさがりたるを怪しと思ひて見ければ〔一本「見れば」〕、夢に御直衣の袖にさしつる針なりけり。いと不思議なり。あながちに物を思ふ折には、木草なれどもかやうなることの侍るにや。其夜御渡りあること、誠にはなかりけり。
〔二七〕
小大進(*待宵小侍従母)と聞えし歌よみ、いとまづしくて太秦うづまさへ參りて、御前の柱に書き付けける歌、
なも藥師あはれみたまへ世の中にありわづらふも同じやまひを
とよみたりければ、程なく八幡の別當光Cに相具して、たのしく(*裕福に)成りにけり。子などいできて後、もろともに居たりける所近き所に、いもの蔓つるの這ひかゝりて、零餘子ぬかごなどのなりたりけるを見て、光C、
菟玖波俳諧 這ふほどにいも(*芋・妹)がぬかごはなりにけり
といひたりければ、程なく小大進、
同 今はもり(*傅)もや取るべかるらん
と付けたりける、おもしろかりけり。
〔二八〕
ある女房の加茂の糺たゞすに七日こもりて、まかり出づるとて、物に書きつけける。
鳥の子のたゞすの中にこもりゐてかへらん時はとはざらめやは
とよめりければ、あはれとや思召しけん、やがてめでたき人に思はれて、さいはひ人といはれけり。
〔二九〕
加茂に常につかうまつりける女房の、久しくまゐらざりける夢に、ゆふしでのきれに書きたりけるものを、直衣きたりける人の給はせけるを見れば、
おもひいづや思ひぞいづる春雨に涙とりそへ濡れし姿を
とありけるを見て、夢さめにけり。あはれと思ふ程に、手に物の握られたりけるを見ければ、ゆふしでのきれに墨三十一付きたるにて有り。ことにあはれにめでたく、涙もとどまらずぞありける。
〔三〇〕
嘉寺僧キ海惠といひける人の、いまだ若くて病大事にて限りなりける比、寢入りたる人俄に起きて、そこなるふみなど取り入れぬぞと、嚴しく言はれけれども、さる文なかりければ、うつゝならず覺えて、前なる者ども呆れ怪みけるに、みづから立ち走りて明障子あかりしやうじをあけて、立文たてぶみをとりて見ければ、ものども誠に不思議におぼえて見る程に、是をひろげて見て、しばし打案じて返事書きてさし置きて、又頓やがて寢入りにけり。起臥おきふしもたやすからずなりたる人の、いかなりける事にかと怪みける程に、しばし寢入りて汗おびたゞしく流れて起き上りて、不思議の夢を見たりつるとて語られける。大きなる猿の藍摺あゐずりの水干きたるが、立文たてぶみたる文〔「たる文」の三字は衍文にて不用なるべし。〕を持もて來つるを、人の遲く取り入れつるに、自ら是を取りて見つれば、歌一首あり。
新拾遺 たのめつゝこぬ年月を重ぬれば朽ちせぬ契いかゞむすばん
とありつれば、御返事には、
こゝろをばかけてぞョむゆふだすき七のやしろの玉のいがきに
と書きて參らせつる也、是は山王よりの御歌を給はりて侍る也と語られければ、前なる人淺ましく不思議に覺えて、是は只今うつゝに侍ること也、是こそ御文おんふみよ、又かゝせ給へる御返事よといひければ、正念に住して〔正氣になりて〕前なる文どもを廣げて見けるに、露たがふことなし。其後病怠りにけり。いと不思議なり。 
 

 

〔三一〕
延應元年(*一二三九年)正月十九日の曉、或人の夢にC水の地主(*じしゅ)よりとて御文ありけるを見ければ、
月日のみ杉の板戸のあけくれて過ぎにしかたは夢かうつゝか
と有りけり。いとあはれにめでたかりけり。
〔三二〕
八幡の袈裟御子がさいはひののち、打ちつゞき人に思はれて、大菩薩の御事をしり〔司り扱ふ〕まゐらせざりければ、若宮の御祟おんたゝりにてひとり持ちたりけるむすめ大事に病みて、目のつぶれたりけるを、こと祈りをせず、むすめを若宮の御前に具して參りて、膝のうへに横ざまにかき伏せて、
奧山にしをるしをりは誰がため身をかきわけて生める子のため
といふ歌を、~哥〔「~前」の衍なるべし。〕に泣く/\あまたゝび歌ひたりければ、頓やがて御前にて病やみ、目もさはさはとあきにけり。
〔三三〕
讚岐三位俊盛と聞えし人、春日の月まうでをしけるに、定まりたる事にて、夜泊よどまりにまゐりて曉下向しけるに、夜深かりけるたび雨降りていと所せかりける(*厄介だ)に、後生の事をかくほどに信を致して、佛にもつかうまつらば、いかばかりめでたかりなん、現世の事のみ思ひて、此宮にのみつかうまつることと思ひて、春日山を通りけるに、高き梢より、菩提の道も我山の道といふ御聲の聞えけるに、限りなく信おこりて、尊く覺えける。
〔三四〕
比叡の山横河よかはに住みける僧のもとに、小法師のありけるが、坊の前に柹の木のありけるを切りて焚かんとて、いちのきれ〔「柹のきれ」の衍か(柿—市—いち)〕を割りたりける中に、Kみのありけるが、文字に似たりけるを、怪しと思ひて坊主に見せたりければ、南無阿彌陀佛と云ふ文字にて有りける。不思議なども云ふばかりなくて、横河の長吏に法印〔一本「長吏乙法印」〕といひける人に見せたりければ、上西門院をりふし御社に御こもり有りけるに、持もて參りて御覽ぜさせければ、取らせ給ひて後白川院にまゐらせさせ給ひてけり。蓮華王院(*後白河院が開基。天台宗。)の寶藏に納まりけるを、我所にこそ置くべけれとて、憤り申しけるとなん。
〔三五〕
安貞(*一二二七年〜二九年)のころ河内國に百姓ありけるが、子に蓮花王といひける童わらはありけり。七つなりける年死にけるが、念佛申して西に向ひて、かたはらなる人に、我死にたらば七月〔一本「七日」〕といはんにあけて見よと、言ひて死にけり。其後人の夢に必ずあけよといふと見てあけてければ、舍利に成りにけり。是を取りて人にをがませんとて、かりそめに帳ちやうをして入れたりけるに、此帳を程なく蟲のくひたりけるを見ければ、
歸命蓮花王  大聖觀自在  廣度衆生界  父母善知識
とくひて、はての文字の所に蟲の死にてありける、いと不思議にめでたき事也。  
 

 

〔三六〕
鎌倉武士入道して、高野山〔一本山の字なし。〕の蓮花谷に行ふありけり。此者がぬる所にて、夜な/\女と物語をしける音のしければ、具したりける弟子ども、大方心得がたくて、便宜びんぎ〔ついで〕のありけるに、或弟子此入道に尋ねたりければ、さる事あり、吾女の鎌倉にありしが、夜な/\是へ來るなり、それに何事もいひあはせ、又古里の事の覺束なさも語り、世間の事もはからひなどしてある也といひければ、弟子いふばかりなく不思議に覺えて、不思議の餘りに、空阿彌陀佛〔僧の名〕にありのまゝに申しければ、空阿彌陀佛うち案じて、さることも多くあり、此女のいたく戀しく思ふによりて、魂などの通ふにこそ、此定このぢやうならば臨終の妨にも成りなんず、急ぎ祈るべきぞとて祈られけり。或時に念佛にて祈りて見んとて、蓮花谷の聖ひじり三四十人ばかりめぐりゐて、此入道を中にすゑて、念佛をせめふせて申したるに、入道同じく申しけるが、空阿彌陀佛の祕藏の本尊の帳に入りたるがおはしましける、そのかたをつく/〃\とまもりて、恐しげに思ひて、わな/\と震ひければ、空阿彌陀佛寄りて、など恐しげには思ひたるぞと問へば、其御本尊の御前に、かの女房がまうで來て、我を世に恨しげに見て候ふが、などやらん餘りにおそろしくと申しければ、其時空阿彌陀佛、門々不同八萬四、爲滅無明果業因、利劒即是彌陀號、一聲稱念罪皆除と、高く誦せられたりければ、此女の顔の中より二つにわれて散るやうに見えて失せにけり。是をば人は見ず、只入道ばかり見ていとゞ恐しくて、つん/\とかみへ躍りたるが、其後はもとの心になりて行ひけり。念佛の力のたふとき事、いとゞ人々たふとび合ひけり。本體ほんたいの女はつやつやさることなくて、元のやうに鎌倉にありけりとぞ聞えし。天魔のしわざか、又めの戀しと思ひけるが故にか、いと不思議なり。
〔三七〕
少輔入道〔寂蓮〕と聞えし歌よみ、ありまの社にまうでて、社の前なるものを見て、
此山のしゝいかめしく見ゆるかないかなる~の廣前ひろまへ(*御前)ぞこは
とよめりける、いと興ありてこそ聞えけれ。びんなき(*無躾な)さまにてぞ聞ゆる。すべてかやうの歌いみじく詠まれけるとかや。寄レ鳥述懷の歌に、
玉葉 このうち〔籠の中、此内〕も猶うらやまし山がらの身のほどかくす夕貌ゆふがほの宿
風の氣けありて灸治しけるに、人のとぶらひて侍りける返事に、
年へたる風のかよひぢたづねずは蓬が關〔蓬は灸をいふ。〕をいかゞすゑまし
此人うせて後、宇治なる僧の夢に、ありしよりことの外にほけたる樣さまにて、
我身いかにするがの山のうつゝにも夢にも今はとふ人のなき
とながめてける、いとあはれなり。此歌のさまうつゝに〔生時に〕其人の好まれし姿なるこそ、まことにあはれに侍りけれ。
〔三八〕
或人の夢に其正體もなきもの、影のやうなるが見えけるを、あれは何人〔一本「何の人」〕ぞと尋ねければ、紫式部也、そらごとをのみ多くしあつめて、人の心を惑はすゆゑに、地獄におちて苦を受くる事いと堪へがたし、源氏の物語の名を具して、なもあみだ佛といふ歌を、卷毎に人々によませて、わがくるしみを訪ひ給へといひければ、いかやうに詠むべきにかと尋ねけるに、
桐壺にまよはん闇もはる(*霧が晴る)ばかりなもあみだ佛と常にいはなん
とぞいひける。
〔三九〕
昔の周防内侍が家の、淺ましながら建久の比まで、冷泉堀川の西と北との隅に朽ち殘りて有りけるを、行きて見ければ、
我さへ軒のしのぶ草
〔金葉雜上、「家を人にはなちてたつとて柱に書きつけ侍りける、周防内侍、
住みわびて我さへ軒の忍ぶ草しのぶかたがたしげき宿かな」〕
と柱にむかしの手にて書き付けたりしが有りける、いとあはれなりけり。是を見てある歌よみ書きつけける。
これやその昔の跡とおもふにも忍ぶあはれのたえぬ宿かな
〔四〇〕
近ごろ和歌の道殊にもてなされしかば、内裏、仙洞、攝政家、何れもとり/〃\に底をきはめさせ給へり。臣下數多あまた聞えし中に、民部卿定家、宮内卿家驍ニて、家の風かぜたゆることなく、其道に名を得たりし人々なりしかば、此二人にはいづれも及ばざりけるに、或時攝政殿〔後京極良經〕、宮内卿を召して、當時たゞしき歌よみ多く聞ゆる中に、何れかすぐれ侍る、心に思はんやう有りのまゝにと御尋ね有りければ、いづれともわきがたく候ふとばかり申して、思ふやう有りげなるを、いかに/\とあながちに問はせ給ひければ、ふところより疊紙たゝうがみをおとして、やがて出でにけり。御覽ぜられければ、
新勅撰秋上 明けば又秋の半も過ぎぬべし傾かたぶく月のをしきのみかは
と書きたり。此歌は民部卿の歌也。かゝる御尋ねあるべしとは、いかで知るべき。只もとより面白くおぼえて、書き付けて持たれけるなめり。其後また民部卿を召して、さきのやうに尋ねらるゝに、是も申しやりたるかたなくて、
新勅撰冬 かさゝぎの渡すやいづこ夕霜の雲井に白き峯のかけはし
と、たかやかに咏ながめて出でぬ。是は宮内卿の歌なりけり。まめやかの上手の心は、されば一つなりけるにや。 
 

 

〔四一〕
後拾遺をえらばれける時、秦兼方といひける隨身、
金葉雜春 去年こぞみしに色もかはらず咲きにけり花こそ物は思はざりけれ
と云ふ歌をよみて、えらぶ人〔通俊をさす。〕のもとに行きて、此歌入れんと望みけるに、花こそといへるが、犬の名に似たると難じけるを聞きて、立ちざまに此殿は勅撰などうけたまはるべき人にてはおはせざりけるものを、花こそ宿のあるじなりけれといふ歌〔拾遺雜春、公任卿、「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」〕もあるはと言ひかけてける、いとはしたなかりけり(*恥かしいことだ)。
〔四二〕
西行法師が陸奧のかたに修行しけるに、千載集えらばると聞きて、ゆかしさにわざと上りけるに、知れる人行きあひにけり。此集の事ども尋ね聞きて、我よみたる、
鴫たつ澤の秋のゆふ暮
といふ歌や入りたると尋ねけるに、さもなしと言ひければ、さては上りて何にかはせんとて、やがて歸りにけり。
〔四三〕
或人歌よみ集めて、三位大進と聞えし人のもとに行きて見せ合せけるに、侍るといふ事をよみたりけるを、歌の言葉にあらずと言ひければ、ふるき歌にまさしく有りといひけり。よもあらじものをと言ふに、いで引き出でて見せ奉らんとて、古今を開きて、
山がつのかきほにはへるつゞら
〔古今戀四、竃、「山がつのかきほにはへるあをつゞら人はくれどもことづてもなし」〕
といふ歌を見せける、いとをかしかりけり。
〔四四〕
下毛野武正といひける隨身の、關白殿の北の對のうしろを、誠にゆゝしげにて通りけるに、局つぼねのざうし〔雜仕なるべし。〕、あなゆゝしはとふく秋とこそ思ひまゐらすれと言ひたりければ、ついふされ〔不詳〕と言ひてけり。女心うげにて隱れにけり。隨身所にて秦兼弘といふ隨身にあひて、北の對の女めの童わらはべに散々にのられ〔罵られ〕たりつると言ひければ、いかやうにのられつるぞと問はれて、鳩吹く秋とこそ思へといふに、兼弘は兼方が孫にて、兼久が子なりければ、かやうの事心得たる者にて、口得(*惜)しき事のたまひけるかな、府生殿を思ひかけて言ひけるにこそ、
み山出て鳩ふく秋の夕暮はしばしと人をいはぬばかりぞ
といふ歌の心なるべし、しばしとまり給へといひけるにこそ、無下に色なくいかにのり給ひけるぞと言ひければ、いで/\さては色直して參らんとて、ありつる局のしも口に行きて、物承らん、武正鳩ふく秋ぞ、よう/\と言ひ立てりける、いとをかしかりけり。
〔四五〕
鳥忠@の御時、花の盛さかりに法勝寺へ御幸ならんとしけるに、執行しゆぎやうなりける人見て(*「に」か。)とて參りけるに、庭のうへに所もなく花散り布きたりけるを、淺ましき事なり、只今御幸のならんずるに、今まで庭を掃かせざりけると、叱り腹立て、公文(*くもん。威儀師)の從儀師(*威儀師の他に置いた官)を召して、今までいかに掃除さうぢをばせざりけるぞ、不思議なりといひければ、ついひざまづきて、
散るもうし散りしく庭もはかまうし(*掃きたくない)花に物おもふ春の殿守とのもり
と申して、こや御房がはき侍らぬになど言ひければ、はゝかつひ〔不詳〕といひて猶叱りけり。  
 

 

〔四六〕
承久の頃住吉へ然るべき人の參らせ給ひけるに、折ふし~主經國京へ出たりけるが、人を走らせて、住の江殿など掃除せさせよと言ひやりたりけるに、餘りのきらめきに〔C潔にしすぎて〕、年比然るべき人々の書きおかれたる歌ども、柱、長押なげし、妻戸にありけるを皆削り捨ててけり。~主下りて是を見て、こはいかにせんと、足ずり〔ぢだんだふむこと。〕をして悲めども甲斐なかりけり。是を見てふるき尼の書き付けける。
世の中のうつりにければ住吉の昔の跡もとまらざりけり
是は承久の亂ののち、世の中あらたまりける時のこと也。
〔四七〕
松島の上人といふ人有りけり。修行者のあはんとて行きたりけるに、幽玄なる僧の出逢ひたりければ、いと思はずに覺えて、歸り入りたりける跡に、又ありける僧にあれは誰にておはしますにかと尋ねければ、あれこそ聖の御房よといひけるに、たふとげになんとやおはしますらんとこそ思ひつれと言ふを、ひじり物ごしに聞きてよめる歌、
紫の雲まつ嶋にすめばこそ空ひじり(*そらひじり—似而非聖)とも人のいふらめ
とよめりけり。此ひじりのもとへ肥後の右衞門入道といひけるもの行きて、かくておはします程何事か候ふと尋ねければ、させる事も侍らず、法花經などおぼえ奉りて、寢たるをり/\此嶋の松の葉毎に、金色の光の見えてかゞやく事などぞ侍ると言はれける、いとめでたかりけり。
〔四八〕
文學〔文覺に同じ。〕上人佐渡國に流されたりけるが、召し還されたりけるに、あるやんごとなき歌よみのもとより、
わかれしを悲しと聞きし老の身の今までありし嬉しきはいかに
と有りければ、かへし、
嬉しさも宮こに出し(*出じ)そはいかに今はかへりてかゝるおひせを(*「老い波」などか。)
此上人の歌に、
世の中に地頭ぬす人なかりせば人の心はのどけからまし
とよみて、我身は業平にはまさりたり、春の心はのどけからましといへる、何條(*どうして)春に心のあるべきぞといひけり。
〔四九〕
小侍從(*前出待宵小侍従)が子に法橋實賢と云ふもの有りけり。いかなりける事にか、世の人是をひきがへるといふ名をつけたりける。法眼ほふげんを望み申して、
法の橋のしたに年ふるひきがへる今ひとあがり飛びあがらばや
と申したりければ、やがて(*法眼に)なされにけり。
〔五〇〕
弘誓房といふ説經師、人の物をかりて多く成りてのち、還しやるとて其文のうちに書き付けける。
夜やさむき衣やうすきかるぜにの日比を經てはあと(*後と阿堵物)つかひつゝ 
 

 

〔五一〕
然るべき所に佛供養しけるに、堂のかざりより初めて、えもいはぬ聽聞ちやうもんの局の几帳きちやうの中に空炷そらだきの香みちていみじかりけるに、聽聞の人の多くあつまりて、耳を澄ましたるに、内よりおびたゞしく大きなる屁の音出できにけり。皆人興さめて侍るに、導師とりもあへず、放逸邪見の里にはついぐわ(*墜瓦、追賁〔ついひ〕)をもをしむ、聽聞隨喜の局よりおほへ(*大家、大屁)をこそうち出されたれと言ひたりける、淺ましくもをかしくも有りけり。
〔五二〕
或説經師の請用して殊にめでたくたふとく説法せんとしけるに、はこ〔大便〕のしたかりければ、事いそがしくなりて、よろづ急ぎて布施も取らず歸りて、物ぬぎちらして急ぎ樋殿ひどの〔便所〕へ行きたりけるに、屁ばかりひりて、又物もなかりけり。かゝるべしと知りたらば、高座の上にてもしばしこらへて、説經をもすべかりけるものをと、悔しく思ひてける程に、其次の日又人に呼ばれて説經しける程に、又はこのしたかりけるを、すかしてんと思ひて少し居なほるやうにしければ、まことの物おほく出にけり。此僧すべき方なくて、昨日ははこにすかされて屁をつかまつる、今日は屁にすかされてはこをつかまつると言ひて、走りおりて逃げ出にければ、うへの袴より垂り落ちて、堂の中きたなく成りにけり。聽聞の人鼻をおさへて興さめてけり。いとをかしかりけり。
〔五三〕
念佛者の中につちゆいふけつ〔一本「いふふつ」〕と云ふ僧有りけり。或所に板風呂〔蒸風呂の事をいふなるべし。〕と云ふ物をして、人々入りけるに、此僧目をやむ由いひければ、目をひさぎて入るは苦しかるまじき由を人々いひければ、さらばとて、目をゆひて〔目を布にてくゝりて〕板風呂の有樣も知らぬものの、目は見えざりければ、風呂の前にわき戸のうちのありけるに、風呂と心得て、裸にてかゝへたる所〔包みかくしたる所〕もうちとけてゐにけり。人々女房など見おこせたるに、裸なる法師のかくし所も打出して、あなぬるの風呂や、たけ/\と言ひてゐたりける、いとをかしかりけり。人々笑ひける聲を聞きて、あやしく思ひて目をあけて見れば、風呂にてもなき所にゐて、人々笑ひける時に、淺ましく覺えて走り逃げにけり。人々をかしく思ひあへりけり。

右今物語一帖者右京權大夫信實朝臣之抄也。信實者爲經入道寂超之孫、右京大夫髏M朝臣之子、少將内侍・辨内侍等之父。於歌並畫而堪能也。此書借洛東岡崎隱士村井古巖之藏書寫、且以横田茂悟・屋代詮賢本再三遂校合、聊注愚案。今爲鏤梓請詮賢C書畢。
天明六年丙午(*一七八六年)二月廿五日
檢校 保己一
右今物語一帖は右京權大夫信實朝臣の抄なり。信實は爲經入道寂超の孫、右京大夫髏M朝臣の子、少將内侍・辨内侍等の父なり。歌並びに畫に於て堪能なり。此の書、洛東岡崎の隱士村井古巖の藏書を借りて寫し、且つ横田茂悟・屋代詮賢(*輪池屋代弘賢)の本を以て再三校合を遂へ、聊か愚案を注す。今梓に鏤むる爲めに詮賢に請ひてC書きせしめ畢ぬ。 
 
 
發心集 / 鴨長明

 

「発心集」(ほっしんしゅう)鎌倉初期の仏教説話集。「方丈記」の作者として知られる鴨長明(1155−1216年)晩年の編著。建保四年(1216年)以前の成立。「長明発心集」とも。仏の道を求めた隠遁者の説話集で「閑居友」、「撰集抄」などの説話集のみならず、「太平記」や「徒然草」にまで影響を及ぼし、これぞ説話の本性というべきものを後世に伝えている。
流布本は全八巻・102話であるが、現存しない三巻本が最も原型に近いと考えられ、そのほか五巻62話の異本もある。伝本に古写本は無く、慶安四年片仮名本と寛文十年平仮名本が版本として刊行された流布本であり、神宮文庫本が五巻の近世写本である。
天竺・震旦よりは本朝に重心を置き、発心譚・遁世譚・極楽往生譚・仏教霊験談・高僧伝など、仏教関係の説話を集録。仏伝からの引用が多い。長明自身を含む隠遁者(西行が有名)が登場人物の主体をなす。盛名を良しとせず隠遁の道を選んだ高僧(冒頭の玄賓僧都の話など)をはじめ、心に迷いを生じたため往生し損なった聖、反対に俗世にありながら芸道に打ち込んで無我の境地に辿り着いた人々の生き様をまざまざと描き、編者の感想を加えている。人間の心の葛藤、意識の深層を透視したことで、従来の仏教説話集にはない新鮮さがある。
なお梁瀬一雄など一部の研究者からは、流布本の巻一〜六と巻七・八では、背景となる思想などが異なっているとして「流布本の巻七・八は別人による増補ではないか」との指摘がされている。
高尾稔など増補説に否定的な見解を取る研究者も多い。いずれにせよ古写本が現存していない状況のため、論争に決着をつけるのは困難な状況である。  
 

 


ほとけのをしへたまへる事あり、「心の師とはなるとも、こゝろを師とすることなかれ。」と。まことなるかな、此こと。人一期のあひだに思ひとおもふわざ、あくごうにあらずといふ事なし。もしかたちをやつし、衣をそめて、世のちりにけがれざる人すら、そとものかせぎ(*鹿)つなぎかたく、家のいぬつねになれたり。(*鹿は慈悲心、家狗は瞋恚の心を譬えるという。)いかにいはんや、因果のことはりをしらず、名利のあやまりにしづめるをや。むなしく五欲のきづなにひかれて、つゐに奈落のそこに入なんとす。心あらん人、たれかこのことをおそれざらんや。かゝれば事にふれてわが心のはかなくをろかなることをかへりみて、かのほとけのをしへのまゝに、心をゆるさずして此たび生死をはなれてとく淨土にむまれん事、たとへば牧士のあれたる駒をしたがへてとをきさかひにいたるがごとし。但此心に強弱あり、淺深あり、かつ自心をはかるに、善をそむくにもあらず、惡をはなるゝにもあらず、風のまへの草のなびきやすきがごとく、又浪のうへの月のしづまりがたきににたり。いかにしてかかくをろかなる心をゝしへんとする。ほとけは衆生の心のさま/〃\なるをかゞみ給ひて、因縁譬喩をもつてこしらへをしへたまふ。われらほとけにあひたてまつらましかば、いかなる法につけてかすゝめ給はまし。他心智(*他人の心を悟る智恵)も得ざれば、たゞわが分にのみ理をしり、をろかなるをゝしふる方便はかけたり。所説たへなれども、うる所は益すくなきかな。これによりみじかき心をかへりみて、ことさらにふかきみのりをもとめず、はかなくみること・きく事をしるしあつめつゝ、しのびに座の右にをけることあり。すなはちかしこきを見てはをよびがたくとも、こひねがふえんとし、をろかなるをみてはみづからあらたむるなかだちとせんと也。今これを云に、天竺震旦のつたへきくはとをければかゝず、佛菩薩の因縁は分にたへざればこれをのこせり。たゞ我國の人のみゝちかきをさきとして、うけ給ることのはをのみしるす。されば、さだめてあやまりはおほく、まことはすくなからん。もし又二たびとふにたよりなきをば、ところの名・人の名をしるさず。いはゞ雲をとり風をむすべるがごとし。たれ人かこれをもちひん。しかあれど人信ぜよとにもあらねば、かならずしもたしかなる跡をたづねず。道のほとりのあだことの中に、わが一念の發心をたのしむばかりにや、といへり。
玄敏僧都とんせいちくでんの事
「むかし玄敏僧都(*玄賓)といふ人ありけり。山しな寺(*興福寺)のやんごとなき智者なりけれど、世をいとふ心ふかくして、さらに寺のまじはりをこのまず。三輪河のほとり(*三輪山の北、檜原谷という。)にわづかなる草のいほりをむすびてなんおもひ入つゝすみける。桓武の御門の御時、此事きこしめしてあながちにめし出しければ、のがるべきかたなくて、なまじゐにまじはりけり。されどもなをほいならず思ひけるにや、奈良の御門(*平城天皇)の御代に大僧都になし給けるを辭し申とてよめる、
三輪川の きよきながれに すゝぎてし ころもの袖を 又はけがさじ
とてなん奉りける。
かゝるほどに弟子にもつかはるゝ人にもしられずして、いづちともなくうせにけり。さるべきところ/〃\尋ねもとむれどさらになし。いふかひなくて日比へにけれど〔は イ〕かのあたりの人はいはず、すべて世のなげきにてぞ有ける。
そのゝちとし比へて、弟子なりける人、事のたよりありてこしのかたへ行ける道にある所に大きなる河あり。渡し舟まちえてのりたるほどに、此わたしもりをみれば、かしらはをつゝかみ(*押っ掴み頭)といふほどをきたる法師のきたなげなるあさの衣きたるにてなむありける。『あやしのやうや。』と見る程に、さすがにみなれたるやうに覺ゆるを、『たれかはこれに似たり。』とおもひめぐらすほどに、うせて年ごろになりぬるわが師の僧都に見なしつ。『ひがめか。』とみれど、露たがふべくもあらず。いとかなしくて涙のこぼるゝをゝさへつゝさりげなくもてなしけり。かれも見しれるけしきながら、ことさらめみあはず(*「目見合はせず」か)。はしりよりて『いかでかくては。』ともいはまほしけれど、『いたく人しげゝれば、中/\あやしかりぬべし。のぼりざまに、よるなどゐたまへらん所にたづねゆきてのどかにきこえん。』とて、過にけり。
かくてかへるさに、そのわたりにいたりてみれば、あらぬわたしもり也。まづめくれ、むねもふたがりて、こまかにたづぬれば、『さる法師侍り。とし比此わたし守にて侍りしを、さやうの下らうともなく、つねに心をすまして念佛をのみ申て、かず/\に船ちんとる事もなくして、たゞ今うちくらふ物などの外は、物をむさぼる心もなく侍りしかば、此里の人のいみじういとおしうし侍りし程に、いかなる事かありけん、過ぬる比かきけつやうにうせてゆき方もしらず。』とかたるに、くやしくわりなく覺えて、其月日をかぞふれば、わが見あひたる時にぞありける。『身のありさまをしられぬ。』とて、又さりにける成べし。此事は物語(*『古事談』かという。)にもかきて侍る。」となん、人のほの/〃\かたりしばかりをかきけるなり。
又續古今のうたに、
山田もる そうづ(*案山子を「そほど」という。)の身こそ あはれなれ 秋はてぬれど と(*原文「と」の字なし。)ふ人もなし
これもかの玄敏の歌と申侍り。雲風のごとくさすらへゆきければ、田などもる時もありけるにこそ。
ちかき比、三井寺の道顯僧都(*藤原顕時の子)ときこゆる人侍りき。かの物がたりを見て、なみだをながしつゝ、「わたしもりこそげにつみなくて世をわたる道なりけれ。」とて、みづ海のかたに舟をひとつまうけられたりけるとかや。その事、あらましばかりにて、むなしく石山の河ぎしにくちにけれども、こひねがふ心ざしはなをありがたくぞ侍りし。
同人伊賀の國郡司につかはれ給事
伊賀の國にある郡司のもとにあやしげなる法師の「人やつかひ給ふ。」とてすぞろに入來る有けり。あるじこれをみて、「わそうのやうなるものをゝきては何にかはせん。いともちひる事なし。」といふ。法師のいふやう、「をのれらほどの者は、法師とておのこにかはる事なし。何わざなりとも、身にたへんほどのことはつかまつらん。」といへば、「さやうならばよし。」とてとゞむ。よろこびていみじうまごゝろにつかはるれば、ことにいたはる馬をなんあづけてかはせける。
かくて三年ばかりふるほどに、此あるじのおのこ、國の守のためにいさゝかたよりなきことをきこしめして、さかひのうちをゝはる。父おほぢの時より居つきたる物なりければ、所領もおほく、やつこもそのかずあり。他の國へうかれゆかん事かた/〃\ゆゝしきなげきなれど、のがるべきかたなくてなく/\出たつあひだに、此法師あるものにあひて、「此殿にはいかなる御なげき出きて侍るにか。」ととふに、「われらしき(*我々風情。あるいはお前たちごときの意か。)の人はきゝてもいかゞは。」とことの外にいらふるを、「何とてか身のあしきによらん。たのみたてまつりてもとし比になる。うちへだて給べきにあらず。」とてねんごろにとへば、事のおこりをありのまゝにかたる。法師のいふやう、「をのれが申さん事、もちひ給べきにあらねど、何かはたちまちにいそぎさり給ふべき。物は思はざる事も侍る物を。まづ京上(*「京上り」か。)していくたびも事の心を申入て、なをかなはずはその時にこそはいづかたへもおはせめ。をのれがほの/〃\しりたる人、國司の御あたりにははんべり。たづねて申侍らばや。」といふ。思ひの外に、人々、「いみじくもいふ物かな。」とあやしうおぼえて、あるじに此よしかたるに、ちかくよびよせてみづからたづねきゝ、ひたすらこれをたのむとしもなけれども、又おもふかたなきまゝに、此法師うちぐして京へ上りにけり。
その時、この國は大納言なにがしの給はりにてなんありけるに、京に至りつきてかのみもと近く行よりて、法師の云やう、「人を尋むと思ふに、此かたちあやしく侍るに、衣けさたづね給りてんや。」と云ふ。すなはちかりてきせつ。主の男をぐして、かれを門にをきて、(*僧は)さし入て「物申侍らん。」と云に、こゝらあつまれる物共、此人をみてはら/\とおりひざまづきてうやまふをみるに、伊賀のおとこ、門のもとよりこれをみてをろかに覺えんやは。「淺まし。」と守り奉る。
すなはちかくと聞て、大納言いそぎ出あひてもてなしさはがるゝさま、事の外也。「さても『いかに成給けるにか。』と思ふばかりなくて過侍りつるに、さだかにおはしけるこそ。」などかきくどきの給へり。それをばことずくなにて、「さやうの事は靜に(*そのうちのんびりと)申侍らん。今日はさして申べきこと有てなん。いがの國に年比あひ頼みて侍つるものゝ、はからざる外にかしこまりをかうぶりて、國の内をゝはるゝとて歎侍り。いとおしう侍るに、若深きおかしならずは、此法師に許し給りなんや。」と聞ゆ。「とかく申べきならず。さやうにておはしければ、わざとも(*とりわけ)思ひしるべき男にこそ侍るなれ。」とて、元よりもまさゞまに悦ぶべき(*より所領を下さるという)聽〔廳カ〕宣(*「庁宣」は国司が支配地へ下す公文書。)のたまはせたりければ、悦て出す(*「出づ」か)。
又伊賀の男あきれまどへるさま、理也。さま/〃\に思へど、あまりなる事は中々えうちいださず。「宿に歸りてのどかに聞えん。」と思ふ程に、衣けさの上に有つる聽宣さしをきて、きと(*さっさと)立出るやうにて、やがていづちともなくかくれにけりとぞ。これもかの玄敏僧都のわざになん。ありがたかりける心なるべし。
平等供奉山をはなれて異州に趣く事
中比、山に平等供奉(*『今昔物語集』に長増、『古事談』に平燈とするという。)とてやむごとなき人有けり。すなはち天台眞言の祖師(*高僧)也。ある時、かくれ所(*便所)にありけるが、にはかに露のむじやうをさとる心おこりて、「何としてかくはかなき世に、名利にのみほだされて、いとふべき身をおしみつゝ、むなしく明しくらすところぞ。」と思ふに、過にしかたもくやしく、とし比のすみかもうとましくおぼしければ、さらに立かへるべき心ちせず、白衣にてあしたさしはきおりけるまゝに、衣などだにきず、いづちともなく出て、西の坂をくだりて京のかたへくだりぬ。
いづくに行とゞまるべしとも覺えざりければ、ゆかるゝにまかせて淀の方へまどひありき、くだり船のありけるにのらんとす。貌(*かたち)などもよのつねならずあやしとてうけひかねども、あながちにたのみければのせつ。「さてもいかなる事によりて、いづくへおはする人ぞ。」ととへば、「さらに何事と思ひわきたる事もなし。さして行つく所もなし。たゞいづかたなりとも、おはせんかたへまからんと思ふ。」といへば、「いと心えぬ事のさまかな。」とかたぶきあひたれど、(*船人も)さすがになさけなくはあらざりければ、おのづから此舟のたよりに伊與の國にいたりにけり。さてかの國にいづちともなく迷ひありきて、乞食をして日をおくりければ、國の者ども「門乞食」とぞつけたりける。
山の坊には、「あからさまにて出給ぬるのちひさしうなりぬるこそあやしうなむ。」といへど、かくとはいかでか思ひよらん。「おのづからゆへこそあらめ。」などいふほどに、日もくれ夜もあけぬ。おどろきてたづねもとむれどさらになし。いふかひなくして、ひとへになき人になしつゝ、なく/\あとのわざ(*「後〔のち〕の業」に同じ。葬儀。)をぞいとなみあへりける。
かゝるあひだに、此國の守なりける人、供奉の弟子に淨眞(*静真)阿闍梨といふ人をとし比あひしたしみて、いのりなどせさせければ、國へくだるとて、はるかなるほどにたのもしからんとて、具して下りにけり。此門乞食、かくともしらでたちの内へ入にけり。物をこふあひだに、わらんべどもいくらともなくしりにたちてわらひさいなむを、此阿闍梨あはれみて、「物などとらせん。」とてまぢかくよぶ。おそれ/\えんのきはへ來たるをみれば、人のかたちにもあらず、やせおとろへ、物のはら/\とあるつゞりばかりきて、まことにあやしげなり。さすがに見しやうにおぼゆるを、よく/\おもひ出れば、わが師なりけり。あはれにかなしくて、すだれのうちよりまろび出て、縁のうへに引のぼす。守よりはじめてありとある人、おどろきあやしむあまり(*「あやしむ。あざり」か)、なく/\さまざまにかたらへど、詞ずくなにてしゐていとまをこひてさりにけり。
いふばかりもなくて、あさの衣やうのもの用意して、ある所をたづねけるに、ふつとえたづねあはず。はてには國の者どもにおほせて、山林いたらぬくまなくふみもとめけれどもあはで、そのまゝにあとをくらうして、つゐに行すゑもしらずなりにけり。その後はるかに程へて、人もかよはぬ深山のおくのC水のある所に「死人のある。」と山人のかたりけるに、あやしくおぼえてたづね行てみれば、此法師西にむかひて合掌して居たりけり。いとあはれにたうとく覺えて、阿闍梨なく/\とかくの事どもしけり。
今もむかしも、まことに心をおこせる人はかやうに古郷をはなれ、見ずしらぬところにて、いさぎよく名利をばすてゝうするなり。ぼさつのむしやうにん(*無生忍。無生の真理を悟ること。)をうるすらもと見たる人のまへにては神通をあらはすことかたしといへり。いはんや、今おこせる心はやむごとなけれど、いまだふたいのくらゐ(*不退の位。信心が固まった境地。)にいたらねば、事にふれてみだれやすし。古郷にすみ、しれる人にまじりては、いかでか一念のまうしんおこらざらむ。
千觀内供遁世籠居の事
千觀内供(*10世紀の人。橘俊貞の子。愛宕念仏寺を再興。念仏上人と呼ばれたという。)といふ人は、智證大師(*円珍)のながれ(*園城寺の学僧)、ならびなき智者なり。もとより道心ふかゝりけれど、いかに身をもてなしていかやうにおこなふべしとも思ひさだめず、おのづから月日をおくりけるあひだに、ある時公請ぐしやう(*「くじゃう」。朝廷から法会・講義に招請されること。)をつとめてかへりけるに、四條河原にて空也上人にあひたりければ、車よりおりてたいめんし、「さてもいかにしてか後世たすかる事は仕るべき。」と聞えければ、上人これをきゝて、「何さかさまごとはの給ふぞ。さやうの事は御房なんどにこそとひたてまつるべけれ。かゝるあやしの身はたゞいふかひなくまよひありくばかりなり。さらに思ひみだる事侍らず。」とてさりなんとし給ひけるを、袖をひかへてなを念比にとひければ、「いかにも身をすてゝこそ。」とばかりいひて、引はなちてあしばやに行過給ひにけり。
その時内供、河原にてしやうぞくぬぎかへて、車に入て、「ともの人はとく房へかへりね。我はこれより外へいなむずるぞ。」といひてみな返しつかはして、たゞひとり蓑尾(*箕面)といふ所にこもりにけり。されどなをかしこも心にかなはずやありけん、居所思ひわづらはれける程に、ひんがしのかたに金色の雲のたちたりければ、そのところを尋てそこにかたのごとくいほりをむすびてなん跡をかくせりける。すなはち今の金龍寺(*摂津国高槻の金龍〔こんりゅう〕寺)といふは是也。かしこにとしごろ行ひて、終に往生をとげけるよし、くはしく傳(*『日本往生極楽記』という。)にしるせり。此内供は人の夢に千手觀音の化身と見たりけるとかや。千觀といふ名は、かのぼさつの御名を略したるになん有ける。  
 

 

多武峰増賀上人遁世往生の事
増賀(*「ぞうが・そうが」)上人は經平のさいしやう(*参議橘恒平)の子、慈惠(*「じゑ」)僧正(*良源。元三〔がんさん〕大師。)の弟子なり。此人おさなかりしに、せきとく(*碩徳)人にすぐれたりければ、「ゆくすゑにはやむごとなき人ならん。」とあまねくほめあひたりけり。しかれども、心のうちにはふかく世をいとひて、名利にほだされず、極樂にむまれんことをのみぞ人しれずねがはれける。
思ふばかり道心のおこらぬ事をなげきて、根本中堂に千夜まいりて、夜ごとに千べんの禮をして道心をいのり申けり。はじめは禮のたびごとにいさゝかもこゑたつる事もなかりけるが、六七百夜になりては「つき給へ、/\。」としのびやかにいひて禮しければ、きく人、「此僧は何事を祈り『天狗つき給へ。』といふかな。」と、かつはあやしみ、かつはわらひけり。をはりがたになりて、「道心つき給へ。」とさだかに聞えける時、「あはれなり。」などぞいひける。
かくしつゝ千夜みちて後、さるべきにやありけん、世をいとふ心いとゞふかくなりにければ、「いかにしてか身をいたづらになさん。」とついでをまつほどに、ある時内論義(*「内論議」。正月、御前での議論会。)といふ事ありけり。さだまる事にて、論義すべきほどのおはりぬれば、饗(*「きゃう」)を庭になげすつれば、もろ/\の乞食方/\にあつまりてあらそひとりてくらふならひなるを、此宰相禪師にはかに大衆の中よりはしり出て、これを取てくふ。みる人、「此禪師は物にくるふか。」とのゝしりさはぐをきゝて、「我は物にくるはず。かくいはるゝ大衆たちこそ物にくるはるめれ。」といひてさらにおどろかず。「あさまし。」といひあふほどに、これをいて(*「ついで」か。)として籠居しにけり。後には大和の國たふのみね(*多武峰)といふ所にゐて、思ふばかりつとめおこなひてぞとしを送りける。
そのゝちたうとき聞えありて、時の后の宮の戒師(*「かいのし」。出家する人に戒を授ける僧。)にめしければ、なまじゐにまいりて、南殿のかうらんのきはによりて、さま/〃\に見ぐるしきことゞもをいひかけて、むなしく出ぬ。
又ほとけくやうせんといふ人のもとへ行あひだに、説法すべきやうなど道すがらあんずとて、「名利を思ふにこそ魔縁たよりをえてけり。」とて、行つくやおそきそこはかとなき事をとがめて、施主といさかひてくやうをもとげずしてかへりぬ。
これらのありさまは、「人にうとまれてふたゝびかやうの事をいひかけられじ。」となるべし。
又師の僧正よろこび申し給ひける時、前駈の數に入てからざけといふ物を太刀にはきて、骨限(*「ばかり」か。)なる女牛のあさましげなるにのりて、やかたにつかまつらん(*前駆をいたそう。「やかた口つかまつらん」という本文もある。)とて、おもしろく折まいりければ、見物のあやしみ思は〔おどろか イ〕ぬはなかりけり。かくて「名聞こそくるしかりけれ。かたい(*乞食)のみぞたのしかりける。」とうたひて、うちはなれにけり。僧正も凡人ならねば、かの「我こそやかたにうため(*「打つ」は馬〔牛〕を駆けさせる意か。「屋形」は師の乗物を指し、前駆する意をいうか。前同様、「やかた口うため」とする本文もある)。」とのたまふこゑの、僧正の耳には「かなしき哉。わが師惡道に入なむとす。」ときこえければ、車のうちにて「これも利生のためなり。」とこたへ給ひけるとかや。
此上人、いのち終らんとしける時、まづ碁盤をとりよせてひとり碁をうち、次に障泥あをり(*「あふり(アオリ)」。泥除けの馬具。)をこふて、これをかづきて小蝶と云舞のまねをす。弟子どもあやしみてとひければ、「いとけなかりし時、此二事を人にいさめられて、思ひながらむなしくやみにしか。心にかゝりたれば、『もし生死の執となる事もぞある。』と思ひて。」とこそいはれけれ。
すでに聖衆のむかへを見て、よろこびてうたをよむ。
みづはさす 八十あまりの 老の浪 くらげのほねに あひにけるかな
とよみておはりにけり。
此人のふるまひ、世の末には物ぐるひともいひつべけれども、境界(*習わしに従う生活)はなれんための思ひばかりなれば、それにつけても有がたきためしにいひをきけり。人にまじはるならひ、たかきにしたがひ、下れるをあはれむにつけても、身は他人の物となり、心は恩愛のためにつかはる。これこの世のくるしみのみにあらず、出離のおほきなるさはり也。きやうがひをはなれんより外には、いかにしてかみだれやすき心をしづめむ。
高野の南筑紫上人出家登山の事
中ごろ、高野に南づくしとてたうとき聖人(*『三外往生記』『閑居友』等に南筑紫・北筑紫という鎮西出身の僧の伝を載せるという。)ありけり。もとはつくしの者にて、所知などあまたある中に、かの國のれいとして門田おほくもちたるをいみじき事と思へるならひなるを、此おとこは家のまへに五十町ばかりなむもちたりける。
八月ばかりにやありけむ、あしたにさし出て見るに、ほなみゆら/\と出ととのほりて(*原文「出とくのほりて」)、露心よくむすびわたして、はる/〃\見えわたるに、思ふやう、「此國にかなへるきこえある人おほかり。しかれども、門田五十町もてる人はありがたくこそあらめ。下らうの分にはあはぬ身かな。」と心にしみて思ひゐたるほどに、さるべきしゆくぜん(*宿善)やもよほしけん、又思ふやう、「そも/\これは何事ぞ。この世のありさま、昨日ありと見し人、けふはなし。あしたにさかへる家、ゆふべにをとろひぬ。一たびまなこをとづる後、おしみたくはへたる物、なにのせんかある。はかなき執心にほだされて、ながく三途(*地獄)にしづみなむ事こそいとかなしけれ。」とたちまちに無常をさとれる心つよくおこりぬ。又おもふやう、「わが家に又かへり入なば、妻子ありけんぞくもおほかり。さだめてさまたげられなんず。たゞ此ところをわかれて、しらぬ世界に行て、佛道をおこなはん。」と思ひて、あからさまなる躰ながら(*ちょっと家を出た姿のまま)京へさしてゆく。
その時さすがに物のけしきやしるかりけん、ゆきゝの人あやしがりて、家につげたりければ、おどろきさはぎてけるさまことはりなり。其中にかなしくしけるむすめの十二三ばかりなる者ありけり。なく/\おひつきて、「我をすてゝはいづくへおはします。」とて袖をひかへたりければ、「いでや(*なんと)、おのれにさまたげらるまじきぞ。」とて、刀をぬき(*己の)かみをおしきりつ。むすめおそれおのゝきて、袖をばはなちてかへりにけり。かくしつゝ、これよりやがて高野の御山へ上りて、かしらをそりて、ほいのごとくなむおこなひけり。かのむすめ、おそれてとゞまりたりけれど、なをあとをたづねて、あまになりて、かの山のふもとにすみて、しぬるまで物うちすゝぎ、たちぬふわざをしてぞけうやう(*孝養)しける。
此聖人、後にはとくたかくなりて、たかきもいやしきも歸せぬ人なし。たうをつくりくやうせんとしける時、導師を思ひわづらふあひだに、夢にみるやう、「此堂は、その日その時、淨名居士(*維摩詰。後に「さまをやつし」た法師が登場することと呼応する。)のおはしまして供養し給ふべき也。」と人のつぐるよし見ければ、すなはちまくらしやうじにかきつけ、いとあやしけれど「やうこそあらめ。」とおもひて、おのづから日を送りけり。
まさしくその日になりて、堂しやうごんして心もとなく待ゐたれば、あしたより雨さへふりて、さらに外より人のさし入もなし。やう/\時になりて、いとあやしげなる法師のみのかさきたる、出來りておがみありくありけり。すなはちこれをとらへて、「待たてまつりけり。とく此堂をこそくやうし給はめ。」といふ。法師おどろきていはく、「すべてさやうのさいかく(*才覚・才学)の者にはあらず。あやしのものゝ、おのづから事のたよりありてまいり來れるばかりなり。」とて、ことの外にもてなしけれど、かねて夢のつげありしやうなどかたりて、かきつけたりし月日のたしかに今日にあひかなへることをみせたりければ、のがるべきかたなくて、「さらば、かたのごとく申上侍らん。」とてみの笠ぬぎすてゝ、たちまちに禮盤にのぼりて、なべてならずめでたく説法したりけり。此導師は、天台の明賢阿闍梨になむありける。かの山をおがまんとて、忍びつゝさまをやつしてまうでたりける也。これより此あじやりを高野には淨名居士の化身といふなるべし。
此上人は、ことにたうとき聞えありてぞ、白河院は歸依し給ひける。高野は此聖人の時よりことにはんじやうしにけり。つゐにりんじう正念にして往生をとげたるよし、くはしく傳(*『三外往生記』という。)に見えたり。おしむべき資材につけて厭心(*原文「厭」字の厂なし。)をおこしけん、いとありがたき心なり。二世の苦をうくる事は、たからをむさぼる心をみなもとゝす。人もこれにふけり、われもふかくぢやくする(*「著する」)ゆへに、あらそひねたみて、貪慾(*「とんよく」)もいやまさり、瞋恚もことにさかへけり。人のいのちをもたち、他のたからをもかすむ。家ほろび國のかたぶくまでも、皆是よりおこる。此ゆへに「よくふかければ、わざはひおもし。」ともとき、又「欲の因縁をもつて三惡道に墮す。」ともとけり。かゝれば「彌勒の世には、たからを見てはふかくおそれいとふべし。釋迦のゆいほう(*遺法)の弟子、これがために戒をやぶり罪をつくりて、地ごくにおちけるもの也。」とて、「どくじやをすつるがごとく、道のほとりにすつべし。」といへり。
小田原教壞上人水瓶を打破事
小田原といふ寺(*高野山の小田原谷)に、教壞上人(*教懐。藤原教行の子。小田原聖と称せられた。高野聖の祖の一人という。『高野山往生伝』に伝記があるという。院政期初めの頃の人。)といふ人ありけり。のちには高野にすみけるが、あたらしき水瓶(*「すいびょう」〔すいびん〕=水差し)のやうなどもおもふやうなるをまうけて、ことに執し思ひけるを、えんにうちすてゝおくの院へまいりにけり。かしこに念誦などして一心に信仰しける時、このすいびんを思ひ出して、「あだにならべたりつる物を。人やとらん。」とおぼつかなくて、心一向にもあらざりければ、よしなくおぼえて、かへるやをそきとあまだり(*雨垂り)の石だゝみのうへにならべて、うちくだき捨てけり。〔或云、水瓶を金瓶といへり。〕
又横川に尊勝のあじやり陽範といひける人、めでたき紅梅をうへて、又なき物にして、花ざかりにはひとへにこれをけうじつゝ、おのづから人のおるをもことにおしみさいなみける程に、いかゞ思ひなん(*「思ひけん」か)、弟子なども外へゆきて人もなかりけるひまに、心もなき小法師のひとり有けるをよびて、「よき(*手斧)やある。もてこよ。」といひて、此梅の木を土ぎはよりきりて、上にいさごうちちらし、あとかなくてゐたり。弟子かへりておどろきあやしみて、ゆへをとひければ、たゞ「よしなければ。」とぞこたへける。
これらはみな執をとゞむる事をおそれける也。教壞も陽範も、ともに往生をとげたる人なるべし。まことに、かりの家にふけりてながきやみにまよふ事、たれかはをろかなりと思はざるべき。然れども、せゞしやう/〃\(*世々生々=生々世々)にぼんなふのつぶね・やつこ(*奴隷)となりけるならひのかなしさはしりながら、我も人もえおもひすてぬなるべし。
佐國花をあひして蝶となる事
或人圓宗寺の八かう(*八講。法華八講会。)といふ事にまいりたりけるに、時まつほどやゝ久しかりければ、そのあたりちかき人の家をかりてしばらくたち入たりけるが、かくてその家をみれば、つくれる家のいとひろくもあらぬ庭に、前栽をえもいはず木どもうへて、上にかりやのかまへをしつゝ、いさゝか水をかけたりけり。いろ/\の花、かずをつくしてにしきをうちおほへるがごとく見えたり。ことにさま/〃\なる蝶いくらともなくあそびあへり。ことざまのありがたくおぼえて、わざとあるじをよび出て、此事をとふ。
あるじのいふやう、「これはなをざりの事にもあらず。おもふ心ありてうへて侍り。をのれは佐國と申て、人にしられたる博士の子にて侍り。かのちゝ世に侍りし時、ふかく花をけうじて、おりにつけてこれをもてあそび侍りき。かつはその心ざしをば詩にもつくれり。『六十餘國見れどもいまだあかず。他生にもさだめて花を愛する人たらん。』など作りおきて侍りつれば、おのづから生死の會執にもやまかりなりけんとうたがはしく侍りしほどに、あるものゝ夢に『蝶になりて侍る。』と見たるよしをかたり侍れば、つみふかくおぼえて、『しからば、もしこれらにもやまよひ侍るらん。』とて、心のおよぶ程うへて侍る也。それにとりて、たゞ花ばかりはなをあかず侍れば、あまづらみつなどを朝ごとにそゝき侍る。」とぞかたりける。
又六波羅寺の住僧幸仙といひける者は、とし比道しんふかゝりけるが、たちばなの木をあひし、いさゝかの執心によりてくちなはとなりて、かの木の下にぞすみける。くはしくは傳(*未詳)にあり。
かやうに、人にしらるゝはまれなり。すべて念々のまうしう、一々に惡身をうくる事は、はたしてうたがひなし。まことにおそれてもおそるべき事なり。
神樂岡C水谷佛種房の事
神樂岡のしみづ谷といふとっころに、佛種房とてたうとき聖人ありけり。たいめんしたる事はなかりしかども、ちかき世の人なりしかば、つゐにわうじやう人とて人のたつとみあひしをばつたへきゝ侍りき。
此聖人、そのかみ水のみといふ所にすみ侍りける比、木ひろひに谷へくだりけるあひだに、ぬす人いりにけり。わづかなる物ども、みなとりて「とをくにげぬ。」と思て、かへり見れば、もとのところなり。「いとあやし。」と思ひて「なをゆくぞ。」と思ふほどに、二時ばかりかの水のみの湯やをめぐりて、さらに外へさらず。そのときに、ひじりあやしみてとふ。答へていふやう、「我はぬす人なり。しかるに、とをくにげさりぬとおもへども、すべて行事を得ず。是たゞ事にあらず。今にいたりては、物をかへし侍らん。ねがはくはゆるし給へ。まかりかへりなん。」といふ。聖のいはく、「なじかはつみぶかくかゝる物をばとらんとする。たゞし、ほしう思ひてこそはとりつらん。さらに返しうべからず。それなしとも、我はことかくまじ。」といひて、ぬす人になをとらせてやりけり。大かた、心にあはれみふかくぞありける。
としをへて、かのC水谷にすみける時、あひたのみたるだんをつ(*檀越)あり。ふかくきえして、折ふしにはおくり物し、事にふれては心ざしをはこびつゝ過けるに、ことにこの聖わざと出きたりていふやう、「思ひかけずおぼしぬべけれど、年ごろたのみ奉りて侍るなり。此ほど夢のごとくなる(*いささかばかりの)庵室をつくるとて、たくみをつかひ侍りしが、魚をよげにくらひ侍りしがうらやましくて、うをのほしく侍れば、『この殿にはおほく侍るらん。』と思ひて、わざとまいれるなり。」といふ。あるじ、おろかなるおんな心に「あさまし。」と思ひの外におぼえけれど、よきやうにしてとり出したりければ、よく/\くらうて殘りをばかはらけをふたにおほひて、かみにひきつゝみて、「是をばあれにてたべん。」とて、ふところに入て出にけり。そのゝち此人ほいなくおぼえながら、さすがに心ぐるしく思ひやりて、「一日の御家づと夢がましく見え侍りしかば、かさねてたてまつるなり。」とて、さま/〃\にてうじておくりたりけれど、そのたびはとゞめず、「御心ざしはうれしく侍べり。されども、一日の殘りにたべあきて、今はほしくも侍らねば、これをかへしたてまつる。」となむいひたりける。これも「此世に執をとゞめじ。」と思ひけるにや。
此佛種房、ある時風氣ありてわづらひけり。かたのやうなる家あれこぼれて、つくろふ事なし。やまひをみる人もなければ、ひとりのみやみふせりけるに、時は八月十五夜の月いみじくあかゝりける夜、よひよりこゑをあげて念佛する事あり。まぢかき家/\たうとくなん聞え、きあつまりてみるに、板間もあはずあれたる家に、月のひかりこゝろのまゝにさし入たるより外にと(*戸)もなし。夜中うち過るほどに、「あなうれし。これこそは、とし比思ひつることよ。」といふをと(*「こゑ」か。後に念仏の「おと」とあり。)かべの外にきこえけり。そのゝちは念佛のおともせずなりぬ。夜あけて見ければ、西にむかひて端坐し、合掌してねぶるがごとくにてぞありける。此家はすこしもはなれず、あやしの下らうのいゑどもの軒つゞきになむ有ける。  
 

 

天王寺聖隱コの事
ちか頃、天王寺にひじりありけり。ことばのすゑごとに「るり」といふ二文字をくはへていひければ、やがて字の名につけて瑙璃とぞいひける。そのすがた、ぬのゝつゞり・かみぎぬなどのいふばかりなくゆかしげに(*昔の後をとどめないほどに、という意か。)やれはらめきたるを、いくらともなくきふくれて、布袋のきたなげなるに、こひあつめたる物をひとつにとり入て、ありき/\これをくらふ。わらんべいくらともなくわらひあなづれど、さらにとがめはらだつ事なし。いたくせたむる(*「責むる」=苛める)時は、ふくろより物をとり出してとらすれば、わらんべどもきたながりてこれをとらず。すつれば又とりて入つゝ、つねにはさま/〃\のすぞろごとをうちいひて、ひたすら物ぐるひにてなむ有ける。さしてそこに跡とめたりとみゆるところなし。かきのね・木のした・ついぢにしたがひて夜をあかす。
そのころ大塚といふところに、やむごとなき智者有けり。ある時、「雨のふりてまかりよるべき所もなければ、この縁のかたはしにさぶらはむ。」といひければ、れいならずあやしく覺えけれど、さながらおきつ。夜ふけて聖がいふやう、「かくたま/\まいりよりて侍べり。としごろおぼつかなく思ひ給へる事ども、はるけ侍らばや。」といふ。事の外におぼゆれど、よのつねの人のやうにあひしらふ程に、やう/\天台宗の法門どものえもいはぬことはりどもたづねつ。又あるじ、あさましくめづらかに覺えてよもすがらねず、さま/〃\にとひこたへて、明ぬれば、「今はいとま申侍らん。」とて、「心にいぶかしく思ひ給へる事ども、おかしく、今よひさぶらひてはるけ侍りぬ。」とてさりぬ。又此事ありがたくたうとく覺えけるまゝに、そのあたりの人どもにかたりたりければ、そしりいやしめし心をあらためて、かたへは權者(*仏菩薩の化身・高徳の僧)のうたがひをなしてたうとみけり。
されど、その有さまはさき/〃\に露かはらず。「さることやありける。」と人のとふ時には、うちわらひてそゞろごとにぞいひなしける。かやうに人にしられぬることをうるさくや思ひけん、つゐには行がたもしらせずなりにけり。としへて人かたりけるは、和泉の國に乞食しありきけるが、おはりには人もきよらぬ所の大きなる木のもとに、した枝にほとけかけたてまつりて、西にむかひ合掌して居ながらまなこをとぢてなむありける。その時はしれる人もなくて、後に見つけたりけるなり。
又近頃世に佛みやうといふ乞食ありけり。それもかのひじりのごとく物ぐるひのやうにて、くひ物はうを・鳥をもきらはず、著物はむしろ・こもをさへかさねきつゝ、人のすがたにもあらず。あふ人ごとに、かならず「あま人・法師・おとこ人・女人等しやう/〃\。」といひおがむわざをしければ、それを名につけてなむ、見とみる人みなつたなくゆゝしき者とのみ思ひけれど、げにはやうありけるものにや。阿證房といふひじりをとくい(*親しい友人)にして、思ひかけぬ經論などをかりて、人にもしらせず、ふところに引いれてもて行て、日比へてなむかへす事をつねになんしける。つゐに切提のうへに、西にむかひて合掌たんざしてをはりにけり。
これらは、すぐれたる後世しやのひとつのありさま也。「大隱は朝市にあり。」(*王康琚「反招隠詩」)といへる、すなはち是也。かくいふ心は、賢き人の世をそむくならひ、わが身は市の中にあれども、そのとくをよくかくして人にもらさぬなり。山林にまじはりあとをくらふするは、人の中にありてコをえかくさぬ人のふるまひなるべし。
高野の邊の上人僞て妻女をまうくる事
高野のほとりに、とし比おこなふひじりありけり。もとは伊勢のくにの人なりけり。おのづからかしこにゐつきたるなり。行コあるのみならず、人の歸依にていとまづしくもあらざりければ、弟子などもあまた有けり。年やう/\たけて後、ことにあひ頼みたる弟子をよびていひけるやう、「きこゑばやと思ふ事の日頃侍るを、その心のうちをはゞかりてためらひ侍りつるぞ。あなかしこ/\(*決して)、たがへ給ふな。」といふ。「何事なりとものたまはむこと、いかでたがへ侍らん。又へだて給ふべからず。すみやかにうけたまはらん。」といへば、「かく人をたのみたるやうにて過す身は、さやうのふるまひ思ひよるべき事ならねども、年たかくなりゆくまゝに、かたはらもさびしく、ことにふれてたづきなく覺ゆれば、さもあらん人をかたらひて、よるのとぎにせばやとなむ思ひたる也。それにとりて、いたうとしわかゝらん人はあしかりなむ。物の思ひやりあらん人を忍びやかにたづねて、わがとぎにせさせ給へ。さて世の中のことをば、それ(*あなた)にゆづり申さん。たゞわがありつるやうに此坊のぬしにて、人の祈りなどをもさたして、我をばおくの屋にすへて、二人がくひ物ばかりを、かたのやうにしておくり給へ。さやうになりなん後は、そこの心のうちもはづかしかりぬべければ、たいめんなどもえすまじ。いはんやその外の人にはすべて世にある物ともしるべからず。死うせたる物のやうにて、わづかにいのちつぐべくばかり沙汰し給へ。これをたがへ給はざらんばかりぞ、とし比のほいなるべし。」とかきくどきつゝいふ。淺ましく思はずにおぼえながら、「かやうに心をかずかたらはする、ほいに侍り。いそぎたづね侍らん。」といひて、ちかくとをくきゝありきけるほどに、おとこにおくれたりける人のとし四十ばかりなる有けるを聞いでゝ、念比にかたらひてたよりよきやうにさたしすへつ。
人もとをさず、我もゆくこともなくて過けり。おぼつかなくも物いひあはせまほしきおりもあれど、さしも契りしことなれば、いぶせながらすぐるほどに、六年へてのち、此女人うちなきて、「このあかつき、はやおはり給ひぬ。」とてきたる。おどろきて行てみれば、持佛堂の内にほとけの御手に五色の糸かけて、それを手にひかへて、けうそくにうちよりかゝりて念佛しける手もちともかはらずすゞのひきかけられたるも、たゞいきたる人のねぶりたるやうにて、露もれいにたがはず、壇には行ひの具うるはしくおき、鈴の中にかみをおしいれたりけり。いと悲しくて、事の有さまをこまかにとへば、女のいふやう、「とし比かくて侍りつれども、例のめをとのやうなる事なし。よるはたゝみをならべて、われも人も目さめたる時は生死のいとはしきやう、淨土ねがふべきやうなどをのみ、こま/〃\とおしへつゝ、よしなき事をばいはず、ひるはあみだの行法三度ことかく事なくて、ひま/\には念佛をみづからも申、又我にもすゝめ給ひて、はじめつかた二月三月までは心をおきて、『かくよのつねならぬありさまをわびしくやは思ふ。さらばこゝろにまかすべし。もしうとき事になるとも、かやうにえんをむすぶもさるべき事なり。此ありさまをゆめ/\人にかたるな。もし又たがひに善知識とも思ひて、後世までのつとめをもしづかにせんとならば、こひねがふところなり。』とのたまひしかば、『さら/\御心おき給ふべからず。とし比あひぐしたりし人をはかなく見なして、いかでかその後世をもとぶらはざらむ。我も『又かゝるうき世にめぐりこじ。』とねがひいとふ心は侍りしかど、さても一日たちめぐるべきやうもなき身にて、ほいならぬかたにて見たてまつれば、なべての女のやうにおぼすにや。ゆめ/\しかにはあらず。いみじき善知識と人しれずよろこびてこそすぎ侍りし。』と申しかば、『かへす/\うれしき事。』とて、いまかくれ給へることもかねてしりて、『おはらん時、人になつげそ。』とありしかば、かくとも申さず。」とぞいひける。
美作守顯能家に入來る僧の事
美作守あきよしのもとに、なまめきたる僧の入來りて、經をよにたうとくよむあり。あるじきゝて、「なにわざし給ふ人ぞ。」といふ。ちかくよりていふやう、「乞食に侍り。但、家ごとに物こひありくわざをばつかまつらず。西山なる寺にすみ侍るが、いさゝかのぞみ申べき事ありてなん。」といふ。物ざま無下に思ひくたすべきにはあらざりければ、こまやかにたづねとふ。「申すにつけていとことやうには侍れど、あるところのなま女房をあひかたらひて、物すゝがせなどし侍りし程に、はからざる外にたゞならず成て、この月にまかりあたりて侍るを、ひとへにわがあやまちなれば、『ことさらこもりゐて侍らむほど、かれがいのちつぐばかりの物あたへ侍らばや。』と思ひ給へるが(*「給ふるが」とあるべきところ)、いかにも/\ちからをよび侍らねば、もし御あはれみや侍るとてなむ。」といふ。
事のおこりはげにもとはおぼえずなれど、「さこそ思ふらめ。」といとおしく覺えて、「いとやすき事にこそ。」とておしはからひて、人ひとりにもたせてそへてとらせんとす。此僧のいふやう、「かた/〃\きはめてつゝましく侍り。ことさら『そことはしられじ。』と思ひ給へるなり。身づからもちてまからむ。」とて、もたるゝ程おふていでぬ。あるじなをあやしく思ひて、さやうのかたにいふかひなき者をつけてやる。さまをやつして見がくれにゆきけるほどに、北山のおくにはる/〃\とわけ入て、人もかよはぬ深谷に入にけり。一間ばかりなるあやしき柴のいほりのうちに入て、物うちならべて、「あなくるし。三ほう(*三宝)のたすけなれば、安居(*「あんご」)の食もまうけたり。」とひとりうちいひて、あしうちあらひてしづまりぬ。此つかひ、「いとめづらかにもあるかな。」ときゝけり。日くれて、こよひかへるべくもあらねば、木かげにやはらかくれゐにけり。夜ふくるほどに、ほけきやうをよもすがらよみ奉るこゑいとたうとくて、なみだもとゞまらず。
明るやおそしとたちかへりて、あるじに有つるやうをきこえければ、おどろきながら、「さればよ。たゞものにはあらずと見き。」とて、かさねて消息をやる。「思ひがけず安居の御れうとうけ給はる。しかあらば、一日の物はすくなくこそ侍らめ。これをたてまつる。なをもいらん事候はゞ、かならずの給はせよ。」といはせたりければ、きやう打よみて何とも返事いはざりけり。とばかり待かねて、物をばいほりのまへにとりならべてかへりぬ。日ごろへて、「さてもありつる僧こそ不審なりけれ。」とておとづれたりけれど、そのいほりには人もなくて、さきにえたりし物をば外へもちいにけるとおぼしくて、後の送り物をばさながらおきたりければ、鳥けだものくひちらしたるやうにて、こゝかしこにこぼれちりてぞありける。
まことに道心ある人は、かく我身のとくをかくさんと、とがをあらはして、たうとまれん事をおそるゝなり。もし人世をのがれたれども、「いみじくそむけりといはれん。たうとくおこなふよしをきかれむ。」と思へば、世俗のみやうもん(*名聞)よりもはなはだし。此ゆへに、ある經に、「出世の名聞は、たとへば血をもつて血をあらふがごとし。」とゝけり。もとの血はあらはれておちもやすらん。しらず、今の血は大きにけがす。おろかなるにあらずや。  
 

 

安居院聖京中に行時隱居僧にあふ事
近比あぐゐにすむひじりありけり。なすべき事ありて京へ出けるみちに、大路づらなる井のかたはらに、げすのあまの物あらふありけり。此ひじりを見て、「こゝに人の『あひたてまつらん。』と侍るなり。」といふ。「たれと申ぞ。」といへば、「今たいめんしてぞ(*原文「たいめんてぞ」)のたまはせんずらん。」といひて、「たゞきとたち入給へ。」とせつ/\にいひければ、思はずながら尼をさきにたてゝゆき入てみれば、はるかにおくぶかなる家のちいさくつくれるに、としたけたる僧一人あり。
そのいふことをきけば、「いまだしりたてまつらざるに、申はうちつけなれど、かくてかたのごとく後世のつとめをつかまつり侍りつれど、しれる人もなければ善智識もなし。又まかりかくれなんのちはとかくすべき人もおぼえ侍らぬによりて、『たれにても後世者とみゆる人すぎ給はゞ、かならずよびたてまつれ。』とうはのそらに申て侍りつる也。さてもしうけひき給はゞ、あやしげなれど、あとにのこるべき人もなし、ゆづり奉らんと思ひ給へる(*「給ふる」。以下、一々断らない。)なり。それにとりて、かくて侍るを、あしくも侍らず、中/\しづかに侍るを、となりに撿非違使の侍りつるあひだに、罪人をせめとへるをとなどのきこえてうるさく侍りつれば、『まかりさりなばや。』と思ひ給へれど、『さてもいく程もあるまじき身を。』となむ思ひわづらひ侍る。」など、こまやかにかたる。
此ひじり、「かやうにうけ給はる、さるべきにこそ。のたまはする事はいとやすきことに侍り。」とて、あさからず契りて、おぼつかなからぬほどにゆきとぶらひつゝ過けり。そのゝち、いく程なくかくれける時、ほいのごとく行あひて、これを見あつかふ。彌勒の持者なりければ、其みやうがうをとなへ、眞言などみてゝ(*十分に唱えて)、りんじうおもふやうにておはりにけり。いひしがごとく、とかくの事など又口入(*干渉)する人もなし。されど此家をば、そのあまになむとらせたりける。さて、かのあまに、「(*亡くなった僧は)いかなる人にておはせしぞ。又何事のえんにて世をばわたり給ひしぞ。」などとひければ、「我もくはしき事、はたえしり侍らず。思ひがけぬゆかりにてつきたてまつりて、とし比つかうまつりつれど、誰とか申けん。又しれる人のたづね侍るもなかりき。たゞつく/〃\とひとりのみおはせしに、時料(*「斎料」=〔僧にとって〕米銭)は二人が程を、たれ人ともしらぬ人の、うするほどをはからひてまかりすぎし。」とぞかたりける。これもやうある人にこそ。
禪林寺永觀律師の事
永觀律師(*「ようくゎん・えいくゎん」。十一世紀の僧。文章生源国経の子。東大寺で三論宗を学んだ。)といふ人ありけり。とし比念佛の心ざしふかく、名利を思はず、世をすてたるがごとくなりけれど、さすがにあはれにもつかまつりしれる人をわすれざりければ、ことさらふかき山をもとむる事もなかりけり。東山禪林寺といふところに籠居しつゝ、人にものをかしてなむ、日をおくるはかりごとにしける。かる時も返す時も、たゞきたる人の心にまかせてさたしければ、『中/\ほとけの物を。』とて、いさゝかも不法の事はせざりけり。いたくまづしきものゝ、かへさぬをばまへによびよせて、物のほどにしたがひて、念佛を申させてぞあがはせける。
東大寺別當のあきたりけるに、白河院この人をなし給ふ。きく人みゝをおどろかして、「よもうけとられじ。」といふほどに、思はずにいなび申事なかりけり。その時、としごろの弟子・つかはれし人など、我も/\とあらそひて東大寺の庄園をのぞみにけれども、一所も人のかへりみにもせずして、みな寺の修理の用途によせられたりけり。身づから本寺にゆきむかふ時には、ことやうなる馬にのりて、かしこにゐるべきほどの時料、小法師にもたせてぞ入ける。かくしつゝ三年の内に修理事おはりて、すなはち辭し申す。君又とかくのおほせもなくて、こと人を(*別当に)なされにけり。よく/\人の心をあはせたるしわざのやうなりければ、時の人は「てらのやぶれたる事を、『此人ならでは心やすくさたすべき人もなし。』とおぼしめしておほせつけゝるを、律師も心え給ひたりけるなんめり。」とぞいひける。ふかくつみをおそれけるゆへに、とし比寺の事おこなひけれど、寺物を露ばかりも自用の事なくてやみにけり。
此禪林寺に梅の木あり。實なる比になりぬれば、これをあだにちらさず、年ごとにとりて、藥王寺といふところに、おほかる病人に、日々といふばかりにほどこさせられければ、あたりの人、此木を「悲田梅」とぞ名づけたりける。いまも事のほかに古木になりて、花もわづかにさき、木立もかしげつゝ、むかしのかたみにのこりて侍るとぞ。
ある時、かの堂にきやく人のまうで來たりけるに、算(*算木)をいくらともなくおきひろげて、人にはめもえかけざりければ、客人のおもふやう、「律師は出擧(*「すいこ」。金貸し・利稲。)をして、いのちつぐばかりを事にし給へり。」ときくにあはせて、「その利のほどかぞへ給ふにこそ。」と見ゐたる程に、おきはてゝとりおさめて、たいめんせらる。その時、「算をき給ひつるは何の御ようぞ。」ととひければ、「とし比申あつめたる念佛のかずのおぼつかなくて。」とこたへられける。「さまでおどろくべき事ならねど、ぬしがらにたうとくおぼえし。」とのちに人のかたりけるなり。
内記入道寂心の事
村上の御代に、内記入道寂心(*慶滋保胤)といふ人ありけり。そのかみ、宮づかへける時より、こゝろに佛道をのぞみねがふて、事にふれてあはれみぶかくなんありける。大内記にてしるす(*〔行事などを〕記録する)べきことありて、うちへまいりけるに、左衛門の陣のかたに、女のなみだをながしてなきたてるあり。「何事によりてなくぞ。」ととひければ、「主のつかひにて、石のおび(*石帯。束帯の袍の腰を締める。)を人にかりて、もちてまかりつるみちにおとして侍れば、主にもおもくいましめられんずらむ。さばかりの大事の物をうしなひたるかなしさに、かへるそらもおぼえず、思ひやるかたなくて。」となんいふ。心のうちをはかるに、「げにさう思ふらん。」といとおしくて、わがさしたるおびときてとらせてけり。「もとのおびにあらねど、むなしううしなひて申かたなからんよりも、これをもちてまかりたらんは、おのづからつみもよろしからん。」とて、手をすりよろこびてまかりにけり。さて方角におびもなくてかくれゐたりけるほどに、事はじまりにければ、「おそし、/\。」ともよほされて、こと人のおびをかり、それにて(*原文「そて」)其公事をばつとめける。中つかさの宮の文ならひ給ひける時も、すこしおしへだてまつりては、ひま/\に目をひさぎ(*塞ぎ)つゝ、常にほとけをぞ念じ奉りける。
ある時、かのみやより馬をたまはらせたりければ(*下さったので。「給はる」は「給ふ」の意。)、のりてまいりける道のあひだ、堂塔のたぐひはいはず、いさゝかそとば一本あるところにはかならず馬よりおりてくきやうらいはい(*恭敬・礼拝)し、又草のみゆるところごとに馬のはみとまるに、心にまかせつゝこなたかなたへゆくほどに、日たけて、あしたに家を出る人、ひつじ・さるの時までになむなりにける。とねりいみじく心づきなくおぼえて、馬をあらゝかにうちたりければ、なみだをながし、こゑをたてゝなきかなしみていはく、「おほかるちくしやうの中にかくちかづく事は、ふかきしゆくえんにあらずや。過去の父母にもやあるらむ。いかに大きなるつみをばつくるぞ。」と、「いとかなしき事なり。」とおどろきさわぎければ、とねりいふばかりなくてまかりてぞ立かへりたる。
かやうの心也ければ、『池亭記』とてかきおきたる文にも、「身は朝にありて心は隱にあり。」とぞ侍るなる。年たけて後、かしらおろして横川にのぼり、法文ならひけるに、増賀上人いまだ横川にすみ給ひけるほどに、これをおしゆ(*御主)とて、「止觀の明靜なること、前代いまだきかず。」とよまるゝに、此入道たゞなきになく。ひじりさる心にて、「かくやはいつしかなくべき。あなあいぎやうなの僧の道心や。」とて、こぶしをにぎりてうち給ひければ、我も人もこうとまかりて立にけり。ほどへて「さてしもやは侍るべき。此文うけたてまつらむ。」といふ。「さらば。」と思ひてよまるゝに、さきのごとくなく。又はしたなくさいなまるゝほどに、後のことばもきかでやみにけり。日比へて、なをこりずまに御けしきとりて、おそれ/\うけ申けるにも、たゞおなじやうにいとゞなきける時、そのひじりもなみだをこぼして、「まことにふかき御のりのたうとくおぼゆるにこそ。」とあはれがりて、しづかにさづけられけり。かくしつゝ、やむごとなくコいたりにければ、御堂の入道殿(*藤原道長)も御戒などうけ給ひけり。さて、聖人わうじやうしける時は、(*御堂入道は)御諷誦などし給ひて、さらしぬの百千たまはせけり。請文(*「うけぶみ」=受取状)には、「三河入道しうく(*「秀句」か。)かきとめたりける。」とぞ。
「むかしずいのやうてい(*隋の煬帝〔ようだい〕)の智者にほうぜし千僧ひとりをあまし、今左せうしやうの寂公をとぶらふさらし布もゝちにみてり。」とぞかゝれたりける。
三河聖人寂照入唐往生の事
參河のひじりといふは、大江のさだもと(*大江定基。寂心の弟子。)といふはかせこれなり。三河のかみになりたりける時、もとのめをすてゝ、たぐひなくおぼえけるおんなをあひぐして下りけるほどに、國にておんなやまひをうけてつゐにはかなくなりにければ、なげきかなしむことかぎりなし。れんぼのあまりに、とりすつるわざもせず日ごろふるまゝに、なりゆくさまをみるにいとゞうき世のいとはしさ思ひしられて、心をおこしたりける也。かしらおろして後、乞食しありきけるに、「『わがだうしんはまことにおこりたるや。』とこゝろみむ。」とて、妻のもとへ行て物をこひければ、おんなこれを見て、「われにうきめ見せしむくひにかゝれとこそは思ひしか。」とて、うらみをしてむかひたりけるが、何ともおぼえざりければ、「御とくにほとけになりなんずる事。」とて、手をすりよろこびていでにけり。
さてかの内記のひじり(*前出寂心)の弟子になりて、ひがし山によいりんじ(*如意林寺)にすむ。そのゝち横川にのぼりて、源信僧都にあひ奉てぞ、ふかきみのりをばならひける。かくてつゐにもろこしへわたりて、いひしらぬしるしどもあらはしたりければ、大師の名をえて圓通大師とぞ申ける。わうじやうしけるに、ほとけの御むかひの樂をきゝて、詩をつくりうたをよまれたりけるよし、もろこしよりしるしをくりて侍り。
笙歌遙聞孤雲上 聖衆來迎落日前  雲の上にはるかに樂のおとすなり人やきくらんひがみゝかもし
仙命上人の事 并 覺尊上人事
ちかきころ、山に仙命聖人とてたうとき人有けり。そのつとめ理觀をむねとして、つねに念佛をぞ申ける。ある時、ぢぶつだうにてくはんねん(*観念=瞑想)するあひだに、そらに聲ありて、「あはれ、たうときことをのみくはんじ給ふ物かな。」といふ。あやしみて、「たそ、かくはのたまふぞ。」とゝひければ、「我は當所三聖なり。ほつしんし給ひし時より、日に三度あまかけりてまもりたてまつる也。」とぞこたへ給ひける。このひじりさらにみづから朝夕の事をしらず。一人つかひける小法師、山の坊ごとに一度めぐりて一日のかれい(*「かれいひ」か。)をこふてやしなひける外には、何も人の施をばうけざりけり。  
 

 

数寄の楽人(時光茂光の数寄天聴に及ぶ事)
中ごろ、市正時光といふ笙吹きありけり。茂光といふ篳篥師と囲碁を打ちて、同じ声に裹頭楽 (かとうらく)を唱歌にしけるが、おもしろくおぼえけるほどに、内よりとみのことにて時光を召しけり。
御使ひ至りて、この由を言ふに、いかにも、耳にも聞き入れず、ただもろともにゆるぎあひて、ともかくも申さざりければ、御使ひ、帰り参りて、この由をありのままにぞ申す。いかなる御戒めかあらむと思ふほどに、
「いとあはれなる者どもかな。さほどに楽にめでて、何ごとも忘るばかり思ふらむこそ、いとやむごとなけれ。王位は口惜しきものなりけり。行きてもえ聞かぬこと。」
とて、涙ぐみ給へりければ、思ひのほかになむありける。
これらを思へば、この世のこと思ひ捨てむことも、数寄はことにたよりとなりぬべし。

そう遠くはない時の話、市を監督する立場についていた時光という笙の吹きてがいました。時光が、茂光という篳篥の笛の演奏家と囲碁をうちながら、一緒に篳頭楽という曲を口ずさんで楽しくなっていたところ、帝が急ぎの用事があるとのことで時光のことをお呼びになられました。
帝の使者がやってきて、その旨(帝が呼んでいること)を伝えたのですが、決して耳にも聞き入れず、茂光と一緒になってただただ体を揺らしていて、何も申し上げなかったので、(帝の)使いは帝の元に戻って、この旨をありのままに帝に申し上げます。どのような処罰があるのだろうかと使者が思っていたところ、
「立派な者たちなことよ。そのように音楽に夢中になって、他のことは忘れてしまうぐらい没頭していることこそ、尊ぶべきことよ。王位というのははがゆいものだなぁ。(2人のもとに)行って、彼らの音楽を聴くこともできない。」
とおっしゃって、涙ぐまれたので、使者は意外に思ったのでした。
この人たちのことを考えると、俗世に対する思いを断ち切るようにすることは、好きなことに没頭して(周りが見えなくなる)ことに通ずるものがあるに違いない。
蓮花城、入水のこと
近きころ、蓮花城といひて、人に知られたる聖ありき。登蓮法師、相知りて、ことにふれ、情けをかけつつ過ぎけるほどに、年ごろありて、この聖の言ひけるやうは、
「今は年に添へつつ弱くなりまかれば、死期の近づくこと、疑ふべからず。終はり正念にてまかり隠れむこと、極まれる望みにて侍るを、心のすむとき、入水をして終はり取らむと侍る。」
と言ふ。登蓮聞きおどろきて、
「あるべきことにもあらず。いま一日なりとも、念仏の功を積まむとこそ願はるべけれ。さやうの行は、愚痴なる人のする業なり。」
と言ひていさめけれど、さらにゆるぎなく思ひかためたることと見えければ、
「かく、これほど思ひ取られたらむに至りては、とどむるに及ばず。さるべきにこそあらめ。」
とて、そのほどの用意なんど、力を分けて、もろともに沙汰しけり。
つひに、桂川の深き所に至りて、念仏高く申し、時経て水の底に沈みぬ。その時、聞き及ぶ人、市のごとく集まりて、しばらくは貴み悲しぶこと限りなし。登蓮は、年ごろ見慣れたりつるものを、とあはれにおぼえて、涙を押さへつつ帰りにけり。
かくて、日ごろ経るままに、登蓮、物の怪めかしき病をす。あたりの人あやしく思ひて、事としけるほどに、霊あらはれて、
「ありし蓮花城。」
と名のりければ、
「このこと、げにとおぼえず。年ごろ相知りて、終はりまでさらに恨みらるべきことなし。いはむや、発心のさま、なほざりならず、貴くて終はり給ひしにあらずや。かたがた、何のゆゑにや、思はぬさまにて来たるらむ。」
と言ふ。物の怪の言ふやう、
「そのことなり。よく制し給ひしものを、我が心のほどを知らで、いひがひなき死にをして侍り。さばかり、人のためのことにもあらねば、その際にて思ひ返すべしともおぼえざりしかど、いかなる天魔の仕業にてありけむ、まさしく水に入らむとせし時、たちまちに悔しくなむなりて侍りし。されども、さばかりの人中に、いかにして我が心と思ひ返さむ。
あはれ、ただ今、制し給へかし、と思ひて目を見合はせたりしかど、知らぬ顔にて、『今はとく、とく。』ともよほして沈みてむ恨めしさに、何の往生のこともおぼえず。すずろなる道に入りて侍るなり。このこと、我がおろかなる咎なれば、人を恨み申すべきならねど、最期に口惜しと思ひし一念によりて、かくまうで来たるなり。」
と言ひける。

最近のことですが、蓮花城といって、有名な聖人がいました。登蓮法師は(蓮花城と)親交があって、何かにつけて(蓮花城に対して)面倒をみて時が過ぎるうちに、数年経って、この聖(蓮花城)が言うことには、
「昨今、年をとるにつれて弱くなってまいりましたので、死期が近づいていることを疑うことがありません。最期には邪念を払った心のままで死ぬことが、最上の望みなのですが、心が澄んでいるときに、入水をして死のうと思っております。」
といいました。登蓮法師は聞き驚いて、
「そうすべきことではありません。もう一日であっても、念仏の修行を積もうと祈願すべきです。そのような行い(入水)は、愚かな人のすることです。」
と言って諌めたのですが、(蓮花城の様子が)いっそう揺るぎなく(心に)思い固めたことであると思われたので、
「このように、これほど(強く)決心されたのであれば、(私も)引き止めることはできません。そうなる運命なのでしょう。」
といって、(その蓮花城が入水をするための)用意などを、力を貸して、一緒に準備したのでした。
ついに(入水の日を迎え)、桂川の深い所にまできて、念仏を声高く唱え、時間がたってから(蓮花城は)水の底に沈みました。その時は(蓮花城が入水すると)聞いた人が、市場のように集まっていて、しばらくの間、(蓮花城の死を)尊み悲しむことこのうえありません。登蓮は、長年慣れ親しんだ(間柄だった)のになぁと、悲しく思って、涙を抑えながら帰っていきました。
こうして、日が過ぎるうちに、登蓮は、物の怪がついたような病気になりました。近所の人があやしく思って、一大事だといっているうちに、霊が(登蓮の前に)現れて
「ありし日の蓮花城です。」
と名のったので、(登蓮は)
「これは、本当のこととは思えません。長年親交があって、最期まで少しも恨まれることはありません。ましてや、(あなたの)発心の様は、いいかげんなものではなく、尊くお亡くなりになられたではありませんか。いずれにしても、何の理由があって、思いもしない容姿で来たのですか。」
と言います。物の怪が言うことには、
「そのことでございます。よく(入水を)止めてくださったものを、(私は自分の)心のほどを知らないで、どうしようもない死に方をしました。それほど、人のためにしたことでもないので、入水の間際で思い返すこともないと思っていたのですが、どのような天魔の所業であったのでしょうか、まさに水に入ろうとした時に、たちまちに後悔の気持ちが出てきたのです。しかしながら、あのような(大勢の)人の中に、どうやって自分の考で引き返すことができましょうか、いやできません。あぁ、今、入水を止めてください、と思って(あなたの)目を見合わせたりしたのですが、(あなたは)知らぬ顔で、『今は早く、早く』とせきたてるので(それを見ながら)沈んでいった恨めしさに、少しも往生のことを考えもしませんでした。(そのせいで)予期せぬ道に入ったのでございます。このことは、私が愚かだったことの罰なので、人を恨み申し上げるべきではないのですが、死に際に残念だと思った一念によって、このように参ったのです。」
と言いました。
叡実、路頭の病者を憐れむ事
山に叡実阿闍梨といひて、貴き人ありけり。帝の御悩み重くおはしましけるころ、召しければ、たびたび辞し申しけれど、重ねたる仰せ否びがたくて、なまじひにまかりける道に、あやしげなる病人の、足手もかなはずして、ある所の築地のつらに平がり臥せるありけり。
阿闍梨これを見て、悲しみの涙を流しつつ、車よりおりて、あはれみとぶらふ。畳求めて敷かせ、上に仮屋さしおほひ、食ひ物求めあつかふほどに、やや久しくなりにけり。勅使、
「日暮れぬべし。いといと便なき事なり。」
といひければ、
「参るまじき。かく、その由を申せ。」
といふ。御使ひおどろきて、ゆゑを問ふ。阿闍梨言ふやう、
「世を厭ひて、心を仏道に任せしより、帝の御事とても、あながちに貴からず。かかる病人とてもまたおろかならず。ただ同じやうにおぼゆるなり。それにとりて、君の御祈りのため、験あらん僧を召さんには、山々寺々に多かる人誰かは参らざらん。さらに事欠くまじ。この病者に至りては、厭ひ汚む人のみありて、近づきあつかふ人はあるべからず。もし我捨てて去りなば、ほとほと寿も尽きぬべし。」
とて、彼をのみあわれみ助くる間に、つひに参らずなりにければ、時の人ありがたきことになん言ひける。
この阿闍梨、終はりに往生を遂げたり。くはしく伝にあり。

山に叡実阿闍梨といって、尊い人がいました。帝のご病気が重くていらっしゃったころに、(帝が阿闍梨を宮廷に)召されたのですが、(阿闍梨は)何度も辞退申し上げたのですが、度重なるご命令を断ることができなくて、しぶしぶ参上する道中に、みすぼらしい病人で、足も手も思うようにならない状態で、とある場所の築地のそばに平べったくなって伏せている人がいました。
阿闍梨はこれを見て、悲しみの涙を流しながら、車からおりて、同情し見舞いました。敷物を探し求めて敷かせて、上を仮の小屋で覆い、食べ物を探し求めて世話を焼いているうちに、だいぶ時間がたってしまいました。(迎えに来た)勅使が
「日が暮れてしまうでしょう。非常に都合の悪い事です。」
と言ったので(阿闍梨は)、
「参内はしないでしょう。このように、その旨を申し上げてください。」
と言います。勅使は驚いて、理由を尋ねます。(すると)阿闍梨が言うことには、
「世俗を嫌がって、心を仏道にまかせてからは、帝のご用事とはいっても、一途に尊いということではありません。このような病人といっても粗略にはできません。ただ同じように思われるのです。それに、帝の(病気をはらうための)御祈祷のために、効き目のある僧を召そうとすれば、山々寺々にたくさんいる僧のうち誰かが参上しないことがありましょうか、いや参上するはずです。決して事欠くことはないでしょう。この病人にいたっては、いやがり汚がる人だけがいて、近づいて世話を焼く人はいないでしょう。もし私が(この人を)見捨てて去ったならば、すぐに寿命が尽きてしまうでしょう。」
といって、彼(病人)だけを同情して助けているうちに、とうとう参上しないでしまったので、世間の人々は、貴重なことであると言いました。
この阿闍梨は、最後に往生を遂げました。詳しくは往生伝にあります。 
 
発心集2 

 

発心集は鎌倉初期の仏教説話集で鴨長明(1155〜1216年)の編著である。慶安四年(1651年)に刊行された流布本は、全八巻で百二話が集録されている。その中味は発心(悟りを得ようとする心を起こすこと)、遁世(隠棲して世間の煩わしさから離れること)、極楽往生(苦しみの多いこの世から極楽浄土に生まれ変わること)、仏教霊験(仏の力による摩訶不思議な現象)、高僧伝(仏法に通じ徳が高い僧が行なった、普通の人では真似できない行動)などに関する話が収められている。
発心集の序のなかで鴨長明は「発心集は見聞きした事を書きとめたもので、賢い人の行動を見ては自分にはとてもできないと思いながらも目標とし、愚かな人の行動を見てはむしろ自分の態度を反省するきっかけとする、こうした目的のために書き留めたものだ」と述べている。
発心集のなかには、越前や若狭の土地が舞台となっている物語がないか捜してみたが、残念なことに見当たらない。しかし「コシ」という記載がある物語があり、これは冒頭の第一話にある。原文を読んでも越の国が今のどのあたりのことかは判然としかねるが、そこに出てくる大きな川を九頭竜川として想像してみよう。
なお以下、便宜の口語訳は、物語の大筋に重点をおいた意訳である。
発心集第一 玄敏げんびん僧都、遁世とんせい逐電ちくでん事(玄敏僧都、遁世逐電のこと)
昔、玄敏僧都という人がいた。山階やましな寺の高貴で博識な僧であったけれど、現世を厭う気持ちが強くて、他の僧との交わりを好まなかった。玄敏の高名な噂を耳にした桓武天皇が、無理に召し出されたので仕方なく出仕した。しかし、桓武天皇の第一皇子の平城へいぜい天皇が大僧都の位をお与えなさろうとするのを、再び世俗にまぎれたくないとして辞退した。そうこうしているうちに、弟子にも使用人にも気づかれることなく、どこへともなくいなくなってしまった。その後、何年か経って、玄敏の弟子が越の国の方へ用務があって出かけた道中に、大きな川があった。
(原文)其後、年来としごろ経テ、第子でしナリケル人、事ノ便アリテ、コシノ・・・方ヘ行ケル道ニ、或所ニ大ナル河・・・・アリ。(傍点小生)
川を渡るために渡し舟に乗り、その渡し守を見ると、汚そうな麻の着物をきた法師であった。「誰かに似ているなあ」と思っていると、居なくなって何年も経った自分の師の玄敏僧都であった。お互いに気が付いた様子で、走り寄って声をかけたかったが、舟には人も多くいたので変に思われるだろうと思い、「帰りにゆっくり話そう」と思ってその場は通り過ぎた。こうして、(何日か後)帰りにその渡しに来てみると別の渡し守であった。尋ねてみると、「いつも念仏ばかりを唱えていて、多く船賃を取ることもなく、食い扶持以上のものは欲しなかった。里の人も好感をもっていたが、先日急にいなくなった」ということであった。
これが冒頭の話の前半部分にある「コシ」という記載のある場面である。この玄敏僧都にまつわる話は、冒頭に続く第二話にも紹介されている。
発心集第一 同人、伊賀国郡司被仕つかは給たまふ事(同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふこと)
玄敏僧都は、伊賀国のある郡司のところに(身分を明かさず)頼み込んで使用人となった。三年ぐらい経ったころ、この郡司が国守に対して具合の悪いことをして郡司の任を解かれ、伊賀国から追放の処分になった。このことを伝え聞いた玄敏は、郡司に対し「京に上って事情を説明し、それでも駄目であったら国を去ればよい」と諭した。郡司と玄敏はともに上京し、伊賀の国を領していた大納言の屋敷に行くと、玄敏の姿を見た屋敷の人々は膝をつき、大納言も急いで玄敏をもてなした。そして、玄敏から大納言に事情を説明すると、郡司の処分取消どころか、これまで以上の待遇が決まった。郡司はあまりにも想像外のことで言葉が出ず、「宿に帰ってゆっくりお礼を申し上げよう」と思っていたところ、玄敏はいつのまにか居なくなってしまった。
以上の冒頭の二話は盛名をよしとせず隠遁の道を選んだ玄敏僧都に関する高僧伝である。その他、面白いと思った説話を以下に記載する。
発心集第四 肥州ノ僧、妻為なる魔事 可べき恐おそるる悪縁事(肥州の僧、妻、魔と為ること 悪縁を恐るべきこと)
肥後の国にある僧がおり、以前は戒律どおりの僧であったが、中年になってから妻帯した。しかしながら、極楽往生をあきらめず修行に努めた。妻は愛情深くこの僧によく仕えたが、僧は妻に気を許さず、「私が死んだ際も決して妻には知らせないで欲しい」と相知れた僧に伝えていた。その後、この僧は思う通りに死を迎え、西に向って息絶えた(往生した)。
しばらくして、彼の妻にこのことを伝えると、妻はにわかに豹変して「何世代も前から繰り返しこの僧が往生するのを妨げるために近づいてきた。せっかく親しくなったのに今日取り逃がした」と悔しがった。(残念ながら、この妻の正体や夫との因縁に関する話は出てこない)。
長明は「どんなに修行を積んだものでも悪縁で妻子をもってしまうことはある、自分のような凡夫は女性には近づかないのに越したことはない」と結んでいる。
(原文)ソノ発心ノホド隠レナケレド、悪縁ニアヒテ妻子ヲマウクルタメシ多カリ。我モ人モ凡夫ナレバ、タダ近ヅカヌニハシカヌ也。
一方で夫婦の愛の深さを示す説話も収められている。
発心集第五 亡妻ぼうさい現身げんしん、帰来かえりきたる夫おっと家いえ事(亡妻現身、夫の家に帰り来たること)
片田舎に男がいた。長年互い信頼して連れ添った妻があった、子を産んでから重く病気を患ったので、男はつきっきりで看病した。いまはの臨終のときに妻の髪が乱れていたので、傍らの手紙を裂いて、それで髪を結んでやった。
その後も「なんとかしてもう一度妻の生前の姿を見てみたい」と涙にむせびながら暮らしていた。とある夜この死んだ妻が夫の寝所へやってきた。妻がいうには「今一度、夫のあなたに会いたいという思いが深かったので、こうしてやってくることができた」ということであった。夜明けになって、妻は帰りがけに何かを落した様子であったが、何を探しているのか分からなかった。明るくなってから妻の去った跡をみると、それは妻の臨終の際に髪を結わえた手紙の切れ端とそっくりであった。残してあった手紙にあてがってみると、妻とともに火葬されたはずの手紙の切れ端であった。
また、ある人の言った話では、「蜻蛉かげろうという虫は、生き物のなかでも特に夫婦の契りが深い。つがいの蜻蛉を別々の銭に貼り付けて市場にもっていき、別々の人に売ってしまう。その後その銭は転々と人手を渡るが、その日のうちに、必ずもとのように貫つらぬき銭ぜにとして、同じ縄に貫かれて再び巡り合う」ということである。
なおこの蜻蛉の話は意味がやや不分明であるが、「青蚨せいふ(かげろう)の母と子の血を取って別の銭に塗っておくと、一方の銭を使っても、もう一方の銭を慕って飛びかえってくる」という中国の「捜神そうじん記」の故事(子母しぼ銭せんという言葉の由来でもある)が少し変化して伝わったものであろう。
さて、長明は「虫の夫婦の契りを書き記したところで、人間が見習えることはないが、人間の場合に置き換えて類推することはできる。私たち人間が(かげろうの夫婦の契りほど)深く志を持って、仏法に巡り合いたいと願えば、蜻蛉の夫婦と同じように願いはかなう。たとえ、業に引きづられて、思ってもみない道に入ったとしても、(仏は)折に触れて必ず現れなさって、お救いくださるに違いない。」と夫婦の思いの深さを信仰心に置き換えて結んでいる。
(原文)昔イモセノ契ちぎり、シルシテ用事ようじナケレド、何ニツケテモ思フベシ。我等フカキ志ヲイタシテ、仏法ニ値遇ちぐシ奉ラント願ハバ、ナジカハ、カゲロウノ契リニコトナラン。タトヒ業ごうニヒカレテ、思ハヌ道ニ入トモ、折々ニハ必ズアラハレテスクヒ給フベシ。 
 
 
「源氏物語」考1 

 

いつ書かれたか
今年は『源氏物語』が書き上げられてから千年目だということで、「源氏物語千年紀」と称して、式部を記念するイベントが各地で催されています。
その根拠となっているのは、『紫式部日記』寛弘五年(1008年)条のいくつかの記事によります。
(1) 十一月一日の敦成(あつなり)親王(のちの後一条天皇)の御五十(いか)日の祝いの席上、紫式部が当時の文壇の大御所の藤原公任(きんとう)から、「このわたりに若紫やさぶらふ(若紫さんはいらっしゃいませんか)」と、『源氏物語』のヒロインの名で呼ばれたこと。
(2) 十一月十七日の中宮彰子(あきこ)の内裏還啓に先立って、内裏に持参する書物作りが行なわれた際、紫式部が私室に隠しておいた物語の本を中宮の父親の藤原道長が探して、次女の尚侍妍子(ないしのかみけんし)に与えてしまった。それはまだ十分に手入れをしていない本で、「心もとなき名」(気がかりな評判)をとったことであろうとある。この物語の本は『源氏物語』であったと考えられること。
(3) 寛弘六年(1009年)条に、一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませて聞いて、「紫式部は日本紀(『日本書紀』以下の国史)を読んでいるに違いない」と言ったので、紫式部に「日本紀の御局(みつぼね)」というニックネームがついたと記されていること。
(4) 同じ六年六月条に、中宮彰子の前に『源氏物語』が置かれており、それを見た道長から、紫式部が「すき者と」の歌をよみかけられたこと。
以上の記事によって、ほぼ寛弘五年(1008年)中には、『源氏物語』は執筆され終っていたものと考えられています。
どんな物語
一言でいうと、光源氏という貴公子の生涯と、その没後における一族の生活を綴った物語です。全五十四帖から成り、「桐壺」から「幻」までの正編四十一帖では光源氏の生誕から起筆し、藤壺・葵の上・紫の上・女三の宮らヒロインとの物語が展開し、出家直前までの生涯が描かれます。後編の「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖では、源氏没後の周囲の人々の生活を述べ、特に源氏の外孫である匂宮と、源氏の義子薫の生い立ちがくわしく語られます。ついで続編の「橋姫」から「夢浮橋」までの十帖では、宇治の八宮の姫君たち、大君・中の君・浮舟らを女主人公として、匂宮と薫との性格の対照と、恋愛における葛藤が描かれています。
正編は光源氏の恋愛生活を中心とし、続編は匂宮と薫の恋物語が主テーマになっているようにも思われます。実は恋愛は筋を運ぶ不可欠な要素にはなっていても、作者の本意はむしろこの世の権勢や恋愛の争闘における男女の宿命と、それに耐えていく美しい心ばえや、四季おりおりの風景美や、年中行事の人事美、音楽・絵画・書道・歌道等の芸術文化、儒学や陰陽道などの学問文化等を描くところにあります。また放恣な男性と優柔な女性との間に生ずる霊肉の葛藤や、一夫多妻制の中での男女の生きざまや、無常観から来る宗教的欲求やその挫折など、いわば人生の総価値批評が中心の主題になっているのです。
正編の末巻「幻」はあの世の紫の上の霊魂を尋ねることのできる幻術士の意で、桐壺の更衣の魂を尋ねてくれる幻術士を求めた第一帖「桐壺」に呼応しています。また続編の「夢浮橋」巻にも呼応していて、この世のすべては夢幻であると、紫式部は言いたかったのかも知れません。
巻名はだれがつけた
結論から先に述べると、『源氏物語』の巻の名は作者の紫式部自身がつけたものです。
根拠の一つは、「手習」の巻に、横川の僧都の妹尼らの住む小野の草庵について、「かの夕霧の御息所(みやすどころ)のおはせし(イラッシャッタ)山里よりは、今すこし(奥ニ)入りて」とあります。御息所は天皇のお子さんを生んだお妃を言います。夕霧は天皇ではありません。したがって「夕霧の御息所」というのは、「夕霧」の巻に(出て来る)御息所という意味になります。実際「夕霧」の巻には夕霧が恋をした落葉の宮(女二の宮)の母である一条の御息所が出て来ます。「手習」の巻ではるかに前に出て来る御息所を「夕霧」の巻のと言っているのですから、原作にすでに巻名がついていたことになります。
もう一つの根拠は、『源氏物語』の冒頭の巻々の名は、二巻で一対の命名になっているということです。「桐壺」と「帚木」、「空蝉」と「夕顔」(はかない動物と植物)、「若紫」と「末摘花(紅花)」、「紅葉賀」と「花宴」、「葵」と「榊」(神聖な草と木)、つぎの「花散里」のあとの、「須磨」と「明石」。こういう二巻で一対の命名法は、たとえば人物造型においても、光源氏と頭中将、夕霧と柏木、匂宮と薫という対比描写がなされており、これと共通する手法で、紫式部の個性的な命名法であると考えられます。そこで『源氏物語』の巻名は執筆の最初から、作者の紫式部によって命名されたものだということができます。
物語の時代設定
「いづれの御時にか、女御・更衣あまた侍ひ給ひける中に…」で始まる『源氏物語』の「いづれの御時」とは、作者紫式部の活躍していた一条天皇(在位986年〜1011年)の時代をさかのぼること百年ほど前の醍醐天皇(在位897年〜930年)のころと考えられています。
『源氏物語』には琴(きん)の琴(こと)(七絃)の叙述が非常に多く、源氏自身も琴の名手です。実はこの楽器は延喜(901年〜23年)のころまでは弾かれていましたが(『河海抄』)、一条天皇のころにはすたれて、箏の琴(十三絃)の時代になっていました。
正月十四日には舞人が舞踏唱歌する男踏歌が行なわれたことが「末摘花」「初音」「竹河」等の巻に描かれています。この行事は円融天皇の天元六年(983年)正月に行なわれたのが最後でした(『花鳥余情』)。
なお、冒頭にいう「女御・更衣あまた侍」っていたのも醍醐天皇(皇后以下計二十三名)や村上天皇(中宮以下計十一名)の時代でした。
『源氏物語』の皇位継承は、桐壺帝−朱雀帝(桐壺一男)−冷泉帝(桐壺十男)−今上帝(朱雀一男)となりますが、それは実際の、醍醐−朱雀(醍醐十三男)−村上(醍醐十七男)−冷泉(村上二男)天皇の系譜に重ね合わせることができます。したがって『源氏物語』の時代設定は、一条天皇の時代より、五十年から百年ぐらい前の醍醐・村上両朝(897年〜967年)前後に置かれているようです。
光源氏に愛された人
光源氏が愛した女性は、最初の正妻であった葵の上(左大臣の娘)をはじめとして、六条の御息所(前皇太子未亡人)・空蝉(伊予介の後妻)・軒端荻(伊予介前妻の娘)・夕顔(義兄頭中将の愛人)・藤壺(義母)・紫の上(藤壺の姪)・末摘花(故常陸宮の娘)・源典侍(老女官)・朧月夜(兄朱雀帝の尚侍)・花散里(桐壺帝麗景殿の女御の妹)・五節の君(大宰大弐の娘)・明石の御方(明石入道の娘)・女三の宮(朱雀帝第三皇女)らがおり、この他にも侍女の中務の君・中納言の君らも源氏から愛されています。また作中にはその名を記されていない愛人たちも相当いたようですし、男女関係はなかったものの源氏から愛された朝顔の斎院(源氏の従姉妹)や玉鬘(夕顔の娘)らもいます。
『源氏物語』では、女性が光源氏に愛されることは、その女性にとって最高のしあわせであるという前提があります。したがって源氏の愛を受けた女性たちは、そのときどきでしあわせを感じたと思いますが、自分に夫がいたり、身分や年齢の差があったり、容姿に自信がなかったりで、十分にしあわせにひたり切れない女性もいました。また源氏に生活上の保護は受けながらも、契りを交わすこともなくなった女性たちも少なくありません。
はたから見れば、光源氏から生涯愛されつづけた紫の上が一番しあわせであったかのようにも思われますが、彼女自身は女三の宮の降嫁以来源氏に対する不信感に悩まなくてはなりませんでした。むしろ光源氏との愛の陶酔のさなかに物怪(もののけ)に取り殺された夕顔や、源氏に手厚くもてなされたその娘の玉鬘などが、本人のしあわせ感は最高だったのではないでしょうか。
源氏物語の伝本
わたしたちが現在読むことのできる『源氏物語』の本文は、すべて鎌倉時代以後の写本にもとづいたものです。紫式部の自筆の本や、『紫式部日記』に記されている中宮彰子やその妹の妍子が所持した本などは、現在伝わっていません。『源氏物語』の本文を伝えている最古のものは、『源氏物語絵巻』の詞書の本文です。筆者とされる藤原隆能は近衛朝久寿二年(1151年)に三河守となっています。『源氏物語』の成立からすでに百五十年もたっています。その本文は以下に述べる別本系のものです。
現存する『源氏物語』の伝本はつぎの三系統に分類されています。
(1) 青表紙本 藤原定家が家の本とした証本。定家はもと完本を所持したが、建久年間(1190〜99年)盗難にあい、その後元仁元年(1224年)から翌年にかけて、家人たちに五十四帖を書写させ、借用の本などで校合したという。定家自筆の原本は「花散里」「柏木」「行幸」「早蕨(さわらび)」等数帖で、その伝写本が数多く伝存する。名称は表紙の色による。
(2) 河内本 河内守源親行が父光行の遺志を受けつぎ、二十一種類の伝本によって本文を取捨選択して完成したもの。第二次の校訂は建久七年(1255年)に終った。
(3) 別本 青表紙本・河内本のいずれにも属さない本文を持つ伝本。
定家は道長の六男長家五代の孫です。道長家からの『源氏物語』が定家に伝えられたとしてもおかしくはありません。現在一番流布しているのは青表紙本系統の本文です。
物語の三大滑稽人物
『源氏物語』の登場人物は四百三十余人に達しています。しかも主要人物から端役に至るまで、各人物に個性的な性格を持たせていることは驚くべきことです。その四百人以上の登場人物の中で、笑われ者として描かれている末摘花・源典侍(げんのないしのすけ)・近江の君の三人の女性を、三大滑稽人物とか三滑稽と称しています。
もっともこれら三人の滑稽のよって来るところは各人各様で、個性的に描かれています。末摘花は故常陸宮晩年の姫君で、窮乏・孤独の人。その容姿はやせていて胴長。しかも救いがたいのは額の広すぎ、中央に突き出す鼻が「普賢菩薩の乗り物(象)」のよう。性格は内気で和歌は格式一点張りの有様です。もっとも髪が長いのと父の遺言を守って、邸を手離さなかった点は評価されます。
源典侍は修理大夫や頭中将と関係を持つ好色の老女(五十七、八歳)で、源氏をも慕います。七十歳を越えた晩年には朝顔斎院の侍女となっていて、斎院を訪れた源氏になおも色めかしく話しかけたりしました。琵琶にすぐれ、歌謡を好みました。
近江君は内大臣(かつての頭中将)のご落胤で、髪も整い、愛嬌もある容姿です。しかし立居振舞いが軽率で、教養に乏しく、早口。源氏の養女玉鬘の引立て役として設定されています。
この三人は、容貌の醜さ(末摘花)・好色(源典侍)・教養のなさ(近江君)等で笑いものになっています。けれども何らかの美点も備えていることになっており、紫式部の各人物への配慮が感じられるのです。
書名ははじめから付けられていた
『源氏物語』の書名は、『紫式部日記』寛弘五年(1008)十一月一日条に「『源氏』にかかるべき人見え給はぬに」とあり、また同六年正月条につづく書簡文に「『源氏の物語』人に読ませ給ひつつ」とあり、さらに同年六月条に、「『源氏の物語』御前にあるを」とあるので、『(光)源氏の物語』と最初は「物語」の前に「の」を入れて呼んでいたことになります。つまり源氏の姓を頂戴して臣籍に降下した皇子、光源氏を主人公とする物語の意で付けられたことがわかります。
『源氏物語』のことをいち早く伝えている『更級日記』冒頭部(寛仁四年〈1020〉以前)には、「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」とあり、また作者の菅原孝標の女が上京した治安元年(1021)三月条には、「紫のゆかり」「この『源氏の物語』、一の巻よりして」「『源氏』の五十余巻、櫃(ひつ)に入りながら」等と見えています。いずれにしても『源氏物語』は『源氏の物語』、略して『源氏』とか『源語』とも呼ばれていたのです。つまり物語の主人公の名で呼ぶのが一般的で、紫の上がヒロインであることを強調すると、『紫(の)物語』となり、後世には『紫語』『紫文』『紫史』などとも呼ばれています。  これは『竹取物語』は『竹取の翁の物語』であり、『伊勢物語』が『在(五)中将』、『うつほ物語』の初巻を「俊蔭」、さらには『平中物語』など、主人公の名で呼ぶのが書名の基本であったこととも共通するところなのです。
「もののあはれ」
よく『源氏物語』は「あはれ」の文学であり、『枕草子』は「をかし」の文学であると言われます。「をかし」は動詞「招(を)き」の形容詞形。好意をもって招き寄せたい気がするの意が原義。招き寄せたい、興味が引かれて面白い、美しくて心が引かれる、かわいらしい等々の意味になります。実は『源氏物語』の「をかし」の用例の方が『枕草子』の用例数より多いのですが、『枕草子』は『源氏物語』の五分の一ほどの頁数ゆえに、「をかし」の出て来る頻度が大きいので、「をかし」の文学とも称されるわけです。
「あはれ」は本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とあるように、感動詞「あ」と「はれ」との複合した語です。その原義は広く喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味しました。平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになりました。なお、「もののあはれ」の「もの」は広く漠然というときに、その語の上に添えることばで、「もののあはれ」といっても本質的には「あはれ」と同じことだと宣長は説いています。
『源氏物語』には「もののあはれ」の情調が至るところにあふれています。自然描写といい、人事描写といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。「(ものの)あはれ」の文学といわれるゆえんです。
紫式部の名の由来
『源氏物語』の作者とされる紫式部の呼称は、実は彼女が長和三年(1014)に亡くなって、その後『源氏物語』が広く世間に知られるようになってからのニックネームです。彼女自身は自分が紫式部と呼ばれたことは知らなかったのです。
紫式部は一条天皇の寛弘二年(1005)十二月二十九日に、彰子中宮の許に出仕したのですが、そのときの女房名は、藤式部と称されました。これは父藤原為時が花山朝(984‐86在位)で蔵人式部丞の任にあったので、その姓と官職名をふまえて、藤式部と呼ばれたのです。
『源氏物語』より百年近くあとに成立した『栄花物語』には紫式部として登場します。この紫式部の呼称の由来は、寛弘五年(1008)十一月一日の後一条天皇生誕五十(いか)日の儀の饗宴の席上で、当時の文壇の指導者であった藤原公任が式部に「わか紫やさぶらふ」と話しかけた事実にもとづいたものと思われます(『紫式部日記』参照)。ヒロイン紫の上の物語の作者として、紫式部の呼称はふさわしいものとされ、時代とともに知られていったのでしょう。
なお、紫式部の本名はわかっておりません。当時の風習として、結婚以前は為時の大君とか中の君・三の君などと呼ばれていたことでしょう。紫式部には早世した姉がいたとされます。成人式のときに披露された名前は、当時の慣例で父の為時の字をもらって、長女が為子、二女の式部は時子といわれた可能性はあります。 
 

 

義母の藤壺を思慕した光源氏
藤壺は先帝の女四の宮。源氏の生母の桐壺の更衣に酷似していたので、求められて桐壺帝の后として入内。源氏より五歳年上だったので、幼い源氏は母の面影を藤壺の宮に求めて、慕いつづけました。源氏は宮にひそかに通じましたが、源氏十八歳・藤壺二十三歳の四月、彼女が病気で三条邸に里下りしていた折、一夜を共にした結果、宮は懐妊。翌春のちの冷泉帝になる皇子を出産します。源氏はその後も再三藤壺に迫りますが、桐壺帝への不義を反省し、また皇子の将来を考えて、源氏の求愛を絶ちます。桐壺帝の一周忌には二十九歳で出家、その後も幼い皇子を見守りつづけ、皇子はついに冷泉帝として即位。その四年後藤壺中宮は三十七歳で亡くなります。
ところで源氏は「桐壺」の巻で、高麗の相人から、天皇になる相でありながら天皇でもなく、ましてや摂政・関白といった臣下になる相ではない、つまり天皇に匹敵する地位につくという予言を受けます。それは源氏三十九歳の「藤裏葉」の巻で受けた「准太上天皇」という地位で、これ以降源氏は「六条院」という院号を授けられるのです。
その院号は臣下に、退位した天皇と同じ待遇を授けることです。天皇の母后である詮子(一条帝の母)が東三条院の院号を授かってから制度化されました。それを天皇の父君である源氏にも授けたわけです。したがって源氏が冷泉帝の父君でなければならないのです。一見単なる不倫の関係のように見えて、実は源氏が予言どおりの地位に至るには、冷泉帝が源氏の子である必要があったのです。紫式部はそのために源氏と藤壺の宮の不倫物語を書いたわけなのです。
「桐壺」
『源氏物語』第一巻は「桐壺」の巻と称され、また当巻のヒロインは「桐壺の更衣」、天皇も「桐壺の帝」と言われています。「桐壺」の「壺」とは屋敷内の庭、つまり中庭のことです。その中庭に桐が植えられていると、その建物を桐壺と称し、そこに住む更衣(こうい)(女御につぐ天皇の后妃)を桐壺の更衣、その更衣を寵愛された帝を桐壺の帝と言ったのです。
内裏の天皇の住まいを清涼殿(せいりょうでん)と言いますが、その北側後方には、后妃たちの住む建物がいくつもあり、これらを総称して後宮(こうきゅう)と言います。それらは弘徽殿(こきでん)・登華殿(とうかでん)・麗景殿(れいけいでん)・宣耀殿(せんようでん)をはじめとして、中庭に各種の木を植えた飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)・凝花舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)・昭陽舎(しょうようしゃ)(梨壺)・淑景舎(しげいしゃ)(桐壺)があり、また襲芳舎(しゅうほうしゃ)は雷の鳴ったときの天皇の避難所で、雷鳴(らいめい)の壺とも言われます。後宮には以上のほか、五節(ごせち)の舞いの試演が行なわれる常寧殿(じょうねいでん)や裁縫所である貞観殿(じょうがんでん)もあり、これは御匣殿(みくしげどの)とも呼ばれました。
要するに後宮は奥向きの御殿で、后妃や女官の居住地域なのです。桐壺の本来の名称である淑景舎は、おだやかで、よい景色の殿舎という意味になります。清涼殿からは最も離れたところにあり、身分の低い后妃の居所でした。ところがその桐壺の更衣を帝が最も寵愛したものですから、他の后妃たちから大変な嫉妬や嫌がらせを受けることになってしまったのです。
なお、この桐壺は更衣亡きあとは、光源氏の居所となります。後には源氏の娘の明石中宮が入ることになり、源氏一家が伝統的に入る建物となっています。
「雨夜の品定め」
『源氏物語』第二巻「帚木」(ははきぎ)の巻の冒頭に語られている女性論で、光源氏十七歳の夏、五月雨(さみだれ)(梅雨)がつづくある夜に行なわれたので、「雨夜の品定め」というのです。場所は源氏の居室の桐壺。そこに義兄の頭中将(とうのちゅうじょう)・左馬頭(ひだりのうまのかみ)・藤式部丞(とうのしきぶのじょう)が参上。いずれも源氏よりも女性体験が豊かで、その経験から女性評論が行なわれるのです。
はじめに、パーフェクトな女性はめったにいず、中品(ちゅうぼん)(殿上人・受領階級などの中流階級)の女性に、個性的ですぐれた者が少なくないと論じます。とりわけさびしく荒れ果ててツル草に覆われたような予想外の所で、可憐な娘に出会ったりすると、不思議に心引かれるとも言っています。
つぎに生涯の妻を選ぶ基準は、(1)貞淑であること、つまり浮気をしないこと。(2)(夫が浮気しても)嫉妬をしないこと。この二つの条件が満たされれば、容姿とか階級などは問題にせず、こういう女性こそ一生の伴侶とすべきであるという結論に達します。
そのあと、生涯の伴侶にはむかない、具体的な実話として、左馬頭は指食い女(妬婦)と木枯しの女(浮気女)のことを、また、頭中将は常夏の女(内気な女。のちの夕顔)、それに藤式部丞は蒜(ひる)食い女(賢女)との体験談を語って散会となります。
これまで葵の上とか六条御息所とか藤壺らの上品の上の女性しか知らなかった光源氏は、この「雨夜の品定め」の教育を受けて、多彩な好き人としての才能を発揮して行くことになります。のみならず『源氏物語』の以後のストーリーそのものも、この「雨夜の品定め」の議論にのっとって、展開して行くのです。
「帚木」
『源氏物語』第二帖の巻名は「帚木」(ははきぎ)と言います。「帚」はホウキ。本によっては「箒」を用いる場合もありますが、そのときは竹ボウキが原意。つまり「帚木」はホウキの木という意味になります。それが空蝉(うつせみ)という女性の別名になっており、その帚木が第二巻のヒロインであるところから、巻名ともなっているのです。
ただし、このホウキの木は、ただのホウキの木ではありません。この木は園原山(長野県下伊那郡阿智村智里に所在。飯田市と岐阜県中津川市とのほぼ中間)の中腹にあった檜(ひのき)の一種で、周囲六メートル余り、地上二十二メートルの大木で、枝が四方にのび、遠くから見るときはまるでホウキを立てたように見えていて、近寄るとどれがその木かわからなくなってしまうという、不思議な大木だったということです。(『観光の飯田』86号、昭49・9刊)。現在はその根元だけが残っているそうです。
光源氏は十七歳の夏、方違(かたたが)えに赴いた中川の紀伊守邸で、紀伊守の父・伊予介の後妻である空蝉とはからずも契りを交します。彼女を忘れられない源氏は、空蝉の弟の小君に手引きをさせて再び中川邸を訪れますが、空蝉は身を隠して、源氏の求愛を拒否します。そのとき源氏は空蝉を園原の帚木にたとえて、
帚木の心を知らでそのはらの道にあやなく惑ひぬるかな
(近づくと見えなくなる帚木のようなあなたの心を知らずに、園原を行く旅人のように、わけもわからず迷ってしまったことよ。)
とよみかけます。空蝉の返歌。
数ならぬ伏屋(ふせや)に生(お)ふる名の憂(う)さにあるにもあらず消ゆる帚木
(いやしい伏屋〈園原にある施し小屋〉の生まれと言われるのがつらいので、居たたまれぬ思いで帚木のように消える私です)
近づくと消える園原の帚木に空蝉はたとえられ、そのヒロインの物語を語るので、巻名も帚木と付けられたわけです。
三箇の大事
「源氏物語の三箇の秘事(訣)」ともいい、また単に「三箇の大事」ともいいます。これは中世(鎌倉〜室町時代)の『源氏物語』の注釈家が『源氏物語』中の三つの語句について秘伝としたものです。師匠から弟子へ秘説相承の形で伝授するもので、『古今集』の伝授、つまり古今伝授における三木三鳥(一説=をがたまの木・めどにけづり花・かはな草、百千鳥・喚子鳥・いなおほせ鳥)のようなものといえます。
その三箇の大事とは、(1)揚名介(ようみょうのすけ)(夕顔巻)、(2)三つが一つ(葵)、(3)とのゐものの袋(賢木)の三項についての難義です。
さいわいなことに、近世(江戸時代)の国学の発展によって、これら三箇の大事もその意味が解明され、現代のわれわれも気軽に解釈できるようになりました。すなわち、
(1)は、名ばかりの介ということ。つまり職務も給与もない名義だけの地方官の次官をいいます。これは年官年爵の制度によって、ある人を名儀だけ介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)などに任じ、その得分を年官・年爵を受けられる三宮(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮)、またはこれに准ずる人に与えることから起こりました。
(2)は、三分の一ということ。
(3)は、宿直の物(衣冠や直衣〈のうし〉など)を入れる袋、つまり番袋(ばんぶくろ)(寝具を入れる大きな布袋)をいいます。
これらの語句は、中世には公家(くげ)(公卿・殿上人)の風俗が変わったためにわからなくなり、いろいろな解釈や説が出たわけです。
紫式部堕獄(だごく)説
紫式部は『源氏物語』に、むやみと浮薄でなまめかしい話を書き集めて、多くの読者を堕落させたので、地獄に堕ちて苦しんでいるという伝説です(『今鏡』参照)。平安末期から鎌倉時代にかけて盛んに説かれました。
『源氏物語』は現在でこそ世界的な名作の一編として尊重されていますが、実はこの作品は光源氏の好色物語であるという見解も、この物語の成立当初からあったのです。
たとえば『源氏物語』が全部完成した直後の寛弘六年(1009)夏ごろ、左大臣藤原道長は中宮彰子(あきこ)の前にある『源氏物語』を見て、「すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ」(そなたは好き者だと評判に立っているから、見る人が自分のものにしないで、そのまま見過すことはあるまいと思うことだ)と、紫式部によみかけています(『紫式部日記』参照)。
もちろんこれは冗談で言ったのですが、『源氏物語』が正当に評価されなかった一面を伝えています。これが平安末期以降になると、前述の堕獄説に発展するのです。
紫式部のファンたちはこの堕獄説に心を痛めました。地獄に堕ちている式部を救済しようと、『源氏一品経(いっぽんきょう)』(永万二年〈1166〉直後成立)のようなお経を作って、式部の善行を称え、『法華経』を書写して、平安な成仏を祈願しました(『宝物集』『今物語』参照)。
また閻魔(えんま)庁の役人になった小野篁(たかむら)に救ってもらうために、篁の墓の傍に紫式部の墓を作ったり(京都市北区西御所田町に所在)、篁ゆかりの千本閻魔堂に式部の供養塔を設けたりしているのです。
古人の評価
『源氏物語』の成立が初めて確認できるのは、寛弘五年(1008)十一月一日の敦成親王(のちの後一条天皇)御五十日(いか)の賀宴の席で、左衛門督藤原公任(きんとう)から紫式部が、「あなかしこ(ごめんください)、このわたりに若紫やさぶらふ(若紫さんはおられませんか。)」と声をかけられた時だと言われています。これがきっかけで彼女は紫式部と呼ばれるに至ったのです。そこで平成二十四年度から、この十一月一日を古典の日とすることが法律で定められました。
公任が紫式部を若紫に見立てようとしたのは、紫の上の少女時代の可憐で、無邪気で、清楚なイメージを高く評価していたからでしょう。つまりそういうすてきな人物を描いている『源氏物語』を文学的な感動を与えてくれる作品であると評価していたからに他なりません。
このような『源氏物語』の根本は、人の心を動かすもの、感動であるという評価は、『更級日記』の作者菅原孝標(たかすえ)の娘をはじめとして、中世の歌人である藤原俊成や定家、それに俊成の娘の『無名草子』などにも受けつがれ、『源氏物語』評価の本流となるのです。
一方、同じころ『源氏物語』を女房に読ませて聞いていた一条天皇は、「この人(作者紫式部)は『日本紀』をこそ読み給ふべけれ」と仰しゃったことから、紫式部は「日本紀の御局(みつぼね)」というあだ名がつきました。一条天皇は『源氏物語』の知的な要素を評価したわけです。
なお、これは前回にも指摘しましたが、左大臣藤原道長は、紫式部に「好き者と名にし立てれば云々」と歌をよみかけました。これは冗談半分とはいえ、『源氏物語』を好色小説と見立てているところからの発言です。
このように、『源氏物語』を(一)文学的な感動を与える作品、(二)知識を与えてくれる物語、(三)好色物語、という三つの評価が『源氏物語』の成立当時からあったことがわかります。
紫式部の生涯
紫式部は円融天皇の天延元年(973)に生まれました。父は式部丞藤原為時、母は常陸介藤原為信の娘です。父方も母方も式部が生まれた当時は、いわゆる受領階級で、中流貴族の家柄でありました。姉と弟惟規のほか、異母弟二人と異母妹一人がおります。
式部は幼時より聡明で、父為時が弟の惟規に漢詩文を教えていた時、傍で聞いていて、惟規よりも早く覚えたので、「そなたが男の子だったらな」と、父を嘆かせたと『紫式部日記』に記されています。
母は早世したようですが、一条天皇の長徳二年(996)父為時が越前守に任じられ、式部も弟惟規とともに同行。福井県武生(たけふ)の国司館に居住。その間親戚でもあり、また父の以前の役所の上役でもあった左衛門権佐藤原宣孝(のぶたか)から求婚を受け、長保元年(999)上京して結婚。このとき式部は27歳、宣孝は48歳でした。
この年一人娘の賢子(大弐三位〈だいにのさんみ〉)が生まれましたが、同三年(1001)宣孝が病死。そのころから『源氏物語』を執筆。式部の才能が認められて、寛弘二年(1005)十二月鷹司殿倫子(左大臣藤原道長室)の要請で一条天皇中宮彰子(あきこ)に出仕しました。女房名は藤式部(とうしきぶ)。
寛弘五年(1008)十一月一日の敦成(あつなり)親王御五十日(いか)の賀宴で、当時の文壇の大御所の左衛門督藤原公任(きんとう)から「若紫やさぶらふ」と声をかけられ、これがきっかけで、のちには紫式部と呼ばれることになりました。翌六年『源氏物語』五十四帖完成。同七年(1010)には『紫式部日記』を、長和二年(1013)には『紫式部集』を著わしました。
長和三年(1014)清水寺に参詣して皇太后宮彰子の病気平癒の灯明を献上。同年二月42歳の生涯を終えました。
登場人物の名づけ親
『源氏物語』の登場人物は四百三十人近くにのぼると言われています。(岡一男博士『源氏物語事典』昭39刊)。それらの作中人物の多くは官職位や居所・出生順によって、左大臣・頭中将・衛門督・二条の君・桐壺の更衣・二の宮・女三の宮などと呼ばれ、実名で呼ばれるのは、惟光・良清らのように、地下(じげ)人以下の身分の低い者に限られています。
この他作中にさまざまな条件から、固有名詞として用いられているものでは、光源氏・匂兵部卿・薫中将・末摘花・花散里・有明の君(朧月夜)・夕顔・空蝉・紫の上などがあります。
以上は作者の命名によるものですが、これ以外に読者によって命名され、古来通用して来たものには、次の三種があります。
(1) その人物の、主に印象に残る事件や事実を記した巻名を、そのまま人物に利用したもの。葵の上・総角の大君・東屋の君(浮舟)・浮舟・薄雲女院・柏木権大納言・梅枝左大臣・玉鬘尚侍・蛍兵部卿宮・夕霧左大臣など。
(2) 本人のよんだ、または本人についてよんだ歌などによって、名づけられたもの。落葉宮・朧月夜・雲井雁など。
(3) 一身上のことにからむもの。出生地による明石御方、身体的特徴を示す髭黒、春秋優劣論で秋をあげた秋好中宮など。
『源氏物語』の登場人物の名称は、作者が名づけたものより、熱心な読者たちによって命名されたものが多いのです。それらが作中人物の系図などにもメモされ、時代を経るにしたがって定着して来たわけです。
文章の「すべらかし」調
『源氏物語』の文章が一見難解に感じられるのは、書き出しから句点までの間が長い、「すべらかし」調の文体にあるとも言えます。たとえば『枕草子』初段の冒頭の、
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく。山際少しあかりて、紫だちたる。雲の細くたな引きたる。
の一文と、『源氏物語』「桐壺」巻の起筆の、
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。
という文章とを比較してみると、前者がポツポツと切れた簡潔な文体であるのに対して、『源氏物語』の方は、一文がとても長いということに気づくでしょう。その途中を「か」とか「に」とか「が」といった接続語でつないで、切れ目がありません。こういう文章を、女性の背後にまで長く垂れ下げる髪型の名を借りて、「すべらかし」調(流)といっています。
なぜ紫式部の文章は長文で、清少納言のそれは短文なのでしょうか。「文は人なり」(ビュホン)という言葉があります。文章はそれを書く人の性格や思考や健康状態まであらわすと言われています。
総じて短文型の作家は呼吸器官が弱く、肺活量が少ないのではないかと考えられます。これに対して長文型の作家は、心肺機能が強健で、一呼吸の間隔が長いために、文章も切れ目のない、長々しいものになるのでしょう。短文型の清少納言よりも「すべらかし」調の紫式部の方が心肺機能は強かったと考えられるわけです。  
 

 

「二条院」
二条院は光源氏の生家であり、少青年期をここで過ごし、六条院が出来るまでは(「少女」巻)、この二条院が源氏の住居でありました。
一般的に言えば、二条通りに邸宅が面していれば、二条院とか二条第とか呼ばれることになります。たとえば村上天皇母后の藤原隠子の二条院(二条の北、堀川の東)・一条天皇の中宮定子が入った小二条第(二条の北、東の洞院の西)・藤原定家の二条京極家(二条の北、京極の西)・二条富小路の内裏(二条の南、富小路の西)等々、王朝時代の貴族の豪壮な邸宅が二条通りの南北沿いに、何棟も存在していました(『二中暦』『拾芥抄』等)。
光源氏の二条院は、「賢木」の巻の斎宮母娘(六条御息所とのちの秋好中宮)が伊勢へ下向する条に、一行が内裏を出て、「二条より洞院(とうゐん)の大路を折れ給ふほど、二条の院の前なれば」とあるので、二条通りの南、東の洞院通りの東にあったことになります。
実はここには入道大相国兼家が造り、道長を経て、頼通の弟の教通に伝領された二条殿があったとされています。それで教通を二条関白とも言うのです(『拾芥抄』)。当然ながら紫式部存生の時代には、道長の屋敷の一つでもあったわけです。光源氏のモデルとして式部が誰をイメージしていたかがわかるでしょう。
源氏の二条院は、桐壺の更衣の母の邸でありました。そこで更衣が生育し、光源氏が伝領。源氏は須磨に流謫する際、二条院や所領などを皆紫の上に贈ります(「須磨」)。紫の上が亡くなった後(「御法」)、この邸は養女の明石中宮に伝わって、その子の匂宮の居邸となり、匂宮は宇治の中の君を当邸の西の対に迎えたのでした(「早蕨」)。源氏一族のヒロインの住居が二条院なのですね。
物語に描かれた結婚形態
現代の結婚形態と根本的に異るところは、「通い婚」「婿取り婚」だったということです。現在では結婚すれば夫婦ははじめから同居するのが当然ですが、王朝時代には男が女の許に通うというところから始まり、妻が生涯の伴侶と確信できれば、いずれは男の家に妻を引取るか、あるいは妻の家に婿として迎えられるかの、どちらかになります。
夫と妻が一つ屋根のもとで暮すことになっても、二人の部屋は別々であり、夫が妻の許を訪れるという「通い婚」形式がとられます。
光源氏ははじめ左大臣の娘の葵の上の許に通っておりました。夕霧の出産後、彼女が急死したので、源氏が左大臣邸に住んだり、葵の上を自邸の二条院に引取るということはありませんでした。
その後北山で発見した紫の上を二条院に引取り、のちに結婚しますが、東の対に住む源氏が西の対の紫の上の許に通うという形態が取られます。
源氏が四十歳のとき、兄の朱雀院の姫宮である女三の宮を六条院に迎えます。皇女や后妃の場合は、主に「嫁取り婚」になります。このとき源氏は紫の上と同居する東の対から寝殿の女三の宮の許に通います。女三の宮の降嫁によって紫の上は侍女扱いになったといえます。七年後、紫の上は二条院へ移ります。妻は通い婚の形式が取られる女性ということになります。紫の上が二条院に移って再び女主人として尊重されたということです。
なお、『源氏物語』では、生涯の伴侶になる女性との結婚の際には、男君の三日夜通いや三日夜の餅の描写があります。行きずりの恋人や単なる愛人の場合は、そういう描写はありません。また一つの邸宅には一人の妻しかおりません。複数いるとすれば、妻以外の親しい女性は、侍女などで、男主人から愛されている女性であるということになります。
「紅葉賀(もみじのが)」
『源氏物語』第七帖は「紅葉賀」の巻と呼ばれています。これは退位された天皇のお住居の「朱雀院(すざくいん)」で、十月の紅葉の盛りに年の御賀があるところからの命名です。本文に「試みの日かく尽しつれば、紅葉の蔭やさうざうしく」とあります。
当時の貴族は四十歳から十年目ごとに、四十(よそじ)の賀・五十(いそじ)の賀などといって、長寿を祝う会が催されました。その年齢の数だけのお寺、すなわち四十か寺・五十か寺などに誦経や祈祷をさせ、またしかるべき場所で、楽人を召し、管絃の遊びなどを行なって、お祝いをしました。それが紅葉の季節に行なわれたので、「紅葉賀」と称するのです。
朱雀院には隠退した天皇がいたはずです。その先皇は現在の天皇である桐壺帝の父帝か兄帝であったと推測されます。桐壺帝には弘徽殿女御との間に一男(のちの朱雀院)と二女がおり、そののち桐壺の更衣が生んだ光源氏以下、他のお后との間に生まれた蛍兵部卿宮とか帥宮(「蛍」巻参照)とか宇治八宮がおり、また藤壺の宮との子とされる冷泉院は十の宮とされています。
今、仮に桐壺帝が二十歳余りで長子ののちの朱雀院をもうけたとすると、「紅葉賀」巻では、四十一〜四十二歳。朱雀院は二十一〜二十二歳。光源氏は三歳年下で十八〜十九歳となります。そこで「紅葉賀」の祝福を受けた先皇は、六十賀の祝福を受けたのでしょう。そうすると桐壺帝とは十八〜十九歳の差となりますので、この先帝は桐壺帝の父君であったことになります。
この祝賀の折に源氏は青海波を舞って人々を感動させますが、年の賀の際にはしばしば直系の孫児が舞いを舞うのが習わしでした。やはり源氏の祖父、つまり桐壺院の父帝の年の賀であったものと推測されます。
近親結婚
たとえば光源氏と葵の上の結婚では、桐壺帝の二男である光源氏と、桐壺帝妹の大宮の生んだ葵の上とはいとこの間柄で結婚したことになります。源氏の子の夕霧は母は葵の上。その妻の雲井雁は葵の上の弟の頭中将(のちの内大臣・太政大臣)の娘ですから、二人はやはりいとこの間柄であります。さらに夕霧の娘の六の君は、夕霧の妹の明石中宮の三男の匂宮と結婚しますが、これもいとこの間柄です。源氏も夕霧も夕霧娘の六の君も結婚相手はすべていとこでした。
弘徽殿大后と桐壺帝の間に生まれた朱雀院は、大后の妹の朧月夜の尚侍と結婚しますが、これはおばとおいとが結婚したことになります。
なお、光源氏が四十歳になって新たに六条院へ迎えた女三の宮は、母は藤壺中宮の異腹の妹の藤壺女御でしたから、紫の上のいとこに当ります。宇治の八宮が北の方に先立たれて、ひそかに愛したのはその姪の中将の君でした。これも身内意識による結婚ということになるでしょう。
実は、こういう近親結婚は、当時の貴族社会ではあたり前のことでした。たとえば一条天皇と彰子中宮および定子皇后とは、どちらもいとこ同士の結婚でした。その一条天皇の長男の後一条天皇は彰子の妹の威子と結婚していますから、おばとおいとの間柄になります。
雲井雁の父である内大臣は、娘と夕霧との結婚を最初は「めづらしげなきあはひ(縁組み)」だとして反対しました(「少女」巻)。それほどに近親結婚はありふれた縁組みとされていたのです。
近親結婚は、自分たち一族の財産を他氏に譲ることなく、身内中で処分するという観点から行なわれたのです。それによって長い間北家藤原氏や、『源氏物語』源家の栄華が保たれたというわけです。
結婚を拒否する女性
『源氏物語』には光源氏や夕霧や匂宮の求愛を受け入れる女性がいる一方、これをかたくなに拒否して、独身を貫き通す女性も散見します。たとえば、正編では朝顔や、「宇治十帖」の故八の宮の長女である大君らであり、また一度は強引な源氏に身を許したものの、以後は源氏の求愛を拒みつづけた空蝉などもいます。
空蝉は故中納言の娘で、父の死後老受領の伊予介(いよのすけ)の後妻になっていました。源氏に好意は抱いてはいたものの、身分の差に加えて、年上であったこと、それに容姿に自信のなかったことなどで、源氏の求愛を拒みました。
大君は八の宮の逝去後、薫の求愛を受けましたが、没落した宮家の姫君であり、また薫よりも年上であり、さらに妹の中の君より容姿は劣っていました。大君は中の君を薫に勧めたのですが、自分が中の君の母親がわりになって世話をしたい。しかし自分には母親がおらず、何の相談もできず、助けも得られないので、結婚は無理だとあきらめたようです。同様のことは空蝉も、未婚で両親の揃った身であれば源氏の求愛を受け入れられたかも知れないと言っています。女性の結婚には母親の存在が大切であったことがわかります。
朝顔は源氏のいとこであり、父の式部卿宮も二人の結婚に賛成していました。朝顔は源氏の求愛を「帚木」の巻以来ずっと受けて来ましたが、源氏の浮気な性格に不信を抱いていたので、消極的になったようです。実は大君も匂宮の中の君に対する夜離れがつづくのを見て、自分はそうした苦労をしたくないと、いよいよ独身で通す気持ちになりました。
内親王は一般に独身で生涯を終ることが多く、斎院であった朝顔や八の宮の娘大君には、そういう貴種ゆえのプライドから来る結婚拒否の思いもあったようです。身分・年齢・容姿、それにプライド等が結婚拒否の要因なのですね。
光源氏の容貌・容姿
京都は嵯峨の清涼寺の宝物館の入口に背丈二メートル余りのかなり大きな阿弥陀仏が鎮座しています。その説明書きによりますと、この阿弥陀仏は当寺に住んでいた源融(みなもとのとおる)(822−95、左大臣・従一位。嵯峨天皇の子)の顔そっくりに作られたものであり、その融は光源氏のモデルとされているから、この阿弥陀仏の顔は光源氏のそれであるといった趣旨のことが書かれています。その阿弥陀仏は丸くふくよかで円満な顔立ちであり、光源氏の顔立ちにふさわしい風格が感じられます。
もっとも『源氏物語』を読んだだけでは、光源氏の顔にひげがあったかどうかもわかりません。藤原隆能(たかよし)(1155年任参河守)も作者の一人とされている『源氏物語絵巻』(徳川美術館他蔵)の「柏木」帖には、光源氏が幼い薫を抱いている姿が描かれています。光源氏は下ぶくれの丸い顔立ちで、濃いまゆ毛に細い切れ長の目、口ひげ・あごひげなども描かれています。ただしこの『源氏物語絵巻』の登場人物は、すべて豊かな下ぶくれの顔に、目は細い一線を長めに引き、鼻はやはり細い線で鉤形を描いて表現するという“引目鉤鼻(ひきめかぎはな)”の描法で画かれていますので、この「柏木」帖の光源氏の顔立ちにも個性を見出すことはむずかしいようです。
『源氏物語』の中で、光源氏の容姿についてやや具体的にふれているのは、「帚木」巻の終りの条で、空蝉の夫の老伊予介(いよのすけ)にふれながら、「されど、頼もしげなく、首細しとて」空蝉が自分をあなどっていると、彼女の弟に訴える場面が唯一のものです。光源氏がほっそりしたやさ男であったことがわかります。
光源氏の容貌や容姿について、具体的に描かなかったのは、読者にそれぞれ自由に理想的で好ましい光源氏を思い浮かべてほしいという、作者紫式部の意図によるものなのです。
物語の遺跡
『源氏物語』の舞台としては、京都の内裏や二条院・六条院などの邸宅をはじめとして、清水寺・賀茂神社等の社寺、比叡山や逢坂関・賀茂川・桂川等々が登場します。京都市外では、宇治・石清水神社、石山寺・長谷寺・須磨・明石などもよく知られています。
これらは実在する地名や社寺等をそのまま用いる場合と、架空のものを用いる場合とがあります。そこで宇治の八の宮邸はどこにあるのかとか、北山の僧都の寺院は鞍馬寺がモデルではないかなど、『源氏物語』の遺跡にまつわる伝承が生じて来るわけです。
とりわけ架空の登場人物の住居や墓がはっきりと伝承されている場合があり、『源氏物語』の熱烈なファンのなせるわざとはいえ、その熱意に感動してしまいます。ここではその代表的な例を、一、二紹介しましょう。
○ 夕顔の墓 京都市下京区堺町通松原上ル夕顔町の富江氏邸の庭園内にあります。非公開。五輪の塔の墓で、江戸時代・貞享元年(1684)に成った『莵藝泥赴(つぎねふ)』にすでに紹介されており、「夕顔の宿といふは、いとあやし」とあります。京都のどまん中に夕顔の墓があるのが面白いですね。
○ 玉鬘の大銀杏(おおいちょう) 奈良県桜井市初瀬の長谷寺の、東参道から寺の駐車場越しの、初瀬川を隔てた向う側の素盞雄(すさのお)神社の所にあります。この大銀杏の所は玉鬘一行が滞在した宿坊の故地といい、玉鬘が晩年ここに隠棲した「玉鬘庵」があったとされます。本居宣長の明和九年(1772)刊の『菅笠日記』にも紹介されています。
○ 明石入道の墓・光源氏の浜の館等 前者は明石市大観町の善楽寺(戒光院)に所在。後者は善楽寺に隣接する無量光寺に所在。いずれも明石藩主松平忠国(1597−1659)の発議で明石関係の『源氏』ゆかりの地が制定された由です。
いずれにしてもこれらの遺跡は、架空ではない、現実の話として受けとめられていたのですね。
物語の構成
『源氏物語』は全五十四帖から成りますが、ストーリーに即して、その構成を鳥瞰してみると、以下のようになります。
T「桐壺」の巻〜「幻」の巻まで(正編四十一帖) 光源氏の生誕から紫の上の喪にこもる五十二歳の歳暮までを描く。
U「匂宮」「紅梅」「竹河」の三巻(後編四十二〜四十四帖) 源氏薨後の源家一家(匂宮)・故太政大臣(頭中将)の次男の按察大納言家(紅梅)・故太政大臣髭黒の夫人玉鬘一家(竹河)の近況や、特に源氏の外孫である匂宮と源氏の義子である薫との生い立ちを、薫を主人公に語る。
V「橋姫」〜「夢浮橋」の、いわゆる「宇治十帖」(続編四十五〜五十四帖) 宇治八の宮の姫君たち、大君・中君・浮舟らを女主人公として、薫と匂宮との性格の対照と、恋愛における両者の葛藤、二人にはさまれた浮舟の出家等が描かれている。
もっともTの正編が全体の分量からいうと、長編すぎるので、
TのA 「桐壺」から「明石」の巻までの十三帖 光源氏生誕から、右大臣家の朧月夜との密会露見で、須磨・明石に流寓するまでを描く。
TのB 「澪標」から「藤裏葉」の巻までの二十帖 源氏の召還から、源氏の子である冷泉院の即位、源氏はついに太上天皇にのぼり、六条院と号するまでを語る。
TのC 「若菜上」から「幻」の巻までの八帖 四十歳の六条院に女三の宮が降嫁。柏木と宮との密通・薫誕生、紫の上の死去・光源氏が紫の上を追憶しつつ、五十二歳の年の暮れを迎えるまでを述べる。
と、分けて、全編を五部構成で考えると、この物語をいっそう理解しやすくなるでしょう。
乳母(めのと)
乳母は生母に代り、子ども(主人)に乳を飲ませ、養育する女性です。その子どもの監督者のような立場にいて、ふつうの女房とは別格の人です。ときには母親以上に子どもに影響力を発揮します。
男の子の乳母は、その子が成人式を迎えると、お役御免となって、実家に帰ります。女の子の乳母は、その子が成人し、結婚しても、とつぎ先に同行するなど、一生涯子ども(主人)に付き添い、世話をします。
貴族の家では、若君や姫君の世話をする乳母は一人とは限りません。光源氏の乳母には最も重んぜられた大弐の乳母のほか、左衛門の乳母などがいました。夕顔の乳母にも右近の母や、大宰少弐の妻であった乳母がおりました。
乳母は原則として自分の子を出産し、そのお乳で主家の子女(主人)を育てます。そこで乳母の実子、つまり乳母子も、お乳をあげる主人と同年齢のことが多く、主人に対しては格別近しい関係にありました。万一乳母が亡くなったりしますと、残された主人に今度は乳母子が仕えるのが一般です。末摘花に仕えていた侍従などもその一人です。
光源氏の乳母子(大弐の三位の子)の惟光(これみつ)は、幼いときから源氏のお供をし、その秘密などにもかかわりました。その後惟光の娘の藤典侍(とうないしのすけ)が夕霧の側室になるなどして、最後には公卿となりました。乳母子の出世頭といってもよいでしょう。
貴族の姫君は子どもを出産しても授乳をしない、というのが原則のようです。もっとも夕霧の北の方の雲井雁はみずから授乳をしており、その姿が『源氏物語絵巻』「横笛」巻の一シーンにも描かれています。母性本能を発揮した姫君もいたわけです。
物語と和歌
答えは七九五首です。一巻あたり一四・七首もの和歌がよみ込まれていることになります。
歌数の多い巻は、「須磨」48首・「賢木」33首・「総角(あげまき)」31首・「明石」30首・「若菜下」29首・「手習」28首・「夕霧」「幻」26首・「若紫」25首・「葵」「若菜上」「宿木」24首などです。
「須磨」は光源氏が政争に破れて、みずから須磨の浦に閉じ籠ることになった次第を述べた巻です。人々との別れの贈答歌や須磨での独詠歌などで、48首の多数にのぼりました。「賢木」の33首は前半の伊勢へ下る六条御息所との贈答歌と、後半の藤壺や朧月夜尚侍との贈答歌が中心です。「総角」は「若菜上」・「若菜下」・「宿木」につぐ長編の巻です。八の宮への追悼歌や、匂宮と中の君との結婚関連の贈答歌、それに亡くなる大君と薫との贈答歌などが主だったものです。
逆に歌数の少ない巻は、「匂宮」「夢浮橋」1首・「空蝉」「篝火(かがりび)」2首・「関屋」3首・「花散里」「野分」「紅梅」4首・「蓬生」6首などです。
これらの巻は大半が短編です。歌数は当然少なくなります。また「匂宮」は「幻」までの正編と、「橋姫」からの続編「宇治十帖」をつなぐ後編(「匂宮」「紅梅」「竹河」)の冒頭にあって、説明的な内容であることが一首だけの結果になったのでしょう。同様のことは五十四帖の最終巻である「夢浮橋」についても言えると思います。
紫式部の和歌は家集の『紫式部集』(全一二八首)にも89首載っています。他に『紫式部日記』や『栄花物語』等にも式部の詠草が若干首見えています。したがって紫式部の和歌は約九百首が現存していることになります。  
 

 

