鎌倉室町の日本

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歴史物語 [南北朝][室町時代]祇園祭を見た宣教師
 

雑学の世界・補考   

鎌倉時代の布教と当時の交通 / 原勝郎

鎌倉時代の布教と當時の交通佛教が始めて我國に渡來してから、六百餘年を經て所謂鎌倉時代に入り、淨土宗、日蓮宗、淨土眞宗、時宗、それに教外別傳の禪宗を加へて、總計五ツの新宗派が前後六七十年の間に引續いて起つたのは、我國宗教史上の偉觀とすべきものであつて、予は之を本邦の宗教改革として、西洋の耶蘇紀元十六世紀に於ける宗教改革に對比するに足るものと考へる、其理由は雜誌「藝文」の明治四十四年七月號に「東西の宗教改革」として載せてあるから、詳細はそれに讓つて今は省略に從ふ、併ながら講演の順序としては、此等各宗の教義の内容に深入せぬにしても、少くも此等の新に興れる諸宗派を通じての一般の性質を論ずる必要がある。王朝から鎌倉時代に遷つたのは、一言以て之を被へば、政權の下移と共に、文明が京都在住の少數者の壟斷から脱して、地方の武人にも行きわたるやうになつたのである、勿論この政權の下移に際して、眞の平民即ち下級人民までが政權に參與することを得るやうになつたと云ふ譯ではなく、寧ろ單に器械として使役されたのみに過ぎないので、從て移動のあつた後といへども、依然としてもとの下級の人民であつた、然れども既に社會の中心が政權と共に公卿から武家に下移したる以上、下級人民の立場から云つても、やはり社會の中樞に一歩近づいた譯であつて、社會史の上から論ずれば、下級人民の地位の比較的改良である、換言すれば鎌倉時代に於ては、王朝に於けるよりも、下級人民といふものをより多く眼中に置かなければならなくなつたのである。
時代の趨勢既に此の如くであるから、之に適應する爲めには、文明のあらゆる要素が、いづれも狹隘なる壟斷から離れて普遍洽及のものとなつた、殆ど佛畫に限られ、稀に貴顯の似顏を寫す位に止まつて居つた美術も、鎌倉時代に入ると、多く繪卷物の形に於てあらはれ、單に浮世の日常の出來事が畫題の中に收めらるゝに至つたのみならず、美術の賞翫者の範圍も亦大に擴がり、文學は文選の出來損ひの樣な漢文から「候畢」の文體となり漢字假名交りのものを増加した、但し藝術も文學も文明の要素としてはいづれも贅澤な要素であつて、生計に多少の餘裕あるものでなければ、之を味ひ娯むことが出來ぬ、であるから予と雖、鎌倉時代の水呑百姓が今日の農民の如く文學の教育もあり美術の嗜みもあつたとは思はぬ、然るに宗教は之に反し、當時の樣な人智發達の程度に於ては、殊に一日も缺くべからざる精神上の食物であるから、此の點に於ては如何にしても下層人民を度外に置くことは出來なかつた、要するに極めて玄妙にして而かも難解で、見世物としてはあまりに上品で、而かも高價に過ぐる從來の聖道門の佛教では、到底新時代の一般社會の渇仰を滿足せしむることが出來ず、必や下級人民をも濟度することの出來るやうな宗教が起こらなければならぬ、爰に於て此必要を充足する爲めにあらはれたのは、前に述べた易行門の諸新宗である、尤も易行門と普通に云へば多くは淨土門の諸宗派を斥すので、日蓮宗は天台の復興とこそ云へ、簡易佛教とは自稱して居らぬ、けれども日蓮宗の大體の性質から云へば、やはり鎌倉式の易行宗に似た所がある、また禪宗の如きも教外別傳と云ふからには、爾餘の鎌倉佛教と同日に論じられぬものの如くにも見えるけれども、其手數を必要とせず、つまり直指人心で、階級制度に拘泥することなき點に於て、慥に天台眞言などよりも平民的なるのみならず、悟入につきて豫備の學問を必要なりとせぬこと、正に新時代の宗派である、唯禪宗が不立文字を呼號しながら其實は立文字の極端に流れ易く、それ故に其感化は武士に止まつて、それ以下の下級人民にあまり行はれなかつたのは面白き現象といはなければならぬ。
因みに斷はつて置くが、前に鎌倉時代の文明の特徴として論じた諸の點は同時代に至りて始めて生じた者ではなく、其實は王朝の末に於て既に端緒を啓いたものである、但し機運の熟さなかつた爲めに、充分の發達を遂げ得なかつたのが、政治上の大變動と共に、一時に隆興したのである、故に文明史上に於ては、之を以て鎌倉時代のものとする方が寧ろ適當である、元來政治上の變遷と云ふものは必しも他の文明の諸要素の變遷に先ちて起るものではないが、社會百般の事物將に大に變ぜむとして未だ變すること能はず、只管に氣運の熟するを待て居る際に、之が導火線となつて大變動を起さしむるのは、多くは政治上の出來事である、而してかく政治が文明史に多大の貢献をなすは、單に鎌倉に限つた事ではない、古今東西例證に乏しからぬことである。
扨以上論じ來つた所によりて推すときは、文明を構成する諸の要素の中で、鎌倉時代を最もよく代表し得るものは、此時代に興隆した新宗教であつて、文學美術等は之に亞ぐものであることは明である、であるから今「鎌倉時代の布教と當時の交通」と題して一場の講演を試みるのは、實は宗教の流布を説くのみならずして、旁ら之によつて當時の文明一般の傳播せる徑路を辿らむと欲するのである、但し未研究の足らぬ所からして、今は文學や美術に説き及ぼすことの出來ぬのは、予の甚遺憾とする所である。
尚本論に入るに先ちて、いま一つ斷はつて置かなければならぬのは、此講演の論證の基礎とした根本材料の甚脆弱なものであることである、といふのは、予をして此講演をなすに至らしむるについて、最多く暗示を與へたのは、各寺院に存する縁起であるが、凡そ史料中で何が怪しいと云つても恐らくは此諸寺の縁起ほど信用し難いものはあるまい、いづれの寺院も皆我寺貴しの主義に基きて、盛に縁起を飾り立てるのが普通で、中には飾り損ひて、有り得べからざる事實を捏造する向きもないではない、例へば日蓮や法然の生れぬ以前に出來た法華寺や淨土寺もある、中に無學の甚しい僧侶は禪僧を以て門徒寺の開基としてすまし込んだ縁起を作つて居るのもある、よし假りに一歩を讓つて縁起に誤りが無いとしても、生憎僧侶には同じ樣な名稱が多い、即淨土宗や淨土眞宗に屬する僧侶の名は、多くは三部經中の字を繋ぎ合せたものであるから同じ名が屡※出來する、例へば芝居などによく出て來る西念などいふ僧は、實際幾たりもあり得るもので、甲の寺の縁起に見える西念と、同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と、一々異同を甄別することは容易のことではない、また同一の名稱が數多の僧侶に適用することが出來て、甚曖昧なることもある、例へば淨土眞宗に屬するもので常陸の國に居つた順信といふ僧がある此順信の二字の下に房の一字を加ふれば同じく常陸の僧證信の名となる、然るに證信の名ある僧は必しも順信房と號したもののみではない、外に明法といふ僧侶があつて、これも證信といふ號を持て居る、そして尚此外に單に順信とのみ稱する僧侶も別にある、コンナに混雜して居つては到底安心して考證をすることが出來ぬ、然るに此の如き困難は單に淨土宗と眞宗とに於て出逢ふばかりでなく、時宗にもある、日蓮宗にもある、また禪宗にもある、時宗では阿の字の上にいろいろの字を加へて名とする習慣であるから時々重複を免れないが、日蓮宗の方はまた二字の僧名の中で上の一字は日の字と定まつて居るから、區別の用としては二番目の字だけであつて、これも同名異人が多い、禪宗に至つては、一人で同時に三以上の號を有して居るのが珍らしくない、殊に少しエライ禪僧になると隨分長い諡がついて居る、若し丁寧に吟味すれば全く同名と云ふことは殆どないが、其うちの二字だけ書いてある場合には屡※他の名僧の諡號と間違ふことがあつて、之を區別するには非常の手數が入る。
此の如く寺院の縁起を土臺として、宗教史を研究するには種々の危險と困難とを伴ふのであるが、それでも全く之を棄てるに忍ばざるのみならず、之を以て研究の根本材料としたのには、亦多少の理由がある、即個々の寺院の縁起の中には信用の出來ぬものあるけれども、さりとて如何なる縁起も盡く信用の出來ぬと云ふ譯ではないのみならず、宮廷にも出入しない、又幕府の眷顧をも得ない僧侶、及び僻陬にある寒寺につきては、縁起の外何等文獻に記載のなきことが多い、而して其他の場合に於けるよりも宗教界に於ては、此等無名の豪傑の手に成る事業が最も多いのであつて見れば、今講演せむとする問題の如きは、有名な本邦の佛教史籍を渉獵するのみに止まらず、世間に忘れられて居る寺や僧侶をも考察の材料とせざるを得ない、換言すれば此點に於て寺院の縁起も忽にし難い好史料である、唯此史料は甚危險な史料であるから之を採用するには一々査照を要するのであるが、予は未充分に此査照を了へて居らぬ、これは甚殘念のことであつて、而して講演に先ちて告白して置かなければならぬ義務があるのである、但し右の危險を自覺して今日演壇に上つた以上、成るべく安全な推論をなすに止め、あまり大膽な結論をなすのを避けるに力めるから、新奇な名論を紹介する能はざると、同時に大抵は動きのない邊で斷ずる積である、それでも尚怪しい所は更に他日の研鑚による外はないことになる。
隨分冗長に過ぎた前置をして、これから愈※本論にとりかゝる順序となつたが、新興の諸宗の地方に傳播した徑路を探ぐるには、五宗派の中で淨土と禪宗との二宗に徴するのが、最穩當な方法だと考へる、何故と云ふに、鎌倉時代に於て北は奧州のはてから西は九州まで、兎に角當時の日本六十六國の全體に及んだのは此二宗で、其他の三宗は東北方には、いづれも傳はつたけれども西は、京畿附近を限り、偶ま大に西進した所で、中國の西端に止まつて居る、即地方に於て前の二宗よりも多く偏在して居ると云てよろしい、就中日蓮宗の如きは殆ど關東地方特有の宗教としても差支ない程地方的制限がある、されば當時の新佛教の傳播を考察して併せて交通の問題にも及ぼさむとするには、先づ淨土と禪との二宗の場合につきて見る方が至當と云はなければならぬ、因て予は今此二宗の場合から歸納して得た結果を査覈するに他の三宗の例を以てせむと欲するのである。
淨土宗にも禪宗にも共通なる點の第一は、兩宗共に其布教上力を專ら東國に注ぎたることである、これは蓋し文明が毎に西方から始まつてそれから次第に東國に及ぼすことを以て習として居つた我國に於ては、當然のことではあるが、鎌倉時代には此歴史的惰性の外にも、尚ほ別に原因がある、それは即鎌倉に新に幕府が出來たが爲めに日本には爰に二つの中心が成立し、一は京都といふ在來の文明の中心で、これと鎌倉といふ政權武力の新中心が兩々相對立することとなつた、成り上がりの首府なる鎌倉は、文物の點に於て容易に京都と比肩することが出來ず、否遂に比肩することが出來なかつたけれども、しかし鎌倉に覇府が開けた爲めに東國の地位は著しく昂上し、今迄輕蔑して入らなかつた、或は入らうとしても受けつけられなかつた東國地方に、高等なる文物が翕然として流れ込むことゝなつた、而して文明の數多の要素の中でも特に政權を利用し得る性質を有する宗教は、文學や美術よりも一層速に其活動の中心を東方に移したので、相模の鎌倉といふものは彼等にとりては是非とも略取せざるべからざる根城であつた、京都の小天地にのみ跼蹐して滿足し得た時代は既に過ぎ去つたのである。
然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである。
美濃以東に出でた淨土宗の布教僧は、宗祖法然上人の外數多あるが、其主なるものは相模地方まで傳道した隆寛法然弟子と善惠證空同上とである、就中善惠の事業はすばらしいもので、其布教路は中山道を信濃に出て、それよりして南は武藏、北は越後に及んで居り、其弟子隆信(立信)は三河地方に淨音法興は美濃から越前にかけて布教して居る、爰に注意すべきことは、同じく北陸道の國々でも、若狹や越前は京畿の布教圈内に入るが、越後は之と異りて、信濃から往復したもので、全くちがつた方面に屬することである、これは善惠の場合に於て然るのみならず聖光の弟子良忠一派の場合について考へても同じである、聖光は所謂鎭西派の開祖で其人自身は東國に關係を有して居らぬけれど、其弟子なる記主禪師即良忠は、實に善惠以後に於ける淨土宗の東國大布教者であつて、大往還に外づれて居る伊賀、志摩、伊豆、安房の四國を除けば、東海道中いづれの國も良忠か若くは其弟子なる唱阿性眞、持阿良心及び良曉等の風靡する所とならぬはない、否單に海道の諸國許りでなく東山道に於て信濃及び上野、下野、北陸の越後皆此良忠一派の化導を受けて居る、北陸諸國の中、加賀、能登、越中、佐渡は鎌倉時代の中にまだ淨土宗の風化に接しなかつた、これは地勢の不便によると思はれる。
新宗教に特有なる現象として、淨土宗に於ても之を認むることの出來るのは、奧州の布教について割合に大なる盡力をなしたことである、陸奧に入つた淨土宗の布教僧の中には、隆寛の弟子實成房と云ふ者もあるが、それよりも此宗旨の奧州に於ける傳播に與りて大功のあつたのは、源空の弟子の金光坊である、但し此人の足跡は、殆ど陸奧の北端に及んだけれども、遂に出羽には入らなかつた、これは蓋し陸奧出羽兩國間の交通は甚稀で、出羽に入らうとするものは越後よりして進んだからであらう、文治年間の頼朝の泰衡征伐にも、左翼軍をば越後國より出羽の念種關に出でしめ、それより比内まで北上して、それから陸奧の本軍に合せしめたのを見ても、王朝末より以來の北方交通路の有樣がわかる、而して淨土宗の日本海岸に於ける布教は鎌倉時代に在つては、また越後以北に及ぶ遑がなかつたのかも知れぬ。
淨土宗は此の如き布教路を辿り、東國に於て文永弘安の交其活動の盛を極めたのであるが、次に建長の頃より東國に頓に勢を得た禪宗の傳播は、果してどうであつたか之を淨土宗と比較すれば、極めて興味が多い。
抑も禪宗と云ふものは、其宗派としても性質組織大に他の諸宗と異り、其布教も群衆を相手として撫切りをするのではなく、個々の有志者をのみ相手とするのである、從て禪宗僧侶の布教上の活動を批評するには、必しも參禪者の多少のみを以てすることが出來ぬ、加之禪宗の傳播を研究するに別に困難なる事情がある、それは外でもないが、禪宗には他宗と同樣、師資相承といふことがあるのは勿論であるけれど、一人の禪僧で數多の先進に就いた場合が非常に多い、そこで他宗に於けるが如く分明に傳統を辿るのは甚困難であるからである。
禪宗の僧侶で東國に布教した主たる人々は、榮西、道隆、佛源禪師、大休、及び夢窓國師等であるが、一體禪僧と云ふものは、他宗の僧侶よりも一層世間離れがして居りながら、而かも頗る敏活に機微を察し得るものである、そこで鎌倉を取りこまなければ、將來の日本に於ての發展がむづかしいと云ふことは、禪僧の方が淨土宗の人々よりも、一層切實に考へた樣である即彼等の東方に向ふや、其徑路は淨土僧と同じ筋であつたけれど、其道筋を一歩一歩布教しつゝ進んだのではなく、驀地に鎌倉へと志したのである、されば伊賀、志摩の如き殆ど鎌倉時代の禪僧の顧みる所とならざりしこと、淨土宗の場合と同樣なるのみならず、伊勢又は尾張、三河の如き鎌倉街道筋の國々ですらも、禪宗の風化を受くること關東の諸國より後れ、而かも尾、參の兩國の漸次に禪宗の布教を受くるや、京都より東せる禪僧よりは關東よりして西に戻れる禪僧の感化をより多く受けたことは、頗面白き現象と云はなければならぬ、加之なほそれよりも奇妙なことは、後年禪宗界に於て一廉の根據地と目せらるゝに至りたる美濃の如きも其禪宗を接受したのは遙かに關東殊に相武よりも後くれ、近江と共に鎌倉中葉以後のことであつたのは、つまり淨土宗に比べて一層東進の方針の急劇な爲めである。
然らば關東に於ける禪宗は如何なる地方的傳播をなしたか、鎌倉時代に於て關東の禪宗の中心とも稱すべきものは相模武藏甲斐の三國であることは云ふ迄もない、甲斐は京鎌倉間の大道ではないけれど、北は信越を控へ、南は駿河から或は相模から、或は武藏から頻繁なる往來があつたと見え、禪宗の感化早く及んだのみならず、其成効も亦頗る目覺ましいものであつた、されば其甲斐の國に夢窓國師の樣な名僧の生れ出でたのも決して偶然ではない、之に反して一部は鎌倉街道に當て居る伊豆は安房上總と同じく、淨土宗のみならず禪宗の感化を受くることも遲く、且つ薄かつた。
關東に布教した禪僧及び其弟子等は、更に其活動の區域を擴張して信越及び奧州に入つた、即榮西の弟子記外の如きは陸奧の宣教を以て有名であつた、其後では道隆の風化も陸奧の南邊迄は及んだらしい、聖一國師辨圓の東方に於ける活動は甚目覺ましいものとは云ひ難いけれど、其弟子無關は陸奧に入りたりと覺ゆ、又歸化僧なる佛源禪師の如きは、其數化陸奧出羽二國に及んだ、然れども陸奧に入つた禪僧は、盡く佛源禪師の樣に出羽にも入つたのではない、淨土宗の場合に於ける同樣で出羽の禪宗は主として越後から入つたものである。
禪宗中の臨濟と曹洞との二宗派の、地理的分布の大體を述ぶれば、鎌倉時代には東海東山に臨濟割合に多く、曹洞が少い、これは曹洞が臨濟よりも後れて出たので、曹洞の起つた時に此地方には臨濟の地盤既に固まつて居つたからでもあらう、之に反して北陸道には曹洞が多い、即道元永平營山總持瑩山の弟子明峯素哲歸化僧明極等は主として其活動力を北陸道に集注した、但し其徑路に至つては北陸道を若狹から越後に向て順次に感化したのではなく、越前から海路能登に向ひ、それより加賀へも、また越中へも傳はつた如くに見える、これは當時の海陸交通の關係或は之を餘儀なくしたのかも知れぬ、又上述の曹洞の禪僧の中明峯と明極とは、單に北陸道のみならず、陸羽にも宣教して居る、出羽が鎌倉時代に臨濟よりも多く曹洞の影響を受けたのは、これが爲である。
時代を以てすれば禪宗は建長頃より關東に頓に盛にして鎌倉末葉に至るまで衰へず、中仙道は之に後くるゝこと半世紀、奧羽はそれよりも更に早きこと四分一世紀、これまた注意すべきことで、北陸道に至りては、鎌倉末の二三十年間に至つて始めて盛になつたのである。
以上の如く淨土と禪との二宗の傳播の跡を見れば、大に相類似して居る點がある、即布教地として特に關東に重を措いたことゝ、其傳播をした交通路の状態とである、而して此點に於ては五宗中の殘りの三宗も皆同じ結果を示して居るのが面白い、今先づ淨土眞宗から始めて、此原則を適用して見やう。
眞宗の開祖親鸞は京都の人と云ふことになつて居るけれども、眞宗の東方に於ける傳播の状態を察する時は、或はこれは東國の人の起こした宗教であるまいかとの疑を起こさしむる位である、今こそ眞宗と云ふものは京都風な宗旨であること紛ふ方なき樣であるけれど、鎌倉時代には、矢張關東を先きにした、これは親鸞が越後常陸の間に遍歴した爲と云へばそれ迄であるが、其痕跡は淨土や禪と殆ど同一轍である。
越後、下野、常陸の三國を連結した日本を横斷する線は眞宗の發剏線である、此中で常陸の方面が最多く發展した樣に見える、即改宗の當初三十箇年許りの間に、常陸から下總、武藏、甲斐、相模と云ふ順序に海道筋を押し上つて三河に活動の大勢力を集め、一方に於ては越後から信濃に入り、美濃を犯した、これが即眞宗西漸の始である、然らば此時代に東國の布教に從事したものは誰かと云ふに、これは甚だ答へ難い問題である。
何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである。
爰に看過すべからざることは眞宗が三十箇年許り東國に盛に流宣して後、暦仁頃からバツタリと其活動を停止したことである、最も之と同時に近江、美濃、越前、加賀、能登、越中等に於ける盛なる傳道が始まつたのであるから、眞宗が全く活動を止めた譯ではなく、唯關東に於てしたのを、方面を替へて中山道に北陸道に移したものと云ふことも出來る、然るに奇妙なことには、此眞宗が活動を停止した跡へ、同地方即東國に日蓮宗の興隆したことである、日蓮宗の興隆の爲めに眞宗が之を西に避けたのか、或は眞宗が西に向つた空虚に乘じて日蓮宗が傳播し得たのか、其邊はなほ詳に研究して見なければ分明せぬ。
中山道から北陸道にかけて布教した眞宗の僧侶の重なるものを擧げれば、爰にも眞佛及び其派が中々働いて居る、其外には覺如及び其弟子宗信、覺善、覺淳、慶順、乘專、存覺、并びに善鸞法善など云ふ人々である、而して眞宗の氾濫的布教は、飛騨をも度外に置かなかつたが爲めに、越中から之に宣教師を進めて居る、要するに此地方に於ける眞宗の宣教の盛時は覺如以後と見て大なる誤はない。
何よりも不思議の念に堪えぬのは今日本願寺の所在地たる京都及び其附近の諸國、即所謂近畿に於て眞宗の弘布したのが、鎌倉時代の末十年間であることである、最も其以前にもポツポツ眞宗の寺と云ふものが見えるが、其數は甚少く、擧げて云ふに足らぬ程であつて、正中頃から漸く、活動らしい活動を見るのである、これは主として存覺の弟子なる佛光寺の了源の力である。
日蓮宗に至りては其東國的宗教であること甚明瞭なもので、其傳播の著るしい地方と云へば、關東の八ヶ國に、駿、甲、豆の三國を加へたものであつて、遠江に入ると、其跡甚急に薄くなる、而して此東國地方に於ては文永の末から正應の末にかけての二十年間を以て最活動の盛な時期とするのであるけれども、其以後とても此範圍内に於ては、殆ど弛みなく其活動を持續して、以て鎌倉の末に達して居る、而して此地方に主として盡力した僧侶は宗祖の日蓮を第一とし、日昭、日朗、日頂、日向、日興、日持、日位、日辨、日朗の弟子日像、日善、日像の弟子日源等である。
而して日蓮宗も亦前の三宗と同じく北陲の感化に尠からず注意を持つた、即日蓮の直弟子では日辨が磐城に同日興が陸中まで、日目が陸前に入りたるを首として、日朗の弟子日善の又弟子日圓が岩代に、日持の弟子日圓は磐城に、日向の弟子の日進のその又弟子の日榮は岩代に入いつた、傳説によれば日蓮其人の感化も既に岩代の一部に及んだとのことである、が、それは信ぜられぬとしても、兎に角日蓮宗が東北地方に力を盡くしたのが明である、羽前へは日昭の弟子の日成と云ふ者が入つて布教したが、これも以前の場合と同じく、越後からして進だので、陸奧から入つたのではない。
北陸道では日蓮宗は他の宗旨と少しく異つた徑路をとつて布教して居る、これは日蓮が佐渡に配流せられた爲めであるので、一方に於ては北陸道を西から東に進んだものもあるけれど、又佐渡や越後からして海路をも利用し越中、能登等に布教した者もある、此後者のうちで重なるものは、日蓮の直弟子では日向、日乘等で、又弟子では日進の弟子の日榮の越前に赴いたのも、日印日朗弟子の越中に布教したのも、日印の弟子の日順日暹の越中に布教したのも皆此順路によつたものと見える。
日蓮宗が京師に入つたのは、日像が永仁年間に傳道したのが始まりで、夫より鎌倉時代の末まで、振はず、衰へずに續いて居る、東方から京都へ入るのに、遠江、三河、尾張等を殆ど素通りにして、眞一文字に京都に突入したのは、日本に於て宗教として勢力を得るには、どうしても京都と云ふ文明の中心を陷れなければならぬと云ふことを、純粹に關東式なる日蓮宗すらも感ぜざるを得なかつたが爲であるらしく考へらるゝが、此時代と兩統迭立の始まつた時代と大差なきことを考へ、而して兩統迭立といふことは、必しも關東の希望ではなく、寧ろ關東の方から讓歩したものとする時は、此日蓮宗が京都に入つた永仁正安の頃といふものは、鎌倉開府以來勢力を失て居つた京都の、日本の中心としての價値が、丁度此頃に回復されたものとも考ふることが出來るので、氣運の變遷から觀察して鎌倉時代史中の一段落と認むることが出來る樣にも思はれる。
日像の京都に於ける活動の影響は、他の畿内諸國には及ばなかつたが、丹波から若狹を經て越前、加賀、能登迄日像自身が巡錫した跡が見ゆるのみならず、其弟子の乘純及び日乘の能登に於ける、日禪の若狹に於ける布教、いづれも同系統に屬するものであるして見れば京都のみならず、中山道、北陸道に於ける日像の功績は、顯著なるものである。
五宗中最後に現はれた時宗に就いて之を考察しても、前に掲げた原則の尚誤らざることを示すに充分である、一遍上人の一宗を建立したのは、近畿に於てしたのであつて而して此宗旨は、遊行宗と稱する程あつて、遍歴化道を主として、千里を遠しとせず邊陲の地までも普く及んで居るけれど、其主なる布教地は矢張關東諸國であることは、二祖たる他阿眞教及び同じく一遍の弟子たる一向上人の活動を見ても明かに分かる、又奧羽に於ける時宗の布教は、其遲く起こつた宗旨の割合にしては、中々盛で、宗祖一遍自身は磐城岩代から陸前邊迄遊行して居るのみならず、二祖眞教も磐城殊に岩代に布教し、二祖の弟子其阿彌は陸中邊まで、湛然は陸奧の北端まで行つて居る、其外一遍の弟子の宿阿尊道といふ僧も陸中邊まで巡錫した、又五祖の安國上人は磐城より陸前迄遊行した、其外時宗の僧侶の出羽に多く入つて布教したことは、他宗の遠く及ばぬ所で、一向上人が岩代から羽前にはいつたのを始めとして無阿和尚、辨阿上人、崇徹、礎念、證阿、向阿等羽前地方に活動して居る、而して此等の僧侶が他宗に於けるが如く羽州に入るに越後よりせずして、岩代より直にせるのは、蓋し遊行の名に背かず、天險をも事とせずして、布教し廻はりしことを徴するに足るものである。
以上は畿内以東につきて觀察した所のものであるが、今にも述べた通り新宗教は、主力を東國に注いだのであるから、畿内以西に於ける布教的活動は其盛な點に於て到底東方と比べものにならぬ、然れども西國はまた西國で、其布教の徑路の研究に面白い點もあるから、一通り之を述べる必要がある。
東國を説明した順序に從つて、先づ淨土宗から始むれば、京師以西には淨土宗が布教上大に重きを措いたと云ふ譯ではないけれど、元來西國は之を東國に比して、京洛文明の影響を被つたこと久しく且つ深いから、源空の新宗教は自ら西方に傳はらざるを得ぬ次第である、けれども其傳播は當時の交通の關係によつて規定せられて居るのは已むを得ざることで即山陰道では、丹波は直接に京都の波動を受けて居るけれども、丹後から以西伯耆に至るまでは、鎌倉時代を通じて殆ど淨土宗の侵略を蒙つて居らぬ、山陽の播磨は猶山陰の丹波の如きものであるが、美作源空の出生地から西備中に至るまでの間も、山陰の丹後以西と同じく淨土宗の感化を受けて居らぬ、南海道の紀伊は播磨と同樣であるが、四國に於ては讃岐と伊豫に淨土宗が傳はり、これと前後して向ひ側なる山陽道では備後に傳はり、備後から更に出雲、石見に流布して居る、聖光の弟子良忠が中國に布教した時は、まさしく此徑路によつたものである、又九州に於て豐前の淨土宗は論ずるに足らぬに反し、豐後に於ける傳道の跡見るに足るものあるのは、豐後の佐賀の關が伊豫の佐田岬と相對し、兩國の交通が甚頻繁である爲めで、此等と中國の例并びに北陸の例を併せ考ふれば、當時の布教は必しも陸地傳ひにのみ進んだものでないと云ふことが分かり、從て當時の日本の主要なる交通線の中には海路も少からず含まれて居つたことが明になる。
然しながら九州の淨土宗の主なる活動は、此伊豫から豐後に渡つたものではなく、鎌倉時代の始に於て筑後の善導寺を根據とした聖光及び其弟子蓮阿等の努力によるのである、これが筑前、肥前、肥後と擴がつたが、日薩隅の三州には新宗教の布教者は足を入るゝことが出來なかつた樣に見える。
禪宗の山陰道に落莫なるは、淨土宗の場合と同じである、して見れば、丹後、但馬、因幡、伯耆の四ヶ國は、京都から左程遠くないにも拘はらず、鎌倉時代には天然の不便から、自ら別境をなして居て、一般に注意を惹く度に於て、奧州などにすら及ばなかつたのかも知れぬと思はれる、唯山陰道に於て禪僧の活動として見るに足るものは、法燈國師の弟子の三光國師の、鎌倉時代の末に出雲に活動したことのみである、山陽道は京都から九州に通ずる大道であるけれども、淨土宗の場合に於て見えたと同樣、當時は九州に赴くに主として海路を利用したものゝ如くで、播磨を除いて、其以西備中までは、あまり禪宗の影響を受けて居らず、備後以西に於て始めて其痕跡を見る、三光國師も淨土僧と同樣備後から出雲へ入つたらしい、宗派から云へば播磨には臨濟も曹洞も混入して居るけれど、備後以西は臨濟のみであつた。
南海道の禪宗と云へば紀伊の法燈國師の外、伊豫に傳道した聖一國師の弟子の佛道禪師、并びに南山士雲、寒岩義尹あるのみである。
九州に於て禪宗が他の宗旨に比べて一層の盛況を呈して居るのは、これは蓋し博多が當時支那との交通の要路にあたつて居る所からして、渡唐僧や歸化僧は、多くは暫く爰に滯留し、從つて、九州の禪宗は必しも京都の方からの布教のみによらずに傳播した爲めであらうと思はれる、であるから九州で禪宗の最流行したのは筑前、其次は豐後で、肥前、肥後はまた其次に位して居る、九州の布教に盡力した禪僧の有名なものは、先づ榮西を第一として、その外聖一國師、大應國師、南浦南山士雲、及び寒岩義尹などである、寒岩は南山士雲と似て、東國をも風化したのみならず、西國にも巡錫して居る、即南山同樣伊豫に布教し、それから九州に渡つた、但し南山は肥前筑前に傳道したけれども、寒岩は其弟子鐵山等と共に、專ら豐後、肥後の布教に盡力をした、されば禪宗が豐後に盛で、隣りの豐前に寥々として居るのは伊豫からの交通の關係から怪むに足らぬのである、而して寒岩は道元の弟子であるから、豐後と肥後とには筑前に比べて曹洞が多いのである、其外大應は主として力を筑前に注いで居る。
時代を以てすれば、九州の禪宗は仁治建長の間筑前に盛に、豐後より進んで兩肥に及んだのは、鎌倉の末六十年位の間のことである。
眞宗が京師以西に及ぼした影響は、頗る稀薄な状態で鎌倉時代を終つた、但しこれはさすが氾濫的傳播濫的傳播」]をなす宗旨だけあつて乘專の如きは近畿布教の序に但馬へも入つた樣である、しかし因幡や伯耆に眞宗が殆ど入らなかつたのは、淨土や禪と同樣である、山陽道に於ては播磨に少しく入つた外にはやはり備後を中心として備中安藝の二國に及んだのみである、此眞宗の備後に於ける布教は專ら親鸞の弟子明光光昭寺開山の盡力によるもので、明光は眞宗には珍らしく遍歴布教をした人である、單に山陽のみならず、山陰の出雲も亦明光の手によつて眞宗の教化に接した、而して此明光のとれる布教路が、淨土宗及び禪宗のとつた布教の道筋と符合して居るのは甚面白いことである。
四國では眞宗の波動の及んだのは阿波と伊豫とのみであると斷言して差支ない位で、それも影響が甚少い、そしてこれもやはり明光の宣教の力による者の如くである、九州で鎌倉時代に眞宗の入つたのは殆ど豐後のみであるが、これも伊豫との交通の結果である。
日蓮宗でも山陰布教の微々たることは前の三宗と同樣である、これは純東國的宗旨であるから一層然るのであらうとも思はれる、中に目立つのはやはり出雲で、出雲に布教した人には日尊を始めとして日頼と云ふ者もある、之に對して他宗の場合に於ける如き備後の布教は見えぬが、備中には日印、日圓などの布教があるから、他宗の場合とあまり甚しく矛盾しては居らぬ。
九州では肥前に鎌倉時代の末に日祐日高弟子が入つて傳道したが、それよりも顯著なのは日向に入つた日郷の弟子の日叡の成績である、南海道には日蓮宗は全く入らなかつた。
時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない。
終りに臨んで新宗派が從來の宗派を蠶食し、或は新宗派の間に互に相呑噬した樣子を簡單に述べて、此の論を結ぶことにする、淨土宗の最も多く蠶食したのは天台で、眞言之に次ぎ法相又之に次ぐ、新宗の中では禪の淨土に轉じたものもあるけれど、淨土がまた轉じて眞宗になつたことも稀ではない。
禪宗の最も多く侵略したものも亦天台で眞言は之に次ぐ、淨土に對しては侵し方が侵された分より多い。
淨土眞宗に至ては天台を侵略したこと最甚しく、今日現存の鎌倉時代からの眞宗寺で、天台から轉宗したのが二百許りある、眞言の七十三が之に次ぐ、遙かに下るが、之に次では法相である、又眞宗は新宗派の中で淨土と禪とを少しづゝ侵略して居る。
時宗の侵略したのも天台に最も多く眞言之に次ぐ、但し小規模の宗派丈け侵略した數は少い。
以上の四宗がいづれも天台を最も多く侵略して居るのは其以前に天台宗の寺が眞言其他の諸宗よりもすぐれて數多かつた爲でもあらうが、之と全く異つた有樣を示して居るのは日蓮宗で數字に於ては其侵略の度眞宗の多いのには及ばぬけれど、兎に角日蓮宗の最も多く侵略したのは眞言で、天台は却つて其三分一位である、これは注意すべき事だ、又新宗派の中では禪を少しく侵略して居る、眞言亡國、禪天魔を叫んだだけあると云つてもよろしい、但し念佛宗をば無間と譏つたけれど、淨土寺を少しく侵略したのみで、眞宗とは全く沒交渉である、眞言よりは少いけれども、天台も亦侵略を免れなかつたのは、假令日蓮宗が天台の復興を主張するとしても實際此兩宗の間には性質上大差があるからであらうと思はれる。

