平安鎌倉の物語1

徒然草方丈記枕草子長恨歌鴨長明発心集巻四玄賓僧都遁世方丈記の建築発心集 の「生」結縁の時空吉田兼好業平と高子
諸話 / 宇治拾遺物語説話集の読み方大和物語狭筵1狭筵2狭筵3・・・
 兼好書状の真偽をめぐって・・・  
 

雑学の世界・補考   

徒然草

吉田兼好(卜部兼好、兼好法師、兼好)が書いた随筆。鎌倉時代末期、1330年8月-1331年9月頃にまとめられたとする説が主流であるが定説はない。清少納言「枕草子」鴨長明「方丈記」と合わせ日本三大随筆の一つと評価されている。  
兼好法師生没年不明。一説に1283年?-1352年以降。俗名は卜部兼好。卜部家はもともと神祇の家系であって、宗家は吉田神社の社務職を世襲し、分家は平野神社の社務職を勤めていた。父は、後宇多天皇の神事を司る宮主の職や神祇官などを勤めていた。兼好の出家前、青年時代は、時の第一級の藤原貴族、久我家の系統に属する堀河家に家司として仕え、その縁で六位の蔵人、のちに左兵衛佐に任ぜられたらしい。その間に宮廷を中心とする貴族社会に接することになり、貴族文化の影響を受けていたようである。
兼好の出家の経緯については諸説あるが、確定的なことははっきりしていない。年齢もだいたい三十代ころという推定がある。動機については、特にだれかの死というような外発的な事件をきっかけにしてということではなかったらしい。貴族社会での仕官生活の中で、しだいに俗世間との交わりを嫌う心が高じてきたが、しかし出家にふみ切れずにいた時期もあったとされている。出家後は自ら求めていた山里の家に移り住んだが、出家ほどないころには、平静な気持ちと精神の充足感を得るに至ったことを推定できる和歌がある。しかし、隠遁生活が長くなるにつれ、現状に不満を感ずることも多く、新たな苦悩が次々に生じてきて、山里での隠遁生活も精神の安定を保証するものではなかった。現世にも修道生活にも安住することはできなかったらしい。
出家遁世をした十数年の後、兼好は京都市中に移り住んで、歌人としての本格的な修行を開始したようである。山中の隠遁生活でも飽きたらず、ならば市中での閑居生活を楽しみながら、歌人として立つ決意をしたものであったらしい。実際に和歌の名手で、四天王の一人としても認められていた。自撰集に「兼好法師歌集」があり、1349年に京極派の光厳院の撰になる一七番目の勅撰和歌集「風雅和歌集」に一首入首している。同時に「古今和歌集」の書写を初めとする古典の保持伝承にも力を注いでいる。
いつごろ書かれたかについては、古くから諸説あって、確定したものはない。「徒然草」に出ている人物の官位や記載事項の考証などによって成立年代が推定されているが、橘純一氏の説では、1330(元徳2)年末から1331(元弘元)年の秋にかけての成立となり、この説が有力視されていた時期があった。この説に対していくつかの修正意見が出されているが、第三十二段までが1319(文保3)年までに書かれ、以後の段はその後に書き継がれていったとする安良岡康作氏の説、序段から第二十四段までを在俗のころの執筆とする宮内三二郎氏の説などがある。  
序段
つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。
第一段
いでや、この世に生れては、願はしかるべきことこそ多かめれ。
帝の御位(おんくらい)はいともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)などたまはる際(きわ)は、ゆゆしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつつ、時に逢ひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いと口惜(くちお)し。
法師ばかり羨しからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢猛(いきおいもう)に、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。増賀聖(ぞうがひじり)のいひけんやうに、名聞くるしく、佛の御教(みおしえ)に違ふらむとぞ覚(おぼ)ゆる。ひたふるの世すて人は、なかなかあらまほしき方もありなん。
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(むか)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心(こころ)劣りせらるゝ本性(ほんじゃう)見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しな(=人品)くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道、また有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙(つたな)からず走りかき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ男(おのこ)はよけれ。
第二段
いにしへの聖の御代の政(まつりごと)をも忘れ、民の愁へ、國のそこなはるゝをも知らず、萬にきよらを盡して、いみじと思ひ、所狹きさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
「衣冠より馬・車に至るまで、あるにしたがいて用ゐよ。美麗を求むることなかれ」とぞ、九條殿の遺誡(ゆいかい)にも侍(はべ)る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉物(たてまつりもの)は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。
第三段
萬(よろづ)にいみじくとも、色好まざらん男(おのこ)は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の底なき心地ぞすべき。
露霜にしほたれて、所さだめず惑(まど)ひ歩(あり)き、親のいさめ、世の謗(そし)りをつゝむに心のいとまなく、合ふさ離(き)るさに思ひ亂れ、さるは獨り寢がちに、まどろむ夜なきこそ、をかしけれ。
さりとて、一向(ひたすら)たはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべき業(わざ)なれ。
第四段
後の世の事、心に忘れず、佛の道うとからぬ、心にくし。
第五段
不幸に愁(うれえ)に沈める人の、頭(かしら)おろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、有るか無きかに門さしこめて、待つこともなく明し暮らしたる、さるかたにあらまほし。
顯基(あきもとの)中納言のいひけん、「配所の月、罪なくて見ん事」、さも覚えぬべし。
第六段
我が身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふもの無くてありなん。
前中書王(さきのちゅうしょおう)・九條太政大臣(くじょうのおおきおとど)・花園左大臣、皆族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末の後れ給へるは、わろき事なり」とぞ、世繼の翁の物語にはいへる。聖徳太子の御(み)墓を、かねて築(つ)かせ給ひける時も、「こゝをきれ、かしこを斷て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。
第七段
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなん、浅ましき。
第八段
世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
第九段
女は髪のめでたからんこそ、人の目だつべかめれ。人の程、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越(ものご)しにも知らるれ。
事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまど(惑)はし、すべて女の、うちとけたる寝(い)も寝(ね)ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。
まことに、愛著の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくぢん)の樂欲(ごうよく)多しといへども、皆厭離(えんり)しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひ(=色欲)のひとつ止(や)めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変はる所なしとぞ見ゆる。
されば、女の髪筋を縒(よ)れる綱には、大象(だいぞう)もよくつながれ(=「大威徳陀羅尼經」にあり)、女のはける足駄にて造れる笛には、秋の鹿、必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。自ら戒めて、恐るべく愼むべきは、この惑ひなり。
第十段
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、長閑(のどやか)に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工(たくみ)の心を盡して磨きたて、唐の、大和(やまと)の、珍しく、えならぬ調度ども並べおき、前栽(せんざい)の草木まで、心のまゝならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは、存(ながら)へ住むべき、また、時の間の烟(けむり)ともなりなんとぞ、うち見るよりも思はるゝ。大かたは、家居にこそ事ざまは推(お)しはからるれ。
後徳大寺の大臣の寢殿に、鳶(とび)ゐさせじとて、縄を張られたりけるを、西行が見て、「鳶の居たらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそ」とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、誠(まこと)や、「烏のむれゐて池の蛙をとりければ、御覧じ悲しませ給ひてなん」と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。
徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。
第十一段
神無月(かみなづき)の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋(うず)もるる筧(かけい)の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に、菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子(こうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。
第十二段
同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそ嬉しかるべきに、さる人あるまじければ、露違はざらんと向ひ居たらんは、ただひとりある心地やせん。
互に言はんほどのことをば、「げに」と聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらん人こそ、「我は然(さ)やは思ふ」など爭ひ憎(にく)み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつかたも、我と等しからざらん人は、大かたのよしなしごといはん程こそあらめ、まめやかの心の友には、遙かにへだたる所のありぬべきぞ、わびしきや。
第十三段
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集(=白樂天の詩文集)、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。
第十四段
和歌こそなほをかしきものなれ。あやしの賤(しづ)・山がつの所作(しわざ)も、いひ出でつれば面白く、恐ろしき猪(い)のししも、「臥猪の床(ふすどのとこ)」といへば、やさしくなりぬ。
この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、言葉の外に、哀れに、けしき覺ゆるはなし。貫之が、「絲による物ならなくに」といへるは、古今集の中(うち)の歌屑とかや言ひ傳へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、すがた・言葉、この類(たぐひ)のみ多し。この歌に限りて、かくいひ立てられたるも知りがたし。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「のこる松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、誠に、少しくだけたるすがたにもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判(すぎはん)の時、よろしきよし沙汰ありて、後にもことさらに感じ、仰せ下されける由、家長が日記には書けり。
歌の道のみ、いにしへに變らぬなどいふ事もあれど、いさや。今もよみあへる同じ詞(ことば)・歌枕も、昔の人の詠めるは、更に同じものにあらず。やすくすなほにして、姿も清げに、あはれも深く見ゆ。
梁塵秘抄の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただいかに言ひ捨てたる言種(ことぐさ)も、皆いみじく聞ゆるにや。
第十五段
いづくにもあれ、暫(しば)し旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。
そのわたり、こゝかしこ見ありき、田舍びたる所、山里などは、いと目馴れぬことのみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる。「その事かの事、便宜(びんぎ)に忘るな」など、言ひやるこそをかしけれ。
さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人・かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。
寺・社(てら・やしろ)などに、忍びてこもりたるもをかし。
第十六段
神樂(かぐら)こそ、なまめかしく、面白けれ。
大かた、物の音には、笛・篳篥(ひちりき)、常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごん)。
第十七段
山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。
第十八段
人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。孫晨(そんしん)は冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとつかね)ありけるを、夕にはこれに臥し、朝にはをさめけり。
唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記しとゞめて世にも傳へけめ、これらの人は、語りも傳ふべからず。
第十九段
折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。
「物の哀れは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それも然(さ)るものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になり行くまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなき樣したる、すべて、思ひすて難きこと多し。
「灌佛のころ、祭のころ、若葉の梢涼しげに繁りゆくほどこそ、世のあはれも、人の戀しさもまされ」と、人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。:五月(さつき)、あやめ葺くころ、早苗とるころ、水鷄(くいな)のたゝくなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。
七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、鴈なきて來る頃、萩の下葉色づくほど、早稻田(わさだ)刈りほすなど、とり集めたることは秋のみぞおほかる。また野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語、枕草紙などに事ふりにたれど、同じ事、また、今更にいはじとにもあらず。おぼしき事云はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝ、あぢきなきすさびにて、かつ破(や)り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて冬枯の景色こそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀(みぎわ)の草に紅葉のちりとゞまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より煙のたつこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじき物にして見る人もなき月の寒けく澄める、二十日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ。御佛名(おぶつみゃう)・荷前(のさき)の使立つなどぞ、哀れにやんごとなき、公事ども繁く、春のいそぎにとり重ねて催し行はるゝ樣ぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拜につゞくこそ、面白ろけれ。晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都には無きを、東の方には、猶(なお)することにてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空の気色(けしき)、昨日に變りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、また哀れなれ。
第二十段
某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだしもたらぬ身に、たゞ空のなごりのみぞ惜しき。」と言ひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
第二十一段
萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそ、をかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらん。
月・花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ。岩に碎けて清く流るゝ水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。「*(げん)・湘(しゃう)日夜東に流れ去る。愁人の爲にとゞまること少時(しばらく)もせず」といへる詩を見侍りしこそ、哀れなりしか。*康(けいこう)も、「山澤(さんたく)にあそびて、魚鳥を見れば心樂しぶ」といへり。人遠く、水草(みぐさ)きよき所にさまよひ歩きたるばかり、心慰むことはあらじ。
第二十二段
何事も、古き世のみぞ慕はしき。今樣は、無下(むげ)に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠(たくみ)のつくれる美しき器(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古(いにしえ)は、「車もたげよ」「火掲げよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。「主殿寮人數(とのもりょうにんじゅ)だて」といふべきを、「立明し白くせよ。」と言ひ、最勝講なるをば、「御講(みかう)の廬(ろ)」とこそいふべきを、「講廬(こうろ)」と言ふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。
第二十三段
衰へたる末の世とはいへど、猶九重の神さびたる有樣こそ、世づかずめでたきものなれ。
露臺(ろだい)、朝餉(あさがれい)、何殿(でん)、何門などは、いみじとも聞ゆべし。怪しの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)、小板敷、高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設けせよ」といふこそいみじけれ。夜の御殿(おとゞ)のをば、「掻燈(かいともし)疾(と)うよ」などいふ、まためでたし。上卿(しゃうけい)の、陣にて事行へる樣は更なり、諸司の下人どもの、したり顔になれたるもをかし。さばかり寒き終夜(よもすがら)、此處彼處に睡(ねぶ)り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく優なるものなり」とぞ、徳大寺の太政大臣は仰せられける。
第二十四段
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
第二十五段
飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時うつり、事去り、樂しび・悲しび行きかひて、花やかなりし邊(あたり)も、人すまぬ野らとなり、變らぬ住家(すみか)は人あらたまりぬ。桃李物いはねば、誰と共にか昔を語らん。まして見ぬ古のやんごとなかりけむ跡のみぞ、いとはかなき。
京極殿・法成寺(ほふじゃうじ)など見るこそ、志留まり事變じにける樣は哀れなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、莊園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならむ世にも、かばかりあせ果てむとはおぼしてんや。大門(だいもん)・金堂など近くまでありしかど、正和のころ、南門は燒けぬ。金堂はその後たふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。無量壽院ばかりぞ、そのかたとて殘りたる。丈六の佛九體、いと尊くて竝びおはします。行成(ぎゃうぜい)大納言の額、兼行が書ける扉、なほあざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、いまだ侍るめり。これも亦、いつまでかあらん。かばかりの名殘だになき所々は、おのづから礎(いしずえ)ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。
されば、萬に見ざらむ世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。
第二十六段
風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。
されば白き絲の染まむ事を悲しび、道の衢(ちまた)のわかれむ事を歎く人もありけんかし。堀河院(ほりかはのいん)の百首の歌の中に、
むかし見し妹が垣根は荒れにけり茅花(つばな)まじりの菫のみして(=藤原公實の歌)
さびしきけしき、さること侍りけむ。
第二十七段
御國ゆづりの節會行はれて、劒(けん)・璽・内侍所わたし奉らるゝほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院のおりゐさせ給ひての春、よませ給ひけるとかや、
殿守の伴のみやつこ(御奴)よそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく
今の世のことしげきにまぎれて、院にはまゐる人もなきぞ寂しげなる。かゝるをりにぞ人の心もあらはれぬべき。
第二十八段
諒闇(まことにくらし=天子の喪)の年ばかり哀れなる事はあらじ。
倚廬(いろ)の御所のさまなど、板敷をさげ、葦の御簾(みす)をかけて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度ども疎(おろそ)かに、みな人の裝束(さうぞく)、太刀、平緒まで、異樣なるぞゆゝしき。
第二十九段
靜かに思へば、よろづ過ぎにしかたの戀しさのみぞせむ方なき。
人しづまりて後、永き夜のすさびに、何となき具足とりしたゝめ、殘し置かじと思ふ反古など破りすつる中(うち)に、亡き人の手習ひ、繪かきすさびたる見出でたるこそ、たゞその折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折り、いつの年なりけむと思ふは、あはれなるぞかし。手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いと悲し。
第三十段
人の亡き跡ばかり悲しきはなし。
中陰(ちゅういん)の程、山里などに移ろひて、便りあしく狹き所にあまたあひ居て、後のわざども營みあへる、心あわたゞし。日數(ひかず)の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、互にいふ事もなく、我かしこげに物ひきしたため、ちりち゛りに行きあかれぬ。もとの住家にかへりてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかじかの事は、あなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覺ゆれ。
年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。骸(から)は、けうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。
思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ、そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるき墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。
第三十一段
雪の面白う降りたりし朝、人の許(がり)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがひがしからん(=ひがんでいる)人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへすがえす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。
第三十二段
九月(ながづき)二十日の頃、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内(あない)せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひしめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いと物あはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、猶ことざまの優に覺えて、物のかくれよりしばし見居たるに、妻戸を今少しおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠(こも)らましかば、口惜しからまし。あとまで見る人ありとは如何でか知らん。かやうの事は、たゞ朝夕の心づかひによるべし。その人、程なく亡せにけりと聞き侍りし。
第三十三段
今の内裏作り出(いだ)されて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸の日近くなりけるに、玄輝門院の御覽じて、「閑院殿の櫛形の穴(壁に櫛形の穴をつけて通路としたもの)は、まろく、縁もなくてぞありし。」と仰せられける、いみじかりけり。
これは葉(よう)の入りて、木にて縁をしたりければ、誤りにて直されにけり。
第三十四段
甲香(かひこう)は、ほら貝の樣(やう)なるが、小さくて、口の程の、細長にして出でたる貝の蓋なり。武藏の國金澤といふ浦にありしを、所の者は「へなたりと申し侍る」とぞ言ひし。
第三十五段
手の惡(わろ)き人の、憚らず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。
第三十六段
「久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらむと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女のかたより、「仕丁(じちゃう)やある、一人」なんどいひおこせたるこそ、ありがたくうれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と、人の申し侍りし、さもあるべき事なり。
第三十七段
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時に、我に心をおき、ひきつくろへる樣に見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人もありぬべけれど、猶げにげにしく、よき人かなとぞ覺ゆる。
疎き人の、うちとけたる事などいひたる、また、よしと思ひつきぬべし。
第三十八段
名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名をながき世に殘さむこそ、あらまほしかるべけれ。位高く、やんごとなきをしも、勝れたる人とやはいふべき。愚かに拙き人も、家に生れ時にあへば、高き位にのぼり、驕りを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから卑しき位にをり、時に遇はずして止(や)みぬる、また多し。偏に高き官・位(つかさ・くらゐ)を望むも、次に愚かなり。
智惠と心とこそ、世に勝れたる譽(ほまれ)も殘さまほしきを、つらつら思へば、譽を愛するは人の聞きを喜ぶなり。譽むる人、譏(そし)る人、共に世に留まらず、傳へ聞かん人またまた速かに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られんことを願はん。譽はまた毀(そしり)の本(もと)なり。身の後の名、殘りて更に益なし。これを願ふも次に愚かなり。
たゞし、強ひて智をもとめ、賢をねがふ人の爲に言はば、智惠出でては僞(いつはり)あり。才能は煩惱の増長せるなり。傳へて聞き、學びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一條なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か傳へむ。これ、徳をかくし、愚を守るにあらず。もとより賢愚・得失のさかひに居らざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。萬事はみな非なり。いふに足らず、願ふに足らず。
第三十九段
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。
第四十段
因幡(いなば)の國に、何の入道とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米(よね)のたぐひを食はざりければ、「かゝる異樣のもの、人に見(まみ)ゆべきにあらず」とて、親ゆるさざりけり。
第四十一段
五月(さつき)五日、賀茂の競馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雜人(ざふにん)たち隔てて見えざりしかば、各々(おのおの)下りて、埒(らち)の際によりたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべき様もなし。
かゝる折に、向ひなる楝(あふち)の木に、法師の登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう眠(ねぶ)りて、堕ちぬべき時に目を覺す事度々なり。これを見る人嘲りあざみて、「世のしれ物かな。かく危(あやふ)き枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ」と言ふに、わが心にふと思ひし儘に、「我等が生死(しゃうじ)の到來、唯今にもやあらむ。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事は猶まさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「誠に然こそ候ひけれ。尤も愚かに候」と言ひて、皆後を見返りて、「こゝへいらせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れはべりにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらむなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
第四十二段
唐橋の中將といふ人の子に、行雅僧都とて、教相の人の師する僧ありけり。氣(け)のあがる(=のぼせる)病ありて、年のやうやうたくるほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さまざまにつくろひけれど、煩はしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うち覆ひければ、物も見えず、二の舞の面の樣に見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額の程鼻になりなどして、後は坊の内の人にも見えず籠り居て、年久しくありて、猶煩はしくなりて死ににけり。
かゝる病もある事にこそありけれ。
第四十三段
春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く、木立ものふりて、庭に散りしをれたる花、見過しがたきを、さし入りて見れば、南面(みなみおもて)の格子、皆下してさびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどに開(あ)きたる、御簾(みす)のやぶれより見れば、かたち清げなる男(おのこ)の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。
いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。
第四十四段
怪しの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色合定かならねど、つやゝかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童一人を具して、遙かなる田の中の細道を、稻葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむかた知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、山の際に總門のあるうちに入りぬ。榻にたてたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しかじかの宮のおはします頃にて、御佛事などさぶらふにや」と言ふ。
御堂の方に法師ども參りたり。夜寒の風にさそはれくる空薫物(そらだきもの)の匂ひも、身にしむ心地す。寢殿より御堂の廊にかよふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のまゝにしげれる秋の野らは、おきあまる露に埋もれて、蟲の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは、雲のゆききも早き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。
第四十五段
公世(きんよ)の二位の兄に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭(きりくひ)の僧正」と言ひけり。愈(いよいよ)腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞいひける。
第四十六段
柳原の邊(ほとり)に、強盜法印(ごうとうほういん)と号する僧ありけり。度々(たびたび)強盜にあひたる故に、この名をつけにけるとぞ。
第四十七段
ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)何事をかくは宣(のたま)ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶(なお)言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる(くしゃみをする)時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。
有り難き志なりけんかし。
第四十八段
光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御をいだされて食はせられけり。さて食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を、御簾の中へさし入れてまかり出でにけり。女房、「あな汚な。誰に取れとてか」など申しあはれければ、「有職のふるまひ、やんごとなき事なり」とかへすがえす感ぜさせ給ひけるとぞ。
第四十九段
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人はたゞ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事をいふとき、答へて云はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)にせまれり」とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げけり」と、禪林の十因に侍(はべ)り。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。
第五十段
應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
その頃、東山より、安居院(あぐゐ)の邊へまかり侍りしに、四條より上(かみ)さまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり」とのゝしり合へり。今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方逢へるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍(とうそう)おこりて、あさましきことどもありけり。
そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆(しるし)を示すなりけり」といふ人も侍りし。
 

第五十一段
龜山殿の御池に、大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車(みづぐるま)を作らせられけり。多くの錢(あし)を賜ひて、數日(すじつ)に營み出してかけたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、徒らに立てりけり。さて宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかに結(ゆ)ひて參らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事、めでたかりけり。
萬にその道を知れるものは、やんごとなきものなり。
第五十二段
仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩(かち)より詣でけり。極樂寺・高良(こおら)などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍(かたへ)の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
すこしの事にも先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
第五十三段
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。
しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり缺けて血垂り、たゞ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、うち割らむとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、叶はで、すべき樣なくて、三足なる角の上に、帷子をうちかけて、手をひき杖をつかせて、京なる醫師(くすし)の許(がり)、率(い)て行きけるに、道すがら人の怪しみ見る事限りなし。醫師の許(もと)にさし入りて、むかひ居たりけむ有樣、さこそ異樣なりけめ。物をいふも、くゞもり聲に響きて聞えず。「かゝる事は書にも見えず、傳へたる教へもなし」といへば、また仁和寺へ帰りて、親しきもの、老いたる母など、枕上により居て泣き悲しめども、聞くらむとも覺えず。
かゝる程に、或者のいふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらむ、たゞ力をたてて引き給へ」とて、藁の蒂(しべ)をまはりにさし入れて、金を隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻缺(か)けうげながら、拔けにけり。からき命まうけて、久しく病み居たりけり。
第五十四段
御室(おむろ)に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠(わりご)やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙(ならび)の岡の便りよき所に埋(うづ)み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。
うれしく思ひて、こゝかしこ遊びめぐりて、ありつる苔の筵に竝みゐて、「いたうこそ困じにたれ。あはれ紅葉を燒(た)かむ人もがな。験(しるし)あらん僧たち、いのり試みられよ」などいひしろひて、埋みつる木のもとに向きて、數珠(じゅず)おしすり、印ことごとしく結びいでなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども無かりけり。埋(うづ)みけるを人の見おきて、御所へ參りたる間に盜めるなりけり。法師ども言の葉なくて、聞きにくくいさかひ腹だちて歸りにけり。
あまりに興あらむとすることは、必ずあいなきものなり。
第五十五段
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居(すまひ)は、堪へがたき事なり。
深き水は涼しげなし。淺くて流れたる、遙かに涼し。細かなるものを見るに、遣戸は蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るもおもしろく、萬の用にも立ちてよしとぞ、人のさだめあひ侍りし。
第五十六段
久しく隔たりて逢ひたる人の、わが方にありつる事、數々に殘りなく語り續くるこそあいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥しからぬかは。次ざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、自ら人も聽くにこそあれ。よからぬ人は、誰ともなく、數多(あまた)の中にうち出でて、見る事のやうに語りなせば、皆同じく笑ひのゝしる、いとらうがはし。をかしき事をいひてもいたく興ぜぬと、興なき事をいひてもよく笑ふにぞ、品のほどはかられぬべき。
人の見ざまのよしあし、才ある人はその事など定めあへるに、おのが身にひきかけていひ出でたる、いとわびし。
第五十七段
人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ。すこしその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
すべていとも知らぬ道の物がたりしたる、かたはらいたく聞きにくし。
第五十八段
「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る營みの勇ましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、靜かならでは道は行じがたし。
その器物(うつはもの)、昔の人に及ばず、山林に入りても、飢をたすけ、嵐を防ぐよすがなくては、あられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たる事も、便りに觸れば、などか無からん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」などいはんは、無下の事なり。さすがに一たび道に入りて、世をいとなむ人、たとひ望みありとも、勢ひある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羮(あつもの)、いくばくか人の費(つひえ)をなさむ。求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。形に恥づる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づくことのみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れむ事こそあらまほしけれ。偏に貪ることをつとめて、菩提(ぼだい)に赴かざらむは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや。
第五十九段
大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
第六十段
眞乘院に、盛親僧都(じょうしんそうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日(なぬか)、二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし。たゞ一人のみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にざまに、錢二百貫と坊ひとつを讓りたりけるを、坊を百貫に賣りて、かれこれ三萬疋を芋頭の錢(あし)と定めて、京なる人に預けおきて、十貫づゝ取りよせて、芋頭を乏しからずめしけるほどに、また、他用(ことよう)に用ふる事なくて、その錢(あし)皆になりにけり。「三百貫のものを貧しき身にまうけて、かく計らひける、誠にあり難き道心者(だうしんじゃ)なり。」とぞ人申しける。
この僧都、ある法師を見て、「しろうるり」といふ名をつけたりけり。「とは、何ものぞ」と、人の問ひければ、「さる者を我も知らず。もしあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞいひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食(たいしょく)にて、能書・學匠・辯説、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を輕く思ひたる曲者にて、萬(よろづ)自由にして、大かた人に隨ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがて獨り打ち食ひて、歸りたければ、ひとりついたちて行きけり。齋(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず、我が食ひたき時、夜中にも曉にも食ひて、睡(ねぶ)たければ、晝もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人のいふこと聽き入れず。目覺めぬれば、幾夜も寝(い)ねず。心を澄まし嘯(うそぶ)きありきなど、世の常ならぬさまなれども、人に厭(いと)はれず、萬(よろづ)許されけり。徳の至(いた)れりけるにや。
第六十一段
御産(ごさん)の時、甑(こしき)落す事は、定まれることにはあらず。御胞衣(おんえな)滯(とどこお)る時の呪(まじない)なり。滯らせ給はねば、この事なし。
下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑をめすなり。ふるき寳藏の繪に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり。
第六十二段
延政門院幼(いときな)くおはしましける時、院へ參る人に、御言(おこと)づてとて申させ給ひける御歌、
ふたつ文字牛の角文字直ぐな文字ゆがみもじとぞ君はおぼゆる
恋しく思ひ参らせ給ふとなり。
第六十三段
後七日の阿闍梨、武者を集むる事、いつとかや盜人に逢ひにけるより、宿直人(とのいびと)とてかくことごとしくなりにけり。一年(ひととせ)の相は、この修中に有樣にこそ見ゆなれば、兵(つわもの)を用ひんこと、穩かならぬ事なり。
第六十四段
「車の五緒(いつゝお)は必ず人によらず、ほどにつけて、極むる官・位(かん・くらい)に至りぬれば、乘るものなり」とぞ、ある人仰せられし。
第六十五段
このごろの冠(かぶり)は、昔よりは遙かに高くなりたるなり。古代の冠桶を持ちたる人は、端(はた)をつぎて今は用ゐるなり。
第六十六段
岡本關白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一雙を添へて、この枝につけて參らすべき由、御鷹飼、下毛野武勝(しもつけのたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥つくる術、知り候はず、一枝に二つつくることも、存じ候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また武勝に、「さらば、己が思はむやうにつけて參らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つ付けて参らせけり。
武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるに付く。五葉などにも付く。枝の長さ七尺、あるひは六尺、返し刀五分に切る。枝の半(なかば)に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しゞら藤の割らぬにて、二所付くべし。藤の先は、火うち羽(ば)の長(たけ)に比べて切りて、牛の角のやうに撓(たわ)むべし。初雪の朝(あした)、枝を肩にかけて、中門より振舞ひて参る。大砌(おほみぎり)の石を傳ひて、雪に跡をつけず、雨覆ひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄によせ掛(か)く。祿を出(い)ださるれば、肩にかけて、拜して退く。初雪といへども、沓のはなの隱れぬほどの雪には参らず。雨覆ひの毛を散らすことは、鷹は、弱腰を取ることなれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。
花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月ばかりに、梅のつくり枝に、雉を付けて、「君がためにと折る花は時しもわかぬ」と言へること、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。
第六十七段
賀茂の岩本、橋本(=共に社の名前)は、業平・實方(=藤原實方)なり。人の常にいひ紛(まが)へ侍れば、一年(ひととせ)參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止(とゞ)めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗(=参詣人が手を洗ふ所)に影の映りける所と侍れば、「橋本や、なほ水の近ければ」と覺え侍(はべ)る。吉水和尚の、
月をめで花をながめし古(いにしえ)のやさしき人はこゝにあり原
と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、己(おのれ)らよりは、なかなか御存じなどもこそさぶらはめ」と、いと忝(うやうや)しく言ひたりしこそ、いみじく覺えしか。
今出川院近衞(いまでがわのいんのこのえ)とて、集(しゅう)どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき譽ありて、人の口にある歌多し。作文・詩序などいみじく書く人なり。
第六十八段
筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を萬にいみじき藥とて、朝ごとに二つづゝ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。ある時、館(たち)のうちに人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵襲ひ來りて圍み攻めけるに、館の内に兵(つわもの)二人出で来て、命を惜しまず戰ひて、皆追ひ返してけり。いと不思議に覚えて、「日頃こゝにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひしたまふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年來(としごろ)たのみて、朝な朝な召しつる土大根らに候(そうろう)」といひて失せにけり。
深く信を致しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。
第六十九段
書寫の上人は、法華讀誦の功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音の、つぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己等(おのれら)しも、恨めしく我をば煮て、辛(から)き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆がらのはらはらと鳴る音は、「我が心よりする事かは。燒かるゝはいかばかり堪へがたけれども、力なきことなり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。
第七十段
玄應の清暑堂の御遊に、玄上は失せにしころ、菊亭の大臣、牧馬を彈じ給ひけるに、座につきてまづ柱(ぢゅう)を探(さぐ)られたりければ、ひとつ落ちにけり。御懐(ふところ)に續飯(そくひ)をもち給ひたるにて付けられにければ、神供(じんぐ)の參るほどによく干て、事故(ことゆえ)なかりけり。
いかなる意趣かありけん、物見ける衣被(きぬかづき)の、寄りて放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。
第七十一段
名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覺え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや。
またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
第七十二段
賎しげなるもの。居たるあたりに調度の多き、硯に筆の多き、持佛堂に佛の多き、前栽に石・草木の多き、家のうちに子孫(こうまご)の多き、人にあひて詞の多き、願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文(ふみ)、塵塚の塵(ちり)。
第七十三段
世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
あるにも過ぎて、人はものをいひなすに、まして年月すぎ、境も隔たりぬれば、言いたき侭(まま)に語りなして、筆にも書き留めぬれば、やがて定りぬ。道々のものの上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに神の如くにいへども、道知れる人は更に信も起さず。音にきくと見る時とは、何事も變るものなり。
かつ顯(あら)はるゝも顧(かえり)みず、口に任せていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠(まこと)しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻の程をごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、能く知らぬよしして、さりながら、つまづま合せて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目(めんぼく)あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず、皆人の興ずる虚言は、一人「さもなかりしものを」と言はんも詮(せん)なくて、聞き居たる程に、證人にさへなされて、いとゞ定りぬべし。
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍しからぬ事のままに心えたらん、よろづ違ふべからず。下ざまの人のものがたりは、耳驚くことのみあり。よき人はあやしき事を語らず。
かくは言へど、佛神の奇特(きどく)、權者(ごんじゃ)の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは世俗の虚言を懇に信じたるもをこがましく、「よもあらじ」などいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲(あざけ)るべからず。
第七十四段
蟻の如くに集りて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。貴(たか)きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、歸る家あり。夕に寝(い)ねて、朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り、利を求めてやむ時なし。
身を養ひて何事をか待つ、期(ご)するところ、たゞ老(おい)と死とにあり。その來る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の樂しみかあらむ。惑へるものはこれを恐れず。名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。常住ならんことを思ひて、變化(へんげ)の理を知らねばなり。
第七十五段
つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。
世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。
いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。
第七十六段
世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く往きとぶらふ中(うち)に、聖法師(ひじりほうし)の交りて、いひ入れ佇みたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべきゆゑありとも、法師は人にうとくてありなん。
第七十七段
世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひあへること、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね。ことに、かたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがことと尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。
第七十八段
今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種(ことぐさ)、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。
第七十九段
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。
よく辨(わきま)へたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。
第八十段
人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道をたて、夷(えびす)は弓ひく術知らず、佛法知りたる氣色(きそく)し、連歌し、管絃を嗜みあへり。されど、おろかなる己が道より、なほ人に思ひ侮(あなづ)られぬべし。
法師のみにもあらず、上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)、上ざままでおしなべて、武を好む人多かり。百たび戰ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は運に乘じて敵(あた)を砕(くだ)く時、勇者にあらずといふ人なし。兵(つわもの)盡き、矢窮(きわま)りて、遂に敵に降らず、死を安くして後、はじめて名を顯はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獸に近き振舞(ふるまい)、その家にあらずば、好みて益なきことなり。
第八十一段
屏風・障子などの繪も文字も、かたくななる筆樣(ふでやう)して書きたるが、見にくきよりも、宿の主人(あるじ)の拙く覺ゆるなり。
大かた持てる調度にても、心おとりせらるゝ事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず、損ぜざらむためとて、品なく見にくきさまに爲(し)なし、珍しからんとて、用なき事どもし添(そ)へ、煩はしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことごとしからず、費(ついえ)もなくて、物がらのよきがよきなり。
第八十二段
「羅(うすもの)の表紙は、疾(と)く損ずるが侘しき」と人のいひしに、頓阿が、「羅は上下はづれ、螺鈿(らでん)の軸は、貝落ちて後こそいみじけれ」と申し侍りしこそ、心勝りて覺えしか。一部とある草紙などの、同じ樣(よう)にもあらぬを、醜しといへど、弘融僧都が、「物を必ず一具に整へんとするは、拙(つたな)き者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覺えしなり。
「總(すべ)て、何も皆、事の整(ととの)ほりたるはあしき事なり。爲殘(しのこ)したるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶる事(わざ)なり。内裏造らるゝにも、必ず、造り果てぬ所を殘す事なり」と、ある人申し侍りしなり。先賢の作れる内外(ないげ)の文にも、章段の闕けたる事のみこそ侍れ。
第八十三段
竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何の滯りかおはせむなれども、「珍しげなし。一の上(かみ)にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相國(しゃうごく)の望みおはせざりけり。
「亢龍の悔いあり」とかやいふ事侍るなり。月滿ちては缺け、物盛りにしては衰ふ。萬の事、先の詰りたるは、破れに近き道なり。
第八十四段
法顯(ほふげん)三藏の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を人の國にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな」といひたりしこそ、法師の樣(よう)にもあらず、心にくく覺えしか。
第八十五段
人の心すなほならねば、僞りなきにしもあらず。されども、自ら正直の人、などかなからん。己すなほならねど、人の賢を見て羨むは世の常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んが爲に、少しきの利を受けず、僞り飾りて名を立てむとす」と謗る。おのれが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ。この人は下愚の性うつるべからず、僞りて小利をも辭すべからず。假にも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。惡人の真似とて人を殺さば、惡人なり。驥(き)を学ぶは驥の類(たぐ)ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。僞りても賢を学ばむを賢といふべし。
第八十六段
惟繼(これつぐ)中納言は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、讀經うちして、寺法師の圓伊僧正と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、「御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ今よりは法師とこそ申さめ」と言はれけり。いみじき秀句なりけり。
第八十七段
下部(しもべ)に酒のまする事は心すべき事なり。
宇治に住みける男(おのこ)、京に具覺坊とてなまめきたる遁世の僧を、小舅(こじゅうと)なりければ、常に申し睦びけり。ある時、迎へに馬を遣したりければ、「遥かなる程なり。口つきの男(おのこ)に、まづ一度せさせよ」とて、酒を出したれば、さしうけさしうけ、よゝと飮みぬ。太刀うち佩きて、かひがひしげなれば、頼もしく覺えて、召し具して行くほどに、木幡の程(ほど)にて、奈良法師の兵士(ひょうじ)あまた具して逢ひたるに、この男立ち對(むか)ひて、「日暮れにたる山中に、怪しきぞ。止まり候へ」と言ひて、太刀をひき拔きければ、人も皆太刀抜き、矢矧(やは)げなどしけるを、具覺坊手をすりて、「現心(うつしごゝろ)なく醉ひたるものに候ふ。枉(ま)げて許し給はらん」と言ひければ、おのおの嘲りて過ぎぬ。この男具覺坊にあひて、「御坊は口惜しき事し給ひつるものかな。おのれ醉ひたること侍らず。高名仕(つかまつ)らんとするを、拔ける太刀空しくなし給ひつること」と怒りて、ひた斬りに斬り落しつ。さて、「山賊(やまだち)あり」とのゝしりければ、里人おこりて出であへば、「われこそ山賊よ」と言ひて、走りかゝりつゝ斬り廻りけるを、あまたして手負はせ、打ち伏せて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路の家に走り入りたり。浅ましくて、男ども數多(あまた)走らかしたれば、具覺坊は、梔原(くちなしばら)にによひ伏したるを、求め出でて舁(か)きもて來つ。辛き命生きたれど、腰きり損ぜられて、かたはに成りにけり。
第八十八段
或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ」とていよいよ秘藏しけり。
第八十九段
「奧山に、猫またと云ふものありて、人を食ふなる」と人のいひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の經あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを」といふものありけるを、なに阿彌陀佛とかや連歌しける法師の、行願寺の邊にありけるが、聞きて、「一人ありかむ身は心すべきことにこそ。」と思ひける頃しも、ある所にて、夜ふくるまで連歌して、たゞ一人かへりけるに、小川(おがは)の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず足もとへふと寄り來て、やがて掻きつくまゝに、頚のほどを食はんとす。肝心もうせて、防がんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転(ころ)び入りて、「助けよや、猫また、よやよや」と叫べば、家々より松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何(いか)に」とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物とりて、扇小箱など懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りにけり。
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛びつきたりけるとぞ。
第九十段
大納言法印の召し使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常にゆき通ひしに、ある時出(い)でて歸り來たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿の許(がり)罷(まか)りて候」と言ふ。「そのやすら殿は、男(おのこ)か法師か」とまた問はれて、袖かき合せて、「いかゞ候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。
第九十一段
赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道(おんみゃうだう)には沙汰なき事なり。昔の人これを忌まず。この頃、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末通らずといひて、その日言ひたりしこと、爲(し)たりし事、叶はず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日(きちにち)を選びてなしたるわざの、末通らぬを數へて見んも、亦等しかるべし。
その故は、無常變易(へんやく)の境、ありと見るものも存せず、始めあることも終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定(ふぢゃう)なり。ものみな幻化(げんげ)なり。何事かしばらくも住する。この理(り)を知らざるなり。「吉日に惡をなすに、必ず凶なり。惡日(あくにち)に善を行ふに、かならず吉(きつ)なり」といへり。吉凶は人によりて、日によらず。
第九十二段
ある人、弓射る事を習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度たゞ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろそかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、萬事にわたるべし。
道を學する人、夕には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねて懇(ねんごろ)に修せむことを期(ご)す。況んや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにすることの甚だ難き。
第九十三段
「牛を賣る者あり。買ふ人、明日その價をやりて牛を取らんといふ。夜の間(ま)に牛死ぬ。買はんとする人に利あり、賣らんとする人に損あり」と語る人あり。
これを聞きて、傍(かたへ)なる者の曰く、「牛の主、まことに損ありといへども、又大なる利あり。その故は、生(しゃう)あるもの、死の近き事を知らざること、牛、既に然(しか)なり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、計らざるに主は存せり。一日の命、萬金(まんきん)よりも重し。牛の價、鵝毛(がまう)よりも輕し。萬金を得て一錢を失はん人、損ありといふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に樂しまざらんや。愚かなる人、この樂しみを忘れて、いたづがはしく外の樂しみを求め、この財(たから)を忘れて、危(あやふ)く他の財を貪るには、志、滿つる事なし。生ける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死(しゃうじ)の相にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし。」といふに、人、いよいよ嘲る。
第九十四段
常磐井相國、出仕したまひけるに、敕書を持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國、後に、「北面なにがしは、敕書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。
勅書を馬の上ながら捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。
第九十五段
「箱のくりかたに緒を著くる事、いづ方につけ侍るべきぞ」と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、「軸に付け、表紙につくること、兩説なれば、何れも難なし。文の箱は、多くは右につく。手箱には軸につくるも常のことなり」と仰せられき。
第九十六段
めなもみといふ草あり。蝮(くちばみ)にさされたる人、かの草を揉みてつけぬれば、すなはち癒ゆとなん。見知りておくべし。
第九十七段
其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
第九十八段
尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一爲(し)やせまし、爲(せ)ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經(ぢきゃう)・本尊(ほぞん)にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。
この外も、ありし事ども、覺えず。
第九十九段
堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。御子基俊卿を大理(だいり)になして、廳務を行はれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より傳はりて、その始めを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。
第百段
久我の相國は、殿上にて水を召しけるに、主殿司(とのもづかさ)、土器(かわらけ)を奉(たてまつ)りければ、「まがりを參らせよ」とて、まがりしてぞ召しける。
 

第百一段
ある人、任大臣の節會の内辨を勤められけるに、内記のもちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮(しちらい)なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記(げき)康綱、衣被(きぬかづ)の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。
第百二段
尹大納言(いんのだいなごん)光忠卿、追儺の上卿(しゃうけい)を務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎男(またごろうおのこ)を師とするより外の才覺候はじ」とぞ宣ひける。かの又五郎は、老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。近衞殿著陣したまひける時、膝突を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、「まづ膝突をめさるべくや候らん」と、忍びやかに呟(つぶや)きける、いとをかしかりけり。
第百三段
大覺寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞをつくりて解かれけるところへ、醫師(くすし)忠守參りたりけるに、侍從大納言公明卿、「我が朝のものとも見えぬ忠守かな」となぞなぞにせられたりけるを、「唐瓶子」と解きて笑ひあはれければ、腹立ちて退(まか)り出にけり。
第百四段
荒れたる宿の、人目なきに、女の憚る事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、ある人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなき程に、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしく咎(とが)むれば、下衆女(げすおんな)の出(い)でて、「いづくよりぞ」と言ふに、やがて案内(あない)せさせて入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過すらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に、しばし立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、「こなた」と言ふ人あれば、たてあけ所狭(せ)げなる遣戸よりぞ入り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、灯はかなたにほのかなれど、ものの綺羅など見えて、俄かにしもあらぬ匂ひ、いとなつかしう住みなしたり。「門(かど)よくさしてよ。雨もぞふる。御車は門の下に、御供(おんとも)の人はそこそこに」と言へば、「今宵ぞやすき寝(い)は寢(ぬ)べかめる」と、うちさゝめくも、忍びたれど、ほどなければ、ほの聞ゆ。
さて、この程の事ども、細やかに聞え給ふに、夜ぶかき鳥も鳴きぬ。來(こ)しかた行くすゑかけて、まめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる聲にうちしきれば、明け離るゝにやと聞きたまへど、夜深く急ぐべきところの様(さま)にもあらねば、少したゆみ給へるに、隙(ひま)白くなれば、忘れ難きことなど言ひて、立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青みわたりたる卯月ばかりの曙、艷にをかしかりしを思(おぼ)し出でて、桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ。
第百五段
北の家陰に消え殘りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月さやかなれども、隈(くま)なくはあらぬに、人離れなる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男(おとこ)、女と長押(なげし)に尻かけて、物語するさまこそ、何事にかあらん、盡きすまじけれ。
かぶし・かたちなど、いとよしと見えて、えもいはぬ匂ひの、さと薫りたるこそ、をかしけれ。けはいなど、はづれはづれ聞こえたるも、ゆかし。  
第百六段
高野の證空上人、京へ上りけるに、細道にて、馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男、あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。
聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり」といはれければ、口引きの男、「いかに仰せらるゝやらん、えこそ聞き知らね」といふに、上人なほいきまきて、「何といふぞ。非修(ひしゅ)非學の男(おのこ)」とあらゝかに言ひて、きはまりなき放言しつと思ひける氣色にて、馬引きかへして逃げられにけり。
尊かりける諍(いさか)いなるべし。
第百七段
女の物いひかけたる返り事、とりあへずよき程にする男は、有りがたきものぞとて、龜山院の御時、しれたる女房ども、若き男達(おのこだち)の參らるゝ毎に、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる」と問ひて試みられけるに、某(なにがし)の大納言とかやは、「數ならぬ身は、え聞き候はず」と答へられけり。堀河内大臣殿は、「岩倉にて聞きて候ひしやらん」と仰せられけるを、「これは難なし。數ならぬ身むつかし」など定め合はれけり。
すべて男(おのこ)をば、女に笑はれぬ樣におほしたつべしとぞ。「淨土寺の前關白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へまゐらせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ」と人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、「怪しの下女(げぢょ)の見奉るも、いと恥しく、心づかひせらるゝ」とこそ、仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣紋(えもん)も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。
かく人に恥ぢらるゝ女、いかばかりいみじきものぞと思ふに、女の性(しょう)は皆ひがめり。人我(にんが)の相深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず、たゞ迷ひの方に心も早く移り、詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで、問はずがたりに言ひ出す。深くたばかり飾れる事は、男の智慧にも優りたるかと思へば、その事、あとより顯はるゝを知らず。質朴(すなお)ならずして、拙きものは女なり。その心に隨ひてよく思はれんことは、心憂かるべし。されば、何かは女の恥かしからん。もし賢女あらば、それも物うとく、すさまじかりなん。たゞ迷ひを主(あるじ)としてかれに隨ふ時、やさしくもおもしろくも覺ゆべきことなり。
第百八段
寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しといへども、これを累(かさ)ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人(あきびと)の一錢を惜しむ心、切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期(ご)、忽ちに到る。
されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐることを惜しむべし。もし人來りて、わが命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るゝ間、何事をか頼み、何事をか營まむ。我等が生ける今日の日、何ぞその時節に異ならん。一日のうちに、飮食(おんじき)・便利・睡眠・言語(ごんご)・行歩(ぎゃうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その餘りの暇、いくばくならぬうちに無益(むやく)の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟(しゆい)して、時を移すのみならず、日を消(せう)し、月をわたりて、一生をおくる、最も愚かなり。
謝靈運は法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思ひを觀ぜしかば、惠遠(えおん)・白蓮の交はりをゆるさざりき。しばらくもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まむ人は止み、修(しゅう)せむ人は修せよとなり。
第百九段
高名の木のぼりといひし男(おのこ)、人を掟てて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふこともなくて、降るゝ時に、軒長(のきたけ)ばかりになりて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき、枝危きほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、安き所になりて、必ず仕ることに候」といふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、かたき所を蹴出して後、やすくおもへば、必ず落つと侍るやらむ。
第百十段
雙六(すぐろく)の上手といひし人に、その術(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんとうつべからず、負けじとうつべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりとも遲く負くべき手につくべし」といふ。
道を知れる教(おしえ)、身を修め、國を保たむ道も、またしかなり。
第百十一段
「囲碁・雙六好みてあかし暮す人は、四重・五逆にもまされる惡事とぞ思ふ」とある聖の申ししこと、耳に止まりて、いみじく覚え侍る。
第百十二段
明日は遠國へ赴くべしと聞かん人に、心しづかになすべからむわざをば、人言ひかけてむや。俄の大事をも營み、切(せち)に歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、人の愁い・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば年もやうやうたけ、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらん人、亦これに同じかるべし。
人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の默し難きに從ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は雜事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、道遠し、吾が生(しゃう)既に蹉だ(さだ、「だ」は足偏に它)たり、諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり。信をも守らじ、禮儀をも思はじ。この心を持たざらん人は、物狂ひともいへ。現(うつう)なし、情なしとも思へ。譏(そし)るとも苦しまじ。譽むとも聞きいれじ。
第百十三段
四十(よそぢ)にも餘りぬる人の、色めきたる方、自ら忍びてあらんは如何はせん。言(こと)に打ち出でて、男・女のこと、人の上をもいひ戲(たは)るゝこそ、似げなく、見苦しけれ。
大かた聞きにくく見ぐるしき事、老人(おいびと)の若き人に交はりて、興あらむと物いひ居たる、數ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人(まろうど)に饗應せんときらめきたる。
第百十四段
今出川のおほい殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、齋王丸御牛を追ひたりければ、足掻(あがき)の水、前板までさゝとかゝりけるを、爲則、御車の後(しり)に候ひけるが、「希有の童(わらは)かな。斯る所にて御牛をば追ふものか」と言ひたりければ、おほい殿、御氣色悪しくなりて、「おのれ、車やらんこと、齋王丸に勝りてえ知らじ。希有の男なり」とて御車に頭をうちあてられにけり。
この高名の齋王丸は、太秦殿(うづまさどの)の男、料の御牛飼ぞかし。この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人は膝幸(ひざさち)、一人はこと槌(ことつち)、一人は胞腹(はうはら)、一人は乙牛(おとうし)とつけられけり。
第百十五段
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念佛を申しけるに、外より入りくるぼろぼろの、「もしこの中(うち)に、いろをし坊と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候。かく宣ふは誰(た)ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事はべりき。こゝにて對面したてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参り合はん。あなかしこ。わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、佛事のさまたげに侍るべし」と言ひ定めて、二人河原に出であひて、心ゆくばかりに貫きあひて、共に死にけり。
ぼろぼろといふものは、昔はなかりけるにや。近き世に、梵論字(ぼろんじ)・梵字・漢字などいひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、佛道を願ふに似て、闘諍(とうじゃう)を事とす。放逸無慚のありさまなれども、死を輕くして、少しもなづまざる方(かた)のいさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。
第百十六段
寺院の號(な)、さらぬ萬の物にも名をつくること、昔の人は少しも求めず、唯ありの侭に安くつけけるなり。この頃は、深く案じ、才覺を顯はさむとしたる樣に聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目馴れぬ文字をつかむとする、益(やく)なき事なり。
何事も珍らしき事を求め、異説を好むは、淺才の人の必ずあることなりとぞ。
第百十七段
友とするに惡(わろ)き者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人、二つには、若き人。三つには、病なく身つよき人。四つには、酒を好む人。五つには、武(たけ)く勇める兵。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、慾ふかき人。
善き友三つあり。一つには、ものくるゝ友。二つには、、醫師。三つには、智惠ある友。
第百十八段
鯉の羮(あつもの)食ひたる日は、鬢(びん)そゝけずとなむ。膠(にかは)にも作るものなれば、粘りたる物にこそ。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるゝものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿(おゆどの)の上にかゝりたるも苦しからず。その外は心憂きことなり。中宮の御方の御湯殿の上の黒御棚(くろみのたな)に、雁の見えつるを、北山入道殿の御覽じて、歸らせたまひて、やがて御文にて、「かやうのもの、さながらその姿にて、御棚にゐて候ひしこと、見ならはず。さま惡しきことなり。はかばかしき人のさぶらはぬ故にこそ」など申されたりけり。
第百十九段
鎌倉の海に鰹といふ魚は、かの境には雙なきものにて、この頃もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれ等若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。
第百二十段
唐の物は、藥の外は、みななくとも事欠くまじ。書(ふみ)どもは、この國に多く広まりぬれば、書きも寫してん。唐土船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。
「遠きものを寶とせず」とも、また、「得がたき寶をたふとまず」とも、書(ふみ)にも侍るとかや。
第百二十一段
養ひ飼ふものには馬・牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は、守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなん。
その外の鳥・獸、すべて用なきものなり。走る獸は檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は翼を切り、籠(こ)に入れられて、雲を戀ひ、野山を思ふ愁へ、やむ時なし。その思ひ我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを樂しまんや。生(しゃう)を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に樂しぶを見て逍遥の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
「凡そ、珍しき鳥、怪しき獸、國に養はず」とこそ文にも侍るなれ。
第百二十二段
人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。次に醫術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずばあるべからず。次に弓射、馬に乘る事、六藝に出せり。必ずこれを窺ふべし。文・武・醫の道、まことに缺けてはあるべからず。これを學ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味ひをとゝのへ知れる人、大きなる徳とすべし。次に、細工、よろづの要多し。
この外の事ども、多能は君子のはづるところなり。詩歌にたくみに、絲竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすとはいへども、今の世には、これをもちて世を治むること、漸く愚かなるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鐵(くろがね)の益多きに如かざるがごとし。
第百二十三段
無益の事をなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいふべし。國の爲、君の爲に、止む事を得ずしてなすべき事多し。その餘りの暇、いくばくならず思ふべし。人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕(おごり)とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。
第百二十四段
是法法師は、淨土宗に恥ぢずと雖も、學匠をたてず、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。
第百二十五段
人に後れて、四十九日(なゝなのか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも、殊に今日は尊くおぼえ侍りつる」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は」と言ひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。さる導師のほめやうやはあるべき。
また人に酒勸むるとて、「おのれまづたべて人に強ひ奉らんとするは、劒(けん)にて人を斬らむとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、まづ我が頚を斬るゆゑに、人をばえ斬らぬなり。おのれまづ醉ひて臥しなば、人はよも召さじ」と申しき。劒にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。
第百二十六段
「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。
第百二十七段
改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。
第百二十八段
雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違(たが)ひ、昇進もしたまはざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便(ふびん)なれども、かゝる事を聞かせ給ひて、にくませ給ひける君の御心は、いと尊きことなり。
大かた生けるものを殺し、痛め、闘はしめて遊び樂しまん人は、畜生殘害の類(たぐひ)なり。萬の鳥獸、小さき蟲までも、心をとめてありさまを見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、妬み、怒り、慾おほく、身を愛し、命を惜しめる事、偏(ひとえ)に愚癡なる故に、人よりも勝りて甚だし。彼に苦しみを與へ、命を奪はん事、いかでか痛ましからざらん。
すべて一切の有情を見て慈悲の心なからむは、人倫にあらず。
第百二十九段
顔囘は、志、人に勞を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐(しいた)ぐる事、賎しき民の志をも奪ふべからず。また、幼き子を賺(すか)し、嚇(おど)し、言ひ辱(はづか)しめて興ずることあり。大人しき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身にしみて恐ろしく、恥づかしく、浅ましき思ひ、誠に切なるべし。これを惱して興ずる事、慈悲の心にあらず。
大人しき人の、喜び、怒り、哀れび、樂しぶも、皆虚妄なれども、誰か實有の相に著せざる。身を破るよりも、心を痛ましむるは、人を害(そこな)ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より來る病は少なし。藥を飮みて汗を求むるには、驗(しるし)なき事あれども、一旦恥ぢ恐るゝことあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて、白頭の人となりし例(ためし)なきにあらず。
第百三十段
物に爭はず、己を枉(ま)げて人に從ひ、我が身を後にして、人を先にするには如(し)かず。
萬の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらむ爲なり。己が藝の勝りたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覺ゆべきこと、また知られたり。我負けて人を歡ばしめむと思はば、さらに遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて、わが心を慰めむこと、徳に背けり。むつましき中に戲(たはぶ)るゝも、人をはかり欺きて、おのれが智の勝りたることを興とす。これまた、禮にあらず。されば、はじめ興宴より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これ皆、争ひを好む失なり。
人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。
第百三十一段
貧しきものは財をもて禮とし、老いたるものは力をもて禮とす。
おのが分を知りて、及ばざる時は速かに止むを智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて勵むは、おのれが誤りなり。
貧しくして分を知らざれば盜み、力衰へて分を知らざれば病をうく。
第百三十二段
鳥羽の作り道は、鳥羽殿建てられて後の號(な)にはあらず。昔よりの名なり。元良親王、元日の奏賀の聲、はなはだ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作り道まで聞こえけるよし、李部王(りほうおう)の記に侍るとかや。
第百三十三段
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
第百三十四段
高倉院の法華堂の三昧僧、何某(なにがし)の律師とかやいふ者、ある時、鏡を取りて顔をつくづくと見て、我が貌(かたち)の醜く、あさましき事を餘りに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂の勤め許りにあひて、籠り居たりと聞き傳へしこそ、あり難く覺えしか。
賢げなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。貌(かたち)醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、藝の拙きをも知らず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外の譏りを知らず。たゞし、貌は鏡に見ゆ、年は數へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。貌(かたち)を改め、齡を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑にゐて身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。
すべて人に愛樂(あいぎょう)せられずして衆に交はるは恥なり。貌みにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才(たいさい)に交はり、不堪(ふかん)の藝をもちて堪能の座に連なり、雪の頭(かうべ)を戴きて壯(さか)りなる人にならび、況んや、及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、來らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の與ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥しむるなり。貪ることのやまざるは、命を終ふる大事、今こゝに來れりと、たしかに知らざればなり。
第百三十五段
資季大納言入道とかや聞えける人、具氏(ともうぢ)宰相中將に逢ひて、「わぬしの問はれむ程の事、何事なりとも答へ申さざらむや」とい言はれければ、具氏、「いかゞ侍らむ」と申されけるを、「さらば、あらがひ給へ」といはれて、「はかばかしき事は、片端もまねび知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそゞろごとの中に、覺束なき事をこそ問ひ奉らめ」と申されけり。「まして、こゝもとの淺きことは、何事なりともあきらめ申さん」といはれければ、近習の人々、女房なども、「興あるあらがひなり。同じくは、御前にて爭はるべし。負けたらん人は、供御(ぐご)をまうけらるべし」と定めて、御前にて召し合せられたりけるに、具氏、「幼くより聞きならひ侍れど、その心知らぬこと侍り。「馬のきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」と申すことは、いかなる心にかはべらむ。承らむ」と申されけるに、大納言入道、はたとつまりて、「これは、そゞろごとなれば、云ふにも足らず」といはれけるを、「もとより、深き道は知り侍らず。そゞろ言を尋ね奉らむと、定め申しつ」と申されければ、大納言入道負けになりて、所課いかめしくせられたりけるとぞ。
第百三十六段
醫師篤成(あつしげ)、故法皇の御前に候ひて、供御の參りけるに、「今參り侍る供御のいろいろを、文字も功能(くのう)も尋ね下されて、そらに申しはべらば、本草に御覽じあはせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ」と申しける時しも、六條故内府(だいふ)まゐり給ひて、「有房ついでに物習ひ侍らん」とて、「まづ、「しほ」といふ文字は、いづれの偏にか侍らむ」と問はれたりけるに、「土偏(どへん)に候」と申したりければ、「才のほど既に現はれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしきところなし」と申されけるに、とよみになりて、罷り出でにけり。
第百三十七段
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に罷りけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありて罷らで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。
萬の事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情(なさけ)も、偏に逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居を思ひやり、淺茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。
望月の隈なきを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、曉近くなりて待ちいでたるが、いと心ぶかう、青みたる樣にて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都こひしう覺ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。よき人は、偏にすける樣にも見えず、興ずる樣もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより立ちより、あからめもせずまもりて、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、萬の物、よそながら見る事なし。
さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごといとおそし。そのほどは棧敷不用なり」とて、奧なる屋にて酒飮み、物食ひ、圍棊・雙六など遊びて、棧敷には人を置きたれば、「わたり候ふ」といふときに、おのおの肝つぶるやうに爭ひ走り上がりて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押しあひつゝ、一事(こと)も見洩らさじとまぼりて、「とあり、かゝり」と物事に言ひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らむまで」と言ひて降りぬ。唯物をのみ見むとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、眠りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後(うしろ)にさぶらふは、さまあしくも及びかゝらず、わりなく見むとする人もなし。
何となく葵(あふひ)かけ渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、其か、彼かなどおもひよすれば、牛飼下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもつれづれならず。暮るゝ程には、立て竝べつる車ども、所なく竝みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀になりて、車どものらうがはしさも濟みぬれば、簾・疊も取り拂ひ、目の前に寂しげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られて、哀れなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
かの棧敷の前をこゝら行きかふ人の、見知れるが數多あるにて知りぬ、世の人數もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなむ後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、程なく待ちつけぬべし。大きなる器(うつはもの)に水を入れて、細き孔をあけたらんに、滴る事少しと云ふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて盡きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日(ひ)に一人二人のみならむや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る數おほかる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、柩を鬻(ひさ)ぐもの、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで遁れ來にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかに思ひなんや。まゝ子立といふものを、雙六の石にてつくりて、立て竝べたる程は、取られむ事いづれの石とも知らねども、數へ當ててひとつを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、かれこれ間(ま)拔き行くほどに、いづれも、遁れざるに似たり。兵の軍(いくさ)に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世をそむける草の庵には、しづかに水石(すいせき)をもてあそびて、これを他所(よそ)に聞くと思へるは、いとはかなし。しづかなる山の奧、無常の敵きほひ來らざらんや。その死に臨めること、軍の陣に進めるに同じ。
第百三十八段
「祭過ぎぬれば、後の葵不用なり」とて、ある人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふことなれば、さるべきにやと思ひしかど、周防の内侍が、
かくれどもかひなき物はもろともにみすの葵の枯葉なりけり
と詠めるも、母屋(もや)の御簾に葵のかゝりたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、「枯れたる葵にさしてつかはしける」ともはべり。枕草紙にも、「來しかた戀しきもの。かれたる葵」と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひよりたれ。鴨長明が四季物語にも、「玉だれに後の葵はとまりけり」とぞ書ける。己と枯るゝだにこそあるを、名殘なくいかゞ取り捨つべき。
御帳にかゝれる藥玉も、九月九日、菊にとりかへらるゝといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷の皇太后宮かくれ給ひて後、ふるき御帳の内に、菖蒲・藥玉などの枯れたるが侍りけるを見て、「折ならぬ音(ね)をなほぞかけつる」と、辨の乳母のいへる返り事に、「あやめの草はありながら」とも、江侍從が詠みしぞかし。
第百三十九段
家にありたき木は、松・櫻。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重櫻は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の櫻、皆一重にてこそあれ。八重櫻は異樣のものなり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなん。遲櫻、またすさまじ。蟲のつきたるもむつかし。梅は白き、うす紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、みなをかし。おそき梅は、櫻に咲き合ひて、おぼえ劣り、けおされて、枝に萎みつきたる、心憂し。「一重なるがまづ咲きて散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言は、なほ一重梅をなむ軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南むきに、今も二本(もと)はべるめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓(わかかえで)、すべて萬の花・紅葉にも優(まさ)りてめでたきものなり。橘・桂、何れも木は物古(ものふ)り、大きなる、よし。
草は山吹・藤・杜若・撫子。池には蓮(はちす)。秋の草は荻・薄・桔梗(きちこう)・萩・女郎花・藤袴・しをに・吾木香(われもこう)・刈萱(かるかや)・龍膽(りんどう)・菊・黄菊も・蔦(つた)・葛(くず)・朝顔、いづれもいと高からず、さゝやかなる、垣に繁からぬ、よし。この外の、世にまれなるおの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず。
大かた、何も珍しくありがたきものは、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうの物、なくてありなん。
第百四十段
身死して財殘ることは、智者のせざるところなり。よからぬもの蓄へおきたるも拙く、よき物は、心をとめけむとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」などいふものどもありて、あとに爭ひたる、樣惡(あ)し。後には誰にと志すものあらば、生けらむ中にぞ讓るべき。朝夕なくて協(かな)はざらむ物こそあらめ、その外は何も持たでぞあらまほしき。
第百四十一段
悲田院(ひでんいん)の尭蓮上人(ぎょうれんしょうにん)は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそ、言ひつることは頼まるれ。都の人は、言受けのみよくて、實なし」といひしを、聖、「それはさこそ思すらめども、おのれは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて心やはらかに情あるゆゑに、人のいふほどの事、けやけく否(いな)びがたく、よろづえ言ひはなたず、心弱くことうけしつ。僞(いつはり)せんとは思はねど、乏しくかなはぬ人のみあれば、おのづから本意通らぬこと多かるべし。吾妻人は、我がかたなれど、げには心の色なく、情おくれ、偏にすくよかなるものなれば、初めより否といひて止みぬ。賑ひ豐かなれば、人には頼まるゝぞかし」と、ことわられ侍りしこそ、この聖、聲うちゆがみあらあらしくて、聖教(しゃうぎょう)のこまやかなる理、いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心憎くなりて、多かる中に、寺をも住持せらるゝは、かく和ぎたるところありて、その益もあるにこそと覺え侍りし。
第百四十二段
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、傍(かたへ)にあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
世をすてたる人のよろづにするすみなるが、なべてほだし多かる人の、よろづに諂ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことに、悲しからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盜みをもしつべき事なり。されば、盜人を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の飢ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恆の産なき時は、恆の心なし。人窮りて盜みす。世治らずして、凍餒(とうだい)の苦しみあらば、科(とが)のもの絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、不便のわざなり。
さて、いかゞして人を惠むべきとならば、上の奢り費すところを止め、民を撫で、農を勸めば、下に利あらむこと疑ひあるべからず。衣食世の常なる上に、ひがごとせむ人をぞ、まことの盜人とはいふべき。
第百四十三段
人の終焉の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語りつけ、いひし言葉も、擧止(ふるまい)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。
この大事は、權化の人も定むべからず。博學の士も計るべからず。おのれ違ふ所なくば、人の見聞くにはよるべからず。
第百四十四段
栂尾の上人道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執(しゅくしゅう)開發(かいほつ)の人かな。「阿字々々」と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候」と答へけり。「こはめでたきことかな。阿字本不生(あじほんふしゃう)にこそあなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。
第百四十五段
御隨身秦重躬(はだのしげみ)、北面の下野入道信願を、「落馬の相ある人なり。よくよく愼み給へ」といひけるを、いとまことしからず思ひけるに、信願馬より長じぬる一言、神の如し」と人おもへり。
さて、「いかなる相ぞ」と人の問ひければ、「極めて桃尻にて、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相をおほせ侍りき。いつかは申し誤りたる」とぞいひける。
第百四十六段
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。
はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
第百四十七段
灸治、あまた所になりぬれば、神事に穢れありといふこと、近く人のいひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。
第百四十八段
四十(よそぢ)以後の人、身に灸を加へて三里を燒かざれば、上氣のことあり。必ず灸すべし。
第百四十九段
鹿茸(ろくじょう)を鼻にあてて嗅ぐべからず、小さき蟲ありて、鼻より入りて腦をはむといへり。
第百五十段
能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中に交(まじ)りて、譏り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず、妄りにせずして年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人、に許されて、ならびなき名をうることなり。
天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、萬人の師となること、諸道かはるべからず。
 

第百五十一段
ある人の曰く、年五十(いそぢ)になるまで上手に至らざらむ藝をば捨つべきなり。勵み習ふべき行末もなし。老人のことをば、人もえ笑はず、衆に交はりたるも、あひなく、見苦し。大方、萬のしわざは止めて、暇あるこそ、目安く、あらまほしけれ。世俗の事にたづさはりて、生涯を暮すは下愚の人なり。ゆかしく覺えむことは、學び聞くとも、その趣を知りなば、覺束なからずして止むべし。もとより望む事なくしてやまんは、第一のことなり。
第百五十二段
西大寺靜然(じゃうねん)上人、腰かゞまり眉白く、誠に徳たけたる有樣にて、内裏へ參られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊との氣色や」とて信仰の氣色ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。
後日に、尨犬(むくいぬ)の淺ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この氣色尊く見えて候」とて内府(だいふ)へ參らせられたりけるとぞ。
第百五十三段
爲兼大納言入道召し捕られて、武士(ものゝふ)ども打ち圍みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一條わたりにてこれを見て、「あな羨し。世にあらむ思ひ出、かくこそ有らまほしけれ」とぞいはれける。
第百五十四段
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者ども集り居たるが、手も足もねぢゆがみ、うち反(かへ)りて、いづくも不具に異樣なるを見て、「とりどりに類なきくせ者なり、最も愛するに足れり」と思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覺えければ、「たゞすなほに珍しからぬものには如かず」と思ひて、歸りて後、「この間植木を好みて、異樣に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたは者を愛するなりけり」と、興なく覺えければ、鉢に栽(う)ゑられける木ども、みなほり棄てられにけり。
さもありぬべきことなり。
第百五十五段
世に從はむ人は、まづ機嫌を知るべし。ついで惡しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず、さやうの折節を心得べきなり。ただし、病をうけ、子うみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず。ついであしとて止む事なし。生・住・異・滅の移り變るまことの大事は、たけき河の漲り流るゝが如し。しばしも滯らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、眞俗につけて、かならず果し遂げむとおもはむことは、機嫌をいふべからず。とかくの用意なく、足を踏みとゞむまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の來るにはあらず。春はやがて夏の氣を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月(かんなづき)は小春の天氣、草も青くなり、梅も莟(つぼ)みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる氣、下に設けたる故に、待ち取る序(ついで)、甚だ早し。生・老・病・死の移り來る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれる序あり。死期(しご)は序を待たず。死は前よりしも來らず、かねて後に迫れり。人みな死ある事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、覺えずして來る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の滿つるが如し。
第百五十六段
大臣の大饗は、さるべき所を申し受けて行ふ、常のことなり。宇治左大臣殿は、東三條殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事のよせなけれども、女院の御所など借り申す、故實なりとぞ。
第百五十七段
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文(ふみ)も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。假に今この文をひろげざらましかば、この事を知らんや。これすなはち觸るゝ所の益なり。心更に起らずとも、佛前にありて數珠を取り、經を取らば、怠るうちにも、善業おのづから修せられ、散亂の心ながらも繩床(じょうしゃう)に坐せば、おぼえずして禪定なるべし。
事・理もとより二つならず、外相(げさう)若し背かざれば、内證かならず熟す。強ひて不信といふべからず。仰(あふ)ぎてこれを尊(たふと)むべし。
第百五十八段
「杯の底を捨つることは、いかゞ心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを殘して、口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。
第百五十九段
「みなむすびといふは、絲をむすびかさねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たればいふ」と或やんごとなき人、仰せられき。「にな」といふは誤りなり。
第百六十段
門に額懸(か)くるを、「打つ」といふはよからぬにや。勘解由小路(かでのこうぢ)二品禪門は、「額懸くる」とのたまひき。「見物の棧敷うつ」もよからぬにや。「平張うつ」などは常の事なり。「棧敷構ふる」などいふべし。「護摩焚く」といふも、わろし。「修(しゅう)する」、「護摩する」など云ふなり。「行法も、法の字を清みていふ、わろし。濁りていふ」と清閑寺僧正仰せられき。常にいふ事にかゝることのみ多し。
第百六十一段
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正(じしゃう)の後、七日ともいへど、立春より七十五日、おほやう違はず。
第百六十二段
遍昭寺の承仕法師、池の鳥を日ごろ飼ひつけて、堂の内まで餌をまきて、戸ひとつをあけたれば、數も知らず入りこもりける後、おのれも入りて、立て篭めて捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて、人に告げければ、村の男ども、おこりて入りて見るに、大雁どもふためきあへる中に、法師まじりて、打ち伏せ、ねぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使廳へ出したりけり。殺すところの鳥を頚にかけさせて、禁獄せられけり。
基俊大納言別當の時になむ侍りける。
第百六十三段
太衝(たいしょう)の太の字、點打つ打たずといふこと、陰陽のともがら、相論のことありけり。盛親入道申し侍りしは、「吉平が自筆の占文(うらぶみ)の裏に書かれたる御記、近衞關白殿にあり。點うちたるを書きたり」と申しき。
第百六十四段
世の人相(あい)逢ふ時、しばらくも默止することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。
これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。
第百六十五段
東(あづま)の人の、都の人に交はり、都の人の、東に行きて身をたて、また、本寺・本山をはなれぬる顯密の僧、すべてわが俗にあらずして人に交(まじわ)れる、見ぐるし。
第百六十六段
人間の營みあへる業を見るに、春の日に雪佛(ゆきぼとけ)を造りて、その爲に金銀珠玉の飾りを營み、堂塔を建てむとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見る程も、下より消ゆる事、雪の如くなるうちに、いとなみ待つこと甚だ多し。
第百六十七段
一道に携はる人、あらぬ道の席(むしろ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覺ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あな羨まし、などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。
人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干(そこばく)の科(とが)あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。
一道にも誠に長じぬる人は、みづから明らかにその非を知る故に、志常に滿たずして、つひに物に誇ることなし。
第百六十八段
年老いたる人の、一事すぐれたる才能ありて、「この人の後には、誰にか問はん」などいはるゝは、老(おい)の方人(かたうど)にて、生けるも徒(いたづ)らならず。さはあれど、それもすたれたる所のなきは、「一生この事にて暮れにけり」と、拙く見ゆ。「今はわすれにけり」といひてありなん。大方は知りたりとも、すゞろにいひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」などいひたるは、なほ實(まこと)に、道の主(あるじ)とも覺えぬべし。まして、知らぬこと、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人のいひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞き居たる、いとわびし。
第百六十九段
「何事の式といふ事は、後嵯峨の御代迄はいはざりけるを、近き程よりいふ詞なり」と、人の申し侍りしに、建禮門院の右京大夫、後鳥羽院の御位(みくらい)の後、また内裏住みしたることをいふに、「世の式も變りたる事はなきにも」と書きたり。
第百七十段
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。
人と對(むか)ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も靜かならず、萬の事さはりて時を移す、互のため益なし。厭はしげにいはむもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなかその由をもいひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、「今しばし、今日は心しづかに」などいはんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼(まなこ)、誰もあるべきことなり。
その事となきに、人の來りて、のどかに物語して歸りぬる、いとよし。また文も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いと嬉し。
第百七十一段
貝をおほふ人の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばる間(ま)に、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くは、当たらず。わが手もとをよく見て、こゝなる聖目(ひじりめ)をすぐに彈けば、立てたる石必ず当たる。
萬のこと、外に向きて求むべからず。たゞここもとを正しくすべし。清献公が言葉に、「好事を行じて、前程を問ふことなかれ」といへり。世を保たむ道もかくや侍らん。内を愼まず、輕く、ほしきまゝにしてみだりなれば、遠國必ずそむく時、始めて謀(はかりごと)をもとむ。「風に當り、濕に臥して、病を神靈に訴ふるは、愚かなる人なり」と醫書にいへるが如し。目の前なる人の愁へをやめ、惠みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れむことを知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師(いくさ)をかへして、徳を布くには如かざりき。
第百七十二段
若き時は、血氣内(うち)にあまり、心、物に動きて、情欲おほし。身を危(あやぶ)めて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔の袂にやつれ、勇める心盛りにして、物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず。色に耽り情にめで、行ひを潔くして百年の身を誤り、命を失へたるためし願はしくして、身の全く久しからんことをば思はず。好けるかたに心ひきて、ながき世語りともなる。身を誤つことは、若き時のしわざなり。
老いぬる人は、精神衰へ、淡くおろそかにして、感じ動くところなし。心おのづから靜かなれば、無益のわざをなさず。身を助けて愁へなく、人の煩ひなからむことを思ふ。老いて智の若き時にまされること、若くして、貌(かたち)の老いたるにまされるが如し。
第百七十三段
小野小町がこと、極めて定かならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文、清行(きよゆき)が書けりといふ説あれど、高野大師の御作(おんさく)の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほ覚束なし。
第百七十四段
小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば、小鷹に惡(わる)くなるといふ。大に就き小を捨つる理、まことにしかなり。人事(じんじ)多かる中に、道を樂しむより氣味深きはなし。これ、實(まこと)の大事なり。一たび道を聞きて、これに志さん人、いづれの業かすたれざらん。何事をか營まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。
第百七十五段
世には心得ぬ事の多きなり。友あるごとには、まづ酒をすゝめて、強ひ飮ませたるを興とする事、いかなる故とも心得ず。飮む人の顔、いと堪へ難げに眉をひそめ、人目をはかりて捨てんとし、遁げむとするを、捕へて、引き留めて、すゞろに飮ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒(たふ)れふす。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。あくる日まで頭痛く、物食はずによび臥し、生を隔てたるやうにして、昨日のこと覺えず、公・私の大事を缺きて、煩ひとなる。人をしてかゝる目を見すること、慈悲もなく、禮儀にもそむけり。かく辛き目にあひたらむ人、ねたく、口惜しと思はざらんや。他(ひと)の國にかゝる習ひあなりと、これらになき人事(ひとごと)にて傳へ聞きたらんは、あやしく不思議に覺えぬべし。
人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、脛高くかゝげて、用意なき気色、日頃の人とも覺えず。女は額髪はれらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、杯持てる手に取りつき、よからぬ人は、肴とりて口にさしあて、みづからも食ひたる、様あし。聲の限り出して、おのおの謠ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、Kく穢き身を肩ぬぎて、目もあてられずすぢりたるを、興じ見る人さへ。うとましく憎し。或はまた、我が身いみじき事ども、傍(かたわら)痛くいひ聞かせ、あるは醉ひ泣きし、下ざまの人は、罵(の)り合ひ、諍(いさかい)ひて、淺ましく恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、はては許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちてあやまちしつ。物にも乘らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築地・門の下などに向きて、えもいはぬ事どもし散らし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝ、よろめきたる、いとかはゆし。
かゝる事をしても、この世も後の世も益あるべき業ならば如何はせん。この世にては過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百藥の長とはいへど、萬の病は酒よりこそ起れ。憂へを忘るといへど、醉ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智惠を失ひ、善根を燒く事火の如くして、惡を増し、萬の戒を破りて、地獄に墮つべし。「酒をとりて人に飮ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、佛は説き給ふなれ。
かく疎ましと思ふものなれど、おのづから捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花のもとにても、心のどかに物語して、杯いだしたる、萬の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り來て、取り行ひたるも、心慰む。なれなれしからぬあたりの御簾のうちより、御果物、御酒(みき)など、よきやうなるけはひしてさし出されたる、いとよし。冬、せばき所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飮みたる、いとをかし。旅の假屋、野山などにて、「御肴(みさかな)何」などいひて、芝の上にて飮みたるもをかし。いたういたむ人の、強ひられて少し飮みたるも、いとよし。よき人の、とりわきて、「今一つ、上すくなし」など、のたまはせたるも嬉し。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、また嬉し。
さはいへど、上戸はをかしく罪許さるゝものなり。醉ひくたびれて朝寐(あさい)したる所を、主人(あるじ)の引きあけたるに、惑ひて、ほれたる顔ながら、細き髻(もとゞり)さしいだし、物も着あへず抱き持ち、引きしろひて逃ぐる、かいどり姿のうしろ手、毛おひたる細脛のほど、をかしく、つきづきし。
第百七十六段
K戸は、小松の御門位に即かせ給ひて、昔唯人(たゞびと)に坐(おはしま)しし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで常に營ませ給ひける間なり。御薪(みかまぎ)に煤けたればK戸といふとぞ。
第百七十七段
鎌倉の中書王にて御鞠ありけるに、雨ふりて後、未だ庭の乾かざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道、鋸の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひ無かりけり。「取りためけむ用意ありがたし」と、人感じあへりけり。
この事をある者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥しかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異樣のことなり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子をまうくるは、故實なりとぞ。
第百七十八段
ある所の侍ども、内侍所の御(み)神樂を見て、人に語るとて、「寶劒をばその人ぞ持ち給へる」などいふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿の行幸には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
第百七十九段
入宋の沙門、道眼上人、一切經を持來して、六波羅のあたり、燒野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺と號す。その聖の申されしは、「那蘭陀寺は大門北向きなりと、江帥(ごうそち)の説とていひ傳へたれど、西域傳・法顯傳などにも見えず、更に所見なし。江帥はいかなる才覺にてか申されけん、覚束なし。唐土の西明寺は北向き勿論なり」と申しき。
第百八十段
さぎちゃうは、正月(むつき)に打ちたる毬杖(ぎぢゃう)を、真言院より神泉苑へ出して燒きあぐるなり。「法成就の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。
第百八十一段
「降れ降れ粉雪(こゆき)、たんばの粉雪」といふ事、米搗き篩(ふる)ひたるに似たれば、粉雪といふ。「たまれ粉雪」といふべきを、誤りて「たんばの」とは言ふなり。「垣や木の股に」とうたふべし、とある物知り申しき。昔よりいひけることにや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられけるよし、讚岐典侍が日記に書きたり。
第百八十二段
四條大納言隆親卿、乾鮭(からざけ)といふものを、供御(ぐご)に參らせられたりけるを、「かく怪しきもの、參るやうあらじ」と、人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、まゐらぬことにてあらんにこそあれ。鮭の素干(しらぼし)、何条(なじょう)ことかあらん。鮎の素干はまゐらぬかは」と申されけり。
第百八十三段
人突く牛をば角を切り、人くふ馬をば耳を切りてそのしるしとす。しるしをつけずして人をやぶらせぬるは、主(ぬし)の科(とが)なり。人くふ犬をば養ひ飼ふべからず。これみな科あり、律の禁(いましめ)なり。
第百八十四段
相模守時頼の母は、松下禪尼とぞ申しける。守を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから、小刀して切りまはしつゝ張られければ、兄の城介義景、その日の經營(けいめい)して候ひけるが、「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たるものに候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とてなほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はんは、遙かにたやすく候べし。斑(まだら)に候も見苦しくや」と、重ねて申されければ、「尼も、後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけん爲なり」と申されける。いと有り難かりけり。
世を治むる道、儉約を本とす。女性なれども聖人の心に通へり。天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠に、たゞ人にはあらざりけるとぞ。
第百八十五段
城陸奧守泰盛は、雙なき馬乘りなりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置きかへさせけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし」とて乘らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。
第百八十六段
吉田と申す馬乘りの申し侍りしは、「馬ごとにこはきものなり。人の力爭ふべからずと知るべし。乘るべき馬をば、まづよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に轡(くつわ)・鞍の具に、危きことやあると見て、心にかゝる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乘りとは申すなり、これ秘藏のことなり」と申しき。
第百八十七段
萬の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家(ひけ)の人にならぶ時、必ずまさることは、たゆみなく愼みて輕々しくせぬと、ひとえに自由なるとの等しからぬなり。
藝能・所作のみにあらず。大方の振舞ひ・心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり。巧みにしてほしきまゝなるは、失の本なり。
第百八十八段
ある者、子を法師になして、「學問して因果の理をも知り、説經などして世渡るたづきともせよ」といひければ、教のまゝに、説經師にならん爲に、まづ馬に乘り習ひけり。輿・車もたぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、佛事の後、酒など勸むることあらんに、法師のむげに能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌(さうか)といふ事をならひけり。二つのわざ、やうやう境(さかひ)に入りければ、いよいよよくしたく覺えて嗜みける程に、説經習ふべき暇(ひま)なくて、年よりにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこの事あり。若きほどは、諸事につけて、身をたて、大きなる道をも成し、能をもつき、學問をもせんと、行末久しくあらます事ども、心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつゝ、まづさしあたりたる目の前の事にのみまぎれて月日を送れば、事毎になすことなくして、身は老いぬ。つひに、ものの上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれどもとり返さるゝ齡ならねば、走りて坂をくだる輪の如くに衰へゆく。
されば一生のうち、むねとあらまほしからむことの中に、いづれか勝ると、よく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事を勵むべし。一日の中、一時の中にも、數多(あまた)のことの來らむなかに、少しも益のまさらむことを營みて、その外をばうち捨てて、大事をいそぐべきなり。いづかたをも捨てじと心にとりもちては、一事も成るべからず。
たとへば碁を打つ人、一手もいたづらにせず、人に先だちて、小を捨て大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十の石につくことは易し。十を捨てて、十一につくことは、かたし。一つなりとも勝らむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば、惜しく覺えて、多くまさらぬ石には換へにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふこゝろに、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべきを思ひえたらば、門(かど)よりかへりて西山へゆくべきなり。こゝまで來つきぬれば、この事をばまづ言ひてん。日をささぬことなれば、西山の事は、帰りてまたこそ思ひたためと思ふ故に、一時の懈怠(けだい)、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るゝをも痛むべからず。人のあざけりをも恥づべからず。萬事にかへずしては、一の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄などいふことあり。渡邊の聖、この事を傳へ知りたり」と語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある、貸したまへ。かの薄のこと習ひに、渡邊の聖のがり尋ねまからん」といひけるを、「あまりに物さわがし。雨やみてこそ」と人のいひければ、「無下の事をも仰せらるゝものかな。人の命は、雨の晴間を待つものかは、我も死に、聖もうせなば、尋ね聞きてむや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゝしくありがたう覺ゆれ。「敏(と)きときは則ち功あり」とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。
第百八十九段
今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。煩(わづら)はしかりつる事はことなくて、安かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎゆくさま、かねて思ひつるに似ず。一年のこともかくの如し。一生の間もまたしかなり。
かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよいよものは定めがたし。不定と心得ぬるのみ、誠にて違はず。
第百九十段
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも獨り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。「たれがしが婿になりぬ」とも、又、「いかなる女をとりすゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。異なることなき女を、よしと思ひ定めてこそ、添ひ居たらめと、賤しくもおし測られ、よき女ならば、そらうたくして、あが佛と守りゐたらめ。たとへば、さばかりにこそと覺えぬべし。まして、家の内を行ひをさめたる女、いと口惜し。子など出できて、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年よりたる有樣、亡きあとまで淺まし。
いかなる女なりとも、明暮そひ見むには、いと心づきなく憎かりなむ。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まむこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ。あからさまに來て、泊り居(ゐ)などせむは、めづらしかりぬべし。
第百九十一段
「夜に入りて物のはえ無し」といふ人、いと口惜し。萬の物の綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。晝は、事そぎ、およすげたる姿にてもありなむ。夜は、きらゝかに花やかなる裝束、いとよし。人のけしきも、夜の火影ぞ、よきはよく、物いひたる聲も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。匂ひも、物の音も、たゞ夜ぞ、ひときはめでたき。
さして異なる事なき夜、うち更けて參れる人の、清げなる樣したる、いとよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうちとけぬべき折節ぞ、褻・晴れなく引きつくろはまほしき。よき男の、日くれてゆするし、女も、夜更くる程にすべりつゝ、鏡とりて顔などつくろひ出づるこそをかしけれ。
第百九十二段
神佛にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。
第百九十三段
くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はむ、更に當るべからず。
拙(つたな)き人の、碁うつことばかりに敏(さと)く、たくみなるは、賢き人の、この藝におろかなるを見て、おのれが智に及ばずと定めて、萬の道のたくみ、わが道を人の知らざるを見て、おのれ勝れたりと思はむこと、大きなるあやまりなるべし。文字の法師、暗證(あんじょう)の禪師、互(たがひ)にはかりて、おのれに如かずと思へる、共にあたらず。
己が境界にあらざるものをば、爭ふべからず、是非すべからず。
第百九十四段
達人の人を見る眼(まなこ)は、少しも誤る處あるべからず。
たとへば、ある人の、世に虚言を構へ出して、人をはかることあらんに、素直に眞と思ひて、いふ儘にはからるゝ人あり。あまりに深く信をおこして、なほ煩はしく虚言を心得添ふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。又いさゝか覚束なく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じ居たる人あり。又まことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。又さまざまに推し心得たるよしして、賢げに打ちうなづき、ほゝゑみて居たれど、つやつや知らぬ人あり。また推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、異なるやうも無かりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりともいはず、覚束なかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、すこしも欺かず、構へ出だしたる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。
愚者の中の戯(たわぶれ)だに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならん人の、惑へるわれらを見んこと、掌(たなごゝろ)の上のものを見んがごとし。たゞし、かやうのおしはかりにて、佛法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
第百九十五段
ある人、久我畷(こがなわて)を通りけるに、小袖に大口きたる人、木造(きづくり)の地藏を田の中の水におしひたして、ねんごろに洗ひけり。心得がたく見るほどに、狩衣の男二人三人出で來て、「こゝにおはしましけり」とて、この人を具して去(い)にけり。久我内大臣殿にてぞおはしける。
尋常(よのつね)におはしましける時は、神妙にやんごとなき人にておはしけり。
第百九十六段
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿、大將にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕(けいひつ)いかゞはべるべからん」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。
さて、後に仰せられけるは、「この相國、「北山抄」を見て、西宮(せいきう)の説をこそ知られざりけれ。眷属の惡鬼・惡神を恐るゝゆゑに、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。
第百九十七段
諸寺の僧のみにもあらず、定額(ぢゃうがく)の女嬬といふこと、「延喜式」に見えたり。すべて、數さだまりたる公人(くにん)の通號にこそ。
第百九十八段
揚名介(ようめいのすけ)に限らず、揚名目(ようめいのさかん)といふものあり。「政事要畧」にあり。
第百九十九段
横川(よがは)の行宣法印が申しはべりしは、「唐土は呂の國なり、律の音(こえ)なし。和國は單律の國にて呂の音なし。」と申しき。
第二百段
呉竹は葉ほそく、河竹は葉ひろし。御溝(みかわ)にちかきは河竹、仁壽殿(じじゅうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。
 

第二百一段
退凡・下乘の卒塔婆、外なるは下乘、内なるは退凡なり。
第二百二段
十月を神無月と云ひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文も見えず。たゞし、當月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。
この月、萬の神たち、太神宮へ集り給ふなどいふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸、その例も多し。但し多くは不吉の例なり。
第二百三段
勅勘(ちょくかん)の所に靫(ゆき)かくる作法、今は絶えて知れる人なし。主上の御惱、大かた世の中のさわがしき時は、五條の天神に靫をかけらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫かけられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫を、その家にかけられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封をつくることになりにけり。
第二百四段
犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器によせて結(ゆ)ひつくるなり。拷器の様も、よする作法も、今はわきまへ知れる人なしとぞ。
第二百五段
比叡山に、大師勸請の起請文といふ事は、慈惠(じえ)僧正書きはじめ給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて起請文につきて行はるゝ政はなきを、近代、このこと流布したるなり。
また法令には、水火に穢れをたてず、入物にはけがれあるべし。
第二百六段
徳大寺右大臣殿、檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理の座の濱床の上にのぼりて、にれうち噛みて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おのおの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらば、いづくへかのぼらざらん。わう弱(おうじゃく)の官人、たまたま出仕の微牛をとらるべきやうなし」とて、牛をば主にかへして、臥したりける疊をばかへられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」といへり。
第二百七段
龜山殿建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなわ)、數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられがたし」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らん蟲、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪(よこしま)なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。
第二百八段
經文などの紐を結(ゆ)ふに、上下より襷(たすき)にちがへて、二すぢの中(なか)より、わなの頭(かしら)を横ざまにひき出すことは、常のことなり。さやうにしたるをば、華嚴院の弘舜僧正解きて直させけり。「これは、この頃やうのことなり。いと見にくし。うるはしくは、たゞくるくると捲きて、上より下へ、わなの先を挿(さしはさ)むべし」と申されけり。
ふるき人にて、かやうのこと知れる人になん侍りける。
第二百九段
人の田を論ずるもの、訴(うった)へにまけて、嫉(ねた)さに、「その田を刈りて取れ」とて、人をつかはしけるに、まづ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」といひければ、刈るものども、「その所とても、刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらん」とぞいひける。
理(ことわ)り、いとをかしかりけり。
第二百十段
「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」と許(ばか)りいひて、いかなる鳥ともさだかに記せる物なし。ある眞言書の中に、喚子鳥なくとき招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。萬葉集の長歌に、「霞たつ永き春日の」など續けたり。鵺鳥も喚子鳥の事樣に通ひて聞ゆ。
第二百十一段
萬(よろず)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。
勢(いきお)ひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて頼むべからず。顔囘も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅をうくる事速かなり。奴したがへりとて頼むべからず。そむき走ることあり。人の志をも頼むべからず。必ず變ず。約をも頼むべからず。信(まこと)あることすくなし。
身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なる時はよろこび、非なる時はうらみず。左右廣ければさはらず。前後遠ければふさがらず。せばき時はひしげくだく。心を用ゐること少しきにしてきびしき時は、物に逆(さか)ひ、爭ひてやぶる。寛(ゆる)くして柔かなるときは、一毛も損ぜず。
人は天地の靈なり。天地はかぎるところなし。人の性何ぞ異ならん。寛大にして窮らざるときは、喜怒これにさはらずして、物のためにわづらはず。
第二百十二段
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべきことなり。
第二百十三段
御前の火爐(かろ)に火おく時は、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より、直ちにうつすべし。されば、轉び落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸に供奉の人、淨衣(じょうえ)を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。
第二百十四段
想夫戀(さうふれん)といふ樂は、女、男を戀ふる故の名にはあらず。もとは相府蓮(そうふれん)、文字のかよへるなり。晉の王儉、大臣(おとゞ)として、家に蓮(はちす)を植ゑて愛せしときの樂なり。これより大臣を蓮府(れんぷ)といふ。
廻忽(かいこつ)も廻鶻(くゎいこつ)なり。廻鶻國(=外蒙古にあった)とて夷(えびす)の強(こわ)き國あり。その夷、漢に伏して後にきたりて、己(おのれ)が國の樂を奏せしなり。
第二百十五段
平宣時(たいらののぶとき)朝臣、老いの後、昔語(むかしがたり)に、「最明寺入道、ある宵の間に呼ばるゝ事ありしに、「やがて」と申しながら、直垂のなくて、とかくせし程に、また使きたりて、「直垂などのさふらはぬにや。夜なれば異樣なりとも疾く」とありしかば、なえたる直垂、うちうちの儘にて罷りたりしに、銚子にかはらけ取りそへて持て出でて、「この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ。人は静まりぬらむ。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ」とありしかば、紙燭(しそく)さしてくまぐまを求めしほどに、臺所の棚に、小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、「これぞ求め得て候」と申ししかば、「事足りなん」とて、心よく數獻(すこん)に及びて、興に入られ侍りき。その世にはかくこそ侍りしか」と申されき。
第二百十六段
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻に打鮑(うちあわび)、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)にて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、いろいろの染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
その時見たる人の、ちかくまで侍りしが、語り侍りしなり。
第二百十七段
ある大福長者の曰く、「人は萬をさしおきて、一向(ひたぶる)に徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかむと思はば、すべからくまづその心づかひを修行すべし。その心といふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、假にも無常を觀ずる事なかれ。これ第一の用心なり。
次に、萬事の用をかなふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に從ひて志を遂げむと思はば、百萬の錢ありといふとも、しばらくも住すべからず。所願は止むときなし。財は盡くる期(ご)あり。かぎりある財をもちて、かぎりなき願ひに從ふこと、得べからず。所願心に兆すことあらば、われを亡すべき惡念きたれりと、かたく愼みおそれて、小用をもなすべからず。
次に、錢を奴の如くしてつかひ用ゐるものと知らば、長く貧苦を免るべからず。君の如く神のごとくおそれ尊みて、從へ用ゐることなかれ。
次に、恥にのぞむといふとも、怒り怨むる事なかれ。
次に、正直にして、約をかたくすべし。この義を守りて利をもとめむ人は、富の來ること、火の乾けるに就き、水の下れるに從ふが如くなるべし。錢つもりて盡きざるときは、宴飮聲色を事とせず、居所をかざらず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く樂し」と申しき。
そもそも人は、所願を成ぜむがために財をもとむ。錢を財とする事は、願ひをかなふるが故なり。所願あれどもかなへず、錢あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。何をか樂しびとせん。このおきては、たゞ人間の望みを絶ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。
欲をなして樂しびとせんよりは、しかじ、財なからむには。癰・疽(よう・そ)を病む者、水に洗ひて樂しびとせむよりは、病まざらむには如かじ。こゝに至りては、貧富分くところなし。究竟(くきゃう)は理即にひとし。大欲は無欲に似たり。
第二百十八段
狐は人に食ひつく者なり。堀河殿にて、舍人が寢たる足を狐にくはる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかゝりて食ひつきければ、刀を拔きてこれを拒(ふせ)ぐ間、狐二疋を突く。一つはつき殺しぬ。二は遁げぬ。法師はあまた所くはれながら、事故(ことゆえ)なかりけり。
第二百十九段
四條黄門命ぜられて曰く、「龍秋は道にとりてはやんごとなき者なり。先日來りて曰く、「短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か訝(いぶ)かしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。そのゆゑは、干(かん)の穴は平調、五の穴は下無調なり。その間に勝絶調をへだてたり。上(じゃう)の穴雙調、次に鳧鐘調をおきて、夕(さく)の穴、黄鐘調なり。その次に鸞鏡調をおきて、中の穴盤渉調、中と六との間に神仙調あり。
かやうに間々にみな一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子をもたずして、しかも間をくばる事ひとしきゆゑに、その聲不快なり。さればこの穴を吹くときは、かならずのく。のけあへぬときは、物にあはず。吹き得る人難し」と申しき。料簡のいたり、まことに興あり。先達後生を恐るといふ事、この事なり」と侍りき。
他日に景茂が申し侍りしは、「笙は調べおほせてもちたれば、たゞ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴ごとに、口傳の上に性骨を加へて心を入るゝ事、五の穴のみにかぎらず。偏にのくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も快からず。上手はいづれをも吹きあはす。呂律のものにかなはざるは、人の咎なり。器(うつわもの)の失にあらず」と申しき。
第二百二十段
「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。
およそ鐘のこゑは黄鐘調なるべし。これ無常の調子、祇園精舍の無常院の聲なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鑄らるべしとて、あまたたび鑄替へられけれども、かなはざりけるを、遠國(をんごく)よりたづね出されけり。法金剛院の鐘の聲、また黄鐘調なり。
第二百二十一段
建治・弘安のころは、祭の日の放免(ほうべん)のつけものに、異樣なる紺の布四五反にて、馬をつくりて、尾髪には燈心をして、蜘蛛の糸(い)かきたる水干に附けて、歌の心などいひて渡りしこと、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日もかたりはべるなり。
この頃は、つけもの、年をおくりて過差ことの外になりて、萬の重きものを多くつけて、左右の袖を人にもたせて、みづからは鋒(ほこ)をだに持たず、息づき苦しむ有樣、いと見ぐるし。
第二百二十二段
竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛に勝ること候まじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「わが宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、まさしく、稱名を追福に修して巨益(こやく)あるべしと説ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと、重ねて問はせ給はば、いかゞ申さむと思ひて、本經のたしかなるにつきて、この眞言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。
第二百二十三段
田鶴の大臣殿は、童名たづ君なり。「鶴を飼ひ給ひける故に」と申すは僻事なり。
第二百二十四段
陰陽師有宗入道、鎌倉より上りて、尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭の徒らに廣き事、淺ましく、あるべからぬことなり。道を知るものは、植うる事をつとむ。細道ひとつ殘して、みな畠に作りたまへ」と諫め侍りき。
誠に、すこしの地をも徒らに置かむことは、益(やく)なきことなり。食ふ物・藥種などうゑおくべし。
第二百二十五段
多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道、舞の手のうちに興ある事どもを選びて、磯の禪師といひける女に教へて、舞はせけり。白き水干に、鞘卷をささせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめ靜といひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本縁をうたふ。その後、源光行、多くの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に教へさせ給ひけるとぞ。
第二百二十六段
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生佛(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門のことを、殊にゆゝしく書けり。九郎判官の事は委しく知りて書き載せたり。蒲冠者の事は、能く知らざりけるにや、多くの事どもを記しもらせり。武士の事・弓馬のわざは、生佛、東國のものにて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生佛がうまれつきの聲を、今の琵琶法師は學びたるなり。
第二百二十七段
六時禮讃は、法然上人の弟子、安樂といひける僧、經文を集めて作りて勤めにしけり。その後太秦の善觀房といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、聲明になせり。「一念の念佛」の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讚も、同じく善觀房はじめたるなり。
第二百二十八段
千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人、これを始められけり。
第二百二十九段
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。
第二百三十段
五條の内裏には妖物ありけり。藤大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども、K戸にて碁を打ちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「誰(た)そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さしのぞきたるを、「あれ狐よ」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐、化け損じけるにこそ。
第二百三十一段
園の別當入道は、雙(さう)なき庖丁者なり。ある人の許にて、いみじき鯉を出したりければ、みな人、別當入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でむも如何とためらひけるを、別當入道さる人にて、「この程百日の鯉を切り侍るを、今日缺き侍るべきにあらず、まげて申しうけん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりける。」と、ある人北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、おのれは世にうるさく覺ゆるなり。「切りぬべき人なくば、給(た)べ。切らん」と言ひたらんは、猶よかりなん。南条(なじょう)、百日の鯉を切らんぞ」と宣ひたりし、をかしくおぼえしと、人のかたり給ひける、いとをかし。
大かた、ふるまひて興あるよりも、興なくて安らかなるが、まさりたることなり。賓客の饗應なども、ついでをかしき樣にとりなしたるも、誠によけれども、唯その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれむと思ひ、勝負の負けわざにことつけなどしたる、むつかし。
第二百三十二段
すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて、人と物いふとて、史書の文をひきたりし、賢(さか)しくは聞えしかども、尊者の前にては、然(さ)らずともと覺えしなり。
またある人の許にて、琵琶法師の物語をきかんとて、琵琶を召しよせたるに、柱(ぢう)のひとつ落ちたりしかば、「作りてつけよ」といふに、ある男の中に、あしからずと見ゆるが、「ふるき柄杓(ひさく)の柄(え)ありや」などいふを見れば、爪をおふしたり。琵琶など彈くにこそ。めくら法師の琵琶、その沙汰にもおよばぬことなり。道に心えたる由にやと、かたはらいたかりき。「ひさくの柄は、ひもの木とかやいひて、よからぬものに」とぞ、或人仰せられし。
若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。
第二百三十三段
萬の科(とが)あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず恭(うやうや)しく、言葉すくなからんには如かじ。男女・老少、みなさる人こそよけれども、ことに若くかたちよき人の、言うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるゝものなり。
よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
第二百三十四段
人の物を問ひたるに、知らずしもあらじ、有りのまゝにいはむはをこがましとにや、心まどはすやうに返り事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、猶さだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人もなどか無からん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
人はいまだ聞き及ばぬことを、わが知りたる儘に、「さてもその人の事の淺ましき」などばかり言ひやりたれば、「いかなる事のあるにか」と推し返し問ひにやるこそ、こゝろづきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞きもらす事もあれば、覺束なからぬやうに告げやりたらん、惡しかるべきことかは。
かやうの事は、ものなれぬ人のあることなり。
第二百三十五段
主ある家には、すゞろなる人、心の儘に入り來る事なし。主なき所には、道行人みだりに立ち入り、狐・梟やうの者も、人氣(げ)にせかれねば、所得顔に入り住み、木精(こだま)など云ふ、けしからぬ形もあらはるゝものなり。
また、鏡には色・形なき故に、よろづの影きたりてうつる。鏡に色・形あらましかば、うつらざらまし。
虚空よくものを容る。われらが心に、念々のほしきまゝに来たり浮ぶも、心といふものの無きにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに若干(そこばく)のことは入りきたらざらまし。
第二百三十六段
丹波に出雲といふ所あり。大社を遷して、めでたく造れり。志太の某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の頃、聖海上人、その外も人數多(あまた)誘ひて、「いざ給へ、出雲拜みに。かいもちひ召させん」とて、具しもていきたるに、おのおの拜みて、ゆゝしく信起したり。
御前なる獅子・狛犬、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり」といへば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとにかたらん」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや」といはれければ、「そのことに候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ことなり」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
第二百三十七段
柳筥(やないばこ)に据(す)うるものは、縦ざま、横ざま、物によるべきにや。「卷物などは縦ざまにおきて、木の間より紙捻(ひね)りを通して結ひつく。硯も縦ざまにおきたる、筆ころばず、よし」と、三條右大臣殿仰せられき。
勘解由小路(かでのこうぢ)の家の能書の人々は、假にも縦ざまにおかるゝことなし、必ず横ざまにすゑられ侍りき。
第二百三十八段
御隨身近友が自讚とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝(ばげい)、させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし、しばし見給へ」とて、立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。
一、當代いまだ坊におはしまししころ、萬里小路殿(までのこうぢどの)御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御(み)曹司へ、用ありて參りたりしに、論語の四・五・六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱(あけ)うばふ事を惡むといふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。「なほよくひき見よと」仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、
秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ
と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す。道の冥加なり。高運なり」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。
一、常在光院の撞鐘(つきがね)の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鑄型にうつさせんとせしに、奉行の入道、かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば、聲百里に聞ゆ」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行となほさるべし」と返り事はべりき。數行もいかなるべきにか、もし數歩(すほ)の意(こゝろ)か、覚束なし。
一、人あまた伴ひて、三塔巡禮の事侍りしに、横川の常行堂のうち、龍華院と書ける古き額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり」と、堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署・名字・年號、さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。
一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ」と言ひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これこれにや」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「同じさまなる大衆多くて、え求めあはず」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、もとめておはせよ」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。
一、二月(きさらぎ)十五日、月明き夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひて、すり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば、立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序(ついで)に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなんありし。情なしと恨み奉る人なんある」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。
この事、後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房を、つくり立てて出し給ひて、「便よくば、言葉などかけんものぞ。そのありさま參りて申せ。興あらん」とて、はかり給ひけるとぞ。
第二百三十九段
八月(はづき)十五日、九月(ながつき)十三日は婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明なる故に、月をもてあそぶに良夜とす。
第二百四十段
しのぶの浦の蜑のみるめも所狹く、くらぶの山も守る人しげからんに、わりなく通はむ心の色こそ、淺からずあはれと思ふふしぶしの、忘れがたき事も多からめ。親・はらからゆるして、ひたぶるに迎へすゑたらむ、いとまばゆかりぬべし。
世にあり侘ぶる女の、似げなき老法師、怪しの東人なりとも、賑ははしきにつきて、「誘ふ水あらば」など云ふを、仲人、いづかたも心にくきさまに言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて來らむあいなさよ。何事をかうち出づる言の葉にせむ。年月のつらさをも、「分けこし葉山の」などもあひかたらはむこそ、つきせぬ言の葉にてもあらめ。
すべて、よその人のとりまかなひたらん、うたて、心づきなき事多かるべし。よき女ならんにつけても、品くだり、みにくく、年も長(た)けなむ男は、「かく怪しき身のために、あたら身をいたづらになさんやは」と、人も心劣りせられ、わが身はむかひ居たらんも、影はづかしくおぼえなん。いとこそ、あいなからめ。
梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
第二百四十一段
望月の圓(まどか)なる事は、暫くも住(じょう)せず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中(うち)に、さまで變る樣も見えぬにやあらん。病のおもるも、住する隙なくして、死期(しご)すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中(うち)に多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず。いふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度もしたち直りて命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと、願ひをおこすらめど、やがて、重(おも)りぬれば、われにもあらず、とり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。
所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身ながくしづかなり。
第二百四十二段
とこしなへに、違順につかはるゝ事は、偏(ひとえ)に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事止(や)む時無し。樂欲(ごうよく)するところ、一つには名なり。名に二種あり。行跡と才藝との誉(ほまれ)なり。二つには色欲、三つには味(あじわい)なり。萬の願ひ、この三つには如(し)かず。これ顛倒の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
第二百四十三段
八つになりし年、父に問ひて云(い)はく、「佛はいかなるものにか候らん」といふ。父が云はく、「佛には人のなりたるなり」と。また問ふ、「人は何として佛にはなり候やらん」と。父また、「佛のをしへによりてなるなり」とこたふ。また問ふ、「教へ候ひける佛をば、何がをしへ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、さきの佛のをしへによりてなり給ふなり」と。又問ふ、「その教へはじめ候ひける第一の佛は、いかなる佛にか候ひける」といふとき、父、「空よりや降りけん、土よりやわきけん」といひて、笑ふ。
「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と諸人(しょにん)にかたりて興じき。  
 
 
方丈記

鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた鎌倉時代の文学作品、日本中世文学の代表的な随筆。鴨長明が晩年、日野山に方丈(一丈四方)の庵を結んだことから「方丈記」と名づけた。末尾に「干時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」とあることから、建暦2年(1212)に記されたとされる。吉田兼好「徒然草」清少納言「枕草子」とあわせ日本三大随筆とも呼ばれる。  