「総角」の巻名由来
『源氏物語』第四十七帖は「総角(あげまき)」巻です。「あげまき」は、「総角」の他「揚巻」とも書き、上げて巻く、というのが原義です。つまり髪の結い方の一つで、子どもが十二、三歳までは、髪を垂らしてうなじにまとめた「うなゐ」の形を、加齢によって、両分し、頭上の左右にあげて巻き、輪を作った髪型です。転じて髪を総角に結った若者も称し、さらに転じて、上部を三つの輪に結んで、まん中に房を垂れた、紐の結び方の名ともなりました。
この紐結びの総角は、文箱やすだれや仏具などの飾りとされました。また鎧の背の逆板(さかいた)の中央の輪につけて垂らしたりもしました。
「総角」巻の場合は、父八の宮の一周忌が近づき、仏や僧侶に奉る香や香炉をのせる机(名香)の四隅に結び垂らすための、総角結びを作っている大君に、薫が意中を告げて、
総角に長き契りを結びこめ同じところによりもあはなむ
(総角結びの中に末長い契りを結びこめ、同じところで結び目が出会うように、私もあなたといつまでも逢える契りを結びたいことです。)
とよみかけました。この薫の歌は、催馬楽の「総角」の、「総角や とうとう 尋(ひろ)ばかりや とうとう 離(さか)りて寝たれども まろびあひけり とうとう か寄りあひけり とうとう」の句が下敷きとなっています。この薫の歌から「総角」巻の名が付けられたのです。
光源氏の須磨への籠居
光源氏は「賢木」の巻の終わりで、朧月夜の尚侍(ないしのかみ)に会うために、太政大臣(もとの右大臣)邸へ毎晩通いましたが、その人もなげな振る舞いに激怒した弘徽殿の大后と太政大臣は、源氏を政界から抹殺しようとします。「須磨」の冒頭近くには、「さしてかく官爵を取られ」ない人の話があるので、源氏はすっかり官爵も取りあげられたのでした。それにもかかわらず、平然と都にいると、流罪など恐ろしい罪科に処せられるかも知れません。隠岐や太宰府に流された小野篁(たかむら)・菅原道真(みちざね)・源高明(たかあきら)の例もあります。そこで源氏はみずから都からあまり遠くない須磨に籠居しようと決意したのです。
須磨は業平の兄行平中納言も一時わび住まいをし、「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答えよ」とよんだ所です。またかつて源良清から北山で、ここは景色のよい浦だと聞いたこともあります(「若紫」巻参照)。ただ現在は海人(あま)の苫屋(とまや)さえまれな寂しい所だということで、ためらわれましたが、他によい場所もなく、何よりも源氏の生活を支える経済的基盤=荘園があったので、須磨行きを決意したのです。
そんな荒涼とした海浜に妻の紫の上を連れて行くことは断念しましたが、それはその後須磨から明石に移って、ここで明石の御方との間に姫君をもうけるためだったのです。紫の上と同居ではそれは困難だからです。
なお、貴種流離譚(りゅうりたん)といって、高貴な人物は一時地方へ流離し、そこで苦労をし、また子どもをもうけ、再び中央へ凱旋(がいせん)するという話型があります。たとえばヒコホホデミの命(みこと)が竜宮でトヨタマ姫と出会い、ウガヤフキアヘズの命(神武天皇の父君)をもうけるようなケースです。
光源氏の須磨下りは、一見懲罰を避けるためと見えて、実は源氏一家の繁栄をもたらす明石姫君を得るための旅でもあったのです。
「夢浮橋」の巻名由来
『源氏物語』五十四帖の最終巻は「夢浮橋(ゆめのうきはし)」です。第一帖の「桐壺」の巻から第五十三帖の「手習」巻までは、巻中の語句や、和歌の意味・用語などから巻名がつけられています。ところが「夢浮橋」の語は巻中には出て来ず、何に由来しているのかが判然としません。
ただし「夢浮橋」巻には、「夢」の語が五個所出て来ます。「浮橋」の本来の意味は、水上にイカダとか多くの舟を浮かべて、その上に板を渡した橋をいいます。本格的で堅固な橋に較べると、安定せず、危なっかしく感じられます。それははかない意の「夢」とほぼ同じ意味になります。そこで「浮橋」には取り立てての意味はなく、「夢」に添えたことばであるとも考えられます。
正編の最終巻四十一帖の「幻」巻は、「桐壺」巻の幻(故更衣の魂を探す幻術士)に呼応して、紫の上の魂のありかを訪ねて行く幻術士を意味します。同時にそれが「夢・幻」の「幻」の意をも表します。その「幻」に呼応するのが「夢」なのですから、「夢浮橋」=「夢」と解釈しても問題はないでしょう。
「薄雲」巻で源氏が大堰の明石の御方を訪ねて、別れ際に、「夢のわたりの浮橋か」としきりに嘆く姿が描かれています。藤原定家はここの個所には、「世の中は夢の渡りの浮橋かうち渡りつつ物をこそ思へ」(出典未詳)の一首が引用されていると指摘しています(『奥入』)。
大意は、男女の仲は、夢の渡し場にかかっている浮橋のように、はかなく頼りないものなのか。あの人の許を訪ねては、物思いをするばかりだ、というのです。大君に先立たれ、中君は匂宮に嫁ぎ、浮舟からは見捨てられた薫の心境は、この引歌の内容と重なります。この歌を作者は念頭に置いて、はかなく、頼りない男女の仲を「夢浮橋」の語で伝えているものと思われます。
光源氏の経済基盤[1] 
『源氏物語』や『伊勢物語』等のどこを読んでも光源氏や業平らが、おカネを出して何かを買ったとか、あるいは給料日に給料を受け取ったとかいうような記事は、一切出て来ません。つまりこれは貨幣が実質的にはほとんど流通していなかったという事実を示しているのです。
市場では、銭(貨幣)も多少は使われたでしょうが、多くは米や絹布やその他の産物等で物々交換が行なわれていたのでしょう。ただし光源氏や業平らの貴族たちは、めったなことでは、そういう市場などには行かなかったはずです。
光源氏をはじめとする貴族階級は、想像以上に荘園という私有地(田畑・牧場など)を持っていたのです。たとえば源氏は朧月夜事件で須磨に隠棲しますが、「近き所々の御庄の司(つかさ)召して、さるべきことどもなど、良清の朝臣、親しき家司にて、仰せ行」った結果、あっという間に見ごとな住居が落成するのです。
薫は宇治の八の宮の亡くなったあと、大君・中君・浮舟らの世話をすることになりますが、それは薫が宇治の地に多数の荘園を持っていたから、できたことなのです。夕霧も正妻となる落葉の宮(柏木前夫人)を小野の地に訪ねて求婚しつづけますが、従者たちを近所の荘園に待機させています。
光源氏ら中央の権門の荘園は不輸租田といって租税が免除されています。そこで地方の豪族があらそって土地を権門に寄進し、豪族自身はその荘司となって、国司の誅求(ちゅうきゅう)から免れようとする傾向が生じました。その結果権門・勢家には荘園が集中し、これをさらに堅固に保持するためには、官位昇進を図ったり、子女を宮廷に宮使えさせたり、他の権門の貴公子と通婚させたりなどして、荘園の停廃・奪取を防いだのです。光源氏らの経済を支えていたのは、実はこの荘園経済だったのです。
弘徽殿の大后のモデル
弘徽殿の大后は右大臣の長女で、桐壺帝の東宮時代からの女御であり、朱雀院・一品宮・斎院を生みました。後に入内した故大納言の娘である桐壺の更衣が帝寵を独占するに及んで、嫉妬。更衣はいじめ抜かれて早世しましたが、その子である光源氏をも幼少時代から憎みつづけました。ことに妹の朧月夜と源氏の密会発覚の折には、源氏非難の急先鋒となって、源氏の官職位剥奪を画策、源氏の須磨流謫の契機となりました。源氏の支援する東宮(冷泉院)を廃して、八の宮(宇治の八の宮)の擁立を謀って失敗。源氏が帰京し、政権を回復後も、大后はぐちっぽく、わがままで朱雀院を困らせました。『源氏物語』随一の悪役として描かれています。
歴史上、ひどく嫉妬深かった后妃としては、仁徳天皇の皇后の磐之媛(いわのひめ)の命(みこと)が有名です。天皇の寵愛した黒日売(くろひめ)は皇后の嫉妬を恐れて吉備へ船で逃げ帰ろうとしますが、磐之媛は黒日売を船から引きずり下ろさせて徒歩で帰らせました。また皇后が紀州へ出かけている間に天皇が八田皇女(やたのみこ)と結婚したことを知って、怒った皇后は皇居難波高津宮へ帰らず、山城の筒城(つづき)にとどまったこともありました。こうした磐之媛の嫉妬伝説なども紫式部は参考にしたかも。
物語の時代設定とされる村上朝の藤原師輔の二女で、貞観殿の尚侍登子は、晩年の村上天皇から寵愛されました。その姉の中宮安子が、この登子にはげしく嫉妬したことは、『栄花物語』や『大鏡』などにも見えます。その安子は、垂れ目でかわいらしかった従妹の宣耀殿の女御芳子に対してもたいそう嫉妬しています。桐壺の更衣はこの登子と芳子とを合わせたようなイメージもあります。安子は現実に弘徽殿に住んでいました。
なお、漢の高祖の戚夫人(せきふじん)は、高祖との間に趙王如意をもうけ、この如意を恵帝が太子であったころ、これを廃して如意を代りにと図りました。しかし事の成らないうちに高祖が亡くなり恵帝が即位。恵帝の母の呂太后は報復のため、戚夫人の手足を断ち、目や耳をとり、声を断つ薬を飲ませて、最後には厠の中へ投げ入れて、人彘(じんてい)(豚)と人々に呼ばせたうえ、如意も呼びつけて毒殺したということです。呂太后の嫉妬の怖さはきわ立っていますね。
以上のような嫉妬深い内外の后妃たちが、悪后と称される弘徽殿の女御のモデルになっているようです。しかし特定の人物と直結するものではなく、読者にそうではないかと想像させる手法をとっているところが、紫式部らしい創作手法なのです。
桐壺の更衣のモデル
前稿35に弘徽殿の大后のモデルについて述べましたが、そのモデルとされる村上天皇の中宮安子にはげしく嫉妬をされた実妹の貞観殿尚侍登子や、安子の従妹にあたる宣耀殿女御などが、更衣のモデルであったかも知れません。もっとも登子には子どもはなく、また芳子には二人の皇子(六・八の宮)がおりましたので、登子と芳子とを合わせると、桐壺の更衣のモデルになるようにも考えられます。
なお、呂太后にいじめ抜かれて殺された戚夫人などの生涯も参考になったことでしょう。もっとも戚夫人への報復は高祖の死後のことです。呂太后は弘徽殿大后のモデルにはなったでしょうが、その嫉妬の対象は、更衣というよりむしろ桐壺院崩御後に、東宮(冷泉院)を擁立する藤壺中宮や光源氏に向けられている物語に反映しているとも言えます。
『続日本後記』承和六年(839)六月三十日条には、「女御藤原朝臣沢子卒。(中略)寵愛之隆(さか)ンナルコト独リ後宮ニ冠タリ。俄(にはか)ニ病ミテ困篤(こんとく)ス。之(これ)ヲ小車ニ載セ禁中ヨリ出(い)ダス。纔(わづか)ニ里第ニ至リ便(すなは)チ絶ユ。天皇之ヲ聞キテ哀悼シタマフ。中ノ使ヲ遣ハシテ従三位ヲ贈ルナリ」と見えます。この仁明天皇女御沢子の薨去の記事は、桐壺の更衣のそれとよく似ています。この沢子は北家藤原氏の支流の、従五位下紀伊守総継(贈太政大臣)の娘でした。桐壺の更衣は故按察大納言の娘でしたが、それよりもずっと低い身分の出身です。
沢子は仁明天皇の寵愛を受け、三皇子・一皇女(宗康・時康・人康・新子)を生みました。そのうちの仁明帝第三皇子の時康親王が元慶八年(884)に即位した五十八代光孝天皇です。母の沢子は贈皇太后となり、外祖父総継は贈太政大臣とされました。何やら光源氏が実子の冷泉院の即位によって、遂には六条院の院号を授けられたのと通ずるところがありますね。
紫式部観音化身説
『源氏物語』のすぐれていることを強調して、女性の紫式部が一人でこんな大作品を書けるはずはない。これは観音菩薩などが、式部に変身してこの物語を書き、その教えを説いているのである。紫式部は実は観音様なのだという説です。
平安時代末期、末法思想なども流布して、仏教の信仰が盛んになった時代に考えられた説なのです。嘉応二年(1170)に書かれたことになっている『今鏡』に、紫式部が女の身で、あれほどの源氏物語を書いたのは、妙音菩薩や観音菩薩などが女性に変身して、仏法を説いて、人を導いているのだろう、と記されたのが、この説の最初です。
つづいて『無名草子』(1200年ごろ成立)に、「この『源氏』作り出(い)でたることこそ、思へど思へど、この世一つならず(前世の因縁にもよろうかと)めづらかにおぼほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりける験(しるし)にや(仏に祈願したお蔭)とこそおぼゆれ」とあります。仏が変身したわけではありませんが、仏の力で『源氏物語』は出来たもののようです。
さらに『源氏物語』の注釈書である『河海抄』(1362年ごろ成る)にも石山寺に参籠して、観音菩薩によい物語が書けるようにとお祈りをしていたところ、十五夜の月が湖水に映って心は清澄。突如「須磨」巻の着想を得たので、仏前にあった『大船若経』の料紙を借用して、これを書いたとあります。この場合、観音様が紫式部に乗り移ったようでもあります。
紫式部を観音の化身とする考え方は、能作者によって一般化され、『源氏供養』には、「紫式部と申すは、かの石山の観世音」とあります。観音様は現世の利益(りやく)をかなえてくれるといいます。『源氏物語』を読めば、何かご利益があるようですね。
光源氏の経済基盤[2]
光源氏に限らず、夕霧でも薫でも、給料を支給されたとか、金銭のやり取りをしたとかといった記事は、『源氏物語』のどこにも書かれていません。これは宮仕えをする家司や女房たちについても言えることで、一体当時はどういう経済的な仕組みになっていたのでしょうか。
それは一言でいえば、荘園経済であったということになります。たとえば光源氏は須磨に一時身を隠しますが、その瀟洒(しょうしゃ)な住居は、「近き所々の司(つかさ)召して、然るべきことどもなど、良清の朝臣、親しき家司にて、仰せ行な」って、あっという間に出来上がるのです(「須磨」)。
夕霧が落葉の宮(柏木未亡人)の母君である一条御息所の葬儀の援助をしたときは、「近き御庄の人々召し仰せて、さるべきことども仕うまつるべく、掟(お)きて定めて出で給」うたともあります(「夕霧」)。
薫は宇治の八の宮邸の後事を託されると、「このわたり近き御庄どもなどに、そのことどもも宣ひあづけなど、まめやかなること(生活上の手当て)どもをさへ定め置き給」うたとあります(「早蕨」)。
『源氏物語』には、二十例ほどの庄園の記事があります。庄(荘)園とは貴族の私的な所有地です。当然そこで働く農民たちも、庄園の持ち主、つまり貴族たちの財産となります。
庄園からは米や布や木材や炭など、あらゆる生活物資を徴集することができます。しかも光源氏や夕霧や薫ら上流貴族の庄園では税金を免除されることが少なくありません。したがって庄園は彼らの金庫であり、財布でもあります。
光源氏らが私的に遠出をする所は、みな近くに自分の庄園がある土地と決まっています。その庄園から衣食住の補給を受け、時には葬儀などの行事に至るまで、全ての支援が受けられるので、お金はほとんど必要ないわけです。
物語の登場人物
『源氏物語』に登場する人物は、四百三十余人に達しています。単に子ども何人とか、娘が三人とか、数人の従者や家司といった記述もありますから、そういう人物をも数え上げたら、もっと多人数になるでしょう。
その主要人物の性格描写は精彩で、個性的であり、遺伝の事実にまで注意しています。たとえば光源氏の性格は、父の桐壺帝の性格と母の更衣の性格を受けて、色好みの性格である一方、内心はまじめで、芸術的才能も豊かであるとされています。また頭の中将の負けぎらいで、しかも熱情的な性格が、その娘の雲井の雁や柏木に反映していたり、一方いささか滑稽味のあるところが、近江の君に顕著に伝わっていることがわかります。
夕霧はまじめな性格だと思われていたのに、三十歳すぎになって落葉の宮に心を奪われてしまいます。父の源氏の遺伝もありますが、端厳な母の葵の上の影響ということも考えられているのでしょう。
源氏の孫の匂宮は好色な性格とされ、また柏木の子の薫も、優柔不断である一方、相手に執着する性格とされています。これも性格の父子相伝といえます。
このように各人物の性格をきわ立たせる紫式部の筆法はみごとと言うほかありません。脇役についても、たとえば、紫の上の飼っていた雀の子を逃がしてしまったいぬきは、その後も紫の上の人形をこわすなどして、いたずらっ子として統一的に描かれています。
その他、光君のマザー・コンプレックスの傾向も活写。才芸などについても源氏は琴(きん)の名手とされ、蛍兵部卿の宮は琵琶、柏木の弟の紅梅の右大臣は唱歌にすぐれ、大宮、その子の頭の中将らは和琴、明石入道、その娘の明石の御方は箏の琴、柏木、その子の薫は笛の名手というように楽音も一家に伝統的に伝わっていると、式部は個性的に書きわけているのです。
物語に登場する敵役(かたきやく)
物語や小説にはしばしば敵役、つまり憎まれ役が登場します。『源氏物語』では、なんといっても弘徽殿の大后にまさる敵役はおりません。彼女は右大臣の娘で、桐壺帝の東宮時代からの女御で、朱雀院・一品宮・斎院を出生。あとから参内した故大納言の娘の桐壺の更衣に君寵のあついのを嫉妬し、その関係で幼少時代から源氏を憎みつづけました(桐壺)。
殊に妹の朧月夜との密会発覚の際は、源氏を非難、官職剥奪を朱雀院に進言し、実現(賢木・須磨)。源氏は須磨・明石に流浪。その帰洛に猛反対しました。源氏の帰京後、朱雀院退位の際には大きなシヨックを受け、やがて病気で衰弱。源氏の流浪中には冷泉院を東宮からしりぞけ源氏の弟の宇治八の宮の擁立を図って失敗しています(橋姫)。
源氏は晩年の大后を見舞い、厚遇しますが、后は源氏が天下を掌握する運命だったと悟る一方、加齢に及んでやかましさもひどくなります(少女)。源氏三十九歳の九月に死去(若菜上)。大后は源氏を政敵として暗躍するために、始終憎まれ役として描かれています。
この大后の悪どさには及びもつきませんが、紫の上の継母にあたる式部卿の宮の大北の方も、嫉妬と呪詛(じゅそ)に終始した女性です。紫の上の母もそのために早く亡くなりました(若紫)。源氏の須磨流謫の折には、紫の上の不運を口にし(須磨)、髭黒大将と玉鬘の結婚の件でも、源氏の仕打ちだと呪いました(真木柱)。孫娘の真木柱の婿に迎えた蛍兵部卿の宮に対しては、その不熱心を恨みました(若菜下)。弘徽殿の大后が源氏の敵役とすれば、こちらは主として紫の上の敵役ということができます。
なお、末摘花の叔母なども、受領の妻になったのを非難された、その仕返しに、落ちぶれた末摘花を皮肉り、九州へ連れて行って、娘たちの教育係にしようと、執拗に迫ります(蓬生)。この叔母も、零落しても気高さを失わぬ末摘花に嫉妬する敵役に仕立てられているのです。  
 

 

女君たちの命日
『源氏物語』には開巻「桐壺」の巻からして、更衣の死やその母君の死が描かれ、以下夕顔(「夕顔」巻)・紫の上の祖母君(「若紫」巻)・葵の上(「葵」巻)・六条御息所(「澪標」巻)・藤壺(「薄雲」巻)・葵の上母の大宮(「藤袴」巻)・落葉の宮母の一条御息所(「夕霧」巻)・紫の上(「御法」巻)・女二の宮母の藤壺女御(「宿木」巻)・宇治の大君(「総角」巻)らの死が述べられています。
彼女たちのうち、亡くなった月日の記されているのを、早い順に並べてみます。
藤壺 三月(三十七歳)
大宮 三月二十日
桐壺の更衣 夏
藤壺女御 夏
紫の上 八月十五日
夕顔 八月十六日
葵の上 八月中旬
六条御息所 八月
一条御息所 八月下旬
宇治の大君 十一月中旬(豊明の夜)
以上によると、紫の上や夕顔・葵の上・六条御息所ら光源氏の主な妻室や愛人たちは、ほとんどが八月十五夜ごろの死去とされています。これはたぶん八月十五夜に月に昇って行ったかぐや姫のイメージに重ね合わせて、彼女たちが佳人で、薄命であったことを強調しているのでしょう。
藤壺は源氏の永遠の恋人ですが、義母であり、源氏の愛を受け入れるわけにはいかなかったのですから、他の恋人や妻室とは違う扱いになっています。桜の季節の臨終は、格段の美しい逝去を迎えたというべきでしょう。なお、薫の恋人の大君ははなやかな豊明の日に亡くなっていますが、寒い十一月で、世俗のにぎわいをよそに、凛(りん)とした清らかな臨終を迎えた印象を受けます。紫式部が女君たちの命日にまで気配りをして書いていたことがよくわかるのです。
平安貴族の住居
平安貴族の典型的な住居は寝殿造りです。寝殿を中心に東西北の対屋(たいのや)・泉殿・釣殿(つりどの)等があり、寝殿と対屋以下とは渡殿(わたどの)(廊)で結ばれています。
東西両対屋と池に突き出る釣殿及び泉殿とは回廊で結ばれ、その回廊の中心部に中門があります。中門付近に車宿(くるまやど)り(車庫)があり、西の対の後方には雑舎(使用人の住居・年貢や特産品などを入れる建物など)が置かれました。
これらの外側にはさらに築地(土塀)が築かれ、その東西南北の各中心に総門が設けられました。
ふつう左右対称的に整然と築造されることが多いが、実際には地画や泉(池)の位置などで、必ずしも左右対称とは限りません。
寝殿造の特色は、各々の建物を廊(渡殿)でつないでいること、中門廊のあること、寝殿の正面に池を伴った庭を造り、遣り水(やりみず)(小川)を引き入れること、などがあげられます。
公卿など上流階級の住宅の敷地は一町四方(約四千五百坪)がふつうですが、光源氏の六条院のように二町四方の大邸宅もあり、その立地条件や邸主の地位、貧富の差などにより規模はさまざまでした。
寝殿は、寝る所の意ではなく、主人の居間、客人応接の間のことです。その構造は五間四面・七間四面などいくつかあります。全て板敷きで、中央の母屋、その外側に廂(ひさし)・さらに孫廂のある場合もあり、おもてに面して簀子(すのこ)があります。
簀子には高欄(こうらん)(手すり)をめぐらし、柱の間に格子(こうし)、四隅に妻戸(つまど)があります。屋根は桧皮葺(ひわだぶ)き。南に向き中央に五段の階段があります。庭に掘った池には中島を築き、遣り水を流し、前栽(せんざい)を植えました。
十円玉の裏には平等院の寝殿と東西の対屋が彫られています。また宇治上神社の本殿は寝殿造りの遺構として有名です。なお、お寺の構造に寝殿造りの面影が残るものも少なくありません。
宇治の八の宮の出家
結論から述べれば、八の宮が仏事に専念できたのは、大君・中君の世話を薫に依頼することができたからです。それまでは、八の宮は出家を望みながらも、姫君たちに引かれて、これを果さず、いわゆる俗聖(ぞくひじり)[優婆塞(うばそく)=在俗のまま仏門に入って修行する男子]として暮らして来たのです。
八の宮は光源氏の異母弟(御母は大臣家の女御)ですが、早く両親に死別したために、しっかりした後見もなく、学問や処世の心得もおぼつかない中で、音楽にはすぐれていました。
冷泉院が東宮のころ、弘徽殿大后の画策でこの八の宮を東宮に立てようとしましたが、光源氏が明石から帰京後は沈倫。京都の邸まで火事で焼け、宇治の山荘に移り住みました。
頼りに出来たのは、北の方(父は大臣)だけでしたが、その北の方が中君出産の際、「ただこの君を形見に見給ひて、あはれと思せ」と遺言して先立ったので――このことのあったのは「柏木」の巻<源氏四十八歳>の時代に当ります――、そこで出家の本意を強く抱いたのですが、残された姫君たちのことを思うと、これを遂げることはできなかったのです。
その後、宇治の阿闍梨(あじゃり)の引き合わせで、来世に深く心をかけている薫が八の宮の許に訪れるようになりました。それに伴い、冷泉院からの御使いも立ち、さびしい山里にも人が出入りするようになりました(以上「橋姫」巻)。
三年ほどして、八の宮は薫の誠実な性格に引かれ、後生のさわりになる姫君たちの後見を薫に頼みました。薫二十三歳の秋半ば、八の宮は山寺に参籠、その念仏結願の日から病んで、八月二十日ごろの夜、亡くなったのです(「椎本」巻)。
八の宮は姫君たちを見捨てたわけではありません。出家はとげずに、俗聖として生涯を全うしました。
読まれつづけている訳
それは何よりも『源氏物語』が、読んで面白いからです。紫式部が亡くなって(1014年)間もなくの1021年に、『更級日記』の作者である菅原孝標(たかすえ)の娘は、叔母から『源氏物語』をもらって、「几帳の内にうち臥して(中略)、昼は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、灯(ひ)を近くともして、これを見るより他のことはな」かったと記しているほど、『源氏物語』に熱中しました。
現代では各地で古典講座が盛んですが、長期間にわたりおおぜいの聴講生が参加しつづけるのは、源氏物語講座をおいて他にありません。
『源氏物語』には、恋愛・人生・生死・芸術・学問・宗教などの、私たちにとっての根源的な問題が追求されています。いわば人生の真実が述べられているわけで、それが私たちを感動させ、興味をわき立たせてくれるのです。しかもそれらのテーマは、ストーリーの展開とともに深化・発展しています。読者はこれからどうなるのか、どう解決するのか等々の関心を最後まで抱きつづけ、ストーリーに引きずり込まれて行くのです。多彩な登場人物の中には自分を重ね合わせることのできる場合もあります。
その内容的な面白さは、流麗な文体(いわゆる「すべらかし」の文体)で綴られ、一種のリズム感まで生じています。心理描写や聴覚描写もすぐれ、詠嘆的な「もののあはれ」の情調で統一されています。つまり内容だけでなく表現にも魅惑されるのです。
西欧の文学史では、紫式部は『ドンキホーテ』(1605年 前編成立)の作者・セルバンテスにつぐ、世界的作家として評価されているということです(ドナルド・キーン氏による)。それは『源氏物語』が読んで面白いからこその評価でしょう。
なお、外面的な要因として、いわゆる定家などの和歌の家で『源氏物語』が大切にされて来たことがあげられますが、これについてはまた別の機会に述べたいと思います。
注釈書
『源氏物語』の注釈書は平安時代末期ごろからのものが見られます。その最古のものは『源氏釈(げんじしゃく)』、別に『伊行(これゆき)釈』とか『釈(あらわかし)』とも言われます。
本書は三蹟の一人藤原行成の六代の孫である世尊寺伊行(――1175年)の著。物語の本文を引抄しながら、詩歌や故事などの引拠・出典を主として明らかにしようとしたもの。文法や語法などの説明がないのは、時代が物語本文の源泉を求めるのに専らであったからです。
注釈としてはきわめて簡潔ですが、藤原定家の『奥入(おくいり)』を始めとする諸注釈書にひんぱんに引用されるなど、注釈史上の価値が大きいとされています。
たとえば桐壺の更衣が亡くなったのち、女房たちが更衣を恋いしのぶ条で、「『なくてぞ』とは、かかる折にやと見えたり」とありますが、その「なくてぞ」は、「ある時はありのすさび(生きているというだけで)憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」の一首に拠っていると、最初に指摘しているのが『釈』なのです。もっともこの「ある時は」の歌の出典は不明で、『釈』にはその出所が未詳な歌をおうおうあげているところもあります。ともあれ、『源氏物語』本文の拠りどころを明らかにしようとしたところに、『源氏物語』の奥深さに迫ろうとした伊行の努力が見られるわけです。
『釈』の本文には、略本や増補本などがあり、専門家によってそれらの関係がしだいに明らかになって来ています。『源氏物語大成』巻七や、『国語国文学研究史大成・源氏物語上』などに『釈』は収められています。
「かがやく日の宮」巻
藤原定家の『源氏物語』の注釈書である『奥入(おくいり)』に、「空蝉」巻は、
二の並びとあれど、帚木のつぎ也。並びとは見えず。
一説には、
二かがやく日の宮(この巻なし)
並びの一帚木(空蝉は奥に籠めたり)
二夕顔
とあるのが初見です。
「並び」とは、本筋の巻に対して、時間的に副筋の巻が平行していることを言います。したがってこの『奥入』の文章は、前半は「空蝉」の巻は、二(の「帚木」)の巻の「並び」というが、実は「帚木」の巻の次巻であるということで、これは現在の『源氏物語』の巻順を容認した説であります。
つぎに一説として、二の巻は「かがやく日の宮」であり、その並びの一が「帚木」巻で、「空蝉」は「帚木」巻内に書きこめられていて、一巻をなしていなかったということ。「かがやく日の宮」の並びの二巻目は「夕顔」であったということを伝えています。
つまり『奥入』の一説によると、『源氏物語』は、一「桐壺」、二「かがやく日の宮」、三「帚木」、四「夕顔」という構成であったということになります。
そこで学者の中には、たとえば「かがやく日の宮」巻の存在を肯定し、そこでは女主人公藤壺を特に印象的に描き、六条御息所や朝顔・花散里らへの源氏の恋物語や正妻葵の上の冷ややかな情態も語られていた等と説く向きもありました。
もっとも、『奥入』自体に「かがやく日の宮」は「この巻なし」と注記されています。それに、「桐壺」「帚木」、「空蝉」「夕顔」、「若紫」「末摘花」…と二巻一対の巻名で構成されている中に、「かがやく日の宮」という、長ったらしい名称の巻が入っていたとは到底考えられません。「かがやく日の宮」の巻は『奥入』の注記のように、はじめから存在していなかったと考えてよいでしょう。
「澪標」の巻名由来
「澪標」は「みをつくし」と読みます。すなわち「水脈(=水緒、みを)つ串(くし)」の意で、流れのある所、つまり船の通り路に、水先案内のために、水路の標識としてさす杭(くい)を言うわけです。特に水路の多い難波のものが名高く、この語に和歌で、「身を尽し」を掛けて使われることが少なくありません。
『百人一首』にも入っている、元良親王が宇多天皇の女御の京極御息所との不義を世間で噂された折の歌は、「みをつくし」をよみ込んだ代表作の一つです。
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ
(会えずに悩み尽したので、もう何を言われても同じこと。この身を滅ぼしてでも、あなたに会いたいと思う)
光源氏や業平にも劣らぬ、無理な恋に命をかける親王の激しい恋情が伝わって来ます。
「澪標」巻では、光源氏が難波の住吉神社へ都へ帰還できたお礼参りに行った折、たまたま住吉参詣に来た明石の御方一行が、源氏らの威勢に圧倒されて引き返します。それをあとで知った源氏が、御方への恋情をつのらせ、難波の地から先の元良親王の歌を想起して、
みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり会ひぬる縁(えに)は深しな
(身を尽して恋いこがれている甲斐があって、こんな所にまで来てめぐり会った二人の縁は深いことであるよ)
と書いて御方へ送ります。御方の返歌は、
数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ
(いやしい身とて、何ごとにも甲斐のない私ですのに、どうして高貴なあなたを身を尽すほど恋い親しんでしまったのでしょう)
というので、こちらにも「みをつくし」がよみ込まれています。この両首が巻名の由来となったのです。
物語に描かれた病気
「近代文学は病気から始まる」と言った評論家がいたそうですが、それは『源氏物語』でも同じです。「若紫」巻にわらわやみを患った光源氏は北山の聖のもとを訪れ、加持祈祷をしてもらいますが、その治療のあい間に、生涯の伴侶となる幼女の紫の上に出会うといった事例です。
(1) このわらわやみは、瘧(おこり)・「えやみ」ともいい、隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリヤを指します。当時の京都はマラリヤ蚊の発生に都合のよい気候・風土等であったと言われます。
(2) しはぶきやみ「夕顔」巻に、夕顔急死のショックで寝込んでいる源氏を見舞う頭中将に、源氏が「この暁よりしはぶきやみにや侍らむ、頭いと痛くて苦しければ云々」と欠勤の言い訳けをする条があります。咳病(がいびょう)とも呼ばれ、咳と頭痛を主要症状とする気管支炎や流行性感冒に相当するものです。
(3) 風病(ふびょう)風・風の病・みだり風などとも呼ばれます。「宿木」巻に、明石中宮が「御かぜにおはしましければ」などとあります。風邪のほか、中風などの神経系疾患をもさしています。
(4) 脚病(かくびょう)あしのけ(脚の気)とも。かつけ(脚気)のこと。「夕霧」巻に「脚の気ののぼりたる心地す」等とあります。
(5) 腹の病「空蝉」巻に「腹を病みて」等とあります。腸炎や下痢・便秘などの類です。
(6) 胸の病胸のけとも。「若菜」下巻で、紫の上が「胸はときどきおこりつつ」等とあります。胸部全般にわたる種々の病気が含まれ、また結核性疾患もさします。
(7) 歯の病「賢木」巻に冷泉院のみそっ歯の記事があります。また「総角」巻に「弁の歯はうちすきて愛敬なげに」とあるのは、年老い、歯の脱けた状態を言っています。
(8) 目の病「明石」巻に朱雀院が夢で桐壺院ににらまれて、「御目わづら」ったとあります。ヒステリー性失明症といわれます。
要するに、現代の私たちと同様、『源氏物語』の時代にも、沢山の病気があったということがわかります。
紫式部の教養
村上天皇の宣耀殿女御芳子(―967)は姫君のとき、父の小一条左大臣師尹(もろただ)から、「一つには御手を習ひ給へ。つぎには琴(きん)の御琴をいかで人に弾きまさらむと思せ。さて『古今』の歌二十巻を皆うかべさせ給はむを御学問にはせさせ給へ」と言われたといいます(『枕草子』)。当時の姫君は、書道と音楽と和歌をマスターすることが教養の基本であったことがわかります。
『源氏物語』でもこの三つが教養の基本であったことは明白ですが、女性の場合、裁縫や染色の技術なども重視されています。「帚木」巻の雨夜の品定めに登場する左馬頭の妻であった指食い女は、染色は秋の女神の立田姫に、裁縫は七夕の織姫にもたとえられるほどの上手であったと称えられています。
紫式部も自室で、「内匠(たくみ)の蔵人は長押(なげし)の下にゐて、あてきが縫ふものの、かさね・ひねりなど、つくづくとしゐたるに」(『日記』寛弘五年十二月条)と記していることから推しても、裁縫には相当自信があったことでしょう。
管絃(音楽)の場面は『源氏物語』の至る所に記されていますが、『紫式部集』には知人から「参りて、御手より得む」と、筝の琴の教授を依頼されたことが記されています。彼女の演奏の腕前が想像されます。
式部の和歌の実力が抜群であったことは、『後拾遺集』以下の勅撰集に六十一首も採られており、『源氏物語』中の約八百首も含めて、千首近くの詠草が残されている事実によっても証明されます。和泉式部を「まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ」と評し、赤染衛門を「われかしこげに思ひたる人」とも評しています。(『日記』)。
紫式部は囲碁や漢詩文にもすぐれていました。あの高名の清少納言を「真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり」と批判しています(『日記』)。漢詩文に断然自信のあったことがよくわかりますね。
古注の集大成『河海抄』
江戸時代の『源氏物語』の注釈書を新注というのに対して、室町時代以前の注釈書を古注と呼んでいます。国研Web文庫45にも述べましたが、『源氏物語』の注釈書の最初は、世尊寺伊行の『源氏物語釈(しゃく)』です。その後藤原定家(『奥入』)・源光行(『水原抄』『原中最秘抄』)・素寂(『紫明抄』)・長慶天皇(『仙源抄』)らの注釈書が書かれました。
その初期の業績を受けて、それらを集大成した一冊が源(四辻)善成の『河海抄』二十巻です。善成(1326−1402)は博学で有名な順徳天皇の曽孫。文和五年(正平十一年、1356)源姓を賜りましたが、祖父の善統親王が四辻宮と号したので、四辻を名乗りました。永徳元年(弘和元年、1381)従一位、応永二年(1395)左大臣、同年出家法名常勝。歌人としても著名です。
『河海抄』は一名『一葉抄』ともいい、貞治(1362−68)の初めごろに、足利二代将軍義詮の求めによって著述されたものです。善成は光源氏の家臣の惟光・良清を模して、自分を「正六位上物語博士源惟良」と署名しています。
本書の冒頭には、料簡の部を設け、物語創作の由来や、作者の伝記などを記述。注釈では本文に対して語句の解釈や、引歌・故事の考証をくわしく行ないました。博引傍証で、当時の風習の説明など、まことに有益です。
本居宣長は、『源氏物語玉の小櫛』(寛政五年〈1793〉起稿)の一の巻「注釈」に、「注釈は、河海抄ぞ第一の物なる。それよりさきにも、これかれとあれども、ひろからずくはしからざるを、かの抄は、やまともろこし、儒仏のもろもろの書どもを、ひろく考へいだして、何事も、をさをさのこるくまなく、解きあきらめられたり」と絶賛しています。
なお、善成の手によって、『河海抄』中の秘義秘説三十二条を集めた『珊瑚(さんご)秘抄』一冊があります。  
 

 

世界文学史上の『源氏物語』
『源氏物語』(寛弘五年〈1008〉成立)が海外に紹介された最初は、明治十五年(1882)刊の末松謙澄訳(「絵合」まで)ですが、広く世界に知られたのは大正十四年(1925)から昭和五年(1930)にかけて刊行されたアーサー・ウェーリーの英訳“The Tale of Genji”六冊によってです。ドナルド・キーン氏によれば、翻訳の第一巻が出ると、多くの関心が寄せられ、ウェーリーに会う人々は、「すべてのイギリス人が、あなたを崇拝するでしょうね」と言ったといいます(『世界の源氏物語』二〇〇七年ランダムハウス・講談社刊)。これを契機として『源氏物語』は高い評価を受けることになり、現在の西欧の文学史での紫式部の評価は、『ドン・キホーテ』(一六〇五年刊、続編一六一五年刊)の作者のセルバンテスにつぐものとされているそうです(同上)。
『源氏物語』は虚構によって人生の真実を述べるという小説(novels)の手法をとった世界最古の長編小説です。『源氏物語』以前の唐代(618−907)小説は、たとえば陳鴻の『長恨歌伝』に見るようにごく短編で漢文の作品でもあります。また九世紀に初めてアラビア語で書かれた『アラビアン・ナイト』は、説話の集成で、全編を貫く小説的な構想がありません。
中国で口語で書かれた(=白話体の)小説は、一三九八年成立の『三国志演義』や『水滸伝』まで待たなくてはなりません。また西欧では、イタリアのダンテの『神曲』(1304成立)や、イギリスのシェークスピア(1564−1616)、先述のセルバンテスらの登場が小説のさきがけと考えられます。
こういう世界的名著の位置づけから見ますと、『源氏物語』の小説的独創の偉大さがよくわかるでしょう。質量ともに断然諸国の作品を圧倒して出現した『源氏物語』は、外国の古代文学が男性的な精神であるのに対して、女性的フェミニズムの精神を発揮している点でもユニークなのです。
紫式部の学問観
紫式部の学問観は、「少女」の巻で大学教育を夕霧に受けさせた条によく述べられています。夕霧が十二歳になり元服するとき、親王の子は四位に、一世の源氏の息は五位に叙する慣例を破り、六位に叙して、浅黄(うす緑)の袍(ほう)で、もと殿上童でしたから、再び殿上の間に出仕できる、還(かえり)昇殿をするということにしたのです。そうしたのは、大学での学問を学ばせるためです。
源氏は二条の東院に大学寮の博士や教官を招き、字(あざな)を付ける儀式や入学式を行ない、『孝経』や『論語』『史記』以下の漢籍を学ばせます。聡明で努力家の夕霧は、大学寮での寮試に合格して、擬文章生となり、翌春には式部省の課試をとき、文章生(進士)となり、秋には晴れて五位(紅色)に叙せられ、侍従に任命されます。
当時の貴族の子弟は元服の折、なんなく四位・五位を授けられるのですから、苦労して学問などする者はほとんどおりませんでした。源氏自身も父の桐壺帝から習ったものの、根本から学習したわけではないと謙遜しています。そして「はかなき(学問のない頼りない)親に賢き子のまさる例は」めったになく、それが子々孫々につづいていけば、将来は心細い状態になってしまうだろうと心配します。
つぎに、気ままに遊んで、思いのままの官職位を授けられて昇進しても、権勢におもねる人々は、内心鼻であしらいながらも、お追従を言います。しかし時勢が移って、頼っていた人が亡くなったりすると、人から軽んぜられても、学問のない悲しさ、なんの対応もとれずに没落すると語っていますが、これは当時の貴族社会の人々の怠慢さへの紫式部の痛烈な批判であるといえます。
結論として、式部は「才をもとしてこそ大和魂の世に用いらる方も強う侍らめ」と述べています。才は漢才(学問)で、大和魂はその学問をもとに発揮する実務の才を言います。学問があるからこそその実務の才が世間から重んじられると言っているのです。
光源氏薨後の夫人たち
光源氏は自分が須磨に退居する際には、親しい家司で、時勢になびかぬ人々だけを、二条院の留守役にしたといいます(須磨)。また自分の侍女をはじめ、万事を皆紫の上に引きつぎ、荘園や牧場をはじめ、しかるべき家屋(二条院など)や所領の権利証なども全て紫の上へ譲り、それ以外の御倉町(倉庫)や納殿(日用品等の保管庫)の管理は、家司と少納言の乳母に託したと記されています(同上)。
一時的に都を離れるときでさえ、源氏はこんなに紫の上の生活が心配ないように配慮しているのです。ましてや自分の亡きあとのことはいっそう慎重に考えたことでしょう。
幸か不幸か、紫の上は源氏に先立ち亡くなってしまいました。もし源氏が先立つことになった場合は、養女の明石中宮や中宮の子の匂宮の世話を受けたことでしょう。臨終の際、明石中宮が「(紫の上の)御手をとらへ奉りて、泣く泣く見奉り給ふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見え給」うたとあります(御法)。なお、ひそかに思慕する夕霧も紫の上の世話を熱心にしたことでしょう。
夫人ではありませんが、その明石中宮は、裳着のとき、着裳役を秋好中宮に依頼。源氏が「思し棄つまじきを頼みにて」お願いしたと言っています(梅枝)。また匂宮も母中宮に孝養を尽すことでしょう。
中宮の実母の明石の御方は、おおぜいの孫宮たちの「御後見をしつつ、あつかひ聞え給へり」という後半生で、夕霧は「いづかたの御ことをも、昔(光源氏)の御心おきて(ご遺志)のままに、改め変ることなく、あまねき親心(公平な親孝行)に仕うまつり給」うたということです(匂宮)。
花散里は夕霧の養母であるうえ、姉が桐壺帝の麗景殿の女御で、家柄もよかったはずです。源氏の臨終をみとったのも彼女だったでしょう。二条の東院を遺産相続しています(匂宮)。
なお、女三の宮は父朱雀帝から三条の宮を贈られ、孝行息子の薫の手厚い保護を受けました。源氏の夫人たちは皆しあわせな老後を送ったのです。
物怪(もののけ)
最近も「もののけ姫」と題したアニメ映画が上映されたりしましたが、王朝時代の物怪は、一般の人には目に見えない魔物や妖怪(ようかい)を言います。また人間の怨霊(おんりょう)、つまり死霊(しりょう)や生霊(いきりょう)をもさします。
これらの妖怪や怨霊は、健康な人に取りつくことはありません。精神や身体の疲れているときとか、お産のときなどの弱目(よわりめ)に、取りつくことが多いのです。
お産や病気で苦しんでいるのは、だいたいこの物怪がその人に取りついて、悪さをしているものと解釈されます。
葵の上が夕霧出産の際、苦しんだのは、葵祭の車争いで負けた六条御息所の怨霊(生霊)が葵の上に取りついていたからなのです。生きている御息所から生霊が抜け出して、葵の上に取りついたというわけです。
夕顔が某の院で急死したのは、この院に住みついていた魔物に取りつかれてのことであったとされています。きっと魔物が弱々しく、可憐な夕顔に魅入ったのでしょう。
物怪を退治するのは修験道の行者である験者や高徳の僧侶たちです。たとえばわらやみに悩んでいた光源氏は北山の聖の加持、祈祷で回復しました。重い病人などの場合は、まじないや祈祷によって、その病人に取りついている物怪を、よりまし(寄呪・神子・託人)に移します。よりましは催眠術などに反応しやすい童女が一般的です。魔物を退散させるときには、験者しか見ることのできない護法童子という神童も使うとされています。
物怪の乗り移ったよりましは、我を忘れ、物怪そのものとなって、泣いたり、わめいたり、狂ったりして、自分の正体を明かしたり、病人に取りついた理由や、これこれのことをしてくれれば去って行くなどと告げます。
そこで験者のまじないによって物怪がよりましからも退散すれば、病人は回復するというわけです。最後によりましにも加持などすると、よりましも正気に戻って、その気分もさわやかになるのです。
「宿木(やどりぎ)」
『源氏物語』第四十九巻は、「宿木(やどりぎ・寄生とも)」と言います。
この巻では、中の君が匂宮の皇子を懐妊。その匂宮は夕霧の六の君と結婚したため、中の君は宮に不信感を抱き、その中の君にともすれば薫が近づきます。せっぱつまった中の君は、異母妹の浮舟のことを薫に語ります。
晩秋薫は宇治を訪ね、八の宮や大君の菩提を弔うために、山荘の寝殿を阿闍梨の山寺の御堂に移築する指図をして帰京します。途中、深山木に這いかかる「こだに」を手折って、「宿木と思ひ出でずは木の下の旅寝もいかにさびしからまし――昔、宿ったという思い出がなかったならば、この深山木の下(宇治の山荘)での旅寝もどんなにさびしいことでしょう」という歌を添えて中の君に贈りました。ここから当巻の「宿木」の名が出ました。以上が本巻の前半の話です。
ところでふつう「宿木」というのは、他の樹木に寄生した木で、「ほや」と言われるものや、広葉樹に寄生するヤドリギ科の常緑低木を指します。もっともこの「宿木」巻では、八の宮邸の「いと気色ある深山木に宿りたる蔦(つた)の色ぞまだ残りたる。『こだに』など少し引き取らせて」、前述の歌を薫がよんだことになっています。のちにこれを見た匂宮も「をかしき蔦かな」と言っています。
「こだに」は、苦丹・苦肚・木丹等と書かれる「くだに」と同じものだとすると、これまた定説はなく、これはボタン・リンドウ・ホホズキなどと言われていますから、「宿木」巻の「こだに」とは違うことになります。
賀茂真淵などは、「こだに」は、「これをだに」の本文の間違いであると説いています(『源氏物語新釈』)。また一条兼良は「こだには木に付きたる虫の名也」とも言っています(『花鳥余情』)。
ともあれ、この「宿木」は深山木にからみついた「蔦」であったことは確かで、その光景から宇治山荘に宿った薫自身の姿を重ねて合わせているのです。
女君たちの魅力
○ 明石の御方 自分の立場(出自・身分など)を客観的に見る賢さがある。源氏への思いや、わが子の出世・一家の繁栄のために自己を抑制、謙虚に生きた。
○ 朝顔 源氏の求愛を浮薄なものと否定。独身でとおした気高さ。
○ 浮舟 はじめは薫と匂宮との間で翻弄されたが、入水後助けられてからは、自分の生き方を決めて、強く生きて行く。
○ 空蝉 自分の分際(身分・年齢・容姿)を考えて、一度は許したものの、その後の源氏の求愛を拒絶。自分の意思を貫いた。
○ 落葉宮 夕霧の求愛をかたくなに拒みつづけたが、周囲の希望もあって結婚、正妻となる。夕霧を引きつける高貴で、優雅な人柄。反面したたかな強さもある。
○ 朧月夜 朱雀院に愛されたが、最後まで源氏が好きだった。明るく、大肚。
○ 雲井雁 優雅な内大臣の娘であったが、出産後子育てに熱中。一時夕霧の愛を失う。無邪気で、ナイス・バディ。
○ 末摘花 ぶ器量で、頑固だが、亡父のいさめを守る。ブレず、誇りが高い。
○ 玉鬘 思慮深い。身のほどをわきまえ、源氏の求愛をさけ、髭黒と結婚して、しあわせな家庭を築く。
○ 花散里 地味で女性的な魅力は乏しいが、分をわきまえ、子育て上手。人柄もよい。
○ 藤壺 源氏との間に冷泉院をもうけるが、その後は冷泉院を守るために、源氏との愛を断った。自制心と判断力があった。
○ 紫上 才色兼備でありながら、控えめ。他の女君たちへの心配りもあり、源氏を支え、強く賢く生きた。女三宮の六条院降嫁の際には、動揺を隠して源氏を支援。
○ 夕顔 一見か弱く、無邪気だが、それなりの教養もあり、しかもコケティッシュである。
○ 六条御息所 教養が深く、自尊心の強い女性の典型。源氏への思いをうまく表せず、嫉妬・嘆き・怨念から物怪になった。屈折した思い、女心のやるせなさなどが読者を引きつける。
六条院
源氏三十五歳の八月に完成した本邸(「少女」巻)です。六条京極あたりに四町(一町は約四四〇〇坪)という広大な敷地をしめて造営しました。その一部には、旧六条御息所邸や紫の上の祖母が伝えた邸の土地なども含まれていたようです。
土地を四つに分けて、おのおの寝殿・対の屋を造り、それぞれ四季の趣をこらした庭園をしつらえ、妻や養女など親しい女性たちを好みに従って住まわせました。
辰巳(東南)の町=源氏と紫の上 春の山 五葉・紅梅・桜・藤・山吹・岩つつじ丑寅(東北)の町=花散里(のちに玉鬘も)夏の蔭 泉・呉竹・花橘・撫子・バラ・くだに未申(西南)の町=秋好中宮秋の林 紅葉・秋の野戌亥(西北)の町=明石の御方冬の林 松林・菊の籬(まがき)・柞(ははそ)原
この六条院のモデルは、『うつほ物語』「吹上」上巻に、紀伊国牟婁(むろ)の郡に、神奈備(かんなび)の種松が、今は亡き自分の娘の生んだ嵯峨の院の子である涼(すずし)のために、四面八町の内に四季をわけて住まわせたとあるのによるかとも言われています。
『源氏物語』の四季観は、四季折々の風情をめで、優美な「もののあはれ」の情趣を味わうところにあり、その理想的な姿が六条院の庭園でありました。その上これらの庭園は住む人があってこそ意味が生ずるのであって、たとえば六条院の春の庭も紫の上によっていっそう趣が増すのです。
この春夏秋冬の六条院の庭園の景勝を、趣味の限りを尽して楽しむのは光源氏であります。それは極楽浄土もかくやと思われるほどの景観であり、その上に成り立つ六条院は、光源氏の栄華の象徴でもあったのです。
女三の宮と柏木との関係を知った光源氏の対処
光源氏は四十賀のあと、兄朱雀院のたっての要請で、十五、六歳の院の女三の宮を正妻として迎えることになりました。宮は発育も不十分で、ひたすら子どもじみ、いたって小柄でありました。皮肉にも、その容姿は無類に愛らしく、その可憐な美しさが、かねて思慕しつづけていた柏木の心を盲目にし、やがては薫出生という深刻な事態にまで至るのです。
源氏四十七歳の四月の御禊前夜、柏木は小侍従の手引きで女三の宮に忍び逢います。女三の宮はこのとき、二十一、二歳。源氏との結婚生活は八年目に入っていました。
女三の宮は熱愛する柏木に対して、特に恋愛感情を示すこともなく、ひたすら源氏をおそれるばかり。同年六月に至り、懐妊を不審に思いながらも、女三の宮をあわれに思い、口に出しませんでしたが、翌朝柏木の文を発見、真相を知ります。
ここで源氏は、女三の宮の不用心を心中で批判し、文の発見者が自分であってよかったと考えます。同時に柏木の長年の思いがかなったことなどを、万一人目にふれることをも考えずに、はっきりと書いていることを批判します。
つぎに、后妃と臣下の関係は、天皇に仕えている者同志でのこと。女三の宮は自分の唯一の正妻で、これにかかわった柏木を批難。ここで父の桐壺院も源氏と藤壺との秘密を内心知りながら、知らぬふりをしていたのではないかと推測し、その因果応報におののきます。源氏はこの一件を表沙汰にしないことにします。手引きをした小侍従を叱ることもしません。
その後、女三の宮には父院を悲しませるようなことはしないようにと、それとなく説教。柏木にも宴席で、「さかさまにゆかぬ年月よ。老いはえのがれぬわざなり」と言ってじっと見つめます。柏木はこの一言で病床に伏せります。秘密を保ちながら、光源氏はチクリ、チクリと復讐をして行くのです。
紫式部の住居
紫式部の住居については、『源氏物語』の古注釈の代表である『河海抄』(四条〈源〉善成作。1362年ごろ成立)の冒頭の料簡(りょうけん。考察の意)に、
旧跡は正親町以南、京極西頰、今東北院向也、此院は上東門院御所跡也
と伝えているのが、唯一の記録です。
すなわち、紫式部の旧居は、正親町(おおぎまち)小路より南にあって、京極通りの西側にあった。その当時の東北院の向い側にあったが、この東北院は紫式部の仕えた上東門院彰子の住んだ御所のあとであるというのです。
そこは現在の地図にあてはめてみると、京都御所の東側に寺町通りが南北につづいていますが、これは昔の中川のあとであります。その京都御所の西側、北から三分の一ぐらいの所に中立売(なかだちうり)御門がありますが、この中立売通りを東側までのばして来れば、これがほぼ往昔の正親町小路にあたるでしょう。
京極通りは中川、つまり寺町通りの西側にあって、これは御所の南にある御幸町(ごこうまち)通りに重なるはずです。
つまり『河海抄』のいう「正親町以南、京極西頰(にしつら)」というのは、東に延長された中立売通りより南で、北に延長された御幸町通りの西側にあったということになります。そこは現在の梨木神社の西側の御所内であったことになりましょう。
最近は梨木神社東側にある廬山寺(ろざんじ。ききょうの花で著名)が紫式部の旧邸あとだと評判になっています。しかし当寺は寺町通りの東側にあって、昔は中川(寺町通り)から東側は洛外とされていました。式部邸は洛中にあった模様で(為時はみずからを「洛中泰適の翁」と称しています)、当寺が紫式部邸であったとは思われません。
物語に実在の人物が登場する訳
『源氏物語』は虚構の物語ですが、たとえば開巻「桐壺」に、
このごろ明け暮れご覧ずる、「長恨歌」の御絵、亭子院(宇多天皇)の書かせ給ひて、伊勢・貫之によませ給へる、大和言の葉をも、もろこしのうたをも、ただその筋を枕ごとに(桐壺帝は)せさせ給ふ。
とあります。宇多天皇(887年−97年在位)の筆になる「長恨歌」の御絵、それに付けられた伊勢(877年?−939年)や紀貫之(868年−946年)の画賛の和歌につけ、漢詩につけ、桐壺帝はもっぱら玄宗・楊貴妃の悲恋のことを明け暮れの話題にしている、というのです。つまり架空の桐壺帝ではありますが、宇多天皇や伊勢や貫之の作品を読んでいるのですから、ひょっとしたら桐壺帝は宇多天皇のお子さんである醍醐天皇(897年−930年在位)あたりがモデルになっているのではないかという想像が出来ます。
さらに「須磨」の巻には、光源氏が須磨の景色を上手に画いたところ、従者たちが、
このごろの上手にすめる、千枝・常則などを召して、作り絵仕うませらばや、と心もとながり合へり。
とあります。千枝や常則は村上天皇の天暦(947年−57年)ごろの高名の絵師です。村上天皇は醍醐天皇のお子さんです。桐壺帝や源氏は醍醐天皇や村上天皇の時代に実在しているかのように書かれているのです。
つまり実在の人物を物語に取り入れることによって、『源氏物語』は架空の物語ではなく、事実にもとづく物語である、本当にあった話なのだ、という現実感を読者に印象づけることになるのです。
なお、「宇治十帖」に特筆される横川の僧都は、紫式部と同時代の横川の僧都・源信のイメージとも重なります。これによって作中人物がよりよく理解されて、物語世界の奥行きを拡げる働きをしていると言えましょう。 
 

 

紫式部と藤原道長の関係
紫式部は寛弘二年(1005)十二月二十九日に、時の権力者左大臣藤原道長の長女の一条天皇中宮彰子に出仕しました。もっとも厳密にいうと、道長の北の方の鷹司殿倫子家の女房として迎えられ、中宮彰子の女房として仕えたのです。
『紫式部日記』寛弘六年(1009)夏条によると、式部が渡殿の局に寝た夜、一晩中道長に戸をたたかれたけれども、「恐ろしさに、音もせで、明かした」その朝に、
夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる
(一晩中水鶏にもまして泣く泣く真木の戸口をたたきあぐねたことだ)
返し
ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし
(そのままではすますまいと熱心に戸をたたく水鶏〈道長様〉のことゆえ、戸を開けたらどんなに後悔することになったでしょう)
という歌の贈答が行なわれています。
同じ『日記』に、式部は道長から「すきもの」と言われたり、式部の気持ちしだいで愛してあげようといった類の贈答も見えています。
さらに後世のものですが、『尊卑分脈』には、式部一家の系図が載っており、式部につけられた注記の中に「御堂関白道長妾云々」という一条があります。
そこで一部の人の説に、紫式部は道長の愛人だったというのがあるのです。ただし先述の『紫式部日記』には、式部が道長の求愛を受け入れたなどとは、どこにも書かれておりません。さらに『日記』寛弘五年十一月一日条に若宮の御五十日(いか)の日、酔った道長に同僚と一緒にとらえられたとき、紫式部は思わず「いとわびしく恐ろしければ」と書いているのです。この一言だけでも式部が道長を愛していたなどとは考えられないことがよくわかりますね。
伊勢物語の影響
『源氏物語』に影響した先行文学は、『和泉式部日記』『蜻蛉日記』『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』『住吉物語』『交野少将物語』(散逸)『唐守』(同上)等多数に及びますが、その中でも断然『源氏物語』の源泉となっているのが『伊勢物語』です。
『伊勢物語』は『竹取物語』と共に物語の中では最も古いものの一つで、主人公とされる在原業平の亡くなった元慶四年(880)以前に原本は成立していたようです。定家本で百二十五段から成り、昔男(業平)の元服から終焉に至るまでを、各段和歌を中心に話が展述される歌物語です。
『源氏物語』の主人公光源氏のイメージは「体貌閑麗」「善く和歌を作る」と評されて、多くの女性とかかわった業平像に由来します。源氏の活躍は中将のときから始まりますが、業平は最終の官職が中将でした。業平の愛した二条の后高子は『伊勢物語』中の代表的なヒロインでしたが、叔母の五条の后順子邸の西の対に住んでいました。『源氏物語』のヒロイン紫の上も二条院の西の対に住んでいました。
『伊勢物語』の初段は、昔男が奈良の京春日野の里で、美人姉妹を見つけて、「春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ限り知られず」の歌をよみかけるという話ですが、この歌は「帚木」の巻の冒頭に引かれて、源氏の元服直後からのしのび歩きをそれとなく暗示しています。さらに「若紫」巻での源氏の北山行への影響があり、巻名もこの業平歌によっているのです。
このような『伊勢物語』による『源氏物語』への影響は多数の巻々に見られます。
なお、業平は五十六歳で亡くなっています。『源氏物語』は源氏五十二歳の年末までが「幻」巻。その後おそらくは業平にならって五十六歳ぐらいで源氏も亡くなったと紫式部は示唆しているようです。
「鈴虫」の巻名由来
『源氏物語』巻三十八帖目は、「鈴虫」の巻です。全五十四帖のうち、昆虫の名が付いている巻々は、第三帖の「空蝉」・二十四帖「胡蝶」・二十五帖「蛍」・五十二帖「蜻蛉」と、それに「鈴虫」の計五帖あります。これらの虫のうち、鳴く虫は鈴虫だけです。ふつう鈴虫はリーン・リーンと鳴くとされています。
源氏五十歳の夏、蓮の花盛りに入道女三の宮の持仏供養が盛大に行なわれました。秋になって、女三の宮 の住む寝殿の西の渡殿の前をいちめんに野原につくり、秋草おい茂る野らに虫を多数放ちました。
十五夜に源氏が女三の宮の仏間を訪れますと、秋の虫の声がいろいろ聞こえ、その中でも「鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかしく」聞こえます。源氏は秋好中宮の御所で野辺の松虫を庭に放したが、あまり鳴かなくなったのに対して、「鈴虫は心安く、今めいたるこそらうたけれ(鈴虫は気軽に、陽気に鳴くのがいじらしい。まるであなたみたいだね)と言いかけますと、女三の宮は、
大方の秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき鈴虫の声
(一体に秋はつらいもの。私に飽きた源氏の君をもつらいものだと知りましたが、まだ心引かれる鈴虫の声ですこと。源氏の君の声にも心引かれることです)。
とよんで返します。
以上の一首を含む鈴虫の場面から、巻名「鈴虫」が付けられたものと思われます。なお、そのあとで、兵部卿の宮や夕霧以下の殿上人が六条院に参上、そこへ冷泉院からのたよりがあって、全員院参。ここで院・源氏・夕霧と並んで着座しているところが『源氏物語絵巻』に描かれ、さらにこれをもとにして、最近はあまり流通していない二千円札の絵柄となっています。
またアーサー・ウェリーの英訳『源氏物語』には残念ながら「鈴虫」の巻は省略されています。全訳ではないのですね。
「侍従」女房の役割
『源氏物語』の中には、「侍従」とか「小侍従」と呼ばれる女房が何人か出て来ます。
(1) 侍従の君 / 末摘花の乳母子。忠実に仕えたが、のち末摘花の叔母の夫である太宰大弐の甥と結婚して九州へ下った(末摘花・蓬生)。
(2) 小侍従 / 雲井雁の乳母子。雲井雁の許へ夕霧が忍んで来て、戸外から呼びかけたが、出て来なかった(少女・橋姫)。
(3) 小侍従 / 女三の宮の乳母の侍従の乳母の娘。柏木を女三の宮の許に導いた(若菜下)。
(4) 侍従の君 / 浮舟の女房。薫が浮舟を宇治へ伴うときに同伴。匂宮と浮舟の仲を取り持ち、匂宮に好意を抱く。浮舟失踪後は明石中宮に仕えた(東屋・浮舟・蜻蛉)。
(5) 侍従の君 / 小野の妹尼君の女房。浮舟が身を寄せてからは浮舟の係となった(手習)。
(6) 侍従の内侍 / 平典侍らと絵合に出席(絵合)。
「侍従」というのは、本来中務省に属し、天皇に近侍して、「遺(のこ)りたるを拾ひ、欠けたるを補ふ官」で、もとは定員八名。そのうち三人は少納言が兼任し、五人は君達が任命されます(『百寮訓要抄』『職原鈔』)。『源氏物語』には、式部卿の宮の子(真木柱)・蛍兵部卿の宮の子(梅枝)・蜻蛉式部卿の宮の子(蜻蛉)・夕霧の四男(侍従の宰相、椎本)らの侍従が登場しています。
ところで、女房名は父兄や夫や家の官職によって付けられることが一般です。たとえば紫式部(父為時が式部丞)・和泉式部(夫道貞が和泉守・式部は父の大江匡致の旧官名によるか)などの例でわかると思います。
そこで、女房名の侍従と小侍従ですが、(1)〜(3)の例によると、乳母子の女房名とされることが多かったのではないかと思います。役柄は、男性官吏の場合と同じで、主君に近侍して、その遺漏するところを補うようにということで、「侍従」と付けられたのでしょう。
光源氏が認めた女君
『源氏物語』には容貌・容姿も美しく、かつ上品で、利発で、趣味・教養にすぐれている、いわゆる才色兼備の女性が何人も登場しています。たとえば「朝顔」巻末で、雪の降り積った二条院の庭を眺めながら、源氏が紫の上と女君たちの批評をする条があります。
○ 藤壺 柔らかにおびれたるものから、深うよしづきたる所の、並びなくものし給ひしを(女らしく、内気ながら、奥深く趣ある点で、たぐいまれである)。
○ 紫の上 (藤壺のお血筋で、よく似ておられるが)、少しわづらはしき気添ひて、かどかどしさの進み給へるや苦しからむ(少し嫉妬心があって、きかぬ気のまさっておられるのが、困ったものです)。
○ 朝顔 さうざうしきに、何とはなくとも聞こえ合はせ、われも心づかひせらるべき御あたり…(物さびしい折に、ちょっとしたことでも相談し合い、こちらも気づかいされる御方で…)。
○ 朧月夜 なまめかしう、かたちよき女のためしには、なほ引き出でつべき人ぞかし(優美で、美人の例には、やはり引き出したい方ですよ)。
○ 花散里 心ばへこそふり難く、らうたけれ(性質は、実に昔と変らず、かれんです)。
また「玉鬘」巻末の、歳暮の衣張りの条では、女君たちにふさわしい衣料が贈られており、間接的に女君たちの個性が確認できます。
○ 紫の上 紅梅のいと紋浮きたる葡萄(えび)染めの御小袿、今様色(濃い紅梅色)のいとすぐれたる(袿)。
○ 明石姫君 桜の細長に、つややかなる掻練(かいねり)(の袿)。
○ 花散里 浅縹(はなだ)の海賦(かいぶ)の織り物(小袿)、織りざまなまめきたれど、にほひやかならぬに、いと濃き掻練(袿)。
○ 玉鬘 曇りなく赤き(袿)に、山吹の花の細長。
○ 末摘花 柳の織り物の、よしある唐草を乱れ織れる(袿)も、いとなまめきたる…。
○ 明石の御方 梅の折り枝・蝶・鳥飛びちがひ、唐めいたる白き小袿に、濃きがつややかなる(袿)重ねて。
○ 空蝉 青鈍(にび)の織物、いと心ばせあるを見つけ給ひて、御料にあるくちなし(黄色)の御衣、ゆるし色(薄紅色)なる添へ給ひて。
実に美々しく、絢爛豪華で、それでいて同じ衣料はありません。女君たちの個性が衣裳で類推されるわけです。
ところで、同じく「玉鬘」巻で右近と長谷詣でで出会った玉鬘の乳母とが、玉鬘の将来を話し合う条で、右近は、
大臣(源氏)は(中略)、当帝(冷泉帝)の御母后と聞こえし(藤壺)と、この(明石)姫君の御かたちとをなむ、『よき人(美人)とはこれを言ふにやあらむと覚ゆる』と聞こえ給ふ。見奉り並ぶるに、かの后の宮(藤壺)をば知り聞こえず。(明石)姫君は清らにおはしませど、まだ片なりにて(お小さくて)、生ひ先ぞ推し量られ給ふ。上(紫の上)の御かたちは、なほ誰か並び給はむとなむ見え給ふ。殿もすぐれたりと思しためるを、言に出でては、何かは数(かぞ)へのうちには聞こえ給はむ。『われに並び給へるこそ(私ほどの男に立ち並ばれるとは)、君はおほけなけれ(あなたも身に過ぎていますね)』となむ、戯れ聞こえ給ふ。
と言っています。つまり光源氏は、一に藤壺、二に紫の上(これは謙遜して口には出さない由)、三に明石姫君を「よき人(美人)」と言っているということになります。光源氏は生涯藤壺への思慕を抱きつづけたということですね。
紫式部の墓
紫式部の墓は、四辻善成の『河海抄』(1362〜68年ごろ初稿本成立)に、
式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也。
と書いてあります。現在地は下鴨神社の方から来ている北大路と、南北に通ずる堀川通りとが交差したところ、堀川の西、そこが紫式部の墓地とされています。ここはノーベル賞を受けた田中耕一博士が勤めておられる島津製作所の敷地の一角で、ここだけが京都市に寄贈され、公共の場所となっている所です。
ここには、紫式部墓と、その右側手前に小野相公(篁、802〜52)墓との二つが並んでいます。
実はこの篁はあの世に行ってからは閻魔庁の第二の冥官として、閻魔大王の側近になったとされているのです。善良な行ないをした人などが早死にすると、篁は閻魔さんに申し上げて、その人を生き返らせてくれていたと言われています。
篁がかかわったとされる寺の一つに、船岡山の西麓近くに引接寺(いんじょうじ)があって、当寺のご本尊も閻魔さんであります。しかも境内には紫式部の供養塔があります。紫式部が小野篁に関わっていることがよくわかりますね。
紫式部は人々をたぶらかす狂言綺語の『源氏物語』を書いたために地獄に堕ちたという“堕獄説”があります。一方に石山寺伝説のように、式部は観音菩薩だという説もあります。前者の堕獄説は『源氏物語』の熱烈なファンにとっては大変心配なタネとなり、遂には地獄に堕ちた式部を、冥官である小野篁に救ってもらおうということになったのです。
したがって堀川通りの側にあった紫式部の墓は、中世以降、紫式部堕獄説が盛んになってから作られたものであろうと推定されます。
それでは、紫式部のほんとうの墓はどこにあったのか? おそらく当時の風習で、式部は母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったことでしょう。それは現在の京都市山科(やましな)の勧修寺の近隣の、宮道神社のある周辺にあっただろうと考えられます。
「雲隠」巻は原作にあったのか
光源氏の物語は、彼の五十二歳の大晦日の話までを語る「幻」の巻(第四十一帖)で終ります。次巻「匂宮」の巻は源氏が生きていれば六十一歳になるはず。その間丸八年間のブランクがあります。この期間に源氏は出家し、死去していることになります。
ところがその「幻」と「匂宮」両巻の間に、古来巻名のみあって本文のない「雲隠(くもがくれ)」の巻が置かれています。結論を先に述べれば、この「雲隠」の巻名は紫式部が名付けた巻名ではなく、原作にはなかったものと考えられます。
というのもこの「雲隠」巻は、文献的には高野山正智院蔵の『白造紙(しろぞうし)』(正治元年=1199ごろ書写)の源氏目録に見えるものが最も古い例だとされています。また安居院聖覚の『源氏一品経』(嘉禎三年=1237までに成立)や『無名草子』(建仁二年=1201ごろ成立)にも「雲隠」巻に関することは一言も書いてありません。ですから「雲隠」巻は、鎌倉時代以降に生じたものだということができます。
「雲隠」の語は、『万葉集』や『栄花物語』などでは人の死に多く用いられていますが、『源氏物語』中の五例では、いずれも姿を消すの意に用いています。
「雲隠」の巻名があっても、本文のないわけについては、偉大な光源氏の出家と死とを作者が省筆したものと考えられます。その省筆個所に後人が巻名を思いついて付けたのでしょう。のちには「幻」巻につづく巻々として、『すもり六帖』とか『雲隠六帖』と称する物語も書かれています。
原作にない巻名が付けられたり、また続編が綴られたりしているのは、『源氏物語』がいかにおおぜいの愛読者たちから熱烈歓迎を受けていたかを物語るものでしょう。
男君たちの魅力
○ 明石入道 一家再興の夢を信じ、その実現を娘に託して、遂に成功。住吉の神を信仰、信念を曲げない。出家らしからぬ俗人めいた言動もあったが、繁栄すると見届けると隠棲。
○ 薫 女三の宮の子。源氏の子とされるが、実父は柏木。幼少時から自分の出生に疑問を抱きつづけ、宇治の八の宮に仏教を学ぶが、出家もできず、八の宮の姫君たち、大君・中の君・浮舟との恋に失敗。優柔不断。
○ 桐壺帝 最愛の子光源氏と最愛の后藤壺とに裏切られながらも、二人を愛しつづける懐の深さ。治世はおさまり、権威があった。
○ 惟光 乳母子として光源氏のために身命を尽して奉仕。のちには娘が夕霧と結ばれ、惟光は公卿に昇任。サクセス物語を実現。
○ 頭の中将(内大臣) 常に源氏に負けまいと競争心を持っていて、雲井雁と夕霧の結婚にもはじめは反対。一方不遇な須磨の源氏を見舞ったり、紫の上亡きあと、源氏をしばしば慰めに訪れるなど、友情も持っていた。少し派手で、近江の君などを相手にユーモアも持ち合わせていた。
○ 匂の宮 源氏の娘の明石中宮と今上との間に生まれる。好色で、情熱があり、行動的。宇治の中の君との間に一子をもうける。その異母妹の浮舟を薫から奪い、三角関係になった。歌も絵も香道も上手であった。
○ 光源氏 全てが自分の思いどおりに働くという確信と自信、うぬぼれの持ち主。権力維持の方策を冷静に考える人。単なる浮気男ではなく、自分を愛する女性は忘れず、最後まで面倒を見るという誠実さがある。須磨・明石流謫の間に漁夫や山住みの者などとも交流し、聖人の風格をも備えるに至る。母桐壺の更衣の面影を求めつづけるマザ・コン気味のところもあった。
○ 髭黒大将 「色黒く髭がちに見える」ので髭黒と呼ばれる。今上の母女御、承香殿の兄で、真木柱の父。女房の手引きで玉鬘を妻とし、前妻とは離婚。「ひたおもむきにすす」む性格。夕霧政権のできるまでの橋渡しの役でもあった。
○ 蛍兵部卿の宮 源氏の異母弟。絵画・和歌・音楽・文芸などの諸道に通じ、各種会合での判者をつとめる。身内の中では源氏の一番の理解者。
○ 夕霧 学問に励み、雲井雁との恋を成就させた純粋さ。後年親友の未亡人の落葉の宮への一途な恋を実現。晩年、薫や匂の宮らのお目付け役として、煙たがられる。まじめなだけに、一途になりすぎて、周囲から疎んぜられるところがある。
物語に見える音楽
源氏物語の時代、つまり平安朝の貴族社会においては、音楽は和歌と並んで、高度の教養の一つでした。宮廷はもとより貴族の家々では、会議や行事などには必ず管絃の遊び(音楽の集い)が催され、うたが口ずさまれ、舞いが舞われることも少なくありませんでした。
音楽が重視されたのは、孔子らが説いたと言われるように、音楽は人と人とを和合させるものであり、君臣相和する円満な世界を作り出す力があると信じられていたからです。会議や勝負事などで対立することがあっても、そのあと管絃の遊びを催せば、意見の対立もモヤモヤも解消して、良好な人間関係が築かれるというわけです。
楽器には絃楽器(ひきもの)として、琴(きん)(七絃)・箏(そう)(十三絃)・琵琶(びわ)(四絃)・和琴(わごん)(六絃)などがあります。また管楽器(吹きもの)として、篳篥(ひちりき)(約二十センチの竹管。表に七孔・背に二孔あり)・高麗笛(こまぶえ)(三韓伝来の楽器。横笛よりも細く短い。六孔)・横笛(よこぶえ)(中国伝来。七孔・長さは一尺三寸)・尺八(唐の律尺で一尺八寸=現尺一尺四寸五分余り。表に四孔・背に一孔。竹製の縦笛)・笙(しょう)(中国伝来。縦に十七管を束ね、下の吹口から吹く)があり、打楽器(打ちもの)には、羯鼓(かっこ)(台に据えて二本のばちで両面を打つ)・鉦鼓(しょうこ)(青銅製。皿〈さら〉形で、つるして撞木〈しゅもく〉でたたく)・太鼓(たいこ)(木製。大太鼓は直径六尺三寸ほど。二人が荷ってたたく荷太鼓は直径二尺七寸ほど。釣〈つり〉太鼓は直径一尺八寸)・拍子(ひょうし)(長い木板二枚を用い、笏〈しゃく〉を割った形に見えるので、笏拍子ともいう。日本特有の楽器)などがあります。
これらのうち、打楽器や管楽器はふつうは地下(じげ)の専門の楽人が担当し、庭上や築山のうしろなどで演奏します。屋内では殿上人・公卿・女房らが絃楽器を受け持ちます。紫式部は専門の師匠の才芸はそれとして、「家の子(良家の子弟)の中には、なほ人に抜けぬる人」がいると述べています(絵合・若菜下)。柏木の和琴・蛍兵部卿の宮の琵琶などのすぐれていることが強調され(若菜下)、また明石の御方は箏にすぐれていましたが(明石)、これは家の伝統を受けついだ結果によると説いています。柏木の横笛がのちに薫に伝わり、その吹き方が内大臣家の流儀であるのを、宇治の八の宮に不審がられた場面もありました(椎本)。なお、光源氏はどの楽器にもすぐれていましたが、特に琴(きん)の名手とされているようです。
邦楽(雅楽)の旋法には、呂旋と律旋とがありますが、宮中での公式の演奏(中国伝来の正楽)は呂旋であり、また日本古来の俗楽由来のものが律旋で、これは沖縄の民謡に近いものとも言われています。よく「ろれつが回らない」などと言いますが、この音楽の呂・律に由来するものです。
この律旋・呂旋により作曲する場合、壱越調(いちこつちょう)・平調(ひょうじょう)・双調(そうじょう)・黄鐘調(おうじきちょう)・盤渉調(ばんじきちょう)・太食調(たいじきちょう)などの調子ができます。これらの調子は、「時の音」と称し、四季に配して演奏され、春は双調、夏は黄鐘調、秋は平調、冬は盤渉調と原則的に決められており、壱越調・太食調は随時に演奏されるものとなっていました。
当時の貴族にとって音楽の才能がないことは立身出世にもひびく致命的なことにもなりかねません。しかしそういう人たちには、お経を美声でよみ上げる「読経あらそひ」という遊びのあったことが『紫式部日記』の中に見えています。
年立ての矛盾
『源氏物語』の事件を、光源氏の年齢(正編)および源氏死後は、薫の年齢(後編)でついで、年表ふうに記した年紀を、年立てといいます。私たちが長編の『源氏物語』を読むときには、この年立てに導かれて読むことが少なくなく、物語の理解に欠かせないものです。
中世以降本居宣長以前に作られたものを「旧年立て」(河内守源光行一流の『水原抄』からあったといわれますが、主として一条兼良が立案し、同冬良が伝えたもので、北村季吟の『湖月抄』に収められています)と呼びます。
「旧年立て」も非常な労作ですが、たとえば「澪標」巻で元服・受禅する冷泉院は、「若菜下」で譲位しますが、治世十八年の旨の記述があります。しかるに「旧年立て」では十九年目になっています。また玉鬘は「玉鬘」巻で二十歳と明記されていますが、「旧年立て」ではこれが二十二歳となるような矛盾が生じています。
このような「旧年立て」の矛盾を解決しようとしたのが、宣長の『源氏物語年紀考』(のち『源氏物語玉の小櫛』に収める)で、これを「新年立て」といいます。
この「新年立て」は北村久備の『菫(すみれ)草』にも継承されているもので、きわめて合理的にできています。けれどもやはり原作の内蔵する矛盾は解決しがたく、「旧年立て」の持たなかった新しい他の矛盾を作ってしまいました。
たとえば「少女」巻に明石の御方の六条院入りが十月と記され、次の「玉鬘」巻では明石の御方のいる六条院へ玉鬘が入ったのも十月と記されています。「旧年立て」では「玉鬘」の巻を「少女」の巻の次の年とするのですが、「新年立て」では両巻を同年のこととする矛盾が生じているのです。
年立ての矛盾は作者の思い違いや、構想の問題などにも関係するでしょうが、作者が正確無比な年紀を意識せず、大まかな年紀を見すえて物語を書いた結果なのでありましょう。その手法は「なにがしの院」とか「北山」とかいった場所などの具体名はあげず、読者の想像力をかき立てる手法に共通するものがあるように思われます。 
 

 

桐壺・帚木
1 桐壺
いつの御代であったか、帝が多くの女御・更衣の中で、故大納言の娘の桐壺の更衣を寵愛されたが、右大臣の娘の弘徽殿の女御をはじめ他の后妃たちから嫉妬・羨望はげしく、病床につく日が多く、男御子(第二皇子・光君)を生むと間もなく亡くなり、その母君も逝去する。
帝はこの母無し子の若宮を寵愛。高麗人の観相や倭相(やまとそう)などによって、この若宮が天皇になる相はありながら、そうなると国が乱れ、またただの人臣で終る方とも見えないと相するので、臣籍に降し、源氏の姓を授けた。
そのころ桐壺の更衣そっくりの先帝の女四の宮藤壺が入内。若宮も母恋しの心情から深く心にかけた。二人の美しさに、世の人は「光る源氏」「輝く日(妃)の宮」と称した。
若宮は十二歳で元服、加冠役の左大臣の一人娘の葵の上(十六歳)と結婚。美しいが取りすました葵の上の許に通うことは少なく、藤壺の宮が慕わしく、宮中に宿直(とのい)がちで、故母更衣の二条院を立派に修理。「思ふやうならむ人(藤壺)」と住みたいと嘆くのであった。
「光る君」という名は、あの高麗の相人が若宮の容貌に感嘆して付けたとも言い伝えられている。
2 帚木(ははきぎ)
源氏十七歳の夏。五月雨の一夜、御物忌(ものい)みで、源氏の宿直所の桐壺に、義兄の頭の中将や粋人の左馬頭や藤式部丞がやって来て、上・中・下の女性の品定めをするが、中流(受領階級)の女性に個性的で、魅力ある女性がいること。また妻とするには貞淑で、嫉妬をしない女性を選ぶべきこと。さらには思いがけない所に素敵な女性がいるといった話から、各々の体験談に花を咲かせた。源氏はこれによって中流の女性に興味を持つようになった。
翌日久しぶりに左大臣邸に帰ると、葵の上のご機嫌が悪い。たまたま今宵は内裏からは方塞がりだというので、方違えに、左大臣邸へお出入りの紀伊守の中川の新邸に向った。
ちょうど、紀伊守父の伊予介の後妻の空蝉が居合わせた。その夜、源氏は無理に空蝉と逢った。帰邸した後、空蝉の弟の小君に託してしばしば彼女に文を送り、再び中川の宿を訪れて空蝉に逢おうとするが、彼女は信州園原の伏屋にある帚木のように、姿を消してしまった。
空蝉・夕顔
3 空蝉(うつせみ)
源氏十七歳の夏。源氏はこりずまに空蝉の弟の小君に案内させて紀伊守邸に忍び込む。空蝉は継娘の軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打っていた。やがて母娘は同室で就寝していたところへ、源氏が忍び込むと、空蝉は小袿を脱ぎすべして逃げてしまう。源氏はやむなくその継娘の軒端荻と一夜を明かし、空蝉の小袿をひそかに持ち帰り、恨みを述べた歌を小君に持たせた。
4 夕顔(ゆうがお)
源氏十七歳夏〜十月。源氏が六条京極の前東宮妃に忍び通っていたころ、五条辺りの大弐の乳母(惟光の母)の病(やまい)を見舞った。このとき隣家の板べいに夕顔の花が白く咲くのを見て、一枝所望したところから、和歌の贈答となり、当家の女(夕顔)のもとに乳母子惟光の手引きで通うことになった。たまたま中秋名月の暁に周囲の騒々しさを逃れて、女を近くの廃院に誘った。ここで静かに語り暮して、夜臥すと、貴女姿の物怪(もののけ)が現われ、女を取り殺した。源氏は悲嘆し、葬送後、重くわずらう。女の侍女の右近の話で、この女が雨夜の品定めで聞いた頭中将の愛人で、本妻に追われて姿を隠していたことを知った。その形見の遺児(玉鬘)を源氏は引き取ろうと思うが、乳母たちがやかましいので、夕顔の宿に事情を知らせることもできない。一方、軒端の荻は少将を聟にとった。また空蝉は老夫の伊予介と十月に任国に下ることになった。空蝉には櫛や扇を餞別に贈り、あの夜持ち帰った小袿も、歌を添えて返した。
若紫・末摘花
5 若紫(わかむらさき)
源氏十八歳の春。源氏はわらわ病み(=おこり)をわずらって、三月末北山の聖の許に加持を受けに行く。山頂から花盛りの京を見やると、源氏の絵心が動き、従者たちは富士・浅間など名勝の話や、近国の明石の浦に住む変り者の前播磨守入道とその美しい娘について噂をする。
夕方、眼下の庵室をのぞき見して雀の子を逃されて泣く美少女と尼君とを見つける。のちに当寺の僧都の話から、尼が僧都の妹で、この尼君の亡くなった娘が、藤壺の兄の兵部卿宮との間にこの少女をもうけたことを知る。
道理で自分の恋慕する藤壺にこの少女が似ているとわかり、早速結婚を申し込んだが、僧都も尼君も冗談だと思って取り合わなかった。
帰京した源氏は、病気で里下りしていた藤壺と、王命婦に案内させて、夢のような一夜を明かした。その結果、藤壺は懐妊する。
その後、北山の少女は尼君が亡くなり、父宮に引き取られようとしていたのを、源氏は危うく連れ出し、私邸の二条の院に迎えたのであった。
6 末摘花(すえつむはな)
源氏十八歳の春。あの夕顔を忘れられない源氏が、乳母子の大輔の命婦から故常陸宮の姫君のことを聞き、頭の中将と恋争いになったが、源氏が勝利を得る。冬の早朝、ふと雪の光で見た彼女の顔は、鼻は長く、その先は赤く、奇妙な容貌であった。
帰邸後、源氏は自分の鼻に戯れに朱をつけて、紫の上を心配させた。
女君を選ぶ
(1) 最も好きな女君
1紫の上(43%) 2空蝉・桐壺の更衣・花散里(各9%) 3明石の御方・秋好中宮・浮舟・朧月夜・末摘花・玉鬘・藤壺(各4%)
紫の上の人気がダントツです。美人で、聡明で、やさしく、文句の付けようがありませんね。空蝉や花散里など一見地味で、分をわきまえる女性もそこそこに人気があることがわかります。
(2) 生涯の伴侶にしたい女君
1紫の上(33%) 2明石の御方(27%) 3花散里(16%) 4雲井の雁・玉鬘・宇治の中の君・六条御息所(各5%)
生涯の伴侶も紫の上が理想のようですね。明石の御方や花散里が結構健闘していますが、二人とも自分の立場や運命を受けとめて、ガタガタ騒いだりしない性格の持ち主である点が共通しているようです。
(3) 恋人にしたい女君
1朧月夜(33%) 2夕顔(27%) 3紫の上(13%) 4雲井の雁・玉鬘・軒端の荻・花散里(各6%)
朧月夜は源氏と兄の朱雀帝に愛されました。夕顔は頭の中将と源氏の恋人でした。二人とも美人で、素直なのですが、少し意志の弱いところがあったようです。恋人のイメージとしては少し遊び心のある女性が現代の『源氏物語』の読者の関心を引いたのかも知れませんね。
(4) 友人にしたい女君
1朝顔(44%) 2明石の御方(33%) 3朧月夜(22%)
内容的に(3)の設問と重なるところがあったようで、回答数は多くはありませんでした。色恋沙汰を抜きにした友人としては、やはり独身を貫きながらも、趣味・教養の力を発揮した朝顔や、明敏で、控え目な明石の御方の人気が目立ちました。
この四項目のどれにも推挙されなかった主要な女君には、葵の上や女三の宮や落葉の宮・宇治の中の君・明石中宮・弘徽殿の大后・大宮(左大臣北の方)・源典侍らがいます。お気の毒な女君もいますが、読者の好尚に合わないところや、その人物性に欠陥のあるケースもあるようです。このWeb文庫の読者のご意見はどうでしょうか。
『山路の露』
『源氏物語』の、出家した浮舟と、それを知ったものの薫がとうとう会えずに終るという結末に、物足りなさを抱いた後世の愛読者が、続編を綴りました。
その一つに、平安末から鎌倉初期に書かれたとされる『山路の露』があります。現在流布本(続群書類従物語部などに所収)と古本(池田亀鑑・日本古典全書源氏物語七所収)とが知られていますが、両者共にかなりの欠脱があります。あらすじは次のとおりです。
薫はその後も小君を小野の浮舟の許にたびたび遣わしたが、浮舟は相変らず面会を拒否するので、薫はいよいよ心が乱れ、彼女の草庵にみずから忍んで行こうと思う。
北の方の女二の宮を訪れても、浮舟のことがしのばれ、また中の君は匂宮の歴然とした北の方である今となっては、ようやく疎遠となり、また故大君の面影を思い出すのであった。
一方浮舟は一心に勤行していたが、尼君たちは薫の好意を語り、彼女が薫の愛を受け入れないのを惜しんでいる。秋が深まるころ浮舟は母を恋しく思い出す。
薫はこのころ病んで、母の女三の宮などが心配したが、ようやく回復。再び小君を小野に遣わす。浮舟は尼君たちのすすめもあって小君に会い、母への手紙を託すが、薫には書かない。小君は困惑しつつもこの旨を薫に報告し、母への手紙を見せる。そこには、
厭いつつ棄てし命の消えやらで再び同じ憂き世にぞ住む
(生きているのがいやになって命を捨てたのに、とうてい死に切れず、再び以前と同じ憂き世に住んでいます)
迷はせし心の闇を思ふにもまことの道は今ぞうれしき
(母君の心をまっ暗にさせましたが、今は仏道に入って無事に生きており、ご安心いただけるのは、うれしい次第です)
という二首の和歌が記されていた。
薫はついに小野に浮舟を訪ね、彼女のつれない心情を恨む。浮舟が心を動かさないので、薫は暗い気持ちで暁の露を分けて帰る。
他方、母は浮舟からの手紙に接して、その生存に驚いて訪ね、夜を徹して語る。母の下山後、浮舟は勤行に専心する。
薫は左大将兼内大臣に任ぜられる。北の方の女二の宮は懐妊する。年の暮れ、薫はねんごろに尼君たちに贈り物をし、浮舟をいかにしたものかと心を悩ましている。中の君にも歳暮の挨拶をするが、浮舟のことは話さなかった。
話は「夢浮橋」からほとんど進展せず、ただ匂宮と中の君、中の君と薫との間が安定してきていること、また薫が浮舟と面会したことや浮舟の母が娘の生存を知って喜ぶというのが話の山場になっています。作者が「宇治十帖」のよき理解者であったことは確かのようです。
『源氏物語奥入(おくいり)』
『源氏物語奥入』は、別に『定家卿釈』とか『難題抄』とも言われます。『源氏物語』の本文研究や、これを和歌創作の源泉と仰いだ藤原定家(1162〜1241年)の『源氏物語』の注釈書です。元来、定家が自家蔵本の『源氏物語』の各巻の奥に書き入れていた注記を、のちに一巻にまとめたところから『奥入』の名があります。
内容は故事・引歌・出典の考証が主で、要語の注解とはいいながら、語義・語法の説明は見られません。成立上、一次本(大島本など)と、その後の考察をも加えた二次本(定家自筆本)とに分けられ、両者とも『源氏物語大成』巻七に収められています。たとえば、「朝顔」巻については、以下のとおりです。
(一次本) 世俗しはすの月夜といふ
たまさかにゆきあふみなるいさらかは いさとこたへてわかなもらすな 此哥強不可入歟
(二次本)
こひせじのみそぎは神もうけずとか人を忌る罪深しとて
君が門今ぞ過行いでて見よ恋する人のなれるすがたを
(以下四首略)
世俗しはすの月夜といふ(以下一次本と同じ)
総じて注釈としてより注釈史上の価値の方が大きいといえます。なお、本書は嘉禄三年(1227)十月以降の成立と考えられています。この月、定家は室町殿本『源氏物語』を家本の青表紙本によって訂正したということで(『明月記』)、『源氏物語』に一段と関心をそそいでいた時期でした。
源氏香
源氏香は、江戸時代初期、当代文化の指導者後水尾(ごみずのお)天皇(1596年〜1688年、修学院離宮を造営)の文学愛好の精神と香との結合から生まれた組香(二種以上の香を焚いて香の異同を判別するもの)の一種です。その目的はあくまでも『源氏物語』を味わう優雅な楽しい遊びにありました。
この組香の方式は、香五種を、一種五包ずつ合計二十五包をうち混ぜ、その中の五包を取って焚き、香の異同を判別するのです。現在はふつう豆炭の類を入れた、直径四、五センチの小香炉の上に、石英の板(プレパラート)二枚にごく少量の香料をはさんで暖め、発生する香りを聞く(香りをかぐこと)方法をとっています。
縦に五本の線を並べて書き、右から一炉から五炉までとし、同香の頭を横に結ぶことによって、五十二の図を作ります。これを第一巻「桐壺」と最終巻「夢浮橋」とを除いた五十二帖に当てた図で回答するものです。
たとえば聞く者が、五度とも別々の香で同種なしと聞けば、名乗紙(なのりし)にと図を記し、これを「帚木」と名乗ります。全部が同種と思われるならば、と書いて「手習」と判断します。最初の二度は同種で、三、四度目も同種、最後がまた最初と同様に聞いたときは。これは「総角(あげまき)」です。
香にはもと図はなかったのですが、書きとめるためにこの源氏図ができたのです。その図は「若紫」()で、が二つ記されるのは、光源氏の葵の上と紫の上との関係を示した意味深いものであるとされました(三条西尭山)。『源氏物語』をよりよく味わうための香道であったことがわかるでしょう。
この組合せ五十二種に、「桐壺」(、「賢木」に同じ)・「夢浮橋」(、実在しない)を加え、五十四帖全部が組香されて、「源氏千種(ちぐさ)香」として流行したのは、享保(1716〜36年、徳川八代将軍吉宗の時代)のころでした。
なお、「源氏物語ミュージアム」のある宇治市の宇治橋の歩道には、源氏香の図柄のタイルがはめこまれています。源氏香のスペシャリストを目指す人にとっては、恰好のトレーニングになるでしょう。
平安時代の風呂
このテーマは私が四十代の末に、市民向けの源氏物語講座をはじめて担当した時に、最初に受けた質問です。源氏物語講座なのに、質問が風呂とは?と、あわてましたが、「帚木」巻で空蝉が侍女の中将の君を呼ぶと、別の女房が「下(しも)に湯におりて、『ただ今参らむ』と侍る」という条で、当時の湯(風呂)とは?、という質問が出たわけです。
厳密にいうと「風呂」と「湯」とは異なります。「風呂」は「風炉」で、風を通して火力によって水を沸かす形式のもので、平安時代末から近世初期にかけては、戸棚式の蒸風呂であったと言われます。その後は湯を十分に沸かす形式のものとなり、弥次さん、北さんは鉄製の風呂に素足で入って、大騒ぎになったという『膝栗毛』の話もあります。
一方、光源氏の時代は「湯」、つまり湯浴(ゆあ)み、行水式のものでした。浴槽に別に沸かした湯を入れ、水で調節して身体を洗うわけです。当時の天皇の浴槽は、長さ五尺二寸(約一・五六m)、幅二尺一寸(約六三cm)、深さ一尺七寸(約五一cm)、その板の厚さは二寸(約六cm)と決まっていました(『延喜式』巻三十四)。
案外小さな浴槽ですね。たぶん後世のように、この湯船に天皇自身が入ることはなかったのではないかと思います。そこから汲み出した湯で身体をきれいにしたのでしょう。もちろん湯殿担当の女房たちが奉仕したはずです。
『土佐日記』には、船で上京の途中、女性たちが海辺で水浴みをしたという記事があります。また『紫式部日記』には後一条天皇が誕生したとき、寝殿の東廂に湯殿を設けて、産湯(うぶゆ)の儀式をしたことが記されています。
前述の「帚木」巻の空蝉が滞在している邸は前妻の子の紀伊守の新築の邸です。しかし湯浴みをしている所は「下(しも)」とありますので、湯殿はいわゆる寝殿造りの主な建物に付属して設けた「下の屋」(ふつうは敷地内の西北隅などに所在)にあったことがわかります。
なお、天皇の湯浴みする所は、清涼殿と後涼殿との間の朝餉の壺の北側の「御湯殿」です。清涼殿内にも、東北隅の御手水の間の北隣に「御湯殿の間」がありますが、これはお茶(お湯)を用意する所です。
『九条右丞相遺誡』によると、当時は五日に一回湯浴みをすることになっていたようです。毎月一日に湯浴みをすると短命になるとか、八日なら長命になるとか、亥の日は恥をかくとか、いろいろと日によって制約があったようです。女性の洗髪などは年に数回とされており、薫香類が尊重されたのもうなずけます。
牛車(ぎっしゃ)
明治以前の動力によらない時代の乗物には、車(輦車〈てぐるま〉・牛車)・輿(こし)・馬・船等がありました。船の一部は風力なども利用しますが、ほとんどは人力や牛馬の力による乗物しか存在しませんでした。
輦車は人力で引く車で、腰車(こしぐるま)・小車(おぐるま)ともいいます。皇太子の晴れの折の乗用で、また特に勅許のある場合に限り、宮城門から各殿舎まで乗車が許されます。これを「輦車の宣旨」といいます。桐壺の更衣が宮中から退室するとき、この宣旨を受けました(桐壺巻)。また尚侍の玉鬘が宮中から髭黒邸へ退出するときや(真木柱巻)、明石の御方が入内した姫君の後見のため参内するときにも、この宣旨を受けました(藤裏葉巻)。
牛車 牛に引かせる車で、乗用のためのもの。荷車などは牛車とはいいません。いろいろの種類のものがありますが、『源氏物語』や『紫式部日記』等に見えている牛車には、以下のような車があります。
(1) 檳榔毛車(びろうげのくるま) 毛車(けぐるま)ともいう。檳榔の葉を細く割いて屋根を葺いた車で、物見(窓)はなく、内側は格子で青末濃(あおすそご)の下簾があります。上皇以下四位以上、及び僧正・大僧都の乗用。なお参議(三位)以下には下簾がありません。「宿木」巻に見える「檳榔毛の黄金づくり」は、金の金具を用いたものです。『紫式部日記』の内裏還啓条に見える「黄金づくり」の車などが、これに当るものでしょう。
(2) 糸毛車(いとげのくるま) 車の庇を色糸で飾った車。物見はなく、前後の屋形が外へそる所(眉〈まゆ〉)の下に庇があります。青糸毛は皇后・親王・摂関、紫糸毛は女御・更衣・尚侍・典侍、赤糸毛は賀茂祭の女使の乗用でした。『紫式部日記』の内裏還啓の条に、道長夫人の殿の上と少輔の乳母が若宮(敦成親王)を抱いて乗ったとあります。「宿木」巻には女二の宮の乗る「庇の御車」がこれに当りますが、同巻に「庇なき糸毛も二つ」ともあるので、庇のないものもあったようです。
(3) 網代車(あじろぐるま) 竹または桧皮を網代に組んで、屋形と左右の脇を張り、青地黄文に塗り、袖(屋の両側の突出した部分)だけは白地に家紋をつけたもの。大臣以下四、五位、督・佐までの乗用。「須磨」巻に「網代車のうちやつれたるにて」とあるほか、「葵」「若菜上」「宿木」諸巻にも見えていて、男女を含めて、貴族たちの最もポピュラーな乗用車でありました。
この他(4)半蔀車(はじとみのくるま) (屋形は桧皮〈ひわだ〉・物見には半蔀がつけてある)・(5)八葉車(はちようのくるま) (萌黄の網代に黄の九曜文をつけた車。大小の別がある)・(6)唐車(からぐるま) (唐庇車〈からびさしのくるま〉とも。屋根が唐棟のような形をしており、牛車の中では最大・最高のもの)などがあります。
牛車は後方から乗り、轅(ながえ)のある前方から降ります。姫君などは車を回転させて、轅を渡殿の廊などにさし込み、ときに板などを渡して、降ります。
牛車は定員四人がふつうですが、二人で乗ることも多く、その場合対面式に乗り、上位の者が進行方向に背を向けて前方左に、下位の者が進行方向に向かって、後方右手にすわったようです。内部には現在の畳のようなものが敷いてあったと思われます。
貴族の日常生活
王朝貴族の日常生活の軌範を示した書物に、藤原道長の祖父の右大臣師輔(908〜60年)がその晩年(947年以降)に執筆した『九条殿遺誡(ゆいかい)』があります。日々の生活習慣や、作法・規範等が綴られており、摂関家はもとより、これにつづく貴族の家々でも、生活の模範としてこの『遺誡』が尊重されていたようです。のちの兼好法師も「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」の一文を、『徒然草』第二段に引いています。
日常の生活についての『遺誡』の記すところを以下にまとめてみます。
(1) 起床したら自分の生年に当る星(たとえば卯・酉年生まれなら「文曲〈ぶんきょく〉」。その一生を支配するとされました)の名を七回小声で称すること。
(2) 鏡を取って顔を見、暦(こよみ)を見て日の吉凶を知ること。
(3) 楊枝を取って西に向かい手を洗うこと(つまり歯みがきと洗顔ですね)。
(4) 仏名を誦(じゅ)して、氏神を祈念すること。
(5) 昨日のことを記せ(日記をつけること)。
(6) 粥(しるがゆ)を服す。
(7) 頭(かしら)を梳(けず)り(三日に一度)、手足のつめを切ること(丑の日に手のつめ、寅の日に足のつめを切る)。
(8) 五日に一回沐浴(ゆするあみ)(湯や水で身体を洗うこと)を行なう。
(9) 出仕予定の時は、衣冠を着て、怠らぬこと。
a 人と会って、多言せぬこと。
b 人の行なうことを批評しない。他人のことを言わない。口は災いのもとである。
c 公事(くじ)について文書を心を傾けて見ること。
(10) 朝(巳=10時)・暮(申=4時)の食事は多食多飲をしないこと。時刻どおりに食事はとること。
この他、生活全般の注意も書いてあります。兼好法師の引いた倹約の勧めのほか、君には忠貞の心を尽し、親には孝敬の誠を尽すこと。兄をうやまい、弟を愛せ。頼るところのない姉妹はていねいに援助するように。病気でない限り毎日親に面会せよ、等々。
さらに高声悪狂の人とは付き合ってはならないとか、他人の物を借りるなとか、大雨・雷鳴・地震・水火の時は、すぐに親を見舞うこと等々、何やら『源氏物語』の光源氏や夕霧の行動等に重なるものが少なくありません。おそらく貴族の人々の模範とされて来た『遺誡』であり、彼らの日常生活の一面を如実に伝えているものと考えられます。  
 

 

大災害が描かれていない
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の一文で始まる鴨長明の『方丈記』には、作者の体験した京都の大火や飢饉・地震等の悲惨な実体が克明に描かれています。長明はこれらの事件に遭遇して、世の無常を悟り、人里離れた日野山の方丈の庵に入って安堵の余生を送ったと記しています。
一方、『源氏物語』には大火や飢饉・地震等の大災害はめったなことでは描かれません。主な災害の記事では、
(1) 「須磨」巻々末で、三月上巳の日、源氏が海に出ると、祓半ばに疾風迅雷、海上はたちまち大暴風雨となり、あわてて帰館。それから「明石」巻冒頭に移って、暴風雨は衰えず、その上落雷で源氏の館は廊を炎上。その夜のうたたねの夢に亡き桐壺帝があらわれ、住吉明神の導くままに須磨の浦を去るようにと啓示を受けていた時に、同じく夢のお告げがあったとする明石入道の迎えの船で明石に渡るということになります。
(2) 「野分」の巻に、野分(台風)が激しく吹いたことを記します。夕霧が父源氏を見舞いに来たとき、激しい風で開いた妻戸や簾の所から紫の上の高貴な姿を見ることになります。
(3) 「椎本」の巻、薫二十四歳の春、三条の宮が焼亡し、入道女三の宮と薫は六条院に移ります。薫は当院を里邸とする匂宮と、宇治の姫君たちについて、くわしく相談する機会を得ます。
(4) 「賢木」の巻、夏の日のこと、右大臣邸で朧月夜尚侍と密会していた源氏が、激しい雷雨の見舞いに来た右大臣に発見されます。
以上の四件が『源氏物語』に描かれた災害がらみの主な話ということになりますが、いずれの場合も災害そのものを描こうとしたものではありません。その災害がきっかけになって、ストーリーが変化・発展することになっています。災害は物語の動機として使われているのです。
紫式部の時代にも災害は起こっています。『源氏物語』の書かれた寛弘五年(1008)には諸国に疫病がはやり、翌六年には内裏・一条院が焼失、同八年(1011)にも法興院が焼けたり、京都が火災。また寛弘元年(1004)には京都に旱魃が起こっています。ただ地震だけは、彼女の生まれた天延元年(973)や三歳の貞元元年(976)に遭遇しているだけなので(以上『日本紀略』『百錬抄』等参照)、あまり実体験の自覚はなかったかも知れません。
いずれにしても、災害そのものから生ずる恐怖感や悲惨な思いはそれほど描かれていません。いずれもストーリーの動機として利用されているにすぎません。これは『源氏物語』が光源氏の栄華の物語で、その光や栄華を強調することはあっても、陰や衰微を描く物語ではなかったからでありましょう。(ただし「須磨」は源氏の不遇を描き、暴風雨・落雷・火災等の恐怖が強調されています。)
宿世観
「宿世(すくせ)」とは、過去の世を意味し、転じて宿世の因縁の意に用います。つまりこの世の事実はすでに生まれる前において運命づけられているものだとする思想です。過去の因は現在の果となり、それはまた当然未来にも及ぶものと考えられたわけです。
『源氏物語』には、全編にわたって、この「宿世」の語が六八回、「御宿世」が四六回、それに「宿世宿世」他が七回、合計一一九回も使用されています。(『源氏物語大成』索引篇による)。
女が男を恨んで姿を隠したものの、「宿世浅からで、尼にもなさで、(男が女を)尋ね取りたらむも」(帚木)とあるのは、トラブルがあっても、男女が別れずにすんだのは、前世からそう定められていたからだと言うのです。
夕顔の四十九日の法事を比叡山の法華堂で源氏が誰の法事とも明かさずに催したところ、僧侶たちは、「かう思(おぼ)し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」と言ったとあります(夕顔)。源氏をこれほどまでに嘆かせるのも、前世の因縁がとりわけ高かったのであろう、つまりこの故人(=夕顔)と源氏とのこうなるはずの前世からの因縁が、とりわけ深かったのであろうと、僧侶たちは言っているのです。
「若紫」巻の明石入道の噂が話題になっているところで、「『その心ざし遂げず、この思ひ置きつる宿世違はば、海に入りね』と常に(娘に)遺言し置きて侍るなる」とあるのは、入道が娘に自分のかねて思い定めた運命のとおりにならなかったら、海に投身せよと言っているのです。そう入道が考えたのも、これすべて前世からこうなるべく定められていたからなのです。
これらの例を通してわかることは、この世における事実が痛切で、人間の考えではとうてい理解できないような場合には、そのもとは前世によってもう決まっていたという宿世観で乗り切ることになります。強引に男が女と契りを結んだような場合、「これも宿世なめり」ということになって、男は自分の行為を宿世だといって女を説得し、逆に女もこうなったのは前世から定められていた宿世なのだと、あきらめるのです。
したがって「宿世観」によれば困難な状況も、人知の及ばぬ前世の因縁によるものだとして、そう深刻にはならぬという長所があります。一方、困難な問題・状況を真剣に考えることもなく、無反省になるという短所もあるということになります。王朝貴族の決断力のなさや無分別な行動をとる向きもあるのは、こういう宿世観が信じられていたからなのです。
僧侶
主要な僧籍の人物をあげてみましょう。
(1) 阿闍梨(夕顔) 惟光の兄。源氏が大弐の乳母(惟光母)を見舞った折初対面。その後叡山へ帰る。夕顔の四十九日の供養を比叡法華堂で行なう。
(2) 北山の僧都(若紫・紅葉賀・須磨・若菜下) 紫の上の祖母(北山の尼君)の兄。北山に三年籠り中。源氏が北山の聖の所に来ているとき対面。紫の上の素姓を語る。のちに紫の上が源氏に引き取られたことを喜び、尼君の法事を行なう。源氏須磨退居の折には、源氏・紫の上のために祈祷。紫の上重厄の年にはすでに故人となっていた。
(3) 北山の聖(若紫) 北山の岩屋に住み、訪れた源氏のわらわ病みの加持祈祷を行なった。
(4) 雲林院の律師(賢木) 桐壺の更衣の兄。源氏がその坊に参籠した。
(5) 醍醐の阿闍梨(蓬生・初音) 末摘花の兄弟の禅師。京に出たとき末摘花邸を訪うが、彼女の生活の世話など思いもかけない。彼女の唯一の豪華な防寒着の黒貂(ふるき)の皮衣までもらい去る。
(6) 明石の入道(若紫・須磨・明石・澪標・松風・薄雲・少女・若菜上、下) 明石の御方の父。大臣の子で、源氏の母桐壺の更衣とは従兄妹。その娘の出生前に瑞夢を見て、その将来に望みをかけ、近衛中将を捨てて、経済的な地盤を得るため播磨守となった。だが現地の人々にも少し侮られて、面目を失い、そのまま土着。源氏の須磨退居を、住吉の神の導きと喜び、霊夢によって、源氏を明石に迎えた。娘の婿に源氏を迎え、姫君が誕生。やがて母娘と入道室の母尼は上京。その後姫君が入内し、皇子誕生の知らせを受けて、深山に入って消息を絶った。
(7) 夜居の僧都(薄雲) 藤壺中宮の母后(先帝后)のときからの祈祷僧。藤壺中宮の薨去後、冷泉帝に実父が源氏であることを告げた。
(8) 小野の律師(夕霧) 一条御息所の祈祷僧。夕霧が落葉の宮の許に泊まったのを目撃して、御息所に忠告した。
(9) 宇治の阿闍梨(橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・蜻蛉・手習) 宇治の山寺に籠居、八の宮の仏道精進やその姫君(大い君・中の君)のことを、冷泉院へ参上して語った。これを聞いた薫は以後宇治の八の宮邸へ通うことになる。八の宮が阿闍梨の寺で参籠中病にかかるも下山をいましめ、八の宮はそのまま逝去。大い君・中の君が父宮の遺骸に会いたいと願うのも許さなかった。大い君の重態の折には修法を施す。八の宮邸の寝殿を寺に改修して寄進をうける。浮舟の四十九日や一周忌の法要も依頼された。
(10) 横川の僧都1(賢木) 藤壺の中宮の伯父。藤壺出家のとき、その髪を削る。
(11) 横川の僧都2(手習・夢浮橋) 比叡山横川の六十余歳の高僧。実在の名僧(源信僧都)の面影がみとめられる。母の小野の大尼君が妹尼君と初瀬詣での帰りに宇治で病気になったので、下山、宇治院で母の介護をしている折に、失神していた浮舟を助け、尼君たちとともに小野に住まわせた。快方に向かわぬ浮舟のたのめに、弟子たちの反対を押し切って下山。加持祈祷によって浮舟の物の怪も退散。秋、女一の宮の物の怪祈祷のための下山の途中、小野に立ち寄り、浮舟の懇願により授戒。僧都が明石中宮に浮舟のことを語ったのを、薫が伝え聞いて、彼女の身の上を説明。尼にしたことを後悔。その後薫が小野への案内を乞うため、叡山に僧都を訪ねた。
以上を通じて言えることは、いうまでもなく臨終や病気・物の怪退散のときの僧侶の活躍はいうまでもありません。その他、秘密や人の素姓などを明らかにする役回りがあり、また明石の入道のような頑固でユーモラスで、それでいて信仰心のあつい僧侶や、おおらかで人間味のあふれる横川の僧都らがいる一方、小野の律師や宇治の阿闍梨のような、厳しい言動の目立つ僧侶も登場しています。
紫式部には定暹(じょうしん)という異腹で、三井寺の阿闍梨になった兄がおります。父の為時は式部の亡くなったあと、越後守を任期途中でやめて、長和五年(1016)に三井寺で出家しています(『小右記』)。おそらく定暹の手引きがあったものと思いますが、末摘花の兄の醍醐の阿闍梨などに、その面影が反映しているかも知れません。なお、登場の僧侶たちの大半は叡山系の僧侶で、末摘花の兄だけが高野山系(真言宗)の僧侶です。
いずれにしても、これらの僧侶の登場が、『源氏物語』の内容を濃密に、かつ面白くしていることは確かなのです。
物語の主役
『源氏物語』のドラマ性を支えている登場人物は、圧倒的に「親に先立たれた子」どもであります。光源氏や紫の上はむろんですが、源氏の恋人の藤壺・女三の宮・六条御息所・空蝉・軒端荻・夕顔・末摘花らは登場したときから「(両親または片親に)先立たれた子」であり、花散里も記述はないが、たぶん両親はすでにいなかったのでしょう。そのほか冷泉院・秋好中宮・玉鬘・夕霧・落葉の宮・宇治の大君・中君らも母親に先立たれています。また桐壺の更衣や秋好中宮の父親は早世しています。なお雲井の雁や真木柱・浮舟らは両親の離婚の憂き目に会っており、薫の場合は父に先立たれ、母の女三の宮の出家にも遭遇するという悲劇を背負っています。
まともに両親が揃っているのは、朱雀院・今上帝・春宮・冷泉院女御(弘徽殿)・葵の上・頭の中将・柏木・明石の御方・明石の姫君(ただし紫の上の養女)・匂宮らということになりましょう。それは主として左大臣および朱雀院の血筋を主に引く人々と、明石入道の血筋に連なる人々です。前者は生まれながらにして「やんごとな」い階級に生まれた人々であり、その生涯はまず平穏であり、安定しています。後者の入道の場合は、受領階級から后妃を出すというドラマチックな筋立てからしても、きわめて特異なケースです。
実は『竹取物語』のかぐや姫は、竹取の翁夫妻が月から授かった養女でありましたし、『伊勢物語』の昔男も父に先立たれた、母宮の「ひとつ子」という境遇にあります。『うつほ物語』の俊蔭の娘も両親はおりません。『落窪物語』の落窪姫は母親に先立たれております。
物語の主役たちは、厳しい家庭環境にあって、話題性・冒険性・特異性にとんでいなければならないのです。貴族社会のまともな、ありふれた生活を描いてみたところで、読者の興味をひくことはできないのです。
「親に先立たれた子」どもたちの命運はいかに? 彼らに心引かれるヒーローやヒロインたちも同じく「親に先立たれた子」どもたちです。人生の試練をどのように乗り切れるのか。とりわけ姫君たちは嫁ぐ相手次第でしあわせにも不幸にもなるのです。そこから物語の話題性・冒険性・特異性が生じて、読者の興味を引きつけ、想像力を駆り立て、物語を読み込ませるのですね。
これは、たとえば児童文学やアニメーションの世界での主人公が薄幸な境遇に置かれていることが少なくないのと、同じ理由なのです。主役の条件の一つは、「親に先立たれた子」どもであるということになります。 
 
「源氏物語」考2 

 

1
少し遅めですが、あけましておめでとうございます。乙未(いつび/きのとひつじ)の正月です。新しい年の「話し初め・書き始め」なので、ぼくも幾分あらたまる気持ちをもって『源氏物語』をめぐるぼくなりの話をしたいと思います。納得できるものになるかどうかは保証のかぎりではありません。
正月の『源氏』といえば、巻22の「玉鬘」(たまかずら)とそれに続く巻23の「初音」(はつね)です。紆余曲折のあげくついに太政大臣になった光源氏が、完成した六条院に住まう女君たちに正月の晴れ着を配るという有名な場面が入ります。六条院、わかりますか。溜息が出ますねえ。辰巳の春の町には紫の上が、未申の方位の秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住み、丑寅にあてがわれた夏の町には花散里(はなちるさと)が、戌亥の冬の町には明石の君が住むという、なんとも按配のいい、すこぶる華やかな源氏絶頂期の結構です。
日本の建築文化史にとって六条院というヴァーチャルな寄与は、もっともっと研究されていいものです。源融(みなもとのとおる)の河原院や東三条殿や土御門殿などをモデルにしたんだろうと思いますが、ざっと250メートル四方、6万3500平米という大きさ。なにしろ四町ぶんでした。巻25の「蛍」に描写されていることですが、端午の節会では邸宅内の馬場で競射が、川の流れでは鵜飼ができたくらいです。
だいたいどんなところだったのか。ごくかんたんな全体像なら宇治の「源氏物語ミュージアム」に行かれれば模型があります。風俗博物館の五島邦治さんが監修して四分の一の模型をいろいろの撮影角度で収めて一冊にした『源氏物語 六条院の生活』(青幻舎)という本もある。老舗の「井筒」さんの先代も、この六条院を三分の一くらいに復元したいと言っておられましたね。「井筒」は黒沢明の『乱』をはじめ、ワダエミさんが映画衣裳づくりのときにいろいろ協力してもらっている法衣屋さんです。
六条院は六条京極にありました。現在の京都人にとって六条という地域はちょっとピンとこない界隈かもしれません。しかし、桜と柳をみごと交互にこきまぜた75メートル幅の朱雀大路が賑わっていた当時は、東山山麗寄りとはいえ存分に目立つところでした。ただし、そこは紫宸殿や清涼殿がある「御所」ではない。センターではないのです。そのことに光源氏が王権のトップに座れなかった複雑な事情が、もっといえば光源氏に「血」をたらした桐壺の帝がメインストリームから外れた事情が、暗示されています。『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。グレン・グールドがいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。
ま、その話はまたあとでするとして、この「玉鬘」から「真木柱」(まきばしら)までは俗に「玉鬘十帖」とも言って、光源氏30代後半の最もきらびやかで雅びなシリーズが描かれている巻立てです。六条院を舞台に源氏意匠のコアコンピタンスが派手に揃ったという場面集です。そういう正月のハレの王朝文化や六条院のみごとな結構と趣向の話のまま、なんとなく『源氏』の全体像に入っていければ、それこそ正月らしくていいんですが、いやいや、なかなかそうもいきません。『源氏』はなかなかなもの、容易じゃないんです。
たんに源氏っぽいものというだけなら、京都の呉服屋に育った者にとってはそこそこ親しみやすいものでした。母がたいそうな源氏好きでしたし、百人一首の得意な母が最初に教えてくれたのも、紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」と、清少納言の「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」と、和泉式部の「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」、そして「むすめふさほせ」でした。こんな母に対して、父のほうは反物(たんもの)を広げ、「これ、琳派源氏やしなあ」などと言って、ちょっと源氏意匠の着物を低く見ていたりしていたのですが、そういうことを含めて源氏的なるものは、近くで出入りしていたのです。
でも、こういうことは印象源氏であって、どこかあやふやです。それなら文章源氏のほうはどうだったかというと、なかなかちゃんとは読めません。ぼくの場合は家にあった「谷崎源氏」を高校時代に拾い読みしたのが最初の源氏体験です。そのあと、これまた家にあった「舟橋源氏」や「円地源氏」を覗くんですが、なぜかふいに戯曲めいたものにしたくなって、伊丹十三を光源氏に想定し、そのほか八千草薫とか草笛光子とか磯村みどりとか嵯峨三智子を適当に配して妄想を駆りたて、拙(つたな)いシノプシスにとりくんだりしたものでした。こんな一知半解なことをする気になったのは、小学校の頃に両親に連れられて見た長谷川一夫主演の『源氏物語』がちっともおもしろくなかったのと、昭和32年のテレビドラマの『源氏』が松本幸四郎の光源氏でがっかりしたこと、さらに次の年の大映の『源氏』で寿美花代が藤壷をやっていたのに呆れたことなどが作用したんだと思います。もっとも、のちに長谷川一夫の『源氏』(吉村公三郎監督)をあらためて見たことがあるのですが、けっこうよく出来ていました。吉村監督はどうも本気で「もののあはれ」を演出しようとしたようですね。
いずれにせよ谷崎源氏をちらちら覗いたということは、その後のぼくの日本についての渉猟にとって、それなりに役立ちました。ちなみに、そのころ母が「円地文子のものは気色(きしょく)が悪いなあ」と言っていたのが耳に残っています。きっと艶っぽくなりすぎていると感じたのでしょう。その後、二十代になって与謝野晶子の『新訳源氏物語』を読むのですが、これは初めてぴったりしたものを感じました。全訳ではありませんが、さすが晶子です。晶子独特のコンデンセーションをしている。コンデンスしているのですが、実にうまく書いてある。いまでも源氏ヴァージンの諸君には、これを読むと紫式部の構想や気分や狙いがかなり見当つくんじゃないかと薦めています(晶子はのちに全訳も試みます)。といったようなことは、ああだこうだと通り過ぎてきたのですが、『源氏物語』に本気でとりくんだということはしていません。紙人形作家の内海清美さんが『源氏物語』展をしたときの図録とか、女性誌の源氏特集にエッセイを書いたとか、国宝の源氏絵巻について番組で話したことなどはあるものの、まとめて源氏について何かの話をするのは初めてです。
十年前ほど前、千夜千冊が世の中に知られるようになってくると、「源氏はいつ書くんですか」と周辺から何度も訊かれるようになりました。「うん、まあそのうち」と曖昧なことを言ってきたのですが、なかなかその気になれません。昨年末に、2014年のラストの二夜を孟子とバルザックに決めてから、やっと新年は「源氏でいこう」という気になったというのが本音です。孟子もバルザックもずうっと気になっていながら手を付けられなかったので(そういう相手はいっぱいいますけれど)、これを果たしたら源氏だなと思ったんですね。まあ、観念したようなもんです。おかげで年末年始は源氏漬け。そのくらい『源氏物語』というのはぼくにとっては容易じゃない相手です。
知っての通り、『源氏』が書かれたのは11世紀の初頭のことでした。遅くとも1010年代にはほぼ完成しています。これは大変なことです。あのダンテの『神曲』にして14世紀の半ば。それより300年早い。しかもべらぼうに長い大作で、それを一人の女性が書いた。前代未聞です。こんな作品は世界中を探してもまったくありません。わずかにペトロニウスの『サチュリコン』があるくらいでしょう。同時代、フランスでは『ロランの歌』が、イギリスでは『アーサー王の物語』が、ドイツでは『ニーベルンゲンの歌』などが出来ていたとおぼしいけれど、これらはいずれも伝承や詩歌が集合知によってまとまったもので、誰か一人が書いたわけではありません。日本でいえば『竹取』や『伊勢』や『大和物語』にあたる。それを紫式部が一人で書いてしまったのです。
なぜこんな快挙が成立したのかということは、式部に比類ない文才や才気があったことはむろんですが、いろいろの理由が想定できます。そのころの日本の宮廷文化の事情、『源氏』の物語様式が「歌物語」という様式を踏襲したこと、真名仮名まじりの文章を女性が先導できたこと、藤原一族の複雑な権勢変化が同時進行していたこと、平安朝の「後宮」がもたらした恋愛文化が尋常ではなかったということなどなどが、なんだか桃と桜と躑躅が一緒に咲いたように参集したのです。とりわけ女君たちと宮仕えの女房たちが、今日では想像がつかないほどに格別な「女子界」をつくりだしていたことは、たとえば500年後にヨーロッパに開花した宮廷女性文化やロココ文化とくらべても、かなり風変りで奇蹟的なことでした。何でもありそうな古代中世の中国にも、こんな「女子界」はありません(中国には仮名文字がないのです)。と、まあ、きっとそんな具合に、説明するにはキリがないくらいの「女書き」をめぐる可能性が寄り集まって、あの時期、紫式部に結晶したんだと思います。それでも、仮りに以上のようなことが複合的に説明できたからといって、『源氏』五十四帖があらわした「世」(よ)というものに接近できるかというと、そうはいきません。接続はできても接近はできない。接続は点と線を差し込めばいいんですが、接近には「景色」がほたほた抱けるように見えてこなければならないのです。
本居宣長や折口信夫は源氏観として、その根本に「もののあはれ」や「いろごのみ」があることを主張しました。大筋当たっている根本的な摑まえ方だとは思われますが、ぼくがこれまでいろんなものを読んだかぎりでは、この「源氏=もののあはれ」や「源氏=いろごのみ」を深々と景色解説できていたものは、残念ながらありません。輪郭や感覚はおおかた議論されているのですが、それがたとえば光源氏と藤壷の名状しがたい関係などに代表されているだろうこともわかりやすい説明ですが、とはいえ「もののあはれ」の景色が本格的に大研究されたことがない。『源氏』は全篇に男女の恋愛をめぐる交流と出来事がずうっと出入りしています。その浮気ぶり、不倫ぶりは目にあまるほどですが、だからといって『源氏』を好色文学とは言えません。そこで折口は「いろごのみ」というふうに言った。折口ならではの網打ちでした。しかし「いろごのみ」って好色のことじゃんかと思ってしまうと、これはかなり勘違いになるのです。まして源氏や男君たちを、芸能ニュースよろしく「稀代のプレイボーイ」として片付けるわけにもいかない。『源氏』はたんなる好色文学じゃないんです。なぜなのか。これは「もののあはれ」や「いろごのみ」には、古代このかたの日本人の栄枯盛衰の本質にかかわる見方や観念形態が動向されているからで、それを『源氏』のテキストから引き抜いたセクシャルな人間関係だけから解読すると、あまりにオーバーフローするのです。
「いろごのみ」というキーワードは『源氏』まるごとにあてはまるコンセプトではあるんですが、そこには「色恋沙汰」といった意味にはとどまらないものがひそんでいます。本来の意味は、古代の神々の世界において、国々の神に奉る巫女たちを英雄たる神々が「わがもの」とすることによって、武力に代わる、ないしは武力に勝る支配力を発揮するという、そのソフトウェアな動向のこと、ソフトパワーのようなもの、それが「いろごのみ」です。つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。色恋沙汰を綴っているようで、それはいちがいに個人に属するものとはかぎらないんですね。
一方、「もののあはれ」のほうは日本人の古来からのメタコミュニケーションにかかわる揺れ動く情感のようなもので、むしろ個人意識にこそ発します。
『源氏』でいえば巻39「夕霧」に、雲居雁(くもいのかり)の「あはれをもいかに知りてか慰めむ在るや恋しき亡きや恋しき」という歌がありますが、この感じです。夕霧が柏木追悼にことよせて、ひそかに落葉の宮に近づこうとしているとき、その本心をはかりかねた雲居雁が詠んだ歌ですね。この「もののあはれ」の感覚は「揺れ動くのにしみじみしてしまう感じ」というものです。こうした情感は『源氏』以前の古代歌謡にも万葉にも、むろん古今にも見られた日本的情緒の本質です。ただ、それは必ずもって「歌」によってこそあらわせるものでした。宣長ふうにいえば「ただの詞(ことば)」ではなく「あやの詞」でしかあらわせない。紫式部はそのへんも充分に感知していたんです。まあ、このへんのことはもう少し話を話を進めたあとで、別の角度から話したいと思います。
ようするに『源氏』には「なにもかも」がひそんでいるかのように、われわれの前に姿をあらわしたのです。その可能性に満ちている。そう思わざるをえませんね。これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピアだって近松だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。当然、オーバーフローやオーバーワークしたくなりますよね。ぼくもその「なにもかも」には、日本人が長らく感じてきた「世」(よ)というものについての寂しい思いや、「無常」という驚くべき価値観や、さらには力のあるものに何かを感じながらもそれを特定できない「稜威」(いつ)といった敬神的感覚なども入っていて、それが「もののあはれ」や「いろごのみ」として表象されていると思ってきたのですが、さあ、それをいざちゃんと説明しようとなると、難しい。『源氏』から離れていってしまうこともあるのです。お正月だからといって「玉鬘」や「初音」にかこつけて源氏語りをしていくというふうには、なかなかならないのです。というわけで、今夜はいま述べたような本質論や日本論にはあまり踏み込まないで、物語の中身のほうと紫式部の比類ない表現編集力のほうについて彷徨したいと思います。
でもね、『源氏』は自由に読んだっていっこうにかまわない。それで十分に愉しめます。先にそのことを話しておきますが、光源氏をかこむ女性たちを比較する論評や案内が出回っていますよね。あれはあれで大いにおもしろい読み方です。秋山虔さんの『源氏物語の女性たち』(小学館ライブラリー)をはじめ、30冊くらい、いや、もっとかな、その手の本やガイドが出ていると思います。秋山さんは天皇社会文化の基軸を見据えて源氏研究に生涯を捧げた人ですね。ぼくは高校時代にIFという読書派の女生徒から、「松岡さんは『源氏』の女性なら誰が好き?」と言われてどぎまぎしたことがあります。彼女はぼくが大好きだった女生徒なんですが、そんな謎かけをされた。さあ、紫の上か藤壷か、そのときはちょうど宇治十帖を読んでいたときだったので浮舟と言うのか、そんなこと言うと嫌われるかなとか、それとも女三の宮にするか、でも地味だしなとか、どぎまぎしながらも結局は「ま、それぞれいいところがあるからね」などと、まことにつまらない返事をしたものです。そんなことだから、その後の大失恋に至ったのですが。
みなさんは誰が好みですか。きっといろいろ分かれるでしょうね。ぼくもけっこう変わってきた。完訳を果たした瀬戸内寂聴さんは、若い頃の瀬戸内晴美の頃は、理想的な女性として描かれている紫の上とか貞淑の鏡のような花散里(はなちるさと)より、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)や朧月夜や明石の君、あるいは源氏には愛されなかった女三の宮(おんなさんのみや)などに惹かれたと書いていましたね。なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。
こんなふうに、登場する女性像から『源氏』を語るのはけっこう愉快で、それでいて滋味ある見方にもなりうるのですが、『源氏』の読み方や楽しみ方はそれにはとどまらない。だいたい『源氏』はシャーロッキアンのようにいろいろ読んでいいのです。大きい構造からも読めますが、小さな窓越しにも調度の肩越からも愉しめます。たとえば、『源氏』には「かいま見る」(垣間見)ということがやたらに出てくるんですが、どのくらい「覗き見の場面」があるかをピックアップしてみるのもおもしろい。巻5の「若紫」では、北山に赴いていた源氏が美少女を垣間見て、この少女を連れ帰ることを思い立ちます。「限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれる」と感じたからです。そこで連れ帰ってすばらしい女性に仕立て上げ、自分の奥さんにしようというのです。いわばマイフェアレディです。この美少女こそ、のちの紫の上でした。ですから、この少女との出会いは源氏全篇に流れる「紫のゆかり」の系譜が、桐壺の更衣、藤壷をへて紫の上に及んで、さらに“紫化(むらさきか)”していったということの強調なのですから、この垣間見はたいへん重大なきっかけだったのです。ぼくは垣間見のことを「数寄見」とさえ捉えているほどですね。そのほか「野分」(のわき)では、夕霧(光源氏の長男)が紫の上、玉鬘、明石の中宮を次々に垣間見ますし、「橋姫」での薫が大君(おおいぎみ)を垣間見たことも、その後の宇治十帖の混沌を予告しています。垣間見は物語に「数寄の構造」をつくるんです。
垣間見は男が女を垣間見るとはかぎりません。逆もある。ということは『源氏』は男女リバースの覗き見文学であって、相互侵犯文学であって、つまりは不倫文学のバイブルでもあるということなんです。人妻、ギャル、少女、年増、美人、ブス、熟女、やさ男、イケメン、少年、おやじ、髭男、身分の差、貧富の差を問わず、男女の交情がのべつまくなく描かれます。さすがにパワハラは出てきませんが、ストーキングやセクハラはしょっちゅうです。あからさまなレイプはないけれど、和姦はしょっちゅうです。それでも、そこには『源氏』なりの特徴もありました。
『源氏』以前の代表的な物語に『落窪物語』や『宇津保物語』があります。その『落窪』では寝所に侵入するなり服を脱いで添い寝してくる男君に、「怖くて心細くて、震えながら泣いていた」という場面があって、それは「着ている衣が見苦しいのと、とくに下着が汚れてたので、それが恥ずかしくて、たったいま死にたいほどの気持ちになったので泣いたのだ」という叙述が入ります。『宇津保』には父母のない女君が寺社参詣に来た男君に犯される場面があるんですが、その前に歌の贈答があったり、女のほうも琴(きん)を鳴らして応接したりしている。つまり下着が気になったとか贈答歌があったとか、それなりの応接があったとか、『源氏』以前の物語では説明がつく交情になっているんです。いわば弁解付きのセクハラものが前時代には多かった。ところが『源氏』はこういう前代の物語様式を継承していながらも、男女の交わりをその場の理由で叙述していない。そういう文意の特徴がはっきりしているのです。その場ではあからさまな情交がおこっているのですが、その理由を源氏や男君たちも女君たちも、容易に説明できないように書いてある。そこでは「説明しがたいもの」が暗示されているだけなのです。このへん、どうしてそんなふうに書いてあるのか、その物語技法の深みを見ていくのも、なかなか興味深い読み方です。
もちろん、もっとカジュアルにもっとポップに、もっと現代に引き付けて読む手もあります。田辺聖子が翻案した『新源氏物語』(新潮文庫)や橋本治の『窯変源氏物語』全14巻(中公文庫)、あるいはいまは中断しているようですが、マンガになった江川達也が性的表象を重視した『源氏物語』(集英社)なんかがそういうものですね。そうしたなか、コミックの得意手をふんだんに綾なしてみせたのは、大和和紀の先駆的な『あさきゆめみし』全13巻(講談社)ですかねえ。まだヴィジュアルな史料が乏しかった1979年からの連載だったけれど、たいへんうまく源氏的なるものを扱ってました。さらにフェミニズムの立場から読むとか、ジェンダー的に突っ込んでみるという手もあるでしょう。大塚ひかりという古典エッセイストの『源氏の男はみんなサイテー』(マガジンハウス)とか『ブス論で読む源氏物語』(講談社)などは、そういう思いきってドライな源氏読みです。ついでながら、現代語訳の『源氏』がどのくらい読まれているか、見当がつきますか。晶子訳が172万部、谷崎源氏が83万部、円地源氏が103万部で、田辺聖子訳が250万部、瀬戸内訳が220万部。『あさきゆめみし』はなんと1800万部だそうです。しかし、『源氏』から男と女の関係式ばかり抜き出していては、いささかもったいない。
そもそも『源氏』はその全体が「生と死と再生の物語」として読めるようになっています。これは大切な見方です。それとともに「もののけ」を含めた「もの・かたり」の大きなうねりが脈動しています。「もののけ」は葵の上を呪殺しただけではなく、何度も出没しますからね。王朝期、「つくる」というと「物語を書く」ことをさしました。紫式部はその「もの」の「語り」をどういう作り方にするか、そうとう意欲をもって取り組んだはずです。そこで「本歌取り」ならぬ「物語取り」の手法もいろいろ工夫した。暗示や例示、仮託や暗喩の語りも駆使します。だから『源氏』からは驚くほど多様なナラティビティや趣向や属性を、今日なお読みとることが可能です。式部はそうした「もの」に寄せたフィクションの力を確信していました。巻25の「蛍」には、源氏の養女になった玉鬘(たまかずら)が物語に熱中していたので、源氏が自分がどのように物語について感じているかを述べる有名なくだりが出てきます。そこで源氏は「物語というのは虚構(そらごと)だからすばらしいんだ」という持論を述べてみせるのですが、これは式部が源氏を借りて自分の物語観を吐露しているところです。さらに「日本書紀なんてリアルで瑣末なことばかり書いていて、かなり片寄っている」とも、源氏に言わせています。
日本の言葉の奥行き、すなわち大和言葉や雅語の使い勝手をまさぐるために『源氏』を読むということも、得がたい作業です。これは国学者たちが挑んできた王道のひとつです。たとえば「らうたし」とか「らうたげ」という言葉が夕顔や女三の宮に使われているのですが、これは「うつくし」とも「いとほし」とも違います。「うつくし」は小さいものや幼いものへのいたわりで、「いとほし」は相手への同情を含む気の毒な感覚から生まれた言葉なのですが、「らうたし」は弱いものや劣ったものを庇(かば)ってあげたくなる気持ちをもった「可憐だ、愛らしい」という意味なんです。夕顔や女三の宮をそのように見ることは「らうたし」からも推しはかることができるんですね。このへんのことは国文学の研究書がそれこそとことんやっているので、そういうものを繙(ひもと)くとすぐに見えてくる奥行きですが、こうした「言葉読みの可能性」をわかりやすく、かつおもしろい仮説を提供しているのは、ぼくにとっては、国語学の大野晋さんと作家の丸谷才一さんが対談しながら全巻を巻ごとに紐解いていった『光る源氏の物語』上下(中央公論社)でした。これ、けっこうおすすめです。
それから忘れないうちに加えておきますが、『源氏』が描く衣裳や色彩や、源氏絵と呼ばれてきた絵画を通した源氏体験をするのも、また源氏調度や源氏香などに分け入って源氏理解をするのも、なかなかオツなものです。ぼくはどちらかというと、こちらのほうに子供の頃から親しんできました。源氏色については吉岡幸雄さんがみごとな再生をされました。『源氏物語の色事典』(紫紅社)はたいへんなプレゼンテーションでしたねえ。吉岡さんの色の再現と色彩文化にまつわる造詣にたちまち引き込まれます。以前、ホテルオークラで公開対談をしたときは、すばらしい源氏色の由来を茜や紅で染めた布で説明してくれました。紫式部の色彩表現感覚は、かなり独特なのです。赤だ、緑だ、白だとは書かない。「若菜」には洗い髪の色合を綴った息を呑むような表現がありますね。「(洗った髪が)露ばかりうちふくみ迷ふ筋なくて、いと清らにゆらゆらとして、青み給へるしも色は真青に白く美しげに透きたるやうに見ゆる‥‥」というあたりです。溜息が出ます。
源氏絵をじっくり見るのも「源氏読み」のひとつです。源氏絵はなんといっても国宝の源氏物語絵巻が「鈴虫」「関屋」「夕霧」「柏木」「宿木」(やどりぎ)など19場面をのこしているのが基本の基本ですが(ぼくもこの撮影に何度か立ち会いましたが)、宗達が「関屋」「澪標」(みおつくし)をユニークな一枚絵に描いたように、王朝ルネサンスとしての源氏絵は国宝の絵巻だけでなく、白描(はくびょう)の源氏絵、永徳らの源氏屏風、土佐光吉の「源氏物語画帳」、住吉具慶の源氏絵巻など、いろいろあるんです。これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・コンビナトリアをおこして伝わってくる。いわばバーバラ・スタフォードのイメージング・サイエンスのような見方ができるように描かれているんですね。こうしたヴィジュアル源氏を愉しむには、秋山虔・小町谷照彦の『源氏物語図典』(小学館)、三田村雅子の『源氏物語 物語空間を読む』(ちくま新書)、『源氏物語 感覚の論理』(有精堂出版)、三谷邦明との共著の『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川選書)などが参考になります。
このほか、お能にも『源氏』の各巻を本説(ほんぜつ)とした幾つもの作品があるので、これを通してみるのもさまざまな源氏体験ができます。夕顔をシテとする『夕顔』や『半蔀』(はじとみ)、六条御息所をシテとする『葵上』や『野宮』(ののみや)、彷徨する主人公を謡う『玉鬘』や『浮舟』、光源氏がシテになる『須磨源氏』(光源氏が出てくるのはこれだけですね)、紫式部にアヤをつけた『源氏供養』など、それなりの源氏ものがあります。ただ、ちょっと意外なのは世阿弥が源氏をあまり好まなかったようだということで、これについてはまだ本気の研究がないのではないかと思います。きっと紫式部の時代は田楽の流行の段階で、世阿弥はこれを脱したかったから、あえて『源氏』に入らないようにしたのかもしれません。その逆に、もしも世阿弥が『源氏』を能楽していたらなと思うときもあります。
というふうに、源氏読みや源氏体験にはいろいろのアプローチがあっていいのですが、でも王道中の王道は、やはり「歌」にカーソルを合わせつつ「歌物語としての源氏」を読むということだろうと思います。なにしろ800首近く、795首の和歌が『源氏』に入っているんです。それを式部がすべて登場人物に即して歌い分けました。こんな例はほかにありません。それだけでなく、「引歌」(ひきうた)というんですが、前代の和歌がおびただしく引用されてもいます。藤原俊成が「六百番歌合」の判詞(評判)で「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と言ったように、『源氏』はそれ自体が歌詠みが必ず通るアーカイブだったのです。それゆえ中世から近世にかけて、日本を代表する歌人や連歌師や俳人たちが源氏注釈をしながら、このアーカイブを探索しました。四辻善成の先駆的な評釈『河海抄』を筆頭に、一条兼良の『花鳥余情』(かちょうよせい)、三条西実隆の『細流抄』、北村季吟の『湖月抄』など、ずらりと揃っている。これらを総合的に点検し、巨きな視野で仕上げていったのが賀茂真淵の『源氏物語新釈』であり、それにさらに磨きをかけたのが本居宣長の『玉の小櫛』です。ちなみに『湖月抄』までを源氏ギョーカイでは「旧注」と言いまして、それ以降は「新注」です。
ただし、こういうふうな源氏の歌世界に入っていくには、多少なりとも和歌をたのしめなくてはなりません。和歌を読みくらべたりすることがおもしろくなると、『源氏』はたまりません。それはプロの歌人にとっても同じこと、塚本邦雄の『源氏五十四帖題詠』(ちくま学芸文庫)を一度、手にとってみてください。五十四帖全巻に対して塚本さんが一首ずつを新たに詠み、それを含めて各巻の趣向を解説してしまうという、とんでもなくアクロバティックな遊びでした。ちょっとだけ紹介しますかね。たとえば「桐壺」は「桐に藤いづれむらさきふかければきみに逢ふ日の狩衣は白」を、「夕顔」には「その夏のわざはひの夢わがために一茎ゆふがほぞ裂かれし」を、「玉鬘」が「きのふ初瀬にめぐりあひたるゆかりとて日蔭の花のあはれ移り香」で、「橋姫」が「宇治十帖のはじめは春の水鳥のこゑ橋姫をいざなふごとし」というふうに。七七五七七の字余り塚本節も滲み出しての、塚本邦雄以外の誰にもできそうもないプレゼンテーションでした。
枕の話ばかりしてしまいました。それでは、そろそろ本題に入ることにします。作者のことから入ります。そもそも紫式部とはどういう女性なのか。いったいなぜ『源氏物語』などという長大なものを書いたのか。時代背景は何を見せていたのか。ここからが今夜の源氏彷徨です。
一言でいえば、紫式部は受領(ずりょう)の子です。娘時代の本名は小市(こいち)といいます。小市の家は藤原北家の一門ではあったものの、祖父の代では受領レベル(諸大夫)の身分になっていましたから、栄華を極めていった藤原道長の家系とはほど遠い家柄です。でも4代ほど前の醍醐天皇のころは、それなりに優遇されていたんです。小市の曽祖父、兼輔(かねすけ)の時代です。それがだんだん落ちぶれてきた。落ちぶれたといっても落魄したわけではなく、ずるずると「家の位」が後退したという程度なんですが、ここが『源氏』が書かれた時代背景としてけっこう大事なところです。なぜならこのことは、小市にとって「くちおしき宿世」だったんです。小市は長生きをした祖母から往時の華やかな日々のことを聞いて、いささか悔しい思いをもっていた。なぜ父の世代でそうなってしまったのか、なぜ祖母はその懐古話をしてくれたのか。ここに執筆のモチベーションの一端があるのです。『源氏』の冒頭が「いづれの御時(おんとき)にか、すぐれて時めきたまふありけり」というふうに始まっているのは誰もが知っていることでしょうが、この「いづれの御時」という御時は、実は小市から見ると4代昔の醍醐天皇の御時のこと、曽祖父の御時のことだということなんですね。
もう少し言っておくと、父の藤原為時は漢学者でした。菅原文時を師として漢籍を学び、慶滋保胤(よししげやすたね)や文雅に長じた具平(ともひら)親王らとも親交を結んでいます。花山天皇に大事にされたこともあった。けれども花山帝は藤原兼家の策略で2年たらずで出家退位しましたから、そのあとは長く文章生散位(もんじょうのしょう・さんに)のまま捨ておかれた身分でもありました。おまけに妻を病気で失った。そういうこともあって小市たちは片身の狭い思いがしていたんですね。小市は幼くしてお母さんを喪(なく)していたのです。このロストマザー体験も見逃せません。
こうした家柄の浮沈に関する出来事は、その後の小市の生涯の人生観と、紫式部としての物語作りのスタンスを決めていきます。宮廷社会で生きるとは、そういうものでした。それはまたあとでお話しするとして、さて、ところで、父の為時が不遇の散官時代をへて長徳2年(996)に越前守となると、小市は翌年に結婚します。いくつくらいの時だったと思いますか。10代後半? 20代になってから? そのころとしてはかなり遅い29歳前後です。相手は46歳の藤原宣孝で、山城守という職掌です。この旦那さんは『枕草子』によると、まあまあ明るい茶目っけもある貴族だったようですが、けれども長保3年(1001)、夫は折からの疫病に倒れて死んでしまいます。小市は、同じ年に身罷った東三条女院の詮子の死と思いを重ねて、「雲の上も物思ふ春は墨染に霞むそらさへあはれなるかな」と詠んでいる。わずか数年の結婚生活でした。今度はロストハズバンド体験でした。で、小市はそれから数年後に一条天皇の内裏に宮仕えすることになるのです。中宮の彰子(しょうし)の女房として出仕しなさいという誘いがきたのです。彰子は道長の娘ですね。そしてここから先が「紫式部」となるわけなのですが、小市は当初、この出仕にけっこう迷っています。
女房というのは、宮廷や貴族の館に局(つぼね)をもらって仕える高級女官のことです。天皇に仕える「上の女房」(内裏女房)と後宮の后に仕える「宮の女房」とがありました。小市の場合は一条天皇に入内(じゅだい)した中宮の彰子(しょうし)に仕える女房として声がかかったので、「宮の女房」です。当時はこうした女房が後宮サロンをつくり、それぞれ妍(けん)を競いあっていました。道隆の娘の定子(ていし)のサロンには清少納言が、彰子のサロンには和泉式部が入っています。しかし小市は、どうも出仕の決意が定まらない。「数ならぬ心に身をば任せねど身に随ふは心なりけり」と歌っている。ともかく最初のうちはぐずぐずしていたようで、里に帰ってしまったこともあったようです。それでも、結局は決断する。何かを決意したようです。キャリアウーマンとして、栄華に酔いしれる宮廷社会の実態を見てみようという決意だったかもしれないし、かつての曽祖父の時代の宮廷感覚を取り戻したかったのかもしれません。このあたりのことは、杉本苑子さんに『散華』(上下・中公文庫)という小説があるので、読まれるといい。現代語による会話が少し興ざめしてしまうところがありますが、紫式部の生涯を小説にしたものとしては、小市から式部になっていく心情と境遇に沿って女心のカーソルを動かしているので、そこそこわかりやすいと思います。歴史的なプロフィールについては、今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)、清水好子『紫式部』(岩波新書)などが参考になるでしょう。
紫式部という名称は自分から名のったのではありません。自分でつけたペンネームでもありません。これは「候名」(さぶらいな)あるいは「女房名」というもので、仕事上の呼び名です。候名や女房名には、本人が帰属する家を代表する者の官職名を用います。紫式部の「式部」は父親が式部丞という官職に就いたことに由来します。清少納言は兄弟に「少納言」がいたから、伊勢は父親が伊勢守だったから、相模は夫が相模守だったから、それぞれそう呼ばれました。清少納言の「清」は清原氏の出自であることを示します。だから念のために言っておきますが、セイショー・ナゴンではなくセイ・ショーナゴン。ドンキ・ホーテではなくドン・キホーテであるように。どうしてこんなふうなハンドルネームのようなもの、まさに水商売の源氏名のようなものがついたかというと、宮廷にかかわる女房は実名を伏せるという仕来りになっていたからでした。ですから女房たちは系図にもめったに実名が記されません。
それで「紫式部」という候名ですが、これは通称です。実際には小市の父の姓は藤原なので、おそらくは「藤式部」(とうしきぶ)と呼ばれていたはずです。それが『源氏』が有名になり、ヒロインの紫の上に宮廷の人気が集まったので、また『源氏』の物語の全体が「紫のゆかり」が導きの糸になっていたので、いつしか「紫の式部」になったのではないかというのが、学界の定説です。ま、そのくらい同時代によく読まれていたということでもあるわけです。これは有名なエピソードですが、当代きっての知的ダンディの藤原公任が彰子の皇子出産の祝宴に出ていたときに式部に出会い、「すみません、このあたりに紫の方はいらっしゃいますか」と冗談めかして尋ねたという話がのこっています。ついでながら、角田文衞さんは長年の研究を通して、紫式部の本名が実は「香子」(かおりこ/たかこ/こうし)だったということを調べ上げました。『紫式部伝』(法藏館)という大著になっています。大論争がおこった仮説だったのですが、いまなお賛否両論です。
さて、夫に死なれ、中宮に出仕する誘いがあって、小市がひそかに決断したのが物語を「つくる」ということでした。寛弘5年(1008)の日記(のちに『紫式部日記』となったもの)に、「はかなき物語などにつけてうち語らふ人」になりたいといったことを書いています。こうして、何年何月何日とは確定できないのですが、夫を亡くして6、7年、宮仕えをして3年、小市は『源氏』をほぼ書き了えているんです。ということは、もう少し前から草稿を綴っていたんだと思います。草稿段階でどんな構想ができあがっていたのか、そこはわかりません。おそらく、主人公を大胆にも天皇の第二皇子にしたことが決定的なトリガーになったんではないかと思います。「世になく清らなる玉の男みこ」としての「光の君」ですね。「かかやく日の宮」とも呼ばれた。式部は源融や源高明や藤原伊周(これちか)などを参考モデルにしたようです。まあ、合体ロボのような超イケメンです。この「光の君」の父は桐壺の帝というふうにしました。それこそ曽祖父の時代の醍醐天皇や村上天皇がモデルです。その帝が選んだのが桐壺の更衣です。帝(みかど)の寵愛を独占したために同輩から疎まれ、さまざまな陰湿な「いじめ」にあったという設定にしました。ついで、その帝と更衣のあいだに輝くような「光の君」が授けられたのに、母なる更衣が死んでしまうというイニシャルステージを思いついたことで、あらかたの構想ができたはずです。式部は、漢の武帝と李夫人の秘話や白楽天の『長恨歌』が詠んだ玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋などをヒントに、日本の宮廷社会のあからさまな日々を綴ることにしたんですね。その後、どんなふうに書き進めたのかということもわかっていないのですが、おそらく4〜5年で書き上げたのだろうと思います。すごいですね。没頭したんでしょうね。それにしても、この物語を一気に読めた同時代の王朝貴族、宮廷文化、後宮社会というものの文化水位というのも、驚くべきものだったと思います。
ということで作者像のことはこのへんにして、それではそろそろ『源氏物語』という大河小説のような物語がどんな「しかけ」や「しくみ」になっているのかということを、ざっと見ておこうと思います。
ご存知のように『源氏』は五十四帖でできています。五十四帖になったのは藤原定家の校訂本以来のことで、それ以前には異同がいくつかあったようですが、それはともかく、源氏といえば五十四帖です。そのなかに、たくさんのエピソードやプロットが散りばめられているのですが、それらすべては時の流れに従って話が進行するようになっています。光源氏をはじめとする主人公たちの成長、登場人物の生老病死、季節の変化、節会と行事のめぐり移り、調度の出入りや装束のメッセージ、神社仏閣への参詣、さらには「もののけ」の出没などが織りなされ、それが五十四帖に連続的に及びます。とはいえ、むろんベタには書いてはいない。王朝クロニクルともかぎりません。光源氏が生まれて12歳の元服のときに葵の上と結婚させられるまでが巻1の「桐壺」ですが、次の巻2「帚木」(ははきぎ)では17歳にとぶ。桐壺の帝が亡くなって、朧月夜との密通がバレてしまってピンチにたった源氏の話は巻10の「賢木」(さかき)が描いて、ここに大きなターニングポイントがあらわれるのですけれど、次に源氏が須磨・明石に退却するところも2〜3年とんでいます。
おびただしい登場人物についても、必ずしも追跡描写があるわけではありません。囲碁の布石のようにしっかり伏線は綴られているのだけれど、忘れたころに再記述や後追い記述がされるということもしょっちゅうです。トレーサビリティを微妙にしておくことが、式部の魂胆であり意図だったのです。巻3「空蝉」(うつせみ)で源氏と一夜の契りを交わした空蝉のその後は巻16「関屋」にとびますし、巻6「末摘花」(すえつむはな)の後日譚は巻15「蓬生」(よもぎう)を読むまではわからない。しかし、ときどきとんでいたからといって、『源氏』の物語構造はゆるぎません。プロットはけっこう複雑ではあるけれど、かなりしっかりした構造です。ぼくは長らくレヴィ=ストロースが言うように「構造は関係である」と確信してきたのですが、『源氏』はまさに「物語=構造=関係」になっているんです。
物語には母型(マザータイプ)というものがあります。とくに古典は母型をもっている。母型を支えているのはワールドモデルです。『源氏』のワールドモデルは何なのでしょうか。「都」ではありません。「宿世」(すくせ)です。『源氏』はこの宿世と物語構造を融即させました。かくて『源氏』の物語構造は、結果的に大きく3部構成に分かれることになりました。これは研究者たちが便宜的に区分けしたものですが、こういうふうに見るのはわかりやすいので、ぼくもこれを使わせてもらいます。
第1部は「桐壺」「帚木」「夕顔」から「須磨」「明石」をへて「野分」「玉鬘」「梅枝」、巻33の「藤裏葉」に及ぶという、けっこうな長丁場です。この進行のなかで二つのストリームが交差します。複数の予言的な暗示が幾つか提示され、その予言にもとづいたロングストリームの物語がうねるように進行しているなか、ショートヴァージョンのエピソードがしばしば絡んで、しだいに光源氏の特徴と野望があきらかになっていく。それとともに、その複雑な心情を浮き上がらせるというふうになっているのです。ロングストリームの話の根底に流れるメタモチーフは、母の桐壺の更衣の「面影」です。その面影が先帝の四の宮だった藤壷へ移り、さらにその姪の紫の上に投影されていく。この面影が「うつる」(移・映・写)ということこそ、源氏全体に出入りしている最も重要な特色のひとつです。ところが藤壷との密通によって罪の子が誕生すると、この子が冷泉院となって帝位につくのですが、この面影のストリームは潜在的な王権の可能性のほうに転化していきます。源氏は太政大臣、また准太上天皇(じゅんだじょうてんのう)にまで昇りつめるけれども、それは摂関家の権力でもなく、また天皇の権威でもない別様のものなのです。あくまで源氏独特のものです。そこにあらわれるのが六条院という「雅びの王国」の結構だったわけでした。ショートヴァージョンのほうは、源氏が空蝉、夕顔、末摘花、夕顔の遺児の玉鬘らとどういうふうに交わったかという話の連鎖です。これらの女性はロングストリームの物語には登場しません。けれどもそのぶんたいへん印象深く描かれます。
そういうなか、源氏は葵の上を正妻にします。これは政略結婚のようなものですが、その葵の上は夕霧を産んだあと、六条御息所に排除され、さらにその生霊(いきりょう)に取り憑かれて殺されるという、まるでシェイクスピア並みの悲劇か、ホラー小説に匹敵するような驚くべきの事態を出来(しゅったい)させます。三島由紀夫がこの顛末を現代劇に置きなおしましたね。こうしてさしもの華やかさに彩られた六条院の邸宅も、死霊によって揺さぶられる屋敷と化していきます。六条院は増築を重ねて広大なものになったのですが、その「秋の町」の結構は実は六条御息所の邸宅を吸収したものでした。この土地はそういうゲニウス・ロキ(地霊)をもっていた。上田秋成が『雨月』の「浅芽が宿」に換骨奪胎しています。かくて源氏その人は須磨・明石に移っていく。あとで説明しますが、そうなった表向きの理由は弘徽殿の女御の妹である朧月夜の官能力にあるのですが、ぼくはここは紫式部が源氏に「侘び」を選択させたところだと見ています。須磨・明石のくだりは神話の物語類型から言うと「貴種流離譚」に当たります。
源氏が落ち着いた先は明石の入道の邸宅です。入道が娘の明石の君を縁付けたいと申し出ると、源氏はこれを受け入れ、二人のあいだに生まれた子は今上帝の中宮になって、源氏一族の繁栄のシンボル力のように見えてきます。しかし源氏はまだ「侘び」のなかにいる。ここに浮上してくるのが玉鬘(たまかずら)と夕霧です。玉鬘は頭中将と夕顔のあいだに生まれた子で、源氏が引き取って養女にしていたのですが、たいそう美しく育った。そこでみんなが言い寄るようになっていく。養父の源氏さえ妖しい気分になります。この玉鬘をめぐる話が巻22の「玉鬘」から巻31の「真木柱」まで続いて「玉鬘十帖」とも呼ばれるんですね。一方の夕霧は光源氏と葵の上のあいだに生まれた長男です。雲居雁(くもいのかり)とのあいだに4男3女、藤内侍(とうないしのすけ)とのあいだに2男3女、さらに落葉の君とも結婚するという「まめ人」ですが、のちのち源氏が亡くなったあとは大いに権勢をふるいます。ですから物語の男主人公としては、光源氏から夕霧へとバトンタッチされていくというふうになっているわけです。けれども、そこには静かな逸脱のストリームが流れているんですね。
第2部は巻34「若菜」上から巻41の「幻」までです。源氏はもう40代になっている。ここでは女三の宮が六条院に降嫁してきたことがきっかけになって、それまでの六条院の栄華が目に見えてくずれ、源氏と紫の上のあらまほしい関係が世俗にまみれていくという進行をとります。結局、栄華を手にするようになったのは明石の君の一族です。ここに登場してくるのが柏木ですね。柏木は蹴鞠(けまり)の日に垣間見した女三宮に懸想(けそう)していて、落葉の宮との結婚に満足していない。それでも強引に密通して思いをとげます。こうして生まれてきたのが次の第3部で活躍する薫です。
ここから事態がしだいに複雑になってきて、源氏の心も右に左に乱れていきます。源氏は藤壷との罪の因果応報を感じながら、五十日(いか)の祝いで薫を抱くのですが、そこにはうっすらと苦渋の表情があらわれています。柏木は柏木で、源氏に女三宮との秘め事を知られて自滅するかのように死んでいき、女三宮は出家してしまいます。実直だったはずの夕霧も落葉の君に恋慕するというふうに踏み外す。その豹変ぶりに雲居雁は失望して実家に戻ってしまいます。すべての歯車がちょっとずつ狂ってくるんですね。源氏もだんだん常軌を逸した言動を見せる。とうとう紫の上はすべてを諦観してこの世を去ってしまいます。これでは源氏はどうしょうもない。紫の上を哀悼しながら出家の道を選ぼうとするというふうになって、「幻」の巻で光源氏は消えていく。実際には源氏の死の場面は描かれていないんですが、そのことは第3部の宇治の物語で、源氏は嵯峨の地に出家して亡くなったというふうに回想されることになります。かくて第2部はしだいに仏道の求道感覚が色濃くなって閉じられます。けれども抹香くさくはなりません。かなり式部は工夫したでしょうね。
第3部は「幻」の巻から8年がたって始まります。「匂宮」「紅梅」「竹河」ときて、「橋姫」から「夢浮橋」までがいわゆる宇治十帖です。宇治十帖はぼくが高校時代に惹かれたところで、いまその理由を考えてみると、薫が生まれながらの疑念を抱えていて、その体に仏身をおもわせるような芳香がそなわっていたりするところに惹かれたのかもしれません。薫は源氏の形見の子として扱われますが、実は柏木と女三の宮のあいだに生まれています。薫は何か2つの陰陽のスティグマをもっているのです。もう一人、第3部で鮮烈な印象を放つのが浮舟です。薫がひっそりと宇治に移り住まわせていたところ、匂宮(におうのみや)が薫と偽って宇治に乗りこんで接触すると、それまであえて距離をとっていた薫が浮舟に耽溺します。それでどうなったのか。宇治十帖はこの浮舟の物語になっていきます。
話の流れとしては、源氏は死んでしまっているので、新たな主人公として薫と匂宮が中心になって進みます。舞台はもはや洛中ではなく、洛外の宇治や小野の里といった閑静な「凹んだ場所」です。前半で描かれるのは、源氏亡きあとの人物たちのその後の動向と、柏木の遺児の薫の言動、そして匂宮のふるまいです。とくに薫の「まめ」と匂宮の「すき」が対照的に描写されます。光源氏は「まめ」と「すき」の両方を兼ね備えていたのですが、もはやそういう統合像をもったヒーローはいないんですね。この薫と匂宮にあたかも逆対応するかのようにかかわってくるのが、八の宮とその女君たちです。大君(おおいぎみ)、中の君、浮舟などが登場する。八の宮は『源氏』全巻のなかでも、きわめて特異なキャラクターですね。そもそも薫は八の宮の求道的な姿勢に関心をもって宇治に赴くようになったのですが、そこに匂宮が介入してきます。そういうなかで薫は大君に求婚をする。けれども大君は父親の遺言に縛られて応じられないままに病死します。結局、中の君は匂宮と結婚しました。浮舟はどうかというと、薫と匂宮の板挟みにあって、宇治十帖を象徴するかのように宇治川に入水する。浮舟は紫式部が最後に用意した「面影」です。これまでの女君たちとはまったく違っている。だから、いったい最後の最後になって、なぜ浮舟なのかということですね。物語のほうも、これで最後です。浮舟が横川の僧都(よかわのそうず)に助けられて小野の里に暮らし、やがて出家するというふうに五十四帖は終わっていくのです。なんとも不思議なエンディングです。男の主人公は、光源氏、夕霧、匂宮、薫、そして横川の僧都というふうに変移していったわけでした。
以上がおおざっぱな3部構成の流れです。詳しいことは省いて起承転結の流れだけをスキーミングしたので、これで『源氏』の物語性が編み出せるわけではありませんが、いまはこんな流れだけをかいつまみました。ぼくとしては『源氏』が以上のような「ゆるやかな崩れ」を追っているということを強調しておきたかったのです。たくさんの「小さな芽生え」と、重なりあい離れあっていく「ゆるやかな崩れ」。『源氏』はこの離合の組み合わせで織られているのです。そこにはつねに「別様の可能性」がコンティンジェントに見え隠れして、そのたびに「面影」が濃淡の色合いを変えて出入りするのです。なぜ、そんなふうになるのかといえば、そもそもにおいて「当初の過ち」があったからです。それを式部が「宿世」と捉えたかったからです。このことについては、その他の重大な見方、たとえば天皇の問題、藤原氏の問題、無常の問題、記憶と想起の問題などなどとともに採りあげます。では、この流れを巻立ての順に一つひとつ見ていくと、どうなるか。 
 

 