北条泰時と御成敗式目

 

新補地頭と六波羅探題
承久の乱に勝利した後も、幕府の執権北条義時は、泰時・時房の両名をそのまま京都にとどまらせて乱の後始末を行わせた。まず後鳥羽上皇の孫であった仲恭天皇を退位させ、後鳥羽の兄の子を後堀河天皇を即位させるます。つぎに後鳥羽を島根県の隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐へと流した。歴史上初めて、「臣下」によって皇族が処罰された。まさに前代未聞のできごとであり、朝廷の権威はいちじるしく失墜した。
また上皇方に味方した何人もの貴族や武士は斬罪となった。貴族の処刑は、当時としてはあまり例のないことで、都の人々を驚かせた。上皇方に味方した貴族や武士の所領はすべて没収され、関東御領に組みこまれた。「源平の戦い」の後に没収された平氏の領地が500カ所あまりだったが、承久の乱の後に没収された領地は3000カ所にものぼった。
幕府は承久の乱で功績のあった御家人に対し、新しく没収した所領を地頭職(じとうしき)として与えた。このとき新たに任命された地頭のことを特に新補地頭(しんぽじとう)といい、以前から置かれていた地頭を本補地頭(ほんぽじとう)と言う。この新補地頭の給与を定めた基準を新補地頭率と言うが、それまでの現地での先例に従う本補地頭とはちがい、次のように定められた。
田畠11町ごとに1町ずつを、年貢を荘園領主や国司に納めず地頭が取得する地頭給田とする。
田畠1段ごとに米5升ずつを加徴米として徴収する。
山野や河海からの収益は荘園領主・国司と折半する。
正確には、新補地頭とは承久の乱後におかれた地頭のうち、この新補地頭率に定められた得分をもつ者をさす。しかし、後の時代になると、承久の乱の後におかれた地頭をすべて新補地頭とよぶようになった。上皇方の所領は畿内・西国に多く分布していた。これらの地域に新たに地頭を設置することによって、幕府の勢力がそれまでの関東中心から広く全国におよぶことになった。乱の処置を終えた泰時・時房は、その後も京に残り、六波羅の南北の館に住んで、京都守護にかわって市中の警備にあたった。彼らは六波羅探題とよばれた。
京都守護と言うのは、鎌倉幕府のはじめにおかれた役職で、京の治安維持や朝廷と幕府の間の連絡をその職務としていた。京都守護を廃止し、それを発展させる形で置かれたのが六波羅探題である。正確には「探題」とよばれるようになったのは南北朝時代以降のことである。当時は六波羅南殿、六波羅北殿とよばれていた。ちなみに泰時は北殿、叔父の時房は南殿であった。六波羅探題はしだいに執権につぐ要職となり、北条氏一門の有力者が任命されるようになった。
六波羅探題は尾張国以西の西国御家人を統轄するとともに、京都市中の警備と朝廷の監視を行い、幕府と連絡をとりながら西国の政治を行う「西の幕府」のような組織となった。幕府は乱の再発を恐れて朝廷を厳しく監視した。とくに注意をむけたのが軍事面で、この幕府の態度を恐れた朝廷方は、乱の後、独自の軍事行動をとることができなくなった。また軍事的な奉公によってつながる武士と上皇・天皇や貴族との主従関係も、承久の乱の前には見られたが、乱の後には見られなくなった。
このことは朝廷が幕府に対抗できるような独自の軍事力をもてなくなったと言うことを意味した。と言うことは再び承久の乱のような、幕府を武力で倒そうと企てが、事実上不可能になった。
承久の乱の結果、それまでの朝廷と幕府の二重支配の形が大きくくずれ、幕府側が優位に立つ事態となった。その結果、幕府は皇位の継承や朝廷の政治のあり方にも口をさしはさむようになり、朝廷では承久の乱の後も院政が行われたが、誰が治天の君になるのかについてさえ、幕府の意に反することはできなくなった。幕府を滅ぼし、もう一度政治の実権を朝廷に取り戻そうとして行われた承久の乱が、結果として幕府の勢力を強めることになったのだ。
義時の死と伊賀氏の陰謀
承久の乱(1221年)で、幕府を勝利に導いた2代執権北条義時は、乱から3年後の1224年にこの世を去った、62歳だった。義時はこの年の6月12日に発病し、翌13日に急死したと記録にある。死の原因は「吾妻鏡」によると、脚気による急性の心臓障害であったと言う。幕府の正式な記録では病死だが、あまりに急であったため、死因めぐってさまざまな憶測がかわされた。
有名なものは、後妻の伊賀氏によって毒殺されたと言う説だ、義時の死から3年ほどのちの話である。承久の乱の朝廷側の重要人物であった方院尊長(ほういんそんちょう)が、密告によって潜伏先がばれ、六波羅探題に捕らえられるできごとがあった。取り調べを受けた尊長は、「早く首をとれ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませたあの薬を私にも飲ませろ。」と言ったと言う。この話を根拠として「義時毒殺説」がとなえらるようになった。
では本当に義時は、後妻の伊賀氏によって毒殺されたのか。今となっては確かめるすべはないが、義時死後の伊賀氏の行動を見ると、納得できる部分があり、「ありそうな話」として支持する学者も多い。その「伊賀氏の行動」を簡単にご紹介しよう。
義時はその死があまりにも急であったため、「あとつぎ」については当然のことながら何も言い残していない。しかし、当時の人々は誰もが義時の長子であった北条泰時が後継者になるものと思い、泰時自身もそのつもりで六波羅を離れ、鎌倉に戻ってきた。ところが鎌倉に戻った泰時を意外な事態が待ち受けていた。何と義時の後妻伊賀氏が、兄の伊賀光宗とはかり、泰時を排除しようとたくらんでいた。伊賀氏と義時の間には一男一女があった。伊賀氏は息子の政村を次の執権とし、娘婿であった一条実雅を将軍にし、伊賀氏一族で幕府を乗っ取ることを考えていたようだ。政村は泰時の異母弟にあたる。
伊賀氏が将軍に立てようとした一条実雅は、方院尊長の実弟にあたる。ですからこの陰謀は、後鳥羽院に連なる人々が陰で糸を引いていたのではないかと想像されている。このような伊賀氏の陰謀に、北条氏の側では北条政子が先頭に立って対抗し、泰時が鎌倉に戻るとすぐさま3代執権の地位につけた。泰時の執権就任は1224年のことだ。しかし泰時の執権就任後も、伊賀氏側はあきらめず、北条氏以外の幕府の有力御家人であった三浦義村のだきこみにかかった。実は義村は政村が元服をしたときの烏帽子親だった(烏帽子親と言うのは、後見人のようなもの)。当時、烏帽子親と烏帽子子の結びつきは、実の親子と同じように強いものだった。その関係を利用して、伊賀氏側は義村を自分の側にとりこもうとしたわけである。
そのような伊賀氏側の動きを知った北条政子は、ある夜、侍女一人をともなっただけで三浦義村の屋敷を訪れ、義村に対し、伊賀氏側につかないようかけあった。そして政子の気迫におされた義村は、伊賀氏に味方するつもりはないと誓ったと言う。しかしそれでもまだ伊賀氏側はあきらめず、再逆転を期してさかんに動き回わった。そのため鎌倉は不穏な空気につつまれ、流言がとびかったと言う。伊賀氏とはっきり決着をつけるべきだと考えた政子は、主だった御家人たちを集め、伊賀氏一族の処分を提案した。そしてこのときも政子の気迫がものをいい、誰一人として反対するものはなかったと言う。この結果、伊賀氏一族は完全に没落することとなった。
政子の死と連署・評定衆
伊賀氏の陰謀・没落の年の翌年(1225年)、それまで幕府や北条氏の執権体制を支えていた大江広元・北条政子があいついで没っした。大江広元は78歳、政子は69歳であった。ここに幕府政治は新しい局面をむかえることとなった。1224年に執権となった北条泰時は、1225年、幕府に連署とよばれる役職を新たに設けた。連署の名は、幕府の公的な文書に執権とならんで署名したことに由来する。つまり「副執権」的な役割をになったのが連署だと考えてよい。
ところで泰時はなぜこのような役職をあらたに設けたか。大きな理由のひとつに前年の伊賀氏の陰謀がある。泰時は幕府内での自分の勢力を強め、再び自分を排除しようとする動きが起こっても、それに対抗できるように、このような補佐役を設けたのだ。このとき連署となったのは、政子・義時の弟、泰時にとっては叔父にあたる北条時房だ。時房は承久の乱のとき泰時とともに京へ攻め上り、乱の平定後は泰時とならんで六波羅探題を努めていた。
連署となった時房は、泰時を助け、北条執権政治の黄金時代をきづいた。また時房ののちも、連署の職は代々北条氏一門の有力者が任じられた。さらに同年(1225年)、泰時は政務に精通した11人の御家人からなる評定衆を設置した。評定衆とは幕府の最高意志決定機関である評定のメンバーである。評定衆は執権、連署とともに重要な政務を話し合い、訴訟の裁決にもかかわった。評定衆の発足当時は11名だったが、定員はなく、後の時代を通じて15-16名ほどであることが多かったようだ。メンバーは三浦氏・安達氏など少数の有力御家人、二階堂氏・町野氏・長井氏などの武士ではない文官以外は北条氏一門でかためられ、執権政治を支えた。泰時は連署・評定衆の設置により、「幕府の政治は、おもだった者たちの合議によって進める」形をつくり上げたと言える。
御成敗式目の制定
鎌倉幕府において執権政治が確立しつつあった当時、法令としては朝廷が定めたいわゆる律・令・格・式(りつ・りょう・きゃく・しき)があった。しかし、その内容を知る人はごく限られ、しかもこれらの法令は事実上、空文化していた。武家社会においては、その傾向がよりいちじるしく、武士たちはみずからが育んできた習慣や道徳を重んじて日常生活を営んでいた。また、争いごとがおこった場合なども、武士たちはこの習慣や道徳によって問題を処理していた。
このように法令と言う形で文字に記されていない、社会の習慣や道徳に基づく規範を難しい言葉で慣習法といい、当時の言葉では「道理」とよばれていた。しかし、この「道理」とよばれたものは、長い年月をかけて武士たちの社会に定着していったものだけに地域によってその内容に差があり、さらにはその内容が相互に矛盾する場合もあった。そのため、武士による土地支配が進み、全国各地で所領に関する争いごとがおこると、これまでのように「道理」にしたがうだけでは問題の解決が難しくなっていった。
とくに問題が、武士(地頭)と荘園領主との間におこった場合、その解決はさらに難しいものとなり、幕府は明確な問題解決の基準、つまり文字に書かれた成文法を定める必要にせまられるようになった。このような状況を解決するため、北条泰時は1232年に御成敗式目とよばれる法令を制定した。御成敗式目は制定されたときの年号をとって貞永式目ともよばれている。ちなみに、御成敗式目の「成敗」とは道理にかなうかどうかを裁決する意味だ、また式目は法式と条目の略である。法式とは「おきて」の意味で、条目と言うのは「箇条書きにされた項目」の意味だ。
御成敗式目とはどのような法令なのか、そのことを知る有名な史料がある。それは式目の制定当時、六波羅探題をつとめていた泰時の弟重時に泰時が送った手紙である。その内容を簡単に紹介する。。
このたび、御成敗式目をつくりました。あなたもよくご存じのように、幕府はこれまでたびたび裁判をして争いごとを裁いてきた。しかし、その場合、同じような訴えであっても、強い者が勝ち、弱い者が負けてしまうと言うような不公平がたびたびあった。私はそんな不公平をなくし、身分の上下に関係なく、公正な裁判を行うための基準として、この式目をつくった。
この式目を見れば、都の公卿たちは「ものを知らぬ関東の田舎者が何を言うか」と笑うかもしれない。また、「裁判の基準になるものとしては、すでに立派な律令があるではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、田舎には律令に通じている人など万人に一人もいない。そんな人たちに律令の規定をあてはめて裁判をすると言うのは、たとえるならばケモノをワナにかけるようなものだ。この式目は、そのような漢字が読めず、仮名しか知らないために律令の内容が理解できない地方の武士のためにつくった。。
家来は主人に忠義をつくし、子は親に孝行するように、人の心の正直をたっとび、曲がった心を捨てた人々が安心して暮らせるように、ごく平凡な道理に基づいてつくったのがこの式目なのだ。この式目の内容は律令とちがっているところもあるが、律令を否定しようと言うのではない。この式目は武家社会のみに通用させるものなのだ。
紹介した「泰時の手紙」からも分かるように、御成敗式目はあまり教養のない武士たちにも理解できるようにやさしい言葉で書かれ、全部で51ケ条ある。御成敗式目には頼朝以来の先例や「道理」によりながら、守護や地頭の仕事や権利、御家人の身分や財産、幕府の裁判の手続きなどの内容がもりこまれている。御成敗式目は何通も写しがつくられ、守護を通して諸国の御家人に知らされましたが、「泰時の手紙」にもありますように、それが適用されるのはあくまでも武家社会、つまり幕府の勢力範囲に限定されていた。つまり、幕府は朝廷や荘園領主たちの規範である律令を否定していない。ですから朝廷の勢力範囲では、律令の系統を引く公家法が、荘園領主の支配する土地では、その地に根ざした本所法が、効力をもっていた。しかし、幕府の勢力の広がりとともに、御成敗式目の適用範囲は、全国的な規模へと拡大していった。
御成敗式目
御成敗式目の条文をいくつかご紹介する。
第1条「神社を修理して祭りを大切にすること」
神は敬われることによって霊験あらたかになる。したがって神社を修理してお祭りを盛んにすることが大切である。神を敬うことによって人々が幸せになるからである。また、供物を絶やさず、昔からの祭りや風習を大切に守りなさい。
第3条「守護の仕事について」
守護の仕事は頼朝公が決められたとおり、大番催促と謀反人・殺人犯・盗賊の取りしまりである。近ごろ守護の中に代官を村々に送り、勝手に村人を使ったり税を集めるものや、国司でもないのに地方を支配し、地頭でもないのに税をとったりする者がいる。それらはすべて法に反する行いであるから禁止する。
第5条「諸国の地頭が集めた年貢を荘園領主(本所)に納めないことについて」
集めた年貢を本所に渡さない地頭は、本所の要求があればすぐそれに従うこと。不足分はすぐに補うこと。不足分が多く、返しきれない場合は3年のうちに本所に返すこと。これに従わない場合は地頭をやめさせる。
第6条「国司や領家の裁判には幕府が介入しないこと」
国衙(こくが)や荘園の本所あるいは神社や寺が起こす裁判に幕府は介入しない。本所の推薦状がなければ荘園や寺社の訴えは幕府ではとりあげない。
第8条「御下文を持っていても実際にその土地を支配していなかった時のこと」
御家人が20年間支配した土地は頼朝公が取り決めたように、元の領主(貴族や寺社など)に返す必要はない。しかし、実際には支配していないのに、支配していたと偽った者は証明書を持っていても、領地を没収する。
第18条「妻や子に相続した後の所領を返還させる場合のことについて」
親は相続したあとであっても所領を取り返すことが出来る。これは、後の争いを恐れて子に相続することをためらったり、子供が親に対して道徳に反する行いをおさえるためである。このことが保障されていることによって、相続した者が親に孝行をし、親は安心して子供を養育することができる。
第23条「女人の養子のこと」
夫婦に子供が無く、夫が死んでしまった後に養子をむかえ領地を相続させることは頼朝公の時から認められていることであり、何ら問題はない。
以上、御成敗式目の一部をご紹介したが、具体的で、文章がたいへん分かりやすいものだった。ですから御成敗式目の登場は、それまでこのような法令のなかった当時としてはまさに画期的で、武家はもちろんのこと、公家や寺社、さらには一般の人々にも大きな影響を与えた。
御成敗式目は現在の日本の法律にも影響を残している。御成敗式目の第8条には、「20年間、実際にその土地を支配すれば、その土地はその者の所有とする」と言う取り決めがあるが、実は現在の民法162条にも同じような内容を含んでいる。
現在にも通じる内容をもっていたわけで、御成敗式目は最初の武家法として、その後も長く重んじられた。鎌倉時代以降も広く読まれ、室町時代には仏像の体内におさめられたり、江戸時代になると寺子屋で子どもたちが手習い(習字)の手本としたそうだ。
御成敗式目は制定後も必要に応じて、その内容を追加したり補足したりされています。これらは追加式目とよばれ、鎌倉時代を通じて600条あまりが確認されている。
 
北条時頼と引付衆

 

泰時から時頼へ
最近、執権政治確立の時期を北条泰時の時代だとする説が注目を集めている。泰時以前、政治や裁判をどのように行うのか、その決断権は、基本的には将軍にあった。もちろん、執権であった北条時政や義時の補佐は受けるが、幕府の意志決定は、政所の活動をふまえて将軍が行っていた。ところが泰時の時代になると、「泰時は将軍から政治・裁判に関する決断権をうばい、御家人たちの支持を得て、執権が中心となって政治を行う体制をつくりあげたのだ。」と言う考え方である。この説が正しいとするならば、1232年の御成敗式目の制定も、将軍の権力の後退と関連づけて説明ができることになる。将軍個人の判断で政治を行うのでなく、御成敗式目と言う政治・裁判を行う上での明確な基準を設け、その基準にそって幕府の政治や裁判を行う体制をつくりあげたことになる。
このような政治のあり方を法治主義といい、法律によって、政治を行う意味である。さらに言えば泰時は、連署と評定衆の設置による合議制、つまり話し合いでものごとを決める仕組みもつくり出している。このように考えてくると、「鎌倉幕府のあり方」を決定づけたのは泰時であると言える。このような「大きなしごと」をなしとげた3代執権北条泰時が亡くなったのは1242年6月、60歳であったと言う。。
泰時のあとを継ぐべき息子の時氏は早くに亡くなっていた。そのため、泰時のあとを継いで4代執権となったのは、時氏の子、泰時にとっては孫にあたる北条経時だった。経時は執権となった2年後の1244年、成人となり自立しはじめた4代将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)を廃し、頼経の子でわずか6歳であった頼嗣(よりつぐ)を5代将軍とした。あまりに唐突な将軍交代でぁった。この時、頼経は27歳で、病弱であった形跡もなかった。当時の人々もこの交代に大きな疑念をいだいていたようだ。どうしてこんなことが行われたのか、4代将軍として京からむかえられた当時、頼経はまだ2歳だった。当然、政治にかかわることなどできるはずもなく、名ばかりの将軍だった。しかし、在位が20年をこすうちに、おのずと頼経をとりまく御家人たちの集団が形づくなれるようになった。頼経のまわりに集まったのは、北条氏一族に対し、不満をもつ人々であったと思われる。北条氏側としては、このまま放置しておけば、頼経を旗頭として、「反北条氏の御家人連合」が、北条氏を追い落とそうとたくらむのを防ぐため、唐突に将軍の首をすげかえたのだと考えられている。しかし、頼経を将軍の座から引きずり降ろした4代執権北条経時も、1246年、病気を理由に執権の職を弟であった時頼にゆずって出家し、やがて亡くなった。
「鉢の木」伝説
5代執権となった北条時頼は、祖父であり、3代執権であった泰時とならんで、「名執権」とたたえられている人物である。またその一方で、時頼には数々の伝説も残されている。その中で、最も有名なものが「鉢の木」の話しだ。
ある大雪の日のこと。上野国佐野あたりに、一人の旅の僧がたどり着いた。信濃国から鎌倉へ向かおうと旅をしてきたが、大雪のために先へ進むことができない。
僧は近くの家を訪れて、一夜の宿を頼んだ。しかし、その家の主人であった佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)は、「こんなあばら家では、とうていおもてなしをすることなどできません。どうか、よそをおさがし下さい。」と答え、僧の申し出を断った。
しかたなく僧は、雪の降りしきる道へ出、一夜の宿を求めてまたとぼとぼと歩きはじめた。その後ろすがたを見た源左衛門は、急に思い返して僧をよびもどし、自分の家に泊まってもらうことにした。
けれども貧しい源左衛門の家には、食べ物といえば冷えた粟飯ぐらいしかない。体のしんまで冷えこむような寒さなのに、囲炉裏にくべる薪さえないと言うありさまだった。
源左衛門は立ち上がると、梅・松・桜の鉢の木をもってきた。そして「みごとな鉢の木」と言う僧の言葉の終わらないうちに、おし気もなく鉢からそれらの木をぬきとり、囲炉裏にくべるのでした。
「貧しいわが家では、せっかく泊まっていただいても、なんのおもてなしもできません。せめて少しでも暖まっていただければ」と言う源左衛門の言葉をきっかけに、僧は源左衛門の身の上話に興味をもち、いろいろとたずねた。
「私は、名を佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりました。けれども、一族のものに領地を奪われ、今はごらんの通り、おちぶれてしまったのです」
源左衛門の身の上話を聞きながら、僧が家の中を見まわすと、立派な薙刀がある。鎧をおさめてあると思われる箱も目に入った。
「はて、薪もないほどの貧しさといいながら、これだけ立派なものがあるのはどう言うわけか。」と僧は不思議に思った。その気持ちを察したのか、源左衛門はさらに話しを続た。
「今はこのようにおちぶれてはおりますが、鎌倉に一大事がおこり、鎌倉殿からのお召しがあれば、たとえ傷んだ鎧であってもこれを身につけ、さびた薙刀であってもこれをこわきにかかえこみ、あのやせ馬にむち打って、真っ先にかけつけるつもりでございます。」
源左衛門の口調はしだいに激しさをましてきた。
「そしていよいよ戦と言うことになったときには、勇ましく敵に切りこみ、いさぎよく討ち死にする覚悟でおります。けれども、今のような貧しさでは、飢えに苦しみ、寒さにこごえて死を待つだけのような気がいたします。私はそれが残念でならないのです。」
話しを聞いていた僧は、返す言葉もなく、ただただ何度も何度もうなずくだった。そして翌日、旅の僧をあつく礼をのべて、源左衛門の家をあとにした。
しばらくたったある日のこと、「急ぎ鎌倉に集まれ」と言う命令が、関東八カ国の御家人たちに向けて発せられた。源左衛門はとるものもとりあえず、鎌倉へかけつけた。そして鎌倉へたどり着いた源左衛門が見たものは、何といつぞやの旅の僧のすがただった。「佐野源左衛門常世、よくぞまいった。いつぞやはたいへん世話になった。」そう話しかけてきたその僧は、実は5代執権北条時頼だったのである。
時頼は源左衛門の忠義をほめたたえるとともに、佐野の領地をとりもどしてやった。そればかりでなく、鉢の木にちなんで、梅田・松井田・桜井と言う三カ所の領地を新たに与えたと言う。
この話を伝えているのは室町時代につくられた謡曲の「鉢の木」である。このエピソードはおそらく「つくり話」であるだろうと言われている。えらい人や地位の高い人が、各地を回って困っている人を助けると言う話は、回国伝説とよばれ、洋の東西を問わず、たくさん残されている。おそらく庶民の切実な願いで、「鉢の木」もそんな回国伝説のひとつと考えられる。
しかし、たとえ「つくり話」であったとしても、「あの人ならこのような行動をしてもおかしくない。」と人々が考えたからこそ、長く伝えられているのである。
名越光時の変
かつて藤原氏は、次々と他氏を排斥して、朝廷の実権を握った。そして藤原氏による摂関政治が確立されると、今度は一族内部の勢力争いが激しくなっていった。そして執権政治の確立によって幕府政治の実権を握った北条氏一門でも、藤原氏と同じような一族内部の勢力争いがおこった。名越朝時(なごえともとき)は、3代執権北条泰時の弟にあたる人物だ。朝時は泰時が死の病の床で出家したとき、それに殉じた形で自分も出家した。まわりの人々は「朝時はふだん、泰時と仲が悪かったのに、不思議なことをするものだ。」と噂しあったと言う。なぜ、朝時は泰時にならって出家したのか、おそらく朝時の行動に疑いがもたれていたからであると考えることができる。
「行動に疑い」とは言うまでもなく、謀反の疑いである。出家することによって、自分は泰時にはむかうつもりはないことを示したのだと考えることができる。出家して自らの身を守った朝時に、光時と言う子がいた。光時はまだ若いだけに、父のように一歩しりぞいて自分の身を守る状況に我慢できなかったようだ。名越光時は、1246年、執権が経時(つねとき)から時頼へと交替し、その経時が病没した直後の混乱した時期をねらって反乱をおこそうとたくらんだ。そして光時の背後には、経時によって4代将軍の座を引きづりおろされた「前将軍」藤原頼経とその側近の御家人たちの支援があった。しかしこの反乱は未発に終わり、光時は伊豆へ流罪となった。このできごとを名越光時の変(なごえみつときのへん)と言う。
宝治合戦
執権となったばかりの1246年、名越光時の変を未然に防ぎ、北条氏内部での地位を確かなものとした時頼は、北条氏以外の有力御家人であった三浦氏の排斥に着手する。北条氏はこれまで、梶原氏、比企氏、和田氏と、ライバルになりそうな有力御家人の一族をつぎつぎに滅ぼしてきたが、北条氏の地位をおびやかしそうな有力御家人一族はまだいくつか残されていた。そのような有力御家人の中で、当時、最大の勢力をほこっていたのが三浦氏である。
当時の当主であった三浦泰村が、「自分はすでに正五位下となり、他の一族も多く官位をさずかっていた。また、数ケ国の守護を兼ね、一族が支配する荘園も数万町だった。これでは我が一族が他人からねたまれるのも当たり前だ。」と認めるほどの力をほこっていた。また三浦氏は、数世代にわたって北条氏と幾重にも婚姻関係を結んでいた。つまり結婚を通して、三浦氏と北条氏は親戚関係にあった。しかし、そのような「一大勢力」をほこる三浦一族の当主であった泰村は、決しておごることなく、北条氏との協調につとめ、幕府の政治にも大いに貢献していた。けれども、その強大な勢力は、しだいに時頼にとって目ざわりな存在になっていったようだ。そして時頼は、いつしか三浦氏一族を滅ぼしたいと願うようになっていった。
三浦氏の排斥のため、時頼の命を受けて実際に表立って行動したのは有力御家人の一人、安達景盛だった。盛は時頼の母である松下禅尼の父にあたる人物で、時頼からみると祖父にあたる。あるとき、鶴岡八幡宮の鳥居の前に、「三浦泰村は命令にそむいたため、近々滅ぼされるだろう。」そんな文面の立て札が建てられた。この立て札をはじまりとして、その後しばしば、「三浦一族が反逆をくわだてている。」と言う噂が鎌倉をとびかうようになった。もちろん、安達景盛らが三浦氏を挑発しようとしてとった行動である。
さしあたって三浦氏を討つための理由がないので、こうして三浦氏を圧迫し、それに耐えかねて、三浦氏の側から挙兵してくるのを待っていたわけである。しかし、三浦泰村は、このような挑発に対し、どこまでも慎重だった。時頼が、噂の真相を問いただすために使者をさし向けても、たくみに受け流してなかなかボロを出さなかった。そのため時頼も「三浦氏を討つつもりはない。」とする書状を泰村に出さざるをえない羽目になった。しかし、この書状は時頼がわざと見せた隙であったとする説もある。
三浦氏が時頼の書状を得て、「ひと安心」しているところへ、安達景盛が大軍を率いて「不意打ち」をかけた。ことここにいたって、ついに三浦泰村は抵抗をあきらめ、頼朝の墓所にこもり、頼朝の絵像を前にして、一族五百余人が自害する道を選んた。1247年におこったこのできごとを当時の年号にちなんで宝治合戦と言う、宝治合戦で三浦一族を滅ぼした時頼は、その勢いにのって三浦氏とならぶ有力御家人であった千葉氏までも滅ぼし、幕府内における北条氏の地位をより確かなものとした。
引付衆の設置
鎌倉時代、御家人たちが最も強く求めた幕府の機能は、現在で言うところの「最高裁判所」としての機能だった。つまり土地の所有をめぐる御家人どうしの争いや、財産としての土地の相続をめぐる争いに対し、公平で最終的な判断を幕府に求めたわけだ。このような御家人たちの求めに対し、幕府はどのように対処していたのでしょうか。
御家人たちから訴えがあると、まず係りの奉行が取り調べを行う。そしてその結果をまとめられ、評定衆へ提出される。そして報告を受けた評定衆は、それをもとに協議して最終判断を下す、と言う形がとられていた。しかし評定衆は、今お話ししましたように訴訟の処理も行うが、同時に政治についても協議を行い、最終判断をする機関でした。訴訟の協議ばかりにあまり時間を取ることができなかった。訴訟の数が増えると、とかく判断が遅れがちになり、そのことに不満をもつ御家人も少なくなかった。
このような状況を改善すべく、時頼は1249年に引付衆とよばれるしくみを新たにつくり、裁判が迅速に行われるようにつとめた。引付衆とは訴訟を専門にあつかう機関である。引付衆は評定衆の下におかれ、一番から三番までの三局があった。後の時代になると五局までふやされた。評定衆の各局の長官を頭人といい、その下に数人の引付衆、ならびに実際の業務を行う奉行がおかれた。数人の引付衆のうち2名ほどは評定衆を兼ねていた。
引付衆は、御家人からの訴えがあると、訴えを受けた局は「三問三答」とよばれる方法で、事実関係を調べた。訴えようとする人は、まず訴状を引付衆へ提出。引付衆はこれを訴えられた人に送って、その訴状に対する答えである陳状を求めた。陳状を今度は訴え出た人に送って返事をさせ、その返事をまた訴えられた人に送ってさらに陳状を出させた。このようなことを三回行ったので「三問三答」とよばれている。最後には訴え出た人と訴えられた人が引付衆の前に出頭して、実際に意見を戦わせ、判決が下された。
対応はかなり能率的になり、この形で裁判を処理すると、評定衆は基本的に引付衆で出された判決を承認するだけですむようになった。北条氏の執権政治におけるしくみは、北条時頼による引付衆の設置をもって、ほぼ完成し 。
頼嗣の廃位と親王将軍
藤原(九条)頼嗣(よりつぐ)は、4代将軍頼経の嫡子として生まれ、1244年に6歳で元服し、その一週間後、父に替わって5代将軍の地位についた。翌年の1245年に頼嗣は、4代執権北条経時の娘を妻とした。経時の娘檜皮姫(ひわだひめ)は頼嗣より9歳年上であったと言う。北条得宗家の姫を妻としたわけですから、頼嗣は本来なら将軍として順調な人生を歩むはずだった。しかし、将軍の位を追われ、出家して「大殿」とよばれていた父の頼経が、北条氏の排斥をくわだて、失敗すると言う事件がおこった。そのあおりを受ける形で、子の将軍頼嗣も将軍の位を廃され、父とともに京へ追放となってしまった。この追放は1252年のことでした。
謀反をくわだてたのはあくまで父の頼経で、子の頼嗣に罪はないが、父のたびたびの謀反のくわだてに、北条時頼も我慢の限界に達したのだ。京に追放されたとき、頼嗣はまだ14歳だった。5代将軍頼嗣を追放した後、幕府はどのような行動に出たのでしょうか。時頼は6代将軍として元服したばかりの後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王(むねたかしんのう)をむかえたいと朝廷に申し入れ、認められた(1252年)。2代執権北条義時の時代、後鳥羽上皇によって拒否された親王の将軍就任がついに認められた。
これを藤原頼経・頼嗣を摂家将軍とよぶのに対し、親王将軍あるいは宮将軍と言う。宗尊親王より後、鎌倉幕府が滅亡する1333年まで、鎌倉幕府の将軍職は代々親王によって受け継がれることになった。もちろん、親王将軍であっても将軍とは名ばかりで、実権はなかった。そして将軍が成人に達し、自分の考えを示すようになると、北条氏は決まって、いろいろな理由をつけて将軍を廃し、政治を理解できない幼い新将軍を新たにむかえた。

