日蓮

予言僧日蓮国僧日蓮・・・
(時宗・一遍>転載) 日蓮1日蓮2日蓮3日蓮4・・・
立正安国論[第三段]仁王経等により悪侶を証す東条の御厨日蓮を知る立教開宗における妙見尊と虚空蔵菩薩一弟子五人の神社参詣日蓮仏法と創価思想「常陸の湯」
 
日蓮聖人御書[1]  日蓮聖人御書[2]

雑学の世界・補考   

まず臨終のことを習うて、のちに他事を習うべし。
人の命は無常である。出る息は入る息を待つこともなく、風に吹かれて落ちる露よりも儚(はかな)いものである。賢い人も愚かな人も、老いた人も若い人も、いずれが先とか後とか定まったものではない。そのため、他のことはさておいても、なによりも先に自分が死ぬときに、悔いのないようなことをまず習わなければならない。そのために日蓮は、仏典を学び、その中でもっとも優れている「法華経」の精神にたったのである。日蓮は、「法華経」に導かれて、生きることによって、臨終になっても、それを超える悟りをつかんだのである。「妙法尼御前御返事」
「兄弟鈔」
私たちの「心」は、人や世間との接触の仕方などによって、どのようにも変わるものである。コロコロと変わるから「こころ」だという説もあるほどである。「うつりやすきは人の心なり。善悪に染められ候(そうろう)」(「西山殿御返事」)と日蓮がいうように、私たちの心は変化しやすく、すぐに善いことにも悪いことにも染まりやすいものである。そのような感情としての心に従えば、真実の教えと生き方から遠ざかるだけである。「法華経」は真実の教えであり、それを受持して生きることが真実の生き方であると心から信じる日蓮は、「法華経」こそが心を導く師であるとした。移ろいやすい迷妄な心に従うことなく、ひたすら「法華経」の教えを心の師として心を導け、と日蓮は教戒する。
いのちと申すものは、一切の財の中の第一の財なり。
人間にとって、もっとも尊い財宝は、命である、と日蓮は説く。宇宙をふくめた三千世界にある財物でも、生命に値(あたい)するものはなく、身命(いのち)に代えることはできない。人の生命は灯(ともしび)のようなもので、これを養う食物は油である。油がなければ灯は消え、食物がなければ生命は絶える、と日蓮は食物を供養してくれた信者に感謝したのである。食物に支えられる命であるが、その生命は昔の聖人賢者が仏法に捧げたように、「法華経」に捧げてこそ光り輝く。日蓮は、もっとも尊く大切な命を「法華経」に供養することこそ、その尊さがあると教えている。「事理供養御書」
うつりやすきは人の心なり、善悪に染められ候。
人の心は、いつも猫の目のように変化している。私たちは、そんな心に時には癒され、時には突き放されたり、裏切られたりするという思いを繰り返している。日蓮(にちれん)も、そんな人の心と葛藤した人である。そして人の心は移ろいやすく、いろいろな刺激を受けて変わるもので、善にも悪にも染まりやすいという。では日蓮は、心を頼りないものとして否定したのか。もし、そうならば「法華経」の教えを受けとめる心さえ認めないことになる。日蓮は、雪の白さ、漆(うるし)の漆黒(しっこく)さは、どんな色に染めようとしても、その色の本質は染めることはできないとして、真実の経文である「法華経」を受けとめている純真な心をとらえなければならないと説く。「西山殿御返事」
人の身の五尺六尺の魂も一尺の面にあらわれ、一尺の顔の魂も一寸の眼の内におさまり候。
人の身長が五尺(約一・五m)や六尺あっても、その人の魂は一尺(約三〇p)の顔面に表われ、その顔面の中でも一寸(約三p)の眼に表わされる、という意味である。人の魂は、体や顔にも表われるものであるが、いちばんそれが明らかに示されるのが、眼である。眼は、その人の心が表現されるところである。日蓮(にちれん)は「法華経」一部八巻、二十八品、六万九千三百八十四文字の全体すべても大切であるが、「法華経」の魂が集約され、表現されたものが「南無妙法蓮華経」七文字の“題目”であるとした。この“題目”こそが「法華経」の中の魂であり、それは人の身体の眼に表われる魂と同じであると教えている。「妙法尼御前御返事」
たとえ貧なりとも信心強うして、志し深からんは、仏に成らんこと疑いあるべからず。
たとえ貧しい人であっても、信心が強く、その志(こころざし)が深ければ、仏になれることは疑いのないことである、と強い信仰心こそが最も大切であると説いたものである。お金が多くあれば、より快適な生活ができるかもしれない。しかし、お金をいくら持っているからといって、本当の幸福をもたらす信仰心が買えるわけではない。日蓮(にちれん)は、この言葉の前に、「たのしくして若干(じゃっかん)の財(ざい)を布施(ふせ)すとも、信心よわくば仏に成らんこと叶(かな)い難(がた)し」と、いかに多くの財産を布施したとしても、信心が弱ければ、仏になることは難しいといっている。「身延山御書」
在世は今にあり、今は在世なり。
釈尊の教えが、釈尊が生きていた時のように現在にも生きており、今は釈尊が生存されていた時代である、と釈尊の心が現在にも生きていることを説いたものである。釈尊の慈悲の心は、時空を超えて生きている。それは現在を生きる私たちにも注がれている。これは逆にいえば、現在を生きる私たちにも釈尊の在世当時そのままの教えが、そのまま生きているということである。日蓮は現在の時代が末法であるととらえたが、それは同時に釈尊の在世であり、それゆえに釈尊は末法を救う教えを説いたのである。その教えこそが時空を超えた同時性を有しているから、現在を救うものとなる。日蓮はこの確信のもとで「法華経」を時空を超えた絶対的な教えと認識して、今を生きる意義を求めたのである。これは「釈尊と共に今を生きる」ことを鮮明にした名言である。「種種御振舞御書」
閻浮第一の太子なれども、短命なれば草よりも軽し。
大宇宙の中の第一の王子さまと尊敬されても、命が短ければ草よりもはかないものである、という意味である。これに続いて日蓮は、「日輪のごとくなる智者なれども、夭死あれば生ける犬に劣る」―太陽のように光明をもたらす智者であっても、若死しては犬よりも劣る―と長幼を問わず命の尊さを説く。この言葉は、病気になっていた富木尼に宛てた手紙の一節で、命の尊さを説き示したものである。日蓮は命の大切さをくり返し説いているが、それは生きることが人間にとって至上の命題であると考えたからである。仏からいただいた命を生のある限り生ききること、それが仏に報恩することである。「可延定業御書」



学生と先哲・予言僧日蓮 /倉田百三

予言者のふたつの資格
日蓮を理解するには予言者としての視角を離れてはならない。キリストがそうであったように、ルーテルがそうであったように、またニイチェがそうであったように、彼は時代の予言者であった。普通の高僧のように彼を見るのみでは、彼のユニイクな宗教的性格は釈かれない。予言者とは法を身に体現した自覚をもって、時代に向かって権威を帯びて呼びかけ、価値の変革を要求する者である。予言者には宇宙の真理とひとつになったという宗教的霊覚がなければならぬのは勿論であるが、さらに特に己れの生きている時代相への痛切な関心と、鋭邁な批判と、燃ゆるが如き本能的な熱愛とをもっていなければならない。普通妥当の真理への忠実公正というだけでなく、同時代への愛、――実にそのためにニイチェのいわゆる没落を辞さないところの、共存同胞のための自己犠牲を余儀なくせしめらるる「熱き腸(はらわた)」を持たねばならない。彼は永遠の真理よりの命令的要素のうながしと、この同時代への本能愛の催しのために、常に衝き動かさるるが如くに、叫び、宣し、闘いつつ生きねばならなくなるのだ。倉皇として奔命し、迫害の中に、飢えと孤独を忍び、しかも真理のとげ難き嘆きと、共存同悲の愍(あわれ)みの愛のために哭(なげ)きつつ一生を生きるのである。「日蓮は涙流さぬ日はなし」と彼はいった。
日蓮は日本の高僧中最も日本的性格を持ったそれである。彼において、法への愛と祖国(くに)への愛とがひとつになって燃え上った。彼は仏子であって同時に国士であった。法の建てなおしと、国の建てなおしとが彼の使命の二大眼目であり、それは彼において切り離せないものであった。彼及び彼の弟子たちは皆その法名に冠するに日の字をもってし、それはわれらの祖国の国号の「日本」の日であることが意識せられていた。彼は外房州の「日本で最も早く、最も旺(さか)んなる太平洋の日の出」を見つつ育ち、清澄(きよすみ)山の山頂で、同じ日の出に向かって、彼の立宗開宣の題目「南無妙法蓮華経」を初めて唱えたのであった。彼は「われ日本の柱とならん」といった。「名のめでたきは日本第一なり、日は東より出でて西を照らす。天然の理、誰かこの理をやぶらんや」といい、「わが日本国は月氏漢土にも越え、八万の国にも勝れたる国ぞかし」ともいった。「光は東方より」の大精神はすでに彼においてあり、彼は日本主義の先駆者であった。しかも彼のそれは永遠の真理の上に、祖国を築き上げんとする宗教的大日本主義であった。
彼の伝記はすでに数多い。今私がここにそれをそのまま縮写するのみでは役立つこと少ないであろう。それはくわしき伝記について見らるるにしくはない。ここには同じ宗教的日本主義者として今日彼に共鳴するところの多い私が、私の目をもって見た日蓮の本質的性格と、特殊的相貌の把握とを、今の日本に生きつつある若き世代の青年たちに、活ける示唆と、役立つべき解釈とによって伝えたいと思うのである。
彼の問いと危機
日蓮は太平洋の波洗う外房州の荒れたる漁村に生まれた。「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺|旃陀羅(せんだら)が子也」と彼は書いている。今より七百十五年前、後堀川天皇の、承久四年二月十六日に、安房ノ国|長狭(ながさ)郡東条に貫名(ぬきな)重忠を父とし、梅菊を母として生まれ、幼名を善日麿とよんだ。
彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄(らくはく)して漁民となったのだといわれているが、彼自身は「片海の石中(いそなか)の賤民が子」とか、「片海の海人(あま)が子也」とかいっている。ともかく彼が生まれ、育ったころには父母は漁民として「なりわい」を立てていたのだ。彼は幾度か父母につれられ、船に乗って荒海に出たに相違ない。彼の激しい性格の中には、ペテロのように、海風のいきおいが見られるのである。そこで彼はその幼時を大洋の日に焼かれた。それ故「海の児」「日の児」としての烙印が彼の性格におされた。「われ日本の大船とならん」というような表現を彼は好んだ。また彼の消息には「鏡の如く、もちひのやうな」日輪の譬喩が非常に多い。
彼の幼時の風貌を古伝記は、「容貌厳毅にして進退|挺特(ていとく)」と書いている。利かぬ気の、がっしりした鬼童であったろう。そしてこの鬼童は幼時より学を好んだ。
「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二の歳より此の願を立つ」
日蓮の出家求道の発足は認識への要求であった。彼の胸中にわだかまる疑問を解くにたる明らかなる知恵がほしかったのだ。
それでは彼の胸裡の疑団とはどんなものであったか。
第一には何故正しく、名分あるものが落魄して、不義にして、名正しからざるものが栄えて権をとるかということであった。
日蓮の立ち上った動機を考えるものが忘れてならないのは承久の変である。この日本の国体の順逆を犯した不祥の事変は日蓮の生まれるすぐ前の年のできごとであった。陪臣の身をもって、北条義時は朝廷を攻め、後鳥羽、土御門、順徳三上皇を僻陲(へきすい)の島々に遠流し奉ったのであった。そして誠忠奉公の公卿たちは鎌倉で審議するという名目の下に東海道の途次で殺されてしまった。かくて政権は確実に北条氏の掌中に帰し、天下一人のこれに抗議する者なく、四民もまたこれにならされて疑う者なき有様であった。後世の史家頼山陽のごときは、「北条氏の事我れ之を云ふに忍びず」と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。
日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎(かんけつ)のために貶せられて零落したものであった。資性正大にして健剛な日蓮の濁りなき年少の心には、この事実は深き疑団とならずにはいなかったろう。何故に悪が善に勝つかということほど純直な童心をいたましめるものはないからだ。
彼は世界と人倫との究竟の理法と依拠とを求めずにはいられなかった。当時の学問と思想との文化的所与の下に、彼がそれを仏法に求めたのは当然であった。しかし仏法とは一体何であろう。当時の仏教は倶舎、律、真言、法相、三論、華厳、浄土、禅等と、八宗、九宗に分裂して各々自宗を最勝でありと自賛して、互いに相|排擠(はいせい)していた。新しく、とらわれずに真理を求めようとする年少の求道者日蓮にとってはそのいずれをとって宗とすべきか途方に暮れざるを得なかった。のみならず、かくまちまちな所説が各々真理を主張することが真理そのものの所在への懐疑に導くことはいつの時代でも同じことであった。あたかもソクラテスの年少時代のギリシアのような状態であった。実際それらの教団の中には理論のための理論をもてあそぶソフィスト的学生もあれば、論争が直ちに闘争となるような暴力団体もあり、禅宗のように不立文字を標榜して教学を撥無するものもあれば、念仏の直入を力調して戒行をかえりみないものもあった。
世界と人倫との依拠となるべき真理がかく個々別々に、主観的にわかれて、適帰するところを知らずしていいものであろうか。
これが日蓮の第二の疑団であった。
しかのみならず日蓮の幼時より天変地異がしきりに起こった。あるいは寛喜、貞永とつづいて飢饉が起こって百姓途上にたおれ、大風洪水が鎌倉地方に起こって人畜を損じ、奥州には隕石が雨のごとく落ち、美濃には盛夏に大雪降り、あるいは鎌倉の殿中に怪鳥集まるといった状況であった。日蓮は世相のただならぬことを感じた。また実際国外には支那を統一し、ヨーロッパを席捲した元が日本をうかがいつつあったのであった。
こうした時代相は年少の日蓮に痛切な疑いを起こさせずにおかなかった。彼は世界の災厄の原因と、国家の混乱と顛倒とをただすべき依拠となる真理を強く要請した。
「日本第一の知者となし給へ」という彼の祈願は名利や、衒学のためではなくして、全く自ら正しくし、世を正しくするための必要から発したものであった。
善とは何か、禍いの源は何か、真理の標識は何か。すべての偉人の問いがそれに帰宗するように、日蓮もまたそれを問い、その解決のための認識を求めて修学に出発したのであった。
遍歴と立宗
十二歳にして救世の知恵を求めて清澄山に登った日蓮は、諸山遍歴の後、三十二歳の四月再び清澄山に帰って立教開宗を宣するまで、二十年間をひたすら疑団の解決のために思索し、研学したのであった。
はじめ清澄山で師事した道善房は凡庸の好僧で情味はあったが、日蓮の大志に対して善知識たるの器ではなかった。ただ蔵経はかなり豊富だったので、彼は猛烈な勉強心を起こして、三七日の断食して誓願を立て、人並みすぐれて母思いの彼が訪ね来た母をも逢わずにかえし、あまりの精励のためについに血を吐いたほどであった。
十六歳のとき清澄山を下って鎌倉に遊学した。鎌倉は当時政治と宗教の中心地であった。鎌倉の五年間に彼は当時鎌倉に新しく、時を得て流行していた禅宗と浄土宗との教義と実践とを探求し、また鎌倉の政治の実情を観察した。彼の犀利の眼光はこのときすでに禅宗の遁世と、浄土の俗悪との弊を見ぬき、
鎌倉の権力政治の害毒を洞察していた。二十一歳のときすでに法然の念仏を破折した「戒体即身成仏義」を書いた。
その年転じて叡山に遊び、ここを中心として南都、高野、天王寺、園城寺等京畿諸山諸寺を巡って、各宗の奥義を研学すること十余年、つぶさに思索と体験とをつんで知恵のふくらみ、充実するのを待って、三十二歳の三月清澄山に帰った。
かくて智恵と力をはらんで身の重きを感じたツァラツストラのように、張り切った日蓮は、ついに建長五年四月二十八日、清澄山頂の旭の森で、東海の太陽がもちいの如くに揺り出るのを見たせつなに、南無妙法蓮華経と高らかに唱題して、彼の体得した真理を述べ伝えるべく、立教開宗したのである。
彼は王法の乱れの原因を仏法の乱れに見出した。「仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ」かくして過ぎなば「結局この国他国に破られて亡国となるべき也」これが日蓮の憂国であった。それ故に国家を安んぜんと欲せば正法を樹立しなければならぬ。これが彼の『立正安国論』の依拠である。
国内に天変地災のしきりに起こるのは、正法乱れて、王法衰え、正法衰えて世間汚濁し、その汚濁の気が自ら天の怒りを呼ぶからである。
「仏法やうやく顛倒しければ世間も亦濁乱せり。仏法は体の如く、世間は影の如し。体曲がれば影斜なり」
それ故に王法を安泰にし、民衆を救うの道は仏法を正しくするをもって根本としなければならぬ。
しからばいかなるが仏の正法であるか。
日蓮によれば、それは法華経をもって正宗としなければならぬ。
なぜなれば、法華経は了義経であって、その他の華厳経、大日経、観経を初め、已、今、当の一切の経は不了義経である。しかるに涅槃経によれば、依了義経不依不了義経とある。
それ故に仏の遺言を信じるならば、専ら法華経を明鏡として、一切経の心を知るべきである。したがって法華経の文を開き奉れば、「此法華経於諸経ノ中最在其上」とある。
また涅槃経に、「依法不依人」とあるからには、もろもろの人師によらずしてひたすら経によるべきである。したがってよるべきは経にして、了義経たる法華経のみ。その他の諸菩薩ないし人師もしくは不了義経を依拠とせる既成の八宗、十宗はことごとく邪宗である。
既成の諸宗の誤謬は仏陀の方便の権教を、真実教と間違えたところにある。
仏陀の真実教は法華経のほかには無い。仏陀出世の本懐は法華経を説くにあった。「無量義経」によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。
仏陀の正法は法華経あるのみ。その他の既成の諸宗は不了義の権経にもとづく故に、ことごとく無得道である。
以上が日蓮の論拠の根本要旨である。
日蓮はこの論旨を、いちいち諸経を引いて論証しつつ、清澄山の南面堂で、師僧、地頭、両親、法友ならびに大衆の面前で憶するところなく闡説し、
「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。既成の諸宗はことごとく堕地獄の因縁である」と宣言した。
大衆は愕然とした。師僧も父母も色を失うた。諸宗の信徒たちは憤慨した。中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚(しんい)肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。
このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴(ほうふつ)せしめる。
「道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭を恐れ給ひて、心中には不便とおぼつらめども、外はかたきのやうににくみ給ひぬ――本尊問答抄」
清澄山を追われた日蓮は、まず報恩の初めと、父母を法華経に帰せしめて、父を妙日、母を妙蓮と法号を付し、いよいよかねて志す鎌倉へと伝道へと伝道の途に上った。
時と法の相応
日蓮の行動の予言者なる性格はそのときと法との相応の思想にこくあらわれている。彼は普遍妥当の真理を超時間的に、いつの時代にも一様にあてはまるように説くことでは満足しなかった。彼の思想はある時代、ことに彼が生きている時代へのエンファシスを帯びていた。すなわち彼は歴史の真理を述べ伝えたかったのだ。
彼は釈迦の予言をみたすために出世したものとして自己の使命を自覚した。あたかもあのナザレのイエスがイザヤの予言にかなわせんため、自己をキリストと自覚したのと同じように。釈迦の予言によれば、釈迦滅後、五百歳ずつを一区画として、正法千年、像法千年を経て第五の末法の五百年に、「我が法の中に於て、闘諍言訟(とうじょうごんじょう)して白法(びゃくほふ)隠没せん(大集経)」時ひとり大白法たる法華経を留めて「閻浮提(えんぶだい)に広宣流布して断絶せしむることなし(法華経薬王品)」と録されてある。また、「後の五百歳濁悪世の中に於て、是の経典を受持することあらば、我当に守護して、その衰患を除き、安穏なることを得しめん(法華経、勧発品)」とも録されてある。
今の時代は末法濁悪の時代であり、この時代と世相とはまさに、法華経宣布のしゅん刻限に当っているものである。今の時代を救うものは法華経のほかにはない。日蓮は自らをもって仏説に予言されている本化の上行(じょうぎょう)菩薩たることを期し、「閻浮提第一の聖人」と自ら宣した。
日蓮のかような自負は、普遍妥当の科学的真理と、普通のモラルとしての謙遜というような視角からのみみれば、独断であり、傲慢であることをまぬがれない。しかし一度視角を転じて、ニイチェ的な暗示と、力調とのある直観的把握と高貴の徳との支配する世界に立つならば、日蓮のドグマと、矜恃と、ある意味で偏執狂(モノマニア)的な態度とは興味津々たるものがあるのである。われわれは予言者に科学者の態度を要求してはならない。
他宗を破折する彼の論拠にも、理論的には幾多の抗論を立てることができるであろう。しかし日蓮宗の教徒ならぬわれわれにとっては、その教理がここで主なる関心ではなく、彼の信念、活動の歴史的意義、その人格と、行状と、人間味との独特のニュアンスとが問題なのである。
日蓮の性格と行動とのあとはわれわれに幾度かツァラツストラを連想せしめる。彼は雷電のごとくに馳駆し、風雨のごとくに敵を吹きまくり、あるいは瀑布(ばくふ)のごとくはげしく衝撃するかと思えば、また霊鷲のように孤独に深山にかくれるのである。熱烈と孤高と純直と、そして大衆への哭くが如きの愛とを持った、日本におけるまれに見る超人的性格者であった。
立正安国論
日蓮は鎌倉に登ると、松葉(まつば)ヶ|谷(やつ)に草庵を結んで、ここを根本道場として法幡(ほうばん)をひるがえし、彼の法戦を始めた。彼の伝道には当初からたたかいの意識があった。昼は小町(こまち)の街頭に立って、往来(ゆきき)の大衆に向かって法華経を説いた。彼の説教の態度が予言者的なゼスチュアを伴ったものであったことはたやすく想像できる。彼は「権威ある者の如く」に語り、既成教団をせめ、世相を嘆き、仏法、王法二つながら地におちたことを悲憤して、正法を立てて国を安らかにし、民を救うの道を獅子吼(ししく)した。たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨が降(くだ)った。群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。
既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行きであった。
また鎌倉政庁の耳目を聳動させたのももとよりのことであった。
法華経を広める者には必ず三類の怨敵が起こって、「遠離於塔寺」「悪口罵言」「刀杖瓦石」の難に会うべしという予言は、そのままに現われつつあった。そして日蓮はもとよりそれを期し、法華経護持のほこりのために、むしろそれを喜んだ。
かくて三年たった。関東一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗(ほぼ)一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野(やどや)入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(安国論御勘由来)」
これが日蓮の国家三大諫暁の第一回であった。
この日蓮の「国土の恩」の思想はわれわれ今日の日本の知識層が新しく猛省して、再認識せねばならぬものである。われわれは具体的共同体、くにの中に生を得て、その維持に必要な衣食と精神文化とを供せられて成育するのである。共同体の基本は父母であり、氏族であり、血と土地と言語と風習と防敵とを共同にするところの、具体的単位がすなわちくになのである。共生(ミットレーベン)ということの意味を生活体験的に考えるならば、必ず父母を基として、国土に及ばねばならぬ。そしてわれわれに文化伝統を与えてくれた師長を忘れることはできぬ。日蓮は父母の恩、師の恩と並べて、国土の恩を一生涯実に感謝していた。これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつある。
しかし日蓮の熱誠憂国の進言も幕府のいれるところとならず、何の沙汰もなかった。それのみか、これが機縁となって、翌月二十八日夜に松葉ヶ谷草庵が焼打ちされるという法難となって報いられた。
「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとや思ひけん、念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したりとぞ聞えし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて、殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其夜の害も免れぬ。(下山御消息)」
このさるべき人々というのは幕府の要人を指すのだ。彼らは自ら手を下さず、市井の頭目を語らって、群衆を煽動せしめたのであった。
日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者|富木(とき)氏の邸にあって、法華経を説いていた。
相つぐ法難
日蓮の闘志はひるまなかった。百日の後彼は再び鎌倉に帰って松葉ヶ谷の道場を再興し、前にもまして烈々とした気魄をもって、小町の辻にあらわれては、幕府の政治を糺弾し、既成教団を折伏(しゃくふく)した。すでに時代と世相とに相応した機をつかんで立ってる日蓮の説法が、大衆の胸に痛切に響かないはずはない。まして上行菩薩を自覚してる彼が、国を憂い、世を嘆いて、何の私慾もない熱誠のほとばしりに、舌端火を発するとき、とりまく群衆の心に燃えうつらないわけにはいかなかったろう。彼の帰依者はまし、反響は大きくなった。そこで弘長元年五月十二日幕吏は突如として、彼の説法中を小町の街頭で捕えて、由比ヶ浜から船に乗せて伊豆の伊東に流した。これが彼の第二の法難であった。
この配流は日蓮の信仰を内面的に強靭にした。彼はあわただしい法戦の間に、昼夜唱題し得る閑暇を得たことを喜び、行住坐臥に法華経をよみ行ずること、人生の至悦であると帰依者天津ノ城主工藤吉隆に書いている。
二年の後に日蓮は許されて鎌倉に帰った。
彼は法難によって殉教することを期する身の、しきりに故郷のことが思われて、清澄を追われて十三年ぶりに故郷の母をかえりみた。父は彼の岩本入蔵中にみまかったのでその墓参をかねての帰省であった。
「日蓮此の法門の故に怨まれて死せんこと決定也。今一度故郷へ下つて親しき人々をも見ばやと思ひ、文永元年十月三日に安房国へ下つて三十余日也。(波木井御書)」
折しも母は大病であったのを、日蓮は祈願をこめてこれを癒した。日蓮はいたって孝心深かった。それは後に身延隠棲のところでも書くが、その至情はそくそくとしてわれわれを感動させるものがある。今も安房誕生寺には日蓮自刻の父母の木像がある。追福のために刻んだのだ。
うつそみの親のみすがた木につくりただに額(ぬか)ずり哭き給ひけん
これは先年その木像を見て私が作った歌だ。
この帰省中に日蓮は清澄山での旧師道善房に会って、彼の愚痴にして用いざるべきを知りつつも、じゅんじゅんとして法華経に帰するようにいましめた。日蓮のこの道善への弟子としての礼と情愛とは世にも美しいものであり、この一事あるによって私は日蓮をいかばかり敬愛するかしれない。凡庸の師をも本師道善房といって、「表にはかたきの如くにくみ給うた」師を身延隠栖の後まで一生涯うやまい慕うた。父母の恩、師の恩、国土の恩、日蓮をつき動かしたこの感恩の至情は近代知識層の冷やかに見来ったところのものであり、しかも運命共同体の根本結紐として、今や最も重視されんとしつつあるところのものである。
しかるにその翌月、十一月十一日には果してまたもや大法難にあって日蓮は危うく一命を失うところであった。
天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨をはらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃ったのであった。
弟子の鏡忍房は松の木を引っこ抜いて防戦したが討ち死にし、難を聞いて駆けつけた工藤吉隆も奮闘したが、衆寡敵せず、ついに傷ついて絶命した。
日蓮は不思議に一命は助かったが、頭に傷をうけ、左の手を折った。
日蓮は工藤吉隆の法華経のための殉教を賞めて、大僧の礼をもって葬り、日玉上人の法名を贈った。鏡忍房の墓には「手向ノ松」を植えた。
日蓮はこの法難によって、経に符合する意味で法華経の行者としての自信を得た。「日蓮は日本第一の法華経の行者也」という宣言をあえて発する自覚を得た。彼がこの小松原の法難における吉隆と鏡忍との殉教を如何に尊び、感謝しているかは、彼の消息を見れば、輝くほどの霊文となって現われているのであるが、ここに引用する余裕がない。後に書くが日蓮はまれに見る名文家なのである。
この法難から文永五年蒙古来寇のころまで、三、四年間は日蓮の身辺は比較的静安であった。この間に彼の法化が関東の所々にのびたのであった。
蒙古来寇の予言
日蓮はさきに立正安国論において、他国侵逼難を予言して幕府当局をいましめ、一笑にふされていたが、この予言はあたって文永五年正月蒙古の使者が国書をもたらして幕府をおどかした。
「日蓮が去ぬる文応元年勘へたりし立正安国論、すこしも違はず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議何事かこれに過ぎん。(種々御振舞御書)」
そこで日蓮は今度こそ幕府から意見を徴せらるることを期待したが、やはり何の沙汰もなかった。日蓮はここにおいて決するところあり、自ら進んで、積極的に十一通の檄文(げきぶん)を書いて、幕府の要路及び代表的宗教家に送って、正々堂々と、公庁が対決的討論をなさんことを申しいどんだ。
これは憂国の至情黙視しておられなかったのであるが、また彼の性格の如何に激烈で、白熱的であるかを示すものである。それにつけても今の日本の非常の時に、これほどの烈々たる情熱ある精神の使徒を私は期待することを禁じ得ない。
当局及び諸宗は震駭した。中にも極楽寺の良観は、日蓮は宗教に名をかって政治の転覆をはかる者であると讒訴(ざんそ)した。時節柄当局の神経は尖鋭となっていたので、ついにこの不穏の言動をもって、人心を攪乱するところの沙門を、流罪に処するということになった。
これは貞永式目に出家の死罪を禁じてあるので、表は流罪として、実は竜ノ口で斬ろうという計画であった。
日蓮はこの危急に際しても自若としていた。彼の法華経のための殉教の気魄は最高潮に達していた。
「幸なる哉、法華経のために身を捨てんことよ。臭き頭をはなたれば、沙に金を振替へ、石に玉をあきなへるが如し。(種々御振舞御書)」
彼は刑場におもむく前、鎌倉の市中を馬に乗せられて、引き回されたとき、若宮八幡宮の社前にかかるや、馬をとめて、八幡大菩薩に呼びかけて権威にみちた、神がかりとしか思えない寓諫を発した。
「如何に八幡大菩薩はまことの神か」とそれは始まる。彼は釈迦が法華経を説いたとき、「十方の諸仏菩薩集まりて、日と日と、月と月と、星と星と、鏡と鏡とを並べたるが如くなりし時」その会(え)中にあって、法華経の行者を守護すべきを誓言したる八幡大菩薩は、いま日蓮の難を救うべき義務があるに、「いかに此の所に出で合はせ給はぬぞ」と責めた。
神明を叱咤(しった)するの権威には、驚嘆せざるを得ぬではないか。
急を聞いて馳せつけた四条金吾が日蓮の馬にとりついて泣くのを見て、彼はこれを励まして、「この数年が間願いし事是なり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫に※(くら)われ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向し、其の余をば弟子檀那等にはぶくべし」
といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、
「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。…各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」
かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられんとした際、異様の光りものがして、刑吏たちのまどうところに、助命の急使が鎌倉から来て、急に佐渡へ遠流ということになった。
文永八年十月十日相模の依智(えち)を発って、佐渡の配所に向かった日蓮は、十八日を経て、佐渡に着き、鎌倉の土籠に入れられてる弟子の日朗へ消息している。
「十二月二十八日に佐渡へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろの家より、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間合はず、四壁はあばらに、雪降り積りて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮らす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべき住居なり」
こうした荒寥の明け暮れであったのだ。
承久の変の順徳上皇の流され給うた佐渡へ、その順逆の顛倒に憤って立った日蓮が、同じ北条氏によって配流されるというのも運命であった。
「彼の島の者ども、因果の理をも弁えぬ荒夷(あらえびす)なれば、荒く当りたりし事は申す計りなし」
「彼の国の道俗は相州の男女よりも怨(あだ)をなしき。野中に捨てられて雪に肌をまじえ、草を摘みて命を支えたりき」
かかる欠乏と寂寥の境にいて日蓮はなお『開目鈔』二巻を撰述した。
この著については彼自ら「此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし」といい、「日蓮は日本国のたましひなり」という、仏陀の予言と、化導の真意をあらわす、彼の本領の宣言書である。彼の不屈の精神はこの磽※(こうかく)の荒野にあっても、なお法華経の行者、祖国の護持者としての使命とほこりとを失わなかった。
佐渡の配所にあること二年半にして、文永十一年三月日蓮は許されて鎌倉に帰った。しかるに翌四月八日に平ノ左衛門尉に対面した際、日蓮はみたび、他国の来り侵すべきことを警告した。左衛門尉は「何の頃か大蒙古は寄せ候ふべき」と問うた。日蓮は「天の御気色を拝見し奉るに、以ての外に此の国を睨みさせ給ふか。今年は一定寄せぬと覚ふ」と大胆にいいきった。平ノ左衛門尉はさすがに一言も発せず、不興の面持であった。
しかるに果して十月にこの予言は的中したのであった。
彼はこの断言の時の心境を述懐して、「日蓮が申したるには非ず、只ひとへに釈迦如来の御神我身に入りかはせ給ひけるにや。我身ながら悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と書いている。かような宗教経験の特異な事実は、客観的には否定も、肯定もできない。今後の心霊学的研究(サイキカルリサーチ)の謙遜な課題として残しておくよりない。しかし日蓮という一個の性格の伝記的な風貌の特色としては興趣わくが如きものである。
身延の隠棲
日蓮の最後の極諫もついに聞かれなかった。このとき日蓮の心中にはもはや深く決するところがあった。
「三度諫めて用ゐられずんば山林に身を隠さん」
これが日蓮の覚悟であった。やはり彼は東洋の血と精神に育った予言者であったのだ。大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格と思うならあやまりである。
鎌倉幕府の要路者は日蓮への畏怖と、敬愛の情とをようやくに感じはじめたので、彼を威迫することをやめて、優遇によって懐柔しようと考えるようになった。そして「今日以後永く他宗折伏を停めるならば、城西に愛染堂を建て、荘田千町を付けて衣鉢の資に充て、以て国家安泰、蒙古調伏の祈祷を願ひたいが、如何」とさそうた。このとき日蓮は厳然として、「国家の安泰、蒙古調伏を祈らんと欲するならば、邪法を禁ずべきである。立正こそ安国の根本だからだ。自分は正法を願うて爵録を慕はない。いづくんぞ、仏勅を以て爵録に換へんや」
かくいい放って誘惑を一蹴した。時宗が嘆じて「ああ日蓮は真に大丈夫である。自ら仏使と称するも宜なる哉」とついに文永十一年五月宗門弘通許可状を下し、日蓮をもって、「後代にも有り難き高僧、何の宗か之に比せん。日本国中に宗弘して妨げあるべからず」という護法の牒を与えた。
けれども日蓮は悦ばず、正法を立せずして、弘教を頌揚するのは阿附(あふ)である。暁(さと)しがたきは澆季の世である。このまま邪宗とまじわり、弘教せんより、しばらく山林にのがれるにはしかないと、ついに甲斐国身延山に去ったのである。
これは日蓮の生涯を高く、美しくする行持(ぎょうじ)であった。実に日蓮が闘争的、熱狂的で、あるときは傲慢にして、風波を喜ぶ荒々しき性格であるかのように見ゆる誤解は、この身延の隠棲九年間の静寂と、その間に諸国の信徒や、檀那や、故郷の人々等へ書かれた、世にもやさしく美しく、感動すべき幾多の消息によって、完全に一掃されるのである。それとともに、彼の立宗以来五十三歳までの、二十二年間の獅子王のごとき奮闘がいかにかかるやさしく、美しき心情から発し得たかに、驚異の念を持たざるを得ないのである。実に優(いう)にやさしき者が純熱一すじによって、火焔の如く、瀑布の如く猛烈たり得る活ける例証をわれわれは日蓮において見得るのである。このことは今の私にとっていかばかり感謝と希望であることぞ。
日蓮は実に身延の隠棲の間に、心しみじみとした名文を書いている。私は限りない愛惜をもって、紙幅の許すまで彼自らの文章に語らせたい。
「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅からざる宿習也。
かかる道なれども釈迦仏は手を引き、帝釈は馬となり、梵王は身に立ちそひ、日月は眼に入りかはらせ給ふ故にや、同十七日、甲斐国波木井の郷へ着きぬ。波木井殿に対面ありしかば大に悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただ事とも覚えず、偏に慈父悲母波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。(波木井殿御書)」
かくて六月十七日にいよいよ身延山に入った。彼は山中に読経唱題して自ら精進し、子弟を教えて法種を植え、また著述を残して、大法を万年の後に伝えようと志したのであった。さてその身延山中の聖境とはどんな所であろう。
「此の山のていたらく…戌亥の方に入りて二十余里の深山あり。北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山也。板を四枚つい立てたるが如し。此外を回りて四つの河あり。北より南へ富士河、西より東へ早河、此は後也。前に西より東へ波木井河の中に一つの滝あり、身延河と名づけたり。中天竺の鷲峰を此処に移せるか。はた又漢土の天台山の来れるかと覚ゆ。此の四山四河の中に手の広さ程の平らかなる処あり。爰に庵室を結んで天雨を脱れ、木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折りて身を養ひ、秋は果を拾ひて命を支へ候。(筒御器鈔)」
今日交通の便開けた時代でも、身延山詣でした人はその途中の難と幽邃(ゆうすい)さとに驚かぬ者はあるまい。それが鎌倉時代の道も開けぬ時代に、鎌倉から身延を志して隠れるということがすでに尋常一様な人には出来るものでないことは一度身延詣でしてみれば直ちに解るのである。
ことには冬季の寒冷は恐るべきものがあったに相違ない。
雪が一丈も、二丈もつもった消息も書かれてあり、上野殿母尼への消息にも「…大雪かさなり、かんはせめ候。身の冷ゆること石の如し。胸の冷めたき事氷の如し」と書いてある。
こうした深山に日蓮は五十三歳のときから九年間行ない澄ましたのである。
「かかる砌なれば、庵の内には昼はひねもす、一乗妙典のみ法(のり)を論談し、夜はよもすがら、要文誦持の声のみす。…霧立ち嵐はげしき折々も、山に入りて薪をとり、露深き草を分けて、深山に下り芹を摘み、山河の流れも早き巌瀬に菜をすすぎ、袂しほれて干わぶる思ひは、昔人丸が詠じたる和歌の浦にもしほ垂れつつ世を渡る海士(あま)も、かくやと思ひ遣る。さまざま思ひつづけて、観念の牀(とこ)の上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の声に目をさまし、…(身延山御書)」
こうしたやさしき文藻は粗剛な荒法師には書けるものでない。
建治二年三月旧師道善房の訃音に接するや、日蓮は悲嘆やる方なく、報恩鈔二巻をつくって、弟子日向に持たせて房州につかわし、墓前に読ましめ「花は根にかえる。真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の御身にあつまるべし」と師の恩を感謝した。
それにもまして美しい、私の感嘆してやまない消息は新尼御前への返書として、故郷の父母の追憶を述べた文字である。
「海苔(あまのり)一ふくろ送り給ひ畢んぬ。…峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よし無き心おもひでて憂(う)くつらし。かたうみ、いちかは、小港の磯のほとりにて、昔見しあまのりなり。色、形、味はひもかはらず、など我父母かはらせ給ひけんと方違(かたちが)へなる恨めしさ、涙おさへがたし」
そくそくとして心に沁みる名文である。こうしたやさしき情緒の持主なればこそ、われわれは彼の往年の猛烈な、火を吐くような、折伏のための戦いを荒々しと見ることはできないのである。また彼のすべての消息を見て感じることはその礼の行きわたり方である。今日日蓮の徒の折伏にはこの礼の感じの欠けたるものが少なくない。日蓮の折伏はいかに猛烈なときでも、粗野ではなかったに相違ないことは充分に想像し得るのである。やさしき心情と、礼儀とを持って、しかも彼の如く猛烈に真理のために闘わねばならない。そのことたる、ひとえに心境の純潔にして疾ましからざると、真理への忠誠と熱情のみによって可能なことである。私は晩年の日蓮のやさしさに触れて、ますます往年の果敢な法戦に敬意を抑え得ないのである。
彼は故郷への思慕のあまり、五十町もある岨峻をよじて、東の方雲の彼方に、房州の浜辺を髣髴しては父母の墓を遙拝して、涙を流した。今に身延山に思恩閣として遺跡がある。
「父母は今初めて事あらたに申すべきに候はねども、母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くおぼえ候。飛鳥の子を養ひ、地を走る獣の子にせめられ候事、目も当てられず、魂も消えぬべくおぼえ候。其につきても母の御恩忘れ難し。…日蓮が母存生しておはせしに、仰せ候ひしことも、あまりに背き参らせて候ひしかば、今遅れ参らせて候が、あながちにくやしく覚えて候へば、一代聖教を検べて、母の孝養を仕らんと存じ候。(刑部左衛門尉女房御返事)」
一体日蓮には一方パセティックな、ほとんど哭くが如き、熱腸の感情の昂揚があるのだ。たとえば、竜ノ口の法難のとき、四条金吾が頸の座で、師に事あらば、自らも腹切らんとしたことを、肝に銘じて、後年になって追憶して、
「返す/\も今に忘れぬ事は、頸切られんとせし時、殿は供して馬の口に付て、泣き悲しみ給ひしは、如何なる世にも忘れ難し。
たとひ殿の罪深くして、地獄に入り給はば、日蓮を如何に仏に成さんと釈迦|誘(こし)らへさせ給ふとも、用ひ参らせ候べからず。同じ地獄なるべし」
これなどは断腸の文字といわねばならぬ。
また上野殿への返書として、
「鎌倉にてかりそめの御事とこそ思ひ参らせ候ひしに、思ひ忘れさせ給はざりける事申すばかりなし。故上野殿だにもおはせしかば、つねに申しうけ給はりなんと嘆き思ひ候ひつるに、御形見に御身を若くしてとどめ置かれけるか。姿の違はせ給はぬに、御心さへ似られける事云ふばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候と承はりて、御墓に参りて候」
こうした深くしみ入り二世をかけて結ぶ愛の誠と誓いとは、日蓮に接したものの渇仰と思慕とを強めたものであろう。
滅度
身延山の寒気は、佐渡の荒涼の生活で損われていた彼の健康をさらに傷つけた。特に執拗な下痢に悩まされた。
「此の法門申し候事すでに二十九年なり。日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間、年々に衰病起り候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年(弘安四年)は正月より其の気分出来して、既に一期をはりになりぬべし。其の上齢すでに六十にみちぬ。たとひ十に一、今年は過ぎ候とも、一、二をばいかでかすぎ候べき。(池上兄弟への消息)」
その生涯のきわめて戯曲的であった日蓮は、その死もまた牧歌的な詩韻を帯びたものであった。
弘安五年九月、秋風立ち初むるころ、日蓮は波木井氏から贈られた栗毛の馬に乗って、九年間住みなれた身延を立ち出で、甲州路を経て、同じく十八日に武蔵国池上の右衛門太夫宗仲の館へ着いた。驢馬に乗ったキリストを私たちは連想する。日蓮はこの栗毛の馬に愛と感興とを持った。彼の最後の消息がこの可憐な、忠実な動物へのいつくしみの表示をもって終わっているのも余韻嫋々としている。彼の生涯はあくまで詩であった。
「みちのほど、べち事候はで池上までつきて候。みちの間、山と申し、河と申し、そこばく大事にて候ひけるを、公達に守護せられ参らせ候て、難もなくこれまで着きて候事、おそれ入り候ひながら悦び存じ候。…所労の身にて候へば、不足なる事も候はんずらん。さりながらも、日本国に、そこばくもてあつかうて候身を、九年迄御帰依候ひぬる御志、申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、墓をば身延の沢にせさせ候べく候。又栗毛の御馬はあまりにおもしろく覚え候程に、いつまでも失ふまじく候。常陸の湯にひかせ候はんと思ひ候が、若し人にもとられ候はん、又その外いたはしく覚えば、上総の藻原の殿のもとに預け置き奉るべく候。知らぬ舎人をつけて候へば、をぼつかなく覚え候。(下略)」
これが日蓮の書いた最後の消息であった。
十月八日病|革(あらた)まるや、日昭、日朗以下六老僧をきめて懇ろに滅後の弘経を遺嘱し、同じく十八日朝日蓮自ら法華経を読誦し、長老日昭臨滅度時の鐘を撞(つ)けば、帰依の大衆これに和して、寿量品(しゅりょうぼん)の所に至って、寂然として、この偉大なたましいは、彼が一生待ち望んでいた仏陀の霊山に帰還した。そこでは並びなき法華経の護持者としての栄冠が彼を待っていることを門弟、檀那、帰依の大衆は信じて疑わず、声をうち揃えて、南無妙法蓮華経を高らかに唱題したのであった。
毎年十月十八日の彼の命日には、私の住居にほど近き池上本門寺の御会式(おえしき)に、数十万の日蓮の信徒たちが万燈をかかげ、太鼓を打って方々から集まってくるのである。
スピリットに憑(つ)かれたように、幾千の万燈は軒端を高々と大群衆に揺られて、後から後からと通りに続き、法華経をほめる歓呼の声は天地にとよもして、世にもさかんな光景を呈するのである。フランスのある有名な詩人がこの御会式の大群衆を見て絶賛した。それは見知らぬ大衆が法によっておのずと統一されて、秩序を失わず、霊の勝利と生気との気魄がみなぎりあふれているからである。
日蓮の張り切った精神と、高揚した宗教的熱情とは、その雰囲気をおのずと保って、六百五十年後の今日まで伝統しているのだ。
彼はあくまでも高邁の精神をまもった予言者であり、仏子にして同時に国士であった。法の建てなおし、国の建てなおしが彼の一生の念願であった。同時代への燃えるような愛にうながされて、世のため、祖国のため憂い、叫び、論じ、闘った。彼は父母と、師長と、国土への恩愛を通して、活ける民族的、運命的共同体くにへの自覚と、感謝と、護持の念にみちみちていた。彼はその活きたくにへの愛護の本能によって、大蒙古の侵逼を直覚し、この厄難から、祖国を守らんがために、身の危険を忘れて、時の政権の把持者を警諫した。彼は国本を正しくすることによって、世を済い、人間の精神を建てなおすことによって国を建てなおそうとして奔命した。彼は時代の悪を憎み、政治の曲を責め、教学の邪を討って、権力と抗争した。
人はあるいは彼はたましいの静謐(せいひつ)なき荒々しき狂僧となすかも知れない。しかし彼のやさしき、美しき、礼ある心情はわれわれのすでに見てきた通りである。それにもかかわらず、何故彼はかくの如く、猛烈に、火を吐く如くに叫び、罵り、挑戦し、さながら僧にしてまた兵の如くに奮闘馳駆しなければならなかったか。
それは天意への絶対尊信と、その奉行のための使命の自覚と、同時代への関心と、祖国の愛護と、共存大衆への本能的悲愍につき動かされて、やむにやまれなかったのである。
同時代への関心を持たぬ普遍妥当の真理の把持者は落ち着いていられる。民族共同体の運命に本能的な安危を感じない国際主義者は冷やかに静観してすまされる。共存同悲の大衆へのあわれみが肉体的な交感にまで現実化していない者は、いわゆる「助けせきこむ」気持が理解できないのである。
われわれは宗教家である日蓮が政治的関心を発せずにいられなかった動機が実感できる。街頭に立って大衆に呼びかけ、政治を批判し、当局に対決をいどみ、当時の精神文化指導階級を責め鞭った心事が身に近く共感されるのを覚える。
今日の日本の現状は日蓮の時代と似たおもむきはないであろうか。
われわれは現在の政治的権力、経済的支配、文化的指導に対して、抗争せずにいられるであろうか。
今の日本の知識層を一般に支配している冷淡と、無反応との空気は決して健康の徴候ではないのである。その空気は祖国への無関心を伴うたものであり、新しき祖国への愛に目ざめしめることが一般的に文化への熱情を呼び起こす前提である。
そのためには具体的の共同体というものが、父母から発生し、大家族を通しての、血族的、言的共生を契機とし、共同防敵によって統一され、師長による文化伝統の教育と、共存同胞による衣食の共同自給にまつものである事情、すなわち父母と、師長と、国土とへの恩愛と従属との観念を呼びさまさなければならない。そしてそれこそ日蓮の強調したところのものである。日本の知識層は実は文化に冷淡なのではなく、民族的文化、国家的思潮に冷淡なのである。そしてこのことたる全く従来の文化的指導者の認識のあやまりに由るのである。
日本の文化的指導者は祖国への冷淡と、民族共同体への隠されたる反感とによって、次代の青年たちを、生かしも、殺しもせぬ生煮えの状態にいぶしつつあるのである。これは悲しむべき光景である。是非ともこれは文化的真理と、人類的公所を失わぬ、新しい民族国家主義を樹立して、次代の青年たちを活々とした舞台に解放しなければならないのである。
われわれは今日の文化的指導層に対しては真理のために、祖国のために抗争せざるを得ないものである。
日本の文化指導層の政治的関心の欠如もまたこれに類する。彼らは文化人が政治にかかわることを軽蔑する。しかし今日の、人間の文化と禍福とがますます密接に政治に依属しつつある時代において、政治の根本精神を正し、その理想を標幟せしむる啓蒙運動に、文化指導の任務を自覚するわれわれが関わりを持たずにいられないのは当然なことである。それは日蓮の時代よりももっと切実になっているのである。何故なら今日は文化も、経済も国家社会的規模に拡大され、計画されつつあるからである。
「大きすぎもせねば、小さすぎもせぬ」声で語るカルチュアの人は尊いであろう。しかしそのために雷霆(らいてい)の如く怒号する野の予言者を排斥してはならない。質素な襟飾をつけた謙遜な教授は尊敬すべきであるが、そのために舌端火を吐く街頭の闘士を軽蔑することはできぬ。むしろわれわれが要望するのは最も柔和なる者の獅子吼である。最も優美なる者の烈々たる雄叫びである。そしてキリストも日蓮も実はかかる性格者の典型であった。
その内心に私を蔵する者は予言者たり得ない。そのたましいに「天」を宿さぬものは予言者たり得ない。予言者は天意の代弁者であり、その権威に代わる者だからである。
その同時代と、大衆への没落的の愛を抱かぬ者も予言者たり得ない。そのカラーを汚し、その靴を泥濘へ、象牙の塔よりも塵労のちまたに、汗と涙と――血にさえもまみれることを欲うこそ予言者の本能である。
しかもまた大衆を仏子として尊ぶの故に、彼らに単に「最大多数の最大幸福」の功利的満足を与えんとはせずに、常に彼らを高め、導き、精神的法悦と文化的向上とに生きる高貴なる人格たらんことをすすめ、かくて理想的共同体を――究竟には聖衆倶会の地上天国を建設せんがために、自己を犠牲にして奔命する者、これこそまことの予言者である。
そして日蓮はかくの如き条件にかなえる者であったことは、上来簡叙したところの彼の生涯の行跡が示している。われわれは七百年以前の鎌倉時代に生きた日蓮の生涯を、今日の日本の非常の時代に思い比べて、自ら肯き、そして期する所がなければならないのである。(1937/11/25)

国僧日蓮

 

宗教はあくまでも庶民のためのもので権力者の庇護は必要ない
「これらの寺は、一体庶民の救済のために建てた寺なのか、それとも北条得宗家の救済を目的に建てられた寺なのか」という疑いが生じる。同時に、「宗教家が、権力者の庇護によって存在することは、果たして是か非か」と考える。かれは真っ向からこういう在り方を否定した。
「宗教はあくまでも庶民のためのものだ」と考えていたからだ。そうなると、かれが上方で、「東国の鎌倉こそ、布教に最も適した地だ。鎌倉幕府は、そういう考えを認めるはずだ」と思ってやって来た期待は、見事に裏切られたことになる。
「鎌倉も、結局は権力者の都でしかない」という結論になる。そして権力者たちが、「自己権力の増大」を図って、血眼になって争い続けている様を見ながらも、その権力者によって保護されている大寺の高僧たちも、それに対し異議申し立ては行なわない。日蓮から見れば、「鎌倉幕府の高官も、大寺の住職もすべて、私の論理によって行動し、庶民のためという公の論理を忘れ果てている」と思えた。
 日蓮の弟子になった僧たちは、すべて日蓮のこの、「公の論理」に共感し、賛同した者ばかりだ。かれらはかれらなりに真に弱者的立場にある庶民の救済に心を燃やしていた。だから、「日蓮上人こそ、庶民を救い、同時にこの国を救う唯一の聖人だ」と思った。日蓮に私心は全くない。他宗を誹誘するのも、「庶民を救おうという公の論理」を信ずるからだ。
法難を受けることこそ信仰が正しい証拠
「北条得宗家は、日本国の守護・地頭人事を私している」と見た。日蓮とその一派からいわせれば、「すべて、北条得宗家の私の論理の悪用である」ということになる。
そして、純粋に日蓮の教える、「法華経こそ、日本における正教である」という考えを信奉し、身を以てそれを実現している弟子たちと、また、「民の暮らしをよくするための努力を行なうのが、鎌倉武士の務めである」と考える御家人たちとの依拠するところは、共に、「公の論理」である。しかし、その論理をあまりにもはっきり表明し、これに違う宗旨をすべて、邪教として退けた日蓮は、そのために何度も法難に遭わなければならなかった。しかし法難が重なれば重なるほどに日蓮は、「これこそ、わが唱えが正しい証拠である」として、むしろ喜んでその法難の渦の中に身を投げ込んで行った。そういう日蓮を見ていたから、弟子や檀越たちも、「お上人の生き方こそ、われわれの模範である」として、今度は弟子として、あるいは檀越として世間から投げ掛けられる非難や、言葉のつぷて礫も甘んじて受けて来た。弟子や檀越たちも共に、日蓮と同じような、「法難を受けることこそ、われわれの信仰が正しい証拠なのだ」と思っている。
 そして、日蓮が佐渡島へ流されたあと、鎌倉をはじめ各地に残った弟子や檀越・信徒たちが自分を支えて来たのは、「日蓮上人の予告がすべて的中している」という事実であった。蒙古のフビライからの国書の到来もそうだったし、鎌倉幕府内に起こる、「政権争い」もそうだつた。つまり日蓮のいう、「内憂外患」が、予告どおり起こつていた。だからこそ、どんなに誹誘されようとも、残っていた信者は「お上人棟のおっしゃったことが的中している。お上人様は正しい」と言い返すことによって、身を保って来た。
頼基陳状にみる相当正確な情報が身延山に集め的確な手を打つ
侍所所司の平頼綱は、意外にも江馬光時が四条頼基を許してしまったので、落胆した。
「あの男は、おれの期待を裏切った」と思った。そうなるとよけい身延山の日蓮が憎くなる。ところが最近の日蓮には迂闊なことができない。鎌倉にいたときは、自らの危険をも顧みずあの手この手と戦闘的な態度をとってきた。身延山に入ってからは絶対にそういうことをしない。
「身を守るべく、なるべく自ら危険の場に踏み込むな」と、こと細く注意を与えている。特に今度の、「頼基陳状」を事前に宣伝し、帰依者に対しても、「「頼基陳状」の内容はこういうものである」と世間に撒き散らした。これが相当な効果を生んだ。いってみれば、江馬光時は、この事前宣伝によって湧いた世論に負けたといっていいだろう。
「全く悪知恵の働く妨主だ」と頼綱は思う。それだけに、迂闊なことはできない。つまり日蓮は、現在でいう、「事前の情報公開」を行なってしまうからだ。あるいは事後にも、「こういう事が行なわれた」と事実を市民に発表してしまう。それによって新しい世論が起こる。身延山にいる日蓮は徒手空拳だ。にもかかわらず、鎌倉にいたとき以上のカを発揮している。
「一体、どこにそんなカがあるのか?」頼綱には不思議で仕方がない。日蓮の打つ手は的確だ。ということは、相当正確な情報が身延山に集まっているといっていい。それを選り分け、「こういう間選点に対してはどう対応すべきか」ということを日蓮は考え、弟子たちにその指示を出す。弟子たちは手足のごとく動く。それがピタリピクリと当たるから、鎌倉市中の住民たちが、こぞってその話に耳を傾ける。
(まったく危険な坊主だ) 頼綱はしみじみとそう思う。特にかつての謀反を種に、脅しをかけていた江馬光時でさえ、今は次第に日蓮の教えに傾いていると開く。あれだけ世間を騒がせた四条頼基の処分も結局は行なえずに、許してしまっただけでなく、この頃では幕府へ出仕するときにも、選りすぐつた部下の中に加え、しかも自分の脇にピタリと従わせている。
(あの信頼ぶりは全く納得がいかない) 頼綱のような猫疑心の強い男にすれば、当然そう思う。
頼綱のもう一つの心配は、執権の北条時宗だった。日蓮が期待したように、「頼基陳状」は、北条時宗のところにも届いていた。時宗は丹念に読んだ。そしてかつて父の時頼の元に日蓮から出された「立正安国論」と引き比べて読んだ。時宗は、「書かれている事は全く同質のものだ」と感じた。つまり日蓮の主張は一貫している。しかし時宗の胸に響くものがあった。それは日蓮の主張の中には、私利私欲が全くないことである。日蓮が頭の中に置いているのは、すべて、「日本国」のことだ。こういう発想で、ものを語る宗教家が今までいただろうか。確かに、「民衆の救済」ということについては、どの宗旨も同じだ。しかし、日本という国家的規模で、自分の教えを説いた僧は一人もいない。日蓮は日本のことを心配している。それがわかると、時宗は次第にいたたまれなった。
蒙古襲来は日蓮に日本を救う良い機会
日蓮は考え込んだ。それは、日蓮の考えによれば、
・今度こそ、蒙古軍は日本を蹂躙するであろう。
・しかし、このことは日本の国内が乱れ、悪鬼どもが跳梁しているために、善神善仏が、日本を見限って、いずれかに去ってしまわれたことによる。
・したがって、蒙古軍は善神善仏の遣わすいわば神兵であって、日本を懲らしめにやって来たのだ。
・善神善仏の怒りが強ければ、おそらく神兵となった蒙古国軍によって、日本は相当な被害を受けるであろう。
・しかしその時こそ、日蓮が立ちあがって日本国民の先頭に立ち、一心不乱に「南無妙法蓮華経」と唱題すれば、善神善仏も再び日本に戻り、この国と国民は救われる。
・日蓮は、滅びんとする日本国を救う国僧である。
と考えていた。いってみれば、この国が被る危難を逆用して、「法華経の正しさ」を一挙に打ち出そうとしたのだ。
「そうすれば、あの頑迷な平頼綱をはじめ、その背後にいる執権北条時宗も心を入れ替えるであろう。少なくとも、自分が攻撃して来た禅・浄土・天台などの諸宗に帰依することをやめ、法華経こそこの国を守る唯一の宗教だと思うにちがいない」と思って来た。いってみれば、蒙古襲来は日蓮にとって、「日本国民を救う、よりよき機会」だったのである。その予測がはずれた。また大風が吹いた。敵国は、完全に覆滅し、生き残つた者はまとまって故国へ逃げ帰って行った。
(これは、一体何を物語るのだろうか) 日蓮は考えに考えた。やがて思い当たったのは、「善神善仏は、この日本から去ったのではない」ということであった。
「善神善仏は、地下に逃れられたのだ」という思いがした。そうなると再び、「地涌の菩薩」といわれる、上行菩薩の認識が再燃した。
 
日蓮1

 

(にちれん・貞応元年(1222)2月16日-弘安5年(1282)10月13日)鎌倉時代の仏教の僧。法華経の題目を重んじる諸宗派が宗祖とする。死後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

貞応元年(1222)2月16日安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町)の小湊で誕生。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠、母は梅菊とされている。日蓮は「本尊問答抄」で「海人が子なり」、「佐渡御勘気抄」に「海辺の施陀羅が子なり」、「善無畏三蔵抄」に「片海の石中の賎民が子なり」、「種種御振舞御書」に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べており、実際には漁民の下賤の出身であったと考えられる(ただし、誕生日は大石寺の記録にのみ存在する。他門もそれを引用している)。
天福元年(1233)清澄寺(せいちょうじ)の道善を師として、入門する。
暦仁元年(1238)出家し、「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
仁治元年(1240)比叡山へ遊学。また高野山でも勉学に勤しむ。その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐であり、法華経をないがしろにする当時の仏教界の矛盾を悟るに至った。そこで法華経勧持品に予証される末法出現の法華経の行者、上行菩薩の再誕との立場から、「南無妙法蓮華経」と唱えることを第一として弘教を始める。
建長5年(1253)清澄寺に帰山し、3月28日には内々に両親および浄顕房・義浄房に対して折伏を行い、内証の上の宣言を行い、4月28日朝、昇ってくる太陽をはじめ宇宙法界に向かって「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、この日の正午、清澄寺の持仏堂で初転法輪を行った。
建長6年(1254)清澄寺を退出し、鎌倉に出て弘教を開始する。このころ日蓮と名のる。辻説法で「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(「四箇格言」)などと他宗を不成仏の法として批判した。
正嘉元年(1257)鎌倉の大地震の悲劇を体験し、改めて実相寺で一切経を読誦・思索する。
文応元年(1260)7月16日立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。この書は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然の念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。
安国論が建白されて40日後、批判に恨みを持っていた他宗の僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。(「焼き討ち」というのは伝承の誤謬の可能性が高い。日蓮の記述には何処にも「焼き討ち」の言葉はない。「夜襲」または「襲撃」とするのが正しいと思われる。)
弘長元年(1261)幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ流罪となる(伊豆法難)。この地が後に蓮着寺となる。
文永元年(1264)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者であった地頭・東条景信に襲われ、左腕の骨折と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失う。(小松原法難)
文永5年(1268)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は北条時宗、平左衛門尉頼綱(いわゆる「平頼綱」あるいは「長崎頼綱」)、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
文永8年(1271)7月極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。9月良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、球電現象らしきことが起こり、太刀取や兵が恐れてしまい処刑は断念される。
(刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。)10月評定の結果佐渡へ流される。
流罪中の3年間に日蓮当身の大事という人本尊開顕の「開目抄」、法本尊開顕の「観心本尊抄」などを著述し、それまでの上行菩薩としての外用の振舞いを払い、久遠元初の自受用身としての本地を顕す。さらにこのころ末法の時代に即した法華曼荼羅を完成させた。この法華曼荼羅が、後世の人々に多大な影響を与えることとなる。
文永11年(1274)春に赦免となり、すぐに幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなうが幕府は聞く耳をもたなかった。その後、最も信頼される日興の弟子であり、身延の地頭、波木井実長(清和源氏・甲斐源氏武田流)の領地に入山。身延山を寄進され身延山久遠寺を建立した。
文永11年(1274)蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後であった。
弘安2年(1279)10月在家信徒・四条金吾への手紙「聖人御難事」の中で「清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に27年・弘安2年なり・仏は40余年・天台大師は30余年・伝教大師は20余年に出世の本懐を遂げ給う・其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし・余は27年なり・その間の大難は各々かつしろしめせり・云々」と記し、出世の本懐である「本門戒壇の大御本尊」を図顕した。(日蓮正宗のみの伝承)
弘安4年(1281)兵力を増した蒙古軍が再び襲来(弘安の役)。
弘安5年(1282)9月8日病をえて、地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸(ひたち)国へ湯治にいくため身延を下山。9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
弘安5年(1282)10月8日日蓮は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、6老僧と呼ばれるようになる。なお、日蓮正宗など富士門流では、日興のみを後継者に定めたとする(二箇相承)。
弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時ごろ)、池上宗仲邸にて61歳で入滅。死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられている。そのため、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える。
日蓮宗
鎌倉時代中期に日蓮によって興された仏教宗派。法華宗とも称する(ただし天台宗の別称を「法華宗」ということもある)。今日における狭義では、日蓮を宗祖とする諸宗派の最大宗派「宗教法人日蓮宗」を指し、総本山を身延山久遠寺(くおんじ)とし宗務院を池上本門寺(東京都大田区池上)に置く57総大本山の連合宗派で、「釈迦本仏論と一致派」「釈迦本仏論と勝劣派」「宗祖本仏論と勝劣派」など教義の異なる諸門流を包含する日蓮系諸宗派中の最大宗派。寺院数5,200ヶ寺、直系信徒330万人。
教義
釈迦の説いた仏法の極意が法華経にあるという中国の天台大師の教相判釈に基づき、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳「妙法蓮華経」を所依の経典とする。日蓮は、いかなる凡夫にも「仏性」が秘められており、「南無妙法蓮華経」(なむ・みょうほうれんげきょう)と題目(「南無妙法蓮華経」)を唱える「唱題」の行を行えば「仏性」が顕現するという思想を説いた。宗祖日蓮以降、本仏の位置付けや、所依の妙法蓮華経に対し勝劣の別を設けるかどうかなどの点から、思想面では大別して3つの分派が成立した。
本仏について / 遠實成本師釈迦牟尼仏を指す
一致派と勝劣派 / 所依の妙法蓮華経を構成する28品(28章)を前半の「迹門](しゃくもん)、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとするのが勝劣派、28品全体を一体のものとして扱うべきとするのが一致派。現在、日蓮宗を構成している祖山1(総本山)、霊蹟寺院14(大本山7、本山7)、由緒寺院42(本山42)については上記各門流を抱合している。
排他性
日蓮宗および日蓮系新宗教の重要な特質は、他宗派を誤りであるとして激しく排撃する点である。これは日蓮が「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」(四箇格言)と他宗を攻撃したことに端を発する。また、日蓮宗内部の各派や新宗教の間でもお互いに厳しく批判しあう傾向が強い。
歴史
明治維新直後の廃仏毀釈の後、明治政府は仏教各派に対し一宗一管長制を打ち出し、統一教団の結成を要求。日蓮系の諸門流は、1872年(明治5年)、日蓮宗を形成した。この日蓮宗は、明治7年(1874)教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に二分した。明治9年一致派は日蓮宗と改称、「釈尊を本仏とする一致派」(日向門流、日常門流など)の統一教団として再組織された。
昭和16年時局緊迫を理由に政府当局が教祖、宗祖や教義を同じくする諸宗教、諸宗派に統合を迫るという時勢の後押しを受け、「釈尊を本仏とする勝劣派」である顕本法華宗(日什門流)「日蓮を本仏とする勝劣派」である本門宗(日興門流)と、日蓮宗が、形式上、それぞれの宗派を解消して対等の立場で合併(三派合同)、中世期に成立していた門流の多くと、思想的潮流の相当部分を包含する新生日蓮宗が結成された。
第二次世界大戦終戦により「統合を強要する圧力」が消滅したりするのに伴い、旧顕本法華宗、旧本門宗に属する本山、末寺には日蓮宗より独立するものもあったが、旧顕本法華宗の改革派である本山妙國寺、本山本興寺、本山玄妙寺、本山妙立寺、や、旧本門宗の大本山重須本門寺、本山小泉久遠寺、本山柳瀬実成寺とそれらの末寺は引き続き、日蓮宗の内部で固有の教義を維持し続けている。
日蓮に対する天台教学の影響
仏性 / 「仏性」という用語は直接的には妙法蓮華経にはみえないが、これは仏性が初めて説かれる中期大乗経典の大般涅槃経を依経とする涅槃宗を中国天台宗が吸収したことによるものと考えられる。
法華経の位置付け / 法華経の位置付けは、中国天台宗の流れを汲む天台宗の宗祖最澄の開いた比叡山延暦寺での修行の影響とされる。
そもそも仏教は、開祖である釈迦の教えをその死後に弟子達が書き顕した膨大な量の経典に基づいており、一般には、それらを全て読破することは勿論、ましてや全ての意味を正確に理解することなどはきわめて困難である。中国では、さまざまな宗派が乱立していく中で、「一体どの仏典が仏教の一番肝心な教えなのか」という論点が仏教者の間で次第に唯一最大の関心事となっていったことは、ある意味、時代の必然であったと言える。
天台大師智(ちぎ)は長年にわたる経典研究の結果、法華経(サンスクリット語名「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(「正しい法"白き蓮の花"」の意)を、釈迦が70数歳にして到達した最高の教えであると結論付け、とりわけ鳩摩羅什(くまらじゅう)の手が入ったと言われる漢訳「妙法蓮華経」を最もすぐれた翻訳とした。
こうした天台大師智の思想の影響を受けて日蓮は法華経を最高の経典とした、という見方が一般的である。と同時に日蓮の心理的内面に即して言えば、何よりも彼は、法華経に書かれている行者の姿と自身の人生の軌跡が符合したことに最大の根拠を見出して、上行菩薩(本佛釈尊より弘通の委嘱を受けた本化地涌菩薩の上首)としての自覚を得るに至ったのである(上行応生)。
主要寺院
現在の日蓮宗宗制では寺院は祖山、霊蹟寺院、由緒寺院、一般寺院に分けられている。江戸時代の本末制度に始まる寺格は昭和16年の本末解体で消滅し実態はないが、日蓮宗宗制では総本山・大本山・本山の称号を用いることができると規定されている。祖山は日蓮の遺言に従い遺骨が埋葬された祖廟がある身延山久遠寺(日蓮棲神の霊山とされる)で、貫首を法主と称する。霊蹟寺院は日蓮一代の重要な事跡、由緒寺院は宗門史上顕著な沿革のある寺院で、住職(法律上の代表役員)を貫首と称する(中山法華経寺では伝主とされている)。祖山、霊蹟寺院、由緒寺院は「日蓮宗全国本山会」を組織している。総裁は身延山久遠寺内野日總法主(潮師法縁)、会長は妙厳山本覚寺永倉日侃貫首(潮師法縁)、事務局は現在臨時として小松原鏡忍寺に設置されている。
祖山 / 総本山身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ、通称身延山、山梨県南巨摩郡身延町)  
 
日蓮2

 