2
どんな小説にも、どんな偉大な物語にも、調子が上がっていくところと、そうでもないところがあるものです。映画やテレビドラマがそうであるように、文学作品もそういうものです。調子のよしあしは筋書きや内容のつながりというより、だいたい文章の興奮度や透明度や稠密度でわかります。ははん、このへん来てるなという感じがやってくるんですね。『源氏』の場合は、畳みかけるような暗示感と、肝心の出来事や浮沈する心情を一言やワンフレーズで伏せていくところです。だいたい『源氏』は総数40万語で仕上がっている長丈な大河ドラマです。当然、緩んだり高まったりもする。それに40万語のうちの半分の20万語は助詞か助動詞です。だから、ちょっとしたことで調子が変わります。それでも『源氏』全巻のなかで調子が最初に上がっていくのは、巻7「紅葉賀」(もみじのが)から「花宴」(はなのえん)、「葵」へと続くところでしょうね。暗示的文章がみごとに連鎖する。
少し筋立てを言っておきますと、源氏19歳のとき、藤壺がようやく皇子を出産します。のちの冷泉帝ですね。気を揉んでいた桐壺の帝は胸をなでおろす。「紅葉賀」はその皇子の父親が光源氏であるかもしれないことを仄かに暗示して、「花宴」では心地よく酔った源氏が弘徽殿の三の口の細殿に忍びこんで見知らぬ女と交わる夢うつつな夜を描きます。その夢のような官能をもたらしたのは東宮(のちの朱雀帝)と契りを結んでいた朧月夜の君だったのです。はたして桐壺の帝は、わが子のこのような過ちをどう見ているのか。だいたい帝はどこまで知っているのか。そんなことを読者にやきもき感じさせるところなんですが、そこを紫式部は次のような文にして綴ります。「師走も過ぎにしが心もとなきに、この月はさりとも宮人も待ち聞え、内にもさる御心まうけどもあり。つれなくたちぬ」。師走を過ぎても藤壺が皇子をお産みにならないので、女官たちは正月にはと案じて待ちうけ、帝もそのご用意をなさっていたけれど、日はむなしく流れたというんですね。「御物の怪にやと世人も聞え騒ぐを、宮いとわびしう、この事により身のいたづらになりぬべき事とおぼし嘆くに御心地もいとくるしくて悩み給ふ」。こんなに出産が遅れているのは「もののけ」のたたりのせいかなどと人はうるさく噂する。藤壺はたいそう辛いお気持ちで、この遅れのせいで事が露見し、身の破滅となるのではないかと怖れを嘆くので、身も心もひどくお疲れになった様子だったと描写します。
式部は「この事」あるいは「事」とだけ書いてますね。その書き方で、源氏と藤壺の不義がこのあと何をもたらすのか、何がどのように露見するのか読者は気になるところだろうけれど、そこを藤壺の宮の「御心地もいとくるしくて悩み給ふ」とするだけで、何も解説しない。事態の本質的気配というか、その核心におよぶ人々の気分のアフォーダンスのかけらというか、それだけを示すんですね。それで無事に皇子が産まれると、「程よりは大きにおよすけ給ひてやうやう起きかへりなどし給ふ」(発育がよくてよかったが)、「浅ましきまでまぎれどころなき御顔つきを思し寄らぬ事にしあれば、また並びなきどちは、げに通ひ給へるにこそは思ほしけり」(驚くほど源氏の君に似通った顔立ちに、帝はすぐれている者は似通うというけれど、まったくそうだと思われたようだ)というふうに、今度はただその顔立ちの印象だけを残響させるだけなのですね。
ここに出入りするのは文章の上では一瞬の「面影」のイメージの擦過です。あとは連想するしかないことばかり。その連想もたいへんアイロニカルかファンタジックです。そして巻立てはそのまま「きさらぎの二十日(はつか)あまり、南殿の桜の宴させたまふ」に始まる「花宴」(はなのえん)に移り、そこでは今度は源氏が20歳の桜の宴を南殿(紫宸殿)で堂々と舞っている。映画の前シーンで謎を仄めかし、次のシーンではもう源氏の舞にカメラが寄っているんです。まるでその顔立ちに新しい皇子の貌(かんばせ)が宿っているかのように、ですね。そんな感じです。ところが舞いおわり、上達部(かんだちめ)たちと酒を酌みかわし、ほろ酔い気分になった源氏はなにやら動き出す。ほんとうは藤壺のところに行きたかったのに、戸がしまっているので向かいの細殿に入りこんで、「朧月夜に似るものぞなき」とだけ声にした見知らぬ女と一夜をあかします。一ケ月ほどたってこの「朧月夜の君」が右大臣の六の君であることを知るのですが、そんなことはここでは一言一句も綴りません。源氏が詠んだ歌「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」と、その女の歌「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」だけが示される。でも式部は一言、「艶になまめきたり」という一行だけを示す。これで充分なんですよ。
こういう、文章の明暗陰陽の効かしかた「ハイライトちょっと」と「シャドーのグラーデーション90パーセント網伏せ」といった表現術は、まったくもって巧妙です。ひたすら読者の想像力や連想力に訴えるだけの文体に徹している。実は『源氏』には「心内語」(しんないご)と「草子地」(そうしじ)というものが駆使されているんですね。「心内語」は作中人物が心に思う言葉のことなんですが、秋山虔さんが指摘したように、『源氏』の心内語は人の心情心理と、そのような心をもたらした状況との、「双方のけじめをつけない表現」になっているのです。「草子地」はいわゆる地の文にあたる文芸用語ですが、これも『源氏』では作者の詞、登場人物についての詞、状況描写の詞が巧みに交錯しているんです。ということは、『源氏』の文章文体はすこぶる「共示性」に富んでいるということになりますね。そのうえで、式部はそうした心内語と草子地をまぜながら、われわれの想像力や連想力に生じるアフォーダンスに“限り”をつけていくんです。仄めかしの範囲を限定して測っている。そういうことはミステリー作家なら誰だってできることだけれど、それは筋書きやプロットによる仄めかしの限定です。式部はそれを文章の調子だけで測っているというのは、憎いというか、じれったいというか、たいしたもんです。これこそがきっと「雅びのサスペンス」というものなんでしょうね。
こうして「葵」に話が進んだときは、1年以上がたっています。この切り替わりもまことにうまい。そのあいだに桐壺帝は退位して、朱雀帝の治世となっている。「御代替り」(みよがわり)がおこっていたのです。そういう「世」の代わりぐあいだけを語っておいて、ここに登場してくるのが六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。このあと御息所の生霊が葵の上に取り憑くという前代未聞のホラーな出来事がおこるのですが、これまで御息所についてはちょっとしか記述がなかったので、読者はこの女性が何者かはわかっていない。どのように御息所を再登場させるか。そこで式部は「まことや、かの六条の御息所の前坊の姫君、斎宮にゐたまひしかば、大将(源氏のこと)の御心ばへもいとたのもしげなきを、幼き御ありさまのうしろめたさにことづけて下(くだ)りやましなましと、かねてよりおぼしけり」というふうに、いったい源氏と御息所はどんな因縁をもつのかということを、ごく少々摘まんでみせます。どうも御息所は源氏に対する気持ちをがまんして、娘の斎宮と伊勢に下向しようかと迷っていたらしい。そのとき、葵の上がいよいよ懐妊するという、ここまでの物語の筋書きからすると最も正当な予兆があきらかになります。その直後、葵の上が御息所の生霊に苦しめられ、ついに男児(源氏の長男となった夕霧)を出産したにもかかわらず死んでいくというふうに、いまでは誰もが知っている恐るべくも意外な展開が波状的におこるわけですね。
要約すれば概略そういうことなんですが、式部の文章はさらに複相暗示的で、読んでいる者には得体の知れない「もののけ」のような「もの」ばかりが静かに跳梁跋扈しているかのように感じさせています。「大殿(おほいどの)には御もののけいたう起こりて、いみじうわづららひたまふ」「この御生霊(いきすだま)、故父大臣の御霊などいふものありと聞きたまふにつけて、おぼし続くれば、身一つの憂き嘆きよりほかに、人(葵の上)をあしかれなど思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむとおぼし知らるることもあり」といったふうに。こういうふうに「もの」の気配で文章を書くんですが、それだけではありません。式部はここで御息所の滲み出るような教養に源氏がたじたじになっていることを巧みに浮上させるように、文章を綴っている。ぼくはこのへんにも参りました。
こういう場面があります。
「深き秋のあはれまさりゆく風の音」が「身にしみけるかな」と感じられる夜を独り寝ですごした源氏が、翌朝ふと見ると、たちこめる霧の中の咲きかけの菊の枝に、濃い青鈍(あおにび)の付け文が結ばれているんですね。それが御息所の手紙で、「ちょっとご無沙汰してしまったあいだのこと、お察しください」とあって、一首がしたためられていた。「菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文(ふみ)つけて、さし置きて去(い)にけり。今めかしうもとて、見たまへば、御息所の御手なり。聞こえぬほどはおぼしいるらむや。人の世をあはれときくも露けきに おくるる袖を思ひこそやれ」というふうです。そして「今朝の空模様にそそのかされて、つい筆をとりました」と添えてあるんですね。これでは源氏は手も足も出ない。
式部は、このように独特の暗示的文章によって随所で登場人物にまつわる気配を自在に操り、宮中文化のあれこれに思いのたけをぶつけてもいるように思います。それがまた、当時の宮中に対するあてこすりになってはまずいことも手伝って、とんでもなくアンビバレントで優雅な文章と、そこに秘めた歌の雅びの表象力になっていくんですね。まあ、こんなふうに『源氏』を読むにはなるべくその原文に浸るにしくはないのですが、今夜はそうそう原文をいちいち照覧していくわけにもいきません。みなさんはどこかで原文を愉しんでください。
ということで、ここから『源氏物語』第2夜に入りますが、今夜はあらためて全巻の巻名をちゃんと並べ、ざっとどういうふうに巻立てがされているのか、かんたんな説明を割りふりながら一瞥しておこうと思います。これは物語の推移があらかたわかっていないと、『源氏』特有のディテールがなかなか立ち上がってこないだろうと思うからで、また、好きな場面や気になる場面だけをお話しているだけでは、なんだか訳知りなことでおわりかねないなという気になっているからでもあります。そういう訳知りはぼくの意図ではありません。ということは、このあとの話をするにも、やっぱりアウトラインが必要だろうということです。
ごくごく粗雑な簡易ペーパーをつくっておいたので、見てください。それを読みながらときどき話を補っていきます。『源氏』は時の流れに沿って綴られているのですが、前にも言ったようにクロニクルとして成立しているわけではありません。そこで中世このかた、源氏注釈が試みられるたびに物語や登場人物を年代順に並べることが流行してきました。これを源氏ギョーカイでは「年立」(としだて)といいます。このペーパーでも光源氏をはじめとする主な登場人物の「年立」が見えるようにするため、カッコ内に年齢と季節、主要登場人物の途中年齢と没したときの年齢を入れてあります。源氏をめぐる人物たちが、みんなとても若いことがわかると思います。加えて、それぞれの筋立てが何を本歌取りや物語取りをしたか、その巻がどんな問題を扱ったのか、ちょっとしたオムニシエントなメモを入れてあります。
それから、ほんの少しですが、主要な和歌を詠み手とともに掲げておきました。なんといっても『源氏』は歌物語であって、歌の交わしあいが“心境会話”になっているんですから、これは欠かせません。平安王朝期の和歌は一人で詠む独詠歌、二人で送りあう贈答歌、三人以上の唱和歌という3つのスタイルがありますが、『源氏』は圧倒的に贈答歌です。ちょっと例をあげておきますね。
たとえば巻10の「賢木」(さかき)に、さっきの場面と関連してこんな場面があります。源氏が久々に嵯峨の野宮(ののみや)に六条御息所をたずねたとき、二人は互いになんとも名状しがたい気持ちをもっていたんですね。御息所は源氏を振り切って娘の斎宮とともに伊勢に下向しようと思っている。源氏のほうは御息所の生霊が「もののけ」となって自分の正妻である葵の上に取り憑いた事件からというもの、自分たちがかかえこんでいる妄執の深さをかみしめています。とはいえ、二人は互いの未練を捨てきれない。そこで源氏が簀子(すのこ)に上がりこみます。御簾(みす)を隔てた庇(ひさし)の間(ま)には御息所が対座しています。源氏はきまりわるそうに榊の枝を少し手にとって御簾の下から差し入れて「榊の色のように昔ながらの代わらぬ心でいたいのに、こんなにも情けないあしらいをするんですか」などと未練がましいことを言う。そうすると、御息所が「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れるさかきぞ」と詠むんですね。この神垣には目印の杉もないのに、どこをどう間違われて榊を折って私のところに来られたのですかという歌です。そこで源氏が「少女子(おとめご)があたりと思へば榊葉(さかきば)の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」と返す。だって神にお仕えする乙女のいるあたりだと思って榊の葉の香りが懐かしいので折って来たのですという返歌です。『源氏』にはこういうやりとりがしょっちゅう挟まっています。いや、挟まっているというより、こういう応答によってメインの“心境会話”が進んでいくと言ったほうがいいでしょう。『源氏』はそういうものなんです。
では、もうひとつ。巻14の「澪標」(みをつくし)の、都に戻った源氏が願解(がんほどき)のために住吉神社に詣でると、そこで明石の君も恒例の住吉詣でをしていて二人が鉢合わせをするという場面。明石の君は気後れをしているんですね。そこで源氏が「みをつくし恋ふるしるしここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」と詠むと、やっと明石の君はこれに応じる余裕がちょっと出てくる。それで「数ならでなには(難波)のこともかひなきになどみをつくし思ひそめしか」と答える。源氏の一首は、身を尽くして恋い慕う甲斐があって、澪標のあるこの難波までやってきたら巡り会えましたね、あなたのと縁は深いんですよと詠んでいる。澪標と「身を尽くし」を掛けています。明石の君は「自分なんて人の数に入らないような身で、特別の甲斐なんて何もないのに、どうしてあなたのことを思うようになってしまったのでしょう」と返歌します。いろいろ掛詞(かけことば)や縁語が櫛されていてわかりにくいかもしれませんが、二人の心境や感情が十分に伝わってきます。贈答歌というのはこういう感じなんです。独特のコミュニケーションですね。メールやツイッターでもこんなふうにするといいんじゃないかと思うほど、暗示的な言葉の技量のかぎりが尽くされて、相互編集状態をつくりあげています。『源氏』はこんなふうに歌による文脈的編集力を見ながら読めるようにもなっています。だから、やっぱり和歌は欠かせない。ただし、以下のペーパーに掲げたのは代表的な和歌と気になる和歌だけです。あしからず。
というところで、それでは以下に『源氏物語』五十四帖をざざっと案内してみます。ペーパーに書いていないところは適当にカバーします。少し長くなりますが、どうもこれをしておかないと突っ込んだ話ができないんですね。突っ込んだ話は第3夜でやってみます。
第1部
1.「桐壺」きりつぼ (源氏誕生〜12歳元服。桐壺更衣没。藤壺入内16歳、葵の上16歳)
「いづれの御時にか」(おそらく醍醐天皇期)、桐壺の帝は弘徽殿の女御とのあいだに第一皇子として朱雀帝をもうけ、桐壺の更衣とのあいだに第二皇子としての光をもうける。更衣は女御たちからいじめられ、帝(みかど)が庇えばかばうほど憎まれる。その日々に耐えられず3歳の光の君をのこして病没する。その後、幼児の光の君に「源氏」姓が与えられ、帝には美しい藤壺が入内する。源氏は母の面影が似ている藤壺を慕い、宮中で源氏は「光る君」「かかやく日の宮」と呼ばれるほど人気を集める。12歳の元服のとき、左大臣家の葵の上と結ばれる。桐壺の悲嘆の描写は白楽天の『長恨歌』などを投影させている。
○ 桐壺更衣「かぎりとて別るる道の悲しきに いか(生く・行く)まほしきは命なりけり」
○ 桐壺帝「雲のうへも涙にくるる秋の月 いかですむ(澄む・住む)らむ浅茅生(あさぢふ)の宿」
○ 桐壺帝「いときなきはつもとゆひ(初めての元結)に長き世を契る心は結びこめつや」
○ 左大臣「結びつる心も深きもとゆひに 濃きむらさきの色しあせずは」
あまりにも有名な冒頭なのでとくに説明することもないと思いますが、ここにこれからの物語のすべてがイニシャライズされているということから言うと、いくら説明しても足りないところです。ともかくも桐壺の帝も光源氏も藤壺に桐壺の更衣の面影を求めたのです。この面影が『源氏』全巻につながっていくアーキタイプの面影です。桐壺の更衣の歌はイミシンですね。帝(みかど)に偏愛されてむりに正妃になるのですが、その日々はそうとう辛いものだったということが、この物語冒頭近くに掲げられている更衣の歌から察せられます。「いかまほしき」は「行く」「生く」「逝く」の掛詞。これが『源氏物語』の本文で最初に出てくる歌です。更衣は物語が始まってすぐに病気になります。そこで更衣の母が病気を治すために「里下り」(実家に戻る)させようとするのですが、帝は重篤になるまで手放さない。母が泣く泣く訴えてやっと実家に戻ったら、更衣はその夜のうちに死んでしまいます。なんとも苛烈な物語のスタートです。この更衣のモデルは、おそらく花山天皇に寵愛されながら早くに亡くなった姫子(藤原朝光の娘)や、やはり花山天皇に迎えられながら懐妊とともに周囲の憎しみをかって25歳そこそこで亡くなった祇子、あるいは一条天皇に迎えられながら出家した定子(藤原道隆の娘)などにあったのではないかと思います。
2.「帚木」ははきぎ (源氏17歳)
五月雨の夜、元服は頭中将(とうのちゅうじょう)・左馬頭(さまのかみ)らと世の女の品定めに興じる。結論として「中流の女」(中品の女)が評価されると、翌日、源氏はさっそく伊与介の後妻の空蝉と交わる。今後の源氏の行動パターンが予告される一帖。有名な「雨夜の品定め」は『法華経』、空海『三教指帰』などを踏襲している。
○ 光源氏「帚木の心を知らで園原(そのはら)の 道にあやなくまどひぬるかな」
○ 空蝉「数ならぬふせ屋(伏屋)に生ふる名のう(憂)さに あるにもあらず消ゆる帚木」
3.「空蝉」うつせみ (源氏17歳夏)
源氏は空蝉の弟の小君(こぎみ)をつてに執拗に空蝉との再度の交情を求めるが、空蝉は寝所に忍びこんできた源氏に薄衣(うすぎぬ)の小袿(こうちき)を残してたくみに逃れてしまう。源氏はその場に寝ていた軒端荻(のきばのおぎ)と交わる。こんな空蝉の「引かないやりかた」から、これはきっと紫式部自身をモデルにしているのではないかという説が出ている。
○ 光源氏「うつせみの身をかへてける木(こ)のもとに なほ人がら(人殻・人柄)のなつかしきかな」
○ 空蝉「うつせみの羽(は)におく露の木隠れて 忍び忍びに濡るる袖かな」
早くも源氏の「隠ろへごと」が綴られます。こっそり女性たちを口説くんですね。ただ空蝉(うつせみ)は目上の男との恋の戯れについて心得ている。誇りもある。源氏の甘い誘いに身も心もとろけそうになりながらも、辛うじて小袿一枚を残して生絹(すずし)の単(ひとえ)で逃げだしました。源氏は仕方なくというか、無謀にもというか、残っていた軒端荻(のきばのおぎ)と寝てしまうんですが、読んでいると、むしろ「はかない逢瀬」という情感が香りたってきます。それにしても貴族の情事というもの、かなりあやしいものです。そこで、当時の王朝社会のルールについて一言。そもそも、当時の結婚は男が女の住んでいる所に通うという「通い婚」です。その仕方は、女の家にときどき行く、女の家に住みつく、女が男の家で暮す、の3つがあります。このことから女の身分や家格や親族の勢力が重要になってくるんですね。女の実家が権力をもっていれば、男はそこへ行っていき婿(むこ)になり、その家の力を後ろ盾にして出世していけます。それほどアテにならなければ、男は女を自分の屋敷に引き取るんです。で、どうしたら結ばれるかというと、男のほうは人の噂や垣間見(かいまみ)でめらめら恋情を燃やし、なんらかの「やりとり」(手紙や部下のさぐりなど)で「脈」があるとなると、三日続けて通うんですね。これをしなければいけません。で、その三日間が成立したら二人で「三日夜(みっかよ)の餅」を食べ、女の邸で親族とともに「露頭」(ところあらわし)をすると、これで結婚なんです。でも、あとは夫が通ってくるのを待つだけ。来なければ「夜離」(よがれ)です。
4.「夕顔」ゆふがほ (源氏17歳夏から冬へ。夕顔没19歳)
五条の一隅で夕顔の咲く家に好奇心をもった源氏は、その家の女君の夕顔に気持ちを寄せ、二人は互いに身元をあかさぬまま魔性のような激しい恋情にのめりこむ。しかし夕顔は「もののけ」に取り憑かれて急死。源氏も病いに臥せる。のちに夕顔が頭中将の愛人だったことを知る。三輪山伝承、唐代の伝奇小説『任人伝』などが投影される。
○ 夕顔「心あてにそれかとぞ見る白露の 光(光・光の君)そへたる夕顔の花」
○ 光源氏「寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔」
○ 夕顔「前の世の契り知らるる身の憂さに ゆくすゑかねて頼みがたさよ」
○ 光源氏「夕露に紐とく花は玉鉾(たまぼこ)の たよりに見えしえにこそありけれ」
○ 夕顔「光ありと見し夕顔の上露(うわつゆ)は たそかれどきのそら目なりけり」
この「帚木」「空蝉」「夕顔」の3帖はあきらかにつながっています。式部が執筆にあたって最初に仕上げたエピソディックなプロトタイプと言っていいでしょうね。これで語り部としての自信がついたんだと思います。それとともに、桐壺の更衣と藤壺という「面影」の系譜をスタートさせた女性に対して、空蝉と夕顔を登場させて源氏の浮気心に免罪符を与えたんですね。おかげで源氏はこれ以降、やたらに「色好み」を発揮する。もうひとつ、とくに「夕顔」がそうなっているんですが、歌の贈答によって話を進行させるという方法が、この3帖でみごとに確立し、読者を「歌の雅び」にめくるめく導いていくといふうになっていきます。そういう3帖です。まさに宣長のいう「あやの詞(ことば)」の徹底です。
5.「若紫」わかむらさき (源氏18歳、藤壺23歳、紫の上10歳、明石の君9歳)
源氏が静養のために北山を訪れたとき、垣間見た美少女は藤壺によく似ていた。聞けば藤壺の姪である。源氏はこの少女を引き取って理想的女性に育て上げたいと思う。その一方、源氏はついに藤壺に迫り、夢のような逢瀬をとげてしまう。こうして藤壺は不義の子をもうけ、この子がやがて冷泉帝になるのだが、そこはこの段階では明かされない。二人はひそかに罪の深さにおののく。北山の少女のほうは源氏の自邸に引き取られる。彼女こそのちの紫の上だった。
○ 光源氏「見てもまた逢ふ夜(合う世)まれなる夢のうちに やがてまぎるるわが身ともがな」
○ 藤壺「世語りに人や伝へむたぐひなく 憂き身をさめぬ夢になしても」
○ 光源氏「手に摘みていつしかも見む紫(藤壺のこと)の 根にかよひける野辺の若草(少女・のちの紫の上のこと)」
源氏がのちの紫の上、当時10歳の少女を発見するという話。これで桐壺の更衣、藤壺、紫の上という「面影の系譜」がいよいよ始動するのですが、しかし源氏の思いはこのレールの上にあるとはかぎらない。つねにつねに揺動するんですね。フラクチエートする。それを「いろごのみ」と言うのですが、その意味にはなかなか深いものがあります。これについては、前夜にも少し触れましたが、次夜でもうちょっと踏み込みます。
6.「末摘花」すゑつむはな (源氏18歳春〜19歳春)
貧しく、鼻の先が赤い末摘花と一夜を共にしてしまった源氏は、なぜか実生活上の援助がしたくなる。末摘花は紅花(べにばな)のこと、鼻が長くて赤かったことにちなむ。大山津見(オオヤマツミ)神の妹が美しいコノハナサクヤヒメであったのに、姉のイワナガヒメが醜女だったエピソードを思わせる。
○ 光源氏「夕霧のはるるけしきもまだ見ぬに いぶせ(鬱悒)さそふる宵の雨かな」
○ 末摘花「晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ 同じ心にながめ(長雨)せずとも」
○ 光源氏「なつかしき色ともなしに何にこの すゑつむ花(鼻)を袖に触れけむ」
○ 光源氏「紅(くれなゐ)の花ぞあやなくうとまるる 梅の立ち枝(え)はなつかしけれど」
末摘花のエピソードは「王朝のブス」の話としてかなり有名ですが、どうして顔も見ないで寝遊びができるのか、そこが不思議ですよね。むろん理由があります。宮廷社会では、まず女性は外出することがめったにない。外出するときは牛車に乗って簾(すだれ)を下ろしてしまうから中を覗くことができませんし、家の中でも男と話すときは御簾(みす)か衝立(ついたて)を通します。つまり、ほとんど「手さぐり」なんです。なかなかアイデンティファイできない。だからこそ視覚よりも触知感覚や匂いや香りが「手がかり」になるんですが、それゆえ、ちらりと顔が「垣間見」できたりすると、それだけでたいへんな衝撃になるわけです。
7.「紅葉賀」もみぢのが (源氏18歳初冬〜19歳秋。藤壺24歳、葵の上23歳)
紅葉の美しい頃、桐壺帝の遊宴が開かれている。源氏は御前で頭中将とともに「青海波」(せいがいは)を舞って絶賛される。翌年2月、藤壺は帝の第十皇子を産む。源氏そっくりの皇子であったが、実は源氏との不義の子だった。藤壺はこのことを隠すために出産時期については嘘をつく。それでも源氏は懲りずに源典侍(げんのないしのすけ)という老女官と戯れの交渉に耽る。
○ 光源氏「よそへつつ見るに心はなぐさまで 露けさまさるなでしこの花」
○ 藤壺「袖濡るる露のゆかりと思ふにも なほ疎(うと)まれぬやまとなでしこ」
8.「花宴」はなのえん (源氏20歳春、桐壺帝譲位・朱雀帝即位25歳。藤壺25歳)
宮中の南殿(なんでん=紫宸殿)で桜の宴が催され、源氏はまたまたその舞を絶賛される。その深夜、右大臣家の姫君である朧月夜(おぼろづきよ 実は六の君)と出会って濡れる。彼女は東宮(のちの朱雀帝)への入内が予定されていたが、源氏に心を奪われる。藤原俊成は全巻を通じて最も優麗な巻だと評した。
○ 光源氏「深き夜のあはれを知るも入(い)る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
○ 朧月夜「うき身世にやがて消へなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ」
朧月夜との戯れは、のちに発覚して源氏の位置を危ぶませるものとなるのですが、その話は例によってまだ伏せられたままです。朧月夜の君は弘徽殿の女御の妹でもありましたからね。それよりも、ここではこの巻をもって桐壺帝の治世下の源氏の青春期が閉幕したことを告げていることが重要です。そのため源氏研究の泰斗の一人である藤岡作太郎は「桐壺」から「花宴」までを第1期のストーリー群というふうに括りました。
9.「葵」あふひ (源氏22〜23歳。六条御息所29歳、葵の上没26歳。紫の上14歳)
桐壺の帝が譲位して朱雀帝が即位した。六条御息所が葵祭の見学に出掛けようとしたところ、葵の上の一行に難癖をつけられ牛車まで蹴散らされた。有名な「車争い」の場面だが、このあと屈辱にがまんできない御息所は呪いの生霊(いきすだま)となって葵の上にとりつき、夕霧(源氏の長男)出産直後の葵の上を死に致らしめる。葵の上の喪があけると、源氏は紫の上と新枕を交わす。
○ 六条御息所「袖濡るるこひぢ(泥・恋路)とかつは知りながらおりたつ田子(たご)のみづからぞ憂き」
○ 葵の上「嘆きわび空に乱るるわが魂(たま)を 結びとどめよしたがひのつま(褄)」
○ 六条御息所「人の世をあはれときくも露けきに おくるる袖を思ひこそやれ」
○ 光源氏「とまる身も消えしもおなじ露の世に 心置くらむほどぞはかなき」
葵の上と六条御息所との「車争い」から、御息所の生霊が葵の上に取り憑いて、葵の上が亡くなってしまうというたいへん有名なところです。しかもここで源氏の長男の夕霧が生まれるわけなので、この巻は『源氏』全体の最初の折り返しになります。ここで物語の屏風がゆっくり折れていくんですね。でも、うっかり「もののけ」(物の怪)をたんなるオカルト扱いしていると、見当違いになります。そもそも「もののけ」の「け」は病気や元気や習気(じっけ)などの「気」と同じ意味で、「もの」(霊)そのものの気配的属性です。ですからこの「け」が何かに取り憑くには生霊や怨霊がいったん「よりまし」(憑坐)を媒介にして、人に憑くんですね。「もののけ」はそういうツールメディアを使うんです。そんな「よりまし」は童子の姿をしていることも多い。葵の上の病気も験者がいろいろ祈祷したり調伏したりして、幾つかの「よりまし」を除去するのですが、一つだけぴたりと取り憑いたしつこいメディアがあって、この「もの」のせいで葵の上は亡くなってしまいます。このとき御息所も「もののけ」の動静に応じた夢を見る。そのあいだ葵の上は苦しみ、その途中で夕霧を出産する。なんとも凄い話です。しかし、もっと重要なことは、王朝文学においては「もののけ」が物語をまるでハッカーのように外側から支配しているということです。そう、ぼくは思っています。
10.「賢木」さかき (源氏23秋〜25歳夏、桐壺院崩御)
六条御息所母娘の伊勢下向が近づき、源氏は嵯峨野の秋に交流するも、御息所の決心は鈍らない。桐壺院が崩御。朧月夜は源氏との仲が知られて正式な入内ができず、尚侍(ないしのかみ)として朱雀帝に近侍する。この事態に弘徽殿の大后(おおきさき)ら右大臣の一派の専横が目立ってくる。それでも源氏は藤壺・朧月夜・朝顔らと危うい懸想(けそう)をくりかえす。藤壺はさすがにこのままでは東宮の位置を守ることは叶わぬとみて、自身は出家するのがいいだろうと落飾してしまう。ある雷雨の早朝、朧月夜のもとに忍んでいた源氏が見つけられた。激怒する右大臣と弘徽殿の大后はいよいよ源氏を失脚させようと、策謀をめぐらした。
○ 六条御息所「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊(さかき)ぞ」
○ 光源氏「少女子(をとめこ)があたりと思へば榊葉の 香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」
○ 光源氏「八州(やしま)もる国つ御神(みかみ)も心あらば 飽かぬわかれの仲(源氏と御息所)をことわれ」
○ 斎宮「国つ神そらにことわる仲ならば なほざりごとをまづやたださむ」
この「賢木」という一帖は、これだけで一篇の文芸作品になるくらい出来がいいですね。ここで朧月夜に惹かれる読者も多い。たしか丸谷才一さんがそうだった。流れの推移としては桐壺の帝が亡くなり、朱雀(すざく)帝の代になります。ここから源氏はいったん追い込まれるんですね。追い込んだのは右大臣一派で、物語の冒頭で桐壺の帝が更衣を選んだときすでに源氏系と対立していました。物語の中では名前は示されずにただ「右大臣」とあるだけですが、その娘が弘徽殿の女御です。弘徽殿の女御が一の宮を産み、その一の宮がいま朱雀帝として即位したので、右大臣の一族が外戚として権力を握ったわけです。だから源氏はこのあと須磨・明石に退却する。物語がゆっくり波乱含みになっていくところです。一方、この巻は紫式部の天つ神・国つ神をめぐる神祇観が出ているところとしても注目されます。「賢木」は榊のことです。
11.「花散里」はなちるさと (源氏25歳夏)
五月雨の晴れ間に、源氏は亡き桐壺帝の女御の一人だった麗景殿(れいけいでん)を訪れた。同じ庭内に住む妹の花散里は源氏の愛人でもあったが、この巻では源氏は姉妹とともに桐壺帝の懐かしい往時を偲んで語らう。
○ 光源氏「をちかへり(昔に戻る)えぞ忍ばれぬ郭公(ほととぎす) ほのかたらひし宿の垣根に」
○ 光源氏「橘の香をなつかしみ郭公 花散里をたづねてぞとふ」
きっとわかりにくいでしょうから、女御とか女房について、ちょっと説明しておきますと、女御というのは公卿(くぎょう)の娘で、それ以下の娘が更衣です。帝の第一のお后になるのが中宮ですが、これは女御の中から選ばれる。ですから桐壺の更衣が桐壺帝にいかに寵愛されようとも、決して中宮にはなれません。で、これら女御と更衣たちすべてが帝の夫人として後宮(こうきゅう)に入ります。一夫超多妻です。この後宮の一人ひとりの女御や更衣に女官として採用されているのが、女房なんですね。夕顔の右近、藤壺の女御の王命婦(おうみょうぶ)、若紫の少納言、みんな女房です。『源氏』はこの女房たちが見聞したことを語りなおしているという“女房見聞記”の形式なんです。だから敬語がやたらに多く、現代人のわれわれを悩ませるんですね。
12.「須磨」すま (源氏26春〜27歳夏。紫の上18歳、明石の君17歳)
このまま都にいたのでは身が危ういと感じた源氏は、ついに須磨への退出を試みる。須磨では閑居するしかなく、源氏は都の女君たちや伊勢に赴いた御息所などと文通して心を癒す。都のほうでも源氏を偲ぶ。翌3月3日、海辺で開運のための禊(みそぎ)をしていると、にわかに風雨が荒れて源氏は奇妙な夢を見る。この巻では源氏の風流韻事に耽る様子を通して、在原行平・在原業平・菅原道真・源高明、中国古代の周公旦らの事跡が明滅する。
○ 光源氏「身はかくてさすらへぬとも君があたり 去らぬ鏡の影は離れじ」
○ 紫の上「別れても影だにとまるものならば 鏡を見てもなぐさめてまし」
○ 花散里「月かげのやどれる袖はせばくとも とめても見ばやあかぬ光(光・光の君)を」
○ 朧月夜の君「涙河うかぶ水泡(みなわ)も消えぬべし 流れてのちの瀬をも待たずて」
○ 藤壺「見しはなくあるは悲しき世の果てを そむきしかひもなくなく(無く・泣く)ぞ経(ふ)る」
○ 光源氏「八百よろづ神もあはれと思ふらむ 犯せる罪のそれとなければ」
さあ、須磨ですね。須磨は在原行平に「津の国のすまといふ所にこもり侍ける」とあって、「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶとこたへよ」と歌われているところです。式部は「心すごき場所」というふうに書いていますね。源氏はその須磨に行くにあたって、紫の上を置いていきます。18歳になっていた紫の上は寂しがる。そこで源氏が「身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡のかけは離れじ」と歌に詠む。私の身はこうして遠くへさすらうことになったけれど、おまえのそばの鏡があれば私はここから離れてはいないんだよ、という歌ですね。これに返して紫の上は「別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし」と詠む。その鏡にあなたの姿がずっと留まっているなら、それを見て心を慰めることもできるでしょうけれど、という文句です。ここに「〜ならば〜まし」という言い方がありますが、これは「反実仮想」の用法というもので、ありえないことを仮定するときのレトリックです。紫の上は源氏の歌はありえないことを言っていると詠んだわけです。このへん、紫式部はいつも女性の観察認知力をさまざまな歌語のなかに組み入れていますね。
13.「明石」あかし (源氏27〜28歳秋。紫の上20歳。明石の入道60歳前後)
源氏が見た夢には亡き桐壺帝が現れ、早くこの地を去れと言っていた。それにあたかも呼応するかのように、長らく住吉神に願をかけてきた明石の入道の一行がやってきて、自分も「源氏を迎えよ」という住吉の夢告を受けたと言う。そこで明石に移った源氏はその地で入道の娘の明石の君と結ばれる。一方、都では凶事が続き、朱雀帝は眼病を患い、気弱になっている。そこで帝は弘徽殿の大后の反対を押し切って源氏の都への召還を決定した。源氏は懐妊した明石の君に琴(きん)をのこして帰洛する。身分不相応に心を痛める明石の君の「身のほど」の思想が語られる。
○ 光源氏「海にます神の助けにかからずは 潮の八百会(やほあひ)にさすらへなまし」
○ 光源氏「あはと見る淡路の島のあはれさへ 残るくまなく澄める夜(よ)の月」
○ 明石の入道「ひとり寝は君も知りぬやつれづれと 思ひあかし(明石)の浦さびしさよ」
○ 光源氏「都出でし春の嘆きに劣らめや 年経る浦(明石の浦)を別れぬる秋」
○ 光源氏「このたびは立ち別るとも藻塩(もしほ)焼く 煙は同じかたになびかむ」
○ 明石の君「かきつめて海士(あま)のたく藻の思ひにも 今はかひ(貝)なくうらみ(浦見)だにせじ」
○ 光源氏「うち捨てて立つも悲しき浦波の なごりいかにと思ひやるかな」
○ 明石の君「年経つる苫屋(とまや)も荒れて憂き(浮き)波の帰るかたにや身をたぐへまし」
「須磨・明石」は全巻のなかでも最も壮大な景色が見えてくるところです。のちのち多くの芸能にも採り入れられました。ぼくも明石の住吉神社に行ってみて、そこが海に面して海境(うなさか)を越えて海神の力が寄りくるところだという実感をもったことがあります。光源氏が「住吉の神、近き境を鎮(しず)め護(まも)りたまふ。まことに迹(あと)を垂れたまふ神ならばたすけたまえ」と祈った感じがよく伝わってきた。この巻には神さまが出入りしているんですね。実際、源氏が救われたのは、夢にあらわれた桐壺の帝の「住吉の神の導きたまふままに、はや舟出してこの浦を去りぬ」という夢告によるものだったわけですからね。だから「須磨・明石」は、都から離れた自然の風景を描きたくて式部の筆がすべったからではなくて、亡き桐壺の帝と住吉の神の威力がはたらいたからだとというふうになっているということが、この続き2巻の眼目なんです。その威力の行く先で明石の入道が都落ちの源氏を迎える。そういう構図です。では、なぜ源氏は流謫(るたく)の身になったのか。そこに藤原政権が糸を引く宮廷をめぐる権力争いが降ってきたからです。このへんのことはあとでも突っ込みます。一方において、「須磨・明石」には源氏が「侘び」に向かい、都の姫君たちとの歌のやりとりが一途に列挙されるという、かけがえのない歌物語になっています。気品と美貌をそなえた明石の君のとびぬけた詠歌の技法もたまりません。
14.「澪標」みをつくし (源氏29歳。朱雀帝退位32歳、冷泉帝即位11歳。六条御息所没35歳)
朱雀帝が「朧月夜に対する気持ちは源氏にはかなわない」という恋の恨み言を言う一方、源氏の召還を決めた。そのあと朱雀は退位して、東宮が冷泉帝として即位した。久々に都に帰った源氏も内大臣に昇進、わが子が帝になったので藤壺も異例の女院となった。一方、権中納言になっていた頭中将の娘は冷泉帝の後宮に入内して新たな弘徽殿の女御として、権力競争の一翼を担うことになる。明石の君は女児を出産。六条御息所はついに死去。
○ 明石の君「ひとりして撫づるは袖のほどなきに おほふ(覆ふ)ばかりの蔭をしぞ待つ」
○ 明石の君「数ならでなには(難波・何は)のこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
○ 惟光「住吉の松(待つ)こそものは悲しけれ 神代(かみよ)のことをかけて思へば」
15.「蓬生」よもぎふ (源氏28〜29歳。藤壺34歳)
末摘花の後日譚。源氏が荒廃した邸を通りかかり、自分を一途に待ちつづけていた末摘花のこころざしを感じ、行く末長く庇護しようと思う。彼女は十分な暮らしができなかったのである。宮家の姫君としてある程度の暮らしを維持することの困難が綴られる。このへん式部の筆はけっこうリアルになっている。
○ 末摘花「絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら 思ひのほかにかけ離れぬる」
○ 末摘花「亡き人を恋ふる袂(たもと)のひまなきに 荒れたる軒のしづくさへ添ふ」
16.「関屋」せきや (源氏29歳秋)
空蝉の後日譚。かつて一夜を交えた空蝉は夫の赴任地にいたが、それが終わって上京する。その途次の逢坂の関で石山参詣の源氏の一行と行き合わせた。源氏の詠む歌に感慨にふける。空蝉はその後、夫に死なれ、出家して尼となるのだが、のちに源氏に庇護されて二条東院に住むようになる。
○ 空蝉「行くと来(く)とせき(関)とめがたき涙をや 絶えぬ清水(しみづ)と人は見るらむ」
○ 空蝉「逢坂の関やいかなる関なれば しげきなげきの中を分くらむ」
巻14「澪標」からは都に帰った源氏の動向になるのですが、「蓬生」と「関屋」は末摘花と夕顔のその後の動向の話に耽ります。なんだか源氏に余裕が出てきているような運びですが、宮廷社会での見かけは実際にもそうなっていくんですね。さきほど、空蝉は紫式部自身がモデルになっているのではないかと言いましたが、「関屋」はその空蝉のその後が語られます。東国に下り、その後、夫に先立たれたので都に戻ってくる途中に石山詣で源氏の一行に出会うという「もののあはれ」を感じさせるシーンが描かれますね。「しげきなげきの中を分くらむ」がなんともいえない表現です。
17.「絵合」えあはせ (源氏31歳。斎宮女御所=秋好中宮22歳)
六条御息所の遺児の斎宮は冷泉院の後宮に入内、弘徽殿の女御と帝の寵愛を二分する。冷泉帝は絵を好んだので、二人の女御のもとに名品が集まり、二人は物語合せや絵合せで競う。絵合わせは斎宮側の勝利となり、そんなことが宮廷では有効で、源氏方の権勢も優位になっていく。実は平安期の史料では絵合せは見当らない。紫式部の考案だろう(つまり光源氏のアイデアだったというふうにした)。
○ 朱雀院「別れ路に添へし小櫛(おぐし)をかことにて はるけき仲と神やいさめし」
○ 斎宮女御「しめ(標)のうちは昔にあらぬここちして 神代のことも今ぞ恋しき」
18.「松風」まつかぜ (源氏31歳秋冬。明石の君22歳、明石の姫君3歳)
二条院東院が落成、西の対(たい)に花散里が入る。東の対に入る予定だった明石の君の母娘は嵯峨の大堰川(おおいがわ)のほとりの別荘に移り住む。源氏は紫の上に気兼ねしつつも明石の君を月に二度訪れる。大堰の山荘には結局、明石家三代の女性たちが住んで源氏を通わせたことになる。「反藤原」の呼吸が聞こえてくる。
○ 光源氏「契りしにかはらぬ琴の調べにて 絶えぬ心のほどは知りきや」
○ 明石の君「かはらじと契りしこと(琴・言)を頼みにて 松の響きに音(ね)を添へしかな」
19.「薄雲」うすぐも (源氏31歳冬〜32歳秋。藤壺没37歳)
明石の君を将来の后にと願う源氏は紫の上の養女として引き取り、二条院に移る。源氏32歳の年は天変地異が多く、そのなかで藤壺が37歳の生涯を終える。源氏が深い悲嘆にくれるとき、藤壺の加持僧が冷泉帝に「帝は実は源氏の子なのです」と告げ、帝ははげしく動揺する。このあと話は春秋優劣論になる。紫の上が春を好むのに対して斎宮が秋を好むことを知った源氏は、四季の花鳥風月を満喫できる豪壮な邸宅を造営したいと思う。これがのちの六条院となる。
○ 明石の君「いさりせしかげ忘られぬ篝火(かがりび)は 身の浮舟(憂き舟)やしたひ来にけむ」
○ 光源氏「浅からぬしたの思ひを知らねばや なほ篝火のかげは騒げる」
桐壺の更衣の面影を淡々と曳航してきた藤壺が亡くなります。源氏にとっては二人目の母の喪失です。死の床で藤壺は「高き宿世(すくせ)、世の栄えも並ぶ人なく、心の中(うち)に飽かず思ふことも人にまさりける身」というふうに、自身をふりかえる。「すぐれた果報に恵まれ、この世での栄華も並ぶ人のないものでしたけれど、それとともに胸ひとつに秘めた嘆きも際限のないものでした」というんですね。藤壺の死は源氏が抱いてきた「永遠の母性」のようなものがぷつりと切れることでもあったわけですが、ところが源氏はその母なる藤壺と密通をしたことで冷泉帝という不義の子をつくってしまってもいたわけですから、また、その子が帝になっていくのですから、その切断感と苦悩は帝の悲しみや苦悩に転化するとともに、源氏自身を苛(さいな)むものとなります。さあ、それで源氏はどうするかというと、ひとつには紫の上に注がれるはずなんですが、ところが性懲りもなく過去の女性遍歴にしばし酔っているようなんですね。ま、どこかの芸能人のようなもんです。その女性遍歴の回顧が次の「朝顔」で語られます。
20.「朝顔」あさがほ (源氏32歳秋から冬へ)
源氏は桃園式部卿宮(ももそのしきぶきょうのみや)の娘の朝顔に繰り返し懸想する。紫の上はこれに嫉妬するが、朝顔は心を開こうとしていなかった。12月の雪映えが美しい庭先を見ながら、源氏は紫の上に過往の女君たちのことをやや自慢げに語り、紫の上こそ藤壺の面影を継いでいるとまことしやかに話す。しかしその夜、源氏が夢うつつの状態でいるとき、藤壺の幻影があらわれた。気配を察した紫の上が声をかけると源氏は泣きじゃくり、紫の上はじっと体をかたくする。冬の月下の雪景色の描写が絶妙。
○ 光源氏「人知れず神のゆるしを待ちしまに ここらつれなき世を過ぐすかな」
○ 光源氏「なき人を慕ふ心にまかせても かげ見ぬみつの瀬にやまどはむ」
○ 朝顔「なべて世のあはればかりをとふからに 誓ひしことと神やいさめむ」
○ 朝顔「秋果てて霧の籬(まがき)にむすぼほれ あるかなきかにうつる朝顔」
21.「少女」をとめ (源氏33春〜35歳冬。太政大臣に就任。夕霧元服。雲居雁14歳。紫の上27歳)
源氏長男の夕霧が元服し、大学教育を受け、寮試に及第する。源氏はついに太政大臣となり、斎宮の女御も中宮(秋好中宮)となる。絶頂である。巻名の「少女」(おとめ)とは、権中納言(もとの頭中将)の次女の雲居雁(くもいのかり)の東宮入内の期待がなかなか叶わず、しかも雁が夕霧と相思相愛らしいことを知って、権中納言がむりやり雁を自邸につれ去ってしまったため、少年夕霧と少女雁が引き裂かれたことに由来する。源氏の方は最高の栄誉を得て、いよいよ完成した六条院に、春の町には紫の上が、秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が、夏の町には花散里が、冬の町には明石の君が住まうという、このうえない四季を牛耳る権勢を誇る。
○ 夕霧「あめ(天)にますとよをかびめ(豊受姫)の宮人も わが心ざすしめ(標)を忘るな」
○ 夕霧「ひかげにもしるかりけめやをとめ子が 天の羽袖(はそで)にかけし心は」
○ 光源氏「をとめ子も神さびぬらし天(あま)つ袖 ふる(古・振)き世の友よはひ経ぬれば」
元服した夕霧の周辺と、かねて造営中だった六条院が完成したことが主に語られる一巻です。源氏は太政大臣になり、なんだか自信をつけていった感じがします。とくに四季を配した区画をつくりあげた六条院の威容は鼻高々で、自慢したくてしょうがないんです。そもそも源氏はどんなところに住んでいたんでしょうね。むろん公務は内裏(だいり)でするのですが、光源氏は賜姓源氏として臣下に下ったのですから、内裏での描写は物語の初めのほうに限られています。あとはどうなっているかというと、もっぱら二条院に居た。ここは桐壺の更衣の実家(里第)です。紫の上を強引に連れてきたのも、ここですね。その後、須磨・明石から戻ってからここを拡張して二条東院を造営すると、ここに住みます。ほかに「絵合」「松風」には嵯峨の御堂があったこと、「松風」「薄雲」には桂の院もあったとなっていますから、かなり贅沢です。で、そのうえに六条院を大造営したんです。
22.「玉鬘」たまかづら (源氏35歳。秋好中宮26歳、明石の君26歳)
急死した夕顔の遺児に玉鬘がいた。彼女は4歳のときに乳母一家に伴われて筑紫に下っていたのだが、ようやく土地の豪族の求愛などから逃れて上京していた。けれども頼るものもなく、初瀬の長谷寺に参詣したおりに、亡き夕顔の女房で今は源氏に仕える右近とめぐり会った。右近がこの話を源氏にすると、源氏はよろこんで玉鬘を六条院に迎え、夏の町に住まわせる。正月、源氏は晴れ着を女君たちに配った。この「玉鬘」から「真木柱」までを「玉鬘十帖」とグルーピングすることがある。
○ 玉鬘「数ならぬ三稜(みくり)や何の筋なれば うき(浮・憂・泥)にしもかく根をとどめけむ」
○ 光源氏「恋ひわたる身はそれなれど玉かづら いかなる筋を尋ね来つらむ」
23.「初音」はつね (源氏36歳正月。紫の上28歳、玉鬘22歳)
源氏は紫の上と正月を祝い、六条院の庭内を満足げにめぐり、明石の君、花散里、玉鬘らの女君たちを次々に訪れ、さらに二条東院の空蝉や末摘花などもたずねる。四季の町を巡訪する源氏は、まるで古代の王さながらの「国見」(くにみ)をしているかのようである。
○ 光源氏「うす氷とけぬる池の鏡には 世にたぐひなきかげぞならべる」
○ 紫の上「くもりなき池の鏡によろづ代(よ)を すむ(澄・住)べきかげぞしるく見えける」
さあ、この巻23から巻29の「行幸」(みゆき)までは、四季の風物行事が次々に描かれる色彩鮮やかな王朝絵巻です。鶯の初鳴きの「初音」に始まって、3月の「胡蝶」、5月の「蛍」、6月の「常夏」(これは撫子の別名ですが)、そして7月の「篝火」(かがりび)、8月の台風の季節の「野分」というふうに、巻名が旧暦の移り変わりをあらわすんですね。ちなみにこれを花鳥風月の「うつろひ」で追うと、若菜、霞、梅(梅が枝)、桜(花)、葵、橘、時鳥(ほととぎす)、蛍、野分、朝顔・夕顔、松虫・鈴虫、女郎花(おみなえし)、萩、雁、紅葉(紅葉賀)、桐、雪といったふうになりますかね。
24.「胡蝶」こてふ (源氏36歳晩春〜初夏。秋好中宮26歳)
晩春3月、源氏は六条院春の町で船楽(ふながく)を催し、翌日は秋好中宮の季の御詠経(みどきょう)の仏事。紫の上と中宮は春秋くらべの贈答歌を詠み交わす。『源氏』にはこうした王朝文化の独特の催事がくりかえし描写される。のちの源氏文化の飛沫になっていくところ。
○ 紫の上「花園の胡蝶をさへや下草に 秋まつむし(松虫・待つ)はうとく見るらむ」
○ 光源氏「橘のかをりし袖によそふれば かはれる身とも思ほえぬかな」
○ 玉鬘「袖の香をよそふるからに橘の み(身・実)さへはかなくなりもこそすれ」
25.「螢」ほたる (源氏36歳5月。玉鬘22歳)
しばらく前から玉鬘のところには多くの懸想文(けそうぶみ)が寄せられている。人気の的なのだ。けれどもあろうことか源氏も養女の玉鬘に懸想する。煩わしく思う玉鬘に、源氏は蛍兵部卿がやってきた夜、玉鬘の身のまわりに蛍を放つという趣向を演出して歓心を買おうとする。長雨の頃、玉鬘たちが世の物語に熱中している。ここで源氏は「物語の本質は虚構(フィクション)であることにある。そのほうがずっといい」(ひたぶるにそらごとと言ひはてむ)と説く。「日本紀などはただ片ぞそばぞかし」(日本書記などはほんの片端にすぎない)とも言う。蛍火の薄明かりで女性の備忘が際立つ話は『伊勢』や『宇津保物語』にもある。物語虚構論は紫式部の思想の表明。
○ 玉鬘「声はせで身をのみこがす螢こそ 言ふよりまさる思ひなるらめ」
○ 玉鬘「あらはれていとど浅くも見ゆるかな あやめもわかず泣かれけるね(根・音)の」
26.「常夏」とこなつ (源氏36歳6月)
暑い夏の日、源氏は釣殿で涼をとりながら夕霧や内大臣の子息たちを相手に話しているところへ内大臣の公達たちが来る。源氏は内大臣には注文があるので、近江の君などを悪しざまに皮肉る。源氏一党と内大臣一党との対立が深まっていく一節。一方、源氏は玉鬘に和琴(わごん)を教えながら胸をときめかせる。巻名の「常夏」は撫子(なでしこ)の別名。
○ 光源氏「撫子(なでしこ)のとこなつかしき色を見ば もとの垣根を人や尋ねむ」
○ 玉鬘「山がつの垣ほに生(お)ひし撫子の もとの根ざしをたれか尋ねむ」
27.「篝火」かがりび (源氏36歳7月)
夕月夜に琴を枕に玉鬘に添い臥す源氏。もやもやした気分だが、それ以上には手は出さない。その気分、庭の篝火の煙のようなのである。柏木は玉鬘と源氏のそうした関係をまだ知らない。夕月夜にこちらは笛を吹くばかり。
○ 光源氏「篝火にたちそふ恋の煙こそ 世には絶えせぬ炎なりけれ」
○ 玉鬘「行方なき空に消ちてよ篝火の たよりにたぐふ煙とならば」
28.「野分」のわき (源氏36歳8月。夕霧15歳。柏木20歳)
仲秋8月、激しい野分が襲来した。その見舞いに六条院春の町を訪れた夕霧は、はからずも紫の上を垣間(かいま)見て、霞の間に咲く樺桜のような美しさに魂を抜かれる。その一方、玉鬘に戯れかかる父の源氏を垣間見て驚く。夕霧は秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)、明石の君、玉鬘、花散里を見舞う源氏のお供もしている。15歳の夕霧が男と女の姿態を通して宮廷文化の官能に少しずつ気づいていくわけだ。
○ 玉鬘「吹き乱る風のけしきに女郎花(おみなえし) しをれしぬべきここちこそすれ」
○ 光源氏「した露になびかましかば女郎花 荒きかぜにはしをれざらまし」
○ 夕霧「風騒ぎむら雲まがふ夕(ゆふべ)にも 忘るる間なく忘られぬ君」
ここはなかなか読みごたえのある一巻ですね。われわれは夕霧の目によって源氏をとりかこむ女君たちの姿態や様態のバイアスにつきあわされるのですが、紫式部はこの手法で新たな人的景観と客観性を『源氏』に与えているんです。夕霧はハイティーンの15歳。もう十分に性に目覚めています。六条院を激しい野分が襲ったあと風雨見舞いに人が動く。そこで夕霧は廂(ひさし)の御座所にいる紫の上を見るんですね。心臓がとまるほどに美しい。いささか几帳面な性格の夕霧は、そのままどきどきしながら、それぞれに綺麗なお姉さんを見くらべていくと、父親の源氏の戯れている姿を見て違和感をおぼえるんですね。ここはぼくも父に連れられて祇園・先斗町に行った中学時代のことを思い出したところです。
29.「行幸」みゆき (源氏36歳12月〜37歳2月。玉鬘23歳)
冷泉帝が大原野に行幸し、源氏のはからいで玉鬘も同行した。玉鬘を帝の尚侍(ないしのかみ)として出仕(入内)させたい源氏は、玉鬘の父である内大臣を腰結(こしゆい)として裳着(もぎ)の儀をしようと計画していた。裳着は女子が成人になったことを記念したしるしである。内大臣(以前の頭中将)はいったんこの申し出を断ってきたが、二人は対面をはたして対立を切り抜け、玉鬘の儀式がとりおこなわれた。
○ 冷泉帝「雪深き小塩(をしお)の山にたつ雉(きじ)の 古きあとをも今日は尋ねよ」
○ 光源氏「あかねさす光は空にくもらぬを などてみゆき(深雪・行幸)に目をきらしけむ」
○ 内大臣「うらめしや沖つ玉藻をかづくまで 磯がくれける海士(あま)の心よ」
30.「藤袴」ふぢばかま (源氏37歳春〜秋。柏木22歳)
玉鬘の公開の裳着の儀によって、夕霧は自分と玉鬘が兄妹ではないことを知る。柏木(内大臣の長男)も玉鬘が実の妹だったことを知って戸惑う。玉鬘の出仕は10月と決まり、それまで求婚してきた男たちはそれぞれに苛立ち、思いおもいの歌を寄せてきた。
○ 鬚黒「数ならばいとひもせまし長月に 命をかくるほどぞはかなき」
○ 兵部卿「朝日さす光を見ても玉笹の 葉分けの霜を消たずもあらなむ」
○ 左兵衛督「忘れなむと思ふもものの悲しきを いかさまにしていかさまにせむ」
31.「真木柱」まきばしら (源氏37歳冬〜38歳冬。真木柱12歳。鬚黒32歳)
意外なことに鬚黒(ひげぐろ)が玉鬘をわがものにした。耐えかねた北の方は実家に引き取られると「もののけ」に病み憑かれ、火取りの灰を髭黒に浴びせる。北の方のそのときの歌「心さへ空にみだれし雪もよにひとり冴えつるかたしきの袖」。北の方の父の式部卿(もとの兵部卿)は娘を自邸に引き戻そうする。髭黒の娘の真木柱は父親と別れがたく、その心情を歌に詠み柱の割れ目に差しこんでおいた。ホラー少女マンガとして十分な傑作に変相できそうな一巻。シンデレラなどに通じる世界共通の「継子いじめ」の母型がいかされている。以上、「玉鬘」からここまでが「玉鬘十帖」。
○ 冷泉帝「などてかくはひあひ(灰合)がたき紫を 心に深く思ひそめ(初・染)けむ」
○ 玉鬘「いかならむ色とも知らぬ紫(三位の紫色)を 心してこそ人は染めけれ」
○ 近江の君「おきつ舟よるべ波路にただよはば 棹さし寄らむ泊り教へよ」
○ 夕霧「よるべなみ(波・並)風の騒がす舟人も 思はぬかたに磯づたひせず」
ここまでが玉鬘をめぐる十帖です。ちょっとまとめてふりかえると、玉鬘はそもそも夕顔の娘ですね。夕顔はかつては頭中将の隠し妻だったのですが、中将の北の方の脅しが気になって身をひいて、娘の玉鬘と所在をくらましていた。そのとき五条の夕顔花咲く宿で源氏に見いだされた。けれども「もののけ」で命を落としたというところまでが「夕顔」の巻の話です。その後、玉鬘は行方がわからない母の死を知ることなく、4歳から筑紫の国に下っているんですね。やっと20歳をすぎて乳母に連れられて都に戻ります。その、鄙(ひな)に育ったとは思えないほどとんでもなく美しい姿が源氏のお付きの右近に見つかり、源氏に引き取られてあの壮麗な六条院に住むようになりますと、周囲の男君たちがものにしたくて色めきたつんですね。どんなふうに玉鬘をめぐった男たちが色めきたったかというのが「玉鬘十帖」なんです。ただ、紫式部はここに少し仕掛けをしておいた。源氏が玉鬘の素性をあかさず自分の娘として育てたということ、今は内大臣になっている頭中将が父親であることを源氏のほかは誰も知らなかったこと、それが裳着の儀式のときにあきらかになっていったこと、こういう仕掛けをしておいたのです。ぼくはこういう仕掛けは式部の「当人主義」だと思います。当人だけが知っていることを暗示して、やたらに作家の記述がそこに踏みこまないようにしています。
32.「梅枝」むめがえ (源氏39歳春。紫の上31歳、夕霧18歳)
明石の姫君の入内が迫ってきた。源氏はその準備に余念がなく、「薫物(たきもの)合せ」などで遊ぶ。名筆の草子類なども数多く収集される。夕霧と雲居雁(くもいのかり)とが少し火花を散らす。
○ 前斎院「花の香は散りにし枝にとまらねど うつらむ袖に浅くしまめや」
○ 光源氏「花の枝(え)にいとど心をしむるかな 人のとがめむ香をばつつめど」
○ 夕霧「つれなさは憂き世の常になりゆくを 忘れぬ人や人にことなる」
○ 雲居雁「限りとて忘れがたきを忘るるも こや世になびく心なるらむ」
この薫物合せはかなりのものです。六条院のみんなに伝来の名香を配って調合を頼んでいるんです。源氏も紫の上とあえて居場所を離して腕をふるっている。兵部卿が招かれて判定の段となるんですが、それぞれが好みを尽くしていて香の素材を判じかねるほどだと書いてあります。宴では内大臣の子の弁の少将が催馬楽(さいばら)を舞って興を添えます。そのタイトルが「梅が枝」なんですね。まだあります。2月半ばがすぎると、今度は名筆の草子を集めて、いろいろその書きっぷりを競い論じたりしています。まさに王朝絵巻のおいしいところです。
33.「藤裏葉」ふぢのうらば (源氏39歳春秋。源氏、准太上天皇になる。明石の君30歳)
内大臣は夕霧と雲居雁との結婚を許可した。4月には明石の姫君が入内した。紫の上は心のうちを察して明石の君を姫君の後見役に推す。10月、源氏は異例の准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)の位についた。かくて源氏は摂関家にない権威と帝にはない権力を合わせもった絶対者として君臨することになる。
○ 光源氏「色まさる籬(まがき)の菊もをりをりに 袖うちかけし秋を恋ふらし」
○ 太政大臣「紫の雲にまがへる菊の花 濁りなき世の星かとぞ見る」
○ 夕霧「なれこそは岩もる(守・漏)あるじ見し人の ゆくへは知るや宿の真清水(ましみず)」
○ 雲居雁「なき人のかげだに見えずつれなくて 心をやれるいさらゐの水」
ここまでが第1部ですね。源氏はついに准太上天皇の位に昇りつめるのですが、それは天皇でもなく、またもはや誰の臣下でもない位です。准太上天皇というのは、譲位後の前天皇に準じる位なんです。けれども、その先はない。ふりかえれば、源氏は近衛中将→参議→右大将→大納言→内大臣→太政大臣というふうに公卿として次々に官位を昇ってきたのですが、ここで行きどまりなんですね。ここに「桐壺」で暗示されていた桐壺帝の「逸れ」が最高位にまで達したことが告げられているんです。
第2部
34.「若菜上」わかなのじょう (源氏39歳〜41歳。紫の上32歳、女三の宮14歳。夕霧19歳)
病いがちの朱雀帝はすぐにでも出家したいのだが、女三の宮の将来が心配なので、源氏に降嫁させようとする。源氏は彼女が藤壺の姪でもあるので承諾するが、このことで紫の上は心を痛める。源氏は紫の上と女三の宮との板挟みを感じて朧月夜と忍び逢う。明くる3月、明石の女御が東宮の皇子を出産、明石の入道もこの慶事をよろこぶ。
○ 秋好中宮「さしながら(すっかり・挿しながら)昔を今に伝ふれば 玉の小櫛(をぐし)ぞ神さびにける」
○ 朱雀院「さしつぎに見るものにもが万世(よろづよ)を 黄楊(つげ・告)の小櫛の神さぶるまで」
○ 紫の上「目に近くうつればかはる世の中を 行く末遠く頼みけるかな」
○ 光源氏「命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき 世の常ならぬなかの契りを」
○ 女三の宮「はかなくてうはの空にぞ消えぬべき 風にただよふ春のあは雪」
○ 女三の宮「背(そむ)く世のうしろめたくはさりがたき ほだしをしひてかけな離れそ」
第1部では源氏につながる女君たちが、源氏とそれぞれに、いわば放射状にトップダウン型で広がっていたのですが、第2部では女君たち間のつながりが浮上してきます。横にネットワーク連鎖していくんですね。それは当初こそ六条院に同居する男女の内部栄華をあらわすわけですが、やがては源氏の主語性が少しずつ薄れていくということでもあるわけです。秋好中宮の「さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける」はいいですねえ。宣長につながります。
35.「若菜下」わかなのげ (源氏41歳〜47歳。冷泉帝退位28歳。今上帝即位20歳)
冷泉帝が退位して、今上帝の御代になった。柏木の女三の宮に対する恋情がますます募っているなか、4年の歳月が流れた。源氏は紫の上・女三の宮・明石の君らをともない盛大な住吉詣をする。源氏47歳の早春、六条院で女楽(おんながく)を催す。紫の上は和琴(わごん)、女三の宮は琴(きん)、明石の君は琵琶、明石の女御は箏(そう)。その後、紫の上が病いに臥せる。「もののけ」に憑かれたらしい。病状は悪化するばかりなので加持調伏したところ、そこにあらわれたのは六条御息所の憑坐(よりまし)だった。一方で、柏木がついに女三の宮と思いをとげる。源氏は柏木の恋文を発見して、真相を知る。
○ 柏木「恋ひわぶる人(女三の宮のこと)のかたみ(片身・形見)と手ならせば なれよ何とて鳴く音(ね)なるらむ」
○ 光源氏「たれかまた心を知りて住吉の 神代を経たる松にこと問ふ」
○ 紫の上「住の江の松に夜ぶかく置く霜は 神のかけたる木綿鬘(ゆふかづら)かも」
○ 女三の宮「明けぐれの空に憂き身は消えななむ 夢なりけりと見てもやむべく」
○ 柏木「くやしくぞつみ(摘・罪)をかしける葵草 神のゆるせるかざしならぬに」
この巻は大きな流れの推移をまとめていますね。でも、その推移は源氏・女君・柏木がそれぞれに「宿世」を深く実感していくステージだったのです。前にも言っておいたように『源氏』のワールドモデルは「宿世」です。紫の上に御息所の霊が取り憑いたことはその象徴ですね。「宿世」イコール「もののけ」なんですよ。一方、源氏は自分の人生が栄耀栄華においても抜きん出ていたけれど、苦悩憂愁においても人に抜きん出ていたことを思い知ります。なんとも身に滲みることですね。そういう源氏はもう47歳になっていました。ところで、冒頭にあげた柏木の「恋ひわぶる人」の歌は、「何とて鳴く音」とありますが、これは猫のことです。東宮がたいへんな猫好きで、たくさん猫を飼っているんです。そこで柏木はこの東宮のために、女三の宮の猫をなんとか手に入れようとするというエピソードです。猫が「ねうねう」と「いとらうたげ」に鳴くのが、とてもかわいい。
36.「柏木」かしはぎ (源氏48歳春秋。薫誕生。朱雀院51歳。柏木没33歳、女三の宮22歳)
女三の宮が男児を出産。柏木との不義の子で、のちの薫である。源氏は暗然とし、女三の宮は出家してしまう。柏木も親友の夕霧に妻の落葉の宮の後事を頼んで、かき消えるように死ぬ。源氏は薫の五十日(いか)の祝いでわが子ならざるわが子を抱き、「あやにくな定め」を思う。夕霧は落葉の宮を見舞ううちに恋心をもつ。
○ 柏木「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ 絶えぬ思ひ(思う火)のなほや残らむ」
○ 少将の君「柏木に葉守(はもり)の神はまさずとも 人ならすべき宿の梢か」
このへんから何もかもが少しずつ複雑になっていきます。もはや主人公ではない源氏は48歳。あれほど女三の宮を愛していた柏木が亡くなり、女三の宮は薫を出産します。のちの新しい主人公です。しかしここには「逸れ」とともに「歪み」が生じていました。女三の宮の出家と柏木の死は、それぞれその「歪み」を覚悟していたことだったんだと思います。
37.「横笛」よこぶえ (源氏49歳春秋。薫2歳、夕霧28歳)
柏木の一周忌。秋、夕霧は落葉の宮母娘と語らい名曲「想夫恋」(そうぶれん)を琵琶で弾く。その折、夕霧は柏木遺愛の横笛を譲られるのだが、後日、夢に柏木があらわれ「横笛を伝えたい人は他にある」と言う。横笛は源氏に預けられた。
○ 夕霧「こと(琴・言)に出でて言はぬも言ふにまさるとは 人に恥ぢたるけしきをぞ見る」
○ 落葉の宮「深き夜のあはればかりは聞きわけど こと(琴・言)よりほかにえやは言ひける」
38.「鈴虫」すずむし (源氏50歳夏秋。紫の上42歳、秋好中宮41歳。夕霧29歳)
尼君となった女三の宮の持仏開眼供養。源氏は女三の宮の前庭を秋の風情に造作し、鈴虫・松虫などを放つ。源氏は冷泉院を訪れ詩歌管弦に興じるも、秋好中宮から亡き母(御息所)がいまなお成仏できずにいると聞かされ、愛憐執着のおそろしさを思う。
○ 光源氏「心もて草のやどりをいとへども なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」
○ 冷泉院「雲の上をかれ離れたるすみかにも もの忘れせぬ秋の夜の月」
○ 光源氏「はちす葉をおなじ台(うてな)と契りおきて 露のわかるるけふぞ悲しき」
人のあさましさやこの世の宿命が徘徊していくなか、物語はだんだん「救済とは何か」というほうに舵を切っていきます。それを象徴しているのが、登場人物たちの出家がふえていっているということでしょうね。「賢木」で藤壺が出家し、仏道にいる明石の入道が登場し、「澪標」で六条御息所が出家するあたりまではともかく、第2部になると、まず朱雀院が出家する。実は空蝉も出家して尼になっていました。紫の上も出家したいと訴えますが、これは源氏が承知しない。でも朧月夜の君は出家して源氏を悲しませ、そこへ女三の宮が薫を残して出家するわけです。このあと落葉の宮も剃髪したいと言いだしますからね。そして最後に源氏その人が巻40「御法」(みのり)で出家を決意するわけです。「無常の風」が吹きまくるばかりです。
39.「夕霧」ゆふぎり (源氏50歳秋冬。夕霧29歳。雲居雁31歳)
落葉の宮にのめりこむ夕霧。その行動に懸念する母(一条御息所)は消息(手紙)を送るのだが、嫉妬する北の方の雲居雁に奪われる。夕霧からの返事がこないことに悲嘆した一条御息所は死去。それでも夕霧は強引に婚儀をはこび、雲居雁はたまりかねて実家に戻る。
○ 落葉の宮「われのみや憂き世を知れるためしにて 濡れそふ袖の名をくたすべき」
○ 夕霧「おほかたはわれ濡衣を着せずとも 朽ちにし袖の名やは隠るる」
○ 夕霧「たましひをつれなき袖にとどめおきて わが心からまどはるるかな」
○ 夕霧「せくからに浅さぞ見えむ山川の 流れての名をつつみ(包・堤)はてずは」
○ 雲居雁「あはれをもいかに知りてかなぐさめむ あるや恋しき亡きや悲しき」
40.「御法」みのり (源氏51歳春秋。紫の上没43歳。匂宮5歳)
紫の上発願の法華経千部の供養が二条院でおこなわれる。死期の近いことを感じる紫の上は明石の君や花散里らと歌を詠みかわし、それとなく別れを告げ、まもなく死去。荼毘にふされる前の紫の上が美しい。茫然自失の源氏は、この悲しみに耐えた後に出家しようとひそかに決める。
○ 紫の上「惜しからぬこの身(実・菓)ながらもかぎりとて 薪(たきぎ)尽きなむことの悲しさ」
○ 明石の君「薪こる思ひはけふをはじめにて この世に願ふ法(のり)ぞはるけき」
○ 紫の上「絶えぬべき御法(みのり・身のり)ながらぞ頼まるる 世々にとむせぶ中の契りを」
○ 光源氏「ややもせば消えをあらそふ露の世に 後(おく)れ先だつほど経ずもかな」
○ 光源氏「のぼりにし雲居ながらもかへり見よ われあき(倦・秋)はてぬ常ならぬ世に」
41.「幻」まぼろし (源氏52歳で死去。薫5歳、匂宮6歳)
新年を迎えても源氏の悲傷はいっこうに癒されない。深まる春に紫の上への追慕が募るばかり。自身を回顧してみれば栄え映えしくもあったが、憂いにも満ちていた。季節が夏・秋・冬と移ろい、風物は少しずつ変わっていくものの、源氏の心は変われず、歳末に紫の上と交わした消息などを焼いた。
○ 光源氏「なくなくも帰りにしかな仮(雁)の世は いづこもつひの常世(とこよ・床の世)ならぬに」
○ 光源氏「おほかたは思ひ捨ててし世なれども 葵はなほやつみ(罪・摘)をかすべき」
○ 光源氏「大空をかよふ幻(まぼろし)夢にだに 見えこぬ魂(たま)の行方たづねよ」
○ 光源氏「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 年もわが世もけふや尽きぬる」
いよいよ源氏の最期です。「幻」にはその死の場面は描かれないのですが、のちの巻で源氏が嵯峨の地に出家して、仏道に入ってそのまま崩じたということが回想されるので、この第2部のおわりが光源氏の生涯の最期であったことがわかります。けっこうあっけない源氏のクロージングです。なぜこんな終わり方にしたのか。ぼくは式部が光源氏に倦きていたんじゃないかと思いますね。だって終盤、ほとんどターミナルケアしてませんからね。なお「幻」と次の「匂宮」とのあいだに、かつて「雲隠」(くもがくれ)という巻があったのではないかという議論があり、後世の写本や目録にそのタイトルが見えているのですが、いまではのちの付会だろうとして、否定されています。
第3部
42.「匂宮」におふのみや (薫14歳〜19歳。匂宮15歳)
源氏の死後、その跡を継ぐべき人物がいなかった王朝社会だが、なかで匂宮と薫が世間の声望を受けていた。薫には生まれながらに仏のような体香が放たれていた。冷泉院の寵愛を受け14歳で中将に19歳で三位中将に昇ったのに、自身の出生への疑念から出家に憧れている。そうした薫に匂宮は何かにつけて対抗心を抱き、麝香・伽羅などの名香を集めて薫物(たきもの)に熱中したりする。世間では誰もが二人を婿に望んだ。けれども薫には結婚の意思がない。
○ 薫「おぼつかな誰に問はましいかにして はじめも果ても知らぬわが身ぞ」
43.「紅梅」こうばい (薫24歳。玉鬘48歳。紅梅大納言54歳)
亡き太政大臣家の後日譚。柏木の死後、弟の按察(あぜち)大納言がその家系を保ち、真木柱(まきばしら)と再婚して大夫の君をもうけた。真木柱には蛍宮とのあいだにもうけた姫君(宮の御方)もいた。大納言は繊細な中の君(玉鬘との娘)を匂宮と添わせたいと願うのだが、匂宮は宮の御方に執心する。
○ 按察大納言「心ありて風の匂はす園の梅に まづうぐひすの訪はず(問はず)やあるべき」
○ 匂宮「花の香にさそはれぬべき身なりせば 風のたよりを過ぐさましやは」
○ 匂宮「花の香をにほはす宿にとめゆかば 色にめづとや人の咎めむ」
44.「竹河」たけかは (薫14歳〜19歳)
髭黒亡きあとの後日譚。玉鬘は3男2女を育ててきたが、いまは姫君たちが帝からも冷泉院からも蔵人少将からも所望されている。しかし玉鬘(尚侍の君)は源氏の形見というべき薫にこそ嫁がせたいと思ううち、正月下旬に薫の弾く和琴が柏木に似ていることに気が付いた。何かを察知したのである。そのほか、姫君たちの行く末は決まるようで決まらない。巻名は催馬楽「竹河」にもとづく。
○ 薫「竹河のはし(橋・端)うちいでしひと節(ふし)に 深き心の底は知りきや」
○ 尚侍の君「竹河に夜をふかさじといそぎしも いかなる節を思ひおかまし」
○ 大君「あはれてふ常ならぬ世のひと言も いかなる人にかくるものぞは」
○ 薫「流れてのたのめむなしき竹河に よは憂きものと思ひ知りにき」
ここまでは「匂宮三帖」とも言われるところなんですが、どうも文章・文体・運びそのほかちょっと出来が悪いので、古来、ここは偽書ではないかという説にもなっています。紫式部がこんな書き方をしないだろうというんですね。あるいは後世の補筆が入っているのかもしれません。でも、匂宮と薫の対比はいかにも式部がやりそうなことで、ぼくとしてはやはり五十四帖全部がひとつながりだと見ています。
45.「橋姫」はしひめ (薫20〜22歳。八の宮50代後半。大君24歳、中の君22歳)
話は変わって、そのころ世間から忘れられていた古宮がいた。若い日々に政争に巻きこまれて失意の日々をおくっていた八の宮である。宇治の山里で大君(おおいきみ)と中の君を男手で養うかたわら、仏道に励んでいた。薫は宇治の阿闍梨から八の宮の俗聖(ぞくひじり)ぶりの噂を聞いて親交を結ぶ。それから3年、八の宮の留守を訪ねた薫は月下に合掌する姫君たちの美しさを垣間見て、大君に惹かれる。思慮深い大君は薫をたしなめる。
○ 八の宮「うち捨ててつがひ(番)さりにし水鳥(みずどり)の かり(仮・雁)のこの世にたちおくれけむ」
○ 大君「いかでかく巣立ちけるとぞ思ふにも 憂き(浮き)水鳥の契りをぞ知る」
○ 八の宮「見し人も宿も煙になりにしを なにとてわが身消え残りけむ」
○ 八の宮「あと絶えて心すむ(澄・住)とはなけれども 世をうぢ山に宿をこそかれ」
○ 薫「橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
ここからがぼくが若い頃好きだった「宇治十帖」です。八の宮の存在が告げられるところから物語が始まります。不運をかこってきた八の宮なんですが、そのぶん道心が深まっているんですね。その八の宮を薫が知って「法(のり)の友」となるのだけれど、薫の前には思慮深い魅力をもつ大君(おおいきみ)があらわれます。八の宮の「あと絶えて世をうぢ山」の歌はいかにも八の宮らしい歌ですね。こういうところ、紫式部はさすがに手を抜きません。巻名の「橋姫」は薫が大君に贈った「橋姫のこころをくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」から採ったのですが、本歌は古今和歌集の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」です。橋にいながら夫が通ってくるのを待つ橋姫のイメージです。もっとも橋姫伝説にはいろいろあって、橋のたもとで通りかかる旅人を襲ったり、開かずの箱を渡したり、目を抉ったり、けっこう恐ろしい橋姫もいる。いずれにしても「境界神」なんですね。「宇治十帖」はその橋姫をもって始まるんです。
46.「椎本」しひがもと (薫23〜24歳。八の宮没60歳前後)
薫から八の宮の姫君のことを聞いていた匂宮とのあいだに、消息の代理行為が介在し、ここで八の宮を通して、薫と匂宮と姫君たちがクロスする。八の宮が遺戒をのこして死去すると、姫たちは薫を頼る。いったい八の宮が何を遺戒したのか、物語はあきらかにしない。
○ 八の宮「山風に霞吹きとく声はあれど へだてて見ゆるをちの白波」
○ 匂宮「をちこちの汀(みぎは)に波はへだつとも なほ吹きかよへ宇治の川風」
○ 中の君「かざし折る花のたよりに山がつの 垣根を過ぎぬ春の旅人」
○ 八の宮「われなくて草の庵(いほり)は荒れぬとも このひとことはかれじとぞ思ふ」
47.「総角」あげまき (薫24〜25歳、大君没26歳)
薫は大君に夜通し意中を伝えるが、何事もない。大君は父の意思を守って独身を通し、むしろ薫が中の君と結ばれることを思い、薫は薫で中の君と匂の宮が結ばれれば、大君が自分を選ぶと考えていた。八の宮の遺戒のせいなのか、各自の関係はあやふやになっていき、そうしたなか大君は比類のない美しさをその相貌に漂わせて死んでいく。
○ 大君「ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に 長き契りをいかが結ばむ」
○ 薫「おなじ枝(え)をわきて染めける山姫に いづれか深き色と問はばや」
○ 大君「山姫の染むる心はわかねども うつろふかたや深きなるらむ」
○ 薫「しるべせしわれやかへりてまどふべき 心もゆかぬ明けぐれの道」
○ 大君「かたがたにくらす心を思ひやれ 人やりならぬ道にまどはば」
○ 匂宮「中絶えむものならなくに橋姫の かたしく袖や夜半(よは)に濡らさむ」
○ 中の君「絶えせじのわがたのみにや宇治橋の はるけきなかを待ちわたるべき」
宇治の大君はいいですねえ。八の宮の姫君です。妹が中の君。八の宮は処世力がなく、二人の娘の養育のために結婚もしていない。そこへ薫が訪ねてくるようになるのですが、3年ほどたった夜、八の宮の留守に大君が薫を応接するんですね。ここから薫の思慕がふくらんでいきます。大君は父が「この世は仮の世、来世の浄土に生まれるために功徳を積みなさい」という教えに生きている女性なので、薫が求道者の気持ちをもっているうちは迎え入れているんですが、八の宮が亡くなったのちついに薫が愛を告白すると、大君は頑なに交情を拒みます。この設定は紫式部の熟慮のうえのものでしょうね。薫は源氏の子として世に通っているけれど、実際には柏木と女三の宮とのあいだの罪の子です。凋落した日々だった八の宮家を栄えさせるには源氏一族の薫を受け入れればそれで栄達は保証されるのだけれど、それはできない。そこで妹の中の君を添わせようとします。けれどもこれでは今度は薫が承知できない。そこで薫は中の君が結婚してしまえば大君は自分の気持ちに靡くだろうと思い、匂宮を中の君の寝所に忍ばせるのですが、これがかえって大君を動揺させてしまうんですね。なにしろ匂宮は有名な「色好み」ですから、こんな結婚は中の君をダメにすると大君は思う。そんな心労がたたって大君は重篤になり、最後は薫に看取られて死んでいきます。紫式部の『源氏』全巻の仕上がりが冴えていくところです。
48.「早蕨」さわらび (薫25歳)
大君が亡くなり、薫が悲嘆にくれていた宇治の山里に早蕨の陽光がさしこんで、山寺の阿闍梨(あじゃり)からの山菜も届く。匂宮が中の君を迎えることになった。薫は中の君を譲ったことを香ばしく後悔する。
○ 阿闍梨「君にとてあまたの春を摘み(積み)しかば 常を忘れぬ初蕨(はつわらび)なり」
○ 中の君「この春はたれにか見せむ亡き人の かたみ(形見・筒)に摘める峰の早蕨(さわらび)」
○ 匂宮「祈る人の心にかよふ花なれや 色には出ずしたににほへる」
○ 薫「見る人にかこと寄せける花の枝(え)を 心してこそ折るべかりけれ」
○ 大輔「ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを 身を宇治川に投げてましかば」
49.「宿木」やどりぎ (薫24〜26歳。浮舟20歳前後。女二の宮14歳)
中の君は匂宮の男児を生み、薫は今上帝が勧める女二の宮と結婚するのだが、薫は納得していない。中の君が薫の懸想をそらそうと大君に似る異母妹に浮舟という乙女がいることを告げる。結婚よりも宇治の御堂の造営に熱心だった薫だったが、あるとき偶然に浮舟を垣間見て、亡き大君に貌(かんばせ)が酷似していることに感動する。
○ 匂宮「また人に馴れける袖の移り香を わが身にしめてうらみつるかな」
○ 中の君「み(見・身)なれぬる中の衣とたのみしを かばかりにてやかけ離れなむ」
○ 薫「やどりきと思ひいでずは木のもとの 旅寝もいかにさびしからまし」
○ 弁尼「荒れ果つる朽木のもとをやどりきと 思ひおきけるほどの悲しさ」
ついに浮舟がその姿をあらわすところです。『源氏物語』最後のヒロインですね。浮舟は八の宮とその女房の中将の君とのあいだに生まれているんですが、大君や中の君とはお母さんが違う。大君らは北の方から生まれ、浮舟は八の宮に仕えていた中将の君の娘です。しかも途中から宮家を出て、常陸守の後妻になっている。だから浮舟も関東で育っているんです。それでどうなったか、「東屋」がそこを綴ります。
50.「東屋」あづまや (薫26歳。中の君26歳)
浮舟の母の中将の君は薫の気持ちを知るのだが、身分違いを感じて左近少将を婿に選ぼうとしている。ところがこれはうまく話が進まず、中の君に浮舟を預けることにした。そこへ匂宮などが接近し、浮舟の動静を知った薫は彼女を宇治に移り住まわせ、彼女の成長を願う。
○ 薫「見し人の形代(かたしろ)ならば身に添へて 恋しき瀬々のなでもの(撫物)にせむ」
○ 中の君「みそぎ河瀬々にいださむなでものを 身に添ふ影とたれかたのまむ」
51.「浮舟」うきふね (薫27歳。匂宮28歳。浮舟22歳前後。横川の僧都60歳前後)
浮舟を忘れられない匂宮が従者をともない、薫と偽って宇治に乗りこんだ。浮舟は人違いと気づくのだが、匂宮の情熱に絆(ほだ)された。匂宮はさらに浮舟に執着して宇治の対岸の隠れ家で二夜を過ごす。匂宮との関係を知った薫は浮舟の不誠実を咎める手紙を送る。これで気が動転した浮舟は宇治川に入水してしまいたいと思い、書き置きをのこす。
○ 匂宮「年経(ふ)ともかはらぬものか橘の 小島の崎に契る心は」
○ 浮舟「橘の小島の色はかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」
○ 匂宮「峰の雪みぎはの氷踏みわけて 君にぞまどふ道をまどはず」
○ 浮舟「降りみだれみぎはに氷る雪よりも 中空(なかぞら)にてぞわれは消ぬべき」
○ 薫「水まさるをちの里人いかならむ 晴れぬながめ(眺め・長雨)にかきくらすころ」
○ 浮舟「かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に 浮きて世をふる身をもなさばや」
○ 浮舟「のちにまたあひ見むことを思はなむ この世の夢に心まどはで」
○ 浮舟「鐘の音の絶ゆるひびきに音(ね)をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ」
五十四帖全体のなかで、「若菜」上下と並んで最も構成と文章がすばらしく組み上がっているのが「浮舟」です。ここだけ取り出して映画にしたり宝塚の舞台にしたくなるのが、よくわかります。誰もが参考にしたくなる物語モデルですね。人物の心の動きとして注目しておくべきは、薫の浮舟に対する気持ちなんですが、薫にとっての浮舟はあくまで大君の面影の形代(かたしろ)だったということです。これは浮舟からするとせつないことで、心厚い薫を敬いながらも匂宮の情熱に体を合わせてしまう。けれどもそんなことをしていれば、当然、この二人の貴公子の板挟みになるわけで、そこで入水を決意するんですね。ただし、この決意は仏道の教えからするととんでもないことで、仏教では自死は仏罰に当たります。とすると、紫式部はここで別の思想を持ち出したということになります。それは古来の「処女塚」(おとめづか)の考え方でした。二人以上の男に求愛された女が自身の死によって男たちの争いを回避させるという話です。万葉にもよく歌われている。『源氏』はこのラストストリームにおいて、こうした「古代の母型」を持ち出すんです。
52.「蜻蛉」かげろふ (薫27歳)
浮舟の失踪の噂が駆けめぐる。母の中将の君は愕然とし、亡骸(なきがら)のないまま葬儀を営む。石山参籠中の薫は浮舟を放置したことを反省し、匂宮は自分の行為に臥してしまう。一方、明石の中宮の法華八講で女一の宮を垣間見た薫は、その美貌に目が眩んで妻(女二の宮)に一の宮と同じ恰好をさせる。しかしそんな戯れをしているものの、自分が八の宮の姫君たちを次々に失わせているような気がして、おのが宿世のつたなさを嘆く。
○ 薫「忍び音や君もなく(鳴く・泣く・亡く)らむかひもなき 死出(しで)の田長(たおさ)に心かよはば」
○ 匂宮「橘のかをるあたりはほととぎす 心してこそなくべなりけれ」
○ 薫「ありと見て手にはとられず見ればまた ゆくへもしらず消えし蜻蛉(かげろふ)」
53.「手習」てならひ (薫27歳。浮舟22歳前後。小野母尼80歳前後)
浮舟は死んでいなかった。水辺で正気を失い、「もののけ」に憑かれていたとおぼしい。「法師の霊」によるものだった。が、横川の僧都(よかわのそうず)の母尼・妹尼らの一行に助けられていたのである。さっそく小野の山里の屋敷で看病世話されるのだが、容易に回復しない。やっと意識が戻っても浮舟は素性や過去を語らず、いちずに出家を願うばかり。そこへ立ち寄った横川の僧都に浮舟は懇願して出家する。やっと浮舟に念仏と手習いの日々がおとずれた。薫は出家した浮舟の噂を聞き、訪ねたいと思う。
○ 浮舟「身を投げし涙の川のはやき瀬を しがらみかけてたれかとどめし」
○ 浮舟「はかなくて世にふる川(経る・古川)の憂き瀬には たづねもゆかじ二本(ふたもと)の杉」
○ 浮舟「なきものに身をも人をも思ひつつ 捨ててし世をぞさらに捨てつる」
○ 浮舟「限りぞと思ひなりにし世の中を かへすがへすもそむきぬるかな」
54.「夢浮橋」ゆめのうきはし (薫28歳。匂宮29歳。浮舟23歳前後)
横川の僧都のもとを訪れた薫は、僧都から浮舟の入水と出家のあらましを聞き、浮舟に取り次いでほしいと頼む。僧都は浮舟の弟の小君(こぎみ)に手紙を託すことにしたが、彼女を出家させたことを後悔し、このままでは女人を破戒者にさせかねないという危惧をもつ。僧都の文使いとして小君が浮舟のもとに派遣され、浮舟はここに薫の愛欲の罪が消えるようにしてほしいと書いてあることを読む。けれども浮舟は薫との対面を激しく拒んで「これは人違いの手紙だ」と言い張る。小君はやむなくこれを薫に伝えるが、薫は何かが判然としない。長きにわたった物語はそのことを告げて、悄然と幕を閉じる。
○ 薫「法の師とたづぬる道をしるべにて おもはぬ山に踏みまどふかな」
このラストはけっこう難解です。浮舟が自分のことを「けしからぬ」と思ってひたすら頑なになっていますし、薫も浮舟に何を求めているのかわからない。ただ紫式部だけがこの男女の未来を知っている、そんな終わり方です。浮舟は助けられてからぐんと深くなっているんですね。横川の僧都でさえその心境を左右できない。まして薫は浮舟の胸中に一歩も踏み込めない。すごい終わり方です。では、なぜ『源氏』はこんなふうに終わっているのか、そこを考えるには、もう一度、全容の隙間にひそむ王朝社会哲学のようなものを読み解く必要があります。

以上、駆け足で五十四帖をたどってみました。詳しい筋立てやエピソードは現代語訳や解説本などで補っていただくとして、こういうアウトラインや物語構造を前提として、さあ、『源氏』から感じるべき問題や示唆は何かということ、あるいはこれを「日本という方法」から見るとどういうふうになるかということです。それでは源氏第3夜につないでいきたいと思います。宮崎慎也、小西静恵、久保田文也、橋本英人、中村碧らの編集工学研究所のスタッフの諸君が『源氏』のヴィジュアルのあれこれを配してくれたので、とくと参考にしてください。 
 

 

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エミール・シオランに、「私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ」という深い一行があります。『告白と呪詛』(紀伊国屋書店)に出てきます。シオランは観察と洞察のアフォリズムの異才で、“涙の反哲学者”ともいうべきルーマニア人ですが、ずっと母国語をさがしつづけているのです。シオランが生まれた頃のトランシルヴァニアでは、ルーマニア母語はもうぐちゃぐちゃになっていたからです。ぼくも『源氏』を読んでいるとまさにそういう気になります。この言葉って、ぼくの中のどの反応とつながっているのだろうと、何度も思わされるのです。国語ってふだん使っているのだから、自分は国語も母語も知っていると思ってしまうと、とんでもない偏見国語ニンゲンになってしまいます。それよりも、われわれはずっと国語からはぐれている歴史を走ってきてしまっていると思うべきでしょう。学校のセンセイが教える国語も一度、総点検したほうがいいですね。
国語すなわち母国語はまさに「マザー」というべきものです。実際にも“mother language”とも“mother tongue”とも言いますね。けれども、われわれが自分を生んでくれた母をしばしばぞんざいに扱っていたり、生まれ育った故郷をとんでもなく希薄なものにしてしまっているように、「母なる国語」もどこか薄明の彼方へ置いてきたと感じたほうがいいと思います。ぼくは今度、年末年始をはさんでほぼ一カ月ほど『源氏』に浸りきってみたのですが、そこに万葉でも新古今でもない、むろん明治以降の近代国語でもない「母なる国語」の“横切り(よぎり)”を感じるとともに、ぼくがしばらく「言葉としてのマザー」の探求をしていなかったことを思い知りました。
ついつい原点回帰に向かってしまうんです。「母なる国語」は原点まで行ってしまうと、これは行き過ぎで、かえってわからなくなります。母国語というもの、どこか途中から形成されているからです。それはルーマニアだってイタリアだってドイツだって同じです。原点まで行ってしまうと、そこにはアニミズムがあったり、神々がいたり、もっといえば縄文人やバイキャメラル・マインドがあったりするけれど、それらは母国語ではないんですね。国語はやはり言葉遣いや文化や習慣や、それから文字表記とともに形成されます。それは「生まれたもの」というより「育くまれたもの」に近い。「あった」ものではなく「なった」ものなんです。縄文このかた長らく無文字社会だった日本の場合は、漢字が入ってくるだけでは日本語表記は生まれなかったのです。万葉仮名の工夫に続いて、仮名文字や女文字が使われるようになって、やっと宮廷言語を形成させた。だからこれに接するにあたっては、当方の想像力をそこにうまく落ち着かせる思い切った方法を実感する必要があるんです。そういうことを、言語史全部見るとか文学史全部見るとか、そういうことをしたら見えるかというと、そうではないんですね。
『源氏』を3度にわたって現代語に移した谷崎は、「国語と云うものは国民性と切っても切れない関係にある」と『文章読本』(中公文庫)に書きました。日本語という国語の特徴は「語彙の少なさ」にあるとも言っている。たしかに谷崎源氏は訳すたびに言葉を削っています。参考のために引いてみると、その試みは『源氏』冒頭の彫琢にすでにあらわれています。「いづれの御時(おんとき)にか、女御更衣あまた侍(さぶら)ひ給ひけるなかに、いとやむごとなきにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」というところ、次のように3段階に推敲しているんですね。
最初は「いつの頃の御代(みよ)のことであったか、女御や更衣が大勢伺候してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙つていらつしやるお方があつた」というふうに旧仮名文語調で訳しています。これはどう見てもぎこちない。次が「ですます調」になって、「いつの頃の御代(みよ)のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候してをられました中に、格別重い身分ではなくて、誰方(どなた)よりも時めいてをられる方がありました」というふうになる。ずっとすっきりしているだけでなく、ちょっと短くなっている。それから「高貴な家柄の出と云ふのではないが」というような「が」なくなっていますね。『源氏』には逆説的な「が」はめったに出てこないんです。そういう「しかし、だが」が出てくるのは『徒然』や『方丈記』です。式部の文章では「そういう高貴な出の方でない方がいて、それは」というふうに関係代名詞っぽく次々につながっていく。そこが特徴です。それで3度目の新々訳では、「何という帝の後代のことでしたか、女御や更衣が大勢伺候していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいてる方がありました」というふうにまで絞られます。さすが谷崎ですね。「時めいてる方がいた」ではなくて、「ありました」というところも大事です。
こんなことを言っていると、うーん、『源氏』を読むってたいへんなことなんだと思われてしまいかねませんが、まあ、むろんそうなのですが、しかし、どう正確に読むということでもないとも思います。
歌人であって、折口信夫の最後の弟子であり、ずっと源氏講義を続けられている岡野弘彦さんは、『源氏』を読むことは日本人の「根生いのこころ」にかかわることだと、ことあるごとに言われています。「根生いのこころ」、それが『源氏』すべてが持っていると言われるんです。根生い、いいですねえ。まさにそういうことなんだろうと思います。
さて、源氏の第1夜と第2夜のここまでで、それなりに『源氏』の物語としてのアウトラインや登場人物のそれなりの特徴や、源氏読みで必要だろうと思われる構成要素をラフスケッチしてみました。それはそれでぼくなりにけっこう気をつかってスケッチしたのですが、事実誤認も見当違いもあったとも思います。ま、それは勘弁していただくとして、ここからはぼくが気になってきた源氏モンダイに好きに入っていきたいと思います。
とはいえ源氏モンダイといってもひとつにまとまるものでもないし、まとまってもいません。論者の数だけモンダイがあるといってもいい。だいたい源氏研究の歴史は14世紀の四辻善成『河海抄』(かかいしょう)を筆頭にそうとうに長く、またたいそう多様です。主要な研究書だけでも1000冊はゆうにこえるでしょう。いや、もっとかな。1桁ちがうかな。ともかくもそこには歌論もあれば物語構造論もあるし、作者論も儀式論もある。時代論・花鳥風月論・衣裳論・室内調度論から平安京都市論・敬語論・語彙用語論・絵巻論まで、何でもありです。なかには水野平次や中西進さんのように紫式部が好きだった白楽天との関係だけを掘り下げたものも、レヴィ=ストロースやバフチンの視点から『源氏』を読んだ藤井貞和や高橋亨さんたちの濃厚な研究もある。とうていぼくにはカバーできません。
実は紫式部学術賞まであるんです。紫式部顕彰会というところが出している。これは、1965年にユネスコが「世界の偉人」に初の日本人として紫式部を選んだんですが(知っていましたか)、そういうことに無関心な日本人にちゃんと紫式部や『源氏物語』のことを知らせようということで顕彰会ができて、そこから出ている学術賞です。ぼくもちらちら見ていました。初期のころの日向一雅の『源氏物語の準拠と話型』(至文堂)とか、川本重雄の『寝殿造の空間と儀式』(中央公論美術出版)、緑川真知子の『「源氏物語」英訳についての研究』(武蔵野書院)とか、おもしろかったですよ。とくに編集工学の立場から言うと、加藤昌嘉の『揺れ動く源氏物語』(勉誠出版)が「編集しつづけられてきた源氏」という観点からインターテキスト、トランステキストの源氏エディションの多様性を追っていて、なかなかでした。ただ、今夜のぼくはこれらを紹介したり点検したりするつもりはありません。以下に話すことは、先行する多くの研究成果にいろいろヒントをもらってはいるのですが、あくまでぼくが勝手に気になっている源氏モンダイです。
たとえば光源氏とは何者かということ。単純なようでいて、これがけっこうな難問なんです。桐壺の帝という天皇の子ですが、天皇ではない。準天皇のような不思議な位置になっただけです。冷泉帝のもとで内大臣から太政大臣になったのだから政権担当者なのですが、とうてい政治をしているとは思えない。人事をちょっと動かしたり、後宮(こうきゅう)対策に手をつけたくらいで、あとは女君に惚れ、交情し、歌を詠み、絵合(えあわせ)をしているばかり。いったい光源氏はこの物語のなかで何をしているのかといえば、色事に耽っているか、悩んでいるか、風流を遊んでいるか、そのいずれか。そうとうに変な主人公です。
それでも紫式部はそのような光源氏をこそ書きたかったのでしょう。それをもって「母なる国語」のロイヤルモデルないしはソーシャルモデルとしたかったのです。それが、その後は世界文芸史上でも希有の主人公になりえたなどということは、式部の与り知ったことではありません。でも、そうなりえた。ハムレット、光源氏、デズデモーナ、六条御息所、オフィーリア、浮舟、ですよね。ということは、この物語に書かれたような光源氏は、式部が書きたかった光源氏以外の何者でもない光源氏なんです。式部の国語の光源氏なのです。しかしながら、それにしてもたいそう曖昧な主人公です。いや、光源氏だけではなく、桐壺の帝から横川(よかわ)の僧都、朧月夜の君から女三の宮まで、みんな曖昧です。だいたい光源氏、柏木、夕霧は一人一人がセパレート・アイデンティティになってはいない。変動しつづける集合的人格帯みたいです。では、書き足りないのかといえば、そうではない。紫式部はそうしたくて、そうしたにちがいありません。そのため前夜にも説明したように、この物語には独特の「心内語」(しんないご)がかなり駆使されて、登場人物の気分と状況の推移との「双方のけじめをつけない表現」が連綿したわけです。
だから一番気になることは何かといえば、それをまとめて言うと、この物語の時代構造や登場人物がすべて曖昧になりえたのはなぜかということです。それなのに訴えるものがあんなにも豊富な物語になりえたのは、またまたなぜなのか。それはおそらく、ここに「母なる国語」とともに「日本という方法」が横溢しているからなんですね。それが11世紀にして世界文芸史上の最高傑作になりえた理由だろうと思います。ということは、ぼくが尋ねる源氏モンダイは、紫式部が綴った曖昧な表現のあちこちに「日本という方法」の何かの本来が散りばめられて編集されているのだろうと思えるかどうかにかかっているのです。それにはどこから辿っていけばわかりやすいのか。しばし前後左右にカーソルをあてていきたいと思います。
光源氏という「名前」のことから入ってみます。なぜこんなとこから入るのかはおいおいわかるでしょう。名前をめぐっては、少なくとも3つの謎があります。ひとつ、「光源氏」の本名は何なのか。ひとつ、なぜ「源氏」という姓がついたのか。ひとつ、なぜ朱雀帝や冷泉帝といったリアルな名前の人物が虚構の中にまじっているのか。物語は冒頭で、桐壺の更衣が輝くような子を産んだと書いてあり、みんなから「光の君」とか「玉の男皇子(おのみこ)」とか「かかやく日の宮」と呼ばれたとあります。この主人公はあとは「光源氏」とか「君」とか官職名とか敬称で綴られているだけです。本名は明示されてはいない。このことは、物語全体の最も暗示的な本質です。
桐壺の帝はこの子を東宮(春宮)に、すなわち皇太子にしようとするのですが、桐壺の更衣の実家に力がなくてあきらめました。それで「光の君」は第二皇子になったとあります。もともと日本の天皇はたくさんの夫人を娶り、たくさんの皇子を産んでもらい、そのなかから第一皇子を選ぶようになっています。どの子が第一皇子になるかどうかは、現在の皇室典範のように最初から長男にするとかというふうには決まっていない。第一皇子と決められた子を産んだ夫人が正妃なのです。第一皇子は弘徽殿(こきでん)の女御が産んだほうの子で、この子がのちに朱雀帝(すざくてい)になりました。第二皇子の「光の君」のほうはどうなったのか。「源氏」という姓をもらっただけでした。しかも「光源氏」が名前だとはどこにも書いていない。そう呼ばれたとあるだけです。どうも何か釈然としないところがあるでしょう。それはこの時代の物語の書き方としてやむえないことだったのか。それともこの釈然としないところこそがこの物語の本質を告げる何かにあたっていたのか。そこを少し覗いておく必要があります。ちなみに桐壺の帝にはほかにも何人もの皇子がいたのですが、わかりますか。冷泉帝が第十皇子で、「宇治十帖」で登場する八の宮が第八皇子です。
最初に、解(ほど)きやすいところから書いてみますが、弘徽殿の女御が産んだ第一皇子に「姓」がないのは、この子が今上天皇になったからです。日本の天皇には「姓」がないのです。これは天武・持統天皇の時代に『古事記』や『日本書紀』をつくったときからそうなっているのでありまして、天皇が「姓」をもたないことによって、天皇家がすべての臣下に「姓」を与えることができるというしくみをつくったからです。ただし、このことの本当の意味を考えるには、もうちょっと歴史をさかのぼったり(原点まで行きすぎてはダメですが)、日本という国のしくみ、とくに朝廷や摂関政治のことを考えたり、現在のわれわれの名前に関する社会習慣を問いなおしたりしたほうがいい。今夜はそこまで広げられないのでかなり絞りながらの話にしますが、それでもけっこう大事なモンダイがわさわさ出てきます。
日本人の名前は「姓名」でできていると、みなさんは思っているでしょうね。姓と名があって戸籍が成立していますからね。長嶋が姓で茂雄が名、松岡が姓で正剛が名ですよね。それから、われわれは苗字が「姓」のことだと思っている。シャチハタのハンコはこの苗字だけが捺せるようになっていて、それが姓名の「姓」だと思っているはずです。役所の書類や履歴書や病院のカルテにも「姓」と「名」を書く欄が分かれている。ところが、昔はそうではなかったのです。姓と苗字は歴史的には別のものでした。姓はもともとはカバネです。カバネは朝廷から官許されていたものでした。臣(おみ)、連(むらじ)、朝臣(あそん)、宿弥(すくね)というふうに、氏(うじ)のランク付けをあらわすものでした。その代表がいわゆる「八色(やくさ)の姓」です。古代では、このカバネと氏名(うじな)でワンセットです。蘇我大臣(そがのおおきみ)、物部大連(もののべのおおむらじ)、藤原朝臣(ふじわらのあそん)というふうにセットにしてあらわしていたんです。そして氏と名のあいだは、なぜか「の」でつないでいた。
このへんの話は、『源氏と日本国王』のときに書いておいたことでもあるんですが、おぼえてくれていますかね。次のような例を出しておきました。われわれは歴史を習っているうちに、こんな読み方をしてきたはずです。菅原道真はスガワラのミチザネ、平清盛はタイラのキヨモリ、源頼朝はミナモトのヨリトモ。そう、読んできた。タイラキヨモリとかミナモトヨリトモとは言わない。これらにはみんな「の」が入っています。この「の」は何なのか。一方、新田義貞、織田信長、徳川家康には「の」が入りません。オダのノブナガとかトクガワのイエヤスとは言わない。幸田露伴、伊藤博文、夏目漱石もコウダのロハン、イトウのヒロブミ、ナツメのソウセキではない。しかし藤原道長はフジワラのミチナガ、藤原定家はフジワラのテイカであって、フジワラミチナガ、フジワラテイカではありません。ついでにいえば藤原紀香はフジワラのノリカではありません。
いったいどうなっているのか。この話、どうでもいいようなことに見えて、そうではないんです。なぜ源・平・藤原・菅原に「の」がついて、新田・織田・徳川には「の」がついていないのか。ここには何かのルールがひそんでいるはずなんです。ついでに付け加えておくと、蘇我大臣、物部大連、藤原朝臣らが姓(カバネ)をもらったのに対して、一方では、カバネを与えられていない者たちもいました。この豪族たちが名前をもとうとすれば、「春日」「日下部」「采女」「馬飼」というふうに自分たちで呼称した。たいていは地名や仕事に因んだ名前です。なかには朝鮮語の発音に因んだ名前もあった。渡来系の、いわゆる帰化人の名前ですね。ただし、これらは同じ「姓」でもカバネではなく、セイあるいはショウといいます。
ここまでのことを少しまとめると、当初の「姓」は天皇が上から与えるフォーマルな名前であるということ、「賜姓」(しせい)だったということです。われわれがふだん慣れ親しんでいる苗字というのはあくまで私称だったのです。このしくみを維持するために、天皇家はあえて姓をもたないようにしたわけです。そのかわり天皇は姓を与えるほうにまわって、姓のプロデューサーになった。これが日本という国の特色のひとつです。朝廷とはそういうことをする“名配り機関”でもあったわけです。
天皇家が姓をもたないようにした理由としては、もうひとつ、大きな事情があります。それは中国では「易姓革命」(えきせいかくめい)といって、姓が易(かわ)れば王朝が変わる、易姓によって支配体制が変わるとみなされて、天子(皇帝)の姓の変更がおこることが革命なんだという制度思想があったのですが、これを日本が嫌ったという事情です。日本はこの制度を採用しなかったのです。天武・持統のときに藤原不比等らの考え方もとりいれて、天皇の継続的な位置を誰かが乗っ取ることをできないようにするため、すでに姓をもった者や一族は天皇にはなれないというふうにしたんですね。天皇に姓がなければ易姓革命がおこりようがない。そうすれば、天皇一家は万民に姓を与える唯一の一族でありつづけられるだろう、そう決めたんです。これで日本の天皇家は、これまで一度も「別の家格」による転覆劇がおこらなかったということになります。易姓革命はおこらなかった。武家政権による幕府はできても、天皇を乗っとることはできなかったのです。このことについては話したいことがヤマほどあって、うずうずしてしまうのですけれど、とくに孟子の「湯武放伐」(とうぶほうばつ)をどう解釈するのかという議論が欠かせないところですが、ただこのことについてはその骨子を案内しておいたので、ここではがまんして深入りしないでおきます。そのときも紹介しておいたことですが、詳しくは先頃亡くなられた松本健一さんの遺著にあたる『「孟子」の革命思想と日本』(昌平黌出版会)を読まれるといいでしょう。
というわけで、「光の君」は桐壺の帝すなわち現天皇から「源」という姓を賜ったわけでした。それで源氏になった。しかし、このことは光源氏がもはや天皇にはなれないということでもあったんですね。なっても准太上天皇まで。これが『源氏』全編に流れる「逸れた物語」という大きなストリームをつくっていた“宿命”というものです。いったん源氏という氏姓をもらってしまうと、もう天皇にはなれません。ということは、第一皇子(親王)にはなれない「光の君」の将来は、こうして最初から「逸れる」ことになったのです。そうではあるんですが、ただしこの話を理解するにはもうひとつ、源氏(ゲンジ)の「ジ」のほう、すなわち「氏」のほうのこともちょっと考える必要があります。「源」が姓(カバネ)なら、源氏の「氏」(うじ)とは何なのか。
「氏」には父系的な出自をもつ集団にルーツがあります。歴史学では氏族といいます。この氏族のリーダーは「氏の上」(うじのかみ)です。氏の上は氏人(うじびと)を統率し、部民(べのたみ)や奴婢(ぬひ)たちなどを隷属させて、その地の共有資産を管理します。そして氏神(うじがみ)を奉祀する。これが「氏」です。古代の氏族は祖先をたどれば、たいていは単一の祖先集団に行きつきます。たとえば蘇我氏は蘇我稲目(ソガのイナメ)がルーツ、大伴氏は大伴室屋(オオトモのムロヤ)がルーツ、藤原氏は藤原鎌足(フジワラのカマタリ)がルーツにあたっている。そうした氏が姓(カバネ)をもらって氏と姓をもった氏姓制度というものができあがったわけです。
それでは「源氏」という氏姓はどういうふうに生まれたのか。むろん『源氏物語』のなかで出てきた氏姓ではありません。やっぱり天皇から歴史的に賜った姓でした。源氏の賜姓は実は第52代天皇の嵯峨天皇の世に発しています。古代豪族時代のことでもないし、奈良時代のことでもない。平安初期のことです。それまではこんな氏姓はなかったんです。それを嵯峨天皇が自分の皇族に下そうと思いついた。もっとも家父長的な性格がやたらに強かった嵯峨天皇は精力絶倫でもありまして、50人もの皇子と皇女をつくった。それでそのうちの32人もの子に源氏の氏姓を渡してしまいます。これが嵯峨源氏です。なぜこんなことをしたのかというと、当時の天皇家の経済力がショートしてきたからです。50人も産んでいればそうなるでしょう。皇族たちの経済をこのまま維持続行することが難しくなった。皇族コストがもたなくなった。そこで源氏という氏姓をつくって、それまでの皇族を臣籍に降下させたわけです。天皇家のリストラであって、かつ天下りのようなものです。
同様のことを仁明天皇、清和天皇、宇多天皇、村上天皇も連打します。それで仁明天皇が親になった仁明源氏をはじめ、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などが、次々に生まれていったのです。嵯峨源氏はその兄貴格でした。親はそれぞれ異なるけれど、かれらはすべて新たな源氏の一族です。このことは、あまりに源氏をふやしすぎたので、のちのち源氏の一門どうしでの争いをおこさせます。それは前九年後三年の役や保元・平治の乱の「武家のあっぱれ」の時代のことであって、紫式部が描きたかった「公家のあはれ」の時代のことではありません。
もっとも「源氏」という賜姓(しせい)があったというだけでは、源氏も他の氏姓と同程度になってしまいます。かれらは源氏という氏姓をもらっても出自は准皇族なのですから、そこには何かもうひとつの冠(かんむり)がほしい。そこで登場したのが「氏の長者」(うじのちょうじゃ)という冠です。源氏は他のあらゆる氏たちのなかのリーダーだというお墨付きをもらった。氏の長者というのは、古代の氏の上の系譜を引く氏の統率者のことで、氏寺や氏社の祭祀、大学別曹や氏院の管理、氏爵(うじのしゃく)の推挙などを主に管掌したリーダーです。大伴・高階・中臣・忌部(いんべ)・卜部(うらべ)・越智・菅原・和気なども氏長者によって管轄されています。源氏の君たちはそのような氏の長者とも認められたのです。そうなると、源氏の一族には氏神をもつという新たな神仏の力の系譜も加わることになる。候補に上がったのが清和天皇期に創建された石清水八幡宮でした。源氏はこれでいくことにした。このブランディング・アイデアはよかったんでしょうね。当たったのです。折から清和源氏の源義家がその石清水八幡宮で元服したこと、義家が八幡太郎と称されたことなどが相俟って、源氏は八幡神を氏神とする一族になった。ということは八幡神はそもそもが応神天皇と神功皇后を祭神としてきたのですから、この系譜も源氏の氏神にかかわることになります。のちの源氏が八幡大菩薩の旗を掲げるのはこのためです。
言い忘れていましたが、現代のわれわれがカバネやショウとしての姓よりも苗字を重視するようになったのはどうしてかということですが、これは他の多くの事柄がそうであったように文明開化と近代国家のせいでした。
明治4年に「今後は位記・官記をはじめとする公文書に姓を除き苗字を用いるべし」という通達が出回り、明治8年には「苗字必称令」が公布された。これで、これまでの「姓」はすべて「苗字」に統括されてしまったんです。こうして太陽暦やメートル法やヨコ型紙幣と同じように、日本人は苗字を呼び合うハンコ社会になったんですね。もうひとつちなみに、豊臣秀吉の例を引きますが、秀吉はどうしていろいろ名前を変えたかというと、秀吉は「木下」「羽柴」が苗字です。その姓のほうは、天正10年に信長が本能寺で没したときに「平信長」と姓をつけていたことを承けて、初めは「平秀吉」となり、ついで天正13年の関白任官のときに「藤原秀吉」を名のり、その翌年に豊臣姓を賜って「豊臣秀吉」になったというふうになっています。このように秀吉は朝廷から姓を賜るごとに「平→藤原→豊臣」と改姓したわけなんですが、そのあいだ苗字のほうはずっと羽柴だったのです。まあ、念のため。
これで歴史的に天皇が姓をもたないこと、そのかわり源氏のような姓がしばしば天皇家からもたらされたという事情が見えてきたと思いますが、そのことと桐壺帝が光の君に「源氏」を賜姓した理由とは、少々違うモンダイがあるように思います。紫式部は時代の物語を本来的な曖昧に彩っておくために、「光の君」を光源氏にしたのですけれど、そのことに説得性をもたせるためには、光源氏の周囲の登場人物にもそのような曖昧性を付与する必要があったはずです。なにしろ『源氏』は男君はみんな「光の君」みたいで、女君はみんな「藤壺」みたいですからね。そこで、ここからの話は当時の宮廷社会とはどういうものであったのか、すなわち当時の朝廷のことや、天皇と摂関政治の関係のことをカバーしておきたいと思います。話はいろいろな面でだんだんつながります。
式部が『源氏』の舞台を「いづれの御時にか」と綴って、桐壺の帝を醍醐・村上の両天皇時代においたということは、よく知られています。ぼくもすでに述べておきました。よく知られているけれど、これはよほど重要なことです。式部にとって、第60代醍醐天皇の「延喜(えんぎ)の治」と醍醐の第14皇子だった62代村上天皇の「天暦(てんりゃく)の治」とが、なんといっても式部の「御時」の想定時代だったということは、『源氏』のワールドモデルとしては決定的なことなんです。まさに式部の曾祖父の兼輔(かねすけ)が活躍していた時期ですからね。
醍醐・村上の治世がどんな時代だったかというと、その前の宇多天皇のときの「寛平(かんぴょう)の治」とともに、のちに「聖代」と呼ばれるほどの天皇親政が前面に出た時代です。醍醐の延喜時代(901〜923)は古代律令制が維持された最後の時代で、『延喜式』などの格式(きゃくしき)の編纂が仕上がり、紀貫之らの梨壺の文人たちが活躍して『古今和歌集』ができた時代です。漢字仮名まじり文も、美しい料紙も、散らし書きも出てきた。村上時代(947〜957)には有名な天徳の内裏歌合(だいりうたあわせ)という、のちの歌合せにとっても和歌の歴史にとっても、そもそもの日本語の表現の歴史、つまり「母なる国語」の歴史にとってもきわめて重要な催しがなされています。とりわけ村上時代に摂政と関白がおかれなかったことが特筆されるのです。おそらくここに「御時」(おんとき)の特徴があります。式部はここに狙いを定めたのですね。『源氏』には摂政・関白が出てこないのですが、これは長きにわたった実際の平安王朝の歴史のなかでもたいへん特異だったのです。
摂政と関白による摂関政治はどういうものだったのか。このことも『源氏』が不満気に描いた宮廷権力像に大きくかかわっています。摂関がどのように出現したかといえば、藤原北家の冬嗣の息子の藤原良房が人臣として初めて太政大臣になり、続いて摂政になったことが起点です。そうするにあたって、良房は二つの戦略を行使しています。ひとつは他の有力貴族を失脚させることによって藤原北家に対する対抗心を挫いてしまうこと、もうひとつは皇室に北家の氏族の娘たちを嫁がせて皇子を産ませ、天皇の外祖父になって権力を握ることです。外祖父というのは母方の祖父ですね。実際にも良房は、842年の「承和の変」で伴氏と橘氏の両氏と藤原式家を失脚させ、ついでは文徳天皇に娘を嫁がせて清和天皇を誕生させた。良房の死後は、今度は養子の基経(もとつね)が摂政となり、光孝天皇のときは事実上の関白に就任して、天皇の権限の代行者の位置を得ています。
摂政は天皇が幼少だったり女性だったりするときに代わって政務を担当する役職のこと、関白は天皇が成人したのちも政務を代行する地位を与えられた役職です。関白という名称は中国から来た熟語ですが、日本的に変形して、天皇の意志を「関(あずか)り白(もう)す」という意味になって使われるようになりました。宇多天皇が藤原基経に「万機の巨細(こさい)、百官おのれに惣べ、みな太政大臣に関白し、然して後に奏下せよ」と命じたときの言葉が初見です。このように摂政も関白も、いずれも天皇と太政大臣以外では最高の地位に当たるのですが、その役目を受け持つのは、推古女帝のときの聖徳太子や斉明女帝のときの中大兄皇子が摂政めいていたように、古代では天皇の一族がほぼ担っていたんです。ところがそれを藤原冬嗣を中興とする藤原北家という「氏」が、まるまる独占しようというふうになっていった。これは摂関政治というよりも、藤原摂関体制です。
藤原摂関体制の流れの続きをもう少し追うと、基経によって摂政・関白がスタートしたあと、その子の藤原時平をへて(ここで時平と争っていた菅原道真が左遷されるわけですが)、醍醐天皇が重篤になったときに、幼い朱雀天皇の即位とともに藤原忠平が摂政となり、その朱雀が成人になるとそのまま忠平が関白にもなるという初めての例が出てきます。ただし忠平の死後、村上天皇の時代は摂政も関白もおかなかったので、さきほどから言っているように、ここに式部が理想とする「御時」がはからずも成立します。この時期が醍醐からの流れを含めて、天皇が親政したという「聖代」になったんです。でもこれはまさに「はからずも」の短い期間の親政で、村上天皇が崩御したのちに冷泉天皇が即位すると、またまた北家の藤原実頼(さねより)が関白に就く。「聖代」は短かったのです。紫式部の曾祖父が「聖代」の頃には晴れやかに充実していたのが、村上後の宮廷社会のなかではだんだん後退していったというのも、こうした時代背景によります。そしてなんとこれ以降は明治維新まで(後醍醐天皇の時代と秀吉・秀次の時代を除いて)、ずっと藤原北家による関白が常置されていくことになるんですね。幕末で勤王の志士たちが御所の関白を気にして動くのはそのためです。
藤原実頼は自身「揚名(ようめい)の関白」と嘆いたように、実力がふるえなかった関白です。こういうときはダークホースが出てきやすい。その隙を縫って冷泉期に台頭してきたのは藤原兼家(フジワラのカネイエ)でした。このあとすぐにわかると思いますが、兼家こそはのちの道長の御堂関白期の栄華を用意した張本人です。権謀術数にも長けていた。
忠平の子に右大臣になった藤原師輔(もろすけ)がいます。その師輔の三男が曰く付きの兼家です。蔵人頭(くろうどのかみ)、左衛門中将をへて安和1年(968)に従三位になり、そのまま中納言になったという出世頭です。師輔の長男は伊尹(これただ)といいます。安和2年、左大臣の源高明(たかあきら)が謀反の罪に問われて左遷されてしまうという、源氏モンダイにとってはきわめて意味深長でヤバイ事件がおこりました。「安和(あんな)の変」ですね。藤原摂関時代を確固たるものにしたほどの大きな事件で、見逃せません。それが紫式部が生まれる1年前のことでした。
源高明は醍醐天皇の第10皇子で、わずか7歳で源氏姓になった源氏のプリンスです。村上天皇の信任も厚く、奥さんの姉は村上天皇の中宮です。高明は有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく、『西宮記』(さいきゅうき)を著述するような才能もあり、実頼につぐ朝廷ナンバー2の呼び声も高かった。そのプリンス高明が自分の縁戚につらなる為平親王を皇位につけようとしたということで、謀反の罪をかぶせられたんですね。伊尹や兼家らによる陰謀でした。これが安和の変です。これは藤原氏が源氏に仕掛けた罠でした。高明はその罠に引っかかり、失脚した。ゲームに敗れたんです。案の定、冷泉天皇が退位して円融天皇が11歳で即位すると、伊尹が摂政となり、さらに太政大臣になる。伊尹には兼通と兼家という二人の弟がいるのですが、これは骨肉の争いをして兼家が勝ちます。そうなると兼家は自分をなんとか関白にしてもらいたいと円融天皇に願い出て、自分の娘を円融天皇の女御として入内させたのです。この娘が誰あろう、詮子(せんし)です。詮子は円融の第一皇子を産みます。懐仁(かねひと)親王です。誰だかわかりますか。すなわち一条天皇でした。これで事態は決定的です。兼家は寛和2年(986)にわずか7歳の一条天皇を即位させ、自分は摂政に就きます。紫式部は17歳になっていました。この年はぼくが好きな花山天皇が兼家の策謀で宮廷を逃げ出さざるをえなくなって、山科の花山寺で出家してしまった年でもありました。
だいたい話がつながってきましたね。この兼家の五男こそが、かの藤原道長なのです。あとはもはや推して知るべし、道長は長徳2年(996)に左大臣になり、紫式部が宜孝と結婚したあと、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に入内させました。その彰子が西暦1000年ちょうどに中宮となった前後から、紫式部は『源氏』の物語構想をかためて書き始めているんですね。そして36歳のとき、式部は中宮彰子の女房として出仕したわけです。
この流れのなかでは、やはり源高明がその後の藤原摂関政治の強固な土台を築いた藤原兼家にしてやられたことが、式部の筋書きに大きな暗示を与えていたのだと思います。ここに「光の君」を「源氏」にしたかった理由も、朱雀帝や冷泉帝という歴史的に実在した帝の名をあえて虚実混合のためにまぜた理由も、ひいては『源氏=物語』というタイトルが定着していった理由も立ちのぼっていたように、ぼくは思います。ところで、これまで多くの学者によって光源氏のモデルが取り沙汰されてきましたが、そこには嵯峨源氏の源融(ミナモトのトオル)から村上天皇の第八皇子の具平(ともひら)親王まで、在原業平(ありわらのなりひら)から藤原道長まで、いろいろ候補があがっているのですが、ぼくには紫式部は醍醐源氏の源高明を光源氏のメインモデルにしていたように思われます。そのくらい高明にはいろいろの条件が揃っている。斎藤正昭の『源氏物語のモデルたち』(笠間書院)や西穂梓の『光源氏になった皇子たち』(郁朋社)を読まれると、もっともっとピンとくるでしょう。
ざっとこういうところが、式部が摂関政治の高揚以前の聖代という「御時」を選んだ理由の背景にある事柄です。わかりやすくいえば、醍醐・朱雀・村上・冷泉の4代が、桐壺帝・光源氏・夕霧・匂宮と続く『源氏物語』の4代に当たっているとみればいいのではないかと思います。それはまた、藤原兼輔・雅正・為時・紫式部という式部の4代にもほぼ対応しているとみなせます。夕霧と柏木の物語のところが、式部のお父さんの為時の代に当たっているんですね。しかし、このような「御時」(おんとき)の代々は容易な時代社会ではなかったとも言わなければなりません。なにしろしょっちゅう「もののけ」が出現した。そのつど宮廷の高級官僚たちはのべつ加持祈祷をせざるをえなかったのです。そのため宮廷社会の誰もがどこかで悔過(けか)や仏道への思いを抱かざるをえなかったのです。つまりはしだいに「無常」がはびこっていたのです。そこでここからは、式部が以上のような物語舞台を「母なる国語」として語るにあたって、なぜ曖昧な表現や描写で物語を埋め尽くしたかということにカーソルを動かして、少し深掘りしてみようと思います。式部は「人」ではなく「もの」を書こうとしたのです。ここからはぼくがずっと考えてきた大事なモンダイになります。
一言でいえば、『源氏物語』という作品は「うた」と「もの」による物語でできています。ただし、それは古代的なものではありません。平安王朝の、天皇と摂関が柔らかくも苛酷な鎬を削っている時代の「うた」と「もの」による物語です。それを紫式部はどうしてあんなにすばらしい物語にして綴れたのか。そのようにすることが「うた」と「もの」の物語になるだろうと思ったのですね。人ではなくて「うた」によって、事ではなくて「もの」によって物語を語ろうとすれば、それに応じた語り方が事件の顛末にも宮廷社会の本質にも及ぶだろうと思ったにちがいありません。だったら自分はいま「光の君」を中心にした皇室の出来事を思いついたのだけれど、この物語は摂関藤原一族の栄華の物語であってはならない。そこから逸れている「うた」と「もの」の『源氏の物語』を語るべきだろうということだったのではないかと思います。曖昧にしたかったのではなく、また何かに憚ったのでもなかったのです。『源氏』はほとんど主語をつかわないで物語を仕上げるという快挙をなしとげているのですが、それは表現を曖昧にしたいからではなく、物語という世界に日本古代から継承されてきた「うた」と「もの」が変移変質していたことを訴えたかったから、そうなったんですね。その「うた」と「もの」は古代を残照させてはいても、あくまでも醍醐・村上の聖代に近い「うた」や「もの」の物語でなくてはならない。たんなる摂関の物語にしてはならない。式部はそう考えたのだろうと思います。つまり『源氏』の主語は光源氏でも数々の登場人物でもなく、「うた」を通した「もの」だったのです。これが式部が選んだ「日本という方法」でした。
日本における物語はもともとが「もの・がたり」と「うた・がたり」でできています。古来の「もの・がたり」は神謡(かみうた)のなかの、ノリトとヨゴトの間から発生してきたのだろうと思います。ノリト(祝詞・詔詞)は神が一人称で語る無時法の呪言のようなもので、ヨゴト(奏詞)はその神に託して語られた言霊(ことだま)でした。いずれも「もの」の霊力を衰えさせないで漲らせるためのメッセージです。つまり当初においては神や祖霊のような「もの」による「かたりごと」が先行してあったのだろうと思います。けれども、その古代的な神や祖霊が時代社会がすすむにつれて「正体がわからないようなもの」になってきた。フルコト(古言)も忘れられたり、あまり使われなくなっていったのです。斎部広成(いんべのひろなり)の『古語拾遺』はまさにそのことについての苦情をしるしたものでした。こうした変遷のなか、ノリトやヨゴトの「神々しさ」と「縛り」がふたつながら薄れていって、そこに「もの」を「人」が語ったかのような、いわば人為的な「もの・がたり」の枠組みが発生してきたのです。そうすると『竹取』や『大和物語』や『伊勢物語』といった、いわゆる物語の変遷が生じてきます。しかし式部はそれだけでは満足できなかったのでしょう。そこに自分なりの「聖代」を入れて、新たな「根生い」を編集する気になったのです。
ひるがえって、本来の「うた・がたり」は古代豪族たちにおいては、氏族がその性格を宿らせて語ったものでした。たとえば大伴家持のルーツである大伴氏は歌力と武力の氏として、久米氏や佐伯氏とともに頭角をあらわした氏族です。その大伴氏は久米氏に久米歌がのこったように、大伴歌というスタイルをもっていたんでしょう。朝鮮半島にまで勢力を伸ばした大伴金村の前の代に、その名も大伴談(おおとものかたり)という人物がいるのですが、この「かたる」は言葉によって相手に霊力を及ぼすという意味です。そういう霊力をもつ「うた」を含んだ出来事がやがて「うた・がたり」として伝えられてきたんだろうと思います。
しかし、神や祖霊の一人称の「もの・かたり」が二人称や三人称になって「人」による物語化がすすんだように、「うた・かたり」のほうも歌詠みという個人の一人称語りが突出するようになると、これらの「うた」をつなげることだけでも歌物語ができてきます。そうなると、古代的な「うた」は新たに「歌」あるいは「やまと歌」と呼ばれるようになって(つまり和歌になって)、個々の才能を競う歌合(うたあわせ)のツールにもなったんですね。けれどもそれは、もはや人麻呂が古代天皇霊を詠んだ長歌や反歌ではないのです。それゆえここからは、歌を人につなげた『伊勢物語』や『宇津保物語』のような物語ができあがっていったわけです。こうしたことを紫式部は歴史的な知識だけではなく(それもけっこうなものだったはずですが)、もっと大きな勘として、「日本という方法」の流れとしてわかっていたんだろうと思います。それなら、人麻呂でも『伊勢』でもない物語を、新たにどう書けばいいのか。式部が発見したのは「面影」を追い移っていくという編集方法です。その面影による物語は何かと言ったら、それは人や事そのものではなく、それらを反映した「もの」の物語なんですね。
では、その「もの」っていったい何なのか、ということですね。さらには、その「もの」を「あはれ」と感じる「もののあはれ」とは何なのか、また、その「もの」がシャドウやダークサイドで動いて「もののけ」(物の怪、物の気)になるとはどういうことなのか、ですね。まずは『源氏』が「もののけ」のふるまいを何度も描いたことについて、これは何だったのかということに触れてみます。夕顔や葵の上に取り憑いた「もののけ」とは何だったのか。『源氏』に出てくる「もののけ」はずばりいえば、前夜にぼくが言ったように、『源氏』という物語を外から支配していた「もの」たちです。『源氏』という時代社会、それは「宿世」(すくせ)というワールドモデルに投影されていた出来事の網目そのものですが、その宿世の網目にあまねく遍在していたものです。つまり醍醐から一条までの、良房から道長までの、物語の外に実在していたものでした。
いまさら言うまでもなく、古代語においては「もの」は「霊」でも「物」でもあるものです。「ものものし」といえば何だか霊っぽいものと物っぽいものが一緒に動いているようなことを言いますし、「ものすごし」といえば名状しがたい霊物混然たる力のようなものを言う。このような「もの」はあれこれの具体的な事物のことではなくて、対象があからさまにできない「もの」たちです。今でも「ものさみしい」とか「ものしずか」と言いますが、これって、そのへんに置いてある物が寂しかったり、調度や家具が静かだったりするわけではありません。「ものぐるい」とか「ものぐるしい」というのも、何かよくわからないものと付き合ってしまったなという気分です。そういう「もの」が古代では「畏れ多いもの」と結びついていた。そう、思ってください。いや、そう思うしかないでしょう。だから英語的にわかりやすくするならスピリットとかソウルとしたいところなんですが、それはまた「魂」(たま)という言葉があって、ちょっと違ってくるのです。古代における「もの」はもっと何か、その場におこっているさまざまなことを包括してしまうような力をもっていたんですね。
たとえば、三輪のオオモノヌシがそうした「もの」の大神でした。オオモノヌシは三輪山を御神体とした三輪神社(大神神社)に祀られていて、蛇神とも水神とも雷神ともいわれている大神ですが、その意味は、文字通り大きな包括力をもった神だったということでしょう。だからこの大神は大物主とも大霊主とも綴れますし、大神を「おおみわ」とも読めました。記紀神話では出雲で国造りをはたしたオオクニヌシ(大国主)ともつながっている。それは「もの」が三輪とか出雲とかといった「くに」の霊力でもありえたことを示しています。実際にも第10代の崇神(すじん)天皇のときに国中で疫病が大流行したのですが、そのとき天皇の枕元に立ったのがオオモノヌシでした。それで「私の子孫であるオオタタネコ(大田多根子)に私を祀らせなさい」と宣託した。オオタタネコは蛇神の大物主がイクタマヨリヒメ(活玉依姫)に産ませた娘ですね。さっそく捜し出して大神を祀らせところ、疫病がてきめんに退散したとあります。
こういうオオモノヌシのような「もの」は包括力そのもののようなので、分解できません。また容易に触れることもできません。いわば「稜威(いつ)なるもの」なのです。稜威というのはあまりにも畏れ多い威力があるので、なんら説明がつかない神威を感じる状態をあらわす格別な言葉です。しかしところが、このような稜威を発揮していたはずの包括的な「もの」が、古代天皇の時代が過ぎると、つまり「大王」(おおきみ)の時代の力が後退するにしたがって、だんだん希薄になり、どんどん縮退し、ときには分解されて、歪んで異様なものに変じていったのです。一言でいえば古代的な「もの」は平安期に向かうにしたがって「人に憑くもの」に変質していったんです。おそらく言霊(ことだま)が変質していったように。
いったい霊魂を伴う「もの」がそれ自体で変質するのかといえば、おそらくそうではないでしょう。神や国や森や川とともにあった「もの」が人に憑くようになったというのは、人の世のほうが変質していったからです。価値観が変化したからです。人の世がしだいにあさましくなって、人のほうが、かつては包括的な力をもっていた「もの」と対応できなくなってきたんです。そう考えたほうがいい。そうすると、そういう人の世から見ると、「もの」は「人に取り憑くもの」というふうに見えてくる。そのうち「もの」のほうもどんどん凝りかたまっていく。それはいつしか怨霊(おんりょう)とか御霊(ごりょう)とか悪霊とか、まとめて「もののけ」と呼ばれていくんです。それにしても、なぜ「もの」は「人に憑くもの」として扱われるようになったのか。このことは歴史的にも説明できることなので、そしてそのことは『源氏』とも大いに関係のあることなので、ちょっとそのあたりのほうへカーソルを動かしてみます。
平安時代は「平安」の名とはうらはらに「不安」をかかえて開幕します。ずばりいえば、平安時代は御霊という「もの」とともに始まった時代でした。しかもこの御霊はその後の4、50年のあいだに、たちまち「もののけ」(物の怪、物の気)の横行に変化していったのです。ごくおおざっぱにその流れを見ると、すでに天平年間、聖武天皇の寵愛が篤かった玄ム(げんぼう)が不遇のうちに死ぬと、世間は藤原広嗣の霊のせいで加害させられたんだと噂していました。このあたりから「もの」は人の世の憎しみや恨みのようなものに関連させられ始めたんですね。それとともに不遇の死を遂げた者の死者の霊が怨霊とか御霊だとみなされるようになった。平安時代が近づくと、この傾向がもっと前面に出てきます。とくに桓武天皇とその皇子(のちの平城天皇)が早良(さわら)親王の怨霊に苦しめられたことは、平安時代初期の最もよく知られた話になっていく。
桓武天皇の父は光仁天皇で、母は朝鮮から帰化していた高野新笠(たかのにいがさ)です。二人が生んだのが山部親王で、のちの桓武です。光仁天皇は聖武天皇の皇女の井上内親王を皇后として、他戸(おさべ)親王も産んでいます。山部親王にはほかに同母弟の早良親王もいて、二人の弟はともに皇位を継承する候補者でした。ここに密告事件がおこります。井上皇后が夫の光仁天皇を呪い殺そうとしたという噂を、藤原百川が密告したんですね。そのため井上皇后と他戸親王は大和の宇智に幽閉され、数年後に母子ともに死んでしまいます。おそらく殺されたんだと思いますが、ところがその後、藤原百川の甥っ子の種継が東宮職の一人に暗殺されるという事件がおこると、犯行の疑いが早良親王にかかり、親王は淡路に流されてそこで自害するという悲劇的な事態が出来(しゅったい)します。これが延暦4年(785)のこと。桓武天皇が平安遷都するのはわずかその9年後です。平安時代というのはまことに血腥いスタートを切っているんですね。けれども事態はそれでおさまらなかった。桓武とその皇太子が懊悩と病悩に大いに苦しみ、それが早良親王の怨霊のせいだとされたのです。そればかりか、桓武は死の間際には井上皇后と他戸親王の怨霊にも苦しめられたと告白してしまう。そういうふうになっていったんです。
いまぼくはこれらをとりあえず怨霊というふうに説明しましたが、当時は「たたるもの」として、正体不明の「もの」が動いているとみなされたのです。神の祟りではなくて、憎しみや恨みをもった人的な「もの」が祟るんですね。そしてついでは、非業の死をとげた者の霊魂が「御霊」とみなされることになる。このような御霊はたんなるイメージや惧れや危惧ではありません。噂だけのものでもない。その証拠に早良親王にまつわる一連の事件は、貞観5年(863)に、朝廷がこの御霊たちを鎮魂し慰撫する儀礼を神泉苑でおこなうというふうにまでなった。これが「御霊会」(ごりょうえ)です(のちに祇園祭になりますね)。御霊会はヴァーチャルなネガティブイメージを相手にしているのではありません。このとき鎮撫された御霊はリアルな6体が名指しされている。早良親王、伊予親王(桓武の子)、藤原吉子(きっし・伊予親王の母)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢(たちばなのはやなり・承和の変の首謀者)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ・謀反者)の6体です。御霊が特定されただなんて、まことに驚くべきことです。このあたりのこと、大森亮尚の『日本の怨霊』(平凡社)や山田雄司の『跋扈する怨霊』(吉川弘文館)を読むと、もっとびっくりすると思います。が、モンダイは御霊にとどまらない。この驚くべき得体の知れない御霊は、ついでは菅原道真の怨霊となったりして内裏を震撼とさせたりするのですが、やがて形と中身を変えて内裏(だいり)を徘徊する複数の「もののけ」として動きまわることになっていったのです。これで宮廷社会はぐらぐら揺れ動いてしまいます。なぜなら死者の霊が動いただけではなく、生霊(いきりょう)もまた「もののけ」として動いたのです。話はだんだん『源氏』の物語とまじります。
最初に「もののけ」の動向が目立ってきたのは仁明天皇期の承和年間です。承和4年に「物恠」(こう綴ってもいました)が出現したときは、退散を祈願して常寧殿(じょうねいでん)で読経と悔過(けか)をしています。翌年にも「物恠」があらわれたので、桓武天皇を祀った柏原山陵で僧侶たちが読経しています。さらに3年後には五畿内七道諸国と太宰府で疫神を祭って、伊勢大神宮に奉幣をするという大規模なことまでやっている。それでも「もののけ」はいっこうに収拾しない。ついに大極殿・紫宸殿・清涼殿で般若経や薬師経を読誦したり、真言院で息災法や陀羅尼法を修するということにまでなっていきます。内裏と「もののけ」は切っても切れなくなった因縁のようになったのです。これでは『源氏』の随所に「もののけ」が出没するのは当然です。
以上のスケッチで見当がついたかもしれませんが、「もののけ」は生きている者や死んでいる者の怨念が凝りかたまって、生霊(いきりょう)や死霊(しりょう)となっていった「もの」でした。これが異様な邪気を放ち、前夜にも説明したように「よりまし」(憑坐)を派遣して徘徊する。また人から人へ飛び移る。「もののけ」は「よりまし」にくっついて初めてその正体の一端をあらわすというふうになっていったんです。夕顔、六条御息所、葵の上、浮舟たちを苦しめたのが、こうした「もののけ」と「よりまし」が一対につながっていた「もの」なのです。「もののけ」に対しては、当初は退治や退散を念じて、調伏や祈祷によって霧散させるしかありません。お祓いです。ところがそれがだんだん治療の対象になっていった。まるで正体不明の病気をもたらしたウィルスのような扱いになって、医事の対象になっていくんです。これは、かつては神威のように感じられた「もの」も、いまや病気に罹る時代になってしまったということです。まことにやるせない。
紫式部が少女の頃から人に聞き、本を読んで見聞していたのは、このように「もの」がついに治療の対象になっていった時代だったんですね。式部も「もの」がお医者さんにかかっているようで、変な感じがしたでしょう。では、そのような「もの」を『源氏』はどう扱ったでしょうか。「もののけ」が憑いた病気の治療シーンとして描いたでしょうか。紫式部はそんなふうにはしていない。たんなる病気にはしなかったんですね。では、どうしたのか。ここが決定的なところなのですが、式部はそこに「もの」の「あはれ」を見たのです。淡々と「もの」のふるまいが変質していくさまを、綴ることにしたのです。これは『竹取』や『伊勢』ではできなかったことでした。それで、どうなったのでしょうか。かくしてここに『源氏物語』全帖におよぶ「もののあはれ」観が貫かれることになったのです。
話はいよいよ佳境に入ります。『源氏』が「もの」を「あはれ」とみなしていることを見破ったのは、なんといっても本居宣長でした。宣長は賀茂真淵に『源氏』の根本力を強く示唆されたのですが、師の解釈力をはるかにこえた見方を打ち立てます。宣長のカーソルは光源氏と藤壺の不義に当てられ、そこに「もののあはれ」がうずくまっていると見たのです。これ、ものすごい洞察でした。
宣長は『玉の小櫛』でこんなふうに書いています。まだ「もののあはれ」の前段ですが、そこから入ってみます。「然るにくすし(薬師)の事はかかずして、げんざ(験者)の事のみ多くかけるは、神仏のしるしをあふぎ、げんざの力をたのむは、物はかなくおほどかに、あはれなるかたに聞ゆるを、くすしをたのみて、薬を用ふるは、さかしだちて、すこしにくきかた有て、あはれならず」。宣長は、『源氏』にはしばしば病いにかかった者たちのことが書かれているが、たいていは医者のことよりも験者のことが書いてある。それは病人のことを神仏の加護にたのみ、験者の加持祈祷などをあてにしているからで、それこそがとりとめなくて「あはれ」なところで、すばらしいと言うのです。そして、病人に薬を与えるなどというのはさかしらなことである、そんなことをするのは「あはれならず」ではあるまいか。そうとも、宣長は言っているのです。
このような説明は宣長の「もののあはれ」についての見方の中心にあるものではないけれど、そのぶん式部の表現の向う先にかなり突き刺さってわかりやすいところだと思います。それというのも、たとえば上野勝之の詳細な『夢とモノノケの精神史』(京都大学出版会)などを読んでみると、宮廷の貴族たちは時代がすすむにしたがって「もののけ」をそうとう具体的な治療対象にしているんですね。そこには古代このかたの「もの」の霊力がどんどんなくなりつつあることが見えてくるのです。宣長はそのへんを知ってか知らずかはわかりませんが、『源氏』が書いているような「もの」の扱いこそが「あはれ」なんだと断じる気になったのです。
ところで少しだけ話を迂回させますが、『源氏』のなかで夕顔や葵の上が「もののけ」に苦しめられて、結局はおぞましくも死んでしまったこと、またそこに六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の生霊などが関与していたことはよく知られているでしょうが、式部が『紫式部日記』の冒頭近くで「もののけ」に触れていることは、研究者以外にはあまり知られていないかもしれません。式部は『日記』には、彰子(しょうし)が「もののけ」に憑かれたことをとりあげているんです。彰子の場合も、葵の上と同様、皇子出産に際しての苦しみがきっかけでした。彰子は道長の娘で、一条天皇の中宮になっていたわけですから、ここで産まれた男児は次の皇位が約束されます。道長もそうなれば外祖父として君臨できる。だからとても大事な出産だったのですが、それがうまくいかない。ただちに「もののけ」の憑依だと診断されて、祈祷僧が呼ばれ、女房たちも憑坐に移し出すために侍らされ、さらには五大明王の壇が組まれて読経もおこなわれるというふうになります。
この一連の推移は、彰子が無事に皇子を産み、やがて後一条天皇になったというふうに落ち着くのですが(障子は葵のように死ななくてすむのですが)、この出来事を紫式部はかなり控えめに、淡々と書いているのです。すでに道長の屋敷で彰子の家庭教師のようなことをしていた式部ですから、あけすけに書けないことは当然ですが、『源氏』の本文と異なるのはそこに「もののけ」の正体を暗示すらしていないということです。研究者たち、たとえば坂本和子さんはその正体は道長の兄の道隆かその兄弟ではないか、山折哲雄さんはきっと道隆(道長の兄)の娘の定子(ていし)だったのではないかという説をたてていますが、式部は暗示すらしていません。ぼくはこのことがむしろ『源氏』には聖代でおこりそうな連想を、「日本という方法」の面影主義でもって描いた式部らしいことだと思うんです。ということで、ここからは「もののけ」ではない「もののあはれ」の話に入っていきたいと思います。やっと、ここまで辿り着きました。
周知のように「もののあはれ」は、宣長が『紫文要領』(しもんようりょう)や『源氏物語 玉の小櫛(おぐし)』において、『源氏』に最も顕著な情感であると指摘したキーコンセプトです。以来、さまざまに取り沙汰されてきた。「もののあはれ」というのは「もの」による「あはれ」のことです。宣長の説明によれば、「あはれといふは、もと見るもの聞くものの触るる事に心の感じて出づるなげきの声にて、今の俗言(よのことば)にもあはれといひ、はれといふ。これなり」というものです。見るもの、聞くもの、触るものに「あはれ」と感じることがあること、そのこと自体を実感するのが「もののあはれ」だという定義です。宣長以外は別の解釈もしています。たとえば『徒然草』では、「もののあはれは秋こそまされと人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、いまひときはは心も浮き立つものは春の気色にこそあめれ」というふうに、春秋を比較する感興に使っている。宣長はそういうこともあるけれど、むしろ「もののあはれ」は物語にこそ特有するもので、そこに儒仏の教えに頼らない価値判断が出入りするものなんだ、それが「もののあはれ」なんだと言いたいのです。さらには、こんなふうに書いている。ここからが「もののあはれ」の重要な説明になるのですが、それは『源氏』をどう読むかということの、最も劇的な見方にもなるはずです。
これでだいたいわかるように、誰もが感じてきた『源氏』における色好みや不実の行為を、式部があのように綴り切ったところが「もののあはれ」なのだというわけなのです。意外ですか。いや、意外じゃないでしょう。これこそが折口信夫が小林秀雄に、「小林さん、宣長は『源氏』ですよ」と言ったその心なんです。まさに岡野さんの言う「根生いの心」というものなんです。
「さて、物語はもののあはれを知る旨とはしたるに、その筋にいたりては儒仏の教へには背けることも多きぞかし」。物語は「もののあはれ」を知ることを中心にしたものなのだが、その筋道としては儒仏の教えに反することも多くなってくるものだと、まず宣長は世の常識を説明します。しかし、常識だけでは説明できないこともある。「そは、まづ人の情(なさけ)のものに感づることには、善悪邪正さまざまある中に、ことわりに違へることには感ずまじきわざなれども、情は我ながら我が心にもまかせぬことありて、おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」と進みます。教えに反することといっても、これは一筋では決めがたい。それというのも、人の「なさけ」(感情)が物事に動かされるというのは、世の善悪正邪がいろいろあるなかで、当たり前のことだろう。たしかに道理に反したことに感動していてはまずいだろうけれど、感情というものは自分でも自身の心の思うままにならないことも多々あって、なんとも忍びがたいことだっておこるのだと言うんですね。「おのづから忍びがたきふしありて、感ずることもあるものなり」というところが、とても重要です。
そこで宣長は『源氏』の例に入ります。「源氏の君の上で言はば、空蝉の君、朧月夜の君、藤壺の中宮などに心をかけて逢ひ給へるは、儒仏などの道にて言はんには、よに上もなき、いみじき不義悪行なれば、ほかにいかばかりのよきことあらんにても、よき人とは言ひがたかるべきに」。光源氏が空蝉や朧月夜の君や藤壺に思いを寄せて男女の契りを結んだのは、儒教や仏教からすればひどい不義悪行になるし、ほかにどんな「よきこと」をしてみても「よき人」とは言うわけにはいかないはずなのだが、と断ったうえで、さらに次のようにきっぱりと書くんです。「その不義悪行なるよしをば、さしもたてては言はずして、ただその間のもののあはれの深き方(かた)をかへすがへす書きのべて、源氏の君をば旨とよき人の本(もと)として、よきことの限りをこの君の上に取り集め足る、この物語の大旨にして、そのよきあしきは儒仏などの書の善悪とは変はりあるけぢめなり」とというふうに。
宣長は、こう言っているんですね。『源氏』は不義悪行を特別視してああだこうだと言うのではなく、その不義悪行の「間のもののあはれ」の深いほうへ、話をかへすがへす書いている。そうすることで光源氏の「よきこと」さえ感じさせている。これこそはこの物語の「大旨」であって、儒教や仏教の本とは違うところなのだ、そこが「もののあはれ」というところなんだ、というふうに。なんとも絶妙ですね。『源氏物語』は「間のもののあはれ」をみごとに書いている、そこがすばらしい。物語とはこうでなくてはならないと言うんです。
宣長はいま引用したところに続いて、もっとドラスティックに次のように書きました。ざっと読んでみます。「さりとて、かのたぐひの不義をよしとするにはあらず。そのあしきことは今さら言はでもしるく、さるたぐひの罪の論ずることは、おのづからその方の書どもの世にここらあれば、もの遠き物語をまつべきにあらず。物語は、儒仏などのしたたかなる道のやうに、迷ひをはなれて悟りに入るべき法(のり)にもあらず、また国をも家をも身をも治むべき教へにもあらず。ただ世の中の物語なるがゆゑに、さる筋の善悪の論はしばらくさしおきて、さしもかかはらず、ただもののあはれを知れる方のよきを、とりたててよしとはしたるなり。この心ばへをものにたとへて言はば、蓮を植ゑてめでんとする人の、濁り手きたなくはあれども、泥水を蓄ふるごとし。物語は不義なる恋を書けるも、その濁れる泥をめでにはあらず、もののあはれの花を咲かせんと料(しろ)ぞかし」だいたいわかると思いますが、世の現実のなかで不義密通が認められるわけではないけれど、それを断罪するのは儒仏の「したたかなる法や道」によるものであって、物語というのはそんなことでみんなに悟ってもらおうというものではない。むしろそういう危うい話を通して、ちょうど蓮を植えるのに泥から始めるように、物語もそのような泥を描きながら「もののあはれの花」を咲かせようとしているものなんだというのです。
かっこいいというか、きわどいというか。ああ、そこまで言っちゃったというか。なるほどそういうふうに切り返して言ってしまえばいいのかとも感じるかもしれませんが、これは逆説とか牽強付会とはまったく違います。宣長はパラドックスに遊ぶような国学者じゃありません。では、もう少し深々と。『紫文要領』には次のようにもあります。
「世中にありとしある事もさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる。これ、事の心をしる也。物の心をしる也。物の哀(あはれ)をしるなり。其中にも猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は物の心、事の心をしるといふうもの也。わきまへしりて、其しなにしたがひて感ずる所が物のあはれ也」。宣長は、世の中のよろずの事を目で見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけ、そのよろずを心で味わえば、ありのままのことを知ることができるはずだと言うんですね。ここは宣長がぐっと踏み込んでいるところで、「物の心」や「事の心」を知ることがとりもなおさず「もののあはれ」を知ることになると結論付けている中核です。ありのままがわかるのは自分で弁(ゆきま)えるというのではなくて、「もののあはれ」に「物の心」や「事の心」自体が従うということなのであると言いたいわけです。宣長は「物の心」や「事の心」がそのまま「もののあはれ」になるのだから、いちいち世事のことなど持ち出すな。そんなことを持ち出さなくてもすむように、言葉や認識をもつべきだと、そこを言っているんですね。まさにエミール・シオランです。
それにしても、見たり聞いたり触ったりする気持ちが、そのまま「もののあはれ」になっていくようなことって、あるんでしょうか。あるんですね。それが『源氏物語』が書いてみせたことなんです。それを書くために式部は、藤原氏の摂関政治から逸れていく「姓」なき光源氏の一族を設定し、一見、ふしだらとも思える色好みの性格を男君たちに付与し、不義や不実を随所に立ちはだからせることで「もののけ」の襲来を描き、それらを総じてみせつつ、この物語に「もののあはれ」を出入りさせたのです。
さあ、これでぼくが次に何を書こうとしているか、およそ見当がついたことだろうと思います。そうなんですね。3夜にわたったこの源氏もさすがに終盤にさしかかってきたのですが、いよいよもって宣長の言う「もののあはれ」を折口の言う「いろごのみ」に重ねてしまおうというのです。これは第1夜に少なからず予告しておいたことでした。
折口の全集第15巻(中央公論社)に「源氏物語」があります。折口はそこで、光源氏の性格が「一つの事を思ひつめるといふ執着心の深いところ」にあると書きました。そして「執着の深い人は信頼できます」とも書いている。光源氏は執着心が深いので信頼できるのだ、女君たちはそのことを重々、承知していたのだというのです。これだけでピンときてもらうとたいへんありがたいのですが、それではわかりにくいでしょうから、この次に折口が説明していることを言いますと、『源氏』は「おもひくまなし」というところがいいんだ、これは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」なんだと言うんです。
「おもひくまなし」なんです。「思ひ隈なし」。なんともいい言葉です。しかし、なぜ「おもひくまなし」がいいいのか。折口はそれは「思ひやりの深い」ということなんだと説明し、さらに次のように書いて、あっと驚くことを断言してしまいます。「誰でも人の言ふ語が何でもわかると思ひますが、なかなかさうはいかないので、人の言つてゐる語の意味は本道にはわからないのです。ところが源氏といふひとはそれがよくわかる人でした。これは女の望んでゐた性格だつたのです。さういふ性格は何処から出てゐるかと言ひますと、日本の昔の典型的な男の共通してもつ性格といふものがありまして、そこから来てゐるわけなのです。只今では誤解されてきてゐますが、色好みといふのがそれなのです」。
うーん、唸るような断言ですね。もう、これでいいじゃん、です。「執着心が深いところ」「おもひくまなし」なところ、それが色好みなんだというのです。色好みは「ゆきとどいて物を思ふといふこと」で、それは「思ひやりが深い」ということだというのです。まるで不倫不義を擁護しているかのようですね。これは参りますよねえ。しかし、折口はこのことに『源氏』の本質を見切っているのです。すでにぼくは第1夜に、古代の神々と英雄の時代では「いろごのみ」は武力に匹敵するソフトパワーであったということを書いておきました。そして、その古代的なソフトパワーは類的なものだったのだが、やがて宮廷社会が進むにつれて、いいかえればそこに藤原摂関政治が進んでいくわけですが、そのなかでしだいに個人的な事情に付与されてきたとも書いておきました。ということは、紫式部はこの宮廷物語において、光源氏や柏木や夕霧や薫たちを万事万端すみずみまで逸らせていくことによって、かの「いろごのみ」のソフトパワーを思ひ隈なく感じさせるようにしたということです。
だとすると、どうなるのでしょうか。そうなんですね。これは宣長が「目に見るつけ耳に聞くにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を心にあじはへて、そのよろづの事の心をわが心にわきまへしる」と言っていることに重なってきて、それはとりもなおさず「もののあはれ」を源氏が体現しているということになるわけです。「いろごのみ=もののあはれ」「もののあはれ=いろごのみ」だったのです。
なんだか、ここまで言ってしまうと、もうとくに付け加えることがなくなったような気分です。だから、さあこれでぼくの源氏モンダイはおわりです、ありがとうございましたと言ってもいいのですが、でもそれではいささかそっけないエンディングでしょうから、しばらく余韻が続く話をして、締めたいと思います。
藤原北家が良房から道長に向かって絶頂期を演じているなか、紫式部の周辺はしだいに視野が狭められていったのですね。もっと身分がよくなりたい、待遇がよくなりたいというのではない。そうではなくて、ああ、あの佳き時代はおわったのだという感慨です。この感慨は、今夜はまったく触られずじまいだったのですが、折から忍び寄っている末法感ともつながって、式部のなかに無常観や諦念観を育てていたのだと思います。一方、宮廷社会では男も女も隠れて不義密通をしているばかり、これでは誰が「もののけ」に祟られようと地獄に堕ちようと仕方ありません。しかし、式部は曽祖父の代からずっと、この宮廷社会の一部に組み込まれたままの身であって、そこを脱けることは、藤壺や六条御息所や空蝉や女三の宮のように出家してみることかもしれないけれど、それは朱雀院だって出家しても何も新たなことはおこらなかったのだから、いっそ浮舟のように入水するしかないのかもしれないのです。
メランコリックになっていた式部はどうしたか。ここで自分の逡巡のすべてを「物語」に託すことを思いつくのです。見れば宮廷も後宮も、世俗化してしまった「もの」たちにさんざん冒されている。かつての「もの・かたり」の「もの」はどこかに退いているようなのです。それなら、その「もの」の本来を見つめる語り手を描きつつ、その語り手が宿世(すくせ)にまみれた宮廷社会を「物語」の中に移して描けば、どうなるか。きっと半分くらいはうまく書けるにちがいない。でも、もう半分はきっと兼家や道長の世のリアリズムに巻きこまれ、その賛美までではないにしても、あらかた肯定してしまうような物語になってしまうにちがいないと、おそらく式部は考えたのでした。
だったなら、どこをどう変えようか。ここで思いついたのが光り輝くような君でありながら、そもそもその父帝が時代の中枢から逸れていったような宿命をもった子としての、「光の君」の投入でした。ただ、この主人公はすれすれでなければいけない。ぎりぎりを感じていなければいけません。とはいえ栄達や充実から最初から見離されているのでは、話になりません。ほとんど摂関家に対峙できるほどの素質と身分と可能性と財力に満ちていながらも、なぜか静かに退落していくような「あはれ」を宿していてもらわなければ困るのです。そして、もうひとつ。この「光の君」とその周辺の男君や女君たちは、宮廷でおこっている情交や不義や密通そのままを身に受けていて、かつ、その他のどんな宮廷の者たちよりも熱心な「色好み」であってもらわなければならないのです。とはいえ、それでは「性」と「好色」が行動規範のすべてになりかねない。式部はそこで桐壺の更衣の面影を追うことが、この物語全体の導きの糸になると確信したのだと思います。それならその周りに男たちと女たちの貌(かんばせ)と振舞(ふるまい)を組み合わせ、チャプター(帖)ごとに眩く複相的で重層的なポリフォニーを進行させればどうか。きっとこの決心がついたので起筆することにしたのでしょう。
もちろん、これだけで『源氏』各帖が書けたわけではありません。宮廷行事、四季のうつろい、室礼(しつらい)と調度の変奏、そしてなによりもふんだんの「うた」が交わされなければ、物語にはなりません。こうしたことのいっさいを出入りさせながら、式部がずっと貫き続けたことは、第1にこの物語が「根生い」の物語であること、第2には「いろごのみ」がそのまま「もののあはれ」になりうる物語であること、第3にはそして何もかもを「少しずらす」ことによって成立する物語をめざすということだったと、思います。そのため、まずは醍醐・朱雀・村上・冷泉の「聖代」の起伏を物語の時代舞台に設定したのですね。ついではこれを桐壺帝、光源氏、夕霧、薫の連鎖に移しつつ、それだけではただのオクターブ移行になってしまうので、そこに頭中将やら柏木やら明石の入道の、また藤壺やら夕顔やら朧月夜やら女三の宮の、つまりは相似と対比を相剋させるようなオブリック・ネットワークをめぐらしたのです。これで、面影の追慕の流れは桐壺の更衣から藤壺へ、紫の上へと月照りのように連なり、そこへ末摘花や空蝉の逸脱も、須磨・明石への逃避もまずまず入って、大筋の「ずらし」や、これも大事な式部の狙いであったろう「やつし」も、入ることになったのです。それでも、ここにはまだ決定的な「もののあはれ=いろごのみ」を発動させるエンジンが搭載されていないのです。それは何かというと、「罪と愛」を対同させるというエンジンです。この雅びのエンジンが静かな唸りを上げていなければなりません。
かくしてここに、ひとつには継母の藤壺と光源氏が愛しあって、ついに不実不義の子を出生するという、そこで生まれた子が冷泉帝になるという、少々オイディプスなエンジンが作動することになりました。もうひとつは何か。これは言うまでもなく葵の上と六条御息所をめぐって唸りを上げるエンジンです。もう詳しいことは書きませんが、このエンジンは悶死していった葵の上が産んだ子がほかならぬ光源氏の長男として物語をバトンタッチしていく夕霧だったということに、いっさいのフォーカスが向えるようにするエンジンでした。この二つのエンジンで式部が用意した「罪と愛」のヴァリアントが奏でられました。そしてその楽曲そのものが「もののあはれ」につながっていったのです。
言い残したことはかぎりなくありますが、ざっとざっとはこういうことでしょう。それでも柏木と女三の宮の関係の推移と、光源氏と女三の宮のあいだに生まれた薫の役割など、気がかりですね。このあたりの話は、『源氏』の終盤で大きく逸れていく物語のバイファケーションとして、これまでの仕掛けを破りかねない何かを孕んでいると思われたところです。そしてそこには、「もののあはれ=いろごのみ」にすら倦いた紫式部の強靭な厭世観と仏道観を感じるのですが、その話をするには、さらにもう1夜が必要です。ここは勘弁です。
「水鳥を水の上とやよそに見む 我も浮きたる世をすぐしつつ」(紫式部) 
 