北条時頼の時代に、北条氏執権体制はゆるがぬものとなった。北条得宗家は強大な権力を握り、まさに「独裁政治」への道を歩みはじめることとなった。北条得宗家の専制体制をつくり上げた5代執権北条時頼は、1256年に執権職を退き、自分が建立した最明寺に入って出家した。彼が最明寺入道ともよばれるのはそのためである。最明寺は、現在では「あじさい寺」の名で人々に親しまれている。
 
霜月騒動と永仁の徳政令

 

北条氏の勢力拡大
2度にわたる元の来襲を何とか退けた幕府だが、いつ3度目の攻撃がしかけられるのか、まったく予想がつかない状態だった。幕府は、御家人に対し、異国警固番役(いこくけいごばんやく)を続けるよう命じ、九州北岸の警戒をおこたらなかった。当時、すでにその機能をなくしていた鎮西奉行にかえて鎮西探題と言う職を博多においた。鎮西探題はその名の通り、京都におかれた六波羅探題に準じる役職で、九州の御家人の支配、ならびに訴訟をあつかった。
鎮西探題には北条氏一門が任命された。鎮西探題の設置によって、九州の政治の中心が、それまでの大宰府から博多に移ることになったが、これは大きなポイントである。北条時頼が5代執権となった頃から、すでに評定衆での会議に計らず、時宗の私邸で北条氏一門による会議を開いて重要なことがらを決定することが行われていた。時頼の子である時宗が8代執権となると、これがいちじるしくなった。元への対応についても、時宗は評定衆をはじめとする有力御家人に相談することなく、一門や近臣の意見によって、いわば独断的にものごとを決定していった。元寇をはさんで、北条本家である得宗家を中心とする北条氏による専制政治が、幕府を支配するようになっていった。
評定衆や引付衆などの要職には北条氏一門の者が多く就任した。諸国の守護職も、北条氏一門以外の有力御家人が、さまざまな口実をつけられ任を解かれ、かわりに名越(なごえ)・極楽寺・金沢・大佛(おさらぎ)などの北条氏一門の各氏が任命された。このような守護の交替は、とくに元寇の際に、防衛力を高めると言う理由を設けて、九州・中国地方でしきりに行われた。北条氏の勢力拡大とともに、北条氏の家臣の地位も向上し、とくに御内人(みうちびと)とよばれた得宗家の家臣の中には、幕府政治にかかわる者も現れた。
霜月騒動
北条時宗が執権であった時代、幕府には2人の実力者がいた。安達泰盛と平頼綱である。泰盛は有力御家人、頼綱は御内人首座だった。ちなみに御内人首座のことを内管領とも言う。2人は幕府の中で、はげしい勢力争いを続けていたが、2人の調停役であった時宗が、1284年に33歳の若さで亡くなると、対立がいっそうはげしくなり、武力衝突が起こった。
1285年11月、頼綱は兵を集め、泰盛一族を滅ぼした。この出来事を発生した月の名にちなんで、霜月騒動と言う。霜月騒動で滅ぼされた安達泰盛は、幕府の有力御家人であったばかりでなく、実は北条得宗家とは外戚関係にあった。実は泰盛の娘(妹であると言う説もある)は、時宗の正室だった。1284年に時宗が亡くなると、二人の間に生まれた貞時が、9代執権となった。つまり9代執権北条貞時は、泰盛から見ると孫に当たるわけだ。
時宗の死後、泰盛は弘安徳政とよばれる政治改革を行い、内管領の平頼綱とはげしく対立するようになった。1285年11月、頼綱は貞時に「安達が源氏に改姓し将軍になろうとしている」と告げ、この讒言を信じた貞時の命令で泰盛を討ったと伝えられている。戦いは11月17日の正午頃に始まり、午後4時頃には終わったと言うが、この戦いで泰盛とその子宗景ら安達一族、二階堂氏・武藤氏らの御家人、安達氏の守護国であった上野・武蔵の御家人など、500人余りが死亡したといわれる。また、この事件は九州にも広がり、泰盛の子盛宗が博多で滅ぼされ、泰盛に属した少弐景資が兄の少弐経資に滅ぼされた。これを岩門合戦と言う。
霜月騒動の歴史的評価については、現在二つの説がある。古くから説かれている考え方は、以下のようなものだ。
泰盛を御家人の代表、頼綱を御内人の代表ととらえる。
得宗家の力が大きくなることは、御内人の発言力が大きくなったことを意味する。
御内人は、幕府政治の主導権をかけて、御家人と対立するまでに成長した。
霜月騒動は旧来の御家人勢力と新興の御内人勢力との争いであった。
泰盛が多くの御家人たちとともに滅んだことは、御家人勢力の敗北を意味する。
この説を否定する新しい考え方が説かれるようになった。
泰盛は時宗・貞時の外戚であった。
泰盛は外戚として得宗家の勢力拡大に努めており、御家人勢力の代表とは言えない。
泰盛と頼綱の争いは、「得宗家の第一の後援者」をめぐる争いであった。
二つの説のちがいは、御家人勢力の力の大きさをどのように見るかの違いにある。従来の説では御家人勢力はまだまだあなどりがたいものがあり、それが霜月騒動によって没落したと、捉えている。新説では、すでに御家人勢力は衰えていて、霜月騒動は得宗家専制と言うわくの中で、御家人の泰盛と御内人の頼綱の勢力争いにすぎないと、捉えている。
どちらの説にせよ、貞時の時期に、得宗と得宗を支える一門、御内人による得宗専制体制が確立したと言う考え方では違いがない。1271年生まれの貞時は、霜月騒動(1285年)のときはまだ少年でしたが、成年となった1293年には、頼綱を誅殺し、政治を一手に握った。将軍が御家人の土地所有を認めることを安堵と言うが、貞時はこの安堵を行う権限を将軍から奪い、得宗専制を完成させた人物であるとされている。
御家人の困窮
元寇の後、北条得宗家の勢力はますます大きくなり、得宗専制体制が完成された。しかし、その一方で御家人たちは没落の一途をたどっていった。御家人たちの没落の大きな原因に元寇があるが、元寇だけが御家人の困窮の原因ではない。鎌倉時代中期以降、すでに御家人の生活は苦しいものとなっていた。戦争がなくなって、所領の増加がみこめない時代になり、財産(土地)を子らに平等に相続させる分割相続が代を重ねたため、所領が細分化されてしまい、御家人の収入がしだいに減っていったのである。
このような状況の中、女性に与えられる財産がまずはじめにけずられ、女性の地位が低下すると言う結果をまねいた。次に分割相続にかわって、親の財産を子の一人(長男とは限らない)である惣領がすべて相続すると言う単独相続がなされるようになっていった。また、女性に土地が与えられる場合でも、その権利を本人一代かぎりとし、死後は惣領に返すと言う一期分(いちごぶん)も行われた。
さらに御家人たちは、自分の所領において自給自足的な生活を送るのを基本としていたため、産業の発達にともなう貨幣経済への変化に対応しきれなくなっていた。土地で産するものを消費すると言う形の生活を送っていた御家人は、現金収入を得る手段がとぼしく、一所懸命であるはずの大切な所領を質に入れたり、あるいは売却する以外に、道はなかった。
このような状況のもとに、元の来襲が二度に渡ってあったわけで、これにより御家人たちは決定的な痛手をこうむることとなるのである。元と二度に渡って戦い、勝利したとはいえ、幕府は新たな土地を得たわけではなかった。幕府は元との戦いで奉公をつくした御家人たちに、御恩を与える力はほとんどなかった。御家人たちにしてみると、命がけで幕府に奉公をつくして戦ったのに、何の恩賞にもあずかれない結果となってしまったのである。「奉公に対する御恩」と言うこの時代の大原則が守られなかった。戦いへの参加、異国警固番役、西国への移住と、大きな負担を強いられながら、報われることのなかった御家人たちは、生活の苦しさにさいなまれながら、幕府への不信をつのらせていった。
永仁の徳政令
1240年、幕府は御家人の所領保護を目的に、御家人の領地の売却を禁止した。1267年には、所領の質流れを禁止し、すでに売却されたり、質流れになった分の所領については、代金を弁償をすれば取りもどすことができるとした。しかし、こうした幕府の方策は効果をあげることはなく、所領を失う御家人はふえる一方だった。そこで幕府が1297年永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)をだした。このときの執権は9代貞時である。
永仁の徳政令(「東大寺百合文書」原漢文)
一、質に入れたり、売買したりした土地のこと。
御成敗式目のきまりのとおり、地頭や御家人が買って得た土地のうち、売ってから20か年をぎた土地については、売り主はこれを取り返してはならない。御家人でない者や庶民が買って得た土地については、経過した年月に関係なく売り主は売り主はこれを取り返せ。
一、利子つきの貸し金や利子つきの貸し米のこと。
甲乙の人々が、必要な時に利子がかさむにもかかわらず金を借りるので、富む者は利益をいっそう増し、貧しい者はますますおちぶれてしまう。今後は貸し借りの訴訟は取り上げない。たとえ幕府の命令書を持ってきて訴えても、訴訟は取り上げない。
以上が、永仁の徳政令のおもな内容(現代語訳)だが、少し説明する。
まず、第一のポイントは、所領の売却や質入れを禁止していることである。その上で、地頭や御家人に売却した土地で売却後20年未満のもの・非御家人や庶民に売却した土地のすべてを、無償つまり「タダで」売り主である御家人に返却させた。
第二のポイントは、金や米の貸し借りに関する訴訟は受け付けないとしていること。
第三のポイントは、この法令が適用されるのは、御家人の所領に限定されていると言う点です。その目的は言うまでもなく、生活に苦しむ御家人を救うことにあった。借金に苦しむ御家人を救い、御家人が失った所領を無償で取りもどさせてやると言うのが、永仁の徳政令の目的だった。
では上手くいったのでしょうか。確かに生活に苦しむ御家人にとって、一時しのぎにはなったようだ。しかし、根本的な解決にはならなかった。
せっかくの徳政令にもかかわらず、所領の質入れや売却を希望したり、幕府が取り上げないとした金品の貸し借りに関する訴訟を望む御家人は後をたたなかった。また、徳政令によって「救われた」のは御家人のみであり、非御家人や庶民は大きな被害をこうむった。それはそうです、金を払って買った土地が無償で取り上げられたのですから。御家人のためによかれと思って出された永仁の徳政令は、かえって社会の混乱をまねく結果となった。幕府は翌年(1298年)には、土地の質入れと売却・訴訟の差し止めを撤回せざるを得ない事態となった。
生活に苦しむ御家人は、日に日に不満をつのらせ、得宗家が支配する幕府は、その不満をおさえるため、ますます専制的・高圧的になっていった。そのような幕府の態度が、ますます御家人たちの反発をまねき、幕府の存在をゆるがす悪循環におちいっていった。元寇後の武家社会は、北条得宗家が勢力を拡大する一方で、幕府の「屋台骨」を支える御家人たちが困窮すると言う、非常にアンバランスな状態となったのである。
蒙古来襲と徳政令
網野善彦たちが編集委員を勤めた「日本の歴史全26巻」の10巻が「蒙古来襲と徳政令」である。講談社の日本の歴史は現在の最良の全集であると思う。「蒙古来襲と徳政令」も、歴史の常識を覆す内容を分かりやすく叙述している。
扱う時代は鎌倉後期から終焉までである。それは北条氏の時代である。筧雅博に言わせれば、「鎌倉幕府は、衰退期をもたなかった。最後の30年が極盛期である。」したがって「この極盛期が、突如として断ち切られるにいたる状況は、どのように説明さるべきであろうか。」と自問するのは当然である。対モンゴル合戦の勲功地の不足、悪党の活動などが説明の材料にされるが、十分な説得性を持たないと、筧雅博は考えている。終末期に一気に話を進める前に、北条氏の時代を全体的に押さえたい。
「源頼朝の鎌倉入りに、父子三人で従った北条氏も、13世紀半ばには、8ないし10の流れに分かれ、一族は50人を超えた。この50人あまりを中心に、幕府草創以来、家名を伝える東国の豪族や文筆官僚、およそ25、6家を加えた、4、5百ほどの人々が、都市鎌倉の主人公である。将軍近侍すべく定められた、いくつかの御家人集団は、すべて、この30家たらずの特定の氏族からえらばれており、正月三ガ日の椀飯にはじまる、幕府の年中行事の参加者も、ほとんどかれらの独占するところであった。」と北条氏を中心とする寡占体制を鎌倉時代の特色としてあげている。このような寡占体制は同時に同族内外の厳しい政争の場でもあった。
「8月15日、鶴岡八幡宮に催される放生会は、鎌倉幕府にとって、正月三ガ日の椀飯とならぶ、大切な儀式である。神前に奉納される流鏑馬は、将軍以下、幕府の宿老たちが見守るのをならわしとし、とくに建長8年の放生会は、将軍家が自ら選定する初年度ということもあって、射手はよりすぐりの名手、かつ有力者の家の子弟であったらしい。『吾妻鏡』は『相模三郎時利(時輔)、陸奥六郎義政(重時の子)、足利三郎利氏(頼氏)、武蔵五郎時忠(宣時)、三浦介六郎頼盛』の五人を特記する。家柄といい、技量といい、かれらが鎌倉武士中の花と目されるべき存在だったからであろう。が、13世紀後半の幕府政治史の中で、生涯を、全うすることを得たのは、5人の少年のうち、ただ一人にすぎない。足利頼氏は、文永5.6年のころ若くして世を去り、北条時輔は、文永9年2月、時宗の命により討たれた。おなじく北条義政は、健治3年(1277)5月、連署の地位を捨て、信濃善光寺へ逃れる。三浦介頼盛も、正応3年(1290)10月、助けをもとめる故時輔の子息を侍所に差し出して、ようやく身を保つことを得たのである。『蒙古来襲』の時が、始まりつつあった。」このような政争を経て、富と権力とが北条得宗家に集中して行った。
「鎌倉幕府は、相模、武蔵、駿河、越後四カ国を知行国として支配したが、各国の国務は、特定の家もしくは機構にゆだねられた。すなわち相模国は政所、越後国は政村流北条氏、そして武蔵、駿河国は、泰時−頼時−時宗とつづく北条得宗家当主の、事実上の家領(分国)であった。嫡流家は、武蔵及び駿河の守護職を兼ねていたから、この両国は、鎌倉時代を通して、嫡流家のもっとも強固な支配下におかれていたことになろう。両国の国司(守)の地位は、陸奥守・相模守と共に、鎌倉幕府を構成する人々にとって、望みうる最高の官途とみなされたが、国衙在庁たちの指揮権は、鎌倉の得宗公文所が行使するのである。」わずか3名からはじまった北条家が肥大化すると、その富と権力を維持発展させるため、没落御家人を始め多様な人々を御内人として抱え込んでいくことになる。どのような人々が御内人となっていったのであろうか。例えば謡曲「鉢木」で有名な佐野氏も御内人であったと筧雅博は述べる。「鎌倉時代、上野板鼻八幡宮は、安達景盛、義景、そして泰盛とつづく安達氏嫡宗の所領であり、おそらく佐野庄の地頭も安達泰盛であった。義景・泰盛父子は、板鼻八幡宮を、上野国守護としての地位において知行しており、したがって弘安8年11月の泰盛滅亡後、板鼻は北条嫡流家の所領に、より具体的には、上野守護代となった平頼綱の支配下におかれたであろう。7年後、頼綱は成人した執権北条貞時の討手を、鎌倉経師ヶ谷の屋形に受け、自害するが、このとき頼綱とともに死んだ近親者の中に『佐野左衛門入道』なる人物がいた。北条時頼の廻国伝説が、かつての得宗領であった地と重なり合っていることは、周知の事実であり、謡曲『鉢木』もまた、得宗領上野佐野庄の、そして得宗御内人佐野左衛門の記憶を、その核心にもっていたのである。」御家人のいざ鎌倉の物語は、実は御内人の物語であったである。
信濃国御家人で諏訪神社の祝家・諏訪氏は御家人から御内人となった有名な一族であるが、筧雅博が素材と取り上げるのは西国で活躍した人々である。彼らは悪党と呼ばれた人々と重なるところがある。
「正地頭が執権その人であることは、多田院を特別な荘園たらしめた。」「多田院は探題府の下知を受けず、守護所の支配下にも入らず、鎌倉の北条嫡流家の公文所の命令のみに従う存在となったのである。」「多田院には、特別な性格をもつ武士たちが住んでいた。多田院御家人という。第2次モンゴル来襲の翌々年、堂塔修理のために現地入りした勧進上人へ差し出された連署状には、源景弘以下16名の署名があり、これは同時期における若狭国の御家人総数にほぼひとしい。かれらは、摂津国の御家人として勤むべき諸役を免除されており、多田院の堂や塔の修復に加わり、儀式の場を警護することが『御公事』であった。そんな状況のしからしむるところであろうか。多田院御家人は、しばしば他領を往来し、いくつかの痕跡を史料上にのこしている。すでに泰時のころ、夜討の疑いをかけられたメンバーがいたが、多田院の御家人たちは、あるときは『悪党人』を扶持し、あるいは『悪党』と共に摂津国内外の所々を荒し回り、乱暴狼藉を働いた。正応(1288−93)前後と推定される紙背文書は、鴨社領長洲御厨に乱入した・・」
「『長禅門』は、正応6年(1293)4月、誅殺された平頼綱の甥の世代に当たる。同年8月、駿河国入江庄の長崎村が、楠木村とともに鶴岡八幡宮へ寄進されていることから、高綱(のちの円喜)も、事件に連座して名字の地を失った、とおぼしい。」長は長崎である。後に筆頭御内人となった長崎円喜は、駿河国を名字の地としていた。駿河国は得宗領であり、安東、楠木氏もまたここの出身であると筧雅博は述べる。
正中の変の後、「元徳2年(1330)正月下旬、慶元府(寧波)出身の禅僧、明極楚俊は、得宗家の招きに応じて鎌倉へ向かう途中、後醍醐のもとめによって参内し、天皇と直接問答するところがあった。天皇は外国人を引見してはいけない。9世紀以来の伝統をもつ、天皇家の戒めは、後醍醐によって破られたのである。・・・・明極参内の風聞は、鎌倉の人々のあいだに、不審と不快感をよび起こす。」これを仕掛けたのが得宗御内人安東蓮聖の後継者であったというのだ。「後醍醐の命令を、六波羅を介さずにうけとり、かつ、六波羅に知らせず『唐僧』を参内させる。このような措置をあえてとった『平次右衛門入道』は、洛中五条に屋形をもつ、得宗御内の代表者、安東平右衛門入道蓮聖(前年、90余歳をもって死去)の後継者である。もしかしたら、嘉元の乱における駿河守宗方(蓮聖は宗方の育ての親の可能性が大きい)の横死が、蓮聖一族の向背を、微妙に変えたのかもしれない。」この不敵な行動を行った安東氏と鎌倉攻めの大将新田義貞とは、姻族である可能性も指摘されている。「(新田)義貞は、若き日、得宗御内人、安東左衛門入道聖秀の姪を妻に迎えた、と伝えられる。」
「楠木一族の本拠地は、鎌倉幕府の強い支配を受けていた。正成が少年時代、仏典を学んだ、と伝えられる河内観心寺は、それ自体一つの荘園であり、モンゴル来襲のころの地頭は、秋田城介(安達)安盛である。霜月騒動後は、鎌倉の得宗公文所の支配が及んだであろう。楠木氏は、正成の祖父の時代、正地頭得宗の代官(もしくは又代官)として現地に送り込まれた可能性がつよく、正応6年(1293)7月、すなわち平頼綱が滅んだ直後、鶴岡八幡宮に寄進された駿河入江庄の一部、楠木村こそ、かれらの故郷の地であろう。入江庄は東海道の要衝清美ヶ関をふくみ、また薩?峠や美保の松原を境界領域とする大荘で、はやくから北条得宗家の所領となり、荘内に居住する吉河・興津などの武士団は、13世紀初め、淡路・播磨の沿海地域に新恩地を得、移住するものが多かった。・・・洛中における得宗家の代表者、安東蓮聖父子も、ほんらい駿河安東庄を名字の地にもつ御家人であった。楠木正成の父や祖父にとって、京都五条の安東屋形は、身近な存在だったのである。」
「播磨左用庄(代々の六波羅北方探題に継承された地)の住人、赤松範村(円心)一族が反旗を翻し」た。「円心は前年暮、楠木勢と淀川下流域で戦った可能性があり、極めて短期間に転身を遂げたことがあきらかである。」
名和長年は「伯耆守護職を兼ねる、六波羅南方探題、左近将監時益の家人であった可能性が、少なくない。」「鎌倉末期における(肥後国)菊池庄は、守護、金沢氏の支配圏に繰り込まれていた、と見なして誤りない。六波羅の危機が博多に伝えられつつあった3月12日、(菊池二郎入道武時)寂阿は二人の子息および舎弟とともに、百人足らずの手勢をもって探題府を襲い、討ち取られるが、肥後国一宮、阿蘇社の大宮司寂阿が一族に加わり、行動をともにしたことは、多くの人々に衝撃をあたえたであろう。肥後国一国中に何千丁という規模の社領を持つ、阿蘇社は、北条時政以来、嫡流家代々の当主によって伝領され、筑前宗像社とともに、鎮西における得宗領の中核的存在であった。鎮西探題は、管轄下の国々から北条一門の有力者たちを急遽招き寄せ、防備につとめるけれども、60年におよぶ、北条氏の鎮西支配が、終焉をむかえつつあることは、誰の目にもあきらかであった。」
「得宗以下、北条一門に駆使されていた人々が、幕府倒幕の原動力とな」ったと分析する。北条得宗を中心とする極盛期は、その担い手である御内人によって作られ、そして崩壊させられた。  
中世日本の内と外
中世にあって国と国とを分かつ領土や国家意識が現在の近代国家の下の意識と同じだと考えることはできない。国家の外延部や国家間のはざま・重なりを村井章介は<境界>と呼ぶことによって、内と外を見ようとしている。そしてそこに現れるのは常識を覆す新たな中世日本の姿である。鎌倉〜室町時代に、博多には宋人街が形成され、また、海の武士である松浦党や宗像大宮司家では宋人との婚姻も行われていた事例をあげて民族間の交流が普通の姿であったことを描いている。それは倭寇と呼ばれた人々の実態でもある。
日本と中国・朝鮮との関係を決定付けたのは蒙古来襲である。日本で摂関政治を覆した院政が成立し、その過程で台頭した源氏や平氏などの武士勢力が、国家権力を奪っていく中で中世が画期されたのである。それは日本だけの現象ではない。朝鮮半島でも武人による反乱と政変が繰り返されていた。武人として政権を掌握していた崔忠献の足元で、1198年6万人にも及ぶ奴隷の反乱が起こり、「賤籍を焚、三韓をして賤人なからしめば、則ち公卿将相、吾が輩皆これになるを得ん」と述べたことを村井章介は紹介している。奴隷の戸籍を焼いてしまえば貴族にも将軍にも政治家にもなれるのだと平等を訴えて蜂起したのであった。このような同時代的な共通性と、日本で武家政権が支配しえた地頭御家人制というような制度が朝鮮にはなく、「人の支配と土地の支配を統一して王権の外に自立的な基盤を築きあげる」にはいたらなかった相違点も村井章介は見ている。朝鮮での武人支配を終らせたのはモンゴルによる侵略である。1231年モンゴル軍に首都開京(ケギヨン)を包囲された武人たちは江華島(カンファド)にこもって30年間も抵抗した。文人によるクーデターで武人勢力が滅亡し国王はモンゴルへの忠誠を行った。が、武人政権下の軍事力の中核を担った三別抄は、なおも珍島(チンド)や済州島(チエジユド)に根拠地を移して1273年まで抵抗を続けた。朝鮮の支配のあとのモンゴルの侵攻目的が日本であることは明らかであったし、また抵抗を続けた三別抄からも1271年には援軍と兵糧とを求める使いが日本に派遣されている、ことを村井章介は紹介している。だが、日本の朝廷はその意味を理解することはできず、抵抗の国際連帯を築くことができなかった。ぎゃくに、2度の蒙古来襲の手引きを朝鮮が行ったとの思想が、日本の庶民にまでいきわたってしまったのである。神国思想と朝鮮蔑視観である。
神国思想の中では「神風」が重要なキーワードとなるが、モンゴルの世界征服過程で、このようなケースは日本だけではなったことも村井章介は述べている。インドシナ半島への侵攻のときの様子を「元はいったんチャンパの都バィジャヤの占領に成功しますが、84年、チャンパに送った援軍1万5千・船2百艘が、暴風にあって壊滅してしまいます。92年のジャワ征討のときも、元の海軍は暴風で大被害をこうむっています。神風≠燗本でだけ吹いたわけではありません。」と書いている。このような内と外とを正しく記述することが必要である。日本に朝鮮蔑視があるように、朝鮮でも女真族を野人とよび「野人は犬羊とことなるところがない」とし、日本を島夷と呼び「島夷は人類に数えるに足りない」とあるとして、日本蔑視があることも描いている。
さらに注目すべき論点としては、足利義満が明から国王の称号を得て中国貿易をしたことを、経済主義的な解釈だけではなく、天皇に代わるための仕掛けであった、としている。「明帝の冊封を受けることは、王権簒奪計画の仕上げとして至上の権威をうしろ盾にすることでしたが、対外的には、九世紀以来の伝統的孤立主義から脱却して、東アジア国際社会のなかに『日本国王』をまっとうに位置づけるねらいがありました。」と分析している。東アジア国際社会にまっとうに日本国王を位置づける狙いまで足利義満にあったかは、保留したいが、王権簒奪計画の仕上げに国際的な権威を得たいと、言う発想は納得である。現在でも、国内政治にアメリカ合衆国の意向を背景として力を発揮しようとする政治家や政府高官は数え切れないほどいるのであるから。
最後に、中世ではないが、江戸幕府が行ったとされる「鎖国」について。これはわりと知られたことではあるが、繰り返して話さなければならないことでもある。つまり鎖国は「亀が甲羅のなかに身をすくめるように外との関係をいっさい断つことではありません。理念的には、国家が対外関係のすべてを掌握する体制で、国家政策上許容した範囲での関係をむしろ積極的に結んでいます。」と村井章介は述べ、明以降中国王朝で行っている「海禁」の一類型であると位置づけている。幕藩体制の「四つの口」、すなわち長崎を幕府直轄で治め中国人とオランダ人との貿易を行い、対馬藩に朝鮮との、薩摩藩に琉球との、松前藩にアイヌ民族との交易・交渉を「家役」とした、と村井章介は描いている。密貿易は琉球を介して中国と、アイヌ民族を介してシベリア等の大陸と行っていたことは、明らかとなっている。
日本国内だけで、歴史を見ると自己完結した歪んだ視点しか出てこない。村井章介が提示したように、「境界」を介して東アジアの歴史に日本を組み込むことで古代・中世の、近代日本の歴史観に枠をはめられない、姿が見えてくる。  
 
鎌倉幕府の滅亡

 