「法華経」こそ末法救済の唯一の経典
日蓮聖人は、1222(貞応元)年2月16日、安房国東条郷(現在の千葉県安房郡天津小湊町)でお生まれになり、「善日麿」(ぜんにちまろ)と命名されました。1233(天福元)年、日蓮聖人12歳のとき、生家近くの清澄寺(せいちょうじ)にのぼり道善房に師事、「薬王丸」(やくおうまる)と改名。16歳のとき正式に出家得度し、「是聖房蓮長」(ぜしょうぼうれんちょう)と号されました。若き日の日蓮聖人は、清澄寺にて本尊の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈願されて以来、鎌倉・比叡山・高野山などを遊学し、ひたすら勉学に励まれました。諸経・諸宗の教学を学んでゆく中で、「法華経」こそが末法の世のすべての人々を救うことのできる唯一の経典であることを確信されます。
そして、10有余年にわたる遊学を終えて恩師道善房の住する清澄寺に戻った日蓮聖人は、1253(建長5)年4月28日早朝、清澄山の旭森(あさひがもり)山頂に立ち、太平洋の彼方から暁闇をやぶってつきのぼる朝日に向かって高らかにお題目を唱え、ついに立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのです。このとき日蓮聖人32歳、同時に名を「日蓮」と改められました。
受難
しかし、これはまた日蓮聖人の生涯における受難の幕開けでもありました。日蓮聖人は、末法の世を救いうるのは「法華経」だけであるとし、他宗を強烈に批判されました。このため、他宗派の人々と激しく対立し、その結果「少々の難は数知れず、大難四箇度なり」と日蓮聖人が晩年の著書の中で自ら語られるように、その生涯は迫害と受難の連続でした。清澄寺で最初の説法を行った日蓮聖人でしたが、他宗の熱心な信者だった地頭東条景信の怒りをかい、あやうく捕らえられるところでした。しかし、鎌倉に難を逃れ、松葉谷(まつばがやつ)に草庵を構え、ここで法華経の弘通(ぐづう)を始めました。この頃から、世の中では天災地変が続出し、まさに末法の世の様相を呈していました。
とりわけ1256(建長8)年からの5年間には疫病・飢饉・暴風雨・大火災などの災害が相次ぎ、なかでも1257(正嘉元)年8月23日に鎌倉を襲った大地震では数万人もの死者が出たといわれ、路上に死体が散乱するなど阿鼻叫喚の地獄絵を見るようだったといいます。
末法と諫言
これらの災いは、誤った仏法が広まってしまったことによる天の諫めであることを直感された日蓮聖人は、経文によってそれを証明しようと駿河の国(現在の静岡県)の岩本実相寺(じっそうじ)の経蔵にこもり、一切経(いっさいきょう)を調べなおされました。そして2年後の1260(文応元)年7月、時の実力者、前執権北条時頼に、諫暁の書として「邪宗を信じるがために、このような災害がおこる。これを改めなければ、経典にあるように自界叛逆難(国内の戦乱)と他国侵逼難(外国の侵略)に見舞われる。他宗を捨て、正しい仏法である「法華経」に帰依すれば、全ての人が末法の世から救われる」ということを説いた「立正安国論」を献上されました。
しかし、この諫言は幕府に受け入れられることはなく、それどころか他宗の激しい怒りをかってしまい、同年8月27日には、松葉谷の草庵を焼き討ちされてしまいます。四大法難の最初である、この松葉谷法難を辛うじて逃れた日蓮聖人は、ひとまず下総の国(現在の千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)のところへ身を寄せますが、すぐに鎌倉に戻り、以前にも増して激しく他宗を破折(はしゃく)しつづけました。
度重なる法難
ところが日蓮聖人は、これをこころよく思わなかった幕府についに捕らえられ、1261(弘長元)年5月12日、伊豆の国(現在の静岡県)伊東へ流罪とされてしまいます。これが四大法難の二つ目、伊豆法難です。幸いにも川奈に住む漁師夫妻にかくまわれ命をつないだ日蓮聖人は、難病に苦しむ地頭伊東八郎左衛門をご祈祷によって全快させました。これにより伊東一門は法華経に帰依することとなり、日蓮聖人は流罪がとかれ鎌倉へ戻る1263(弘長3)年の2月まで、伊東氏の外護を受けながらの配所生活を送りました。
この地にとどまった約2年の間に日蓮聖人は「教機時国鈔」(きょうきじこくしょう)を著され、そのなかで、法華経こそが末法の世を救うための経典であることを「五義(五綱の教判)」によって論証されました。
鎌倉に戻った日蓮聖人は、翌1264(文永元)年、母の病気の回復を祈るため安房の国へと戻られました。病が小康を見たため日蓮聖人は再び安房の国での布教活動を開始しました。ところが同年11月11日の夕刻、壇越(だんのつ)の工藤吉隆の招きに応じ工藤邸に向かう途上、東条郷の松原大路(現在の千葉県鴨川市)にさしかかったところで、地頭東条景信の襲撃を受けます。もとより日蓮聖人をこころよく思わなかった景信は、自らの宗派を否定する日蓮聖人を一気に殺害しようと凶行にでたのです。この小松原法難で日蓮聖人は弟子の鏡忍房日暁と、急を聞いて駆けつけた工藤吉隆の二人を失います。
また、弟子の乗観房、長英房の二人も重傷を負い、日蓮聖人自身も眉間を斬られ、左腕を折られましたが、幸いにも一命をとりとめました。後に吉隆の遺子は出家して日蓮聖人の弟子となり長栄房日隆と号し、父吉隆と鏡忍房の菩提を弔うためにこの法難の地に妙隆山鏡忍寺を建立します。日隆は後年、土地の名前から山号を松原山、土地の名前を現在の小松原へと変更しました。
鎌倉での奇跡
それから4年後の1268(文永5)年の正月、日蓮聖人が8年前に「立正安国論」で予言したとおり、日本の服従を求める蒙古からの国書が届きました。これにより日蓮聖人は他宗批判をさらに激化させ、執権北条時宗に再び「立正安国論」を献上します。さらに幕府や他宗の代表11箇所に書状を送り、公場での討論を求めましたが、またもや黙殺されてしまいます。1271(文永8)年には、他宗の人々が日蓮聖人とその門下を幕府に訴え、幕府も迫りくる蒙古襲来の危機感とあいまって、日蓮聖人とその門下に徹底的な弾圧を加えます。同年9月12日、日蓮聖人はついに捕らえられ佐渡流罪となります。
しかし、これは表向きで、実は途中の龍口(たつのくち)において侍所所司平頼綱により密かに処刑されることになっていました。ところが、まさに首を切られようというその瞬間、奇跡が起きます。突如、対岸の江ノ島のほうから雷鳴が轟き、稲妻が走りました。これに頼綱らは恐れをなし、処刑は中止になったといわれています。
佐渡での決意
この龍口(りゅうこう)法難を奇跡的に逃れた日蓮聖人は同年10月、佐渡へと送られます。厳冬の佐渡で日蓮聖人にあてがわれたのは死人を捨てる塚原の三昧堂でしたが、ここは「上は板間あわず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし」と、後に日蓮聖人が「種々御振舞御書」に書き記すとおりのありさまでした。想像を絶する凍えや飢えと戦いながら日蓮聖人は「一期(いちご)の大事を記す」との決意で、「開目抄」の執筆を始め、翌1272(文永9)年2月にはこれを完成させます。
日蓮聖人の相次ぐ法難、迫害の連続であったこれまでの人生は、「法華経」の持経者は多くの災難に見舞われるという、お釈迦さまが「法華経」のなかでされた予言を実証するものにほかなりませんでした。日蓮聖人はこのことにより日蓮聖人自らこそ、お釈迦さまより「法華経」の弘通を直接委ねられた本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)であるという自覚を強めました。「開目抄」の中で日蓮聖人は「我、日本の柱とならん。
我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん。」という「三大誓願」を記されて、「詮ずるところは天も捨てたまえ、諸難にも遭え、身命を期せん」と、たとえ諸天のご加護がなくとも末法の日本を救うため「法華経」の弘通に一命をささげる決意をされています。
予言
この頃、北条家は執権の座をめぐっての内紛を起こしますが、これはまさに日蓮聖人が「立正安国論」のなかで自界叛逆難(国内の戦乱)として予言したとおりのことでした。日蓮聖人の予言的中によりその霊力に恐れをなした幕府は日蓮聖人に対する態度を一変させます。1273(文永10)年4月には、日蓮聖人は塚原の粗末な小屋から一谷(いちのさわ)の豪族である入道清久の屋敷へと移り住み、ここで「観心本尊抄」をお書きになります。日蓮聖人は、この「観心本尊抄」で、日蓮教学信仰の中核である「三大秘法」、すなわち「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を初めてお示しになりました。
日蓮聖人は「南無妙法蓮華経」というお題目こそ末法の正法で、このお題目を受持することによってお釈迦さまの救いに導き入られると説かれたのです。また、他宗でいうところの浄土ではなく、娑婆(しゃば)世界、つまり現実のこの世こそが「本門の本尊」、すなわちお釈迦さまがお住まいになる浄土であることも示されました。日蓮聖人は、3ヶ月後の7月8日、この本尊の原理にもとづいて、初めての大曼荼羅である「佐渡始顕の大曼荼羅本尊」を描き示されています。
身延山ご入山
佐渡流罪を許された日蓮聖人は1274(文永)年3月26日、いったん鎌倉へと戻りますが、同年5月17日には甲斐の国(現在の山梨県)波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の招きにより身延山へご入山されました。そして、同年6月17より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵にお住まいになり、以来足かけ9年の永きにわたりこの身延の山を一歩も出ることなく、法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始されました。
この間、波乱の人生を振り返りながら「時」を知ることの大切さを説いた「撰時抄」(1275年)や、亡き旧師道善房を偲んで「知恩報恩」の大切さを述べられた「報恩抄」(1276年)などを著述されています。1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその波瀾に満ちた61年の生涯を閉じられました。このとき地震が起こり、季節はずれの桜が咲いたといいます。
お題目を唱える
日蓮聖人は「観心本尊抄」のなかで「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」として、お題目を唱えることの重要さを説かれています。
「釈尊の因行果徳の二法」とは、お釈迦さまが長い時間をかけて行った修行と、その結果得られた徳のことをあらわします。「妙法蓮華経」という五字、すなわち「妙法五字」の中にこそ、お釈迦さまの功徳がすべて含まれているのです。そして「妙法五字」を「受持」すれば、自然とお釈迦さまの功徳をすべて譲り受けることができるのです。お釈迦さまの功徳をすべて受け取るということは、お釈迦さまと同体になるということですから「仏」になる、すなわち「成仏」できるということです。つまり「妙法蓮華経」の五字を「受持」する者は、この世にいながらにして成仏することができる、すなわち「即身成仏」できるわけです。
それでは「受持する」ということはどういうことでしょうか。日蓮聖人は「妙法五字」の受持は「身口意(しん・く・い)の三業(さんごう)」によって成されると説かれています。「身業(しんごう)」とは、「法華経」の教えを身をもって実践すること、「口業(くごう)」とはお題目を一心に唱えること、「意業(いごう)」とは「法華経」の教えを心から信ずることで、この三つの業が欠けることなく一つになってはじめて「妙法五字」の「受持」となるのです。
お題目にある「南無」とは、身命を投げ出して教えに従って生きるという決意を表します。ですから「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えるということは「妙法蓮華経」に帰依するということで、お題目を心から信じ、唱え、その教えを実践することによって、この世に存在するすべての人が、お釈迦様の功徳を自然と譲り受け「即身成仏」することができるのです。
法華経
「法華経」は、正しくは「妙法蓮華経」といいます。インドでお釈迦さまによって説かれた法華経は、西暦406年、中国の鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢文に訳されました。その後、日本に伝わった「妙法蓮華経」は、聖徳太子の著書「法華義疏(ほっけぎしょ)」のなかで仏教の根幹に置かれるなど、最も重要な経典として扱われます。そして鎌倉時代、日蓮聖人によって「妙法蓮華経」は末法救済のためにお釈迦さまによって留め置かれた根源の教えであると説かれました。
「法華経」は全部で28品(ほん)からなっています。この「品」とは章立てのことで、各品に「序品第一(じょほんだいいち)」「方便品第二(ほうべんぽんだいに)」というようにそれぞれの名前と順序が示されています。また「法華経」は思想上の区別から「迹門(しゃくもん)」と「本門(ほんもん)」の二つにに大きく分けられます。さらにそれぞれが「序分(じょぶん)」「正宗分(しょうしゅうぶん)」「流通分(るづうぶん)」の三段に分けて解釈されるため、これを「二門六段」といいます。
「迹門」は序品第一から安楽行品(あんらくぎょうほん)第14までの前半の14品で、「開三顕一(かいさんけんいつ)」などが説かれています。「開三顕一」とは「声聞(しょうもん)」「縁覚(えんがく)」であっても「菩薩(ぼさつ)」と同様に成仏できるという教えです。「声聞」と「縁覚」の修行者は、自分自身の悟りの世界のみを追求するために成仏することが許されませんでした。対して「菩薩」は自らの修養のみならず他人に対しても教えを説き、功徳を与えようとする求道者のことです。
お釈迦さまが法華経以前の経典において、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という三つの異なった修行のありかたを示されたことや、説法を受ける人の能力にあわせてさまざまな教えを説いてきたことは、実はすべてが一つの教えに帰結することに導くためであったことが、この「迹門」のなかの「方便品第二」を中心として明かされます。そして、この一つの教えが「一仏乗(いちぶつじょう)」の教えであり、声聞・縁覚、善人・悪人、男性・女性などという別を超え、すべての人々が救済され、成仏できるという教えなのです。
「本門」は従地湧出品(じゅうじゆじゅっぽん)第15から普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第28までの後半の14品で、「開近顕遠(かいごんけんのん)」などが説かれています。「開近顕遠」とは、お釈迦さまは、歴史上実在し菩提樹の下で悟りを開いた人物、というだけではなく、実は「久遠実成(くおんじつじょう)」の仏、つまり五百億塵点劫という久遠の過去に悟りを開き、永遠の過去から永遠の未来まで人々を救済しつづけている「本仏(ほんぶつ)」である、という教えです。お釈迦さまが永遠の存在であるということは、諸経で説かれる諸仏はお釈迦さまの分身であるということになります。
したがってお釈迦さまこそ唯一絶対の仏、すなわち「本仏」である、ということがこの「本門」のなかの「如来寿量品第16」を中心として明かされます。
「法華経」は、この「二門六段」という分け方のほかに「二処三会(にしょさんね)」という分け方をすることもあります。お釈迦さまは、古代インドのマガダ国の首都、王舎城の東北にそびえる「霊鷲山(りょうじゅせん)」という山で「法華経」を説かれました。「序品第一」から「法師品(ほっしほん)第10」までは、この「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「前霊山会(ぜんりょうぜんえ)」とします。つづく「見宝塔品(けんほうとうほん)第11」から「嘱累品(ぞくるいほん)第22」は、地上から虚空(こくう)へと場面が移り、ここで「法華経」が説かれるので「虚空会(こくうえ)」とします。
「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第23」から「普賢菩薩勧発品第28」までは、ふたたび地上にもどり「霊鷲山」において「法華経」が説かれる場面なので「後霊山会(ごりょうぜんえ)」とします。この二つの場所と三つの場面を「二処三会」といいます。
なかでも「虚空会」は特に重要な場面で、お釈迦さまは空中にあらわれた「七宝の塔」の中に入り東方宝浄世界の仏である「多宝如来(たほうにょらい)」とともに座して「妙法蓮華経」の中心的な教えを説かれます。「虚空会」では、「勧持品(かんじほん)第13」において「妙法蓮華経」弘通の困難の予言、「従地湧出品第15」において「本化菩薩(ほんげぼさつ)」の湧出、「如来寿量品第16」においてお釈迦さまの「久遠実成」の顕示、「如来神力品(にょらいじんりきほん)第21」において「本化菩薩」への「妙法蓮華経」弘通の付嘱(ふぞく)、などが説かれています。
「妙法蓮華経」は、単なる経典の名前ではなく、お釈迦さまの教えが最終的に帰結した大法であり、「妙法蓮華経」の妙法五字の中にこそ、お釈迦さまの功徳のすべてが含まれています。したがって「南無妙法蓮華経」というお題目を唱え「妙法蓮華経」に帰依することによって、すべての人々の「即身成仏」が約束されるのです。  
久遠寺縁起
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、3度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、文永11年(1274)5月17日身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、弘安4年(1281)11月24日旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山久遠寺」と命名されました。
翌弘安5年(1282)9月8日日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。
その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である6老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、約200年後の文明7年(1475)第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は綿々と絶えることなく、廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます。
日蓮正宗
日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派の1つ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、本迹勝劣などを教義とする富士門流(日興門流)に分類され、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、下条妙蓮寺(本山)の二本山が所属する、富士門流中の有力宗派である。宗祖の入滅後、6弟子の1人であった日興が7年間、久遠寺に居住した後、初発心の弟子地頭波木井実長が背いたことによって身延を離山、地頭南条時光の招きにより総本山大石寺(たいせきじ)を建てて「御開山」すなわち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけた。
日興は大石寺を日目にまかせ、晩年は地頭石川氏の招きにより重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を譲ったのち、師弟の教育・指導にあたり、ここで没した。日蓮正宗と正式に名乗るのは明治最初の頃で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し日蓮宗興門派・日蓮本門宗という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。
日蓮本門宗時代は管長は八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末の独立が公許されこれより独立し、明治33年日蓮宗富士派と公称し、明治45年日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合いからであろうか少なくとも江戸時代中期には自宗派を正宗と呼ぶことがあったことが、金沢郷土史の文献(「正宗の題目」とある)から分かる。
  
日蓮3

 

日蓮は、鎌倉新仏教の開祖たちよりもはるかに個性的だ。法然の開いた宗派は浄土宗というが、決して「法然宗」とは言わない。同じく道元の開いた宗派は曹洞宗ですが、これを「道元宗」とは決してよ ばない。日蓮が開いた宗派は法華宗とよばれることもあるが、ふつうは日蓮宗と呼ぶ。
開祖の名がそのまま宗派名になっているのは、日蓮宗だけだ。だから日蓮は、法然・親鸞・一遍・栄西・道元と比べると、はるかに個性的な仏教者と言える。
日蓮の出家
日蓮は1222年、安房国に生まれた。日蓮の出身階層については、「武士の子である」「荘官の子である」など諸説あるが、日蓮自身は「海人(あま)の子である」と言っている。
12歳のときに地元の清澄山(きよすみやま)清澄寺(せいちょうじ)に入り、16歳で正式に出家して僧となった。ちなみに清澄寺は当時は天台宗である。
日蓮は、自ら進んで仏門の道に入ったようだ。出家に際して、「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の宝前(ほうぜん)に日本第一の智者(ちしゃ)となし給え」と願をかけたと言う。この虚空蔵菩薩に願をかけたというエピソードは、日蓮本人が語っていることだが、まだ少年の身で、「日本第一の智者」を目指したというのは、やはり個性的である。
日蓮の疑問
17歳となった日蓮は清澄山を下り、鎌倉・京・比叡山延暦寺・三井寺・高野山金剛峰寺・四天王寺と、多くの寺をまわって修行を積み、仏法の修行に励んだ。 この時代の日蓮が何を考えていたのか、後の彼の行動や著作などから想像するしかないのが、日蓮の問題意識は「なぜ日本は平和な国にならないのか」という点にあったのではないかと思われる 。
日蓮にしてみれば、「仏を信じる者は救われ、仏を護持する国は平穏になるはずだ。しかし、現実はそうではない。いったいなぜなのか」という疑問があったのだ。
日蓮は、その理由を「現在行われている、人々が信じている仏教が、あやまった教えであるからではないのか。」と考えた。
世の中に勢力争いや内乱が起こったり、天災に襲われたりするのは、政治的な自然的な理由からなのだが、日蓮はそれを宗教的な理由、つまり「あやまった仏教」に原因があると考えた。「正しい仏教の教え」とは何なのか、それを見つけるために日蓮は各地の寺をめぐって修行に励んだのだろう。
各地の寺をまわって修行を積んだ日蓮は、最後に比叡山へもどり、ここでついに「正しい教え」とは何であるのか確信を得た。
自分の思想を確立した日蓮は、1253年に故郷の清澄山に戻り、伝説によれば、清澄山から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と10回唱えたという(32歳)。
また、父と母をみずからの弟子とし、父に妙日、母に妙蓮という法号を授け、自分は二人の法号から1字ずつもらって、日蓮と改名したという伝説もある。実は日蓮はこのときまでは蓮長(れんちょう)と名のっていた。
日蓮の教えと法華経
日蓮が「発見」した「正しい仏教の教え」とは何だったか、それは「妙法蓮華経」というお経だった。長いので普通は「法華経」と略して呼ぶ。
親鸞が念仏を、道元が禅を選択したように、日蓮は多数の仏教経典の中から法華経を選択し、法華経のみが正しく、他はあやまった教えであると主張した。
日蓮が唯一正しいとした法華経とはどのような教えを説いた教えなのか。
法華経ではまず「釈迦が今まで説いたことのない最高の教えを説くらしい」というエピソードが延々と語られる。
そして釈迦の弟子たちが「その最高の教えを説いて下さい。」と釈迦に請い願う場面になる。
しかし釈迦は「やめておこう。この教えを説いても、人はただ驚き、疑うだけだから。」と言って、弟子たちの願いをしりぞける。
弟子たちは、「どうかその教えを説いて下さい。」と再び釈迦に懇願する。そしてとうとう釈迦は弟子たちに「最高の教え」を説くが、それはなんと、「人はみな仏になれる」ということだったんである。
ではどうすれば人は仏になれるのか、この問いに対して釈迦は「それは仏にならないと理解できないことである」と答える。
「なんだぁ」と皆さん思うのですが、大まかに言うと法華経の内容はこのようなものだ。
どうすればよいのか、日蓮の出した結論は、法華経を絶対に正しいものとして信じること、さらにそれをできるだけ多くの人に広めることである、というものだった。
そのためにはどうするのか、日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えることを勧めた。
「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、「南無阿弥陀仏」と唱えるのと似ている。しかし、その唱える意味はまったくちがう。「南無阿弥陀仏」は念仏であり、阿弥陀如来への絶対的な帰依を意味することばである。
しかし「南無妙法蓮華経」は念仏に対し、題目とよばれている。
題目とは、文字の通り「タイトル」の意味である。
「南無」というのは「帰依する」という意味で、「南無妙法蓮華経」は「妙法蓮華経(法華経)に帰依します。」という意味になる。
日蓮は、「釈迦の修行の成果とそれによって得られたさとりは、すべて「妙法蓮華経」の五字に集約されている」と言う。日蓮独特の考え方で、それまでの仏教にはない。
四箇格言
日蓮は「日本はどうして安らかな国になっていないのか」と疑問を持ち、「それは仏教の正しい教えが信仰されていないからだ」と結論づけ、「正しい仏教の教えは法華経のみで、他の教えはすべてまちがっている」と主張した。
法華経のみが正しく、他はすべて誤りであるという信念を持った日蓮は、法華経を広めるとともに、他宗をはげしく攻撃した。
「念仏無間(ねんぶつむけん)、禅天摩(ぜんてんま)、真言亡国(しんごんぼうこく)、律国賊(こくぞく)」。
これは日蓮が他宗を攻撃するときに口にした言葉で、四箇格言(しかかくげん)とよばれている。意味は、「念仏を唱えることは無間地獄に落ちる行為である。」「禅は天摩のふるまいだ。」「真言宗は亡国への行いである。」「律宗を信じる者は国賊である。」となる。
言われる方はたまったものではなく、「南無妙法蓮華経と唱えることがどうして釈迦の功徳を得ることになるんだ。」と逆に日蓮を攻撃した。
実は、日蓮の主張に根拠はないのだ。法華経には「南無妙法蓮華経と唱えれば釈迦の功徳を得られる」などということは述べられていない。ここが、阿弥陀信仰との大きなちがいである。
阿弥陀如来は経典の中で、「10回念仏する者は極楽浄土に生まれかわらせる。」と約束しており、こちらの主張には根拠がある。
立正安国論
1254年、日蓮は鎌倉に出て、自分の教えをを広げるとともに、四箇格言により、他宗をはげしく攻撃した。
1257年から1260年にかけ、地震・暴風・洪水・疫病・飢饉などが立て続けに起こり、死者も多く出た。
日蓮は、これらの「わざわい」の原因が、正しい教えである法華経に帰依せず、念仏や禅を人々が信じているからだと考えていた。
自分のこの考えを世間に納得させるには、経典から根拠を示す必要があった。
法華経に、「法華経を信じなければ、わざわいが起こる。」というような内容があれば問題がなかったが、そのようなものはない。日蓮は、他の経典にその根拠を求めるべく、駿河国の実相寺(じっそうじ)へ赴き、その経蔵に3年間こもったという。
実相寺には一切経があった(一切経は大蔵経ともよばれ、すべての仏教の経典をさし)。
日蓮は、ついに金光明経(こんこうみょうきょう)・大集経(だいじつきょう)・薬師経(やくしきょう)などに、自分の主張と合致する内容を発見した。
これらの経典を論拠に、日蓮は「立正安国論」を書上げ、5代執権北条時頼に提出した(1260年)。
当時の時頼は、執権の職をしりぞき、最明寺入道とよばれていたが、依然として幕府の最高権力者だった。
「立正安国論」は宿屋における旅人と宿の主人との問答の形をとっているが、その主張は、地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が起こる原因は、法然の浄土教を人々が信じ、正しい教えである法華経に帰依していないからだ、というものだった。
前述の経典の内容を根拠として、正しい教えである法華経に人々が帰依しなければ、自界叛逆難(じかいはんぎゃくなん)、他国侵逼難(たこくしんぴつなん)などの災いが起こるとも述べ、幕府は法然の教えを直ちに禁止すべきだと主張した。「立正安国論」をどうやら時頼は黙殺したようだ。しかし、名指しで非難された浄土宗の信者たちは収まらなかった。
四大法難
「立正安国論」の内容を知った浄土宗信者たちは日蓮と問答したが、決着はつかなかった。そこで浄土宗の信者たちは日蓮の住む庵を襲撃し、日蓮を実力で排除しようとした。
日蓮は弟子たちに守られ、何とか命は助かったものの、庵は焼けてしまった。その後、日蓮は下総国の中山という土地にあった信者の家にかくまわれ、しばらくしてまた鎌倉にもどった。
鎌倉にもどった日蓮は、再び町に出て、はげしく他宗を批判し、法華経の教えを広めようと人々に教えを説き始めた(辻説法と言う)。
浄土宗側は、日蓮を御成敗式目第十二条違反であるとして幕府に訴えた。
御成敗式目第十二条は「悪口を言ってはならない。これを犯すものは流罪に処する。」という内容である。
幕府は日蓮を捕らえ、伊豆へ流罪とした(1261年)。
1263年、日蓮はその罪を許された。日蓮は母のいる故郷の安房へ戻ったが、ここでまたしてもひどい目にあった。領主の東条景信は熱心な念仏信者で、日蓮をにくみ、襲撃して殺そうとした。
日蓮はこの3回目の法難も何とか逃れることができた。しかし、このとき二人の弟子がその命を失い、日蓮自身も頭に刀傷を受けたという。
普通の人であれば、自分の信じる教えを広めようとして、こうもたびたび法難にあえば、信念が少しは揺るぎそうなものだが、日蓮にそういった点は全く見られなかった。
というのも、法華経には「この経を広めようとする者は、この経を理解しようとしない者に刀で斬られ、杖で打たれるだろう。」という予言があるからだ。
法華経を唯一正しいと信じる日蓮にとって、広めようとする自分が法難にあうのは、法華経の内容が正しいからだと確信を深めるようになっていった。
1268年、日蓮の確信を深める出来事がおこった。この年、フビライから服属を求める国書が届けられたのだ。
日蓮にしてみると、自分が幕府に提出した「立正安国論」で予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が現実のものとなったわけだ。自信を深めた日蓮は、幕府に対し「立正安国論」を再び提出するとともに、他宗に対し、さらにはげしい攻撃を加えた。
1271年、日蓮は再び捕らえられ、前回と同じ御成敗式目第十二条違反で、佐渡へ流罪となった。
佐渡への流罪は表向きで、実際は幕府の刑場である龍口で首をはねられるところだった。しかし、伝説によればこのとき「光るもの」が現れ、日蓮の首をはねようとした武士の刀を折ったので、幕府はあわてて処刑を中止したと言われてい。こうして日蓮は4回目の法難にあい、佐渡へと流された。
日蓮の死
日蓮は佐渡で3年の歳月を過ごした後、1274年の春に許されて鎌倉へもどった。日蓮は幕府によび出され、日蓮の予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)、つまり元の来襲についての見通しをたずねられたという。「法華経を立てなければ国が滅ぶ」と主張したが、幕府はこの日蓮の3度目の進言もしりぞけた。
日蓮は鎌倉を去り、信者であった波木井(はきい)氏の招きで甲斐国の身延山に移り住んだ。
身延山で日蓮は弟子の育成に努めていたが、健康を害して山をおり、病身を養おうと常陸国の温泉へ向かった。その途中の武蔵国池上の信者の館で亡くなった(61歳・1282年)。
遺体は火葬され、遺言によって身延山に葬られた。その場所は現在、身延山久遠寺となっている。
日蓮は死に際して、六人の高弟を定めたが、この六人が月番制で身延山の墓所を守ることになったそうだ。 
 
日蓮4

 

貞応元年-弘安5年(1222-1282)
天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗…平安期、鎌倉期には様々な宗教が開かれたが、その中で日蓮宗だけが始祖の個人名が付いた宗教だ。といっても、日蓮自身がそう呼んだのではなく、弟子達が親しみを込めてこう呼び始めた。それほどズバ抜けて個性が強かったということ。一体どんな人だったのか。
千葉・小湊の漁師の家に生まれる。幼名薬王丸。親鸞と道元が貴族、法然が武士、栄西が神官階級出身ということを考えると、庶民出身というのは異例かも。世代的には法然の約90歳下、親鸞の約50歳下になる。1233年、11歳で清澄(せいちょう)寺に入り15歳で出家(1237年)。始めは鎌倉で学び、続いて比叡山、奈良、高野山、東寺、三井寺などで15年かけて各宗の経文を研究し、「釈迦が世に現れたのは法華経を伝える為、末法の世は法華経でなければ救えない」と悟りを開いた。
1253年、31歳で帰郷。4月28日に清澄山頂で、太平洋の日の出に向かって「南無妙法蓮華経(法華経に帰依します)」の題目を高らかに唱え、これが日蓮宗開宗の瞬間とされる。当時関東では禅宗が鎌倉幕府の保護で繁栄し、浄土宗も法然の開祖から約80年が経ち、弟子達の布教努力のおかげでかなり庶民の間に浸透していた。日蓮は山を降りると法華経第一の立場から、「禅天魔、律国賊、真言亡国、浄土念仏無間地獄」(禅宗信者は天魔、律宗信者は国賊、真言宗徒は亡国の徒で、浄土宗信者は地獄に堕ちるだろう)と苛烈に批判を展開。当然ながら他宗の信者は猛反発。特に、地獄堕ちを告げられた浄土宗(念仏宗)信者の怒りは激烈で、日蓮は故郷から追い出され鎌倉に身を移した。
鎌倉で日蓮がとった行動は、町中に立って人々に直接語りかける“辻説法”。他宗教を邪教と呼ぶ過激さは反感を買い人々から罵倒されたが、「南無妙法蓮華経」の題目と共に説かれる功徳に、耳を傾ける者も出てきた。おりしも1257年(35歳)に鎌倉を大地震が襲い、翌年には疫病が発生、飢饉まで重なって大量に餓死者が出た。日蓮はこうした天変地異を、幕府の為政者が邪宗を信仰するが故の国家単位の仏罰と捉え、1260年(38歳)、「立正安国論」を著して執権北条時頼に献上した。そこには禅宗や浄土宗を禁教にせねば内憂外患(国内に憂い生まれ国外より患い来る事)は避けられず、法華経を信じねば日本は滅ぶと書かれていた。しかし日蓮はまだ無名であり時頼はこれを黙殺。一方、日蓮に敵意を抱く念仏宗徒たちは彼の庵を焼き討ちし、世論に圧された幕府は翌年日蓮を逮捕、取り調べもせず伊豆(伊東)へ流した。※今の伊東は温泉のある景勝地だけど当時は世間から隔離されていた。
配流が許されたのは3年後。1264年(42歳)、これより7年前に父が没しており、墓参と病の母を見舞う為に約10年ぶりに故郷に戻ったが、「日蓮は阿弥陀仏の敵」と怨む念仏宗徒数百人の襲撃を受ける。日蓮を守った弟子と友人は殺され、彼自身も左腕を骨折した(小松原の法難)。
4年後の1268年、蒙古から幕府にフビライへの従順を迫る国書が届く。日蓮は「立正安国論」の懸念が当たったと再び幕府に進言し、他宗の代表的寺院11箇所に公開討論を申込むが、これらは全て黙殺され憤激頂点に達する。他宗への批判は輪をかけて激化し、極刑を覚悟した辻説法にも熱が入る。
3年後の1271年(49歳)、幕府に3度目の進言をしたところ、他宗からの告訴も重なってまた捕らわれ、表向きは「佐渡へ流刑」、実際はその途中で斬首という判決になった(龍口の法難)。いよいよ刑執行という時、対岸の江ノ島に激しく稲妻が走り、頭上で巨大な雷鳴が轟いたことから役人が恐れをなし処刑は中止。間一髪で佐渡への遠流となった。
この時の日蓮宗への弾圧は厳しいもので、弟子、信徒、そして話を少し聴いただけの一般人まで捕らえられ、謀反者として重刑に科せられた。
厳冬の島では飢えと寒さに苦しむが、“釈迦は真実(法華経)を語る者は迫害にあうと言われた。この法難こそ正しき道を行く証だ”と、ますます自説に自信を持ち、著作活動に励んで「開目抄」「観心本尊抄」等の代表作を記した。
「観心本尊抄」では信仰の中核となる三大秘法(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)を示し、“現実世界こそが釈迦の住む浄土”であり、人は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることで“生きながら救われる”とした。
1274年(52歳)、北条家は次の執権を争う内紛状態になり、外からは元軍の襲来が目前に迫り、まさに内憂外患そのものの状況になった。ここにきて幕府の態度は一変し、日蓮の流刑を解いて鎌倉に呼び戻す。幕府は根負けした形で「国家の安泰のみ祈る」との条件付で布教を許した。漁師の子に生まれた貧僧・日蓮が、時の政権に認められたのだ。社会的な不安もあり日蓮宗は門徒を増やし、信者によって妙本寺が創建された。しかし、いくら日蓮が「法華経のみを信ぜよ」と言っても幕府は聞く耳を持たぬので、ほどなく鎌倉を去って山梨の山間へ分け入り、身延山(みのぶさん)に隠棲し「報恩抄」を書くなど、弟子の育成に残りの人生を捧げた。
1282年、病に冒された日蓮は湯治にいく途中で容態が悪化し、後事を弟子の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に頼み武蔵池上にて60歳で他界した。遺骨は希望に従い身延山へ納骨された。
その後、弟子たちは協力して布教に励み順調に信徒を増やしたが、七回忌の際に六老僧の間に内部分裂が起きる。(このあたりの事情は各宗派によって主張が全く異なるので結果だけを書く)まず日興が駿河に大石寺や本門寺を建て最初の分派となり、続けて日朗の弟子日像が京都に妙顕寺を建て、さらに鎌倉・妙本寺、中山・法華経寺、池上・本門寺、身延山・久遠寺などに弟子が別れ、以降、分派ごとに発展することとなった。
日蓮宗では「他宗の信者の布施供養を受けず、また他宗の僧に供養してはならない」とする不受不施(ふじゅふせ)を説く僧も多く、近代では神道を拒絶するなど、異端として権力側からしばしば弾圧された。 現在は身延山久遠寺を総本山とした日蓮宗を筆頭に、日蓮正宗(大石寺)、本門宗、法華宗、本門法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派、本門仏立宗などがあり、新宗教として、創価学会、立正佼成会、霊友会など多数の信者団体が存在している。
日蓮の他宗教に対する態度は確かに厳しかった。「選時抄」を読むと、ここには書けないような過激な言葉もある。これを「不寛容」と見るか、「純粋」と見るか。仮に「不寛容」だとしても、それは短所ではあるが偽善でないことだけは確かだ。「たとえ命を捨てても法華経は捨てない」とまで言い切る背景には、既成の宗派では末法の世を現に救済できてないという、怒りにも似た焦燥感があったのだろう。権力闘争に明け暮れる旧仏教界の要人や、多くの真面目な念仏行者の中にいる一部の不届き者(念仏をただの極楽行きの切符としか思っていない)が、どうしても許せなかった。真剣に世を憂いていた。2度にわたる流刑を生き延びたのは、門徒たちの命がけの差し入れがあったことが分かっている。佐渡の場合、鎌倉から片道15日もかかる道のりを、何度も弟子がやって来ている。もし日蓮が他宗を批判するだけで保身に勤しむ狭い男であれば、だれがそこまでして面会に行くだろう。弟子に宛てた優しい文面の手紙も多く残っている。これぞまさに人望の賜物ではないか。
阿弥陀仏による死後の救済(極楽浄土)を法然が説いたことに対して、日蓮は釈迦の教え(法華経)が自身の内にある仏性を目覚めさせ幸福にすると説いた。念仏や禅が個人の為の宗教であるのに対し、個人を超えて社会や国家全体の救済を主張しているのも日蓮宗の代表的な特徴だ。ただし、これら国家の救済はあくまでも非暴力、不殺生であらねばならぬとした。
「冬は必ず春となる」(日蓮)
 
立正安国論

 

[第一問]
旅客来りて嘆きて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路(みち)に充てり。死を招くの輩(ともがら)、既に大半に超え、之を悲しまざる族(やから)、敢へて一人も無し。然る間、或いは「利剣即是」の文を専らにして、西土教主の名を唱へ、或いは「衆病悉除」の願を恃みて(持ちて)、東方如来の経を誦し、或いは「病即消滅、不老不死」の詞を仰ぎて、法華真実の妙文を崇め、或いは「七難即滅、七福即生」の句を信じて、百座百講の儀を調へ、有るいは秘密真言の教に因りて、五瓶の水を灑ぎ、有るいは坐禅入定の儀を全うして、空感の月を澄まし、若しくは七鬼神の号を書して、千門に押し、若しくは五大力の形を図して万戸(ばんこ)に懸け、若しくは天神地祇を拝して、四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀れみて、国主国宰の徳政を行ふ。然りと雖も、唯肝膽を摧(くだ)くのみにして、弥(いよいよ)飢疫に逼(せま)り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。屍(かばね)を臥せて観(ものみ)と為し、尸(しかばね)を並べて橋と作す。観(おもんみ)れば夫れ、二離璧(たま)を合はせ、五緯珠(たま)を連ぬ。三宝世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃(すた)れたるや。是れ何なる禍(わざわい)に依り、是れ何なる誤りに由るや。
[第一答]
主人の曰く、独り此の事を愁へて、胸臆(くおく)に憤悱(ふんび)す。客来りて共に嘆く、屡(しばしば)談話を致さん。夫れ出家して道に入る者は、法に依りて仏を期する也。而るに今、神術も協(かな) わず、仏威も験(しるし)無し。具に当世の体を覿(み)るに、愚(おろか)にして後生の疑を発す。然れば則ち、円覆を仰ぎて恨を呑み、方載に俯して慮(おもんばかり)を深くす。倩(つらつら)微管を傾け、聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背き、人悉く悪に帰す。故に、善神は国を捨てて相ひ去り、聖人は所を辞して還らず。是を以て、魔来り鬼来り、災起り難起る。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず。 
利剣即是の文=中国浄土宗の祖・善導の著『般舟讃』中の語。なかで、三千仏名経の「罪の縄は心を縛って九百劫を経るとも解け難く脱し難し。唯仏名猛利の剣に在るのみ」の文をとって、煩悩・業・苦を断ち切る利剣は西方安養浄土の弥陀の名号を称えることであると説いた文をさす。
西土教主=阿弥陀如来のこと。阿弥陀経など浄土三部経で、阿弥陀は西方十万億土の教主であると説くので、西土教主とよんだ。その国土を極楽、安養、安楽世界ともいう。浄土宗の開祖たちは、この世すなわち娑婆世界は穢土であるから幸福は西方極楽浄土へ往生する以外にないといい、念仏を称えて死ねば阿弥陀が観音、勢至の二菩薩を従えてその人を迎えに来て、極楽へ往生させてくれると説いた。これは、法華経で「我常在此・娑婆世界・説法教化」(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)と説いた釈尊の教えに反する思想である。また、現実への諦めと無気力化の教えとならざるをえない。開祖の善導自身が深く娑婆世界を厭い、柳の枝から自殺をはかったという。
衆病悉除の願=天台宗の祈祷。本願薬師経の第七願に「願わくは我来世に菩提を得ん時、もし、もろもろの有情、衆病逼切にして救い無く帰する所無く、医無く薬無く、親無く家無く、貧窮多からんに、我が名号ひとたび其の耳に経んに、衆病悉く除き、身心安楽ならん」とあるのをいう。すなわち、薬師如来が立てた十二願の一つで、薬師如来の名号を聞けば衆病ことごとく除くというもの。
東方如来=薬師如来のこと。その国土が東方浄瑠璃世界であるので、こうよぶ。
病即消滅、不老不死の詞=法華経薬王菩薩本事品第二十三の「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅し不老不死ならん」との文によって、天台法華宗の者は病魔の退散を祈った。この文の「此の経」とは、すぐ前に「我が滅度の後、後の五百歳(末法)の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得せしむること無かれ」とあるように、末法出現の大白法をさしている。
法華真実の妙文を崇め=天台宗でも法華経を真実とし、これを崇めるが、天台流の仏法では災難を対治し、成仏得道できる法ではない。すでにこの立正安国論において、天台法華宗を真実の民衆救済の法にあらずと示されている。
七難即滅、七福即生の句=仁王般若経受持品に「般若波羅蜜を講讃すれば、七難即ち滅し七福即ち生じ、万姓安楽にして帝王歓喜す」とあるのによった天台宗の祈祷。七難とは、経によって若干相違があるが、仁王経では一、日月失度の難、二、星宿失度の難、三、諸火梵焼の難、四、時節返逆の難(水難)、五、大風数起の難、六、天地亢陽の難、七、四方賊来の難をいう。七福とは、一説には七難が滅することを七福とする。また、一、悪竜鬼を鎮める徳、二、人の所求を遂げる徳、三、輪王意殊の徳、四、竜甘雨を降らす徳、五、光天地を照らす徳、六、能く一切諸々の仏法等を出生する徳、七、能く一切の国王無上の法等を出生する徳を七福とする説もある。
百座百講の儀=仁王般若経護国品に国難鎮圧の法を説いて「大王、昔日王あり。釈提桓因という。頂生王来たりて、天に上り、その国を滅さんと欲す。時に帝釈天王、即ち七仏の法用のごとく百の高座を敷き、百の法師を請じて般若を講ぜしかば、頂生王即ち退きぬ」とある。これによって、天台大師が隋の文帝の勅を奉じ、仁王講を開いたのが最初とされる。わが国では斉明天皇の六年(六六〇年)に、百の高座、百の衲袈裟を造り、仁王会を修したのが最初。以後、この儀式は鎮護国家、天下泰平の祈願のため、宮中の大極殿、紫宸殿、清涼殿などで行われた。一代一度の大仁王会、特別の場合に行う臨時の仁王会と、毎年春秋二季の仁王会の三種がある。一代一度の大会が制度化されたのは清和天皇以後。春秋二季仁王会は、大同元年(八〇六年)十五大寺および諸国国分寺で毎年恒例に行われることになり、のち平安時代中期から制度化したといわれる。臨時の仁王会は、桓武天皇が延暦十三年(七九四年)新宮に百法師を請じて修したのが初めとみられる。その後、大同三年(八〇八年)には疾疫流行のため修された。ここにいうのは、疾疫対治の臨時の仁王会のことである。なお、仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持してこの道を行ずれば、万民安楽、国土安穏になると説いた経で、古来、法華経、金光明経等とともに、護国の経典として尊崇された。
秘密真言の教=真言宗の教え。秘密とは、真言宗では顕密の二義を立て、法華経等を劣れる顕教とし、真言三部経を優れたる秘密教としたのである。
五瓶の水=真言宗で災を払うために行う修法の一種。壇の上に白・青・赤・黄・黒の五瓶を置き、それぞれに金・銀・瑠璃・真珠・水晶の五宝、米・麦・粟・黍・豆の五穀、人参・茯苓・赤箭・石菖蒲・天門冬の五薬、沈香・白檀・丁子・鬱金・薫陸の五香を入れ、これに水をそそぎ、花をさして行う。
坐禅入定の儀=禅宗の修行。坐禅は、禅、禅那からきたもので、禅那とは梵語、訳して静慮という。端坐して沈思黙念することにより、無心の境にはいり、心性を究明しようとする。禅そのものは、日本へも早くから伝えられていたが、禅宗は、鎌倉時代に栄西、道元らによって弘められた。とくに、北条時頼は禅に心を寄せ、宝治元年(一二四七年)、道元が鎌倉を訪れたときに受戒したほか、文応元年に中国から南宋の兀菴普寧がきたのを厚く崇め、建長寺に住せしめている。入定とは禅定に入るの意で、心を一所に定め、身口意の三業の働きを止めることをいう。
空感の月を澄し=座禅によってわが心性の月をすませば、無一物の空に達する、こと。禅宗では戒・定・慧の三学のうち、とくに定の面のみを強調して、仏教の真髄は煩雑な教理の追究ではなく、坐禅修道で直接に自証体得できるとする。すなわち、経典は月をさす指であり、その月とは心であるとする。そして、坐禅観法を修して仏の教えを身に修し、心に観じたならば、一切法はことどとく空であって、心の外に一法もないとする。このように、禅宗は、経文を軽んじ、「教外別伝・不立文字、直指人心・見性成仏等」と説く。日蓮大聖人は、これを仏法を破壊する天魔の所為(法門可被申様之事・昭定・四五五頁)と云われた。仏は涅槃経に「願って心の師とは作るとも、心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる者あらば、当に知るべし、是れ魔の眷属なり」と戒めている。
七鬼神=却温神呪経にある、無多難鬼、阿迦尼鬼、尼迦尸鬼、阿迦那鬼、波羅尼鬼、阿毘羅鬼、婆提利鬼の七善鬼。この名を書いて、各門に貼っておけば、悪鬼が近寄らず、災いに侵されないと信じられた。
五大力=五大力菩薩の略。仁王護国般若波羅蜜多経受持品に説く。国王が仏法を信仰して祈れば、仏は五大力菩薩を遣わして国王および国民を守るという。五大力の名は、旧訳と新訳で異なるが、旧訳によると次のとおりである。金剛吼(千宝相輪)、竜王吼(金輪灯)、無畏十力吼(金剛杵)、雷電吼(千宝羅網)、無量力吼(五千剣輪)( )内はその持ち物。この像は仁王経法の本尊として祀られ、住吉神社の本地仏としても信仰されたといわれている(普賢院蔵の粉本による)。このことから、俗間で迷信化されて、家の四隅に五大力菩薩を書いた札を貼って、盗難などの災厄よけにする風習があった。
天神地祇=天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主とし、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとする。地祇は后土を主とするが、ほかに社稷、五祀、五嶽などがある。日本では、天神は高天原の神、すなわち天照大神など。地祇は国土の神、すなわち大物主神、大国魂神などをいう。
四角四堺の祭祀=四角四境の祭ともいう。源流はアミニズムにあり、陰陽道の攘災儀式の一つ。都の東北、東南、西南、西北の四隅に疫神や薬神を祭り、鬼・悪霊などの侵入を防ぐのを四角祭という。それに対して、国の四堺で祭るのが四堺祭である。その歴史は古く、天暦六年(九五二年)の記録に、この祭を行うために使者を派遣したとみえる。平安時代以後は、天皇に病気が起こったときなど盛んに行われた。鎌倉時代においては、幕府の四隅で祭るのを四角祭、鎌倉の町の四堺にあたる小袋坂、小壷、六浦、片瀬で祭るのを四堺祭といった。
万民百姓=万民も百姓も、ともに諸民あるいは国民大衆、民衆等の意である。
国主国宰=国主は天下の主で、国宰は国の守、地方長官である。
徳政=天皇や執権、宰相、国守等が、自らの財を貧民に施したり、あるいは富豪にすすめて慈善を行わせること。たとえば正元元年の大飢饉にさいして、二月十日、幕府は山野河海の領有法を定め、陸奥国の地頭に命じて、窮民を救済させた等の記録がある。その他、徳政の顕著な例としては、元寇の諸国御家人の窮乏を救うために発せられた永仁五年(一二九七年)の徳政令がある。これは没落していく御家人を救うためのもので、一般民衆にまでは及ばなかった。
肝膽・肝胆を摧く=心を摧くこと。誠情を尽くすことをあらわす。肝胆とは、肝とは肝臓、胆とは胆腑である。すなわち五臓六腑の初めを、それぞれとったのである。ゆえに五臓六腑を、もみ摧く義であり、転じて、心をくだき、心配し、誠心を尽くすことを意味する。
乞客=乞食のこと。
観=物見台、楼台、高殿の意。一説には昔、戦闘において倒れた兵士の死体を山と積み上げて物見台としたということが、左伝十一にある。ここは、路傍に捨てられた餓死者、病死者の多いさまを述べたもの。
二離・璧を合はせ=二離とは太陽と月。離は「明らか」「並ぶ」「連ぬ」の意があり、易の卦で火、明とされる。ここから日月にあてられるようになった。ふつう「二離・璧を合せ、五緯・珠を連ぬ」と、連句
にして使われる。すなわち、日月が光明らかに、平常どおり運行し、照らしでいるということである。
五緯・珠を連ぬ=五緯とは木火土金水の五つの惑星。この五星が珠をつらぬいたように美しく耀いていること。緯とは、天体のなかにあって、動くことをいい、他の恒星は、相互の位置が固定しているので経という。なお、珠と璧の違いは、珠とは蚌の陰精と注し、石類でなく真珠等をあらわす。璧とは瑞玉と注し、丸いタマ。古来、男子がそれをもって信を示した。これに対し、圭というのがあり、これはタテ長の形で、王公が信を示すのに用いた。また、玉は、これらの総称で「石之美者」と注される。五緯は五行、五大星ともいう。
三宝世に在し=三宝とは三つの宝の意で、仏と、その教えの法、及びその法を修行し伝持する僧伽、この三つがそろってはじめて仏教が成り立つので、これを世の宝に喩えていったもの。
百王未だ窮まらざるに=第五十一代平城天皇の世に八幡大菩薩の託宣があって、百王を守護するとの誓いがあったといわれている。日蓮大聖人ご在世のこの当時は、第九十代亀山天皇で、まだ八幡大菩薩の守護があるはずではないかという意味。この点について、日蓮大聖人は「諌暁八幡抄」に、百王というのは正直の王すなわち正しい仏法を護持する王であると、次のように述べられている。「平城天皇御宇八幡の御託宣云我是日本鎮守八幡大菩薩也。守護於百王有誓願等云云。今云人王八十一二代隠岐法皇、三四五の諸皇已破畢。残二十余代今捨畢。已此願破がごとし。日蓮料簡云百王を守護せんと云は正直の王百人を守護せんと誓給。八幡御誓願云以正直之人頂為栖以諂曲之人心不亭等云云」(昭定・一八四七頁)。「平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王を守護せん誓願あり』等云云。今云く、人王八十一・二代隠岐の法皇、三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ。残の二十余代今捨て畢んぬ。已に此の願破るるがどとし。日蓮料簡して云く、百王を守護せんというは正直の王百人を守護せんと誓い給う。八幡の誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』等云云」と。八幡は、古代において、豊の国(大分県)宇佐方面を中心に海上で活動していた部族の祖先神であったらしい。この部族が応神天皇の治世に朝廷を助けた功績があり、それから朝廷の尊崇をうけるようになったと思われる。一説には宇佐の銅産出の神で、東大寺の大仏鋳造にこの銅が使われたことから、東大寺の鎮守となったともいう。さらに、神功皇后が三韓征伐を行い、九州で生んだ皇子が応神天皇であるとの記紀の説を拠にして、それから八幡は応神天皇が本体であるといわれるようになった。大菩薩号がつけられるようになったのは平安朝以後で、神像も僧形のものが造られるようになった。とくに八幡を厚く信仰したのは源氏で、源義家は八幡神社の前で元服し、八幡太郎義家と名乗った。さらに、源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を営み、幕府の守護神としたので、武神としてひろく各地で崇められるようになった。日蓮大聖人は大隅の正八幡宮に「昔し霊鷲山に在って妙法華経を説き、今正宮の中に在て大菩薩と示現す」との銘石があるのを引かれて、八幡は本地釈尊で、八葉は八幡、中台は教主釈尊なりと説かれている。
其の法何ぞ廃れたる=世の中が乱れ、国法が行われず、まさに廃れんとしているありさまを述べられたのであろう。
憤悱=憤はいきどおること、思いの心に満ちることで、悱は口にいいたいが出ないありさま。思いが一杯つもってもだえること。
神術も協わず=天神地祇を拝し四角四堺の祭りを行ってもいっこうに効き目がない。地震は相次いで起こり、暴風雨は家を倒し、流し、国土を荒廃させる。国中が飢餓に瀕し、加えて疫病の流行は、多数の人命を奪っている。
仏威も験無し=阿弥陀仏の号を称え(浄土宗)、薬師如来に祈り(天台宗)、仁王講を修しても(天台宗)、あるいは真言宗の修法を行って災難対治の加持祈祷をし、あるいは坐禅して現実から逃避しようとしても、天災地変もなくならないし、苦をまぬかれることもできない。すなわち、仏法の威力が現実の結果となって現れてこないこと。
後生=後生とは、後輩、後進の意。先生、発輩、先進に対する語てある。
円覆・方載=円覆とは天(そら)をいい、方載とは地をいう。古代中国人は、大地を四角の平面、天をそれを覆う球面と考えた。
微管=細い管のこと。見識の狭いこと。細い管でのぞくと、広い所の全体観が見えない。このことから、愚かな凡夫の狭い見方を譬える言葉として用いられる。
世皆正に背き・人悉く悪に帰す=正とは正法、正しい仏法。悪とは、悪法で、邪悪、低級な諸宗、諸思想である。一切の不幸、災難の起こる原因を、この一言によって喝破されたのである。
善神=梵天、帝釈、天照大神、八幡大菩薩等で、民族と国土を守護し、福をもたらす神。仏教のうえでは正法の行者を守護する。正法の行者を守ることが、真実に民族、国土を守護することになるからである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法をたもち、その功徳を回向することによって善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られることになる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」、また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については、「富木殿御返事」に、「但于今不蒙天加護者 一者諸天善神去此悪国故歟。二者善神不味法味故 無威光勢力歟。三者大悪鬼入三類之心中 梵天帝釈不及力歟等。」「今に天の加護を蒙らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る放か。二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天・帝釈も力及ばざるか」(昭定・六一九頁)と。
聖人=聖とは本来、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通人の聞き得ない天の声をよく聞きうる人の意。儒教では、知徳もっとも秀れて万事に通達し、万人の仰いで師表とすべき理想の人物をいった。堯・舜・礼子等がそれで、唐代以後天子の尊称にも用いられた。楚辞・屈原の漁父辞には「聖人は物に凝滞せず」ー聖人は時勢とともに推移して物事を処置するから、執着、拘泥して苦しむことがないーとある。日蓮大聖人は「撰時抄」に外典云、未萠(まさに起らんとする事)をしるを聖人という。内典云、三世を知を聖人という。「外典に日く、未萠をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という」(昭定・一〇五三頁)と述べられている。仏法においては、法門を究尽し、智慧が広大無辺で慈悲心の、深大な人、すなわち仏をいう。
魔=魔とは、訳して奪命、奪功徳、障礙、攪乱、破壊等という。正法を持つ者の信心を妨害したり、人びとの幸福な生活を破壊し、生命を奪い、病気を起こさせる等の働きをなす。いずれも仏身や菩薩身や天界の姿を現じながら、仏と反対の働きをする。魔は天界に住むとも、仏と魔とは同所に住むともいわれる。所詮は澄みきった信心の鏡に映して、魔を魔と見破っていくことが肝要である。「最蓮房御返事」には「予日本の体を見るに、第六天魔王入智者身正師を邪師となし善師を悪師となす。経に『悪鬼入其身』とは是也。日蓮雖非智者第六天の魔王我身に入んとするに、兼ての用心深ければ身によせつけず。故に天魔力及ばずして、王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取付て日蓮をあだむなり。」(昭定・六二一頁)と述べられている。生命論に約してこれをみると、富木入道殿御返事「治病大小権実違目」に「法華宗の心は一念三千、性悪性善妙覚の位に猶備れり。元品法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕たり。」(昭定・一五二〇頁)とあるように、貪・瞋・痴等の生命本然の力が自己の生命を破壊し、不幸ヘ陥しいれる働きをするのを魔というのである。
鬼=六道の一つである餓鬼道に住し、人に対しては病気を起こしたり、思考の乱れを引き起こしたりする。国土や国家に対しては、天災地変や思想の混乱等を起こす働きをなす。この鬼とともに天竜等の八部を神といい、鬼神、竜神、天神、夜叉神等の類がある。
災起り難起る=この文脈について、石山日寛は立正安国論文段に「災難の来由に具に三意を含むと。一には背正帰邪の故に、二には神聖去辞の故に、三には魔鬼来り乱る故に云云」と挙げている。災とは、もともと火難水難の義を合した字で、天災を意味する。難とは、それによって人間が悩み、苦しみ、憂えることを意味する。
言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず=このように、民衆が塗炭の苦しみに追いやられている災難の根本的原因が、一国謗法にあるということは、実に大切なことであるから、いわないで黙っているわけにいかない。また、邪宗邪義の正体を人びとは知らないから平気でいるが、これこそ不幸、災厄の根源なりと、もっとも恐れなければならないとの意。この一句では、あらゆる艱難を覚悟のうえで、諸宗を破折し、為政者に対する諌暁を断行される元意が示されている。 
[第二問]

 

客の曰く、天下の災(わざわい)・国中(こくちゅう)の難、余(われ)、独り嘆くのみに非ず、衆皆悲めり。今、蘭室に入りて、初めて芳詞を承(うけたまわ)るに、神聖去り辞し、災難並び起るとは、何れの経に出でたる哉。其の証拠を聞かん。
[第二答]
主人の曰く、其の文(もん)繁多にして、其の証(しょう)弘博なり。
金光明経に云く、「其の国土に於て、此の経有りと雖も、未だ嘗て流布せず。捨離の心を生じて聴聞することを楽(ねが)はず。亦供養し尊重し讃歎せず。四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し、乃至、供養すること能はず。遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得ず。甘露の味に背き、正法の流を失ひ、威光及以勢力有ること無からしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、生死の河に墜ちて、涅槃の路に乖(そむ)かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯の如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず。必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。既に捨離し已れば、其の国当に種種の災禍有りて、国位を喪失すべし。一切の人衆皆善心無く、唯繋縛(けいばく)、殺害(せつがい)、瞋諍(しんじょう)のみ有り。互に相ひ讒諂(ざんてん)し、枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病流行し、彗星数(しばしば)出で、両日並び現じ、薄蝕恒(つね)無く、黒白の二虹(にこう)不祥の相を表はし、星流れ地動き、井の内に声を発し、暴雨・悪風時節に依らず。常に飢饉に遭ひて、苗実(みょうじつ)も成らず、多く他方の怨族(おんぞく)有りて、国内を侵掠(しんりゃく)し、人民諸(もろもろ)の苦悩を受け、土地として所楽の処有ること無けん」と。
大集経(だいじゅうきょう)に云く、「仏法実に隠没せば、鬚、髪、爪皆長く、諸法も亦忘失せん。当時、虚空中に大なる声ありて地に震ひ、一切皆遍く動ぜんこと、猶(なお)水上輪の如くならん。城壁破れ落ち下り、屋宇悉く圮(やぶ)れ拆(さ)け、樹林の根・枝・葉・華葉(しべ)・菓(このみ)、薬尽きん。唯(ただ)浄居天を除きて、欲界の一切処の七味・三精気、損減して余り有ること無く、解脱の諸の善論、当時(そのとき)一切尽きん。生ずる所の華菓の味(あじわい)、希少にして亦美(うま)からず。諸有の井泉池(せいせんち)、一切尽く枯涸し(こかく)、土地悉く鹹鹵(かんろ)し、敵裂して丘澗(くけん)と成らん。諸山皆(みな)燋燃(しょうねん)して、天龍も雨を降らさず。苗稼皆枯死し、生ふる者皆死(か)れ尽きて、余草更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇(こんあん)にして、日月明を現ぜず。四方皆亢旱(こうかん)し、数(しばしば)諸の悪瑞を現ぜん。十不善業道、貪・瞋・痴倍増し、衆生の父母に於ける、之を観ること獐鹿(しょうろく)の如くならん。衆生及び寿命、色力・威楽滅し(減じ)、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是の如き不善業の悪王と悪比丘と、我が正法を毀壊(きえ)し、天人の道を損減せん。諸天善神王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて、皆悉く余方に向はん」と。
仁王経に云く、「国土乱れん時は、先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱る。賊来りて国を劫(おびや)かし、百姓(ひゃくせい)亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。天地怪異し、二十八宿、星道、日月、時を失ひ度を失ひ、多く賊の起ること有らん」と。
亦云く、「我(れ)今(ま)五眼をもて明らかに三世を見るに、一切の国王は、皆過去の世に、五百の仏に侍へしに由りて、帝王主と為ることを得たり。是れを為て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中に来生して、大利益を作さん。若し王の福尽きん時は、一切の聖人、皆為に捨去せん。若し一切の聖人去る時は、七難必ず起らん」と。
薬師経に云く、「若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂、人衆疾疫(しつえき)の難・他国侵逼(しんぴつ)の難・自界叛逆(ほんぎゃく)の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不雨の難あらん」と。
仁王経に云く、「大王、吾が今化する所は、百億の須弥、百億の日月あり。一一の須弥に四天下有り。其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七の畏るべき難有り。一切の国王、是れを難と為すが故に。云何なるを難と為す。日月度を失ひ、時節返逆(ほんぎゃく)し、或いは赤日出で、黒日出で、二、三、四、五の日出で、或いは日蝕して光無く、或いは日輪一重二、三、四、五重輪に現ずるを、一の難と為す也。二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁星(ちょうせい)・南斗(じゅ)・北斗(と)・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是の如き諸星、各各(おのおの)変現するを、二の難と為す也。大火国を焼き、万姓焼け尽き、或いは鬼火・龍火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是の如く変怪(恠)するを、三の難と為す也。大水百姓を笠没(ひょうもつ)し、時節返逆して、冬雨ふり夏雪ふり、冬の時に雷電霹|(へきれき)し、六月に氷霜雹(ばく)を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らし、江河逆に流れ、山を浮べ石を流す。是の如く変ずる時を、四の難と為す也。大風万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是の如く変ずるを、五の難と為す也。天地国土亢陽(こうよう)し、炎火洞然して、百草亢旱(こうかん)し、五穀登(みの)らず、土地赫燃(かくねん)して万姓滅尽せん。是の如く変ずる時を、六の難と為す也。四方の賊来りて国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是の如く怪(恠)する時を、七の難と為す也」と。
大集経に云く、「若し国王有りて、無量世に於て、施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せざれば、是の如く種うる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国当に三の不祥の事有るべし。一には穀貴(こくき)(実)、二には兵革、三には疫病なり。一切の善神悉く之を捨離せば、其の王、教令すとも人随従せず。常に隣国の為に侵嬈(しんにょう)せられん。暴火横(ほしいまま)に起り、悪風雨多く、暴(雨)水増長して、人民を吹漂(すいひょう)(笠)し、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の王久しからずして、当に重病に遇ひ、寿終るの後、大地獄の中に生ずべし。乃至、王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師・郡守・宰官も、亦復是の如くならん」と。
夫れ四経の文朗らかなり。万人誰か疑はん。而るに盲瞽(もうこ)の輩(ともがら)、迷惑の人、妄りに邪説を信じて、正教を弁へず。故に天下世上、諸仏・衆経に於て、捨離の心を生じて、擁護の志無し。仍りて、善神・聖人、国を捨てて所を去る。是れを以て悪鬼・外道、災を成し難を致す。 