 
和泉式部日記

 


黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき
和泉式部の父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘でした。式部は幼名を御許丸といい、父の官名から「式部」、夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれます。
母は介内侍と呼ばれた女房でしたから幼い頃には母の仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ちます。この頃に幼い為尊親王・敦道親王と会う機会があったともいわれています。十九歳の時、父の片腕であった実直な橘道貞と結婚して、翌年には娘に恵まれます。後の小式部です。
受領の夫の赴任先の和泉の国へついて行っていましたが、いろいろあってか式部は京に先に帰っています。この夫には後々も未練を残しているように思われます。
また、式部は歌人として若いときから名をはせていました。
離れて住む夫・道貞への思いを詠った歌の上手さが冷泉院の第三皇子の弾正宮為尊親王を引き寄せたとも、昌子中宮の病気見舞いに来られたとき為尊親王が一目惚れしたともいわれますが、二人は激しい恋に落ちます。二四歳のときのことです。美貌を誇る皇子に実直な夫にはない魅力をみいだしたのでしょう。このことは世の評判になり、夫の道貞も宮中での二人の噂を耳にします。このため夫婦はいつのまにか疎遠になり、事実上離婚の状態になってしまいます。身分違いの恋に父も怒って勘当します。
それでも、式部にとっては恋人がすべてでした。
しかし、この恋は二年ほどで終わります。長保四(一〇〇二)六月一三日、弾正宮為尊親王は 二六歳の若さで病であっけなく夭折してしまったのでした。 さて、物語は、この悲しみにくれるなか、やがて一年が経とうというところから始まります。式部二六歳のときのことです。 
一、橘の花
夢よりも更に儚く終わった亡き為尊様との恋を思い返しては嘆きを深くする日々を送りますうちに、いつしか一年近い月日が流れ、はやくも四月の十日過ぎにもなってしまい、木の下は日ごとに茂る葉で暗さを増してゆきます。塀の上の草が青々としてきますのも、世の人はことさら目にも留めないのでしょうけれど、あわれにしみじみと感じられて、為尊様を喪った夏の季節がまた巡って来るのだと式部には感慨深く思われるのです。
そうした思いで式部が庭を眺めていた折のこと、近くの垣根越しに人の気配がしましたので誰だろうと思っていますと、亡き為尊様にお仕えしていた小舎人童なのでした。
しみじみと物思いにふけっていた時でしたので懐かしく、
「どうして長い間みえなかったの。遠ざかっていく昔の思い出の忘れ形見とも思っているのに。」と取り次ぎの侍女に言わせますと、
「これという用事もなしにお伺いするのは馴れ馴れしいこととご遠慮申し上げておりますうちにご無沙汰をしてしまいました。このところは山寺に参詣して日を過ごしておりましたが、そうしているのも心細く所在無く思われましたので、亡き宮様の御身代わりにとも思い、為尊様の弟君である帥(そち)の宮敦道様のもとにお仕えすることにいたしました。」と童は語ります。 「それは大層良いお話ですこと。けれど帥の宮様はたいそう高貴で近寄りがたいお方でいらっしゃるのではないの。為尊様のもとにいた時の様にはいかないのでしょう。」などと言いますと、
「そうではいらっしゃいますが、たいそう親しげでもいらっしゃいます。今日も『いつもあちらに伺うのか』とこちらのご様子をお尋ねになりますので『参ります。』と申し上げましたところ、『これを持って伺い、どうご覧になりますかといって差し上げなさい』と仰いました。」と、取り出したのは橘の花でした。
自然と『五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする』という古歌が思い出されて口ずさまれます。
童が、「それではあちらに参りますが、どのようにご返事申し上げましょうか。」と言いますので、式部は、ただ言葉のみでのご返事というのも失礼なようですし、「どうしましょう、帥の宮様は色好みな方という噂はないのですから、どうということもない歌ならかまわないでしょう。」と思い、
「かをる香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると〔花橘の香は昔の人を思い出させるとか、けれども私はそれよりも、せめて昔と変わらぬあの方の声だけでも聞けないものかと、甲斐のない望みを抱いています。あなたのお声は兄宮様とそっくりなのでしょうか。〕」 と、橘の花に対して懐かしさを『ほととぎす』に見立て、『声ばかりこそ昔なりけれ』という素性法師の歌を踏まえたお返事をしたため、童に渡したのでした。
帥の宮がなんとなく落ち着かない思いで縁にいらっしゃる時、この童がまだ遠慮があるのか物陰に隠れるようにして何か言いたげでいるのをお見つけになられて、「どうであった」と声をかけますと、童はようやく近づいてきてお手紙を差し出します。
宮は式部の歌をご覧になられて、〔「兄上が人目も憚らず通い詰めていただけに、やはり並み一通りの女性ではない。」とでもお思いになられたのか、〕
「同じ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変はらぬものと知らずや
〔兄の声が聞きたいとおっしゃるのですね。おなじ母から生まれ一緒に育った私の声も亡き兄と変わりないのは、ご存知ではないでしょう。お訪ねして、声を聞かせたいものです。〕」
とお書きになられて、その歌を童に渡し、「こんなことをしていると人には絶対言うな。いかにも色好みのように見られるからな。」と、童に口止めして奥にお入りになりました。〔しかし、噂が広がるのは避けられないと思われます。〕
一方、式部は敦道様からのお歌に心ひかれるものはありましたけれど、そういつもいつもご返事するのはと思いそのままにします。
ところが、宮は一度お便りを贈られたとなると、間もおかず、また、
「うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
〔はっきり言葉にして思いを打ち明けずとも良かったものを、どうして打ち明けてしまったのでしょう。そうしたことでかえって苦しいほどに思い嘆いている今日この頃です。〕 」
というお文(ふみ)をお書きになったのでした。
式部は、もともと思慮深くもない人でしたから、男気のない慣れない心の虚ろに耐えかねてか、ふと心動かされ、おそらく本気ではないこうしたとりとめのない宮のお歌にも目が留まって、宮にご返事を差し上げます。
「今日のまの心にかへて思ひやれながめつつのみ過ぐす心を
〔苦しいまでに嘆いているとおっしゃいますが、僅か今日一日のあなたの嘆きと比べてどうぞご想像なさってみてください。あの方を亡くして以来ずっと物思いに沈んだままで過ごしている私の苦しい心を。〕」
〔こんな式部を、世間の人々がは軽々しい女だと言うのでしょう。〕

夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮すほどに、四月十余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、誰ならむと思ふほどに、さし出でたるを見れば、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり。
あはれにもののおぼゆるほどに来たれば、「などか久しく見えざりつる。遠ざかる昔のなごりにも思ふを」など言はすれば、「そのこととさぶらはでは、馴れなれしきさまにや、とつつましうさぶらふうちに、日ごろは山寺にまかり歩きてなむ、いと頼りなくつれづれに思ひたまうらるれば、御かはりにも見たてまつらむとてなむ、師の宮に参りてさぶらふ」と語る。「いとよきことにこそあなれ。その宮は、いとあてにけけしうおはしますなるは。昔のやうにはえしもあらじ」など言へば、「しかおはしませど、いとけ近くおはしまして、『つねに参るや』と問はせおはしまして、『参り侍り』と申しさぶらひつれば、『これもて参りて、いかが見給ふ、とてたてまつらせよ』とのたまはせつる」とて、橘の花をとり出でたれば、「昔の人の」と言はれて、「さらば参りなむ。いかが聞こえさすべき」と言へば、ことばにて聞えさせむもかたはらいたくて、「なにかは、あだあだしくもまだ聞え給はぬを、はかなきことをも」と思ひて、
薫る香によそふるよりはほととぎす聞かばやおなし声やしたると
と聞えさせたり。
まだ端におはしましけるに、この童、かくれの方に気色ばみけるけはひを御覧じつけて、「いかに」と問はせ給ふに、御文をさし出でたれば、御覧じて、
おなじ枝に鳴きつつをりしほととぎす声は変らぬものと知らずや
と書かせ給ひて、賜ふとて、「かかること、ゆめ人に言ふな。すきがましきやうなり」とて、入らせ給ひぬ。
もて来たれば、をかし、と見れど、つねは、とて御返り聞えさせず。
賜はせそめては、また、
うち出ででもありにしものをなかなかに苦しきまでも嘆く今日かな
とのたまはせたり。もとも心深からぬ人にて、慣らはぬつれづれのわりなくおぼゆるに、はかなきことも目とどまりて、御返り、
今日の間の心にかへて思ひやれながめつつのみすぐす心を
二、逢瀬
こうして宮はしばしばお手紙をお遣わしになられ、式部もご返事を時々差し上げます。ものさびしさも少し慰められる思いで式部は日を過ごしていました。
また、宮からのお手紙があります。文面もいつもより心こもっている様子で、
「かたらはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ
〔お目にかかってお話したら心慰められることもあるのではないでしょうか、まさか、私と話しても話し相手にもならずせんないこととは思わないでください。〕
兄宮を偲んでしんみりとお話しもうしあげたいのですが、今夕にでもいかがでしょう」とお書きになっておられたので、式部は、
「なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき
〔心慰められると伺いましたらお話ししたいのですが、私の身についたつらさはお話したくらいではおっしゃるとおり「言う甲斐も無く」どうにもなりませんでしょう。〕
『何事もいはれざりけり身のうきはおひたる葦のねのみ泣かれて(何もことばにすることができません、我が身のつらさは、生えている葦の根ならぬ音(ね)を上げて泣くばかりですから。)[古今六帖]』の歌のように、泣くしかなく会ってもどうしようもありませんでしょう。」と申し上げます。
宮は、思いもかけない時にひそかに訪れようとお思いになられて、昼から心準備なさり、ここ数日お手紙を取次いで差し上げている右近尉をお呼びになって、「忍んで出かけたい。車の用意を」とおっしゃるいます。右近尉は、「例の式部のところに行くのであろう」と思ってお供します。わざわざ飾り気のない質素なお車でめだたないようにお出かけになられ、「お目にかかりたく伺いました」と取り次がせなさったところ、式部はさしさわりがあるという気がしますが、「居りません」と言わせるわけにもいきません。昼間も手紙のご返事をさしあげていますから、家にいながらお帰し申し上げるのは心ない仕打ち過ぎましょうと思い、お話だけだけでもいたしましょうと、西の端の妻戸に藁座をさしだしてお入れ申し上げます。世間の人の評判を聴いているからでしょうか、宮の艶めかしく優雅な姿は並々ではありません。
そのお美しさに心奪われながら、お話し申し上げていると、月がさし上りました。たいそう明るくまばゆいばかりです。
宮は「古めかしく奥まったところにこもり暮らす身なので、こんな人目に付く端近の場所に坐り慣れていないので、ひどく気恥ずかしい気がします、あなたのいらっしゃるところに座らせてくださいませんか。これから先の私の振る舞いを見てください、決してこれまでお逢いになっていらっしゃる男たちのような振る舞いはしませんから。」とおっしゃいますが、「妙なことを。今宵だけお話し申し上げると思っておりますのに、これから先とはいったいいつのことをおっしゃるのでしょう。」などと、とりとめのないことのようにごまかし申し上げるうちに、夜はしだいに更けて行きます。
このままむなしく夜を明かしてよいものか、と宮はお思いになられて、
「はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせん
〔はかない夏の短夜を仮寝の夢さえも見ないで夜を明かしてしまいましては、いったい何を今宵一夜の思い出話にできましょう。〕」
とおっしゃいます。式部は、
「夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見るよひぞなき
〔夜になって寝るというのは、私にとっては兄宮様との仲を思い起こして涙で袖が濡れるということです、涙で苦しむ我が身にはのんびりと夢を見る宵などありません。〕
まして、弟の宮様と共に夜を過ごす心にはなれないのです。」と申し上げます。
しかし宮は後に引けないと思ってか、「私は軽々しく出歩いて良い身分ではないのです。思いやりない振る舞いとあなたはお思いになるかもしれませんが、ほんとうに私の恋心はなんとも恐ろしく感じられるほどに高ぶっています」とおっしゃられて、おもむろに御簾の内にすべり入りなさいました。
まことにせつないことの数々をおささやきなさりお約束なさって、夜が明けましたので、宮はお帰りになりました。
お帰りなさるやすぐに、「今のお気分はいかがですか。私の方は不思議なまでにあなたのことが偲ばれます。」とお書きになり、
「恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし
〔恋しくてたまらないと言ってもあなたは世間並みのありふれた恋心だとお思いでしょう。しかし、逢瀬の後の今朝の恋しさといったら、たとえようもない激しいものです。〕」
という歌をお添えになります。そのご返事に式部は、
「世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
〔おっしゃるとおりまったくありふれたことだとは私にも思われません、情を交わした後の思いに苦しみ、今朝ははじめて恋のせつなさを知りました。〕」
とご返事申し上げはするものの、「なんと不思議な我が身のさだめなのだろう。故宮があんなにも私を愛してくださったのに。」と思うにつけて、我が身自身が悲しく思われて思い乱れておりました。
そんな折、例の童がやってきます。
「宮からのお手紙があるだろうか」と思ったのですが、そうではありませんでしたのを「つらく苦しい」と式部は思いますが、それはなんとも好きずきしい心ではないでしょうか。
式部は小舎人童が宮のもとにお帰りになるのにことづけて申し上げます。
「待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬけふの夕暮れ
〔いづれあなたのおいでをお待ちすることになると思っておりましたが、これほど辛いということがありましたでしょうか、あなたのお出でを期待してもいない今日の夕暮れですが、お手紙もないので思いもかけない辛い思いでいます。〕」
宮は、和泉式部の歌をご覧になって、「ほんとうに心痛むことだ。」とお思いになられるものの、こうした女のもとへの夜歩きを続けることは続いてはなさいません。
北の方も、普通の夫婦のように仲むつまじくはしていらっしゃいませんが、毎夜毎夜外出するのも不審にお思いになるにちがいありません。また、兄宮が最期まで非難されなさったのも、この方のせいだった、と宮はお思いになられて慎まれますが、これも式部との仲を深い親密なものにしょうとはお思いなさらなかったからでしょう。
暗くなるころ、宮からのご返事があります。
「ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に
〔ひたすら待っているとでもあなたがおっしゃるなら、あなたの家に向けてためらわず行くはずのものですのに、「もしあなたのおいでを待ったとしても」などとおっしゃるとは。〕
私の思いがいいかげんなものではとあなたが思うのは残念なことです。」とありますので、式部は「いいえどういたしまして、私の方は、
かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれもむかしの縁こそあるらめ
〔あのような歌を差し上げましたが、こうしておいでがなくても不安だとは思われません。これもあなたとの仲が前世からの縁で結ばれているからでしょう。〕
とは存じておりますが、『なぐさむる言の葉にだにかからずは今も消ぬべき露の命を[後撰集](慰めてくれるお言葉さえも掛からないなら、今にも消えてしまいそうな露のような私の命です)』の歌のとおりです。」とご返事申し上げます。
宮は、式部のもとにいらっしゃろうとはお思いになりますが、新しい事態に気後れを感じられて、そのまま数日が過ぎていきました。 

かくて、しばしばのたまはするに、御返りも時々聞えさす。つれづれもすこしなぐさむ心地してすぐす。
また、御文あり。ことばなどすこしこまやかにて、
「語らはばなぐさむこともありやせむ言ふかひなくは思はざらなむ
あはれなる御物語り聞えさせに、暮れにはいかが」とのたまはせたれば、
「なぐさむと聞けばかたらまほしけれど身の憂きことぞ言ふかひもなき
生ひたる蘆にて、かひなくや」と聞えつ。
思ひかけぬほどに、しのびてとおぼして、昼より御心まうけして、日ごろも御文とりつぎて参らする右近の尉なる人を召して、「しのびて、物へ行かむ」とのたまはすれば、さなめりと思ひてさぶらふ。あやしき御車にておはしまいて、「かくなむ」と言はせ給へれば、女、いと便なき心地すれど、「なし」と聞えさすべきにもあらず、昼も御返り聞えさせつれば、ありながら帰したてまつらむも、なさけなかるべし。ものばかり聞えむ、と思ひて、西の妻戸に円座さし出でて、入れたてまつるに、世の人の言へばにやあらむ、なべての御樣にはあらずなまめかし。これも、心づかひせられて、ものなど聞ゆるほどに、月さし出でぬ。いとあかし。「ふるめかしう奥まりたる身なれば、かかるところにゐ慣らはぬを、いとはしたなき心地するに、そのおはするところにすゑ給へ。よも、さきざき見給ふらむ、人のやうにはあらじ」とのたまへば、「あやし。今宵のみこそ、聞えさすると思ひ侍れ。さきざきはいつかは」など、はかなきことに聞えなすほどに、夜もやうやう更けぬ。かくて明かすべきにや、とて、
はかもなき夢をだに見で明かしてはなにをか後の世語りにせむ
とのたまへば、
「夜とともにぬるとは袖を思ふ身ものどかに夢を見る宵ぞなきまいて」と聞ゆ。
「かろがろしき御歩きすべき身にてもあらず。なさけなきやうにはおぼすとも、まことにものおそろしきまでこそおぼゆれ」とて、やをらすべり入り給ひぬ。
いとわりなきことどもをのたまひ契りて、明けぬれば、帰り給ひぬ。すなはち、「今のほどもいかが。あやしうこそ」とて、
恋と言へば世のつねのとや思ふらむけさの心はたぐひだになし
御返り、
世のつねのことともさらに思ほえずはじめてものを思ふあしたは
と聞えても、あやしかりける身のありさまかな、故宮の、さばかりのたまはせしものを、と悲しくて思ひ乱るるほどに、例の童来たり。御文やあらむ、と思ふほどに、さもあらぬを、心憂し、と思ふほどもすきずきしや。帰り参るに聞ゆ。
待たましもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ今日の夕暮れ
御覧じて、げに、いとほしうもとおぼせど、かかる御歩きさらにせさせ給はず。
北の方も、例の人の仲のやうにこそおはしまさねど、夜ごとに出でむも、あやしとおぼしめすべし。故宮の御はてまでそしられさせ給ひしも、これによりてぞかし、とおぼしつつむも、ねんごろにはおぼされぬなめりかし。暗きほどにぞ、御返りある。
「ひたぶるに待つとも言はばやすらはでゆくべきものを君が家路に
おろかにや、と思ふこそ苦しけれ」とあるを、「なにか、ここには、
かかれどもおぼつかなくも思ほえずこれも昔のえにこそあるらめ
と思ひ給ふれど、なぐさめずは、つゆ」と聞えたり。
おはしまさむとおぼしめせど、うひうひしうのみおぼされて、日ごろになりぬ。
三、閉ざす真木の戸
四月の晦日に、式部は、
「ほととぎす世にかくれたるしのび音をいつかは聞かむけふもすぎなば
〔「五月待つ」というほととぎすは四月のうちは忍び音で鳴くと申しますが、その忍び音はいったいいつ聞けるでしょう、今日で四月が終ります、四月の内にはおいでいただけないのでしょうか。〕」
と歌を差し上げますが、宮のお近くには人々がたくさんお仕え申し上げていたときでしたから、ご覧に入れることが出来ません。翌朝になって使いが宮のもとに持って参りますと、宮は手紙をご覧になり、
「しのび音は苦しきものをほととぎす木高き声をけふよりは聞け
〔声を忍んでなくのはつらいものですが、五月になった今日からはほととぎすも高々と誇らしく鳴きましょう、これからは喜び溢れる私の声を聞いてください〕」
とお返事なさり、二、三日あっていつものように人目を忍んでお渡りになりました。
式部は、物詣でしようと精進潔斎している折でもあり、宮の訪れが遠のいているのも愛情がないのであろうと思いますから、特にお話申し上げもしないままに、仏道精進にかこつけ申し上げて、宮のお相手もせずに夜を明かしました。
翌朝、宮は、「風変わりな一夜を明かしたことです」などとおっしゃって、
「いさやまだかかるみちをば知らぬかなあひてもあはで明かすものとは
〔いやいやまだこんな恋の道があるとは知りませんでした、せっかくお会いしてもひとつ床に入りもしないで夜を明かすことがあろうとは。〕
驚きあきれました。」としたためます。
さだめしお驚きでいらっしゃるだろう、とお気の毒になり、式部は、
「よとともに物思ふ人はよるとてもうちとけてめのあふ時もなし
〔一生の間(毎晩)悩みに沈む私は、夜くつろいだ気持ちで寝るときもありませんし、あなたが近くに寄ることがあっても、気を許して添い臥すことはありません。〕
夜ごと眠れぬことや共寝しないというのは、私には珍しいこととも思われません」と申し上げたのでした。
翌五月四日、「今日お寺詣でにお出かけなさるのですか。いったいいつお帰りになるのでしょうか。いつにましてどんなにか待ち遠しく気がかりなことでしょう」と宮からお手紙があるので、式部は
「をりすぎてさてもこそやめさみだれてこよひあやめの根をやかけまし
〔降る五月雨もその季節が過ぎたらきっと止むように、悲しみも時の流れにきっと消えて、私もいづれ帰ってまいります。それとも今夜おいでですか。心乱しながらも、五月五日の前夜の雨降る今宵、万根を癒すという屋根に葺く菖蒲の根ではないですが、その文目(あやめ=道理)に従った音(悲しむ涙)で一緒に袖を濡らしましょうか。〕
というふうにでもお思いくださるべきでした。」とご返事申し上げ、物詣でに参籠しました。
三日ほどして帰りましところ、宮から、「たいそう気がかりになっておりましたので、参上してお逢いしよう思いますものの、先日はたいそうつらい目に会いましたから、なんとも気がふさぎ、また面目なくも思われまして、たいそう疎遠なことになってしまいましたが、ここ数日は、
すぐすをも忘れやするとほどふればいと恋しさにけふはまけなん
〔このままあなたのことを忘れられはしないかと思って過ごしていましたが、時間が経つと、たいそうあなたが恋しくなって、今日はその気持ちに負けてお訪ねすることにいたします。〕
私の並々でない気持ちを、いくら冷淡なあなたでもおわかりでしょう。」とあります。そのご返事を式部は、
「まくるとも見えぬものから玉かづら問ふ一すぢも絶えまがちにて
〔恋しい気持ちに負けたとおっしゃいますが、そうも思えません。玉葛(たまかづら)の蔓(つる)が長い一筋であるのに、その一筋の訪れも絶え間がちですから。〕」
と申し上げました。
宮は、お手紙の通りいつものお忍びでいらっしゃいました。
式部が「まさか今日はお越しではあるまい」と思いながら、ここ数日の勤行の疲れでうとうとしているときでした。宮の家来が門を叩きますが、それを聞きつける人もおりません。宮は、式部の数々の噂をお聞きになっていることもありましたので、きっと誰か男が来ているのだろうとお思いになり、そっとお帰りになられて、その翌朝、
「開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し
〔昨夜はあなたが開けてくださらなかった真木の戸口に立ちつづけて、これがあなたの薄情な気持ちの証拠なのだ、と思い知りました。〕
恋の辛さはここに極まると思うにつけて、しみじみ悲しいことです。」という宮のお手紙があります。
式部は「ほんとうに昨夜おいでになられたにちがいない。不用意にも寝てしまったものよ。」と思います。ご返事に、
「いかでかは眞木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む
〔どうして真木の戸を閉めたまま開けてもいないのに、私の気持ちが薄情かどうかおわかりになるのでしょうか〕
いろいろと変な邪推をなさっているようです。私の心を開けてお見せできれば「つらき心」などとは誤解されないでしょう。」と式部は記します。
宮はそれをご覧になって、この宵もまたお出ましになりたかったのですけれど、こうしたお忍び歩きをお側の者たちがお止め申し上げているだけでなく、内大臣(藤原公季・宮の母超子の父兼家の弟)や東宮(居貞親王・同母兄、後の三条天皇)といった方々がお聞きなさることがあったらたらいかにも軽薄な振る舞いと思われるだろうと、気おくれなさっておりますうちに、宮の次の訪れはたいそう間遠になるのでした。
五月雨が降り続いてたいそうものさびしいこの数日、式部は雲の切れ間もない長雨に、「私たちの仲はどうなっていくのだろう」とはてることのない物思いにふけり、「言い寄って来る男たちはたくさんいるが、現在ではなんとも思っていないのに、世間の人はあれこれ妙な噂を立てているようで、『いづ方にゆきかくれなむ世の中に身のあればこそ人もつらけれ[拾遺集](どこに姿を消そうか、人前に我が身があるからこそ他人もつらく当るのだろうから、姿を消しさえすればとやかく言われずに済むだろう)』という歌のとおり、どこぞに隠れてしまいたいもの」と思って過ごします。
そんな折、宮から、「五月雨のものさびしさはどうやって過ごしていらっしゃいますか」といって、
「おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたるけふのながめを
〔あなたはいつものとおりに五月雨が降っていると思っていらっしゃるでしょうが、実はあなたを恋い慕いつづける物思いが流す私の涙で雨が降りつづいている今日の長雨(景色)です。〕」
と詠んでこられたので、式部は「風流な時節を逃さずお手紙があるのがなんとも風情のあること」と思うのでした。また「ほんとうにしみじみとものさびしい時節だこと」と思って、
「しのぶらむものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
〔宮様が私のことを偲んで降る涙の雨とは存じませんでした、「数々に思ひ思はずとひがたみ身をしる雨は降りぞまされる[伊勢物語](あれこれと私のことを思ってくださっているのか、思ってくださっていないのか、お尋ねするのも難しいものですから、それ程にしか思われていない我が身の程を知っている雨は、このようにひどく降ってくるのでしょう。)」の歌のように、雨が降っているので私のもとに足を運んでくださらない、と思っておりました。伊勢物語ではこの後、男は蓑も笠も手にする余裕もないままに、ぐっしょりと濡れて、あわてふためいてやって来るのですが。〕」
と記して、その紙の一重を裏返して、透けて見えるのを見越して、
「ふれば世のいとど憂さのみ知らるるにけふのながめに水まさらなん
〔この世に生きるにつれて、つらい思いばかりを思い知らされます。降り続くこの長雨の大水に物思いにふける我が身は押し流されたいと思います。〕
そうして流れ出した私を待ち受け救ってくれる男の方(彼岸)はいるのでしょうか」と申し上げたのでした。これを、宮はご覧になられ折り返しすぐに、
「なにせむに身をさへ捨てむと思ふらむあまのしたには君のみやふる
〔どうしてまた大水に身までも捨てよう(出家しよう)とお思いなのですか、五月雨が降っていますが、天下に、あなただけが涙を流しているとお思いですか、私だってあなたと同じ思いで生きているのです。〕
歌に『なかなかにつらきにつけて忘れなば誰も憂き世やなげかざらまし[新後拾遺集](かえってつらいことがあるたびにそれを忘れてしまうのなら、誰もこの世を嘆かずにすむでしょう)』とありますが、あなたのことを忘れず思っているからこそ嘆いているのですよ」とご返事なさいます。 

つごもりの日、女、
ほととぎす世にかくれたる忍び音をいつかは聞かむ今日もすぎなば
と聞えさせたれど、人々あまたさぶらひけるほどにて、え御覧ぜさせず。つとめて持て参りたれば、見給ひて、
忍び音は苦しきものをほととぎす木高き声を今日よりは聞け
とて、二三日ありて、忍びてわたらせ給へり。女は、ものへ参らむとて精進したるうちに、いと間遠なるも心ざしなきなめりと思へば、ことにものなども聞えで、仏にことづけたてまつりて、明かしつ。つとめて、「めづらかにて、明かしつる」など、のたまはせて、
「いさやまだかかる道をば知らぬかなあひてもあはで明かすものとは
あさましく」とあり。さぞあさましきやうにおぼえしつらむ、といとほしくて、
「よとともに物思ふ人はよるとてもうちとけて目のあふ時もなし
めづらかにも思う給へず」と聞えつ。
又の日、「今日やものへは参り給ふ。さて、いつか返り給ふべからむ。いかに、まして、おぼつかなからむ」とあれば、
「をりすぎてさてもこそやめさみだれてこよひあやめの根をやかけまし
とこそ思ひ給うべかりぬべけれ」と聞えて、参りて三日ばかりありて返りたれば、宮より、「いとおぼつかなくなりにければ、参りてと思ひたまふるを、いと心憂かりしにこそ、もの憂く、恥かしうおぼえて、いとおろかなるにこそなりぬべけれど、日ごろは、
すぐすをも忘れやするとほどふればいと恋しさに今日はまけなむ
あさからぬ心のほどを、さりとも」とある、御返り、
まくるとも見えぬものから玉かづら問ふ一すぢも絶えまがちにて
と聞えたり。
宮、例の忍びておはしまいたり。女、さしもやは、と思ふうちに、日ごろの行ひに困じて、うちまどろみたるほどに、門をたたくに、聞きつくる人もなし。きこしめすことどもあれば、人のあるにや、とおぼしめして、やをら帰らせ給ひて、つとめて、
「開けざりし真木の戸ぐちに立ちながらつらき心のためしとぞ見し
憂きはこれにや、と思ふもあはれになむ」とあり。よべ、おはしましけるなめりかし、心もなく寝にけるものかな、と思ひて、御返り、
「いかでかは真木の戸ぐちをさしながらつらき心のありなしを見む
おしはからせ給ふめるこそ。見せたらば」とあり。こよひもおはしまさまほしけれど、かかる御歩きを人々も制しきこゆるうちに、内の大殿、春宮などの聞しめさむこともかろがろしうおぼしつつむほどに、いとはるかなり。
雨うち降りて、いとつれづれなる日ごろ、女は雲間なきながめに、世の中をいかになりぬるならむとつきせずながめて、すきごとする人々はあまたあれど、ただ今はともかくも思はぬを、世の人はさまざまに言ふめれど、身のあればこそ、と思ひてすぐす。
宮より、「雨のつれづれは、いかに」とて、
おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたる今日のながめを
とあれば、折を過ぐし給はぬを、をかしと思ふ。あはれなる折しもと思ひて、
しのぶらむものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
と書きて、紙の一重をひき返して、
「ふれば世のいとど憂さのみ知らるるに今日のながめに水まさらなむ
待ちとる岸や」と聞えたるを御覧じて、たち返り、
「なにせむに身をさへ捨てむと思ふらむあまのしたには君のみやふる
誰も憂き世をや」とあり。
四、長雨
五月も末になりました。梅雨はしとしとと相変わらず降り止みません。
先日の式部からのご返事がいつもよりも物思いに沈んでいる様子であったのを、宮はしみじみいとおしいとお思いになられて、ひどく雨の降った夜が明けた早朝、「昨夜の雨の音は恐ろしいほどでしたが・・」などとお手紙をお送りになられる。
式部が、
「よもすがらなにごとをかは思ひつる窓打つ雨の音を聞きつつ
〔『白氏文集』の「蕭々暗雨打窓雨=蕭々たる暗き雨、窓を打つ声」のように窓を打つ雨の音を聞きながら一晩中眠れずに私が何を思っていたかご存知でしょうか、あなたのこと以外は考えませんでした。〕
家の内にいたのですが、『降る雨にいでてもぬれぬわが袖のかげにゐながらひぢまさるかな[貫之集](降る雨の中に出ても濡れることのない私の袖が、部屋にいるのにどんどん濡れて行きます。)』の歌のように、不思議なほど袖は涙でびっしょり濡れています。あなたのお運びがないからでしょう。」とご返事申し上げましたところ、
宮は、「やはり気が利いていて言葉を掛ける甲斐のあるひとだ。」とお思いになられて、ご返事をお送りなさいます。
「われもさぞ思ひやりつる雨の音をさせるつまなき宿はいかにと
〔私も同じようにあなたのことを偲んでおりました、激しい雨の音を遮る妻戸のうちに、頼りになる夫(つま)もいないあなたはどうお過ごしなのかと。〕」
この日の昼頃、「加茂川の水が増した。」といって、人々が見にでかけます。宮もご覧になられて、「今どうしていらっしゃいますか。大水を見に出かけました。
大水の岸つきたるにくらぶれど深き心はわれぞまされる
〔大雨で川の水が岸を浸すほどですが、その深さを比べてみますと、私の愛情のほうがずっとまさっています。〕
そういうふうに私の気持ちをご承知ですか。」とお便りなさいます。
式部はご返事に、
「今はよもきしもせじかし大水の深き心は川と見せつつ
〔『思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね[古今集](思ってはいるが、人目を慎む堤が高いので、これくらいはただの川に過ぎないと見ながらも、渡ってそちらに行くことができません)』と歌にあるように、今となってはもうあなたは決して、岸ならぬ、私のもとに『来』たりはなさらいのでしょう、深いお気持ちを『かは(これくらい)』と大水の川ようだと見せてはいらっしゃいますが。〕
お歌ばかりで甲斐のないことです。」と申し上げたのでした。
宮が式部のもとにいらっしゃろうとお思いになられて、香をたき身づくろいなさっていますところに、侍従の乳母が参上して、「お出かけになるのはどちらですか。お出かけのことを、お側の者らがとやかくお噂申し上げているようです。その女は、特に高貴な身分ではありません。お使いになろうとお思いなら、お邸に召しいれてお使いになってください。軽々しく足をお運びになるのは、ほんとうにみっともないことです。そんな中でも、あの方は、男たちがたくさん足を運んでいる女です。不都合なことも引き起こりましょう。みなよくないことは、右近の尉の何とかいう者が始めたことです。亡くなった兄宮様をも、この者がその人のもとにお連れ歩き申し上げていたのです。夜の夜中までお出歩きなさったら、いいことがあるはずはありません(それで亡くなられたのですよ、お兄様は)。このようなご外出に伴う右近の尉のけしからぬところは、大殿(内大臣公季)様に告げ申し上げるつもりです。世の中が今日明日どう動くか分からないような時です、大殿様のお心づもりもおありでしょうから、世の中の動きがどうなるか見届けなさるまでは、こんな軽率なご外出はなさらないのがよろしいでしょう。」と申し上げなさいます。
宮は「どこに行くものか。ものさびしいからなんとなく遊びで香を焚きしめているだけで、どこかにでかけるわけではない。また、あの人について大げさにいうべきではありません。」とだけおっしゃられて、「たしかにあの方は、不思議なほどつれない女ではあるが、それでもやはり期待通りの人なのだから、邸に呼んで召人(めしうど・愛人)として置いておければよいのだが。」などとお思いにはなられが、そんなことをしたら、今以上に聞き苦しい噂が立つだろうとあれこれ思い乱れているうちに、足が遠のいてしまわれるでした。
やっとのことで宮は式部のもとにいらっしゃられて、「思いがけなく、不本意ながら足が遠のいてしまいましたが、冷淡な男だとお思いくださいますな。これもあなたのこれまでの過ちのせいだと思います。こうして私が足を運ぶのを不都合だと思う男の方々がたくさんあると聞いていますので、あなたに迷惑がかかっては気の毒だと思って遠慮していたのです。また世間体からも差し控えているうちに、いっそう足が遠のいてしまいました。」と生真面目にお話なさされて、「さあいらっしゃい、今宵だけは。誰にも見つからない場所があります。ゆっくり二人きりでお話申し上げましょう。」といって車を寄せてむりやりにお乗せになりますので、式部はしぶしぶながらも乗ってしまいました。誰かが聞きでもしたらたいへんと案じながら行くのですが、たいそう夜も更けていましたので、気付く人もおりません。宮はそっとひとけのない廊に車をさし寄せてお降りになりました。「降りなさい。」と強引におっしゃいますので、式部は月が明るく目立ちますから、見苦しく情けない気持で車から降りたのでした。
宮は「どうですか、ひとけもない所でしょう。今日からはこんなふうにして誰にも知られぬようにお逢い申しましょう。あなたのお邸では他の男の客があるのではと思うと、気がねですから。」などとしみじみとお話しなさいます。
夜が明けると車を寄せて式部をお乗せになって、「お家までお見送りにも参るべきでしょうが、明るくなってしまうでしょうから、私が外出していたと誰かに見られてしまうのは具合よくありません。」といって、宮はその邸にお留まりになりました。
式部は、ひとり帰る道すがら、「なんとも変わった逢瀬だったこと、人はどんなふうに思うのだろう(またまた悪評が立つのだろうか)」と思います。夜明けにお別れする際の宮のお姿がなみなみでなく艶めかしく見えましたのが思い出されまして、
「よひごとに帰しはすともいかでなほあかつき起きを君にせさせじ
〔毎宵毎宵あなたをお帰ししたとしても、どうして夜明け前に起きて私を見送るなんてことをこれ以上あなたにさせられましょう。〕
このように宮に見送られる逢瀬はつろうございました。」と書き送りますと、宮からは、
「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らんよひはまされり
〔早朝朝露が置くころ起きてあなたを見送るつらさに比べると、なにもせずにむなしく帰る宵の方がもっとつらいものです。〕
決して一夜を共に明かさず宵のうちに帰ることは聞き入れられません。今夕は方塞がりです。お迎えに参りましょう。」とご返事があります。
「なんとも、みっともない、いつもいつも私の方から出かけるわけにはいかない」と式部は思いますが、宮は、昨夜のように車でいらっしゃいました。車をさし寄せて「早く、早く。」とおっしゃいますので、「なんともみっともないこと」と思いながらもそろそろとにじりでて乗りましたところ、昨夜と同じところで親しくお話しなさいます。
宮の北の方は、宮がその父・冷泉上皇の院の棟にいらっしゃっている、とお思いです。
夜が明けましたので、「『恋ひ恋ひてまれにあふ夜のあかつきは鳥のねつらきものにざりける[古今六帖](恋しくて恋しくてたまにあなたと逢う夜の夜明けは、別れの時刻を告げる鶏の声がつらいものです)』という気持ちです。」と宮はおっしゃり、そっと式部とともに車にお乗りになって送っていかれます。その道すがら、「こんなふうにお連れする時は必ず。」とお宮がおっしゃるのに、式部は「こんなふうにいつも連れ出されるというのはどうしたものでしょう。」と申し上げます。式部を邸にお送りなさってから、宮はご帰宅なさいました。
しばらくして宮から後朝(きぬぎぬ)のお文があります。「今朝は鶏の声に起こされて、憎らしかったので、殺しました。」とおっしゃり、鶏の羽にお手紙を付けて。
「殺してもなほあかぬかなにはとりのをりふし知らぬけさの一声
〔たとえ殺したってなお飽き足りない気持です、私たちの気持ちを推し量れない今朝のひと鳴きは許せませんでした。〕」
式部から宮へのご返事は、
「いかにとはわれこそ思へ朝な朝な鳴き聞かせつる鳥のつらさは
〔どんなにつれなく辛いことかは私の方が切に感じています、毎朝毎朝宮のおいでがなく虚しく夜が明けるのを鳴き聞かせる鶏の声を聞くつらさは。〕
と思いますにつけても、どうして鶏が憎くないことがありましょう。」というものでした。 

五月五日になりぬ。雨なほやまず。
ひと日の御返りの、つねよりももの思ひたるさまなりしを、あはれとおぼし出でて、いたう降り明かしたるつとめて、「今宵の雨の音は、おどろおどろしかりつるを」など、のたまはせたれば、
「夜もすがらなにごとをかは思ひつる窓打つ雨の音を聞きつつ
かげに居ながら、あやしきまでなむ」と聞えさせたれば、なほ言ふかひなくはあらずかし、とおぼして、御返り、
われもさぞ思ひやりつる雨の音をさせるつまなき宿はいかにと
昼つ方、川の水まさりたりとて、人々見る。宮も御覧じて、「ただ今いかが。水見になむ行き侍る。
大水の岸つきたるにくらぶれど深き心はわれぞまされる
さは知りたまへりや」とあり。御返り、
「今はよもきしもせじかし大水の深き心は川と見せつつ
かひなくなむ」と聞えさせたり。
おはしまさむとおぼしめして、薫物などせさせ給ふほどに、侍従の乳母、まうのぼりて、「出でさせ給ふは、何処ぞ。このこと人々申すなるは、なにのやうごとなき際にもあらず。つかはせ給はむとおぼしめさむ限りは、召してこそつかはせ給はめ。かろがろしき御歩きは、いと見苦しきことなり。そがなかにも、人々あまた来かよふ所なり。便なきことも、出でまうで来なむ。すべてよくもあらぬことは、右近の尉なにがしがしはじむることなり。故宮をも、これこそ率て歩きたてまつりしか。よる夜中と歩かせ給ひては、よきことやはある。かかる御ともに歩かむ人は、大殿にも申さむ。世の中は、今日あすとも知らず変りぬべかめるを、殿のおぼしおきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かかる御歩きなくてこそおはしまさめ」と、聞え給へば、「何処か行かむ、つれづれなれば、はかなきすさびごとするにこそあれ。ことごとしう人は言ふべきにもあらず」とばかりのたまひて、あやしうすげなきものにこそあれ、さるはいとくち惜しうなどはあらぬ物にこそあれ、呼びてやおきたらまし、とおぼせど、さても、まして聞きにくくぞあらむ、とおぼし乱るるほどに、おぼつかなうなりぬ。
からうじておはしまして、「あさましく、心よりほかにおぼつかなくなりぬるを、おろかになおぼしそ。御あやまちとなむ思ふ。かく参り来ること便悪し、と思ふ人々あまたあるやうに聞けば、いとほしくなむ、大方もつつましきうちに、いとどほど経ぬる」と、まめやかに御物語りし給ひて、「いざたまへ、こよひばかり、人も見ぬ所あり、心のどかにものなども聞えむ」とて、車をさし寄せて、ただ乗せに乗せ給へば、われにもあらで乗りぬ。人もこそ聞けと思ふ思ふ行けば、いたう夜更けにければ、知る人もなし。やをら人もなき廊にさし寄せて、下りさせ給ひぬ。月もいとあかければ、「下りね」としひてのたまへば、あさましきやうにて下りぬ。
「さりや、人もなき所ぞかし。今よりは、かやうにてを聞えむ。人などのあるをりにや、と思へば、つつましう」など、物語りあはれにし給ひて、明けぬれば、車寄せて乗せ給ひて、「御送りにも参るべけれど、あかくなりぬべければ、外にありと人の見むもあいなくなむ」とて、とどまらせ給ひぬ。
女、道すがら、あやしの歩きや、人いかに思はむ、と思ふ。あけぼのの御姿の、なべてならず見えつるも、思ひ出でられて、
「宵ごとに帰しはすともいかでなほあかつき起きを君にせさせじ
苦しかりけり」とあれば、
「朝露のおくる思ひにくらぶればただに帰らむ宵はまされり
さらにかかることは聞かじ。よさりは方塞がりたり。御迎へに参らむ」とあり。あな見苦し、つねには、と思へども、例の車にておはしたり。さし寄せて、「早や、早や」とあれば、さも見苦しきわざかな、と思ふ思ふゐざり出でて乗りぬれば、昨夜の所にて物語りし給ふ。
上は、院の御方にわたらせ給ふ、とおぼす。
明けぬれば、「鳥の音つらき」とのたまはせて、やをら奉りておはしぬ。道すがら、「かやうならむ折は必ず」とのたまはすれば、「つねはいかでか」ときこ聞ゆ。おはしまして、帰らせ給ひぬ。
しばしありて、御文あり。「けさは、鳥の音におどろかされて、にくかりつれば、殺しつ」とのたまはせて、鳥の羽に、御文をつけて、
殺してもなほあかぬかなにはとりの折ふし知らぬけさの一声
御返し、
「いかにとはわれこそ思へ朝な朝な鳴き聞かせつる鳥のつらさは
と思ひたまふるも、にくからぬにや」とあり。
五、疑惑
二、三日ほどして、月がたいそう明るい夜、式部が縁先近くに座って月をみていますと、宮から「どうですか、月をご覧になっていますか」とお手紙があり、
「わがごとく思ひは出づや山のはの月にかけつつ嘆く心を
〔私がそうしているようにあなたも私のことを思い出しておいででしょうか、私は山の端に沈もうとする月にかこつけて(先日ともに見た月を思い出し「山の端の逃げて入れずもあらなむ(いつまでも一緒にいれたら)」と)嘆いているのですが。〕」
とありました。いつもの歌よりも趣き深い上に、宮のお屋敷で、月が明るかったあの時に一緒にいるのを誰かが見ていただろうか、などとふと思い出していたときでしたので、式部は、
「ひと夜見し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目は空にして
〔あの夜一緒に見た月と同じ月と思いますと思わずしみじみ眺めていますが、心も晴れずお出でもないので目は空に向いていても、あなたを思うと上の空です。〕」
とご返事申し上げ、なおも独りでぼんやりしているうちに、むなしく夜は明けてしまうのでした。
次の夜、宮がいらっしゃいましたが、式部の方では気付きませんでした。式部邸は、他の妹たちもそれぞれの部屋に住んでおりますので、妹の所に通ってきた車を、「車がある、きっと誰か男が来ているのだろう。」と宮は思い込みなさいます。不愉快ではありますが、そうはいっても、これで関係を絶ってしまおうとはお思いになられなかったので、お手紙をお送りになります。
「昨夜は私が参りましたことはお聞きになったでしょうか。それとも、(他の方と一緒で)お気づきになれなかったのでしょうか、と思うと、たいそう悲しくつらいことです」と記されて、
「松山に波高しとは見てしかどけふのながめはただならぬかな
〔「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山なみもこえなむ[古今集](あなた以外に浮気心を私が持ったら、末の松山を波が越えるでしょう、そんなことはどちらもありえません)」という歌がありますが、あなたが私を裏切って、松山に波が高まっていると思いましたが、今日の私の物思いは、ただごとではありません、この長雨についに波は松山を越えてしまうでしょう。〕」
というお歌が記してあります。
ちょうど雨が降っているときです。式部は「妙なことがあったものです。だれか宮にいつわりを申しあげたのでしょうか。」と思い、
「君をこそ末の松とは聞きわたれひとしなみには誰か越ゆべき
〔私に濡れ衣を着せるのは、あなたの方こそあなたの波が松山を越えて誰かいい人が出来て私を捨てようとなさっていらっしゃるのではないですか、いったい誰の波が同じように松山を越えようとするでしょう、私は心変わりなどしません。〕」
と申し上げたのでした。
宮は、この夜のことをなんとなく不愉快にお思いになられて、長い間お手紙もお送りにならずにいました。
しばらく後になって、
「つらしともまた恋しともさまざまに思ふことこそひまなかりけれ
〔私につらい思いをさせるあなたのことを薄情だともまた恋しいとも思い、心の安らぐ時がありません。〕」
とお詠みらられました。
式部は、ご返事としては、「申し開きせねばならない内容がないわけではありませんが、ことさらに言い訳めいてしまいますのも気後れいたしまして、
「あふことはとまれかうまれ嘆かじをうらみ絶えせぬ仲となりなば
〔あなたが私に逢ってくださるかどうか、今後がどうなったとしても嘆きませんが、あなたと恨みの絶えることのない仲となってしまったら嘆かずにはいられません。〕」
とだけ申し上げました。
こうして、この後はやはり宮との仲は遠のいていました。
月の明るい夜、式部は横になって、「かくばかり経がたくみゆる世の中にうらやましくもすめる月かな[拾遺集](このように過ごし難く見えるこの世の中に、うらやましいことに澄ん(住ん)でいる月ですこと。)」などと月を眺めては物思いにふけらずにいられなくて、宮にお手紙をさしあげます。
「月を見て荒れたる宿にながむとは見に来ぬまでも誰に告げよと
〔私が月を見ながら荒れ果てた家で一人淋しく物思いにふけっているとは、宮様がいらっしゃらなくても、宮様以外の誰に告げよというのでしょうか。〕」
樋洗(ひすまし)の女童に命じて、「右近尉に渡しておいで。」といって送ります。
宮は御前に人々を召してお話なさっていらっしゃる時でございした。(それゆえすぐにはお見せできず、)みなが退出してから右近尉がお手紙を宮にさしだしますと、「いつもの目立たない車で出かける準備をせよ。」とおっしゃって、式部のもとにいらっしゃいます。
式部はまだ端近で物思いにふけって月を眺めながら座っている時でしたが、誰かが邸に入ってくるので、簾を下ろしていますと、いつものように宮はいらっしゃる度毎の目新しい感じのするお姿で現れて、御直衣などたいそう着慣れて柔らかになっているのが、趣き深く見えます。何もおっしゃらずに、御扇に手紙を置いて、「あなたからのお使いが、私の返事を受け取らないままで帰りましたので、私が届けに参りました。」とおっしゃって簾の下からお差し出しになりました。式部は、お話し申し上げるにも場所が遠くて具合が悪いので、自分の扇を差し出して受け取りました。
宮も家の内に上ろう、とお思いになりました。そこで、前栽の趣深い中に進みなさって、「わがおもふ人は草葉のつゆなれやかくれば袖のまづしをるらむ[拾遺集](私の愛する人は草葉の露なのでしょうか、草葉に袖を掛けると露で濡れますが、それと同じに思いを懸けると涙で袖が濡れることです)」などとおっしゃいます。その様子は、たいそう優雅で気品があります。式部の近くにお寄りになって、「今宵はこのまま下がります。『たれにつげよ』と詠まれていましたが、あなたが誰に思いを寄せているのかを見定めようと思って参上したのです。明日は物忌みといいましたので、自宅にいないのもまずいと思って今日は下がります。」といってお帰りになろうとしますので、式部は、
「こころみに雨も降らなむ宿すぎて空行く月の影やとまると
〔試しに雨でも降ってほしいものです、それで我が家を通り過ぎて行く空の月の光が留まってくれるか、宮様もお泊りにまってくれないかと。〕」
と申し上げます。
宮は、式部が周りの人がいうよりも子供っぽくて、いじらしいとお思いになります。「いとしい方よ。」とおっしゃられてしばらく部屋にお上がりになって、お帰りになられるとき、
「あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく
〔残念なことに雲にかかる月が動くのに誘われて私の影も帰りますが、私の心はどこにも行きません。〕」
とお詠いになります。お帰りになってから、先程扇にお受けした宮のお手紙を見ますと、
「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
〔私ゆえに物思いにふけって月を眺めているとお告げでしたので、ほんとうかな、と思って見に出てきました。〕」
と記してあります。
式部は、「やはり宮は本当に風流でいらっしゃる。私のことをたいそうとんでもない女だとお聞きでいらっしゃるのを、なんとかして、考え直していただきたいもの」と思います。
一方宮もまた、「式部という方はつまらなくはない、もの寂しいときの慰めにしよう」とはお思いになりますが、お仕えしている人々が申し上げるには、「最近は源少将がおいでになるそうです。昼もいらっしゃるそうです。」とか、また、「治部卿の源俊賢様もいらっしゃるそうですよ。」などと口々に申し上げますので、宮は式部がひどく軽々しい人であるようにもお思いになられて、長い間お手紙もお送りになりません。
宮に仕える小舎人童がやってきました。樋洗の女童は、いつも語り合って親しくしていたので、「宮からのお手紙はあるのですか」というと、「お手紙はありません。先夜いらっしゃったときに、御門に車があったのをご覧になって、それからお手紙もお出しにならないようです。他の男が通っているようにお聞きになっているようすです。」などといって帰っていきます。
樋洗の女童から「小舎人童がこんなふうに言っています」と聞いて、式部は「ずっと長いあいだ何やかやと望みを私から申し上げることもなく、ことさら宮様におすがりすることもなかったけれど、時々こうして私を思い出してくださる間は、二人の関係は絶えないでいようと思っていましたのに、こともあろうに、こんなとんでもない噂のために私をお疑いなってしまわれた」と思うと、身も心もつらくて、「いく世しもあらじわが身をなぞもかくあまの刈藻に思ひみだるる(長くもないわが身がどうしてこう思い乱れるのだろう)。」と嘆いていますと、宮様からのお手紙が届きます。
「近ごろ妙に身体の具合が悪くてごぶさたいたしました。先日もそちらに参上しましたが、折悪く他の方の来ている時で帰るしかなかったのですが、本当に一人前扱いされていない気がしまして、
よしやよし今はうらみじ磯に出でてこぎ離れ行くあまの小舟を
〔ええもういいのです、今となってはもう「浦見」ならぬ「恨み」はしますまい、磯に出て岸からも私からも漕ぎ離れて行く漁師の舟ならぬあなたを。〕」
とありますので、あきれはてた噂をお聞きになっている上に、言い訳みたいなことを申し上げるのもきまりわるいのですが、今回限りはと思って、
「袖のうらにただわがやくとしほたれて舟流したるあまとこそなれ
〔「袖の浦」で藻塩を焼こうと潮を垂らしているうちに舟を流してしまった漁師のように、私の「袖の裏」に、ひたすら私の役(やく)として涙を流しているうちに、宮様に去られてよるべをなくしてしまいました。〕」
と式部は宮にご返事申し上げたのでした。 

二三日ばかりありて、月のいみじうあかき夜、端に居て見るほどに、「いかにぞ、月は見給ふや」とて、
わがごとく思ひは出づや山の端の月にかけつつ嘆く心を
例よりもをかしきうちに、宮にて、月のあかかりしに人や見けむと思ひ出でらるるほどなりければ、御返し、
ひと夜見し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目は空にして
と聞えて、なほひとりながめ居たるほどに、はかなくて明けぬ。
またの夜、おはしましたりけるも、こなたには聞かず。人々方々にすむ所なりければ、そなたに来たりける人の車を、車侍り、人の来たりけるにこそ、とおぼしめす。むつかしけれど、さすがに絶えはてむとはおぼさざりければ、御文つかはす。「昨夜は参り来たりとは聞き給ひけむや。それもえ知り給はざりしにや、と思ふにこそ、いといみじけれ」とて、
松山に波高しとは見てしかど今日のながめはただならぬかな
とあり。雨降るほどなり。あやしかりけることかな、人の空ごとを聞えたりけるにや、と思ひて、
君をこそ末の松とは聞きわたれひとしなみには誰か越ゆべき
と聞えつ。
宮は、ひと夜のことを、なま心憂くおぼされて、久しくのたまはせで、かくぞ。
つらしともまた恋しともさまざまに思ふことこそひまなかりけれ
御返りは、「聞こゆべきことなきにはあらねど、わざとおぼしめさむも、恥かしうて、
あふことはとまれかうまれ嘆かじをうらみ絶えせぬ仲となりなば」
とぞ聞えさする。
かくて、のちもなほ、間遠なり。
月のあかき夜、うちふして、うらやましくも、などながめらるれば、宮に聞ゆ。
月を見て荒れたる宿にながむとは見に来ぬまでも誰に告げよと
樋洗童して、「右近の尉にさしとらせて来」とてやる。お前に、人々して御物語りしておはしますほどなりけり。人まかでなどして、右近の尉さし出でたれば、「例の車に装束せさせよ」とて、おはします。
女は、まだ端に、月ながめて居たるほどに、人の入り来れば、簾うち下ろして居たれば、例のたびごとに目馴れてもあらぬ御すがたにて、御直衣などのいたう萎えたるしも、をかしう見ゆ。ものものたまはで、ただ御扇に文を置きて、「御使ひの取らで参りにければ」とてさし出でさせ給へり。女、もの聞こえむにも、ほど遠くて便なければ、扇をさし出でて、取りつ。宮も、のぼりなむとおぼしたり。前栽のをかしきなかに歩かせ給ひて、「人は草葉の露なれや」などのたまふ。いとなまめかし。近う寄らせ給ひて、「こよひはまかりなむよ。誰にしのびつるぞと見あらはさむとてなむ。あすは物忌みと言ひつれば、なからむもあやしと思ひてなむ」とて、帰らせ給へば、
こころみに雨も降らなむ宿すぎて空行く月の影やとまると
人の言ふほどよりもこめきて、あはれにおぼさる。「あが君や」とて、しばしのぼらせ給ひて、出でさせ給ふとて、
あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やは行く
とて返らせ給ひぬるのち、ありつる御文見れば、
我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり
とぞある。なほいとをかしうもおはしけるかな、いかで、いとあやしきものにきこ聞しめしたるを、きこしめしなほされにしがな、と思ふ。
宮も、言ふかひなからず、つれづれの慰めにとはおぼすに、ある人々聞ゆるやう、「このころは、源少将なむいますなる、昼もいますなり」と言へば、「また治部卿もおはすなるは」など口々に聞ゆれば、いとあはあはしうおぼされて、久しう御文もなし。
小舎人童来たり。樋洗童例も語らへば、ものなど言ひて、「御文やある」と言へば、「さもあらず。ひと夜おはしましたりしに、御門に車のありしを御覧じて、御消息もなきにこそはあめれ。人おはしまし通ふやうにこそ聞しめしげなれ」など言ひて去ぬ。
「かくなむ言ふ」と聞きて、いと久しう、なによかよと聞えさすることもなく、わざと頼みきこゆることこそなけれ、時々もかくおぼし出でむほどは絶えであらむとこそ思ひつれ、ことしもこそあれ、かくけしからぬことにつけてかくおぼされぬる、と思ふに、身も心憂くて、「なぞもかく」と嘆くほどに、御文あり。
「日ごろは、あやしき乱り心地のなやましさになむ。いつぞやも参り来て侍りしかど、折悪しうてのみ帰れば、いと人気なき心地してなむ、
よしやよし今はうらみじ磯に出でてこぎ離れ行くあまの小舟を」
とあれば、あさましきことどもを聞しめしたるに、聞えさせむも恥かしけれど、このたびばかりとて、
袖のうらにただわがやくとしほたれて舟流したるあまとこそなれ
と聞えさせつ。
 

 

六、七夕
こんな手紙のやりとりをしているうちに、七月になりました。
七日七夕、色事の好きな男たちのもとから、「あなたは織女、私は彦星、今宵逢いましょう。」などという恋文がたくさん届きますが、式部は目にも留めません。「こんな風流な時節には、宮様は時機を見過さずにお手紙くださったものなのに、ほんとうに私のことを忘れてしまわれたのだろうか。」と思っている丁度その時に、宮からお手紙が届きます。見ると、ただ歌だけで
「思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとは
〔あなたは我が身を織女の立場に置いて、逢いたい人に逢えずに天の河原をぼんやり眺めることになるなどと思ったことは今までなかったことでしょう(いつも男の方の陰のあるあなたですから)、いや、年に一度の逢瀬もかなわぬ身とは思いもしなかったことです。〕」
と記してあります。
「そんな皮肉を言ってもやはり、宮様は風流な時節をお見過ごしなさらないようだ。」と思うとうれしくて、
「ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりのわが身と思へば
〔あなたが物思いにふけってながめていらっしゃるという空さえも私は見る気になれません、年に一度の七夕にあなたから忌み嫌われているほどの我が身だと思いますと悲しくて。〕」
と式部はお返ししましたが、宮はそれをご覧になるにつけても、やはり式部を思い切ることはできない、とお思いになられます。
七月の末ごろになって、宮から「たいそう疎遠になって不安になっておりますが、どうして時折お便りをくださらないのですか。私など人並みにも思ってくださらないのでしょう。」とお手紙が届きますので、式部が、
「寢覚めねば聞かぬなるらむをぎ風は吹かざらめやは秋の夜な夜な
〔あなたは安らかにお眠りで夜に目が覚めたりなさらないから耳になさらないでしょう、あなたを招く(をぐ)荻(をぎ)を吹く風が吹かないときがありましょうか、秋の夜毎に荻の風は吹き、私は寝ずにあなたのお出でをお待ちしています。〕」
と申し上げますと、すぐに宮から、
「いとしい方よ、私が安らかに寝ているとおっしゃるのですか。『人しれず物おもふときは難波なる葦の白根のしられやはする[古今六帖](誰にも知られないように物思いをしているときは、難波にある葦の白根ではないが、ひとり眠られぬ苦しさを誰が知っているでしょう。)』と歌にあります、私の思いはあなたにさえ知られないくらい深いのです。通り一遍の重いではありません、
をぎ風は吹かばいも寢で今よりぞおどろかすかと聞くべかりける
〔私を招く荻を揺らす風が吹くものなら(もしお招きなら)、眠りもしないで、「今起こすか(吹くか・招くか)」と思って聞きいりましよう。〕」
とご返事があります。
こうして二日ほどして、夕暮れに急に宮がお車を引き入れて式部の邸にお降りになりますので、夕暮れのまだ陽の出ている時で、明るいところではまだ顔をお見せ申し上げていないので恥ずかしく思いますが、どうしようもなくてお会いしました。宮は、とりとめのないことなどをお話なされてお帰りになりました。
その後、数日が経ちますのに、たいそう不安になるくらいに、お手紙も下さいませんので、式部は、
「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
〔おぼつかない気持ちのまま暮れて行く秋の数日を数えるうちに、よくわかりました、『いつとてもこひしからずはあらねども秋の夕はあやしかりけり[古今集](いつもいつも恋しくないことはないのですが、秋の夕暮れは特に不思議なほど恋しく思われます)』という歌の気持が。それにしても先日はやはり不思議な訪れでした、他の人を訪れる途中のお立ち寄りだったのでしょうか。〕
『帰りにし雁ぞ鳴くなるむべ人はうき世の中をそむきかぬらむ[拾遺集](戻ってきた雁の鳴く声を聞くと、しみじみ人が恋われてなるほど人はつらいこの世に背を向けて出家しかねるのでしょう)』の歌ではないですが、宮様からのお便りがないからといって諦めきれず出家もしかねています。」と申し上げました。
宮から、「こんなふうに時が経って行くうちに間遠になってしまいました。けれども、
人はいさわれは忘れずほどふれど秋の夕暮れありしあふこと
〔『人はいさ心もしらず古里は花ぞ昔の香ににほひける[古今集](あなたはさあどうでしょう、人の心はわかりませんが、むかしなじみのこの地は、梅の花が昔のままの香りで私を歓び迎えてくれています)』ではありませんが、あなたはさあどうでしょうか、私はあなたのことを忘れません、どんなに時間が経っても、あの秋の夕暮れにお会いしたことを。〕」
とお手紙があります。
まことにとりとめもなく、頼みにもならないこのような歌のやり取りで、二人の仲を慰めておりますのも、思いみればあきれるほどに嘆かわしいことと式部は思います。 

かく言ふほどに、七月になりぬ。
七日、すきごとどもする人のもとより、たなばた、ひこぼしといふことどもあまたあれど、目も立たず。かかる折に、宮のすごさずのたまはせしものを、げにおぼしめし忘れにけるかな、と思ふほどにぞ、御文ある。見れば、ただかくぞ。
思ひきや七夕つ女に身をなして天の河原をながむべしとは
とあり。さは言へど、過ごし給はざめるは、と思ふもをかしうて、
ながむらむ空をだに見ず七夕に忌まるばかりのわが身と思へば
とあるを、御覧じても、なほえ思ひはなつまじうおぼす。
つごもり方に、「いとおぼつかなくなりにけるを、などか時々は。人数におぼさぬなめり」とあれば、女、
寝覚めねば聞かぬなるらむ荻風は吹かざらめやは秋の夜な夜な
と聞えたれば、たち返り、「あが君や、寝覚めとか。『もの思ふ時は』とぞ、おろかに、
荻風は吹かばいも寝で今よりぞおどろかすかと聞くべかりける」
かくて二日ばかりありて、夕暮れに、にはかに御車をひき入れて下りさせ給へば、また、見えたてまつらねば、いと恥かしう思へどせむかたなく、なにとなきことなどのたまはせて、帰らせ給ひぬ。
そののち、日ごろになりぬるに、いとおぼつかなきまで、音もし給はねば、
「くれぐれと秋の日ごろのふるままに思ひ知られぬあやしかりしも
むべ人は」と聞えたり。「このほどに、おぼつかなくなりにけり。されど、
人はいさわれは忘れずほどふれど秋の夕暮れありしあふこと
とあり。
あはれにはかなく、頼むべくもなきかやうのはかなしごとに、世の中をなぐさめてあるも、うち思へばあさましう。
七、石山寺参詣
こうしているうちに中秋の八月にもなってしまいましたので、式部は、もの寂しさを慰めようと、石山寺に参詣して七日ほども籠ろうと詣でました。
宮は、「長い間会わないでいることだ。」とお思いになられて、お手紙を送ろうとしますが、小舎人童が、「先日、私は式部様のお邸に伺いましたが、今の時期は石山寺にいらっしゃるそうです。」と、人を通じて宮にご報告申し上げましたので、宮は「それでは、今日はもう日が暮れて遅い。明朝石山寺に出向け。」とおっしゃってお手紙をお書きになり童にお与えになりました。
翌朝、童が石山寺に行ってみると、式部は住み慣れた都が恋しく、こうした参籠につけても、昔とはうってかわった我が身のありさまよと思いますとたいそう物悲しくて、仏のお前にはおらず、端近で熱心に仏を祈り申し上げているときでした。
高欄の下のあたりに人の気配がするので、不審に思って見下ろしてみると、この童です。うれしくも思いがけない所になじみの童が来ましたので、「どうしたのか。」と侍女に問わせますと、宮のお手紙をさしだしますので、いつも以上に急いで開けて見ます。
「たいそう信心深く山にお入りになったことです。どうして、こうなさるとさえおっしゃってくださらなかったのでしょうか。私を仏道の妨げとまではお思いではないでしょうが、私を置き去りになさるのがつらく思われます。」とのお手紙で、
「関越えてけふぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひを
〔逢坂の関を越えて今日私が手紙を送るとあなたはわかっていましたか、決して私のあなたを思う想いはこんなことでは絶えることはないのだという心くばりをおわかりでしょうか。〕
いつ山をお出になるのでしょうか。」と記されています。
近くにいらしてさえ間遠にして不安にさせなさいましたのに、こうして遠くまでわざわざ見舞ってくださるのが面白く、式部は、
「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
〔石山寺は近江路(あふみぢ)にありますが、あなたは私と「逢ふ道(逢う方法)」を忘れてしまわれたようと思って見ておりましたのに、逢坂の関を越えて私に逢おうと見舞ってくれる人はいったいどなたでしょうか(あの冷たい宮様だとはとても思われません)。〕
いつ下山するかとお尋ねになっていますが、私がいいかげんな信仰心で山に入ったとお思いなのでしょうか。
山ながらうきはたつとも都へはいつかうち出の浜は見るべき
〔石山ではありますが浮くものは浮くようにどんなに憂いつらいことが絶たれたとしても、また山にいて辛いことが続いても、いつの日か都めざして琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょうか。〕」
と申し上げました。
お受け取りになった宮は、「つらくてももう一度石山へ行け。」と童に命じられて、
「先ほど『逢おうと見舞ってくれる人は誰でしょうか』とかおっしゃいましたが、あまりにあきれたおっしゃりようです。
たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
〔あなたに逢おうと逢坂山を越えて訪ねて行く甲斐もなく、私が誰だかわからないほどに忘れることがあってよいものでしょうか。〕
本当なのでしょうか、
うきによりひたやごもりと思ふともあふみの海はうち出てを見よ
〔つらさからひたすら参籠しようとお思いでも、どうぞ私に逢うために山を打ち出て淡海の海(琵琶湖)の打出の浜を見てください。〕
古歌に、『世の中の憂きたびごとに身をなげば深き谷こそ浅くなりなめ[古今集](俗世でつらいことがあるたびに身投げをしたら、屍で深い谷も浅くなるだろう)』というではありませんか、簡単に「憂きたびごとに山籠る」などと言わないでください。」とお手紙をお送りなさいました。
式部はただこんな歌を、
「関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめ
〔逢坂山の関ではありませんが、宮様との逢瀬を思って堰き止めることのできない私の涙は、逢う身もつらい(憂み)と淡海の海(琵琶湖)の水となってきっと流れ(泣かれ)出ているでしょう。〕」
と書いてその端に、
「こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
〔ためしに自分の決意の程を試してみようと石山寺に籠っています、そちらに真のお心があるのでしたらさあ都に帰ろうとどうぞ私に会いに来て誘ってみてください(あなたの熱意次第ではないでしょか)。〕」と記します。
宮は、あの方が思いもかけない時に迎えに行きたいものだとはお思いになられますが、どうしてそんなことができましょう。
こんなやりとりの後、式部は石山寺を出て都に帰ったのでした。
宮から「あなたから、『戻ってくるかどうか誘ってみて』といわれましが、あなたが慌しく石山寺から出てしまわれたから迎えに行けませんでした、
あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ
〔予想外でしたよ、仏の道の山籠もりを途中で止めにして都へ戻っておいでとはいったい誰が誘ったでしょうか(私がお迎えに行く前に)。〕」とお手紙があります。
これのご返事には式部はただ歌だけを返します。
「山を出でて冥きみちにぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
〔石山寺を出て、法(のり)の導きのない無明の闇に包まれる昏冥(くら)い俗世にたどたどしくもどりました、もう一度宮様との逢瀬を持ちたいばかりに。〕」
八月末ごろに、風が激しく吹いて、野分めいて雨など降る時に、式部が、いつもよりもなんとなく心細く思われて物思いにふけっておりますと、宮からのお手紙が届きます。いつものように、時節を心得たかのようなお便りをくださいましたので、ふだんの薄情の罪をもきっとお許し申し上げたに違いありません。
「嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
〔お逢いできないのを嘆きながら秋の空を眺めますと、雲が乱れ動き風が激しく吹いています(私の気持ちか、あなたの不安なお気持ちの現われでしょうか)。〕」
この宮のお歌への、式部のご返事、
「秋風は氣色吹くだに悲しきにかきくもる日は言ふ方ぞなき
〔秋風は、ほんのわずか吹くだけでさえ悲しい気持ちになりますのに、こんなに空がかき曇る日は、なんともいいようもなくわびしいものです(逢いに来て下さいませんの)。〕」
宮は、なるほどそんな気持ちなのであろうとお思いになりますが、いつものように、訪れることのないまま一月ほどが過ぎていきました。 

かかるほどに八月にもなりぬれば、つれづれもなぐさめむとて、石山にまうでて、七日ばかりもあらむとてまうでぬ。
宮、久しうもなりぬるかな、とおぼして、御文つかはすに、童「ひと日まかりてさぶらひしかば、石山になむ、このごろおはしますなる」と申さすれば、「さは、今日は暮れぬ。つとめて、まかれ」とて、御文書かせ給ひて、たまはせて、石山に行きたれば、仏の御前にはあらで、古里のみ恋しくて、かかる歩きもひきかへたる身のありさまと思ふに、いともの悲しうて、まめやかに仏を念じたてまつるほどに、高欄の下の方に、人のけはひのすれば、あやしくて、見下ろしたれば、この童なり。 
あはれに、思ひかけぬ所に来たれば、「なにぞ」と問はすれば、御文さし出でたるも、つねよりもふとひき開けて見れば、「いと心深う入り給ひにけるをなむ。など、かくなむとものたまはせざりけむ。ほだしまでこそおぼさざらめ、おくらかし給ふ、心憂く」とて、
「関越えて今日ぞ問ふとや人は知る思ひ絶えせぬ心づかひを
いつか、出でさせ給ふ」とあり。
近うてだに、いとおぼつかなくなし給ふに、かくわざとたづね給へる、をかしうて、
「あふみぢは忘れぬめりと見しものを関うち越えて問ふ人や誰
いつか、とのたまはせたるは、おぼろけに思ひたまへ入りにしかも
山ながら憂きはたつとも都へはいつか打出の浜は見るべき」
と聞えたれば、「苦しくとも行け」とて、「問ふ人とか。あさましの御もの言ひや。
たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしやは
まことや、
憂きによりひたやごもりと思ふともあふみの海は打ち出てを見よ
『憂きたびごとに』とこそ言ふなれ」とのたまはせたれば、ただかく、
関山のせきとめられぬ涙こそあふみの海とながれ出づらめ
とて、端に、
こころみにおのが心もこころみむいざ都へと来てさそひみよ
思ひもかけぬに、行くものにもがなとおぼせど、いかでかは。
かかるほどに、出でにけり。「さそひみよ、とありしを、いそぎ出で給ひにければなむ。
あさましや法の山路に入りさして都の方へ誰さそひけむ」
御返し、ただかくなむ。
山を出でて冥き道にぞたどり来し今ひとたびのあふことにより
つごもり方に、風いたく吹きて、野分立ちて雨など降るに、つねよりももの心細くてながむるに、御文あり。例の、折知りがほにのたまはせたるに、日ごろの罪も許しきこえぬべし。
嘆きつつ秋のみ空をながむれば雲うちさわぎ風ぞはげしき
御返し、
秋風は気色吹くだに悲しきにかき曇る日は言ふ方ぞなき
げにさぞあらむかしとおぼせど、例のほど経ぬ。
八、暁起きの文
九月二十日すぎの有明の月が西の空にある頃のことです。
宮は目をお覚ましになって、「たいそう長いこと訪れないままになってしまったことだ。きっと今頃はこの月は見ていることであろう、他の男も一緒なのだろうか。」とお思いになられ、いつもの小舎人童だけをお供としておでかけになり、門を叩かせなさいます。式部が、目を覚ましていてなにやかや思いつづけて横になっている時でした。
式部は、何もかも、最近は、秋という季節柄だろうか、なんとなく心細く、いつもよりもしみじみとものがなしく思われ、物思いにふけっていたのでした。
「変だわ、こんな時間に誰だろう」と思って、前に寝ている侍女を起こして下男に誰だか問わせようとしますが、侍女はすぐには起きません。やっとのことで起こしても、あちらこちらぶつかってうろたえているうちに、門を叩く音は止んでしまいました。「帰ってしまったのでしょうか。物思いもなく惰眠をむさぼっているのだろうと思われでもしたら、なんとも心ないのんきな様子だととられることになってしまうが、きっと私と同じ気持ちで悩んでまだ寝ていなかった人なのだ。誰なのだろう。」と式部は思います。
侍女に起こされてやっとのことで起きた下男が、「だれもいませんでした。みなさま空耳をお聞きになられて、夜の頃合いに惑わかされる、なんとも人騒がせなお邸の女房様方だ。」といって下男はまた寝てしまいました。
式部は、寝ないで、そのまま夜を明かしました。ひどく霧の懸かった空を物思いにふけってながめながら、明るくなったので、今朝の夜明け前に起きた事情をそのへんの紙に気楽に書き付けていますと、いつものように宮からのお手紙が届きます。ただ歌だけが記されています。
「秋の夜のありあけの月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな
〔秋の夜の有明の月が西に沈むまでお邸の前にとどまっている訳にもいかずとうとう帰って来てしまいました。〕」
式部は「なんとまあ、まことに私のことを期待はずれな女だとお思いになっていらっしゃることだろう。」と思うとともに、「やはり風流な時節をお見逃しなさらないこと。まことにしみじみと趣き深い空の様子をご覧になっていらしたのだ。」と思うにつけて、うれしくて、さっきの手遊びのように書いていたものを、そのまま手紙として結んで宮にお返し申し上げます。
式部から届いた文を宮は御覧になります。
「風の音が、木の葉一枚散り残ることがないほどに吹いているのは、いつもよりもものさみしく感じられます。ぶきみなくらい空が曇っているものの、ただ気持ちばかりの雨がさっと降るのは、なんとももの寂しく思われて、
秋のうちはくちはてぬべしことわりの時雨に誰か袖はからまし
〔今、秋も終わろうとしていますが、秋のうちに私の袖は涙で腐ってしまうでしょう、そうしたら、この後に来る初冬の時雨にはいったい誰の袖を借りればよいのでしょうか。〕
なげかわしいと思いますが、そんな私を知る人もおりません。草の色までも以前見たのと違って色づいてゆきますから、時雨が降る十月にはまだ早いと思われますのに、吹く風に、草がつらそうになびいているのを見るにつけ、ただいますぐにも消えてしまいそうな露のようなはかない我が身が危うく思われ、草葉にかこつけて悲しい気持ちのままに、奥にも入らずにそのまま端近で横になってみましたが、少しも寝られそうにありません。侍女たちはみんな気楽に寝ていますが、心乱れて思い定めることもできそうもありませんので、なすこともなく目だけ覚ましていて、ひたすらこの身を恨めしく思いながら横になっておりますと、雁がかすかに鳴いています。今頃宮様は私と同じようには思い悩んでいらっしゃらないだろう、たいそう堪えられないという気がしまして、
まどろまであはれいく夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして
〔まどろみもしないまま、ああ、幾夜になってしまっただろう、毎夜ただ雁の鳴き声を聞くことばかりを繰り返して。〕
とこんな状態で夜を明かすよりはと思って、妻戸を押し開けましたところ、大空に、西へ傾いている月の光が遠く澄み切って見える上に、霧が懸った空の雰囲気、鐘の暁を告げる声、鶏の鳴き声がひとつに融け響き合って、更に、過ぎていった日々や現在これからのことごとが思い合わされ、これほどまでに心深く感じられる時はありますまいと、袖を濡らす涙の滴までが、しみじみといつになく新鮮なのでした。
われならぬ人もさぞ見むなが月の有明の月にしかじあはれは
〔私ではない他の人もきっとそう思って見ていることでしょう、しみじみした情趣は夜の長い長月(九月)の有明の月に及ぶものはなかろうと。〕
たったいまうちの門を従者に叩かせる人がいるとしたら、私はどう感じるでしょう。いやほんとに、いったい誰が私以外にこうして寝られずに月を見て夜を明かしている人がいるでしょう。
よそにてもおなし心に有明の月を見るやとたれに問はまし
〔どこかよそででも私と同じ気持ちで有明の月を見ていますかと尋ねてみたくとも、いったい誰に問うたらいいのでしょう。〕」
宮のもとに差し上げ申そうかと思っていたところに、宮からお手紙が届いたので、そのまま宮に差し上げました式部の文でしたから、宮は、それを御覧になり、期待はずれとはお思いになりませんが、お訪ねにはならず、式部が物思いにふけっているうちに急いで手紙をとお思いになられて、お届けになります。
式部がものおもいにふけって外を見てすわっているところに、宮からの返事をもってきましたので、余りに早いお返事に、はりあいのない気もしますが、急いで開けてみますと、
「秋のうちはくちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな
〔秋のうちに涙で私の袖も朽ちてしまったのに、私だけでなくあなたも、朽ちたのは自分の袖だけだとお思いでしたね。〕
消えぬべき露の命と思はずは久しき菊にかかりやはせぬ
〔消えてしまいそうな露のようなはかない命だと思わないで、寿命の長い菊になぜあやからないのですか。〕
まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける
〔少しも眠りもせずに雲の上の雁の声を聞いているのは、あなたの心から出たことでしょう、他の人を思ったり私の愛情を疑ってのことでしょうか。〕
我ならぬ人も有明の空をのみおなし心にながめけるかな
〔本当に私だけでなくあなたも、有明の空をひたすら私と同じ気持ちで物思いにふけって眺めていたのですね。〕
よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きしけさぞくやしき
〔離れてはいてもあなただけはこの月を見ているだろうと思って足を運んだのですが、あなたが起きていらっしゃると気付かずに帰って来てしまった今朝のことがまことに残念です。〕
そのまま夜を明かすことも門を開けることもまことに難しいことでできませんでした。」とあります。
やはり手習いの文をお送り申し上げた甲斐はあったのでした。
こんなことがあって、九月末ごろに宮からお手紙が届きます。
ここ数日の、ごぶさたの気がかりさなどをおっしゃって、「妙な頼みですが、常日頃、手紙のやり取りをしていた人が遠くに行くそうなので、先方が感心しそうな別れの歌をひとつ贈ろうと思いますが、あなたからくださる歌だけがいつもすばらしいので、ひとつ私の代わりに一首作ってくれませんか。」とあります。
「まあ、何とも得意顔。」と式部は思いますが、「そんな代作の歌はお作り出来ませんでしょう。」と申し上げるのも、たいそう気が利きませんから、「おっしゃるとおりにどうして上手にお詠み申し上げられましょう。」とだけ申し上げて、
「惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも
〔あなたとの別れを惜しんで流さずにはいられない私の涙の中に、あなたの面影が留まって欲しいと思う、私の気持ちも知らないで、秋が去ってゆく時に、あなたが行ってしまうとしても。〕
ご使用いただけるようには詠えません、我ながらきまりわるいことでございます。」と記し、紙の隅に次のように書き添えます。
「それにしても、
君をおきていづち行くらむわれだにも憂き世の中にしひてこそふれ
〔宮を置き去りにしてその方はどちらに行くのでしょう、その方ほどに宮に愛されていない私でさえ、このつらい宮との仲をこらえてこの世を過ごしておりますのに。〕」
こう式部が記してきたので、宮は、
「望みどおりの歌でしたと申し上げるのも、いかにも歌を理解していると恰好をつけるようで気が咎めます。しかし、添えてあるお歌は余りに邪推が過ぎます。『つらい男女の仲』とありますがそんな関係ではないのですから。
うちすててたび行く人はさもあらばあれまたなきものと君し思はば
〔私を捨てて旅に出る人はそれはそれでどうでもよいのです、ふたつとない存在だと他ならぬあなたが私のことを思ってくださるのなら、〕
それならこの辛い世を生きていけるでしょう。」とご返事なさったのでした。 

九月廿日あまりばかりの有明の月に、御目さまして、いみじう久しうもなりにけるかな、あはれ、この月は見るらむかし、人やあるらむ、とおぼせど、例の童ばかりを御供にておはしまして、門をたたかせ給ふに、女、目をさまして、よろづ思ひつづけ臥したるほどなりけり。すべてこのころは、折からにや、もの心細く、つねよりもあはれにおぼえて、ながめてぞありける。あやし、誰ならむ、と思ひて、前なる人を起こして問はせむとすれど、とみにも起きず。からうじて起こしても、ここかしこのものにあたり騒ぐほどに、たたきやみぬ。帰りぬるにやあらむ、いぎたなしとおぼされぬるにこそ、もの思はぬさまなれ、おなし心にまだねざりける人かな、誰ならむ、と思ふ。からうじて起きて、「人もなかりけり。空耳をこそ聞きおはさうじて、夜のほどろにまどはかさるる、さわがしの殿のおもとたちや」とて、またねぬ。
女は寝で、やがて明かしつ。いみじう霧りたる空をながめつつ、明かくなりぬれば、このあかつき起きのほどのことどもを、ものに書きつくるほどにぞ、例の御文ある。ただ、かくぞ。
秋の夜の有明の月の入るまでにやすらひかねて帰りにしかな
いでや、げに、いかに口惜しきものにおぼしつらむと、思ふよりも、なほ折ふしは過ぐし給はずかし、げにあはれなりつる空の気色を見給ひける、と思ふに、をかしうて、この手習ひのやうに書きゐたるを、やがてひき結びてたてまつる。
御覧ずれば、
「風の音、木の葉の残りあるまじげに吹きたる、つねよりもものあはれにおぼゆ。ことごとしうかき曇るものから、ただ気色ばかり雨うち降るは、せむかたなくあはれにおぼえて、
秋のうちはくちはてぬべしことわりの時雨に誰か袖はからまし
嘆かしと思へど、知る人もなし。草の色さへ見しにもあらずなり行けば、しぐれむほどの久しさもまだきにおぼゆる風に、心苦しげにうちなびきたるには、ただ今も消えぬべき露のわが身ぞあやふく、草葉につけてかなしきままに、奥へも入らで、やがて端に臥したれば、つゆ寝らるべくもあらず。人はみなうちとけ寝たるにそのことと思ひ分くべきにあらねば、つくづくと目をのみさまして、名残りなううらめしう思ひ臥たるほどに、雁のはつかにうち鳴きたる。人はかくしもや思はざるらむ、いみじうたへがたき心地して、
まどろまであはれ幾夜になりぬらむただ雁がねを聞くわざにして
とのみして明かさむよりはとて妻戸をおしあけたれば、大空に、西へかたぶきたる月の影、遠くすみわたりて見ゆるに、霧りたる空の気色、鐘の声、鳥の音一つに響きあひて、さらに、過ぎにし方今行く末のことども、かかる折はあらじと、袖のしづくさへあはれにめづらかなり。
われならぬ人もさぞ見む長月の有明の月にしかじあはれは
ただ今この門をうちたたかする人あらむ、いかにおぼえなむ、いでや、誰かかくて明かす人あらむ。
よそにてもおなし心に有明の月を見るやとたれに問はまし」
宮わたりにや聞えましと思ふに、おはしましたりけるよと思ふままに、たてまつりたれば、うち見給ひて、かひなくはおぼされねど、ながめゐたらむに、ふとやらむとおぼして、つかはす。女、ながめ出だしてゐたるに、もて来たれば、あへなき心地して引き開けたれば、
「秋のうちは朽ちけるものを人もさはわが袖とのみ思ひけるかな
消えぬべき露の命と思はずは久しき菊にかかりやはせぬ
まどろまで雲居の雁の音を聞くは心づからのわざにぞありける
我ならぬ人も有明の空をのみおなし心にながめけるかな
よそにても君ばかりこそ月見めと思ひて行きしけさぞくやしき
いと開けがたかりつるをこそ」とあるに、なほもの聞えさせたるかひはありかし。
かくて、つごもり方にぞ御文ある。日ごろのおぼつかなさなど言ひて、「あやしきことなれど、日ごろもの言ひつる人なむ遠く行くなるを、あはれと言ひつべからむことなむ一つ言はむと思ふに、それよりのたまふことのみなむ、さはおぼゆるを、一つのたまへ」とあり。あなしたりがほと思へど、「さはえ聞こゆまじ」と聞えむも、いとさかしければ、「のたまはせたることは、いかでか」とばかりにて、
「惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも
まめやかには、かたはらいたきことにも侍るかな」とて、端に「さても、
君をおきていづち行くらむわれだにも憂き世の中にしひてこそふれ」
とあれば、「思ふやうなり、と聞えむも、見知りがほなり。あまりぞおしはかり過ぐい給ふ、憂き世の中と侍るは。
うちすてて旅行く人はさもあらばあれまたなきものと君し思はば
ありぬべくなむ」とのたまへり。
九、手枕の袖
こんなやりとりをしているうちに十月にもなった。
十月十日ごろに宮は式部の邸にいらっしゃった。建物の奥は暗くて不気味なので、端近くで横になられて、寝物語にしみじみと愛の限りをお話になるので、心にしみることも多く式部にとってはお話を伺う甲斐がないわけではない。月は、雲に隠れ隠れして、時雨が降る折である。わざわざしみじみした趣きの限りを作りだしたような風情なので、式部の思い乱れる心は、ほんとうに訳もなくぞくぞくするほどであったから、その様子を宮も御覧になり、「人は式部を浮気でけしからぬ女のようにいうが、おかしな話だ、こんなに純で可愛げではないか」などとお思いになる。
宮はいとしくあわれにお思いになって、式部がぐったり寝ているようにして思い乱れて横になっているのを、宮は押し起こしなさって、
時雨にも露にもあてでねたる夜をあやしくぬるる手枕の袖
〔時雨にも夜露にもあてないで共に寝た夜なのに、なんとも不思議と濡れてますよ、あなたの涙で私の手枕の袖は。〕
とおっしゃるが、式部は何事につけてもただただ割り切れないほどの深い縁を感じるばかりで、ご返事申し上げようという気持もしないので、何も申し上げずにいた。こうしてただ月影の中で涙を落としている式部を、宮はなんともいじらしいとご覧になり、「どうして返事もなさらないのですか。私がとりとめないことを申し上げるので、気にいらないようにお思いでしたでしょう。なんともいじらしいこと」とおっしゃるので、式部は「どうしましたことでしょうか、身も心も乱れる気がするばかりでどうにもならないのです。お言葉が耳に入らないのではありません。どうぞ見ていてください、『手枕の袖』とおっしゃったことを私が忘れる時がありましょうか」と、冗談めかして言い紛らわす。
しみじみと趣深かった夜の様子もこんなふうに過ぎたのであったろうか。
翌十月十一日の朝、宮は、式部には自分以外に頼りになる男はいないようだと気の毒にお思いになり、「ただ今どうしておいでですか」とお便りなされたので、式部はご返事に、
けさの間に今は消ぬらむ夢ばかりぬると見えつる手枕の袖
〔今朝のうちに、今ではもう消えてしまっているでしょう、夢のように儚い仮寝に私の涙で少しばかり濡れたあなたの手枕の袖は。〕
と申し上げた。
宮は「『手枕の袖を忘れません』といったとおりで、趣きある歌だ」とお思いになって、ご返事する。
夢ばかり涙にぬると見つらめどふしぞわづらふ手枕の袖
〔夢を見るあいだだけの儚い涙に濡れた程度とあなたはお思いでしょうが、あなたの涙でびっしょり濡れてその上に伏しかねるほどでした、私の手枕の袖は。〕
(「涙」は心の思いを語り伝えるもの、深い想いの形見です。また、寝具として使われた「衣(袖)」には、直接的でエロチックな意義も重なります。「袖を交はす」「袖を継ぐ」「袖を重ねる」は、情交の美的な表現です。ですから「手枕の袖」は熱き恋(情交)の象徴といえます。)
十月十日の夜の空の風情がしみじみと身にしみて思われたので、宮のお気持ちが動いたのだろうか、それ以降、宮は、いじらしいと気がかりに思われて、しばしば式部邸においでになって、式部の様子をご覧になりめんどうを見るということをお続けになるが、式部が噂と違って男馴れている女性ではなく、ただもう頼りになげに見えるにつけても、たいそういじらしいとお思いなさって、しみじみと語り合い情を交わしていらしたが、
「そんなふうにあなたはものさびしく物思いにふけっていらっしゃるようですが、思い定めることはないのですが、今はただもう何も考えず我が邸にいらっしゃってください。周囲の人も私の行いを似合わしくないと非難しているようです。私が時々にしか参上しないからでしょうか、他の男の姿が見えたこともないけれど、周囲の人がたいそう聞き苦しい噂を伝えるうえに、また何度もあなたのお邸に足を運んでもとぼとぼと帰る時の気持ちはもうやるせなかったのですが、それも、自分が一人前の男扱いされていない気がしておりましたので、『どうしようか』と思うこともしばしばありましたが、私の古風な人柄からでしょうか、あなたへお手紙を差し上げることが絶えるのをたいそうつらく思われておりましたが、そうかといって、このようにお邸に参上し続けることはできそうもないのでして、本当に、周囲の人が私の行状を耳にして制止することなどがありますから、『わするなよ程はくもゐになりぬともそらゆく月のめぐりあふまで[拾遺集](私のことを忘れないでください、離れた距離は地上と雲との遠さに離れても、空行く月がいつか雲にめぐりあうように、その時まで。)』という歌のように、次に逢うのがいつになるかわからなくなってしまうでしょう。もしおっしゃるとおりにものさびしいのでしたら、我が邸にいらっしゃってはどうですか。妻などもおりますが、不都合なことは起きますまい。もともと私は、こんなふうに出歩くわけにはいかない身分だったせいでしょうか、誰もいないところに膝をつきあわせて座るような女の人もいないし、仏事のお勤めするときでさえ、たったひとりでいるのですから、あなたと同じ気持ちでお話して情を交わし申し上げることが出来たら、私の心が慰められることがあるのではないか、と思うのです」などと宮がおっしゃるにつけて、
本当にいまさらそんな慣れない暮らしがどうして出来ましょうなどと式部は思い、更に、「宮のお兄様師貞親王に宮仕えするお話もそのままですし、そうかといって『み吉野の山のあなたに宿もがな世のうきときのかくれがにせむ[古今集](吉野山の彼方に住処があったらいいのに、そうしたら俗世がつらいときの隠れ家にしょう。)』の歌にある山の彼方に道案内してくれる人もいないし、このままこの邸で過ごすについては、『人しれぬねやはたえするほととぎすただ明けぬ夜の心ちのみして[清正集](ほととぎすの人知れぬ場所で鳴く声(独り寝)が絶えることがあろうか、明けない夜の中をさまようなような悲しみのうちに)』の歌のように、明けることのない闇に迷っている気がするので、つまらない戯れをいって言い寄ってくる男も多くいたから私をけしからぬ女のように世間で評判しているようだが、そうかといって、宮以外に格別に頼りになる男もいない。さあどうしたものだろうか、宮のおっしゃるとおりにお邸に行ってみようか。北の方はいらっしゃるけれど、ただもう邸内で別々に住んでおいでで、万事身の回りの世話は御乳母がしているそうだし、私があらわに人目につくように出て言い広めでもするなら別だろうが、適当な目立たない場所にいるなら、どうして差し障りがあろうか。少なくとも、私に他の男がいるという濡れ衣はいくらなんでも立ち消えになるだろう」と思って、
式部は宮に、「何事もただもう『あはれと思へ山桜花より外に知る人もなし〔前大僧正行尊〕(山桜よ、あわれと思ってくれ。お前の外に私を理解する人はいないのだから)』の歌ではありませんが「私を知る人はいない」とばかりと思いながら過ごしております間の慰めとしては、このような折に、たまにでも宮様のおいでを待ち申し上げて、ご返事申し上げることよりほかにございませんので、ただもうどうでも宮様のおっしゃるとおりに、とは思いますが、別れ別れでいても世間はきっと私とのお付き合いを見苦しいことに申しているでしょう。まして私がお邸に上がったら、やはり噂はほんとうだったと世間が見でもしたら、いたたまれなく。」と申し上げると、
「それは私の方こそあれこれ言われましょうが、あなたのことを見苦しいとは誰が思いましょう。うまく目立たない場所を用意して、お知らせ申しましょう」などと頼りになりそうにおっしゃって、まだ夜が明けぬうちにお帰りになる。
式部は格子を上げたままでいたが、「このまま一人宮のおでましを待って端近に伏していてどうなろうか、また、愛人の身で宮のお邸に上がったら物笑いの種になるだろうか」などといろいろ思い乱れながら横になっているところに、宮のお手紙が届く。
露むすぶ道のまにまに朝ぼらけぬれてぞ來つる手枕の袖
〔露が降りた道をたどりながら、あなたの涙で濡れたままの手枕の袖を更に別れの辛い涙と朝の露に濡らし着て、想いを深くして帰ってきました。〕
例の、手枕の袖の誓いはたわいもない話に過ぎないのに、お忘れにならずに手枕の袖にからむ歌を下さるのも心にしみる。式部はすぐにお返しする、
道芝の露におきぬる人によりわが手枕の袖もかわかず
〔道端の芝の露が結ぶ時に起きて行ったあなたのせいで、私の手枕の袖も涙で濡れたままで乾かないままです。〕
その夜の月がたいそう明るく澄み切っているので、式部の方でも宮の方でも月を眺めながら夜を明かして、翌朝、いつものように宮はお手紙をお送りになろうとして、「小舎人童は出仕しているか」とお尋ねになっている間に、式部の方でも、霜があまりに白いのにはっとしてのことだろうか、
手枕の袖にも霜はおきてけりけさうち見れば白妙にして
〔私の手枕の袖にも霜は置いております、今朝起きて見ると真っ白なんですよ。〕
と、宮のもとにお手紙を差し上げた。
宮は、悔しいことに先に手紙を送られてしまったと、お思いになり、
つま恋ふとおき明かしつる霜なれば(けさうち見れば白妙にして)
〔あなたを恋い慕って起き明かした私の思いを置いた早朝の霜なので、真っ白なんですよ。〕
と、返歌を作っていらっしゃる、まさしくその時に小舎人童が参上したので、ご機嫌が悪いまま、どうしたのかとお尋ねになるので、取り次ぎの者は、「早く参上しないから、宮様はひどくお責めなのだろう」と思うように童にお手紙を与えたので、童は式部のもとに持っていって、「まだ式部様のもとから宮様にお便り申し上げなさらないうちに、宮様は私をお呼びでいらしたのに、私が今まで参上しなかったといって叱ります」といって、お手紙を取り出した。
「昨夜の月はたいそう美しいものでしたね」と宮は記し、
ねぬる夜の月は見るやとけさはしもおき居て待てど問ふ人もなし
〔あなたは寝てしまって月は見ていませんでしたか、共寝した夜の月を見ていましたか、今朝は霜が置く時間まで起きてあなたの手紙が届くかと思って待っていたけれど、私のもとには持ってくる人もいません(ですから、こちらから手紙を送りました。〕
とあるので、「本当に、宮様が先に歌をお読みだったようだ」と見るにつけても興をそそる。
まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしも明かし顔なる
〔うとうともせず一晩中私が眺めた月をあなたも見ていると、霜が置くなか宮様が起きたままで夜を明かした証をたてようとしていますが、ほんとうでしょうか〕
と式部は申し上げて、このお使いの童が、「宮にひどく叱られました」というのがおかしくて、手紙の端に、
「霜の上に朝日さすめり今ははやうちとけにたる気色見せなむ
〔霜の上に、朝日が射しているようです、だから霜も融けているでしょうから、いまとなってはもう、この童を許している様子を見せてあげてほしいものです〕
童がたいそう困り果てているそうですよ」と書いた。
宮からは、
「今朝あなたが先を越して得意顔でおっしゃるのもたいそうくやしいことです。その原因を作ったこの童を殺してしまおうかとまで思います。
朝日影さして消ゆべき霜なれどうちとけがたき空の気色ぞ
〔朝日の光が射すと消える定めの霜ではあるが、霜は融けても、まだまだ気を許せない空の様子ではないが、なかなか許してやれない私の気分です。〕」
とお便りがあるので、式部は「お殺しになるおつもりとは、なんと」と思って、
君は来ずたまたま見ゆる童をばいけとも今は言はじと思ふか
〔あなたはいらっしゃらず、代りにたまに姿を見せて私の心を慰めてくれる童を、私のもとへ行け(生きろ)とももはやおっしゃらないつもりなのでしょうか〕
と式部が申し上げると、宮はお笑いになられて、
「ことわりや今は殺さじこの童しのびのつまの言ふことにより
〔なるほどおっしゃるとおりです、今となってはもうこの童を殺すまい、人に知られぬ妻であるあなたのお言葉にしたがって。〕
この童のお話しばかりで、『手枕の袖』の思いをお忘れになってしまわれたようですね」とお返事なさる。そこで式部が、
人知れず心にかけてしのぶるを忘るとや思ふ手枕の袖
〔誰にも知られないようにして心に賭けてひたすら恋い慕っていますのに、私が忘れるとあなたはお思いですか、あの「手枕の袖」の夜を。〕
と申し上げたところ、宮のお返しは、
もの言はでやみなましかばかけてだに思ひ出でましや手枕の袖
〔私のほうからお話ししないままでしたら、あなたは決して思い出しもなさらなかったでしょう、私がたいそう心震わせた「手枕の袖」の夜を。〕

かく言ふほどに、十月にもなりぬ。
十月十日ほどにおはしたり。奥は暗くて恐ろしければ、端近くうち臥させ給ひて、あはれなることの限りのたまはするに、かひなくはあらず。月は、曇り曇り、しぐるるほどなり。わざとあはれなることの限りをつくり出でたるやうなるに、思ひ乱るる心地は、いとそぞろ寒きに、宮も御覧じて、人の便なげにのみ言ふを、あやしきわざかな、ここにかくてあるよ、などおぼす。あはれにおぼされて、女寝たるやうにて思ひ乱れて臥したるを、おしおどろかさせ給ひて、
時雨にも露にもあてで寝たる夜をあやしくぬるる手枕の袖
とのたまへど、よろづにもののみわりなくおぼえて、御いらへすべき心地もせねば、ものも聞えで。ただ月影に涙の落つるを、あはれと御覧じて、「などいらへもし給はぬ。はかなきこと聞ゆるも、心づきなげにこそおぼしたれ。いとほしく」と、のたまはすれば、「いかに侍るにか、心地のかき乱る心地のみして、耳にはとまらぬにしも侍らず。よし見給へ、手枕の袖忘れ侍る折や侍る」と、たはぶれごとに言ひなして、あはれなりつる夜の気色も、かくのみ言ふほどにや。
頼もしき人もなきなめりかしと心苦しくおぼして、「今の間いかが」とのたまはせたれば、御返し、
けさの間に今は消ぬらむ夢ばかりぬると見えつる手枕の袖
と聞えたり。「忘れじ」と言ひつるを、をかしとおぼして、
夢ばかり涙にぬると見つらめど臥しぞわづらふ手枕の袖
ひと夜の空の気色の、あはれに見えしかば、心がらにや、それよりのち心苦しとおぼされて、しばしばおはしまして、ありさまなど御覧じもて行くに、世に馴れたる人にはあらず、ただいとものはかなげに見ゆるも、いと心苦しくおぼされて、あはれに語らはせ給ふに、「いとかくつれづれにながめ給ふらむを、思ひおきたることなけれど、ただおはせかし。世の中の人も便なげに言ふなり。時々参ればにや、見ゆることもなけれど、それも、人のいと聞きにくく言ふに、またたびたび帰るほどの心地のわりなかりしも、人げなくおぼえなどせしかば、いかにせまし、と思ふ折々もあれど、古めかしき心なればにや、聞えたえむことの、いとあはれにおぼえて、さりとて、かくのみはえ参り来まじきを、まことに聞くことのありて、制することなどあらば、『空行く月』にもあらむ。もしのたまふさまなるつれづれならば、かしこへはおはしましなむや。人などもあれど、便なかるべきにはあらず。もとよりかかる歩きにつきなき身なればにや、人もなき所に、つい居などもせず、行ひなどするにだに、ただひとりあれば、おなし心に物語り聞えてあらば、なぐさむことやあると思ふなり」などのたまふにも、げに、今さらさやうにならひなきありさまはいかがせむなど思ひて、一の宮のことも聞えきりてあるを、さりとて『山のあなた』にしるべする人もなきを、かくて過ぐすも明けぬ夜の心地のみすれば、はかなきたはぶれごとも、言ふ人あまたありしかば、あやしきさまにぞ言ふべかめる、さりとてことざまの頼もしき方もなし、なにかは、さてもこころみむかし、北の方はおはすれど、ただ御方々にてのみこそ、よろづのことはただ御乳母のみこそすなれ、顕證にて出でひろめかばこそはあらめ、さるべき隠れなどにあらむには、なでうことかあらむ、この濡れ衣はさりとも着やみなむ、と思ひて、「なにごともただ、われよりほかのとのみ思ひたまへつつ過ぐし侍るほどのまぎらはしには、かやうなる折たまさかにも待ちつけきこえさするよりほかのことなければ、ただいかにものたまはするままにと思ひたまふるを、よそにても見苦しきことに聞えさすらむ。ましてまことなりけりと見侍らむなむかたはらいたく」と聞ゆれば、「それは、ここにこそともかくも言はれめ。見苦しうは誰かは見む。いとよく隠れたるところつくり出でて聞えむ」など頼もしうのたまはせて、夜深く出でさせ給ひぬ。
格子をあげながらありつれば、ただひとり端に臥しても、いかにせましと、人笑へにやあらむと、さまざまに思ひ乱れて臥したるほどに、御文あり。
露むすぶ道のまにまに朝ぼらけぬれてぞ来つる手枕の袖
この袖のことは、はかなきことなれど、おぼし忘れでのたまふも、をかし。
道芝の露におきぬる人によりわが手枕の袖もかわかず
その夜の月の、いみじう明かくすみて、ここにも、かしこにも、ながめ明かして、つとめて、例の御文つかはさむとて、「童、参りたりや」と問はせ給ふほどに、女も、霜のいと白きに、おどろかされてや、
手枕の袖にも霜はおきてけりけさうち見れば白妙にして
と聞えたり。ねたう先ぜられぬるとおぼして、
つま恋ふとおき明かしつる霜なれば
とのたまはせたる、今ぞ人参りたれば、御気色あしうて問はせたれば、「とく参らでいみじうさいなむめり」とて取らせたれば、もて行きて、「まだこれより聞えさせ給はざりけるさきに召しけるを、今まで参らずとてさいなむ」とて、御文取り出でたり。「よべの月は、いみじかりしものかな」とて、
寝ぬる夜の月は見るやとけさはしもおき居て待てど問ふ人もなし
げに、かれよりまづのたまひけるなめりと見るも、をかし。
まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしも明かし顔なる
と聞えて、この童の「いみじうさいなみつる」と言ふがをかしうて、端に、
「霜の上に朝日さすめり今ははやうちとけにたる気色見せなむ
いみじうわび侍るなり」とあり。「けさしたり顔におぼしたりつるも、いとねたし。この童殺してばやとまでなむ、
朝日影さして消ゆべき霜なれどうちとけがたき空の気色ぞ
とあれば、「殺させ給ふべかなるこそ」とて、
君は来ずたまたま見ゆる童をばいけとも今は言はじと思ふか
と聞えさせたれば、笑はせ給ひて、
「ことわりや今は殺さじこの童しのびのつまの言ふことにより
手枕の袖は、忘れ給ひにけるなめりかし」とあれば、
人知れず心にかけてしのぶるを忘るとや思ふ手枕の袖
と聞えたれば、
もの言はでやみなましかばかけてだに思ひ出でましや手枕の袖
十、檀(まゆみ)の紅葉
こうしてこの後、ニ三日、宮からはなんのご連絡ございません。「宮邸へいらっしゃいと頼もしげにおっしゃったことも、こんなふうではどうなってしまったのだろうか。」とあれこれ思いつづけているので、式部は寝ることもでず、目を覚ましたまま横になっていますと、夜も随分と更けたようだと思っている頃に、誰かが門を叩きます。「誰からか、心当たりもないのに。」と思いますが、何者かと問わせると、なんと宮からのお手紙でございました。思いもしない時刻にお手紙をくださったので、『夜な夜なは眼のみさめつつ思ひやる心やゆきておどろかすらむ[後拾遺集](毎晩毎晩目は覚めてばかりであなたのことを思っている私の心が飛んで行って、あなたのことを目覚めさせているのでしょうか)』と歌にあるように心通じて私が宮様を目覚めさせて歌を下さったのだろうか、と、妻戸を押し開けて月の光のもとに読んでみますと、
「見るや君さ夜うち更けて山のはにくまなくすめる秋の夜の月
〔見ていらっしゃるでしょうか、あなたは、夜が更けたこの時間に、山の端に曇りなく澄んでいる秋の夜の月を。〕」とあります。
思わず月を眺め、またこの歌を繰り返し口ずさみますと、いつもよりもしみじみと宮のことが思われます。
門も開けずに宮のお手紙を受け取ったので、お使いが待ち遠しく思っているだろう、と思って、式部はすぐに返事を記します。
「更けぬらむと思ふものからねられねどなかなかなれば月はしも見ず
〔今ごろはもう夜も更けてしまったのだろうと思うものの私は眠れません。しかしだからといって、月を見るとかえってあなたを思い出してつらいので、月だけは見ないことにしています。〕」
こう式部がすぐに返してきましたので、同じように月を眺めていると返してくる予想が外れた気がして、「やはり放っておくことのできないひとだ。なんとかして私の近くに置いて、こんな風流なやりとりを聞きたいものだ。」と宮はご決心なさいます。
二日ほどして、宮は女性の乗る車飾りにして、そっと忍んでいらっしゃいました。
日の出ている明るい中などでは、まだ顔をご覧になることはなかったので、式部はきまりわるく思いますが、みっともないといって恥ずかしがって隠れなければならない間柄でもありません。また、おっしゃるようにお邸へお迎え入れくださる話が本当なのならば、恥じらい申し上げているわけにもいかないのではないかと思いまして、式部はにじり出でて出迎えました。宮は、ここ数日のごぶさたに気がかりだったことなどを親しげにお話になって、しばし横たわりお抱きなさってから、
「先日申し上げたとおり、早くご決心なさい。こうした外出が、いつまでも物慣れなく思われるのですが、そうかといって、こちらに参上しないでいると不安で、定まらない私たちの仲は、苦しいばかりです。」とおっしゃいます。
式部は「どうであれおっしゃるとおりにしようとは思いますが、『みても又またもみまくのほしければ馴るるを人はいとふべらなり[古今集](付き合い始めは、逢っても再び逢いたくなるものだから、親しくなりすぎるのをひとはいやがるのにちがいありません)』という歌にあるとおり、お邸に上がったら、飽きられてしまうのではないかと思って思いわずらっているのです」と申し上げます。
すると、宮は、「よろしい、見ていてください。『伊勢のあまのしほやきごろもなれてこそ人の恋しきこともしらるれ[古今六帖](伊勢の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、馴れ親しんでこそ、相手が恋しいという気持ちは自然と理解されるものです)』また、『志賀のあまのしほやき衣なるるとも恋とふものは忘れかねつも[万葉集](琵琶湖の海人が塩焼く時に着る衣が「褻(な)る」ように、いくら馴れ親しんでも、恋心というのは忘れ難いものです)』とあるように逢い慣れてこそ恋は優るでしょう。」とおっしゃられ、部屋をお出になりました。
式部の部屋の前近くの透垣のあたりに、美しい檀(まゆみ)の紅葉が、少しだけ紅くなっているのを、宮はお手折りになられ、高欄に寄りかかりなさって、
「ことの葉ふかくなりにけるかな
〔いろいろ言葉を交わしているうちに、この葉の紅みが深くなったように私たちの言葉も色濃くなりましたね。〕」
と、下の句を口になさいます。式部は連歌として上の句を、
「白露のはかなくおくと見しほどに
〔白露がちょっと降りたように見えただけ、そのようにかりそめのお言葉をいただいただけだと思っていますうちに、〕」
と、申し上げます。その式部の様子を、なんとも情篤く風流で趣き深い、と宮はお思いになられます。
また、その宮のご様子もたいそうすばらしいのです。御直衣をおめしになって、なんともいえないほど美しい袿(うちき)を下から覗かせなさっているご様子は、この上なく好ましく理想の男性に見えます。その姿をうっとり眺める式部は自分の目までも色好みになっているのではないか、という気さえするのです。
翌日、「昨日昼間訪れたときのあなたが見苦しく気恥ずかしいとお思いのご様子は、つらくはありましたが、いじらしくしみじみ心惹かれました。」と宮からお手紙がありますので、式部が、
「葛城の神もさこそは思ふらめ久米路にわたすはしたなきまで
〔「かづらきの久米路にわたす岩橋のなかなかにてもかへりぬるかな[後撰集](役の行者に命じられた葛城神は自分の醜さを恥じて夜しか仕事せず久米路に渡す橋が中ほどまでしかかけられませんでしたが、その橋のようにあなたのもとに行く途中で帰ってしまいましたよ)」の歌にあるように葛城の神は、昼間に姿を見せるのは「はしたなし(中途半端できまりわるい)」ときっと思ったのでしょう、私もそう思うのです、〕
どうしようもなくきまりわるく感じました」と申し上げますと、折り返し宮から、
「行ひのしるしもあらば葛城のはしたなしとてさてややみなむ
〔私に役の行者のような神通力がありましたならば、葛城の神がきまりわるいと思ったようにあなたが昼間は恥ずかしいと言うのをそのままにしましょうか、あなたに、きまりわるいと思わせないようにします。〕」
などとお返事があり、以前よりは時々おいでになったりしますので、式部はこのうえもなくものさみしさが慰められる気持がします。
こうしているうちに、また、よくない色好みな男たちが手紙を送ってよこし、また本人たちもやって来て門前をうろついたりするにつけても、悪い噂が立ったりしますので、宮の元に参上しようかしらと思いますが、あいかわらず気後れしていて、式部はきっぱりとも決心がつきません。
霜がたいそう白い早朝、式部が、
「わが上は千鳥もつげじ大鳥の羽にも霜はさやはおきける
〔私の境遇は「鳳の羽に、やれな、霜ふれり、やれな、誰がさいふ、千鳥ぞさいふ、かやくきぞさいふ、みそさぎぞ京より来てさいふ[風俗歌・大鳥の歌]」の千鳥も大鳥ならぬあなたに告げてくれないでしょうが、大鳥の羽根のようなあなたの袖にも霜は置き、私が起き明かしたようにあなたも起きておられましたか。〕」
と申し上げますと、宮が、
「月も見でねにきと言ひし人の上におきしもせじを大鳥のごと
〔月も見ずに寝てしまったといったあなたの袖の上に霜は置きもしていないでしょう、大鳥ならぬ私のようにはあなたは起きてなかったでしょう。〕」
とおっしゃられて、間もおかずその夕暮れにおいでになられました。
またの日、「最近の山の紅葉はどんなに趣き深かいでしょう。さあいらっしゃい、見に行きましょう。」とおっしゃるので、「たいそう楽しい話のようです。」と式部はご返事申し上げましたが、当日になって、「今日は物忌みですので。」と申し上げまして、式部が邸に留まっていますので、宮は「なんとも残念だ。この時節を過ごしたら花はきっと散ってしまうでしょう。」とおっしゃいます。
しかしその夜の時雨はいつもよりも強く、木々の木の葉が残りそうもなく激しく聞こえますので、目を覚まして、「日をへつつ我なにごとをおもはまし風の前なるこのはなりせば[和泉式部続集](私が風の前にある木の葉だったら、日々を過ごすにあたって私は何を悩む必要があったでしょうか(木の葉は悩みなく散ってゆくきますが、それがうらやましいことです。)」などと口ずさんで、「紅葉はきっとみな散ってしまっているでしょう。昨日見ないで残念なこと。」と思いながら夜を明かします。
早朝、宮から、
「神無月世にふりにたる時雨とやけふのながめはわかずふるらむ
〔神無月にはあたりまえすぎる時雨、夜に降っていた時雨というのか、今日の長雨は特別なこともないように降っていますが、これは私の涙です。今日の眺めをあたりまえのものとして特別な思いを持たずにあなたは過ぎる時を過ごしているのでしょう。〕
残念なことに紅葉は散ってしまったでしょう。」とお手紙がありました。
「時雨かもなににぬれたる袂ぞとさだめかねてぞわれもながむる
〔 時雨なのでしょうか、何で濡れた私の袂でしょうか、あなたを思って流した涙かもしれないと決めかねて、私も一晩中物思いにふけって時雨を見ながら明かしました。〕」
と式部がお返しし、さらに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
もみぢ葉は夜半の時雨にあらじかしきのふ山べを見たらましかば
〔紅葉した葉は、夜中の時雨できっと散ってしまったでしょう、昨日あなたと山辺を見ていればよかったのですが。〕」
と送りましたのを、宮は御覧になり、
「そよやそよなどて山べを見ざりけむけさはくゆれどなにのかひなし
〔まったくそのとおりです。どうして昨日山辺を見に行かなかったのでしょう、今朝となっては、悔いてもなんの意味もないでしょう。〕」
とおっしゃいまして、その手紙の端に、
「あらじとは思ふものからもみぢ葉の散りや残れるいざ行きて見む
〔紅葉はもうないだろうとは思いますが、もしかしたら紅葉した葉が散り残っているかもしれません、一緒に行って見てみましょう。〕」
と書き記されておりますので、式部もお返事を記します。
「うつろはぬ常磐の山も紅葉せばいざかし行きてとうとうも見む
〔紅葉するはずのない常緑の山でももし紅葉することがありましたら、さあ一緒に行ってたずねたずねてみたいもの、けれどそんなことはないでしょうから。〕
今行っても愚かなことでございましょう。」
先日宮がいらしたときに、「差し障りがあってお相手申し上げられません」と申し上げたことを宮はお思い出されて、
式部が、
「高瀬舟はやこぎ出でよさはることさしかへりにし蘆間分けたり
〔「みなといりの葦わけ小舟さはり多みわが思ふ人にあはぬ顔かな[拾遺集](水の流れが狭くなっているところに葦を分け入って入る小舟にさまたげが多いので、私の愛しているあなたに逢えないことです。)」の歌の障りもなくなりました、高瀬舟を早く漕ぎ出していらしてください、舟のさまたげだった葦の間を掻き分けてあなたのお越しをお待ちしておりますから。〕」
と申し上げましたことに対して、宮は「お忘れになったのですか、
山べにも車に乗りて行くべきに高瀬の舟はいかがよすべき
〔山辺にも車に乗って紅葉を見に行くはずなので、高瀬舟ではあなたのもとに寄せることはできません。〕」
と詠んでこられましたので、
「もみぢ葉の見にくるまでも散らざらば高瀬の舟のなにかこがれむ
〔山の紅葉が車で見に来る時までも散らないで待っているのならば、どうして紅葉に惹かれたりしましょう。紅葉狩りに高瀬舟を漕いでどうしましょう。私もまたあなたの来ないうちに散ってしまいましょうか。散るから恋焦がれるのです、どうぞ恋焦がれている私の所においで下さい。〕」
と式部はご返歌いたします。 

かくて、二三日、音もせさせ給はず。頼もしげにのたまはせしことも、いかになりぬるにかと思ひつづくるに、いも寝られず。目もさまして寝たるに、夜やうやう更けぬらむかしと思ふに、門をうちたたく。あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。思ひかけぬほどなるを、心やゆきてとあはれにおぼえて、妻戸おしあけて見れば、
見るや君さ夜うち更けて山の端にくまなくすめる秋の夜の月
うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使ひ待ち遠にや思ふらむとて、御返し、
更けぬらむと思ふものから寝られねどなかなかなれば月はしも見ず
とあるを、おし違へたる心地して、なほ口惜しくはあらずかし、いかで近くて、かかるはかなしごとも言はせて聞かむ、とおぼし立つ。
二日ばかりありて、女車のさまにて、やをらおはしましぬ。昼などはまだ御覧ぜねば、恥かしけれど、さまあしう恥ぢ隠るべきにもあらず、また、のたまふさまにもあらば、恥ぢきこえさせてやはあらむずる、とてゐざり出でぬ。日ごろのおぼつかなさなど語らはせ給ひて、しばしうち臥させ給ひて、「この聞えさせしさまに、はやおぼし立て。かかる歩きのつねにうひうひしうおぼゆるに、さりとて参らぬはおぼつかなければ、はかなき世の中に苦し」とのたまはすれば、「ともかくものたまはせむままにと思ひたまふるに、『見ても嘆く』と言ふころにこそ思ひたまへわづらひぬれ」と聞ゆれば、「よし、見給へ。『塩焼き衣』にてぞあらむ」とのたまはせて、出でさせ給ひぬ。
前近き透垣のもとに、をかしげなる檀の紅葉の、すこしもみぢたるを折らせ給ひて、高欄におしかからせ給ひて、
ことの葉ふかくなりにけるかな
とのたまはすれば、
白露のはかなくおくと見しほどに
と聞えさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。宮の御さま、いとめでたし。御直衣に、えならぬ御衣出だし桂にし給へる、あらまほしう見ゆ。目さへあだあだしきにやとまでおぼゆ。
又の日、「きのふの御気色のあさましうおぼいたりしこそ、心憂きもののあはれなりしか」とのたまはせたれば、
「葛城の神もさこそは思ふらめ久米路にわたすはしたなきまで
わりなくこそ思ひたまうらるれ」と聞えたれば、たちかへり、
行ひのしるしもあらば葛城のはしたなしとてさてややみなむ
など言ひて、ありしよりは時々おはしましなどすれば、こよなくつれづれも慰む心地す。
かくてあるほどに、またよからぬ人々文おこせ、又みづからもたちさまよふにつけても、よしなきことの出で来るに、参りやしなましと思へど、なほつつましうて、すがすがしうも思ひたたず。
霜いと白き、つとめて、
わが上は千鳥もつげじ大鳥の羽にも霜はさやはおきける
と聞えさせたれば、
月も見で寝にきと言ひし人の上におきしもせじを大鳥のごと
とのたまはせて、やがて暮れにおはしましたり。
「このころの山の紅葉は、いかにをかしからむ。いざたまへ、見む」とのたまへば、「いとよく侍るなり」と聞えて、その日になりて、「今日は物忌み」と聞えてとどまりたれば、「あな口惜し。これ過ぐしてはかならず」とあるに、その夜の時雨、つねよりも木々の木の葉残りありげもなく聞ゆるに、目をさまして、「風の前なる」などひとりごちて、みな散りぬらむかし、きのふ見でと口惜しう思ひ明かして、つとめて宮より、
「神無月世にふりにたる時雨とや今日のながめはわかずふるらむ
さては口惜しくこそ」とのたまはせたり。
時雨かもなにに濡れたる袂ぞと定めかねてぞわれもながむる
とて、「まことや、
もみぢ葉は夜半の時雨にあらじかしきのふ山べを見たらましかば」
とあるを、御覧じて、
そよやそよなどて山べを見ざりけむけさは悔ゆれどなにのかひなし
とて、端に、
あらじとは思ふものからもみぢ葉の散りや残れるいざ行きて見む
とのたまはせたれば、
「うつろはぬ常磐の山も紅葉せばいざかし行きて問ふ問ふも見む
不覚なることにぞ侍らむかし」
ひと日、おはしましたりしに、「さはることありて聞えさせぬぞ」と申ししをおぼし出でて、
高瀬舟はやこぎ出でよさはることさしかへりにし蘆間分けたり
と聞えたるを、「おぼし忘れたるにや、
山べにも車に乗りて行くべきに高瀬の舟はいかがよすべき」
とあれば、
もみぢ葉の見に来るまでも散らざらば高瀬の舟のなにかこがれむ
とて。
 

 

十一、車宿り
その日も夕暮れになりましたので、宮はおいでになり、式部側が方塞(ふた)がりなので、目立たないように式部邸から連れ出しなさいます。
この頃は、四十五日の忌を避けようとなさって、宮は、従兄に当たられる道兼息兼隆(従三位右中将)邸にいらっしゃいます。それでなくてさえ物慣れない場所に行くことになりますので、「見苦しいことです。」と式部は申し上げますが、宮はむりやり連れていらして、式部を車に乗せたまま、誰の目にも付かない車宿りに車を引き入れて、式部を置いたまま宮だけがお邸にお入りになりましたので、車の中に取り残された式部は、恐い、と思います。宮は人が寝静まってからいらっしゃいまして、車にお乗りになって、いろいろと将来にわたることをおっしゃられて契られました。事情を知らぬ宿直の男たちがあたりを歩き回ります。いつもの右近の尉や小舎人童は近くにお仕えしています。
宮が、式部のことをしみじみといとしいものとお思いになるにつけても、いいかげんに過ごしてきた今までの態度を後悔なさるにしても、まことに身勝手なお振る舞いではあります。
夜が明けると、宮はすぐに式部邸にお送りなさり、誰も起きないうちにと急いで従兄の邸にお帰りになられて、早朝のうちに、
「ねぬる夜の寢覚めの夢にならひてぞふしみの里をけさはおきける
〔独りで寝る夜が続いて夢で寝覚める生活に慣れてしまって、あなたと伏して夢を見るはずなのに(伏見の里で)、共寝した夜なのに今朝は早々と起きてしまったことです。〕」
と後朝の歌を下さいますので、式部はお返しに、
「その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅ねをぞする
〔あなたと共寝したその夜から、私の境遇はどうなるものとも分からないので、意外なことにとんでもない車で明かすというような旅寝をしてしまいました。〕」
と申し上げます。
「こんなにも激しく身にあまる宮のお気持ちを、気付きもしないでつれない態度で振舞っていてよいものだろうか。他の事などはたいしたことではあるまい。」などと式部は思いますので、「宮のお邸に上ろう。」と決心します。宮の元に住み込むなどするものではないとまじめな忠告をする方々もいますが、耳にも入りません。「どうせつらい身なので、運命にまかせて生きてみよう。」と思うにつけても、「宮の元に住み込むという形での宮仕えは、私の望みというわけでもない。『いかならむいはほのなかに住まばかは世のうきことのきこえ来ざらむ[古今集](いったいどこの洞窟で暮らしたら、俗世のいやな噂が聞こえてこないだろうか。)』の歌のように、いっそのこと出家して嫌な噂の聞こえてこない場所で暮らしたいが、またそこでいやなことがあったらどうしましょう、ほんとうに本心からの出家ではないように人々は思ったり言ったりするだろうから、やはりこのまま出家せずに過ごしてしまおうか、親・兄弟の近くでお世話を申し上げたり、また昔のまま変わらないように見える娘(小式部内侍)の将来をも見定めたい。」と式部は思い立ちましたので、「せめて宮のお邸に上がり申し上げるまでは、困った不都合な噂をなんとかして宮のお耳にはいれさせまい。お近くでお仕えしていたら、変な噂が立ったとしても、きっと真実のほどはおわかり下さるでしょう。」と思い、言い寄ってきていた男たちの手紙に対しても、「いません。」と侍女たちにいわせて、まったく返事もしないのでした。
宮からお手紙があります。見ますと、「いくらなんでも他に男の方はいまいとあなたをあてにしていましたが愚かなことです。」などとだけ書いて、ほとんどなにもお書きにならず、「人はいさ我はなき名のをしければ昔も今もしらずとをいはむ[古今集](あなたはさあ、どうだか分かりませんが、私は浮き名の立つのが惜しいので、昔も今もあなたとは無関係だと言い張りましょう。)」とだけ書いてあるので、式部は胸つぶれるほどに驚き、嘆かわしく思います。今までも目も当てられない嘘の噂が沢山出てきましたが、「いくら噂が立ったとしても、実際にしてないことについてはどうしようもない。」と思いながらやりすごしていましたのに、今回は、本気で疑っていらっしゃるので、「宮のもとに上がろうと決心したことを耳にしたひともいるだろうに、宮に見捨てられるという愚かな目を見ることになりそうだ。」と思いますと悲しくて、ご返事申し上げようという気にもなれません。一方、それにしてもどういう噂を宮はお聞きになったのだろうか、と思うにつけてきまりわるくて、式部がご返事も申し上げないでいますので、宮は、「さっきの手紙にきまりわるがっているようだ。」とお思いになられて、「どうしてご返事も下さらないのですか。このままでは『噂どおりです』と思ってしまいます。こんなにも早く心変わりなさるものなのですね。ひとの噂を耳にしたけれど、『まさかそんなことはあるまい』と思いながら、『人言はあまのかる藻にしげくとも思はましかばよしや世の中[古今六帖](人の噂は海人の刈る藻のようにたくさんあっても、あなたが私を愛してくれればそれだけでいいのです、人の言うことなど問題ではありません。)』と思ってお手紙申し上げたのですが。」とお手紙がありますので、式部は少し気持ちが晴れて、宮のお気持も知りたく、どんな噂かも聞いてみたくて、
「本心で私のことをお思いでしたら、
今の間に君来まさなむ恋しとて名もあるものをわれ行かむやは
〔今この時にあなたにいらしてほしいのです、いくら恋しく、あかしを立てたく参上したいといっても、噂が立つでしょうから、私からお邸に行くわけにはまいりません。〕」
と申し上げますと、宮から、
「君はさは名の立つことを思ひけり人からかかる心とぞ見る
〔あなたはそれでは私とのことで噂になることを心配なさっているのですね、他の男とは平気なのに、私とのかかわりで噂が立つのを嫌がるのがあなたの気持ちと分かりました。〕
名(噂)が立つからとは、腹さえ立ちました。」とあります。
お邸に上がりかねている様子をご覧になられて、宮がきっとおふざけをなさっているのだろうと式部は思い、お手紙を見ますが、やはりつらく思われて、「やはりとても苦しいのです。どんな形でも私の心をご覧に入れたいものです。」と式部は申し上げました。
すると宮からは、
「うたがはじなほうらみじと思ふとも心に心かなはざりけり
〔あなたを疑うまい、やはり恨みごとは申すまい、と思っても、私のその信じる気持に私の疑いの心がついていかないのです。〕」
とあります。
式部がそのご返事に、
「うらむらむ心はたゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
〔私を恨んでいらっしゃるお気持ちを絶やさないでください、私もこのうえなく信頼しているあなたのことを疑っているのですから。それが恋というものでしょう。〕」
と申し上げます。
こんなやり取りをしているうちに、日が暮れましたので宮がおいでになりなした。
宮は「やはりあれこれ讒言するひとがいるので、まさかそんなことはあるまい、と思いながらも、疑いを記してしまったのですが、このような悪い噂を立てられまいとお思いなら、さあ、我が邸においでください。」などとおっしゃられて、夜が明けましたのでお帰りになられました。
こんなふうに絶えずお手紙はお書きになりますが、足をお運びになることはなかなか難しいのです。
雨がひどく降ったり風がはげしく吹いたりする日にも、宮が見舞ってくださらないので、「住む人も訪れる人も少ない淋しい我が家での風の音の侘びしさを思いやってくださらないらしい。」と思って、夕暮れころに式部がお手紙をさしあげます。
「霜がれはわびしかりけり秋風の吹くにはをぎのおとづれもしき
〔霜枯れはなんともさみしいことです(あなたのお気持ちが「離(か)れ」たのはつらいこと)、秋風が吹いているころには荻の葉ずれの音もしたのに(秋ごろは、私が「招(を)ぎ」ましたら宮も「訪れ」てくださいましたのに)。〕」
と申し上げましところ、宮からご返事がありました。そのくださったお手紙を見ますと、
「たいそうぶきみな風の音を、あなたはどう聞いておいでだろうと気の毒に思っております。
かれはててわれよりほかに問ふ人もあらしの風をいかが聞くらむ
〔冬になり枯れ果てて、男たちも離(か)れてしまって、私以外に見舞う人もいないでしょうから、荒々しい嵐の風の音をあなたはどういうお気持ちで聞いていらっしゃるでしょう。〕
あなたの様子を思い心配申すことは実に大層なものです。」とあります。
他に男がいないとまでおっしゃらせてしまったと読むのもなんともおかしいこと、と式部は思うのでした。
方違えの御物忌みのために、人目を忍んだ処にいらっしゃるからと、いつものようにお迎えの車が来ますので、「今となってはもう宮がおっしゃるのならなんでもそれに従って。」と思いますので、宮のお忍びの場所に参上しました。
心穏やかに宮はお話しなさり、式部も起きても寝てもお話し申し上げますし、ものさみしさもまぎれますので、宮のお邸に参上したいと思ったのでした。御物忌みが過ぎましたので、式部は住み慣れた自分の邸に帰ってきますと、この日のことがいつもの別れよりいっそう名残惜しく恋しく思い出され、やむにやまれませんので、歌を差し上げます。
「つれづれとけふ数ふれば年月のきのふぞものは思はざりける
〔今日つらつらと思い出の日々を思い数えてみますと、長い年月の中でお逢いしていた昨日だけはつらい思いをしませんでした。〕」
宮はご覧になってしみじみといとしくお思いになられて、「私も同じです。」とおっしゃり、
「思ふことなくて過ぎにしをととひときのふとけふになるよしもがな
〔何の物思いもつらい思いもなしに過ごした一昨日と昨日の幸せが、今日になる方法はないものでしょうか。〕
そう思うだけではどうにもなりません。ですからやはり我が邸に入ろうとご決心なさい。」とおっしゃいます。
しかし、式部はひどく気後れして、すっきりと決心がつかないまま、ただ物思いにふけって日を過ごします。
いろいろに色づいて見えた木の葉も散り果てて、空は明るく晴れているものの、だんだんと沈み切ってしまう陽射しが心細く思われますので、式部はいつものようにお便り申し上げます。
「なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき
〔私を慰めてくださるあなたがいらっしゃるとは思うのですけれども、やはり一人こうして冬の日の暮れていきますのはなんとも悲しいものです。〕」
とありますので、宮は、
「夕暮れは誰もさのみぞ思ほゆるまづ言ふ君ぞ人にまされる
〔夕暮れは誰もがそんなふうにさみしく思われるものです、しかし誰よりも先にそれを口に出すあなたが、誰よりもさみしく感じているのでしょう。〕
と思うにつけてもお気の毒です。すぐにでも伺いたいとは思いますが、‥。」とお返しします。
翌日のまだ早い時間で、霜がたいそう白い時に、宮から「今のお気持ちはいかが。」とお手紙がありますので、式部は
「おきながら明かせる霜の朝こそまされるものは世になかりけれ
〔あなたのお越しを待って起きたままで夜を明かしました。とうとうお見えにならなかった今朝は冷たく霜が降りて、これ以上にひどい悲しみはこの世になかったことです。〕」
などと言い交わし申し上げます。
いつものように宮はしみじみしたお言葉をお書きになります。
「われひとり思ふ思ひはかひもなしおなし心に君もあらなむ
〔そちらへ行くこともならず、私がたったひとりであなたを恋しく思って悩みに悩んでも甲斐がありません、あなたも同じ気持ちで私を恋しく思って悩んでほしいものです。〕」
これへの式部のご返事。
「君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
〔私は宮様のように「あなたはあなた、私は私」と区別してもいませんので、二人の心が別々でありましょうか、いや、決して別々であろうはずはございません。〕」
こうしているうちに式部が風邪だったのでしょうか、おおげさではありませんが苦しんでいましたので、宮が時々見舞ってくださいます。
なんとかよくなってきたころに、「ご気分はいかがですか。」と宮がおたずねくださいましたので、式部が、「少しよろしくなっております。しばらく生きてお側にいたい、と思ってしまいましたことが罪深く思われますが、それにいたしましても、
絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな
〔宮様のお運びが絶えてしまったころは、絶えてしまえと思っていた私の命でしたが、こうしてお会いしますと宮様の愛情によって命を繋ぐ緒が再び惜しく生き長らえたいと思われます。〕」
と申し上げますと、宮は、「たいへんなことでした、ほんとうにほんとうに。」とおっしゃって、
「玉の緒の絶えむものかは契りおきしなかに心はむすびこめてき
〔あなたの命を繋ぐ緒が絶えるはずはありません、あなたとの仲も絶えることはありません。将来を約束した私たちの仲に(中に)変わらぬ心はしっかり結び込めてあるのですから。〕」
とお返しなさいます。
このように言い交わしているうちに、年も残り少なくなりましたので、宮のもとには春の頃に参上しよう、と式部は思います。 

その日も暮れぬれば、おはしまして、こなたのふたがれば、しのびてゐておはします。
このころは、四十五日の忌み違へせさせ給ふとて、御いとこの三位の家におはします。例ならぬ所にさへあれば、「見苦し」と聞ゆれど、しひてゐておはしまして、御車ながら人も見ぬ車宿りに引き立てて、入らせ給ひぬれば、おそろしく思ふ。人靜まりてぞおはしまして、御車にたてまつりて、よろづのことをのたまはせ契る。心えぬ宿直のをのこどもぞめぐり歩く。例の右近の尉、この童とぞ近くさぶらふ。あはれにもののおぼさるるままに、おろかに過ぎにし方さへくやしうおぼさるるも、あながちなり。
明けぬれば、やがてゐておはしまして、人の起きぬさきにと、いそぎ帰らせ給ひて、つとめて、
寝ぬる夜の寝覚めの夢にならひてぞふしみの里をけさは起きける
御返し、
その夜よりわが身の上は知られねばすずろにあらぬ旅寝をぞする
と聞ゆ。
かばかり、ねんごろにかたじけなき御心ざしを見ず知らず、心こはきさまにもてなすべき、ことごとはさしもあらず、など思へば、参りなむ、と思ひ立つ。まめやかなることども言ふ人々もあれど、耳にも立たず。心憂き身なれば、宿世にまかせてあらむと思ふにも、この宮仕へ本意にもあらず、巌の中こそ住ままほしけれ、また憂きこともあらば、いかがせむ、いと心ならぬさまにこそ思ひ言はめ、なほかくてやすぎなまし、近くて親はらからの御ありさまも見きこえ、また昔のやうにも見ゆる人の上をも見さだめむ、と思ひ立ちにたれば、あいなし、参らむほどまでだに、便なきこといかで聞しめされじ、近くては、さりとも御覧じてむ、と思ひて、すきごとせし人々の文をも、「なし」など言はせてさらに返りごともせず。
宮より、御文あり。見れば、「さりともと頼みけるが、をこなる」など、多くのことどものたまはせで、「いさ知らず」とばかりあるに、胸うちつぶれて、あさましうおぼゆ。めづらかなる空言どもいと多く出で来れど、さはれ、なからむことはいかがせむとおぼえてすぐしつるを、これはまめやかにのたまはせたれば、思ひ立つことさへほの聞きつる人もあべかめりつるを、をこなる目をも見るべかめるかなと思ふに悲しく、御返りきこえむものともおぼえず。また、いかなること聞しめしたるにかと思ふに、恥かしうて、御返りもきこえさせねば、ありつることを恥かしと思ひつるなめりとおぼして、「などか御返りも侍らぬ。さればよとこそおぼゆれ。いととくも変る御心かな。人の言ふことありしを、よもとは思ひながら、『思はましかば』とばかり聞えしぞ」とあるに、胸すこしあきて、御気色もゆかしく、聞かまほしくて、「まことに、かくもおぼされば、
今の間に君来まさなむ恋しとて名もあるものをわれ行かむやは」
と聞えたれば、
「君はさは名の立つことを思ひけり人からかかる心とぞ見る
これにぞ、腹さへ立ちぬる」とぞある。
かくわぶる気色を御覧じて、たはぶれをせさせ給ふなめりとは見れど、なほ苦しうて、「なほいと苦しうこそ。いかにもありて御覧ぜさせまほしうこそ」と聞えさせたれば、
うたがはじなほ恨みじと思ふとも心に心かなはざりけり
御返り、
恨むらむ心は絶ゆな限りなく頼む君をぞわれもうたがふ
と聞えてあるほどに、暮れぬれば、おはしましたり。「なほ人の言ふことのあれば、よもとは思ひながら聞えしに、かかること言はれじとおぼさば、いざたまへかし」などのたまはせて、明けぬれば出でさせ給ひぬ。
かくのみ絶えずのたまはすれど、おはしますことはかたし。雨風などいたう降り吹く日しも、おとづれ給はねば、人少ななる所の風の音を、おぼしやらぬなめりかしと思ひて、暮れつ方、聞ゆ。
霜がれはわびしかりけり秋風の吹くには荻のおとづれもしき
と聞えたれば、かれよりのたまはせける、御文を見れば、「いとおそろしげなる風の音いかがとあはれになむ、
かれはててわれよりほかに問ふ人もあらしの風をいかが聞くらむ
思ひやりきこゆるこそいみじけれ」とぞある。のたまはせけると見るもをかしくて。
所かへたる御物忌みにて、しのびたる所におはしますとて、例の御車あれば、今はただのたまはせむにしたがひてと思へば、参りぬ。
心のどかに御物語り起きふし聞えて、つれづれもまぎるれば、参りなまほしきに、御物忌み過ぎぬれば、例の所に帰りて、今日はつねよりも名残り恋しう思ひ出でられて、わりなくおぼゆれば、聞ゆ。
つれづれと今日数ふれば年月のきのふぞものは思はざりける
御覧じて、あはれとおぼしめして、「ここにも」とて、
「思ふことなくて過ぎにしをととひときのふと今日になるよしもがな
と思へどかひなくなむ。なほおぼしめし立て」とあれど、いとつつましうて、すがすがしうも思ひ立たぬほどは、ただうちながめてのみ明かし暮らす。
色々に見えし木の葉も残りなく、空も明かう晴れたるに、やうやう入りはつる日影の、心細く見ゆれば、例の、聞ゆ。
なぐさむる君もありとは思へどもなほ夕暮れはものぞ悲しき
とあれば、
「夕暮れは誰もさのみぞ思ほゆるまづ言ふ君ぞ人にまされる
と思ふこそあはれなれ。ただ今、参り来ばや」とあり。
またの日の、まだつとめて、霜のいと白きに、「ただ今のほどはいかが」とあれば、
起きながら明かせる霜のあしたこそまされるものは世になかりけれ
など聞えかはす。例のあはれなることども書かせ給ひて、
われひとり思ふ思ひはかひもなしおなし心に君もあらなむ
御返り、
君は君われはわれともへだてねば心々にあらむものかは
かくて、女、かぜにや、おどろおどろしうはあらねどなやめば、時々問はせ給ふ。よろしくなりてあるほどに、「いかがある」と問はせ給へれば、「すこしよろしうなりにて侍り。しばし生きて侍らばやと思ひ給ふるこそ、罪深く、さるは、
絶えしころ絶えねと思ひし玉の緒の君によりまた惜しまるるかな」
とあれば、「いみじきことかな、かへすがへすも」とて、
玉の緒の絶えむものかは契りおきしなかに心は結びこめてき
かく言ふほどに、年も残りなければ、春つ方、と思ふ。
十二、雪降る日
十一月の初め頃、雪がひどく降る日に、宮から、
「神代よりふりはてにける雪なればけふはことにもめづらしきかな
〔神の世からずっと降りつづけてもう降り尽きたと思われる雪ですから、今日はことさら新鮮に感じられます、あなたのことを思いながら雪を見るのは初めてですし。〕」
とありますで、式部は、
「初雪といづれの冬も見るままにめづらしげなき身のみふりつつ
〔初雪が降るのは目新しいものと毎年見ていますが、目新しくもない我が身だけは、時がふり、古るびつづけると嘆かれます。〕」
などとお返したり、とりとめのないやりとりをしながら、日々を暮らし明かします。
宮からお手紙があります。「ずいぶんごぶさたで気がかりになりましたから、お邸におうかがいしてと思っていましたのに、周りののものらが漢詩(ふみ)を作るようなので行けなくなってしまいました。」とおっしゃいましたので、式部が、
「いとまなみ君来まさずはわれ行かむふみつくるらむ道を知らばや
〔暇がないので宮様がいらっしゃれないというのなら、私の方から行きましょう。そのために、漢詩(ふみ)を作るというあなたのもとへ踏みつけて行く道筋を知りたいものです。〕」
と詠みますと、宮は、おもしろく思われてお詠みになります。
「わが宿にたづねて来ませふみつくる道も数へむあひも見るべく
〔我が家にどうぞ訪ねて来てください、そうしたら漢詩(ふみ)を作る方法もお教えしましょう、なにはさておき相逢うために。〕」
いつもよりも霜のたいそう白く置く朝に、「どう思ってご覧になっていますか。」と宮がおっしゃいますので、式部がお返しした歌。
「さゆる夜の数かく鴫はわれなれやいくあさしもをおきて見つらむ
〔「暁の鴫のはねがきもも羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく[古今集](夜明け前のシギが何百回も羽根を嘴で掻いていますが、あなたがいらっしゃらない夜に私はなんども身悶えしています。)」という歌の冴え冴えとした夜に何度ももがいているシギは私のことをいっているのではないでしょうか、宮様のおいでのない朝を私はこれまで幾朝、霜を置く時間まで起きて見ていたでしょうか。〕」
そのころ、雨がはげしく降りましたので、更にこんな歌も送ります。
「雨も降り雪も降るめるこのころをあさしもとのみおき居ては見る
〔雨も降り雪も降っているような冬のこの何日かを、おいでのない宮様を待って、ご愛情が浅いのだと私は夜を起き明かしては朝の霜を見ています。〕」
その夜、宮がおいでになられて、いつものようにとりとめないお話をなさるにつけても、「私の邸にあなたをお連れ申し上げてからあと、私が寺にでも行ったり、法師にでもなったりして、姿を見せ申し上げなくなったら、裏切られたとお思いになるでしょうか。」と心細くおっしゃいますので、「どのようにお考えになるようになってしまわれたのだろうか。もしかしたらそんなことが起こりそうなのだろうか。」と思いますと、たいそう身にしみて悲しくて、思わず泣いてしまいます。
霙(みぞれ)めいた雨が静かに降る時です。
式部が泣いてしまったので、少しも眠らず、宮は来世に渡ってまでしみじみとお話になり、お契りになります。「情愛深く、どんなことでもこころよくお話しになさって私を疎んじないご様子なので、私の心の中もお目にかけよう。」と思い立ちもするものの、「宮が出家なさったら、私もこのまま出家するばかりのこと。」と思うと物悲しくて、何も申し上げずにしみじみと泣いていましたが、その様子を宮はご覧になられて、
「なほざりのあらましごとに夜もすがら
〔とりとめない将来を口にしたばかりに、一晩中、〕」
と上の句をおっしゃるので、式部が下の句を付けます。
「落つる涙は雨とこそ降れ
〔落ちる涙は雨が降るように流れました。〕」
宮のご様子は、いつもより頼りなげな感じで、そうしたことを口になされて、やがて夜が明けたのでお帰りになられました。
「この先これといった希望があるわけではないが、ものさびしさを慰めるために宮のお邸に上がる決心をしたのに、その上宮が出家なさったらどうすればよいだろうか。」などと式部は思い悩んでお手紙をさし上げます。
「うつつにて思へば言はむ方もなしこよひのことを夢になさばや
〔宮が出家なさるという話を現実だとして考えると、私は生きていきようもありません、だから、今宵のお話を夢にしてしまいたいものです。〕
と私は思いますが、どうしてそんなことをお考えなのでしょう。」と記して、端に、
 「しかばかり契りしものをさだめなきさは世のつねに思ひなせとや
〔あんなにもしっかりとずっといっしょにいようと約束しましたのに、定まりのないこの世のことですから、世にありふれたとるにたりない約束だったと思うようにせよとおっしゃるのでしょうか。〕
残念なことに思われます。」とありますので、宮はご覧になり、「まず私から後朝のお手紙を差し上げようと思っていたのに先にお便りをいただきまして、
うつつとも思はざらなむねぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは
〔出家の話は現実のこととも思わないでいただきたい、それは二人で寝た夜の悪夢に見えたつらいことなのですから、〕
私たちの仲を定め無き無常のものと思い込もうというのですか、なんと気の短いことでしょう。
ほど知らぬ命ばかりぞさだめなき契りてかはすすみよしの松
〔終わりのわからない寿命だけは定めようがありません、しかし、それまでは、『われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ[古今集](私が見ても悠久なことはわかります、住吉の岸の小さな松は人間の何世代分を過ごしてきたのだろうか。)』の枝を交わしている住吉の松のように、永遠の約束を交わして共に暮らしましょう。〕
私の愛しい方よ、将来の出家の話はけっして二度と口にいたしますまい。自分からまねいたことで、なんともやりきれません。」とお便りなさいます。
式部はその後、物悲しく感じるばかりで、つい溜息をつくしかありません。早くお邸に上がる準備をしていたらよかった、と思います。
昼頃、宮からお手紙が届きます。見ると、「古今和歌集」の歌が記してあります、
「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子 
〔ああなんとも恋しいことです、今すぐに逢いたい、山中の垣に咲いている大和撫子のような可愛いあなたに〕『古今和歌集』(恋四の六九五番))」
「あら、なんとも狂おしいほどのお気持ち」と式部は思わず口にして、やはり「伊勢物語」の歌で、
「恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
〔私のことが恋しいのでしたら、どうぞ私のうちにいらして逢ってください、神様がだめと禁止している道ではないのですから。〕『伊勢物語』(第七十一段)」
と式部がご返事申し上げますと、宮はふっと笑ってご覧になられます。
最近、宮はお経を繰り返しお読みになっていらしたので、
「あふみちは神のいさめにさはらねどのりのむしろにをればたたぬぞ
〔近江路を通ってあなたに逢うのは神の禁忌には触れませんが、私は今仏事の席におりますので、出かけるわけにはまいらないのです。〕」
とおっしゃいます。式部がご返事に、
「われさらばすすみて行かむ君はただ法のむしろにひろむばかりぞ
〔それなら私の方からすすんで行こうと思います、あなたはひたすら仏道の教えに連なり教えを広めているばかりですので。〕」
などと申し上げて日を過ごします。
雪が、ひどく降って、木の枝に降り掛かっていますので、その枝に歌をつけて、宮が、
「雪降れば木々の木の葉も春ならでおしなべ梅の花ぞ咲きける
〔雪が降ると、木々の木の葉も春ではないのに、いっせいに梅の花が咲いているようです。〕」
と詠んでこられたので、式部がご返歌します。
「梅ははや咲きにけりとて折れば散る花とぞ雪の降れば見えける
〔梅ははやくも咲いたのだと思って手折ってみると散ってしまいました、雪が降るのはまるで散る梅の花びらのように見えたことです。〕」

十一月ついたちごろ、雪のいたく降る日、
神代よりふりはてにける雪なれど今日はことにもめづらしきかな
御返し、
初雪といづれの冬も見るままにめづらしげなき身のみふりつつ
など、よしなしごとに明かし暮らす。
御文あり。「おぼつかなくなりにければ、参り来てと思ひつるを、人々文つくるめれば」とのたまはせたれば、
いとまなみ君来まさずはわれ行かむふみつくるらむ道を知らばや
をかし、とおぼして、
わが宿にたづねて来ませふみつくる道も数へむあひも見るべく
つねよりも霜のいと白きに、「いかが見る」とのたまはせたれば、
さゆる夜の数かく鴫はわれなれやいく朝霜をおきて見つらむ
そのころ、雨はげしければ、
雨も降り雪も降るめるこのころを朝霜とのみおき居ては見る
その夜、おはしまして、例のものはかなき御物語りせさせ給ひても、「かしこにゐてたてまつりてのち、まろがほかにも行き、法師にもなりなどして、見えたてまつらずは、本意なくやおぼされむ」と、心細くのたまふに、いかにおぼしなりぬるにかあらむ、またさやうのことも出で来ぬべきにや、と思ふに、いとものあはれにて、うち泣かれぬ。
みぞれだちたる雨の、のどやかに降るほどなり。
いささかまどろまで、この世ならずあはれなることを、のたまはせ契る。あはれに、なにごとも聞しめしうとまぬ御有様なれば、心のほども御覧ぜられむとてこそ思ひも立て、かくては本意のままにもなりぬばかりぞかし、と思ふに、悲しくて、ものも聞えで、つくづくと泣く気色を御覧じて、
なほざりのあらましごとに夜もすがら
とのたまはすれば、
落つる涙は雨とこそ降れ
御気色の例よりもうかびたることどもをのたまはせて、明けぬれば、おはしましぬ。
なにの頼もしきことならねど、つれづれのなぐさめに思ひ立ちつるを、さらに、いかにせまし、など思ひ乱れて、聞ゆ。
「うつつにて思へば言はむ方もなしこよひのことを夢になさばや
と思ひ給ふれど、いかがは」とて、端に、
「しかばかり契りしものをさだめなきさは世のつねに思ひなせとや
口惜しうも」とあれば、御覧じて、「まづこれよりとこそ思ひつれ、
うつつとも思はざらなむ寝ぬる夜の夢に見えつる憂きことぞそは
思ひなさむとこころみしかや。
ほど知らぬ命ばかりぞさだめなき契りてかはす住吉の松
あが君や、あらましごとさらにさらに聞えじ。人やりならぬ、ものわびし」とぞある。
女は、そののち、もののみあはれにおぼえ、嘆きのみせらる。とくいそぎ立ちたらましかばと思ふ。昼つ方、御文あり。見れば、
あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子
「あなもの狂ほし」と言はれて、
恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに
と聞えたれば、うち笑ませ給ひて、御覧ず。
このころは、御経ならはせ給ひければ、
あふみちは神のいさめにさはらねどのりのむしろにをればたたぬぞ
御返し、
われさらば進みて行かむ君はただ法のむしろにひろむばかりぞ
など聞えさせすぐすに、雪いみじく降りて、ものの枝に降りかかりたるにつけて、
雪降れば木々の木の葉も春ならでおしなべ梅の花ぞ咲きける
とのたまはせたるに、
梅ははや咲きにけりとて折れば散る花とぞ雪の降れば見えける
十三、宮の邸へ
翌朝早く、宮から、
「冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける
〔冬の夜の間、あなたが恋しいせいで目もつむらないで、あなたにお逢いもできず衣の袖を片方しいた独り寝のままで夜が明けてしいました。〕」
とありますので、式部はお返しに、「ほんとうにおっしゃるとおり、
冬の夜のめさへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな
〔冬の夜の寒さで目さえ凍る涙で閉じられて開けるのがつらく、明かし難い夜を明かしてしまったことです。〕」
などと詠んでいましたが、いつものようにこうしたとりとめもない歌でものさびしさを慰めながら日々を過ごすのは、なんとも甲斐もない虚しいことではなかったでしょうか。
宮はどうお思いになったのでしょうか、心細いことばかりをおっしゃられて、「やはり私はこの世の中(あなたとの情愛)を長く通すことはできないのでしょうか。」と記してありますので、
「くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ
〔呉竹の節(よ)ならぬ世々(よよ)に伝わる古い恋物語が思い起こされます、宮と別れた後で、宮との思い出を私ひとりが昔語りするのでしょうか。〕」
と式部が申し上げますと、
「くれ竹のうきふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも
〔呉竹の節(ふし)のように辛い節々のたくさんあるこの二人の仲ではもういたくないと思います、ほんのしばらくのあいだでも。〕」
などと詠んでこられまして、「誰にも気付かれないよう住まわせるところなどでは、住み慣れないところなので式部はきまりわるがるだろう、こちらでも聞き苦しい話だというに違いない。だが、今はもう私自身が行って連れて来よう。」とお考えになられて、十二月十八日、居待ちの月がたいそう美しい時に、宮は式部のもとにいらっしゃいました。
いつものように宮が「さあいらっしゃい」とおっしゃいますので、式部は、いつものように今夜だけのお出かけと思って、一人で車に乗ると、「誰か侍女を連れていらっしゃい。あなたの身の回りの世話をするひとを連れて行けたら、のんびりとお話申し上げられましょう。」とおっしゃいますので、「ふだんは、数日にわたる時でもこんなふうにおっしゃったこともないのに、もしかしたらそのままお邸にとお思いなのであろうか。」と思って、侍女を一人連れて行きます。
いつものところではなくて、侍女を置いても目立たなく気兼ねないようにしつらえてあります。やはりそうだったと式部は思って、「どうして目立つようにわざわざお邸に上がることがあろう、かえって、いつのまに上がったのだろうと、みんなが思ってくれたほうがよい。」などと思ううちに、夜が明けましたので、櫛の入った化粧箱などを取りに遣わします。
宮が部屋に入っておいでなので、しばらく目立たないようにこちらの格子は上げないでいます。暗いのは恐ろしくはありませんが、うっとうしい気分でいますと、宮が、「今にあちらの北の対屋にお移し申し上げましょう。この場所では外に近いので情趣がありません。」とおっしゃいますので、格子を下ろして、ひっそりと音を聞いてみますと、昼間は、女房たちや父・冷泉院にお仕えする殿上人らが参り集ってきます。「どうしてこのままここに置いておけましょう。また、身近に私の日常を見たらどんなにがっかりなさるだろう、と思うとつらいのです。」とおっしゃいますので、「私も近くで見られたらがっかりされるかもしれないと思っています。」と申し上げますと、宮はお笑いになって、「まじめなはなし、夜などに私があちらにいるときはお気をつけください。とんでもないやからが興味本位にあなたを覗き見たりしたら大変です。もうしばらくしたら、例の宣旨の乳母のいる離れにでもおいでになってごらんなさい。めったなことでは、そこには誰も寄って来ませんから。そこにも逢いにまいります。」などとおっしゃいます。
二日ほどして、宮が北の対屋に式部を連れていらっしゃることになりましたので、お邸の侍女たちはびっくりして、北の方に報告申し上げますと、「こんなことがないときでさえ、宮の振る舞いは見苦しかったけれど、なんら高貴な人でもないのに、こんなことをなさって。」と北の方はおっしゃり、「格別のご寵愛があるからこそひそかに連れていらしたのだろう。」とお思いになるにつけても、得心もできず、いつもよりもご不快でいらっしゃいます。一方、宮も当惑なさって、しばらくは北の方のもとにはいらっしゃいませんで、家の人々の噂も聞き苦しく、また北の方はじめ人々の様子も辛いので、もっぱら式部のもとにいらっしゃいました。
北の方が宮に、「こういうことがあると聞きますが、どうしておっしゃってくださらないのですか。私がお止め申し上げられることでもありません。ほんとにこのように我が身が人並みの扱いでなく笑いの種になって恥ずかしくたまらないのです。」と泣きながらお話し申し上げなさいましたので、「侍女を召し使おうとするのに、あなたにお心当たりがないはずはありません。あなたのご機嫌が悪いのにつれて、侍女の中将などが私をうとましく思っているのが不快なので、髪などを梳かせようと思って呼んだのです。こちらでも呼んでお使いなさい。」などと宮が北の方に申し上げなさいますので、北の方は、ひどく不愉快にお思いになりながらも、それ以上は何もおっしゃいません。
こうして数日立つうちに、式部はお仕えしなれて、昼でも宮のお近くにお控えします。髪を整えて差し上げたりしますから、宮はいろいろにお使いになさいまして、少しも宮の前から遠ざけなさいません。宮が北の方のお部屋に足をお運びなさることもまれになってゆきます。一方、北の方が思い嘆きなさることはこのうえありません。 