足利氏と新田氏
足利氏も新田氏も、前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の孫を祖とする家柄だ。義家の孫であった義康が下野国足利荘を本拠地としたのが足利氏の始まりである。義康は、保元の乱のとき、源義朝と行動をともにし、義康の子である義兼は源平の争いの際に源頼朝にしたがって戦い、北条時政の娘を妻とした。以後も足利氏は、代々北条氏と姻戚関係を結び、上総・三河両国の守護となった。一方の新田氏は、義家の孫であった義重が上野国新田荘を開発し、新田氏を称したのが始まりである。新田氏も治承年間の内乱の際に、源頼朝にしたがい、御家人となった。
先祖をたどると、足利氏も新田氏も同じ義家の孫で兄弟だ。しかも、新田氏の方が兄で、足利氏の方が弟である。しかし、父である義国の嫡流を継いだのは、兄の義重(新田氏)ではなく、弟の義康(足利氏)の方だった。源氏の宗家は、3代将軍実朝で断絶した。源氏の宗家の断絶後、足利氏は「八幡太郎」と称された義家の子孫として、最も格式の高い家柄であった。
足利高氏
足利氏に伝わる有名な伝説がある。義家の遺言として、「七代の後に生まれかわり、天下を取るであろう。」と言うものが足利氏に伝わっていた。ところが義家から数えて七代目にあたる家時は、自分の代になっても天下を取れなかったため、「自分はみずから命を縮めよう。その代わり我より三代のちに必ず天下を取らせたまえ。」と八幡大菩薩に祈り、切腹して果てた。
そんな伝説をもつ、足利氏に家時の3代のちに生まれたのが高氏(のちに尊氏)であった。足利高氏が生まれたのは1305年のこと。1331年、父の死によって足利氏の当主となった。高氏と言う名は、元服するときに14代執権北条高時から一字をもらって、高氏と名のったと伝えられている。このことからも、足利氏が幕府の中で重んじられていた家系であると言うことが分かる。ちなみに高氏の妻は、16代執権北条守時の妹にあたる女性だった。
「高氏は戦上手」と言うのは、彼を理解する、もっと言えばこれからの歴史を理解する上で、重要なキーワードだ。高氏は、元弘の変(1331年)、つまり後醍醐による二度目の討幕計画が発覚したとき、幕府から出兵を命じられた。高氏は後醍醐がこもった笠置(かさぎ)と楠木正成の赤坂城の攻撃に参加している。実はこの時期は、高氏の父である貞氏が亡くなった直後だった。そこで高氏は、そのことを理由に一度は出兵を拒否している。幕府は高氏の妻子を人質にとり、再度出兵を命じたので、幕府に対する反感をもつようになったと伝 えられている。
高氏の寝返り
船上山によった後醍醐は、京を奪いかえすべく、自分にしたがって隠岐を脱出した千種忠顕(ちぐさただあき)に兵を与え、上洛を命じた(1333年3月)。また、播磨国の赤松則村は、すでにこの頃、六波羅の軍と何度も合戦を行っていた。しかし、六波羅の守りは固く、赤松則村の軍も千種忠顕の軍も勝利を得ることはできない状況だった。一方の幕府は、後醍醐が船上山によったことを知ると、足利高氏と名越高家に出兵を命じた。
目的は、船上山の後醍醐を攻めるためである。高氏が兵を率いて上洛を開始したのが1333年の3月27日、京の六波羅探題へ到着したのが4月16日。高氏の軍と高家の軍は京に到着すると、二手に分かれ、高氏は山陰道(日本海側)を、高家は山陽道(瀬戸内海側)をそれぞれ進み、後醍醐をはさみ討ちにすべく、さらに進撃を開始した。しかし名越高家が赤松則村に討たれると、高氏は後醍醐の綸旨を受けて、後醍醐方に寝返る。
高氏は1333年4月29日、足利氏の所領であった丹波篠村八幡に源氏再興の願文をかかげ、幕府に敵対することを宣言した。どうして高氏は寝返ったか、昔からいろいろな解釈があり、通説となっている考え方は、次のようなものだ。
本来、足利氏は源氏の名門であり、北条氏よりも家格は上である。
そうであるにもかかわらず、北条氏が足利氏の主人のようにふるまっている。
以上の点に不満をいだいた高氏が、北条氏を倒し、自分が征夷大将軍になって、武家政治の実権を握ろうとした。
まとめると、「高氏は北条氏が牛耳る当時の幕府に不満をもっていたから、幕府を裏切ったのだ。」と言うことになる。事実、高氏は東海道を西へ向かっているときから、ひそかに後醍醐のもとへ使いを送り、後醍醐にしたがうと告げていたようだ。高氏は「寝返り」を宣言すると同時に、各地の有力な御家人に使者を送り、協力を求めた。「寝返り」は、事のなりゆきをじっと見つめていた全国の武士たちに大きな影響を与えたようだ。彼らは先を争うかのように、後醍醐方に身を投じ、各地の幕府や北条氏の拠点を攻撃した。彼らの中にも、確実に北条氏に対する不満が高まっていたようだ。
六波羅の滅亡
京における後醍醐方と六波羅方の最後の決戦は、1333年5月7日に行われた。後醍醐方の主力は足利高氏、千種忠顕、赤松則村の軍勢。両軍ははじめ京の市中で激戦をくり広げたが、やがて六波羅方は、六波羅の城郭内へ退かざるを得ない状況へと追いつめられた。その夜、六波羅方は鎌倉と合流することを目的にひとまず京を脱出しようとした。六波羅探題北方の北条仲時、南方の北条時益は、光厳天皇や、後伏見・花園の両上皇を奉じて、東海道を東へ向かった。
一行は近江国(滋賀県)で「落武者狩」の野伏(のぶせり)らの襲撃を受け、このときに時益が討ち死にした。二日目、近江国番場峠にさしかかった一行は、ここで再び野伏の襲撃を受けた。進退きわまった一行は、峠のふもとにあった蓮華寺に入り、仲時以下がことごとく切腹をして果てたと言う。このとき切腹した人の数は430余人だった。彼らの名を記した過去帳と墓は現在でも蓮華寺に残されている。光厳天皇と両上皇は、後醍醐方の武士に捕らえられ、京へと送られた。こうして、京は後醍醐方の手に落ちることとなった。
新田義貞の挙兵
京で激しい戦いが行われていた頃、関東でも幕府を倒そうとする動きがおこっていた。新田義貞が後醍醐のよびかけにこたえ、幕府を倒そうと軍を率い、南下を開始した。しかし、当時の新田氏は、足利氏に比べ、かなり落ちぶれていたようだ。1333年当時で見ると、高氏は29歳、従五位下で前治部大輔(さきのじぶのたいふ)であったのに対し、義貞は33歳でしたが、無位無冠だった。義貞にしてみれば、「今こそ新田氏が天下に勢力をのばすチャンスだ。」と言う思いもあったと思われる。また同族の足利氏に対するライバル心も当然あったものと想像される。
義貞は当初、利根川をこえて、一族が多くいる越後方面へ軍をすすめるつもりだったのが、弟にさとされて、鎌倉攻めを決意したのだと伝えられている。事実、越後からの援軍はあったようである。越後の一族を加えた義貞の軍勢は、東山道を西へ進み、上野国守護所を攻略し、やがて利根川をこえる。利根川をこえた時点で、鎌倉を脱出してきた高氏の子である千寿王の軍と合流した。高氏の子と合流したことにより、周辺の御家人たちも次々と加わって、義貞の軍勢は数万にふくれ上がったと言われている。
義貞の軍勢は鎌倉街道を進み、入間川を渡って、小手先原に達した。小手先原で、義貞は幕府軍と合戦となった。兵の数が幕府軍の方が多かったようだが、北条氏に不満をつのらせていた地元の御家人たちの援護を受け、しだいに義貞の軍勢が有利となっていった。幕府軍は分倍河原まで後退し、ここに陣を敷いて、義貞の軍と最後の決戦を挑んだ。義貞は一度は大敗するが、新たな援軍も得て、幕府軍を撃破し、やがて藤沢(神奈川県)にまで進出した。ここまで来れば、鎌倉は「目と鼻の先」の位置だ。
新田義貞の鎌倉攻め
鎌倉は三方を山に囲まれ、正面は海と言う要害の地である。守るのに易く、攻めるのが難しい土地である。鎌倉に入るには、切通とよばれる開削路か、山越えをするしかない。義貞は軍を化粧坂切通・極楽寺坂切通・巨副呂坂切通の3つに分け、鎌倉総攻撃を開始しした(1333年5月18日)。義貞の軍勢は数にものを言わせて攻めこんだ。幕府軍も必死の抵抗を行うが、軍勢の数に圧倒され、じりじりと追いつめられていった。5月21日になって、義貞は決断を下し、稲村ケ崎方面からまわりこみ、浜づたいに鎌倉中央部へと突入した。
水軍でもない限りは不可能と思われた海側から鎌倉を攻めた。このときの有名なエピソードがある。かつては文部省唱歌の中でも歌われていた有名な話しだ。七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎、名将の、剣(つるぎ)投(とう)ぜし古戦場。文部省唱歌「鎌倉」の一番の歌詞だが、有名なエピソードと言うのは最後の「剣投ぜし古戦場」の部分である。
義貞は大軍を浜づたいに移動させるため、自分の腰にさしていた刀を稲村ケ崎から海中に投げこみ、潮が引くように海神に祈ったところ、見事に潮が引いて、砂浜があらわれた。と言うのがその有名なエピソード。海中に刀を投げ入れたと言うのは、事実かも知れませんが、それで潮が引いたと考えるのは、無理。現在では、義貞はその日が大潮にあたり、潮が引くことを地元の漁師から情報として得ていて、それを利用して軍を移動させたのだと考えられている。
鎌倉市街へと突入した義貞の軍勢と幕府軍は壮絶な戦いをくり広げた。「太平記」によれば六千人余りの死者が弔われることもなく、うち捨てられていたとある。鎌倉市街での激しい戦いを裏付けるように、1953年の夏、鎌倉南部の材木座と言う場所で、910体と言う大量の人骨が発見された。この人骨はいずれも青年、あるいは壮年の男性のものであり、刀傷や刺し傷などのあとが無数についていたと言う。討ち取られた首だけをまとめて埋めたのか、頭蓋骨だけがまとまって発見された場所もあったそうだ。鎌倉市街での激しい戦い、幕府軍はしばらくは持ちこたえたが、翌日、ついに最後の時がおとずれた(1333年5月22日)。
北条氏の滅亡
鎌倉の鶴岡八幡宮からそれほど遠くない山の山腹に、「腹切りやぐら」とよばれている洞窟がある。洞窟といっても、奥行きは数mの小さなもので、ここには数基の五輪塔がくずれかかったまま置かれている。この場所こそ、北条高時が一族とともに自害したといわれている場所だ。1333年5月22日、「いよいよ最後のときがきた」と覚悟を決めた北条高時は、一族の者たちとともに、東勝寺にこもった。東勝寺は北条泰時が建立した寺院で、北条氏の菩提寺であった。東勝寺は、現在は失われてしまったが、「腹切りやぐら」は、東勝寺あとの奥にある。
ちなみに「やぐら」と言うのは、鎌倉地域独特の墓のことで、鎌倉時代の中期から室町時代にかけて、山腹に横穴をほってつくられた。鎌倉は平地が少なく、幕府が墓を平地につくることを禁じたので、このようなものがつくられたのだといわれている。
東勝寺に集まった北条氏一門は、切腹したり、刺しちがえたりして、次々と自害した。その数は数百名にものぼったと言う。そしてそれを見届けてから、高時が自刃したと伝えられている。1333年5月22日、北条氏の滅亡とともに、鎌倉幕府はおよそ150年の歴史に幕をおろすこととなった。
鎌倉幕府と北条氏
北条氏は不思議な一族である。権力を握りながらついに幕府を開かなかった。征夷大将軍になぜなろうとしなかったのであろうか。鎌倉幕府の御家人の一人として執権というあいまいな地位(所詮、将軍家の家政組織の長でしかない。さらに得宗などは家政組織の長の一族内の総領家を意味するにしか過ぎないのではないだろうか)から抜け出さなかった、あるいは抜け出せなかった不思議。
その不思議への答えは当たり前すぎで研究課題にもならないのか。執権得宗への権力と富の集中について石井進は丹念な論証を行う。それは大変貴重で、37年も前の「北条氏所領の構造と特質」の「九州諸国における北条氏所領の研究」(1969年に発表)論文は実証的である。これらの実証研究の上に北条得宗とともに生きてきた安達氏の位置を示した「『蒙古襲来絵詞』と竹崎末長」「蒙古襲来絵詞をほどいて地方武士の声を聞く』などは大変面白く読める。
しかし、網野善彦との対談「鎌倉北条氏を語る―境界領域支配の実態とその理由」(1999年9月別冊歴史読本もののふの都鎌倉と北条氏新人物往来社)からはじめたい。北条氏の家紋が三鱗であることやそれが江ノ島の弁才天伝承と一体となった伝説に彩られていることは知っていたが、対談は話が深い。小さな半島である伊豆国が天武期に駿河国から分かれたのは、房総半島の先だけ安房国であったりするのと同じく海の道を重要視したからであるとまず押さえている。そして北条氏は無位無官の弱小豪族とみなされているが、北条氏の本家は伊豆介を名乗っている在庁官人の一族(庶流)であり、北条氏は海の国を押さえていた一族ということになる。こうして石井進は「三鱗は・・どうも鎌倉時代の北条氏を解くキーワードのひとつになるのではないかと思っています」と述べるにいたる。これを受けて網野善彦は「そもそも、北条氏の所領が海上交通の拠点に分布していることを明らかにされたのは石井さんですよね。交通の要衝を北条氏がおさえており、その要衝はもちろん陸上交通を考えられないことはないけれども、川、海の交通要衝を確実におさえていますよね。」と。九州と東北地方とが北条氏の所領分布が密なところである。石井進は南西部は尾張国愛知郡の出身の千竈氏が代官となって薩摩半島の坊津、大泊津、あるいは永良部島、屋久島などを領有していた。北は被官安藤氏が津軽、南部地方を領有し、ついには建武の中興の楠木氏や赤松氏も得宗被官であった、と話は進展する。
播磨国の赤松氏について石井進は「やっぱり気になるのは、後醍醐が倒幕の兵を挙げたとき、播磨の赤松氏なんかは、筧雅博さんがいうように、それまではどうみても北条氏のひじょうに重要な部下だったのですよ。それが、結局、反旗を翻す。それがなぜだったのか。それから赤松氏に並ぶのがやはり楠木氏。」それに応えて網野善彦は「私は楠木は得宗被官だったと思うのです。これまで戦前の『皇国史観』、遡れば「太平記」の評価が支配的だったので、楠木氏が御家人だったという説も問題にされなかったのですが、『高野春秋編年輯録』という高野山の編集した史書があり、これにはしっかりした文書をつかって編纂されているのですが、そのなかに元享2年(1322)、楠木正成が北条高時の命令によって湯浅氏一族の保田荘司を攻めてその旧領の紀伊国の保田庄を与えられたという記事があります。・・それから筧雅博さんの指摘ですが、正成がひじょうに深いかかわりをもっている河内の歓心寺が安達泰盛の所領だったのです。その泰盛は霜月騒動で没落して歓心寺も没収され、そのあとに北条氏が入ると考えられますが、その歓心寺に正成が深いかかわりをもっているのですから、正成は間違いなく得宗被官だったというわけです。」続けて「(吾妻鏡の建長元年(1190)、頼朝が上洛したおりの随兵の楠木四郎という御家人が忍氏と並んででてくる)つまり、楠木氏は武蔵国御家人と一緒に並んでいます。そうなると、武蔵にも楠木という地名を見つけることができるかもしれないのです。だから、駿河とはいいきれない。」楠木氏はもともと東国出身の御家人ではないかと推論するのである。楠木四郎な者が、玉井、忍、岡部、滝瀬らの武蔵七党のひとつ猪俣党の一団とともにあることから、武蔵国の利根川流域にいた一族ではないかと推測するのである。武蔵七党は弱小御家人であり、いつの間にか北条得宗家の御内人となり、得宗領の現地代官として播磨、河内など全国の経済活動の活発な地域へと散らばっていった。その末裔の一人(一族)ではないかとも思われる。
経済感覚のある弱小御家人などを北条氏の被官化し、全国的な交易のネットワークを作り出した。全国制覇の、そのきっかけとなったのは蒙古襲来の危機意識である。こうして得た富の独占体制は、反発を招く。対談の終わりに石井進は「ストレートに実現したのかもしれない。それによって北条氏は全国的な交通網、あるいはそうした場に対する統一的な支配体制を手に入れた。けれども、そのために、むしろ矛盾の激発を招いた。交通の重要な拠点を次々と支配下におき、どんどん新しい連中を手下に組み入れていく。そのため、結局彼らの不満をそらすところが・・・。」「なくなっちゃったわけですよね。全部、手に入れてしまったために。」悪党をも組織化した得宗が、欲張りすぎて壊滅したという図式であろうか。それにしてもこの楠木、赤松氏の御内人説は学会の定説になっていないのだろうか。今でも、得宗支配対悪党の構図が一般的に流布されているのだが。
さて、このような北条氏得宗支配の進展と壊滅を眺めた上で、改めて基礎となった研究「九州諸国における北条氏所領の研究」を追ってみよう。九州地方での北条氏支配は12世紀末までは肥後国阿蘇社であり末社3箇所が明らかなだけである。が、13世紀初頭、北条氏勢力確立の第一の画期である比企の乱に際して日向・大隈・薩摩三国にまたがる島津庄地頭職を島津忠久から奪って北条氏所領(後に薩摩国守護職、島津庄薩摩方地頭職は返還)とした。こうして筑後・肥後両国の守護を大友氏から北条一門の名越氏へ移り同じ名越氏が守護であった大隈国、他の北条氏が守護であった日向国とあわせて九国中四国が北条氏領となり、守護領が北条氏の所領に加えたれた。13世紀後半は蒙古来襲の危機に乗じて得宗支配が確立されていく。それは北条氏一門の内紛としても現れる。得宗庶兄時輔(六波羅探題)が反乱の企図ありとして誅殺され、これに連座して得宗に匹敵する勢力をもっていた名越時章も誅殺されたえん罪事件で、名越氏は三カ国守護を没収され、後に得宗寄りの一族に配分される。安達氏が族滅した霜月騒動に関連して肥後国守護代安達盛宗と武藤景須資の反乱(岩門合戦)による没収地の大半も北条氏一門に与えられたという。九州の所領面積は20.5%におよび、なお北条氏の所領の分布を見ると豊前国門司関、豊後国佐賀郷などの軍事・交通上の要衝をおさえ、肥前国では有明湾に望む地域、肥後国では郡浦、葦北庄内佐敷など港湾の地、そして坊津、大泊津そして志布志湾沿岸など港湾施設と後背地を得て、それを結ぶ「網の目のようにとりむすぶ交易網を想定することができる。」と述べている。
北条氏の三鱗の紋を掲げた船が北は津軽の広大な得宗領などから集めた交易品を積んで、得宗守護領である若狭国の良港を経由し、坊津などを経て中国(明)との交易が行われていたイメージを思い浮かべることができる。それはまた、坊津から、北条氏の守護国である土佐国や佐賀郷そして瀬戸内海を経て鎌倉の外港・六浦(金沢流北条氏の拠点)に至る交易路を考えてもいい。このような現地を支配する北条氏(得宗)被官は先の対談で出た人々以外では安東蓮聖が有名である(北の安藤氏とは違う一族)。摂津国守護代であり、多田院、生魂新庄、福嶋庄、美作庄などの得宗領の支配者、和泉、但馬国内に所領を持ち、播磨国福泊の港湾の築堤工事を自力で行い、さらに豊後国佐賀郷の給主としても現れる。さらに借上を兼業している。彼を佐藤進一は「富裕大名の被官、すなわち将軍家の陪臣であって、厳密な意味で御家人でない人々は主家の富力蓄積を直接担当しつつ、また自らも急速に有徳人化してゆく」(「幕府論」)好例として示している。
「吾妻鏡」は安達氏と金沢北条氏近くの人々によって編纂されたことを指摘し、また「蒙古来襲絵詞」の竹崎五郎兵衛李長が褒賞を得ることができた幸運はどこから来ているかを、石井進は解き明かしていく。合戦において姉婿三井三郎資長が与力として力を貸してくれたばかりか、鎌倉に行く道で歓待した烏帽子親三井左門尉李成は周防国守護代(守護は評定衆二階堂行忠)であり、恩賞を与えたのが御恩奉行である安達泰盛であったが、泰盛の弟左衛門尉長景は二階堂行忠の娘婿であった。李長が甘縄の安達邸を下がるとき、安達泰盛から馬を拝領する絵に立会いとして長景が描かれている。このことから「竹崎李長―烏帽子親三井李成―その主人行忠―娘婿安達長景―兄泰盛という人脈が、李長の泰盛への出訴を可能にした、だからこそ、この場に長景がいるのだともいえるかも知れません。」と石井進は卓越した絵解きを行っている。
蒙古襲来後まもなく、御恩奉行(かつ肥後守護)安達泰盛、肥後国守護代安達盛宗(直属の上司)、安達長景、文永の合戦の現場指揮官であり李長に先駆けを許した武藤景資らは霜月騒動・岩門合戦で滅亡した。だが、数年後(永仁元年4月)、彼らを悲劇に落とした平頼綱ら御内人は平禅門の乱により、誅伐された。こうして、かつての安達派の復活した時期に、竹崎李長の「報謝の念をうたい上げているこの絵巻は、見方によっては、まさに過ぎ去りし良き日々としての執権政治の伝統への一地方武士のかなでる挽歌でもあった。」と石井進は思い入れを語る。
征夷大将軍は、上級軍事貴族の嫡流に与えられる。平家の傍流のそのまた庶流であった時政に始まる北条氏は、その名目以外の処で、ライバルの御家人たちと争い、地位を確立していった。土地を媒介とする将軍−御家人を基軸とする鎌倉幕府政治体制の中で、将軍になれない(ならない)北条氏は別の仕掛けで権力を集中させていく。海の一族の末裔として、全国の交易の拠点を我がものにし、海のネットワークを広げる中で、富の集積を図っていった。それは従来の鎌倉武士的な世界ではなく、地域間交易や借上(高利貸)に近い体質を兼ね備えた不思議な一族であった、と改めて思う。清盛が築いた平家政権の姿を彷彿とさせる。得宗専制の進行とともに、富の寡占化が進み、やがて建武の中興を迎える。が、その後の室町時代は借上、土倉が勃興し不安定な政権として政治体制の体をなすことなく、戦国時代に至る図が見えてきた。  
 
建武の新政と後醍醐天皇

 

建武の新政概説
1333年6月5日、後醍醐天皇が京へもどった。その途中で光厳天皇の廃位を宣言し、再び天皇の地位に返り咲いた後醍醐は、醍醐・村上両天皇の治世を模範とし、自らが理想とする新しい政治に着手する。後醍醐が行った新しい政治を、当時の年号をとって建武の新政と言う。建武の新政は、「天皇親政の復活」と言う観点から、建武の中興ともよばれる。
建武の新政の内容を、板書風に整理する。後醍醐はいったい日本をどんな国しようとしたのでしょうか。一言でいえば、「天皇を中心とした中央集権国家に改造したい。」と言うのが後醍醐の政治理念でした。しかし、古代は別にして、中世に入ってからは、権力が天皇に一極集中したことはなかった。摂関政治・院政と思い起こせば、この点は自明である。後醍醐のこの理想を実現するために、乱暴な言葉を使えば、「朕が法律だ」と言う状況をつくらねばならない。当時の状況から考え、これは「至難の業」だった。しかし、後醍醐は短い期間だが、その状況をつくり上げることに成功した。その秘密は綸旨とよばれる天皇が発する新しい命令にあった。
建武の新政綸旨
天皇の正式な命令を詔勅と言う。詔と勅は本来別のもので、詔と勅のちがいは、詔と言うのは臨時に出される天皇の命令、勅と言うのは通常出される天皇の命令と言うことだ。何か臨時に大事件がおこって、あるいは臨時に必要が生じて、それに対応するための命令が詔だ。そうでないものが勅だ。詔勅を出すには、太政官を経由する必要があったため、手続きに時間がかかると言う欠点があった。
これに対応するために考え出されたのが宣旨とよばれるものだ。宣旨は天皇が側近の女官を通じて、蔵人(くろうど)とよばれた天皇の秘書官に意志を伝え、その意志が蔵人から各官庁の長官に伝えられ、その官庁の名で出される命令だ。つまり、詔勅ではなく宣旨の形にすると、太政官による審議と言う手順がはぶけるわけだ。宣旨よりももっと簡単に出すことができるようにした天皇の命令が綸旨だ。
綸旨は、天皇の意志が直接蔵人に伝えられ、蔵人が「天皇のご意志はこうである。」と言う形で出す命令書だ。綸旨の形で命令を出すと、面倒な手続きを一切省略して、ただちに命令を下すことができたわけだ。後醍醐はこの綸旨と言う命令書を「愛用」した。
後醍醐の土地政策
後醍醐は、綸旨をまず土地政策に用いた。後醍醐は京に帰還した十日ほど後には、次のような法令を発したと言う。
「ここに軍旅すでに平らぎ聖化普く及ぶ。以後、綸旨を帯びずんば自由の妨げをいたすことなかれ」この法令の意味の核心部分は、「綸旨を受けた者だけが、自由に自分の権利を主張できるのだ。」と言うことだ。つまり、平安時代・鎌倉時代を通してつちかわれてきた、土地の所有に関する習慣や権利を白紙に戻し、新しく後醍醐の綸旨を受けた者だけが、土地についての権利を主張することができると言うことだ。
「この土地は代々、藤原氏の荘園であった。」とか、「この土地は幕府によって所有を認められている。」と言うような主張は認めないと言うことだ。後醍醐のこの方針によって、日本中の土地所有者の間に激震が走った。日本中の土地所有者がその権利を失ってしまったと言うことになる。これまでの土地所有者が、引き続いて土地に関する権利を保証してもらうには、新たに後醍醐の綸旨を受ける必要がある。土地を保証してもらうことを当時の言葉で安堵と言うが、この安堵を求めて京に土地所有者たちが殺到したと言う。
また昔、何らかの理由で土地を失った者も都へとのぼった。現在は土地を失った状態であっても、後醍醐の綸旨さえ受ければ、土地を取り戻せる可能性があったからだ。まさに都は大混乱に陥ったと言う。
後醍醐はさらに、知行国制度についても改革の手を伸ばした。知行国制度は、ある特定の家系が、特定の国の国司任命権を独占し、しかもその権利を世襲することだった。このような家を知行国主というが、制度は言うまでもなく、本来は国家のものである公領の私物化であった。後醍醐は知行国制度にも手をつけ、知行国主であった中院家(なかのいんけ)、西園寺家などから、私物化していた国を没収した。
しかし、「綸旨による土地の安堵」にはやはり無理があった。後醍醐が「綸旨による土地安堵」を宣言した1333年6月15日だったが、そのわずか1ヶ月後の7月23日には、「所領の安堵については地方の国司に任せる」と言う内容の宣旨を出している。おそらく、殺到する土地に関する訴訟に対応しきれなくなったからか。注意すべきは、「地方の国司に任せる」と言うのは、訴訟を国司が受けつけると言う意味ではなく、北条一族とそれに連なる者の所領以外は、これまでの所有権を認めると言う意味である。後醍醐の「綸旨による土地安堵」は失敗に終わった。
政治機構の改革
後醍醐は天皇親政を行うため、政治機構の改革も積極的に進めた。基本方針は権力を自分一人に集中させると言うことだった。後醍醐はまず形骸化していた律令制に基づく役所の復元をはかった。当時、太政官の八省(中務・大蔵・宮内・民部・式部・刑部・治部・兵部の各省)は、ほとんど政治活動を停止していたが、本来「正四位」クラスの身分の人々の職であった八省の長官に、大臣クラスの上級貴族を任命した。
本来、朝廷の政治は大臣クラス(太政大臣・左大臣・右大臣など)の合議によってものごとを取り決め、それを八省に命じて実行させると言うものだった。つまり、大臣が決めて、八省が実行する、大臣が「頭」で、八省が「手足」と言うことだ。後醍醐にしてみれば「頭」は自分一人なわけで、それまでの「頭」であった大臣クラスの上級貴族を「手足」の地位へ「格下げ」したことになった。当時は、知行国制度によって、各地におかれた国司も実のない職となっていたが、後醍醐は地方政治の要として国司を重視し、上級貴族や側近を積極的に国司に任命した。
言うまでもなく、天皇の地位をおびやかす存在である幕府や院政は否定され、摂政・関白の職務は廃止された。知行国制度も否定した。つまり、後醍醐の政治改革は、上級貴族たちに大きな経済的打撃を与える結果となった。上級貴族たちは、天皇に忠誠を誓うことによってのみ、経済的な利益を得ることができるようになった。上級貴族たちにとっては、たまったものではなかったが、後醍醐にとっては、この状態が、理想であった。
少し細かく見てみますと、まず中央におかれた重要な役所が記録所である。記録所は、後三条天皇が、1069年に荘園整理のためにおいたのが最初だった。後醍醐はこの記録所を復活させ、一般の政務や訴訟を扱せた。もちろん後醍醐に直属する機関であり、役人には中級の貴族や側近の武士を任命した。
次に重要なのが雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)である。この役所は所領問題、つまり土地をめぐる争いを専門に扱う機関だった。雑訴決断所は鎌倉幕府の引付を踏襲した機関であると言われ、役人には貴族だけでなく、多くの武士がその任に当たった。
武者所は京都の警備や武士の統制を行った役所で、長官には新田義貞が任命された。恩賞方は、討幕に功績があった人の恩賞を扱う役所で、雑訴決断所と同じく、貴族とともに多くの武士が役人に任命された。
地方の役所では、関東に鎌倉将軍府が置かれ、関東地方の統轄を担当した。鎌倉将軍府には後醍醐の子の一人、成良親王が派遣され、これを高氏の弟である足利直義が補佐した(成良は「なりなが」と読む場合もある)。東北には、陸奥将軍府が置かれた。陸奥将軍府は多賀国府に置かれ、東北地方を統轄した。陸奥将軍府には後醍醐の子の一人、義良親王(のりよししんのう)が派遣され、これを北畠顕家(きたばたけあきいえ)が補佐した(義良は「のりなが」と読む場合もある)。
諸国には国司がおかれたが、同時に鎌倉時代以来の守護も併設された。ここが大きなポイントで、天皇親政を本当に実行するならば、守護など置く必要はないことである。想像だが、後醍醐の「本音」は守護など置きたくはなかったのではと思われる。現実には国司と守護を併設せざるを得なかったわけで、それだけ武士の力が強くなっていたと考えられる。
建武改元と未来の新儀
「建武」と言う年号を定めたのは後醍醐だが、そのいきさつに有名な話がある。
1334年、後醍醐が京都にもどった翌年、後醍醐は年号をそれまでの「元弘」から「建武」へと改めた。この「建武」と言う年号は、もともと中国で使われていたもので、「めでたいいわれ」を持つものだ。中国で「建武」の年号を使ったのは、後漢の光武帝である。武帝といえば、奴国王に金印をさずけたことで有名。中国史では、光武帝と言う人物は、前漢が王莽(おうもう)と言う人物に滅ぼされた後、王莽が建てた「新」と言う王朝を滅ぼし、漢王朝を復活させた英雄である。そして光武帝が再び、中国を統一したときに用いた年号が「建武」である。
後醍醐にしてみれば、自分を光武帝と重ね合わせ、一時朝廷の手から離れた政権を、武士の手から取り戻した印としてこの年号を採用したと考えられている。しかし、この「建武」と言う年号には、貴族たちの間で、かなり強い反対があった。理由は「武」と言う文字を含んでいるのが「不吉」だと言うことからだ、「建武」とは「兵乱」をよぶ年号であると捉えられた。後醍醐は、そのような反対を押し切って改元を行った。
「ワンマン」の後醍醐らしい他のエピソード。後醍醐が何か新しい試みをなそうとするたびごとに、まわりの貴族たちは、「前例がない」と言う理由で反対したと言う。そこで後醍醐が発した言葉が有名なのだ、それは、「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と言うものだった。意味は、「現在において先例となっているものも、昔は新しい試みであった。それと同じように、私の新しい試みが未来において先例になるのだ。」である。
新政への不満
後醍醐の意気込みとは裏腹に、建武の新政には不満や矛盾が次々に現れた。
綸旨による土地保障 / 武家の社会では現実にその土地を支配しているかどうかと言うのが、所有権の基準だった。後醍醐はその「しきたり」を破り、綸旨による土地所有権の確認を強行した。この後醍醐の行為によって、土地所有権の確認をめぐる大混乱が起こった。
恩賞の不公平 / 武士たちが後醍醐に協力したのは、「恩賞がめあて」であったわけで、実際の恩賞は後醍醐の側近にあつく、武士に恩賞は少なかった。これが武士たちの、新政に対する不満の大きな部分を占めていた。
武家内部の分裂 / 後醍醐の討幕に協力した武士勢力は、「親後醍醐派(新田・楠木)」と「反後醍醐派(足利)」に分かれて対立するようになった。
武家と公家の対立 / これには二つの意味があるが、まず根本に、公家は「貴族政治の復活」を、武家は「北条氏に代わる武家政権」をそれぞれ望んでいると言う、相反する望みがある。これに加えて新政権では、武家と公家が一つの役所の中で仕事をしていたから、「考え方」や「しきたり」のちがいから、トラブルもたびたびあったようだ。
大内裏の造営 / 大内裏とは、皇居と官庁の両方を含んだスペースのこと。大内裏はたびたびの火災によって、この時代には焼失したままになっていた。後醍醐は、自分にふさわしい大内裏を造営しようと考えた。大内裏の造営のため、次のような方針を発表しました。
1.安芸(広島)・周防(山口)の公領からあがる租税を費用にあてる。
2.諸国の地頭に、その収入の1/20を費用として差し出させる。
3.諸国の地頭に、領地十町につき、一人の人夫を出させる。
この後醍醐の決定は、地方武士や農民層の反感を買った。
銅銭・紙幣の発行 / これは実体がよく分かっていないが、後醍醐は久しく途絶えていた銅銭の鋳造と日本で最初の紙幣を発行しようとしたと言われている。この銅銭を「乾坤通宝(けんこんつうほう)」と言うが、紙幣も含めて現物が残っていないため、実際に発行されたのかどうかは不明。
二条河原の落書
「二条河原の落書」と言う有名な史料がある。京都は鴨川の二条河原に貼り出されたもので、「建武年間記」と言う書物に記録されたため、現在に伝わっています。参考のため、下に原文を示しておきます。
此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨 召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家 俄大名 迷者 安堵 恩賞 虚軍 本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛、追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者 器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所 キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ 賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ 巧ナリケル詐ハ ヲロカナルニヤヲトルラム 為中美物ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツヽ 気色メキタル京侍 タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好 イクソハクソヤ数不知 内裏ヲカミト名付タル 人ノ妻鞆ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ 尾羽ヲレユカムエセ小鷹 手コトニ誰モスエタレト 鳥トル事ハ更ニナシ 鉛作ノオホ刀 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス ハサラ扇ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖 日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕 下衆上臈ノキハモナク 大口ニキル美精好 鎧直垂猶不捨 弓モ引ヱヌ犬追物 落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ 遍ハヤル小笠懸 事新キ風情也 京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌 在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ 譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也 犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也 茶香十?ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト 都ハイトヽ倍増ス 町コトニ立篝屋ハ 荒涼五間板三枚 幕引マワス役所鞆 其数シラス満々リ 諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ 去年火災ノ空地共 クソ福ニコソナリニケレ 適ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ 非職ノ兵仗ハヤリツヽ 路次ノ礼儀辻々ハナシ 花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス 四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル 朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ サセル忠功ナケレトモ 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ 天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル 京童ノ口ズサミ十分ノ一ヲモラスナリ
ちなみに原文に「謀綸旨(にせりんじ)」とあるものは、現代語訳では「にせの天皇の命令」となっているが、これは土地所有を認める綸旨にも「にせもの」があったと言うことを窺わせる。

簡単に建武の新政をまとめると、「天皇親政を目指したが、その内容が現実にそぐわず、武士を中心に人々の不満が高まった。」と言うことになる。
 
建武の新政の崩壊

 