行(ゆ)く川の流れは絶えずして、しかももと(本)の水にあらず。淀(よど)みに浮ぶうたかた(泡沫)は、かつ消えかつ結びて、久しく止(とゞ)まる事なし。世の中にある人と住家(すみか)と、またかくの如し。
玉敷(たましき)の都の中に、棟(むね)を竝(なら)べ甍(いらか)を爭へる、尊(たか)き卑しき人の住居(すまい)は、代々(よよ)を經て盡きせぬものなれど、これをまこと(真)かと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或(ある)は、去年(こぞ)焼けて今年は造り、あるは、大家(おおいえ)滅びて小家(こいえ)となる。住む人も、これにおなじ。處もかはらず、人も多かれど、いにしへ(古)見し人は、二・三十人が中に、僅(わず)かに一人・二人なり。
朝(あした)に死し、夕(ゆうべ)に生るゝならひ(習い)、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より來りて、何方へか去る。また知らず、假の宿り、誰(た)がために心をなやまし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主人(あるじ)と住家と、無常を爭ふさま、いはば、朝顔の露に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は萎みて露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。
世の不思議一(安元の大火)
予(われ)、物の心を知りしよりこのかた、四十年(よそぢ)あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ること、やゝ度々(たびたび)になりぬ。
去(い)ぬる安元(あんげん)三年四月(うづき)二十八日かとよ。風烈しく吹きて、靜かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の巽(たつみ)より、火出で來りて、乾(いぬい)に至る。はてには朱雀門・大極殿・大學寮・民部省まで移りて、一夜(ひとよ)が中(うち)に、塵灰(ぢんかい)となりにき。
火元は、樋口富小路とかや。舞人(まいびと)を宿せる假屋より、出で來たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く、末廣になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き邊(あた)りは、ひたすら焔を地に吹きつけたり。空には、灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なるなかに、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一・二町を越えつゝ移り行く。その中の人、現心(うつしごころ)あらむや。
或(ある)は、煙にむせびて倒れ伏し、或は、焔にまぐれて、忽ちに死ぬ。あるは、身一つ辛くして遁れたれども、資材を取り出づるに及ばず、七珍萬寶(しっちんまんぽう)、さながら灰燼(かいじん)となりにき。その費(ついえ)いくそばくぞ。このたび、公卿の家、十六燒けたり。まして、その外は数え知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者、數千人、馬・牛の類、邊際(へんさい)を知らず。
人の營み、みな(皆)愚かなるなかに、さしも危き京中の家をつくるとて、寶を費し、心を悩ますことは、勝れてあぢきなくぞ侍る。
世の不思議二(治承の辻風)
また、治承四年卯月の頃、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで、吹きける事侍りき。
三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら、平に倒れたるもあり。桁・柱ばかり、殘れるもあり。門を吹き放ちて、四・五町が外に置き、又、垣を吹き拂ひて、鄰と一つになせり。いはんや、家の内の寶、數を盡して空にあがり、檜皮(ひはた)・葺板(ふきいた)の類、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。
塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりとよむほどに、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業(ごう)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覺ゆる。家の損亡せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身を害(そこな)ひて、かたはづける人、數を知らず。この風、坤(ひつじさる)の方に移り行きて、多くの人の歎きをなせり。
「辻風は常に吹くものなれど、かゝることやある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしか」などぞ、疑ひ侍りし。
世の不思議三(福原遷都)
又、おなじ年の六月(みなづき)の頃、俄に都(みやこ)、遷(うつ)り侍りき。いと、思ひの外なりし事なり。大方、この京のはじめを聞けば、嵯峨天皇の御時、都と定まりにけるより後、既に數百歳を經たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、やす(安)からず。愁へあへるさま、ことわり(理)にも過ぎたり。
されど、とかくいふかひなくて、御門(みかど)より始め奉りて、大臣・公卿、皆ことごとく移りたまひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人、誰かひとり、故郷に殘り居らむ。官・位に思ひをかけ、主君の蔭をたのむ程の人は、「一日なりとも、疾(と)く移らむ」と励む。時を失ひ、世にあまされて、期する所なき者は、愁へながらとまり居り。
軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。家は毀(こぼ)たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心、皆あらたまりて、唯(ただ)、馬・鞍をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海の所領を願ひ、東北の莊園をば好まず。
その時、おのづから事の便りありて、津の國の今の京に到れり。所の有樣を見るに、その地、狭く條里を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。波の音、常にかまびすしくて、鹽風(しおかぜ)殊(こと)にはげし。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木丸殿(きのまるどの)もかくやと、なかなか樣かはりて、優なるかたも侍りき。
日々にこぼち、川もせ(狭)に、運びくだす家、いづくに作れるにかあらん。なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。故郷は既に荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は、みな浮雲の思いをなせり。もとよりこの處に居たるものは、地を失ひて愁う。今うつり住む人は、土木の煩ひあることを嘆く。道の邊りを見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠・布衣(ほい)なるべきは、直垂(ひたたれ)を著たり。都のてぶり、忽ちに改りて、ただ鄙(ひな)びたる武士に異ならず。
世の亂るゝ瑞相(ずいそう)とか聞けるもしるく、日を經つゝ、世の中うき立ちて、人の心も治らず。民の愁へ、遂に空しからざりければ、同じ年の冬、なほこの京に歸り給ひにき。されど、毀ちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、悉(ことごと)くもとのやうにも作らず。
傳へ聞く、いにしへの賢き御代には、憐みをもて國を治め給ふ。すなはち、殿に茅(かや)を葺(ふ)きて、その軒をだに整へず、煙の乏しきを見給ふ時は、かぎりある貢物をさへゆるされき。これ、民を惠み、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
世の不思議四(養和の飢饉)
又、養和の頃とか、久しくなりて覺えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるは春・夏日でり、あるは秋・冬大風・洪水など、よからぬ事どもうち續きて、五穀悉く實らず。空しく春耕し、夏植うる營みのみありて、秋刈り、冬收むるぞめきはなし。
これによりて國々の民、あるは地を捨てて、境を出で、あるは、家をわすれて、山に住む。さまざまの御祈り始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらに其のしるしなし。京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは、田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへむ。
念じわびつゝ、樣々の寶物、かたはしより捨つるが如くすれども、更に目みたつる人もなし。たまたま易(か)ふる者は、金を輕くし、粟を重くす。乞食、道の邊べに多く、愁へ悲しぶ聲耳に滿てり。
前の年、かくの如く、辛くして暮れぬ。明くる年は、立ちなほるべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさ(勝)様に跡方なし。
世の人、皆病み死にければ、日を經つゝ、きはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。はてには、笠うち著(き)、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ伏しぬ。築地のつら、路のほとりに飢ゑ死ぬる類、數も知らず。
取り捨つるわざもなければ、臭(くさ)き香、世界にみち満ちて、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。況んや、河原などには、馬・車の行き交う道だになし。
あやしき賤(しづ)・山がつも、力盡きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家を毀(こぼ)ちて、市に出でて之を賣る。一人が持ち出でたる價、なほ一日が命を支ふるにだに及ばずとぞ。怪しき事は、かゝる薪の中に、丹つき、箔(はく)など所々に見ゆる木、相交れり。これを尋ぬれば、すべき方なき者、古寺にいたりて、佛を盜み、堂の物の具を破り取りて、わりくだけるなりけり。濁惡の世にしも生れ逢ひて、かゝる心憂きわざをなむ見侍りし。
又、いとあはれなること侍りき。さり難(がた)き女・男持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先だちて死しぬ。その故は、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふ間に、たまたま得たる食い物をも、まづ讓るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先だちける。また、母の命つきたるをも知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸ひつゝ臥せるなどもありけり。
仁和寺に、慈尊院に隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず、死ぬることを悲しみて、その首(こうべ)の見ゆるごとに、額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。人數を知らむとて、四・五兩月が程數へたりければ、京の中(うち)、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百餘りなむありける。
況んや、その前後に死ぬるもの多く、河原・白河・西の京・もろもろの邊地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸國をや。崇徳院の御位のとき、長承のころとか、かゝる例はありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりしことなり。
世の不思議五(元暦の大地震)
また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおない)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて、陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。
都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも登らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(ない)なりけりとこそ覺え侍りしか。
かくおびただしくふる事は、暫(しば)しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常に驚くほどの地震(ない)、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。
四大種(しだいしゅ)の中に、水・火・風は、常に害をなせど、大地に至りては、殊なる變をなさず。「昔、齊衡の頃とか、大地震ふりて、東大寺の佛の御頭(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、猶(なお)この度には如かず」とぞ。すなはち、人皆あぢきなき事を述べて、聊(いささ)か、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけていひ出づる人だになし。
都の生活(大原野の住家)
すべて世の中のありにくく、わが身とすみかとの、はかなくあだなる樣、又かくのごとし。いはんや、處により、身のほどに隨ひつつ、心をなやますことは、あげて數ふべからず。
もし、おのづから身かなはずして、權門のかたはらに居る者は、深く悦ぶことはあれども、大いにたのしぶにあたはず。歎きある時も、聲をあげて泣くことなし。進退やすからず。立ち居につけて、恐れをのゝく。たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし貧しくして、富める家の鄰に居るものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、諂ひつゝ出で入る。妻子・童僕の羨めるさまを見るにも、富める家のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて、時として安からず。
若し、狹き地に居れば、近く炎上ある時、その災いを遁るゝことなし。もし、邊地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。また、いきほひある者は貪慾深く、ひとり身なる者は人に輕めらる。寶あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身他の有(ゆう)なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの處をしめて、いかなるわざをしてか、暫(しば)しもこの身をやどし、玉ゆらも、心をやすむむべき。
 

わが生涯
我が身、父方の祖母の家を傳へて、久しく彼の處に住む。その後、縁かけて、身おとろへ、しのぶ方々しげかりしかど、遂に跡とむることを得ず。三十(みそじ)餘りにして、更に我が心と一つの庵(いおり)を結ぶ。これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地をつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車をやどせり。
雪ふり風吹くごとに、危うからずしもあらず。處、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。すべて、あられぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませること、三十餘年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春をむかへて家を出で、世をそむけり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず。何につけてか、執をとどめむ。空しく大原山の雲に伏して、いくそばくの春秋をなん經(へ)にける。
方丈の庵
こゝに、六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿りをつくり、老いたる蠶(かいこ)のまゆを營むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齡は年々(としどしに)かたぶき、住家は折々にせばし。その家のありさま、世の常にも似ず。廣さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。
處をおもひ定めざるが故に、地をしめて造らず。土居(つちい)を組み、うちおほひを葺きて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め造る時、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二兩。車の力をむくゆる外は、更に他の用途いらず。
いま、日野山の奧に跡をかくして後、東に三尺余りのひさしをさして、芝を折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて、障子をへだてて、阿彌陀の畫像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経を置けり。東のきはに、蕨(わらび)のほどろを敷いて、夜の床とす。西南に、竹の吊り棚をかまへて、Kき皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち和歌・管絃・往生要集ごときの抄物を入れたり。傍(かたわら)に、箏・琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆるをり箏、つぎ琵琶これなり。
方丈の庵(日野山の生活)
その處のさまをいはば、南に筧(かけい)あり。岩をたてて、水をためたり。林の木近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏(とも)しからず。名を外山(とやま)といふ。正木のかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西は晴れたり。觀念のたより、なきにしもあらず。春は、藤波を見る。紫雲(しうん)の如くにして、西方に匂ふ。夏は、郭公(ほととぎす)を聞く。かたらふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋は、ひぐらしの聲、耳に滿てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあはれむ。つもり消ゆるさま、罪障に譬(たと)へつべし。
もし、念佛ものうく、讀經まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとり居れば、口業ををさめつべし。かならず禁戒をまもるとしもなくと、境界なければ、何につけてか破らん。もし、また跡の白波に、この身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならす夕(ゆうべ)には、潯陽の江をおもひやりて、源都督の行いをならふ。
もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風樂(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝は、これ拙(つた)なけれども、人の耳を悦ばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。
また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守(やまもり)が居る所なり。彼處(かしこ)に小童あり。時々來りて、あひ訪(とぶら)ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行(ゆぎょう)す。かれは十歳、これは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或(ある)は茅花(つばな)を拔き、岩梨(いわなし)を採る。またぬかごをもり、芹を摘む。あるは裾わの田井にいたりて、落穗を拾ひて、穂組み(ほぐみ)をつくる。
もし、日うらゝかなれば、嶺に攀(よ)ぢ上(のぼ)りて、遙かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み煩ひなく、こゝろ遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎ、あるいは岩間に詣で、あるは石山を拜む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉丸の翁が跡を弔ひ、田上川を渡りて、猿丸太夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ、櫻を狩り、紅葉(もみじ)をもとめ、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家土産(いえづと)にす。
もし、夜靜かなれば、窗(まどい)の月に古人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。叢(くさむら)の螢は、遠く眞木(まき)の島の篝火(かがりび)にまがひ、曉の雨は、自ら木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかる程を知る。あるはまた、埋火(うづみび)をかきおこして、老の寢覺(ねざめ)の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の聲をあはれむにつけても、山中の景色、折につけて盡くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らん人のためには、これにしも限るべからず。
方丈の庵(閑居の思い)
おほかた、此の所に住み始めし時は、あからさまとおもひしかども、今すでに、五年を經たり。假の庵も、やゝふるさととなりて、軒には朽葉(くちば)ふかく、土居(つちい)には苔むせり。おのづから、事の便りに、都を聞けば、この山にこもり居て後、やんごとなき人のかくれ給へるも、あまた聞ゆ。まして、その數ならぬたぐひ、盡してこれを知るべからず。
たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ假の庵のみ、のどけくして恐れなし。程(ほど)狹しといへども、夜臥(ふ)す床(ゆか)あり、晝(ひる)居(い)る座あり。一身をやどすに、不足なし。寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。
すべて世の人の住家をつくるならひ、必ずしも、身の爲にせず。或は、妻子・眷屬のためにつくり、或は、親昵(しんじつ)・朋友のためにつくる。あるは、主君・師匠、および財寶・馬牛のためにさへ、是をつくる。われ今、身のためにむすべり。人のためにつくらず。ゆゑ如何(いかん)となれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。たとひ、廣くつくれりとも、誰をやどし、誰をか据えん。
それ、人の友とあるものは、富めるを貴み、ねんごろなるを先とす。かならずしも情(なさけ)あると、素直なるとをば愛せず。ただ、絲竹・花月を友とせんには如かじ。人の奴たるものは、賞罰甚しく、恩顧厚きを重くす。更に育(はぐく)み哀れむと、やすく静(しず)かなるとをば、願はず。たゞ、わが身を奴ひとするには、如かず。
いかが奴婢(ぬひ)とするとならば、もし、なすべきことあれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりやすし。もし、歩くべきことあれば、自ら歩む。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と心を惱ますには、しかず。今、一身を分ちて、二つの用をなす。手の奴(やつこ)、足の乘物、よくわが心にかなへり。心身のくるしみを知れれば、苦しむ時は休めつ。まめなれば、使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず、ものうしとても心を動かす事なし。いかに況んや、常に働くは、養生なるべし。何ぞ徒(いたず)らに、やすみ居らん。人を惱ますは、また罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。
衣食の類(たぐい)また同じ。藤の衣・麻のふすま、得るに隨ひて、肌(はだえ)をかくし、野邊の茅花(おはぎ)、峯の木の實、わづかに命をつぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔いもなし。糧(かて)乏しければ、おろそかなる報をあまくす。
すべてかやうの樂しみ、富める人に對して言ふにはあらず。たゞわが身一つにとりて、昔と今とを、なぞらふるばかりなり。
それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、象馬七珍(ぞうめしっちん)も由(よし)なく、宮殿・樓閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵(いおり)、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞がいとなれることを恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵(ぞくじん)にはする事をあはれむ。もし人、このいへることを疑はば、魚と鳥との有様(ありさま)を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居(かんきょ)の氣味もまた同じ。住まずして、誰か悟(さと)らん。
跋=結び
そもそも、一期(いちご)の月影傾きて、餘算(よさん)山の端に近し。忽ちに三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。佛の人を教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。いま草庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に著するも、障(さわ)りなるべし。いかゞ用なき樂しみを述べて、あたら時を過さん。
静かなる曉、この理を思ひつゞけて、みづから心に問ひて曰く、「世を遁れて、山林にまじはるは、心ををさめて、道を行はんがためなり。然るを、汝の姿は聖に似て、心は濁りに染(し)めり。住家は、すなはち淨名居士の跡をけがせりといへども、たもつところは、わづかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行ひにだに及ばず。もしこれ貧賤の報いの自らなやますか、はた又、妄心の至りて狂せるか?」
その時、心さらに答ふることなし。たゞ、傍(かたわら)に舌根(ぜっこん)をやとひて、不請の阿弥陀佛、兩三遍申して止みぬ。
時に建暦の二年とせ、三月(やよい)の晦日(つごもり)ごろ、桑門(とうもん)の蓮胤(れんいん)、外山の庵にしてこれをしるす。
 
 
枕草子

 

平安時代中期の女流作家、清少納言により執筆されたと伝わる随筆。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」「春曙抄」とも表記され、最古の鎌倉時代の写本前田本の蒔絵の箱には「清少納言枕草子」とある。「清少納言記」などともいった。
内容は300余の独立した章段を持つ。「虫は」「木の花は」「すさまじきもの」「うつくしきもの」に代表される「ものはづくし」の「類聚章段」をはじめ、日常生活や四季の自然を観察した「随想章段」、作者が出仕した定子皇后周辺の宮廷社会を振り返った「回想章段」(日記章段)など多彩な文章から成る。このような三種の分類は、池田亀鑑によって提唱された。
平仮名を駆使した和文の簡潔な口語体で書かれ、総じて軽妙な筆致の短編が多いが、中関白家の没落と主君・定子皇后の身にふりかかった不幸を反映して、時にかすかな感傷が交じった心情の吐露もある。作者の洗練されたセンスと、事物への鋭い観察眼が融合して、「源氏物語」の心情的な「もののあはれ」に対し、知性的な「をかし」の美世界を現出させた。  
清少納言生没年不明。平安時代中期の歌人清原元輔(908〈延喜8〉年-990〈正暦元〉年)の娘。「古今和歌集」の歌人、清原深養父(生没年不明)は曾祖父に当たる。元輔は「後撰和歌集」の撰者の一人であり、梨壺の五人とうたわれた有名な歌人であった。そうした累代の歌人の家に生まれながら、清少納言はあまり和歌が得意ではなく、むしろ漢学や仏教に対しての知識が豊かであった。元輔は、晩年に周防守・肥後守の地方官を務めており、清少納言はまさに受領の娘である。本名は不明。「清少納言」は女房名で、「清」は清原氏を表し、「少納言」は当時の習慣で夫・父・兄など親近者の官名によったと思われるが、父や兄は「少納言」は官職を経ておらず、詳細は不明。16歳で橘則光と結婚し、翌年長男則長を生んだ。則光との夫婦関係は一条朝のはじめごろまで続いていたらしいが、やがて関係がうとくなり、則光が遠江守になって赴任したことで仲が絶えたらしい。藤原実方さらには藤原棟世とも家庭を持ったと言われる。棟世との間にはのちに「小馬命婦」と呼ばれた娘をもうけている。
993(正暦4)年ごろ(清少納言は28歳くらい)から、藤原道隆の長女で一条天皇の中宮であった定子に仕え、その寵愛を受けたが、皇后となった定子は1000(長保2)年12月、25歳で亡くなった。
宮仕えを退いたのち、赤染衛門や和泉式部などと歌を贈答していたことがその歌集に見えるが、暮らしぶりの詳細は不明。晩年は洛外に住み、零落した生活を送っていたことが、中世の説話類に見える。同じ一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部(「源氏物語」の作者)と並び称させる。
本来「枕草子」の語は普通名詞であったらしく、寝具の「枕」や「枕詞」などの語を構成する「枕」と、紙を綴じ合わせた書物の形態をいう「冊子」の語からなる名詞である。したがって、書名は「枕冊子」と表記すべきだという説もある。古くは「まくらさうし」と呼ばれたらしい。
この書物が「枕草子」と呼ばれるようになった事情は、跋文に記されている。すなわち、定子の兄、藤原伊周から定子のもとに厚い冊子が献上され、定子が作者に、「これに何を書かまし。上の御前には史記という書をなむ書かせ給へる。」と仰せられたときに、作者が「枕にこそ侍らめ。」と言ったので、「さは得てよ。」と賜って、このような内容のものを書いたというのである。
ただし、このやりとりをどう解釈するかには、次のような諸説がある。
@天皇の方が「史記」(〈底〉、〈鞍褥〉)なら、こちらは「枕」(〈頭部〉、〈馬鞍〉)だという、一種の洒落・機知であるとする説。
A枕上に置く書、身近に置いて常に参照にする書。座右に置く書の意味から、中宮に関する備忘録の意味であるとする説。
B「枕言」「枕歌」の「枕」と同じで、「肝心の部分」「肝要」という意味を含んだものであったとする説。
跋文から、995(長徳元)年4月10日の中宮の父関白道隆の死、翌996(長徳2)年正月の伊周・隆家兄弟による花山院誤射事件によって、定子が宮中から里邸である二条の宮に移った時、その移転に従うことなく里に籠もったころに書かれたといわれている。この里居のときに訪ねてきた源経房が偶然この草子を見つけ、それ以後広く流布されたという。ただし、1000(長保2)年ごろまでの記事が見られ、定子の死後、宮仕えを離れた作者が、定子を喪った心の空白を埋めようと、生前の最後の幸せな日々が増補され、書き続けられていったものと考えられている。
(一段)
春は曙。やうやう白くなりゆく、山際(やまぎわ)すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ、二つなど、飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音(ね)など、いとあはれなり。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。
(二段)
頃(ころ)は
正月、三月、四五月、七月、八九月、十月、十二月。
すべてをりにつけつつ。一年ながら、をかし。
正月一日は、まいて、空の景色うらうらと珍しく、かすみこめたるに、世にありとある人は、姿容心ことにつくろひ、君をもわが身をも祝ひなどしたるさま、殊(こと)にをかし。
七日は、雪間の若菜青やかに摘み出でつつ、例はさしもさる物目近からぬ所にもてさわぎ、白馬見んとて、里人は車きよげにしたてて見にゆく。中の御門の閾ひき入るるほど、頭ども一處にまろびあひて、指櫛も落ち、用意せねば折れなどして、笑ふもまたをかし。左衞門の陣などに、殿上人あまた立ちなどして、舎人の弓ども取りて、馬ども驚かして笑ふを、僅に見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの、行きちがひたるこそをかしけれ。
いかばかりなる人、九重をかく立ち馴すらんなど思ひやらるる中にも、見るはいと狹きほどにて、舎人が顏のきぬもあらはれ、白きもののゆきつかぬ所は、誠に黒き庭に雪のむら消えたる心地して、いと見ぐるし。馬のあがり騒ぎたるも恐しく覺ゆれば、引き入られてよくも見やられず。
八日、人々よろこびして走りさわぎ、車の音も、つねよりはことに聞えてをかし。
十五日は、もちかゆの節供まゐる。かゆの木ひき隱して、家の御達、女房などのうかがふを、うたれじと用意して、常に後を心づかひしたる景色もをかしきに、いかにしてげるにかあらん、打ちあてたるは、いみじう興ありとうち笑ひたるも、いと榮々し。ねたしと思ひたる、ことわりなり。去年より新しう通ふ壻の君などの、内裏へ參るほどを、心もとなく、所につけて我はと思ひたる女房ののぞき、奧のかたにたたずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかまあなかま」と招きかくれど、君見知らず顏にて、おほどかにて居給へり。
「ここなる物とり侍らん」などいひ寄り、はしりうちて逃ぐれば、あるかぎり笑ふ。男君もにくからず愛敬づきて笑みたる、ことに驚かず、顏少し赤みてゐたるもをかし。また互に打ちて、男などをさへぞうつめる。いかなる心にかあらん、泣きはらだち、打ちつる人を呪ひ、まがまがしくいふもをかし。内裏わたりなど、やんごとなきも、今日はみな亂れて、かしこまりなし。
除目のほどなど、内裏わたりはいとをかし。雪降りこほりなどしたるに、申文もてありく。四位五位、わかやかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭白きなどが、人にとかく案内いひ、女房の局によりて、おのが身のかしこきよしなど、心をやりて説き聞するを、若き人々は眞似をし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ、啓し給へ」などいひても、得たるはよし、得ずなりぬるこそ、いとあはれなれ。
三月三日、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲きはじむる。柳など、いとをかしきこそ更なれ。それもまだ、まゆにこもりたるこそをかしけれ。廣ごりたるはにくし。花も散りたる後はうたてぞ見ゆる。
おもしろく咲きたる櫻を長く折りて、大なる花瓶にさしたるこそをかしけれ。櫻の直衣に、出袿して、客人にもあれ、御兄の公達にもあれ、そこ近くゐて物などうちいひたる、いとをかし。そのわたりに、鳥蟲のひたひつきいと美しうて飛びありく、いとをかし。
祭のころはいみじうをかし。木々のこの葉、まだ繁うはなうて、わかやかに青みたるに、霞も霧もへだてぬ空の景色の、何となくそぞろにをかしきに、少し曇りたる夕つかた、夜など、忍びたる杜鵑の、遠うそら耳かと覺ゆるまで、たどたどしきを聞きつけたらん、何ごこちかはせん。
祭近くなりて、青朽葉、二藍などのものどもおしまきつつ、細櫃の蓋に入れ、紙などにけしきばかり包みて、行きちがひもて歩くこそをかしけれ。末濃、村濃、卷染など、常よりもをかしう見ゆ。童女の頭ばかり洗ひつくろひて、形は皆痿えほころび、打ち亂れかかりたるもあるが、屐子、沓などの緒すげさせ、裏をさせなどもて騒ぎ、いつしかその日にならんと、急ぎ走り歩くもをかし。
怪しう踊りて歩く者どもの、さうぞきたてつれば、いみじく、ちやうざといふ法師などのやうに、ねりさまよふこそをかしけれ。ほどほどにつけて、親をばの女、姉などの供して、つくろひ歩くもをかし。
(三段)
ことごとなるもの
法師の詞。男女の詞。下司の詞にはかならず文字あまりしたり。
(四段)
思はん子を法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。さるは、いとたのもしきわざを、唯木のはしなどのやうに思ひたらんこそ、いといとほしけれ。精進物のあしきを食ひ、寐ぬるをも、若きは物もゆかしからん。女などのある所をも、などか忌みたるやうに、さしのぞかずもあらん。それをも安からずいふ。まして驗者などのかたは、いと苦しげなり。
御獄、熊野、かからぬ山なく歩くほどに、恐しき目も見、驗あるきこえ出できぬれば、ここかしこによばれ、時めくにつけて安げもなし。いたく煩ふ人にかかりて、物怪てうずるも、いと苦しければ、困じてうち眠れば、「ねぶりなどのみして」と咎むるも、いと所狹く、いかに思はんと。これは昔のことなり。今樣はやすげなり。
(五段)
大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、東の門は四足になして、それより御輿は入らせ給ふ。北の門より女房の車ども、陣屋の居ねば入りなんやと思ひて、髮つきわろき人も、いたくもつくろはず、寄せて下るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の筵道しきておるるに、いとにくく腹だたしけれど、いかがはせん。殿上人、地下なるも、陣に立ちそひ見るもねたし。
御前に參りて、ありつるやう啓すれば、「ここにも人は見るまじくやは。などかはさしもうち解けつる」と笑はせ給ふ。
「されど、それは皆めなれて侍れば、よくしたてて侍らんにしこそ驚く人も侍らめ。さてもかばかりなる家に、車入らぬ門やはあらん。見えば笑はん」などいふ程にしも、「これまゐらせん」とて、御硯などさしいる。
「いで、いとわろくこそおはしけれ。などてかその門狹く造りて、住み給ひけるぞ」といへば、笑ひて、「家のほど身のほどに合せて侍るなり」と答ふ。「されど門の限を、高く造りける人も聞ゆるは」といへば、「あなおそろし」と驚きて、「それは于定國がことにこそ侍るなれ。ふるき進士などに侍らずば、承り知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだに辨へられ侍る」といふ。「その御道もかしこからざめり。筵道敷きたれば、皆おち入りて騒ぎつるは」といへば、「雨の降り侍れば、實にさも侍らん。よしよし、また仰せかくべき事もぞ侍る、罷り立ち侍らん」とていぬ。「何事ぞ、生昌がいみじうおぢつるは」と問はせ給ふ。「あらず、車の入らざりつることいひ侍る」と申しておりぬ。
同じ局に住む若き人々などして、萬の事も知らず、ねぶたければ皆寢ぬ。東の對の西の廂かけてある北の障子には、かけがねもなかりけるを、それも尋ねず。家主なれば、案内をよく知りてあけてけり。あやしう涸ればみたるものの聲にて、「侍はんにはいかが」と數多たびいふ聲に、驚きて見れば、儿帳の後に立てたる燈臺の光もあらはなり。障子を五寸ばかりあけていふなりけり。いみじうをかし。更にかやうのすきずきしきわざ、ゆめにせぬものの、家におはしましたりとて、無下に心にまかするなめりと思ふもいとをかし。
わが傍なる人を起して、「かれ見給へ、かかる見えぬものあめるを」といへば、頭をもたげて見やりて、いみじう笑ふ。「あれは誰ぞ、顯證に」といへば、「あらず、家主人、局主人と定め申すべき事の侍るなり」といへば、「門の事をこそ申しつれ、障子開け給へとやはいふ」「なほその事申し侍らん、そこに侍はんはいかにいかに」といへば、「いと見苦しきこと、更にえおはせじ」とて笑ふめれば、「若き人々おはしけり」とて、ひきたてていぬる、後に笑ふこといみじ。あけぬとならば、唯まづ入りねかし。消息をするに、よかなりとは誰かはいはんと、げにをかしきに、
つとめて、御前に參りて啓すれば、「さる事も聞えざりつるを、昨夜のことに愛でて、入りにたりけるなめり。あはれ彼をはしたなく言ひけんこそ、いとほしけれ」と笑はせ給ふ。
姫宮の御かたの童女に、裝束せさすべきよし仰せらるるに、「わらはの袙の上襲は何色に仕う奉るべき」と申すを、又笑ふもことわりなり。「姫宮の御前のものは、例のやうにては惡氣に候はん。ちうせい折敷、ちうせい高杯にてこそよく候はめ」と申すを、「さてこそは、上襲著たる童女もまゐりよからめ」といふを、「猶例の人のやうに、かくないひ笑ひそ、いときすくなるものを、いとほしげに」と制したまふもをかし。
中間なるをりに、「大進ものきこえんとあり」と、人の告ぐるを聞し召して、「又なでふこといひて笑はれんとならん」と仰せらるるもいとをかし。
「行きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜の門のことを中納言に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、いかでさるべからんをりに對面して、申しうけたまはらんとなん申されつる」とて、またこともなし。一夜のことやいはんと、心ときめきしつれど、「今しづかに御局にさぶらはん」と辭していぬれば、歸り參りたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事を、さなんとまねび啓して、「わざと消息し、呼び出づべきことにもあらぬを、おのづからしづかに局などにあらんにもいへかし」とて笑へば、「おのが心地に賢しとおもふ人の譽めたるを、嬉しとや思ふとて、告げ知らするならん」とのたまはする御氣色もいとめでたし。
(六段)
うへに侍ふ御猫は、かうふり給はりて、命婦のおもととて、いとをかしければ、寵かせ給ふが、端に出でたるを、乳母の馬の命婦「あなまさなや、入り給へ」とよぶに、聞かで、日のさしあたりたるにうち眠りてゐたるを、おどすとて、「翁丸いづら、命婦のおもと食へ」といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾の内に入りぬ。朝餉の間にうへはおはします。御覽じて、いみじう驚かせ給ふ。猫は御懷に入れさせ給ひて、男ども召せば、藏人忠隆まゐりたるに、「この翁丸打ち調じて、犬島につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみて、「乳母かへてん、いとうしろめたし」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。
「あはれ、いみじくゆるぎ歩きつるものを。三月三日に、頭の辨柳のかづらをせさせ、桃の花かざしにささせ、櫻腰にささせなどして、ありかせ給ひしをり、かかる目見んとは思ひかけけんや」とあはれがる。「御膳のをりは、必むかひさぶらふに、さうざうしくこそあれ」などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬のいみじく泣く聲のすれば、なにぞの犬の、かく久しくなくにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎとぶらひに行く。
御厠人なるもの走り來て、「あないみじ、犬を藏人二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが歸りまゐりたるとて、調じ給ふ」といふ。心うのことや。翁丸なり。「忠隆實房なん打つ」といへば、制しに遣るほどに、辛うじてなき止みぬ。「死にければ門の外にひき棄てつ」といへば、あはれがりなどする夕つかた、いみじげに腫れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、「あはれ丸か、かかる犬やはこのごろは見ゆる」などいふに、翁丸と呼べど耳にも聞き入れず。
それぞといひ、あらずといひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下なるを「まづとみのこと」とて召せば參りたり。「これは翁丸か」と見せ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また翁丸と呼べば、悦びてまうで來るものを、呼べど寄りこず、あらぬなめり。それは打ち殺して、棄て侍りぬとこそ申しつれ。さるものどもの二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心うがらせ給ふ。
暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなして止みぬる。つとめて、御梳櫛にまゐり、御手水まゐりて、御鏡もたせて御覽ずれば、侍ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にかこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうちいふほどに、この寢たる犬ふるひわななきて、涙をただ落しにおとす。いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。よべは隱れ忍びてあるなりけりと、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をもうちおきて、「さは翁丸」といふに、ひれ伏していみじくなく。御前にもうち笑はせ給ふ。
人々まゐり集りて、右近内侍召して、かくなど仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにも聞し召して、渡らせおはしまして、「あさましう犬などもかかる心あるものなりけり」と笑はせ給ふ。うへの女房たちなども來りまゐり集りて呼ぶにも、今ぞ立ちうごく。なほ顏など腫れためり。「物調ぜさせばや」といへば、「終にいひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆聞きて、臺盤所のかたより、「まことにや侍らん、かれ見侍らん」といひたれば、「あなゆゆし、さる者なし」といはすれば、「さりとも終に見つくる折もはべらん、さのみもえかくさせ給はじ」といふなり。さて後畏勘事許されて、もとのやうになりにき。猶あはれがられて、ふるひなき出でたりし程こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にもいはれて泣きなどす。
(七段)
正月一日、三月三日は、いとうららかなる。
五月五日は曇りくらしたる。
七月七日は曇り、夕がたは晴れたる空に月いとあかく、星のすがた見えたる。
九月九日は、曉がたより雨少し降りて、菊の露もこちたくそぼち、おほひたる綿などもいたくぬれ、うつしの香ももてはやされたる。つとめては止みにたれど、なほ曇りて、ややもすれば、降り落ちぬべく見えたるもをかし。
(八段)
よろこび奏するこそをかしけれ。後をまかせて、笏とりて、御前の方に向ひてたてるを。拜し舞踏しさわぐよ。
(九段)
今内裏の東をば、北の陣といふ。なら木のはるかに高きを、「いく尋(ひろ)あらむ」など言ふ。権中将、「もとよりうち切りて、定澄僧都の枝扇にせばや」とのたまひしを、山階寺の別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君の出でたまへるに、高き屐子(けいし)をさへはきたれば、ゆゆしう高し。出でぬる後、「など、その枝扇をば持たせたまはぬ」と言へば、「もの忘れせぬ」と笑いたまふ。
「定澄僧都に袿(うちぎ)なし、すくせ君に袙(あこめ)なし」と言ひけむ人をこそ、をかしけれ。
今内裏の東をば、北の陣とぞいふ。楢の木の遙にたかきが立てるを、常に見て、「幾尋かあらん」などいふに、權中將の、「もとより打ちきりて、定證僧都の枝扇にせさせばや」とのたまひしを、山階寺の別當になりて、よろこび申すの日、近衞府にて、この君の出で給へるに、高き屐子をさへはきたれば、ゆゆしく高し。出でぬる後こそ、「などその枝扇はもたせ給はぬ」といへば、「ものわすれせず」と笑ひ給ふ。
(一〇段)
山は
小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。鹿背山。ひはの山。かたさり山こそ、誰に所おきけるにかと、をかしけれ。五幡山。後瀬山。笠取山。ひらの山。鳥籠の山は、わが名もらすなと、みかどのよませ給ひけん、いとをかし。伊吹山。朝倉山、よそに見るらんいとをかしき。岩田山。大比禮山もをかし、臨時の祭の使などおもひ出でらるべし。手向山。三輪の山、いとをかし。音羽山。待兼山。玉坂山。耳無山。末の松山。葛城山。美濃の御山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姨捨山。小鹽山。淺間山。かたため山。かへる山。妹背山。
(一一段)
市は
辰の市。椿市は、大和に數多ある中に、長谷寺にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、觀音の御縁あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。餝摩の市。飛鳥の市。
(一二段)
峯は
ゆづるはの峯。阿彌陀の峯。彌高の峯。
(一三段)
原は
竹原。甕の原。朝の原。その原。萩原。粟津原。奈志原。うなゐごが原。安倍の原。篠原。
(一四段)
淵は
かしこ淵、いかなる底の心を見えて、さる名をつけけんと、いとをかし。ないりその淵、誰にいかなる人の教へしならん。青色の淵こそまたをかしけれ。藏人などの身にしつべくて。いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。玉淵。
(一五段)
海は
水うみ。與謝の海。かはぐちの海。伊勢の海。
(一六段)
山陵は
うぐひすの陵。柏原の陵。あめの陵。
(一七段)
わたり(渡)は
しかすがの渡。みつはしの渡。こりずまの渡。
(一八段)
館(*太刀)は
玉造り。
(一九段)
家は
近衞の御門。二條。一條もよし。
染殿の宮。清和院。菅原の院。冷泉院。朱雀院。とうゐん。小野宮。紅梅。縣の井戸。東三條。小六條。小一條。
(二〇段)
清涼殿のうしとらの隅の北のへだてなる御障子には、荒海の繪、生きたるものどものおそろしげなる、手長足長をぞ書かれたる。うへの御局の戸、押しあけたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふほどに、
高欄のもとに、青き瓶の大なる据ゑて、櫻のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄のもとまでこぼれ咲きたるに、ひるかつた、大納言殿、櫻の直衣の少しなよらかなるに、濃き紫の指貫、白き御衣ども、うへに濃き綾の、いとあざやかなるを出して參り給へり。うへのこなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷に居給ひて、ものなど奏し給ふ。
御簾のうちに、女房櫻の唐衣どもくつろかにぬぎ垂れつつ、藤山吹などいろいろにこのもしく、あまた小半蔀の御簾より押し出でたるほど、晝御座のかたに御膳まゐる。足音高し。けはひなど、をしをしといふ聲聞ゆ。うらうらとのどかなる日の景色いとをかしきに、終の御飯もたる藏人參りて、御膳奏すれば、中の戸より渡らせ給ふ。
御供に大納言參らせ給ひて、ありつる花のもとに歸り居給へり。宮の御前の御儿帳押しやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、唯何事もなく萬にめでたきを、さぶらふ人も、思ふことなき心地するに、月も日もかはりゆけどもひさにふるみ室の山のといふ故事を、ゆるるかにうち詠み出して居給へる、いとをかしと覺ゆる。げにぞ千歳もあらまほしげなる御ありさまなるや。
陪膳つかうまつる人の、男どもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ。「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにのみにて、唯おはしますをのみ見奉れば、ほど遠き目も放ちつべし。白き色紙おしたたみて、「これに只今覺えん故事、一つづつ書け」と仰せらるる。外に居給へるに、「これはいかに」と申せば、「疾く書きて參らせ給へ、男はことくはへ侍ふべきにもあらず」とて、御硯とりおろして、「とくとくただ思ひめぐらさで、難波津も何もふと覺えん事を」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて面さへ赤みてぞ思ひみだるるや。春の歌、花の心など、さいふいふも、上臈二つ三つ書きて、これにとあるに、
年經れば齡は老いぬしかはあれど花をし見れは物おもひもなし
といふことを、君をし見ればと書きなしたるを御覽じて、「唯このこころばへどもの、ゆかしかりつるぞ」と仰せらる。ついでに、「圓融院の御時、御前にて、草紙に歌一つ書けと、殿上人に仰せられけるを、いみじう書きにくく、すまひ申す人々ありける。更に手の惡しさ善さ、歌の折にあはざらんをも知らじと仰せられければ、わびて皆書きける中に、ただいまの關白殿の、三位の中將と聞えけるとき、
しほのみついづもの浦のいつもいつも君をばふかくおもふはやわが
といふ歌の末を、たのむはやわがと書き給へりけるをなん、いまじくめでさせ給ひける」と仰せらるるも、すずろに汗あゆる心地ぞしける。若からん人は、さもえ書くまじき事のさまにやとぞ覺ゆる。例いとよく書く人も、あいなく皆つつまれて、書きけがしなどしたるもあり。
古今の草紙を御前に置かせ給ひて、歌どもの本を仰せられて、「これが末はいかに」と仰せらるるに、すべて夜晝心にかかりて、おぼゆるもあり。げによく覺えず、申し出でられぬことは、いかなることぞ。宰相の君ぞ十ばかり。それもおぼゆるかは。まいて五つ六つなどは、ただ覺えぬよしをぞ啓すべけれど、「さやはけ惡くく、仰事をはえなくもてなすべき」といひ口をしがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがて詠みつづけさせ給ふを、さてこれは皆知りたる事ぞかし。「などかく拙くはあるぞ」といひ歎く中にも、古今あまた書き寫しなどする人は、皆覺えぬべきことぞかし。
「村上の御時、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一條の左大臣殿の御女におはしましければ、誰かは知り聞えざらん。まだ姫君におはしける時、父大臣の教へ聞えさせ給ひけるは、一つには御手を習ひ給へ、次にはきんの御琴を、いかで人にひきまさらんとおぼせ、さて古今の歌二十卷を、皆うかべさせ給はんを、御學問にはさせたまへとなん聞えさせ給ひけると、きこしめしおかせ給ひて、御物忌なりける日、古今をかくして、持てわたらせ給ひて、例ならず御几帳をひきたてさせ給ひければ、女御あやしとおぼしけるに、御草紙をひろげさせたまひて、その年その月、何のをり、その人の詠みたる歌はいかにと、問ひきこえさせたまふに、かうなりと心得させたまふもをかしきものの、ひがおぼえもし、わすれたるなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなく思し亂れぬべし。そのかたおぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して數を置かせ給はんとて、聞えさせ給ひけんほど、いかにめでたくをかしかりけん。
御前に侍ひけん人さへこそ羨しけれ。せめて申させ給ひければ、賢しうやがて末までなどにはあらねど、すべてつゆ違ふ事なかりけり。いかでなほ少しおぼめかしく、僻事見つけてを止まんと、ねたきまで思しける。十卷にもなりぬ。更に不用なりけりとて、御草紙に夾算して、みとのごもりぬるもいとめでたしかし。いと久しうありて起きさせ給へるに、なほこの事左右なくて止まん、いとわろかるべしとて、下の十卷を、明日にもならば他をもぞ見給ひ合するとて、今宵定めんと、おほとなぶら近くまゐりて、夜更くるまでなんよませ給ひける。されど終に負け聞えさせ給はずなりにけり。
うへ渡らせ給ひて後、かかる事なんと、人々殿に申し奉りければ、いみじう思し騒ぎて、御誦經など數多せさせ給ひて、そなたに向ひてなん念じ暮させ給ひけるも、すきずきしくあはれなる事なり」など語り出させ給ふ。うへも聞しめして、めでさせ給ひ、「いかでさ多くよませ給ひけん、われは三卷四卷だにもえよみはてじ」と仰せらる。「昔はえせものも皆數寄をかしうこそありけれ。このごろかやうなる事やは聞ゆる」など、御前に侍ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど參りて、口々いひ出でなどしたる程は、誠に思ふ事なくこそ覺ゆれ。
 

 

(二一段)
おひさきなく、まめやかに、えせさいはひなど見てゐたらん人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、猶さりぬべからん人の女などは、さしまじらはせ、世の中の有樣も見せならはさまほしう、内侍などにても暫時あらせばやとこそ覺ゆれ。
宮仕する人をば、あはあはしうわろきことに思ひゐたる男こそ、いとにくけれ。げにそもまたさる事ぞかし。かけまくも畏き御前を始め奉り、上達部、殿上人、四位、五位、六位、女房は更にもいはず、見ぬ人は少くこそはあらめ。女房の從者ども、その里より來るものども、長女、御厠人、たびしかはらといふまで、いつかはそれを耻ぢかくれたりし。殿ばらなどは、いとさしもあらずやあらん。
それもある限は、さぞあらん。うへなどいひてかしづきすゑたるに、心にくからず覺えん理なれど、内侍のすけなどいひて、をりをり内裏へ參り、祭の使などに出でたるも、おもだたしからずやはある。さて籠りゐたる人はいとよし。受領の五節など出すをり、さりともいたうひなび、見知らぬ他人に問ひ聞きなどはせじと、心にくきものなり。
(二二段)
すさまじきもの
晝ほゆる犬。春の網代。三四月の紅梅のきぬ。嬰兒のなくなりたる産屋。火おこさぬ火桶、すびつ。牛にくみたる牛飼。博士のうちつづきに女子うませたる。方違にゆきたるにあるじせぬ所。まして節分はすさまじ。
人の國よりおこせたる文の物なき。京のをもさこそは思ふらめども、されどそれはゆかしき事をも書きあつめ、世にある事を聞けばよし。人の許にわざと清げに書きたててやりつる文の、返事見ん、今は來ぬらんかしとあやしく遲きと待つほどに、ありつる文の結びたるもたて文も、いときたなげに持ちなしふくだめて、うへにひきたりつる墨さへ消えたるをおこせたりけり。「おはしまさざりけり」とも、もしは「物忌とて取り入れず」などいひてもて歸りたる、いとわびしくすさまじ。
またかならず來べき人の許に、車をやりて待つに、入り來る音すれば、さななりと人々出でて見るに、車やどりに入りて、轅ほうとうち下すを、「いかなるぞ」と問へば、「今日はおはしまさず、渡り給はず」とて、牛のかぎりひき出でていぬる。
また家動りてとりたる壻の來ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕する許やりて、いつしかと思ふも、いと本意なし。兒の乳母の唯あからさまとて往ぬるを、もとむれば、とかくあそばし慰めて、「疾く來」といひ遣りたるに、「今宵はえ參るまじ」とて返しおこせたる、すさまじきのみにもあらず、にくさわりなし。女などむかふる男、ましていかならん。待つ人ある所に、夜少し更けて、しのびやかに門を叩けば、胸少し潰れて、人出して問はするに、あらぬよしなきものの名のりしてきたるこそ、すさまじといふ中にも、かへすがへすすさまじけれ。
驗者の物怪調ずとて、いみじうしたりがほに、獨鈷や珠數などもたせて、せみ聲にしぼり出し讀み居たれど、いささか退氣もなく、護法もつかねば、集めて念じゐたるに、男も女も怪しと思ふに、時のかはるまで讀みこうじて、「更につかず、たちね」とて珠數とりかへして、あれと「驗なしや」とうちいひて、額より上ざまに頭さぐりあげて、あくびを己うちして、よりふしぬる。
除目に官得ぬ人の家、今年はかならずと聞きて、はやうありし者どもの、外々なりつる、片田舎に住む者どもなど、皆集り來て、出で入る車の轅もひまなく見え、物まうでする供にも、われもわれもと參り仕うまつり、物食ひ酒飮み、ののしりあへるに、はつる曉まで門叩く音もせず。「怪し」など耳立てて聞けば、さきおふ聲して上達部など皆出で給ふ。ものききに、宵より寒がりわななき居りつるげす男など、いと物うげに歩み來るを、をるものどもは、とひだにもえ問はず。外よりきたる者どもなどぞ、「殿は何にかならせ給へる」など問ふ。答には、「何の前司にこそは」と、必いらふる。まことに頼みける者は、いみじう歎かしと思ひたり。翌朝になりて、隙なくをりつる者も、やうやう一人二人づつすべり出でぬ。ふるきものの、さもえ行き離るまじきは、來年の國々を手を折りて數へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いみじういとほしう、すさまじげなり。
よろしう詠みたりと思ふ歌を、人の許に遣りたるに返しせぬ。懸想文はいかがせん、それだにをりをかしうなどある返事せぬは、心おとりす。又さわがしう時めかしき處に、うちふるめきたる人の、おのがつれづれと暇あるままに、昔覺えて、ことなる事なき歌よみして遣せたる。物のをりの扇、いみじと思ひて、心ありと知りたる人にいひつけたるに、その日になりて、思はずなる繪など書きてえたる。
産養、馬餞などの使に、禄などとらせぬ。はかなき藥玉、卯槌などもてありく者などにも、なほ必とらすべし。思ひかけぬことに得たるをば、いと興ありと思ふべし。これはさるべき使ぞと、心ときめきして來るに、ただなるは、誠にすさまじきぞかし。
壻とりて、四五年までうぶやのさわぎせぬ所。おとななる子どもあまた、ようせずば、孫などもはひありきぬべき人の親どちの晝寢したる。傍なる子どもの心地にも、親のひるねしたるは、よりどころなくすさまじくぞあるべき。寢起きてあぶる湯は、腹だたしくさへこそ覺ゆれ。十二月の晦日のなが雨、一日ばかりの精進の懈怠とやいふべからん。八月のしらがさね。乳あへずなりぬる乳母。
(二三段)
たゆまるるもの
精進の日のおこなひ。日遠きいそぎ。寺に久しくこもりたる。
(二四段)
人にあなづらるるもの
家の北おもて。あまり心よしと人に知られたる人。年老いたるおきな。又あはあはしき女。築土のくづれ。
(二五段)
にくきもの
急ぐ事あるをりに長言する客人。あなづらはしき人ならば、「後に」などいひても追ひやりつべけれども、さすがに心はづかしき人、いとにくし。
硯に髮の入りてすられたる。また墨の中に石こもりて、きしきしときしみたる。俄にわづらふ人のあるに、驗者もとむるに、例ある所にはあらで、外にある、尋ねありくほどに、待遠にひさしきを、辛うじて待ちつけて、悦びながら加持せさするに、このごろ物怪に困じにけるにや、ゐるままに即ねぶり聲になりたる、いとにくし。
何でふことなき人の、すずろにえがちに物いたういひたる。火桶すびつなどに、手のうらうちかへし、皺おしのべなどしてあぶりをるもの。いつかは若やかなる人などの、さはしたりし。老ばみうたてあるものこそ、火桶のはたに足をさへもたげて、物いふままに、おしすりなどもするらめ。さやうのものは、人のもとに來てゐんとする所を、まづ扇して塵拂ひすてて、ゐも定まらずひろめきて、狩衣の前、下ざまにまくり入れてもゐるかし。かかることは、いひがひなきものの際にやと思へど、少しよろしき者の式部大夫、駿河前司などいひしがさせしなり。
また酒飮みて、赤き口を探り、髯あるものはそれを撫でて、盃人に取らするほどのけしき、いみじくにくしと見ゆ。また「飮め」などいふなるべし、身ぶるひをし、頭ふり、口わきをさへひきたれて、「わらはべのこうどのに參りて」など、謠ふやふにする。それはしも誠によき人のさし給ひしより、心づきなしと思ふなり。
物うらやみし、身のうへなげき、人のうへいひ、露ばかりの事もゆかしがり、聞かまほしがりて、いひ知らぬをば怨じそしり、又わづかに聞きわたる事をば、われもとより知りたる事のやうに、他人にも語りしらべいふも、いとにくし。物聞かんと思ふほどに泣く兒。烏の集りて飛びちがひ鳴きたる。忍びて來る人見しりて吠ゆる犬は、うちも殺しつべし。さるまじうあながちなる所に、隱し伏せたる人の、鼾したる。又密に忍びてくる所に、長烏帽子して、さすがに人に見えじと惑ひ出づるほどに、物につきさはりて、そよろといはせたる、いみじうにくし。
伊豫簾など懸けたるをうちかつぎて、さらさらとならしたるも、いとにくし。帽額の簾はましてこはき物のうちおかるる、いとしるし。それもやをら引きあげて出入するは、更に鳴らず。又遣戸など荒くあくるも、いとにくし。少しもたぐるやうにて開くるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもたをめかし、こほめくこそしるけれ。
ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊のほそ聲になのりて、顏のもとに飛びありく、羽風さへ身のほどにるこそ、いとにくけれ。
きしめく車に乘りて歩くもの、耳も聞かぬにやあらんと、いとにくし。わが乘りたるは、その車のぬしさへにくし。物語などするに、さし出でてわれひとり才まぐるもの。すべてさし出は、童も大人もいとにくし。昔物語などするに、われ知りたりけるは、ふと出でていひくたしなどする、いとにくし。鼠の走りありく、いとにくし。
あからさまにきたる子ども童をらうたがりて、をかしき物など取らするに、ならひて、常に來て居入りて、調度やうち散らしぬる、にくし。
家にても宮仕所にても、逢はでありなんと思ふ人の來るに、虚寐をしたるを、わが許にあるものどもの起しによりきては、いぎたなしと思ひ顏に、ひきゆるがしたるいとにくし。新參のさしこえて、物しり顏にをしへやうなる事いひ、うしろみたる、いとにくし。
わが知る人にてあるほど、はやう見し女の事、譽めいひ出しなどするも、過ぎてほど經にけれど、なほにくし、ましてさしあたりたらんこそ思ひやらるれ。されどそれは、さしもあらぬやうもありかし。
はなひて誦文する人。大かた家の男しうならでは、高くはなひたるもの、いとにくし。
蚤もいとにくし。衣の下にをどりありきて、もたぐるやうにするも、また犬のもろ聲に長々となきあげたる。まがまがしくにくし。
(二六段)
心ときめきするもの
雀のこがひ。兒あそばする所の前わたりたる。
よき薫物たきて一人臥したる。唐鏡の少しくらき見たる。よき男の車とどめて物いひ案内せさせたる。
頭洗ひ化粧じて、香にしみたる衣著たる。殊に見る人なき所にても、心のうちはなほをかし。待つ人などある夜、雨の脚、風の吹きゆるがすも、ふとぞおどろかるる。
(二七段)
すぎにしかたのこひしきもの
枯れたる葵。雛あそびの調度。
二藍、葡萄染などのさいでの、おしへされて、草紙の中にありけるを見つけたる。また折からあはれなりし人の文、雨などの降りて徒然なる日さがし出でたる。
去年のかはぼり。月のあかき夜。
(二八段)
こころゆくもの
よくかいたる女繪の詞をかしうつづけておほかる。物見のかへさに乘りこぼれて、男どもいと多く、牛よくやるものの車走らせたる。白く清げなる檀紙に、いとほそう書くべくはあらぬ筆して文書きたる。川船のくだりざま。齒黒のよくつきたる。重食に丁多くうちたる。うるはしき糸のねりあはせぐりしたる。
物よくいふ陰陽師して、河原に出でてずその祓したる。夜寢起きて飮む水。
徒然なるをりに、いとあまり睦しくはあらず、踈くもあらぬ賓客のきて、世の中の物がたり、この頃ある事の、をかしきも、にくきも、怪しきも、これにかかり、かれにかかり、公私おぼつかなからず、聞きよきほどに語りたる、いと心ゆくここちす。
社寺などに詣でて物申さするに、寺には法師、社には禰宜などやうのものの、思ふほどよりも過ぎて、滯なく聞きよく申したる。
(二九段)
檳榔毛はのどやかにやりたる。急ぎたるは輕々しく見ゆ。
網代は走らせたる。人の門より渡りたるを、ふと見るほどもなく過ぎて、供の人ばかり走るを、誰ならんと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると久しく行けばいとわろし。
牛は額いとちひさく白みたるが、腹のした、足のしも、尾のすそ白き。馬は紫の斑づきたる。蘆毛。いみじく黒きが、足肩のわたりなどに、白き處、うす紅梅の毛にて、髮尾などもいとしろき、實にゆふかみともいひつべき。牛飼は大にて、髮赤白髮にて、顏の赤みてかどかどしげなる。雜色隨身はほそやかなる。よき男も、なほ若きほどは、さるかたなるぞよき。いたく肥えたるは、ねぶたからん人と思はる。小舎人はちひさくて、髮のうるはしきが、すそさわらかに、聲をかしうて、畏りて物などいひたるぞ、りやうりやうじき。猫はうへのかぎり黒くて、他はみな白からん。
(三〇段)
説經師は顏よき、つとまもらへたるこそ、その説く事のたふとさも覺ゆれ。外目しつればふと忘るるに、にくげなるは罪や得らんと覺ゆ。この詞はとどむべし。少し年などのよろしきほどこそ、かやうの罪はえがたの詞かき出でけめ。今は罪いとおそろし。
又たふときこと、道心おほかりとて、説經すといふ所に、最初に行きぬる人こそ、なほこの罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。
藏人おりたる人、昔は、御前などいふこともせず、その年ばかり、内裏あたりには、まして影も見えざりける。今はさしもあらざめる。藏人の五位とて、それをしもぞ忙しうつかへど、なほ名殘つれづれにて、心一つは暇ある心地ぞすべかめれば、さやうの所に急ぎ行くを、一たび二たび聞きそめつれば、常にまうでまほしくなりて、夏などのいとあつきにも、帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫などふみちらしてゐためり。烏帽子にもの忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えんとにや。
いそぎ來てその事するひじりと物語して、車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などの、まうで逢ひたる、めづらしがりて、近くゐより物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇ひろうひろげて、口にあてて笑ひ、裝束したる珠數かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、經供養などいひくらべゐたるほどに、この説經の事もきき入れず。なにかは、常に聞くことなれば、耳馴れて、めづらしう覺えぬにこそはあらめ。
さはあらで講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりも輕げなる直衣、指貫、すずしのひとへなど著たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍のもの又さばかりして入れば、もとゐたりつる人も、少しうち身じろきくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに珠數おしもみなどして、伏し拜みゐたるを、講師もはえばえしう思ふなるべし、いかで語り傳ふばかりと説き出でたる、
聽問すなど、立ち騒ぎぬかづくほどにもなくて、よきほどにて立ち出づとて、車どものかたなど見おこせて、われどちいふ事も何事ならんと覺ゆ。見知りたる人をば、をかしと思ひ、見知らぬは、誰ならん、それにや彼にやと、目をつけて思ひやらるるこそをかしけれ。
説經しつ、八講しけりなど人いひ傳ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など定りていはれたる、あまりなり。などかは無下にさしのぞかではあらん。あやしき女だに、いみじく聞くめるものをば。さればとて、はじめつかたは徒歩する人はなかりき。たまさかには、つぼ裝束などばかりして、なまめきけさうじてこそありしか。それも物詣をぞせし。説經などは殊に多くも聞かざりき。この頃その折さし出でたる人の、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
(三一段)
菩提といふ寺に結縁八講せしが、聽きにまうでたるに、人のもとより疾く歸り給え、いとさうざうしといひたれば、蓮のはなびらに、
もとめてもかかる蓮の露をおきてうき世にまたは歸るものかは
と書きてやりつ。誠にいとたふとくあはれなれば、やがてとまりぬべくぞ覺ゆる。さうちうが家の人のもどかしさも忘れぬべし。
(三二段)
小白川といふ所は、小一條の大將の御家ぞかし。それにて上達部、結縁の八講し給ふに、いみじくめでたき事にて、世の中の人の集り行きて聽く。遲からん車はよるべきやうもなしといへば、露と共に急ぎ起きて、實にぞひまなかりける。轅の上に又さし重ねて、三つばかりまでは、少し物も聞ゆべし。
六月十日餘にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮を見やるのみぞ、少し涼しき心地する。左右の大臣たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍の直衣指貫、淺黄の帷子をぞすかし給へる。少しおとなび給へるは、青にびのさしぬき、白き袴もすずしげなり。安親の宰相なども若やぎだちて、すべてたふときことの限にもあらず、をかしき物見なり。
廂の御簾高くまき上げて、長押のうへに上達部奧に向ひて、ながながと居給へり。そのしもには殿上人、わかき公達、かりさうぞく直衣なども、いとをかしくて、居もさだまらず、ここかしこに立ちさまよひ、あそびたるもいとをかし。實方の兵衞佐、長明の侍從など、家の子にて、今すこしいでいりなれたり。まだ童なる公達など、いとをかしうておはす。
少し日たけたるほどに、三位中將とは關白殿をぞ聞えし、香の羅、二藍の直衣、おなじ指貫、濃き蘇枋の御袴に、張りたる白き單衣のいとあざやかなるを著給ひて、歩み入り給へる、さばかりかろび涼しげなる中に、あつかはしげなるべけれど、いみじうめでたしとぞ見え給ふ。細塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を同じなみにうちつかひ持ち給へるは、瞿麥のいみじう咲きたるにぞ、いとよく似たる。
まだ講師ものぼらぬほどに、懸盤どもして、何にかはあらん物まゐるべし。義懷の中納言の御ありさま、常よりも勝りて清げにおはするさまぞ限なきや。上達部の御名など書くべきにもあらぬを。誰なりけんと、少しほど經れば、色あひはなばなといみじく、匂あざやかに、いづれともなき中の帷子を、これはまことに、ただ直衣一つを著たるやうにて、常に車のかたを見おこせつつ、物などいひおこせ給ふ。をかしと見ぬ人なかりけんを、
後にきたる車の隙もなかりければ、池にひき寄せてたてたるを見給ひて、實方の君に、「人の消息つきづきしくいひつべからんもの一人」と召せば、いかなる人にかあらん、選りて率ておはしたるに、「いかがいひ遣るべき」と、近く居給へるばかりいひ合せて、やり給はん事は聞えず。いみじくよそひして、車のもとに歩みよるを、かつは笑ひ給ふ。後のかたによりていふめり。久しく立てれば、「歌など詠むにやあらん、兵衞佐返しおもひまうけよ」など笑ひて、いつしか返事聞かんと、おとな上達部まで、皆そなたざまに見やり給へり。實に顯證の人々まで見やりしもをかしうありしを、
返事ききたるにや、すこし歩みくるほどに、扇をさし出でて呼びかへせば、歌などの文字をいひ過ちてばかりこそ呼びかへさめ。久しかりつるほどに、あるべきことかは、なほすべきにもあらじものをとぞ覺えたる。近く參りつくも心もとなく、「いかにいかに」と誰も問ひ給へどもいはず。權中納言見給へば、そこによりてけしきばみ申す。三位中將、「疾くいへ、あまり有心すぎてしそこなふな」との給ふに、「これも唯おなじ事になん侍る」といふは聞ゆ。藤大納言は人よりもけにのぞきて、「いかがいひつる」との給ふめれば、三位中將、「いとなほき木をなん押し折りためる」と聞え給ふに、うち笑ひ給へば、皆何となくさと笑ふ聲、聞えやすらん。
中納言「さて呼びかへされつるさきには、いかがいひつる、これやなほしたること」と問ひ給へば、「久しうたちて侍りつれども、ともかくも侍らざりつれば、さは參りなんとてかへり侍るを、呼びて」とぞ申す。「誰が車ならん、見知りたりや」などのたまふ程に、講師ののぼりぬれば、皆居しづまりて、そなたをのみ見る程に、この車はかいけつやうにうせぬ。下簾など、ただ今日はじめたりと見えて、濃きひとへがさねに、二藍の織物、蘇枋の羅のうはぎなどにて、しりにすりたる裳、やがて廣げながらうち懸けなどしたるは、何人ならん。何かは、人のかたほならんことよりは、實にと聞えて、なかなかいとよしとぞ覺ゆる。
朝座の講師清範、高座のうへも光滿ちたる心地して、いみじくぞあるや。暑さのわびしきにそへて、しさすまじき事の、今日すぐすまじきをうち置きて、唯少し聞きて歸りなんとしつるを、敷竝に集ひたる車の奧になんゐたれば、出づべきかたもなし。朝の講はてなば、いかで出でなんとて、前なる車どもに消息すれば、近くたたんうれしさにや、はやばやと引き出であけて出すを見給ふ。いとかしがましきまで人ごといふに、老上達部さへ笑ひにくむを、ききも入れず、答もせで狹がり出づれば、權中納言「ややまかりぬるもよし」とて、うち笑ひ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑ひ出でて、人して、「五千人の中には入らせ給はぬやうもあらじ」と聞えかけて歸り出でにき。
そのはじめより、やがてはつる日までたてる車のありけるが、人寄り來とも見えず、すべてただあさましう繪などのやうにて過しければ、「ありがたく、めでたく、心にくく、いかなる人ならん、いかで知らん」と問ひけるを聞き給ひて、藤大納言、「何かめでたからん、いとにくし、ゆゆしきものにこそあなれ」とのたまひけるこそをかしけれ。
さてその二十日あまりに、中納言の法師になり給ひにしこそあはれなりしか。櫻などの散りぬるも、なほ世の常なりや。老を待つまのとだにいふべくもあらぬ御有樣にこそ見え給ひしか。
(三三段)
七月ばかり、いみじくあつければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、月のころは寐起きて見いだすもいとをかし。闇もまたをかし。有明はたいふもおろかなり。
いとつややかなる板の端近う、あざやかなる疊一枚かりそめにうち敷きて、三尺の儿帳、奧のかたに押しやりたるぞあぢきなき。端にこそ立つべけれ、奧のうしろめたからんよ。
人は出でにけるなるべし。薄色のうらいと濃くて、うへは少しかへりたるならずは、濃き綾のつややかなるが、いたくはなえぬを、かしらこめてひき著てぞねためる。香染のひとへ、紅のこまやかなるすずしの袴の、腰いと長く衣の下よりひかれたるも、まだ解けながらなめり。傍のかたに髮のうちたたなはりてゆららかなるほど、長き推しはかられたるに、又いづこよりにかあらん、朝ぼらけのいみじう霧滿ちたるに、二藍の指貫、あるかなきかの香染の狩衣、白きすずし、紅のいとつややかなるうちぎぬの、霧にいたくしめりたるをぬぎ垂れて、鬢の少しふくだみたれば、烏帽子の押し入れられたるけしきもしどけなく見ゆ。
朝顏の露落ちぬさきに文書かんとて、道のほども心もとなく、おふの下草など口ずさびて、わがかたへ行くに、格子のあがりたれば、御簾のそばをいささかあげて見るに、起きていぬらん人もをかし。露をあはれと思ふにや、しばし見たれば、枕がみのかたに、朴に紫の紙はりたる扇、ひろごりながらあり。檀紙の疊紙のほそやかなるが、花か紅か、少しにほひうつりたるも儿帳のもとに散りぼひたる。
人のけはひあれば、衣の中より見るに、うち笑みて長押におしかかりゐたれば、はぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬるかなと思ふ。「こよなき名殘の御あさいかな」とて、簾の中に半ばかり入りたれば、「露よりさきなる人のもどかしさに」といらふ。をかしき事とりたてて書くべきにあらねど、かく言ひかはすけしきどもにくからず。
枕がみなる扇を、我もちたるしておよびてかき寄するが、あまり近う寄りくるにやと心ときめきせられて、今少し引き入らるる。取りて見などして、疎くおぼしたる事などうちかすめ恨みなどするに、あかうなりて、人の聲々し、日もさし出でぬべし。霧の絶間見えぬほどにと急ぎつる文も、たゆみぬるこそうしろめたけれ。
でぬる人も、いつの程にかと見えて、萩の露ながらあるにつけてあれど、えさし出でず。香のかのいみじうしめたる匂いとをかし。あまりはしたなき程になれば、立ち出でて、わがきつる處もかくやと思ひやらるるもをかしかりぬべし。
(三四段)
木の花は
梅の濃くも薄くも紅梅。
櫻の花びらおほきに、葉色こきが、枝ほそくて咲きたる。藤の花、しなひ長く色よく咲きたる、いとめでたし。卯の花は品おとりて何となけれど、咲く頃のをかしう、杜鵑のかげにかくるらんと思ふにいとをかし。祭のかへさに、紫野のわたり近きあやしの家ども、おどろなる垣根などに、いと白う咲きたるこそをかしけれ。青色のうへに白き單襲かづきたる、青朽葉などにかよひていとをかし。
四月のつごもり、五月のついたちなどのころほひ、橘の濃くあをきに、花のいとしろく咲きたるに、雨のふりたる翌朝などは、世になく心あるさまにをかし。花の中より、實のこがねの玉かと見えて、いみじくきはやかに見えたるなど、あさ露にぬれたる櫻にも劣らず、杜鵑のよすがとさへおもへばにや、猶更にいふべきにもあらず。
梨の花、世にすさまじく怪しき物にして、目にちかく、はかなき文つけなどだにせず、愛敬おくれたる人の顏など見ては、たとひにいふも、實にその色よりしてあいなく見ゆるを、唐土にかぎりなき物にて、文にも作るなるを、さりともあるやうあらんとて、せめて見れば、花びらのはしに、をかしきにほひこそ、心もとなくつきためれ。楊貴妃、皇帝の御使に逢ひて泣きける顏に似せて、梨花一枝春の雨を帶びたりなどいひたるは、おぼろけならじと思ふに、猶いみじうめでたき事は類あらじと覺えたり。
桐の花、紫に咲きたるはなほをかしきを、葉のひろごり、さまうたてあれども、又他木どもとひとしう言ふべきにあらず。唐土にことごとしき名つきたる鳥の、これにしも住むらん、心ことなり。まして琴に作りてさまざまなる音の出でくるなど、をかしとは尋常にいふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。
木のさまぞにくげなれど、樗の花いとをかし。かればなに、さまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。
(三五段)
池は
勝間田の池。盤余の池。にえのの池、初瀬に參りしに、水鳥のひまなくたちさわぎしが、いとをかしく見えしなり。
水なしの池、あやしうなどて附けけるならんといひしかば、五月など、すべて雨いたく降らんとする年は、この池に水といふ物なくなんある、又日のいみじく照る年は、春のはじめに水なん多く出づるといひしなり。無下になく乾きてあらばこそさもつけめ、出づるをりもあるなるを、一すぢにつけけるかなと答へまほしかりし。
猿澤の池、采女の身を投げけるを聞しめして、行幸などありけんこそいみじうめでたけれ。ねくたれ髮をと人丸が詠みけんほど、いふもおろかなり。御まへの池、又何の意につけけるならんとをかし。鏡の池。狹山の池、みくりといふ歌のをかしく覺ゆるにやあらん。
こひぬまの池。原の池、玉藻はな刈りそといひけんもをかし。ますだの池。
(三六段)
せちは
五月にしくはなし。菖蒲蓬などのかをりあひたるもいみじうをかし。九重の内をはじめて、いひしらぬ民の住家まで、いかでわがもとに繁くふかんと葺きわたしたる、猶いとめづらしく、いつか他折はさはしたりし。
空のけしきの曇りわたりたるに、后宮などには、縫殿より、御藥玉とていろいろの糸をくみさげて參らせたれば、御几帳たてまつる母屋の柱の左右につけたり。九月九日の菊を、綾と生絹のきぬに包みて參らせたる、同じ柱にゆひつけて、月ごろある藥玉取り替へて捨つめる。又藥玉は菊のをりまであるべきにやあらん。されどそれは皆糸をひき取りて物ゆひなどして、しばしもなし。
御節供まゐり、わかき人々は菖蒲のさしぐしさし、物忌つけなどして、さまざま唐衣、汗衫、ながき根、をかしきをり枝ども、村濃の組して結びつけなどしたる、珍しういふべきことならねどいとをかし。さても春ごとに咲くとて、櫻をよろしう思ふ人やはある。
辻ありく童女の、ほどほどにつけては、いみじきわざしたると、常に袂をまもり、人に見くらべえもいはず興ありと思ひたるを、そばへたる小舎人童などにひきとられて、泣くもをかし。
紫の紙に樗の花、青き紙に菖蒲の葉、細うまきてひきゆひ、また白き紙を根にしてゆひたるもをかし。いと長き根など文の中に入れなどしたる人どもなども、いと艶なる返事かかんといひ合せかたらふどちは、見せあはしなどする、をかし。人の女、やんごとなき所々に御文聞え給ふ人も、今日は心ことにぞなまめかしうをかしき。夕暮のほどに杜鵑の名のりしたるも、すべてをかしういみじ。
(三七段)
木は
桂。五葉。柳。橘。
そばの木、はしたなき心地すれども、花の木ども散りはてて、おしなべたる緑になりたる中に、時もわかず濃き紅葉のつやめきて、思ひかけぬ青葉の中よりさし出でたる、めづらし。
檀更にもいはず。そのものともなけれど、やどり木といふ名いとあはれなり。榊、臨時の祭、御神樂のをりなどいとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前の物といひはじめけんも、とりわきをかし。
くすの木は、木立おほかる所にも殊にまじらひたてらず、おどろおどろしき思ひやりなどうとましきを、千枝にわかれて戀する人の例にいはれたるぞ、誰かは數を知りていひ始めけんとおもふにをかし。
檜、人ぢかからぬものなれど、みつばよつばの殿づくりもをかし。五月に雨の聲まねぶらんもをかし。楓の木、ささやかなるにも、もえ出でたる梢の赤みて、同じかたにさし廣ごりたる葉のさま、花もいと物はかなげにて、むしなどの枯れたるやうにてをかし。
あすはひの木、この世近くも見えきこえず、御嶺に詣でて歸る人など、しか持てありくめる。枝ざしなどのいと手ふれにくげに荒々しけれど、何の意ありてあすはひの木とつけけん、あぢきなき兼言なりや。誰にたのめたるにかあらんと思ふに、知らまほしうをかし。
ねずもちの木、人なみなみなるべき樣にもあらねど、葉のいみじうこまかに小さきがをかしきなり。樗の木。山梨の木。椎の木は、常磐木はいづれもあるを、それしも葉がへせぬ例にいはれたるもをかし。
白樫などいふもの、まして深山木の中にもいと氣遠くて、三位二位のうへのきぬ染むる折ばかりぞ、葉をだに人の見るめる。めでたき事、をかしき事にとり出づべくもあらねど、いつとなく雪の降りたるに見まがへられて、素盞嗚尊の出雲國におはしける御事を思ひて、人丸が詠みたる歌などを見る、いみじうあはれなり。いふ事にても、をりにつけても、一ふしあはれともをかしとも聞きおきつる物は、草も木も鳥蟲も、おろかにこそ覺えね。
楪のいみじうふさやかにつやめきたるは、いと青う清げなるに、思ひかけず似るべくもあらず。莖の赤うきらきらしう見えたるこそ、賤しけれどもをかしけれ。なべての月頃はつゆも見えぬものの、十二月の晦日にしも時めきて、亡人のくひ物にもしくにやとあはれなるに、又齡延ぶる齒固の具にもしてつかひためるは、いかなるにか。紅葉せん世やといひたるもたのもし。
柏木いとをかし。葉守の神のますらんもいとかしこし。兵衞佐、尉などをいふらんもをかし。すがたなけれど、椶櫚の木、からめきて、わろき家のものとは見えず。
(三八段)
鳥は
他處の物なれど、鸚鵡いとあはれなり。人のいふらんことをまねぶらんよ。杜鵑。水鷄。鴫。みこ鳥。鶸。火燒。
山鳥は友を戀ひて鳴くに、鏡を見せたれば慰むらん、いとあはれなり。谷へだてたるほどなどいと心ぐるし。鶴はこちたきさまなれども、鳴く聲雲井まで聞ゆらん、いとめでたし。頭赤き雀斑。斑鳩の雄。巧鳥。
鷺はいと見る目もみぐるし。まなこゐなども、うたて萬になつかしからねど、万木の森にひとりは寢じと、爭ふらんこそをかしけれ。
容鳥。水鳥は鴛鴦いとあはれなり。互に居かはりて、羽のうへの霜を拂ふらんなどいとをかし。都鳥。川千鳥は友まどはすらんこそ。雁の聲は遠く聞えたるあはれなり。鴨は羽の霜うち拂ふらんと思ふにをかし。
鶯は文などにもめでたき物につくり、聲よりはじめて、さまかたちもさばかり貴に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞいとわろき。人のさなんあるといひしを、さしもあらじと思ひしに、十年ばかり侍ひて聞きしに、實に更に音もせざりき。さるは竹も近く、紅梅もいとよく通ひぬべきたよりなりかし。まかでて聞けば、あやしき家の見どころもなき梅などには、花やかにぞ鳴く。夜なかぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏秋の末まで老聲に鳴きて、むしくひなど、ようもあらぬものは名をつけかへていふぞ、口惜しくすごき心地する。それも雀などのやうに、常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春なくゆゑこそはあらめ。
年立ちかへるなど、をかしきことに、歌にも文にも作るなるは、なほ春のうちならましかば、いかにをかしからまし。人をも人げなう、世のおぼえあなづらはしうなりそめにたるをば、謗りやはする。鳶、烏などのうへは、見いれ聞きいれなどする人、世になしかし。さればいみじかるべきものとなりたればと思ふに、心ゆかぬ心地するなり、祭のかへさ見るとて、雲林院、知足院などの前に車をたてたれば、杜鵑もしのばぬにやあらん鳴くに、いとようまねび似せて、木高き木どもの中に、諸聲に鳴きたるこそさすがにをかしけれ。
杜鵑は猶更にいふべきかたなし。いつしかしたり顏にも聞え、歌に、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり、五月雨の短夜に寢ざめをして、いかで人よりさきに聞かんとまたれて、夜深くうち出でたる聲の、らうらうじく愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば音もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり。
夜なくもの、すべていづれもいづれもめでたし。兒どものみぞさしもなき。
(三九段)
あてなるもの
薄色に白重の汗袗。かりのこ。削氷のあまづらに入りて、新しき鋺に入りたる。水晶の珠數。藤の花。梅の花に雪のふりたる。いみじう美しき兒の覆盆子くひたる。
(四〇段)
蟲は
鈴蟲。松蟲。促織。蟋蟀。蝶。われから。蜉蝣。螢。
蓑蟲いとあはれなり。鬼の生みければ、親に似て、これもおそろしき心地ぞあらんとて、親のあしき衣ひき著せて、「今秋風吹かんをりにぞこんずる、侍てよ」といひて逃げていにけるも知らず、風の音聞き知りて、八月ばかりになれば、ちちよちちよとはかなげに鳴く、いみじくあはれなり。
茅蜩、叩頭蟲またあはれなり。さる心に道心おこして、つきありくらん。又おもひかけず暗き所などにほとめきたる、聞きつけたるこそをかしけれ。
蠅こそにくきもののうちに入れつべけれ。愛敬なくにくきものは、人々しう書き出づべきもののやうにあらねど、萬の物にゐ、顏などにぬれたる足して居たるなどよ。人の名につきたるは必かたし。
夏蟲いとをかしく廊のうへ飛びありく、いとをかし。蟻はにくけれど、輕びいみじうて、水のうへなどをただ歩みありくこそをかしけれ。
 

 

(四一段)
七月ばかりに、風のいたう吹き、雨などのさわがしき日、大かたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香少しかかへたる衣の薄き引きかづきて、晝寢したるこそをかしけれ。
(四二段)
にげなきもの
髮あしき人のしろき綾の衣著たる。しじかみたる髮に葵つけたる。あしき手を赤き紙に書きたる。下衆の家に雪の降りたる。また月のさし入りたるもいとくちをし。月のいとあかきに、やかたなき車にあひたる。又さる車にあめうしかけたる。老いたるものの腹たかくて喘ぎありく。また若き男もちたる、いと見ぐるしきに、他人の許に行くとて妬みたる。老いたる男の寢惑ひたる。又さやうに髯がちなる男の椎つみたる。齒もなき女の梅くひて酸がりたる。
下衆の紅の袴著たる、このごろはそれのみこそあめれ。靱負佐の夜行狩衣すがたも、いといやしげなり。また人に恐ぢらるるうへの衣はたおどろおどろしく、たちさまよふも、人見つけばあなづらはし。「嫌疑の者やある」と戲にもとがむ。
(四三段)
廊に人とあまたゐて、ありく者ども見、やすからず呼び寄せて、ものなどいふに、清げなる男、小舎人童などの、よき裏袋に衣どもつつみて、指貫の腰などうち見えたる。袋に入りたる弓、矢、楯、鉾、劍などもてありくを「誰がぞ」と問ふに、ついゐて某殿のといひて行くはいとよし。氣色ばみやさしがりて、「知らず」ともいひ、聞きも入れでいぬる者は、いみじうぞにくきかし。月夜に空車ありきたる。清げなる男のにくげなる妻もちたる。髯黒ににくげなる人の年老いたるが、物がたりする人の兒もてあそびたる。
(四四段)
主殿司こそなほをかしきものはあれ。下女のきははさばかり羨しきものはなし。よき人にせさせまほしきわざなり。若くて容貌よく、容體など常によくてあらんは、ましてよからんかし。年老いて物の例など知りて、おもなきさましたるもいとつきづきしうめやすし。
主殿司の顏、愛敬づきたらんをもたりて、裝束時にしたがひて、唐衣など今めかしうて、ありかせばやとこそ覺ゆれ。
(四五段)
男はまた隨身こそあめれ。いみじく美々しくをかしき公達も、隨身なきはいとしらじらし。辨などをかしくよき官と思ひたれども、下襲のしり短くて、隨身なきぞいとわろきや。
(四六段)
職の御曹司の西面の立蔀のもとにて、頭辨の、人と物をいと久しくいひたち給へれば、さし出でて、「それは誰ぞ」といへば、「辨の内侍なり」との給ふ。「何かはさもかたらひ給ふ。大辨見えば、うちすて奉りていなんものを」といへば、いみじく笑ひて、「誰かかかる事をさへいひ聞かせけん、それさなせそとかたらふなり」との給ふ。
いみじく見えて、をかしき筋などたてたる事はなくて、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奧ふかき御心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など御前にも啓し、又さしろしめしたるを、常に、「女はおのれを悦ぶ者のためにかほづくりす、士はおのれを知れる人のために死ぬといひたる」といひ合せつつ申し給ふ。「遠江の濱やなぎ」などいひかはしてあるに、わかき人々は唯いひにくみ、見ぐるしき事どもなどつくろはずいふに、「この君こそうたて見にくけれ。他人のやうに讀經し、歌うたひなどもせず、けすさまじ」など謗る。
更にこれかれに物いひなどもせず、「女は目はたてざまにつき、眉は額におひかかり、鼻は横ざまにありとも、ただ口つき愛敬づき、頤のした、頸などをかしげにて、聲にくからざらん人なん思はしかるべき。とはいひながら、なほ顏のいとにくげなるは心憂し」との給へば、まいて頤ほそく愛敬おくれたらん人は、あいなうかたきにして、御前にさへあしう啓する。
物など啓せさせんとても、その初いひそめし人をたづね、下なるをも呼びのぼせ、局にも來ていひ、里なるには文書きても、みづからもおはして、「遲く參らば、さなん申したると申しに參らせよ」などの給ふ。「その人の侍ふ」などいひ出づれど、さしもうけひかずなどぞおはする。
「あるに隨ひ、定めず、何事ももてなしたるをこそ、よき事にはすれ」とうしろみ聞ゆれど、「わがもとの心の本性」とのみの給ひつつ、「改らざるものは心なり」との給へば、「さて憚りなしとはいかなる事をいふにか」と怪しがれば、笑ひつつ、「中よしなど人々にもいはるる。かうかたらふとならば何か恥づる、見えなどもせよかし」との給ふを、「いみじくにくげなれば、さあらんはえ思はじとの給ひしによりて、え見え奉らぬ」といへば、「實ににくくもぞなる。さらばな見えそ」とて、おのづから見つべきをりも顏をふたぎなどして、まことに見給はぬも、眞心にそらごとし給はざりけりと思ふに、三月晦日頃、冬の直衣の著にくきにやあらん、うへの衣がちにて、殿上の宿直すがたもあり。
翌朝日さし出づるまで、式部のおもとと廂に寢たるに、奧の遣戸をあけさせ給ひて、うへの御前、宮の御前出でさせ給へれば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせ給ふ。唐衣を髮のうへにうち著て、宿直物も何もうづもれながらある上におはしまして、陣より出で入るものなど御覽ず。殿上人のつゆ知らで、より來て物いふなどもあるを、「けしきな見せそ」と笑はせ給ふ。さてたたせ給ふに、「二人ながらいざ」と仰せらるれど、今顏などつくろひてこそとてまゐらず。
入らせ給ひて、なほめでたき事どもいひあはせてゐたるに、南の遣戸のそばに、儿帳の手のさし出でたるにさはりて、簾の少しあきたるより、黒みたるものの見ゆれば、のりたかが居たるなめりと思ひて、見も入れで、なほ事どもをいふに、いとよく笑みたる顏のさし出でたるを、「のりたかなめり、そは」とて見やりたれば、あらぬ顏なり。
あさましと笑ひさわぎて几帳ひき直しかくるれど、頭辨にこそおはしけれ。見え奉らじとしつるものをと、いとくちをし。もろともに居たる人は、こなたに向きてゐたれば、顏も見えず。
立ち出でて、「いみじく名殘なく見つるかな」との給へば、「のりたかと思ひ侍れば、あなづりてぞかし。などかは見じとの給ひしに、さつくづくとは」といふに、「女は寢おきたる顏なんいとよきといへば、ある人の局に行きてかいばみして、又もし見えやするとて來りつるなり。まだうへのおはしつる折からあるを、え知らざりけるよ」とて、それより後は、局のすだれうちかづきなどし給ふめり。
(四七段)
馬は、いと黒きが、ただいささか白き所などある。紫の紋つきたる。蘆毛。薄紅梅の毛にて、髪、尾などいと白き。げに、ゆふかみとも言ひつべし。黒きが、足四つ白きも、いとをかし。
(四八段)
牛は、額はいと小さく白みたるが、腹の下、足、尾の裾などはやがて白き。
(四九段)
猫は、上の限り黒くて、腹いと白き。
(五〇段)
雑色、随身は、すこしやせて細やかなる。よき男も、なほ若きほどは、さる方なるぞ、よき。いたく肥えたるは、寝ねぶたからむと見ゆ。
(五一段)
小舎人童は、小さくて、髪いとうるはしきが、裾さはらかに、すこし色なるが、声をかしうて、かしこまりてものなど言ひたるぞ、らうらうじき。
(五二段)
牛飼は、大きにて、髪あららかなるが、顔赤みて、かどかどしげなる。
(五三段)
殿上のなだいめんこそ猶をしけれ。御前に人さぶらふをりは、やがて問ふもをかし。足音どもしてくづれ出づるを、うへの御局の東面に、耳をとなへて聞くに、知る人の名のりには、ふと胸つぶるらんかし。又ありともよく聞かぬ人をも、この折に聞きつけたらんは、いかが覺ゆらん。名のりよしあし、聞きにくく定むるもをかし。
はてぬなりと聞くほどに、瀧口の弓ならし、沓の音そそめき出づるに、藏人のいと高くふみこほめかして、うしとらの隅の高欄に、たかひざまづきとかやいふゐずまひに、御前のかたに向ひて、後ざまに「誰々か侍る」と問ふほどこそをかしけれ。細うたかう名のり、また人人さぶらはねばにや、なだいめん仕う奉らぬよし奏するも、いかにと問へばさはる事ども申すに、さ聞きて歸るを、「方弘はきかず」とて公達の教へければ、いみじう腹だちしかりて、勘へて、瀧口にさへ笑はる。
御厨子所の御膳棚といふものに、沓おきて、はらへいひののしるを、いとほしがりて、「誰が沓にかあらん、え知らず」と主殿司人々のいひけるを、「やや方弘がきたなき物ぞや」とりに來てもいとさわがし。
(五四段)
わかくてよろしき男の、げす女の名をいひなれて呼びたるこそ、いとにくけれ。知りながらも、何とかや、かたもじは覺えでいふはをかし。
宮仕所の局などによりて、夜などぞ、さおぼめかんは惡しかりぬべけれど、主殿司、さらぬ處にては、侍、藏人所にあるものを率て行きてよばせよかし、てづからは聲もしるきに。はしたもの、わらはべなどはされどよし。
(五五段)
わかき人と兒は肥えたるよし。受領などおとなだちたる人は、ふときいとよし。
(五六段)
ちごは、あやしき弓、しもとだちたる物などささげて遊びたる、いとうつくし。車など、とどめて、抱き入れて見まほしくこそあれ。
また、さて行くに、薫物(たきもの)の香、いみじうかかへたるそ、いとをかしけれ。
(五七段)
よき家の中門あけて、檳榔毛の車の白きよげなるに、蘇枋の下簾、にほひいときよらかにて、榻(しぢ)にうち掛けたるこそ、めでたけれ。五位、六位などの、下襲の裾はさみて、笏のいと白き扇うち置きなどしてとかく行き違ひ、また、装束し、壺胡[竹/録](つぼやなぐひ)負ひたる随身の出で入りしたる、いとつきづきし。厨女(くりやめ)のきよげなるが、さし出でて、「なにがし殿の人やさぶらふ」など言ふも、をかし。
(五八段)
瀧は
音無の瀧。布留の瀧は、法皇の御覽じにおはしけんこそめでたけれ。那智の瀧は熊野にあるがあはれなるなり。轟の瀧はいかにかしがましく怖しからん。
(五九段)
川は
飛鳥川、淵瀬さだめなくはかなからむといとあはれなり。大井川。泉川。水無瀬川。
耳敏川、また何事をさしもさかしく聞きけんとをかし。音無川、思はずなる名とをかしきなり。細谷川。玉星川。貫川、澤田川、催馬樂などのおもひはするなるべし。
なのりその川。名取川もいかなる名を取りたるにかと聞かまほし。吉野川。あまの川、このしたにもあるなり。七夕つめに宿からんと業平が詠みけんも、ましてをかし。
(六〇段)
暁に帰らむ人は、装束なといみじううるはしう、鳥帽子の緒、元結かためずともありなむとこそ、おぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ。
人はなほ、暁の有様こそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに、起きがたげなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎむ。あな見苦し」など言はれて、うち嘆くけしきも、げに飽かずもの憂くもあらむかし、と見ゆ。指貫なども、居ながら着もやらず、まづさし寄りて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、なにわざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子押し上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率て行きて、昼のほどのおぼつかなからむことなども言ひ出でにすべり出でなむは、見送られて、名残もをかしかりなむ。思ひいで所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰こそこそとかはは結ひ、直衣、袍、狩衣も、袖かいまくりて、よろづさし入れ、帯いとしたたかに結ひ果てて、つい居て、鳥帽子の緒、きと強げに結ひ入れて、かいすふる音して、扇、畳紙など、昨夜枕上に置きしかど、おのづから引かれ散りにけるを求むるに、暗ければ、いかでかは見えむ、「いづら、いづら」と叩きわたし、見いでて、扇ふたふたと使ひ、懐紙さし入れて、「まかりなむ」とばかりこそ言ふらめ。
 

 

(六一段)
橋は
あさむつの橋。長柄の橋。あまびこの橋。濱名の橋。ひとつ橋。佐野の船橋。うたじめの橋。轟の橋。小川の橋。かけはし。勢多の橋。木曾路の橋。堀江の橋。鵲の橋。ゆきあひの橋。小野の浮橋。山菅の橋。一筋わたしたる棚橋、心せばければ名を聞きたるをかし。假寐の橋。
(六二段)
里は
逢坂の里。ながめの里。いさめの里。ひとづまの里。たのめの里。朝風の里。夕日の里。十市の里。伏見の里。長井の里。
つまとりの里、人にとられたるにやあらん、わが取りたるにやあらん、いづれもをかし。
(六三段)
草は
菖蒲。菰。葵いとをかし。祭のをり、神代よりしてさるかざしとなりけん、いみじうめでたし。物のさまもいとをかし。
澤潟も名のをかしきなり、心あがりしけんとおもふに。三秡草。蛇床子。苔。こだに。雪間の青草。酢漿、あやの紋にても他物よりはをかし。
あやふ草は岸の額に生ふらんも、實にたのもしげなくあはれなり。いつまで草は生ふる處いとはかなくあはれなり。岸の額よりもこれはくづれやすげなり。まことの石灰などには、えおひずやあらんと思ふぞわろき。
(六四段)
草の花は
嬰麥、唐のは更なり、やまとのもいとめでたし。女郎花。桔梗。菊のところどころうつろひたる。刈萱。
龍膽は枝ざしなどもむつかしげなれど、他花みな霜がれはてたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。わざととりたてて、人めかすべきにもあらぬさまなれど、鴈來紅の花らうたげなり。名ぞうたてげなる。鴈の來る花と、文字には書きたる。雁緋の花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春と秋と咲く、をかしげなり。
壼菫、すみれ、同じやうの物ぞかし。老いていけば同じなど憂し。しもつけの花。夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかつきなどいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顏といふ名ばかりはをかし。葦の花、更に見どころなけれど、御幣などいはれたる、心ばへあらんと思ふにただならず。萌えしも薄にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめと覺ゆ。これに薄を入れぬ、いとあやしと人いふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄にこそあれ。穗さきの蘇枋にいと濃きが、朝霧にぬれてうち靡きたるは、さばかりの物やはある。
秋の終ぞいと見所なき。いろいろに亂れ咲きたりし花の、かたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白く、おほどれたるをも知らで、昔おもひいで顏になびきて、かひろぎ立てる人にこそいみじう似ためれ。よそふる事ありて、それをしもこそ哀ともおもふべけれ。萩はいと色ふかく、枝たをやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろごりふしたる、牡鹿の分きてたちならすらんも心ことなり。唐葵はとりわきて見えねど、日の影に隨ひて傾くらんぞ、なべての草木の心とも覺えでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹には山石榴も異なることなけれど、をりもてぞ見るとよまれたる、さすがにをかし。
薔薇はちかくて、枝のさまなどはむつかしけれどをかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木の階などのつらに、亂れ咲きたるゆふばえ。
(六五段)
集は
古萬葉集。古今。後撰。
(六六段)
歌の題は
都。葛。三秡草。駒。霰。笹。壼菫。女蘿。蒋。高瀬。鴛鴦淺茅。芝。青鞭草。梨。棗。槿。
(六七段)
おぼつかなきもの
十二年の山籠の法師の女親。知らぬ所に闇なるに行きたるに、あらはにもぞあるとて、火もともさで、さすがになみゐたる。
今いで來るものの心も知らぬに、やんごとなき物もたせて人の許やりたるに、遲くかへる。物いはぬ兒の、そりくつがへりて人にも抱かれず泣きたる。暗きに覆盆子食ひたる。人の顏見しらぬ物見。
(六八段)
たとしへなきもの
夏と冬と。夜と晝と。雨ふると日てると。若きと老いたると。人の笑ふと腹だつと。
黒きと白きと。思ふと憎むと。藍と黄蘖と。雨と霧と。おなじ人ながらも志うせぬる、誠にあらぬ人とぞ覺ゆるかし。
(六九段)
夜烏どものゐて、夜中ばかりに、いね騒ぐ。落ちまどひ、木伝ひて、寝起きたる声に鳴きたるこそ、昼の目に違ひてをかしけれ。
(七〇段)
忍びたる所にありては、夏こそをかしけれ。いみじく短き夜の明けぬるに、つゆ寝ずなりぬ。やがてよろづの所あけながらあれば、涼しく見えわたされる、なほ今すこし言ふべきことのあれば、かたみに答などするほどに、ただ居たる上より、烏の高く鳴きて行くこそ、顕正なるここちして、をかしけれ。
また、冬のいみじう寒きに、埋もれ臥して聞くに、鐘の音の、ただ物の底なるやうに聞ゆる、いとをかし。鶏の声も、はじめは羽のうちに鳴くが、口を籠めながら聞けば、いみじうもの深く遠きが、明くるままに近く聞ゆるも、をかし。
(七一段)
懸想人にて来たるは、言ふべきにもあらず、ただうちかたらふも、またさしもあらねどおのづから来などもする人の、簾の内に人々あまたありてものなど言ふに、居入りてとみに帰りげもなきを、供なるをのこ、童など、とかくさしのぞき、けしき見るに、斧の柄も朽ちぬべきなめりと、いとむつかしかめれば、長やかにうちあくびて、みそかにと思ひて言ふらめど、「あなわびし。煩悩苦悩かな。夜は夜中になりぬらむかし」など言ひたる、いみじう心づきなし。かの言ふ者は、ともかくもおぼえず、このゐたる人こそ、をかしと見え聞えるつことも失するやうにおぼゆれ。
また、さいと色に出でてはえ言はず、「あな」と高やかにうち言ひうめきたるも、「下行く水の」と、いとほし。立蔀、透垣(すいがい)などのもとにて「雨降りぬべし」など、聞こえごつも、いとにくし。
いとよき人の御供人などは、さもなし。君たちなどのほどは、よろし。それより下れる際は、皆さやうにぞある。あまたあらむ中にも、心ばへ見てぞ、率てありかまほしき。
(七二段)
ありがたきもの
舅に褒めらるる壻。また姑に思はるる婦の君。物よく拔くる白銀の毛拔。主謗らぬ人の從者。つゆの癖缺點なくて、かたち心ざまもすぐれて、世にあるほど、聊のきずなき人。同じ處に住む人の、互に慚ぢかはし、いささかの隙なく用意したりと思ふが、遂に見えぬこそかたけれ。
物語、集など書きうつす本に墨つけぬ事。よき草紙などは、いみじく心して書けども、必こそきたなげになるめれ。男も女も法師も、ちぎり深くてかたらふ人の、末まで中よき事かたし。
(七三段)
内裏の局は、細殿いみじうをかし。上の蔀上げたれば、風いみじう吹き入れて、夏もいみじう涼し。冬は、雪、霰などの、風にたぐひて降り入りたるも、いとをかし。狭くて、童などののぼりぬるぞ、あしけれども、屏風のうちに隠し据ゑたれば、異所の局のやうに声高くゑ笑ひなどもせで、いとよし。
昼なども、たゆまず心づかひせらる。夜は、まいて、うちとくべきやうもなきが、いとをかしきなり。沓の音、夜一夜聞ゆるが、とどまりて、ただ指一つして叩くが、その人ななりと、ふと聞ゆるこそをかしけれ。いと久しう叩くに、音もせねば、寝入りたりとや思ふらむと、ねたくて、すこしうちみじろく衣のけはひ、さななりと思ふらむかし。冬は、火桶にやをら立つる箸の音も、忍びたりと聞ゆるを、いとど叩きはらへば、声にても言ふに、かげながらすべり寄りて聞く時もあり。
また、あまたの声して、詩誦じ、歌など歌ふには、叩かねどまづあけたれば、此処へとしも思はざりける人も、立ち止まりぬ。居るべきやうもなくて、立ち明かすも、なほをかし。
御簾のいと青くをかしげなるに、几帳のかたびらいとあざやかに、裾のつまうち重なりて見えたるに、直衣の後にほころび絶えすきたる君たち、六位の蔵人の青色など着て、うけばりて遣戸のもとなどに、そば寄せてはえ立たで、塀の方に後おして、袖うち合わせて立ちたるこそ、をかしけれ。
また、指貫いと濃う、直衣あざやかにて、色々の衣どもこぼし出でたる人の、簾を押し入れて、なから入りたるやうなも、外より見るはいとをかしからむを、きよげなる硯引き寄せて文書き、もしは鏡乞ひて鬢かき直しなどしたるも、すべてをかし。
三尺の几帳を立てたるも、帽額(もかう)の下にただすこしぞある、外に立てる人と内にゐたる人と、もの言ふが、頭のもとにいとよくあたりたるこそ、をかしけれ。たけの高く短からむ人や、いかがあらむ、なほ世の常の人は、さのみあらむ。
(七四段)
職の御曹司におはしますころ、木立などの遙かにもの古り、屋のさまも高うけ遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。母屋は、鬼ありとて、南へ隔て出だして、南の廂に御帳立てて、又廂に女房はさぶらふ。近衛の御門より左衛門の陣にまゐりたまふ上達部の前駆ども、殿上人のは短ければ、大前駆、小前駆と付けて騒ぐ。あまたたびになれば、その声どもも皆聞き知りて、「それぞ」「かれぞ」など言ふに、また「あらず」など言へば、人して見せなどするに、言ひあてたるは、「さればこそ」など言ふもをかし。
有明のいみじう霧りわたりたる庭におりてありくをきこしめして、御前にも起きさせたまへり。上なる人々の限りは、出でゐ、おりなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。「左衛門の陣にまかりて見む」とて行けば、我も我もと、追いつぎて行くに、殿上人あまた声して、「なにがし一声の秋」と誦じてまゐる音すれば、逃げ入り、ものなど言ふ。「月を見たまひけり」など、めでて、歌詠むもあり。夜も昼も、殿上人の絶ゆるをりなし。上達部まで、まゐりたまふに、おぼろげに急ぐ事なきは、かならずまゐりたまふ。
(七五段)
あぢきなきもの
わざと思ひたちて宮仕に出で立ちたる人の、ものうがりてうるさげに思ひたる。人にもいはれ、むづかしき事もあれば、いかでかまかでなんといふ言草をして、出でて親をうらめしければ、また參りなんといふよ。養子の顏にくさげなる。しぶしぶに思ひたる人を忍びて壻にとりて、思ふさまならずとなげく人。
(七六段)
ここちよげなるもの
卯杖の祝言。神樂の人長。池の蓮の村雨にあひたる。御靈會の馬長。また御靈會の振幡。
(七七段)
御佛名のあした、地獄繪の御屏風とりわたして、宮に御覽ぜさせ奉りたまふ。いみじうゆゆしき事かぎりなし。「これ見よかし」と仰せらるれど、「更に見侍らじ」とて、ゆゆしさにうへやに隱れふしぬ。
雨いたく降りて徒然なりとて、殿上人うへの御局に召して御あそびあり。道方の少納言琵琶いとめでたし。濟政の君筝の琴、行成笛、經房の中將笙の笛など、いとおもろうひとわたり遊びて、琵琶ひきやみたるほどに、大納言殿の、「琵琶の聲はやめて物語すること遲し」といふ事を誦じ給ひしに、隱れふしたりしも起き出でて、「罪はおそろしけれど、なほ物のめでたきはえ止むまじ」とて笑はる。
御聲などの勝れたるにはあらねど、折のことさらに作りいでたるやうなりしなり。
(七八段)
頭中將そぞろなるそらごとを聞きて、いみじういひおとし、「何しに人と思ひけん」など殿上にてもいみじくなんの給ふと聞くに、はづかしけれど、「實ならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてん」など笑ひてあるに、黒戸のかたへなど渡るにも、聲などする折は、袖をふたぎて露見おこせず、いみじうにくみ給ふを、とかくもいはず、見もいれで過ぐす。二月つごもりがた、雨いみじう降りてつれづれなるに、「御物忌にこもりて、さすがにさうざうしくこそあれ。物やいひにやらましとなんの給ふ」と人々かたれど、「よにあらじ」など答へてあるに、一日しもに暮して參りたれば、夜のおとどに入らせ給ひにけり。
長押の下に火近く取りよせて、さし集ひて篇をぞつく。「あなうれしや、疾くおはせ」など見つけていへど、すさまじき心地して、何しにのぼりつらんとおぼえて、炭櫃のもとにゐたれば、又そこにあつまりゐて物などいふに、「なにがしさぶらふ」といと花やかにいふ。あやしく、「いつの間に何事のあるぞ」と問はすれば殿主司なり。「唯ここに人傳ならで申すべき事なん」といへば、さし出でて問ふに、「これ頭中將殿の奉らせ給ふ、御かへり疾く」といふに、いみじくにくみ給ふをいかなる御文ならんと思へど、「只今急ぎ見るべきにあらねば、いね、今きこえん」とて懷にひき入れて入りぬ。なほ人の物いふききなどするに、すなはち立ちかへりて、「さらばその有りつる文を賜りて來となん仰せられつる。疾く疾く」といふに、「あやしく伊勢の物語なるや」とて見れば、青き薄樣にいと清げに書き給へるを、心ときめきしつるさまにもあらざりけり。
「蘭省の花の時錦帳の下」
と書きて、「末はいかにいかに」とあるを、如何はすべからん。御前のおはしまさば御覽ぜさすべきを、これがすゑ知り顏に、たどたどしき眞字は書きたらんも見ぐるしなど、思ひまはす程もなく、責めまどはせば、唯その奧に、すびつの消えたる炭のあるして、
「草の庵を誰かたづねん」
と書きつけて取らせつれど、返事もいはで、
みな寐て、翌朝いと疾く局におりたれば、源中將の聲して、「草の庵やあるある」とおどろおどろしう問へば、「などてか、さ人げなきものはあらん。玉の臺もとめ給はましかば、いで聞えてまし」といふ。「あなうれし、下にありけるよ。上まで尋ねんとしつるものを」とて、昨夜ありしやう、「頭中將の宿直所にて、少し人々しきかぎり、六位まで集りて、萬の人のうへ、昔今と語りていひし序に、猶このもの無下に絶えはてて後こそ、さすがにえあらね。もしいひ出づる事もやと待てど、いささか何とも思ひたらず。つれなきがいとねたきを、今宵惡しとも善しとも定めきりて止みなんかして、皆いひ合せたりしことを、只今は見るまじきとて入りたまひぬとて、主殿司來りしを、また追ひ歸して、ただ袖をとらへて、東西をさせず、こひとり持てこずば、文をかへしとれと誡めて、さばかり降る雨の盛に遣りたるに、いと疾く歸りきたり。これとてさし出でたるが、ありつる文なれば、かへしてけるかとうち見るにあはせてをめけば、あやし、いかなる事ぞとてみな寄りて見るに、いみじきぬす人かな。
なほえこそすつまじけれと見さわぎて、これがもとつけてやらん、源中將つけよなどいふ。夜更くるまでつけ煩ひてなん止みにし。この事かならず語り傳ふべき事なりとなん定めし」と、いみじくかたはらいたきまでいひきかせて、「御名は今は草の庵となんつけたる」とて急ぎたちたまひぬれば、「いとわろき名の末まであらんこそ口惜しかるべけれ」といふほどに、修理亮則光「いみじきよろこび申しに、うへにやとて參りたりつる」といへば、「なぞ司召ありとも聞えぬに、何になり給へるぞ」といへば、「いで實にうれしき事の昨夜侍りしを、心もとなく思ひ明してなん。かばかり面目ある事なかりき」とて、はじめありける事ども、中將の語りつる同じ事どもをいひて、「この返事に隨ひてさる物ありとだに思はじと、頭中將の給ひしに、ただに來りしはなかなかよかりき。
持て來りしたびは、如何ならんと胸つぶれて、まことにわろからんは、兄のためもわろかるべしと思ひしに、なのめにだにあらず。そこらの人の褒め感じて、兄こそ聞けとのたまひしかば、下心にはいとうれしけれど、さやうのかたには更にえ侍ふまじき身になんはべると申ししかば、言加へ聞き知れとにはあらず、ただ人に語れとてきかするぞとの給ひしなん、少し口をしき兄のおぼえに侍りしかど、これがもとつけ試るにいふべきやうなし。殊に又これが返しをやすべきなどいひ合せ、わろき事いひてはなかなかねたかるべしとて、夜中までなんおはせし。
これは身のためにも人のためにも、さていみじきよろこびには侍らずや。司召に少將のつかさ得て侍らんは、何とも思ふまじくなん」といへば、實に數多して、さる事あらんとも知らで、ねたくもありけるかな。これになん胸つぶれて覺ゆる。この妹兄といふことをば、うへまで皆しろしめし、殿上にも官名をばいはで、「せうと」とぞつけたる。
物語などして居たる程に、「まづ」と召したれば參りたるに、この事仰せられんとてなりけり。うへの渡らせ給ひて、語り聞えさせ給ひて、「男ども皆扇に書きて持たる」と仰せらるるにこそ、あさましう何のいはせける事にかと覺えしか。さて後に袖几帳など取りのけて、思ひなほり給ふめりし。
(七九段)
かへる年の二月二十五日に、宮、職の御曹司に出でさせ給ひし。御供にまゐらで梅壼に殘り居たりし又の日、頭中將の消息とて、「きのふの夜鞍馬へ詣でたりしに、こよひ方の塞がれば、違になん行く、まだ明けざらんに歸りぬべし。必いふべき事あり、いたくたたかせで待て」との給へりしかど、「局に一人はなどてあるぞ、ここに寐よ」とて御匣殿めしたれば參りぬ。久しく寐おきておりたれば、「いみじう人のたたかせ給ひし。辛うじて起きて侍りしかば、うへにかたらば斯くなんとの給ひしかども、よもきかせ給はじとて臥し侍りにき」と語る。心もとなの事やとて聞くほどに、主殿司きて、「頭の殿の聞えさせ給ふなり。只今まかり出づるを、聞ゆべき事なんある」といへば、「見るべきことありて、うへになんのぼり侍る。そこにて」といひて、
局はひきもやあけ給はんと、心ときめきして、わづらはしければ、梅壼の東おもての半蔀あげて、「ここに」といへば、めでたくぞ歩み出で給へる。櫻の直衣いみじく花々と、うらの色つやなどえもいはずけうらなるに、葡萄染のいと濃き指貫に、藤のをり枝ことごとしく織りみだりて、紅の色擣目など、輝くばかりぞ見ゆる。次第に白きうす色など、あまた重りたる、狹きままに、片つかたはしもながら、少し簾のもと近く寄り居給へるぞ、まことに繪に書き、物語のめでたきことにいひたる、これにこそはと見えたる。
御前の梅は、西は白く東は紅梅にて、少しおちかたになりたれど、猶をかしきに、うらうらと日の氣色のどかにて、人に見せまほし。簾の内に、まして若やかなる女房などの、髮うるはしく長くこぼれかかりなど、そひ居ためる、今少し見所ありて、をかしかりぬべきに、いとさだ過ぎ、ふるふるしき人の、髮なども我にはあらねばや、處々わななきちりぼひて、大かた色ことなるころなれば、あるかなきかなる薄にびども、あはひも見えぬ衣どもなどあれば、露のはえも見えぬに、おはしまさねば裳も著ず、袿すがたにて居たるこそ、物ぞこなひに口をしけれ。
「職へなんまゐる、ことづけやある、いつかまゐる」などのたまふ。さても昨夜あかしもはてで、されどもかねてさ言ひてしかば待つらんとて、月のいみじう明きに、西の京よりくるままに、局をたたきしほど、辛うじて寐おびれて起き出でたりしけしき、答のはしたなさなど語りてわらひ給ふ。「無下にこそ思ひうんじにしか。などさるものをばおきたる」など實にさぞありけんと、いとほしくもをかしくもあり。暫しありて出で給ひぬ。外より見ん人はをかしう、内にいかなる人のあらんと思ひぬべし。奧のかたより見いだされたらんうしろこそ、外にさる人やともえ思ふまじけれ。
暮れぬればまゐりぬ。御前に人々多くつどひゐて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ、定めいひしろひ誦じ、仲忠がことなど、御前にも、おとりまさりたる事など仰せられける。「まづこれは如何にとことわれ。仲忠が童生のあやしさを、せちに仰せらるるぞ」などいへば、「何かは、琴なども天人おるばかり彈きて、いとわろき人なり。みかどの御むすめやはえたる」といへば、仲忠が方人と心を得て「さればよ」などいふに、「この事どもよりは、ひる齋信が參りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそ覺ゆれ」と仰せらるるに、人々「さてまことに常よりもあらまほしう」などいふ。「まづそのことこそ啓せめと思ひて參り侍つるに、物語の事にまぎれて」とて、ありつる事を語り聞えさすれば、「誰も誰も見つれど、いとかく縫ひたる絲針目までやは見とほしつる」とて笑ふ。
西の京といふ所の荒れたりつる事、諸共に見る人あらましかばとなん覺えつる、垣なども皆破れて、苔生ひてなど語りつれば、宰相の君の、「かはらの松はありつや」と答へたりつるを、いみじうめでて、「西のかた都門を去れることいくばくの地ぞ」と口ずさびにしつる事など、かしがましきまでいひしこそをかしかりしか。
(八〇段)
里にまかでたるに、殿上人などの來るも、安からずぞ人々いひなすなる。いとあまり心に引きいりたる覺はたなければ、さいはん人もにくからず。また夜も晝もくる人をば、何かはなしなどもかがやきかへさん。誠に睦じくなどあらぬも、さこそは來めれ。あまりうるさくも實にあれば、このたび出でたる所をば、いづくともなべてには知らせず。經房、濟政の君などばかりぞ知り給へる。
左衞門尉則光が來て、物語などするついでに、昨日も宰相中將殿の、妹のあり處さりとも知らぬやうあらじと、いみじう問ひ給ひしに、更に知らぬよし申ししに、あやにくに強ひたまひし事などいひて、「ある事あらがふは、いと佗しうこそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左中將のいとつれなく知らず顏にて居給へりしを、かの君に見だにあはせば笑みぬべかりしに佗びて、臺盤のうへに怪しき和布のありしを、唯とりに取りて食ひまぎらはししかば、中間にあやしの食物やと人も見けんかし。されど、かしこうそれにてなん申さずなりにし。笑ひなましかば不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしうこそ」など語れば、「更にな聞え給ひそ」などいとどいひて、日ごろ久しくなりぬ。
夜いたく更けて、門おどろおどろしく叩けば、何のかく心もとなく遠からぬ程を叩くらんと聞きて、問はすれば、瀧口なりけり。左衞門の文とて、文をもてきたり。皆ねたるに、火近く取りよせて見れば、「明日御讀經の結願にて、宰相中將の御物忌に籠り給へるに、妹の在處申せと責めらるるに、すぢなし、更にえ隱し申すまじき。そことや聞かせ奉るべき。いかに仰に隨はん」とぞいひたる。返事も書かで、和布を一寸ばかり紙に包みてやりつ。
さて後にきて、「一夜責めて問はれて、すずろなる所に率てありき奉りて、まめやかにさいなむに、いとからし。さてとかくも御かへりのなくて、そぞろなる和布の端をつつみて取へりしかば、取りたがへたるにや」といふに、怪しの違物や。人のもとにさる物包みて贈る人やはある。いささかも心得ざりけると見るがにくければ、物もいはで、硯のある紙のはしに、
かづきする蜑の住家はそこなりとゆめいふなとやめをくはせけん
とかきて出したれば、「歌よませ給ひつるか、更に見侍らじ」とてあふぎかへして遁げていぬ。
かう互に後見かたらひなどする中に、何事ともなくて、少し中あしくなりたるころ、文おこせたり。「便なき事侍るとも、ちぎり聞えし事は捨て給はで、よそにてもさぞなどは見給へ」といひたり。常にいふ事は、「おのれをおぼさん人は、歌などよみてえさすまじき。すべて仇敵となん思ふべき。今はかぎりありて絶えなんと思はん時、さる事はいへ」といひしかば、この返しに、
くづれよる妹脊の山のなかなればさらによし野のかはとだに見じ
といひ遣りたりしも、誠に見ずやなりけん、返事もせず。さてかうぶり得て遠江介などいひしかば、にくくしてこそやみにしか。
 

 