またの日、つとめて、
冬の夜の恋しきことにめもあはで衣かた敷き明けぞしにける
御返し、「いでや、
冬の夜の目さへ氷にとぢられてあかしがたきを明かしつるかな」
など言ふほどに、例のつれづれなぐさめてすぐすぞ、いとはかなきや。
いかにおぼさるるにかあらむ、心細きことをのたまはせて、「なほ世の中にありはつまじきにや」とあれば、
くれ竹の世々の古ごと思ほゆる昔語りはわれのみやせむ
と聞えたれば、
呉竹の憂きふししげき世の中にあらじとぞ思ふしばしばかりも
などのたまはせて、人知れずすゑさせ給ふべき所など、おきてならはである所なれば、はしたなく思ふめり、ここにも聞きにくくぞ言はむ、ただわれ行きて、ゐて去なむ、とおぼして、十二月十八日、月いとよきほどなるに、おはしましたり。
例の、「いざ、たまへ」とのたまはすれば、今宵ばかりにこそあれと思ひて、ひとり乗れば、「人ゐておはせ。さりぬべくは、心のどかに聞えむ」とのたまへば、例は、かくものたまはぬものを、もし、やがてとおぼすにや、と思ひて、人ひとりゐて行く。
例の所にあらで、しのびて人などもゐよとせられたり。さればよと思ひて、なにかはわざとだちても参らまし、いつ参りしぞとなかなか人も思へかし、など思ひて、明けぬれば、櫛の箱など取りにやる。
宮、入らせ給ふとて、しばしこなたの格子はあげず。おそろしとにはあらねど、むつかしければ、「今、かの北の方にわたしたてまつらむ。ここには近ければ、ゆかしげなし」とのたまはすれば、おろしこめてみそかに聞けば、昼は人々、院の殿上人など参りあつまりて、「いかにぞ、かくてはありぬべしや、近劣りいかにせむ、と思ふこそ苦しけれ」とのたまはすれば、「それをなむ思ひたまふる」と聞えさすれば、笑はせ給ひて、「まめやかには、夜などあなたにあらむ折は、用意し給へ。けしからぬものなどは、のぞきもぞする。今しばしあらば、かの宣旨のある方にもおはしておはせ。おぼろけにてあなたは人もより来ず、そこにも」などのたまはせて、二日ばかりありて、北の対にわたらせ給ふべければ、人々おどろきて、上に聞ゆれば、「かかることなくてだにあやしかりつるを、なにのかたき人にもあらず、かく」とのたまはせて、わざとおぼせばこそしのびてゐておはしたらめとおぼすに、心づきなくて、例よりもものむつかしげにおぼしておはすれば、いとほしくてしばしはうちに入らせ給はで、人の言ふことも聞きにくし、人の気色もいとほしうて、こなたにおはします。
「しかじかのことあなるは、などかのたまはせぬ。制しきこゆべきにもあらず、いとかう、身の人気なく人笑はれに恥かしかるべきこと」と泣く泣く聞え給へば、「人使はむからに、御おぼえのなかるべきことかは。御気色あしきにしたがひて、中将などがにくげに思ひたるむつかしさに、頭などもけづらせむとて、よびたるなり。こなたなどにも召し使はせ給へかし」など聞え給へば、いと心づきなくおぼせど、ものものたまはず。
かくて日ごろ経れば、さぶらひつきて、昼なども上にさぶらひて、御櫛なども参り、よろづにつかはせ給ふ。さらに御前も避けさせ給はず。上の御方にわたらせ給ふことも、たまさかになりもて行く、おぼし嘆くこと限りなし。
十四、北の方の退去
年が変わって正月元日、冷泉院の拝礼の式に、朝臣がたが数の限りを尽くして参院なさいます。宮も列席されているそのお姿を拝見しますと、たいそう若々しくてお美しく、多くの貴族の方々以上に優れていらっしゃいます。このお姿につけて、自分のみすぼらしい身分がきまりわるいと式部には感じられます。
北の方付きの女房たちが縁に出て座って見物していますが、ご列席の方々を見ずに、まず「噂の式部を見よう」と明かり障子に穴を開けて大騒ぎしていますのは、ひどく見苦しいことではありました。
日が暮れましたので、行事がみな終わりまして、宮は冷泉院の南院にお入りになりました。お見送りにきて公卿方が数の限りを尽くしておすわりになられて、管絃のお遊びがあります。そのたいそう趣き深いのにつけても、式部にはものさみしくわびしかった自邸での暮らしがまず思い出されます。
こうして式部が宮のお邸でお仕え申し上げていますうちに、身分の低い下仕えの召使いたちの中でも、聞き苦しいことをいうのを宮はお聞きになられ、「こんなふうに北の方がお思いになったりおっしゃったりしてよいはずはない。あまりにひどい。」と不愉快に思われましたので、北の方のお部屋にいらっしゃることもまれになっていきます。式部は、自分のせいでこんな状態にあるのをたいそうきまりわるく、いたたまれなく思われますが、どうしょうもないと、ただひたすら宮がとりはからいなさるのにしたがって、宮にお仕えしています。
北の方の姉君は、東宮の女御としてお仕えなさっています。その方が、実家に下がっていらっしゃいます時でしたが、お手紙が北の方に届きます。「何とかしてこちらにいらっしゃい。最近、人の噂になっている話は事実なのですか。あなただけでなく私までも人並み以下に扱われているように思われます。夜の内にこちらにいらっしゃい。」とありますので、北の方は、これほどのことでなくてさえ人は噂するものものを、ましてどんなことが言われていることかとお思いになられると、たいそうつらくて、お返事に、「お手紙いただきました。いつも思い通りにはいかない男女の仲ですが、最近は実際に見苦しいことまでおこっております。ほんのわずかのあいだでも、姉君のもとにおうかがいして、若宮様たちのお顔を拝見申し上げて、心を慰めたいと存じます。迎えをおよこしください。ここにいるよりは、つまらない話を耳にすることはないでしょうと思われまして。」などと申し上げなされて、実家に帰るのに必要な調度類をまとめさせなさいます。
北の方は、見苦しくきたならしい所を掃除させなされて、「しばらく里のもとにいるつもりです。このままここに私がいても、おもしろくなく、宮様にしても私のもとに足をお運びになられないこともご負担でいらっしゃるでしょうから。」とおっしゃいますと、周りの女房たちが口々に、「たいへん驚きあきれたことです。世間の人々が変な噂であざけり申し上げておりますよ、」「あの女がこちらに参りましたことについても、宮様が足をお運びになってお迎えになったそうなのですが、まったく目もあてられないありさまです、」「あのお部屋にあの女はいるのでしょうよ。宮様は、昼間っから三度も四度も足を運んでいらっしゃるそうです、」「ほんとうにちゃんと宮を懲らしめ申し上げなさいませ。宮様があまりに北の方様をないがしろになさっていらっしゃるから、」などと一斉に憎まれぐちを言いますので、それを聞く北の方はお心の中でたいそうつらくお感じになられます。
「もうどうでもよい、近くに見苦しいこと聞き苦しいことさえなければ。」と 北の方は お思いになり、「お迎えに来てください。」と姉君に申し上げなさいます。やがて、北の方のお兄様にあたられる方が、「女御様からのお迎えです。」と宮に申し入れなさいますので、「そういうことか。」と宮はお思いになられます。
北の方の乳母が部屋にある見苦しいものを掃除させているという話を聞いて、女房の宣旨が宮に、「こんなふうにして北の方様はお移りになられるようです。決して、ついちょっとという様子ではありません。東宮様(宮のお兄様)のお耳に入ると具合の悪い話でもあります。いらっしゃって、お止め申し上げてください」と騒がしく申し上げていますのを見るにつけて、式部はお気の毒で辛いのですけれど、自分からあれこれ口出ししてよいものでもないので、そのまま黙って聞いてお仕えしておりました。聞きづらい話の出ている間はしばらく退出していたいとは思いますが、それもやはり情けないようなので、そのままお仕えしておりましたが、それにつけてもやはり物思いの絶えない我が身だと嘆かわしく思うのでした。
宮が北の方のお部屋にお入りになると、北の方は、何気ない様子をしていらっしゃいます。「本当ですか、姉君である女御様のもとへいらっしゃると聞きましたが。どうして車を出すようにと私におっしゃらなかったのでしょうか。」と宮が北の方に申し上げなさいますと、北の方は「別にどうということではありません。先方から車をよこすから、とありましたので。」とだけいって後はなにもお話しなさりません。
宮の北の方のお手紙とか、北の方の姉君の女御様のお手紙の言葉などは、実際はこのままではないでしょう。想像の作り書きのようである、と原本には書いてあります。
   完  

年かへりて、正月一日、院の拝礼に、殿ばら数をつくして参り給へり。宮もおはしますを見まゐらすれば、いと若ううつくしげにて、多くの人にすぐれ給へり。これにつけてもわが身恥かしうおぼゆ。上の御方の女房、出で居て物見るに、まづそれをば見で「この人を見む」と穴を開けさわぐぞ、いとさまあしきや。
暮れぬれば、こと果てて、宮入らせ給ひぬ。御送りに上達部数をつくして居給ひて、御遊びあり。いとをかしきにも、つれづれなりし古里まづ思ひ出でらる。
かくてさぶらふほどに、下衆などのなかにも、むつかしきこと言ふをきこしめして、かく人のおぼしのたまふべきにもあらず、うたてもあるかな、と心づきなければ、うちにも入らせ給ふこといと間遠なり。かかるもいとかたはらいたくおぼゆれば、いかがはせむ、ただともかくもしなさせ給はむままにしたがひて、さぶらふ。
北の方の御姉、春宮の女御にてさぶらひ給ふ。里にものし給ふほどにて、御文あり。「いかにも。このころ人の言ふことはまことか。われさへ人気なくなむおぼゆる。夜のまにもわたらせ給へかし」とあるを、かからぬことだに人は言ふとおぼすに、いと心憂くて御返り、「うけたまはりぬ。いつも思ふさまにもあらぬ世の中の、このころは見苦しきことさへ侍りてなむ。あからさまにも参りて、宮たちをも見たてまつり、心もなぐさめ侍らむと思ひたまふる。迎へにたまはせよ、これよりも、耳にも聞き入れ侍らじと思ひたまへて」など聞えさせ給ひて、さるべきものなどとりしたためさせ給ふ。むつかしき所などかきはらはせなどせさせ給ひて、「しばしかしこにあらむ。かくて居たればあぢきなく、こなたへもさし出で給はぬも苦しうおぼえ給ふらむ」とのたまふに、「いとぞあさましきや。世の中の人のあさみきこゆることよ」「参りけるにも、おはしまいてこそ迎へさせ給ひけれ、すべて目もあやにこそ」「かの御局に侍るぞかし。昼も三たび四たびおはしますなり」「いとよく、しばしこらしきこえさせ給へ、あまりもの聞えさせ給はねば」などにくみあへるに、御心いとつらうおぼえ給ふ。
さもあらばあれ、近うだに見きこえじ、とて、「御迎へに」と聞えさせ給へれば、御兄の君達、「女御殿の御迎へに」と聞え給へば、さおぼしたり。御乳母の曹司なるむつかしきものどもはらはするを聞きて、宣旨「かうかうしてわたらせ給ふなり。春宮の聞しめさむことも侍り。おはしましてとどめきこえさせ給へ」と聞えさわぐを見るにも、いとほしう苦しけれど、とかく言ふべきならねば、ただ聞き居たり。聞きにくきころ、しばしまかり出でなばやと思へど、それもうたてあるべければ、ただにさぶらふも、なほもの思ひ絶ゆまじき身かな、と思ふ。
宮、入らせ給へば、さりげなくておはす。「まことにや、女御殿へわたらせ給ふと聞くは。など車のことものたまはぬ」と聞え給へば、「なにか、あれよりとてありつれば」とて、ものものたまはず。
宮の上御文書き、女御殿の御ことば、さしもあらじ、書きなしなめり、と本に。
その後のこと 
こうして日記は式部が宮の邸に行ったところで終わります。宮の邸での生活がどのようなものであったか。その喜びと華やかさは語られていません。また、それがこの日記を一層引き立てて面白くしています。しかし、実際は彼女のこの幸せも長くは続きはしませんでした。四年ほどで帥宮は二七歳の若さで病没します。残された彼女のはげしい慟哭は百首を超える哀傷歌に充分語られていて、それを読者も知っているということだったのでしょう。この物語は帥宮と式部の恋の賛歌と哀悼の記録なのです。
式部の親王哀悼の歌を拾ってみます。
今はただそよそのことと思ひ出でて忘るばかりの憂きこともがな
(帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程に辛い思い出があればよかったのにと思われます。)
捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば
(捨て切ってしまおうと、そう思うことさえ切ないのです。あの人に馴染んだ我が身だと思いますと。)
かたらひし声ぞ恋しき俤はありしそながら物も言はねば
(語り合った声こそが恋しいことです。面影は生きていた時そのままですが、何も言ってくれませんので。)
はかなしとまさしく見つる夢の世をおどろかでぬる我は人かは
(儚いものだと、まざまざと思い知った夢の如き世ですのに、この世から目を醒まさず眠りをむさぼっている私は人と言えましょうか。)
ひたすらに別れし人のいかなれば胸にとまれる心地のみする
(まったく別世界へ逝ってしまった人が、どうしてか私の胸にいつまでも留まっている心地がしてなりません。)
君をまたかく見てしがなはかなくて去年(こぞ)は消えにし雪も降るめり
(あなたを再びこんなふうに見てみたいのです。はかなくて去年には消えてしまった雪も年が巡ればまた降るようですから。)
なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿や玉なきの里
(亡き人が訪れる夜だと聞きますけれど、あなたもいらっしゃいません。私の住まいは「魂無きの里」なのでしょうか。)
親王が二七歳の若さで男の子一人(後、出家して永覚と名乗りました)を残して亡くなったとき、式部は三十歳でした。喪が明けて三一歳のとき道長から声がかかり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の女)のもとに出仕します。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったでしょう。その華やかなサロンは源氏物語そのままで、紫式部や伊勢大輔・赤染衛門も仕えていました。この折のことは、また別の物語でしょう。式部は三三歳のとき、宮仕えが機縁となって道長の家臣(家司)で五十歳を過ぎた穏和な藤原保昌と再婚し、保昌について大和や丹後に赴きました。やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、四八歳の時には愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。没年は不明(五七〜五九歳)ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。なお、式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要があります。
和泉式部関連年表
年号(西暦) 数え齢  出来事
貞元元 (976) 居貞親王(三条天皇)生まれる(冷泉院:超子
貞元2 (977) 為尊親王(弾正宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元元 (978) 1歳和泉式部・前後3〜4年に生まれる(大江雅致:平保衡女)
天元3 (980) 3歳6月懐仁親王(一条天皇)生まれる(円融天皇:詮子)
天元4 (981) 4歳敦道親王(帥宮)生まれる(冷泉院:超子)
天元5 (982) 5歳1月、冷泉院女御超子 薨去
永観2 (984) 7歳8月、花山天皇即位
寛和2 (986) 9歳6月、一条天皇即位、
   7月、居貞親王元服、立太子
永祚元 (989) 12歳 11月、為尊親王 元服
正暦元 (990) 13歳 7月、藤原兼家(62歳)薨去
正暦2 (991) 14歳 〔女+成〕子(藤原済時女)東宮妃として入内
正暦3 (992) 15歳 為尊親王 九の御方(藤原伊尹女)と結婚
正暦4 (993) 16歳 2月、敦道親王 元服
敦道親王 藤原道隆三女と結婚
長徳2 (996) 19歳 和泉式部、橘道貞と結婚
長徳3 (997) 20歳 小式部 生まれる(橘道貞:和泉式部)
長保元 (999) 22歳 夫・道貞 和泉守に任ぜられる
   11月、彰子(藤原道長女)入内
長保2(1000) 23歳 12月、皇后定子(24歳)崩御
長保3(1001) 24歳 弾正宮との恋はこの頃
長保4(1002) 25歳 6月13日、弾正宮(26歳)薨去
長保5(1003) 26歳 4月十余日、帥宮と、橘の贈答歌。帥宮と初めて契る。
   12月10日、帥宮の南院に入る
寛弘元(1004) 27歳 1月、帥宮妃(藤原済時女で東宮妃〔女+成〕子の妹)南院を出る
   2月、藤原公任の白河院で帥宮とお花見
   3月、道貞 陸奥守に任ぜられ赴任
寛弘2(1005) 28歳 賀茂祭を帥宮の車に同乗して見学
寛弘2(1005) 29歳 石蔵宮(永覚)生まれる(帥宮:和泉式部)
寛弘4(1007) 30歳 10月2日、帥宮(27歳)薨去
   性空上人没
寛弘5(1008) 31歳 2月8日、花山院(41歳)崩御
   和泉式部、中宮彰子に出仕〜1011
寛弘7(1010) 33歳 和泉式部、藤原保昌(20歳ほど年上)と結婚
寛弘8(1011) 34歳 6月、一条天皇(32歳)崩御。三条天皇即位
   10月、冷泉院(62歳)崩御
長和5(1016) 39歳 2月、後一条天皇即位
   4月、橘道貞没
寛仁元(1017) 40歳 5月、三条院(42歳)崩御
寛仁2(1018) 41歳 静円 生まれる(藤原教通:小式部)
万寿2(1025) 48歳 11月、頼仁 生まれる(藤原公成:小式部)
   11月、小式部(28歳)没
万寿3(1026) 49歳 1月、太皇太后彰子 落飾して上東門院と号する
万寿4(1027) 50歳 10月、式部、皇太后妍子の七々日供養に歌を献上
   12月、藤原道長(62歳)、藤原行成(56歳)薨去
長元9(1036)(59歳) 9月、藤原保昌(79歳)没
和泉式部の没年は不明、一説には、長元7年(1034年)頃
式部を初代の住職とする京都の誠心院では三月二一日に和泉式部忌の法要がある。
 
 
今昔物語集 (天竺部) 

 

■巻1 天竺 
巻1第1話 釈迦如来人界宿給語 第一
今昔、釈迦如来、未だ仏に成給はざりける時は、釈迦菩薩と申して、兜率天の内院と云処にぞ住給ける。
而るに、「閻浮提に下生しなむ」と思(おぼ)しける時に、五衰を現はし給ふ。其の五衰と云は、一には、天人の目瞬(まじろ)ぐ事無に、目瞬ろぐ。二には、天人の頭の上の花鬘は萎む事無に、萎ぬ。三には、天人の衣には塵居(すう)る事無に、塵垢を受つ。四には、天人は汗あゆる事無に、脇下より汗出きぬ。五には、天人は我が本の座を替へざるに、本の座を求めずして当る所に居ぬ。
其の時に、諸の天人、菩薩、此の相を現じ給を見て、怪て、菩薩に申して云く、「我等、今日此の相を現じ給を見て、身動き心迷ふ。願くは、我等が為に此の故を宣べ給へ」と。菩薩、諸天に答て宣はく、「当に知べし、諸の行は皆常ならずと云事を。我、今久しくせずして、此の天の宮を捨て、閻浮提に生なむず」と。此れを聞て、諸の天人、歎く事愚かならず。
此(かく)て、菩薩、「閻浮提の中に生れむに、誰をか父とし、誰をか母とせむ」と思して、見給ふに、「迦毗羅衛国の浄飯王を父とし、摩耶夫人を母とせむに足れり」と思ひ定給つ。
癸丑の歳の七月八日1)、摩耶夫人の胎に宿り給ふ。夫人、夜寝給たる夢に、菩薩、六牙の白象に乗て、虚空の中より来て、夫人の右の脇より、身の中に入給ぬ。顕はに透徹(すきとほり)て、瑠璃の壺の中に物を入たるが如也と。
夫人、驚覚て、浄飯王の御許に行て、此の夢を語り給ふ。王、夢を聞給て、夫人に語て宣はく、「我も又此の如くの夢を見つ。自ら此の事を計ふ事能はじ」と宣て、忽に善相婆羅門と云人を請じて、妙に香しき花・種々の飲食を以て、婆羅門を供養して、夫人の夢想を問給ふに、婆羅門、大王に申して云く、「夫人の懐み給へる所太子、諸の善く妙なる相御(おはしま)す。委く説くべからず。今、当に王の為に略して説くべし。此の夫人の胎の中の御子は、必ず光を現ぜる釈迦の種族也。胎を出給はむ時、大に光明を放たむ。梵天・帝釈及び諸天、皆恭敬せむ。此の相は必ず是れ仏に成べき瑞相を現ぜる也。若し、出家に非ずば転輪聖王として、四天下に七宝を満て、千の子を具足せむとす」と。
其の時に、大王、此の婆羅門の詞を聞給て、喜び給ふ事限無くして、諸の金銀及び、象・馬・車乗等の宝を以て、此の婆羅門に与へ給ふ。又、夫人も諸の宝を施し給ふ。婆羅門、大王及び夫人の施し給ふ所の宝を受畢(うけはて)て、帰去(かへりい)にけりとなむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「七月一本四月ニ作ル」
巻1第2話 釈迦如来人界生給語 第二
今昔、釈迦如来の御母摩耶夫人、父の善覚長者と共に、春の始、二月の八日、嵐毗尼薗の無憂樹下に行給ふ。夫人、薗に至り給て、宝の車より下て、先づ種々の目出たき瓔珞を以て身を飾給て、無憂樹下に進み至り給ふ。夫人の共に従へる綵女、八万四千人也。其の乗る車、十万也。大臣・公卿及び百官、皆様々に仕へり。
其の樹の様は、上より下まで等しくして、葉しだりて枝に垂敷けり。半は緑也。半は青し。其の色の照曜ける事、孔雀の頸の如し。夫人、樹の前に至1)給て、右手を挙て樹の枝を曳取むと為る時に、右の脇より太子生れ給ふ。大に光を放給ふ。
其の時に、諸の天人・魔・梵・沙門・婆羅門等、皆悉く樹の下に充ち満てり。太子、已に生れ給ひぬれば、天人、人手を係け奉て、四方に各七歩を行ぜさせ奉る。足を挙げ給ふに、蓮華生(おひ)て、足を受け奉る。南に七歩行ては、無量の衆生の為めに、上福田と成る事を示し、西に七歩行ては、生を尽して永く老・死を立つ最後の身を示す。北に七歩行ては、諸の生死を渡る事を示す。東に七歩行ては、衆生を導く首と成る事を示す。四の維(すみ)に七歩行ては、種々の煩悩を断じて仏を成る事を示す。上に七歩行ては、不浄の者の為に穢れざる事を示す。下に七歩行ては、法の雨を降して、地獄の火を滅して、彼の衆生に安穏の楽を受けしむる事を示す。
太子、各七歩を行じ畢(はて)て、頌を説て宣はく、
我生胎分尽。是最末後身。我已得漏尽。当復度衆生。
行ずる事の七歩なる事は、七覚の心を表す。蓮華の地より生ずる事は、地神の化する所也。
其の時に、四天王の(かとり)を以て、太子を接奉(いだきまつり)て、宝の机の上に置奉る。帝釈は宝蓋2)を取り、梵王は白払を取て左右に候ふ。難陀・跋難陀の竜王は、虚空の中にして、清浄の水を吐て、太子の御身に浴し奉る。一度は温に、一度は凉し。御身は金の色にして三十二の相在ます。大に光明を放て、普く三千大千世界を照し給ふ。天竜八部は、虚空の中にして天楽を成す。天より天衣及び瓔珞、乱れ落る事雨の如し。
其の時に大臣有り。摩訶那摩と云ふ。大王の御許に参て、太子生れ給へる事を奏聞し、又種々の希有の事を啓す。
大王、驚乍ら、彼の薗に行幸し給ふ時に、一人の女有て、大王の来り給へるを見て、薗の内に入て、太子を懐奉(いだきまつり)て、大王の御許に将奉(ゐてまつり)て3)云く、「太子、今、父の王を敬礼し給ふべし」と。王の宣はく、「先づ、我が師の婆羅門を礼して後に我を見よ」と。其の時に、女人、太子を懐て、婆羅門の許に将奉る。婆羅門、太子を見奉て、大王に申さく、「此の太子は必ず転輪聖王と成給べし」と。
大王、太子を具し奉りて迦毗羅城に入給ふ。其の城を去る事遠からずして、一の天神有り。名をば増長と云ふ。其の社には、諸の釈種、常に詣て礼拝して、心に称(かな)はむ事を乞願ふ社也。大王、太子を彼の天神の社に将詣(ゐてまう)で給て、諸の大臣に告て宣はく、「我れ、今、太子に此の天神を礼(をがま)しむべし」と。乳母、太子を懐奉て、天神の前に詣づる時に、一の女天神有り。名をば無畏と云ふ。其の堂より下て、太子を迎奉て、掌を合せ恭敬して、太子の御足を頂礼して、乳母に語て云く、「此の太子は人に勝れ給へり。努々(ゆめゆめ)軽め奉る事無かれ。又、太子に我を礼せ奉る事無かれ。我れ、太子を礼し奉るべし」と。
其の後、大王、并太子夫人、城に返入給ひぬ。摩耶夫人は太子生れ給て後、七日有て失給ひにけり。然(さ)れば、大王より始め、国挙て歎き合へる事限無し。太子、未だ幼稚に御(おはし)ます間にて、「誰か養ひ奉らむ」と、大王思(おぼ)し歎く。
夫人の父、善覚長者、八人の娘有り。其の第八の娘を摩迦波闍4)と云ふ。其の人を以て太子を養ひ給ふ。実の母に異らず。太子の御夷母(をば)に御す。太子の御名をば悉駄と申す。摩耶夫人は失給て、忉利天に生れ給ひにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「至諸本立ニ作ル」
2) 「蓋」底本異体字、「葢」
3) 底本頭注「将ノ下一本行字アリ下同ジ」
4) 摩訶波闍波提
巻1第3話 悉達太子在城受楽語 第三
今昔、浄飯王の御子悉達太子、年十七に成給ぬれば、父の大王、諸の大臣を集めて、共に議して宣はく、「太子、已1)に長大に成給ぬ。今は后を奉べし。但し、思の如ならむ后、誰人か有るべき」と宣ふ時に、大臣、答て云く、「一人の釈種の婆羅門有り。名をば摩訶那摩と云ふ。娘有り。耶輸陀羅と云ふ。形、人に勝れて、心に悟(さとり)有なり。太子の后に為むに足れり」と。
大王、此の事を聞給て、大きに喜び給て、彼の父の婆羅門の許に使を遣て宣はく、「太子、已に2)長大に成て、后を求るに、汝が娘に当れり」と。父、謹で大王の仰を奉(うけたま)はる。
然(さ)れば、大王、諸の大臣と吉日を撰び定めて、車万両を遣て迎へ給て、既に宮に入ければ、太子、世の人の妻夫(めをと)の有様をふるまひ給ひぬ。又、諸の目出たく厳(いつく)しき女を撰て具せしめて、夜る昼る楽び遊ばしめ給ふ事限無し。
然(さ)は有れども、太子、后と常に相共なる事無し。始め、物の心吉く知給ざりける時より、夜は静に心を鎮めて、思を乱さずして、聖の道を観じ給けり。大王は日々に諸の采女に問給ふ、「太子は后と睦び給や」と。采女共の申す様、「太子、后と睦つび給ふ事、未だ見ず」と。大王、此の事を聞給て、大きに歎き給て、弥よ目出たき女の舞ひ歌ひ遊ぶを加て、噯(なぐさ)め給ふ。然は有れども、猶妃に睦び給ふ事無し。然れば、大王、弥よ恐れ歎き給ふ。
此て、太子、薗の花の開け栄え、泉の水の清く冷(すず)しき事を聞給て、「薗に出て遊ばむ」と欲(おぼ)して、此の采女を遣て、大王に申し給ふ。「宮に候ふに、日長くして遊ぶ事無し。暫く出て遊ばむと欲(おも)ふ」と。大王、此れを聞給て、喜び給ふ。忽ちに大臣・百官に仰せて、道を造らせ、万の所を清めさしむ。
太子、先づ父の王の御許に行て、王を拝し給て、出て行き給ふ。王、大臣の、年老、才有り、弁へ賢きを、太子の御共に遣す。此て、太子、諸の眷属を引将て、城の東の門より出給ふ。国の内の上中下、男女、集り来て見奉る事、雲の如し。
其の時に、浄居天、変化して、老たる翁と成ぬ。頭白く、背傴(せぐくまり)にして、杖に懸りて、羸(つか)れ歩ぶ。太子、此れを見給て、御共の人に問て宣はく、「此れは何人ぞ」と。答て云く、「此れは老たる人也」。又問給はく、「何を『老たる』とは云ぞ」と。答て云く、「此の人、昔は若く盛なりき。今は齢積て形衰へたるを、『老たる人』と云ふ也」と。太子、又問給はく、「只此の人のみ老たるか。万の人、皆此く有る事か」と。答て云く、「万の人、皆此く有る也」と。太子、車を廻して宮に返給ぬ。
又、暫の程を経て、太子、王に前の如く出て、遊ばむ事を申し給ふ。王、此の事を聞給て、歎き思(おぼ)す様、「太子、先に出て、道に老人を見て、憂の心有て、楽ぶ心無し。今何ぞ又出む」と思して、許給はず。然りと雖も、諸の大臣を集めて議し給ふ。「太子、先に城の東の門を出て、老人を見て楽しばず。今、既に又出むとす。此の度は、道を揮3)(はらつ)て、前の老人の如くならむ輩を有るべからず」と仰せて、許し給ひつ。太子、先の如く百官を引将て、城の南の門より出給ふ。
浄居天、変化して、病人と成ぬ。身羸れ、腹大きにふくれて、喘ぎ吟(によ)ふ。太子、此れを見給て、問て宣はく、「此れは何人ぞ」と。答へて云く、「此れは病ひする人也」と。太子、又問給はく、「何(いか)なるを『病人』とは為ぞ」と。答て云く、「『病人』と云は、耄(おい)に依て飲食すれども𡀍4) (いゆ)る事無く、四大調はずして、弥よ変じて、百節皆苦しび痛む。気力虚微して、眠り臥て安からず。手足有れども、自ら運ぶ事能はずして、他人の力を仮て臥し起く。此れを『病人』と為也」と。太子、慈悲の心を以て、彼の病人の為に、自ら悲を成して、又問給ふ。「此の人のみ此く病をば為か。又、余の人も皆而るか」と。答て云く、「一切の人、貴賤を択ばず皆此の病有り」と。太子、車を廻して、宮に返て、自ら此の事を悲て、弥よ楽ぶ事無し。
王、御共の人に問て宣はく、「太子、此の度、出て楽ぶ事有つや否や」と。答て云く、「南の門を出給ふに、道に病人を見て、此れを問聞給て、弥よ楽給はず」と。王、此の事を聞給て、大に歎き給ふ。今よりは城を出給ふ事を恐れ給て、弥よ噯め給ふ。
其の時に、一人の婆羅門の子有り。憂陀夷と云ふ。聡明智恵にして弁才有り。王、此の人を宮の内に請じ入て、語て宣はく、「太子、今世に有て、五欲を受る事を楽しばず。恐らくは、久しからずして家を出て、聖の道を学ばむと為るを、汝ぢ、速に太子の朋と成て、世間の五欲を楽ばむ事を語り聞て、出家を楽む心を留めよ」と。憂陀夷、王の仰せを奉はりて、太子に随ひ奉て、離れずして、常に歌舞を奏して見せ奉る。
太子、又暫くも有て、「出て遊ばむ」と申し給ふ。王、思す様、「憂陀夷、太子と朋と成ぬれば、世間を厭(いと)ひ、出家を好む事は留ぬらむ」と。然れば、出給はむ事を許し給ひつ。
太子、憂陀夷と百官を引将て、香を焼き、花を散じ、諸の伎楽を成して、城の西の門を出給ふ。浄居天、心に思はく、「前に老・病の二を現ずるに、衆人挙て此れを見て、王に申す。王、太子の此れを見て、楽び給はざるに依て嗔り給ふ。此度は死を現むに、皆人見て王に申さば、王、嗔を増て、必ず罸(つみ)を蒙らむ。我れ、今日は、只太子と憂陀夷と二人に、此の現ぜむ所の事を見せて、余の人には見せじ」と思て、変化して死人と成ぬ。
死人を輿5)(こし)に乗せて、香花を以て、其の上に散ず。人、皆哭合(なきあひ)て、此れを送る。太子・憂陀夷と二人のみ此れを見る。太子、憂陀夷に問て宣はく、「此れをば何人とか為る」と。憂陀夷、王の仰せに恐れて、答る事無し。太子、三度問給ふに、答へず。爰に浄居天、神通を以て憂陀夷の心を不覚に成して、答て云しむ。「此れは死人也」と。太子、問給はく、「何なるを死人とは云ぞ」と。憂陀夷の云く、「死と云は、刀風形を解き、神識身を去て、四大の諸根、又知る事無し。此の人、世に有て、五欲に貪着し、財宝を愛惜して、更に無常を悟らず。今は一旦に此れを捨て死す。又、父母・親戚・眷属も、命終て後、随ふ事無し。只草木の如也。此く死する者をば、実に哀れむべき也」と。太子、此れを聞給て、大に恐れ給て、憂陀夷に問給はく、「只此の人のみ死するか。余の人も又而か有るか」と。答て云く、「人、皆此く有る也」と。太子、車を廻して、宮に返給ぬ。
王、憂陀夷を呼びて問給ふ。「太子出て、楽有つや否や」と。憂陀夷、答て云く、「城を出給て遠からずして、道に死人有つ。何れの所より来れりと云ふ事を知らず。太子と我と、同く此れを見つ」と。王、此の事を聞給て思す様、「太子と憂陀夷とのみ此れを見て、余の人、皆此れを見ざりけり。定て、此れ、天の現ぜる也。諸の臣の咎に非ず。阿私陀 6)の云しに違ふ事無」と思して、大に歎き悲び給て、日々に人を奉りて、太子を誘(こしらへ)て宣はく、「此の国は汝が有也。何事に依てか、常に憂たる心のみ有て、楽しばざるぞ」と。
「太子、前に東南西の三の門を出給へり。未だ北の門より出給はず。必ず此の度は、北の門より出て遊び給はむ事有りなむ。然れば、彼の道を荘(かざ)り、前の如ならむ者共を有るべからず」と、諸の臣に仰せて、心の内に願じて宣はく、「太子、若し城の門を出ば、願くは、諸天、不吉祥の事を現じて、太子の心に憂へ悩ます事なかれ」と。
太子、又、王に出て遊ばむ事を申し給ふ。王、憂陀夷及び百官を、太子の前後に随へ給ふ。城の北の門を出て、薗に至給て、馬より下て、樹の本に端(ただ)しく居給て、御共の若干の人を去(しりぞ)けて、心を一にして、世間の老・病・死の苦を思惟し給ふ。
其の時に、浄居天、相の形に化して、法服を調のへ、鉢を持ち、錫杖を取て、来て、太子の前に有り。太子、此れを見給て、「汝は誰人ぞ」と問給ふ。僧、答て云く、「我は此れ比丘也」。太子、又問給ふ。「何なるをか、『比丘』と云ふ」と。答て云く、「煩悩を断じて、後の身を受けざるを『比丘』と云也。世間は皆常ならず。我が学ぶ所は無漏の正道也。目出たからぬ声に驚かず。香にをもねらず。味に耽らず。触に随はず。法に迷はず。永く無為を得て、解脱の岸に至れり」と。此く云畢て、神通を現じて、虚空に昇て去ぬ。太子、此れを見給て、馬に乗て、宮に返給ぬ。
王、憂陀夷に問て宣はく、「太子、此の度、出て楽び有つや、否や」と。答て云く、「太子、此の度、道に不吉祥無し。但し、薗の中に至て、樹の本に坐し給つる時に、一の人此れり。髪を剃り、衣を染たり。太子の御前にして、語る事有りつ。其の詞畢て、空に昇て去ぬ。何に事を云ふと知らず。太子、此の人と談(かたら)ひ給ひつる時は、喜び給ひつ。宮に返給て後は、尚憂たる形に御ます」と。
王、此れを聞給て、何なる瑞相と云ふ事を知給はず。只、「太子は家を出て、聖の道を学び給べし」と疑て、王、弥よ恐れ、歎き給ふ事限無かりけりとなむ語り伝へたるとや。
1) , 2) 底本「巳」。誤植とみて訂正。
3) 底本頭注「揮一本拂ニ作ル」
4) 口へんに愈
5) 底本異体字「轝」
6) 阿私仙。『今昔物語集』にはこれ以前に登場しない。釈迦誕生時にその出家を占った。
巻1第4話 悉達太子出城入山語 第四
今昔、浄飯王の御子悉達太子、年十九に成給ふに、心の内に深く出家すべき事を思して、父の王の御許に行給ふ。威儀を調へ給へる事、帝釈の梵天に詣づる有様の如し。
大臣有て、太子の来給へる由を申す。王、此るを聞給て、憂の中に喜び給ふ事限無し。太子、大王に向て、首を傾て礼し給ふ。王、此れを抱て坐せしめ給ふ。太子、座に居て、王に申して宣はく、「恩愛は必ず別離有り。唯し1)願くは、我が出家・学道を聴し給へ。一切衆生の愛別離苦を、皆解脱せしめむか」と。
王、此れを聞給て、心大に苦しび痛み給ふ事、尚し金剛の山を摧破するが如し。身挙て、居給へる座安からず。太子の手を取て、「物宣ふ事無れ」と、哭(なき)給ふ事限無し。太子、王の涙を流して、聴し給はざる事を見給て、恐れて返給ひぬ。只、出家をのみ思て、楽ぶ心御(おはしま)さず。
王、此の心を見て、大臣に仰せて、固く城の四の門を守らしむ。戸を開き閉(とづ)るに、其の声四十里に聞ゆ。
然るに、太子の御妻、耶輸陀羅、寝たる間に三の夢を見る。一には、月、地に堕ぬ。二には、牙歯落ぬ。三には、右の臂を失ひつと。夢覚て、太子に此の三の夢を語て、「此れ何(いか)なる相ぞ」と。太子の宣はく、「月は猶天に有り。歯は又落ちず。臂猶身に付り。此の三の夢、虚くして実に非ず。汝ぢ、恐るべからず」と。
太子に三人の妻有り。一をば瞿夷と云ふ。二をば耶輸と云ふ。三をば鹿野と云ふ。宮の内に三の殿を造て、各二万の采女を具せしむ。
其の時に、法行天子、宮の内に来て、神通を以て、諸の采女の身体・服飾を縦横に成て端(ただ)さしめず。或は、衣裳を棄て、目を張て眠る者有り。死たる屍の如也。或は、仰ぎ臥て、手足を展て、口を張て眠る者有り。或は、身の諸の瓔珞の具を脱捨て、或は、大小の便利の不浄を出して眠る者有り。太子、手に灯を取て、此の様々の貌を見給て思す様、「女人の形、不浄に見悪き事、顕(あらは)也。何の故にか、此れに貪せる事有らむ」と思す。
後夜に、浄居天及び、欲界の諸の天、虚空に充満て、共に声を同して、太子に白して言さく、「内外眷属皆悉く眠り臥たり。只今、此れ出家の時也」と。太子、此れを聞給て、自ら車匿が所に御して、「我を乗せむが為に、犍陟2)に鞍置て将来るべし」と。車匿、天の力に依て、寝ずして有り。太子の御言を聞て、身挙り心戦(わななき)て、云事無し。暫く有て、涙を流して申さく、「我れ、太子の御心に違はじと思ふ。又、大王の勅命を背かじと怖る。又、只今遊に出給ふべき時に非ず。又、怨敵を降伏し給ふべき日に非ず。何ぞ、後夜の中に馬を召ぞや。何の所へ行むと思食ぞ」と。太子の宣はく、「我れ、一切衆生の為に、煩悩・結使の賊を降伏せむと思ふ。汝ぢ、我が心に違ふべからず」と。車匿、涙を流す事雨の如し。再三拒み申すと云へども、遂に馬を牽て来ぬ。太子、漸く進むで、車匿・犍陟に語ひ給ふ。「恩愛は会(あふ)と云へども離る。世間の無常、必ず畏るべし。出家の因縁は必ず遁れ3)難し」と。車匿、此れを聞て、云ふ事無し。又、犍陟、嘶(いば)え鳴く事無し。
其の時きに、太子、御身より光明を放て、十方を照し給ふ。「過去の諸仏の出家の法、我れ又然也」と。諸天、馬の四足を捧げ、車匿を接(いだ)き、帝釈は蓋(きぬがさ)4)を取り、諸天皆随へり。城の北の門を、自然(おのづか)ら開しむ。其の声音無し。太子、門より出給ふに、虚空の諸天、讃歎し奉る事限無し。太子、誓を発して宣はく、「我れ、若し生老病死・憂悲苦悩を断たずば、終に宮に返らじ。我れ、菩提を得ず、又法輪を転ぜずば、返て父の王と相見えじ。我れ、若し恩愛の心を尽さずば、返て摩訶波闍5)及び耶輸陀羅を見じ」と誓ひて、天暁に至て、行く所の道の程、三由旬也。諸天、太子に随て、其の所に至て、忽に見えず。
馬の駿(と)き事と、金翅鳥の如し。車匿、離れずして、御共に有り。太子、跋伽仙人の苦行林の中に至り給ぬ。馬より下り給て、馬の背を撫て宣はく、「我れを爰に将来れり。喜び思ふ事限無し」。又、車匿に宣はく、「世の人、或は、心吉と云へども、形随はず。或は、形ち吉と云ども、心に叶はず。汝は、心・形、皆違ふ事無し。我れ、国を捨て、此の山に来れり。汝ぢ、一人のみ我に随へり。甚だ有難し。我れ、聖の所に来れり。汝、速に犍陟を具して、宮に返ね」と。車匿、此れを聞て、地に倒れて、哭き悲しむ事限無し。犍陟も、「返ね」と宣ふを聞て、膝を屈(かが)め蹄を舐(ねぶり)て、涙を落す事、雨の如し。
車匿、申して云く、「我れ、宮の内にして、大王の勅に違て、犍陟を取て太子に奉て、御共に参れり。大王、太子を失ひ奉り給て、定て悲び迷ひ給ふらむ。又、宮の内の騒ぎ愚ならじ。我れ、何(いかに)してか、太子を捨奉て、宮に返らむ」と。太子の宣はく、「世間の法は、一人死して、一人生れぬ。永く副ふ事有らむや」と宣て、車匿に向て、誓て宣はく、「過去の諸仏も、菩提を成むが為めに、飾6)を棄て、髪を剃(そり)給ふ。今、我も又然るべし」と宣て、宝冠の髻の中の明珠を抜て、車匿に与て、「此の宝冠明珠をば、父の王に奉るべし」。身の瓔珞を脱て、「此れを摩訶波闍7)に奉るべし。身の上の荘厳の具をば、耶輸陀羅に与ふべし。汝ぢ、永く我を恋ふる心ろ無かれ。犍陟を具して、速に宮に返ね」と宣へども、更に返らずして、哭き悲む。
其の時に、太子、自ら釼を以て、髪を剃給ひつ。天帝釈来て、髪を取て去(いに)給ぬ。虚空の諸天は、香を焼き花を散じて、「善哉、々々」と讃(ほめ)奉る。其の時に、浄居天、太子の御前にして、獦師と成て、袈裟を着たり。太子、此れを見て喜て宣はく、「汝が着たる衣は、寂静の衣也。往昔の諸仏の袈裟也。何ぞ此れを着乍ら罪や造る」と。獦師の云く、「我れ、袈裟を着て、諸の鹿を誘ふ。鹿、袈裟を見て、来て、皆我れに近付く。我れ、其れを殺(ころす)也」と。太子の宣はく、「汝が袈裟を着るは、鹿を殺むが為也。解脱を求て着たるには非ず。我れ、此の七宝の衣を汝に与て、汝が着たる袈裟を我れ着て、一切衆生を救はむ」と。獦師、「善哉」と云て、太子の衣に袈裟を替つ。太子は獦師の袈裟を取て、着給つ。
其の時に、浄居天、本の形に成て、虚空に昇ぬれば、空中に光明あり。車匿、此れを見て、「太子、返給まじ」と知て、地に臥て、弥よ悲を増す。太子、車匿に宣はく、「汝ぢ、速かに宮に返て、具に我が事を申すべし」と。然れば、車匿は号びH(さけ)び、犍陟は悲び泣て、道のままに皈りぬ。
宮に返て、具に事の有様を申すに、大王を始奉て若干の人、哭き悲み騒ぎ合る事限無し。
此の犍陟は太子の御馬也。車匿は舎人也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「唯シ諸本シ字ナシ」
2) 底本頭注「犍陟諸本金蹄ニ作ル下同ジ」
3) 「遁」は底本異体字。「遯」。
4) 底本頭注「蓋一本轡ニ作ル」
5) , 7) 摩訶波闍波提
6) 底本異体字「餝」
巻1第5話 悉達太子於山苦行語 第五
今昔、悉達太子、跋伽仙の苦行林の中にして、出家し給て、彼の仙人の栖(すみか)に至り給ふ。仙人、太子を迎へ奉て、深く敬て申さく、「諸の仙人は威光無し。然れば、太子をば迎へて居(す)へ奉つる也」と。太子、彼の仙人の行を見給ふに、或は、草を以て衣とせる者有り、或は、水・火の側に住む者有り。
此の様の苦行を見給て、跋伽仙人に問て宣はく、「此れ、何事を求むるぞ」と。仙人、答て云く、「此の苦行を修して、天上に生れむと願ふ」と。太子、此の事を思すに、「苦行を修すと云へども、皆仏の道を願ふに非ず。我れ、爰に住むべからず」と思して、「此の所を去なむ」と宣ふ。諸の仙人、太子に申さく、「若し去なむと思さば、此より北に向て行給べし。彼(かし)こに大仙有り。名をば、阿羅邏・迦蘭と云ふ。公、其の所に行給ふべし」と教ふ。
さて、車匿は犍陟を曳て宮に返ぬ。宮の諸の人、摩訶波闍1)及び耶輸陀羅に申して云く、「車匿・犍陟、爰に還来れり」と。波提2)、此れを聞て、泣々王に申す。又、王、此れを聞て、悶絶躃地して、暫く在て醒悟て、諸の臣に勅して、四方に太子を尋ね求め奉て、大王、車千に多(あまた)の資粮を積て、太子の御許に送て、時に随て供養し奉て、「乏き事有せ奉らじ」と。車匿、太子の御許に詣て、此の資粮を奉るに、太子、敢て受給はず。然れば、車匿、一人留て、千の車をば王の御許へ返し送つ。車匿は太子に付奉て、朝暮に離れず。
太子は阿羅邏仙人の所に至り給ぬ。又、諸天、仙人に語て云く、「薩波悉達国を捨て、父に別れて、無上正直3)の道を求め、一切衆生の苦を救はむと思すが故に、爰に来給へり」と。天人、天の告を聞て出て、太子を見奉るに、形端正なる事限無し。即ち迎へ奉て、請じ居奉つ。仙人の申さく、「昔の諸の王は、盛の時、恣に五欲を受くと云へども、国を捨て出家して、道を求むる事は無し。今、太子は盛にして、五欲を捨て、爰に来給へり。実に希有也」と。太子の宣はく、「汝が云ふ事を聞くに、我れ喜ぶ。汝、我が為に、生老病死を断ずる法を説くべし」と。仙人の云く、「衆生の始は、寛(ゆるやかなる)より我慢を発す。我慢より痴心を生ず。痴心より染愛を生ず。染愛より五微塵気を生ず。五微塵気より五大を生ず。五大より貪欲・瞋恚等の諸の煩悩を生ず。此の如き、生老病死・憂悲苦悩に流転す。今、太子の為に、略して此れを説也」と。太子の宣はく、「我れ、汝が説く所の、生死の根本を知ぬ。又、何なる方便を以てか、此れを断ずる」と。仙人の云く、「若し、此の生死の本を断ぜむと思はば、出家して戒行を持(たも)ち、忍辱を行じ、閑ならむ所に居て、禅定を修して、悪欲等の不善の法を遠離すべし。此れを解脱と為也」と。太子、又宣はく、「汝は、年何(いく)らにて出家し、梵行を修て後、又何ら許の年ぞ」と。仙人の云く、「我れ、年十六にして出家して、梵行を修して以来(このかた)一百四年也」と。
太子、此の事を聞給て思す様、「一百四年梵行を修して、得たる所の法此の如し。我れ、此れに勝たらむ位を求めむ」と思して、座より立て、仙人に別れ給ふ。二人の仙人、太子の去給ふを見て思はく、「太子の智恵、甚だ深くして量難し」と思て、掌を合せて送り奉る。
太子、又、迦蘭仙の苦行の所に至り給ふ。憍陳如等の五人の栖也。其より尼連禅河の側に至給て、坐禅修習して苦行し給ふ。或日は一麻を食し、或日は一米を食し、或は一日乃至七日に一の麻米4)を食す。憍陳如等。又苦行を修し、太子を供養し奉て、其の側を離れず。太子、思す様、「我れ、苦行を修して、既に六年に満ぬ。未だ道を得ず。若し、此の苦行に身羸(つか)れて、命を亡じて、道を得ずば、諸の外道は、『餓て死たる』と云べし。然れば、只食を受て、道を成すべし」と思して、座より立て、尼連禅河に至り給ふ。水に入て、洗浴し給ふ。
洗浴畢て、身羸れ瘠せ給て、陸に登得給はず。天神来て、樹の枝に乗せ奉て、登せ奉りつ。其の河に大なる樹有り。頞離那と云ふ。其の樹に神有り。柯倶婆と名づく。神、瓔珞荘厳せる臂を以て、太子を引迎へ奉る。太子、樹神の手を取て、河を渡給ぬ。太子、彼の麻米を食給ひ畢て、金の鉢を河の中に投入れて、菩提樹に向給ひぬ。
彼の林の中に、一人の牧牛の女有り。難陀婆羅と云ふ。浄居天、来て、勧めて云く、「太子、此の林の中に来給ぬ。汝ぢ、供養し奉べし」と。女、此れを聞て喜ぶ。其の時に、池5)の中に、自然(おのづか)ら千葉の蓮華生たり。其の上に乳の麻米有り。女、此れを見て、「奇特也」と思て、即ち、此の麻米を取て、太子の所に至て、礼拝して此れを奉る。太子、女の施を受給て、身の光り、気力満ち給ぬ。
五人の比丘、此れを見て、驚き怪で、「我等は此の施を受てば、苦行退転しなむ」と云て、各本所に返る。
太子一人は、其より畢波羅樹下に趣き給ひにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 2) 摩訶波闍波提
3) 底本頭注「正直ハ正真ノ誤カ」
4) 糜(かゆ)
5) 底本頭注「池ハ地ノ誤カ」 
巻1第6話 天魔擬妨菩薩成道語 第六
今昔、菩薩1)、菩提樹の下にして思給に、過去の諸仏、何を以てか、座として無上道を成(じやうじ)給けむ」と思すに、「草を以て座と為べし」と知給ぬ。
其の時に、帝釈、化して人と成て、清く軟かなる草を取て来れり。菩薩、問て宣はく、「汝をば誰とか云ふ」と。答て云く、「吉祥と名づく」。菩薩、喜て宣はく、「我れ、不吉祥を破して吉祥と成ぬ。又、汝が手に持たる草は得べきや否や」と。爰に吉祥、草を菩薩に授け奉て、願を発して云く、「菩薩道を成給はむ時、先づ我を度し給へ」と。菩薩、草を受取て、座として、其の上に結跏趺坐し給ふ事、過去の諸仏の如し。自誓て宣はく、「我れ、正覚成ぜずば、永く此の座を立たじ」と。其の時に、天竜八部、皆歓喜し、虚空の諸天、讃め奉る事限無し。
其の時に、第六天の魔2)の宮殿、自然ら振ひ動く。魔王の思ふ様、「沙門瞿曇3)、樹下に在して五欲を捨て、端坐思惟して正覚を成ずべし。若し、其れ道を成じて、広く一切を度せば、我が境界に超て増(まさり)なむとす。我れ、彼が未だ道を成さぬ前に行て、壊り乱らむ」と。
魔王の子有り。名をば薩陀と云ふ。父の、此の事を歎き憂へる形を見て、父に云く、「何の故に歎き憂へ給へるぞ」と。魔王の云く、「沙門瞿曇、今樹下に坐して、道を成じて、我れを超て増なむとす。我れ、彼を破り乱らむと思ふ」と。魔の子、父を呵嘖して云く、「菩薩は清浄にして比ふ者無し。天竜八部、悉く守護す。神通・智恵、明かならずと云ふ事無し。妨げ給べき事にも非ず。何ぞ、悪を作り咎を招かむ」と。
又、魔王、三人の女有り。形ち端正にして、天女の中に勝たり。一をば染欲と云ふ。二をば能悦人と云ふ。三をば可愛楽と云ふ。三人の女、共に菩薩の御許に詣て、申して云く、「公、徳至り給て、人天に敬はれ給ふ事限無し。我等、年盛にして、端正なる事、並ぶ者無し。父の天、我等を奉て供養せしむ。朝暮に候はむ」と。菩薩の宣はく、「汝等、少(いささか)の善を殖たる故に、天の身を受たり。形ち美也と云へども、心に無常を念じず。死て、必ず三悪道の中に堕つべし。我れ、更に用ゐるべからず」と。
其の時に、此の三人の天女、忽に変じて老耄しぬ。頭白く、面皺み、歯落て、涎を垂る。腰曲て、腹大なる事鼓の如し。杖に懸て、羸(つかれ)て行歩に能はず。
魔王、此れを見て、軟なる語にて、菩薩を誘(こしら)へて申さく、「若し、汝ぢ人間の受楽を欣給はずば、我等を天宮に登すべし。我れ、天の位及び、五欲の具を捨て、汝に与へむ」と。菩薩の宣はく、「汝ぢ、先世に少の善を修して、今自在天王と成る事を得たり。福の期有て、終に三途に沈て、出る期有らじ。此れを罪の因とす。此れ、我が用いる所に非ず」と。魔の云く、「我が果報をば、汝ぢ知れり。汝が果報をば、誰か知れる」と。菩薩の宣はく、「我が果報をば、天地の知れる也」と。
此く説給ふ時に、大地、六種に振動し、地神、七宝の瓶を以て、其の中に蓮華を満て地より出して、魔王に云く、「菩薩、昔し、頭目・髄脳・国城・妻子等を、諸の人に与へて、無上菩提を求給ひき。此の故に、汝、今菩薩を悩乱せしむべからず」と。魔、此れを聞て、心に怖れを成し、身の毛竪(よだ)つ。地神、又菩薩の足を荷て、花を供養し奉て後失ぬ。
魔王の思ふ様、「今は我れ此の瞿曇の心を悩乱せさする事非じ。只、方便を儲けむ。諸の軍を集めて、力を以て責め罸(うた)む」と思ふ。忽に諸の軍、虚空に満ぬ。形、各異にして、或は戟を取り釼を持て、頭に大樹を戴けり。手に金剛杵を取り、或は猪の頭、或は竜頭、此の様の怖しき形の類ひ、若干有り。又、魔の姉妹有り。一をば弥伽と云ふ。二をば迦利と云ふ。各、手に髑髏の器を取て、菩薩の御前に来て、異なる形共を現ず。
諸の魔は、醜き形共を現じて、菩薩を怖(おど)し奉らむとす。然れども、菩薩の一毛をも動し奉る事成し。然れば、弥よ憂へ歎く事限無し。
空の中に神有り。名を員多と云ふ。身を隠して云く、「我れ、今、牟尼尊4)を見奉るに、心安くして、怨の思無し。此の諸の魔衆、毒心を発して、横ざまに怨心を成す事無かれ」と。魔、空の中の音を聞て、悔恥て、憍慢・嫉妬の心を永く止めて、本の天宮に還りにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 3) , 4) 釈迦
2) 底本頭注「魔一本魔王ニ作ル」
巻1第7話 菩薩於樹下成道語 第七
今昔、天魔、種々の方便を儲(もうけ)て、菩薩1)の成道を妨げ奉らむと為と云へども、菩薩、芥子(あくた)許も犯され給ふ事無し。慈悲の力を以て、端正の天女の形をも破り、刀釼の謀をも遁て2)、二月七日の夜を以て、此の如き魔を降伏し畢て、大に光明を放て、定に入て、真諦を思惟し給ふ。
又、中夜に至て、天眼を得給つ。又、第三夜に至て、無明を破し、智恵の光を得給て、永く煩悩を断じて、一切種智を成じ給ふ。此より「釈迦」と称し奉る。
釈迦牟尼如来、黙然として坐し給へり。其の時に、大梵天王来て、「一切衆生の為に法を説給へ」と申し給ふ。仏眼を以て、諸の衆生を上中下根及び、菩薩の上中下根を観じ給ふに、二七日を経たり。
世尊3)、又思はく、「我れ、甘露の法門を開て、彼の阿羅邏仙を先づ度せむ」と。空に音有て云く、「阿羅邏仙は昨日の夜、命終にき」と。仏4)の宣はく、「我れ、彼の仙、昨日の夜、命終たりと知れり」と。又思はく、「迦蘭仙、利根明了也。先づ彼を度すべし」と。又、空に音有て、「迦蘭仙、昨日の夜、命終にき」と。仏の宣はく、「迦蘭仙、昨日の夜、命終たり」と宣けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 3) , 4) 釈迦
2) 前話参照。
巻1第8話 釈迦為五人比丘説法語 第八
今昔、釈迦如来、波羅奈国に行給て、憍陳如等の五人の比丘の住所に至り給ふ。彼の五人、遥に如来の来り給を見て、相共に語て云く、「沙門瞿曇、苦行を退して、飲食を受むが為に、爰に来給へり。我等、煩はさずして、立て彼を迎へ奉るべし」と。
如来、既に来給ぬれば、五人、各座より起て、礼拝して迎へ奉る。其の時に、如来、五人に語て宣はく、「汝等、少き智(さとり)を以て、我が道を成じ成ぜざる事を軽め疑ふ事無かれ。其の故何(いかに)となれば、苦行を修すれば、心悩乱す。楽を受れば、心に楽着す。此の故に、我れ苦楽の二道を離れて、中道の行に随て、今菩提を成ずる事を得たり」と説き給て、如来、五人の為に、苦・集・滅・道の四諦を説給ふ。五人、此れを聞て、遠塵離苦して、法眼浄を得つ。
五人と云は、一をば憍陳如、二をば摩訶迦葉、三をば頞鞞、四をば跋提、五をば摩男拘利と云ふ。「何の故にか此の五人なる」と尋ぬれば、昔、迦葉仏の世に、同学の人九人有き。四人は利根にして、先に既に道を得たり。五人は鈍根にして、□□始命始て1)、覚を開く。「釈迦如来の出世成道の時に会はむ」と願ぜるが故也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「始テ一本終テニ作ル」
巻1第9話 舎利弗与外道術競語 第九
今昔、釈迦如来の御弟子舎利弗尊者は、本外道の子也。其の母、舎利弗を孕めるに、腹の中にて智恵有て、母が腹を破て出なむとす。是に依て、母、鉄を以て帯とせり。生れて名を舎利弗と云ふ。
長爪梵志と云ふ外道に随て、其の典籍を習へり。其の時に、仏の御弟子、馬勝比丘、の四諦の法を説を聞て、外道の門徒を背て、釈迦の御弟子と成て、初果を得たり。其の後、仏の許に参て、七日と云ふに、阿羅漢果を得たり。
其の時に、大智外道・神通外道・韋随外道を首として、若干の外道等、心を一にして、舎利弗を嫉妬する事限無し。舎利弗に会て、秘術を相競べむ事を謀ごつ。既に日を定めて、勝負の謀を成す。此の事、十六の大国に皆な聞えぬ。見物、市を成す。上中下人、残る事無し。
勝軍王と申す大王の前にして、此れを競ぶ。舎利弗は只一人居給へり。外道は其の数無量也。左右に相対て座して、術を現ず。先づ、外道の方に、舎利弗の頭の上に大なる樹を現じて、其の頭を打ち砕かむとす。舎利弗の方より、毗嵐と云風を出て、樹を遥に遠く吹捨つ。次に、外道の方より、洪水を現じたり。舎利弗の方より、大象出来て、須臾に吸ひ干しつ。次に、外道の方より、大山現じたり。舎利弗の方より、力士出来て、拳を以て打ち摧つ。次に、外道の方より、青竜を現ぜり。舎利弗の方より、金翅鳥出来て、遥に遠く追ひ却つ。次に、外道の方より、大なる牛を現ぜり。舎利弗の方より、師子出来て、更に寄せず。次に、外道の方より、大夜叉を現ぜり。舎利弗の方より、毘沙門出御(いでおはしま)して、降伏し給つ。
かく様にして、終に外道負けて、舎利弗勝ち給ぬれば、釈迦の面目・法力の貴く勇猛なる事、此より弥よ五天竺に風聞しぬ。
其の後、多(あまた)の外道、舎利弗尊者に随ひて、永く仏の道を貴びけりとなむ、語り伝へたるとや。
巻1第10話 提婆達多奉諍仏語 第十
今昔、提婆達多と云ふ人有けり。此は1)父方の従父兄弟也。仏は浄飯王の御子、提婆達多は黒飯王2)の子也。
其(そこ)に、提婆達多、太子にて有ける時、雁を射たりけるに、其の雁、箭立ながら飛て、悉達太子3)の薗に落たり。太子、其の雁を見給て、慈悲の心深き故に、此れを哀て4)、抱き取て、箭を抜て、哀み給ふ程に、提婆達多、太子の所に来て、雁を乞ふに、与へ給はねば、大に嗔を成て、此れを始として、悉達太子と提婆達多と中悪く成ぬ。
悉達太子、仏に成り給て後は、提婆達多は外道の典籍を習て、弥よ仏を妬み奉て、我が立る所の道を、「止事無き所」と思て、仏と諍ひ奉る事限無し。
かくて、仏、霊鷲山にして法を説き給ふ時に、提婆達多、仏の御許に詣て、仏に申して言く、「仏は御弟子共の数多かり。我れに少分を分給ふべし」と。仏、許給はず。其の時に、提婆達多、新学の五百の御弟子等を語ひて、密に提婆達多の住所、象頭山に移し住せしむ。此の時に、破僧の罪を犯して、転法輪を止めて、天上天下、歎き恋悲ぶ。其の後、提婆達多、象頭山にして、五法・八支正道の法を説く。
舎利弗、「此の五百の新学の比丘を取返さむ」と思て伺ふ程に、提婆達多、吉く眠たる程に、舎利弗、此れを圧5)(おそ)ひ寄る。目連、五百の比丘を袋に裹て、鉢に入れて、仏の御許に飛び詣ぬ。
其の時に、提婆達多の弟子倶迦利、嗔の心を発して、履を以て師の面を打つ時に、始めて驚き覚て、「五百の新学の比丘、取返されにけり」と思て、嗔る事限無し。
さて、提婆達多、仏の御許に行て、三十肘の石を投て、仏を打奉る時に、山神、石を障へて、外に落しつ。其の石、破れ散て、仏の御足に当て、母指より血出たり。此れ、第二の逆罪也。其の時に、提婆達多、我が手指の端に毒を塗て、仏の御足を礼し奉る様にて、毒を付けむと為るに、毒、即ち変じて、薬と成て、疵ず𡀍6)(いえ)給ひぬ。
又、阿闍世王、提婆達多の語に依て、大象に酒を呑ましめて、吉酔して、酔象を放て、仏を害し奉らむと謀ごつ。酔象を見て、五百羅漢、恐て空に飛昇ぬ。其の時に、仏の御手より五師子の頭を出し給ふに、酔象、此れを見て逃げ去ぬ。
仏、阿闍世王の宮に入て、法を説て、教化し給て、王の供養を受け給ふ。其の時に、提婆達多、悪心を増して、宮を出ぬ。
又、提婆達多、花色7)と云ふ、羅漢の比丘尼の頭を打つ。此れ、第三逆罪也。羅漢の比丘尼は打殺(ころ)されぬ。
提婆達多は大地破裂して、地獄に堕ぬ。其の入たる穴、于今有りとなむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「此ハ一本此人ハニ作ル」
2) 一般的には斛飯王と表記。
3) 釈迦
4) 底本頭注「哀テノ二字一本ナシ」
5) 底本頭注「壓一本厭ニ作ル義同ジ」
6) 口へんに愈
7) 底本頭注「花色一本蓮花ニ作ル一人両名ナリ」 
 

 

巻1第11話 仏入婆羅門城乞食給語 第十一
今昔、仏1)、婆羅門の城に入て、乞食し給はむとす。其の時に、彼の城の外道共、皆心を一にして云く、「此の比、狗曇比丘2)と云ふ者の、人の家毎に行て、物を乞ひ食ふ事有り。悪3)く無愛也。さるは、本止事無かるべかりし者也。浄飯王の御子にて、王位を継ぐべかりしに、そぞろに物に狂ひて、山に入て、仏に成りたりとぞ云なる。人の心を欺けば、此れに謀らるる者多かり。此れに努々供養すまじ」と云ひ廻して、「若し、此の起請を壊て供養する者有らば、国の境を追ふべし」と告廻らして後ち、仏御ませども、或、家には門を差て入れ奉らず、或、家には答も為で、久く立て奉たり。或、家には御ますまじき由を云て、追奉る。
此如くして、日高く成るまで、供養を受給はず。鉢を空くして、胸に宛給て、疲極(つかれこう)じ給へる気色にて返り給を、或家より、女、「米を洗たる汁の、日来に成て菸(くさり)たるを棄」とて、外に出たるに、仏の、供養も受給はで返り給を見奉て、悲の心を発して、「何を供養し奉まし」と思に、身貧くして、更に供養奉べき物無し。「何(いか)に為む」と思ひて、涙を浮て立る気色を、仏、見給て、「汝は何事を歎き思ぞ」と問給へば、女、答て云く、「仏の、日高く成るまで、供養を受給はで返り給を見奉て、『我れ供養し奉らむ』と思ふに、家貧くして、露供養し奉べき物無し。此れに依て、歎き思ふ也」と云て、涙を落して哭く時に、仏の宣はく、「其の汝が持たる桶には、何の入たるぞ」と。女、答て云く、「此れは、米を洗たる汁の菸たるを棄に行也」と。仏の宣はく、「只其れを供養すべし。米の気なれば、吉き物也」と。女、「此れは糸異様なれども、仰せに随ふ也」とて、御鉢に入つ。仏け、是を受給て、鉢を捧て、呪願して宣はく、「汝ぢ、此の功徳に依て、天上に生れば忉利天の王と成り、人界に生れば国王と成べし。此れ、限無き功徳なり」と。
其の時に、外道、高楼に登て見に、仏の家々に追れ給て、日高く成まで供養も受けで、疲極じて返給に、女の棄つる菸水を受て、呪願し給を見て、出て仏に申さく、「仏は、何でかかる虚言を以て、人をば欺き給ふぞ。吉き物にも非ず、菸たる物の汁を棄に持行に合て、乞ひ得て、『天に生れ国王と成るべし』と宣ふ。極たる虚言也」と嘲り㗛ふ。仏の宣はく、「汝は高堅樹の実は見たりや」と。外道の云く、「見たり」と。仏の宣はく、「何(いく)ら許か有る」と。外道の云く、「芥子(あくた)よりも尚少(ちひさ)し」と。仏の宣はく、「高堅樹の木は何許ぞ」と。外道の云く、「枝の下に五百の車を隠すに、尚木の影余る」と。仏の宣はく、「汝、其の譬を以て心得べし。芥子よりも小さき種より生たる木、五百の車を隠すに尚影余る。仏に少も物を供養する功徳、無量也。世間の事、此の如し。何況や、後世の事は此れを以て知べし」と。
外道、此れを聞て、「貴し」と思ひ成て、礼拝し奉る時に、頭の髪、空に落て、羅漢と成ぬ。女も当来の記別を聞て、礼拝して去にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 瞿曇の異表記。釈迦を指す。
3) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡
巻1第12話 仏勝蜜外道家行給語 第十二
今昔、天竺に外道有り。名をば勝蜜と云ふ。「仏1)を何(いか)で殺害し奉らむ」と思て、謀(はかりごつ)に、思得たる様、「仏を請じ奉らむ」と。
「輙く来り給はば、『例の人の様に御けり』と知らむ。来給はずば、『実に賢く御けり』と知るべし」と云定て、使を奉て、請じ奉るに、即ち御すべき由を受給つ。勝蜜外道より始めて、「あなかま、あなかま」と、各手掻き喜て謀つ様、門の内に広く深き穴を掘て、底に火を多く置き、釼共を隙無く立たり。其の上に、薄き板を敷て、其の上に砂を置たり。此の如くして、仏の来給を待奉る。
外道の子共の中に一人の子有り。父に云様、「父に御すとも、此の謀り給ふ事、極て墓無し。仏は此の如の謀に、計られ給べきに非ず。末々への御弟子だにも、人の謀に謀らるべきに非ず。何況や、仏の智恵は量無き也。かかる嗚呼(をこ)の事をし給ふ、速に此の事を留め給ふべし」と。父の外道の云く、「仏、賢こそ御せば、かく謀ると知て御さでぞ有るべきに、輙く、『御む』と宣たるは、謀られ給ぬべきなめり。されば、由無し事な云そ。只居たれ」と、はした無く云へば、子、又云ふ事無くて止ぬ。
さて、仏の御儲を営む。必ず殺し奉べき謀共をして待ち奉る程に、仏、光を放て、漸く疎(おろそか)に歩て、来り給へり。御弟子の声聞・大衆等、仏の御後に立て有り。仏、門の前にて宣はく、「汝達、努々我が前喬(まへそば)に立つべからず。只、我が後に歩み続て入るべし。又、物食む時にも、我が食て後に食ふべし。我が食はざらむ前に、努々箸を下すべからず」と、誡め宣て、門を入り給ふ。
外道共及び、家の人、皆悉く引将て、門の側に居並て、仏の入り給ふを、「今や、穴に落入て、火に焼け、釼に貫かれ給ふ」と、喜び守り奉る程に、穴の内より大なる蓮花共栄き満て、其の上を圬(しづ)かに差し歩て入り給ぬ。御弟子達も、皆、仏の御後に歩み継て入ぬ。外道共、「希有也」と思ふ。本意無き事限無し。
仏、御まし所に端坐し給ぬれば、飲食を供養し奉る。「さりとも、毒をし食し給てば、更に生給はじ」と思て、様々の毒を調へて供養し奉る。然而(しかれ)ども、供養し奉る毒、返て甘露の薬と成ければ、皆食し給ひつ。御弟子達も皆食給ふに、更に毒と成らず。
其の時に、外道、忽に此れを見て、悲の心を発して、愚かに謀つる事共を一々に仏に申す。其の時に、仏、慈悲を垂て、彼等が為に法を説て教化し給へば、彼等、法を聞て、皆、阿羅漢果に成にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第13話 満財長者家仏行給語 第十三
今昔、天竺に満財長者と云ふ人有り。一人の男子有り。須達長者と云ふ人有り。一人の女子有り。
満財、須達が家に行て見れば、一人の女子有り。端厳美麗にして、光を放つ如くして居たり。満財、須達に語て云く、「我が子に只一人の男子有り。汝が娘に会せよ」と。須達が云く、「更に会はすべからず」と。満財が云く、「何の故にか会はせじ云ふ」と。須達が云く、我が娘をば、仏1)に奉てき。我れは更に知るべからず。又、汝が子は、既に外道に随逐せり。されば、妻は夫の云はむ事に随ふ事なれば、我れも外道に随逐しなむとす。此れに依て会はせざる也」と。
満財、只猶「会せよ」と責れば、須達、「今、仏に申して」と答へて、須達、仏の御許に参て、此の事を仏に申すに、仏の宣はく、「吉き事也。速に会すべし。我れも満財が家に行て、彼を教化せむ」と。又、満財が云く、「須達、若し汝が娘を我が子に会せば、十六里が間の道に金を敷て、七宝を以て道を餝て迎へむ」と。
須達、終に娘を満財が子に会す。実に道を餝り、金を地に敷けり。何況や、余の事を思遣るべし。此の如くにして、須達が娘を満財が家に迎へ居へつ。
其の時に、仏、阿難に宣はく、「汝、満財が家に行て、其の気色を見て、善道に趣かしむべし。趣かずば、汝を打追はむとす。然(さら)ば、神通に乗て返来ね」と。阿難、仏の教勅を蒙て、満財が家に行ぬ。人、驚き騒て云く、「爰に昔も未だ見ざる悪人来れり。若し、此れ狗曇沙門2)か」と云て、打追むとす。満財が〓3)(よめ)、懃(ねんごろ)に此れを制止す。満財が子、妻に問て云く、「此れは汝が師か」と。妻の云く、「非ず。我が師の御弟子の阿難にこそ御すめれ」。夫の云く、「此の僧は、定て汝を思ひ懸て来ならむ。猶打追へ」と云ふ。妻の云く、「否や、汝極て愚也。此の人は三界の惑を断じて、永く愛欲の心を離たる人也。暫く返らむ時を見よ」と云ふ時に、阿難、虚空に昇て、光を放て、神通を現じて去ぬ。満財が子、此れを見て、「希有也」と思ふ。
「仏」4)又、両日を経て、舎利弗の来たるを見て、満財が子、妻に問ふ、「汝が師と云は此れか」と。妻の云く、「非ず。此れも御弟子の舎利弗の来給へるにこそ有ぬれ」と云ふ。又前の如く、光を放て、神通を現じて去ぬ。
又、富楼那・須菩提・迦葉等の弟子を遣すに、皆各至て、光を放て、神通を現ず。満財及び子の思はく、「仏の弟子は神通希有の者にこそ有けれ。我が外道の術にも倍(まさ)れりけり。増して、師の有様、何ならむ。見ばや」と思ふ心付ぬ。
其の時に、仏、眉間の白毫相の光を放て、満財が家を照し給ふ。東西南北・四維・上下、六種に震動す。天より曼荼羅花・摩訶曼荼羅花等の四種の花、雨(ふ)り、栴檀・沈水の香、法界に充満し、希有の瑞相を現ず。
其の時に、三摩耶外道、出来て、満財に云く、「汝が家に、忽に悪人来れり。汝及び、家の内の千万の人を殺むとす。未だ知らざるか」と云ふ時に、満財、「未だ知らず」と答ふ。外道の云く、「大地震動し、東西南北安からず。天より悪事の物降り、様々の悪相を現ず。今まで知らざる、希有の事也」と。満財が云く、「何の故有てか、狗曇沙門、我れをば殺害すべきぞ」と。外道の云く、其の汝が〓5)は、既に狗曇沙門の妻也。妻を取られて、将に吉と思ふ人有なむや」と。満財が云く、「さて、其をば何が為べき」と。外道の云く、「速に其の〓6)を追出してよ」と。
満財、子に云く、「汝が妻、追出せ。命あらば此より勝たる妻にも嫁(とつ)ぎ会せむ」と。子の云く、「父母を前に為る、人の子、皆世の無常の道理也。既に我が父母、年老たり。死なむ事、今明年を過ぐさじ。又、我が妻をば、片時も見では有るべからず。譬ひ死(しぬ)とも、互に手を取て、共に死なむ。更に出す事は有るべからず」と云て、出さず。
外道の云く、「軍、忽に来なむとす。然らば、汝・長者、人手に入らむ、無益也。自害をせよ」と。満財が云く、「我が許に五百の釼有り。其の第一を取て来れ」と。即ち持来れり。満財、釼を取て云く、「我れ、自害せむに心弱し。三百の𨥨(ほこ)有り。取て来て、釼を以ては頭を取り、銻を以ては腹を刺せ」と。
時に家の内の若干の眷属出来て、釼を以て至て害せむと為る時に、忽に釼の崎に蓮花開けぬ。𨥨の崎に又蓮花開けぬ。
其の時に、仏、王舎城耆闍崛山7)より出給ふ。其の儀式・作法、魏々にして、心の及ぶ所に非ず。普賢大士は六牙の白象王に乗て、左方に打立給へり。文殊大士は威猛師子王に乗て、右方に打立給へり。無量無数の菩薩・声聞・大衆、前後に囲遶せり。梵王・帝釈・四大天王、其の左右に列せり。各の所従幾(いくばく)ぞや。
仏、満財が家に至給ぬれば、其の家の百千万の人民、悉く仏を見奉て、歓喜しけりとなむ語り、伝へたるとや。
1) , 2) 釈迦
3) , 5) , 6) 女へんに妻
4) 底本頭注「仏ハ衍字カ又ハ此下誤脱アラン」
7) 霊鷲山に同じ
巻1第14話 仏入婆羅門城教化給語 第十四
今昔、婆羅門城には仏法無して、皆外道に随逐して、其の典籍を習へり。仏1)、彼の城を教化せむが為めに、其の城に入給ふ。
其の時に、三摩耶外道、其の城に有て、人を教へて云く、「汝等が城には狗曇沙門2)と云ふ者来べし。其れは極たる悪人也。物持たる人をば、『世間は無益の事也。功徳を造れ』と云て、財(たから)を失はせて、貧窮に成しつ。相思たる夫妻をば、『世は無常なる者ぞ。仏法修行せよ』と教て去らしめつ。年盛にして、形美麗なる女を見ては、『世はあぢき無き者也。尼に成ね』と誘(こしら)へて、頭を剃らしめつ。只、此の如の事を教て、人を計り欺き、損を取らしめ、人の中を云ひ去(さ)け、人の形を衰えしむ悪人也」と。
城の人の云く、「然ば、其の沙門の来らむをば、何が為べき」と。外道の云く、「狗曇沙門は、只清き河の流れ、澄める池の側(ほと)り、吉き木の影などに居也。河には尿糞の穢を入れ、木をば皆伐払て、各家の戸をば閉(とぢ)よ。其れに、猶入来らば、弓箭を儲て、射殺せ」と教ふ。
其の時に、城の人、外道の教に随て、河を失ひ、木を伐り、弓箭・刀仗を儲て待に、仏、多(あまた)の御弟子等を引将て、彼の城に至給て、宣はく、「汝等、我が教を信ぜずして、終に三悪趣に堕て、無量劫の間、隙無く苦を受て、出る期無らむ。哀れに悲しき事也」と宣ふ時に、池河は清浄に成て、皆蓮花開け、樹木も栄生(さきおひ)て、金・銀・瑠璃の地と成ぬ。取れる所の弓箭・刀仗は、皆悉く蓮花と成て、其れを以て、仏を供養し奉る。
其の時に、城の人、皆、五体を地に投て、「南無皈命頂礼釈迦牟尼如来」と申す。額を築て咎を懺悔しけり。
其の善を以て、城の人、皆、無生法忍を得てけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 2) 釈迦
巻1第15話 提何長者子自然太子語 第十五
今昔、天竺に提何長者と云ふ人有けり。夫妻共に年老たり。一人の子無し。妻に語て云く、「天上・人間には子有る人を富人とす。子無き人をば、劇(いたまし)き事とす。我れ、年老に臨て、子無し。されば、樹神に祈るべし」と云て祈る間、妻、既に懐妊しぬ。長者、喜ぶ事限無し。
其の時に、舎利弗、長者の許に来給へり。長者、舎利弗に問て云く、「此の孕める子、男か女か何ぞ」と。舎利弗、答て云く、「男也」と。此れを聞て、彼の長者、弥よ喜て、急に詠じ、伎楽を調て、遊戯する事限無し。
其の時に、六師外道と云ふ者、長者の許に来れり。長者に問て曰く、「何の故有てか、例にも似ず宴(うたげ)し給ふぞ」と。長者の云く、「舎利弗来て、我が妻の孕める所の子を、男と相して、返給ひにき。此れを聞しより、心に喜て、遊戯する也」と。外道、「舎利弗の相を嫌(そね)まむ」と思て云く、「君が子は女也」と云て返る。
其の後、舎利弗来給へり。長者、外道の「女也」と云つる事を語る。舎利弗、尚、「男也」と宣ふ。外道は尚、「女也」と云て、相互に挑む時に、長者、仏1)の御許に詣て、此の実否を問奉る。仏の宣はく、「男子也。必ず祖(おや)を化して、仏の道に入るべし」と。
此れを聞くに、外道、弥よ妬の心を増して、長者に告て云く、「走る馬に鞭を加へむが如し。我れ、君と年来の師檀也。秘術を加へて、女を変じて男と成さむ」と。長者、此れを聞て、喜ぶ事限無し。外道、返て、相議して云く、「実には、此の子必ず男也。仏、勝なむとす。安からぬ事也。只如かじ、忽に其の子を殺て、子を生ましめじ」と議して、必ず死ぬ薬を造て、長者の許へ遣て云ふ様、「此の薬を一日一丸服せしむべし。此れは、必ず女を転じて、男と成る薬也」とて、大さ柚の如くして、色は赤きを、三丸遣る。
長者の妻、此の薬を服して、三日に至る日、物云はずして死ぬ。長者悲嘆く事、愚かならず。舎利弗と共に、仏の御許に詣て、此の事を申す。仏の宣はく、「汝、母と子と、何れをか得むと思ふ」と。長者の云く、「只、男子を得てば、我れ歎く事非じ」と。仏の宣はく、「汝が子、失せずして有り」と。
葬送の日、外道、其の所に集て此れを見る。又、仏来給へり。即ち、炎の中に十三歳許の童有り。形、端正なる事限無し。毗沙門に抱かしめて、仏の御膝の上に居たり。此れを自然太子と名づく。母無して出来たる故也。長者を召して、此れを給ひつ。外道は負て返ぬ。
長者より始め万の人、弥よ仏の妄語し給ざる事を信じ奉る。此の子、祖を化して、終に仏の道に入れたりけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
巻1第16話 鴦掘摩羅切仏指語 第十六
今昔、天竺に鴦掘摩羅1)と云ふ人有けり。此の人は指鬘比丘2)の弟子也。師資相承して、外道の法を信じて、其の法を習へり。
指鬘比丘、鴦掘摩羅を呵嘖して云く、「汝、今日出て、千人の指を切て、天神に祀て、速に王位を得て、天下を治め、富貴を得よ」と。鴦掘摩羅、此れを聞て、竜の水を得たるが如し。右の手に釼を拳(にぎ)り、左の手に索を取て、走り出ぬ。
哀なる事は、悪人の趣く道の始に、先づ釈迦如来の太子として窃かに父の宮を出て、始て仏の道に趣給て、行き給ふ道に、鴦掘摩羅、会ひ奉ぬ。太子、此れを見て、退き返り給ふ。鴦掘摩羅は叫て追ひ行くに、疾く逃給ひ、遅く追ふが故に、太子は前に立給ひ、鴦掘摩羅は疲極じて、追付かず。
其の時に、鴦掘摩羅、追付奉るべき様無て、音を高くして云く、「我れ、汝が本願を聞けば、『一切衆生の願をば叶へむが為めに、王宮を出て、利生の道に入れり』と。我れ、『今日千人の指を切て、天神に祀て、王位を得む』と思ふ。何の故に、汝ぢ、我が思ふ所を背て、一の指を惜ぞや」と。
其の時に、太子、此の言を聞給て、指を与へ給ふに、鴦掘摩羅、忽に悲の心を発して、本の心を悔て、返て道に趣きにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 央掘摩羅・央堀摩羅とも。
2) 本来、鴦掘摩羅の別名。『注好選』に始まる誤訳。
巻1第17話 仏迎羅睺羅令出家給語 第十七
今昔、仏1)、「羅睺羅を迎へて出家せしめむ」と思して、目連を以て使として、迎へに遣さむと為る程に、羅睺羅の母耶輸陀羅、此の事を聞て、此の事を聞て、高楼に登て門を閉て、守門の者に仰せて云く、「努々門を開く事無かれ」と。
仏、目連を羅睺羅迎へに遣はすに、宣はく、「女、愚痴に依て、子を愛する事は暫の間也。死て地獄に堕ぬれば、母と子と各相知る事無して、永く離れて、苦を受る事隙無し2)。後に悔るに甲斐無し。羅睺羅、道を得てば、還て母を度して、永く生老病死の根本を断て、羅漢に成る事を得て、我が如くならむ。然れば、羅睺羅、既に年九歳に成ぬ。今は出家せしめて、聖の道を習しめむ」と。
目連、此の事を承はりて、耶輸陀羅の許に至る。耶輸陀羅、高き楼に登て、門を閉て、心静に有る程に、目連、空より飛来ぬ。仏の仰せを一事に伝へしむ。耶輸陀羅、返申して云く、「仏、太子を御し時、我れを娶て御妻たりき。太子に仕る事、天神に仕るが如し。未だ三年に満たざるに、我れを捨て、宮を出給にき。其の後、国に返給ふ事無く、我れに見給はず。我れも寡に成れる。今、我が子を取放ち給むや。君、仏に成給ふ事は、慈悲に依て衆生を安楽せしめむと也。而るに、今、母子の中を別離せしめ給はむ事、慈悲無き事には非ずや」と云て哭く事限無し。
爰に、目連、又云ふ事無して、浄飯王の御許に詣て、具に此の事を申す。大王、此の事を聞て、夫人波闍波提を喚て宣はく、「我が子仏、目連を使として、羅睺羅を迎へて道に入(いれん)とし給ふに、其の母、愚痴にして愛心に迷て、子を放つ事無し。汝ぢ、彼の所に行て、喚噯(よびなぐさ)めて、其の心を得しめよ」と。
夫人、王の仰を承はりて、耶輸陀羅の許に行て、王の御詞を示し語る。耶輸陀羅、答て云く、「我れ、家に在し時、八国の諸の王、競ひ来て、父母に我れを乞ひき。父母、許さずして、太子を聟として会ぬる事畢にき。太子、才芸に勝れ給へる故也。而るに、太子、世を厭て出家し給にき。然れば、此の羅睺羅を以て、国を嗣しむべき也。此れを出家せしめてば、又何がせむ」とて、其の後云ふ事無して、涙にをぼれて3)哭事限無し。夫人、此の事を聞て、答る事無し。
其の時に、仏、惜む心を空に知給て、重て目連を遣はす。目連、空より飛来て、仏の仰を耶輸陀羅に語る。耶輸陀羅の云く、「羅睺羅を出家せしめてば、国の位を継ぐ事、永く絶ぬべし」と。目連の云く、「仏の宣はく、『我れ、昔、燃灯仏の世に、菩薩の道を行ぜし時、五百の金の銭を以て、五茎の蓮花を買て仏に奉りき。汝、又二茎の花を以て副て奉れり』と。『其の時に、相互に誓て云く、『世世常に汝と我れ、夫妻と成て、汝が心に違ふ事非じ』と云ひき。其の誓に依て、契り深くして、今日夫妻と成れりき。而るに、今愚痴に依て、羅睺羅を惜む事無かれ。出家せしめて、聖の道を学ばしめむ』と」。
耶輸陀羅、此の事を聞くに、昔の事、今日見るが如くに思えて、敢て云ふ事無して、羅睺羅を目連に与ふ。目連、羅睺羅を将去る時に、耶輸陀羅、羅睺羅が手を取て涙を流す事雨の如し。羅睺羅、母に申して云く、「我れ、仏を朝暮に見奉るべければ、歎き給ふ事無かれ。今返て、王宮に来て見奉るべし」と。
其の時に、浄飯王、耶輸陀羅の歎く心を息めむが為に、国の内の高族を集て、告て宣はく、「我が孫羅睺羅、今、仏の御許に行て、出家して聖の道に趣かむとす。此れに依て、町々の人、各一人を出ださしめて、我が孫に具しめ給」て、各出家せしめ給ふ。阿難と使として、羅睺羅等の五十人の子共の頭を剃る。舎利弗、和上たり。目連、教授として、各戒を授けつ。
さて、仏、五十人の沙弥の為に、扇提羅が宿世の罪報を説給ふ。沙弥等、此の事を聞て、大に歎て、仏に白して言さく、「和上舎利弗は、大智・福徳在まして、国の中に供養を受給ふに、最も吉し。小児等は、愚痴にして福徳無し。飲食を受て、後の世に苦を受けむ事、扇提羅が如くならむ。此の故に、我等、憂を懐けり。願くは、仏、哀を垂給て、我等が道を捨て、家に返らむ罪を許し給へ」と。
仏、此の事を聞給て、譬を以て説て、沙弥等に聞かしめ給ふ。「譬へば、二人の人、忽に食に遇ぬ。共に食過れ飽ぬ。此の二人の人、一人は智恵有て、『食過ぬ』と知て、医師に会て薬を服して、食を消て失なはしめて、身の内の苦しび免れて、能く命を持(たも)たしむ。一人は愚痴にして、「食過ぬ」と云事を知らずして、薬を服する事無し。生ある物を殺して、鬼魅に祭を備へて、「命を済はむ」と思ふ。腹中の宿食、風と成て、心(むね)病むで、遂に死て地獄に堕ぬ。今汝ぢ、罪を恐れて家に返らむ事、彼の愚痴の人の如き也。汝ぢ、善根の因縁有て、我に相ふ。彼の医師に遇て、苦びを済て死なざる事を得たる人の如也。と。
羅睺羅、此の事を聞て、心開け悟りにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「隙諸本限ニ作ル」
3) 底本「をぽれて」。誤植とみて訂正。
巻1第18話 仏教化難陀令出家給語 第十八
今昔、仏1)の御弟に難陀と云ふ人有り。始め、在家の時、五天竺の中に形ち勝れて端正限無き女を妻として、其の愛欲に着して、仏法をも信ぜず、仏の呵嘖にも随はず。
其の時に、仏、尼拘類薗に在まして、難陀を教化せむが為めに、阿難と共に、難陀が家に行給ふ。難陀、高き楼に昇て、遥に見るに、仏、鉢を以て乞食し給ふ。難陀、此れを見て、高楼より怱(いそぎ)下て、仏の御許に至て、白して言さく、「君は姓転輪聖王也。何ぞ自ら辱を捨て、鉢を持て乞食し給へるぞ」と云て、自ら鉢を取て、家の内に入て、甘美の飲食を盛て、仏の御許に詣るに、仏、鉢を受取給はずして、尼拘類薗に返給て、難陀に宣はく、「若し、汝、出家せらば、鉢を受けむ」と。難陀、此の事を聞て、仏語に随て、鉢を奉る。
其の時に、妻、出て、「速に返ね」と云ふ。難陀、出家を思ふ故に、仏の御許に至て、鉢を授奉て云く、「願くは、此れを受給へ」と。仏、難陀に告て宣はく、「汝ぢ、既に此に来れり。今は頭を剃て、法服を服(き)よ。『返らむ』と思ふ事無かれ」と。仏、威神の力を以て、難陀を迫(せめ)て、阿難を以て出家せしめ給つ。然れば、難陀を静室に居て、仏、漸く誘(こしら)へ直し給ふに、難陀、歓喜す。
而るに、難陀、尚、「妻の許へ行む」と思ふ心有て、仏の外に御座(おはし)たる間に行むと為るに、出むと為る戸、忽に閉られぬ。又、他の戸は開ぬ。然れば、其の開たる戸より出むとすれば、其の戸は閉て、他の戸は開ぬ。此の如くして、更に出られぬ程に、仏、返給ぬれば、出る事能はず。又、「仏の速に出給へかし。其の間に妻の許へ行む」と思ふ程に、仏、外へ御ますとて、難陀に篲(ははき)を与へ給て、「此を掃くべし」とて出給ぬれば、「疾く掃畢む」とて怱ぎ掃くに、自然ら風出来て、塵を吹返して、掃き畢て得ざる程に、仏返給ぬ。
又、仏の外に御したる程に、難陀、僧房に出て思ふ様、「我れ、此の間に妻の許へ行む。仏は必ず本の道よりぞ返給はむ。我れは、他の道を行む」と思て行く程に、仏、空に其の心を知給て、其の難陀が行く道より返り給ふ程に、難陀、遥に仏の来給ふを見奉て、大なる樹の有る本に立隠る。其の時に、樹神、忽に樹を挙げて、虚空に有しむ。其の時、難陀顕れぬ。仏、難陀を見給て、精舎に将返給ひぬ。
此の如くして、妻の許へ行く事を得ず。仏、難陀に告給はく、「汝ぢ、道を学せよ。後世を顧みざる、極て愚なる事也。我れ、汝を天上に将行て見しめむ」と宣て、忉利天に将昇給ぬ。諸天の宮殿共を見せ給ふに、諸の天子・天女と共に娯楽する事限無し。
一の宮殿の中を見るに、衆宝荘厳、称て計ふべからず。其の中に、五百の天女は有て、天子は無し。難陀、此れを見て、仏に問ひ奉る、「何(いかな)れば、此の宮殿には、天女のみ有て、天子は無きぞ」と。仏、天女に問給ふに、天女、答て申さく、「閻浮提に仏の弟難陀と云ふ人有り。近来、出家せり。其の功徳に依て、命終て、此の天の宮に生るべし。其の人を以て天子と為べきが故に、天子無き也」と。難陀、此れを聞て、「我が身此れ也」と思ふ。仏、難陀に宣はく、「汝が妻の端正なる事、此の天女と何に」と。難陀の云く、「我が妻をこの天女に思ひ競れば、彼は獼猴を見るが如し。然れば、我が身も又然の如き也」と。難陀、此の天女を見つるに、妻の事忽に忘れて、持戒の者と成て、「此に生む」と思ふ心、出来ぬ。
又、仏、難陀を地獄へ将御ます。其の道に、鉄囲山を経て、山の外に獼猴女と云ふ者有り。端厳美麗2)なる事並び無し。其の中に、孫陀利と云ふ者有り。難陀、此れを見る。仏、難陀に問給ふ、「汝が妻、此の孫陀利と何ぞ。此獼猴の如也や」と。難陀の云く、「百千倍に及ぶとも類ふべからず」と。仏の宣はく、「又、孫陀利を以て天女に比るに、何にぞ」と。難陀云く、「又百千万倍3)にも類ふべからず」と。
仏、難陀を地獄に将至り給ぬ。諸の鑊(かま)共を見せ給ふに、湯、盛に涌きて、人を煮る。難陀、此れを見て、恐(おぢ)怖るる事限無し。但し、一の鑊を見るに、湯のみ沸て、煮る人無し。難陀、此れを見て、獄卒に問て云く、「何ぞ、此の鑊に入る人無ぞ」と。獄卒の云く、「閻浮提に有る仏の弟難陀、出家の功徳を以て、忉利天に生れて、天の命尽て、終に此の地獄に堕むとす。此の故に、我れ、今鑊を吹て、彼の難陀を待也」と。難陀、此の事を聞て、怖る事限無して、仏に申さく、「願くは、我れを速に閻浮提に将返り給て、擁護し給へ」と。仏、難陀に宣はく、「汝、戒を持(たもち)て、天の福を修せよ」と。難陀の申さく、「我れ、今は天に生れむ事を願はず。只、我れを此の地獄に落し給ふ事無かれ」と。
仏、難陀と共に閻浮提に返り給て、難陀の為に一七日の内に法を説て、阿羅漢果を証(さとら)しめ給てけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「端厳諸本端正ニ作ル」
3) 底本頭注「万字諸本ニナシ」
巻1第19話 仏夷母憍曇弥出家語 第十九
今昔、憍曇弥1)と云は、釈迦仏の夷母也。摩耶夫人の弟2)也。仏、迦維羅衛国に在ます時、憍曇弥、仏に白して言さく、「我れ聞く、『女人精進なれば、沙門の四果を得べし』と。願くは、我れ、仏の法律を受け出家せむと思ふ」と。仏の宣はく、「汝、更に出家を願ふ事無かれ」と。憍曇弥、此の如く三度申すに、仏、更に許給はず。憍曇弥、此れを聞て、歎き悲て去ぬ。
其の後、又仏、迦維羅衛国に在ます時、憍曇弥、前の如く、「出家せむ」と申すに、仏、又許し給はず。仏、諸の比丘と共に、此の国に在ます事三月、終に国を出て去給ふ時、憍曇弥、諸の老たる女と共に、尚を「出家の事を申さむ」とて、仏を追て行くに、仏、俄に留り給ひぬ。憍曇弥、前の如く、「出家せむ」と申すに、仏、又許し給はねば、憍曇弥、出て、門の外かに居て、垢穢の衣を著て、顔貌3)甚だ衰へて啼泣す。
阿難、此れを見て云く、「汝ぢ、何の故に此の如く有ぞ」と。憍曇弥、答て云く、「我れ、女人なるが故に、出家を得ずして歎き悲む也」と。阿難の云く、「汝ぢ、暫らく待給へ。我れ、仏に申さむ」と云て入ぬ。
阿難、仏に白して言さく、「我れ、仏に随ひ奉て聞くに、女人も精進なれば、沙門の四果を得べし。今、憍曇弥は至れる心を以て、出家を求め、法律を受けむと思へり。願くは、仏、此れを許し給へ」と。仏の宣はく、「此の事、願ふ事無かれ。女人は我が法の中にして、沙門と成る事無かるべし。其の故は、女人出家して清浄に梵行を修せば、仏法をして、久しく世に住せむ事非じ。譬ば、人の家に多少の男子を生ぜるは、此れを以て家の栄とす。此の男子に仏法を修行せしめて、世に仏法を久く持(たも)たしむべき也。其れに、女人に出家を許せらば、女人、男子を生ずる事絶ぬべきが故に、出家を許さざる也」と。
阿難、又申さく、「憍曇弥は多く善の心有り。先づ、仏け、始て生れ給ふ時は、受取て養育し奉て、既に長大に至し奉れり」。仏の言はく、「憍曇弥、実に善の心多し。又、我れに恩有り。今、我れ、仏と成ては、又、我れ彼に恩多し。彼は偏へに我が徳に依るが故に、三宝に皈依し、四諦を信じ、五戒を持てり。但し、女人、沙門と成むと思はば、八敬の法を学び行ふべし。譬ば、水を防には、堤を強く築(つき)て、水を漏しめざる也。若し、法律に入むと思はば、能く精進せよ」と。
阿難、明らかに仏の語を受て、礼して門の外に出て、憍曇弥に伝しむ。「汝、今は歎げき悲しむ事無かれ。仏、汝が出家を許し給ふべし」と。憍曇弥、此れを聞て、大に歓喜して、即ち出家して、戒を受て、比丘尼と成り、法律を受け、羅漢果を得つ。
女人の出家する事、此れに始れり。憍曇弥、又は大愛道とも云ひ、又波闍波提とも云けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 摩訶波闍・摩訶波闍波提に同じ。
2) 底本頭注「弟一本妹ニ作ル」
3) 底本頭注「貌一本色に作ル」
巻1第20話 仏耶輸陀羅令出家語 第二十(欠文)  
 

 

巻1第21話 阿那律跋提出家語 第廿一
今昔、釈迦仏の父、浄飯王の弟に斛飯王と云ふ人有り。其の子に兄弟二人有り。兄をば、摩訶男と云ふ。弟をば、阿那律と云ふ。其の母、阿那律を愛して、暫くも前を放つ事無し。三時殿を造て、阿那律に与へて、采女と娯楽せさする事限無し。
兄の摩訶男、弟の阿那律に云く、「諸の釈種、多く出家せり。而るに、我が一門に出家せる者独も無くして、家業(いへのなり)をのみ営めり。汝ぢ、出家すべし。若し、汝ぢ、出家せずば、汝は家業を営め。我れ、出家すべし」と。阿那律、答て云く、「我れ、朝暮に家業を営むに、煩ひ多し。如かじ、出家して道を得む」と思て、母の所へ行て、「出家せむ」と暇を乞ふに、母、更に許さず。此の如く、三度乞ふに、母、愛に依て、悲て許さずして、種々の方便を以て、出家を止む。
其の時、斛飯王の弟に、甘露飯王と云ふ人、亦兄弟二人有り。兄をば、娑婆と云ふ。弟をば、跋提と云ふ。其の母、又跋提を愛して、出家を許さず。
阿那律の母の云く、「我れ、汝が出家を許さず。但し、若し、跋提、出家せらば、我れも汝が出家を許さむ」と。此れに依て、阿那律、跋提に会て、出家を勧めて云く、「我が出家せむ事は、汝が出家に依るべし」。跋提、此の事を聞て、阿那律の云ふ事に随て、母に出家を乞ふに、其の母、又許さず。母、方便を設て云く、「阿那律の母、子の出家を許せらば、我れも汝が出家を許さむ」。
此の如く、互に云て、子の出家を惜むと云ども、遂に二人の母、各子の出家を許しつ。跋提の云く、「我れ、母の許を得たりと云ども、暫く七年、五欲の楽を受て、其の後出家せむ」と。阿那律の云く、「汝が云ふ事当らず。人の命ち、定め無し。何ぞ、七年を待むや。只、七日を許さむ」と。
跋提、阿那律の云ふに随て、七日を過て、「釈種八人、及び優婆離の弟、皆一つ心にして出家せむ」と思て、各善き衣服を着、象馬に乗じて、迦毗羅国の境を出て、宝の衣を脱ぎ、象馬等を以て優婆離に付て、各本家へ返す。語て云く、「汝、常に我等九人に依て、世に有つる人也。今は我等、出家してむとす。此の宝衣・象馬を以て、汝に与ふ。身の貯と為べき也」と云て、九人と別れぬ。
優婆離、宝衣・象馬等を得て、家に返る程に、自ら思はく、「我が家に返て、家業を営よりは、此の九人と共に出家してむ」と思ふ心、忽に付ぬ。宝衣を樹の上に係け、象馬を木の本に繋て、「此に来らむ人有らば、此等を与へむ」と思ふに、来る人忽に無ければ、捨て、九人を追て行く。既に追付て、「我も共に出家せむ」と云ふ。
然ば、共に仏の御許に詣て、阿那律・跋提、白して言さく、「我が父母、既に出家を許たり。願くは、仏、我に出家を許し給へ」と。仏、先づ優婆離を度せむと思す。「其の故は、憍慢の心を除けるが故也」と、先づ優婆離を度し給ふ。次に阿那律、次に跋提、次に難提、次に金毗羅、次に難陀等の六人也。
優婆離は、前に戒を受て、上座と為けりとなむ、語り伝へたるとや。
巻1第22話 鞞羅羨王子出家語 第廿二
今昔、天竺に、仏1)、阿難と共に城に入て、乞食し給ける時に、城の中に独りの王子有り。鞞羅羨那と云ふ。諸の婇女と共に高楼に有て娯楽す。仏、其の楽しぶ音を聞給て、阿難に告て宣はく、「此の王子は、此より七日有て死ぬべし。此の人、若し出家せずば、地獄に堕て苦を受くべし」と。
阿難、此の事を聞き、即ち高楼に行て、王子を教化し、出家を勧む。王子、勧めを聞畢て、六日の間娯楽して、七日と云ふに出家して、一日一夜、浄戒を持(たもち)て後、命終しぬ。
其の時に、仏、宣はく、「此の人、一日の出家の功徳に依て、即ち四天王天に生れて、毗沙門の子と成て、諸の天女と五欲の楽を受く。其の天の命、五百歳満て後、忉利天に生れて、天帝釈の子と成て、其の命千歳、其より夜摩天に生れて、其の王の子と成て、其の命二千歳、其より覩史多天に生れて、其の王の子と成て、其の命四千歳、其より化楽天に生れて、其の王の子と成て、其の命ち八千歳、其より他化自在天に生れて、其の王の子と成て、其の命一万六千歳、此の如く、六欲天に生れて、楽を受る事、七返ならむ。皆中夭無し。一日の出家の功徳、二万劫の間、悪道に堕ちずして、常に天に生れて、福を受くべし。最後の身に、人中に生れて、財豊ならむに、老に臨みて、世を厭ひて出家して、道を修て、辟支仏と成て、其の名を毗帝利と云ふべし。広く人天を度すべし」と、説給けり。
然れば、出家の功徳、不可思議也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第23話 仙道王詣仏所出家語 第廿三
今昔、天竺に二の城有り。一をば花子城と云ふ。一をば勝音城と云ふ。此の二の城、互に栄え衰ふる時有り。
其の時に、勝音城の人、皆富て楽み盛也。王をば仙道と云ふ。以て国を治す。諸の病無くして、五穀成就せり。后をば月光と云ふ。太子をば頂髻と云ふ。二人の大臣有り。一をば利益と云ふ。一をば除患と云ふ。又、王舎城の王をば影勝と云ふ。后をば勝身と云ふ。太子をば未生怨と云ふ。大臣をば行雨と云ふ。
其の時に、仙道、王宮に大会を儲て、諸の人を集て、問て云く、「他国の楽び、我が国と相似たりや」と。其の時に、摩竭提国の商人、其の座に有て云く、「此より東方に王舎城有り。其れ、此の国と相似たり」と。仙道、此れを聞て云く、「彼の国に何物か乏き事有る」と。商人答て云く、「彼の国には財無し」と。其の時に、仙道王、微妙の財を金の箱に盛り満て、書を相具して、使を以て影勝王の許に送り遣る。
影勝王、書を見、箱を開て、歓喜する事限無し。云く、「彼の国に何物か乏き事有る」と。諸の人、答て云く、「彼の国、善く栄たり。但し、畳(てづくり)無し」と。影勝王、此れを聞て、即ち国の出だす所の大畳を以て、箱に盛て、前の如く仙道王の許に送て、書を遣す。
仙道王、此れを見て、驚て、使に問て云く、「汝が国の王の形、何(いか)が有る」と。使の云く、其の形ち長大にして、大王の相に似たり。心、武くして、性、戦の道に堪たり」と。仙道王、此れを聞て、忽に五徳の甲を造りて、使に与へて送り遣る。
其の五徳と云は、一には、熱き時此れを着れば、善く凉き事を得、二には、刀を以て切るに立たず、三には、箭を以て射るに通らず、四には、着るに善く光り有り1)。王、此の甲に書を副て送つ。使、是を持て、影勝王に奉る。
王、書を披き甲を見て、「希有也」と思ふ。此の甲の直を量るに、金の銭十億也。然れば、我が国に、此れに酬ゆべき事無ければ、王、愁へ給ふ事限無し。
其の時に、行雨大臣、王の愁へ歎き給へる気色を見て申さく、「此れ、何事に依てぞ」と。王、具に此の由を答給ふ。大臣の云く、「彼の仙道王、宝の甲一領を送れり。王の国には仏2)在ます。此れ、人中の妙なる宝也。何者か勝れむ。十方世界に並ぶ者無し」と。王の宣はく、「此れ実也。然れば、其をば何が為べき」と。大臣の申さく、畳の上に仏の形像を画て、使を馳て遣はすべし」と。王の宣はく、「然れば、我れ、仏に申すべし」とて、仏に此の由を申し給ふ。
仏、宣はく、「善哉。妙なる心を以て、一鋪の仏像を画して、彼の国に送るべし。其の画像の法は、画像を画て、其の像の下に三皈を書くべし。次に書くべし3)。次に十二縁生の流転還滅を書べし。其の上に二行の頌を書くべし。其の文に云く、「汝当求出離。於仏教勤精。能降生死軍。如象摧草舎。於此法律中。常修不放逸。能竭煩悩海。当尽苦辺際云々。」
王、仏の教に随て、皆書畢て、使に授て、教て云く、「汝、此の画像を彼の国に持至て、広く明ならむ所にして、幡・蓋を懸け、荘厳微妙にして、香を焼き、花を散じて、此の像を開くべし。若し、問ふ事有て、『此れは何物ぞ』と問はば、汝ぢ、答て云ふべし。『此れは、仏の形像也。王位を捨て、正覚を成じ給へりき』と。只、上下の字、次第に答ふべし」と教て、画像を金の箱に納て、書を副て、仙道王の所に送り遣はす。
使、彼の国に持至て、先づ書を王に与ふ。王、書を得て、披き読て、忽ちに忿の心を発して、大臣に告て云く、「我れ、未だ彼の国の善悪の有様を知らず。何ぞ、奇異なる勝妙の者を遣(おこ)するぞ」と。大臣、答て云く、「昔聞き、彼の王を量ふに、大王を更に軽むる事非じ。其の言に随給ふべし」と。
使、道路にして、幡・蓋を懸け、荘厳微妙にして、香を焼き、花を散じて、諸の人を集めて遣す。仙道王、自ら四兵を引将て、行向て、此の微妙の荘厳を見て、心に此れを信ぜずして、「軽めむ」と思て、大臣に告て云く、「汝等、速に四兵を集むべし。我れ行て、彼の摩竭提国を罸(うた)むと思ふ」と。大臣、答て云く、「此の事、善く思惟せしめ給ふべし」と。
王、書の如く、城に返り至て、画像を開て見る。其の時に、中国の商人来て、此の仏像を見て、異口同音に、「南無仏」と称す。仙道王、此れを聞て、身の毛竪(よだち)て、恐(お)ぢ怖るる事限無し。次第に其の義を問ふに、商人、具に其の旨を答ふ。王、其の文を誦して、宮に返ぬ。此の文を思惟して、天暁に至て、座を起たずして、須陀洹果を得たり。
其の後、仙道王、書を以て、影勝王の許に送て云く、「我れ、君の恩に依るが故に、今、真諦を見る事を得たり。願くは、比丘を見むと思ふ。此の所に来しむべし」と。
影勝王、書を読て、即ち仏の御許へ詣でて、白して言さく、「仙道王、初果を証する事、既に此の如し。又、『比丘を見む』と云ふ。我れ思ふに、迦多演那比丘4)、彼の所に縁有り。速に遣はすべし」と。
仏の教に随て、迦多演那、五百の比丘を率して、勝音城に行ぬ。影勝王5)に云く、「君、『縁生を悟て、初果を得たり』と云ふに随て、仏、五百の比丘を遣す。君、自ら来て迎ふべし。亦、一の寺を造て、五百の房を造るべし。福を得む事、量り無かるべし」と。比丘、機に随て法を説く。或は阿羅漢を得、或は大乗に趣く。
其の時に、宮の内の諸の女人有て、尊者を請ず。尊者、女人の中に入て、法を説かむ事を許さず。但し、「比丘尼有らば、彼れが為に法を説くべし」と。此れに依て、仙道王、書を以て、影勝王の許に、此の由を云ひ送る。影勝王、書を見て、仏に其の由を申して云く、「世羅等の五百人の比丘尼を遣はすべし」と。仏の教勅を受て、世羅等の五百の比丘尼、勝音城に行ぬ。為の法を説く。
其の後、仙道王の后、月光夫人、忽に命終して、天上に生れぬ。来り下て、大王に此の由を告ぐ。
其の時に、王、世を厭て、自ら思く、「我れ、頂髻太子に国位を譲て、我れは出家して、道を求む」と思て、二人の大臣に此の由を告ぐ。大臣、此の事を聞畢て、涙を流して、悲泣して、太子に此の由を告ぐ。太子、亦此の事を聞て、哭き悲む事限無し。王、亦普く国内の人に此の事を告ぐ。国内の人、此の事を聞て、亦哭き悲て、王の恩を報ぜむが為に、多(あまた)の財を出集て、広く無遮の大会を儲く。国、挙て営む事限無し。
其の後、王、一人の侍者を具して、歩行にして、王舎城へ向ふ。其の道、遥に遠くして、歩に堪へずと云へども、偏に道を求めむが為に、更に退く心無し。太子及び、大臣・百官・人民、後に随て、哭々送ると云へども、王、強(あながち)に止るに依て、歎き乍ら、皆別れて返ぬ。
王、一人侍者許を具して、終に王舎城に至て、一の薗の中に有て、影勝王に此の由を告ぐ。影勝王、此れを聞て、忽に道路を修治して、四兵を率して、大臣・百官を引将て、仙道王の所に至て、先づ来る心を問ふ。仙道王、答て云く、「我れ、君の徳に依るが故に、道に趣く事を得たり。今は、親(まのあたり)仏の御前に詣でて、出家せむと思ふ。此れに依て、国位を太子に譲て、独り来れる也」と。影勝王、此れを聞て、涙を流して、哀ぶ事限無し。其の後、相具して城に入ぬ。
其の時に、仏、竹林薗に在す。影勝王、仙道王を相具して、仏の御許に詣でて、参れる所の心を陳て、「出家せむと思ふ」と申す。仏の宣はく、「汝ぢ、善く来れり」と。其の時に、仙道王、髻・髪、自然(おのづか)ら落て、百歳の比丘の形の如し。然れば、戒を受け、仏の御弟子と成ぬ。影勝王は此れを見て、貴こと限り無くして、仏を礼し奉て、還り去にけり。
仙道王、偏に影勝王及び、行雨大臣の徳に依て、仏道に入る事此の如し。本より仏法を知らざる者なれども、仏を見奉れば、益を蒙けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 五徳なのに四徳しかないのは、原典の「四避諸毒」を脱したため。
2) 釈迦
3) 底本頭注「次ニ可書シノ五字誤脱アラン」
4) 迦旃延
5) 底本頭注「影勝ハ仙道ノ誤カ」
巻1第24話 郁伽長者詣仏所出家語 第廿四(欠文)
巻1第25話 和羅多出家成仏弟子語 第廿五
今昔、天竺に一人の人有り。名をば和羅多と云ふ。其の父母、家、大に富て、財宝豊にして、更に乏き事無し。
而るに、此の和羅多、道心深して、「我れ、出家して、仏1)の御弟子と成む」と思ふ。父母に暇を乞ふに、更に許さず。和羅多が云く、「遂に我が出家を許給はずば、我れ忽に死なむ」と云て、三日飲食せずして臥たり。五日食はず。七日食はずして、臥て、「既に死(しなん)」と云ふ。
人有て、父母に語て云く、「和羅多、既に七日食はずして死とす。死後、悔ひ悲び給はむよりは、只出家を許し給へ」と。父母、此れを聞て、出家を許しつ。其の時に、和羅多、起上て食する事、例の如く也。其の後、「既に仏の御許に詣でて出家せむ」とて出立に、父母の云く、「仏の御弟子に成ると云とも、一年に三度、必ず我が許へ来れ。祖子の契り、暫くも見ねば、心肝堪へ難し」と。
和羅多、仏の御許に詣でて、出家して、御弟子と成ぬ。其の後、祖の家に行事無し。祖、一年待に見えず。二三年待に見えず。十二年2)を経て見えず。
其の後、和羅多、三界の惑を断じて、羅漢果を得たり。和羅多、仏に白して言さく、「我れ、父母の家に行むと思ふ」と。仏の宣はく、「速に行くべし」と。和羅多、父の家の門に至て乞食す。父、此れを見るに、更に忘れて云く、「何くの沙門の此れるぞ」とて、打追ふ時に、逃て去ぬ。
尚、又門に至て立り。庭を清むる一人の下女有り。和羅多を見て云く、「彼の沙門は、我が君和羅多には非ずや」と。和羅多、「然也」と答ふ。女、怱(いそ)ぎ入て、主に告て云く、「門に立給へる沙門は和羅多也。知給はざるか、何に」と。
其の時に、父母、哭(なき)悲て、迎へ入て、端坐せしめて、好き衣を着せ、甘美を与へて、語て云く、「汝が本意、既に遂たり。今は我が家に留て、家業を継ぐべし。我が無量の財宝を貯る事は、只汝が為也」と云て、金銀等の七宝を前に積置けり。又、「汝が妻、端厳美麗なる事、菩薩の如し。年来、汝を恋ひ悲む。奥の方より練出たり。汝、此れを見るべし」と。「千万の財(たから)は、只汝が心に任す」と。和羅多の云く、「此の財宝は我に与給ふか」と。「然らば、車に積て給へ」と。父、車に積て与ふ。和羅多、恒伽河に財を持て行て云く、「世間の人は、財に依て三悪道を離れず」と云て、河に流しつ。其の後、虚空に昇て、十八変を現じて失ぬ。
樹の本に至て、柴を座として居たるに、隣国の王将に、猟に出て、其の樹の本に至ぬ。一の人有て、王に申さく、「此の樹の本に居たる沙門は、竹馬の時に御友達と有し、和羅多には非ずや」と。其の時に、王、下り居て、和羅多に問て云く、「汝、何の故有て出家せしぞ」と。和羅多、答て云く、「我れ、三の事に依て出家せる也」と。王、「三と云は何等ぞ」と。和羅多、「三と云は、一は君、父母の病の時に、能く代るや」と。王、「代らず」と。和羅多、「二は老たる人の死ぬるに、代るや」と。王、「代らず」と。和羅多、「三は地獄に堕て苦を受る衆生に代るや」と。王、「代らず」と。和羅多、「只其等の事也。此の如きの事を見るに依て、我れ出家せる也」と。
王の云く、「汝、昔は思ふに、竹馬の時の友達也。我が許に二万の夫人有り。其の第一を汝に譲らむ。又、我国を半国譲らむ。還俗せよ」と。和羅多の云く、「我れ、二万の夫人も要ならず。千の国土も又要ならず。只、我れ仏に成て、汝等の一切の衆生の苦に代りて、皆仏と成さむと思ふ也」と云て、虚空に昇て去にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「十二年諸本十三年ニ作ル」 
巻1第26話 歳至百廿始出家人語 第廿六
今昔、天竺に一人の人有り。歳百廿に至て、始て道心を発して、仏1)の御前2)に詣て、出家して、御弟子と成れり。此の沙門、新入の御弟子なるに依て、五百の弟子達、各此の沙門を云ひ仕ふ。沙門、年老て、立にも苦し、居にも安からず。手足の水を取るに、速に無し。
然れば、沙門、思慳(おもひさかり)悩て、心の中に思ふ様、「我れ、深き山に入て、身を投む」と思て、山に入ぬ。高き峰に登て、自ら云く、「我れ、戒を破にも非ず。又、『仏に仕へじ』と思にも非ず。只、我が身老て、起居に堪へざる故に、身を投つる也」と云て、峰より落つ。
其の時に、仏け、此れを見給て、慈悲の心を以て、百福荘厳の御手を延て、沙門を受取給て、阿難に預け給て宣はく、「此の沙門、愚痴なるが故に身を投ぐ。速に此れを修行せしめて、悟を得しめよ」と。
阿難、仏の教に依て、此の沙門を具して行く程に、見れば、若く盛なる女の形貌端正なる、死て臥たり。其の身、乱壊して、大虫、目・口・鼻より出入る。沙門、此れを見て、阿難に問て云く、「此れ何物ぞ」と。
尊者3)、答ふる事無くして、又行く程に、一人の女、大なる釜を負て道を行く。暫く居たるに、自然(おのづから)に釜に猛火出来る。炎(ほの)ほ、十丈許也。女、其の釜に入ぬ。能く煮えて、釜より出て、自が宍村(ししむら)を食て、又釜を負て行く。
此れを、「希有也」と見過して、又行く程に、高さ十丈許なる火の柱有り。漸く近く寄て見れば、人の身の形也。鉄の觜有る虫、百千万付て、此れを吸ひ喰ふ。
沙門、此れを、「奇異也」と見過して、又行く程に、大なる山有り。高く遥也。其の頂に、尊者、沙門と共に登て、草座を敷て居ぬ。
其の時に、沙門、尊者に問て云く、「此の過つる道に有つる奇異の事等、此れ何事ぞ」と。尊者、答て云く、「始め死て臥たる女は、国王の后也。海に落入て、浪に打上られたる也。大虫の這つるは、自ら『形貌端正也』と愛せしが故に、大虫と成て、自が容を守る也。次に釜を負たる女の、自が身を煮て食つるは、此の女、前生に人の従者として有し時に、其の主の沙門の許に食物を膳(こしら)へて、此の女に持せて送しに、道に出て、此れを分け取て、女、食てき。沙門、此の食物の分けられたるを見て、女に問て云く、『汝、若し此の食物、犯して有る』と問ふに、女の云く、『若し犯したらば、生々世々に自の宍村を食と為せむ』と云ひき。其の罪に依て、九十一劫の間、自の宍村を喰ふ報を得たる也。次ぎに、火の柱の、人の形にて燃つるは、前生に僧祇の物を盗み、堂寺の灯を滅せる者の、無量劫の間、此の如く燃え立る也。又、此の山の高く大なるは、汝が前生に一劫の間、或る時は犬・狐と生れ、或る時は鵄・烏と生れ、或る時は蚊・虻と生れし所の、骸骨の積れる也。何況や、無量劫の間、四悪趣に堕て、若干の苦患を受けむ骨を思遣るべし」と宣ふ。
沙門、此れを聞て、其の所にして、諸法の無常を観じて、忽に果を証して、羅漢と成にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「御前諸本御許ニ作ル」
3) 阿難を指す。
巻1第27話 翁詣仏所出家語 第廿七
今昔、天竺に一人の翁有り。家貧くして、世を過すに、一塵の貯へ無し。然ば、妻子・眷属も皆捨て、随へる者一人無し。
翁、歎き悲て、自ら思ふ様、「我れ、家業を営むに、貧くして貯へ無し。如かじ、出家して、仏弟子と成む」と思て、忽に祇薗精舎に詣て、先づ舎利弗に遇て云く、「自ら出家して、戒を受む」と。舎利弗の云く、「暫く待て。汝が出家の業や有」と、「定に入て見む」とて、三日定に入て、定より出て云く、「汝が過去の八万劫を見るに、更に出家の業無し。一塵の善根を修せず。何を以てか、汝に出家を許さむ」と、擯(おひ)出しつ。
又、目連の許に行て、「出家せむ」と云ふ。其れも、「出家の善根無」とて、擯出しつ。富楼那・須菩提等の許に行て、「出家せむ」と云ども、上臈皆、「汝が出家を許さず。我等、何(いかで)か出家を許む」と云つつ擯出しつ。五百の弟子等、各杖木(つゑ)を取て打ち、瓦石を拾ひて、更に出家を許さず。然れば、翁、祇薗精舎の門に出て、啼泣して居たり。
其の時に、仏1)、此れを見給て、門に出給て、翁に問て宣はく、「何の故有てか、汝爰に哭(なき)居たるぞ。若し、願ひ思ふ事の有るか。我れ、願ひに随へむ」と。翁な、答て云く、「我れ、世を過すに、一塵の貯へ無くして、衣食に乏し。妻子・眷属も皆捨てて去にき。然れば、『我れ出家して、仏の御弟子と成む』と思て、此の精舎に詣て、『出家せむ』と申すに、舎利弗・目連等の五百の御弟子達、各『出家の業無し』とて打追て、出家せしめ給ふ事無し。然れば、此の門に哭居たる也」と。
其の時に、仏、立寄り給て、金色の御手を以て、翁の首を撫て宣はく、「我れ、願を発して、仏と成し事は、此の如き等の衆生に値遇して、利益せむと也。然れば、汝が本懐を遂(とげん)と思ふ」と宣て、翁を具して、祇園精舎の内に入給ぬ。
先づ、舎利弗を召して宣はく、「此の翁に出家せしめよ」と。舎利弗の云く、「過去の八万劫を見るに、此の翁、出家の業無し。仏、何に依て、此の翁に出家を許し給ぞ」と。仏の宣はく、「只出家せしむべし」と。
尊者2)、仏の教に随て、翁に出家せしめて、戒を授て後、仏に白して言さく、「衆生の善悪の果報、皆前世の業因に依て也。仏、何の故有てか、此の人に出家を許し給ぞ」と。仏け、説て宣はく、「汝、善く聴け。此の翁は過去に八万劫の土地を塵と成して、一劫に宛てて、3)其の数よりも前に人と生れて、猟師と有き。『鹿を射(いん)』と思て待ち立りし間、俄に虎来て、喰むと為し時、猟師、虎の難を免かれむが為めに、只一度、『南無仏』と申しき。其の猟師と云は、此の翁也。然れば、其の善根朽ちずして、于今有り。此れに依て、出家を許す也。汝は其れを知らずして、出家を許さざる也」と。
舎利弗、此れを聞て、答ふる事無し。翁は出家の功徳に依て、忽に羅漢果を証してけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 舎利弗
3) 底本頭注「宛テテノ下諸本一宛打テトアリ」
巻1第28話 婆羅門依酔不意出家語 第廿八
今昔、天竺に一人の婆羅門有けり。酒に酔て、仏1)の祇薗精舎に在す所に詣ぬ。酔に依て、本の心忘れぬ。仏に白して言さく、「自ら出家せむ」と。仏、阿難を以て、出家せしめ給ひつ。
其の後、婆羅門、酔覚て、我が身を見れば、既に髪を剃り、法衣を着せり。其の時に、奇異の思を成して、驚き怪むで、走り去ぬ。
其の後、御弟子等、仏に問ひ奉て云く、「何の故有てか、此の婆羅門、驚て走り去ぞ」と。仏、答て宣はく、「此の人は、無量劫の中に、更に出家の心無し。而るに、今、酒に酔て本の心無きが故に、出家して法衣を着せり。酔覚て後、驚て走り去也。但し、此の出家に依て、後に道果を証すべし」と。
仏、酒を誡しめ給と云へども、此の婆羅門の為には、酔て此く出家せるに依て、酒を免し給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第29話 波斯匿王阿闍世王合戦語 第廿九
今昔、天竺に二の国有り。一をば舎衛国と云ふ。一をば摩竭提国と云ふ。舎衛国の王をば波斯匿王と云ひ、摩竭提国の王をば阿闍世王と云ふ。
此の二人の王、中悪く成て、合戦を始む。各千万の軍を発せり。象に乗る軍、軍馬に乗る軍、歩なる軍、数知らず。様々に武き心を励まして、互に合戦を企つ。
既に合戦するに、波斯匿王の軍、戦ひ負て、陣破られぬ。此の如き、三度戦ふに、度毎に皆波斯匿王の方、負ぬ。波斯匿王、王宮に返て、歎き悲む事限無し。昼は物も食はず、夜は寝ず。
其の国の長者、須達、大王の歎き給を聞て、宮に参て、大王に申さく、「我れ聞けば、此の国の軍、力を励まし心を発して戦ふと云ども、軍の数、彼に劣れるに依て、度毎に破られ給へり。然れば、須達が思ふ様、自らが家に、数(あまた)の倉に多の財を積めり。其の財を悉く取出でて、軍に賜て、合戦を始め給はば、隣国まで聞伝へて、自然(おのづから)に多の軍出来りなむ。軍の数、増(まさり)なば、摩竭提国の軍、勇猛なりと云ども、数劣なば、会ふべきに非ず」と。波斯匿王、此れを聞て、喜を成して、須達が家に使者を遣して、多の財を運び取て、軍に分ち給ふ時に、隣国まで此の事聞えて、衆多の軍、雲の如く集ぬ。
其の後、合戦を始るに、摩竭提国の阿闍世王、多の軍を引将て戦ふに、舎衛国の軍は、武く強き者を撰て一陣に結び、次の者をば次々の陣に結べり。此の如くして戦ふに、摩竭提国の軍、数も劣り、武き事も劣れるに依て、摩竭提国の陣破られて、阿闍世王捕へられぬ。舎衛国の方の軍に搦められて、波斯匿王の陣の内に将入ぬ。波斯匿王、喜ぶ事限無し。
さて、阿闍世王を召し寄せて、我が飛車に相乗せて、仏の御許に将参て、仏に申さく、「阿闍世王は敵の国の王なれば、須く頸を取るべき也。然而(しかれ)ども、讐は恩を以て報るこそ善き政なれ。然ば殺さざる也」と。仏1)の宣はく、「善哉、々々」と讃(ほめ)給て、「大王、善く思へり。讐は徳を以て報ずれば、讐無き者也。譬ひ、三世に恨を結べりと云とも、恩を報つれば、敢て讐の心を思ふ者無し。大王、善く此の心を知て、敵の阿闍世王に恤(あはれ)みの心を至して、返し遣る。極て賢き事也」と。
然れば、波斯匿王、阿闍世王を免し遣しつ。阿闍世王は、「既に頸を取れぬ」と思ふに、此く免されぬれば、讐の心永く留て、波斯匿王の為に恩を施す。此のみに非ず、隣の国々までも、此の事伝へ聞て、波斯匿王の為に敢て愚なる者無し。
さて、波斯匿王、須達を召て云く、「此の合戦に勝ぬる事は、長者の恩に依て也。速に思はむ所の事を申すべし。乞はむに随ふべし」と。須達、膝を地に着て、二手を双(なら)べて、地に伏て、大王に白して言さく、「忝く此の仰せを蒙れり。我れ、思給へる所は、七日、此の国の王に着む」と。「大王、許し給へ」と。
時に、大王、宣旨を下して云く、「須達を七日が間、舎衛国の王と為すべし。国の御貢物、須達が家に送るべし。又、国の大小の事、須達が命に随ふべし」と。時に、国、挙て須達が宣旨に随ふ。風に靡く草木の如し。
其の時に、須達、宣旨を下して、皷を打ち螺を吹て云く、「国の内の上中下の人、皆仏を供養し奉り、戒を持(たも)つべし」と。其の時に、国、挙て仏を供養し奉つり、戒を持つ事限無し。七日過ぬれば、位を波斯匿王に返し奉る。須達、此の功徳を人に勧めむが為に、七日国王に申請て即(つく)也けり。
然れば、仏の宣はく、「須達、七日国王に成て、多の功徳を人に勧たるに依て、当来世に成仏して、無数の衆生を引導すべし」と説き給にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第30話 帝釈与修羅合戦語 第三十
今昔、帝釈の御妻は、舎脂夫人と云ふ。羅睺阿修羅王の娘也。父の阿修羅王、舎脂夫人を取むが為に、常に帝釈と合戦す。
或時に、帝釈、既に負て、返り給ふ時に、阿修羅王、追て行く。須弥山の北面より、帝釈、逃げ給ふ。其の道に多の蟻遥に這出たり。帝釈、其の蟻を見て云く、「我れ、今日、譬ひ阿修羅に負て罸(うた)るる事は有りとも、戒を破る事は非じ。我れ、尚を、逃て行かば、多の蟻は踏殺されなむとす。戒を破つるは、善所に生ぜず。何況や、仏道を成ずる事をや」と云て、返り給ふ。
其の時に、阿修羅王、責め来ると云ども、帝釈の返り給ふを見て、「軍を多く添て、又返て、我れを責め追也けり」と思て、逃げ返て、蓮の穴に籠ぬ。帝釈、負て逃げ給ひしかども、「蟻を殺さじ」と思ひ給ひし故に、勝て返り給ひにき。
されば、「戒を持(たも)つは、三悪道に落ちず、急難を遁るる道也」と仏の説き給ふ也けりとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

巻1第31話 須達長者造祇薗精舎語 第卅一
今昔、天竺の舎衛国に一人の長者あり。名をば須達と云ふ。其の人、一生の間だに、七度富貴に成り、七度貧窮に成れりけり。其の第七度の貧は、前の六度に勝れたり。牛の衣許の着物無し。菜に合す許の食味無し。然れば、夫妻共に歎きて、世を過す程に、近隣の人にも悪1)れぬ。親族にも厭はれぬ。
而る間、全く三日食はずして、既に餓死しなむとするに、一塵の財(たか)ら無しと云ども、空き倉許は有るに、行きて、「塵許の物や有」と見れば、栴檀の升の、片角破れ残て有けり。此れを見得て、須達、自ら市に行て、米五升に売て、家に持ち来て、一升をば取て、菜を買はむが為めに又市に出ぬ。
其の程に、妻、一升を炊て、須達を待つ程に、仏の御弟子、解空第一の須菩提来て、食を乞ふ。妻、鉢を取り、其の炊たる飯を一粒も残さず供養しつ。然ば、又一升を炊て、夫を待つ程に、又神通第一の目連来て、食を乞ふ。又、前の如くに供養しつ。然ば、又一升を炊て、夫を待つ程に、多聞第一の阿難来て、食を乞ふ。前の如く供養しつ。
其の後、妻、独り思ふ様、「米、今一升残れり。白く精(しら)げて炊て、夫妻共に此れを食せむ。此より後には、何れの御弟子来り給ふと云とも、敢て供養し奉らじ」と。「先づ我が命を継(つがん)」と思ひ得て、炊ぐに、未だ須達の返らざる程に、大師釈尊2)来り給て、食を乞給ふ。
妻、さこそ云つれども、仏の来り給へるを見奉て、随喜の涙を拭(のごひ)て、礼拝して、皆供養し奉りつ。其の時に、仏、女の為に偈を説て宣はく、
貧窮布施難
富貴忍辱難
厄嶮持戒難
小時捨欲難
此の如き説き聞せ給て、返り給ひぬ。
其の後、須達、返り来れるに、妻、羅漢及び、仏、来り給つる事を夫に語る。夫の云く、「汝ぢ、我が為に、生々世々の善知識也」と云て、妻を喜ぶ事限り無し。
其の時に、本より有る三百七十の庫蔵に、本の如くに七宝満ぬ。其より又富貴並無かりけり。此の度の富、又前六度に倍々せり。然れば、長者、永く世に名を挙て、閻浮提の内に並ぶ者無し。
而る間、長者、心の内に思はく、「我れ、勝地を求て、伽藍一院を建立して、釈尊及び、御弟子を居(すゑ)奉て、一生の間、日々に供養し奉らむ」と思ふ心深し。其の時に、一人の太子有り。名をば祇陀と云ふ。此の人、甚だ目出(めでた)き勝地を領(し)り、水・竹左右に受け、草・樹前後に並べり。須達、太子に語て云く、「我れ、仏の御為めに伽藍を建立せむと思ふに、此の地足れり。願はくは、太子、此の地を我れに与へ給へ」と。太子、答へて云く、「此の地は、東西十里、南北七百余歩也。当国・隣国の豪族の人来て乞ふと云ども、于今与へず。但し、汝が云ふ事に至ては、既に仏の御為に伽藍を建立せむと也。敢て惜む心無し。然れば、地の上に金を六寸敷て、直(あたひ)に得しめよ」と。
須達、太子の言を聞て、喜ぶ事限無し。忽に、車・馬・人夫を以て、金を運て、地の上に厚さ五寸を敷き満てて、太子に与つれば、長者、思の如く地を得つ。
其の後ち、伽藍を建立して、一百余院の精舎を造る。其の荘厳、微妙にして、厳重なる事、限無し。中殿には、仏を居へ奉り、院々房々には、深智の菩薩等、及び、五百の羅漢等を居へ奉て、心に随て百味を運び備へ、珍宝を満置て、廿五箇年の間、仏及び、菩薩・比丘僧を供養し奉る。祇洹精舎3)と云ふ此れ也。
須達が妻の善知識に依て、最後の富貴を得て、思ふが如く伽藍を建立して、仏を供養し奉れる也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 「にくま」底本異体字。りっしんべんに惡
2) 釈迦
3) 祇園精舎の異表記
巻1第32話 舎衛国勝義依施得富貴語 第卅二
今昔、天竺の舎衛国に、九億の家有り。其の中に一人の人有り。名をば勝義と云ふ。此の人の家、極て貧くして、一塵も貯へ無し。然れば、夫妻相ひ共に、此の城の内の九億の家毎に行つつ、物を乞ひて、世を過して命を継ぐ。
其の時に、仏1)、彼の勝義を教化せむが為めに、頭陀第一の迦葉を遣はすに、迦葉、其の家に至り給ひて、物を乞ひ給ふ。勝義、此れを見て云く、「仏の御弟子と申ども、世に心御せぬ人かな。我は家貧して、一塵も貯へ無が故に、此の城の九億の家毎に行つつ、物を乞て世を過し、命を助くる人也。何ぞ、我が許にしも来て、物乞ひ給らむ。更に供養し奉るべき物無し」と。尊者の宣はく、「只何なりとも、有らむ物を得しめよ」と。勝義が云く、「我が家に全く奉るべき物無し」と。尊者の云く、「猶、只一塵なりとも、得しめよ」と。
勝義、又答ふる事無きに、妻、出来て、夫を呵嘖して云く、「汝ぢ、何ぞ此の比丘を供養し奉らざる。汝と我れとが中に、麻の衣一領、年来有り。『美の物を供養せよ』と乞ひ給はばこそ無からめ、『只一塵也とも供養せよ』と有り。只、彼の麻の衣を供養してむ」と云ふ。夫(をつ)と答て云く、「汝ぢ、極て愚か也。此の衣、汝と我れとが中に、只一領也。我れ出る時は、汝は裸か也。汝が出る時は、我は裸か也。此れを供養してば、既に汝と我とが命を、忽に絶(たたん)と為」と。
妻の云く、「汝が心、極て拙し。此の身は無身の身也。命長しと云とも、終に死なざる事無し。身を養ふと云とも、又無常に皈(きし)なば、塵土(ちりひじ)と成りなむずる也。我等、前世に施の心無きが故に、家貧して貯へ無き事、此の城の九億の家の中に、我等のみ有り。此れ、前世の報には非ずや。此の世に又かくて死なば、後世に地獄に堕て、餓鬼と成て、苦を受けむ事、堪へ難かるべし。我れ、只此の麻の衣を比丘に供養し奉らむ」と云て、夫、此れを歎くと云ども、善々く誘(こしら)へて、此の衣を脱て、帖(たたみ)て、尊者に申して云く、「尊者、目を暫く塞ぎ給へ。我れ、赤裸(はだか)に成りなむとす。極て恥かし。見給ふ事無かれ」と。然れば、尊者、目を塞て見給はず。其の時に、女、近く寄て、此の衣を与へつ。
尊者、衣を鉢に受て、呪願して返ぬ。即ち、仏の御許に詣でて、白して言さく、「勝義が妻の供養を得る事、此の如し」と。其の時に、仏、光明を放て、東方より始て、南西北方の仏を請じ給て、共に呪願して、勝義が妻を讃歎し給ふ。
其の時に、波斯匿王、此の光を見て、驚き怪で、仏の御許に詣でて、先づ目連尊者に値て、光の瑞相を問ふ。目連、答て云く、「勝義が家、貧くして、一塵の貯へ無し。城の九億の家毎に行て、物を乞ふて世を過す。而るに、今日、迦葉尊者、勝義が家に行て物を乞ふに、夫、貯へ無きに依て供養せず。妻有て、夫妻の中に麻の衣一領有るを、惜しまずして供養せり。仏、此れを見て、讃歎して放ち給へる所の光也」と。
大王、此れを聞て、涙を流して、先づ我が衣服を脱て、勝義が家へ送る。又、「我が国の官物を、悉く勝義が許に納むべし」と宣旨を下しつ。然ば、勝義、既に富貴と成て、財宝無量也。
此れに依て、人、財宝を惜しまずして、仏に供養し奉り、比丘僧に与ふべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第33話 貧女仏供養糸語 第卅三
今昔、天竺に一人の貧女有り。日々に家を出て、人に駈(つか)はるるを以て役とす。朝には出て、暮には返る。定る事也。
而るに、仏1)、其の側に在す。女、仏を見奉て、暮に家に返る度毎に、糸を一の枝に懸て、仏に供養し奉る。
其の時に、仏、此の女に問て宣はく、「汝、何の故有て、此の糸を以て、我れを供養するぞ。若し、思ひ願ふ事有らば、速に申すべし」と。女、答て申さく、「願くは、我れ、此の糸も以て、十方三世の諸仏の説き給ふ所の法文を皆束て、我が所に持し奉らむ。其れを皆読誦し奉て、其の功徳を以て、我れ遂に仏に成て、一切の衆生を利益せむと思ふ」と。
仏、此れを聞き給て、讃歎して、「善哉、々々」と宣て、授記し給ふ。「汝ぢ、此の如き思て、我れを供養せる功徳に依て、未来世に仏と成るべし。名をば善事如来と申すべし。願ん如く、一切衆生を利益せむ」と説き給ひけり。
女、当来の記別を聞て、歓喜して、家に返りにけりとなむ語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第34話 長者家牛乳供養仏語 第卅四
今昔、天竺に一人の長者有り。貪欲邪見にして、敢て人に物を施す心無し。年九十有余にして、既に死なむとする時、近付きにけり。
仏1)、慈悲を以て、彼を教化せむが為に、其の門に三年立給へり。而るに、長者、邪見翻(かへ)る事無くして、人を以て、或は杖木(つゑ)を取しめ、或は瓦石を拾しめて、仏を打ち追しめ奉ぬ。此の如き、日々に打ち追ひ奉ると云へども、仏、尚門に立給へり。長者、弥よ瞋恚を発して、遥に遠く追ひ遣り奉りつ。然而(しかれども)、尚門に立給へり。此の如くして、三年を経たり。
然る間、長者の家に、五百頭の牛有り。朝に追出し、暮に追入る。其の母牛の思はく、「我が主、邪見放逸にして、仏を供養し奉らず。我が腹に子を懐妊せり。産出して後、乳を供養し奉らむ」と思ふ。
既に子を生り。其の後、「乳を供養し奉らむ」と思て、出る間に、牛飼に追迷はされて、供養し奉らず。牛の思はく、「我れ、返らむ時に、相構へて、供養し奉らむ」と思て返る時に、仏の御前に歩み至て、立留るに、又追はれて供養し奉る事能はず。
三日と云ふ夜の暁に、牛の思はく、「我れ、畜生の道に堕て、堪へ難き苦患に預れる事、皆先の世に施の心無きに依て也。此の度、尚仏を供養し奉て、畜生の杖捶の苦を離れて、菩薩の道を修せむ」と、五百頭の牛に具せずして、前に進み出て、仏の御許に詣で至て、自ら乳を供養し奉て云く、「我れ、仏に乳を供養し奉る。今少し残せるは、我が子の為也」と。仏、鉢を預け給て、乳を受給ふ。其の時に、子の牛、側に立て云く、「我れは草を食せむ。乳をば速に仏に供養し奉れ」と云て、萱の中に隠れ伏しぬ。
仏の宣はく、「此の牛、此の功徳を以て、天に生るべし」と説き給ひけり。又、其より後、仏に乳をば供養し奉ける也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻1第35話 舎衛城人以伎楽供養仏語 第卅五
今昔、天竺の舎衛城の中に、諸の人有て、自の身を荘厳して、伎楽を唱て、城を出て遊戯す。
城の門に至る間、仏1)、諸の御弟子等を引具し給て、乞食し給まはむと為るに、此の伎楽を唱ふる輩、仏を見奉て、歓喜し礼拝して、伎楽を唱て、仏及び、御弟子の比丘僧を供養して去ぬ。
仏、此れを見給て、微咲して、阿難に告て宣はく、「此の伎楽を唱て我を供養しつる輩、此の功徳に依て、来らむ世、一百劫の間、三悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常楽を受くべし。一百劫の後は、皆辟支仏と成るべし。名をば、一に同くして『妙声』と云ふべし」と説給けり。
然れば、若し、人有りて、伎楽を成て、三宝を供養せむ功徳、無量なるべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
巻1第36話 舎衛城婆羅門一匝遶仏語 第卅六
今昔、仏1)、舎衛城に入て乞食し給ふ。
其の時に、城の中に一の2)婆羅門有て、外より来る間、仏を見奉るに、仏、光明を放て、魏々として在ます。婆羅門、此れを見奉て歓喜して、仏を一匝遶(いちどめぐり)て礼拝して去ぬ。
其の時に、仏、微咲して、阿難に告て宣はく、「此の婆羅門、我を見て、歓喜して、清浄の心を以て、仏を一匝遶れり。此の功徳を以て、此より後、廿五劫の間、三悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に楽を受けむ。廿五劫の後は、辟支仏と成て、名をば持儭那祇利と云べし」と説給けり。
然れば、此れを以て知るに、若し人有て、仏及び塔を遶ごとに、五種の徳を得べし。一には生れむ所に常に端正ならむ、二には生れむ所に常に妙声ならむ、三には常に天上に生れむ、四には常の王家に生れむ、五には涅槃を得む。
然れば、仏を遶り塔を遶こと、輙き事なれども、其の功徳限無し。専に心を至して、を仏を遶ぐり奉るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「一ノ一本一人ノニ作ル」
巻1第37話 財徳長者幼子称仏遁難語 第卅七
今昔、天竺に財徳長者と云ふ人有り。一人の幼き愛子有り。常に此れを教へて、「南無仏」と云ふ事を称せしむ。小児、教へに随て、常に「南無仏」と称す。若は寒き時なれども、若は熱き時なれども、若は心に憂へ有る時なれども、若は心に喜び有る時なれども、忘るる事無く、常に「南無仏」と称す。
而るに、或る日、此の児、数(しば)し臥たる程に、忽に鬼神、空より下り来て、小児を取て噉(く)はむとす。其の時に、小児、「南無仏」と称す。其の音、忽ちに祇薗精舎に聞ゆ。
仏、須臾の間に其所に来給て、小児を加護して、鬼神に許し給はずして宣はく、「法の外護者、来れ」と。其の時に、十方無尽の執金剛神来て、鬼神を降伏して、神呪を説く。此れに依て、鬼神誓て云く、「我も此より後、仏法の外護者と成て、此の人を護らむ」と云へり。
然れば、「南無仏」と申す事は輙き語なれども、正く仏の護り給ふ事也けり。然ば、人、専に仏の御名を称すべしとなむ、語り伝へたるとや。
巻1第38話 舎衛国五百群賊語 第卅八
今昔、天竺の舎衛国に五百の群賊有り。重き咎有て、波斯匿王、此の軍賊を皆捕へて、各目を捿(くじ)り、手足を切て、高禅山と云ふ山の挾(はざま)に追ひ棄たり。
群賊、「眼目・手足なけれども、命は絶えざれば、飢餓の苦び極て堪へ難し。何なる術を巡してか、食物を得べき」と、哭き悲むで云く、「我等の五百人、今は人に非ぬ者と成れり。又は、土の器の破たるが如し。現世に片輪者と成て、辛苦悩乱す。又、後生に三悪道に堕て、苦を受む事疑ひ無し。足の有らば、仏の御許に詣づべし。手の有らば、掌を合て礼拝すべし。眼の有らば、仏をも見奉るべし。此等、皆欠て、我等、心を以て二世を徒に成せり」と、各哭き悲しむ時に、其の中に一人の群賊、智(さとり)有て云く、「仏の世に出給む事は、一切衆生の苦を済ひ給はむが為也。我等、異口同音に仏の御名を唱へて、『此の苦を済ひ給へ』と申さむ」と云ふ。
又、一人の群賊有て云く、「我等、眼目明らかに、手足を心に任せたりし時に、仏を礼まず、法を聞かず、僧を敬はざりき。三宝の物までも憚らず、皆盗み取てき。今更に助け給はむ事非じ」と。又一人の群賊の云く、「仏は平等の慈悲に在ます。一子の悲を垂れ給ふと聞く。譬ひ、三宝の物を犯用せりとも、何(いかで)か利益を蒙らざらむ。猶、仏の御名を唱へて、利生に預(あづからん)」と云て、五百人、異口同音に音を挙て、「南無釈迦牟尼仏、我等の苦を済ひ給へ」と申す。
其の時に、音に応じて、忽に高禅山の挾に至り給ふ光を放て、五百人の群賊を各照し給ふ。群賊、同時に眼目開け、手足出きて、故の身と成て、仏を礼拝恭敬し奉る。皆羅漢果を証したり。御弟子と成ぬ。所謂る、霊鷲山の五百の御弟子と云は此れ也。
逆罪を犯せる者そら、仏を念じ奉て、利益を蒙る事、既に此の如し。何況や、善心有らむ者の、心を至して仏を念じ奉らむに、当に空き事有らむや。此の如く、現に眼を開き、手足の出来たらむだに貴かるべきに、皆果を証(さとり)て羅漢と成て、仏の御弟子と成けりとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