蘭室=蘭の香のするような室、家室をほめたことば。『孔子家語』に、「善人と居るは芝蘭の室に入るが如く、久うして自から芳し」と。
神聖=善神と聖人をいう。
金光明経=金光明経は、釈尊一代説法のうち方等時の経で、正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がその国を守護し、利益し、国に災厄がなく、人民が幸福になることや、国王はじめ人民の懺悔の法などを説いている。訳には次の五種がある。
一、金光明経 四巻十八品 北涼の曇無讖訳 北涼の元始年中
二、金光明更広大弁才陀羅尼経 五巻二十品 北周の耶舎崛多訳 後周の武帝代
三、金光明帝王経 七巻十八品 梁の真諦訳 梁の大清元年
四、合部金光明経 八巻二十四品 隋の闍那崛多訳 大隋の開皇十七年
五、金光明最勝王経 十巻三十一品 唐の義浄訳 周の長安三年
このうち、一の金光明経には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。また、わが国では、聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と金光明最勝王経を安置した。御遺文中各所に引用されているのは、一と五とである。ここに引用された文は、金光明最勝王経第六巻四天王護国品の一節である。
其の国土に於て=経文には、この文の前に「爾の時に四天王倶に合掌して仏に白して言く、世尊若し人王有り」とある。すなわち、この文は四天王の言葉で、国王について説かれているところである。
此の経=文のうえから読むと金光明経のようであるが、金光明経は四十余年未顕真実の方便権経であり、本意は法華経である。
四部の衆=四衆ともいう。比丘、比丘尼、優婆塞〈在俗の男性信者〉、優婆夷〈在俗の女性信者〉の四種の集まりをいう。
眷属=侍者・随行の者。
我等及び余の眷属=我等とは、帝釈天王を中心として、世界の東西南北を守る天界の王、すなわち四天王である。東を守るのが持国天王、南を守るのは増長天王、西は広目天王、北は毘沙門天王である。帝釈は、釈提桓因ともいい、欲界六天第二の漁利天の主で須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。四天王は、帝釈の外将で、天処のはじめである六欲天第一の四天王に住す。天台大師の法華文句巻三には「四大天王とは帝釈の外将で、四つの宝山に住す。高さは須弥の半分、広さは二十四万里。東の黄金山には持国天王、南の瑠璃山には増長天王、西の白銀山には広目天王、北の水精山には毘沙門天王がいる」とある。余の眷属とは、それ以外の四天王のもろもろの眷属をいう。
此の甚深の妙法=一往は金光明経をさすが、再往は法華経のこと。諸天善神はこの妙法の法味をなめて勢力を得る。金光明経をなぜ妙法と名づけたのか?
甘露=一、梵語の阿密哩多で不死・天酒の意。漁利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。二、中国古来の伝税で、王者が仁政を行えば、天がその祥瑞として降らすという甘味の液。三、甘露、すなわち「不死の薬」とは法華経であり、法華経を受持して覚知する不老不死の生命をたとえる。
悪趣=趣とは境界の意で、十悪、五逆、謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。
人天を損減し=人界および天界の楽しみを損ない減ずること。人界、天界の因縁については「十法界明因果抄」に「第五に人道とは、報恩経に云く『三帰五戒は人に生る』文。第六に天道とは、二有り。欲天には十善を持ちて生れ、色無色天には下地は麁苦障、上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり」(昭定・一七五頁)とある。このように善根あって得る人天の果報であるが、謗法の罪によってその果報を損減し、四悪趣の苦を味わわなければならなくなる。
生死の河=煩悩に支配された迷いの生活、地獄から天界までの六道を輪廻する生活である。生死とは生老病死の人生の根本的な苦しみをいう。煩悩を火に譬えるのに対し、生死を大海、河等、水に譬える。
涅槃の路=涅槃とは、滅、滅度、寂滅、解脱、円寂等と訳す。一切の煩悩・災患の永尽した境地をいう。法華経寿量品に「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず。常に此に住して法を説く」とは釈尊の涅槃は薪尽きて火の滅するが如きではなく、法性常住の境地に入るもので、肉体は逝くとも法身は常住するとなし、法身をもって如来の大般涅槃の体とすべきことを説いた。
薬叉(夜叉)=鬼神の一種で、凶悪で人を害するとされているが、仏教では天龍八部衆(天、竜、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩疫羅伽)の中に入れられ、仏法守護の鬼神とされている。
斯の如き事を見て=いまだかつて正法を流布させなかったことをさす。
擁護の心無けん=諸天善神にその国土を守る心がなくなること。ただし、正法を護持する者に対しては、二つの意があり、「開目抄」の意によれば、謗法の世は守護の神が捨て去るゆえに正法の行者に験無しとあり(昭定・六〇一頁)、「諌暁八幡抄」の意では、諸天善神がその国を捨去するといえども、もし正法の行者がいれば即その頂に宿る(昭定・一八四九頁)、となる。
当に種種の災禍有りて、国位を喪失すべし=かならず種々の災禍が起きて国王の位を失うとの意。
繋縛、瞋諍=繋縛とは、人をつなぎ縛ること、煩悩のこと。瞋諍とは喧嘩、争い。
讒諂=讒は讒言で、事実を曲げ、いつわっで他人を悪くいうこと。諂は諂諛で、へつらうこと。すなわち、他人を讒言して罪に陥れ、自分は権力者、あるいは上役にへつらって、よく思われようとすることを讒諂という。
枉げて辜無きに及ばん=法を曲げて、罪のない者まで陥れるようになるであろうとの意。
彗星=ほうき星のこと。二十世紀にはいってからの大きい彗星は、ダニエル彗星、ハレー彗星、スケレルプ彗星などが有名である。なお、中国、日本では昔、彗星を妖星とよんだ。その出現は、大火や兵乱などの凶事の起こる悪い前兆とされている。
両日並び現じ=太陽が二つ、三つと同時に並んで出ること。もちろん、一つだけが実物で、他は幻の太陽である。これは、大気中の氷の結晶などの浮游物によって生ずる暈が正体で、その交差するところがとくに輝いて、太陽が並び出たかのように見えるのである。陰陽道では、両の日が並び現ずることを、国に二王が並び立ち、世の中が乱れる凶兆であるとした。「報恩抄」に「仏経のごときんば、減劫にこそ二日三日乃至七日は出べしとは見たれども、かれは昼のことぞかし、……」(昭定・一二三三頁)とある。
薄蝕恒無く=薄とは、太陽や月が出ていながら、その光を失うこと。蝕は、日蝕や月蝕で日月の欠けること。太陽や月が光を失う例については、もやがかかったり、塵埃が光をさえぎったりする等が考えられる。正嘉元年(一二五七年)から文応元年(一二六〇年)までの間に日蝕があったと記録されているのは、正嘉元年五月一日と文応元年の三月一日と二度である。月蝕の記録は多く、正嘉元年は四月十六日、十月十六日、翌正嘉二年は十月十六日、正元元年四月十五日の四回となっている。古来、日月の薄蝕の乱れは、帝王の権威が衰えたり、他国から侵されたりする凶兆とされた。
黒白の二虹=ふつうに見られる七色の虹でなく、黒ないし白い虹。黒虹は急激な気候の異変によって生ずる悪気流のようなものではないかと考えられる。白虹は、霧雨のように細かい雨滴に光があたってできる。あるいは幻日環のときに現れる光弧とも考えられる。昔の中国では、白虹は革命や戦乱の前兆として恐れられていた。日蓮大聖人ご在世当時の記録としては、弘長三年十二月二日、京都に白虹が現れたと「五壇法記」にある。
井の内に声を発し=地震のときに、井戸水や温泉の涌水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化したり、または、遠雷や大砲のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が空気を振動させることによって生ずるものである。井の内に声を発するとは、そのような地殻の変動に関係するものと思われる。
大集経=方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十方の仏、菩薩を集めて、説かれた大乗教である。大集経の漢訳については、次の六種がある。
大方等大集経三十巻 北涼の曇無讖訳
大乗大方等日蔵経十巻 高斉の那連損耶金訳
大方等大集月蔵経十巻 高斉の那連提耶舎訳
大乗大集経二巻 高斉の群連鍵耶舎訳
仏説明度五十校計経二巻 後漢の安世高訳、
無尽意菩薩経六巻 宋の智厳・宝雲共訳
引用の文は大集月蔵経法滅尽品の一節である。
鬚髪爪=鬚は「ひげ」、髪は「かみ」、爪は「つめ」で、仏教出家者は、外教や在家者との違いをあらわすためや、また自己驕慢心を戒めるために、剃髪し鬚を剃り、爪を短くして、黒、青、泥色などをまぜた濁色の衣を着るように規定されている。「鬚髪爪皆長く」とは、風俗が乱れ、礼儀が廃れることを意味する。ここでは、三毒の増長を意味するのであり、髪は貪り、爪は瞋り、鬚は愚痴をあらわす。「皆長く」とは、この貪・瞋・痴の三毒が強盛になることをいうのである。
諸法=ここでは、広く社会に行れれている国法、世間法をさす。根本の法である仏法が隠没したとき、一切の法は、あってなきがごとく忘失され、社会のあらゆる分野に混乱と頽廃を招く。この原理は「諸経与法華経難易事」に、次のように明示されている。「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」(昭定・一七五二頁)云云と。
大なる声ありて地に震ひ=流星による震動のことか。
水上輪=水車のこと。
根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん=この「薬」という字は、根、枝、葉、華葉、其のすべてを受けている。根からとる薬としてはインドジャボク、リンドウ、枝・茎からとるのはキナ、キハダ、葉からとるのはハシリドコロ、ジギタリス等がある。華葉は華中の葉すなわち花びらで、枝葉の葉ではない。花からとるのにシロムシヨケギクがある。菓からとるのはサンショウ、トウガヲシ等がある。化学薬品が出現する以前は、薬草が唯一のたのみであったから、その存在はもっとも貴重であった。仏法が隠没すれば、こうした薬味も尽きるのである。
浄居天=天上界のうち、欲界に属する六欲天と無色界に属する最上の四天とを除いた十七天が、いわゆる色界の十七天(無想天を含めて十八天)である。この色界十七天のうち、最後の五天、すなわち無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天を浄居天という。この五天は飲食と睡眠と男女の性欲との不浄を離れたものの生まれる天界であるから浄居という、また、小乗の四果のなかでも阿那含、阿羅漢の住処とされているので、五那含天ともよばれる。
欲界の一切処=仏教では、十界の住処を六道の住する三界(凡聖同居土)、声聞、縁覚の住する方便土、菩薩の住する実報土、仏の住する寂光土に分ける。三界は、悪思想のため煩悩に禍いされて、いわゆる六道輪廻を繰り返している境涯でさらに欲界、色界、無色界に分かれる。欲界とは欲望の世界で、下は地獄界から上は天上界の六欲天までを含む。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち物質だけが存在する
天上界の一部で、十七天(あるいは十八天)からなっている。無色界とは、物質のない精神のみの世界で、天界の最上である四天よりなる。欲界は、さらに、それぞれの境涯によって住処を異にし、「地獄は地の下一千由旬以下、餓鬼は地の下五百由旬、畜生は水陸空、修羅は海のほとり、海の底、人は四大洲、天は、四天王は須弥山の中腹・由乾陀山の四つの峰」等々となる。この欲界のすべてを「欲界の一切処」という。
七味=甘い、辛い、酢い、苦い、鹹い、渋い、淡いの七種の味。
三精気=地精気、法精気、衆生精気の三。精気とは成長育成の力をいい、地精気とは大地の生命力、たとえば五穀、草木等を繁茂させる力がこれである。法精気とは世間法、国法、仏法のもっている力、総じて道理に合致した力、民衆を幸福、繁栄、あるいは不幸、衰退に導く力をいう。衆生精気とは人間、社会の生命力で、たとえば民族が興隆したり、逆に衰えたりする現象の奥にある、根源たる民族自体の力をいう。
解脱の諸の善論=解脱とは、煩悩の束縛から脱して、憂いのない、やすらかな境涯に到達するという意味。「解脱の諸の善論」とは、ここでは総じて世間、出世間のいっさいの善論をいう。
希少にして亦美からず=華や果物が少なく、その味も美味ではないこと。
鹹鹵=鹹とは「塩辛い」「塩気」、鹵は「塩気を含んだ土」「塩」「不毛の地」等の意があり、鹹鹵とは塩分が強くて作物ができないことをいう。
敵裂=裂けて割れ目ができること。経文には「剖」とあるが、御真筆では「敵」となっている。
丘澗=丘は小高い丘、澗は山と山とにはさまれた川、すなわち谷。丘澗とは大地に高下ができることを意味する。
天龍も雨を降らさず=天も竜も、ともに天界の衆生で、天は天神等の諸神王衆、竜は竜神で竜王およびその眷属をいう。雨を司るとされた。日蓮大聖人が曽谷入道殿御書に「雨のしげきを見て竜の大なるを知る(昭定・九〇一頁)」等と述べられているのも、このような一般世人の考え方を用いられているのである。「種種御振舞御書」には、真言師の阿弥陀堂法印が雨を祈ったのに対して「……一乗法華経をとける仏をば、真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は正覚房が舎利講の式にあり。かかる僻事を申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、竜王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん」(昭定・九八〇頁)と破折されている。
天龍=仏教では、人間以外の仏法を守護するものたちを、天龍八部とか龍神八部とかいって、八種類挙げている。それは、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩疫羅伽の八種で、梵天帝釈天等の「天」。また「龍」には、八龍王が示される。難陀龍王、難陀は歓喜の意。跋難陀龍王、跋難陀は善の意。娑伽羅龍王、娑伽羅は海の意。和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王。「夜叉」は、鬼神の一種で、凶悪で人を害するとされているが、仏教では天龍八部衆の中に入れられ、仏法守護の鬼神とされている。「乾闥婆」は、帝釈に仕え香のみを食す空中の殿堂に住む楽師。人が死んで中有の期間の乾闥婆とは別。「阿修羅」は、六道の存在の一つとされ、また仏法の守護神、ときに悪神ともなる。また羅疫阿修羅は、日食・月食をおこすという神話で名を知られている。「迦楼羅」は、半人半鳥、金翅鳥と訳す、鳥類の王。「緊那羅」は、帝釈天に侍する半人半獣の美声の音楽師。「摩疫羅伽」は、大蛇のことで、八部衆の一類。仏法守護の蛇神である。
苗稼=稲の苗のこと。総じては草木の苗いっさいを意味する。稼は植えること、または種をいう。
昏闇=昏も闇も暗いこと。昏とは太陽が姿を隠して暗くなること。闇は「やみ」。すなわち、ここでは乾いた大地から舞い上がった土が空をおおい、地上が暗くなるありさま。
亢旱=大干魃。日照りで水分がなくなり、干からびてしまうこと。亢は高ぶる、窮まる等を意味し、旱は日照りで雨が降らないことの意。大旱とも亢陽ともいう。
十不善業=十種類の悪の業因で、身の三悪、口の四悪、意の三悪である。身の三悪とは殺生・偸盗・邪淫、口の四悪とは妄語(ウソ・みだりなそらごと)・綺語(巧みに飾り立てたことば)・悪口(わるくち)・両舌(二枚舌)、意の三悪とは貪欲(むさぼること)・瞋恚(おこること)・愚痴(おろかなこと)をいう。この十の悪業の果報は、短命、多病は殺生の報い、貧乏であったり、財産を失うのは偸みの報い、妻または夫が不貞であったり、家族が不良であるのは邪淫の報い、人から誹謗されたり、だまされたりするのは妄語の報い、家族または仲間にそむかれたり、親族に捨てられるのは両舌の報い、悪声を聞き訴訟を起こすのは悪口の報い、人に信用されず、言語が不明瞭なのは綺語の報い、満足することを知らず、限りなく欲張るのは貪欲の報い、他人に隙をねらわれ、また殺されるのは瞋恚の報い、邪見の家に生まれて頭が悪く性質がひねくれているのは愚痴の報いである。
貪・瞋・痴=三悪と同じ、三毒ともいう。
獐鹿=「くじか」とも「のろ」とも称する鹿の一種で、性質きわめて臆病で、もし敵にあえば単身のがれて他をかえりみず、親子仲間などを見捨てかまわない。自利に走って父母を顧みないことをいう。このことから、ここでは、不孝者の譬えに引かれている。
衆生及び寿命、色力・威楽滅し(減じ)=衆生が減ずるとは、人口が減少し、民族、国家、社会が衰亡の道をたどることである。寿命減じとは短命になること。色力は体力をいう。威は威光、楽は快楽、たのしみをいう。威楽滅しとは、他人に尊敬されるような威厳と安楽をそなえた境涯が減退し無くなること。
人天の楽を遠離し=人間と天上界のものとしての快楽がなくなり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の悪業の因を重ね、悪道におちていくとの意。
王の衆生を悲愍する者=その国の民衆が苦しみあえぐのを見て、哀れに思い、その苦を除こうという善王。
濁悪=五濁悪世の略。五濁とは、法華経方便品にあるように、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁である。劫濁とは、飢饉、疫病、戦乱等が起こって、時代そのものが乱れること。天変地異などが多くなる時代そのものの汚れ。煩悩濁とは、衆生の煩悩が盛んになること。貪・瞋・痴・慢・疑という、人間が生まれながらにもっている煩悩の乱れである。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくること。衆生の心身が衰退し、苦が多く福が少なくなるという、衆生の資質そのものの低下。見濁とは思想、見解の濁乱。邪見や偏見(一方に偏った見解)、有身見(我執)などの悪見が盛んになること。命濁とは生命力が衰え、生活が乱れ、病気や早死にが多いことである。衆生の寿命が次第に短くなり、ついには十年にまで減少する。末代悪世には、この五濁がとくに盛んになると説かれている。御義口伝に云く「日蓮等之類此五濁離也。我此土安穏ナレバ非劫濁実相無作仏身ナレバ非衆生濁煩悩即菩提生死即涅槃妙旨ナレバ非煩悩濁五百塵点劫ヨリ無始本有之身ナレバ非命濁也。正直捨方便但説無上道行者ナレバ非見濁也。所詮南無妙法蓮華経境所起五濁ナレバ日本国一切衆生五濁正意也。サレバ文句四云相者四濁増劇聚在此時瞋恚増劇刀兵起貪欲増劇飢餓起愚癡増劇疾疫起三災起故煩悩倍隆諸見転熾矣。経云如来現在猶多怨嫉況滅度後是也。法華経不信者以五濁障重者。」(日蓮等の類は、此の五濁を離るるなり。我此土安穏なれば劫濁に非ず。実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず。五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。『正直に方便を捨てて、但無上道を説く』の行者なれば見濁に非ざるなり。所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生、五濁の正意なり。されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり。瞋恚増劇にして刀兵起り、貪欲増劇にして飢餓起り、愚痴増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり』と。経に『如来の現在すら、猶怨嫉多し。況や滅度の後をや』と云う是なり。法華経不信の者を以て五濁障重の者とす」)(昭定・二六一七頁)と。
仁王経=釈尊一代五時のうち般若部の結経である。訳に、姚秦の鳩摩羅什(三四四年〜四一三年)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(七〇五年〜七七四年)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」の二本がある。
羅什訳が広く用いられる。初めの文は護国品で、後の文は受持品である。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経と共に、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、末法においては法華経を信ずる、以信代慧によって仏智を得ることにある。
鬼神乱る=鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。「日女御前御返事」に「此十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」(昭定・一五一〇頁)とある。そのように、善鬼は法華経を持つものを守るが、悪鬼は、生命自体を破壊し、福運を奪う働きをいう。
万民乱る=一家のなかにあっては親子、兄弟、夫婦が憎み合い、いがみ合う。職場で仲間同士が争う、労働者が使用者と対立する、一国のなかで指導者と民衆とが遊離し、憎しみ合う等々の姿は「万民乱る」の現証といえよう。
百姓亡喪し=百姓とは一般人民。後世に転じて農民を指すようになった。「百姓亡喪し」とは、国内が乱れ、また他国より攻められる等のために、多くの民衆が殺され、あるいは土地を荒らされ、家を焼かれ、仕事を捨てて流浪の民となることをいう。
是非を生ぜん=是とは道理正しいこと。非とは道理の通らないことである。「是非を生ぜん」とは、意見が合わず、争いが起こること。
天地怪異し=天地が平常と異なった、怪しく異常なこと。日蝕、月蝕、地震、暴風、豪雨、時季はずれの雪、霜等々である。
二十八宿=古代中国においては、この二十八宿に関連して、天の部位を示すために、東西南北の四宮、四陸に分かち、これに四獣を配し、さらに二十八宿を配した。この関連性を爾雅(釈天)、左伝、国語、史記(律書および天官書)などによって示すと、次のようになる。
東宮〜東陸〜蒼竜〜角、亢、氐、房、心、尾、箕
北宮〜北陸〜玄武〜斗、牛、女、虚、危、室、壁
西宮〜西陸〜白虎〜奎、婁、胃、昂、畢、觜、参
南宮〜南陸〜朱雀〜井、鬼、柳、星、張、翼、軫
星道、日月、時を失ひ度を失ひ=日や月や星の運行が、不規則に速くなったり遅くなったり、または、その軌道が正規の位置からはずれることをいう。「時を失い」とは運行の速度が乱れること、「度を失い」とは軌道がはずれることを意味する。
五眼=肉眼(凡夫の肉眼で、ただものの形態を見るのみである)。天眼(普通の人には見えない物まで見る力がある)。慧眼(更に進んで一切の人の迷いをよく見て如何に迷いが起るかを明らかに知ることができる。即ち二乗の具えるところの眼力)。法眼(一切人が皆結局仏になれるというところまで見透す力がある諸法を徹見する菩薩の眼力)。仏眼(以上の四眼を遺憾なくそなえた完全なる眼で、すべてのものを間違いなく正しく見る力がある)をいう。聖人遺文中『四条金吾釈迦仏供養事』に「普賢経に云く此大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり等云々。又云く此方等経は是諸仏の眼なり諸仏是によって五眼を具することを得たまえり云云。此経の中に得具五眼とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、四には法眼、五には仏眼也。此五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」(昭定・一一八二頁)と見られる。
三世=過去世、現在世、未来世。仏法は三世にわたる生命の因果の法則を明らかに説いている。心地観経にいわく「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と。そして、この世に王となる者の因は「十法界明因果抄」にいわく「小乗戒持破者作六道民破大乗戒者成六道王持者成仏是也。(小乗戒を持して破る者は六道の民と作り、大乗戒を破する者は六道の王と成り、持する者は仏と成る是なり)」(昭定・一七七頁)と。また、この仁王経は過去に五百の仏に侍えた者が王に生まれると説いている。
羅漢=阿羅漢の略。小乗の果位で、声聞の四種の聖果の最高位。無学、無生、殺賊、応供と訳す。この位は三界における見惑思惑を断じ尽くして、涅槃真空の理を実証する。また、三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に酬われた現在の一期の果報身を余すゆえに、有余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、再び三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。
七難=仁王経、薬師経、大集経と、経によって若干の相違がある。仁王経の七難は、のちに説かれるように、一・日月失度難、二・星宿失度(衆星返改)難、三・諸火焚焼難、四・時節反逆難(水難)、五・大風数起難、六・天地亢陽難、七・四方賊来難である。薬師経の七難は、一には人衆疾疫難、二には他国侵逼難、三には自界叛逆難、四には星宿変化(怪)難、五には日月薄蝕難、六には非時風雨難、七には過時不雨難なり。
薬師経=方等時の説法の一つ。訳に四種あり、一に東晋の帛尸梨蜜多羅三蔵訳の「仏説潅頂抜除過罪生死得度経」一巻、二に隋の達摩笈多訳「仏説薬師如来本願経」一巻、三に唐の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」一巻、四に唐の義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」二巻である。
通常、薬師経というのは、三をさす。仏が毘舎離国広厳城楽音樹下に住したとき、文殊師利が昔の諸仏の名字、国土の清浄荘厳の事を請問した。この請いに応じて説かれたのが本経である。
刹帝利=古代インドの四姓の一つで、王族、武士階級を意味する。クシヤトリアのこと。四姓とはカースト制度の原型で、祭祀を司るバラモン、王族たるクシャトリア、商人階級のバイシャ、奴隷階級のシュードラである。のちにますます細分化し、現代では二千種以上にも分かれ、しかもこのカーストの枠外に不可触賤民、サンスクリットではアチュートとよばれる最下層民を生ずるにいたっている。カースト「種」とは、本来はサンスクリットでバルナ「色」といった。この階級制度が、征服民族たる白人系のアーリアと、被征服民族たる黒人系のドラビダ、その他、黄褐色人種との差別から生まれたことを示している。西紀前二千年ごろ、農業を土台として、当時としてはすでに高度の文明を築いていたインドに、遊牧民族のアーリア人がインダス川上流のパンジャブ地方から侵入してきた。アーリア人は馬によって原住民との戦闘に勝利を収め、征服し、新しい社会を形成した。ここで生まれた階級制度は、かれらのバラモン教によって正当化され、出生にともなう地位、職業、特権は宿命として世襲された。当時、バラモン教は支配階級アーリア人にとっては絶対的国教的宗教であるとともに、当時の社会の基本たる憲法的存在でもあった。釈尊の生命の尊厳、自由、平等を基調とする教えは、カースト制およびそれを裏づけるバラモン教への大社会改革、思想革命であったともいえる。しかし、仏法隠没してバラモン教がヒンズー教として復活してのちは、インド民衆は、今日もカースト制度のために、いちじるしく発展を阻害されている。
灌頂王=大国の王をいう。古代インドでは、大国の王が位に登るとき、小国の王や群臣たちが四大海の水(須弥山の四方の鹹水、いわゆる海水である)を汲んできて、その頂にそそいだことから、このようによぶ。
人衆疾疫の難=伝染病が流行して、多くの人が死ぬ難をいう。赤痢、コレラ、腸チフス、パラチフス、猩紅熱、ジフテリヤ、ペスト、小児麻痺、黄熱病、狂犬病、マラリヤ、流行性感冒、性病等々、近代医学が発達する以前は、伝染病の発生に対して為す術もなく、多くの人命が失われた。
他国侵逼の難=他国から侵略される難。これには武力による侵略、経済的侵略、政治的侵略、精神的侵略等々があると考えられる。他国侵逼難は、金光明経には「我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。既に捨離し已りなば、其の国当に種種の災禍あって、国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有って国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処有ること無けん」、仁王経には「四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あって、百姓荒乱し、刀兵劫起らん」、大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも、人随従せずして、常に隣国の侵嬈する所と為らん」と説かれている。
自界叛逆の難=仲間同士の争い、同士討ちをいう。金光明経に「一切の人衆、皆善心無く、唯繋縛殺害、瞋諍のみ有って、互に相ひ讒諂し、枉げて辜無きに及ばん」、大集経に「十不善業の道、貪・瞋・痴倍増して、衆生の父母に於ける、之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貪瞋痴の三毒が盛んになるところから自界叛逆難は起こる。また、そのさらに根源は、仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神の乱れがある。
星宿変怪の難=彗星が現れたり、流星があったり、星の運行に異変を生じたりすることは、社会、国家の凶事の起こる前兆とされた。古来、東洋とくに中国においては、列子天瑞篇の次の文のように、人間の精神は天の「気」、肉体は地の「気」から構成されているとした。いわく「精神は天の分、骨骸は地の分なり。天に属するは清んで散じ、地に属するは濁って聚まる」と。このゆえに、人間社会の変異は天の星宿、日月等の変怪となって現れるとされたのである。星宿変怪の難は仁王経の第二の難「二十八宿度を失い、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・杏星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是くの如き諸星各各変現する」とあるのと同じである。
日月薄蝕の難=黒点、暈、日蝕、月蝕などのこと。日月に関する異変は、国主に凶事の起こる兆相と考えられた。のみならず太陽の黒点が磁気アラシを起こし、太陽の光が薄れることは冷害をもたらすこと等は周知の事実である。仁王経に「日月度を失い、時節反逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずる」とあるのがこれである。
非時風雨の難=季節外れの暴風があったり、梅雨期でないのに長雨がつづいたりする等の気候異変。これが農作物を吹き倒したり、腐らせたりして成熟を阻害し、飢饉の原因にもなる。仁王経に説かれている第四、第五の難がこれに相当する。すなわち「大水百姓を笠没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、時に雷電霹|(靂)し、六月に氷・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮べ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。大風、万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是くの如く変ずるを五の難と為すなり」と。金光明経にも「暴雨・悪風時節に依らず、常に飢饉に遭って苗実成らず」とある。
過時不雨の難=雨の少ない季節を過ぎて雨期にはいっても、なお雨が降らないこと。雨期と乾期に分かれた東南アジア、インドではよくある。大集経の「諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、敵裂して丘澗と成らん。諸山皆燋燃して、天竜雨を降らさず、苗稼皆枯れ死し、生いたる者皆死れ尽きて余草更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇にして、日月明を現ぜず。四方皆亢旱して、数諸の悪瑞を現じ」とあるのと同じである。また、仁王経においては「天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、土地赫燃して万姓滅尽せん」と説かれている。
仁王経に云く=仏説仁王般若波羅蜜経受持品の文。
大王=釈尊在世当時の舎衛国の波斯匿王のこと。和悦または月光と訳す。釈尊と同じ日に生れた。釈尊を日光と尊称し、それに対し王を月光と称したといわれる。政治的にも優れた手腕を発揮したが、早くから釈尊に帰依し、釈尊のいる所に来ると、王は車を降り、蓋をしりぞけ、剣を解き、履をぬぎ、拱手してまっすぐに進み、五体を地に投じ、足元に稽首し、長跪した。自ら手をもって饌をなし、澡水を行い、斟酌したと法句譬喩経に述べられている。蓋、剣、履、宝冠、さらに柄に珠のちりばめてある払子は国王の五威儀、五好、五威容とよばれ、即位式のとき初めて王が身につけるものである。なお舎衛国は東インドにあった国で、王をはじめ一国あげて仏法に帰依し、有名な祇園精舎は太子祇陀と須達長者によって建てられたものである。この仏都においても、釈尊の説法にさいして、仏を見、説法を聞いたのは三分の一、仏を見たが説法を聞かなかったのは三分の一、残りの三分の一は仏も見ず、説法も聞かない無縁の人びとであったことは、舎衛の三億として広く知られている。
百億の須弥、百億の日月=須弥とは、須弥山のことで、安明と訳す。古代インドの世界観で、世界の中央に高さが水面上八万四千由旬、水面下八万四千由旬もある高山がそびえているとし、これを須弥山と称した。この須弥山を中心に八重の輪状に金山があり、各山のあいだに七重の香水の海がある。いちばん外側の鉄囲山と第七重の持地山の間は大鹹水海で、この大鹹水海には東西南北に、四洲すなわち四つの大陸がある。東を弗婆提、西を瞿耶尼、南を閻浮提、北を欝単越という。人類が棲息しているのは閻浮提である。日月も、須弥山を中心として運行するとしている。したがって「百億の須弥、百億の日月」とは、このような世界が百億ということである。
四天下=大鹹水海のなかにある四洲すなわち東弗婆提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越のこと。(また、四天下を説明し、須弥山の四方にあるとされる東勝身洲と南閻浮提洲と西牛貨洲と北倶盧洲をいう。)
南閻浮提=起世経巻一には「須弥山王の南面に洲あり、閻浮提と名づく。其の地縦広七千由旬にして、北は闊く南は狭く、婆羅門車のごとし。その中の人面もまた地の形に似たり。須弥山王の南面は天青瑠璃より成りて閻浮提洲を照らせり。閻浮提洲に一大樹あり、名づけて閻浮という。其の本は亦縦広七由旬にして…」とある。竜樹菩薩の大智度論三十五にも「閻浮は樹の名、その林茂盛、此の樹は林中において最も大なり、提は名づけて洲となす、此の洲上に此の樹林あり」等と述べられている。仏法有縁の人間の住する国土で、現代でいえば地球全体、全世界を意味する。法華経普賢品にも「閻浮提内広令流布」とあるのは、法華経が全世界に広宣流布するとの予言である。
十六の大国=土地が広く、人口も多い国を大国という。当時インドには、たくさんの国があり、大きさによって大中小と分けた。仁王受持品に、その名があげられている。「吾今三宝を汝等一切諸王に付嘱す。僑薩羅国、舎衛国、摩竭陀国、波羅捺国、伽夷羅衛国、鳩尸那国、鳩たん弥国、鳩留国、けい賓国、弥提国、伽羅乾国、乾陀羅国、沙陀国、僧伽陀国、ノ掘闍国、波提国、是くのごとき一切の諸国王等、皆般若波羅蜜を受持すべし」と。国を、『万国已上を大国と為し、万国已下四千已上を中国と為し、三千已下七百已上を小国と為し、六百已下三百已上は小にして国と名づけず、二百已下を粟散国と名づく』と分ける説もある。
日月度を失ひ=太陽や月の運行が正常でなくなること。日月の運行の度が違うこと。
赤日=太陽の色が異常に赤く変ずること。空に舞い上がった埃や火山灰等が日光をさえぎるために起こる現象と考えられる。わが国における古い記録としては、次のような例がある。「日本後紀」に「大同三年三月丙戌、日赤く光なし、……丁亥、是日、日赤く光なし」、「続日本後紀」に「承和八年四月癸卯、日赤きこと血の如し、須臾にして常に復す」、また「三代実録」の貞観十四年九月十六日癸未の項にも「日赤く光なし、月、元氐に宿る」と記されている。
黒日=太陽の黒点が異常に発達すること。あるいはまた、太陽が黒色に変わることで、いわゆる皆既日蝕のことか。黒日についての記録としては「三代実録」に「仁和元年五月二十二日丙午、酉時、日の色、黒く変ず。光散じて射の如し」とある。黒点については「文徳実録」に「仁寿元年十月甲戌、旦より日に精光なし、日の中に黒点あり、大きさ李子の如し」というのがある。なお、黒点が地球に対して磁気アラシの原因と考えられ、また気候等に強い影響を及ぼすと知られている。
二、三、四、五の日=太陽が同時に二、三、四、五と見えること。その原因については次の暈と共通する。古い記録で直接、二つ以上の日が見えたと記しているのは少なく、多くは「暈見ゆ」と書かれている。古い記録には、二つ見えたというのに日本紀略の天暦二年六月七日がある。三つ見えたというのは「扶桑略記」の昌泰四年(延長元年)二月一日甲寅の辰刻に「日三つ出づ」とある。
日輪一重二、三、四、五重輪=太陽の周囲に環状に暈ができること。「三代実録」に「元慶五年五月十六日癸亥、午の時、日に二重の暈あり、内黒く、外赤し」、「吾妻鏡」に「文応二年(弘長元年)四月二十八日己未、天晴る、夜に入り雨降る。今日午刻、暈見わる、その色青黄赤白なり」等の事例がある。光環ともいい、大気中に微細な氷の結晶や水滴が浮游したとき、光線の屈折によって太陽の周囲に見える輪状の光である。結晶の形によって、地平線と平行する大きな輪をつくることもある。
金星=太陽系のうち、水星についで太陽に近く、直径は一二一九二キロ。惑星のなかでもっとも明るく美しく輝くので、ヨーロッパでは、美と愛の女神の名をとってヴィーナスとよばれる。漢名では、太白星または天師星といい、夕方は西空に、明け方は東空に、ひときわ鮮やかな光を放つ。詩などでは、前者を宵の明星または「長庚」、後者を明けの明星または「啓明」と称する。昔から、この星に異常がなければ国は豊かに、民は栄えるが、もし運行の度を違えたり、星座が変わったり、異様な光を放つようなことがあれば、飢饉などの不祥事に見舞われるといわれている。
輪星=輪状のかさをもった星で、日月五星が輪星の中央を破ると国土が分散する、右を通れば国土安穏である。左を行けばまたよくないことがあるといい伝えられた。このような輪をもった星は土星以外にない。
鬼星=二十八宿の一つで南方に属す。鬼星の光が衰えるのは、不作の兆という。史記の天官書の註に「輿鬼の四星は天田を祠事するを主る、鬼星明大なれば穀成る、不明なれば百姓散ず」とある。
火星=太陽系のなかで四番目に太陽に近く、直径六七七八キロで地球の五三%、体積は一五%である。赤みがかったオレンジ色に輝き、極は白く輝いている。大気は存在するが、気圧は平均して八〇ミリバール。中国では五星中のケイコク星と称し、この星に少しでも変わったことがあると、残虐なことが盛んに行われ、疫病のために苦しむ者が国土に満ち、飢饉、兵乱が相次いで起こるといわれた。
水星=惑星のなかでもっとも太陽に近く、楕円軌道を描く。直径は四八四二キロで地球の三七%倍。大気の存在が確認されているが、その密度は、地球の大気の〇・三%という微量で、日射面は四三〇度Cの高温であるのに対し、日陰の所は零下一七〇度Cという厳寒である。中国では、五星中、辰星といい、北水の精であり、異変があれば水に関する妖災が起こると考えた。日没直後または日の出直前少時間だけ見られる。ときどき、太陽面上を通り過ぎるのが観測される。
風星=配属について、二十八宿中、昴、箕などの説があるが、つまびらかでない。八風を司り、井に宿れば、かならず風雨の変があるといわれている。
杏星=チョウとは、昔の中国で、陣営において用いられた鋼製の器具である。形は漏斗に似ており、昼は飲食を炊ぎ、夜は警戒用のドラとして用いた。杏星とは、この星座の形がこれに似ているので名づけられた。
南斗=二十八宿のなかで北宮(玄武)に属し、六星からなる。天子の事を占うのに、古来この南斗六星が用いられ、光が盛んで明るければ、王道が栄え、天下は平和である。光が弱ければ、その反対になるとされた。位置は天の北宮であるが、夏から秋にかけては、南方に見られるので南斗の名がある。
北斗=七つの星が斗(ヒシャク)状に並んでいるので北斗七星という。北天の大熊座、中国風でいうと天の中宮紫微垣の西外、大微宮の北にある。斗の柄にあたる第七星を揺光といい、一昼夜に十二方を指すので、古来これによって時を測った。北斗星の光が明らかであれば国は栄え、明らかでなければ衰えるという。また、七星のまわりに傍星が多い時は国家が安泰であるが、少なくなると天下に訴訟が多く、傍星が大きくなって北斗と合するようなことがあれば、兵乱が起こるといわれた。
五鎮の大星=太陽系の惑星である歳星(木星)、ケイ惑星(火星)、太白星(金星)、辰星(水星)、鎮星(土星)をいう。鎮星を中心に他の四星がこれを輔けているような配置をしているので、総称して五鎮という。中国人はこれらが天の五気、地の五行を司ると考えた。
国主星=地上における国主が天上に反映し、その運命を象徴すると考えられた星。大集経月蔵分護持品に、二十八宿と五星を須弥山および四洲に配し、その国を守らしめることが説かれている。古来、中国においても、二十八宿、五星が司る諸国の配分が繰り返し議論され、時代によって種々の説が立てられた。
三公星=三公とは、周の制度において、王を補佐する太師、太傅、太保をいう。北斗の柄の東と魁の西とに位置している形が三公を連想させるので名づけられた。太師は日本の太政大臣にあたり、太傅、太保は左右の大臣に相当する。
百官星=文武百官を司ると考えられたので、このように名づけられたのであろう。
鬼火=一般には、湿地に小雨が降る闇夜などに燃え出て、空中に浮游する青い火。これは燐化水素の燃焼であるとの説があるが不明である。ここでいう本来の鬼火とは、衆生の乱れを鬼が怒って起こすと考えられた、原因不明の火事をさす。中国の吉蔵の疏には「鬼衆生を瞋れば、悪火夜起らしめ、亦人をして熱病せしむ」と述べている。
龍火=竜の怒りによって起こされる火。竜は水から火を吹くなどといわれ、恐れられた。落雷によって起こる火災をさしたもの。
天火=天の怒りによって起こると考えられた火災。
山神火=神仙の怒りによって起こるとされた火災。火山の爆発などによるものか。
人火=人の過失によって起こる火災。
樹木火=日照りがつづいて空気が乾燥しているとき、摩擦によって樹木から自然に火が出て山火事になることがある。
賊火=盗賊の放火等による火災。
大水百姓を笠没し(漂没し)=百姓とは一般大衆。笠没とは、ただよわせ押し流し、溺没させること。すなわち、大洪水が多くの民衆を溺死させ、生産施設を流失すること。
冬雨ふり夏雪ふり=冬、連日、雨が降り、夏に雪が降ったのは、日本においては万寿四年(一〇二七年)四月に大雪が降り、厚さ四尺五寸も積もったことが、日本一覧の図にある。また承平元年(九三一年)の夏、六月八日、大雪が降り、天慶二年(九三九年)平将門が反逆した。
雷電霹|(靂)=雷電は大気中に起こる放電現象で、夏の熱雷、春さきや冬に起こる前線雷、うず雷など、各種ある。このうちもっとも烈しく起こる代表的な雷は、夏の熱雷で、これは強い日射によって特定の地域が熱せられ、そこに烈しい上昇気流が生ずることによって起こる。霹|とは、激しく盛んに雷鳴することで、したがって、冬の期間に猛烈な雷電が起こるということは異常の現象である。
赤水・黒水・青水=烈しい風で砂塵が巻き上げられたり、火山の爆発で火山灰が高空に吹き上げられたりした場合、雨がそれらの砂塵や火山灰を含んで着色する例がある。サハラ砂漠の砂嵐によって、ヨーロッパやロシアに赤い雪となって降ることも確認されている、と。
土山・石山を雨らし=土や石の山が降るというのではなく、土や石が降って山のようになること、か。火山の大爆発と考えられる。
山を浮べ=大洪水が平野一面を没し、ただ山だけが水の中に孤立している状態をいったものであろう。
大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風=黒風、赤風、青風は、巻き上げた砂塵を運んでくるもの。天風、地風とは、天を吹き地を吹くさま。竜巻、旋風であろう。火風とは乾燥期の熱気、水風とは雨を混じえた強風であろうか。
亢陽=大地も空気も熱しきっているありさま。
炎火洞然=熱した空気が、ちょうど炎が燃え上がるように、大地から昇る状態。
百草亢旱=いっさいの草が乾燥してしまうこと。
五穀=米、麦、粟、黍、豆の五種の穀物。また、穀物の総称。
土地赫燃=大地が高温に熱せられること。
四方の賊=四方とは東西南北の四方。国の四囲すなわち諸外国。「四方の賊来って国を侵し」とは、外国から攻められて国土を侵され征服されることで、他国侵逼難をいう。また自界叛逆難をもいうことがある。
内外の賊=一義には、内とは内親で父方の親類。外とは外戚で母方の姻戚をいう。「内外の賊起り」とは、国内における諸勢力が、王あるいは国家に叛いて乱を起こすことで、いわゆる自界叛逆難である。
火賊・水賊・風賊・鬼賊=上三つは火災、水害、風害等の災害に乗じて悪事を働く賊。鬼賊は人さらいのことか。
刀兵劫起らん=刀兵とは兵革の災のこと。劫は劫掠の略で、おびやかし奪いとること。民衆が命や財物を奪われ、おびやかされる戦乱がしばしば起きること。また仏教においては、宇宙・世界は成・住・壊・空の四段階を繰り返すと説く。成とは世界が形成されていくこと。住とはそこに人間等の生物が生息し活動する期間。壊とは崩壊しゆく段階。空とは崩壊し尽くして空の状態になること。この空の状態からふたたび形成が行われ、住・壊・空と繰り返していくのである。この成・住・壊・空を一通り経る期間を大劫といい、一つ一つを中劫という。一中劫は二十小劫より成る。大の壊劫においては、火水風の「大の三災」が起こって世界が崩壊していくのであるが、各小劫の末においても「小の三災」が起こる。これが穀貴・疫病・兵革の三災である。ゆえに正法誹謗の罪によって、恐ろしい兵革の災が起ることを「刀兵劫」と言われたのであろう。
大集経に云く=大集経虚空目分護法品の文。
国王=国土を統率し、臣民を治める元首。行いが仁義に合し、民の帰依する者をいう。また功徳は帝に次ぎ、徳政を政治の主とする者ともいう。日蓮大聖人は「諌暁八幡抄」に「王と申は天・人・地の三を串を王と名づく。天人地の三は横也。たつてん(立点)は縦也。王と申黄帝、中央の名也。天の主・人の主・地の主を王と申。」(昭定・一八四八頁)と述べられている。王となる原因の修行については、心地観経に「諸王の受くる所の諸の福楽は往昔曾つて三の浄戒を持し戒徳薫修して招き感ずる所人天の妙果王の身を獲」とある。これらの文を引いて、大聖人は「十法界明因果抄」に「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り、大乗戒を破する者は六道の王と成り、持する者は仏と成る」(昭定・一七七頁)と述べられている。
無量世=生まれてから死ぬまでの一生を一世といい、数えられないほどの多くの生死生死を重ねることを無量世という。
施・戒・慧=布施・持戒・智慧の略で、六波羅蜜の修行である。波羅蜜とは、度彼岸、到彼岸等と訳す。布施(檀)、持戒(尸羅)、忍辱(侠提)、精進(毘梨耶)、禅(禅那)、智慧(般若)の六つあるので六波羅蜜という。釈尊は通教時において、菩薩がこの六法を修行すれば、生死の此岸より、涅槃の彼岸にいたることができると教えた。法華時の説法では、開経の無量義経で「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す」と説き、妙法を信行する功徳にいっさいが含まれ、六度の修行は不要となると説く。
我が法の滅せんを見て=仏の正法が滅しようとするのを見ながら、捨てて擁護しないならば、王が無量世のあいだ積んできた福運も、ことごとく尽きて三災七難が起こるであろう、との経文。
穀貴=五穀・穀物の収穫が減少し、値が高くなって、食糧の入手が困難になること。貴は「たかし」。穀物は主食であり、食は生活のもっとも基本であるから、穀物の価の騰貴はいっさいの物価の暴騰につながる。
兵革=兵とは、本来、剣などの武器、革とは甲冑の意。兵革の災とは戦乱のこと。
教令=将軍等が下す命令を教令といった。ここでは総じて王が臣下、庶民に命令すること。
侵嬈=侵略のこと。他国に攻め込み、占領して自分の思うままに振舞うこと。侵は「侵す」こと、嬈は「なぶる」、「もてあそぶ」の意。侵逼に同じ。
暴火横に起り=暴火とは大火。横とは、起こるはずがないのに、原因不明のままに、あちこちに起こることを意味する。
内外の親戚=父方の親類を内親、母方の親類を外戚という。
柱師=村主と将帥のこと。大集経には「村主将帥」とあるところを、ここでは柱師として引用されている。将帥とは、全軍を指揮し統率する大将のこと。
宰官=宰は「つかさどる」、官は「つかえる」「つとめる」という意。前者が役所の長官等をさすのに対して、後者は一般吏員をさす。合わせて官吏一般を通称したもの。
四経の文=金光明経、大集経、仁王経、薬師経の文。
盲瞽の輩=ここでは仏法の正邪のわからない人の意。盲は生後の失明、瞽は生まれながらの盲目をいう。  
[第三問]

 

客色を作して曰く、後漢の明帝は、金人の夢を悟りて、白馬の教を得、上宮太子は、守屋の逆を誅して、寺塔の構を成しぬ。爾してより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専らにす。然れば則ち、叡山・南都・薗城・東寺、四海・一州・五畿・七道、仏経は星のごとくに羅(つら)なり、堂宇は雲のごとくに布けり。鶖子(しゅうし)の族は則ち鷲頭(じゅとう)の月を観じ、鶴勒(かくろく)の流は亦鶏足(けいそく)の風(かぜ)を伝ふ。誰をか一代の教を褊(さみ)して、三宝の跡を廃すと謂はん哉。若し其の証有らば、委しく其の故を聞かん。
[第三答]
主人喩して曰く、仏閣甍(いらか)を連ね、経蔵軒を並ぶ。、僧は竹葦(ちくい)の如く、侶は稲麻(とうま)に似たり。崇重(そうじゅう)年旧(ふ)り、尊貴日に新なり。但し、法師は諂曲にして、人倫を迷惑し、王臣は不覚にして、邪正を弁へること無し。
仁王経に云く、「諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別(わきま)へずして、此の語を信聴し、横(ほしいまま)に法制を作りて仏戒に依らざらん。是れを破仏・破国の因縁と為す」と。
涅槃経に云く、「菩薩、悪象等に於ては、心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては、怖畏の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては、三趣に至らず。悪友の為に殺さるれば、必ず三趣に至る」と。
法華経に云く、「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。或いは阿練若に、納衣にして空閑に在りて、自ら真の道を行ずと謂ひて、人間を軽賎する者有らん。利養に貪著するが故に、白衣の与に法を説きて、世に恭敬せらるること、六通の羅漢の如くならん。乃至、常に大衆の中に在りて、我等の過を毀らんと欲して、国王・大臣・婆羅門・居士、及び余の比丘衆に向ひて、誹謗して我が悪を説きて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂はん。濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入りて、我を罵詈毀辱せん。濁世の悪比丘は、仏の方便、随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し、数数擯出せられん」と。
涅槃経に云く、「我が涅槃の後、無量百歳に、四道の聖人も悉く復涅槃せん。正法滅して後、像法の中に於て、当に比丘有るべし。像(かたち)を持律に似せ、少(わず)かに経を読誦し、飲食を貪嗜(とんし)して、其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細めに視て徐(おもむ)ろに行くが如く、猫の鼠を伺ふが如し。常に是の言を唱へん、我は、羅漢を得たりと。外には賢善(けんぜん)を現はし、内には貪嫉(とんしつ)を懐かん。唖法(あほう)を受けたる婆羅門等の如く、実には沙門に非ずして、沙門の像(すがた)を現はし、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」と。
文に就きて世を見るに、誠に以て然なり。悪侶を誡めずんば、豈善事を成さん哉。
客色を作して曰く=顔色を変えておこること。色を作して、色を作えて、ともよむ。
後漢の明帝=後漢第二代の皇帝(二七年〜七五年)で、第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外政に力を尽くし、班超を西域につかわして鎮撫し、国威を宣揚した。仏祖統紀の明帝の項に、帝が丈六の金人が庭に飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、だれも答えられなかった。そのとき、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡愔、秦景、博士の王遵ら十八人を西域につかわし、それを求めさせたとある。また、金湯編には、これらの十八人が天竺の隣の月支国に行ったとき、摩騰と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の経典六十万言を得、それを白馬にのせ、摩騰と竺法蘭も連れて永平八年に洛陽に帰った。帝はおおいに喜び、摩騰をまず鴻臚寺に迎え、ついで永平十年、勅令して洛陽の西に白馬寺を建てたという。
金人の夢を悟りて=金人とは金色に輝く人、仏・仏像のこと。後漢の明帝が永平七年、夢に金人を見、西方の聖人仏の前兆と考え、仏像・経典を白馬に乗せて来たるを迎え入れた。同十年丁卯白馬寺を立つ。同十五年正月朔日五岳の道士表して云く『仏法は虚偽なり』と。周く十五日に経等を焼くと。
白馬の教=仏像・経典が白馬にのせられて中国に伝来したので、仏教のことを白馬の教ともいう。
上宮太子=第三十二代用明天皇の第二皇子(五七四年〜六二二年)、母は穴穂部間人皇后。敏達三年正月一日(一説には五七二年・敏達元年という説もある)、手に仏舎利をにぎり、身から光明を放って、厩の中で誕生されたので、厩戸皇子とよばれた。八人の奏上することを一時に聞き分けることができたので、八耳王子または豊聴耳命ともいう。上宮太子の名は南宮上殿におられたところからよばれた。推古天皇の皇太子として政を摂し、冠位十二階・憲法十七条を制定。深く仏法を信じ、当時、蘇我氏の崇仏と物部氏の排仏派が相争っていたのを、太子は蘇我氏を立てて仏教興隆の礎をつくった。すでに王子のころ、朝鮮から渡来した僧をさして「わが弟子なり」といわれ、渡来の僧らも「わが師なり」と敬したという(「開目抄」『日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子なり。御年六歳の時百済・高麗・唐土より老人どものわたりたりしを、六歳の太子我弟子なりとをほせありしかば、彼老人ども又合掌して我師なり等』昭定・五七四頁)。十七条憲法にも「篤く三宝を敬え」と仏教の信奉を明言し、自ら四天王寺をはじめ諸国に寺院を建立、法華、勝鬘、維摩の三経を鎮護国家の三部経と定め、義疏も作った。日本における仏教興隆の功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物であり、ひいては大化の改新の前駆となった改革者であった。
守屋の逆を誅して=守屋とは物部守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第三十代欽明天皇の十三年(五五二年)十月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡蓋、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏のあいだで争いがつづき、国内は乱れ災害が続出した。第三十二代用明天皇崩御のあと、五八七年、物部守屋の一族と聖徳太子および蘇我馬子とのあいだに決戦が行われ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立した。
寺塔の構を成し=聖徳太子が寺や塔を建立したこと。法隆寺や四天王寺、大安寺等は太子の建立と伝えられている。
叡山=比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦四年(七八五年)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦七年である。これがのちの延暦寺一乗止観院、すなわち東塔の根本中堂である。以後十数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦二十一年和気弘世および真綱の発願により、高雄山寺に南都六宗の碩徳と法論してこれを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このとき、桓武天皇は勅使をもって大師を讃嘆された。このあと入唐して延暦二十四年帰朝、大同元年(八〇六年)天台宗として開宗した。以後も法華円頓戒の建立をめぐって奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後七日の弘仁十三年(八二二年)六月十一日、ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立の勅許が下された。翌年延暦寺の号を賜い、以後、義真、円澄、安慧、慈覚、智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言にそまり、天台宗といっても大聖人に批判される姿になってしまった。
南都=奈良〜長岡〜平安京と遷都したなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。ここでは奈良七大寺のこと。すなわち東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)、元興寺(華厳宗、いまは真言宗)、大安寺(もと三論および法相宗)、薬師寺(法相宗)、西大寺(律宗)、法隆寺(法相宗)。
薗城=琵琶湖の西岸、大津にあり、三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で、延暦寺の山門派と対抗する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武十四年(六八六年)完成した。天智、天武、持統の三帝の誕生水があるので御井(三井)といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安二年(八五八年)当寺の付嘱を受け、慈覚を導師として落慶供養を行い、貞観八年(八六六年)延暦寺別院と称した。正暦四年(九九三年)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約五百年にわたって山門、寺門の対立抗争がつづいた。
東寺=教王護国寺ともいい、古義真言宗東寺派の大本山。平安京遷都とともに延磨十五年(七九六年)羅城門の東に左京・東国の鎮護として造営された。弘仁十四年(八二三年)嵯峨天皇が空海に賜って以後、真言密教の道湯となった。
四海・一州=四海とは四方の海、天下、国内、四方の外国すなわち世界等さまざまの意で用いられるが、ここは国内の意。したがって、四海・一州とは、日本国中のこと。
五畿=畿とは帝都に近い帝王直轄の地域で、普通、帝都より四方五百里(中国里)以内の地をいった。わが国では、京都を心中として山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国を畿内と定め、五畿とよんだ。
七道=東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七つの街道、また七つの地方をいう。
仏経=ここでは仏像と経巻との意。
堂宇=堂は仏像を安んずるところで、宇は経論を置くという意。
鶖子の族=鶖子とは舎利弗のこと。目が鶖に似ていたから、このようによばれたとも、母の訳名をとって名づけられたともいわれる。鶖子の族とは、観法を尊ぶ流派を総称している。
鷲頭の月を観じ=鷲頭とは、王舎城の東北にある霊鷲山の頂との意。この霊鷲山で一代仏教の肝心、法華経が説かれた。「月を観る」とは、法華経により仏慧を学ぶこと。
鶴勒の流=鶴勒とは付法蔵の第二十三祖鶴勒夜那のこと。法が釈尊から大迦葉に伝えられ、鶴勒に至るまで脈々と伝えられたことを「鶴勒の流」という。観法に対して教法を尊ぶ流派の総称。鶴勒夜那の名前を出したのは、「鶖子」「鷲頭」「鶴勒」「鶏足」と鳥の名前によせて対句的に述べるために、付法蔵二十四人の代表としてあげられたものであろう。したがって教法を正しく受け継いで弘法した付法蔵の二十四人の人びと全体と考えられる。
鶏足の風を伝ふ=鶏足とは、伽耶城東南方にある鶏足山のこと。付法蔵の第一、禅宗が祖と仰ぐ迦葉が、この山の洞窟に入定し、如来の遺法と衣を奉持して、弥勤に授与するために、弥勒仏の出世を待っているという。「鶏足の風を伝う」とは、付法蔵第一の迦葉以来二十四人により正しく教法は伝えられ、いまなおその伝統はくずれないとの意。また「鶏足」とは、大迦葉のことでもある。
誰をか一代の教を褊し=一代の教を褊しとは釈尊一代の教、すなわち仏教を見下げ、卑しめ、軽んずること。褊すとは狭すとおなじ、広いことを狭くすることから、卑しめ、軽んずることをいう。
三宝の跡を廃す=三宝は仏・法・僧。三宝の跡を廃すとは仏教の滅びること。
仏閣=閣は高殿、楼観、宮殿をいい、仏閣とは、立派な門構えをもった仏教寺院をいう。
甍=家の上棟をいい、転じて屋根瓦、瓦ぶきの屋根をいうようになった。
僧は竹葦の如く、侶は稲麻に似たり=僧侶二字で熟するが今は、僧と侶とに分けてあるから、僧を師分とし侶を弟子分とする。竹葦、稲麻は数の多いことのたとえ。
崇重年旧り、尊貴日に新なり=仏閣、僧侶を民衆が崇め重んずるようになって年久しい。しかも、仏教を尊ぶ民衆の信仰は日々にあらたで、つぎつぎと堂々たる仏閣が建築され、いよいよ興隆の一途を示しているとの意。
諂曲=財力、権力のある檀那にへつらい、自分の意志をまげること。
人倫を迷惑し=人倫とは、人の行ない守るべき道徳をいう。人倫に迷惑しとは、正法正義が隠没し、いっさいの人倫が乱れてきていることをいう。
不覚=覚悟、自覚が確かでないこと。無認識、無自覚、無智なこと。
仁王経に云く=仁王般若波羅蜜経嘱累品の文である。
悪比丘=比丘とは梵語で、仏門に帰依して具足戒を受けた男子、すなわち男の僧をいう。悪比丘とは、名利のためにかたちばかり比丘となり、邪法を説く者をいう。
名利=名誉と利益。
破仏法の因縁=悪僧が邪教や権小の教えに固執して正法を破ること。
破国の因縁=仁王経には悪比丘が邪義を構え、国主等がその教えに従って道理に外れた法を制定することは、国の亡ぶ因縁であると云われている。破仏法の因縁は即、破国の因縁として現れる。
横に法制を作りて=横にとは、仏法の法理に順じない、すなわち道理に従わないこと。法制とは法律と制度の略で、法律の規定そのもの、および法律によって維持される制度の総称。
仏戒=仏のいましめ。
涅槃経=釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教えで、大般涅槃経ともいう。
小乗に 東晋・法顕訳の「大般涅槃経」三巻、
大乗に 北涼の曇無讖三蔵訳の四十巻(北本)、
宋の慧厳、慧観等が法顕の訳を対照し北本を修訂した三十六巻(南本)とがある。
内容は、涅槃経のなかに「秋収冬藏して、さらに所作なきがどとし」と自ら位置を判じているように、法華経の真実なることを重ねて述べた経典で、滅後の護持を説いた、法華経の流通分である。ここに引用されたのは、北本第二十二巻、光明遍照高貴徳王菩薩品の文である。
悪知識=善知識に対する語で、悪法邪法を説いて仏道修行を妨げる者をいう。涅槃経の、ここに引用された文の全文は「菩薩摩訶薩、悪象等において心に怖畏することなく、悪知識においては怖畏の心を生ぜよ。何をもってのゆえに。この悪象等は唯よく身を壊りて心を壊る能わず、悪知識は二倶に壊るゆえに。この悪象等は唯一身を壊り、悪知識は無量の善身無量の善心を壊る。この悪象等は唯よく不浄の臭き身を破壊す、悪知識はよく浄身および浄心を壊る。この悪象等はよく肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る。この悪象等は但身の怨となり、悪知識は善法の怨とならん。このゆえに菩薩、常にもろもろの悪知識を遠離すべし」とある。
三趣=地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。
悪友=悪知識と同じ。悪友の為に殺されるとは、仏道修行を妨げられ、菩提心を断たれること。
法華経=釈尊一代五十年の説法のうちではじめの四十二年間にわたって、華厳、阿含、方等、般若と方便の諸経を説き、最後に「四十余年未顕真実」「世尊法久後、要当説真実」と述べて説かれた最高真実の教えが法華経である。六訳三存といって、
一、法華三昧経六巻 魏の正無畏訳(二五六年)
二、薩曇分陀利経六巻 西晋の竺法護訳(二六五年)
三、正法華経十巻 西晋の竺法護訳(二八六年)
四、方等法華経五巻 東晋の支道根訳(三三五年)
五、妙法蓮華経八巻 姚秦の鳩摩羅什訳(四〇六年)
六、添品法華経七巻 隋の闍那崛多および達磨笈多の共訳(六〇一年)
と六訳があったが、いまは正法華経、妙法蓮華経、添品法華経の三訳だけが残っている。この三本のなかでも、羅什訳の妙法蓮華経がもっとも法華経の真意をよく伝える名訳として、後世よく読誦せられ、大聖人もこれを用いられている。説処は中インド摩竭陀国の首都・王舎城の東北にある耆闍崛山、すなわち霊鷲山で前後が説かれ、中間の宝塔品第十一の後半から、嘱累品第二十二の終わりまで虚空中に移ったので、霊山会と虚空会の二処三会の説法をいう。内容は前十四品の迹門で舎利弗等二乗の作仏、女人、悪人の成仏を説き、在世の衆生を得脱せしめたのち、宝塔品、提婆品で滅後の弘経をすすめ、それに応えて迹化他方が勧持、安楽行の二品で誓いを述べる。本門にはいって、迹化、他方の滅後末法の弘経を破して、涌出品で本化地涌の菩薩を召し出し、寿量品で仏寿の永遠を明かし、仏教の肝心が説き示される。このあと、神力、嘱累では付嘱の儀式があり、その他の品々で無量の功徳が説かれるのである。ここに引かれた文は勧持品第十三で、二十行の偈に、三類の強敵を示す中の第二道門増上慢、第三僣聖増上慢の文である。この誓言は、一往は迹化他方の誓いであるが、再往は、次の安楽行品が正像二時の迹化の弘教であるのに対して、末法の本化の弘教の様相を示した依文である。
悪世=闘諍堅固・白法隠没の五濁悪世のこと。すなわち末法の世。
邪智=よこしまな智慧。悪智恵。
諂曲=権勢にへつらい、自分の意志をまげること。
我慢の心=我慢とは自分を恃みたかぶって、他をあなどること、我意を張り他に従わぬことをいう。未だ法を得ないのに得たりと自負して、我を張り他をあなどること。慢心盛んにして、正法正義を信じ実践する者を誹謗、罵詈、迫害することが我慢の心である
阿練若=阿蘭若、阿蘭那、阿蘭拏、阿練茹とも書く。訳して無諍声、遠離処、閑静処、閑静、空閑処、空寂等という。森林、原野や荒地などを含めて、仏道修行の比丘の住処をいう。法華経勧持品偈に出る語。本文の意は、僣聖増上慢の者が静かな山寺などにこもって、あたかも仏道を成じた聖者のごとく尊まれながら、邪法を説くという。しかし、阿蘭若比丘は、一に出家在家を遠離すと説かれ、その真摯な修行は、大乗仏教の源流を拓いたと考えられる。
納衣=僧衣、袈裟のこと。もともと糞掃衣ともいい、人が捨ててかえりみない布帛を縫い集めて作った法衣。僧がこれを着すのは十二頭陀行の一つという。
空閑=阿練若と同意で、人里離れた静かな所。
人間=人の住む所、世間、俗界。ここでは俗世のこと。
利養に貪著す=利養とは自利自養のこと、宝積経にいう利養縛のこと、自己の利益のみを考えること。貪著とは、貪り執著すること。
白衣=釈尊在世のインドでは、俗人は白衣を着たので、僧侶の穢色に対して、在家の信者をこのようにいう。
六通の羅漢=六神通をもった阿羅漢。六神通とは、仏や菩薩などが具えている六種の自在無礙な能力のこと。神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通の六種。神足通とはどこにでも行く事のできる能力、天眼通とは透視して何でもみる事のできる能力、天耳通とは何でも聞く事のできる能力、他心通とは人の心を読む事のできる能力、宿命通とは人の過去世について知る事のできる能力、漏尽通とは一切の迷いを断じ尽くす能力をいう。阿羅漢は無学、無生、殺賊、真人、応供と訳す。(1)声聞の四果(須陀亀・斯陀含・阿那含・阿羅漢)の第四位。三界(欲界・色界・無色界)の見惑・思惑の煩悩を断じて尽智を得、修学が完成して学ぶべきことがなくなり、世の供養を受けるべき位に至ったもの。衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。(2)如来の十号の一。前項と区別するために、応供または阿羅訶を使用するが、意味は同じ。ただし、大乗仏教が興起して以後は、阿羅漢の称は小乗の聖者の意味に限定された。法華経序品で第一番に列座される声聞は「皆是阿羅漢」である。
婆羅門=インド古来の四姓(カースト)の一つで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉事し、浄行を修するという意味からこの名がある。自ら梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定される、という思想があったからもっとも尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
居士=家長、長者と訳す。資産家、富豪のこと。また出家しないで仏門に帰依した男子の総称。
邪見=五見・十惑の一つで、因果の道理を否定するよこしまな見解・妄見。総じて、正しい道理に違背するいっさいの妄見。
外道=仏教以外の低級、邪悪な教え。総じて真理にそむく説のこと。ここでは小乗・権経の者が正法を行ずる者を誹謗していう言葉。
濁劫=劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁の五濁に支配される時代。《劫濁》天変地異などが多くなる時代そのものの汚れ。《煩悩濁》衆生の煩悩が盛んになること。《衆生濁》衆生の心身が衰退し、苦が多く福が少なくなるという、衆生の資質そのものの低下。《見濁》見とは見解のこと。邪見や偏見(一方に偏った見解)、有身見(我執)などの悪見が盛んになること。《命濁》衆生の寿命が次第に短くなり、ついには十年にまで減少する。「法華初心成仏鈔」に「問云、今日本国を見るに、当時五濁の障重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思甚し。かゝる国かゝる時には、何の経を弘むべき耶。答云、法華経を弘むべき国也。」(昭定・一四一四頁)と、五濁悪世にこそ法華経を弘むべき必要を述べられている。
悪鬼其の身に入りて=悪鬼とは奪命者、奪功徳者の意で、邪法邪義の流れを汲む思想、あるいは新興宗教の教え等である。「其の身」とは国王、大臣以下、一切民衆である。
仏の方便、随宜所説の法=仏が方便として、宜しきに随って説いた所の法。すなわち、衆生の機根に従って説いた方便権教のこと。爾前の諸経に執着する邪宗の僧らは、それが随自意の実教である法華経と、まったく異なることを知らないのである。
顰蹙=顔をしかめて憎むこと。謗る意中を身にあらわしたもの。
数数擯出せられん=数数とは、しばしば。擯出とは、しりぞけ、のけものにし、その居処を追い出すこと。擯とは棄てるの意。なお、法華経勧持品第十三の「数数擯出せられ」の次下には「塔寺を遠離せられん」の文がある。この遠離於塔寺の文を、日蓮大聖人が、なぜ勧持品十三行の偈から省略せられたか、古来多くの説がある。
涅槃=滅、滅度、寂滅、円寂等と訳す。生死の境を出離すること。また、自由、安楽、清浄、平和、永遠等を備えた幸福境涯をいい、慈悲、智慧、福徳、寿命の万徳を具備している理想の境涯ともいえる。外道では、六行観によって非想天に達すれば、涅槃を成就できると考えた。小乗仏教では、煩悩を断じ灰身滅智した境涯を涅槃とし、大乗教では他方の浄土へ往生すると説いた。法華経では、妙法を信ずることによって、煩悩即菩提、生死即涅槃を証することができる。ここでいっているのは、滅、入滅の意。なお、この引用文は北本巻四、如来性品第四の一の略引である。
無量百歳=無量も百歳も、ともに長い年月をあらわす。すなわち仏滅後、正法から像法へ、像法から末法へと時が移る年月。大聖人は「下山御消息」に、この経文を指して「一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て、未来悪世を鑑み給て記し置き給ふ記文に云く、「我涅槃の後無量百歳」云云。仏滅後二千年已後と見へぬ。」(昭定・一三一九頁)と述べられている。
四道の聖人=四道とは、一義には須陀亀・斯陀含・阿那含・阿羅漢の声聞の四果といい、一義には初依、二依、三依、四依の聖人ともいう。聖人の聖とは本来、耳の穴がよく通って、声がよく聞こえることを意味し、聖人とは普通人の聞き得ない天の声をよく聞き得る人の意。儒教では、知徳がすぐれて万事に通達し、万人の仰いで師表とすべき理想の人物をいった。尭、舜、孔子等がそれで、唐以後は天子の尊称にも用いられた。仏法においては、智慧が広大無辺で、慈悲心の深大な人、すなわち、その時に適った正法をもって、民衆を救済する指導者、正師、仏をいう。大聖人は「下山御消息」にこれをさして「四道の聖人悉く復、涅槃せん」云云。付法蔵の二十四人を指すか。」(昭定・一三一九頁)と述べられている。
像法=像法時の略。すべての仏に正・像・末があるが、釈尊の場合、一般に滅後一千年間を正法、次の一千年を像法、以後を末法とする。像法時は、教法は存在するが、人びとの信仰がようやく形式に流れ、真実の修行が行われず、証果を得る者がない。「教行証御書」には「正法には教行証の三倶に兼備せり。像法には有教行無証。今入末法有教無行証在世結縁者無一人。(正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入りては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無し)」(昭定・一四七九頁)と述べられている。
像を持律に似せ=律とは戒律である。邪宗の高僧たちが、外面はあたかも戒律を保っているかのように、像を似せること。
飲食を貪嗜し=飲み物や食べ物を貪り好むこと。
長養=育て養うこと。
袈裟=不正雑色の意。僧侶が、左肩から右腋下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条、七条、九条の三種がある。壊色、功徳衣、無垢衣、忍辱鎧、福田衣ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せ、衣としたのが、その由来という。以来、仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するようになった 。
猟師の細めに視て徐ろに行く=猟師が獲物を見つけて、細目でにらみながら、気づかれないように静かに、近づいていくようす。邪法の僧侶が金持ちの信者に取り入る様を譬えたもの。
外には賢善を現はし=外面は、さも賢者で、善良であるかのごとく見せかけること。心のなかでは欲が深く、信者の布施を貪り、正しい仏法を受持する人を妬んで、さまぎまに妨害する。
唖法=外道であるバラモンの修行の一つで、無音の行。人に向かってものをいわず、黙りこんでしまうのを至道とする。邪宗の僧が、姿ばかり飾って説法もできなければ、信者の指導もでぎず、また法門のことを質問されても答えられない様を、唖法のバラモンに譬えたもの。
沙門=勤息と訳す。勤とはつとめる、はげむ意。息とはとどめる、禁止する意。したがって勤息とは、善を勤め悪を息める人の意。出家した者の総称である。剃髪して俗を離れ、修行によって善に親近し、悪をとどめ、悟りの道を求めて精進する人々のことである。元来は仏教に限らず一般に用いられたが、後に仏教徒として出家した者のことを指すようになった。日本でも「出家沙門」として、同義語のごとく扱われている。日蓮聖人も最初は「天台沙門」と称していた時もあったが、次第に法華経を弘め色読体験して、「仏使」の自覚を深められるに至り、「本朝沙門」(『本尊抄』等)また「扶桑沙門」(『法華取要抄』等)と称するようになり、更に「釈子日蓮」(『撰時抄』)と称するに至る。「日本の柱」とならんといい、「閻浮提第一の法華経の行者」といわれた聖人は、日本を代表する沙門である。
世=現代の世相。
誠に以て然なり=まことに経文に説かれているとおりの姿である。
善事=一般大衆を責実の幸福へ導くこと。  
[第四問]

 

客猶憤(いきどお)りて曰く、明王は天地に因りて化を成し、聖人は理非を察して世を治む。世上の僧侶は、天下の帰する所也。悪侶に於ては、明王信ずべからず。聖人に非ずんば、賢哲仰ぐべからず。今賢聖の尊重せるを以て、則ち龍象の軽からざるを知る。何ぞ妄言を吐きて強(あなが)ちに誹謗を成す。誰人を以て悪比丘と謂ふ哉。委細に聞かんと欲す。
[第四答]
主人の曰く、後鳥羽院の御宇に、法然といふもの有り、撰択集を作れり。則ち一代の聖教(しょうぎょう)を破し、遍く十方の衆生を迷はす。
其の撰択に云く、「道綽(どうしゃく)禅師、聖道・浄土の二門を立て、而も聖道を捨てて、正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは、之に就きて二有り。乃至、之に准じて之を思ふに、応(まさ)に密大及以(および)実大をも存すべし。然れば則ち、今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等八家の意、正(まさ)しく此に在る也。曇鸞(どんらん)法師の往生論の注(ちゅう)に云く、謹みて案ずるに、龍樹菩薩の十住毘婆沙(びばしゃ)に云く、菩薩の阿毘跋致(あびばつち)を求むるに、二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。此の中の難行道とは、即ち是れ聖道門也。易行道とは、即ち是れ浄土門也。浄土宗の学者、先づ須く此の旨を知るべし。設(たと)ひ先に聖道門を学べる人と雖も、若し浄土門に於て其の志(こころざし)有らん者は、須く聖道を棄てて浄土に帰すべし」と。
又云く、「善導(ぜんどう)和尚、正・雑(ぞう)二行を立て、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経(かんぎょう)等の往生浄土の経を除きて已外(いげ)、大小乗、顕密の諸経に於て受持・読誦するを、悉く読誦難行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除きて已外、一切の諸仏・菩薩等、及び諸の世天等に於て、礼拝恭敬するを、悉く礼拝雑行と名づく」と。
私(わたくし)に云く、「此の文を見るに、須く雑を捨てて、専を修すべし。豈、百即百生の専修正行
を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行に執せん乎。行者能く之を思量せよ」と。
又云く「貞元(じょうげん)入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より、法常住経に終るまで、顕密の大乗経、總じて六百三十七部・二千八百八十三巻也。皆須く読誦大乗の一句に摂(せつ)すべし。当に知るべし、随他の前には、暫く定散(じょうさん)の門を開くと雖も、随自の後には、還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後、永く閉ぢざるは、唯是れ念仏の一門なり」と。
又云く、「念仏の行者は必ず三心を具足すべきの文。観無量寿経に云く、同経の疏(しょ)に云く、問ふて曰く、若し解行の不同、邪雑の人等有りて、外邪異見の難を防(ふせ)がん。或いは行くこと一分二分するに、群賊等喚(よ)び廻すとは、即ち別解・別行の悪見人等に喩ふ。私に云く、又此の中に、一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは、是れ聖道門を指すなり」と。
又最後結句の文に云く、「夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中には、且く聖道門を閣(さしお)きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正・雑二行の中には、且く諸の雑行を抛(なげう)ちて、選びて応に正行に帰すべし」と。
之に就きて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引きて、聖道・浄土、難行・易行の旨を建て、法華・真言、惣じて一代の大乗、六百三十七部・二千八百八十三巻、一切の諸仏・菩薩、及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或いは捨て、或いは閉ぢ、或いは閣き、或いは抛つ。此の四字を以て、多く一切を迷はし、剰(あまつさ)へ三国の聖僧・十方の仏弟を以て、皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若人不信毀謗此経、乃至、其人命終入阿鼻獄」の誡文に迷ふ者也。於是に、代末代に及び、人聖人に非ず。各(おのおの)冥衢(みょうく)に容(い)りて、並びに直道を忘る。悲しいかな、瞳矇(どうもう)を樹(う)(拊)たず。痛しいかな、徒に邪信を催(もよお)す。故に上国王より、下土民に至るまで、皆経は浄土三部の外に経無く、仏は弥陀三尊の外に仏無しと謂へり。
仍りて、伝教・義真・慈覚・智証等、或いは万里の波涛を渉(わた)りて、渡せし所の聖教、或いは一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像、若しは高山の巓(いただき)に華界を建てて以て安置し、若しは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す。釈迦・薬師の光を並ぶる也、威を現当に施し、虚空・地蔵の化を成す也、益を生後に被(こうむ)らしむ。故に国主は郡郷を寄せて、以て燈燭を明らかにし、地頭は田薗(でんえん)を充てて、以て供養に備ふ。而るを、法然の撰択に依りて、則ち教主を忘れて西土の仏駄(ぶつだ)を貴び、付属を抛(なげう)ちて東方の如来を閣(さしお)き、唯四巻三部の経典を専らにして、空しく一代五時の妙典を抛つ。是を以て、弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止(や)め、念仏の者に非ざれば早く施僧の懐(おもい)を忘る。故に仏堂零落して瓦松(がしょう)の煙(けぶり)老い、僧坊荒廃して庭草(ていそう)の露深し。然りと雖も、各(おのおの)護惜(ごしゃく)の心を捨て、並びに建立の思を廃す。是を以て住持の聖僧行きて帰らず。守護の善神去りて来ること無し。是れ偏に法然の撰択に依る也。悲しいかな、数十年の間、百千万の人、魔縁に蕩(とらか)されて、多く仏教に迷へり。傍を好みて正を忘る。善神怒(いかり)を成さざらん哉。円を捨てて偏を好む。悪鬼便(たより)を得ざらん哉。如(し)かず、彼の万祈を修せんより、此の一凶を禁ぜんには。
明王=賢明な帝王。ここでは天皇、将軍、執権等のこと。
天地に因りて化を成し=森羅万象の根底にある法、正しい道理により、具休的には、社会の現状、民衆の要望に即して政治を行っていくこと。政治を行う者のあるべき姿を、客の言葉を借りて示された。
聖人は理非を察して世を治む=世間の聖人は道理に適った社会正義と、道理に非ざる邪説とをよく分別して、社会の繁栄、民衆の生活の安定に尽くしていくとの意。
世上の僧侶=世の中の僧侶の意で、大聖人在世当時の高僧たちのこと。
天下の帰する所也=上は天皇、執権から、下は一般庶民にいたるまで、これらの僧を尊び、金銭や財産、領地等を寄進した。
悪侶に於ては、明王信ずべからず=これらの高僧たちが、仏の教えに違背する悪侶であったなら、賢明な天皇や執権たちが帰依する道理がない、との客の言葉である。
聖人に非ずんば=この聖人とは仏法上の聖人、出世間の聖人すなわち仏をいう。
賢聖=賢人であり聖人であること。明王と聖人を合わせた人、ここでは時の天皇のこと。
龍象=聖者、高僧、硯徳を、巨大で威力のある竜や象に譬える。もと大智度論に出ず。
妄言=五戒・十悪の一つで、うそをいうこと。でたらめをいうこと。
誹謗=悪口をいい、そしること。
後鳥羽院=第八十二代後鳥羽天皇(一一八〇年〜一二三九年)のこと。隠岐の法皇ともよばれる。在位は一一八三年〜九八年。高倉天皇の第四皇子。名は尊成。後白河法皇の死後は親政を行い、一一九八年譲位後も、土御門、順徳、仲恭の三代二十四年間、院政を行った。とくに鎌倉幕府の圧力の排除に努め、北面の武士のほかに西面の武士をおくなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。一二一九年、将軍源実朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣を下した。しかし、敗れて後鳥羽上皇は隠岐に流され、延応元年、その地で崩御。なお、土御門上皇は土佐に、順徳上皇は佐渡に流された。これを承久の変という。
法然=わが国浄土宗の元祖(一一三三年〜一二一二年)。源空という。童名を勢至丸といい。久安三年、十五歳で比叡山に上り、北谷持宝房源光の宝に入り、三年間、天台の教観を研究した。同六年に、黒谷の叡空にしたがって一代蔵経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の「一念専念弥陀名号」の文や安楽集を見て、承安五年の春、四十三歳(または承安四年、四十二歳)で浄土一門を開く。選択集をあらわして、一代仏教を捨、閉、閣、抛ととなえたことは、仏法を隠没する魔の所為である。承元元年二月、土佐に遠流となり、弟子の住蓮、安楽は死罪に処せられた。その後、順徳天皇の世に許され、京都に戻ったが建暦二年、八十歳で没した。死後、嘉禄三年、勅により大谷の墓を犬神人によって掘り起こされ、その遺骨は鴨川に流された。選択集の印版は焼き払われ、門人の隆寛、幸西等も流罪にされ、専修念仏は禁じられた。法然は、七十五代崇徳院の長承二年に生まれ、八十四代順徳院の建麿二年、八十歳で没した。およそ十代を経歴したが、後鳥羽院の代に専ら浄土門をひろめたので、別して「後鳥羽院の御宇に」といわれたのである。
撰(選)択集=法然の代表的著書で「選択本願念仏集」という。当時、公卿の有力者であった九条兼実の依願によって建久九年(一一九八年)選述し、浄土宗の教義を十六章段に分けて明かしている。その内容は、念仏以外の一代仏教を捨閉閣抛せよという破仏法の邪義で、当時においてすら並榎の定照から「弾選択」、栂尾の明慧から「摧邪輪」三巻、「荘厳記」一巻をもって破折されている。
十方=東、西、南、北、東北、東南、西北、西南の八方および上下二方を合わせて十方という。
道綽禅師=浄土宗七祖の第四祖(五六二年〜六四五年)。中国唐代の僧で、十四歳で出家し、初め涅槃の空理を修したが、のち涅槃宗を捨てて浄土門に帰依した。貞観二年、八十四歳で死んだ。著書に「安楽集」があり、今日、浄土真宗で読まれている。聖道門を「千中無一」「未有一人得者」として釈迦一代仏教を誹謗した。道綽は隋の終り唐の始めの人なり。貞観二年率す云云。撰時抄に『道綽禅師という者あり。唐の世の者、本は涅槃経をかうじけるが、曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て、涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土の二門を立たり。云云』とある(昭定・一〇三一頁)。
聖道・浄土の二門=浄土門とは、この裟婆世界を穢土として嫌い、他方に極楽浄土があるとして、そこへ阿弥陀仏の本願にすがって往生することを目的とした教えと修行。聖道門とは、あくまでも、この娑婆世
界で悟りを開き、成仏するための教えと修行。道綽が爾前四十余年の諸経についての二門を立てたのを、法然は法華経まで我見で含めて誹謗している。
之に就きて二有り=聖道門のなかに大乗と小乗の二つがあるという法然の立て分け。
之に准じて之を思ふに=道綽が爾前経について聖道門と浄土門とを立て分け、聖道門を捨て浄土門に帰すべしと述べたのを法然が拡大解釈して、聖道門のなかに法華経を含めたときのことば。「守護国家論」には「総選択集亘十六段作無量謗法根源偏起此四字。誤哉畏哉。(総じて選択集の十大段に亘って無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る。誤れるかな畏しきかき)」(昭定・一〇七頁)とある。「此の四字」とは「準之思之」の四字である。
密大及以実大をも存すべし=密大とは大乗教のうちの密教をさす。真言宗では顕密の教判を立てて、真言三部経すなわち大日経、金剛頂経、蘇悉地経を法身大日如来の所説であるから密教であるとして尊び、他の諸経をすべて顕教として卑しんだ。権実とは天台大師が釈尊の金言によって立てた教判で、四十余年の諸経を方便の権教、八年の法華経を実教とした。この二つの教判を利用して法然は、真言家で立てる密大も、天台家で立てる実大も、いずれも聖道門に属し、浄土門に劣ると称えたのである。
真言=真言宗。中国密教が弘法、すなわち空海によってわが国に伝えられ、一宗として独立したもの。詳しくは真言陀羅尼宗といい、また秘密宗、曼茶羅宗、瑜伽宗、陀羅尼宗、三摩地宗ともいった。東密(東寺流)と台密(天台流)、とに分かれていて、それぞれ所依の経が違うが、総じて「大日経」「金剛頂経」「蘇悉地経」を所依の三部経とする。その発生について、真言宗では次のようにいっている。大日如来が色究竟天法界宮において大日経を説き、金剛頂経を説いたのを金剛薩嬉が結集して南天竺の鉄塔においた。釈尊滅後七百年ごろ竜樹菩薩がその鉄塔を開き、両部を金剛薩嬉から授かり、それを竜智に与えた。竜智さらに大日経を善無畏に、金剛頂経を金剛智に授けたという。この二人が唐の開元年中に中国にはいり、善無畏、金剛智、不空とつづき、不空は慧果に法を伝承し、慧果は、わが国から入唐した空海に授けた。それによって空海が立てたのが真言宗であると称する。教義は、法華経などの一切経を応身の釈迦仏の説、大日経等を法身大日如来の説とし、大日如来に比較すれぼ、釈尊は無明の辺域で、大日のはきものとりにもおよばない、法華経は一代仏教中、第三の劣であり戯論であるとする。また、一念三千の法門を天台から盗んで、大日経にもあるといい、法華経と大日経は「理は同じ」であるが、大日経には印と真言が説かれているので「事においてすぐれる」などと邪説をかまえる。本尊には、大日如来、薬師如来をおき、脇士に金剛薩嬉、不動明王、虚空蔵菩薩等を配する。台密は比叡山を中心とし、東密は東寺を本山とする。高野山・金剛峯寺は真言宗の聖地とされる。
仏心=禅宗のこと。この宗は、大梵天王問仏決疑経にある「正法眼蔵、涅槃の妙心・実相無相、微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付嘱す」との経文どおりに伝承して、第二祖阿難、第三祖商那和修と、代々相付して第二十八祖の達磨にいたったという。戒定悪の三学のうち、とくに定の部分のみを強調し、仏教の真髄は煩雑な教理の追究でなく、坐禅入定によってのみ自証体得できると説く。仏心を月にたとえ、経文を月をさす指にたとえて経文の不用を主張する。教外別伝・不立文字、直指人心・見性成仏等の義がそれである。しかし、その半面、楞伽経や大梵天王問仏決凝経(偽経といわれている)を用いているのは、明らかに先の主張に反する自語相違である。わが国では栄西(一一四一年〜一二一五年)が臨済宗を、道元(一二〇〇年〜五三年)が曹洞宗を、隠元(一五九二年〜一六七三年)が黄檗宗を始めた。
天台=天台法華宗のこと。法華経を正依の経とし、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と仰がれた妙楽大師によっておおいに興隆した。わが国では、伝教大師が
延暦三年に入唐し、妙楽の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、一念三千、一心三観の観念観法により、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破して、死後七日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇をあつめ、平安朝文化出現の源泉となった。しかし、第三、第五の座主、慈覚、智証から真言にそまり、かつまた像法をすぎて末法となり、いっさいの功徳、力用を失った。
華厳=華厳宗。依経とする華厳経には、仏駄跋陀羅の旧訳六十巻と、般若三蔵の新訳四十巻とがある。杜順を始祖とし、智儼、法蔵、澄観を経てかたちを整えた。わが国へは天平年間に、新羅の僧・審祥によってもたらされ、良弁に伝えられた。一時、南都六宗の中心勢力となったが、現在では東大寺を中心に五十数寺を有するにすぎない。本尊は盧舎那仏(報身仏)で、文殊と普賢を脇士とする。
三論=三論宗。中国梁代、嘉祥寺の吉蔵を祖とする。提婆菩薩の「百論」竜樹菩薩の「中観論」「十二門論」の三論によって立てるゆえに三論宗という。その根本の依経は大般若経である。これより先、羅什三蔵が中国に来たとき訳伝したが、その後、八人の高弟によって受け継がれ、吉蔵によって教学的に大成された。吉蔵以前を古三論または北地三論といい、吉蔵以後を新三論または南地三論という。わが国へは高麗の僧・慧灌が伝えた。教義は、般若経の「一切皆空無有所得」をもって所詮としている。仏教渡来直後の欽明天皇から推古天皇に至る七、八十年間、栄えたのみで、だんだん衰微し、華厳宗に吸収された。
法相=法相宗。「唯識論」に引用されている六経十一論すなわち華厳経、解深密経などによって立てた宗派である。それによると、インドで弥勒菩薩が説いたものを、仏滅後九百年に無著菩薩が「瑜伽論」「摂大乗論」として著し、さらに無著の弟・世親は「二十唯識論」などをつくってひろめた。のちに中国の玄奘がインドに旅行し、戒賢論師に会って奥義を伝承し、帰って唐の太宗皇帝に授けたのが法相宗であると称しでいる。一宗として形態を整えたのは慈恩大師のときからである。わが国へは道昭が斉明天皇の白雉四年に入唐し、玄奘に唯識法相を学んで帰り、元興寺において弘教した。以後、元興寺と興福寺を中心に流布されたが、奈良朝時代を最後として衰微した。現在は薬師寺、興福寺を二大本山として三十数か寺があるのみである。
地論=地論宗。天親菩薩の「十地経論」によって立てた宗派で、開祖は慧光。中国梁代に流行したが、のちに華厳宗に吸収された。
摂論=摂論宗。無著菩薩の「摂大乗論」によって立てた宗派で、中国陳隋の世にひろまったが、のちに法相宗に包含された。地論、摂論ともに日本へは渡来しないまま消滅した。
曇鸞法師=中国念仏宗の開祖(四七六年〜五四二年)で、菩提流支から観無量寿経を授けられ、専ら念仏の修行を積んだ。并州の大巌寺、汾州北石壁の玄中寺等に住し、のちに平州の遥山寺で、六十七歳で死んだ。浄土真宗では七祖のうちの第三祖としている。「往生論註」二巻、「讃阿弥陀仏偈」などを著した。難行道云々の文は「往生論註」の最初の文で、念仏を易行道、すなわち「修行し易き道」として薦め、他の権大乗経を「修行し難き道」としている。
龍樹菩薩=付法蔵の第十三。竜猛菩薩ともいわれる。仏滅後七百年ごろ、南インドに出て、おおいに大乗の教義をひろめた。はじめは小乗教を学んだが、のちヒマラヤ地方で一老比丘から大乗教典を授けられ、それ以後、弁論巧みに外道を破折した。のち南インドの国王が外道を信じていたので、これを教化するために、七年間、赤旗をもって王宮の前を往来した。ついに王がこれを知り、外道と討論させた。竜樹は、ことごとく外道を論破し、国王の敬信をうけて大乗経をひろめた。著作には、「大智度論」百巻、「十二門論」一巻、「十住毘婆沙論」十七巻、「中観論」四巻などがある。正法時代の正師であり、表には出さなかったが、内心では一念三千を知っていたと日蓮大聖人も認められている。
十住毘婆沙=竜樹の作。羅什の訳で十七巻がある。華厳経十地品の初地、二地を釈したもので、難行道、易行道の文は第五巻「易行品」にある。これは爾前経について難易を論じたもので、法華経までいれたわけではない。
阿毘跋致=不退転の意。すなわち仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても退転しない境涯になること。天台大師は円教の菩薩の五十二位のうち、初住の位をもって不退としている。天台はこれをさらに三段に分けて、@位不退、別教の初住から第七住まで、円教の初信から第七信までであって見惑、思惑を断じて聖位にはいり、凡夫に戻らない位であるので位不退という。A行不退、別教の第八住、円教の第八信に登れば塵沙の惑を断じ、いかなる難があっても菩薩の化他行を退転しないので行不退という。B念不退、別教の初地、円教の初住にいたれば一分の無明惑を断じて中道の理を証し、その心は常に中道実相をはなれないゆえに念不退と名づげる。この念不退に位不退、行不退を含めて、円教の初住に三不退を具すと説いている。羅什は訳語として阿毘跋致を用い、「十住毘婆沙論」の訳以後、法華経の訳には阿惟越致を訳語として用いているが、同義語である。「大智度論」では無生法忍を同じ意味で用いている。
難行道=成仏するのに、自力によって長い間修行を重ねるという困難な修行の道のこと。またそれを説いた法門。
聖道門=自力によってこの現実世界で成仏することができると説く法門。浄土門に対する語。
善導和尚=中国唐代の浄土宗の僧(六一八年〜六八一年)。その出生は明らかでないが、幼くして出家し、太宗の貞観年中に西河の道綽の九品道場に赴いて観経を信仰し、都に入って人びとに称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること三十年、ついに寺前の柳の木から地上に身を投じて自殺した。極楽往生しようとしたが、はたさず、地面に落ちて腰を打ち、七日七夜苦しみぬいて死んだという。時に唐の高宗の永隆二年、年は六十四歳であった。おもな著には「観経疏」「往生礼讃」があり、浄土の教義を整理した。この正雑二行を立てるのは「往生礼讃」の所説である。
正・雑二行=浄土三部経による行を正行とし、それ以外の一切の行を雑行とする。善導観経疏第四に説かれたもの。
読誦雑行=五種の雑行あり。これ五種の正行に対する。第一は読誦、第二は観察、第三は礼拝、第四は称名、第五は讃歎供養なり。
観経=浄土の三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(四二四年)から同十九年(四四二年)?良耶舎が訳した。詳しくは仏説観無量寿仏経という。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢へとじこめ、悪逆の限りを尽くすのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ、釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽浄土を選ぶ。それに対して釈尊が阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大要である。ここに「観経等の往生浄土の経」とあるのは、これに無量寿経、阿弥陀経を含める。
弥陀=阿弥陀如来の略。無量寿命または無量光明の義である。西方極楽世界の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド、中国、日本とも無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土の三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因行誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に然燈仏等の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに玉位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏の示した二百一十億の諸仏国土の荘厳の有様、清浄の行を摂取して、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その仏国土は西方十万億の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの裟婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「もしわれ仏をえたらむに、十方の衆生、至心に信楽して我国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法とを除く」と断わっているのを、浄土宗は無視し、あるいは造悪を抑止するための仏の方便としているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主の迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀等がある。
世天=人界の神および諸天善神をいう。
須く雑を捨てて、専を修すべし=石山日寛の文段に「難じて云く、凡そ法華は正直に権暫邪曲を捨て但一実に止まる故に一止不邪の正法なり。何ぞ却って雑行といわんや是一。既に弥陀等の因行を明かして云く『常に楽ってこの妙法蓮華経を説く』と云云。弥陀もまたこれ雑行の人なりや是二。また往生安楽の因を明かすに正しく如説法華の人に在り。仏何ぞ雑行に因り彼の土に生ずと説くや是三。経に云く『若し暫くも持つ者は我則ち歓喜す』と云云。然公何ぞ捨というや是四。経に云く『汝取りて服すべし』等云云。法然何ぞ捨というや是五。
百即百生=阿弥陀を念じ、その名号を称えれば、百人が百人ともに、極楽浄土へ往生できるという。
千中無一=善導の「往生礼讃」にある。浄土三部経以外の諸経を行ずるを、雑行として誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない、また阿弥陀以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。
貞元入蔵録=唐の徳宗の貞元年中に、僧・円照が勅命によって選んだ経巻の種目。
大般若経=般若経は大品・光讃・金剛・天王問・摩訶の五般若から成り、さちに仁王般若を結経とする。釈尊が方等部の説法を終わり、法華経を説くまでの十四年間(三十年間ともいう)に説いた経文で、説処は鷲峯山・白露池。訳には
羅什三蔵訳の「大品般若経」四十巻(旧訳)と、玄奘三蔵訳の「大般若経」六百巻(新訳)とがある。
玄奘訳の「大般若経」は結経の仁王般若を除く五般若の大部分を含んでいる。ここでは玄奘訳の「大般若経」六百巻をさす。
法常住経=一巻、訳者は不明。文に「法は常住なり、仏あるも仏なきも法の住するは、もとのごとし」とあるので、この名がつけられた。法は常住であるけれども、仏が出世してはじめてその深義を分別して、三乗の機根に応じて法を説き度脱せしめるのであり、ここに常住の法の現れがあると説かれている。
読誦大乗の一句に摂す=読誦大乗とは、観無量寿経の中の一句で、この一句の中に「貞元録」にある一切の大乗教はみな摂せられるということ。観無量寿経では往生浄土の行として、定散二門の修行と、念仏往生の修行があるといい、この定散二門の修行往生を明かす中に読誦大乗の行があり、この大乗は何かといえば顕密の大乗すべてであるという訳である。
随他=衆生の機根資質に応じて方便の教えを説くこと。随他意のこと。法然は、釈尊が念仏の一行を説く手段として、随他のために、それ以外の諸経を説いたが、念仏の一門があらわれてのちは、随自になるから、定散の諸経は閉じるのだと述べている。一代仏教の浅探・勝劣を無視して勝手に立てた邪見である。
定散の門=定善門と散善門をいう。定善とは禅定観法による善行をいい、散善とは通常心のままで悪行を廃し善行を修行すること。善導は観無量寿経で、極楽浄土へ往生する方法として、十六種の観法と三福の修行とを説く。この十六観のうち、前の十三観を定善といって、浄土の荘厳な有様や仏菩薩の相好を諦観するので雑念を払い、精神を統一しなければならない。後の三観および三福は、散乱の心のままで念ずることができるので散善という。しかし、この定散ともに、仏の随他の教えで末法のためでなく、念仏の一行のみが仏の随自の教えで末法のための法であると法然は主張した。
三心=観経にいう、至誠心・深心・回向発願心。この三心を具足すれば必ず極楽浄土へ往生することができるという。
観無量寿経に云く=「念仏の行者は必ず三心を具すべきである」という文。いわく「若し衆生有って、彼の国に生ぜんと願せん者は、三種の心を発せば即ち往生す。何等をか三と為す。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具する者は必ず彼の国に生ず」との文である。
同経の疏=善導の著した観経の疏のこと。
解行の不同、邪雑の人=聖道門の人は念仏の行者と智解も修行も同じでないから解行不同といい、念仏をそしる聖道門の人を、正行を修せず雑行を修する邪雑の人としているのである。観経疏の回向発願心を釈する下の問難中の語句である。
外邪異見の難を防がん=観経疏のなかの答えの一句である。聖道門中の悪見、邪雑の人を外道、邪見、異見の者として、それらの難を防いで、専ら念仏を修行せよ、との意。
群賊等喚び廻す=合譬のなかの一句である。涅槃経および竜樹の「大智度論」に、火と水の二河と幅四、五寸の白道の譬えがあるのを、善導が引いて極楽往生をすすめている文。白道を進もうとする旅人を群賊等が呼び返すというのは、別解・別行・悪見の人、すなわち聖道門の悪見、邪雑の人で、これらの人びとの言葉に従うなと善導は念仏者に警告しているところである。ただし法然は竜樹、天親、南岳、天台、妙楽、伝教を皆群賊のなかに入れている。
謬釈=謬釈とは、誤った釈。
三国の聖僧=三国とはインド、中国、日本をいい、インドの竜樹・天親、中国の天台・章安・妙楽、日本の伝教・義真等の、正しく仏法をひろめた人びとを総称して三国の聖僧。
五逆=殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の五つを、もっとも重い罪として五逆罪と称する。阿羅漢とは、声聞の四果の最上である阿羅漢果を得た者のこと。出仏身血とは、仏の身を傷つけて血を出すことである。提婆達多は大石を崖から投げて釈尊の足指を傷つけ、この罪を犯した。なお、この五逆罪よりさらに重い極重罪は、誹謗正法の罪である。このことについて、日蓮大聖人は「顕謗法抄」に大品般若経と法華経の文を引いて、次のように述べられている。「法華経の行者を悪口し、及杖以打擲せるもの、其後に懺悔せりといえども、罪いまだ滅せずして、千劫阿鼻地獄に堕たりと見えぬ。懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり。況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出る期かたかるべし。」(昭定・二五五頁)と。
一代五時=釈尊一代五十年の説法を天台大師は、説法の順序にしたがって、華厳・阿含・方等・般若・法華の五時にわけた。それを図示すると次のとおりである。
場所 伽耶城の近くの菩提樹下、七処八会
期間 二十一日間
華厳時 経 大方広仏華厳経
位 法華経に次ぐ大乗経、乳味と名づく
別円二教を説く、兼と名づく
頓教、擬宜の教
依経とした宗派 華厳宗
場所 波羅奈国の鹿野苑
期間 十二年間
阿含時 経 増「長、中、雑の四阿含経
位 小乗経、酪味と名づく
三蔵経のみを説く、但と名づく
漸教(秘密、不定教もあり) 誘引の教
依経とした宗派 倶舎宗 成実宗 律 宗
場所 欲界色界二界の中間、大宝坊等
期間 十六年間(一説には八年間)
方等時 経 勝鬘経、解深密経、楞伽経、首楞厳経、阿弥陀経、観経、双観経、
金光明経、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、維摩経
位 権大乗経、生蘇味と名づく
蔵通別円の四教を対比して説く、対と名づく
漸教(秘密、不定教もあり) 弾呵の教
依経とした宗派 法相宗 浄土宗 真宗 禅宗 真言宗
場所 鷲峯山、白鷺池等四処十六会
期間 十四年間(一説には二十二年間)
般若時 経 摩訶般若、光讃般若、金剛般若等
位 権大乗教、熱蘇味と名づく
円教に通別を帯せしめて説く、帯と名づぐ
漸教(秘密、不定教もあり) 淘汰の教
依経とした宗派 三論宗
場所 法華経は中天竺摩訶陀霊鷲山、虚空会、二処三会
涅槃経は跋提河のほとり
法 華 期間 法華経は八年間、涅槃経は一日一夜
涅槃時 経 法華経二十八品および開結、涅槃経
位 法華経は実大乗教、涅槃経は権大乗経、ともに醍醐味と名づく
法華経は円教 涅槃経は常住四教
頓教(秘密、不定なし) 開会の教
依経とした宗派 天台宗 涅槃宗
法華経の第二=妙法蓮華経第二巻・譬喩品第三の文。
阿鼻獄=阿鼻は、無間と訳す。苦を受けることが間断ないので、この名がある。八大地獄のなかで、他の七つよりも千倍も苦しみが大きいという。大焦熱地獄のなお下にあって、欲界のもっとも深い所にある。縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。あまりにこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大焦熱地獄の罪人を見ること他化自在天の楽しみの如しという。また、猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の天人はみな死ぬであろうともいわれている。ただし、出山、没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界へ伝わってこないとされる。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫(二十小劫)で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、阿鼻地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
誡文=教え、戒められた文。誡は勧に対する語。
末代=正像二千年すぎて、闘諍堅固・白法隠没の末法の代をいう。白法隠没とは、釈迦仏法の功力が失せ、邪法におおわれて隠れ没してしまうこと。
冥衢=暗いよこ道との意。正しい仏法を見失い、悪鬼魔神の法である念仏等の邪教に迷わされている姿を、正しい道を見失って、暗い道に迷いこんだ姿に譬えている。
直道=真っ直ぐな正しい道、成仏への正しい道、根本的解決の道をいう。
瞳矇を樹(拊)たず=瞳矇とは、事理にくらいこと、またその人で、蒙昧というのと同じ。瞳はひとみ、矇はくもりがかっていること。拊つとは、鍼をうってくもりをとること。
弥陀三尊=阿弥陀仏と、その脇士の観世音・勢至の二菩薩の総称。観無量寿経に、観音は左蓮華に坐して慈悲をあらわし、勢至は右蓮華に坐して智慧をあらわすとあり、また阿弥陀経にも、観世音および勢至の二菩薩がつねに仏の側にいると述べている。浄土宗では、この三尊を本尊とする。
伝教=伝教大師(七六七年〜八二二年)、諱は最澄。わが国天台宗の開祖であり、像法の法華経、天台の理の一念三千を広宣流布して人びとを済度した。父は三津首百枝で、先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年に近江国滋賀郡で生まれ、十二歳で出家し、二十歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし、延暦七年、比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し、一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、三十一歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。三十六歳のとき、高雄山寺において、南都六宗の碩徳十四人の邪義を、法華経によってことごとく打ち破り、謝状を出させた。延暦二十三年、三十八歳のとき、天台法華宗還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子、行満座主および道邃和尚について、一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌二十四年帰朝の後、天台法華宗の奥義をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三部の大乗教の長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇、嵯峨天皇の篤い信任をうけ、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住、国家安穏の基盤を確固たらしめるため、円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁十三年六月四日辰時、叡山中道院において入寂、五十六歳。戒壇の建立は、死後七日目の六月十二日に聴許された。十一月、嵯峨天皇は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観八年、清和天皇は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師とも山家大師ともいう。大師の著述のなかでとくに有名なのは「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「山家学生式」一巻あるいは三巻、「守護国界章」三巻等がある。また、大師は薬王菩薩の再誕である天台大師の後身といわれ、五十代桓武、五十一代平城、五十二代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依をうけて、像法時代の法華経広宣流布を成し遂げ、輝かしい平安朝文化の基礎を築いた。
義真=伝教大師の跡を継いで比叡山初代の座主となった(七八一年〜八三三年)。相模国に生まれ、幼少のときから比叡山に登って伝教大師の教えをうけた。中国語が話せたので、伝教大師入唐にも通訳として随伴した。そのさい、唐の貞元二十年十二月七日、天台山国清寺で道邃和尚より円頓戒をうけ、竜興寺の順尭から灌頂をうけた。延暦二十四年、伝教とともに帰朝し、弘仁十三年五月十五日、付嘱をうけて山務を総摂した。同六月十一日、大師滅後七日に迹門戒壇建立の勅許が下り、弘仁十四年四月十四日、伝教大師が建立した建本中堂、すなわち一乗止観院に延暦寺の勅額をうけ「壇を築くとともに、自ら戒和尚となって円頓大戒を授けた。天長元年六月二十三日、比叡山第一の座主となり、同四年、勅を奉じて円頓戒壇を建立、翌五年に完成した。その他、叡山の諸堂宇を建立し、天台の宗風宣揚に努めた。天長十年七月四日、修禅院で五十三歳にして入寂。著書には、嵯峨帝に奉った「天台宗義集」一巻、「雑疑問」一巻、「大師随身録」等がある。日蓮大聖人は「報恩抄」に「義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半は伝教の御弟子、半は弘法の弟子なり」(昭定・一二一九頁)と説かれている。
慈覚=比叡山第三の座主(七九四年〜八六四年)。台密三派の一つ慈覚派の祖。諱は円仁。延暦十三年、下野国に生まれ、十五歳で叡山に上り、伝教大師の弟子となった。承和五年、勅を奉じて入唐し、天台、真言、禅等を学ぶ。承和十四年帰朝、天台宗義に真言の悪法を取り入れ、東寺の真言に対して台密を立てた。仁寿四年、延暦寺の座主となった。「金剛頂経疏」「蘇悉地経疏」を著し、仏意に叶うかどうかを試みようと祈念したところ、日輪を射て動転せしめた悪夢を見たが、仏意に叶ったと称して後世に伝えた。斉衡三年、文徳天皇に両部灌頂を授け、貞観元年、清和天皇に菩薩戒を授けた。僧兵を設置したのも慈覚である。貞観六年一月、熱病を患って七十一歳で死んだ。
智証=比叡山第五の座主(八一四年〜八九一年)。台密三派の一つ智証派の祖。また天台宗寺門派の開祖でもある。諱は円珍。母が弘法の姪であるとも、彼自身が弘法の甥であるともいわれる。弘仁五年、讃岐国那珂部に生まれ、十四歳で叡山に登り、座主・義真の弟子となる。嘉祥元年、大極殿の吉祥会で法相宗の義虎知徳と法論し、これを破して名声をあげた。仁寿元年、勅をうけて入唐し、天台山等に学び、インド僧から「梵字悉曇章」を学んで梵学をうけ、法全から密教を授かって六年後の天安二年、帰朝した。貞観元年、三井園城寺を再興し、唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。六年、仁寿殿に大悲胎蔵壇を築き、八年、止観・真言両宗弘伝の公験を賜り、十年に延暦寺の座主となった。慈覚以上に真言の法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平四年十月、七十八歳で寂。著書に「大日経指帰」「在唐記」がある。
一朝=日本をさす。
華界・蓮宮=ともに僧院・仏堂のこと。
釈迦・薬師=比叡山の本尊「釈迦は西塔の本尊なり。居長三尺、伝教の御作なり」(石山日寛・文段)とある。また薬師は東塔止観院根本中堂の本尊。東方浄瑠璃世界の教主で、十二の誓願を発して衆生の病患を救い、無明の痼疾を癒すという。天台宗で薬師を本尊とするのは、寿量品の良医の譬えに依るともいわれている。
現当=現世および未来世。
虚空・地蔵=虚空蔵菩薩と地蔵菩薩。虚空蔵菩薩は、大悲・利生が広大無辺なること虚空蔵すなわち天を蔵するに似ているという。形、姿は、蓮華座に坐し、頭に五智宝冠を戴き、左手に福徳の開敷蓮華、その上に如意宝珠をもち、右手に智慧を表す利剣をもつものもある。地蔵菩薩は、釈尊の付託をうけて、その入滅後、弥勒仏が出世するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するという菩薩。俗説では、児童の死後、賽の河原の救護者とされる。袈裟をつけ、錫杖と宝珠をもつ形相円満な頭陀の像を石に刻んで路傍に立てられた。虚空・地蔵とも、わが国では広く民間に流布し俗信となった。
益を生後に被らしむ=生後とは、今生、後生のこと。現当二世にわたる利益を与えるとの意。すなわち、仏法の利益を一切衆生に現当二世にわたって与えているということ。
郡郷を寄せて=天皇、将軍等がその帰依する寺社に一郡、一郷を単位とする広大な領地を寄進し、もって
燈明料に代えた。大寺の荘園がこれである。これに対し、地頭は一郡一郷の主であるから、領内の寺社や信奉する寺院等に、領地の一部を割いて寄進した。
教主=ここでは釈尊のこと。
付属を抛ち=釈尊は法華経の会座で、嘱累品等をもって薬王等の逆化の菩薩に像法時代の法華経流布を託した。その儀式にしたがって、薬王菩薩の再誕として出現し、迹面本裏の法華経を流布したのが天台大師であり、またその後身といわれる伝教大師である。そして、天台、伝教は、寿量品の譬如良医を表す意味から、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来を本尊として用いた。しかるに念仏の阿弥陀一仏のみを尊しとする教えに迷って、薬師如来をないがしろにしているのは、仏の付嘱を抛ったことになるのである。
四巻三部の経典=浄土の三部経のこと。無量寿経は二巻、観無量寿経は一巻、阿弥陀経も一巻で、合わせて四巻となる。
供仏=仏に供養すること。供養とは、報恩のために、仏法僧の三宝に種々の物を捧げること。また、その功徳を死者に回向するためにも行われる。これに、財供養と法供養、色供養と心供養、あるいは身口意の三業供養、四事、四種、五種、六種、十種供養等、数多くの分け方がある。
施僧=僧に金銭や品物を布施すること。布施は梵語の音写で、檀那の訳で、清浄な心で法や物を惜しまず施し恵むことをいう。大乗仏教では、六波羅蜜の一つとして、菩薩行の大切な要素とされた。
瓦松の煙老い=瓦松は、建物が古くなって修繕する人もなく、屋根の瓦に苔が生えて、遠くから見ると、あたかも松のように見えるのを表現した言葉。「煙老い」とは、そこから立ちのぼるかまどの煙も、細々として活気がなく、零落しているありさま。
住持=安住して法を持する意で、転じて一寺の主長となる僧のこと。
円・偏=円は「まどか」で、すなわち完璧な教え。成仏得道の法。偏は「かたよった」の意で、不完全な、成仏得道できない教え。釈迦一代仏教において、法華経は円教であり、爾前の諸経は偏教である。法然の教えに従う念仏者が、法華経を捨てて浄土三部経に執着しているのは、円を捨てて偏を好む姿である。
彼の万祈=冒頭に述べられているように、天災地変をおさめようとして、日本国中上下をあげて、さまざまな宗教によって祈願を行っていること。
此の一凶=法然の謗法こそ、いっさいの不幸、災難の根源なりと断じられているのである。  
[第五問]