(八一段)
物のあはれ知らせがほなるもの
鼻たるまもなく、かみてものいふ聲。まゆぬくも。
(八二段)
さてその左衞門の陣にいきて後、里に出でて暫しあるに、「疾く參れ」など仰事のはしに、「左衞門の陣へいきし朝ぼらけなん、常におぼし出でらるる。いかでさつれなくうちふりてありしならん。いみじくめでたからんとこそ思ひたりしか」など仰せられたる御返事に、かしこまりのよし申して、「私にはいかでかめでたしと思ひ侍らざらん。御前にも、さりとも、中なるをとめとはおぼしめし御覽じけんとなん思ひ給へし」と聞えさせたれば、たち歸り「いみじく思ふべかめるなり。誰がおもてぶせなる事をば、いかでか啓したるぞ。ただ今宵のうちに萬の事をすてて參られよ。さらずばいみじくにくませ給はんとなん仰事ある」とあれば、よろしからんにてだにゆゆし。ましていみじくとある文字には、命もさながら捨ててなんとて參りにき。
(八三段)
職の御曹司におはしますころ、西の廂に不斷の御讀經あるに、佛などかけ奉り、法師のゐたるこそ更なる事なれ。二日ばかりありて、縁のもとにあやしき者の聲にて、「なほその佛具のおろし侍りなん」といへば、「いかでまだきには」と答ふるを、何のいふにかあらんと立ち出でて見れば、老いたる女の法師の、いみじく煤けたる狩袴の、筒とかやのやうに細く短きを、帶より下五寸ばかりなる、衣とかやいふべからん、同じやうに煤けたるを著て、猿のさまにていふなりけり。「あれは何事いふぞ」といへば、聲ひきつくろひて、「佛の御弟子にさぶらへば、佛のおろし賜べと申すを、この御坊達の惜みたまふ」といふ、はなやかにみやびかなり。「かかるものは、うちくんじたるこそ哀なれ、うたても花やかなるかな」とて、「他物は食はで、佛の御おろしをのみ食ふが、いとたふとき事かな」といふけしきを見て、「などか他物もたべざらん。それがさふらはねばこそ取り申し侍れ」といへば、菓子、ひろきもちひなどを、物に取り入れて取らせたるに、無下に中よくなりで、萬の事をかたる。
若き人々いできて、「男やある、いづこにか住む」など口々に問ふに、をかしきこと、そへごとなどすれば、「歌はうたふや、舞などするか」と問ひもはてぬに、「よるはたれと寐ん、常陸介と寐ん、ねたる膚もよし」これが末いと多かり。また「男山の峯のもみぢ葉、さぞ名はたつたつ」と頭をまろがしふる。いみじくにくければ笑、ひにくみて「いねいね」といふもいとをかし。「これに何取らせん」といふを聞かせ給ひて、「いみじう、などかくかたはらいたき事はせさせつる。えこそ聞かで、耳をふたぎてありつれその衣一つとらせて、疾くやりてよ」と仰事あれば、とりて「それ賜はらするぞ、きぬすすけたり、白くて著よ」とて投げとらせたれば、伏し拜みて、肩にぞうちかけて舞ふものか。誠ににくくて皆入りにし。後にはならひたるにや、常に見えしらがひてありく。やがて常陸介とつけたり。衣もしろめず、同じすすけにてあれば、いづち遣りにけんなどにくむに、
右近の内侍の參りたるに、「かかるものなんかたらひつけて置きためる。かうして常にくること」と、ありしやうなど、小兵衞といふ人してまねばせて聞かせ給へば、「あれいかで見侍らん、かならず見せさせ給へ、御得意ななり。更によもかたらひとらじ」など笑ふ。
その後また、尼なるかたはのいとあてやかなるが出できたるを、又呼びいでて物など問ふに、これははづかしげに思ひてあはれなれば、衣ひとつたまはせたるを、伏し拜むはされどよし。さてうち泣き悦びて出でぬるを、はやこの常陸介いきあひて見てけり。その後いと久しく見えねど、誰かは思ひ出でん。
さて十二月の十餘日のほどに、雪いと高うふりたるを、女房どもなどして、物の蓋に入れつついと多くおくを、おなじくば庭にまことの山をつくらせ侍らんとて、侍召して仰事にていへば、集りてつくるに、主殿司の人にて御きよめに參りたるなども皆よりて、いと高くつくりなす。宮づかさなど參り集りて、こと加へことにつくれば、所の衆三四人まゐりたる。主殿司の人も二十人ばかりになりにけり。里なる侍召しに遣しなどす。「今日この山つくる人には禄賜はすべし。雪山に參らざらん人には、同じからずとどめん」などいへば、聞きつけたるは惑ひまゐるもあり。里遠きはえ告げやらず。作りはてつれば、宮づかさ召して、衣二ゆひとらせて、縁に投げ出づるを、一つづつとりに寄りて、をがみつつ腰にさして皆まかでぬ。袍など著たるは、かたへさらで狩衣にてぞある。
「これいつまでありなん」と人々のたまはするに、「十餘日はありなん」ただこの頃のほどをあるかぎり申せば、「いかに」と問はせ給へば、「正月の十五日まで候ひなん」と申すを、御前にも、えさはあらじと思すめり。女房などは、すべて年の内、晦日までもあらじとのみ申すに、あまり遠くも申してけるかな。實にえしもさはあらざらん。朔日などぞ申すべかりけると下にはおもへど、さばれさまでなくと、言ひそめてんことはとて、かたうあらがひつ。
二十日のほどに雨など降れど、消ゆべくもなし。長ぞ少しおとりもてゆく。白山の觀音、これ消させ給ふなと祈るも物狂ほし。
さてその山つくりたる日、式部丞忠隆御使にてまゐりたれば、褥さし出し物などいふに、「今日の雪山つくらせ給はぬ所なんなき。御前のつぼにも作らせ給へり。春宮弘徽殿にもつくらせ給へり。京極殿にもつくらせ給へり」などいへば、ここにのみめづらしと見る雪の山ところどころにふりにけるかなと傍なる人していはすれば、たびたび傾きて、「返しはえ仕うまつりけがさじ、あざれたり。御簾の前に人にをかたり侍らん」とてたちにき。歌はいみじく好むと聞きしに、あやし。御前にきこしめして、「いみじくよくとぞ思ひつらん」とぞの給はする。
晦日がたに、少しちひさくなるやうなれど、なほいと高くてあるに、晝つかた縁に人々出居などしたるに、常陸介いできたり。「などいと久しく見えざりつる」といへば、「なにか、いと心憂き事の侍りしかば」といふに、「いかに、何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とてながやかによみ出づ。
うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなるあまに物たまふらん
となん思ひ侍りしといふをにくみ笑ひて、人の目もみいれねば、雪の山にのぼり、かかづらひありきていぬる後に、右近の内侍にかくなんといひやりたれば、「などか人そへてここには給はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までかかりつたひけんこそ、いと悲しけれ」とあるを又わらふ。
さて雪山はつれなくて年もかへりぬ。ついたちの日また雪多くふりたるを、うれしくも降り積みたるかなと思ふに、「これはあいなし。初のをばおきて、今のをばかき棄てよ」と仰せらる。
うへにて局へいと疾うおるれば、侍の長なるもの、柚葉の如くなる宿直衣の袖の上に、青き紙の松につけたるをおきて、わななき出でたり。「そはいづこのぞ」と問へば、「齋院より」といふに、ふとめでたく覺えて、取りて參りぬ。まだ大殿ごもりたれば、母屋にあたりたる御格子おこなはんなど、かきよせて、一人ねんじてあぐる、いと重し。片つ方なればひしめくに、おどろかせ給ひて、「などさはする」との給はすれば、「齋院より御文の候はんには、いかでか急ぎあけ侍らざらん」と申すに、「實にいと疾かりけり」とて起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌二つを、卯杖のさまに頭つつみなどして、山たちばな、ひかげ、やますげなど美しげに飾りて、御文はなし。ただなるやう有らんやはとて御覽ずれば、卯槌の頭つつみたるちひさき紙に、
山とよむ斧のひびきをたづぬればいはひの杖の音にぞありける
御返しかかせ給ふほどもいとめでたし。齋院にはこれより聞えさせ給ふ。御返しも猶心ことにかきけがし、多く御用意見えたる。御使に、白き織物の單衣、蘇枋なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるに、かづきて參るもをかしう見ゆ。このたびの御返事を知らずなりにしこそ口惜しかりしか。
雪の山は、誠に越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろくなりて、見るかひもなきさまぞしたる。勝ちぬる心地して、いかで十五日まちつけさせんと念ずれど、「七日をだにえ過さじ」と猶いへば、いかでこれ見はてんと皆人おもふほどに、俄に三日内裏へ入らせ給ふべし。いみじうくちをしく、この山のはてを知らずなりなん事と、まめやかに思ふほどに、人も「實にゆかしかりつるものを」などいふ。御前にも仰せらる。同じくはいひあてて御覽ぜさせんと思へるかひなければ、御物の具はこび、いみじうさわがしきにあはせて、木守といふ者の、築地のほどに廂さしてゐたるを、縁のもと近く呼びよせて、「この雪の山いみじく守りて、童などに踏みちらさせ毀たせで、十五日までさふらはせ。
よくよく守りて、その日にあたらば、めでたき禄たまはせんとす。わたくしにも、いみじき悦いはん」など語らひて、常に臺盤所の人、下司などに乞ひて、くるる菓子や何やと、いと多くとらせたれば、うち笑みて、「いと易きこと、たしかに守り侍らん。童などぞのぼり侍らん」といへば、「それを制して聞かざらん者は、事のよしを申せ」などいひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで侍ひて出でぬ。其程も、これが後めたきままに、おほやけ人、すまし、をさめなどして、絶えずいましめにやり、七日の御節供のおろしなどをやりたれば、拜みつる事など、かへりては笑ひあへり。
里にても、明くるすなはちこれを大事にして見せにやる。十日のほどには五六尺ばかりありといへば、うれしく思ふに、十三日の夜雨いみじく降れば、これにぞ消えぬらんと、いみじく口惜し。今一日もまちつけでと、夜も起き居て歎けば、聞く人も物狂ほしと笑ふ。人の起きて行くにやがて起きいで、下司おこさするに、更に起きねば、にくみ腹だたれて、起きいでたるを遣りて見すれば、「圓座ばかりになりて侍る。木守いとかしこう童も寄せで守りて、明日明後日までもさふらひぬべし。禄たまらんと申す」といへば、いみじくうれしく、いつしか明日にならば、いと疾う歌よみて、物に入れてまゐらせんと思ふも、いと心もとなうわびしう、
まだくらきに、大なる折櫃などもたせて、「これにしろからん所、ひたもの入れてもてこ。きたなげならんはかき捨てて」などいひくくめて遣りたれば、いと疾くもたせてやりつる物ひきさげて、「はやう失せ侍りにけり」といふに、いとあさまし。をかしうよみ出でて、人にもかたり傳へさせんとうめき誦じつる歌も、いとあさましくかひなく、「いかにしつるならん。昨日さばかりありけんものを、夜のほどに消えぬらんこと」といひ屈ずれば、「木守が申しつるは、昨日いと暗うなるまで侍りき。禄をたまはらんと思ひつるものを、たまはらずなりぬる事と、手をうちて申し侍りつる」といひさわぐに、内裏より仰事ありて、「さて雪は今日までありつや」との給はせたれば、いとねたくくちをしけれど、「年のうち朔日までだにあらじと人々啓し給ひし。昨日の夕暮まで侍りしを、いとかしこしとなん思ひ給ふる。今日まではあまりの事になん。夜の程に、人のにくがりて取りすて侍るにやとなん推しはかり侍ると啓せさせ給へ」と聞えさせつ。
さて二十日に參りたるにも、まづこの事を御前にてもいふ。「みな消えつ」とて蓋のかぎりひきさげて持てきたりつる。帽子のやうにて、すなはちまうで來りつるが、あさましかりし事、物のふたに小山うつくしうつくりて、白き紙に歌いみじく書きて參らせんとせし事など啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひける事を違へたれば罪得らん。まことには、四日の夕さり、侍どもやりて取りすてさせしぞ。かへりごとに、いひあてたりしこそをかしかりしか。その翁出できて、いみじう手をすりていひけれど、おほせごとぞ、かのより來らん人にかうきかすな。さらば屋うち毀たせんといひて、左近のつかさ、南の築地の外にみな取りすてし。いと高くて多くなんありつといふなりしかば、實に二十日までも待ちつけて、ようせずば今年の初雪にも降りそひなまし。
うへにも聞し召して、いと思ひよりがたくあらがひたりと、殿上人などにも仰せられけり。さてもかの歌をかたれ、今はかくいひ顯しつれば、同じこと勝ちたり。かたれ」など御前にもの給はせ、人々もの給へど、「なにせんにか、さばかりの事を承りながら啓し侍らん」などまめやかに憂く心うがれば、うへも渡らせ給ひて、「まことに年ごろは多くの人なめりと見つるを、これにぞ怪しく思ひし」など仰せらるるに、いとどつらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。「いであはれ、いみじき世の中ぞかし。後に降り積みたりし雪をうれしと思ひしを、それはあいなしとて、かき捨てよと仰事はべりしか」と申せば、「實にかたせじとおぼしけるらん」とうへも笑はせおはします。
(八四段)
めでたきもの
唐錦。錺太刀。作佛のもく。色あひよく花房長くさきたる藤の、松にかかりたる。
六位の藏人こそなほめでたけれ。いみじき公達なれども、えしも著給はぬ綾織物を、心にまかせて著たる青色すがたなど、いとめでたきなり。所衆雜色、ただの人の子どもなどにて、殿原の四位五位六位も、官位あるが下にうち居て、何と見えざりしも、藏人になりぬれば、えもいはずぞあさましくめでたきや。宣旨などもてまゐり、大饗の甘栗使などに參りたるを、もてなし饗應し給ふさまは、いづこなりし天降人ならんとこそ覺ゆれ。
御むすめの女御后におはします。まだ姫君など聞ゆるも、御使にてまゐりたるに、御文とり入るるよりうちはじめ、しとねさし出づる袖口など、明暮見しものともおぼえず。下襲の裾ひきちらして、衞府なるは今すこしをかしう見ゆ。みづから盃さしなどしたまふを、わが心にも覺ゆらん。いみじうかしこまり、べちに居し家の公達をも、けしきばかりこそかしこまりたれ、同じやうにうちつれありく。うへの近くつかはせ給ふ樣など見るは、ねたくさへこそ覺ゆれ。
御文かかせ給へば、御硯の墨すり、御團扇などまゐり給へば、われつかふまつるに、三年四年ばかりのほどを、なりあしく物の色よろしうてまじろはんは、いふかひなきものなり。かうぶり得ておりんこと近くならんだに、命よりはまさりて惜しかるべき事を、その御たまはりなど申して惑ひけるこそ、いと口をしけれ。昔の藏人は、今年の春よりこそ泣きたちけれ。今の世には、はしりくらべをなんする。
博士のざえあるは、いとめでたしといふも愚なり。顏もいとにくげに、下臈なれども、世にやんごとなき者に思はれ、かしこき御前に近づきまゐり、さるべき事など問はせ給ふ御文の師にて侍ふは、めでたくこそおぼゆれ。願文も、さるべきものの序作り出して譽めらるる、いとめでたし。
法師のざえある、すべていふべきにあらず持經者の一人して讀むよりも、數多が中にて、時など定りたる御讀經などぞ、なほいとめでたきや。くらうなりて「いづら御讀經あぶらおそし」などいひて、讀みやみたる程、忍びやかにつづけ居たるよ。后の晝の行啓。御うぶや。みやはじめの作法。獅子、狛犬、大床子などもてまゐりて、御帳の前にしつらひすゑ、内膳、御竃わたしたてまつりなどしたる。姫君など聞えしただ人とこそつゆ見えさせ給はね。一の人の御ありき。春日まうで。葡萄染の織物。すべて紫なるは、なにもなにもめでたくこそあれ、花も、糸も、紙も。紫の花の中には杜若ぞ少しにくき。色はめでたし。六位の宿直すがたのをかしきにも、紫のゆゑなめり。ひろき庭に雪のふりしきたる。今上一の宮、まだ童にておはしますが、御叔父の上達部などの、わかやかに清げなるに抱かれさせ給ひて、殿上人など召しつかひ、御馬引かせて御覽じ遊ばせ給へる、思ふ事おはせじとおぼゆる。
(八五段)
なまめかしきもの
ほそやかに清げなる公達の直衣すがた。をかしげなる童女の、うへの袴など、わざとにはあらで、ほころびがちなる汗袗ばかり著て、藥玉など長くつけて、高欄のもとに、扇さしかくして居たる。
若き人のをかしげなる、夏の几帳のしたうち懸けて、しろき綾、二藍ひき重ねて、手ならひしたる。薄樣の草紙、村濃の糸してをかしくとぢたる。柳の萌えたるに青き薄樣に書きたる文つけたる。鬚籠のをかしう染めたる、五葉の枝につけたる。三重がさねの扇。五重はあまり厚くなりて、もとなどにくげなり。能くしたる檜破子。白き組のほそき。新しくもなくて、いたくふりてもなき檜皮屋に、菖蒲うるはしく葺きわたしたる。青やかなる御簾の下より、朽木形のあざやかに、紐いとつややかにて、かかりたる紐の吹きなびかされたるもをかし。夏の帽額のあざやかなる、簾の外の高欄のわたりに、いとをかしげなる猫の、赤き首綱に白き札つきて、碇の緒くひつきて引きありくもなまめいたり。
五月の節のあやめの藏人、菖蒲のかづらの、赤紐の色にはあらぬを、領巾裙帶などして、藥玉を皇子たち上達部などの立ち竝み給へるに奉るも、いみじうなまめかし。取りて腰にひきつけて、舞踏し拜し給ふもいとをかし。火取の童。小忌の公達もいとなまめかし。六位の青色のとのゐすがた。臨時の祭の舞人。五節の童なまめかし。
(八六段)
宮の五節出させ給ふに、かしづき十二人、他所には御息所の人出すをばわろき事にぞすると聞くに、いかにおぼすか、宮の女房を十人出させ給ふ。今二人は女院、淑景舎の人、やがて姉妹なりけり。
辰の日の青摺の唐衣、汗袗を著せ給へり。女房にだにかねてさしも知らせず、殿上人にはましていみじう隱して、みな裝束したちて、暗うなりたるほどに持て來て著す。赤紐いみじう結び下げて、いみじくやうしたる白き衣に、樫木のかた繪にかきたる、織物の唐衣のうへに著たるは、誠にめづらしき中に、童は今少しなまめきたり。下づかへまでつづき立ちいでぬるに、上達部、殿上人驚き興じて、小忌の女房とつけたり。小忌の公達は、外に居て物いひなどす。五節の局を皆こぼちすかして、いと怪しくてあらする、いと異樣なり。「その夜までは猶うるはしくこそあらめ」との給はせて、さも惑はさず、几帳どものほころびゆひつつ、こぼれ出でたり。
小兵衞といふが赤紐の解けたるを、「これを結ばばや」といへば、實方の中將、よりつくろふに、ただならず。
あしびきの山井の水はこほれるをいかなる紐のとくるならん
といひかく。年わかき人の、さる顯證の程なれば、いひにくきにやあらん、返しもせず。そのかたはらなるおとな人達も、打ち捨てつつ、ともかくもいはぬを、宮司などは耳とどめて聽きけるに、久しくなりにけるかたはらいたさに、ことかたより入りて、女房の許によりて、「などかうはおはする」などぞささめくなるに、四人ばかりを隔てて居たれば、よく思ひ得たらんにもいひにくし。まして歌よむと知りたらん人の、おぼろげならざらんは、いかでかと、つつましきこそはわろけれ。「よむ人はさやはある。いとめでたからねど、ねたうこそはいへ」と爪はじきをしてありくも、いとをかしければ、
うす氷あはにむすべる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりぞ
と辨のおもとといふに傳へさすれば、きえいりつつえもいひやらず。「などかなどか」と耳を傾けて問ふに、少しことどもりする人の、いみじうつくろひ、めでたしと聞かせんと思ひければ、えも言ひつづけずなりぬるこそ、なかなか恥かくす心地してよかりしか。
おりのぼるおくりなどに、なやましといひ入れぬる人をも、の給はせしかば、あるかぎり群れ立ちて、ことにも似ず、あまりこそうるさげなめれ。舞姫は、すけまさの馬頭の女、染殿の式部卿の宮の御弟の四の君の御はら、十二にていとをかしげなり。
はての夜も、おひかづきいくもさわがず。やがて仁壽殿よりとほりて、清涼殿の前の東のすのこより舞姫をさきにて、うへの御局へ參りしほど、をかしかりき。
(八七段)
細太刀の平緒つけて、清げなる男のもてわたるも、いとなまめかし。紫の紙を包みて封じて、房長き藤につけたるも、いとをかし。
(八八段)
内裏は五節のほどこそすずろにただならで、見る人もをかしう覺ゆれ。主殿司などの、いろいろの細工を、物忌のうにて、彩色つけたるなども、めづらしく見ゆ。清涼殿のそり橋に、もとゆひの村濃いとけざやかにて出でたるも、さまざまにつけてをかしうのみ、上雜仕童ども、いみじき色ふしと思ひたる、いとことわりなり。山藍日蔭など柳筥にいれて、冠したる男もてありく、いとをかしう見ゆ。殿上人の直衣ぬぎたれて、扇やなにやと拍子にして、「つかさまされとしきなみぞたつ」といふ歌をうたひて、局どもの前わたるほどはいみじく、添ひたちたらん人の心さわぎぬべしかし。まして颯と一度に笑ひなどしたる、いとおそろし。行事の藏人の掻練重、物よりことにきよらに見ゆ。褥など敷きたれど、なかなかえものぼりゐず。女房の出でたるさま譽めそしり、このごろは他事はなかめり。
帳臺の夜、行事の藏人いと嚴しうもてなして、かいつくろひ二人、童より他は入るまじとおさへて、面にくきまでいへば、殿上人など「猶これ一人ばかりは」などのたまふ。「うらやみあり。いかでか」などかたくいふに、宮の御かたの女房二十人ばかりおし凝りて、ことごとしういひたる藏人何ともせず、戸をおしあけてさざめき入れば、あきれて「いとこはすぢなき世かな」とて立てるもをかし。それにつきてぞ、かしづきども皆入る。けしきいとねたげなり。うへもおはしまして、いとをかしと御覽じおはしますらんかし。童舞の夜はいとをかし。燈臺に向ひたる顏ども、いとらうたげにをかしかりき。
(八九段)
無名といふ琵琶の御琴を、うへの持てわたらせ給へるを、見などして、掻き鳴しなどすと言へば、ひくにはあらず、緒などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとかや」など聞えさするに、「ただいとはかなく名もなし」との給はせたるは、なほいとめでたくこそ覺えしか。
淑景舎などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとにいとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へり」との給ふを、僧都の君の「それは隆圓にたうべ。おのれが許にめでたき琴侍り、それにかへさせ給へ」と申し給ふを、ききも入れ給はで、猶他事をのたまふに、答させ奉らんと數多たび聞え給ふに、なほ物のたまはねば、宮の御前の「否かへじとおぼいたるものを」との給はせけるが、いみじうをかしき事ぞ限なき。この御笛の名を僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしとぞおぼしためる。これは職の御曹司におはしましし時の事なり。うへの御前に、いなかへじといふ御笛のさふらふなり。
御前に侍ふ者どもは、琴も笛も皆めづらしき名つきてこそあれ。琵琶は玄象、牧馬、井上、渭橋、無名など、また和琴なども、朽目、鹽竈、二貫などぞ聞ゆる。水龍、小水龍、宇多法師、釘打、葉二、なにくれと多く聞えしかど忘れにけり。宜陽殿の一の棚にといふことぐさは、頭中將こそしたまひしか。
(九〇段)
うへの御局の御簾の前にて、殿上人日ひと日、琴、笛吹き遊びくらして、まかで別るるほど、まだ格子をまゐらぬに、おほとなぶらをさし出でたれば、戸の開きたるがあらはなれば、琵琶の御琴をただざまにもたせ給へり。紅の御衣のいふも世の常なる、袿又はりたるも數多たてまつりて、いと黒くつややかなる御琵琶に、御衣の袖をうちかけて、捕へさせ給へるめでたきに、そばより御額のほど白くけざやかにて、僅に見えさせ給へるは、譬ふべき方なくめでたし。近く居給へる人にさし寄りて、「半かくしたりけんも、えかうはあらざりけんかし。それはただ人にこそありけめ」といふを聞きて、心地もなきを、わりなく分け入りて啓すれば、笑はせ給ひて、「われは知りたりや」となん仰せらるると傳ふるもをかし。
御乳母の大輔の、けふ日向へくだるに、賜はする扇どもの中に、片つかたには、日いと花やかにさし出でて旅人のある所、井手の中將の館などいふさまいとをかしう書きて、今片つかたには、京のかた雨いみじう降りたるに、ながめたる人などかきたるに、
あかねさす日にむかひても思ひいでよ都は晴れぬながめすらんと
ことばに御手づから書かせ給ひし、あはれなりき。さる君をおき奉りて、遠くこそえいくまじけれ。
(九一段)
ねたきもの
これよりやるも、人のいひたる返しも、書きて遣りつる後、文字一つ二つなど思ひなほしたる、頓の物ぬふに、縫ひはてつと思ひて針を拔きたれば、はやうしりを結ばざりけり。又かへさまに縫ひたるもいとねたし。
南の院におはします頃、西の對に殿のおはします方に宮もおはしませば、寢殿に集りゐて、さうざうしければ、ふれあそびをし、渡殿に集り居などしてあるに、「これ只今とみのものなり、誰も誰も集りて、時かはさず縫ひて參らせよ」とて平縱の御衣を給はせたれば、南面に集り居て、御衣片身づつ、誰か疾く縫ひ出づると挑みつつ、近くも向はず縫ふさまもいと物狂ほし。命婦の乳母いと疾く縫ひはててうち置きつる。弓長のかたの御身を縫ひつるが、そむきざまなるを見つけず、とぢめもしあへず、惑ひ置きて立ちぬるに、御背合せんとすれば、早う違ひにけり。笑ひののしりて、「これ縫ひ直せ」といふを、「誰があしう縫ひたりと知りてか直さん、綾などならばこそ、裏を見ざらん縫ひたがへの人のげになほさめ。無紋の御衣なり。何をしるしにてか直す人誰かあらん。ただまだ縫ひ給はざらん人に直させよ」とて聞きも入れねば、「さいひてあらんや」とて、源少納言、新中納言など、いひ直し給ひし顏見やりて居たりしこそをかしかりしか。これはよさりのぼらせ給はんとて、「疾く縫ひたらん人を思ふと知らん」と仰せられしか。
見すまじき人に、外へ遣りたる文取り違へて持て行きたる、ねたし。「げに過ちてけり」とはいはで、口かたうあらがひたる、人目をだに思はずば、走りもうちつべし。おもしろき萩薄などを植ゑて見るほどに、長櫃もたるもの、鋤など提げて、ただほりに掘りていぬるこそ、佗しうねたかりけれ。よろしき人などのある折は、さもせぬものを、いみじう制すれど「唯すこし」などいひていぬる、いふがひなくねたし。受領などの來て無禮に物いひ、さりとて我をばいかがと思ひたるけはひに、いひ出でたる、いとねたげなり。
見すまじき人の、文を引き取りて、庭におりて見たてる、いとわびしうねたく、追ひて行けど、簾の許にとまりて見るこそ、飛びも出でぬべき心地すれ。すずろなる事腹だちて、同じ所にも寢ず、身じくり出づるを、忍びて引きよすれど、わりなく心ことなれば、あまりになりて、人も「さはよかなり」と怨じて、かいくぐみて臥しぬる後、いと寒き折などに、唯ひとへ衣ばかりにて、あやにくがりて、大かた皆人も寢たるに、さすがに起き居たらん怪しくて、夜の更くるままに、ねたく起きてぞいぬべかりけるなど思ひ臥したるに、奧にも外にも物うちなりなどして恐しければ、やをらまろび寄りて衣ひきあぐるに、虚寐したるこそいとねたけれ。「猶こそこはがり給はめ」などうちいひたるよ。
(九二段)
かたはらいたきもの
客人などにあひて物いふに、奧の方にうち解けごと人のいふを、制せで聞く心地。思ふ人のいたく醉ひておなじ事したる。聞きゐたるをも知らで人のうへいひたる。それは何ばかりならぬつかひ人なれど、かたはらいたし。
旅だちたる所ちかき所などにて、下衆どものざれかはしたる。にくげなる兒を、おのれが心地にかなしと思ふままに、うつくしみあそばし、これが聲の眞似にていひける事など語りたる。才ある人の前にて、才なき人の物おぼえがほに人の名などいひたる。殊によしとも覺えぬわが歌を人に語りきかせて、人の譽めし事などいふもかたはらいたし。人の起きて物語などする傍に、あさましう打ちとけて寐たる人。まだ音も彈きととのへぬ琴を、心一つをやりて、さやうのかた知りつる人の前にて彈く。いとどしう住まぬ聟の、さるべき所にて舅にあひたる。
(九三段)
あさましきもの
指櫛みがくほどに、物にさへて折れたる。車のうちかへされたる。さるおほのかなる物は、ところせく久しくなどやあらんとこそ思ひしか。ただ夢の心地してあさましうあやなし。
人のために恥しき事、つつみもなく、兒も大人もいひたる。かならず來なんと思ふ人を待ち明して、曉がたに、唯いささか忘れて寐入りたるに、烏のいと近くかうと鳴くに、うち見あげたれば、晝になりたるいとあさまし。てうばみにどう取られたる。無下に知らず、見ず、きかぬ事を、人のさし向ひて、あらがはすべくもなくいひたる。物うちこぼしたるもあさまし。賭弓にわななくわななく久しうありてはづしたる矢の、もて離れてことかたへ行きたる。
(九四段)
くちをしきもの
節會、佛名に雪ふらで、雨のかき暮し降りたる。節會、さるべきをりの、御物忌に當りたる。いとなみいつしかと思ひたる事の、さはる事出で來て俄にとまりたる。いみじうする人の、子うまで年ごろ具したる。あそびをもし、見すべき事もあるに、かならず來なんと思ひて呼びに遣りつる人の、さはる事ありてなどいひて來ぬ、くちをし。
男も女も宮仕所などに、同じやうなる人、諸共に寺へまうで、物へも行くに、このもしうこぼれ出でて、用意はげしからず、あまり見苦しとも見つべくはあらぬに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、すきずきしからん下衆などにても、人に語りつべからんにてもがなと思ふも、けしからぬなめりかし。
(九五段)
五月の御精進のほど、職におはしますに、塗籠の前、二間なる所を、殊にしつらひしたれば、例ざまならぬもをかし。
朔日より雨がちにて曇りくらす。「つれづれなるを、杜鵑の聲たづねありかばや」といふを聞きて、われもわれもと出でたつ。「賀茂の奧になにがしとかや、七夕の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞えし。そのわたりになん日ごとに鳴く」と人の言へば、「それは蜩なり」と答ふる人もあり。そこへとて、五日のあした、宮づかさ車の事いひて、北の陣より、「五月雨はとがめなきものぞ」とて、さしよせて四人ばかりぞ乘りて行く。うらやましがりて、「今一つして同じくば」などいへば、「いな」と仰せらるれば、聞きも入れず、なさけなきさまにて行くに、馬場といふ所にて人多くさわぐ。「何事するぞ」と問へば、「手結にて眞弓射るなり。しばし御覽じておはしませ」とて車止めたり。「右近の中將みな著き給へる」といへど、さる人も見えず。六位などの立ちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ、はやく過ぎよ」とて行きもて行けば、道も祭のころ思ひ出でられてをかし。
かういふ所には、明順朝臣の家あり。そこもやがて見んといひて車よせておりぬ。田舎だち事そぎて、馬の繪書きたる障子、網代屏風、三稜草簾など、殊更に昔の事を寫し出でたり。屋のさまもはかなだちて、端近くあさはかなれど、をかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりに鳴きあひたる杜鵑の聲を、くちをしう御前に聞しめさず、さばかり慕ひつる人々にもなど思ふ。所につけては、かかる事をなん見るべきとて、稻といふもの多く取り出でて、わかき女どものきたなげならぬ、そのわたりの家のむすめ、女などひきゐて來て、五六人してこかせ、見も知らぬくるべきもの二人してひかせて、歌うたはせなどするを、珍しくて笑ふに、杜鵑の歌よまんなどしつる、忘れぬべし。
唐繪にあるやうなる懸盤などして物くはせたるを、見いるる人なければ、家あるじ「いとわろくひなびたり。かかる所に來ぬる人は、ようせずばあるもなど責め出してこそ參るべけれ。無下にかくてはその人ならず」などいひてとりはやし、「この下蕨は手づから摘みつる」などいへば、「いかで女官などのやうに、つきなみてはあらん」などいへば、とりおろして、「例のはひぶしに習はせ給へる御前たちなれば」とて、とりおろしまかなひ騒ぐほどに、「雨ふりぬべし」といへば、急ぎて車に乘るに、「さてこの歌は、ここにてこそ詠まめ」といへば、「さばれ道にても」などいひて、
卯の花いみじく咲きたるを折りつつ、車の簾傍などに長き枝を葺き指したれば、ただ卯花重をここに懸けたるやうにぞ見えける。供なる男どももいみじう笑ひつつ、網代をさへつきうがちつつ、「ここまだし、ここまだし」とさし集むなり。
人もあはなんと思ふに、更にあやしき法師、あやしのいふがひなき者のみ、たまさかに見ゆる、いとくちをし。近う來ぬれば、「さりともいとかうて止まんやは。この車のさまをだに人に語らせてこそ止まめ」とて、一條殿の許にとどめて、「侍從殿やおはす、杜鵑の聲聞きて、今なんかへり侍る」といはせたる。使「只今まゐる。あが君あが君となんの給へる。さぶらひに間擴げて、指貫たてまつりつ」といふに、待つべきにもあらずとて、はしらせて、土御門ざまへやらするに、いつの間にか裝束しつらん、帶は道のままにゆひて、しばしばと追ひくる。供に侍、雜色、ものはかで走るめる。とくやれどいとど忙しくて、土御門にきつきぬるにぞ、喘ぎ惑ひておはして、まづこの車のさまをいみじく笑ひ給ふ。「うつつの人の乘りたるとなん更に見えぬ。猶おりて見よ」など笑ひ給へば、供なりつる人どもも興じ笑ふ。「歌はいかにか、それ聞かん」とのたまへば、「今御前に御覽ぜさせてこそは」などいふ程に、雨まことに降りぬ。「などか他御門のやうにあらで、この土御門しもうへもなく造りそめけんと、今日こそいとにくけれ」などいひて、「いかで歸らんずらん。こなたざまは唯後れじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、あう往かんこそいとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし、うちへ」などいふ。「それも烏帽子にてはいかでか」「とりに遣り給へ」などいふに、まめやかにふれば、笠なき男ども、唯ひきにひき入れつ。一條より笠を持てきたるをささせて、うち見かへりうち見かへり、このたびはゆるゆると、物憂げにて、卯の花ばかりを取りおはするもをかし。
さて參りたれば、ありさまなど問はせ給ふ。うらみつる人々、怨じ心うがりながら、藤侍從、一條の大路走りつるほど語るにぞ、皆笑ひぬる。「さていづら歌は」と問はせ給ふ。かうかうと啓すれば、「くちをしの事や。うへ人などの聞かんに、いかでかをかしき事なくてあらん。その聞きつらん所にて、ふとこそよまましか。あまり儀式ことざめつらんぞ怪しきや。ここにてもよめ。いふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふに、いとわびしきを、いひ合せなどする程に、藤侍從の、ありつる卯の花につけて、卯の花の薄樣に、
ほととぎすなく音たづねに君ゆくときかば心をそへもしてまし
かへしまつらんなど、局へ硯とりに遣れば、「ただこれして疾くいへ」とて、御硯の蓋に紙など入れて賜はせたれば、「宰相の君かきたまへ」といふを、「なほそこに」などいふほどに、かきくらし雨降りて、雷もおどろおどろしう鳴りたれば、物も覺えず、唯おろしにおろす。職の御曹子は、蔀をぞ御格子にまゐり渡し惑ひしほどに、歌のかへりごとも忘れぬ。
いと久しく鳴りて、少し止むほどはくらくなりぬ。只今なほその御返事たてまつらんとて、取りかかるほどに、人々上達部など、雷の事申しにまゐり給ひつれば、西面に出でて物など聞ゆるほどにまぎれぬ。人はた、「さしてえたらん人こそ知らめ」とてやみぬ。「大かたこの事に宿世なき日なり、どうじて、今はいかでさなん往きたりしとだに人に聞かせじ」などぞ笑ふを、「今もなどそれ往きたりし人どものいはざらん。されどもさせじと思ふにこそあらめ」と物しげに思しめしたるもいとをかし。「されど今はすさまじくなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかるべき事かは」などのたまはせしかば、やみにき。
二日ばかりありて、その日の事などいひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ手づから折りたるといひし下蕨は」とのたまふを聞かせ給うて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、
したわらびこそこひしかりけれ
とかかせ給ひて、「もといへ」と仰せらるるもをかし。
ほととぎすたづねてききし聲よりも
と書きて參らせたれば、「いみじううけばりたりや。かうまでだに、いかで杜鵑の事をかけつらん」と笑はせ給ふも恥しながら、「何か、この歌すべて詠み侍らじとなん思ひ侍るものを、物のをりなど人のよみ侍るにも、よめなど仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なんし侍る。いかでかは、文字の數知らず、春は冬の歌をよみ、秋は春のをよみ、梅のをりは菊などをよむ事は侍らん。されど歌よむといはれ侍りしすゑずゑは、少し人にまさりて、そのをりの歌はこれこそありけれ、さはいへどそれが子なればなどいはれたらんこそ、かひある心地し侍らめ。露とり分きたるかたもなくて、さすがに歌がましく、われはと思へるさまに最初に詠みいで侍らんなん、なき人のためいとほしく侍る」などまめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらばただ心にまかす。われは詠めともいはじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は歌のこと思ひかけ侍らじ」などいひてあるころ、庚申せさせ給ひて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。
夜うち更くるほどに題出して、女房に歌よませ給へば、皆けしきだちゆるがし出すに、宮の御前に近くさぶらひて、物啓しなど他事をのみいふを、大臣御覽じて、「などか歌はよまで離れゐたる、題とれ」とのたまふを、「さる事承りて、歌よむまじくなりて侍れば、思ひかけ侍らず」「異樣なる事、まことにさる事やは侍る。などかは許させ給ふ。いとあるまじき事なり。よし異時は知らず、今宵はよめ」など責めさせ給へど、けぎよう聞きも入れで侍ふに、こと人ども詠み出して、よしあしなど定めらるるほどに、いささかなる御文をかきて賜はせたり。あけて見れば、
もとすけが後といはるる君しもやこよひの歌にはづれてはをる
とあるを見るに、をかしき事ぞ類なきや。いみじく笑へば、「何事ぞ何事ぞ」と大臣ものたまふ。
その人の後といはれぬ身なりせばこよひの歌はまづぞよままし。
「つつむ事さふらはずば、千歌なりとも、これよりぞ出でまうで來まし」と啓しつ。
(九六段)
職におはします比(ころ)、八月十よ日の月あかき夜、右近の内侍に琵琶ひかせて、はし近くおはします。これかれ物いひ、笑ひなどするに、廂(ひさし)の柱によりかかりて、物もいはでさぶらへば、「など、かう、おともせぬ。物いへ。さうざうしきに」と仰せらるれば、「只(ただ)、秋の月の心を見侍(みはべ)るなり」と申せば、「さもいひつべし」とおほせあらる。
(九七段)
御かたがた公達上人など、御前に人多く侍へば、廂の柱によりかかりて、女房と物語してゐたるに、物をなげ賜はせたる。あけて見れば、「思ふべしやいなや、第一ならずばいかが」と問はせ給へり。
御前にて物語などする序にも、「すべて人には一に思はれずば、さらに何にかせん。唯いみじうにくまれ、惡しうせられてあらん。二三にては死ぬともあらじ、一にてをあらん」などいへば、一乘の法なりと人々わらふ事のすぢなめり。
筆紙たまはりたれば、「九品蓮臺の中には下品といふとも」と書きてまゐらせたれば、「無下に思ひ屈じにけり。いとわろし。いひそめつる事は、さてこそ有らめ」とのたまはすれば、「人に隨ひてこそ」と申す。「それがわろきぞかし。第一の人に、又一に思はれんとこそ思はめ」と仰せらるるもいとをかし。
(九八段)
中納言殿まゐらせ給ひて、御扇奉らせ給ふに、「隆家こそいみじき骨をえて侍れ。それをはらせて參らせんとするを、おぼろけの紙ははるまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうなるにかある」と問ひ聞えさせ給へば、「すべていみじく侍る。さらにまだ見ぬ骨のさまなりとなん人々申す。まことにかばかりのは侍らざりつ」とことたかく申し給へば、「さて扇のにはあらで海月のなり」と聞ゆれば、「これは隆家がことにしてん」とて笑ひ給ふ。かやうの事こそ、かたはらいたき物のうちに入れつべけれど、人ごと「な落しそ」と侍ればいかがはせん。
(九九段)
雨のうちはへ降るころ、今日も降るに、御使にて式部丞信經まゐりたり。例の茵さし出したるを、常よりも遠く押し遣りてゐたれば、「あれは誰が料ぞ」といへば、笑ひて「かかる雨にのぼり侍らば足形つきて、いとふびんに汚なげになり侍りなん」といへば、「などせんぞくれうにこそはならめ」といふを、「これは御前にかしこう仰せらるるにはあらず、信經が足形の事を申さざらましかば、えの給はざらまし」とて、かへすがえすいひしこそをかしかりしか。あまりなる御身ぼめかなと傍いたく。「はやう皇太后宮に、ゑぬたきといひて名高き下仕なんありける。美濃守にてうせにける藤原時柄、藏人なりける時、下仕どもある所に立ち寄りて、これやこの高名のゑぬたき、などさも見えぬといひける返事に、それは時柄もさも見ゆる名なりといひたりけるなん、敵に選りてもいかでかさる事はあらん。
殿上人上達部までも、興ある事にの給ひける。又さりけるなめりと、今までかくいひ傳ふるは」と聞えたり。「それ又時柄がいはせたるなり。すべて題出しがらなん、詩も歌もかしこき」といへば、「實にさる事あることなり。さらば題出さん、歌よみ給へ」といふに、「いとよき事、ひとつはなにせん、同じうは數多つかう奉らん」などいふほどに、御題は出でぬれば、「あなおそろし、まかりいでぬ」とて立ちぬ。「手もいみじう眞字も假字もあしう書くを、人も笑ひなどすれば、かくしてなんある」といふもをかし。
作物所の別當するころ、誰が許にやりけるにかあらん、物の繪やうやるとて、「これがやうにつかうまつるべし」と書きたる眞字のやう、文字の世に知らずあやしきを見つけて、それが傍に、「これがままにつかうまつらば、異樣にこそあるべけれ」とて、殿上にやりたれば、人々取りて見ていみじう笑ひけるに、大腹だちてこそうらみしか。
(一〇〇段)
淑景舎春宮にまゐり給ふほどの事など、いかがはめでたからぬ事なし。正月十日にまゐり給ひて、宮の御方に御文などは繁う通へど、御對面などはなきを、二月十日、宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、常よりも御しつらひ心ことにみがきつくろひ、女房なども皆用意したり。夜半ばかりに渡らせ給ひしかば、いくばくもなくて明けぬ。
登華殿の東の二間に御しつらひはしたり。翌朝いと疾く御格子まゐりわたして、あかつきに、殿、うへ、ひとつ御車にて參り給ひにけり。宮は御曹司の南に、四尺の屏風西東に隔てて、北向に立てて、御疊褥うち置きて、御火桶ばかりまゐりたり。御屏風の南御帳の前に、女房いと多くさぶらふ。
こなたにて御髮などまゐるほど、「淑景舎は見奉りしや」と問はせ給へば、「まだいかでか。積善寺供養の日、御うしろをわづかに」と聞ゆれば、「その柱と屏風とのもとによりて、わがうしろより見よ。いとうつくしき君ぞ」との給はすれば、うれしくゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。
紅梅の固紋、浮紋の御衣どもに、紅のうちたる御衣、三重がうへに唯引き重ねて奉りたるに、「紅梅には濃き衣こそをかしけれ。今は紅梅は著でもありぬべし。されど萌黄などのにくければ。紅にはあはぬなり」との給はすれど、唯いとめでたく見えさせ給ふ。奉りたる御衣に、やがて御容のにほひ合せ給ふぞ、なほことよき人も、かくやおはしますらんとぞゆかしき。
さてゐざり出でさせ給ひぬれば、やがて御屏風に添ひつきてのぞくを、「あしかめり、うしろめたきわざ」と聞えごつ人々もいとをかし。御障子の廣うあきたれば、いとよく見ゆ。うへは白き御衣ども、紅のはりたる二つばかり、女房の裳なめり。引きかけておくによりて、東面におはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる淑景舎は北にすこしよりて南向におはす。紅梅どもあまた濃く薄くて、濃きあやの御衣、少しあかき蘇枋の織物の袿、萌黄の固紋のわかやかなる御衣奉りて、扇をつとさし隱し給へり。いといみじく、げにめでたく美しく見え給ふ。殿は薄色の直衣、萌黄の織物の御指貫、紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱に後をあてて、こなたざまに向きておはします。めでたき御有樣どもを、うちゑみて、例の戲言をせさせ給ふ。淑景舎の、繪に書きたるやうに、美しげにてゐさせ給へるに、宮いとやすらかに、今すこしおとなびさせ給へる御けしきの、紅の御衣ににほひ合せ給ひて、なほ類はいかでかと見えさせ給ふ。
御手水まゐる。かの御かたは宣耀殿、貞觀殿を通りて、童二人、下仕四人して持てまゐるめり。唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狹しとて、かたへは御おくりして皆歸りにけり。櫻の汗衫、萌黄紅梅などいみじく、汗衫長く裾引きて、取り次ぎまゐらす、いとなまめかし。織物の唐衣どもこぼれ出でて、すけまさの馬頭のむすめ、小將の君、北野の三位の女、宰相の君などぞ近くはある。あなをかしと見るほどに、この御かたの御手水番の釆女、青末濃の唐衣、裙帶、領巾などして、おもてなどいと白くて、下仕など取り次ぎてまゐるほど、これはたおほやけしう唐めきてをかし。
御膳のをりになりて、御髮あげまゐりて、藏人どもまかなひの髮あげてまゐらする程に、隔てたりつる屏風も押しあけつれば、垣間見の人、かくれ蓑とられたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱のもとよりぞ見奉る。衣の裾裳など、唐衣は皆御簾のそとに押し出されたれば、殿の、端のかたより御覽じ出して「誰そや、霞の間よりみゆるは」と咎めさせ給ふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならん」と申させ給へば、「あなはづかし。かれはふるき得意を、いとにくげなる女ども持ちたりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顏なり。あなたにも御膳まゐる。「羨しく、かたがたのは皆まゐりぬめり。疾くきこしめして、翁女におろしをだに給へ」など、ただ日ひと日、猿樂ことをし給ふ程に、大納言殿、三位中將、松君も將てまゐり給へり。殿いつしかと抱き取り給ひて、膝にすゑ給へる、いとうつくし。狹き縁に、所せき日の御裝束の下襲など引きちらされたり。大納言殿はものものしう清げに、中將殿はらうらうじう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、うへの御宿世こそめでたけれ。御圓座など聞え給へど、「陣につき侍らん」とて急ぎ立ち給ひぬ。
しばしありて、式部の丞なにがしとかや、御使にまゐりたれば、御膳やどりの北によりたる間に、褥さし出でて居ゑたり。御かへりは今日は疾く出させ給ひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、東宮の御使に、ちかよりの少將まゐりたり。御文とり入れて、渡殿は細き縁なれば、こなたの縁に褥さし出でたり。御文とり入れて、殿、うへ、宮など御覽じわたす。「御返はや」などあれど、頓にも聞え給はぬを、「某が見侍れば出で給はぬなめり。さらぬをりは間もなくこれよりぞ聞え給ふなる」など申し給へば、御面はすこし赤みながら、少しうち微笑み給へる、いとめでたし。「疾く」などうへも聞え給へば、奧ざまに向きて書かせ給ふ。うへ近く寄り給ひて、もろともに書かせ奉り給へば、いとどつつましげなり。宮の御かたより、萌黄の織物の小袿袴おし出されたれば、三位中將かづけ給ふ。くるしげに思ひて立ちぬ。
松君のをかしう物のたまふを、誰も誰もうつくしがり聞え給ふ。「宮の御子たちとて引出でたらんに、わろくは侍らじかし」などの給はする。げになどか、今までさる事のとぞ心もとなき。
未の時ばかりに、筵道まゐるといふ程もなく、うちそよめき入らせ給へば、宮もこなたに寄らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房南おもてにそよめき出でぬめり。廊に殿上人いと多かり。殿の御前に宮司召して菓子肴めさす。「人々醉はせ」などおほせらる。誠に皆ゑひて、女房と物いひかはすほど、かたみにをかしと思ひたり。
日の入るほどに起きさせ給ひて、山井の大納言召し入れて、御うちぎまゐらせ給ひて、かへらせ給ふ。櫻の御直衣に、紅の御衣のゆふばえなども、かしこければとどめつ。山井の大納言は、いりたたぬ御兄にても、いとよくおはすかし。にほひやかなる方は、この大納言にもまさり給へるものを、世の人は、せちにいひおとし聞ゆるこそいとほしけれ。殿、大納言、山井の大納言、三位中將、藏人頭など皆さぶらひ給ふ。
宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけ參り給へり。「今宵はえ」などしぶらせ給ふを、殿聞かせ給ひて、「いとあるまじき事、はやのぼらせ給へ」と申させ給ふに、また春宮の御使しきりにある程いとさわがし。御むかへに、女房、春宮のなども參りて、「疾く」とそそのかし聞ゆ。「まづさば、かの君わたし聞え給ひて」との給はすれば、「さりともいかでか」とあるを、「なほ見おくり聞えん」などの給はするほど、いとをかしうめでたし。「さらば遠きをさきに」とて、まづ淑景舎わたり給ひて、殿などかへらせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道のほども、殿の御猿樂ことにいみじく笑ひて、ほとほとうちはしよりも落ちぬべし。
 

 

(一〇一段)
殿上より梅の花の皆散りたる枝を、「これはいかに」といひたるに、「唯はやく落ちにけり」と答へたれば、その詩を誦じて、黒戸に殿上人いと多く居たるを、うへの御前きかせおはしまして、「よろしき歌など詠みたらんよりも、かかる事はまさりたりかし。よういらへたり」と仰せらる。
(一〇二段)
二月のつごもり、風いたく吹きて、空いみじく黒きに、雪すこしうち降りたるほど、黒戸に主殿司きて、「かうしてさぶらふ」といへば、よりたるに、公任の君、宰相中將殿のとあるを見れば、ふところ紙に、ただ、
すこし春あるここちこそすれ
とあるは、實に今日のけしきにいとよくあひたるを、これがもとは、いかがつくべからんと思ひ煩ひぬ。「誰々か」と問へば、それそれといふに、皆恥しき中に、宰相中將の御答をば、いかがことなしびにいひ出でんと、心ひとつに苦しきを、御前に御覽ぜさせんとすれども、うへのおはしまして、おほとのごもりたり。主殿司はとくとくといふ。實に遲くさへあらんはとりどころなければ、さばれとて、
そらさむみ花にまがへてちるゆきに
と、わななくわななく書きてとらせて、いかが見たまふらんと思ふもわびし。これが事を聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覺ゆるを、俊賢の中將など、なほ内侍に申してなさんと定めたまひしとばかりぞ、兵衞佐中將にておはせしが語りたまひし。
(一〇三段)
はるかなるもの
千日の精進はじむる日。半臂の緒ひねりはじむる日。陸奧國へゆく人の逢阪の關こゆるほど。うまれたる兒のおとなになるほど。大般若經御讀經一人して讀み始むる。十二年の山ごもりの始めてのぼる日。
(一〇四段)
方弘はいみじく人に笑はるるものかな。親などいかに聞くらん。供にありくものども、いと人々しきを呼びよせて、「何しにかかるものにはつかはるるぞ、いかが覺ゆる」など笑ふ。
物いとよくするあたりにて、下襲の色、うへのきぬなども、人よりはよくて著たるを、「これは他人に著せばや」などいふに、實にぞ詞遣などのあやしき。里に宿直物とりにやるに、「男二人まかれ」といふに、「一人して取りにまかりなんものを」といふに、「あやしの男や、一人して二人の物をばいかで持つべきぞ。一升瓶に二升は入るや」といふを、なでふ事と知る人はなけれど、いみじう笑ふ。人の使のきて「御返事疾く」といふを、「あなにくの男や、竈に豆やくべたる。この殿上の墨筆は、何者の盗みかくしたるぞ。飯酒ならばこそ、ほしうして人の盗まめ」といふを、又わらふ。
女院なやませ給ふとて、御使にまゐりて歸りたるに、「院の殿上人は誰々かありつる」と人の問へば、それかれなど四五人ばかりといふに、「又は」と問へば、「さてはいぬる人どもぞありつる」といふを、また笑ふも、又あやしき事にこそはあらめ。「人間に寄りきて、わが君こそまづ物きこえん。まづまづ人ののたまへる事ぞといへば、何事にかとて几帳のもとによりたれば、躯籠により給へといふに、五體ごめにとなんいひつる」といひて、また笑ふ。
除目の中の夜、指油するに、燈臺のうちしきを踏みて立てるに、新しき油單なれば、つようとらへられにけり。さし歩みて歸れば、やがて燈臺はたふれぬ。襪はうちしきにつきてゆくに、まことに道こそ震動したりしか。
頭つき給はぬほどは、殿上の臺盤に人もつかず。それに方弘は豆一盛を取りて、小障子のうしろにてやをら食ひければ、ひきあらはして笑はるる事ぞかぎりなきや。
(一〇五段)
見ぐるしきもの
衣の背縫かたよせて著たる人。又のけくびしたる人。下簾穢げなる上達部の御車。例ならぬ人の前に子を率ていきたる。袴著たる童の足駄はきたる、それは今樣のものなり。つぼ裝束したる者の、急ぎて歩みたる。法師、陰陽師の、紙冠して祓したる。また色黒う、痩せ、にくげなる女のかづらしたる。髯がちにやせやせなる男と晝寢したる、何の見るかひに臥したるにかあらん。夜などはかたちも見えず又おしなべてさる事となりにたれば、我にくげなりとて、起き居るべきにもあらずかし。翌朝疾く起き往ぬる、めやすし。夏晝寐して起きたる、いとよき人こそ今少しをかしけれ。えせかたちはつやめき寐はれて、ようせずば、頬ゆがみもしつべし。互に見かはしたらん程の、いけるかひなさよ。色黒き人の、生絹單著たる、いと見ぐるしかし。のしひとへも同じくすきたれど、それはかたはにも見えず。ほその通りたればにやあらん。
(一〇六段)
いひにくきもの
人の消息、仰事などの多かるを、序のままに、初より奧までいといひにくし。返事また申しにくし。恥しき人の物おこせたるかへりごと。おとなになりたる子の、思はずなること聞きつけたる、前にてはいといひにくし。
(一〇七段)
關は
逢阪の關。須磨の關。鈴鹿の關。くきだの關。白川の關。衣の關。ただこえの關は、はばかりの關と、たとしへなくこそ覺ゆれ。
よこばしりの關。清見が關。みるめの關。よしなよしなの關こそ、いかに思ひ返したるならんと、いと知らまほしけれ。それを勿來の關とはいふにやあらん。逢阪などをまで思ひ返したらば、佗しからんかし。足柄の關。
(一〇八段)
森は
大荒木の森。忍の森。こごひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。うつきの森。きくだの森。いはせの森。立聞の森。常磐の森。くるべきの森。神南備の森。假寐の森。浮田の森。うへ木の森。石田の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡の森。
(一〇九段)
原は
竹原。甕の原。朝の原。その原。萩原。粟津原。奈志原。うなゐごが原。安倍の原。篠原。
(一一〇段)
卯月の晦日に、長谷寺にまうづとて、淀の渡といふものをせしかば、船に車をかき居ゑてゆくに、菖蒲菰などの末みじかく見えしを、取らせたれば、いと長かりける。菰つみたる船のありきしこそ、いみじうをかりしかりか。高瀬の淀には、これをよみけるなめりと見えし。
三日といふに歸るに、雨のいみじう降りしかば、菖蒲かるとて、笠のいとちひさきを著て、脛いとたかき男童などのあるも、屏風の繪にいとよく似たり。
(一一一段)
常よりもことにきこゆるもの
元三の車の音。鳥のこゑ。暁のしはぶき。物の音はさらなり。
(一一二段)
繪にかきておとるもの
瞿麥。さくら。山吹。物語にめでたしといひたる男女のかたち。
かきまさりするもの
松の木。秋の野。山里。山路。鶴。鹿。
(一一三段)
冬は、いみじくさむき。
夏は、世にしらずあつき。
(一一四段)
あはれなるもの
孝ある人の子。鹿の音。よき男のわかきが御嶽精進したる。へだて居てうちおこなひたる曉のぬかなど、いみじうあはれなり。むつましき人などの目さまして聞くらん思ひやり、まうづる程のありさま、いかならんとつつしみたるに、平にまうでつきたるこそいとめでたけれ。烏帽子のさまなどぞ少し人わろき。なほいみじき人と聞ゆれど、こよなくやつれてまうづとこそは知りたるに、
右衞門佐信賢は「あぢきなきことなり。ただ清き衣を著てまうでんに、なでふ事かあらん、必よもあしくてよと、御嶽のたまはじ」とて、三月晦日に、紫のいと濃き指貫、しろき、青山吹のいみじくおどろおどろしきなどにて、隆光が主殿亮なるは、青色の紅の衣、摺りもどろかしたる水干袴にて、うちつづき詣でたりけるに、歸る人もまうづる人も、珍しく怪しき事に、「すべてこの山道に、かかる姿の人見えざりつ」とあさましがりしを、四月晦日に歸りて、六月十餘日の程に、筑前の守うせにしかはりになりにしこそ、實にいひけんに違はずもと聞えしか。これはあはれなる事にはあらねども、御嶽のついでなり。
九月三十日、十月一日の程に、唯あるかなきかに聞きつけたる蟋蟀の聲。鷄の子いだきて伏したる。秋深き庭の淺茅に、露のいろいろ玉のやうにて光りたる。川竹の風に吹かれたる夕ぐれ。曉に目覺したる夜なども。すべて思ひかはしたる若き人の中に、せくかたありて心にしも任せぬ。山里の雪。男も女も清げなるが黒き衣著たる。二十日六七日ばかりの曉に、物語して居明して見れば、あるかなきかに心細げなる月の、山の端近く見えたるこそいとあはれなれ。秋の野。年うち過したる僧たちの行したる。荒れたる家に葎はひかかり、蓬など高く生ひたる庭に、月の隈なく明き。いと荒うはあらぬ風の吹きたる。
(一一五段)
正月に寺に籠りたるはいみじく寒く、雪がちにこほりたるこそをかしけれ。雨などの降りぬべき景色なるはいとわろし。
初瀬などに詣でて、局などするほどは、榑階のもとに車引きよせて立てるに、帶ばかりしたる若き法師ばらの、屐といふものをはきて、聊つつみもなく下り上るとて、何ともなき經のはしうち讀み、倶舎の頌を少しいひつづけありくこそ、所につけてをかしけれ。わが上るはいとあやふく、傍によりて高欄おさへてゆくものを、ただ板敷などのやうに思ひたるもをかし。「局したり」などいひて、沓ども持てきておろす。衣かへさまに引きかへしなどしたるもあり。裳唐衣などこはごはしくさうぞきたるもあり。深沓半靴などはきて、廊のほどなど沓すり入るは、内裏わたりめきて又をかし。
内外など許されたる若き男ども、家の子など、又立ちつづきて、「そこもとはおちたる所に侍るめり。あがりたる」など教へゆく。何者にかあらん。いと近くさし歩み、さいだつものなどを、「しばし、人のおはしますに、かくはまじらぬわざなり」などいふを、實にとて少し立ち後るるもあり。又聞きも入れず、われまづ疾く佛の御前にとゆくもあり。局にゆくほども、人の居竝みたる前を通り行けば、いとうたてあるに、犬ふせぎの中を見入れたる心地、いみじく尊く、などて月頃もまうでず過しつらんとて、まづ心もおこさる。
御燈常燈にはあらで、うちに又人の奉りたる、おそろしきまで燃えたるに、佛のきらきらと見え給へる、いみじくたふとげに、手ごとに文を捧げて、禮盤に向ひてろぎ誓ふも、さばかりゆすりみちて、これはと取り放ちて聞きわくべくもあらぬに、せめてしぼり出したるこゑごゑの、さすがに又紛れず。「千燈の御志は、なにがしの御ため」と僅に聞ゆ。帶うちかけて拜み奉るに、「ここにかうさぶらふ」といひて、樒の枝を折りて持てきたるなどの尊きなども猶をかし。犬ふせぎのかたより法師よりきて、「いとよく申し侍りぬ。幾日ばかり籠らせ給ふべき」など問ふ。「しかじかの人こもらせ給へり」などいひ聞かせていぬるすなはち、火桶菓子など持てきつつ貸す。半挿に手水など入れて、盥の手もなきなどあり。「御供の人はかの坊に」などいひて呼びもて行けば、かはりがはりぞ行く。誦經の鐘の音、わがななりと聞けば、たのもしく聞ゆ。
傍によろしき男の、いと忍びやかに額などつく。立居のほども心あらんと聞えたるが、いたく思ひ入りたる氣色にて、いも寢ず行ふこそいとあはれなれ。うちやすむ程は、經高くは聞えぬほどに讀みたるも尊げなり。高くうち出させまほしきに、まして鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、少し忍びてかみたるは、何事を思ふらん、かれをかなへばやとこそ覺ゆれ。
日ごろこもりたるに、晝は少しのどかにぞ、早うはありし。法師の坊に、男ども童などゆきてつれづれなるに、ただ傍に貝をいと高く、俄に吹き出したるこそおどろかるれ。清げなるたて文など持せたる男の、誦經の物うち置きて、堂童子など呼ぶ聲は、山響きあひてきらきらしう聞ゆ。鐘の聲ひびきまさりて、いづこならんと聞く程に、やんごとなき所の名うちいひて、「御産たひらかに」など教化などしたる、すずろにいかならんと覺束なく念ぜらるる。これはただなる折の事なめり。正月などには、唯いと物さわがしく、物のぞみなどする人の隙なく詣づる見るほどに、行もしやられず。
日のうち暮るるにまうづるは、籠る人なめり。小法師ばらの、もたぐべくもあらぬ屏風などの高き、いとよく進退し、疊などほうとたておくと見れば、ただ局に出でて、犬ふせぎに簾垂をさらさらとかくるさまなどぞいみじく、しつけたるは安げなり。そよそよとあまたおりて、大人だちたる人の、いやしからず、忍びやかなる御けはひにて、かへる人にやあらん、「そのうちあやふし。火の事制せよ」などいふもあり。
七つ八つばかりなる男子の、愛敬づきおごりたる聲にて、さぶらひ人呼びつけ、物などいひたるけはひもいとをかし。また三つばかりなるちごのねおびれて、うちしはぶきたるけはひもうつくし。乳母の名、母などうち出でたらんも、これならんといと知らまほし。
夜ひと夜、いみじうののしりおこなひあかす。寐も入らざりつるを、後夜などはてて、少しうちやすみ寐ぬる耳に、その寺の佛經を、いとあらあらしう、高くうち出でて讀みたるに、わざとたふとしともあらず。修行者だちたる法師のよむなめりと、ふとうち驚かれて、あはれに聞ゆ。
また夜などは、顏知らで、人々しき人の行ひたるが、青鈍の指貫のはたばりたる、白き衣どもあまた著て、子どもなめりと見ゆる若き男の、をかしううちさうぞきたる、童などして、さぶらひの者ども、あまたかしこまり圍遶したるもをかし。かりそめに屏風たてて、額などすこしつくめり。顏知らぬは誰ならんといとゆかし。知りたるは、さなめりと見るもをかし。若き人どもは、とかく局どもなどの邊にさまよひて、佛の御かたに目見やり奉らず、別當など呼びて、打ちささめき物語して出でぬる、えせものとは見えずかし。
二月晦日、三月朔日ごろ、花盛に籠りたるもをかし。清げなる男どもの、忍ぶと見ゆる二三人、櫻青柳などをかしうて、くくりあげたる指貫の裾も、あてやかに見なさるる、つきづきし男に、裝束をかしうしたる餌袋いだかせて、小舎人童ども、紅梅萌黄の狩衣に、いろいろのきぬ、摺りもどろかしたる袴など著せたり。花など折らせて、侍めきて、細やかなるものなど具して、金鼓うつこそをかしけれ。さぞかしと見ゆる人あれど、いかでかは知らん。打ち過ぎていぬるこそ、さすがにさうざうしけれ。「氣色を見せましものを」などいふもをかし。
かやうにて寺ごもり、すべて例ならぬ所に、つかふ人のかぎりしてあるは、かひなくこそ覺ゆれ。猶おなじほどにて、一つ心にをかしき事も、さまざまいひ合せつべき人、かならず一人二人、あまたも誘はまほし。そのある人の中にも、口をしからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男などもさ思ふにこそあめれ。わざと尋ね呼びもてありくめるはいみじ。
(一一六段)
こころづきなきもの
祭、御禊など、すべて男の見る物見車に、ただ一人乘りて見る人こそあれ。いかなる人にかあらん。やんごとながらずとも、わかき男どもの物ゆかしと思ひたるなど、引きのせて見よかし。すきかげに唯一人かがよひて、心ひとつにまもり居たらんよ、いかばかり心せばく、けにくきならんとぞ覺ゆる。
物へもいき、寺へもまうづる日の雨。つかふ人などの、「我をばおぼさず、某こそ只今時の人」などいふをほのききたる。人よりは少しにくしと思ふ人の、おしはかりごとうちし、すずろなる物怨し、われさかしがる。
(一一七段)
わびしげに見ゆるもの
六七月の午未の時ばかりに、穢げなる車にえせ牛かけて、ゆるがし行くもの。雨ふらぬ日はりむしろしたる車。降る日はりむしろせぬも。年老いたる乞兒。いと寒きをりも、暑きにも、下種女のなりあしきが子を負ひたる。ちひさき板屋の黒うきたなげなるが、雨にぬれたる。雨のいたく降る日、ちひさき馬に乘りて前駈したる人の、かうぶりもひしげ、袍も下襲もひとつになりたる、いかにわびしからんと見えたり。夏はされどよし。
(一一八段)
あつげなるもの
隨身の長の狩衣。衲の袈裟。出居の少將。いみじく肥えたる人の髮おほかる。琴の袋。六七月の修法の阿闍梨。日中の時など行ふ。又おなじころの銅の鍛冶。
(一一九段)
はづかしきもの
男の心のうち。いさとき夜居の僧。密盗人のさるべき隈に隱れ居て、いかに見るらんを、誰かはしらん、暗きまざれに、懷に物引き入るる人もあらんかし。それは同じ心にをかしとや思ふらん。
夜居の僧は、いとはづかしきものなり。若き人の集りては、人のうへをいひ笑ひ、謗り憎みもするを、つくづくと聞き集むる心のうちもはづかし。「あなうたて、かしがまし」など、御前近き人々の物けしきばみいふを聞き入れず、いひいひてのはては、うち解けてねぬる後もはづかし。
男はうたて思ふさまならず、もどかしう心づきなき事ありと見れど、さし向ひたる人をすかし、たのむるこそ恥しけれ。まして情あり、このましき人に知られたるなどは、愚なりと思ふべくももてなさずかし。心のうちにのみもあらず。又皆これが事はかれに語り、かれが事はこれに言ひきかすべかめるを、我が事をば知らで、かく語るをば、こよなきなめりと思ひやすらんと思ふこそ恥しけれ。いであはれ、又あはじと思ふ人に逢へば、心もなきものなめりと見えて、恥しくもあらぬものぞかし。いみじくあはれに、心苦しげに見すてがたき事などを、いささか何事とも思はぬも、いかなる心ぞとこそあさましけれ。さすがに人のうへをばもどき、物をいとよくいふよ。ことにたのもしき人もなき宮仕の人などをかたらひて、ただにもあらずなりたる有樣などをも、知らでやみぬるよ。
(一二〇段)
むとくなるもの
潮干の潟なる大なる船。髮みじかき人の、かづらとりおろして髮けづるほど。大なる木の風に吹きたふされて、根をささげてよこたはれふせる。相撲のまけているうしろ手。えせものの從者かんがふる。翁の髻はなちたる。人の妻などの、すずろなる物怨じして隱れたるを、かならず尋ねさわがんものをと思ひたるに、さしも思ひたらず、ねたげにもてなしたるに、さてもえ旅だち居たらねば、心と出できたる。
狛犬しく舞ふものの、おもしろがりはやり出でて踊る足音。
 

 

(一二一段)
修法は、佛眼眞言など讀みたてまつりたる、なまめかしうたふとし。
(一二二段)
はしたなきもの
他人を呼ぶに、我もとてさし出でたるもの。まして物とらするをりはいとど。おのづから人のうへなどうち言ひ謗りなどもしたるを、幼き人の聞き取りて、その人のあるまへにいひ出でたる。
あはれなる事など人のいひてうち泣くに、實にいとあはれとは聞きながら、涙のふつと出でこぬ、いとはしたなし。泣顏つくり、けしきことになせど、いとかひなし。めでたき事を聞くには、又すずろに唯いできにこそ出でくれ。
八幡の行幸のかへらせ給ふに、女院御棧敷のあなたに御輿を留めて、御消息申させ給ひしなど、いみじくめでたく、さばかりの御有樣にて、かしこまり申させ給ふが、世に知らずいみじきに、誠にこぼるれば、化粧したる顏も皆あらはれて、いかに見苦しかるらん。宣旨の御使にて、齋信の宰相中將の御棧敷に參り給ひしこそ、いとをかしう見えしか。ただ隨身四人、いみじうさうぞきたる、馬ぞひのほそうしたてたるばかりして、二條の大路、廣うきよらにめでたきに、馬をうちはやして急ぎ參りて、少し遠くよりおりて、そばの御簾の前に侍ひ給ひし、院の別當ぞ申し給ひし。御返し承りて、又はしらせ歸り參り給ひて、御輿のもとにて奏し給ひし程、いふも愚なりや。
さてうち渡らせ給ふを見奉らせ給ふらん女院の御心、思ひやりまゐらするは、飛び立ちぬべくこそ覺えしか。それには長泣をして笑はるるぞかし。よろしききはの人だに、なほこの世にはめでたきものを、かうだに思ひまゐらするもかしこしや。
(一二三段)
關白殿の黒戸より出でさせ給ふとて、女房の廊に隙なくさぶらふを、「あないみじの御許だちや翁をばいかにをこなりと笑ひ給ふらん」と分け出でさせ給へば、戸口に人々の、色々の袖口して御簾を引き上げたるに、權大納言殿、御沓取りてはかせ奉らせ給ふ。いとものものしうきよげに、よそほしげに、下襲の裾ながく、所狹くさぶらひ給ふ。まづあなめでた、大納言ばかりの人に沓をとらせ給ふよと見ゆ。
山井の大納言、そのつぎづぎさらぬ人々、くろきものをひきちらしたるやうに、藤壺のへいのもとより、登華殿の前まで居竝みたるに、いとほそやかにいみじうなまめかしうて、御太刀など引きつくろひやすらはせ給ふに、宮の大夫殿の、清涼殿の前にたたせ給へれば、それは居させ給ふまじきなめりと見る程に、少し歩み出でさせ給へば、ふと居させ給ひしこそ、猶いかばかりの昔の御行のほどならんと見奉りしこそいみじかりしか。
中納言の君の忌の日とて、くすしがり行ひ給ひしを、「たべ、その珠數しばし。行ひてめでたき身にならんとか」とて集りて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞しめして、「佛になりたらんこそ、これよりは勝らめ」とて打ち笑ませ給へるに、又めでたくなりてぞ見まゐらする。
大夫殿の居させ給へるを、かへすがえす聞ゆれば、「例の思ふ人」と笑はせ給ふ。ましてこの後の御ありさま、見奉らせ給はましかば、理とおぼしめされなまし。
(一二四段)
九月ばかり、夜一夜降りあかしたる雨の、今朝はやみて、朝日の花やかにさしたるに、前栽の菊の露、こぼつばかりぬれかかりたるも、いとをかし。透垣、羅文、薄などの上にかいたる蜘蛛の巣の、こぼれ殘りて、所々に糸も絶えざまに雨のかかりたるが白き玉を貫きたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ。
すこし日たけぬれば、萩などのいとおもげなりつるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふと上樣へあがりたる、いみじういとをかしといひたること人の心地には、つゆをかしからじと思ふこそ又をかしけれ。
(一二五段)
七日の若菜を、人の六日にもてさわぎとりちらしなどするに、見も知らぬ草を、子供の持てきたるを、「何とか是をばいふ」といへど、頓にもいはず。「いざ」など此彼見合せて、「みみな草となんいふ」といふ者のあれば、「うべなりけり、聞かぬ顏なるは」など笑ふに又をかしげなる菊の生ひたるを持てきたれば、
つめどなほみみな草こそつれなけれあまたしあれば菊もまじれり
といはまほしけれど、聞き入るべくもあらず。
(一二六段)
二月官廳に、定考といふ事するは何事にあらん。釋奠もいかならん。孔子などは掛け奉りてする事なるべし。聰明とて、上にも宮にも、怪しき物など土器に盛りてまゐらする。
「頭辨の御許より」とて、主殿司、繪などやうなる物を、白き色紙につつみて、梅の花のいみじく咲きたるにつけてもてきたり。繪にやあらんと急ぎ取り入れて見れば、餠餤といふものを、二つ竝べてつつみたるなり。添へたるたて文に、解文のやうに書きて
「進上餠餤一つつみ、例によりて進上如件、少納言殿に」
とて、月日かきて、「任那成行」とて、奧に、「この男はみづから參らんとするを、晝はかたちわろしとてまゐらぬなめり」と、いみじくをかしげに書き給ひたり。
御前に參りて御覽ぜさすれば、「めでたくもかかれたるかな。をかしうしたり」など譽めさせ給ひて、御文はとらせ給ひつ。「返事はいかがすべからん。この餠餤もてくるには、物などやとらすらん。知りたる人もがな」といふを聞しめして、「惟仲が聲しつる、呼びて問へ」との給はすれば、はしに出でて、「左大辨にもの聞えん」と、侍していはすれば、いとよくうるはしうてきたり。「あらず、私事なり。もしこの辨少納言などのもとに、かかる物もてきたる下部などには、することやある」と問へば、「さる事も侍らず、唯とどめてくひ侍る。何しに問はせ給ふ。もし上官のうちにて、えさせ給へるか」といへば、「いかがは」と答ふ。唯返しをいみじう赤き薄樣に、「みづから持てまうでこぬ下部は、いとれいたうなりとなん見ゆる」とて、めでたき紅梅につけて奉るを、すなはちおはしまして、「下部さぶらふ」との給へば、出でたるに、「さやうのものぞ、歌よみして遣せ給へると思ひつるに、美々しくもいひたりつるかな。女少しわれはと思ひたるは、歌よみがましくぞある。さらぬこそ語ひよけれ。まろなどにさる事いはん人は、かへりて無心ならんかし」との給ふ。「則光、成康など、笑ひて止みにし事を、殿の前に人々いと多かりけるに、語りまをしたまひければ、いとよく言ひたるとなんの給はせし」と人の語りし。:これこそ見苦しき我ぼめどもなりかし。
(一二七段)
「などてつかさえはじめたる六位笏に、職の御曹司のたつみの隅の築地の板をせしぞ、更に西東をもせよかし、又五位もせよかし」などいふことを言ひ出でて、「あぢきなき事どもを。衣などにすずろなる名どもをつけけん、いとあやし。衣の名に、ほそながをばさもいひつべし。なぞ汗衫は、しりながといへかし。男の童の著るやうに。なぞからぎぬは、みじかきぎぬとこそいはめ。されどそれは、唐土の人の著るものなれば。うへのきぬの袴、さいふべし。下襲もよし。また大口、長さよりは口ひろければ。袴いとあぢきなし。指貫もなぞ、あしぎぬ、もしはさやうのものは、足ぶくろなどもいへかし」など、萬の事をいひののしるを、「いであなかしがまし、今はいはじ、寐給ひね」といふ答に、「夜居の僧のいとわろからん、夜ひと夜こそ猶のたまはめ」と、にくしと思ひたる聲ざまにていひ出でたりしこそ、をかしかりしにそへて驚かれにしか。
(一二八段)
故殿の御ために、月ごとの十日、御經佛供養せさせ給ひしを、九月十日、職の御曹司にてせさせ給ふ。上達部、殿上人いとおほかり。清範講師にて、説く事どもいとかなしければ、殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、皆泣くめり。
終てて酒のみ詩誦じなどするに、頭中將齊信の君、月と秋と期して身いづくにかといふ事をうち出し給へりしかば、いみじうめでたし。いかでかは思ひいで給ひけん。
おはします所に分け參るほどに、立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。いみじうけうの事にいひたる事にこそあれ」とのたまはすれば、「それを啓しにとて、物も見さして參り侍りつるなり。猶いとめでたくこそ思ひはべれ」と聞えさすれば、「ましてさ覺ゆらん」と仰せらるる。
わざと呼びもいで、おのづからあふ所にては、「などかまろを、まほに近くは語ひ給はぬ。さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、いと怪しくなん。さばかり年ごろになりぬる得意の、疎くてやむはなし。殿上などに明暮なきをりもあらば、何事をかおもひでにせん」との給へば、「さらなり。かたかるべき事にもあらぬを、さもあらん後には、え譽め奉らざらんが口惜しきなり。うへの御前などにて、役とあつまりて譽め聞ゆるに、いかでか。ただおぼせかし。かたはらいたく、心の鬼いで來て、言ひにくく侍りなんものを」といへば、笑ひて、「などさる人しも、他目より外に、誉むるたぐひ多かり」との給ふ。「それがにくからずばこそあらめ。男も女も、けぢかき人をかたひき、思ふ人のいささかあしき事をいへば、腹だちなどするが、わびしう覺ゆるなり」といへば、「たのもしげなの事や」との給ふもをかし。
(一二九段)
頭辨の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日御物忌なるにこもるべければ、丑になりなば惡しかりなん」とてまゐり給ひぬ。つとめて、藏人所の紙屋紙ひきかさねて、「後のあしたは殘り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の聲に催されて」と、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし。御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷關を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の關の事なり」とあれば、
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ
心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。立ちかへり、
逢阪は人こえやすき關なればとりも鳴かねどあけてまつとか
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき。後々のは御前にて、
「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。「さてその文は、殿上人皆見てしは」との給へば、實に覺しけりとは、これにてこそ知りぬれ。「めでたき事など人のいひ傳へぬは、かひなき業ぞかし。また見苦しければ、御文はいみじく隱して、人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、ひとしうこそは」といへば、「かう物思ひしりていふこそ、なほ人々には似ず思へど、思ひ隈なくあしうしたりなど、例の女のやうにいはんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ、よろこびをこそ聞えめ」などいふ。「まろが文をかくし給ひける、又猶うれしきことなりいかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞えん」などの給ひて、後に經房の中將「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。一日の文のついでに、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の譽めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにの給ふもをかし。「うれしきことも二つにてこそ。かの譽めたまふなるに、また思ふ人の中に侍りけるを」などいへば、「それはめづらしう、今の事のやうにもよろこび給ふかな」との給ふ。
(一三〇段)
五月ばかりに、月もなくいとくらき夜、「女房やさぶらひ給ふ」と、こゑごゑしていへば、「出でて見よ。例ならずいふは誰そ」と仰せらるれば、出でて、「こは誰そ。おどろおどろしうきはやかなるは」といふに、物もいはで、御簾をもたげて、そよろとさし入るるは、呉竹の枝なりけり。「おい、このきみにこそ」といひたるを聞きて、「いざや、これ殿上に行きて語らん」とて、中將、新中將、六位どもなどありけるはいぬ。
頭辨はとまり給ひて、「怪しくいぬるものどもかな。御前の竹ををりて歌よまんとしつるを、職にまゐりて、同じくば、女房など呼び出ててをと言ひてきつるを、呉竹の名をいと疾くいはれて、いぬるこそをかしけれ。誰が教をしりて、人のなべて知るべくもあらぬ事をばいふぞ」などのたまへば、「竹の名とも知らぬものを、なまねたしとや思しつらん」といへば、「實ぞえ知らじ」などの給ふ。
まめごとなど言ひ合せて居給へるに、この君と稱すといふ詩を誦して、又集り來れば、「殿上にていひ期しつる本意もなくては、などかへり給ひぬるぞ。いと怪しくこそありつれ」との給へば、「さる事には何の答をかせん。いとなかなかならん。殿上にても言ひののしりつれば、うへも聞しめして、興ぜさせ給ひつる」とかたる。辨もろともに、かへすがえす同じ事を誦じて、いとをかしがれば、人々出でて見る。とりどりに物ども言ひかはして歸るとて、なほ同じ事を諸聲に誦じて、左衞門の陣に入るまで聞ゆ。
翌朝、いと疾く、少納言の命婦といふが御文まゐらせたるに、この事を啓したれば、しもなるを召して、「さる事やありし」と問はせ給へば、「知らず、何とも思はでいひ出で侍りしを、行成の朝臣のとりなしたるにや侍らん」と申せば、「とりなすとても」と打ち笑ませ給へり。誰が事をも、殿上人譽めけりと聞かせ給ふをば、さ言はるる人をよろこばせ給ふもをかし。
(一三一段)
圓融院の御はての年、皆人御服ぬぎなどして、あはれなる事を、おほやけより始めて、院の人も、花の衣になどいひけん世の御事など思ひ出づるに、雨いたう降る日、藤三位の局に、蓑蟲のやうなる童の、大なる木のしろきにたて文をつけて、「これ奉らん」といひければ、「いづこよりぞ、今日明日御物忌なれば、御蔀もまゐらぬぞ」とて、しもは立てたる蔀のかみより取り入れて、さなんとはきかせ奉らず、「物忌なればえ見ず」とて、上についさして置きたるを、つとめて手洗ひて、「その卷數」とこひて、伏し拜みてあけたれば、胡桃色といふ色紙の厚肥えたるを、あやしと見てあけもてゆけば、老法師のいみじげなるが手にて、
これをだにかたみと思ふに都には葉がへやしつるしひしばの袖
とかきたり。あさましくねたかりけるわざかな。誰がしたるにかあらん。仁和寺の僧正のにやと思へど、よもかかる事のたまはじ。なほ誰ならん。藤大納言ぞかの院の別當におはせしかば、そのし給へる事なめり。これをうへの御前、宮などに、疾うきこしめさせばやと思ふに、いと心もとなけれど、なほ恐しう言ひたる物忌をしはてんと念じくらして、まだつとめて、藤大納言の御許に、この御返しをしてさしおかせたれば、すなはち又返事しておかせ給へりけり。
それを二つながら取りて、急ぎ參りて、「かかる事なん侍りし」と、うへもおはします御前にて語り申し給ふを、宮はいとつれなく御覽じて、「藤大納言の手のさまにはあらで、法師にこそあめれ」との給はすれば、「さはこは誰がしわざにか。すきずきしき上達部、僧綱などは誰かはある。それにやかれにや」など、おぼめきゆかしがり給ふに、うへ「このわたりに見えしにこそは、いとよく似ためれ」と打ちほほゑませ給ひて、今一すぢ御厨子のもとなりけるを、取り出でさせ給へれば、「いであな心う、これおぼされよ、あな頭いたや、いかで聞き侍らん」と、ただせめに責め申して、恨み聞えて笑ひ給ふに、やうやう仰せられ出でて、「御使にいきたりける鬼童は、臺盤所の刀自といふものの供なりけるを、小兵衞が語ひ出したるにやありけん」など仰せらるれば、宮も笑はせ給ふを、引きゆるがし奉りて、「などかく謀らせおはします。なほうたがひもなく手を打ち洗ひて伏し拜み侍りしことよ」と笑ひねたがり居給へるさまも、いとほこりかに愛敬づきてをかし。
さてうへの臺盤所にも笑ひののしりて、局におりて、この童尋ね出でて、文取り入れし人に見すれば、「それにこそ侍るめれ」といふ。「誰が文を、誰がとらせしぞ」といへば、しれじれとうち笑みて、ともかくもいはで走りにけり。藤大納言後に聞きて、笑ひ興じ給ひけり。
(一三二段)
つれづれなるもの
所さりたる物忌。馬おりぬ雙六。除目に官得ぬ人の家。雨うち降りたるはまして徒然なり。
(一三三段)
つれづれなぐさむるもの
物語。碁。雙六。三四ばかりなる兒の物をかしういふ。又いとちひさき兒の物語したるが、笑みなどしたる。菓子。男のうちさるがひ、物よくいふがきたるは、物忌なれどいれつかし。
(一三四段)
とりどころなきもの
かたちにくげに心あしき人。みそひめの濡れたる。これいみじうわろき事いひたると、萬の人にくむなることとて、今とどむべきにもあらず。又あとびの火箸といふ事、などてか、世になき事ならねば、皆人知りたらん。實に書きいで人の見るべき事にはあらねど、この草紙を見るべきものと思はざりしかば、怪しき事をも、にくき事をも、唯思はん事のかぎりを書かんとてありしなり。
(一三五段)
なほ世にめでたきもの
臨時の祭の御前ばかりの事は、何事にかあらん。試樂もいとをかし。
春は空のけしきのどかにて、うらうらとあるに、清涼殿の御前の庭に、掃部司のたたみどもを敷きて、使は北おもてに、舞人は御前のかたに、これらは僻事にもあらん。所の衆ども、衝重どもとりて前ごとに居ゑわたし、陪從もその日は御前に出で入るぞかし。公卿殿上人は、かはるがはる盃とりて、はてにはやくがひといふ物、男などのせんだにうたてあるを、御前に女ぞ出でて取りける、思ひかけず人やあらんとも知らぬに、火燒屋よりさし出でて、多く取らんと騒ぐものは、なかなかうちこぼしてあつかふ程に、かろらかにふと取り出でぬるものには遲れて、かしこき納殿に、火燒屋をして、取り入るるこそをかしけれ。掃部司のものども、たたみとるやおそきと、主殿司の官人ども、手ごとに箒とり、すなごならす。
承香殿の前のほどに、笛を吹きたて、拍子うちて遊ぶを、疾く出でこなんと待つに、有度濱うたひて、竹のませのもとに歩み出でて、御琴うちたる程など、いかにせんとぞ覺ゆるや。一の舞のいとうるはしく袖をあはせて、二人はしり出でて、西に向ひて立ちぬ。つぎつぎ出づるに、足踏を拍子に合せては、半臂の緒つくろひ、冠袍の領などつくろひて、あやもなきこま山などうたひて舞ひ立ちたるは、すべていみじくめでたし。
大比禮など舞ふは、日一日見るとも飽くまじきを、終てぬるこそいと口惜しけれど、又あるべしと思ふはたのもしきに、御琴かきかへして、このたびやがて竹の後から舞ひ出でて、ぬぎ垂れつるさまどものなまめかしさは、いみじくこそあれ。掻練の下襲など亂れあひて、こなたかなたにわたりなどしたる、いで更にいへば世の常なり。
このたびは又もあるまじければにや、いみじくこそ終てなん事は口惜しけれ。上達部なども、つづきて出で給ひぬれば、いとさうざうしう口をしきに、賀茂の臨時の祭は、還立の御神樂などにこそなぐさめらるれ。庭燎の烟の細うのぼりたるに、神樂の笛のおもしろうわななき、ほそう吹きすましたるに、歌の聲もいとあはれに、いみじくおもしろく、寒くさえ氷りて、うちたるきぬもいとつめたう、扇もたる手のひゆるもおぼえず。才の男ども召して飛びきたるも、人長の心よげさなどこそいみじけれ。
里なる時は、唯渡るを見るに、飽かねば、御社まで行きて見るをりもあり。大なる木のもとに車たてたれば、松の烟たなびきて、火のかげに半臂の緒、きぬのつやも、晝よりはこよなく勝りて見ゆる。橋の板を踏みならしつつ、聲合せて舞ふ程もいとをかしきに、水の流るる音、笛の聲などの合ひたるは、實に神も嬉しとおぼしめすらんかし。少將といひける人の、年ごとに舞人にて、めでたきものに思ひしみけるに、なくなりて、上の御社の一の橋のもとにあなるを聞けば、ゆゆしう、せちに物おもひいれじと思へど、猶このめでたき事をこそ、更にえ思ひすつまじけれ。
「八幡の臨時の祭の名殘こそいとつれづれなれ。などてかへりて又舞ふわざをせざりけん、さらばをかしからまし。禄を得て後よりまかづるこそ口惜しけれ」などいふを、うへの御前に聞し召して、「明日かへりたらん、めして舞はせん」など仰せらるる。「實にやさふらふらん、さらばいかにめでたからん」など申す。うれしがりて、宮の御前にも、「猶それまはせさせ給へ」と集りて申しまどひしかば、そのたびかへりて舞ひしは、嬉しかりしものかな。さしもや有らざらんと打ちたゆみつるに、舞人前に召すを聞きつけたる心地、物にあたるばかり騒ぐもいと物ぐるほしく、
下にある人々まどひのぼるさまこそ、人の從者、殿上人などの見るらんも知らず、裳を頭にうちかづきてのぼるを、笑ふもことわりなり。
(一三六段)
故殿などおはしまさで、世の中に事出でき、物さわがしくなりて、宮又うちにもいらせ給はず、小二條といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里に居たり。御前わたりおぼつかなさにぞ、猶えかくてはあるまじかりける。
左中將おはして物語し給ふ。「今日は宮にまゐりたれば、いみじく物こそあはれなりつれ。女房の裝束、裳唐衣などの折にあひ、たゆまずをかしうても侍ふかな。御簾のそばのあきたるより見入れつれば、八九人ばかり居て、黄朽葉の唐衣、薄色の裳、紫苑、萩などをかしう居なみたるかな。御前の草のいと高きを、などかこれは茂りて侍る。はらはせてこそといひつれば、露おかせて御覽ぜんとて殊更にと、宰相の君の聲にて答へつるなり。をかしくも覺えつるかな。御里居いと心憂し。かかる所に住居せさせ給はんほどは、いみじき事ありとも、必侍ふべき物に思し召されたるかひもなくなど、あまた言ひつる。語りきかせ奉れとなめりかし。參りて見給へ。あはれげなる所のさまかな。露臺の前に植ゑられたりける牡丹の、唐めきをかしき事」などの給ふ。「いさ人のにくしと思ひたりしかば、又にくく侍りしかば」と答へ聞ゆ。「おいらかにも」とて笑ひ給ふ。
實にいかならんと思ひまゐらする御氣色にはあらで、さぶらふ人たちの、「左大殿のかたの人しるすぢにてあり」などささめき、さし集ひて物などいふに、下より參るを見ては言ひ止み、はなち立てたるさまに見ならはずにくければ、「まゐれ」などあるたびの仰をも過して、實に久しうなりにけるを、宮の邊には、唯彼方がたになして、虚言なども出で來べし。
例ならず仰事などもなくて、日頃になれば、心細くて打ちながむる程に、長女文をもてきたり。「御前より左京の君して、忍びて賜はせたりつる」といひて、ここにてさへひき忍ぶもあまりなり。人傳の仰事にてあらぬなめりと、胸つぶれてあけたれば、かみには物もかかせ給はず、山吹の花びらを唯一つ包ませたまへり。
それに「いはで思ふぞ」
と書かせ給へるを見るもいみじう、日ごろの絶間思ひ歎かれつる心も慰みて嬉しきに、まづ知るさまを長女も打ちまもりて、「御前にはいかに、物のをりごとに思し出で聞えさせ給ふなるものを」とて、「誰も怪しき御ながゐとのみこそ侍るめれ。などか參らせ給はぬ」などいひて、「ここなる所に、あからさまにまかりて參らん」といひていぬる後に、御返事書きてまゐらせんとするに、この歌のもと更に忘れたり。「いとあやし。同じふる事といひながら、知らぬ人やはある。ここもとに覺えながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」などいふを聞きて、ちひさき童の前に居たるが、「下ゆく水のとこそ申せ」といひたる。などてかく忘れつるならん。これに教へらるるもをかし。
御かへりまゐらせて、少しほど經て參りたり。いかがと、例よりはつつましうして、御几帳にはたかくれたるを、「あれは今參か」など笑はせ給ひて、「にくき歌なれど、このをりは、さも言ひつべかりけりとなん思ふを、見つけでは暫時えこそ慰むまじけれ」などの給はせて、かはりたる御氣色もなし。
童に教へられしことばなど啓すれば、いみじく笑はせ給ひて、「さる事ぞ、あまりあなづるふる事は、さもありぬべし」など仰せられて、ついでに、人のなぞなぞあはせしける所に、かたくなにはあらで、さやうの事にらうらうじかりけるが、「左の一番はおのれいはん、さ思ひ給へ」などたのむるに、さりともわろき事は言ひ出でじと選り定むるに、「その詞を聞かん、いかに」など問ふ。「唯まかせてものし給へ、さ申していと口惜しうはあらじ」といふを、實にと推しはかる。
日いと近うなりぬれば、「なほこの事のたまへ非常にをかしき事もこそあれ」といふを、「いさ知らず。さらばなたのまれそ」などむつかれば、覺束なしと思ひながら、その日になりて、みな方人の男女居分けて、殿上人など、よき人々多く居竝みてあはするに、左の一番にいみじう用意しもてなしたるさまの、いかなる事をか言ひ出でんと見えたれば、あなたの人も、こなたの人も、心もとなく打ちまもりて、「なぞなぞ」といふほど、いと心もとなし。「天にはり弓」といひ出でたり。
右の方の人は、いと興ありと思ひたるに、こなたの方の人は、物もおぼえずあさましうなりて、いとにくく愛敬なくて、「あなたによりて、殊更にまけさせんとしけるを」など、片時のほどに思ふに、右の人をこにおもふて、うち笑ひて、「ややさらに知らず」と、口ひきたれて猿樂しかくるに、「數させ數させ」とてささせつ。「いと怪しき事、これ知らぬもの誰かあらん。更に數さすまじ」と論ずれど、「知らずといひ出でんは、などてかまくるにならざらん」とて、つぎつぎのも、この人に論じかたせける。
いみじう人の知りたる事なれど、覺えぬ事はさこそあれ。「何しかはえ知らずといひし」と、後に恨みられて、罪さりける事を語り出でさせ給へば、御前なるかぎりは、さは思ふべし。「口をしく思ひけん、こなたの人の心地聞し召したりけん、いかににくかりけん」など笑ふ。これは忘れたることかは。皆人知りたることにや。
(一三七段)
正月十日、空いとくらう、雲も厚く見えながら、さすがに日はいとけざやかに照りたるに、えせものの家の後、荒畠などいふものの、土もうるはしうあをからぬに、桃の木わかだちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて、蘇枋やうに見えたるに、細やかなる童の、狩衣はかけやりなどして、髮は麗しきがのぼりたれば、又紅梅の衣白きなど、ひきはこえたる男子、半靴はきたる、木のもとに立ちて、「我によき木切りて、いで」など乞ふに、又髮をかしげなる童女の、袙ども綻びがちにて、袴は萎えたれど、色などよきうち著たる、三四人、「卯槌の木のよからん切りておろせ、ここに召すぞ」などいひて、おろしたれば、はしりがひ、とりわき、「我に多く」などいふこそをかしけれ。黒き袴著たる男走り來て乞ふに、「まて」などいへば、木のもとによりて引きゆるがすに、危ふがりて、猿のやうにかいつきて居るもをかし。梅などのなりたるをりも、さやうにぞあるかし。
(一三八段)
清げなるをのこの、雙六を日ひと日うちて、なほ飽かぬにや、みじかき燈臺に火を明くかかげて、敵の采をこひせめて、とみにも入れねば、筒を盤のうへにたてて待つ。狩衣の領の顏にかかれば、片手しておし入れて、いとこはからぬ烏帽子をふりやりて、「さはいみじう呪ふとも、うちはづしてんや」と、心もとなげにうちまもりたるこそ、ほこりかに見ゆれ。
(一三九段)
碁をやんごとなき人のうつとて、紐うち解き、ないがしろなるけしきに拾ひおくに、おとりたる人の、ゐずまひもかしこまりたる氣色に、碁盤よりは少し遠くて、およびつつ、袖の下いま片手にて引きやりつつうちたるもをかし。
(一四〇段)
おそろしきもの
橡のかさ。燒けたる所。みづぶき。菱。髮おほかる男の頭洗ひてほすほど。栗のいが。
 

 

(一四一段)
きよしと見ゆるもの
土器。新しき鋺。疊にさす薦。水を物に入るる透影。新しき細櫃。
(一四二段)
いやしげなるもの
式部丞の爵。黒き髮のすぢふとき。布屏風の新しき。舊り黒みたるは、さるいふかひなき物にて、なかなか何とも見えず。新しくしたてて、櫻の花多くさかせて、胡粉、朱砂など色どりたる繪書きたる。遣戸、厨子、何も田舎物はいやしきなり。筵張の車のおそひ。檢非違使の袴。伊豫簾の筋ふとき。人の子に法師子のふとりたる。まことの出雲筵の疊。
(一四三段)
むねつぶるるもの
競馬見る。元結よる。親などの心地あしうして、例ならぬけしきなる。まして世の中などさわがしきころ、萬の事おぼえず。又物いはぬ兒の泣き入りて乳をも飮まず、いみじく乳母の抱くにも止まで、久しう泣きたる。
例の所などにて、殊に又いちじるからぬ人の聲聞きつけたるはことわり、人などのそのうへなどいふに、まづこそつぶるれ。いみじくにくき人の來るもいみじくこそあれ。昨夜きたる人の、今朝の文のおそき、聞く人さへつぶれる。思ふ人の文とりてさし出でたるも、またつぶる。
(一四四段)
うつくしきもの
ふりに書きたる兒の顏。雀の子のねずなきするにをどりくる。又紅粉などつけて居ゑたれば、親雀の蟲など持て來てくくむるも、いとらうたし。三つばかりなる兒の、急ぎて這ひくる道に、いとちひさき塵などのありけるを、目敏に見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、おとななどに見せたる、いとうつくし。あまにそぎたる兒の目に、髮のおほひたるを掻きは遣らで、うち傾きて物など見る、いとうつくし。たすきがけにゆひたる腰のかみの、白うをかしげなるも、見るにうつくし。
おほきにはあらぬ殿上わらはの、さうぞきたてられて歩くもうつくし。をかしげなる兒の、あからさまに抱きてうつくしむ程に、かいつきて寢入りたるもらうたし。
雛の調度。蓮のうき葉のいとちひさきを、池よりとりあげて見る。葵のちひさきもいとうつくし。何も何もちひさき物はいとうつくし。
いみじう肥えたる兒の二つばかりなるが、白ううつくしきが、二藍のうすものなど、衣ながくてたすきあげたるが、這ひ出でくるもいとうつくし。八つ九つ十ばかりなるをのこの、聲をさなげにて文よみたる、いとうつくし。
鷄の雛の、足だかに、白うをかしげに、衣みじかなるさまして、ひよひよとかしがましく鳴きて、人の後に立ちてありくも、また親のもとにつれだちありく、見るもうつくし。かりの子。舎利の壺。瞿麥の花。
(一四五段)
ひとばえするもの
ことなることなき人の子の、かなしくしならはされたる。しはぶき。恥しき人に物いはんとするにも、まづさきにたつ。
あなたこなたに住む人の子どもの、四つ五つなるは、あやにくだちて、物など取りちらして損ふを、常は引きはられなど制せられて、心のままにもえあらぬが、親のきたる所えて、ゆかしかりける物を、「あれ見せよや母」などひきゆるがすに、おとななど物いふとて、ふとも聞き入れねば、手づから引き捜し出でて見るこそいとにくけれ。それを「まさな」とばかり打ち言ひて、取り隱さで、「さなせそ、そこなふな」とばかり笑みていふ親もにくし。われえはしたなくもいはで見るこそ心もとなけれ。
(一四六段)
名おそろしきもの
青淵。谷の洞。鰭板。鐵。土塊。雷は名のみならず、いみじうおそろし。暴風。ふさう雲。ほこぼし。おほかみ。牛はさめ。らう。ろうの長。いにすし。それも名のみならず、みるもおそろし。
繩筵。強盗、又よろづにおそろし。ひぢかさ雨。地楊梅。生靈。鬼ところ。鬼蕨。荊棘。枳殻。いりずみ。牡丹。うしおに。
(一四七段)
見るにことなることなき物の文字にかきてことごとしきもの
覆盆子。鴨頭草。みづぶき。胡桃。文章博士。皇后宮の權大夫。楊梅。
いたどりはまして虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべき顏つきを。
(一四八段)
むつかしげなるもの
繍物のうら。猫の耳のうち。鼠のいまだ毛も生ひぬを、巣の中より數多まろばし出したる。裏まだつかぬかはぎぬの縫目。殊に清げならぬ所のくらき。
ことなる事なき人の、ちひさき子どもなど數多持ちてあつかひたる。いと深うしも志なき女の、心地あしうして久しく惱みたるも、男の心の中にはむつかしげなるべし。
(一四九段)
えせものの所うるをりの事
正月の大根。行幸のをりの姫大夫。六月十二月の三十日の節折の藏人。季の御讀經の威儀師。赤袈裟著て僧の文ども讀みあげたる、いとらうらうじ。
御讀經佛名などの、御裝束の所の衆。春日祭の舎人ども。大饗の所のあゆみ。正月の藥子。卯杖の法師。五節の試の御髮上。節會御陪膳の采女。大饗の日の史生。七月の相撲。雨降る日の市女笠。渡するをりのかん取。
(一五〇段)
くるしげなるもの
夜泣といふ物する兒の乳母。思ふ人二人もちて、こなたかなたに恨みふすべられたる男。こはき物怪あづかりたる驗者。驗だに早くばよかるべきを、さしもなきを、さすがに人わらはれにあらじと念ずる、いとくるしげなり。理なく物うたがひする男に、いみじう思はれたる女。
一の所にときめく人も、え安くはあらねど、それはよかめり。こころいられしたる人。
(一五一段)
うらやましきもの
經など習ひて、いみじくたどたどしくて、忘れがちにて、かへすがえすおなじ所を讀むに、法師は理、男も女も、くるくるとやすらかに讀みたるこそ、あれがやうに、いつの折とこそ、ふと覺ゆれ。心地など煩ひて臥したるに、うち笑ひ物いひ、思ふ事なげにて歩みありく人こそ、いみじくうらやましけれ。
稻荷に思ひおこして參りたるに、中の御社のほど、わりなく苦しきを念じてのぼる程に、いささか苦しげもなく、後れて來と見えたる者どもの、唯ゆきにさきだちて詣づる、いとうらやまし。二月午の日の曉に、いそぎしかど、坂のなからばかり歩みしかば、巳の時ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことにわびしうかからぬ人も世にあらんものを、何しに詣でつらんとまで涙落ちてやすむに、三十餘ばかりなる女の、つぼ裝束などにはあらで、ただ引きはこえたるが、「まろは七たびまうでし侍るぞ。三たびはまうでぬ、四たびはことにもあらず未には下向しぬべし」と道に逢ひたる人にうち言ひて、くだりゆきしこそ、ただなる所にては目もとまるまじきことの、かれが身に只今ならばやとおぼえしか。
男も、女も、法師も、よき子もちたる人、いみじううらやまし。髮長く麗しう、さがりばなどめでたき人。やんごとなき人の、人にかしづかれ給ふも、いとうらやまし。手よく書き、歌よく詠みて、物のをりにもまづとり出でらるる人。
よき人の御前に、女房いと數多さぶらふに、心にくき所へ遣すべき仰書などを、誰も鳥の跡のやうにはなどかはあらん、されど下などにあるをわざと召して、御硯おろしてかかせ給ふ、うらやまし。さやうの事は、所のおとななどになりぬれば、實になにはわたりの遠からぬも、事に隨ひて書くを、これはさはあらで、上達部のもと、又始めてまゐらんなど申さする人の女などには、心ことに、うへより始めてつくろはせ給へるを、集りて、戲にねたがりいふめり。
琴笛ならふに、さこそはまだしき程は、かれがやうにいつしかと覺ゆめれ。うち東宮の御乳母、うへの女房の御かたがたゆるされたる。三昧堂たてて、よひあかつきにいのられたる人。雙六うつに、かたきの賽ききたる。まことに世を思ひすてたるひじり。
(一五二段)
とくゆかしきもの
卷染、村濃、括物など染めたる。人の子産みたる、男女疾く聞かまほし。よき人はさらなり、えせもの、下種の分際だにきかまほし。除目のまだつとめて、かならずしる人のなるべきをりも聞かまほし。思ふ人のおこせたる文。
(一五三段)
こころもとなきもの
人の許に、頓の物ぬひにやりて待つほど。物見に急ぎ出でて、今や今やとくるしう居入りつつ、あなたをまもらへたる心地。子産むべき人の、ほど過ぐるまでさるけしきのなき。遠き所より思ふ人の文を得て、かたく封じたる續飯など放ちあくる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけりとて、白き笞など見つけたるに、近くやりよする程、佗しうおりてもいぬべき心地こそすれ。
知られじと思ふ人のあるに、前なる人に教へて物いはせたる。いつしかと待ち出でたる兒の、五十日百日などのほどになりたる、行末いと心もとなし。頓のもの縫ふに、くらきをり針に糸つくる。されど我はさるものにて、ありぬべき所をとらへて人につけさするに、それも急げばにやあらん、頓にもえさし入れぬを、「いで唯なすげそ」といへど、さすがになどてかはと思ひがほにえさらぬは、にくささへそひぬ。
何事にもあれ、急ぎて物へ行くをり、まづわがさるべき所へ行くとて、「只今おこせん」とて出でぬる車待つ程こそ心もとなけれ。大路往きけるを、さなりけると喜びたれば、外ざまに往ぬるいとくちをし。まして物見に出でんとてあるに、「事はなりぬらん」などいふを聞くこそわびしけれ。
子うみける人の、後のこと久しき。物見にや、又御寺まうでなどに、諸共にあるべき人を乘せに往きたるを、車さし寄せたてるが、頓にも乘らで待たするもいと心もとなく、うちすてても往ぬべき心地する。とみに煎炭おこす、いと心もとなし。
人の歌の返し疾くすべきを、え詠み得ぬほど、いと心もとなし。懸想人などはさしも急ぐまじけれど、おのづから又さるべきをりもあり。又まして女も男も、ただに言ひかはすほどは、疾きのみこそはと思ふほどに、あいなく僻事も出でくるぞかし。
又心地あしく、物おそろしきほど、夜の明くるまつこそ、いみじう心もとなけれ。はぐろめのひる程も心もとなし。
(一五四段)
故殿の御服の頃、六月三十日の御祓といふ事に出でさせ給ふべきを、職の御曹司は方あしとて、官のつかさのあいたる所に渡らせ給へり。その夜は、さばかり暑くわりなき闇にて、何事もせばう瓦葺にてさまことなり。例のやうに格子などもなく、唯めぐりて御簾ばかりをぞかけたる、なかなか珍しうをかし。女房庭におりなどして遊ぶ。前栽には萱草といふ草を、架垣ゆひていと多く植ゑたりける、花きはやかに重りて咲きたる、むべむべしき所の前栽にはよし。時づかさなどは唯かたはらにて、鐘の音も例には似ず聞ゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十餘人ばかり、そなたに行きてはしり寄り、たかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、薄鈍の裳、同じ色の衣單襲、紅の袴どもを著てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空よりおりたるにやとぞ見ゆる。おなじわかさなれど、おしあげられたる人はえまじらで、うらやましげに見あげたるもをかし。
日暮れてくらまぎれにぞ、過したる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出できて、たはぶれ騒ぎ笑ふもあめりしを、「かうはせぬ事なり、上達部のつき給ひしなどに、女房どものぼり、上官などの居る障子を皆打ち通しそこなひたり」など苦しがるものもあれど、ききも入れず。
屋のいと古くて、瓦葺なればにやあらん、暑さの世に知らねば、御簾の外に夜も臥したるに、ふるき所なれば、蜈蚣といふもの、日ひと日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集りたるなど、いとおそろしき。
殿上人日ごとに參り、夜も居明し、物言ふを聞きて、「秋ばかりにや、太政官の地の、今やかうのにはとならん事を」と誦し出でたりし人こそをかしかりしか。
秋になりたれど、かたへ涼しからぬ風の、所がらなめり。さすがに蟲の聲などは聞えたり。八日にかへらせたまへば、七夕祭などにて、例より近う見ゆるは、ほどのせばければなめり。
宰相中將齊信、宣方の中將と參り給へるに、人々出でて物などいふに、ついでもなく、「明日はいかなる詩をか」といふに、いささか思ひめぐらし、とどこほりなく、「人間の四月をこそは」と答へ給へる、いみじうをかしくこそ。
過ぎたることなれど、心えていふはをかしき中にも、女房などこそさやうの物わすれはせね、男はさもあらず、詠みたる歌をだになまおぼえなるを、まことにをかし。内なる人も、外なる人も、心えずとおもひたるぞ理なるや。
この三月三十日廊の一の口に、殿上人あまた立てりしを、やうやうすべりうせなどして、ただ頭中將、源中將、六位ひとりのこりて、よろづのこといひ、經よみ、歌うたひなどするに、「明けはてぬなり、歸りなん」とて、露は別の涙なるべしといふことを、頭中將うち出し給へれば、源中將もろともに、いとをかしう誦じたるに、「いそぎたる七夕かな」といふを、いみじうねたがりて、曉の別のすぢの、ふと覺えつるままにいひて、わびしうもあるわざかな」と、「すべてこのわたりにては、かかる事思ひまはさずいふは、口惜しきぞかし」などいひて、あまりあかくなりにしかば、「葛城の神、今ぞすぢなき」とて、わけておはしにしを、七夕のをり、この事を言ひ出でばやと思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、必しもいかでかは、その程に見つけなどもせん、文かきて、主殿司してやらんなど思ひし程に、七日に參り給へりしかば、うれしくて、その夜の事などいひ出でば、心もぞえたまふ。
すずろにふといひたらば、怪しなどやうちかたぶき給はん。さらばそれには、ありし事いはんとてあるに、つゆおぼめかで答へ給へりしかば、實にいみじうをかしかりき。月ごろいつしかと思ひ侍りしだに、わが心ながらすきずきしと覺えしに、いかでさはた思ひまうけたるやうにの給ひけん。もろともにねたがり言ひし中將は、思ひもよらで居たるに、「ありし曉の詞いましめらるるは、知らぬか」との給ふにぞ、
「實にさしつ」などいひ、「男は張騫」などいふことを、人には知らせず、この君と心えていふを、「何事ぞ何事ぞ」と源中將はそひつきて問へど、いはねば、かの君に「猶これの給へ」と怨みられて、よき中なれば聞せてけり。いとあへなく言ふ程もなく、近うなりぬるをば、「押小路のほどぞ」などいふに、我も知りにけると、いつしか知られんとて、わざと呼び出て、「碁盤侍りや、まろもうたんと思ふはいかが、手はゆるし給はんや。頭中將とひとし碁なり。なおぼしわきそ」といふに、「さのみあらば定めなくや」と答へしを、かの君に語り聞えければ、「嬉しく言ひたる」とよろこび給ひし。なほ過ぎたること忘れぬ人はいとをかし。
宰相になり給ひしを、うへの御前にて、「詩をいとをかしう誦じ侍りしものを、蕭會稽の古廟をも過ぎにしなども、誰か言ひはべらんとする。暫しならでもさぶらへかし。口惜しきに」など申ししかば、いみじう笑はせ給ひて、「さなんいふとて、なさじかし」など仰せられしもをかし。されどなり給ひにしかば、誠にさうざうしかりしに、源中將おとらずと思ひて、ゆゑだちありくに、宰相中將の御うへをいひ出でて、「いまだ三十の期に逮ばずといふ詩を、こと人には似ず、をかしう誦じ給ふ」などいへば、「などかそれに劣らん、まさりてこそせめ」とて詠むに、「更にわろくもあらず」といへば、「わびしの事や、いかで、あれがやうに誦ぜで」などの給ふ。
「三十の期といふ所なん、すべていみじう、愛敬づきたりし」などいへば、ねたがりて笑ひありくに、陣につき給へりけるをりに、わきて呼び出でて、「かうなんいふ。猶そこ教へ給へ」といひければ、笑ひて教へけるも知らぬに、局のもとにて、いみじくよく似せて詠むに、あやしくて、「こは誰そ」と問へば、ゑみごゑになりて、「いみじき事聞えん。かうかう昨日陣につきたりしに、問ひ來てたちにたるなめり。誰ぞと、にくからぬ氣色にて問ひ給へれば」といふも、わざとさ習ひ給ひけんをかしければ、これだに聞けば、出でて物などいふを、「宰相の中將の徳見る事、そなたに向ひて拜むべし」などいふ。下にありながら、「うへに」などいはするに、これをうち出づれば、「誠はあり」などいふ。御前にかくなど申せば、笑はせ給ふ。
内裏の御物忌なる日、右近のさうくわんみつなにとかやいふものして、疊紙に書きておこせたるを見れば、「參ぜんとするを、今日は御物忌にてなん。三十の期におよばずは、いかが」といひたれば、返事に、「その期は過ぎぬらん、朱買臣が妻を教へけん年にはしも」と書きてやりたりしを、又ねたがりて、うへの御前にも奏しければ、宮の御かたにわたらせ給ひて、「いかでかかる事は知りしぞ。四十九になりける年こそ、さは誡めけれとて、宣方はわびしういはれにたりといふめるは」と笑はせ給ひしこそ、物ぐるほしかりける君かなとおぼえしか。
(一五五段)
弘徽殿とは、閑院の太政大臣の女御とぞ聞ゆる。その御方に、うちふしといふ者の女、左京といひてさぶらひけるを、「源中將かたらひて思ふ」など人々笑ふ頃、
宮の職におはしまいしに參りて、「時々は御宿直など仕うまつるべけれど、さるべきさまに女房などもてなし給はねば、いと宮づかへおろかにさぶらふ。宿直所をだに賜りたらんは、いみじうまめにさぶらひなん」などいひ居給ひつれば、人々げになどいふ程に、「誠に人は、うちふしやすむ所のあるこそよけれ。さるあたりには、しげく參り給ふなるものを」とさし答へたりとて、「すべて物きこえず。方人と頼み聞ゆれば、人のいひふるしたるさまに取りなし給ふ」など、いみじうまめだちてうらみ給ふ。「あなあやし、いかなる事をか聞えつる。更に聞きとどめ給ふことなし」などいふ。
傍なる人を引きゆるがせば、「さるべきこともなきを、ほとほり出で給ふ、さまこそあらめ」とて、花やかに笑ふに、「これもかのいはせ給ふならん」とて、いとものしと思へり。「更にさやうの事をなんいひ侍らぬ。人のいふだににくきものを」といひて、引き入りにしかば、後にもなほ、「人にはぢがましき事いひつけたる」と恨みて、「殿上人の、笑ふとていひ出でたるなり」との給へば、「さては一人を恨み給ふべくもあらざめる、あやし」などいへば、その後は絶えてやみ給ひにけり。
(一五六段)
昔おぼえてふようなるもの
繧繝縁の疊の舊りてふし出できたる。唐繪の屏風の表そこなはれたる。藤のかかりたる松の木枯れたる。地摺の裳の花かへりたる。衞士の目くらき。几帳のかたびらのふりぬる。帽額のなくなりぬる。七尺のかづらのあかくなりたる。葡萄染の織物の灰かへりたる。
色好の老いくづをれたる。おもしろき家の木立やけたる。池などはさながらあれど、萍水草しげりて。
(一五七段)
たのもしげなきもの
心みじかくて人忘れがちなる。聟の夜がれがちなる。六位の頭しろき。虚言する人の、さすがに人のことなしがほに大事うけたる。一番に勝つ雙六。六七八十なる人の、心地あしうして日ごろになりぬる。風はやきに帆あげたる船。
(一五八段)
經は不斷經。
(一五九段)
近くてとほきもの
宮のほとりの祭。思はぬ兄弟、親族の中。鞍馬の九折といふ道。十二月の晦日、正月一日のほど。
(一六〇段)
:遠くてちかきもの
:極樂。船の道。男女の中。
 