足利尊氏と護良親王
鎌倉幕府の滅亡は、北条一族や御内人勢力の滅亡であって、武士全体の力がおとろえたと言うことではない。幕府の滅亡は、御家人や悪党たちの協力があって、はじめて成功した。御家人たちの代表が足利高氏、悪党たち、つまり畿内の新興の武士たちをまとめたのが護良親王だった。足利高氏は討幕における行動を後醍醐から高く評価され、後醍醐の諱(いみな)である尊治(たかはる)の一字をとって、足利尊氏と改名することが許された。
天皇の諱の一字を許されるほど、高い評価を受けた尊氏が、なぜか建武の新政府では要職についていない。その理由を想像するに、おそらく尊氏は後醍醐に征夷大将軍の地位を望んだのではないかと思われる。しかし、武家政治を嫌い、天皇親政をおしすすめる後醍醐にとって、尊氏のこの要求は受け入れがたいものだったのでは。
尊氏が征夷大将軍に任命されることはなかった。もちろん、尊氏に何も与えられなかったのではない。北条氏が滅亡したとき、尊氏には鎮守府将軍・左兵衛督(さひょうえのかみ)と言う官職と、従四位下の位階が与えられた。
後醍醐の「願い」はすぐに崩れることとなる。後醍醐の息子で、早くから討幕に功績のあった護良親王が、征夷大将軍の地位を望んだからである。護良親王は皇族でありながら武芸を好み、多くの武士をその配下においていた。護良親王は尊氏をたいへん警戒していたようだ。「尊氏の勢力を今のうちにおさえておかなければ、やがて鎌倉幕府以上の勢力をもつようになる。」と言う考えをもっていたのではないかと想像される。だから、そうならないように自分を征夷大将軍に任命してくれと後醍醐にせまったのだと考えられる。
尊氏が武士の勢力をまとめ、朝廷に対抗しようとするのでは?と言う可能性は十分にある。その前に護良親王を征夷大将軍に任じ、武士たちを統率させると言うのは一つの対処法ではある。想像だが、後醍醐にとって、武家を征夷大将軍の地位につけるのは嫌だが、親王ならば妥協してもよいか、と言う考えに至った。本当の理由は不明なのですが、事実として護良親王は征夷大将軍に任命された(1333年の6月)。鎌倉幕府の滅亡から1ケ月後のことだった。
護良親王の征夷大将軍への任命は、尊氏にとっては当然おもしろくない。後醍醐は尊氏の不満をなだめるために、尊氏に正三位の位階を与えた。これは公卿とよばれる人々の位である。さらに後醍醐は、尊氏に武蔵・相模・伊豆の三国を知行国として尊氏に与えた。後醍醐の尊氏に対するふるまいは、建武の新政の理想からすれば明らかな後退である。自分の理想をおさえてでも、尊氏に恩賞を与える必要があったわけで、それだけ尊氏の勢力を「あなどりがたい」と感じていたのである。実は、「高氏から尊氏への改名」もこのときになされたものだ。後醍醐は尊氏を警戒し、尊氏をなだめるために恩賞は与えたが、権力の座からは遠ざけようとしたのである。
征夷大将軍に任命された護良親王は、わずか3ケ月でその職を解かれてしまう。征夷大将軍となった護良親王は、配下の武士たちに領地を認めたりするなど、勢力の拡大をすすめたらしい。このような護良親王のふるまいが、後醍醐の気に入らなかったのか、あるいは尊氏を刺激すると考えたのか、いろいろと理由は想像できるのが、とにかく征夷大将軍の地位をとりあげられた。
征夷大将軍の座を追われ、その勢力もおとろえはじめた護良親王は、しきりに尊氏の命を狙いはじめる。尊氏の方も用心して警固の武士を増やすようになった。1334年10月、宮中に参内した護良親王は、突然捕らえられる。その理由は、「兵を集め、帝位を奪おうとした」と言うものだった。「太平記」には、「護良親王の叛逆」を察知した尊氏が、後醍醐の寵愛を一身に集めていた阿野廉子(あののれんし)にそのことを伝え、後醍醐の知るところとなったのだ、と記されている。捕らえれた護良親王は、尊氏に引き渡され、尊氏の手によって鎌倉へ護送された。そして鎌倉で、尊氏の弟である直義によって、厳しい監視下におかれることとなる。これは不可解な処置で、後醍醐が護良親王の叛逆を信じたのだとしても、なぜその身柄を尊氏に引き渡したのか、この点が不明なのだ。
謎が多い出来事の結果、武士の代表としての尊氏の地位は不動のものとなった。また、建武の新政に不満をもつ武士たちの期待が、尊氏に集まることになった。
中先代の乱
建武の新政が行われた時代を理解するのは難しい。理由は非常に短期間に多くの出来事がおこったためだ。
後醍醐の新政はあまりにも急性で、現実を無視したものであった。
そのため、新政において利を得られなかった者たちの不満が高まった。
新政に不満をもつ武士たちは足利尊氏に期待を集めた。
新政に不満をもつ武士たちの期待とは尊氏による武家政治の復活であった。
新政への不満は、地方武士たちによる反乱と言う形をとって現れた。その最大のものが中先代の乱(なかせんだいのらん)だ。北条高時らが鎌倉の東勝寺で自刃し、幕府が滅亡したとき、高時の第二子であった時行はまだ幼児だったが、そのまま姿をくらまし、その行方は不明なままになっていた。その北条時行が、1335年7月、信濃国にその姿を現し、北条氏再興のための兵を挙げた。実は時行は、鎌倉幕府が滅亡したとき、家臣であった諏訪盛高に守られて脱出し、それからずっと諏訪大社の神官で武将でもあった諏訪頼重のもとでかくまわれていた。
信濃国は鎌倉時代のはじめの頃から、北条氏が守護として支配していた国だった。時行が兵を挙げると、多くの武士たちがはせ参じ、その兵力は5万に達したと言われている。時行の軍勢は諏訪を発すると、信濃の守護であった小笠原氏の軍勢を破り、ついで武蔵国に侵入して、守る足利氏の軍をも次々と破り、まさに破竹の勢いで鎌倉へと迫った。当時、鎌倉を守っていたのは尊氏の弟である直義だった。直義は1333年に後醍醐天皇の皇子であった成良親王を奉じて鎌倉におもむき、関東十カ国を管轄する権限をあたえられて、執権とよばれていた。
直義は自ら出陣し、鎌倉の北方で時行の軍勢をむかえ撃ったが、大敗をきっし、東海道を西走し、三河国の矢作(やはぎ)まで退いした。実はこのとき、鎌倉に幽閉されていた護良親王が、直義の命令によって暗殺されている。敵の手に落ち、「錦の御旗」にされてしまうのを恐れたのである。そして、直義は成良親王と尊氏に預けられていた尊氏の息子の義詮(よしあきら)だけは何とか連れて、三河国まで脱出した。一方、直義の軍勢を破った時行は、その3日後、鎌倉の占拠に成功した。
これを中先代の乱と言うが、なぜこんな名前になったのか分からない。このよび名は、後の時代につけられたもので、意味は北条氏を「先代」、のちの足利氏を「後代」と考えると、その中間にあたる時行は「中先代」と言うことになると言う考え方である。中先代の乱とは北条時行の乱であると理解できる。
尊氏の東下
「鎌倉が時行の手におちた」と言う報に接した京は、大混乱に陥った。当然、朝廷としては討伐軍を派遣する必要があり、討伐軍の司令官として適任であったのは、誰が考えても足利尊氏だった。時行の軍の進路となった武蔵・相模などは尊氏の知行国である。弟の直義のピンチでもある。尊氏は後醍醐に対し、自分を征夷大将軍に任じ、鎌倉討伐の軍を率いる許可を求めた。
しかし、後醍醐はこの尊氏の申し出を拒否した。もし、尊氏を征夷大将軍に任じ、鎌倉討伐を命じたら、そのまま鎌倉に居座って、幕府を開いてしまうかもしれない、そんな危惧が後醍醐にはあったようだ。そこで後醍醐は、三河で直義に保護されている形の成良親王を征夷大将軍に任じた。しかし、成良親王はまだ子どもであり、実質的には何の意味もない。つまり、北条時行の軍が鎌倉を占拠し、しかもその下には北条氏の残党が関東各地から続々と集まり、その勢力を強めていたにもかかわらず、後醍醐は何ら、実効力のある手を打つことができず、ただ時間だけが無駄に流れていくと言う状況だった。
このような状況に業を煮やした尊氏は、思い切った行動に打って出る。後醍醐の許可のないまま、軍を率いて京を出発し、鎌倉を目指した。後醍醐はしかたなく、尊氏の行動を追認する形で、尊氏に対し、「征東将軍」と言う称号を与えた。尊氏は「戦上手」で、戦争にはたいへん強いの武将だ。事実、三河で直義の軍と合流を果たし、まず遠江の橋本と言う場所で、北条時行の軍を撃破する。その後も連戦連勝で東へ進み、あっと言う間に鎌倉の奪還に成功した。結局、時行の軍が、鎌倉を維持できたのは20日あまりに過ぎなかった。ちなみにこの時、北条時行は鎌倉を落ちのびることに成功している。
尊氏の決断
尊氏の「鎌倉奪還」を知った後醍醐は、ただちに使いを送り、尊氏に対して従二位と言う武士としては破格の高い位を与え、「今回の恩賞については、私の綸旨で行う。」とのべて上洛を命じた。尊氏は後醍醐の命令にしたがって上洛しようとした。ここでもし尊氏が上洛していたら、その後の歴史が大きく変わったかもしれない。しかし、弟の直義が、上洛しようとする兄を説得して思いとどまらせたのである。直義は、「今もし京へもどれば、そのまま軟禁されるか、下手をすると殺されてしまうかもしれない。」「今は足利家が武士の棟梁となる最大のチャンスなのだ。」と尊氏に告げた。
「戦争には強いが、政治的なセンスがない」と言うのが、当時からの尊氏への評価だった。その反対に直義には「政治的なセンスがあるが、戦いには弱い」と言う評価があった。直義の「説得」を受け入れた尊氏は、鎌倉に腰を落ち着け、今回の鎌倉攻めで功績のあった武将に恩賞を与えた。言うまでもなくこの行為は、後醍醐の命令に反するものである。
尊氏は後醍醐と敵対すると言う決断を下したことになる。そして尊氏・直義の兄弟は、「新田義貞を討つ」と称して、兵を募り始めまた。「君側の奸を討つ」と言う論理である。日本では「天皇を討つ」と言うことはできない。そこで考え出されたのがこの論理で、天皇に味方する武士を滅ぼし、天皇は軍事力を持っていないから、自分たちの思うようにできると言う考え方である。一方の後醍醐は尊氏側から「君側の奸」よばわりされた新田義貞に、尊氏の追討を命じた。
新田氏は足利氏とならぶ源氏の名門だが、鎌倉時代を通じて恵まれなかった。後醍醐は不遇であった新田義貞に目をかけ、新政府で重要な地位を与え、尊氏を牽制する役割を担わせていた。義貞にしてみれば、尊氏を倒せば自分が武士の棟梁となれるチャンスである。勇んで京を発した義貞の軍は、駿河で直義の軍を打ち破ったが、竹ノ下の戦いで尊氏の軍に敗れ、京へ向かって敗走することとなった。尊氏は、西へ逃げる義貞軍を追い、1336年1月11日に京へ突入した。後醍醐はその前日に京を逃れ、比叡山へ避難した。
尊氏、九州へ
後醍醐が比叡山へ逃れ、尊氏が京へ入る。この時点で建武の新政は崩壊し、尊氏の天下となってもまったく不思議はないが、現実の歴史は、もう少しややこしい流れをたどった。尊氏の京突入後、市中で行われた後醍醐方の軍勢との戦いに、何と尊氏は敗れてしまったのだ。これには理由があった、奥州にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)の率いる軍勢が、後醍醐の危機を救うべく、はるばる上洛してきた。奥州兵は強い上に、頼朝の征服以来、源氏には反感をもっていた。この奥州の軍勢と新田義貞・楠木正成の軍勢に「はさみうち」にされた格好となった尊氏の軍勢は、四日間にもおよぶ激戦の末に敗れたわけだ。
尊氏は、鎌倉とは反対方向の丹波から播磨へと逃れた。尊氏が目指したのは九州だった。九州で再び兵を集め、再度、上洛をはかろうとしたようだ。ところで尊氏が播磨を通ったのには理由があった。播磨は赤松則村(出家して円心)の本拠地で、この地の「悪党」であり、後醍醐の討幕に味方した人物だ。実は円心は後醍醐の新政に見切りをつけ、尊氏の側に立っていたのだ。この円心が尊氏にひとつの助言をした。「円心の助言」とは、「京にいる光厳上皇に使いを出し、京回復の院宣を出してもらえ」と言うものだった。光厳は持明院統の天皇で、後醍醐の京復帰後は、即位していなかったことにされてしまった人物。円心はなぜこんな助言をしたのでしょうか、実は光厳上皇の院宣をもらうことに成功すれば、尊氏の行動は「上皇の許可を得たものである」と言うことになる。院宣をもらわないままだと、尊氏は天皇である後醍醐に背く「賊軍」である。院宣をもらうことができれば、尊氏は上皇の命令で動く「官軍」と言うことになる。形式上のことだが、院宣をもらえれば後醍醐方も「官軍」、尊氏方も「官軍」と言うことになり、大覚寺統の後醍醐と持明院統の光厳との、皇室内の勢力争いと言う形がつくれるわけだ。尊氏は光厳上皇から院宣を得ることに成功し、九州で兵を募った。
尊氏の再上洛
尊氏の九州での募兵はだいたい上手くいったが、まったく危機がなかったわけではなかった。九州では後醍醐に味方する菊池武敏や阿蘇惟直(あそこれなお)らの勢力が強く、尊氏の味方についた少弐貞経(しょうにさだつね)は戦いに敗れ、自殺したと言う。ところが尊氏は多々良浜の戦いで菊池武敏の軍勢を打ち破ることに成功し、数十万とも言われる大軍を率いて、再び上洛を開始した。ところで、尊氏が九州で兵を集めている間、後醍醐は何をしていたのでしょうか、後世の眼から見ると、このとき後醍醐は致命的なミスを多く犯している。
最大のミスは尊氏を九州まで逃れさせてしまったことだが、「虎の子」とも言える北畠顕家の奥州軍を返してしまったりしていることだ。尊氏をとり逃がしたと言う点には、赤松円心の活躍があった。円心は本拠地の播磨国白旗城にこもり、新田義貞の大軍を引き付けて約50日の間、抵抗を続けた。九州を発した尊氏の軍勢は、摂津国湊川で新田義貞・楠木正成の率いる軍勢と激突した。これが有名な湊川の戦いである。この戦いで後醍醐方は大敗を喫し、楠木正成は戦死した。湊川での敗戦を知った後醍醐は、ふたたび比叡山にこもった。尊氏は光厳上皇を奉じ、入京を果たした(1336年6月)。
光明天皇の即位
京に入った尊氏は、光厳上皇に対し、上皇の弟である豊仁親王を天皇として即位させるように求めた。光厳上皇はこの申し出を受け入れ、1336年8月、豊仁親王は践祚(せんそ)して光明天皇となり、同時に光厳上皇による院政が開始された。尊氏は圧倒的な軍事力で比叡山の後醍醐を追いつめ、「和議」を申し出る。1336年の10月、後醍醐は尊氏が密使を送って申し出た「和議」に応じ、比叡山を出て京へ向った。このとき後醍醐は、新田義貞に恒良親王を預け、北陸へ逃している。京では足利直義が出迎え、後醍醐は花山院に入り、幽閉状態におかれた。ここで、後醍醐との交渉が始まった、尊氏が出した「和議」の条件は次のようなものだった。
後醍醐は三種の神器を光明天皇に渡して正式に譲位する。
光明天皇の皇太子には後醍醐の親王をたて、次の天皇とする。
尊氏の出した「和議」の条件は鎌倉時代末期の「両統迭立」に戻そうと言うものだった。後醍醐との交渉は尊氏ではなく、「切れ者」であった弟の直義があたった。そして、後醍醐は、11月になって、「和議」の条件を受け入れ、三種の神器を光明天皇に渡した。同時に後醍醐の皇子であった成良親王が光明天皇の皇太子となった。光明天皇への譲位によって、後醍醐もまた上皇となり、ここに建武の新政は完全に崩壊した。
神風と悪党の世紀
蒙古襲来から後醍醐天皇の「新儀」にいたる時代の、神国思想の高揚と、細分化された荘園所領の一円支配の回復との二つの事柄を結びつけて論を立てたのが「神風と悪党の世紀」である。寺社という宗教勢力の果たした役割を的確に論じていて、宇佐八幡宮へ関心がある者として示唆を受けた。
蒙古襲来を防いだのは神風である、と中世では信じられた。神風を吹かせたのは日本の神々である、と近代になってもイデオロギー的な注入が行われた。日本の神々は神道だけではなく仏教も含まれる。それぞれの神々の戦いが行われた、と考えられた。異国降伏の祈祷が日本国中の神社仏閣で行われた。「祈祷とは、鎮護国家の仏神を戦場に動員し、異敵や悪魔と戦わせるため」の宗教行事であった。では、中世では寺院や神社はどのような位置にあったのであろうか。海津一朗はいう。「古代や近世・近代とは異なり、中世の寺社勢力は、国家権力の中枢を担う宗教政治家であり、同時に、それぞれが荘園や被官を抱える自立した封建領主であった。国家からどれほどの序列を与えられるか、あるいは寺僧・神人を維持するためにどれだけの荘園や料所を確保できるかが、死活問題だったのである。このような中世寺社の立場が、神々の際限ない神の戦争の競い合いに駆り立てていった。天皇の号令の下、一糸乱れることなく団結して敵国を滅ぼすという気高く麗しい八百万の神々の姿は、これまた後世の神国思想の作った虚像であり、中世の仏神たちとは無縁のものだったのだ。」と喝破する。
神風を吹かした神はどのような現世的な利益を得たのであろうか。現実の戦いで武士たちがその戦績によって恩賞を得たように、寺社も「恩賞」を得たのである。海津一朗は次のようなエピソードを紹介する。1310延慶3年7月15日、京都の五条坊門西洞院の一角にある「紅梅殿」に、洛北にある北野天満宮の宮仕え法師が押しかけ、紅梅殿跡の住人と大乱闘を演じたのであった。紅梅殿は菅原道真の邸宅が在ったところといわれ、飛び梅伝説にちなんで紅梅殿と通称されていた(陵西児童公園隣地)。天満自在天神は前線基地である大宰府の守護神であり、異国征伐の中核神と見なされていた。中世では天神は軍神であった。突然にも北野社は、この菅原道真の故地である紅梅殿は北野社の領地であると主張し、住民に祭礼の費用を納めるように強要したのであった。外敵への刃は容易に国内の反対者へ向う。北野社は「神の戦争を行うための造営事業に協力しない紅梅殿の者たち。これは、異賊にも等しい国土の怨敵で、朝敵・神敵だ。」と主張した。こうして紅梅殿の住人は悪党とみなされ、伏見上皇の要請によって鎌倉幕府は1312年初頭に逮捕命令を発した。紅梅殿の住人は悪党として流罪か禁獄(御家人預け=武士の下人)に処せられたと推測される。勢力のある寺社は、このように対外戦争の危機感を利用して敵対者を「悪党」として排除していった。寺社造営の流行、殺傷禁断の聖地の広がりは、「地域民衆、とりわけ山野河海を生活の場とする人々の生活基盤を奪うものであった。」彼らは課税に耐えられずに下人となるか悪党となるか、悲惨な運命に投げ出されたのであった。
このような対外危機を利用した国内の再編過程にあって、寺社勢力内部ではどのようなドラマが用意されていたのか。ここで海津一朗は伊勢神宮と宇佐宮とを分析の対象とする。東国にも広がる伊勢神宮領は、実際はたくさんの神人に細分化され、又売却や強奪によって手元から離れていた。1285弘安8年、1301正安2年と鎌倉幕府は伊勢神宮神領興行法を発令して徳政をおこなった。つまり、譲与や買取など正当な手続きを経て得た所領であっても没収され、伊勢神宮へ返却されたのであった。これを差配したのが外宮の渡会家であり、細分化された神領の回復が志向された。これは神人にも適用された。内宮の大中臣、荒木田姓神官集団も徳政により領地を失って行った。伊勢国の一円支配がこれによって実現した。このような過程は、九州最大の寺社・荘園領主であった宇佐八幡宮にも見られる。
中世の宇佐宮は、豊前一宮として藤原摂関家(のちに近衛家流)を本家として九州全域に総計2百余所、2万町歩以上の荘園と末寺別宮をもつ巨大な荘園領主であった。ところがここでも、豊前守護少弐(武藤)氏、豊後守護大友氏、宇都宮氏などの鎌倉御家人に渡った領地もかなり多かった。これは源平の合戦に宇佐八幡宮が平家方に組みしたために鎌倉幕府から没収された神領が少なくなかったためである。また、特定の神官一族が役職を世襲したために、役職に伴う所領が宇佐宮から離れて特定の一族に世襲されることとなった。その上、世襲に当たっては一族分割相続の習慣によって細分化が進んでいった。さらに、宇佐宮の本家にあたる近衛家が「花光領」と呼ばれる大領地を一括して伝領していた。
鎌倉幕府は、蒙古襲来時の功労によって九州の寺社を対象にして1284弘安7年、1312正和1年と旧所領を回復させる神領興行法を、発令した。これにより、宇佐宮は荘園の一円支配を試み60箇所以上の勢力の回復を遂げた。しかし、鎌倉幕府による徳政は、朝廷の被官である近衛家など貴族たちが領有する宇佐神領には及ばなかった。
宇佐宮の体制内改革派は、鎌倉幕府による徳政の限界を打ち破るために、後醍醐天皇の「新儀」に加担していく。当時、豊前国は北条一門が守護を務める国であったため、大宮司宇佐公右をはじめ慎重な姿勢をとる有力神官が多い中で、庶子で到津(いとうづ)を治めていた元大宮司宇佐公連(きみつら)は後醍醐天皇に味方して倒幕の綸旨に呼応した。「新儀」は鎌倉幕府を打倒しただけではないと海津一朗は述べる。「後醍醐天皇が打倒したのは、鎌倉幕府という武家政権のみではなく、鎌倉の北条得宗家と京都の治天(天皇家家督者)とが協調しつつ国を治める、蒙古襲来以後の国家体制自体であった。」1333正慶2年9月、後醍醐天皇は宇佐公連を再び大宮司に任命し、3本の柱からなる神領興行綸旨を発した。ひとつは、本家を廃止する。次に京家・武家に押領されたすべての神領を社家に返却する。そして公連に社家改革の全権を委ねる。これによって一円支配の道が開けたのである。本家近衛家からの支配を脱し、宇佐宮改革派が自立的な運営を始めることが出来た。
さらに、後醍醐天皇は日本仏神の全ての「統括者」になるという発想もあり、これを進めたのが西大寺律宗グループであった。後醍醐天皇のブレーンの一人にはこのグループの文観がいた。宇佐公連たち改革派はこの西大寺律宗に結びつく。神領の中から13箇所を大楽寺に寄進した。そして後醍醐天皇の御願寺とする。大楽寺開山は西大寺僧である道密光仙であった。こうして到津大宮司公連派神官集団と西大寺律宗勢力による宇佐宮改革=荘園の一円支配が、後醍醐天皇の権威に裏付けられた大楽寺を「総本部」として推進された。
このように建武の新政は復古ではなく、「危機にあった荘園制の再建を全面的に助成していたのである。」それは「各々が荘園領主のもとで一円所領を一括支配する新たな秩序を模索」するものであり、限界としては「改革が天皇個人の能力に委ねられ執行機関が充分に機能せず、職の再配分や荘園制の再建が円滑に進まなかった」ことがあげられている。その後時代は南北朝を迎える。「天皇が複数擁立されたことにより、日本国には複数の時間が並立した。天皇は、元号制定という国土の時間を管理する権限を持っていたからである。」「各地に私年号や不改正元号(改元を無視して旧元号を使用するもの)が出現した。こうして、天皇は時間の管理者としての権威を喪失したのである。」「神国日本は、後醍醐天皇が仏神の力を王権に結合させて滅びたために、それと運命を共にした。成人した三代将軍足利義満によって室町幕府の支配秩序は安定し、朝廷や寺社勢力は武家に依存しつつ荘園制の再建を軌道に乗せていた。」と結んでいる。海津一朗は、職の世襲による所領の細分化により「共倒れ」しかねない状況に追い込まれた中世荘園制の支配者が外圧(蒙古襲来)への危機感を利用して、一円支配による再建を目指した動きを、寺社勢力を中心に分析した。「神風」「悪党」や「徳政」への新たな視点を中世史に持ち込んだと言える、と思う。  
 
南北朝の争いと観応の擾乱

 

建武式目の制定
1336年11月7日は、室町幕府が成立した日であるとされている。実は、建武式目が制定された日である。建武式目とは、尊氏が当面の政治の方針を示した文書である。式目と言うと御成敗式目を連想するが、建武式目は御成敗式目のような法令ではない。建武式目は、尊氏が幕府を開くにあたり、雑訴決断所にいた二階堂是円(にかいどうぜえん)やその弟の真恵(しんえ)、日野藤範(ひのふじのり)、僧の玄恵(げんえ)らが、尊氏の諮問に答えると言う形をとって発表された。
幕府を京都に置く。
政治の規範を北条義時・泰時の時代に求める。
幕府をどこに置くかについては、「鎌倉に置くべきだ」とする意見も強かったようだが、最終的には京都に置かれることになった。後醍醐の一連の動き以来、朝廷を監視しやすい場所の方がよいと言う判断が働いたのではないかと想像できる。政治のあり方については、鎌倉幕府の全盛時代に範をとっている。事実、御成敗式目が室町幕府でも基本法として用いられ、必要に応じて追加法が出された。
一天両帝・南北京
1336年11月22日、京都では朝から武装して走りまわる兵の姿があちこちで見られた。後醍醐が昨夜半、花山院から脱出したため、その行方の捜索が行われた。「太平記」によれば、後醍醐は童たちの踏み開けた破れ築地から女装してまぎれ出、刑部大輔景繁と言う人物の用意した馬に乗って、大和へ向かったとされている。後醍醐は大和(奈良県)の吉野山に行宮(あんぐう)を置いた。後醍醐が吉野へ入ったのはこの年の12月。吉野は要害の地で、後醍醐に味方する伊勢の北畠親房、河内や和泉に勢力をもつ楠木一族に近い場所である。
また吉野は、飛鳥時代に大海人皇子(のち天武天皇)が潜伏し、後に天下を握った場所でもある。さらに奥州には北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、北陸には新田義貞がまだ健在だった。伊勢の北畠親房、河内・和泉の楠木一族と合わせればかなりの勢力になる。尊氏方の軍勢を破ることも決して不可能ではない。後醍醐は命令を下した。「光明に渡した三種の神器はニセモノであり、私こそが正統な天皇である。私に忠誠を誓う者は、ただちに逆賊の尊氏を討て」と。
後醍醐から「逆賊」と名指しされた当の尊氏は、後醍醐の脱出をあまり重要視してはいなかったようだ。「天皇のことを今後どうお計らいすべきか、困っていたところなのに、いま御自身でよそへ移られたのは不幸中の幸いである。お心のままに行動されても、天下の事はいずれ、落ち着くべきところに落ち着くだろう。」と尊氏は語ったと伝えられる。まさに尊氏は「余裕綽々」だったわけだが、現実はそのように甘いものではなかった。尊氏の「見通し」とは裏腹に、当時の興福寺の高僧が「一天両帝、南北京也」と日記に表現した南北朝の対立がここに幕を開け、以後約60年間にわたり、「南北朝時代」とよばれる戦乱が続くことになった 。
南北朝の争い
「南北朝の争い」とは言うものの、南朝方が真の意味で北朝方と戦えたのはごく短期間だった。理由は南朝方の有力な武将が、南北朝対立のごく初期の間に、つぎつぎと倒されたためだ。1338年、まず奥州軍団を率いる北畠顕家が和泉国堺浦の戦いで戦死し、次いで新田義貞は越前国藤島の戦いで敗れ、自害をした。そして翌年の1339年、ついに後醍醐天皇がその生涯を閉じた、52歳であったと伝えられる。後醍醐は死の前日、皇子の義良親王に位を譲っている。義良親王は即位して、後村上天皇となった。後醍醐は死にあたり、次のように遺言したと伝えられる。
「わが望みは、ただただ朝敵をことごとく滅ぼして、天下を太平ならしめることである。この身はたとえ吉野の苔になろうとも、心はつねに京にある。子孫たちが、わが命に従わないのならば、それは決して正統な天皇ではないし、また仕える臣も忠臣ではない。」
この後醍醐の遺言に従うならば、南朝は北朝を滅ぼすまで戦い続ける以外に道はない。後村上天皇は行宮を吉野よりもさらに山奥の賀名生(あのう)の地に移し、北畠親房の主導のもとに、東北・関東・九州などに残った数少ない勢力圏を拠点として、抵抗を続けた。この時期の南朝はほとんど組織的な戦力をもてなくなっていた。それにもかかわらず、勝負はなかなかつかなかった。つまり、北朝は一気に南朝を滅ぼすことができなかったのである。理由はさまざまに考えることができる。
南朝が吉野、次いで賀名生と言う要害の地を本拠地とした。
伊勢・紀伊の水軍勢力を通じて東国・西国と海上連絡を保ち続けた。
三種の神器は南朝の手にあり、南朝の方が正統だと言う考え方が根強かった。
しかし、最も大きな理由は北朝の側にあった。北朝を支える幕府が、深刻な内部分裂によって、はげしく動揺する結果となったからである。
尊氏、征夷大将軍となる
新田義貞が越前国藤島の戦いで敗れ自害した後、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられた。
1338年5月/北畠顕家が和泉国堺浦の戦いで敗死。
1338年閏7月/新田義貞が越前国藤島の戦いに敗れ自害。
1338年8月/足利尊氏が征夷大将軍に任じられる。
1339年8月/後醍醐が譲位し、後村上天皇が即位。後醍醐の死。
将軍となった尊氏は、武士の棟梁として、中央では侍所、地方では守護を通じ、全国の武士と主従関係を結び、武士たちをまとめ上げた。つまり尊氏は、頼朝と同じように軍事活動を「奉公」として全国の武士たちに要求し、その見返りとしての恩賞を「御恩」として与える権限を握ったと言う。尊氏は幕府の軍事権を握ったわけだが、政治の方は弟の直義にまかせきりとなった。
直義は鎌倉幕府の評定・引付を復活させ、新たに安堵方・禅律方などの役所を設置し、これらをコントロールして幕府政治をおしすすめた。尊氏は自分の得意分野である「軍事権」は握ったが、自分が苦手とする政治分野は弟の直義に「まる投げ」した格好となったわけである。兄弟の武将と言うと、私たちの頭には頼朝と義経がすぐに浮ぶ。しかし、この二人は兄弟とは言っても母親がちがい、兄の頼朝は身分の低い母親から生まれた義経を弟と言うよりは、家来のように扱っていたと考えられている。これに対して尊氏と直義は同母の兄弟で、仲もよかった。「兄は弓矢、弟は政道」と役割分担もきちんとしていた。ふつうに考えれば室町幕府は盤石のはずなのだが、歴史はそうはならなかった。
婆娑羅大名
南北朝の争いが続いていたこの時代に「ばさら」と言う言葉が流行した。漢字では「婆娑羅」あるいは「婆佐羅」と言う字を当てる。この言葉はもともとサンスクリット語(梵語)のVajra(金剛)が語源であるとされている。婆娑羅の意味は「遠慮なく、勝手に振る舞うこと」を意味した。
当時、自分たちの実力に目覚めた新興武士層が、それまでの慣習や価値観にとらわれないで自分たちの思うままに振る舞うことが目立ちはじめたが、そのような風潮を婆娑羅とよんだのだ。そしてそのような武士たちのことを婆娑羅大名といった。婆娑羅大名たちのエピソードをいくつかご紹介する。
土岐頼遠 / ある夜のこと、光厳上皇の行列が美濃国の守護であった土岐頼遠(ときよりとお)の一行とすれちがった。このような場合、当時の慣習としては、武士の方が下馬して礼をほどこさなければならない。しかし、頼遠は酒盛りをしての帰りで、上皇の家来が「院の御前であるぞ」とたしなめても下馬の礼をとらず、こう言ったという。「何、院と言ったのか、犬と言ったのか、犬であれば矢を射てやろう」そういいざま、頼遠は本当に上皇の車に矢を射かけたと言う。
佐々木道誉(ささきどうよ) / 近江国など5ケ国の守護を兼ねる武将。あるとき、鷹狩りをしての帰り道、妙法院の前を通りかかると、その庭の色づいた紅葉が大変うつくしい姿を見せていた。道誉は家来に命じ、その紅葉を一枝折りとらせた。ところが妙法院では、おりしも天台座主の亮性法親王が観葉の宴をもよおしていた。亮性法親王は光厳上皇の弟に当たる人物。道誉の部下は無礼をとがめられ、打ちのめされて門外へ放り出されてしまった。そのことを知った道誉は300騎の兵を率いて妙法院に焼き打ちをかけ、財宝などを奪い取ったと言う。ちなみに、この道誉のエピソードは、先にご紹介した土岐頼遠のエピソードの2年前におこった出来事 。
高師直 / 高師直はもともと足利家の執事(身分・地位のある人のそばにいて、事務のさしずをしたり、実際に事を運んだりする人)、尊氏の側近だった。師直の暴言で、「太平記」に記されているもの。
「都に王と言う者がいて、多くの所領を有し、内裏・院御所と言う所があるので、馬から下りるのがわずらわしい。政治については幕府がすべて計らっているので、王はなくとも不便はあるまい。もしなくて不便だと言うのなら、木で造るか、金で造るかすればよい。そうして本当の院や王はどこぞへ流し捨ててしまうのが天下のためにもよいだろう。」
「天皇を頂点とする旧勢力を認めない」と言う強い意志が感じられる。事実、師直を長とする高一族は天皇家や公家、寺社などの「旧勢力」の荘園を次々と「侵略」している。当然のことながら、天皇や公家たちは、このような婆娑羅大名の無謀なふるまいを苦々しく思っていた。そして意外なことに、武士である足利直義も同じように考えていたようなのだ。実は先にご紹介した建武式目にも、婆娑羅を禁止する項目が入っている。直義は、鎌倉執権政治の最盛期を理想とする人物だった。その立場からすると、土岐頼遠や佐々木道誉、高一族らの振る舞いは許すべからざるものだ。直義は土岐頼遠を死罪とし、佐々木道誉を流罪としました。残るは高師直で、ここに直義対師直の直接対決が勃発した。
観応の擾乱
足利直義と高師直は、さまざまな面で対照的な人物である。直義はいわば穏健派で、前代の鎌倉幕府の執権政治を理想とし、古い秩序へもどすことによって、政治を安定させようとしていた。一方の師直はこれまでの体制をことごとく軽視、あるいは無視し、古い秩序を破壊することで新しい秩序を生み出そうとしていた。基本的な考え方のちがいに加え、二人の政治的な立場も対立の大きな原因となっていた。
師直は尊氏の執事で、尊氏の命令はすべて師直を通じて伝えられることになった。この意味で、師直はたいへん大きな権限をもつはずだった。しかし、現実には尊氏は政治的な権限をいっさい直義に渡してしまい、師直の思惑は期待はずれになってしまったわけだ。師直は何とかして、幕府政治の実権を握ろうと画策した。直義は、そんな師直の存在が目ざわりで、ことごとく師直の動きを封じようとした。
その結果、由緒ある保守的な武士たち、あるいは旧秩序を是とする武士たちは直義を支持し、反対に新興の武士たちや武力をたのみに旧秩序を破壊して自分たちに都合のよい新しい秩序を生み出そうと考える武士たちは師直を支持するようになった。直義と師直をそれぞれの頭として、ここに幕府が二つに割れると言う事態が生じた。
直義対師直
1349年閏6月、直義は尊氏に対し、師直の執事職を解くよう要求し、成功した。これに対し師直は、同年8月、兵を集めて立ち上がった。師直の挙兵に接し、直義は兄尊氏の館に逃げ込み、難をのがれた。師直の軍勢は尊氏の館を包囲した。しかし、さすがの師直も尊氏と事をかまえることはできなかった。またいくら対立しているからといっても直義は尊氏の弟である。館を包囲した師直は、直義の執事であり、高一族を排斥するために積極的にはたらいた上杉重能、畠山直宗の二人を引き渡すように要求を出した。重能・直宗の二人は直義にとっては「手足」と言うべき重要人物。この二人を師直に引き渡すと言うことは、この二人は師直によって殺されることを意味する。直義にとっては、「手足をもがれる」こととなるわけで、師直のねらいも当然そこにあった。ここで、尊氏が二人の調停に入った。尊氏が示した調停の条件は次のようなものだった。
重能・直宗は流罪とする。
直義の後任に義詮を任じ、直義は義詮の後見人にしりぞく。
師直は再び執事職にもどる。
義詮(よしあきら)は尊氏の嫡子で、後に二代将軍となる人物です。つまりこの調停案は、直義の実質的な引退を意味するわけだ。義直にとっては受け入れがたい内容だが、軍勢に包囲され他に道はない。この案に合意し、とりあえず両派の和議が成立した。しかし師直はこの約束をたがえ、重能・直宗の流罪先に手を回し、現地でこの二人を殺害した。そして、「手足をもがれた」直義を圧迫し、ついに出家に追い込んでしまう。
足利直冬
直義の養子に直冬と言う人物がいた。実は直冬の実父は尊氏だ。直冬は母親の身分が低かったため父の尊氏に愛されず、直義の養子になったと言われる。直冬は直義と師直の対立が表面化する直前の1349年4月、山陰・山陽の8ケ国を管轄する長門探題となり、京を出発した。直冬は長門への下向途中、師直派の杉原又四郎に襲われ九州へのがれた。九州へ逃れた直冬は、地元大名の対立をたくみに利用して勢力を広げ、反尊氏の兵を挙げた(1350年9月)。
尊氏対直義
養子の義冬が反尊氏の兵を挙げたころ、京を脱出した直義は、まさにとんでもない決断をし、それを実行に移した。それは南朝への帰順、つまり降伏だった(1350年12月)。直義がこの「はなれわざ」を実行に移していたころ、尊氏は九州の直冬を討つべく、京を義詮にまかせ、軍を率いて中国路にいた。その隙をつく形で南朝に帰順した直義は、南朝の後村上天皇を後ろ盾とし、畠山国清、細川顕氏(ほそかわあきうじ)ら自分に味方する大名らとともに京へ攻め込んだ。この時点で、直義は兄である尊氏とはっきり対立することになった。高一族への反感もあったのでしょう、直義のもとには多くの軍勢が集まった。
京をまかされていた義詮は必死の抵抗を試みましたが、支えきれず、京を脱出して尊氏と合流すべく西へ向かった。1351年2月、尊氏の軍と直義の軍は摂津国打出浜で激突した。「尊氏は弓矢、直義は政道」のはずだが、この戦いで尊氏方は敗れ、直義に和議を乞わざるを得ない状況となった。直義は高師直を出家させると言う条件で、和議を受け入れた。ところが師直は、護送の途中、上杉能憲の待ち伏せを受け、殺害された。能憲は師直の命令によって、殺害された上杉重能の養子だった。
幕府内部の対立は、師直の死によって一応の決着がついたかのように思われた。しかし、尊氏・直義兄弟の間は、修復が不可能なぐらいに険悪なものとなり、時がたつうちに尊氏方の勢力が強くなっていった。危険を感じた直義は、京を脱出して味方の多い北陸へ向かった(1351年8月)。直義は北陸で、一時は尊氏方をしのぐ勢力を築いた。直義の行動に危険を感じた尊氏は、何と南朝との和議と言う行動に打って出た。弟の直義に続いて、兄の尊氏までが南朝と手を結ぶと言う「禁じ手」を実行したわけだ。尊氏と南朝との和議は1351年11月のことだった。
一方の直義はこの時期、北陸から鎌倉へ入り、関東を固めようとした。尊氏は南朝の後村上天皇から「直義追討」の綸旨を受け、直義を倒すべく鎌倉へ攻め込んだ(1352年1月)。尊氏は鎌倉の攻略に成功し、直義方は降伏した。2月26日、直義は鎌倉で急死した。直義の死因についてははっきりしないが、尊氏によって毒殺されたのではないと言う説が有力だ。
1350-52年にかけての幕府内部の対立を当時の年号をとって観応の擾乱と言う。結果として尊氏は直義の排斥に成功し、幕府の権力を掌握することに成功したが、新たな混乱の種をまいたことにもなった。直義、尊氏の二人が、相手に対抗するためとは言え、本来は共通の敵であった南朝に次々と帰順したことによって、かなり勢力が弱まっていた南朝が息を吹き返すきっかけを与えてしまったことだ。
「太平記」は、この時代を「天下三分」と表現している。関東・北陸・中国・九州を直義派がおさえ、近畿・東海は尊氏派が支配し、大和国の南部に南朝の勢力が残っている、と言うたいへん複雑な状況だ。この複雑な状況は、義満による「南北朝の合一(1392年)」まで続くことになる。
 