 

客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文(しゃかもん)、浄土の三部経を説きたまひてより以来、曇鸞(どんらん)法師は四論の講説を捨(す)てて、一向に浄土に帰し、道綽(どうしゃく)禅師は涅槃の広業を閣(さしお)きて、偏に西方の行を弘め、善導和尚は雑行(ぞうぎょう)を抛(なげう)ちて専修を立て、恵心僧都は諸経の要文を集めて、念仏の一行を宗とす。弥陀を貴重すること、誠に以て然なり。又往生の人、其れ幾ばくぞ哉。
就中(なかんずく)、法然聖人は、幼少にして天台山に昇り、十七にして六十巻に渉り、並びに八宗を究め、具に大意を得たり。其の外、一切の経論、七遍反覆し、章疏・伝記究め看ざるは莫(な)し。智は日月に斉(ひと)しく、徳は先師に越えたり。然りと雖も、猶出離の趣(おもむき)に迷ひ、涅槃の旨(むね)を弁へず。故に遍く覿(み)、悉(つぶさ)に鑑み、深く思ひ、遠く慮(おもんばか)りて、遂に諸経を抛ちて、専ら念仏を修す。其の上、一夢の霊応を蒙(こうむ)りて、四裔(しえい)の親疎(しんそ)に弘む。故に或いは勢至の化身と号し、或いは善導の再誕と仰ぐ。
然れば則ち、十方の貴賎は頭(こうべ)を低(た)れ、一朝の男女は歩みを運ぶ。爾しより来、春秋推
し移り、星霜相ひ積れり。而るに忝(かたじけ)なくも釈尊の教を疎(おろそ)かにし、恣(ほしいまま)に弥陀の文を譏(そしる)る。何ぞ近年の災(わざわい)を以て、聖代の時に課(おお)せ、強ひて先師を毀り、更に聖人を罵るや。毛を吹きて疵(きず)を求め、皮を剪(き)りて血を出(いだ)す。昔より今に至るまで、此の如き悪言未だ見ず。惶(おそ)るべく、慎むべし。罪業至りて重し、科条(かじょう)争(いか)でか遁(なが)れん。対座猶以て恐れ有り。杖を携(たずさ)へて則ち帰らんと欲す。
[第五答]
主人咲(え)み、止めて曰く、辛きを蓼葉(りょうよう)に習ひ、臭きを溷厠(こんし)に忘る。善言を聞きて悪言と思ひ、謗者を指して聖人と謂ひ、正師を疑ひて悪侶に擬す。其の迷ひ誠に深く、其の罪浅からず。事の起りを聞け、委しく其の趣(おもむき)を談ぜん。
釈尊説法の内、一代五時の間に、先後を立てて、権実を弁(べん)ず。而るに曇鸞・道綽・善導、既に権に就きて実を忘れ、先に依りて後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中、法然、其の流れを酌(く)むと雖も、其の源を知らず。所以は何(いかん)。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、并びに一切の諸仏・菩薩、及び諸の世天等を以て、捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の字を置きて、一切衆生の心を薄(おか)す。是れ偏に私曲の詞(ことば)を展べて、全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言ひても比(たぐ)ひ無く、責めても余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の撰択を貴む。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰ぎて、諸仏を忘る。誠に是れ諸仏・諸経の怨敵、聖僧・衆人の讎敵(しゅうてき)也。此の邪教広く八荒に弘まり、周く十方に遍(へん)す。
抑(そもそ)も近年の災(わざわい)を以て、往代を難ずるの由、強(あなが)ちに之を恐る。聊(いささ)か先例を引きて、汝の迷ひを悟らすべし。止観の第二に史記を引きて云く、「周の末に、被髪袒身(たんしん)にして礼度に依らざる者有り」と。弘決の第二に此の文を釈するに、左伝を引きて曰く、「初め平王の東遷する也、伊川(いせん)に髪を被(こうむ)る者の野に於て祭るを見る。識者の曰く、百年に及ばじ、其の礼先づ亡びぬ」と。爰(ここ)に知りぬ。徴(しるし)前(さき)に顕はれ、災(わざわい)後に致ることを。又、「阮籍(げんせき)逸才にして蓬頭(ほうとう)散帯す。後に公卿(こうけい)の子孫皆之に教(なら)ひ、奴苟(どこう)相ひ辱(はずか)しむる者を方(まさ)に自然に達すといひ、撙節(そんせつ)兢持する者を呼びて、田舎(でんしゃ)と為す。司馬氏の滅ぶる相と為す」と。
又案ずるに、慈覚大師の入唐巡礼記(にっとうじゅんれいき)に云く、「唐の武宗皇帝の会昌(えしょう)元年、勅して章敬寺の鏡霜(きょうそう)法師をして、諸寺に於て弥陀念仏の教を伝へしむ。寺(てら)毎に三日巡輪すること絶えず。同二年、廻鶻国(かいこつこく)の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。其の後、大蕃国(だいばんこく)更(また)命を拒み、廻鶻国重ねて地を奪ふ。凡そ兵乱は秦項(しんこう)の代に同じく、災火は邑里(ゆうり)の際に起る。何に況んや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔を滅ぼせるをや。乱を撥(おさ)むること能はずして、遂に以て事有り」と(以上意を取る)。
此を以て之を惟(おも)ふに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者也。彼の院の御事、既に眼前に在り。然れば則ち、大唐に例を残し、吾が朝に証を顕はす。汝疑ふこと莫れ、汝怪しむこと莫れ。唯須く凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎて根を截るべし。 
客殊に色を作して=客憤怒して色を増す、故に『殊に』という。
釈迦文=釈迦牟尼の略。釈迦牟尼仏のこと。
四論の講説=曇鸞は菩提流支に会って浄土の教えを聞く前に、インドの竜樹菩薩の「中観論」「十二門論」「大智度論」および提婆菩薩と世親菩薩の共著になる「百論」の四論を学んだといっている。
涅槃の広業=涅槃経は、聖・凡・嬰児・病・天の五行を明かすが、念仏の一行に対して広業という。或は、浄土宗の四巻に対して、涅槃経は四十巻のゆえに、広業というとも。
恵心僧都=比叡山の第十八代座主・慈慧大師の弟子で権少僧都・恵心源信(九四二年〜一〇一七年)のこと。大和国葛上郡当麻郷に生まれ、九歳のとき比叡山に登り、慈慧良源の弟子となった。十三歳で得度し、源信と名のった。三十二歳のとき、客中の論義に出席し、才能弁舌がすぐれているので満座を驚かせたという。四十二歳のとき権少僧都に任ぜられ、横川楞厳院の検校となった。四十三歳で「往生要集」三巻をつくり、念仏の行を宣揚した。浄土宗の門徒は、恵心をわが国浄土宗の先駆のように崇める。しかし恵心は、その後、悔いて法華経信仰に戻り、権少僧都の位も辞して「一乗要決」三巻を著した。その他「法華科文」「法華略観」「法華弁体」等の著述がある。弟子の指導にも努め、教相を重んずる檀那流に対し、観門を重んずる恵心流教学の源となった。「一乗要決」では「日本一州円機純一」すなわち日本国中は皆、法華有縁の機根の者ばかりで、蔵通別三教に縁のある者はいないと述べた言葉は有名で、大聖人も諸御書で用いられている。
宗とす=むねとして崇めたの意。
六十巻=天台大師の著述した「法華玄義」「法華文句」「摩河止観」各十巻合わせて三十巻、および妙楽が釈した「法華玄義釈籤」「法華文句記」「摩訶止観輔行伝弘決」の各十巻の三十巻、合わせて六十巻をいう。
八宗=華厳、三論、法相、倶舎、成実、律、真言、天台の八宗をいう。
徳は先師に越えたり=ここでは、先師とは中国浄土宗の祖、曇鸞、道綽、善導等、また日本の恵心、叡空、蔵俊、寛雅、慶雅等をさす。
出離の趣に迷ひ=出離とは三界六道の俗世間を出ずる意で、成仏のこと。趣とは、向かう所、帰着する義で、出離の道というのと同じ。
一夢の霊応=法然は善導の教えた阿弥陀仏の称名による極楽往生が決して疑いないことを信じ、念仏弘通を神秘の霊感によってためそうとして、夢に金色の善導に会い、念仏弘通の印可を受け、浄土の法門の付嘱をうけたという。
四裔の親疎=四裔とは四方の遠き果て、国の四方の果ての意で、国中の親しい者にも、疎遠なものにも、つまり四方遠近、天下中に念仏信仰がゆきわたること。
勢至の化身=念仏信徒たちは、法然を阿弥陀の脇士である勢至菩薩の化身である等と称た。
善導の再誕=「彼の家の相伝に云く『善導の再誕とは即ちこれ弥陀の化身の義なり』と。(石山日寛・文段)」
春秋推し移り、星霜相ひ積れり=春秋・星霜倶に年々遷り行くこと。
強ひて先師を毀り、更に聖人を罵る=曇鸞・道綽・善導を先師といい、法然を聖人と称している。
毛を吹きて疵を求め、皮を剪りて血を出す=毛があれば疵はわからないところから、そのままにしておけば、なんでもないものを詮索しすぎるということ。「皮を剪って」云云の喩えも、わざわざ事を起こしているという意味。
科条=科は罰、条は条目。すなわち処罰のこと。
蓼葉に習ひ=蓼葉はたでの葉でからい。「辛きことを蓼葉に習い」とは、いつも辛い蓼の葉を食べなれている虫は、辛いことを感じないでいるという意味。また、それが習慣となって甘味の葉類を食わない。邪師は邪義の悪業になれて正師の正義に従わないことをいう。
溷厠=便所のこと。「臭きを溷厠に忘る」とは、便所に長くいると臭いことを感じなくなることで、邪法に染まって邪法と感じなくなった人のことを譬える。
先後を立てて、権実を弁ず=釈尊は、一代五時の説法について先判・後判を立て、その権実を弁じている。すなわち、華厳・阿含・方等・般若の四時を先判とし「四十余年未顕真実」の権教なりと断定し、法華時を後判として「要当説真実」と明言しているのである。したがって、仏の教えを信奉する者である以上は、先判の方便権教を捨てて、後判の実教たる法華経につくのが当然である。(石山日寛の文段に、「前四十余年は権経なり。故に『四十余年未顕真実』という。後八年の法華は真実なり。故に『世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし』というなり。前後を立てて権実を弁ずる所以如何、これ先判の権経を捨て後判の実経を取らんが為なり。故に『正直に方便を捨てて、但無上道を説く』というなりとある。」)
其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず=法然は浄土宗の祖師である曇鸞、道綽、善導の流れを酌んでいるが、源であるこれらの祖師たちが、権実迷乱の徒であることを知らないで、金科玉条としているのである。すなわち、もっとも根本である釈尊の教えに適っているかどうかを吟味しないで、誤った邪師の言葉を鵜呑みにしている。
私曲の詞=手前勝手な曲った考え。我見による邪説。邪で、私見によって歪曲した言葉。
妄語の至り=妄語とは虚言のこと。仏法では十悪の一。一般世間の妄語ならば、その及ぼす害は一時的であり少部分であるにとどまる。ところが、仏法上の妄語は、それを信ずる人をして無間地獄に堕墜せしめ、さらに、仏法に無智な世間に流布して、多くの民衆を同様の苦悩に陥れる。このゆえに、妄語のいたりであり、仏に対する悪口の科は筆舌に尽くしがたいのである。
八荒=八方のこと。国の八方の果てとの意で、全国津々浦々ということ。
往代を難ずる=往代はすぎた時代、昔のこと。近年に起こった災害の原因を、昔の法然の罪であるとすること。
止観=天台大師の「摩訶止観」十巻の略称。「摩訶止観」は天台が荊州玉泉寺で説き、弟子の章安大師が筆録したもので「法華文句」「法華玄義」とともに三大部をなしている。本書によって、天台は諸大乗教の円義を総摂して一念三千の法門を説き、一心三観をあらわして観念観法の実践修行を明かした。天台大師出世の本懐はこの書に尽き、理の一念三千を明かしている。題名の摩訶とは梵語で「大」を意味し、止とは、邪念、邪想を離れて心を一境に止住する義。観とは、さらに正見、正智をもって諸法を観照すること、すなわち所詮の妙法を証得する修行法である。章安大師は「止観の明静なる前代に未だ聞かず」とたたえ、日蓮大聖人は「兄弟抄」に、「されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師、智は日月に斉く徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の藏の中より一念三千の如意宝珠を取り出して、三国の一切衆生に普く与へ給へり。此の法門は漢土に始るのみならず、月氏の論師までも明し給はぬ事なり。然れば章安大師の釈に云く『止観の明静なる前代に未だ聞かず』云云。又云く『天竺の大論尚其の類に非ず』等云云。其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立ち入たる法門ぞかし」(昭定・九三一頁)と。
史記=前漢の武帝の代に、司馬遷(前一四五または一三五〜?年)が著した中国最初の本格的な歴史書。その内容は、開闢時代から武帝にいたるまでの各王朝の興亡史を編年体で書いた「本紀」、各種の年表や古代王朝の系図を包含した「表」、政治、経済、文化の諸制度の変遷を書いた「書」、諸侯の国別の興亡史である「世家」、著名人物の伝記である「列伝」等から成る。こうした歴史叙述の形式は紀伝体といわれ、以後の正統的な史書の発祥となった。彼以前には、断片的な記録や列国史等しかなく、総合形式による一般史は、この史記をもって最初とするのである。司馬遷は本書によって「天人の際を究め、古今の変に通じて一家の言を立つ」ことをめざした。序文で、悪事のかぎりを尽くしながら幸福な一生を終える者もあれば、善人であるが不幸な人もいる、その原因はどこにあるのかと疑問を投げているのは興味深い。
著者・司馬遷は字は子長、太史公と称された。太史令・司馬談の子で、夏陽(陜西省韓城県)に生まれ、幼少のころから学者となるべく厳格な教育をうけた。十歳のときには、すでに諸種の古典に通じていたという。二十歳のとき、父の命により中国全土を巡歴し、各地の史跡をたずね、記録伝承を採取した。のちに武帝に仕えて郎中となり、三十七歳(一説には二十七歳)のとき、父の跡を継いで太史令となった。これは宮廷の図書を司り、暦を作る職で、これによっていっそう見識を深めることができた。また彼の改正した太初磨は後の暦法の基礎となる画期的なものであった。おりしも、西域に出征していた武将李陵が匈奴に降ったのを独り弁護したので、武帝の怒りをかい、宮刑に処せられた。このとき恥を忍んで自決を思い止まったのは、父の遺命である修史を完成するためで、以後、全魂をかたむけて「史記」を完成した。史記百三十巻は本紀十二巻、世家三十巻、列伝七十巻、年表十巻、書八巻よりなっている。
周の末=周とは、西紀前十二世紀の末から前二五六年まで約八百五十年、三十七代にわたってつづいた中国の古王朝。姫姓を称すを周は、陜西の渭水流域に興り、西伯(文王)の子・発(武王)に、いたって、黄河下流域に繁栄していた殷の紂王を滅ぼして建てられた。はじめ西方の宗周(鎬京)を都とし、並んで東方の成周(洛邑)にも都を営んだが、犬戎等の異民族の侵入、国内諸侯の離反により、前七七〇年、平王の時、鎬京を捨てて洛邑のみとなった。これ以前を西周といい、以後を東周という。西周時代の社会は、周王の一族や功臣を諸侯として各地に分封し、王と諸侯とは本家、分家の関係で結ばれ、いわゆる封建制度の典型をなしていた。この思想は武王の弟・周公旦の創唱した宗法、礼儀によるもので、後世、儒教を唱えた孔子は周公の思想にその範を求めた。日蓮大聖人は「報恩抄」に「周の代の七百年は文王の礼・孝による」(昭定・一二四八頁)と述べられている。しかしながら、東周にはいってのちは、まもなく春秋時代、戦国時代とよばれる乱世になった。春秋時代の周は、いちおう名目的には王として尊ばれたが、実質は一諸侯にすぎず、戦国時代にはいると、各諸侯が王を称するようになり、周王の権威はますます地におちて、ついに前二五六年、秦によって滅ぼされたのである。周の末とは、微末という意味の末であり、周の最後というのではない。
被髪=髪を結ばず、振り乱すこと。礼法にそむき身だしなみの悪い例。
袒身=衣を解いて、膚を露わにすること。被髪と共に、礼法にそむき身だしなみの悪い例。
礼度に依らざる者=国で定めた礼儀を守らない者。あるいは、礼儀を守ることを古くさいとか、田舎者とかといって、さげすむ者。
弘決=天台大師の「摩訶止観」に妙楽大師(七一一年〜七八二年)が註釈を加えた「止観輔行伝弘決」の略称。妙楽は諱を湛然といい、出身地をとって荊渓大師ともよばれる。中国唐代の人で天台宗の第九祖であり、天台大師より六世の法孫にあたる。中興の祖として天台大師の教義を宣揚し、おおいに仏法を興隆した。
左伝=孔子の著わした春秋の注釈書。「春秋左氏伝」の略称。左氏伝は公羊伝、穀梁伝とともに春秋三伝と称せられる。後二者が理念に重点をおいているのに比して、左氏伝は史実に重点をおいている。いずれも一王によって統一された天下の倫理的秩序を確立しようと志すものである。左氏伝は東周時代の学者、左丘明の著といわれているが、左丘明については孔子と同時代の人とも、以前の賢人とも、諸説があって明らかでない。
平王=周朝第十三代の王で、幽王の子、名は宜臼(前七七一年〜前七二〇年)。幽王は犬戎に殺され、西周最後の王となった。平王は犬戎に敗れて鎬京を去り、東に遷って洛邑に都した。平王以後、斉、楚、晋、秦等が強大となり、春秋・戦国時代を迎えて周は衰亡した。
伊川=伊水ともいい、のちの河南省汝州伊陽県のこと。
野に於て祭る=野原で祭りの儀式を行うこと。祭りは神聖な行事であるから、もっとも身だしなみ等も整えるべきであるのに、髪を被るようにしていたということは、周の世を支えていた礼節が根本から腐ってしまったことを示すものである。これをもって周の滅びる前兆とされたのである。
阮藉=中国三国魏代の詩人(二一〇年〜二六三年)。阮籍のこと。竹林の七賢の代表として有名。父・瑀は曹操に仕えて丞相掾となった。彼自身も歩兵校尉となったが、母の喪中に酒を飲み、竹林で仲間と老荘の道を談ずるなど、奇怪な言動が多い。これは、当時、実権は司馬氏にあったが、世情不安定で、名門の子弟の運命はきわめて危うい状態にあった。そのため「いかにして生きのびるか」との目的のもとに計画された言動であったと解せられる。五言詩「詠懐詩」八十二首のほか「大人先生伝」などの作品がある。
蓬頭散帯=頭髪をボウボウに生やして、帯をだらしなく締め、気違いじみたかっこうをすること。
公卿=朝廷や王室に仕える貴族の総称で、わが国平安朝においては、摂政、関白、大臣までを公といい、参議、大中少納言および三位以上を卿といった。
奴苟相ひ辱しむる=奴も苟も賤しい者の意で、奴苟のような賤しい者をまねて、乱暴な言葉をもって互いに罵り合っている者。
自然に達す=堅苦しい形式や枠をとった、人間性の本来のありかたに戻ること。老荘思想はこうした自然に達することを理想とした。これに対して、礼儀、形式を説いたのが孔子の儒教である。中国の歴史において、治世には為政者が儒教を押しつけ、乱世には民衆のあいだで老荘の流れを汲む道教が勢いを増す、という繰り返しが行われた。
撙節兢持=撙節は、おさえて制限すること、互いに礼儀をもって敬いあうこと。兢持は、自らを慎み戒める意。礼法を守ることをいう。
田舎と為す=田舎者、時代遅れだといって卑しみ、嘲笑すること。
司馬氏=阮籍が仕えていた魏王朝は、曹操が献帝を奉じ、天下の実権を握って魏王となり、その子・曹丕は献帝の譲位を受け帝位について国を魏と号したが、やがて実権は曹操、曹丕のもとに仕えて蜀漢の孔明と戦った司馬懿(字は仲達)とその子・司馬昭に握られていった。昭の子・炎は魏朝を倒して晋朝を創建し、自ら武帝と号し、父・昭には文帝、祖父・懿に高祖宣帝と追尊した。二八〇年、江南の呉を滅ぼして天下を統一したが、諸侯の内乱と、外からは五胡の侵入をうけて、三一六年、四代で滅亡した。
入唐巡礼記=詳しくは「入唐求法巡礼行記」といい四巻からなる。慈覚大師が承和五年六月十三日、太宰府を出帆して入唐してから、同十四年七月、筑前に入港するまでの十年間の日記であり巡礼紀行文である。彼が入唐したのは唐の文宗の開成三年で、武宗皇帝が即位した会昌元年は、それから四年後にあたる。また、日本へ帰朝した年は唐の宣宗の大中元年で、武宗崩御の翌年にあたる。
武宗皇帝=唐の第十五代、(在位八四〇年〜八四六年)。はじめ念仏宗を重んじたため、外敵の侵入と節度使の内乱が続発した。そこで道士・趙帰真を重用して仏教排斥に転じ、会昌五年には仏寺四万六千余を破壊し、僧尼二十六万余を還俗せしめ、田を数千万頃(一頃は百畝)、奴婢十五万人を没収して、仏教を弾圧した。
章敬寺の鏡霜法師=中国・唐代の長安にあった念仏の寺と僧。ともに詳細は不明。
巡輪=巡り回ること。
廻鶻国=隋・唐から宋・元へかけて、蒙古・甘粛・新疆方面で活動したトルコ系の部族。唐代の初め、突厥に代わって中国漢北に勢力をふるった。はじめ唐の支配下に属していたが、のちにそむいて、しばしば漢民族をおびやかした。唐代の末、現在のシベリアにいた結骨(キルギス)のために敗れて四散し、その一部は新疆に移って、今日の新疆住民の祖となった。
河北の節度使=河北とは黄河の北方、後の山西省、山東省にあたる。節度使とは、唐朝が辺境の異民族の侵入を防ぐために大軍を配置したが、その軍管区司令官として置いたのが節度使である。しかるに、その
節度使が地方の監察官を兼任し、やがて武力を背景に、いっさいの行政権、財政権を握り、軍隊を私兵北して、中央に脅威を及ぼすようになった。有名な玄宗皇帝の時の安禄山も河北・山東を地盤とする節度使である。
大蕃国=吐蕃ともいい、チベットに対する唐宋時代の呼称。吐蕃国は太宗・高宗時代の唐朝初期に唐の属国となり、則天武后、また中宗の皇后韋氏の唐期混乱に乗じて離反、玄宗の開元の治を経てふたたび唐の規律がゆるむと、それに応じて離反している。ちようど武宗即位直前、チベットでは排仏派のダルマ王(在位八三六年〜八四一年)が暗殺され、混乱のなかから仏教と民間信仰のボン教が融合してラマ教が生まれようとしていた。
秦項の代=戦乱の絶え間がなく、民衆が困窮のどん底に陥った時代のこと。秦は周代の末の春秋戦国時代に覇を争った列国の一つであるが、政王のときに周および六国を滅ぼし統一を成し遂げた。これが秦の始皇帝(前二五九年〜前二一○年)である。しかし秦は三世十六年(前二二一年〜前二〇六年)で滅ぼされた。秦の後の天下を八年間にわたって争ったのが漢の沛公と楚の項羽で、ついに前二〇二年、沛公劉邦が勝って漢王朝を創建した。この間、戦乱の絶え間がなく、民衆は困窮のどん底に陥ったので、秦項の代という。
邑里=村落、むらざとのこと。
事有り=異変が起きた、すなわち唐の武宗は精神錯乱や背疽のため狂死したと伝えられる。
彼の院の御事=後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとして承久の変が起こり、朝廷方が惨敗したことである。京都朝廷は鎌倉幕府の開設、守護・地頭の設置によって、政治的にも経済的にも大打撃をこうむっていた。そこへ、ちょうど鎌倉では源実朝の暗殺後、北条氏の実権が確立される時期にあたり、有力御家人のあいだに紛争が起こっていた。朝廷側の中心的立場にあった後鳥羽上皇は、時機到来とみて承久三年(一二二一年)執権・北条義時追討の院宣を出した。これに応じて畿内西国の武士たちが集まってきたが、北条氏を中心とする東国武士の団結は堅く、直ちに義時の子・泰時を大将とする大軍を西上させ、たちまち上皇軍を打ち破った。幕府は仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡にそれぞれ遠流し、また上皇方の主な公家、武士を厳罰にし、それらの所領三千余か所を没収して功のあった御家人に与えた。さらに六波羅探題を京に設置して朝廷方の監視役とし、幕府の体制を確立したのである。この朝廷方の敗北の原因は、法然の念仏流行にあると断じられているのである。  
[第六問]

 

客聊(いささか)か和らぎて曰く、未だ淵底を究めざれども、数(ほぼ)其の趣を知る。但し華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗(すうけん)在り、仏家に棟梁在り。然れども未だ勘状を進(まい)らせず。上奏に及ばず。汝賎しき身を以て、輙(たやす)く莠言(ゆうごん)を吐く。其の義余り有れども、其の理謂はれ無し。
[第六答]
主人の曰く、予、少量為りと雖も、忝なくも大乗を学す。蒼蝿(そうよう)は驥尾(きび)に附して万里を渡り、碧蘿(へきら)は松頭に懸りて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生れて、諸経の王に事(つか)ふ。何ぞ仏法の衰微を見て、心情の哀惜を起さざらんや。其の上、涅槃経に云く、「若し善比丘ありて、法を壊る者を見て、置きて呵嘖し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能く駈遣し呵嘖し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」と。余、善比丘の身(み)為(た)らずと雖も、仏法中怨の責を遁れんが為に、唯(ただ)大綱を撮りて粗(ほぼ)一端を示す。其の上、去ぬる元仁年中に、延暦・興福の両寺より、度度奏聞を経て、勅宣・御教書を申し下して、法然の撰択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に、之を焼失せしめ、法然の墓所に於ては、感神(かんじん)の犬神人(いぬじじん)に仰せ付けて破却せしむ。其の門弟、隆観・聖光・成覚・薩生等は、遠国に配流せられ、其の後、未だ御勘気を許されず。豈、未だ勘状を進(まい)らせずと云はん也。 
淵底=ものごとの奥義、奥底、真意。
華洛=中国・周代の都を洛邑といい、後漢の都を洛陽といったところから、洛は都の代名詞のように使われるようになった。華洛とは「花の都」の意で、ここでは京都をさす。
柳営=将軍の陣営のことをいい、ここでは幕府の所在地・鎌倉をさす。「漢書」周勃伝に、漢の将軍・周亜父が匈奴征討のため、細柳という所に陣をおいたが、軍規があまりにも見事に守られたので、武帝をして敬意を表せしめたとある。この故事から、一般に将軍の陣営をいうようになった。
釈門=仏教界のこと。
枢楗・棟梁=枢楗の枢は戸の回転軸、楗は扉の関の木、すなわち閂で、門にとって大事な要所。棟梁は家の棟と梁で、家にとっての要所であり肝要である。ここでは、前者は法門上の要である経や宗旨をさし、後者は仏教界における大事な位置についている高僧をさす。
勘状=勘えるところを書に記して、君主に意見すること。
上奏=天子に意見などを具申すること。
賎しき身を以て=日蓮大聖人は、生まれも賤しく、弟子も少なく、有力な檀越ももたず、また寺もないと、それを客が賤しめていったのである。
莠言=莠とは薬草、転じて醜で、善に似て実は悪いものを喩える語。莠言とは有害な言葉、醜悪の言の意。
其の義余り有り=主人のいうことには、議論の余地が沢山ある、私は納得できない、という意味。
少量=器量が小さいこと。転じて、身分も低く、智慧や徳も人並みの平凡な人間であるとの意。先に客が「汝賎しき身を以て、輙く莠言を吐く。」と謗じたのを受けて、このように答えたのである。
大乗=仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞、縁覚の教えで、限られた少数の人びとしか救うことができない。これを、生死の此岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬えて小乗という。これに対して法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すればすべての人が成仏得道できると説くので、大乗という。
蒼蝿は驥尾に附して=蒼蝿は、青バエ。驥は一日に千里を走るという駿馬。わずかしか飛べない青バエも、駿馬の尾につかまっていれば万里を行くことができるという諺。少量の人物でも大乗を学すことによって、偉大な智慧をもち、働きをすることができるとの意。
碧蘿は松頭に懸り=碧蘿は碧羅とも書き、緑色のつたかずらである。自身では立つことができないが、高い松の木に寄って、千尋の高さに伸びることができる。凡夫を碧羅に譬え、大乗仏法を松に譬えた譬喩である。
諸経の王=一切経の王、すなわち法華経のこと。
涅槃経に云く=南本の第三長寿品の文。
呵嘖=叱り責めること。相手の罪過を追求し、弾劾すること。
駈遣=その所を追い出すこと。
挙処=その罪を挙げて対処すること。
元仁年中=元仁元年は一二二四年にあたり、貞応三年の十一月二十日に改元された。翌年四月二十日には嘉禄に改元されている。この元仁元年八月五日、専修念仏者禁圧の勅宣、御教書が出ている。時の天皇は後堀河天皇、幕府の執権は北条泰時である。法然は建暦二年(一二一二年)に死亡したので、法然滅後十三年にあたる。
興福寺=法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ。はじめ斉明天皇の三年(六五七年)、藤原鎌足の発願によって、山城国山科に造立が始められ、没後の天智天皇八年(六六九年)、鎌足の夫人・鏡女王の手で落成、山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏であった。その後、天武天皇の飛鳥遷都にともなって飛鳥の厩坂に移し、また元明天皇の平城京遷都とともに、現在の奈良市登大路町の地に移されて、藤原不比等によって造営をみ、興福寺と号するようになった。平城移転後はたんに藤原氏の氏寺というばかりでなく、春日神社を管掌下におき、絶大な権勢を誇った。平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を擁し、春日の神木をかついだ僧兵の狼籍は、日枝の神輿をかついだ延暦寺の僧兵と並んで、朝廷、公卿に対するもっとも大きい脅威であった。
勅宣=勅命の宣旨。天皇の命令を宜べ伝える公文書。
御教書=摂関政治のころから始まった公式文書の一つで、三位以上の公卿において、家司が上意を奉じて出すという形式をとる。のち鎌倉幕府、室町幕府にも取り入れられて、執権、管領などが将軍の上意を奉じて出す形式をとった。執達状ともいう。
印板=昔、文書や図画などを印刷するのに木板に彫刻した。その版木をいう。印版とも書く。材料としては、主に桜や黄楊が用いられた。えりいた、かたぎ、摺形木等ともいう。
大講堂=比叡山延暦寺の大講堂。
三世の仏恩=過去、現在、未来の三世の一切諸仏の恩。
法然の墓所=法然は建暦二年(一二一二年)一月、東山大谷禅房で死に、死体は庵の東側に埋められていた。嘉禄三年(一二二七年)六月二十二日、勅許を得た比叡山の僧徒が襲って、この墓は破壊された。ついで六月二十九日、専修念仏禁止の宣旨が発せられ、七月六日に法然の高弟であった隆寛、空阿弥陀仏、成覚房幸西を還俗させ、陸奥、薩摩、隠岐島にそれぞれ遠流にすることが決定された。この三人は宣旨が出ると同時に逐電し、姿をくらました。朝廷では各地に命令を出し、この三人の追放、遠流を指示した。十月、幕府から鎌倉近辺で捕えられた隆寛を、さきに配流の地と決定された奥州へ追放した旨の報告が朝廷方に届けられている。
感神(院)=祇園神社の別号で、八坂神社の旧称の一つ。貞観十八年(八七六年)神託と称して播磨国広峰から牛頭天王を移したのがはじめで、観慶寺感神院と号し、興福寺の所管に属した。天延二年(九七四年)五月、延暦寺別院、日吉社末社となった。
犬神人=「つるめそ」「いぬじにん」とも読む。神人とは、平安時代から鎌倉、室町時代にかけ、祭儀その他の雑事を務めた者。しかし、祇園社は、犬神人といって、神人のなかでも、境内の掃除をして不浄の物を捨てたり、くつや弓矢を作ってそれを行商していた賤民である。祭りのときには、神輿の前を行って道路の不浄物を除いた。一説によれば、犬神人は、蝦夷討伐で捕えたアイヌ人を神社が買ったり、奴隷として寄付された人びとともいう。
隆観=浄土宗長楽寺流の祖(一一四八年〜一二二七年)。隆寛とも書く。藤原資隆の子で、はじめ天台宗恵心流を学んだが、法然の弟子となって洛東の長楽寺に住した。安貞元年、比叡山の定照が「弾選択」を著したのに対して「顕選択」を著して反論した。しかし、そのため法然の墓をあばかれ、隆観自身は対馬に配流が決定された。同年十二月、八十歳で没した。隆観の流れを汲む者を長楽寺流または多念義という。
聖光=浄土宗鎮西派の祖(一一六二年〜一二三八年)。諱は弁長、のち弁阿と改めた。筑前国遠賀郡で生まれ、七歳で出家した。比叡山で学び、一度故郷に帰ったが、弟の死を見て無常観におそわれ、再び上京して法然に会った。元久元年(一二〇四年)筑紫へ下り、筑後国に善導寺を建てて念仏を弘めた。嘉禎三年「徹選択集」を著し、鎮西派の依処となる。然阿、良忠等の弟子がある。
成覚=成覚房幸西のこと。生没年ともに不詳。姓は物部氏。はじめ比叡山西塔南谷鐘下房において天台の経疏を学んだが、弟子の死にあって無常を感じ、法然を訪ねて弟子入りした。三十六歳のときという。その後、承元元年、法然が土佐に流されたときには阿波に流され、嘉祥三年にも伊予へ流されたという。嘉祥三年十月二十日の宣旨にいわく「成覚法師は讃岐大手嶋に経廻す」と。またいわく「隆寛、幸西、空阿弥等を投溺すべし」と。また、一念義を主張しをたために法然からも附仏法の外道と責められて擯出されたともいわれる。一念義とは、一度、念仏を称えれば、それで往生は決定してしまうのだから、多く称える必要はないという説。それに対して、できるだけ多く称えて弥陀に恩を謝すべきだというのが多念義で、法然自身、日に六万遍称えたといっている。
薩生=はじめ天台宗を学んだが、成覚房幸西に従って専修念仏に帰依した。証空から西山派の修行を学び、鎌倉に出て独自の派をつくった。生没年ともに不詳。  
[第七問]

 

客則ち和らぎて曰く、経を下し僧を謗(ほう)ずること、一人として論じ難し。然れども大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、并びに一切の諸仏・菩薩、及び諸の世天等を以て、捨・閉・閣・抛の四字に載するの詞(ことば)勿論也。其の文(もん)顕然(けんねん)也。此の瑕瑾(かきん)を守りて其の誹謗を成す。迷ふて言ふ歟。覚りて語る歟。賢愚弁へず、是非定め難し。但し災難の起りは撰択に因るの由、盛りに其の詞を増し、弥(いよいよ)其の旨を談ず。所詮、天下泰平、国土安穏は、君臣の楽ふ所、土民の思ふ所也。夫れ国は法に依りて昌え、法は人に因りて貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇むべき、法をば誰か信ずべけん哉。先づ国家を祈りて、須く仏法を立つべし。若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。
[第七答]
主人の曰く、余は是れ頑愚にして、敢へて賢を存せず。唯経文に就きて聊(いささ)か所存を述べん。抑(そもそ)も治術の旨、内外の間、其の文幾多(いくばく)ぞや。具に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りて、数(しばしば)愚案を廻らすに、謗法の人を禁(いまし)めて、正道の侶(ともがら)を重んぜば、国中安穏にして、天下泰平ならん。
即ち涅槃経に云く、「仏の言(のたま)はく、唯一人を除きて余の一切に施さば、皆讃歎すべし。純陀問ふて言く、云何なるをか名づけて唯除一人と為すや。仏の言(のたま)はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復言く、我今未だ解せず。唯願わくは之を説きたまえ。仏、純陀に語りて言(のたま)はく、破戒とは謂はく、一闡提(いっせんだい)なり。其の余の在所(あらゆる)一切に布施するは、皆讃歎すべし。大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義云何。仏の言(のたま)はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)有りて、麤悪(そあく)の言(ことば)を発し、正法を誹謗せん。是の重業(じゅうごう)を造りて永く改悔せず、心に懺悔(さんげ)無からん。是の如き等の人を名づけて、一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し、五逆罪を作り、自ら定めて是の如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立(ごしゃくこんりゅう)の心無く、毀呰軽賎(きしきょうせん)して、言に禍咎(かく)多からん。是の如き等を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此の如き一闡提の輩(ともがら)を除きて、其の余に施さば一切讃歎すべし」と。
又云く、「我往昔(むかし)を念ふに、閻浮提に於て、大国の王と作れり。名を仙豫と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重(きょうじゅう)し、其の心純善にして、麤悪嫉恡(そあくしつりん)有ること無し。善男子、我、爾の時に於て、心に大乗を重んず。婆羅門の方等を誹謗するを聞き、聞き已りて、即時に其の命根を断ちたりき。善男子、是の因縁を以て、是れより已来、地獄に堕ちず」と。
又云く、「如来、昔国王と為りて、菩薩道を行ぜし時、爾所(そこばく)の婆羅門の命を断絶す」と。
又云く、「殺(せつ)に三有り、謂はく下中上なり。下とは、蟻子(ぎし)乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て、地獄・畜生・餓鬼に堕ちて、具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微(み)の善根有り。是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは、凡夫人(ぼんぶにん)従り阿那含(あなごん)に至るまで、是れを名づけて中と為す。是の業因(ごういん)を以て、地獄・畜生・餓鬼に堕ちて、具に中の苦を受く。上殺とは、父母乃至、阿羅漢・辟支仏・畢定(ひつじょう)の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕つ。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は、則ち此の三種の殺(せつ)の中に堕ちず。善男子、彼の諸の婆羅門等は、一切皆是れ一闡提なり」と。
仁王経に云く、「仏、波斯匿王(はしのく)に告げたまはく、是の故に諸の国王に付属して、比丘・比丘尼に付属せず。何を以ての故に。王の威力無ければなり」と。
涅槃経に云く、「今無上の正法を以て、諸王・大臣・宰相、及び四部の衆に付属す。正法を毀る者をば、大臣・四部の衆、応当(まさ)に苦治すべし」と。
又云く「仏の言(のたま)はく、迦葉(かしょう)、能く正法を護持する因縁を以ての故に、是の金剛身を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は、五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭(きゅうせん)・鉾槊(むさく)を持すべし」と。
又云く、「若し五戒を受持せん者有らば、名づけて大乗の人と為すことを得ざる也。五戒を受けざれども、正法を護るを為(もち)て、乃(すなわ)ち大乗と名づく。正法を護る者は、応当(まさ)に刀剣・器仗を執持すべし。刀杖を持(たも)つと雖も、我、是等を説きて、名づけて持戒と曰わん」と。
又云く、「善男子、過去の世に、此の拘尸那城(くしなじょう)に於て、仏の世に出でたまふこと有りき。歓喜増益如来(かんぎぞうやくにょらい)と号したてまつる。仏の涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年、仏法の末、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り。名を覚徳と曰ふ。爾の時に、多く破戒の比丘有り。是の説を作すを聞きて、皆悪心を生じ、刀杖を執持して、是の法師を逼(せ)む。是の時の国王、名を有徳と曰ふ。是の事を聞き已りて、護法の為の故に、即便(すなわち)、説法者の所に往至(おうし)して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘しき。爾の時に、説法者厄害を免るることを得たり。王、爾の時に於て、身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡を被(こうむ)り、体に完き処は芥子の如き許りも無し。爾の時に覚徳、尋(つ)いで王を讃めて言く、善哉善哉、王、今真(しん)に是れ正法を護る者なり。当来(とうらい)の世に、此の身当に無量の法器と為るべし。王、是の時に於て、法を聞くことを得已りて、心大いに歓喜し、尋いで則ち命終(みょうじゅう)して、阿沖仏(あしゅくぶつ)の国に生じ、而も彼の仏の為に第一の弟子と作る。其の王の将従・人民・眷属の戦闘すること有りし者・歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉く阿沖仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。覚徳比丘も却(かえ)りて後、寿(いのち)終りて亦阿沖仏(あしゅくぶつ)の国に往生することを得て、而も彼の仏の為に、声聞衆の中の第二の弟子と作る。若し正法尽きんと欲すること有らん時は、応当に是の如く受持し擁護すべし。迦葉、爾の時の王とは、則ち我が身是なり。説法の比丘は、迦葉仏是なり。迦葉、正法を護る者は、是の如き等の無量の果報を得ん。是の因縁を以て、我、今日に於て、種種の相を得て、以て自ら荘厳し、法身不可壊の身を成ず。仏、迦葉菩薩に告げたまはく、是の故に、護法の優婆塞等は、応に刀杖を執持して、擁護すること是の如くなるべし。善男子、我、涅槃の後、濁悪の世に、国土荒乱し、互に相ひ抄掠(しょうりゃく)し、人民飢餓せん。爾の時に、多く飢餓の為の故に、発心(ほっしん)出家するもの有らん。是の如きの人を名づけて禿人(とくにん)と為す。是の禿人の輩(ともがら)、正法を護持するを見て、駈逐して出(いだ)さ令め、若しは殺し、若しは害せん。是の故に、我今、持戒の人、諸の白衣の刀杖を持つ者に依りて、以て伴侶と為すことを聴(ゆる)す。刀杖を持つと雖も、我は是等を説きて、名づけて持戒と曰わん。刀杖を持つと雖も、応に命(いのち)を断つべからず」と。
法華経に云く、「若し人信ぜずして、此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して、阿鼻獄に入らん」と。
夫れ経文顕然(けんねん)なり。私の詞(ことば)何ぞ加へん。凡そ法華経の如くんば、大乗経典を謗る者は、無量の五逆に勝れたり。故に阿鼻大城に堕ちて、永く出ずる期(ご)無けん。涅槃経の如くんば、設ひ五逆の供(く)を許すとも、謗法の施を許さず。蟻子(ぎし)を殺す者は、必ず三悪道に落つ。謗法を禁(とど)むる者は、(定めて)不退の位に登る。所謂(いわゆる)、覚徳とは是れ迦葉仏なり。有徳とは則ち釈迦文也。法華・涅槃の経教は、一代五時の肝心也。其の禁(いましめ)実(まこと)に重し。誰か帰仰(きごう)せざらん哉。
而るに謗法の族(やから)、正道の人を忘れ、剰(あまたさえ)へ法然の撰択に依りて、弥(いよいよ)愚痴の盲瞽(もうこ)を増す。是れを以て、或いは彼の遺体を忍びて、木画の像に露(あら)はし、或いは其の妄説を信じて、莠言(ゆうごん)の模(かたぎ)を彫り、之を海内(かいだい)に弘め、之を核墩外(かくがい)に翫(もてあそぶ)ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或いは釈迦の手指を切りて弥陀の印相を結ばせ、或いは東方如来の雁宇(がんう)を改めて、西土教主の鵝王(がおう)を居(す)ゑ、或いは四百余廻の如法経を止めて、西方浄土の三部経と成し、或いは天台大師の講を停めて、善導の講と為す。此の如き群類、其れ誠に尽し難し。是れ破仏に非ず哉。是れ破法に非ず哉。是れ破僧に非ず哉。此の邪義は則ち撰択に依る也。嗟呼(ああ)悲しいかな、如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなり、愚侶迷惑の麤語(そご)に随ふこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思はば、須く国中の謗法を断つべし。

一人として論じ難し=経を下し僧を謗じているのは法然一人ではない、との意。裏には「あなたも誹謗しているではないか」という気持ちが含まれている。
世天=世間の諸天、すなわち諸天善神。
瑕瑾=瑕は玉に傷のあること。転じて、傷、短所、欠点、恥を意味する。瑾は美しい玉。
賢愚弁へず=あなたと法然と、どちらが賢く、どちらが愚かなのか、私にはさっぱりわからないとの意。
天下泰平、国土安穏=天下泰平は、あらゆる民衆がたがいに協調しあい、仲よく生活を楽しみ、建設していくこと。国土安穏は天災地変におかされない、安穏な国土の意。前者は正報をあらわし、後者は依報をあらわす。
頑愚=頑固で愚か。
治術=人の病を治す方法。ひいては国を治める方法。災難を治める方途。
内外の間=内道たる仏教にも、外道においても、数え切れないほど説かれている、との意。
涅槃経に云く=涅槃経大衆所問品の文。
純陀=准陀、周那とも書く。訳して妙義という。中インドの拘尸那城、跋提河のほとりの沙羅双樹林に住んでいた金工で、釈尊が入滅するとき、最後の供養を捧げ、涅槃経の対告衆ともなった。
破戒=戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斎戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗に十重禁戒・四
十八軽戒・三聚浄戒等、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。
一闡提=略して闡提ともいう。断善根、信不具足、または極欲、大食、焼種、極悪、不信等の者の意で、仏の正法を信ぜず、誹謗し、また誹謗の重罪を悔い改めない不信、謗法の者のこと。
麤悪の言=麤は「粗」で「あらい」「事実の正しい認識にもとづいていない」との意。悪は憎悪、悪感情。合わせて、偏見、邪見による悪口雑言をいう。
改悔=悔いあらためること。改心悔悟の意。
懺悔=過去の罪悪を悟って、悔い改めること。キリスト教では神父に告白することをいうが、仏教における懺悔は、はるかに深い。法華経の結経である仏説観普賢菩薩行法経には「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあり、これを大荘厳懺悔という。
四重=十悪業のなかで、とくに重い殺生、偸盗、邪淫、妄語の四。
怖畏=怖れること。
肯へて発露せず=心の奥底では怖畏懺悔する気持ちがあっても、一向に素直にそうしようという気持ちを起こさず、表面にも出さず、悪業を重ねていく。
護惜建立=正法を護り、惜しみ、僧俗協力して正法を護持し、愛惜し、断絶しないことをいう。毀呰軽賎の反対語。
毀呰軽賎=軽んじ賤しみ悪口をいうこと。護惜建立の反対語。
禍咎=過ち、間違い、とが。
嫉恡(悋)=嫉は、ねたみ。悋はもの惜しみすること。恡は悋の俗字。
方等=方広平等の意で大乗経典のことをいい、法華涅槃の経法をいう。この方等は、いわゆる一代聖教を華厳、阿含、方等、般若、法華の五時に分けたなかの方等ではなく、釈尊一代における真の方等は法華経である。
命根=生命というのと同じ。根は増上の義で、草木の根が、それらを芽生えさせ、花や果を出すもとになるように、命は、一生のあいだ色心を維持し、さまざまな生命機能のもとになるので命根という。
唯菩薩の示現生=菩薩が衆生済度のため、誓願して畜生の姿でこの世に生まれているもの。すなわち、人間に縁を結び、その人間を救うために動物の姿をとるというのである。これは殺しても罪にならないという意。その例として、釈尊が昔飢饉の世に赤目の大魚となって五人の大工に食べられたが、それによって縁を結んだのが成道後、最初に教化した阿若隠陳如(倶隣)、阿湿婆恃、跋提、摩訶男と、
十力迦葉又は婆沙波の五人であるというのである。
微の善根=畜生といえども微少の善根がある。
阿那含=小乗仏教における声聞の聖者で、第一須陀亀、第二斯陀含、第三阿那含、第四阿羅漢の第三。阿は「不」、那含は「来」の意で、訳して不来、不還という。この聖者は欲界九品の惑を断じて、ふたたび欲界に還ってこないのでこのように名づける。
辟支仏=辟支畢勒支底迦・辟支迦羅で十界のなかの縁覚のこと。独覚、縁一覚、因縁覚とも訳す。旧訳では縁覚と訳す。これは、一つには仏の十二因縁の理を観じて、修行覚道するゆえに名づけ、一つには、飛花落葉の外縁によって悟るゆえにいう。また、新訳で独覚というのは無仏の世において、あるいは十二因縁を観じ、あるいは飛花落葉を観じて、独り自ら悟るゆえに、このように呼称する。「十法界明因果抄」には「第八縁覚道者有二。一部行独覚。在仏前如声聞習小乗法持小乗戒断見思成永不成仏者。二麟喩独覚。在無仏世見飛花落葉作苦・空・無常・無我観断見思成永不成仏身。戒亦如声聞。(第八に縁覚道とは、二有り。一には部行独覚、仏前に在りて声聞の如く小乗の法を習い、小乗の戒を持し、見思を断じて永不成仏の者と成る。二には鱗喩独覚、無仏の世に在りて飛花落葉を見て苦・空・無常・無我の観を作し見思を
断じて永不成仏の身と成る。戒も亦声聞の如し)」(昭定・一七八頁)とある。
畢定の菩薩=修行が畢って行位不退に安住している大菩薩である。畢定とは、畢竟決定の意で、不退ということである。「十法界明因果抄」には「於凡夫持此戒云信位菩薩。雖然一劫二劫乃至十劫之間沈輪六道経十劫入不退位永不受六道苦云不退菩薩。未成仏還入六道無苦也。(凡夫に於て此の戒(十重禁戒等)を持するを信位の菩薩と云う。然りと雖も一劫二劫乃至十劫の間は六道に沈輪し、十劫を経て不退の位に入れ、永く六道の苦を受けざるを不退の菩薩と云う。未だ仏に成らず、還って六道に入れども苦無きなり)」(昭定・一八〇頁)と述べられている。ただし、ここでいう畢定とはあくまで行位不退ということで、念不退の初住の菩薩以上は除く。なぜなら、初住の菩薩以上は、一分の仏であって殺害することはできないからである。
仁王経に云く=仏説仁王般若波羅蜜経受持品の文。
波斯匿王=釈尊在世当時の舎衛国の王。和悦または月光と訳す。梵授王の子として、釈尊と同じ日に生まれた。釈尊を日光と尊称したのに対して、王を月光と称した。政治的にも優れた手腕を発揮したが、早くから釈尊に帰依し、舎衛国は釈尊にもっとも縁の深い仏都と称せられるにいたった。有名な祇園精舎は、須達長者と太子祇陀によって建てられたものである。また、仏が説法するにさいして、この仏都ですら、三分の一の人が仏を見、説法を聞き、三分の一は仏を見たが説法を聞かず、三分の一は仏も見ず説法も聞かない無縁の人であったことは「舎衛の三億」として知られている。
涅槃経に云く=大般涅槃経長寿品の文。この後の「又云く」は二つ共に金剛身品の文である。
四部の衆=比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、すなわち僧・尼・信男・信女をいう。
苦治=苦とはねんごろという意、きびしく対治すること。
迦葉=これは迦葉童子菩薩のこと。ふつう経文には同じ迦葉の名で、声聞十大弟子の摩訶迦葉のほか、優楼頻螺迦葉、伽耶迦葉、那提迦葉の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身の迦葉菩薩が出てくる。三兄弟の迦葉は摩訶迦葉に対して小迦葉といわれ、法華経五百弟子受記品で普明如来の記別を受けている。同品で摩訶迦葉は光明如来の記別を受けている。十力迦葉は釈尊成道後最初に教化した五人のなかの一人。迦葉仏は住劫第九の減、人寿二万歳のときに出世した仏で、過去の七仏の第六。迦葉童子菩薩は以上の迦葉のいずれでもなく、涅槃経にはじめて現れ、仏に三十六の問を発して、その対告衆となっている。前四味四十余年の会座にも連ならず、法華の会座にも漏れた、いわゆる捃拾の機の人である。
金剛身=金剛とはダイヤモンドのことで、壊れないもの、壊すことのできないものを譬える。仏の境涯は、いかなるものもこれを壊すことができないので、仏身を金剛身という。
五戒=小乗教でいう八斎戒とともに俗男俗女のために説かれる戒で、一に不殺生戒、二に不偸盗戒、三に不妄語戒、四に不邪淫戒、五に不飲酒戒をいう。
威儀=行動、立居振舞いが仏教の戒律の作法に適っていること。
刀剣=片刃のものを刀といい、両刃のものを剣という。
弓箭=弓と矢。
鉾槊=ほこ。鉾とは、本来、剣のきっさきをいい、槊とは周尺で一丈八尺の柄のついた矛をいう。矛には、枝のないもの、一本枝のあるもの、両側に二本あるもの等各種ある。
器仗=器は道具、仗は刀戟など兵器の総称で、合わせて武器のこと。
又云く、「善男子、過去の世に、此の拘尸那城に於て、・・・=大般涅槃経金剛身品の文。有徳王、覚徳比丘の正法を護持宣流する崇高な姿を説かれた段でこの金剛身品の引用文には( )部分が省略されている。すなわち(爾の時に世界は、広博厳浄、豊楽安穏に、人民は熾盛にして、飢渇有ること無し。安楽国の諸の菩薩等の如し。彼の仏世尊、世に住すること無量、衆生を化し已りて、然して後乃ち沙羅双樹に於て般涅槃に入る)仏涅槃の後正法世に住すること無量億歳なり。余の四十年仏法の末(多くの徒衆有りて、眷属囲繞す。能く師子吼して、九部の経典を頒宣広説す。諸の比丘を制すらく「奴婢・牛羊・非法の物を蓄養することを得ざれ」)と。
拘尸那城=拘尸那迦羅ともいい、香茅城、茅城と訳す。吉祥草の都城という意味である。現在の北インド、ウッタル・プランデーシュ州にあった都城で、北にヒマラヤ山脈のダウラギリ、マナスル等の高峰を背負い、南にガンジスの流れを望む地帯にあたる。釈尊在世当時は、十六大国の一つ末羅族の都であった。この城外、北の跋提河(カッター川)の西岸に沙羅樹林があり、涅槃経の説処であるとともに、釈尊入滅の地となった。そのほか、仏最後の弟子である須跋陀羅の入滅の地、仏母慟哭の地、天冠寺の茶毘処など、多くの由緒ある遺跡がある。なお、当時のままという大涅槃塔も残っており、諸国からの巡拝者が跡を絶たない。
余の四十年、仏法の末=歓書増益如来の正像無量億歳を過ぎようとしていた最後の四十年で、まさに仏法の功力がなくなろうとした時をさす。
持戒の比丘=受持即持戒で、正法(この場合は涅槃経)を堅く受持する僧侶。
破戒の比丘=身は僧であり、賢善の姿を示しながら、正法に反逆し、正法を持つ者を憎み、嫉む者。
説法者=正法を説く覚徳比丘のこと。
芥子=けし科の越年生草木で、高さ約一メートルになる。葉は白粉をおび、花は五月ごろ四弁で、白、紅、紅葉、紫などに咲く。種子が細かいので、微細なことの譬えとして用いられる。
無量の法器=有徳王の肉体は、全身傷だらけとなったが、護法のために、未来世には無量の法器となろうといったのである。法器とは、仏法の実践や修行のできる素質や縁をもつことのできた人。内に妙法の無上宝聚を蔵する器ということで、すなわち、妙法の当体、成仏の境涯を意味する。
阿沖仏(あしゅくぶつ)=東方歓喜国の教主で、阿沖仏国経、大宝積経、悲華経、観仏三味経、維摩経等に出てくるが、法華経化城喩品第七では、大通智勝仏の十六王子の第一、智積王子の後身と説かれている。すなわち「是の十六の菩薩は常に楽って、是の妙法蓮華経を説く。一一の菩薩の所化の、六百万億那由陀恒河沙等の衆生は、世世に生まるる所、菩薩と倶にして、其れに従い法を聞いて、悉く皆信解せり。此の因縁を以って、四万億の諸仏、世尊に値いたてまつることを得、今に尽きず。諸の此丘、我今汝に語る。彼の仏の弟子の十六の沙弥は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於いて、現在に法を説きたもう。無量百千万億の菩薩、声聞有って、以って眷属と為り。其の二りの沙弥は、東方にして作仏す。一を阿沖と名づく。歓喜国に在す……」と。
菩提の心=菩提とは、道、覚、知等と訳す。修行によって得た仏法の悟りの境地をいい、最高、絶対の幸福境涯である。また発心を云うこともある。小乗、爾前経では、煩悩を断じて菩提が得られるとした。それに対して法華経では、妙法を信ずることによって煩悩がそのまま菩提になると説く。「生死一大事血脈抄」に大聖人は「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」(昭定・五二四頁)と教えられている。煩悩を薪、菩提を火に譬えるのもこの意である。なお、ここで「菩提の心」というのは、菩提を求める心、成仏を志すことをいう。
声聞衆=小乗教の説く、独善的、利己的な意味の声聞でなく、仏の弟子として、仏の説法を聞き、またその遺教を学び、仏の教え、精神を、民衆に教え、後世に伝えていく人である。「開目抄」にある「我等今、真に是れ声聞なり。仏道の声を以て、一切をして聞かしむべし。我等今、真に阿羅漢なり。諸の世間、天・人・魔・梵に於て、普く其の中に於て、応に供養を受くべし」(昭定・五六三頁)と述べている四大声聞の領解の文がそれである。
迦葉=これは摩訶迦葉ではなく、前出の迦葉菩薩のこと。迦葉童子菩薩ともいい、前四味四十余年の会座にもつらならず、法華経の会座にも漏れた捃拾の機根の人である。
迦葉仏=過去七仏の第六で、現在賢劫の住劫第九の減、人寿二万歳のときに出現した仏。大智度論巻九には「この九十一劫の中、三劫に仏ありき、賢劫の前の九十一劫の初めに仏あり、鞞婆尸と名づく。第三十一劫の中に二仏あり、一を尸棄と名づけ、二を鞞恕婆付(毘舎浮、毘舎婆と同じ)と名づく。この賢劫の中に四仏あり、一を拘留孫仏と名づけ、二を倶那含仏と名づけ、三を迦葉と名づけ、四を釈迦牟尼と名づく、これを除いて余の劫は皆空にして仏なし、はなはだ憐愍すべし」とある。また、長阿含経巻一にも「毘婆尸仏のとき人寿八万歳。尸棄仏のとき人寿七万歳。毘舎婆仏のとき人寿六万歳。拘留孫仏のとき人寿四万歳。拘那含仏のとき人寿三万歳。迦葉仏のとき人寿二万歳。われいま出世す。人寿百歳より少し出で、多く減ず」と説かれている。
種種の相を得て=三十二相八十種好のこと。三十二相とは、足安平(足底の肉が満ちて平らかなこと)、足千輻輪(足底の網紋が千の輻のある輪に似ていること)、手指繊長、手足柔軟、手足指縵網(指の中間に鰻網があること)、足跟満足、足趺高好、ガイ如鹿王(ふくらはぎの繊好なこと)、手過膝(手が膝より長いこと)、馬隠藏(男根が体内に隠れて見えないこと)、身縦広(身体のたてよこが相かなうこと)、毛孔生青色、身毛上靡、身金色、身光面各一丈、皮膚細滑、七処平満(両足下、両手、両肩および項の七個所の肉が満ちて平らかなこと)、両腋満、身如獅子(威儀の厳粛なこと)、身瑞直、肩円満、四十歯、歯白斉密、四牙白浄、頬車如獅子(両頬の肉が満ちて高いこと)、咽中津液得上昧、広長舌、梵音深遠、眼色如金精、眼睫如牛王、眉間白毫、頂肉髻成(頂の肉が隆く起って髻に似ていること)。
法身不可壊 真理を身体とする仏は何ものにも壊されないこと。絶対・究極の真理としての法をもって身体を荘厳した、なにものにも破壊されない仏身をいう。法華円教の法身は法・報・応の三身相即の法身であり、現在のわが身即妙法の当体となること。この境涯は成仏の究竟であり、絶対に壊ることのできない幸福生活である。このゆえに「不可壊」というのである。
濁悪の世=末法の五濁悪世のこと。法華経方便品に「舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう。所謂劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁なり」とある。末法の世にはこの五濁がとくに盛んになると説かれており、涅槃経のいまの文も、末法の日蓮大聖人の出現と仏法流布の方軌を述べているのである。五濁の劫濁とは、飢饉、疫病、戦争等が起こって、時代そのものが乱れること。煩悩濁とは、貪・瞋・痴・慢・疑という生まれながらにもつ本能の乱れ。衆生濁とは人間そのものが濁乱していること。見濁とは、思想、見解の濁乱。命濁とは生命力および生活力が弱く、生活が乱れ、病気や早死にが多いこと。
相ひ抄掠し=互いに土地や財産などを奪いあうこと。かすめとること。
禿人=髪がない者。生活のために出家した、形だけの僧侶を嘲けていったことば。
諸の白衣=昔、インドで出家の仏弟子は、いわゆる穢色の糞掃衣を着たのに対して、出家しない一般人は白い衣を着ていたので、在家の信者を白衣というようになった。
法華経に云く=譬喩品第三の文。
仏種=成仏の種子。仏果を生じる因種。衆生の仏性。
阿鼻獄=八大地獄のうちでも、最も重い無間地獄のこと。
大乗経典=大乗とは、音写で摩訶衍で、大とは広大・無限・最勝、乗とは、衆生を涅槃の彼岸に運ぶ乗りものにたとえた言葉。小乗教が自己中心主義で、利己主義に陥る教えであるのに対して、大乗教は慈悲による利他を行じて一切衆生を救済しようとする。釈尊一代の説法では、阿含は小乗、方等・般若・華厳・法華は大乗である。
無量の五逆に勝れたり=殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血の五逆罪を、かぞえきれないほど犯したより、正法誹謗の罪は、さらに重罪であるとの意。
阿鼻大城=阿鼻獄、すなわち無間地獄のこと。大城とは、この無間地獄が欲界の最底にあり、広漠で、しかも七重の鉄城、七重の鉄網でかこまれていて、脱出できないようになっているとされたところから名づけられた。
永く出ずる期無けん=前の法華経譬喩品の引文の次下に、「其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」とある。
五逆の供=五逆罪を犯した者に供養すること。
謗法の施=正法を誹謗する者に布施、供養すること。
三悪道=地獄、餓鬼、畜生をいう。
不退の位=不退とは、阿毘跋致で、不退転のこと。すなわち、仏道修行において、どんな誘惑や迫害があっても、退転しないでかならず成仏の境涯へ進むという位。天台大師は菩薩の五十二位のうち、初住の位をもって不退としている。
盲瞽=仏法の正邪が分からず、邪法に迷って苦しみの生活に陥っているとの意。盲は生後の失明、瞽は生まれながらの盲目をいう。
莠言=莠とは薬草、転じて醜で、善に似てじつは悪いものを喩える語。莠言とは有害な言葉、醜悪の言の意。
模=昔の印刷の原版である形木、版木のこと。
墩外=墩は郭と同じで「かこみ」「くるわ」をいう。都城の周辺を塁壁で囲んだところから、城内を郭内、城外を郭外といった。ここでは、念仏宗の徒が、都の外、辺鄙な田舎の隅々にまで法然の邪義をひろめ、念仏の哀音が日本国じゅうをおおったことをいう。
其の家風=念仏宗の家風、すなわち法然の教義。
印相=印契ともいい、仏、菩薩の手や指の造像上の特定の姿で、仏像の種類を特徴づける重要な条件とされる。
東方如来=薬師如来のこと。詳しくは薬師瑠璃光如来といい、東方浄瑠璃世界の教主。衆生の心の病根を治そうと十二の大願を立てた。大医王仏とも称される。
雁宇=伽藍のこと。僧侶が集まって修行する寺。現在では仏堂をいう。建物全休の形が雁に似ているので、このようにいうとも、屋根の形が雁の羽をひろげた姿に似ているのに由来するともいわれる。
鵝王=仏の三十二相の一つに手足指縵網相があり、これは手足の指の間に縵網があることである。このことから仏を鵝王と異称するようになった。涅槃経に「若し菩薩摩訶薩、四摂法を修して衆生を摂取す、是の業縁を以て縵網の指の白鵝王の如くなるを得」とある。
如法経=比叡山天台宗第三の座主・慈覚が始めたもので、法華経書写の行の一つ。すなわち、慈覚が天長年間(八二四年〜八三四年)に、比叡山の横川で庵を結び、三年間、六根懺悔の三昧行法を修し、如法作法によって法華経等を書写し、これを小塔に納めて如法堂に安置したのが始めといわれる。以来、藤原道長が寛弘年間(一〇〇四年〜一〇一一年)に法華三部を書写して大和の金峯山に納めるなど、盛んに行われた。
或いは四百余廻の如法経を止めて=「人王五十三代・淳和天皇の御宇、天長十癸丑年、慈覚大師四十歳の時、身は疲れ眼は昏し、叡山の北礀に於て草庵を結び屏居す。後に天薬を感じ身は健やかに眼は明らかなり。ここに於て石墨草筆を以、妙法華を書し、小塔に蔵して一庵に置く、名を如法堂という、今の首楞厳院なり。天下これに則り、法華を書するを如法経と号す。釈書三。彼の時より文応に至ること四百二十三、四年なり。故に四百余歳というなり。(石山日寛・文段)」
天台大師の講=天台智者大師の入滅会で、毎年十一月二十四日に行われた。比叡山では十一月会または天台会とよんだが、他の諸寺では大師講と称した。二十三日までに十講を終え、二十四日は恵心僧都が作った天台大師和讃を唱えて大師供を行った。これも、浄土宗の隆昌にともなって、善導講にすりかえられてしまった。
誠諦=悟り。誠とは真実。諦とは明らかにする、究めるという意味。仏が自ら深く究め、明らかにした真理。
迷惑=方便権教に迷い、真実を明らかにできないこと。誠諦の反対で、愚痴の凡夫の迷いをいう。
静謐=平穏平和、泰平。世の中が穏やかに治まること。  
[第八問]