 

(一六一段)
井は
堀兼の井。走井は逢阪なるがをかしき。山の井、さしもあさきためしになりはじめけん。
飛鳥井、みもひも寒しと譽めたるこそをかしけれ。玉の井。少將の井。櫻井。后町の井。千貫の井。
(一六二段)
野は
嵯峨野さらなり。印南野。交野。こま野。粟津野。飛火野。しめぢ野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などさつけたるにかあらん。安倍野。宮城野。春日野。紫野。
(一六三段)
上達部は
春宮大夫。左右の大將。權大納言。權中納言。宰相中將。三位の中將。東宮權大夫。侍從宰相。
(一六四段)
公達は
頭辨。頭中將。權中將。四位少將。藏人辨。藏人少納言。春宮亮。藏人兵衞佐。
(一六五段)
受領は
紀伊守。和泉。
(一六六段)
やどりのつかさの權の守は
下野。甲斐。越後。筑後。阿波。
(一六七段)
大夫は
式部大夫。左衛門大夫。史大夫。
(一六八段)
法師は
律師。内供。
(一六九段)
女は
典侍。掌侍。
(一七〇段)
六位藏人、おもひかくべき事にもあらずかうぶりえて、何の大夫、權の守などいふ人の、板屋せばき家もたりて、また小桧垣など新しくし、車やどりに車ひきたて、前ちかく木おほくして、牛つながせて、草などかはするこそいとにくけれ。庭いと清げにて、紫革して、伊豫簾かけわたして、布障子はりて住居たる。夜は「門強くさせ」など事行ひたる、いみじうおひさきなくこころづきなし。
親の家、舅はさらなり、伯父兄などの住まぬ家、そのさるべき人のなからんは、おのづからむつましう、うち知りたる受領、又國へ行きていたづらなる、さらずば女院、宮腹などの屋あまたあるに、官まち出でて後、いつしかとよき所尋ね出でて住みたるこそよけれ。
(一七一段)
女のひとり住む家などは、唯いたう荒れて、築土などもまたからず、池などのある所は、水草ゐ、庭なども、いと蓬茂りなどこそせねども、所々砂の中より青き草見え、淋しげなるこそあはれなれ。物かしこげに、なだらかに修理して、門いとうかため、きはぎはしきは、いとうたてこそ覺ゆれ。
(一七二段)
宮仕人の里なども、親ども二人あるはよし。人しげく出で入り、奧のかたにあまたさまざまの聲多く聞え、馬の音して騒しきまであれどかなし。
されど忍びてもあらはれても、おのづから、「出で給ひけるを知らで」とも、「又いつか參り給ふ」などもいひにさしのぞく。心かけたる人は、「いかがは」と門あけなどするを、うたて騒しうあやふげに、夜半までなど思ひたるけしき、いとにくし。「大御門はさしつや」など問はすれば、「まだ人のおはすれば」など、なまふせがしげに思ひて答ふるに、「人出で給ひなば疾くさせ。このごろは盗人いと多かり」などいひたる、いとむつかしう、うち聞く人だにあり。
この人の供なるものども、この客今や出づると、絶えずさしのぞきて、けしき見るものどもを、わらふべかめり。眞似うちするも、聞きてはいかにいとど嚴しういひ咎めん。いと色に出でていはぬも、思ふ心なき人は、必來などやする。されど健なるかたは、「夜更けぬ、御門もあやふかなる」といひてぬるもあり。誠に志ことなる人は、「はや」などあまた度やらはるれど、猶居あかせば、たびたびありくに、あけぬべきけしきをめづらかに思ひて、「いみじき御門を、今宵らいさうとあけひろげて」と聞えごちて、あぢきなく曉にぞさすなる。いかがにくき。親そひぬるは猶こそあれ。まして誠ならぬは、いかに思ふらんとさへつつましうて。兄の家なども、實に聞くにはさぞあらん。
夜中曉ともなく、門いと心がしこくもなく、何の宮、内裏わたりの殿ばらなる人々の出であひなどして、格子などもあげながら、冬の夜を居あかして、人の出でぬる後も、見出したるこそをかしけれ。有明などはましていとをかし。笛など吹きて出でぬるを、我は急ぎても寢られず、人のうへなどもいひ、歌など語り聞くままに、寢いりぬるこそをかしけれ。
(一七三段)
ある所に、中の君とかやいひける人の許に、君達にはあらねども、その心いたくすきたる者にいはれ、心ばせなどある人の、九月ばかりに往きて、有明の月のいみじう照りておもしろきに、名殘思ひ出でられんと、言の葉を盡していへるに、今はいぬらんと遠く見送るほどに、えもいはず艶なる程なり。出づるやうに見せて立ち歸り、立蔀あいたる陰のかたに添ひ立ちて、猶ゆきやらぬさまもいひ知らせんと思ふに、「有明の月のありつつも」とうちいひて、さしのぞきたるかみの頭にも寄りこず、五寸ばかりさがりて、火ともしたるやうなる月の光、催されて驚かさるる心地しければ、やをら立ち出でにけりとこそかたりしか。
(一七四段)
雪のいと高くはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。又雪のいと高く降り積みたる夕暮より、端ちかう、同じ心なる人二三人ばかり、火桶中に居ゑて、物語などするほどに、暗うなりぬれば、こなたには火もともさぬに、大かた雪の光いと白う見えたるに、火箸して灰などかきすさびて、あはれなるもをかしきも、いひあはするこそをかしけれ。
よひも過ぎぬらんと思ふほどに、沓の音近う聞ゆれば、怪しと見出したるに、時々かやうの折、おぼえなく見ゆる人なりけり。今日の雪をいかにと思ひきこえながら、何でふ事にさはり、そこに暮しつるよしなどいふ。今日來ん人をなどやうのすぢをぞ言ふらんかし。晝よりありつる事どもをうちはじめて、よろづの事をいひ笑ひ、圓座さし出したれど、片つ方の足はしもながらあるに、鐘の音の聞ゆるまでになりぬれど、内にも外にも、いふ事どもは飽かずぞおぼゆる。
昧爽のほどに歸るとて、雪何の山に滿てるとうち誦じたるは、いとをかしきものなり。女のかぎりしては、さもえ居明さざらましを、ただなるよりはいとをかしう、すきたる有樣などを言ひあはせたる。
(一七五段)
村上の御時、雪のいと高う降りたりけるを、楊器にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかがいふべき」と兵衞の藏人に賜びたりければ、雪月花の時と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよまんには世の常なり、かう折にあひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。
同じ人を御供にて、殿上に人侍はざりける程、佇ませおはしますに、すびつの烟の立ちければ、「かれは何の烟ぞ、見て來」と仰せられければ、見てかへり參りて、
わたつみの沖にこがるる物見ればあまの釣してかへるなりけり
と奏しけるこそをかしけれ。蛙の飛び入りてこがるるなりけり。
(一七六段)
御形の宣旨、五寸ばかりなる殿上わらはのいとをかしげなるをつくりて、髻結ひ、裝束などうるはしくして、名かきて奉らせたりけるに、ともあきらのおほきみと書きたりけるをこそ、いみじうせさせ給ひけれ。
(一七七段)
宮に始めて參りたるころ、物の恥しきこと數知らず、涙も落ちぬべければ、夜々まゐりて、三尺の御几帳の後に侍ふに、繪など取り出でて見せさせ給ふだに、手もえさし出すまじうわりなし。これはとあり、かれはかかりなどの給はするに、高杯にまゐりたるおほとの油なれば、髮のすぢなども、なかなか晝よりは顯證に見えてまばゆけれど、念じて見などす。いとつめたきころなれば、さし出させ給へる御手のわづかに見ゆるが、いみじう匂ひたる薄紅梅なるは、限なくめでたしと、見知らぬさとび心地には、いかがはかかる人こそ世におはしましけれど、驚かるるまでぞまもりまゐらする。
曉には疾くなど急がるる。「葛城の神も暫し」など仰せらるるを、いかですぢかひても御覽ぜんとて臥したれば、御格子もまゐらず。女官まゐりて、「これはなたせ給へ」といふを、女房聞きてはなつを、「待て」など仰せらるれば、笑ひてかへりぬ。
物など問はせ給ひの給はするに、久しうなりぬれば、「おりまほしうなりぬらん、さ早」とて、「よさりは疾く」と仰せらるる。ゐざり歸るや遲きとあけちらしたるに、雪ふりにけり。
今日は晝つかた參れ、雪にくもりてあらはにもあるまじ」など、たびたび召せば、この局主人も、「さのみや籠り居給ふらんとする。いとあへなきまで御前許されたるは、思しめすやうこそあらめ。思ふに違ふはにくきものぞ」と、唯いそがしに急がせば、我にもあらぬ心地すれば、參るもいとぞ苦しき。火燒屋のうへに降り積みたるも珍しうをかし。
御前近くは、例の炭櫃の火こちたくおこして、それにはわざと人も居ず。宮は沈の御火桶の梨繪したるに向ひておはします。上臈御まかなひし給ひけるままに近くさぶらふ。次の間に長炭櫃に間なく居たる人人、唐衣著垂れたるほどなり。安らかなるを見るも羨しく、御文とりつぎ、立ち居ふるまふさまなど、つつましげならず、物いひゑみわらふ。いつの世にか、さやうに交ひならんと思ふさへぞつつましき。あうよりて、三四人集ひて繪など見るもあり。
暫時ありて、さき高うおふ聲すれば、「殿參らせ給ふなり」とて、散りたる物ども取りやりなどするに、奧に引き入りて、さすがにゆかしきなめりと、御几帳のほころびより僅に見入れたり。
大納言殿の參らせ給ふなりけり。御直衣指貫の紫の色、雪にはえてをかし。柱のもとに居給ひて、「昨日今日物忌にて侍れど、雪のいたく降りて侍らば、おぼつかなさに」などのたまふ。「道もなしと思ひけるに、いかでか」とぞ御答あなる。うち笑ひ給ひて、「あはれともや御覽ずるとて」などの給ふ御有樣は、これよりは何事かまさらん。物語にいみじう口にまかせて言ひたる事ども、違はざめりとおぼゆ。
宮は白き御衣どもに、紅の唐綾二つ、白き唐綾と奉りたる、御髮のかからせ給へるなど、繪に書きたるをこそ、かかることは見るに、現にはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。女房と物いひ戲れなどし給ふを、答いささか恥しとも思ひたらず聞えかへし、空言などの給ひかくるを、爭ひ論じなど聞ゆるは、目もあやに、あさましきまで、あいあく面ぞ赤むや。御菓子まゐりなどして、御前にも參らせ給ふ。「御几帳の後なるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。さぞと申すにこそあらめ、立ちておはするを、外へにやあらんと思ふに、いと近う居給ひて、物などの給ふ。まだ參らざりしとき聞きおき給ひける事などの給ふ。
「實にさありし」などの給ふに、御几帳隔てて、よそに見やり奉るだに恥しかりつるを、いとあさましう、さし向ひ聞えたる心地、うつつとも覺えず。
行幸など見るに、車のかたにいささか見おこせ給ふは、下簾ひきつくろひ、透影もやと扇をさし隱す。猶いと我心ながらも、おほけなくいかで立ち出でにしぞと、汗あえていみじきに、何事をか聞えん。かしこきかげと捧げたる扇をさへ取り給へるに、振りかくべき髮のあやしささへ思ふに、すべて誠にさる氣色やつきてこそ見ゆらめ、疾く立ち給へなど思へど、扇を手まさぐりにして、「繪は誰が書きたるぞ」などの給ひて、頓にも立ち給はねば、袖を押しあてて、うつぶし居たるも、唐衣にしろい物うつりて、まだらにならんかし。久しう居給ひたりつるを、論なう苦しと思ふらんと心得させ給へるにや、「これ見給へ、これは誰が書きたるぞ」と聞えさせ給ふを、嬉しと思ふに、「賜ひて見侍らん」と申し給へば、「猶ここへ」との給はすれば、「人をとらへてたて侍らぬなり」との給ふ。いといまめかしう、身のほど年には合はず、かたはらいたし。人の草假字書きたる草紙、取り出でて御覽ず。「誰がにかあらん、かれに見せさせ給へ。それぞ世にある人の手は見知りて侍らん」と怪しき事どもを、唯答させんとのたまふ。
一所だにあるに、又さきうちおはせて、同じ直衣の人參らせ給ひて、これは今少し花やぎ、猿樂ことなどうちし、譽め笑ひ興じ、我も、なにがしがとある事、かかる事など、殿上人のうへなど申すを聞けば、猶いと變化の物、天人などのおり來るにやと覺えてしを、侍ひ馴れ、日ごろ過ぐれば、いとさしもなきわざにこそありけれ。かく見る人々も、家のうち出で初めけん程は、さこそは覺えけめど、かく爲もて行くに、おのづから面馴れぬべし。
物など仰せられて、「我をば思ふや」と問はせ給ふ。御いらへに、「いかにかは」と啓するに合せて、臺盤所のかたに、鼻をたかくひたれば、「あな心う、虚言するなりけり。よしよし」とていらせ給ひぬ。いかでか虚言にはあらん。よろしうだに思ひ聞えさすべき事かは。鼻こそは虚言しけれとおぼゆ。さても誰かかくにくきわざしつらんと、大かた心づきなしと覺ゆれば、わがさる折も、おしひしぎかへしてあるを、ましてにくしと思へど、まだうひうひしければ、ともかくも啓しなほさで、明けぬればおりたるすなはち、淺緑なる薄樣に、艶なる文をもてきたり。見れば、
いかにしていかに知らましいつはりをそらにただすの神なかりせば
となん、御けしきはとあるに、めでたくも口をしくも思ひ亂るるに、なほ昨夜の人ぞたづね聞かまほしき。
うすきこそそれにもよらねはなゆゑにうき身の程を知るぞわびしき
猶こればかりは啓しなほさせ給へ、職の神もおのづからいと畏しとて、參らせて後も、うたて、折しもなどてさはたありけん、いとをかし。
(一七八段)
したりがほなるもの
正月一日のつとめて、最初にはなひたる人。きしろふたびの藏人に、かなしうする子なしたる人のけしき。除目に、その年の一の國得たる人の、よろこびなどいひて、「いとかしこうなり給へり」など人のいふ答に、「何か、いと異樣に亡びて侍るなれば」などいふも、したり顏なり。
また人多く挑みたる中に、選られて壻に取られたるも、我はと思ひぬべし。こはき物怪調じたる驗者。掩韻の明疾うしたる。小弓射るに、片つ方の人咳嗽をし紛はして騒ぐに、念じて音高う射てあてたるこそ、したり顏なるけしきなれ。碁をうつに、さばかりと知らで、ふくつけきは、又こと所にかがぐりありくに、ことかたより、目もなくして、多くひろひ取りたるも嬉しからじや。ほこりかに打ち笑ひ、ただの勝よりはほこりかなり。
ありありて受領になりたる人の氣色こそうれしげなれ。僅にある從者の無禮にあなづるも、妬しと思ひ聞えながら、いかがせんとて念じ過しつるに、我にもまさる者どもの、かしこまり、ただ仰承らむと追從するさまは、ありし人とやは見えたる。女房うちつかひ、見えざりし調度裝束の湧き出づる。受領したる人の中將になりたるこそ、もと公達のなりあがりたるよりも、氣高うしたり顏に、いみじう思ひためれ。
(一七九段)
位こそ猶めでたきものにはあれ。同じ人ながら、大夫の君や、侍從の君など聞ゆるをりは、いと侮り易きものを、中納言、大納言、大臣などになりぬるは、無下にせんかたなく、やんごとなく覺え給ふ事のこよなさよ。ほどほどにつけては、受領もさこそはあめれ。數多國に行きて、大貳や四位などになりて、上達部になりぬれば、おもおもし。されど、さりとてほど過ぎ、何ばかりの事かはある。又多くやはある。受領の北の方にてくだるこそ、よろしき人の幸福には思ひてあめれ。只人の上達部の女にて、后になり給ふこそめでたけれ。
されどなほ男は、わが身のなり出づるこそめでたくうち仰ぎたるけしきよ。法師の、なにがし供奉などいひてありくなどは、何とかは見ゆる。經たふとく讀み、みめ清げなるにつけても、女にあなづられて、なりかかりこそすれ、僧都僧正になりぬれば、佛のあらはれ給へるにこそとおぼし惑ひて、かしこまるさまは、何にかは似たる。
(一八〇段)
かしこき物は、乳母(めのと)のをとここそあれ。帝、親王たちなどはさるものにて、おきたてまつりつ。そのつぎつぎ、受領の家などにも、所につけたるおぼえ、わづらはしきものにしたれば、したりがほに、わが心ちもいとよせありて、このやしなひたる子をも、むげにわが物になして、女はされどあり、男児(おのこご)はつとたちそひてうしろみ、いささかもかの御ことにたがうものをば、爪たて讒言し、あしけれど、これが世をば心にまかせていふ人もなければ、所えいみじき面持ちして、ことおこなひなどす。
むげに稚(おさな)きほどぞすこし人わろき。おやの前にふすればひとり局(つぼね)にふしたり。さりとてほかへいけばこと心ありとてさはがれぬべし。しゐて呼びおろしてふしたるに、「まづまづ」とよばるれば、冬の夜などひきさがしひきさがしのぼりぬるが、いとわびしきなり。それは、よき所もおなじこと、いますこしわづらはしきことのみこそあれ。
 

 

(一八一段)
やまひは
胸。物怪。脚氣。唯そこはかとなく物食はぬ。十八九ばかりの人の、髮いと麗しくて、たけばかりすそふさやかなるが、いとよく肥えて、いみじう色しろう、顏あいぎやうづき、よしと見ゆるが、齒をいみじく病みまどひて、額髮もしとどに泣きぬらし、髮の亂れかかるも知らず、面赤くて抑へ居たるこそをかしけれ。八月ばかり、白き單衣、なよらかなる袴よきほどにて、紫苑の衣の、いとあざやかなるを引きかけて、胸いみじう病めば、友だちの女房たちなどかはるがわる來つつ、「いといとほしきわざかな、例もかくや惱み給ふ」など、事なしびに問ふ人もあり。
心かけたる人は、誠にいみじと思ひ歎き、人知れぬ中などは、まして人目思ひて、寄るにも近くもえ寄らず、思ひ歎きたるこそをかしけれ。いと麗しく長き髮を引きゆひて、物つくとて起きあがりたる氣色も、いと心苦しくらうたげなり。うへにも聞し召して、御讀經の僧の聲よき給はせたれば、訪人どももあまた見來て、經聞きなどするもかくれなきに、目をくばりつつ讀み居たるこそ、罪や得らんとおぼゆれ。
(一八二段)
すきずきしくて獨住する人の、夜はいづらにありつらん、曉に歸りて、やがて起きたる、まだねぶたげなる氣色なれど、硯とり寄せ、墨こまやかに押し磨りて、事なしびに任せてなどはあらず、心とどめて書く。まひろげ姿をかしう見ゆ。白き衣どものうへに、山吹紅などをぞ著たる。白き單衣のいたく萎みたるを、うちまもりつつ書き立てて、前なる人にも取らせず、わざとたちて、小舎人童のつきづきしきを、身近く呼び寄せて、うちささめきて、往ぬる後も久しく詠めて、經のさるべき所々など、忍びやかに口ずさびに爲居たり。奧のかたに、御手水、粥などしてそそのかせば、歩み入りて、文机に押しかかりて文をぞ見る。おもしろかりける所々は、うち誦じたるもいとをかし。
手洗ひて、直衣ばかりうち著て、禄をぞそらに讀む。實にいとたふとき程に、近き所なるべし、ありつる使うちけしきばめば、ふと讀みさして、返事に心入るるこそいとほしけれ。
(一八三段)
いみじう暑きひる中に、いかなるわざをせんと、扇(おおぎ)の風もぬるし、氷水(ひみず)に手をひたしもてさはぐほどに、こちたう赤き薄様(うすよう)を、唐撫子の、いみじう咲きたるにむすびつけて、とり入れたるこそ、書きつらんほどの暑さ、心ざしのほど、あさからずおしはかられて、かつ使いつるだにあかずおぼゆる扇も、うちおかれぬれ。
(一八四段)
南ならずは東の廂(ひさし)の板の、かげ見ゆばかりなるに、あざやかなる畳をうちをきて、三尺のき丁(ちょう)の帷子(かたびら)、いとすずしげに見えたるをおしやれば、ながれて、思ふほどよりもすぎてたてるに、しろき生絹(すずし)の単衣(ひとえ)、紅(くれない)の袴(はかま)、宿直物(とのいもの)には、こき衣(きぬ)のいたうは萎(な)へぬを、すこしひきかけてふしたり。
灯籠(とうろ)に火ともしたる、二間ばかりさりて、簾(す)たかうあげて、女房二人ばかり、童(わらわ)など長押(なげし)によりかかり、また、おろいたる簾にそひてふしたるもあり。火とりに火ふかう埋(うづ)みて、心ぼそげににほはしたるも、いとのどやかに心にくし。
よゐうちすぐるほどに、しのびやかに門(かど)たたくをと(音)のすれば、例(れい)の心しりの人きて、けしきばみたちかくし、人まもりて入れたるこそ、さるかたにをかしけれ。かたはらに、いとよく鳴る琵琶の、をかしげなるがあるを、物語のひまびまに、音(ね)もたてず爪(つま)びきにかき鳴らしたるこそ、をかしけれ。
(一八五段)
大路近なる所にて聞けば、車に乗りたる人の、有明のをかしきに、簾(すだれ)あげて、「遊子、猶(なお)残りの月に行く」といふ詩を、声よくて誦(ず)したるもをかし。
馬にても、さやうの人の行くはをかし。さやうの所にて聞くに、泥障(あふり=泥のはねるのを防ぐ馬具)の音の聞こゆるを、いかなる物ならんと、するわざもうちおきてみるに、あやしの物を見つけたる、いとねたし。
(一八六段)
わろきものは
詞の文字あやしくつかひたるこそあれ。ただ文字一つに、あやしくも、あてにも、いやしくもなるは、いかなるにかあらん。さるはかう思ふ人、萬の事に勝れてもえあらじかし。いづれを善き惡しきとは知るにかあらん。さりとも人を知らじ、唯さうち覺ゆるもいふめり。難義の事をいひて、「その事させんとす」といはんといふを、と文字をうしなひて、唯「いはんずる」「里へ出でんずる」などいへば、やがていとわろし。まして文を書きては、いふべきにもあらず。
物語こそあしう書きなどすれば、いひがひなく、作者さへいとほしけれ。「なほす」「定本のまま」など書きつけたる、いと口惜し。「祕點つくるまに」などいふ人もありき。「もとむ」といふ事を「見ん」と皆いふめり。いと怪しき事を、男などは、わざとつくろはで、殊更にいふはあしからず。わが詞にもてつけていふが、心おとりする事なり。
(一八七段)
こころづきなきもの
物へゆき、寺へも詣づる日の雨。使ふ人の我をばおぼさず、「某こそ只今の人」などいふをほの聞きたる。人よりはなほ少しにくしと思ふ人の、推量事うちし、すずろなる物恨し、我かしこげなる。心あしき人の養ひたる子、さるはそれが罪にはあらねど、かかる人にしもと覺ゆる故にやあらん。「數多あるが中に、この君をば思ひおとし給ひてや、にくまれ給ふよ」などあららかにいふ。兒は思ひも知らぬにやあらん、もとめて泣き惑ふ、心づきなきなめり。おとなになりても、思ひ後見もて騒ぐほどに、なかなかなる事こそおほかめれ。わびしくにくき人に思ふ人の、はしたなくいへど、添ひつきてねんごろがる。
いささか心あしなどいへば、常よりも近く臥して、物くはせ、いとほしがり、その事となく思ひたるに、まつはれ追從し、とりもちて惑ふ。宮仕人の許に來などする男の、そこにて物くふこそいとわろけれ。くはする人もいとにくし。思はん人の、「まづ」など志ありていはんを、忌みたるやうに口をふたぎて、顏を持てのくべきにもあらねば、くひ居るにこそあらめ。いみじう醉ひなどして、わりなく夜更けて泊りたりとも更にゆづけだにくはせじ。心もなかりけりとて來ずばさてなん。さとにて、北面よりし出してはいかがせん。それだに猶ぞある。初瀬に詣でて局に居たるに、あやしき下種どもの、後さしまぜつつ、居竝みたるけしきこそ、ないがしろなれ。
いみじき心を起して詣でたるに、川の音などの恐しきに、榑階をのぼり困じて、いつしか佛の御顏を拜み奉らんと、局に急ぎ入りたるに、蓑蟲のやうなるものの、あやしき衣著たるが、いとにくき立居額づきたるは、押し倒しつべき心地こそすれ。いとやんごとなき人の局ばかりこそ、前はらひあれ、よろしき人は、制しわづらひぬかし。たのもし人の師を呼びていはすれば、「足下ども少し去れ」などいふ程こそあれ、歩み出でぬれば、おなじやうになりぬ。
(一八八段)
風は
嵐。こがらし。三月ばかりの夕暮にゆるく吹きたる花風、いとあはれなり。
八九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨のあし横ざまに、さわがしう吹きたるに、夏とほしたる綿絹の、汗の香などかわき、生絹の單衣に、引き重ねて著たるもをかし。この生絹だにいとあつかはしう、捨てまほしかりしかば、いつの間にかうなりぬらんと思ふもをかし。あかつき、格子妻戸など押しあげたるに、嵐のさと吹きわたりて、顏にしみたるこそいみじうをかしけれ。
九月三十日、十月一日のほどの空うち曇りたるに、風のいたう吹くに、黄なる木の葉どもの、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。櫻の葉、椋の葉などこそ落つれ。十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。
野分の又の日こそ、いみじう哀におぼゆれ。
立蔀、透垣などのふしなみたるに、前栽ども心ぐるしげなり。大なる木ども倒れ、枝など吹き折られたるだに惜しきに、萩女郎花などのうへに、よろぼひ這ひ伏せる、いとおもはずなり。格子のつぼなどに、颯と際を殊更にしたらんやうに、こまごまと吹き入りたるこそ、あらかりつる風のしわざともおぼえね。
いと濃き衣のうはぐもりたるに、朽葉の織物、羅などの小袿著て、まことしく清げなる人の、夜は風のさわぎにねざめつれば、久しう寐おきたるままに、鏡うち見て、母屋よりすこしゐざり出でたる、髮は風に吹きまよはされて、少しうちふくだみたるが、肩にかかりたるほど、實にめでたし。
物あはれなる氣色見るほどに、十七八ばかりにやあらん、ちひさくはあらねど、わざと大人などは見えぬが、生絹の單衣のいみじうほころびたる、花もかへり、濡れなどしたる、薄色の宿直物を著て、髮は尾花のやうなるそぎすゑも、長ばかりは衣の裾にはづれて、袴のみあざやかにて、そばより見ゆる。わらはべの、若き人の根籠に吹き折られたる前栽などを取り集め起し立てなどするを、羨しげに推し量りて、つき添ひたるうしろもをかし。
(一八九段)
こころにくきもの
物へだてて聞くに、女房とは覺えぬ聲の、忍びやかに聞えたるに、答わかやかにして、うちそよめきて參るけはひ、物まゐる程にや、筋飯匙などのとりまぜて鳴りたる、提の柄のたふれ伏すも、耳こそとどまれ。
打ちたる衣の鮮かなるに、騒しうはあらで、髮のふりやられたる。いみじうしつらひたる所の、おほとなぶらは參らで、長炭櫃に、いと多くおこしたる火の光に、御几帳の紐のいとつややかに見え、御簾の帽額のあげたる、鈎のきはやかなるもけざやかに見ゆ。よく調じたる火桶の、灰清げにおこしたる火に、よく書きたる繪の見えたる、をかし。はしのいときはやかにすぢかひたるもをかし。
夜いたう更けて、人の皆寢ぬる後に、外のかたにて、殿上人など物いふに、奧に、碁石笥にいる音のあまた聞えたる、いと心にくし。簀子に火ともしたる。物へだてて聞くに、人の忍ぶるが、夜半などうち驚きて、いふ事は聞えず、男も忍びやかに笑ひたるこそ、何事ならんとをかしけれ。
(一九〇段)
島は
浮島。八十島。たはれ島。水島。松が浦島。籬の島。豐浦の島。たと島。
(一九一段)
濱は
そとの濱。吹上の濱。長濱。打出の濱。諸寄の濱。千里の濱こそ廣うおもひやらるれ。
(一九二段)
浦は
生の浦。鹽竈の浦。志賀の浦。名高の浦。こりずまの浦。和歌の浦。
(一九三段)
森は
大荒木の森。忍の森。こごひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。うつきの森。きくだの森。いはせの森。立聞の森。常磐の森。くるべきの森。神南備の森。假寐の森。浮田の森。うへ木の森。石田の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡の森。
(一九四段)
寺は
壺坂。笠置。法輪。高野は、弘法大師の御住處なるがあはれなるなり。石山。粉川。志賀。
(一九五段)
經は
法華經はさらなり。千手經。普賢十願。隨求經。尊勝陀羅尼。阿彌陀の大呪。千手陀羅尼。
(一九六段)
佛は
如意輪は、人の心をおぼしわづらひて、頬杖を突きておはする、世に知らずあはれにはづかし。千手、すべて六觀音。不動尊。藥師佛。釋迦。彌勒。普賢。地藏。文珠。
(一九七段)
文は
文集。文選。博士の申文。
(一九八段)
物語は
すみよし、うつぼの類は、殿うつり。月まつ女。交野の少將。梅壺の少將。人め。國ゆづり。むもれ木。道心すす
むる松が枝。こまのの物語は、ふるきかはぼりさし出でてもいにしが、をかしきなり。
(一九九段)
陀羅尼は
あかつき。
讀經は
ゆふぐれ。
(二〇〇段)
あそびは
夜人の顏見えぬほど。
 

 

(二〇一段)
あそびわざは
さまあしけれども、鞠もをかし。小弓。掩韻。碁。
(二〇二段)
舞は
駿河舞。求子。太平樂はさまあしけれど、いとをかし。太刀などうたてくあれど、いとおもしろし。漢土に敵に具して遊びけんなど聞くに。
鳥の舞。拔頭は、頭の髮ふりかけたるまみなどはおそろしけれど、樂もいとおもしろし。落蹲は、二人して膝ふみて舞ひたる。こまがた。
(二〇三段)
ひきものは
琵琶。筝のこと。
(二〇四段)
笛は
横笛いみじうをかし。遠うより聞ゆるが、やうやう近うなりゆくもをかし。近かりつるがはるかになりて、いとほのかに聞ゆるも、いとをかし。車にても徒歩にても馬にても、すべて懷にさし入れてもたるも、何とも見えず。さばかりをかしきものはなし。まして聞き知りたる調子など、いみじうめでたし。曉などに、忘れて枕のもとにありたるを見つけたるも、猶をかし。人の許より取りにおこせたるを、おし包みて、遣るも、ただ文のやうに見えたり。
笙の笛は、月のあかきに、車などにて聞えたる、いみじうをかし。所せく、もてあつかひにくくぞ見ゆる。吹く顏やいかにぞ。それは横笛もふきなしありかし。
篳篥(ひちりき)は、いとむつかしう、秋の蟲をいはば、轡蟲などに似て、うたてけぢかく聞かまほしからず。ましてわろう吹きたるはいとにくきに、臨時の祭の日、いまだ御前には出ではてで、物の後にて、横笛をいみじう吹き立てたる、あなおもしろと聞くほどに、半ばかりより、うちそへて吹きのぼせたる程こそ、唯いみじう麗しき髮もたらん人も、皆立ちあがりぬべき心地ぞする。やうやう琴笛あはせて歩み出でたる、いみじうをかし。
(二〇五段)
見るものは
行幸。祭のかへさ。御賀茂詣。
臨時の祭、空くもりて寒げなるに、雪少しうち散りて、插頭の花、青摺などにかかりたる、えもいはずをかし。太刀の鞘の、きはやかに黒うまだらにて、白く廣う見えたるに、半臂の緒のやうしたるやうにかかりたる。地摺袴の中より、氷かと驚くばかりなる打目など、すべていとめでたし。今少し多く渡らせまほしきに、使は必にくげなるもあるたびは、目もとまらぬ。されど藤の花に隱されたる程はをかしう、猶過ぎぬかたを見送らるるに、陪從のしなおくれたる、柳の下襲に、かざしの山吹おもなく見ゆれども、扇いと高くうちならして、「賀茂の社のゆふだすき」と歌ひたるは、いとをかし。
行幸になずらふるものは何かあらん。御輿に奉りたるを見參らせたるは、明暮御前に侍ひ、仕う奉る事もおぼえず、かうがうしういつくしう、常は何ともなきつかさ、ひめまうちぎみさへぞ、やんごとなう珍しう覺ゆる。
御綱助、中少將などいとをかし。祭のかへさいみじうをかし。きのふは萬の事うるはしうて、一條の大路の廣う清らなるに、日の影もあつく、車にさし入りたるもまばゆければ、扇にて隱し、居なほりなどして、久しう待ちつるも見苦しう、汗などもあえしを、今日はいと疾く出でて、雲林院、知足院などのもとに立てる車ども、葵かつらもうちなえて見ゆ。日は出でたれど、空は猶うち曇りたるに、いかで聞かんと、目をさまし、起き居て待たるる杜鵑の、數多さへあるにやと聞ゆるまで、鳴きひびかせば、いみじうめでたしと思ふ程に、鶯の老いたる聲にて、かれに似せんとおぼしく、うち添へたるこそ、憎けれど又をかしけれ。
いつしかと待つに、御社の方より、赤き衣など著たる者どもなど連れ立ちてくるを、「いかにぞ、事成りぬや」などいへば、「まだ無期」など答へて、御輿、腰輿など持てかへる。これに奉りておはしますらんもめでたく、けぢかく如何でさる下司などの侍ふにかとおそろし。はるかげにいふ程もなく歸らせ給ふ。葵より始めて、青朽葉どものいとをかしく見ゆるに、所の衆の青色白襲を、けしきばかり引きかけたるは、卯の花垣根ちかうおぼえて、杜鵑もかげに隱れぬべう覺ゆかし。昨日は車ひとつに數多乘りて、二藍の直衣、あるは狩衣など亂れ著て、簾取りおろし、物ぐるほしきまで見えし公達の、齋院の垣下にて、ひの裝束うるはしくて、今日は一人づつ、をさをさしく乘りたる後に、殿上童のせたるもをかし。
:わたりはてぬる後には、などかさしも惑ふらん。我も我もと、危くおそろしきまで、前に立たんと急ぐを、「かうな急ぎそ、のどやかに遣れ」と扇をさし出でて制すれど、聞きも入れねば、わりなくて、少し廣き所に強ひてとどめさせて立ちたるを、心もとなくにくしとぞ思ひたる、きほひかかる車どもを見やりてあるこそをかしけれ。少しよろしき程にやり過して、道の山里めきあはれなるに、うつ木垣根といふ物の、いと荒々しう、おどろかしげにさし出でたる枝どもなど多かるに、花はまだよくもひらけはてず、つぼみがちに見ゆるを折らせて、車のこなたかなたなどに插したるも、桂などの萎みたるが口惜しきに、をかしうおぼゆ。遠きほどは、えも通るまじう見ゆる行くさきを、近う行きもてゆけば、さしもあらざりつるこそをかしけれ。
男の車の誰とも知らぬが、後に引きつづきてくるも、ただなるよりはをかしと見る程に、引き別るる所にて、「峯にわかるる」といひたるもをかし。
(二〇六段)
五月ばかり、山里にありく、いみじくをかし。澤水も實にただいと青く見えわたるに、うへはつれなく草生ひ茂りたるを、ながながとただざまに行けば、下はえならざりける水の、深うはあらねど、人の歩むにつけて、とばしりあげたるいとをかし。
左右にある垣の枝などのかかりて、車のやかたに入るも、急ぎてとらへて折らんと思ふに、ふとはづれて過ぎぬるも口惜し。蓬の車に押しひしがれたるが、輪のまひたちたるに、近うかがへたる香もいとをかし。
(二〇七段)
いみじう暑きころ、夕すずみといふ程の、物のさまなどおぼめかしきに、男車のさきおふはいふべき事にもあらず、ただの人も、後の簾あげて、二人も一人も乘りて、走らせて行くこそ、いと涼しげなれ。まして琵琶ひきならし、笛の音聞ゆるは、過ぎていぬるも口惜しくさやうなるほどに、牛の鞦の香の、怪しうかぎ知らぬさまなれど、うち嗅がれたるが、をかしきこそ物ぐるほしけれ。
いと暗闇なるに、さきにともしたる松の煙の、かの車にかかれるもいとをかし。
(二〇八段)
五六月の夕かた、青き草を細う麗しくきりて、赤衣著たる子兒の、ちひさき笠を著て、左右にいと多くもちてゆくこそ、すずろにをかしけれ。
(二〇九段)
賀茂へ詣づる道に、女どもの、新しき折敷のやうなるものを笠にきて、いと多くたてりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、唯何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらん、をかしと見る程に、郭公をいとなめくうたふ聲ぞ心憂き。「ほととぎすよ、おれよ、かやつよ、おれなきてぞ、われは田にたつ」とうたふに、聞きも果てずいかなりし人かいたくなきてぞといひけん。「なかだかわらはおひ、いかでおどす人」と。鶯に郭公は劣れるといふ人こそ、いとつらう憎くけれ。鶯は夜なかぬいとわろし。すべて夜なくものはめでたし。兒どもぞはめでたからぬ。
(二一〇段)
八月晦日がたに、太秦にまうづとて見れば、穗に出でたる田に、人多くてさわぐ。稻刈るなりけり。早苗とりしか、いつの間にとはまこと。實にさいつごろ賀茂に詣づとて見しが、哀にもなりにけるかな。これは女もまじらず、男の片手に、いと赤き稻の、もとは青きを刈りもちて、刀か何にあらん、もとを切るさまのやすげに、めでたき事にいとせまほしく見ゆるや。いかでさすらん、穗をうへにて竝み居る、いとをかしう見ゆ。庵のさまことなり。
(二一一段)
九月廿日あまりのほど、長谷にまうでて、いとはかなき家にとまりたりしに、いとくるしくてただ寝(ね)に寝(ね)いりぬ。
夜ふけて、月の窓よりもりたりしに、人のふしたりしどもが衣の上に、白ふて映りなどしたりしこそ、いみじうあはれとおぼえしか。さやうなるおりぞ、人歌よむかし。
(二一二段)
清水(きよみず)などにまいりて、坂もとのぼるほどに、柴たく香の、いみじうあはれなるこそおかしけれ。
(二一三段)
五日の菖蒲の、秋冬過ぐるまであるが、いみじう白み枯れて怪しきを、引き折りあげたるに、その折の香殘りて、かがへたるもいみじうをかし。
(二一四段)
よくたきしめたる薫物の、昨日、一昨日、今日などはうち忘れたるに、衣を引きかづきたる中に、煙の殘りたるは、今のよりもめでたし。
(二一五段)
月のいとあかきに川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などのわれたるやうに、水のちりたるこそをかしけれ。
(二一六段)
おほきにてよきもの
法師。くだもの。家。餌嚢。硯の墨。男の目。あまりほそきは女めきたり、又鋺のやうならんはおそろし。火桶。酸漿。松の木。山吹のはなびら。馬も牛も、よきは大にこそあめれ。
(二一七段)
みじかくてありぬべきもの
とみの物ぬふ糸。燈臺。下種女の髮、うるはしく短くてありぬべし。人の女の聲。
(二一八段)
人の家につきづきしきもの
厨。
侍の曹司。箒のあたらしき。懸盤。童女。はしたもの。衝立障子。三尺の几帳。裝束よくしたる餌嚢。からかさ。
かきいた。棚厨子。ひさげ。銚子。中盤。圓座。ひぢをりたる廊。竹王繪かきたる火桶。
(二一九段)
ものへ行く道に、清げなる男の、竪文のほそやかなる持ちて急ぎ行くこそ、何地ならんとおぼゆれ。又清げなる童女などの、袙いと鮮かにはあらず、萎えばみたる、屐子のつややかなるが、革に土多くついたるをはきて、白き紙に包みたる物、もしは箱の蓋に、草紙どもなど入れて持て行くこそ、いみじう、呼び寄せて見まほしけれ。
門ぢかなる所をわたるを、呼び入るるに、愛敬なく答もせで往く者は、つかふらん人こそ推しはからるれ。
行幸はめでたきもの、上達部、公だち車などのなきぞ少しさうざうしき。
(二二〇段)
よろづの事よりも、わびしげなる車に、裝束わろくて物見る人、いともどかし。説經などはいとよし。罪うしなふかたの事なれば。それだに猶あながちなるさまにて、見苦しかるべきを、まして祭などは、見でありぬべし。下簾もなくて、白きひとへうち垂れなどしてあめりかし。唯その日の料にとて、車も下簾もしたてて、いと口をしうはあらじと出でたるだに、まさる車など見つけては、何しになど覺ゆるものを、ましていかばかりなる心地にて、さて見るらん。おりのぼりありく公達の車の、推し分けて近う立つ時などこそ、心ときめきはすれ。
よき所に立てんといそがせば、疾く出でて待つほどいと久しきに、居張り立ちあがりなど、あつく苦しく、まち困ずる程に、齋院の垣下に參りたる殿上人、所の衆、辨、少納言など、七つ八つ引きつづけて、院のかたより走らせてくるこそ、事なりにけりと驚かれて、嬉しけれ。
殿上人の物言ひおこせ、所々の御前どもに水飯くはすとて、棧敷のもとに馬ひき寄するに、おぼえある人の子どもなどは、雜色などおりて、馬の口などしてをかし。さらぬものの、見もいれられぬなどぞ、いとほしげなる。
御輿の渡らせ給へば、簾もあるかぎり取りおろし、過ぎさせ給ひぬるに、まどひあぐるもをかし。その前に立てる車は、いみじう制するに、などて立つまじきぞと、強ひて立つれば、いひわづらひて、消息などするこそをかしけれ。所もなく立ち重りたるに、よき所の御車、人給ひきつづきて多くくるを、いづくに立たんと見る程に、御前ども唯おりに下りて、立てる車どもを唯のけに退けさせて、人給つづきて立てるこそ、いとめでたけれ。逐ひのけられたるえせ車ども、牛かけて、所あるかたにゆるがしもて行くなど、いとわびしげなり。きらきらしきなどをば、えさしも推しひしがずかし。
いと清げなれど、又ひなび怪しく、げすも絶えず呼びよせ、ちご出しすゑなどするもあるぞかし。
 

 

(二二一段)
廊に便なき人なん、曉に笠ささせて出でけるといひ出でたるを、よく聞けば我がうへなりけり。地下などいひても、めやすく、人に許されぬばかりの人にもあらざめるを、怪しの事やと思ふほどに、うへより御文もて來て、「返事只今」と仰せられたり。何事にかと思ひて見れば、大笠の繪をかきて、人は見えず、唯手のかぎり笠をとらへさせて、下に
三笠山やまの端あけしあしたより
とかかせ給へり。猶はかなき事にても、めでたくのみ覺えさせ給ふに、恥しく心づきなき事は、いかで御覽ぜられじと思ふに、さるそらごとなどの出でくるこそ苦しけれと、をかしうて、こと紙に、雨をいみじう降らせて、下に、
雨ならぬ名のふりにけるかな
さてや濡れぎぬには侍らんと啓したれば、右近内侍などにかたらせ給ひて、笑はせ給ひけり。
(二二二段)
三條の宮におはしますころ、五日の菖蒲輿など持ちてまゐり。藥玉まゐらせなどわかき人々御匣殿など、藥玉して、姫宮若宮つけさせ奉りいとをかしき藥玉ほかよりも參らせたるに、あをさしといふものを人の持てきたるを、青き薄樣を艶なる硯の蓋に敷きて、「これませこしにさふらへば」とてまゐらせたれば、
みな人は花やてふやといそぐ日もわがこころをば君ぞ知りける
と、紙の端を引き破りて、書かせ給へるもいとめでたし。
(二二三段)
御乳母の大輔の、けふ日向へくだるに、賜はする扇どもの中に、片つかたには、日いと花やかにさし出でて旅人のある所、井手の中將の館などいふさまいとをかしう書きて、今片つかたには、京のかた雨いみじう降りたるに、ながめたる人などかきたるに、
あかねさす日にむかひても思ひいでよ都は晴れぬながめすらんと
ことばに御手づから書かせ給ひし、あはれなりき。さる君をおき奉りて、遠くこそえいくまじけれ。
(二二四段)
清水に籠りたる頃、茅蜩のいみじう鳴くをあはれと聞くに、わざと御使しての給はせたりし。唐の紙の赤みたるに、
「山ちかき入相の鐘のこゑごとに戀ふるこころのかずは知るらん
ものを、こよなのながゐや」と書かせ給へる。紙などのなめげならぬも取り忘れたるたびにて、紫なる蓮の花びらに書きてまゐらする。
(二二五段)
むまや(駅)は
梨原。ひくれの驛。望月の驛。野口の驛。やまの驛、あはれなる事を聞き置きたりしに、又あはれなる事のありしかば、なほ取りあつめてあはれなり。
(二二六段)
社は
布留の社。活田の社。龍田の社。はなふちの社。美久理の社。杉の御社、しるしあらんとをかし。
任事の明神いとたのもし。さのみ聞きけんとやいはれ給はんと思ふぞいとをかしき。
蟻通の明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神のやませ給ふとて、歌よみて奉りけんに、やめ給ひけん、いとをかし。
この蟻通とつけたる意は、まことにやあらん、昔おはしましける帝の、唯若き人をのみ思しめして、四十になりぬるをば、失はせ給ひければ、他の國の遠きに往きかくれなどして、更に都のうちにさる者なかりけるに、中將なりける人の、いみじき時の人にて、心なども賢かりけるが、七十ちかき親ふたりをもたりけるが、かう四十をだに制あるに、ましていとおそろしと懼ぢ騒ぐを、いみじう孝ある人にて、遠き所には更に住ませじ、一日に一度見ではえあるまじとて、密によるよる家の内の土を掘りて、その内に屋を建てて、それに籠めすゑて、往きつつ見る。
おほやけにも人にも、うせ隱れたるよしを知らせてあり。などてか、家にいり居たらん人をば、知らでもおはせかし、うたてありける世にこそ親は上達部などにやありけん、中將など子にてもたりけんは。いと心かしこく、萬の事知りたりければ、この中將若けれど、才あり、いたり賢くして、時の人に思すなりけり。
唐土の帝、この國の帝を、いかで謀りて、この國うち取らむとて、常にこころみ、爭事をしておくり給ひけるに、つやつやと、まろに、美しげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひ奉りたるに、すべて知るべきやうなければ、帝思しめし煩ひたるに、いとほしくて、親の許に行きて、かうかうの事なんあるといへば、「只はやからん川に立ちながら、横ざまに投げ入れ見んに、かへりて流れん方を、末と記してつかはせ」と教ふ。
參りて我しり顏にして、「こころみ侍らん」とて、人々具して投げ入れたるに、さきにして行くかたに印をつけて遣したれば、實にさなりけり。
又二尺ばかりなる蛇の同じやうなるを、「これはいづれか雄雌」とて奉れり。又更に人え知らず。例の中將行きて問へば、「二つをならべて、尾のかたに細きすばえをさしよせんに、尾はたらかさんを雌と知れ」といひければ、やがてそれを内裏のうちにてさ爲ければ、實に一つは動さず、一つは動しけるに、又しるしつけて遣しけり。
ほど久しうて、七曲にわだかまりたる玉の中通りて、左右に口あきたるが小さきを奉りて、「これに緒通してたまはらん、この國に皆し侍ることなり」とて奉りたるに、いみじからん物の上手不用ならん。そこらの上達部より始めて、ありとある人知らずといふに、又いきて、かくなんといへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰に細き糸をつけ、又それに今少しふときをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して、蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、實にいと疾う穴のあなた口に出でにけり。さてその糸の貫かれたるを遣したりける後になん、なほ日本はかしこかりけりとて、後々はさる事もせざりけり。
この中將をいみじき人に思しめして、「何事をし、いかなる位をか賜はるべき」と仰せられければ、「更に官位をも賜はらじ、唯老いたる父母の隱れうせて侍るを尋ねて、都にすますることを許させ給へ」と申しければ、「いみじうやすき事」とて許されにければ、よろづの人の親これを聞きて、よろこぶ事いみじかりけり。中將は大臣までになさせ給ひてなんありける。
さてその人の神になりたるにやあらん、この明神の許へ詣でたりける人に、夜現れてのたまひける。
七曲にまがれる玉の緒をぬきてありとほしとも知らずやあるらん
とのたまひけると、人のかたりし。
(二二七段)
乳母の男こそあれ、女はされど近くも寄らねばよし。男子をば、ただわが物にして、立ちそひ領じてうしろみ、いささかもこの御事に違ふものをば讒し、人をば人とも思ひたらず、怪しけれど、これがとがを心に任せていふ人もなければ、處得いみじきおももちして、事を行ひなどするよ。小一條院をば、今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西東はわたどのにて渡らせ給ふ。常に參うのぼらせ給ふ。おまへはつぼなれば、前栽などうゑ、笆ゆひていとをかし。
二月十日の日の、うらうらとのどかに照りたるに、わたどのの西の廂にて、うへの御笛ふかせ給ふ。高遠の大貳、御笛の師にて物し給ふを、異笛ふたつして、高砂ををりかへし吹かせ給へば、猶いみじうめでたしと言ふもよのつねなり。御笛の師にて、そのことどもなど申し給ふ、いとめでたし。御簾のもとに集り出でて見奉るをりなどは、わが身に芹つみしなど覺ゆることこそなけれ。すけただは木工允にて藏人にはなりにたる。
いみじう荒々しうあれば、殿上人女房は、あらわにとぞつけたるを、歌につくりて、「さうなしのぬし、尾張人の種にぞありける」とうたふは、尾張の兼時が女の腹なりけり。これを笛に吹かせ給ふを、添ひ侍ひて、「なほたかう吹かせおはしませ、え聞きさふらはじ」と申せば、「いかでか、さりとも聞き知りなん」とて密にのみ吹かせ給ふを、あなたより渡らせおはしまして、「このものなかりけり、只今こそふかめ」と仰せられて吹かせたまふ。いみじうをかし。
ふみことばなめき人こそ、いとどにくけれ。世をなのめに書きなしたる、詞のにくきこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、實にわろき事ぞ。されど我えたらんは理、人のもとなるさへにくくこそあれ。大かたさし向ひても、なめきは、などかく言ふらんとかたはらいたし。ましてよき人などをさ申す者は、さるはをこにていとにくし。男しうなどわろくいふ、いとわろし。わが使ふものなど、おはする、のたまふなどいひたる、いとにくし。ここもとに侍るといふ文字をあらせばやと聞くことこそ多かめれ。
愛敬なくと、詞しなめきなどいへば、いはるる人も聞く人も笑ふ。かく覺ゆればにや、あまり嘲哢するなどいはるるまである人も、わろきなるべし。殿上人宰相などを、ただなのる名を、聊つつましげならずいふは、いとかたはなるを、げによくさいはず、女房の局なる人をさへ、あのおもと君などいへば、めづらかに嬉しと思ひて、譽むる事ぞいみじき。殿上人公達を、御前より外にては官をいふ。また御前にて物をいふとも、きこしめさんには、などてかは、まろがなどいはん。さいはざらんにくし。かくいはんに、わろかるべき事かは。
(二二八段)
身をかへたらん人などはかくやあらんと見ゆるもの
ただの女房にて侍る人の、御乳母になりたる。唐衣も著ず、裳をだに用意なく、白衣にて御前に添ひ臥して、御帳のうちを居所にして、女房どもを呼びつかひ、局に物いひやり、文とりつがせなどしてあるさまよ。言ひ盡すべくだにあらず。
雜色の藏人になりたるめでたし。去年の霜月の臨時の祭に御琴もたりし人とも見えず。君達に連れてありくは、いづくなりし人ぞとこそおぼゆれ。外よりなりたるなどは、おなじ事なれどさしもおぼえず。
(二二九段)
雪たかう降りて、今もなほふるに、五位も四位も、色うるはしう若やかなるが、袍の色いと清らにて、革の帶のかたつきたるを、宿直すがたにひきはこえて、紫の指貫も、雪に映えて、濃さ勝りたるを著て、袙の紅ならずば、おどろおどろしき山吹を出して、傘をさしたるに、風のいたく吹きて、横ざまに雪を吹きかくれば、少し傾きて歩みくる、深沓半靴などのきはまで、雪のいと白くかかりたるこそをかしけれ。
(二三〇段)
廊の遣戸いと疾う押しあけたれば、御湯殿の馬道よりおりてくる殿上人の、萎えたる直衣指貫の、いたくほころびたれば、いろいろの衣どもの、こぼれ出でたるを、押し入れなどして、北の陣のかたざまに歩み行くに、あきたる遣戸の前を過ぐとて、纓をひきこして、顏にふたぎて過ぎぬるもをかし。
(二三一段)
岡は
船岡。片岡。靹岡は笹の生ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。
(二三二段)
ふるものは
雪。霰。霙はにくけれど、雪の眞白にてまじりたるをかし。雪は檜皮葺いとめでたし。少し消えがたになりたるほど、又いと多うは降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒う眞白に見えたる、いとをかし。
時雨。霰は板屋。霜も板屋。庭。
(二三三段)
日は
入日、入りはてぬる山際に、ひかりの猶とまりて、赤う見ゆるに、うす黄ばみたる雲のたなびきたる、いとあはれなり。
(二三四段)
月は
有明。東の山の端に、ほそうて出づるほどあはれなり。
(二三五段)
星は
昂星(すばる)。牽牛(=彦星(ひこぼし))。明星。長庚。流星をだになからましかば、まして(=まいて)。
(二三六段)
雲は
しろき。むらさき。黒き雲あはれなり。風吹くをりの天雲。明け離るるほどの黒き雲の、やうやう白くなりゆくもいとをかし。朝にさる色とかや、文にも作りけり。月のいと明き面に、薄き雲いとあはれなり。
(二三七段)
さわがしきもの
はしり火。板屋のうへにて、烏の齋の産飯くふ。
十八日清水に籠りあひたる。くらうなりて、まだ火もともさぬほどに、外々より人の來集りたる。まして遠き所、他國などより家の主ののぼりたる、いと騒がし。
近き程に火出で來ぬといふ、されど燃えは附かざりける。物見はてて車のかへり騒ぐほど。
(二三八段)
ないがしろなるもの
女官どもの髮あげたるすがた。唐繪の革の帶のうしろ。聖僧の擧動。
(二三九段)
ことばなめげなるもの
宮のめの祭文よむ人。舟こぐものども。雷鳴の陣の舎人。相撲。
(二四〇段)
さかしきもの
今やうの三年子。
兒の祈、祓などする女ども。物の具こひ出でて、いのりの物どもつくるに、紙あまたおし重ねて、いと鈍き刀してきるさま、ひとへだに斷つべくも見えぬに、さる物の具となりにければ、おのが口をさへ引きゆがめておし、切目おほかるものどもしてかけ、竹うち切りなどして、いとかうがうしうしたてて、うちふるひ、祈る事どもいとさかし。かつは「何の宮のその殿の若君、いみじうおはせしを、かいのごひたるやうにやめ奉りしかば、禄多く賜はりし事、その人々召したりけれど、しるしもなかりければ、今に女をなん召す。御徳を見ること」など語るもをかし。
げす(下衆)の家の女あるじ。しれたるものそひしもをかし。まことに賢しき人を、教へなどすべし。
 

 

(二四一段)
ただすぎにすぐるもの
帆をあげたる舟。人のよはひ。春夏秋冬。
(二四二段)
ことに人にしられぬもの
人の女親の老いたる。凶會日。
(二四三段)
ふみことばなめき人こそ、いとどにくけれ。世をなのめに書きなしたる、詞のにくきこそ。さるまじき人のもとに、あまりかしこまりたるも、實にわろき事ぞ。されど我えたらんは理、人のもとなるさへにくくこそあれ。
大かたさし向ひても、なめきは、などかく言ふらんとかたはらいたし。ましてよき人などをさ申す者は、さるはをこにていとにくし。
男しうなどわろくいふ、いとわろし。わが使ふものなど、おはする、のたまふなどいひたる、いとにくし。ここもとに侍るといふ文字をあらせばやと聞くことこそ多かめれ。愛敬なくと、詞しなめきなどいへば、いはるる人も聞く人も笑ふ。かく覺ゆればにや、あまり嘲哢するなどいはるるまである人も、わろきなるべし。
殿上人宰相などを、ただなのる名を、聊つつましげならずいふは、いとかたはなるを、げによくさいはず、女房の局なる人をさへ、あのおもと君などいへば、めづらかに嬉しと思ひて、譽むる事ぞいみじき。
殿上人公達を、御前より外にては官をいふ。また御前にて物をいふとも、きこしめさんには、などてかは、「まろが」などいはん。さいはざらんにくし。かくいはんに、わろかるべき事かは。
(二四四段)
いみじくきたなきもの
蚰蝓(なめくじ)。えせ板敷の箒。殿上のがうし(合子)。
(二四五段)
せめておそろしきもの
夜鳴る神。近き隣に盗人の入りたる。わが住む所に入りたるは、唯物もおぼえねば、何とも知らず。
(二四六段)
たのもしきもの
心地あしきころ、僧あまたして修法したる、思ふ人の心地あしきころ、眞にたのもしき人の言ひ慰めたのめたる。物おそろしき折の親どものかたはら。
(二四七段)
いみじうしたてて壻取りたるに、いとほどなくすまぬ壻の、さるべき所などにて舅に逢ひたる、いとほしとや思ふらん。
ある人の、いみじう時に逢ひたる人の壻になりて、一月もはかばかしうも來で止みにしかば、すべていみじう言ひ騒ぎ、乳母などやうの者は、まがまがしき事どもいふもあるに、そのかへる年の正月に藏人になりぬ。「あさましうかかるなからひに、いかでとこそ人は思ひためれ」など言ひあつかふは聞くらんかし。
六月に、人の八講し給ひし所に、人々集りて聞くに、この藏人になれる壻の、綾のうへの袴、蘇芳襲、黒半臂などいみじう鮮かにて、忘れにし人の車のとみのをに、半臂の緒ひきかけつばかりにて居たりしを、いかに見るらんと、車の人々も、知りたる限はいとほしがりしを、他人どもも、「つれなく居たりしものかな」など後にもいひき。
なほ男は物のいとほしさ、人の思はんことは知らぬなめり。
(二四八段)
世の中に猶いと心憂きものは、人ににくまれんことこそあるべけれ。誰てふ物ぐるひか、われ人にさおもはれんとは思はん。されど自然に、宮づかへ所にも、親はらからの中にても、思はるるおもはれぬがあるぞ、いとわびしきや。
よき人の御事は更なり、げすなどのほども、親などのかなしうする子は、目だち見たてられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことわり、いかが思はざらんと覺ゆ。ことなることなきは、又これをかなしと思ふらんは、親なればぞかしとあはれなり。
親にも君にも、すべてうちかたらふ人にも人に思はれんばかりめでたき事はあらじ。
(二四九段)
男こそ猶いとありがたく、怪しき心地したるものはあれ。いと清げなる人をすてて、にくげなる人をもたるもあやしかし。おほやけ所に入りたちする男、家の子などは、あるが中に、よからんをこそは選りて思は給はめ。及ぶまじからん際をだに、めでたしと思はんを、死ぬばかりも思ひかくれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にも、わろしと思ふをおもふは、いかなる事にかあらん。
かたちいとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌をもあはれに詠みておこせなどするを、返事はさかしらにうちするものから、寄りつかず、らうたげにうち泣きて居たるを、見捨てて往きなどするは、あさましうおほやけはらだちて、眷屬の心地も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては、つゆ心ぐるしきを思ひ知らぬよ。
(二五〇段)
よろづの事よりも、情ある事は、男はさらなり、女もこそめでたく覺ゆれ。なげの詞なれど、せちに心にふかく入らねど、いとほしき事をいとほしとも、あはれなるをば實にいかに思ふらんなどいひけるを傳へて聞きたるは、さし向ひていふよりもうれし。いかでこの人に、思ひ知りけりとも見えにしがなと、常にこそおぼゆれ。
必ず思ふべき人、訪ふべき人は、さるべきことなれば、取りわかれしもせず。さもあるまじき人のさし答をも、心易くしたるは嬉しきわざなり。いと易き事なれど、更にえあらぬ事ぞかし。
大かた心よき人の、實にかどなからぬは、男も女もありがたきことなめり。又さる人も多かるべし。
(二五一段)
人のうへいふを、腹立つ人こそ、いとわりなけれ。いかでかはあらん、我身をさし置きて、さばかりもどかしく、いはまほしきものやはある。されどけしからぬやうにもあり。又おのづから聞きつきて恨もぞする、あいなし。また思ひ放つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じていはぬをや。さだになくば、うち出で笑ひもしつべし。
(二五二段)
:人の顏に、とりわきてよしと見ゆる所は、度ごとに見れども、あなをかし、珍しとこそ覺ゆれ。繪など數多たび見れば、目もたたずかし。近う立てる屏風の繪などは、いとめでたけれども見もやられず。人の貌はをかしうこそあれ。
にくげなる調度の中にも、一つよき所のまもらるるよ。みにくきもさこそはあらめと思ふこそわびしけれ。
(二五三段)
古代の人の、指貫きたるこそ、いとたいだいしけれ。前にひきあてて、まづ裾(すそ)をみな籠(こ)めいれて、腰はうちすてて衣の前をととのへはてて、腰をおよびてとるほどに、後ろざまに手をさしやりて、猿の、手ゆはれたるやうに、ほどきたてるは、頓(とみ)のことにいでたつべくもみえざめり。
(二五四段)
十月十餘日の月いとあかきに、ありきて物見んとて、女房十五六人ばかり、皆濃き衣をうへに著て、引きかくしつつありし中に、中納言の君の、紅の張りたるを著て、頸より髮をかいこし給へりしかば、「あたらしきぞ」とて、「よくも似たまひしかな。靱負佐」とぞわかき人々はつけたりし。後に立ちて笑ふも知らずかし。
(二五五段)
成信の中將こそ、人の聲はいみじうよう聞き知り給ひしか。同じ所の人の聲などは、常に聞かぬ人は、更にえ聞き分かず、殊に男は、人の聲をも手をも、見わき聞きわかぬものを、いみじう密なるも、かしこう聞き分き給ひしこそ。
(二五六段)
大藏卿ばかり耳とき人なし。まことに蚊の睫の落つるほども、聞きつけ給ひつべくこそありしか。職の御曹司の西おもてに住みしころ、大殿の四位少將と物いふに、側にある人、この少將に、扇の繪の事いへとさざめけば、「今かの君立ち給ひなんにを」と密にいひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、「何とか何とか」と耳をかたぶくるに、手をうちて、「にくし、さのたまはば今日はたたじ」とのたまふこそ、いかで聞き給ひつらんと、あさましかりしか。
(二五七段)
うれしきもの
まだ見ぬ物語の多かる。又一つを見て、いみじうゆかしう覺ゆる物語の、二つ見つけたる。心おとりするやうもありかし。人のやり捨てたる文を見るに、同じつづき數多見つけたる。いかならんと夢を見て、恐しと胸つぶるるに、ことにもあらず合せなどしたる、いとうれし。
よき人の御前に、人々數多侍ふ折に、昔ありける事にもあれ、今聞しめし、世にいひける事にもあれ、かたらせ給ふを、われに御覽じ合せてのたまはせ、いひきかせ給へる、いとうれし。遠き所は更なり、おなじ都の内ながら、身にやんごとなく思ふ人の惱むを聞きて、いかにいかにと覺束なく歎くに、おこたりたる消息得たるもうれし。
思ふ人の、人にも譽められ、やんごとなき人などの、口をしからぬものに思しのたまふものの折、もしは人と言ひかはしたる歌の聞えてほめられ、うちききなどに譽めらるる、みづからのうへには、まだ知らぬ事なれど、猶思ひやらるるよ。いたううち解けたらぬ人のいひたる古き事の知らぬを、聞き出でたるもうれし。後に物の中などにて、見つけたるはをかしう、唯これにこそありけれと、かのいひたりし人ぞをかしき。
檀紙、白き色紙、ただのも、白う清きは得たるもうれし。恥しき人の、歌の本末問ひたるに、ふとおぼえたる、われながらうれし。常にはおぼゆる事も、又人の問ふには、清く忘れて止みぬる折ぞ多かる。頓に物もとむるに、見出でたる。只今見るべき文などを、もとめ失ひて、萬の物をかへすがえす見たるに、捜し出でたる、いとうれし。
物あはせ、何くれと挑むことに勝ちたる、いかでか嬉しからざらん。又いみじうわれはと思ひて、したりがほなる人はかり得たる。女どちよりも、男はまさりてうれし。これがたうは必せんずらんと、常に心づかひせらるるもをかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬやうにて、たゆめ過すもをかし。にくき者のあしきめ見るも、罪は得らんと思ひながらうれし。
指櫛むすばせて、をかしげなるも又うれし。
思ふ人は、我身よりも勝りてうれし。
御前に人々所もなく居たるに、今のぼりたれば、少し遠き柱のもとなどに居たるを、御覽じつけて、「こち來」と仰せられたれば、道あけて、近く召し入れたるこそ嬉しけれ。
(二五八段)
御前に人々あまた、物仰せらるる序などにも、「世の中のはらだたしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、いづちもいづちも行きうせなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清らなる、よき筆、白き色紙、檀紙など得つれば、かくても暫時ありぬべかりけりとなん覺え侍る。また高麗縁の疊の筵、青うこまかに、縁の紋あざやかに、黒う白う見えたる、引き廣げて見れば、何か猶さらに、この世はえおもひはなつまじと、命さへ惜しくなんなる」と申せば、「いみじくはかなき事も慰むなるかな。姥捨山の月は、いかなる人の見るにか」と笑はせ給ふ。さぶらふ人も、「いみじくやすき息災のいのりかな」といふ。
さて後にほど經て、すずろなる事を思ひて、里にあるころ、めでたき紙を二十つつみに裹みて賜はせたり。仰事には、「疾く參れ」などのたまはせて、「これは聞しめし置きたる事ありしかばなん。わろかめれば、壽命經もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いとをかし。無下に思ひ忘れたりつることを、思しおかせ給へりけるは、猶ただ人にてだにをかし、ましておろかならぬ事にぞあるや。心も亂れて、啓すべきかたもなければ、ただ、
かけまくもかしこきかみのしるしには鶴のよはひになりぬべきかな
あまりにやと啓せさせ給へとてまゐらせつ。臺盤所の雜仕ぞ、御使には來たる。青き單衣などぞ取らせて。まことにこの紙を、草紙に作りてもてさわぐに、むつかしき事も紛るる心地して、をかしう心のうちもおぼゆ。
二月ばかりありて、赤衣著たる男の、疊を持て來て「これ」といふ。「あれは誰そ、あらはなり」など物はしたなういへば、さし置きて往ぬ。「いづこよりぞ」と問はすれば、「まかりにけり」とて取り入れたれば、殊更に御座といふ疊のさまにて、高麗などいと清らなり。心の中にはさにやあらんと思へど、猶おぼつかなきに、人ども出しもとめさすれど、うせにけり。怪しがり笑へど、使のなければいふかひなし。所たがへなどならば、おのづからも又いひに來なん。宮のほとりに案内しに參らせまほしけれど、なほ誰すずろにさるわざはせん、仰事なめりといみじうをかし。
二日ばかり音もせねば、うたがひもなく、左京の君の許に、「かかる事なんある。さる事やけしき見給ひし。忍びて有樣のたまひて、さる事見えずば、かく申したりとも、な漏し給ひそ」と言ひ遣りたるに、「いみじうかくさせ給ひし事なり。ゆめゆめまろが聞えたるとなく、後にも」とあれば、さればよと、思ひしもしるく、をかしくて、文かきて、又密に御前の高欄におかせしものは、惑ひしほどに、やがてかきおとして、御階のもとにおちにけり。
(二五九段)
關白殿、二月十日のほどに、法興院の積善寺といふ御堂にて、一切經供養せさせ給ふ。女院、宮の御前もおはしますべければ、二月朔日のほどに、二條の宮へ入らせ給ふ。夜更けてねぶたくなりにしかば、何事も見入れず。
翌朝、日のうららかにさし出でたる程に起きたれば、いと白うあたらしうをかしげに作りたるに、御簾より始めて、昨日かけたるなめり。御しつらひ、獅子狛犬など、いつのほどにや入り居けんとぞをかしき。櫻の一丈ばかりにて、いみじう咲きたるやうにて、御階のもとにあれば、いと疾う咲きたるかな、梅こそ只今盛なめれと見ゆるは、作りたるなめり。すべて花のにほひなど、咲きたるに劣らず、いかにうるさかりけん。雨降らば、萎みなんかしと見るぞ口惜しき。小家などいふ物の多かりける所を、今作らせ給へれば、木立などの見所あるは、いまだなし。ただ宮のさまぞ、けぢかくをかしげなる。
殿渡らせ給へり。青鈍の堅紋の御指貫、櫻の直衣に、紅の御衣三つばかり、唯直衣にかさねてぞ奉りたる。御前より初めて、紅梅の濃きうすき織物、堅紋、立紋など、あるかぎり著たれば、唯ひかり滿ちて、唐衣は萌黄、柳、紅梅などもあり。
御前に居させ給ひて、物など聞えさせ給ふ。御答のあらまほしさを、里人に僅にのぞかせばやと見奉る。女房どもを御覽じ渡して、「宮に何事を思しめすらん。ここらめでたき人々を竝べすゑて御覽ずるこそ、いと羨しけれ。一人わろき人なしや、これ家々の女ぞかし。あはれなり。よくかへりみてこそさぶらはせ給はめ。さてもこの宮の御心をば、いかに知り奉りて集り參り給へるぞ。いかにいやしく物惜しみせさせ給ふ宮とて、われは生れさせ給ひしよりいみじう仕うまつれど、まだおろしの御衣一つ給はぬぞ。何かしりうごとには聞えん」などの給ふがをかしきに、みな人々笑ひぬ。「まことぞ、をこなりとてかく笑ひいまするが恥し」などの給はする程に、内裏より御使にて、式部丞某まゐれり。
御文は、大納言殿取り給ひて、殿に奉らせ給へば、ひき解きて、「いとゆかしき文かな。ゆるされ侍らばあけて見侍らん」との給はすれば怪しうとおぼいためり。「辱くもあり」とて奉らせ給へば、取らせ給ひても、ひろげさせ給ふやうにもあらず、もてなさせ給ふ、御用意などぞありがたき。すみのまより、女房茵さし出でて、三四人御几帳のもとに居たり。「あなたにまかりて、禄の事ものし侍らん」とてたたせ給ひぬる後に、御文御覽ず。御返しは紅梅の紙に書かせ給ふが、御衣のおなじ色ににほひたる、猶斯うしも推し量り參らする人はなくやあらんとぞ口をしき。
今日は殊更にとて、殿の御かたより禄は出させ給ふ。女の裝束に、紅梅の細長そへたり。肴などあれば、醉はさまほしけれど、「今日はいみじき事の行幸に、あが君許させ給へ」と大納言殿にも申して立ちぬ。
君達などいみじう假粧し給ひて、紅梅の御衣も劣らじと著給へるに、三の御前は御匣殿なり。中の姫君よりも大に見え給ひて、うへなど聞えんにぞよかめる。うへも渡らせ給へり。御几帳ひき寄せて、新しく參りたる人々には見え給はねば、いぶせき心地す。
さし集ひて、かの日の裝束、扇などの事をいひ合するもあり。又挑みかはして、「まろは何か、唯あらんにまかせてを」などいひて、「例の君」などにくまる。夜さりまかづる人も多かり。かかる事にまかづれば、え止めさせ給はず。
うへ日々に渡り、夜もおはします。君達などおはすれば、御前人少なく候はねばいとよし。内裏の御使日々に參る。御前の櫻、色はまさらで、日などにあたりて、萎みわるうなるだにわびしきに、雨の夜降りたる翌朝、いみじうむとくなり。いと疾く起きて、「泣きて別れん顏に、心おとりこそすれ」といふを聞かせ給ひて、「げに雨のけはひしつるぞかし、いかならん」とて驚かせ給ふに、殿の御方より侍の者ども、下種など來て、數多花のもとに唯よりによりて、引き倒し取りて、「密に往きて、まだ暗からんに取れとこそ仰せられつれ、明け過ぎにけり、不便なるわざかな、疾く疾く」と倒し取るに、いとをかしくて、いはばいはなんと、兼澄が事を思ひたるにやとも、よき人ならばいはまほしけれど、「かの花盗む人は誰ぞ、あしかめり」といへば、笑ひて、いとど逃げて引きもていぬ。なほ殿の御心はをかしうおはすかし。莖どもにぬれまろがれつきて、いかに見るかひなからましと見て入りぬ。
掃殿寮まゐりて御格子まゐり、主殿の女官御きよめまゐりはてて、起きさせ給へるに、花のなければ、「あなあさまし。かの花はいづちいにける」と仰せらる。「あかつき盗人ありといふなりつるは、なほ枝などを少し折るにやとこそ聞きつれがしつるぞ。見つや」と仰せらる。「さも侍らず。いまだ暗くて、よくも見侍らざりつるを、しろみたるものの侍れば、花を折るにやと、うしろめたさに申し侍りつる」と申す。「さりともかくはいかでか取らん。殿の隱させ給へるなめり」とて笑はせ給へば、「いで、よも侍らじ。春風の爲て侍りなん」と啓するを、「かくいはんとて隱すなりけり。ぬすみにはあらで、ふりにこそふるなりつれ」と仰せらるるも、珍しき事ならねど、いみじうめでたき。
殿おはしませば、寐くたれの朝顏も、時ならずや御覽ぜんと引き入らる。おはしますままに、「かの花うせにけるは、いかにかくは盗ませしぞ、いぎたなかりける女房たちかな。知らざりけるよ」と驚かせ給へば、「されど我よりさきにとこそ思ひて侍るめりつれ」と忍びやかにいふを、いと疾く聞きつけさせ給ひて、「さ思ひつる事ぞ、世に他人いでて見つけじ、宰相とそことの程ならんと推し量りつ」とて、いみじう笑はせ給ふ。「さりげなるものを、少納言は春風におほせける」と宮の御前にうちゑませ給へる、めでたし。「虚言をおほせ侍るなり。今は山田も作るらん」とうち誦ぜさせ給へるも、いとなまめきをかし。
「さてもねたく見つけられにけるかな。さばかり誡めつるものを、人の所に、かかるしれもののあるこそ」との給はす。「春風はそらにいとをかしうも言ふかな」と誦ぜさせ給ふ。
「ただことには、うるさく思ひよりて侍りつかし。今朝のさまいかに侍らまし」とて笑はせ給ふを小若君「されどそれはいと疾く見て、雨にぬれたりなど、おもてぶせなりといひ侍りつ」と申し給へばいみじうねたからせ給ふもをかし。
さて八日九日の程にまかづるを、「今少し近うなして」など仰せらるれど、出でぬ。いみじう常よりものどかに照りたる晝つかた、「花のこころ開けたりや、いかがいふ」との給はせたれば、「秋はまだしく侍れど、よにこの度なんのぼる心地し侍る」など聞えさせつ。
出させ給ひし夜、車の次第もなく、まづまづとのり騒ぐがにくければ、さるべき人三人と、「猶この車に乘るさまのいとさわがしく、祭のかへさなどのやうに、倒れぬべく惑ふいと見ぐるし。たださはれ、乘るべき車なくてえ參らずば、おのづから聞しめしつけて賜はせてん」など笑ひ合ひて立てる前より、押し凝りて、惑ひ乘り果てて出でて、「かうか」といふに、「まだここに」と答ふれば、宮司寄り來て、「誰々かおはする」と問ひ聞きて、「いと怪しかりけることかな。今は皆乘りぬらんとこそ思ひつれ。こはなどてかくは後れさせ給へる。今は得選を乘せんとしつるに。
めづらかなるや」など驚きて寄せさすれば、「さばまづその御志ありつらん人を乘せ給ひて、次にも」といふ聲聞きつけて「けしからず腹ぎたなくおはしけり」などいへば、乘りぬ。その次には、誠にみづしが車にあれば、火もいと暗きを、笑ひて、二條の宮に參りつきたり。
御輿は疾く入らせ給ひて、皆しつらひ居させ給ひけり。
「ここに呼べ」と仰せられければ、左京、小左近などいふ若き人々、參る人ごとに見れど、なかりけり。おるるに隨ひ、四人づつ御前に參り集ひて侍ふに、「いかなるぞ」と仰せられけるも知らず、ある限おりはててぞ、辛うじて見つけられて、「かばかり仰せらるるには、などかくおそく」とて率ゐて參るに、見れば、いつの間に、かうは年ごろの住居のさまに、おはしましつきたるにかとをかし。
「いかなれば、かう何かと尋ぬばかりは見えざりつるぞ」と仰せらるるに、とかくも申さねば、諸共に乘りたる人、「いとわりなし。さいはての車に侍らん人は、いかでか疾くは參り侍らん。これもほとほとえ乘るまじく侍りつるを、みづしがいとほしがりて、ゆづり侍りつるなり。暗う侍りつる事こそ、わびしう侍りつれ」と笑ふ笑ふ啓するに、「行事するもののいとあやしきなり。又などかは心知らざらん者こそつつまめ、右衞門などはいへかしなど仰せらる。
「されどいかでか走りさきだち侍らん」などいふも、かたへの人、にくしと聞くらんと聞ゆ。「さまあしうて、かく乘りたらんもかしこかるべき事かは。定めたらんさまの、やんごとなからんこそよからめ」とものしげに思し召したり。「おり侍るほどの待遠に、苦しきによりてにや」とぞ申しなほす。
御經のことに、明日渡らせおはしまさんとて、今宵參りたり。南院の北面にさしのぞきたれば、たかつきどもに火をともして、二人三人四人、さるべきどち、屏風引き隔てつるもあり、几帳中にへだてたるもあり。又さらでも集ひ居て、衣ども閉ぢ重ね、裳の腰さし、假粧ずるさまは、更にもいはず、髮などいふものは、明日より後はありがたげにぞ見ゆる。「寅の時になん渡らせ給ふべかなる。などか今まで參り給はざりつる。扇もたせて、尋ね聞ゆる人ありつ」など告ぐ。
「まて、實に寅の時か」とさうぞき立ちてあるに、明け過ぎ、日もさし出でぬ。西の對の唐廂になん、さし寄せて乘るべきとて、あるかぎり渡殿へ行く程に、まだうひうひしきほどなる今參どもは、いとつつましげなるに、西の對に殿すませ給へば、宮にもそこにおはしまして、まづ女房車に乘せさせ給ふを御覽ずとて、御簾の中に、宮、淑景舎、三四の君、殿のうへ、その御弟三所、立ち竝みておはします。
車の左右に、大納言、三位中將二所して、簾うちあげ、下簾ひきあげて乘せ給ふ。皆うち群れてだにあらば、隱れ所やあらん。四人づつ書立に隨ひて、それそれと呼び立てて、乘せられ奉り、歩み行く心地、いみじう實にあさましう、顯證なりとも世の常なり。御簾のうちに、そこらの御目どもの中に、宮の御前の見ぐるしと御覽ぜんは、更にわびしき事かぎりなし。身より汗のあゆれば、繕ひ立てたる髮などもあがりやすらんと覺ゆ。辛うじて過ぎたれば、車のもとに、いみじう恥しげに、清げなる御さまどもして、うち笑みて見給ふも現ならず。されど倒れず、そこまでは往き著きぬるこそ、かしこき顏もなきかと覺ゆれど、
皆乘りはてぬれば、引き出でて、二條の大路に榻立てて、物見車のやうにて立ち竝べたる、いとをかし。人もさ見るらんかしと、心ときめきせらる。四位五位六位など、いみじう多う出で入り、車のもとに來て、つくろひ物いひなどす。
まづ院の御むかへに、殿を始め奉りて、殿上と地下と皆參りぬ。それ渡らせ給ひて後、宮は出させ給ふべしとあれば、いと心もとなしと思ふほどに、日さしあがりてぞおはします。御車ごめに十五、四つは尼の車、一の御車は唐の車なり。それに續きて尼の車、後口より水精の珠數、薄墨の袈裟衣などいみじくて、簾はあげず。下簾も薄色の裾少し濃き。次にただの女房の十、櫻の唐衣、薄色の裳、紅をおしわたし、かとりの表著ども、いみじうなまめかし。日はいとうららかなれど、空は淺緑に霞み渡るに、女房の裝束の匂ひあひて、いみじき織物のいろいろの唐衣などよりも、なまめかしう、をかしき事限なし。
關白殿、その御次の殿ばら、おはする限もてかしづき奉らせ給ふ、いみじうめでたし。これら見奉り騒ぐ、この車どもの二十立ち竝べたるも、又をかしと見ゆらんかし。
いつしか出でさせ給はばなど、待ち聞えさするに、いと久し。いかならんと心もとなく思ふに、辛うじて、采女八人馬に乘せて引き出づめり。青末濃の裳、裙帶、領巾などの風に吹きやられたる、いとをかし。豐前といふ采女は、典藥頭重正が知る人なり。葡萄染の織物の指貫を著たれば、いと心ことなり。「重正は色許されにけり」と山の井の大納言は笑ひ給ひて、皆乘り續きて立てるに、今ぞ御輿出でさせ給ふ。めでたしと見え奉りつる御有樣に、これは比ぶべからざりけり。朝日はなばなとさしあがる程に、木の葉のいと花やかに輝きて、御輿の帷子の色艶などさへぞいみじき。御綱はりて出でさせ給ふ。御輿の帷子のうちゆるぎたるほど、實に頭の毛など、人のいふは更に虚言ならず。
さて後に髮あしからん人もかこちつべし。あさましう、いつくしう、猶いかでかかる御前に馴れ仕うまつらんと、わが身もかしこうぞ覺ゆる。御輿過ぎさせ給ふほど、車の榻ども、人給にかきおろしたりつる、また牛どもかけて、御輿の後につづきたる心地の、めでたう興あるありさま、いふかたなし。
おはしましつきたれば、大門のもとに高麗唐土の樂して、獅子狛犬をどり舞ひ、笙の音、鼓の聲に物もおぼえず。
こはいづくの佛の御國などに來にけるにかあらんと、空に響きのぼるやうにおぼゆ。
内に入りぬれば、いろいろの錦のあげばりに、御簾いと青くてかけ渡し、屏幔など引きたるほど、なべてただにこの世とおぼえず。御棧敷にさし寄せたれば、又この殿ばら立ち給ひて、「疾くおりよ」との給ふ。乘りつる所だにありつるを、今少しあかう顯證なるに、大納言殿、いとものものしく清げにて、御下襲のしりいと長く所せげにて、簾うちあげて、「はや」とのたまふ。つくろひそへたる髮も、唐衣の中にてふくだみ、あやしうなりたらん。色の黒さ赤ささへ見わかれぬべき程なるが、いとわびしければ、ふとも得降りず。「まづ後なるこそは」などいふほども、それも同じこころにや、「退かせ給へ、かたじけなし」などいふ。
「恥ぢ給ふかな」と笑ひて、立ちかへり、辛うじておりぬれば、寄りおはして、「むねたかなどに見せで、隱しておろせと、宮の仰せらるれば來たるに、思ひぐまなき」とて、引きおろして率て參り給ふ。さ聞えさせ給ひつらんと思ふもかたじけなし。參りたれば、初おりける人どもの、物の見えぬべき端に、八人ばかり出で居にけり。一尺と二尺ばかりの高さの長押のうへにおはします。ここに立ち隱して、「率て參りたり」と申し給へば、「いづら」とて几帳のこなたに出でさせ給へり。
まだ唐の御衣裳奉りながらおはしますぞいみじき。紅の御衣よろしからんや、中に唐綾の柳の御衣、葡萄染の五重の御衣に、赤色の唐の御衣、地摺の唐の羅に、象眼重ねたる御裳など奉りたり。織物の色、更になべて似るべきやうなし。
「我をばいかが見る」と仰せらる。「いみじうなん候ひつる」なども、言に出でてはよのつねにのみこそ。「久しうやありつる。それは殿の大夫の、院の御供にきて、人に見えぬる、おなじ下襲ながら、宮の御供にあらん、わろしと人思ひなんとて、殊に下襲ぬはせ給ひけるほどに、遲きなりけり。いとすき給へり」などとうち笑はせ給へる、いとあきらかに晴れたる所は、今少しけざやかにめでたう、御額あげさせ給へる釵子に、御分目の御髮の聊よりて、著く見えさせ給ふなどさへぞ、聞えんかたなき。
三尺の御几帳一雙をさしちがへて、こなたの隔にはして、その後には、疊一枚を、長ざまに縁をして、長押の上に敷きて、中納言の君といふは、殿の御伯父の兵衞督忠君と聞えけるが御女、宰相の君とは、富小路の左大臣の御孫、それ二人ぞうへに居て見え給ふ。御覽じわたして、「宰相はあなたに居て、うへ人どもの居たる所、往きて見よ」と仰せらるるに、心得て、「ここに三人いとよく見侍りぬべし」と申せば、「さば」とて召し上げさせ給へば、しもに居たる人々、「殿上許さるる内舎人なめりと笑はせんと思へるか」といへば、「うまさへのほどぞ」などいへば、そこに入り居て見るは、いとおもだたし。
かかる事などをみづからいふは、ふきがたりにもあり、また君の御ためにも輕々しう、かばかりの人をさへ思しけんなど、おのづから物しり、世の中もどきなどする人は、あいなく畏き御事にかかりて、かたじけなけれど、あな辱き事などは、又いかがは。誠に身の程過ぎたる事もありぬべし。
院の御棧敷、所々の棧敷ども見渡したる、めでたし。殿はまづ院の御棧敷に參り給ひて、暫時ありてここに參り給へり。大納言二所、三位中將は陣近う參りけるままにて、調度を負ひて、いとつきづきしうをかしうておはす。殿上人、四位五位、こちたううち連れて、御供に侍ひ竝み居たり。
入らせ給ひて見奉らせ給ふに、女房あるかぎり、裳、唐衣、御匣殿まで著給へり。殿のうへは、裳のうへに小袿をぞ著給へる。「繪に書きたるやうなる御さまどもかな。今いらい今日はと申し給ひそ。三四の君の御裳ぬがせ給へ。
この中の主君には、御前こそおはしませ。御棧敷の前に陣をすゑさせ給へるは、おぼろけのことか」とてうち泣かせ給ふ。實にと、見る人も涙ぐましきに、赤色櫻の五重の唐衣を著たるを御覽じて、「法服ひとくだり足らざりつるを、俄にまとひしつるに、これをこそかり申すべかりけれ。さらばもし又、さやうの物を切り調めたるに」との給はするに、又笑ひぬ。大納言殿少し退き居給へるが、聞き給ひて、「清僧都のにやあらん」との給ふ。一言としてをかしからぬ事ぞなきや。
僧都の君、赤色の羅の御衣、紫の袈裟、いと薄き色の御衣ども、指貫著たまひて、菩薩の御樣にて、女房にまじりありき給ふもいとをかし。「僧綱の中に、威儀具足してもおはしまさで、見ぐるしう女房の中に」など笑ふ。
父の大納言殿、御前より松君率て奉る。葡萄染の織物の直衣、濃き綾のうちたる、紅梅の織物など著給へり。例の四位五位いと多かり。御棧敷に女房の中に入れ奉る。何事のあやまりにか、泣きののしり給ふさへいとはえばえし。
事始りて、一切經を、蓮の花のあかきに、一花づつに入れて、僧俗、上達部、殿上人、地下六位、何くれまでもて渡る、いみじうたふとし。大行道導師まゐり、囘向しばし待ちて舞などする、日ぐらし見るに、目もたゆく苦しう。
うちの御使に、五位の藏人まゐりたり。御棧敷の前に胡床立てて居たるなど、實にぞ猶めでたき。
夜さりつかた、式部丞則理まゐりたり。「やがて夜さり入らせ給ふべし。御供に侍へと、宣旨侍りつ」とて歸りも參らず。宮は「なほ歸りて後に」との給はすれども、また藏人の辨まゐりて、殿にも御消息あれば、唯「仰のまま」とて、入らせ給ひなどす。院の御棧敷より、千賀の鹽竈などのやうの御消息、をかしき物など持て參り通ひたるなどもめでたし。
事はてて院還らせ給ふ。院司上達部など、このたびはかたへぞ仕う奉り給ひける。
宮は内裏へ入らせ給ひぬるも知らず、女房の從者どもは、「二條の宮にぞおはしまさん」とて、そこに皆往き居て、待てど待てど見えぬ程に、夜いたう更けぬ。内裏には宿直物持て來らんと待つに、きよく見えず。あざやかなる衣の、身にもつかぬを著て、寒きままに、にくみ腹立てどかひなし。翌朝きたるを、「いかにかく心なきぞ」などいへば、となふる如もさ言はれたり。
又の日雨降りたるを、殿は「これになん、わが宿世は見え侍りぬる。いかが御覽ずる」と聞えさせ給ふ。御心おちゐ理なり。
(二六〇段)
たふときもの
九條錫杖。念佛の囘向。
 

 

(二六一段)
歌は
杉たてる門。神樂歌もをかし。今樣はながくてくせづきたる。風俗よくうたひたる。
(二六二段)
指貫は
紫の濃き。萌黄。夏は二藍。いと暑き頃、夏蟲の色したるもすずしげなり。
(二六三段)
狩衣は
香染のうすき。白きふくさの赤色。松の葉いろしたる。青葉。さくら。やなぎ。又あをき。ふぢ。男は何色のきぬも。
(二六四段)
男は何色のきぬも。ひとへは白き。ひの裝束の紅のひとへ。袙などかりそめに著たるはよし。されどなほ色きばみたる單など著たるは、いと心づきなし。練色のきぬも著たれど、なほ單は白うてぞ、男も女もよろづの事まさりてこそ。
(二六五段)
下襲(したがさね)は
冬は躑躅、掻練襲、蘇枋襲。夏は二藍、白襲。
(二六六段)
扇の骨は
青色はあかき、むらさきはみどり。
(二六七段)
檜扇は
無紋。から繪。
(二六八段)
神は
松尾。八幡、この國の帝にておはしましけんこそいとめでたけれ。行幸などに、なぎの花の御輿に奉るなど、いとめでたし。大原野。賀茂は更なり。稻荷。春日いとめでたく覺えさせ給ふ。佐保殿などいふ名さへをかし。
平野はいたづらなる屋ありしを、「ここは何する所ぞ」と問ひしかば、「神輿宿」といひしもめでたし。嚴籬に蔦などの多くかかりて、紅葉のいろいろありし、秋にはあへずと、貫之が歌おもひ出でられて、つくづくと久しうたたれたりし。水分神いとをかし。
(二六九段)
崎は
唐崎。いかが崎。三保が崎。
(二七〇段)
屋は
丸屋。四阿屋(あずまや=東屋)。
(二七一段)
時奏するいみじうをかし。いみじう寒きに、夜中ばかりなどに、こほこほとごほめき、沓すり來て、弦うちなどして、「何家の某、時丑三つ、子四つ」など、あてはかなる聲にいひて、時の杭さす音などいみじうをかし。子九つ、丑八つなどこそ、さとびたる人はいへ、すべて何も何も、四つのみぞ杭はさしける。
(二七二段)
日のうらうらとある晝つかた、いたう夜ふけて、子の時など思ひ參らするほどに、男ども召したるこそ、いみじうをかしけれ。夜中ばかりに、また御笛の聞えたる、いみじうめでたし。
(二七三段)
成信の中將は、入道兵部卿の宮の御子にて、かたちいとをかしげに、心ばへもいとをかしうおはす。伊豫守兼輔がむすめの忘られて、伊豫へ親のくだりしほど、いかに哀なりけんとこそ覺えしか。あかつきに往くとて、今宵おはしまして、有明の月に歸り給ひけん直衣すがたなどこそ。
そのかみ常に居て、ものがたりし、人のうへなど、わろきは「わろし」などの給ひしに。物忌などくすしうするものの、名を姓にて持たる人のあるが、ことびとの子になりて、平などいへど、唯もとの姓を、若きひとびと言種にて笑ふ。ありさまも異なることなし。兵部とて、をかしき方などもかたきが、さすがに人などにさしまじり心などのあるは、御前わたりに「見苦し」など仰せらるれど、腹ぎたなく知り告ぐる人もなし。一條の院つくられたる一間のところには、つらき人をば更に寄せず。東の御門につと向ひて、をかしき小廂に、式部のおもと諸共に、夜も晝もあれば、うへも常に物御覽じに出でさせ給ふ。
「今宵は皆内に寐ん」とて南の廂に二人臥しぬる後に、いみじう叩く人のあるに、「うるさし」などいひ合せて、寐たるやうにてあれば、猶いみじうかしかましう呼ぶを、「あれおこせ、虚寐ならん」と仰せられければ、この兵部來て起せど、寐たるさまなれば、「更に起き給はざりけり」といひに往きたるが、やがて居つきて物いふなり。
しばしかとおもふに、夜いたう更けぬ。權中將にこそあなれ。「こは何事をかうはいふ」とてただ密に笑ふも、いかでか知らん。あかつきまでいひ明して歸りぬ。「この君いとゆゆしかりけり。更におはせんに物いはじ。何事をさは言ひあかすぞ」など笑ふに、遣戸をあけて女は入りぬ。
翌朝例の廂に物いふを聞けば、「雨のいみじう降る日きたる人なん、いとあはれなる。日ごろおぼつかなうつらき事ありとも、さて濡れて來らば、憂き事も皆忘れぬべし」とはなどていふにかあらんを。昨夜も昨日の夜も、それがあなたの夜も、すべてこのごろは、うちしきり見ゆる人の、今宵もいみじからん雨にさはらで來らんは、一夜も隔てじと思ふなめりと、あはれなるべし。さて日ごろも見えず、おぼつかなくて過さん人の、かかる折にしも來んをば、更にまた志あるにはえせじとこそ思へ。
人の心々なればにやあらん、物見しり、思ひ知りたる女の、心ありと見ゆるなどをばかたらひて、數多いく所もあり、もとよりのよすがなどもあれば、繁うしもえ來ぬを、猶さるいみじかりし折に來りし事など、人にも語りつがせ、身をほめられんと思ふ人のしわざにや。それも無下に志なからんには、何しにかは、さも作事しても見えんとも思はん。
されど雨の降る時は、唯むつかしう、今朝まではればれしかりつる空とも覺えずにくくて、いみじき廊のめでたき所ともおぼえず。ましていとさらぬ家などは、疾く降り止みねかしとこそ覺ゆれ。
月のあかきに來らん人はしも、十日二十日一月、もしは一年にても、まして七八年になりても、思ひ出でたらんは、いみじうをかしと覺えて、え逢ふまじうわりなきところ、人目つつむべきやうありとも、かならず立ちながらも、ものいひて返し、又とまるべからんをば留めなどしつべし。
月のあかき見るばかり、遠く物思ひやられ、過ぎにし事、憂かりしも、嬉しかりしも、をかしと覺えしも、只今のやうに覺ゆる折やはある。こまのの物語は、何ばかりをかしき事もなく、詞もふるめき、見物多からねど、月に昔を思ひ出でて、むしばみたる蝙蝠とり出でて、もと見し駒にといひて立てる、いとあはれなり。
雨は心もとなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき事、尊くめでたかるべき事も、雨だに降ればいふかひなく口惜しきに、何かその濡れてかこちたらんがめでたからん。
實に交野少將もどきたる落窪少將などはをかし。それも昨夜一昨日の夜も、ありしかばこそをかしけれ。足洗ひたるぞ、にくくきたなかりけん。さらでは何か、風などの吹く、荒荒しき夜きたるは、たのもしくをかしうもありなん。
雪こそいとめでたけれ。忘れめやなどひとりごちて、忍びたることは更なり。いとさあらぬ所も、直衣などは更にもいはず、狩衣、袍、藏人の青色などの、いとひややかに濡れたらんは、いみじうをかしかるべし。緑衫なりとも、雪にだに濡れなばにくかるまじ。昔の藏人は、夜など人の許などに、ただ青色を著て、雨にぬれても、しぼりなどしけるとか。今は晝だに著ざめり。ただ緑衫をのみこそ、うちかづきためれ。衞府などの著たるは、ましていとをかしかりしものを、かく聞きて、雨にありかぬ人やはあらんずらん。
月のいとあかき夜、紅の紙のいみじう赤きに、唯「あらず」とも書きたるを、廂にさし入れたるを、月にあてて見しこそをかしかりしか。雨降らん折はさはありなんや。
(二七四段)
常に文おこする人の、「何かは今はいふかひなし。今は」などいひて、又の日音もせねば、さすがにあけたてば、文の見えぬこそさうざうしけれと思ひて、「さてもきはぎはしかりける心かな」などいひて暮しつ。
又の日、雨いたう降る晝まで音もせねば、「無下に思ひ絶えにけり」などいひて、端のかたに居たる夕暮に、笠さしたる童の持てきたるを、常よりも疾くあけて見れば、「水ます雨の」とある、いと多くよみ出しつる歌どもよりはをかし。
(二七五段)
ただ朝はさしもあらず、さえつる空の、いと暗うかき曇りて、雪のかきくらし降るに、いと心ぼそく、見出すほどもなく、白く積りて、猶いみじう降るに、隨身だちて細やかに美美しき男の、傘さして、側の方なる家の戸より入りて、文をさし入れたるこそをかしけれ。いと白き檀紙、白き色紙のむすべたる、うへにひきわたしける墨の、ふと氷りにければ、すそ薄になりたるを開けたれば、いと細く卷きて、結びたる卷目は、こまごまとくぼみたるに、墨のいと黒う薄く、くだりせばに、裏表書きみだりたるを、うち返し久しう見るこそ、何事ならんと、よそにて見やりたるもをかしけれ。まいてうちほほゑむ所はいとゆかしけれど、遠う居たるは、黒き文字などばかりぞ、さなめりと覺ゆるかし。
額髮ながやかに、おもやうよき人の、暗きほどに文を得て、火ともす程も心もとなきにや。火桶の火を挾みあげて、たどたどしげに見居たるこそをかしけれ。
(二七六段)
きらきらしきもの
大將の御さきおひたる。孔雀經の御讀經。御修法は五大尊。
藏人式部丞。白馬の日、大路ねりたる。御齋會、左右衞門佐摺衣やりたる。季の御讀經。熾盛光の御修法。
(二七七段)
神のいたく鳴るをりに、雷鳴の陣こそいみじうおそろしけれ。左右大將、中少將などの、御格子のつらに侍ひ給ふ、いとをかしげなり。はてぬるをり、大將の仰せて、のぼりおりとの給ふらん。
(二七八段)
坤元録の御屏風こそ、をかしう覺ゆる名なれ。漢書の御屏風は、雄々しくぞ聞えたる。月次の御屏風もをかし。
(二七九段)
方違などして夜ふかくかへる、寒きこといとわりなく、おとがひなども皆おちぬべきを、辛うじて來つきて、火桶引き寄せたるに、火の大きにて、つゆ黒みたる所なくめでたきを、こまかなる灰の中よりおこし出でたるこそ、いみじう嬉しけれ。
物などいひて、火の消ゆらんも知らず居たるに、こと人の來て、炭入れておこすこそいとにくけれ。されどめぐりに置きて、中に火をあらせたるはよし。皆火を外ざまにかき遣りて、炭を重ね置きたるいただきに、火ども置きたるがいとむつかし。
(二八〇段)
雪いと高く降りたるを、例ならず御格子まゐらせて、炭櫃に火起して、物語などして集り侍ふに、「少納言よ、香爐峯の雪はいかならん」と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾高く卷き上げたれば、笑はせたまふ。人々も「皆さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人には、さるべきなめり」といふ。
 

 

(二八一段)
陰陽師の許なる童こそ、いみじう物は知りたれ。祓など爲に出でたれば、祭文など讀む事、人はなほこそ聞け。そと立ちはしりて、白き水いかけさせよともいはぬに、爲ありくさまの、例知り、いささか主に物いはせぬこそ羨しけれ。さらん人もがな、つかはんとこそ覺ゆれ。
(二八二段)
三月ばかり物忌しにとて、かりそめなる人の家にいきたれば、木どもなどはかばかしからぬ中に、柳といひて、例のやうになまめかしくはあらで、葉廣う見えてにくげなるを、「あらぬものなめり」といへば、「かかるもあり」などいふに、
さかしらに柳のまゆのひろごりて春のおもてをふする宿かな
とこそ見えしか。
そのころ又おなじ物忌しに、さやうの所に出でたるに、二日といふ晝つかた、いとど徒然まさりて、只今も參りぬべき心地する程にしも、仰事あれば、いとうれしくて見る。淺緑の紙に、宰相の君いとをかしく書き給へり。
いかにしてすぎにしかたを過しけん暮しわづらふ昨日けふ哉
となん。わたくしには、「今日しも千年の心地するを、曉だに疾く」とあり。この君のの給はんだにをかしかるべきを、まして仰事のさまには、おろかならぬ心地すれど、啓せん事とはおぼえぬこそ。
雲のうへにくらしかねけるはるの日を所がらともながめつる哉
私には、「今宵の程も、少將にやなり侍らんずらん」とて、曉に參りたれば、「昨日の返し、暮しかねけるこそいとにくし。いみじうそしりき」と仰せらるる、いとわびしう誠にさることも。
清水に籠りたる頃、茅蜩のいみじう鳴くをあはれと聞くに、わざと御使しての給はせたりし。唐の紙の赤みたるに、
山ちかき入相の鐘のこゑごとに戀ふるこころのかずは知るらん
ものを、こよなのながゐやと書かせ給へる。紙などのなめげならぬも取り忘れたるたびにて、紫なる蓮の花びらに書きてまゐらする。
(二八三段)
十二月二十四日、宮の御佛名の初夜の御導師聞きて出づる人は、夜半も過ぎぬらんかし。里へも出で、もしは忍びたる所へも、夜のほど出づるにもあれ、合ひ乘りたる道の程こそをかしけれ。
日ごろ降りつる雪の、今朝はやみて、風などのいたう吹きつれば、垂氷のいみじうしだり、土などこそむらむら黒きなれ、屋のうへは唯おしなべて白きに、あやしき賤の屋もおもがくして、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。
かねなどおしへぎたるやうなるに、水晶の莖などいはまほしきやうにて、長く短く、殊更かけ渡したると見えて、いふにもあまりてめでたき垂氷に、下簾も懸けぬ車の簾を、いと高く上げたるは、奧までさし入りたる月に、薄色、紅梅、しろきなど、七つ八つばかり著たるうへに、濃き衣のいとあざやかなる艶など、月に映えて、をかしう見ゆる傍に、葡萄染の堅紋の指貫、白き衣どもあまた、山吹、紅など著こぼして、直衣のいと白き引きときたれば、ぬぎ垂れられて、いみじうこぼれ出でたり。指貫の片つかたは、軾の外にふみ出されたるなど、道に人の逢ひたらば、をかしと見つべし。
月影のはしたなさに、後ざまへすべり入りたるを、引き寄せあらはになされて笑ふもをかし。凛々として氷鋪けりといふ詩を、かへすがえす誦じておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜もありかまほしきに、往く所の近くなるもくちをし。
(二八四段)
宮仕する人々の出で集りて、君々の御事めで聞え、宮の内外のはしの事ども、互に語り合せたるを、おのが君々、その家あるじにて聞くこそをかしけれ。家廣く清げにて、親族は更なり、唯うちかたらひなどする人には、宮づかへ人、片つ方にすゑてこそあらまほしけれ。
さるべき折は、一所に集りゐて物語し、人の詠みたる歌、何くれと語りあはせ、人の文など持てくる、もろともに見、返事かき、また睦しうくる人もあるは、清げにうちしつらひて入れ、雨など降りてえ歸らぬも、をかしうもてなし、參らん折はその事見入れて、思はんさまにして出し立てなどせばや。
よき人のおはします御有樣など、いとゆかしきぞ、けしからぬ心にやあらん。
(二八五段)
:見ならひするもの
欠伸。兒ども。なまけしからぬえせもの。
(二八六段)
うちとくまじきもの
あしと人にいはるる人。さるはよしと知られたるよりは、うらなくぞ見ゆる。
船の路。日のうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、淺緑のうちたるを引き渡したるやうに見えて、聊恐しき氣色もなき若き女の、袙ばかり著たる、侍の者の若やかなる諸共に、櫓といふものを押して、歌をいみじううたひたる、いとをかしう、やんごとなき人にも見せ奉らまほしう思ひいくに、風いたう吹き、海のおもてのただ荒れにあしうなるに、物もおぼえず、泊るべき所に漕ぎつくるほど、船に浪のかけたるさまなどは、さばかり和かりつる海とも見えずかし。
思へば船に乘りてありく人ばかり、ゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さにてだに、さまはかなき物に乘りて、漕ぎ往くべき物にぞあらぬや。ましてそこひも知らず、千尋などもあらんに、物いと積み入れたれば、水際はただ一尺ばかりだになきに、下種どもの、聊恐しとも思ひたらず、走りありき、つゆ荒くもせば沈みやせんと思ふに、大なる松の木などの、二三尺ばかりにてまろなるを、五つ六つほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ。
蓬かたといふ物にぞおはす。されど奧なるはいささかたのもし。端に立てる者どもこそ、目くるる心地すれ。早緒つけて、のどかにすげたる物の弱けさよ。絶えなば何にかはならん、ふと落ち入りなんを、それだにいみじう太くなどもあらず。
わが乘りたるはきよげに、帽額のすきかげ、妻戸格子あげなどして、されどひとしう重げになどもあらねば、ただ家の小きにてあり。他船見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りて、うち散したるやうにぞいと能く似たる。泊りたる所にて、船ごとに火ともしたる、をかしう見ゆ。
遊艇とつけて、いみじう小きに乘りて漕ぎありく早朝など、いとあはれなり、あとのしら浪は、誠にこそ消えてもゆけ。よろしき人は、乘りてありくまじき事とこそ猶おぼゆれ。陸路も又いとおそろし。
されどそれは、いかにもいかにも地につきたれば、いとたのもしと思ふに、蜑のかづきしたるは憂きわざなり。腰につきたる物絶えなば、いかがせんとなん。男だにせば、さてもありぬべきを、女はおぼろげの心ならじ。男は乘りて、歌などうちうたひて、この栲繩を海にうけありく、いと危く、うしろべたくはあらぬにや、蜑ものぼらんとては、その繩をなん引く。取り惑ひ繰り入るるさまぞ、理なるや。船のはたを抑へて、放ちたる息などこそ、まことに唯見る人だにしほたるるに、落し入れて漂ひありく男は、目もあやにあさまし。更に人の思ひかくべきわざにもあらぬことにこそあめれ。
(二八七段)
右衞門尉なる者のえせ親をもたりて、人の見るにおもてぶせなど、見ぐるしう思ひけるが、伊豫國よりのぼるとて、海に落し入れてけるを、人の心うがり、あさましがりけるほどに、七月十五日、盆を奉るとていそぐを見給ひて、道命阿闍梨、
わたつ海に親をおし入れてこの主のぼんする見るぞあはれなりける
とよみ給ひけるこそ、いとほしけれ。
(二八八段)
又小野殿の母うへこそは、普門寺といふ所に八講しけるを聞きて、又の日小野殿に人々集りて、あそびし、文つくりけるに、
薪こることはきのふにつきにしを今日はをののえここにくたさん
と詠み給ひけんこそめでたけれ。ここもとは打聞になりぬるなめり。
(二八九段)
また業平が母の宮の、いよいよ見まくとの給へる、いみじうあはれにをかし。引きあけて見たりけんこそ思ひやらるれ。
(二九〇段)
をかしと思ひし歌などを、草紙に書きておきたるに、下種のうち歌ひたるこそ心憂けれ。よみにもよむかし。
(二九一段)
よろしき男を、下種女などの譽めて、「いみじうなつかしうこそおはすれ」などいへば、やがて思ひおとされぬべし。そしらるるはなかなかよし。下種にほめらるるは女だにわろし。また譽むるままにいひそこなひつるものをば。
(二九二段)
左右の衛門の尉(ぞう)を判官(ほうがん)といふ名つけて、いみじうおそろしう、かしこきものに思ひたるこそ。夜行し、細殿などに入りふしたる、いと見ぐるしかし。布の白袴(しろばかま)、き丁(ちょう)にうちかけ、うへの衣の、長くところせきをわがねかけたる、いとつきなし。太刀のしりに、ひきかけなどしてたちさまよふは、されどよし。
青色をただつねに着たらば、いかにおかしからん。「見し有明ぞ」とたれいひけん。
(二九三段)
大納言殿まゐり給ひて、文の事など奏し給ふに、例の夜いたう更けぬれば、御前なる人人、一二人づつうせて、御屏風几帳の後などに、みな隱れふしぬれば、唯一人になりて、ねぶたきを念じてさぶらふに、丑四つと奏するなり。
「明け侍りぬなり」とひとりごつに、大納言殿、「今更におほとのごもりおはしますよ」とて、寢べきものにも思したらぬを、うたて何しにさ申しつらんと思へども、又人のあらばこそはまぎれもせめ。
うへの御前の柱に寄りかかりて、少し眠らせ給へるを、「かれ見奉り給へ、今は明けぬるに、かくおほとのごもるべき事かは」と申させ給ふ。「實に」など宮の御前にも笑ひ申させ給ふも知らせ給はぬほどに、長女が童の、鷄を捕へて持ちて、明日里へ往かんといひて隱し置きたりけるが、いかがしけん、犬の見つけて追ひければ、廊の先に逃げ往きて、恐しう泣きののしるに、みな人起きなどしぬなり。うへもうち驚かせおはしまして、「いかにありつるぞ」と尋させ給ふに、大納言殿の、聲明王の眠を驚すといふ詩を、高ううち出し給へる、めでたうをかしきに、一人ねぶたかりつる目も大になりぬ。「いみじき折の事かな」と宮も興ぜさせ給ふ。なほかかる事こそめでたけれ。
又の日は、夜の御殿に入らせ給ひぬ。夜半ばかりに、廊へ出でて人呼べば、「おるるか、われ送らん」との給へば、裳唐衣は屏風にうち懸けていくに、月のいみじう明くて、直衣のいと白う見ゆるに、指貫の半ふみくくまれて、袖をひかへて、「たふるな」といひて率ておはするままに、「遊子なほ殘の月に行けば」と誦じ給へる、又いみじうめでたし。「かやうの事めで惑ふ」とて笑ひ給へど、いかでか、猶いとをかしきものをば。
(二九四段)
僧都の君の御乳母のままと、御匣殿の御局に居たれば、男ある板敷のもと近く寄り來て、「辛いめを見候ひつる。誰にかはうれへ申し候はんとてなん」と泣きぬばかりの氣色にていふ。「何事ぞ」と問へば、「あからさまに物へまかりたりし間に、きたなぐ侍る所の燒けはべりにしかば、日ごろは寄居蟲のやうに、人の家に尻をさし入れてなん侍ふ。厩寮の御秣積みて侍りける家よりなん、出でまうで來て侍るなり。ただ垣を隔てて侍れば、よどのに寢て侍りける童もほとほと燒け侍りぬべくなん、いささか物もとうで侍らず」などいひ居る。御匣殿も聞き給ひて、いみじう笑ひ給ふ。
みまくさをもやすばかりの春のひによどのさへなど殘らざるらん
と書きて、「これを取らせ給へ」とて投げ遣れば、笑ひののしりて、「このおはする人の、家の燒けたりとていとほしがりて給ふめる」とて取らせたれば、「何の御短策にか侍らん、物いくらばかりにか」といへば、「まづよめかし」といふ。「いかでか、片目もあき仕うまつらでは」といへば、「人にも見せよ、只今召せば、頓にてうへへ參るぞ。さばかりめでたき物を得ては、何をか思ふ」とて皆笑ひ惑ひてのぼりぬれば、「人にや見せつらん。里にいきて、いかに腹立たん」など、御前に參りて、ままの啓すれば、また笑ひさわぐ。御前にも、「などかく物ぐるほしからん」とて笑はせ給ふ。
(二九五段)
男は女親なくなりて、親ひとりある、いみじく思へども、わづらはしき北の方の出で來て後は、内にも入れられず、裝束などの事は、乳母、また故上の人どもなどしてせさす。
西東の對のほどに、客人にもいとをかしう、屏風障子の繪も見所ありてすまひたり。殿上のまじらひのほど、口惜しからず、人々も思ひたり。うへにも御氣色よくて、常に召しつつ御あそびなどのかたきには、思しめしたるに、なほ常に物なげかしう、世のなか心にあはぬ心地して、すきずきしき心ぞ、かたはなるまであるべき。
上達部のまたなきに、もてかしづかれたる妹一人あるばかりにぞ、思ふ事をもうちかたらひ、慰め所なりける。「定澄僧都に袿なし、すいせい君に袙なし」といひけん人もこそをかしけれ。「まことや、下野にくだる」といひける人に、
おもひだにかからぬ山のさせも草たれかいぶきの里は告げしぞ
(二九六段)
ある女房の、遠江守の子なる人をかたらひてあるが、おなじ宮人をかたらふと聞きて恨みければ、「親などもかけて誓はせ給ふ。いみじき虚言なり、夢にだに見ずとなんいふ。いかがいふべき」といふと聞きて、
誓へきみ遠つあふみのかみかけてむげに濱名のはし見ざりきや
(二九七段)
「便なき所にて人に物をいひけるに、胸のいみじうはしりける、などかくはある」といひける答に、
逢坂はむねのみつねにはしり井のみつくる人やあらんと思へば
(二九八段)
「まことにや、下野にくだる」といひける人に、
おもひ(思)だにかからぬ山のさせも草たれかいぶきの里は告げしぞ  
 