■巻2 天竺 
巻2第1話 仏御父浄飯王死給時語 第一
今昔、仏1)の御父、迦毗羅国の浄飯王、老に臨て、病を受て、日来を経る間、重く悩乱し給ふ事限無し。身を迫(せむ)る事、油を押すが如し。「今は限り」と思して、御子の釈迦仏・難陀・孫の羅睺羅・甥の阿難等を見ずして死なむ事を歎き給へり。
此の由を、仏の御許に告奉らむと為るに、仏の在ます所は舎衛国也。迦毗羅国より五十由旬の間なれば、使の行かむ程に、浄飯王は死給ぬべし。然れば、后・大臣等、此の事を思悩ぶ程に、仏は霊鷲山に在して、空に、父の大王の病に沈て、諸の人、此の事を歎き合へる事を知給て、難陀・阿難・羅睺羅等を引将て、浄飯王の宮に行き給ふ。
而る程に、浄飯王の宮、俄に朝日の光の差入たるが如く、金の光り隙無く照耀く。其の時に、浄飯王を始て若干の人、驚き怪しむ事限無し。大王も此の光に照されて、病の苦び忽ちに除て、身の楽び限無し。
暫く在て、仏、虚空より、難陀・阿難・羅睺羅等を引将て、来り給へり。先づ、大王、仏を見奉て、涙を流し給ふ事、雨の如し。合掌して喜給ふ事限無し。仏、父の御傍に在して、本経を説給ふに、大王、即ち阿那含果を得つ。大王、仏の御手を取て、我が御胸に曳寄せ給ふ時に、阿羅漢果を得給ぬ。其の後、暫く有て、大王の御命、絶畢(たえはて)給ひぬ。其の時に、城の内、上中下の人、皆哭き悲む事限無し。其の音、城を響かす。
其の後、忽ち七宝の棺(ひつぎ)を作て、大王の御身には香油を塗て、錦の衣を着せ奉りて、棺に入れ奉れり。失せ給ふ間には、御枕上に、仏・難陀、二人在します。御跡の方には、阿難・羅睺羅、二人候ひ給ふ。
かくて、葬送の時に、仏、末世の衆生の、父母の養育の恩を報いざらむ事を誡しめ給はむが為に、御棺を荷はむと為給ふ時に、大地震動し、世界安からず。然れば、諸の衆生、皆俄に踊り騒ぐ。水の上に有る船の、波に値へるが如し。其の時に、四天王、仏に申し請て、棺を荷ひ奉る。仏、此れを許して、荷はしめ給ふ。仏は香炉を取て、大王の前に歩み給ふ。
墓所は霊鷲山の上也。霊鷲山に入むと為るに、羅漢来て、海の辺りに流れ寄たる栴檀の木を拾ひ集めて、大王の御身を焼き奉る。空2)響かす。其の時に、仏、無常の文を説給て、焼き畢奉りつれば、舎利を拾ひ集めて、金の箱に入て、塔を立て、置き奉けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「空ノ上音字ヲ脱セルカ」
巻2第2話 仏為摩耶夫人昇忉利天給語 第二
今昔、仏1)の御母、摩耶夫人は、生奉て後、七日に失せ給ひぬ。其の後、太子、城を出て、山に入て、六年苦行を修して、仏に成給ひぬ。四十余年の間、種々の法を説て、衆生を教化し給ふに、摩耶夫人は失せ給て、忉利天に生れ給ひぬ。
然れば、仏、母を教化せむが為に、忉利天に昇り給て、歓喜薗の中に波利質多羅樹の本に在しまして、文殊を使として、摩耶夫人の御許へ奉給て宣はく、「摩耶夫人、願くは、今我が所に来り給ひて、我を見、法を聞き、三宝を恭敬し給へ」と。文殊、仏の勅を教受て2)、摩耶夫人の所に行き給て、仏の御言を伝しめ給ふに、摩耶夫人、仏の御言を聞き給ふ時に、我が乳の汁、自然ら出づ。摩耶夫人の宣はく、「若し我が閻浮提にして生ぜし所の悉駄に御まさば、此の乳の汁、其の口に自然ら至るべし」と宣て、二の乳を搆(しぼ)り給ふに、其の汁、遥に至て、仏の御口の中に入ぬ。摩耶、此れを見て、喜び給ふ事限無し。
其の時に、世界、大に震動す。摩耶3)、文殊と共に仏の御許に至り給ひぬ。仏け、母の来り給ふを見給ひて、又喜び給ふ事限無し。母に向て申し給はく、永く涅槃を修して、世間の楽苦4)を離れ給へ」と。摩耶の為に法を説き給ふ。又、法を聞て、宿命を悟て、八十億の煩悩を断じて、忽ちに須陀洹果を得給つ。摩耶、仏に白して言さく、「我れ既に生死を離れて、解脱を得たり」と。
時に、其の座の大衆、此の事を聞て、皆異口同音にして仏に白して言さく、「願くは、仏、一切衆生の為に、法を説給へ」と。此の如くして、三月忉利天に在ます。
仏、鳩摩羅に告て宣はく、「汝ぢ、閻浮提に下て語るべし。『我れは、久しからずして、涅槃しなむとす』」と。鳩摩羅、仏の教へに随て、閻浮に下て、仏の御言を語るに、衆生、皆此れを聞て、愁へ歎く事限り無くして云く、「我等、未だ仏の在ます所を知らざりつ。今、忉利天に在すと聞く。喜び思ふ所に、久しからずして涅槃に入り給ひなむと為(する)なり。願はくは、衆生を哀び給はむが為に、速く閻浮提に下り給へ」と。
鳩摩羅、忉利天に返昇て、衆生の言を仏に申す。仏、此の言ばを聞き給て、「閻浮提に下なむ」と思す。
爰に天帝釈、仏の下り給はむと為を、空に知(しろ)して、鬼神を以て、忉利天より閻浮提に三の道を造らしむ。中の道は閻浮檀金、左の道は瑠璃、右の道は馬瑙(めなう)、此等を以て、各厳(かざ)れり。
其の時に、仏、摩耶に申し給はく、「生死は必ず別離有り。我れ、閻浮提に下て、久しからずして涅槃に入るべし。相ひ見む事、只今許也」と。摩耶、此れを聞て、涙を流し給ふ事限無し。仏と母と別れ給て、宝の階を歩て、若干の菩薩・声聞大衆を引将て、下り給ふに、梵天・帝釈・四大天王、皆左右に随へり。其の儀式、思ひ遣るべし。
閻浮提には、波斯匿王を始て若干の人、仏の階より下り給ふを喜て、階の本に皆並居たり。仏は階より下り給ぬれば、祇薗精舎に返り給ひにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「勅ヲ教受テ一本教勅ヲ受テニ作ル」
3) 底本頭注「摩耶ノ下一本夫人トアリ下同ジ」
4) 底本頭注「楽苦一本苦楽ニ作ル」
巻2第3話 仏報病比丘恩給語 第(三)
今昔、祇薗精舎に一人の比丘有り。身に重き病を受て、五六年が間、辛苦悩乱す。悪瘡膿(うみ)血流れて、大小便利の潤ひ臭く穢たり。然ば、人、此れを灢(きた)なむで、皆近付かず。居たる所も、悉く朽ち壊(こぼれ)たり。
仏(釈迦)、此の人を見て、哀び給て、阿難・舎利弗等の五百の御弟子等を皆他所に遣て、彼の比丘の所に行て、五の指より光を放て、遠く照し給ふて、比丘に宣はく、「何ぞ、汝に相ひ副へる人無き」と。比丘、答て云く、「年来の病に依て、相副へる人無し」と。
其の時に、帝釈、其所に来て、宝瓶に水を入て仏に奉る。仏、紫磨黄金の御手を以て此れを受て、右の手を以て灌ぎ洗て、左の手を以て身の瘡を摩で給ふに、御手に随て、病𡀍1) (い)えぬ。仏の宣はく、「汝ぢ、昔し我れに恩有りき。今、我れ来て報ずる也」とて、為に法を説給ふ。比丘、即ち阿羅漢果を得つ。
其の時に、帝釈、仏に問奉て云く、「何の故に、此の病比丘の恩を報じ給ふぞ」と。仏、帝釈に告て宣はく、「過去の無量阿僧祇劫に国王有りき。財(たから)を要するが為に、無道に一の人を密に語て云く、『汝ぢ、若し人有て、公物を犯す事有らば、罸(つみ)すべし。其の財物をば、我れと共に取らむ』と契りつ。其の人の名をば伍百と云ふ。其の時に、一の優婆塞有り。邪に公物を犯す。伍百に付て、此れを罸するに、此の優婆塞、善を行ずる人と聞て、伍百、此れを罸せず。優婆塞、免るる事を得て、喜て去にき。其の時の伍百と云ふは、此の病比丘尼此れ也。其の時の優婆塞と云は、今我が身此れ也。此の故に、我れ来て恩を報ずる也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 口へんに愈
巻2第4話 仏拝卒堵婆給語 第(四)
今昔、仏1)伽頻国2)に在まして、喩山陀羅樹下に趣き給ふ。其の所に一の卒堵婆有り。仏、此れを礼拝し給ふ。
其の時に、阿難・舎利弗・迦葉・目連等の御弟子等、此の事を怪むで、仏に白して言さく、「何の故に有てか、仏懃(ねんごろ)に此の卒堵婆を礼拝し給ふ。仏は人にこそ礼拝せられ給へ。仏より外に、何物か勝れて貴き思ひを成すべき」と。
仏、答て宣はく、「昔し、此の国に大王有き。子無くして、天に乞ひ、龍神に祈て、子を願ひき。時に其の后、懐妊して一人の男子を生たりき。大王の后、此の児を養育して、厭ふ心無し。十余歳に至る時に、父の王、身に病有て、天神に祈請するも叶はず。医薬を以て治するにも𡀍3) えず。而るに、一人の医師(くすし)有て云く、『生れてより以来、露許も瞋恚を発せざる人の、眼及び骨髄を取て、和合して付ば、王の御病は則ち癒なむ』と云ふ。
『然りと云へども、仏より他には、誰人か瞋恚を発さざる者は有るべき。甚だ有難き事也』と云ひ歎く程に、此の太子、此の事を聞て、『我こそ、未だ瞋恚を発さざる者なれ』と思て、母の后きに向て云く、『生る者は、必ず滅す。相(あ)へる者は、定めて離る。誰人か此の事を免れむ。徒に無常に帰しなむよりは、我れ、此の身を捨て、父の御命を助け奉らむ』と。母后、此の事を聞て、涕泣して答る事無し。
太子、心の内に思はく、『孝養の為には、我れ命を惜しむべからず。若し、惜む心有らば、不孝の罪を得む』と。『譬ひ、此の身、長命也と云ふとも、終に死を免るべきに非ず。死て三悪道に堕む事、又疑ひ非じ。只、此の身を捨てて、父の御命を助て、終に無上道を得て、一切衆生を利益せむ』と誓ひを発して、密に一人の旃陀羅を語て、此の事を云ふに、旃陀羅、甚だ恐ぢ怖れて用ゐず。然りと云へども、太子、猶を孝養の心深くして、旃陀羅を責めて4)、五百の釼を与て、我が眼及び骨髄を取らしむ。此れを取て、和合して、父の王に奉る。此の医(くすり)を以て、病を治するに、病ひ即ち𡀍5) ぬ。
然りと云ども、大王、此の事を知り給はずして、其の後、『太子、我が所に久く来ざる、何の故ぞ」と。一人の大臣有て、王に申さく、『太子は早く命を失ひ給てき。医師有て、『生れて以来、瞋恚を発さざらむ人の、眼・骨髄を以て、大王の御病を治すべし』と云ふ。此れに依て、太子、『生れて以来、瞋恚を発さざる者、只我が身此れ也。我れ、孝養の為め身を捨てむ』と宣て、密に旃陀羅を語ひ給て、眼及び骨髄を取しめて、大王に奉り給ふ。此れを以て、大王の御病を治して、既に𡀍6) 給ふ事を得たる也』と。
大王、此れを聞て、哭き悲み給ふ事限無し。暫く有て宣はく、『我れ、昔は聞き、父を殺して、王位を奪ふ有りと。未だ聞かず、子の肉村(ししむら)を噉(くひ)て、命を存せる事をば。悲哉。我れ此れを知らずして、病の𡀍7)たる事を喜けり』と宣て、忽に太子の為めに、喩旃陀羅樹下に一の卒堵婆を立給ひき。
其の時の王は、我が父、浄飯王此れ也。其の時の太子は、我が身此れ也。我が為に立給ひし卒堵婆なれば、今来て礼拝する也。此の卒堵婆に依て、我れ正覚を成じて、一切の衆生を教化する也」と説給ひけりとなむ語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 迦毘羅衛国の別称
3) , 5) , 6) , 7) 口へんに愈
4) 底本「責メヲ」。誤植とみて訂正。
巻2第5話 仏人家六日宿給語 第(五)
今昔、仏1)、舎衛国にして、人の家に行給て、六日宿し給て、供養を受給ふ。
七日と云ふ朝に、還り給なむと為るに、天陰り風吹きて、洪水、山河に出たり。家の主、仏に白して言さく、「今日、留り給へ。雨風の有難く、亦、同くは七日と2)供養し奉らむ」と。
舎利弗・目連・阿難・迦葉等の御弟子も、「今日は留り給へ」と申し給ふに、仏、説て宣はく、「否や。汝等、極て愚也。一言の詞を交へ、一宿の契を成す事は、皆是れ前世の業因也。家の主、善く聞け。汝ぢ、先生に人と生れたりしに、人に捨られて、寒の為に死ぬべかりき。其の時に、我れ、汝を取て、身に付て、六日が間温めて、命を助けき。七日と云ふ朝に、汝ぢ、寒さに堪へずして、遂に死にき。其の故に、我れ汝が家に、六日宿して供養を受く。此れに依て、我れ、今日此の家に留まるべからず」と宣て、耆闍崛山に還り給ひぬ。家の主及び、御弟子達も、此の事を聞て、貴ぶ事限無し。
然れば、「一言一宿も、皆前世の契り也」と知りぬとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「七日ノ下一本ト字ナシ」 
巻2第6話 老母依迦葉教化生天報恩語 第(六)
今昔、天竺に迦葉尊者、里に出でて乞食し給ひけり。時に尊者思給ふ、「我れ、福貴の家には暫く行かじ。貧窮の所に行て、其の施を受けむ」と思て、先づ三昧定に入て、「誰か貧き人」と見給て、即ち王舎城に入て、一の老母の所に至ぬ。
老母、極て貧くして、巷の糞聚の中に有て、病て臥たり。臭(くさ)れる米の汁を、破(われ)たる瓫(ほとぎ)に盛て、臥たる【左右の喬に置たり。迦葉、其所に至て、食を乞ふ。老母の云く「我れ貧くして身に】1)病ひ有り。然れば、供養し奉るべき物、露許も無し。只臭れる米の汁なむ有る。『此れを施し奉らむ』と思ふに、食給ふべしや否や」と。迦葉の宣はく、「此れ吉し。速に施すべし」と。老母、此れを聞て施しつ。
迦葉、此の水を受て飲給ひつ。飲畢(はて)て、即ち虚空に昇て、十八変を現ず。老母、此れを見て、起居て仰ぎ見る。迦葉、老母に告て宣はく、「汝ぢ、此の善根を以て、願ふ所何に事ぞや。転輪聖王の身をや願ふ。帝釈をや願ふ。四天王をや願ふ。人身をや願ふ。仏身をや願ふ。菩薩をや願ふ」と。老母の云く、「我れ世の貧き苦を厭ふが故に、天に生れむ事を願ふ」と。
其の後、日来を経て、老母死ぬ。即ち忉利天に生れぬ。魏2)威神魏々として、天地震動し、光明を放つ事、七の日の一度に出たるが如し。
其の時に、帝釈、此の女を見給て、其の因縁を問ひ給ふ。女、天に生ずる故を具に申す。既に天に生れて、天女思はく、「我れが天に生て、快楽を受る事は、迦葉を敬ひしに依て也。我れ、其の恩を報ぜむ」と思て、侍者の天女を引具して、香・花を持て、天より下て、迦葉を供養し奉りけり。供養し畢ぬれば、天上に帰ぬ。
其の時に、仏3)、阿難に告て宣はく、「此の老母の施する所、微少也と云へども、心を至せるに依て、得る所の福、甚だ多し。然れば、汝ぢ、常に諸の人を勤て、布施を行ぜしむべし」と説給ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 「左右の」から「身に」まで、底本及び実践女子大学本なし。鈴鹿本により補う。
2) 底本頭注「魏一本魏々タルニ作ル或ハ衍字カ」
3) 釈迦
巻2第7話 婢依迦旃延教化生天報恩語 第(七)
今昔、天竺の阿般提国に一人の長者有けり。家、大に富て財多し。而るに、其の人、慳貪深くして慈悲無し。
其の家に一人の婢有り。少(いささか)の過有て、長者、此れを打ち縛りて、倉に籠て、衣を着せしめず、食を与へずして、僅に少の水許を与へて置たり。婢、悲て、音を挙て泣く。
其の時に、迦旃延、其の国に在して、其の婢の泣く音を遥に聞給て、其の所に行き至て、婢に語て宣はく、「汝が身貧くば、何ぞ其れを売らざる」。婢、答て云く、「誰か貧を買ふ者有らむ。貧を売るべくば、此れを売るべし。何にして売るべきぞ」と。迦旃延の宣はく、「汝ぢ、若し貧を売らむと思はば、我が言に随て、施を行ふべし。其れを以て貧を売る也」と。婢、尊者に申さく、「我れ、今貧窮にして、身の上に衣食無し。只、此の少水有り。此れ、主の許せる所也。此れを施せむに、何(いかに)ぞ」と。尊者の宣はく、「速に其れを施すべし」と。婢、「尊者の言ふに随ふべし」とて、鉢に入る所の水を、尊者の鉢に移し入れつ。
尊者、水を受て、婢の為に呪願して、次に戒を授け給て後、念仏を勧め給ふ。其の後、婢に問て宣はく、「汝ぢ、何なる所にか宿する」と。婢、答て云く、「我れ、舂き炊ぐ所に宿す。或は又、糞の所に有り」と。尊者の宣はく、「汝ぢ、其の主の臥たらむを伺て、窃に戸を開て、其の戸より入て、草を敷て坐しめて、仏を観じて、悪念を成す事無からしめむ」と。
婢、夜に至て、尊者の教の如く、戸を開て、入て、草に坐して、仏を観じ、悪心を発さずして死ぬ。即ち、忉利天に生れぬ。
長者、暁に婢の死せるを見て、大に瞋恚を発して、人を遣て、縄を以て足に付て、寒林の中に引き棄てつ。婢、天に生て、天眼を以て、我が旧き身を見て、即ち五百の天子を引将て、香・花を以て其の寒林の中に下り至て、香を焼き、花を散じて、尸骸を供養す。又、光明を放て、林を照す。長者及び、遠く近き人、林に至て、此の事を見る。長者、語て云く、「何の故有て、此の婢の死せる尸骸をば供養するぞ」と。天子、答て云く、「此の尸骸は、此れ我が旧き身也」と云て、天に生れし本縁を語る。長者、此れを聞て、「奇異也」と思ふ。
天子、其より迦旃延の所に至て、香を焼き、花を散じて、尊者を供養して、恩を報ず。尊者、二天の為めに法を説き給ふ。五百の天子、此れを聞て、皆須陀洹果を得て、皆天上に返けりとなむ、語り伝へたるとや。
巻2第8話 舎衛国金天比丘語 第(八)
今昔、舎衛国の中に一人の長者有けり。家大きに富て、財宝無量也。一の男子を生ましめたり。其の児の身、金色にして、端正なる事、世に並び無し。父母、此れを見て、喜び愛する事限無し。児の身、金色なるに依て、名を「金天」と付たり。
其の児の生(うまれ)ける日、家の内に自然ら一の井出来て、水出たり。広さ八尺、深さ八尺也。其の水、清浄にして、亦、其の井より、飲食・衣服・金銀・珍宝出来て、願に随て此れを取り用ぬ。児、漸く長大して、身の才広く、心の達(いた)れり。其の父の思はく、「我が児、端正にして並び無し。此れが妻と為べき者を求めむ。
其の時に、宿城国に大長者有り。一の女子を生ましめたり。名をば「金光明」と云ふ。形貌端正にして、身の色金色也。其の女の生ぜる日、家に自然ら八尺の井、出来て、其の井より、種々の財宝・衣服・飲食出来て、人の心に叶ふ。女子の父母、亦思はく、「我が娘め、端正にして、人の中に類無し。嫁がしむべき夫を尋るに、此の金天に当れり。然れば、金光明に嫁て妻としつ。
其の後ち、金天、仏1)を請じ奉て、供養し奉る。仏、為に法を説き給ふ。金天及び妻、其の父母等、此れを聞て、皆須陀洹果を得つ。金天夫妻共に出家を求めて、「父母、此れを許せ」と乞ふ。父母、即ち許しつ。然れば、仏の御許に詣でて、夫妻共に出家して、皆阿羅漢果を得つ。
其の時に、阿難、此れを見て、仏に白して言さく、「金天夫妻、昔し、何なる福を殖て、富貴の家に生れて、身体金色にして、亦、家に自然ら八尺の井有て、種々の財宝出来るぞ。亦、仏に値ひ奉て、疾く果を得たるぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔し、乃往過去の九十一劫の時、毗婆尸仏の涅槃に入給て後、諸の比丘有て、遊行して一の村の中に至る。村の人、此の諸の比丘を見て、競て供養しき。其の時に、村に夫妻二人の人有りき。家貧くして、升合の米無し。其の夫、村人の比丘等を供養するを見て、妻に向て涙を流して泣く。其の涙、妻の臂の上に落つ。妻、夫に向て云く、『汝ぢ、何の故に泣くぞ』と。夫、答て云く、『我が父の有りし時、財を倉に積み満てぬる事、極めて量難かりき。我が身の上に至て、極て貧窮にして、今、比丘に値と云ども、供養する事能はず。此れ、前身に施を行はざりしに依て、今、此の貧しき報を得たり。今亦施さずば、未来の報、此れに過ぐべし。此の故に、我れ泣く也』と。妻、夫に2)云く、『汝ぢ、試みに、祖(おや)の旧き屋に至りて、若し少しの物や有ると、普く求むべし』と。夫、妻の云に随て、其の所に行て見るに、一の金の銭を見付たり。妻の所に持至て見しむるに、妻、亦一の鏡を得たり。亦、一の瓶を得たり。然れば、清き水を瓶に盛り満てて、銭を瓶の中に入れて、鏡を以て其の上に置て、夫妻道心にして、比丘の所に行て、此れを施して、願を発して去にき。彼の時の施を行ぜし夫妻の貧人は、今の金天夫妻此れ也。其の施の功徳に依て、其れより後、九十一劫悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に夫妻と成て、身体金色にして、福楽を受く。今、我れに値て、出家して道を得る也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「夫ニノ下一本謂テトアリ」
巻2第9話 舎衛城宝天比丘語 第(九)
今昔、天竺の舎衛城の中に、一人の長者有けり。家大きに富て、財1)無量成。一人の男子を生ましめたり。其の児、端正にして、世に並び無し。
生れぬる時、天より七宝雨(ふり)て、家の内に積み満たり。父母、此れを見て、歓喜する事限無し。此れに依りて、此の児の名を「宝天」と名付たり。年漸く長大して、仏2)に値ひ奉て、出家して、羅漢果を得たり。
其の時に、阿難、此れを見て、仏に白して言さく、「宝天比丘、前世に何なる福業を修して、富貴の家に生れて、生るる時七宝を雨らし、衣食自然ら有て、乏き事無し。今、仏に値奉て、出家して、道を得るぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔、乃往過去の九十一劫の時、仏、世に出給へりき。毗婆尸仏と申しき。其の時に、諸の比丘有て、聚落に遊行せしに、富貴の長者、競て此れを供養しき。其の時に一人の貧き人有りき。比丘を見て、歓喜の心を発すと云へども、我が身貧くして、供養すべき物一塵も無し。思ひ煩て、一拳(にぎり)の白き沙を取て、祠(いのり)て比丘に散じて、心を至して礼拝して、願を発して去にき。沙を拳て施せし貧人は、今の宝天此れ也。此の功徳に依て、其より以来、九十一劫の間、悪趣に堕ちずして、生るる所には天より七宝を雨らし、家の内に積み満て、衣食自然ら出来て、乏き事無し。今、我れに値て、出家して道を得る也」と説給けり。
此れを以て思ふに、「我れ財を持たずと云ども、草木・瓦石にても、実の心を発して、三宝に供養せば、必ず善根を得べしと、信ずべき也」となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「財ノ下宝字脱セルカ」
2) 釈迦
巻2第10話 舎衛城金財比丘語 第(十)
今昔、天竺の舎衛城の中に、一人の長者有り。家大きに富て財宝多し。一人の男子を生ましめたり。其の児、端正にして、世に並び無し。
生(うまれ)ける時に、二の手を拳(にぎり)て、生れたり。父母、此れを開きて見るに、児の二の手に、各一の金の銭有り。父母、此の銭を取るに、即ち亦、同く有り。此の如き、取ると云ども更に尽る事無し。須臾の間に、金の銭、倉に満ぬ。父母、此れを歓喜する事限無し。然れば、此の児の名を「金財」と付たり。金財、年漸く長大して、出家の心有て、遂に仏(釈迦)の御許に詣て出家して、羅漢果を得たり。
阿難、此れを見て、仏に白して言さく、「金財比丘、前の世に何なる福を殖て、富貴の家に生れて、手に金の銭を拳て、取るに尽る事無く、今仏に値ひ奉て、出家して、疾く道を得ぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔、乃往過去の九十一劫の時に、仏、世に出給へりき。毗婆尸仏と申す。其の時に、一人の人有き。極て貧窮にして、世を過さむが為に、常に薪を取て売るを以て業と為しに、其の人、薪を買て、二の金の銭を得たり。仏及び、比丘を見て、此の銭を以て施し奉て、願を発して去にき。昔し銭を供養せし貧人と云は、今の金財此れ也。此の功徳に依て、其より以来、九十一劫の間悪趣に堕ちずして、天上人中に生れて、生るる所には常に金の銭を拳て、財宝自然ら恣にして、尽る事無し。今、我れに値て、出家して、道を得る也」と説給けり。
此れを以て思ふに、「人の身に重き宝有て、譬ひ『惜し』と思ふ事有りとも、三宝に供養し奉りたらむに、必ず将来に無量の福を得む事疑ひ無しと知るべし」となむ、語り伝へたるとや。  
 

 

巻2第11話 舎衛城宝手比丘語 第(十一)
今昔、天竺の舎衛城の中に、一人の長者有けり。家大きに富て、財宝無量也。一人の男子を生ましめたり。其の児、端正なる事、世に並び無し。
其の児、二の手に、各金の銭を把(にぎ)れり。父母、此れを見て、取れば、亦同く有り。此の如く、取と云ども更に尽る事無し。父母、此れを歓喜する事限無し。此れに依て、此の児の名を「宝手」と付たり。
年漸く長大して、心に慈悲有て、好むで布施を行ず。人来て、乞ふに随て、両手を開て、把れる所の金の銭を出して、悉く与ふ。敢て惜む心無し。
亦、父母に告て、祇洹精舎1)に詣でて、仏2)の相好を見て、心に歓喜を懐て、仏及び比丘僧を礼拝し奉て云く、「願くは、我が供養を受け給へ」と。阿難、宝手に語て云く、「汝ぢ、供養せむと思はば、正に財宝を儲くべし」と。其の時に、宝手、即ち両の手を開くるに、金銭、手より出でて、須臾に地に満ぬ。其の時に、仏、為に法を説き給ふ。宝手、法を聞て、須陀洹果を得つ。
家に帰て、父母に、「出家を許せ」と乞ふ。父母、此れを許しつ。然れば、仏の御許に詣でて、出家して、阿羅漢果を得たり。
阿難、此れを見て、仏に白して言く、「宝手比丘、昔し何なる福を殖て、富貴の家に生れて、手より金の銭を出して、取るに尽る事無く、亦仏に値奉て、出家して、説く道を得るぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔し、迦葉仏の涅槃に入給て後、迦□王3)有て、仏の舎利を取て、四宝の塔を起てき。其の時に、一人の長者有りき。王の此の塔を起るを見て、心随喜を成して、一の金の銭を以て、塔の下に置て、願を起して去にき。其の銭を置し人は、今の宝手此れ也。此の功徳に依て、其の後、悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に金の銭を把て、其の福無量にして、楽を受く。只今、我れに値て、出家して、道を得る也」と、説き給けり。
此れを以て思ふに、人有て、功徳を修せむを見て、必ず随喜の心を発して、専らに力を加ふべき也。将来に此の如くの無量の福を得る也となむ、語り伝へたるとや。
1) 祇園精舎に同じ
2) 釈迦
3) 底本頭注「迦□王ハ迦翅王ナラン」
巻2第12話 王舎城灯指比丘語 第(十二)
今昔、天竺の王舎城の中に、一人の長者有けり。家大きに富て、財宝無量し。一人の男子を埋ましめたり。形、端正なる事、世に並び無し。
其の児(ち)ご、初めて生るる時より、一指より光を放て、十里を照す。父母、此れを見て、歓喜する事限無し。此れに依て、児の名を「灯指」と付たり。
而る間、阿闍世王、此の事を聞て、勅して、「児を将来れ」と宣ふ。然れば、長者、児を抱て、王宮の門に詣づ。其の時に、児の指の光、王宮を照す。此れに依て、宮の内の諸物、皆金色と成ぬ。王、此れを怪で、「此れは何の光ぞ。忽ちに我が宮を照す。若し、仏1)の門に来り給へるか」と宣ひつ。人を門に出して見しむるに、使、此れを見て、還申さく、「此の光は、王の召す所の小児の参て、手の指より出す光也」と。王、此れを聞て、宮の内に召し入て、自から児の手を取て、奇異の思を成しぬ2)。
児を留めて、夜に至て、児を象に乗せて、前に立てて、王薗に入て見給ふに、児、指より光を放て、暗き夜を照して、昼の如し。王、此れを歓喜して、多の財を給て、家に還し遣しつ。
灯指、漸く長大する程に、父母亡じぬ。其の後、其の家漸く崩れて、財物、盗賊の為に奪はれぬ。又、庫蔵空く成り、眷属散り憂せ、妻子棄てて去ぬ。又、誰族3)皆絶ぬ。昔昵し人も、今は敵の如し。憑む所皆失て、寄り栖む方無し。衣裳無くして裸也。然れば、巷に行に、食を乞て世を過す。灯指、自ら思はく、「我れ、何なれば貧窮に成て、忽に此の如きの苦に値ふらむ。我れ、身を棄てむと思ふに、自から身を壊るに能はず」。
然れば、思ひ煩て、墓の辺に行て、屍骸を荷て、狂て王宮の門に入らむと為るに、守門の人有て、此れを打て入れず。身体、皆打壊られぬ。音を挙て叫び泣く事と限無し。屍骸を持て、家に返て、歎き悲む程に、此の屍骸、自然ら変じて、黄金と成ぬ。亦、暫く有て、屍骸破れて、頭手足と成ぬ。須臾の間、金の頭手足、地に満て、倉の内に積る事、前に勝たり。然れば、富貴、亦前に勝れぬ。其の時に、妻子・眷属、皆返来り。親友、本の如く随ぬ。其の時に、灯指、歓喜する事限無し。
阿闍世王、此の事を聞て、金の頭・手足を取らしめむと為るに、皆死人の頭手足と成ぬ。此れを棄れば、亦金と成ぬ。灯指、「王の此の金を得むと思す」と知りて、金の頭手足を以て、王に奉る。亦、諸の珍宝を多の人に施して、世を厭て、仏の御許に詣でて、出家して、羅漢と成れりと言へども、此の屍の宝、常に身に随て失せず。
比丘、此れを見て、仏に白して言さく、「灯指比丘、何の因縁を以て、指の光有るぞ。亦、何なる因縁を以って、貧窮に成り、亦何なる因縁を以て、屍の金と成て身に随るぞ」と。
仏、比丘に告て宣はく、「灯指、昔し、波羅奈国に生れて、長者の子と有りき。外に遊て、夜に至て家に返て、門を扣くに、人無くして答へず。良(やや)久くして、父母来て、門を開く。児至て、母を罵りき。母を罵し罪に依て、地獄に堕て苦を受る事無量也。地獄罪果て、今、人中に生たりと云へども、罪残り尽きずして、貧き苦を受く。亦、過去の九十一劫の時、毗婆尸仏の涅槃に入給て後、指灯大長者として、一の泥の像を見るに、一の指落たり。此の指を修治して、願を発して云く、『我れ、此の功徳に依て、人天に生れて、富貴を得む。亦、仏に値奉て、出家して、道を得む』と。仏の指を修治せしに依て、今指より光を放ち、及び屍の宝を得る也」と説給けり。
此れを以て思ふに、戯(たは)け言にも、父母をば罵るべからず。無量の罪を得る也。亦、戯にても、仏の相好の損じ欠け給へらむを見てば、必ず土を以ても、修治し奉るべし。無量の福を得る事、此の如しとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「成シヌ一本成シ在シマスニ作ル」
3) 底本頭注「誰族ハ親族カ」
巻2第13話 舎衛城叔離比丘尼語 第(十三)
今昔、天竺の舎衛城の中に、一人の長者有けり。家大きに富て、財宝豊なる事限無し。一人の女子を生ましめたり。其の形、端正にして、世に並び無し。
其の女子、初めて生れける時、細なる白畳(しろてづくり)に身を裹て生れたり。父母、此れを見て、名を立てて「叔離」と云ふ。
其の女、年漸く長大する程に、出家を求て、世を厭ふ。遂に「仏1)の御許に詣でて出家せむ」と申す。仏、「汝ぢ、善く来れり」と宣ふ時に、叔離、頭の髪、自然ら落て、着たる所の白畳は変じて、五衣と成ぬ。仏、叔離が為に法を説給ふ。法を聞て、即ち羅漢果を得たり。
阿難、来れを見て、仏に白して言さく、此の比丘尼、宿世に何なる福を殖て、富貴の家に生れ、初めて生るる時、白畳に身を裹て生れ、亦仏に値ひ奉て、疾く道を得るぞ」と。
仏、阿難に告げて宣はく、「昔し乃往過去の九十一劫の時、仏け、世に出給へりき。毗婆尸仏と申しき。其の時に一人の比丘有て、常に国の中の人民を勤めて、仏の御許に参らしめて、法を聞かしめ、布施を行ぜしめき。其の時に女人有りき。名を檀膩加と云ふ。極めて貧窮にして、夫を相具したりと云へども、夫妻の間に只一の畳有り。然れば、若し、夫、此れを着て出ぬれば、妻は裸にして家に有り。妻、此れを着て出ぬれば、夫は家に有り。其の時に、彼の比丘、此の家に至て、妻を勧めて云く、『仏の出世には値難し。経法は聞き難し。人身、亦得難し。汝ぢ、当に仏を見奉り、法を聞き、専らに布施を行ずべし』と。妻、答て云く、『我が夫、出たり。還り来なむに語て、布施を行ずべし』と。
其の時に、夫、還来れり。妻、夫に告て云く、『比丘、此に来て、布施の行を勤む。我れ、汝と共に布施せむと思ふ』と。夫、答て云く、『我が家、貧窮にして、其の心有るべしと云へども、何を以てか施せむ』と。妻の云く、『我等、先の世に施を行ぜざる故に、今の世に貧窮の身と生れたり。今、世に亦施せずば、後々の世、亦此の如き有らむ。汝ぢ、只我れを許せ。施を行ぜむと思ふ』と。夫、此れを聞て思はく、『我が妻は密に財物を貯たるにや有らむ。我れ、此れを許さむ』と。夫の云はく、『汝が心に任す。施すべき物有らば、速に布施を行ずべし』と。
妻の云く、『汝ぢ、身の上の垢畳を脱げ。其れを施せむと思ふ』と。夫の云く、『汝と我れとが中に、只此の一畳のみ有り。今、此れを施してば、何を以てか着物とせむ』と。妻の云く、汝ぢ我れ、貧窮にして、着物無しと云へども、此れを施しなば、後の世に必ず福を得む。汝ぢ、惜む心無かれ』と。夫、妻の言を聞て、其の心を感じて、喜ぶ事限り無くして、此れを許しつ。
然れば、妻、比丘に告て、内に呼び入て、畳を脱て授け与ふ。比丘の云く、『何ぞ、面(ま)のあたりに施さずして、内に呼び入て、密に施するぞ』と。妻の云く、『我等、夫妻の中に、只此の畳のみ有て、亦着替ふべき侘の着物無し。女の体、穢悪にして、醜にくし。然ば、面にて脱がざる也』と。比丘、此れを受け畢て、為に呪願して出ぬ。
即ち、比丘、仏の御許に此の畳を持至て、手に捧て、大衆に告て云く、『清浄なる布施、此の畳に過たるは無し』。其の時に、国王在まして、后と共に法を聞むが為に、仏の御許に詣でて、其の座に有り。此の比丘の言を聞て、后、即ち瓔珞と宝2)の衣とを脱て、彼の女の許に送り遣す。王、亦衣服を脱て送り遣す。
其の夫、亦法を聞むが為めに、仏の御許に詣たり。仏、為に法を説て聞かしめ給ふ。
昔し、彼の時の妻と云は、今の叔離比丘尼、此れ也。此の功徳に依りて、其より以来、九十一劫の間、悪道に堕ちずして、常に天上人中に生れて、富貴の報を得たる事此の如し。亦、我れに値て、道を得る也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「宝一本金ニ作ル」
巻2第14話 阿育王女子語 第(十四)
今昔、天竺に仏1)、阿難及び諸の比丘と共に、前後に囲遶せられて、王舎城に入て、乞食し給けり。
巷の中に至り給ふに、二人の小児有り。一人をば徳と云ひ、一人をば勝と云ふ。此の二人の小児、戯れに土を取て、家及び倉の形を造り、亦土を以て麨(こ)と名付て、倉の中に積み置く。此の如き為る程に、仏来り給ふ。此の二人の小児、仏の相好端厳にして、金色の光明を放ち、普く城門を照し給ふを見て、二人の小児、歓喜の心を発して、此の土を以て造れる倉の内の麨と名付くる土を取て、仏に供養し奉て、願を発して云く、「我等をして、将来に広く天地に供養を儲させ給へ」と。
其の後、此の二人の小児、終に命終して、此の善根に依て、仏涅槃に入て後、一百年に転輪聖王と生れて、閻浮提に有て、正法を以て世を治め、名をば阿育王と云ふ。仏の舎利を以て、閻浮提の内、八万四千の宝塔を造れり。其の王、誓の如く、心に任せて常に衆僧を宮の内に請じて供養す。
其の時に、王宮の内に一人の婢あり。身貧くして、下賤也。此の婢、王の善を修し給ふを見て思はく、「王は前身の時、善根を修し給へりけるに依て、今、転輪聖王と生れ給ふ事を得たり。今、亦重ねて善根を修し給ふ。将来の果報、亦此れに勝れむ。我れは、前身に罪を造て、今の貧窮下賤の身を受たり。今、亦修する所無くば、将来に弥よ賤からむ」と思て泣き悲む程に、此の婢、糞を掃へる中にして、一の銅の銭を見付たり。心に喜て、此の銭を以て、衆僧に施しつ。
其の後、久しからずして、婢、病を受て命終しぬ。即ち、阿育王の后の腹に宿ぬ。十月満て、一人の女子を生ぜり。其の形、端正にして、世に並び無し。其の女、常に右の手を把(にぎ)れり。
年五歳に成る程に、母后、王に申し給はく、「我が生ずる所の女子、常に右の手を把れり。我れ、其の故を知らず」と。王、女子を懐て、膝の上に居て、右の手を開て見給ふに、掌の中に、一の金の銭有り。王、此の銭を取り給て、掌の中を見るに、猶銭有り。怪で亦取れば、猶有り。此の如くして取るに随て、尽る事無し。然れば、須臾の間に、金の銭、倉に満ぬ。
王、此れを怪で、奢上座の許に女子を将行て、問て云く、「此の女、前身に何なる福を殖て、掌の中に金の銭有て、取るに尽る事無きぞ」と。上座、答へて云く、「此の女は、前身に王宮の婢也。糞を掃へる中にして、一の銅の銭を見付たり。心を発して、衆僧に施したりき。其の善根に依て、今、王の家に生れて、形端正にして、常に手に金の銭を把て、取るに尽る事無き也」と説き聞かしめけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第15話 須達長者蘇曼女十卵語 第(十五)
今昔、天竺の舎衛城の中に、一人の長者有り。須達と云ふ。最少の女子有り。名を蘇曼と云ふ。其の形、端正にして、世に並び無し。父の長者、此れを愛する事限無くして、他の子共に勝れたり。然れば、父、家を出でて行く時は、常に此の女子を離さずして、相具せり。
然るに、父の長者、祇洹精舎1)詣づるに、此の女子、相ひ具して参れり。女子、仏2)を見奉て、歓喜の心を成して思はく、「我れ、香を以て、仏の室に塗らむ」と思て、家に還て、種々の香を買て、祇洹精舎に持詣でて、自から香を搗き磨て、室に塗る。
其の時に、叉利国の王、没して、其の王子、此の国に来て、祇洹精舎に参れり。即ち、蘇曼女の、寺にして、自から香を搗き磨る、其の形端正なるを見て、忽に愛の心を発して、「婦と為む」と思て、波斯匿王の許に詣でて申さく、「蘇曼女を給はりて、我れ、婦と為むと思ふ」と。波斯匿王の云く、「君、自らかく語るべし。我れ、此れを勧めむに能はず」と。王子、王の言を聞て、本国に還て思はく、「我れ、謀て蘇曼女を取らむ」と。
後に眷属を発して、国に来て、蘇曼女の祇洹精舎に参れる時を伺て、王子、祇洹精舎に入て、象を引て、蘇曼女を乗せて、本国に還ぬ。須達、人を遣て尋ぬと云へども、返し遣(おこ)する事無くして、既に国に将至て、妻としつ。
其の後、蘇曼女、懐妊して、十の卵を生ぜり。卵、開けて、十人の男子を生ぜり。皆、其の形、端正にして、心武く力強し。
其の後、此の十人の男子、「仏、世に出て、舎衛国に在す」と聞て、父母に申して、舎衛国へ詣づ。先づ、外祖父の須達長者の家に至る。長者、此の外孫を見て、歓喜して、仏の御許に将至る。仏、為に法を説給ふ。十人の男子、法を聞て、皆須陀洹果を得つ。
阿難、此れを見て、仏に白して言さく、「此の比丘、宿世に何なる福を殖て、富貴の家に生れて、形端正也。亦、仏に値奉て、出家して、道を得るぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔し、乃往過去の九十一劫に、毗婆尸仏の涅槃に入給て後ち、舎利を分て、無量の塔を起たりき。其の時に、崩れ壊れたる塔有りき。一人の老母有て、此れを修治しき。而るに、十人年少の人有て、行き過ぎ此れを見て、共に修治し畢て、願を発して云く、『願くは、此の功徳に依て、当来世に、我等、常に母子兄弟と成て、同所に生れむ』と。其の時の老母と云は、今の蘇曼女、此れ也。其の時の年少の十人と云は、今の十子、此れ也。昔の善願に依て、其れより以来、九十一劫の間、悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に福を得、楽を受る也。亦、三の勝れたる報を得たり。一には、形、端正也。二には、人に愛せらる。三には、命長し。亦、今我に値ふ故に、出家して道を得る也」と説給ひけり。
此れを以て思ふに、塔を修治したる功徳、量無し。然れば、『僧祇律』に云く、「百千の金を擔ひ持て、布施を行ぜむよりは、如じ、一団の泥を以て、心を至して仏塔を修治すべし」となむ、語り伝へたるとや。
1) 祇園精舎に同じ。
2) 釈迦 
巻2第16話 天竺依焼香得口香語 第(十六)
今昔、天竺の辺土に住む人有けり。世に並び無く端正美麗なる女を妻として、年来を過す程に、其の国の王、上下を撰ばず、只端正美麗の女を求て、后とせむと為るに、国の内に宣旨を下して、東西南北に求るに、思の如なる女を求め得る事無し。
然れば、国王、思ひ歎き給ふ間に、一人の大臣有て申さく、「其の国、其の郷に、世の並び無く端正美麗なる女有り。速に彼を召て、后と立てられむに足れり」と。国王、此の事を聞給て、喜て宣旨を下して、彼の女の所に使を遣す。
使、宣旨を奉(うけたまはり)て、彼の家に尋行たるに、家主有て、使を見て、驚き怪で、問て云く、「此の所には、人来ざる所也。何人の、かく此れるぞ」と。使、答て云く、「我れは、此れ国王の御使也。汝が許に、端正美麗並び無き女、有なり。国王、此れを聞食して、其れを召す也。更に惜む心無くして、速に奉るべし」と。家の主、答て云く、「我れ、此の所に棲て、年来を経つるに、公の御為に犯す事無し。農業の営をも成さず、財宝の貯をも知らず。何の故有てか、我が妻を召し取るべき」と。使の云く、「汝ぢ、犯す所無しと云へども、既に王地に居たり。何ぞ、勅宣を背くべき」と云て、女を搦め取るが如して、将参りぬ。然れば、夫、泣々く別れを惜て、家を出でて去ぬ。
使、女を王宮に将参ぬれば、国王、此れを見給ふに、実に聞しにも増(まさり)て、目出たき事、世に並び無し。然れば、世の政も知らず、終夜、終日、愛し寵し給ふ事限無し。即ち、后と立給ひつ。
但し、「此の后、年来、田夫の妻として過つる心に1)、国王の后と成れり。定めて限無く喜び思ふらむ」と思給ふに、月日を経と云へども、更に心苦く、思(お)もひ知たる気色無し。然れば、国王、万づに付けて、誘(こしら)へ給ふと云へども、更に趣く気色無し。国王、思ひ煩ひ給て、種々の管絃を発して聞かしむと云へども、此れを聞ても愛でず、様々の歌舞を調へて見しむと云へども、咲はず。
然れば、国王、后に問て宣はく、「汝は民の王を得、毒蛇の宮に入れるが如とし。何ぞ、戯れ咲ふ事無きぞ」と。后、答て云く、「君は天下の主と在すと云へども、我が夫の下賤・野人なるには劣り給へり。其の故は、我が夫は、口の内の息の香ばしき事、旃檀・沈水の香を含めるが如し。君は然からず。此れに依りて、咲(をかし)からざる也」と。
国王、此れを聞て、「極て恥かし」と思ひ給ひ乍ら、只宣旨を下して、此の后の本の夫を求め奉るべき2)由、仰せ下されぬ。使、東西を求めて、既に尋得て、王宮に将参る。后、国王に申さく、「只今こそ、自らの本の夫、参るなれ。香しき香(かか)ゆ」と。国王、此れを聞て、待ち給ふ程に、即ち王宮に将参ぬれば、実に一里の間に、旃檀・沈水の香満たり。
国王、此の事を、「奇異也」と思給て、即ち仏3)の御許に参て、白して言さく、「何の故有てか、此の人、一里の間に旃檀・沈水の香満たるぞ。願くは、仏、此の故を説給へ」と。仏の宣はく、「此の人は、前世に木を伐る賤き人と有りき。木を擔て、山より出し間に、雨の降りしかば、道の辺に破壊したる寺の有しに、其の門にして、暫く杖を立てて息みし間、寺の内に一人の比丘有て、仏の御前にして、香を焼て経を読誦して居たりき。山人、此れを見て、一念に、『彼れが如くに、香を焼ばや』と思ひき。其の徳に依て、今生、口の内の息香くして、一里が内に満たる也。遂に仏を成るべし。名をば、『香身仏』と云ふべし」と、説給けり。国王、此れを聞て、心に随喜して、還り去にけり。
又、此れを以て思ふに、人の香を焼たる匂を香(かぎ)て、一念うらやみたる事そら、此の如し。何況や、遂に仏に成るべしと、授記し給けり。自ら心を至して、香を焼き、仏を供養し奉らむ功徳を思ひ遣るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「心ニ一本心字ナシ」
2) 底本頭注「奉一本来ニ作ル」
3) 釈迦
巻2第17話 迦毗羅城金色長者語 第(十七)
今昔、天竺の迦毗羅城の中に、一人の長者有り。其の家、大きに富て、財宝無量にして、称て計ふべからず。一人の男子を生ましめたり。其の児、身金色にして、端正なる事、世に比ひ無し。身の光明有て、城の内を照す。皆な金色と成れり。父母、此れを見て、歓喜する事限無し。此れに依て、其の児の名をば、「金色」と名付たり。
児、漸く長大にして、出家の心有て、父母に、「出家を許せ」と乞ふ。父母、此れを許す。即ち、仏の御許に詣でて、出家して、羅漢果を得たり。
比丘、此れを見て、仏1)に白して言さく、「金色比丘、前の世に、何なる福を殖て、福貴の家に生れて、身体金色にして、光を放ち、亦仏に値ひ奉て、出家して、疾く道を得るぞ」と。仏、比丘に告て宣はく、「昔し、乃往過去の九十一劫の時、毗婆尸仏の涅槃に入給て後、王有りき。槃頭末帝と云ひき。仏の舎利を取て、四宝を以て塔を起たりき。高さ一由旬也。此れを供養する時、一人の人有て、行て此れを見るに、塔少こし壊れたる所有り。此の人、此れを修治して、金の薄を買て、塔に加たりき。而も、願を発して去にき。其の塔を修治せし人は、今の金色此れ也。此の功徳に依て、其れより後、九十一劫の間、悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に身体金色にして、光を放ち、福貴無量にして、楽を受る也。亦、我れに値て、出家して、道を得る事此の如し」と説き給けり。
此れを以て思ふに、塔を修治する功徳量無し。然れば、瓶沙王、昔、迦葉仏の世に、九万三千の人を教て、塔を修治せしめき。修治し畢て、願を発しき。「我等、来世に常に共に同所に生れむ。命終しては、忉利天上に生れむ。釈迦の出世の時より下生せむ」と。
今、願の如く、瓶沙王、九千三百人と共に、悉く同国に生れて、共に仏所に詣づ。仏、為に法を説給ふ。法を聞て、皆、須陀洹果を得たりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第18話 金地国王詣仏所語 第(十八)
今昔、天竺の南の方に、金地国と云ふ国有り。其の国に王有りけり。名をば摩訶劫賓那と云ふ。其の王、聡明にして智(さとり)有り。強力にして心武し。国を治めて恣にす。四万六千の兵衆、熾盛に守て、敵の心を成す者無して、敢て恐るる事無し。
其の時に、仏1)、神力を以て、彼の王を仏所に来しめ給ふ。王、即ち、二万一千の小王を引将て、仏所に参れり。仏、為に法を説き給ふ。王、此れを聞て、皆、須陀洹果を得つ。其の後、「出家せむ」と申す。仏、此れを許し給ひつ。既に、出家し畢て、羅漢果を得つ。
阿難、此れを見て、仏に申して言さく、「金地国の王、宿世に何なる福を殖て、福貴の国の王と生れ、亦、功徳巍々として、一万八千の小王と共に仏に値奉て、出家して、道を得るぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「昔、迦葉仏の涅槃に入給て後、二人の長者有りき。塔を起て、衆僧を供養しき。其の塔、年久く成て、崩れ壊れたりき。其の時に一人の人有て、千八百人の下性2)の人を勧て、仕て其の塔を修治して、衣食床臥の具を以て、衆僧を供養して、道心に願を発して云く、『願くは、此の功徳を以て、当来世に福貴の所に生れ、亦、仏の出世に値て、法を聞て、勝果を得む』と。昔し、破たる故き塔を修治して、衆僧を供養せし人は、今の金地国の王、此れ也。其れより以来、悪道に堕ちずして、天上人中に生れて、常に福を得、楽を受る也。今、我れに値て、出家して道を得る也。亦、具する所の小王一万八千人、道を得る者も、皆、此れ往昔に其の塔を修治せし人也。此の果報に依て、皆、度脱を得る也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「性諸本姓ニ作ル」
巻2第19話 阿那律得天眼語第(十九)
1) 今昔、仏2)の御弟子に阿那律と申す比丘有り。仏の御父方の従弟也。此の人は天眼第一の御弟子也。三千大千世界を見る事、掌を見るが如し。
其の時に、阿難、仏に白して言さく、「阿那律、前世に何なる業有て、天眼第一なるぞ」と。
仏の宣はく、「阿那律、昔し、過去の九十一劫の時、毗婆尸仏の涅槃の後、盗人として、身甚だ貧かりしに、宝を納置たる一の塔有り。心の内に思ふ様ふ、『夜る、密に此の塔に入て、納置ける宝を盗取て、売て、命を継ぎ世を渡らむ』と思ひ得て、夜る、弓箭を持て、彼の塔に行て、相構て、戸を開て入ぬ。見れば、仏の御前に、御灯明有り。既に消ぬべし。明かに宝を見て盗むが為に、箭の彇(はず)を以て、灯明を挑ぐ。時に、仏の御形、金色にして、塔の内に耀き満たり。然れば、廻り見て、返て仏の御前に居て、掌を合せて観ずる様、『何なる人の宝を投て、仏を造り、塔を起(たつ)るぞ。我れも同じ人也。仏の物を盗取らむや。又、此の報を感じて、後の世に貧窮も増さるべき也』と思て、取らずして返ぬ。其の灯明を挑たる故に、九十一劫の間、善所に生れて、遂に我れに値て、出家して、果を証して、天眼を得たる也」と説給けり。
されば、心を発して、仏に灯明を奉らずと云へども、盗をせむが為に灯明を挑たる功徳、此の如し。況や、心を発して奉りたらむ功徳、思遣るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本の標題は「阿難那律」となっており、頭注に「難ハ衍字カ」とある。
2) 釈迦
巻2第20話 薄拘羅得善根語 第(二十)
今昔、天竺に仏1)の弟子に、薄拘羅尊者と云ふ人有けり。
其の過去の九十一劫の時、毗婆尸仏の涅槃に入給て後、一人の比丘有けり。常に頭を痛む。薄拘羅、其の時に、貧しき人として、彼の比丘を見て、哀て一の呵梨勒果を与ふ。比丘、此れを服して、頭の病愈(いえ)ぬ。
薄拘羅、病比丘に薬を施せるに依て、其の後九十一劫の間、天上人中に生れて、福を得、楽を受て、身に病有る事無し。
最後の身に、婆羅門の子と生れたり。其の母死て、父、更に妻を嫁げり。薄拘羅、年幼くして、継母の餅を作れるを見て、此れを乞ふ。継母、悪2)むで、薄拘羅を取て、𨫼(なべ)の上に擲(なげ)置く。𨫼、焼燋(やけこげ)たりと云へども、薄拘羅が身は焼る事無し。其の時に、父、外より来て、薄拘羅を見るに、熱𨫼の上に有り。父、此れを見て、驚て、抱き下しつ。
其の後、継母、弥よ瞋恚を増て、釜の煮たる中に薄拘羅を投入するるに、薄拘羅が身、焼け爛るる事無し。其の時に、父、薄拘羅が見えざるを怪で、求るに見えねば、此れを喚ぶに、釜の中にして答ふ。父、此れを見て、速(いそぎ)て抱き出しつ。薄拘羅が身、平復する事、本の如し。
其の後、亦、継母、大きに嗔て、深き河の辺に、薄拘羅と共に行て、薄拘羅を河の中に突入れつ。其の時に、河の底に大なる魚有て、即ち薄拘羅を呑つ。薄拘羅、福の縁有るが故に、魚の腹の中にして、猶死なず。其の時に、魚捕る人有て、此の河に臨て、魚を釣る間に、此の魚を釣得たり。「大なる魚、釣得たり」と喜て、即ち市に持行て売るに、買う人無して、暮に至て、魚臭(くさり)なむとす。
其の時に、薄拘羅が父、来会て、此の魚を見て買取て、妻の家に持行て、刀を以て腹を破らむと為るに、魚の中に声有り。「願くは、父、我れを害する事無かれ」と。父、此れを聞て、驚て、魚の腹を開き見るに、薄拘羅有り。抱て出しつ。身に損無し。
其の後、漸く長大して、仏の御許に詣でて、出家して、羅漢果を得て、三明六通を具せり。御弟子と成り、年百六十に至るに、身に病有る事無し。此れ、皆前生に薬を施たる故也とぞ、仏、説き給けるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡 
 

 

巻2第21話 天人聞法得法眼浄語 第(廿一)
今昔、仏1)、祇洹精舎2)に在ける時に、一人の天人、来下たり。
仏、此の天人を見給て、四諦の法を説て聞かしめ給ふ。天人、此の法を聞くに依て、忽に法眼浄を得たり。
其の時に、阿難、仏に白して言さく、「何の故有て、此の天人に四諦の法を説聞かしめ給て、法眼浄を得しめ給ふぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「此の天人は、須達長者、此の精舎を造りし間に、一人の奴婢を以て、寺の庭を払はしめ、道路を掃治せしめき。其の善根に依て、奴婢、死して、忉利天に生れぬ。此の天人は、彼の奴婢也。此の故に、来り下て、我れを見、法を聞て、法眼浄を得る也」と説給けり。
然れば、発さずして、人の言に随て、寺の庭を掃治したる功徳、既に此の如し。何況や、自心を専にして、寺の庭を掃治したらむ人の功徳、思遣るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 祇園精舎
巻2第22話 常具天蓋人語 第(廿二)
今昔、天竺に一人の人有り。其人の上に、常に天蓋有り。諸の人、此れを見て、奇異の思を成して、而も仏1)に問ひ奉て云く、「此の人、何なる業有てか、常に其の上に天蓋有るぞ」と。
仏、説て宣はく、「此の人は、前生に貧しき家に生れて、下賤の人と有りき。世を過し命を助けむが為に、路辺に住して有りし時、雨降しに、其の前より、人、雨に湿(ぬれ)て過ぎ行く。其の人を留めて、旧く破たる笠を与たりき。其れに依て、其の人、濡れずして過ぬ。其の功徳に依て、今生に常に天蓋を具せる果報を得たる也」と説給けり。
此れを思ふに、善き笠を以て、僧に供養せらむ功徳、思遣るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第23話 樹提伽長者福報語 第(廿三)
今昔、天竺の国王の宮の前に、大なる事車輪の如なる、花及び手巾、自然ら降る。国王、此れを見て、諸の大臣・公卿と共に喜て云く、「此れは、天の此の国を感じ給て、天の花・天の手巾を降し給也」と、喜び合たり。
其(そこ)に、其の国に一人の長者有り。樹提伽と云ふ。此の人、此の事を喜ばず。然れば、国王、問て云く、「何ぞ、此の事を見て、汝一人、喜ばざるぞ」と。長者、答て云く、「此の花は、我が家の後の薗に多く開け栄(さき)たる花の中に、落て萎たるを、自然ら風の吹き持来たる也。又、宝の手巾多かるが、中に下劣なるを、自然ら風の吹き来れる也」と。此れを聞て、国王より始め、大臣・公卿、奇異の思を成す。
此れに依りて、国王・大臣・公卿・百官を引将て、樹提伽長者の家に行て、「此の如きの不思議の事を見む」と思て、先づ長者に云く、「汝ぢ、前立て、家に行くべし。我れ、汝が家に行くべし。其の儲を営むべき也」と。長者の云く、「我が家には、衣服・財宝・宮殿等、皆自然ら有る事也。更に前立て御儲を営むべからず」と。国王、此れを聞て、弥よ「奇異也」と思給ふ事限無し。
かくて、国王、長者の家に行て見れば、門の外に四人の女有り。端正美麗なる事限無し。国王、問て云はく、「汝は誰人ぞ」と。女の云く、「我は、此れ外門を守る奴婢也」と。此の如くして、三重の門を過て、庭の中に至て見るに、水銀を以て地に敷たりければ、国王、此れを「水ぞ」と思給て、「水には何でか下むと為(す)」と思て、入給はず。然れば、長者、「此れは水銀を地に敷て候が、水と見ゆる也」と申して、前立て入る。然れば、国王も共に入給ぬ。
其の時に、長者の妻、国王の入給ふを見て、百廿重の金銀の帳の中より出でて、泣涕す。「国王の来給を見て、喜て哭(なく)なめり」と思ふに、早う、烟の気に堪へずして哭く也けり。
かくて、自然(おのづから)の飲食を以て、大王并に若干の人に食はしむ。夜は光る玉を懸て、灯を為ず。只、自然に光り有り。
而る間、国王、長者の家を巡り見給ふ程に、自然ら数日を経ぬ。然れば、王宮より使来て、還御の遅き事を奏す。此れに依て、国王、速く還り給はむと為るに、長者、庫倉を開て、多の財宝を取出て、国王に与へ奉る。
国王、此れを得て、宮に還て、大臣・公卿と議して云く、「樹提伽は此れ我が国の臣也。何ぞ、皆悉く我れに勝れたるぞ。然れば、長者を罸つべき也」と定めて、四十万人の軍を発して、長者の家を囲む時に、長者の家を守る一の力士有り。軍の来るを見て、忽に出来て、鉄の桙を持て、四十万の官兵を罸つ。軍さ、悉く皆罸伏せられて、倒れ臥しぬ。
其の時、樹提伽、宝車に乗て、空より飛来て、軍に問て云く、「汝等の軍は、何の故に我が家には此れるぞ」と。軍等、答て云く、「我等、大王の勅命に依て来れる也」と。長者、来れを聞て、哀(あはれび)の心を成す。此れに依て、力士、多の軍を皆本の如く平復せしめて、宮に返て、大王に此の由を申す。
其の時に、大王、長者の神徳を聞て、使を遣て、長者を喚て、其の咎を謝して云く、「我れ、汝が徳を知らずして、愚に汝を罸せむとしけり。願くは、此の咎を免し給へ」と宣て、国王、長者と共に宝車に乗て、仏1)の御許に詣でて、大王、仏に白して言さく、「樹提伽、前世に何なる善根を殖て、此の如きの果報を得たるぞ」と。
仏の説て宣はく、「樹提伽は前世の布施の功徳に依て、此の報を得たる也。前世に五百の商人と共に、諸の財を以て山を通りき。山の中に一人の病人有りき。此の人、此れを哀て、忽に草の庵を造りて、床を敷き、食を与へ、灯を明して、養育しき。其の功徳に依て、今、樹提伽、此の報を得たり。其の時の布施の功徳の人は、今の樹提伽長者也」と説給ければ、国王、此れを聞て、「貴し」と思て返にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第24話 波斯匿王娘善光女語 第(廿四)
今昔、舎衛国の波斯匿王に一人の娘有り。善光女と云ふ。端正美麗なる事、世に並び無し。辺り光り耀やく。此れに依て、父の王・母の后、傅(かしづ)き敬ふ事限無し。
王、此れを愛し悲む思ひ切なるに依て、善光女に語て云く、「我れ、汝を強ちに傅き敬ふ。此れをば思ひ知りたりや」と。善光女の云く、「我れ、更に其れを喜ばず。善悪の報、皆前の世の宿世也。然れば、此の如きの身とも生れたる也」と。
王、此の語を聞て、大に嗔を成して云く、「汝ぢ、善悪の報、皆宿世ならば、我れ、今より汝を傅き敬ふ事非じ。速に王宮を出て、他所へ行くべし」と云て、一人の乞丐人有り。形貌醜くして、人に似ず。此れを召して、王の云く、「此れは我が娘也。今日より此れを得て、汝が妻と為すべし。傅き敬ふも前の世の宿世也と云へば、汝が妻と成るも亦、前の世の宿世也」と云て、善光女を乞丐人に与へつ。
乞丐人、善光女を得て、「奇異の事也」と思へども、王の仰に随て、相具して王宮を出ぬ。既に夫妻と成たれば、二人共に、遥に知らざる所に行て、夫の思ふ様、「我れ、年来、乞丐人として世を渡つるに、独なればこそ、当る所を以て宿として過つれ、今、かく大王の御娘を給はりて、何でか当る垣辺などには寄伏さむ」と思ひ歎く程に、善光女、夫に云く、「汝ぢ、父母は有か」と。夫の云く、「父母有りしかども、皆死て、相知れる人も無し。然れば、寄付く方無て、かかる乞丐をば為る也」と。善光女の云く、「汝が父母をば、誰とか云ひし」と。夫の云く、「我れは、此の隣の国に有し、第一の長者の一子也。長者と云へども、世に並び無かりき。栖かも大王の宮に異らざりき」と。善光女の云く、「汝ぢ、其の住けむ家の所は知れりや」と。夫の云く、「其の所、我れ知れり。荒野と成て、跡は今日1)に有り。更に忘るべき非ず」と。然らば、我を具して、其の所へ将行くべし」と。
然れば、夫、善光女を具して、其の所へ将行ぬ。善光女、見れば、四面の築垣の跡、遥に遠く広くして、其の内に様々の屋共の跡の礎多くして、「実に、並び無かりける長者也けり」と見ゆ。其の跡に草の庵を造て、二人居ぬ。
然る間、善光女、見れば、蔵町の跡と思しき所に当て、金銀等の七宝の埋れたる光り、土の内に耀く。此れを見怪むで、人を雇て、其の所を掘て見れば、金銀等の宝を掘出る事、無量無辺也。其の後、其の宝を以て、日を重ねて、大に富ぬ。然れば、自然らに眷属多く来集り、牛馬員(かず)知らず出来て、様々の屋共も、本の如く造り重ねて、其の飭り厳重なる事限無し。父の大王の有様に劣らず。然れば、自然に夫の乞丐も形貌端正に成ぬ。
かくて、父の大王は、善光女を乞丐に与へて、王宮を追出し事を、哀れに思ひ出して、人を遣て尋ねしめ給ふに、王の使、其の所に尋至て見るに、大王の宮に異らず。使、驚き怪むで、宮に返て、大王に此の由を申す。
王、此の事を聞給て、奇異の思を成して、即ち、王、仏2)の御許に詣て、仏に白して言さく、「善光女、何なれば、王の家に生れて、身に光明有り。又、王宮を追出して、乞丐人に具せしめたりと云へども、福衰へずして、栖か大王の宮の如く也」と。
仏、王に告て宣はく、「汝ぢ、善く聴け。此の善光女は、昔し、過去の九十一劫の時、毗婆尸仏涅槃に入給て後、槃頭末王と云ふ王有りき。七宝を以て塔を立て、仏の舎利を安置し奉りき。其の王の后、又我が天冠の中に如意宝珠を入れて、其の塔に納め置き。誓て云く、『我れ、此の功徳に依て、生れむ所には、中夭に会はず、三途八難を離れむ』と。此れに依て、昔の后は今の善光女、此れ也。誓に依て、王の家に生れて、身に光り有り。王宮を追出したれども、福衰へざる也。昔の槃頭末王は、今の善光女が夫也。先世の契り深くして、今、妻と成て此の如きの報を得たる也」と。
波斯匿王、かく仏の説き給ふを聞て、礼拝恭敬して、宮に帰ぬ。王の思はく、「善光女の云し如くに、実に善悪の果報、皆先世の宿世也」と知ぬ。然れば、王、善光女の栖かに行て見るに、実に王宮に異らず。其の後は、互に行き通ひて、各目出(めでた)くてぞ過ぎけるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「今日一本今ニ作ル」
2) 釈迦
巻2第25話 波羅奈国大臣願子語 第(廿五)
今昔、天竺の波羅奈国に、一人の大臣有り。家大きに富て、財宝豊か也。
而るに、此の人、子有る事無し。此れに依て、昼夜朝暮に子無き事を歎き悲むと云へども、子を儲る事無し。
其の国に一の社有り。摩尼抜陀天と云ふ。国の内の人、挙りて詣て、心に願ふ事を祈り申す社也。大臣、子無き事を思ひ悩びて、其の社に詣て、白して言さく、「我れ、子有る事無し。1)願くは、天、我が願を満給へ。若し、子を給へらば、金銀等の宝を以て、天の宮を荘厳し、又香き香薬を以て、御身に塗るべし。又、子を給はずば、此の社を壊ちて、厠の内に投入む」と、誠の心を致して礼拝して申す。
其の時に、天神、聞驚て、此の人の為に子を求む。此の大臣は、極て止事無人の、家限無く富めり。其の家に子を成て生るべき人を求むるに、更に求得難し。求め煩ひて、毗沙門天2)の御許に詣でて、此の由を申す。毗沙門天の宣はく、「我れ、力堪へず。□大臣の子と成るべき人、求得難し。然れば、帝釈宮に申すべき也」とて、忽ち忉利天に登て、毘沙門、帝釈に申給はく、「閻浮提の波羅奈国に、一人の大臣有り。子無きに依て、子を願が為に、摩尼抜陀天に祈る。天神、子を給に能はずして、毗沙門天の所に来て申す。天王、又求め得る事能はずして、帝釈に申也」。
帝釈、此の申す所の事を次第に具に聞給て、既に五衰現はれて死なむと為る天人を見給て、召て宣ふ様、「汝ぢ、既に命終なむとす。彼の大臣の子と成て、願を満てよ」と。天人、答て云く、「彼の大臣は、富並無き人也。彼の家に生なば、楽に耽て、道心失なむ」と。帝釈の宣はく、「彼の家に生れたりとも、我れ、助けて道心を失はせじ」と。天人、帝釈の強て勧め給ふに依て、大臣の家に生ず。
大臣、形、仏の如くなる男子を儲て、喜こと限無し。名をば□□□と名たり。父母、手に捧て養ひ傅く間、漸く勢長しぬ。道心、殊に深くして、父母に申さく、「我に出家を免し給へ。此れ、本の深き心也」と。父母、此の事を聞て、答て云く、「我れ、又子無し。汝ぢ、只一人也。家を継が為に、出家3)免すべからず」と。
爰に□□□、弥よ道心深くして、思はく、「我れ、早く死て、道心の家に生て、本意の如く仏の道に入らむに如かじ。此の身を捨てて、早く死なむには」と思ひ得て、密に親の家を出て、山に入て、遥に高き巌の上に登て身を投るに、底に落たりと云へども、身に疵無くして、痛き所無し。又、大なる河の辺に行て、深き淵の底に落入りぬ。然れども、死ぬる事無し。又、毒を取て食に、毒気に身を犯されず。
此の如く、様々に死なむと為るに、身破る事無し。然れば思はく、「我れ、公の物を盗取らむ。然らば、事顕はれて、殺されなむ」と思て、阿闍世王の諸の采女を引将て、薗池の辺に行て、遊戯する所に行て、□□□、密に薗の内に入て、此の采女の脱ぎ散し置たる、厳(かざ)れる衣を懐き取て出る時に、守護の人、此を見て、□□□を捕へて、王の前に将行て、此の由を申す。
王、大に忿て、弓を取て、自ら□□□を射る。其の箭、□□□の身に当らずして、更に返て、王の方に向て落つ。此の如く、三度射るに、度毎に、箭、王の方に向て落つ。其の時に、王、恐怖(おぢおそれ)て、弓箭を捨てて、□□□に問て云く、「汝は此れ天龍か、鬼神か」と。□□□の云く、「我れ、天龍に非ず、鬼神に非ず、波羅奈国の輔相の大臣の子也。出家の志有に依て、父母に出家を乞に、敢て免す事無し。然れば、思はく、『速に死て、道心の家に生れて、本意を遂むには如じ』と思て、始は巌に登て身を投げ、深き河に沈み、次には毒を呑に死なず。今は思はく、『王法を犯さば、速に殺されなむ』と思て、取れる所の衣也」と陳ぶ。王、此の事を聞て、悲びの心深くして、速に出家を免す。
仍て、王、又仏4)の御許に将詣て、具に此の由を申す。仏、□□□、出家せしめ給て、勤行して阿羅漢と成ぬ。阿闍世王、仏に白て言さく、「□□□、何なる福を殖て、巌に身を投げ、水に沈み、毒を食ひ、箭を放つに、皆身破られず、又、世尊に参遇て、速く徳を得るぞ」と。
仏、王に告て宣はく、「汝ぢ、善く聞け、乃往過去の無量劫の中に、一の国有りき。波羅奈国と云き。其の国に王有き。名をば法摩達と云き。其の王、諸の官人を引将て、林の中に遊戯しき。諸の采女共有て、妓楽・歌詠しき。歌詠せしが中に、一人の高き音有て、此れに交ふ。王、此の音を聞て、大に忿て、此の人を捕へしめて、使を遣て、此を殺さしめむとす。
其の時に、一人の大臣有り。今、外より来て、此の人の捕らへられたるを見て云く、『此れ、何に依てぞ』と。諸の人、此の故を答ふ。大臣、聞畢て、王に申て申さく、『此の人の罪犯、重からず。然れば、其の命を亡ぼし給ふ事無かれ』と。爰に、王、此の人を免して、命を亡ぼす事を止つ。既に、大臣の為に、死を遁るる事を得つ。此れに依て、其の後、大臣に仕へて、数の年月を経ぬ。
其の人、自ら思はく、『我れ、善く欲の心深くして、采女の音に高き音を加たり。既に、□□□の為に害せられぬべかりき。此れ、欲の為也」。此の由を大臣に申て、『出家せむ』と乞ふ。大臣、答へて云く、『我れ、汝に違はじ。速に本意の如く出家して、仏道に入て、法を学びよ。若し、返り来らば、我を見よ』と。
即ち、此の人、山に入て、専に妙理を思て、正法を修習して、辟支仏と成、城に返り来て、大臣に見ゆ。大臣、又見畢て、大きに歓喜して供養す。此の辟支仏、虚空に昇て、十八変を現ず。大臣、此を見て、誓願して云く、『我が恩に依るが故に、命を免る事を得つ。我れ、生々世々に福徳長命殊勝にして、世々に広く衆生を度せむ事、仏の如くならむ』と誓ひき。
彼の時の大臣、一人の人の命を助けて、遁るる事を得しめたるは、今の□□□此れ也。此の因縁に依て、生るる所には中夭に当らず、法を学びて、速く道を得る也」と説き給ふ也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本、以下欠文。底本付録「本文補遺」の鈴鹿本により補う。なお、底本の巻25はここで終っている。
2) 毘沙門天
3) 底本「家」なし。文意によって補う。
4) 釈迦 
巻2第26話 前生持不殺生戒人生二国王語 第(廿六)
今昔、天竺に国王有り。子有る事無し。然れば、仏神に祈請して、子を儲けむ事を願ふ程に、后懐妊しぬ。月満て子を生ぜり。端厳美麗なる男子也。国王、喜ぶ事限無くして、傅き養ふ程に、国王の御行有り。后・皇子も皆相具せり。
大なる河を渡る間、此の生たる皇子を取りはづして、此の河に落し入つ。国王より始て、騒ぎ求と云へども、底ゐも知らず深き河なれば、求め出すべき様も無し。国王、哭(な)き悲むと云へども、甲斐無くて、都に返りぬ。惣て思ひ止む時も無く、恋ひ悲び歎く事並無し。
さて、此の皇子は、落入りける即ち、大なる魚呑てけり。呑ままに、魚、深き河の底より、下ざまに遥に走り下りぬ。さて、隣国の境の内に入ぬ。其の国の人、漁捕する所に行き会て、捕れぬ。「大なる魚得たり」と喜て、即ち俎に魚を置て、作らむとす。先づ、腹を割に、腹の中に音有て云く、「此の腹の中に我れ有り。刀深く入れて割くべからず。心知らひて割くべし」と。魚作る者、此の音を聞て、驚き怪て、傍の人々に此の事を告て、心しらひて剥ぎ開て、押し開きて見れば、端正美麗なる男子、丸び出たり。見る者、奇異の思を成すと云へども、端正なるに依て、喜乍ら懐き上げて、湯を沐して見るに、只人と見えず。其の邑の者、有限り来り集て、見騒ぐ事限無し。
然る間だ、其の国の王、此の事を伝へ聞て、児(ちご)を召して見るに、端厳美麗比なし。国王、自ら思はく、「我れ、子無くして、位を継ぐべき様無し。然れば、仏神に祈請して、子を儲けむ事を願ひつるに、今、我が国(く)にの内に、かかる者出来れり。定めて知ぬ、此れ我が位を継が為に、仏神の給たる者也。況や、者の体を見るに、更に只者に非ず」と喜て、忽ちに御子の宮に立て、傅く事並無し。
さて、彼の子を流してし国の王、此の事を自然(おのづから)に伝へ聞て思はく、「其れは、定めて我が子なるらむ。河に落て入けるままに、魚の呑てける也」と思て、其の王の許に、此の由を云て、乞に遣る。今の王、答て云く、「此れ、天道の給へる子也。更に遣るべからず」と。
此の如く云つつ、互に諍ふ程に、隣国に止事無き大王在ます。二の国、共に此の大王に随へり。此に依て、二国の王、共に其の大王に訴へて、「彼の御定めに依るべし」と云ふ。大王、定めて云く、「二の国の王の各訴ふる所、皆理也。然れば、一人の王得べしとは定難し。只、二の国の境に、一の城を造て、其の城に此の御子を居へて、二人の王、各国の太子として、皆祖(おや)にて、養ひ傅くべし」と。
二人の国王、此の事を聞て、共に「然るべし」と喜て、定のままに、共に我が国の太子として、各傅き護りけり。後に、二の国(く)にの王に即て、二国を領知しけり。
仏け1)、此の事を見給て、説て宣はく、「此の人、前の世に人と生れて有し時き、『五戒を持(たも)たむ』と思ひき。然而、五戒をば持たずして、只、不殺生の一戒を持てるに依て、今、中夭に値はずして、命を持つ事を得て、終に二の国の王と成て、二の父の財宝を伝る也」と。「何況や、五戒を持たむ人の福徳、限無し」となむ説き給けるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第27話 天竺神為鳩留長者降甘露語 第(廿七)
今昔、天竺に一人の長者有り。鳩留と云ふ。五百人の商人を引き具して、商の為に遠き国に行く間、途中にして粮尽て、皆疲れ臥ぬ。長者、思ひ煩ひて、見廻すに、遥に人の栖(すみ)か離たる所也。
山辺に盛なる林有り。「若し、人郷か」と思ひて、近く寄て見れば、人郷には非で、神の社也。寄て社を見れば、神在ます。長者、神に申て云く、「我れ、五百人の人を引具して、遠き道を行く間、粮尽て、既に餓死なむとす。神、慈悲を以て我れを助け給へ」。
其の時に、神、手を指し述べて、指の崎(さき)より甘露を降す。長者、其の甘露を受て服するに、忽に餓への苦び皆止て、楽しき心に成ぬ。
其の時に、長者、又神に申さく、「我れ、甘露を服して、餓の心皆止にたり。然れども、其の具したる五百人の商人、同じく餓臥して、皆死なむとす。彼等が苦びを助け給へ」と。神、又五百人の商人等を召て、手より甘露を降らしめて、各皆服せしめ給ふ。
商人等、甘露を服して、皆餓の心止て、本の如く力付て、道心に神に白て言さく、「神、何なる果報在まして、手より甘露を降らしめ給ふぞ」と。神、答て宣はく、「我れ、昔、迦葉仏の世に人と生れて、鏡を磨て、世を過す人と有りき。而に、乞食の沙門、道に遇て、『何れか富める家』と問ひしに、我れ、手を以て富人の家を、『彼の富める家』と指を差て教たりき。其の果報に依て、今、手より甘露を降す報を得たる也」と。鳩留、此の事を聞畢て、歓喜して、家に返ぬ。其の後、千人の僧を請じて供養しけり。
此れ、仏1)在世の時の事也。仏、此の如くなむ説給けるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第28話 流離王殺釈種語 第(廿八)
今昔、天竺の迦毗羅衛国は仏1)の生れ給へる国也。仏の御類、皆な其の国に有り。此をば釈種と名けて、其の国に勝れて家高き人と為る此れ也。惣て五天竺の中には、迦毗羅衛国の釈種を以て、止事無き人とす。
其の中に、釈摩男と云ふ人有り。国の長者として、智恵明了なる事限無し。然れば、此の人を以て、国の師として、諸の人、物を習ふ。
其の時に、舎衛国の波斯匿王、数(あまた)の后有りと云へども、「迦毗羅衛国の釈種を以て后と為む」と思て、迦毗羅衛国の王の許に使を遣て云く、「此の国に、数の后有りと云へども、皆下劣の輩也。釈種一人を給はりて、后と為む」と。
迦毗羅衛国の王、此の事を聞て、諸の大臣及び賢き人を集めて、議して云く、「舎衛国の波斯匿王、『迦毗羅衛国の釈種を得て后と為む』と申たり。彼の国は、此の国よりは下劣の国なり。譬ひ、后に為むと云ふとも、何でか其の国へ遣らむ。然れども、遣らずば、彼国威勢有る所なれば、来て責むに、更に堪ふべきに非ず」と議し、定め煩ふ程に、一人の賢き大臣の云く、「釈摩男の家の奴婢、某丸が娘、形貌端正也。其を釈種と名付けて遣さむに、何ぞ」と。大王より始め、諸の大臣、「此れ吉き事也」と定し。仍て彼の奴婢の娘を荘(かざ)り立てて、「此れ釈種」と云て、遣しつ。
波斯匿王、此を受け取て見るに、端正美麗なる事限無し。其の国の数の后を校(たくら)ぶるに、此は当るべきに非ず。然れば、王、此を傅く事限無し。名をば末利夫人と云ふ。
かかる程に、二人の子を生ず。其の子、八歳に成るに、心聡敏なれば、「迦毗羅衛国は母后の本の国なれば睦じ。又、智恵も他国に勝れたり。其の中に、釈摩男と云ふ者有なり。智恵明了にして、福徳殊勝也。聞けば、瓦石も彼れが手に入れば、金銭と成るなり。然れば、国王の大長者と成し、又、国の師として、諸の釈種、此れに随て、物を習ふ。国には、此彼れと等しき者無し。又、汝も同じ釈種なれば、行て彼れに習ふべき也」と云て、出し立て遣る。大臣の子の、同程なるを副へて遣す。
彼の国に行き至て見ば、城の中に一の新く大なる堂有り。其の内に、釈摩男が座、横さまに高く立たり。其の向に、諸の釈種の物習ふ座を立たり。去て、釈種に非ぬ諸の人の物習ふ座を立並べたり。
其の時に、波斯匿王の子、名をば流離太子2)と云ふ、釈種座に、「我れも釈種也」と思て登ぬ。諸の人、此を見て云く、「彼の座は、諸の釈種の、大師釈摩男に向て物習ひ給ふ座也。君は波斯匿王の太子也と云へども、此の国の奴婢の娘の子也。何でか、忝く此の座を穢すべき3)」と云て、追下しつ。
流離太子、「此れ極たる恥也」と思ひ歎て、此の具したる大臣の子に語て云く、「此の座より追ひ下されぬる事、本の国に更に聞かしむべからず。我れ、若し本国の王と成む時、此の諸の釈種を罸(う)つべき也。其の前に、此の事、口の外に出だすべからず」と契り固めて、本国に返ぬ。
其の後、波斯匿王死ぬ。流離太子、国の王に即ぬ。此の具たりし大臣の子、大臣に成ぬ。名をば好苦と云ふ。流離王、好苦に相語て云く、「昔し、迦毗羅衛国にして語ひし所の事、今に不□□。今、釈種を罸ちに、彼の国に行向ふべき也」と云て、国の兵、数知らず発して、迦毗羅衛国に行向ふ。
其の時に、目連、此の事を聞て、仏の御許に怱ぎ参て言さく、「舎衛国の流離王、釈種を殺(ころさ)せむが為に、数知らぬ兵を具して、此の国に超へ来る。多の釈種は皆殺されなむとす」と。仏の宣はく、「殺さるべき果報をば、何が為む。我れ力及ばず」とて、仏、流離王の来らむと為る跡辺に行向て、枯たる樹の下に坐給へり。
流離王、軍を引将て、迦毗羅城に入らむと為るに、遥に仏の独り坐給へるを見奉りて、車より怱ぎ下て、礼して、仏に白して言さく、「仏、何の故に、枯たる樹の下に坐給へるぞ」と。仏の宣はく、「釈種の亡すべければ、其れに依て、かかる枯たる樹の下に坐する也」と。流離王、仏の此の如く宣ふに憚て、軍を引て、本国に返ぬ。仏も霊鷲山に返り給ぬ。
其の後、程を経て、□苦梵、流離王に申さく、「尚此の釈種を罸たるべき也」と。王、此の事を聞て、更に兵を集めて、本の如く迦毗羅城に趣く。
其の時に、目連、仏の御許に詣て言さく、「流離王の軍、又来べし。我れ、今、流離王及び、四種の兵を、他方世界の擲(な)げ着む」と。仏の宣はく、「汝ぢ、釈種の宿世の報をば、豈に他方世界に擲げ着むや」。目連の云く、「実に宿世の報をば、他方世界に擲に堪へず」と。目連、又、仏に白て言さく、「我れ、今、迦毗羅城を移して、虚空の中に着む」と。仏の宣はく、「釈種の宿世の報をば、虚空の中に着むや」。目連の云く、「宿世の報をば、虚空に着むに堪へず」と。又、言さく、「我れ、鉄の籠を以て、迦毗羅の上に覆はむ」と。仏の宣はく、「□□の報、豈に鉄の籠に覆はれむや」。目連の申さく、「宿世の報をば、□□堪へず」。又申さく、「我れ、釈種を取て、鉢に乗せて、虚空に隠さむに何ぞ」と。仏の宣はく、「宿世の報をば、虚空に隠すとも、遁れ難からむ」とて、御頭を痛(や)むで、臥給へり。
流離王及び、四種の兵、迦毗羅城に入る時に、諸の釈種、城を固めて、弓箭を以て、流離王の軍を射る。流離王の軍、釈種の箭に当らずと云ふ事無し。皆倒れ臥しぬ。然れども、死ぬる事は無し。此に依て、流離王の軍、憚を成して、責め寄る事無し。
時に好苦梵志、流離王に申さく、「釈種は皆兵の道に極たりと云へども、戒を持てる者なれば、虫をそら害さず。況や、人を殺す事をや。然れば、実には射ざる也。仍て、憚らず責むべし」と。軍、此の語を聞て、憚らず責め寄る時に、釈種防ぐ事無くして、皆引て、城の内に入る。其の時に、流離王、城の外に在て云く、「汝等、速に城の門を開け。若開かず、数□尽して殺すべし」と。
時に迦毗羅城の中に、一人の釈種の童子有り。年十五也。名をば奢摩と云ふ。流離王の城の外に在を聞て、鎧を着、弓箭を以て、城の上に至て、独り流離王と戦ふ。童子、多の人を殺して、皆馳散じて逃ぬ。王、恐るる事限無し。諸の釈種は、此を聞て、奢摩を呼て云く、「汝ぢ、年少し。何の故に、我等が門徒に背ぞ。知らずや、釈種は善法を修行して、一の虫をだに殺さず。何況や人をや。此故に、汝ぢ、速に出去ね」と。此に依て、奢摩、即ち城を出て去ぬ。
流離王は、尚、門の中に在て、「速に開くべし」と云ふ。其の時に、一の魔有て、釈種の形と成て云く、「汝等□□、速に城門を開け。戦□□無かれ」と。然れば、釈種、城門□□□の時に、流離王云く、「此の釈種、極て多し。刀釼を□□害せむに能はず。馬を以て踏殺さしむべし」と群臣に仰せて踏殺させつ。
王、又群臣に云く、「面貌端正ならむ釈種の女、五百人を撰て将来べし」と。群臣、王の仰に依て、端正の五百人の女人を王の所に将詣たり。王、釈女に云く、「汝等、恐れ歎く事無かれ。我れは此れ汝等が夫也。汝等は此れ我が妻也」と云て、一人の端正の釈女に向て、挊(まさぐ)る時に、女の云く、「大王、此れ何事に依てぞ」と。王の云く、「汝と通ぜむと欲(おもふ)ぞ」と。女の云く、「我れ、今、何の故にか、釈種として奴婢の生ぜる王と通ぜむ」と。時に、王、大に瞋恚を発して、群臣に仰せて、此の女の手足を切て、深き坑の中に着つ。又、五百人の釈女、皆、王を罵て云く、「誰か奴婢の生ぜる王と交通せむや」と。王、弥よ嗔て、悉く五百人の釈女の手足を切て、深き坑の中に着つ。
其の時に、摩訶男、王に向て云く、「我が願に随ひ給へ」と。王の云く、「何事を思ふぞ」と。摩訶男の云く、「我れ水4)の底に没(しづ)まむ。我が遅疾に随て、諸の釈種を放て、逃し給へ」と。王の云く、「願ひに随ふべし」と。
摩訶男、水の底に入て、頭の髪を樹の根に繋て死ぬ。其の時に、城の中の諸の釈種、或は、東門より出て、南門より入る、或は南門より出でて、北門より入る。時に、王、群臣に云く、「何の故に、摩訶男、水の中に有て出ざるぞ」と。群臣の云く、「摩訶男は水の中にして死たり」と。
王、摩訶男の死たるを見て、悔る心有て云く、「我が祖父、既に死たり。皆親族を愛する故也」と。流離王の為に殺さるる釈種、九千九百九十九人也。或は土の中に埋み、或は馬の為に踏殺す。其の血、流れて池と成れり。城の宮殿をば、皆悉く焼失しつ。
目連の鉢に乗せて、虚空に隠し釈種を取下して見れば、鉢の内に皆死て、一人生たる者無し。仏の、「果報也。免るべき事に非ず」と宣し、違ふ事無し。
仏の宣はく、「流離王及び兵衆、今七日有て、皆死なむとす」と。王、此の事を聞て、恐怖て、兵衆に告ぐ。好苦梵志、王に申さく、「大王、恐れ給ふ事無かれ。外境に忽に難無し。又災発らず」と。王、此の事を噯(なぐさ)めむが為に、阿脂羅河の側に行て、群臣・婇女を引具して、娯楽・遊戯する間、俄に、大に、雷震・暴風・疾雨出来て、王より始て若干の人、皆水に湮(しづみ)て死ぬ。悉く阿鼻地獄に入ぬ。又、天より火出来て、城内の宮殿、皆焼ぬ。殺されぬる釈種は、皆天に生れぬ。戒を持てるに依て也。
其の時に、諸の仏弟子の比丘、仏に白て言さく、「此の諸の釈種、何なる業有て、流離王の為に殺されたるぞ」と。
仏の宣はく、「昔、羅閲城の中に、魚を捕る村有き。世、飢渇せりき。彼の村の中に、大なる池有り。城の人民、池の中に至て、魚を捕て食す。
水の中に二の魚有り。一をば拘璅と云ふ。二をば多舌と云ふ。二の魚、相語て云く、『我等、此の人民の為に、前世に咎無しと云へども、忽に此の人民の為に食はれなむとす。我等、前世に少の福有らば、必ず此の怨を報ずべし』と。
其の時に、村の中に一の小児有り。年八歳也。其の魚を捕らず。魚、岸の上に有るを見て興じき。
当に知るべし。其の時の羅閲城の人民は、今の釈種此れ也。其の時に拘璅魚は、今の流離王此れ也。多舌魚は好苦梵志此れ也。小児の魚を見て咲しは、今、我が身此れ也。魚の頭を打たれしに依て、今、我れ、此の時に頭を痛し。釈種、魚を捕し罪に依て、無数劫の中に地獄に堕て、苦を受く。適に人と生れて、我れに値ふと云へども、其の報を感ずる事此の如し。流離王及び、好苦・兵衆、若干の釈種を殺せるに依て、阿鼻地獄に堕ぬ」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 瑠璃王
3) 底本「すべぎ」。誤植とみて訂正
4) 底本、「火」とし、右に疑問符。
巻2第29話 舎衛国群賊殺迦留陀夷語 第(廿九)
今昔、天竺の舎衛国に一人の婆羅門有り。殊に道心有て、常に迦留陀夷羅漢を供養す。婆羅門に一人の子有り。父の婆羅門、死ぬる時に臨て、子の婆羅門に語て云、「汝ぢ、我れに孝養の志有らば、我が死なむ後に、我が如くに此の大羅漢を供養し奉て、努々愚に□□無かれ」と。其の詞終らざるに、即ち死にぬ。
其後、子の婆羅門、深く父の遺言を信じて、寧(ねんごろ)に此羅漢を供養して、昼夜に帰依する事限無し。而る程に、婆羅門、要事有て、遠く行かむと為るに、妻に語て云く、「我が外に有らむ間、此の大羅漢、心に入れて供養し奉るべし。努々乏き事無からしめよ」と云置て、遥に遠き所へ趣ぬ。
其の間、此の婆羅門の妻、形貌端正にして、限無き婬女にて有ければ、国の五百の群賊の中に、一人有て、此の婆羅門の妻の美麗なるを見て、愛染の心を発して、密に招取て、終に其の本意を遂つ。
其の事を、此の大羅漢、自然(おのづから)に見つ。妻有て、此の事を、羅漢、夫に語らむ事を恐れて、賊人を教へて、此の羅漢を殺しつ。
波斯匿王、此事を聞て云く、「我が国の内に、彼貴く止事無かりつる証果の聖人の大羅漢、婆羅門の妻の為に殺されぬ」と歎き悲むで、大に嗔て、五百の群賊を捕て、手足を切り、頸を切て、皆殺しつ。婆羅門の妻をも殺しつ。其の家の近辺、八千余家を、悉く亡し失つ。
其の時に、仏1)の御弟子、諸の比丘、此れを見て、仏に白して言さく、「迦留陀夷、前世に何なる悪を作て、婆羅門の妻の為に殺されて、此の如くの大事を曳出たるぞ」と。
仏、諸比丘に告て宣はく、「迦留陀夷、乃往過去無量劫に、大自在天を祀る主と有き。五百の眷属と共に、一の羊を捕て、四足を切て、天に祀りき。其の罪に依て、地獄に堕て、隙無く苦を受く。其の時に殺されし羊は、今の婆羅門の妻此也。天を祀りし人は、今の迦留陀夷此れ也。昔の五百の眷属は、今の五百の群賊此也。殺生の罪、世々に朽ちずして、互に殺し、其の報を感ずる事此の如し。適に人と生れて、今羅漢果を得たりと云へども、于今、猶悪業の残れる所の罪を感ぜる也」と説き給ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第30話 波斯匿王殺毗舎離卅二子語 第(三十)
今昔、天竺の舎衛国に一人の長者有り。名をば梨耆弥と云ふ。七人の子有り。皆勢長して、各、夫・妻を具せり。其の第七の女子をば毗舎離と云ふ。其の人、心賢く、智(さと)り有り。
其の故を聞て、其の国の波斯匿王、「后と為む」と思て、此の人を迎へて、后として、其の後、懐妊しぬ。月満て、卅二の卵を生ぜり。其の一の卵の中より、一の男子出たり。各、形貌端正にして、勇健なる事限無し。此人、一人して、千人の力を具せり。此の卅二人、各勢長して、皆国の中の家に、高く賢き人の娘に娶て、妻とせり。
かかる程に、毗舎離、仏及び比丘を請じて、我が家にして供養し奉れり。仏、為に法を説給ふ。家の人、皆法を聞て、須陀洹果を得たり。此の卅二子も、皆果を得たるが、中に最小の児、一人未だ果を得ず。
其の小児、遊戯せむが為に、馬に乗て出る間、国の輔相の大臣の子、車に乗て橋の上にして、此の人に会ぬ。小児、此の人を取て、橋下の壍の下に投入つ。然れば、車破れて、大臣の子、身損じぬ。
父の許に行て、此の由を語る。父の云く、「彼の人は、力強く心武き人也。汝、合ふべからず。但、其事を報ぜむと思はば、密に七宝を以て、馬の鞭卅二を作て、各其の中に釼を籠て、怨の心を見せずして、彼の卅二人に与へよ」と。子、父の教に依て、忽に此れを作て、卅二人に与へつ。卅二人、此の鞭を得て、大に喜て翫ぶ。
かくて、此の国の習として、王の御前に、人、釼を帯せず。其の時に、輔相の大臣、大王に申さく、「毗舎離の子卅二人、年壮にして力強き事、一人として千人に当る。心の武き事限無し。此に依て、今謀叛を発して、利刀を作て、馬の鞭の中に籠て、王を害し奉らむと搆ふ」と。王、聞給て、「此れ実也」と信じて、此の卅二人を計て、皆殺しつ。
さて、卅二人の頭を一篋(はこ)に入れて、善く封じて、母の毗舎離の許へ送れり。其の至れるを満て、「此れ、王の許より供具を訪(とぶら)へる也」と思て、忽に開かむと為るを、仏1)制して開かしめ給はず。飯食既に果て、仏、為に無常の法を説給ふ。毗舎離、此れを聞て、阿那含果を得つ。
仏返り給て後、此の篋を開て見るに、我が子卅二人が頸を入たり。然りと云へども、毗舎離、果を証せるに依て、愛欲の心を断ち、此を満て、歎き悲む事無し。但云く、「人生れて必ず死する事也。永く相副ふ事を得ず」と。
かくて、此の卅二人の妻・□親族、此の事を歎き悲て云く、「大王、故無くして、善人共を殺せり。我等、必ず行て、其の事を報ぜむ」と云て、衆多(あまた)の兵を集めて、王を罸(うた)むとす。王、此を聞て、恐て、仏の御許へ詣ぬ。兵衆、其の由を聞て、祇薗精舎を囲み遶て、王を伺ふ程に、阿難、此の兵衆を見て、掌を合せて、問奉て云く、「毗舎離の卅二の子、前世に何なる果報有て、今、王の為に殺さるぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「乃往過去に此の卅二人、他人の牛一頭を盗て、共に牽て、一の老女の家に至つて殺さむとす。老女、殺具を与へて、殺さしむるに、既に刀を下す。時に、牛、跪て命を乞ふと云へども、『殺さむ』と思ふ心盛にして、許さずして殺しつ。牛、死ぬる時、誓て云く、『汝等、今我を殺せり。我れ、来世に必ず此れを報ぜむ』と云て死ぬ。卅二人、共に此を食す。老女、又食に飽て、喜て云く、『今日、此の客人来れる、我れ喜ぶ所也』と云ふ。其の時の牛は、今の波斯匿王、此れ也。牛を殺し卅二人は、今の毗舎離が子卅二人、此れ也。其の時の老女は、今の毗舎離、此れ也。牛を殺せるに依て、五百世の中に、常に殺さるる也。老女、歓喜(よろこび)し故に、五百世の間、常に母と成て、子の殺さるるを見て、悲びを懐ける也。今、我れに会へる故に、阿那含果を得たる也」と。
卅二人の家の親族、仏の此の如き説給ふを聞て、皆怨の心止て、各云く、「一の牛を殺して、其の報を受けむ、併(しかしながら)此の如し。何況や、大王、過無くして、善人共を殺せり。豈に恨に非ざらむや。然と云へども、我等、仏の説給を聞て、怨の心止ぬ。又、大王は此れ我等が国の主也。然れば、殺害の心を止つ」と。王、又、其の罪を悔て、答る事無し。
阿難、重て仏に白て言く、「毗舎離、前世に何なる福を殖て、仏に遇奉て、道を得ぞ」と。
仏の宣く、「昔、迦葉仏の時に、一の老女有き。諸の香を以て、油に和して、行て、塔に塗き。又、路の中に卅二人有き。此を勧めて、共に行て、塔に塗き。塗果て、願を発して云く、『生れむ所には、豪貴の人と生れて、常に母子と成て、仏に遇奉て、道を得む』と。其の後、五百世の中に豪貴の人と生れて、常に母子と成れる也。仏に遇奉るに依て、道を得る事此の如し」となむ語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
 

 

巻2第31話 微妙比丘尼語 第(卅一)
今昔、天竺に一人の羅漢の比丘尼1)有り。名をば微妙と云ふ。
諸の尼衆に向て、我が前世に造る所の善悪の業を語て云く、「乃往過去に一人の長者有りき。家大に富て、財宝豊也。但、子無し。後に小婦に娶て、夫、甚だ愛念する間に、一人の男子を生ぜり。夫妻、共に小児を愛して、厭ふ心無し。
而る間、本の妻、心の内に妬て思はく、『若し、此の子、勢長せば、家業を搆ふべし。我れは空くして止なむとす。我れ、寧に家業を営て、何の□か有らむ。只如かじ、此の児を殺てむ』と思て、密に鉄の針を取て、隙を量て、児の頭の上を刺つれば、児死ぬ。
母、歎き悲むで思はく、『此れ、本の妻の妬の故に殺せる也』と思て、本の妻に向て云く、『汝ぢ、我が子を殺せり』と。本の妻の云く、『我れ、更に汝が子を殺さず。呪誓□、罪の有無は見なむ。若し、汝が子を殺さらば、我れ、世々に、夫有らば、蛇(へび)の為に螫し殺され、子有らば、水に漂ひ狼に噉(くは)れむ』。誓いを成して後、其の継母死しぬ。
児を殺せるに依て、地獄に堕て、苦を受る事無量也。地獄の罪畢て、今、人と生れて、梵志の娘として、年漸く長大にして、夫に娶て、一の子を産せり。
其の後、又懐任(みごもり)ぬ。月満て、産の期に至る程に、夫を具して、父母の家へ行く。夫貧くして、従者無し。途中にして、腹を痛むで産せり。夜る、樹の下に宿ぬ。夫、別に臥たるに、忽に其の所に毒蛇来りて、其の夫を螫し殺しつ。妻、夫の死ぬるを見て、悶絶して死入ぬ。
暫許(とばかり)有て甦(よみがへり)ぬ。夜曙(あけ)ぬれば、妻一人、かくて有るべき事に非ねば、大なる児をば肩に懸て、今生ぜる児をば抱て、独り哭き悲む事限無し。猶、『祖(おや)の家に行む』と□路に進み出たるに、一の河有り。深して広し。其の河を渡て行むと為るに、大なる児をば、此方の岸に暫く置て、小(ちひさき)を抱て渡て、彼方の岸に置て、即ち返渡て、大なる児を迎へむと為るに、児、母の渡て来るを見て、水に赴き入る。母、此れを見て、迷(まどひ)て捕へむと為るに、水に流れて行くを、母、子を助けむと為るに、力及ばずして、須臾程(しばらくのほど)に、児、没して死ぬ。母、哭々還渡て、小児を見るに、血流れて、小児見えず。只、狼、地に有り。狼の為に噉せられにけり。母、此れを見て絶入ぬ。
良(やや)久く有て、甦て、路に進み出たるに、一人の梵志に遇ぬ。此れ、父の親き友也。梵志に向て、具に夫子(つまこ)共の死たる事を語る。梵志、此れを聞て、哀れむで歎き、女、『父母の家、平安也や否や』と問に、梵志の云く、『昨日、汝が父母の家に失火出来て、父母・眷属の大小、一時に焼死き』と。女、此れを聞て、弥よ歎き悲むで、死入て、又甦ぬ。梵志、此を哀むで、家に将行て養つ。
其の後、又、外の男に娶て懐妊しぬ。月満て、産の期に成る時に、夫、外に行て、酒を呑て酔て、日暮方に家に返る。妻、闇き程にて門を閉たるを、夫、門の外に立て門を叩に、妻、其の時に内に独り在て、産せむとす。産未だ生(な)らざる程に、人無くして、門を開かざる程に、終に産しつ。
夫、門を破て入て、妻を打つ。妻、産の事を陳ぶ。夫、嗔て、其の生める子を取て殺して、蘇を以て煮て、逼て妻に食はしむ。妻、心の内に思はく、『我れ、福薄きが故に、かかる夫に遇へり。只逃去なむ』と思て、棄て走り逃ぬ。
波羅奈国の内に至て、一の樹の下に居て息む間に、其の国に長者の子有り。其の妻、新く死て、夫、日来家に有て、恋悲む程に、此の女の、樹の下に独り居たるを見て問ふに、有様を答ふ。其人、此の女を娶て妻としつ。
数日を経るに、其の夫、忽に死ぬ。其の国の習として、生たる時、夫妻愛念せる者、夫死ぬれば、其の妻を生ながら埋む事、定れる例也。然れば、群賊、妻を埋まむが為に、其の家に来ぬ。賊の主、妻の形貌端正なるを見て、計て娶て妻とせり。
数日を経て、夫、他の家に行て、家を破る程に、其の家の主、賊主を殺しつ。然れば、賊の伴、屍を持来て妻に付つ。国の習なれば、其の妻を生ながら共に埋つ。三日を経て、狐狼、其の冢を鑿て、自然に出事を得たり。
女の思はく、『我れ、何なる罪を作て、日来の間、重き禍厄に遭、死て甦らむ。今、又何なる所へ行む』と思ふに、『余命有らば、釈迦仏、祇薗精舎に在ます』と聞て、詣て、出家を求む。
過去に辟支仏に食を施して、願を発せし故に、今、仏に値奉る事を得て、出家して、路を修して、羅漢と成ぬ。前世の殺生の罪に依て、地獄に堕ぬ。現在、呪誓の過に依て、悪報を受く」。微妙自ら、「昔の本の妻は、今我が身、此れ也。羅漢果を得たりと云へども、常に熱鉄の針、頂の上より入て、足の下に出ぬ。昼夜に此の苦患堪難し」と語りけり。
然れば、罪福の果報、此の如し。終に朽る事無しとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本「比丘」と翻刻するが、鈴鹿本は標題通り「比丘尼」。
巻2第32話 舎衛国大臣師質語 第(卅二)
今昔、舎利弗尊者、常に智恵の眼を以て、衆生の中に得度すべき者を見て、輙く得度せしめ給ふ。
其の時に、舎衛国に波斯匿王の一人の大臣有り。名をば師質と云ふ。家大に富て、財宝無量也。此人、得度すべしと見て、舎利弗、彼の家に行て、乞食し給ふ。大臣、此れを見て、礼拝恭敬して、請じ入れて、食を儲て供養す。
尊者、供養を受畢て、大臣の為に法を説て云く、「富貴栄禄は、衆苦の本也。家に居て、妻子を愛する事は、牢獄の如し。一切の有ゆる所は、皆悉く無常也」と。大臣、此を聞て、心に歓喜して、即ち道心を発しつ。家業及び、妻子・眷属を弟に付嘱して、出家して、山に入ぬ。
其の後、其の妻、大臣を恋悲むで、弟の語に楽しまず。其の心を見て、弟の云く、「汝ぢ、『今は我れと夫妻として、他の心無かるべし』と思ふに、何の故に、常に愁たる気色有るぞ」と。妻の云く、「我れ、前の夫大臣を恋るに依て、歎き愁へる也」と。
其の時に、弟、賊人を語ひ雇ひて、兄を殺さむが為に山へ遣る。賊人、其の語を得て、山に行て、沙門に遇て云く、「我れ、汝の弟の雇へるに依て、汝を殺さむが為に爰に来れり」と。沙門、此の事を聞て、恐れ怖て云く、「我れ、新に路に入れりと云へども、未だ仏を見奉らず、法を悟らず。暫く我を殺す事無かれ。我れ、仏を見奉り、法を聞て後、我れを殺すべし。其の事、遠からじ」と。賊人の云く、「我れ、汝を免すべからず」と。其の時に、沙門、臂を挙て、賊人に与へて云く、「我が一の臂を斫て、命をば暫く留めよ。猶仏を見奉らむ」と。賊人、然れば、命を殺さずして、臂を斫て持去ぬ。沙門、即ち仏の御許に詣て、仏を礼拝し奉るに、仏、為に法を説給ふ。沙門、法を聞て、羅漢と成て、即ち涅槃に入ぬ。
賊人は、臂を持行て、弟に与ふ。弟、兄の臂を得て、妻の前に持行て云く、「汝が恋悲める前の夫の臂、此れ也」と。妻、此れを見て、哽(むせび)て云ふ事無くして、歎き悲む事限無し。妻、波斯匿王の宮に詣て、此事を王に申す。王、具に聞て、嗔を成して、其の弟を捕へて殺しつ。
其の時に、比丘、仏1)に白して申さく、「今、此の沙門、前世に何なる悪業を造て、今、臂を斫て、又仏に値奉て、道を得ぞ」と。
仏、比丘に告て宣はく、「乃往過去に波羅奈国の達王、獦の遊に出し時に、山に入て、道を失なひて、行方を知らずして、草木の本に住して、道を求むる間に、山の中に一人の辟支仏有り。王、辟支仏に、『道を教へよ』と云ふに、辟支仏、臂に悪き病有て、手を挙るに能はずして、臂を以て道を教ふ。王、此を嗔を成して、刀を抜て、辟支仏を斬る。辟支仏の云く、『王、若し此の罪を懺悔せずば、重罪を受べし』と云て、王の前にして、飛て虚空に昇て、神変を現ず。王、此を見て、『我れ、証果の人を斬れり』と思て、地に倒れ音を挙て叫て、悔ひ悲むで云く、『願は、辟支仏、返り下り給て、我が懺悔を受給へ』と。辟支仏、即ち返り下て、王の懺悔を受く。王、頭面を以て、辟支仏を礼拝して、白して言さく、『唯し、願は哀憐を垂れて、我が懺悔を受給て、受苦の報を除き給へ』と。辟支仏、聞畢て、即ち涅槃に入ぬ。王、其の所に塔を起て、供養しつ。其の後、常に其の塔にして、此の罪を懺悔して、終に度脱を得たり。今、此の沙門は、昔の達王、此れ也。前世に辟支仏の臂を斬るに依て、今、臂を斫るる也。懺悔を致せるに依て、地獄に堕ちずして、今、道を得たる也」と、説き給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第33話 天竺女子不伝父財宝国語 第(卅三)
今昔、天竺に一の国有り。其国の習として、人に女子有れども、父が財宝を伝へず。男子、定りて伝ふ。若し、男子無き財宝をば、其の人死ぬれば、皆公け納め取らる。此れ、定れる国の例也。
其の国に一人の人有り。家大に富て、財宝は多かり。但女子五人有て、男子無し。死なば、皆公け財に成なむとす。而に、此の人、妻懐任せり。家の人、皆、「男子にて生れよかし」と思ふ程に、其の父、俄に死ぬ。然れば、公の使来て、財宝納め置たる庫倉に悉く封を付つ。
其の時に、第一の女子有て、王に申さしむる様、「此の懐任せる子、若し男子にて生ぜらば、父が財宝を伝ふべき也。而るに、公物に成り畢なむ後は、譬ひ男子也と云へども、返し給ふべきに非ず。然れば、此の子の生れむ程、かく封を付置かれて、子生れて後に、女子ならば公物と成り、男子ならば父が財を伝ふべき也」と。王の云く、「申す所、尤も然るべし。子の生ぜむ程を暫く待つべし」と。
然る程に、子生れぬ。其の子、男子にて有り。五人の女子より始め、家の人、皆喜を成して、児の顔を見れば、二の目無し。二の耳無し。口の内に舌無し。此を見て奇異の思成す。男子にて生ぜるを喜び思ふ程に、「かかる片輪者なれば、何が為べき」と歎き給ふ1)に、第一の女子の云く、「先づ、此の由を王に申して、仰せに随ふべし」と。今四人の女子も、皆同心に、「然るべし」と云ひ定めて、王に此の児の有様を申さす。
王、此の由を聞仰せ下さるる様、「其の生ぜる子、片輪者には有りと云へども、既に男子には有れば、父が財を伝ふべき也」と。然れば、公け使来りて、付たりし封を開て、「生れたる男子、父が財宝を伝ふべし」と仰せ係て去ぬ。五人の女子共は、此を聞て、喜び思ふ事限無し。
かくて、其の財宝を五人の女子共に心に任せて取用ぬ。「男子はかかる片輪者なれども、此の児の財也」と、家の内の人も、世の人も、国の内、挙て讃(ほ)め合へる事限無し。
其時に、第一の女子の夫の云く、「今は此の家に留めて思の如く也。此れ、偏に此の片輪児の徳也。但し、此の児の、かかる片輪者の身にて財の主と成る、身の宿業を知らむ」と思て、仏2)の御許に詣て、仏に白して言さく、「此の児、男子にて生ぜれば、父が財を得たりと云へども、二目無く、二の耳無く、口の内に舌成し。前世に何なる報有てぞ」と。
仏、告て宣はく、「汝ぢ、善く聴け。過去の無量劫に国有き。其国に兄弟二人の人有き。兄は国の賢(さか)しき人として、公より始て下の人に至まで、此の人の云ふ事をば、『正直の事にして、虚言せぬ者也』と、世挙て信じき。弟は財宝多く持て、世の人に此を借して、数を増して返し得れば、弥よ家大に富て有り。
又、一人の人有り。常に海に浮て、財を求め、財多かる国に行て、財を買て、返来る事を業とす。其の人、例の如く、財を求めむが為に海に入らむと為る程に、其の直物の乏少なれば、此の弟の富人の許に行て銭を借る。弟の云く、『銭は要に随て借すべし。但し、汝ぢ、未だ返来ざらむ間に、我れ若し死なば、我が子に数に依て返すべき也』と云て、『兄の賢人の、虚言せず世に重き者に思えたれば、其の前にて借む』と云て、我が子及び借人とを具して、兄の許に行て、『銭を借す』とて、弟の云く、『此の人、海に入らむが為に銭を借る。只借べしと云へども、人の心知り難し。我れ死なば、其の物は我が子に返すべき也。我が子幼稚なれば、責むと云ふとも、返し難し。然れば、兄の御前にて借す也。若し、然の如の事有らば、理の如く裁(ことわ)り給へ。世の人そら、汝をこそは此の如の事の正直なるべき証人には用ゐれ。況や、兄弟の間也。必ず理に任せて裁り給へ』と云て、此の商人に多の銭を借して去ぬ。
其の後、弟、幾(いくばく)の程を経ずして死ぬ。此の商人、七年を経て、多の宝を買取て、返来ぬ。此の弟の子、『今や返ぬ』と待に、音無き也。弟の子、市に出て物を買に、此の商人に遇に。弟の子の云く、『海より返来て久く成ぬとは聞ども、音無し。何の故、父の借られし所の銭の代をば、何ぞ今に返ぬぞ』と。商人、心の内に思ふ様、『須く員(かず)に依返すべき也。而に、返すべき程を思に、極て其の員多し。大海に入て財を求る事は、輙き事に非ず。財を貪ぼる心深くして、命を棄て、海の中に浮て、尋ね求る事也。辛くして買ひ持来たる財を返さむ事の員多かれば、甚だ難く』思えて、答て云く、『未だ其物の員、慥に思えず。今尋て申すべし』と云へば、弟の子の云く、『甚だ希有なる事云ふ人かな。只二人向て借し申したる事にも非ず。我が伯父の国の賢人の前にて、慥なる事を様々に、我が父も契り、汝も約せし事をば、我れは何にも申すべからず。彼の伯父の御許に、相共に行て、問ひ申して、彼の人の御定めに依べし』と云へば、商人、『尤も然るべし。今三四日有て、行くべし』と云て、其の日と契て去ぬ。
商人、家に返て、夜光る玉の、目出たく明く照すを持て、彼の賢し人の妻の許に行て、妻に遇云く、『一とせ財を求めむが為に、大海に入りしに、其の直の足ざりしかば、賢し人の御弟の銭を多く借取て、賢し人を証人として、其の御前にて借て罷去にき。其後、海より返たるに、彼の御弟の子の、『其の銭の代を返せ』と責るは理なれども、返すべき物の員の極て多かれば、惜しく思ひて、返し難き也。然れば、『知らずや、思えず』とぞ、答侍つる。然れば、其の子の申す様、『かく云ふ、極て狼藉也。我が父は、『若し、此の如くの詞もぞ出来』とて、『兄の賢し人の御前にて、其の証人として借し事なれば、彼の人の許に共に行て、其の定めに依るべし』とぞ申しつる。日を定めて、行くべき由を契て去ぬ。然れば、此の玉、夜る照す事並無し。此を納められて、此の事、各申さむ時に返すまじき様に裁(こと)はらしめ給べき也。』と云て、給を押し預けて去ぬ。
賢し人、出て、公事共定め申して、日暮方に家に来たり。妻、此の玉を取出て見せて、密に彼が云し事共を語る。賢し人、大に嗔て云く、『汝ぢ、年来我れに相副て、我が心を知ぬらむ。何で、知らぬ人の様に、かかる事をば云べきぞ。速に其の玉返し遣れ』と云へば、妻、商人を喚て、玉を袖移に返し渡しつ。
商人、家に返て、又夜る光る本の玉には勝たるを、二具して、又家に行ぬ。隙を計て、密に此の二の玉を、妻の袖に入て去ぬ。賢し人、又家に返来たるに、此の二の玉を見せて云く、『此の度の玉をこそ返難けれ。汝ぢ、猶返せと云はば、我れ、只一人持たる男子を抱きながら、淵に落入なむ』と云て哭けば、賢し人、賢こき心の内にも弱りて、『いで、知らず。只、汝が心』と云て立去ぬ。
妻、喜て、商人の許に密に云ひ遣たれば、商人、『搆へ得たり』と思て、彼の契りし弟の子と共に行合ぬ。弟の子は、父の銭借し日、契し事共、具に云ふ。商人は、『惣て此れ無き事也』と口清く諍ふ。其の時に、賢し人の云く、『二人の云ふ事、皆聞つ。我れ、有しままに云ふべしと云へども、此の事、更に思えぬ事共也』と云へば、弟の子、『甚だ奇特也』と思て、心の内に瞋恚を発と云へども、哭々く云く、『君は世に賢しく、実語も立て、裁り給ふ身なれば、我が父も御前にて証人として、互に契り申し事を、かく新たに舌を返し給ふぞ』と云へば、伯父の賢し人、云ふ事無くして立て去ぬ。商人、喜び思て去ぬ。弟の子は悲の心を発して去ぬ。
其の後、賢し人、幾の程を経ずして、重病を受て死ぬ。此の罪に依て、地獄に落て、多の苦を受く。適に人と生れては、舌を返せる罪に依て、舌無くして、二の目・二の耳無き身と生たり。又、財の主と成る事は、国の賢しき人として、国王より始めて国の人重くせしかば、徳豊なる身にて、人に物を施しに依て、財をば伝へ得たる也」と、仏の説給を聞て、第一の女の夫、「貴し」と思て、礼拝を成して去にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本「給」に疑問符。
2) 釈迦
巻2第34話 畜生具百頭魚語 第(卅四)
今昔、天竺に、仏1)、諸の比丘と共に、梨越河の側を行き給ふ。
其の河に人集て、魚を捕る。網2)に一魚を得たり。其の魚、駝・驢・牛・馬・猪・羊・犬等の百畜生の頭を具せり。五百人をして引くに、其の魚、水を出ず。其の時に、河辺に五百人有て、牛を飼ふ。各牛を放て、寄て此を引く。然れば、千人力を合せて引くに、魚、水を出る事を得たり。
諸の人、此の事を怪むで、競むで見る。仏、比丘と共に、魚の所に行給て、魚に問て宣はく、「汝は、教へし母は何なる所にか有る」と。魚の云く、「無間地獄に堕せり」と。阿難、此を見て、其の因縁を仏に問奉る。
仏、阿難に告て宣はく、「昔、迦葉仏の時に、婆羅門有りき。一の男を生ぜり。名をば迦毗利と云き。其の児、智恵明了にして、聡明第一也。其の父死て後、母、児に問て云く、『汝ぢ、智恵朗か也。世間に汝に勝たる者、有や否や』と。児、答て云く、『沙門は我に勝たり。我れ疑ふ事有らば、行て沙門に問むに、我が為に悦て悟らしめてむ。沙門、若し我れに問ふ事有らば、我れは答ふる事能はじ』と。母の云く、『汝ぢ、何ぞ其の法をば習はざるぞ』と。児の云く、『我れ、其の法を習はば、沙門と成るべし。我れは、此れ白衣也。白衣には教えざる也』と。母の云く、『汝ぢ、偽て沙門と成て、其の法を習ひ得て後に、家に返るべし』と。児、母の教へに随て、比丘と成て、沙門の許に行て、法を問ひ習て、悟り得て家に返ぬ。
母、児に云く、『汝ぢ、法を習ひ得たりや否や』。児の云く、『未だ習ひ畢らず』と。母の云く、『汝ぢ、今より後、習ひ得ずば、師を罵(のり)辱(はづか)しめば、勝るる事を得てむ』と。児、母の教に随て、師の許に行て、罵り辱めて云く、『汝ぢは沙門、愚にて識(さと)り無し。頭は獣の如し』と云て去にき。其の罪に依て、母は無間地獄に堕て、苦を受る事量無し。子は、今、魚の身を受て、百の畜生の頭を具せり」と。
阿難、重て仏に言さく、「此の魚の身を脱(のが)るべしや」と。仏の宣はく、「此の賢劫の千仏の世に、猶此の魚の身を脱れぬ。この故に、人、身・口・意を慎むべし。若し、人、悪口を以て罵詈せば、語に随て、其の報を受くべし」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本「納」の右に疑問符。
巻2第35話 天竺異形天人降語 第(卅五)
今昔、天竺に一人の天人降たり。其の身、金色也。但し、頭は猪の頭也。諸の不浄所生の類を求め食す。
諸の人、此の天人を見て、奇異の思を成して、仏1)に白して言さく、「此の天人、前世に何なる業有てか、身の色金色也と云へども、頭は猪の頭也、諸の不浄所の類を求め食する」と。
仏、説て宣はく、「此の天人は、過去の九十一劫の時、毗婆尸仏と申仏、世に出給へり。其の時に、此の天人、女人と生れて、人の妻と有りき。其の家に沙門来て、乞食しき。夫、『金を施せむ』と云ひしに、妻、慳貪なるが故に、心を誤まり、面を赤めて、瞋恚を発して、夫の乞食に金施する事を止てき。其の罪に依て、其の妻、九十一劫の間、此の果報を得たる也。又、身の金色なる事は、其の沙門に値て、一度腰を曲(かがめ)て礼拝しき。其の功徳に依て、金色の身を得て、光を放つ也。然れば、天に生たりと云へども、悪業の残れる所、此の如き也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
巻2第36話 天竺遮羅長者子閻婆羅語 第(卅六)
今昔、天竺の毗舎離城に一人の長者有り。名をば遮羅と云ふ。其の妻、懐任して後、身臭く穢れて、惣て人近付かず。十日に満て、男子を生ぜり。其の児、瘠せ悴(おとろ)へて、骨体連れり。又、多くの糞尿、児の身に塗て生ぜり。然れば、父母、更に此れを見ず。
児、漸く勢長する程に、家に在て、父母に随はむ事を欲せずして、只糞穢を嗜ぶ。父母及び、諸の親族、此を悪て見む欲はず、遠く遣て近付かず。外に在ても、常に糞穢を食す。世の人、此を見て、悪1)み厭ふ事限無し。其の名を閻婆羅と云ふ。
其の時に外道有り。道を行に、此の閻婆羅に遇ぬ。「我が門徒に入れ」と勧めて、苦行を教へて修せしむ。閻婆羅、外道の苦行を修すと云へども、猶糞穢を食す。外道、此を見て、罵り打て、追ひ出しつ。
閻婆羅、逃て、河の岸・海の中に至り住して、苦悩し愁歎す。其の時に、仏2)、此を見給て、其の所に行て、此を度し給ふ。閻婆羅、仏を見奉て、歓喜して、五体を地に投て、出家を求む。仏の宣はく、「汝ぢ、善く来れり」と。閻婆羅、此を聞くに、頭の髪自ら落て、身に法服を着せり。已に沙門と成れり。仏、為に法を説給ふに、身の臭穢を除て、阿羅漢と成ぬ。
比丘、此を見て、仏に白して言さく、「閻婆羅、前世に何なる業を造て、此の罪報を受け、又、何なる縁を以て、仏に値奉て、道を得るぞ」と。
仏、比丘に告て宣はく、「乃往過去の此の賢劫の中の拘留孫仏3)と申す仏、世に出給へりき。其の時に、国王有り。仏及び、諸の比丘を宝殿に積て、寺を造て、一の比丘を以て寺の主とせり。諸の檀越有て、衆僧に沐浴させぬ。衆僧、浴畢て、香油を身に塗る。
其の中に一人の阿羅漢の比丘有り。寺主、此を見て、嗔て罵て云く、『汝ぢ出家の人、香油を身に塗る、糞を塗に似たり』と。羅漢、寺主を愍て、為に神通を現ず。虚空に昇て、十八変を成す。寺主、見已で、懺悔して、此の罪を除かむ事を願ひきと云へども、終に此の罪に依て、五百世の中に、常に身臭穢して、人近付かず。又、昔し、出家して、彼の羅漢に向て懺悔せしに依て、今、我れに値て出家して、道を得る也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 「にく」底本異体字。りっしんべんに惡
2) 釈迦
3) 底本「物留弥仏」とするが誤り。
巻2第37話 満足尊者至餓鬼界語 第(卅七)
今昔、仏1)の御弟子満足尊者、神通を以て、餓鬼界に行て、一の餓鬼を見る。其の形、極て恐怖(おそろ)しくして、毛竪(よだ)ち、心迷(まど)ひぬべし。身より火を出して、大なる事数十丈、或は眼・鼻・身体・支節より焔(ほのほ)を放つ、長さ数十丈。又、唇口垂れて、野猪の如し。身体の縦広一由旬也。手を以て、自ら手を爴て、音を挙て㘁(よば)ひ叫て、東西馳走す。
尊者、此を見て、餓鬼に問て云く、「汝ぢ、前世に何なる罪を造て、今、此の苦を受たるぞ」と。
餓鬼、答て云く、「我れ、昔し人と生れて、沙門と成れりと云へども、房舎を執着して、慳貪を捨てざりき。豪族を恃むで悪言の事を出し、若は、持戒する精進の比丘を見ては、輙く罵り恥しめて、服を廃き。其の罪の故に、此の苦を受く。然れば、『利刀を以て、自ら其の舌を割らむ』と思ふ。一日も精進持戒の比丘を罵り謗る事無かれ。若し尊者、閻浮に返り給はむ時き、我が形を以て、諸の比丘に告て、善く口の過を助けて、妄語を出す事無かれ。持戒の人を見ては、其の徳を敬ひ思ふべし。我れ、此の餓鬼の形に生て以来(このかた)、数千万歳此の苦を受く。又、此の命尽てば、地獄に堕つべし」と云畢て後、㘁(よば)へ叫むで、身を地に投ぐ。其の音、大山の崩るるが如とし。天振ひ、地動(とどろ)く。
此れ、口の過に依て受る所の悪業也。尊者、閻浮に返て、語り伝へ給ふ也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第38話 天竺祖子二人長者慳貪語 第(卅八)
今昔、天竺に二人長者有り。祖子(おやこ)也。父も子も共に、家、大に富て、財宝豊也。但し、慳貪深くして、敢て施の心なし。自然ら、乞丐、家に来れば、門の内に入れずして、人を以て追ひ掃はす。
而る間、父の長者、身に病を受て、幾(いくばく)の程を経ずして死ぬ。其の国の内に、目盲(しひ)たる乞丐の女有り。此の長者、其の乞丐の腹に宿ぬ。月満て、既に産せり。其子、又盲たり。年月を経て七歳に成ぬ。母も子も共に乞丐をして命を養ふ。
子、乞丐をして行く程に、自然ら彼の長者の家に至ぬ。其の家の守門の者、白地(あからさま)に行たる間にて、追ふ人も無くて、此の乞丐、家の内に入て、南面に立てり。長者、此を見て、瞋恚を発して、追ひ払はす。
其の時に、守門の者、返来て、此の乞丐を見て、一の手を牽て、遠く投げ遣る時に、地に倒れて、一の手折れ、頭破れぬ。音を挙て叫ぶ時に、母の乞丐、子の叫ぶ音を聞て、迷ひ来て、子を抱て哭き悲ぶ事限無し。
其の時に、仏1)、此を哀て、其の所に来り給て、乞丐に告て宣はく、「汝ぢ、善く聴け、汝が此れ此の長者の父也。前生に慳貪深くして、人の物を施する心無く、乞丐を強に追しに、今此の報を得たる也。此の苦は甚だ軽し。此の後、地獄に堕て無量劫の間、苦を受べし。哀れなるかな」と宣て、立寄て頭を撫給ふに、乞丐、二の目開ぬ。
仏の説き知しめ給ふを聞て、「我れは此の長者の父にて有し時、慳貪深くして、施の心無く、乞丐を追し罪に依て、今、子の家に来て、此の苦に遇へる也けり」と知ぬ。然れば、此の事を悔ひ悲むで、仏に向奉て、礼拝恭敬して懺悔せしかば、罪を報る果報を得たりと、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第39話 天竺利群史比丘語 第(卅九)
今昔、天竺に利群史と云ふ比丘有り。此の人、在家なりし時も、衣食に乏くして得難かりき。比丘と成れりと云へども、猶衣食得難し。
一の塔に籠て宿しぬ。僅に食(くひもの)を得たりと云へども、食するに能はず。然ば、七日食はずして、既に餓死なむ事久しからず。此を哀て、仏1)の御弟子、須菩提・目連・阿難等、日毎に来て、食を与へむと□れども、相ひ違ひつつ、更に得ず。既に十日を経て、未だ食はず。
其の時に、目連、食を入れて持来たるに、俄に塔の戸、固く閉て開かず。目連、神通の力を以て、鉢を抱きながら穴より入て、飯を比丘に与ふ。比丘、喜て鉢を取るに、鉢、手より落て、地の下五百由旬に入ぬ。目連、神通の力を以て、臂を伸て鉢を取出でて、此れを与ふ。比丘、此を取て食せむと為るに、比丘の口、俄に閉て開く事を得ず。然れば、終に食する事無し。
其の時に、目連、利群史比丘と共に、仏の御許に詣でて、白して言さく、「利群史、何なれば、此の如く食を得ざるぞ」と。
仏、告て宣はく、「汝ぢ当に知べし。此の比丘、前世に母有て、沙門に物を施するを見て、子、強に財を惜むが故に、母を土の倉に籠て、食を与へざりき。母、飢て死にき。其の子は、今の利群史也。此の故に、食を得難き也。但し、父母の功徳を修せしが故に、今、我が所に来て、我が弟子と成て、果を証せる也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻2第40話 曇摩美長者奴富那奇語 第(四十)
今昔、天竺に放鉢国と云ふ国有り。其の国に一の長者有り。名をば曇摩美と云ふ。家、大に富て、国の中の第一の人也。二人の子有り。兄をば美那と云ふ。弟をば勝軍と云ふ。又、其の家に一の婢(やつこ)有り。長者を養ひ、家業を助くる者也。其の婢、一の男子有り。名をば富那奇と云ふ。
而る間、長者死ぬ。其の後、此の富那奇、二(ふたり)の子の中に、兄の美那に属せり。其の人、又、家大きに富て、父の長者に勝れたり。
然るに、富那奇、出家を求るに、心有て、美那に此の事を請ふ。美那、此れを聞て、出家を許しつ。富那奇、既に出家して、道を修して、終に羅漢果を得たり。
其の後、美那の家に来り。勧めて云く、「仏1)の御為に堂を造」と。美那、勧めに随て、栴檀を以て堂を造りつ。富那奇、又勧めて云く、「仏け、及び比丘僧を請じて、供養し奉れ」と。美那、問て云く、「仏、及び比丘僧を請ぜむ、何れの時ぞ。程遥にして、輙く来り給はむに能はじ」と。
其の時に、富那奇、美那と共に高楼に昇て、香を焼て、遥に仏の御方に向て、仏を請じ奉る。仏、空に其の心を知り給て、諸の御弟子等を引具して、神通に乗じて来給て、金の床に坐し給へり。然れば、美那、種々の飲食を以て、仏及び比丘僧を供養し奉る。食畢て後、仏、為に法を説く。国の人民、挙り来て、家の上下の男女、皆法を聞て道を得つ。
其の時に、阿難、此を見て、仏に白して言さく、「此の富那奇、昔、何なる罪を造て、今、人に随て奴と成り、又、何なる福を殖て、仏に値奉て、道を得るぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「乃往過去の迦葉仏の時に、一の長者有りき。比丘僧の為に寺を造て、飲食・衣服・臥具・医薬の四事を以、供養して、貧き事無からしめき。而に、長者死して後、其の寺破れ荒れて、人住まず。衆僧、皆散々に去ぬ。
長者の子有り。出家して道を学びき。名をば自在と云ふ。此の如く、寺の破れ荒れたるを見て、諸の人を勧めて、寺を修治しき。其の時に、僧、返り住して本の如く也き。其の住する僧の中に、羅漢の比丘有て、寺の庭の塵を払清むる間、長者の子の比丘有て、此の羅漢の比丘を故無くして罵詈しき。昔の長者の子の比丘と云は、今の富那奇此れ也。羅漢の比丘を罵詈せしに依て、五百世の中、常に人に随て、奴と成れる也。又、昔し諸の人を勧めて寺を修治せしが故に、前の罪を償ひ畢て後、我れに値て、道を得る也。今、此の座に有て、道を得たる国の人民、家の上下の人は、皆此れ昔し勧めを得て、寺を修治せし人也」と説給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
 

 

巻2第41話 舎衛城婆提長者語 第(卌一)
今昔、天竺の舎衛城の中に一人の長者有けり。名をば婆提と云ふ。家、大に富て、財宝無量也。飲食・衣服・金銀等の珍宝、倉に積み満たる事、搆計ふべからず。
但し、家富めりと云へども、長者、慳貪の心深して、我が為にも飲食・衣服を好まずして、極て異様也。亦、妻子・眷属・兄弟・親族に、一塵の物も与へず。何況や、沙門・婆羅門等、施する事有らむや。
而る間、長者、命終しぬ。其の時に、家の内の財宝をば、皆公物に召されぬ。其の国の波斯匿王、自ら行て、皆取り納め給畢ぬ。
王、仏1)の御許に詣でて、白して言さく、「婆提長者、今日命終しぬ。生たる間、慳貪・邪見深かりつる者也。命終の後、何なる所に生まれたりとか知るべき」と。
仏、王に告て宣はく、「婆提長者、本の福業は既に尽て、新き福業を未だ造らず。邪見のみ有て、善根を断たりき。命終して叫喚地獄に堕たり」と。王、仏の説給ふを聞て、涙を流して泣く事限無し。
王、重て仏に白して言さく、「婆提長者、昔し、何なる業を造て、福貴の家に生れて、財宝無量也、亦、何なる悪を造て、慳貪・邪見にして、地獄に堕るぞ」と。
仏、王に告て宣はく、「昔し、迦葉仏、涅槃に入給て後、此の長者、舎衛国に生れて、田家の子と有りき。其の前に一の辟支仏至て、食を乞ひき。此の長者、食を辟支仏に施して、願を発して云く、『我れ、此の善根を以て、世々に三塗に堕ちずして、常に財宝に富て、布施を行ぜむ」と誓き。其の後、此れを悔る心出来て思はく、『我れ、今よりは奴婢に食を与へて、此の頭禿ならむ沙門には施すべからず』と思ひき。婆提長者、前世に辟支仏に食を施して、願を発しし功徳に依て、生るる所には常に財多くして、乏き事無し。亦、施して後、悔る事有しに依て、財多かりと云へども、衣食を好まずして、常に異様也。亦、妻子・眷属・兄弟・親族に物を与へず、慳貪・邪見にして、遂に地獄に堕る也」と説給けり。
此を以て知るべし、若し比丘に布施を行ぜむには、露許も惜む心無かるべし。歓喜して施すべき也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
 

 

■巻3 天竺 
巻3第1話 天竺毗舎離城浄名居士語 第一
今昔、天竺の毗舎離城の中に浄名居士1)と申す翁在ましけり。此の人の居給へる室は、広さ方丈也。而るに、其の室の内に、十方の諸仏来り集り給て、為に法を説き給へり。各、無量無数の菩薩、聖衆を引具し給て、彼の方丈の室に、各微妙に荘厳せる床を立てて、三万二千の仏、各其の床に坐し給て、法を説き給ふ。無量無数の聖衆、各皆随へり。
亦、居士も御まして、法を聞き給ふ。而るに、室の内に猶所有り。此れ、浄名居士の不思議の神通の力也。然れば、仏2)の、室をば、「十方の浄土に勝たる、甚深不思議の浄土也」と説き給ひけり。
亦、此の居士は、常に病の筵に臥して病給ふ。其の時に、文殊、居士の室に来り給て、居士に申し給はく、「我れ聞けば、居士、常に病の筵に臥して、悩給ふと。然らば、其れ何なる病ぞ」と。居士、答て宣はく、「我が病は、此れ一切の諸の衆生の煩悩を病也。我れ、更に外の病無し」と。文殊、此の事を聞き給て、歓喜して還り給ひぬ。
亦、居士、年八十有余に在して、行歩に安からずと云へども、「仏3)の法を説き給へる所に詣でむ」と思て、詣で給へり。其の道の間、四十里也。既に、居士、仏の御許に歩み詣で給て、仏に申して言さく、「我れ、年老て、歩みを運ぶに堪へずと云へども、法を聞かむが為めに、四十里の道を歩び詣たり。其の功徳は何許(いかばかり)ぞ」と。
仏、居士に答へて宣はく、「汝ぢ、法を聞むが為に来れり。其の功徳、無量無辺ならむ。汝が歩む足の跡との土を取りて、塵と成して、其の塵の数に随へて、一の塵に一劫を宛てて、其の罪を滅せむ。亦、命の永からむ事、其の塵と同じからむ。亦、仏に成らむ事、疑ひ無からむ。凡そ、此の功徳、量無し」と説き給ければ、居士、此の事を聞き給て、歓喜して還り給ひぬ。
法を聞かむが為に詣でたる功徳、此の如き也となむ、語り伝へたるとや。
1) 維摩詰・維摩居士
2) , 3) 釈迦
巻3第2話 文殊生給人界語 第二
今昔、文殊は中天竺舎衛国の多羅聚落の梵徳婆羅門と云ふ事の子也。其の母の右脇よりぞ生れ給ひける。生れ給ふ時には、其の家及び門、皆蓮花と成ぬ。身1)の色は金色にして、天の童子の如く也。七宝の蓋を覆へり。
庭の中に十種の吉祥を現ず。一は、天降て覆へり。二は、地より伏蔵を上ぐ2)。三は、金変て粟と成る。四は、庭に蓮花生ぜり。五は、光り家の内に満たり。六は、鶏、鸞鳳を生ず。七は、馬、麒麟を生ず。八は、牛、白狏3)を生ず。九は、猪、豚を生ず。十は牙象現る。此の如き瑞相に依て、名を文殊と申す。
釈迦仏の御弟子と成て、普く一切法界等の如来の力、一切如来の智恵及び、一切如来の神変遊戯を摂し給ふ。
文殊は、釈迦仏には九代の師に在ます。然りと雖も、仏、世に出給へり。世に二仏並ぶ事無ければ、菩薩と現じ給て、無数の衆生を教化し給ふ也。仏け、末世の衆生の為に、宿曜経を説き給て、文殊に付属し給ふ。文殊、是を聞て、仏涅槃に入給て、百五十年に高山の頂に在まして、其の所の仙人の為に、説き聞しめ給ふ。
凡そ、内外典を世に弘めて、末世の衆生に善悪の報を知らしめ給ふ事は、此の文殊の御力也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「身ノ上一本又字アリ」
2) 底本頭注「上グ一本開クニ作ル」
3) 底本異体字「𤝛」
巻3第3話 目連為聞仏御音行他世界語 第三
今昔、仏1)の御弟子、目連尊者は神通第一の御弟子也。
諸の御弟子の比丘等に語て云く、「我等、仏の御音を所々にして聞くに、常に同して、只側にして聞が如し。然れば、我れ、神通の力を以て、遥遠(とほ)く行て、仏の音の高く下なるを聞むと思ふ」と云て、三千大千世界を飛過て、其より西方に、又、無量・無辺・不可思議・那由多・恒河沙の国土を過行て聞くに、仏の御音、猶同くして、只側にして聞つるが如し。
其の時に、目連、飛び弱て落ぬ。其の所、仏の世界也2)。仏の弟子の比丘有て、座に居て、施を受る時、目連、其の鉢の縁に飛び居て、暫く息む程に、仏弟子の比丘等、目連を見て云く、「此の鉢の縁に沙門に似たる虫居たり。何なる衣の虫の落来たるぞ」と云て、集会して此れを興ず。
其の時に、其の世界の能化の仏、此れを見て、御弟子の比丘等に告て宣はく、「汝ぢ等、愚痴なるが故に知らざる也。此の鉢の縁に居たるは、虫しには非ず。此より東方に、無量無辺の仏土を過て世界有り。娑婆世界と云ふ。其の国に、仏、出給へり。釈迦牟尼仏と号す。其の仏の、神通第一の弟子也。名をば目連と云ふ。師釈迦如来の音を聞くに、遠く近しと云へども、音同くして、高下無し。此れを疑て、遥に無量無辺の世界を過て、此の土に来る也」と説き給けり。御弟子等、此れを聞て、各歓喜す。
目連、此れを聞て、歓喜して、本土に返ぬ。仏の御音の不思議なる事を、弥よ信仰して、頂礼ひ奉りけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 『大宝積経』等によると光明王仏の光明幡世界。
巻3第4話 舎利弗攀縁暫籠居語 第四
今昔、天竺に仏1)の御弟子達、所々の安居畢て、仏の御前に集り給ふ時、舎利弗・羅睺羅、御前に来て、左右に在ます。
仏、羅睺羅に問て宣はく、「我が弟子の中に、誰人を以て上座とは為ぞ」と。羅睺羅、答へて云く、「舎利弗を以て上座と為る也」と。
其の時に、仏、此の二人を見給ふに、舎利弗は肥白くして宿徳也。羅睺羅は痩黒くして骨を現ぜり。仏、此れを見て宣はく、「何の故有て、我が弟子の中、舎利弗は肥たるぞ」と。羅睺羅、答て云く、「舎利弗は智恵朗にして、国の内に貴も賤も此の人を師と為り。然れば、味ひ勝たる珍物を運ぶ。此の故に肥たる也。羅睺羅は然らず。此れに依て痩たる也」と。
仏の宣はく、「我が法の中には、蘇油の食を許さず。何ぞ、舎利弗、肥たるぞや」と。舎利弗、此れを聞て、攀縁を発して発して隠れ居ぬ。
其の後、国王・大臣・長者、舎利弗の所に詣て、送くると云へども、敢て受けず。其の時に、国王・大臣・長者・諸官等、悉く挙て、仏の御許に詣て、白して言さく、「舎利弗を召て、『我等が請を受よ』と教へ給べし。其の故何となれば、大師は人の請を受給はず。舎利弗、亦、人の請を受給はずば、誰を以てか師として、仏事を勤めむ」と。
仏、此の衆に告て宣はく、「舎利弗は前世に毒蛇と有りき。此れに依て、前世の心深かりし習の故に、今、我が云ふ事を聞て怨を成す也」と宣ふて、即ち舎利弗を召て宣はく、「汝、速に人の請を受て、仏法の為に師と成れ」と。
時に舎利弗、仏の教に随て、国の内の諸の人の請を受て、仏事を勤めける事、本の如く也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻3第5話 舎利弗目連競神通語 第五
今昔、仏1)、祇薗精舎に在ます時に、多の御弟子達集り給に、舎利弗、未だ来給はず。其の時に、目連に告て宣はく、「汝、速に舎利弗の所に行て、呼て将来べし」と。
目連、仏の教に随て、舎利弗の所に行て、仏の御言を告るに、舎利弗、衣を補て居給へり。帯を解て地に置けり。
舎利弗、目連に告て云く、「汝は神通第一の人也。我が此の地に置ける帯を取り動かすべし」と。然れば、目連、神通を励して、此の帯を挙むと為るに、塵許も動かず。須弥は振ひ、大地は動けども、終に此の帯動かずして止ぬ。
亦、舎利弗、目連に云く、「汝は速に前に参るべし。我は後に至らむ」と。此れに依て、目連、仏の御許に返り参たるに、舎利弗、威儀を斁(やぶ)らずして、仏の御前に候ひ給ふ。目連、「希有也」と見て、止給ぬ。
此れを以て、目連知ぬ、「我れ神通第一也と云ども、舎利弗は増(まさ)れり」と。然れば、舎利弗は智恵・神通共に第一の人也けり。
「仏の御弟子達も、此の如きの挑事をし給ふ也けり。増して、末代の僧の智恵験(ちゑくらべ)を挑まむは尤裁(ことは)り也かしとなむ、語り伝へたる」とや。
1) 釈迦 
巻3第6話 舎利弗慢阿難語 第六
今昔、天竺に仏1)の御弟子達多く在ます中に、舎利弗は智恵第一の人也。阿難は有学の人にて、智恵浅し。然れば、舎利弗、常に阿難を慢(あまづ)り給ふ。
阿難の思はく、「我れ、何で舎利弗に勝む」と思て、仍(まさ)に風を病て、臥給へり。枕の辺に粥を盛て置たり。舎利弗、此れを訪はむが為に、阿難の所に来り給たるに、白衣にして法服を着ず。其の時に、阿難、此の粥を未だ用ゐずして、舎利弗に与へ奉れり。舎利弗、其の粥を食し給ひつ。其の時に、阿難、筵の下より、草一本を取出して、舎利弗に授て云く、「此れ速に大師の御許に持参り給へ」と。
舎利弗、此の草を取て、阿難の教の如く、仏の御許へ参り給ふ間に、途中にして、我が手足の爪を見るに、皆牛の爪に成にけり。
然れば、舎利弗、驚き怪で、仏の御許に急ぎ参て、此の事を問奉る。仏の宣はく、「汝が身は、此れ既に牛也。持来れる草は、亦汝が食也。但し、此の事は我れ知らず。速に阿難の所に還り至て、問ふべき也」と。
舎利弗、仏の此の如き宣ふに、弥よ聞き驚て、阿難の所に走り還て、此の由を阿難に告ぐ。阿難の云く、「汝ぢ当に知るべし。袈裟を着ず、呪願を為さずして、人の施を受くる比丘は、此れ畜生の報を得る也。其れに、慚無きが如くに、我が施を受け給ひつ。然れば、此の故に、此の報を感ずる也」と。
其の時に、舎利弗、心を至して能く懺悔して、此の報を転じつれば、爪も直り本の如く也。
此れを以て思ふに、「比丘は必ず袈裟を来て人の施をば受くべき也」と。亦、「人の施を受てば、必ず呪願すべき也」。されば、末代の比丘等、此の事を聞き、必ず袈裟を着して、人の施を受くべし。亦、尤も呪願すべき也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻3第7話 新竜伏本竜語 第(七)
今昔、天竺の大雪山1)の頂に、一の池有り。其の池に、一の竜住ぬ。其の時に、一人の羅漢の比丘有り。此の竜の請を得て、供養を受むが為に、縄床に居乍ら空を飛て、日毎に竜の栖(すみか)に行く。
然る間、羅漢の弟子に、一人の小沙弥有り。師の此の如く竜宮へ行くを見て、師に云く、「共に竜の栖に行かむ」と。師の云く、「汝は未だ覚(さと)り無き者也。竜の所に行なば、必ず悪き事有りなむ。更に具すべからず」と云て具せず。
然る間、此の沙弥、師の竜の所へ行く時、密に居たる縄床の下に取付て、隠て行ぬ。師、既に竜の所に至て、弟子沙弥を見て、希有の思を成す。
竜、羅漢を供養するに、香味の美食を以て供養す。弟子の沙弥には、例の人の食を以て与ふ。弟子、此れを食して、「師の供養をも皆同じ食物ぞ」と思て食しつれば、師の食物の器を洗ふ間、其の器に付たる粒を取て食するに、味ひ甚だ美也。更に我が食物に似ず。此れに依て、沙弥、忽に悪心を発して、師を恨る事限無し。亦、竜を妬むで思ふ様、「我れ、悪竜と成て、此の竜の命を断て、此の所に住て、王と成む」と願ひ畢て、師に随て、本の栖に還て、誠の悪心を発して、「悪竜と成む」と願ふに、其の夜を過ぎず死ぬ。願の如く、即ち悪竜と成ぬ。
然れば、今の竜、本の竜の栖に行て、思ひの如く竜を制伏して、其の所に住みぬ。師の羅漢、此の事を見て、歎き悲むで、其の国の大王、迦膩色迦王の御許に行て、此の事の終始を申すに、大王、此の事を聞き、驚て、忽に彼の池を填め給ふ。
其の時に、悪竜、大に怨を成して、沙石を雲の如く下(くだせ)り。荒き風、木を吹き抜き、雲霧降り覆て、暗夜の如く成る。
其の時に、大王、嗔て、二の眉より大に烟焔を出す。然れば、悪竜、恐れて、忽ち怨止ぬ。此れに依て、大王、此の池の跡に伽藍を建てたり。悪竜、尚怨の心失はずして、伽藍を焼つ。大王、重て伽藍を建たり。塔・率都婆を建てて、其の中に仏の骨肉舎利一升を安置し奉れり。
其の時に、悪竜、婆羅門の形と成て、大王の御許に来て云く、「我れ、悪心を止めて、今より本の心有らじ」と。然れば、伽藍にして犍椎を撃に、竜、其の音を聞て、「悪心を止てむ」と云ふ。
然りと雖も、猶ともすれば雲の気、常の其の所に出来る也となむ語り伝へたるとや。
1) ヒマラヤ山脈
巻3第8話 瞿婆羅竜語 第(八)
今昔、天竺に一人の牛飼ふ人有り。国王に乳酪を奉るを以て伇とせり。
然る間、乳酪絶たる時有て、心より外に乳酪奉る事を欠つ。其の時に、国王、大に嗔り給て、使を彼の牛飼ふ者の許に遣して、責むること限無し。此の牛飼ふ者、責の堪へ難きに依て、大に怨を成て、金の銭を以て花を買て、率堵婆に供養して、誓を発して云く、「我れ、咎無して責を蒙るに、堪へ難し。我れ、悪竜と成て、国を破り、国王を害せむ」と誓て、巌の高き所に昇て、身を投て死ぬ。
願の如く悪竜と成て、□□寺の坤に深き谷有り。峻(さかし)く嶮(けはし)くして、恐し気なる事限無し。其の谷の東の岸に、壁を塗たる様なる、高き石有り。其の石に大なる峒(ほら)の穴有り。峒の口、狭くして、内、極めて暗し。其の峒、常に潤ひ□□て、水滴り、此の大竜、其の峒を栖(すみか)とす。竜、本の悪願を遂る故に、「其の国を亡し、亦、国王を害せむ」と思ふ。
爰に釈迦如来、神通の力を以て、遥に此の竜の心を知給て、中天竺より、此の峒に来給ふ。竜、仏を見奉て、毒の心、忽に止て、不殺生戒を受て、「永く法を護らむ」と誓ふ。竜、仏に向ひ奉て、白して言さく、「仏、願くは、常に此の峒に在ませ。亦、諸の御弟子の比丘を勧給て、我が供養を受けしめ給へ」と。仏、竜に告て宣く、「我れ、久からずして涅槃に入なむとす。汝が為に、我が影を此の峒に留め置かむ。亦、五人の羅漢を遣しつつ、常に汝が供養を受けしめむ。汝ぢ、努め其の事忘るるべからず。亦、若し汝が本の毒心発る時有らば、我が此の留め置たる影の像を見るべし。然らば、其の毒心、自然(おのづから)止なむ。亦、此より後、世に出給はむ仏も、汝を哀び給ふべし」と契り置給て、還り給ぬ。
然れば、其の峒の仏の御影、于今失せずして在ます。其の竜の名を瞿婆羅と云ふ。唐の玄奘三蔵の天竺に渡て、此の峒に行て、其の影像を見奉て、記し置給へる也となむ、語り伝へたるとや。
巻3第9話 竜子免金翅鳥難語 第(九)
今昔、諸の竜王は大海の底を以て栖(すみか)とす。必ず金翅鳥の恐れ有り。亦、竜王は無熱池と云ふ池有り。其の池には、金翅鳥の難無し。大海の底に有る竜の、子を生たるを、金翅鳥、羽を以て大海を扇ぎ干て、竜王の子を取て食とす。
然れば、竜王、此の事を歎き悲むで、仏1)の御許に参て、仏に白して言さく、「我等、金翅鳥の為に、子を取られぬ事無し。何としてか、此の難を免かるべき」と。仏、竜王に告て宣はく、「汝ぢ、比丘の着せる袈裟を、一の角(すみ)の甲を取て、其の子の上に置くべし」と。
竜王、仏の教の如く、袈裟の一の甲を取て、子の上に置つ。其の後、金翅鳥来て、羽を以て大海を乾して、竜王の子を求むるに、更に見えず。然れば、金翅鳥、終に竜王の子を取る事能はずして帰ぬ。
此の鳥をば、迦楼羅鳥とも云ふ。此の鳥の二羽の広さ、三百卅六万里也2)。然れば、大さ勢思遣るべし。亦、猶を袈裟をば貴び敬ひ奉るべし。一の甲を上に置たるそら、金翅鳥の難を免かる。何況や、袈裟を着せらむ比丘をば、仏の如くに敬ふべし。譬ひ、破戒也と云ども、軽(かろし)め慢(あな)づる事無かれとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「此ノ鳥ヲバ以下ノ二十九字諸本ニ脱ス」
巻3第10話 金翅鳥子免修羅難語 第(十)
今昔、金翅鳥と云ふ鳥有り。其の鳥は、須弥山の片岫(かたくき)に巣を作て、子共を生(うみ)置けり。須弥山は高さ十六万由旬の山也。水の際より上八万由旬、水の際より下八万由旬也。其の水の際より上、四万由旬に此の鳥の巣をば作也。
亦、阿修羅王と云ふ者有り。身の勢、極て大き也。栖(すみか)二所也。一は海の側也。一は大海の底也。其の海の側と云ふは、須弥山の峡(かひ)・大海の岸也。其れに、金翅鳥の巣を咋(くひ)て生置ける子共を、阿修羅、山を動かして、鳥の子を振ひ落して、取て食はむとす。
其の時に、金翅鳥、此の事を歎き悲むで、仏1)の御許に参て、仏に白して言さく、「海の側の阿修羅王の為に、我が子を食はる。更に為べき方無し。何にしてか、此の難を遁るべき。願はくは、仏け、此れを教しへ給へ」と。仏、金翅鳥に告て宣はく、「汝等、此の難を遁れむと思はば、世間に人死て後、七々日に当る仏事を修する所有り。比丘有て、供養を受て、呪願して、施食を取る。其の施食の飯を取て、山の角に置くべし。然らば、其の難を遁るべし」と。金翅鳥、此の事を聞て帰ぬ。
仏の教の如く、其の施食の飯を求め取て、山の角に置つ。其の後、阿修羅王来て、山を動すに、敢て動かず。力を発して動すと云へども、塵許も山動かざれば、阿修羅王、力及ばずして帰ぬ。山、動かざれば、鳥の子、落ちずして、平安に養ひ立つ。
此れを以て知るに、四十九日の施は、尤も重し。然れば、人、勤むる所無くして、四十九日の仏事の所に至て、食用せむ事は、有るべからざる也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
 

 