 

客の曰く、若し謗法の輩(ともがら)を断じ、若し仏禁の違を絶たんには、彼の経文の如く、斬罪に行ふべき歟。若し然らば殺害(せつがい)相ひ加え、罪業(ざいごう)何(いかん)が為(せ)ん哉。
則ち大集経(だいじゅうきょう)に云く、「頭(こうべ)を剃り袈裟を著せば、持戒及び毀戒をも、天人彼を供養すべし。則ち為(こ)れ我を供養するなり。是れ我が子なり。若し彼を撾打(かちょう)すること有れば、則ち為れ我が子を打つなり。若し彼を罵辱せば、則ち為れ我を毀辱するなり」。
料(はか)り知りぬ。善悪(ぜんなく)を論ぜず、是非を択ぶこと無く、僧侶為(た)るに於ては、供養を展ぶべし。何ぞ其の子を打辱(ちょうにく)して、忝(かたじけ)なくも其の父を悲哀せしめん。彼の竹杖の目連尊者を害せし也(や)、永く無間の底に沈み、提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし也(や)、久しく阿鼻の焔(ほのお)に咽(むせ)ぶ。先証斯れ明らかなり。後昆(こうこん)最も恐れあり。謗法を誡(いまし)むるに似て、既に禁言を破る。此の事信じ難し、如何が意(こころ)を得ん。
[第八答]
主人の曰く、客、明らかに経文を見て、猶、斯の言(ことば)を成す。心の及ばざる歟、理の通ぜざる歟。全く仏子を禁(いまし)むるに非ず、唯偏(ひとえ)に謗法を悪(にく)む也。
夫れ釈迦の以前の仏教は、其の罪を斬ると雖も、能仁(のうにん)(忍)の以後の経説は、則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦の一切の四衆、其の悪に施さずして、皆此の善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災(わざわい)か競ひ来らん。 
仏禁の違=仏の禁戒に違背する。
彼の経文の如く=前に引かれた涅槃経の文。
殺害相ひ加え=謗法の者と雖も殺せば殺生の罪になる、との客の論難。
大集経に云く=大集月蔵経法滅尽品の文。
袈裟=不正雑色の意。僧侶が、左肩から右腋下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条、七条、九条の三種がある。壊色、功徳衣、無垢衣、忍辱鎧、福田衣ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せ、衣としたのが、その由来という。以来、仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するようになった
毀戒=戒律を破る者。破戒と同じ。
天人=天上界および人間界の衆生。
供養=供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の義である。すなわち、報恩のために、仏法僧の三宝あるいは死者などに、真心や諸物をささげて回向すること。これに財供養と法供養、色供養と心供養、
事供養と理供養など、たくさんの種類、区別がある。
撾打=撾も打も、ともに打つこと。
罵辱=ののしり、はずかしめること。
竹杖の目連尊者を害せし=目連尊者は大目嬰連といい、釈尊十大弟子の一人で、神通第一称せられた。過去世の母、青提女が、慳貪の罪によって五百生の間、餓鬼道に堕ちていることを神通力で知るが、救うことができず、聖僧を供養して、餓鬼道からようやく救うことができたという話は、孟蘭盆会の始まりとして有名である。法華経の会座において、目連は多摩羅跋栴檀香仏の記別を授けられ、ここに母子ともに成仏することができた。また、釈尊の入滅前、目連は羅閲城にはいって托鉢していたが、このとき、仏教徒を憎んでいたバラモンの一派、竹杖外道に囲まれた。いったんは脱出したが、過去の宿業と知って自ら戻り、殺されることによって宿業を消した。竹杖外道はこの罪により無間地獄に堕ちた。
提婆達多の蓮華比丘尼を殺せし=提婆達多は、調達ともいい、訳して天熱という。斛飯王の子であり、釈尊には従弟にあたる。阿難尊者は提婆達多の弟である。提婆は、その出生のとき、諸天が提婆は成長してのち、三逆罪を犯すことを知って、心に熱悩を生じたので、天熱と名づけられたという。外道の六万蔵を誦持し、出家して神通を学んだが、心が憍慢で大衆の前で釈尊に叱責されたのを恨み、ことごとに師敵対し、三逆罪を犯した。その第一は、釈尊の和合僧団を破って、五百人の弟子を得たこと。これは破和合僧の罪である。第二は、釈尊を殺そうとして、山上から大石を投げ、その破片が釈尊の足の指を傷つけたこと。これは出仏身血の罪である。第三がここに述べられているもので、はじめ提婆にだまされて謗法を犯した阿闍世王が、改心して釈尊に帰依したので、あるとき、提婆は王に会うために王舎城にやってきた。そこで蓮華比丘尼から、面と向かって謗法を責められたので、提婆はおこって蓮華比丘尼をなぐり殺してしまったのである。この蓮華比丘尼は、蓮華色比丘尼ともいい、はじめ淫女であったが、目連の化導によって釈尊に帰依し、修行のすえ、阿羅漢果を得た。彼女を殺すことによって、提婆は殺阿羅漢の罪を犯したのである。この直後、提婆の立っていた大地が破裂して、提婆は生きながら無間地獄に堕ちたといわれている。なお、この提婆達多も、じつは過去世においては阿私仙人といい、釈尊の因位の修行の師であった。ここに仏法の因果の理法のきびしさを身をもって示し、釈尊の化導を助け、さらに法華経では天王如来の記別を受けて、悪人成仏の先例を残したのである。
後昆=後世の子孫。または後世の人。昆も後の意。
全く仏子を禁むるに非ず=主人が浄土宗を弾劾し「須く国中の謗法を断つべし」といったのは、仏弟子を禁ずるのではなく、ただ偏に謗法を責めているのである、との意。
釈迦の以前の仏教は=さきに引かれた涅槃経の仙予国王、有徳王の例をさす。これらは、三千年前、釈尊がインドに出現する以前の因位の修行の時代なので「釈迦以前」という。
能仁(忍)=能忍とも書く。釈迦如来のこと。「能く難を忍ぶ」の意で、仏が誹謗、迫害を忍んでなお一切衆生を救わんとする大慈悲の精神をいう。「善無畏三蔵抄」には「釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに、一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり」(昭定・四六八頁)とある。
其の施=謗法者に布施をすること。  
[第九問]

 

客則ち席を避け、襟を刷(つくろ)ひて曰く、仏教斯れ区(まちまち)にして旨趣窮め難く、不審多端にして、理非明らかならず。但し法然聖人の撰択は現在也。諸仏・諸経・諸菩薩・諸天等を以て、捨閉閣抛に載せたる、其の文(もん)顕然(けんねん)也。茲に因りて、聖人は国を去り、善神は所を捨て、天下飢渇(けかつ)し、世上疫病(えきびょう)すと。今主人、広く経文を引きて、明らかに理非を示す。故に妄執既に翻(ひるがえ)り、耳目数(あまた)朗(ほが)らかなり。
所詮、国土泰平、天下安穏は、一人より万民に至るまで、好む所也、楽ふ所也。早く一闡提の施を止め、永く衆の僧尼の供を致し、仏海の白浪を収(おさ)め、法山の緑林(りょくりん)を截(き)らば、世は羲農の世と成り、国は唐虞(とうぐ)の国と為らん。然して後、法水の浅深を斟酌(しんしゃく)し、仏家の棟梁を崇重せん。
[第九答]
主人悦びて曰く、鳩(はと)化して(か)鷹と為り、雀(すずめ)変じて蛤と為る。悦ばしいかな、汝(なんじ)蘭室(らんしつ)の友に交りて、麻畝(まほ)の性と成る。誠に其の難を顧みて、専ら此の言を信ぜば、風(かぜ)和らぎ浪(なみ)静かにして、不日(ふじつ)に豊年ならん耳(のみ)。但し人の心は、時に随ひて移り、物の性は、境(きょう)に依りて改まる。誓へば、猶、水中の月の波に動き、陳前の軍(いくさ)の剣に靡(なび)くがごとし。汝当座(とうざ)は信ずと雖も、後(のち)定めて永く忘れん。若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮(じょうりょ)を廻(めぐ)らし、忩(いそ)ぎて対治を加えよ。
所以は何(いかん)。薬師経の七難の内、五難忽ちに起り二難猶残れり。所以(いわゆる)、他国侵逼(しんぴつ)の難・自界叛逆(ほんぎゃく)の難也。大集経(だいじゅうきょう)の三災の内、二災早く顕はれ、一災未だ起らず。所以、兵革(ひょうかく)の災也。金光明経の内、種種の災過、一一に起ると雖も、他方の怨賊国内を侵掠(しんりゃく)する、此の災未だ露(あら)はれず、此の難未だ来らず。仁王経の七難の内、六難今盛りにして、一難未だ現ぜず。所以、四方の賊来りて国を侵すの難也。「加之(しかのみならず)、国土乱れん時は、先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」と。今此の文に就きて、具に事の情(こころ)を案ずるに、百鬼早く乱れ、万民多く亡ぶ。先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難、悪法の科に依りて、並び起り、競い来らば、其の時何(いかん)が為(せ)ん哉。帝王は国家を基(もとい)として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りて、其の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆(ほんぎゃく)して其の地を掠領(りゃくりょう)せば、豈(あに)驚かざらん哉、豈騒がざらん哉。国を失ひ家を滅(ほろぼ)せば、何れの所にか世を遁れん。汝須く一身の安堵(あんど)を思はば、先づ四表の静謐(せいひつ)を祷るべき者歟。
就中(なかんずく)、人の世に在るや、各(おのおの)後生を恐る。是を以て或いは邪教を信じ、或いは謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪(にく)むと雖も、而(しか)も猶、仏法に帰することを哀れむ。何ぞ同じく信心の力を以て、妄りに邪議の詞(ことば)を宗(とうと)ばん哉。若し執心翻(ひるがえ)らず、亦曲意(きょくい)猶(なお)存せば、早く有為の郷(さと)を辞して、必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん。
所以は何。大集経に云く、「若し国王有りて、無量世に於て、施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、是の如く種ゑる所の無量の善根、悉く皆滅失して、乃至、其の王久しからずして、当に重病に遇ひ、寿(いのち)終りの後、大地獄に生ずべし。王の如く、夫人・太子・大臣・城主・柱師(ちゅうし)・郡主・宰官も、亦復(またまた)是(かく)の如くならん」と。
仁王経に云く、「人、仏教を壊(やぶ)らば、復(また)孝子無く、六親(ろくしん)不和にして天神も祐(たす)けず。疾疫・悪鬼、日に来りて侵害し、災怪(さいけ)首尾(しゅうび)し、連禍(れんか)縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば、兵奴(ひょうぬ)の果報ならん。響(ひびき)の如く影の如く、人の夜(よる)書するに火は滅すれども字は存するが如し。三界の果報も、亦復是の如し」と。
法華経第二に云く、「若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きほう)せば、乃至、其の人命終(みょうじゅう)して、阿鼻獄に入らん」と。
又、同第七巻不軽品に云く、「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。
涅槃経に云く、「善友を遠離し、正法を聞かず、悪法に住せば、是の因縁の故に沈没(ちんもつ)して、阿鼻地獄に在りて、受くる所の身形、縦横八万四千ならん」と。
広く衆経を披(ひら)きたるに、専ら謗法を重しとす。悲しきかな、皆(みな)正法の門を出でて、深く邪法の獄(ひとや)に入る。愚かなり、各悪教の綱(つな)に懸りて、鎮(とこしなえ)に謗教の網(あみ)に纏(まと)はる。此の矇霧(もうむ)の迷ひ、彼の盛焔(じょうえん)の底に沈む。豈(あに)愁(うれ)へざらん哉、豈苦しからざらん哉。
汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。仏国其れ衰えん哉。十方は悉く宝土也。宝土何ぞ壊れん哉。国に衰微無く、土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞(ことば)、此の言(こと)、信ずべく崇むべし。
客則ち席を避け、襟を刷ひて=ともに敬意を表明する動作、態度。これまで平等に対座して論じてきたのが、主人の言葉に心を打たれ、疑いが晴れて帰伏したことを示す。
旨趣=物事の道理。趣旨というのと同じ。ここでは仏教各宗派の中心となる教えの意。
理非明らかならず=理非とは、道理に適っていることと、道理に適っていないこと。したがって、どの宗派が正しく、どの宗派が邪であるか、という区別が明らかでないという意。
現在也=現に在りということで、明かであるとの意。
妄執=迷妄な執着。これまで、ただ盲目的に念仏宗がありがたいと思って信仰してきたこと。
耳目数朗らか=説法を聞いて、その正邪を聞き分ける耳が、僧侶の姿や行動を見て、その善悪を見分ける目が、ほぼ明らかになった、との意。
一人より万民に至るまで=上は国王から下は幾千万の一般庶民にいたるまで、心を一つにして願うところである、ということ。
衆の僧尼=ここでは、正法を護持している僧や尼。
仏海の白浪=仏海とは、釈尊の一代仏教を総称して、これを広大であるがゆえに海に譬えた言葉。白浪とは、中国の後漢の末に黄巾賊・張角の余賊が西河の白波谷にこもって掠奪をはたらいたのを、世に白波賊とよんだ。これが広く盗賊の異称となり、とくに海や河に出没する水賊を白波または白浪とよぶようになった。仏海の白浪とは、法然および浄土宗の僧等、諸宗派の者をさす。
法山の緑林=法山とは、釈尊の一代仏法を総称して、これを高く大なるがゆえに山に譬えた言葉。緑林とは、中国・前漢の王莽の世の末、各地に反軍が起こった。なかでも、王匡、王鳳等は窮乏した民衆に呼びかけてこれを集め、湖北省当陽県の緑林山に拠って根強く征討軍に反抗した(後漢書劉玄)。世にこれを赤眉賊とよんだ。このことから、盗賊の異称として、とくに山賊に対して用いられるようになった。これも、法然および浄土宗の僧等、諸宗派の者をさす言葉である。
羲農の世=中国上古、伝説時代の至徳の聖王とされる伏羲、神農の世を、併称して羲農の世という。この時代は、天子である伏羲、神農の徳がよく万民に徹底し、人びとは安穏に生活に打ち込むことができたばかりでなく、災害も起こらず、理想的な時代であったとされる。
唐虞の国=唐虞は唐堯、虞舜のことで、中国上古の伝説時代の王。尚書(書経)によると、唐堯は、父は黄帝の曾孫にあたる帝嚳高辛氏、母は陳鋒氏の女で、名を放勲といい、仁徳は天のごとく、智は神のごとくであったという。黄色の冠をかぶり質素な服を着、赤い色の車を白馬にひかせて乗った。百官を適材適
所に配し、人事は公明だったので、全諸侯の国々がよく和合した。羲仲、和仲等に命じて日月星辰の運行をもとに暦を作り、大洪水を治め、大いに善政を施した。七十年の治世の後、舜の孝行を聞いて、挙用し、二女とめあわせて帝位を譲った。退位後二十八年で死んだとき、民は父母を失ったように悲しんだという。虞舜は虞の人で、有虞氏という。父が後妻をむかえて舜を虐待し殺そうとはかったが、至孝をもって父および継母に尽くし、異母弟・象を愛した。それを堯王の知るところとなり、摂政に挙用され、堯の二女をめとり、さらに帝位について善政を行った。在位三十九年、禹王に後事を託して没後、江南の九疑に葬られた。
法水の浅深を斟酌し=仏経の浅深勝劣をよくきわめて、という意。
鳩化して鷹と為り=鳩と鷹、雀と蛤の譬えは、ともに物が大きく変化することをあらわしたもので、出典は礼記の月令篇にあり、中国古代の説話と思われる。ここでは、客がこれまでの謗法の執着を捨てて、主人の正しい教えに従うようになった、その変化を指摘されたのである。
蘭室の友=高徳の人の意。香りの高い蘭の花のある室にいると、その香りが身休にしみてくることから、高徳の人と交わって感化されること。
麻畝の性=麻畝とは麻畑のこと。蓬のように、真っ直ぐに伸びない草でも、麻畑に生えると、まわりの麻に支えられて、真っ直ぐに伸びる。このことから、邪法を信じて誤った考え方に陥っていた者が、正しい仏法を信じ、すぐれた思想をもっている人と交わっていると、感化されて正しい仏法、思想を持つようになることを譬えたもの。
其の難を顧みて=邪宗による数々の災難をふりかえってみて、の意。
不日=日ならずして、すみやかに。
物の性は、境に依りて改まる=物の性質はその置かれた環境、客観的条件によって変わる、との意。ここでは、客がいまは主人の言葉に心服しているが、やがて時がたち、あるいは謗法の者のなかに戻っていくと、再び邪義に染まって、いまの正義を忘れてしまうであろう、と心配されている。
陳前の軍の剣に靡く=戦いに臨んだ軍隊が、敵の激しく攻めてくる剣の勢いに動揺し、恐怖に陥るさまをいう。
現当を祈らん=現当とは、現在および未来のこと。「現当を祈る」とは、現在と未来世の幸福と安穏を願うこと。
情慮=「どのように事を運ぼうか」という思索し、考えること。
薬師経の七難=一には人衆疾疫難、二には他国侵逼難、三には自界叛逆難、四には星宿変化(怪)難、五には日月薄蝕難、六には非時風雨難、七には過時不雨難なり。
大集経の三災=一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。
仁王経の七難=一、日月失度の難、二、星宿失度の難、三、諸火梵焼の難、四、時節返逆の難(水難)、五、大風数起の難、六、天地亢陽の難、七、四方賊来の難をいう。
先難=薬師経の五難、大集経の二災、金光明経の種々の災禍、仁王経の六難等、すでにあらわれている天変・地夭・災厄をいう。また「百鬼早く乱れ」すなわち民衆の生命の混乱、「万民多く亡ぶ」すなわち、飢饉や疫病、天変・地夭等によって、民衆の多くが悲惨な死を遂げていることが「先難」であり、「後災」として、自界叛逆難と他国侵逼難による「国土乱れん」の事態がくるであろうとの警告である。
後災=経文に説かれていながら、まだ現実となって現れてきていない薬師経の「他国侵逼難」と「自界叛逆難」、大集経の「兵革の災」、金光明経の「他方の怨賊国内を侵掠する災」、仁王経の「四方の賊来って国を侵す難」をいう。また「百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ」に対する「国土乱る」現象とも考えられる。いずれにしても、自界叛逆難および他国侵逼難の二つの大難のことである。
世上を保つ=世上とは「世の中」と同意。世上を保つとは、社会をささえ、維持していくこと、また、生活していくことをいう。
自界叛逆して其の地を掠領=内乱が起きて、仲間、身内同士が相争い、力の強い者が他の土地や財産を奪い、占領すること。
一身の安堵=安堵とは、不安のない生活、境涯。堵とは垣で、自己の生活の境界を他人に侵されることなく、その内に安んじていられること。鎌倉時代には、武士や社寺がその領地の所有権を将軍、執権に確認してもらうことを所領安堵といった。
四表の静謐=四表とは、東西南北の四方で、四表の静謐とは、国内の安定、世界の平和を意味する。
各是非に迷ふ=人びとが宗教の是非善悪、すなわち正しい宗教と邪悪な宗教との判別に迷い、混乱していること。
猶、仏法に帰することを哀れむ=せっかく仏法に帰していながら、誤れる宗教を信じていることを悲しまずにはいられない、との意。
曲意=仏の教えを正しく聞こうとしないで、自分勝手の考えをもつこと。我見、私曲の心である。
有為の郷=裟婆世界、人間俗世間のこと。有為とは、作為のある義。無為の反対である。すなわち、因縁によって生ずる種々の法(現象)を有為という。有為の法は、かならず生住異滅の四相があり、常住でないから、「有為無常」という。
仁王経に云く=仏説仁王般若波羅蜜経嘱累品の文。
六親=父、母、兄、弟、妻、子をいう。もっとも身近な親族。
天神=天、竜、夜叉、乾闥姿、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩疫羅伽の、いわゆる八部衆をさす。「天神も祐けず」とは、旱害、冷害、水害、霜や霰等のために、農作物は収穫できず、民衆の生活が窮乏すること。
災怪首尾し=災害や凶事が、絶え間なくつづいて起こること。
連禍縦横し=禍いが連続して頻発すること。縦とは時間的に連なって起こることをいい、横とは、空間的にいたるところ、あらゆる人に起こることを意味する。
出でて人と為らば=三悪道より出でて、人間としての生を受けたならば、の意。
兵奴の果報=兵隊として戦争目的のために使われる立場になること。これは人に屈従しなければならない不自由の身で、自分で自分の幸福をつかむことができない。また、生殺与奪の権限も、上官に握られ、生命の尊厳は認められない。人間として最大の不幸の表である。
三界の果報=欲界、色界、無色界を三界という。ただし、ここに引用された仁王経等では、三界は六道輪廻あるいは三悪道、四悪趣の意味で用いられることが多い。ここも、そのような悪業の因果に縛られて、不幸の闇を転々としていくこと。法華経に入って「三界は皆是れ我が有なり」等と主師親の三徳が明かされ、妙法を信ずることによって、衆生は悪業を転じて未来に福運を積んでいくことかできるのである。なお、三界のうち、欲界とは下は地獄界から上は天上界の六欲天までをいい、食欲や性欲、権勢欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄らかな色法(物質)だけが存在する天上界の一部。無色界とは、物質のない精神の世界で、最上の天上界とされる。
法華経第二に云く=妙法蓮華経巻二譬喩品第三の文。
千劫=一劫は倶舎論に説かれているところによると、人寿無量歳より百年ごとに一歳を減じながら、人寿十歳にいたり、この十歳から百年に一歳を増して人寿八万歳にいたるまでのあいだを一小劫という。これを年数にすると千六百万年より二千年を引いた千五百九十九万八千年となる。二十小劫を一中劫といい、阿鼻地獄すなわち無間地獄の寿命は一中劫とされる。しかし、これは通途の五逆罪を犯して堕ちた場合で、誹謗正法の重罪は、無数劫のあいだ苦しまなければならない。法華経譬喩品には「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん」とある。不軽品で「千劫」とあるのは、不軽菩薩を迫害した謗法の者が、最後には懺悔して、軽く受けたがゆえに千劫で済ませることができたのである。
涅槃経に云く=大般涅槃経迦葉菩薩品の文。
善友=善知識というのと同じ。正法を教え、ともに修行し、正法を護る人をいう。
受くる所の身形、縦横八万四千(由延)ならん=縦横八万四千由延とは、無間地獄の大きさが縦広八万由旬とも八万四千由旬ともいわれる。由延は由旬と同じで、古代インドの里程の単位。六町一里として四十里とも三十里とも、十六里ともいう。したがってここで「受くる所の身形、縦横八万四千由延ならん」とあるのは、無間地獄に堕ち、その筆舌に尽くせぬ大苦をつぶさにうけること。
専ら謗法を重しとす=いずれの経でも、正法を誹謗することが極重罪であることを説き、これを戒めている、との意。
悪教の綱・謗教の網=邪法邪義に迷わされて謗法の罪を重ねているさまを譬えられた。綱は網を操るかなめで、大綱と網目というに同じ。
此の矇霧の迷ひ=朦霧とは、もうもうと立ちこめる霧。邪宗教に迷っているのを、霧で目の前が見えない姿にたとえたのである。「此の」とは、現世のこと。
彼の盛焔の底=正法を誹謗した者が受ける無間地獄の苦しみを、焦熱で代表して述べられている。「彼の」とは死後、来世のこと。
実乗の一善=実乗とは、実大乗すなわち法華経である。
宝土=権大乗教では、仏国土は金・銀・瑠璃・凶技・瑪瑙・真珠・強瑰の七宝で飾られていると説いた。このゆえに、仏国土を宝土という。法華経寿量品において国土世間の常住が明かされ、娑婆即寂光と説かれた。すなわち、爾前の権大乗教では仏土は遠い彼方にのみあり、この世界は穢土であると嫌われたのが、この裟婆世界こそ仏国土であると示されたのである。妙法の広宣流布が達成されたとき、国土はそのまま宝土であり、寂光の仏国土となるのである。「七宝」とは、七種の宝石のことで、経論によって内容上の異同がある。本経でも、方便品では金・銀・頗梨(水晶)・凶技(おうぎ貝)・瑪瑙・強瑰(赤玉)・瑠璃珠の七種の名が見え、信解品では金、銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、頗黎珠等と示し、授記品では頗梨のかわりに真珠があげられている。(金、銀、瑠璃、凶技、碼碯、真珠、強瑰。)なお、宝塔品は、授記品と同様である。
禅定=瞑想、精神を集中して精神統一をはかることをいうが、ここでは、心に不安がなく、落ち着いて、日々の生活に力強く取り組めるようになること。禅は禅那の略。定はその訳で、梵語と漢訳を並べた語。心を一点に集注して散乱をふせぎ、沈思熟考すること。静慮とも訳される。  
[第十問]

 

客の曰く、今生後生、誰か慎まざらん、誰か和せ(恐れ)ざらん。此の経文を披(ひら)きて、具に仏語を承(うけたまわ)るに、誹謗の科(とが)至りて重く、毀法の罪、誠に深し。我一仏を信じて、諸仏を抛(なげう)ち、三部経を仰ぎて、諸経を閣(さしお)きしは、是れ私曲の思ひに非ず、則ち先達の詞(ことば)に随ひしなり。十方の諸人も亦復是の如くなるべし。今世には性心(しょうしん)を労し、来生には阿鼻に堕ちんこと、文(もん)明らかに、理詳(つまび)らかなり。疑ふべからず。
弥(いよいよ)貴公の慈誨を仰ぎて、益(ますます)愚客の痴心を開けり。速やかに対治を廻らして、早く泰平を致し、先づ生前を安んじ、更に没後(もつご)を扶けん。唯(ただ)我(わ)が信ずるのみに非ず。又他の誤(あやま)りを誡(いまし)めん耳(のみ)。 
客の曰く、今生後生、誰か慎まざらん、誰か和せ(恐れ)ざらん=詞は客なれども義は主人なり。客既に信伏して領解する故なり。故に客の段にて終る。
一仏=ここでは、浄土宗で崇める西方十万億土の阿弥陀如来をさす。
三部経=浄土の三部経、すなわち阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経のこと。
私曲の思ひ=自己の利益のために、自分勝手に立てた妄想。
先達=自分より先に道に達した人、との意。ここでは、浄土宗の開祖である曇鸞、道綽、善導、恵心、近くは法然をいう。
性心=生まれたままの心。「性心を労し」とは、念仏信仰の害によって、絶え間ない苦悩に心を労し、生命力をむしばまれること。
慈誨=慈悲あふれる教訓。相手を救おうという真心から出た厳格な教え。
痴心を開けり=客が謙遜していった言葉で、愚かな自分の心を主人の教えによって開き、天下を安んずる方策を知ることができました、との意。
生前・没後=今世、現世と死後、来世。
立正安国論奥書
文応元年太歳庚申(かのえさる)之を勘(かんが)ふ。正嘉に之を始めてより、文応元年に勘へ畢りぬ。
去ぬる正嘉元年太歳丁巳(ひのとみ)八月二十三日、戌亥(いぬい)の尅(こく)の大地震を見て之を勘ふ。其の後、文応元年太歳庚申七月十六日を以て、宿谷(やどやの)禅門に付して、故最明寺入道殿に奉れり。其の後、文永元年太歳甲子(きのえね)七月五日大明星之時、弥弥(いよいよ)此の災(わざわい)の根源を知る。文応元年太歳庚申より、文永五年太歳戊辰(つちのえたつ)後の正月十八日に至るまで、九ヶ年を経て、西方大蒙古国より我が朝を襲ふべき由、牒状之を渡す。
又同じき六年、重ねて牒状之を渡す。既に勘文之に叶ふ。之に准じて之を思ふに、未来も亦然るべき歟。
此の書は徴(しるし)有る文也。是偏に日蓮の力に非ず。法華経の真文の感応の至す所歟。
文永六年太歳己巳(つちのとみ)十二月八日之を写す。  
 
立正安国論第三段 仁王経等により悪侶を証す

 

仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、其の王別えずして此の語を信聴し横に法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」已上。
涅槃経に云く「菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。
仁王経には「諸の悪い僧侶が多く名誉や利益を求めて国王・太子・王子などの権力者の前で、自ら仏法を破る因縁・国を破る因縁を説くであろう。その王はそれらの説かれた因縁をわきまえることができなくてその言葉を信じ、道理にすれた自分勝手の法制を作って仏戒によらない。これを破仏・破国の因縁となすのである」とある。
涅槃経には「菩薩たちよ、狂暴な悪象等に対してはなんら恐れることはない。正法を信じていこうとする人の心を迷わす悪知識に対しては恐れなければならない。その理由は悪象に殺されても三悪道におちることはないが、悪友に殺されては必ず三悪道におちるからである」とある。 
一個人、一家庭を不幸におとしいれるのは邪宗教であり、邪義である。さらに一国を滅亡に導くもの、ほかならぬ邪宗教であることを示された御文である。この御文こそ、大聖人御在世当時にまったく符合しており、今日もその動きが見え始めている。二度と同じ轍を踏まぬためにも当時の状況をみておきたい。 
極楽寺良観と国家権力の結託
日蓮大聖人の時代において、大聖人を陰に陽に迫害しつづけた元凶は、極楽寺良観という人物であった。
彼の師匠は、奈良西大寺の叡尊であった。叡尊は、もと真言僧であったが、律宗の復興に没頭し、橋をかけたり、貧乏人・病人を救済する等の慈善事業で、行基菩薩の再来とあがめられた。その弟子・忍性は、関東へ来て、律宗をひろめ始めた。彼は、巧みに幕府の要路者に取り入り、徐々に基盤を固めていったのである。
ここに、北条重時という人物がいた。重時は、前の連暑で、執権長時の父であったが、法然門下の証空の弟子、修観に帰依して入道していた。彼は、鎌倉深沢にあった極楽寺という寺に別荘を構え、極楽寺入道と称していた。彼の存在は、念仏者が幕府の権力と結ぶうえに、まことに好都合であった。
また、立正安国論の書かれたちょうどその年、やはり北条一門の北条実時が、武蔵国金沢に、やはり念仏寺院である称名寺を建てた。これは今も金沢文庫で知られているが、このように念仏は、幕府の周辺に強大な勢力を占めていた。日蓮大聖人が立正安国論を著わし、念仏宗を「此の一凶」と断じたのも、まさに念仏宗と権力者の緊密な結託があり、亡国の道を歩んでいたからである。
時頼は、これを完全に黙殺して、なんの反応もしなかった。それどころか、一か月ほどのちに日蓮大聖人の破折に、腹を立て興奮した念仏者たちは、闇夜にまぎれて大挙して松葉ヶ谷の草庵を襲撃し、放火乱入して斬りかかってきた。日蓮大聖人は、難をのがれて、一時下総の富木五郎胤継の宅に身を寄せられた。
だが、日蓮大聖人の破折は、さらに強く、きびしく続けられた。いよいよ腹を立てた念仏者たちは、告訴し、大聖人は、ついに伊豆に流罪されたのである。
この松葉ヶ谷の焼き打ち、伊豆への流罪の黒幕であり、張本人であったのは、ほかならぬ極楽寺良観であった。自身尊敬していた法然の実態が究明され、選択集の邪義を破折されたがゆえに、なにかにとりつかれたように、大聖人の迫害に狂奔したのであった。
良観が、最も取り入ったのは、寺地の選定に参画したことをもって、その背景がわかるではないか。そして、その翌々年、北条重時が死ぬとその葬儀の導師となり、ついに鎌倉に居を移し、さらに権力者に取り入ることに専念し、その看板に慈善事業を掲げたのであった。
彼は、まず、奈良から、当時有名であった師の叡尊を招く運動を起し、ついにそれに成功した。あたかも、今日、宗教屋が有名人を招いて、自宗の宣伝に努めるごときものであった。ために重時の子・業時はもちろん、時頼も、彼の奸智にたけた宣伝に傾倒し、まもなく、良観は時頼の招請を受けるようになった。これらは、大聖人が、伊豆へ流罪されていた間の出来事であった。
文永4年(1267)良観はついに鎌倉に入って極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、良観は、多宝寺の長老のほか、数ヵ寺の別当になった。
彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を堅くたもった聖者であると見せかける、売名的な行為であった。また、幕府に取り入らんがための手段であり、その本質は、名声欲、権勢欲にかられたものであった。しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。
聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(0476−12)と。
飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根のところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側を海岸という。ここで良観は通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。これで良観が、もはや、自分で税を取るような権限があったことがわかるとともに、多くの人の犠牲のうえに、売名的な慈善行為がなされていたことが明らかである。 
慈善事業という名の売名行為
余談になるが、慈善事業が、他の多くの人々の犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。寛元2年(1244)大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、どんなに荘民の生活が圧迫されたか測り知れない。文永10年(1273)北条実時が金沢郷六浦荘戸堤の内の入江にいける殺生を禁断したが、これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。さらに弘安4年(1281)多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍がだんだん修造され荘厳を加えたが、そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人々は苦しんだことか。さらに慈善事業自体も、当時、餓死戦上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていった。すなわち、当時の最底辺の人々たちは、施主に対して施物を強制するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。
所詮、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪である。民衆の貧欲をそそり、はては三悪・四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、他の人々の犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして、我利我利亡者の偽善にすぎぬではないか。今のキリスト教の各事業はこの観点から見直されるべきである。
だが、当時の人々は、良観の正体がわからなかった。名声はとみにのぼり、幕府の権力者は、良観を厚く重んじた。
日蓮大聖人は、この良観こそ、権力者にこびへつらい、権力と結託し、民衆を嘆きのどん底に追いやる元凶なることを喝破され、生き仏のごとく、六通の羅漢のごとく尊崇されていた良観に対し、断固破折を加えられた。
文永5年、閏正月18日、蒙古国より「速く通好の使いを送り来れ、然らば兵を用いん」という牒書が幕府に到着した。大聖人の予言はいよいよ事実となった。実に立正安国論の上書より九年目のことであった。
しかし、幕府は、大聖人の教えをなんら用いようとしなかった。そこで、大聖人は、4月5日、法鑒房に「安国論御勘由来」を、さらに8月21日、11ヵ所に痛烈な諌状と破折の書状を送り、公場対決を迫られた。これが、いわゆる十一通御書である。
時の執権北条時宗に対しては、立正安国論の予言が的中したことをあげて「日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり」(0169−02)と御確信を述べられ、「諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る」(0170-01)と、熱誠あふれる諌言をされ、さらに「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え、澗底の長松未だ知らざるは良匠の誤り闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり」(0170−09)と、公場対決を叫ばれた。
また、実際に国家の権限をことごとくにぎっていた平左衛門尉頼綱に対しては、同じく立正安国論の予言的中を述べ「然る間重ねて訴状を以て愁欝を発かんと欲す爰を以て諌旗を公前に飛ばし争戟を私後に立つ、併ながら貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや、早く須く退治を加えて謗法の咎を制すべし」(0171−02)と諌言し「御式目を見るに非拠を制止すること分明なり、争でか日蓮が愁訴に於ては御叙い無らん豈御起請の文を破るに非ずや」(0171−08)と、幕府の理不尽な態度を指摘し、さらに、同じく公場対決せよと呼号なされている。 
良観に対する大聖人の破折
このように、幕府の要路者への、至誠の諌言をなされるとともに、当時の宗教界に君臨する、極楽寺良観、建長寺道隆等に対しては完膚なきまでに破折を加えられ、正々堂々と公場対決を申し込まれた。良観に対する書状を次に示そう。
「西戎大蒙古国簡牒の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候、日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、此の趣き鎌倉殿を始め奉り建長寺等其の外へ披露せしめ候、所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず、即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは江河と大海と華山と妙高との勝劣の如くならん、蒙古国調伏の秘法定めて御存知有る可く候か、日蓮は日本第一の法華経の行者蒙古国退治の大将為り「於一切衆生中亦為第一」とは是なり、文言多端理を尽す能わず併ながら省略せしめ候」(0174−01)
なんたる確信に満ちた大師子吼であろうか。あの、わが世の春を欧歌し、日本国全体の尊敬を一身に集めていた良観の本質は、ここに見事に浮き彫りにされた「長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし」と揶揄されるなど、悠悠たる御境涯であった。しかも「三学に似たる矯賊の聖人」あるいは「僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」等と、その破折は痛烈をきわめた。さらに、絶対の確信をもって、公場対決を迫られている。もとより、極楽寺良観は、仏法それ自体の研鑽に励んで、その智徳のために名声を得たのではない。慈善事業で人をあやつり、幕府にたくみに取り入って、それまでの地位を築き上げたのであった。されば、大聖人より正面きった対決の書状をつきつけられたときの驚愕はいかばかりであったろうか。
これに対し、この時の日蓮大聖人の、死をものともせず、国を救わんとの決意は、弟子檀那への御状のなかにありありと拝することができる。
「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿.宿屋入道.平の左衛門尉・弥源太.建長寺・寿福寺.極楽寺・多宝寺.浄光明寺・大仏殿.長楽寺已上十一箇所仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給」(0177−01)と。
その時は、なんの手答えもなかった。また、なんの波乱もなかった。しかし、それは表面上のことであり、その裏面では、極楽寺良観、建長寺道隆を先頭に、七大寺の僧たちは、困惑し、狼狽し、大聖人をなんとかして迫害し、なきものにしようと、その対策に狂奔したのである。 
大聖人と良観の祈雨の勝負
文永6年、7年は無事に暮れた。そして時は文永8年。
その年の2月下句より6月まで全国的な大旱魃が続き、民衆は飢饉のため、苦悩のどん底に追いやられた。執権北条時宗は、関東諸国の地頭より、日照りが続いて稲作が案じられるとの報告を受け取り、極楽寺良観に雨乞いを命じた。良観はなんのためらいもなく、満々たる自身をもって引き受け、鎌倉じゅう、否、日本国中の上下万民も「生仏の良観さまが雨乞いをしてくれる」といって喜んだ。
このことをいち早く知られた日蓮大聖人は、これこそ破折の鉄槌を加えるべき時と考えられ、「法華経の行者日蓮、対面を遂げ、申し入れたきことあり」という書状を持たせて、極楽寺へ使いを走らせた。
これによって、極楽寺から周防房と入沢入道という二人の念仏者がやってきた。大聖人は、この二人を通して、良観に次のように申し入れをされた。
「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり」(1157−17)
これを聞いた良観は非常に喜んだ。これこそ、これまで幾多煮え湯をのまされてきた大聖人を思い知らせる好機だと思ったのであろう。また、必ず7日のうちに雨を降らせる自信があったからであろう。さっそく愚かにも、このことを鎌倉中にふれまわってしまった。そして彼は「弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請」(1158-05)するという盛大な修法を始め肝胆くだいて祈禱したのだった。
ところが3日たっても4日たっても雨は降らず、ただ「あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上」(0912-10)ばかりであった。さらに彼は数百人の僧を加えて必死になって祈禱を続けた。
だが「四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず」(1158−06)というありさまであった。
これに対し、日蓮大聖人は、三度使いをつかわして催促された。ちょうど7日目の申の時、大聖人の使者は、「いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へ」(1158-08)と、大聖人の仰せどうり叫んだのであった。
良観は、涙を流してくやしがった。弟子たちも歯ぎしりしてくやしがった。
苦しまぎれにもう7日の猶予を願いたいということになった。ところがその結果も下山御消息に「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350−10)とあるがごとく、良観の大惨敗に帰したのである。
これによって、良観は大聖人に帰伏するどころか、いよいよ第三類の僣聖増上慢の本性を発揮し、ありとあらゆる策謀をめぐらした。まことに卑怯というべきである。また、彼が二百五十戒をもっていることなど、彼がこの敗北で約束をたがえたことによって、まったくの虚偽であったことが、青天白日のもとにさらされた。
祈雨の法が終わってからまもない7月8日、良観は配下の浄光明寺行敏をして挑戦状を送ってよこした。大聖人は、その背後にある陰謀を見抜かれて、しばらく動静を見られたのち「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随つて是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候、恐恐謹言」(0179−聖人御返事)と返事され、あくまでも公場対決を要望された。
そこで、良観もいたしかたなく、行敏に大聖人を問注所に訴え出たのであった。これまた大聖人に、訴えの根拠となる理由をいちいち破折され、再駁の状をだすことができず、そのままとあってしまった。 
良観と平左衛門尉頼綱の結託
だが、良観は、手を変え品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人を迫害しようとした。
その時の様子は、種種御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911−03)とあり、報恩抄には「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよと尼ごぜんたち・いからせ給いしかば」(0322−12)とあり、また妙法比丘尼御返事には「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416−16)等と仰せられているなかに、その光景がまざまざとまのあたりに見られるような気がする。
そしてついに、良観は平左衛門尉を動かした。平左衛門尉といえば、当時の執権の家司と侍所の所司を兼ねた、幕府の要路者中でも第一人者である。北条幕府の政務は、評定制であるが、最後の決定権は執権が握っていたので、執権の執事たる家司の政治上の権力は、絶大なものがあった。のみならず、侍所の所司として軍事、警察権をも握っていた。実質的には政治と軍事の大権を、みずからの手中におさめていたのである。しかも、祖父三代にわたってその任にあったので、頼綱の権威は、不動のものとなっていた。彼のライバルは安達泰盛で、秋田城之介といい、大聖人も御書の中で、平左衛門尉を「平等」といい、秋田城之介を「城等」といわれ、並び称されていた。この二人が、当時の鎌倉幕府を実質的に牛耳っていたのであり、執権時宗はこの二人の勢力のうえに築かれた存在であったといっても過言ではない。読売新聞社編「日本の歴史4」には、このことが次のように述べられている。
「時宗ともっとも近い関係にある二人の重臣の勢力争いである。一人は前にも名前のでた安達泰盛であり、他の一人は時宗の家令の頼綱である。安達氏は代々北条氏と姻戚関係を結び、北条氏を隆盛にすることによって、自分も勢力をのばしてきたような豪族であって、泰盛もその娘を時宗にとつがせており、評定衆、恩賞奉行、上野国の守護などを兼ねて、御家人中随一の名望家であり、また町石とよばれて、いまも高野山に残る里程標を建てたり、高野版と呼ばれる印刷経典を刊行したりするほどの富の持ち主でもあった。一方の頼綱はいわば北条家の総支配人であって、もともと御家人よりは身分の低い武士であるが、北条氏の権力が強まるにしたがって、彼の発言力もしだいに大きくなり、政界の実力者にのしあがってきた。つまり泰盛と頼綱は、時宗を動かす陰の人物ということになるが、この二人がしだいにしのぎをけずる間柄になる。
してみると、執権時宗の権力は、実は泰盛と頼綱の勢力均衡のうえに、わずかな安定を保ったようなもので、幕府の対外政策がこのような激烈な政争を超越して、時宗個人の胆略と意志だけで決定されたとは、どうしても考えられない」
この二人の争いは、のちに平左衛門尉の勝利に帰し、独裁政治を行ったことは、ここでは省略する。
ここに宗教界の名声、地位、尊崇をほしいままにした極楽寺良観と、絶大なる権勢、軍事力、警察権等を一手に握った平左衛門尉頼綱とが、利害のために結託し、大聖人を迫害するという挙にでたのであった。すでに、良観の祈雨に応援したのは平左衛門尉であった。諸宗を誹謗し、武器を隠匿しているという罪状で告発された。 
第二の国諌と竜の口法難
文永8年9月10日、日蓮大聖人は奉行所に呼び出された。平左衛門尉直々の取り調べである。だが、逆に裁くものが裁かれるごとく、平左衛門尉は、大聖人に徹底的に破折されてしまった。
「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。
詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう」(0911−04)
この大聖人の痛烈な破折、至誠の国諌は、満場を圧した。その一言一句に、心打たれる者、うつつをぬかす者、激怒を含む者等々、だがその御境涯は、悠々たる大海原にも似たものであった。
その翌々日、9月12日、逆上した平左衛門尉は、まるで謀反人を捕える以上に、物々しく胴丸を着、烏帽子をかぶり、武装した数百人の武士を引き連れ、松葉ヶ谷の庵室に乱入し、狼藉の限りを尽くした。そして、平左衛門尉の家来の一人、少輔房という人物が、大聖人のもとにつかつかと歩み寄って、法華経の第五の巻で大聖人の顔を三度さいなんだのである。この時、日蓮大聖人は、大音声をもって、平左衛門尉を叱咤された。撰時抄にいわく「去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(0287−11)
それから、大聖人は、竜の口の処刑場に向かわれる。だが、その夜の不思議な現象に、ついに処刑できず、しばらく相模の国依智にとどまられ、やがて佐渡の国へ流罪と決定されたのである。このときも、鎌倉に火つけや強盗殺人がしきりに起こり、これは大聖人の弟子がやったことだと、とりざたされた。これまた念仏者の謀略であり、その背後に、良観がいたことはいうまでもない。
こうした良観の仕打ちに対し、大聖人は、次のごとく、痛烈な破折を加え、良観の偽善の面をはぎとられている。
「法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頚をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157−07)
以上、良観の行動を中心に、邪宗教の悪侶たちが、いかに権力に取り入り、権力者と緊密なつながりをもっていたが、そして、正法の行者を迫害したかを見てきた。これこそ、仁王経の「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん、その王別えずして此の語を信聴し横に法制を作って仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」の文そのものではないか。「諸の悪比丘」とは、当時の念仏者・真言師たちであり、別しては良観である。「名利を求め」とは、まさに、当時の僧侶の実態であり、良観の本質である。「国王・太子・王子」とは、当時の指導者階級であり、その前で「破仏法の因縁・破国の因縁を説かん」とは、まさしく権力者に取り入り大謗法の教えを説き、あまつさえ、大聖人を死へと追いやらんとした、良観の行動どのものではないか。これ、国を滅ぼし、仏法を乱す元凶にあらずして何であろうか。「其の王別えずして此の語を信聴し」とは、当時の幕府の権力者たちが、みな彼らの甘言にだまされて、特に平左衛門尉がなんら思慮分別もなく、大聖人の迫害に狂奔してきたことなど、その典型ではないか。
「横に法制を作って仏戒に依らず」とは、罪なき大聖人をおとしいれんとして、数々の罪状をデッチ上げ、あるいはにせものの御教書を作ったりしたではないか。また熱原の法難に際して多くの罪なき農民を、ありもしない罪状で告発し、理不尽な裁判をもって、ついには、神四郎等の熱原の三烈士の首を刎ねたではないか。
「是を破仏・破国の因縁と為す」とは、その後鎌倉幕府の運命が、これを如実に物語っているではないか。また、その後の日本の運命も、まさに破仏・破国へと向かっていったではないか。これは、すでに前述のごとくであり、まことに、恐るべきは邪宗教であり、最も忌むべきものは、邪宗教と政治権力との結託である。 
今日における邪宗教と政治権力の結託
太平洋戦争中は、形は変われども、まったく700年前と同じことを繰り返していた。神道と国家権力の結託、また、あらゆる宗教がことごとく妥協し、神道のもとに統一される等、さらに、その末期に近衛文麿が、日本にどうしても勝算がなくなった時、高野山に祈禱を頼んだことなど、まさしく邪宗教の害毒を知らざる哀れな姿であった。これ、破仏・破国の因縁であり、ついに国は滅び去ってしまった。 
 
東条の御厨 (みくりや)

 

日蓮聖人は小湊に産まれたことを誇りに思っています。それは東条に「御厨」があったからです。
御厨とは神が住み神の供物を収める屋舎のことで、のちに神宮や神社に付属する土地をさすようになりました。この御厨はほとんどが伊勢神宮の神領を総称したものです。伊勢市にある伊勢大神宮は内宮の皇大神宮と外宮の豊受大神宮の総称で、内宮に皇室の祖神である天照大神を祀っています。律令体制下においては朝廷が奉幣し経済基盤は国が寄進した神郡と神戸でしたが、荘園が成立すると地方豪族による御厨寄進がおこなわれるようになりました。安房の東条御厨の寄進は、源義国の下野の梁田(やなだ)御厨、平景正の相模の大庭御厨、平常重の下総の相馬御厨などの寄進に継ぐものといいます。
この東条郷からは白布や紙が「御厨」に納められていたといいます。また、『古語拾遺』に神武天皇即位の元年に天富命が阿波の齋部(いんべ)の民を引き連れて麻と稲とを安房に植えたと記され、その名残として官幣大社安房神社があるといいます。『古事記』には神武天皇の子である八井耳命が長狭国造(安房の古い呼び名)の祖と記されており、このような古碑が日蓮聖人の当時には伝わっていたのではないかといいます(山川智応『日蓮聖人』18頁)。
日蓮聖人は東条の「御厨」について、新尼御前御返事』(886頁)に、
「安房の国、東条の郷は辺地なれども日本国の中心のごとし、そのゆえは天照大神跡を垂れ
而を安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂させ給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋おぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。此人東條郡を天照太神の御栖と定めさせ給。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東條の郡にすませ給か。例ば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給、今は相州鎌倉鶴が岡に栖給。これもかくのごとし。」
と、のべています。つまり、日蓮聖人はこの安房の東条宮は外宮ではあるが伊勢神宮の御厨の土地として、天照大神が住み始められた尊い所であると受けとめ、自身が生まれた安房は辺国であるが、天照大神をお祭りしている御厨がある神域であることを誇りに思ったのです。
そして、天照大神は日本国の一切衆生の慈父であり悲母である、そういう土地に生まれた宿縁は第一の果報であると受けとめています。北条弥源太に(『弥源太殿御返事』807頁)、
「日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼国は天照太神のすみそめ(住初)給し国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出し給ふ。あはの国御くりや(廚)なり。しかも此国の一切衆生の慈父悲母なり。かゝるいみじき国なれば定で故ぞ候らん。いかなる宿習にてや候らん。日蓮又彼国に生れたり、第一の果報なるなり。此消息の詮にあらざれば委はかゝず、但おしはかり給べし」
このことから日蓮聖人の天照大神にたいする敬慕の態度が伺えます。同時に日蓮聖人の国家観や天皇観などの思想が経論によって構築されているのは、この御厨が存する生国の歴史的な事実に影響されていると言われています。
さて、源頼朝は治承四年(1180年)に平家追討の戦をしましたが石橋山の合戦で敗れ、相模真鶴(まなずる)から七騎落ちして安房猟縞まで海路を敗走しました。8月29日に安房に着いた頼朝は、翌月の9月11日に丸の御厨(朝夷郡現在の安房郡丸山町あたり)を巡見しています。
丸の御厨は源氏の六代の祖である伊予の守頼義が前九年の乱(康平5年1062)を治めた恩賞として朝廷から頂いた地で、頼朝の父義朝は頼朝の官位の昇進を念じ平治元年6月1日に伊勢神宮の御厨に寄進していた所でした。義朝はその半年後に平治の乱を起こしますが平家方に敗れ逃亡先の尾張で討ち取られています。頼朝は助命されますが伊豆に流罪され20年の歳月を送っていました。頼朝の生母が熱田神宮の娘であったので伊勢神宮を尊信していたこともあり、頼朝は宿願である平家を打ち滅ぼしたならば、新たに御厨を建て神宮に寄進することを丸の御厨で願文を捧げたのです。
(源氏系図)
頼義―義家―義親―為義―義朝―頼朝
東条の郷には、元暦元年(寿永三年、1184年)、源頼朝によって伊勢神宮に所領として寄進された「御厨」とよばれる外宮領の荘園がありました。これを「東条の御厨」といい分社のようなことです。しかし、安房の安西景益や三浦一族などの東国の武士が源頼朝をたすけ再挙することができ、寿永3年2月に一ノ谷の戦いで平家を追い払い勝利を収めました。
この戦勝は頼朝が誓った所願が成就したことですので、約束を守り寿永3年5月3日に東条郷の土地を伊勢外宮に寄進して天照大神を祭ったのが「東条の御厨」でした。東条に御厨を寄進しましたので、丸の御厨は名前のみになり東条の御厨が日本第一と言われるようになります。この東条とは後世の和泉から小湊までを含んでいたようです。
頼朝は寄進状に「四至如旧」と書きました。これは御厨の東西南北の四境は今までの如し
ということですが地先水面の境界が明確ではなかったといえます。そこで東条景信と領家の係争が起きたといえます。
東条の御厨に関して『吾妻鏡』によりますと、
寿永元年(1182)八月11日。頼朝が政子の安産を祈願して東条?に奉幣使を派遣。
寿永3年(1184)5月3日。伊勢外宮権神主生倫を給主とし東条の地を外宮の御厨として寄進。「寄進。伊勢太神宮御厨一処、在安房国東条、四至如旧」。
と、記述してます。ところで、この寿永3年に寄進した御厨の場所はもとより存在した所であるという説があります。「四至如旧」というのをその証拠とします。
『聖人御難事』(1672頁)に、
「安房国長狹郡之内東條の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(廚)、右大将家の立始給日本第二のみくりや、今は日本第一なり」(第一は武蔵の飯倉)
と、のべているように、頼朝は二ヶ所に御厨を寄進しています。その一つは武蔵の飯倉でこれは内宮の分として寄進しています。二つ目が東条の御厨で伊勢神宮の外宮に寄進しました。
この頼朝が寄進した御厨は白浜の土地で、二間川と松崎川の間の所といいます。この東条の御厨とは別に二間川と小湊の間に天津御厨があったといいます。つまり、小湊と松崎川の和泉の間に二つの御厨があったということになります(『鎌倉と日蓮』大川善男132頁)。
日蓮聖人は源氏が平氏を破り頼朝が将軍になれた一つの勝因に、東条の御厨を天照大神に寄進したことがあげられ、それが、神の御意にかなったとみています。また、清盛が大仏殿を焼失するなどの横暴な行為に、天照大神が頼朝に与力して平家を滅亡させたということが
『法門可被申様之事』に、
「清盛入道王法をかたぶけたてまつり、結句は山王大仏殿をやきはらいしかば、天照大神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給て、源頼義が末頼朝仰下て平家をほろぼされて国土安穏なりき」(454頁)
と、のべています。清盛が明雲座主に戦勝祈願をしたことについて、
「其上安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門捧怠状云如彼以興福寺為藤氏氏寺以春日社為藤氏氏神以延暦寺号平氏氏寺以日吉社号平氏氏神[云云]。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆五壇の大法を行、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし」(883頁)
と、平家は比叡山に怠状を捧げて頼朝の調伏を祈願したことが敗因であるとした、その理由は明雲座主がおこなった真言の邪法にあったのです。すなわち、『四條金吾殿御返事』(245)
「天台の座主明雲と申せし人は第五十代の座主也。去安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流。山僧大津よりうばいかへす。しかれども又かへりて座主となりぬ。又すぎにし寿永二年十一月に義仲にからめとられし上、頚うちきられぬ。是はながされ頚きらるるをとが(失)とは申さず。賢人聖人もかゝる事候。但し源氏頼朝と平家清盛との合戦の起し時、清盛が一類二十余人起請をかき連判をして願を立て、平家の氏寺と叡山をたのむべし、三千人は父母のごとし、山のなげきは我等がなげき、山の悦は我等がよろこびと申て、近江国二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもて源氏をい(射)させしかども、義仲が郎等ひぐち(樋口)と申せしをのこ(男)、義仲とただ五六人計、叡山中堂にはせのぼり、調伏の壇の上にありしを引出てなわ(縄)をつけ、西ざかを大石をまろばすやうに引下て、頚をうち切たりき」(1303頁)
と、明雲座主は木曾義仲に殺された原因についてのべています。これは、法華経に背反したことによる「頭破作七分」(『頼基陳状』1359頁)であると裁断するのです。
清盛の敗因は王法に逆らい大仏殿を消失したことと、明雲座主に真言の祈祷を行なわせたことが原因で、なにもしなかった頼朝は正直な者として守護されたという認識をもっていました。『法門可被申様之事』に「八幡大菩薩は正直の頂にやどり給」(455頁)と、正直の頭に宿るという八幡大菩薩の誓願とは百王守護のことで、頼朝にふれて『諌暁八幡抄』には、
「平城天皇御宇八幡の御託宣云我是日本鎮守八幡大菩薩也。守護於百王有誓願等云云。今云人王八十一二代隠岐法皇、三四五の諸皇已破畢。残二十余代今捨畢。已此願破がごとし。日蓮料簡云百王を守護せんと云は正直の王百人を守護せんと誓給。八幡御誓願云以正直之人頂為栖以諂曲之人心不亭等云云。夫月は清水に影をやどす、濁水にすむ事なし。王と申は不妄語の人、右大将・権大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖百王の内也」(1848頁)
と、頼朝が世間においては正直の者であり、八幡大菩薩が守護する百王の一人であるという見解をのべています。どうように、『四條金吾許御文』(1824頁)にもみられます。
東条の御厨はこの頼朝が寄進したものであり、日蓮聖人にとって天照大神は東条の地におられるという正統意識があったともいわれます。後年、日蓮聖人は曼荼羅のなかに天照大神と八万大菩薩を日本の神の代表として、また、天上界の代表として書かれています。
 
日蓮を知る

 

法華経1
法華経は釈迦滅後500年後の起元前後頃の100年間に編集された教典です。現世利益信仰や民間信仰が顕著になる時代のことです。
この頃、インドでは上座部(部派仏教・小乗教)と大衆部(大乗教)が様々な理念の違いから分離し、それぞれ違う道を歩むことになります。
法華経は、釈迦の精神を忖度した大乗の菩薩の手によって編纂された教典です。法華経を第一とする天台の「五時八教説」は大乗教典の成立時期や文献学からみるととても乱暴な説でしかなく何らの説得力もありません。
今日、一般的に広く各教団で常用されている法華経は「鳩摩羅什」訳の「妙法蓮華経」28品をいいます。この教典は「前霊鷲山会」「虚空会」「後霊鷲山会」の二処三会(特に虚空会は実在しない空想世界)を釈迦の説法場所として構成する教典です。
ここで釈迦は様々な方便を駆使して1仏の永遠性、2法華経を弘通する功徳、3法華経を授持する功徳を壮大なドラマで語ります。しかしながら、これらのドラマは大乗の菩薩が釈迦の精神内面の世界を空想して構成した物語であり、法華経の特異な世界観を醸し出していますが、他の大乗経典では見られないものです。
日蓮は法華経を未来の預言書として受け取りました。日蓮自身が久遠の本仏であるとの確信を持ちました。法華経で語られたドラマがすべて真実であると受け取りました。
日本のような「島国」から見れば無理もありませんが、大陸のインドや中国では他国の侵略や国内の内乱・動乱や政変はごく一般的な出来事です。内憂外患はどの国にも存在する事実です。
従って、日蓮が法華経の力で神風を起し、蒙古軍を海の藻屑にして退散させたと伝承してきた故事は日蓮の特異性のあるプロパガンダに過ぎないと見られています。
当時、未曾有の国難にあたり、蒙古軍の敗退や退散を願わない僧はいません。幾多の僧が日蓮と同様に祈祷した事実があり、日蓮の功績と主張するのは正当な評価とはいえません。
しかし、神風の実体は自然現象の台風です。祈祷や人の意思によって自在に操れるものではありません。日蓮のプロパガンダは失当です。
華厳宗(奈良・東大寺)に対しては、法華経と華厳経はいずれが優れているかという争いがありました。これについて、日蓮は『本尊問答抄』で『華厳経』を「臣下の身を持って大王(法華経)に順ぜんとするが如し」として、法華経が優れていると言っています。
日蓮がこの根拠としたものは、天台教学では華厳経と法華経はともに円教であるが、華厳は別教を兼ねるため純円教の法華経に及ばないとすることを理由とするものです。
日蓮の教学は天台教学を便利に援用するので無批判に受け入れる傾向性があります。
天台教学は法華経を最上とする法華経至上主義によって強引に創作した教理で塗り固められた論理であり、これを援用する論旨には正当性も妥当性もありません。
天台と華厳は大乗哲学の双壁と称されました。空・仮・中の三諦円融の教理を持つ天台と十玄・六相の教理で法界縁起の妙旨を説く華厳との教理の優劣浅深を見極めることは容易ではないと評価されています。
顕密の立場を問わず、大乗仏教を理解するには華厳経と法華経は必須と考える専門家が多くいます。大乗仏教の性格がよくわかる教典だからです。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』・『秘蔵宝鑰』において、天台宗を第八住心の「一道無為心」に位置づけ、華厳宗を第九住心の「極無自性心」に位置づけ華厳を法華の上位にしました。
空海は、真言密教から見れば、天台宗は入仏門の初門であり「かくの如き一心は、無明の辺域にして、明の分位にあらず」と評価しています。
天台の五時八教論を借用して打ち立てた日蓮の教義や主張は失当です。日蓮が法華経至上主義の立場で非現実的な法華経の文言でさえ真実を語る経文として利用し続けたことは非難に値する行為です。
日蓮本仏論は日蓮の妄想が生み、天台・伝教を便利な露払いに利用する妄想に過ぎないといっても過言ではありません。
神道に対する日蓮の評価と振る舞いには目を覆いたくなります。日蓮は思い込みによって度々仏罰を振りかざして神々を叱責(「諌暁八幡抄」など)しています。
日蓮の思想に依れば、日本古来の神々は法華経守護の使命を負っているので、法華経の行者(末法の本仏)日蓮を見捨てるようなことがあれば、法華経に偽りの誓いをした大妄語の罪により無間地獄に落ちるというものです。
日蓮は、日本古来の神々を法華経を守護するガードマンして捉えました。日蓮が書いた曼荼羅には大乗の諸菩薩とともに、天照大神や八幡大菩薩は法華経を守護する諸天神として護法の役割を持たされています。
日蓮によって日本古来の神々は法華守護の下僕の地位を与えられたのです。
日蓮の思想は日本人の伝統的な神道思想を否定するものです。神道(神社)の方々を怒らせるに十分な妄説です。
法華経はこれを読む受け取り手によって様々に解釈されてきました。しかし、どのように受け取るかは読み手の自由と考えるのは間違いです。日蓮の読み方は尋常ではない特異性に満ちていると見ている識者は多いのです。
中国の天台大師・比叡山の伝教大師も日蓮には驚愕し、便利に名前を使われたことに怒りを感じているものと考えます。
天台、伝教の法華経と日蓮の法華経は全く異質なものです。この二つが混同されないように峻別する必要があるようです。
法華経三部経について述べたい。法華経三部経は、法華経の開経に『無量義経』を、結経に『観普賢菩薩行法経』を置くものですが、これは、中国天台宗の開祖・智が定めたものです。
しかし、『法華経』は釈迦滅後500年前後(紀元頃)に成立した教典です。『無量義経』1巻3品は、481年、中国・南斉の曇摩伽陀耶舎・訳です。この中の「説法品」に「四十余年未顕真実」ということばがあり、法華経の序品に「大乗教の無量義・教菩薩法・仏所護念と名づくるを説きたもう」というこばがあることから、この経は法華経の開経とされました。
『観普賢菩薩行法経』は中国・劉宋の曇摩密多(356〜442)の訳ですが、法華経の「普賢菩薩観発品第28」を受けて書かれた内容であるため法華経の結経とされたのです。
『無量義経』も『観普賢菩薩行法経』も法華経成立後、500年前後の後に訳されたもので、法華経を釈迦の真説、最高の経とするために整合性を持たせて作られた偽経ではないかとの疑いが濃厚です。
『無量義経』は中国で作られたとする偽経説(岩波・仏教辞典第二版P995)があります。
これらの教典の内容で問題となるのは法華経を際立たせるための数々の工作です。これを後年の無責任な日蓮信者が振り回して害を為すことです。
日蓮信者の法華経に受ける感動の大きさが無批判な称賛となり、世間や他人に向けられたプロパガンダとなって、無意識に害悪をまき散らすことが問題なのです。
日蓮宗系の諸派の教義から天台の教義を取り除けば、とても仏教とはいえないオカルト宗教になってしまうのではないかとも考えられる宗派があります。
法華経を所依の教典とするからといって当然のごとく仏教であるとはいえません。
仏教であるかどうかはその実質と教義内容により適切な判定をしなければならないことは当然です。
日蓮宗系の諸派は、冷静にオカルト宗教と間違えられない対応を信徒に指導すべきです。
妄想でしかない破邪顕正の旗を掲げることに現代的な意義はないと考えます。
日蓮宗の主な団体は下記の通りです。
○日蓮宗(総本山:身延山久遠寺、開山:日蓮、第二祖:日向)
全国日蓮宗本山会には48本山が加盟。 他宗派とも穏健に接し協調路線を取っています。
呪術と加持祈祷の修法を持つ。法華経の効験を現実化させる、という説明ですが、
本来的に、法華経にはこのような修法はないので日蓮法華の大きな変質といえます。
○日蓮系宗派 12本山 他宗派を排斥し強引な折伏で社会的な批判を招く宗派が存在する。
・日蓮正宗:(静岡:大石寺、第二祖:日興)
特徴:日蓮没後から身延山と日蓮の本流(本家)を争う因縁の間柄にある。
江戸、明治から意に反して身延山の末寺に組み込まれたが戦後に独立する。
日本最大の信者団体「創価学会」を持つが対立して破門し絶縁状態になる。
・顕本法華宗(京都:妙満寺)
・本門法華宗(京都:妙連寺)
・法華宗本門流(京都:本能寺、静岡:光長寺、千葉:鷲山寺、兵庫:本興寺)
・法華宗真門流(京都:本隆寺)
・法華宗陣門流(新潟:本成寺)
・日蓮本宗(京都:本山要法寺)
・日蓮宗不授布施派(岡山:祖山妙覚寺)
・不授布施日蓮講門流(岡山:本山本覚寺)
日蓮宗とその系流には60本山があります。
○この他に、戦後に多数の新興宗教団体が創立されました。下記が主な団体です。
・霊友会(久保角太郎、小谷喜美)
・立正佼成会(庭野日敬) 212万世帯
・創価学会(牧口常三郎) 803万世帯
・その他 多数につき省略
法華経2

 