 
「長恨歌」

 

中国唐の詩人、白居易によって作られた長編の漢詩である。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。806年(元和元年)、白居易が盩厔県(陝西省周至県)尉であった時の作。七言古詩(120句)。
あらすじ
漢の王は長年美女を求めてきたが満足しえず、ついに楊家の娘を手に入れた。それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になる。反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す。太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづける。それは「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」、かつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だった。
漢皇重色思傾國、御宇多年求不得
楊家有女初長成、養在深閨人未識
天生麗質難自棄、一朝選在君王側
回眸一笑百媚生、六宮粉黛無顏色
春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂
侍兒扶起嬌無力、始是新承恩澤時
雲鬢花顏金歩搖、芙蓉帳暖度春宵
春宵苦短日高起、從此君王不早朝
承歡侍宴無濶ノ、春從春遊夜專夜
後宮佳麗三千人、三千寵愛在一身
金屋妝成嬌侍夜、玉樓宴罷醉和春
姊妹弟兄皆列士、可憐光彩生門戸
遂令天下父母心、不重生男重生女
驪宮高處入青雲、仙樂風飄處處聞
緩歌慢舞凝絲竹、盡日君王看不足
漁陽鼙鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲
九重城闕煙塵生、千乘萬騎西南行
翠華搖搖行復止、西出都門百餘里
六軍不發無奈何、宛轉蛾眉馬前死
花鈿委地無人收、翠翹金雀玉搔頭
君王掩面救不得、回看血涙相和流
黄埃散漫風蕭索、雲棧縈紆登劍閣
峨嵋山下少人行、旌旗無光日色薄
蜀江水碧蜀山青、聖主朝朝暮暮情
行宮見月傷心色、夜雨聞鈴腸斷聲
天旋日轉迴龍馭、到此躊躇不能去
馬嵬坡下泥土中、不見玉顏空死處
君臣相顧盡霑衣、東望都門信馬歸
歸來池苑皆依舊、太液芙蓉未央柳
芙蓉如面柳如眉、對此如何不涙垂
春風桃李花開夜、秋雨梧桐葉落時
西宮南苑多秋草、宮葉滿階紅不掃
梨園弟子白髮新、椒房阿監青娥老
夕殿螢飛思悄然、孤燈挑盡未成眠
遲遲鐘鼓初長夜、耿耿星河欲曙天
鴛鴦瓦冷霜華重、翡翠衾寒誰與共
悠悠生死別經年、魂魄不曾來入夢
臨邛道士鴻都客、能以精誠致魂魄
為感君王輾轉思、遂ヘ方士殷勤覓
排空馭氣奔如電、升天入地求之徧
上窮碧落下黄泉、兩處茫茫皆不見
忽聞海上有仙山、山在虚無縹緲
樓閣玲瓏五雲起、其中綽約多仙子
中有一人字太眞、雪膚花貌參差是
金闕西廂叩玉扃、轉ヘ小玉報雙成
聞道漢家天子使、九華帳裏夢魂驚
攬衣推枕起裴回、珠箔銀屏邐迤開
雲鬢半偏新睡覺、花冠不整下堂來
風吹仙袂飄颻舉、猶似霓裳羽衣舞
玉容寂寞涙闌干、梨花一枝春帶雨
含情凝睇謝君王、一別音容兩渺茫
昭陽殿裏恩愛絕、蓬萊宮中日月長
回頭下望人寰處、不見長安見塵霧
唯將舊物表深情、鈿合金釵寄將去
釵留一股合一扇、釵擘黄金合分鈿
但ヘ心似金鈿堅、天上人陂相見
臨別殷勤重寄詞、詞中有誓兩心知
七月七日長生殿、夜半無人私語時
在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝
天長地久有時盡、此恨綿綿無絕期
漢の皇帝は美女を得たいと望んでいた。しかし長年の治世の間に求めても得ることができなかった。
楊家の娘はようやく一人前になるころである。深窓の令嬢として大切に育てられ、周囲には知られていなかった。
天性の美は自然と捨て置かれず、ある日選ばれて王の側に上がった。
視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。
春まだ寒いころ、華清池の温泉を賜った。温泉の水は滑らかに白い肌を洗う。
侍女が助け起こすとなよやかで力ない。こうして晴れて皇帝の寵愛を受けたのであった。
やわらかな髪、花のような顔、歩みにつれて金のかんざしが揺れる。芙蓉模様のとばりは暖かく、春の宵を過ごす。
春の宵はあまりに短く、日が高くなって起き出す。これより王は早朝の執政を止めてしまった。
王の意を受けて宴に侍って途切れる暇もない。春には春の遊びに従い、夜は夜で王の側に一人で侍る。
後宮には三千人の美女がいたが、三千人分の寵愛をいまや一身に受けている。
金の御殿で化粧を凝らして、艶めかしく夜も侍る。玉楼での宴が果てた後、春のような気分に酔う。
彼女の縁戚はみな列士となり、輝かしい栄光が一族に訪れた。
遂には世間の親たちの心も、男児の誕生より女児の誕生を喜ぶようになった。
驪山の離宮は高所にあって雲に隠れるほどである。天上の音楽が風に乗ってあちこちから聞こえる。
のびやかな歌や踊り、笛や琴の音も美しく、王は終日眺めて見飽きることがなかった。
突如、漁陽の陣太鼓が地を揺るがして迫り、霓裳羽衣の曲を楽しむ日々は砕け散った。
王宮の奥にも煙と粉塵が立ち上る。車や騎兵の大軍は西南を目指していった。
かわせみの羽で飾った天子の御旗はゆらゆらと進んでは止まり、都の西門を出て百里のあたりまで来た。
もはや軍は進もうとせず、如何ともしがたく、優美な眉の美女は天子の馬前で死したのであった。
花のかんざしは地に落ちて拾い上げるものもなく、かわせみや金の雀、宝玉の髪飾りも同様であった。
王は顔を覆うばかりで助けることもできず、振り返る目からは血の涙が流れた。
黄色い砂塵が舞い、風がものさびしく吹きすさぶ。雲にかかるほどの険しい道を剣閣へと登る。
峨嵋山のふもとには道行く人も少ない。天子の御旗も今は光なく、日の光さえ弱々しい。
蜀江の水は深緑色、蜀山は青々としている。王は朝も夕も彼女を恋い慕って嘆いた。
仮御所の月を見れば心が痛み、夜に雨音を聞けば断腸の思いである。
世情が変わって天子の御車も方向を転じて都を目指す。しかし心が引かれてこの地を立ち去ることができない。
馬嵬の坂の泥の中に、もはやかつての玉のように美しい顔は見ることができず、その跡がむなしく残るばかり。
君臣は互いに振り返りながら旅の衣を涙で濡らし、東に都の門を望みながら馬に任せて帰る。
帰ってきてみれば池も庭もみな元のままで、太液池の芙蓉も未央宮の柳も変わりないのである。
芙蓉の花は彼女の顔のよう、柳は彼女の眉のようで、これを見てどうして涙を流さずにおられようか。
春風に桃李の花が夜開き、秋雨に桐の葉が落ちる。
西の宮殿の南の庭には秋草が繁り、落ちた葉がきざはしを赤く埋め尽くしても掃き清めるものもない。
かつての梨園の弟子もすっかり白髪が増え、椒房の女官もすっかり年をとった。
夕方の宮殿に蛍が飛ぶのを見ても悄然として考える。ひとつ残った灯りをともしきってもまだ眠りに就くことができない。
時を告げる鐘鼓は遅々として夜の長さを思い知らせる。天の川はうっすら光って空は明けようとしている。
おしどりの瓦は冷え冷えとして霜が真っ白に積もる。かわせみの夜具は冷え切っていて共に休む人もない。
遥か遠く生死を分けてから幾年月、彼女の魂魄が会いに来て夢に現れることもない。
臨邛の道士が都に旅人として訪れており、精を込めて祈ることで魂魄を招くことができた。
王が眠れぬ夜を重ねていることを案じていた人々は、彼に念入りに捜し求めるようにしたのである。
空を切って気流をとらえ雷のごとく天駆け、天に昇り地に入ってくまなく捜し求める。
上は空の窮みまで、下は黄泉まで探したが、どちらもただ茫々として果てなく見つけることができない。
そのうち海上に仙人の山があると聞き及ぶ。山は何もないところにぽつんと在った。
楼閣は玲瓏として美しく五色の雲が起こっている。その中にたおやかな仙女がたくさんいた。
その一人は名を太真といった。雪のような肌、花のような容貌、どうやら彼女らしい。
金の御殿の西の棟に宝玉の扉を叩いて訪れ、小玉や双成に取次を頼んだ。
漢の天子の使いと聞いて、幾重もの美しいとばりの中で彼女の魂が夢から覚めた。
衣装をまとい枕を押しやって起き上がり、しばらく躊躇してから玉の簾や銀の屏風が次々に開かれた。
雲のような髪は少し崩れて目覚めたばかりの様子。花の冠も整えないまま堂に降りてきた。
風が吹いて仙女の袂はひらひらと舞い上がり、霓裳羽衣の舞を舞っているようだった。
玉のような美しい顔は寂しげで、涙がぽろぽろとこぼれる。梨の花が一枝、雨に濡れたような風情である。
思いのこもった眼差しで、君王に謝辞を述べた。あの別れ以来、声も姿も両共に遠いものとなりました。
昭陽殿での恩愛も絶え、蓬莱宮の中で過ごした時間も長くなりました。
振り返って人間世界を見下ろしてみても、長安は見えず、霧や塵もやが広がるばかり。
今はただ思い出の品によって私の深情を示したいのです。螺鈿の小箱と金のかんざしを形見にお持ちください。
かんざしの脚の片方と小箱の蓋をこちらに残しましょう。かんざしの小金を裂き小箱は螺鈿を分かちましょう。
金や螺鈿のように心を堅く持っていれば、天上と人間界とに別れた私たちもいつかまた会えるでしょう、と。
別れに際し、ていねいに重ねて言葉を寄せた。その中に、王と彼女の二人だけにわかる誓いの言葉があった。
それは七月七日の長生殿、誰もいない真夜中に親しく語り合った時の言葉だった。
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう、と。
天地は悠久といえどもいつかは尽きることもある。でもこの悲しみは綿々と続いて絶える時はこないだろう。
史実との相違
詩中では玄宗と楊貴妃を直接叙述するのではなく、漢の武帝と李夫人の物語に置き換えている。これは現王朝に遠慮してのこととする見解がある。楊貴妃はそもそもは玄宗の子の一人、寿王李瑁の妃であった。「新唐書」玄宗紀によれば、玄宗は息子の妻を自分のものとするため、いったん彼女を女道士にして、息子との縁を絶った後に後宮に迎えている。太真は楊貴妃の道士時代の名である。
楊貴妃の美
「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」温泉の水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。 「雲鬢花顏」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」 ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」 侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。
日本文学への影響
「源氏物語」桐壺の巻 / 桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の描写には、長恨歌を髣髴とさせる部分がたくさんある。当時の貴族層の誰もが知る長恨歌のエピソードを、紫式部は上手く平安王朝風に置き換えて、物語に取り入れた。
「枕草子」 / 清少納言は「梨の花の美は中国でも絶賛されていた」と考えていた。おそらく長恨歌の中の「梨花一枝春帶雨」の表現を踏まえてのことと思われる。しかし実は梨の花の美を称えた表現は、中国の詩でも他にはあまり見られない。
 
 
鴨長明

 

かものながあきら(ちょうめい) 久寿二?-建保四(1155?-1216) 通称/菊大夫 法名/蓮胤
下鴨神社の禰宜(ねぎ)、長継(ながつぐ)の次男。
幼時から二条天皇中宮(のちの高松院)の愛顧を得、応保元年(1161)、七歳にして中宮叙爵により従五位下に叙せられたが、以後、生涯昇叙されることはなかった。嘉応二年(1170)、父長継は禰宣職を又従兄弟の祐季(すけすえ)に譲って引退し、承安二年(1172)頃、死去。長明はこの頃から本格的に歌作に打ち込み、安元元年(1175)には高松院北面菊合に列席するなどしたが、翌年、後援を得ていた高松院も死去した。養和元年(1181)、家集「鴨長明集」を自撰(養和二年説もある)。初め六条藤家に近い勝命を歌の師としたが、のち俊恵に入門し、歌林苑の会衆として活動する。文治二年(1186)または建久元年(1190)頃、伊勢・熊野などを旅する(散佚した旅行記「伊勢記」がある)。文治四年(1188)に完成された千載集には一首入集の栄を得た。建久二年(1191)、石清水八幡の若宮社歌合に出詠。正治二年(1200)、後鳥羽院後度百首に詠進。以後、院や源通親主催の歌合に度々参加する。建仁元年(1201)八月、後鳥羽院により和歌所寄人に任ぜられ、昼夜奉公したが、元久元年(1204)、河合社の禰宣職に就く希望が破れ、和歌所を去る(「源家長日記」)。まもなく出家し、東山に遁世。のち、洛北大原に庵を移した。各所を転々としたあと、承元二年(1208)、五十四歳の頃、山科の日野山(京都市伏見区日野町)に落ち着く。建暦元年(1211)には飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し、将軍源実朝と会見する(「吾妻鏡」)。翌年、「方丈記」を書きあげ、前後して随筆風の歌論書「無名抄」を著す。また仏教説話集「発心集」も晩年の作とするのが通説である。建保四年(1216)閏六月十日(九日とも)、没。享年は六十二か。
中原有安を管弦の師とし、琵琶などの奏者としても名高かった。「続歌仙落書」に歌仙の一人として見え、また新三十六歌仙にも選ばれている。千載集初出。新古今集には十首。勅撰集入集歌は計二十五首。
「方丈記」の名文家として日本文学史に不滅の名を留める鴨長明であるが、散文の名作はいずれも最晩年に執筆されたもののようで、生前はもっぱら歌人・楽人として名を馳せていたらしい。後鳥羽院の歌壇に迎えられたのは四十代半ばのことであった。当初、気鋭の新古今歌人たちの「ふつと思ひも寄らぬ事のみ人毎によまれ」ている有り様に当惑する長明であったが、その後急速に新歌風を習得していったものと見える。少年期からの長い歌作の蓄積と、俊恵の歌林苑での修練あってこその素早い会得であったろう。「無名抄」には、自己流によく噛み砕いた彼の幽玄観が窺え、興味深い。しかし、彼が文の道で己の芯の鉱脈を掘り当てたのは、家代々の禰宣職に就く希望を打ち砕かれ、いたたまれなくなって御所歌壇を去り、出家してのちのことであった。そしてそれは、歌人としてではなかったのである。 

花を思ふ心をよめる
思ひやる心やかねてながむらんまだ見ぬ花の面影にたつ(風雅142)
【通釈】桜を想いやる私の心は、前以て眺めているのだろうか。まだ現実には見ていない花が、しきりと面影にたつ。
花歌とて
吹きのぼる木曾の御坂(みさか)の谷風に梢もしらぬ花を見るかな(続古今139)
【通釈】木曾の御坂の谷から吹き上げる風に、散った桜の花びらが舞いのぼる。それで峠の上では、どこに梢があるとも知れない花を見ることよ。
【語釈】◇木曾の御坂 信濃国の歌枕。御坂は美濃国との国境の峠。
【参考歌】源経信「経信集」「玉葉集」
春風の山の高嶺をふきこせば梢も見えぬ花ぞちりける
雲さそふ天(あま)つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも(三体和歌)
【通釈】雲を誘い寄せて天を吹く春風が、ほのぼのと花の気を漂わせるようだ。高間の山は今や桜の花盛りなのだろうよ。
【語釈】◇かをるなり 香気がほのかに立ちのぼり、ただよう。ソメイヨシノなどと異なり、ヤマザクラには幽かな芳香がある。この「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚によって判断していることを示す。◇高間(たかま)の山 奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山の主峰、金剛山の古名。
【補記】「三体和歌」は建仁二年(1202)三月、後鳥羽院が各歌人に三体六首の和歌を詠ませたもの。春夏の歌は「太く大きに」との注文が付けられた(「無名抄」)。下句は下記良経詠からの借用か。しかし上句は長明の作がまさっている。
【参考歌】藤原良経「花月百首」
葛木の峰の白雲かをるなり高間の山の花ざかりかも

宵の間の月のかつらのうす紅葉照るとしもなき初秋の空(三体和歌)
【通釈】夜の初めの時間、月の桂の木はまだ薄い紅葉の色で、照るともなく照っている、初秋の空。
【語釈】◇宵の間 宵は夕方と夜中の間の時間。◇月のかつら 月には桂の樹があるという中国の伝承に由る。桂はカツラ科の落葉喬木で、秋、葉は黄色からオレンジ色へと美しく染まる。
【本歌】壬生忠岑「古今集」
久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればやてりまさるらむ
秋の歌とてよみ侍りける
秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただ我からの露の夕ぐれ(新古366)
【通釈】袖によって秋風が届いたり届かなかったりすることはあるまい。誰の袖にだって吹くのだ。この露っぽい夕暮、私の袖が露ならぬ涙に濡れるのは、ただ自分の心の悲しさゆえなのだ。
【語釈】◇秋風 「飽き」を掛け、恋人に飽きられたことを暗示。秋の夕暮の寂しさに、片恋の悲しみを重ねている。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
春の色の至り至らぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ
【参考歌】藤原直子「古今集」
海人の刈る藻に住む虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ
よみ人しらず「拾遺集」
あまのかるもにすむ虫の名はきけどただ我からのつらきなりけり
月前松風
ながむれば千々(ちぢ)に物思ふ月に又我が身ひとつの嶺の松風(新古397)
【通釈】月を眺めると何となく悲しいことを思ってしまって、心が千々に砕けるものだが、月ばかりか、独り山に住む我が身には、峰を吹きわたる松風の声が響いて、いっそう悲しいのだ。
【語釈】◇千々に物思ふ 下記本歌を踏まえた言い方。◇月に又 物思いの種が月だけでなく、ほかにも…。◇我が身ひとつの 山で庵住いをしている自分にとってだけは。月は誰にも眺められるが、この山の松風を聞くのは「我が身ひとつ」である、ということ。これも本歌に拠った表現。
【本歌】大江千里「古今集」
月みれば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
八月十五夜和歌所歌合に、海辺秋月といふ事を
松島や潮くむ海人の秋の袖月は物思ふならひのみかは(新古401)
【通釈】中秋の明月の夜、松島の、海水を汲んで塩を作る人の袖は、びっしょり濡れて、そこに月の光を映す。秋の袖に月が宿るのは、物思う人の慣(なら)いかと思ったが、そうではなかった。私の袖も秋の哀れさに涙で濡れているけれど、悩んでない人の袖だって、こんな晩は、みな同じなのだ。
【語釈】◇月は物思ふならひのみかは 月光は、思い悩む人の袖に宿るのだけが慣例だろうか。いや、そうではない。「かは」は反語。
【補記】建仁元年(1201)撰歌合。

さびしさはなほのこりけり跡たゆる落葉がうへに今朝は初雪(無名抄)
【通釈】秋から冬に季節は移ったけれど、寂しさだけは相変わらずそのままであった。人も通わなくなった庭に散り敷いた落葉の上に、今朝は初雪が積もったよ。
【語釈】◇さびしさ 秋冬という季節が感じさせる淋しさであると共に、山居の宿に人が訪れない寂しさでもあろう。
【補記】初出は三体和歌。同会の記録によれば下句は「落葉がうへの今朝の初雪」。

恋のこころを
見てもいとへ何か涙を恥ぢもせんこれぞ恋てふ心憂きもの(鴨長明集)
【通釈】私の泣く姿を見て、嫌って下さい。どうして涙を恥じることなどしましょう。これこそが恋という、どうしようもなく辛いものなのだ。
秋の夕暮に、女のもとへつかはす
忍ばんと思ひしものを夕暮の風のけしきにつひに負けぬる(鴨長明集)
【通釈】こらえようと思っていたのに、夕暮に風が吹くと、そのありさまに恋心がつのり、とうとう抵抗し得なくなって、こうしてあなたに便りを送ってしまうのです。
【語釈】◇風のけしき 「けしき」は自然界のほのかな動き・様子を言う語。夕方は恋心のつのる時間とされたが、風の吹く趣にいっそう思いが高まってしまったのである。
題しらず
ながめてもあはれと思へおほかたの空だにかなし秋の夕暮(新古1318)
【通釈】空を眺めるにつけ、遠くで同じように空を眺めて物思いに耽っている私のことを憐れだと思って下さい。これといった事情も無しに眺めたって秋の夕暮の空は悲しいものなのです。あなたへの恋に苦しんでいる私なら、なおさらではないですか。
【語釈】◇おほかたの空だにかなし 普通に眺める空だって(秋の夕暮は)悲しい。
隔海路恋といへる心をよめる
思ひあまりうち寝(ぬ)る宵のまぼろしも浪路を分けて行きかよひけり(千載936)
【通釈】恋しさのあまり、ふと眠り込んで見た宵の夢で、私のまぼろしも波を分けて行き、海の向うの恋人のもとへ往き通うのだった。
【語釈】◇まぼろし 夢の中の幻たる我が身。また幻術士をも意味する。ここでは「長恨歌」で、玄宗皇帝の命により海上の仙山に住む楊貴妃の生まれ変わりの仙女のもとを訪ねた幻術士を暗示している。
思二世恋といふ事を
我はただ来ん世の闇もさもあらばあれ君だに同じ道に迷はば(新続古今1292)
【通釈】私にしてみれば、もう来世の闇なんぞ、どうともなれだ。恋しいあなたさえ、同じ闇路に迷ってくれたなら。
【語釈】◇思二世恋 二世を思ふ恋。二世とは今生(こんじょう)と来世。

羇中夕といふ心を
枕とていづれの草に契(ちぎ)るらむ行くをかぎりの野辺の夕暮(新古964)
【通釈】そろそろ野宿の場所を探さなくてはならない。今夜は枕として、どこの草と縁を結んで寝れば良いのだろう。あてもなく、行ける限りは行こうという旅で、野辺に夕暮を迎えてしまって。
【語釈】◇羇中夕 羇中(きちゅう)の夕べ。旅の途次に迎えた夕暮。◇枕とて 「草枕」と言うが、その枕として。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中はいづれかさしてわがならんゆきとまるをぞ宿とさだむる
【主な派生歌】
かへるべき道しなければこれやこの行くをかぎりの逢坂の関(*源具行[新葉])
詩を歌にあはせ侍りしに、山路秋行といふ心を
袖にしも月かかれとは契りおかず涙は知るや宇津の山ごえ(新古983)
【通釈】袖が涙に濡れて、そこに月が宿っている。私の袖になど懸かれと、月と約束はしていなかったのに。涙は知っているのだろうか。宇津の山を越えてゆく心細さを。それでわざわざ袖を濡らし、月を映してくれたのだろうか。
【語釈】◇宇津の山 今の静岡市宇津ノ谷(うつのや)あたり。東海道の難所として名高く、伊勢物語第九段によって歌枕となる。「うつつ」と掛詞になることが多い。
【補記】元久二年(1205)六月十五日詩歌合。
【主な派生歌】
いきて世にいつまでぬれん袂ぞと涙はしるや秋の夕暮(西園寺実氏[続古今])
和歌所歌合に、深山暁月といふ事を
夜もすがら独りみ山のまきの葉にくもるもすめる有明の月(新古1523)
【通釈】一晩じゅう、独り起きていて、奥山の針葉樹の葉に遮られた月を眺めていた。いま暁になり、曇りも払われて、澄んで見える、有明の月が空にかかっている。
【語釈】◇独りみ山 「み山」は深山。「(独り)見」を掛ける。「独り」には孤独な庵住まいを暗示している(但し、この歌を作った当時、長明はまだ出家はしていない)。◇まきの葉 まき(槙・真木)は杉・檜などの針葉樹。◇くもるもすめる 難解。「まきの葉に遮られて曇っていたのが、暁には梢を離れ、澄んで見えるようになった」とも、「涙で曇りながらも、心眼には澄んで見える」の意にも取れる。おそらく両意を含ませたのであろう。◇有明の月 明け方まで空に残る月。信仰による救済を暗示。
【補記】建仁元年(1201)八月十五日の撰歌合。
身の望みかなひ侍らで、社(やしろ)のまじらひもせで籠りゐて侍りけるに、葵(あふひ)をみてよめる
見ればまづいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけはなれけん(新古1778)
【通釈】諸葛を見れば、何を思うより先に、涙がいっそうもろく溢れ出てしまう。前世にどんな契りを結んだせいで、賀茂の社と縁が切れてしまったのだろうか。
【語釈】◇身の望み 賀茂の神社の禰宣となる望み。◇社 賀茂神社を指す。下鴨神社(賀茂御祖神社)には玉依姫を、上賀茂神社(賀茂別雷神社)にはその子の賀茂別雷命(わけいかづちのみこと)を祀る。◇もろかづら 諸葛。桂に葵をつけたものという。賀茂祭で用いられた、髪や冠にさす飾り。「もろき」の意を掛ける。◇かけはなれけん 「かけ」は「もろかづら」の縁語。
述懐の心を
あれば厭ふそむけば慕ふ数ならぬ身と心とのなかぞゆかしき(玉葉2518)
【通釈】生きていればそのことを厭い、現世を背こうとすれば慕わずにはいられない。数にも入らないような我が身と、それを厭ったり慕ったりする心と――二つの間柄はいったいどうなっているのか、知りたいものだ。
出家の後、賀茂にまゐりて、みたらしに手洗ふとて
右の手もその面影もかはりぬる我をば知るやみたらしの神(続歌仙落書)
【通釈】川水で洗う右の手も、水面に映るその面影も、すっかり変わってしまった私だけれど、私だとわかって下さるでしょうか、御手洗川の神よ。
【語釈】◇みたらし 御手洗(みたらし)川。下鴨神社境内を流れる。この川の水を禊(みそぎ)に用いた。
【補記】出家の後、賀茂社にお参りし、御手洗川で手を洗おうとして詠んだという歌。源通光の手になると伝わる歌仙秀歌撰「続歌仙落書」に見える歌。同書の成立は貞応元年(1222)〜同三年頃という。
【参考歌】俊成「五社百首」
この世には又なぐさめもなきものを我をば知るや秋の夜の月
寂超法師「新古今集」
古郷の宿もる月にこととはむ我をば知るや昔すみきと
鴨社の歌合とて、人々よみ侍りけるに、月を
石川や瀬見の小川の清ければ月もながれをたづねてぞすむ(新古1894)
【通釈】石川の瀬見の小川は、水が清いので、賀茂の神がここに鎮座されたように、月もこの流れを求めて射し、澄んだ光を川面に宿している。
【語釈】◇鴨社の歌合 源光行主催の歌合。「無名抄」に記述があるが、歌合本文は散佚してしまったらしい。◇石川や瀬見の小川 「石川」は賀茂川の異称、あるいはその上流の称。「瀬見の小川」はかつては賀茂川の分流で、河合神社のそばを流れていたという。現在では下鴨神社の糺の森を流れる小川を「瀬見の小川」と呼んでいる(写真参照)。◇すむ 澄む・住むの掛詞。「住む」には神が住む(鎮座する)意が籠る。
【補記】この歌については、「無名抄」の「せみのを川事」に長明自身の詳しい記述がある。長明は新古今集に十首の歌を採られたことを「過分の面目」としたが、「この哥の入りて侍るが、生死の余執ともなるばかり嬉しく侍るなり」と特にこの歌の入集を喜んだ。 
発心集
「発心集」(ほっしんしゅう)鎌倉初期の仏教説話集。「方丈記」の作者として知られる鴨長明(1155−1216年)晩年の編著。建保四年(1216年)以前の成立。「長明発心集」とも。仏の道を求めた隠遁者の説話集で「閑居友」、「撰集抄」などの説話集のみならず、「太平記」や「徒然草」にまで影響を及ぼし、これぞ説話の本性というべきものを後世に伝えている。
流布本は全八巻・102話であるが、現存しない三巻本が最も原型に近いと考えられ、そのほか五巻62話の異本もある。伝本に古写本は無く、慶安四年片仮名本と寛文十年平仮名本が版本として刊行された流布本であり、神宮文庫本が五巻の近世写本である。
天竺・震旦よりは本朝に重心を置き、発心譚・遁世譚・極楽往生譚・仏教霊験談・高僧伝など、仏教関係の説話を集録。仏伝からの引用が多い。長明自身を含む隠遁者(西行が有名)が登場人物の主体をなす。盛名を良しとせず隠遁の道を選んだ高僧(冒頭の玄賓僧都の話など)をはじめ、心に迷いを生じたため往生し損なった聖、反対に俗世にありながら芸道に打ち込んで無我の境地に辿り着いた人々の生き様をまざまざと描き、編者の感想を加えている。人間の心の葛藤、意識の深層を透視したことで、従来の仏教説話集にはない新鮮さがある。
なお梁瀬一雄など一部の研究者からは、流布本の巻一〜六と巻七・八では、背景となる思想などが異なっているとして「流布本の巻七・八は別人による増補ではないか」との指摘がされている。
高尾稔など増補説に否定的な見解を取る研究者も多い。いずれにせよ古写本が現存していない状況のため、論争に決着をつけるのは困難な状況である。


 
 
「発心集」巻四巻頭部の意味

 

1 はじめに
本稿では、「発心集」の作品論的読みの一環として、巻四巻頭部の三説話の意味を中心に考えてみたい。
巻四巻頭の最初の二話は、「読諦仙人」と呼ばれる超人的な存在を描き、その伝奇的性格の点で「発心集」中やや特異と見られる話である。広田哲通氏に、「原形本に存在していたか否かの疑問をいだかせる〕という指摘が有る。また木藤オ蔵氏はこれらの話に序文の編集方針からの逸脱を認め、そこから巻三と巻四との間に成立上の断層を想定した(のち、巻三巻末から巻四巻頭への説話配列上のの連続性についての浅見和彦氏の指摘を考慮して、巻三巻末二話の前まで切れ目を繰り上げる案が示された)。一方、木藤氏の説を意識しつつ、巻四以下もまた序文との深い関連のもとに書かれたいわば第二部であるとする原田行造氏や青山克弥氏の説も有る。本稿は、これら先学諸氏の論に対して直接に見解を述べようとするものではなく、むしろ説話そのものの読みに立ち帰ることを意図している。
「発心集」は概して言えば思想性・主題性の明確な説話集であって、編者の説話に対する関心は、話末評言や説話の表現方法・配列などを通してかなり明瞭に窺うことができるし、その関心じたい、遁世者・往生希求者としての自省と密接な関係に在るものにほぼ限定されている。しかし、表面からは編者の関心が明瞭に察知できないような説話もたしかに有り、巻四巻頭の二話などもその例であろう。この種の説話を後補説話と見たり、編者の関心の逸脱と見たりして、「発心集」におけるいわば非本質的部分として処理することもひとつの方法ではあるが、それ以前に説話じたいを十分に吟味してみなくてはならない。表層では目立たない隠れた脈絡が、「発心集」の中心的な主題に説話を結びつけている場合も有ると思われるからである。そして逆に言えば、表層的にはいかにも「発心集」的に見える説話であっても、読み込んでみると形骸的なつながりをしか「発心集」的主題に対して持っていないといった場合も無いとは言えない。
江戸期版本と近世初期写「異本」以外の伝本を知り得ない現状では、かえって重要になるのが各説話の作品論的(説話集をひとつの作品として捉えるという意味での)読みであり、その上で現存「発心集」をひとつの統一体として理解することの可能性と限界とをにらみあわせながら、増補や段階的成立などの成立論上の仮説との接点が探られるべきものであろう。もとより本稿は巻四巻頭部のひとつの読解の試みというにすぎないが、見通しとしては右のような方法論に立とうとするのである。 
2 法華読踊仙人謙の問題点
流布本巻四の最初の二話、38・39話(以下説話番号は簗瀬一雄氏編「鴨長明全集」の通し番号による)は、深山に隠れて経を読みつつ超人的能力を示す者の話である。
38話では義叡という修行者が大峰から金峰山への途次で道に迷ったあげく仙境めいた一角に到り、草庵とその中で「法華経」を読む僧を見い出す。話をすると、僧は老齢であると語るが、その姿は若い。美しい童子が給仕にあたり、夜ふけには異形の者たちが礼拝に集る。義叡は、これらの不思議がいずれも「法華経」中に説かれた持経の功徳の、言葉どおりの実現であることを教えられる。翌朝、僧が加持する飛行する水瓶に導ぴかれて、義叡は人里に帰りつく。この話は「法華験記(大日本国法華経験記)」上第十一とほとんど同文であり、話末に「記トテ彼此シルシ置ケル文アレド事繁ケレパ覚ルバカリヲ書タルナリ」と記すものの、実際には「法華験記」を書承していると判断される。
39話では、著名な験者浄蔵がある時飛鉢の行をしていたところ、別の飛鉢が来て浄蔵の鉢の中味を奪い去って行く。不審に思って追跡すると、山深く美しい一角の草庵に経を読む老僧を見一い出す。浄蔵が来意を告げると、僧は給仕の童子を呼び、鉢の中味を横領した事の不当を叱責し、浄蔵には不思議な果物を饗応する。話の型も要素も、前38話と対応する点が多く、二話を一対と見ることができる。39話の中に「法華経」の名は出てこないが、話末に浄蔵の言葉として、「ソノサマ只人トハ見へザリキ。読調仙人ナンドノ類ヒニヤ、トゾ語リケル」が在り、編者はこの話をも法華読調仙人讃として収録していると見られる(この話の同文話が「古事談」僧行にあり、書承関係は両書の成立の先後問題じたいが未解決であるため速断できないが、話末の浄蔵の言葉は「古事談」に無く、「発心集」編者の編集意識にもとづいて付加された可能性も有る)。
実は巻三巻末の37話も、稚児が法華読論により仙人と化す話であり、37-39話の三話が法華読調仙人讃のグループを成す。36話と37話には小児の信仰心という共通要素が有り、36から38話は二話一類となっていて、形態上は後補のあとを指摘しにくい。また、この部分に形態上の断絶が認められないことは、流布本の巻分割にそれほど大きな意味が無いことをも示唆する。本稿では、便宜上、流布本によって「巻四巻頭」といった呼称を用いているが、私自身は流布本の巻構成を作品理解の上で重要なものとは考えていない。他面、38・39話を欠く異本の形態を重く見ることも、この配列の連続性からすれば難しいように思われる。もっとも、配列に留意した増補作業というものも想定し得るから、以上により後補等の可能性が積極的に否定されるわけではない。
さて、38・39話が「発心集」中で或る異質さを感じさせるのは、二話ともに編者の主体的関心を語る評言の類を全く欠いており、内容的にも、編者の実践的関心との接点を持たないように見えるからである。もちろん、たとえば「法華経」への関心を長明が持つことは、彼の天台浄土教の信仰から見て当然の事であろうし、「方丈記」の著者が仙郷に憧れを持ったとしても不思議ではなかろう。しかしそのような間接的な説明では、「発心集」という作品じたいの性格にそくしてこの二説話の意味を理解することには程遠い。はたしてこの二説話は「発心集」中のいわば非本質的な部分なのであろうか。そのように言える面は確かに有る。しかし私見では、決して「発心集」的なものから遊離しているのではない。そのことを、以下、説話の読みによって示してみたい。 
3 出奔した弟子(38話)
38話の主人公の僧は、義叡に向って自分らの来歴を次のように語る。
我、本ハ叙山東塔ノ三昧座、王ノ弟子ニテナンアリシカ。然アルヲ、イササカノ事ニョリーズハシタナクサイナマレシカバ、愚ナル心ニテカシコニ迷ヒアリキテ、定メタリシ所モナカリキ。ヨハヒヲトロヘテ後、此山二跡ヲトドメテ、今ハココニテオハラン事ヲ待ツ也。
三味座主とは康保二年(九五六)第十七代天台座主となった喜慶である。主人公がこの僧のもとを出奔した動機は、些細な失策を師に厳しく叱責された事、すなわち師との人間関係の破綻である。この面から見るとこの出奔は、延暦寺という権威のもとでの仏道修行の挫折であり、僧としての栄進の道からの脱落であったと言えよう。他面、孤独の放浪と修行の後に法華持経者の功徳を現身に受けた結果から見れば、この出奔は、より高い仏道修行を求めての大寺院からの遁世、すなわち再出家に他ならなかった。
再出家に対する強い関心は、すでに「発心集」巻一に顕者に現われていたことは言うまでもない。そこでも、再出家という行為が、単に世俗的諸価値の厳しい拒絶という理念の故にのみ称讃されていたのではない。編者の個人的体験(「方丈記」に暗示される社会的人間関係の中での苦悩と不如意、「源家長日記」により知られる挫折と出奔)とそれにまつわる自意識が、説話主人公の上にひそかに重ね合わされていたと見られる。それを思えば、38話の、主人公の米歴が編者の関心を強く引きつけたことは想像に難くない。意志的に大寺院を離脱する巻一の再家者たち以上に、挫折から出奔を余儀なくされる38主人公には編者のひそかな共感を誘う要素が有った。
長明が「法華験記」のいくつかの読調仙人露の中から特に主人公の来歴に注目してこの話を採取したのか、何らかの理由でたまたまこの話だけが長明の目にとまったのかは判らない(長明が揃い本の「法華験記」を座右に置いて自由に利用し得たとは必らずしも考えられず、借覧し得た折に興味を引かれた話を抜き書きしておいたものであろう)。しかしいずれにせよ、仙人の超人的能力の描写のみに彼の注意が奪われていたと考えるのは皮相であろう。それは、直前の町話との関連からも言い得る。
37話は、興福寺松室の僧のもとに居た稚児が失跨し、後に仙人となって僧と再会する話である。失跨の理由は明記されないが、「法華経」読調に熱心な稚児を、もっと広い学問をするようにと僧がいましめた事が記されており、師との間係の齪鰭が暗示されている爲本朝神仙伝」などの類話を考えに入れて、愛情関係の冷却を原因と想像することもできよう)。37・38話を並べると、師僧との関係破綻による大寺院からの出奔という共通の要素が浮かび上る。単に「読謂仙人護」という共通性のみによった配列ではなかったのである。そしてこうした要素は、長明個人にとどまらず、多少とも世俗社会での不如意や挫折をくぐってきた多くの遁世者たちの心情をも、吸収するものであったと思われる。
のみならず、大寺院からの脱落が、結果として仙化という大寺の僧にも優越する達成を見るという両話共通の構図は、編者やその周辺の遁世者たちが抱いていた、大寺院の権威に対する一種の批判的心情にかなうものであった。「発心集」においてこの種の大寺院批判は、巻一の再出家調群では「名利」批判の形で、序文や35話などでは「智者」批判(寺院教学の批判)という形で見い出される。37話・38においては、具体的な文言としてではなく、話の構図じたいに価値観として潜在しているのである。 
4 独居修行者と大寺院(39話)
大寺院への批判的心情は、次の39話においても隠れた基調となっている。
前話と異なり39話においては、仙化した主人公の来歴については何も述べられない。逆に、仙人を来訪する側の浄蔵は著名な僧である。39話では、冒頭に「善宰相清行ノ子、並ビナキ行人也」と紹介されるにすぎないが、「拾遺往生伝」等にその法力を示す逸話が多く見え、すでに周知であったと思われる。
39話の浄蔵は、「山ニテ」飛鉢の法を行ない、仙人に対しても「比叡ノ山一一スミ侍ケル行者」と名乗っているように、いわば延暦寺の権威を荷って登場する。しかし、彼の加持力は主人公に対して全く歯が立たない。浄蔵の鉢の中味を奪ったのは護法童子とおぼしき童子であり、この童子の力が既に浄蔵の法力をいわば愚弄する程のものである。これらの者を自由に使役している主人公の仙人の力は、さらにこれを大きく上廻るものと想像しないわけにはいかない。
編者や周辺の人びとは、来歴不明のこの主人公に対しては、38話の主人公に対してのような親近感は抱き得なかったかもしれない。
そうとしても、大寺院と隔絶した独居修行の僧が、比叡山を代表する験者を軽くあしらうという話の構図を前にすれば、独居修行者に肩入れして溜飲を下げることはできた。38話の直後に置かれたことで、そのような効果は増幅されたのである。 
5 構図の逆転(40話)
次の40話は、右に見てきた38・39話の性格に対してどのような関わりを持つのであろうか。
永心法橋という僧が、清水寺に詣る途中、橋の下に人の泣いているのに気づき事情を問う。乞食の「カタワ人」が、身体の苦痛の耐え難さに川水で足を冷やしていたのである。彼はかつては比叡山の学生であったが、「カタワ人」となっ後は別の「ワタワ人」のもとに身を寄せ、毎日酷使されている。今夜は、身体の痛みに眠れぬまま、この苦しみも過去生の逆罪の故であることを思い、一方では天台宗の教えに「唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順是故」と在ることを想起して、それにすがる思いで泣いていたのだと言う。永心は「我か|山ノ同法ニコソアリケレ」と深く同情して、「逆即是順」の教理を懇切に説き聞かせて別れる。
この話にやや類似する話が「古事談」「宇治拾遺物語」に見えるが、そこでは、智海法印なる僧が、清水寺からの帰途に橋の上で「唯円教意」以下の文を舗する「白癩人」に出会い、法文を談じてその学識に圧倒されるという筋になっている。これらの説話に関連する問題については山本節氏の論が有る。また、「今昔物語集」巻二十一第三十五話等を含め、説話集やその他の資料に見える、清水坂に集住した被差別民・乞食・傷病者の問題については、横井清氏、池見澄隆氏らが論じている。ここではしかし、「古事談」「宇治拾遺」の話と40話との相違点、と言うよりもその色彩の相違に注目しておかなければならない。
「古事談」「宇治拾遺」の話は、この白癩人を「化人か」と推測することばで結ばれ、底辺の被差別者の姿をまとって仏菩薩が顕現するという神秘的説話の一つの型に属するものになっている。一方の40話には神秘の影は無く、有るのは実際の人間の悲惨なありようである。
我、カタワニ罷ナリニシ後、シレル人ニモ悉ク別レテ、立寄ル所モ侍ラヌニョリ、先ダチテカタワナル人ノ家ヲカリテソコニヤドリ居テ侍レバ、ヒルハヒグラシト云バカリセタメ使ヒ侍り。
以下、主人公が語る生活の様相は具体的で現実感を帯び、話をしめくくる「年比経ヌレド忘レズ」という永心の感懐もまた、きわめて自然な人間感情の吐露である。
40話の現実的性格は、「古事談」などの話と対照的であるのみならず、直前の38・39話とも著しい対照を見せている。主人公が謂する「唯円教意」云々は、天台大師の「法華経」注釈書「法華文句」をさらに章安大師が注釈した「法華文句記」の文であり、37話から40話までの四話には「法華経」という共通要素が有ることになる。しかし、そうした共通性の指摘だけでは、「発心集」の説話配列の意味の理解としては不十分なのである。ここではむしろ、40話と38・39話との間の対照性にこそ注意する必要が有る。
40話の主人公は、何らかの理由で(横井氏が示唆するように、病気や身体障害により放逐されたとも考えられるが)延暦寺での学問修行を断念せざるを得なくなり、いまは生活苦と病苦の中で天台の教理に辛うじて救いを見い出している。それも、現在の苦悩の原因である過去の逆罪が、教理上はそのまま仏縁でもあるという事から、いずれかの未来世における救済の可能性が導ぴかれるというに過ぎない。たとえば38話の、主人公が、同じく延暦寺を去った者でありながら、「法華経」に説く所を現身に実現していることに較べると、その落差はあまりに大きい。しかし両話は、陽画と陰画のような、或いは構図の逆転とも称し得るような、対応する対照を形作っているのである。38話(39話も)が、編者を含む遁世者たちを満足させるいわば天上的な夢であったとすれば、40話はまさに彼等の地上的現実であって、彼等の自己意識の両面をこれらの説話は代弁していたと思われるのである。
編者たちの生活の実態は、40話の主人公ほどには悲惨ではなかったかもしれない。しかし、「身の乞がいとなれる」という自己意識、仏道修行の遅滞を前世からの「貧賎の報」かと疑う発想は、「方丈記」著者のものであった。すくなくとも主観の上では(或る程度は客観的にも)、彼等にとって40話の主人公の境涯は他人事ではなかった。それ故に、40話のような地味な説話が、「古事談」型の話とはまた別に、遁世者たちの間で伝承されることも起こり得たのである。
38・39の直後に対照的な40話が置かれていわばバランスが取られている点について言えば、編者の個性との間係が考えられる。自己主張の高揚の直後にその反動として自己批判を表出するといった性癖(最も顕著なのは「方丈記」末尾であるが)が、長明には見受けられるからである。「発心集」の説話配列は、いわば編者の思考の軌跡を表現しているという面が有り、その意味でこの種の要因の作用も無視できないと思われる。 
6 残された問題
以上で、本稿の当初の課題である巻四巻頭三話の意味については述べ終えた。同時に、長明編の「発心集」に既にこれらの説話が存在したと見る私の立場も明らかになったであろう。しかし、この部分が「発心集」全体の構成の中でどう位置づけられるかという点は疑問のままである。
この点を述べるには集全体の構成についての私見を示さねばならず、ここで十分に論じることは不可能であるが、簡単な見通しを述べておく。すでに別稿に論じたように、巻二後半から巻三にかけての一群の説話は「往生の条件」という主題を追求しており、その主題的連続性は36話までたどることができる。一方、42話以下は、往生や発心に対する世俗的諸関係(諸縁)の肯定的・否定的な関わりの様ざまを扱う話群で、これは巻五まで続いている(46・47話は問題が有る)。37話から41話までは、これらふたつの大きな主題話群の橋渡しをするいわば間奏部であって、この部分で主題的関心があまり表面に出てこないのはそのためであると考えられる。
ここで、今まで触れなかったい話に言及しておかなければたらない。41話は、山門の僧叡実が、天皇の病の祈りに向う途中の路上に病者を見い出し、参内を拒んでその世話にあたるという話で、僧が病人に出会って同情するという話の形は40話と共通する。つまり、36話以来の二話一類の連鎖は41話まで及んでいることになるが、編者の関心という点では40話からのつながりはどのようであろうか。叡実は、参内を拒否するに際して次のように述べている。
世ヲ厭ヒテ心ヲ仏道一一任セショリ、御門ノ御事トテモアナガチニタットカラズ。カカル非人トテモ又愚ナラズ。只、同ジヤウニ覚ユル也。
ここには、被差別の境涯の「カタワ人」の中に「一山ノ同法」を見い出した時の40話の永心の心情の、より普編的な理念への展開が見られる。40話で、仙人よりはむしろ「カタワ人」に近い存在としての自己の現実に想到した編者は、仏法の慈悲はいかなる境涯の者にも平等であるという41話の理念に、何程かの慰めを見い出しているように思われる。同時に、38・39話の背後に働いていた大寺院への批判的・対抗的意識は、結局は表現の上に顕在化されないまま、他ならぬ延暦寺の僧叡実の口を通して語られる理念の中に、いわば昇華されてしまう。この理念の半面としての、身分的秩序への厳しい相対化じたいは、4話・5話、70話などに見られる「発心集」には親しい思想である。ここにおいていわば顕在的主題における「発心集」的なものへの復帰が果たされ、間奏部は終結する。
新しい主題話群の冒頭にあたる42話への41話の接続には問題が有る。41話の主人公叡実が一時肥後国で世俗的生活を営んだ、あるいは一時悪縁に遇って悪心を発したといった、「法華験記」により知られる伝承などを隠れた脈絡として、42話の「肥後国」の僧の「悪縁」の話を導びくものか。もしくは41話はエピソードとして、40話に現われた「逆縁」という要素(37・38話で、主人公と師僧との訣別が仏道達成の契機となるのも、逆縁の一種である)が、42話以下の「縁」の主題への伏線となっているのか。いずれにしてもその連絡は強いものでなく、微妙な暗示といった性格のものである。その意味では、41話に説話配列上のひとつの行き止まり、あるいは帰着点を見ることができよう。ただし、それを長明による第二次編集段階といった想定に結びつけるべきかどうかは別問題である。むしろ、そうした想定が作品の理解をどのように進展させるのかが問われるべきであろう。私自身は、集の構成の理解と、長明自撰と考え得る範囲を或る程度特定することを優先したいと考えている。
なお、間奏部的な話群と主題話群とか交互に現われると見ることによって、集の構成を無理なく了解できるのではないかというのが、現時点での私の想定である。この想定を仮説として整えるためには、「間奏部」なるものの性格と機能をより明確にしていく必要が有ることは言うまでもない。これら「発心集」の構成および原態についての包括的論究は、さらに別稿において果していきたい。
 
 
玄賓僧都

 

(げんびんそうず) 千二百年のその昔、名利を離れてひたすら仏道に精進された僧都の気高い行履(あんり)は、同時代の人に鑽仰(さんぎょう)されたばかりか、後世の宗教者の模範となってきた。
1 「発心集」と玄賓僧都
「方丈記」の著者として有名な鴨長明の著作に、「発心集(ほっしんしゅう)」なる書がある。この書は、長明が自らの反省と修養のために、日本の国内の出来事で「発心」に関して自分が見聞したことをまとめたものである。彼は、その「序」において、「生死を離れて早く浄土に生まれん」ことを目標として、「わが発心の一念を楽しむばかり」と著述の意図を述べている。
もっとも、「発心集」とは題されてはいるものの、必ずしも真実の菩提心を発(おこ)した者ばかりではなく、名聞(みょうもん)のためにお堂を建てた結果、天狗になってしまったという不心得(ふこころえ)な上人のことなども記載されている。
この書はこれまで主として、文学研究者によって学問研究の対象とされることはあっても、道心を興すという著作本来の目的に即して、少なくとも表向きには読まれてこなかったように思われる。
そして、この書の冒頭に載せられているのが、外ならぬ玄賓僧都である。(「発心集」では「玄敏」と表記されているが、ここでは一般に行なわれている表記に従って、「玄賓」と表わすことにする。また、以下の引用や解釈は、三木紀人校注「方丈記 発心集」〔新潮日本古典集成、新潮社版〕に拠るものである。)
玄賓僧都に関して、「発心集」は、「一、玄賓僧都、遁世逐電の事」と「二、同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事」という二段に分けて述べている。ここでは先ず私見を雑えることなく、「発心集」記載の文章を、多少の解説を加味しながら忠実に訳出してみよう。
発心/仏道を究めようという切なる願いを起こすこと。
2 「玄賓僧都、遁世逐電の事」
昔、玄賓僧都という人がいた。山階寺(やましなでら:興福寺の旧称)の貴い名僧(知者)であったが、俗世を厭(いと)う心が深かったので、俗心にまみれた他の僧侶との交わりを好まなかった。そのため、三輪川(初瀬川の桜井市三輪辺りを流れる部分の呼称で、清流で知られる)のほとりに、ささやかな草庵を結んで瞑想にふけって隠棲していた。
桓武天皇の御代(みよ)に、玄賓僧都の高潔な生き方を聞いて感動された天皇は、無理を承知で召し出されたので、僧都もついに遁れるすべがなく、致し方なく参上した。(延暦二十年〔805〕、桓武天皇は今の鳥取県西部・伯耆〔ほうき〕の国にいた玄賓僧都を請〔しょう〕じ、伝燈大法師位を授けた。)
しかしながら、やはり本意ではないと思われたのであろうか、玄賓僧都は、平城(へいぜい)天皇の御代に大僧都に昇進させようとされたのを辞退して、次の歌を詠まれた(「和漢朗詠集」下、所載)。
「三輪川の清き流れにすすぎてし、衣の袖をまたはけがさじ」
(三輪山のあたりに隠棲して、俗世間や俗僧と交わることなく、三輪川の清き流れでせっかく綺麗に洗い清めた、僧侶としての本来の生き方を、いかに天皇の思〔おぼ〕し召しとはいえ、名利のためにけがすことはできませぬ。)
そうこうするうちに、玄賓僧都は、弟子にも召使いにも知られずに、いずこともなく出奔(しゅっぽん)してしまわれた。心当たりのある場所を探してはみたが、僧都の行方(ゆくえ)は分からなかった。捜索の甲斐なく何日も経過したが、僧都の身近で暮らしていた人はもとより、多くの人から慕われていた名僧の思いがけない出奔を、世間の人すべてが嘆き悲しんだ。
その後、年月を経て、僧都の弟子であった人が、所用で北陸の方へ行く道中で、或る所に大きな川があった。渡し舟が来るのを待って乗ったところ、その渡し守を見れば、頭の髪がつかめるほどまで生えた法師で、薄汚い麻の粗末な衣を着た人であった。
「異様な風体だな」と見ていたが、やはり見覚えのある気がしたので、「誰がこの人に似ていようか」と思い巡(めぐ)らすうちに、出奔して何年にもなる自分の師匠の玄賓僧都ではないかと考えるに至った。「こんなみすぼらしい身なりとは、もしかして人違いではないか」とは思っては見たが、いささかも疑うべくもなかった。件(くだん)の弟子は、師匠のこの哀れな有様を見て大層悲しくなり、涙のこぼれるのを押さえつつ、何気(なにげ)ない振りを装っていた。
渡し守の法師の方も、どうやら気付いている様子ではあったが、ことさら視線を合わせようとはしない。弟子は、走り寄って、「なぜこんな所においでなのですか」とでも言いたかったのであるが、大勢の客が乗船していたので、「かえって人目については具合が悪かろう。都への帰り道に、夜分おられる場所に訪ねて行って、ゆっくりとご挨拶することにしよう」と考えて、そのままやり過ごした。
こうして、帰途にその渡しに行ってみれば、別の渡し守に変わっていた。目の前が真っ暗になり、胸がふさがって、詳細を尋ねれば、「その法師はおりました。何年もここの渡し守をしておりましたが、そうした身分の低い僧に似合わず、常に心を澄まして念仏ばかりを申し、船賃をあれこれ取ることもなく、ただその日に食べるものなどの他は、物に貪欲(どんよく)な心もないような有様でしたので、この里の人も大層好感を寄せておりましたところ、どういう訳かは存じませんが、先頃かき消すように突然姿をくらまして、行方しれずとなったのでございます」と語るのを聞いて、くやしく、どうしようもなく残念に思い、行方不明になった月日を数えれば、ちょうど自分がお目にかかった時であった。僧都は、わが身の所在が知られたと思い、また去ってしまったに相違ない。
鴨長明は、この段の末尾に、彼とほぼ同時代人である三井寺(園城寺)の道顕(どうけん)僧都(文治五年、1189年寂、享年五十五歳)という人が、古(いにしえ)の玄賓僧都のこの物語を読んで、感激のあまり涙を流しつつ、「渡し守こそ、まことに罪なくて世の中を渡る道であろう」と言って、琵琶湖に舟をひとつ用意したことを紹介している。
そして、渡し守になりたいという道顕僧都のこの希望はかなえられることなく計画倒れに終わり、舟は琵琶湖に注ぐ瀬田川の河岸にそのまま朽ちてしまったものの、名利を離れて渡し守をしようとしたその志は、やはり尊いものであった、と結んでいる。
3 「同人(玄賓僧都)が伊賀の国の郡司に仕えられた事」
この段は、前段でまたまた失踪した玄賓僧都の後日談である。ここでも長明の記述に即して訳出することにする。
伊賀の国(三重県北西部)の或る郡司(国司の下で、郡を治める役人)のもとに、見苦しい容体の法師が、「雇って頂けませんか」と言って不意に入って来た。主(あるじ)はこれを見て、「和尚さんのような方を置いても、何の役にも立ちませぬ」と言った。
その法師が、「法師と申しても、私のような者は普通の下男と何ら変わりませぬ。どういう仕事でも、この身でできることは致しましょう」と言うので、主も「それならよかろう」といって置くことにした。法師は喜んで、大層真心を尽くして働いたので、主は自分がとりわけ大切にしていた馬を法師に預けて世話をさせた。
こうして三年ばかりが経ったが、この主の男は国の長官に対していささか具合の悪いことをしでかし、国外追放されることになった。(郡司は終身官で世襲制であったので)郡司の父や祖父の時から住み着いていたので、所領も多く、一族郎党も多かった。
他国へさまよい行くことは、いずれにせよ大変な悲嘆であるには違いなかったが、遁れるすべもなく泣く泣く出立するのを見て、あの法師が或る者に向かって、「ここの殿に一体どういう困ったことが出来たのですか」と問うと、「お前のような下賎の者が理由などを聞いてもどうしようもあるまい」とけんもほろろに答えたので、法師は、「どうして身分が低くても関係ないはずがありましょうか。ご主人としてお仕えして、もう何年にもなるのです。差別されるのはおかしいです」と言って熱心に尋ねたので、男も事の次第をありのままに語った。
法師は言った、「私が申し上げることを必ずしもお取り上げにはなりますまいが、どうしてそう急いで国を去ることがありましょうか。物事には意外な成り行きもあることですから、ここはひとまず都に上り、何度となくこちらの事情を申し述べて、それでもなお致し方なければ、その時はいずこなりとも行かれればよろしいのではございませぬか。私がいささか存じ上げている人が、国司の近辺におられます。お尋ねして申し上げてみましょう」と。
法師の思いがけない言葉に、人々は、「(見かけによらず)すごいことを言ったものだな」と怪訝(けげん)に思って、主である郡司にこの経緯(いきさつ)を語ると、主は法師を自分のところに呼び寄せて、自ら問い質(ただ)して話を聞いた。法師の言うところを全面的に頼りにしていた訳ではないが、他にあてもないので、この法師を伴って京に上(のぼ)ったのである。
その当時、この国は、大納言某(なにがし)が国司として治めていたのであるが、京に辿り着いて大納言の住まい近くまで行ってから、法師が、「人をお訪ねしようというのに、この身なりでは何とも異様なので、衣と袈裟(けさ)を探して頂けませんか」と言ったので、借りて着せた。
主の男と同道して、彼を門口に待たせ、大納言の邸内に入って、法師は「申し上げたいことがございます」と声を上げた。その場に大勢集まっていた人々は、声の主(ぬし)を見て、一斉(いっせい)に地面にひざまづき敬うのを見て、伊賀の郡司は門のそばからこれを見ていて、驚くまいことか、「何ということだ」と目を見張って成り行きを見守るばかりであった。
すぐにこれを聞いて、大納言が急いで出てきて対面し、上を下にも置かぬもてなし振りは、格別であった。大納言は、「それにしてもまあ、貴方様がどうされたのかと想像する手掛りすらないままに月日が過ぎておりましたのに、まぎれもないご本人がお越しになるとは」などと言って、思いのたけをしきりに述べ立てた。
それに対して、玄賓僧都は言葉少なに、「そのようなことはいずれごゆっくりとお話し致しましょう。今日は特別申し上げたいことがあって参った次第です。伊賀の国で、ここ何年も私がお世話になっているお方が、思いがけずにお咎(とが)めを蒙(こうむ)り、国を追われるということで、歎いておられるのです。まことにお気の毒に思いますので、もしさほど重い罪でなければ、この法師に免じてお許し願えないでしょうか」と言った。
大納言は、「あれこれ申し上げるべきことはございませぬ。貴方様がそのように好意を持っておられる者ならば、処罰されずともわが身で自分の過ちを自覚できる男でありましょう」と言って、僧都の求めに応じて、かの郡司をこれまで以上に厚遇する内容の、喜ぶべき庁宣(ちょうぜん、在京国司が出す命令書)を快く出してくれた。伊賀の郡司がこの有様を蔭で見ていて、呆気(あっけ)にとられるばかりであったのは当然のことである。
色々と考えたが、郡司はあまりのことにかえって然るべきお礼の言葉も出なかった。「宿に戻ってゆっくりとお礼申し上げよう」と思っていたところ、玄賓僧都は、衣と袈裟の上に例の庁宣を置いたまま、さっと立ち出ずるように出て行き、そのままどこへともなく姿を隠したということである。
ここまで書いてきて、鴨長明は、「これもかの玄賓僧都のされたことである。まことに比類なく尊い(有難い)お心持ちであったというべきであろう」と、この段を結んでいる。
4 玄賓僧都の気韻
玄賓僧都の逸話は、もとより「発心集」のみならず、「古事談」、「三国伝記」など中世の仏教説話の類いに頻出する。ただ、自著の冒頭に掲げたことで、長明が如何に玄賓僧都の跡を慕っていたかが分かるのである。
玄賓僧都は、弘仁(こうにん)二年(818)に享年八十余歳にして遷化(せんげ)した。俗姓は弓削(ゆげ)氏、興福寺の宣教に法相宗を学んだ。大僧都に任ぜられるも辞退して隠棲された経緯は、すでに述べた通りである。
「発心集」に載せられたこれらの逸話からでも、われわれは多くのことを読み取ることができるであろう。
まず第一に、玄賓僧都のように、学徳兼備の名僧でありながら名利を厭(いと)い離れた人こそが、真に万民から敬慕されたという事実である。
そのことはかえって、今日と同様、当時も大多数の僧侶は、出世間の修行をする身であるにもかかわらず、足実地を踏んだ着実な宗教的体験を欠いたまま、名利の俗念にがんじがらめになっていたということを意味する。
第二には、当時の桓武天皇(周知の通り、天皇は平安京に遷都されて、京の千二百年の都の基を造られた)が、玄賓僧都のような真に高徳の僧を崇敬されたのは、天変地異や政情不安の只中にあっても、天皇が確かな法の眼を具えておられた証拠であろう。
そして第三に、鴨長明を初めとして、後世の多くの心ある人々もまた、玄賓僧都の気高い行跡を敬慕した。謡曲の「三輪」は、高徳の僧都に巡り合って、三輪の神ですら仏道に結縁できたことを悦んだという筋書きになっている。
日本最古の幹線道路といわれる奈良「山辺(やまのべ)の道」の三輪山付近には、僧都がその昔ささやかな庵を結ばれた旧跡「玄賓庵」(寺の読みでは「げんびあん」)が、往時を偲ばせるようにひっそりと佇んでいる。その辺りの道は、今にも玄賓僧都が姿を現わされそうな趣が感じられる。
 
 
遁世という生き方

 

「世」の構造
「世」とか「世の中」という言葉は人々が生きていくために作り出し、継承してきた生活の場であり、 それは「社会」であり「世間」である。死後の世界である「あの世」に対しては「この世」のことである。
「世」は複雑に構成されている。家庭も「世」、親族も「世」、ムラやマチも「世」、クニや国家も「世」である。そして友人や仕事仲間などの集団も「世」である。私たちが生きていくために所属している集団は、すべて「世」なのである。
「世」には上下貴賤があり、重層的な構造をもっていた。どの階層に生まれ、どんな生業をもつかにより属する「世」は異なり、「世」の範囲、つまり「世の中」も異なってきた。こうした「世」の構造を図式化すると「円錐」で示される。上方には政治的権力や経済力などの「力」をもつ人々の「世」があり、下方にいたるほど「力」から無縁の「世」がある。
ほとんどの人は、この円錐状の「世の中」での位置が決まっていたが、なかには運と能力に恵まれて「円錐」の下方から上方へと上昇してゆく人びともいた。それが「出世」である。この熟語の成り立ちからは、自分の属している「世」を抜け出ると解されるが、「出世」で意識される「世」は上位の「世」である。すなわち「出世」とは、これまで属していた狭い「世」から出て、もっと広く上位の「世」に入っていくという意味であった。
そして、この複雑な構造体である「円錐」の外側には、「死」もしくは「死後」(誕生以前も含む)の世界がある。生者の世界を「この世」と呼び、そこを「あの世」と呼んだのである。 
「世」を捨てる人びと
円錐模型図をさらに精緻なものにすると、生者の世界(=「この世」)と死者の世界(=「あの世」)の境界域、すなわち円錐面の内側または外側には、「この世」のさまざまな「世」から逃走し、家族や親族が普通に暮らす「世」を捨てた人びとがいた。それら「世捨て」をおこなった人びとは、あらゆる階層に及ぶ。貴族や武士に限らず農民や職人も、諸事情で自分たちの「世」を捨てることがあった。
「世」を捨てた人びとは、いろいろな呼称で括られてきた。方の外側に出ていることから「無法者」、「あぶれ者」と呼ばれることもある。制度や価値観の外側にいることから、今ふうに言えば「アウトサイダー(制外者)」と呼ぶこともできる。農民が集団でムラを捨てて逃げる「逃散」も、政治的な敗者が山に隠棲する場合も「世捨て」である。
仏教では通常の生き方をする人びとの世界を「俗世」とか「穢土(えど)」とみなして軽蔑した。死後の世界を「浄土」とみなし、死を迎える以前から「世」に遠ざかることを選んだ。このように仏教修行に専心する生き方を選ぶのも「世捨て」であった。とりわけ「聖(ひじり)」と呼ばれる人びとは、国家統制下にある仏教の、さらに外側にはみ出し修行を追求した。
これらの「世捨て人」や「遁世者」が多く生み出されるのは「乱世」の時代であった。これまでの「世」の法や社会制度が崩れ、人びとが己の主義主張や欲望をむき出しにして争うからである。既存の秩序や価値観に幸福を見いだしえなくなったとき、人は現実から逃れ、批判するために「世」を捨てるのである。
以上が「遁世という生き方」一・二の要約である。
如何であろうか。私は「世」とは漠然と社会や世間のことだと考えていた。身分、境遇、人間関係などもそれぞれの「世」であるという考えは、「目からウロコ」であった。したがって、世をはかなんで出家する修行者のみならず、今も昔も誰もが「世」を捨てうるのだ。では、現在ほとんど人と関わらずに静かに暮らしている私も、「この世」と「あの世」の中間あたりで詩や歌を詠む「世捨て人」の仲間だろうか。いやいや、こうして文明の利器から皆さんに語りかけているところをみれば、私は俗世に生きる迷い多き一介の衆生なのである。 
聖(ひじり)という生き方
僧尼の「世」は「俗世」とは異なる「世」ではあったが、世俗の権力の統制下にあるという点では「世俗」に組み込まれた「聖なる世」であった。そこからものがれ、完全な自由を獲得しようとした仏教者たちが「聖」と呼ばれる人びとであった。
聖たちは山林や洞窟に住んで修行をし、呪術を獲得する傾向が見られた。これら山岳修行の聖たちの集団が教団化し、修験道が形成された。また、聖たちは大寺院の周辺や都市郊外の葬送の地にも集まった。かれらは極楽往生を念じて念仏三昧に明け暮れた。高野聖も、墓守的役割を担った三昧聖も、「市聖」と呼ばれた空也(こうや)もこの種の聖であった。定住的な聖であっても雨露がしのげる程度の粗末な庵に住み、多くの聖たちは寺院の縁の下や軒下などで夜を過ごした。それさえもたない漂泊遍歴の聖も多数いた。かれらは人びとが嫌う死のケガレを扱い、死者のたましいを管理することを強調した。「方丈記」の作者・鴨長明は「発心集」という仏教説話集のなかで、こうした聖たちの生活の様子を描いている。小松氏は玄敏僧都、平等供奉、増賀上人の例を紹介しているが割愛する。(興味のある人は書店や図書館へどうぞ)
世が乱れるにつれ下克上が進み「出世」には困苦が伴い、周りの人びとに振り回されたり哀しい運命に出会う。人生への挑戦心や欲望が萎え、懐疑的になり無常観を募らせるとき、「俗世」の対極にある「遁世」という生き方を彼らは選んだのだ。それはすべてを捨てようとする試みであり、「あの世」へ往生する試み、死ぬために生きる試みであった。 
西行・長明・兼好─さまざまな「遁世」─
しかしながら、「世捨て人」とか「遁世者」と呼ばれながらも仏教修行へと向かわない人びともいた。自分の理想を実現するための方便としての「遁世」を選んだ人びとである。西行、長明、兼好はその系譜に連なる。かれらは円錐で示される「世」の比較的上層にいる遁世者である。三人に通底するのは無常観で、生まれや時代を反映して三者三様の遁世の軌跡を描いている。
西行……三人の中では最も早い時代の遁世者である。すでに妻子があったが二十二歳で出家する。その契機は友人の死、叶わぬ恋、殿上人(貴族)にはなれない諦めなどとされ不明だが、属した「世」を捨て漂泊の聖となる。しかし西行は出家後もたくさんの「世」を引きずっていく。その一つが「和歌」の道であった。聖となることで詩作のための放浪ができ、俗世では不可能であった貴族との交流も可能となり、それは和歌の道を深めるのに好都合となった。西行の場合、出家遁世は別の世界に入る「出世」の方便でもあったのだ。
鴨長明……幼少期は恵まれたが、若くして父を失って以降は曲折が多く、俗世での栄誉を望み続けた。やっと手にしかけた下鴨神社の禰宜(ねぎ)職が手に入れられなかったとき、「俗世」での「出世」を諦めて出家し「遁世」する。「方丈記」は伏見の日野に方丈の庵を組んで住んだ最晩年に書かれた。貴族政治が終焉を迎え、武士が台頭し戦火が広がり疫病や飢饉が蔓延する転換期であった。滅びゆく貴族社会の文化教養で身を立てたかった知識人の長明が見出したのは「ゆく河の流れは、絶えずして……」の無常観であった。そんな長明は仏教修行には熱心でなく、勝手気ままな仏教者であった。持って生まれた境遇から離れようとする思い、それが出家の動機であった。
吉田兼好……卜部(うらべ)氏出身であるが庶流(分家)であったため神職に就いておらず、中級の宮廷役人であった。出家は三十歳を過ぎた頃で、仕官生活では得られない自由を求め、歌人、知識人として生きるために出家したと思われる。生活は裕福でパトロンもおり所領もあった。兼好は京の都に生成されていた知識人社会に自由に出入りする方法として遁世を選んだ。「徒然草」には切ないほどの無常観はない。彼にとって世の中が無常なのは当然のことであり、それを観察し、喜怒哀楽をユーモアたっぷりに描き出した。兼好は仏教修行や俗世と絶つために出家したのではなく、俗世から離れた外部から俗世を観察するために出家した。彼は現代の知識人に近い存在である。 
宗祗・利休・芭蕉―隠者の俗世回避―
兼好の南北朝時代から少し下った室町時代にも聖が多くいた。その一方で、境遇からの離脱の手段としての遁世を選ぶ者も続出した。身も心も俗世にある遁世者たちである。詩歌や芸能などの技能に秀でた遁世者たちを、「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼んで身近に侍らす習慣も武士たちに生まれた。そこでは俗世での出身や身分は問われなかったため、その地位に身を置くための「遁世」がおこなわれた。能力さえあれば賤しい身分の者でも登用され、妻子や財産ももった。遁世は生きる方便と化していったのだ。
宗祗はそうした遁世者の一人であった。連歌に長(た)け、相国寺に入り出家する。しかし、その出家は道心とは無縁であったといえる。連歌を通じて貴族や武士と交際し、芸術愛好者のまとめ役として多くの金品を手に入れた。かれの草庵は仏教修行の場ではなく「風流」を極める場、「政治」の場であった。
※連歌……和歌の上句と下句に相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和(一方がまず詩歌をつくり、それに応じて他方がつくる)を基本とする詩歌の形態。
千利休は堺の商人出身であった。豪商のたしなみとして茶の湯にふれ、魅力に取り憑かれて大徳寺で剃髪する。それは茶道への情熱を示すための出家だった。利休が茶の湯に見出したのは、「俗世」にあって「俗世」を越えるための精神世界であった。茶の湯を介して政治的権力者に屈しない反俗・脱世俗権力的な芸術的世界・観念美の世界を作り上げることであった。茶の湯を「市井の閉居」と言い表すことがあるが、山野の草庵に身を置かずとも「世」を捨て草庵を結ぶ人びとの思いが美化され継承されている。
芭蕉は平和的な近世において俳諧というかたちで隠者の精神を発展させた。仕官としての望みが絶たれ、俳人として身を立てることを決意する。けれどもかれは芸術家になる方便としての出家をしていない。それは文化・芸術という職業が確立されており、その必要がなかったからである。出家はしなかったが、彼は自己の芸術の系譜を西行、宗祗、利休らの中世的な隠者系芸術家の精神伝統の延長上に位置づけた。「無常観」や「わび」をふまえ、「寂莫」「風流」「風狂」を俳諧に特徴づけたのも芭蕉である。風景と心情を統一した表現を目指し、その大先達は西行であった。漂泊、行脚と庵住をくり返したのも西行にならい、俗世に身を置いての「脱世」の方法に、創作の源泉を見出したのである。 
遁世という知恵
かつての日本の「この世」には、たくさんの「世」があった。そしてさらに「世」の向こう側には、「もう一つの世」が用意されていた。その「遁世」は以下のように多様であった。
1.持って生まれた境遇としての「世」から別の「世」への移行方法としての「遁世」
2.「あの世」へ向かってさまざまな「世」を限りなく捨てていく生き方としての「遁世」
3.持って生まれた境遇としての「世」の限界を超え、新たな「世」をつけ加えるための「遁世」
いずれの場合にせよ「遁世者」は自分たちが属する「世」から離れ、人間観察や自然観察にもとづいて「生きた証」としての「作品」を多く生み出した。「遁世」とは「俗世」にない人間の価値観を生じさせ、多様な「世」を相対化し批判する精神に支えられた世界を醸成することであったのだ。
小松氏はこのように結論し、現代もまた先が見えない不透明さは乱世に向かっているとする。現代風遁世を望む人びとは増えているはずであり、俗世に背を向けた思いを哲学、芸術、趣味への情熱に昇華するとき、その結晶としての作品は、乱世を生きる人びとの糧となるのではないか。しかし現代において「遁世」は可能なのかと、やや否定的なニュアンスで氏は問いかける。
可能である、とだけ答えて鉛筆を一旦置かなければならない。なぜなら四枚目の原稿用紙が埋まってしまったからだ。私の考えを述べることは、またまた次回に見送らなければならない。誠に申し訳ない。  
「遁世」は可能か
「現代における遁世について考察する」などと豪語してしまったことを後悔している。しかし後へは退けない。あまり期待せずに読んでいただきたい。
小松氏は章の終わりに、現代において「遁世」は可能か、現代に「遁世者」などいるのかと疑念をもって問いかけている。また、その答を見つけるためには「遁世者」たちの残した作品等を詳しく吟味することが大切であると述べ、そこには現代を生き抜く知恵が隠されているはずだと結論する。
分かりやすい文章が続いていたが、最後になって曖昧で論理的でない文になってしまっている。つまり、遁世できない私たちは、せめて過去の遁世者たちの残したものから、現代を生き抜く術を学び取れということか。反語のように問いかけるよりも、はじめから「現代人に遁世は不可能だ」としめくくれば分かりやすく論旨は通るのだが。
ただし私は前回、「可能である」と自信たっぷりに言ってしまった。したがってその考えを展開しなければならない。少々腰が退けてしまっているが、今さら逃げもできまい。ええい、ままよ。
遁世が可能かどうかは、どんなかたちの遁世かにもよる。小松氏の文を読むまで、遁世は「聖型」が基本であると思っていた。出家遁世とは仏に仕えることを主眼とし、禁欲的な生活を自身に強いることという以外に考えが及ばなかった。芸術方面に秀でた者たちは、修行の合間に活動するものだと理解していた。
では、現代において「純聖型遁世」は可能か。私ごとで恐縮だが、昨夏、あるできごとから何もかも嫌になり「聖型遁世」をしようかと真剣に考えた。その頃は金銭的にも逼迫(ひっぱく)していたので、寝袋でも持って山野で起居し、無常を噛みしめようかと本気で考えた。そして気がつく。私は病弱系である。炎天下を歩きまわった日には半日で行きだおれ、救急車で運ばれるのが関の山だ。人の手を煩わし、迷惑をかけてしまうだけだ。そんな折、子猫が4匹生まれて家を空けることができず、結局それも理由に遁世を思いとどまった。だが、頑健な人であっても山野や寺の周辺で暮らしていたら、注意されたり保護されたりするだろう。のどかな昔には可能であったかもしれないが。現代では「聖型遁世」は不可能に近い。
それでは「西行、長明、兼好型文芸系遁世」はどうか。右近としてはモノ書きの遁世は大いに興味あるところで憧れでもある。しかし彼等は皆、あり余る才能の持ち主であって、その才能を存分に発揮するための遁世である。方便としての遁世と知られても誰も咎めまい。凡人が書き散らして遊んでいるのとはワケが違う。私には、書きたいから遁世しますなどと大それたことは口にできないのだ。
「宗祗、利休、芭蕉型エンターティナー&アーティスト系遁世」はどうか。連歌に長け、人をコーディネートすることで金儲けにも長けた宗祗、茶の湯の精神性を極めた利休、十七文字に言葉の芸術を極め、西行と同じくみずからを演出するのにも抜かりがなかった芭蕉。かれらほど偉大ではないにしろ、こんな人は現代にも世界じゅうにいるように思える。意識せずして「勝ち組系遁世」をしている人は意外に多いのだ。
ところで私は現在、ほとんど人とのつき合いがない。事情があって親戚づき合いもなくなった。電話嫌いもよく知られ、鳴ることがない。緑に囲まれ静かに暮らし、本を読んだり気ままに詩や小文を書いている。これはもう、「半遁世」状態である。けれども隣人と垣根越しに挨拶もすれば回覧板も持っていく。どこかに属して生活している以上、その「世」になじまなければならない。伝達手段や人間関係の潤滑油としての最小限度の言葉を出さずには暮らせない。日常からの「完全遁世」は誠に難しいものだ。
それでも私は遁世をしているとの自負がある。「ミニ遁世」する方法を心得ているのだ。閉塞状態の暗い時代、さまざまな困苦を抱えて生きる人たちに、ささやかな提案をしたい。それは非日常的な世界を自分の内につくり、そこへ時々は逃げ込むことだ。「なんだ、そんなことか」と思わないでほしい。自分が一番心地良いものが何かを知り、それに基づいて「世」をつくる。そしてしたい時にそこへ遁世し、ひとりでのめり込むのだ。(「ひとりで」が重要である)ちなみに、私は「水無月右近の世界」という、もう一つの「世」に一日の大半を遁世している。この心地良い「世」で、拙作を素人なりの隠者系芸術にまで高められれば本望だと思っている。精進、精進。
しかしこうして皆さんに語りかけているかぎり、私には「完全遁世」はできないのだ。やはり迷い多き一介の衆生なのである。 
 
 
方丈記の建築的研究

 

方丈記の建築的考察
T まえがき
1. 研究の目的、方法:本稿は、方丈記と関連諸文献および現地視察によって、建築学とくに建築計画の立場から、著者鴨長明の災厄観、住居・都市観とその具体化と見られる《方丈およびその敷地》の解明を試みたものである。
2. 底本、テキスト、構成:方丈記には、多くの校注書、訳注書があるが、いずれも最古の写本である大福光寺本を底本としている。原文は四百字詰めの原稿用紙に換算して二十数枚の短編であるが、底本には、句読点も改行もなく、構成要素の軽重、主従などについては、ほぼ共通の見解はあるものの、微妙な差異をも考慮に入れると、読者の数ほど読み方があると言われる[文献12]。即ち、読み方によって、本書の主題、意図、構想をどう見るかが変わり、諸説が分かれ、本文の章、節の分け方も変わってくる。
本稿では、安良岡康作の[文献6, 8]をテキストとすることにした。そこでは、原文を表A.1の12 章に分け、主題を“人と栖の無常なる世間をのがれて、日野山の方丈の庵の生活において獲得したわが心の安楽さと、その反省” にあるとしている[文献6]。長明の伝記や人物像については、多くの関係書に詳しい。ここには、[文献4, 6]より事項を抜粋した鴨長明の年譜(表A.2)、および原文と関係の深い、京都付近の地図(図A.1)を掲げた。
3. 前編、後編の別:安良岡は、7、8 章をまとめて、上記主題の展開段階と見ているが、筆者は、他の多くの研究者と同様、7 章迄と、8 章以下を区別して、前者を前編、後者を後編とすることにした。理由は、7 章の《世の中の生活する悩み》は、五大災厄に準ずるものとして扱われていること。また、7 章迄の長明の世に処する態度は、概ね受動的であるのに対して、8 章以下では、それが能動的、積極的になって、全く趣を異にするからである。
以下、1 部では、1 章から7 章まで、大凡前編の原文に添って、長明の災厄の捉え方について述べ、2 部では、後編の8、9 章および現地視察をもとに、方丈の建設及びその敷地選定に、長明がどう関わったかについて筆者の見解を述べる。文中、上記テキストからまとめた引用は縦の傍線で示し、個々の引用は、例えば8 章12 行目からの場合、(8–12)としている。
なお、本稿の引用及び参考文献は、2 部(後掲論文B)の末尾に掲げた。
表A.1 方丈記目次[文献6]
1 章行く河の流れは絶えずして…人と栖との無常
2 章予、ものの心を知れりしより…安元の大火
3 章また、治承四年卯月のころ…治承の辻風
4 章また、治承四年水無月のころ…福原への遷都
5 章また、養和のころとか、久しくなりて…養和の飢饉
6 章また、同じころかとよ、おびただしく…元歴の地震
7 章すべて、世の中のありにくく…世の中に生活する悩み
8 章わが身、父方の祖母の家を伝へて…出家・遁世と方丈の庵
9 章いま、日野山の奥に跡を隠して後…日野山の草庵生活の種々相
10 章おほかた、この所に住み始めし時は…草庵生活の反省
11 章それ、三界は、ただ、心一つなり…草庵生活における閑居の気味
12 章そもそも、一期の月影傾きて…草庵生活の否定
図A.1 京都付近地図[文献3] 
U人と栖の無常(1 章)
4. “行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。” にはじまる、方丈記の書出しの重要な一章である。一見、不変・常住と思われる現実は、よく観照してみると、変遷・無常の相が認められる。世の中の人と栖も、また無常である。この原文の主題は、2 章以下で、具体的に展開される。次いで、都市における人と家が、時とともにどう変わっていくかの実相が、簡潔・的確に述べられている。家が火災で焼失しても、その後すぐに新築されるとか、大きな家がなくなった跡に、小さな家が建つという観察も鋭い。さらに、個々にみても、“その主と栖と無常を争ふさま、言はば、朝顔《栖》の露《主人》に異ならず。” と、それらは、何れにしてもはかないことを指摘している。都市における、人と住まいが絶えず交替し、うつろいやすいことは、いつの世にも存在し、それをはげしく促進する災厄は、今日にも、明日にも起こりうる。このことにどう対処するかの問題は、次章以下で触れられるが、都市や地方における、居住者と建築施設が時とともにどう変わって行くかの実相を具体的に捉え、対応を考えることは、今日も、建築・都市計画上の重要な課題といえよう。

表A.2 鴨長明略年譜([文献4, 6]より、吉武選)
西暦年号年齢事項災厄住居出所(章)
1155 久寿2 1 この頃長明生まれる(生年異説あり)。父は賀茂御祖先神社(下鴨)の正祢宜(惣官)長継。生家? 祖母の家をつぐ。祖母の家(8)
1156 保元元2 7 月10 日保元の乱起こる。
1159 平治元5 12 月9 日平治の乱起こる。
1173 承安3 19 長明の父長継没するか。父の死以前に長明は結婚したか。子あり。
1177 安元3 23 4 月28 日京に大火災。安元大火(2)
前編
1180 治承4 26 4 月29 日京に大風災あり。
6 月2 日福原へ遷都。11 月26 日還都。治承辻風福原遷都
1181 養和元27 「鴨長明集」成る。次年にかけて全国に大飢饉。
閏2 月4 日平清盛没。
養和飢饉(5)
1182 寿永元28 この年疫病流行。
1183 寿永2 29 7 月平家都落。源義仲入京。
1184 元暦元30 長明この年以降数年中に祖母の家を出て賀茂の川原近くに小宅を構う。
賀茂河畔の家(8)
1185 元暦2 31 2 月屋島、3 月壇の浦合戦。平家一門滅亡。
7 月9 日京に大地震あり。元暦地震(6)
1190 文治6 36 2 月16 日西行没す。
1200 正治2 46 正治〜建仁にかけて長明たびたびの歌合に出席すること多し。
1201 建仁元47 8 月頃長明和歌所寄人となる。
1204 元久元50 この年の春、長明出家し大原山に隠る。大原の家(8)
1208 承元2 54 このころ長明日野の外山に移り方丈の庵をむすぶ。日野の方丈(8・9)
後編
1211 建暦元57 10 月13 日鎌倉にて実朝に面会する。この頃(承元2 年〜)「無名抄」成るか。
1212 建暦2 58 3 月末「方丈記」成る。(12)
1214 建保2 60 この頃「発心集」なるか。
1216 建保4 62 閏6 月8 日長明没(没日異説あり)。 
V五大災厄(2–6 章)
5. 2 章から6 章までの5 つの章は、長明が23 才から31 才までの間に、相次いで体験した5 つの大きな災厄の様子を、起った時の順に叙述したものである。
1. 大火23 才安元3 年(1177) 4 月28 日
2. 辻風26 才治承4 年(1180) 4 月29 日
3. 遷都26 才治承4 年(1180) 6 月2 日–11 月26 日
4. 飢饉27–28 才養和元年(1181) から2 年まで
5. 地震31 才元暦2 年(1185) 7 月9 日以降
“予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、世の不思議を見る事、やや度々になりぬ。”
“去んじ安元三年四月二十八日かとよ。風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時許り、都の東南より火出で来て、西北に至る。果てには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜の中に、塵灰となりにき。火元は、樋口富小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風にとかく移り行く程に、扇を広げたるが如く、末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近き辺りは、ひたすら、焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、遍く紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一二町を越えつつ、移り行く。その中の人、現し心あらむや。或は、煙に咽て倒れ伏し、或は、焔にまぐれて、忽ちに死ぬ。或は、身一つ辛うじて遁るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら、灰燼となりにき。その費えいくそばくぞ。その度、公卿の家、十六焼けたり。まして、その外、数え知るに及ばず。すべて、都の内、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬる者、数十人、馬牛の類、辺際を知らず。人の営み、皆愚かなる中に、さしも危き京中の家を作るとて、財を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。” (2 章の全文)
このようなことは、事象の生起の点でも、また個人の経験の点でも希有のことといってよい。4 章では、長明自身福原に赴いたことが記されているが、他の何れの災厄にも彼が立ち合ったらしいことは、現象の描写が現在形を用いた、臨場感あふれ、迫力のある表現となっていることからも窺われる。
6. 科学的叙述:これらを通して言えることは、第1 に、長明の災厄現象に対する記述と描写が簡潔ながら極めて客観的、科学的であることである。例えば、ここに全文を掲げた《安元の大火》の場合、初めに、日時、気象状態、特に火災に影響の大きい風について、また、出火地点と延焼の方向、主要な被害について述べ、火元の詳しい聞き込みを披露している。
次に、火災の実相を具体的かつ動的に描写しており、扇形に広がる延焼、風に煽られる煙や焔の動きなど、あたかも、著者がその場に居合わせているかのように感じられる。言うまでもなく、彼自身の感慨も述べられており、そこで人々がどのような悲惨な目に遭い、どのように死んでいったかを慨嘆し、さらに、人、家、家畜、資財のおびただしい被害を量的に挙げたのち、これほど危険な京に家を作ろうとして、財を費やし、心を労するのは、特に無益なことと思うと読者に訴えている。
他の災厄の場合も同様で、
3 章: 大きい旋風によって、家や門・垣が吹き壊される様子。塵の吹き上げ、恐ろしい物音等。
4 章: 突然の遷都に戸惑う人々の不安、動揺。都としての条件が整わない様。急速に荒廃していく古都の家々、捗らない新都の建設。古都と新都を結ぶ河や道路の様子、そこに見られる風俗の変わりよう等。
5 章: 日照り、大風、洪水などの天災によって、周辺農村が不作となり、京への食料供給が断たれ、きびしい物々交換が行われるようになったこと。続く飢饉の二次的災害として、伝染病が発生し、盗みが横行し、餓死者が続出する最悪の事態になったこと等。
6 章: 物凄い大地震の惨状。津波の発生。建物の倒壊。立ちのぼる塵灰。雷のような物音。その間を逃げ惑う人々。あとに余震が続き、その大きさ頻度が次第に減って行く様子。年月が経つと、災禍を忘れて口にする人もなくなってしまうこと。
など災厄の実態が、客観的、科学的に述べられている。
7. 長明の視点:第2 に、五大災厄を通じて、人と栖の無常が問題となっている中で、栖については、人々の住まいだけでなく、役所や社寺のような都市施設におよび、さらに都市そのものや、これに対する田舎までも、栖の延長として捉えているように思われる。一方、人についても、さまざまな立場、角度から見ている。“高き、賤しき人のすまいは、”(1–5)。“公卿の家十六焼けたり。まして、その外、数へ知るにおよばず。”(2–14)。
“もとより、この所にをる者は、地を失ひて憂ふ。今移れる人は、土木の煩ひある事を歎く。”(3–18)。“国々の民、或は、地を捨てて、境を出で、或は、家を忘れて、山に棲む。”(5–5)。“京の習ひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて、上る物なければ、”(5–7)。などに見られる通りである。しかも、長明は、常に民衆の立場、弱い者の立場に立つことを忘れていない。
次に、対象とする災厄の範囲は、水、火、風、地の自然災害だけでなく、遷都のような社会的災厄も扱い、さらに飢饉のような複合的災厄に及んでいる(水害については、5、8 章にでてくる)。すなわち、5 章では、日照り、大風、洪水で五穀が不作となり飢饉を生じ、さらに二次的に伝染病の発生や盗みが派生した経緯を述べている。4 章では、遷都の影響が、都市の景観や、風俗に及ぼす変化にまで注目している。このように、表現は簡潔であるが、筆者の目は、事象全体を広く、深く捉えている。さらに、これらの災厄時には、人や栖は、直接被害を受けるだけでなく、深刻な不安、動揺といった心の痛手を受ける事も、併せ記している。なお、続く7 章では、災厄のない平常時でも、相隣、対人関係の悩みといった心の不安があることに言及している。
8. 戦禍について:第3 に、方丈記には、叙述の省略があることに気付く。災厄に際して著者自身のとった行動の記述が、ほとんどないことも、その一つであるが、災厄に遷都を加えるほど、上述のように幅広く捉えながら、再三の《戦禍》には全く触れていない。小さい点では、安元の大火《太郎焼亡》の翌年の大火《次郎焼亡》も、扱っていない。とくに、《戦禍》は、大きな災厄であって、長明としては、当然取り上げるべき事柄であったはずである。それに触れていないのは、明らかに意図的としか考えられず、むしろ当時は《戦禍》の影が、なお色濃く残っていたために、それに触れることを、敢えて避けたと見るべきであろう。このことは、《方丈》の土地を選ぶに当たっての、《隠れた選定条件》になっていると考えられる点でも、大変重要である。
9. 長明の態度、防災について:第4 に、長明は、災厄の現場に立ち合ってはいるが、災厄への関わり方は、傍観者的であると言っていい。否、現場にあって、災厄に巻き込まれず、傍観者に終始したからこそ、人と栖の惨状を直視し、迫真の客観的記録をのこすことができたといえる。
また、とかく災厄時には、流言蜚語が横行し、加持祈祷に頼りがちになるが、原文では、わずかに、“ただ事にあらず。さるべき、ものの諭しか、なぞと、疑ひ侍りし。”(3–11)と、“さまざまの御祈り始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらに、そのしるしなし。”(5–6) とあるに過ぎない。しかし、このことは、執筆時が、災厄を経験した時から30 年以上経って、冷静な目で見るようになっていることを、考慮しなければなるまい。全般的にみて、1 章から7 章までの、いわゆる前編は、災厄に対する著者の態度は、受身的、受動的で、それが、積極的、能動的態度に転ずるのは、後編で、彼が《方丈》の建設を意図するようになってからである。前編が、受身的であるといっても、4 章には、遷都を強行した為政者に対する批判があり、2、6 章には、都に苦労して家を造ることが、無意味なことを読者に訴えることなど、単に消極的とは言い切れない著者の姿勢がうかがわれる。
以上を、対災害的観点から見れば、前編は、災害を客観的に記述する災害科学の段階で、防災的対応に転ずるのは、後編に入ってからである。防災的対応と言っても、家屋の耐震、耐火、耐風等のいわゆる防災工学的なものではなく、あとで述べるように、災害のない、或いは少ない土地の選定による、いわば免災的な、防災計画である。しかし一方、防災工学は、災害科学によって裏付けられるのであって、例えば、延焼における風の影響(2–7)、遷都にあたっての計画性の必要(4 章)、複合災害、二次災害の問題(5 章)、災厄時における価値観の変化(4、5 章)、大地震に伴う津波の発生(6–2) 等、彼の科学的観察は、この点で、防災計画は勿論、防災工学にも資するものを、充分に含んでいる。
W世の中に生活する悩み(7 章)
“もし、己れが身数ならずして、権門の傍らに居る者は、深く喜ぶ事あれども、大きに楽しむに能はず。嘆き切なる時も、声を掲げて泣く事なし。進退安からず、立居につけ恐れおののくさま、譬へば、雀の、鷹の巣に近づけるが如し。もし、貧しくして、富める家の隣に居る者は、朝夕、すぼき姿を恥じて、諂つつ出で入る。妻子・僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心、念々に動きて、時として安からず。もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災を遁るる事なし。もし、辺地にあれば、往反煩ひ多く、盗賊の難はなはだし。” (7 章:4–11 行)
10. これまでのところは、人と栖は、一見変わらないように見えても、ひとたび災厄に遭うと、如何に頼りなく、はかないものであるかを、長明が、自らの体験に基づいて述べたものである。ここでは、災厄時でなくとも、平常時であっても、およそ世の中に生活する以上、おのおの栖のある環境により(“所により”)、それぞれの人の境遇にしたがって(“身のほどに随ひつつ”)、事毎に、心に何かと不安、動揺を生ずるものであることが具体的に例を挙げて述べられている。なお、ここでは、身分の低い者、貧しい者の不安は一層大きいが、都市生活者にも、地方生活者にもそれぞれ災厄の恐れがあり、富者にも貧者にも共通する心の悩みがあることが指摘されている。
安良岡は、“長明の、人間の観察・凝視は、ここ7 章で外部的な《所》、《身》、《栖》、《人》から、これらの主体としての《心》に発展し、集中してきていることが認められる” としている[文献6]。たしかに本章では、長明の関心は、2–6 章の、《身の安全》から、《心の安心》の問題に移っているとみてよいであろう。また、原文の内容は、住宅地のゾーニングや、通勤交通等の都市計画上の問題の存在を暗示しており、さらに、《相隣関係》、《対人関係》に相当する、《所》と《心》、《身》と《心》の関係は、環境心理学上の問題を提起していると考えられる。さらに重要なことは、五大災厄というのは安良岡のくくり方であって、当初にも述べたように本文には句読点や改行がなく、章節の別もない。安良岡は7 章の内容を災厄とは別のことと扱っているが、本文全体の構成からみれば、長明はこれを、性質はかなり異なるとはいえ災厄と同列の事柄として扱っていると見るべきではあるまいか。 
X 方丈とその敷地1 (8、9 章の記述から)
11. 長明の住まいの遍歴:8 章の記述と表A.2 の年譜から、長明の住まいは表B.1 のように移っていったことがわかる。
“わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しく、かの所に住む。その後、縁欠けて、身衰へ、しのぶ方々しげかりしかど、つひに、跡留むる事を得ず、三十余りにして、さらに、わが心と、一つの庵を結ぶ。これをありし住まひに比ぶるに、十分が一なり、居屋ばかりを構えて、はかばかしく、屋を造るに及ばず。わづかに、築地を築けりといえども、門を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危からずしもあらっず。所、河原に近ければ、水の難も深く、白波の恐れも騒がし。すべて、あられぬ世を念じ過しつつ、心を悩ませる事、三十余年なり。その間、折々のたがひ目にに、おのづから、短き運を悟りぬ。即ち、五十の春を迎えて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨て難きよすがもなし。身に官禄あらず、何につけてか、執を留めん。むなしく、大原山の雲に臥して、また、五返りの春秋をなん経にける。ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べる事あり。言はば、旅人の、一夜の宿を造り、老いたる蚕の、繭を営むが如し。これを中ごろの栖に比ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく言ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折々に狭し。その家の有様、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり。所ひ思い定めざるが故に、地を占めて造らず。土居を組み、打覆を葺きて、継目ごとに掛金を掛けたり。もし、心に叶はぬ事あらば、易く、外へ移さむがためなり。その改め造る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わずかに二両、車の力を報ふ外には、さらに、他の用途いらず。” (8 章の全文)
“いま、日野山の奥に跡を隠して後、東に、三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南(に)、竹の簀子を敷き、その西に、閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、傍に、普賢を懸け、前に、法華経を置けり。東のきはに、蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に、竹の吊棚を構へて、黒き皮籠三合を置けり。即ち、和歌・管弦・往生要集如きの抄物を入れたり。傍らに、琴・琵琶、各々一張を立つ。いはゆる折琴・継琵琶これなり、仮の庵のありやう、かくの如し。その所のさまを言はば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。。” (9 章:1–8 行)
表B.1 長明の住まいの遍歴(吉武)
《生家》《祖母の家》《賀茂河畔の家》《大原の家》《日野の家》
表B.1 の中で、《父方の祖母の家》を継ぐ前に、生まれ育った《生家》が別にあった筈であり、また、記述は全くないが、日野山に落ち着く前に、《方丈》をどこかで組み立てて、住んだことを想像することも許されよう。しかし、そういうことがあったとしても、極めて短期間であったと思われる[文献10]。
安良岡は、長明の生涯を《教養期》、《歌壇的活動期》、《遁世期》の3 つの時期に分けているが、長明の住居の遍歴の観点から、表B.1 中(a)〜(d) の4 つの時期に分けることも出来よう。すなわち、
(a) 五大災厄を経験した時期:ほぼ《教養期》に相当
(b) 歌壇で活動した時期:ほぼ《歌壇的活動期》に相当
(c) 模索した時期:《遁世期》前半
(d) 充実した時期:《遁世期》後半
であり、(d) において彼は、《無名抄》、《方丈記》、《発心集》の執筆に集中している。
《方丈》は、いうまでもなく長明の独創と言えるが、《賀茂河畔の家》にも、彼が大きく関わったであろうことは、長明の書いた《発心集》の第五の十三《貧男、差図を好む事》にあるように、彼自身家の設計に格別の関心と才能を持っていたらしいことからも推察できる。
12. 《方丈》の広さ:《方丈》は、10 尺×10 尺、2.78 坪(4.5 畳とすれば2.25 坪)。中ごろの家《賀茂河畔の家》は、その100 倍以上とあるから、約280 坪となり、その前の《祖母の家》は、そのまた10 倍とあるから約2,800 坪ということになり、文中の倍率はラウンド・ナンバーで、やや誇張があるとも考えられる。とくに、中ごろの家が《居屋》:居宅だけで、付属の建物を充分に造れなかった、といっているから、使用人の居室を加えても、やや過大で、まして、《祖母の家》約2,800 坪は、その他の付属の建物を入れてもやや大き過ぎるのではないかと思われる。ただ、原文の記述は、概ね客観的で、他の数字などに誇張も見られないので、原文のまま受け入れるほかはあるまい。参考文献もほとんどそういう態度をとっている。
次に、100 平方呎という広さについて。ロンドン大学のP. Cowan 教授は、室の面積を大きくしていった場合、人間の基本的行為約45 種類の内の、幾種類がそこで行なわれ得るかを調べた結果、100–150 平方呎で40 種類に達し、それ以上は増え方が激減することがわかった。また、4 つの代表的病院における室面積の頻度分布でも、100 から150 の間に大きく鋭いピークが見られたと報告している。彼は、乗員4 人が長時間多くの作業を行なった宇宙船アポロの司令室の広さも、100–150 に過ぎなかったので、最低この程度の広さがあれば、大抵の人間の行為や活動が出来るはずだと言っている[文献17]。
さらに、宇宙船に関するNASA の研究では、少人数の乗員1 人当たりの最小気積は、数ヵ月以上の場合600 立方呎必要であるという。《方丈》は700 立方呎である。これらによって、《方丈》が人間にとってどういう広さであり、大きさであるかを理解することが出来よう。つまり、《方丈》は、生活上の最小単位空間であるといってよいのではあるまいか。
しかし、以上のことは、一応閉ざされた室についてであって、《方丈》の場合は、後に述べるように、その近傍まで生活空間が広がっている。ともあれ長明が、単身で、かなり長期間ここに住み、死に至るまで心豊かな生活を送ったことは銘記されなければならないであろう。
13. 住まいのありよう:9 章では、《方丈》における長明の生活の姿が、具体的に、詳しく述べられている。とくに、初めに列記している内外の設備、調度のありようから、長明が《方丈》でどのような生活を営んでいたか、どういうことを意義あることとしていたかを窺うことが出来る。また、《方丈》が最小の、しかも孤立した住まいである点で、ミニマムの居住要件がそこに表現されていると見ることも出来る。すなわち、《食》のための竃、《寝》のための床の他に、《死生をおもう》仏具、絵像、経文、《著作》のための資料、《趣味、遊び》のための楽器がそれである。《死生をおもう》ことについては、ハイデッガーが、“人間が存在していることは、死すべきものとして地上にいることであり、それはまた、住んでいるということである。” と述べていることを想起させる[文献15]。さらに、生活要件としての《水》と《薪》が、手近に得易いことを付け加えることを忘れていない。
14. 《方丈》の復元:《方丈》がどんな姿のものであったかについては、原文の記述が詳細なだけでなく、諸種の伝本のひとつである《嵯峨本》の記述が、原文とかなり異なるところから、幾つもの復元想像図が描かれている。図B.1 は、大福光寺本の原文に忠実な平面図で、周囲の状況も、想像して描き加えられている。
このほか、古建築にも詳しい建築家川田伸紘によるものは[文献13]、組立による移動の可能性に加えて、作者長明が下鴨神社神宮の家の生まれであることから、社殿の流れを汲む造りであるとしているところに特徴がある。つまり、後世の絵画にあるような、草庵風のものではなかったであろう、というのが彼の推論である。また、[文献14]には、古い家具、什器の歴史を研究している、生活史研究所の小泉和子による想像図があり、原文にある用具の他に、研究者ならではと思われるさまざまな用具が描かれており、生活の匂いの濃厚な復元である。全くの想像に過ぎないが、筆者は、骨組みや屋根、壁面の扱いなどは、おそらく[文献13]に近いものであったと考える。ただ、長明は建築好きであり、かなり器用でもあったと思われるので、[文献14]程ではないにしても、東西面の開口の扱いなど、相応の生活上の利便にたいする工夫はしていたに違いない。
15. 組立式・移動式住居:《方丈》の最大の特徴は、それが掛金を使った組み立て式の住居であり、容易に運搬・移動できる、プレファブ住宅であった点である。これこそ長明の創意工夫によるものであることは原文の調子や折琴、継琵琶の工夫からみても明らかである。当時、住居を移動することが稀ではなかった。4 章の福原遷都の項にも、“日々に毀ち、川も狭に運び下す家、いづくに造れるかにかあらむ。” とある。しかし、《方丈》の場合は、はじめから運搬・移動を意図して造られているのである。その大きさも、《池亭記》などに先例があるとしても、運搬・移動を容易にする為に、あえて必要最小限のもの、身軽で小規模のものとしたと考えられなくもない。
16. 住まいと敷地:もうひとつ重要なことは、《住居》と《敷地》の関係である。《方丈》の場合、《住居》は《敷地》と関わりなく、前以て造られた《プレファブ住宅》であったので、《敷地選定》は事後に行なわれているのである。ここでは、設計における《住居》と《敷地》の関係は、これまでの《既存敷地》が予定されている場合とは異なる。《住居》と《敷地》が、一体のものとして、同時に設計の対象となっていたのに対して、それらは別々の対象として、切り離されるようになるのである。長明は、《敷地選定》においてもきわめて有能であり、かつ、意欲的であったと思われる。
一方、《栖》については、《家》、《住まい》、《所》のほか、《居屋》、《屋》等、さまざまの表現が与えられている。特に重要なのは、8、9 章において、《栖》が、《家》と《所》に分けて叙述されている点である。“その家の有様、”(8 章)、“その所のさまをいはば、”(9 章)がそれで、《家》は、《方丈》の建物をさし、《所》は、《方丈》の建てられた場所をさしている。さらに8 章では、“所を思ひ定めざるが故に、地を占めて造らず。”とある。ここで《地》は、正に《敷地》を指すとしてよい。このような、《家》と《所》の意識の上での明快な分別は、住居の移動性によって強められたことは明らかであろう。さらに、この《家》と《所》は、ボルノウの言う《Raum》と《Ort》に対応していると考えてよいと思われる[文献16]。 
Y 《方丈》とその敷地2 (現地の視察から)
17. 《方丈》の位置:《方丈》の建てられた所は、京都市の南南東に当たり、法界寺のある日野の集落から、東へ約2 キロ供水峠の方へ入った、標高約150 米の山中で、《長明方丈石》の石碑と、《方丈の庵跡》と記された京都市の立て札のある位置であるといわれている。これまでこの位置が疑問視されたことはなく、筆者も一目みてそうと確信した。というより、余りにも見事な土地選定に驚かされた。
その場所は、平地から渓流添いに山道に入って数百米、道の左手の、高さ数米はあろうと思われる巨大な岩の上である。そこはほぼ平らで、周辺とあわせて《方丈》がうまく収まる程の広さがある。岩上の様子は道を歩いていてもわからない。北側は山の斜面が迫り、今は木立に覆われているが、南側は渓流の谷で冬の日当たりが期待できる。西側は、原文にもあるように開けてはいるが、木立が茂りすぎてさほど眺望はよくなかった。東側は、渓流が左手奥にカーブしていて木立の斜面が程よく迫っている。
18. 生活の利便と行動範囲:“その所のさまを言はば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。” とあるように、木立に囲まれていてエネルギー源としての薪が豊富で、近くの渓流から良質の水を引くことも出来る。水洗や洗濯も容易で、清潔を保ちやすく衛生的である。長明が晩年心を許した法友、日野家の主、禅寂が麓にいて、なにかと便宜も得やすく[文献10]、近くの農家から食料を得る事も容易だったであろう。便利とは言えまいが、少なくとも健康的ではあったといえる。勿論、生活は、《方丈》の中だけに限られず、近傍には適度に閉ざされた外部空間があって、《方丈》の狭さを充分に補ったに違いない。
“また、麓に、一つの柴の庵あり。即ち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。時々来りて、相訪ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行する。” とあるが、近くの農家にも急げば15 分で行くことが出来たであろう。健脚だったという彼には、京都への日帰りは容易だった筈である。広範囲の散策や遊行については、原文に詳しく述べられている。その範囲は、眺望のきく西方はもとより、供水峠から屋根伝いに山裏側の地域に広く及んでいる。《方丈》の敷地は、そういう広い行動圏の拠点としても絶好の位置を占めていた。
19. 災厄に関する配慮:《方丈とその立地》が、災厄に対していかに配慮していたかについては、原文では、10、11 章に若干述べられているに過ぎない。おそらく、2 乃至7 章の記述との、重複をさけたためと思われる。しかし、現地を視察してみると、その配慮が並々でなかったことがよくわかる。後で述べるように、《方丈とその立地》は、前編2 乃至7 章の課題に対する長明自らの回答であり、デザインであると言うことが出来る。《方丈》のあった土地は、地震はもとより、風水害のおそれもない。市街地でないから、火災や延焼の心配もなく、近隣に対する気兼ねや煩わしさもない。飢饉の時も、なんとかしのげるであろう。周囲は、むしろ要害といえる地形で、原文で意識的に触れるのをさけたと考えられる戦禍も、ここまで及ぶことはないとおもわれる。保元、平治の乱を、幼時に経験した長明は、潜在的に戦禍の恐ろしさは、身に染みていたであろう。つまり、この土地は、広い意味の災厄に対して、極めて安全で、安心できる場所として選ばれたのである。長明の時代、災厄に対しては、防災といっても、免災によるしかなかった筈である。それも、建物自体を免災的にするのではなく、もっぱらそういう土地を見付ける他はなかったであろう。健脚で、豊かなセンスの持ち主であった彼によって見いだされた、このように、免災的、健康的かつ生活上の利便も得られる土地選定が、彼の回答であり、デザインであったといえる。
20. 《方丈とその立地》によって得たもの(11、12 章):《方丈とその敷地》を求め得たことによって、長明は、住まいに対する満足、とくに心の満足を味わい、充実した晩年を過ごすことが出来た。このことは、彼の三大著作が、ここで完成し、死を迎えるまでここを離れなかったことによっても明らかであろう。
10、11 章は、そのクライマックスであり、11 章末の、“住まずして、誰か悟らん。” は、自ら造り、住んだ人にしてはじめて言い得る言葉である。ただ、出家して仏道修業中の彼としては、《住まいの追求》が、修業に関わりないばかりか、その妨げとなりかねないことを、“しずかなる暁、この理を思い続けて”、表白せざるをえなかった。それが12章であろう。12 章は、また、全体構成上1 章との対応で書かれていることは言うまでもあるまい。 
Z あとがき
21. 要約:1 部:方丈記の筆者鴨長明は、自ら遭遇し、直視した大火、辻風、遷都、飢饉、大地震及び都市生活上の悩みの実相を、客観的、科学的に叙述しており、その視点及び内容は、都市・住宅計画や防災計画に資するところが少なくない。そこでの彼の態度は概ね受身的で、それが積極的に転ずるのは、後編に於いてで、防災的というよりも免災的対応である。ことなどを述べている。
2 部:長明が、住まいの遍歴の末到達した《方丈とその敷地》の内容解明を試みたもので、先ず《方丈》が生活上の最小単位空間であり、ミニマムの居住要件を備えた組立、移動式住居であることを述べ、住居の移動性は、《家》と《敷地》の意識上の分離を促すことを指摘し、さらに、《方丈》の敷地は、基本的居住条件と諸災厄に対して周到に選定された絶好の土地で、《方丈とその敷地》のセットこそ、長明のデザインとすべきであることを述べた。
22. あとがき:筆者が、方丈記について、建築計画の立場から考えようと思い立ったのは、1965 年頃、P. Cowan の論文を読んで、居住空間の大きさについて考えはじめた時であった。しかし、直接のきっかけは、1975 年頃、九州大学の青木正夫教授から送られた、堀田善衛の《方丈記私記》[文献11]を読み、人間鴨長明に興味を持つようになってからである。その後、安良岡のカセット・テープ[文献8]を聴いて、文学としての方丈記を味わえたのは、幸いであった。
その間、筆者は、東大から筑波大、九州芸工大、神戸芸工大と職場を換えて、今日にいたっている。改めて、福原が神戸の中心部に当たることに気付き、京都も遠くないということもあって、神戸芸工大の齋木教授の案内で、方丈のあったという日野の方丈石の辺りを視察することができた。この視察で、筆者の方丈記に対する見方が一変した事は、本稿で述べたとおりである。長明の災害観、住居・都市観は、今もこれからも重視され続けるべきであると思っている。 
用語にみる主題の展開
1 まえがき
1. 本稿は、前回本報告集に発表した2 編[文献18]に続くもので、方丈記の主題である《人と栖の無常》が各章の流れに沿ってどのように変調し展開して行くかを、主として用語によって調べたものである。後で述べるように、それは結局、著者長明自身の《“住” との係わりの遍歴》を見ることでもあった。テキストには、前と同じく安良岡の[文献6]を用い、必要に応じ大福光寺本[文献4]を照合した。本研究には、[文献3]の用語索引を参照し、また木村徳国、若山滋の用語の研究[文献20, 21]を参考にした。なお、本稿にいたるまでの間に、筆者は神戸芸術工科大学紀要[文献22]と人間・環境学会誌[文献23]に、関連発表を行なっている。前者は、《方丈》の跡地調査の報告であり、後者は、1992 年5 月9 日に同学会で行なった講演の内容をまとめなおしたものであって、どちらも《用語検討》の概要に触れている。 
2 方丈記の時間的構成
2. 方丈記の構成上の特徴の一つは、全体が時間的順序にしたがって叙述されている点である。大きくは、前編と後編の間に約25 年の隔たりがあり、細かくは、各章によって時間の扱いに違いが見られる(目次:表A.1、鴨長明年譜:表A.2 参照)。まず前編の1 章では、凡そ世にある人と栖には、すべて無常の相が認められることを述べて、本書の主題を《人と栖の無常》であることを明らかにしている。ついで2 章の冒頭には、“予、ものの心を知れりしより、四十余りの春秋を送れる間に、” とあって、以下の叙述が執筆時から40 年余り遡って始められることを明記している。2 章から6 章までは、長明が23 才から31 才までの間に体験した5 つの大きな災厄(大火、辻風、遷都、飢饉、大地震)について生起した年月の順に述べたものである。それぞれ冒頭に、“去んじ安元三年四月二十八日かとよ”、“また、治承四年卯月のころ”、“また治承四年水無月のころ”、“また養和のころとか”、“また、同じころかとよ” というように、時を記している。しかも、それぞれの叙述の長さが災厄の長さの順になっていることが安良岡によって指摘されている[文献6]。
7 章は、災厄時ではない平常時でも、世の中に住む以上、誰もが経験しなければならぬ生活上の悩みを述べたもので、これも長明自らの経験を基にしている事は明らかと思われる。ただこのようなことを他の災厄と同列に扱っていることは注目される。
3. 後編に入ると、8 章のはじめに、“わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しく、かのところに住む。その後、” と、《日野山の方丈》に至るまでの、長明の住まいの遍歴が簡潔に述べられ、《方丈の家の有様》の記述に続く。9 章には、“いま、日野山の奥に跡を隠して後、” の《方丈のしつらい》、周辺の四季の風情、新たな草庵生活の様子が描写されている。10 章は、“おほかた、この所に住み始めし時は、あからさまと思ひしかども、今既に、五年を経たり。仮の庵も、やや故郷になりて、” に始まり、事の便りに聞く都の《人と栖》の変わりようを記し、それにひきかえ自分は、物質的に貧しいながら、精神的には静かで、憂へのない、無常におそわれない生活に安住していることに満足し、11 章の、“それ、三界は、ただ、心一つなり。”、“住まずして、誰か悟らん。” の心境に達し、自ら草庵生活の意義を評価している。
12 章では、“そもそも、一期の月傾きて、余算の、山の端に近” い自分は、仏の教えからも、草庵を愛し、閑寂に執着せず、心を修め、道を行なわねばならぬと反省し、不徹底な自分を戒めている。結びの、“時に、建暦の二年、弥生の晦日ごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これを記す。” で、時点、筆者、場所すなわち《時、人、所》が明記され、ここで《文中の時》と《現実の時》が初めて一致するのである。 
3 《栖》について
4. 方丈記では、《人》と《栖》のどちらも十分広い意味に使用されていることは、既に[文献18]で述べた。まず《栖》についてみると、《スミカ》は《住処》であるとされるように[文献24]、《住まいや家》のような建築物を表すとともに、住む場所をも意味している。前者の用語としては、《栖:スミカ》、《住まひ:スマヒ》、《家:イエ》、《庵:イホリ》、《屋:ヤ》、《宿り:ヤドリ》が、後者の用語としては、《所:トコロ》、《地》が挙げられる。さらに場所の外延として、《ミヤコ》、《京》とそれに対する《イナカ》のほか、《フルサト》等も用いられている。[文献20]によれば、上代語では、建築物を指すもっとも一般的用語は《屋:ヤ》であり、《庵:イホリ》は、仮設的で、外界の遮断性の乏しい、粗末な小屋を指し、《家:イエ》は、むしろ非構造物的な、人的性格の強いものを意味したという【後注1】。しかし、方丈記においては、むしろ建造物を表すケースが一般的であるように思われる。また、[文献21]では、《万葉集、古今和歌集、新古今和歌集》を通じて《宿:ヤド》の出現頻度が極めて多く、庭や園あるいは花鳥と関連が深いと述べているが、方丈記では3 例にすぎず(表C.1、C.2)、しかも、いずれも庭園や花鳥との関連はない。
なお、興味深いのは、方丈記への影響大きかったとされる《池亭記》との比較で、そこでは、文の長さが1/4 に過ぎないに関わらず、建造物関連用語が、《家、屋、宅、院、堂、閣、宇、戸、舎、宿》というように極めて多いことである。特に、そこで6 例を数えた《宅:タク》は、方丈記では皆無であった。
表C.1 居住建築用語の章別使用度数([文献4, 6]より吉武作成)
表C.2 三歌集と方丈記における居住建築用語使用度数([文献4, 6, 21]より吉武作成)
5. 表C.1 は、居住用建築用語数の章別分布である。数のうえでは、《家:イエ》が多く、概ね8 章までに分布し、大半は建造物を指し、人的性格と重層する用例は少ない。8、9 章の4 例中3 例は《家族的家》を指すから、《家屋的家》の殆どは前編にあるといってよい。また、《栖:スミカ》或いは《スマヒ》は、“人の栖、人の住まい” と言うように用いられ、そうでない場合も背後に人の存在が認められる。一方、《庵:イホリ》は、すべて後編のみにあって、8 例中7 例は、長明の造った《方丈》を指している。前編の一般的な《家屋的家》は、後編では特定の《方丈の庵》に替わるのである(表C.3)。
表C.3 用語章別分類(吉武)
表C.4 場所を表す用語の章別使用度数([文献4, 6]より吉武作成)
6. つぎに、《栖》の中で場所を表わす語については、《所:トコロ》と《地:チ、ヂ》が挙げられる(表C.4)。まず《所》は、地上のある特定の地理的な場所を指し、さらにその辺りの環境までも意味することもある。一方《地》は、物的な地面、大地を表わす場合と、ある使用目的をもって指定された土地、すなわち敷地、地所をさす場合がある。《所》は、固有、特定の場所を表わす名詞、《地》は、普通名詞であるともいえる。このような《所》と《地》の関係を示す文の好例として、“もとよりこの所にをる者は、地を失ひ憂ふ。(4 章)” と“所を思ひ定めざるが故に、地を占めて造らず。(8 章)” のふたつがあり、両者が明瞭に区別されていることは注目に値する。このほか、《栖》に関わる場所を表わす言葉としては、《境:くにざかい》、《隣:隣地、隣家》、《傍:そば》、《故郷:生まれ育った土地、住みなれた所》があり、固有名詞として後編に日野山、外山がある(表C.4)。
7. 以上から《栖》を表わす言葉として、一つは建造物を表わす《すみか、住まい特に家》があり、これは後編では長明の方丈を指す《庵》に替わる。もう一つは、場所を表わす《所と地》であるが、この両者は明瞭に区別されつつも、前編で多用された《地》は、後編では殆ど現われず、替わって特定の場所を表わす《所》と地名:日野山、外山が現われる。表C.3 は、そのような変わりようを見たものである。その背景には、[文献18]でも述べたように、第一に、著者長明が移動式組立住居を造ったことにより、《住居》と《敷地》が彼の意識の上ではっきり分離していたこと。第二に、諸災厄と都市生活上の悩みを免れるために、適所を探し求める(《地》よりも《所》を探す)ことが重視され、日野山に彼自身で絶好の《所》を求め得たことの、ふたつの事情があったことによって説明できるであろう。
8. なお、これらにも関連のあることとして、《都:ミヤコ》と《京》についてみると(表C.4)、それらが前編に多いのは当然のことながら、《都:ミヤコ》は《宮処》すなわち《帝王の宮殿のあるところ》であって[文献24]、《京》も文字の発生(丘の上に宮殿が立つ姿)から、やはり首都を表わすとされ、その意味ではもともと区別はないはずなのに、本文中では、《ミヤコは首都》、《京は特定の首都京都》を指しているように思われる。特に4 章の遷都のところでは、福原を“今の京” とわざわざことわり、また“古京は既に荒れて、新都は未だ成らず” のように、《京と都》を《所と地》と同様に使い分けている。これも長明ならではの空間把握といってよいのではなかろうか。 
4 《人》について
9. 《人》に関わる言葉は、《人、者、友、民、己、予、主、奴、父、母、親、子、夫、妻、汝、誰、自ら、等々》と余りにも多く、傾向性を捉えることは難しい。むしろ長明自身、人を《身と心》に分けているので、それらがどう扱われているかを見るのがよいと思われる。それが表C.5 である。《身と心》の分離は、7 章に始まり、10 章で再び顕著になるが、安良岡が指摘するように、7 章以後、特に後編では、《所》と《身》、あるいは《栖》と《人》の主体としての《心》、ことに他ならぬ《長明自身の心》に集中する傾向が認められる(表C.3)。
さらに、7 章の末尾に、“いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも、この身を宿し、たまゆらも、心を休むべき” と《心の安らぎ》をもとめているが、ここでの《業:ワザ》は、対人的な行為と言えよう。また、終章では、遁世の目標は、“心を修め、道を行ふ” ことにあるとし、《心》に加えて《行ひ》を挙げ、これを重視していることは注目に値する。
表C.5 《身》と《心》の章別使用度数([文献4, 6]より吉武作成) 
5 《無常》について
10. すでに1. でも述べたように、方丈記は《人と栖》の《無常》を主題として、とくに前編では、五大災厄の下での深刻な無常の相を描写し、次いで、平常時にも生活上の悩みがあって少しの間も心が休まらないことを訴えている。それが後編に入ると、長明の態度は俄に積極的になり、《方丈》建造の経緯とそのつくり、周辺の様子、閑居の味わいなどが叙述され、《方丈》において営まれる《創造的生》によって無常は超克されるかのように描かれている。しかし《人も栖も》結局は時間性を免れることはできない。ボルノウの《人間と空間》[文献16]の、《日本語版への序文》は、1972 年10 月、京都で書かれたもので、このような長明のたどった《住探求の流れ》とよく重なっていて、あたかもその思索上のトレースと思われるほどである【後注2】。
11. 問題は、結局12 章の解釈であって、これは[文献6]のいうように《率直な表白》と見ることも出来ようが、“草庵生活の否定” とまでは言えないように思われる。筆者には、“ただ、傍らに、舌根をやとひて、” というような不徹底な表現は、草庵の閑寂への愛着を断ち切れぬ自分、むしろ《否定》とは反対に、《草庵生活の肯定》に傾く自分を認めざるを得ないと言いたかったのではなかったかと思われる。それは、《住探求》の果てに得られた《新たな住の価値、新たな住の美の発見》といえるであろう。これこそ方丈記の新しさであり、長明の魅力なのではなかろうか。