巻3第11話 釈種成竜王聟語 第(十一)
今昔、天竺に四の姓の人、国王と成る。此れを離ては、国王の筋無し。其の釈種と云ふは、釈迦如来の御一族を云ふ也。其の中に殺生したる人は、此の氏の人と生まれず。仏の御類なる故也。
其れに、舎衛国の流離王と云ふ人有て、迦毗羅衛国の五百人の釈種を殺せりし時、釈種、皆、弓箭・兵仗の道を堪たりと云へども、此の族の習として、我が命は死ぬと云ども、人を殺す事無し。此れに依て、皆故(ことさら)に合戦する事無くして、殺されにき。其の中に、四人の釈種有て、毗流離王1)と合戦す。此れに依りて、此の四人をば、釈種の契を離れて、国の境を追ひ出しつ。2)
其の中に、一人の釈種有て、流浪する間、行き疲れて、途中に息み居たるに、一の大なる鴈有り。釈種に向ひ居て、更に恐れずして、馴れ睦びたり。釈種、近付くに、逃げねば、此の鴈に乗ぬ。然れば、此の鴈、遠く飛て去ぬ。
遥に飛て、何くとも知らぬ所に落ぬ。見れば、池辺也。木の茂りたる陰に寄て、借染(かりそめ)に打臥たるに、寝入にけり。
其の時に、此の池に住む竜の娘出て、水の辺りに遊ぶ程に、此の釈種の寝たるを見て、竜の娘、「夫に為む」と思ふ心、忽に出来て思ふ様、「此れは人にこそ有めれ。我れはかく怪き土の中に住む身也。定て怪み思ひなむ。亦、賤しみ蔑(あなづ)られなむ」と思て、人の形に成て、さり気無て遊び行くを、此の釈種見て、寄て物語などして近付き馴れにけり。
其の後、釈種、猶怪しく思ゆれば、云ふ様は、「己は、かく旅にて、怪しく弊(つたな)き也。日来、物も食はずして、痩せ疲れて穢気也。衣服も皆穢れ、汗付て、糸異様也。何でか、かく忝くは近付き馴れ給ふにか。返々す怖しくなむ思えさせ給ふ」と。竜の娘の云く、「父母の教へに依て、かく侍る也。哀に忝き契り侍りければ、申さむ事には随ひ給ひなむや」と云へば、釈種、「何でか、何事なりとも、かく許の契に御ければ、己も去り難く、忝くなむ思ひ奉る」と云へば、竜の娘、「君は止事無き釈種に在ます。自は賤しき身也」と云へば、釈種、「君の賤さは、何事か侍らむ。己れこそ、かく流人にて侍れば、賤しく侍れ。さても、此は山深く、池大にして、人の栖と見えず。在し所をば、何くにか侍るらむ」と云へば、竜の娘、「申し侍らむに、定て疎み思しぬべけれども、かく許成り給ひぬれば、隠し奉らむも由無し。実は、自は、此の池に住む竜王の娘也。『かく、止事無き釈種、多く放たれて、迷ひ行き給ふ』と聞き侍るに、幸に此の池辺に遊ばせ給へば、かく参りて、徒然をなぐさめ奉り、馴々しき事も侍也。亦、前世に罪を造りて、かく鱗の身を受たり。人と獣と、既に道異也。然れば、万づ糸慎(いとつつ)ましく侍り。家は此の池の内に侍り」と云ふに、釈種、此の事を聞て、「既に親く成ぬれば、今はかくなむ有るべき」と答ふ。
竜の娘、「糸うれしき事也」と喜びて、「今日よりは、何にも仰に随ふべし」と云ふ。釈種の云く、「我れ、前世の功徳の力に依て、釈種の家に生たり。願くは、此の竜女をして、人に成し給へ」と祈るに、誓に依て、其の身、忽に変じて人と成ぬ。其の時、釈種、喜び思ふ事限無し。
此の女、釈種に申さく、「我れ、前世の罪に依て、かく悪趣に生れたり。無数劫の苦を免れず。今、君の福徳に依て、其の身を刹那に転じて、人に成たり。『此の身を以て、君の徳を報ぜむ』と思ふに、賤しき身を以て、何にしてか、此の徳を報じ申さむ」と云ふ。釈種の云く、「何事をか報じ給はむ。然るべきにてこそ有らめ。今は、かくこそは有らめ」と。
女の云く、「かくて侍るべきに非ず。父母の所に行て、此の事を告(つげん)」と云て、行て、父母に申さく、「我れ、今日出て遊び侍つるに、釈種に値て侍りつ。而るに、彼の人の力に依て、既に身を改めて、人と成て侍り。一度、親しみ馴つるに、功徳、深く染にたり。此れに依て、互に契り有り」と云へば、竜王、此れを聞て、娘の人に成るを喜び貴び、釈種を敬ふ事限無し。
かくて、竜王、池より出でて、人の形にて、釈種に向て、膝ま突て申さく、「忝く、釈種、賤き身を簡(えらば)ずして、怪しき姿を御覧じつ。願くは、此の栖に入らせ給へ」と云へば、云に随て、竜宮に入ぬ。見れば、七宝の宮殿有り。金の木尻・銀の壁・瑠璃の瓦・摩尼珠の瓔珞・栴檀の柱也。光を放つ、浄土の如く也。其の内に、七宝の帳を立てて、無量の荘(かざ)り有り。心も及ばず、目も耀く。亦、重々の微妙の宮殿共有り。其の中により、玉の冠をし、百千の瓔珞を垂たる、厳(いかめ)しく気高き人出来て、迎へて登せて、七宝の床の上に居(すゑ)つ。種々の樹有り。皆七宝の瓔珞を懸たり。大なる池有り。荘れる舟共有り。百千の伎楽を発す。諸の大臣・公卿、百千万の人、品々に有り。万づの楽しみ、心に叶はぬ事無し。
然りと雖も、此の釈種の思はく、「かく有りと云へども、此等、皆実には蛇の鱣(わだかま)り、蠢(うごめ)き、動き合へるにこそは有め」と、常はむづかしく物怖し。「何にして、此の所を出でて、人の里に行ばや」と思ぬ。
竜王、其の気色を見て、□□□□□□□□さにこそ、一の国の王として、此の世に御ませ」と云へども、釈種、「我が願にも非ず。『只、本の国の王と成ばや』となむ思ひ侍る」と云ふ。竜王の云く、「其れは糸安き事也。此の世界なり3)無量の宝を、思ふに随て、七宝の宮殿に居て、彼(かしこ)よりも広く辺(あた)り無き国にて、命を永くて御まさむは、吉くこそ侍らめ。然りと雖も、『只、本の国に有む』と願はしめ給へば、さにこそは侍なれ」と云て、「若し然ば、此れを見せさせ給へ」とて、七宝を以て荘れる玉の箱の中に、微妙なる錦に釼を裹て入たり。
此れを与へて教ふる様、「天竺の国王は、遠き所より持此れる物をば、必ず自ら手移に取り給ふ也。然れば、其の次(ついで)に、曳寄せて、突き殺し給へ」と云へば、釈種、竜王の教に随て、本国に行て、天皇の御許に参て、此の宝の箱を奉るに、竜王の云如く、自ら箱を手移しに取り給ふに、袖を捕へて突き殺し奉りつ。大臣・公卿、及び諸の人、驚き騒て、此の釈種を捕へて殺さむと為るに、釈種の云く、「此れは、神の、『此れを以て得させて、国王を殺して、位に即(つけ)』と有れば、殺したる也」と云て、釼を抜て立れば、大臣・公卿の云く、「然るに由無し」と云て、位に即けつ。其の後、政、賢ければ、国の人、皆敬ひかしこみて、万づ皆随ひぬ。
さて、大臣・公卿・百官を曳将て、竜宮に行て、后を迎へて、国に帰ぬ。帝王、后と限無く思ひ傅(かしづき)て棲む程に、此の后、本の気分有て、さ許をかし気に目出(めでた)く清気なるに、寝入たる時と、二人臥して例の婚合(まぐはひ)の時とには、后の御頭より、蛇の頭九つ指出でて、舌なめづりをひらひらとして有れば、其れに、此の天皇、少し「疎まし」と思ひて、后の寝入り給へる程に、例の如く指出でてひらめくに、蛇の頭共を皆切り捨つ。
其の時に、后、悟て云く、「自らの為に悪き事には無けれども、御後の子共や、世々を経て、頭を病み給ひ、国の人や、かかる病を為む」と宣ふ。此れに依て、后の云ふが如くに、国に有と有る人、皆頭病む事絶えざりけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 前出、流離王に同じ。
2) この段落、巻2第28話 流離王殺釈種語 第(廿八)参照。
3) 底本頭注「ナリハ、ヤ(也)ノ誤カ」
巻3第12話 須達長者家鸚鵡語 第(十二)
今昔、天竺に須達長者と云ふ長者有けり。仏法を信じ敬て、諸の比丘の為に、檀越として常に比丘を供養す。
其の家の内に、二の鸚鵡と云ふ鳥有り。一をば律提と云ふ。一をば賒律提と云ふ。此の鳥、畜生也と云へども、心に智恵有て、其の家に比丘の来る時は、此の鳥、先づ出て比丘を見て、家の内に入て、長者に告て迎へ送る。此の如くして、年来有り。
其の時に、阿難、長者の家に来て、此の二の鳥の聡明なるを見て、鳥の為に四諦の法を説き聞かしむ。家の門に樹有り。此の二の鳥、法を聞むが為に、樹の上に飛昇て、法を聞て、歓喜して受持す。其の夜、樹の上に宿るに、狸の為に二の鳥喰はれぬ。
法を聞て歓喜せしに依て、此の二の鳥、四天王天に生るべし。其の天の命尽て、此の如く次第に生じ上て、他化自在天まで生れぬ。上下七返して、一々に天の命尽き畢て、人界に生れて、出家して、比丘と成て、道を修して、辟支仏と成る事を得べし。一をば曇摩と名付く。二をば修曇摩と名付く。
此れを以て思ふに、法を聞て歓喜する功徳、量無しとなむ、語り伝へたるとや。
巻3第13話 仏耶説輸多羅宿業給語 第(十三)
今昔、仏1)、悉達太子と申し時に、三人の妻御しき。其の中に耶輸多羅2)と申す人有り。其の人の為に、太子、懃(ねんごろ)に当り給ふ事有れども、思ひ知たる心無し。太子、無量の珍宝を与へ給ふと云へども、更に喜ばず。
太子、仏に成給て、此の耶輸多羅の宿業を説て宣はく、「此の人、前世に、天竺に迦羅国と云ふ国有りき。其の国に王有りき。其の后をば、波羅那婆と云ひき。其の王、甚だ暴悪にして、深く邪見に着せり。其の王に、一の太子有りき。太子、聊の咎有て、国王、太子を追て、国の境を掃ひつ。
然れば、太子、妻を相具して国の境を出でて、一の社の傍に宿せり。食物無に依て、自ら弓箭を取て、諸の獣を殺しき。其れを食として、世を経る程に、世の中に食物皆失せて、飢渇に合ぬ。猟漁も叶はず、忽に餓死なむ事を歎く。
自然ら、大なる亀の這ひ行くを見付つ。此れを殺して、甲を放て、鍋に入れて煮るに、太子、妻に云く、『汝ぢ、行て水を汲て来れ。此れを善く煮て、共に食せむ』と。妻、夫の云ふに随て、水を汲まむが為に、桶を戴て、遠き所に行ぬ。
其の間、太子、飢餓の堪難さ限り無き故に、未だ煮えざる亀の肉(しし)を、一切づつ取て食ふ程に、亀の肉村皆な失せぬ。太子の思はく、『妻に水を汲ませて、返り来り問はむに、我れ何に答へむ』と、歎き思ふ程に、妻、水を戴て、無力(ちからな)の気色にて返り来れり。
鍋の中を見るに、亀の肉村無し。『此の亀は、何所へ去ぬるぞ』と云へば、夫、答ふべき方思(おぼ)えずて、『眠り入たりつる程、生煮なりつれば、亀は命長がき者なれば、海に走り入りにけるぞ』と答ふ。妻の云く、『知らずや、汝ぢ、此れ虚言也。甲放て鍋に入れて、善く煮たらむ亀は、何でか逃て海に入らむ。只、『餓の堪難さに、食たる也』と云ふべき也。我が餓て無力なるを、遥に遠き所に計り遣て、汝ぢ独り食せり。我れ、有と云ふとも、食せずして止むべからず」と云て、恨むる事限無し。
而る間、父の王、重病を受て、俄に死ぬれば、此の太子を迎へて、国の王と成しつ。後、妻も后とせり。其の後、王国を治めて、財宝を后に任せ与ふ。然りと云へども、后、更に喜ばず。王、后に云く、『此の如く、万事を汝に任せたるに、何ぞ喜ばざるぞ』と。后の云く『今、万を心に任せたる、喜に非ず。昔し、我れ餓死なむに、財宝を得、万事を知らす事非じ。此(かく)は、只国を知り、財の多かれば、等閑に為る也。堪難(たへがたかり)し時は、亀の肉も独りこそは食しか。我れには、一切残してやは食せし』と云て、喜ばざりき。
其の時の太子の、亀の肉を独り食しは、今、我が身此れ也。水を汲に行し妻は、今の耶輸多羅也。此の事に依て、世々に夫婦と成ると云へど、此の如く快からざる也。墓無かりし亀の肉村に依て、虚言をもし、瞋恚をも発さしめてき」と説き給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 耶輸陀羅に同じ。
巻3第14話 波斯匿王娘金剛醜女語 第(十四)
今昔、天竺の舎衛国に王有り。波斯匿王と云ふ。后をば、末利夫人と云ふ。其の后、形貌端正美麗なる事、十六の大国に並ぶ女無し。
一人の女子を生めり。其の女子の有様、膚は毒蛇の如し。其の臭き香、人近付くべからず。太き髪、左に巻て、鬼の如く也。惣て形・有様、皆人に似ず。此れに依て、此の女子の様を、大王・后・乳母、三人許知て、余の人には全く知らしめず。
大王、后に云く、「君が子は、此れ金剛醜女也。甚だ怖ぢ畏るべし。速に別の所に居(す)うべし」と宣ひて、宮の北に、二里を去て、方丈の室を造て、乳母、并女房一人を具して、室の内に籠め居て、更に出入せしめず。
金剛醜女、十二三歳に成る程に、母、末利夫人の端正美麗なるを推量りて、十六国の大国の王、各、「后に為む」と乞ふ。然れども、父の大王、用ゐずして、一人の人を以て、忽に大臣に成して、此れを聟と云て、此の金剛醜女に副へ置たり。此の大臣の、心に非ずして、かかる怖(おそろ)しき事に会て、昼夜歎き侘ぶる事限無し。然れども、大王の仰せ背き難くて、彼の室に有り。
然る間、大王、一生の大願として、法会を懃(ねんごろ)に修し給ふ。金剛醜女、第一の女子也と云へども、其の形醜きが故に、此の法会に来ず。諸の大臣、金剛醜女の有様を知らざるに依て、法会に来ざる事を奇(あやし)び疑て、構ふる様、酒を以て、此の聟の大臣に呑ましめて、善く酔ぬる時に、大臣の腰に指(さし)たる匙(かぎ)を密に取て、下官の人を以て、有様を見せむが為に、彼の室へ遣る時に、彼の金剛醜女、此使の未だ至らざる前に、室の内に独居て、歎き悲て云く、「釈迦牟尼仏、願くは、我が形を忽に美に成して、父の法会に会はしめ給へ」と。時に、仏、庭の中に現はれ給ふ。金剛醜女、仏の相好を見奉て歓喜す。此の故に、忽に我が身の上へに、仏の相を移し得たり。
「夫の大臣に、此の事を速に告む」と思ふ間に、此の下官の人、密に来て、物の隙より見るに、室の内に一人の女有り。形貌端正なる事、仏の如く也。使ひ返て、諸大臣に告て云く、「我が心にも及ばず、未だ曾てかく端正なる女人の形を見ず」と。
聟の大臣は、悟(さ)め起て、室に行て見れば、見も知らぬ美麗なる女人居たり。近も寄らで、疑て云く、「我が室には誰人の来給へるぞ」と。女の云く、「我は、汝が妻、金剛女也」。夫の云く、「更に非じ」と。女の云く、「速に我れ行て、父の法会に会はむ。我れ、釈迦の引接を蒙れり。故に現身に替たり」と。
大臣、此の事を聞て、走り返て、大王に此の由を申す。大王・后宮、聞き驚て、忽ち輿1)(こし)を振て、彼の室に行幸して見給ふに、実に世に似ず端正美麗なる事、譬へむ方無し。即ち、娘を迎て、宮に将来ぬ。
願ひの如く、法会に会ぬれば、大王、娘を具して、仏の御許に将参て、此の事を一々に問奉る。仏の宣はく、「善く2)、此の女人は、昔、汝が家の御炊也。汝が家に、一人の聖人来て、施を受く。汝ぢ、善願有て、一俵の米を置て、家の諸の上下の人に、此の米を摶(にぎ)らしめて、供養せしめき。
其の中に、此の女、供養しながら、僧の形の醜き事を謗りき。僧、即ち、王の前に来て、神変を現じて、虚空に昇て、涅槃に入にき。彼の女、此れを見て哭(なき)て、謗りし罪みを悔ひ悲しみて、僧を供養せし故に、今、大王の娘めと生たりと云へども、僧を謗ぜし罪に依て、鬼の形を得たり。然れども、又、懺悔を至し故に、今日、我が教化を蒙て、鬼の形を改て、端正の姿と成て、永く仏道に入る也。
此の故に、僧を謗ずる事無かれ。又、譬ひ罪を造る事有とも、心を至して懺悔すべし。懺悔は第一の善根の道也」と説給ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本異体字「轝」
2) 底本頭注「善クハ善カナノ誤カ」
巻3第15話 摩竭提国王燼杭太子語 第(十五)
今昔、天竺の摩竭提国に王有り。五百の太子有り。各勢長して、分々に威勢を施し、皆世を恣にす。其の中の第一を燼杭太子と云ふ。身の黒き事、墨の如し。髪の赤き事、火の燃たるが如し。形貌の醜き事、鬼神に異らず。王・后、此れを厭て、方丈の室を造て、人に見せずして、臥せ置たり。
かかる程に、他国の軍発て、此の国に来て、責め罸(うたん)とす。然れば、王、数千万の軍兵を儲て、合戦を企と云ども、此の国の軍、数も劣り武き事も劣て、既に罸ち取られぬべし。此れに依て、王宮騒動して、逃去む事を歎き悲む事限無し。
其の時に、燼杭太子、室の内に有て、かく王宮の騒ぐを聞て、乳母を喚て、問て云く、「例ならず宮の内の騒動するは、何事の有ぞ」と。乳母の云く、「君、知り給はずや。他国の軍来て、此の国を罸取むとす。此れに依て、大王・后・王子達、皆他国へ逃去り給ひなむとす。君も何(いづくに)か流浪し給はむとする」。燼杭太子の云く、「其れは事も非ぬ事にこそ有なれ。何に我には、速(はや)く告げざりけるぞ。我れ、只今行て、其の軍を追返さむ」と云て、起居たり。乳母、此の由を大王に申す。王、更に信じ給はず。
其の時に、燼杭太子、父の大王の前に出て申さく、「我れ、此の軍を追返さむと思ふ」と云て、人を召て云く、「我が祖父の転輪聖王の御弓、此の宮の天井に有り。求取て来れ」と。人、弓を求め取て来れり。燼杭太子、喜て、弓を取て、弦を打つに、其の音、既に四十里に聞ゆ。雷電の響の如く也。太子、此の弓に、箭一手を取具し、又宝螺一を腰に付て、只独り王宮を出ぬ。
父の大王・母の后、共に哭々(なくなく)留めて云く、「軍の陣に入る者は、生て返る事万が一也。汝、形醜しと云へども、我が子也。速に留て、行くべからず」と。太子、留まらずして、速に軍の陣の前に至て、先づ宝螺一両度吹くに、若干の軍、恐(おぢ)怖れて、地に倒れぬ。次に弓の弦を打つに、皆逃去ぬ。其の時に、太子の云く、「弓の弦を打にそら既に此の如し。若し、一の箭をも放たむに、千万の軍也とも何ぞ」と云懸けて、王宮に返ぬ。大王、喜て云く、「我れ、五百の太子を養育しつれども、此の軍の来るに、更に力及ばず。汝ぢ一人ぞ、我が子也ける」とて、喜ぶ事限無し。
かくて、太子、年五十にて、始めて、「妻を儲けむ」と云て、「下品の人には娶(とつ)がじ。上品の人に娶がむ」と云ふに、父の王、思ひ煩て、「下品の人そら、此の太子の形・有様を見てば近付かじ。何況や、好人をや。我が国の人は、皆、此の太子の有様を知れり。然れば、他国の王の娘を既に燼杭太子に娶しめむ。然れども、形醜きに依て、昼は見しめじ」と思ひて、夜隠にして合せつ。
其の後、月日を経て、大王、思給ふ様、「我れ、五百の婦有と云へども、未だ見ざれば、皆不審(おぼつかな)し。我れ、花の逍遥を儲て、此の婦共を一々に見む」と思て、某月某日1)を定めて、「花の逍遥有るべし」と廻らす。諸の婦共、衣裳の袖口を調て、綾羅の錦、身を纏ふ。所従の眷属は、衣裳を染め張り、青・黄・赤・白の色を尽して、薄く濃く調ふ。
既に其の日に成て、各南殿の前の前栽の中の池の淀みにして、或は船に乗て梶を取り、或は筏に乗て棹を指す。或は前栽の中に花を翫び、或は虫の音を聞て詠を吟じ、此の如く遊戯す。大王・后は、玉の簾を巻上て、此れを見る。宮の内の上下の人、数を尽して、此れを見る事雲の如し。天下の見物、何事か此れに過ぎむ。燼杭太子の妻も、夫は無けれども、出て共に延年す。
其(そこ) に、一人の命婦、燼杭太子の妻を咲て云く、「何ぞ、和君独り延年し給ふぞ」と。又、他の命婦の云く、「御夫の形ちの美ければ」と。燼杭太子の妻、此の事を聞て、恥て隠入ぬ。
密に乳母に語て云く、「人の云事有りつ。『我が夫の形を見む』と思ふ。夜る来らむ時、火燃(とも)して見せよ」と。乳母、教への如く、太子の来るに、俄に火を燃したり。妻、此れを見るに、形、鬼神の如く也。此れを見て、逃て隠ぬ。太子、恥て返ぬ。其の妻、夜の内に本国に返ぬ。太子、歎く事限無し。
此れに依て、太子、夜曙(あけ)て、深き山に入て、高き所より身を投ぐるに、樹神来て、太子を受取て、平地に居(おか)せつ。其の時に、天帝釈来て、太子に一の玉を授け給ふ。太子の申さく、「我れに玉を授け給ふは誰人ぞ。我れ、愚痴なる故に知らず。若し、仏の来給へるか。然らば、我が前世の果報を説給へ」と。
帝釈の宣はく、「汝は前世に貧き人の子と有りき。乞食の沙門来て、油を乞しに、汝が父は、『清き油を与へよ』と云しに、汝ぢ、清き油をば惜置て、不浄の油一勺を与へき。其の功徳に依て、父は国王と生れ、汝は王子と生れたる也。而るに、不浄の油を与たるに依て、形醜き身と成れる也。我れは天帝釈也。汝を哀て、玉を懸けつ」と宣て、去給ぬ。
其の後、太子、形貌端正に成て、光を放つが如し。其の時に、王宮より太子を尋ね来て、太子を見て云く、「若し、此れ仏か、又、我が尋る所の太子か」と。太子の云く、「我れは汝が主、燼杭太子也。俄に形を替て、光を放つ事、若し此の得たる給の所為か」と云て、玉を取て外に置ければ、本の形に成ぬ。又、玉を懸れば、端正に成て、光を放つ。かくて、太子を王宮に将返ぬれば、父の大王、出向て此れを見て、先づ事の有様を問給ふに、太子、一々に語るを聞て、大王・后、喜び給ふ事限無し。
日を経て、太子、妻の本国へ行ぬ。妻、夫を見るに、端正美麗なれば、心の内に喜思ふ。又、舅の国王も喜て、太子に国と位を譲りつ。太子、又、妻を具して、我が本国へ返ぬ。又、我が父、大王も国と位を譲りつ。然れば、両国の王と成て、天下を恣に政(まつりごち)けり。
「油一勺を僧に施たる功徳、此の如し。何に況や、万灯会を修せらむ人の功徳、思ひ遣るべし」と、仏2)の説給也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「某月某日諸本其月其日に作ル」
2) 釈迦 
巻3第16話 貧女現身成后語 第(十六)
今昔、摩竭提国に一人の貧き老女有り。年八十余也。一人の娘有り。年十四也。母に孝する心、尤も深し。
其の国の大王、御行有り。国の上下の人、挙て此れを見むと思へり。此の老母、娘に問て云く、「汝、明日は大王の御行と聞く。見むやと思ふ。若し、汝ぢ出なば、我れは水餓(うゑ)なむとす」と。娘の云く、「我れ、更に見るべからず」と。
其の日に成て、娘、母の為に、菜を採(つま)むが為に出たる間、自然ら大王の御行に会ぬ。此の女、更に見えずして、曲(かがま)り居たり。其の時に、大王、遥に此の女を見て宣はく、「彼所(かしこ)に一人の下女有り。万ずの人、皆我れを見むとす。彼の女、一人のみ、我を見ず。若し、故の有るか。眼の無か。面の醜か」と宣て、輿を留めて、使を遣て問はしめ給ふに、女、答て云く、「我れ、眼目手足、皆欠けず。亦、大王の御行を極めて見むと思ふ。然而(しかれど)も、家に貧しき老母有り。只、我れ独して彼を養ふ。孝養するに暇無し。若し、王の御行を見むが為に出なば、母が孝養怠ぬべし。然れば、出て御行を見ざる也。但し、母を養はむが為に、菜採に白地(あからさま)に出たるが、自然に御行に会へる也」と申す。
其の時に、大王、此の由を聞て、輿を留めて宣はく、「此の女、世に有難き心有けり。速に近く召すべき也」と宣ひて、近く召寄せて宣はく、「汝ぢ、世に有難き孝養の心深し。速に我に随ふべし」と。女、答て云く、「大王の仰せ、極て喜ばし。然而も、家に貧き老母有り。我独りして孝養するに、暇無し。然れば、先づ還て、母の此の由を申して、免(ゆる)さば還参るべし。猶、卿の暇を給らむ」と申す。「先づ還て母に云く1)」
大王、免し給つれば、女、母の所に還り至て、先づ母に向て云く、「久く還らずとや思給つる」と。母、答て云く、「然か思つ」と。其の時に、娘、「大王の仰せ、此の如き有りつ」と語るに、母、此れを聞き、喜て云く、「我れ、汝を生じて養育せし時、『国王の后妃と成さばや』と思き。其の本意の相ひ叶へるにや。今日、大王の遷2)に仰せ給ひつらむ事、極て喜ばし。願くは、十方の諸仏如来、加護を垂て、我が娘、我に孝養の心深し、此の徳に依て、必ず大王忘給はずして迎へしめ給へ」と願ふ。
其の日は暮れぬ。大王、宮に還て、此の下女の事、忘れ難くて思給ければ、車卅両を以て、明る日、迎へに遣ぬ。彼の家には、明る日の朝に、思ひ懸けざる程に、貧き家の門に、多の車の音聞ゆ。「適(たまたま)人の行き通か」と思て、能く聞けば、「此の家か」と問ふ。人入来て、七宝を以て荘(かざ)れる輿を持来れり。我が娘を呼出て、微妙の衣服を着せて、此の輿に乗せて、既に王宮に迎へつ。老母は此れを見て、涙を流して、喜ぶ事限無し。大王は此れを迎て、見給ふに、本の三千人の寵愛の妃は、皆此れに劣れり。終日終夜見給ふと云へども、足らざりけり。天下政留まりて、万事を背き給ふ。
此れ、他に非ず。母に孝養しける徳に、現身に身を改て后と成れる也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「先ヅ以下ノ八字ハ衍ナラン」
2) 底本頭注「遷一本還又一本反ニ作ル」
巻3第17話 羅漢比丘為感報在獄語 第(十七)
今昔、罽賓国に一人の比丘有り。深き山に入て、仏道を修して、終に羅漢果を得たり。
其の時に、郷に一人の優婆塞有り。牛を失ひて求むる間に、此の山に住ぬる羅漢の所に求め至れり。優婆塞見れば、羅漢の着たる黒き衣は、牛の皮と成れり。置き散じ奉れる所の法文・正教は、牛の宍(しし)を切置けるに成ぬ。置ける所の菜は、牛の骨と成れり。
優婆塞、此れを見て、「此の失へる所の牛は、此の比丘の盗けるぞ」と思て、還て国王に此の由を申すに、国王、宣旨を下して、羅漢を捕へて、獄に禁(いましめ)られぬ。其の間、羅漢の弟子等、外に求むと云へども、更に尋ね得る事能はずして、既に十二年1)を経たり。
弟子等、終に獄に尋ね至て、相ひ見る事を得て、哭き悲む事限無し。弟子等、国王に申して云く、「我等が師、獄に在まして、既に十二年を経給へり。此れ何なる咎と知らず。此の人は、既に羅漢果を得たり。舎利弗・目連・迦葉・阿難等と異ず。而るに、弟子等、此の人を失ひて、十二年の間尋ね求むと云へども、尋ね得る事能はず。今獄にして、相ひ見る事を得たり。願くは、大王、此れを免し給へ」と。
大王、此の事を聞て、驚て、使を獄に遣て、尋ねらる。使、獄に至て見るに、優婆塞のみ有て、更に比丘の形無し。早く、此の比丘、十二年の間、頭を剃らざりければ、長髪に成て、自然(おのづから)に還俗し給にけり。此れに依て、此の使、「此の獄に十二年を経たる比丘や有」と、四五度許呼ぶ時に、一人の優婆塞、答て出来れり。獄門を出て、忽に十八変を現じて、光を放て、虚空に昇る。
其の時に、国王の使、此の人に問て云く、「汝ぢ、何の故有てか、羅漢の聖者として、獄には禁められ給へるぞ」と。羅漢、答て云く、「我れ、前世に人と生れて有し時、只一人、人に無実の言を云ひ負(おほ)せてき。而るに、今、我れ羅漢果を得たりと云へども、未だ其の果報を感ぜざりつ。其れに依て、此の度び其の罪を滅しつる也」と云て、則ち、光を放て、虚空に昇て失ぬ。
使、還て、国王に此の由を申す。国王、此れを聞て、極て罪を恐れ給ひけり。
然れば、花開れば、必ず果を結ぶ。罪を作れば、定て果を感ずる也。此の故に、『阿含経』には、「自業自得果」と説き給へり。心有らむ人は、此れを知て、罪を造るべからず。又、無実の言を人に負はすべからずとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「十二年一本十三年ニ作ル下同ジ」
巻3第18話 駈二人羅漢弟子比丘語 第(十八)
今昔、天竺の王城に、三宝を供養するに、蘇・蜜無ければ、供養する事無し。
其の時に、施主有り。山寺に昇て、比丘を供養せむと為るに、蘇を取り忘れて昇にけり。
其の時に、其の師の比丘の弟子二人に、二人の沙弥有り。師に奉仕する事、片時も怠る事無し。菜を採(つ)み、水を汲み、薪を拾て、朝暮に師に駈(つか)ふる事限無し。而るに、其の師、放逸邪見の身にして、二人の沙弥を駈ふに、一時の暇を慰めず。
而るに、此の二人の沙弥、彼の忘れたる蘇を取て、持来たらむが為に、出て行ぬ。良(やや)久く待に見えず。其の時に、施主、沙弥等の遅く来るを見むが為に、道に出て、草の中に居て、沙弥を待ち見る時に、二人の沙弥、既に来たり。途中にして、此の二人の沙弥、俄に十八変を現じ、菩薩普賢三昧に入て、光を放て、法を説き、前生の事を現ず。
施主、此れを見るに、希有の思ひを無す。然れば、「此れは羅漢の聖者也けり」と思ふに、貴き事限無し。師の所に怱(いそ)ぎ還り至て、師の此の由を語る。師、此れを聞て、亦奇異の思ひをば成ぬ。
其の時に、二人の沙弥、蘇を取て還り来る。師、二人の沙弥に向て云く、「我れ、愚痴にして、知らざる故に、羅漢の為に年来無礼を至せり。願くは、此の罪みを免し給へ」と。沙弥の云く、「我等、忽に途中にして神通を現じて、師に見えたり。悲哉、亦何なる所行有てか、師に駈(つかはれ)む」と云て、哭き悲む。「師に駈へざるに、仏に成る事遅し」と云て、光を放て、立たずして、二人共に法を説く。師も施主も、此れを聞て、共に信仰する事限無し。
亦、沙弥の云く、「我等、初地に登る」と云へり。然れば、位高く、無上菩薩と申す。形ち凡夫に現じて、人に仕はれ給へり。
仏に成る道、障り多し。心有らむ人は、此れを聞て、悟るべしとなむ、語り伝へたるとや。
巻3第19話 須達家老婢得道語 第(十九)
今昔、天竺の舎衛城の中に、須達長者有り。其の家に一の老婢有り。名をば毗低羅1)と云ふ。常に長者の家業を営む。
長者、仏2)、及び比丘僧を請じて供養す。老婢、此れを見て、慳貪の心深きが故に、仏法僧を嫌て云く、「我が主の長者、愚にして、沙門の術を信ぜり。我れ、何なる時にか、仏の名を聞かず、比丘の名を聞かぬ事を得む」と。此の音、既に舎衛城の内に満てり。
其の時に、国の后、末利夫人、此れを聞て思はく、須達長者は吉き蓮花の如くして、諸の人の讃(ほめ)らるるに、何ぞ、家に毒蛇を置て護る」と云て、夫人、須達の妻に語て云く、「汝が家の老婢、悪口を以て三宝を誹謗す。何ぞ擯(おひ)出さざるぞ」と。長者の妻、答て云く、「鴦掘摩羅等の悪人をそら、仏は伏し給ふ。何況や、此の老婢をや」と。末利夫人、此れを聞て、喜て云く、「我れ、明日に仏を宮に請じ奉らむ。汝ぢ、彼の老婢を宮に来たらしむべし」と。長者の妻、此の事を受て返ぬ。
明る日、瓶に金を入れて、此の老婢に持たしめて、謀(はかりご)ちて、王宮へ奉る。末利、老婢の来るを見て、仏を請じ奉る。仏、王宮に至り給て、正門より入り給ふ。難陀は左に有り。阿難は右に有り。羅睺羅は後に随へり。
老婢、仏を見奉て、驚き騒ぎて、心迷ひ毛竪(よだち)て云く、「此の悪人、既に我れに随て来れり。我れ、速に返りなむ」と云て、逃て走る。正門には仏在ませば、其の方へは向はずして、脇戸より出むと為るに、脇戸、自然(おのづから)に閉て塞りぬ。然れば、老婢、扇を以て面を覆ふに、仏、其の前に在まして、扇を鏡の如くに成して、障ふる事無し。老婢、騒ぎ迷ふて東方を見れば、仏在ます。南西北方を見るにも、仏在ます。仰て上を見れば、仏在ます。低(うつぶ)して下を見れば、又、仏在ましぬ。手を以て、面に覆へば、手の十の指の前毎に、化仏在ます。眼を塞げば、心にも非ず、眼開けぬ。虚空を見れば、十方界に化仏満ち給へり。
又、本自り、白の内に廿五人の旃陀羅女有り。又、五十の婆羅門女有り。又、宮の内に、仏を信じ奉らざる五百人の女有り。仏の、老婢の為に無数の身を現じ給ふを見て、各、本の邪見を捨て、始て仏を礼拝して、「南無仏」と称す。忽に菩提心を発しつ。老婢は邪見深くして、猶信ぜず。然りと云へども、親く仏を見奉れるに依て、諸の生死の罪を滅しつ。
老婢、長者の家に返て、須達の妻に申さく、「我れ、今日、君の使として王宮に至る間、狗曇3)、王宮の門に有り。諸の幻化を成しつるを見つ。身は金山の如く、眼は青蓮に過たり。光りを放つ事、無量也」と云て、木を以て籠を造て、其の中に入て臥ぬ。
仏は祇洹精舎4)に返り給はむと為るに、末利夫人、仏に言さく、「願くは、仏、此の老婢を化度し給て後、精舎に返り給へ」と。仏の宣はく、「此の老婢、罪重くして、我れに縁無し。羅睺羅、此れを化度せむに縁有り」と宣て、返り給ひぬ。
然て、羅睺羅を須達の家に遣す。羅睺羅、彼の老婢を度せむが為に、変じて転輪王と成ぬ。千二百五十の比丘、又、化して千子と成て、須達の家に至ぬ。彼の老婢を以て、玉女と為(せ)り。老婢、歓喜して輪王を礼拝す。輪王、十善を説て、婢に聞しめ、婢、十善を聞て、心に調伏しぬ。
其の後、羅睺羅、及び諸の比丘、各本形に復しぬ。老婢、此れを見て云く、「仏法清浄にして、衆生を捨てず。我れ、愚痴なる故に、年来此れを信ぜず。我が弊悪なるを、吉く化度し給へり」と云て、五戒を受て、須陀洹果を得つ。即ち、仏の御許に詣て、前の罪を懺悔して、出家を求むるに、又、阿羅漢果を証しつ。虚空に昇て、十八変を現ず、
波斯匿王、此れを見て、仏に白して言さく、「此の老婢、前世に何なる罪有る人の、婢と成て駈(つか)はれ、又、何なる福有て、仏に値奉て道を得つ」と。
仏、王に告て宣はく、「過去の久遠に、仏、世に出給へりき。宝蓋灯王仏と申しき。涅槃に入給て後、像法の中に王有き。雑宝花光と云ふ。王子有り。快見と云き。其の人、出家して道を学ぶ。自ら王子と恃むで、常に憍慢を成しぬ。
師に和上有りき。王子の為に甚深般若の空義を説(とき)き。王子、此れを聞て、『邪説』と思き。師、滅して後に云く、『我が師、智恵無して、空の義を説く。我れ、願くは、後の世に此の人に値はじ』と。
其の後、又一人の阿闍梨有き。又、其の人を師として云く、『我が師、阿闍梨の智恵、朗にして弁才有り。願くは、世々に此の人と善知識と成らむ』と云て、諸の弟子を教へて、空の義を『邪説也』と信ぜさせき。
然れば、戒を持(たも)つと云へども、般若の空の義を疑しに依て、命終して、阿鼻地獄に堕て、苦を受る事無量也。地獄を出ては、貧賤の人と生て、五百世の聾盲の身と有り。千二百世には、常に人の婢と成れり。其の時の和上と云は我が身、此れ也。阿闍梨と云は、今の羅睺羅是也。王子と云は、今の老婢此れ也。其の故に、今、我に縁無くして、羅睺羅の教化を蒙れる也。又、比丘として、諸の弟子を随へて、法を学せしに依て、今の道を得る也。宮の内の諸の邪見の女と云は、彼の時の比丘の弟子等也」と説き給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 「低」は底本異体字。人偏に弖
2) , 3) 釈迦
4) 祇園精舎
巻3第20話 仏頭陀給鸚鵡家行給語 第(二十)
今昔、天竺に、仏1)、「頭陀し給ふ」とて、一人の人の家に入給ふ。家の主をば鸚鵡2)と云ふ。仏、見給へば、鸚鵡出来て、鉢に米・魚等を入れ、合して、犬に食す。
仏、此の犬を見給て、犬に語て宣はく、「汝ぢ、先生に梵天を願ひし者也。何ぞ、此の如く有ぞ」と、恥しめ給ふ。犬、此の事を聞て、腹立て、此の食物を食はずして、傍に寄て居ぬ。仏、霊鷲山に返給ひぬ。其の後、鸚鵡出来て、此く犬の狗曇3)に恥しめられ奉て、此の鉢の物を食はで、腹立て居たるを見て、犬に瞋恚を発して、仏を罵詈し奉る。
仏、霊鷲山にして御弟子等に告て宣はく、「此の鸚鵡は、此く瞋恚を発して、我れを罵詈する罪みに依て、地獄に堕て、久く苦を受べし。悲かなや」と宣ふ時に、鸚鵡、瞋恚に堪へずして、仏の御許に詣て、仏に申す様、「狗曇、何の故有て、我が家の犬を云ひ恥しめ給て、鉢の物を食せしめ給はざるぞ」と。仏、鸚鵡に告て宣はく、「汝知らずや。此の犬は、汝が父、兜調が成たるには非ずや。彼の兜調は、火天を祭て、梵天を願ひしかども、犬の身と成て、汝に養育せらるる也」と。
鸚鵡、此の事を聞て、弥よ瞋恚を増して申さく、「仏、何に依て、我が父兜調の犬に成たりと知給ふぞ。又、仏、何に依てか然知るべき」と。仏の宣はく、「汝、家に返て、錦の座を敷て、金の鉢に微妙の飲食を入て、犬に向て云はむ様は、『若し、我が父兜調に在さば、此の座に登て、此の鉢の食を受給へ。又、納め置き給けむ財宝の在所を教へ給ふべし』と云ひ聞かしめて、犬の為む様を見るべし」と。
鸚鵡、此の事を聞て、瞋恚を止めずと云へども、家に返て、仏の教への如く、錦の座を敷て、金の鉢に微妙の飲食を入て、犬に向て云く、「犬、実に我が父兜調に在さば、此の座に登て、此の鉢の食を受給て、納め置給けむ財宝の在所を教へ給へ」と。犬、忽に此の座に登て、鉢の物を食す。食畢て、此の床の土を、鼻にて穿ち、足にて掘る。鸚鵡、此れを見怪むで、人して此の所を深く掘て見れば、多くの財宝を埋み置けり。
鸚鵡、此れを見て、「此の犬の実に父兜調にこそ有けれ」と思て、悲の心を発して、霊鷲山に詣て、仏に向ひ奉て、白して言さく、「仏は更に妄語し給はざりけり。世々生々に、我れ、仏の御為疑を成さず」と誓て、又、仏に問奉て云く、「何ぞ、功徳を修する者、地獄に堕て、罪障を作れる者、浄土に生るぞ。何ぞ、富める者有り、貧き者有ぞ。何ぞ、世を恣にして、子孫繁盛なる者有り、家貧くして独身単居なる者有ぞ。百年平生なる者有り、若くして死する者有ぞ。何ぞ、形貌端正なる者有り、形貌醜悪なる者有ぞ。何ぞ、人の殺害せられ、人に軽慢せらるる者有るぞ」と。
仏、此れを一々に答給ふ。「汝ぢ、善く聴け。功徳を造て地獄に堕る者は、死する時に臨て、悪縁に値て、瞋恚を発せる者ぞ。悪業を造て浄土に生るる者は、死する時に善知識に値て、仏を念じ奉れる者ぞ。今世に富る者は、先世4)に施の心有ける者ぞ。今世に貧しき者は、先世に施の心無かりし者ぞ。子孫繁盛なる者は、先生に人を見ること、我が子の如く思ひし者ぞ。独身なる者は、先生に人の為に悪かりし者ぞ。長命なる者は、先生に放生を行ぜし者ぞ。短命なる者は、先世に殺生を好し者ぞ。端正なる者は、先生に祖(おや)に咲て見えし者ぞ。醜悪なる者は、祖に瞋恚を発さしめし者ぞ。人に敬はるる者は、先世に人を敬ひし者ぞ。人に賤めらるる者は、先世に人を軽めし者ぞ」と説き教へ給ふ。
鸚鵡、此れを聞て、貴び奉る事限無し。此れに依て、地獄に堕つべかりし罪失せて、永く仏道に趣(おもむか)ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 3) 釈迦
2) 人名
4) 底本頭注「先世下分先生ニ作ル一ニ原文ニ従フ」 
 

 

巻3第21話 長者家浄屎尿女得道語 第(廿一)
今昔、天竺に一人の長者有り。其の家に、屎尿の穢を浄むる女有り。家の内に若干の人の屎尿を、朝夕に運び浄めて、年来を経たり。然れば、家内の人、皆此の女を灢(きた)なみ蔑(あなづり)て、自然ら道に会ふ時も、唾を吐き鼻を塞て、更に親近(ちかづか)ず。
其の時に、仏1)、此の女を哀び給て、女、屎尿を頭に戴て行くを、道に会ひ給ぬ。女、仏に恥奉て、薮の中に隠れ入ぬ。衣服も穢れ、屎尿身に懸れり。女、弥よ恥奉て、尚深く隠れ入る。
仏、女を利益せむが為に、近く寄給て、女を召取て、耆闍崛山に将て御て、女の為に法を説て、教化し給ふに、女、即ち羅漢果を得つ。
長者、此の事を聞、驚て、「仏の御許に詣て、恥しめ奉らむ」と思て、怱(いそ)ぎ詣づるに、耆闍崛山の前に河有り。其の河の中に、大きなる石有り。其の石の上に女有り。衣服を洗ふ。長者、此れを見るに、「女、石の中に入ぬ」と見れば、石の下2)より出て、天に上り、地に下り、光を放て神通を現ず。
長者、「希有也」と身置て、仏の御許に詣て、仏に白して言さく、「『仏は清浄の直身に在す。汙穢・塵垢には非ず』と、貴く思ひ奉るに、極て異様にこそ御ましけれ。何の故有てか、我が家の屎尿の穢を浄むる女をば召取給へるぞ」と、恥しめ奉るに、仏、答て宣はく、「汝、我が前の河に、衣服洗ふ女をば見知たりや」と。長者の云く、「知らず」と。仏の宣はく、「光を放ち、神通を現ずるをば見つや」と。長者の云く、「然か見つ」と。仏の宣はく、「其の女こそは、汝が家の屎尿の穢浄つる女よ。汝は七宝を天下に満て、世間を恣ままにすと云へども、汝が果報は、彼の女に劣れり。此の女は、年来不浄の穢を浄むる功徳に依て、既に羅漢果を得、光を放つ身と成れり。汝は貪欲邪見に依て、常に瞋恚を発す。罪重くして、地獄に堕て、多の苦を受くべし」と。
長者、此の事を聞て、恥て、家に返て、咎を悔けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「石ノ下一本石ノ中ニ作ル」
巻3第22話 盧至長者語 第(廿二)
今昔、天竺に一人の長者有り。盧至と云ふ。慳貪の心深くして、妻の眷属の為めに、物を恡(をし)む事限無し。「只独、人無くして、静なる所に行て、心の如く飲食せむ」と思ふに、鳥獣、自然ら此れを見て来る。此れに依て、又其の所を厭て、外へ行ぬ。
人も無く鳥獣も来ぬ所、尋ね得て飲食す。歓楽限無くして、歌舞して云く、
我今節慶際1)
縦酒大歓楽
踰過毗沙門
亦勝天帝釈
と誦して、瓶を蹴て舞ひ喜ぶ事限無し。
其の時に、天帝釈、仏2)の御許へ詣り給ふに、此の長者の此の如く嘲る声を聞給て、忿を成して、盧至を罸(つみ)せむが為に、忽に変じて、盧至が形と成て、盧至が家に至て、自ら庫倉を開て、財宝を悉く取出て、十方の人を喚て与ふ。
家の妻子・眷属、「奇異也」と思ふ程に、実の盧至来て、門を扣く。家の人、出て此れを見るに、又同じ形なる盧至此れり。「此れ変化の者也」と云て、打追時に、「我れは、此れ実の盧至也」と云ふ。然雖も、人、何れを実の盧至と云ふ3)事を知らず。
此れに依て、証人を以て判ぜしむるに、証判の者、盧至が妻子に向て、二人の実否を問ふ。妻子有て、帝釈の変じ給へる盧至を指て、「此れ、実の盧至也」と云ふ。又、国王に此の事を申すに、国王、二人の盧至を召て見給ふに、同じ形の盧至、二人有り。更に実否を知らず。かかれば、国王、実否を知らむが為、二人の盧至を具して、仏の御許に詣づ。
其の時に、帝釈、本の形に復して、盧至長者が過を申し給ふ。仏、盧至を勧め誘(こしら)へ給て、為に法を説き給ふ。長者、法を聞て、道を得て、歓喜しけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「際一本会ニ作ル」
2) 釈迦
3) 底本頭注「雖然モ以下ノ十四字諸本ニ脱ス」
巻3第23話 跋提長者妻慳貪女語 第(廿三)
今昔、天竺に一人の長者有り。跋提と云ふ。仏の御弟子、迦葉・目連・阿那律等の教化に依て、邪心を捨て、善の道に趣にけり。其の妻に一人の女有り。慳貪女と云ふ。人に物を惜む事、眼を守るが如し。常には、金銀の帳の内にして、煎餅を造て、此れを愛して食とす。
其の時に、仏の御弟子に賓頭盧尊者と申す人有り。此れは、仏の御父方の従父の弟也。賢相第一の人也。彼の慳貪女が極て邪見なるを教化せむが為に、彼の女の家に至ぬ。門を閉1)たれば、神通を以て、空より飛入て、鉢を捧て、此の女の煎餅を食ふ所に至て、煎餅を乞ふ。女、深く惜て、更に供養し奉らず。朝より未時まで立て乞ふに、女の云く、「譬ひ立死し給とも、我れ更に供養せじ」と。
其の時に、尊者、倒れて死給ぬ。忽に臭(くさ)き香、家の内に満て、上下の人、騒合へる事限無なし。女人を催て、曳捨むと思て、先づ、三人を以て曳するに、動かず。数人を加つつ曳するに、動かず。百千人を以て曳するに、弥よ重く成て動かず。臭き香、弥よ堪難し。女、尊者に向て、呪(いのり)て云く、「汝ぢ和上、蘇生し給へらば、我れ、煎餅を惜しまずして与へ申さむ」と。
其の時に、尊者、忽に蘇生して、立て、又乞ふ。女の思ふ様、「供養せずば、又もぞ死ぬる」と思て、鉢を取て、煎餅二枚を与ふるに、鉢に煎餅五枚有り。女、三枚をば取返さむと為る程に2)、相ひ互に鉢を曳しろふ。其の時に、和上、手を放て、鉢を捨つ。其の鉢、忽に女の鼻に付ぬ。取て去(のけん)と為るに、更に落ちず。灸を居(すゑ)たるが如くして、離れず。
其の時に、女、和上に向て、手を摺りて、「此の苦を免し給へ」と請ふ。和上の云く、「我が力ら、更に及ばず。汝ぢ、速に我が大師、仏3)の御許に詣でて、問ひ奉れ。然らば、我れ、汝を具して、仏の御許に将参るべし」と。女、参るべき由を云ふ。和上の云く、「種々の財宝を相具して参るべし」と。女、和上の教に随て、種々の財宝を車五百両に積み、及び夫千人に荷はしめて、仏の御許に詣ぬ。
仏、慳貪女を見給て、為に法を説て、教化し給ふ。女、法を聞て、即ち阿羅漢果を得たり。永く慳貪の心を捨つ。賓頭盧尊者の教化、不思議也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本異体字、門がまえに寸。あるいは「閇」か。
2) 底本頭注「程一本時ニ作ル」
3) 釈迦
巻3第24話 目連尊者弟語 第(廿四)
今昔、仏1)の御弟子、目連尊者の弟有り。家大に富て、財宝豊也と云へども、更に善根を修せずして、深く世間の貪著せり。
目連、弟の許に至て、教て云く、「汝、速に善根を修せよ。命終ぬれば、三悪道に堕て苦を受る事量難し。其の時に、財(たから)身に相ひ副ふ事無し。功徳を修する者は、三悪道に堕ちずして、必ず善所に生るる事疑ひ無し」と。弟の云く、「我が父母は、『在家にして、世を恣にせよ』と教へ給ひき。法師こそ口惜き事は有りけれ。物を乞ふ心の有るこそ、極て拙く憎けれ。抑、功徳とは何事を云ふぞ」と。目連、答て云く、「功徳と云は、一の物を人に施つれば、其の徳に依て、万づの物を得る也」と。弟の云く、「然ば、我れ、汝が云ふ如く、人に物を施さむ」と云て、一の庫倉を開て、財宝を取出て、人に与ふ。
又、忽に五六の庫倉を造る。人有て、問て云く、「何の故に忽に倉をば造るぞ」と。答て云く、「功徳造れる也」と。
此の如く、九十日が間、財宝を人に施して、尊者に問て云く、「汝、『仏、未だ妄語し給はず』と云しは何ぞ。我が庫倉に功徳は満たざるや」と。目連の云く、「汝、我が袈裟を捕(とらへ)よ」と云て、捕へしめつ。四天王天・忉利天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天に皆昇り至て、一々に見しむ。様々の娯楽・不思議、計称べからず。
其の第六の他化自在天に至て、卅九重2)の垣有り。其の内に、各一人の女人有り。瑠璃の女、瑠璃の座に居て、瑠璃の糸を懸たり。瑠璃の衣を縫ひ、車〓3)説き給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「卅一本卌に作る」
3) 〓は王+巨の下に木。「車〓」は硨磲貝を指すか)の女、車〓の床に居て、車〓の糸を懸たり。車〓の衣を縫ふ。最極の門には、金の女、金の床に坐して、金の糸を懸たり。金の衣を縫ふ。 弟、此を一々に見て思はく、「転輪聖王の娯楽の家にも、此の如きの女は無し。忉利天の喜見城にも、此れに同じき女は無し。我が国の波斯匿王の宮にも、此れに等しき女は無し。実に不思議也」と見る。 弟、立寄て、女に問て云く、「汝達は、誰人ぞ。何の料の糸を懸て、何の料の衣を縫給ふぞ」と。天女、答て云く、「此れは、娑婆世界の釈迦牟尼如来の御弟子、目連尊者の弟の、善根を修して、此の天に生れべければ、其の料に糸を懸て、衣を縫也。我等も其の人の眷属として、奉仕すべき也」と。 此の語を聞て、歓喜踊躍して云く、「我が兄、目連、更に妄語し給はざりけり。生々世々の善知識也」と云て、閻浮提に返て、善根を修す。 「必ず、彼の第六天に生れて、勝妙の楽を受む。彼の天の寿は、閻浮提の千六百歳を以て一日一夜として、万六千歳也。其の命尽て、終に仏道に入るべし」と、仏((釈迦・・・
巻3第25話 后背王勅詣仏所語 第(廿五)
今昔、天竺に大王有り。五百人の后を具せり。大王、宣を下して云く、「宮の内の后、妙なる婇女等、仏の道に趣くべからず。若し、此の宣を背く輩有らば、刀兵を放て、其の身を殺べし」と。此れに依て、一人として仏の道に趣く者無して、数(あまた)の年を経たり。
然る程に、一人の最愛の后の思はく、「我れ、大王に寵愛せられて、仏法の名字を聞かず。今、世に娯楽恣ま也と云へども、後世に悪道に堕て、出る期無からむ。流るる水、海に入らざるは無し。生ぜる者は、必ず滅せざるは無し。我れ、五百人の中に、最愛の后なれども、死ては必ず無間に堕なむとす。死せむ事、利(と)し遅(おそし)の差別也と云へども、遁るべき事に非ず。かかれば、忽の殺害を顧みず。死ては土と成る身也。我れ、同くは仏の御許に参て、法を聞て死せむ」と思て、密に独り出て、仏1)の御許に詣ぬ。
先づ、御弟子に会て云く、「法を説き給へ。我れ、聞む」と。御弟子の云く、「『汝ぢ、王宮の人、皆仏の道に趣くべからざる宣有り』と聞く。教ふる事有りとも、汝が命は何ぞ」と。后の云く、「我れ、大王の勅を背て、法を聞むが為に、密に此れり。宮に還らば、即ち死なむ事、定て疑はず。然と雖も、生有る者は必ず滅す。盛なる者は、必ず衰ふ。国王の寵愛を蒙ると云へども、万歳を持(たも)たむに及ばじ。須臾の愛欲に着して、三途に還らむ事益無し。只、貴き法門を教しへ給へ」と。比丘、三帰の法門を説て教へつ。后の云く、「仏の所説は、若し又や有る」と。比丘、又十二因縁の法・四諦の法門を説て聞かしめつ。
后の云く、「我れ、師に会(あひ)奉て、見奉らむ事、只今許也。宮に還らむ、即ち死なむとす。三途の苦を離れて、浄刹の因を殖つ。願くは、此の善根を以て、後世に遂に仏と成て、一切衆生を利益せむ」と誓て、比丘を礼拝して還ぬ。
王宮に至て、密に帳を掻上て入る時に、国王、此れを見て、弓を張り儲て、自ら后を射る。其の矢、一は虚空に昇り、一は后を三度廻て落ぬ。一は返て猛火と成て焼く。其の時に、大王の云く、「汝は人には非ざりけり。若は天か、若は竜か、若は乾闥婆か」と。后、答て云く、「我れ、天竜に非ず。夜叉・乾闥婆にも非ず。只、仏の御許に詣でて、法を聞きつ。其の善根に依て、金剛蜜迹の我を済ひ給ふならむ」と。
其の時に、大王、弓箭を抛(なげす)て、宣旨を下して云く、「今より宮の内、及び国内の人民、仏法を信ずべし。若し、此れを背かむ輩をば、其の身を殺すべし」と此の如くなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
巻3第26話 仏以迦旃延遣罽賓国語 第(廿六)
今昔、天竺に、仏1)、衆生を教化せむが為に、舎利弗・目連・迦葉・阿難等の御弟子五百人を、各諸国に分て遣すに、迦旃延は罽賓国に当れり。
其の時に、迦旃延の云く、「彼の国は、既に神国にして、未だ曾て仏法の名字を見聞せず。只、昼夜に常に畋狩・漁捕を以て所作とする国也。何(いかで)か教化せむ」と。仏の宣はく、「速に尚行くべし」と。
迦旃延、仏の勅に依て、其の国に行至て思はく、「悪き樹は本を切つれば、枝葉は指さず。かかれば、我れ、先づ国王の許に行て、其れを教化せむ」と思て、王宮に至ぬ。
国王、狩の為に出立つ時也。数千万騎を相具せり。迦旃延、錫杖を肩に荷ひ、衣鉢を臂に懸て、其の前に至て立てり。諸の人、此れを見て云く、「未だ曾て見ざる形ちなる者、爰に出来れり。此れ何人ぞ」と、驚き怪むで、大王に申す。王の云く、「只速に殺すべし」と。此れに依て、忽に頸を取らむと為る時に、迦旃延の云く、「暫く待て。我れ、大王に申すべき事有り」と云て、王の前に進み出ぬ。王の云く、「汝は此れ何人ぞ。未だ見知らざる形也。汝が来れる、極て愚也」と。迦旃延、答て云く、「大王は、極て美(うるはし)く在して、我れは、極て弊(いや)し。我れ、大王の御狩の前に立て行む」と。大王、此れを興じて、共に具して、王宮に返ぬ。
「此れに、先づ美食を備て食はしめよ」と云て、食物を与ふ。迦旃延、吉く食を受つ。大王、「美也や」と問ふに、迦旃延、「美也」と答ふ。又、悪しき食物を与へて、「此れは又何ぞ」と問へば、「此れも亦美也」と答ふ。大王、「美なる飲食をも、悪しき飲食をも、皆『美也』と云は何に」と問へば、迦旃延、答て云く、「法師の口は竃の如し。美なるも、悪きも、腹に入ぬれば、只皆同じ心也」と。大王、此れを聞て、哀ぶ事限無し。
迦旃延の云く、「我れ、九十日、女人の請を得たり。行て法を説き聞かしめむ」と云て去ぬ。女人の許に行て居ぬ。女人、頭の髪を抜て、売て、供養す。
九十日畢て、又国王の宮に参れり。王、問て云く、「汝ぢ、日来見えず。何(いづ)こに有つるぞ。又食物は何(いか)にぞ」と。迦旃延、答て云く、「我れ、九十日の間、女人の為に法を説て聞かしめつ。女人、頭の髪を抜て、売て、我に食はしめつ」と。
其の時に、大王の云く、「我れ、其の女を見(みん)」と云て、即ち使を遣して召すに、女人、参らず。使の云く、「彼の女人は、光を放て居たり。端正美麗なる事並び無し」と。其の時に、大王、忽に花の輿(こし)を造て、千乗万騎を相具して、女人を迎へむが為に遣ぬ。女人、花の輿に乗て、光を放て、王宮に来れり。
大王、此れを見るに、本の五百人の后は蛍の如し。女人は日月の如し。然れば、忽に后として寵愛する事並びなし。昼夜朝暮に此の后を傅(かしづ)く。后、大王に語て云く、「我れを寵愛し給はば、先づ大王より始め、国の内の人民、専に仏法を信ずべし」と。大王、后の教へに随て、始て仏法を信ず。及び、国内の人民、皆仏法に随ひぬ。
此れ、迦旃延の説法の力に依て、女人、忽に光を放つ身と成りて、后として寵愛せらる。此に依て、其の国に始て仏法を弘む。此れ偏に迦旃延の力也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻3第27話 阿闍世王殺父王語 第(廿七)
今昔、天竺に、阿闍世王、提婆達多と得意知音にして、互に云ふ事を、皆金口の誠言と信ず。調達1)、其の気色を見て、世王2)に語て云く、「君は、父の大王を殺して新王と成れ。我れは、仏を殺して新仏と成む」と。
阿闍世王、提婆達多が教を信じて、父の頻婆沙羅王を捕へて、幽(かすか)に人離れたる所に、七重の強き室を造て、其の内に籠置て、堅固に戸を閉て、善く門を守る人を設て、誡て云く、「努々人を通はす事無かれ」と。此の如く、度々宣旨を下して、諸の大臣・諸卿に仰せて、一人も通はす事無し。「必ず、七日の内に責殺さむ」と構ふ。
其の時に、母后、韋提希夫人、大に哭て、我れ邪見に悪しき子を生じて、大王を殺事を歎き悲むで、窃に蘇蜜を作て、麨(こ)に和合して、彼の室に密に持行て、大王の御身に塗る。又、瓔珞を構へ造て、其の中に漿(こんづ)を盛て、密に大王に奉る。大王、麨を食して、手を洗ひ、口を漱て、合掌恭敬して、遥に耆闍崛山の方に向て、涙を流して礼拝して、「願くは、一代教主釈迦牟尼如来、我が苦患を助け給へ。仏法には遇乍ら、邪見の子の為に殺されなむとす。目犍連3)は在すや。我が為に慈悲を垂て、八斎戒を授け給へ。後生の資粮とせむ」と。
仏、此の事を聞給て、慈悲を垂て、目連・富楼那を遣す。二人の羅漢、隼の飛が如くに、空より飛て、速に頻婆沙羅王の所に至て、戒を授け法を説く。此の如く、日々に来る。
阿闍世王、「父の王は未だ生たりや」と守門の者に問ふ。門守の者、答て云く、「未だ生給へり。容顔麗しく鮮にして、更に死給はずして御す。此れ則ち、国の大夫人韋提希、窃に麨を蘇蜜に和して、其の御身に塗り、瓔珞の中に漿を盛て、密に奉り給ふ。又、目犍連・富楼那、二人の大羅漢、空より飛び来て、戒を授け法を説く故也。即ち制止するに及ばず」と。
阿闍世王、此れを聞て、弥よ嗔を増して云く、「我が母韋提希は、此れ賊人の伴也。悪比丘の富楼那・目連を語ひて、我が父の悪王を今日まで生ける」と云て、釼を抜て、母の夫人を捕へて、其の頸を切らむとす。
其の時に菴羅衛女の菴羅衛の子に、耆婆大臣と云ふ人有り。闍王4)の前に進み出て申さく、「我が君、何に思して、かかる大逆罪をば造り給ふ。毗陀論経に云く、『劫初より以来、世に悪王有て、王位を貪るが為に父を殺す事、一万八千人也』。但し、未だ曾て聞かず。無道に母を害せる人をば。大王、猶善く思惟せしめ給て、此の悪逆を止め給へ」と。王、此の事を聞て、大に恐れて、釼を捨て母を害せず成ぬ。父の王は遂に死す。
其の後、仏、鳩尸那城5)抜提河の辺り、沙羅林の中に在まして、大涅槃の教法を説き給ふ。其の時に、耆婆大臣、闍王を教て云く、「君み、逆罪を造り給へり。必ず地獄に堕給ひなむとす。此の比、仏け、鳩尸那城抜提河の辺り、沙羅林の中に在して、常住仏性の教法を説て、一切衆生を利益し給ふ。速に其の所に参り給て、其の罪を懺悔し給へ」と。闍王の云く、「我れ、既に父を殺てき。仏、更に我を吉しと思さじ。又、我を見給ふ事非じ」と。耆婆大臣の云く、「仏は善を修するをも見給ふ。悪を造るをも見給ふ。一切衆生の為に、平等一子の悲を垂れ給ふ也。只参り給へ」と。闍王の云く、「我れ、逆罪を造れり。決定して無間地獄に堕なむとす。仏を見奉ると云へども、罪滅せむ事難し。又、我れ、既に年老にたり。仏の御許に参て、今更に恥を見む事、極て益無し」と。大臣の云く、「君、此の度び仏を見奉り給て、父を殺せる罪を滅し給はずば、何れの世にか罪を滅し給はむ。無間地獄に堕入り給なば、更に出る期非じ。猶必ず参り給へ」と寧(ねんごろ)に勧む。
其の時に、仏の御光、沙羅林より阿闍世王の身を指して照す時に、闍王の云く、「劫の終りにより、日月三つ出て、世を照すべかなれ。若し、劫の終りたるか。月の光り、我が身を照す」と。大臣の云く、「大王、聞き給へ。譬ば、人に数(あまた)の子有り。其の中に病有り。片輪有るを、父母、懃(ねんごろ)に養育す。大王、既に父を殺し給へる罪重し。譬ば、人の子の病重きに非ずや。仏は一子の悲び在ます。大王を利益し給はむが為に、指し給へる所の光ならむ」と。闍王の云く、「然れば、試みに仏の御許へ参らむ。汝も我に具せよ。我れ五逆罪を造(つくれ)り。道行かむ間に、大地割て地獄にもぞ堕入る。若し然る事有らば、汝を捕へむ」と云て、闍王、大臣を具して、仏の御許に参らむとす。
既に出立に、車五万二千両に、皆法幢・幡蓋を懸たり。大象五百に、皆七宝を負せたり。其の所従の大臣の類幾(いくばく)、既に沙羅林に至て、仏の御前に進み参る。仏、王を見給て、「彼は阿闍世王か」と問給ふ。即ち、果を証して授記を蒙れり。仏の宣はく、「若し、我れ、汝を道に入れずば、有るべからず。今、汝ぢ、我が許に来れり。既に仏道に入つ」と。
此れを以て思ふに、父を殺せる阿闍世王、仏を見奉て、三界の惑を断じて、初果を得たり。かかれば、仏を見奉る功徳量無しとなむ、語り伝へたるとや。
1) 提婆達多
2) , 4) 阿闍世王
3) 目連
5) 拘尸那城
巻3第28話 仏入涅槃告衆会給語 第(廿八)
今昔、釈迦如来、四十余年の間、天上・人中にして、一切衆生の為に、種々の法を説て、教化し給て、年既に八十に至り給て、毘舎離国にして、阿難に告て宣はく、「我れ、今、身体皆痛し。今三月有て、涅槃に入るべき也」と。阿難、仏に白して言さく、「仏は既に一切の病を遁れ給へり。何の故に、今痛み給へるぞ」と。
其の時に、仏、起き給て、大に光を放て、世界を照し給ふ。結跏趺坐し給へり。此の光に値へる諸の衆生、皆苦を免れ、楽を受く。
其の後、毗舎離国より拘尸那城に至り給て、沙羅林の双樹の間に、師子の床に臥し給ひぬ。阿難に告て宣はく、「汝ぢ、当に知べし。我れ、今、涅槃に入(いらん)とす。盛なる者は、必ず衰ふ。生ずる者は、定めて死1)する事也。亦、文殊に告て宣はく、「我が背を痛む2)事は、今、大衆の為に説かむ。二の因縁有て、病は無也。一には、一切衆生を哀び、二には、病ぬる人に薬を施す也。而るに、昔し、無量劫の中に、菩薩の道を修して、常に衆生を利益して、苦悩せざりき。病ひ有る者には、種々の薬を施しき。何に依てか、我れ、病ひ有るべき。但し、我れ、昔し、鹿の背を打たりしに依て、今、涅槃の時に臨て、其の果報を感ずる事を顕す也」と。
其の時に、迦葉菩薩、耆婆大臣を召て、仏の御病の相を問ひ給ふ。大臣、申して云く、「仏、当に涅槃し給ひなむとす。諸の薬を用ゐるべからず」と。迦葉菩薩、及び諸の大衆、大臣の言を聞て、歎き悲む事限無し。大臣も亦、同く悲み歎く事、愚かならず。
凡そ、人天・大衆、仏の涅槃し給ひなむと為るを見て、誰れかは歎かざるべきとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「死一本滅ニ作ル」
2) 底本頭注「痛一本病ニ作ル」
巻3第29話 仏入涅槃給時受純陀供養給語 第(廿九)
今昔、仏1)、涅槃に入給はむと為る時に、其の座に一人の優婆塞有けり。名をば純陀と云ふ。此れ拘尸那城の工巧の子也。
其の同類十五人と共に、座を起て、仏の御許に進み参て、仏に向ひ奉て、掌を合せて、涙を流し悲むで、礼拝し奉て、仏及び大衆に白して言さく、「願はくは、仏、我等を哀び給て、我等が最後の供養を受給へ。仏涅槃に入給ひなむ後は、我等を更に哀て、助け済ふ人有らじ。我等、貧窮にして、飢へ困まむ事、堪難かるべし。此れに依て、我等、『仏に随ひ奉て、将来の食を求めむ』と思ふ。願くは、我等を哀び給て、少供養を受給て後、涅槃に入給へ」と。
其の時に、仏、純陀に告て宣はく、「善哉。我れ、汝が為に、貧窮を除(さり)て、汝が身に無上の法を雨(ふら)して、法力を生ぜしめて、汝に檀婆羅蜜を具足せしめむ」と。其の時に、御弟子の比丘等、此れを聞て、皆歓喜して、音を同くして讃(ほめ)て云く、「善哉、々々、純陀。仏、既に汝が最後の供養を受給へり。汝は此れ実の仏子也」と。亦、仏、純陀に告て宣はく、「汝ぢ、我れ及び比丘等に供養を施し奉る事、当に只此の時也。我れ、只今涅槃に入なむとす」と。此の如く、三度宣ふ。
其の時に、純陀、仏の御言を聞畢て、音を挙て叫て、亦大衆に申さく、「今、諸の人、相共に五体を地に投て、音を同くして、『仏、涅槃に入給ふ事無かれ』と勧め給へ」と。其の時に、仏、純陀に告て宣はく、『汝、叫び哭く事無かれ。自然ら、其の心乱る。我れ、汝及び一切衆生を哀ばむが為に、今日涅槃に入なむとす。一切の法は久しからずして、皆滅有り」と宣て、仏、眉間より青・黄・赤・白・紅・紫等の光を放て、純陀が身を照し給ふ。
純陀、此の光に値ひ奉り畢て、諸の餚饍を持て、仏の御許に近付き参て、泣き悲て、白して言さく、「仏、猶我等を哀び給はむが故に、命を一劫に住し給へ」と。仏、答て宣はく、「汝、我れを『世に久く有らせむ』と思はむよりは、速に最後に檀婆羅蜜を行ふべし」と。
其の時に、一切の菩薩・天人・諸の異類の衆会、同音に唱へて云く、「純陀は大福を成ぜり。我等は、福無して、儲たる所の供具、皆空し」と。其の時に、仏、此の異類の衆会の願を満て給はむが為に、一々の毛孔より、無量の仏、出給へり。其の一々の仏に、各無量の比丘僧有て、此の異類の衆会の供養を受く。但し、仏は自ら御手を指し延て、純陀が奉る所の供養を受給てけり。
其の供物、員(かず)八石に成て、摩竭提国に満てり。仏の神力を以ての故に、皆諸の衆会の大衆に充つるに、皆足にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻3第30話 仏入涅槃給時遇羅睺羅語 第(三十)
今昔、仏1)、涅槃に入給はむと為る時に、羅睺羅の思はく、「我れ、仏の涅槃に入給はむを見む程に、悲びの心、更に堪ふべからず。然れば、我れ、他の世界に行て、かかる悲びを見じ」と思て、上方の恒河沙の世界を過て、仏の世界有り。其の国に至て有る程に、其の国の仏、羅睺羅を見給て、告て宣はく、「汝が父、釈迦牟尼仏、既に涅槃に入給ひなむとす。何でか、汝ぢ、其の時に遇ひ奉らずして、此の世界に至れるぞ」と。羅睺羅、答て云く、「我れ、仏の涅槃に入給はむを見むに、悲びの心堪難かりぬべければ、『其れを見じ』と思て、此の世界に参り来れる也」と。仏の宣はく、「汝ぢ、極て愚也。汝が父、釈迦牟尼仏、既に涅槃に入給ひなむと為る時に臨て、汝を待ち給ふ也。速に帰り参て、最後の尅、専に見奉るべき也」と。
羅睺羅、仏の教へに随て、泣々く還り参ぬ。釈迦仏の、御弟子の比丘等に、「羅睺羅は来りたりや」と問ひ給ふ程に、羅睺羅参り給へり。御弟子の比丘等、羅睺羅に云く、「仏、既に涅槃に入給ひなむと為るに、羅睺羅、忽に見給はねば、其れを待ち給へる也。速に、御傍に疾く参り給へ」と勧ければ、羅睺羅、泣々く参り寄たるに、仏、羅睺羅を見給て宣はく、「我れは只今滅度を取るべし。永く此の界を隔ててむとす。汝ぢ、我れを見む事、只今也。近く来れ」と宣へば、羅睺羅、涙に溺れて参りたるに、仏、羅睺羅の手を捕へ給て宣はく、「此の羅睺羅は、此れ我が子也。十方の仏、此れを哀愍し給へ」と契り給て、滅度し給ひぬ。此れ、最後の言也。
然れば、此れを以て思ふに、清浄の身に在ます仏そら、父子の間は他の御弟子には異也。何況や、五濁悪世の衆生の、子の思ひに迷はむは理也かし。仏も其れを表し給ふにこそはとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦 
 

 

巻3第31話 仏入涅槃給後入棺語 第(卅一)
今昔、仏1)、涅槃に入給はむと為る時に、阿難に告て宣はく、「我れ、涅槃に入なむ後には、転輪聖王の如く、七日留めて、鉄2)の棺に入れて、香油を以て棺の中の灑ぎ満てよ。其の棺の四面をば、七宝を以て荘厳すべし。亦、一切の宝幢3)・香花を以て供養して、七日を経て後、鉄棺より出して、諸の香水を以て我が身に浴して、上妙の兜羅綿を以て身に纏へ、微妙の白畳4)(しろてづくり)を以て綿の上にて、皆鉄棺に入れて、微妙の香油を以て、棺の内に満て、閉て、妙なる牛頭栴檀・沈水香を以て、七宝の車に入て、諸の宝を以て荘厳して、棺を乗すべし」と。此の如く宣ひ置て、既に滅度し給ぬ。
其の時に、阿難・諸の大弟子の羅漢羅等、音を挙て泣き悲む事限無し。菩薩・天人・天竜八部・若干の衆会・異類の輩、皆、各歎かずと云ふ事無し。金剛力士は五体を地に投て悲む。十六の諸王は音を挙て叫ぶ。其の時に、大地・諸山・大海・江河、皆悉く震動す。双樹の色も変じて、心無き草木、皆悲びの色有り。此の如く、天地挙て歎き合へりと云へども、更に力無くて止ぬ。
其の後、仏の教へ置き給ひしが如く、七日を経て、鉄棺に入れ奉てけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「鉄一本金ニ作ル下同ジ」
3) 底本頭注「幢諸本幡ニ作ル」
4) 底本頭注「畳一本氈ニ作ル」
巻3第32話 仏涅槃後迦葉来語 第(卅二)
1)今昔、仏2)の涅槃し給へる事を聞て、摩訶迦葉、狼跡山より出でて来る道に、一の尼乾子遇たり。手に文陀羅花を取れり。迦葉、尼乾子に問て云く、「汝ぢ、我が師の事を聞くや否や」と。尼乾子、答て云く、「汝が師は、涅槃に入給て、既に七日を経たり」と。迦葉、此の事を聞て、泣き悲む事限無し。亦、相ひ具せる所の五百の比丘も、同く此れを聞て、皆叫び悲む。
迦葉、拘尸那城を指して行き給ふに、尼連禅河を渡て、天冠寺に至て、阿難の所に行て、阿難に語て云く、「我れ、仏を未だ葬し奉らざるを、今一度見奉らむと思ふ」と。阿難、答て云く、「未だ奏し奉らずと云へども、仏の遺言に依て、五百の張畳を以て身に纏ひ奉て、金の棺に隠し奉て、鉄棺の中に置き奉れり。更に見奉るべき事難し」と。迦葉、此の如く、三度び「見奉らむ」と乞ふと云へども、阿難、前の如く答て許さず。
其の時に、迦葉、棺の所に向ふに、金の棺の中より、仏の二の御足を指出給へり。迦葉、此れを見奉るに、御足の金色には無くて、異なる色也。迦葉、此れを満て、奇(あやし)むで、阿難に問て云く、「仏の御身は金色也。此れ、何の故にか異色なる」と。阿難、答て云く、「一の老母有て、仏の涅槃に入給ふを見て、無き悲むで、涙を其の上に落す。此の故に、仏の御身、異色なる也」と。
其の時に、迦葉、棺に向て、泣々く礼拝す。亦、四部の衆・天人、共に礼し奉る。其の後、仏の御足、忽に見えず成にけり。
然れば、迦葉、仏の専の弟子に在すと云へども、仏の滅度に値給はざる人也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本、標題に頭注「一本仏入涅槃後迦葉来給語ニ作ル」
2) 釈迦
巻3第33話 仏入涅槃給後摩耶夫人下給語 第(卅三)
今昔、仏1)、涅槃に入給ぬれば、阿難、仏の身を殯奉(かりもがりしまつり)て、忉利天に昇て、摩耶夫人に、「仏、既に涅槃に入給ぬ」と告ぐ。摩耶夫人、阿難の言を聞て、泣き悲むで、地に倒れぬ。
良(やや)久く有て、諸の眷属を引将て、忉利天より沙羅双樹の本に下り至り給ひぬ。仏の棺を見奉て、亦悶絶して、地に倒れ臥しぬ。水を以て面に灑ぐに、即ち蘇て、棺の所に行て、泣々く礼を成て、此の言を成さく、「我れ、過去の無量劫より以来、仏と母子と成て、未だ曾て離れ奉る事無かりつ。而るに、今、既に滅度し給ひぬれば、相ひ見奉らむ事、永く絶ぬ。悲哉」と。
諸の天人は、微妙の花を以て、棺の上に散じ奉り。亦、摩耶夫人、仏の僧伽梨衣及び錫杖を、右の手に取て、地に投るに、其の音、大山の崩るるが如し。亦、摩耶夫人、宣はく、「願くは、我が子、仏、此の諸の物を空く主る事無くして、幸に天人を度し給へ」と。
其の時に、仏、神力を以て、故(ことさら)に棺の蓋を自然(おのづから)に開かしめて、棺の中より起き出給て、掌を合せて、摩耶夫人に向ひ給ふ。御身の毛の孔より、千の光明を放ち給ふ。其の光の中に、千の化仏、坐し給ふ。仏、梵声を出して、母に問て宣はく、「諸の行は、皆此の如し。願くは、我が滅度しぬる事を歎き悲て、泣啼し給ふ事無かれ」と。
其の時に、阿難、仏の此の如く棺より起き出給へるを見て、仏に白して言さく、「若し、後世の衆生有て、『仏、涅槃に入給ふ時は、何事をか説き給ひし』と問ふ事有らば、何が答ふべきぞ」と。仏、阿難に告て宣はく、「汝が答ふべき様は、『仏、涅槃に入給ひし時、摩耶夫人、忉利天より下り奉り給ひしに、仏、金の棺より起き出給て、掌を合せて、母に向て、母の為、及び後世の衆生の為に、偈を説き宣ひぬ』と語るべし」と。
此れを『仏臨母子相見経』と名付く。此の事を説畢り給て後、母子別れ給ひにけり。其の時に、棺の蓋、本の如く覆はれにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻3第34話 荼毘仏御身語 第(卅四)
今昔、仏1)、涅槃に入給て後、遺言に依て、転輪聖王の如く、其の御身を荼毗葬し奉らむと為るに、拘尸那城の内に四の力士有り。瓔珞を以て其の身を荘(かざり)て、七宝の火を持てり。大なる事、車輪の如し。光普く照せり。
此の火を以て、仏の御身を焼き奉らむとして、火を香楼に投るに、其の火、自然ら滅しぬ。其の時に、迦葉、此れを見て、力士に告て宣はく、「仏の宝棺をば、三界の火を以て焼かむに能はじ。汝等が力を以て焼かむや」と。
亦、其の時に、城の内に八の大力士有り。七宝の火を以て、亦、棺に投ぐるに、皆滅しぬ。亦、城の内に十六の大力士有り。各七宝の火を以て、香楼に投ぐるに、皆滅しぬ。亦、城の内に卅六の大力士有り。各七宝の火を以て棺に投ぐるに、皆滅しぬ。
其の時に、迦葉、諸の力士、及び大衆に告て宣はく、「汝等、当に知るべし。縦ひ一切の天人有て、仏の宝棺を焼かむに能はじ。然れば、汝等、強に焼き奉らむ事思はざれ」と。
其の時に、城の内の男女、并に天人・大衆、猶仏を恋ひ奉て、泣々く各所持の物を以て供養し奉て、礼拝して、右に七匝(めぐり)廻て、音を挙て大きに叫ぶ。其の音、世界を響かす。其の時に、大悲の力を以て、心胸の中に火を出し給て、棺の外に涌き出たり。諸の人、此れを見て、希有の思を成す。漸く焼け給ふ。七日の間に香楼焼け尽ぬ。其の時に、城の内の男女・大衆、七日の間、泣き悲む事絶えずして、各供養し奉る。
其の時に、四天王、各思給はく、「我等、香水を以て、此の火に灑て、滅せしめて、舎利を取て供養せむ」と思給て、七宝の瓶に香水を盛り満て、亦、須弥山より四の樹を下せり。其の樹、各千囲也。高き事、百由旬。四天王に随て、童子に下て、荼毗の所に至れり。樹より甘乳を生ず。四天王、香瓶に此の甘乳を移して、一時に火に灑ぎ給ふに、火の勢ひ弥よ高く成て、更に滅する事無し。
其の時に、大海の沙竭羅竜王、及び江の神・河の神有て、此の火の滅せざる事を見て、各思はく、「我等、香水を持行て、灑て火を滅して、舎利を取て供養せむ」と思て、各七宝の瓶に無量の香水を入れ満て、荼毗の所に至て、一時に火に灑ぐに、火の勢、本の如くにして、滅する事無し。
其の時に、楼逗2)、四天王、及び竜神等に語て云く、「汝等、『香水を灑て火を滅せむ』と思へり。此れ、『舎利を取て、本所に持行て供養せむ』と思ふが故え何(いか)に」と。四天王・竜神、各答て云く、「我等、然か思ふ也」と。楼逗、四天王、及び竜神に語て云く、「汝等、大に貪る心有り。汝等は天上に有り。舎利、汝等に随て天上に在さば、下地の人、何にか行て供養する事を得むや」と。亦、竜神等に語て云く、「汝等は大海・江・河に有り。仏舎利を取て所居に行きなむ、他の人、何をか行て供養する事を得むや」と3)。
其の時に、皆各此の事を聞て、四天王は各懺悔を至して、天上に還り給ひぬ。大海・江・河の神等も、皆各懺悔を至して、所居に還ぬ。
其の後、天帝釈、七宝の瓶を持ち、及び供養の具を持て、荼毗所に至り給ふに、其の火、一時に自然ら滅しぬ。其の時に、天帝釈、宝棺を開て、一の牙舎利を請て、天上に還て、塔を起て、供養し給けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 阿那律
3) 底本頭注「亦竜神等以下ノ五十字諸本ニ脱ス」
巻3第35話 八国王分仏舎利語 第(卅五)
今昔、「仏1)、滅度し給ひぬ」と聞て、波々国の末羅民衆と云ふ輩有て、皆相ひ議して云く、「我等、拘尸那城に行て、仏舎利を乞て、塔を起て、供養せむ」と云て、四種の兵を率して、拘尸那城に至て、使を遣て云く、「仏、此の土にして滅度し給へり。仏、我等が師に在ましき。然れば、専に敬ふ心深し。舎利を得て、本国に帰て、塔を起て、供養せむと思ふ」と。拘尸那国の王、答へて云く、「此の如く云ふ事、然るべし。但し、仏、此の土にして滅度し給へり。然れば、国の内の人、皆、『自ら供養せむ』と思へり。隣国より来らむ人、舎利を得べからず」と。
其の時に、亦、遮羅婆国の跋利民衆・羅摩国の拘利民衆・毗留提国の婆羅門衆・迦毗羅衛国の釈衆・毗舎離国の離多民衆、及び摩竭提国の阿闍世王等、「仏の拘尸那城沙羅双樹の間に在まして滅度し給ひぬ」と聞て、皆各云はく、「我等、行て仏舎利を得む」と云て、各四種の兵を率して、恒河河を渡て来る。
即ち、拘尸那城の辺に至て、香姓婆羅門と云ふ人に会て、勅して云く、「汝ぢ、我等が名を聞き持て、拘尸那城に入て、諸の末羅民衆に問て云ふべし。我等、隣国と和順して諍ふ心有らじ。仏、此の国にして滅度し給ふと聞く。仏は我等が貴び仰ぎ奉りし所也。此の故に、遠く来て、舎利を得て、各本国に還て、塔を起て、供養せむと思ふ。然れば、舎利を我等に得しめたらむ。国挙て重き宝として、共に供養せむ」と。
香姓婆羅門、此の教へを得て、彼の城に至て、諸の末羅民衆に此の由を語る。其の時に、諸の末羅民衆、答て云く、「実に此れ君の言の如き也。但し、仏、此の土にして滅度し給へり。国の内の人、専に供養し奉るべし。遠国の人に舎利を分かつべからず」と。其の時に、諸国の王、此れを聞き、各群臣を議し集めて云く、「我等、遠くより来て、舎利を得むと乞ふに、若し得しめずば、四兵と共に此の所に有て、身命を惜しまずして、力を以て取らむ」と。其の時に、拘尸那国の群臣、此の事を聞て、共に議して云く、「遠国の諸の群臣来て、『舎利を得む』と乞ふに、許さず。彼等、既に四兵を率して、力を以て取むとす。此の事、極めて恐れ有るべし」と。
其の時に、香姓婆羅門、衆人に語て云く、「諸の聖は、仏の教を受けて、口に法を唱へて、一切衆生を安楽せしめむと誓へり。而るに、今、仏舎利を諍が故に、仏の遺形を相ひ害せむや。然れば、速に彼の諸国の王に、舎利を分ち宛つべし」と。衆人、此れを、「善哉」と云ふ。
然れば、此の由を諸国の王に告ぐ。諸国の王、舎利の所に来集ぬ。亦、議して云く、「舎利を分たむに、誰れか足れる人」と。衆人の云く、「香姓婆羅門、心正直にして智(さとり)有り。其の人、舎利を分たむに足れり」と。
其の時に、諸の国の王、香姓婆羅門に云く、「汝ぢ、我等が為に、仏の舎利を分たむ事、等くして八分に成すべし」と。香姓婆羅門、即ち舎利の所に詣でて、礼拝して、先づ上の牙を取て、別に一面に置て、阿闍世王に与ふ。次々に皆舎利を分つ。明星の出る時に、舎利を分ち畢ぬ。香姓婆羅門、一の瓶を持て、其れに石を入て、舎利を量て、等しくして、八分に分つ。
舎利を分ち畢て、衆人に告て云く、「人、皆此の瓶を見るべし」と。「自らも此の瓶を家に持行て、塔を起て、供養せむ」と。
其の時に、亦、畢婆羅樹の人有て、衆人に申さく、「地の燋(こが)れたる灰を得て、塔を起てて供養せむ」と云ふ。皆人、此れを与へつ。亦、拘尸那国の人、舎利を分ち得て、其の土に塔を起てて供養す。
婆々国・遮羅国・羅摩伽国・毗留提国・迦毗羅衛国・毗舎離国・摩竭提国の阿闍王2)等、皆舎利を分ち得て、各本国に還て、塔を起てて供養す。香姓婆羅門は瓶を以て塔を起てて供養す。畢鉢羅樹の人は、地の燋れたる灰を取て、塔を起てて供養す。然れば、舎利を以て八の塔を起たり。第九には瓶の塔、第十には灰の塔、第十一には仏の生身の時の髪の塔也。
仏は星の出る時に生れ給ふ。星の出る時に出家し給ふ。星の出る時に成道し給ふ。亦、八日に生れ給ふ。八日に出家し給ふ。八日に成道し給ふ。八日に滅度し給ふ。亦、二月に生れ給ふ。二月に出家し給ふ。二月に成道し給ふ。二月に滅度し給也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 阿闍世王。諸本世なし。 
 

 

■巻4 天竺 付仏後 
巻4第1話 阿難入法集堂語 第一
今昔、天竺に、仏1)の涅槃に入給て後、迦葉尊者を以て上座として、千人の羅漢、皆集り坐して、大小乗の経を結集し給ふ。
其の中に、阿難の所に過(とが)多し。然れば、迦葉、阿難を糺し、問給ふ。「先づ、汝ぢ、憍曇弥を仏に申して出家せしめて、戒を許す2)。此れに依て、正法五百年を促(つづ)めたりき。其の過が如何」と。阿難、答て云く、「仏の在世に滅後に、必ず四部の衆有り。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷也」と。
亦、迦葉、問て云く、「汝ぢ、仏の涅槃に入給し時、水を汲て仏に奉らざりき。其の過如何」と。阿難、答て云く、「其の時に、河の上より五百の車渡りき。然れば、水を汲て仏に奉るに能はざりき」と。
亦、迦葉、問て云く、「仏、汝に問給ひき。『一劫に住すべしか、多劫に住すべしか』と。其の答を、汝ぢ、三度答申さざりき。其の過如何」と。阿難、答て云く、「天魔・外道、其れに依て障碍を成すべし。其の故に、答申さざりき」と。
亦、迦葉、問て云く、「仏の涅槃し給ひし時、摩耶夫人、遥に忉利天より手を延べて、仏の御足を取て、涙を流し給ひき。其れに、汝ぢ、親しき御弟子として、制止を加へずして、女人の手を仏の御身に触れしめたる、其の過如何」と。阿難、答て云く、「末世の衆生に、祖子(おやこ)の悲み深き事を知らしめむが為也。此れ、恩を知て、徳を報ずる也」と。
然れば、阿難の答ふる所、一々に過が無かりければ、迦葉、亦問ふ事無くして止り給ひぬ。
亦、千人の羅漢、霊鷲山に至て、法集堂に入る時、迦葉の云く、「千人の羅漢の中に、九百九十九人は既に無学の聖者也。只、阿難一人、有学の人也。此の人、時々、女引く心有り。未だ習ひ薄き人也。速に堂の外に出よ」と云て、立て曳出て、門を閉づ。
其の時に、阿難、堂の外にして、迦葉に申して云く、「我が有学なる事は、四悉檀の益の為也。亦、女の事に於て、更に愛の心無し。猶、我を入れて、座に着かしめよ」と。迦葉の云く、「汝ぢ、猶習へる所薄し。速に無学の果を証せらば、入れて坐しめむ」と。阿難云く、「我れ、既に無学の果を証せり。速に入らしめよ」と。迦葉の云く、「無学の果を証せらば、戸を開けずと云ふとも、神通を以て入るべし」と。
其の時に、阿難、匙(かぎ)の穴より入て、衆の中に有り。然れば、諸の衆、希有の思ひを成す。此れに依て、阿難を以て法衆の長者と定む。
然れば、阿難、礼盤に昇て、「如是我聞」と云ふ。其の時に、大衆、「我が大師、釈迦如来の再び還り在まして、我等が為に法を説き給ふか」と疑て、偈を説て、同音に頌して云く、
面如浄満月
目若青蓮花
仏法大海水
流入阿難心
と誦して讃歎する事限無し。其の後、大小乗の経を結集する。此れ、阿難の詞也。
然れば、仏の御弟子の中に、阿難尊者勝れたる人也と、皆知ぬとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 巻1第19話 仏夷母憍曇弥出家語 第十九参照
巻4第2話 波斯匿王請羅睺羅語 第二
今昔、天竺に、仏、涅槃に入給て後、波斯匿王、羅睺羅を請じて、百味の飲食を調へて、供食す。大王及び后、自ら手に取て、此れを供養するに、羅睺羅、供養を受て、一箸を食して後、涙を流して哭く事、幼き児(ちご)の如し。
其の時に、大王及び百官、皆此れを見て怪むで、羅睺羅に問て云く、「我れ、苦(ねんごろ)に心を至して供養し奉れり。何の故有て哭き給ふぞ。速に其の由を宣ふべし」と。羅睺羅、答て云く、「仏、涅槃に入給て後、未だ久しからざるに、此の飯の味ひ、遥に変じて悪き也。然れば、此れより末世の衆生、何を以て食せむと思ふが悲しければ哭く也」と云て、哭く事、猶止まず。
其の後、大王の見給ふに、羅睺羅、臂を延べて、地の底の土の中より、飯一粒を取り出て云く、「此れ、仏の在世の時の飯也。断惑の聖人の食也。此の飯と、今の供養の飯と、速に試み合すべし」と。大王、此れを取て嘗め給ふ。味ひ不思議也。今の供養の飯に相ひ比(くらぶ)るに、始の飯は毒の如し也、此れは甘露の如し也。
其の時に羅睺羅の云く、「世に聖人皆失て、誰が為にか」と、「此れ堅牢地神の地味を五百由旬地の底に埋める也」と。王の云く、「然らば、何ならむ時にか、其の地味は有るべき」と。羅睺羅、答て云く、「仁王経講ぜむ所には、必ず地味有るべき也」と。
然れば、末世の衆生の為には、仁王講、尤も要須の善根也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第3話 阿育王殺后立八万四千塔語 第三
今昔、天竺に、仏1)、涅槃に入給て一百年の後、鉄輪聖王出給へり。阿育王と申す。其の王、八万四千の后を具せり。
而るに王子無し。此の事を歎て、願ひ乞ふ程に、寵愛殊に勝れたる第二の后、懐妊しぬ。然れば、大王、限無く喜て、占師を召て、「此の懐める所の皇子は、男か女か」と問はるるに、占師、申して云く、「金色の光を放つ男子、生給ふべし」と占ひ申す。然れば、大王、弥よ喜て、后を傅(かしづ)き給ふ事限無し。
かくて、生れ給ふを待ち給ふ程に、第一の后、此の事を聞て思ふ様、「実に然(さ)る御子出来なば、我れは定て第二の后に劣なむとす。然れば、何にしてか、彼の生れむ御子を失ふべき」と、〓2)(たばか)る。思ひ得たる様、「爰にて孕める猪(ぶた)有り。其れが生たらむ子に、其の生たらむ金色の御子を取替へて、御子をば埋み殺してむ。さて、『かかる猪の子をなむ生給へる』とて、取出させむ」と〓3)りて、第二の后の身に親き乳母を善々く語ひ取て、生るるを待つ程に、月満て、后、既に腹を病む時に、人々に懸りて産するに、此の乳母の后に教ふる様、「産する時には、物を見ぬ事也。衣を引纏て有れば、産は安き事也」と教ふれば、后、教るに随て、衣を引纏て、物も見ず。
而る程に、御子、平に生れ給へり。后、見給へば、実に金色なる光を放つ男子、生れ給へり。兼て儲たる事なれば、乳母、其の生みたる御子をば、物に押合て取て、猪の子に替へつ。大王には、「猪の子をなむ生み給へる」と申さすれば、大王、聞き給て、「此れ奇異の無慚なる事也」とて、后をば他国に流し遣しつ。第一の后は、〓4)り得たる事を喜ぶ事限無し。
其の後、大王、月来を経て、外の所に御行して、逍遥し給ふ事有り。薗に遊び給ふに、林の中に女有り。故有る気色也。召寄て見るに、流しし第二の后也。忽に憐愍の心出来て、猪の子を生たりし時の事を問給ふに、后、「我れは露誤たぬ事を、何で此の事を聞せ奉らむ」と思ふに、かく人伝ならず問給ふに喜て、有りし事共を申せば、大王、「我れ、誤たぬ后を罪してけり。又、金色の御子生たりけるを、他の后共の〓5)て殺されたる也けり」と聞き直して、第二の后をば召喚して、宮に還りき。本の如く立給ひつ。今、残の八万四千の后をば、誤てるをも、誤たざるをも、皆悉く嗔を発して殺されぬ。
其の後、倩々(つらつら)思ふに、「何に此の罪重からむ。地獄の報をば、何でか免るべき」と思ひ歎て、近議と云ふ羅漢の比丘有り。其の人に、大王、此の事を問給へば、羅漢、申して云く、「実に此の罪重くして、免れ難かりなむ。但し、后一人に一の塔を宛てて、八万四千の塔を立て給へ。其のみぞ、地獄の苦は免れ給はむ。塔を立る功徳は、只戯れに石を重ね木を彫たるそら、不可思議なる者也。何に況や、法の如く、其の員(かず)の塔を立給へらむに、罪を免れ給はむ事疑ひ無からむ」と。
此れに依て、大王、国内に勅して、閻浮提の内に八千四百の塔を一時に立給ひつ。其れに、仏舎利を安置せざる事を歎き給ふ間、一人の大臣の申さく、「仏6)、涅槃に入給て後、舎利を分ちし時、大王の父の王の得給ふべかりし舎利を、難陀竜王来て、奪取て、竜宮に安置してき。速に其れを尋取て、此の塔に安置し給ふべし」と。
其の時に、大王の思ひ給はく、「我れ、諸の鬼神、并に夜叉神等を召して、鉄の網を以て、海の底の諸の竜を曳取ば、定て其の舎利を得てむ」と思給て、鬼神・夜叉神等を召して、此の事を定め給て、既に鬼神を以て鉄の網を作らせて、曳せむと為る時に、竜王、大に恐ぢ怖れて、大王の寝給へる間に、竜王来て、竜宮に将行く。
大王、竜王と共に、船に乗て、多の鬼神等を具して、竜宮へ行給ふ。竜王、大王を迎へて云く、「舎利を分し時、八国の王、集来り。四衆、議して、罪を除かむが為に得たる所の舎利也。大王、若し我が如くに恭敬し給はずば、定て罪得給ひなむ。我は水精の塔を立て、殊に恭敬する也」と。
大王、舎利を得て、本国に帰て、八万四千の塔に皆安置して、礼拝し給ふ時、舎利、光を放ち給ひけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 6) 釈迦
2) , 3) , 4) , 5) 手偏に廻
巻4第4話 拘拏羅太子抉眼依法力得眼語 第四
今昔、天竺に阿育王と申す大王御(おはし)けり。一人の太子有り。拘拏羅と云ふ。形貌端正にして、心性正直也。総て万事人に勝れたり。然れば、父の大王、寵愛し給ふ事限無し。
此の太子は、前の后の子也。今の后は継母にてぞ有りける。其れに、此の太子の有様を后見て、愛欲の心を発して、更に外の事無し。此の后の名をば、帝尸羅叉と云ふ。后、此の事を思歎くに堪ずして、遂に人無き隙を計て、太子の在ます所に密に寄て、太子に取り懸りて、忽ちに懐抱せむとす。太子、其の心無くして、驚て逃去ぬ。
后、大に怨を成して、静なる隙を計て、大王に申さく、「此の太子は、我れを思ひ懸たる也。大王、速に其の心を得給て、太子を誡め給べし」と。大王、此の事を聞て、「此れ、定めて后の讒謀也」と思ふ。大王、密に太子を呼て宣はく、「汝、同宮に有らば、自然ら悪き事有ぬべし。一の国を汝に与へむ。其の所に行て、住して、我が宣旨に随ふべし。譬ひ宣旨有りと云ふとも、我が歯印無くば、用ゐるべからず」と云て、徳叉尸羅国と云ふ遠き所に送り給ひつ。
太子、其の国に住して有る程に、継母の后、此の事を思ふに、猶極て安からず思て、構ふる様、大王に酒を善く呑ましめて、極て酔て臥給へる間に、密に此の歯印を指(さし)取つ。其の後、太子の住給ふ徳叉尸羅国へ〓1)(たばかり)て宣旨を下す様、「速に太子の二の眼を抉(えぐ)り捨て、太子を国の境に追却すべし」と、使を差て下しつ。
使、彼の国に行着て、宣旨を与ふ。太子、此の宣旨を見給ふに、我が二の眼を抉り捨て、我れを追ふべしと有り。現に、大王の歯印有れば、疑ふべきに非ず。歎き悲む心深しと云へども、「我れ、父の宣旨を背くべからず」と云て、忽ちに旃陀羅を召て、哭々(なくな)く二の眼を抉り捨つ。其の間、城の内の人、皆此れを見て、悲び哭かざる者無し。
其の後、太子、宮を出て、道に迷ひ給ぬ。妻許を具して、其れを指南(しるべ)にて、何ことも無く迷ひ行給ふ。亦、相ひ副へる者、一人無し。父の大王、此の事を露知給はず。
かかる程に、太子の父の宮に、自然ら迷ひ至れり。何ことも知らず、象の厩に立寄たるに、人有て、見れば女に曳かれて、一人の盲(めしひ)たる人有り。此の如き流浪し給ふ程に、様も疲れ、形も衰へ給ひにければ、更に宮の人、太子と云ふ事を思懸けず、象の厩に宿しぬ。
夜に臨て琴を曳く。大王、高楼に在まして、髣(ほのか)に此の琴の音を聞給ふに、我が子の拘那羅太子の引給ひし琴に似たり。然れば、使を遣して、「此の琴引くは何こぞ。誰人の引くぞ」と問給ふに、使、象の厩に尋ね至て見れば、一人の盲人有て、琴を引く。妻を具せり。
使、「誰人のかくは有ぞ」と問へば、盲人、答へて云く、「我れは、此れ阿育大王の子、拘那羅太子也。徳叉尸羅国に有りし間、父の大王の宣旨に依て、二の眼を抉り捨て、国の境を追ひ出されたれば、此の如き迷ひ行也」と云ふ。
使、驚て、急ぎ還り参て、此の由を申す。大王、此れを聞給て、肝迷ひ心失て、盲人を召て、事の有り様を問給ふに、上件の事を申す。大王、「此れ、偏に継母の后の所為也」と知りて、忽に后を過(とが)せむと為るに、太子、苦(ねんごろ)に制止して、其の罸(つみ)を申し止め給ふ。
大王、哭き悲しむで、菩提樹の寺に、一人の羅漢在ます。名をば窶沙大羅漢と申す。其の人、三明六通明かにして、人を利益する事仏の如し也。大王、此の羅漢を請じて、申し給はく、「願はくは、聖人、慈悲を以て我が子の拘那羅太子の眼を本の如くに得しめ給へ」と、哭々く申し給ふに、羅漢の宣はく、「我れ、妙法を説くべし。国の内の人、悉く来て聴くべし。人毎に一の器を持て、人、法を聞くに、貴びて哭かむ涙を、其の器に受て、其れを以て眼を洗はば、本の如くに成りなむ」と申し給へば、大王、宣旨を下して、国の人を集つむ。遠く、近く、人集る事、雲の如し也。
其の時に、羅漢、十二因縁の法を説く。此の集りたる人、皆法を聞て、貴て哭かずと云ふ事無し。其の涙を此の器に受け集めて、金の盤に置て、羅漢、誓て云く、「凡そ我が説く所の法は、諸仏の至れる理也。理、若し実ならずして、説く所に紕繆有らば、此の事を得じ。若し実有らば、願くは、此の衆の涙を以て、彼の盲したる眼を洗はむに、明なる事を得て、見る事本の如くならむ」と。
此の語を発して畢て、涙を以て眼を洗ふに、眼終に出来て、明なる事を得て、本の如く也。其の時に、大王、首を低(かたむ)けて、羅漢を礼拝して、喜び給ふ事限無し。其の後、大臣・百官を召て、或は官を退け、或は過無を免し、或は外国へ遷し、或は命を断つ。
彼の太子の眼を抉し所は、徳叉尸羅国の外、東南の山の北也。其の所には率堵婆を立たり。高さ十丈余也。其の後、国に盲人有れば、此の率堵婆に祈請するに、皆明かに成て、本の如なる事を得と云へりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 手偏に廻
巻4第5話 阿育王造地獄堕罪人語 第五
今昔、天竺に阿育王と申す王有り。其の王、地獄を造て、国の内の罪人を入る。其の地獄の辺に至ぬる人は還る事無して、必ず地獄に入れつ。
其の間に、止事無き聖人有り。名を□□1)と云ふ。其の地獄を見むが為に、地獄に至れり。獄卒有て、聖人を捕へて、地獄に入とする時に、聖人の云く、「我れ、更に犯せる所無し。何の故有てか、此の地獄に入るべき」と。獄卒、答て云く、「国王の宣旨を下さるる様、『此の地獄に至なむ人をば、貴賤・上下・僧俗を簡(えらば)ず、此の地獄に入るべし』と宣旨をば蒙たれば、入るる也」と云て、聖人を取て、地獄の釜の中に投入れつ。
斯の時に、地獄返て、清浄の蓮の池と成ぬ。獄卒、此れを見て、驚て、此の由を大王に申す。王、此れを聞給て、驚き貴むで、自ら地獄の本に行て、其の聖人を拝み給ふ。
其の時に、獄卒、大王に申さく、前に宣旨を下されたる時き、「地獄の辺に行なむ人をば、上下を謂はず2)、地獄に入らせ給ふべし」と申す時に、王、答て宣はく、「我れ、宣旨を下す時に、『王をば除け』と云ふ宣旨をば下さざりき。尤も云ふ所然るべし。但し、亦『獄卒をば除け』と云ふ宣旨をも下さざりき。然れば、汝を先づ地獄に入るべし」と宣て、獄卒を地獄に投入れて、還り給ひぬ。
其の後、「無益の事也」とて、地獄を壊ち給てけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「名ヲノ下下海意トアルベシ」
2) 底本頭注「不謂ズノ下脱文アラン」 
巻4第6話 天竺優婆崛多試弟子語 第六
今昔、天竺に、仏1)涅槃に入給て後、百年許有て、優婆崛多と申す証果の羅漢在ます。
其の弟子に一人の比丘有り。優婆崛多、其の弟子を何(いか)なる心か見給けむ、常に呵嘖して云く、「汝ぢ、猶女に近付く事無かれ。女に近付く事は、生死に廻る事、車の輪の廻るが如し」。此の如く、常に事の折節毎に宣ふ。
弟子の申さく、「師に在せども、此れは何に見給ふぞ。我れは既に羅漢果を証せる身也。女に触ばふ事は、永く離にたる事也」と、糸貴く申す。他の御弟子等も、「糸貴き人を、強にかく宣ふは怪しき事也」と、皆思ひ合へり。
此の如く、常に呵嘖し給ふ間、此の御弟子の比丘、「白地(あからさま)に他行す」とて、一の河を渡る間、若き女有て、亦同く此の河を渡るに、女、河の深き所に至て、殆ど流れて、顛(たふ)れぬべし。女の云く、「彼の御する御房、我れを助け給へ」と。比丘、「聞入れじ」と思へども、忽に流れぬべきが糸惜さに、寄て女の手を捕へて曳上ぐ。
女の手は福よかに滑かなるを捲(にぎり)たる間、陸に曳上て後も、猶捲て免さず。女、「今は免してよかし。去なむ」と思ふに、弥よ捲れば、女、怪び思ふに、比丘の曰く、「然るべきにや有らむ、哀れとやなむ思ひ聞ゆる。我が申さむ事は聞き給はむや」と。女、答て云く、「流て既に死ぬべかりつる身を、御し会ひて、助け給ひつ。命を存する事、偏に君の徳也。然れば、争でか、宣はむ事を辞(いなび)申さむや」と。比丘、「本意、只かく也」と云て、薄莪(すすき)の生ひ繁りたる薮の中に、手を取て、曳て入れつ。
人も見難く繁りたる所に曳き居て、女の前を掻上て、我が前をも掻上て、女の胯に交(はさ)まりて、「若し人や自然ら見らむ」と不審(おぼつかな)ければ、後を見還りて、「人無かりけり」と心安くて、前の方に見還て見れば、我が師の優婆崛多を仰臥(あふのけふせ)たり。
面を見れば、にここに咲ひて宣はく、「八十余に成にたる老法師をば、何事に依て愛欲を発して、かくは為るぞ。此れや、女に触ればふ心無かりける」と宣へば、比丘、更に物思えずして、逃なむと為るを、足を以て強く交みて、更に免さずして、宣はく、「汝ぢ、愛欲を発して、此の如く為り。速に、我れを娶(とつぐ)べし。若し、然らずば、免すべからず。何で我れをば計るぞ」と云て、音を高くして喤(ののし)り給ふ。
其の時に、道行く人、多く此の音を聞き驚て、寄て見れば、老僧の胯に、亦僧有て交まりて有り。老比丘の云く、「此の比丘は我が弟子也。師の八十なるを娶むとて、此の比丘の、我をかく薮に曳入れたる也」と宣へば、見る人多く、奇(あやし)み喤る事限無し。
多の人に見え畢て後に、優婆崛多、興き上り給て、此の弟子の比丘を捕へて、大寺に将行ぬ。鐘を搥(つき)て、寺の大衆を集め給ふ。多の大衆、集り畢ぬれば、優婆崛多、此の弟子の比丘の由来を一々に語り給ふ。大衆、各此れを聞て、咲ひ嘲哢し、喤しる事限無し。
弟子の比丘、此れを見聞くに、恥しく悲く思ふ事限無し。身を砕くが如し。此の事を強に悔ひ悲しむ程に、忽に阿那含果を得つ。
弟子を道に計り入れ給ふ事、仏に異らずとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻4第7話 優婆崛多会波斯匿王妹語 第七
今昔、天竺に優婆崛多と申す証果の羅漢在ます。
仏1)、涅槃に入給て後の人なれば、仏の御坐しけむ御有様の極て恋しく思え給ければ、「仏に値ひ奉る人は、于今世に有や」と尋給ふに、人告て云く、「波斯匿王の御妹、百十余歳にして坐す。幼稚の時、仏に値ひ奉れる人也。只此れ也」と。
優婆崛多、此の告を得て、喜を成して、彼の尼の御許に詣で給ふ。行き至て、対面すべき由を申し入れさす。尼、呼び入れ給ふに、戸の脇に坏(つき)に油を一盛入れて居たり。優婆崛多、対面するを喜て、怱(いそぎ)入る程に、裳の裾、此の油坏に懸たり。其の時に油を塵許泛(こぼ)したり。
尼、優婆崛多に会て云く、「何事に依て来り給へるぞ」と。優婆崛多、答て云く、「詣たる故は、仏の御坐けむ御有様、極て恋しく思ひ給つれば、其の事承らむが為に詣る也」と。尼の云く、「悲くも侍るかな。仏、涅槃に入給て後、纔に百年許にこそ成り侍りぬらめ。其の間、仏法の衰へたる事、遥か也。仏の御坐し時、極て様悪く物に狂ふ様也し御弟子、一人侍りき。名は鹿群比丘と云き。仏、常に此れを呵嘖し給て、勘当を蒙りてなむ侍し。其れに、君は、艶(えもい)はず貴く、戒を持(たも)ち、威儀を調へたる事は御坐ぬれども、其の戸の脇に侍る油は、御裳の裾懸りて、塵許泛し給ぬるは。彼の時、物に狂ひ騒かりし御弟子は、露然る事も侍らざりき。此れを以て知るに、仏の御坐し世と、近来とを思ひ比ぶるに、事の他にも衰にけるかな」と云を聞くに、優婆崛多、極て恥かし。身を砕くが如く思ゆ。
其の後、尼、亦語る様、「我が祖(おや)の許に、仏、御坐したりき。即ち、還り給ひにき。我れ、其の時に幼稚なりしに、指(さし)たりし金の簪、俄に失にき。求むと云へども、得る事能はず。仏、還り給て後、七日を過て、臥たる床の上に此の簪有り。怪くて尋れば、仏の御金(こがね)の光の、還給て後、七日まで留りければ、此の金の簪は、其の御光に消て見えざりける也けり。八日と云ふ朝に、御光失せて後に、簪は見付たりし也。然れば、仏の御光は、御坐ぬる所に、七日まで留りて曜(かがやき)し也。此の如の事許なむ、髣(ほのか)に思え侍り。其の外の事は、幼稚なりし時の事なれば、思え侍らず」と。
此の如く語るを聞くに、涙流れて、云はむ方なく悲くて、還り給ひにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻4第8話 優婆崛多降天魔語 第八
今昔、天竺に優婆崛多と申す証果の羅漢在ます。人を利益し給ふ事、仏1)の如し。亦、法を説て、諸の人を教化し給ふ。世の人、来て法を聞くに、皆利益を蒙て、罪を滅す。然れば、世挙て指合(さしあ)へる事限無し。
而る間、其の庭に一人の女出来たり。形貌端正にして、有様美麗なる事並無し。其の時に、此の法を聞くの人、皆此の女の美麗なるを見て、忽に愛欲の心を発して、法を聞く妨と成ぬ。
優婆崛多、此の女を見、「此れは天魔の、『法を聞て益を得る人を妨げむ』とて、美(うつくし)の女と変化して来れる成」と見給て、女を呼び寄せへば、女、詣たるに、優婆崛多、花鬘を以て、女の頸に打懸け給ひつ。女、「花鬘ぞ」と思て、立去りてと見るに、諸の不浄の人・馬・牛等の骨を貫て、頸に懸たり。臭(くさ)く、むづかしき事限無し。
其の時に、女、本の天魔の形に成て、取り棄てむと為るに、更に棄る事を得ず。東西南北に走り廻ると云へども、力及ばず。法を聞く人、此れを見て、「奇異也」と思ふ。
天魔、繚(まど)ひて、大自在天と云ふは、魔の首也。其の所に昇て、此の事を愁て、「此れ取去(とりのけ)よ」と乞ふ。大自在天、此れを見て云く、「此れは、仏弟子の所為にこそ有めれ。我れ、更に取去け難し。只、此の懸けむ者に、「取去よ」と乞ひ請(うけ)よ」と云へば、云ふに随て、亦優婆崛多の許に来り下て、手を摺て云く、「我れ、愚にして、『法を聞く人を妨げむ』と思て、女と成て来たる事を悔ひ悲むで、此より後、更に此の心を発さず。願くは、聖人、此れを取去け給へ」と云へば、優婆崛多、「汝ぢ、此れより後、法を妨ぐる心無かれ。速に取去くべし」と宣て、取去けつ。
天魔、喜て、「何でか、此の事をば報じ申さむと為(す)」と云へば、優婆崛多の宣はく、「汝は仏の御有様は見奉きや」と。天魔、「見奉りき」と云ふ。優婆崛多の宣はく、「我れ、仏の有様ま、極て恋し。然れば、仏の有様を学び奉て、我れに見せてむや」と。天魔の云はく、「学び奉らむ事は安き事なれども、見て礼(をか)み給はば、己が為に極て堪難かりなむ」と。優婆崛多の云く、「我れ、更に礼み奉るべからず。猶、学び奉て見せよ」と責め給へば、天魔、「努々め礼給ふな」と云て、林の中に歩み隠れぬ。
暫く有て、林の中より歩み出たるを見れば、長は丈六、頂は紺青の色也。身の色は金の色也。光は日の始めて出るが如し。優婆崛多、此れを見奉るに、兼ては「礼まじ」と思ひつれども、不覚に涙落て、臥して音を挙て哭く。
其の時に、天魔、本の形ちに顕はれぬ。頸に諸の骨共を懸て、瓔珞と為たり。「然ればこそ」と云て侘(わび)けり。
然れば、優婆崛多、天魔を降伏し、衆生を利益し給ふ事、仏に異らずとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
巻4第9話 天竺陀楼摩和尚行所々見僧行語 第九
今昔、陀楼摩和尚1)と申す聖人在ます。此の人、五天竺に行至らぬ所無く行て、諸の比丘の所行を善く見て、世に伝へ給ふ人也。
一の寺有り。其の寺に入て、比丘の有様共を伺ひ見るに、寺に比丘共多く住む。或る房には、仏に花・香2)を奉り、或る房には経典を読誦する比丘有り。様々に貴く行ふ事限無し。
其の中に一の房有り。人住たる気色無し。草深くして、塵積れり。深く入て見れば、八十許なる老比丘二人居て、碁を打つ。見れば、仏も御坐さず。法門も見えず。「只、碁を打つを役と為る者なめり」と見て、還り出ぬ。
一人の比丘に値て、「然々の房に入たりつれば、老比丘二人居て、碁を打つ事より外の、他の事無き房なむ有りつる」と語れば、此の比丘の云く、「古老二人は、若くより、碁を打つより外に亦所行無し。仏法の御坐らむ方を知らず。然れば、寺の諸の比丘も心踈がりて、交座する事無し。只、空しく僧供を請け食て、碁を打より外に、他の所行無して、年月を送れり。譬へば外道の如し也。更に触近付き給べからず」と。
陀楼摩和尚、「猶、此の二人は様有る者ならむ」と思ひて、還て、其の碁打つ房に入給ひぬ。二人の古老の碁打つ傍に居て見給へば、一局打ち畢て、一人の古老は起ぬ。今一人の古老は居たり。暫許有て、此の居たる古老、掻消つ様に失ぬ。「怪し」と思ふ程に、二人乍出来ぬ。亦、失ぬ。亦、暫許有て出来ぬ。
此の如く為を見るに、「奇異也」と思ふ。「寺の諸の比丘の、『碁を打つより外の事無し』とて、蔑(あなづ)り穢(きた)なみつるは、極たる僻事にこそ有けれ。実に貴き聖人達にこそ坐しつれ。猶、此の人に有様問む」と思て、陀楼摩和尚、二人の古老に問て云く、「此れは、何に『碁を打つを役にて、年月を送り給ふ』と聞く所に、善く所行を見れば、証果の人にこそ坐めれ。其の由し承はらむ」と。二人の古老、答て云く、「我等、年来碁を打より外の、他の事無し。但し、黒勝つ時には、我が身の煩悩増(まさ)り、白勝つ時には、我が心の菩提増り、煩悩の黒を打ち随へて、菩提の白の増ると思ふ。此れに付て、我が無常を観ずれば、其の功徳、忽に顕はれて、証果の身とは成れる也」と云ふを聞くに、涙、雨の如く落て、悲き事限無し。
和尚の云く、「此の如く、徳行を年来隠くして、露人に知らせで、寺の中の人にも不用無慙の者に思はせ給ひける心の貴き事」を云て、返々礼て、房を出て、他の比丘に値ひぬ。此の由を語れば、諸の比丘、此れを聞て、貴ぶ事限無し。我等、愚かにして、年来証果の羅漢と知らずして、蔑り軽めける事をぞ悔ひ悲ける。
陀楼摩和尚、其の寺を出て、山の麓に、人郷有る所に行て、其の夜宿しぬ。夜聞けば、叫ぶ声有り。云ふなる様、「多の強盗入て、我を殺さむとす。年来貯へたりつる財、皆奪ひ取れぬ。郷の人、我を助けよ」と、音を高くして叫ぶ。
郷の人、此れを聞て、手毎に火を燃(とも)して出来ぬ。「此の音は何方ぞ」と云へば、一人の云く、「東の林の中に坐(おはす)る聖人の方にこそ、此の音は為れ。其の方に尋て行む」と云て、郷の人共、手毎に弓箭を取て、火を燃して、喤(ののしり)て行けば、「聖人の殺さるると云へば、何なる事ぞ」と恋しくて、和尚も具して行て、見給へば、林の中に、大笠許の草の菴り有り。柴を貫たる戸を曳開て見れば、其の内に、八十許なる比丘居たり。綴り袈裟より外に着物の無し。前に脇息より外に物無し。盗人の取るべき物、露見えず。亦た、盗人も一人見えず。人の行たるを見て、此の聖人、哭く事限無し。
人々、問て云く、「聖人の御室の内に、盗人の取るべき物見えず。何事に依て、叫び給ひつるぞ」と。聖人、答て云く、「何に依て問ひ給ふぞ。年来、室の内に露入らざりつる、眠の盗人の、此の暁に成る程に入来て、倉に貯たる七聖財宝を奪ひ取つれば、取られじと、取り組て叫びつる也」と云て、哭く事限無し。
陀楼摩和尚の思ひ給ふ様、「皆人の打解けて寝るを、此の聖人の、年来寝ずして、適ま眠り入ては、かく喤る也けり」と思て、互に深き契を成して、還り給ぬ。郷の人々も皆還ぬ。
和尚、亦、他の郷を行て見れば、林の中に一人の比丘有り。居たりと見れば起ぬ。起ぬと見れば走る。走ると見れば廻(かへ)る。廻ると見れば臥ぬ。臥ぬと見れば起ぬ。東に向ぬ。亦、南に向ぬ。亦、西に向ぬ。亦、北に向ぬ。咲むと見れば嗔ぬ。嗔ぬと見れば哭ぬ。
「物に狂ふ者なめり」と見て、和尚寄て、「此れは何にし給ふ事ぞ」と問へば、此の狂ふ比丘、答て云く、「人有て、天に生ると見れば人に生ぬ。人に生ると見れば地獄に堕ぬ。地獄に堕ぬと見れば餓鬼道に堕ぬ。餓鬼道に堕ぬと見れば修羅に成ぬ。修羅に成ぬと見れば畜生道に堕て走る。凡そ三界の静かならざる事、我が翔(ふるまひ)の如し。『心有らむ人は、此の様悪き事を見て、三界の定め無き事を知れかし』と思て、かく年来廻り狂ひ侍る也」と云ふを聞くに、「此の人、只人には非ざりけり」と思て、礼て去ぬ。
凡そ、此の和尚は此の如く行て、貴き僧の有様を見給けるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 達磨か?
2) 底本頭注「花香一本香花に作る」
巻4第10話 天竺比丘僧沢観法性生浄土語 第十
今昔、中天竺に一人の比丘有り。名をば僧沢と云ふ。心の受たる所懈怠して、本より愚か也。比丘の形を受たりと云へども、所行一として持(たも)つ事無し。経・真言を受け習ふ事無くして、年来の間、一の寺に住して、徒らに人の供養を受て、空く日毎・夜毎に罪を作くる。慙無して、後世の事を思はず。
然れば、同じ寺に住む比丘、此の僧沢を軽め蔑(あなづり)て、同座にもう居(すゑ)ず、稍もすれば、寺を追ひ出す。
而るに、此の僧沢、少(いささか)の智恵有て、我が身の内に在ます仏の、三身の功徳の相を心に懸て、忘るる時無く、昼夜に常に思ふ。此の如く観ずる間、其の功徳、自然ら顕はれき。心の内に常に法性を観じて、更に他の事を思はず。
此の如くして、漸く年月積ぬれば、年の老ひ傾きて、身に病を受て、臥しぬ。寺の内の上下の比丘、弥よ此れを穢(きた)なみ謗る事限無し。死る尅に臨て、多くの仏菩薩、僧沢が所に来り給て法を説て、僧沢を教化し給ふ。僧沢、心に随て、形の色鮮にして、起居て、仏を念じ奉つり、法性を観じて絶入ぬ。
即ち、覩率天の内院に生れぬ。其の間だ、光を放ち、香しき香寺の内に満たり。寺の内の諸の比丘、此れを見て、僧沢が所に行て見るに、僧沢、形の色鮮にして、端坐合掌して絶入たり。室の内に香しき香満て、光を放つ。比丘等、此れを見て、驚き貴びて、年来軽め蔑づる事を悔ひ悲しむ事限無し。其の後は、僧沢が所行を尋ね聞てぞ行ける。
然れば、勤め無く、無慙ならむ比丘をも、「様有らむ」と思て、軽慢すべからずとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

巻4第11話 天竺羅漢比丘値山人打子語 第十一
今昔、天竺に一人の羅漢の比丘有り。道を行くに、一人の山人に値ぬ。山人、一人の幼童を相ひ具たり。笞を以て1)幼童を打て、哭(なか)しむ。
羅漢、此れを見て、山人に問て云く、「汝ぢ、何の故有て、此の幼童を打て哭かしむるぞ。亦、此の幼童は汝が何ぞ」と。山人、答て云く、「此れは己れが子に侍り。而るに、声問明2)□□と云ふ文を教ふるに、え読取(おぼえとら)ねば、其れに依て、打て教ふる也」と。
其の時に、羅漢咲ふ。山人、「何ぞ咲ふ」と問へば、羅漢の云く、「汝ぢ、前生の事を知らずして、児を打つ也。此の教ふる所の文は、此の児の、昔、山人と有りし時、造れる所の文也。其れに、此の如く文を造て、世に弘むる事は、只今は賢き様なれども、後の世には、露許も益を得る事無ければ、かかる愚痴の身と成て、前世の事をも知らで、自ら作れる所の文をも読取らざる也。猶、仏法の方の事は、当時は指(させ)る事無き様なれども、末の世には、過にし方の事共を只今見る様に思え、今来らむずる事共をも兼て知る事なれば、必ず仏法を習ふべき也。亦、汝に昔の事共、語て聞せむ。善く聴て持つべし。
昔、南海の浜を、旅人共、多く具して行くに、浜辺に、枯たる大なる樹、一本立り。此の人共、風の寒さに堪へずして、此の樹も本に宿しぬ。火を焼きて、皆並び居て、夜を曙(あか)す。而るに、此の樹のうつろの上に、五百の蝙蝠住めり。此の火の煙に熏(ふすべら)れて、皆、『去なむ』と思ふ程に、暁方に成る程に、此の商人の中に一人有て、阿毗達磨と云ふ法門を読む。此の蝙蝠等、煙に熏られて堪へ難けれども、此の法門を誦するを聞くが貴さに、念じて、皆木のうつぼに付て居り。火の勢、高く燃え上がりぬれば、痛く炮(やか)れて皆死ぬ。一として生きたる蝙蝠無し。
死て後に、此の法門を聞しが故に、皆人界に生れぬ。皆、出家して、比丘と成れり。法門を悟りて、羅漢と成りにけり。其の羅漢の中に、一人は我れ也。然れば、猶、仏法には随ふべき也。其の児をば、出家せしめて、法門を学べ」と教ふ。
山人をも、「仏法に随ふべき也」と云へば、児をば出家せしめつ。山人も仏法に随ひぬ。其の後、羅漢、掻消つ様に失ぬ。其の時に、山人、大に驚き貴びて、弥よ仏法を深く信ずる事限無し。
此の事、仏3)、涅槃に入給て後、百余年の程の事なるべしとなむ語り伝へたるとや。
1) 底本「以ヲ」。「テ」の誤植とみて訂正
2) 底本頭注「声問明諸本声明ニ作ル」
3) 釈迦
巻4第12話 羅漢比丘教国王太子死語 第十二
今昔、天竺に一の小国有り。其の国(く)に、本より神をのみ信じて、仏法を信ぜず。
而る間、其の国の王、一人の皇子有り。亦、子無し。国王、此れを愛する事、玉の如し。太子、十余歳に成る程に、身に重き病を受たり。医療を以て治するにも、𡀍1)(いゆ)る事無し。陰陽を以て祈ると云へども、験(しる)し無し。此れに依て、父の王、昼夜に歎き悲むで、年月を送るに、弥よ太子の病増(まさり)て、𡀍2)る事無し。
国王、此れを思ひ繚(わづらひ)て、此の国に上古従り崇め祭る神在ます。国王、其の所に詣て、自ら祈り請ふ。諸の財宝を運て山に成し、馬・牛・羊等を谷に満て、「太子の病を𡀍3)し給へ」と申す。宮司・巫(かんなぎ)、恣に取り、心に任せて万に飽き満ぬ。
此れに依て、為べき方無きままに、一人の神主、御神付て、出来て示して云く、「御子の御病は、国王還らせ給はむままに、平𡀍4)し給ひなむとす。国を持(たも)たせ給て、民も安く、世も平かに、天下・国内、皆喜を成すべし」と。国王、此れを聞て、喜び給ふ事限無し。感に堪へずして、着る所の太刀を解て、神主に給ひて、増々すに財を与へ給ふ。
此の如くし畢て、宮に還り給ふ途中にして、一人の比丘に値ひ給ひぬ。国王、比丘を見て、「彼れは何人ぞ。形も人に似ず。衣も人に違へり」と問せ給へば、人有て申す、「此れは、沙門となむ申す、仏の御弟子也。頭を剃れる者也」と。国王の宣はく、「然らば、此の人、定めて物知たらむ」とて、輿を留めて、「彼の沙門、此こへ召せ」と宣へば、召しに依て、沙門、参て立てり。
国王、沙門に宣はく、「我が一人の太子有り。月来、身に病有て、医(くすし)の力にも叶はず、祈も験し無し。生き死に未だ定まらず。此の事何に」と。沙門、答へて云く、「御子、必ず死給ひなむとす。助け給はむに、力及ばず。此れ、天皇の御霊の所為也。宮に還らせ給はむを、待付くべからず」と。
国王、「二人の云ふ事、不同也。誰が云ふ事、実ならむ」と、知り難くて、「神主は『病𡀍5)給ひなむ。命百歳に余るべし』と云ひつるを、此の沙門はかく云ふを、何れにか付くべき」と宣へば、沙門の申さく、「其れは、片時、御心を息め奉らむが為に、知らぬ事を申す也。世の人の物思はぬが云はむ事を、何か捕へ仰せ給ふ」と申し切りつ。
宮に還て、先づ怱(いそ)ぎ問ひ給へば、「昨日、太子は既に失給ひき」と申す。国王、「努々人に此の事を知しむべからず」と宣ひて、神付たりし神主を召しに遣しつ。二日許有て、神主、参れり。仰せて云く、「此の御子の御病、未だ𡀍6)ず畢ぬ。何が有べき。不審にて召つる也」と。神主、亦御神付て、示して云く、「何に我をば疑ふぞ。『一切衆生を羽含(はぐく)み哀れむで、其の憂へを背かじ』と誓ふ事、父母の如し。況や、国の王の苦び宣はむ事、愚に思ふべからず。我れ、虚言を成すべからず。若し、虚言せらば、我を崇むべからず。我が巫を貴ぶべからず」と、此の如く口に任せて云ふ。
国王、善々く聞て後、神主を捕へて、仰せて云く、「汝等、年来、人を謀(はかりごち)き。世を計て、人の財を恣に取り、霊神を付て、国王より始めて、民に至まで、心をもとろかし、人の物を計り取る。此れ、大なる盗人也。速に其の頸を切り、命を断つべし」と宣ひて、目の前に神主の頸を切せつ。亦、軍を遣して、神の社を壊て、□河7)と云ふ大河に流しつ。其の宮司、上下、多の人の頸を切り捨てつ。年来、人の物を計り取たる千万の貯へ、皆亡し取つ。
其の後、彼の沙門を召すべき仰せ有て、参りぬ。国王、自ら出向て、宮の内に請じ入れ、高き床に居へて、礼拝して宣ふ様、「我れ、年来、此の神人共に計られて、仏法を知らず、比丘を敬はず。然れば、今日より永く、人の藉(かり)なる言を信ぜじ」と。比丘、為に法を説て聞かしむ。国王より始て、此れを聞て、貴み礼む事限無し。忽に其の所に寺を造り、塔を起てて、此の比丘を居へたり。多くの比丘を居へて、常に供養す。
但し、其の寺に一の不思議なむ有る。仏の御上に天蓋有り。微妙の宝を以て荘厳(かざれ)り。極て大なる、天上に懸たる天蓋の、人、寺に入て仏を匝(めぐ)り奉れば、人に随て天蓋も匝る。人、匝り止めば、天蓋も匝り止ぬ。其の事、于今世の人、心を得ず。「仏の御不思議の力にや有らむ。亦、工の目出たき風流の至す所にや有るらむ」とぞ、人云なる。
其の国王の時より、其の国に巫絶にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 2) , 3) , 4) , 5) , 6) 口へんに愈
7) 底本頭注「河一本黄河ニ作ル」
巻4第13話 天竺人於海中値悪竜人依比丘教免害語 第十三
今昔、天竺の人は、道を行く時は必ず比丘を具す。守有るが故也。
昔、一人の人有り。商の為に船に乗て、海に出ぬ。悪風俄に出来て、船を海の底へ巻き入る。其の時に、梶取有て、船の下を見れば、一人の優婆塞有り。梶取の云く、「汝は此れ何人ぞ」と。優婆塞、答て云く、「我は此れ竜王也。『汝が船を海底に巻き入れむ』と思ふ」と云へり。
梶取の云く、「何の故有てか、汝、我等を忽に殺さむと為る」と。竜王の云く、「汝が船に具したる比丘は、前生に我れ人と有りし時、我が家に有りし比丘也。朝暮に我が供養を受て、数(あまた)の歳を過すと云へども、我れに呵嘖を加へずして、罪業を造せて、今既に蛇道に堕したり。一日に三度、釼を以て切らるる事を得たり。此れ、偏に此の比丘の咎也。其の事の妬く情無きに依て、『彼の比丘を殺さむ』と思へり。
梶取の云く、「汝、蛇身を受て、三熱の苦に預て、連日に刀釼の悲を得る事は、此れ即ち、前生に悪業を造れる故也。亦、何に愚に、数の人を殺害して、其の果報を増さむと為る」と。竜王の云く、「我れ、昔を思ひ遣れば、前後の事を知らず。只、云教へずして、罪を造らしめて、悪業を得て、苦を受るが、極て情無ければ、『殺さむ』と思ふ」と。梶取の云く、「汝ぢ、一日一夜、此こに留り給へ。法を聞かしめて、汝が蛇道を遁れしめむ」と。
此の語に依て、竜王、一日一夜其の所に留て、比丘、経を誦して、竜王に聞かしむ。竜王、経を聞て、忽に蛇身を転じて、天上に生ると云へり。
然れば、「専に善根を修せよ」と親しからむ人をば教ふべき也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第14話 天竺国王入山見裸女令着衣語 第十四
今昔、天竺の国王、多の人を曳将て、山に入て、狩し給ふに、善く行き羸(つか)れて、極(こう)じ給へるに、見れば、山の中に大なる樹有り。其の本に、金の床を立てて、其の上へに裸なる女居たり。
国王、怪びて、近く寄て、「此れは、何ぞの女の、かくては居たるぞ」と問ひ給へば、女、申して云く、「己れは手より甘露を雨(ふら)す事を得たり」と。国王の宣はく、「然らば、速に雨すべし」と。其の時に、女、手を指し延べて、甘露を雨して、国王に奉る。国王、極て羸れ給へる心地に、此の甘露を服して、餓の心皆止て、楽びの心に成ぬ。
其の後、此の女の裸なるに、国王の衣を一つ脱て与へ給ふ時に、衣の内より火出来て焼ぬ。「此れ自然(おのづから)の事か」と、亦脱て与へ給ふに、亦前の如くに焼ぬ。三度与ふるに、三度乍ら焼て着ず成ぬ。
其の時に、国王、驚き怪むで、女に問て云く、「汝、何に此の如く焼て、服を着ざるぞ」と。女、答て云く、「我れ、前世に人と有りし時に、国王の后と有り。国王、微妙の食を備て、沙門に供養し給ひて、亦、衣を副へて供養し給ひしに、我れ、后として、食をば諸僧共に供養して、衣をば申し止て供養せさせず成にき。其の果報に依て、今、手より甘露を雨す事を得て、身に衣を着ぬ報を得たる也」と。
国王、此れを哀びて宣はく、「其の衣着ざる報をば、何(いかに)してか転ずべき」と問ひ給へば、女、答て云く、「沙門に衣を供養し給て、偏に我が為にと観じ給へ」と申せば、国王、宮に還りて、忽に微妙なる衣を儲て、沙門を請じて供養し給はむと為るに、其の間、国に沙門絶て無ければ、供養する事能はず。思ひ煩ひて、五戒を持(たも)てる優婆塞を請じて、此の事語り聞せて、此の由を呪願して、「此の供養を受納すべし」とて、微妙の衣を供養し給ひつ。此の持戒の優婆塞、国王の仰の如く、衣を捧げ持て、其の由を呪願して給はりぬ。
其の時に、国王、其の女の所に衣を遣て、着せ給ふに、衣の種出きにければ、衣を着るに障り無くなむ有りける。
然れば、夫妻の間、一人有て沙門を供養せむに、心同くして止むべからずとなむ、語り伝へたるとや。
巻4第15話 天竺舎衛国髪起長者語 第十五
今昔、天竺の舎衛国に一人の翁有り。歳八十にして、身極て貧し。然れば、其の国の人に物を乞て世を過す。亦、妻を相ひ具せり。其の妻、髪長して、此れに等しき者無し。万の人、此の女を見て、髪を惜む。「此の女の髪を美き人に付ばや」と云へば、中々に此の女、「髪に依て、常に恥を取る」と云ふ。
年来を経るに、妻夫、臥して相談(かたらひ)て云く、「我等、前生に何なる業を造て、今生に貧しき身と生れけむ。此れ、前生に善業を修せざる故也。今世に、亦、聊に善業を修せずば、後生1)、亦、此の如くならむ。我等、『少の善根を修せばや』と思ひ歎くと云へども、一塵の貯へ無くして、更に思ひ遣る方無し」と。妻の云く、「我れ、髪長くして、極て其の益無し。然れば、此の髪を切て売て、其の直を以て、少の善根を修して、後世の貯へと為む」と。夫の云く、「汝が今生の財は、只此の髪み許也。此の髪を以て、衣裳と為る也。何で、『切む』とは云ふぞ」と。妻の云く、「汝、此の身は無常の身也。譬ひ命百歳有りと云ふとも、死なむ後に、何の益か有む。今生、かくて止(やまん)とす。後世を思ふに、極て怖し」と云て、髪を切つ。
米一斗に売て、飯に炊て、相ひ構へて、菜二三種許具して、祇薗精舎2)に持詣でて、上座の比丘の房に行て云く、「爰に飯二斗持来れり。僧供に奉らむ」と。上座の比丘、驚き怪むで、「此れは何なる飯ぞ」と問ふ。女、答て云く、「自が髪を切て、売て、飯二斗雑菜二三種侍るを、只房の御弟子に供養し奉らむ」と。上座の云く、「此の寺は本より此の如きの僧供曳くには、一房に籠めて止む事未だ無し。只、鐘を撞て、大衆の鉢を集めて、一合づつをも曳奉れ。我れ更に知らず」と云て、鐘を撞て、三千人の鉢を集つむ。
其の時に、翁妻夫、大に驚き騒て云く、「我等、此の供養の故に、大衆に捕へ搦められて、責められなむとす。此れは何にし給ふ事ぞ」と申せば、上座、「更に知らず」と云ふ。
其の時に、翁、妻に語て云く、「我れ思ひ得たる事有り。只一人の鉢に、此の飯を皆投入れて、逃去なむ」と云て、第一の鉢に飯を皆投入て見るに、桶に飯、同じ様に有り。「此の飯は鉢に入らざるか」と思ひて、鉢を見れば、鉢は飯を受て行きぬ。桶にも猶有り。「怪し」と思ひ乍ら、亦、他の鉢に入れつ。亦々桶に猶有り。此の如く曳つつ、員(かず)に依て、慥に三千余人の僧供を曳く事畢ぬ。
翁妻夫、「奇異也」と思て、喜を成して、還らむと為る時に、他国の商人、風に放たれて上て、祇薗精舎の近辺に有り。粮(か)て絶て、皆餓へ羸(つか)れて、其の所に来て云く、「祇薗精舎に、今日、大僧供有りと聞く。我等、餓へ羸れて術無し。先づ命を助けよ」と云て、飯を乞ふ。飯、猶有れば曳きつ。
商人等、飯を乞得て、食ひ畢て云く、「此の僧供曳く優婆塞を見るに、下姓の人にこそ有めれ。我等、此の僧供を受け食て、既に命を助けつ。其の恩を報ぜずば、極て罪深かりなむ」と云て、各持たる所の金を、三分に別て、其の一分を此の翁に与へつ。或は五十両、或は百両、或は千両、各其の一分を別て得しめつれば、其の金、幾(いくばく)ぞ。
翁、金を得て、還て長者と成ぬ。世に並び無し。名をば髪起長者とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「後世一本後ノ世ニ作ル」
2) 祇園精舎 
巻4第16話 天竺乾陀羅国絵仏為二人女成半身語 第十六
今昔、天竺の乾陀羅国に大王有り。波斯利迦王と云ふ。其の王、七重の宝塔を起たり。其の東に一里行て、半身の絵像の仏御ます。
「何の故有てか、半身には御ますぞ」と尋ぬれば、其の国に、昔し、一人の貧き女有けり。道心を発して、「仏像を書奉らむ」と思て、仏師の許に行て、相ひ語らひて書かしむ。其の側に、一人の女有て、「我も仏書奉らむ」と思て、同じ仏師の許に行て、相ひ語て、仏を書かしむ。此の二人の女、共に貧しくして、其の料物、極て不足也。此れに依て、丈六の絵像一鋪を書たり。
日来を経て、本の女、「我が仏を礼み奉らむ」と思て、仏師の許に至て、「仏を礼み奉らむ」と云ふ。仏師の仏を取出して見する間、今一人の女が、「我が仏の御許に参て、礼み奉らむ」と思て、至り会て、「仏は出き御坐たりや」と云ふ。
其の時に、仏師、同仏を、「此れ汝が仏也」と云ふ。其の時に、前の女云く、「何に。『我が仏ぞ』と云つるは、早う他人の仏にこそ御坐けれ」と云へば、後の女、亦云く、「此の仏は、然(さ)は我が仏には非らざりけり」と云ふ。二人の女、共に心を迷して諍ふ。
其の時に、仏師、二人の女に語て云く、「母金は極て少し。仏は其の相好、一も欠給ぬれば、仏師も施主も共に地獄に堕と云ふ。汝等、仏の料物、極て不足なるに依て、一仏を書奉たる也。仏は一仏に坐せど、利益は同心也。汝等、只一つ心に、信を専にして、供養し奉れ」と云ふ。
然りと雖も、二人の女、諍ふ心を止めず。其の時に、仏師、仏前に詣でて、磬を打て、仏に白して申さく、「我れ、二人の女施主の、仏の料物不足なるに依て、一も犯用せず。而るに、二人の料に一仏を書たり。二人の女、各諍て責む。相語ひ誘(こしらふ)るに、其の心止まず。然れば、世尊、此の由を証明し給へ。自らは更に罪無し」と申す時に、其の日を過ぐさず、仏像、御腰より上、忽に別て半身に成り給ぬ。御胸より下は、本の如の体也。仏師、心清く、一塵犯用せざりければ、裁(ことわ)り申すに、仏、二に別れ給へり。
其の時に二人の女、仏の威験の新なるを見奉て、弥よ誠を至して、供養恭敬し奉けりとなむ、語り伝へたるとや。
巻4第17話 天竺仏為盗人低被取眉間玉語 第十七
今昔、天竺の僧迦羅国に、一の小伽藍有り。其の寺に、等身の仏御す。此の寺は、此の国の前天皇の御願也。仏の御頭(みぐし)には、眉間には玉を入たり。此の玉、世に並無き玉也。直、限無し。
其の時に、貧き人有て、「此の仏の眉間の玉、限無き宝也。若し、我れ此の玉を取て、買はむ人に与たらば、子孫七代まで、家楽く身豊にして、貧き思ひ無からむ」。而るに、此の寺に、夜半に入らむに、東西を閉て、門戸守る人乏み1)無し。適(たまたま)に出入する人をば、姓名を問ひ、行き所を尋ぬれば、更に術無し。然りと雖も、相ひ構て門戸の本を穿ち壊て、密に入ぬ。
寄て、仏の御頭の玉を取らむと為る程に、此の仏、漸く高く成り給て、及びも付れず。盗人、高き物踏なべて、亦及べども、弥よ高かく成り増り給ふ。
然れば、盗人、「此の仏は、本は等身也。かく高く成り増り給ふは、玉を惜み給ふなめり」と思て退き、合掌頂礼して、仏に白して言さく、「仏の世に出て、菩薩の道を行給ひし事は、我等衆生を利益抜済し給はむが為也。伝へ聞けば、人を済ひ給ふ道には、身をも世をも貪らず、命をも捨給ふ。所謂、一の羽の鴿に身を捨て、七つの虎に命を亡ぼし、眼を抉(ゑぐり)て婆羅門に施し、血を出して婆羅門に飲しめ、此の如くの有難き事をして、施し給ふ。何況や、此の玉を惜み給ふべからず。貧きを済ひ、下賤を助け給はむ、只此れ也。おぼろげにては仏の眉間の玉をば下すべしやは。憖(なまじひ)に行き廻て、世間を思侘て、限無き罪障を造らむとすれ。何かかく高く成り給て、頭の給を惜み給ふ。思ひに既に違ひぬ」と、哭々く申ければ、仏、高く成給ふ心地に、頭を垂て、盗人の及ぶ許に成り給ひぬ。然れば、「仏、我が申す事に依て、『玉を取れ』と思食す也けり」と思ひて、眉間の玉を取て出でぬ。
夜曙(あけ)て、寺の内の比丘共、此れを見て、「仏の眉間の玉は何なれば無きぞ。盗人の取てけるなめり」と思て、求め尋ぬれども、誰人の盗めると知らず。
其の後、此の盗人、此の玉を以て市に出でて売るに、此の玉を見知れる人有て、「此の玉は、其の寺に在ます仏の眉間の玉、近来失たる此れ也」と云て、此の玉売る者を捕へて、国王に奉つ。召し問るる時、隠さずして、有のままに申す。国王、此の事を用給はずして、彼の寺に使を遣て見しめ給ふ。
使、彼の寺に行て見るに、仏、頭をうな垂て立給へり。使、還て、此の由を申す。国王、此の由を聞給て、悲の心を発して、盗人を召して、直を限らず玉を買ひ取て、本の寺の仏に返し奉給て、盗人をば免しつ。
実に心を至して念ずる仏の慈悲は、盗人をも哀び給ふ也けり。其の仏、于今至るまで、うな垂て立ち給へりとなむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「乏或ハ息ノ誤カ」
巻4第18話 天竺国王以酔象令殺罪人語 第十八
今昔、天竺に国王有り。国の中に王法を犯す不善の輩有れば、一の大象を以て、酔はしめて、罪人に放ち任すれば、大象、目を赤め大口を開て、走り懸て、犯人を踏殺す。然れば、国の内の罪人、一人として生る者無し。此れに依て、此の象を以て、国の第一の財とす。隣国の敵人も、此の由を聞て、敢て来たらず。
其の時に、象の厩に火出来て焼ぬ。暫く厩を造る間、此の象を僧房に繋げり。其の房の主、常は法華経を誦し奉るに、一夜を経る程に、象、此の経を聞き奉る。其の明(あけ)なる日、象、極て禁じたり。
而る程に、多の罪人を将来れり。此の象を酔はしめて、前々の様に放ち合するに、象、這ひ臥て、罪人の踵を舐て、敢て一人を害せず。其の時に、大王、大に驚き怪むで、象に向て云く、「我が憑む所は、此れ汝ぢ也。然れば、国の内に罪人少く、隣国の敵人来たらず。若し、此の象、此の如き有らば、何を以てか彼の依怙(たのみ)と為む」と宣ふ。
其の時に、或る一人の智臣の云く、「此の象は、今夜、何なる所にか繋げる。若し、僧房の辺にや有つる」と問ふに、人有て答て云く、「然か有つ」と。智臣の云く、「然れば、此の象は、今夜、僧房にして比丘の経誦するを聞て、慈心を成して、人を害せざる也。速に屠の辺に遣て、一夜を経て試すべし」と。
其の教へに随へて、大象を屠の辺に遣て、一夜を経て、明る日罪人に向ふるに、歯を嚼み口を開て、疾く走り寄て、員(かず)を尽して踏殺しつ。其の時に、国王、喜び給ふ事限無し。
此れを以て思ふに、畜生そら法を聞て、悪心を止て、善心を発す事此の如し。何況や、心有らむ人、法を聞て貴ばむに、悪心は必ず止なむとなむ、語り伝へたるとや。
巻4第19話 天竺僧房天井鼠聞経得益語 第十九
今昔、天竺に、仏、涅槃に入給て後、一の房に比丘住せり。常に法花経を誦し奉る。其の房の天井の上に五百の老鼠有て、日々夜々に此の法花経を聞き奉り、数(あまた)の年を経たり。
其の時に、其の所に六十の狸出来て、此の五百の老鼠を皆喰つ。其の鼠、五百乍忉利天に生れぬ。天の命尽て、皆人界に生れぬ。舎利弗尊者に値て、阿羅漢果を証して、終に悪道に堕ちず、弥勒の出世の時生れて、仏の記別に預て、衆生を利益すべし。
鼠そら、経を聞き奉るに、此の如し。何況や、人、誠の心を至して、法花経を聞き奉て、一心に信仰せむに、更に道を成じ、亦三悪道を離れむ事、疑ふべからず。
抑も、外典1)に云ふ様、「白き鼠は命三百歳有り。一百歳より身の色白く成ぬ。其の後は、善く一年の内の吉凶の事を知り、千里の内の善悪の事を悟る。其の名をば神鼠と云ふ」。
然れば、経を聞き奉て、道を得る事も有る也となむ、語り伝へたるとや。
1) 『抱朴子』内篇・対俗篇を指す。
巻4第20話 天竺人為国王被召妻人依唱三帰免蛇害語 第二十
今昔、天竺の鄙土に一人の人有り。端正美麗なる妻を具せり。年来夫妻として相ひ棲むで、契り深し。
其の時に、其の国の王、「国の内に端正美麗なる女を求て、貴賤を撰ばす、后と為む」と思て、尋ねらるるに、人有て、申して云く、「其国其郡其郷にこそ、美麗なる事世に並び無き女は侍るなれ」と。国王、此れを聞て、喜て、召しに遣すに、亦、人申さく、「彼の女は、年来の旧夫有り。人の夫妻の間は百年の契を期す。離別せむ事、何ぞ。妻を召さば、夫、定めて歎き思はむ故に、山野に交りなむ。然れば、先づ夫を召捕て、罪を行はれて、後の妻を召すべき也」と。
国王、「尤も然るべし」とて、先づ夫を召しに遣す。使、彼の所に至て、宣旨の言を読む。夫の云く、「我れ、更に公の御為に犯せる所無し。何の故有ればか、我れを召すべき」と。使、亦云ふ事無くして、夫を相ひ具して、王宮に将参ぬ。
国王、此れを見給ふに、忽に罪に行はむ事の、指(させ)る故無ければ、「遣はすべき所有り」と思て、宣はく、「汝ぢ、此れより艮(うしとら)に四十里行て、大なる池有り。其の池に、四種の蓮花開たり。七日の内に其の蓮花を取て、持参すべし。若し、持来れらば、汝に賞を給ふべし」と。
夫、宣旨を奉(うけたま)はりて、家に還て、愁へ歎ける気色有り。妻、食を備へて与ふと云へども、更に食さずして、悲歎して居たり。妻、問て云く、「何事に依て、歎て食せざるぞ」と。夫、宣旨の状を語る。妻の云く、「速に食すべし」と。夫、云ふに随て食しつ。
其の後、妻の云く、「伝へ聞ければ、彼の道は多の鬼神有り。池には大なる毒蛇有て、花の茎を纏て棲むなり。行く人、一人として還る事無し。悲きかなや、汝と我れ、生乍ら別れなむとす。千歳の契を期しつれども、忽に鬼神の為に命を奪はれなむとす。我れ独り、此の所に残り留て、何の益か有らむ。我れ、汝と共に死なむ」と、泣々く云ふ。夫、妻を誘(こしら)へて云く、「我れ、汝が身に代らむと思つれども、忽に王難に値て、其の本意に違ぬ。二人乍ら死なむ事益無し。猶、汝は留まれ」と云て止つ。
妻、夫に教て云く、「其の道に多の鬼神有なり。鬼神有て、『汝は誰人ぞ』と問はば、『我れは娑婆世界の釈迦牟尼仏の御弟子也』と答ふべし。『何なる法文をか習へる』と問はば、『南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧』と、『此の文也』と答へよ」と教へて、七日の粮を裹(つつま)せて、出し立つ。夫、家を出でて行くに、夫は妻を見返り、妻は夫を見送りて、互に別を惜しむ事限無し。
四日と云ふに、守門の鬼の許に至ぬ。鬼、此れを見て、喜て噉(く)はむとして、先づ問て云く、「汝は何こより此れる人ぞ」と。答て云く、「我れは娑婆世界の釈迦牟尼仏の御弟子也。国王の仰せに依て、四種の蓮花を取らむが為に来れる」と。鬼の云く、「我れ、未だ仏と云ふ名を聞かず。今始て仏の御名を聞くに、忽に苦を離れて、鬼の身を転じつ。此れに依て、汝を免す。此れより南にも、亦鬼神有り。亦此の如く云ふべし」と教へて放てば、亦行けば、鬼有り。
此れを見て、喜て噉むと為て、「汝、抑誰人ぞ」と問へば、上の如く答ふ。「亦何なる法文か持てる」と問へば、三帰の法文を誦す。其の時に、鬼、歓喜して云く、「我れ、無量劫を経つるに、未だ三帰の法門を誦するを聞かざりつ。今悦(うれし)く汝に会て、此の文を聞つるに、鬼の身を転じて、天上に生まるべし。汝ぢ、此れより南へ行かば、大毒蛇多かり。善悪を知らず、定て汝を呑てむとす。然れば、汝、暫く此こに有れ。我れ、彼の花を取て得しめむ」と云て行ぬ。
即ち、四種の蓮花を持来て、授て云く、「国王の仰せに、七日の内と有なり。汝、家を出でて、今日五日也。残の日、幾ならず。七日の内に行着む事難し。然れば、汝、我が背に乗れ。汝を負て疾く将行かむ」と云て、背に乗せて、程無く王宮に至ぬ。鬼は下して後、忽に失ぬ。
即ち、四種の花を持参たれば、怪びて問ひ給ふに、事の有様を一々に申す。国王、此の事を聞て、甚だ歓喜して宣はく、「我れは鬼神に劣れり。『汝を害して、妻を取らむ』と思ひつ。鬼神は我に増(まさ)れり。汝が命を助けて返せり。我れ、永く汝が妻を免す。速に家に返て、三帰の法文を受持せよ」と。
夫、家に返て、妻に此の事を語る。妻、亦喜て、互に三帰の法文を受持しけりとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

巻4第21話 為国王負過人供養三宝免害語 第廿一
今昔、天竺に一人の人有り。国王の為に犯を成して、其の過(とが)を負へり。国王、此の人を捕へて、頸を切らむと為る程に、此の人、国王に申して云く、「我れに七日の暇を免し給へ」と。国王、申すに依て、七日の暇を給ひつ。
此の人、家に還て、心を至して、七日の間、三宝を供養し奉る。七日を過畢て、八日と云ふ朝に、国王の御許に参れり。
国王、此の人を見て、喜て、其の頸を切らしむるに、此の人、忽に仏の相を身に現ず。国王、此れを見て、頸切る事を止めて、大象を酔はしめて、此の人を踏み殺させむと為るに、此の人、金色の光を放て、指の崎より、五の師子を現じ出す。酔象、此れを見て、忽に逃去ぬ。
其の時に、国王、此の奇異の相を見て、恐(お)ぢ怖れて、問て云く、「汝、何なる徳有てか、此の如く有る」と。答て云く、「我れ、家に還て、七日の間、三宝を供養し奉て、七日を過て還り参れる也」と。其の時に、国王、此の人の過を免して、三宝に帰依し奉る事限無し。
然れば、三宝を供養し奉り、帰依する事は、限無きの功徳也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第22話 波羅奈国人抉妻眼語 第廿二
今昔、天竺の波羅奈国に一人の人有り。邪見にして仏法を信ぜず。其の人の妻、専に仏法を信ずと云へども、夫の心に随て、仏法の事を勤る事無し。
而る間、不慮の他に、一人の比丘に値て、密に法華経十余行を読み習ひつ。夫、自然ら此の事を聞て、妻に云く、「汝、経典を読み習へり。極て貴し」と云て、出て去ぬ。妻、恐ぢ怖れて有る間、夫、即ち還り来て云く、「我れ、道を行つるに、極て若く盛にて端正美麗なる女、死て臥(ふせ)りつ。其の目、極て善かりつれば、抉(えぐ)り取て、爰に持来たり。汝が目の、極て愛無く醜きに、抜き代へむ」と云ふ。
妻、此れを聞くに、「眼をば抜き取れなば、命存すべからず。忽に死なむ」事を泣き悲なしむ事限無し。乳母の云く、「然れば、『此の経読給ふべからず』と教へ奉りしを、聞給はずして、終に身を徒に成し給ぬる」と云て、其れも哭く。妻の云く、「此の身は無常の身也。惜むと云とも、終には死なむとす。徒に朽損ぜむよりは、如かじ、法の為に死(しなん」と云て、乳母と共に哭けり。
而る程に、夫、客殿に居て、音を荒くして、妻を呼ぶ。遁るべき方無ければ、「我れ、今ぞ死ぬる」と思て、歩み出たるを、夫、捕へて、膝の上の曳き臥せて、眼を抉り取て、身をば大路に曳捨てつ。傍の人、此れを見て哀むで、敷物を与ふ。然れば、道の辻に此れを敷て臥たり。眼は無けれども、命は限り有れば、かくて卅日を過す。
其の時に、一人の比丘来て、問て云く、「汝は誰人ぞ。何ぞ眼無くして臥たる」と。女、事の有様を答ふ。比丘、此の事を聞て、哀むで、山寺に将上て、九十日養育す。
此の盲女、夏の終に至るに、夢に見る様、「我が読奉る所の『妙法』の二字、日月と成て、空より下りて、我が二の眼に入る」と見て、夢覚ぬ。驚て見るに、上は欲界六天の様々の勝妙の楽を掌の内に見るが如し。下は閻浮提の二万由繕那1)を見通して、等活・黒縄乃至無間地獄の底を見るに、鏡に懸たるが如し。
女人、喜て師の比丘に此の事を語る。「夢に見つる事、此の如し」と。比丘、此れを聞て、喜び悲むで、貴ぶ事限無し。
既に法華経十余行の威力に依て、天眼を得たる事、此の如し。何況や、心を至して、一部を常に誦せむ人の功徳、量り無し。思遣るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 由旬に同じ。
巻4第23話 天竺大天事語 第廿三
今昔、天竺に、仏1)、涅槃に入給て四百年に、末度羅国と云ふ国に、大天2)と云人有り。其の父、商の為に大海に浮て、他国へ行ぬ。
其の間、大天、「此の世に、端正美麗勝れたらむ女を以て妻と為む」と思て求るに、求得ずして、家に帰たるに、其の母、端正美麗にして、「世に、此れに勝たる女無かりけり」と見て、母を娶(とつぎ)て、妻と為り。
月来3)相ひ棲む程に、父、数(あまた)の月を経て、海より還り来て、岸に着く程に、大天、思ふ様、「我れ、母を妻と為るに依て、父還り来なば、定めて、我れを善しと思はじ」と思て、未だ陸に上らざる前に、行き向て、父を殺しつ。
其の後、思ふ事無くして棲む程に、大天、白地(あからさま)に外に行たる間、母、隣に行て暫有るを、大天還て、此れを、「密に隣に行て、他の男に娶するぞ」と思ひて、大に嗔を成て、母を捕へて、打殺しつ。
既に、父母を打殺しつ。大天、此の事を恥ぢ恐れて、本の栖(すみか)を去て、遥かに遠き所に行き住む程に、此の本の国に有し一人の羅漢の比丘有けり。其の羅漢、大天が今住む所に来り有けるを、其の時に、大天、此の羅漢を見て思ふ様、「我れ、本の栖にして、父母を殺てき。此の事を恥じ恐るるに依て、此の所に来り住む。爰にして、父母を殺せりし事を深く隠す。而るに、此の羅漢、此に来れり。定めて人に語らむとす。去れば、只□4)如じ、此の羅漢を失てむ」と思て、羅漢を殺しつ。
然れば、既に三逆罪を犯つ。其の後、大天(下文欠)
1) 釈迦
2) 摩訶提婆
3) 底本頭注「月来一本日来ニ作ル
4) 底本頭注「只ノ下不トアルベシ」
巻4第24話 龍樹俗時作隠形薬語 第廿四
今昔、西天竺に、龍樹菩薩と申す聖人在しけり。初め俗に在ける時には、外道の典籍の法を習へり。
其の時に、俗三人有て、語ひ合せて、隠形の薬を造る。其の薬を造る様は、寄生(やどりぎ)を五寸に切て、陰干に百日干て、其れを以て造る薬になむ有ける。其れを以て、其の法を習て、其の木を髻に持(たも)てれば、隠蓑と云らむ物の様に、形を隠して、人見る事無し。
而るに、此の三人の俗、心を合せて、此の隠形の薬を頭に差て、国王の宮に入て、諸の后妃を犯す。后達、形を見えぬ者の、寄り来て触れば、恐ぢ怖れて、国王に忍て申す。「近来、形は見えぬ者の寄り来て、触る者なむ有る」と。
国王、此の事を聞て、智(さと)り御ける人にて、思ひ給ふ様、「此れは、隠形の薬を造て、かく為るにこそ有めれ。此れを為べき様は、粉を王宮の内に隙無く蒔てむ。然れば、身を隠す者也と云ふとも、足の形付て、行かむ方は騒しく顕はれなむ」と構へられて、粉を多く召して、宮の内に隙無く蒔つ。粉と云ふは、八うに1)也。
此の三人の者、宮の内に有る時に、此の粉を蒔き籠めつれば、足の跡の顕るるに随て、太刀抜きたる者共を多く入れて、足跡の付く所を押量りて切れば、二人は切伏られぬ。
今一人は、龍樹菩薩に在ます。切られ侘びて、后の御裳の裾を曳き被ぎて、臥し給て、心の内に多の願を発し給ふ。其の気にや有りけむ、二人切伏られぬれば、国王、「然ればこそ、隠形の者也けり。二人こそ有りけれ」と宣て、切る事をば止められぬ。其の後、人間(ひとのひま)を伺て、此の龍樹菩薩は相ひ構へて、宮の内をば逃げ遁れ給ひぬ。
其の後、「外法は益無」とて、□□2)の所に御して、出家し給て、内法を習ひ伝へて、名をば龍樹菩薩と申す。世挙て崇め奉る事限無しとなむ、語り伝へたるとや。 1) 底本頭注「八ウニハハウニ(白粉)ナルヘシ」
2) 底本頭注「ノ所ノ上一本羅漢ニ作リ又一本仏法ニ作ル」
巻4第25話 龍樹提婆二菩薩伝法語 第廿五
今昔、西天竺に龍樹菩薩と申す聖人御けり。智恵無量にして、慈悲広大になむ御ける。亦、其の時に、中天竺に提婆菩薩と申す聖人御けり。亦、此の人も智(さと)り深くして、法を弘め伝へむ心深し。
其れに、「龍樹菩薩の智恵、無量に在ます」と聞き給て、「其の所に詣でて、仏法を習ひ伝へむ」と思て、遥に西天竺を指して、行き給ふ。其の道、遥に遠くして、或は、深き河を渡り、或は、梯(かけはし)を渡り、或は、遥なる巌の山をかかづり登り、或は、道無き荒磯を渡り、深き山を通り、広き野を行く。或は、水無き所を過ぎ、或は、粮る時も有けり。此の如き堪へ難き道を泣々く行く事は、未だ知らざる仏法を習ひ伝へむが為也。
辛苦悩乱して、月来を経て、終に龍樹菩薩の御許に行き着ぬ。門にして、人を以て案内を申し入れむが為に、伺ひ立てり。一人の御弟子、外より来て、御室に入るに値ぬ。御弟子、問て云く、「□□く聖人の坐るぞ」と。答て云く、「申すべき事有て参たる也」と。御弟子、聞て入ぬ。師の菩薩に此の由を申す。
菩薩、然るべき御弟子を以て、問はしめ給て云く、「何れの所より、何なる人の来られたるぞ」と。提婆菩薩、答て云く、「我は中天竺の人也。伝へ承れば、『大師、智恵無量に在ます』と。道遠く、遥に峻(さかし)くして、輙く趣くべき所にも非ず。加之、年老ひ身羸(つか)れて、歩を運ぶと云へども、其の道堪難し。然りと雖も、只仏法を習ひ伝へむ心深きに依て、『仏法を伝ふべき縁有らば、自然ら参り着きなむ』と思て、身命を顧みずして、参り着たる也」と。
御弟子、聞て還入て、此の由を申す。師、問ひ給ふ、「若き比丘か、老たる比丘か、何様なるぞ」と。弟子、申す、「実に遥なる道を歩び羸れたるにや、痩せ衰へて、糸貴気に侍る人也。立上らずして、門の脇になむ、平がり居て侍る」と。
其の時に、大師、小き箱を取出でて、箱に水を入れて、「此れをば持て行て与へよ」とて給ふ。御弟子、箱を給はりて、提婆菩薩に与ふ。提婆菩薩、箱を取て、箱に水の入れるを見て、衣の頸より針を抜出でて、箱に入れて、御弟子に還し奉る。
御弟子、此の箱を取て、大師に奉る。大師、箱を取て見給ふに、底に針一を入れたり。此れを見て、驚き騒ぎ給ふ事限無し。大師の宣はく、「実の智者の在ますにこそ有けれ。疾く入奉らずして、度々問ひ奉る事、極めて忝し。房を掃き揮(はら)ひ、清き座を敷て、弟子を以て速に入給ふべし」と。
弟子、此の由を承て、先づ大師に申さく、「他国より参れる比丘、門の外にして、事の由を申さす。大師、来れる心を問ひ給ふ。参れる本意の由を申すに、大師、箱に水を入れて給ふ。『遠国より来れば、先づ水を飲て、喉を潤せよと思食すなめり』と思て、比丘に与るに、比丘、水をば飲まずして、衣の頸より針を抜出でて、箱に入れて還し奉る。『針を大師に奉るなめり』と思ふ所に、箱をば針を入乍ら置き給ふ。かく、忝けながり、呼び入れ給ふ事、心得ず」と。
大師、嘲咲(あざわらひ)て宣はく、「汝が智、甚だ愚也。中天竺の比丘、遥に来て、法を伝ふべき由を云ふ。我れ、其の答を云はずして、『箱に水を入て与ふる事は、水入れたる器は小さしと雖も、万里の景は浮ぶ事也。我が智恵は、小き箱の如くなれども、汝が万里の智恵の景を、此の小き箱に浮べよ』とて、箱に水を入れて与ふる也。其れに、来たる聖人、空に我が心を知て、針を抜出でて、箱に入るる事は、『我が針許の智恵を以て、汝が遥の大海の底を極め知らむ』と云ふ心也。年来、我れに相副へりと云へども、智恵薄うして、此の心を悟らず。中天竺の聖人は、遥の所より来れりと云へども、我が心の内を善く知れり。智恵有ると、無きと、勝劣遥に隔たり」と宣ふを聞くに、肝心を砕くが如く思ふ。
然而(しかれど)も、大師の言に依て、此の聖人、入給ふべき由を申す。聖人、入りて、大師に会ひ奉る。瓶の水を写すが如とし。法を習ひ伝へて、本国に還て弘めけり。
智恵有ると無きと、心利(とき)と遅きと、顕はに験(しる)き物也けりとなむ、語り伝へたるとや。  
巻4第26話 無着世親二菩薩伝法語 第廿六
今昔、天竺に、仏1)涅槃に入給て後、九百年の時、中天竺の阿輸遮国と云ふ所に、無着菩薩と申す聖人御けり。智恵甚深にして弘誓広大也。夜は兜率天に昇て、弥勒の御許に参て、大乗の法を習ひ奉り、昼は閻浮提に下て、衆生の為に法を弘む。
亦、其の弟に世親菩薩と申す聖人御けり。北天竺に丈夫国と云ふ国に住し給ふ。智(さと)り広くして、心に哀び有り。但し、東洲より賓頭盧尊者と申す仏の御弟子来て、此の世親菩薩に小乗の法を教ふ。然れば、年来小乗の法を好て、大乗の法を云ふ事をば知らず。
兄の無着菩薩、遥に此の心を知て、「構へて大乗に勧め入(いれん)」と思ひ給て、我が門徒の弟子を一人語ひて、彼の世親の御する所に遣て宣はく、「速に、此の所に来給ふべし」と。弟子、大師の命に随て、丈夫国に行至て、世親に無着の命を語る。
世親、無着の命に随て、行かむと為る間、夜る、無着の弟子の比丘、門の外にして、『十地経2)』と云ふ大乗の文を誦す。其の時に、世親、此の文を聞くに、甚深にして心の及ぶ所に非ず。爰に思はく、「我れ、年来拙くして、此の如きの甚深の大乗を聞かずして、小乗を好て習へり。大乗を誹謗せる罪、無量ならむ。誹謗の誤り、偏に舌より発れり。舌を以て罪の根本とす。我れ、今此の舌を切り捨む」と思ひて、利き刀を取て、自ら舌を切らむとす。
其の時に、無着菩薩、神通の力を以て、遥に此の事を見て、手を指(さし)延べて、舌を切らむと為る手を捕へて、切らしめず。其の間だ3)三由旬也。即ち来て、傍に立て、無着、世親に教へて宣はく、「汝が舌切らむと為る事、極て愚也。其れ、大乗の教法は真実の理也。諸の仏け、此れを讃(ほ)め給ふ。諸の聖衆、亦此れを尊ぶ。我れ、汝に此の法を教むと思へり。汝ぢ、速に舌を切る事無くして、此れを習ふべし。舌を切るは悔るに非ず。昔は舌を以て大乗を謗れり。今は舌を以て大乗を讃めよ」と宣て、掻消つ様に失せ給ぬ。世親、此の事を聞て、無着の教に随て、舌を切らずして歓喜す。
其の後、無着の御許に行て、思を深くして、始て大乗の教法を受け習ふ事、終に瓶の水を写すが如し。兄の無着菩薩の教化、不思議也。世親、其の後、百余部の大乗論を造りて、世に弘め給ふ。名を世親菩薩と申す此れ也。専に世に崇められ給ふ人也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 『華厳経』十地品
3) 底本頭注「其ノ間ダ一本其ノ間ヲ計ルニニ作ル」
巻4第27話 護法清弁二菩薩空有諍語 第廿七
今昔、天竺の摩訶陀国1)に、護法菩薩と申す聖人御けり。此れは、世親菩薩の弟子也。教法を弘め、智恵甚深なる事、人に勝れ給へり。然れば、其の門徒、極て多し。
亦、其の時に、清弁菩薩と申す聖人御けり。此れは提婆菩薩の弟子也。此の人も亦、智恵甚深也。門徒、亦多し。
其れに、清弁は、「諸法は空也」と立つ。護法は「有也」と立つ。此れに依て、互に、「我が立る所ぞ実なる」と諍ふ。護法菩薩の宣はく、「此の事の諍ひ、誰か此の実否を判(わか)つべき。然れば、弥勒に問奉るべき也。速に兜率天に昇て、問奉るべし」と。清弁菩薩の宣はく、「弥勒は未だ菩薩の位に在せば、猶一念の□□2)有り。然れば、問奉るべからず。今、成道の時に問奉るべし」とて、其の諍ひ止まず。
其の後、清弁、観世音の像の前にして、水を浴み穀を断て、随心陀羅尼を誦して、誓て、申して申さく、「我れ、此の身乍ら留て、弥勒の出世に値ひ奉らむ」と、三箇年の間だ祈念す。其の時に、観世音、自ら身を現じて、清弁に告て宣はく、「汝、何事を思ひ願ふぞ」と。清弁、答て云く、「我れ願くは、此の身を留めて、弥勒を待ち奉らむと思ふ」と。観世音、告て宣はく、「人の身は徒にして、久しからず。然れば、善根を修して、『兜率天に生れむ』と願ふべし」と。清弁、答て云く、「我れ、本より思ふ所二つ無し。猶、此の身を留めて、弥勒を待ち奉らむと思ふ」と。観世音の宣はく、「然らば、汝、䭾那羯磔迦国3)の城の山の巌の執金剛神の所に行て、誠を至して、執金剛陀羅尼を誦して祈請(いのら)ば、其の願は遂てむ」と。
清弁、観世音の教へに随て、其の所に行き呪を誦して、祈請する事、三箇年也。
其の時に、執金剛神現じて、清弁に問て云く、「汝、何事を願て、此の如く為るぞ」と。清弁、答て云く、「我れ、願ふ所は、『此の身乍ら留て、弥勒を待ち奉らむ』と思ふに、観世音の示し給へるに依て也」と。執金剛神、語て云く、「此の巌の内に、阿素洛宮と云ふ所有り。法の如く祈請せば、自然ら石の壁開なむ。其れに入りなば、此の身乍ら弥勒を待ち奉てむ」と。清弁の云く、「穴の中、闇くして見る所無からむ。何してか、仏の出給はむ事をば知るべき」と。執金剛神の云く、「弥勒、世に出給はば、我れ来て告ぐべし」と。
清弁、其の言を得て、苦(ねんごろ)に祈請する事、亦三箇年を経るに、更に他の思ひ無し。芥子を呪して、其の石の面を打つ時に、洞開たり。
其の時に、千万の人有と云へども、入らむ思ひ無し。清弁、其の戸に跨りて、多の人に告て云く、「我れ、久く祈請して、此の穴に入て、弥勒を待ち奉るべし。若し、其の志有らむ人は、共に入るべし」と。此れを聞く人、恐ぢ怖れて、敢て其の戸の辺に至る者無して、云ふ様、「此れは毒蛇の窟也。此れに入なむ人は、定て命を失てむ」と云ひ合へり。清弁、「猶入るべし」と宣ふに、只六人ぞ随て入にける。
其の後、本の如く、戸閉にけり。入らざる事を悔る人も有けり。亦、恐る人も有けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 摩竭提国
2) 底本頭注「有リノ上一本思ニ作リ又一本無明ニ作ル」
3) 駄那羯磔迦国
巻4第28話 天竺白檀観音現身語 第廿八
今昔、仏1)、涅槃に入給て後、□□国に一の伽藍有り。其の名をば、□□寺と云ふ。其の寺の最中なる堂に、白檀の観自在菩薩2)の像在ます。
霊験殊勝にして、常に人詣づる事、数十人絶えず。或は七日、或は二七日、穀を断ち、漿(こんづ)を断て、心に願ふ事を祈請するに、誠の心を至せば、観自在菩薩自ら、微妙の荘厳を具足し、光を放て、木像の中より出でて、其の人に見え給ふ。其の人を哀むで、願ふ所の事を満て給ふ。
此の如く現じ給ふ事、数度に成ぬれば、弥よ帰依し供養し奉る人、世に多し。然れば、多の人、詣で合へるに、此の像に近付む事を恐れて、像の四面に各七歩許を去て、木の抅欄を立たり。人来て、礼拝し奉る時は、其の抅欄の外にして礼し、像に近付く事無し。亦、人、詣でて、花を取て抅欄の外にして散じ奉るに、若し菩薩の御手に及び臂に懸ぬれば、此れを吉事として、願ふ所満ぬと知る。
其の時に、一人の比丘有て、外国より法を学せむが為に来れり。此の像の前に詣でて、願ふ所を祈請せむが為に、種々の花を買て、此れを貫て花鬘と為て、菩薩の像の御許に詣でて、誠を至して礼拝して、菩薩に向ひ奉て、跪て、三の願を発せり。
「一は、此の国にして法を学し畢て、本国に帰らむに、平安にして難無き事を得ば、願くは、此の花、菩薩の御手に留まれ。二は、修する所の善根を以て、兜率天に生れて、慈氏菩薩3)を見奉らむと思ふ。若し、心の如くならば、願はくは、此の花、菩薩の二の臂に係れ。三は、聖教の中、『衆生の中に、一分の仏性無き者有り』と云ふ。若し、我れに仏性有て、修行して、終に無上道を得べくば、願くは、此の花、菩薩の頸頂に係れ」と云畢て、花鬘を以て遥に散ずるに、悉く願ふ所の如くに係りぬ。既に、所願満ぬる事を知て、心に歓喜する事限無し。
其の時に、寺を守る人、其の傍に有て、此の事を見て、奇異の思ひを成し、比丘に語て云く、「聖人は必ず当来に成仏し給はむとす。願はくは、其の時に今日の結縁を忘れずして、先づ我れを度し給へ」と契て別ぬ。其の後、彼の見たる人の語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 観世音菩薩に同じ。
3) 弥勒菩薩
巻4第29話 天竺山人見入定人語 第廿九
今昔、天竺に一の山有り。峰峻(さか)しき事限無し。
仏1)、涅槃に入給て後に、其の山、雷震の為に崩たり。山人、其の所を過るに、一人の比丘を見る。身枯僂して、目を冥(つぶり)て居たり。鬢髻2)、肩面の生ひ下たり。山人、此れを見て、驚き怪むで、国王に此の由を申す。
国王、此れを見むが為に、自ら大臣・百官を引将て、其の所に行給て、礼拝して供養し給ふ。国王の宣はく、「此の人を見るに、極て貴し。此れ、誰人ぞ」と。一人の比丘有て、申して云く、「此れは、出家の羅漢の滅尽定に入れる也。多の年を積れり。此の故に、鬢髪長き也」と。国王の宣はく、「何にしてか、此の人を覚(さま)し驚かしめて、其れを起しめむ」と。比丘、申して云く、「段食(だんじき)の身は、定より出れば、即ち其の身破れぬ。然れば、撃て覚(さと)らしめば、起くべし」と。
其の時に、国王、其の語に依て、此の人の身に乳を灑て、椎を撃たしむ。其の時に、羅漢、目を見開て云く、「汝達は誰人ぞ。形は卑くして、法服を着せり」と。比丘、答て云く、「我は比丘也」と。羅漢の云く、「我が師の迦葉波如来3)は、今何こにか御する」と。比丘、答て云く、「涅槃に入給て、久く成り給ひにき」と。此れを聞て、羅漢、哀び歎く。
其の後、亦云く、「釈迦文仏4)は正覚成り給ひにきか」と。比丘、答て云く、「既に正覚成り給ひて、多の衆生を利益して、其れも涅槃に入給ひにき」と。羅漢、此の事を聞畢て、眉5)を垂て、良(やや)久く有て、手を以て髻を挙て、虚空に昇て、大神変を現じて、火を出して、自ら身を焼て、骨髄を地に落す。
其の時に、国王、諸の人と共に、此の骨を取て、率覩婆を起てて、礼して還り給ひにけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「髻ハ髪ノ誤カ下同ジ」
3) 迦葉仏
4) 釈迦牟尼仏
5) 底本頭注「眉ハ首ノ誤カ」
巻4第30話 天竺婆羅門貫死人頭売語 第三十
今昔、天竺に一人の婆羅門有けり。多の死人の古き頭を貫て、王城に入て、音を高くして、叫て云く、「我れ、死人の古き頭を貫き集て持たり。人有て、我が持たる頭を買ふべし」と。
此の如く叫ぶと云へども、一人として買人有らむや。婆羅門、頭を売得ずして悲むを見る人、多く集て、罵り咲ふこと限無し。
其の時に、一人の智(さとり)有る人出来て、此の頭を買取る。婆羅門は耳の穴に緒を通して持たり。此の買ふ人は、耳の穴に通さずして持還る。其の時に、婆羅門、買ふ人に問て云く、「何の故に、耳の穴に緒を通さざるぞ」と。答て云く、「法花経を聞ける人の耳の穴に、緒を貫かざる也」と云て、買取て持去ぬ。
其の後、塔を起てて、此の多の頭を置て、供養しけり。其の時に、天人下て、其の塔を礼拝して、去にけり。
婆羅門の願を満てむが為に、用無しと云へども、頭を買取て、塔を起てて、頭を籠めて、供養するを、天人も歓喜して、降て礼拝する也けりとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