日蓮は、釈迦の出生の本懐が法華経であると信じ、法華経だけが釈尊の真実の教えであると主張して他宗を謗法とする「立正安国論」を著わし鎌倉幕府に訴えました。
この論旨は、当時、うちつづく天変地妖は既存の宗教の弊害であるとするものでした。その概要は、天皇や幕府が禅や念仏への帰依を直ちに悔い改めて法華経に帰依しなければ、内乱を誘発し、他国の侵略を受けるというものでした。
しかし、あまりにも奇想天外で理解不能の内容であったことから幕府から忌避され無視され、他宗徒の危害を受けて二度の流罪(伊豆と佐渡)に処されました。
日蓮正宗では、法華経の勧持品第13の預言(後述)を身をもって体験した日蓮は、伊豆の流罪で「法華経の行者」であることを確信し、佐渡の流罪で「上行菩薩の再誕」であることを確信したと信者に刷り込んできました。
この教義は第二祖「日興」、第三祖「日目」の妄信によって固められた「日蓮の真意」の特異性のある独善の解釈です。
日蓮の2度の流罪は、日蓮が法華経の行者に成りきろうとして、自ら望み積極的に他宗批判を仕掛けて対立を尖鋭化させ多数の権力者や他宗の信者を憤慨させた結果の反映であったと考えられます。日蓮が自ら意図して招いた結果であり当然の報いであったと考える見解に妥当性があります。
日蓮は比叡山・天台宗の僧侶とみなされていたので、他宗でもしばらくの間は様子見をし慎重な対応をして天台宗の庇護がないことを見極めたと考えられます。
日蓮は12才で安房・清澄寺(天台宗)に入山し、16才頃、道善房を師として出家得度(是聖房連長とう僧名)しましたが、師の道善房が熱心な念仏者であったことから下山し、新たな境地を求めて10年間の遊学の旅に出たといわれています。
日蓮は17才頃、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈り続けたところ、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現われ、明星のような智慧の大宝珠を授けられたと伝承されています。
実は先人の「空海」にも同じようなエピソードがあります。空海(当時の名前は「佐伯真魚」18〜19才頃と推定)は、強靭な肉体と強い精神力が求められる過酷な密教の修法「虚空蔵求聞持法」を土佐・室戸岬で行っている時、口の中に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んでくるという仏と一体化する神秘体験をしたと伝承されています。
両人には、仏教の受け取り方や考え方、修行方法に明らかな違いがありますが、虚空蔵菩薩を対象として、これを機に新たな境地を開いていくという通過点が似かよっています。日蓮のこのエピソードは偶然でしょうか。
日蓮系の宗派の特徴は、法華経至上主義の日蓮の妄執から生まれた教条的な教義を受け継いだ弟子たちの「日蓮の真意」の受け取り方の相違により分裂を繰り返したことにあります。
祖師の教義の解釈でこれほどに激しい分裂を繰り返した教団は他に類例がありません。
日蓮滅後に高弟の六老僧の四人(日昭・日郎・日興・日向)と大檀越から出家した日常(富木常忍)が教義の解釈で譲ることのできない内部抗争と対立を繰り返し、それぞれが正当性を主張して分裂し独立しました。
この流れは何代もの弟子に受け継がれ、日蓮宗各派は新興宗教も含め日本で最も激しい分裂を繰り返した宗教団体という特徴を持っていますが、いずれの教団も熱心に信者の獲得を実行しています。
日蓮宗(身延)は、日蓮の墓所を擁し総本山の意識がありましたが実態はそうともいえず各門流は互いに鎬を削っていました。
江戸時代に至り、幕府の擁護の下で他の門流との政治的な派閥抗争に勝利したのは身延門流でした。
身延門流は、釈迦如来を本尊とする穏健な本迹一致派の立場が幕府に認められ日蓮門流の統括を許されました。明治維新で一時中断しましたが、昭和の戦時体制下で復活しました。
しかし、昭和20年の終戦後に信教の自由の下に各門流が独立し、この中から更に分裂を起こし、巨大な新興宗教団体が誕生しました。
日蓮の法華経(教説)の読み方、受け取り方は天台・伝教の両大師とは明らかに違う異質な特異性があります。
日蓮は、法華経の一字一句を仏と見做し、法華経の文句のすべてが真実と受け取りました。
日蓮の法華経の解釈の特質は、文章の前後や全体の文意を解釈するのではなく、文言を都合のいいように切り取って使い廻すという手法が随所にみられることです。
日蓮自身が末法の法華経の行者であり、日蓮こそが本仏であるとするプロパガンダに利用しました。
この日蓮本仏論は、日蓮に憑依された弟子や信徒に700年も継承されてきた不思議な解釈論ですが、この思想は釈迦仏教及びその精神を継承する大乗仏教とは全く相いれない内容を持つところから、仏教とは認められない思想と考えられます。
日蓮の行跡から判断すれば、日蓮は師僧の指導を受ける伝統的な仏教僧のあるべき姿に欠けています。その生涯と言動は僧侶としての資質に欠けていたところから、日蓮教の始祖となった思想家といった方が適切です。
日蓮は、法華経に様々に説かれたドラマを自身にあてはめ、身を持って如説修行の行者になりきろうとする信念にこだわった激動の鎌倉時代の思想家でした。
日蓮の思想の出発点となった法華経の三大思想は比叡山をはじめ法華経を用いる各教団が共通に持つ概念であり、その内容は1一乗真実、2久遠実成、3菩薩行道というものですが、日蓮はこれに飽き足らず、日蓮本仏論を主張しました。これはもはや仏教とはいえず邪教となることは明らかです。
日蓮は法華経の精神に従順ではありませんでした。日蓮の数々の行跡からそのような精神は全く見えません。
一乗真実は二乗(声聞乗・縁覚乗)作仏を説き成仏の普遍性を説く思想ですが、久遠実成は時空間を超えた仏の存在と教えの永遠性を説くものです。インドに生まれた釈迦は、実は久遠元初にすでに仏身となったことを示し、仏の永遠性を強調するレトリック手法と考えられるものです。
菩薩行道は一般的には社会事業(橋をかけ、道を作り、治療所を設け、貧しい人々に食料を与え、住居を与えるなど)やボランティア活動をいいますが、日蓮は一切の衆生は菩薩になる可能性があり、法華経を弘通することが無上の菩薩行であると解釈しました。
これが日蓮が考えた特異な法華経の世界です。日蓮の菩薩道は法華経の弘通に狭小化して特化するものでした。他宗の宗祖と比較すればその異質性は突出したものがあります。
日蓮は他の宗祖には見られない特異な思想(日蓮本仏論)に固執しました。日蓮自身が釈迦から法華経の弘通を付属された上行菩薩の再誕だと主張したのです。大乗仏教の精神を受け継ぐ真っ当な僧侶の身であればとても世間に向かって宣言できる内容ではありません。
ちなみに、上行菩薩は法華経の虚空会という釈迦の胸中にイメージされた架空の世界観の中にしか出てこない地涌菩薩の上首ですが、法華経を常用教典とする他宗派では地涌菩薩・上行菩薩の役割や権能を重要なものとして取り上げることがなく、法華経の殿堂・比叡山は日蓮思想を弾圧した歴史的事実があることから考えれば評価の対象にしていないことは確実です。
一般的にいえば、大乗経典の無数の菩薩の上首といえるのは「普賢菩薩」です。普賢菩薩は幾多の大乗経典に登場していますが、特に、華厳経の「普賢行願讃」が評価されています。
日蓮が常人と隔絶していることは、自身が法華経が予言する末法の本仏であるとの自覚(妄想)を育てたことです。日蓮は、鎌倉幕府や権力者から相手にされず無視されたことで、釈迦滅後に法華経を広める行者は様々な迫害を受け忍耐の道を歩むことを予言した『法華経』の「勧持品第13」の「殉教の誓い」を果たした者は日蓮だけだと主張する必然性に迫られたと考えられます。
そこで、日蓮は法華経を身で読んだ故に死をも恐れず迫害を受けたという事実関係を信者に示めさねばならない必然性から、あえて当時の権威者たちに挑発行為を繰り返すことで諸難を招いたのではないかと考えられます。
これを実行すれば必ず弾圧や迫害、場合によっては死罪となることが十分に予測できる状況の中で、あえて実行したということは、これによって引き起こされる全ての結果を受け入れる覚悟をした証であり、日蓮は確信犯であったと考えられます。
日蓮は、法華経の行者である日蓮の法華経だけが正しく、他宗は全て誹謗であるから禁止せよと幕府に執拗に迫ったことで、幕府から無視され、忌避されましたが、これは当然のことでした。
日蓮の思い込みは尋常ではなく、その数々の言動はパラノイヤーの所業であると考える鎌倉幕府の見解は一般的な評価であったと考えられます。
戦後に、創価学会や立正佼成会その他の新興宗教の活躍で多くの信者を入信させ獲得したからといって、事実関係を望むとおりに根本的な評価換えをすることは不可能です。
今、これらの宗教団体は信者数の数の力を頼りとして、日蓮の行跡を本仏の行いであると正当化し、再評価することによって事実関係を意図する方向に持っていこうとしていることが著作物の氾濫やネット上の書き込みなどに顕著に表れています。
祖師を高く評価し、祖師の行跡をことごとく美化したいと考えることは信徒の在り方としては当然とも考えられますが、事実関係の評価は信者数の力では変えらないこともまた当然です。
法華経は特徴的な大乗思想を持っていますが、それでも膨大な大乗経典群の一つの経典に過ぎません。法華経だけを学んでも大乗仏教を網羅した思想を理解したことにはなりません。
重要なことは、日蓮の法華経の理解は異常な世界を形成しているということです。日蓮が体系的に大乗仏教を学ばなかったと考えられる理由の一つです。日蓮は独学で法華経を学び、独自の世界を形成したものと考えられます。
仏教学者がこれを指摘しないのは、勢力を持つ宗派の祖師を誹謗中傷したと受け取られて蒙るであろう様々なリスクを回避する大人の対応をしているものと考えられます。
日蓮は『開目抄』(人本尊開顕の書)に「我、日本の柱とならむ」「我、日本の眼目とならむ」「我、日本の大船とならむ」と宣言し、自身が本仏の特性である主師親の三徳を備えた末法の本仏であると宣言しました。
ところが、日蓮の高弟たちは日蓮の真意が掴みきれず、各自が理解できる範囲内で理想とする日蓮像を作り上げるという受け取り方をすることになったと考えられます。例えば、身延派は「大菩薩」と考え、富士派は「久遠元初の自受用身如来」と考えています。
とりわけ、末法思想を重く受け止めた日蓮は「本門の題目論」「本門の本尊論」「本門の戒壇論」(三大秘法)というひときわ異彩を放つ教理を立てました。
久遠実成の釈迦如来(本仏)とは日蓮のことである。法華経を身読した日蓮以外にいるわけがない、と日蓮は前代未聞の宣言をしました。
信者の敬愛する気持ちが昂ぶり宗祖を仏として敬うことはありますが、僧の身でありながら自身を末法の本仏と宣言すれば、一般的には精神異常と見做されます。
久遠実成の釈迦如来とは、久遠の元初にすでに悟りを開いた仏(本仏)ですが、この説では、釈迦は久遠元初仏の法によって現世で悟りを開いた始成正覚の仏と位置付ける説です。
日蓮本仏論を極理として継承する日蓮正宗や創価学会には日蓮本仏論を実現するために折伏活動を展開してきたことで数々の社会問題を提起してきました。
結果として多くの信者を獲得しましたが、だからといって信者となった人々が日蓮の特異な教理を理解して入信したとは考えられませんが、徐々に教義を刷り込まれることになります。
また、この日蓮本仏論は、法華経の殿堂・比叡山が驚愕する妄説です。
日蓮の教団が一致団結できず大分裂を繰り返してきた原因は、「日蓮の存在をどう見るか」、「法華経の受けとめ方、宣教の方法(摂受か折伏か)などの問題」の相違によるものです。
それぞれが妥協できない諸事情を抱えて分裂を繰り返しましたが、基本的な相違点は法華経の前半14品(迹門)と後半の14品(本門)の価値が同一と見る立場(一致派)と優劣が明らかであるとする立場(勝劣派)の違いにあります。
勝劣派の中で特に異彩を放っているのは日蓮本仏論と文底下種仏法論という極論を主張する興門派の存在です。
また、この分裂が結果として危機意識を潜在化させたことで、教勢拡大競争の強烈な動機付けになって布教意欲を増進させたと考えられています。
法華経解釈

 

更に、勝劣派の中で特筆すべきは日蓮本仏論を主張する存在です。その代表格は日蓮正宗です。
この宗派では、身延「久遠寺」(一致派)の第二祖「日向」の流れを否定し、その他の派の血脈付法をすべて否定する立場です。
日蓮正宗は、巨大宗教団体・創価学会を育成しましたが、宗祖・日蓮、第二祖・日興、第三祖・日目と続く「血脈相承」を主張し、日蓮の唯一の正当な教団であることを主張し続けている宗派です。
この宗派は、日興、日目の特異性のある日蓮本仏論によって固められた教義を持つ宗派です。
日蓮正宗の教理の特徴は、(天台宗が極理とする)一念三千の法門は(釈迦の)一代聖教の中には但法華経であり、法華経の中には但だ本門寿量品、本門寿量品の中には但だ文底深秘(三重秘伝)のみであると主張するところにあります。
三重秘伝とは、日蓮正宗が持つ特異性のある教義「文底深秘」の根幹とする概念です。
日蓮の前述の著作『観心本尊抄』の「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」文、『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経(一重)の本門寿量品(二重)の文の底に秘して(三重)しづめたまえり」にあります。これらの文から日蓮本仏論を導きだしたのは第二祖日興、第三祖日目の日蓮信奉論にありました。
この二名が、日蓮の他法門とは明らかに異なる日蓮正宗の性格を決定しました。時の政権から弾圧を受け、近年にはハリガネ宗の異名を付けられた要因はこの特異性を振りかざす独自路線を危険視されたからでしたが、この宗派ではこの事実を法難として信徒に刷り込み語り続けてきました。
日蓮宗の教理に「五重相対」があります。これは天台の教理1内外相対、2大小相対、3権実相対、4本迹相対に日蓮のテイスト5種脱相対を上乗せした論です。種脱相対の根拠は、『観心本尊抄』の文「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但だ題目の五字なり」にあります。
この五重相対のうちの3権実相対、4本迹相対、5種脱相対が三重秘伝の理論的根拠とされおり、日蓮本仏論を導き出す根拠となる日蓮正宗の特異性のある教理です。
一品二半とは、如来寿量品第16、従地涌出品第15の後半分、分別功徳品第17の前半分をいいます。この宗派では、一品二半が法華経の中核であると主張して日蓮本仏論を宗派内の信徒に徹底し、同門のその他の日蓮系の多宗派の存在を否認し続けてきました。
この門流の本尊は、法華経と日蓮の名前(南無妙法蓮華教・日蓮)を本尊とするもので、このような形式の本尊は仏教教団に類例がない特異性のある仏身観であり、法華経の教主釈尊を否定する仏身観といえます。いわゆる非仏説ではないかとの疑いの目を向けられることは避けられません。
日蓮宗諸派の本尊は書写することができる権能者が定められています。達筆だからと言って代筆できません。また、誰でもが書写できるものではありません。
日蓮正宗では代々の血脈付法の法主(管長)だけが持つ特別な権能とされ宗内に絶対的な権力を行使してきました。
日蓮宗(身延)やその他の宗派では管長以外の高僧にも許されているようですが、特別な権能であることには変わりがなく、誰にでも許されるものではありません。
書写された本尊は、日蓮正宗では中央に「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書きその下に書写した法主(管長)の名前を著名しますが、日蓮宗(身延)では日蓮を書かず書写した者が署名しています。
日蓮宗では、次のどの本尊を日蓮宗の本尊に見做すかという未決着の議論がありますが、日蓮正宗には一種類の本尊しかありません。
1大曼荼羅    (「南無妙法蓮華経」の題目の周囲に諸尊の名を文字で書いたもの。)
2一尊四士    (釈迦如来と脇侍の四菩薩を文字で書いたもの。)
3一塔両尊四士 (宝塔を中心に釈迦如来、多宝如来、四菩薩を文字で書いたもの。)
法華経を依経にしているからと言って大乗仏教とは言えません。法華経の精神を正しく継承するものであるかどうかが問題なのです。法華経の読み方、法華経の精神の受け取り方が尋常でない、ということになれば大乗仏教の資格を失うことになることは道理です。この宗派にはこのような疑問に答えていく必要があると考えられます。
一念三千の法門は天台教学の中核をなす概念です。法華経方便品第二に説かれた十如是という諸法の実相が典拠です。相、性、体、力、作、因、縁、果、法、本末究竟の十如実相は究極において等しく存在するといいます。
しかし、この理は仏と仏のみが知りうる世界であり、声聞・縁覚・阿羅漢は難信難解であるといいます。
天台の教理では釈迦の精神を受け継ぎ、人も事物もすべては不変の実体がなく(空諦)、物事は原因によって様々な条件の中で生起したものと考え(仮諦)、人々を悟りに導くためにその縁起により救いに導く方便(手段)とする基礎理論が明確です。諸法の実相は三諦円融(空諦・仮諦・中諦)のバランスのとれた中道にあるとみることが天台の教理です。
法華経には、他の諸経典にない特異な自己主張があります。「薬王菩薩本事品第24」に、法華経は「一切如来が説いた諸経、菩薩たちが説いた諸経、声聞の阿羅漢たちが説いた諸経の法の中でもっとも勝れ、諸経の中で第一」と、自己賛辞し、自己評価している不思議なお経です。このような形式をとるお経は他に類例がありません。
法華経を「受持する者は一切衆生の第一」とも言っています。法華経を編纂した大乗の菩薩(不詳)は並外れた自己顕示欲の強い菩薩とみられます。何を狙いとして編纂したお経であるかが一目瞭然です。
法華経を第一とする天台宗の偏見は、法華経を究極の経典と自画自賛するプロパガンダです。この天台宗の我田引水の自己主張が法華信者の優越性を刺激して煽りつづけ、結果的に有害無用の対立軸を中国と日本で形成してきました。
天台宗が法華経を最高の経典と主張してきた根拠は、天台智の主張にあります。しかし、法華経はインドには布教の形跡が残らず、天台宗の発祥の地・中国では見る影もなく凋落して消滅同然の状態にあり、ただ日本でのみ諸宗から重要経典として学ばれている不思議な経典です。
法華経の要点を挙げれば、大乗の諸経典が声聞・縁覚(独覚)・菩薩の道を別々に説いた方便の教えであると主張し、法華経で釈尊の永遠の生命を明かして、声聞・縁覚(独覚)・菩薩の三乗は真実の一仏乗に帰一するとして法華一乗(開三顕一)を語り、法華経はすべてを包摂する究極の経典であるとするものです。
これによって、法華経が最高経典とする妄説が中国と日本で蔓延し世間に喧伝されたことで仏教界に不毛な争いを引き起こすことになります。この説は天台宗の僧の手によるプロパガンダでしたが、これが日蓮に引き継がれて日蓮のテイストが付加され、日蓮系のさまざまな新興宗教に引き継がれてきたのです。
最高だとか、至高だとかいう比較第一の最上級をいう場合には、比較基準を明確にして釈迦の精神を継承する全経典の教理の判断基準と項目を縦と横に明確にして公平な評価をしなければなりません。
天台が比較した経典は、今日に伝承された全ての仏教経典の教理を公平に網羅したものではなく、客観性も妥当性もありません。
仏教の本場インドには、今日に知られている発掘寺院にも法華経の流布の形跡が無く、法華経を最高経典とする説は存在しません。
この説は中国の一部の勢力でしかない天台宗が作った説に過ぎないものです。天台智の思い込みを最澄が受け入れて日本に直輸入したものです。
法華経の『従地涌出品第15』には、弥勒菩薩の問いに答える形で、世尊(釈迦)が久遠の過去世に成仏をして教導してきた無数の弟子がいることを明かし、この地涌の諸菩薩が上行菩薩らの四菩薩を上首として法華経を宣教する為に地下から涌出するという記述があります。
仏の命の永遠性を示して本仏の姿を表すことを「開迹顕本」、「開近顕遠」といい、釈尊の悟りの永遠性を表しています。
この要点は、釈迦はすでに前世で悟りを開いた仏であることを強調し、釈迦をこの世に生まれた人間で、この世の修行によって悟りを開いたと考える固定観念を否定し、時間と空間を超越した世界観を仮象することによって、伝えたい「法の精神とは何か」を示そうとしています。
しかし、日蓮の法華経の解釈は、法華経に書かれた一字一句を真実の世界と受け止める解釈をしました。
ちなみに、この宗派では、日蓮を虚空会の霊山に出現した地涌菩薩の上首である上行菩薩(久遠本法の所持者)の再誕者であると主張し、上行菩薩に結要付属をした後の釈尊は末法の化導に何らの具体的な関係がないから、末法の一切の弘教は上行菩薩の権能の中にあるという空虚な主張をしています。
日蓮の世界では、ブッダの永遠性(法の精神世界)を説明するために用いられた手法としての方便(釈迦の胸中をイメージした世界=仮象世界の譬え話)が真実の出来事と受け止められて、現実世界の化導のすべての価値判断の基準にされるという驚愕する価値転換の論理が無造作に行われています。
上行菩薩は、釈迦が法華経を説く中で釈迦の胸中の方便上の仮象空間(いわゆる劇中の劇)に突如として登場させた菩薩です。端的に言えば、法華経の精神を布教するリーダーとして布教の役割を期待された菩薩であり、仮象空間にイメージされた菩薩です。
また、地涌の菩薩は法華経の精神をイメージ上の娑婆世界に布教する仮象の群像であり、信仰の対象とされる具体的な一人称の固有名詞を持つ菩薩ではありません。いわば、名もない無数の布教者(庶民)に仮託された抽象的な人々の群像です。ゆえに独自性のある誓願内容や固有の働きが賛嘆され信仰の対象とならない抽象的な菩薩です。
そもそも、このドラマは釈尊の胸中を効果的に演出するための法華経の仮象空間のフィクションに過ぎず、現実世界の法華経の精神の弘教は現実世界の具体的な存在である無数の名もない衆生の手によって行われることを述べたものと解すできものです。
どんなに優れた法門でも自然に人々に受け入れられ広まるということはありません。必ず人の口や手によって人々に浸透して広まるものです。
地涌の菩薩は固有の人を指すものではなく、法華経の精神を流布する名もなき人々を抽象化したものですが、(複数の)法華経編纂者はこのような人々を讃えて地涌の菩薩と表現したものと考えられます。
一般的に、菩薩(bodhisattva、または、bodhisatta)は「成仏を目的として修業する人」ですが、それぞれに誓願内容を定めています。その誓願内容が人々を救済するさまざまな内容を持つことから多くの人々から信仰の対象とされ、諸尊として信仰されてきたのです。
大乗の菩薩の誓願は、衆生救済の内容を具体的な行動目的とするもので阿弥陀如来(修業中は法蔵菩薩)の48願、薬師如来の12願が有名です。菩薩の誓願は衆生から見れば有難い功徳や効能として受け取られるもので、衆生は救済を受けたい内容によって仏・菩薩に対する信仰態度を決めることになります。
衆生は菩薩の誓願内容の違いによって本尊の選択をすることになり、信仰する仏・菩薩の関係性が明らかになるものです。
地涌の菩薩のリーダは上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という(法華経の)四菩薩ですが、この菩薩は法華経の流布以外の誓願内容や働きが何も述べられていないところから、固有名詞を持つ菩薩とは見做されない不思議な菩薩です。
地涌の菩薩は信仰の対象にされる菩薩ではなく、抽象的で数えきれない無数の人々の抽象名詞として法華経流布の役割を与えられた菩薩で具体的な存在観はありません。現代的解釈では、法華経の流布に係わる人々は皆な地涌の菩薩といえます。
しかしながら、法華経の解釈に「日蓮本仏論」「文底下種仏法論」を強引に混入させた布教を目的とする日蓮信者が自らを地涌の菩薩になぞらえることは危険な妄言であると考えられます。
この宗派の問題点は、日蓮思想に憑依された信者に刷り込んだ教義が、信者の口から世間にまことしやかに様々に語られたことによって、人々に不安を与えていることです。
日蓮思想に憑依された信者は、刷り込まれた教義に疑問を持つことがありません。法華経の解釈に日蓮思想を強引に混入させ、組織的な布教活動させたことによって法華経の精神を毀損してきたといわなければなりません。
本仏論

 

『如来寿量品第16』には、時空を超えた仏の存在を示し、インドに実在した釈迦は仮の仏の姿であったとして、自身の本来の姿は永遠不滅の仏であると人々に解き明かすことが書かれています。
釈迦の弟子たちは動揺したことでしょう。釈迦が自身の久遠性を説きだしたのです。しかし、この仏の無始無終の永遠性こそが法華経の真骨頂なのです。
『分別功徳品第17』には、仏の永遠不滅性を信じて伝道する者の功徳は無量で仏の智慧を得る(成仏)ことができると書かれています。この宗派の人々はこれが真実の仏説であると信じ、これにあやかろうとする信仰を目的とする信者です。
『随喜功徳品第18』は、法華経を聞き感動して他の人に伝える人には絶大な恩恵があると説き、『法師功徳品第19』は法華経を弘通する人は超能力を得て、意識は明瞭となり、経文の一文を聞いても無限の意味を見いだせることができる、と説かれています。
法華経は、世尊(釈迦)の永遠不滅の存在を聞いて感動し、信じて「法華経を所持」し、「法華経の弘通」をする者の功徳を讃え、その恩恵の絶大なことを説き、超能力の獲得を説いています。
他宗では日蓮と同種の教義を立てた僧は出ていません。実は、僧は師僧の指導に従って修行することに特徴があります。経文の読み方、解釈の仕方は厳格に守られます。正当な僧侶は師僧を持つ身です。伝統教団の中で修業する身でありながら、師僧の指導を受けることなく、自由に発想し、自由な解釈ができる者は、事実上の師僧がいないことと同義です。何事にも縛りを受けたり叱責されることもありません。
日蓮は、法華経の読み方、考え方、解釈などが自由自在にできる自己の世界に陶酔しています。日蓮には形式的な師僧(道善房)はいましたが、実質的な師僧はいなかったと考えられます。
現代のオーム真理教の麻原彰晃の立場と同一と考えられます。大きな違いは、オーム真理教には日蓮宗系のように700年という生きざまの歴史が無いことです。長い歴史を持っているという事実がオカルト性を過小評価しているのでしょうか。
法華経を自己流で読んだ日蓮は如説修行の人となることを固く決意したと考えられています。
ここから、日蓮は法華経に説かれた数々の如説修行を自身に体験させることによって、自身の中に久遠の本仏を見出すという特異性の世界に入ったものと考えられます。
実は、法華経の教主(本尊)は何かということについて、天台宗をはじめ日蓮系宗派ではさまざまな仏身論を展開しています。
法華経は釈迦が説いた経典という体裁をとるので当然ながら教主釈尊を本尊とするのかと思えばそうではなく、身延の日蓮宗以外は釈迦如来を本尊としていません。
法華経の殿堂であり本家本元の天台宗・比叡山延暦寺の本尊は薬師如来です。
法華経は様々な場面で数々の教説が語られるので、教主を特定できにくい難点があります。
法華経のどの部分(品)を中心と見るかによって教主の受け取り方が異なってしまうという現象が指摘されています。日蓮本仏論はこのような状況の中で日蓮の妄想によってつくられたものです。
日蓮の最大の特異性は『如来寿量品第16』の文底に教主が秘沈されていると受け取り、文底下種仏法論(日蓮は久遠元初の自受用報身如来)という「日蓮本仏論」を唱えたことにあります。
人の感性だけでどうにでも意味づけができる文底などという概念を持ち込んだことは、日蓮の特異性です。論理性や普遍性が人々に認識されず、耳目を驚かす思想が先走った時代のことです。宗門の教理や道理に従う拘束力は機能していなかったのでしょう。
伝統的な教理からはずれれば、比叡山・天台宗から去らざるをえなくなるのは道理です。日蓮の自立はこのようなものと考えられます。
日蓮は末法の本仏は「凡夫僧」であるとして、自らが釈迦から結要付属を受けた上行菩薩の再誕であり、法華経を身を持って読んだ如説修行の凡夫僧であるとして、報身にこだわったと考えられます。
応身や報身を宇宙森羅万象の根本尊形(本仏)とすることは哲学的にも、仏教教理の上でも認められません。無始無終のあるがままに存在する宇宙森羅万象の当体は法身という存在なのです。
根本仏=法身の考えは、キリスト教やイスラム教の創造主=神の説とほぼ同じような概念をもっているのではないかと考えられるものです。日蓮の仏身論は妄想であり失当です。
日蓮及び日蓮本仏論を継承するこの見解は、正当な釈迦仏教の立場から、また、比叡山・天台宗から驚愕をもって受け止められた異説です。
この異説は伝統的な仏教理論を逸脱する妄説であり、多数の宗派から仏教の根幹に触れる問題を多く含むものであると考えられたことは当然です。
これらの論旨は法華経の解釈を故意に曲解するものであり、伝統的な仏教の立場からは強く否定されています。この宗派はその時代の権力者から弾圧される本質的な要素を持っていたと考えられます。
それにも関わらずこの宗派はこれを「法難」として受け止め、信徒に周知徹底してきました。
信者への教義の刷り込みによって批判を法難にすり替え、信者の抵抗力を盾にしてきた教団の体質は理性のある人々から疑いの目で見られ指弾されるべきものでした。世間の評価とのギャップは容易には埋まらないものと考えられます。
戦後にも日蓮系宗派の流れの中から「法華経こそが最高教典」と声高に叫ぶ新興宗教が僧の指導を受けることなく次々に乱立しました。
法華経が最高とする根拠は、誰もが平等に成仏できるとする「一仏乗の思想」、釈迦の成道が久遠の過去に成立したとする「久遠実成の思想」、久遠実成の思想に裏付けられた菩薩の成道を説く「菩薩行道」の三点にあります。
これらの法華思想は大乗仏教に多大な影響を与えました.。また、この法華思想は受け取り手(解釈する者)の嗜好を反映してさまざまな我田引水の妄説を生みましたが、日蓮系の新興宗教に象徴的に現れた顕著な特徴です。
日蓮が考えた「五重の相対」は、天台の五時八教の教判をベースにするものですが、1内外相対、2大小相対、3権実相対、4本迹相対、5種脱(教観)相対、というもので、この結論は法華経本門の文底に下種仏法の観心、すなわち、末法の本仏(日蓮)が秘し沈められている、という日蓮独特のプロパガンダです。
この教判には受け入れられない瑕疵があります。1の内外相対は世界宗教の知識がなく、宗教の本質である普遍性の認識を欠いたことで、キリスト教も、イスラム教も、ユダヤ教も、仏教以外の宗教はすべて外道で劣っているという乱暴な結論を持ってきたものです。これを世界に力説すれば思いもよらない災いを招き、戦争を招くなど危険性が高くなることが必定です。5の認識は日蓮本仏論を捏造するもので、オカルト宗教の指定を確実にする内容であるところから評価の対象となるものではありません。
実際に、小学生から僧侶として出家し純粋培養されてきた青年僧侶が布教のため派遣された南米で、この教理を不用意に信徒に語りオカルト宗教の指定を受けています。創価学会を育成した日蓮正宗の実話です。同様に、ノーベル平和賞の受賞者で世界的に著名なマザー・テレサをこの教理にそって批判し、キリスト教徒を憤慨させたのも日蓮正宗の青年僧侶でした。
日蓮の教学の重要な基礎は天台教学の数々の論理を借用して教義を構築していますが、日蓮の独特な解釈と妄想による味付けが特徴的に表れています。
天台教学の上に日蓮本仏論という妄想を乗せて独自性を主張しているだけですが、あたかも、強固な完成されたビルの屋上に無断で粗悪なプレハブのペントハウスを作って住み着いているようなものです。
日蓮の最大の咎は、法華経の精神を日蓮の妄想によっていびつに歪めたことにあります。日蓮ほど突出して法華経を褒め殺した人物はいません。日蓮が法華経の行者になりきろうとした目論見は、狂信者を育て上げただけでしかなく、完全に失敗していると考えられます。法華経は日蓮の所有物ではありません。珍妙な味付けも、プロパガンダの刷り込みも必要ありません。法華経の世界は、日蓮の妄想の中に閉じ込められるほど小さな世界ではありません。
不思議なことに、法華経が大乗経典の花形のようにもてはやされてきたのは日本だけです。インドにはその形跡が確認できず、天台宗の発祥の地・中国では衰退して見る影もありません。朝鮮半島では法華経によって開宗された教団は全くありません。
特に強調すべき事実は、日蓮が声高に崇拝した法華経の解釈は天台・伝教の両大師とは明らかに異質で同一性が認められないものであると考えられます。
日蓮の思想を継承した教団は、大きく分ければ、(A)釈迦本仏論の立場と、(B)日蓮本仏論の立場に分けることができます。
(A)の立場は、天台宗の流れにあることを強調して権力の弾圧を回避した人々の教団です。権力機構や他宗との軋轢を起こしたくない人々が属しました。
(B)の立場は日蓮の意思(日蓮本仏論)を受け継ぎ決して曲げない人々が属しました。
(A)の立場の特長
法華経の「如来寿量品第16」にいう教主釈尊(本仏)は釈迦如来のことであるみる立場です。
日蓮本仏論を否定し、日蓮は菩薩であると考えました。主な教団は日蓮宗(身延)です。
権力機構や他宗との軋轢を起こしたくない人々は、天台法華の流れの立場をとり、協調性を前面に出しました。
この教団の信徒団体には新興宗教団体の立正佼成会が結成されました。創価学会に対抗して信者の獲得に奔走しましたが大きく出遅れました。
(B)の立場の特長
法華経の「如来寿量品第16」にいう教主釈尊(本仏)とは日蓮であるとする法華経の異質な世界観を再構成しました。
この日蓮本仏論は、日興、日目によって継承されましたが、異質な教義が天台宗に弾圧され、時の幕府や権力機構から嫌われて認められず、時に、江戸時代は宗旨替えは法度に触れる罪であったことから折伏行為は罪となり数々の流罪者(遠島)が続出しました。
特に戦後の信徒団体の布教活動が活発となり創価学会を誕生させました。日蓮の思いは、代々の弟子によってではなく、傍流の信徒団体によって世に知られることになりました。
特に「不受布施派」「「興門派(日興の門流)」が日蓮本仏論を展開し独自性を強く主張しました。興門派は富士大石寺を総本山とする「日蓮正宗」及び元その信者団体(現在は破門になった)であった創価学会が知られています。
法華経の見方考え方

 

法華経は様々な方便を駆使して対機説法する場面が特徴的に多い教典です。
釈迦滅後の大乗の菩薩が、釈迦の胸中を忖度して表現したと考えられる譬え話が随所にあり独特の世界観を作りだしています。
天台・伝教は法華経の論理的な論旨を解釈して法華経の世界を論理的に開陳しましたが、日蓮は譬え話(方便)を真実の世界として重く受け止め、日蓮の個性に独特なテイストを添加した異質な法華経の世界観を展開しました。
その結果、法華経の文底に秘沈された真実を発見したとして「文底下種仏法」なるものを唱え、法華経の題目を法本尊、日蓮を人本尊とする末法の人法相即の本仏として位置付ける日蓮本仏論を宣言するに至りました。
こうして、「日蓮の魂を墨に染め流して書いた曼荼羅(『経王殿御返事』)」が南無妙法蓮華経・日蓮在御判という漢字で書かれた日蓮宗独特の本尊(『本尊問答抄』)が出現しました。
日蓮はこの経緯や考えを『観心本尊抄』(法本尊開顕の書)や『開目抄』(人本尊開顕の書)に示しています。しかし、これは日蓮個人の思いや感想を信者に対する気配りのために手紙にしたためた消息文です。大乗経典の記述の中にあるものではありません。日蓮の思い込みが創作した日蓮の本尊です。本尊の構成は法華経の虚空会の儀式を象徴化したもの、との説明がされていますが説得力のない見解です。
日蓮が創作した本尊(曼荼羅)には次のような内容で構成され、漢字と梵字ではないのに梵字と説明されている不思議な文字(不動明王と愛染明王)が記載されています。
構成の内容は中央に「南無妙法蓮華経(題目)」と「日蓮」を配置し、(右上に)持国天、(右下に)広目天、(左上に)毘沙門天、(左下に)増長天を配置しています。
(題目の左側に)釈迦牟尼仏または釈迦牟尼如来、浄行菩薩、安立行菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、大迦葉尊者、釈提恒因大王、大月大王、明星天子、十羅刹女、阿闍世王、大龍王、妙楽大師、伝教大師、八幡大菩薩、「愛染明王」を書いています。
(同右側に)多宝如来、上行菩薩、無辺行菩薩、文殊菩薩、薬王菩薩、舎利弗尊者、大梵天王、第六天魔王、大日天王、鬼子母神、転輪聖王、阿修羅王、提婆達多、龍樹菩薩、天台大師、天照大神、「不動明王」を配置しています。
この中では、中央の「南無妙蓮華経(題目)」、「日蓮」と花押、持国天、広目天、増長天、毘沙門天、愛染明王、不動明王が特に重要な意味を持つと解説されています。
日蓮の本尊は、法華経を象徴する本尊といいますが実態はそうでもありません。愛染明王と不動明王は密教の明王です。法華経の世界には存在しない尊です。
愛染明王は金剛界の明王の代表格で、金剛手菩薩(金剛薩埵と同体)です。愛染明王の徳目を求める密教行や護摩の本尊として重要視されている尊です。
不動明王は胎蔵界の明王の代表格の存在です。日本には弘法大師空海が招来しましたが、不動明王の徳目を求める密教行や護摩行の本尊とし重視されたことで有名になりました。
両明王とも密教の教主・大日如来(大日経、金剛頂経の教主であり、華厳経の教主・毘盧遮那仏と同体)の教令輪身(仏の教令に違背するものを忿怒身を持って教化する変化身)です。いわゆる大日如来の分身です。
日蓮は比叡山で学び、高野山に遊学した経験があるので明王の役割を理解していたのでしょう。しかし、日蓮は真言宗の阿闍梨を師僧に持たず灌頂を受けられる資格がないことから、高野山では正統な密教修行が許されなかったので何を学んだのかは不明です。
また、第六天魔王や六道を本尊の中に書き入れるのは異様な印象を与えます。法華守護の看守や獄卒の役割を持たせたのでしょうか。常識的には、信仰の対象となる尊は仏を守護する天部以上の尊格に限られます。
日蓮に関する不思議な記述をネット情報で見つけました。「寺伝によれば、1253年に川越(埼玉県)の天台宗寺院の無量寿寺(中院)において、尊海より恵心流の伝法灌頂を受けた」という記述です。とても不思議な記述だと感じます。恵心流は恵心僧都源信(942−1017)から始まる教学の流れであり、天台宗の「恵心流」と「檀那流」の二派から多くの分流が発生しています。恵心流は教学(理論)上で、天台、密教、禅の一致を主張し、観心(瞑想の法)を重視する一派です。一致ということは、教理の上下の関係性を論ぜず、同等と見做す立場(日蓮の立場は法華第一)と考えられますが、川越に天台宗の壇林が置かれましたが、壇林は学問を学ぶ場所であり、密教の修法ができる場所ではありません。
当時の天台密教(台密)には、恵心流という流派(近年は13流)はありません。流派が異なっても、伝法灌頂は同一です。伝法灌頂は密教(天台宗では遮那業)を修行する密教僧の特別な通過儀礼です。また、日蓮が比叡山で「12年籠山」を行ったかどうか、「四度加行」を満行しかどうか、定かではありません。伝法灌頂が終われば「阿闍梨位」の許可(コカ=印可)状が交付されます。許可状(密教の血脈証明など数種)が発見されれば、新発見と考えられます。日蓮は天台座主であり台密の大家であった円仁、円珍を素人レベルの批判していること、また、伝法灌頂が受けられるレベルの密教の教学と実践(行)の基礎知識あれば、立宗宣言はできなかったはずだと考えられます。決定的な理由は、日蓮の著作にみる密教知識や理解度は評価に値しない素人レベルと考えられることです。日蓮宗には密教儀軌に基づく密教壇(大壇、密壇、護摩壇)がなく、密教法具を用いる密教儀礼が全く無いことからも日蓮の伝法灌頂はありえず、日蓮宗に正統密教の血脈はありません。
1253年は日蓮が立教開宗をした年ですが、日蓮は1253年から1254年千葉の清澄寺に在住し、1254年には鎌倉で布教活動に専念していました。日蓮がなぜこの期間に、禁足という修行道場から外出を禁じられて修行しなければならない「四度加行」(鎌倉時代は2〜3年くらいか?)を満行できたのか?。また、天台宗は地方寺院に伝法灌頂を執行する資格を与えていたのか?。伝法灌頂は宗門の最高儀礼であり、本山の特別な高僧でしかこれを執行する資格も能力もないものです。特別な灌頂壇を設営し儀軌に随って数日の灌頂授法を行いますが、地方寺院にはその厳粛な灌頂儀式を支える多数の執行補助僧がいないこと、また、その能力も設備もないことなどから地方寺院が伝法灌頂を行うことは常識的には考えられません。
伝法灌頂は、密教の四度加行を満行した者だけが総本山の灌頂壇に入壇を許される特別な通過儀礼です。年に1回の指定日に入壇し数日かけて行う慣例であるところから、地方寺院で伝法灌頂を授けることなどありえないと考えられます。ましてや、密教の伝法灌頂を授法して「阿闍梨位」を取得した者が、同年に独立して立教開宗するなどありえず、伝統的に密教僧が法華経に入れ込むことは全く考えられません。天台宗内であっても、止観業(法華経)と遮那業(密教)とは修行の在り方も修学系統も全く違うことを知らなければなりません。この説には妥当性がないと考えられます。
日蓮は、信者から「末法の信者は何を持って本尊とするべきか」という質問を受けてその構想をあたためました。日蓮信者と念仏信者の乱闘(熱原の法難)の勃発を契機にして、その構想を具体化し書写して出現させたとの説明があります。ここでは理不尽な法難であることを強調して騒乱の当事者である代表的なを3人(神四郎、弥五郎、弥六郎)を熱原の三烈士として、信者の鏡として顕彰し続けています。
この本尊は「一閻浮提総与の本尊」と呼称されていることから、特定の弟子、旦那や信者のためだけではなく、すべての人々のために現したものだという普遍性が強調されてきました。
しかし、実際には、大石寺の奉安殿の奥深くに安置して拝観を願い出て許された信者にだけ拝観を許可してきたことで、拝観料の徴収手段として便利に使われています。信者以外は絶対に拝観できない仕組みです。
日蓮の書写した本尊には、驚愕する文言が書かれています。「頭破作七分」がこれです。悩乱する者は頭破作七分になる、との日蓮の戒めです。
悩乱とは、日蓮の本尊を悪しく敬うこと、日蓮の本尊を誹謗中傷すること、などを含むものと考えられますが、日蓮が何故にこの文言を根本尊形であるべき本尊にわざわざ書き入れたのでしょうか。
本尊悩乱の罪は堕地獄から逃れられない、血脈付法の法主の指導の下に正しく修業しなければ信仰の効果がないと言っているのであれば、まさに池田創価学会こそ頭破作七分そのものだと考えられます。
池田大作は、この本尊の写しである各家庭の本尊は「幸福製造器」であるから、創価学会員が題目を唱え続ければ所願成就は疑いなしという主旨の指導をして会員を感動させました。
日蓮の私文書を御書として信奉する信者は誤解しています。御書の中身には日蓮の誤解や思い込みなどが随所にあることを知らないのです。信仰には良い部分がたくさんありますが、リスクの高い部分もたくさんあります。法に帰依しても人に帰依してはなりません。
釈迦仏教の基本原則である「依法不依人」の立場から見れば、日蓮に対する帰依も池田会長に対する帰依のいずれもまともな信仰姿勢とはいえません。
日蓮が書いた信者への多数の消息文(手紙)に題名が付けられて日蓮宗系の人々が学ぶ「御書」に収録されています。
日蓮の指導には他の宗祖には見ることがない特徴的な論調があります。その一つが、日蓮の考える仏教観です。各宗の教義について、日蓮が主張する仏教観を基準にして異端としか言いようのない解釈を自在に展開していることです。いわゆる仏教学の範囲を無視した独特の思想を展開しています。
日蓮の宗論には釈迦を始祖とする仏教の匂いが消されて、日蓮の行為は末法の本仏であるとする特異な日蓮思想がさまざまに語られ、信徒のプロパガンダのツールとして使われています。
例えば、日蓮宗徒の間では知らない者がいないといわれる『開目抄下』の一文に「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界に至るべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教えしかども、疑ひをおこして皆捨てけん。つたなきもののならひは、約束せし事を、まことのときはわするゝなるべし。云々」という一節はこのことを実感させる内容です。
この文は、日々の生活の中で日蓮の信心のゆえに起こる諸難に耐え切れず、また妻子の情にほだされて退転することなどを厳しく戒めるもので、信者の信仰のあるべき姿を規定する内容を持つ文と考えられます。日蓮の法華経の信心に疑いを持ち、日蓮の法華経の信心から退転すれば悲惨な境涯を歩むことになる、という戒めですが、見方を変えれば、脅しともいうべき精神の束縛を感じさせる文です。
日蓮の名言とされているこの一節を座右の銘とする日蓮信者は大変多いと聞きますが、積極的に日蓮に同意することによって、自ら強い意思を持って小日蓮となり日蓮に憑依されていくプロセスが感じられます。
日蓮信者にはいざという時の選択肢がなく、殉教の道を選ぶべきだといっているのでしょうか。
このあたりにオカルト宗教が持つという信者の精神の自縛性と拘束力が異様な足枷となって機能しているのではないかと感じられます。信者が教団に対して「とどまるも地獄、出るも地獄」と感じる場合は、その教団は間違いなくオカルト教団です。
日蓮本仏思想を受け入れた瞬間から、信仰の在り方、心構えが厳しく躾けられることになります。
例えば、「受くるはやすく持つはかた(難)し、さる間、成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(『四条金吾殿御返事』)」のように、日蓮の思想に殉じるためにあらゆる困難や犠牲にも忍耐する信仰心を植えつけられることになります。
日蓮の信仰は他人に説けば難に会うことを前提とする思想を持っています。
「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかえれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。」(『妙一尼御前御消息』)のように、法華経の信心を貫きと通せば必ず幸せになれるという勇気づけの信心指導をしていますが、これは信仰のあるべき姿から見れば、精神の自由を拘束して信仰心を縛り付けるオカルト宗教ではないかという批判を受けなければなりません。なぜならば、本来的に仏は信者の精神を拘束しない存在だからです。
また、「相構え相構えて強盛の大信力を致して、南無妙法連華経臨終正念と祈念し給えへ、生死一大事の血脈是より外に全く求ることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(『生死一大事血脈抄』)は、信心の在り方を規定する指導内容ですが、これらは創価学会・池田大作から離れたら哀れな人生を歩むことになるという脅しに使われています。
この教団の下では、日蓮の血脈は創価学会ではなく、宗門の代々の管長の専権事項とされているものですが、この判断は信者の信仰を決定的に評価することになることから、信者の意思を束縛する足枷になるものと考えられます。
日蓮は、日蓮こそが末法の本仏(根本仏)であると主張しています。例えば、「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御座せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開き給き」(『三世諸仏総勘文抄』)などがこれです。この主旨は、日蓮は久遠元初の当初に悟りを開き絶対的な本仏となったということですが、この文の釈迦如来とは日蓮のことであると解説されています。
そこで、釈迦やその他の如来のことごとくが日蓮の仏法を学んで悟りを得たという三段論法を使っていますが、これがこの宗の特異性を表す特徴的な論法として批判の対象になっています。
『立正安国論』、『開目抄』、『観心本尊抄』、『当体義抄』が日蓮本仏思想に憑依される日蓮の代表著作です。
宗教の学び方は、まず批判の精神を持って検証を重ねなければなりません。正当な批判を許さない宗教団体はオカルトの傾向性を持つ宗教です。
作られたカリスマの権威で信者を統率すること、集団の力で批判を抑え込み封殺すること、集団で批判者を非難中傷すること、特異な教義を刷り込み信者を自縄自縛に陥らせたり、信者が意思表明できない雰囲気を持つ宗教はオカルト宗教です。
仏は信者を束縛しない存在です。これが仏教の大前提です。仏の心は、いかなる時でも衆生を救うさまざまな抜苦与楽の誓願で満ちています。仏の心と私たちの心は同じものです。
空海は「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(『性霊集巻第八』)といって、宇宙がなくなり、人間が一人もいなくなり、悟りもなくなってしまうまで尽きることがない、とその精神を述べています。
空海の『性霊集、巻第9』には、「もし自心を知るは仏心を知るなり、仏心を知るは衆生の心を知るなり。三心(自心、仏心、衆生心)平等なりと知るを大覚と名ずく」、また『秘蔵宝鑰、巻中』には「仏心とは慈と悲となり、大慈は楽を与え、大悲は苦を抜く、抜苦は軽重を問うこと無く、与楽は親疎を論ぜず」とあり、『般若心経秘鍵』には、「仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外に非ず、身を捨てていずくんか求めん」とあり、仏法は他人の心の中に求めてはならない、と戒めています。
根本仏は修業によって悟りを得た存在ではありません。また、大宇宙の創造主でもありません。根本仏とは大宇宙にあるがままに存在する実在(宇宙の法則)そのものです。故に、根本仏は法身如来(大日如来=毘盧遮那如来)と特別に呼称され、人々を救済する誓願の成就によって証得した報身如来(阿弥陀如来、薬師如来など)や実在した人間が修業によって成仏した応身如来(釈迦如来)とは峻別されています。人身の日蓮が根本仏を僭称することは仏身論の基礎知識がない妄想です。
本尊と論理性

 

仏教の諸尊の姿・形・色・装飾物・所持品などはすべて大乗経典に具体的な記載があるものです。大乗仏教では教典に具体的に記述のない尊形(仏)の創造や像立は一般的に認知されない性質のものです。
サンスクリット文字で尊像を表現する種字曼荼羅は存在しますが、経典の名前や日蓮の名前を本尊とすることは異様です。法華経の題目を本尊とすることは仏身論を基準にすればありえないものです。
しかも、他宗の本尊は偶像で法謗だと教義を刷り込み、他宗の宗教施設の参拝を禁止して信者を抱え込む体質はオカルト宗教そのものというべきです。
日蓮の世界は、日蓮本仏論を基準にしてつくりあげられた特異性の世界です。
伝統的な大乗仏教を基準にすれば、日蓮の世界は驚くべき異色世界であり、もっとも法謗者というべき日蓮の信者が他の大乗仏教の信徒を十把一絡げにして法謗と非難中傷して来たことは驚愕すべき出来事でした。
知らぬこととはいえ、もっとも法謗を犯してきた日蓮信者が、まともな他宗の信徒に対して法謗呼ばわりしてきたことは決して軽い罪ではありません。
日蓮本仏、(日蓮の)法華経が最高と固く信じ込まされてきた日蓮信者には、宗教的情熱の上で現実に犯してきた罪の意識は全くありません。この責任はどこにあるのでしょうか。
日蓮本仏論の論旨は伝統的な仏教理論では理解不能の領域にあります。伝統的な仏身論からみれば異様な論旨に本当に驚きます。これを信者に理解させ、信じさせ、折伏の意欲をかきたて、多数の活動家を育成し、活動家に多数の信者を獲得させた手腕は見事です。
しかしながら、信者をたくさん獲得できたから折伏行為は正当だといえるのでしょうか。
自分の目的を達成するために、親子・家族や友人・知人を手当たり次第に折伏することが本当に信教の自由と言えるのでしょうか。
これには、日蓮崇拝教団の異様な教義を刷り込まれ、日蓮の思想に憑依されて正常な感覚を失い、大乗仏教を客観的に見る視点を喪失してしまった不幸な人間をたくさん作ってきたという現実的な批判があります。
日本の仏教宗派間の対話が進まない理由の一つに鎌倉祖師仏教が信者を抱え込み他宗を否定してきたこと、信者を洗脳して「題目を唱えれば救われる」「折伏は自己の宿命を転換できる行為」であり「人々を救済する慈悲の行為」などと異様な教義をすり込んできたことが挙げられます。
また、問題点としては、経典の解釈においてサンスクリット原典の確認を怠り、中国で編纂された中国仏教を基準にし、更に独特の祖師仏教の解釈をしてきたことです。仏教の原点であるインド的思想はいたるところで元意を改変され喪失しています。
各宗にも咎があります。それぞれが独自の言葉で自宗自派の優位性を好き勝手に宣伝してきた事実がこれです。
共通の言葉、共通の用語、共通の概念、共通の思想で語る努力を怠ったことが、信者の信心姿勢に誤った仏教史観と、間違った価値観を植え付けてきたと考えられます。
大乗仏教を語る共通の言葉や用語とは、例えば『岩波・仏教辞典』、『仏教語辞典』(法蔵館)など学問的、客観的な学問研究の立場で一流の仏教学者が編纂した辞典などに掲載されている「ことば」と解釈論です。例えば、創価学会の信者のために作り、学会内で販売された『仏教哲学大辞典』(創価学会教学部遍、日蓮正宗・宗務院・監修)などを基準とする仏教対話は客観性に欠け失当と考えられます。
伝統的な僧侶の教義解釈の拘束を受けることのない新興宗教の欠点は、経典の全体を理解する努力をせず、文章の前後との整合性を考えることなく、都合のいい一節を切り抜いて自教団に都合のいい言葉や用語を便利に加工して使う傾向性があることです。その結果、信者がその言葉や用語にどれだけの意味内容があるのか知らないままに洗脳され刷り込まれた言葉や用語を正しいものと信じ、あるいは理解不足のままに人々に向けて振り回すことだと考えられます。
日蓮宗は、一向宗(浄土真宗)とは教義の違いから犬猿の仲でしたが、一向宗が農民層を中心に教勢を拡大したのに対し、日蓮宗は有力な商工業者を中心に目覚ましい教勢の拡大を図りました。
15世紀の後半の応仁の乱の頃、京都町民の半数が日蓮宗に帰依したといわれています。
しかし、その弘通方法の中心は「折伏」であり、行き過ぎはただちに取り締まりの対象になる危惧を内包するものでした。
念仏宗の他力本願を否定し激しい攻撃を繰り返した日蓮でしたが、法華経の題目を唱えることが人々の救済になるとして「唱題行」を法華修行の中心としたことは念仏の「専修念仏」と何らか変わることがありません。
ちなみに、院政期頃までは念仏も題目も別れておらず「朝・題目、夕・念仏」という混合が多く行われていました。日々に法華経の題目を唱えながら、死の準備や臨終に臨み阿弥陀如来に極楽浄土に迎えられることを願い念仏が唱えられていました。
法然や親鸞、日蓮の登場によって次第に念仏と題目が分化し純化していくことになりました。
法華経の『提婆達多品第12』には「女人成仏」と「悪人成仏」が説かれていることから、古来より女性に人気のある教典です。日蓮信徒に女性が多いのはこの理由によるものと考えられました。
今日では考えられないことですが、当時は残念なことに、女性の身は穢れ多く法を受けるには相応しくないという社会通念が常識化していたのです。
これと同様に、念仏の『無量寿経』にも阿弥陀仏の万人救済の本願として説かれています。法華や念仏には女性や弱者にやさしい気配りがあり、庶民の支持が高い理由の一つに挙げることができます。
日蓮宗の大きな受難は、次のことなどが知られています。
11536年の「天文の法難」(天台宗が武力により日蓮宗を弾圧する)
京都の21本山は焼き打ちにあい、しばらくの間立ち直れず衰退した時期がある。
21538年の「安土宗論」(浄土宗と宗派の優劣や真偽を争い、織田信長の裁定で敗北する。
以後、「折伏」を禁止される。
31595年、豊臣秀吉主催の千僧供養会に不受不施(僧は法華信者以外から供養を受けず、
信者も日蓮宗以外の僧に施さない)の問題が表面化し、多数派の受派は出仕したが、
不受派は断固反対し出仕せず。その後も態度を変えないことで徳川家康の弾圧を受ける。
法華経は成仏にいたる道筋を論理的には何も語っていません。何故、即身成仏が可能なのか、具体的な道筋は何も示していません。法華経を受持する功徳とその可能性に言及しているだけです。
題目を唱えることで即身成仏するというのは戯論です。鎌倉時代の衆生に対する方便に過ぎません。
同様に、天台の一念三千論は法数を用いて方便的に成仏の可能性を言及しているだけであり、具体的な即身成仏の道筋は何も示していません。
法華経28品のうち25番目の『観音経』は観世音菩薩が33の顔を持って現われ、偉大な仏の力を様々に示すことを詳細に記述した経典です。法華経といえばこの観音経を指すと考えるのが多数の宗派に共通する一般的な認識です。いわゆる観音信仰です。
法華経を常用する他宗派では、法華経は観世音菩薩の称名により現世利益を強調するという形で信仰されてきました。
鳩摩羅什・訳の『妙法蓮華経』(406年)の第25番目に「観音経」が編入されましたが、これは中国に観音信仰が急速に普及さたことの影響を受けて新たに編入されたものと考えられています。
同様に『無量寿経』(252年)や『観無量寿経』(424〜442年)、『華厳経』(418〜420)等の漢訳に観音信仰が色濃く影響を与えています。
中国の観音信仰は、六朝時代(222〜589年)に顕著になり、先祖崇拝や家系存続、極端な男尊女卑などの思想を持つ中国の儒教社会の様々な儒教倫理に悩む人々の不安解消の信仰として積極的に受容されました。220年の後漢末から581年の隋統一までの観音信仰の奇跡的な体験を集めた説話集『観世音応験記』が編集されています。
唐(618〜907年)の時代は観音信仰は隆盛し観音の多くの奇跡を語る『法苑珠林』が出版され、清(1616〜1912年)の時代には『観音慈林集』や116の奇跡体験談を集めた『観音経持験記』が編集されています。
鳩摩羅什の法華経は、インド社会に生まれたインド思想を濃厚にもつ経典ではなく、中央アジアで興起した大乗の諸菩薩が編集した法華経を翻訳する中で、意識的に中国社会の民族性や価値観を色濃く反映した漢訳になったものと考えられています。
ここでは、観音菩薩が33身の姿(釈尊の化身)に変化して「助けを求める人の願望に応じて現れ救出してくれる」という受け身の現世利益に強調しています。この観音経に33観音のすべてが登場してはいませんが、観音の救済力に期待して、観音菩薩の「女性化」(例えば、慈母観音、白衣観音など)が中国で始まりました。
竺法護・訳の『正法華経』(286年)の観音菩薩は17身で全て男性であり、サンスクリット原典では16身ですべて男性です。
また、ガンダーラの観音菩薩の彫像はそのほとんどが口髭を蓄えていることからインドの観音菩薩は男性であったことが分かります。これらの彫像の表情の優しさから女性的と見えるものもありますが、これは表現・手法と考えられるものです。
しかし、観音は経典によっては男性とも女性とも考えられることから、欧米の研究者の間では観音菩薩はジェンダーフリーの体現者と見られて評価される現象があります。
法華経には様々な役割を持つ菩薩が登場します。1声聞、縁覚、菩薩という三乗の中の一つの菩薩(弥勒、文殊、勢至菩薩)、2三乗を超えた一仏乗の修行者としての菩薩(上行などの地涌菩薩、常不軽菩薩)、3法華経信者の守護者としての菩薩(薬王、妙音、観音、普賢菩薩)などがこれです。いずれの菩薩も法華経では広く大衆を救済することを目指す求道者であり、大乗仏教の修業者として登場し、人々の代表として釈尊に質問したり励まされたりする役割を演じさせられています。
法華経に登場する諸菩薩は求道者の役割に特化されていますが、法華経以外の大乗経典の中では、その役割や行為の尊さが一般的には仏と同じようなもの(特に、弥勒菩薩、普賢菩薩など)と見做されて人々の信仰対象の尊となっています。これらの菩薩の役割の相違点も法華経の特異性であり、法華経の編纂者の意図が見えてきます。
いずれにせよ、日蓮の法華経では、法華経で説かれる諸仏、諸菩薩を信仰する立場をとらず、日蓮を本尊とする曼荼羅以外の諸尊に対する信仰をすべて否定する一派(日蓮正宗、創価学会)が異様な存在感を示しています。
法華経の教主は久遠実成の釈尊(本初仏=宇宙にあるがままに存在する法身仏)と見るのが仏教界の多数説です。
日蓮を末法の教主釈尊であると主張し、日蓮を久遠元初の本仏(根本仏)とする虚構がまことしやかに語られ、日蓮信徒の折伏によってたくさんの人々が囲い込まれて信徒化されてきた事実は何を物語っているのでしょうか。
文底下種説は、まさしく日蓮の妄想による戯論に過ぎません。しかし、よくよく分析してみれば、功徳と脅しをセットにする折伏によって様々な毒語がはなたれたことで自由な精神を抑え込まれ、宗教団体の村社会の中に抱え込まれてきました。
閉鎖的な宗教団体の村社会の中で多数の人々があらゆる機会に日蓮思想を刷り込まれ続けてきたことで、外部の客観的な批判者の声が聞こえなくなるカルト教信者に育て上げられてきたことが考えられます。
改宗を伴う布教方法や宗教の布教活動は、江戸時代まで完全に抑え込まれていました。明治維新後も明治政府によって、国家神道の下での強力な戦時国家体制の構築に支障があるところから、当時の国家権力が意図的に制限していました。
しかし、昭和20年の敗戦による混乱の中で、国家権力から抑え込まれていた宗教団体の布教活動の足枷が解き放たれました。
だからと言って、既存仏教の信者が新興宗教に奪われる現象は、敗戦の混乱期の特徴といえるのでしょうか。
なぜ、新興宗教が第二次大戦後の混乱期の中からいち早く立ち上がり多くの人々を獲得して抱え込むことができたのでしょうか。
さほどまでに既存の仏教が意欲を失い、自信を喪失して人々との関わりを放棄していたのでしょうか。
このような現象の中に布教活動の重大な局面があるのではないかと考えられます。
法華経の捉え方

 

法華経は、釈迦が説いた経典ではなく、釈迦滅後500年後頃に中央アジアの諸菩薩によって編纂された大乗経典です。諸経の王を自己主張(『薬王菩薩本事品第24』)する特異性を持つ不思議な経典です。
この説は、天台宗や傍流の日蓮宗系によって力説されてきましたが、インドには法華経を最高とする思想はなく、法華経流布の痕跡もありません。
伝統的な僧の指導を受けない日蓮や今日の新興宗教が天台・伝教の高名を勝手放題に便利に使いまわして、日蓮の妄説を正当化に利用してきたこは非難に値するものと考えます。
法華信仰には特異な功徳信仰が指摘されています。
ここでは法華経の受持が信心そのものとして語られます。巷で有名な「折伏」と「広宣流布」はここからでた日蓮宗系衆徒の精神を束縛する独特な妄説です。
「如来寿量品第16」は釈迦の神格化を推し進めて久遠実成の仏とする観点を示し、天台宗や真言宗では、これを法身の大日如来を予言するものと考えました。
この立場では、法華経の久遠実成の釈迦如来はあるがままに実在する宇宙の法則そのものを当体とする「大日経」「金剛頂経」の大日如来(毘盧遮那仏)と同体と解釈しています。
日蓮は「如来寿量品第16」の文底に法華経の行者になりきった自身こそ末法の本仏であるとする妄想の根拠を見出しました。
日蓮宗系の一部に蔓延する『法華経』の「久遠実成の仏=日蓮」(日蓮本仏論)という構図は、仏身論としては論理性に欠ける主張です。
日蓮が如説修業によって本仏になったと主張するのであれば、釈迦仏教と異なる新たな宗教の教主であるといっていることと同じことです。
日蓮の主張は、釈迦の仏教を足下に位置づけることになるものであるところから、もはや仏教とは言えないことは自明の理です。釈迦の仏教を否定するものは仏教を名乗る資格がありません。
もし、日蓮が菩薩の修業を成し遂げて成仏した者と仮定したとしても、人身である日蓮は百歩譲っても応身如来でしかなく根本仏(法身如来=毘盧遮那仏=大日如来)と比肩したり同一視することは不可能であるといわなければなりません。この場合でも、釈迦仏と異なる応身仏であるところから、やはり仏教とはいえません。日蓮本仏論は妄想の論理と考えられます。
法華経は二処三会といって、教主・釈尊の説法の場所を霊鷲山、虚空会、霊鷲山と移して行われました。
インドに霊鷲山は実在していますが、この舞台は釈尊の胸中の世界を壮大なドラマ仕立てで展開するもので実在の世界のことではありません。釈迦の胸中を憶測し、脚色して展開された宗教ドラマです。
このドラマでは、釈尊が久遠の世界で教化したという地涌の菩薩を地中から出現させ、その上首の上行菩薩に法華経の広布を委ねるという筋書きのドラマが展開しますが、この上行菩薩こそ末法の本仏であり、日蓮がその再誕者であるというのが日蓮正宗と創価学会の特異性のある教義です。
また、末法の世で法華経を受持する日蓮正宗信徒や創価学会員こそ地涌の菩薩の再誕であると主張し、折伏行為は仏意仏勅であると公言しています。
このように、日蓮正宗と創価学会の本尊と菩薩には他宗と異なる特質があります。
日蓮以外の諸仏のすべてを否定し、地涌の菩薩(代表は上首の上行・無辺行・淨行・安立行の四菩薩)以外の諸菩薩を否定することです。
この教団は、特異な教義を振り回して自教団以外のすべての大乗仏教教団が謗法だとして誹謗中傷してきたので、教義的には大乗仏教の資格を喪失していると考えられます。
上座部仏教からも大乗仏教教団からも相手にもされない教団です。
ちなみに、この四菩薩は法華経の「従地涌出品第15」にしかでてこない無名の存在で他教団では何の対象にもされていません。
大乗仏教の四菩薩は「観音菩薩・弥勒菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩」が一般的です。
特に顕教では普賢菩薩が菩薩の上首として扱われ、仏は「毘盧遮那如来・阿弥陀如来・釈迦如来・薬師如来」が有名です。
密教では大日如来(毘盧遮那仏)を中尊にするほか顕教の諸仏も本尊とします。密教の菩薩の上首は金剛手菩薩(金剛薩埵)ですが顕教の諸菩薩も信仰の対象となります。
この宗派と教団は、日蓮本仏論を立てたことによって、大乗仏教の特色である様々な諸仏・諸菩薩との整合性を失い、他宗派や他教団との協調性を喪失し共存することがで出来なくなりました。
同時に特異な教理や教義を先鋭化させたことによって、互換性のない用語を多数作り、他教団と共通の仏教用語で話すことができなくなりました。
日蓮本仏論の致命的な欠陥は仏身論の整合性を欠き、論理の普遍性が欠落したことです。
このような偏った信仰を持つ人物が世界平和運動を提唱しても精神的には誰からも相手にされないことは自明の理と言わなければなりません。
この教団は生き抜くために手作りの信徒を獲得して特異な教義を刷り込むほかなくなったと考えられます。
これを折伏とか広布といい、自らの信者獲得を広宣流布と呼ぶようになりました。オカルト宗教にはこのような論理性の矛盾が顕著に表れます。
新しく入信した信者は、他の教団との比較が自由に許されないまま、日常の活動の中で特異な法華経観が最高唯一の宗教だと刷り込まれることになります。
このような特異性に満ちた教義を振りかざして折伏(布教活動)行為に疑問を持たない人々の精神構造は一体どうなっているのでしょうか。
折伏の功徳が現世利益に特化されたことで折伏行為の結果が見えなくなっていると考えられます。
法華経の開経とされた『無量義経』は、釈迦が40年余り説いた法華経以外のすべての教説は方便の教えであること。ゆえに唯一究極の真理である法華経を説く、という法華経の優位性のプロパガンダに使われましたが、中国で作られた偽経です。(後述)
法華経の「序文」は、法華経が説かれた由来や因縁を述べる構成となっていますので「因縁文」ともいいます。
「正宗分」はいわゆる本論にあたる文です。法華経の教義・性格が明らかにされる本文です。
「流通文」は教義的な本論を受けて具体的な実践を説く部分です。
法華経の全体は「迹門」と「本門」に二分されます。
本門と迹門を比較して本門が優れているという立場が「優劣派」であり、優劣の差別をつけない立場を「一致派」といいます。
また、「迹門」と「本門」はそれぞれが同様に「序文」「正宗分」「流通文」に仕分けされるので法華経28品は「一経三段」で構成され、本迹の区分により「二門六段」に分けられています。
法華経の構成内容とその思想を概観しながら、天台大師と伝教大師の法華経の解釈と「日蓮の法華経」には相容れない本質的な相違点があることを指摘したいと思います。
同時に、日蓮の法華経がいかに大乗仏教の法華経の精神を歪めた異様な世界を作ってしまったのかを指摘したいと考えます。
法華経28品の前半分の安楽行品第十四までを迹門といいます。
迹門の内容は、釈尊が永遠の仏であるという実体を明らかにする(本門)以前の教えです。
声聞、縁覚、菩薩の三つはそれぞれに異なる階梯にあるものとして三つの道が説かれていましたが、これらは方便の教えであるとして法華経では一乗であることが明かされます。これを「開三顕一」または「法華一乗」といい、法華経が全てを包摂する経典(究極の経典)であるというプロパガンダに利用されました。
本門の内容は、仏の存在の永遠性を語り、伝道の困難に立ち向かう信仰の在り方と功徳が語られています。
しかし、法華経は理論的に記述された経文ではなく、大乗経典に共通する経典の受持の功徳による攘災招福を強調して信仰を奨励する特徴を持っています。
法華経の本門は従地涌出品第16〜普賢菩薩勧発品第28までを言います。その内容は、釈尊(釈迦)が、インドに生誕して修業し初めて成仏したのではなく、実は遥かな過去世で成仏した永遠の仏であり、以来この世で人々を教化し続けてきた存在である事を明かす内容です。これを「開迹顕本」または「開近顕遠」といいます)
ここでは、法華経を受持するものは宣教の行為によって諸仏諸尊に守護され現世利益を受けられるとする功徳が語られます。
法華経の実践部分の中核を構成す部分が『観音経』と『普賢菩薩勧発品』」です。
法華経の菩薩の特徴は、法華経第23『薬王菩薩品』、第24『妙音菩薩品』、第25『観世音菩薩普門品』(観音経)に見て取れますが、いわゆる修行者としての菩薩ではなく、法華経信者の守護者の役割を持っていることです。
特に、観音経の「普賢菩薩」は法華経信者の守護を釈尊に誓う菩薩ですが、観音経は懺悔、滅罪によって利益が受けられる実践的な思想内容を語るところから法華経三部経(無量義経、法華経、観音経)全体の結経とされています。
しかし、日蓮信者は、自らが地涌菩薩であると妄想して、観音菩薩と普賢菩薩、妙音菩薩など大乗の菩薩や両経の精神をも否認しています。
観音菩薩と普賢菩薩を否認する日蓮信者が、何故に法華経を受持する者として、これらの菩薩から守護されなければならない必然性があるというのでしょうか。
日蓮信者が広めているのは、紛れもない日蓮の妄想から生まれた日蓮思想であって、大乗仏教の法華経ではありません。日蓮の思想は、天台、伝教の法華経の精神や思想とは本質的に異なる無縁のものです。
日蓮の思想が受け入れられたのは、法華経の持つ「現実肯定主義」と日蓮の持つ「現実改革の現世主義がもたらした宗教エネルギー」に対する共感にあると考えられています。しかし、これは、日蓮の表面的な評価に過ぎません。
日蓮思想は、他宗の祖師の思想とは根本的な違いがあります。1日蓮本仏論(本尊論)、2文底下種仏法、3国家諌暁にみる政治性、4徹底した他宗排斥などに明らかに見えますが、もっとも特異なことは5布教方法と6信者の育成方法にあると考えられます。
釈尊の真説は法華経以外にない、これが日蓮の出発点です。
日蓮は、鎌倉幕府に国家諌暁(『立正安国論』)を敢行し、諸宗の排斥を訴えて、妥協や迎合のない姿勢をかたくなに取り続けることによって幕府権力者の弾圧と迫害を望みました。
意図的に仕掛けて蒙った諸難でしたが、日蓮は、法華経の行者ゆえの法難と確信して、揺るぎない使命感(上行菩薩の再誕=末法の本仏)に燃えました。
主観的な妄想に過ぎない法難を法悦と捉えることは、客観的に観れば、幕府、権力者、諸宗の宗教的権威に宣戦布告し、自ら様々な反撃や攻撃を受けて、自ら傷つく宿命を背負う行為であったといわなければなりません。
諸宗から見れば、正気の沙汰とは思えない日蓮思想でも、日蓮の著作を学ぶ日蓮信者に強い共感を与えました。
日蓮が絞り出した言葉には、信者自らが日蓮に同意しないではいられない力があります。
日蓮の言葉(その実体は毒にまみれた呪文)を反芻し続けることで日蓮の言葉に憑依された信者は、自らを小日蓮に駆り立てる衝動にとらわれていきます。
初めは、日蓮思想を刷り込まれたうぶな日蓮信者は、自ら日蓮思想を学び続けることで小日蓮に憧れ、心の内なる正常な精神は日蓮思想に塗り換えられることで憑依のプロセスが完成します。
また、法華経は「法華文学」ともいわれ文学性の高い教典であるという人がいます。これにはしばしば「法華七譬」といわれる譬喩が挙げられています。
いわゆる1「三車火宅の譬(比喩品第三)」、2「長者窮子の譬(信解品第四)」、3「三草二木の譬(薬草喩品第五)」、4「化城宝処の譬(化城喩品第七)」、5「衣裏繋珠の譬(五百弟子授記品第八)」、6「髻中明珠の譬(安楽行品第十四)、7「良医治子の譬(如来寿量品第16)」がこれです。
これらの譬えが真に優れた文学性といえるのでしょうか。これらの譬えは現代的にいえばとてもリアリティがない譬え話でしかありません。
法華経の解説書は、法華経はありがたいものだという立場から無批判に書かれたものが多く、ここでは無前提に素晴らしい説話であると絶賛することが通例ですが、この評価は最高、唯一を主張する法華経の自画自賛の立場を容認するものではありません。
この譬え話は、法華経の素晴らしさを身近な題材に置き換えて人々に理解させるための寓話や神話で語る手法です。
寓話や神話は抽象的な事物の表現形式であり、これ自体が絶対的な評価基準を示すものではありません。これらは法華経が用いた単なる自画自賛の譬え話に過ぎません。
思想の特徴

 