南北朝の動乱

 

正平の一統
尊氏と南朝との和議は、1351年11月2日に成立した。この和議が成立した最大の理由は、和議の条件において、尊氏が最大限の譲歩をしたことによる。尊氏の出した和議の条件とは、「すべて元弘年間の昔にもどし、南朝側の天皇の命令にしたがう」と言うものだった。現代風に表現すれば、「無条件降伏」に近い内容だ。無条件降伏ともいえる譲歩をして、尊氏は南朝の後村上天皇から、直義追討の綸旨を受け、鎌倉に攻め込んで直義を降伏に追い込み、その後、直義を毒殺した。
尊氏にしてみれば、鎌倉の直義を討つにあたって、「後顧の憂い」をたつために、南朝を和議を結び、直義を排することに成功したわけで、「作戦は成功」と言うことになる。しかしその代償はあまりにも高くついた。尊氏と南朝との和議の結果、北朝第3代の崇光天皇は上皇とされ、観応と言う北朝の年号も廃されて南朝の正平と言う年号に統一された。これを歴史上、正平の一統と言う。この時点で南北朝は統一されたことになる。そして、「南朝の反撃」が開始された。尊氏が軍勢を率いて鎌倉へ向かい、京を留守にしているまさにその隙をついて、南朝側が京を回復しようと行動を開始した。南朝側は尊氏の留守を預かる嫡子の義詮(よしあきら)に対し、次々に要求をつきつけた。
「北朝の神器は偽物であるから没収せよ」
「北朝の出した官位はすべて白紙にもどせ」
「尊氏の出した元弘没収地還付令は無効とせよ。」
元弘没収地還付令とは、尊氏が後醍醐と対決するにおよんだとき、武士たちの支持を集めるために出した法令で、後醍醐の出した土地に関する綸旨をすべて取り消すと言う内容だった。南朝側にしてみれば、「当然の要求」なのだが、これは和議の内容に反するものだった。尊氏は南朝に対し、無条件降伏に近い譲歩はしたが、幕府がこれまで築いてきた権利や権限、特に土地所有に関する権利は、南朝もこれを認めると言う約束になっていたのだ。南朝は、尊氏が主力を率いて鎌倉へ遠征中と言う隙をついて、勝負に出たわけだ。
この南朝の反撃を指導したのは、後醍醐の時代から南朝に仕えていた北畠親房であったと言われている。南朝の動きを知って驚いたのは、京を預かる義詮だった。義詮は使者を送って、南朝の約束違反をとがめたが効果はなく、楠木正行(くすのきまさつら)の弟正儀(まさのり)らに率いられた南朝の軍勢は賀名生(あのう)を発し、京へ向かった。義詮は抵抗を試みたが南朝方の勢いは強く、ついには京を捨てて敗走せざるを得ない状況に追いこまれた(1352年閏2月)。南朝は京の奪還に成功した。後醍醐の吉野への脱出以来、16年ぶりのことだった。義詮に見捨てられた格好となった北朝の光厳(こうごん)・光明(こうみょう)・崇光(すこう)の三上皇と皇太子の直仁親王(なおひとしんのう)は南朝側に捕らえられ、これまで南朝の根拠地であった賀名生に幽閉された。
京をめぐる攻防
幕府方は再び京の回復に成功した。しかし、北朝の3上皇はすべて賀名生に幽閉されていた。北朝を立て直すには、上皇たちを奪回する必要がある。義詮は賀名生を攻撃するが、南朝方の抵抗は激しく、思うにまかせなかった。そこで義詮は、京に残っていた光厳上皇の第二皇子弥仁(いやひと)を即位させた、北朝第4代後光厳天皇である(即位1352年8月)。義詮は鎌倉から帰ってこない父尊氏の留守を必死に守った。
そんな義詮に新たな試練が襲いかかる、尊氏の子で疎まれ、直義の養子となっていた足利直冬は、観応の擾乱が起こると養父直義の側に立った。そのため直冬は、尊氏によって長門探題の地位を追われ、九州へ逃れた。九州へのがれた直冬は、地元の少弐頼尚(しょうによりひさ)の助けを得て、九州一帯をおさえ、「九州探題」と自称するほどの勢力を築き上げた。しかし、義冬の勢力は養父義直の死を境に急速におとろえ、やがて尊氏派の一色範氏に九州を追われることとなる。
九州を追われた直冬は、中国地方に逃れ、各地を転々としながら、直義派の武士たちと連絡をとりつつ、再起のチャンスをうかがい続けることとなった。再起のチャンスをうかがう直冬が出した結論は、南朝と手を結ぶことだった。1352年暮れ、直冬は南朝に帰順を申し出て許された。
1353年6月、南朝方が再び京の奪還に成功した。戦いに敗れた義詮は後光厳天皇を奉じて美濃へと逃れた。つまりこの時点で南朝は2度目の京の回復に成功したわけだ。ところが、南朝による2回目の京回復も長続きはしなかった。1353年7月、態勢を整えた義詮が京へと攻め上り、南朝方は戦いにやぶれ、再び京都を明け渡して撤退することとなった。1353年8月、尊氏が鎌倉を発った。直義討伐のため東に下っていた尊氏は、関東の南朝方に味方する軍勢に悩まされ、そのまま鎌倉にとどまっていた。しかし、義詮の救援要請に応じ、ようやく上洛することとなった。鎌倉を発った尊氏が、美濃に避難していた後光厳天皇を奉じて京に入ったのは1353年9月だった。
一連の出来事の最中、前年の暮れに南朝に帰順した直冬が、南朝によって総追捕使(そうついぶし)に任命されている。幕府方は京を再び回復したものの、今度は直冬の軍勢を迎え撃つことになった。年が明けた1354年4月、南朝の北畠親房が没す。後醍醐亡きあと、長く南朝の指導者であり続けた親房の死は、南朝にとって大きな痛手となった。1354年10月、南朝は賀名生からさらに南西に位置する天野山金剛寺に行宮(あんぐう)を移動させた。賀名生も安全でなくなったからだ。
1354年11月、「足利直冬の軍勢が京へ迫っている」との報に接した尊氏は、後光厳天皇を奉じて近江へ逃れた。直冬は1354年秋、山名時氏らとともに上洛の途につき、京都西方の丹波へ進出した。呼応し、北陸にいた直冬派の桃井直常らが北方から京へ迫り、楠木正儀(くすのきまさのり)らが率いる南朝方の軍勢も京都南方の石清水八幡宮のあたりまで、軍を進めた。直冬の率いる軍勢が京に侵入し、幕府方の軍勢との間に戦いの火蓋が切っておとされた(翌年の1355年1月半ば)。
戦いは2ヶ月ちかく続き、京の大部分は「焼け野原」となった。両軍は激しい死闘を繰り広げ、直冬はとうとう、実父である尊氏を打ち破るこができなかった。1355年3月12日、ついに直冬は京を捨て、西へ敗走した。その後直冬は、石見、安芸などにおいて、山名時氏と結び、何とか勢力を回復しようと試みた。しかし、直冬の望みはかなわず、没落の一途をたどり、没年さえ明らかではない。
1357年2月、正平の一統の際に南朝によって賀名生に幽閉されていた北朝の光厳・光明・崇光の三上皇が、そろって京へ帰還した。5年ぶりの帰還だ。南朝は三上皇を幽閉することで、北朝の皇統を断とうとしたが、幕府によって後光厳天皇が擁立されたために、幽閉の意味がなくなり、京へ返したのだ。
尊氏の死と九州の南朝
京をめぐり、南朝と幕府(北朝)がはげしい争いをくり広げていたころ、九州では南朝の勢力が大きくなっていた。九州には後醍醐の皇子である懐良親王(かねよししんのう)がいた。懐良親王は1336年、後醍醐から征西将軍に任命され、九州へと下った。1348年には南朝に味方する肥後の菊池氏の本拠に入り、九州において南朝勢力の拡大に努めていた。1358年初め、尊氏は九州の南朝勢力を討つべく、自ら軍を率いて出陣する準備をしていた。しかし、尊氏はついに出陣することができず、同年の4月病死した(54歳)。
尊氏の死んだ1358年8月には後に三代将軍となる義満が生まれ、12月には義詮が2代将軍となった。翌年1359年8月、九州の南朝方と幕府方(北朝方)との間で最大の激戦が行われた。これを筑後川の戦いと言う。筑後川の戦いは征西将軍懐良親王と幕府方の少弐頼尚(しょうによりひさ)の間で戦われた。この戦いに勝利した懐良親王は1361年に征西府を大宰府へ移し、幕府方を圧倒する勢力を築きあげた。この時点で九州は、まさに「南朝の独立王国」といった状況になり、この状況はこの後10年ほど続いた。
義詮の時代
尊氏の死によって、幕府の足どりが乱れをみせるようになった。尊氏と言う「重石(おもし)」をとりのぞかれた恰好となった有力な守護たちが、自分たちの権利を拡大しようと動き始めたからだ。2代将軍義詮は決して「無能」な人物ではないのが、このような動きをおさえる実力はなかった。
高師直が殺されてからのち、幕府内部で大きな勢力を持った守護は仁木義長(にきよしなが)である。義長は伊賀・伊勢の他、あわせて4ケ国の守護となり、幕府内に他の守護を圧倒する勢力を築き上げていた。他の有力な守護にとっては当然面白くなかった。いつか義長を追い落としてやろうと考える守護が大勢いた。
このような状況のところへ、鎌倉にいた畠山国清が義詮の命令で上洛してきた。国清はたいへんな「義長嫌い」として有名な人物だった。京の反義長派は、国清を中心に「はかりごと」をめぐらし、義長の排斥を実行に移した。国清らは天王寺に進出してきた南朝方の軍を攻めると言う口実で軍を集め、その兵力をもって、京の要所を固めてしまった。
一方、国清らの行動を知った義長は、将軍である義詮を軟禁し、義詮の名で兵を集めた。義長のもとにはおびただしい数の軍勢が集まったようだ。そして、義長は将軍義詮をもおさえているわけで、国清らに叛逆者の烙印を押し、集めた大軍を用いて一挙に形勢を逆転しようと考えた。しかし、義長の「ねらい」は、義詮が佐々木道誉(ささきどうよ)の手引きによって脱出したことによって、もろくも崩れ去ってしまった。ことの次第が明らかになると、集まっていた兵もみるみるうちに数を減らしていった。こうなってしまっては義長には国清らに対抗する「すべ」はなく、戦わずして京を逃げ出し、伊勢の長野城にひきこもった(1360年7月)。翌年の1361年2月、仁木義長は幕府の圧迫に耐えかね、何と南朝に降伏してしまう。そしてこの義長の行動が、幕府内に思わぬ波紋を投げかけることになった。
義長が南朝に降ったことにより、南朝方の勢力が大きくなってしまったのだ。義長の「南朝への降伏」の責任を取らされる形で、今度は国清が権力の座から追われることになった。国清はいったん東国へもどって反抗するが、戦いに敗れてしまう。その後、国清は諸国を流れ歩いて、最後は奈良のあたりで亡くなったと伝えられている。仁木義長が南朝へ降ったのは1361年2月のことだ。この年10月、またしても「裏切り者」が幕府から出る。こともあろうに幕府の執事であった細川清氏が、南朝に降ったのだ。その理由は諸説あってはっきりしないが、清氏は義詮に謀叛の疑いをかけられて攻撃されたため、南朝に帰順を申し出たと伝えられている。
尊氏の死後、幕府の内情は「内紛」続きだった。幕府内部にゴタゴタがおこると、それは南朝にとっては勢力の拡大を意味した。1361年12月、直冬派の残党ならびに仁木義長・細川清氏と結んだ南朝は、幕府内部がゴタついている隙をついて京へ攻め入る。そして一時、京は南朝の手に落ちるが、20日後、態勢をととのえた幕府方が再び京を奪回した。「もう、いいかげんにしてくれ!」とさけびたくなるが、これで南朝は後醍醐の吉野への脱出以来、4回に渡って京を攻めたことになるのだ。
4回に渡って京を奪還した南朝だが、その実力は確実に下降線を描いていた。懐良親王が支配権を確立していた九州を別にすれば、地方の拠点はことごとく崩壊の方向へ向かっていた。しかし、このような状況になっても、なかなか南北朝の統一は実現しなかった。
武士社会の変貌
南朝と北朝、あるいは尊氏(義詮)派と直義(直冬)派の争いが、長期に渡り、なかなか統一できなったのはなぜなのか、背景に武士社会の変貌があった。この時期、鎌倉末期から見られるようになった、「分割相続から単独相続へ」と言う相続方法の変化が定着しつつあった。鎌倉時代の武士たちは、一族の子弟たちに所領をわけ与える分割相続を原則としていた。そして新しくたてられた分家は、本家の首長(これを惣領といいました)の命令にしたがって軍役などの義務を果たした。この段階では武士たちは「血縁」を重んじて結びついていた。
しかし、分割相続は代を重ねるごとに、その所領が細分化されると言う欠点があった。そこで考え出されたのが単独相続である。単独相続では所領を中心とする全財産を惣領が一括して相続し、財産を分けてもらえなった惣領の兄弟を、惣領が養うと言う形をとったのである。惣領になれた者はよいが、なれなかった者は一生、惣領の世話になることになる。これは当然「不満の種」になる。さらに言えば、分割相続をしなくなったために、かつての分家と本家の関係も薄れ、血縁ではなく地縁によって武士たちが結びつくようになっていった。
新しいタイプの武士集団が生まれたわけだ。これらの武士集団は、各地方・各地域の主導権をめぐって争うようになった。そして一方が南朝に属せば他方は北朝に、一方が尊氏(義詮)派につくなら他方は義直(義冬)派ついて戦った。これと同じことが惣領と惣領の兄弟たちの間でもおこった。惣領と惣領の兄弟がそれぞれちがう派について戦った。兄弟たちにしてみれば、自分が属する派が勝利を得れば自分が惣領になれるチャンスがあるからだ。南北朝の争いが全国に拡大し、長く続いた背景には、このような事情があったのだ。

戦乱の時代を生きた2代将軍義詮は、1367年12月に没した(38歳)。明けて1368年3月に後醍醐の息子後村上天皇も亡くなった(41歳)。幕府と南朝の2代目は奇しくも同時期に亡くなった。1368年12月、まだ11歳の少年であった義満が3代将軍の位についた。
 
足利義満と室町幕府

 

11歳の将軍
1367年12月、2代将軍足利義詮が没し、翌1368年12月に嫡子義満が3代将軍となった。足利義満は室町幕府の最盛期を築いた将軍だが、このときはまた11歳の少年だった。しかし、生まれながらの将軍らしいスケールの大きさをもった子どもであったらしい。そのひとつの証拠として次のような有名なエピソードが伝わっている。
義満がまだ4歳のころ、摂津国琵琶塚(せっつのくにびわづか)と言うところで一泊したときのこと。その夜は月が明るく、満潮の海にその姿をうつして、まことに美しい眺めだった。この景色がすっかり気に入った義満は、「私はこの景色が気に入った。おまえたちはこの土地をかついで都までもってまいれ」と家来たちに命じたと言う。義満の言葉を聞いた者たちは、「このお方は4歳にして、もう将軍らしい大きな心をもっていらっしゃる。」と驚いた。
現代の感覚でこのエピソードを読むと、「ただのわがままな子どもではないのか?」と言う感想をもってしまうが、当時の人々はちがったようだ。子どものころの義満は、将軍の子として安楽に暮らしていたわけではない。義満が生まれた1358年は祖父尊氏が亡くなり、父義詮が2代将軍となった年である。このころ、南北朝の争いは続いており、幕府内部にも勢力争いが起こっていた。義満4歳のときには、細川清氏が反乱を起こしている。清氏が南朝に帰順して京を攻めたため、将軍義詮は後光厳天皇を奉じて近江へ逃れた。このとき義満は家来の者たちとともに播磨へ逃れていた。紹介したエピソードは、戦いがおさまって京へもどる途中の出来事だ。
同じ1358年、関東では関東管領足利基氏に仕えていた畠山国清が反乱を起こしている。さらに九州では懐良親王が率いる南朝方が幕府方の軍勢を悩ませていた。懐良親王の軍勢は幕府軍を打ち破った勢いで、京まで攻め上ろうとする計画さえ立てていたといわれる。義満の幼年時代は日本各地で戦乱が続いており、義満自身もそれに巻き込まれていたわけだ。おさまらない戦乱の時代、病床にあった義詮は幕府とまだ幼い我が子義満の行く末がかなり心配だったのか、将軍家の執事であった細川頼之を身近によんで、「今、一子を汝に与えん」と遺言したとされている。
細川頼之は足利氏の一族で、阿波・讃岐などの守護をつとめる一方、足利将軍家の執事の役にもついていた人物。ちなみに頼之が執事となったのは1367年11月で、義詮が亡くなる1ケ月前のことだった。義詮の遺言の意味は、「私の子の義満をあなたに預ける、よろしくお願いする。」と言うことだ。さらに義詮は、義満を枕元へ呼びよせて、「汝に一父を与えん。教えにたがうことなかれ」と諭したという。「頼之を父と思い、その教えは必ず守れ。」と言う意味で、11歳の義満は、細川頼之を後見人として、将軍の座につくこととなった。
細川頼之の政治
義満が将軍となったころ、幕府が直接支配していた地域は、現在の中部・近畿・四国・中国の各地方にまたがる45ケ国。幕府はこれらの諸国に22-23名の守護を任命していた。国の数と守護の数が合わないが、これは1人で2-3の守護を兼ねる者が多かったからだ。これらの守護の半数以上は、細川・斯波(しば)・畠山などの足利氏一族でだった。また、これらの守護は、いずれも京に屋敷をかまえ、幕府のしくみの一部を分担しながら、将軍に仕えると言う形がふつうだった。
任国はどうしたのかと言うと、守護代とよばれる代理人を任命し、それぞれの国の政治を任せていた。このような状況の中、細川頼之は前将軍義詮の期待に応えるべく、幕府の基礎を固め、その勢力の拡大に努めた。幼い義満に代わり、各地でいまだに活動を続けていた南朝方を討伐する命令を諸国の守護に出したり、幕府の財政を豊かにするために新しい税の制度を定めるなどの政策をおしすすめた。こうして、義満に代わって幕府の政治を動かすうちに、細川頼之は将軍家執事と言う立場から幕府の最高権力者のようになり、管領とよばれるようになった。
鎌倉幕府における執権のような地位である。頼之以前にも管領とよばれた人はいたが、幕府の職制として管領と言うものが確立したのが頼之の時代だった。
「花の御所」と頼之の追放
頼之の指導の下、幕府の勢力はしだいに盛んになっていった。同時に少年であった義満も青年へと成長し、自分の考えで政治を行える年齢となっていった。1378年、義満は室町第(むろまちだい・むろまちてい)を新築し、幕府の機構もこの新邸へと移った。室町第は、内裏に近く、多くの公家屋敷が集まる室町に営まれた。室町第にはさまざまな花木が植えられ、四季折々に見事な花を咲かせたと言う。そして人々がこの室町第を「花の御所」と呼んだと言う。また、このことが、足利氏の幕府を室町幕府と呼ぶようになった言う。
ちなみに、「鎌倉幕府」「江戸幕府」と言う呼び方からすれば、足利氏の幕府は当然「京都幕府」と呼ぶべきものが、そうなっていない。鎌倉時代から、商業都市として繁栄していた京は、朝廷の経済的な基盤の大きな部分を占めていた。ですから、朝廷は検非違使の活動を通じて、商人を保護し、さらに商業都市の京を支える京中の人々の生活の安定に努めていた。室町幕府は、侍所の機能を充実させることで、京市中の警察権、刑事や民事の裁判権などを検非違使庁から取り上げていった。そして1393年に幕府は市中商人へ課税する権利を確立した。検非違使の職務を奪って京都の支配権を握り、ここに室町幕府は名実ともに「京都幕府」と言うべき性格を帯びるようになった。
室町第に移った義満が、最初に行ったことは管領細川頼之の追放であった。頼之は2代将軍義詮の遺言にしたがい、幕府政治の充実に全力で取り組んだ。そして、その政治は行政・財政の両面にわたって見るべきものが多く、この時期に幕府の基盤は格段の安定をみた。「それなのに、なぜ?」と言う疑問をもってしまうのですが、頼之が政治に邁進し、成果を上げれば上げるほど、頼之の地位は重みを増し、その権力も当然のことながら大きくなった。そうなりますと頼之に反感をもち、「その足を引っ張ってやろう」とする者が現れるのが、時代の常なのだ。
土岐頼康(ときよりやす)、斯波義将(しばよしまさ)ら、頼之に反感をもつ有力守護たちは、頼之の罷免を義満に強く要求した。当然のことながら義満は、幼い自分を助けて政治を代行してくれた頼之に好意的であった。義満は、はじめは反頼之派のリーダー格であった土岐頼康を討とうした。しかし反頼之派の勢力は強まる一方の情勢となり、このままでは兵乱をまねくおそれも出てきた。そこで義満はやむなく、頼之の職を解き、帰国を命じた(1379年閏4月)。この細川頼之が失脚した事件を康暦の政変と言う。
幕府政治にたずさわること12年、細川頼之は出家剃髪し、一族300余人をひきつれて、阿波へ退去することとなった。京を去るにあたって頼之は次のような詩を残している。
人生五十功(こう)なきを愧(は)ず
花木春過ぎて夏すでに半(なか)ばなり
満室の蒼蠅(そうよう)はらえども去りがたし
起って禅搨(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(ふ)す
蒼蠅とは「アオバエ」のこと。頼之には自分に反対する者たちが、権力に群がるハエに見えたのだ。このとき頼之は52歳であったと言う。後任の管領には斯波義将が任じられた。
足利義満と室町幕府
「室町幕府のしくみは、3代将軍足利義満の時代にほぼ整った。」といわれている。
将軍を補佐する管領が、幕府の最高責任者として確立した。管領と言う役職が確立したのは、細川頼之のときである。しかし、頼之以後、管領には足利氏一門の有力な守護であった細川・斯波(しば)・畠山の3氏が交替でつくことになった。このような形にしたのは、鎌倉時代の執権北条氏のように最高責任者の役職を一家に限ると、その家の権力が強くなりすぎることを恐れたためではないかと想像できる。この細川・斯波・畠山の3氏を三管領(さんかんれい)と呼ぶ。
管領は、幕府の中央機構である侍所、政所、問注所を統括し、将軍の命令を諸国の守護に伝えた。侍所は京都の警備や刑事裁判を司り、その長官には、おおむね山名・赤松・京極・一色の4氏の守護から任じられた。これを三管領に対して四職(ししき)と言った。政所には、実務をになう奉行人とよばれる役人が属し、幕府の財政や事務のしごとを担当した。奉行人とは各種奉行の総称で、飯尾(いのを)・松田・斎藤・清(しょう)などの将軍直臣の家々で構成されていた。
評定衆や引付衆もおかれていたが、奉行人たちの活動がさかんになるにつれ、名ばかりの存在となった。問注所は鎌倉幕府とはちがい、文書記録の管理などのしごとを行った。幕府の地方機関としては、鎌倉府の他、いくつかの探題がおかれた。足利尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東を重視し、1349年、鎌倉に鎌倉府を置き、関東8ケ国に伊豆・甲斐を加えた10ケ国を支配させた。鎌倉府の長官となったのは義詮の弟足利基氏で、基氏は鎌倉公方とよばれた。鎌倉公方は基氏の子孫が世襲し、公方を補佐する関東管領には上杉氏が任命された。
幕府の管領は、三管領による交替制だが、関東管領は上杉氏が代々世襲した。ちなみに上杉氏は、尊氏の母の実家にあたる家柄。鎌倉公方の力はたいへんに強く、鎌倉府は幕府と同じ組織をもつ、いわば「第二の幕府」のような存在で、京都の幕府に強い対抗意識をもち、しばしば衝突を引き起こした。
京から遠い地域におかれたのが探題である。探題には九州探題・奥州探題・羽州探題(うしゅうたんだい)があった。奥州探題は陸奥、羽州探題は出羽を統治するための役所だが、はじめは奥州探題だけがおかれ、後に羽州探題が分離した。ですので、分離前は奥州探題が奥州(現在の東北地方)を統括していた。ちなみに陸奥とは現在の青森・岩手・宮城・福島の各県、出羽とは秋田・山形の各県にほぼあたる。しかし、1392年に陸奥と出羽の両国が、いずれも鎌倉府の管轄となった。つまりこの時点で、鎌倉府は東国12ケ国を支配するようになった。その後、奥州探題・羽州探題は、探題としての実質を失い、斯波氏一族の大崎氏と最上氏が「探題」と言う名だけを世襲するようになった。ちなみに大崎氏が奥州探題、最上氏が羽州探題である。
九州の9ケ国を支配したのが九州探題である。はじめて九州探題が置かれたのは、南朝に敗れ、いったん九州にのがれた足利尊氏が、再び京をめざして進軍を始めたときのことである。このときは一族の一色氏を九州探題に任命している。
尊氏は鎌倉幕府の鎮西探題と同じように、九州を経営しようと考えたが、南朝方の征西宮(せいせいのみや)懐良親王(かねよししんのう)の勢いが強く、尊氏が征夷大将軍となった後も、幕府は九州を思うように支配することができなかった。1371年、幕府は今川貞世を九州探題に任じた。今川貞世は今川了俊(いまがわりょうしゅん)と言う名の方が有名だ。了俊は九州の武士を率い、20年にわたって懐良親王の軍勢と戦い、一時は九州全土を席巻する勢いを示した南朝の征西府を壊滅させることに成功する。
ここに、南朝最後の牙城であった九州も幕府側の手に落ちた。しかし了俊は、その名声の高まりとともに、将軍義満に警戒されるようになった。義満にしてみれば、九州の了俊が、鎌倉府のような存在になることを恐れたのだ。了俊は1395年探題の任を解かれ失脚した。以後、九州探題は、渋川氏の世襲となり、かつての力を失い、名ばかりの存在となった。
幕府の財政
この時代、貨幣経済が広まってきたこともあって、銭の徴収によって、幕府の財政はおおむねまかなわれていた。もちろん、定期的な収入としても年貢米もあった。
鎌倉幕府の関東御領に当たるのが、御料所である。御料所とは足利将軍家の直轄地であり、足利氏代々の土地に加えて、南北朝の動乱期に手に入れた土地が含まれる。しかし御料所は、鎌倉幕府の関東御領に比べると数量的にはかなり少なく、現在でも200ほどしか確認されていない。御料所は近畿や東海を中心に各地に点在しているが、当時は荘園制度がくずれつつあった時期で、財源としての地位は、それほど高いものではなかったようだ。御料所からの収入に頼れなかったため、必要に応じて不定期な課税が行われ、それは米などの現物ではなく、銭でもって徴収された。
倉役・酒屋役
当時、京の都で高利貸を営む業者に土倉(どそう)や酒屋があった。この土倉や酒屋に課された税を倉役(くらやく)・酒屋役(さかややく)といい、幕府の重要な財源だった。とくに倉役は有力土倉からなる納銭方一衆(のうせんがたいっしゅう)を通じて幕府の政所に納められ、幕府の主要な財源となった。
関銭・津料
幕府は陸上交通の要地に関所を設けた。関所と言うと江戸時代に設置されたものが時代劇などでおなじみですが、江戸時代の関所の目的は「あやしい人物が通行しないかチェックする」のが目的であった。しかし、室町時代の関所の目的は、関所を通行する人から通行料を徴収するのが目的だった。この関所を通る人に課せられた税を関銭(せきせん)と言う。
関所は幕府だけではなく有力な公家・守護・寺社なども設けた。目的は同じで関銭をとるためだ。このようなことは、交通や通商の妨げになった。後年、織田信長が行った関所の廃止は、通行の自由を保障することによって、自国の経済活動を活発にしようとした政策である。楽市・楽座も同じである。。。
関銭が関所の通行税であるのに対し、港に入る船に対して課せられたものが津料(つりょう)だ。ちなみに「津」とは「港」の意味だ。関銭や津料は通行税で、人だけではなく、荷物にも課された。
段銭・棟別銭
内裏の造営や皇位継承のための儀式などが行われる際に、守護を通じて全国に段銭が課された。段銭は田地一段ごとにかけれらた税である。段銭が田地一段ごとに課せられたのに対し、家屋一棟ごとに課せられたのが棟別銭(むなべつせん)である。段銭も棟別銭もどちらも臨時に課された。さまざまな税に加え、幕府の保護を受けた禅宗寺院へも課税された。また、日明貿易(勘合貿易)による利益も莫大なもので、幕府の重要な財源となっていた。
幕府の軍事力と守護の統制
義満の時代、幕府を支える軍事力の整備も進んだ。古くからの足利氏の家臣、一族の守護、地方の有力な武将などが京へ集められ、奉公衆とよばれる将軍の直轄軍が編成された。奉公衆は家臣を率いて京に駐屯し、将軍の警護にあたった。幕府は諸国に点在する将軍の直轄地である御料所の代官に彼らを任じ、低率の年貢を納めさせた残りを彼らの得分とした。
奉公衆は5つの部隊からなり、義満の時代には3000騎を数えたと言う。守護が京へ連れてくることのできた兵力が多くても200-300騎だったそうで、奉公衆の兵力がいかに強大なものであったのか、想像できる。この優勢な軍事力を背景に、義満は有力な守護の統制にのり出した。ここでは、有名なものを2つご紹介する。
土岐氏の乱(1390年)義満は美濃・尾張・伊勢三国の守護であった土岐康行を攻めた。土岐氏の領国は、東海道が通る交通の要地であり、広い平野が広がって農業もさかんな土地であった。豊かな領国を背景とした土岐氏の勢力は強く、何かと言うと幕府の中で、強い発言をすることが多かった。義満は土岐氏の内紛につけこみ攻め入り、土岐氏を美濃一国へ押し込めてしまうことに成功した。これを土岐氏の乱、あるいは美濃の乱と言う。
明徳の乱(1391年)義満は土岐氏の乱の翌1391年、山陰地方で大きな勢力を誇っていた山名氏清を討った。山名氏はかつて義直派に属し、直冬を奉じて長年幕府と戦った有力氏族である。山名氏は、山名時氏の時代に将軍義詮に降伏し、以後、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作(みまさか)の5ケ国の守護となった。その後、山名氏は勢力を拡大し、義満の時代には一族で11ケ国の守護を独占するようになっていた。当時の日本は66ケ国で、11ケ国といえば、その6分の1に当たる。そのことから世間の人々は「六分の一殿」「六分の一衆」と呼んだ。そんな山名氏にも内紛がおった。これだけ勢力が大きくなると当然であるとも言えるが、義満はその内紛を利用して攻め、山名氏清らを滅ぼした。これを当時の年号から明徳の乱と言う。この乱の結果、山名氏が保持できたのは但馬・因幡・伯耆(ほうき)の3国となり、没落を余儀なくされた。
 