巻4第31話 天竺国王服乳成嗔擬殺耆婆語 第卅一
今昔、天竺に国王御けり。其の国王の心、極てねぢけくて、性、本よりとろめきてぞ有ける。只、寝をのみ眠るを役と為り。
然れば、世の人にも似ず有ければ、大臣・公卿有て、「此の国王は只の事にも在さず、かくとろめきて、寝をのみ眠り給ふは、此れ必ず御病に在すめり」と云て、其の時の止事無き医師(くすし)を召して、問はれければ、医師の云く、「此れ、御病也。速に乳を服せしめ給ふべき也」と申す。「然らば、早く乳を進(まゐらす)べし」と定められて、乳を進れり。
国王、乳を服して、極て悪く思えければ、大きに嗔を成して、「此れは、更に薬に非ず。極たる毒也」と云て、多の医師、首斬られにけり。然れば、国王、猶寝を眠り給ふ事、弥よ増(まさり)て、𡀍1)(いゆ)る事無し。
而る間、一人の止事無き医師有り。此れを召して問はるるに、医師の云く、「王、生れ給ひけむ時、母后、何なる事か在しけむ」と。母后、此の事を聞て云く、「我れ、夢に大きなる蛇来て、我れを犯すと見てなむ、此の王を懐妊したりし」と。医師、此の事を聞て、心の内に思はく、「然れば、此の王は蛇の子にて、かく心とろめきて、寝をも眠り給ふ也けり」と心得て、其の薬を思ひ廻すに、只、乳より外の薬無し。「然れば、乳を猶服せしめ奉らむ」と思ふに、前々の医師、皆殺さるれば、極て益無し。然れども、思ひ煩て、乳を非ぬ様に合薬して、「他の薬ぞ」と云て、奉りつ。
国王、此れを服し給ふに、猶、乳の気思えければ、亦、大に嗔て、「此の薬奉りてむ医師、捕へて将参るべし」と。使、行て此れを捕へむと為るに、此の医師、「定めて此の如きの事、有らむずらむ」と、兼て知て、薬を奉て後、速に疾き馬2)を儲て、其れに乗て逃けり。使、逃ぬる由を申すに、「慥に追て捕ふべし」と宣旨有れば、使、追て行く程に、遥に遠く逃て行くと云へども、三日を経て、遂に捕へつ。
然れば、将参る間に、医師の思はく、「王、然か有りとも、此の薬を服し給てば、例の心に成り給ぬらむとは思へども、亦、若し直らぬ事も有らむに、只今、此の使と共に参て、首を斬られむ事、極て益無き事也」と思て、必ず死ぬる毒の草を取て、此の使に、「此れは極たる美(うまき)物也」と云て、先づ医師自ら食つ。此の使共、医師の食ふを見て、毒と知らずして、取て皆食ひつ。其の後、使、即ち皆死ぬ。
医師は、即ち死なぬ薬を食てければ、死なず。使共は、其の死なざる薬を食はざらば、遂に死ぬ。
其の時に、医師、「構へ得たり」と思て、窃に王城に入て、暫く隠れて有る間に、国王、薬の力に依て、例の心に直り給にければ、喜て其の医師を尋るに、恐れ乍ら出来ぬ。国王、此れを召して、勅禄を給ひ、官位を増して、観じ喜び給けり。世の人も、此れを聞て、医師を讃(ほむ)る事限無し。此れより後、国王に乳を奉る也けり。
此の国王は竜の子にて在しましける也となむ、語り伝へたるとや。
1) 口へんに愈
2) 底本頭注「馬ハ象ノ誤カ」
巻4第32話 震旦国王前阿竭陀薬来語 第卅二
今昔、震旦の□□代に国王在ましけり。一人の皇子有り。形端正にして、心□□也。然れば、□□□□父の王、此の皇子を悲み愛し給ふ事限無し。
而るに、皇子、身に重き病を受て、月来経るに、国王、此れを歎きて、天の仰て祈請し、薬を以て療治すと云へども、煩ふ事弥増(まさり)て、𡀍1)(いゆ)る事無し。
其の時に、大臣として、止事無き医師有り。而るに、国王、此の大臣と極て中悪くして、敵の如し。然れば、此の皇子の病をも、此の大臣には問はれず。然りと云へども、此の大臣、医道に極たるに依て、国王、皇子の病問むが為に、年来の怨を思ひ弱り給て、忽に大臣を召す。
大臣、喜を成して参ぬ。国王、大臣に出会て、語て宣はく、「年来、互に怨を成して、親しまずと云ども、皇子、身に病を受て煩ふに、諸の医師を召して、療治せしむるに、𡀍2)る事無し。然れば、年来の怨を忘れて、汝を呼ぶ。速に、此の皇子の病を療治して𡀍3)しめよ」と。大臣、答て云く、「実に年来勅命を蒙らず。暗夜に向へるが如し。今、此の仰を奉(うけたま)はる。夜の暁(あけ)たるが如し。然れば、速に御子の御病を見るべし4)」と云ふに随て、大臣を呼び入れて、皇子の病を見しむ。
大臣、皇子を見て云く、「速に薬を以て療すべし」と云て、出ぬ。即ち薬を以て、大臣、参て云く、「此を服せしめ給はば、御病、即ち𡀍5)ゆべし」と。国王、此れを聞て、喜び乍ら、此の薬を取て見て宣はく、「此の薬の名をば、何とか云ふ」と。早う、大臣の構へける様、「此れは薬には非ずして、人、此れを服しつれば、忽に死ぬる毒を、『薬ぞ』と云て、此の次(ついで)に、年来の怨を酬て、皇子を殺さむ」と思て、毒を持来れるを、国王の、薬の名を問ひ給ふ時に、大臣、思ひ繚(まどひ)て、「何が云はまし」と思ふに、只、何ともなく、「此れなむ、『阿竭陀薬』と申す」と。国王、「阿竭陀薬」と聞き給て、「其の薬は、服する人、死ぬる事無かなり。『皷に塗て打つに、其の音を聞く人、皆病を失ふ事疑ひ無し』と聞く。況や、服せらむ人、何(な)どか病を𡀍6)ざらむ」と深く信じて、皇子に服せしめつ。
其の後、皇子の病、立ち所に𡀍7)ぬ。大臣は既に家に還て、「御子は即ち死ぬらむ」と思ひ居たる間に、「即ち𡀍8)ぬと聞て、怪び思ふ事(こ)と限無し。国王は、大臣の徳に依て、皇子の病𡀍9)ぬる事を喜び思ひ給ふ。
而る程に、日晩れぬ。夜に入て、国王の居給へる傍を叩く者有り。国王、怪で、「何ぞの者の、かくは叩くぞ」と問ひ給へば、「阿竭陀薬の参れる也」と云ふ。国王、「奇異也」と思ひ給ひ乍ら、叩く所を開けたれば、端正なる、若き男女来れり。国王の御前に居て、語て云く、「我れは、此れ阿竭陀薬也。今日、大臣の持参て服せしめつる薬は、極たる毒也。服する人、忽に命を失ふ者也。大臣、御子を殺さむが為に、毒を『薬ぞ』と名付て、服せしめつるに、王の、『此の薬の名をば、何が云ふ』と問はせ給つるに、大臣、申すべき方無きに依て、只心に非ず、『此れ阿竭陀薬也』と申つるを、王、深く信じて服せしめ給はむと為る程に、『阿竭陀薬ぞ』と云ふ音の、髴(ほのか)に聞えつるに依て、『然らば、阿竭陀薬を服する人は、忽に死ぬる也けりと知ろしめされじ』と思ふに依て、我が忽に来り代て、服され奉る也。然れば、御病は立所に𡀍10)給ひぬる也。此の事を申さむが為に、我れ来れる也」と云て、即ち失ぬ。
国王、此の事を聞き給て、肝心を砕くが如し。先づ大臣を召して、此の由を問はるるに、隠得ずして顕れぬ。然れば、大臣の首を斬られぬ。其の後、御子、身に病無くして、久く持(たもち)けり。此れ、阿竭陀薬を服せるに依て也。
然れば、諸の事は、只深く信を成すべき也けり。信を成せるに依りて、病を𡀍11)す事、此の如くとなむ、語り伝へたるとや。
1) , 2) , 3) , 5) , 6) , 7) , 8) , 9) , 10) , 11) 口へんに愈
4) 底本頭注「可見一本可見奉ニ作ル」
巻4第33話 天竺長者婆羅門牛突語 第卅三
今昔、天竺に長者と婆羅門、牛突を合す。各金千両を懸たり。日を定めて、各牛を出して、長者・婆羅門、共に見る。亦、余の人の来て見るも数(あまた)有り。
長者の云く、「我が牛、極て異様也。角・面・頸・尻を見るに、皆力無(ちからな)の相有り」と。牛、長者の言を聞て、恥て、「我れは必ず負なむとす」と思ひ立り。即ち、出し合せて、突する時に、長者の牛、既に負け伏しぬ。然れば、長者、千両の金を婆羅門に渡しつ。
長者、家に還て、牛に向て、恨て云く、「汝が今日負ぬるに依て、我れ、千両の金を取られぬ。更に憑む甲斐無し。極て情け無き事也」と。牛、答て云く、「我が今日負ぬる事は、君の我を謗り給ひつるに依て、忽に魂失せて、力無に成にき。然れば、負たる也。若し、金を取り還さむと思さば、今一度合せて突べし。さて、我れを讃め給へ」と。
長者、牛の言を聞て、今一度合はすべき由を乞請く。此の度は、「三千両の金を懸て突せむ」と云ふ。婆羅門は、前に勝たるを憑て、「此の度は、三千両を懸む」と云ふ。長者も同く請けつ。
其の後、牛を出し合す。長者、牛の教に随て、我が牛を讃る事限無し。牛、既に突き合ふに、婆羅門の牛負ぬれば、婆羅門、三千両の金を長者に渡しつ。然れば、万の事讃るに随て、単花開て、功徳を得る也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第34話 天竺人兄弟持金通山語 第卅四
今昔、天竺に兄弟二人の人有り。具して道を生く間、各千両の金を持たり。
山々を通て行く間、兄の思はく、「我れ、弟を殺して、千両の金を奪取て、我が千両の金に加へて、二千両の金を持たむ」と思ふ。
弟の亦思はく、「我れ、兄を殺して、千両の金を奪取て、我が千両の金に加へて、二千両を持ばや」と思ふ。
互に此の如く思ふと云へども、未だ思ひ定むる事無が間に、山を通り出でて、河の側に至ぬ。兄、此の持たる千両の金を河に投入れつ。
弟、此れを見て、兄に問て云く、「何ぞ、金を河の投入れ給ぞ」と。兄、答て云く、「我れ、山通つる間に、『汝を殺して、持たる所の金をや取てむ』と思ひつ。只一人有る弟也。此の金ね無からましかば、『汝を殺む』と思むやは。然れば、投入つる也」と。
弟の云く、「我も亦、此の如き、『兄を殺さむ』と思ひつ。此れ、皆金ねに依て也」と云て、弟も持たる金を、同く河に投入れつ。
然れば、人は味ひに依て命を奪はれ、財に依て身を害する也。財を持たずして、身貧しからむ人、専に歎かず。六道四生に廻る事も、亦、財を貪るに依て有る事也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第35話 仏御弟子値田打翁語 第卅五
今昔、天竺に、仏の御弟子、一人の比丘、道を行くに、荒田耕すとて、老たる翁一人、若き男一人と、二人荒り。
比丘、「田作る者にこそ有めれ」と思て過る程に、此の若き男、俄に顛(たふ)れて死ぬ。翁、打見遣て、何にも云で、猶鍬を打て立り。此の比丘、此れを見て思ふ様「翁は年老にたり。若き者の忽に死ぬるを見遣て、何にも云はで立るは、極めて心うかるべき者の心かな」と思て、翁に問て云く、「其の死ぬる男をば見るや。其の男は、汝が何ぞ」と。翁、答て云く、「此れは、己れが子に侍り」と。
比丘、弥よ、「希有の者の心かな」と思て、「太郎か、二郎か」と問ふに、翁の云く、「太郎にも二郎にも侍らず。只、此の男、一人持て侍つる也」と云ふに、比丘、弥よ希有の思増(まさり)て云く、「母は有や。何こにか有る」と問へば、翁の云く、「母は侍り。栖(すみか)は、彼の煙り立つ山本也」と云ふ。比丘の思ふ様、「此の翁は、いみじかるべき盗人かな。我れ、母にだに、速く行て告む」と思て、走り行く。
家に行き着て、這ひ入て見れば、白髪なる嫗(おうな)一人、苧を績(うみ)て居たり。比丘、嫗に告て云く、「彼(かし)こに、嫗の子と、父と共に田耕しつるが、只今俄に顛て死ぬるを、父、何にも思ひたらで、猶田耕し立つに、何なる事ぞ」と。嫗、此の事を聞て、「哭き悲むと為らむ」と思ふに、露驚ろく気色無くして、「然か侍なり」と云て、何にとも思ひたらで、猶苧を績み居たり。
其の時に、比丘、糸怪しく成て、嫗に問て云く、「父の翁の、目の前に一子の死ぬるを見て驚かぬ、極めて怪しく思て、母が許に怱(いそ)ぎ来て告るに、嫗、亦驚かず。若し、故の有るか、如何。若し、故有らば、慥に聞むと思ふ」と。嫗、答て云く、「此の事、尤も歎くべしと云へども、一と年せ、仏の法説き給ひし所に、嫗・翁、共に詣て聴しに、仏、説て宣はく、『諸法は空也。有と思ふは僻事也。只、万の事をば、空しと思ふべき也』と説き給ひしを承はりて後よりは、「万づの事、無き者ぞ」と思ひ取て侍れば、嫗も翁も、一子の死ぬるを見て、何とも思はずに侍る」と云ふを聞くに、比丘、極て恥しく成ぬ。
賤しき田夫すら、仏の御法を信じて、一子の死を悲しまず。而るに、我れ、此の事を覚らざる、邪見に拙き事を恥て去にけりとなむ、語り伝へたるとや。  
巻4第36話 天竺安息国鸚鵡鳥語 第卅六
今昔、天竺の安息国の人、愚痴にして仏法を悟らず。其の時に、国の中に鸚鵡鳥出来たり。其の色、黄金にして白く青し。此の鳥、物を云ふ事、人の如し。然れば、国王・大臣、及び諸の人、此の鳥を興じて、物を云はしむ。
此の鳥、肥たりと云へども、気力の弱気也。然れば、諸の人、「此の鳥は、食する物の無きに依て、弱気なる也」と思て、鳥に問て云く、「汝、何物をか食と為る」と。鳥、答て云く、「我れは阿弥陀仏と唱ふるを聞くを以て食として、肥え気力強く成る也。我れ、更に其の外の食無し。若し、『我れを養はむ』と思はば、『阿弥陀仏』と唱ふべし」と。此れを聞て、国の人、男女・貴賤、競て「阿弥陀仏」と唱ふ。
其の時に、鳥、気力強く成て、漸く空の中に飛び昇て、地に返て、鳥の云く、「汝等、『目出たき所の、豊なるを見む』と思ふや否や」と。諸の人、「見むと思ふ」と答ふ。鳥の云く、「若し、『見む』と思はば、我が羽に乗るべし」と。諸の人、鳥の云ふに随て、皆其の羽に乗ぬ。
鳥、「尚、我が力、少し弱し。『阿弥陀仏』と唱て、我に力を付よ」と云ふに随て、此の乗れる者共、「阿弥陀仏」と唱ふるに、鳥、即ち虚空の中に飛び昇て、西方を指て、遥に去ぬ。
其の時に、国王・大臣、及び諸の人、此れを見て、「奇異也」と思て云く、「此れは、阿弥陀仏の鸚鵡鳥と化作して、辺鄙の愚痴の衆生を引接し給へる也けり」と云ふ。鳥、亦返る事無ければ、乗れる人、亦返らず。
「豈に此れ現身の往生に非ざらむや」と云て、即ち其の所に寺を起たり。名を「鸚鵡寺」と付たり。其の寺らにして、斎日毎に阿弥陀の念仏を修してけり。其の後よりぞ、安息国の人、少し仏法を悟り、因果を知て、浄土に往生する者多かりける。
然れば、阿弥陀仏は、心を発して念奉らざる衆生そら引接し給ふ事、此の如し。況や、心を至して念じ奉らむ人、極楽に参らむ事、疑ひ有らじとなむ、語り伝へたるとや。
巻4第37話 執師子国渚寄大魚語 第卅七
今昔、天竺の執師子国の西南の極目(きはめ)に、幾許と知らず、絶たる島有けり。其の島に、人の家列り居たる事、五百余家也。魚を捕て食ふを役として、仏法の名をだに聞かず。
而る間、数千の大魚、海の渚に寄来れり。島の人、此れを見て、皆喜て、近く寄て、伺ひ見るに、其の魚、一々に物云ふ事、人の言の如くして、「阿弥陀仏」と唱ふ。諸の海人、此れを見て、其の故を悟らずして、只魚の唱ふる言に准(なぞら)へて、「阿弥陀魚」と名付く。
亦、海人等、「阿弥陀魚」と唱ふるに、魚、漸く岸に近く寄れば、海人共、頻に唱へて、魚を寄す。寄るに随て、此れを殺すと云へども、逃ぐる事無し。海人、其の魚を捕へて食ふに、其の味ひ甚だ美(うま)し。此の諸の海人、数多く唱たる人の為めには、其の味ひ、極て美き也。数少く唱へたる人の為には、其の味ひ、少し辛く苦し。此れに依て、一渚の人、皆嗜に躭て、「阿弥陀仏」と唱へ給へる事限無し。
而る間、初に魚を食せし人一人、命尽て死ぬ。三月を経て後に、紫の雲に乗て、光明を放て、海浜に来て、諸の人に告て云く、「我れは、此れ大魚を捕へし人の中の老首也。命終して、極楽世界に生れたり。其の魚の味に躭て、阿弥陀仏の御名を唱へたりし故也。其の大魚と云は、阿弥陀仏の化作し給へりける也。彼の仏、我れ等が愚痴を哀て、大魚の身と成て、念仏を勧め、我が身を食はれ給ける也けり。此の結縁に依て、我れ浄土に生れたり。若し、此れを信ぜざらむ者は、正しく魚の骨を見るべし」と告て去ぬ。
諸の人、皆歓喜して、捨置し所の魚の骨を見るに、皆是蓮華也。此れを見る人、皆悲びの心を発して、永く殺生を断じて、阿弥陀仏を念じ奉る。其の所の人、皆浄土に生れぬ人無し。
然れば、彼の島荒れて年久く、執師子国の□□1)賢大阿羅漢、神通に乗じて、彼の島に至て、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「賢ノ上師子トアルベシ」
巻4第38話 天竺貧人得富貴語 第卅八
今昔、天竺に一人の人有り。種姓は高けれども、身貧しくて、世を過すに力無し。然れば、常に人の家に行て、物を乞ひつつ命を継げり。人、皆門を閉て寄せねば、歎き悲む事限無し。
思ひ侘て、薬師の霊験の寺に詣でて、実の心を至して、仏を廻り奉て、前世の悪業を懺悔して、五日食を断じて、仏の御前に合掌して有るに、夢の如くに、妙に厳(いかめ)し人、出来れり。小さき比丘に似たり。此の人に告て宣はく、「汝ぢ、心を至して前世の悪業を懺悔するに依て、忽に宿業滅して、必ず富饒を得べし。汝ぢ、速に父母の旧宅に返行くべし」と。
夢め覚めて後、其の教の如く、父母の旧宅に行ぬ。城廓頽(くづ)れ破れて、只朽たる柱梁の木許有り。其の所に暫くも有るべき様無けれども、偏に告を信じて、両日を経る間だ、杖を以て地を掘るに、自然ら、地より財宝掘出されたり。
此れを以て、其の所に居ぬるに、財豊也けり。一年の内に富貴の人と成ぬ。此の人の父母、家豊にして、財多かりけり。而るに、其の子、前世の悪業に依て、祖(おや)の財を得ずして、貧き人と成れり。其れに、仏の助に依て、父母の貯へ納めたりける財を得たる也となむ、語り伝へたるとや。
巻4第39話 末田地阿羅漢造弥勒語 第卅九
今昔、北天竺の烏仗那国の達麗羅川の中に、一の寺有り。其の中に、木像の弥勒在ます。金色也。其の長、十丈余也。仏の涅槃に入給て後に、末田地大阿羅漢と云ふ人の造れる也。
羅漢、此の像に向て申さく、「釈迦大師、滅後の御弟子等を、皆弥勒に付属し給へり。然れば、弥勒の出世の時、三会に得脱せらむ者は、此れ釈迦の遺法の中に一度南無と称し、一摶(ひとにぎり)の食を施したる輩也。其れに、弥勒は都率天昇り給ひぬ。衆生、何にしてか弥勒を見奉らむ。但し、此の造り奉れる像は、真の形には似給はじ。此れに依て、神通の力を以て、我れ、兜率天に昇て、面り弥勒を見奉る事三返して、後に弥勒を造り奉らむ」と。
其の時に、弥勒、末田地に告て宣はく、「我れ、天眼を以て、三千大千世界を見るに、其の中の衆生有て、我が形像を造らむ者有らば、我れ、其の功を資(たすけ)て、必ず悪趣に堕ちしめじ。我れ、成道の時、其の造らむ像を前導として、我が所に来たるべし」。亦、讃(ほめ)て宣はく、「善哉。汝ぢ、『釈迦の正法の末に、我が形像を造て、我が所に来らむ』と云へり」と。
其の時に、此の像、虚空に昇て、大に光を放て、偈を説き給ふに、聞く者(も)の、皆、涙を流して歓喜し、悉く三乗の道果を得けりとなむ、語り伝へたるとや。
巻4第40話 天竺貧女書写法花経語 第四十
今昔、天竺に一人の貧女有けり。家貧くして、財無し。亦、子有る事無し。女、心の内に思はく、「我れ、一人の子をだに設て、便と為む」と思て、仏神に祈請(いのり)けるに、忽に懐妊して、一人の女子を生ぜり。
其の子、端正美麗なる事、並び無し。此の女子、漸く成長して、十歳に余ぬ。母、此れを悲み愛する事限無し。傍の人も、此の女子を見て、誉めずと云ふ事無し。然れども、家、極て貧くして、忽に夫を相具せしむる事無し。限1)
然る間、母の思はく、「我れ、年既に半に過ぬ。残の命を思ふに、程ど無し。法花経を書写供養し奉て、後世の貯へと為む」と思ふに、更に経を書き奉るべき一塵の便より無し。此れを歎く間、此の女子、母の傍に有て、此れを聞て云く、「我が身に貯へたる財無し。但し、此の身は命長しと云へども、遂に〓2)死なぬ様無し。死なば、土と成るべし。然れば、我が身に有る物は、此の髪なむ有る。此れを売て、法花経書写供養の便と為せむ」と云ふ。
母、泣々く、形を壊らむ事を惜むと云へども、女子、髪を売らむが為に、家を出ぬ。家々に立寄て、「此の髪、買へ」と云ふに、各呼び入れて見るに、女子の形貌(なりかたち)の並び無きを見て、皆讃(ほ)めて、忽に「髪を買て切らむ」と云ふ所無し。
然れば、女子の思はく、「小家には此の髪を要せぬなめり。我れ、国王の宮に入て、此の髪を売らむ」と思て、宮に入らむと為るに、一人の旃陀羅に値ぬ。形ち有様の怖し気なる事、人にも似ず。女子我3)を見て云く、「我れ、国王の宣旨を奉(うけたまはり)て、日来を経て求め尋ぬるに、今、汝を得たり。速に殺べし」と。女子の云はく、「我れ、更に犯す所無し。孝養の為めに、髪を売(うらん)として、王宮に入(いらん)と為る也。抑も、何に依て、我れを殺すべきぞ」と。
旃陀羅の云く、「国王の太子在ます。年十三に成り給ふに、生れ給て後、物宣ふ事無し。医家に問はるるに、申して云く、『長髪美麗、世に並び無からむ女の肝を取て、其の薬に宛つべし』と云へり。国の内に求めらるるに、汝に勝れたる女無し。然れば、速に汝が肝を取るべし」と。女子、此れを聞て、涙を流して云く、「汝ぢ、我を助くべし」と。旃陀羅の云く、「汝を免してば、返て我れ咎を蒙らむ。更に免すべからず」と云て、刀を以て、女の胸を割てむと為るに、女の云く、「汝ぢ、我を助けずと云へども、国王に此の由を申せ」と。旃陀羅、女の云に随て奏す。
国王、聞給て、女を召出して、見給ふに、実に端正なる事、世に並び無し。此れを見て、国王の宣はく、「求むる所の薬、只此れ也」と。女の申さく、「我れ、太子の御為に命を失はむを惜むには非ず。只、家に貧母有り。母の願に依て、法花経を書写せむが為に、財無くして、『此の髪を売む』と思て、家を出でたるに、『命を失ひつ』と聞かば、母の歎き、堪へ難かりなむ。然れば、家に返て、母に此の由を告て、則ち返り参らむ。更に大王の命を背くべからず」と。王の宣はく、「申す所、極めて道理なれども、『我が太子に、今暫くも、速く物を云はせて聞かばや』と思ふに依て、汝を家に返し遣はすべからず」と。
其の時に、女、心に思はく、「我れ、孝養の為に家を出でて、忽に命を失ひてむとす。十方の仏、我れを助け給へ」と、泣々く申ける程に、太子、簾の内にして、此の女を見給けるに、極めて糸惜しく思ひ給て、始て音を出て、父の大王に申し給はく、「大王、此の女を殺し給ふ事無かれ」と、申し給ひけるに、大王より始めて、后・大臣・百官、皆太子の音聞て、喜ぶ事限無し。
国王、「我れ、愚にして、孝子を殺むと思ひけり。願くは、十方の仏け、此の咎を免し給へ」と申し給て、女に宣はく、「我が太子の物を云ふ事は、汝が徳也」と宣て、無量の財を与へて、返し遣はしつれば、女、家に返て、母に此の由を語りて、共に歓喜して、即ち法花経を法の如く供養し奉てけり。
法花の験力の新たなる事、此の如しとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「限ハ衍字ナラン」
2) 〓は、口へん+无+ム 底本頭注「〓諸本魂ニ作ル」
3) 底本頭注「我ハ衍字ナラン 
 

 

巻4第41話 恋子至閻魔王宮人語 第四十一
今昔、天竺に一人の比丘有けり。「羅漢に成らむ」と思て行ひけるに、年六十に至て、羅漢に成る事を終に得ず。此の事を歎き悲むと云へども、更に力及ばず。
然れば、其の人、家に返て思はく、「我れ、『羅漢に成む』と思て、年来行ふと云へども、成る事を得ず。今は、還俗して家に有らむ」と思て、還俗しぬ。其の後、妻を儲たり。其の妻、即ち懐妊して、端正なる男子を生ぜり。父、此れを愛する事限無りし。
其の子、七歳に成るに、思はざるに死しぬ。父、此れを悲むで、外に捨つる事無し。傍の人、此れを聞て、来て云く、「汝ぢ、極めて愚也。死たる子を悲むで、今に棄てざる事、甚だ愚也。終に存すべからず。早く棄つべし」と云て、奪取て棄つ。
其の後に、父、悲の心に堪へずして、此の子を亦見む事を願て云く、「我れ、閻魔王の所に詣でて、此の子を見む事を申し請む」と思ふに、閻魔王の在ます所を知らずして、尋ぬるに、人有て云く、「此れより其の方に幾許行て、閻魔王の宮有り。大河有り。其の河上に、七宝の宮殿有り。其の中に閻魔王在ます也」と。
父、此れを聞て、其の教の如くに尋て行く程に、遥に遠く行々て、見れば、実に大河有り。其の河の中に、七宝の宮殿有り。父、此れを見て、喜び乍ら、恐々(おづお)づ近付き寄たるに、気高く止事無き人有て、問て云く、「汝は此れ誰人ぞ」と。答て云く、「我れは、然々の人也。我が子、七歳にして亡ぜり。此れを恋ひ悲む心堪へ難くして、其れを見む事を王に申し請むが為に参れり。願くは、王、慈悲を以ての故に、我に子を見せ給へ」と。
此の人、王に此の事を申すに、王の宣はく、「速に見しむべし。其の子、後園に有り。行て見るべし」と。父、喜びの心深くして、教へに随て、其の所に行て見るに、我が子有り。同様なる童子共の中に遊戯れて有り。
父、此れを見て、子を呼び取て、泣々く云く、「我れ、日来汝を悲む心深くして、王に申し請て、見る事を得たり。汝は道心には思はざるか」と、涙に溺れて云ふに、子、敢て歎く気色無くして、父とも思ひたらず遊び行く。父、此れを恨みて、泣く事限無し。然而(しかれど)も、子、何とも思ひたらずして、云ふ事無し。父、歎き悲むと云へども、甲斐なくして返にけり。
此れは、生を隔てつれば、本の心は無にや有るらむ。父は未だ生を替へずして、かく恋ひ悲びけるにや有りけむとなむ、語り伝へたるとや。  
 

 

■巻5 天竺 付仏前 
巻5第1話 僧迦羅五百人商人共至羅刹国語 第一
今昔、天竺に僧迦羅と云ふ人有けり。五百人の商人を相具して、一船に乗て、財を求むが為に、南海に出でて行くに、俄に逆風出来て、船を南を指て、吹き持行く事、矢を射るが如し。
而る程に、大なる島まに船を吹き寄せつ。知らぬ世界なれども、陸に寄りたるを賢き事にて、是非を云はず、皆迷ひ下ぬ。
暫く有る程に、端厳美麗なる女、十人許出来て、歌を詠(うたひ)て渡る。商人等、此れを見て、知らぬ世界に来て、歎き悲しむ程に、かく美麗の女多く有るを見て、忽に愛欲の心を発して、呼び寄す。
女、皆逶(つど)ひ寄り来ぬ。近増(まさ)りして、昵(むつまじ)き事限無し。五百の商人等、僧迦羅を始て、皆目出て、女に問て云く、「我等、財を求めむが為に、遥に南海に出でて、忽に逆風に値て、知らぬ世界に来たり。堪へ難く歎き思ふ間、汝達の御有様を見るに、愁への心、皆忘にたり。今は速に我等を将行て養へ。船は皆損じたれば、忽ちに還るべき様も無し」と。女共、「只、何にも命に随ふべし」と云て倡(いざな)へば、商人等、行く。女共、商人等の前に立て、導きて将行く。
家に行て見れば、広く高き築垣、遥に築(つ)き廻して、門、器量(いかめし)く立たり。其の内に将入ぬ。即ち、門に鏁(じやう)を差つ。内に入て見れば、様々の屋共有り。隔(へだて)々、細に造たり。男、一人も無し。只、女の限有り。かくて、商人等、皆取々に妻にして棲むに、互に思へる事限無し。片時も立離るべくも無し。
此の如くして、日来を経るに、此の女共、日毎昼寝を為る事、尤も久し。寝たる顔ほ、美麗ながら、頗る気踈き気有り。僧迦羅、此れを心得ず怪しく思ひて、女共の昼寝したる程に、和(やは)ら起て、所々を見るに、様々に隔たる中に、日来見せぬ所無く皆見せつるに、一つの隔有り。其れを未だ見せず。築垣、固く築き廻せり。門一つ有り。鏁強く差たり。
僧迦羅、喬(そば)より構へて掻き昇て、内を見れば、人多く有り。或は死たり、或は生たり。或は吟(によ)ふ、或は哭く。白き骸(むくろ)、赤き骸多かり。
僧迦羅、一人の生たる人を招き寄すれば、来たるに、「此れは、何なる人の、かくては有ぞ」と問へば、答ふる様、「我は南天竺の人也。商の為に海を行し間、風に放たれて、此の国に来れり。目出(めでた)き女共に耽て、還らむ事をも忘れて棲し程に、見と見る人は皆女也。限り無く相思て有りと云へども、外の商船寄ぬれば、古き夫をば此の如く籠め置て、膕(よぼろ)筋を断て、日の食に宛る也。汝達も、亦船来なば、己等が様なる目こそ見給はめ。構へて逃給へ。此れは、羅刹鬼也。此の鬼は、昼寝る事三時許也。其の間に逃むに、知るべきに非ず。此の籠めたる所は、鉄を以て四面を固めたり。膕筋を断たれば、逃ぐべき様無し。穴悲し。疾々(とくとく)逃げ給へ」と、哭々く云へば、僧迦羅、「さればこそ、怪しとは思ひつる事を」と思て、本の所に還て、女共の寝たる程に、五百の商人等に此の由を告げ廻はしつ。
僧迦羅、怱(いそぎ)て浜へ出るに、商人等も皆、僧迦羅が後に立て、皆浜に出ぬ。為べき方無くて、遥に補陀落世界の方に向て、心を発して、皆音を挙て、観音を念じ奉る事限無し。其の音、糸おびただし。苦(ねんごろ)に念じ奉る程に、息(おき)1)の方より、大なる白き馬、浪を叩て出来て、商人等の前に臥ぬ。「此れ、他に非ず、観音の助け給ふ也」と思て、有る限り此の馬に取付て乗ぬ。其の時に、馬、海を渡て行く。
羅刹の女共、皆寝起て見るに、此の商人等、一人も無し。「逃ぬる也けり」と思て、有る限り追ひしらがひて、城を出でて見れば、此の商人共、皆馬一つに乗て、海を渡て行く。女共、此れを見て、長一丈許の羅刹に成て、四五丈と踊り挙りつ、叫び喤(ののし)る。
商人の中に、一人、妻の顔の美也つるを思ひ出たる者有ける。掻き斫(ひら)ひて、海に落入ぬ。即ち、羅刹、海に下りて、各引きしろひ噉ふ事限無し。
馬は南天竺の陸に至り着て、臥たりければ、商人等、皆喜び乍ら下りぬ。馬は人を下して後に、掻消つ様に失ぬ。僧迦羅、「偏に観音の御助也」と思て、哭々く礼拝して、皆本国に還ぬ。然りと雖も、此の事を人に語らず。
其の後、二年許有る程に、彼の羅刹の女、僧迦羅が妻にて有りし、僧迦羅が一人寝たる所に来ぬ。見しよりも美なる事、倍々(ましま)せり。寄来て云く、「然るべき前世の契り有て、汝と我れ夫婦と成れり。憑む所、尤も深し。而るに、我れを捨て、逃げ給へる事、何ぞ。彼の国には、夜叉の一党有て、時々出来て人を取り噉(くふ)なむ有る。然れば、城をば高く築て、強く固めたる也。其れに、多の人の浜に出でて、喤れる音を聞て、其の夜叉の出来て、嗔れる様を見せて侍けるを、己等が『鬼にて有るぞ』と知り給へる也。更に、然か侍らず。還り給て後、恋ひ悲しむ心深し。汝は同心には思給はぬか」と云て、哭く事限無し。本知らざらむ人は、必ず打解ぬべし。
然れども、僧迦羅は大に嗔て、釼を抜て2)切らむと為れば、限り無く怨て、其の家を出ぬ。王宮に参りて、国王に申さする様、「僧迦羅は我が年来の夫也。而るに、我れを捨てて棲まぬ事、誰にか訴へ申さむや。天皇、此れを裁はり給へ」と。かく云ふを、王宮の人、皆出でて見るに、美麗なる事並無し。此れを見て、愛欲を発さざる者無し。
国王、此の由を聞き給て、密に見給ふに、実に美麗並無し。若干の寵愛の后に見競ぶるに、彼れは土の如し。此れは玉の如し。「此れを棲まざる僧迦羅が心拙し」と思給て、僧迦羅を召して問はるるに、答申して云く、「此れは人を殺せる鬼也。更に王宮に入れらるべからず。速に追出さるべし」と申して出ぬ。
国王、此れを聞き給ふと云へども、信じ給はずして、深く愛欲の心を発して、夜る、後の方より、大殿に召しつ。国王、近く召寄て見給ふに、実に近増り倍々せり。懐抱の後は、更に此の愛染3)に依て、国の政を知給はず。三日起給はず。
其の時に、僧迦羅、王宮に参て申さく、「世に極たる大事、出来なむとす。此れは、鬼の女と変じたる也。速に害せらるべき也」と云へども、一人として耳に聞入るる者無し。
此の如くして、三日過ぬ。明る朝に、此の女、大殿より出でて、端に立てり。人、此れを見れば、眼見(まみ)替て、頗る怖しき気有り。口に血付たり。暫く見廻して、殿の檐より、鳥の如くして飛て、雲に付て失ぬ。国王に事の由を申さむが為に、人寄て伺ふに、惣て御音・気色無し。
其の時に、驚き怪むで、寄て見れば、御帳の内に血流れて、国王見え給はず。御帳の内を見れば、赤き御髪(みぐ)し一つ残れり。其の時に、宮の内、騒ぎ動ずる事限無し。大臣・百官集て、哭き歎くと云へども、更に甲斐無し。
其の後、御子即ち位に即(つき)給ぬ。僧迦羅を召て、此の事を問はる。僧迦羅、申して云く、「然れば、速に害せらるべき由を度々申しき。今、我れ彼の羅刹国を知れり。今、宣旨を奉(うけたまはり)て、行て、彼の羅刹を罸(うち)て奉らむと思ふ」と。
宣旨に云く、「速に行て、罸つべし。申し請むに随て、軍を給ふべし」と。僧迦羅、申して云く、「弓箭を帯せらむ兵万人、釼を帯せらむひたぶる万人、百の駿(とき)船に乗せて、出し立てらるべし。其れを相具して行むと思ふ」と。「申し請ふに寄るべし」とて、即ち出し立てられぬ。
僧迦羅、此の二万の軍を引具して、彼の羅刹国に漕ぎ着ぬ。前の如く、商人の様なる者共、十人許を浜に遣て遊ばしむ。亦、美麗の女、十人許出来て、歌を詠て寄て、此の商人等に語ひ付ぬ。前の如くに、女を前に立てて行く。其の尻に、此の二万の軍立つ。
行く間、乱れ入て、此の女共を打ち切り射る。暫くは恨みたる形を現じ、美麗の様を見せけれども、僧迦羅、大に音を放て、走り廻りつつ行ひければ、形を隠す事能はず。終に羅刹の形に成て、大に口を開て懸る時に、釼を以て頸を打ち落し、或は、肩を打ち落し、或は、腰を打ち折ぬ。惣て、全き鬼は一人も無し。或は、飛て去る夜叉有れば、弓を射て落しつ。一人として遁るる者無し。屋共には火を付て焼き失なひつ。
空き国と成して後、国王に此の由を申しければ、其の国を僧迦羅に給ひつ。而れば、僧迦羅、其の国の王として、二万の軍を引具してぞ住ける。本の栖(すみか)よりも、楽しくてぞ有ける。
其れより、僧迦羅が孫、今に其の国に有り。羅刹は永く絶にき。然れば、其の国をば、「僧迦羅国」と云ふ也となむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「息一本西ニ作ル」
2) 底本「抜ヲ」。誤植とみて訂正
3) 底本頭注「愛染諸本愛欲ニ作ル」
巻5第2話 国王狩鹿入山娘被取師子語 第二
今昔、天竺に一の国有り。其の国の国王、山に御行して、谷峯に人を入れて、貝を吹き皷を打て鹿を劫して、狩り出させて、興じ給ひけり。其れに、王の苦(ねんごろ)に悲しく思給ける娘一人御けり。片時も身を離たず傅(かしづき)給ければ、輿に乗せて具し給ひけり。
日の漸く傾く程に、此の鹿追ひに山に行たる者共、師子1)の臥したる洞に入にけり。師子を劫かしたりければ、師子、驚て、片山に立て、器量(いかめ)しく怖し気なる音を放て吠ゆ。其の時に、此の諸の人、恐ぢ迷て、逃げ去る。走り顛(たふ)るる者、多かり。此の輿持も、輿を捨てて逃げ去ぬ。国王も東西を知らず逃げ去て、宮に還り給ぬ。
其の後、此の姫君の御輿を尋ねさするに、輿持も、皆山に捨てて逃げたる由を申す。国王、此の由を聞き給て、歎き悲むで、哭き迷ひ給ふ事限無し。かくて、有るべきにも非ねば、尋ね奉らむが為に、多く人を山へ遣すと云へども、恐ぢ怖れて、敢て行く人、一人もなし。
師子は、劫かされて、足を以て土を掻き、吠え喤(ののしり)て、走り廻て見るに、山の中に輿一つ有り。帳の帷を食ひ壊て、内を見れば、玉光る女、一人乗りたり。師子、此れを見て、喜て、掻き負て、本の栖の洞に将行ぬ。師子、既に姫宮と懐抱しぬ。姫君は更に物思えずして、生たるにも非ず、死たるにも非ずで御す。
師子、此の如くして、年来棲む程に懐妊しぬ。月満て、子を産み給へり。其の子、例の人にて、男子にて有り。形貌端正也。漸く十歳に余る程に、心武く足の駿(はや)き事、人には似ず。
母の世を経て歎き愁へ給へる姿を見知て、父の師子の食物求めに去(いに)たる2)間に、子、母に問て云く、「世を経て歎き給へる姿にて、常は哭き給ふは、心に思す事の有るか。祖子の契り有り。我れには隠給ふべからず」と。母、弥よ哭て、云ふ事無し。暫く有て、哭々く云く、「我れは此れ、此の国の天皇の娘也」。其の後、有し事共を、始より今日に至るまで語る。
子、此の由を聞て、亦哭く事限無し。母に申さく、「若し、都に出むと思(おぼし)なば、父来給はぬ間に将奉らむ。父の御駿さも、我れ皆知れり。我れが駿さに等くは有とも、増(まさ)る事非じ。然れば、都に将奉て、隠し居へ奉て、養ひ奉らむ。我れは、師子の子也と云へども、母の御方に寄て、人と生たり。速に都に将奉らむと思ふ也。疾く負れ給へ」と云へば、母は喜乍ら、子に負れぬ。母を掻き負て、鳥の飛ぶが如くして、都に出でぬ。然るべき人の家を借て、母を隠し居て、構へて養ふ。
父の師子は、洞に還て見るに、妻も子も無し。「逃て都に行にけり」と思て、恋悲むで、都の方へ出でて、吠え喤る。此れを聞て、国の人、国王より始めて、皆物に当り、恐ぢ迷ふ事限無し。此の事を定められて、宣旨を下さるる様、「此の師子の災3)を止て、此の師子を殺したらむ者をば、此の国、半国を分て、知らしむべし」と。
其の時に、師子の子、此の宣旨を聞て、国王に申さしむる様、「師子を罸(うち)て奉て、其の賞を蒙らむ」と。国王、此の由を聞給て、「罸て奉るべし」と。師子の子、此の宣旨を奉(うけたまは)りて思はく、「父を殺さむ、限り無き罪なれども、我れ、半国の王と成て、人に有る母を養はむ」と思て、弓箭を以て、父の師子の許へ行く。
師子、子を見て、地に臥し丸びて、喜ぶ事限無し。仰(あおのけ)ざまに臥て、足を延べて、子の頭を舐り撫る程に、子、毒の箭を以て、師子の脇に射立つ。師子、子を思ふに依て、敢て嗔る気無し。弥よ涙を流して子を舐る。
暫く有て、師子、死ぬ。其の時に、子、父の師子の頭を切て、都に持還ぬ。即ち、国王に奉る。国王、此れを見給て、驚き騒て、半国を分て給はむとして、先づ、殺しつる事の有様を問はるる。其の時に、師子の子の思はく、「我れ、此の次でに、事の根元を申して、国王の御孫也けりと云ふ事を知られ奉らむ」と思て、母の宣ひし如くに、当初(そのかみ)より今日に至るまでに事を申す。
国王、此の由を聞給て、「然らば、我が孫也けり」と知り給ぬ。「先づ、宣旨の如くに、半国を分ち給ふべしと云ども、父を殺したる者を賞せば、我れも其の罪遁れ難かりなむ。亦、然りとて、其の賞を行はれずば、既に違約也。然れば、離れたる国を給ふべし」とて、一の国を給て、母も子も遣しつ。
師子の子、其の国の王として有けり。其の孫、伝はりつつ、于今住なり。其の国の名をば、「執師子国4)」と云ふ也となむ、語り伝へたるとや。
1) 獅子
2) 底本頭注「去諸本出ニ作ル」
3) 「災」底本異体字「灾」
4) 現在のスリランカ
巻5第3話 国王為盗人被盗夜光玉語 第三
今昔、天竺に一の国有り。其の国の国王、世に並び無き宝なる、夜光る玉を持給へり。宝蔵に納め置き給ひたりけるを、盗人有て、何に構ふるにか有む、盗てけり。
国王、歎き給て、「若し、其れが取つらむ」と、疑はしく思ひ給ければ、只問むには云ふべき様無ければ、此れを云すべき構へを謀かり給ける様、高楼を七宝を以て荘(かざ)り、玉の幡を懸け、錦を以て地に敷き、荘厳無量にして、端正美麗の女共に微妙の衣服共を着しめ、花鬘を懸け、其の身を餝り、琴瑟・琵琶等の微妙の音楽を唱へ、様々の楽びを集めて、「此の玉、盗たらむ」と思す人を召て、痛く酔ふ酒を多く飲ましめて、善く酔て死たる如くまで酔はしめ臥せつ。
其の後、密に掻て、彼の餝れる楼の上に将上て、臥せつ。亦、其の人にも微妙の衣服共を着せ、花鬘瓔珞を懸させて臥したり。然りと雖も、善く酔たれば、露知る事無し。
酔ひ漸く醒めて、起き上りて見るに、此の世にも似ず、微妙の荘厳せる土(くに)也。見廻せば、四の角に、栴檀・沈水等の香を焼たり。其の匂ひ、不可思議にして、芳き事限無し。玉の幡を懸け、微妙の錦を天井に張り、地に敷てあり。玉の女共、髪を上げ、玉の装束して、居並て、琴瑟・琵琶を弾て遊ぶ。
此れを見て、「我れは何なる所に来たるならむ」と思て、傍に近き女に、「爰は何こぞ」と問ふ。女、答て云く、「此れは天也」と。男の云く、「何で、我は天には生まるべきぞ」と。女の云く、「汝は偽言を為ねば、天には生れたる也」と。此の如く構ふる様は、「汝は盗や為たりし」と問はむと為る也。「虚言せざる者、天に生る」と云ひ聞せたれば、有のままに「虚言せじ」と思て、「盗き」と云はば、「然らば、其の国の王の宝に為しし玉は盗てや有し」と問はむに、「盗たりき」と云はば、「何なる所にか置たる」と問はむに、「然々の所になむ置たる」と云はば、其の時に、有り所を慥に聞て、人を遣て取らむと云事を謀(はかりご)つ也けり。
さて、女の、「虚言せぬ人の生るる天也」と云ふを聞て、玉の盗人、うなづく。女の云く、「盗や為たりし」と。盗人、其の答をば云はずして、此の居並たる女を面(かほ)毎に守り渡たすに、遍く護て、頸を曳入れて云ふ事無し。度々問ふと云へども、更に答へず。
女、問ひ煩て云く、「かく云ふ事無き人は、此の天に生れず」と云て、追下しつ。国王、謀り侘び給て、思ひ得給ふ様、「此の盗人を大臣に成てむ。我れと一つ心に成して、謀り試む」と思給て、大臣に成されぬ。
其の後は、墓無き事も大小に付けて、皆此の人に云ひ合せ給ふ。限り無く昵じく成給て後、身に露隠したる事無く互に成ぬ。
其の後、天皇、大臣に宣ふ様、「我れ、内々に思ふ事なむ有る。先年に、『並び無き宝』と思ひし玉をなむ盗まれにし。『其れ、返し得む』と思へども、得べき様も無し。『其れ、盗たらむ人を尋て、還し得らば、此の国、半国を分て知らしむ』と思ふに、其の由、宣旨下せ」と仰せ給ふ時に、大臣の思はく、「我が玉を盗し事は、身の故也。而るを、国半国を分て知るべくば、玉を深く隠して益無し。此の時に申し出でて、半国を分て知らむ」と思得て、軟(やは)ら歩み寄て、国王に申して云く、「己れこそ、其の玉は盗て持て候へ。国半国を分て給ふべくば、其れを奉らむ」と。
其の時に、天皇、限り無く喜て、半国を知るべき宣旨を下されぬ。大臣、玉を取り出て、国王に奉りつ。国王の宣はく、「此の玉を得つる、限り無き喜びと為る所也。年来思ひつる本意、今なむ叶ぬ。大臣、永く半国を知るべし。抑も、先年に天の楼を造て、昇せたりし時、云ふ事無くして、頸を曳入れて有りしは、何なりし事ぞ」と。
大臣の申さく、「先年に盗を仕が為に、僧房に入たりしに、比丘、経を読み奉て、寝ざりしかば、『寝るを待(またん)』とて、壁の辺りに立ち副て、聞き立りしに、比丘、経を読む様、『天人は瞬(まじろ)がず。人間は瞬(まじろ)ぐ』と読み奉しを聞しかば、天人は目瞬がずと知たるに、此の楼の上に居並たりし女は、皆目瞬げば、「天1)には非ぬ也けり」と思て、申す事無くして、止にし也。盗を仕る事無からましかば、其の時に謀られて辛き目をぞ見まし。今日、大臣に成て、半国の王とは成ざらまし。此れ、偏に盗の徳也」となむ、云ひける。「此れは、経の説也」とぞ、僧語りし。
然れば、悪しき事と、善き事とは、差別有る事無し。只同じ事也。智(さと)り無き者の善悪異也とは弁る也。彼の鴦掘摩羅は、仏の御指を切らずば、忽に道を成すべき非ず2)。阿闍世王は、父を殺さずば、何でか生死を免るべき3)。盗人、玉を盗まずば、大臣の位に昇らむや。
此れを以て、「善悪一つ也」と知るべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「天一本天人ニ作ル」
2) 巻1第16話 鴦掘摩羅切仏指語 第十六参照
3) 巻3第27話 阿闍世王殺父王語 第(廿七)参照
巻5第4話 一角仙人被負女人従山来王城語 第四
今昔、天竺に一人の仙人有けり。名をば一角仙人と云ふ。額に角一つ生たり。此の故に一角仙人とは云ふ也。深き山に行ひて、年多く積にけり。雲に乗て空を飛び、高き山を動して禽獣を随ふ。
而る間に、俄に大なる雨降て、道極て悪しく成たるに、此の仙人、何なるにか有りけむ、思も敢へず、歩(かち)より行き給ひけるに、山峻(さかし)くして、不意に踏みすべりて倒ぬ。年は老て、かく倒れぬるを、いみじく腹立て思はく、「世の中に雨の降れば、かく道も悪く成て倒るる也。苔の衣も湿ひたるは、糸着悪くし。然れば、雨を降す事は、竜王の為る事也」とて、忽に諸の竜王を捕へて、水瓶一つに入つれば、諸の竜王、歎き悲しむ事限無し。かかる狭き物に、竜王の大なるを取り入れたれば、狭く破(わり)無くて、動きも為ぬに、極て侘しけれども、聖人の極て貴き威力に依て、為べき方無し。
而る間、雨降らずして、既に十二年に成ぬ。此れに依て、世の中、皆旱魃して、五天竺、皆歎き合へる事限無し。十六の大国の王、様々の祈祷を致して、雨の降らむ事を願ふと云へども、更に力及ばず。何なればかく有ると云ふ事を知らず。
而る程に、或る占師の云く、「此れより丑寅の方に深き山有り。其の山に一人の仙人有り。雨を降す諸の竜王を取り籠たれば、世の中に雨は降らざる也。止事無き聖人達を以て祈らしめ給ふと云へども、彼の聖人の験には及ぶべからず」と。
此れを聞て、諸の国の人、「何が為べき」と思ひ廻すに、更に思ひ得難し。一人の大臣有て云く、「止事無き聖人也と云ふとも、色にめでず、音に耽ぬ者は有らじ。昔、鬱頭藍と云ける仙人は、1)謬者かは。此にも増りてこそは有りけめ。然而(しかれど)も、色に耽て、忽ちに神変も失にけり。然れば、試みに、十六の大国の中に、端正美麗ならむ女人の、音、美ならむを召し集めて、彼の山に遣て、峯高く谷深くして、仙人の栖(すみか)、聖人の居所と見えむ所々にて、哀れにおもしろ2)く歌を詠(うたは)ば、聖人也とも、其れを聞て、解け給ひなむかし」と申せば、「速に然か有るべし」と定められて、世に端正美麗にして、音、美なる女を撰て。五百人を召して、微妙の衣服を着しめ、栴檀香を塗り、沈水香を浴して、微妙に餝れる五百の車に乗せて遣しつ。
女人等、山に入て、車より下りて、五百人打ち群れて、歩び寄たる様、云はむ方無く目出たし。十廿人づつ歩び別れて、然るべき窟の廻り、木の下、峯の間などにて、哀れに歌を詠ふ。山も響き、谷も騒ぎ、天人も下り、竜神も趣くべし。
而る間に、幽(かすか)なる窟の側に、苔の衣を着たる一人の聖人有り。痩せ羸(つか)れて、身に肉無し。骨と皮との限りにて、何こにか魂は隠れたらむと見ゆ。額に角一つ生ひたり。怖し気なる事限無し。影の如くにて、杖に懸りて、水瓶を持て、咲み枉(まけ)て逶(もこよ)ひ出たり。
云ふ様、「此れは、何なる人々の、かく御して、いみじき歌をば詠ひ給ふぞ。我れは、此の山に住して千年に成り侍りぬれども、未だかかる事をなむ聞き侍らぬ。天人の下り給へるか、魔縁の来り近付くか」と。女人、答て云く、「我等は天人にも非ず、魔縁にも非ず。五百の『けから女3)』と云て、天竺に一党として、かく様に罷り行く者也。其れが、此の山、並び無くおもしろ4)くして、万の花栄(さ)き、水の流れ目出たくて、其の中に、『止事無き聖人、御座す』と聞て、『歌詠ひて聞せ奉らむ。かかる山中に御座ば、未だ此の如くの事をも、聞せ給はじ。亦、結縁も申さむ』と思て、態と参たる也」と云ふ。
歌を詠ふを聖人聞て、実に古も今も未だ見ぬ姿共して、艶(えもいは)ず哀れに詠ひ居たれば、目も耀く心地して、心も動き、魂も迷ひぬ。聖人の云く、「我が申さむ事には、随ひ給ひなむや」と。女、「耎(やはら)ぎたる気色也。計り落してむ」と思へば、「何なる事也とも、何でか承はらざらむ」と。
聖人の云く、「『少し触ればひ申さむ』となむ思ふ」と、糸強々し気に、月無気(つきなげ)に責め云ふに、女、且は、「怖しき者の心破らじ」と思ふ、且は、角生て踈ましけれど、国王、態と、「然か有るべし」とて遣たれば、終に、怖々(おづおづ)聖人の云ふ事に随ひぬ。
其の時に、諸の竜王、喜びを成して、水瓶を蹴破て、空に昇ぬ。昇や遅きと、虚空陰り塞がりて、雷電霹靂して、大雨降ぬ。女、立隠るべき方無けれども、還るべき様無ければ、怖し乍ら日来を降る程に、聖人、此の女に心深く染にけり。
五日と云ふに、雨少し止て、空晴ぬれば、女、聖人に云く、「かくて侍るべき事に非ねば、還り侍りなむ」と云ふに、聖人、別れ惜むで、「然らば、還り給ふべき也」と云ふ気色、心苦し気也。女の云く、「未だ習はざる心地に、かかる巌を歩より歩て、足も皆腫(はれ)にたり。亦、還らむ道も思え侍らず」と。聖人、「然らば、山の程は、道の指南(しるべ)をこそは仕侍らめ」と云て、前立て行くを見れば、頭は雪を戴たる如し、面は波を畳みて、額には角一つ生ひたり。腰は二えに曲て、苔の衣を被(かづ)きたり。錫杖を杖に突て、わななき逶ひ行くを見るに、且は嗚呼がましく、且は怖し。
而る程に、一の谷を渡るに、艶ぬ碊道(かけぢ)有り。屏風を立たる如く也。巌の高く峻き下には、大なる滝有り。下には淵有り。下より逆さまに、涌き上る様なる白波立て、見渡せば、雲の浪・煙の浪、糸深し。実に、羽生はず、竜に乗らずば、渡るべからず。
其の所に至て、女、聖人に云く、「此の所こそ、渡得難く侍れ。見るにそら、目暗るる心地して物思えず。何況や、渡らむ事をや。聖人は常に行き習ひ給へり。我れを負て渡り給へ」と。聖人、此の人に心深く移ければ、云ふ事背き難くて、「然か侍る事也。負はれ給へ」と云ふ。中々に径は採断5)(きりた)つ許にて、「打ち落や為む」と怖しけれども、負はれぬ。其の所をば渡ぬれども、女、「今暫し」と云て、王城まで負はれ乍ら入ぬ。
道より始めて、見と見る人、「其の山に住む、一角仙人と云ふ聖人、けから女を負ひ、王城へ入」とて、若干広き天竺の人、高きも賤きも、男女皆集て、此れを見るに、額に角一つ生たる者の、頭は雪を戴けるが如し、脛は針の如して、錫杖を女の尻に宛てて、垂下ればゆすり上て行くを、咲ひ嘲らぬ人無し。
国王の宮に入ぬれば、国王、「嗚呼也」とは思せども、「聖人、止事無き人也」と聞て、敬ひ畏りて、「速に還り給ひね」と有れば、空を飛て行し心に6)、此の度は、逶ひ倒れてぞ還にける。
「かく、嗚呼なる聖人こそ有けれ」となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「仙人ノ下或ハ誤脱アラン」
2) , 4) 「おもしろ」は底本言偏に慈
3) 底本頭注「ケカラ女一本チカラ女ニ作ル下同ジ」
5) 「採」底本異体字。手偏に菜。
6) 底本頭注「心ハ誤字ナラン」
巻5第5話 国王入山狩鹿母夫人為后語 第五
今昔、天竺の波羅奈国に、王城遠からずして、一の山有り。名をば聖所遊居1)と云ふ。其の山に二人の仙人有りけり。一人は南の岳に住む。一人は北の岳に住む。
二の山の中の間に、一の泉の水有り。其の泉の辺に、一の平なる石有り。此の南の仙人、此の石の上にして、衣を洗ひ、足を洗て、栖(すみか)に還て後に、一の雌鹿来て、泉の水を呑む。亦、仙人の衣洗ひたる所に行て、其の汁を呑み、亦、小便の所を尋て舐る。其の後、此の鹿、懐妊しにけり。月満て、一の女子を産せり。既に、此れ人と有り。
南の岳の仙人、鹿の悲び哭く音を聞て、哀びの心を発して、出でて見れば、鹿の母、一人の女子を舐る。仙人の来るを見て、女子を捨てて去ぬ。其の時に、仙人、此の女子を見るに、未だ見も習はぬ心地に、端厳美麗2)にして、厳(いつく)しき事限無し。仙人、此れを哀びて、我が草の衣に、此の児を裹て、栖に将行ぬ。時々の草蓏(くさのみ)を拾て、此れを養ふ。
而る程に、自然(おのづから)に年月を経て、此の鹿の娘、既に年十四に成ぬ。此の女を以て、火を埋ずましめて、消えしめず。然れば、仙人の栖に火絶る事無し。
而る間、或る朝に、火、既に消ぬ。仙人、女子に云く、「我れ、年来、此の栖に未だ火を絶つ事無かりつ。而るに、汝、何ぞ火を消せる。汝、速に此の北の岳の仙人の許に行て、火を取て、持来べし」と。
鹿女、仙人の教へに随ひて、北の岳の仙人の許に行くに、足を持上る跡毎に蓮花生ぜり。既に行き至て、火を乞ふに、此の岳の仙人、此の女の足の跡毎に蓮花の生ぜるを見て、奇異の思ひを成して云く、「汝、火を得むと思はば、先づ、我が室を七匝(ななめぐり)廻るべし。其の後に、火を与へむ」と。女、云ふに随て、七匝を廻畢て、火を得て、本の所に還ぬ。
其の後に、其の国の大王、諸の大臣・百官を引将て、此の山に入て、諸の鹿を狩らしむる程に、此の北の仙人の室に行き至て、室の廻りに蓮花生ぜるを見て、大きに驚て、讃(ほめ)て宣はく、「今日、我れ、此に来て、奇異の事を見る。善哉、々々。我れ、大に歓喜す」と。仙人、王に申して云く、「此れ、我が徳に非ず。此の南の岳に仙人有り。一人の女子を生育せり。其の女子、端正美麗なる事並無し。其の女、今朝、仙人の使として、火を取らむが為に、此の室に来る間、足を持上るに随て、其の跡毎に生ぜる所の蓮花也」と。
大王、此の事を聞て、其の所を去て、南の岳の仙人の栖に行き給て、仙人に語て宣はく、「汝が許に女人有りと聞く。我れに得しむべし」と。仙人の云く、「我れ、貧しき身に一人の女子を具せり。惜しむべからず。但し、未だ稚くして、人を見る事無し。幼より深き山に住て、世を知らず。草を以て服とし、菓(このみ)を拾て食とせり。亦、此の女は、畜生の生ぜりし者也」と云て、生れし程の事を具に申す。王、此の由を聞て、宣はく、「畜生の生ぜる者也と云ふとも、我れ、更に苦び有らじ」と。仙人、王の仰に依て、女を将出でて奉る。
王、女を乞ひ取て見給ふに、実に端正美麗なる事、只者と見えず。然れば、忽ちに香湯を以て沐浴せしめて、百宝の瓔珞を以て、其の身を荘厳して、大象に乗らしめて、百千万の人、前後に囲遶し、微妙の伎楽を調へて、宮に還り給ふ。其の程、父の仙人は、高き山の頂に昇て、遥に此の女の行くを見て、目暫くも留めずして見送て、女の遥に遠く行て、見えず成ぬる時になむ、本の栖に還て、涙を流して恋ひ悲む事限無し。
大王は既に宮に還り着き給て、女を宮殿に居へて、拝して、第一の后と立てて、名をば「鹿母夫人」と云ふ。其の時に、諸の小国の王・大臣・百官、皆来て此れを喜ぶ。王、此れを見給ふに、心喜ばしくして、更に他の念ひ無し。
而る程に、此の后、懐妊しぬ。王、「若し男子を生ぜらば、詔して王位を継がしめむ」と思す。月満て生るるを待つ程に、一の蓮花を産めり。王、此れを満て、大に嗔て宣はく、「此の后、畜生の生ぜる人なるが故に、かかる物をば産める也。極て異様也」と宣て、忽に后の職を止めつ。「其の蓮花をば、速に棄つべし」とて、池に入れつ。
其の入るる人、花を取て、池に入れて見れば、蓮花に五百の葉に、一人の童男有り。其の形、各、端正美麗にして世に並無し。大王に此の由を申すに、王、此の由を聞給て、皇子を皆迎へ給ふ。后をば本の如く職を授け、前の事を悔ひ給ふ。
王、其の時に、大臣・百官及び、小国の王・諸の婆羅門を召して、皆集会せしめて、五百の太子を抱かしむ。亦、諸の相師を召して、五百の太子の吉凶を占ひ相せしむ。相師、卦を説て云く、「此の五百の太子、皆止事無き相、在ます。必ず、道の徳在して、世に貴ばれ給つべし。国には其の福を蒙らむ。若し、在家ならば、鬼神、此れを護て持(たも)たむ。若し、出家ならば、生死の海を断じて、三明六通を得て、四道四果を具せむ」と。大王、相師の言を聞て、喜び給ふ事限無し。国の内に五百の乳母を撰び取て、各養育す。
而る程に、太子等、漸く勢長して、皆出家を求む。父母、相師の言の如くに、皆出家を許しつ。然れば、五百の皇子、皆出家して、後の薗の中に住す。勤め行て、辟支仏と成ぬ。
此の如く、次第に四百九十九人の皇子は道果を得たり。父母の前に来て云く、「我等、既に道果を得たり」と云て、種々の神変を現じて、般涅槃に入ぬ。其の時に、鹿母夫人、四百九十九の塔を起て、其の辟支仏の骨を各納めて供養せり。
亦、最小の皇子、九十日を過て、亦辟支仏と成て、同く父母の前に来て、大神変を現じて涅槃に入ぬ3)。亦、其の為に一の塔を起てて、前の如くに供養しけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「所字諸本ニナシ」
2) 底本頭注「端厳一本端正ニ作ル」
3) 「入ぬ」は底本「人ぬ」。誤植をみて訂正 
巻5第6話 般沙羅王五百卵初知父母語 第六
今昔、天竺の□□国に大王有り。般沙羅王と云ふ。其の后、五百の卵を産めり。大王、此れを見て、奇異の思を成す。后も自ら恥て、小き箱に入れて、使を以て恒伽河1)に流しつ。
其の時、隣国の王、獦(かり)に出でて、遊び行き給ふ間に、此の卵の箱の、河に流れ行くを見付て取上て、開て見るに、五百の卵を入れたり。王、此れを見て、棄てずして、宮に持還て置たるに、日来を経る。此の五百の卵より、各一の男子出たり。
王、此れを見て喜ぶ。此の王、子無くして、此れを苦(ねんごろ)に養育し、傅(かし)づく程に、五百の皇子、漸く勢長して、皆心武くして、兵に道に足れり。然れば、国の内に此の五百の皇子に並ぶ者無し。
而るに、此の国、本より彼の般沙羅王の国と敵にて有れば、此の五百の皇子の、武く勇なるを得て、「此れを以て、彼の国を責む」と思て、先づ、彼の国に使を遣て、「勝負を決せむ」と云ふ。其の後、軍を発して、彼の国に行向て、其の城を囲つ。
其の時に、般遮羅王2)、大きに怖れ歎き給ふ。后の云く、「王、更に怖給ふべからず。其の故は、此の敵国の五百の軍と云は、皆此れ我が子也。子、母を見ば、悪心、自然ら止なむ。所謂、我が生たりし所の五百の卵此等也」と云て、前の事を一々に語る。
軍、城に向ふ時に、后、自ら高楼に昇て、五百の軍に向て云く、「汝等五百人は、此れ皆我が子也。我れ、先年に五百の卵を産りき。恐れを成て、恒伽河に流したりしを、隣国の王、見付て、養ひ立たる汝等也。何ぞ、今、父母を殺して逆罪を造らむ。汝等、若し此の事を信ぜずば、各、口を開て、我に向ふべし。我が乳を按(おさへ)むに、其の乳、自然ら汝等が口毎に入るべし」と誓て、乳を按に、五百の軍、此の事を聞て、皆高楼に向て居たる口毎に、各同時に入ぬ。其の時に、五百の軍、皆此の事を信じて、畏り敬て、還り去ぬ。
其の後は、此の二の国、互に中善く成て、責め罸(う)つ事絶にけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) ガンジス川
2) 底本頭注「遮諸本沙ニ作ル」
巻5第7話 波羅奈国羅睺大臣擬罸国王語 第七
今昔、天竺の波羅奈国に大王御けり。寝給へる間に、宮を守る神来て、大王に告て云く、「羅睺大臣有て、国位を奪はむが為に、大王を害せむとす。速に境を出でて逃げ給へ」と。大王、此れを聞て、恐ぢ怖れて、后・太子と議(はかり)て、密に国の境を出給て、逃げ行く程に、心誤り肝迷て四十日行く道に入ぬ。其の道、嶮(けは)しく堪へ難き事限無し。水無くして、咽乾て、既に死なむとす。何況や、粮絶て命を存せむ事難たし。
然れば、大王・后、音を挙て、大に叫びて歎き、思ふ様、「我等三人乍、既に死なむとす。我れ、同じくは、夫人を殺して、其の肉を取て、食して、我れ・太子二人の命を継む」と思て、釼を抜て、夫人を殺さむと為るに、太子、父の王に云く、「我れ、母の肉(しし)村を食ふべからず。然れば、我が肉村を以て、父母に奉るべし」と。王、餓への堪難さを忍ばずして、云ふに随て、太子の肉を割く。
行く末の道、未だ遥なれば、尚手足の肉を割て与ふ。身の肉、臭くして、其の香、遠く香(かか)えぬ。然れば、蚊虻競ひ来て、身に遍し付て食ふ。苦しび痛む事、限無し。太子の云く、「願くは、我れ、来世に無上菩提を得て、汝等が餓への苦びを済はむと思ふ」と云ふ。然る間、太子を捨てて、父母去ぬ。
其の時に、天帝釈、悪き獣と変じて、其の所に来て、太子の残れる所の肉を螫(さ)し噉(は)む。其の時に、太子、誓て云く、「願くは、我れ、此の捨て難き身を捨る功徳を以て、無上菩提を成じて、一切衆生を度せむと思ふ」と。
其の時に、天帝釈、本の形に復して宣はく、「汝、極て愚也。無上道は久く苦行を修て行る所の道也。汝、何ぞ此の施に依て、無上道を成ずべきにか」と。太子の云く、「我れ、若し此の事に於て、欺誑の言を致さば、我が身、全く平復すべからず。若し、真実の言を致さば、我が身、本の如く平復すべし」と。
其の時に、肉、本の如くに成て、平復する事を得つ。形貌端正なる事、前に倍々(ましま)せり。即ち起居て、天帝釈を礼拝し給ふ。其の時、帝釈は掻消つ様に失給ひぬ。
父の大王は、隣国の王の許に行て、此の事を語り給ふに、隣国の王、哀びの心を発して、四種の兵を発して、羅睺大臣を責む。終に責め罸つ事を得て、本国に還て、即位、本の如く也。太子、亦本国に還て、国位を委付して、国を治る事、父の如し也。
此の太子の名をば、須闡提太子と云ふ。今の釈迦仏、此れ也。羅睺大臣と云は、今の提婆達多、此れ也となむ、語り伝へたるとや。
巻5第8話 大光明王為婆羅門与頭語 第八
今昔、天竺に大光明王と申す王御けり。人に物を与ふる心深くして、五百の大象に諸の宝を負せて、諸の人を集めて、宝を施し給ふに、少も惜む心無し。何況や、人来て宝を乞ふに、与へずと云ふ事無し。
隣国の王、此の心を聞て、大光明王を殺さむが為に、一人の婆羅門を雇ひ語ひて、大光明王の許に遣て、王の頭を乞はしめむとす。婆羅門、大光明王の許に至て、頭を乞むと為るに、宮を守る神有て、此の事を知て、守門を者に告て、婆羅門を入らしめず。
然りと雖も、終に守門の者、大王に此の由を申す。大王、自出でて、婆羅門を見給ふに、幼子の母を見るが如し。心に歓喜して、来る由を問給ふ。婆羅門の云く、「大王の御頭を給ふべし」と。大王、「乞に随て、首を与へむ」と、受け給ひつ。
先づ、還入て、后達・五百人の太子に向ひて、婆羅門に首を与ふべき由を宣ふ。時に、后・太子、皆此の事を聞て、悶絶躃地して、強て此の事を止む。然りと雖も、大王、敢て此の心止まず。
大王、掌を合せて、十方に向て礼拝して宣はく、「十方の仏菩薩、我れを哀愍し給て、我が今日の願を成弁せしめ給へ」と申して、大王自ら樹に縛り付て、「我が頭を取て与ふべし」と宣ふ時に、婆羅門、釼を抜て樹に向ふ。
其の時に、樹神、手を以て婆羅門を頭を打つ。婆羅門、地に倒れ臥しぬ。其の時に、大王、樹神に語て云く、「汝、我が願を助けずして、善法に於て、妨げを致せり」と。此れに依て、樹神、妨る事無し。
然れば、婆羅門、大王の頭を切り取る間、宮の内の后・太子より始めて、大臣・百官及び、若干の人、哭き悲む事限無し。婆羅門、大王の頭を切取て、本国に還りぬ。
大光明王と云は、今の釈迦仏、此れ也。婆羅門を雇ひ語へる隣国の王と云は、今の提婆達多、此れ也となむ、語り伝へたるとや。
巻5第9話 転輪聖王為求法焼身語 第九
今昔、天竺に転輪聖王御けり。一切衆生を利益せむが為に、法を求めて、閻浮提の内に宣旨を下して云く、「閻浮提の内に、誰か仏法を知れる者有る」と。其の時に、「辺土に一の小国有り。其の国の中に、一人の婆羅門有り。其の人、仏法を知れり」と。
使を遣て、婆羅門を請ずるに、即ち来て、宮の内に入る。大王、大きに喜て、殊に座を儲て、其れに坐しめて、百味を以て供養し給はむと為るに、婆羅門、更に其の座に居ずして、供養を受けず。婆羅門の云く、「大王、若し、『法を聞かむが為に我を供養せむ』と思さば、王の御身に千所の疵を彫て、其れに宍(しし)の油を満て、灯心を入れて燃(とも)して供養せば、当に供養を受て、法を説かむ。若し、然らずば、我れ、立て去むと為(す)」と。
其の時に、大王、婆羅門を抱き留て、宣はく、「大師、暫も留り給へ。我れ、無始より以来、多の生死を経と云へども、未だ法の為に身を捨つる事無し。今日、其の時に当(あたれ)り。我れ、身を捨てて供養し奉るべし」と宣て、宮の内に入て、諸の后、并に五百の皇子に向て宣はく、「我れ、今日、法を聞かむが為に、身を捨むとす。然れば、汝達に別れなむ事、只今也」と。
其の中に、一人の皇子有り。聡明並無くして、智恵無量也。形貌端正にして、心操正直也。大王、此れを寵愛し給ふ事、玉を見るが如し。然れば、国内の人民、太子に随へる事、風に靡く草木の如とし。大王、宣はく、「生死の恩愛は皆別離有り。此の事、更に歎き思ふべからず」と。后・皇子、此れを聞て、哭悲み給ふ事限無し。
大王、婆羅門の云が如く、身に千所の疵を彫て、其れに宍の油を満てて、上妙の細畳(ほそてづくり)を以て灯心として、火を付て燃す。其の間、婆羅門、半偈の文を説て云く、「夫生輙死。此滅為楽」と。
王、此の偈を聞て、心に喜て、諸の衆生の為に大きに慈心を発し給ふ。諸の人、此の偈を聞て、歓喜して云く、「大王、実に大慈悲の父母に在ます。衆生の為に此の苦行を修し給ふ。我等、此れを書写して行ふべし」と云て、或は紙、或は石の上、或は樹の本、或は瓦礫、或は草の葉、多く人の行く所に此の文を書写す。此れを見聞く人、皆、無上菩提心を発す。大王の身を燃し給ふ灯心の光り、遥に十方世界を照す。其の光に当る衆生、皆菩提心を発す。
其の時に、婆羅門、忽ちに天帝釈と復して、光を放て、大王に告て宣はく、「汝、此の有難き供養を成して、何なる報をか願ふ」と。大王、答て宣はく、「我れ、人天の勝妙の楽を求めずして、只無上菩提を求めむと思ふ。譬ひ、熱鉄輪を我が頂の上に置くと云ふとも、苦しぶ事有らじ。終に、此の苦行を以て、無上菩提心を退せじ」と。
天帝釈の宣はく、「汝、此の如くの言を成すと云へども、我れ1)、信じ難し」と。大王の宣はく、「我れ、若し此の言、実に非ずして、天帝釈を欺かば、我が千の瘡2)、終に𡀍3)(いゆ)る事非じ。若し実言ならば、血乳と成て、千の瘡平復しなむ」と。
其の時に、千に瘡、悉く𡀍4)て、本の身の如くに成りにけり。其の後、天帝釈、掻消つ様に失給ひにけり。
其の大王と申すは、今の釈迦仏、此れ也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「我レ一本猶シニ作ル」
2) 底本頭注「瘡諸本疵ニ作ル下同ジ」
3) , 4) 口へんに愈
巻5第10話 国王為求法以針被螫身語 第十
今昔、天竺に国王御けり。法を求めむが為に、王位を捨てて、山林に交(まじり)て、修行し給ひけり。
其の時に、一人の仙人出来て、国王に告て云く、「我れ、法文を持(たも)てり。汝に教へむと思ふ。何に」と。国王、答て宣はく、「我れ、法を求めむが為に、山林に修行せり。速に教ふべし」と。仙人の云く、「我が云はむ事に随はば、教ふべし。随はずば、教ふべからず」と。王、答て宣はく、「我れ、若し法を聞く事有らば、身命を惜しむべからず。何況や、余の事をや」と。
仙人の云く、「若し然らば、九十日の間、一日に五度、針を以て其の身を突かるれば、我れ、貴き法文を教へむ」と。国王の宣はく、「譬ひ、一日に千度突くと云ふとも、法の為に身を惜む事有らじ」と宣て、仙人に身を任せて、立給へり。其の時に、仙人、針を以て身を五十度1)突くに、痛む事無し。
此の如く、一日に五度突く。三日と云ふに、仙人、問て云く、「汝、若し痛みや有る。痛くば去ね。九十日の間、此の如く突かむに、何ぞ」と。国王の宣はく、「地獄に落て、堂燃燼火に身を焼かれ、刀山火樹に身を交へむ時の痛さは、去ねとやは云はむずる。彼の時に准(なぞら)ふるに、此の苦は、百千万億の其の一にも及ばず。然れば、痛むべからず」と宣て、九十日の間、能く忍て、痛む事無し。
其の後、仙人、八字の文、教たり。所謂ゆる、「諸悪莫作。諸善奉行」と云へり。
其の時の国王と申すは、釈迦仏、此れ也。其の時の仙人と云ふは、今の提婆達多、此れ也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「五十度ハ五度ノ誤カ」 
 

 

巻5第11話 五百人商人通山餓水語 第十一
今昔、天竺に五百人の商人有て、商ひの為に他国へ行く間、一の山を通けり。五百の商人、一人の沙弥を具たり。
而る間、山の道を踏違て、深き山に入れり。其の山、人跡絶へ水無し。然れば、此の商人等、三日水飲まずして、咽乾て、既に死ぬべし。
其の時に、商人等、此の沙弥に向て云く、「仏は一切衆生の願を満給ふ。有難き三悪道の苦にそら代り給ふ。而るに、汝、既に首を剃り、衣を染て、仏の御弟子と有り。我等、五百人、忽に水に渇(かわい)て死ぬべし。汝、我等を助よ」と云ふ。沙弥、「実の心を発して、『助よ』と思ふか」と問ふ。商人等、「今日の命の生死、只汝を憑む所也」と答ふ。
其の時に、沙弥、高き峯に昇て、巌の下に居て、云く、「我れ、首を剃れりと云へども、未だ行無し。人を助くるに力無し。然りと雖も、商人等は、『汝ぢ、仏弟子に似たり。我等が命を助けよ』と云て、水を乞ふに、弟子、力及ばず。願くは十方三世の諸仏如来、我が首の脳、返て水と成して、商人等が命を助け給へ」と誓て、巌の崎に頭を打つ。
其の時に、血流れ下だる。其の血、変じて水と成れり。五百の商人及び若干の牛馬、此の水を飲て、飽満して、命を助けてけり。
其の沙弥と云は、今の釈迦仏、此れ也。五百の商人と云は、今の五百の御弟子等也となむ、語り伝へたるとや。
巻5第12話 五百皇子国王御行皆忽出家語 第十二
今昔、天竺に国王御けり。五百の皇子を持ち給ひけり。
国王、御行有ける時、此の五百の皇子を前に立てて御する間、一人の比丘有て、此の五百の皇子の行く前より、琴を引て渡る。其の時に、五百の皇子、一度に出でて、此の比丘に会ふ。
然る間、五百の皇子、忽に出家して、戒を受く。国王、此の事を見て、驚き騒ぎ給ふ。其の時に、一人の大臣有て、国王に申して云く、「皇子の御前より、一人の比丘、琴を引て渡る。此の琴の音を聞て、五百の皇子、忽に出家し給ふ。其の琴の音に云く、『有漏諸法如幻化。三界受楽如空雲』と云へり。此の琴の音を聞て、五百の皇子、忽に生死の無常を観じ、世間の受楽を厭て、出家し給ふ也」と申しけり。
其の琴を引て渡りし比丘は、今の釈迦仏、此れ也。其の五百の皇子と云は、今の五百羅漢此れ也となむ、語り伝へたるとや。
巻5第13話 三獣行菩薩道兎焼身語 第十三
今昔、天竺に兎・狐・猿、三の獣有て、共に誠の心を発して、菩薩の道を行ひけり。各思はく、「我等、前世に罪障深重にして、賤き獣と生たり。此れ、前世に生有る者を哀れまず、財物を惜て人に与へず、此の如くの罪み重くして、地獄に堕て、苦を久く受て、残の報にかく生れたる也。然れば、此の度び、此の身を捨てむ」。年し、我より老たるをば、祖の如くに敬ひ、年、我より少し進たるをば、兄の如くにし、年、我より少し劣たるをば、弟の如く哀び、自らの事をば捨てて、他の事を前とす。
天帝釈、此れを見給て、「此等、獣の身也と云へども、有難き心也。人の身を受たりと云へども、或は生たる者を殺し、或は人の財を奪ひ、或は父母を殺し、或は兄弟を讎敵の如く思ひ、或は咲(ゑみ)の内にも悪しき思ひ有り、或は慈(いつくしび)たる形にも嗔れる心深し。何況や、此の獣は、実の心深く思ひ難し。然らば試む」と思して、忽に老たる翁の、無力にして、羸(つか)れ術無気なる形に変じて、此の三の獣の有る所に至給て宣はく、「我れ、年老ひ羸れて、為む方無し。汝達三の獣、我れを養ひ給へ。我れ、子無く、家貧くして、食物無し。聞けば、汝達三の獣、哀びの心深く有り」と。
三の獣、此の事を聞て云く、「此れ、我等が本の心也。速に養ふべし」と云て、猿は、木に登て、栗・柿・梨子・菜(なつめ)・柑子・𦯉1)(こくは)・椿(はしばみ)・𣗖2)(いちひ)・郁子(むべ)・山女(あけび)等3)を取て持来り。里に出ては、苽(うり)・茄子・大豆・小豆・大角豆(ささげ)・粟・薭(ひえ)・黍(き)び等を取て、好みに随て食はしむ。狐は、墓屋(つかや)の辺に行て、人の祭り置たる粢(しとぎ)・炊交・鮑・鰹・種々の魚類を取て持来て、思ひに随て食はしむるに、翁、既に飽満しぬ。
此の如くして、日比を経るに、翁の云く、「此の二の獣は、実に深き心有りけり。此れ、既に菩薩也けり」と云ふに、兎は励の心を発して、灯を取り、香を取て、耳は高く、𤹪(くぐ)せにして、目は大きに、前の足短かく、尻の穴は大きに開て、東西南北求め行(あ)るけども、更に求め得たる物無し。然れば、猿・狐と翁と、且は恥しめ、且は蔑(あな)づり咲ひて励ませども、力及ばずして、兎の思はく、「我れ、翁を養はむが為に、野山に行くと云へども、野山、怖しく破(わり)無し。人に殺され、獣に噉はるべし。徒に心に非ず身を失ふ事量無し。只如かじ、我れ、今、此の身を捨てて、此の翁に食はれて、永く此の生を離れむ」と思て、翁の許に行て云く、「今、我れ、出でて甘美の物を求め奉らむとす。木を拾ひて、焼て待ち給へ」と。然れば、猿は木を拾ひて来ぬ。狐は火を取て来て、焼付けて、「若しや」と待つ程に、兎、持つ物無くして来れり。
其の時に、猿・狐ね、此れを見て云く、「汝ぢ、何物をか持て来らむ。此れ、思つる事也。虚言を以て人を謀て、木を拾はせ、火を焼せて、汝ぢ、火に温(あたたま)らむとて、穴憎く」と云へば、兎、「我れ、食物を求て持来るに力無し。然れば、只我が身を焼て、食ひ給ふべし」と云て、火の中に踊入て焼死ぬ。
其の時に、天帝釈、本の姿に復して、此の兎の火に入たる形を、月の中に移して、普く一切の衆生に見しむが為に、月の中に籠め給ひつ。
然れば、月の面に、雲の様なる物の有るは、此の兎の火に焼たる煙也。亦、「月の中に兎の有る」と云は、此の兎の形也。万の人、月を見む毎に、此の兎の事、思出すべし。(下文欠)
1) 草かんむりに伯
2) 木へんに栗
3) 底本頭注「菜ハ棗椿ハ榛𣗖ハ櫟ノ誤カ」
巻5第14話 師子哀猿子割肉与鷲語 第十四
今昔、天竺に、深き山の峒(ほ)らに、一の師子住けり。師子、心の内に思ふ様、「我れは此れ諸の獣の王也。然れば、諸の獣を護り哀ばむ」と思へり。
而るに、其の山の中に、二の猿有り。妻夫也。二の子を生じて養育す。其の子、漸く勢長するに、幼かりし時には、一をば腹に懐き、一をば背に負て、山野に行て菓(このみ)・蓏(くさのみ)を拾ひて養しなひしに、勢長して後は、此の二の子を懐き負ふに能はず。亦、山野に行て菓・蓏を拾はずば、子共を養はむ事も絶ゆべし。又、我等が命を助けむ事も有難し。又、此の子共を栖(すみか)に置て出でなば、空より飛ぶ鳥りも来て、食て去りなむとす。地より走る獣も来て、取て去なむとす。此の如く思ひ煩て、出でざる程に、疲れ極(こう)じて、餓死ぬべし。
為む方を思ひ廻すに、猿の思ひ得る様ふ、「此の山の峒に、一の師子住む。此の子共の事を、此の師子に云付て、我等は山野に出でて、菓・蓏を拾て、子共を養ひ、我等が命をも助けむ」と思ひ得て、師子の峒に行て、師子に云く、「師子は諸の獣の王に在ます。然れば、諸の獣のをば、尤も哀給ふべき也。其れに、我も獣の端也。哀給ふべき内也。而るに、我れ、二の子を生ぜり。幼なかりし時には、一をば背に負ひ、一をば腹に懐て、山野に罷行きて、菓・蓏を拾て、子共をも養ひ、我等が命をも助けき。其れに、子共、漸く勢長して後ちは、負ひ懐くにも堪へずして、山野に罷出で難し。然れば、既に子共も我身も命絶なむとす。亦、然りとて、子共を置て罷行かば、諸の獣の為に極て怖し。然れば、罷行かざる程に、羸(つか)れ極じて、我が命も絶ゆべきを、菓・蓏を拾はむが為めに、山野に罷出たらむ間、此の子共を師子に預け奉らむ。其の程、平安に護て置給べし」と。
師子、答て云く、「汝が云ふ所も然るべし。速に子共を将来て、我が前へに置くべし。汝等が還らむ間に、我れ護るべし」と受けつ。猿、喜て、子共を師子の前に置て、心安く山野に走り出でて、菓・蓏を拾ひ行く。
師子は、前に猿の二の子を置て、あから目もせず護り居たる程に、師子、聊に居眠たる程に、一の鷲来て、峒の前なる木に隠れ居て、「少し隙も有らば、此の猿の子共を取て去なむ」と思ひ居たる程に、師子の居眠たるを見て、飛び来て、左右の足を以て、猿の二の子を爴(つか)み取て、本の木に居て、喰てむと為る程に、師子、驚て見るに、猿の子共、二乍ら見えず。驚き騒て、峒を出でて見るに、向なる木に一の鷲居て、此の猿の子二つを、左右の足を以て一づつ爴み取て抑へて、既に喰てむとす。
師子、此れを見て、騒ぎ迷て、彼の木の本に行て、鷲に向て云く、「汝は鳥の王也。我は獣の王也。互に心有るべし。此の峒の傍なる猿来て云ふ様は、『菓・蓏を拾て子共を養ひ、我が命をも助けむと為るに、二の子共の不審(おぼつかな)きに依て思ひ煩ふを、山野に罷出たらむ程、此の二の子共護れ』とてなむ預けて罷出ぬるを、居眠して待つる程に、此等を取て御にける。其れ、我れに免し給へ。既に事請をして、此等を失なひてむずる事の、我が肝心を割く様に思ゆる也。亦、我が申さむ事、聞て給ざるべきに非ず。我が忿を成て、吠え喤(ののし)らむには、汝達も平らかに御しなむやは」と。
鷲、答て云く、「宣ふ所、尤も裁也。然れども、此の猿の子二は、我が今日の食に罷当たる也。此れを返し申しては、亦、我が今日の命、絶ゆべし。師子の御事の、怖しく忝なく思ふも、命を思ふ故也。然れば、返申すべからず。此れ命を助けむが為也」と。師子、亦云く、「宣ふ事と、亦裁り也。然らば、此の猿の子の代りに、我が宍(しし)村を与へむ。其れを食して、今日の命を助け給へ」と云て、我が釼の様なる爪を以て、我が股の宍村を爴み取て、猿の子二が大きさに丸がして、鷲に与へつ。
其の後、猿の子を乞ふに、鷲、「然らば、何でか返し申ざらむ」と云て、返しつ。師子、猿の子二を得て、血宍に成て、本の峒に還ぬ。
其の時に、此の猿の母、菓・蓏を拾ひ集めて還来たり。師子、有つる事を猿に語れば、猿、涙を流す事、雨の如し。師子の云く、「汝が云ふ事の重きには非ず。約を受て違へむ事の、極て怖ろしければ也。亦、我れは、諸の獣を哀ぶ心ろ深し」とぞ云ける。
其の師子と云ふは、今の釈迦仏け、此れ也。其の雄猿と云は、今の迦葉尊者也。雌猿と云は、今の善護比丘尼也。二の猿の子と云は、今の阿難・羅睺羅也。鷲と云は、今の提婆達多1)、此れ也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「提婆達多ノ四字一本ニヨリテ補フ」
巻5第15話 天竺王宮焼不歎比丘語 第十五
今昔、天竺の国王の宮に火出来ぬ。片端より焼持行くに、大王より始て、后・皇子・大臣・百官、皆騒ぎ迷て、諸の財宝を運び出す。
其の時に、一人の比丘有り。国王の護持僧として、此れを帰依し給ふ事限無し。而るに、其の比丘、此の火を見て、頭を振り首を撫でて喜て、財宝を運び出すを止む。
其の時に、大王、此の事を怪で、比丘に問て宣はく、「汝ぢ、何の故有てか、宮内に火の出来るを見て、歎かずして、我が無量の財焼失(やけうす)るを見て、頭を振り首を撫でて喜ぶぞ。若し、此の火は汝が出せる所か。汝ぢ、既に重き咎有り」と。比丘、答て云く、「此の火、我が出す所には有らず。然れども、大王、財を貪るが故に、三悪趣に堕ち給ふべきを、今日、皆悉く焼失ひ給ひつれば、三悪趣に堕ち給ふべき報を遁れ給ぬる事の極て喜ばしき也。人の悪道を離れず、六趣に輪廻する事は、只一塵の貯を貪りて愛する故也」と申す。
大王、此れを聞て、「比丘の云ふ所、尤も然るべし。我れ、此れより後、財を貪ぶる事有らじ」と宣ひけりとなむ、語り伝へたるとや。  
巻5第16話 天竺国王好美菓又与美菓語 第十六
今昔、天竺に国王御けり。常に美菓を好て興じ給けり。其の時に、一人の人有り。宮を守る者也。其の人、池の辺にして、一の菓子(このみ)を見付て、此れを取て、「国王の興じ給ふ物也」と知て、国王に奉れり。
国王、此れを食し給ふに、世の菓子の味にも似ず、甘美なる事限無し。然れば、此の宮守を召して、仰せて云く、「汝が奉れる所の菓子、甘美なる事類無し。此の菓子、何れの所に有るぞ。定めて其の所知りたらむ。然れば、今より此の菓子、常に進(まゐらす)べし。若し、進さずば、汝をして罪に宛つべし」と。宮守、見付たりし様を陳ぶと云へども、国王、更に用ゐ給はず。宮守、歎き悲て、見付たりし池の辺に行て、泣き居たり。
其の時に、一人の人出来て、問て云く、「汝が泣き居たる、何事ぞ」と。宮守、答て云く、「昨日、此の池の辺にして、一の菓子を見付たりき。取て国王に奉る。国王、此れを食し給て、『速に此の菓子を亦奉るべし。若し奉らずば、罪に宛つべし』と仰す。然れども、亦見付くべき方無ければ、歎き悲て泣く也」と。此の人の云く、「我れは竜王也。昨日の菓子は我が物也。大王、用ひ給はば、此の菓子を一駄奉らむ。我れに仏法を聞かしめよ」と云て、即ち此の菓子一駄を奉れり。亦云く、「若し、我に仏法を聞かしめずば、今日より七日が内に、此の国を海と成さむ」と。
宮守、国王に此の菓子を奉て、此の由を申す。然れば、国王より始め、大臣、驚き騒て云く、「此の国の内に、昔より今に至るまで、仏法と云ふらむ事を見ず、聞かず。若し、我が国より始め他国にも、仏法と云ふらむ者や有る。我れに得しめよ」と、広く尋ぬるに、「仏法有り」と云ふ人無し。
而るに、国の内に一人の翁有り。年百二十余也。此れを召して、仰せて云く、「汝ぢ、既に年老たり。若し、古、仏法と云ふ者や聞し」と。翁の申さく、「未だ曾て仏法と云らむ者を見ず、聞かず。但し、翁が祖父、伝へて云く、『我が幼稚の時に、世に仏法と云ふ者有きと聞(きき)き』となむ申しし。亦、翁が家にこそ、奇異の事は侍れ。光を放つ柱、一本立たり。『此れは何ぞ』と問へば、『此れは、昔し、仏法の有りし時に立たりし柱也』と云ひ伝へて侍り」と申す。
其の時に、大王、喜て、忽に其の柱を取り寄せて、破て見給ふに、中に二行の文有り。「八斎戒の文也」と云へり。「此れを仏法と云ならむ」と信じ仰ぎければ、弥よ十方に光を放ち、衆生を利益し給ひけり。
竜王も喜て、其の時よりなむ、其の国に仏法始まりて、後には繁昌也ける。国も平らかに、民も穏かに、世豊か也けるとなむ、語り伝へたるとや。
巻5第17話 天竺国王依鼠護勝合戦語 第十七
今昔、天竺に一の小国有り。啒遮那国と云ふ。国は小国なれども、大きに富て、諸の財多かり。天竺は本より大きに広けれども、食物乏しくて、木の根・草の根を以て食とし、麦・大豆等を以て美食として、米乏しき所也。而るに、此の国は食物多く、服物1)豊か也。
其れに、此の国の国王は、本、毗沙門天の御額割けて、其の中より端正美麗なる男子出けるを、人取て乳母を以て養けれども、更に乳を飲まず、亦、他の物を食(くは)すとも、敢て食ふ物無し。然れば、此の児、更に生長すべき様無し。乳を飲まず、物を食はざれば、何を以て命を継むと歎き合て、本の毗沙門天に此を事を祈り申す。
其の時に、此の天王の御乳の側、俄に穹隆(うづたか)く成て、其の体、人の乳の様にて、大きに高し。此の御乳の俄にかく成たるを見て、人、怪むで、「何なる事ぞや」など云ふ程に、此の児、漸く寄て、手を以て此の御乳の高き所を掻き開たれば、其れより、人の乳の様なる物、只涌きに涌き泛(こぼ)る。其の時に、児、寄て、其れを飲む。此れを飲てより後、只、大きに大ゐに成て、端正美麗なる事、弥よ増(まさ)れり。
其の後、勢長して、かく国王と成て、国を治む。此の国王、兵の道賢く、心武くして、傍の国を罸(う)ち取て、国を弘げ、人を随へて、其の勢並び無し。
而る程に、隣国に悪く武き者共、心を合せて、百万人許の兵衆を集めて、俄に此の国の内に押入て、遥に広き野に弘(ひろご)り居たり。此の国の天皇、驚き騒て、軍を集むと云へども、軍の数遥に劣れり。然りとて、有るべき事ならねば、四十万人許の軍を引将て出向たるに、日暮て、今日は戦はず。其の夜は大なる墓(つか)を隔てて宿しぬ。彼方の軍勢、器量(いかめしく)して、合ふべき様無し。此の国の王は兵の方賢けれども、俄に圧(おそ)はれたれば、軍も調へ敢へず、彼は百万人、惣て合ふべきに非ず。
「何が為べき」と歎き思ふ程に、大きなる鼠の、金の色なるが三尺許なる、出来て、物喰て走り行く。国王、此の鼠を見て、怪び思て、「此れは何なる鼠ぞ」と問へば、鼠、答へて云く、「己は此の墓に住む鼠也。此の墓をば『鼠墓』と申す也。己は鼠の王也」と。
其の時に、国王、此の墓に行き向て云く、「鼠の体を見るに、只の鼠に非ず。獣と云へども、此れ神也。吉々く聞き給へ。我れは此の国の王也。鼠王も亦此の国に在す。然れば、此の度の合戦、力を加て2)勝たしめよ。若し、助け有て勝たしめたらば、我れ、年毎に欠かさずして、大きなる祭儲て、国挙て崇め奉るべし。若し、然らずば、此の墓を壊て、火を付けて、皆焼き殺してむ」と。
其の夜の夢に、金の鼠来て云く、「王、騒給ふべからず。我れ、護りを加へて、必ず勝たしめ奉らむ。只、夜曙(あけ)むや遅きと合戦を始めて、圧はせ給へ」と云ふと見て、夢覚ぬ。
王、心の内に喜ばしく思て、終夜(よもすがら)象に鞍置き、車の廻り拈(したた)め、弓の弦・胡録の緒など皆拈て、夜曙るを待つに、曙ると等しく、皆打寄て、大鼓を打ち、幡を振り、楯を築(つき)て、大象に乗り、車に乗り、馬に乗りて、甲冑を着たる軍四十万人、心を励まして圧て、寄る。
敵の方には、「定めて、かく来らむずらめ」と思ふ程に、俄に圧はれて、寝起て、「象に3)鞍置かせむ」とて見れば、万の物の具、腹帯・手綱・鞦等、皆鼠に喰切られて、全き物一つも無し。亦、弓の弦・胡録の緒・弦巻等、皆喰損じたり。甲冑・太刀・釼の緒に至るまで、皆喰切られて、軍、皆裸にて着る物無し。象も繋ぐ鋂(くさり)無ければ、放(はな)れ逃げて、一も無し。車も皆喰ひ損はれにけり。楯を見れば、籠の目の如く、人の通りぬべく喰開たれば、箭留るべくも無し。
然れば、百万人の軍、術無くて、迷ひ合ひたる事限無し。倒れ迷て、皆逃げ失ぬれば4)、敢て向て合ふ者無し。適(たまたま)見ゆる者をば、其の頸を皆切り捨つ。国王、合戦に勝れば、城に還ぬ。
其の後、年毎に此の墓に祭を立てて、国挙て崇めけり。然れば、国も平に、弥よ楽び多かり。其の後は、此の国の人、皆心に願ひ思ふ事有ぬれば、此の所にして祈請ふに、助からずと云ふ事無かりけりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「服物ハ財物ノ誤カ」
2) 底本頭注「加一本合ニ作ル」
3) 底本頭注「象一本馬ニ作ル」
4) 底本頭注「失一本去ニ作ル」
巻5第18話 身色九色鹿住山出河辺助人語 第十八
今昔、天竺に一の山有り。其の山の中に、身の色は九色にして、角の色は白き鹿住けり。其の国の人、其の山に此の鹿有りと云ふ事を知らず。其の山の麓に、一の大きなる河有り。彼の山に、一の烏有り。此の鹿と共に、心を一にして、年来世を過ぬ。
而る程に、此の河より、一の男渡るに、水に溺れて流れて、没(しづ)み浮み下だる。既に死なむとす。男、木の枝に取り付て、流れ下て、呼て云く、「山神・樹神・諸天・竜神、何ぞ我れを助けざるべき」と、音を挙て叫ぶと云へども、其の時に人無くして、助くる事無し。
而るに、此の山に住む彼の鹿、其の時に河の辺に来れり。此の音を聞て、男に云く、「汝ぢ、恐るる事無れ。我が背に乗て、二ん角を捕へよ。我れ、汝を負て陸に付む」とて、水を游て、此の男を助けて、岸の上つ。男、命の存しぬる事を喜て、鹿に向て手摺て、泣々く云く、「今日、我が命の生ぬる事は、鹿の御徳也。何事を以てか、此の恩を報じ申すべきや」と。鹿の云く、「汝ぢ、何事を以て我れに報ぜむ。只、我れ此の山に住むと云ふ事を、努々人に語るべからず。我が身の色、九色也。世に亦無し。角の白き事、雪の如し。人、我れを知なば、毛・角を用せむに依て、必ず殺されなむとす。此の事を恐るるが故に、深き山に隠て、住所を敢て人に知らせず。而るに、汝が叫ぶ音を髣(ほのか)に聞て、哀みの心ろ深くして、出でて助けたる也」と。男、鹿の契を聞て、泣々く語るべからざる由を返々請けて、別れ去ぬ。男、本郷に還て、月日を送ると云へども、此の事を人に語る事無し。
其の時に、其の国の后、夢に見給ふ様、大きなる鹿有り、身の色、九色也、角の色白し。夢め覚て後、「其の色の鹿を得む」と思ふに依て、后、病に成て臥しぬ。国王、「何の故に起きざるぞ」と宣ふ。后、国王に申し給ふ。「我れ、夢に然々の鹿を見つ。其の鹿、定めて世に有らむ。彼を得て、皮を剥ぎ、角を取らむと思ふ。大王、必ず彼を尋取て、我に与へ給へ」と。王、即ち宣旨を下し給ふ。「若し、然々の鹿尋ねて奉む者には、金銀等の宝を給、申し請ことを1)給ふべし」と、宣旨を下されぬ。
其の時に、此の鹿に助けられし男、此の宣旨の状を聞て、貪欲の心に堪へずして、忽に鹿の恩を忘れぬ。国王に申して云く、「其の国、其の山に、求めらるる所の九色の鹿有り。我れ、其の所を知れり。速に軍を給はりて、取て奉るべし」と。大王、此の由を聞給て、喜て宣はく、「我れ、軍を引き将て、彼の山に行向ふべし」と。即ち、多の軍を引具して、彼の山に御行し給ふ。彼の男、御輿に副ふて、道の指南(しるべ)を申す。
既に其の山に入給ひぬ。九色の鹿、敢て此の事を知る事無くして、彼の住む峒に深く寝入たり。其の時、此の心を通ずる烏、此の御行を見て、驚き騒て、鹿の許に飛び行て、音を高く鳴て驚かす。然れども、鹿、敢て驚かず。烏、木より下て、寄て、鹿の耳を喰て引く時に、鹿、驚きぬ。烏、鹿に告て云く、「国の大王、鹿の色を用し給ふに依て、多の軍を引具して、此の谷を立ち囲ましめ給へり。今は逃げ給ふと云ふとも、命を存し給ふべきに非ず」と告て、鳴て飛び去ぬ。鹿、驚て見るに、実に、大王、多の軍を引具して、来り給へり。更に逃ぐべき方無し。
然れば、鹿、大王の御輿の前に歩び寄る。軍共、各箭を番(つがへ)て射(いん)とす。其の時に、大王、宣はく、「汝達、暫く此の鹿を射る事無かれ。鹿の体を見るに、只の鹿に非ず。軍に恐れずして、我が輿の前に来れり。暫く任せて、彼れが為む様を見るべし」と。其の時に、軍共、箭をはづして見る。
鹿、大王の御輿の前に跪て申さく、「我れ、毛の色を恐るるに依て、年来深き山に隠れたり。敢て知れる人無し。大王、何にして、我が栖(すみか)を知り給へるぞや」と。大王の宣はく、「我れ、年来、鹿の栖を知らず。而るに、此の輿の喬(そば)に有る、顔に疵(あざ)有る男の告に依て来れる也」と。鹿、王の仰せを聞て、御輿の喬に有る男を見遣るに、面に疵有り。我が助けし人也。
鹿、彼の男に向て云く、「汝ぢ、命を助けし時、其の恩を喜びて、人に告ぐべからざる由を返々契りし者也。而るに、其の恩を忘れて、今、大王に申して、我れを殺さする心、何にぞ。水に溺れて死なむと為し時、我れ、命を顧みずして、游ぎ出でて、陸に至る事を得しめてき。其れに恩を知らざる事は、此れ限無き恨み也」と云て、涙を流して無く事限無し。此の男、鹿の言を聞て、更に答る方無し。
其の時に、大王の宣はく、「今日より後、国の内に鹿を殺す事無かれ。若し、此の宣旨を背て、鹿一にても殺せる者有らば、其の人を殺し、家を亡すべし」と宣ひて、軍を引て、宮に還り給ぬ。鹿も喜て還ぬ。其の国に、雨、時に随て降り、荒き風、吹かず。国の内に病ひ無く、五穀豊穣にして、貧しき人無かりけり。
然れば、恩を忘るるは人の中に有り。人を助くるは獣の中に有り。此れ、今も昔も有る事也。彼の九色の鹿は、今の釈迦仏に在ます。心を通せし烏は、阿難也。后と云ふは、今の孫陀利也。水に溺れたりし男は、今の提婆達多也となむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「給申シ以下ノ七字ハ衍ナラン」
巻5第19話 天竺亀報人恩語 第十九
今昔、天竺に人有て、亀を釣りて持行けり。道心有る人に行き合て、其の亀を強に乞ひ請(うけ)て、直を以て買ひ取て、放ちけり。
其の後、年来を経て、此の亀放たる人の、寝たる枕の方に、こそめく者有り。頭を1)持上げて、「何ぞ」と見れば、枕上に三尺許の亀有り。驚て、「此れは何ぞの亀ぞ」と問へば、亀の云く、「我れは先年に買取て放ち給ひし亀也。釣られて、既に殺(ころされ)に行しを、買取て放ち給ひしうれしさを、『何でか報じ奉らむ』と思はれつるを、其の事と無くてなむ年来罷り過つるを、此の辺にいみじき大事出来べきを、告げ申さむが為に参つる也。其の大事と云ふは、此の前の河、量り無く水増(まさ)りて、人・馬・牛、有る限り皆流れて死なむとす。然れば、此の御家も底に成るべし。速に船を儲て、河上より水出でて下らば、親からむ人々と共に乗居て、命を生給ふべき也」と云て、去ぬ。
「怪し」と思へども、「かく云ふ、様こそ有らめ」と思て、船を儲けて、家の前に繋て、乗り儲けをして待つに、其の夕方より、雨大きに降て、風痛く吹て、終夜(よもすがら)止まず。達暁(あけがた)に成る程に、水上より水増て、山の如く流れて下る。乗り儲をしたれば、家の人、皆怱(いそぎ)て乗ぬ。高き方を指て漕行くに、大きなる亀、水に流れて行く。「我れは、一日参たりし亀也。御船に参(まゐらん)」と云へば、喜びを成して「疾く乗れ」とて、乗らしめつ。
次に、大きなる蛇、流れて行く。此の船を見て、「我を助け給へ。死なむとす」と云ふ。船の人、「蛇乗せむ」とも云はぬに、亀の云く、「彼の蛇、死なむとす。乗せ給へ」と云へば、此の男、「更に乗らしむべからず。小き蛇そら恐し。増して、かく許大きなる蛇をば、何でか乗せむ。呑まれなむとす。糸と益無き事也」と云へば、亀、「更に呑むべからず。只乗せ給へ。かかる者をば、助くるが吉き也」と云へば、此の亀の後安く云へば、乗らしめつ。舳の方に蟠居ぬ。大きなる蛇なれども、船大きなれば狭くも無し。
さて、漕ぎ行く程に、亦、狐、流れて行く。此の船を見て、蛇の云つるが如く、助くべき由を叫ぶ。亀有て、亦、「彼れ助け給へ」と云へば、亀の云ふに随て、狐を乗せつ。
さて、漕ぎ行く程に、亦、男一人、流れて行く。此の船を見て、助くべき由を叫ぶ。船主、「助けむ」とて、船を漕ぎ寄するに、亀の云く、「彼れをば乗せらるべからず。獣は恩を思ひ知る者也。人は恩を知らざる也。死に於ては、人の咎に非ず」と云へば、船主、「蛇の恐きをそら、慈悲を発して乗せつ。況や、同じ人の身にて、何でか乗せでは有らむ」と云て、漕ぎ寄せて乗せつ。男、喜て、手を摺て無く事限無し。
かくて、所々船を漕ぎ寄せて有る程に、水、漸く落て、本の河に成ぬ。其の時に、皆下て、各去ぬ。
其の後、船主の男、道を行くに、船に乗せし蛇に値ぬ。男に云く、「日来、『申さむ』と思つるに、対面せざりつれば申さず。己れが命、生(いけ)給へりし喜び申さむ。己が行かむ尻に立て御はせ」と云て、這ひ行く尻に行く程に、大きなる墓(つか)の有るに這入る。「己が尻に立て入給へ」と云へば、恐しけれども、其の穴に付て入ぬ。墓の内にして蛇の云く、「此の墓の内には、多の財有り。皆己が物也。其れを、命生給へりし喜びに、有る限り取りて、仕ひ給へ」と云て、穴より這出でて去ぬ。其の後、男、人を具して、此の墓の内の財宝を、有る限り皆運び取つ。
さて、家の内、豊にして、心の恣に仕はむと為る程に、此の助けし男来ぬ。家主の男、「何事に来つるぞ」と云へば、「命を生給へりしうれしさに来つる也」と云ふ程に、家に財多く積たるを見て、「此れは何ぞの財ぞ」と云ふ。有し事を始より語る。男の云く、「此れは不意(そぞろ)に儲け給へる財にこそ有なれ。我れに分て得しめ給へ」と云へば、家主、少しを分て与ふ。男の云く、「此れ、糸少く分て得しめ給へり。年来の貯の財にも非ざりけり。不意に儲け給へる物也。半分を分て与へ給ふべき也」と云へば、家主の云く、「糸非道なる事かな。これは、蛇を助けたれば、蛇の、『其の恩を報ぜむ』とて得しめたる也。主は、蛇の如くに、己に恩を報ずる事こそ無か、己が得たる物をかく乞ひ給へば、『怪しき事』とは思へども、少しを分て与ふるをだに、『糸由無し』と思ふに、何でか『半分を得(えん)』とは云はるるぞ。極て非道の事也」と云へば、男、腹立て、得しめつる物共、皆投げ捨てて去ぬ。
さて、国王の御許に参て申す様、「某丸は墓を穿て、多の財を運び取れる也」と申せば、国王、使を遣て、此の男を捕へて、獄に居(すゑ)られぬ。重く誡めて、四の支(えだ)を張り2)臥られて、露息むる事無し。音を挙て、叫び迷ふ事限無し。
其の時に、枕上に、こそめく者有り。見れば、例の亀来たり。「此れは何で来つるぞ」と云へば、亀の云く、「『かく非道の事にて、悲き誡を蒙り給ふ』と聞けば、来つる也。然ればこそ申ししか。『人をば乗給ふべからず』とは。人は、かく恩を知らざる也。今は然りとて甲斐無し。但し、かく堪へ難き目を久く見給ふべきに非ず」と云て、恩蒙たる亀・狐・蛇として、免さるべき事を構へ謀る。「狐を以て宮の内に鳴き喤(ののし)らせむ。然らば、国王、驚きて、占師に其の吉凶を問ひ給はむとす。然らば、国王の並無く傅(かしづ)き給ふ姫君一人有り。其の人、重く慎み給ふべき由を占はせむ。其の後に、蛇と亀として、姫宮を重く病(やま)する態を為む」と云て、契て去ぬ。
其の明る日より、獄の前に人々集て、語て云く、「王宮には百千万の狐、鳴き喤れば、天皇驚き騒ぎ給て、占師に問はるに、『天皇の姫宮、重く慎み給ふべき』由を占ひ申したりける程に、姫宮、重く煩はせ給て、腹脹(ふく)れて限りに御すなれば、宮の内、物騒しく騒ぎ合たり」など聞く程に、此の獄の人来て云く、「煩ひ給ふ御心地を、『何の祟りぞ』と問はれければ、『罪無き人を非道に獄に居ゑられたる祟也』と占ひ申たり。然れば、『獄に而る者や有る』と尋ねらるる也」と云て、獄に有る者共を片端より尋ね持行(もてゆ)くに、此の男に問ひ当ぬ。「只此れ也けり」と云て、還て此の由を申す。
国王、此の由を聞給て、召出でて、事の有様を問はるるに、始より今に至るまで、有し事を申す。国王、「罪み無かりける者を罪してけり。速に免すべし」とて、免されぬ。さて、「悪しく申たる者を罪みすべき也」とて、申たる男を召して、重き罪に宛てられぬ。
然れば、「亀の、『人は恩を知らぬ者ぞ』と云ひしに違はず」とぞ、此の男、思ひ知ける。かくなむ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「頭諸本頸ニ作ル」
2) 底本頭注「張リ諸本引キニ作ル」
巻5第20話 天竺狐自称獣王乗師子死語 第二十
今昔、天竺に一の古寺有り。一人の比丘有て、一の僧房に住して、常に経を読む。一の狐有て、此の経を聞く。其の経に云く、「凡そ、人も獣も心を高く仕へば、物の王と成る」と。狐、此れを聞て思ふ様、「我れ、心を高く仕て、獣の王と成む」と思ひき。
其の寺を出でて行くに、一の狐に値ぬ。頸を高く持上て、此の狐を恐(お)どす。本の狐ね気色の高きを見て、今の狐、畏(かしこまり)て居たり。然れば、本の狐、居たる狐を召寄せて、背に乗ぬ。
さて行く程に、亦狐に値ひぬ。値たる狐の見るに、狐に乗たる狐の、気色高かく持成(もてな)したれば、「此れは様有る物なめり」と思て、畏て候ふ。其の狐を召して、乗たる狐の口を取らす。
此の如く、値ふ狐共を皆具足に成して、左右の口を張り、千万の狐を尻に随へて行くに、犬に値ぬ。此れを見て思ふ様、「此れは、物の王なり。畏まらむ」と思て候ふを、狐の如く召寄す。諸の犬、集りぬれば、犬に乗て、犬を以て口を取らす。次に、虎・熊を集めて、其れに乗ぬ。
此の如く、諸の獣を集めて眷属として、道を行くに、象に値ぬ。象も怪むで、傍に畏て候ふを召て、象に乗ぬ。此の如く、多の象を集む。狐より始めて、象に至るまで、諸の獣を随へて、其の王と成ぬ。
次に師子に値ぬ。師子、此れを見るに、象に乗たる狐の、千万の獣を具足して渡れば、「様有る物なめり」と思て、師子、道の傍に膝を曲(かが)めて、畏て候ふ。狐の身にては、かく許にて極つるを、心の余りに、「此の如く、多の獣を随へたれば、今は師子の王と成らむ」と思ふ心有て、師子を召寄す。師子、畏て参ぬ。狐、師子に云く、「我れ、汝に乗らむと思ふ。速に乗らしむべし」と。師子の申さく、「諸の獣の王と成り給へれば、何にも申すべきに非ず。疾く奉るべし」と。狐の思はく、「我れ、狐の身を以て、象の王と成らむそら思懸ぬ事也。其れに、師子の王と成らむ事は、希有の事也」と思ひ乍ら、師子に乗ぬ。
弥よ頭を1)高く持上げ、耳を指し、鼻を吹き、いららかして、世間を事にも非ず見下して、師子に乗て、象に左右の口を取せて、「今は多く師子を集めむ」と思て、広き野を渡る。
其の時に、象より始め、諸の獣の思はく、「師子は、猶音を聞くそら、諸の獣、皆心を迷はし、肝を砕きて、半(なから)死ぬる者也。而るに、我が君の御徳に、かく倶達と成て、偏に交て有る事は、思懸けぬ事也」と思ふ。
師子は、必ず日に一度吠ゆ。而るに、日の午時に成る程に、師子、俄かに頭を高く持上て、鼻を吹き、いららげて、眼見(まみ)煩はしく見成して、喬平(そばひら)見返つつ、見廻し眦(みる)に、凡そ、象より始めて諸の獣、「何なる事の有るべきにか有らむ」と思ふに、半は死ぬる心地して、身氷(ひゆ)る様にす。乗たる狐も、師子のかく頸びの毛をいららげて、耳を高く指(さす)を見るに、転(まろ)び落ぬべく思へども、心を高く仕て、「我は師子の王」と思ひ成して、背に曲り居たる程に、師子、雷の鳴合たる様なる音を打ち放て、足を高く持上て、遥に吠え嗔る程に、乗たる狐、逆さまに落て死ぬ。口取たりつる象より始めて、若干の獣、皆一度に倒て、死に入たり。
其の時に、師子の思ふ様、「此の乗たりつる狐は、『獣の王』と思てこそ乗せつれ、我がかく事にも非ぬ程の音を出して少し吠えたるに、かく落ち迷て死に入る。増して、我が嗔を成して、前の足して土を掻掘りて、大音を放て吠たらむには、堪へ難かりなむ。物思はぬ婢(やつこ)に計られて乗せてけり」と思ひて、山の方へ、媆(やは)ら指し歩て入にけり。
其の時になむ、此の死に入たりつる獣共、皆蘇て、我れにも非ぬ気色にて、逶(もこよ)ひて還にけり。此の乗たりつる王の狐は、死畢(しにはて)にけり。他の獣共の中にも、死畢ぬるも有り。
然れば、象許に乗て、糸善かりつるを、師子に乗るが、余りの事にて有る也。人も、身の程に合はで、過ぎたる事や止むべしとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「頭一本頸ニ作ル下同ジ」 
 

 

巻5第21話 天竺狐借虎威被責発菩提心語 第廿一
今昔、天竺に一の国有り。一の山有り。其の山に、一の狐住む。亦、一の虎住む。
此の狐、彼の虎の威を借て、諸の獣を恐(おど)しけり。虎、此の事を聞て、狐の所に行きて、責めて云く、「汝ぢ、何ぞ威を借て、諸の獣を恐せるぞ」と。狐、天地の神を懸て諍ふと云へども、虎、更に信ぜず。
狐、術無くて、「逃げ去(い)なむ」と思て、走り逃る程に、不意(そぞろ)に穴井の有けるに落入ぬ。其の井、深くして、登るべき様無くて、井の底に臥ふし乍ら、世間の無常を観じて、一念の菩提心を発す。「昔の薩埵太子は、虎に身を施して、菩提心を発せり。我れ、今亦然の如き也」と。
其の時に、大地、六種に震動す。六欲天、皆動ぬ。此れに依て、文殊・天帝釈、共に仙人の形と成て、穴井の許に至給て、狐に問て云く、「汝ぢ、何なる心を発こし、何なる願を成せるぞ」と。狐、答て云く、「若し、我が思ふ所の事を知らむと思はば、先づ我を引上げよ。其の後に云ふべし」と云ふ時に、云ふに随て引上げつ。
其の後、「早く云へ」と責るに、狐、登にければ、菩提心を忽に忘て、「云はずして逃なむ」と思ふ心付ぬ。其の心を見て、仙人、忽に降魔の相に成て、釼・鉾を以て責るに、狐、上件の事を語る。仙人、此の事を聞て、慈悲の心を発して、狐を讃(ほめ)て云く、「汝ぢ、一念の菩提心を発せるに依て、命終して後、釈迦仏の御世に、菩薩と成て、二の名を得べし。一は大弁才天と云ふ。二は堅牢地神と云ふべし。八万四千の鬼神を仕卒(つかひもの)として、一切衆生に福を授くべし」と云て、掻消つ様に失ぬ。
其の時の仙人と云は、今の文殊、此れ也。其の時の狐と云は、今の堅牢地神、此れ也。此の菩薩は、身の長は千丈也。八の手有り。二は、合掌したり。六は、鎰(かぎ)・鋤(くは)・鎌(かま)・鉏(すき)等を取て、一切衆生に五穀を造らしめて、福を与ふる也。九億四千1)の鬼神を仕へり。
然れば、一念の菩提心、不可思議也。世間に「狐は虎の威を借る」と云ふ事は、此れを云ふぞ語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「四千一本九千ニ作ル」
巻5第22話 東城国皇子善生人通阿就䫂女語 第廿二
今昔、東城国に王有けり。明頸演現王と云ふ。一人の皇子有り。善生人と云ふ。其の皇子、勢長して妻無し。亦、西城国に王有り。一人の女子有り。阿就䫂女1)と云ふ。端正美麗並び無し。
東城国の善生人、阿就䫂女の美麗なる由を聞て、「妻と為む」と思ふ心有て、彼の国へ出立て行く。三尺の観音の像を造て、「行かむ間の海の難を助け給へ」と申す。
彼の両国の中間に、舎衛国有り。其の間に、七日渡る大海有り。善生人、其れに浮て渡り行く程に、忽に逆風出来て、他国へ吹き持行く。其の時に、善生人、「観音、我が身を助け給へ」と、哭き悲む程に、逆風止て、順風を得たり。
喜び乍ら行く間に、三日と云ふに、無為の津に着ぬ。其(そこ)より眷属をば皆返し遣(おこ)せつ。善生人、只独指て行くに、十五日に西城国の王の許に至ぬ。門の辺に立るに、阿就䫂女は「善生人、来べし」と、兼て知て、出でて門の外を見るに、端正なる男、一人立てり。「此れ善生人ならむ」と思て、「何方より来れる人ぞ」と問へば、「我れは東城国の王の子、善生人也」と答ふ。阿就䫂女、喜て、窃に寝所に具して入ぬ。他人を具せず。
七日と云ふに、阿就䫂女の父の王、人を召て、「寝屋に有るなるは誰人ぞ」と問給へば、「東城国の王の子、善生人也」と答ふ。其の時に、国王、善生人を呼び出て見給ふに、端正なる事並び無し。然れば、傅(かしづ)き給ふ事限無し。
而る程に、阿就䫂女は懐妊しぬ。王の后は、阿就䫂女には継母にて御ければ、此の善生人を受けず2)して、王の御する時には白飯を与へ、王の御さざる時には粮飯を与へぬ。善生人の云く、「我が許に無量の財有り。我れ、行て取て、汝に与へむ」と。阿就䫂女の云く、「我れ、既に汝が子を懐妊せり。還来らむ程、何が為むとする」と。然れども、善生人、一月を経て、東城国へ行ぬ。
阿就䫂女、其の後に、八月を経て、一度に二男を生ぜり。父の王、来れを愛し給ふ事限無し。兄をば「終尤」と云ひ、弟をば「明尤」と云ふ。善生人は、即ち還来べきに、「父の王の死なむ日に値はむ」と思て、還来ぬ程に、年来に成ぬ。
二子は三歳に成ぬ。阿就䫂女、二子に語て云く、「我れ、汝等が父を待つに、久しく見えず。亦、他の夫を求むべからず。然れば、我れ、汝等が父、善生人が許へ行かむと思ふ。譬ひ、命は終ると云ふとも、我れ、他の身とは触るべからず」と云て、窃に米五升を取て、一人をば負ひ、一人をば前に立てて、負ひ替つつ、東城国へ指て行く。七日を経るに、五升の米は尽ぬ。単衣を脱て、四升の米を買ひ取て、其れを以て猶行く。
今日、無為の津に行き着かむと為るに、路中にして、阿就䫂女、重病を受て道に臥ぬ。其の時に、二人の子、母の辺を去らずして、泣き悲む。阿就䫂女、子に教へて云く、「我が命有らむ事は、今日許也。死なむ後には、汝等、爰を去らずして、往還の人に一合の物を乞ひ食て居たれ。人有て、『汝等は何人の子ぞ』と問はば、『我が母は、西城国の王の娘、阿就䫂女也。我が父は、東城国の王の子、善生人也』と答へよ」と云ひ置て、即ち死ぬ。
二人の子、母の教への如く、其の骸の辺の薮の下に入居て、物を乞ひ食て、一月を経たり。其の時に、善生人、東城国より、数万の人を具して来るに、二人の子は、薮の下より出でて、一合の米を乞得て、返て、「我が父よや、母よや」と、叫て哭く。善生人、問て云く、「汝等は誰人の子ぞ」と。子共、答へて云く、「我が母は、西城国の王の娘、阿就䫂女也。我が父は、東城国の王の子、善生人也」と。
其の時に、善生人、子共を抱取て云く、「汝等は我が子也けり。我れは汝等が父也。母は何(いづ)こに在ますぞ」と云へば、「此の東の方に、樹の本にて死給ひにき」と云ふ。善生人、子を前に立てて、行て見れば、死骸、散り満て、青き草生たり。善生人、悶絶躃地して、骸を抱て云く、「我が無量の財を貯へ持来つる事は、君の為也。何か死給ひけむや」と云て、哭き悲て、忽に其の所に十柱の賢者を請じて、一日に廿巻の毘盧遮那経を書写供養し奉れり。
さて、善生人も其の所にして、命を捨つ。二人の子、亦同じ所にして、命を捨てけり。今、釈迦仏、其の所を法界三昧と名付て、其の所にして3)、昔の善生人は、今の善見菩薩也。昔の阿就䫂女は、今の大吉祥菩薩也。昔の兄の終尤は、今の多聞天、此れ也。弟の明尤は、今の持国天、此れ也と、説き給けり。各、仏法を護り持て、一切衆生を利益し給ふとなむ、語り伝へたるとや。
1) 「䫂(多+頁)」は底本を含む諸本、ヨを重ねたもの(𢑑)+頁。標題以下すべて同じ。他書に用例が見られない。𢑑は「多」の異体字のため、䫂とする。
2) 底本頭注「受諸本愛ニ作ル」
3) 底本頭注「名付テハ名付ヌノ誤又其ノ以下ノ六字ハ衍ナラン
巻5第23話 舎衛国鼻欠猿供養帝釈語 第廿三
今昔、天竺の舎衛国に一の山有り。其の山に一の大なる樹有り。其の樹に千の猿住ぬ。皆心を一にして、天帝釈を供養し奉けり。
其の猿、九百九十九は鼻無し。今一の猿は、鼻有り。此の諸の鼻無き猿、集て、一の鼻有る猿を咲ひ蔑(あな)づる事限無し。「汝は此れ片輪者也。我等が中に交はるべからず」と云て、同所にも居らしめず。
然れば、此の一の猿、歎き侘る程に、九百九十九の猿、種々の珍菓を備へて、帝釈に供養し奉つるに、帝釈、此れを受給ずして、此の一の鼻有る猿の供養の物を受給ひつ。
其の時に、九百九十九の猿、帝釈に向て申さく、「何の故有てか、我等が供養を受給はずして、片輪者の供養を受給ふぞや」と。帝釈、答て云く、「汝等九百九十九は、前世に法を謗たる罪みに依て、六根を全く具さずして、鼻無き果報を得たり。此の一の猿は、前生の功徳に依て、六根を全く具せり。只、愚痴にして、師を疑ひしに依て、暫く畜生の中に生れたる也。速に仏道に入1)。汝等、九百九十九は片輪者として、麗しき者を咲ひ蔑る也。此れに依て、我れ、汝等が供養の物を受けず」と。
此の事を聞て後より、九百九十九の猿、我が身の根の欠たる事を観じて、一の猿を咲ひ蔑る事絶にけり。
此の譬を以て、懈怠放逸なる衆生の、精進持戒の人を誹謗するに准へて、仏の説き給ふ也けり。亦、世の人の、「鼻欠猿」と云は、此の事を云ふぞ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「入ノ下脱文アラン」
巻5第24話 亀不信鶴教落地破甲語 第廿四
今昔、天竺に世間旱魃して、天下に水絶て、青き草葉も無き時有けり。其の時に一の池有り。其の池に一の亀住ぬ。池の水旱失(かわきうせ)て、其の亀死ぬべし。
其の時に、一の鶴の、此の池に来て喰ふ。亀、出て、鶴に値て、相語て云く、「『汝と我れと、前世の契有て、鶴亀一双に名を得たり』と仏説き給へり。経教にも、万の物の譬には、鶴亀を以て譬へたり。而るに、天下旱魃して、此の池の水づ失せて、我が命ち絶ゆべし。汝ぢ助けよ」と。
鶴、答て云く、「汝が云ふ所、二つ所無し。我れ理を存せり。実に、汝が命、明日に過ぐべからず。極て哀れに思ふ。我れは天下を高くも下くも、飛び羳(かけ)る事、心に任せたり。春は、天下の花葉、色々にして、目出たきを見る。夏は、農業、種々に生ひ栄えて、様々なるを見る。秋は、山々の高野の紅葉の妙なるを見る。冬は霜雪の寒水、山川江河に水凍て、鏡の如くなるを見る。此の如く、四季に随て、何物か妙に目出(めでた)からざる物はあ有る。乃至、極楽界の七宝の池の自然の荘厳をも、我れ皆見る。汝は、只此の小池一が内だに知り難し。汝を見るに、実に糸惜し。然れば、汝が云はざる前に、水の辺に将行むと思ふ。但し、我れ、汝を背に負にも能はず。抱かむにも力無し。口に肑(くは)1)へむにも便り無し。只、為べき様は、一の木を汝に肑へしめて、我等、二にして木の本末を肑へて、将行かむと思ふに、汝は本より極て物痛く云ふ物也。汝ぢ、我に問ふ事有り。亦我れも誤て云ふ事有らば、互に口開きなば、落て汝が身命は損(そこ)なはれなむ。何(いかに)」と云へば、亀、答へて云く、「『将行かむ』と宣はば、我れ、口を縫て更に云ふ事有らじ。世に有る者の、身思はぬやは有る」。鶴の、「付ぬる痾(やまひ)は失せぬ物也。汝を猶信ぜじ」と。
亀の云く、「猶、更に云はじ。猶将行け」と云へば、鶴、二して亀に木を肑へしめて、鶴二して、木の本末を肑へて高く飛び行く時に、亀、池の一が内に習て、未だ見も習はぬ所の、山・川・豀・峰の色々に目出きを見て、極て感に堪へずして、「爰は何(いづ)こぞ」と云ふ。鶴も亦忘て、「此か」と云ふ程に、口開にければ、亀、落て身命を失ひてけり。
此れに依て、物痛く云ひ習ぬる物は、身命をも顧ざる也。仏の、「守口摂意身莫犯」等の文は、此れを説き給ふなるべし。亦、世の人、「不信の亀め、甲破る」と云は、此の事を云ふとぞ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「肑一本呴ニ作ル」
巻5第25話 亀為猿被謀語 第廿五
今昔、天竺の海辺に一の山有り。一の猿有て、菓(このみ)を食して、世を過す。
其の辺の海に二の亀有り。夫妻也。妻の亀、夫の亀に語て云く、「我れ、汝が子を懐妊せり。而るに、我れ、腹に病有て、定めて産み難からむ。汝ぢ、我に薬を食せば、我が身平かにて、汝が子を生じてむ」と。夫、答て云く、「何を以て薬とは為べきぞ」と。
妻の云く、「我れ聞けば、猿の肝なむ、腹の病の第一の薬なる」と云ふに、夫、海の岸に行て、彼の猿に値て云ふ様、「汝が栖(すみか)には、万の物豊也や否や」と。猿る、答て云く、「常には乏しき也」と。亀の云く、「我が栖の近辺にこそ、四季の菓・蓏(くさのみ)絶えぬ広き林は有れ。哀れ、汝を其の所に将て行て、飽まで食せばや」と。
猿、謀るをば知らずして、喜て、「いで、我れ行かむ」と云へば、亀、「然らば、いざ給へ」と云て、亀の背に猿を将行て、亀の猿に云く、「汝ぢ知らずや、実には、我が妻懐妊せり。而るに、腹に病有るに依て、『猿の肝なむ其の薬なる』と聞て、汝が肝を取むが為に、謀て将来れる也」と。
猿の云く、「汝ぢ、甚だ口惜し。我れを隔る心有けり。未だ聞かずや。我等が党(ともがら)は、本より身の中に肝無し。只傍の木に懸置たる也。汝ぢ、かしこにて云ましかば、我が肝も、亦他の猿の肝も、取て進(まゐらせ)てまし。譬ひ、自らを殺し給ひたりとも、身の中に肝の有らばこそ、其の益は有らめ。極て不便なる態かな」と云へば、亀、猿の云ふ事を実と信じて、「然らば、いざ将還らむ。肝を取て得給へ」と云へば、猿、「其れは糸安き事也。有つる所へだに行着なば、事にも非ぬ事也」と云へば、亀、前の如く、背に乗せて、本の所に至ぬ。
打下したれば、猿、下るままに走て、木の末に遥に昇ぬ。見下して、猿、亀に向て云く、「亀、墓無しや。身に離れたる肝もや有る」と云へば、亀、「早く、謀りつるにこそ有けれ」と思て、為べき方無くて、木の末に有る猿に向て、云ふべき様無きままに、打ち見上て云く、「猿、墓無や。何なる大海の底にか菓は有る」と云て、海に入にけり。
昔も獣はかく墓無くぞ有ける。人も愚痴なるは、此等が如し。かくなむ語り伝へたるとや。  
巻5第26話 天竺林中盲象為母致孝語 第廿六
今昔、天竺に一の林有り。其の林の中に、一の盲(めしひ)たる母象有けり。一の子象有て、其の母の盲にして、行く事も無くて居たるを養ひけり。菓(このみ)・蓏(くさのみ)を求て食はしめ、清き水を汲て飲ましむ。
此の如く養て、年来を経る程に、一人の人有て、此の林の中に入て、忽に道に迷て、出る事を得ずして、悲び歎く事限無し。此の象の子、此の人、道に迷へるを見て、哀びの心を発して、道を教へて返し送りつ。此の人喜て、既に山を出ぬれば、家に帰ぬ。
国王に申す様、「我れ、香象の住む林を知れり。此れ、見も知らぬ、世に無き象也。速に彼れを捕給ふべし」と。国王、此の事を聞て、自ら軍を引将て、彼の林に行給ふ。此の申す人を指南(しるべ)にて、行て象を狩る。此の人、象の有る所を指て王に申す。
其の時に、象1)、二の臂、自然ら折れて地に落ぬ。人の切り落すが如く也。王、此れを見て、驚き怪しみ給ふと云へども、猶、象の子を捕へて、宮に将至て繋つ。
象、繋がれて後、更に水・草を食はず。厩の者、此れを見て怪むで、王に申す、「此の象、水・草を食はず」と。国王、自ら象の所に行て、此の事を問給ふ。「汝ぢ、何なれば、水・草を食はざるぞ」と。象、答て云く、「我が母、盲したるに依て、行く事無し。然れば、年来、我が養ふに依て、命を持(たも)つ。而るに、かく捕らはれぬれば、母は養ふ者無くして、日来に成ぬれば、定めて餓ぬらむ。此れを思ふに、悲びの心深し。我れ、何でか水・草の食を噉(く)はむ」と申す時に、国王、此れを聞て、哀びの心を発して、象を放ち遣つ。象、喜て林に返ぬ。
其の象の子と云は、今の釈迦仏に在ます。菩提樹の東に、尼連禅那河を渡て、大なる林有り。其の中に卒都婆有り。其の北に池有り。其の所になむ此の盲象は住けるとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「象ノ下脱文アラン」
巻5第27話 天竺象足踏立株謀人令抜語 第廿七
今昔、天竺に一人の比丘有けり。深き山の中を通る間、遥に大象を見て、比丘、恐れを成して、高き木に怱(いそ)ぎ昇て、茂き葉の中に隠れ居たる程に、木の下を通る。比丘、「隠れ得たり」と思ふに、象、不意(そぞろ)に見付つ。
比丘、弥よ恐るる程に、象、木の本に寄来て、鼻を以て木の根を掘る。比丘は仏を念じ奉て、「我を助け給へ」と思ふ程に、木の根を深く掘つれば、木、既に倒れぬ。其の時に、象、来て、比丘を鼻に掻懸て、遥に指上げて、弥よ深き山の奥へ将行く。比丘、「今は限り」と思ふに、東西を知らず。
而る程に、山の奥く深く入て見れば、亦、此の象よりも、器量(いかめし)く大きなる、一の象有り。其の象の許に、比丘を将行て打置つ。比丘の思はく、「早う、我をば、『此の大象に食はしめむ』とて将来たる也けり」と思て、「今や喰々ふ」と待居たる程に、此の大象、本の象の前にして、臥し転(まろ)び、喜ぶ事限無し。比丘、此れを見るに付ても、「我れを将来たりとて、かく喜なめり」と思ふに、更に生たるにも非ず。
比丘、此の大象を見るに、足を指延べて、立上らず。吉く見れば、足に大なる株(くひ)を踏み貫きたり。其の足を、比丘の有る所に指遣(さしおこ)せて喜べば、比丘、「若し、『此の株を抜け』と思にや有らむ」と心得て、株を捕へて、力を発して引抜けば、株ひ抜ぬ。
其の時に、大象、弥よ喜て、臥し転ぶ事限無し。比丘も、「抜せむ故也けり」と思ふに、心安く、其の後、本の象、比丘を亦鼻に引懸て、遥なる所へ将行く。大なる墓(つか)有り。其の墓に将入ぬ。比丘、「怪し」と思へども、入て見れば、財多かり。比丘、「株を抜たる喜びに、此の財を得さする也けり」と思て、恐る1)此の財を皆取て出ぬれば、象、亦鼻に掻懸て、有りし木の本に将て行て、打下しつ。象は山の奥へ行ぬ。
其の時になむ、比丘、心得ける。「早う、大なる象は、此の象の祖(おや)也けり。『祖の足に株ひ踏み貫たるを、抜なむ2)』、比丘をば将行たりける也。さて、其の株ひ抜たる喜びに、此の財どもを得さする也けり」。
比丘、思懸けぬ財を得て、本の所に還りにけりとぞ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「恐ルハ恐々ルノ誤カ」
2) 底本頭注「抜ナムノ下トテノ二字ヲ脱セルカ」
巻5第28話 天竺五百商人於大海値摩竭大魚語 第廿八
今昔、天竺の人、五百人と共に、宝を求めむが為に、海に浮て渡る間、梶取1)有て、楼の上に有る人に問て云く、「汝、見るや否や」と。
上の人、答ふる様、「二の日を見る。亦、白き山有り。亦、流れ趣て奔る事、大なる㙂(ふち)に入るが如し」と。梶取の云く、「此れは、知らずや、汝等。魚の王の出来たる也。二の日と見るは、魚の目也。白き山と見ゆるは、魚の歯也。水の流れ趣くと見ゆるは、魚の口に水の入るが、引かれて流るる也。此れ、恐ても怖るべし。汝等、早く、各五戒を持し、仏の御名を念じ奉りて、此の難を免れよ。船、魚の口に近付ば、返得べからず。汝等、其の流れの疾き事を見るべし」と。
其の時に、五百人の人、皆、各心を一にして、仏の御名を称し、観音の御名を唱て、「此の難を免れむ」と申すに、忽に、魚、口を閉て、海に引入にけり。然れば、五百の商人、平かに本国に返り来る事を得たり。
亦云く、此の魚、命尽て、人中に生れて、比丘と成て、羅漢果を証したりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「梶取諸本楫取ニ作ル下同ジ」
巻5第29話 五人切大魚肉食語 第廿九
今昔、天竺の海辺の浜に、大なる魚、寄りたりけり。
其の時に、山人の行き通ずる五人有りけり。此の大魚を見て寄て、魚の肉を切取て、五人して食てけり。其れを始として、世の人、御名聞き継て来て、此の魚の肉を切取て食てけり。
其の魚と云は、今の釈迦仏に在ます。大魚の身と成て、山人の道行かむに、我が肉を与へむと也。今の仏と成給て後、先づ、其の魚の肉を切取て食せし五人を先に教化して、道を成じ給ふ成けり。
所謂る、其の五人と云は、拘隣比丘1)・馬勝比丘・摩訶男・十力迦葉・拘利太子、此等也となむ、語り伝へたるとや。
1) 憍陳如に同じ
巻5第30話 天帝釈夫人舎脂音聞仙人語 第三十
今昔、舎脂夫人と云は天帝釈の御妻也。毗摩質多羅阿修羅王の娘也。仏1)、未だ世に出給はざる前に、一の仙人有けり。名をば提婆延那と云ふ。帝釈、常に其の仙の所に行て、仏法を習ひ給ふ。
其の時に、舎脂夫人、心の中に思ふ様、「帝釈、定めて仏法を習ふにしも有らじ。此の人、必ず他の夫人の有るか」と思て、密に、夫人、帝釈の後ろに隠れて、尋ね行て見れば、実に帝釈、仙の前に居給へり。
帝釈、夫人の密に来れるを見給て、呵嘖して宣はく、「仙2)の法は、女人に見しめず。亦、聞かしめず。早う、還給ふべし」と云て、蓮の茎を以て舎脂夫人を打つ。
其の時に、舎脂夫人、あまへて帝釈と戯る。其の時に、仙人、夫人のあてなる音を聞て、心の穢がれければ、忽に仙の通力失せて、凡夫に成にけり。
然れば、女人は仙の法の為に、大なる障り也となむ、語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「仙一本仙人ニ作ル下同ジ」 
 

 

巻5第31話 天竺牧牛人入穴不出成石語 第卅一
今昔、天竺に仏1)未だ出給はざる時、一人の牛飼ふ人有けり。数百頭の牛を飼て、林の中に至るに、一の牛、共(とも)を離れて独り去て、常に失ぬ。行く所を知らず。
牛を飼て、日暮に成て、返らむと為るに、此の一の牛を見れば、他の牛にも似ず、殊に美麗なる姿也。亦、鳴き吠ゆる事、常に似ず。亦、他の諸の牛、皆此の牛に恐て、近付かず。
此の如くして、日来有るを、此の人、怖(うらめし)び思ふと云へども、其の故を知らず。然れば、此の人の、「牛の行所を見む」と思て、伺ひ見るに、此の牛、片山に一の石の穴有り、其の穴に入る。此の人、亦、牛の尻に立て入る。
四五里許入て、明なる野有り。天竺にも似ず、目出たき花盛りに開けて、菓(このみ)満たり。牛を見れば、一の所にして、草を食して立たり。此の人、此の菓樹を見るに、赤く黄にして、金の如し。菓一果を取て、貪り愛(めづ)と云へども、恐れて食はず。
而る間に、牛、出ぬ。此の人も、亦、牛に次ぎて返り出づ。石の穴の所に至て、未だ出ざる間に、一の悪鬼出来て、其の持たる菓を奪ふ。此の人、此の菓を口に含つ。鬼、亦其の喉を捜る。其の時に、此れを飲入れつ。菓、既に腹に入ぬれば、其の身、即ち大きに肥ぬ。
穴を出るに、頭は既に出づと云へども、身、穴に満て、出る事を得ず。通る人に助くべき由を云へども、更に助くる人無し。家の人、此れを聞て、来て見るに、其の形変じて、恐れずと云ふ事無し。其の人(ひ)と、穴の内にして有つる事を語る。家の人、諸の人を集めて、引出さむと為れども、動く事無し。国王、此の事を聞て、人を遣て掘らしむるに、亦動く事無し。日来を経るに死ぬ。年月積て、石と成て、人の形と有り。
其の後、亦、国王、「此れは仙薬を服せるに依て也」と知て、大臣に語て云く、「彼れは既に薬に依て身を変ぜる也。石也と云へども、其体、既に神霊也。人を遣て、少許を削り取て来べし」と。大臣、王の仰せを奉(うけたまはり)て、之2)と共に其の所に行て、力を尽して削ると云へども、一旬を経るに、一片も削り得ず。
其の体、于今猶有りとなむ語り伝へたるとや。
1) 釈迦
2) 底本頭注「之諸本士ニ作ル」
巻5第32話 七十余人流遣他国語 第卅二
今昔、天竺に七十に余る人を他国に流遣る国有けり。其の国に一人の大臣有り。老たる母を相具せり。朝暮に母を見て、孝養する事限無し。
此の如くして過る間だに、此の母、既に七十に余りぬ。「朝に見て、夕に見ぬそら、尚不審(おぼつかな)さ堪へ難し。何況や、遥なる国に流遣て、長く見ざらむ事、更に堪ふべきに非ず」と思て、子の大臣、密に土の室を掘て、家の角に隠し居へつ。家の人そら、此れを知らず。況や、世の人、知る事無し。
かくて年を経る程に、隣の国より、同様なる牝馬1)二疋を遣(おこ)せて云く、「此の二疋が祖子(おやこ)を定めて、注遣(しるしおこす)べし。若し、然らずば、軍を発して、七日の内に国を亡さむ」と云たり。
其の時に、国王、此の大臣を召て、此の事を、「何が為べき。若し、思ひ得たる事有らば申せ」と仰せ給ふ。大臣の申さく、「此の事、輙く申すべき事に非ず。罷出でて、思ひ廻して申すべし」と云て、心の内に思ふ様、「我が隠し置たる母は、年老たれば、此の如きの事、聞たる事や有らむ」と思て、怱(いそ)ぎ出ぬ。
忍て母の室に行て、「然然の事なむ有る。何様にか申すべき。若し、聞給たる事や有る」と云ふに、母、答て云く、「昔し若かりし時に、我れ此の事を聞きき。同様なる馬の祖子を定むるには、二の馬の中に草を置て見るべし。進て食(くふ)をば子と知り、任せてのどかに食をば祖と知るべし。かく様にぞ聞きし」と云ふを聞て、還り参たるに、国王の、「何が思ひ得たる」と問給ふに、大臣、母の言の如く、「かく様になむ、思ひ得て侍る」と申す。
国王、「尤も然るべし」と宣て、忽に草を召て、二の馬の中に置て見るに、一は置き食ふ、一は此れが食ひ棄たるを、のどかに食ふ。此れを見て、祖子を知て、各札を付て返し遣しつ。
其の後、亦同様に、削たる木の漆塗たるを遣(おこせ)て、「此れが本末、定めよ」とて、奉れり。国王、此の大臣を召て、「亦、此をば何が為べき」と問給へば、大臣、前の如く申して出ぬ。
母の室に行て、亦、「然々の事なむ有る」と云へば、母に云く、「其れは糸安き事也。水に浮べて見るに、少し沈む方を本と知るべし」と。大臣、還り参て、亦、此の由を申せば、即ち、水に入れて見給ふに、少し沈む方を「本」と付て遣しつ。
其の後、亦、象を遣て、「此の象の重さの員(かず)、計(かぞ)へて奉れ」と申したり。其の時に、国王、「此の如く云ひ遣するは、いみじき態かな」と思し煩て、此の大臣を召て、「此れは何が為べき。今度は更に思得難き事也」と。大臣も、「実に然か侍る事也。然りと雖も、罷り出でて、思ひ廻して申し侍む」と云ひて出ぬ。国王、思す様、「此の大臣、我が前にても思得べきに、かく家に出でつつ思ひ得て来るは、頗る心得ぬ事也。家に何なる事の有るにか」と、思ひ疑ひ給ふ。
而る間、大臣、還り参ぬ。国王、此の事をも、「心得難くや有らむ」と思し給て、「何ぞ」と問給へば、大臣、申して云く、「此れも聊に思得て侍り。象を船に乗せて、水に浮べつ。沈む程の水際に、墨を書て注(しるし)を付つ。其の後、象を下しつ。次に石を拾ひ入れつ。象を乗て、書つる墨の本に水量る。其の時に、石を量りに懸つつ、其の後に石の数を惣て計たる数を以て、象の重さに当てて、象の重さは幾(いくば)く有ると云ふ事は知るべき也」と申す。国王、此れを聞て、其の言の如くにし計て、「象の重さ、幾なむ有る」と書て、返し遣しつ。
讎の国には、三の事の知り難きを、善く一事替で度毎に云ひ返したれば、其の国の人、限り無く褒め感じて、「賢人多かる国也けり。おぼろげの有才ならむ者は、知るべくも非ぬ事を、かくのみ云ひ当てて遣すれば、賢かりける国に、讎の心発てば、返て謀られて、罸取られなむ。然れば、互に随て、中善かるべき也」と、年来挑(いど)なみつる心、永く止むで、其の由を牒(ふだ)通はして、中吉く成ぬれば、国王、此の大臣を召して宣はく、「此の国の恥辱をも止め、讎の国をも和らげつる事は、汝、大臣の徳に依て有る事也。我れ、限り無く喜び思ふ。但し、此の如きの、極めて知り難き事を善く知れる、何(いかに)」と。
其の時に、大臣、目より涙の出づるを、袖して押し巾(のごひ)て、国王に申さく、「此の国には、往古(いにしむかし)より、七十に余ぬる人をば、他国へ流し遣事、定れる例也。今、始たる政に非ず。而るに、己れが母、七十に罷余て、今年に至るまで、八年に満ぬ。朝暮に孝養せむが為に、密に家の内に土の室を造て、置て候つる也。其れに、年老たる者は、聞き広く候へば、『若し、聞き置たる事や候ふ』と、罷出でつつ問ひ候て、其の言を以て、皆申し候し也。此の老人、候はざらましかば」と申す時に、国王、仰せ給ふ様、「何なる事に依て、昔しより、此の国に老人を捨つる事有りけむ。今は此れに依て、事の心を思ふに、老たるを貴ぶべきにこそ有けれ。然れば、遠き所へ流し遣たり老人共、貴賤・男女、皆召返すべき宣旨を下すべし。亦、『老人を捨つ』と云ふ国の名を改て、『老を養ふ国』云ふべし」と下されぬ。
其の後、国の政、平かに成て、民、穏かにして、国の内、豊か也けりとなむ、語り伝へたるとや。
1) 底本頭注「牝馬一本牡馬ニ作ル」 
 

 

 
 

 

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