日蓮宗は近世まで法華宗を名乗りましたが、比叡山から異議がでて日蓮宗と称するようになりました。特に、江戸幕府が崩壊して宗教統制が無くなった明治時代以降に日蓮宗は大分裂を繰り返すことになります。
日蓮は、信者の目線に合わせた実に細やかな指導をして信者たちに多くの感動を与えています。その内容は信者らに宛てた複数の消息文(手紙)によって知ることができますが、これらが集められて「御書全集」に改編され、現代の信者のバイブルとされています。
信者には懇切丁寧に細かな指導と気配りを見せた日蓮と、頑なに法華経の行者になりきろうとして破邪顕正を掲げ他宗を邪宗と呼んで攻撃する日蓮、思い込みと我執でしかない四箇の格言(念仏:無間地獄、律:国賊、禅:天魔、真言:亡国)という前代未聞の毒語を云い放つ日蓮の姿にはパラノイア(偏執病・妄想症)の疑いがあります。
日蓮正宗(創価学会も同様)の御書を読んで感じることがあります。日蓮の宗教は本当に仏教といえるのかという疑問です。日蓮の書いた御書にある釈迦仏教や大乗仏教の認識は到底まともな仏教知識といえないのではないかという疑問を感じる部分が随所にあります。
日蓮の仏教観は常人にない異様性に満ち溢れていて、伝統的な見識のある師僧について体系的に仏教を学んだ人のようには考えられない要素が多分にあります。
特に「教理論」の部分が誤認識と思い込みが多すぎて、強引に自己主張(日蓮本仏論)していることなど、内容に意味不明のものが多く、日蓮に憑依された者にしか理解できない内容ではないかと感じます。
日蓮の仏教知識や用語には日蓮特有のものがあり、他の仏教者との間で共通認識が持てないので、日蓮の仏教は諸宗の学僧から見れば意味不明の領域にあるとの強い印象を与えるものです。
法華経をないがしろにしたから邪宗が蔓延したとか、だから諸天善神が嫌って日本を見捨てたゆえに天変地妖が起きるなどが法華経に説かれた預言の通りだと主張する日蓮には驚愕します。
その責任が幕府にあるといわれれば、幕府が怒るのは当然です。
法華経は学僧であれば一度は手にする、華厳経と並ぶ大乗仏教の主要な経典です。
諸宗の多くの学僧に研究されてきましたが、日蓮と同種の捉え方、考え方をする学僧は出ていません。
学僧は師僧の研究を受け継ぐ立場にあります。文底下種とか日蓮本仏論のような仏教概念に合わない妄想が芽吹く下地は全くありません。
日蓮思想は、伝統的な学僧の中から芽吹く学識に裏付けられた仏教思想とはいえません。日蓮は仏教思想の拘束を受けない自由人です。師僧を持たない僧は仏教僧とはいえません。
処刑を免れたのは出家した僧侶と見られた一面があり、信徒の中に熱心な鎌倉御家人を抱えていたことから、処刑して事を荒立てる意欲を失っただけだと考えられます。
日蓮の赦免は積極的な行政処分によってではなく、消極的な事なかれ主義の現れであったと考えられます。結果的に、日蓮は一度の頸の座(竜の口)と二度の流罪(伊豆と佐渡)から生還出来ましたが、これはこれで妥当な処分であったと考えらえます。
日蓮は法華経の行者になるべく自らを駆り立てました。法華経を行ずるが故に法難を受けるのだと受け取り法悦に浸りました。なぜなら日蓮が法華経にある通り正しいことを主張したから法難に遭うのだと考えるからです。日蓮の行為が反社会的で許されないものだとは考えないことが日蓮の特異性です。とても正常な感覚とは認められません。
四方を海に囲まれた島国(日本)に育ち、島国の特有の価値観を育んだ日蓮は知らないのです。大陸の歴史では、他国の侵略や自国内の親子兄弟の権力争いはどの国でも経験した哀しい事実です。支配欲や権力欲、領土や資源の奪い合いなどは人の心の中に芽生える「三毒」「五欲」から生まれるといわれるものです。
法華経は、大陸の国々に事実として頻繁に発生した内憂外患の歴史観を背景にして法華経の理想を語っているだけです。
日蓮は弾圧(これを法難と受け取る)を受ける毎に法華経の行者の自覚を強固にし、如説修行の行者は日蓮以外にいないと信じ、末法の本仏の自覚を深めていくことになります。
世間の非難を受ける行為をしておきながら、これを弾圧されるとますます執念を燃やして自己の正当性を確信していく有り様は宗教伝道者の特異性といわれてきたものにほかなりません。
日蓮の執念が憑依した信徒も同様です。日蓮の教義を最高と信じ他宗を邪義・邪法と思い込んで宗教論争を仕掛けて痛烈な批判を受けることがしばしばあります。
不思議なことに、多くの日蓮信者は、これを宗祖の精神を堅持した為に蒙る法難と受けとめています。日蓮の精神を体現した法悦に浸る在り様には日蓮の憑依を感じます。
ところが日蓮信徒はとても献身的です。刷り込まれた教義を真剣に受けとめ、無疑臼信と以信代慧の信仰姿勢で指導者に随う信心をしています。とても真面目で純粋性を感じる方々も大勢います。
信仰の動機は、自分や家族の向上心を真っ当に伸ばし、幸福な境涯や福運を求める行為の表われであると考えられます。しかし熱心な信者ほど、他人を改宗させて信者にすること(折伏)で自分の目標が達成できると考える妄想癖が見受けられます。
真面目な信者ほど教条的な教義の刷り込みや指導を素直に受け入れる不思議な現象があります。
一人の人間としては常識や社会通念上の善悪の判断ができる真面目な人々なのに、教義の布教の上では自分たちの迷惑な行為の反社会性が認識できなくなっています。
このような日蓮信者は、教義の批判や折伏行為を批判されたり否定されると眼の色を変えてパラノイアの兆候が現われます。教条的で危険な兆候です。この宗が「はりがね(針金)宗といわれてきた理由の一つと考えられます。
日蓮宗の身延山(日向門流)と市川の中山法華寺(富木常忍の門流)には、加持祈祷が伝承されています。
実は、日蓮は加持祈祷を否定いていなかったと考えられます。日蓮は加持祈祷によって数々の奇跡を実現しようと試みたと伝承されています。これらは法華経がもたらす奇跡の力と信じられていますが、法華経に加持祈祷はありません。
加持祈祷は密教の典型的な修法の一つであり、法華経の強烈な信仰心とは次元を異にする修法です。
日蓮は台密の大家「円仁」「円珍」を強く批判していることから比叡山で密教を学んでいなかったと考えられていますが、実はそうではなかったと考えられます。
身延山の加持祈祷は明治期に断絶しましたが、鬼子母神を祈祷本尊とする中山法華寺では日蓮宗祈祷の伝授が行われています。
日蓮宗、特に日蓮正宗・法華講では僧侶をとても大切にします。信徒が一般の僧でも御尊師様と呼びとても丁重にもてなしていることには本当に驚きました。この宗派では僧が信徒を見下しているとして批判する信徒が少なからず存在していますが、信徒の生真面目さが如実に現われているものと思われます。
実は、僧侶の戒名のことでとても気になることがあります。密教僧でもないのに「阿闍梨位」を僭称し「大徳」という天に恥じらう慎みのない徳目を付けることです。さすがに阿闍梨位をはっきりと書くのは気が引けるのか「阿」と一字で著していますが「阿」は大日如来の標幟だということを知らないのでしょうか。不思議です。
日蓮を「日蓮大聖人」と呼称するのはこの宗や創価学会の特異性です。実は、大聖人は日蓮自身が、末法の本仏であることを宣言するために本仏の別号として日蓮自身が付けた名称でした。
その主旨は、『日蓮大聖人正伝』(宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌記念出版・日蓮正宗総本山大石寺発行)のP196〜198によれば、日蓮の著作である『兵衛志殿御書』、『法連抄』、『顕仏未来記』、『撰時抄』、『開目抄』、『聖人知三世事』などに日蓮自身が「大聖人・聖人・大人(世尊)」であると教示していること、また、日蓮は一閻浮提第一(全世界の中で第一の智者)であること、日蓮は末法の本仏と拝信するので大聖人と尊称するとしています。
他門では「日蓮上人」「日蓮大菩薩」と呼称するが、他門は不相伝(嫡流の正当な血脈がない)のゆえに大聖人を末法の仏と信解することができない不敬法謗の徒であると憤慨しています。
仏教の僧侶に「聖人」を付けるのは浄土真宗と日蓮正宗だけです。聖人は道教の用語です。日蓮は法然・親鸞に対抗していつも上位に自己を置こうとしました。しかし、世間の評価は日蓮の評価とは明らかに違います。
大聖人は日蓮を法然・親鸞の上に置こうとする作為であり、日蓮の作為によって作られたものでした。
第二次大戦中に、日蓮宗(身延派)が軍部に精神的な協力をした功績を認められ、1922年(大正11)10月13日、日蓮(1222〜1282)に「立正大師」の諡号を授けられましたが日蓮没後800年後の出来事であり不思議な褒賞でした。
大聖人は、日蓮本仏論を真面目に信じる宗徒が特別な思いを込めて使い続けている奇妙な用語です。日蓮宗(身延)では「日蓮大菩薩」といい、仏ではないけれど単なる菩薩でもない、として特に「大」の字をつけて複雑で微妙な心境を覗かせています。
しかし、今日の日蓮信者を名乗る新興宗教団体にこのような日蓮の体質が濃厚に受け継がれていることは哀しい現実といわざるを得ません。
この宗旨の団体は、宗教が共通して持つ「仲間を囲い込み、他者を排除する性格」を濃厚に持っているといわれている現実があります。
海外に進出した日蓮信者が諸外国からオカルト宗教の指定を受けているのは、日蓮の法華経が正しく、他はすべて邪教とみる教条主義に原因があるものと考えられています。
日蓮の世界を知る

 

日蓮がこだわった破邪顕正の実体は何か。その意味する内容を他宗攻撃や四箇の格言の内容を参考にして検討してみたい。
まず、「律宗は国賊の妄説」はどのような意味内容であろうか。律は僧侶や教団の秩序を維持する為の罰則規定を持つ規範(律法)です。僧でない信徒にはほとんど関係ありません。
日本では最澄が「戒(個人の日常生活上の行動指標で自ら決心によって護るべきもの)」と「律」を混同して、「律は劣った小乗のものだから大乗では捨てるべきだ」という主張を展開しました。
「ブッダの教えは正しく実行できず、実行しても悟りは得られず、人に救いの道は無い」という末法思想が蔓延することになりました。
戒律は非現実的なものだから大乗相応の地・日本には相応しくない。現実社会の要請や常識、慣習に適合するものに改めるべきだという日本的主張が多数派を占めるようになったのです。
日本の仏教はこうして変質し、僧侶の意識や質的レベルが低下して日本独特の特異性のある思想を持った新仏教が誕生する社会状況を形成することになりました。
鎌倉期に大衆化と簡素化に特化した念仏・法華・禅の祖師仏教が誕生することになります。
日蓮はこのような立場で、当時のスーパースターであった極楽寺良観房忍性を標的にして激しく攻撃しました。しかし、どう考えても日蓮の非難や攻撃には妥当性が無く説得力がありません。
忍性は律宗を代表する高僧です。律は奈良の唐招提寺(律宗)や西大寺(真言律宗)を拠点としていました。忍性は貧民救済などの社会福祉事業で活躍した徳の高い僧であり、生き仏として慕われる世間の高い評価がありました。
社会福祉事業のボランティア活動は大乗仏教の菩薩が行わなければならない重要な修行です。
僧院の修行を終えた菩薩は悟りを社会に還元する福祉事業に身を置かなければなりません。
しかし、日蓮はこれを認めず、忍性の社会事業は悪辣な偽善行為であるとして「僭聖増上慢であり今生では国賊、来世は奈落に落ちること必定」(十一通御書)といって攻撃しました。
忍性は幕府から雨乞いの祈祷を懇願されましたが、日蓮は忍性の能力を認めず雨乞いの対決を挑みました。天気などの気象現象や自然現象でさえ宗教の力で変えることができると信じられた時代のことです。幕府の懇願によって加持祈祷の対象にされたのです。
しかし、日蓮は、忍性に相手にされなかったことで対決姿勢を強め、激烈な言動で挑んだため、幕府に捕縛されて「龍の口の法難」を招き、「佐渡流罪」に処せられました。
日蓮は法然の浄土宗の攻撃に勢力を注ぎました。法然が比叡山の先輩であり布教活動の人気・実績でも先行していたこと、法然が仏道修行の難行を否定し「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで誰でも極楽往生できるという易行性や平等性が民衆の支持を広く集めていたことを脅威と受け止めたのです。
『阿弥陀教』のエッセンスを凝縮した念仏の阿弥陀信仰と、『法華経』を集約した題目の法華信仰とは民衆に対する布教活動の方法において完全に抵触するからです。
日蓮はことあるごとに念仏を攻撃し罵倒していますが、大きな違いは、法然は現世を穢土として来世の極楽浄土を求めましたが、日蓮は現世(娑婆)こそ寂光土であるとして、題目を唱えれば即身成仏し、この世がそのまま浄土になるという現実肯定の姿勢を示したことです。
思うに、これをもって阿弥陀信仰と法華信仰のいずれが正しいとか、優れているとかいうことを判定してはならないと考えます。仏教のメルクマールである釈迦仏教(原始仏教)を基準にすれば、双方とも非仏説の要素にこだわりすぎていると考えられます。
日蓮は、鎌倉幕府の権力者11人に宛てた檄文(十一通御書)で、執権の北条氏の帰依を受けた臨済宗の高僧・建長寺の蘭渓道隆を増上慢の大悪人と罵倒し無間地獄に落ちると批判しています。
禅宗が教典に依ることなく「教化別伝」や「不立文字」をたてることから禅宗は天魔の具現者だと批判したのです。
禅宗では、求道者自身が仏であり法であるとすることから教主釈尊を否定するものだと他宗派から批判があります。
だからといって、日蓮自身にこれを批判する適格性はありません。日蓮もまた教主釈尊をないがしろにする一人なのです。
禅宗攻撃の最大の理由は、禅宗が鎌倉幕府や武士団から熱狂的な支持と庇護を受け始めたことにあるのではないかと考えられます。
当時、幕府は京都の朝廷や貴族の精神の支えとなった天台宗や真言宗の京都文化に対抗する意図を持って、特に中国伝来の新文化と考えられた禅宗を手厚く庇護する政策を実施しました。
これが「鎌倉五山文化」や「京都五山文化」の形成に発展していきました。
曹洞宗は、只管打坐が個人の悟りを目指すもので菩薩の道ではないと日蓮から批判されながらも宗祖の栄西や道元は批判されていません。
これは臨済宗が幕府の手厚い庇護を受けていたのに対し、曹洞宗は権力からの庇護が受けられず、自助努力をしていた教団であったことがその理由ではないかと考えられます。
どうやら、日蓮の他宗に向けた教条的な批判や痛烈な糾弾の基準は、幕府・権力者の手厚い庇護を受けているかどうかの有無にあるようです。
真言亡国とは一体何でしょうか。日蓮の仏教論理は中国の天台、比叡山天台宗の教義を基盤とするものです。しかし、天台教学は一つの宗派の考えであり、仏教界を統一した権威のある教学ではありません。日蓮の論理には天台教学をあたかも万能理論の如く振り廻す危険性が在ります。
比叡山に学んだ日蓮は天台教学がすべてだと思い込んだのです。真言密教の深遠な教理を打ち立てた真言宗に対して、天台宗の論理を援用して批判する日蓮の論理は失当です。
日蓮の論理は、天台の教相判釈を都合よく使っているだけで客観的な妥当性はありません。日蓮には天台宗の教理を盲目的に援用するほかに選択肢が無かったのでしょうか。
「中国の真言宗は天台の一念三千の法を盗んで自宗の極理となし、日本の弘法は口をきわめて法華天台をののしっている。このように本主を突き倒して無縁の主(大日如来)を立てるから、真言は亡国、亡家、亡人の法と破折されたのである。(仏教哲学大辞典第三巻、P67 創価学会経学部編)」という記述には正直に驚きました。
これは、日蓮の『開目抄』の一節を盲目的に援用した見解ですが、日蓮は天台宗の誰かの無責任な見解を鵜呑みにして採用したものと考えます。天台宗は本主を定めていませんが、日蓮本仏論という妄想を否定する立場であることは確実です。
一念三千の理論は真言密教には不必要な概念です。詳細は、「(18)天台宗」を参照願います。
また、中国に真言宗という宗派はありません。真言宗は弘法大師空海が命名して開宗した宗派です。真言宗が天台の教理論を借用するなどということは考えられません。何をどの様に誤解すればこのような批判が出てくるのでしょうか。
大日如来はサンスクリット語で「マハー・ヴィロチャーナ・ブッダ」という宇宙の法則そのものを標幟とする法身如来であり、華厳経の教主「毘盧遮那仏」の密教名であることはすでに述べました。
真言亡国の批判は日蓮の思い込みと妄想からでたものだと考えられます。
日蓮が比叡山で誰について法華経を学んだのかは不明です。日蓮の法華経の読み方、受け取り方から推定すれば、あるいは独学によるものとも考えられます。
また、密教を学んだという記録もありません。日蓮が比叡山の興隆の立役者として知られる台密の大家、円仁、円珍を非難していることから密教は学べなかった、少なくとも本格的な密教(阿闍梨位の取得)を伝授した師はいなかったと考えられます。
日蓮の「四箇の格言」は根拠に欠ける日蓮の妄想と思い込みによるものです。
その結果、盲目的な日蓮信者や病的な日蓮崇拝者が固く信じ込んで害毒を撒き散らかすという長い歴史を作ることになりました。
この格言は、十分な仏教知識が無いものが聞けば思考回路を一時的に中断する効果があります。
真偽の明確でないものを振り回して強烈な毒語を吐く者は弾劾されるべきです。
日蓮は、四箇の格言を相手の人生や体験の中に形成された価値観や考え方を打ち破る強烈な動執生疑として用いました。
しかし、まともな僧侶の身でありながら、このような妄想や虚言を本気で振り回し、品性を問われかねない者はいないと思います。
日蓮は、僧ではなく思想家というべきだ、というのはこのような評価によるものです。
熱狂的な日蓮信者には共通する気質があります。
日蓮の熱狂性、妄想的ビジョン、一切の妥協を排除した激烈な行動、これらを熱狂的に支持する信者は自らを「小日蓮」に駆り立てないではいられないのです。
日蓮の憑依(憑かれる)を強く感じます。
この「憑かれる」信者が多数でてくる現象は他宗では見ることがない際立った異質性です。
日蓮本仏論のドグマは、日蓮に憑依された熱烈な日蓮信者を生み続け、社会や人々を不幸にするリスクを孕んでいると考えられます。
日蓮の憑依は、日蓮の「御書」を読むことによって、日蓮の言葉に励まされ、勇気付けられていくうちに、次第に日蓮の感情移入を受け入れることで自らが小日蓮となるプロセスが考えられます。
この日蓮の文章(ことば)には、読む者(信者)を日蓮の思想に引き込む力があり、叱咤激励して心酔させ、自発的に小日蓮を目指させる不思議な魔力があります。
例えば、<いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門徒なりとを給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑わんや。経に云く「我久遠よりこのかた是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女をきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えへしが、二人、三人百人と次第に唱えつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の菩薩の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし。>(『諸法実相抄』)などは、信者の精神を束縛して折伏に駆り立てる魔力を持っています。
日蓮が信者に信心の覚悟を迫る文言が『聖人御難事』の随所に書かれています。「月月・日日につより給え、すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」、「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」、「過去、現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始は事なきようにて経にはほろびざるは候わず」、「我ら現には此の大難に値うとも後生には仏になりなん」、これらの文言をひらたく解せば、「信心は日々向上心をもって励まなければならない。悪い結果があるのは当然だから覚悟の信心をするべきだ。広宣流布に生きる者を迫害すれば誰であろうとも必ず厳罰を受け滅びるのだから、(日蓮の)仏法のために受ける大難は(自分の)宿命打開の為だと思い定めて、今は苦しくても後世は必ず幸福の境涯が開けてゆく(ことを信じなさい)」ということです。
きわめつけは、『日女御前御返事』に見ることができます。これぞまさしく日蓮の呪縛であり、日蓮の世界にのみ典型的に現れる信者指導の異質なありようです。「この御本尊全く余所に求るなかれ、ただわれら衆生の法華経を持ちて南妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉團におわしますなり。これを九識心王真如の都とは申すなり」。この文が、どのように指導されたのか、たぶん創価学会の熱心な信者の手によるものと思われるインターネットの投稿には「わが身が即ち妙法であり、(日蓮の)曼荼羅本尊は<信心>の二文字におさまると聖人は喝破された」「この御本尊こそ、われら門下生にとって、否、人類にとって最終的な帰依の対象である」「日蓮大聖人を<国聖>と仰ぎ、<末法の大導師>と称するのはこの一事だけでも足りる」と結んでありました。
この文章の心酔のありさま、論調の昂ぶりから推定すれば、投稿者は冷静な瞑想や思索の時間を持つことなく、素直に他人の価値観を受け入れた人物のように見受けられます。ただの思い込みに過ぎない日蓮の独語を信じて受け入れ、自らも妄想を育て、他人にまで伝えたいという気持ちを抑えきれず行った投稿内容が、実は仏教の精神を踏みにじる毒語であることの認識が全くないと考えられます。「私たちの宗教が正しく、他は間違っている」という主張です。
これらの文言は、一応は日蓮の(信者にたいする)信心指導であり、勇気づけだと考えられるものですが、これを真正面から受け取る信者は日蓮と同意の信心を持たねばならず、日々にこの文言を自分に言い聞かせることで次第に日蓮の精神に憑依されていくことになります。日蓮の文言には「日蓮の精神を受け止めて諸難に耐え忍べば必ず成仏する」という憑依の呪文が随所に仕込まれていると認められ、これらの文言には信者の精神を呪縛する魔力があると考えられます。もし、ひるむ心が生じて挫折すれば自分が弱いからだ、と自己責任に堕ちいらせるもので、主たる要因が日蓮の宗教観にあることが隠されてしまうと考えられます。
日蓮の思想は、鎌倉時代以降、一貫して為政者の支持がない宗教でした。その思想に到底受け入れられない妄想を抱えていたからです。
その異質な宗教であった故に、法華経の本家本元の比叡山天台宗から数々の弾圧を受け、時の権力者であった鎌倉幕府から二度の流罪に処せられ、織田・豊臣政権に圧迫され、江戸幕府から無視されながら、命脈を保ってこれたのは仏教の宗派という体裁をとっていたからであり、僧侶という身分で僧籍にあったからだと考えられます。
僧侶の殺生は時の権力者であっても容易には決断できないものでした。僧が積極的に権力者に対し「僧を殺せば七難生じ、九族祟る」と脅し文句を吹き込んできたお陰かもしれません。日蓮が生き残れたのは死刑執行を躊躇する僧侶身分に守られたからだと考えられます。
明治以降、日蓮宗は激烈な思想の故に、天皇中心の神祇崇拝の国家体制の下で、思想の対決色が鮮明になることを強く危惧しなければならない状況に置かれました。
神祇は日蓮の僕(しもべ)でしかないと信者に植え付けてきたのに、国家から、国家神道に忠節を尽くすことを求められても、掌を返すように簡単に教義を変えることができずジレンマに陥りました。
自宗を神祇の下に置き従僕の位置に置くことは教義を曲げることになり認められないからです。
日蓮宗系は、思想的な折り合いをつけてでも生き残る道を選択しなければならない状況に置かれました。
このような苦渋の選択の中で、狂気に染まった日蓮神秘主義の思想家が多数でてきて世間を騒がせました。
日蓮の法華経の神秘主義に触発された信者は、日蓮主義に適う国家建設の夢を追いました。
日蓮に憑かれる人は日蓮と同質の資質を持つ人々です。
説得できる性質の人々ではないと考えられます。
日蓮主義の熱心な信者は、鍋かむり日親(国家諌曉)日経(慶長の法難)、日奥(不受不施派祖)、田中智学(国柱会)、木村鷹太郎(狂気の奇書)、北一輝(2.26事件の黒幕)、鷲谷日賢(霊媒使い)、井上日昭(血盟団、5.15事件、右翼)、石原莞爾(満州事変)、妹尾義郎(社会主義運動家)、宮沢賢治、江川忠治(死のう団)、などが知られています。
 
日蓮聖人「立教開宗」における妙見尊と虚空蔵菩薩の関係

 

1.明星天子の本地は虚空蔵菩薩なり 
日蓮聖人は建長5年(1253)4月28日、安房国清澄山にて「立教開宗」した。清澄の地は、宗祖が12歳にして登山、のち発心得度した霊地である。
『生身の虚空蔵菩薩より大智恵を給ハりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思シ食シけん。明星の如クなる大宝珠を給ヒて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。(註1)』
宗祖と虚空蔵菩薩の出会い、接点は少年期から始まっている。虚空蔵菩薩は梵名(阿迦蘗婆)といい、アーカーシャは天空・虚空。ガルバは胞胎蔵を意味し、「虚空孕」と訳される。広大無辺の功徳を包蔵していることが虚空のようであることから虚空蔵菩薩といわれる。その具有する五智を表わした五大虚空蔵菩薩があり、(1)法界(解脱)虚空蔵、(2)金剛(福徳)虚空蔵、(3)宝光(能満)虚空蔵、(4)蓮華(施願)虚空蔵、(5)業用(無垢)虚空蔵があり、清澄寺は能満虚空蔵菩薩と伝わる。
また虚空蔵菩薩の化身は「明星天子」といわれ、脇侍は「雨宝童子」といわれる。虚空蔵菩薩は、日・月・星・雨・雷等の自然現象に関係する。宗祖の星信仰(虚空蔵信仰)が自然現象の天変地異に注目し、のち『立正安国論』に取り上げられる「日月失度 時節返逆」の先駆的思想となっている。
『法華経序品第一』には、「復有名月天子、普光天子、宝光天子」と天の三光天子が登場し、明星天子は「普光天子」の名で会座に列なり、帝釈天に率いられて法華経の行者を守護する。『法華文句』巻二下には、 『名月等の三光天子は是れ内臣、卿相の如し。或いは云く、是れ三光天子のみと。名月は是れ宝吉祥にして月天子大勢至の応作なり。普香は是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり。宝光は是れ宝意にして日天子観世音の応作なり。』
明星天子の本地は虚空蔵菩薩と説かれ、天台宗においては『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説き、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社神は三光天子の垂迹と説き、天台教義の中で三光天子は山王信仰と結びついている。千光山金剛宝院清澄寺は、宝亀2年(771)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和3年(836)中興したと伝わる。日蓮聖人は、清澄寺修行期に「虚空蔵求聞持法」を会得し、智恵を表す摩尼(如意)宝珠を感得し、一切経の勝劣を知った。「求聞持法」とは「聞持」を求める法であり、「聞持」とは、「憶持不忘」、つまり一旦聞いたことは永久に忘れないこと、記憶力の獲得である。その虚空蔵菩薩への報恩のために立教開宗の地を清澄山に決したとされる。
『虚空蔵菩薩の御恩をほう(報)ぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東條ノ郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申ス者並に少々大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申ス。(註2)』
日蓮聖人の星信仰(三光天子)は、是聖房蓮長より「日蓮」と改名自称するときにも関係する。
『明かなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。(註3)』
『日蓮となのる事自解仏乗るも云ツつべし。……経ニ云ク、如日月光明 能除諸幽冥(註4)』
また、宗祖の星信仰(三光天子)は必ず法難と関連してくる。更に五綱教判の基礎理念ともなる。伊豆法難(1261)に、梵天・帝釈・日月・四大天王等(註5) という宗祖の法華経守護神観が確立され、日天子法門へと発展してくる。伊豆で発表される『教機時国抄』の五綱教判は、神力品「如日月光明」の前文が依用される。
如来ノ滅後ニ於テ  ―――――――― 知時
仏ノ所説ノ経ノ  ――――――――― 知教
                         知機             
因縁 ――――――――――――――<
                         知国
オヨビ次第ヲ知ッテ ―――――――― 知序
義ニ随ツテ実ノ如ク説カン。
日月ノ光明ノ、能ク諸ノ幽冥ヲ除クガ如ク、斯ノ人世間ニ行ジテ、能ク衆生ノ闇ヲ滅シ、無量ノ菩薩ヲシテ、畢竟シテ一乗ニ往セシメン―――――法華経行者
文永8年9月12日(1271)龍口法難後、佐渡守護・武蔵守大仏(おさらぎ)宣時の家臣、守護代・本間重連の依智の館にて月天子の使いとして明星天子が下る。
『九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに、夜中に大庭に立チ出て月に向ひ奉リて、自我偈少々よみ奉り、諸宗の勝劣、法華経のあらあら申シて、抑モ今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし……いそぎ悦ヒをなして法華経の行者にもかはり、仏勅をもはたして、誓言のしるしをばとげさせ給フべし。……いかに月天いかに月天、とせめしかば、其しるしにや、天より明星の如クなる大星下リて前の梅の木の枝にかかりてありしかば、もののふども皆ゑん(縁)よりとびをり、或は大庭にひれふし、或は家のうしろへにげぬ(註6)』
龍口法難その時には、『江のしま(島)のかたより月のごとくひかりたる物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。(註7)』
以上の超常現象により斬首の法難をのがれたとされる。
『三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日巳前に下て日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。(註8)』
流刑地の佐渡においては、三光天子を「天」と表現する。
『設ひ大梵天として色界ノ頂に居し、千眼天といはれて須弥ノ頂におはすとも、日蓮をすて給フならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしとおぼさば、いそぎいそぎ国土にしるしをいだし給ヘ、本国へかへし給へと、高き山にのぼりて大音聲をはなちてさけびしかば、九月十二日に御勘気、十一月に謀反のものいできたり。かへる年の二月十一日に、日本国のかためたるべき大将どもよしなく打チころされぬ。天のせめと、いう事あらはなり。此にやをどかれけん。弟子どもゆるされぬ。而レどもいまだゆりざりしかば、いよいよ強盛に天に申せかば、頭の白キ烏とび来リぬ。(註9)』
宗祖には、外で(高き山)三光天子を拝む信仰型態がある。清澄山における立教開宗の唱題誓願もそうである。現在は日天子を拝むことが中心に理解されているが、旭日昇天の前の暗きうちから日蓮聖人は山頂で拝んでいる筈である。その時は月天、明星(虚空蔵)、あるいは北辰妙見を拝んでいる筈である。夜が白(しら)み始め、月天、明星が姿を消して、日天が昇るのである。虚空蔵求聞持法により「日本第一の智者となし給へ」と祈った日蓮聖人が、月天・虚空蔵(明星)を忘れる筈がない。佐渡において日蓮聖人が「夜もひるも高き山に登リて、日月に向ッて大音聲を放ッて呪咀し奉る。其音聲一国に聞ふと申ス。(註10)」佐渡守護の大仏宣時(武蔵守)は、宗祖の山頂唱題(外拝み〔そとおがみ〕)を呪咀と恐れた。宗祖の外拝み(星信仰)は大音声で行われたらしい。周囲の人々が驚いたのは無理ないであろう。身延期の思親閣(奥之院)での故郷房州遙拝、富士山経ヶ岳に法華経埋経一百日の祈願伝承も、宗祖の信仰基盤に星信仰(外拝み)が存したからである。
建治2年(1276)7月、四条金吾の釈迦仏開眼に際し、四条氏が4月8日より7月15日まで日天子礼拝したことにつき、
『御日記ニ云ク、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕させ給ふ事。大日天子と申スは宮殿七宝なり。……日月天の四天下をめぐり給フは仏法の力なり。(中略)法華経の序品には普香天子(明星)とつらなりまします。……日蓮モ又此ノ天を恃(たのみ)たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す。利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず。(註11)』
と述べて、建治2年の時点でも日蓮聖人は、日天子を含む三光天子(星信仰)を重視され、「此ノ天を恃(たのみ)たてまつり、利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず」と、四条氏を教化している。清澄寺は、「明星の井戸」、「虚空蔵菩薩」、「妙見尊」を祀る星信仰の山岳修験の道場であった。

(1)『清澄寺大衆中』 1133頁
(2)『清澄寺大衆中』 1134頁
(3)『四条金吾女房御書』 484頁
(4)『寂日房御書』 1669頁
(5)『行者仏天守護鈔』 246頁
(6)『種々御振舞御書』 969頁
(7)『種々御振舞御書』 967頁
(8)『四条金吾殿御消息』 505頁
(9)『日光房御書』 1154頁
(10)『種々御振舞御書』 978頁
(11)『四条金吾釈迦仏供養事』 1185頁 
2、安房国とその領主 

 

立教開宗の地、安房国は斉部(いんべ)広成の『古語拾遺』によれば、天富命(アマノトミノミコト)が神武天皇の命を受けて、四国阿波忌部(いんべ)の祖・天日鷲命(アマノヒワシノミコト)の後裔を率いて四国阿波に赴き、穀(かじ)と麻を殖培し、更に房総半島に上陸し、土地を開拓し穀と麻を育成したことに始まる。麻の古語が「総(フサ)」で、安房、上総、下総の三国とも「総(フサ)の国」と呼ばれた。天富命は安房に祖神の天太玉命(アマノフトダマノミコト)を祀ったのが安房坐神社であり、延喜式によると安房四郡(平〔へぐり〕、安房、朝夷〔あさひな〕、長狭)は神郡となっており、神社の所領であった。天太玉命(金工神)は天児屋根命と共に天照太神の重臣で、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)に従い高天原より葦原中(あしはらなか)つ国(豊葦原の瑞穂〔みずほ〕の国)へ降り立った神である。国家祭祀の神へ奉る種々の幣帛(へいはく)(麻、鏡、玉、矛盾、刀、斧)などを司る。安房開拓の祖・天富命の墳墓は安房神社より東北35キロメートル、清澄山の西隣の富山にあり、その廟所が清澄の妙見山であった(明治の神仏分離令により天富命廟所は下の小学校近くへ移る)。
清澄山は標高347メートル、安房分水嶺山脈の中心地で、清澄山系は冷たい北風を遮り、南は黒潮の暖かい風を迎えて気候温暖、年降水量2000ミリの多雨地域である。清澄寺は摩尼山(妙見山)・宝珠山・如意山・露地山・金剛山・鶏(けいもう)山・独鈷山・富士山(浅間山)の八名峰に囲繞され、台密、真言の回峰行、星信仰の道場(虚空蔵求聞持法)であった。54代仁明天皇の承和3年(836)に慈覚大師円仁が来山し、虚空蔵求聞持法を修し、祠堂25、僧坊12の名刹となった。円仁は清澄寺の前嶺に露地檀を築き求聞持法を修したので露地山と称し、独鈷を投じた山を独鈷山といい、南嶺に棲む怪物を法力で退治して鶏山、不動明王を安置して金剛山、北嶺に浅間菩薩を祀って浅間山(富士山)と命名したと伝える(大川善男博士の資料提供によると)。
荘園志『安房国』によると、
郡房荘(へぐりあは)
養和元年(一一八一)院廳下文に見えて、新熊野(いまくまの)社領なり、平郡二郡に瓦るを以て、かく云ふなり。
新熊野社文書曰、云々。養和元年十二月八日。
◯東鑑曰、建久六年(一一九五)七月廿四日、新熊野領安房国郡房荘領家年貢事、有去年末済之由訴出来、
◯相模大船村熊野別当多聞院文書曰、新熊野社領安房国郡房荘事、相伝領掌、不可有相違者、院宣如比、仍執達如件、貞和二年(一三四六)五月廿四日、権大納言、柳原資明。亮大僧都御房。
とある。またこの当時の安房国知行国主は、藤原経房が長寛2年(1164)2月28日より就任し、国司の安房守は藤原有経、藤原定長へと続いてゆく。清澄の属する安房国郡房荘は、天皇の護持僧・京都新(いま)熊野社領である。いわば天領と同じである。その別当寺(神宮寺)が大船村の真言宗多門院であり、多門院は虚空蔵信仰である。 
3、熊野信仰と清澄山 

 

清澄寺を含む平(へがり)郡、安房の二荘の領主が新熊野社(いまくまのしゃ)であり、別当寺が相模国大船村多聞院であれば、房州に熊野信仰が流入したのは当然であろう。清澄山の西方に鋸山がある。法相宗を学んだ行基により日本寺が開創されたと縁起にある。元来法相宗の僧は、護命や勝真、神叡の如く吉野の山寺へ求聞持法のため入山する者が多くいた。火砕岩層や凝灰角礫岩から成る鋸山は、長年の風水蝕で鋸歯のような奇形を呈し、断崖を作り絶好の山岳修行の場であった。第45代聖武天皇の代、光明皇后の発願(東方・薬師如来信仰)により、行基を東方に遣して霊山を求めさせた。行基は房総に至り三尊来迎の山姿を鋸山三領にみて、山領の中央を薬師の異名瑠璃光如来にちなんで瑠璃山とし、左右の山領を日輪山・月輪山と名づけ、薬師如来を安置し神亀2年(725)堂宇建立、日の本に象(かたど)って日本寺と名づけた。良弁僧正や空海が来山し、慈覚大師円仁は薬師如来、日光・月光・十二神将、十一面千手観音、仁王像を造った。日本寺は円仁の後天台宗となり、中世天正期に富浦正善院配下の修験寺となり、正保4年(1647)勅特賜普照禅師によって曹洞宗に改宗した。
関東の三大修験名山は、榛名山・筑波山・鹿野山である。房総における三修験霊場は、鹿野山・鋸山・清澄山である。特に鹿野山は熊野修験の東国布教の総本山である。神野寺背後の中岳は、熊野峰と呼ばれ、修験ゆかりの地名が多く残っている。「鹿野山八塚」には入定塚、火定塚、行人塚があり、金比羅祠や、天狗杉などがある。
真言宗の聖宝(832−909)は金峯山を開いて金剛蔵王を勧請し、醍醐三宝院を創し「当山派修験」と呼ばれ、真言山伏という。天台の増誉は寛治4年(1090)、白河法皇の熊野行幸の先達をつとめ、熊野三山の検校に補され、京都聖護院を建立し熊野三所権現を勧請し「本山派修験」の天台山伏といわれる。天台山伏は聖護院を本所とし、熊野より大峯に入り修行する。これを「順の峰入り」と称し、真言山伏は三宝院を本所とし、大峯より熊野に入り修行する。これを「逆の峰入り」と称す。
熊野三所(社)権現とは、左方=国常立尊――本地・金剛界大日如来。中央=彦火火出見(ひこほほでみ)尊――本地・虚空蔵菩薩。右方=国狭槌尊――本地・胎蔵界大日如来である。
彦火火出見尊は、日子番能邇邇芸(ひこほのににぎ)命と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)との間に生まれた神で、本名は火遠理(ほおり)命。一般的には山幸彦の通称である。山幸彦は兄の海幸彦の釣り針を持って海に出かけたが、一匹も釣れず、それどころか大事な針を海中に落としてしまった。海幸彦に責められた山幸彦は塩椎(しおつち)神のいう通り綿津見(わだつみ)神の宮に出かけ、ワダツミ神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ)と出合い結ばれる。山幸彦の釣り針の件を聞き、ワダツミ神は鯛の咽に引っかかった針を取り出して山幸彦に渡し、海幸彦に返す時の呪咀の言葉を教えて地上に帰した。山幸彦はワダツミ神の教示により海幸彦を苦しめ、ついに海幸彦は山幸彦の守護人と仕えることになった。古事記では九州隼人(はやと)族の朝廷への服従を山幸彦と海幸彦に凝して描写している。また日本書紀によれば、孫である神武天皇の諱(いみな)は「彦火火出見(ひこほほでみ)」である。初代天皇は象徴的に日子穂々手見(ひこほほでみ)命そのものであった。豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国の統治者としての日子番能邇邇芸命と神武天皇とをつなぐ重要な位置を占めている。
このように、彦火火出見尊(山幸彦)――初代天皇――本地虚空蔵菩薩――明星天子という真言・台密の熊野信仰の理解の上で日蓮聖人は、虚空蔵菩薩と接合した故に、「日本第一の智者となさしめ給え」というマクロ規模の「発願」となるのであろう。
また山岳修験がその本拠を吉野・金峰山におき、「金剛蔵王権現」を祀る。金剛蔵王権現という仏教に存在しない仏は、「埋蔵する金属を支配する王」の意味が真言の山岳修験にあったと考えられる。「金峰山」は鉱山である。修験道と金属は関係が深い。 
4、虚空蔵菩薩と鉱山神 

 

弘法大師空海の出自は佐伯氏の父と阿刀氏系の母との間に讃岐国(香川県)多度郡で生まれた。佐伯とは砂鉄掘りをする砂剥(さと)ぎ→サヘギの技術者で、常陸国風土記によると「香島郡に岩窟を掘って住み猟のようにすばしっこい、一般人とは全く違った生活をする一族佐伯がいた。これを大和朝廷軍の黒坂命が住居穴を茨をもって塞いだので彼等は穴に入れず討ち取られた。それが茨城の語源である」という。この敗戦で捕虜になった佐伯の人々は西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられた。母方の阿方氏は、中国華南地方から南九州に渡来したアタ族の系統ではないかと思われる。航海、幡織、金属精錬の技術に秀でていた。採鉱部族の佐伯氏と南の技術集団アタ族の家系から弘法大師は生まれたため、彼は真言僧のみならず、土木、採鉱、医薬の智識を持つ人間だった。空海が産鉄民であるとの伝承は、高野山開創のとき、大師をこの山へ導いた二匹の犬である。その犬は高野山の地主神,狩場明神の使いだったことから判る。狩場明神の毋は「丹生都毘売(にゅうづひめ)」という丹生=にゅう(水銀)を司る鉱山神である。
清澄寺を再建した中興の慈覚大師円仁は、下野国(栃木県)都賀郡の壬生(みぶ)氏の出自である。鬼怒川、姿川、黒川、思川の近くで採鉱する産鉄系の出自と思われる。桓武天皇より征夷大将軍となった坂上田村麻呂(797年)の蝦夷討伐のあと、仏教を布教する一団が東国に千手、十一面観音の観音信仰と鉱山神の虚空蔵菩薩、妙見尊信仰を広めるのである。その仏教集団には、数多くの「円仁」たちがいた。多くの天台僧は布教師兼産鉄民(山伏修験)だった。円仁が開創した山形県山寺(立石寺)には懸け造りの五大堂がある。土地を寄贈した老狩人・磐司伴三朗はこの地を支配する産鉄民の頭領だった。
坂上田村麻呂は観音信仰により、京都に懸け造りの音羽山清水寺を開創する(798年)本尊は十一面千手観音。清澄山系を源流とする夷隅川の千葉県夷隅郡鴨根にある板東三十三番札所の二十二番は、京都と同じく音羽山清水寺(天台宗)という。熊野権現の霊力により伝教大師はこの地に導かれ、十一面観音を祀り、坂上田村麻呂が開創する(807年)。のちに伝教大師の志を慈覚大師が継ぎ、当地に来て楠木の千手観音を刻み、庵に安置して帰京する。この夷隅川沿いの清水寺は川砂鉄採鉱の中心地であったと考えられる。慈覚大師が清澄寺再興のため来山したのは、ちょうどこの時期だろう。『岬町史』によると、夷隅川河口には砂鉄業の昭和砂鉄(株)太東工場が太東町和泉に昭和20年の終戦まで経営し、乾式選鉱機により砂鉄を採取、日産砂鉄10〜15トンであった。砂鉄の鉄分含有量はFE65で日本でも有数の優良砂鉄地帯として知られていた。従業員は40〜80名ほどである。昭和23年2月、前の昭和砂鉄(株)太東工場を継承して「太東工業株式会社」が設立され、湿式選鉱機により日産砂鉄15〜30トンであったが、昭和30年に至り、需要が減少し操業を中止したとある。
夷隅川流域の大多喜町古墳、大宮氏旧宅裏山古墳からは、半円方格帯神獣鏡が勾玉、鉄鏃、馬具片などと発見されている。
小湊と興津と勝浦とを三角に結んだ線の頂点に立つ、県指定上野村の大椎で知られた土地は、古新田・大森・赤羽根・中里・上植野である。夷隅川に注ぐ小河川が何本もあり肥沃な土地で、古来から房総開拓した天富命の忌部(いんべ)族(斉部)の本拠地ではないかと言われている。この地は清澄山の東方で、勝浦市植野を囲むように熊野社が五つある。同市の守谷の海岸では、現在日本冶金(株)が操業している。小湊、興津、勝浦の三港は、古代人が黒潮に乗って船で西より東上したとき、大平洋岸に船を接岸するには最も都合好い場所であり、清澄山の東側は古代文明の宝庫として今後の調査が期待される。(註12)
虚空蔵菩薩は梵語で「アーカーシャ・ガルバ」、アーカーシャは虚空と訳され、アーユルヴェーダ(インド医学)では雲毋を指す。密、酥、牛乳と共に症状に応じ服用する。虚空蔵求聞持法は雲母を用いて記憶力を伸ばす技法である。アーユルヴーダでは水銀と雲母は記憶力増強、不老長生の霊薬である。求聞持法は善無畏三蔵(637〜735、シュバカラジンハ)によってインドより唐代の中国へ請来された(玄宗帝・開元5年・717)。求聞持法は『出金剛頂経一切義成就品』の抄訳とされている。「一切義成就品」の内容は、地中に埋蔵されている財宝(伏蔵)の発見と取得に関係している。金剛頂経が伏蔵(金属・鉱物)の薬種の見つけ方を、求聞持法はその発見された薬種で霊薬を調整する方法を説くものとした。つまり求聞持法は、ヨガによる精神統一の修行と、牛酥・雲母を酸化剤として神薬製造の化学的操作の二面性がある。その神薬により記憶増進することは、アーユルヴェーダ(インド医学)のラサーヤナ(不老長生術)に符合する。(註13)
古代人にとって月と星は太陽信仰に先駆けて信仰されていた。月の「満ち欠け」は月日と生命の死と再生を意味していた。星は方角と季節の指標となった。夜空に煌めく星座は神秘を感じさせると共に、天変地災を司り、人間の運命を左右する。畏怖すべき神だった。日本の大和朝廷において天照太神の太陽信仰が中心になると、表の世界(太陽・常世=とこよ)が強調され、裏の夜世界(黄泉=よみ・夜見・闇)は敬遠排除されてくる。天照太神の弟神たる月読(つくよみ)命と須佐之男(すさのお)命は「食物神を殺す」神として農耕起源を説明する神話に排除追放される神として登場してくる。裏の闇世界(黄泉=よみ)を支配するのは星である。灯火の無かった原始古代、月の存在は昼間の太陽以上に有難く思われただろう。一方、夜空でもっとも明るく輝く「明星」(金星・虚空蔵)は、満ち欠けもし、「第二の月」であった。金星は「明けの明星・昼の明星・宵の明星」と一日三回出現し、白昼に現われることから、太陽の位置を奪う存在として、記紀神話では悪神・天津赤星(赤星=あかぼし→アマツミカボシ)と反王権の立場にされた。しかし、天照太神は昼の表世界から天の岩戸(夜の裏世界)に入り、再び出現した時、高天原と葦原中つ国に光が戻ったという。この事は、日神が星神と一如となり再生してきた事を示唆している。日神が星(北辰・妙見・太一、明星虚空蔵)と深き関係であることは、裏の世界(天の岩戸)で認識される秘儀なのである。伊勢神道の秘儀が妙見尊信仰であることは、近年明らかにされてきた。(註14)
古代人は、隕石落下の自然現象から天空の星は磁気を持つ金属であると知っていた。そこから鉱山神としての星信仰が生まれたのであろう。日本神代の神である磐裂(いわさけ)神は、日本書紀にあるとおり、イザナギ尊が香具土(かぐつち)を十握剣(とつかのつるぎ)で斬殺したとき、その血が天空に昇り五百箇磐石(いおついわむら)となったときに生まれた星神である。火神香具土が五百箇(いおつ)石を血で染めた神々のうち、最後の神が香取神社の祭神・経津主(ふつぬし)命である、(経津)とは物をふっつり切る意味で、国土平定に使用した太刀の神格化した名である。つまり金属である。星と金属の結合である。各地の磐裂(いわさけ)神社、星宮神社は祭神を磐裂、根裂神としながらも、本地は虚空蔵菩薩とする所が多い。日光〜石裂山〜大平山ラインには虚空蔵を本地とする神社が多い。東海村村松の虚空蔵も一時星宮神社と称した。足尾銅山には別所の妙見社(今の磐裂神社)があり、北斗七星の破軍星を『北斗延命経』は本地を東方薬師瑠璃仏とし、「真言」では本地虚空蔵菩薩とすることが、「岡崎妙見本縁」に説かれている。ここに妙見――虚空蔵――明星の星信仰の一体化が窺える。鉱山のある所が聖山であり、そこには虚空蔵・妙見尊が宿り、鉱物は星から養分を与えられ育成され、星神の神託により鉱山が開拓されたのである。戦国大名が大規模に鉱山採掘する以前は、山岳修験者の開発する所であった。鉱山と虚空蔵信仰は明瞭に結びついている。若尾五雄氏の「鉱山と信仰」は次の如く紹介している。
虚空蔵山 (佐賀県藤津郡嬉野町丹生川) 水銀・銀を産する波佐見鉱山
虚空蔵尊  冠嶽(鹿児島県串木野市)   金・黄鉄鉱・輝銀鉱の芹ヶ野金山
虚空蔵山 (広島県浅口郡里庄町大原)     銅山、近くに金山集落あり
虚空蔵尊 (高知県室戸市最御崎寺)    金鉱、宝加勝・東川・大西・奈半利鉱山
虚空蔵山 (高知県高岡郡佐川町斗賀野)  鉢ヶ嶺、マンガン鉱その他
虚空蔵尊 (徳島県名西郡神山町下分焼山寺) 含銅黄鉄鉱
虚空蔵尊 (徳島県阿南市加茂町大龍寺)  水銀鉱
虚空蔵尊 (岐阜県大垣市赤坂明星輪寺)  金生山、金・銀・銅・水銀
虚空蔵尊 (三重県伊勢市朝熊山金剛証寺) 銅・クロム・コバルト・ニッケル・鉄を含むカンラン石・ハンレイ岩からなる                   
虚空蔵尊 (岐阜県武儀郡高賀山)      銅山・マンガン
虚空蔵山 (新潟県北蒲原郡安田町)     鉄鉱(砂鉄)
虚空蔵宮 (栃木県下都賀郡金井町金井神社) 金の出る井戸の伝えから小金井郷と称す
虚空蔵尊 (福島県河沼郡柳津村円蔵寺)  銅山、銀山川が流れる、軽井沢銀山
虚空蔵山 (宮城県伊具郡丸森町大張大蔵) 山麓に金山集落がある
虚空蔵尊 (山形県南陽市小滝白鷹山)    吉野鉱山、硫化鉄、亜鉛・銅・重昌石
虚空蔵尊 (岩手県気仙郡住田町五葉山西宮) 金山、平泉金色堂の黄金の産地とされる
虚空蔵尊 (青森県百沢村百沢寺)      鉄鉱
修験者は鉱脈の存在有無を雲毋、丹生(にゅう)などで察知したのだろう。虚空蔵菩薩の所持する「如意宝珠」は雲毋、水銀に擬せられる。

(12)石井則考著『古代房総文化の謎』参照
(13)佐野賢治著『虚空蔵菩薩信仰の研究』参照
(14)吉野裕子著『隠された神々』参照 
5、清澄、小湊、夷隅、君津の採鉱地名 

 

安房、上総には多くの産鉄地名が残っている。
(1) 小湊町――砂田、須賀神社、引土、浅間神社。
(2) 御宿町――須賀、浅間神社。
(3) 夷隅町――須賀谷、百鉾、音羽山清水寺、熊野神社、出雲神社、引土。
(4) 勝浦市――丹生神社、熊野神社五ヶ所、守谷に日本冶金(株)あり。
(5) 館山市・木更津市――長須賀。
(6) 鴨川市――男金神社、(天御中主命=妙見尊)金束。
(7) 富浦町南無谷――丹生の地名。
(8) 君津市――久留里。鹿野山。
(9) 長生村――金田、熊野社。
(10)白子町――剃金。
(11)長柄町――針ヶ谷、金谷。
(12)富津市――笹毛、浜金谷。
(13)鋸南町――鋸南そのものが鉄に関係。
(14)千倉町――朝夷(あさひな)は俘囚産鉄民の居住地。
(15)富山町――産鉄族の金工神・天富命の地名。
(16)平群(へぐり)郡に溶鉱炉を示す「多々良(たたら)荘」あり。
(1)、(3)、(5)の「須賀(スガ)」とは、鉄の別称。須佐之男(すさのお)命が高天ヶ原を追放されて出雲国肥の川に天下り、この地の国っ神の乞いを容れて八岐(やまた)の大蛇(おろち―先住の産鉄豪族)を打倒し、稲田毘売(ひめ)を妃とし「須賀宮」を造る。この地は清田(せりた)の古代製鉄所の近くの場所である。神奈川県の横須賀、龍口寺近くに浜須賀がある。「引土」とは砂鉄を採る砂取りである。(8)の久留里(くるり)は清澄山の裏側の小櫃川沿いの地名。久留とは製鉄ルートの発生地の一つアラビア語源(クウル)・溶鉱炉の意。陸奥国の俘囚鍛冶場の多くは「久留」の名がつく。朝鮮語クル()は鉄製の器を意味し、高句麗には久留の地名が多くある。養老川河口には宮地鉄工所、三井造船がある。現在、小櫃川河口近くに新日本製鉄君津工場、日本金属がある。(8)鹿野山の「鹿」は、日本古代製鉄史において「鹿」が出たら「鉄」と理解するのは常識とされている。タタラ炉の火力は鹿皮のフイゴが最良とされていた。産鉄発生のペルシャ語で(スカァ=牡の鹿)が日本語のシカ(鹿)に転じたと考えられる。「冶金」をアラビア語で、ペルシャ語でと言うのが、日本語の探鉱が狩猟に転ずる「またぎ」、が日本語の鉄をいう金(かね)に転じたと考えられる。(註15)
「香島の大神」が藤原氏によって「鹿島神宮」に替字させられるのも製鉄が絡んでいる。製鉄技術はトルコ半島のヒッタイ帝国が亡んで、秘密にされていた技術が紀元前1200年以降、世界中へ拡まり、製鉄用語がのちに日本に流入したのだろう。(14)の朝夷(あさひな)は、大和朝廷の捕虜となった蝦夷の俘囚(ふしゅう)産鉄民の居住地・別所をいう。『和名抄』の駿河国益津(やきず)郡(焼津)の朝夷郷に蝦夷が居住しており、遠江国城飼(きこう)郡にも朝夷郷がある。今の掛川市辺りで、城飼とは城養の意味。俘囚を柵の中に養い置くことをいう。朝比奈(あさひな)の地名は今も御前崎近くに残っており、近くの小笠町には虚空蔵尊が祀られており、西方の隣町は、鉄を表わす大須賀町がある。小湊に流罪される前の遠州貫名家の領地の太平洋側である。安房国に朝夷郡があり、駿河国益頭部の朝夷郷にも蝦夷が住み、近接して志太郡がある。常陸国の信太郡に朝夷(あさひな)郷(新利根村根本)がある。安房国朝夷郷は和田町辺りで和田町小向に俘囚の〈別所〉がある。常陸国信太郡朝夷郷の根本の西方には竜ヶ崎市〈別所〉がある。(9)の金田は、字の如く鉄を吹く所である。上総一宮・玉前(たまさき)神社近くの南宮社は鉱山神・金山彦(かなやまひこ)を祀る。社伝によると金田郷開発のため、美濃国タタラ師穂積氏が移住して南宮社を勧請したもの。穂積は「火津見(ほつみ)」でタタラ炉の火を扱う産鉄民である。全国に三千ある南宮社は刀鍛冶(かじ)、包丁職に信仰されている。九十九里や夷隅川など房総の豊富な砂鉄を求めてタタラ師が美濃国から移住してきたのである。(註16)

(15)榎本出雲・近江雅和著『古代は生きている』参照
(16)柴田弘武著『鉄と俘囚の古代史』参照 
6、鉄を意味する語 

 

(1)笹――大坂今宮えびすの笹、清澄寺「凡皿の笹」お酉さま熊手の笹。
(2)麻(サ)・佐――清澄山の麻綿原、佐野。
(3)生姜(しょうが)・山叔(ハジカミ)――二宮神社祭。
(4)稲――稲村ヶ崎、稲荷は「鋳成り(いなり)」。
(5)鴨――製鉄の窯が鴨になる(鴨川)。鴨川市貝渚に鴨川鉱山が大正9年まで営業。
(6)麻(アサ)・足・浅――足尾銅山、富士浅間神社、清澄の浅綿原、紀州朝熊(あさま)山金剛証寺。
(7)金剛――千光山金剛宝院清澄寺。
(8)丹生(にゅう)――夷隅川は産鉄地、丹生(水銀・朱)、砂鉄が採れる。
(1)の笹は、今宮えびすの笹は金(かね)を表わし、浅草お酉(とり)神の本地は北辰妙見菩薩(鉱山神)で、その性の鉱物を竹の熊手で表し、熊手の中に必ず笹が飾られている。清澄寺には日蓮聖人が虚空蔵祈願したとき吐血した「凡皿の笹」がある。これは清澄山そのものが鉱山であることを表している。民謡「会津磐梯山」は、
   会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金(こがね)のまたなりさがる
と歌っている。「宝」とは黄金(こがね)であり、笹の砂鉄である。磐梯山は産鉄地であり、周囲に金山、金堀、金田、金山、金道、福良などの地名が残っている。その隣の安達太良(あだたら)山はタタラ山(鉱炉)で、鉄そのもののくろがね鉱泉がある。
(2)麻・佐(サ)の麻の字は金属から読めば古代朝鮮語の鉄を示すサ、またはソ()であると吉野裕氏らは指摘している。清澄の麻綿原は麻の原産地と共に砂鉄産地の原であったと考えられる。香川県、徳島県の大麻(おおさ)山からは銅鐸が出土している。栃木県渡瀬川近くの佐野の(サ)は砂鉄(サナ)の変化であり、佐野は天明(てんみょう)釜の鋳物の産地であり、勝浦市松野の長勝寺(日持上人開基)の隣町が佐野である。佐倉市、信州佐久も産鉄地名であり、サノがオノに転じて小野(小野田セメント)になる。
(3)生姜・山叔(ハジカミ)は「スズ鉄」の象徴で、水辺のアシ、笹、生姜の根に水酸化鉄が析出して付着する。(真弓常忠著『古代の鉄と神々』)妙見菩薩の採りものが生姜とされている。東京・あきる野市の二宮神社「生姜祭り」は有名である。
(7)清澄寺の山号は千光山、鉱山神の一つ千手観音より由来する。千手観音を千光仏ともいう。院号は金剛宝院。金剛とは金剛薩(バジュラ・サットバ)、ダイヤモンドのように堅くて不変の金属をいう。空海は梵・漢両語に通じ、金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を構成して独自の神仏習合の世界を作った。採鉱冶金の神仏を金剛界に入れ、その他一切の神仏を胎蔵界に入れ、両界の頂上に本地仏・大日如来を据え、その垂迹を天御中主(あめのみなかぬし)命とした。 
7、清澄山は産鉄地の信仰拠点 

 

寛政5年10月(1793)の清澄山名所附九十二ヶ所の記録が残っている。(註17)
壱 番  名所獅子岩
二 番  仏供谷
三 番  扇キ間
四 番  佐比谷
五 番  大べら
六 番  慶□□(虫損)
七 番  う坪沢
八 番  遠矢ヶ台 東西江拾六間 南北江四拾五間
九 番  船ヶ沢
拾 番  硯石 但し近江山頂
拾一番  物見山 但し木爪沢と云
拾二番  瀧之上
拾三番  児子ヶ瀧
拾四番  観音之瀧
拾五番  □□(虫損)
拾六番  □□(虫損)
拾七番  上武者所
拾八番  鍛冶風尾
拾九番  鍛冶屋坂
二拾番  大久保ミ之尾
二拾一番 求聞持尾先
二拾二番 赤井尻
廿三番  金剛山尾先
廿四番  方丈沢
廿五番  [ ](虫損)
廿六番  小岩戸尾
廿七番  樽□(虫損)
廿八番  鳥帷(ママ)子峰
廿九番  但し下野森と云 下のさいと□(虫損)
三拾番  上のつけ森
三拾一番 一ノ台
三拾二番 二ノ台
三拾三番 丸山の尾先
三拾四番 一盃水□尾(虫損)
三拾五番 [ ](虫損)
三拾六番 [ ](虫損)
三拾七番 丸山の[ ](虫損)
三拾八番 山番所之□(虫損)
三拾九番 但し俗ニ次式 □□□伝 一盃水
四拾番  小屋場 
四拾一番 高天原
四拾二番 桜ヶ尾
四拾三番 道陸神ノ尾
四拾四番 久留里領江続地 道陸神番所
四拾五番 [ ](虫損)
四拾六番 [ ](虫損)
四拾七番 上宿戸
四拾八番 上宿戸尾
四拾九番 中の尾
五拾番  金剛山尾
五拾一番 金剛山
五拾二番 金剛石
五拾三番 妙見山
五拾四番 □(虫損)経堂
五拾五番 [ ](虫損)
五拾六番 [ ](虫損)
五拾七番 輪蔵□(虫損)
五拾八番 摩尼山
五拾九番 如意山
六拾ばん 求聞持堂
六拾一番 赤井□(虫損)
六拾二番 露地山
六拾三番 地蔵
六拾四番 □□(虫損)堂
六拾五番 [ ](虫損)
六拾六番 [ ](虫損)
六拾七番 船ヶ沢
六拾八番 白幡八幡宮
六拾九番 近江山 清澄領但し 久留里□三又 長狭郡□□辻
七拾番  日の森
七拾一番 □(山カ)神
七拾二番 独古山
七拾三番 地蔵堂
七拾四番 独古山尾先
七拾五番 観[ ](虫損)
七拾六番 白[ ](虫損)
七拾七番 地蔵堂谷
七拾八番 八色石
七拾九番 袋峰
八拾ばん 千本杉
八拾一番 冨士見所
八拾二番 赤坂地蔵
八拾三番 一本杉
八拾四番 弓立石
八拾五番 越[ ](虫損)
八拾六番 地蔵[ ](虫損)
八拾七番 本八色石
八拾八番 音無神
八拾九番 地蔵
九拾ばん 向峰
九拾一番 前峰
九拾二番 豆腐ヶ台
清澄山名所附九十二番のうち、4、10、18、19、21、23、50、51、52、53、58、59、60、62、72、78、が産鉄地名に関係している。
山岳修験道の法具として金剛杵(しょ)は独鈷杵(どっこしょ)とも言い、単なる仏具でなく武器であり、採鉱用のツルハシであった。「独鈷杵、金剛杵」が、のちに「ドッコイショ、コラショ」の掛け声になった。錫杖(しゃくじょう)の鳴輪は岩石を突くとき、音声のちがいにより鉱脈を探る検査器でもあった。
清澄山の下に広がる鴨川海岸の嶺岡山地の心厳寺辺りは、角閃石と斜長石で作られ、少量の黒雲毋と石英及びチタン鉄鉱を含み、弁天島の斑糲岩と粗粒玄武岩には、斜長石・輝石・角閃石が富み、その中に鉄、マグネシュウムを含んでいる。鴨川の貝渚字八岡に銅鉱脈が明治25年に発見され、大正9年まで操業した鴨川鉱山があった。(註18)また清澄山系を水源とする夷隅川流域には水銀が採れた。昭和45年大原町の土屋門次郎家で古代の多量の朱塊が発見された。丹生(にゅう)は朱で硫化水銀である。それは縄文土器いらい、塗料や染料に親しまれたばかりか、銅鏡の光沢面の磨研に使われ、あるいは石棺の充填物として、また薬用として用いられ、アマルガムを利用して鍍金(めっき)したり、黄金を精錬した。勝浦市芳賀に丹生神社がある。初期日本の金属冶金は鉄、銅でなく水銀だった。硫化水銀の蒸気が固まったものが水銀鉱床である。朱は単に生活に利用されただけでなく、当事の呪術的悪霊を鎮める御霊(みたま)信仰の対象として考えられていた。神武天皇の熊野より大和へ入るルートはみんな水銀採りの跡だった。中国では鉄という漢字が「鉄・銕・鐡・鐵」をはじめ多種ある。漢以前では鉄を意味する言葉も、「丹青・丹粟・丹沙・赭(しゃ)」がある。丹生は鉄と水銀を意味するようになる。虚空蔵の梵語、アーカーシャ・ガルバのアーカーシャはインド医学(アーユルベーダー)で雲毋を指し、雲毋・水銀が虚空蔵の「如意宝珠」に擬せられる。虚空蔵求聞持法を修し、雲毋・水銀などの重要鉱物を探し求めることが「智恵の宝珠」で、山岳修験の錬丹・錬金秘法であった。その重要拠点が清澄寺のシンボル虚空蔵と妙見尊である。産鉄技術の発生地のペルシャ語で宝珠たる「智恵」を「ホシ」と言う。日本語の「星」はペルシャ語からきた言葉なのであろうか。

(17)『天津小湊町史・史料集』 505頁
(18)『千葉県 地学のガイド』、『千葉県安房郡誌』 
8、妙見菩薩と日蓮聖人 

 

妙見菩薩は北極星を神格化したもので、「妙(たえ)に見(あら)わす」という。常に北極を指し、旅する人々の道しるべとなった北極星は、唯一不動の星として、天の中枢・天を支配する天帝(太一)として崇敬されるようになった。北辰とは具体的には北極星を含む北極五星と四輔四星からなり、これらを紫微垣(しびえん)とも紫微宮ともいう。地上においては天子の居所を指し、内裏の中心建物を紫宸殿と名付けている。北極五星は横一列に並び、北極・後宮・庶子・帝・太子と名付けられ、この極星を囲むように四輔(四弼)の四星が配置している。北斗七星は北極星を規則正しく巡り、つねに北極を指す星座である。伊勢神道は北斗の柄杓(ひしゃく)形(魁=かけ)は食物を太一・天帝(天照太神)へ運ぶ食物神、或は車の形から天帝の乗物と考え、豊受大神が丹波の竹野の里から勧請され、外宮に奉斉した。天照太神への神饌は、人間が直接供えても届かず、北斗の豊受大神を通さなければ太一・北極星の天照太神に届かない。北斗七星は1時間に15度ずつ動き一昼夜で北極星を一循し、一年で柄杓(ひしゃく)の柄は十二方位を示す「天の大時計」である。夏冬の陰陽と四季の推移、二十四季節の農耕基準を示す生活暦である。
天智、天武天皇(668〜686)は、白村江の戦い(663)で日本連合軍として敗れた百済からの学者、文人の亡命者より陰陽五行思想を受容し、(1)太極(太一)は子(ね)にあり、北極星は天の中央にある不動星で天皇大帝である。(2)子(ね)は月に宛てれば冬至を含む旧十一で、陰が極って「一陽来復の象」。午は夏至を含む旧5月で陽が極って「一陰萌す象」。つまり子→午は無から有への軌(みち)。午→子は有から無への軌(みち)。万象は子と午の軌道に乗ってはじめて、輪廻転生の永遠性が生まれる。太一の一元から陰陽の二極(二元)が派生し、対立する陰陽は、対立する故に互いに交感し五原素(木火土金水)を生み、この五気は循環輪廻し万物に永遠の生命を与える。この循環軸は、日本古代信仰の横の東西軸を、縦の子午軸(南北軸)へ変えた渡来の百済人の思想である。(註19)神道の宇宙観に天上の神々がいる高天原(たかまがはら)がある。この宇宙に最初に現れた神が天御中主(あまのみなかぬし)神で、宇宙の中心の神である。初代御中主神のあと何代にわたって人類は生活し、国土形成の時(住居建設の発明)の神が国常立(くにとこだち)神である。天神(あまかみ)の初代国常立神の親たる天御中主神は、宇宙最初の出現神として北極星になぞられる。国土形成神の国常立神の八人の子供は、北極星を取り巻く八星に当てられる。北斗七星(柄杓の注ぎ口の方から、貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍の名がつけられ、更に武曲の傍らに輔星が加えられる)と輔星である。親星の北極星と子の八星を合わせての九星を、天皇即位の大嘗祭にユキノ宮(悠紀)に祀る。大嘗(おおなめえ)祭は寒い冬至の近い日に行う。その理由は、北極星に御中主、国常立を立てたため、冬至日は地球が最も北に位置し、北極星に一番近づくためである。太一天帝の北極星と即位する天皇との距離が一番近づくのである。ここに北辰たる妙見尊を天御中主神と同一視する神道的解釈が成立する。
下総・香取郡
東庄町石出    星宮神社(天御中主・八また彦・八また姫)
同 町栗野     星宮神社(天御中主・大田姫)
小見         星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同           星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町下飯田   星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町小見川   星宮神社(日本武尊)=妙剣大神
同 町下小川   星宮神社(須佐之男命)=妙剣大神
山田町神生    星宮神社(天御中主・日本根子星・統野照尊)
同 町府馬     星勝神社(天御中主)
佐原市鴇崎    星宮神社(天御中主・菅原道真)
同 市多田     妙見神社(天御中主)
同 市鳥羽     星宮神社(天御中主)
大栄町久井橋   星宮神社(天御中主)
同 町中野     星宮神社(天御中主)
同 町奈土     磐裂神社(磐裂・天手力男・木花開耶姫)
下総町成井    星宮神社(天御中主)
同 町大和田   星宮神社(天御中主)
同 町高倉    北辰神社(天御中主)
多古町喜多    妙見堂(天御中主)
同 町一鍬田   妙見堂(天御中主)
同 町桧木     妙見堂(天御中主)
同 町川島     妙見堂(天御中主)
同 町北中     妙見社(天御中主)
同 町北中     妙見社(天御中主)
同 町南中     妙見社(天御中主)
同 町同南玉造  妙見社(天御中主)
同 町       天御中主神社が二社ある
日本の星神信仰で、皇室の先祖神たる天御中主(あまのみなかぬし)神を北極星(北辰妙見尊)=太一とし、更に天照太神を太一にする両者の習合は、伊勢内宮の秘事中の秘事、口伝であり、一切記録に残さなかった。妙見信仰は天皇に許された信仰であり、妙見信仰の庶民性は虚空蔵信仰(明星天子)となって発展する。北極星と金星(明星)は違う星であるが、庶民信仰のレベルでは、両者とも星信仰で同一視されてくる。
日蓮聖人が立教開宗前に伊勢の天台宗常明寺に参籠し、「誓願の井」で身を浄め伊勢太廟に百日参拝、「三大誓願」で奏上したとの伝承に岡崎宮妙見堂がある。長く妙見菩薩が安置され(正安3年=1301年記の像が現存し、現在読売ランドに祀られている)ていた。常明寺は伊勢外宮(豊受皇太神)の祭式一切をとりしきる渡会(わたらい)氏の氏寺である。安房国天津の神明社を日蓮聖人は「今は日本第一の御廚(みくりや)なり」『聖人御難事』と述べる。その当時の神官は渡会一族の會賀(あおか)小太夫(渡会光倫)であった。「あおか→おかの」と転じて「岡野」となり、現在の神官・岡野氏へと続いている。一族の同族祭祀である「山宮祭」は単に祖霊祭祀にとどまらぬ、北斗妙見菩薩を中心とする星神信仰であった。『高庫蔵(たかくら)秘抄』には山宮祭の発祥を次の如く述べている。
『貞観元年(八五九)、渡会氏の遠祖・大内人高主の娘で大物忌の少女が御贄河(豊川)で水死した。遺体を探したが見つからず、代わりに妙見星の童形の像を得たので、尾上の御陵の聖地に安置し、岡崎宮として祀った。その翌年から高主には三年続けて双子の男子が誕生した。その六男春彦が三十歳の時、妙見菩薩の霊託を受けて、氏人を率いて清浄の山谷で妙見菩薩や日光月光、孔雀王や八神を祀ったのが、山宮祭の始まりである。』
現在の『高庫蔵(たかくら)秘抄』は永保2年2月8日(1082)常明寺別当性順が書写したものである。この秘抄に収まる「岡崎宮妙見本縁」に由ると、妙見尊は「名日軸星。所居之宮殿名之日紫微宮。軸星者国王也。故名之日一字金輪也。諸星主也。」といい。北斗七星は「一天皆是毘盧舎那普門一身也。或七仏薬師一体分身也。七仏分身顕七星辰。」と言う。
      (『北斗延命経』説)  (真言説)
◯貪狼星 東方最勝世界運意通証仏 東方大白衣観音、千手観音
◯巨門星 東方妙宝世界光音自在仏 寅方馬頭観音
◯禄存星 東方円満世界金色成就仏 丑方不空羂索観音
◯廉貞星 東方浄住世界広運智弁仏 子方水面観音 又深沙大王
◯武曲星 東方法意世界法界遊戯仏 亥方阿力迦観音
◯文曲星 東方無憂世界最勝吉祥仏 戌方十一面観音
◯破軍星 東方瑠璃世界薬師瑠璃仏 頂上虚空中間虚空蔵尊
秘抄に収まる「妙見秘記」には、
『軸星諸星頂輪王…一字金輪…御本地仏眼仏毋如来也。…出阿字本覚都、住真如実相満月輪。亦一字金輪住一切衆生心月輪。転成尊星王。…変成妙見菩薩。顕昼日天子。顕夜月天子。比日月和合顕明星天子。』
妙見星は紫微宮に居住し、不動の星で諸星の中心たる「軸星」であり、「諸星の王」である。ゆえに「一字金輪(きんりん)」であると説く。北辰を一字金輪(きんりん)とするのは、陰陽道の本命星思想と関係する。生年月日によって北斗七星の一つを本命星とした本命星供が盛んになり、天皇の本命星は北辰で仏智の最尊である「一字金輪(きんりん)仏頂」と考えられた。また妙見は日天子・月天子・明星天子の三光天子であると説く。一字金輪とは、仏頂尊の一。種字ブルーン(一般的にはボロン)の一字を神格化したもので、世界統一の聖主たる転輪聖王の中で金輪王(こんりんのう)が最高であるとする。結跏趺坐して法界(ほっかい)定印を結ぶその上に金輪をおく「釈迦金輪」と、日輪中に五智宝冠をつけ智拳(ちけん)印を結ぶ金剛界「大日金輪」の二種がある。
一字金輪 / 方形の星曼荼羅 / 円形の星曼荼羅 / 妙見曼荼羅 / 抱朴子にある除災の符(黒点は星を示す)
このように北辰尊星信仰が日本へ渡来する経緯は、欽明帝の538年、百済聖明王が日本に仏教伝来し、推古帝602年、百済僧観勒により暦本、天文地理書が献上され、辛未の611年聖明王の第三子琳聖太子が肥後国八代郡白木山神宮寺に、七星と諸星を画き、下に道教の奇妙な文字を記した七十二霊符をもたらしたことに始まる。
紫微宮に居住する妙見菩薩は、帝王を守護する。帝王が仁政により天下を平和に治めるならば、妙見は諸星と共に国土を守り災害を除き悪人をしりぞける。宮中を中心に妙見信仰が如何に篤かったか想像できる。
前述の如く、北辰の妙見菩薩は軸星であり一字金輪、三光天子(日・月・明星)である。やがて一字金輪仏頂は七宝を具すことから、北斗七星に擬せられ、北辰と北斗七星が一体と理解され、北斗七星の本地は七仏薬師とされ、千葉氏の妙見信仰は、軍神たる北斗の「浄瑠璃世界主薬師如来」の破軍星である。その破軍星を真言密教では『類秘抄』や『平等房次第』に「虚空蔵尊」を本地と見たのである。妙見尊と虚空蔵(明星)の「一体二身」である。日蓮聖人が清澄寺で祈願した摩尼殿の虚空蔵尊の真裏の頂上が、妙見山であり、現在も小湊の漁民が篤く信仰する「妙見尊」が祀られ「一体二身」を表している。また『源平闘諍録』巻五の「妙見菩薩之本地事」には妙見は自ら「吾ハ是十一面観音之垂迹五星ノ中ニハ北辰三光天子ノ後身也。」と告げている。奈良朝の貴族達は、天平勝宝元年頃(749)、皇后宮職を改めて置かれた令外官司の紫微中台での観音信仰、特に十一面悔過所が注目される。天平勝宝7年『経疏出納帳』に
陀羅尼集経一部十二巻
右、依次官佐伯宿弥判官石川朝臣天平勝宝五年二月一日宣、奉請紫微中台十台十一面悔過所。
とあり、当所の十一面悔過所は東大寺内でなく、内裏の紫微中台にあったと推定された。紫微中台にあった十一面悔過所は北辰と十一面観音の関わりを示している。悔過とは、罪過を懺悔し、罪報、災禍を除く修法である。東大寺二月堂の十一面観音悔過、お水取りがある。
のちに天台宗において『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説く。日吉三聖とは、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社の神を言うが、三光天子は天台教義の中で山王信仰と結びついている。七仏薬師と十一面観音を普及させたのは、慈覚大師円仁と坂上田村麻呂である。七仏薬師は病気と怨霊の祟りを鎮めると信じられ、天平7年(745)聖武天皇が重病の時、奈良の新薬師寺の本尊に七仏薬師が造立され、全国に造営中の国分寺では、本尊釈迦如来から薬師仏に変更されていった。七仏薬師法を始めた慈覚大師円仁は、下野国都賀郡で生まれ大慈寺の広智に入門し天台思想を学び、経蔵に入り『観音経』を得て観音信仰を感得した。円仁は観音と薬師信仰に篤く、円仁の東国教化により房総、香取、鹿島に十一面観音と薬師信仰が東国武士に広がっていった。奈良朝以前から常陸、上総、下総、上野、下野の五ヶ国は中臣(なかとみ)すなわち藤原氏が蝦夷を征服しながら領土を広げ、鹿島神宮に建御雷(たけみかづち)命を祀って氏神としていた。僧聖冏の『破邪顕正義』の「鹿島大名神御本地之事」には
『本地観音 常在補陀落 為度衆生故 示現大名神…三尊観音造玉フ。其内一體今神宮寺本尊十一面是也』
鹿島大明神の本地仏は十一面観音となっている。佐原市荘厳寺の十一面観音は、香取神社の神宮寺の本尊であったと伝える。九条兼実の『玉葉』建久5年(1194)7月8日の条に
第一は鹿島、本地は不空羂索観音
第二は香取、本地は薬師如来
第三は平岡、本地は地蔵菩薩
第四は伊勢内宮、本地は十一面観音
第五は若宮、本地は十一面観音
とある。
薬師如来は日月の象徴たる日光菩薩・月光菩薩を脇侍とし、現実的災難を救済する功徳は、法華経の「観世音菩薩普門品」の諸難救済と共通項が多い。(註20)