*1 “上代語イヘは、住居のための建築的なものではあったが、建造物を限定的に指示はしていなかった。むしろ、建造物をふくめて、家族があつまり住まうところのすまい全体を指示していた。それは、場所の広がりを重くふくむものであって、建築的なイメージとしては、カキ(垣)を敷地にめぐらし、カド(門)を備え、その内部にいくつかの建造物を建てならべた、居住のための、いわば建築施設的なもの全体、をイメージすべきであろう”[文献20]。(漢字の) “《家》の原義が、《建造物》であったことは、動かない。しかし、中国の長い歴史を通じて、その発生的な意義を決して失わなかったにもせよ、同時に、派生した意味を大きく加えて、重層的な性格を、きわめて早くからもったことも、忘れ得ないであろう”[文献20]。ここ(古今、新古今集)では、《やど》ははっきりと花鳥風月と結び付いている。《万葉集》時代にはまだ素朴な《草花の空間》であり、《花の情緒》であったものが、ここではより多様化し《花鳥風月》という明確な《美学》と結び付いた。それは日本の一つの文化の《定型》となった[文献21]。
*2 “ボルノウ《人間と空間》日本語版への序文” の主要部[文献16]空間と時間とは、人間の現存在の根本規定である。空間と時間のなかでわれわれの生活はいとなまれている。しかし人びとが安易に並べてあげるこれらふたつの規定は、まったく別種の性格をもっている。時間は流動的なもの、つまりそのなかではどんなものも長つづきする持続性をもたない不安動揺の要素である。時間性とは無常ということなのである。人生はこの無常に支配されていて、これと対決しなくてはならない。他方、同時に時間性は創造的要素も意味する。すなわち時間性はつねに新しいもの、前もってそこになかったものをもたらす。一般に時間というものは持続する変移変遷なのである。これに対して空間は、固定しているもの、持続しているものである。そして、人間の生活が持続性をねらって努力するときは、空間のなかで住めるように、つまり空間のなかに自分を基礎づけようとしなくてはならないのである。空間のなかの一定の位置に腰をおちつけ、そこで自分のために自分に属する《生活空間》をつくりださなくてはならないのである。空間のなかでのこの永続している現存在を、われわれはドイツ語で《Wohnen》(住まうこと)と言いあらわすことにしよう。そしてわれわれは、住まうことのなかに人間がつかみとり、正しい仕方で満たされなくてはならない人間の生の根本的な構えを見とるのである。ハイデッガーの言葉を借りて言えば、人間は住まうことをまず学ばなければならないし、また非常に多くの不安動揺によってゆりうごかされているわれわれの時代においては、まず第一にあらためて学ばなければならないのである。
言うまでもなく、人間がどんなにけんめいになっても、いかなる住まいも最終的なものではない。《時の力》は、もっとも確固とした家屋をもしだいに侵食し、無常はわれわれのすべての住まいを抱きこんでしまう。このようにして一まつの憂うつが、もっとも静寂平安な住宅の上にもやはりただようのである。空間と時間とはいつも入りまじって交差しあい、かさなりあって関連している。それゆえ、やはり統一体として理解されなくてはならない。これがこの書物のなかで私にとって中心となる根本問題である。 
長明方丈跡地の調査
1 まえがき
方丈記は、平安末期から鎌倉初期にかけて生きた鴨長明の晩年(1212) の著作で、《人と栖の無常》を主題としている。《人》とは、《身》と《心》の主体としての人間であり、《栖》は《所》と《家》すなわち《住環境》:空間を意味し、《無常》とは、それらのはかなさ、流動性:時間による支配に他ならない。この作品が、空間と時間の中の人間の基本的生、或いは《住》の意義を深く探求したものであることは明らかであろう。
本稿は、筆者らの一人(吉武)が既に建築学会関東支部に発表した2 編に引き続き、長明が住まいの遍歴の末求め得た《日野山の方丈》の《ありようとその解釈》について、原文の記述内容と跡地の視察調査の2 面から考察を加えたものである。ところで、原文の方丈記の方は、すでに多くの釈注書が出ていてテキストとして十分読み込むことが出来る状態にあるが、一方の跡地の方は、少なくとも周辺環境は開発に対して極めて無防備な状態にあり、現に足元まで開発の手が伸びていて、こちらのテキストは、まだ読まれぬうちに変貌してしまうおそれがある。筆者らが跡地調査を思い立ち、軽装備ながら測量に踏み切ったのは、おそらくその当時からあまり変わっていないと思われる現地の状態を、最小限の範囲でも、早急に記録に留めておきたかったからである。ただ、測量そのものが簡略であることや、関連調査の不足、テキストの読みが十分でないことなどは今後補っていかねばならない。 
2 方丈記の構成と概要
筆者らは安良岡康作の[文献6]をテキストとした。これは、原文を表の様に12 章に分けている(表A.1)。1 章は、本書の主題を述べた序文に当たる。2 章から6 章迄の5 つの章は、長明が23 才から31 才までの間に相次いで体験した五大災厄(大火、辻風、遷都、飢饉、大地震)の実相を叙述したものであり、7 章は、平常時でも味わなければならぬ都市生活上の悩みを扱っている。以上が前編で、次の後編(8 章以下)は、約25 年後、長明が日野山に方丈を建ててそこで晩年を過ごし、方丈記を書くまでのことを記している。前編での彼の態度は、概して受身的、消極的であるのに対して、後編では積極的に転ずる。いうより、彼自身の意図、生活の味わい、心の動きが中心になってくるのである。
8、9 章は、《日野山の方丈》の《家と所》のありようを述べた本稿に最も関係の深い章なので、別にその全文を掲げておいた(表D.1)。10、11 章は、日野山の草庵生活における長明の思いと味わいを述べてきたもので、彼はそこで、貧しいながらも静かな草庵を愛し、憂いのない生活を楽しんでいる。ただ、余命の少なくなった彼としては、このような《閑居への執着》が仏道修業の障りになりかねないことを表白せざるを得なかった。それが12 章である。 
3 長明の住まいの遍歴、方丈のありよう
8 章には、長明の住まいの遍歴が簡潔に述べられている(図B.1 参照)。《父方の祖母の家》を継ぐ前に、生まれ育った《生家》があった筈であり、また、原文にはないが、日野山に落ち着く前に、《方丈》をどこかに組み立てて、短期間住んだこともありうる。《方丈》は、いうまでもなく長明の独創といえる。彼は家の設計に格別興味を持ち、才能も豊かだったと考えられるので、賀茂河畔の《中ごろの栖》の設計にも関わった可能性が十分ある。《祖母の家》が方丈の1,000 倍というのは、やや誇張であろうが、付属屋も入れて2,000 坪程度はあったのであろう。[文献18]でも述べたように、方丈という大きさは、人間にとって生活上の最小空間であると言ってよい。
9 章の、方丈における設備や調度のありようから、長明がそこでどのような生活を営み、どういうことを意義あることとしていたかを窺うことができる。また、方丈が最小の孤立した住まいである点から、ミニマムの居住要件がそこに表れていると見ることもできよう。すなわち、《食》のための竃、《寝》のための床のほか、仏具、絵像、経文;著作資料;楽器などが置かれ、戸外では、手近に《薪》も得やすく、懸け樋で《水》がひかれている。方丈の姿については、原文の記述をもとに幾つもの復元想像図が描かれている。
たとえば図B.1 は、原文に比較的忠実な平面図である。 
4 《方丈》、《日野山の土地とそこでの生活》
[文献18]で述べたように、《方丈》の最大の特徴は、それが掛金を使った、組み立て式の住居であり、容易に運搬・移動できる、プレファブ住宅であった点である。これこそ長明の創意によるものであったことは、原文の調子や折琴、継琵琶の工夫からみても明らかであろう。

表D.1 方丈記8 章・9 章抜粋[文献8]
わが生涯
我が身、父方の祖母の家を傳へて、久しく彼の處に住む。その後、縁かけて、身おとろへ、しのぶ方々しげかりしかど、遂に跡とむることを得ず。三十(みそじ)餘りにして、更に我が心と一つの庵(いおり)を結ぶ。これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地をつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車をやどせり。
雪ふり風吹くごとに、危うからずしもあらず。處、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。すべて、あられぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませること、三十餘年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春をむかへて家を出で、世をそむけり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず。何につけてか、執をとどめむ。空しく大原山の雲に伏して、いくそばくの春秋をなん經(へ)にける。
方丈の庵
こゝに、六十の露消えがたに及びて、更に末葉のやどりを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿りをつくり、老いたる蠶(かいこ)のまゆを營むがごとし。これを中ごろのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齡は年々(としどしに)かたぶき、住家は折々にせばし。その家のありさま、世の常にも似ず。廣さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。
處をおもひ定めざるが故に、地をしめて造らず。土居(つちい)を組み、うちおほひを葺きて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め造る時、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二兩。車の力をむくゆる外は、更に他の用途いらず。
いま、日野山の奧に跡をかくして後、東に三尺余りのひさしをさして、芝を折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて、障子をへだてて、阿彌陀の畫像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経を置けり。東のきはに、蕨(わらび)のほどろを敷いて、夜の床とす。西南に、竹の吊り棚をかまへて、Kき皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち和歌・管絃・往生要集ごときの抄物を入れたり。傍(かたわら)に、箏・琵琶、おのおの一張を立つ。いはゆるをり箏、つぎ琵琶これなり。
方丈の庵(日野山の生活)
その處のさまをいはば、南に筧(かけい)あり。岩をたてて、水をためたり。林の木近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏(とも)しからず。名を外山(とやま)といふ。正木のかづら、跡うづめり。谷しげけれど、西は晴れたり。觀念のたより、なきにしもあらず。春は、藤波を見る。紫雲(しうん)の如くにして、西方に匂ふ。夏は、郭公(ほととぎす)を聞く。かたらふごとに、死出の山路を契(ちぎ)る。秋は、ひぐらしの聲、耳に滿てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあはれむ。つもり消ゆるさま、罪障に譬(たと)へつべし。
もし、念佛ものうく、讀經まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。妨ぐる人もなく、また恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、ひとり居れば、口業ををさめつべし。かならず禁戒をまもるとしもなくと、境界なければ、何につけてか破らん。もし、また跡の白波に、この身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、滿沙彌が風情をぬすみ、もし桂の風、葉をならす夕(ゆうべ)には、潯陽の江をおもひやりて、源都督の行いをならふ。
もしあまりの興あれば、しばしば松のひゞきに秋風樂(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。藝は、これ拙(つた)なけれども、人の耳を悦ばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから心を養ふばかりなり。
また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守(やまもり)が居る所なり。彼處(かしこ)に小童あり。時々來りて、あひ訪(とぶら)ふ。もし、つれづれなる時は、これを友として遊行(ゆぎょう)す。かれは十歳、これは六十、その齡ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或(ある)は茅花(つばな)を拔き、岩梨(いわなし)を採る。またぬかごをもり、芹を摘む。あるは裾わの田井にいたりて、落穗を拾ひて、穂組み(ほぐみ)をつくる。
もし、日うらゝかなれば、嶺に攀(よ)ぢ上(のぼ)りて、遙かに故郷の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地は主なければ、心を慰むるにさはりなし。歩み煩ひなく、こゝろ遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山(すみやま)を越え、笠取(かさとり)を過ぎ、あるいは岩間に詣で、あるは石山を拜む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉丸の翁が跡を弔ひ、田上川を渡りて、猿丸太夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ、櫻を狩り、紅葉(もみじ)をもとめ、蕨を折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉り、かつは家土産(いえづと)にす。
もし、夜靜かなれば、窗(まどい)の月に古人を忍び、猿の聲に袖をうるほす。叢(くさむら)の螢は、遠く眞木(まき)の島の篝火(かがりび)にまがひ、曉の雨は、自ら木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峯の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかる程を知る。あるはまた、埋火(うづみび)をかきおこして、老の寢覺(ねざめ)の友とす。恐ろしき山ならねば、梟の聲をあはれむにつけても、山中の景色、折につけて盡くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らん人のためには、これにしも限るべからず。

当時、住居を移設することは稀ではなかった。福原遷都の4 章にも、“日々に毀ち、川も狹に運び下す家、いずくに造れるにかあらむ” とある。しかし、《方丈》の場合は、はじめから運搬・移動を意図して造っているのである。その大きさや構造も、運搬・移動を容易にするためにあえて必要最小限の、身軽な組み立て式のものとしたと考えられる。さらに“所を思い定めざるが故に、地を占めて造らず” とあるように、《方丈》の場合、《住居》が《敷地》と関わりなく、前以て造られた《プレファブ住宅》だったので、《土地選定》が、事後に行われていることは重要である。すなわち《住居と敷地》の関係に、これまでの、《既存敷地》が予定されている場合とは異なる新しいパラダイムが開かれたことになる。それまでは、《住居》と《敷地》は一体のものとして同時に設計の対象となっていたのに対して、ここでは別々の対象として切り離される。すなわち《住居》と《敷地》、《家》と《所》が、設計者の意識の上ではっきりと分けられるようになるのである。
《方丈》の跡地を見ると、長明は《土地選定》においても、きわめて意欲的で、しかも有能な人物であったことがわかる。[文献18]でも述べたように、《方丈の設計と日野山の土地
選定のセット》が長明のデザインであった。
いずれにしても、日野山に方丈を求め得て(《家》と《所》すなわち《栖》を得て)、長明は《住》に対する満足、とくに心の満足を味わい、充実した晩年を過ごすことが出来た。このことは、彼の三大著作がここで完成し、死を迎えるまでここを離れなかったことによって明らかであろう。11 章末の、“住まずして、誰か悟らん。” は、自ら悩み、考え、造りかつそこで長年密度の高い生活を営んだ(住まった)長明にしてはじめていい得たことばである。 
5 用語にみる《人と栖》の変化
方丈記の主題に関わる《人》と《栖》を表す用語が、全編を通じてどのように展開して行くかを見たのが表C.3 である。まず、《人》については、安良岡も言うように、7 章で《人》は《身》と《心》にわかれ、以降後編を通して《人》は長明自身を指し、自らの《心》にウエイトが置かれて行くようになる。
一方、《栖》については、8 章に、“その家の有様、世の常にも似ず”、“所を思い定めざるが故に、地を占めて造らず” とあり、また9 章に、“仮の庵のありよう、かくの如し”、“その所のさまを言はば” とあって、この辺で《栖》が、場所や環境を表す《所》、《地》と、建築空間を表す《家》、《庵》に、はっきり使い分けられていることがわかる。前にも述べたように、住居が移動式になったことにより、《家》と《所》すなわち《住居》と《敷地》の別が、意識の上で明らかになったことを示している。このように《栖》は、8 章で分別が明らかになって以降は、全く趣が変わる。すなわち、前編で、敷地を意味する《地》が多く使われているのに対し、後編では、それが特定の日野山という《所》を指すようになり、また前編で、一般的に《家》と呼んでいたものが、後編では《庵》(粗末な小屋)として、《方丈》を指すようになる。つまり、《栖》は、前編の一般的な《地、家》から、後編の長明の造り住んだ《日野山の方丈》を指すようになる。それも、最後には《栖》への執着は退けられて、自らの《心》への集中に終わる。 
6 方丈跡地の環境
方丈の建てられた地とされる「日野外山」は、現在の京都市伏見区にある。京都駅から約4km、奈良街道を宇治に向う途中にあり、東に醍醐の山から南につらなる(標高300m〜400m)山々を背負い、西に御倉山と呼ばれる丘を見る、ゆるやかな山裾に立地した集落である(図A.1、図D.2)。
この日野の集落の中央にある法界寺(日野薬師)から、東の山の供水峠に向って1km余りわけ入った標高約150m の山中に《長明方丈石》の石碑がある。
そこは、集落のはずれから渓流添いの山道を約300m 登り、正面に見上げた、高さ約7mの大きな岩の上である。岩の上は南に少々傾斜を持ち、平らな部分は、東西約6m、南北約7m あり、方丈がようやく収まる程度であるが、周辺の歩きまわれる範囲は結構広い。
山の斜面が迫った北側は、木立に覆われ、南側は渓流の谷で冬の日当たりが期待できる。西側は原文にもあるように伏見の方向に開けているが、現在は木立が茂りすぎて眺望はよくない。東側は渓流が左手奥に曲がり、周りの木立の斜面が程よく迫り、約10m × 14mの落ち着いた窪みの空間をつくっている。
“その所のさまを言わば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず” の原文どおり、薪は豊富で、渓流からきれいな水を引くことが出来る。水洗や洗濯も容易で、清潔を保ち易く、衛生的である。長明が晩年、心を許した法友、日野家の主、禅寂が麓にいて、なにかと便宜も得やすく[文献9]、数百米歩けば、農家から食料を得ることも容易だったであろう。健脚だったという彼には、京都への日帰りは容易だった筈である。原文によれば、散策、遊行の範囲は、供水峠から尾根伝いに山の東側の地域にまで及んでいる。方丈は、そういう広い行動圏の拠点としても絶好の位置を占めていた。
この土地は、地震はもとより、風水害の恐れもない。市街地でないから、火災延焼の心配はなく、近隣に対する気兼ねや煩わしさもない。飢饉もなんとかしのげるであろう。周囲はむしろ要害といえる地形で、意識的に触れることを避けたと考えられる戦禍も、ここまで及ぶことはあるまい。長明の時代、災厄に対する技術は未発達で、防災と言えば免災によるしかなかったであろう。おそらく原文では、前編の記述との重複を避けるために省略したであろう《災厄に対する配慮》が、並々でなかったことは、視察によってよくわかった。
以上、方丈跡地の視察調査からも、方丈は、その建っていた土地とあわせて見なければならないことが明らかである。とくに土地選定のウエイトは大きく、方丈をそのように身軽に設計したのは、むしろ土地選定の為だったといえる。前にも延べたように、その意味でも《方丈と日野山の土地》のセットこそ長明のデザインであると言わなければならない。 
7 長明方丈石の碑文
鴨長明方丈跡の傍らに1 基の石碑が立っている。一重笠塔婆と称すべき形式で、低平な台石の上に断面偏平な軸石を立てる。軸石の表には「長明方丈石」と大文字であらわし(図D.4)、裏面には、別記のような長文の銘を刻んでいる。この両面は平滑に仕上げてあるが、両側面は粗面のままとなっている。軸石上には屋根石を乗せる。寄棟造形で、軒先には軒付形を作る。軒反りはなく、屋根面にはむくりがある。
この石碑の銘は、1 行25 文字、計10 行からなる(図D.5)。雅語を多く用い、異体字も混ざっているので、必ずしも文意が通じ難いが、蓮胤上人(鴨長明)を偲んで、明和壬辰年(九年=安永元年・1772)に建立されたことは確かである。方丈当時を示す資料でないにしても、ほぼ同時代に刊行された「都名所図絵」(図D.3)とともに、江戸時代中期にはここが方丈跡と信ぜられていた由諸の一端を示すものとして価値がある。なお軸石は砂岩であるが屋根石は花崗岩であり、材質に差があり、納まりも悪い。したがって当初からの組み合わせかどうか、検討を要しよう。 
8 方丈跡地の測量調査
方丈跡地とされる日野法界寺の裏山を1990 年2 月はじめて訪れて2 年が経過した。筆者らはこのとき観察した周辺環境から判断して、方丈記の中に示された環境に酷似しており、方丈跡地であると感じ、その立地環境の客観的視点を得るために測量をおこなった。測量を行う前準備として、土地所有者を探した。法界寺住職、地元の人々にたずねたが所有者の確認はできず、京都市教育委員会および営林署に問い合わせ、法務局に直接でかけその地籍図と土地台帳の閲覧を求めたが特定できなかった。
筆者らは法界寺の住職と相談の上、所有者は後日探索することとし現地測量を行うこととした。
調査期日は、1992 年2 月27 日・28 日の両日であった。調査メンバーは筆者らの他に、伊藤潤、石井宏幸、岡崎恵子、古津利恵、二位貴子(以上、神戸芸術工科大学環境デザイン学科学生)、守隆(同学科研究生)が参加した。これらに加えて、測量の技術指導として藤田尚三郎(奈良県農業振興公社常務理事)、増田雅勇(同参事)の協力があった。また、28 日には鈴木成文、林昌二、林雅子、小倉善明、吉武直子の見学もあった(図D.6、D.7)。測量は方丈石を中心に約40m 四方の平板測量とレベル測量により東西および南北断面の測量をおこなった。先に紹介した「長明方丈石」の石碑の基段の北西の角を起点とし、測量の仮標高を150m とし測量を実施した(図D.8)。
その結果、当初から予想していた以上に岩塊は大きく、その上部は約7m × 6m の大きさを持つことがわかった。そして東側には小水系があり南側では小さな落水となり水音を立てている。西側から北へは供水峠や炭山へ抜ける道につながる幅員約1m の道がある。周辺に植わっている杉・桧はまさに自生したものらしく樹齢も様々で生長も疎であった。断面図を見ると谷川の水系から、東側では約5m、南側では約10m の落差があることがわかる。次いで、測量の基点の一つであるNo. 4 から周辺を観察したところ、実測平面図に示したA ポイントからB、C、D、E、F、G、H、にかけて、岩の頭を少々加工した跡を発見した。そこで筆者らはそのレベルを測り確認したところ、A=149.15m、B=149.07m、C=148.87m、D=148.665m、E(樹木の根が大きくからみ測定不可能)、F=148.46m、G=148.25m、H=147.86m となり、それぞれのポイントの間は約2cmから20cm 程度の傾斜をもっていることが判明し、もしこの岩に添って懸け樋を渡し水を流すと充分流れるのではないかという取水のルートの仮説が、測量を実施した現地で提示された。 
9 方丈跡地における懸け樋の再現
測量の結果、方丈に引いた懸け樋をのせた跡と仮説される石の上端A–H のポイントを確認した。次いでこの部分に、日野の外山に自生する竹で懸け樋を作り実験することにした。
この懸け樋の再現は、1992 年5 月25 日に実施した。筆者らの他に調査協力者として、守隆、二位貴子、黄睦修、張亭菲の4 名が参加した。
方丈跡地に近い竹林の所有者から3 本の竹を伐採する許可を得、枝を落として二つ割とした後、約5m に束ねた材料を約600m 奥の方丈跡地に運んだ。もし長明が当時懸け樋を作ったとすると、おそらく山の谷合に入る入口に近い竹林の竹を使い、懸け樋を作ったであろうし、方丈を建てた建築材料も人力で運んだと考え、我々も2 人1 組で運んだわけであるが作業をした場所から約600m の道のりは決して楽ではなかった。
現地に運んだ竹を一番低いポイントG から順にF、E、D、C、B へと順にのせて最後の1 本を渓流の取水口と思われる部分にのせると凹面状の水受け断面を持つG ポイントまで水は一気に流れた。この作業のプロセスは張亭菲がビデオに収録した。
この作業により本文の7 行目にある、「その所のさまを言はば南に懸樋あり。岩を建てて、水を溜めたり。」とする懸け樋と岩を建てて水を溜めた可能性の一つが確認されたと言ってよい。
筆者らは、その作業の後方丈跡地を出て、長明がよく歩いたと思われる太子堂を経由して供水峠を往復した。その間の約1 時間半の間、その懸け樋は、音を立てて流れ続けた。
その夕刻4:00 過ぎ、これらの実験に使った懸け樋を撤去し帰途についた。東川上流取水部より方丈石を見る水溜めを見る 
10 方丈建設位置の仮説
方丈記によると「所を思ひ定めざるが故に、地を占めて造らず」として場所を選んだ方丈の位置は、(1)「谷しけければ、西晴れたり。」と西側が開けた場所であった。さらに(2)「その所のさまを言はば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。」、また(3)「東に、三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。」とあり、東側に台所を置いたとする。
この3 つの条件を満足する場所を測量を試みた敷地の上に、方丈の大きさ(約3m×3m)を考慮しつつ検討すると次の2 案が示される(図D.8)。
A 案
現在の方丈石碑の南側に隣接して建てられた案である。この利点は南に広く外部の庭空間を取ることが可能となり、東の台所側の出入り口からは容易に渓流にアプローチできた。欠点を言うと背後の山に接近し過ぎていることにより、斜面を流れてくる雨水をどのように防ぐか、懸け樋による渓流からの取水はかなり上流に求めなければこの案の建物の南側まで懸け樋の水は到達しないことである。すなわち懸け樋の長さが少々長くなることである。
B 案
敷地の中心にある方丈石の真上に方丈がのったと想定したものである。この位置が想定された最も有力な理由は、懸け樋の位置と岩を立てたと思われる人の手によって加工されたと思われる凹型の水受けにある。一方欠点は、南側や東側、西側にスペースが少なく、建物への出入りが難しいことから、渓谷へのアプローチが少々難しいことがあげられよう。このB 案で考えると、かつてはこの大きな方丈石の回りには土や石が付着しており、上部ももっと平坦であったのではないかと思われる。 
11 あとがき
古来、都市や集落或いは築城における土地の選定については、常に十分な注意がはらわれてきた。それが軽視されて、しばしば災害を招くのは比較的近年のことである。このたび、方丈記の記述と跡地の調査から、長明の住探求にかけた情熱と土地選定の重要さを改めて確認することとなった。
筆者らが、二度目に方丈跡を訪れた時は、方丈石から約400m 下がった山裾まで開発がすすみ、跡地周辺の姿が急速に変わることに危機感をもった。このことが簡略な測量でもと調査を急いだ理由である。
今後は、より精緻な現地の調査・測量を行なうこと、長明が遊行した地域まで範囲を広げて方丈の環境を考察すること。さらに、外部環境から方丈の位置をおさえ、その復元に寄与すること等を課題としたい。 
長明における《住》の探求方丈記について調べたこと
要旨
鴨長明の方丈記は、《人と栖の無常》を主題として《住》の意義を深く探求している。前編では、自ら遭遇した大火、辻風、遷都、飢饉、大地震の実態および都市生活上の悩みを通して、《人と栖の無常》の諸相を客観的、科学的に叙述している。そこでの彼の態度は概ね受身的、消極的で、それが積極的に転ずるのは、後編において、彼が住まいの遍歴の末、安住の栖を求めようと意図してからである。
《方丈》は、ミニマムの居住要件を備えた生活上の最小空間であり、移動可能な組立式構造であった。むしろ、敷地選定を容易にする為に、身軽なプレファブにしたといえる。本文および跡地の視察調査からみて、《日野山》は、諸災厄の恐れも都市生活の煩わしさもなく、かつ基本的居住条件を備えるよう周到に選定された絶好の土地で、《日野の方丈》という《所と家》のセットこそ、長明のデザインであると言わなければならない。
本文の流れは、時間的経過に沿っており、章を追えば主題の展開がわかる。用語について調べてみると、後編では、《栖》すなわち環境を表す《所と家》は《日野山の方丈》となり、《人》は明らかに長明自身の《心》に集中して行く。前編で話題の中心であった《無常》も、後編で安住の栖を得てからは、そこで積極的創造的な《生》の営みによる《無常の克服》に転ずるが、最後は死を前にしての反省の表白に終わる。長明が身を以て体得したこの流れは、ボルノウの思考の過程と驚くほどよく一致する。それは結局《住》の探求であったといえる。
はじめに
本稿は、去る1992 年5 月9 日、人間・環境学会で、《方丈について調べたこと》と題して行なった講演の内容をまとめ直したものである。
よく知られているように、方丈記の主題は、《人と栖の無常》にあって、扱われている《人と栖》は、まさにこの学会が対象とする《人間・環境》にほかならない。しかも、全編を通して鴨長明の《住》への真摯な探求が表白されている。その意味でもこの古典は、私達にとってとくに重要であるといえよう。
筆者が、方丈記にはじめて関心を持ったのは、約20 年前で、“広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり” の一句に、《人間にとって最小限の広さ》の問題が凝縮されているように思った。方丈記全体を、より深く調べようと思い立ったのは数年前、神戸に移って、長明が一層身近に感じられるようになってからである。この1 月には、建築学会関東支部に、2 編を発表した[文献18]。本稿は、これを主とし、その後行なった跡地調査の概要や、原文の用語の考察[文献22]などを加えたものである。
1 方丈記の構成と主題(1章)
方丈記の底本とされる《大福光寺本》は、400 字詰原稿用紙にして二十数枚の短編で、本文には句読点も改行もなく、ほぼ共通の見解はあるものの、読者の数ほど読み方があるといわれている。すなわち、読み方によって、主題、意図、構想等をどう見るかが変わり、本文の章、節の分け方も変わってくる。
筆者は安良岡康作の[文献6]をテキストとした。これは、原文を表A.1 のように12 章に分けている。筆者は、まず前編(1〜7 章)、後編(8〜12 章)を大別し、次に、それぞれの中に序の1 章と結びの12 章を分け、残りの中で、前編では五大災厄を扱った2〜6 章と都市生活の悩みを扱った7 章を、後編では方丈と日野山の様子を述べた8、9 章と、草庵生活の味わいを述べた10、11 章を分けるのがよいと考えている、なお、重要なことは、全編が年月の時間的経過に沿っていることで、とくに前編と後編の間に、約25 年もの隔たりがあることは、注意されてよい。細かくは、五大災厄も発生順で、しかも、叙述の長さが災厄の長いものほど長いことも指摘されている。原文の解釈や考察の援けになるよう、長明の年譜(表A.2)、長明の住まいの遍歴(表B.1)、京都付近の地図(図A.1)を掲げておいた。
原文は、“行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず” にはじまる。一見、不変、常住と思われる現実は、よく観照してみると、変遷、無常の相が認められる。世の中の《人と栖》も、また無常である。第1 章は、《人と栖の無常》が本書の主題であることを明らかにし、都市に住む人々とその家々が、いかにうつろいやすく、はかないものであるかの実相に注目している。全編をひとつの奏楽にたとえれば、2 章以下は、この主題が展開して行くヴァリエーションであると見ることもできる。長明がみずから、生涯をかけて、いかに《人と栖の無常》と取り組み、その解決としての、《住》の問題を追求したかが記されていく。 
2 五大災厄(2〜6章)
長明は、23 才から31 才までの間に、大火、辻風、遷都、飢饉、大地震の5 つもの稀に見る大きな災厄を相次いで体験した。しかも、どの場合にも、長明が立ち会ったらしいことは、現象の描写が、現在形を用いた、迫力のある表現になっていることからも窺われる。福原までも、彼は自ら出向いているのである(4 章)。たとえば、安元の大火について、原文ではこう言っている。
“去んじ安元三年四月二十八日かとよ。風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時許り、都の東南より火出で来て、西北に至る。果てには、朱雀門・太極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜の中に、塵灰となりにき。火元は、樋口富小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
吹き迷ふ風にとかく移り行く程に、扇を広げたるが如く、末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近き辺りは、ひたすら、焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、遍く紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして、一二町を越えつつ、移り行く。その中の人、現し心あらむや。或は、煙に咽て倒れ伏し、或は、焔にまぐれて、忽ちに死ぬ。或は、身一つ辛うじて遁るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら、灰燼となりにき。その費えいくそばくぞ。”(2 章:3–13 行)
まず、日時、気象状態、特に火災に影響の大きい風について記し、出火地点と延焼の方向、主要な被害について述べ、火元の聞き込みを披露している。次に、火災の実相を具体的、動的に描写し、扇形に拡がる延焼、風に煽られる煙や焔の動きなど、臨場感のあふれる表現によって、火の中にある《人と栖》の無力ではかない様子を描いている。つづいて、人、家、家畜、資財のおびただしい被害を量的に挙げ、これほど危険な京に、家を作ろうとして、財を費やし、心を労することが無益なことを訴えている。
他の4 つの災厄については省略するが、これらを通していえることは、第1 に、災厄現象に対する記述と描写が、簡潔ながら実にヴィヴィッドで、しかも極めて客観的、科学的である点である。長明は、現場に立ち合ってはいても、災厄へのかかわり方は傍観者的であるといわれる。しかし、災厄に巻き込まれず、傍観者に終始したからこそ、《人と栖》の惨状を直視し、迫真の客観的記録を残し得たともいえるのではないか。
第2 に、《栖》としては、住居だけでなく、役所や社寺などの都市施設、さらに、それらの建つ場所、都市そのものから、田舎までひっくるめて扱っている。つまり、《栖》は《環境》と言い換えてよい程広い意味に使っている。一方《人》についても、貴賤、貧富を問わず、さまざまな立場、角度から見ており、とくに民衆の立場、弱いものの立場にたつことを忘れていない。
第3 に、災厄の範囲は、火、風、地、水などの自然的災害だけでなく、遷都のような社会的災厄も扱い、さらに飢饉のような複合的災厄に及んでいる。5 章では、旱、大風、洪水で五穀が不作となり飢饉を生じ、さらに二次的に伝染病が発生し、盗みが横行するようになったこと、4 章では、遷都の影響が、都市の景観や風俗に及ぼす変化にまで注目している。さらに、これらの災厄時には、人や住まいが直接被害を受けるだけでなく、深刻な不安、動揺といった心の痛手を受けることもあわせ記している。
第4 に、彼は災厄をこれほど幅広く捉えながら、当然災厄として扱われるべき《戦禍》について全く触れていない。これは、意外と言うより、明らかに意図的としか考えられない。当時は、《戦禍》の影が、なお色濃く残っていた為、触れることを敢えて避けたのではないか。しかし、《戦禍を避けること》は、方丈の場所を選ぶに当たっての、《隠れた選定条件》になっていると考えられる点で重要と思われる。
全般的に見て、災厄に対する著者の態度は、前編(7 章をも含め)では、科学的ともいえる客観的対応に終始し、したがって、消極的、受身的印象を免れない。それが積極的、能動的に転ずるのは、後編で、彼が方丈の建設を意図するようになってからである。これを、対災害的観点から見れば、前編は、災厄を客観的に記述する災厄科学の段階で、防災的対応に転ずるのは、後編に入ってからである。防災的といっても、いわゆる防災工学的なものではなく、あとで述べるように、災害のない、或いは災害の少ない土地の選定による、いわば免災的な対応である。 
3 世の中に生活する悩み(7章)
この章では、災厄時ではない、平常時における《人と栖》の問題として、およそ世の中に生活する以上、おのおのの栖のある環境より(“所により”)、それぞれの人の境遇にしたがって(“身のほどに随いつつ”)、何かと心に不安、動揺を生ずるものであるとして、その心の悩みを具体的に列挙している。
“もし、己れが身数ならずして、権門の傍らに居る者は、深く喜ぶ事あれども、大きに楽しむに能はず。嘆き切なる時も、声を揚げて泣く事なし。進退安からず、立居につけて恐れをののくさま、譬へば、雀の、鷹の巣に近づけるが如し。
もし、貧しくて、富める家の隣に居る者は、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、諂ひつつ出で入る。妻子・僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心、念々に動きて、時として安からず。もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災を遁るる事なし。もし、辺地にあれば、往反煩ひ多く、盗難の難はなはだし。”(7 章:4–11 行)
一般的に、身分の低い者、貧しい者ほど不安は大きいが、都市生活者にも地方生活者にも災厄の恐れはあり、富者にも貧者にも共通する悩みがあることも指摘している。結局、都市生活における《相隣関係》や《対人関係》など、環境心理や都市計画上の問題を取り上げ、個人的にはその解決が容易に得られない深刻さを訴えている。なお、安良岡は、“長明の、人間への観察、凝視は、ここで、《所、身、栖、人》から、それらの主体としての《心》に、発展し、集中してきている。” としているが、このことは9 で改めて触れることにしたい。 
4 方丈の広さ(8章)
8 章の記述から、長明の住まいは、表B.1 のように移っていったことがわかる。《父方の祖母の家》を継ぐ前に、生まれ育った《生家》が別にあった筈であり、また、記述にはないが、日野山に落ち着く前に、《方丈》をどこかで組み立てて短期間住んだかもしれない。《方丈》は、いうまでもなく長明の独創といえる。彼は設計に格別興味をもち、かつ才能も豊かだったと思われる。
方丈は10 尺平方。祖母の家はその1,000 倍という。やや誇張もあろうが、付属室も入れて2,000 坪程度はあったのであろう。ところで、100 平方尺というのはどういう広さか。ロンドン大学のP. コウアン教授によれば、人間の基本的行為約45 種を選び、室の面積を大きくしていった場合、それら行為の幾種類がそこで行い得るかを調べた結果、100〜150 平方呎で40 種類に達し、それ以上は増え方が急に減ることがわかった。又、4 つの代表的な病院における室面積の頻度分布でも、100 から150 の間に大きく鋭いピークが見られたという[文献17]。
教授は、乗員4 人が長時間多くの作業を行なった宇宙船アポロの司令室の広さも、100〜150 程度に過ぎなかったので、最低この程度で大抵の人間の行為や活動が出来るはずだと言っている。更に、宇宙船に関するNASA の研究[文献25]では、少人数の乗員1 人当たりの最小気積は、数か月以上の場合600 立方呎必要であるという(方丈は700)。もっともこれは密閉空間の場合だが。これらによって、方丈が人間にとってどういう広さであり、大きさであるかが理解できよう。方丈は、人間生活上の最小空間であるといっていいだろう。
“とかく言ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折々に狭し。その家の有様、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺が内なり。所を思ひ定めざるが故に、地を占めて造らず。土居を組み、打覆を葺きて、継目ごとに掛金を掛けたり。もし、心に叶はぬ事ならば、易く、外へ移さむがためなり。その改め造る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わずか二両、車の力を報ふ外には、さらに、他の用途いらず。”(8 章:16–20 行)
“いま、日野山の奥に跡を隠して後、東に、三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南(に)、竹の簀子を敷き、その西に、閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、傍に、普賢を懸け、前に、法華経を置けり。東のきはに、蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に、竹の吊棚を構へて、黒き皮籠三合を置けり。即ち、和歌・管弦・往生要集如きの抄物を入れたり。傍らに、琴・琵琶、各々一張を立つ。いはゆる折琴・継琵琶これなり、仮の庵のありやう、かくの如し。その所のさまを言はば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。。”(9 章:1–8 行) 
5 組立式・移動式住居(8、9章)
《方丈》の最大の特徴は、それが掛金を使った、組み立て式の住居であり、容易に運搬・移動できる、プレファブ住宅であった点である。これこそ長明の創意によるものであったことは、原文の調子や折琴、継琵琶の工夫からみても明らかであろう。当時は、住居を移設することは稀ではなかった。福原遷都の4 章にも、“日々に毀ち、川も狭に運び下す家、いづくに造れるにかあらむ” とある。しかし、《方丈》の場合は、はじめから、運搬・移動を意図して造っているのである。その大きさも、運搬・移動を容易にするために、あえて必要最小限のもの、身軽で小規模のものとしたと考えられる。
“所を思い定めざるが故に、地を占めて造らず” とあるように、《方丈》の場合重要なことは、《住居》が《敷地》と関わりなく、前以て造られた《プレファブ住宅》だったので、《敷地選定》が、事後に行われている点である。ここで、《住居と敷地》の関係に、これまでの、《既存敷地》が予定されている場合とは異なる新しいパラダイムが開かれたことになる。それまでは、《住居》と《敷地》は一体のものとして同時に設計の対象となっていたのに対して、ここでは別々の対象として、切り離される。すなわち《住居》と《敷地》、《家》と《所》が、設計者の意識の上ではっきりと分けられるようになるのである( 9 参照)。《方丈》の跡地を見ると、長明は《敷地選定》においても、きわめて意欲的で、しかも有能な人物であったことがわかる。 
6 方丈のしつらえ(9章)
方丈における設備や調度のありようから、長明が日野山の方丈で、どのような生活を営んでいたか、どういうことを意義あることとしていたかを窺うことができる。また、方丈が最小の、しかも孤立した住まいである点で、ミニマムの居住要件がそこに表現されていると見ることもできよう。
すなわち、《食》のための竃、《寝》のための床、《死生をおもう》仏具、絵像、経文、《著作》のための資料、《趣味、奏楽》のための楽器がそれである。《死生をおもう》ことについて、ハイデッガーは、“人間が存在していることは、死すべきものとして地上にいることであり、それはまた、住んでいるということである。” という[文献15]。さらに、生活要件としての《水》と《薪》が手近に得やすいこと、浄土のある西方へ視界が開けていること、周辺勝地への散策、遊行に心を慰め得ることを付け加えている。
では、一体《方丈》は、どんな姿のものであったか。原文の記述によって画いた幾つかの復元想像図の中で、図B.1 は、原文に忠実な平面図。ほかに、生活研究所の小泉和子によるものは草庵風で、生活の匂いが濃厚である[文献14]。川田伸紘は、組立による移動の可能性と、長明が下鴨神社神官の家の生まれであることから、草庵風のものではなく、社殿の流れを汲む造りであったと推論している[文献13]。 
7 方丈の環境(跡地調査) (8、9章)
方丈の建てられた所は、京都市の南南東にあたり、法界寺のある日野の集落から、東へ1 キロ余り、供水峠の方へ入った、標高約150 米の山中で、《長明方丈石》の石碑のある位置であるといわれている。一見して、筆者も、ここは長明の方丈に相応しい位置であると感じた[文献22](図D.2、図D.8 参照)。そこは、平地から渓流添いに山道に入って数百米、正面に立つ高さ数米の大きな岩の上で、平らな部分は、方丈がようやく収まる程度だが、周辺は結構広い。北側は、山の斜面が迫り、木立に覆われており、南側は渓流の谷で、冬の日当たりが期待できる。西側は、原文にもあるように開けてはいるが、今は木立が茂りすぎて眺望はよくない。東側は、渓流が左手奥にカーヴしていて、木立の斜面が程よく迫り、囲まれて落ち着いた感じをつくっている。
“その所のさまを言はば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず” の原文どおり、薪は豊富で、渓流からきれいな水を引くことが出来る。水洗や洗濯も容易で、清潔を保ちやすく、衛生的である。長明が晩年、心を許した法友、日野家の主、禅寂が麓にいて、なにかと便宜も得やすく[文献6]、数百米歩けば、農家から食料を得ることも容易だったであろう。健脚だったという彼には、京都への日帰りは容易だった筈である。原文によれば、散策、遊行の範囲は、供水峠から尾根伝いに山の東側の地域にまで及んでいる。方丈は、そういう広い行動圏の拠点としても絶好の位置を占めていた。
この土地は、地震はもとより、風水害の恐れもない。市街地でないから、火災延焼の心配はなく、近隣に対する気兼ねや煩わしさもない。飢饉もなんとかしのげるであろう。周囲はむしろ要害といえる地形で、意識的に触れることを避けたと考えられる戦禍も、ここまで及ぶことはないと思われる。長明の時代、災厄に対しては、免災によるしかなかった筈で、もっぱらそういう土地を探しだす他はなかったであろう。おそらく、原文では重複を避けるために省略したであろう《災厄に対する配慮》が、並々でなかったことは、視察によってよくわかった。
以上、方丈跡地の視察調査からも、方丈は、その建っていた土地とあわせて見なければならないことが明らかである。とくに土地選定のウエイトは大きく、方丈をそのように身軽に設計したのは土地選定の為だったともいえる。その意味でも、《方丈と日野山の土地》のセットこそ長明のデザインであると言わなければならない。 
8 日野山の草庵生活(10〜12章)
日野山に方丈を求め得た(家と所すなわち栖を得た)ことによって、長明は《住》に対する満足、とくに心の満足を味わい、充実した晩年を過ごすことが出来た。このことは、彼の三著作がここで完成し、死を迎えるまでここを離れなかった(らしい)ことによっても明らかであろう。
10 章で、“(栖は)静かなる望みとし、(人は)憂へなきを楽しみとす” と言い、又安良岡が、“彼は日野山の草庵においてこそ、《人と栖》の無常を超越したあり方を証得することが出来たと信じているのである[文献6]” と述べているように、10、11 章は、方丈記のクライマックスであり、11 章末の、“住まずして、誰か悟らん” は、自ら悩み、考え、造り、住んだ人にしてはじめて言い得ることばである。ただ、余命の少なくなった彼としては、このように草庵を愛し、閑寂に執着する《住の安楽の追求》が、仏道修業の妨げとなりかねないことを、“静かなる暁、この理を思い続けて、” 反省し、表白せざるをえなかった。それが12 章であろう。 
9 用語にみる《人と栖》の変化(1〜12章)
表C.3 では、方丈記の主題に関わる《栖》と《人》を表す用語が、全編を通じてどのように展開して行くかを見た。まず《栖》について、8 章に、“その家の有様、世の常にも似ず”、“所を思ひ定めざるが故に、地を占めて造らず” とあり、また9 章に、“仮の庵のありよう、かくの如し”、“その所のさまを言わば” とあって、この辺で《栖》が、場所や環境を表す《所》、《地》と、建物、空間を表す《家》、《庵》に、はっきり使い分けられていることがわかる。前にも言ったように、住居が移動式になったことにより、《家》と《所》の別が、意識の上で明らかになったことを示している。
次に《人》について、安良岡は、7 章で、《人》が《身》と《心》に分かれ、《心》に集中してきていることを指摘している。表C.3 によっても、7 章で《身》と《心》が分かれ、後編を通じて《人》は長明自身を指し、自分の《心》にウエイトが移っていく様子がわかる。
もう一度《栖》に話を戻すと、8 章で分別が明らかになって以後は、全く趣が変わる。すなわち、前編で、敷地を意味する《地》が多く使われているのに対し、後編では、それが特定の日野山という《所》を指すようになり、又前編で、一般的に《家》と呼んでいたものが、後編では《庵》(粗末な小屋)として、《方丈》を指すようになる。つまり、《栖》は、前編の一般的な《地、家》から、後編の長明の造り住んだ《日野山の方丈》を指すようになる。それも、最後には《栖》への執着は薄れて、もっぱら自らの《心》を問題にするようになるのである。 
10 《無常》について(ボルノウのメッセージ) (1〜12章)
では、《無常》の方はどうなって行くか。前編での災厄下での無力、はかなさ、都市生活の悩みは、後編では、一転して、日野山の方丈造りへの集中、そこでの貧しいながら心に叶う生活のエンジョイへと展開して行く。一口に言えば《住の探求》であり、言い換えれば、《創造的生》による《無常の超克》である。しかし、それも結局は空しく、12 章の表白におわる。それにしても、《無常》の反対語が《常住》で、《住》を含むのは、意味深いことといえよう。
ボルノウの《人間と空間》[文献16]にある、《日本語版への序文》の思考には、あたかも、このような方丈記の《流れ》を知り尽くしているかのような著しい一致が見られる。“人間の現存在の根本規定である、空間と時間のなかでわれわれの生活はいとなまれている。時間は流動的なもの、持続性をもたない不安動揺の要素である。時間性とは無常ということなのである。人生はこの無常に支配されていて、これと対決しなくてはならない。他方、同時に時間性は創造的要素も意味する。すなわち時間性はつねに新しいもの、前もってそこになかったものをもたらす。これに対して空間は、固定しているもの、持続しているものである。そして、人間の生活が持続性をねらって努力するときは、空間のなかの一定の位置に自分に属する《生活空間》をつくりださなくてはならない(Wohnen)。われわれは、住まうことのなかに人間の生の根本的な構えを見とるのである。ハイデッガーの言葉を借りて言えば、人間は住まうことをまず学ばなければならないのである。言うまでもなく、いかなる住まいも最終的なものではない。《時の力》は、もっとも確固とした家屋をもしだいに侵食し、無常はわれわれのすべての住まいを抱きこんでしまう。このようにして一抹の憂うつが、もっとも静寂平安な住宅の上にもやはりただようのである。”
この序文は、20 年前1972 年に、京都で書かれている。長明は、生涯をかけての探求の末、自ら日野山に方丈を造って移り住み、創造的な生活を営んだ。ここで、方丈記が書かれたのは780 年前、1212 年である。 
「方丈」の庵長明における住の探求
鴨長明が(1155–1216) が日野山に「方丈」を構えたのは、彼の晩年、54 歳の時(1208)であった。「方丈記」(1212) の本文には、“末葉の宿りを結ぶ” とあり、続いて“仮の庵” と呼んで、それが一時的の粗末な建物にすぎないという表現をとっている。もともと上代語で「庵:イホ・イホリ」は、「人の宿り得る建物として、仮設的で、貧弱で、粗末なもので、目につく壁体はほとんどなく、屋根は草葺きで、生活のシェルターとして、内部空間の外界からの遮断性が希薄なもの」を指すとされている[文献20]。今日、われわれがこの語から想起するのは、出家した人々が隠棲する粗末な建物だが、仏教的無常を反映しつつ、数寄・風流と結びつき、やがて茶室として開花する傍系の住まいの流れであろう。物質的に貧しい家屋が、精神的な修業の場とされることは洋の東西を問わないが、木や草を材料とする遮断性の乏しい「庵」は自然と呼吸を合わせて生きてきたわが国の人々の好みに合ったといえる。
隠遁者が草庵生活、漂白生活を営むことは、当時一般に行なわれており、大原や日野には彼らのコロニーがあったと言われている。同時代には、西行(1118–1190) や慶滋保胤(931?–1002) がおり、古くは唐代の白居易(772–846) がいて、長明が敬慕するこれらの先輩にならったことは明らかであろう。ただ「方丈」の場合には、長明ならではと考えられる住の本質に関わる特徴が認められるので、以下にそのことを述べたい[文献18]。
“行く河の流れは絶えずして…” にはじまる序章は、方丈記の主題が「人と栖の無常」にあることを明らかにしている。言い換えれば、「人間とその空間の時間性」を問題としているのである。長明は、23 歳から31 歳までの間に、相次いで5 つの稀に見る大きな災厄:大火、旋風、遷都、飢饉、大地震に遇い、人と栖の無常を深刻に体験した。彼は、どの場合にも現場に
出向いており、惨状を客観的、科学的に記している。災厄は、自然的・社会的災厄から、二次的あるいは複合的なものや心理的被害に及び、栖は、住居だけでなく都市や田舎までも対象とし、人も、貴賤、貧富を問わず、特に弱い民衆の側に立つことを忘れていない。
その意味で彼の記述は対災厄上参考になる点が少なくないが、結局彼は防災よりも免災の立場をとり、京都の市内は救いようがないと見て、外に災厄の恐れのない土地を求めるのである。
さらに、例えば、「遷都」のところでは、1180 年の福原への慌ただしい遷都と還都の様子を扱っており、“古京は既に荒れて、新都は未だ成らず。ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり” と述べて、計画性のなさが人心に与える負の影響の大きさに注目している。
前編の終わりには、災厄時でない平常時でも、およそ世の中に生活する以上、対人関係や相隣関係等で何かと心に不安・動揺を生ずるものであるとして、その悩みを訴えている。これも都市内では解決が難しく、彼が選んだのは、都市外に「所」を求めることであった。
以上、前編で五大災厄と都市生活の悩みを扱う時の長明の態度は、おおむね受身的・消極的で、それが積極的に転ずるのは、後編で、彼が住まいの遍歴の末、安住の栖を求めようと意図してからである。
長明が、計画・設計して造った「方丈」は、“広さはわずかに方丈、高さは7 尺が内なり” という最小の大きさで、ミニマムの居住要件を備えていた。すなわち、「食」の竃、「寝」の床、「死生をおもう」仏具、絵像、経文、「著作」の資料、「奏楽」の楽器があり、「水」と「薪」が手近に得られることであった。
「方丈」の最大の特徴は、上に述べた「所の選択」の自由度を大きくするため、運搬・移動が容易な、掛金を使った組立式住居とした点であろう。“所を思い定めざるが故に、地を占めて造らず” とあるように、「住居」は「敷地」と関わりなく、前もって造られたプレハブ住宅で、敷地選定は事後に行なわれることになる。その結果、方丈記の用語にもみるように、「家」と「所」は長明の意識のうえで、はっきりわけられていたのである[文献18]。
「方丈」が建っていたという跡地は、麓からさほど遠くない、渓流添いの山中の大きな岩の上で、南は谷、北と東は山の斜面に程よく囲まれ、その広がりは「方丈」の狭さを十分補っていたと思われる。もとより災厄の恐れはなく、都市生活の煩わしさもない。心を許した法友のいる法界寺は近く、京都へは日帰りができ、散策・遊行の行動圏も広いまさに絶好の土地で、長明がいかに「所」の選択に力を入れたかがわかる。このような「日野山の方丈」という「所と家」のセットこそ長明のデザインであると言わなければならない。
日野山に「方丈」の庵を結ぶことができた長明は、“静かで、憂いなく”、物質的には貧しいながら、瞑想に、著作に、奏楽に、散策に思いのままの生活を楽しみ、心の満足を味わいつつ、充実した晩年を過ごすことができた。このことは、彼の3 著作がここで完成し、死を迎えるまでここを離れなかったことによっても明らかであろう。“住まずして、誰か悟らん” は、自ら悩み、考え、作り、住んだ人にしてはじめて言いえた言葉である。「人」も「栖」も「無常」という時間性に支配されており、「栖を拠点とする人の創造的生」のみが「無常」を超越し得る。長明はこのことを「日野山の方丈」において証得しえたと信じているのである[文献6]。
とはいえ、「人も栖も」結局は、時間の支配を免れることはできない。すでに余命の少なくなった彼としては、“草庵を愛し、閑寂に(執)着する” ことが、仏道修業の妨げになりかねないことを、反省し、表白せざるをえなかった。それが終章であろう。ただそれが、読む者に不徹底に響くのは、長明がなお草庵の閑寂に未練を残し、「住の探求」を捨てきれなかったからではないか。しかし、これこそ方丈記の新しさであり、長明の魅力であると思われる。 
引用、参考文献
[1] 鴨長明(山田孝雄校訂), 「方丈記」, 岩波書店, 1928, (岩波文庫)
[2] 鴨長明(西尾實校注), 「方丈記」, 「日本古典文学大系30」, 岩波書店, 1957.
[3] 鴨長明(簗瀬一雄訳注), 「方丈記」, 角川書店, 1967, (角川文庫)
[4] 鴨長明(小内一明校注), 「大福光寺本方丈記」, 新典社, 1976.
[5] 鴨長明(三木紀人校注), 「方丈記、発心集」, 新潮社, 1976, (新潮日本古典集成)
[6] 鴨長明(安良岡康作全訳注), 「方丈記」, 講談社, 1980, (講談社学術文庫)
[7] 鴨長明(佐竹昭広校注), 「方丈記」, 「新日本古典文学大系39」, 岩波書店, 1989.
[8] 安良岡康作,「方丈記」, NHK サービスセンター, 1984,(古典講読〔NHK カセット〕)
[9] 三木紀人(代表), 「方丈記、徒然草」, 集英社, 1980, (図説日本の古典)
[10] 冨倉徳次郎、貫志正造, 「方丈記、徒然草」, 角川書店, 1975, (観賞日本古典文学)
[11] 堀田善衛, 「方丈記私記」, 筑摩書房, 1971;新潮社, 1976, (新潮文庫)
[12] 馬場あき子, 松田修, 「方丈記を読む」, 講談社, 1987, (講談社学術文庫)
[13] 川田伸紘, 「《仮の庵》を復元する」, 「月刊太陽」, 1981.10.
[14] 小泉和子, 「方丈(草庵)の生活」, 「週間朝日百科日本の歴史5 中世T」, 1956.
[15] 阿部公正, 「学としてのデザイン」, 「デザイン思考」, 美術出版社, 1978.
[16] O. F. ボルノウ(大塚恵一他訳), 「人間と空間」, せりか書房, 1988, (原著1963)
[17] Cowan, Peter, “Studies in the growth, Change and Ageing of Buildings”, Transactions of the Bartlett Society, vol. 1, pp. 53–84, Univ. College London, 1963.
[18] 吉武, 「方丈記の建築的研究1 部、2 部」, 「1991 年度日本建築学会関東支部研究報告集」, 1991. *本章収録論文A およびB
[19] 吉武, 「方丈記の建築的研究3 部」, 「1992 年度日本建築学会関東支部研究報告集」,1992. *本章収録論文C
[20] 木村徳国, 「上代語にもとづく日本建築史の研究」, 中央公論美術出版, 1988.
[21] 若山滋, 「文学の中の都市と建築」, 丸善, 1991, (丸善ライブラリー)
[22] 吉武, 伊藤延男, 齋木崇人, 「長明方丈跡地の調査」, 「芸術工学’92 神戸芸術工科大学紀要」, 1992. *本章収録論文D
[23] 吉武, 「長明における《住》の探求」, 「人間・環境学会誌」, 創刊号, 1992.*本章収録論文E
[24]「大辞典」, 平凡社, 1936.
[25] 人間工学ハンドブック第2 版, 金原出版, 1972. 
 
 
「発心集」における〈生〉のゆくえ

 

行も好みに従ひて、もしは一偶・一句なりとも、縁を結び奉らん事は、さすがに易行ぞかし。されど、習ひ読まねば読までぞある。一偶を持ち奉る人は、これ即ち、信心は少なくて仏説を疑ひ、見聞は深くて微少の行と、人目を恥つるなるべし。これ極めて愚かなる事なり。ただ一文・一句なりとも、飢ゑたるに水をのむがごとく、遇ひがたく聞きがたき思ひをなして、縁をむすびたてまつるべし

鴨長明の手になる「発心集」の序は「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」という「仏の教へ」に始まっている。
たとえ墨染めの衣をまとい世の汚れから免れているようにみえるひとですら、その心の内実はなおつなぎとめ難い野鳥と、いつも馴れている家犬とが同居しているが如くに
不安定であり、仏道へのひたむきさを保持することは難しい、いわんや心知に縁遠く、名利におぼれ、五欲のなすがままになっている者などは堕地獄必定であろう、と「発心集」はいう。
さらに長明はみずからを「はかなく愚か」な心の持ち主であるという。そうした愚かな心を「仏の教へ」にもとづいて律しつつ、念には念をいれて浄土往生を遂げようとすることは、牧人が荒れ馬を御して遠き土地へと至るさまに準えられている。もっとも「此の心に強弱あり、浅深あり。且つ、直心をはかるに、善を背くにも非ず、悪を離るるにも非ず。」ともいわれているように、長明のこの心とていわば両義的なのであって、仏への志向を内在させていないわけではない。であればこそ「何にしてか、かく愚かなる心を教へんとする」というように、この心をその総体において確と仏へと導く手だてを模索してやまないのである。すなわち「師」とするにたらない「心」、むしろ導かれることを要する「心」とは、こうした1時にはあるやなきやも定かではなくなるような頼りなき「発心」(仏にならんとする心)を核とした己れの心の総体のことに他ならないのである。
むろん仏は衆生のそれぞれの器量に応じた説相でもって教(経)を説示している。したがって、長明とて仏に直接まみえることができるのであれば、「因縁・讐喩」を含め、しかるべき手だて(「法」)を施与せられ、その「教へ」に基づいて揺らぎなく仏道へと赴けるに相違ないのではあるが、悲しいかな、それがかなわぬ今、いかなる「妙なる」教説もそのままではiIこと長明そのひとにとっては「得る所は益すくな」いのであり、有意義な接点をもち得ない。そこで長明は己れにふさわしい仏法のありかを求めて、その手がかりを経論(「深き法」)ではなく、具体的な隠遁課(「はかなく見る事、聞く事」)の中に見いだそうとするのである。
短き心を顧みて、殊更に深き法を求めず、はかなく見る事、聞く事を註し集めつつ、しのびに座の右に置ける事あり。即ち、賢きを見ては、及び難くとも、こひねがふ縁とし、愚かなるを見ては、自ら萎むる媒とせむとなり。
すなわち、さまざまな隠遁者をめぐる説話群は望ましいものであろうとなかろうと、仏にならんと足掻きつづけた人々の具体的な痕跡を伝える生の素材として長明自身の「発心」のありようの点検・確認ないし再構築のために収集され、その軌跡が辿られ、意味づけられるのである。「仏・菩薩の因縁は、分にたへざれば是を残せり」として、”衆生”の発心諏に限定している理由もここにある。あくまでも一介の”衆生”にすぎない長明そのひとにとって応分な素材が収集されているのである。「誰人か是.を用いん。物しかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだことの中に、我が一念の発心を楽しむばかりにや」と長明はいう。
一見とるに足らぬように映るささいな事例と思しきことの中にも他のひとはともかく「短き心」しか持ち合わせぬ長明そのひとの「発心」にとってはかけがえのない要件が含まれているかも知れない、そうした思いから「発心集」の説話群は編纂されているのである。
ところで序の冒頭にいわれていたように、「心」の頼りなさ、煎じつめれば「発心」のあてにならなさは、それがたえず「名利の謬りにしづ」み、「五欲のきつなに引かれ」かねないところにあるといってよかろう。墨染めの衣をまとった者でさえ「そともの鹿、繰ぎがたく、家の犬、常になれたり」といわれるように、仏への志向性たるその「発心」は わが内なる煩悩(「家の犬」)の馴染み深さに比べれば所詮は山野を走り回る鹿の如き存在であって、繋ぎとどめることは難しいとされるのである。
このような「発心」の揺曳という事態は長明自身に即しでみた場合、よく知られた「方丈記」末尾の文章を想起させもしよう。
そもそも、一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに、三管の闇にむかはんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら、時を過ぐさむ。
長明は老い先短い今となって 隠遁者たる境界に心やすらこうとする己れをみいだし、そうした思いそれ自体がなお愛執ではないか、「仏の教へ」に違うありようではないかと、自戒・反省の眼差しを向けているのである。
もとよりその当初において隠遁者たらんとしたその理路は定かなはずであった。「世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道をおこなはむ」がため、すなわちひたむきな仏道修行のために他ならない。だが長明はなお「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と、己れの「発心」が純粋ならざることを早れるのである。隠遁という自ら選択した生の形式が、必ずしも「仏の教へ」にかなった行へと己れを導かず、「発心」を堅固なものたらしむるに至らないのではないかという疑念はさらに「もし、これ、貧賎の報のみつからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか」という自覚へと導きもする。「貧賎の報」であれ、「妄心」であれ、自らのさらなる内へと屈折していくこうした眼差しは端的には「宿業」の自覚に収敏するように むしろ”内なる他者”とでもいうべき地平へと長明を連れ出す。ここで長明はいうなれば己れという存在の得体の知れなさと向かい合い、それにおののいているのである。
この局面において、「そともの鹿」たる堅固ならざる発心と、「家の犬」たるやみがたい煩悩とによって織りなされる自己の両義性は、もはや端的に前者が後者を統御(ないし滅却)するという構図の中にはおさまりきらなくなっているとみてよかろう。長明が他ならぬ己れの身をたずさえて仏道を志す以上は、そこで行じられるべき行は紛れもなく、今生の長明の身の丈にあった様式を具えておらねば行じきることなどできはしないのである。
「方丈記」末における長明の慨嘆は、ひとたび隠遁者の境界を選び取りつつもなおその先に、そこでなされるべき練行のありよういかんへの問いが待ちかまえていることによる。個々の隠遁者の生活、それもその具体的な様式が往々にして、むしろ隠遁後にこそ模索され、さまざまなヴァリエーションを生むゆえんであろう。なるほど隠遁という行為は広義の生活様式の選択には相違ないのであるが、隠遁者ひとりひとりはなお、それぞれにふさわしい狭義の生活様式を、いいかえれば広義のく行Vを求めずにはおれないのである。法華経読訥や称名念仏といった狭義の〈行〉の適否は、この広義の〈行〉の内にこそその基盤をもっているというべきであろう。
むろん個々の隠遁書風は、そのおのおのが「宿業」を異にしている限りは、長明にとってそのままに十全なモデルとなる可能性はほとんどないといってもいいであろう。にもかかわらずそれらを収集・編纂し、「賢き」にも「愚かなる」にも学ぼうとするその理由は、数々の事例からいうなれば帰納的に長明がみずからの「宿業」の形を見定めようとしているところにあるのではなかろうか。
諸行は宿執によりて進む。みつからっとめて、執して他の行そしるべからず。一華一香、一文一句、皆西方に廻向せば、同じく往生の業となるべし。水は溝をたつねて流る。さらに、草の露、木の汁を嫌ふ事なし。善は心にしたがひておもむく。いつれの行か、広大の砂海に入らざらんや。己れの「宿業」に見合った行を見いだし、成功裡にそれに発進し得た隠遁者は「賢き」者であろう。そうでない「愚かなる」者もまた、裏返しの格好でそれぞれの「宿業」の形と出会い、そのありようを他のひとびとに垣間みせているともいえるであろう。いずれにせよ、長明にとって切実なのは容易には見定めがたい己れの「宿業」の形である。
ところで、「宿業」はひとまずは念仏であれ、法華経読諦であれ狭義の〈行〉の適否にかかわろうが、その発露は心のみならず身をもたずさえて“いま・ここ”に在る己れのありようの総体にかかわってもこよう。
己れが“いま・ここ”に生きて在る以上、それこそ衣食住というごくごく基本的な生活レヴェルをも含めて、仏道に即した生活をどう具体的に営んでいくかが絶えず問われざるを得ないゆえんである。
「方丈記」末における長明は、ひとたびは今の境界に愛着してやまない己れに自戒・反省の眼差しを向けるものの、すぐさまそうした自問を脱して「かたはらに舌根をやとひ」、「不請の阿弥陀仏」を三回称えたところで、一旦そうした思いを閉じる。もちろん、「申して止みぬ」という言い廻しは、この種の思念がここで完全に停止したことを意味するわけではあるまい。自らの境界に対するこの疑念はまた折にふれては頭をもたげたに相違ない。「しのびに座の右に置」く「発心集」を要したゆえんも、隠遁後もなおこうした疑念にからめ取られてやまなかった長明が、さまざまな隠遁者の姿に照らしつつ、自らにふさわしい生の様式を求めずにはおれなかった姿勢のあらわれとみてよいだろう。
本論で試みようとするのも、およそひとが不確かな心のみならずその身をもたずさえてこの世に生きながら仏道を志すからには避けて通り得ない具体的な生のかたちについて、長明が隠遁者のひとりびとりを手がかりにどのような思惟を繰り広げつつ、そのあるべきありようを模索していったか、その軌跡の一端をたどることである。 

序に対応するように長明は巻七一十二で次のように述べている。
或る経に云はく「人一日を経るに、八億四千の思ひあり。…此の罪の深しと云ふ、何ぞ。皆、我が身を思ひし故なり。しばしも生ける程は、ねんごろに相ひ思へり。
々の思ひ、罪業に非ずと云ふ事なし」と云へり。…此の身、罪の根元として、心の為には仇敵なれども、そもそも発心が堅固ならざるゆえんは「我が身を思」うがゆえであり、それがために日々「罪業」を繰り返すのであるが、とはいうものの、およそひとが「生ける程」は両者の関係は不可避だというのである。続けて長明はこうした心と身との関係を讐喩でもって説明する。
ある主のもとに奴がおり、主は万事にわたり不自由なく生活している。主はこれも奴のおかげであると「彼(奴)が好み願ふ事、着る物・食ひ物より始めて、はかなき遊び戯れに至るまで」みな思い通りにさせていた。しかしながら、この奴は主の敵が遣わせた者で、ちょっとした隙をついて主を殺害してしまった。長明はいう。「奴と云ふは我が身なり。主と云ふは心なり。心のおろかなる故に、仇敵なる身をしらずして、宿善の命を失ひ、悪趣に堕する事を云へり。」
いわゆる「獅子身中の虫」を彷彿とさせもする警喩であるが、「身」と「心」とはいわば奴と主人の関係のようなものであり、常日頃は決して「身」が「心」に背くような素振りをみせはしないという。「身」は「心」の欲する対象物を思うがままに調達し、心身の問にまったく隙間がないかの如くに「ねんごろに」振る舞いつつ、いつしか「心」を滅ぼすのである。ここでは「身」がいわば「心」の内側に入り込み、「心」にっけいることによって、しらずしらずのうちに「心」を蝕んでいくさまがみとられている。「心」はもはや「身」のいうなりになってしまっているのである。だが、そうであるならばこの「心」はそもそもの初めから、「身」のいうなりになるような可能性をその内面に具えていたとみるべきであろう。「我が身を思」うがゆえの「罪」「深」さ、「心のおろか」さといわれるゆえんである。序において「はかなく愚か」とされた「心」(発心)の頼りなさもまた、「心」自らが「好み願ふ事」と思いなす事柄の内に、実はしらずしらずのうちにこうした「我が身」への思いが忍び込んでしまっていることによるとみてよかろう。であればこそ、発心を核としつつ「心」を確と仏道の方へと向けてさえいれば「身」は一まさに行を行じる手だて(あるいは、その暴走を制するという意味では時に、行の”対象”にもなり得ようが)として「尊くうれしかるべき物」にもなり得るのである。したがって「八億四千の思ひ」の「罪」「深」さも基本的にはlIともすれば往々にして「我が身を思」う方にかたむきがちな 「心」の傾向性を言い当てたものとみるべきであろう。
長明は「世執なほ尽きずは、静かに此の身のありさまを思ひ解くべし」という。この「身」は旅人が一夜の宿を借りるが如く「あだなる物」であり、「心」を留むるにたる対象ではない。とはいえ「身」はかくも当てにならないものではありながらもそれをたずさえて今生を生きる他はない「身」である以上は「我が心かしこく愚かなるに従ひて、仇敵ともなり、又、善知識ともなる」のである。
しかしながら、いかにこうした意味において、いわば「身」のニュートラル性が確保されているにせよ、当然のことながら「心」の「思ひ」の中には「着る物・食ひ物」の調達をはじめとする「身」の酒養にかかわる事柄がおのずから含まれもする以上は 我が身を焼き、あるいは入水するといった極端な「捨身」行を別にすればーー、「心」が完全に「身」を従えるという事態はあり得ないはずである。「道心あらん人の為には……」に続いて「これらの理を思ひ解きて、身命を仏道の為に惜しまずは、ことさらに事理戯悔を修せずとも、六度の難行を経、尽さずと云ふとも、波羅蜜の功徳も、おのつからそなはりぬべし」と長明はいうが、「身命を仏道の為に惜しま」ないありようは同時に「身を知識」としつつ「行」にいそしむありようでもあるはずである。そのようなありようはいかにすれば可能であるのか。

巻五一十三には常日頃から「差図」(家屋の設計図)づくりに精を出す貧しい男が登場する。
男は官職にはあるが出仕はせず「さすがに古めかしき心にて、奇しきふるまひなどは思ひよらず。世執なきにもあらねば、又かしらおろさむと思ふ心もな」い、一所不在の人物である。長明は一見むなしくも映るこの男の営み(「尽きせぬあらまし」)を「あるまじき事をたくみたるははかなけれど、よくよく思へば、此の世の楽しみには、心を慰むるにしかず」とひとまずは評価する。世の人が、自分の命のはかなさも忘れて、世間がうらやむような邸宅を手に入れ、また美しく保とうとする「よしなき事」に汲々としているのに比べれば、男の”家”にはそうした煩いがなく「心をやどすに不足なし」だというのである。なるほど男の”家”には風雪の影響も、火災のおそれもない。まさに「貧しけれども、求むる事なければ、冨めりとす」の格好の事例、あるいは弦なき琴を傍におきつつその奏でる曲を心に思い浮かべては「心を慰」めている琴師に比すべき事例とすらいえるであろう、と。
しかしながらなお続けて長明は次のように述べるのである。
「此の事世間のいとなみにならぶる時は、賢こげなれど、よく思ひとくには、天上の楽しみ、なほ終りあり。つぼの内の栖、いと心ならず。況や、よしなくあらましに、むなしく一期を尽さんよりも、願はば必ず得つべき安養世界の快楽、不退なる宮殿・楼閣を望めかし。はかなかりける希望なるべし。」
「よく思ひとくに……」以下の論旨はやや曖昧ながら、「況や」に続く「よしなくあらましに、……」すなわち、詮なき空想(叶う見込みのない望み)を抱き続けることの虚しさを「安養世界」たる浄土の荘厳と引き比べつつ1指摘するところにその主旨があるとみてよかろう。とはいえ、この貧男はもとより現実の家を手に入れようとの志などもってはいなかったはずである。であればこそ「心を慰」めるという境界を「此の世の楽しみ」として我がものにし得ていたはずである。とすれば差図に精出すこの男の「あらまし」の「よしな」さはどこにあるのだろうか。
この男はいったい何を望み、また「楽し」んでいたというのだろうか。本文中にその手がかりを見いだすことは難しくも思われるが、あえて求めれば「世執なきにもあらねば、又かしらおろさむと思ふ心もな」いという箇所であろう。
男の心境はいわば世俗的な願望と仏道志向との中間、あるいはどっちつかずのものと捉えられているのである。世俗的な願望の方に奔走するならば豪奢な家造りに汲々とするであろうし、翻って、仏道志向に目覚めるならばまずは隠遁するであろう。そのいずれの極にも身を置くことなく、粗衣粗食をも厭わず差図にいそしむその姿はしたがって、生々しい願望からは距離をとり得ている(「世間のいとなみにならぶる時は、賢こげ」、「心を宿すに不足なし」、「彼の面影の栖はことにふれて、仁多かるべし」)その一方で、その差図という構想の内になお根深く「世執」の名残をとどめているともみなされているのではなかろうか。男の「楽しみ」は差響という作業の中だけでは完結しておらず、その向こう側になお現実の家をまざまざと夢想してもいる、いやむしろ何をさておいてもその夢想こそが差図という作業への熱中を可能にしているのである。とすれば、丁田の「楽しみ」はまさに夢想の内に潜む執心(ないしは文字通り夢想という「あらまし(絵空事)」)に支えられているともいえよう。であればこそ、男には「よく思ひと」き、「あるまじき事をたくみたるははかな」いと受けとめること、すなわち「あらまし」の「よしな」さをそれと自覚することがなお求められているのではあるまいか。「天上の楽しみなほ終りあり。つぼの内の栖、いと心ならず」といい、男の夢想を「はかなかりける希望」であると断じきる長明には、夢想の内にすら潜む世俗的な願望の根深さと、いかように昇華せんと試みたところでそれが所詮は充足し得ぬ、不安定さを免れがたい願望であることとがみとられていたのである。いうなれば煩悩は「心を慰むる」という境界をも浸食しているのである。してみれば、この平氏をめぐる事態は冒頭に述べた”心の両義性”という理解のみならず、先にみた「方丈記」末尾の自問「仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかが、要なき楽しみを述べて、あたら、時を過ぐさむ。」とも呼応していると考えるべきであろう。長明自身に即してもう少し考察をすすめてみたい。

巻七−四では「常住仏性」という四文字のみを口にしつつ往生を遂げた「深き道心者」の尼に触れ、その行いは「往生極楽のつとめ」とは異なるものとはいえ、「宿習に随ひ、廻向による事なれば、凡下の是非すべきにはあらざるなり」といわれている。また「惣じては、法華も浬葉も、信ずるも信ぜざるも、法の妙なるは、耳にふれ、口に唱へ、有蓋・無智を分たず、皆浄土の業となれり」と仏によるさまざまな教法の卓越性を認めた上でなお「衆生の諸々の行、はじめ耳に触れしょり、心にすすみ、功を積み、証を得るまで、悉く前世の宿習によりて、好む所ひとつならざる故なり」とひとりびとり(「機しが背負う「宿業」に見合った行の選択が求められる。それがために「和巻尺多が男を近付け、祇陀太子の酒を書み、天上菩提が過差を好み、面王比丘が無相は甚しかり」という「戒律に背けるに似た」極端な事例も「釈尊これを悲しび給はざり」と受けとめられもするのである。こうした「宿業」観は当然ながらいわゆる「善巧方便」という理解をもたらすが、ことはすべての衆生を救いの対象とした阿弥陀仏の誓願においても同様であるとみる。
弥陀の化儀も又同じ。明らけく、衆生の宿執・志、ひきひき進みおくれたる事をしろしめして、広大の誓願をおこし給ふ。即ち、極楽に九品を儲け、有智徳行を始めとし、十悪五逆にいたるまでも、洩らし給はず。念仏・読経をもととして、はかなき遊び・戯れまでも、皆、人により廻向に随ひて、悉く引摂し給ふ。
阿弥陀仏が行者それぞれの器量に応じて「九品」の浄土を用意したという解釈は浄土教理の基本線をふまえてはいるものの、「宿業」にもとづいた「法」の多様性という理解が「念仏・読経」という狭義の「行」から「はかなき遊び・戯れ」にまでその裾野を広げている点に留意すべきであろう。本文では、こうした理解にもとづいて、他者の「行」のありようについてあれこれ穿墾をしたり批判がましいことを述べたりしないよう求められているのであるが、文字通り「はかなき遊び・戯れ」にまでその「宿執」や「志」の「進みおくれ」がかかわってくるとすれば、もはやそれが「行」であるか否かの分別すら危うくなってくるのではあるまいか。そもそも巻七i十二では一衣食の煩いともども「身」を思う「心」のったなさの方に数え入れられていた「はかなき遊び・戯れ」までもが「廻向」たり得るとは一体どのような理路によっているのであろうか。
巻七…十二では「彼が好み願ふ事、着る物・食ひ物より始めて、はかなき遊び戯れに至るまで」とあった。すなわち、「身」にとって最も身近でありそれを欠いては存続自体が危ぶまれる衣食のレヴェルから「始めて」、そうした切実な要求からは相当の距離を隔てたところに「はかなき遊び戯れ」を位置させて、なおそれらが「身」への思いに由来すると括られていた。対してこの法理−四では「念仏・法華」という典型的な「行」のレヴェルを「もととして」、およそ「行」とはかけ離れていると思われる位置にあえて「はかなき遊び・戯れ」を置いて、なおそれらが各行者に応じた「廻向」の内容たり得ると叙述されているのである。してみれば、この「遊び戯れ」は一とりあえずはあるべき「心」たる発心のありよう(ないし仏道への志向性)からも、また戒められるべき「身」の諸要求(ないし「煩悩」の所為)からもひとしく距離をへだてた、その意味でニュートラルな場所に位置し得ているとみてよかろう。
「遊び戯れ」は生理的次元における身体の存否に直接的にかかわるような欲求にもとつく行為ではないが、かといってまたそれ自体の内に直接的に仏道へと連なるような要素を内在させているわけでもない。であればこそ、一方ではまさに世界の如実相にさらに覆い被される無明のヴェールたる「狂言綺語」とも評されるように仏道に離反する「たはむれ」行為ともなり、かつまたもう一方ではi生理的次元における諸要求、ないし目的・手段の因果系列からは自由な分だけ例えば端的には「無常歌」に代表されるように、仏道を志す「心」の受け皿(「廻向」行為)ともなり得るのである。数々の隠遁者像の中でも長明が最も心よせたと思われる「数寄」というありようもおそらくはこうした「はかなき遊び戯れ」がもつ一いずれにも転び得るという意味での両極性(のその一方の極)に由来するものと推察される。 

翻って、生理的次元の諸要求という点についてみれば、そもそも「発心集」に登場する隠遁者は総じてこと衣食住の調達に関しては極めて慎重な配慮をしていることに気づかされる。調達にあたってはことのほか“カモフラージュ”をし、およそ自分が仏道にかかわる身ではないかの如き振る舞いをし、したがって往々にして「破戒」者を装うのである。例えば巻一i十二には次のような説話がある。
ある年若の僧が美作守顕能のもとに乞食に訪れる。その乞食僧がいうには「異様」のことに思われようが、「なま女房」と関係をもち、相手が妊娠したために「命つぐばかりの物」を与えてやりたいのだが、なにぶん不如意ゆえに「御あはれみ」をと請う。丁丁は「事の起りは、げにと覚えず」ながら女のもとへ食料をもたせようとするが、僧は、気が引けるし、自分の栖も知られたくはないので「自ら持ちてまからん」という。顕能は不審に思い、僧の後をつけさせると、「人も通わぬ深谷」の一問ほどの庵に入り「あな苦し。三宝の助けなれば、安居の食もまうけたり」と眩き、さらに夜更けには一晩中法華経を読んでいた。その様子を聞いた顕能は「さればよ、ただ者には非ずと見き」といい、追加分の食料とあわせて、今後も安居の食の調達を提供する用意があるむねを手紙に書いて伝えるが、僧は読経に専念するばかりで返事もなかったゆしばらくして僧の様子をうかがいに訪れると、もはや僧の姿はなく、先に届けた食料は鳥獣に食い荒らされていた。
長明はいう。「実に道心ある人は、かく、我が身の徳を隠さむと、過をあらはして、貴まれん事を認るるなり。もし、人、世を叢れたれども、「いみじくそむけり」と云はれん、貴く行ふよしを聞かれんと思へば、世俗の名聞よりも甚し。」
「破戒」がいかに「陰徳」の極ともいうべき様態であるにせよ、乞食が仮にも僧形をとっている(「西山なる寺に住み侍る」と述べてもいる)ことからすればやはりこの粉飾はいささか過剰とも映るであろう。しかしながら乞食僧は衣食という直接的な欲求それ自体の行く末について神経質になっているのではない。「三宝の助けなれば、安居の食もまうけたり」という眩きに照らしてみるならば、隠遁者は自らの衣食住への欲求が、度を越えいわばタガを失して、仏行のさまたげになることをおそれているとはみなしがたい。いいかえれば、彼は食料の調達に関わって煩悩そのものが暴走する事を慮っているわけではない。衣食住に関してはむしろ、すでにいわば付かず離れずという微妙な距離関係を維持し得ているのであり、それらによる身体的レヴェルでの充足が、法華経読訥というおそらくは彼の「宿業」にふさわしい行を可能ならしめてすらいるのである。彼が在れているのは末尾の長明の指摘をまつまでもなく自らが「陰徳」をむねとする隠遁者であると知られ、そのことにいい気になること、そうした「名聞」へのとらわれによって隠遁という行為が破綻することなのである。すなわち、衣食の調達という場面は、一見して生々しいと受けとめられる諸欲求が直接的に駆り立てられるおそれがあるということにもまして、世俗世界のひととの接触を介して「驕慢・名利」という−i隠遁者にとってもっとも手強く、それだけにまたもっとも忌避すべき一…煩悩がその発現の機会を得て、隠遁生活が綻びをきたしかねないところにこそ、気を遣わねばならない最大の理由が存するのである。
ことが「驕慢・名利」への気遣いということにかかわっているゆえんはまさに顕能の行為に表されているように一、乞食の意識はどうあれ、衣食の調達が提供者の側でなお「布施」と受けとめられ、「盗まれ」るべき仏道の文脈に位置づけられ得るという可能性をも考え合わせればさらに明瞭であろう。「布施」の対象として「障まれん事」を忌避する乞食僧においては、それゆえ衣食住の調達という本来もっとも生々しく世俗的であるはずの事柄はllもはや提供者の手をはなれ、提供者の思いとは独立に「三宝の助け」という極めて抽象的な仏道の準位において受けとめられているのである。おそらくは長明の側に、こうした受けとめかたこそが真の托鉢だとの理解もあったかとも思われるが、ともかくも長明は本説話を次のように締めくくっている。「此の故に、ある経に、「出世の名聞は、讐へば、血を以て血を洗ふが如し」と説けり。本の血は洗はれて、落ちもやすらん、知らず。今の血は、大きにけがす。愚かなるに非ずや。」
もっとも衣食の調達については以上のように解するとしても、巻七−四にいわれていた「和須蜜多が男を近付け、黒蓋太子の酒を誉み、天須菩提が過差を好み、面王比丘が無相は甚しかり」という「戒律に背けるに似た」極端な事例についてはなお問題が残るであろう。これらの事例の場合−原典である経論に即するならば、それぞれに応じた差違があり、一括りにすることは難しい面があるにしても、当然のことながら、和須蜜多にとっての男なり、祇陀太子にとっての酒なりが直接に仏道へと連なる要素をはらんでいるとはみなし難い。もっとも、華美な衣服を好む天須菩提の例や、それとは反対に衣服には頓着しない面王比丘の例を考え合わせれば、ひとまずは「身」の側の諸欲求と思しきものにひきずられることなく、仏道の実践へと誘われていった事態をさしていると解せばしよう。とはいえ事情は巻一−十二の衣食の事例とはいささか異なるといわざるを得まい。これらは総じて、まさにひとびとを惹きつけては、時に貧着せしめ、仏道の妨げとなるような諸対象であるに相違ないからである。すくなくとも男なり酒なり華美な衣服なりは…通常の場合、当人が自らそれをことさらに意識し欲すればこそ問題とされるというべきであろう。であるならば、これらの諸欲求の中に「身」を置きつつ、それにとらわれないありよう、ひいては仏道の実践へと導かれるありようが如何にして可能であるのかがなお問われてしかるべきであろう。「発心集」に載せられた事例からその理路を探ることは容易ではないが、「戒律」という観点からは巻一一九の説話をはじめとする「陰徳」の隠遁者たちが手がかりとなろう。
神楽岡の清水谷に「仏種房」という「貴き聖人」があった。あるとき谷に木を拾いに行っている問に盗人に入られた。不思議なことに遠くへ逃げようとしてももとの場所に戻るばかりであったたために、盗人は「今に至りては、物を返し侍らん。願はくは許し給へ。」というが、聖は「なじかは、罪深くかかる物をば取らむとする。ただ欲しう思うてこそは取りつらん。更に返しうべからず。其れなしとも、我、事かくまじ」といって盗入にとった物をまた与えてやった。数年後、聖は、庵を建てていた大工が食べていた魚肉を「うらやましく」思い、檀越の家を訪れ魚肉を食したいと申し出る。檀越は「あさまし」と意外に思うが、求め通りに供すると聖はそれを食し、残りは紙に包んで「是をば、あれにてたべむ」と持ち帰った。後に檀越が再び魚を供しようとするが今度は受け取らずに「御心ざしはうれしく侍り。されども、一日の残りにたえあきて、今は欲しくも侍らねば、是を返し奉る」といった。長明はいう。「是も、此の世に執をとどまじと思ひけるにや」。
すでにして「此の世に執をとどめじと思ひける」「貴き聖人」の事例である以上、仏道への”過程”を物語るとみてよいかどうかは微妙であるが、魚肉に対する姿勢などをみる限り、「布施」という形で世俗との関わりをもっことを忌避する巻一一十二とはやや異質なありようをみてとることが可能であろう。巻二十二の乞食僧は、「驕慢・名利」に足をすくわれぬようにとの慎重な配慮の末に食を得て、それを「三宝の助け」であるとうけとめたのであるが、盗人に「ただ欲しう思うてこそ取りつらん」と言い放ち、檀越と「布施」を介して関わることそのものに頓着しない聖は、もはや他者を媒介として「驕慢・名利」に巻き込まれる暴れそのものから自由な皇位にいるといえようか。むろん、衣食という「身」の要求に関わって煩悩が暴走する危惧を免れている点において両者は共通する面をもってもいよう。しかしながら、衣食の調達に細やかな配慮もみせる乞食僧に対し、この聖の尊位に至ると長明のコメントにもかかわらずもはや聖自身に万事にわたり「執をとどめじ」という「陰徳」の意識があるのかどうかすら疑わしいともいえるであろう。
いわゆる「毒血」の隠遁者たちの系譜に連なる説話群に属するが、もう少し自覚的な事例に手がかりを求めてみる。「蕾みやう」という乞食もまた「物狂ひの様にて、食物は魚鳥をもきらはず、着物は莚・こもをさへ重ね着つつ、人の姿にもあらず」というありさまであったが、人知れず、高徳の阿寒房から経論を借りては返すということを繰り返す「陰徳」の行者であった。「大隠、朝市にあり」を釈しつつ長明はいう「かく云ふ心は、賢き人の世を背く習ひ、我が身は市の中にあれども、其の徳をよく隠して、人にも知らせぬなり。山林に交はり、跡をくらうするは、人の中に有って徳をえ隠さぬ人のふるまひなるべし」。
「工みやう」に衣食への頓着はなく、他者のあざけりも意に介さなかった。彼において世俗的に「物狂ひ」ことと仏道修行とは共存し得ていたのであるが、なお徳を隠すことについては心を砕いていたのである。隠遁後は奇行で知られ「物狂ひ」ともいわれた僧賀であったが臨終に臨んで、碁盤を取り寄せては、ひとり碁を打ち、また障泥(あふり)という馬具をまとって小蝶という舞のまねをした。弟子たちが詩しく思って訊ねたところ「いとけなかりし時、此の望事を人にいさめられて、思ひながら空しくやみにしが、心にかかりたれば、「若し生死の執となる事もぞある」と思うて」と語ったという。
高野山に住んでいた教懐は「新しき水瓶の、様なども思ふ様なるを儲けて、殊に慰し思ひける」というありさまであったが、奥の院で一心に念諦をしている折りに、ふと水瓶のことが思い出され、誰かに取られはしまいかと気がかりでしょうがなく、行に専念できないのを「由なく覚えて」、戻るやいなや、軒下の敷石の上に並べて、砕き捨てた。また横川に住む尊勝の阿闇梨陽範は「目出たき紅梅を植ゑて、またなき物にして、華ざかりには、偏に此れを興じつつ、自ら、人の折るをも、ことに惜しみ、さいなみける」というありさまであったが、ある時どうした訳か、誰もいない時を見はからつて、「心もなき小法師の独りありける」を呼んで斧を持ってこさせ、梅の木を根元から切って、その上に砂をまき、跡形もないようにしてしった。弟子が帰ってきてその理由を訊ねると、ただ「よしなければしとこたえた。
長明はいう。「此等は、皆執をとどめる事を恐れげるなり。教壊も陽範も、ともに往生を遂げたる入なるべし。実に、仮の家にふけりて、長き闇に迷ふ事、誰かは愚かなりと思はざるべき。然れども、世々生々に、煩悩のつぶね・やつことなりける習ひの悲しさは知りながら、我も人も、え思ひ捨てぬなるべし」
暗中の「碁」や「舞」に対する姿勢と、教懐の「水瓶」ないし尊勝の「紅梅しに対する姿勢とは一ともに生理的次元において直接的に生死に関わる欲求ではなく、むしろ先の「はかなき遊び戯れ」に類する執心である点では共通してもいるが、その見かけ上の行為の差違にもかかわらずおそらく同じ事態の裏表のような関係にあるだろう。死の間際になって、幼い頃に諌められた碁を打ち、舞を舞うことは「心にかかりたる」ことを払拭し「生死の執」を克服せんがための行為であったが、水瓶を割り、紅梅を切ることもまた己れの執着の根幹にかかわる対象物と絶縁し、仏行にとってのその「よしなさ」(意味のなさ)を確認する行為だったのである。むろん、このように(煩悩をその根源とする)己が執心と自覚的に向かい合い、その暴走を喰い止めるべく直に対象物と相尽るありようは、そのままでは和質撲多や祇陀太子らの事例とは等価ではない。したがって、後者のありようは先の仏種房と同様に いうなれば僧賀や教懐らの振る舞いのさらにその一歩先に位置するというべきなのかも知れない。しかし、仏種房に対してすら「この世に執をとどめじ」とする姿勢のあらわれと捉えていたように、こと「発心集」において長明の関心をひいたのは、さまざまな対象物を媒介としつつ煩悩に対峙し続けんとするこれら「賢き」隠遁者の事例の方であったろう。しかしながら、これらの事例を前にして、長明はなお「我も人も、(「煩悩」を)え思ひ捨てぬなるべし」と眩くほかはなかったのである。

巻六−十二では、西行が武蔵野にて「萩・女郎花をかこひにして、薄・かるかや・荻などを取りまぜつつ」しつらえた庵から洩れ聞こえてくる法華経の声を耳にする。声の主はかつて郁芳門院に仕えた「侍の長」であり、「花なき時は、其の跡をしのび、此の比は、色に心をなぐさめつつ、愁はしき事侍らず」というありさまであった。「ありがたくあはれに覚え」た西行は「いかにしてか、月日を送り給ふ」と問うが、主は、人の「あはれみ」を待つ他にはなく「大方は、此の花の中にて姻立てん事も本意ならぬやうに覚えて、常には朝夕のさまにはあらず」と答えた。長明はいう。「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」と。
「いかにしてか、月日を送り給ふ」という西行の問いの内に、これもまた長明が衣食住という具体的なレヴェルでいかにこの世の生を営むかに強い関心を抱いていたかが窺い知られる説話であるが、そもそもが季節の花をしつらえた庵のたたずまいにしたところで「花なき時は、其の跡をしのび」という具合に、この隠遁者の内においてはすでに観念化せられた上での安定を獲得し得ているのであって、眼前の(常ならざる)花々と「はかなく」「戯れ」に直に関わり合うことそれ自体にこの世の生の安定が依存しているわけではない。したがって「此の花の中にて姻立てん事も……」という煮炊きの営みへの気遣いも、おそらくは風流心のまえに直接的な欲求を統御しようとしているというよりは、むしろ食に関してはあたかも無頓着であり得ているかの如くに、いわば風流心と等しい準位にまで直接的な欲求が昇華(透明化)せられてしまっているというべきであろう。おそらく、風流をむねとするこれらの隠遁者の暮らしぶりは、その具体相において最も長明の関心を惹きつけていたのではないかと推察されるが、にもかかわらず長明は「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」となお己れとの間の距離を自覚せずにはおれなかった。それは世俗に「身」をおきつつ「心すむ」というありようを獲得することの難しさゆえに他ならなかったのである。
「心」を確と仏道へと向け続けることは、世俗世界との距離を徹頭徹尾とり続けることをおいてあり得ない。「賢き」隠遁者は、それぞれの「宿業」に対応した差違を示しながらも、世俗世界の内においてそれをなし得ている。むろん、「大隠、朝市にあり」の言葉に象徴されるように、僧賀らに代表される過激な隠遁は長明のとるところではなかった。しかしながら、隠棲・籠居の隠遁者に対してもなお、己れとは十全には重なり得ぬ要素を感じ取ってもいた。「仏の教へ」通りに己が発心を確と方向づけ、堅固に保ち続けることの難しさは、ひとえに己れが己れであることに関わっていたからである。
「発心集」は、隠遁者がその隠遁以前にかかわりのあった者と再会したために再度その姿をくらます事例には事欠かないが、巻一−一では渡し守に姿をやつした玄敏と再会した弟子は「のどかに聞こえむ」と約束するも玄敏は行方知らずになる。ことは七六−十三において、もはやこれ以上に語り合うことなどないほどに心を通わせ合ったようにみえた聖と二人の隠遁者の場合にも同様であった。聖は「(己れもったない女の身であることに鑑みて、発心の次第を)こまかに承りて、我が心をも励まし侍らむと思ふなり」と申し述べ、庵の主と=仏浄土の契り」を結んで帰るのだが、その後に再び訪ねると主らは姿を消していた。この聖の事例を考え合わせると、そもそも発心の由来を含め「心ゆくまで語り合うこと」自体がおそらくは「宿業」のもつ非通約性ゆえに不可能であると捉えられていたのではあるまいか。しかし、そうであるならば、「我が一念の発心を楽し」まんという「発心集」の編纂意図そのものが解体ざれかねないのではないか。
橘守助はおよそ仏法に縁遠い「愚痴極まれる人」であうたが、伊予の国の所領に下った後に臨終正念にて往生を遂げた。そのゆえんを詩しく思ったひとに対し、夫は「もとより邪見にて、功徳つくる事」はなかったが、先立つ二年前より身の不浄をもいとわず、西に向かってコ枚ばかりなる文」を読んでいたとその妻は語った。その文は、阿弥陀仏がひとえに「心もとより愚痴にして、更に勤め行ふ事」のない己れと「縁深」い事を知って、その誓願のおもむきを尋ねつつ、引摂を願った「発願の文」であった。
「賢き」隠遁者像が己が身の丈にそぐわないがゆえに所詮は羨望の対象でしかあり得ないのではないか、という思いに駆られた長明にとって残された道はいわば虚心に経文を辿ることだったのではないか。「発心集」において一見、必ずしも本文の説話には似つかわしくないような仕方で、いわば過度の定型性をもって添えられているいくつかの経論の文言は、こうした消息を物語っているように思われる。永心法橋は清水に百日詣でをしたおり、河原でひとの泣く声がしたので、清水の本尊たる観音の慈悲にならおうと足をとめて、その理由を尋ねたところ、乞食は、かつて「形の如く」学んだ天台の経文(「唯円万象、逆即是順、自余三教、逆順是故」)が不遇の我が身のためのものであったことを知り「貴くたのもしく覚えて」感涙にむせんでいたのだという。経文とあらためて出会い、己れと経文とのかかわりをしみじみと語る乞食が実はかつての「同法」であったことに気づいた永心は自分の帷子を与え、「墨筆是順」の経文をなぞりながら、しばしその趣意を説ききかせた。
確と仏道を歩まんがためにこそ己れの己れたるゆえんにこだわり続けた長明は、さまざまな隠遁者の群像を経て再び「仏の教へ」たる経文そのものへと送り返されることになったのではあるまいか。経文上に己れの「宿業」を見定めるべく……。