南北朝の合一と北山第の造営

 

守護大名と国人一揆
【守護大名】
鎌倉幕府および建武の新政を崩壊させた全国の武士たちをまとめあげるために、幕府は各地に守護を置いた。守護の多くは足利氏の一門で、地元の有力者が守護となった例はほとんどない。この点は、鎌倉時代の北条氏得宗家全盛時代の守護の置き方と同じである。幕府は地方武士をまとめ上げるため、守護の権限をより大きくした。
守護の職権は、鎌倉時代には「大犯(たいぼん)三ケ条」、つまり、大番催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕の3つだった。1346年、幕府はこれに「刈田狼藉を取り締まる権限」「使節遵行の権限」を加えた。
刈田狼藉(かりたろうぜき)とは、武士同士が土地をめぐる争いを起こし、自分の所有権を主張して田の稲を一方的に刈り取ってしまうことを言う。武士の土地をめぐる争いには、この刈田狼藉がよく行われたので、その取り締まりを口実に、守護が国内の武士たちの争いに介入できるようにしたわけだ。
使節遵行(しせつじゅんぎょう)とは、幕府が行った裁判の判決を受け取った守護が、使者を現地に派遣し、判決の内容を強制的にとり行うことを言う。つまり、鎌倉時代の守護は、司法の権限を持っていなかったが、それがつけ加わった。
1352年、幕府は軍事費の調達を目的に半済令(はんぜいれい)を出した。半済令とは守護に国内の荘園・公領の年貢のうち、半分を徴発する権利を認める命令だ。このときは、1年だけの約束で、しかも戦乱のはげしかった近江・美濃・尾張の3国に限られていた。しかし、当時は観応の擾乱のまっ最中で、戦乱は全国へ広がりをみせていた。諸国の守護たちは、自分の国においても半済令が適用されるよう、強く要求した。その結果、半済令はしだいに全国へと広がり、また年を限らず永続的に行われるようになっていった。
1368年に応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)が出された。これを出したのは細川頼之(ほそかわよりゆき)だ。応安の半済令はそれまで出された半済令のまとめとなる命令である。その内容は、特定の皇室・公家・寺社領をのぞき、全国すべての荘園を本所と半済給付人(はんぜいきゅうふにん)で、均分(きんぶん)すると言うものだった(半済給付人とは武士を意味する)。
半済令の集大成として出された応安の半済令は、年貢ばかりでなく、土地そのものまで、半分に分けると言うものであった。しかも「戦乱時に限る」と言う条件ももちろん外された。守護たちは、この応安の半済令をたてに荘園や公領を侵略し、年貢や土地を配下の武士たちに分け与えた。守護たちは、新しい権限を利用して、国内の武士たちを自分の配下に組み入れていこうと努めた。これに失敗した守護は、その任を解かれ、新しい守護が送りこまれた。
南北朝の分裂から続いた兵乱が、一応おさまった義満の時代に、守護の配置は安定した。守護の職は世襲されるようになり、守護たちは守護代に領国の統治をまかせ、自分たちは京に常駐して、幕府に仕えるようになった。守護の中でも有力な者は、幕府の高い位につき、幕府政治を動かした。またこの時代、守護請がさかんとなった。守護請とは、荘園領主が年貢の徴収を守護に請け負わせる、つまり「まかせる」ことを言う。この守護請の成立で、荘園領主の荘園に対する影響力は低下し、反対に守護は荘園に対する支配力を強めていっ。
守護たちは荘園への支配を強めると同時に、公領にも自分たちの勢力を伸ばし、国衙(こくが)の機能をも吸収して、その国全体を支配するようになっていった。これは鎌倉時代の守護とはその性格が大きく異なる。鎌倉時代の守護は、その国の軍事と警察の権限を握るのみだった、室町時代の守護は、その国をあらゆる面で自分の支配下においた。鎌倉時代の守護と区別をつける意味で、室町時代の守護を守護大名とよび、この守護大名たちがつくりあげた支配のしくみを守護領国制と言う。
【国人一揆】
領国内の武士たちを自分の配下に組み入れるのに際し、守護大名たちは、そこに明確な主従関係をもちこもうとした。実際、この時代に多くの武士たちが、守護大名の郎党のようになっていった。しかし、武士たちの中には、鎌倉時代からの伝統である将軍との直接の主従関係を重んじる者もおり、また誰にも属さずに自立を志す者もいた。当時、地方に土着した武士たちのことを国人(こくじん)と呼んだが、守護大名たちが国人たちをすべて自分の家来にするには多くの困難がともなった。守護大名の力が弱い地域ほど、国人たちの活動は盛んだった。彼らは自分たちの争いを自分たちで解決するために、また当時、力をつけてきた農民たちを支配するために、お互いに契約を交わし、一揆を形成した。
一揆と言うと、「百姓一揆」を連想しがちだが、「百姓一揆」と言う場合には農民たちの武器をとっての反乱を意味しる。しかし、この場合の一揆とは、「団結した集団」の意味になる。当時の人々は、個人の力ではなし得ない目的を達成するために、神仏に誓いをたて、団結して事にあたった。この集団が「一揆」である。国人たちが形成した一揆のことを国人一揆と言った。国人一揆では、それに参加した国人が守るべき掟を定め、国人はみな平等であること、多数決を重んじることなどをその内容とした。国人たちは力を合わせて自主的な集団をつくり上げ、守護大名の支配に抵抗するようになった。
南北朝の合一
1392年を迎え、義満は、南北朝の合一に成功する。
半世紀の長きにわたり続いた南北朝の戦乱も、義満が将軍の職につくころには終息の方向へと向かい始めていた。足利氏の政権は安定し、諸国の武士も幕府が派遣した守護によって、その配下に組み入れられていった。南朝の側は抵抗する術を失い、幕府との講和に応じざるを得ない状況に追いこまれていた。実は幕府側と南朝側との講和交渉は、義満の時代になってからでもたびたび行われていた。しかし、いずれも実現しなかった。おそらく講和の条件が南朝側の受け入れがたい内容のものだったのでしょう。1392年、義満は大内義弘を使者にたて、次のような条件を南朝側に示して、講和をせまった。
後亀山天皇は、「三種の神器」を京へ運び、譲国の形で後小松天皇にさずける。
後小松天皇に譲位の後は、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交代で皇位につく。
各地にある国衙領(こくがりょう)は、すべて大覚寺統が支配する。
各地にある長講堂領(ちょうこうどうりょう)は、すべて持明院統が支配する。
この講和条件のポイントは二つある。ひとつは後亀山天皇が皇位を後小松天皇に譲ることで、南朝の後小松天皇を幕府が正式な天皇であると認めたこと。もうひとつが、皇位の継承を鎌倉時代の末期の形、つまり両統迭立(りょうとうてつりつ)にもどすということである。義満が示した条件は、「落ち目」であった南朝にとっては「これ以上は望めない」好条件であった。南朝側はこの条件を受け入れ、ここに南北朝の合一が実現した。
1392年10月28日、すでに冬の気配の濃い吉野山の山中を、黙々と下山する一行があった。義満の講和条件を受け入れて、京へと向かう後亀山天皇とそのお供の人々の行列である。しかし、その人数はお供の公家が17名、警護の武士が26名、あわせて40人余というまことにわびしいものだった。南朝の一行は、吉野山から大和路をへて、閏10月2日に京へ到着した。その夜、一行は嵯峨野の大覚寺へ宿泊した。大覚寺は南朝の源流である大覚寺統の御所が置かれていた由緒ある寺院だ。
後亀山天皇は、内裏に迎え入れられなかったことに、一抹の不安と不快感をおぼえたと言う。後亀山天皇が大覚寺でおぼえた不安は数日としないうちに適中する。閏10月5日、降りしきる雨の中を「三種の神器」だけが大覚寺から移され、講和の条件にあった「譲国(じょうこく)の儀式」が執り行われることはなかった。これは同時に後亀山天皇を正当の天皇であると認める合意も、否定されたことになる。後亀山天皇は当然のことながら激怒したが、「三種の神器」を渡してしまった後となっては、「後の祭り」。さらに条件の、国衙領の支配が約束されていたが、現実には国衙領はすでに守護がその支配下におさめており、後亀山が口を出すことは不可能であった。
このようにして、講和の条件はその全てが「なしくずし」に無視される結果となった。幕府側のあまりの仕打ちに激怒した後亀山天皇は再び吉野へ帰った。けれども一度実現した南北朝合一の事実をくつがえすことは不可能だった。義満にしてみれば、はじめから講和の条件を守るつもりはさらさらなく、南朝側にしてみれば「義満にだまされた」という結果となった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎと出家させ、その子孫を絶つ政策をおしすすめた。南朝の人々は、幕府のやり方深く恨み、南朝の子孫や遺臣による反乱は、応仁の乱のころまでくり返しおきた。
しかし、南朝の再興はできず、皇統は北朝によって統一されることとなった。ちなみに南北朝の合一が実現された1392年は、隣の朝鮮半島の歴史においても大きな節目となった年だ。この年、朝鮮半島では李成桂(りせいけい)が、高麗王朝の恭譲王(きょうじょうおう)から王位を譲られ、「無血革命」の形で李氏朝鮮(りしちょうせん)が成立した。
北山第の造営
1394年、義満は征夷大将軍の職を子の足利義持に譲った。この時、義満は37歳、義持は何とわずか9歳だった。将軍職の引退と同時に義満は朝廷から太政大臣に任じられ、人臣最高の位に就いた。義満が公家の中でも公卿とよばれる高位についたのは18歳のとき、1375年だった。この年、義満は従三位に叙せられている。ちなみに三位以上の者を公卿とよぶ。その後、義満は21歳で権大納言右大将、24歳で内大臣、25歳で左大臣となり、将軍を引退した1394年にとうとう太政大臣となったというわけだ。
将軍職を引退した翌年の1395年、義満は出家し道義(どうぎ)と名のった(38歳)。しかし義満には、出家したからといって政治から引退しようなどという考えは、まったくなかった。4代将軍義持はまだ少年で、政治をまかせられるわけがなかった。なぜ将軍職を引退し、出家までしてしまったのか、義満はどうやら、かっての上皇や法皇(出家した上皇)のように、幕府や朝廷のしきたりにとらわれない自由な立場で、公家と武家の両方を支配しようと考えていたようなのだ。
事実、出家と同時にせっかく任命された太政大臣も辞任している。義満は1397年4月、北山第(きたやまてい・きたやまだい)の造営を開始した。北山第とはもともと西園寺公経(さいおんじきんつね)がつくった別荘だ。公経は鎌倉時代の初期に太政大臣となり、京の政界で大きな権力をもっていた人物。そして公経がその豊かな財力にまかせて衣笠山の山麓に営んだ別荘が北山殿(きたやまどの)だった。北山殿は南北朝時代に荒れはててしまうが、それでもなお、「最高の公家住宅」という高い評価を保っていた。義満はいつのころからか、この名高い北山殿に目をつけていたらしい。
義満は、衰退していた西園寺家に別の所領を与えて交換に北山殿を譲り受け、手を加えていっそう立派なものにしようとした。義満は北山第造営のために16人もの奉行を任命して仕事をさせたと記録に残っている。また、北山第造営の命令は全国の守護にも伝えられ、義満の歓心を買うためもあったのか、争って造営の手伝いをしたといった。ある守護は「めずらしい石がございます。」と言って、大勢の人夫に車を引かせ、大きな石を運んできた。ある守護は枝ぶりのよい見事な木を運んできた。物を差し出すかわりに大勢の人数を工事に送りこんでくる守護もあった。
池が掘られ、木や石が配置される一方で、北山第の中心をなす舎利殿をはじめ、天鏡閣、宸殿、泉殿、護摩堂、懺法堂(せんぼうどう)など、多くの建物が建てられた。北山第が完成し、義満が移り住んだのは1398年のこと。北山第の造営にかかった費用が、ある記録に「百万貫をこえるのではないか」と記されている。当時、米一石(約150Kg)の値段が1貫文ぐらいで、百万貫というと米に直せば百万石分ということになる。これを現在の米の価格におきかえてみると、およそ600億円ぐらいになると言う。学者によっては「もっとかかったのではないか」という人もあるが、いずれにしても北山第の造営には莫大な費用と労力が使われたことだけは間違いない。こんなことはめったにできることではなく、義満にそれができたということは、それができるだけの実力、つまり権力と財力の両方を持っていたという証拠になる。
金閣の姿
京都に「金閣寺」という寺がある。「金閣」という名は正式なものでなく俗称で、正しくは鹿苑寺(ろくおんじ)と言う。「金閣」とよんでいる建物は、正確には舎利殿だ、舎利(仏舎利)とは釈迦の遺骨のことで、舎利殿とは古代でいうところのお寺の塔に当たる。つまり釈迦の遺骨を祭ったお堂のことを舎利殿と言う。
北山第の舎利殿のことを「金閣」とよぶことにする。金閣はたいへん美しい建物で、また珍しい建物である。金閣は池の中に建っている。この池を鏡湖池(きょうこち)と言う。おそらく鏡のように静かで澄み渡っている池という意味か。この池には九山八海石、赤松石、細川石、夜泊石など、10あまりの立石が水面から顔を出して、池の美しさをひきたてている。この石はその名前からも分かるように、各地の守護たちが義満に気に入られようと運んできたものだ。
今は違うが、当時の金閣は池の中に建っており、地面伝いに中に入ることができない建物だった。当時、金閣に入るには鏡湖池を船でめぐり、金閣の船着き場へつける必要があった。この船着き場から上がったところが金閣の1階で、ふつうこれを一層と言う。一層は寝殿造で法水院、二層は武家造で潮音洞、三層は中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くつきょうちょう)とよばれている。三層には仏舎利が安置してあった。金閣が珍しい建物であるというのはこの点にある。金閣は3階建ての建物だが、各階ごとに建築様式が違う。なぜ義満はこんな「変な」建物を北山第の中心としたのでしょうか。
「一層は寝殿造なので公家(皇族)を、二層は武家造なので武士を、三層は禅宗仏殿造なので社寺を表し、自身はこの三者の上に立って、これらを支配したいと願った義満の気持ちを表したものである。」、なかなか説得力のある考え方だ 。
またこれも有名な話だが、当時の金閣は天鏡閣と空中の渡り廊下で結ばれていた。天鏡閣とは会所、現代風に言えばホール、あるいはパーティ会場のような建物だった。この空中廊下を歩くとまるで天を歩むような気分になったと言う。
さらに金閣の屋根には、風に向かって羽ばたくような黄金づくりの鳳凰が飾られ、建物の表面には漆を塗り、その上に金箔がはりつめられている。金色が燦然と輝き、まさに「金閣」の名にふさわしい建物となっている。
金閣の屋根の鳳凰について、鳳凰とは聖天子(せいてんし)が現れるとその姿を現すとされる想像上のめでたい鳥であり、聖天子とはこの世を新たにつくりかえる聖なる皇帝のことである。この聖天子とは誰をさすか、もちろんつくり主の義満であることはまず間違いがない。「公家・武士・寺社の上に立って、これを支配したい」と願う義満の考えを推察することができる。金閣を中心とする北山第とはいったい何だったのか、実は、義満の「御所」だったのではないのかとする考え方が有力である。
応永の乱
1391年の明徳の乱で、「六分の一衆」山名氏を討った後、義満にとってもっとも目ざわりな存在となったのが西国の有力大名であった大内義弘だった。大内義弘は明徳の乱での活躍を賞され、新たに和泉、紀伊(きい)二国の守護に任ぜられ、それまでの長門、石見、豊前、周防(すおう)と合わせ、計6ケ国の守護を兼ねるようになった。さらに南北朝合一の交渉にも大きな力を発揮し、中央にも名の通った「西国の雄」であった。そんな大内義弘の「人となり」を示す、有名なエピソードがある。
1397年、義満が北山第の造営に着手し、その工事の手伝いを守護たちに命じたとき。守護たちは義満に気に入られようと先を争って造営に協力したが、大内義弘だけはちがってい。「自分は弓矢をもって将軍に仕えている。だから土木工事などに自分の配下を使うことはできない。」こう言って、大内義弘は、義満の命令をきっぱり拒否したと言う。義弘の言うことは確かに正論だが、「自分が最もえらい」と考えている義満にしてみれば、「何を生意気な」という気持ちになってもおかしくない。
義満と義弘の対立関係は、噂が噂をよび、ついには「義満が義弘を京に呼びよせて殺そうとしている」とまで言われるようになった。このような状況の中、大内義弘はついに義満との合戦を決意した。1399年の10月、大内義弘は五千の軍勢を率いて和泉国の堺に陣をしき、城を築いた。同時に義満へ不満をもっていた鎌倉公方足利満兼(あしかがみつかね)をさそい、丹波、美濃、近江の守護たち、さらには南朝の遺臣にまでよびかけて、味方に引き入れようとした。
このような大内義弘の動きに対して幕府は、細川・京極・赤松などの守護大名が六千の軍を率いて堺へ向かい、義満自身も三万余の大軍を率いて11月14日に京を出陣した。両軍の戦いが始まったのは11月29日の明け方のこと。義弘の軍は10倍近い敵に包囲されながらも善戦する。しかし、鎌倉公方の足利満兼が、関東管領の上杉氏から義弘の方に加わることを諌められ、戦いに参加できなかったこともあって目算がくるい、堺の城は12月21日になって幕府軍によって焼き払われた。
幕府が義弘の城に放った火は、折りからのはげしい風にあおられ、当時戸数一万を数えたという堺の町をみるみるのみこんでいった。その猛火の中で、大内義弘は自刃して果てた。1399年におこったこの争いを当時の年号にちなんで応永の乱と言う。この乱の後、しばらくの間、有力守護大名による幕府への反逆は後を絶つこととなった。つまり、義満による有力守護大名の統制は成功したことになった。

応永の乱の2年後、1401年に義満は北山第で「沙汰始(さたはじめ)」とよばれる政務開始の儀式を行った。義満はすでに太政大臣も辞任していた。もちろん将軍でもなく、そんな義満が「沙汰始」をすることは、「自分は朝廷にも幕府にもとらわれることなく、独自の立場で公家と武家の上に立って天下を治めるのだ。」という意思の表れと考えることができる。
 
倭寇と勘合貿易

 

14世紀後半の東アジア
【建長寺船と天竜寺船】
南北朝の争いの中で、室町幕府の権力が形づくられていく14世紀の後半は、東アジア全体の情勢が大きく変化した時期でもあり、新しい国際関係が築かれていった。日本と元との間には、正式な国交は開かれていなかったが、民間商人の手による私貿易は、さかんに行われていた。「元寇があったのに」と不思議に思われるかもしれませんが、やはり貿易による「利益」には大きな魅力があったということだ。元と戦いを交えた鎌倉幕府でさえも、弘安の役(1281年)からおよそ40年後の1325年には、「鎌倉五山」の第1位であった建長寺を再建する費用を得るため、「建長寺船」とよばれる貿易船を元に派遣している。足利尊氏もこの鎌倉幕府の先例にならい、後醍醐天皇の冥福を祈るための天竜寺建立の費用を得るため、1342年に「天竜寺船」を元に派遣している。
【明の建国】
14世紀に入ると、元におとろえが生じはじめた。言うまでもなく元は、漢民族ではなく北方の遊牧民族であったモンゴル人による王朝で、中国への同化政策をとったため、モンゴル民族本来の勇猛果敢な性質がしだいに失われていったことが、おとろえの原因であるとされている。そしてモンゴル民族が衰え始めると、「中国をもう一度漢民族の手に取り戻そう」とする動きが起こってきた。
このような流れの中、1351年に大規模な農民反乱が起こる。この反乱は白蓮教(びゃくれんきょう)という宗教の信者が中心になっておこしたので白蓮教徒の乱と言う。また、白蓮教徒は紅色の頭巾をかぶって、仲間の目印としたことから、この反乱を紅巾の乱(こうきんのらん)とも呼ぶ。紅巾の乱に参加して頭角をあらわしてきたのが朱元璋(しゅげんしょう)だ。朱元璋は1368年、金陵(現在の南京)で即位し、国号を明と定め、元を北方に追いやって、中国の統一に成功した。この朱元璋が明の太祖である洪武帝(こうぶてい)である。
【李氏朝鮮の建国】
14世紀の朝鮮半島では高麗の国力がおとろえはじめていた。高麗は918年に王建(おうけん)が建国し、936年に朝鮮半島を統一した王朝である。しかしモンゴル民族によって圧迫され、元の属国となって元寇に協力するなど、国力を疲弊させていった。1368年、中国で元が滅ぼされて明が建国されると、それまで元にしたがっていた高麗王家に不満をもっていた人々が立ち上がった。
このような中で倭寇(わこう)の侵入を撃退して名をあげていた武将の李成桂が部下に推され、1392年、高麗の恭譲王(きょうじょうおう)から譲位を受ける形で新しい王朝を建国した。これが李氏朝鮮だ。李氏朝鮮は1910年に日本によって併合されるまで、約500年間に渡って続いた。李氏朝鮮は、はじめは明、ついで清を宗主国として中国と深い関係を保ち、秀吉による朝鮮出兵を例外にすると日本との関係もおおむね平穏だった。
前期倭寇の活動
【倭寇の活動】
14世紀、東アジア地域では倭寇(わこう)とよばれる人々が猛威をふるっていた。倭寇とは日本人を中心とする海賊集団で、対馬・壱岐と肥前国の松浦地方を根拠地する者たちが中心であったと考えられている。対馬・壱岐・松浦を本拠地とした倭寇をとくに「三島倭寇」と言うが、これらの地方は平地が少なく、田畑に恵まれていなかった。そこで貿易によって生計をたてるべく、朝鮮や中国へ渡るようになった。しかし、せっかく出かけていっても相手にしてもらえないこともあり、「せっかく苦労して海を渡ったのに」という思いが先にたって物を奪ったり、乱暴をはたらいたりする者が現れた。これが倭寇の正体ではないかと言われている。
高麗の歴史書である「高麗史」に、倭寇に関する記事が、1223年のところにはじめて出てくる。記事が正しいとすれば、倭寇の活動は鎌倉時代の中頃からすでに始まっていた。記事によれば、倭寇の主な目的地は、中清道(ちゅうせいどう)・全羅道(ぜんらどう)・慶尚道(けいしょうどう)であったと言う。倭寇は少ないもので2-3隻、多いものだと50-200隻、ときには500隻もの大船団を組んで襲撃してきたとある。500隻なら1隻あたり10人の人間が乗りこんでいたとしても、5000人もの大軍がおしよせてきたことになる。
倭寇たちは朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を荒らし回り、人々を捕らえ、略奪を欲しいままにした。倭寇に手を焼いた高麗は、日本に使者を送って倭寇の禁止ならびに取り締まりを求めたが、当時の九州地方は南北朝の争いのただ中にあり、その成果は上がらなかったと言う。この14世紀の倭寇のことを歴史上「前期倭寇(ぜんきわこう)」と言い、主な侵入先は朝鮮半島だった。記録として残っているだけでも400件におよぶそうだ。このため高麗がおとろえた原因のひとつに倭寇による襲撃があったのではないかと考える学者もいる。
【しずまった前期倭寇】
主に朝鮮半島で猛威をふるった前期倭寇の活動も、やがてしずまっていく。その理由については大きく分けて次の2点がある。
明や李氏朝鮮から倭寇の取り締まりをたびたび要求された室町幕府が、明や朝鮮と正式に国交を開き、貿易の利を得るために、倭寇の取り締まりに力を入れるようになった。
明や朝鮮でも倭寇の防止に力を入れるようになった。
足利義満が倭寇をきびしく取り締まり、明との間に勘合貿易をはじめたのがその表れであるといえる。次に、李氏朝鮮の李成桂の取り組みが有名である。倭寇の害を防ぐため、倭寇の頭たちに「土地を与えるから朝鮮に住んではどうか」と申し出たり、西日本の守護大名たちによびかけて、正式につきあいを始めたりした。こうして、倭寇の活動はしだいにしずまっていった。(「後期倭寇」の活動が始まるのは16世紀の中ごろからで、性格も前期倭寇とはちがったものだ。)
勘合貿易
【日本国王源道義】
明はその建国当初から、鎖国政策をとっていた。「鎖国」というと江戸幕府が行ったものをすぐ連想するが、イメージとしては同じである。要するにきびしい制限を加え、自由な貿易を禁止したのだ。加えて明は、歴代の中国王朝にならい、自国を中心とする国際秩序を形づくろうとした、つまり「中華思想」である。中華思想の下では、貿易は基本的に朝貢の形でしか認められない。日本と中国との関係では、長い間、正式な国交が開かれていなかった。しかし、私的な通商関係は保たれていた。そして、貿易が莫大な利益を生むことも周知の事実であった。
明との貿易について、足利義満は早くから関心をもっていたようだ。しかし、本腰を入れて、明との貿易を考えるようになったのは、ある九州の博多の商人であった肥富(こいつみ)からさまざまな知識を得てからだとされている。1401年5月、義満は僧侶の祖阿(そあ)と肥富(こいつみ)を明へ派遣し、正式な国交を開きたいと申し入れを行った。この申し入れを受けて翌年の1402年8月、明の使者が来日を果たした。使者は義満の申し入れを明の皇帝が受け入れる旨(むね)の国書を携えていた。ここに公式に日明貿易が開始されることとなった、いわゆる勘合貿易だ。
ところで明の使者が携えてきた国書には「爾(なんじ)日本国王源道義」という一文があった。「爾」というのは「お前」という意味だ。源道義とは義満のことである。義満の名字は足利だが、本姓は源氏である。道義というのは義満の出家名だ。つまり、日本を明に朝貢する「属国」とし、義満をその国王として認める、という意味なのだ。「中華思想」では当然のこととはいえ、「属国扱い」される方にすれば、あまりいい気持ちではない。しかし当の義満は「属国扱い」に腹を立てず、これを受け入れた。
どうしてそれが分かるかと言うと、義満は明からの使者がやってきた翌年の1403年、再び国書を明の皇帝に送っている。その国書には「日本国王臣(しん)源」と記されていた。「臣」とは家来のことで、「日本国王で、明の皇帝の家来である義満」という意味となる。この表現は、はるか古代の「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」や卑弥呼が与えられたという「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号に通じるものがある。
では、義満はどうして「属国扱い」に甘んじたのか、理由のひとつに、明が朝貢貿易しか認めなかったということがあげられる。明との貿易を正式に行うには、「属国に甘んじる」以外に方法がなかったのである。「属国扱いは嫌だが、貿易の利益のためにがまんした。」という考え方である。この理由に加えてもう一つの理由を主張する学者もいる、義満が自ら望んで「日本国王」となったのだ、とする考え方だ。
【勘合貿易】
明は当時、アジア一帯に自国を中心とする「中華秩序」を形づくろうとしていた。具体的にはアジア各国を明の「属国」とし、その国王は明の皇帝によって「任命」される。そして各国の王は、明の皇帝に貢物を献じ、それに対して皇帝は賜物、つまり褒美を授けるという体制である。明のこの政策は成功し、50以上の国々が明と朝貢貿易を行い、これによってアジア各地の産物が明を中心に広く流通するようになったと言う。義満に「日本国王」の称号を与え、貿易を許可したのも、明のこのような政策の一環だったわけだ。
このようにして始まった日本と明との貿易、つまり日明貿易だが、この貿易のことを勘合貿易ともよぶこと、またそのようによぶ理由について説明するう。
日明貿易を勘合貿易ともよぶのは、貿易船が、正式な貿易船であることを証明するために、勘合とよばれる証票を使用したためである。勘合とは、「日本」の二字を「日」と「本」に分け、「日字壱号(にちじいちごう)」「本字壱号(ほんじいちごう)」というような印、つまりハンコをつくる。ちなみに「壱号」から「百号」まであった。次に紙に、例えば「本字壱号」と墨印と押します。そしてそれを二つに切断し、一方を勘合、もう一方を勘合底簿(かんごうていぼ)と呼んだ。そして勘合を日本が持ち、明が勘合底簿をもった。
日本の貿易船は「本字勘合」を携えて渡航し、明に着くと明が持っている「本字勘合底簿」と照らし合わせて、まちがいがなければ貿易が許されるわけだ。これと同様に、明の貿易船は「日字勘合」をもって来日し、日本で日本がもつ「日字勘合底簿」と照らし合わせるわけだが、実際には明の貿易船の日本への来貢はなかった。ちなみに、勘合は皇帝の代がわりごとに、明の礼部という役所でつくられ、日本には「本字勘合」と「日字勘合底簿」が送られてきた。
【勘合貿易の様子】
1404年、第1回の遣明船が派遣された。この年をもって、日明貿易(勘合貿易)の開始とされている。以後、1547年まで、計17回の貿易船が派遣された。途中、4代将軍義持(よしもち)は、明に臣下の礼をとることを嫌って、貿易を中止している。その後、6代将軍義教が再会した。勘合貿易は朝貢の形をとったので、滞在費・運搬費などはすべて「主人」である明が負担した。そのため日本の利益は莫大なものとなった。船は寧波(ニンポー)で勘合の照合を受け、首都の北京で交易を行った。
日本からの主な輸出品は銅・硫黄・金・刀剣・扇・漆器などで、明からの輸入品は生糸・絹織物・綿糸・砂糖・陶磁器・書籍・絵画などだった。明からの輸入品は唐物(からもの)とよばれて珍重され、室町文化に大きな影響を与えた。また、たくさんの銅銭が明の皇帝から与えられ、この銅銭が日本国内で流通し、貨幣経済をいっそうさかんにした。貿易には幕府の他、有力守護大名や寺社も参加した。本来の取り決めでは朝貢1回につき3隻までとなっていたが、幕府の船に守護や寺社の船が加わって、10隻におよぶこともあったと言う。応仁の乱(1467-77年)の後は、幕府の力がおとろえたため、貿易の実権は堺の商人と手を結んだ細川氏、博多の商人と結んだ大内氏の二人の守護大名の手に移ることとなった。
寧波の乱と後期倭寇
【大内氏の動き】
1469年、「成化の新勘合」を受け取って帰国した遣明船が大内氏に襲われ、勘合とその積み荷の大部分が奪い取られるという事件がおこった。この新勘合は、大内氏から幕府へ返納されたが、この出来事をきっかけに、大内氏と細川氏による勘合をめぐる争いがはげしくなった。1511年の春に出航した遣明船は、東福寺の了庵桂悟(りょうあんけいご)を正使とし、大内義興の主導で派遣された。この遣明船は「正徳の新勘合」を受け取って帰国した。
「成化の新勘合」「正徳の新勘合」とは何か、「成化」「正徳」は明の年号で、明では皇帝一代につき一つの年号を用いることになっていた。これを一世一元の制(いっせいいちげんのせい)と言い、日本では明治からこの制度を導入したが、中国では明の時代から採用された。したがって、皇帝が代がわりすると年号も変わり、勘合も以前のものは破棄されて、新しいものを用いることになった。
1511年の遣明船が持ち帰った「正徳の新勘合」がまたしても大内氏によって奪われた。しかもこのときは幕府に返納しなかったばかりか、義興の強い権力にものを言わせ、「正徳の新勘合」を大内氏が管理するという権限を幕府に認めさせた。さらに1516年、大内氏は幕府にはたらきかけて勘合貿易を独占する権利を認めさせてしまった。
【寧波の乱】
1523年、大内義興は謙道宗設(けんどうそうせつ)を正使とする遣明船3隻をしたて、それに「正徳の新勘合」を持たせて明へ派遣した。この行動に対し、細川高国は、幕府から無効となった「弘治の勘合」をもらいうけ、鸞岡瑞佐(らんこうずいさ)を正使とし、これに明人の宋素卿(そうそきょう)をつけ、遣明船1隻を派遣した。
1523年4月、大内遣明船は寧波(にんぽー)に到着し、数日遅れて細川遣明船も入港した。ここで問題になったのは大内・細川の両遣明船の正当性だった。言うまでもなく正しい勘合は大内側がもっている。ここで暗躍したのが細川側に随行してきた明人の宋素卿だった。宋素卿は朝貢貿易をつかさどる市舶司(しはくし)の役人に賄賂を贈り、先に着いていた大内遣明船をさしおいて、細川遣明船の積み荷を陸揚げさせることに成功した。しかも明がひらいた宴(うたげ)の席でも、その席順を大内の正使謙道宗設よりも細川の正使鸞岡瑞佐を上位にするようはたらきかけた。このことを知った謙道宗設ら大内方は激怒し、市舶司の倉庫から武器を持ちだして鸞岡瑞佐を殺害してしまった。さらに逃げる宋素卿を紹興(しょうこう)の城下まで追跡した。宋素卿が明の役人によって保護されると、大内方は寧波に引きあげ、沿道に放火するなどの乱暴なふるまいをし、細川氏の船を焼き払って帰国してしまった。
この寧波における大内氏と細川氏の争いを寧波の乱(にんぽーのらん)と言う。宋素卿は乱後、明の役人に捕らえられて獄死し、この後に派遣される遣明船は大内氏が独占することとなった。
【後期倭寇】
大内氏が独占することとなった勘合貿易だが、1551年に当時の大内氏の当主であった大内義隆が家来であった陶晴賢(すえはるかた)に背かれ自殺するという事件があり、これ以後、勘合貿易は断絶することとなった。勘合貿易が中断されると再び倭寇の活動がさかんとなった。16世紀に活動を活発化させたこの倭寇を後期倭寇(こうきわこう)と言う。前期倭寇が主に朝鮮半島をターゲットにしたのに対し、後期倭寇は東シナ海沿岸部を襲った。つまり主なターゲットは明だったわけだ。
後期倭寇が、倭寇とよばれるものの、日本人が占める割合は2-3割ぐらいで、中国人(明人)やポルトガル人が多かった。彼らは日本の銀と中国の生糸の交易を行うかたわら、「海賊行為」にも従事した。
後期倭寇の有名な頭目に王直(おうちょく)という人物がいた(明人)。王直は王を自称し、九州の平戸島を本拠地にして数百隻の船団をしたがえていたと言う。1559年、王直は明によって捕らえられ処刑されてしまうが、この頃に後期倭寇はおとろえ始める。そして1588年に豊臣秀吉が海賊取締令を出すにおよび、後期倭寇は完全にしずまった。
朝鮮との関係
1392年に李成桂(りせいけい)が建国した李氏朝鮮も、明と同じく通商と倭寇の取り締まりを日本に求めてきた。幕府はこの申し出を受け入れ、日朝貿易がスタートした。1419年、朝鮮は200隻の兵船と約2万の軍勢をもって、対馬を攻撃した。これを歴史上応永の外寇(おうえいのがいこう)と言う。朝鮮が対馬に出兵したのは倭寇の撃滅にあったと言う。その後、貿易は一時中断されるがやがて再開された。
九州・四国地方の守護大名や有力武士たちは、競って朝鮮に使節を送り、貿易の利をあげようとした。そのため朝鮮は貿易の統制をはかるようになり、1443年、最も関係の深かった対馬の宗氏(そうし)との間に癸亥条約(きがいじょうやく)あるいは嘉吉条約(かきつじょうやく)とよばれる条約を結んだ。
癸亥条約により、宗氏は貿易のための船の派遣を1年あたり50隻に制限された。また朝鮮側の貿易港は富山浦(ふざんほ)・及而浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の3ケ所とされた。この三つの港を三浦(さんぽ)と呼ぶ。ちなみに富山浦は現在の釜山(プサン)である。三浦と首都の漢城には、日本からの使節の接待と貿易を行うために倭館(わかん)が置かれた。ちなみに漢城とは現在のソウルだ。しだいに三浦に定住する日本人も増え、15世紀の末には3000人を数えたと言う。
これらの日本人はさまざまな特権が与えられていたが、1510年にこの特権の運用をめぐって暴動を起こし、朝鮮の役人によって鎮圧されるという出来事が起った。これを三浦の乱(さんぽのらん)と呼ぶが、この乱以後、貿易はしだいにふるわなくなっていった。
日本から朝鮮への輸出品は銅・硫黄の他、胡椒・薬材・香木など南国の特産物だった。これらの南国の産物は、琉球(の貿易船が、博多などにもたらしたもので、博多の商人がこれを中継して朝鮮へ運んだ。日本の輸入品は繊維品が中心だった。とくに木綿は当時の日本では生産されておらず、多くの人がそれを欲したため、大量にもたらされた。当時の日本の日常の衣料は麻で、木綿は麻にくらべて寒さをよく防ぐので、人々は競って求めた。木綿は戦国時代末期に国内での生産がさかんになるまで、重要な輸入品であり続けた。
 