(19)吉野裕子著『隠された神々』参照
(20)宮原さつき『千葉妙見の本地をめぐって』 
9、宗祖の養育の小湊西蓮寺伝承と別所について 

 

安房国小湊は日蓮聖人誕生の地である。清澄寺と同じ天台寺院は、宗祖在世当時、丸山町の石堂寺、天津の二間寺、小湊の西蓮寺である。信仰熱心な貫名重忠公と毋梅菊は、寺院僧侶の教化を受けた筈である。当然身近な小湊西蓮寺に参詣しただろう。西蓮寺は清澄寺と同じ慈覚大師の開基で天安2年(858)に創建された。本尊は薬師如来。山号は東光山、院号は地福院。上総国夷隅郡山田村星応寺の末寺である。西蓮寺第21世が道善房であり、貫名重忠公が遠州より流され小湊の浜に着きしとき、滝口三郎左衛門(兵庫朝家・小湊代官)が援助し、宗祖降誕後、善日麿(日蓮)を三郎左衛門の娘「雪女」が乳母として宗祖12歳まで養育したとの伝承がある。薬師堂裏に山王権現社があった。日蓮聖人の乳母「雪女」の墓は現存している。歴代住職は宗祖降誕会に誕生寺楓経席に現在も着座している。寺伝によると、道善房が清澄寺諸仏堂の房主として昇るとき、善日麿を修学のため登山させたとある。そのとき西蓮寺の本尊「薬師如来」と「山王権現」の名を戴き、「薬王丸」と改称したと言われる。
俘囚(ふしゅう)研究家の菊地山哉氏は、大和朝廷の東征に抵抗した先住民または蝦夷系住民が捕虜となった居住地が〈俘囚の別所〉と言う。その別所の特徴として、東光寺、薬師堂、本地仏十一面観音の堂社(白山神社など)を祀り、慈覚大師円仁の伝承があると言う。まさしく小湊西蓮寺は、山号が東光山、院号は産鉄が豊富とする地福院で、本尊は薬師如来、山王権現は天台教義において「三光天子の垂迹」であった。そして仏教無縁の東国に観音、薬師信仰を広め、非仏教系産鉄民等の先住民を教化した慈覚大師円仁が開基である。西蓮寺こそ安房国別所の重要拠点であったと考えられる。この先住民たちこそが日蓮聖人の言われる「旃陀羅」と考えられる。つまり産鉄系ワダツミ漁民・春夏は漁採(すなどり)し、秋冬は浜砂鉄などの漁採(すなどり)する漁民である。宗祖がその西蓮寺で養育されたことは、別所の管理者側に宗祖の両親は関係していたと見るべきだろう。 
10、金輪聖王と妙見思想 

 

日本の星神信仰の原始修験は、道教の錬金術と仏教の須称山思想から発して、修験道場のある所は鉱物産出の山々であった。鉱山における妙見尊と虚空蔵は、星神信仰という共通性から同一視する思想背景が生まれてきた。天照太神の先祖神たる天つ神、造化三神の天御中主(あまのみなかぬし)命が北極星に配され、天御中主――妙見尊――虚空蔵――明星天子の同体化思想が形成されてくる。天台比叡山と日吉社の山王神道から生まれた思想と考えられる。道教的には妙見尊、仏教的には虚空蔵尊という関係である。
また、妙見尊と一字金輪(きんりん)の関係がある。金輪王とはインドにおける理想的帝王・転輪聖王の最高位をいう。輪とは政治的統治の権力、権威を象徴し、正法をもって世を治める。四洲全部を統一するものを金輪王とする。
北極星――軸星―― 一字金輪――妙見尊――天帝の関係である。
更に日蓮聖人は、その理想的帝王を『守護国家論』・『立正安国論』などにおいて具体的仏法の守護者として「有徳王と覚徳比丘」に擬して述べる。有徳王は『大般涅槃経』金剛身品に説かれる釈尊の本生の一つである。正法を弘通する覚徳比丘を守って殉教した国王である。宗祖は『守護国家論』に「在家の諸人正法を護持するを以て生死を離る」の段に、『立正安国論』では「謗法者対治」の段に涅槃経「有徳王と覚徳比丘」の経文を引用する。「今の釈迦仏の本生は有徳王、迦葉仏の本地は覚徳比丘」と四条金吾殿御返事に示す。(註21)また『有徳王・覚徳比丘の其乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申シ下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋て、戒壇を建立すべきか』の、日蓮聖人の帝王思想が戒壇論と結合してゆくのである。帝王たる賢王と対峙するのが不軽菩薩である。『此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成て愚王を誡責し、摂受を行スル時ハ僧と成て正法を弘持す。(註22)』の、観心本尊抄の弘経予言となるのである。
    /折伏(愚王誡責)――賢王――有徳王
本化菩薩
    \摂受(正法護持)――僧――覚徳比丘
日蓮聖人の虚空蔵菩薩・妙見尊信仰は、立教開宗前の清澄修学期より始まり、一宗建立の法華至上主義の信仰確立後も、宗祖の思想形成に大きな影響を与えている。法難と守護神の関係、法華弘教と帝王思想、戒壇論の関係などである。
『本化別頭仏祖統紀』には、建長年間に宗祖が伊勢間の山(あいのやま)常明寺(天台宗・現在ハ日蓮宗)に一百日沐浴参篭し、満願の日に「皇大神の宝殿中に於て獅子の座に坐し玉ひ……本門の大法正しく宣示顕説の時なり。高祖ただ頭を低れるのみ……高祖常明寺に退き神恩を謝す。(中略)時に妙見大菩薩の示現あり。光明顕奕、最明最勝にして威容儼然たり。」と、日蓮聖人は妙見菩薩から法華経護持の誓いを得たと伝えられ、そして清澄へもどられたのである。日蓮聖人が清澄の地で立教開宗された理由は、(1)虚空蔵菩薩への報恩、(2)道善房への報恩、(3)両親への報恩、(4)天照太神の棲む東條郷(御厨)と言われている。
以上の考察から次の事柄がうかがえる。
一、日蓮聖人が智恵宝珠を授与された大恩の虚空蔵菩薩をなぜに大曼荼羅に勧請されなかったかの疑問が解けてくる。日蓮聖人が曼荼羅本尊に虚空蔵尊を「天の三光」、特に「明星天子」として勧請する。その底意には、虚空蔵菩薩と妙見尊(天御中主命)の神徳を表示している訳である。
一、明星天子の本地は虚空蔵菩薩であり、妙見尊にも関係している。宗祖は大恩ある虚空蔵菩薩を明星天子として勧請し、そこには妙見信仰の「天帝」思想が背景にある。そこから宗祖の世界統一主たる転輪聖王観が形成され、教行証御書の「己ニ地涌ノ上首上行出サセ給ヒヌ。結要ノ大法亦弘ラセ給フベシ。………金輪王ノ出現ノ先兆、優曇華ニ値ヘルナルベシ。」観心本尊抄の「賢王」地涌の垂迹へ連がる思想が、清澄寺虚空蔵信仰の奥に見えるのである。
一、日蓮聖人在世当時の清澄寺を含む安房の領主は、産鉄民と関係ある、虚空蔵信仰と関係ある新熊野(いまくまの)社である。よって宗門史において判明しない「領家の尼」とは誰か?それは新熊野社または大船村多聞院の関係者と推定される。
一、清澄、小湊、鴨川、夷隅は古代より産鉄地であった。 一、小湊西蓮寺は、俘囚(ふしゅう)の別所と考えられる。
一、日蓮聖人の出自は「施陀羅(せんだら)」を統率する立場の系譜ではないか。 一、日蓮聖人の言う「施陀羅」とは、産鉄系ワダツミ漁民と考えられる。
一、宗祖在世当時の清澄寺は、十一面観音と熊野信仰を基盤とする虚空蔵尊の山岳修験道場であった。
一、日蓮遺文に伊勢内宮奏上と岡崎宮妙見尊参拝の記述はないが、宗祖の虚空蔵(三光天子)信仰と日本守護神たる天照太神の尊重よりみれば、宗祖は必ず伊勢参拝した筈である。宗門・地元宗務所は岡崎宮妙見堂跡地を布教拠点として取得し、顕彰すべきである。

(21)四条金吾殿御返事 1594頁  (22)観心本尊抄 719頁 
 
一弟子五人の神社参詣

 

日興一門の主張
波木井氏の神社参詣は日興より批判されたのだが、神社へ詣でることは彼一人だけのものではなく、日蓮一門の導師である一弟子五人の神社参詣(日興一門の主張による)についても、日興は神天上の法義を破ったとして非難している。日興一門が五一相対の一つとして挙げた、日蓮の弟子檀越による神社参詣について考えてみよう。
「原殿御返事」には「守護の善神此の国を捨去すと云ふ事は不審未だ晴れず候。其の故は鎌倉に御座候御弟子は諸神此の国を守り給ふ、尤も参詣す可く候。身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらる」とあって、鎌倉の弟子(それは日昭・日朗らを意味すると考える)は諸天善神が日本国を守護するのであるから神社参詣を「可」としたこと。身延山の弟子(日興ら)は守護の善神は天上に去りこの国にはいないという神天上を説いて、神社参詣を「不可」としたことが示されている。ただし、鎌倉で弘通する弟子(日昭・日朗ら)の言う「諸神此の国を守り給ふ」は伝聞を記したものなので、どこまで正確かは不明である。
同じく「原殿御返事」には日向が波木井氏の問いに答えて、神社参詣を「可」としたことが記されている。
守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候。法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会す可く、尤も参詣す可し
「富士一跡門徒存知事」と「五人所破抄」では、一弟子五人の神社参詣の主張と日興一門の批判を記している。
「富士一跡門徒存知事」
一、五人一同に云く、諸の神社は現当を祈らんが為なり、仍って伊勢太神宮と二所と熊野と在在所所に参詣を企て請誠を致し二世の所望を願う。
日興一人云く、謗法の国をば天神地祗並びに其の国を守護するの善神捨離して留らず、故に悪鬼神其の国土に乱入して災難を致す云云。此の相違に依って義絶し畢んぬ。
「五人所破抄」
又五人一同に云く、富士の立義の為体、啻に法門の異類に擬するのみに匪ず。剰え神無の別途を構う。既に以て道を失う。誰人か之を信ぜん哉。
日興云く、我が朝は是れ神明和光の塵、仏陀利生の境也。然りと雖も今末法に入って二百余年、御帰依の法は爾前迹門也。誹謗の国を棄捨するの条は経論の明文にして先師勘ふる所也。何ぞ善神聖人の誓願に背き新たに悪鬼乱入の社壇に詣でん哉。但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰んで鎮守を定む可し云云。
「原殿御返事」によれば、鎌倉の弟子は「尤も参詣す可く候」とし、日向は「尤も参詣す可し」として檀越の神社参詣を「容認」している。「富士一跡門徒存知事」では、今度は一弟子たる「五人一同」が現当二世の諸願を祈るために、「伊勢太神宮と二所(箱根神社と伊豆山神社)と熊野」と各地の神社に参詣を企てたとしている。「富士一跡門徒存知事」の記述は「いつ、どこへ、誰が」という明確なものがないので、実際のところ一弟子五人の皆が各地の神社に参拝したかどうか、詳細は不明ではないか。ただし一弟子五人の社参は明確ではないとしても、「原殿御返事」での波木井氏と日興、日向のやり取りからは、少なくとも鎌倉の弟子と日向が神社参詣を「容認」していたことは確かと思われる。檀越の神社参詣を容認したということは、自己の参詣も「可」としたのと同義ととらえてもよいだろうから、ここでは「いつ、どこへ、誰が」という詳細は不明としながらも鎌倉の弟子=日昭・日朗と日向が神社参拝をした、という前提で考えることにしよう。  
日蓮の行いと教え
日興と一門は一弟子と檀越の神社参詣を強く批判しているが、日興と一弟子五人の師である日蓮の「行い」と「教え」によれば、五人の「神社参詣」は日興から批判される根拠とはならないものと考えられる。
文応元年(1260)7月16日、日蓮は前執権最明寺入道時頼に進呈した「立正安国論」の文中で、「万民が正法たる法華経に背いて悪法に帰依し一国が謗法となるならば、守護の善神は法味に飢えて国を捨て去ってしまう、聖人は所を辞して還らない。替わりに悪鬼が乱入して国土に災難を起こす」ことを指摘する。
「倩(つらつら)微管(びかん)を傾け、聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る。」
「而るに盲瞽(もうこ)之輩迷惑之人、妄りに邪説を信じて正教を弁へず。故に天下世上、諸仏衆経に於て捨離之心を生じて擁護之志無し。仍(よ)て善神聖人国を捨て所を去る。是れを以て悪鬼外道災を成し難を致すなり矣。」
ところが文永8年(1271)の法難の際、日蓮は法味に飢えて守護の善神が天に上ったはずの鎌倉・鶴岡八幡宮寺に向かい、「八幡大菩薩に最後に申すべき事あり、とて馬よりさしおりて高声に申すやう。いかに八幡大菩薩はまことの神か。〜今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其上身に一分のあやまちなし。〜さて最後には、日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照大神・正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いたし(痛)とをぼさば、いそぎいそぎ御計らひあるべし」と八幡大菩薩の懈怠を叱咤している。これは、今そこに八幡大菩薩を眼前にしているかのような言動ではないか。以前の「立正安国論」の神天上の考えはどこに行ってしまったのか、の感がある。ここでは「身に一分のあやまちな」き、「日本第一の法華経の行者」がキーワードになると思う。尚、後年、「諌暁八幡抄」(真蹟)に「去る弘長と又去る文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申す大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給ひしは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。」と記して、八幡大菩薩の前で一国の謗法者から笑われたのは八幡大菩薩の大科ではないかとしている。
文応元年(1260)に「立正安国論」を著してから11年が経過した文永8年(1271)、釈尊直参の法華経の行者たるの自覚が横溢した日蓮は一国謗法による神天上に加えて「法華経の行者がいるところ、守護の善神も栖み給う」という考えを確立しつつあったのではないか。建治2年(1276)7月21日の「報恩抄」(真蹟)には「いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。如是展転至無数劫疑ひなきものか。かゝる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護の善神もほこらをやひ(焼)て寂光の都へかへり給ひぬ。」とあって、「神天上」は堅持しながらも更に4年を経過した弘安3年(1280)12月の「諌暁八幡抄」(真蹟)では、八幡大菩薩(善神)は垂迹であり本地は釈尊であるとして、八幡大菩薩は正直の頂である法華経の行者に栖み、そこには諸天の守護もあることを教示している。
「遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡を恃み奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまって体をあなづる。子に向いて親をのるがごとし。本地は釈迦如来にして、月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生まれては正直の頂にすみ給ふ。諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり。」
「今八幡大菩薩は本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、文。経文の如くば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。」
このように日蓮の守護善神の認識は初期の「立正安国論」の神天上というものから、「大難四度」を経て内面世界が法華経体現者として昇華されるに及んで、一国が謗法であろうとも「法華経の行者が参ればそこに善神は還る」(種種御振舞御書・八幡社頭諌言)、「法華経の行者の頂には善神が栖み、そこに諸天による守護の働きもある」(諌暁八幡抄)という展開となっている。それまでの、一国皆正法であるならば日本国守護・擁護の諸天善神の働きも盛んになり、逆に謗法諸宗が一国に蔓延すれば諸天善神は法味に飢えて天に上ってしまうという善神観は維持しつつも、日蓮に如来使、法華経の行者として、また上行菩薩たるの秘めたる自覚が横溢するに及んで、諸天善神の働きも一国守護から法華経の行者を擁護する守護善神としての位置付けに比重が移ってきたのではないだろうか。弘安元年(1278、または弘安3年[1280])5月3日の「窪尼御前御返事」(真蹟断簡)には「日蓮はいやしけれども、経は梵天・帝釈・日月・四天・天照太神・八幡大菩薩のま(守)ぼらせ給ふ御経なれば、法華経のかたをあだむ人々は剣をのみ、火を手ににぎるなるべし。」とある。  
神天上と諸神来会
日興の一弟子五人に対する批判は「立正安国論」に示された「神天上」によるもので、実際「原殿御返事」にも「立正安国論是れなり」「安国論の正意」とあるのだが、師日蓮によって「種種御振舞御書」と「諌暁八幡抄」に示されたことを勘案すれば、「法華経の行(持)者が神社に参詣すれば諸天善神もそこに来会する」との理解も生まれようというもので、一弟子五人の神社参詣は師日蓮の「行い」と「教え」にもとづいて行われたといえるだろう。そのことを明快に言い表したのが日向の「法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会す可く、尤も参詣す可し」との説示だと思う。
要は日興の主張も「正」、一弟子五人の理解と社参も「正」となるのだが、その源は日蓮の化導であって、ここでもやはり日蓮の両論並列的なものが師亡き後、門弟間での理解の相違と対立を招く結果となったことが窺えると思う。結論としては「立正安国論」以降、特に文永8年の法難での八幡社頭諌言や「諌暁八幡抄」の教示に至る展開を踏まえれば、弟子や檀越が神社に参詣することは師説に対する理解からであった、といえると思う。これを批判した日興と一門の神社不参も師説の通りなのだが、これまで見てきた日蓮の教説の展開と広がりからすれば、日興側の主張は師の教説の一部分をもって自説を構築したものといえ、かえって師の宗教世界を狭めるものになったのではないかと思う。
師の教えを解釈して自説とし、そこに師の真意があると内外に宣し、他を批判して自己が師の正統なる後継であるとする手法は、(信奉者にとって)偉大なる導師亡き後の教団内で常のように行われてきたもので、日興一門が作った「五一相対」もその典型例といえるのではないだろうか。
「五一相対」を作るに至った背景としては、駿河国富士川流域で強大なる天台寺院と相対しながら法華勧奨を展開して一門を作り上げてきた、日興ならではの宗教的信念と自負心が源となり、そこに同意した弟子檀越が、かくせしめたものと理解している。しかし、師説を狭める教理的純粋性の追求は同時に異なる見解を呈する者、賛同しない者、理解しない者の排撃となり一時は結束を保つのだが、今度は同門内で解釈の相違が起きた時にまた排撃となり分裂を招き、これを繰り返して終わることはないのが常態となるようだ。今日に至る日興・富士門流の分派分裂の歴史がそのことを如実に証しているのではないかと思う。  
日向の神社参詣停止
日興一門は日昭・日朗・日向らの「神社参詣」を批判したのだが、日向については「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」で神社参詣を停止させたと記している。
一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副ふ。彼菩薩の像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞く也。
注意を要するのは「近年以来」が日向または後継の日進のどちらの代にかかるのか、ということだ。先に見たように「富士一跡門徒存知事」は正和2年(1313)または元応2年(1320)以降、元亨3年(1323)以前の成立と推定されている。日向は正和3年(1314)9月3日、62歳で亡くなっているので、「富士一跡門徒存知事」の成立が正和2年(1313)であれば存命中だが、元応2年(1320)より後となれば入寂以降のことになる。日向が神社参詣を停止させたのか、それとも次の日進によるものなのか?「富士一跡門徒存知事」の系年の幅が広いので文中の「近年以来」が日向・日進どちらの代にかかるかは正確なところは不明だが、「富士一跡門徒存知事」が元亨3年(1323)以前の成立ということは日向入寂から9年後のことなので、仮に神社参詣停止が日進によるものだとしても師日向の説が影響を及ぼしたことも考えられる。いずれにしても「富士一跡門徒存知事」の系年の幅は、日向の思想が継承されたと思われる時代であるから、ここでは正和2年(1313)成立の可能性も考慮して、「日向が神社参詣を停止させた」を前提にすることにしよう。
さて、この文によって「日興の制誡が影響したもの」とする見方があるが、どうだろうか。他門流造立の一尊四士について「日興が義を盗み取り」と日興一門はいうも、一尊四士は「観心本尊抄」に教示された師日蓮の発案であっていわば「日蓮が義」なのだから、それを「日興が義」と言うのは後代の者をして認識を誤らせるものといえるだろう。日向が神社不参を説いたことについても、日興の影響というものではなく、日向は波木井氏に説示した「諸神来会」から、「立正安国論」の「神天上」の法門を前面に立てることに転じた可能性があり、その背景としては門流の確立に伴い財政基盤を安定的に継続させる必要が生じたためではないかと思う。
身延山を日向より継いだ日進について、「日蓮教団全史」は以下のように解説する。
「日進は初め日心、又は日真と称し三位公と号した。青年の頃は叡山・京都に学び、師跡をつぐや大いに同山諸堂を建立し、中山日祐と深く交わりをむすび、また教学上においても日祐の疑問につき決答し指導もしていて東西の二山相依って宗風を揚げたのである。」
正安2年(1300)12月、日向が板本尊を造立したことが「身延山文書」に記録されている。
「身延山久遠寺諸堂等建立記」
一、板本尊 本尊は祖師の御筆を写すか、下添え書きは、第三祖向師の筆也。下添え書きに云く、正安二年庚子十二月 日、右、日蓮幽霊成仏得道乃至衆生平等利益の為に敬ってこれを造立す。
中山法華経寺3世・日祐の「一期所修善根記録」により、日蓮入滅より70年を経過した正平6年・観応2年(1351)頃、身延山には金箔を使った板本尊が安置されていたことが確認される。
「一、観応二年辛卯十一月十八日御影堂棟上、翌年三月十八日御殿入並に供養、導師日樹 此外 身延山久遠寺同御影堂、大聖人の御塔頭、塔頭板本尊 金箔 造営修造結縁、真間弘法寺御影堂等の造営、同結縁、貞和二年(1346)丙戌三月御影の本妙寺御厨子之を造立す〜」
一門が作られれば教理面の構築とともに、寺院経営を安定化させ、僧侶の生活基盤を確立しなければならず、それは財政基盤の確立と同義である。
・他に優越する教義で檀越の信仰を強固なものにする。
・寺院の縁起を作り、本尊を重厚なものにして由緒正しきものとし、日蓮真蹟を集め宝物とする。
・壮麗な建築・仏具で荘厳して寺院参詣の功徳を説き、自派の財政面を安定的に継続するために信仰面で檀越を囲い込む。
・即ち檀越が他の教派に無用な布施をしないようにする教理的裏付けが必要となる。
それには、師日蓮の他宗批判と「神天上」に勝るものはなかったといえるのではないか。妥協なき宗教的共同体は財政基盤が安定する反面、布教の展開、教えの広がりは一定の範囲に留まる傾向性を持っていたと推測されるが、このような事情は一人日向のみならず、日興、日朗らの門流にあっても同様のことだったと思う。
師説を純粋に信奉して布教、やがて一門が作られれば伝道拠点が必要となる。当初は有力檀越の持仏堂、粗末な堂宇から始まったものが、寺院に発展すればそこには仏法というよりも世間的な認識も加わり、僧俗ともに寺院としての荘厳を欲するようになるのは人間心理として自然なことでもあっただろう。そこに他に勝るとする教義が拍車をかけたのではないか。出家者を養い寺院を荘厳するためには、信奉者となった檀越に転向されることがあってはいけない。ここにおいて出発当初の誓願とはかけ離れた既成化の道をたどることになるのだが、概していえば、この繰り返しが日本仏教の歩みの一側面といえるのではないかと思う。
尚、京都、関東の諸門流、また身延山にあっても、源がどこに発するかは明らかではないが、戦国期までは謗法寺社参詣・謗法同座・謗施受用は共通の法度であり、それらが変じたのは菅野憲道氏の論考「武田氏の駿河侵攻と富士門徒」により、天文法乱(天文5年・1536)、安土問答(天正7年・1579)以降であり、特に「重・遠・乾師ら受派の関西学派が関東諸山の不受派の諸師を追放して以降、上方風の摂受主義と雑乱信仰が入ってからのことである」ことが指摘されている。ということは、大要をまとめれば以下のようになるだろうか。
日蓮の時代から一弟子の時代にかけては混とんとしていたものが、各地に門流が確立されるに至って祖師の教義を基にした導師の解説により教理面が整備、門流ごとの共同体意識が醸成され、それは宗教的権威が一定の認識のもと重んじられていた鎌倉、室町時代と続いた。しかし、天文5年(1536)の天文法乱を経て天正7年(1579)の安土宗論が行われた安土桃山時代になり、政治権力のもとに宗教的権威は屈することが明白となった。そして文禄4年(1595)の豊臣秀吉主催の千僧供養会における不受不施義に端を発し、日奥が流罪となった慶長4年(1599)の大阪対論、寛永7年(1630)の身池対論よって池上、中山、平賀などの関東諸山の不受派の高僧が追放されるに及んで、政治権力の前に宗教的権威と信念は葬り去られ、教義を改編せざるをえない事態となった。  
まとめ
本尊における人と法、法華経の本と迹、諸天善神観と神社参詣、自派の仏教上の立ち位置等、一門のこと始めであるが故に師も明確にしなかった教義的見解をめぐって弟子ごとに理解の相違が生まれ、師滅後は互いを批判して決裂するに至った。そのような過程では何が「正」で何が「邪」であるかなどは、誰も判定できる者はいないし、また判定のしようもなかった。原点となる師説が明確ではなかったり、また師説も多様な理解が生まれる余地があったからである。故に日興一門の「五一相対」についても、門流内での学習と信仰増進、結束を促す域に留まるものであって、他門への適用は不可であるし、結果として師説を補完というよりも狭めることになったが、そのようなマイナス面がむしろ、富士門流が独自に発展する原動力になったのではないだろうか。  
 
日蓮仏法と創価思想

 

真言亡国 (東密)
真言宗は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を依経とし、大日如来を教主とする。中国において、善無畏三蔵が唐の開元4年(716年)にインドから渡来し、大日経を訳し弘めたことから始まる。
善無畏は、天台の一念三千論を見て、法華経より大日経が勝れているとしなければ、真言は弘まらないと思い、天台の学僧の一行を欺いて「大日経疏」を書かせた。
善無畏大に巧んで云く「漢土にては法華経・大日経とて二本なれども天竺にては一経のごとし、釈迦仏は舎利弗・弥勒に向つて大日経を法華経となづけて印と真言とをすてて但理計りをとけるを羅什三蔵此れをわたす、天台大師此れをみる、大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩埵に向つてとかせ給う、此れを大日経となづく我まのあたり天竺にしてこれを見る、されば汝がかくべきようは大日経と法華経とをば水と乳とのやうに一味となすべし」といって、一行を誑(たぶら)かしたのである。
このことを伝教大師は『依憑集』で「新来の真言家は即ち筆受の相承を泯(ほろ)ぼし」と破折しました。
そこには法華経と大日経とは一念三千の「理」は同じであり、印と真言の「事」において大日経が勝れる、すなわち、「理同事勝」という邪義が打ち立てられた。
「印」とは、印相のこと、印契、密印ともいう。指先で特殊な形を結び、仏・菩薩の悟りをあらわしたものを手印という。
「真言」とは、仏の真実の言葉という意味です。密教の一種の呪文で、日本では翻訳せずに梵語を音写して用い、その訳の分からないことを以って秘密と称している。
大聖人は「大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見なり、真言印契を得分と思ふも邪見なり」と破折されています。
日本では、弘法大師空海が入唐して真言密教を学んで帰朝し開宗した。大別して二つの派があり、弘法系の真言宗を「東密」(東寺の密教)と言い、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を「台密」という。
弘法の悪義は「一代の勝劣を判じ給いけるに第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候」と、『十住心論』などで言ってることです。そこには、
1 各宗とも自宗に仏乗と名のっているが、後に出てくる真言宗に望めば、前の天台法華宗は戯論(けろん)となるのである。
2 法身の大日如来に相対すれば、釈尊も無明の辺域であって、明の分位(悟りの位)ではない。
3 五味に譬えると法華は第四の熟蘇味の位である。
4 中国の人師たちは、争って第五の醍醐味を真言宗から盗み取って、各々の自宗に添加した。
等が代表的な邪義である。
大聖人は「華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論・六波羅密経に対すれば盗人・守護経にに対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候はず」と、一切の経文のなかに、有りもしない妄語を並べ立てていると破折されています。
「醍醐を盗んだ」と言うことであるが、天台大師は陳隋の時代の人である。六波羅蜜経はその後の唐の時代になって、般若三蔵がこれを中国へ持ってきたのである。実に有りもしない経から、どうして盗むことが出来るのか。
「其の上・又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず、仏・涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給い天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候、竜樹菩薩は法華経を妙薬となずけさせ給う、されば法華経等を醍醐と申す人・盗人ならば釈迦・多宝・十方の諸仏・竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか、弘法の門人等・乃至日本の東寺の真言師・如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも他の鏡をもつて自禍をしれ」と破折されています。
真言宗は、此土有縁の教主釈尊を捨てて、我等衆生と何の縁もゆかりも無い、架空の大日如来を教主としている。あまつさえ、釈尊を大日如来や弘法のその車を引く資格すらない、牛飼いや履物取りにも及ばないと、口汚く罵っているのである。
善無畏が中国へ大日・真言を渡したのは、唐の玄宗皇帝の時代でした。それから後は、あれだけ隆盛を極めた唐王朝も“安史の乱”の後から衰退に向かいはじめ、玄宗も失意のうちに薨じた。その後は中国から、仏教自体も滅亡する道を辿ることになるのである。
三徳具備の教主釈尊を捨てて、取るに足らない大日如来を立てるゆえに、主を殺すものであり、諸経中で最第一の法華経を第三と下すことは、主客転倒している。
『立正安国論』に、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万人乱る」と、人々の価値観が転倒して、社会が混乱し国が滅びることになるのである。
日蓮大聖人は「真言は亡国の悪法」であると断定なされています。 
真言亡国 (台密)
日蓮大聖人は、日本の天台法華宗が密教化したことについて、「叡山に座主始まつて第三・第四の慈覚・智証・存の外に本師伝教・義真に背きて理同理勝の狂言(おうげん)を本として我が山の戒法をあなずり戯論(けろん)とわらいし故に、存の外に延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん、彼の摩黎山の瓦礫の土となり栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし」と述べられています。
大聖人の諸宗の破折は佐渡以前では、念仏・禅宗などが主で、真言(東密)は少々でした。それは大聖人が、「所詮は万祈を抛つて諸宗を御前に召し合せ仏法の邪正を決し給え」と、『北条時宗への御状』で申されたように、公場対決を望まれていました。
しかし、「爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろう(披露)してかれらし(知)りなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」とあるような理由で、真言を強く破していませんでした。
したがって、公場対決の望みがなくなった佐渡以後は、「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり」と仰せになり、『撰時抄』・『報恩抄』等で天台密教を徹底的に破折されることにより、三大秘法を顕わされたのであります。
“なぜ真言を強く破折する”のかと言いますと、念仏・禅などは当時の新興宗教であり、多くの民衆に信じられていたとはいえ、言わば個人的な信仰と言ってよく、それに対し長い間、国家鎮護の法として為政者から祈祷を依頼されていた真言密教の国家・社会に対する悪影響は、はなはだ重大なるものがあるのである。
ゆえに、天台密教の邪義を破ることによって、法華経の正義を示されて末法の法華経の行者、即ち「南無日蓮聖人」と仰せられましたように、『撰時抄』にて「御本仏のご内証」を明かされたのであります。
大聖人は、真言宗の中でも、善無畏や弘法などと比べて、慈覚の行為こそが最大の悪事であるとされています。
『撰時抄』に、「日本国にして真言宗を法華経に勝るると立つるをば叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし、されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」と仰せられています。
伝教大師が、桓武天皇の御前で南都六宗の碩徳と公場対決し、六宗を破し法華経最第一の義を決した。六宗の碩徳は承伏の謝表を奉り、伝教大師に帰伏した。その結果、日本一州みな・僧は伝教の弟子となり、寺は叡山の末寺となったのである。
そのような中で、弘法が法華経は大日経に比べて三重の劣であり、釈尊は無明の辺域であると、あからさまに下していても「あまりの僻事なれば弟子等も用ゆる事なし」という程度であった。
しかし、慈覚・智証の天台法華宗が、法華経と大日経は「理」は同じであり、「事」においては印と真言があるから、大日経の方が勝れると云えば、叡山の座主自らが云うのだから「皆人さもやと・をもう、かう(斯)・をもうゆへに事勝の印と真言につひて天台宗の人人・画像・木像の開眼の仏事を・ねらはんがために日本・一同に真言宗におちて天台宗は一人もなきなり」という有様であった。結局、僧侶たちは祈祷を生業として、金銭を儲けんが為に堕落したのである。
「慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とが・ごとくなる・ゆへに智人も迷い愚人もあやまり候て此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州・皆謗法の者となりぬ」と仰せである。
ここに、法華経最第一とする叡山の天台宗が密教化したことの謗法罪は、弘法の東密よりも遥かに重いのである。
特に、慈覚に対しては厳しく「天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり」と、安然・慧心を加えて“師子身中の虫”とまで断じておられます。
大聖人は「真言は亡国の悪法」なりと定められた理由を簡潔に「答う法華を誹謗する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり云云、一義に云く現世安穏・後生善処の妙法蓮華経に背き奉る故に今生には亡国・後生には無間と云うなり」と破折されています。 
真言亡国の現証
日蓮大聖人は「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せられ、真言亡国の現証を指摘されています。
大聖人は「而るに日蓮此の事を疑いしゆへに幼少の比より随分に顕密二道・並びに諸宗の一切の経を・或は人にならい・或は我れと開見し勘(かんが)へ見て候へば故の候いけるぞ、我が面を見る事は明鏡によるべし・国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」と仰せです。
「此の事」とは“承久の乱”の事で、主上の朝廷方が臣下の幕府方に敗れた事に、疑問を持たれたと仰せられています。
『報恩抄』に「人王八十二代・尊成・隠岐の法皇・権の太夫殿を失わんと年ごろ・はげませ給いけるゆへに大王たる国主なれば・なにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそ・あるべかりし上・叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間・或は調伏・或は神に申させ給いしに二日・三日・だにも・ささえかねて佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失て終にかくれさせ給いぬ、調伏の上主・御室は但東寺をかへらるるのみならず眼のごとくあひ(愛)せさせ給いし第一の天童・勢多伽が頸切られたりしかば調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ」と仰せてられています。
「還著於本人(げんちゃくおほんにん)」とは、「還って本人に著(つ)きなん」と読む。邪法をもって正念の相手を呪詛して害そうとすれば、帰って自らの身にそれを受けるようになるということです。
大聖人は「法華経を或は第三・第二・或は戯論・或は無明の辺域等と押し下し給いて、法華経を真言の三部と成さしめて候いし程に、代漸く下剋上し此の邪義既に一国に弘まる、人多く悪道に落ちて神の威も漸く滅し氏子をも守護しがたき故に八十一乃至八十五の五主は或は西海に沈み或は四海に捨てられ・今生には大鬼となり後生は無間地獄に落ち給いぬ」と仰せです。
これは源平の争乱の時も、平家の願によって源氏調伏の祈祷をしたのは、比叡山の明雲座主であるが、源氏の木曽義仲に調伏の壇上に踏みこまれて殺されてしまった。それから約二年後、平家一門は西海の壇ノ浦で滅亡したのである。この時幼い安徳天皇(81代)も、二位尼と共に海中に沈むという悲劇を生んだ。
承久の乱の時は、後鳥羽上皇(82)は隠岐島へ、土御門上皇(83)は土佐国へ、順徳上皇(84)は佐渡島へ配流され、仲恭天皇(85)は廃帝させられた。臣下が天皇を廃し、また流罪に処したことは、わが国有史以来の出来事であった。これも朝廷方が、真言の悪法で祈祷した結果であったのである。
源平・承久の乱は、一般的には時代の趨勢として、政権が朝廷から武家へ変わる時であり、力を保持してきた武家が勝利するのは当然であるという見方であるが、しかし、日蓮大聖人はその上に、仏法の正・邪により、事の勝・敗が決まると云う「仏法史観」とも云うべきものを仰せられている訳です。
大聖人は「殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべし」と予言されています。そしてそれは、文永の役・弘安の役として現実のものとなったのである。
池田先生は、「承久の乱の結果は、伝統的な権威に基づく従来の朝廷・貴族が世を治める力を失うとともに、その社会のなかに組み込まれていた既成仏教が無力化したことをも意味していました。それは、従来の祈祷仏教の無力化を如実に示していたのです」
真言の祈祷仏教の「空理性・呪術性というのは、裏づけとしての『一念三千の理』がない、形式のみの祈祷を行っていることだね。
一念三千の法理がないということは、人間生命をいかに捉え、いかに変革していくかという、普遍性・哲学性がないということです。
それなのに、祈祷・呪術の形式だけが発達して、何かありそうに人々に思わせた。その破綻の象徴が承久の乱における混迷です」と、真言宗の祈祷を厳しく破折されています。 
真言密教
真言宗のことを、密教とも云う。密教とは秘密仏教ということで、真言宗は顕教・密教という二教の経判を立て、大日経は法身の大日如来が説いた真実の秘密の教えである故に「密教」という。
他経の法華経等は応身仏の他受用身の所説の法で、顕わに説かれた浅い教の「顕教」であるとの邪義を立てている。しかし、大日経等の真言の三部経は、仏の「四十余年未顕真実」の中の経教である。
日蓮大聖人は、「抑(そもそも)大日の三部を密説と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なるか微密(みみつ)の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭(こ)むるは微密なり、二には疵(きず)・片輪等を隠すは隠密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成と説く故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小為し、此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、微密の密は法華なり」と。
また、「真言の高祖・竜樹菩薩・法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず」と仰せです。
そもそも、真言の三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を密教と云い、その外の法華経等を顕教と云うことは、釈尊の金言・経文には無いのである。自分勝手に称している邪義なのである。
次に密教の密は、隠密(おんみつ)の密なるか、微密(みみつ)の密なるかと問いかけられています。
「微密」とは、微妙秘密のことで、微妙、深遠で外からは容易に分からないということで、微密は金銀などを蔵に秘蔵することに譬えられる。故に、微密は法華経を指すのである。
「隠密」とは、物事を人に知られないように覆い隠す意味で、疵や欠点を隠し、教説などの文に仏の本意を隠して示さないことを云う。すなわち、真言密教は隠密なのである。
その訳は、始成正覚を説く故に、寿量品の久遠実成を隠し、二乗を弾呵する故に、記小(二乗作仏)すなわち、成仏の法理である一念三千の理は、説かれて無いのである。この法華経の久遠実成と二乗作仏は、「教法の心髄・文義の綱骨なり」とまで仰せられています。
そうであるのに、真言宗は「理同事勝」の邪義を構え、有りもしない「即身成仏」を、さも有るように大日経などで説いて、衆生を惑わせ・誑(たぶら)かしているだけで、成仏の実質が伴っていない「有名無実」の論理なのである。
密教はインドにおいて、ヒンズー教・バラモン教の神秘主義・呪術的な加持祈祷の作法を取り入れた。その結果、仏教は本来、神秘主義でも呪術主義でもなく、自分自身が修行をして仏果を成ずるという修行法なのに、僧侶や能力者に祈祷して貰って功徳を得させようとする密教は、仏教をはなはだ不合理な、ご都合主義的な、いい加減なものに貶(おとし)めてしまったのである。
真言宗の説く即身成仏は、手に「印契」を結び、口に「真言」を唱え、心が三昧に住することで、身口意の三業において、行者と仏が一体になるとしている。しかし、それはあくまでも象徴のレベルに過ぎない。ただ主観的に成仏したと主張しているだけで、客観的・理論的・現実的な裏付けは何もないのである。
そのような真言密教のいう即身成仏は、「神がかり」などの没我状態と同列の主観的な神秘体験の一種であり、自己の向上と完成を目指し、生命境涯の根本的変革を意味する、仏教本来の「即身成仏」とは、似て非なるのもである。
日蓮大聖人は、「真言師等の所談の即身成仏は譬えば窮人(ぐうにん)の妄(みだ)りに帝王と号して自ら誅滅を取るが如し、王莽(おうもう)・趙高(ちょうこう)の輩外(ほか)に求む可からず今の真言家なり」また、「真言は亡国の悪法」と厳しく破折なされています。 
 
波木井殿御報「常陸の湯」について

 

文永11年(1274年)5月12日、鎌倉を去って身延に入られた宗祖は、この深山の幽邃をよろこばれたものの、はじめはほんのしばらくの仮住居のつもりでおられたようである(定809)。しかし間もなく庵室ができこの山に住まわれるようになるとついにここを安住の地と定め、いかなる主上・女院の御意たりともこの山を出ないという覚悟を門下に告げられるに至った。(定1487・1896)。
大難四ヶ度、小難数知れず(開目抄P557)という重々の迫害・弾圧をのりこえられた聖人であったが、さらに3年にわたる佐渡配流の忍難の生活は、さすがに強健な聖人の身体をも損ないはじめたらしく、入山後間もないころ健康の不調を感じられ、弘安4年(1281年)の八幡宮造営事(定1867)、南条時光の母に与えられた上野殿母尼御前御返事(定1896)によればこの7・8年以前(入山当初)からやせ病が起こったことを報ぜられている。しかし聖人の強烈な精神力はこの病を克服してこられたらしい。しかし、何といっても当時の身延は人里離れた深山であって衣食の調達は極めて不便であり、鬱叢とした大木にかこまれた猫額の地に造られた庵室は湿気が多く、日照時間もみじかく、夏には大雨・長雨で交通がとだえ、冬ともなれば深山は特に雪が深く人の訪れもなくなってしまう。入山早々6月11日に建てられた庵室はわずか4年ほどの間に柱は朽ち、壁は落ちるという状態で(庵室修復書P1410)あった。もってこの地の湿度の高さ、寒冷そして「人なき時は40人、ある時は60人」また「今年は100余人を山中に養ひ」(定1606・1664)という人々の住した身延の食料の補給の困難のさまが推察できよう。こうした生活環境は徐々に聖人の身体をむしばんでいき、入山後4年目の建治3年(1277年)の大晦日、ついに発病し下痢を病まれた。さしたることもなかろうと思っておられたのが悪化して翌弘安元年5月、6月には重態隣少しく恢復されたのであるが、この年の末ごろからまた再発し病床に伏せられたのであった。
さいわい、この病は間もなくおさまったようで、弘安2年3月のころは殆ど病気を忘れておられたが、4年の正月からまた不調となり、療養の巧もなくて11月・12月ごろは食欲がなく衰弱の一途をたどり、翌5年はずっと病臥をつづけられていたように見受けられる。夏すぎ、秋も深まって身延にはまた寒気のきびしい冬がおとずれようとするが、人々は聖人の身を案じて入湯をすすめ、かくして文永11年5月入山以来九ヶ年間、住み慣れらてた身延山をでて常陸の湯におもむきに湯治されることとなった。
弘安5年9月、身延をたち、道中つつがなく武蔵国千束郷池上に安着された聖人は波木井の南部実長に池上到着の旨を報ぜられたが、疲労が甚だしくしてみずから筆をとることができず、日興に口実代筆させられ、しかもその追書に「そろうのあいだ、はんぎやうをくはへず候事、恐れ入候」(定1924)と念書させられている。聖人が門下に代筆させられた書状に富城入道殿御返事(定1886)と伯耆公御房消息(定190)がある。前者は弘安4年10月22日の書、この年5月の末、聖人は重態におちいられ少しく恢復されたもののずっと静養されている時であった。さて閏7月1日、日本を襲うた蒙古軍は台風のため敗退したが、富木常忍は7月15日、このことを身延の聖人に報じた。聖人は病中のこととて返事をされなかったが、この10月15日、常忍は聖人に病状の見舞いを申し上げたが、これが20日ごろに病床に届いた。その返書がこの富木入道殿御返事であるが、本消息は門下某に口授して代筆させられたものである。而してこの終わりには聖人みずから筆をとって花押を加えられている(本書状は中山法華経寺に格護されている)。次の伯耆公日興に与えられた書状は弘安5年2月25日、前に述べた如く聖人は病中であったから日郎に代筆させられている。尤にこれは要旨を日郎に告げ、日郎の名をもって上野時光の病気を見舞い、護符作法をせしめられたものであるから別に花押を押される必要はない(本書は大石寺に格護されている)。しかるに実長宛ての池上到着を報ぜしめられた代筆の書状には、わざわざ判形を加えぬと追申させられているがいかに聖人が疲労・疲弱されていたか、その様態を察することができる。
はじめ身延を出られるとき、聖人は常陸の湯へ行かれるつもりであったが、病状はこれを許さず、入滅近きを知りこの所を臨終の地と定め、翌10月8日、本弟子6人を選定して滅後の法灯とし、10月13日、61才をもって入滅された。 
常陸の湯について
聖人が常陸の湯へ湯治におもむかれなかったことについては古来より別に問題にされることもなく、そのまま池上で静養されたと理解してきたが、江戸時代に入ると、9月18日に池上につき、2・3日休養して常陸の湯やその他の温泉に入湯されたと記すものもでてくる。これは恐らく舜統院真迢の悪罵に対するため会通したものと考えられる。真迢はもと八品派(勝劣派)の本山京都妙蓮寺の僧で円韓日迢といい元和元年(1615年)20才のの時より寛永4・5年、32、3才に至る間、一致派の飯高・中村・松崎の諸談林、勝劣派の大沼田・宮谷談林に天台・当家の学を学び録内・外に通暁し、寛永9年(1632年)37才にして妙蓮寺の貫主推されたほどの人物であった。しかし性高慢、偏破放逸で(金山抄)、ために諸人にうとまれ排斥され同寺に住ことができなくなり(論迷復宗決)ついに比叡山に登って改宗し名を舜統院真迢と改めた。真迢は自分を擯出した妙蓮寺の僧俗及び日蓮宗門に対し瞋恚の焔を燃やして報復せんとし、なが年にわたって修学研鑚した知識をもって破邪顕正記5巻、更に門人真陽の名に托して禁断日蓮義11巻(追加共)を著し日蓮聖人の生涯の行動・思想・教学及び日蓮宗全般にわたって猛烈な痛罵、悪口、非難、誹謗を加えた。何しろ日蓮宗の教学についてはいままでその難解さといわゆる四箇格言で諸宗を批判しているので感情的な面も加わって諸宗の学匠で日蓮宗の研究・批判を行ったものは殆どなかった。そこに日蓮宗にあって専門に教学研究に沈潜しその蘊奥を極めたと誇示する真迢が日蓮の教学と日蓮宗の批判攻撃をしたというので寛永14年に刊行した破邪顕正記はいわゆる洛陽の紙価を高らしめたベストセラーの好評を博し、寛永16年には再販を出し真迢の名は各宗の間に喧伝されたのである。かくして天海僧正は真迢の名を聞いて江戸に招き、寛永寺の講経の役者を任じ、薬師寺に居住させたが、間もなく真迢は改衣した同宗の天台宗の人から嫌われはじめたらしく、寛永20年10月、天海入寂後にはここも去って京都へ帰っている。禁断日蓮義の功績を忘れた忘恩の賊徒であると痛憤して罵っているが、これによってその間の事情を知ることができる。晩年病を得京都五条辺の町屋に止宿逼塞し万治2年(1659年)11月64才をもって没した。真迢は破邪顕正記に聖人が常陸の湯に湯治するつもりで身延を出たもののついにその地へ行けず池上で死んだが、これはみずからの死期も知ることの出来ぬ凡僧たるの証であると罵っている。前述したような聖人入湯のことを誌るす諸書はこれに対する弁明的な憶説であるといえよう。
ところでこの常陸の湯についてはその場所の推定に種々の説があって確説がない。今代表的なものをあげてみよう。
1、平賀本録内第13巻、御書、波木井殿 本書は嘉吉3年(1443年)平賀本土寺7世妙光院日意が23才の頃より恐らく晩年に至るまでの間に蒐集した録内御書である。日意は文明5年(1495年)53才化、(奥書)大聖人身延山ヨリ下玉ヒテ常陸サンバクト云処ノ湯ニ入給ハンカ為ニ御下候ヒテ武蔵池上エ入後有テ、ソノママ御遷化アリト云々  何モ御本ノママ
2、健鈔  兄弟抄の講談  本書は永正(1500初頭)のころ弘経寺日健を始め諸師が録内の講談をしたのを筆録したものである。下總国塩部ノ湯へ御入リ有ナントテ武蔵国池上マデ御出有ケレバ(日蓮宗全書本 中間P932)
3、録内啓蒙  波木井殿御報  本書は日向国佐土原の配所にあった安国院日講が貞亨4年(1687年)より元禄3年(1690年)にわたって著したもの  中風気にて常陸の湯へ湯治なされんとあるは教門なり、実義は池上にて御入滅あらん様なり。かくの如く湯治のことを波木井殿へ仰遣はさるるとも、常陸の湯へも御入りなくそのまま弘安5年壬午10月13日に池上にて御入滅なり(34ノ47)なお啓蒙は健鈔の塩部(下野国塩辺というが健鈔には下總国塩部とある)の説は誤りならんといい「平賀日瑞の御書の首書に常陸のさんばくという処の湯に入玉わんが為なりとあり」と記している。
4、本化別当高祖伝 下    本書は身延山32世智寂院日省の著、跋文による亨保5年(1720年)の作とすべきか。これは池上につかれた聖人が  邇日常陸ノ温泉ニ赴ク、艸々悉ニセズ、人有リ告テ云ク、下野塩原ノ温泉最モ中風に善シ、請フ試ミニ之ヲ験ミヨ、諸子以テ誘フ、高祖自カラ知ルト雖モ而モ亦之ヲ拒マズ、往テ温泉ニ欲ス、之ニ居ルコト三日、帰路宇都宮ニ宿ス(全書本P48)
5、本家別当仏祖統紀 本紀 高祖   本書は身延山36世六牙院日潮の著、享保15年脱稿、高祖伝は日省の書をそのまま引用している。
最近の説は
1、法華経の行者日蓮 姉崎正治  下野国那須か、塩原の湯か、(P608)
2、碑文(加倉井温泉) 岡 教邃  常陸の湯は当所としている。
3、日蓮聖人御遺文講義第15巻(龍吟社版)井上恵宏  常陸加倉井の湯をさすか。今の妙徳寺境内の中にあるをいうか。(P103)
4、富士日興上人詳伝  堀 日亨  常陸国東茨城郡の加倉井にありとの説は覚束ない。・・・稲田梅素師が、古記に「さばくの湯」とありといえるは当を得ている。「さばく」また「さばこ」は同じで、すなわち「三筥湯」「箱」「函」と充ておる湯は古来有名である。・・・また目師状の中に「明春は常陸の湯より來臨あるべく候」と御弟子の宰相阿闍梨日郷に遣わされてある。同じく菊田四郎兵衛への状には「さいしやうのあざり、いたわりがをこり候て大事の程に、さばくの湯へまかり27日ばかり候らん」とありて正しく「さばく」「さばこ」の湯を「常陸の湯」といえるのであり、(P142)といい、また現今の磐城の湯本温泉で、むかし弘安5年大聖人の目ざされた『常陸の湯』である(538)と断じている。以上、諸説を紹介したが常陸の湯を下野国の那須や塩原にあてるのは不当で、すでに啓蒙が「下野国塩部の湯といへるは誤りなるべし」と論評している如くである。この啓蒙の論点は下野の塩原を塩部と誤っているという指摘するのみでなく常陸の湯を下野の温泉と推定しているを難じていると解せられる。
常陸のさばくとする説の由来を啓蒙は平賀本録内の日瑞の記に求めているが、平賀本は平賀本土寺7世妙光院日意の蒐集になったもので、8世日瑞を経、9世日遊の時、大永7年(1527)8年にわたって勝妙坊日信をして書写させたものである。なお啓蒙は首書と記しているが、前述の如く正体は奥書に書記している。或いは啓蒙所見の平賀本録内写本には首書にあったものであろうか。而して奥書の末文に何も御本のままとことわっているのは日意の加筆の奥書をそのまま写したものということを示しているから日意の記入と見るべきで、嘉吉・文安(1445ごろ)聖人入滅後160年ごろ「さばく」の湯が常陸の湯と考えた人々があったことが知られる。稲田海素先生が常陸の湯は「さばくの湯」であろうといわれたのは筆者も先生より直々に聞いたが、恐らく平賀本録内の記、及びこれを受けた啓蒙によられたものと思う。 
さばくの湯と常陸の湯
堀日亨師は常陸の湯はさばくの湯であると断定されているが、これは稲田先生のよられたという古記の説に日目の書状を関係づけて結論されたものと考えられる。日目の状は2通あるがその内容は果たして堀師の考えられる如く同一の地名を示したものであろうか。まず、与宰相阿闍梨書は年次不明、10月末か11月ごろの書状である。当時日目の住した駿河方面は不作・凶作でもあったそうか、食料不足でで苦しんでいたが、そこに宰相阿闍梨日郷が常陸の湯の湯治場より鵞目一結(ぜに一貫匁)と良薬百種を送って来たので、これに感謝の意をのべ更に希望と要用をのべた書状である。この文面を見れば日郷は以前より常陸の湯で療養していたが、この10月には全快して当地に来られることと思っていた。(10月13日は宗祖の御忌日で報恩会が修せられるから身体がよくなれば当然来山すると考えていたことがわかる)しかるにこられなかったのでいかがかと心もとなく存じている。来春はぜひ共全快して登山されるようにと申し送った。
此10月は随分相待ち候処、不レ被レ参候、無2心本1候、来春は自2常陸ノ湯1直に可レ有2来臨1候。はや年よりはて候て、そいたてまつりたく候、相構、自レ湯可レ被レ来候(宗全二P209)
次の1通は奥州菊田(多)荘の住人菊田四郎兵衛に宛てた年次不明10月25日付の消息である。これによると日郷は奥州にいたが病気になり「さばくの湯」で2週間ばかり湯治に行くからそちらの信徒たちに世話をしてくれるよう申し送ったもので、又、おくにて□□□□□さいしやうのあさり、いたわりがをこり候て大事に候ほどに、さばくの湯へまかり、二七ばかりは候はんずらん、それらに候らん法花衆たちに、さうじさせ候べく候、さうへいじ、せい三郎とてほっくえしうのありげに候、さうじの事おほせ候へ(同上218)
富士日興上人詳伝は、この2書を大体同時のものとして関係づけて理解し、従って奥州磐城の菊田に存在する菊田四郎兵衛の近辺にあるさばくの湯と、常陸の湯と同一と見たのである。さばくの湯は俗に磐城の湯と呼ばれており、奥州と常陸の国境の勿来関の北約20キロばかりのところにある。勿来関は白河の関、念珠の関と共に古代の三大関で奥州と分かつ関門として名があり、平安朝後有名無実のものとなってからも歌枕につかわれた有名関であった。この勿来の関は菊田郡の南端いあり、この地より約20キロ北に湯本温泉がある(現在は磐城市)。ここは古来より温泉として聞こえた所で数十所熱泉が湧いている。この湯本から西南約4キロの地に三箱山という大山があり、この山下に温泉神社があるこの神社は延喜式によれば磐城郡七座の内にあげられており(神名の下)現在は遷座して湯本にある。日本社寺大観によると暦応3年(1340)9月、温泉山(湯ノ獄・観音山・三箱山ともいう)の山の下にあったのを山腹に遷し、明和4年(1767)更に現地に遷座したという。大日本地名辞典は「観跡聞老志」を引き「温泉神社は山下にあり、佐波古御湯是なり」と始めの温泉神社の所在と温泉のことを記し、佐波古の御湯は俗に磐城の湯として知られている、とのべている。捨遺和歌集巻七、物名のもとに次の歌がのせられている。 
さばこのみゆ  読人しらず
あかずして別るる人の住里は さばこのみゆるやまのあなたか  (八代集上 P453)と読まれ、この湯の名が古くから知られていることを物語っている。
ところで、前掲の日目の菊田四郎兵衛にあてた書状には「おくにて□□□□□さいしやうのあさり、いたわりがをこり候て大事に候ほどに、さばく湯へまかり」とある。すなわち、菊田の住人と思われる人に、さばくの湯に入湯する日郷の世話を頼んでいるのであるが、この文で見れば日郷は当時奥州にいたようである。日目の日郷あての書状によれば日郷は安房の吉浜を弘法の根拠として常駐しており、安房と駿河の間は海路を用いて往来していた。年次不明10月14日の書状には「仰遺し候書、遺し候、渡海おぼつかなくて候て皆は遺はせず候」(同上P207)といい、また年次不明5月2日の状には「海路の間、殊なる事なし云々、抑も安房国は聖人の御生国、其上、二親の御墓候間我身も有度候へども、老体の間其儀なく候所に、御辺居住候へば喜悦極なく候」(同P208)と日郷が聖人の御生国であり御両親の墓のある安房国に住していることを喜んでいる。その日郷が「おく」に行き伝道し病気になったのでさばくの湯へ行き湯治をしようと思うと日目に報じた。そこで日目は湯治の世話をたのんだのである。日目は「おく」を奥州(P204・223)おく(同214・220・227)、奥州の信者を「おく人」「奥人」(P212・215・226)といっているが、おそらく「おく」というのは特に自身教化の地である登米郡を中心とする新田・三ノ追・加賀野・宮野等の地域(宮城県北部)をさすものであろうし、この地へ日郷が往環していたことが知られる。
以上の2通を熟読するとはじめの消息は以前より常陸の湯にあった日郷が療養をおえて10月には帰ってくると思ったのに来山することができなかったので、来春の登山を期待した文であり、このころ日興は重須本門寺にあって健在で、日目は近くの大石寺に住し同寺を往来していたと思われる。次の菊田宛の書状はこれとは全く別の時のもので、さばくの湯に2週間ばかり湯治をするからその世話をたのんだ書状である。菊田郡と常陸の湯を知っている日目が、奥州と常陸を混同するとは到底考えられぬところ所であり従って、堀日亨師の「常陸の湯」と「さばくの湯」を同一視しまた、さばくの湯は湯本温泉のことであると断じているのは、平賀本の奥書・稲田師の説と共に妥当な論とはいいがたい。
次に常陸の湯について見ると常陸国には温泉は極めて少ない。中世の温泉としては久慈郡の西北にある袋田と那珂郡加久良井(隠井)が知られているが、両温泉共に加熱して用いる。日本地名大辞典によると袋田の近くに近ごろ開発された熱泉(97度)があり当国隋一の新温泉となったというが中世にはなかったものである。常陸の湯は湯本やさばくのように一般に知られた湯ではなかったのであろうが、土地の人、乃至その存在を知る人にはその温泉の効能はよく知られていたものであった。くりかえすようであるが、さばくの湯は常陸の湯に近いところにあるが勿来の関をこえた奥州磐城郡の地にあって常陸の湯とは全く別箇のものであり、さらに諸書が常陸の湯を下野国の那須・塩原と考え・特に聖人が中風を病まれ、これを治療するためにおもむかれたとする如きは、全く根拠のない所説である。 
隠井南部氏の常陸移住について
南部実長は甲州飯野御牧にある波木井郷に住したので聖人は地名によって波木井と呼ばれたことが多い。従来往々にして実長は飯野・御牧・波木井の領主であると誤解されてきたが、この点についてかつて詳細に論及したことがある。しかし今回熟覧することのできた妙徳寺所蔵の加倉井系図には「領甲州巨摩郡飯野御牧、住波木井郷、因地為姓」と正確な地域が記されていて諸伝に見ない確度の高い伝承が記してあるが、飯野御牧全般を領した、とするのは少しく誇張されている。それはまずおいて、実長には4人の子息があって、諸系図及び南部家の文書其他を勘案するとの
実長 ー 総領 実継 六郎二郎 次郎   清長
ー次男 実氏 弥三郎   六郎三郎  家長
ー三男 祐光 孫三郎   六郎四郎  光経
ー四男 長義 弥六郎           法名日教 
上段系譜のようである。
次郎実継は2代をつぎ、3代長継そのあとをうけたが、元弘・建武の頃、更に南北朝時代には宮方に属し、波木井南部の一族の大半をあげて京都に馳せ、また転じて奥州に戦い、4代師行は奥州にあって北畠顕家を補佐し、国司代として活躍、5代政長、6代信政、7代信光と相次いで南朝方に與し忠誠を尽くし陸奥に強大な勢力を伸張した。南部氏はかくの如く奥州に殆ど全勢力をつぎこんではいるが、あくまで本拠は甲州波木井にあって波木井南部宗家として奥州分遺という形をとっていた。師行とその兄弟時長、政長が元弘3年(1333)甲斐国南部郷、内ノ村の地に関して訴訟して勝を納め、5代政長(師行の弟にして跡をつぐ)が後醍醐天皇より軍忠の賞として甲州倉見山の領を7代信光は正平22年(1360年)正月20日、甲州に帰り前例に準じて正月礼を波木井城において催しているし、またこのとき同国神郷の神大和守が攻めてきたので撃破して敗走させ、その功によって神郷半分を領せしむべき旨を蒙っている如き、宗家の本據はあくまで甲州にあったことを物語るものである。
さて、実長の所領は波木井郷、南部郷の一部と其他数ヶ所であるが、まず、実継は総領職をつぎ、三男祐光と四男長義は波木井に居住し、祐光は西谷・船原・小田等の地を、長義は宮原・杉山・原等の地を領した。南部一族が京・奥州に活躍している頃は長義の子長氏が波木井郷の実質上の総領職の権限をもち波木井氏を称し身延山5世日台、6世日院を一族より任じ身延山を支配する実権をもつに至っている。
次に次男実氏であるが、実氏は波木井に止まらず、常陸隠井に移っている。現存する南部氏族の系譜はそれぞれの系脈を伝えているが、全般的にわたる系譜はなく、概ね南部嫡家実継流、即ち八戸南部、のちの遠野南部を記すもの、長義流波木井氏のみのもの、祐光・長義二流をしめすもの、実氏流即ち隠井南部のち加倉井氏のみのもの、にわかれている。身延に伝えられるものは長義流・祐光流のものが多い、これは嫡流が南北朝合体後、奥州に定着したこと、常陸に定着した実氏流と交渉をもたなかったことなどによって波木井の長義流から忘れられ、しかもこの波木井流も戦国末期には逼塞して波木井の一土豪として余喘を持つ状態となり終わったことなどから、皆それぞれが各地に独立した系譜を持つようになったのであろう。
さて実氏は常陸国隠井に赴き、母妙徳と共に住した。この地は実長の所領で、実氏はその得分親として譲られたものと見るべきである。妙徳寺の所伝によれば、八幡太郎義家が永承六年、奥州征伐の際この地を通りかかり(実長の父光行より4代前の新羅三郎義光の兄)、このとき大きな湖を見てその水源をたずねたところこの温泉を見つけた。すなわち清泉洋々、これを掬するに温度あり、これを味て鉄素あり、ここの於て義家は命じて欲水に用いるに霊妙最も甚だしかった。よって義家はこの傍に陣中守護の八幡大菩薩を杞ったのであるが、里人はこれを隠井八幡宮と称して敬信し現在も隠井八幡、水原八幡、八幡池、八幡森の名を残している。なおこの近辺には義家に関する地名をのこし、多くの伝承を伝えている。更に寺伝は建治2年、日蓮聖人の弟子中老僧帥公日高がこの地に弘法し、百座説法を行ったが、のち永仁元年3月、南部実長の子息弥三郎実氏この地に至り住した。母妙徳は嘉元2年5月25日に没したので、百講の遺跡に一宇を創して妙徳寺と号し日高を開山としたと伝えている。
日高は帥公・帥阿闍梨と号し、太田佐衛門尉乗明の子、下総国中山の生まれである。18才の時宗祖の門に投じ行学に精進し、入滅の時の葬送には後陣の弁阿闍梨日昭のもとにつらなっている。永仁7年(1299)3月、若宮法華を日常(富木常忍・常修院)より譲られたがさらに中山にある太田の館を改めて本妙寺を創し、ここを本拠として若宮法華寺を兼ねた。妙徳寺は開山日高、二祖日暁、3世日用を経て4世日永の時、応永4年河和田城主江戸通房の乱によって兵火にやけ、応永12年に5世日通の時、現地に再建した。
隠井南部氏は
初代実氏 正中2年3月23日没
2代長義 弥六郎文保2年4月2日(成沢加倉井系国ナシ) 法号道林・母妙印
2代実行 弥太郎延元元年 6月8日
3代実宗 弥二郎貞治3年10月5日
4代通久 弥太郎郎 長茂、姓を加倉井ト改ム、父母妙用・妙徳ノ為、妙用寺・妙経寺を建、応永33年2月1日没
5代幸久ー6代直久(下略)とつづき、4代通久は初め長茂と称し対馬守に任じているが、この時に隠井南部氏は加倉井氏を称するのである。また5代幸久の時亨徳4年(1455)3月12日妙徳寺を改築し、同康正元年(亨徳4年7月25日・改元)11月5日入仏式を行っている。
妙徳寺霊宝目録によれば
1、御本尊 壱幅日蓮上人御真筆
1、御消息 2通 日蓮上人真筆
1、御本尊 壱幅 中山祖日常上人筆 永仁元年巳10月12日、当寺開基弥三郎へ授与
1、御本尊 壱幅 当寺開基日高上人筆、乾元2年卯8月12日、開基弥三郎の息女授与
とある。
これら霊宝については本年(昭和45年)9月12日に同寺に登旨して委細に拝見した。宗祖御真筆の消息2通というのは継簡2行1幅、計2幅と日高本尊「乾元2年8月12日 藤原氏女授与之」とある1幅、この3点は正しく正筆である。藤原氏女を同寺では実氏の息女としているが、実氏は清和源氏で藤氏ではない。或いは2世弥六郎長義(1本には欠)の母妙印、即ち実氏の妻が藤原姓であったのでこれをうけているのではないか。従ってこの本尊は従ってこの本尊は実氏の息女へではなく、実氏の妻女に授与されたものと見るべきものと思われる。同寺旧境内地に七面山という小丘がある。いまゴルフ場の一部になっているが、明治28年の同寺の記録によればここに小古墳があり発掘したところ、石棺には大小7枚、大は2メートル半ばかりのもの3枚とその半分ぐらいのもの4枚よりなり、棺中に金環1、古銅銭箱筒があったという。慶応元年の発掘で、明治21年古跡調の際、内務省へ報告した旨を記している。現在では妙徳尼の墓といわれているが、同記録には古墳と記しており、妙徳尼の墓であるならばその旨を記すであろうし輕々な措置をとらなかったとことと考えられる。但し妙徳尼の墓として似つかわしいから、しらずしらずの間に同尼の墓と訛伝されるようになったものであろうか。又、同寺の旧入口に2メートル余の宝塔があり、これは先の石棺の一枚を供養塔としたものだと伝えている。しかしこの宝塔は同寺45世日空が深谷政二郎の寄進によって天保13年(1842)に建立したもの、発掘より23年前のものである。ただ建立と発掘の年月が近かったにので石棺とこの大石が同一のものと伝えられるようになったのであろう。 
波木井殿御報の「常陸の湯」について
さて、聖人は身延より池上までの旅を実長一門の警護によって無事にすませ安着された。
みちほどべち(別)事候はで、いけがみまでつきて候、みちの間、山と申かわと申そこばく大事にて候けるを、きうだち(公達)にす譲らせまいらせ候て難もなくこれまでつきて候事、をそれ入候ながら悦存候(定1924)この道中のとまりを身延11世日朝の元祖化導記を或記として古記録をあげている。9月8日に出発、その日は下山の下山兵衛四郎宅、9日は大井の大井庄司入道宅、十日は曽根の曽根次郎宅、11日は黒駒、12日は河口、13日はクレジ、14日は竹ノ下、15日は関下、16日は平塚、17日は瀬野(瀬谷)、18日は池上安着と記している。この旅に隋遂した「きうだち」を古来実長の子息、実継、実氏の兄弟と解しているが、おそらくこれは実継等兄弟を相変わらず年の若い公達と考えていたからであろう。しかしこのころの次郎実継は42・3才になっているから実継を長兄とする兄弟は40前後の当時の通年からすれば壮年・初老である。したがってここにいう公達は実継兄弟たちの子供をいうのでなければならない。弘安4年11月に身延の大坊、すなわち十間四面の久遠寺大堂が建立されるが、まず僧衆等の居住する小坊ができ、次に厩がたち、11月8日に柱立てがおこなわれた。この建築の基礎工事や棟上げについて聖人は当時鎌倉在勤中であった実長に
次郎殿等の御きうだち(公達)をやの仰せと申、我心に入れておはします事なれば、われと地をひき、はしらを立て、とうひやうえ・むまの入道・三郎兵衛尉等己下の人々一人もそらくのぎなし(定1895)
と報せられている。実継の子長継はじめ実継の弟実氏・長義等の子息たちは或は20才前後の若者もいるし、10才前後の幼い児たちもいたと思われる。これらの公達が「親の仰せと申し、我と心を入れておはしますことなれば」と親達のいい付けもあり、また自分からも進んでこの大堂建立に力をそえて一日も早く出来上がるよう、また家臣の藤兵衛・右馬入道等、及びその子息たち、波木井の一族家の子郎党や、お弟子・稚児たちが奉仕に加わり、山をくずし、谷をうめ、もっこをかつぎ、地をならし、また、柱の基礎づくりや石突や柱をたて梁をあげる時には皆がともどもに引綱をもち、綱引唄に調子をあわせて引張るときには、大人たちの間にまじって引きづなにつかまり、秋晴れのそよ風に髪をなびかせ顔を真っ赤にして一生懸命にひっぱっている幼い児たちも思いうかべられる。
藤兵衛とは日興の本尊分与張に波木井藤兵衛入道とあり、八戸家系に記す実長の傳臣三上藤兵衛富助の子藤兵衛長富のことで波木井に住したので波木井を称したのであろう。右馬入道は八戸家系に記す南部福士に住する福士右馬允忠隆の子右馬入道長忠、三郎兵衛尉は本尊分与張に波木井弥三郎兵衛入道といい八戸家系にのす橘三郎兵衛光朝のことをいうのであろう。これらの人々が、聖人の身延下山に際し長継たち公達に隋って聖人を警護していったのである。常陸の隠井は実長の所領であり、その鉱泉の湯は胃腸病に特効のあることは実長の知采しているところであったろうし、南部一族有縁の者がその地に住していたであろうことも当然推測し得ることである。熱海・箱根の湯は聖人も諸人もよく知られた所である。しかもこれらをさけてわざわざ遠くて不便な常陸の湯を目ざされたのはこれらの地が北条一門の領有或はその近くに所在しているから、彼等を刺戟したり、無用の摩擦をおこすことをさけ、心身共にくつろいだ療養を望まれたからであろう。実長が屈強な若武者となっている孫たちを中核とする一門郎党を隋遂給仕させたのも、道中の護衛もさることながら、隠井に赴いてからの聖人身辺の警護も留意したからにちがいない。
さきにものべた如く、常陸には袋田・隠井の温泉があるところで袋田温泉は依上保内にあって中世ではでは磐城郡に入っていた時もあった。大日本地名辞書には依上保内は久慈郡西北、諸富野・下川・上小川・代田・生瀬・大子・依上・黒沢・宮川の9ヶ村で或時期には白河の東南に高野郡という新しい郡を設け、依上はその郡内に入ったといい、永正(1500ごろ)年間以降に常陸の国那珂郡に入ったと記している。この依上は常陸最北部那珂郡の西南の突出部で、磐城か常陸かは、その時々によって判然としなかったかも知れぬ。こうした点より考えれば或はこれをも常陸の湯と称したかも知れないが、聖人が療養されようとした地は南部領隠井の外は考えられぬところがある。日郷の療治した常陸の湯については明白にすることはできぬが、地理的条件、隠井南部氏の移住、教団的・宗教的条件から聖人の目ざされた「常陸の湯」は隠井温泉とすべきで、前述した岡教邃氏・井上恵宏の推測は妥当であると考える。 

1 中務左衛門尉殿御返事 定1524
 兵衛志殿御返事 定1525
 兵衛志殿御返事 定1507
2 四条金吾殿御返事 定1600
 兵衛志殿御返事 定1606
3 八幡宮造事 定1867
 桟敷女房御返事 定1860
 老病御書 定1896
 上野殿母尼御前御返事 定1897
4 御遷化記録 宗全二P101
5 拙者 舜統院真迢の研究 波木井南部氏事跡考所収
6 中世には菊田荘・菊田郡といい陸奥国磐城郡にある皇室御領であった。  後宇田院御領目録に荘名が見えている。富士日興詳伝に菊田郡は常陸  国北部菊田郡の地名で明治29年磐城国に入れられたとするは年次が  混乱されている。
7 日目譲状 宗全二P203
 日目伝 同二P4
8 拙者 波木井南部事跡考 P136
9 同上 P123以降
10 南部家文書 3号・12号・13号
11 同 12号 後醍醐天皇論旨
12 同 59号軍忠状 60号 後村上天皇論旨 八戸家伝記 八戸家系
13 秋山氏本南部系図 拙者前掲書所収P119
  長氏 与日院書 宗全一P200
14 拙者前掲書 実長の子息について P118
15 同 P166
16 日常置文 宗全一P189 日高置文宗全一P48 
  日蓮教団全史P83・158
17 妙徳寺由緒・妙徳寺暦譜
  また天正12年の棟礼には日通代の棟礼の写を記しているが、これに
  「御入仏応永12年2月20日彼岸之初日」とす。
  福島日偉著 妙徳寺常陸の湯顕彰 P158
18 加倉井系図(妙徳寺所蔵) 隠井系図(成沢加倉井茂夫蔵)
  高祖年譜攻異 正嘉元年条(全書本P40)
  福島日偉著 全掲書 P79
19 妙徳寺棟礼 現存 常陸遺文所収
20 拙者全掲載書 P183 
 

 

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