(1) 「発心集」からの引用はすべて新潮日本古典集成「方丈記 発心集」により、巻一一一〇頁の如く表記した。なお、本文の表記は適宜あらためてある。
(2) 「大方人の心は、野の草の風に随ふが如し。縁によりてなびきやすし。誰かは、道心なき人といへど、仏に向ひ奉りて掌を合はせざる。いかなる智者かは、媚びたる形を見て目を悦ばしめざる。」(巻三−五 一七八頁)、また「我等が類ひは、元来心よわく、つたなくして、きらきらしき罪をもえ作らず、げにげにしく俄悔を修するにあらざれば、熾盛の心もなし。愚痴闇鈍にして、泥を切るがごときなるなり」(三七i十二 三二九−三〇頁)、さらに、とかく議論のある二六−十三「我は宿善すでにあらはれて、あひがたき仏法にあへり。……又、罪ふかけれど、未だ五逆をつくらず。信浅けれど、誰か十念を唱へざらん」、「すべて、生きとし生けるものの中に、人のさとり殊にすぐれ、……事にふれ、物にしたがひて、いつれか凡夫のしわざと覚ゆる。しかあれど、目の前に無常を見ながら、日々に死期の近付く事を恐れぬ事は、智者もなし、賢人もなし。」(二九三−四頁)も、一種の定型句ながら”心の両義性”という理解を示している点は留意すべきであろう。
(3) 「方丈記」(三九頁)。
(4) 「貧賎の報」という措辞は、今生における”貧しく賎しい”己れの姿態を指すというよりはむしろ、仏道修行がままならない己れの不如意なるありようの由来を、その根源に遡って言い当てたものとみなすべきであろうと思われる。断食行に失敗した巻三−七の説話中における「先の世に、人に食ひ物を与へずして、分を失へる報ひに、みつからかかる目(この行者が断食行を達成できなかったことをさす)を見るぞ」(一四七頁)の用例が参考になろう。
(5) 「発心集」において「宿業」は1紛れもなくひとりひとりに関わる事柄ゆえに一その知り難さが強調されているのであるが、であればこそ、その知り難さは、こと己れにふさわしい−狭義の一〈行〉という限定域を超えて、およそ己れの己れたるゆえんをその全体性において見定めたいという衝迫と相即してもいる。巻六⊥二では、堀川院の「御有様を限りなくめでたく思ひしめ」た蔵人所の男が、院の崩御に際し「蝉のもぬけの如く」なり、仏神に院の「生れ所」をたずねたところ、西の海で大龍になっているとの託宣を夢に得たので、東風の強い日ではあったが、筑紫より船で西へと漕ぎだし、行方しらずになった説話を引いて次のようにコメントしている。「したしき・うときにもよらず、顧みのありなしにもよらず、かくはしりつきたる物の命かはり、年比ふかく相ひたのみたる人の、人よりも愚かなるためし多く聞こゆるは、前の世の結縁によるにこそ。一度は生きかへりて見まほしき事なり。」(二五八頁)ここで「結縁」という、今生だけでは完結していない不可視の関係者へと思いを馳せる長明は、そもそも「宿業」が1仏道よりもむしろi六道輪廻界を経めぐる存在としての衆生にかかわる因果連鎖であり、その一極点に“いま・ここ”の己れという存在が位置しているという宿業把握を示しているといえよう。彼の「短き心」という自覚もこうした意味における自己把握の一端とみなすべきであろうし、しばしば問題にされる「善知識」の必要性もまた各人各様の「宿業」を見通し得る存在という面から捉えられるべきであろうと思われる。一例を挙げれば、巻ニー一において安居院の聖をよびとめた隠遁僧は「形の如く後世のつとめを仕りて侍りつれど、知れる人も無ければ、善知識も無し。」(八九頁)と訴える。僧は聖に“己れ”の発心の十全な受けとめ手となることを求めているのである。
(6) この箇所は異本状況や、その解釈をめぐって古来議論の多いところであるが、「かたはらに……やとふ」、.あるいは「不請の」という措辞は、長明が自らの意志で一いいかえれば称えようとして  称えた念仏ではないとの含意があるように思われる。巻八一五に、日々念仏の声を聞き「阿弥陀仏」と「口まね」をしていた鵬鵡の死後、その舌を根として蓮華が一本生えていた挿話が語られているが、長明はそれについて次のように感想を述べている。「彼の鳥、口まねのいみじきにもあらず。悲願のねんごろなる故に、心に信ずとしもなけれども、口に唱へつれば、利益のむなしからぬにこそは侍らめ。かかれば、我等が散心念仏とても、愚かなるべきにあらず。」(三五八頁)至らぬ心で唱える「散心念仏」にすら功徳が及ぶそのゆえんは阿弥陀仏の「悲願」が込められた名号にあるというのである。「不請の」念仏という措辞もまたこうした理解の延長上に位置するのではあるまいか。
(7) 巻七一十二本文では、目白尊者の見聞記として、「恐しげなる鬼」が己れの前生であった「白き骸」を槌で打ちながら「我が世に侍りし時、此の骸を得し故に、物に貧じ、物を惜しみて多くの罪を造りて、今は餓鬼の身を受けたり。苦をうくる度に、此の骸の妬ううらめしければ、常に来て打つなり」と愚痴っている姿に対し、「えもいはぬ天人」が骸に散華を施しつつ「此の身に功徳を造りしによりて、今天上に生れて、諸々の楽を轟くれば、其の報ひせむが為に来て、供養するなり」と述べている姿が対比させられ、「かかれば、ひたすら身のうらめしかるべきにもあらず。善悪にも従ひて、大きなる知識となるべきなり」、「実に道心あらん人の為には、此の身ばかり尊くうれしかるべき忍なし」と述べられている(三三二⊥二頁)
(8) 巻三一一の「ましての翁」の事例や、巻三重から巻四にかけて法華の験者によせて語られる神仙界の記事を重んじるならば、「天人」的な境界に長明が心惹かれていた可能性がある。もちろんそれ以外の説話群からも当時の通念において仏の世界たる浄土と、天人世界とが  後者が所詮は六道輪廻界の内に位置するにせよ一連続的に捉えれられていた可能性が高いことは窺い知られるのであるが、こと長明に即した場合には、およそひとがひととして世俗世界に生きている以上は免れ得ない衣食住にまつわる不安定さゆえに”飢えず渇かず”といった境界に想いを致していた可能性が高い。もっとも、この「天」への志向とて一まさに「五衰」に象徴されるように一相対化される視点を彼がもっていたであろうことは巻五−十三の説話などにも明らかである。
(9) 「発心集」において「捨身行」を貫徹し得た事例よりもむしろ何らかの理由で完遂し得ずに終わった事例が目につく点にも留意が必要であろう。事由はさまざまながら、巻三−八「蓮華城入水のこと」では「我が心の程を知らで」入水行を試みて失敗した事例に鑑みて次のように語られている点が注目されよう。「是こそ、げに宿業と覚えて侍れ。且は又、末の世の人の誠となりぬべし。人の心はかりがたき物なれば、必ずしも清浄・質直の心よりもおこらず。或いは勝着名聞にも住し、或いは驕慢・嫉妬をもととして、愚かに、身燈・入海するは浄土に生るるぞとばかり知りて、心のはやるままに、かやうの行を思ひ立つ塗し侍りなん。即ち、外道の苦行に同じ。大きなる邪見と云ふべし。其の故に、火水に入る苦しみなのめならず。其のこころざし深からずは、いかがたえ忍ばん。苦患あれば、又心安からず。仏の助けより外には、正念ならん事、極めてかたし。中にも、愚かなる人のことくさまで、「身燈はえせじ。水にはやすくしてん」と申し侍るめり。則ち、よそ目なだらかにて、其の心知らぬゆゑなるべし。」(一五一頁)
長明は入水行が蓮華城の「宿業」に見合った行ではなかったことを指摘するだけではなく、「捨身」行のような過激な行に奔らんとする行者の内に「勝他名聞」ないし「驕慢・嫉妬」の存在をみ、それが「外道の苦行」志向とも相通じるものであることを鋭くみてとっているのである。
また巻八⊥二では、仁和寺西尾の聖が東尾の聖に「おとらじ」と「身燈」行を企てた事例を評して「上人の身命を捨てしも、他に勝れ、名聞を先とす」と述べている。(三五二頁)
対して巻三−七では持経者が「身灯・入海なんどは、ことざまもあまりきはやかなり。苦しみも深かるぺければ」と断食を試みるが、達成間近にして、結縁を望む僧たちが押し寄せたために姿をくらましてしまった事例によせて、「食ひ物をも断ち、身燈・入海をもせんには、誰故発し給へる悲願なればか、引接し給はざらん。/さらば、今の世にも、かやうの行にて終りを取る人、まのあたり異香匂ひ、紫雲たなびきて、其の瑞相あらたなるためし多かり。……しかるを、我が心の及ばぬままに、みつから信ぜぬのみならず、他の信心をさへ乱るは、愚擬の極まれるなり。」(一四八頁)と「捨身」行そのものの尊さを語ってもいる。
長明がいわゆる「偏狂」の隠遁者に心惹かれたゆえんも、一見真摯な行への志向に映るその姿の内に一しらずしらずのうちに一「勝他名聞」ないし「驕慢・嫉妬」といった煩悩が忍び込んでいる場合があることに人一倍敏感であったからであろう。
なお「驕慢」に関しては巻八一一(「時料上人陰徳の事」)に次のようにいわれている。
「濁世の行者は、みつから徳をかくし、賊国にありて宝をまうくるがごとくすべし。其の故は天魔・盗人みちみちて、人の善根をうかがひさまたぐ。……もし我がごとく慨怠・無智の者、たまたまつとむる功徳は、貧しき家に宝多からんがごとし。心城かこひ あだにして、善神の守護し給ふもなし。ただ外相をよそにし、その徳を深くかくして、しらせざらんにはしかず。彼の金をおどろにつつみ、宝珠を土に警むがごとし。但し、たとひ徳をかくすとも、みつからおごる心あらば、又益なし。天魔はよく驕慢をたよりとす。たとへば、盗賊の中入を用ゆるがごとし。しかるを、末世の比丘あらそひ深く、名利にまどへる故に、みつからなき徳を称す。妄語の中にすぐれたる重罪なり。……」(三四七頁)
「僻怠・無知の者」にとってはわずかな功徳をなすこと自体が稀有であり、極めて頼りない「宝」であるから、ひとに奪われぬよう気をつける必要がある、したがって徳は隠すべきであると長明は「陰徳」の根拠をのべる。「盗賊」の讐喩は巻七一十二の「身心」関係を思わせるが、「但し……」以下の内容からすれば、「みつからおごる心」(「驕慢」)によって稀少な(あるかなきかの)
「宝」(功徳)を自失し、「天魔しにつけいられるおそれがあることを最も気遣っていたと思われる。「驕慢」は行者の内にあって「盗賊の中人」すなわち仏道を妨げる手引きをする者と捉えられているのである。
(10) この煩悩の実態が本稿の行論において重視している「驕慢・名利」と完全に一致するかどうかは微妙だが、実際の家造りに汲々とするありように触れて「これをいしと思ひならはせる人目こそあれ……」と述べていることからも重なる要素を含みみるべきであろうと考える。
(11) 巻六一九「宝日上人、和歌を詠じて行とする事」では「日々に過ぎ行く事を観じ」て歌を詠じていた宝鶏を評して「和歌はよくことわりを縛むる道なれば、これによせて心をすまし、世の常なきを観ぜんわざども、便りありぬべし」と述べ(二七六頁)、また「琵琶の上手」で持仏堂で回数を数えながらひたすら琵琶をひき「極楽に廻向早していた大弐資通の事例をあげて「勤めば功と志とによる業なれば、必ずしもこれをあだなりと思ふべきにあらず。中にも、数寄と云ふは、人の交はりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入を思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのつから生滅のことわりも顕はれ、名利の余執つきぬべし。これ、出離解脱の門出に侍るべし」と語っている。(二七八頁)
巻六−七では「漢竹の笛」の上等なものを手に入れることだけを「きはまれる望み」とし、衣食にはまったく頓着する様子のない「すきもの」永秀法師が、ある時は楽人を呼び集めて、またある時はひとりで終日笛を吹いている様を「かようならん心は、何につけてかは深き罪も侍らん」と評している。さらに巻六−八では、箏群言の茂光とともに碁を打ちながら「同じ声」で雅楽を唱歌し合っていた笙吹きの市正時光が帝の召しだしにも応じなかったことを「これらを思へば、此の世の習熟ひすてむ事も、数寄はことにたよりとなりぬべし」と評している。(二七四頁)
なお巻七−五において、「音楽を好む事、よのつねなら」ぬ聖が自ら琴・琵琶をしつらえて、それらを奏でつつ「菩薩聖衆の楽の音、いかにめでたかるらん」と感涙にむせんでいる姿を伝える往生諌に寄せて「管弦も、浄土の業と信ずる人の為には、往生の業となれり」と述べられていること、さらに臨終にあたり年来の「余習」として「心なほ風月にのみ染みて」往生にひたむきでない「博士」に対し、「おもひはかりある」善知識がひとまず念仏のすすめをやめて「極楽の賦」を書かせる際に「世間の美景、捨てがたき客主かり。まして、浄土のかざり、いかに風情多からん」と語り聞かせる挿話において「思ひしめたる事なれば、極楽の依法ことごとく、見るやうにおもかげに立ちて、心を進むるたよりになりて、念仏し、思ひのごとくして終りにける」と述べられていることには、註(8)において触れた”天界と仏界との連続性”という問題が伏在してもいよう。
(12) 祇陀太子と和須蜜多については、新潮古典集成本の頭注でも触れているように、例えば「唐詞止観」においてはそれぞれ「ただ酒にしてただ戒なり」、「淫にしてしかも梵行なり」と記されている。すなわち、「悪」と「道」とが「悪の中にある」、「悪も道を妨げざる」”共存”関係にある事例とみなされているのであるが、両者は決して独立ではなく、「悪」はあくまでも「止観」行の対象たる「蔽」として捉えられてもいる。
(13) 巻五−一では発心後の法橋が、師の大阿闇黒から陰陽師の「千秋万歳」のまねをするようにといわれた際に「こともなく」それを受けて舞ったところ、師は涙を流して「まことの道心者」と誉め称える挿話があるが、これも「驕慢・名利」から自由な境界を描き出している事例といえよう。(二〇四頁)
(14) 急須二六らの事例を“よしんば煩悩の発動に関わる対象物が仏道にとって「よしなき」事物であったにせよ、ことさらにそのことを意識することなく(すなわち、僧賀や教書たちのようにそれらと対峙することを要せずに)即時的に仏道に遇書し得ている事例”と捉えるにしても、おそらくはその過程、もしくは到達した境位において、なお当の人物たちにとっては一1まさに仏道に即してこの世の生を営んでいくためにこそ一それらの対象物を必要としていたと考えることもできよう。
(15) 巻ニー四の三河守大江定基や巻五−一の法橋のように過剰な執心が反転して発心の契機をなし得た事例も基本的には同様の構図をもっと理解されるが、「情」の発露とその反転の構造についてはなお、慎重な考察を要しよう。今は以下にその見通しを示すにとどめておく。すなわち、巻ニー一においては、そもそも「たぐひなく覚えける女」に対する「恋慕のあまりに」、死後も埋葬せずに「成り行くさまを」見続けるという「情」のありようそのものが、通常のそれとは異質であり、そのような度をこえた「情」はそもそもそのままでは世俗世界の内に定位し得ない質のものであるといえる。しかしながら、そうであればこそ、その発現を契機に「うき世のいとはしさ」が思い知らされて、仏への志向たる「発心」の馬騎が可能になったのであり、つまりは当初から仏道への志向へと整序されるべき要因をはらんだ「情」であったといえる。福二…二においては、一般論ながら男女の問の「情」について「世々生々互ひにきはまりなくして生死のきつなとならん事の、いと罪深く侍るなり」(二〇七頁)と述べられている。また、巻筆一一の事例においては、「ある宮原のはした者」と懇ろになった法橋が、父の赴任に際し女とは「泣く泣く別れ」たものの、どうしても思い切れずにいたところ、京に疫病が流行っていると聞き及び、尋ね歩いたあげくに、「木のふしの抜けたる如くに」「二つの眼」を失った女と再会し、「何の報ひにて、かかるめを見るらん、今は此の世のかぎりにこそありけれ」といって隠遁する。法橋は盲目の女に、自らの煩悩の正体と、その行く末(女への思いが所詮は成就不可能な願望であること、その意味で女が両眼を喪失したことは象徴的である)をみたといってよいだろう。両者は、はからずも「不浄観」を強いられたことによって、過剰な執心が”反転”して発心の契機をなした事例と解し得るのである。なお「不浄観」についての長明の理解については、巻四−六の玄賓の事例に触れて「諸々の法、二仏の御教へなれど、聞きどほき事は、愚かなる心にはおこらず。此の観に至りては、目に見え、心にしれり。悟りやすく、思ひやすし。「もし、人の為にも愛著し、自らも心あらん時は、必ず此の相を思ふべし」と云へり。」と述べている箇所が手がかりになろう。
(16) 続く巻六一十三においても、かつて女房として上東門院に仕えていた二人の隠遁者に、とある聖が、その隠遁のいきさつを「こまかに承」わる際にも「十五日つつ里に出でて、今一人を養ふ」という暮らしよう、とりわけ食の調達にかかわる返答を引き出している。
(17) ちなみに車群−十二では「衣食ともしからば、なかなか心乱れてむ」という問いに対して「いかにも衣食は生得の法なり。天運にまかせてもあり。病ひは又、習に従ふ。いたはるとても、必ずしも去らず」という応答がある。(三二七−八頁)。「生得の法」や「天運一という表現と、先の巻一−十三における「三宝の助け」という表現との問の微妙な差違に意をとどめるべきであろう。
後者はなお、食の調達(への腐心)が仏道との緊張関係の中で捉えられているのに対して、前者には  世俗世界内での事柄ゆえに〜…所詮は己れの「宿業」のもとにあるという一種の諦念がみられるのではあるまいか。むろん巻六−十二のありようをそのまま、かかる「宿業」観と重ねるのはいささか強引ではあろう。そこには「風流」が介在しているのであるから。しかしながら、「風流」(ないし数寄)の問題は、このような自己の「宿業」(に得心すること)という観点からあらためて考察されるべき要素をはらむと考えるべきであろう。
(18) 巻一−九の仏種房もまた臨終正念の場面において「板間もあはず荒れたる家に、月の光、友」もない状況を「あなうれし。是こそは、年来思ひつる事よ」と受けとめている。 
 
 
結縁の時空 / 往生伝と中世仏教説話集

 

一 結縁 / 問題の所在
慶滋保胤の著した「日本往生極楽記」(以下「往生極楽記」と略称)にはじまり院政期に撰述の相ついだ往生伝を、最も真摯に享受した中世知識人に、「閑居友」「法華山寺縁起」などの編著者でもあった慶政の名が挙げられる。ほかでもない大江匡房撰の「続本朝往生伝」(「続往生伝」)、三善為康撰の「拾遺往生伝」(「拾遺伝」)と「後拾遺往生伝」(「後拾遺伝」)、蓮禅撰の「三外往生記」(「三外記」)、藤原宗友撰の「本朝新修往生伝」(「新修伝」)を書写した実績をふまえてのことだが、その営みには。
此仝非為名利。則為自他発心。此全不期人天上報。則為往生極楽也。唯望此新生之聖衆達。遥照於愚願。必垂於来迎矣。願以北功徳。臨欲命終時。必預弥陀迎。往生安楽国。 (「拾遺伝」奥書)
などと自ら明かすごとく、自他の発心を励まし、その功徳によって伝中の往生人の来迎引摂に預かろうとする熱き願意が息づいていた。つとに美濃部重克氏が「結縁と説話伝承−往生譚の成立−」(2)で周到に説き明かしたように、往生伝の撰述者は往生人が引摂結縁楽をもつという信仰を前提として、「往生人の話を結集し、伝承しまた表現する行為そのものに、往生人に結縁するための供養という意義を認め、また、積極的にそれを意図していた」のであり、その宗教行為としての結縁こそが、往生譚を生み伝承してゆく言語行為の原動力であった。往生伝を書写することじたい、往生のための行業と認識していた慶政の願いもそれに連なっていたのである。
一般に仏教説話集と称される作品の形成や享受には、広義の結縁意識が作用していたと見て間違いないし、詩歌をはじめあらゆる言語表現の逆説的な文芸観として謳われた狂言綺語観もまた、その拠りどころを宗数的な結縁義に求めている。だが、あくまで専一に作品の形成二旱受の営みを領導し、一連の言語行為を基底から支えているかどうかを境目に、それらと往生伝における結縁とはやはり峻別されねばなるまい。往生伝を撰述するごと、それを書写しあるいはそれを読むこと、これらの言語行為が宗教行為としての引摂結縁に収斂してひと続きになるありようこそ、往生伝の世界を突出した文字言語による結縁空間たらしめている。こうした往生伝における結縁のありかたを、美濃部論文はさらに中世仏教説話集(「発心集」・「閑居友」・「撰集抄」)にも敷行して、広く説話の発生と伝承のメカニズムめ中核に位置づけようとした。それは説話集における表現主体(語り手)の位相、それと説話の表現や評語との関係などを考えるうえでも、じつに重要な問題提起だったと思われるが、その後、とくに「発心集」について、往生譚の変質や結縁意識に対する自照性の強さを論証するかたちで批判的に継承された(〜のを除けば、説話集と結縁の問題をめぐる議論はほとんど深まりを見ていない。たしかに上記仏教説話集においても、発心遁世譚や隠徳・偽悪譚等が往生譚をしのぐ比重で収録され、当の往生譚も往生事実よりそこに至る発心や行業のいかんが重視され、とりわけ心のありようが問題視される。もはや往生人に結縁するためという撰述意図では覆いきれない世界が展開しているわけだが、この変質を往生伝における結縁との断絶の結果と見るか否かは、なお意見の分かれるところであろう。
そもそも結縁とは、究極は仏道信仰の根源(仏菩薩・教法等)に帰すため、広く仏道と関係を結ぶ宗教行為であると同時に、その対象・利益内容・関係形態等のちがいによって、多様な具体を現出させる行為概念でもある。したがって、いかなる内容にしろ当事者にその目的や意義が企てられていれば、それもまた結縁行として成立したり、あるいは他者によってそれと意味づけられたりもするという、主観的・恣意的な側面のあることは否めない。その意味で、あらゆる事例から帰納的に結縁を定義づけることは、さほど有効であるとはいえないが、それでも、その対象・利益内容が最も具体的かつ尖鋭的な引摂結縁から、師檀・師弟・同行といった契約関係による結縁(結社・結衆等ブを挟んで、法会や説法の参集聴聞あるいは経像供養等の功徳行為としての結縁まで、およそ儀礼的・制度的な結縁実体を見渡したとき、おのずと開明化する一定の原理的なありようだけは、予め確認しておいてよいことだろう。
それはひとまず、(ある対象に親しく接する(出会う)ことによって、随喜・称賛の念を表しつつ、それへの随順(真似び)の心を発し、ついにそれを契機として救済・利益を得ようとすること》(きとでも説明できようか。法成寺金堂供養に参詣した河内の聖が、頼通←道長←天皇と順を追って最後に阿弥陀仏の至上の優性を目のあたりに覚知し、「なほなほ仏こそ上なくおはしましけれと、この会の庭にかしこう結縁しまうして、道心なむいとど熟しはべりぬる」(「大鏡」)と道念の昂揚を果たした著名な結縁などは、その典型と目される。多種多様な結縁実体を貫くのが、さらに(交渉・出会い←随喜・随順←救済・利益yと要約しうる構造的な原理だとすれば、これを基本的枠組としてテクスト形成の根拠となした点で、中世仏教説話集はまさに往生伝と系譜的関係にあると考えられる。小論では、あえてそうした前提に立って、‘’中世仏教説話集が往生伝に淵源する結縁にどうとり組んだのかを検証すふ・むろんその前提じたい仮説的なものにすぎず、そこからあらたに中世仏教説話集の成り立つしくみを明らかにする作業を通して、その妥当性が問われることになろう。 
二 結縁空間としての往生伝
往生伝撰述にかかわる結縁について、美濃部論文に補正すべき点はほとんどないものの、結縁をめぐる撰述者の位置づけに限っては再考の余地があるようだ。そこでは、往生人の話の「結集行為、伝承行為に自身のための結縁の意図」を認めていた浄土願生者としての立場が、「往生極楽の引例勧進のため」「浄土教の唱導書、啓蒙書としての撰述意図」を有した教導者の立場とは慎重に区別されたうえで、前者のいわば対自的な位相において結縁がとらえられている。それは「只為結縁為勧進而記矣。若使知我之者。必為往生之人」(「拾遺伝」巻上序)、「是以一為結縁。一為勧進」(「後拾遺伝」巻上序)と示される「結縁」と「勧進」の両目的に即した理解としては正しく、概ねこの種の著述意図はそのように二元的に把握することを常とする。だが、あくまで送り手・書き手の側からの謂である「勧進」が、受け手・読み手にとっては「結縁」にはかならないことからすれば、結縁とはまさしく享受者・読者の課題でもあるはずだ。例えば、
後之見此記者。莫生疑惑。願我与一切衆生。往生安楽国焉。 (「往生極楽記」序)
糞以今生集類之結縁。必期来世順次之迎接。其人誠有霊。遥照于我願。毀誉此記之者。施利益亦如是。(「拾遺伝」巻中序)
翼以今生結集之業。必為来世値遇之縁。毀誉此記之人。亦復如是云爾。(「後拾遺伝」巻上序)
などと標榜されるとおり、往生伝撰述による往生人との結縁の利益が享受者にも等しくもたらされるところに、願生者・教導者どちらでもある撰述者の位置を措定することができる。往生伝という結縁空間において、撰述者は往生人と享受者を媒介し、往生伝を書くことと読むこととが地続きの関係で結ばれる。
なかでもそうした自己認識を顕示するのが三善為康である。先引の「若使知我之者。必為往生之人」の「我を知る」とは、単に為康の往生伝を読むことではなく、あらたに往生人の伝を記すことによって結縁利益を重ねた為康に、往生伝を通じて縁を結ぶ意を込めるのであろう。しかもこのことばの前には、五十歳のとき順次往生と弥陀来迎の夢告を得、翌年の四天王寺参寵の折、舎利の出現によって夢告を信敬するに至ったという体験を語ってもいる。それは自らの往生に対する確信に充ちたことばでもあった。もしこの神秘な体験の直後に、実質的な往生伝撰述の開始即ち往生人の採訪がはじめられた(5)とすれば、願生者としての信仰の昂まりとともに、自ら決定往生者として他を引導しうる自覚が、為康に撰述者の道を選ばせたといってよいだろう。さらに「後拾遺伝」につけば、ある尼が生前の為康に往生結縁すべき夢告を得、また実際に「名簿」をもって訪れた三人の尼がいたという(6)。なおこれらの記事はひとつに合されるかたちで、「新修伝」の為康伝にも採録されている。他者が為康往生の夢告を伝え彼に結縁したという事態ば、「往生極楽を共同幻想する院政期浄土教の特徴が顕現していること」(7)にほかならないが、注目すべきは往生人の行業として記されるにふさわしい事蹟を、当の為康が自らの往生伝に先どりして録したことである。惟宗遠清か得た為康往生の夢告を記す「後拾遺伝」巻中序の末尾には。
衆人聞者随喜。皆日。便知彼人決定往生極楽之儀也。其聴及広。来告人多矣。故不能黙止。為示後人。予録万一。以置巻初云爾。
という説明を施すが、そこでは「今案。慶氏之記。江家之伝。以遺漏。若有所憚欺。今為結縁。省万記一矣」(「拾遺伝」巻上3)という最澄伝に対するのと同質の結縁の意義を、「後人」つまり享受者に差し向ける恰好になっている。すでに自らを往生人に準じて結縁対象とも扱いなす撰述者為康において、願生者であることと教導者であることとは不可分に共存していたと見るべきだろう。むしろ、結縁者であると同時に被結縁者でもあるという、両義の交錯する地点にあってこそ、往生伝の往生人と享受者を堅固につなぎえたのではなかったか。
既述したように、慶政も往生伝の書写をもって伝中の「新生之聖衆達」の来迎引摂を庶幾する旨を明らかにしているが、「続往生伝」奥書の「唯願此伝結縁人。各留半座乗花葉。待我閻浮結縁人」(8)は、美濃部論文がその解釈を保留したごとく、たしかにそれら願生者としての希求とは異なるニュアンスをもっているようだ。「結縁人」という同一表現による呼応関係から考えて、前者は伝中の往生人ではなく、むしろ往生伝を読みその結縁によって往生を遂げた人か、もしくはそれの期待される人であると理解し、後者もほかでもない慶政が書写した往生伝の享受者=結縁者の意味に特定してよかろう。おのずと先の為康と重なる慶政の被結縁者・善知識の自覚が看て取れる(9)。そして最も興味深いのは、往生伝の享受によって引摂結縁を果たした往生人が後続の享受者を往生人として待ち迎える、と幻視されていることだろう。往生人と撰述者・書写者、往生人と享受者、そして撰述者・書写者と享受者、それらに加えて往生伝をともに享受した者どうしが引摂結縁の関係をとり結ぶというありようは、往生伝における結縁がいかに重層的な構造にあったかを告げている。
往生伝における結縁は、結社・結衆の実体としての結縁と類比して論じられることが多い。なかでも源信や保胤が結成の中心となった二十五三昧会の結衆間には、臨終の病者に対して勧進者となり、往生の成否によって引摂結縁者とも滅罪供養者ともなる契約が交わされ、併せて病者にも問訊に応答し、死後の生処を知らせる義務が課せられたという、いわば往生の結縁共同体の内実を知ることができる。この往生人と結縁衆の関係はたしかに往生伝における結縁の前提をなすものであり、往生の判定基準となった臨終行儀や瑞相等を録しか「結衆過去帳」の記文は、そのまま往生伝の叙述に重なる。しかし、あくまで臨終に立ち会い死を共体験できる場にのみ占有された結縁に対し、往生伝がまさに時空を超えて、往生の結縁共同体を幻想しうる聞かれた結縁空間を創出したことの意義は小さくない。それは実体としての往生結縁を根拠にしつつ、往生伝にかかわる言語行為をそれと等価の宗数的位相にまで昇格させたことによる達成であったといえる。
では、かかる文字言語への絶大なる結縁幻想をもたらしたものは、何だったのか。往生の証例としての重みはいうまでもないが、さらに「拾遺伝」の最澄伝採録に窺えたような、往生伝として初めて記載することの一種特権的な自負でもあったとすれば、おそらく往生伝は往生人の過去帳としての本質を宿していたに相違ない。二十五三昧会0 過去帳は、これも慶政の書写奥書をもつ書陵部蔵の「拐厳院廿五三昧結衆過去帳」(10)によってその全貌を知ることができ、長和二年(TO万一)に起草され少なくとも一度書継がれて、長元七年(一〇三四)をそう下らない時期に成立したといわれる。慶政の奥書は起草者を源信(同「過去帳」四六1 に記文)、書継ぎ者を「過去帳」の最後に記される覚超とする説を掲げるが、確証はない。ともあれ、起草者や書継ぎ者が会衆の中心的存在であったことは疑えず、右説の場合のように彼ら自身も死後過去帳に記名され、往生すれば行業等を詳述されるのが過去帳の原則であったのだろう。それはなぜ往生伝の撰述が自覚的に系譜化されたのかを了解しうる基本原則でもある。
寛和年中。著作郎慶保胤作往生記伝於世。其後百余年。亦往々而在。近有所感。故詞萄莞訪朝野。或採前記之所遺漏。或接其後事而竟康和。 (「続往生伝」序)
をはじめ、各往生伝がことさら強調する往生伝継承の表明は、「往生極楽記」を起草部分とした書継ぎの宣言であり、実際に保胤伝が「続往生伝」に、為康伝が「新修伝」に採録された事実、あるいはのち「高野山往生伝」序に「必遂往生於順次。得載名字於伝記云爾」と明示した撰述者如寂の願いが、往生伝の往生人の過去帳的本質を如実に物語っている。
また往生伝が過去帳であるためには、当然記名の過去者(往生大)に重複があってはならず、それは「拾遺伝」までよく遵守された。ところが「後拾遺伝」に隆逞七永逞の二名の伝が重出するのをはじめ、同じく往生伝の書継ぎをめざしたはずのコニ外記」と「新修伝」には先行伝との重複例が数多く出来している。ただし、それらは同一資料に依拠した同伝関係、独白資料等による別伝・異伝の関係にあり、先行往生伝を直接引き写したような例は認められない(H)。撰述時期がかなり近接しているだけに、他にも種々の事情があったものと想われる。だが、結果として我々がそこに往生伝撰述の弛緩した面を窺い見るごとく、いわゆる院政期往生伝をすべて書写した慶政の眼には、やはりそれは黙認しかねる事態と映じた。「三外記」の奥書に慶政は次のように記している。
抑尋寂法師。講仙沙門。平願持経者。永観律師〜南京無名女。已上五人。為康拾遺伝載之。掲漏丁。而其徳行。全無加増之故也。蓮禅自序云。粗得遺漏之輩。重為胎方来云々。掲且書漏了。若有深趣。可迫害大欺。
もとより慶政が拾遺伝と重複する五伝を削除した理由「其徳行。全無加増」が全くの同文関係を指すのかどうか、なぜ上記以外の重複者が不問に付されてあるのかなど、不明な点は多く、その削除が恣意的であった可能性もなくはない。いずれにしろたしかなのは、慶政が伝統的理念に違反した撰述に不満の意を露わしたこと、そして書写者としての越権を犯してまで為康のいわば著作権を守ろうとしたことにある。往生伝撰述の理念といいまた著作権といい、実体としての往生結縁におけるくり返しのない緊張感を、文字一言語の世界にもちこんだ往生伝にとって、それらは死守すべき堅塁であったはずで、このとき慶政はその瓦解の兆しを見抜いたにちがいない。 
三 結縁の表現化 / 評語生成のしくみ
建保四年(二Iヱハ)に「閑居友」の筆を起した慶政が、長い中断を挟んで再び本格的な撰述に入ったのは、承久二年(一二二〇)秋の頃。その間の渡宋体験と帰国後の諸往生伝の書写とか、撰述再開の強力な契機となったと推定されている(〜。とりわけ往生伝の書写を通して慶政が学んだものは、「閑居友」の基本理念となって具現しているとおぼしい。まず「さても。「発心集」には、伝記の中にある人々あまたみえ侍めれど、この書には伝にのれる人をばいると」となし」(上古という明確な撰述方針は、周知のとおり往生伝中の人物を載せたために非難された「発心集」の反省から打ち出されたものだが、先述した往生伝に対する著作権尊重の立場を踏襲していると見ても間違いない。これは、「このことは親王の伝にもみえ侍らねば八しるしいれぬるなるぺし」(上古、「この清海の君の事、「拾遺往生伝」にのせられて侍めれど、この事は見えざめれば、記しのせ侍ぬる」(上5)などと、当該話の独自性・新出性をくり返しことわるように、厳密には往生伝をはじめとした先行文献との話題・話柄の重複を回避するかたちで実現している。およそ「閑居友」所収話に直接の典拠を確認しがたいのはそのためで、「閑居友」の影響を強く受けた「撰集抄」にいわゆる創作説話が多いのも同根であると知るべきだろう。右の撰述方針の理由のひとつとして、「もとより筆をとりてものを記せるものの心学しは、我この事を記しとゞめずは、後の世の人いかでかこれをしるべき」という著述一般に通じる書くことの必然性が唱えられているが、そうした表現者の使命感は同時に、結縁のために書かれ読まれた往生伝の意義を正しく継承していく命題でもあった。
往生伝との重複を慎重に避けつつ「閑居友」に採録された往生譚のうち、下11の東山で往生した「あやしのげす女」の話の末尾には。
いま、このあやしの事をきくに、たのみの心ねんごろ也。ねがはくは、なほざりに書きながすふでのあとをたづねて、草の庵の中にがりの寝の夢をみばて、松のとぼそのあひだにながきわかれをつげんとき、かならずたちかへり、友をいざよふ縁にもなせかしと也けり。
という評言が付されてあるが、これは美濃部論文が指摘したとおり、往生人である女童の引摂結縁を期待する旨の表明にほかならない。独自に聞書採取した往生譚に対する自負が無名の往生人への結縁の思いを露表させた典型といえる。このほか、初瀬観音の慈悲霊験譚を載せる下5の末尾では、「観音のあはれみ」の例話として在宋時の伝聞による観音の法華経伝授の話を簡略に引き、
かやうにありがたき御あはれみを思ふに、そゞろにたのもしく侍。一期の夕には蓮台ささげ給ひて、ふかき御めぐみあらむずらんかし、とたのもしくかたじけなくおぼえ侍。
と結ぶ。往生譚ではなく観音霊験譚の採録を往生来迎への結縁の契機にとりなすところに、「閑居友」における往生の結縁志向は明らかで、種々の話譚を究極己が往生信仰の水準に収斂させていく構造が重要だろう。そして、「たのもしくかたじけなくおぼえ侍」とは最終的な話の感想にちがいないが、同時に語り書ききたった伝承を内なる自らの結縁の心に受け容れた証言、即ち結縁の表現とはいえないだろうか。
例えば上13は、「三外記」や「高野山往生伝」などで往生人として知られる高野の南筑紫上人が、・ろくろく物を食べずに修行に励むのを咎められたのに対し、そのいわれを《山がらが絶食して龍の目から出ることに成功したのを見て、飼い主の男が「うき世をいでん」悟りを得て出家した)話をさる説法の席で聴聞したことにある、と告白する話で、もちろん往生の結縁ではないが、すでにそのなかには、山がらによって出家した飼い主の法談から、仏道者としての生きようを学んだ南筑紫上人の結縁が物語られてある。これを伝え終えた「閑居友」の語り手は、
この事をきゝしより、ふかく身にしみてわするゝときなし。かの山がらのいにしへも、ことにあはれにしのばしく侍。
と述べ、以下長い評語を展開する。この冒頭の表現はちょうど南筑紫上人自身の(法談を)「説(き)給ひしをきゝしが、いみじく身にしみて、我もし出家の心ざしをとげたらばさらむよ」という述懐に符合し、評語中ではそれを再び「つたへきゝて、げにと身にしみけん人もかしこき心也」とくり返してもいる。かくて該話が説法の場における結縁の物語を語るだけに、この「身にしむ」という共通の享受感覚の表明によって、「閑居友」の書き手は内なる物語における南筑紫上人と重なって、自らの物語の語り手であり結縁者であることを開明化する。そうして開始される評語は、文字どおり結縁の物語に結縁した証しとして綴られていく。そのように評語がとらえられるならば、中世仏教説話集における形態的な表現特徴である話末の1 い感想批評の発生および発達は、往生伝に淵源する結縁の表現化や顕在化をもって了解できるのではなかろうか。
自明のことかもしれないが、往生伝にそうした評語に類する言辞が施されるのは稀で、例えば「爰知証入漸深耳」(「続往生伝」31)「豊井上晶生之人。得仏菩薩之迎。乗金剛台往生極楽哉」(「拾遺伝」巻下士といった夢告や奇瑞を承けた往生の追認強調の記述や、まま後人の書入れの可能性もある「今案…」形式の注記を除くと、その数は驚くほど少ない。もとよりその認定が恣意的である難は避けられないが、いま「往生極楽記」と院政期往生伝から、評語に相当するたしかな用例を拾い出すと次のようになる。
@嗚呼上人化縁已尽。帰去極楽。天慶以往。道場聚落修念仏三昧希有也。何況小人愚女多忌之。上入来後。自唱令他唱之。爾後挙世念仏為事。誠是上人化度衆生之力也。 (「往生極楽記」17空也)
A爰知。往生不必依今生業。可謂宿善。 (「続往生伝」35源章任)
B定知。十悪五逆猶被許迎接。何況其余乎。見此一両。太可懸侍。(同36源頼義)
C嵯呼智如々来。可評量人。以牛羊眼。勿量衆生。(「拾遺伝」巻下27沙門善法)
D今捨撮土往浄土。貴哉哀哉。(「後拾遺伝」巻中2経源)
E料知依此少善。蒙彼大利。況乎於運心年久。称念日積之輩乎。(同巻下13尼妙蓮)
F十悪五逆之輩。最後念仏之力。猶得往生。今謂之欺。(「三外記」40丹波大夫)
空也による念仏普及の功績を内容とする@は往生叙述の後にあるので評語と認めたが、こうしたかたちであらためて往生人を顕彰するのは往生伝全体でも他に例を見ない。同類として括れるのがABFの悪人往生に対する例で、他にEは最末尾に「今案。此事縦非往生。利益如北」と注されるごとく、弥陀像奉造供養によって堕地獄を免れた尼の話に対する批評。いずれも往生伝の正続から外れた伝に9 いて浄土教信仰の甚大な救済力を宣揚するところに、往生伝における評語の大方の傾向が知られる。また「拾遺伝」のCも生前の善法を「無智文盲」と見て帰依の心を発さなかった僧定秀が、善法の往生を知り「追悔之思」を作したのに対し、「法華玄義」巻二上の文言を下敷きにあえて教訓に言い及んだもの。往生人ではなく、それに結縁する側の問題に触れた点が注目される。その意味では「本朝法華験記」(「法華験記」)に依拠した四例を含め悪人往生(13)を比較的多く採録する為康のふたつの往生伝などには、Cの類例がさらに見出せても不思議ではないが、実際はABなどのような例でさえ確認できない情況にある。
総じて往生伝には禁欲的なまでに批評的な言辞を弄することを憚る伝統的な体質があったといってよい。他方、往生伝における如上の寡黙なありように反動して、書き手自らの結縁の証しを言表することに意義を見出しだのが、中世の仏教説話集であったと承認されるだろう。ただし、右にはDに代表させて類例を列挙しなかったが、他にも「嗚呼悲哉」「咽悲哉」など、見かけは中世のいわゆる主情的な評語の原型と目される詠嘆調の称賛・悲嘆の隻句が、為康の往生伝に各二例、「新修伝」に一例存する。たしかに現象的には中世の結縁の表現化は、極めて直截なこれらの評語を飛躍的に伸展充実させたかに見えるが、決してそれは無媒介に達成されたのではない。さらにそのしくみというべきものを問い直す必要があるだろう。
ところで、主に「往生極楽記」と「法華験記」に依拠した「今昔物語集」巻一五の往生譚には、ほぼ全体にわたって、往生に立ち会った人々やそれを伝聞した人々などの「貴ブ」あるいは「悲ビ貴ブ」という表現が見出せる。そうした「貴ブ」を含む類型的表現は概ね「今昔物語集」の加筆によるものだが、これに関して詳細な検討を加えた竺沙直子氏の「「此レヲ聞ク人・:貴ビケリ」−「今昔物語集」巻十五の類型的表現をめぐってI」(14)は、それとは別に依拠資料の「結縁」の類似語としての「随喜」を「貴ブ」と言い換える例のあることを重視し、「巻十五に繰り返される「貴ブ」を含む表現は、「随喜」に代わる表現としての側面をもち、かつ、「結縁」の意志を表明するもの」としてとらえた。表現の問題として往生譚の伝承にまつわる結縁を論じて貴重だが、その指摘どおり、「今昔物語集」は、典拠に「結縁」の行為が記されている時にはそのまま「結縁」を踏襲するのに対し、「随喜」とある場合には「貴ブ」表現に置き換えるのが常套で、なかには「法華験記」巻中51末尾の夢中に往生を確認したある聖の「随喜」を、その夢の事実を聞いた人の「貴ビケリ」に移し換えた例(巻一五12)さえ確認できる。加えて、生前に子観と「師檀ノ契」を結び生処告示を約束された女が師の往生の夢を見たという同16に、女の「貴ブ」だけで「此レヲ聞ク人」のそれが付されないことに留意するとき、「今昔物語集」にとって、夢告による往生確認は必ずし心結縁の十分条件ではなく、夢告とその前の入滅事実とを併せ「聞ク」者こそじつは結縁者と呼ぶにふさわしかっか、という認識が窺える。
此レヲ思フニ、三人ノ夢二違フ事元ク、只同ジ様二見タリケルニ、必。極楽二往生セル人也ト知ヌ。此レヲ聞ク人、皆、涙ヲ流シテ悲ビ貴ビケリトナム語り伝ヘタルトヤ。 (「今昔物語集」巻一五31)
右も「往生極楽記」27に対して付加された末尾叙述に、「往生極楽記」にある三人の同じ夢告を介して「聞ク人」の結縁だけが描かれた例。しかも同時に話末評語でもあることをよく示しているが、むろん重要なのは、表現主体が自らの受容内容でもある「貴ブ」結縁を、一貫して設けた不特定多数の「聞ク」行為に連ねて付属させたことにある。この結縁の表現方法をもって「閑居友」の評語につくならば、むしろそれは表現主体が自らを伝承の集約的な特定の聞き手であること、それと緊密に連動して伝承の再現に向かう語り手であろうとした地点に実現していると観察されるE)。前引の「このあやしの事を聞くに」(下見「この事をきヽしより」(上13)という評語の語り起こしは端的にそれを物語り、例えば中国の竺道生の先例に倣い涅槃経説法の高座で逝去した覚弁の話(上10)の。
この事をきヽしに、かぎりなくあはれにたうとくおぼえき。高僧伝をみ侍しに、かの竺道生の所にて、おほくの涙をこぼせり。
のように、時に聞く・見る(読む)という行為が連動併存することもある。いったいに往生伝を主とする対文献意識に支えられた「閑居友」の表現主体は、実体としての聞く行為をもとに伝承を語りその感想批評を語るのを、そのまま表現に転じていると見て支障ないものの、おそらくは見仏開法といった結縁行を拠りどころに、語り手の前提にある聞くという言語行為を自立的に具象化する方法によって、その行為に伴う結縁の心を表現しえたことを見落としてはならないだろう。じつはそこに、創作や伝承の書き替えを本領とする「撰集抄」が、聞く行為だけでなく、往生人をはじめ多くの貴い聖の行状を実見することで結縁を重ねる、物語に実在する可視的な語り手西行を仮構したゆえんもあるからだ。なお「発心集」においても基本的なしくみは同様に観察される。例えば「かやうの事を聞きても、厭離の心をば発すべし」(巻四9)などに確認できるが、「さまで驚くべき事ならねど、主からに、貴く覚えし。後に人の語りけるなり」(巻二2)や、既成の文献(物語・伝・記)の存在を示しながらも、「此の事は、物語にも書きて侍るとなむ。人のほのぼの語りしばかりを書きけるなり」(巻一〜par のごとく、あくまで語りの聞書を強調するのが特徴的である。たとえ偽装にしろ、「承る言の葉をのみ記す」(序)姿勢を崩さないのは、結縁と聞く行為との原初的な関係からも説明できるだろう。
さらに結縁の表現としての評語を生み出すしくみを、直接の体験譚や口承資料をも含む依拠本文と表現主体の関係に置き換えた場合、聞く行為は表現主体のそれに対する読む行為に相当する。すでに、伝承を基本的要件とする説話の表現主体はまず「物語世界が成り立っている諸関係を発見し、状況や場面やできごとを意味づけようとする」「依拠本文の読者」であり、その読む行為と書く行為との「連続的な、しかし葛藤を含んだ関係」を内実とする言語行為が説話の表現生成の根拠としてとらえられている(16)。いま対象とする「閑居友」などの説話の表現主体における読む行為と書く行為との関係がいかなるものか、直ちに明らかにしえないが、時に両者の葛藤・矛盾が発現する「今昔物語集」のごときと較べれば、その関係は概ね安定を保っていると窺われる。例えば「閑居友」上17は、「阿弥陀仏をたのみ」常に日を拝んで涙していた老人道が他の見咎めるところとなって姿をくらます話だが、末尾の評語は次のように記されている。
Fいといたうあはれにおぼえ侍。
Eいとこまかにこそなけれども、おのづから日想観にあたりて侍けるにこそ。
D雨などのはげしくふりけんに、いかゞわびしく侍けん。思はかりある人こそ、さまぐになぐさむかたも侍れ、みじかき心にはさらに晴るゝかたなくぉもひみだれてこそ侍けめ。
Cまた、かの人の行方いかになりにけん、ことにおぼっかなく侍。
C誰ゆゑたてそめ給(ふ)誓なればかは、たのむ人を御覧じすぐすべきなれば、さだめて、かの御国にこそは生まれ侍にけめ。
Dいとほしく侍ける心かな。
便宜区切ったF・Dは読む行為を通して結縁が果たされた、その結縁にまつわる心的内容を表明したものと理解される。しかもCの老人道の往生極楽を思量した評(17)からは、先の下5の観音霊験譚と同じく、その結縁が究極往生結縁に連なると知られるが、この思量じたい、無智のひたすらな信仰こそが弥陀の衆生済度の誓願に叶うという理論的解釈に基づいている。知的判定による評価をくだした○も同然であろう。なかで悪天候時の人道の精神的情況を想いやった○は、夜明けを待ち焦がれる心情を明かした場面に働きかけられて、さらに同様の苦悶を読み取った評語として注目される。内容的には多岐にわたるけれども、そこには称賛、憧憬、共感、同情などの肯定的享受に収斂していく読みの実際が窺われる。さらに「撰集抄」ではCのごとく物語に語られない空白を感傷的に追想することに読みが費やされ、聖たちを全的に受け容れようとする姿勢があらわになる。つまり読みが結縁に及ぶわけだが、それはむしろ往生伝から学んだ結縁のために物語を書くことが、読むことを規制し、結縁としての読む行為を要請したといわねばなるまい。結縁という枠組によって、物語の語り手・書き手が物語内の聞き手・読み手と予定調和して結ばれることで、評語は結縁の表現として生成する。
これに対し、往生伝の表現主体は往生の証例としての意味を実現すべく依拠本文に働きかけ、それを類型的な叙法に即して往生譚として提示する主体ではあっても、逆に依拠本文に働きかけられ、読者としてその感慨批評等を具現するところの主体からはかなり遠い。少なくとも表現主体における読む行為の欠落が往生伝に評語を書くことを阻んでいる、という内実を認めざるをえないが、それは直ちにそのまま了解しうる事柄ではない。一貫して往生の具体を自己の往生の結縁のために享受する読者でもあった往生伝の表現主体は、あくまで個的な結縁としての読む行為をあえて表現の場から切り離すことで、往生伝を書くという行為を自ら権威化する方法を選び取ったと見るべきだろう。かえって彼らが古くことによって往生人は往生の結縁対象となりうるという逆説が成り立つほどに、その古く行為の自意識は強い。先述した往生人の過去帳的本質や聞かれた結縁空間のありように照らせば、表現主体はまさにその文字言語による結縁空間を主宰する中枢に身を置いていた。
こうして往生伝の表現の場から排除された表現主体の結縁としての読む行為が、中世の仏教説話集では書く行為に連繋して顕在化し、結縁の表現化を遂げる。従来、その話末評語の長大化の要因として、自照性ヤ評論性がとりざたされて、専ら編著者の個性に還元されてきたが、評語が結縁としての側く・・読む行為を方法とした、語り手や書き手の個々の物語に対する結縁の表現としてある限り、もはやそれらは当然の所産として表層化した特徴にほかならなかった、とい丈るだろう。 
四 結縁の内面化と対象化
中世仏教説話集が発心譚や遁世譚などにも敷行しつつ、往生伝における結縁にとり組んだ成果として、その自照性や評論性があるならば、それらと引き替えに少なくともテクストの表層から排除されたのが、往生伝が創出した文字一言語による聞かれた結縁の空間性・共同性ではないだろうか。前節に見たように、「閑居友」の表現主体は結縁としての聞く行為を前提にした語り手として、伝承を語るとともにそれに対する結縁のことばを表していく。そこには「身は錦の帳の中にありとも、心には市の中にまじはるおもひをなすぺきなめり」(上4)のような、撰述依頼主と想定される特定の読者に対するメッセージはあっても、直接不特定の他者に語り伝えていく姿勢は基本的にない。語り手の語る物語はあくまで語り手の内面に帰着し、読者はそこでの個的な結縁内容の随伴した物語を享受する。語り手の結縁が内面化すればするほど、究極語り手による物語の結縁しか読むことができなくなる表現のしくみにあった。
「撰集抄」はそうした物語と語り手の関係を最も尖鋭的に実現してぃるといってょい。「撰集抄」の語り手は「閑居友」に確認した結縁表現としての評語のありょうを全面的に継承しながら、一層それを内省的に示している。とりわけ顕著なのは、例えば巻三2「静円供拳拳乞食之事」の、
いかなれば是を見るにも驚かぬ心にて、あさましき身を惜しみ捨てゃらざるらんと、かへすぐも心憂く侍り。
といった、徹底した凡夫の自覚からの自己否定的な表現である。以前指摘したごとく(18)ヽこうした語り手の凡愚性は結縁すべき対象を相対的に格上げする語りの機能装置としてあり、実体の編者像に短絡することはできない。その意味で、待ち望んだ維摩会の講師を他に越されて出奔した興福寺の一和僧都が、のち春日明神の託宣により帝釈天の札に次の講師として記されてぃるのを知り帰寺した巻二1の、
抑、この維摩会を帝釈の札にしるし給らん、ありかたく覚えて侍り。世々を経ても、かの講師をのぞまざりければこそ、かゝるつたなく、さきしもいやしき身と生れけめと、かへすぐ心うく侍り。(傍線部、他本に「講師に」、「さきらもあさき」などとあり)
という評語は、編者を南都興福寺関係者とする根拠のひとつに挙げられてもいるが、必ずしもそうとは限定できまい。むしろ、遁世の環境をめぐる「唐土の江州終南山、盧山の恵遠寺などのしづかなるやうを聞くには、かしこに住む身となどかならざりけんと、口惜しく覚えて侍り」。(巻四5)と同様の思考回路に£る自虐的なことばと理解すべきではなかろうか。それはまた、例えば巻二2の出家した比叡山から失踪した鳥羽院第八宮青蓮院真1 の最後の消息を、ふ現前国にて聞き伝えた語り手の「あはれ三世の諸仏の、かの青蓮院の御心を、十が一の心ばせを付け給はせよかし」というような結縁利益の渇望の裏返しとしての結縁表現でもあるだろう。いわば非現実的な因果律による享受認識までして自らを引き裂きながら、個々の結縁対象に密着し親屍していくところに、結縁の表現化は極まる。右の真誉の往生はついに確認されなかったが、
こひ願はくは、いまだ草のとざしはて給はぬ御事ならば、かならずたづね合たてまつらん。もし、むなしき御名のみ残す御事にしある物ならば、一浄土の友とおぼして、あはれを、たれさせ給へとなり。若君にて山にのぼせ給へりしには、御供つかまつりしぞかし。
と、語り手は真誉の来迎引摂をも願って評語を結んでいる。注目されるのは、あえて最後に真誉の出家登山に随供したという事実を回想した傍線部の叙述。これは「大鏡」の語り手世継や繁樹の歴史証言者の位相にも通じて(19)ヽ西行が鳥羽院北面の武士であった経歴にふさわしい虚構だが、「長承の末」に出家したはずの語り手の事蹟としても時間的に整合しない。やはり全く個別に真誉との過去の縁を強調することによって、姿なき遁世・確認されざる往生の結縁有資格者としての自己を誇示した表現と見るほかない。このように語り手に占有された私的な結縁はもはや読者との共有を許さないだろう。そのことは、結縁の表現化そのものがいったんは共同幻想的な聞かれた結縁空間を切断し、そこから読者という他者を排除すべく機能する行為であったことを教える。
このことにすぐれて自覚的であったのは「発心集」であろう。
誰人か是を用いん。物しかあれど、人信ぜよとにもあらねば、必ずしも、たしかなる跡を尋ねず。道のほとりのあだことの中に、我が一念の発心を楽しむばかりにや、と云へり。
と序の末尾にあるように、「発心集」はまさに自己の仏道心のために語り、書いた説話集を標榜する。ただし冒頭に述べたように、「発心集」にあっては往生人に結縁するという限定された意図は稀薄で、むしろ偽悪や隠徳のほか執心・妄念の克服など、心をめぐる問題意識がテクスト全体を貫いている。それも往生伝における結縁を往生という極点から、発心など仏道にかかわる心のレベルに移し換えたためだといえば読弁めくが、「くはしく伝に記せり」「委くは伝にあり」と往生の叙述を省筆する「発心集」にとって、逆説的に往生伝の4 在は小さくなく、それとの関係を抜きにして「発心集」の成立はありえなかったのではないか。例えばよく知られるように、「法華験記」巻上37、「拾遺伝」巻中2等の橘を愛して蛇身に堕した康(講)仙が法華経供養により救われ往生した話を、「発心集」は巻一8にその前半のみを愛執の事例として引き、しかも「委くは伝にあり」と典拠を明かしている。いちおう「拾遺伝」を指すと考えれば、「拾遺伝」が「法華験記」の霊験譚を往生の証例として採録したのを、「発心集」はそれとは全く異なる水準で享受したわけだが、ここでの往生伝は依拠資料というより、「発心集」によって相対化され乗り越えられるべき対象でさえある。往生譚での「くはしく伝に記せり」という記述の背後も同様であろう。そして往生伝というテクストだけでなく、そこに伝統的な結縁のありようを対象化したことこそ、「発心集」の始発点ではなかったか。
如上の講仙往生譚の享受を、もとより「発心集」が執心を主題にしていたからだと説明するならば、なによりそうした主題化の前提にあるものを問題にすべきだろう。
此れにより、短き心を顧みて、殊更に深き法を求めず、はかなく見る事、聞く事を註し集めつつ、しのびに座の右に置ける事あり。即ち。賢きを見ては、及び難くとも、こひねがふ縁とし、愚かなるを見ては。自ら改むる媒とせむとなり。(序)
それは右の賢・愚両極の採録方法に由来するが、そこには同序の「自心をはかるに、善を背くにも非ず、悪を離るるにも非ず。風の前の草のなびきやすきが如し。又、浪の上の月の静まりがたきに似たり」という心の認識が介在し、心の善でも悪でもない中間的な、それゆえに乱れやすい不安定な位置の措定が、賢・愚両極の物語を要求したという構図にある。ほかならぬ自らの心を他者として問いただす拠点(20)から、「愚かなる」物語に抜きがたい心の暗部が照射され、「賢き」物語によって苛烈なまでの心の超克が示される。そこに根源的な心の課題を抱えた仏道者の生きようが索められている限り、それはすでに上記の「こひねがふ縁」「自ら改むる媒」とする言辞で明らかだが、たしかに語り手と物語とは心のレベルでの結縁の関係にあるといってよい。重要なのは、この結縁の分極化が単に「功徳之池。雖遠賢聖思斉」(「続本朝伝」序)、「慕賢跡」(「三外記」序)などに対する対象の拡散としてあるのではなく、むしろ往生伝のごとき結縁の心そのものの対象化によってもたらされたことだろう。「めでたくやむごとなき事とても、又我が分に過ぎぬれば、望む心なし」(巻五麹、「極楽の詣でやすき事を聞けども、信ずるともなし。疑うともなし。耳にも入らず。
心にもそまず」(巻六末尾践)などという心のありようへの前提的な懐疑こそ、「発心集」をあらたな結縁に向かわせた本源であると考えられる。
中途半端であるだけに深刻な心の克服という課題に連繋して、「発心集」の往生譚は悪人をはじめ無智や童子の往生、あるいは入水・断食などの捨身往生が多く、それらは往生の証例として仰ぐというよりも、往生を実現させる熾盛心や無垢な道心に学び、自心を賦活するためであった。入水往生に失敗し悪道に堕ちた蓮花城、我執によって身燈往生に挑み天狗になったと噂された西尾聖などの存在は、非正統的な異相往生の証例の提示じたいが目的でなかったことを逆に裏づけている。なお右の往生失敗譚も妄念・執心をめぐる話題として語られるが、見逃せないのは、
其の時、聞き及ぶ人、市の如く集まりて、しばらくは、貴み悲しぶ事かぎりなし。(巻三8「蓮花城、入水の事」)
西尾の聖身燈すべしと云ふ事聞こえて、結縁すべき人、貴賤道俗市をなして、たふとみこぞる。(巻八3「仁和寺西尾の上人、我執に依って身を焼く事」)
と、いずれにも熱烈な結縁の群衆が描かれている点である。それは「編素集門。結縁成市」(「拾遺伝」巻上H)、「上下老少。来集結縁。猶如盛市」(「後拾遺伝」巻中6)という往生伝における往生結縁の描写に一致し、また「宇治拾遺物語」一三三の空入水に見物人が「河原の石よりもおほく」群集した光景とも重なる(21)。捨身往生に欠かせぬ観衆とはいえ、西尾聖の「今ぞ束尾の聖にかちはてぬる」という末期のことばを知らずに涙して去った者、それを漏れ聞き「益なき結縁をしてげるかな」と悔しがった者の姿に、盲信的な結縁への冷ややかな思いが込められていないとはいえない。また蓮花城にあっては、霊となって協力者の登蓮の夢に現われ《入水間際に心残りを覚えたが、「さばかりの人中に」自ら中止することもならず、辛うじて目で制止してほしいと登蓮に訴えたにも拘わらず、「知らぬがほにて、「今はとくとく」ともよほして沈みてん恨めしさに、何の往生の事も覚え」なかった)と告白している。あくまで逆恨みであることを割引かねばならないが、登蓮を含めた群衆の注視が入水を急き立てていると思えた心理状態だけは、文字どおり読み取ってよいだろう。強迫的に注がれた視線の呪縛があながち蓮花城の堕地獄に無関係でないとすれば、、こうした往生の結縁をめぐる形象は看過できない問題をはらむ。
さらにきわだった事例について見よう。蓮花城失敗譚の直前にある巻三7は、書写山にて断食往生を企てた持経者がすでに童子の給仕によって心身の苦痛を除かれたというもので、往生の事実はないが、末尾評語にて「彼の童子の水をそそきけんも、証にはあらずや」と強調され、往生譚仁準じて語られている。じつはその問題の往生が確かめられなかったのは、唯ひとり断食行を知らされ籍口を約していた長者の憎が、まな弟子にでも漏らしたのか。
此の事、やうやう聞こえて、此の山の僧ども、結縁せんとて尋ね行く。「あないみじ。さばかり口堅めしものを」と云へど、叶はず。はてには。郡の内にあまねく聞こえて、近きも遠きも集まりののしる。此の老僧至りて、心の及ぶ限り制すれど、更に耳に聞き入るる人だになし。という状態を招いたからであった。「夜昼を分かず、様々の物投げかけ、米をまき、拝みののし」る喧噪のなか、断食僧はいずこともなく姿を隠し、そして執拗に「手を分けて、山を踏みあさり」した探索ののち、偶然「仏経と紙衣」だけが発見ざれる。往生の結縁者と称してそのじつ好奇の徒でしかなかった群像が、ひとり静かに往生を待つ聖との乖離する構図に鮮やかに映し出されている。同時にそれはおよそ往生伝が伝えることのなかった結縁の暗愚な裏面励)であり、基本的には巻一の隠徳や偽悪の聖にまとわりっく他からの崇敬・帰依に通じる。それらが排除すべき対象であったように、愚かな結縁もまたその中にとり込められていた。こうした物語形象はもちろん往生の結縁信仰そのものの否定を意味しない。やはりその信仰自らが宿していた心の問題を対象化した皮果であり、往生伝に遡源しながらも、翻ってあらたな地平に切り返した「発心集」のとり組みはここにも確認できるだろう。 
五 茸遭遇と結縁 / 結縁の物語化・作品化
くり返しになるが、西行に仮託された「撰集抄」の語り手は編著者から完全に独立した表現主体として、また唯一一貫した結縁主体として仮構されている。それは直接の見聞によってはたされる第一義としての結縁を、語り手を設定することで作品化しかことを意味しよう。こうしたテクストの重層的な構道こそ、「撰集抄」を同系列の「発心集」「閑居友」とも本質的に隔てているように見えるが、それはむしろ逆比「発心集」「や「閑居友」の表現主体(語り手)を実体の編著者と一元的に結びつける危うさを喚起して、なぜ「閑居友」の表現主体が伝承の集約的な特定の聞き手、それを前提にした語り手であろうとしたのかを問い直す契機となるだろう。あからさまな虚構ではないにしろ、。少なくとも「慶政」という実名を伏サだ編著者から分化した表現主体が語り・書くことによって、「閑居友」も結縁の作品化を成していたのではないか。他方、「長明発心集〜「鴨1 明撰」と銘される長明もまた、あくまで「撰集抄」の西行と同次元の語り手l書き手どしてとらえることで、「発心集」を構造的に読み込んでいぐ視界が開けてくみのではなかろうか。
例えば「発心集」巻八5「盲者ハ関東下向の事」の。
東の方修行し侍りし時、さやの中山のふもとに、ことのさきと申す社の前に、六十ばかりなる琵琶法師の、小法師ひとり具したるが過ぎ行くを、呼びとどめて、乾飯などくはせて…
辛苦しながら鎌倉へ向かう彼らの旅が、訴訟や後見頼みといった利害目的とは無縁であることを直接聞き出しか体験譚には、実朝に謁見した長明の鎌倉下向の伝記をふまえて、場面設定はもとより、琵琶法師の旅じたいにそれとの微妙な重なりとずれとが仕掛けられていると読むことも可能だろう。その場合の語り手長明は、そうした重奏的な意味合いを提示する主体というより、その実現のため既存の長明像を仕組ませる機能媒体としてあったというべきだろう。ほかにも周知のとお。り、神明説話の多くなったことに対し、「昔の余執か、などあざけりも侍るべけれど、あながちにもて離れんと思ぶべきにもあらず」(巻八末践文)と神職であった過去に触れ弁明する語りロなど、「撰集抄」の語り手西行と重なり合うその様態を突破口にして・、説話集の構造の一環としての語り手長明をとらえ直す必要があるだろう。
さて、巻八5の語り手長明による「これを聞くにつけても、我等が、盲のかたばかり、彼が類ひにて、しかも志はうすき事の、とにかくに取る所なく、心うく覚え侍りし」という自省は、ゆえに複雑な心情をあやなすものとも読めるのだが、これまで述べてきたように、これじたいは一種の結縁表現であると認められる。しかもその結縁は語り手自身が旅する途中偶然出くわすことでもたらされており、いうまでもなく「撰集抄」に類型的なものでもある。よく概評されるとおり、「撰集抄」が語るのは心澄まじた遁世や往生の聖たちの物語だが、じつは語肛手の側からすれば多くは彼らとの遭遇の物語として成昨立っている。語り手西行が直接見聞する場合に留まらず、例えば巻二3の播磨国平野の法師、同5の東山の念仏僧、巻五5の駿河国富士山麓の僧、巻七2の西山の禅僧などはみな、他者に見出されて発心の因縁や法文のことばを残し伝えている。もちろん発見されなければ真相が明かされない物語の約束事によるのだけれども、巻七2の禅僧に出会った経信らを、
仏法のなごりを惜しみて、さがしき山路の谷あひに、岩根をまくらにし、苔の衣をかさねて、夜をあかしけんも、おとらず貴くぞ侍る。結縁よも空しからじ。哀この世には、かゝる人々はよもおはせしものを。
と讃歎するごとぐ、語り手にとって貴い聖に遭遇しえた結縁者もまた貴重な存在であった。
さらに物語における遭遇と結縁の緊密な関係を示して興味深いのは、語り手が主体的に結縁を求めた設定にはじまる次のごときである。
過にし比、津の国住吉のやしろの社司のもとに、仏事おこなふ事侍りき。折節、そのあたりにふればひ侍りしかば、結縁もあらまほしくて、のぞみ侍りしに (巻三2「静円供奉乞食之事」)
さいつ比、かしらおろし侍りし比、結縁もせまほしくて、三滝の上人観空の庵にまかりたりしに、折節、上人たがはれ侍しかば、待侍らんとおもひて (巻六12「三滝観空上人往逢近衛三位入道事」)
結果的には巻三2の唱導僧は期待に反したが、群集していた乞食のなかに比叡山から失踪した静円供奉を発見、親しく言葉を交わす。巻六12はあいにく上人が不在で待つ間に、最近出家したとおぼしい僧(近衛院三位入道)を見つけ連歌し、発心出家の子細を聞くに及ぶ。前者は場面の必然性、後者は人物関係において、いずれの「結縁」も欠かせぬ要素とはいえ、そこから遁世聖との偶発的な出会いに基づく結縁が語られるのは、遭遇による結縁の物語化かほぼ定型的なまでに実現しているからだろう。
また逆に、小倉山に出家した待賢門院中納言局との対面(巻五6)や江口の遊女との避遁(巻五H・巻九8)のように、すでに西行との出会いを記載する「山家集」を原拠としたとり組みにも注意しておきたい。例えば江口の遊女との出会いは、この種の漫遁譚に典型的な聖に対する遊女の結縁の物語に結実しうる話題であったはずだが、その想像力は専ら語り手西行にとっての結縁の物語化に注がれた。とくに巻九8「江口遊女歌之事」では、遊女による道念の告白が、語り手に「このきみ故に、我もいさゝかの心を、須央ほどおこし侍りぬれば、無上菩提の種をも、いさゝか、などか兆さざるべき」という結縁随喜をもたらし、その後の消息で遊女から出家事実を知らされた時には、「かの遊女の最期のありさま、、いかゞ侍るべきと、かへすぐゆかしく侍り」と引摂結縁に通う追慕の念をもよおさせた。避遁譚ではないが、待賢門院の中納言局に面談、バ憂喜」を超越したその道念を聞かされて、先達であるはずの語り手の方が「かの局の心ばせにも劣り侍りぬるはづかしさよ」と慨嘆し、三年後その最期にかけつけ、間接ながら臨終正念を確認したという巻五6も同趣。明らかに彼女たちの道念の内実や往生事実等は原拠に対しあらたに発想されたもので、語り手を一貫して結縁主体とする方法とともに、その対象を往生人やそれに準じた人物として形象するとり組みによって、結縁の物語化は達成される。語り手自身の体験見聞を含め、出会い・遭遇の物語が即ち結縁の物語でもあること、そ与した個々の充実が語り手と結縁の関係を作品化した「撰集抄」を内側から支えているのである。
冒頭で結縁の構造的な原理について触れたように、いかなる内容形態にしろ、出会いによって結縁の端緒が開かれるのであれば、如上の結縁の物語化はまさにその出会いの空間を劇的に構成するところにはじまるといってよい。それが遭遇による結縁の物語をあまた生み出す要件だったが、なおその先跳としてある往生伝が描く結縁との関連のいかんを問うてみたい。
例えば「撰集抄」の往生譚に。
明けにしかば、人雲霞のごとく走りあつまりて、往生人とて結縁をぞし侍りける。 (巻一2「親之処分無故人被取押遁世人之事」)
あさましくかなしく覚えて、いそぎ人にふれなむどして、きたり拝み侍りけりとなむ。 (巻二5「雲林院之説法参発心之人事」)
のごとく存する往生結縁の描写は、やはり往生伝の「広道不歴幾年入滅。北日音楽満空。道俗傾耳。随喜発心者多矣」(「往生極楽記」21)をはじめとした叙述に由来すると見て間違いないが、「往生極楽記」の用例(ほかに29・36・38・41)がそうであるように、往生伝のそれは往生の奇瑞・夢告の確認に連動して記されることを原則とする。換言すれば、本来それも往生成就の証明機能を担う記述の圏内にあったのである。しかも往生の予告や奇瑞・夢告よりも相対的にその記述例が少ないこと、自身の被結縁体験を含め先行往生伝よりもはるかに多くの結縁記述を施した為康の往生伝に、典拠の「法華験記」のそれを捨象した例のあることなどから、往生伝にとって結縁の記述は必ずしも第一義でないことが知られる。往生伝が結縁の書であること、それは個々の伝が結縁の物語であることを保証するわけではなかった。往生伝の嗜矢「往生極楽記」に限れば、往生の証例を提示するにあたり、むしろ往生(人)に相向かう自立した結縁の場(結縁空間)を消去することで、往生伝という文字言語による作品空間がそれを代替する結構にあると観察される。よって、往生の成否そのものを問題視しなかったがゆえに、往生の証明機能と切れた結縁叙述が「撰集抄」にあることじたい、そうした結縁の場の物語化という水準で捉え返す必要があるだろう。
その意味では、「往生極楽記」よりも「法華験記」の切り拓いた結縁をめぐる表現描写が注視される。
@還帰本処。義容法師出里流涙。伝語深山持経者聖人作法徳行矣。是聞人随喜流涙。速発心人有多其数云。 (巻上H吉野奥山持経者某)云)
A比丘流涙。止住遺跡。修行仏法。若有伝聞此事之類。皆来此所。恋慕聖人。結縁而去矣。 (巻中73浄尊)
B故非時蓮花忽生此池。世人聚集。奇歎希有。一切聖人。有道心輩。皆来結縁。於彼池辺修諸善根。弥陀念仏。法華懺法。不断修之。廻向彼霊。遍施法界。種仏道因。 (巻下m筑前国優婆塞)
Bは道心深い男が神供の水鳥を猟ろうとした池で水死するが、のち日ごろの法華経(観音普門品)読誦によって悪業を免れ極楽往生したのだと夢告した、その往生奇瑞としての蓮華が群生した池に人々が集まり結縁した場面。奇瑞確認の結縁に留まらず、さらに具体的な修法の叙述によって結縁の場が特立されていることに注意したい。@Aは、すでに「今昔物語集」。の霊験譚に関する構造論で(24)、「遭遇と証言」の物語として分析されたなかの典拠にあたるとおり、ともに道に迷った山奥や山野での遭遇を機に、持経仙人の験徳や肉食法師の往生行を目撃した物語の結末である。Aの目撃者「比丘」は当初の約束にしたがい再訪して往生結縁を遂げ、その証言によってさらに多くの伝聞者の「結縁」が生まれた。Bと同様、往生人の「遺跡」に比丘自らも止住して修行を続け(「真似び」の結縁)、のち訪れた人々が恋慕結縁したという場の結縁が描かれるが、さらに「撰集抄」にとって重要なのは、霊験譚に包摂されつつ遭遇が往生結縁譚として完結していることだろう。あくまで「法華験記」に即していえば、@のごとく人里離れた山中に持経仙を発見しその験行を目撃して帰るという、霊験譚の話型としてのいわゆる異郷(異界)訪問譚こそ、「撰集抄」が採用した結縁物語の祖型であったと考えられる。
そのことを裏づけるのが、語り手西行による遭遇譚の直接のモデルともいうべき「発心集」巻六12。武蔵野を旅していた西行が法華経読誦の声をたよりに、もと郁芳門院の侍の長であった遁世聖を見出す話だが、それはまさに法華経霊験を物語る話型としての異郷訪問譚に合致している。「発心集」において大事なのは、その聖が花に囲まれて暮らす数寄者であったことだが、それに続く同型の13「上東門院の女房、深山に住む事」の末尾には「袖をしぼりつつ、一仏浄土の契りを結びて帰りぬ」と叙されるごとく、やはり異郷訪問譚のごとき遭遇を通して、結縁を物語ろうとする趣向が確認される。おそらく「撰集抄」は、非日常的な異界での霊験がそうであるように、偶かに遭えた聖たちの行実がそれへの神秘や畏敬の念をもって仰がれ伝承されるという、当該話型のはたす機能的効果に目覚めていたのだろう、「発心集」巻六12の同話を載せる「撰集抄」巻六11﹈では、数寄の聖を「御経の力にや、虎狼もあやまたず。又、食物などは、時々、ゆゝしき天童の、雪のごとくに白き物をたびぬれば、食はざるさきに物のほしくもなくになむ」という典型的な読誦仙人に書き替え、さらに徹底して法華経霊験譚に同調している。だがにもかかわらず、ついに語り手は法華経の不可思議な力を宣揚するところには向かわなかった。
読誦念仏などは、無智の物かならず巨益にあづかる事に侍り。此聖も、無智におはしけるなんめり。しかれども、読誦かずつみて、すでに仙になれり。我ひとつ喜べる事は、かくのごとくいみじき人々あまた見侍りぬれば、さすがに縁起難思の力もむなしからじと覚え侍り。念仏などとともにあくまで汎論的に法華経と「無智の物」との縁を強調しつつ、その実見による結縁利益に思いを寄せるのである。やがて、弥陀の「愚悪の凡夫と縁の深くおはします事、まことにありかたくぞ侍る」という結びに至っては、法華経霊験譚からの離反が明らかだが、こうした語り手による結縁への主題的な転換にとって、同じく「撰集抄」話に固有の聖自らが明かす持経者となったいきさつは、極めて重要な意味をもつ。
されども、なにのつとめをすべしとも思ひさだめ侍らで、たどりありき侍しほどに、説法のみぎりにのぞみて侍しに、法花経の中に「十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三」と説かれて、二乗妙典に過てめでたき御法なしと説ききこえ給ひし事、げにと覚えて、法花経をよみたてまつりて、後世のつとめとはし侍らんと思ひて、怠らずよみ奉つるに侍り。
それはちょうど先の「閑居友」上13の南筑紫聖の説法聴聞に重なる、法華経との遭遇=結縁を語るものであった。したがって、すでに持経者として実質往生に通じる神仙の身を得ているという形象は、究極来迎引摂を庶幾する語り手の結縁の内実(25)に即応すべく不可欠であったが、同時に、それもまた遁世聖にとってかけがえのない結縁の所産であったと描くことで、語り手の結縁の意義が保証されていく二重構造にある。「撰集抄」において語り手西行による遭遇譚の基本型である巻六Hは、また遭遇=結縁の物語の原理的な一段ともなりえていよう。
その評語の後半で語り手は「かく世捨て人のたぐひと成侍りて、蓮台の月をのぞみ、聖衆の来迎をおもひて、すこしの善根をもし侍りぬと思ひ侍る折は、法界衆生にさながら及ぼして、ひとつ蓮の上にと回向するに侍り」と総括的に自らの実修を語るが、それは先掲の「法華験記」Bの結縁行に符合している。自利利他行をもって衆生済度を実践する遁世については以前述べたが(26)、それはやはり結縁者である語り手の生きようにこそ学ばれていたのである。物語の結縁がそうした動的な語り手像に収斂していく限り、じつはそこから編著者・読者にとっての結縁の時空をめぐる問題があらためて問われねばならない。 
 
 
吉田兼好

 

吉田兼好(1283年頃〜1352年頃)の『徒然草』(1330年)は作品名だけ見ると何やら悠長な、世捨て人の繰り言を集めたように思うが、実はそんなものではない。
これは、単に「心に浮かんだ」ことを書き留めたものではなく、人生の中の様々な謎に対して自分なりの答えを見つけたと思ったときにそれを文章にしたもので、いわば兼好にとっての「発見の手帳」のようなものである。
もちろん『徒然草』の魅力は、何より文章が抜群にうまいことである。たとえば、第19段には、何度読み返しても飽きないリズムがある。これは美文であって、四季の「あわれ」を様々な言葉で表現していき、最後にまた「あわれ」という言葉で締めくくっている。兼好の語彙と表現力の豊かさをこれほど如実に見せている文章はない。
しかし、ここでも初めに
「秋ほど素敵な季節はない」という人は多い。確かにそうかもしれないが、春の景色を見るときの感動はそれ以上だとわたしは思う。
と、秋を最高とする世の中の一般的な意見に対して、自分なりの発見を伝えようとしている。
このように、兼好は『徒然草』の中でいつも自分なりの答えを示す。
そして、物事に対する一般的な物の見方、よくありがちな見方に対して、それとは逆の見方、それとはまったく違った見方をつねに提示して、物事には常に複数の見方があることを提示してやまない。
たとえば、第215段では最明寺入道(北条時頼)の質素さを示すエピソードを紹介したかと思うと、次の第216段ではその同じ時頼が家臣の家を訪ねて、アワビに海老におはぎにとまるで祭りのような豪華な接待を受け、毎年六十反分の着物の贈り物まで要求していたことを描いて、その贅沢ぶりを伝えている(何と、これを質素だとする解釈がある!)。
だから、この時代の人間としても、日本人としても珍しいことだが、兼好は「確かに〜であるが、しかし〜」という言い方、英語でいうindeed-butの構文を多用している。
兼好は『エセー』を書いたフランスのモンテーニュに似ているという人がいる。両者の類似点は、第142段の法律に対する批判にも見ることが出来る。人が守れないような法律を作っておきながら、それを破ったといって罪人にするのが政治の仕事かという批判である。
また、常に死を眼前に意識してこそ人生は楽しめるという意見はモンテーニュそのものだ。
兼好は僧侶であるから、仏教的な無常観に支配されている。しかし、彼はその無常を楽しんだ。兼好の『徒然草』にはどこにも悲壮感がない。彼は人生をエンジョイしているのだ。先に挙げた第19段も季節の無常を讃えたものだった。
いっぽう、第107段の女についての兼好の観察もずばり正鵠を射ている。
「女というものは、こちらから尋ねるともったいぶって何も言わないくせに、聞かれもしないうちから、とんでもないことをぺらぺらとしゃべり出したりする。女なんて底が知れているのだ。そんな女に男がよく思われようとして緊張するなんて馬鹿げたことだ」
これに対しては、「その通り」と膝を叩いた男性方は多いのではないか。
わたしが一番好きなのは偉人の痴呆を描いた第195段だ。人生の無常をこれほど端的に描いた文章はない。しかし、兼好はそれを哀れむのではなく、淡々と描いている。
その他に兼好の結婚否定論(第190段)や敗北主義宣言(第130段)なども面白い。
最後から二つめの第242段は、兼好の人生についての考えの総まとめとでも言うべきものである。そこで兼好は、「人間の欲望で最も強いのは名誉欲、その次が性欲で、その次が食欲だ」と喝破している。有名になりたいという名誉欲は子供にさえ一番強い。日本の高校野球などはその典型だ。
『徒然草』には薄田泣菫の『茶話』の中に見られるような偉人の失敗話もたくさんある。例えば背中合わせに置かれた狛犬に感涙した高僧の愚を描いた第236段は笑わせる。
また、一番最後の話は、兼好が子供の頃、父親を質問責めにする利発な少年で、それを父親が他人に自慢するというほほえましい話で、読者はきっと兼好に親しみを覚えるだろう。
そのほかに面白いのは、平家物語の作者が信濃前司行長であると書いていたり(第226段)、白拍子(しらびょうし)の起源として、義経の恋人である静御前とその母親の磯の禅師に言及していること(第225段)などがある。
このように『徒然草』には面白い話がつきないが、特に後の方に面白い話が多いようだ。だから、わたしは『徒然草』を後ろから読むことをすすめる。
もちろん『徒然草』を読むのに原文で読むのに越したことはない。今の岩波文庫の『徒然草』は注釈が充実しているので、辞書なしでほとんど読めるようになっている。こんなものがわたしの高校時代にあったら『徒然草』を全部読んでこいという夏休みの宿題も怠けずにすんだろう。
現代語訳は講談社文庫『徒然草』(絶版)の川瀬一馬のものが最も優れている。角川文庫の今泉忠義の訳もよい。両方とも、原文をなぞったようなもどかしい文章ではなく、意味をそのままズバリと表現した小気味よい文章で訳されている。
一方、本屋の学参コーナーにある橋本武の訳(日栄社)は学校の先生の訳らしく、原文から読みとれる要素を訳の中に全部詰め込んでいて長くなっている。しかし、正確でしかも文章がいいので単独で読むことが出来る(ただし、143頁の8行目で「たゞ物をのみ見んとするなるべし」を、206頁の7行目で「次に、万事の用を叶ふべからず」を、訳し落としている)。ちなみに、この人は有名な桃尻語訳の橋本治と間違いやすいが全然別人である。
岩波文庫と旺文社の全訳古典撰集『徒然草』は共に安良岡康作の注釈が詳しくて参考になる。岩波の新古典文学大系39「方丈記徒然草」は正徹本という最古の写本を底本にした珍しいもので、久保田淳の注釈も優れている。
わたしも好きなのを選んで、なるべく普通の日本語になるように翻訳してみた。題して新訳もの狂おしくない『徒然草』。上に挙げたものはすべて含めてある。上記の本を大いに参考したことは言うまでもない。
吉田兼好は鎌倉時代末期の人だが、『徒然草』は意識的に平安時代風に書いていると言われている。とすれば、彼の文章をいまの日本語の感覚で読んでも正しくは理解できないはずだ。たとえば、序文の「あやしうこそものぐるほしけれ」をそのまま「妙にもの狂おしい気持ちになる」という意味だと考えることは大いに疑問である。例えば『更級日記』や『源氏物語』には「ものぐるほし」を自己の過去の行為の愚かさを反省する意味で使っているからである。実際、岩波文庫「徒然草」の注も三省堂「例解古語辞典」も「ばかばかしい」を採用している。
この訳はそういうことを意識して、単語の意味を片っ端から辞書で引き直して作ったものである。そのため、既存の訳とは大きく異なる点があることをご承知願いたい。その上で、「もの狂おしくない徒然草」をお楽しみあれ。
第二百十七段の訳では、「欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには」の意味がくみ取りにくい。その直前では、「欲を満たす為に金を貯めるのに、貯めた金で欲を満たさないのはおかしい」と言っているのに、「欲を満たして楽しみとするよりは、金がない方がいい」では筋が通らないからである。
そこで今泉の現代語訳は、「欲望を満足させて楽しみとするよりも、寧ろ金欲のない方がいい」と、あとの方を「欲」に読み替えている。また、橋本武も困り切って「財貨を得たいという欲望を満たして銭をため込み、それを用いることなくして心の安楽を得ようとするよりは、はじめから財貨をもたないで、清貧に甘んじている方がよほど気が利いているだろう」と、苦辛の訳をしている。
ここは正徹本の読みである「欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、欲なからんには」(講談社文庫も同じ。「欲望を遂げて楽しみとするよりは、欲がないのに越したことはない」(同現代語訳))の方がすっきりしている訳しやすい。
しかしながら、これでは次の文章の「癰(ヨウ)・疽(ソ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ」の、でき物を楽しむ状況と対照関係にならない。今は出来た財産について言っているのであり、原因である欲の話をしている訳ではないからである。それに、何より「欲」は最後の「大欲は無欲に似たり」にとっておきたい。
そこで、わたしは「財を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには」と両方を「財」にして読んでみた。これなら「金持ちは金を貯めることを楽しみとする」という前半の論旨とも一致するし、金持ち批判で全体の趣旨が一貫する。橋本武がここにあるはずだと考えた意味も、この読みに合致する。
これがもともと兼好の書いたテキストである可能性がないわけではない。両方「財」だったものが、筆写の過程で、最初の「財」を「欲」に読み間違えた人がいて、そのテキストを見た正徹が、意味が通じるように両方「欲」に変えて写したと考えられないことはないからだ。 
 
 
業平と高子

 

在原業平は歌人で、平城天皇の孫に当たる人物です。皇室の一員であるのですが、叔父に当たる高岳親王が薬子の乱に関連して廃王子となり、兄にあたる行平中納言が文徳天皇の皇嗣問題に関連して失脚、業平は、政権から遠ざけられ、和歌一つを頼りに生きざるをえませんでした。業平に対しての鬼は藤原冬嗣一門、と言うことになります。藤原冬嗣の娘、順子は仁明天皇の后に、また息子良房の娘、明子は文徳天皇の后に、そして息子長良の娘、高子(たかいこ)、通称二条后(にじょうのきさき)は、未来の皇后候補として業平と出会います。
業平は高子のもとに通う事になります。当時五条の東に、高子の伯母にあたる皇太后明子が住んでおり、高子はしばらくそこにいた事がありました。業平は警備の厳しい皇太后の住まいに、「密(ひそ)かなる所なれば門よりもえ入らで、童(わらは)べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり」というように、高子のもとへ通いつづけ、密会を重ねます。そしてそれはついに人の知るところとなるのです。
高子には国経、基経という兄弟があり、業平とは同世代でありました。天皇の直系でありながら、政権から遠ざけられている業平と、代々天皇の后を輩出し、政権の中枢にありながら「身はいやしながら」と血統を問われる藤原家、国経、基経の間には、やはり越えられないものがあったのではないでしょうか。国経、基経にとっては、高子が皇后になるかどうかは、自分自身が朝廷で生きていくための生命線に等しいものでした。業平と高子の関係を知った時、国経、基経は一種の「鬼」と呼ばれるものとなったのです。
足ずりをしてなけどもかなし。その通ひ路に、 夜ごとに人を据ゑて守らせければ、行けどもえあはで帰りけり。
国経、基経は皇太后の住まいの警備を強化し、築地のくずれにも人を立たせ警戒しました。当然、業平は高子と逢う事が出来なくなります。
業平は事の成りゆきを和歌に託して伝えます。
「人知れぬわが通ひ路の関守はよひよひごとにうちも寝ななむ」
それは高子の心を痛めさせました。「あるじゆるしてけり」「明子皇太后は許しているのですよ。」しかし国経、基経は、大きな壁として立ちはだかっていたのです。
思ひあらば葎(むぐら)の宿に寝もしなん ひじきものには袖をしつゝもそう、思いのたけをぶつけ、あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせり、ついに逢えなくなった時、行平はついに高子を盗み出すのです。
むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。
芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡□(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。
「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。 やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし 足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを
(※ 原文に上記のような段落分けはありません。)
やっと高子を連れ出し、どことも行く先のわからぬまま夜道をかけ、雷鳴がとどろき、雨も叩くようにふるなか、高子を朽ちた倉にかくまって、弓をもって守ろうとする業平。しかし雷鳴の中「あなや」という声さえ届かず、高子は再び連れ戻されるのです。草の上の露を「あれはなに?」と聞く、そんな普通の会話すら、業平の前から永遠に消えてしまいます。高子はのち、清和天皇の妃になり、陽成天皇の生母となり、業平も紀有常の娘と結ばれます。その後、業平は右近衛中将として、春宮の母となった高子の、春日参詣に供奉(ぐぶ)します。業平、五十余歳、その時の歌が残っています。
大原や小塩の山もけふこそは 神世の事も思ひいずらめ 心にもかなしとや思ひけん。 いかが思ひけん。 知らずかし。
業平は自らの心を、こう説明しています。
伊勢物語は業平をモデルとしたものと解釈され、研究されています。業平と高子の物語は伊勢物語の三・四・五・六段、そして六十五段がいきさつとなっています。 
 
 
諸話

 

宇治拾遺物語
巻第一/三 鬼に瘤取らるる事
これも今は昔右の顔に大きなる瘤ある翁ありけり 大かうじの程なり 人にまじるに及ばねば薪をとりて世を過ぐるほどに山へ行きぬ 雨風はしたなくて帰るに及ばで山の中に心にもあらず留まりぬ また樵夫もなかりけり 怖ろしさすべき方なし
木の空虚のありけるに這ひ入りて目も合はず屈まり居たるほどに遥より人の声多くしてとどめき来る音す いかにも山の中に只だ独り居たるに人の気はひのしければ少し生き出づる心地して見出だしければ大方やうやうさまざまなる者ども赤き色には青き物を著黒き色には赤き物を著犢鼻褌にかき大方目一つあるものあり口なき者など大方いかにも言ふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集りて火を貂の目の如くにともして我が居たる空虚木の前に居まはりぬ 大方いとど物覚えず 主とあると見ゆる鬼横座に居たり 表裏に二列に居並みたる鬼数を知らず その姿各云ひ尽し難し 酒まゐらせ遊ぶ有様この世の人のする定なり 度々土器はじまりて主との鬼殊の外に酔ひたるやうなり 末より若き鬼一人立ちて折敷をかざして何と云ふにかくどきくせせる事を云ひて横座の鬼の前に黎り出でて口説くめり 横座の鬼杯を左の手に持ちて笑みこだれたる様ただこの世の人の如し 舞ひて入りぬ 次第に下より舞ふ 悪しく舞ふもあり善く舞ふもあり
あさましと見るほどにこの横座に居たる鬼の云ふやう 今宵の御遊こそ何時にも勝れたれ 但しさも珍らしからん舞奏を見ばや など云ふにこの翁 物の付きたりけるにや また神仏の思はせ給ひけるにや あはれ走り出でて舞はばや と思ふを一度は思ひ返しつ それに何となく鬼どもが打ちあげたる拍子の善げに聞えければ さもあれただ走り出でて舞ひてん死なばさてありなん と思ひ取りて木の空虚より烏帽子は鼻に垂れ掛けたる翁の腰に斧といふ木切る物さして横座の鬼の居たる前に躍り出でたり この鬼ども跳り上りて こは何ぞ と騒ぎ合へり 翁伸び上がり屈まりて舞ふべき限りすぢりもぢりえい声を出だして一庭を走り廻り舞ふ 横座の鬼より始めて集まり居たる鬼ども感歎み興ず
横座の鬼の曰く 多くの年比この遊をしつれども未だかかるものにこそ逢はざりつれ 今よりこの翁かやうの御遊に必ず参れ と云ふ 翁申すやう 沙汰に及び候はず参り候ふべし この度は俄にて秘曲の手も忘れ候ひにたり かやうに御覧に適ひ候はば静かに仕う奉り候はん と云ふ
横座の鬼 いみじく申したり 必ず参るべきなり と云ふ 奥の座の三番目に居たる鬼 この翁かくは申し候へども参らぬ事も候はんずらん おぼしし質をや取らるべく候ふらん と云ふ 横座の鬼 然るべし然るべし と云ひて 何をか取るべき と各云ひ沙汰するに横座の鬼の云ふやう かの翁が面にある瘤をや取るべき 瘤は福の物なればそれをや惜しみ思ふらん と云ふに翁が云ふやう ただ目鼻をば召すともこの瘤は許し給ひ候はん 年比持ちて候ふ物を故なく召されん条なき事に候ひなん と云へば横座の鬼 かう惜しみ申す物なり ただそれを取るべし と云へば鬼寄りて さは取るぞ とて捻ぢて引くに大方痛きことなし さて 必ずこの度の御遊に参るべし とて暁に鳥など鳴きぬれば鬼ども帰りぬ
翁顔をさぐるに年来ありし瘤跡形なく掻い拭ひたるやうに更々なかりければ樵らん事も忘れて家に帰りぬ 妻のうば こはいかなりつる事ぞ と問へばしかじかと語る あさましき事かな と云ふ 隣にある翁左の顔に大きなる瘤ありけるがこの翁瘤の失せたるを見て こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ 何処なる医師の取り申したるぞ 我に伝へ給へ この瘤取らん と云ひければ これは医師の取りたるにもあらずしかじかの事ありて鬼の取りたるなり と云ひければ 我その定にして取らん とて事の次第を細かに問ひければ教へつ
この翁云ふままにしてその木の空虚に入りて待ちければ誠に聞くやうにして鬼ども出で来たり 居まはりて酒飲み遊びて いづら翁は参りたるか と云ひければこの翁 怖ろし と思ひながらゆるぎ出でたれば鬼ども ここに翁参りて候ふ と申せば横座の鬼 こち参れ 疾く舞へ と云へば前の翁よりは天骨もなく疎々奏でたりければ この度は悪ろく舞ひたり かへすがへす悪ろし その取りたりし質の瘤返し給べ と云ひければ末つ方より鬼出で来て 質の瘤返し給ぶぞ とて今片方の顔に投げ付けたりければ左右へに瘤付きたる翁にこそなりたりけれ 物羨みはせまじき事なりとか
巻第一/一七 修行者百鬼夜行に逢ふ事
今は昔修行者のありけるが津の国まで行きたりけるに日暮れて龍泉寺とて大なる寺の古りたるが人もなきありけり これは人宿らぬ所といへどもその辺にまた宿るべき所なかりければ いかがせん と思ひて笈打おろして内に入りてけり
不動の呪を唱へ居たるに 夜中ばかりにやなりぬらんと思ふほどに人々の声数多して来る音すなり 見れば手毎に火を灯して百人ばかりこの堂の内に来集ひたり 近くて見れば目一つ着きたるなどさまざまなり 人にもあらずあさましき物どもなりけり あるいは角生ひたり 頭もえも云はず怖ろしげなる物どもなり
怖ろしと思へどもすべきやうもなくて居たりければ各皆居ぬ 一人ぞまだ所もなくてえ居ずして火を打振りて我をつらつらと見て云ふやう 我が居るべき座に新しき不動尊こそ居給たれ 今宵ばかりは外におはせ とて片手して我を引きさげて堂の縁の下に据ゑつ
さるほどに 暁になりぬ とてこの人々喧騒りて帰りぬ 誠にあさましく恐ろしかりける所かな 疾く夜の明けよかし 往なん と思ふに辛うじて夜明けたり
打見廻したればありし寺もなし 遥々とある野の来し方も見えず人の踏み分けたる道も見えず行くべき方もなければ あさまし と思ひて居たるほどにまれまれ馬に乗りたる人どもの人数多具して出で来たり いと嬉くて ここは何処とか申し候ふ と問へば などかくは問ひ給ふぞ 肥前国ぞかし と云へば あさましきわざかな と思ひて事のやう委しく云へばこの馬なる人も いと希有の事かな 肥前の国に取りてもこれはおくの郡なり これは御館へ参るなり と云へば修行者喜てび 道も知り候はぬにさらば道までも参らん と云ひて往きければこれより京へ行くべき道など教へければ舟尋ねて京へ上りにけり
さて人どもに かかるあさましき事こそありしか 津の国の龍泉寺と云ふ寺に宿りたりしを鬼どもの来て所狭しとて 新しき不動尊暫し雨だりにおはしませ と云ひて かき抱きて雨だりについ据ゆ と思ひしに肥前の国おくの郡にこそ居たりしか かかるあさましき事にこそ逢ひたりしか とぞ京に来て語けるとぞ
巻第二/六 厚行死人を家より出す事
昔右近将監下野厚行といふ者ありけり 競馬によく乗りけり 帝王より始め奉りて覚え殊に勝れたりけり 朱雀院の御時より村上の御門の御時なんどは盛にいみじき舎人にて人もゆるし思ひけり 年高くなりて西京に住みけり
隣なる人俄に死にけるにこの厚行とぶらひに行きてその子に逢ひて別の間の事どもとぶらひけるに この死にたる親を出ださんに門悪しき方に向へり さればとてさてあるべきにあらず 門よりこそ出だすべき事にてあれ と云ふを聞きて厚行が云ふやう 悪しき方より出ださん事殊に然るべからず かつは数多の御子たちの為殊に忌はしかるべし 厚行が隔の垣を破りてそれより出だし奉らん かつは生き給ひたりし時事に触れて情のみありし人なり かかる折だにもその恩を報じ申さずば何をもてか報い申さん と云へば子どもの云ふやう 無為なる人の家より出ださん事あるべきにあらず 忌の方なりとも我が門よりこそ出ださめ と云へども 僻事なし給そ ただ厚行が門より出だし奉らん と云ひて帰りぬ
我が子どもに云ふやう 隣の主の死にたるいとほしければ弔ひに行きたりつるにあの子どもの云ふやう 忌の方なれども門は一つなればこれよりこそ出さめ と云ひつればいとほしく思ひて 中の垣を破りて我門より出だし給へ と云ひつる と云ふに妻子ども聞きて 不思議の事し給ふ親かな いみじき穀断の聖なりともかかる事する人やはあるべき 身思はぬと云ひながら我が家の門より隣の死人出だす人やある 返す返すもあるまじき事なり と皆云ひ合へり 厚行 僻事な言ひ合ひそ ただ厚行がせんやうに任せて見給へ 物忌し奇しく忌むやつは命も短くはかばかしき事なし ただ物忌まぬは命も長く子孫も栄ゆ いたく物忌み奇しきは人と云はず 恩を思ひ知り身を忘るるをこそ人とは云へ 天道もこれをぞ恵み給ふらん 由なき事な侘び合ひそ とて下人ども呼びて中の桧垣をただ毀ちに毀ちてそれよりぞ出ださせける
さてその事世に聞えて殿原もあざみ誉め給ひけり さてその後九十ばかりまで保ちてぞ死にける それが子どもに至るまで皆命長くて下野氏の子孫は舎人の中にも多くあるとぞ
巻第二/一二 唐卒塔婆に血付く事
昔唐土に大きなる山ありけり その山の頂に大きなる卒都婆一つ立てりけり その山の麓の里に年八十ばかりなる女住みけるが日に一度その山の峰にある卒都婆を必ず見けり 高く大きなる山なれば麓より峰へ登る程険しくはげしく道遠かりけるを雨降り雪降り風吹き雷鳴りしみ氷りたるにもまた厚く苦きし夏も一日も欠かず必ず登りてこの卒都婆を見けり
かくするを人え知らざりけるに若き男どもも童部の夏暑かりける比峰にのぼりて卒都婆の許に居つつ涼みけるにこの女汗を拭ひて腰二重なる者の杖にすがりて卒都婆のもとに来て卒都婆を廻りければ 拝み奉るか と見れば卒都婆を打廻りては即ち返り返りする事一度にもあらずあまた度この涼む男どもに見えにけり この女は何の心ありてかくは苦しきにするにか と怪しがりて 今日見えばこの事問はん と云ひ合はせけるほどに常の事なればこの女這ふ這ふ登りけり 男ども女に云ふやう
わ女は何の心によりて我等が涼みに来るだに暑く苦しく大事なる道を涼まんと思ふによりて登り来るだにこそあれ、涼む事もなし、別にする事もなくて卒都婆を見廻るを事にて日々に登りおるること怪しき女のわざなれ この故知らせ給へ と云ひければこの女 若き主達は実に怪しと思ふらん かくまうで来てこの卒都婆見る事はこの比の事にしも侍らず 物の心知り始めてより後この七十余年日毎にかく登りて卒都婆を見奉るなり と云へば その事の怪しく侍るなり その故を述給へ と問へば 己が親は百二十にしてなん亡せ侍りにし 祖父は百三十ばかりにてぞ亡せ給へりし それにまた父の祖父などは二百余年ばかりまでぞ生きて侍りける その人々の云ひ置かれたりけるとて この卒塔婆に血の付かん折になんこの山は崩れて深き海と成るべき となん父の申し置かれしかば 麓に侍る身なれば山崩れなば打覆れて死にもぞする と思へばもし血付かば逃げて退かんとてかく日毎に見侍るなり と云へばこれ聞く男ども迂愚がり嘲りて 恐ろしき事哉 崩れん時も告げ給へ など笑ひけるをも我を嘲りて云ふとも心得ずして 勿論なり いかでかは我一人逃げんと思ひて告げ申さざるべき と云ひて帰り下りにけり
この男ども この女は今日はよも来じ 明日また来て見んに威して走らせて笑はん と云ひ合はせて血を滴して卒都婆によく塗り付けてこの男ども帰り下りて里の者どもに この麓なる女の日毎に峰に登りて卒都婆見るを怪しさに問へば云々なん云へば明日威して走らせんとて卒都婆に血を塗りつるなり さぞ崩るらんものや など云ひ笑ふを里の者ども聞き侍りて迂愚なる事の例に引き笑ひけり
かくてまたの日女登りて見るに卒都婆に血の大らかに付きたりければ女打見るままに色を違へて倒れ転び走り帰て叫び云ふやう この里の人々疾く逃げ退きて命を生きよ この山は只今崩れて深き海になりなんとす と遍く告げまはして家に行きて子孫どもに家の具足どもおほせ持たせて己も持ちて手惑ひして里移りしぬ これを見て血付けし男ども手打ちて笑ひなどするほどにその事ともなく私語めき喧騒り合ひたり 風の吹き来るか 雷の鳴るか と思ひ怪しむほどに空もつつ闇になりてあさましく恐ろしげにてこの山動ぎ立ちにけり こはいかにこはいかに と喧騒り合ひたるほどにただ崩れに崩もて行けば 女は誠しけるものを など云ひて逃げ逃げ得たる者もあれども親の行方も知らず子をも失ひ家の物の具も知らずなどして喚き叫び合ひたり この女一人ぞ子孫も引き具して家の物の具一つも失はずしてかねて逃げ退きて静かに居たりける かくてこの山皆崩れて深き海となりにければこれを嘲り笑ひし者どもは皆死けり あさましき事なりかし
巻第二/一四 柿の木に仏現ずる事
昔延喜の御門御時五条の天神の辺に大きなる柿の木の実ならぬあり その木の上に仏現れておはします 京中の人挙りて参りけり 馬車も立て敢へず人もせき敢へず拝み喧騒りけり
かくするほどに五六日あるに右大臣殿心得ず思し給ける間 誠の仏の世の末に出で給ふべきにあらず 我行きて試みん と思して昼の装束美はしくして梹榔の車に乗りて御前多く具して集まり集ひたる者ども退けさせて車かけ外して榻を立てて木末を目もたたかず他見もせずして凝視りて一時ばかりおはするにこの仏暫しこそ花も降らせ光をも放ち給ひけれ、余りに余りに凝視られてし侘て大きなる糞鵄の羽折れたる土に落ちて惑ひふためくを童部ども寄りて打殺してけり 大臣は さればこそ とて帰り給ひぬ さて時の人この大臣を いみじく賢き人にておはします とぞ評判りける  
 

 

巻第三/四 山伏舟祈り返す事
これも今は昔越前国甲楽城の渡といふ所に渡りせんとてものども集まりたるに山伏ありけいたう房といふ僧なりけり 熊野御岳は云ふに及ばず白山伯耆の大山出雲の鰐渕大かた修行し残したる所なかりけり それにこの甲楽城の渡に行て渡らんとするに渡りせんとする者雲霞の如し
各物を取りて渡す このけいたう坊 渡せ と云ふに渡守聞きも入れで漕ぎ出づ その時にこの山伏 いかにかくは無下にはあるぞ と云へども大方耳にも聞き入れずして漕ぎ出だす その時にけいたう坊歯を喰ひ合はせて念珠を揉みちぎる
この渡守見かへりて 迂愚の事 と思ひたる気色にて三四町ばかり行くをけいたう房見遣りて足を砂子に脛の半らばかり踏み入れて目も赤く睨みなして数珠を砕けぬと揉みちぎりて 召し返せ召し返せ と叫ぶ なほ行き過ぐる時にけいたう房袈裟を念珠とを取り合はせて汀近く歩み寄りて護す 召し返せ 召し返さずば長く三宝に別れ奉らん と叫びてこの袈裟を海に投げ入れんとす それを見てこの集ひ居たる者ども色を失ひて立てり
かく云ふほどに風も吹かぬにこの行く舟の此方へ寄り来 それを見てけいたう房 寄りめるは寄りめるは 早う率ておはせ率ておはせ とすはなちをして見る者色を違へたり かく云ふほどに一町がうちに寄り来たり
その時けいたう房 さて今は打覆へせ打覆へせ と叫ぶ その時に集ひてみる者ども一声に むざうの申しやうかな ゆゆしき罪にも候ふ さておはしませおはしませ と云ふ時けいたう房今少し気色変りて はや打覆へし給へ と叫ぶ時にこの渡舟に二十余人の渡る者づぶりと投げ覆へしぬ
その時けいたう房汗をおし拭ひて あないたの奴ばらや まだ知らぬか といひて立ち帰りにけり 世の末なれども三宝おはしましけりとなん
巻第四/一 狐人に憑きてしとぎ食ふ事
昔物気煩ひし所に物気渡ししほどに物気者に憑きて云ふやう 己は祟りの物気にても侍らず うかれ罷り通りつる狐なり 塚屋に子どもなど侍るが物を欲しがりつればかやうの所には食ひ物散ぼふ物ぞかしとて参で来つるなり 粢ばら食べて罷りなん と云へば粢をせさせて一折敷取らせたれば少し食ひて あなうまやあなうまや といふ
この女の粢欲しがりければ偽物憑きてかく云ふ と憎み合へり 紙給はりてこれ包みて罷りて老女や子どもなどに食はせん と云ひければ紙を二枚ひきちがへて包みたれば大きやかなるを腰につひばさみたれば胸にさしあがりてあり
かくて 追ひ給へ 罷りなん と験者に云へば 追へ追へ といへば立ち上がりて倒れ伏しぬ 暫しばかりありてやがて起き上がりたるに懐なるものさらになし 失せにけるこそ不思議なれ
巻第四/二 佐渡国に金ある事
能登国には鉄といふ物の素鉄といふ程なるを取りて守に取らする者六十人ぞあんなる 実房といふ守の任に鉄取六十人が長なりける者の 佐渡国にこそ金の花咲きたる所はありしか と人に云ひけるを守伝へ聞きてその男を守呼び取りて物とらせなどして賺し問ひければ 佐渡国には誠に金の侍るなり 候ひし所を見置きて侍るなり と云へば さらば行きて取りて来なんや と云へば 遣はさば罷り候はん と云ふ さらば舟を出だし立てん と云ふに 人をば給はり候はじ ただ小舟一つと食物すこしとを給り候ひて罷り至りてもしやと取りて参らせん と云へばただこれが云ふに任せて人にも知らせず小舟一つと食ふべき物少しとを取らせたりければそれを持て佐渡国へ渡りにけり
一月ばかりありて打忘れたるほどにこの男ふときて守に目を見合はせたりければ守心えて人伝には取らで自ら出で合ひたりければ袖うつしに黒ばみたる裂帛に包みたる物を取らせたりければ守重げに引きさげて懐に引き入て帰り入りにけり その後その金取の男は何処ともなく失せにけり 万に尋ねけれども行方も知らず止みにけり いかに思ひて失せたりと云ふ事を知らず 金のある所を問ひ尋ねやすると思けるにや とぞ疑ひける その金八千両ばかりありけるとぞ語り伝へたる かかれば 佐渡国には金ありける 由と能登国の者ども語りけるとぞ
巻第四/一三 智海法印癩人と法談の事
これも今は昔智海法印有職の時清水寺へ百日参りて夜更て下向しけるに橋の上に
唯円教意 逆即是順 自余三教 逆順定故
と云ふ文を誦する声あり 尊き事かな いかなる人の誦するならん と思ひて近う寄りて見れば白癩人なり 傍らに居て法文の事を云ふに智海ほとほといひまはされけり
南北二京にこれほどの学生あらじ物を と思ひて 何れの所にあるぞ と問ひければ この坂に候ふなり と云ひけり 後に度々たづねけれど尋ね逢はずして止みにけり もし化人にやありけん と思ひけり
巻第五/一 四宮河原地蔵の事
これも今は昔山科の道づらに四の宮河原といおふ所にて袖くらべといふ商人集まる所あり その辺に下衆のありける 地蔵菩薩を一体作り奉りたりけるを開眼もせで櫃に打入れて奥の部屋などおぼしき所に納め置きて世の営みにまぎれて程経にければ忘れにけるほどに三四年ばかり過ぎにけり
ある夜夢に 大路を過ぐる者の声高に人呼ぶ声のしければ 何事ぞ と聞けば 地蔵こそ と高くこの家の前にて云ふなれば奥の方より 何事ぞ と答ふる声すなり 明日天帝釈の地蔵会し給ふには参らせ給はぬか と云へばこの小家の内より 参らんと思へどまだ目も開かねばえ参るまじく と云へば かまへて参り給へ と云へば 目も見えねばいかでか参らん と云ふ声すなり
打驚きて 何のかくは夢に見えつるにか と思ひまはすに怪しくて夜明けて奥の方を能く能く見ればこの地蔵を納めて置き奉りたりけるを思ひ出だして見出だしたりけり これが見え給ふにこそ と驚き思ひて急ぎ開眼し奉りけりとなん 
 

 

巻第五/一一 仲胤僧都地主権現説法の事
これも今は昔仲胤僧都を山の大衆日吉の二の宮にて法華経を供養しける導師に請じたりけり 説法えも云はずして果て方に 地主権現の申せと候ふは とて
比経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然
といふ文を打あげて誦して 諸仏 と云ふところを 地主権現の申せとは 我即歓喜 諸神亦然 と云ひたりければそこら集まりたる大衆異口同音にあめきて扇を開き使ひたりけり
これをある人日吉の社の御正体を現し奉りて各御前にて千日の講を行ひけるに二宮の御料のをりある僧此句を少しも違へずしたりけるをある人仲胤僧都に かかる事こそありしか と語りければ仲胤僧都きやらきやらと笑ひて これはかうかうの時仲胤がしたりし句なり えいえい と笑ひて 大方はこの比の説経をば 犬の糞説経 と云ふぞ 犬は人の糞を食ひて糞をまるなり 仲胤が説法を取りてこの比の説経師はすれば 犬の糞説経 と云ふなり とぞ云ひける
巻第五/一三 山の横川の賀能地蔵の事
これも今は昔山の横川に賀能知院といふ僧極めて破戒無慚の者にて昼夜に仏の物を取りつかふ事をのみしけり 横川の執行にてありけり 政所へ行くとて塔のもとを常に過ぎ歩きければ塔の許に古き地蔵の物の中に棄て置きたるをきと見奉りて時々衣被りしたるを打脱ぎ頭を傾けて少し少し敬ひ拝みつつ行く時もありけり かかるほどにかの賀能はかなく失せぬ
師の僧都これを聞きて かの僧は破戒な慚の者にて後世さだめて地獄に落ちん事疑ひなし と心憂がり哀れみ給ふ事限りなし
かかるほどに 塔のもとの地蔵こそこのほど見え給はね いかなる事にか と院内の人々云ひあひたり 人の修理し奉らんとて取り奉たるにや など云ひけるほどにこの僧都の夢に見給ふやう この地蔵の見え給はぬがいかなる事ぞ と尋ね給ふに傍らに僧ありて曰く この地蔵菩薩はやう賀能知院が無間地獄に落ちしその日やがて助けんとてあひ具して入り給ひしなり と云ふ
夢心地にいとあさましくて いかにしてさる罪人には具して入給ひたるぞ と問ひ給へば 塔の許を常に過ぐるに地蔵を見遣り申して時々拝み奉し故なり と答ふ 夢覚めて後自ら塔の許へおはして見給ふに地蔵誠に見え給はず さはこの僧に誠に具しておはしたるにや と思すほどにその後また僧都の夢に見給ふやう塔の許におはして見給へばこの地蔵立ち給ひたり これは失せさせ給ひし地蔵いかにして出で来給ひたるぞ と宣へばまた人の云ふやう 賀能具して地獄へ入りてたすけて帰り給へるなり されば御足の焼け給へるなり と云ふ
御足を見給へば誠に御足黒う焼給ひたり 夢心地に誠にあさましき事限りなし さて夢覚めて涙止らずして急ぎおはして塔の許を見給へば現にも地蔵立ち給へり 御足を見れば誠に焼け給へり これを見給ふに哀れに悲しき事限りなし さて泣く泣くこの地蔵を抱き出だし奉り給ひてけり 今におはします 二尺五寸ばかりのほどにこそ と人は語りし これ語りける人は拝み奉りけるとぞ
巻第六/二 世尊寺に死人を掘り出す事
今は昔世尊寺といふ所は桃園大納言住み給ひけるが大将になる宣旨かうぶりに給ひにければ大饗はあるじの料に修理し先づは祝し給ひしほどに明後日とて俄に失せ給ひぬ つかはれ人皆出で散りて北の方若公ばかりなん凄くて住み給ひける その若公は主殿頭ちかみつといひしなり この家を一条摂政殿取り給ひて太政大臣になりて大饗行はれける 坤の角に塚のありける 築地を築き出だしてその角は襪形にぞありける
殿 そこに堂を建てん この塚を取り棄ててその上に堂を建てん と定められぬれば人々も 塚の為にいみじう功徳になりぬべき事なり と申しければ塚を掘り崩すに中に石の唐櫃あり あけて見れば尼の年二十五六ばかりなる色美しくて唇の色などつゆ変らでえもいはず美しげなる寝入りたるやうにて臥したり いみじう美しき衣のいろいろなるをなん著たりける 若かりけるものの俄に死にたりけるにや 金の坏麗しくて据ゑたりけり 入りたる物何も香ばしき類ひなし あさましがりて人々立ちこみて見るほどに乾の方より風吹きければいろいろなる塵になんなりて失せにけり 金の坏より外の物つゆ留まらず いみじき昔の人なりとも骨髪の散るべきにあらず かく風の吹くに塵になりて吹き散らされぬるは希有のものなり と云ひてその比人あさましがりける 摂政殿いくばくもなくて失せ給ひにければ この祟りにや と人疑ひけり
巻第六/五 観音経蛇と化し人を助け給ふ事
今は昔鷹を役にて過ぐる物ありけり 鷹の放れたるを取らんとて飛に従ひて行きけるほどに遥なる山の奥の谷の片岸に高き木のあるに鷹の巣くひたるを見つけて いみじき事見置きたる と嬉しく思ひて帰りて後 今は善きほどになりぬらん と覚ゆるほどに子を下さんとてまた行きて見るにえもいはぬ深山の深き谷の底ひも知らぬうへにいみじく高き榎木の枝は谷にさし掩ひたるが上に巣をくひて子を産みたり 鷹巣の廻りにし歩く 見るにえも云はず感でたき鷹にてあれば 子も善かるらん と思ひて万づも知らず昇るにやうやういま巣の許に昇らんとするほどに踏まへたる枝折れて谷に落ち入りぬ 谷の片岸にさし出でたる木の枝に落ち掛かりてその木の枝を捉へてありければ生きたる心地もせずすべき方なし 見下ろせば底ひも知らず深き谷なり 見上ぐれば遥に高き峰なり かき昇るべき方もなし
従者どもは 谷に落ち入りぬれば疑ひなく死ぬらん と思ふ 然るにてもいかがあると見ん と思ひて岸の端へ寄りてわりなく爪立てて見下ろしけれど僅に見下ろせば底ひも知らぬ谷の底に木の葉繁く隔てたる下なれば更に見ゆべきやうもなし 目くるめき悲しければ暫しもえ見ず すべき方なければさりとてあるべきならねば皆家に帰りてかうかうと云へば妻子ども泣き惑へどもかひなし 逢はぬまでも見に行かま欲しけれどさらに道も覚えず またおはしたりとも底ひも知らぬ谷の底にてさばかり窺き万づに見しかども見え給はざりき と云へば 誠にさぞあるらん と人々も云へば行かずなりぬ
さて谷にはすべき方なくて石のそばの折敷の広さにてさし出でたる片端に尻を掛けて木の枝を捉へて少しも身動ぐべき方なし 聊も動かば谷に落ち入りぬべし いかにもいかにもせん方なし かく鷹飼を役にて世過ぐせど幼くより観音経を読み奉りた保ち奉りたりければ 助け給へ と思ひ入りて偏に頼み奉りてこの経を夜昼いくらともなく読み奉る 弘誓深如海 とあるわたりを読むほどに谷の底の方より物のそよそよと来る心地のすれば 何にかあらん と思ひてやをら見ればえも云はず大きなる蛇なりけり
長さ二丈ばかりもあるらんと見ゆるが差しに差して匐ひ来れば 我はこの蛇に食はれなんずるなめり 悲しきわざかな 観音助給へとこそ思ひつれこはいかにしつる事ぞ と思ひて念じ入りてあるほどにただ来に来て我が膝の許を過ぐれど我を呑まんと更にせずただ谷より上ざまへ昇らんとする気色なれば いかがせん ただこれに取り付きたらば登りなんかし と思ふ心付きて腰の刀をやはら抜きてこの蛇の背中に突き立ててそれに縋りて蛇の行くままに引かれて行けば谷より岸の上ざまにこそこそと登りぬ その折この男離れてのくに刀を取らんとすれど強く突き立てければえ抜かぬほどにひきはづして背に刀さしながら蛇はこそろと渡りて向ひの谷に渡りぬ この男嬉しと思ひて家へ急ぎて行かんとすれどこの二三日聊か身をも動かさず物も食はず過ごしたれば影のやうに痩せさらぼひつつかつがつとやうやうにして家に行き着きぬ
さて家には 今はいかがせん とてあと弔ふべき経仏の営みなどしけるにかく思ひがけずよろぼひ来たれば驚き泣き騒ぐ事限りなし かうかうの事と語りて 観音の御助けにてかく生きたるぞ とあさましかりつる事ども泣く泣く語りて物など食ひてその夜は休みて翌朝疾く起きて手洗ひて いつも読み奉る経を読まんとて引きあけたればあの谷にて蛇の背に突き立てし刀この御経に 弘誓深如海 の所に立たり 見るにいとあさましきなどはおろかなり こはこの経の蛇に変じて我を助けおはしましけり と思ふに哀れに尊く悲し いみじ と思ふ事限りなし その辺の人々これを聞きて見あざみけり 今さら申すべき事ならねど観音を頼み奉らんにその験なしと云ふ事あるまじき事なり
巻第七/一 五色鹿の事
これも昔天竺に身の色は五色にて角の色は白き鹿一つありけり 深山にのみ住みて人に知られず その山の辺に大きなる川あり その山にまた烏ありこの鹿を友として過ぐす
ある時この川に男一人流れて既に死なんとす 我を人助けよ と叫ぶにこの鹿この叫ぶ声を聞きてかなしみに堪へずして河を泳ぎ寄りてこの男を助けてけり 男命の生きぬる事を喜びて手を摩りて鹿に向ひて曰く 何事をもちてかこの恩を報い奉るべき と云ふ 鹿の曰く 何事をもちてか恩をば報はん ただこの山に我ありといふ事をゆめゆめ人に語るべからず 我身の色五色なり 人知りなば皮を取らんとて必ず殺されなん この事を恐るるに依りてかかる深山に隠れてあへて人に知られず しかるを汝が叫ぶ声を悲しみて身の行方を忘れて助けつるなり と云ふ時に男 これ誠に理なり さらに洩らす事あるまじ と返す返す契りて去りぬ もとの里に帰りて月日を送れども更に人に語らず
かかるほどに国の后夢に見給ふやう大なる鹿あり 身は五色にて角白し 夢覚めて大王に申し給はく かかる夢をなん見つる この鹿定めて世にあるらん 大王必ず尋ね取りて我に与へ給へ と申し給ふに大王宣旨を下して もし五色の鹿尋ねて奉らん者には金銀珠玉等の宝並びに一国等を給ぶべし と仰ふれらるるにこの助けられたる男内裏に参りて申すやう 尋ねらるる色の鹿はその国の深山に候ふ あり所を知れり 狩人を給ひて取りて参らすべし と申すに大王大きに喜び給ひて自ら多くの狩人を具してこの男をしるべに召し具して行幸なりぬ
その深山に入り給ふ この鹿あへて知らず洞の内に臥せり かの友とする烏これを見て大きに驚きて声をあげて鳴き耳をくひて引くに鹿驚きぬ 烏告げて曰く 国の大王多くの狩人を具してこの山を取り巻きて既に殺さんとし給ふ 今は逃べき方なし いかがすべき と云ひて泣く泣く去りぬ
鹿驚きて大王の御輿の許へ歩み寄るに狩人ども矢を矧げて射んとす 大王述給ふやう 鹿恐るる事なくして来たれり 定めてやうあるらん 射る事なかれ その時狩人ども矢をはづして見るに御輿の前に跪きて申さく 我毛の色を恐るるに依りてこの山に深く隠れ住めり しかるに大王いかにして我が住所をば知り給へるぞや と申すに大王述給はく この興のそばにある顔に痣のある男告げ申したるに依りて来たれるなり 鹿見るに顔に痣ありて御輿の傍らに居たり 我が助けたりし男なり 鹿彼に向ひて云ふやう 命を助けたりし時この恩何にても報じ尽し難き由云ひしかば此処に我がある由人に語るべからざる由返す返す契りし所なり 然るに今その恩を忘れて殺させ奉らんとす いかに汝水に溺れて死なんとせし時我が命を顧ず泳ぎ寄りて助けし時汝限りなく喜びし事は覚えずや と深く恨みたる気色にて涙を垂れて泣く
その時に大王同じく涙を流して述給はく 汝は畜生なれども慈悲をもて人を助く かの男は慾に耽りて恩を忘れたり 畜生と云ふべし 恩を知るをもて人倫とす とてこの男を捕へて鹿の見る前にて頚を斬らせらる また述給はく 今より後国の中に鹿を狩ることなかれ もしこの宣旨を背きて鹿の一頭にても殺す者あらば速に死罪に行はるべし とて帰り給ひぬ その後より天下安全に国土豊かなりけりとぞ 
 

 

巻第八/三 信濃国の聖の事
今は昔信濃国に法師ありけり さる田舎にて法師になりにければまだ受戒もせで いかで京に上りて東大寺といふ所にて受戒せん と思ひてとかくして上りて受戒してけり さて もとの国へ帰らん と思ひけれども 由なし さる無仏世界のやうなる所に帰らじ 此処に居なん と思ふ心付きて東大寺の仏の御前に候ひて いづくにか行ひして長閑やかに住みぬべき所やある と万づの所を見廻しけるに未申の方に当たりて山かすかに見ゆ 其処に行ひて住まん と思ひて行きて山の中にえも云はず行ひて過ぐすほどにすずろに小さやかなる厨子仏を行ひ出だしたり 毘沙門にてぞおはしましける
其処に小さき堂を建てて据ゑ奉りてえも云はず行ひて年月を経るほどにこの山の麓にいみじき下種徳人ありけり そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ物は入りて来けり 大なる校倉のあるを開けて物取り出だすほどにこの鉢飛びて例の物乞ひに来たりけるを 例の鉢来にたり ゆゆしく貪欲き鉢よ とて取りて蔵の隅に投げ置きて頓に物も入れざりければ鉢は待ち居たりけるほどに物どもしたため果ててこの鉢を忘れて物も入れず取りも出ださで蔵の戸を鎖して主帰りぬるほどにとばかりありてこの蔵すずろにゆさゆさと揺るぐ いかにいかに と見騒ぐほどに揺るぎ揺るぎて土より一尺ばかり揺るぎ上がる時に こはいかなる事ぞ と怪しがりて騒ぐ 誠々ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる それが仕業にや など云ふほどにこの鉢蔵より漏り出でてこの鉢に蔵乗りてただ昇りに空ざまに一二丈ばかり昇る さて飛び行くほどに人々見喧騒りあさみ騒ぎ合ひたり
蔵の主も更にすべきやうもなければ この蔵の往かん所を見ん とて後に立ちて行く その辺の人々も皆走りけり さて見ればやうやう飛びて河内国にこの聖の行ふ山の中に飛び行きて聖の坊の傍にどうと落ちぬ いとどあさまし と思ひてさりとてあるべきならねばこの蔵主聖の許に寄りて申すやう かかるあさましき事なん候ふ この鉢の常に参で来れば物入れつつ参らするを紛劇しく候ひつるほどに蔵に打置きて忘れて取りも出ださで錠をさして候ひければこの蔵ただ揺るぎに揺るぎて此処になん飛びて参で来て落ちて候ふ この蔵返し給ひ候はん と申す時に 誠に怪しき事なれど飛びて来にければ蔵はえ返し取らせじ 此処にかややうの物もなきに自づから物をも置かんに善し 中ならん物はさながら取れ と述給へば主の云ふやう いかにしてか忽ちに運び取り返さん 千石積みて候ふなり と云へば それはいと安き事なり 確かに我運びて取らせん とてこの鉢に一俵を入りて飛ばすれば雁などの続きたるやうに残の俵ども続きたる
群雀などのやうに飛び続きたるを見るにいとどあさましく尊とければ主の云ふやう 暫し 皆な遣はしそ 米二三百は留めて使はせ給へ と云へば聖 あるまじき事なり それ此処に置きては何にかはせん と云へば さらばただつかはせ給ふばかり十二十をも奉らん と云へば さまでも入るべき事のあらばこそ とて主の家に確に皆落居にけり
かやうに尊とく行ひて過ぐすほどにその比延喜御門重く煩はせ給ひてさまざまの御祈りども御修法御読経など万づにせらるれど更にえおこたらせ給はず ある人の申すやう 河内の国信貴と申す所にこの年来行ひて里へ出づる事もせぬ聖候ふなり それこそいみじく尊く験ありて鉢を飛ばしさて居ながら万づ有難き事をもし候ふなれ それを召て祈りせさせ給はば平愈らせ給ひなんかし と申せば さらば とて蔵人を御使にて召しに遣はす
往きて見るに聖のさま殊に貴くめでたし かうかう宣旨にて召すなり 疾く疾く参るべき 由云へば聖 何しに召すぞ とて更に動きげもなければ かうかう御悩大事におはします 祈り参らせ給へ と云へば それは参らずとも此処ながら祈り参らせ候はん と云ふ さてはもし平愈らせおはしましたりともいかでか聖の験とは知るべき と云へば それは誰が験と云ふ事知らせ給はずとも御心地だに平愈らせ給ひなばよく候ひなん と云へば蔵人 さるにてもいかでか数多の御祈りの中にもその験と見えんこそよからめ と云ふに さらば祈り参らせんに劔の護法を参らせん 自ら御夢にも幻にも御覧ぜばさとは知らせ給へ 劔を編みつつ衣に着たる護法なり 我は更に京へはえ出でじ と云へば勅使帰り参りてかうかうと申すほどに三日と云ふ昼つ方ちと微睡ませ給ふともなきに煌々とある物の見えければ いかなる物にか とて御覧ずればあの聖の云ひけん劔の護法なりと思し召すより御心地爽々となりて聊か心苦しき御事もなく例ざまに成らせ給ひぬ
人々喜びて聖を尊がり感で合ひたり 御門も限りなく尊く思し召して人を遣はして 僧都僧正にやなるべき またその寺に庄などや寄すべき と仰せ遣はす
聖承りて 僧都僧正更に候ふまじき事なり またかかる所に庄など寄りぬれば別当なにくれなど出で来てなかなか困惑しく罪得がましく候ふ ただかくて候はん とて止みにけり
かかるほどにこの聖の姉ぞ一人ありける この聖受戒せんとて上りしまま見えぬ かうまで年比見えぬはいかになりぬるやらん 覚束なきに尋ねて見ん とて上りて東大寺山階寺の辺を 命蓮小院と云ふ人やある と尋ぬれど 知らず とのみ云ひて 知りたる と云ふ人なし
尋ね侘びて いかにせん これが行方聞きてこそ帰らめ と思ひてその夜東大寺の大仏の御前にて この命蓮が所教へ給へ と夜一夜申して打微睡みたる夢にこの仏仰せらるるやう 尋ぬる僧のあり所はこれより坤の方に山あり その山に雲た靡きたる所を行きて尋ねよ と仰せらるると見て覚めたれば暁方になりにけり いつしか疾く夜の明けよかし と思ひて見居たればほのぼのと明方になりぬ 坤の方を見やりたれば山幽かに見ゆるに紫の雲た靡きたり 嬉しくて其方を指して行きたれば誠に堂などあり
人ありと見ゆる所へ寄りて 命蓮小院やいまする と云へば 誰そ とて出でて見れば信濃なりし我が姉なり こはいかにして尋ねいましたるぞ 思ひがけず と云へばありつる有様を語る
さていかに寒くておはしつらん これを著せ奉らんとて持たりつる物なり とて引き出でたるを見ればふくたいといふ物をなべてにも似ず太き糸して厚々と細かに強げにしたるを持て来たり 喜びて取りて著たり もとは紙ぎぬ一重をぞ著たりける さていと寒かりけるにこれを下に著たりければ暖かにて善かりけり さて多くの年比行ひけり さてこの姉の尼君ももとの国へ帰らず留り居て其処に行ひてぞありける さて多くの年比このふくたいをのみ著て行ひければ果てには破れ破れと著なしてありけり
鉢に乗りて来たりし蔵をば 飛び蔵 とぞ云ひける その蔵にぞふくたいの破れなどは納めてまだあんなる その破れの端をつゆばかりなど自ら縁にふれて得たる人は守りにしけり その蔵も朽ち破れて未だあんなり その木の端をつゆばかり得たる人は守りにし毘沙門を作り奉りて持たる人は必ず徳付かぬはなかりけり されば聞く人縁を尋ねてその蔵の木の端をば買ひ取りける
さて 信貴 とてえも云はず験ある所にて今に人々明暮参る この毘沙門は命蓮聖の行ひ出だし奉りけるとか
巻第八/六 猟師仏を射る事
昔愛宕の山に久しく行ふ聖ありけり 年比行ひて坊を出づる事なし 西の方に猟師あり この聖を尊みて常には詣でて物奉りなどしけり 久しく参らざりければ餌袋に干飯など入りて詣でたり 聖悦びて日比の覚束なさなど述給ふ その中に居寄りて述給ふやうは この程いみじく尊とき事あり この年来他念なく経をたもち奉りてある験やらんこの夜比普賢菩薩菩薩象に乗りて見え給ふ 今宵留まりて拝み給へ と云ひければこの猟師 世に尊き事にこそ候ふなれ さらば留りて拝み奉らん とて留りぬ さて聖の使ふ童のあるに問ふ 聖述給ふやういかなる事ぞや 己もこの仏をば拝み参らせたりや と問へば童は 五六度ぞ見奉りて候ふ と云ふに猟師 我も見奉る事もやある とて聖の後にいねもせずして起きゐたり
九月二十日の事なれば夜も長し 今や今やと待つに夜半過ぬらんと思ふほどに東の山の嶺より月の出づるやうに見えて嶺の嵐もすさまじきにこの坊に内光さし入りたるようにて明るくなりぬ 見れば普賢菩薩白象に乗りてやうやうおはして坊の前に立ち給へり 聖泣く泣く拝みて いかに主殿は拝み奉るや と云ひければ いかがは この童も拝み奉る をひをひ いみじう尊し とて猟師思ふやう
聖は年比経をもたもち読み給へばこそその目ばかりに見え給はめ この童我が身などは経の向きたる方も知らぬに見え給へるは心得られぬ事なり と心のうちに思ひて この事試みてん これ罪得べき事にあらず と思ひて尖矢を弓につがひて聖の拝み入りたる上よりさしこして弓を強く引きてひやうと射たりければ御胸のほどに当るやうにて火を打消つ如くにて光も失せぬ 谷へ轟めきて逃げ行く音す
聖 これはいかにし給へるぞ と云ひて泣き惑ふ限りなし 男申しけるは 聖の目にこそ見え給はめ 我が罪深き者の目に見え給へば試み奉らんと思ひて射つるなり 誠の仏ならばよも矢は立ち給はじ されば怪しき物なり と云ひけり
夜明けて血を覓めて行きて見ければ一町ばかり行きて谷の底に大きなる狸胸より尖矢を射通されて死にて伏せりけり 聖なれど無智なればかやうに化かされけるなり 猟師なれども慮ありければ狸を射害しその化を顕はしけるなり
巻第九/三 越前敦賀の女観音助け給ふ事
越前の国に敦賀といふ所に住みける人ありけり とかくして身一つばかり侘しからで過ぐしけり 女一人より外にまた子もなかりければこの女ぞまたなき物に愛しくしける この女を わがあらん折たのもしく見置かん とて男逢はせけれど男も堪らざりければこれやこれやと四五人までは逢はせけれどもなほたまらざりければしわびて後には合はせざりけり 居たる家の後に堂をたてて この女助け給へ とて観音を据ゑ奉りける
供養し奉りなどしていくばくも経ぬほどに父失せにけり それだに思ひ歎くに引き続くやうに母も失せにければ泣き悲しめども云ふかひもなし 知行所などもなくてかまへて世を過ぐしければ孀なる女一人あらんにはいかにしてかはかばかしき事あらん 親の物少しありける程は使はるる者四五人ありけれども物失せ果ててければ使はるる者一人もなかりけり 物食ふ事難くなりなどして自ら求め出でたる折は手づからとくふばかりにして食ひては 我が親の思しがひありて助け給へ と観音に向ひ奉りて泣く泣く申し居たるほどに夢に見るやう この後ろの堂より老いたる僧の来て いみじういとほしければ男逢はせんと思ひてよびに遣りたれば明日ぞ此処に来著かんずる それが云はんに随ひてあるべきなり と述給ふと見て覚めぬ
この仏の助け給ふべきなめり と思ひて水打浴みて参りて泣く泣く申して夢を頼みてその人を待つとて打掃きなどして居たり 家は大きに造りたりければ親失せて後は住みつきあるべかしき事なけれど屋ばかりは大きなりければ片隅にぞ居たりける 敷くべき筵だになかりけり
かかるほどにその日の夕方になりて馬の足音どもして数多入り来るに人ども覗きなどするを見れば旅人の宿借るなりけり 速かに居よ と云へば皆入り来てここに借りけり 家広し いかにぞや など物云ふべき主人もなくて我がままにも宿り居るかな など云ひ合ひたり 覗きて見れば主人は三十ばかりなる男のいと清げなるなり 郎等二三十人ばかりある下種など取り具して七八十人ばかりあらんとぞ見ゆる ただ居に居るに 筵畳を取らせばや と思へども恥かしと思ひて居たるに皮子筵をこひて皮に重ねて敷きて幕引き廻して居ぬ
そぞめくほどに日も暮れぬれども物食ふとも見えぬは物のなきにやあらんとぞ見ゆる 物あらば取らせてまし と思ひ居たるほどに夜打更けてこの旅人の気はひにて このおはします人寄らせ給へ 物申さん と云へば 何事にか侍らん とて膝行り寄りたるを何の障りもなければふと入り来て控へつ こはいかに と云へど云はすべくもなきに合せて夢に見し事もありしかばとかく思ひ云ふべきにもあらず
この男は美濃国に猛将ありけり それが独子にてその親失せにければ万づの物受け伝へて親にも劣らぬ者にてありけるが思ひける妻におくれて鰥にてありけるをこれかれ 聟に取らん 妻に成らん と云ふ者数多ありけれども ありし妻に似たらん人を と思ひて鰥にて過ぐしけるが若狭に沙汰すべき事ありて行くなりけり
昼宿り居るほどに片隅に居たる所も何の隠れもなかりければ いかなる者の居たるぞ と覗きて見るにただ ありし妻のありける と覚えければ目もくれ心も騒ぎて いつしか疾く暮れよかし 近からん気色も心みん とて入来たるなりけり 物打云ひたるより初めつゆ違ふ所なかりければ あさましくかかりける事もありけり とて 若狭へと思ひ立たざらましかばこの人を見ましやは と嬉しき旅にぞありける
若狭にも十日ばかりあるべかりけれどもこの人の関心めたさに 明けば行きてまたの日帰るべきぞ と返す返す契り置きて寒げなりければ衣も著せ置きて越えにけり 郎等四五人ばかりそれが従者など取り具して二十人ばかりの人のあるに物食はすべきやうもなく馬に草食はすべきやうもなかりければ いかにせまし と思ひ歎きけるほどに親の御厨子所に使ひける女の娘のありとばかりは聞きけれども来通ふ事もなくて よき男して事協ひてあり とばかりは聞き渡りけるが思ひも懸けぬに来たりけるが 誰にかあらん と思ひて いかなる人の来たるぞ と問ひければ あな心憂や 御覧じ知れぬは我身の咎にこそ候へ 己は故上のおはしましし折御厨子所仕候ひし者の娘に候ふ 年此 いかで参らん など思ひて過候ふを今日は万づを捨てて参候ひつるなり かく便なくおはしますとならば怪しくとも居て候ふ所にもおはしまし通ひて四五日づつもおはしませかし 心ざしは思ひ奉れどもよそながらは明暮訪ひ奉らん事もおろかなるやうに思はれ奉りぬべければ など細々と談らひて この候ふ人々はいかなる人ぞ と問へば ここに宿りたる人の若狭へとていぬるが明日此処へ帰り着かんずればその程とてこのある者どもを留め置きていぬるにこれにも食ふべき物は具せざりけり 此処にも食はすべき物もなきに日は高くなればいとほしと思へどもすべきやうもなくて居たるなり と云へば 知り扱ひ奉るべき人にやおはしますらん と云へば わざとさは思はねど此処に宿りたらん人の物食はでゐたらんを見過ぐさんもうたてあるべうまた思ひ放つべきやうもなき人にてあるなり と云へば さてはいと安き事なり 今日しもかしこく参り候ひにけり さらば罷りてさるべき様にて参らん とて立ちて去ぬ
いとほしかりつる事を思ひがけぬ人の来て頼もしげに云ひて去ぬるはとかくただ観音の導かせ給ふなめり と思ひていとど手を摩りて念じ奉るほどに即ち物ども持たせて来たりければ食物どもなど多かり 馬の草まで拵へ持ちて来たり 云ふ限りなく嬉しと覚ゆ
この人々もて饗応し物食はせ酒飲ませ果てて入来たれば こはいかに 我親の生き返おはしたるなめり とにかくにあさましくてすべき方なくいとほしかりつる恥を隠し給へる事 と云ひて悦び泣きければ女も打泣きて云ふやう 年此もいかでかおはしますらんと思ひ給へながら世の中過ぐし候ふ人は心と違ふやうにて過ぎ候ひつるを今日かかる折に参り合ひていかでかおろかには思ひ参らせん 若狭へ越え給ひにけん人は何時か帰りつき給はんぞ 御供人はいくらばかりか候ふ と問へば いさ誠にやあらん 明日の夕さり此処に来べかんなる 供にはこのある者ども具して七八十人ばかりぞありし と云へば さてはその御設けこそ仕るべかんなれ と云へば これだに思ひがけず嬉きにさまではいかがあらん と云ふ いかなる事なりとも今よりはいかでか仕らであらんずる とて頼もしく云ひ置きて去ぬ この人々の夕方翌朝の食物まで沙汰し置きたり 覚えなくあさましきままにはただ観音を念じ奉るほどにその日も暮れぬ
またの日になりてこのある者ども 今日は殿おはしまさんずらんかし と待ちたるに申の時ばかりにぞ著きたる 著きたるや遅きとこの女物ども多く持たせて来て申し喧騒れば物頼もし この男いつしか入り来て覚束なかりつる事など云ひ臥したり 暁はやがて具して行くべき由 など云ふ いかなるべき事にか など思へども仏の ただ任せられてあれ と夢に見えさせ給しを頼みてともかくも云ふに随ひてあり
この女暁立たん設けなどもしにやりて急ぎくるめくがいとほしければ 何がな取らせん と思へども取らすべき物なし 自ら入る事もやあるとて紅なる生絹の袴ぞ一つあるを これを取らせてん と思ひて我は男の脱ぎたる生絹の袴を著てこの女を呼び寄せて 年比はさる人あらんとだに知らざりつるに思ひも懸けぬ折しも来合ひて恥がましかりぬべかりつる事をかくしつる事のこの世ならず嬉きも 何に付けてか知らせん と思へば心ざしばかりにこれを とて取らすれば あな心憂や 誤りて人の見奉らせ給ふに御様なども心憂く侍れば奉らんとこそ思ひ給ふるにこは何しにか給はらん とて取らぬを この年比も誘ふ水あらば と思ひ渡りつるに思ひも懸けず 具して往なん とこの人の云へば明日は知らねども随ひなんずれば形見ともし給へ とてなほ取らすれば 御心ざしの程は返す返すもおろかには思ひ給ふまじけれども形見など仰せらるるが忝ければ とて取りなんとするをも程なき所なればこの男聞き臥したり
鳥鳴きぬれば急ぎ立ちてこの女のし置きたる物食ひなどして馬に鞍置き引き出だして乗らんとするほどに 人の命知らねばまた拝み奉らぬやうもぞある とて旅装束しながら手洗ひて後ろの堂に参りて観音を拝み奉らんとて見奉るに観音の御肩に赤き物懸かりたり 怪しと思ひて見ればこの女に取らせし袴なりけり こはいかに この女と思ひつるはさはこの観音のせさせ給なりけり と思ふに涙の雨雫と降りて忍ぶとすれど伏し転び泣く気色を男聞き付きて怪しと思ひて走来て 何事ぞ と問ふに泣く様朧気ならず
いかなる事のあるぞ とて見廻すに観音の御肩に赤き袴懸かりたり これを見るに いかなる事にかあらん とて有様を問へばこの女の思ひも懸けず来てしつる有様を細かに語りて それに取らすと思ひつる袴のこの観音の御肩に懸かりたるぞ と云ひも遣らず声を立てて泣けば男も空寝して聞きしに 女に取らせつる袴にこそあんなれ と思ふが悲しくて同じやうに泣く 郎等どもも物の心知りたるは手を摩り泣きけり
かくて閉てをさめ奉りて美濃へ越えにけり その後思ひ交はしてまた横目する事なくて住みければ子ども産み続けなどしてこの敦賀にも常に来通ひて観音に返す返す仕う奉りけり ありし女は さる物やある とて近く遠く尋ねさせけれども更にさる女なかりけり それより後また音づるる事もなかりければ偏にこの観音のせさせ給へるなりけり この男女互に七八十に成るまで栄えて男子女子産みなどして死の別れにぞ別れにける
巻第十/一 伴大納言応天門を焼く事
今は昔水の尾の御門の御時に応天門焼けぬ 人の放けたるになんありける それを伴善男といふ大納言 これは信の大臣の仕業なり と朝廷に申しければその大臣を罪せんとせさせ給うけるに忠仁公世の政は御弟の西三条の右大臣に譲りて白川に籠り居給へる時にてこの事を聞き驚き給ひて御烏帽子直垂ながら移の馬に乗り給ひて乗ながら北の陣までおはして御前に参り給ひて この事申す人の讒言にも侍らん 大事になさせ給ふ事いとことやうの事なり かかる事は返す返す能く正して実空事あらはして行はせ給ふべきなり と奏し給ひければ 実にも と思し召して正させ給ふに一定もなき事なれば 免し給ふ由仰せよ とある宣旨承りてぞ大臣は帰り給ひける
左の大臣はすぐしたる事もなきにかかる横さまの罪にあたるを思し歎きて日の装束して庭に荒薦を敷きて出でて天道に訴へ申し給ひけるに免し給ふ御使に頭中将馬に乗りながら馳せ参でければ 急ぎ罪せらるる使ぞ と心得て一家泣き喧騒るに免し給ふ由仰せかけて帰りぬればまた喜び泣き夥しかりけり 免され給ひにけれど 朝廷に仕うまつりては横さまの罪出で来ぬべかりけり と云ひてことにもとのやうに宮仕もし給はざりけり
この事は過ぎにし秋の比右兵衛の舎人なる者東の七条に住みけるが司に参りて夜更けて家に帰るとて応天門の前を通りけるに人の様子して私語めく 廊の腋に隠れ立ちて見れば柱よりかかぐり下るる者あり 怪しくて見れば伴大納言なり 次に子なる人下る また次に雑色とよ清と云ふ者下る 何わざして下るるにかあらん とつゆ心もえで見るにこの三人下り果つるままに走る事限りなし
南の朱雀門ざまに走りて往ぬればこの舎人も家ざまに行くほどに二条堀川の程行くに 大内の方に火あり とて大路喧騒る 見返りてみれば内裏の方と見ゆ 走りかへりたれば応天門の半らばかり燃えたるなりけり このありつる人どもはこの火放くるとて昇りたりけるなり と心得てあれども人の極めたる大事なればあへて口より外に出ださず
その後 左の大臣のし給へる事とて罪蒙り給ふべし と云ひ喧騒る あはれしたる人のある物をいみじき事かな と思へど云ひ出だすべき事ならねば いとほし と思ひ歩くに 大臣免されぬ と聞けば 罪なき事は遂に遁るるものなりけり となん思ひける
かくて九月ばかりになりぬ かかるほどに伴大納言の出納も家のをさなき子と舎人が小童と争をして出納ののしれば出でて取り支へんとするにこの出納同じく出でてみるに寄りて引き放ちて我が子をば家に入れてこの舎人が子の髪を取りて打伏せて死ぬばかり踏む 舎人思ふやう 我が子も人の子も共に童部争なり たださてはあらで我が子をしもかく情なく踏むはいと悪しき事なり と腹立たしうて 真人はいかで情なく幼き者をかくはするぞ と問へば出納云ふやう おれは何事云ふぞ 舎人だつる 汝ばかりの官人を我が打ちたらんに何事のあるべきぞ 我が君大納言殿のおはしませばいみじき過ちをしたりとも何毎の出で来べきぞ 痴言云ふ乞児かな と云ふに舎人大きに腹立ちて 汝は何事云ふぞ 我が主の大納言をがうけに思ふか おのが主は我口に依りて人にてもおはするは知らぬか 我が口開けてば己が主は人にてありなんや と云ひければ出納は腹立ちさして家に匐ひ入りにけり
この争を見るとて里隣の人市をなして聞きければ いかに云ふことにかあらん と思ひてあるいは妻子に語りあるいは次ぎ次ぎ語り散らして云ひ騒ぎければ世に広ごりて朝廷まで聞し召して舎人を召して問はれければ始めは争ひけれども 我も罪被りぬべく と云はれければありの件の事を申してけり その後大納言も囚れなどして事顕れて後なん流されける 応天門を焼きて信の大臣に負せてかの大臣を罪せさせて一の大納言なれば大臣にならんと構へける事のかへりて我が身罪せられけんいかにくやかりけん
巻第十一/三 晴明を試みる僧の事付晴明蛙を殺す事
晴明を試みる僧の事
昔晴明が土御門の家に老しらみたる老僧来たりぬ 十歳ばかりなる童部二人具したり 晴明 何ぞの人にておはするぞ と問へば 播磨国の者にて候ふ 陰陽師を習はん心ざしにて候ふ この道に殊に勝れておはします由を承りて少々習ひ参らせんとて参りたるなり と云へば晴明が思ふやう この法師は賢き者にこそあるめれ 我を心みんとて来たる者なり それに悪ろく見えては悪ろかるべし この法師 少し引きまさぐらんと 思ひて供なる童は式神を使ひて来たるなめりかし 式神ならば召し隠せ と心の中に念じて袖の内にて印を結びて密かに呪を称ふ さて法師に云ふやう とく帰り給ひね 後によき日して習はんと述給はん事どもは教へ奉らん と云へば法師 あら尊と と云ひて手を摩りて額に当てて立ち走りぬ
今はいぬらんと思ふに法師とまりてさるべき所々車宿など覗き歩りきてまた前に寄り来て云ふやう この供に候ひつる童の二人ながら失て候ふ それ給はりて帰らん と云へば晴明 御坊は希有の事云ふ御坊かな 晴明は何の故に人の供ならん者をば取らんずるぞ と云へば法師の云ふやう 更にあが君大きなる理りに候ふ 然りながらただ許し給はらん と侘びければ よしよし 御坊の人の心みんとて式神使ひて来ることやすからぬ事に覚えつるがこと人をこそさやうには心み給はめ 晴明をばいかでさる事し給ふべき と云ひて物読むやうにして暫しばかりありければ外の方より童二人ながら走り入りて法師の前に出で来ければその折法師の申すやう 実に心み申しつるなり 使ふ事は安く候ふ 人の使ひたるを隠す事は更にかなふべからず候ふ 今よりは偏に御弟子となりて候はん と云ひて懐より名簿引き出でて取らせけり
晴明蛙を殺す事
この晴明ある時広沢僧正の御房に参りて物申し受け給はりける間若き僧どもの晴明に云ふやう 式神を使ひ給ふなるは忽ちに人をば殺し給ふや と云ひければ 安くはえ殺さじ 力を入れて殺してん と云ふ さて虫なんどをば少しの事せんにも必ず殺しつべし さて生くるやうを知らねば罪をえつべければさやうの事由なし と云ふほどに庭に蛙の出で来て五つ六つばかり躍りて池の方ざまへ行きけるを あれ一つさらば殺し給へ こころみん と僧の云ひければ 罪をつくり給ふ御坊かな されども心み給へば殺して見せ奉らん とて草の葉を摘み切りて物を読むやうにして蛙の方へ投げ遣りければその草の葉の蛙の上に懸かりければ蛙真平に拉げて死にたりけり これを見て僧どもの色変りて 恐ろし と思ひけり
家の中に人なきをりはこの式神を使ひけるにや 人もなきに蔀を上げ下ろし門を鎖しなどしけり 
 

 

巻第十一/六 蔵人得業猿沢の池の龍の事
これも今は昔奈良に蔵人得業恵印といふ僧ありけり 鼻大きにて赤かりければ 大鼻の蔵人得業 と云ひけるを後ざまには言ながしとて 鼻蔵人 とぞ云ひける なほ後々には 鼻蔵々々 とのみ云ひけり
それが若かりける時に猿沢の池のはたに その月のその日この池より龍昇らんずるなり と云ふ簡を立てけるを往来の者若き老たるさるべき人々 ゆかしき事かな と私語めき合ひたり
この鼻蔵人 をかしき事かな 我がしたる事を人々騒ぎ合ひたり 迂愚の事かな と心の中にをかしく思へども すかしふせん とてそら知らずして過ぎ行くほどにその月になりぬ 大方大和河内和泉摂津国の者まで聞き伝へて集ひ合ひたり
恵印 いかにかくは集まる 何かあらんやうのあるにこそ 怪しき事かな と思へどもさり気なくて過ぎ行くほどに既にその日になりぬれば道もさり敢へず犇き集る その時になりてこの恵印思ふやう 尋常事にもあらじ 我がしたる事なれどもやうのあるにこそ と思ひければ この事さもあらんずらん 行きて見ん と思ひて頭包みて行く
大方近う寄り付くべきにもあらず 興福寺の南大門の壇の上に昇り立ちて 今や龍の登るか登るか と待ちたれども何の登らんぞ
日も入りぬ 暗々になりてさりとてはかくてあるべきならねば帰りける道に一つ橋に目くらが渡り逢ひたりけるをこの恵印 あなあぶなの目くらや と云ひたりけるを目くら取りも敢へず あらじ鼻くらななり 云ひたりける この恵印を 鼻くら と云ふとも知らざりけれども 目くら と云ふに付きて あらじ鼻くらなり と云ひたるが 鼻くら に云ひ合はせたるがをかしき事の一つなりとか
巻第十一/七 清水寺御帳賜る女の事
今は昔便なかりける女の清水にあながちに参るありけり 年月積りけれどもつゆばかりその験と覚えたる事なくいとど便なくなりまさりてはては年比ありける所をもその事となくあくがれて寄り付く所もなかりけるままに泣く泣く観音を恨み申して いかなる前世の報いなりともただ少しの便給び候はん といりもみ申して御前に俯伏し伏したりける夜の夢に御前よりとて かくあながちに申せばいとほしく思し召せど少しにてもあるべき便のなければその事を思し召し歎くなり これを給はれ とて御帳の帷をいとよく畳みて前に打置かる と見て夢覚めて御灯の光に見れば夢の如く御帳の帷畳まれて前にあるを見るに さはこれより外に賜ぶべき物のなきにこそあんなれ と思ふに身の程の思ひ知られて悲しくて申すやう これ更に給はらじ 少しの便も候はば錦をも御帳には縫ひて参らせんとこそ思ひ候ふにこの御帳ばかりを給はりて罷り出づべきやうも候はず 返し参らせ候ひなん と申して犬ふせぎの内にさし入れて置きぬ
また微睡み入りたる夢に 何ど賢しくはあるぞ ただ賜ばん物をば給はらでかく返し参らする 怪しき事なり とてまた給はると見る さて覚めたるにまた同じやうに前にあれば泣く泣く返し参らせつ
かやうにしつつ三度返し奉るになほまた返し賜びて果ての度はこの度返し奉らば無礼なるべき由を誡められければかかるとも知らざらん寺の僧は 御帳の帷を盗みたるとや疑はんずらん と思ふも苦しければまだ夜深く懐に入れて罷り出でにけり これをいかにとすべきならん と思ひて引き広げて見て著るべき衣もなきに さはこれを衣にして著ん と思ふ心付きぬ
これを衣にして著て後見と見る男にもあれ女にもあれ哀れにいとほしき者に思はれてそぞろなる人の手より物を多く得てけり 大事なる人の愁訴をもその衣を著て知らぬやんごときなき所にも参りて申させければ必ずなりけり かやうにしつつ人の手より物を得善き男にも思はれて楽しくてぞありける さればその衣をばをさめて必ず先途と思ふ事の折にぞ取り出でて著ける 必ず恊ひけり
巻第十一/一〇 日蔵上人吉野山にて鬼に逢ふ事
昔吉野山の日蔵の君吉野の奥に行ひ歩りき給ひけるに長七尺ばかりの鬼身の色は紺青の色にて髪は火の如くに赤く頚細く胸骨は殊にさし出でて苛めき腹ふくれて脛は細くありけるがこの行人に逢ひて手を束ねて泣く事限りなし これは何事する鬼ぞ と問へばこの鬼涙にむせびながら申すやう 我はこの四五百年を過ぎての昔人にて候ひしが人の為に恨みを残して今はかかる鬼の身となりて候ふ さてその敵をば思ひの如くに取り殺してき それが子孫曽孫玄孫に至るまで残りなく取り殺し果てて今は殺すべき者なくなりぬ さればなほ彼等が生れ代りまかる後までも知りて取り殺さんと思ひ候ふに次々の生れ所つゆも知らねばとり殺すべきやうなし 瞋恚の焔は同じやうに燃ゆれども敵の子孫は絶え果てたり 我一人尽きせぬ瞋恚の焔に燃えこがれてせん方なき苦をのみ受け侍り かかる心を起さざらましかば極楽天上にも生れなまし 殊に恨みを留めてかかる身となりて無量億劫の苦を受けんとする事のせん方なく悲しく候ふ 人の為に恨みを残すはしかしながら我が身の為にてこそありけれ 敵の子孫は尽き果てぬ 我命は極まりもなし かねてこのやうを知らましかばかかる怨みをば残さざらまし と云ひ続けて涙を流して泣く事限りなし その間に上より焔やうやう燃え出でけり さて山の奥ざまへ歩み入りけり さて日蔵の君哀れと思ひてそれが為にさまざまの罪亡ぶべき事どもをし給ひけるとぞ
巻第十二/六 空也上人の臂観音院僧正祈り直す事
昔空也上人申すべき事ありて一条大臣殿に参りて蔵人所に上りて居たり 余慶僧正また参会し給ふ 物語などし給ふほどに僧正の述給はく その臂はいかにして折り給へるぞ と 上人の曰く 我母物妬みして幼少の時片手を取りて投げ侍りしほどに折りて侍るとぞ聞き侍りし 幼稚の時の事なれば覚え侍らず かしこく左にて侍る 右手折り侍らましかば と云ふ
僧正述給はく そこは貴き上人にておはす 天皇の御子 とこそ人は申せ いと忝し 御臂誠に祈り直し申さんはいかに 上人曰く 尤も悦び侍るべし 実に貴く侍りなん この加持し給へ とて近く寄れば殿中の人々集まりてこれを見る その時僧正頂より黒けぶりを出だして加持し給ふに暫くありて曲れる臂 はた と鳴りて伸びぬ 即ち右の臂の如くに伸びたり 上人涙を落して三度礼拝す 見人皆喧呼めき感じあるいは泣きけり
その日上人供に若き聖三人具したり 一人は縄を取り集むる聖なり 道に落たる古き縄を拾ひて壁土に加へて古堂の破れたる壁を塗る事をす 一人は瓜の皮を取り集めて水に洗ひて獄衆に与へけり 一人は反古の落ち散りたるを拾ひ集めて紙に漉きて経を書き写し奉る その反古の聖を臂直りたる布施に僧正に奉りければ悦びて弟子に成して 義観 と名づけ給ふ 有難かりける事なり
巻第十二/一三 貫之歌の事
今は昔貫之が土佐守になりて下りてありけるほどに任はての年七つ八つばかりの子のえも云はずをかしげなるを限りなく愛しうしけるがとかく煩ひて亡せにければ泣き惑ひて病づくばかり思こがるるほどに月此になりぬれば かくてのみあるべき事かは 上りなん と思ふに 児の此処にて何とありしはや など思ひ出でられていみじう悲しかりければ柱に書き付けける
都へと思ふに付けて悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
と書き付けたりける歌なん今までありける 
 

 

巻第十二/一八 貧しき俗仏性を観じて富める事
今は昔もろこしの辺州に一人の男あり 家貧しくして財なし 妻子を養ふに力なし 求むれども得る事なし かくて年月をふ 思ひわびてある僧に逢ひて財を得べき事を問ふ 智恵ある僧にて答ふるやう 汝財を得んと思はばただ誠の心を起すべし 然らば宝も豊かに後世は善き所に生れなん と云ふ
この人 誠の心とはいかが と問へば僧の曰く 誠の心を起すと云ふは他の事にあらず仏法を信ずるなり と云ふにまた問ひて曰く それはいかに 慥に承りて心を得て頼み思ひて二なく信をなし頼み申さん 承るべし と云へば僧の曰く 我心はこれ仏なり 我心を離れては仏なしと 然かれば我心の裏に仏はいますなり と云へば手を摩りて泣く泣く拝みてそれよりこの事を心に懸けて夜昼思ひければ梵釈諸天来たりて守り給ひければはからざるに財出で来て家の内豊かになりぬ 命終るにいよいよ心仏を念じ入りて浄土に速かに参りてけり この事を聞き見る人尊み憐みけるとなん
巻第十二/二四 一条の桟敷屋鬼の事
今は昔一条の桟敷屋にある男とまりて傾城と臥したりけるに夜中ばかりに風吹き雨降りてすさまじかりけるに大路に 諸行無常 と詠じて過ぐる者あり 何物ならん と思ひて蔀を少し押し開けて見ければ長は軒と等くて馬の頭なる鬼なりけり おそろしさに蔀をかけて奥の方へ入りたればこの鬼格子押し開けて顔をさし入れて 能く御覧じつるな御覧じつるな と申しければ太刀を抜きて 入らば斬らん と構へて女をばそばに置きて待ちけるに 能く能く御覧ぜよ と云ひて去にけり 百鬼夜行にてある遣らんと恐ろしかりけり それより一条の桟敷屋にはまたも宿らざりけるとなん
巻第十三/八 出雲寺別当の鯰になりたるを知りながら殺して食ふ事
今は昔王城の北上つ出雲寺といふ寺建ててより後年久くなりて御堂も傾きてはかばかしう修理する人もなし この近う別当侍りき その名をば 上覚 となんいひける これぞ前の別当の子に侍りける 相続ぎつつ妻子持たる法師ぞ知り侍りける いよいよ寺は毀れて荒れ侍りける
さるは伝教大師の唐土にて天台宗たてん所を撰び給ひけるにこの寺の所をば絵に書きて遣はしける 高雄比叡山かむつ寺と三つの中に何れか善かるべき とあれば この寺の地は人に勝れてめでたけれど僧なん乱がはしかるべき とありければそれに由りて止めたる所なり いとやんごとなき所なれどいかなるにかさなり果てて悪ろく侍るなり
それに上覚が夢に見るやう 我が父の前別当いみじう老いて杖つきて出で来て云ふやう 明後日未時に大風吹きてこの寺倒れなんとす 然かるに我この寺の瓦の下に三尺ばかりの鯰にてなん 行方なく水も少なく狭く暗き所に在りてあさましう苦しき目をなん見る 寺倒ればこぼれて庭に匍ひ歩かば童部打殺してんとす その時汝が前に行かんとす 童部に打せずして賀茂川に放ちてよ さらば広き目も見ん 大水に行きて頼もしくなんあるべき と云ふ
夢覚めて かかる夢をこそ見つれ と語れば いかなる事にか と云ひて日暮れぬ
その日になりて午時の未より俄に空かき曇りて木を折り家を破る風出で来ぬ 人々あわてて家ども繕ろひ騒げども風いよいよ吹き増りて村里の家ども皆吹倒し野山の竹木倒れ折れぬ この寺まことに未時ばかりに吹き倒されぬ 柱折れ棟壊れてずちなし さるほどに裏板の中に年この雨水溜まりけるに大きなる魚ども多かり その辺の者ども桶をさげて皆掻き入れ騒ぐほどに三尺ばかりなる鯰ふたふたとして庭に匍ひ出たり 夢の如く上覚が前に来ぬるを上覚思ひもあへず魚の大に楽しげなるに耽りてかな杖の大きなるを持ちて頭につき立てて我太郎童部を呼びて これ と云ひければ魚大にて打取らねば草刈鎌といふ物を持ちて鰓を掻き切りて物に包ませて家に持て入りぬ
さてこと魚などしたためて桶に入りて女どもに戴かせて我が坊に帰りたれば妻の女 この鯰は夢に見えける魚にこそあめれ 何しに殺し給へるぞ と心憂がれど こと童部の殺さましも同じ事 あへなん 我は などと云ひて こと人まぜず太郎次郎童部など食ひたらんをぞ故御房は嬉しとおぼさん とてつぶつぶと切り入れて煮て食ひて 怪しういかなるにか 異鯰よりも味の善きは故御房の肉むらなれば善きなめり これが汁啜れ など愛して食ひけるほどに大きなる骨喉に立てて ゑうゑう と云ひけるほどに頓に出でざりければ苦痛して遂に死に侍りけり 妻はゆゆしがりて鯰をば食はずなりにけりとなん
巻第十三/九 念仏の僧魔往生の事
昔美濃の国伊吹山に久しく行ひける聖ありけり 阿弥陀仏より外の事知らず他事なく念仏申してぞ年経にける 夜深く仏の御前に念仏申して居たるに空に声ありて告げて曰く 汝懇ろに我を頼めり 今は念仏の数多く積もりたれば明日の未の時に必ず必ず来たりて迎ふべし ゆめゆめ念仏怠るべからず と云ふ
その声を聞きて限りなく懇ろに念仏申して水を浴み香をたき花を散らして弟子どもに念仏諸共に申させて西に向ひて居たり やうやう閃くやうにするものあり 手を摩りて念仏申して見れば仏の御身より金色の光を放ちてさし入りたり 秋の月の雲間より顕はれ出でたるが如し さまざまの花を降らし白毫の光聖の身を照らす この時聖尻をさかさまになして拝み入る 数珠の緒も切れぬべし 観音蓮台を差し上げて聖の前により給ふに紫雲あつくたなびき聖匍ひ寄りて蓮台に乗りぬ さて西の方へ去り給ひぬ さて坊に残れる弟子ども泣く泣く貴がりて聖の後世を訪らひけり
かくて七八日過て後坊の下衆法師ばら念仏の僧に湯わかして浴せ奉らんとて木伐りに奥山に入りたりけるに遥なる滝にさし覆ひたる椙の木あり その木の梢に叫ぶ声しけり 怪しくて見上げたれば法師を裸に成して梢に縛り付けたり 木登り能くする法師登りて見れば極楽へ迎へられ給ひし我師の聖を葛にて縛り付けて置きたり
この法師 いかに我が師はかかる目をば御らんずるぞ とて寄りて縄を解きければ 今迎へんずるぞ その程暫しかくて居たれ とて仏のおはしまししをば何しにかく解き許すぞ と云ひけれども寄りて解きければ 阿弥陀仏我を殺す人あり をうをう とぞ叫びける されども法師ばら数多登りて解き下して坊へ具して行きたれば弟子ども 心憂き事なり と歎き惑ひけり
聖は人心もなくて二三日ばかりありて死にけり 智恵なき聖はかく天狗に欺かれけるなり
巻第十四/三 経頼蛇に逢ふ事
昔経頼といひける相撲の家の傍にふる川のありけるが深き渕なる所ありけるに夏その川近く木蔭のありければ帷子ばかり著て中結ひて足太履きて杈椏杖と云ふ物つき小童一人供に具してとかく歩りきけるが涼まんとてその渕の傍らの木蔭に居にけり 渕青く恐ろしげにて底も見えず 芦薦などいふ物生ひ茂りたりけるを見て汀近く立てりけるに 彼方の岸は六七段ばかりは退きたるらん と見ゆるに水の漲りて此方ざまに来ければ 何のするにかあらん と思ふほどに此方の汀近くなりて虵の頭をさし出でたりければ この蛇大きならんかし 外ざまに昇らんとするにや と見立てりけるほどに虵頭を抬げてつくづくと目守りけり いかに思ふにかあらん と思ひて汀一尺ばかり退きて端近く立ちて見ければ暫しばかり目守り目守りて頭を引き入れてけり
さて彼方の岸ざまに水漲ると見けるほどにまた此方ざまに水浪立ちて後虵の尾を汀よりさし上げて我が立ちてる方ざまにさし寄せければ この虵思ふやうのあるにこそ とて任せて見立てりければなほさし寄せて経頼が足を三返四返ばかり纏ひけり いかにせんずるにかあらん と思ひて立てるほどに纏ひえてきしきしと引きければ 河に引き入れんとするにこそありけれ とその折に知りて踏み強りて立てりければ いみじう強く引く と思ふほどに履きたる足駄の歯を踏み折りつ 引き倒されぬべきを構へて踏み直りて立てりければいみじう強く引くとも疎かなり 引き取られぬべく覚ゆるを足を強く踏み立てければ片つらに五六寸ばかり足を踏み入れて立てりけり 能く引くなり と思ふほどに縄などの切るるやうに切るるままに水中に血のさつと沸き出づるやうに見えければ 切れぬるなりけり とて足を引きければ虵引きさして上りけり
その時足に纏ひたる尾を引きほどきて足を水に洗ひけれども虵の跡失せざりければ 酒にてぞ洗ふ と人の云ひければ酒とりに遣りて洗ひなどして後に従者ども呼びて尾の方を引き上げさせたりければ大きなりなども疎かなり 切口の大きさ径一尺ばかりあらん とぞ見えける
頭の方の切れを見せに遣りたりければ彼方の岸に大きなる木の根のありけるに頭の方を数多かへり纏ひて尾をさしおこして足を纏ひて引くなりけり 力の劣りて中より切れにけるなめり 我身の切るるをも知らず引きけんあさましき事なりかし
その後 虵の力の程幾人ばかりの力にかありし とこれ試みんとて大きなる縄を虵のまきたる所につけて人十人ばかりして引かせてけれども なほ足らずなほ足らず と云ひて六十人ばかりかかりて引きける時にぞ かくばかりぞ覚えし と云ひける それを思ふに 経頼が力はさは百人ばかりが力を持ちたるにや と覚ゆるなり 
 

 

巻第十五/一 清見原天皇大友皇子に与する合戦の事
今は昔天智天皇の御子に大友の皇子といふ人ありけり 太政大臣になりて世の政事を行ひてなんありける 心の中に 帝失せ給ひなば次の帝には我ならん と思ひ給ひけり 清見原の天皇その時は春宮にておはしましけるがこの気色を知らせ給ひければ 大友の皇子は時の政事をし世の覚えも威勢も猛なり 我は春宮にてあれば勢も及べからず あやまたれなん とおそり思して帝病づき給ふ則ち 吉野山の奥に入りて法師になりぬ と云ひて籠り給ひぬ
その時大友の皇子に人申しけるは 春宮を吉野山に籠めつるは虎に羽を付けて野に放つものなり 同じ宮に据ゑてこそ心のままにせめ と申しければ 実にも と思して軍を整へて迎へ奉るやうにして殺し奉らんと謀り給ふ
この大友の皇子の妻にては春宮の御女ましければ父の殺され給はん事を悲しみ給ひて いかでこの事告げ申さん と思しけれどすべきやうなかりけるに思わび給ひて鮒の包焼のありける腹に小さく文を書きて押し入れて奉り給へり 春宮これを御覧じてさらでだに恐れ思しける事なれば さればこそ とて急ぎ下衆の狩衣袴を著給ひて藁沓を履きて宮の人にも知られずただ一人山を越えて北ざまにおはしけるほどに山城国田原といふ所へ道も知り給はねば五六日にぞ辿る辿るおはし着きにける
その里人怪しく気はひの気高く覚えければ高坏に栗を焼きまた茹でなどして参らせたり その二色の栗を 思ふ事恊ふべくは生ひ出でて木になれ とて片山の上に埋み給ひぬ 里人これを見て怪しがりて標をさして置きつ そこを出で給ひて志摩国ざまへ山に添ひて出で給ひぬ その国の人怪しがりて問ひ奉れば 道に迷ひたる人なり 喉乾きたり 水飲ませよ と仰せられければ大きなる釣瓶に水を汲みて参らせたりければ喜びて仰せられけるは 汝が族にこの国の守とはなさん とて美濃国へおはしぬ
この国の墨俣の渡に船もなくて立ち給ひたりけるに女の大きなる舟に布入れて洗けるに この渡何ともして渡してんや と述給ひければ女申しけるは 一昨日大友の大臣の御使といふ者来たりて渡の船ども皆取り隠させて去にしかばこれを渡り奉りたりとも多くの渡え過させ給ふまじ かく謀りぬる事なれば今軍責来らんずらん いかがして遁れ給ふべき と云ふ さてはいかがすべき と述給ひければ女申しけるは 見奉るやう尋常にはいませぬ人にこそ さらば隠し奉らん と云ひて湯舟を俯伏しに成してその下に伏せ奉りて上に布を多く置きて水汲み懸けて洗ひ居たり
暫しばかりありて兵四五百人ばかり来たり 女に問ひて曰く これより人や渡りつる と云へば女の云ふやう やごとなき人の軍千人ばかり具しておはしつる 今は信濃国に入り給ひぬらん いみじき龍のやうなる馬に乗りて飛ぶが如くしておはしき この少勢にては追ひ付き給ひたりとも皆殺され給ひなん これより帰りて軍を多く整へてこそ追ひ給はめ と云ひければ誠に思ひて大友の皇子の兵皆引き返しにけり
その後女に仰せられけるは この辺に軍催さんに出で来なんや と問ひ給ひければ女走りまどひてその国の宗とある者どもを催し語らふに即ち二三千人の兵出で来にけり それを引き具して大友の皇子を追ひ給ふに近江国大津と云ふ所に追ひ付きて戦ふに皇子の軍破れて散り散りに逃げけるほどに大友の皇子遂にに山崎にて討たれ給ひて頭を取られぬ
それより春宮大和国に帰りおはしてなん位に即き給ひける 田原に埋み給ひし焼栗茹栗は形も変らず生ひ出でけり 今に 田原の御栗 として奉るなり 志摩国にて水めさせたる者は高階氏の者なり さればそれが子孫国守にてはあるなり その水召したりし釣瓶は今に薬師寺にあり 墨俣の女は不破の明神にてましましけりとなん
巻第十五/七 伊良縁野世恒毘沙門御下文の事
今は昔越前国に伊良縁野世といふ者ありけり 取り分きて仕うまつる毘沙門に物も食はで物の欲しかりければ 助け給へ と申しけるほどに 門にいとをかしげなる女の 家主に物云はん と述給ふ と云ひければ 誰にかあらん とて出で逢ひたれば土器に物を一盛 これ食ひ給へ 物欲しとありつるに とて取らせたれば喜びて取りて入れてただ少し食ひたればやがて飽き満ちたる心地して二三日は物も欲しからねばこれを置きて物の欲しき折毎に少しづつ食ひてありけるほどに月ごろ過ぎてこの物も失せにけり
いかがせんずる とてまた念じ奉りければまたありしやうに人の告げければ初めにならひて惑ひ出でて見ればありし女房述給ふやう これ下文奉らん これより北の谷峰百町を越えて中に高き峰あり それに立ちて なりた と呼ばばもの出で来なん それにこの文を見せて奉らん物を受けよ と云ひていぬ この下文を見れば 米二斗渡すべし とあり
やがてそのままに行きて見ければ実に高き峰あり それにて なりた と呼べば恐ろしげなる声にて答へて出で来たる物あり 見れば額に角生ひて目一つある物赤き犢鼻褌したる物出で来て跪きて居たり これ御下文なり この米得させよ と云へば さる事候ふ とて下文を見て こは二斗と候へども一斗を奉れとなん候ひつるなり とて一斗をぞ取らせたりける
そのままに受け取りて帰りてその入れたる袋の米を使ふに一斗尽きせざりけり 千万石取れどもただ同じやうにて一斗は失せざりけり これを国守聞きてこの世恒を召して その袋我に得させよ と云ひければ国の内にある身なればえいなびずして 米百石の分奉る と云ひて取らせたり 一斗取ればまた出でき出で来しければ いみじき物儲けたり と思ひて持たりけるほどに百石取りはてたれば米失せにけり 袋ばかりになりりぬれば本意なくて返し取らせたり 世恒が許にてはまた米一斗出で来にけり かくてえも云はぬ長者にてぞ有りける
巻第十五/九 仁戒上人往生の事
これも今は昔南京に仁戒上人といふ人ありけり 山階寺の僧なり 才学寺中に並ぶ輩なし 然かるに俄に道心を起こして寺を出でんとしけるにその時の別当興正僧都いみじう惜みて制し留めて出だし給はず しわびて西の里なる人の女を妻にして通ひければ人々やうやう私語やきたちけり 人に普く知らせんとて家の門にこの女の頚にい抱きつきて後ろに立ち添ひたり 行き通る人見てあさましがり心憂がる事限りなし 徒者になりぬと人に知らせん為なり
さりながらこの妻と相具しながら更に近づく事なし 堂に入りて終夜眠らずして涙を落して行ひけり この事を別当僧都聞きていよいよ尊みて呼び寄せければしわびて逃げて葛下郡の郡司が聟になりにけり 念珠などをも態と持たずしてただ心中の道心はいよいよ堅固に行ひけり ここに添下郡の郡司この上人に目を留めて深く尊み思ひければ跡も定めず歩りきけるしりに立ちて衣食沐浴等をいとなみけり 上人思ふやう いかに思ひてこの郡司夫妻は懇ろに我を訪らふらん とてその心を尋ぬれば郡司答ふるやう 何事か侍らん ただ貴く思ひ侍ればかやうに仕るなり 但一事申さんと思ふ事あり と云ふ 何事ぞ と問へば 御臨終の時いかにしてか値ひ申べき と云ひければ上人心に任せたる事のやうに いと安き事にありなん と答ふれば郡司手を摩りて喜びけり
さて年比過ぎてある冬雪降りける日暮方に上人郡司が家に来ぬ 郡司喜びて例のことなれば食物下人どもにもいとなませず夫婦手づから自らして召させけり 湯など浴みて臥しぬ 暁はまた郡司夫妻とく起きて食物種々に営むに上人の臥し給へる方香ばしき事限りなし ひ一家に充ち満てり こは名香など焼き給ふなめり と思ふ 暁は疾く出でん と述給ひつれども夜明くるまで起き給はず 郡司 御粥出できたり この由申せ と御弟子に云へば 腹あしくおはする上人なり 悪しく申して打たれ申さん 今起き給ひなん と云ひて居たり
さるほどに日も出でぬれば 例はかやうに久しくは寝給はぬに怪し と思ひて寄りて音なひけれど音なし 引き開けて見ければ西に向ひ端座合掌して早や死に給へり あさましき事限りなし 郡司夫婦御弟子どもなど悲しみ泣きみ且つは貴み拝みけり 暁香ばしかりつるは極楽の迎へなりけり と思ひ合す 終りに逢ひ申さんと申ししかばここに来たり給ひてけるにこそ と郡司泣く泣く葬送の事もとり沙汰しけるとなん
巻第十五/一〇 秦始皇天竺より自ら来たる僧禁獄の事
今は昔唐土の秦始皇の代に天竺より僧渡れり 帝怪しみ給ひて これはいかなる者ぞ 何事に依りて来たれるぞ 僧申して曰く 釈迦牟尼仏の御弟子なり 仏法を伝へん為に遥に西天より来たり渡れるなり と申しければ帝腹立ち給ひて その姿極めて怪し 頭の髪禿なり 衣の体人に違へり 仏の御弟子 と名のる 仏とは何物ぞ これは怪しきものなり ただに返すべからず 獄に籠めよ 今よりのちかくの如く怪しき事云はん者をば殺さしむべきものなり と云ひて獄に据ゑられぬ 深く閉ぢ籠めて重くいましめて置け と宣旨を下されぬ
獄の司の者宣旨のままに重く罪ある者置く所に籠めて置きて戸に数多じやう鎖しつ この僧 悪王に逢ひてかく悲しき目を見る 我が本師釈迦牟尼如来滅後なりともあらたに見給ふらん 我を助け給へ と念じ入りたりけるに釈迦仏丈六の御姿にて紫磨黄金の光を放ちて空より飛び来たり給ひてこの獄の門を踏み破りてこの僧を取りて去り給ひぬ その序に多くの盗人ども皆逃げ去りぬ 獄の司空に物の鳴りければ出でて見るに金の色したる僧の光を放ちたるが大きさ丈六なる空より飛び来たりて獄の門を踏み破りて籠められたる天竺の僧を取りて行く音なりければこの由を申すに帝いみじく恐ぢ懼り給ひけりとなん その時に渡らんとしける仏法世下りての漢には渡りけるなり
巻第十五/一二 盗跖孔子に与ふる問答の事
これも今は昔唐土に柳下恵といふ人ありき 世の賢き者にして人に重くせらる その弟に盗跖といふ者あり 一つの山の懐に住みて諸々の悪しき者を招き集めて己が伴侶として人の物をば我が物とす 歩りく時はこの悪しき者どもを具する事二三千人なり 道に逢ふ人を亡ぼし恥を見せ善からぬ事の限りを好みて過ぐすに柳下恵道を行く時に孔子に逢ひぬ 何処へおはするぞ 自ら対面して聞えんと思ふ事のあるにかしこく逢ひ給へり と云ふ 柳下恵 いかなる事ぞ と問ふ 教訓し聞えんと思ふ事はそこの舎弟諸々の悪しき事の限を好みて多くの人を歎かする など制し給はぬぞ 柳下恵答へて曰く 己が申さん事を敢へて用ふべきにあらず されば歎きながら年月を経るなり と云ふ 孔子の曰く そこ教へ給はずば我行きて教へん いかがあるべき 柳下恵曰く 更におはすべからず いみじき詞を尽して教へ給ふとも靡くべき者にあらず 却りて悪しき事出で来なん あるべき事にあらず 孔子曰く 悪しけれど人の身を得たるものは自づから善き事を云ふにつく事もあるなり それに 悪しかりなん よも聞かじ と云ふ事は僻事なり よし見給へ 教へて見せ申さん と詞を放ちて盗跖が許へおはしぬ
馬より下り門に立ちて見ればありとある者猪鳥を殺し諸々の悪しき事を集へたり 人を招きて 魯の孔子といふ者なん参りたる と云ひ入るるに即ち使帰りて曰く 音に聞く人なり 何事によりて来たれるぞ 人を教ふる人と聞く 我を教へに来たれるか 我心に適はば用ひん 適はずは肝膾に作らん と云ふ その時に孔子進み出でて庭に立ちて先づ盗跖を拝みて昇りて座に著く 盗跖を見れば頭の髪は上ざまにして乱れたる事蓬の如し 目大きにして見廻転す 鼻を吹きいからかし牙を噛み髭をそらして居たり 盗跖が曰く 汝来たれる故はいかにぞ 確に申せ と怒れる声の高く恐ろしげなるをもちて云ふ
孔子思ひ給ふ 予ても聞きし事なれどかくばかり恐ろしき者とは思はざりき 容貌有様声まで人とは覚えず 肝心も砕けて震はるれど思ひ念じて曰く 人の世にあるやうは道理をもて身の飾りとし心の掟とするものなり 天を戴き地を踏みて四方を固めとし公を敬ひ奉り下を憐れみ人に情を致す事をするものなり 然るに承れば心の恣に悪しき事をのみ事とするは当時は心に適ふやうなれども終には悪しきものなり さればなほ人は善きに随ふを善しとす 然れば申すに随ひていますかるべきなり その事申さんと思ひて参りつるなり と云ふ
時に盗跖雷のやうなる声をして笑ひて曰く 汝が云ふ事ども一も当らず その故は昔尭舜と申す二人の帝世に尊まれ給ひき 然れどもその子孫世に針さすばかりの所を領らず また世に賢き人は伯夷叔齊なり 首陽山に臥せりて飢ゑ死にき またそこの弟子に顔回といふ者ありき 賢く教へ奉りしかども不幸にして命短し また同じき弟子にて子路といふ者ありき 衛の門にして殺されき 然かあれば賢き輩は遂に賢き事もなし 我また悪しき事を好めど災ひ身に来らず 誉めらるるもの四五日に過ぎず 謗らるるものまた四五日に過ぎず 悪しき事も善き事も長く誉められ長く謗られず 然かれば我が好みに随ひて振舞ふべきなり 汝また木を折りて冠にし皮を持ちて衣とし世をおそり公におぢ奉るも二たび魯に遷され跡を衛にけづらる など賢からぬ 汝が云ふ所実に愚かなり 速かに走り帰りね 一つも用ふべからず と云ふ時に孔子また云ふべき事覚えずして座を立ちて急ぎ出でて馬に乗り給ふによく臆しけるにや轡を二たび取りはづし鐙を頻りに踏みはづす これを世の人 孔子倒れす と云ふなり 
 
 
「宇治拾遺物語」説話集の読み方

 

『宇治拾遺物語』 (うじしゅういものがたり)
13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集である。『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。編著者は未詳。
題名は、佚書『宇治大納言物語』(宇治大納言源隆国が編纂したとされる説話集、現存しない)から漏れた話題を拾い集めたもの、という意味である。全197話から成り、15巻に収めている。古い形では上下の二巻本であったようだ。
収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少なく、『今昔物語集』など先行する様々な説話集と共通する話が多い(説話の直接の出典には、『古事談』『十訓抄』『打聞集』などに類似の話が見られ、『今昔』との重出話にいたっては80余話もの数にのぼる)。
貴族から庶民まで、幅広い登場人物が描かれている。また、日常的な話題から滑稽談までと内容も幅広い。
「芋粥」は芥川龍之介の短編小説の題材に取り入れられている(『今昔物語集』にも同じ説話がある)。
『宇治拾遺物語』に収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられる。
   仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
   世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
   民間伝承(「雀報恩の事」など)
民間伝承には、「わらしべ長者」や「雀の恩返し」、「こぶとりじいさん」などなじみ深い説話が収められている。仏教に関する説話も含むが、どちらかというと猥雑、ユーモラスな話題(比叡山の稚児が幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う、等)が多く、教訓や啓蒙の要素は薄い。信仰心を促すような価値観に拘束されておらず、自由な視点で説話が作られている。その意味において、中世説話集の中では特異な存在である。
成立
『宇治拾遺物語』は、1213年(建保元年)から1221年(承久3年)頃にかけて成立したらしい。序文では、この説話集の成立の経過について、次のようなことが書かれている。
1. まず、「宇治大納言」と呼ばれた貴族、隆国によって書かれたという『宇治大納言物語』が成立した(現在は散佚)。
2. その後、『宇治大納言物語』が加筆・増補される。
3. この物語に漏れた話、その後の話などを拾い集めた拾遺集が編まれた。
いずれにしても、成立について諸説あるが、『古事談』を直接の出典としている話が包含されていることにより、その成立期である建暦期であるとする説や第159話に「後鳥羽院」という諡号が出てくるのでこの諡号が出された仁治3年(1242年)以後まもなく、とする説もある。
現存の『宇治拾遺物語』はこうして成立したらしいが、3.がさらに抄出された版であるという見方もなされている。一方で、この序文自体が編者もしくは後世の創作であるとする説もある。 
配列を楽しむ
『新古今和歌集』の「三夕(さんせき)の歌」といえば、たいていの人は高校の国語教科書に次の三首が載っていたことを思い出されるであろう。
寂しさはその色としもなかりけり槇(まき)立つ山の秋の夕暮   寂蓮法師
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮   西行法師
見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮   藤原定家朝臣
そして、これらの歌は『新古今集』巻第四・秋歌上に収められているもので、いずれも三句切れ、体言止めという形式上の特徴を表しており、余情幽玄という効果の表出にも成功しており、まぎれもない『新古今』調の歌である。それもそのはず、これらの歌の作者というのは、寂蓮と定家の二人は『新古今集』の撰者であり、百首近い歌が採録されている西行は『新古今集』を代表する歌人なのだから、というような説明を受けたことをも思い出されるであろう。しかし、おそらく以下のような解説はなかったのではないか。すなわち、右の三首は『新古今集』に収録されている千九百八十余首の中の三六一・三六二・三六三番目に連続して配列されている。それらは「秋の夕暮」の歌群の一部であって、その前には、
おしなべて思ひしことの数々かずかずになほ色まさる秋の夕暮
暮れかかるむなしき空の秋を見ておぼえずたまる袖そでの露かな
もの思はでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮
深み山路やまぢやいつより秋の色ならん見ざりし雲の夕暮の空   前大僧正慈円
というような歌、また後には、
たへてやは思ひありともいかがせん葎むぐらの宿の秋の夕暮   藤原雅経
思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞ問ふ   宮内卿
秋風のいたりいたらぬ袖はあらじただわれからの露の夕暮   鴨 長明
というような歌が続いている。比喩ひゆ的にいえば、先の三首も、これらの連続する「秋の夕暮」という織物の一部分であり、微妙に少しずつ変展する織柄の色調のきわだっている箇所と見るべきものである。というような解説はおそらく施されなかったに違いないということである。つまり、三夕の歌を歌群の流れの中で鑑賞することはせず、流れの中からすくい上げ、ほかの仲間たちから切り離し、個別的に分析的に鑑賞しようとする読み方に終始していたわけであり、それがこれまでの「和歌集」の一般的な読まれ方であったと思う。問題にしたいのは、その点である。
確かに三夕の歌は、秀歌である。たとえば鴨長明が「幽玄」を、「秋の夕暮の空のけしきは、色もなく声もなし。いづくにいかなるゆゑあるべしとも覚えねど、すずろに涙こぼるるがごとし」(『無名抄』)と説明する時に、彼の念頭にあったのではないかと推量したくなるほどの秀歌である。そうした秀歌や、ほぼ二千首もの歌群の中から選び抜かれた秀歌選を読むこと自体を、間違いだ、よくないと言うつもりはない。斎藤茂吉の『万葉秀歌』が、『万葉集』の読者を飛躍的に増大させた例を持ち出すまでもなく、目利きによって精選されたアンソロジーの意義は大きい。その意味では、『万葉秀歌』に比肩されるような『古今秀歌』や『新古今秀歌』が世に出ないのは残念な話と言わなければならない。
だが、『新古今集』という歌集の立場、もしくは、その編者の気持になって考えてみるならば、抄録本で読まれることは、やはり不本意なことに違いない。久保田淳氏は、『新古今集』の和歌の編成ぶりについて、次のように指摘する。二千首に近い『新古今集』の歌に、「託された幾多の風物や観念が、時間の軸に沿って連鎖されていく配列の妙味は、『新古今集』の場合が『古今集』の場合よりもきめ細かく、行き届いているということも確かであろう。ほどよく古歌と新しい歌とが織りまざり、時には作者の連想で並べられたと思わせるような連鎖も見受けられる。また、まれには同一主題の繰り返しや飛躍もある」(新潮日本古典集成『新古今和歌集』解説)。抄録本で読むということは、そうした配列の妙味を味わわないということであり、編者の苦心の達成に目をつぶるということでもある。それは個々の秀歌を丁寧に鑑賞することとまったく別の行為ではないが、木を見て森を見ない鑑賞法だということはできよう。そういう読み方一辺倒で終始していて、はたしてよいのだろうか。事情は、『宇治拾遺物語』のような説話集についても同様なのである。次に『宇治拾遺』の編者からのメッセージを見てみよう。
対照的な二人の仏弟子
インドにウバクッタという聖人がいた。なぜか聖はある弟子の僧に向って「女に近づいてはならぬ。近づけば、そなたはホトケの国に生れかわることができなくなるぞ」と戒めるのが常であった。すでに阿羅漢あらかん果かという悟りの境地に達していると認められていたその弟子の僧は、「いまさら言わずもがなのことを何だ。うるさいことだ」と不愉快に思った。
ある日、弟子の僧が河を渡っていた。その時、近くで同じように河を渡っていた若い女が水に足をとられて流され始めた。初めは女の助けを求める声に耳を閉ざしていた彼も、女が浮き沈みしながらどんどん流されて行くのを見ては無視もならず、近寄って手をとって対岸に渡してやったのだった。
岸に着いたので、女はもう手を放してほしいと頼む。ところが彼は、女の白い手のふくよかな感触に未練を覚え、放してやることができない。それどころかしっかりと握りしめたまま、「先の世の契りが深かったのでしょうか。あなたに魅かれます。私の言うことを聞いてください」とせがむ。女が「命の恩人の言うことは拒めません」と応諾すると、彼は喜び、女の手を引いて、萩・すすきのしげみの中へ入って行く。
やがて女を押し倒して、しゃにむに犯そうと女の股の間に挟まってから女を見ると、なんとそれは、我が尊師ウバクッタその人なのであった。仰天してからだを引こうとすると、ウバクッタは強く挟んで、「なんのためにこの老法師をこんな目にあわせようというのか。これでもなんじは女犯によぼんの心なき聖者だと言うつもりか」と糾問し、逃げようとする弟子のからだをしっかりと挟んで放さず、それを道行く人々に見物させ、十分に恥を与えてから寺へ帰った。寺へ帰ってからは鐘をついて衆僧を呼び集め、わざわざ河原での一件を披露したのであった。そのようなみせしめを受けた弟子の僧は、女犯に傾いた罪の心を悔い改めて阿那含果あなごんかの悟りを得たという。
以上が第一七四話の顛末てんまつである。この話の後には、編者のコメントは何もない。江戸時代の板本では、この話が巻第十三の最終話になっており、次の第一七五話が言うまでもなく巻第十四の冒頭話になっている。しかし、前代の写本では巻編成が行なわれておらず、話の配列契機を追尋していくうえでは、この巻編成は無視してよい。そこで第一七五話をみる。
海雲比丘かいうんびくは、中国唐代の五台山に住んでいたとされる伝説上の人物である。『宋高僧伝』では、普賢菩薩の応身としている。その海雲比丘が、道で十余歳の少年に出会った。法華経を読んだことがあるかと尋ねると、その名前さえ知らないとの答えに、「それなら私の坊に連れて行って、法華経を教えよう」と水を向けると、「仰せのままに」と五台山の坊へともなわれて行った。少年が経を学んでいるところへちょくちょく小僧がやって来ては海雲比丘と話し込んで帰って行く。あれは文殊菩薩だと教えるが、少年はそれが何者を意味しているのかを知らない。ある時、海雲比丘は少年に、「なんじは決して女に近づいてはならぬ。距離をおいて、馴れ親しまぬことだ」と戒めた。
その後、少年は路上で、葦毛あしげの馬に乗った美しく化粧した女に出会った。女は「道がわるくて落ちそうだから、馬の口取りをしておくれ」と頼むが、少年は耳を貸さない。まもなく馬が暴れて女は逆さまに落ち、「私を助けて。死にそうなの」とせがむが、少年はやはり聞き入れず、まっすぐ五台山へ帰って、師匠にその一件を報告する。師匠は「よく誘惑に負けなかった。その女は文殊がおまえの心をみるために変身していたものに違いない」とほめたたえた。その後、法華経全巻を学び終えた少年は、海雲比丘から東京とうけい(洛陽)の禅定寺の倫りん法師のもとへ行って受戒してくるようにと命じられ、受戒をすませて五台山へ帰ってみると、海雲比丘とその僧坊は跡形もなくなっていたという。
ところで注目したいのは、この後に続く次の一節である。
かれは、ウバクッタの弟子の僧、かしこけれども、心弱く女に近づきけり。これは、いとけなけれども、心強くて女人に近づかず。かるが故に、文殊、これをかしこき者なれば教化して、仏道に入らしめ給ふなり。されば世の人、戒をば破るべからず。
言うまでもなく、「かれ」とは第一七四話のウバクッタの弟子、「これ」とは第一七五話の海雲比丘の弟子の少年をさすわけだから、編者は一七五話の末尾において、一七四話との対比と総括を行なっていることになる。このことは疑いもなく、両話が連接するように意図的な配列が編者の手でなされたということである。一七四話は『今昔物語集』巻四‐六話と同文の話であるが、一七五話は『今昔』に類話を見いだすことができない。一七四話は、一七五話とは素性の異なる話であったと推察されるわけである。編者は別々な伝承ルートによって伝えられていた僧と女性にまつわる対照的な二つの話を、『宇治拾遺』の中で引き合わせ、読者に向けて対比・総括のメッセージを発したのではなかったか。だとすれば、たとえば第七八話において語られている籠居修行の御室戸みむろどの僧正と山中難行の一乗寺の僧正という対照的な組合せや、安倍晴明にまつわる第一二六話と第一二七話、あるいは外国での日本人による虎退治を扱った第一五五話と第一五六話など、数々の類似話の配列も、編者による意図的な連結であった可能性が確実味を帯びてくる。
説話の妙味
『宇治拾遺物語』はこれまで、個々の説話への興味から、個々の説話に個別的にスポットライトをあてるという拾い読みが行なわれてきたと言ってよい。話の連絡ぶりについても、断続的・飛躍的な傾向を持つとか、アトランダムな説話配列のもたらす意外な展開にこそ面白さがある、それはまさしく雑纂ざつさんの面白さだなどという、実態を無視したたいへん無責任な解説がまことしやかに横行してきた。しかも、いまだにそうした見方に固執している頑迷な人が多い。しかし、すでに早く「古事談鑑賞(十一)」(国文学解釈と鑑賞 昭和四十一年四月号)において、益田勝実氏が「『宇治拾遺物語』の編者――かれは、おもしろく話をつないでいかねば、満足のできないタイプの人であった」と指摘しておられたように、『宇治拾遺物語』は巻頭話から最終話まで、一続きの説話の織物であることは確かなことなのである。
編者の工夫した配列の妙味を探りながら、つまみぐい的にではなく、できるならば、ゆっくりと時間をかけて、ちょうど勅撰和歌集の全歌の流れをたどるように、説話のフルコースを味わっていただきたい。そして織物の微妙な縦糸横糸のつながりと、それらが織りなしている多彩な紋様にどうか目を向けていただきたい。
『宇治拾遺物語』の特質は、説話の花束という形容では十分に言い尽すことにならない。それは全一九七話にも及ぶ長い説話の連続模様の織物なのであり、万華鏡的な人間絵巻なのである。 
 
 
「大和物語」

 

十世紀の平安王朝に登場した文学の叙述方法、それが「歌物語」です。和歌文化という文芸復興に伴い、古事記・日本書紀における「歌謡」という和歌によって語られる叙述が、「歌物語」というかな文字による記述として復活しました。その「歌物語」で、最も有名なのが「伊勢物語」ですが、ここではそれより後の時代の成立と思われる、「大和物語」を取り上げます。
「大和物語」の成立は、十世紀の中頃とされています。特に、その記述のほとんどが、天暦五年(951)以前における、官位など宮中の人間関係によって成り立っています。よって、この成立も天暦五年頃と見なして差し支えないでしょう。ちょうどこの頃は、村上天皇の勅によって編纂された、「古今和歌集」に続く勅撰集「後撰和歌集」の、ちょうど編纂時期と重なっています。そして、一段における贈答歌が「後撰和歌集」では1322・1323番の和歌として撰歌されるなど、かなりの数の「大和物語」の和歌が撰歌されています。「後撰和歌集」も「大和物語」も、村上天皇の治世における時代性が現れた、文学作品なのです。
内容は、九〜十世紀前半の宮廷社会に登場した人物をめぐる、恋愛や離別・哀傷といったさまざまな出来事について、歌と語りで綴った「物語」の集まりです。主人公も段ごとに多種多様で、天皇・上皇・王臣貴族・女御や女官など、歴史に残った宮中の人物もかなり含まれます。「伊勢物語」が「色好みの男」という主人公の人生としてまとめられているのに対して、「大和物語」はそれぞれの段との間に関連性が無い場合がほとんどです。読み進める場合でも、最初の段から読み進める必要はありません。
四十七段
陽成院の一條の君、おくやまに心をいれてたづねずはふかき紅葉の色をみましや
九十九段
亭子の帝の御ともに、太政大臣大井につかうまつりたまへるに、もみぢ小倉の山にいろいろいとおもしろかりけるをかぎりなくめで給て、「行幸もあらむにいと興ある所になむありける。かならず奏してせさせたてまつらん」など申給て、ついに、
おぐらやま峯の紅葉し心あらばいまひとたびのみゆきまたなむ
となんありける。かくて、かへりたまうて、奏したまひければ、いと興あることなりとてなむ、大井の行幸といふことはじめたまひける。
百二十七段
又おなじ人、大貳のにて秋の紅葉をよませければ、しかのねはいくらばかりの紅ぞふりいづるからに山の染むらむ
百五十一段
同じ帝、立田川の紅葉いとおもしろきを御覽じける日、人麿、
立田川紅葉ばながる~なびのみむろの山にしぐれふるらし
帝、
立田川紅葉みだれてながるめりわたらば錦中や絶えなむ
とぞあそばしたりける。
「大和物語」附戴説話・拾穗抄系統本 / 平中物語・一段前半
今は昔、二人して一人の女をよばひけり。先立ちてよばひける男つかさまさりて、其時の帝(宇多天皇)近うつかふまつりけり。後よりよばひける今一人の男は、その同じ帝の母后(光孝天皇皇后班子女王)の御兄末にて、つかさをくれたりけり。それをいかゞ思ひけん、後よりよばひける男に、かの女はあひにけり。さりければ、この初よりいひける男は、宿世のふかく有けるとおもひけり。かくてよろづによろしからずたいだいしき事を、物の折ごとに、帝のなめしと思し召しぬべき事を、つくりいでつゝ聞えないける間に、この男は宮仕へいと苦しうして、たゞ逍遥をして、歩きを好みければ、衞府の官にて、宮仕へをもせずといふ事出きて、其ありける官をぞとり給ひてける。さりければ、男、世の中を憂しと思ひてぞこもりゐて思ひける。人の命といふもの、幾世しもあるべき物にあらず。思ふ時は、はかなき官も何にかはあるべき。かゝるうき世にはまじらず、ひたぶるに山深くはなれて、行ひにや就きなんと思ひければ、近くをだにはなたず父母のかなしくする人なりければ、よろづの憂きもつらきも、これにぞ障りける。時しも秋にしも有ければ物のいと哀におぼえて、夕ぐれにかゝる独言をぞいひたりける。
うき世には門させりとも見えなくになぞ我が宿のいでがてにする
といひてひがみをりける間に、なまいどみて時々物などいひける人のもとより、蔦の紅葉の面白きを折りて、やがて其(の)葉に、「これをなにとかみる」とてかきおこせる、
うきたつたの山の露の紅葉ばはものおもふ秋の袖にぞ有ける
といひやりけれど、返しもせず成にければ、かくとしもなし。
かゝる事どもを聞きあはれがりて、此男の友だちども、集まりてきて慰めければ、酒飮ませなどして、いさゝか遊びのけぢかきをぞしける。夜になりければ、この男かゝる歌をぞよみたりける。
身のうみのおもひなぎさはこよひ哉うらにたつ波うち忘れつゝ
とぞよみたりける。かゝりければこれをあはれがりてぞ、あはれに明かしける。これも返しなし。
さて又の夜の月おかしかりければ、簀子(すのこ)にゐて、大空をながめてゐたりける程に、夜のふけゆけば、風いと涼しううち吹きつゝ、苦しきまでおぼえければ、物のゆへしる友達のもとに、「これのみぞかねて月みるらん」とて、かゝる歌をよみて遣しける、
なげきつゝ空なる月とながむれば涙ぞあまの川とながるゝ
さりけるほどにいと深からぬ事成ければ、元の官になりにけり。此友だちどもは躬恆・友則がほどなりけり。
『大和物語』
平安時代に成立した中古日本の物語。
当時の貴族社会の和歌を中心とした歌物語で、平安時代前期『伊勢物語』の成立後、天暦5年(951年)頃までに執筆されたと推定されている。登場する人物たちの名称は実名、官名、女房名であり、具体的にある固定の人物を指していることが多い。
通常では、内容は173段に区切られる。約300首の和歌が含まれているが、『伊勢物語』とは異なり統一的な主人公はおらず、各段ごとに和歌にまつわる説話や、当時の天皇・貴族・僧ら実在の人物による歌語りが連なったいわばオムニバスの構成となっている。
第140段までの前半は(物語成立の)近年に詠まれた歌を核として、皇族貴族たちがその由来を語る歌語りであり、141段からの後半は、悲恋や離別、再会など人の出会いと歌を通した古い民間伝説が語られており、説話的要素の強い内容となる。二人の男から求婚された乙女が生田川に身を投げる「生田川伝説」(147段)、「姥捨山伝説」(156段)などである。また『伊勢物語』にあらわれる「筒井筒」と同じ話が『大和物語』にも出てくるなど、『伊勢物語』の影響は色濃い。『後撰和歌集』や凡河内躬恒の『躬恒集』、『檜垣嫗集』、『公忠集』などの和歌が『大和物語』に出てくることから、これらの作品も『大和物語』と何らかの関係があろう。
ラ変動詞「あり」「居(お)り」の尊敬語である「いまそかり」が数多く使われている。
作者について、古くは在原滋春や花山院が擬せられたが、現在に至るまで未詳である。内容が宇多天皇や周辺の人物の話題になることが多く、その成立には宇多天皇の身辺に侍っていた女房が関わっているといわれる。 
 
 
狭筵(さむしろ) 1

 

箏曲歌詞「狭筵」
去年(こぞ)の秋、散りし梢(こずゑ)はもみぢして、今、はた峰に有明の、月日ばかりを数へても、待つに甲斐なき村時雨、時しも分かず降るからに、色も褪(あ)せつついつしかに、わが袖のみや変はるらん。なく音(ね)を添へてきりぎりす、夜半の枕に告げわたる、嵐の末の鐘の声、結ばぬ夢も覚めやらで、ただしのばるる昔なりけり。

去年の秋、散った紅葉の梢は、今年も色づいて、もう一年が過ぎてしまったのか。今また、去年と同じように峰に消え残っている有明の月を眺めて、月日ばかりを数えても、「 松 」とし聞かば」の歌とは違って、待つ甲斐もなくあの人は帰らず、私を訪れるものは村時雨だけ、その村時雨が、時折気まぐれに降るにつけ、あの人の足音かと、何度心を時めかせて、がっかりしたことか。紅葉の色が褪せるのを見ながら、いつの間にか私の袖だけが、涙で色褪せていくのだろうか。私の泣く声に鳴く音を添えてきりぎりすが夜半の枕元に聞こえて来る。嵐もいつか止んだ後の、静かな空に響く鐘の音。途切れた夢からも目覚めきれず、その夢に見たあの人も諦めきれず、ただただ、思い出されるのは昔のことばかり。 
松風・村雨姉妹と在原行平の説話を背景にし、恋人に去られてあてどなく待つ女心を唄った歌詞。説話の具体的な内容が特に引用されている訳ではなく、在原行平が登場するわけでもない。また、主人公を二人の姉妹として心情を描いている訳でもない。一人の女の思いのたけを自然の風物に寄せて詠嘆した、純粋な抒情詩として鑑賞すべきであろう。
松風・村雨伝説 / 古今集・源氏物語・撰集抄などに見える中納言在原行平の歌や事跡をもとに伝説が生まれたらしく、具体的な作品としては謡曲『汐汲』や『松風』に語られている。在原行平(818年(弘仁9年)-893年(寛平5年))は平城天皇の皇子阿保親王の次男。在原業平の兄。840年、若くして仁明天皇の蔵人に任じられ、また、文徳天皇の代に855年因幡国守を拝任するなど、比較的順調な官吏生活を送り、後に清和天皇の蔵人頭、民部卿なども勤め、887年に70歳、中納言、正三位で致仕(退官)した。しかし、古今集によれば、文徳天皇の時、三年ほど須磨に蟄居し、配所の月を眺めた時期があった。その間、つれづれを慰めるために、美しい海女の姉妹に松風・村雨の名を与えて寵愛した。行平が許されて都に帰る時、姉妹を哀れに思い、浜辺の磯馴れ松の枝に、立烏帽子・狩衣を形見に残したが、二人は別離を嘆き悲しんだ。行平と姉妹が亡き人となった後、その松が姉妹の墓標として祀られたという。現在、須磨の町の海岸近くに、「松風・村雨堂」が残っている。
 
 
狭筵 2

 

古い時代の源氏物語関係の文献にしばしば現れる源氏物語の巻名。「狭筵」、「狭席」などさまざまな漢字表記を持つほか仮名表記されている場合も多い。大きく分けて宇治十帖に含まれる巻の異名または並びの巻として記されている場合と巣守や桜人等と同様に現行の54帖に含まれない外伝的な巻の一つとしてあげられている場合とがある。この両者が同じものを指しているのかも明らかではない。
宇治十帖での「狭筵」
東屋の異名または並びとしての「狭筵」 故実書『拾芥抄』(前田尊経閣文庫本)に収められた「源氏物語巻名目録」では「卅二 東屋」に小文字で「狭席イ」」(「イ」はおそらく異名の意味)と付記されている。浮舟 (源氏物語)の異名または並びとしての「狭筵」 「源氏小鏡」のいくつか、京都大学蔵本、大阪市立大学蔵本、天理大学天理図書館蔵本などには、浮舟巻に「狭筵」の異名を挙げている。
外伝的な巻としての「狭筵」
『白造紙』 / 現在その内容を確認できる源氏物語巻名目録の中では最も成立時期の古いものである。「コレカホカニノチノ人ノツクリソヘタルモノトモ」との文言の後に
サク(ラ)ヒト / サムシロ / スモリ との記述がある。
『源氏小鏡』 / 源氏小鏡の中に外伝的な巻としての「さむしろ」に関係する記述を持つものがいくつか存在する。桃園文庫旧蔵本では「紫式部により書かれた54帖に入らない巻」として名前を挙げられている。「住守」「桜人」「狭筵」が各2帖あるとされている。
『源氏古系図』 / 系図末尾の雑載部分の歌の作者を男女別に挙げた部分で「桜人」「狭筵」「巣守」については歌を入れないとの注記がある。池田亀鑑はこの記述はこれらの巻は本来の源氏物語のものでないという判断に基づくのであろうとしている。
『源氏物語注釈』 / 院政期の成立と見られる巻名目録、「源氏物語のおこり」に続いて3つの注釈書を合わせた外題が付されていない源氏物語の注釈書であり、仮称として「源氏物語注釈」や「源氏物語古注」と呼ばれている。54帖に含まれない源氏物語の続編的巻々の名前として「さくら人」「さむしろ」「すもり一」「すもり二」「すもり三」「すもり四」「やつはし」「さしぐし」「はなみ」「さが野一」「さが野二」の11帖を挙げている。
『山路の露』 / 奥書において「清少納言が造り添えた巻」として、「桜人」「狭筵」「巣守」の3帖が挙げられている。
巣守・桜人と「狭筵」
「さむしろ」は桜人のように本文とされるものも巣守のように内容を推測させる資料も全く伝わらないが、しばしば巣守や桜人と並べてかつて存在していた、あるいは後人の作った巻の名前として伝えられているため、これらの巻は成立又は伝流において何らかの関係があった可能性があると考えられている。
 
 
狭筵 3

 

忘れずはなれし袖もや氷るらむ寝ぬ夜の床の霜のさむしろ 藤原定家 (新古今和歌集)
口語訳 / もし貴方が私のことを忘れていないならば、いまごろ私を想って涙を流し、ふたり重ねた袖を凍らせているというのだろうか。貴方の通わなくなった夜、寝付くこともできず、霜の置いたような冷たい床で貴方を想っています。
さむしろ / 狭筵。「むしろ」を意味するが、和歌では「寒し」と掛けてしばしば用いられる。
恋人の訪れの絶えた女性の立場に立って詠まれた歌です。単に冬の歌であるということを表す以上に、冷え切った床で来ぬ人を思う夜離れの嘆きが響きますね。
「霜のさむしろ」は式子内親王や藤原良経にも作例のある、この時代に流行した言葉のようです。
頼みつる軒端のましば秋くれて月にまかする霜のさむしろ 式子内親王(式子内親王集)
露の袖霜のさむしろしきしのぶかたこそなけれ浅茅生の宿 藤原良経(秋篠月清集)  
 

 

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兼好書状の真偽をめぐって

 

 ・変換誤字未訂正・

昭和五年、称名寺境内に県立金沢文庫が再興され、八月八日にその開所式が行われた。初代文庫長には関靖氏が就任。その四日後には称名寺の本堂に所狭しと並べ置かれていた種々の文化財や塔頭の光明院の須弥壇下に長持ち五樟に秘蔵されてきた文書類などが文庫に運びこまれ、それらの収蔵整理と内容解読が始められた。光明院から運ばれた長持ちの中は鼠やゴキブリなどの巣窟でもあったらしい。鼠の大小便の臭いがしみこんだ文書ゃ、雨水をwつけて竪く棒状になった書物も混じっていたが、中国や日本で印刷された仏教経典や毛筆で書寓された密教の書物や鎌倉武士の手紙などが多数出現した。書物の末尾に記された年号はどれをとっても鎌倉時代から南北朝時代のもの。期せずして中世文書の宝の山に遭遇した関氏は熊原政男氏(のちの二代目文庫長)と共に日曜、休日を返上して、一枚ごと、一冊ごとの書名や奥書などをガリ版刷りの原稿用紙に書き写す作業に当たられた。そして二年後、関氏は移しい資料群の中から、@肉太の文字で「進上称名寺侍者卜部兼好状」と署名された懸紙〔一二二八号〕とA細身の文字で「謹上称名寺侍者ト部兼好状」と署名された懸紙〔一二二九号〕を発見された。昭和七年四月十三日付けの神奈川東日新聞には「文庫内の書庫にうづ高く積まれた俵づめの古文書の中から兼好法師から称名寺住職にあてた手紙と連歌百首が一つも欠けずに出てきた」と報じられているし、翌十四日の東朝新聞にも「筆者不明の四枚続きの連歌百韻並びに徒然草の著者兼行(ママ)法師の手紙の上書、寧一山の賛ある審海上人の肖像画一枚」と報じられている。この時の兼好自筆の懸紙の発見は、兼好の筆跡鑑定上の有力な証拠の一つになったことはあえてき口うまでもない。さらには@兼好の本姓が「吉田」ではなく「卜部」であったこと。A兼好が出家以前に鎌倉に下向し、称名寺とも交流をもっていたこと。B『徒然草』第三十四段の記事や金沢を「ふるさと」と詠んでいる『兼好法師自撰家集』第七十六番の和歌が共に兼好自身の体験にもとづくものであることなど、兼好伝の史実解明に有力な証の一つとなったのである。しかしながら、その懸紙が兼好の何才の時に認めたものか、ということに関しては手掛かりが得られなかったらしく、それに関する言及はみえない。その後、昭和五十五年に前田元重・福島金治の両氏が紙背文書を子細に調査した結果、懸紙は二通とも、釦阿が称名寺の住持に就任した延慶元年(二ニO八)十一月から『後七日御修法関白次第胎蔵界』が書寓された応長元年(一三一一)八月までのおよそ四年間、兼好が在俗時代の二十六才から二十九才の頃に書かれたものであることが判明した。
ところで、この二通の懸紙の発見とほぼ同じ頃、関氏は「兼好帰洛之時」という文字が記された氏名未詳書状(五五四号)をも発見されていたらしい。昭和七年十二月発行の「図書館雑誌』第一五七号には「新史料から見た金沢文庫」と題する関氏の論文が掲載されており、文中に「尚最後に兼好法師の事に就て、面白い材料が発見された事を紹介する」と前置きして、兼好法舗の自署と認められる懸紙二枚と「俊如御房上洛之使、去月十一日御状、兼好帰洛の時、同十二日禅札、各委細承候了。極楽寺長老人御当寺目出候。又大殿品川三年御仏事如法経以下(後略)」とある消息が発見されたことを伝えている。その書状は次のような文面である。
   俊如御房上洛之便、去月十一日御状、
   兼好帰洛之時、同十二日禅札、各委細
   承候了、極楽寺長老人御当寺、目出候、
   又大殿品川三年御仏事如法経以下重畳之
   由承候了、懇敷之御追善等、定不唐摘
   候欺、是にも迎嘗日、修小仏事候了、
   覚守僧都為導師、吐金玉候き、其関子
   細略之候、兼又寺用綿井所々未進等事、
   厳密致沙汰可申〔以下欠〕
これは二枚で一通となる書状の前半部分である。したがって、これだけでは、ぃっ、誰が、誰宛に認めた書状なのか皆目見当がつかない。しかし関氏は「大殿州コ一年の御仏事」という文字に着目し、「大殿」と敬称された人物を金沢北条氏の第二代当主北条顕時に比定されると共にその書状の書篤年代を鎌倉幕府が崩壊した元弘三年(一ゴ三三一〉のものとされた。ただし、貞顕はその時期、鎌倉に在住していたことから、書状は貞額の執事倉栖兼雄の代筆によるもので、京都から発信されたと推定された。しかし、この関氏の人物比定、文書の年代割り出しに疑問を懐く人物があらわれた。それが兼好の東国出身説を主張された『兼好発掘』の著者林瑞栄氏である。林氏は昭和三十年代に一関のある短大で『徒然草』を講読されていたが、兼好の真意に迫る十分な『徒然草』の読みができない、との自己反省から、それとの別れを決意して上京旅行され、その途次、金沢文庫を訪ねたという。そして偶然にも森閑とした展示室の陳列ケ|ス内に「兼好意白状」がひろげられているのを眼におさめ、また階下で熊原氏から『金沢文庫古文書』に兼好に関係する文書が活字化されていることを知=りされたことから再び兼好法師の伝記研究に情熱を燃やしてみたい、という気持ちが沸き上がり、帰郷後、早速に東北大学図書館から『金沢文庫古文書』を借り出し、また関氏と書簡のやりとりを交わしながら、古文書にみる「兼好帰洛之時」の年代や大殿の人物比定について考察を進められたという、兼好伝研究者の一人である。
その林氏が、関氏が書状の筆者を金沢貞顕の右筆の倉栖兼雄とし、「大殿」を北条顕時と比定されたことについて、右筆の兼雄は文保二年(一三一八)五月三日に没しているから、書状の年代や人物の比定を考え直す必要がある、と考え、また他の書状類をもとに考察を加えた結果、「大殿」とは、北条顕時ではなく、顕時の父親の北条実時のことであろう。実時は建治二年(一二七六)十月二十三日に没しているから、その三十三回忌は徳治三年(延慶元年H 一三O八)となるし、書状の右筆が倉栖兼雄であってもつじつまがあう、と論証された。この考証は東北大学にいた国語学者山田孝雄氏にも太鼓判を押されるものであったという。その後、関氏から古文書の解読の手ほどきをうけられた高梨みどり氏が、この室長(五五四号)に接続する後半の書状(十六号)を発見されたことによって一気に解明の光が当たった。その解明の糸口になった後半の書状には次のような文面が記されている。
   此便宜之内、下知公文所候了、又全線事、
   兼雄致沙汰候敗。同重加下知候畢、又敦
   利下向之使節事、殊々無口本候、必可有
   御祈念候、云世上、云寺中、無為之条、
   殊承悦候、他事難蚕状候、恐々謹言、
   十一月十一日越後守(貞顕花押)
   謹上称名寺長老御返事
この十六号害状には、宛名、日付、差し出し人の名前がハツキリと明記されており、二つを合わせることによって、書状の内容が明らかになったことはいうまでもない。その結果、この書状は、北条実時の三十三回忌の供養が営まれる前年の徳治二年(二ニO七)十一月十一日に、京都から、称名寺の長老鋭何あてに認められた倉栖兼雄の代筆による「金沢貞顕書状」であることが確定し、関氏と林氏の間でかわされた一つの論争に終止符が打たれた。つまり、関氏の元弘三年兼好帰洛説は崩れ、林氏の説も書状の年代を一年繰り上げるという修正をみるに至ったのである。
ところで、兼好自筆の懸紙二通と「兼好帰洛」を伝える書状の発見に歓喜された関氏は、その後、懸紙に包まれていたであろう兼好自筆の書状の発見に鋭意専心されたようである。懸紙が残っている以上、それに包まれていた害状もどこかに紛れて残っているに違いない、という希望や期待を抱くのは自然の成り行きであろう。関氏は昭和七年十二月末までに約八千点の聖教と三五OO通の古文書類を見終わられたらしいが、兼好自筆の書状の発見は叶わず、さらに四年、五年とその探索に当たられた。そして昭和十五年八足、ついに念願待望の兼好害状なるものを発見することができたらしい。同年八月三日付の「東京朝日神奈川版」の新聞には「兼好法師の真筆現る、まさに国宝級の消息文、狂喜する金沢文庫」という大きな見出しで、つぎのように記事が紹介されている。
「金沢文庫で称名寺蔵の古文書類を整理中、関文庫長は同寺の僧侶が認めて陀羅尼集経第四や仏事仏具の書き並べてある反古紙の裏面が兼好の消息である事をこの程知り、驚博して史科編纂官相回二郎氏の鑑定を求めたものである」と前置きし、「問題の消息は、大型美濃紙に幽雅な筆勢を以て、御寺付惣別無子細候覧為悦候、抑々上洛巳後者難便宜承候、(中略)、嘗時者罷住東山辺明夜」(後関く)とあり」と本文を引用紹介し、ついで「各種の事情から推考すると兼好は元弘三年三月十二日前後金沢を出発し入洛、南都北都を巡穂して帰り称名寺の貞顕の許に御無沙汰を謝して届けた手紙と見られ彼は更にその筆を、陳べる言葉が多くて手紙に書き尽くせないが何れ下向して拝顔の時穆散致しませう、と書状の首端に追室目してゐる、しかも法師がこの消息を賀して僅二ヶ月後の一元弘三年五月二十二日には北条氏は滅亡の悲運に見舞はれてをり実にこの断簡こそは嘗代の国宝級のものである事が判る」と報じ、最後に関文庫長談として、「兼好が何のために金沢に来たかと云ふ事は法師の回遊が景勝の地を訪ねて歌枕を集めしかも称名寺蔵の珍書を慕うた事が唯一の目的であったらうから大韓消息によって見嘗はつく、先き程発見された懸紙二通によってもこの消息が間違ひなく彼のものである事は判かり徒然草でもいってゐるやうに兼好は代筆嫌ひだから他人の代筆ではない」と結んでいる。新聞が報じた書状(一二二七号)の文面にはかなりの誤読が見出されるので、それを訂正して示すと、
      雄陳言多、不載愚状、
      併下向々顔之時
      可穆散候也、
   御寺付惣別無子細候覧、
   為悦候、抑上洛己後者、難便宜
   多候、不拝恩問、不為献愚
   札候き、市故郷難忘者、
   併有君芳志、亦花洛
   住好者、帝王隆盛故也、
   兼亦路次問、錐不堪行歩
   候、於御所之逗留、加一見、
   成難彊、京着者、南部
   北都巡礼、莫不致念心、
   嘗時者、罷住東山港、明夜
この書状もまた本紙と裏紙の二枚で一通となるものの前半部である。いつ、誰が、誰に宛てたものなのか、皆目わからない書状である。しかし、関氏は、「その筆蹟から」(相田二郎氏の鑑定意見も受け入れて)と「その使用の字句から」(東山辺の文句が『徒然草』第五十段の内容と符合)推定して、書状の書写年代を元弘三年(一一二三一二)のものと解釈し、その要旨を昭和十七年一月発行の「郷土神奈川」一巻一号誌に発表されたのである。この関氏の所論にも林氏は大いなる疑問を感じ、別の視点からその当否を考察された。林氏は書状にみる「東山辺に罷住」「花洛住みよき」という文句の背景や意味を考察され、この書状もまた兼好が徳治二年(一三O七)十一月に帰洛した直後の第一信であろう、との結論を導き出された。氏によれば、「東山辺に罷住」という言葉は『徒然草』の第五十段の「応長のころ、伊勢の国より女の鬼が上がってくる」という記事に対応するし、「花洛住みよき」という言葉も徳治二年(二ニO七)七月の後字多院の出家により、後二条天皇の外祖父であった堀川具守から兼好にお呼びがかかり、急速帰洛が決定したことと笹子る。さらに「故郷忘れ難し」「明夜」という語句も『兼好法師自撰家集』に収める和歌の詞書に共通する、と考証された。だがこの林氏の考証も大方に認められないものとなった。というのも、すでに昭和五十五年に、前田元重・福島金治氏が中心になって、この書状の紙背に記された聖教の書写年代を割り出す調査が行われ、その結果、これは兼好の書状とはみなされない、という結論を導きだされたからである。両氏はこの書状の紙背に書写されている聖教が鎌倉時代の真言僧頼識が著わした『薄草子口決』という書物の巻八の一葉であることをつきとめた。『薄草子口決』は全廿巻からなる真言密教の事相書である。称名寺の住持鈎阿もそれを必要として、他人の手を借りて書写し、所持していたものである。その最終巻の巻廿には奥書が記されていないが、巻一の末尾には、銀河の自筆で「嘉一元二年(一三O四)四月十日」の奥書が書かれている。また嘉元三年(一三O五)五月十六日付けで銀阿に宛てた金沢貞顕書状(ただし本文は貞顕の右筆倉栖兼雄の筆跡)が巻八の第十三紙目の料紙に用いられていることから、銀阿による書写時期は、嘉元三年(二ニO五)もしくは翌四年(一三O六)ころ、と推測されたのである。かくして、関氏が元弘三年(一三三三)二月下旬1三月上旬、兼好五十才代の筆とされた説も、また林氏が「徳治二年(二二O七)十一月に帰洛した直後の第一信であろう」とみなされた説も妥当性を失ったのである。
前田・福島両氏の導き出された報告以外にも、この書状を兼好自筆の書状とすることに具合のわるいことがいくつか挙げられる。例えば、文中に「南都北都の巡礼に忙しい」「行歩に堪えない」と書かれているが、この時期、まだ出家していない兼好が、なぜに南都北都の巡礼に多忙の日々を送らねばならなかったのか合点がいかない。二十四才の時に兼好が奈良や京都の寺院巡りをしたというなら、必ずや『徒然草』の第一段から第三十段までの章段の聞に、その折の見聞にちなむ関連記事が収められていてもよさそうであるが、そのような痕跡はなんら見いだされない。また二十四才の兼好にして「行歩に堪えない」とはふさわしくない表現である。さらには兼好が能筆の人であったことは「兼好名田寄付状」(大徳寺文書)「兼好法師自撰歌集」「宝積経紙背和歌短冊」の筆跡などから十分了解できるが、この書状の筆跡と「兼好名田寄付状」などの筆跡とは大いに異なっている。また書状には「上洛巳後」と表記されているが、前掲の金沢貞顕書状には「兼好帰洛」と書かれている。兼好が東国出身者であるかいなかは、金沢貞顕書状にみる「兼好帰洛」の文字によって判断がつくであろう。また害状に「故郷難忘」と表記されているが、「故郷」の文字は、兼好の代表的な著作『徒然草』においては、全二四四段中、わずかに悲回院議河蓮上人に関する第一四一段に「故郷の人の来て物語りすとて:::」とあるだけで他には使われていない。『兼好法師自撰歌集』に収める和歌ではおおむね「ふる里」と表記されている。以上のことからこの害状を書いた人物は「卜部兼好」ではなく、まったくの別人と思われる。では一体その書状は誰が書いたものなのか。いかなる人物の筆跡なのか。かつて、福島金治氏は称名寺の入宋僧・俊如房快誉を比定されたことがある(『鎌倉時代の手紙』解説)が、なお検討の余地を残している。この点については今後の資料発掘、さらには歴史学、国文学、仏教学の各分野の研究者の調査によって解明されることを期待するしかないが、私自身は書状の「東山辺、明夜」という文句に因んで、金沢貞顕が創建した常在光院や速成就院(太子堂)に関わりがあった僧侶なども考慮に入れたいし、奮状にみる美辞麗句の文面からは安居院流の唱導師も念頭に置きたいと思っている。だが、「上洛己後」「下向々顔の時」の文言に注目すると、鎌倉もしくは六浦周辺の寺院に縁があった文才豊かな老僧かとも推察される。もしかすると、称名寺開山審海の遺骨を「頚に懸けて」高野山に登った戒円一房祐範の手になるものか、とも推測しているが、この点の真相究明は今後の研究課題にしたい。
「金沢文庫文書」は四一四九通を数え、平成二年に一括、国の重要文化財に指定された。その事前調査において、三たびことこまかな文書の悉皆調査が実施されたが、それにもかかわらず、この書状と符合する書状は見つからなかった。ということは、いまや文庫の中には存在しないのかも知れない。なれば、あとは庫外に流出した文書の中に期待するしかないであろう。庫外の文書中にはたしてその連れは存在するものなのであろうか。あたかも雲をつかむような話であるが、どこからか発見されることを待ち望みたい。
最期に一言。懸紙、書状の書写年代を解く鍵はすべて紙背にあった。ただし該当書状の紙背だけからは、その年代を解くことはできない。懸紙、書状を含めて当初の聖教形態に復元することによって判明することであった。関氏はその事を熟知していたはずなのに、その検討を怠った。「眼光紙背に徹する」ということが古文書を取り扱う際の鉄別であり、歴史学に携わる研究者の心すべき態度であるという。なのに関氏も林氏も史学の人でありながら、紙背に眼を注ぐということを怠ったきらいがある。かくしてその調査結果は兼好伝の考察に重大な過ちを提示することになった。林氏は関氏の研究業績を踏まえて、研究を進展させて、卜部兼好の東国出身説を打ち出し、『兼好発掘』と題する大著を世に出されたが、その考証成果は国文学界から冷遇視されている。その「努力の結晶は或は水泡に帰するかも知れない」(隻岡散史)とまで極論されているが、そのような酷評を避けがたくしたのも、実は書状の紙背に-記された聖教の十分な調査と検討を怠ったがために他ならないと思う。