惣村の形成と産業の発達

 

農業技術の進歩
4代将軍足利義持のころの話。朝鮮からの使節宋希m(そうきけい)は、当時の摂津国あたりの農村のようすについて、次のような記録を残している。この地では秋に大麦や小麦をまいて、翌年の春にこれをとり入れる。そのあとに水稲をつくり、秋に刈り取ると、さらに大麦を植えるなど、一年に二回もとり入れをしている。こんなことができる秘密の第一は灌漑用水の設備が整っていることにある。驚くべき農業技術の進歩である。
宋希mは、日本では灌漑設備が整い、二毛作が行われていることを驚きの眼をもって見ているわけだ。鎌倉時代に畿内や西日本で始まった水田の裏作に麦をつくる二毛作は灌漑や排水設備の整備、改善によって室町時代には東日本にも広がった。15世紀前半ごろの畿内では稲・麦・蕎麦の三毛作さえ行われていたと言う。
室町時代には、この二毛作の広がり以外にも、さまざまな農業技術の進歩が見られた。
稲の品種改良が進み、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など、稲の育成速度が異なる品種の作付が普及し、各地の自然環境に応じた稲が栽培されるようになった。
刈敷(かりしき)・草木灰(そうもくばい)・厩肥(きゅうひ)・下肥(しもごえ)などの肥料を施肥(せひ)するようになった。
手工業の原料として桑・楮(こうぞ)・漆・藍・茶等の商品作物が栽培されるようになった。
早稲の中に大唐米(だいとうまい)とよばれる大陸から伝来したものがあった。この品種は食味はおとるものの、収穫量が多く、日照りや害虫にも強かったため、庶民の食用米として広がった。ちなみに大唐米は赤米(あかまい)・唐法師(とうぼし)とも言う。肥料について補足すると、厩肥とは牛や馬の糞尿、下肥とは人の糞尿のことである。刈敷とは刈り取った草をそのまま田畑にすきこむことを言う。草木灰はその文字の通り、草木を燃やして灰にしたり、あるいは腐らせたりして田畑にすきこむことを言う。これらの肥料の発達によって地味が向上し、安定した収穫が得られるようになった。商品作物の栽培と、これら農業技術の進歩は農民の生活を豊かにし、商品の流通も活発となりった。
惣村の形成
中世初期の荘園や公領では、耕地の間に家がまばらに点在する散居(さんきょ)とよばれる形態が一般的だった。現在のような家が密集して存在している集落は、この時代にはまだなかった。しかし鎌倉時代の後期になると、近畿地方を中心とする地域で、家が耕地から分かれて集まり、しだいに集落とよべるものが形づくられるようになった。そしてこのような集落を基礎として、そこに住む人々は地縁的な結びつきを強め、荘園や公領の中にいくつかの村が自然にできあがっていった。
あたらしく形成された村は、「南北朝の争い」が行われていた時代を通じて、しだいに各地方へ広がっていったが、支配者が上からの強制によってつくったのではない、このような村を惣あるいは惣村といい、自分たちのことは自分たちの手で、自分たちの責任において行うという自治的な性格がその特色であった。惣村は、やがて支配単位であった荘園や公領を中心に、惣荘(そうしょう)・惣郷(そうごう)とよばれる大きな、しかも強いまとまりへと発展していった。これらの大きなまとまりは共同して行動をとるようになった。
荘園や公領が複雑に入りくんでいた近畿地方では、村々の用水の配分や戦乱から村を守るため、ちがう領主をもつ惣村が、荘園や公領の枠をこえて連合し、与郷(くみのごう)とよばれるまとまりを形づくることもあった。反対に、集落の形成が近畿ほどいちじるしくはなかった関東・東北地方や九州地方などでは、荘園や公領を一つの単位としたゆるやかなまとまりが一般的で、このようなまとまりを惣村に対して郷村と言う。強い連帯意識、つまり「仲間であるという意識」で結ばれた惣村の住民は、不法なふるまいをする代官や荘官の免職、水害や干害による年貢の減免などを求め、自分たちの要求を書き連ねた「百姓申状」を荘園領主にささげ、集団で訴えをおこすようになった。これを愁訴(しゅうそ)と言う。
自分たちの要求が認められない場合は、荘園領主のもとに大挙しておしかける強訴や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げこむ逃散(ちょうさん)などの実力行使を行う場合もあった。このように惣村は、自治的であるとともに、自立的なまとまりであった。
惣村のしくみ
惣村では、古くからの有力な農民であった名主とよばれた人々にくわえ、農業の進歩によって新しく成長してきた農民たちもそのメンバーとなった。これらの農民たちは、村の神社の祭祀を行う宮座とよばれた組織などを中心に、「村人」としての結びつきを強めていった。惣村の正規のメンバーとして、宮座などへの出席を認められた村人のことを惣百姓と言う。そして惣村は、寄合とよばれた惣百姓による会議の決定にしたがって、おとな・沙汰人(さたにん)・番頭などとよばれた村の指導者によって運営された。
惣村のメンバーのうち、まだ若年の人々を若衆と言った。一定の通過儀礼をへた年長の人々を「おとな」と呼んだ。ちなみに「おとな」には「乙名」「長」「年寄」などの文字をあてる。惣村の中で、若衆は自衛・警察など、おもに村の「戦力」としての役割をになったのに対し、「おとな」は村の指導者として、集団で村の運営や他の村などとの交際などにあたった。一方、沙汰人・番頭というは、本来は「下級の荘官」で、その地位は代々世襲されることが多かった。彼らは荘園領主の配下として年貢や公事(くじ)の徴収にたずさわるとともに、村人の代表者として、惣村の指導にもあたった。
地下請と惣掟・地下検断
惣村の発達にともない、荘園領主へ納める年貢などを、農民ひとりひとりが単独で納めるのではなく、惣村がひとまとめにして請け負う地下請がしだいに広がった。地下請の広まりによって、ひとりひとりの農民への年貢の割り当ても、領主が行うのではなく、惣村が主体となって行うようになった。ちなみに地下請は、村請・百姓請とも言う。
惣村は農業生産に必要な山や野原などの共同利用地を惣有地(そうゆうち)として確保するようになっていった。山や野原が、なぜ農業生産に必要かと言うと、薪や肥料とする草を刈る場所として重要だったのである。この共同利用地のことを入会地と言う。また惣村は農業にとってたいへん重要な灌漑用水の管理も行い、村人みずからが守るべき規則である惣掟(そうおきて)を定めた。惣掟は、村掟・地下掟とも言う。
ここで1448年に定められたとされる、近江国今堀惣の惣掟をご紹介する。
一、寄合の知らせを二度も出したのに出なかった者は、罰金として五十文を納めること。
一、森林の枝を切った者は、罰金として五百文を納めること。
以上は1448年の例だが、後の時代になるともっと細かい決まりが定められるようになった。以下はは1489年の例。
一、薪や炭は村のものを使うこととする。
一、村内の者が身元保証人にならねば、他の村の者を村内に置いてはならない。
一、犬を飼ってはならない。
一、家を売った者は、百文について三文、一貫文について三十文ずつ村に納めること。これにそむいた者は村から追放する。
一、濠より東に邸をつくってはならない。
一、二月と六月に行う猿楽のとき、猿楽師の一座に出す謝礼は村から一貫文とし、これに違反した者は宮座から除名する。
今堀は延暦寺の荘園で、現在の滋賀県八日市市にある。このような日常生活のすみずみまで規定するような惣掟が定められていることは、惣村の人々の「自治の精神」の現れであると考えられる。
惣村では、村内の秩序を自分たちで守るため、村人自身が警察権を用いる地下検断が行われることもあった。とくに「窃盗」に対する制裁はきびしく、死刑をふくむ重い刑罰を課していた村も少なくない。惣掟の違反者に対しては、上の今堀の例からも分かるように、罰金や追放などのさまざまなランクの刑罰が設けられていた。時代は少し先の話しになるが、この状況は江戸時代に入っても同じだった。さすがに江戸時代には死刑のような重い刑罰を惣村が行う例は少なくなったものの、軽い犯罪に対する罰則は村にゆだねられていたと言う。
地侍
惣村内の有力者の中には、守護大名らと主従関係を結んで侍の身分を獲得する者が現れた。このような身分のものを地侍と言う。彼らは自分たちが侍身分であることを根拠として、公事や夫役などを拒否するようになっていった。その結果、惣村の領主による支配が、しだいに困難なものになった。地侍の中には、惣村からはなれ、本格的に武士となる者もあったが、惣村にとどまって、村人を指導し続けた者も多くいた。
惣村にとどまった地侍たちは、秀吉・家康による兵農分離政策によって、江戸時代以降は庄屋とよばれる村役人へつながっていった。惣村は豊臣秀吉による太閤検地以降、分割や再編成をくり返しながら、しだいに近世の村、すなわち江戸時代の村へと変化していく。しかし、惣村で行われていた地下請などの自治的な村の運営のあり方は、基本的に近世の村へ受け継がれていった。
惣村を母体とした農民勢力が、大きな力となって爆発し、中央の政界に大きなショックを与えたのが、正長の徳政一揆(1428年)である。
手工業の発達
農業生産の高まりによって、手工業者は京都などの都市だけではなく、農村部にも現れ、地方の特色を生かしたさまざまな製品がつくられるようになった。以下にその例を示す。
絹織物 / 京都・美濃(岐阜)・尾張(愛知)・加賀(石川)・丹後(京都)・常陸(茨城)・上野(群馬)
麻織物 / 越後(新潟)・越前(福井)・信濃(長野)
和紙 / 美濃(岐阜)・播磨(兵庫)・越前(福井)・大和(奈良)・讃岐(香川)
酒 / 京都・河内(大阪)・大和(奈良)・摂津西宮(兵庫)
陶器 / 尾張(愛知)・美濃(岐阜)・備前(岡山)
鋳物 / 京都・河内(大阪)・和泉堺(大阪)・下野(栃木)・能登(石川)・筑前(福岡)
刀剣 / 京都・備前(岡山)・美濃(岐阜)・相模(神奈川)
少し補足すると、刀剣は国内用だけでなく、日明貿易の輸出品としても大きな需要があった、備前の長船(おさふね)、美濃の関などを中心に大量に生産された。京都では、古代以来の伝統的な技術と中国(明)から伝来した新しい技術が融合して、西陣織の基礎がきずかれた。酒造業では、当時最大の消費地であった京都をはじめ、河内・大和・摂津などが特産地として知られ、そのなかから京都の柳酒や河内の天野酒、大和の菩提山(ぼだいせん)などの名酒が生まれた。
水産業と林業
水産業では、水産物の商品化が進むにつれ、とくに網漁が発達した。この時代に地曳網や刺網なども使用されるようになった。この網漁の発達にともなって漁場をめぐる争いが増えた。そのため漁村間の協定や慣習法が整備されるようになり、しだいに漁業権も成立していった。林業も建設用の資材などの需要増加にともなって発達した。とくにこの時代、大鋸(おおが)とよばれる2人引きの大きなのこぎりが広まったことで、製材技術は飛躍的に向上した。木材は丹波・伊賀・土佐・安芸などの各地が産地となっていたが、特に木曽のヒノキは高級木材としてとくに喜ばれ、京都の堀川や鎌倉には材木市場も開かれた。
商業の発達
農業や手工業の生産力が伸びたことにともなって商業も発達した。定期市もその数が増え、開かれる日数も増加していった。それまでは月に3回開かれる三斎市(さんさいいち)から、月に6回開かれる六斎市(ろくさいいち)がしだいに一般的になった。連雀商人(れんじゃくしょうにん)や振売(ふりうり)などとよばれた行商人も増えた。これらの行商人の中では、京都の大原女・桂女など女性の活躍が目立つ。大原女は炭や薪を、桂女は鮎を商った。
都市では見世棚を構えた常設の小売店がしだいに増え、京都の米市や淀の魚市など、決まった商品だけを扱う市場も生まれた。商業がさかんになると、貨幣の流通量がいちじるしく増えた。農民も年貢・公事・夫役などを貨幣で納めることが多くなっていった。年貢の代銭納(だいせんのう)は、鎌倉時代にはすでにはじまっていたが、ふつう農民は年貢を現物で納め、荘官や地頭が換金するのは普通だった。しかしこの時代になると、農民自身が銭納を行うようになった。これは貨幣経済が農村にも浸透してきた証拠であるとされる。
貨幣はおもに宋銭や永楽通宝などに代表される明銭、つまり中国からの輸入銭が用いられた。貨幣での流通がさかんになると、金融業者が栄えるようになった。この時代の代表的な高利貸し、つまり高い利息をとって金を貸す金貸しの代表は、土倉と酒屋である。土倉は鎌倉時代におこった質屋で、質に入れた品物を保管する倉をもっていたため、この名がある。酒屋というのは酒の製造業者で、金貸しを兼ねていた。土倉や酒屋は京都や奈良に多く、15世紀の京都には土倉や酒屋が350もあったと言われる。土倉や酒屋は、幕府の保護・統制を受け、倉役・酒屋役などの営業税を徴収した。また、当時は大きな寺院なども金融業を営んでいたそうだ。
座の発達
商工業の発達にともなって、同業者の組合である座の数も増加した。座はもともとは朝廷や寺社の儀式などの際に、必要なものをつくる人々の集まりだった。彼らは、その技術を生かして品物をつくり、販売するようになっていった。そしてしだいに同業の者が集まって、有力な公家や寺社の保護を受け、税を納めるかわりにその仕事を独占するようになっていった。
ちなみにこのような公家や寺社を本所と言った。
商人の座も手工業者の座と同じように、その種類や数を著しく増やした。朝廷と結びついた座の商人には供御人(くごにん)、大きな寺社と結びついた座の商人には神人(じにん)という称号があたえられ、朝廷や寺社に一定の製品や営業税を納めることで、関銭の免除や市場での独占販売権を認められた。以下に有名な座の例をあげる。
京都は大山崎の離宮八幡宮を本拠地としていた油座は、石清水八幡宮を本所とすることで畿内・美濃・尾張・阿波・肥後など10カ国以上の油の販売とその原料である荏胡麻(えごま)を独占して購入する権利を認められていた。このようになると、油座に入っていない人たちは関西一円では油を売ることも、荏胡麻を買うこともできない。営業税はとられるものの、油座は安心して商売ができたわけである。
座にとっては有利なことだが、新しく商売を始めたいと考える人にとっては、たいへん不便であった。そのため、争いもたびたびおこった。その一方で、時代が下がるにしたがって、座はしだいにこの本所から自立するようになり、注文生産や市場目あての商品生産を行うようになっていった。京都・奈良などの都市の周辺部では、大和の薦座(こもざ)や萱簾座(すだれざ)などのように農民が自分の生産物を加工して製品をつくる農村の座も生まれた。
運輸業の発達
地方でも商工業がさかんになると、遠方との取引も活発になり、海・川・陸の交通路が発達し、廻船の往来も頻繁になっていった。東大寺領であった兵庫北関の記録によると、1445年の1年間に瀬戸内海の各港から、さまざまな荷を積んで兵庫港に出入りした船の数は2400艘にもおよんだと言う。交通の要地には鎌倉時代の問丸(といまる)から発達した問屋(といや)がおかれ、年貢の売却や商品の保管などを行った。また多量の物資が運ばれた京都への輸送路では、馬借・車借とよばれる運送業者が活躍した。ちなみに馬借とは馬の背に荷物をのせて運ぶ運送業者、車借とは牛車を用いて荷物を運ぶ運送業者のこと 。
 
土一揆と徳政令

 

一揆とは何か
一揆と言うと、一般的には江戸時代の百姓一揆のイメージが強く、農民たちが筵旗(むしろばた)をふりたてて、鎌や竹槍で武装し、自分たちの要求を通すための反乱のことであると考えられがちだが、一揆の本来の意味は「農民の反乱」という意味ではない。
一揆の本来の意味は、「揆(みち)を一つにする」というもので、心を同じくする人々が、対等の関係で参加する組織、つまり「人々の集団」のことをさした。一揆で最も大切にされたのは、「連帯と平等」の精神であり、この精神のことを当時の人々は「一味同心(いちみどうしん)」と表現した。一揆を結ぶ際には、それに参加する者すべてが神社の境内に集まって、一味同心を誓う起請文に連署し、次ににその起請文を焼いて灰にした。そしてその灰を神前にそなえた水(神水)にまぜ、回し飲みする一味神水(いちみしんすい)とよばれる儀式が行われた。
この「一揆を結ぶ」という行為は、僧侶たちの間では早くからみられた。それがやがて武士の間に広まり、戦場での協力を誓ったり、地域でおこった争いごとなどを解決するためにしばしば結ばれるようになった。このような「一揆を結ぶ」という行為は、中世社会には広く見られた。
正長元年の状況
正長元年(1428年)は異変の多い年だった。正月早々に4代将軍であった義持が没し、弟の義教がくじ引きで6代将軍となった。4月には「三日病(みかのやまい)」とよばれた疫病が流行し、5月に入ると鎌倉公方の持氏が幕府への謀反を企てた。8月には伊勢国の北畠満雅が後亀山天皇の孫である小倉宮を奉じて、南朝復興の兵を挙げた。またこの年は前年から続く天候不順のため、作物の実りが悪く、飢饉がおこった。疫病の流行とあいまって、多くの人がその犠牲となったようだ。そのため深刻な社会不安が広がり、人々は「死の恐怖」におびえるという事態となった。そこへ追い打ちをかけるようにしておこったのが、正長の徳政一揆である。
正長の徳政一揆(土一揆)
正長の徳政一揆のおこりは1428年の8月、近江国の坂本の馬借たちが徳政を要求して騒動をおこしたことにあったとされている。徳政とは「債権・債務の破棄」、つまり「借金を帳消しする」ということだ。このときはまだ、それほど大きな騒動にはならなかった。ところが9月に入ると京都近郊の惣村で一揆が結ばれ、同じく徳政を要求して立ち上がった。以後、一揆勢はたびたび京都に乱入し、土倉や酒屋を襲い、貸借証文や質草を奪うという行為をくり返した。「大乗院日記目録」には、このときのありさまが次のように記されてる。
正長元年九月○日、一天下(いってんか)の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、雑物等、恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等悉(ことごと)くこれを破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基(もとい)、これに過ぐべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起是(こ)れ初めなり。
これを現代語訳すると次のようなものだ。
正長元年九月○日、天下の土民たちが一斉に蜂起し、「徳政」といって酒屋・土倉・寺院などの高利貸しを破壊し、質に入っている品物を勝手に取り出し、借金の証文を破り捨てた。管領の畠山満家がこれをしずめたが、およそこれ以上に亡国の原因となるものはない、日本が始まって以来、土民が一斉に蜂起したのは、これがはじめてである。
土民とは農民や都市の庶民のことである。土民がおこした一揆(土民一揆)なので、これを略して土一揆と言い、読みは「どいっき」となるという説がある。当時の史料には「つちいっき」と仮名書きで書いてあるものもあるそうだ。
土一揆には政治的な要求や関所の廃止などを求めておこったものもあるが、そのほとんどは徳政を要求しておこっているので、このような土一揆をとくに徳政一揆と呼ぶ。
正長の徳政一揆の結果は、「大乗院日記目録」には「管領の畠山満家が武力でもって一揆勢をおさえこんだ」と取れるような内容が記されているが、実際は少しちがっていたようだ。
当時の農村には、年貢の立て替えなどを通じて、土倉などの高利貸しが深く入りこんでいた。そのため徳政一揆はたちまち近畿地方とその周辺に広がり、各地で実力による債務破棄、つまり借金の帳消しや売却地の取り戻しなどが行われた。
このように幕府の命令によらず、民衆が実力で徳政を実行することを私徳政と言う。ちなみにこのとき幕府は徳政を発しなかった。1428年12月ごろになると、一揆勢は私徳政によって目的を達したのか、一揆は自然に沈静化したと考えられている。
柳生徳政碑文
柳生は江戸時代に将軍家剣術指南役となった柳生家の本拠があった土地として有名で、現在の奈良市柳生町である。当時の柳生のあたりは、神戸四箇郷(かんべよんかごう)とよばれ、春日大社の荘園だった。
正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス
27文字を疱瘡地蔵の岩の一部に農民たちが刻んだものが、柳生徳政碑文で、これを現代語として読むと、「正長元年より前は神戸四箇郷に負目(おいめ)あるべからず」となる。「負目」とはここでは借金の意味になり、この碑文は正長元年以前の負債、つまり借金をいっさいなしにする、という農民たちの宣言文であると考えることができる。この柳生徳政碑文は、徳政一揆の広がりとともに、私徳政の具体例として、よく引き合いに出される。
播磨の土一揆
翌1429年、正長の徳政一揆の影響を受けておこったとされているのが播磨の土一揆である。播磨とは現在の兵庫県南部にあたる。この一揆は徳政を要求したものではなく、播磨国の守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)の家臣を国外へ追放するという政治的な要求をかかげておこった。
播磨国の土民旧冬の京辺の如く蜂起し、国中の侍悉く攻むるの間、諸庄園代、加之守護方軍兵彼等の為に、或ひは命を失ひ、或ひは追ひ落とさる。一国の騒動希代の法なりと云々。凡そ土民、侍をして国中にあらしむべからざる所と云々。
これは播磨の土一揆について記した「薩戒記(さっかいき)」という史料の一部で、公家の中山定親(なかやまさだちか)の日記である。これを現代語訳しますとおおよそ次のような意味になる。
播磨国の土民たちが、去年の冬の京都と同じように蜂起し、国中の侍をことごとく攻めたので、荘園の代官や守護方の軍兵が、土民たちに殺されたり、追放されたりした。一国の騒動としては、世にもめずらしい例である。土民たちは「侍が播磨にいることを許さない」と主張しているそうである。
播磨の土一揆は1429年1月におこり、上のような状況となった。その後、京都にいた播磨の守護赤松満祐が兵を率いて出陣し、播磨の国内各地を転戦して一揆勢と戦い、2月頃にはその鎮圧に成功した。この播磨の土一揆は徳政ではなく、政治的要求をかかげておこった土一揆の例としてもっとも有名なものだ。
嘉吉の徳政一揆(土一揆)
1441年6月、6代将軍足利義教が赤松満祐によって暗殺された(嘉吉の乱)。その後、義教の遺児であった義勝が7代将軍となったが、播磨への逃亡に成功した赤松満祐の討伐のため、幕府の軍勢が京都を留守にしているその隙をついておこったのが嘉吉の徳政一揆である。1441年8月、またしても近江の坂本で、馬借が徳政を要求して蜂起する。これをきっかとして一揆勢はやがて数万の大軍にふくれあがったと言う。しかし、正長の徳政一揆のときとはちがい、一揆が諸国へは広がらず、京都が集中的に攻撃目標となった。
一揆勢は八月下旬には京都へおしよせ、「京の七つ口」とよばれた京都への通路をすべて封鎖し、京都と外部との連絡を絶った上で、連日のように市中へ乱入し、土倉・酒屋・寺院などを襲撃した。一揆勢は地侍の指導のもと、組織的な行動をとり、包囲された京都は糧道(りょうどう)を断たれ、市中の人々は飢えに苦しんだと言う。
幕府は当初、農民だけを対象とした、限定的な徳政令を出して、事態をおさめようと図った。しかし、一揆勢は、公家や武士もふくむ「一国平均」の徳政令を要求し、幕府の申し出を拒否した。これは公家や武士といった支配者層をまきこむことによって、その支持も得ようとする戦略だった。このような一揆勢の態度から考えても、この一揆は非常に組織的に行われた一揆であると言える。
一方、一揆勢の攻撃目標となった土倉や酒屋は恐怖した。幕府の軍勢は赤松満祐の討伐にために京都を留守にしていた。そこで土倉や酒屋たちは千貫文という大金を積んで、管領の細川持之に一揆の鎮圧を依頼した。持之はこの申し出を受け入れ、京都にいた守護たちに出兵を命令したが、命じられた守護たちは、「自分たちには一文も入らない」という理由で、持之の命令を拒否した。そして持之は、千貫文をしぶしぶ土倉や酒屋たちに返還したと言われる。
一揆勢の組織力や戦略に対し、何とも「おそまつ」な幕府側の対応だが、事態はますます混迷を深め、一揆勢は依然として猛威をふるい、京都は完全な「無警察状態」におちいってしまった。一揆勢が京都へ乱入してから、二週間あまりがたったころ、京都の辻々に幕府の高札がかかげられた。7代将軍足利義勝が、ついに一揆勢の要求を認め、山城国について「一国平均」の徳政令を発布したのである。正長の徳政一揆のときは出さなかった徳政令を、幕府がとうとう発布したのだ。幕府が一揆勢に敗れた瞬間だ。
徳政令の発布とともに一揆勢は急速にその姿を消し、京都は平穏を回復した。徳政令を発布したことにより、幕府の権威は大いに傷いた。正長の徳政一揆は「最初の大規模な一揆」という意味で重要だが、嘉吉の徳政一揆は「幕府に初めて徳政令を発布させた」という意味で、重要な一揆ということになる。
「代始めの徳政」
最初の大規模な一揆である正長の徳政一揆は足利義教が6代将軍になることが決まった年に、そして幕府に初めて徳政令を発布させた嘉吉の徳政一揆は足利義勝が7代将軍となった年に、それぞれおこっている。「おもしろい歴史の偶然だなぁ」と考えがちだが、これは決して偶然ではない。当時の社会には、天皇や将軍といった支配者が交代したときに、所有関係や貸借関係などのさまざまな社会的な関係が清算され、他人の手に渡ったものが元の持ち主へもどってくるという考え方があった。これを「代始めの徳政」と言う。1428年と1441年に徳政を要求する一揆がおこったのは、このような考え方の影響もあったのではないかと考えることができる。ちなみに1441年には将軍の代替わりだけでなく、天皇家でも称光天皇が亡くなり、後花園天皇が即位している。
分一銭の制度
嘉吉の徳政一揆の後も、土一揆は毎年のように徳政を要求して各地で発生した。一揆勢は私徳政を行うと同時に、幕府に対して徳政令の発布を要求し、幕府の方もやがて徳政令を乱発するようになっていった。しかし幕府は、土倉や酒屋から徴収する倉役や酒屋役を重要な財源としていたので、徳政令を乱発することによって土倉や酒屋が衰退してしまっては、自分で自分の首をしめることになる。
そこで幕府が考え出したのが分一銭の制度である。これは借金のある人が、その額の5分の1あるいは10分の1を幕府に手数料として納めれば、徳政令によって借金を帳消しにすることを認め、反対に土倉や酒屋が貸している額の5分の1あるいは10分の1を幕府に手数料として納めれば、土倉や酒屋が金を貸しているということを確認し、その件に関しては徳政令を適用しないというものだった。幕府にとってはどちらであっても手数料という形で収入が入るわけである。ちなみに分一銭とは手数料の意味だ。この制度は15世紀の後半以後、ほぼ普通に行われるようになった。このようにして出される徳政令のことをとくに分一徳政令と言う。
 
足利義政と日野富子

 

幼少の将軍
1441年、赤松満祐によって、6代将軍足利義教(あしかがよしのり)が暗殺されるというできごとがおこった(嘉吉の乱)。義教には二人の男子があった。跡継ぎには困らないはずなのだが、ここに大きな問題があった。長男は千也茶丸といい、1434年生まれ。次男は三春(三寅)といい、こちらの方は1436年生まれ。つまり、義教が没した時点で、長男は8歳、次男は6歳であった。ちなみに当時は、現在とはちがって「数え年」である、「数え年」とは、その人が生まれた年の12月までを1歳とし、以後は年が改まるたびに1歳を加えて年齢を表す方法である。
義教暗殺の翌年(1442年)、千也茶丸は9歳で元服し、7代将軍となった足利義勝である。この幼少の将軍義勝は、1443年、わずか10歳にして亡くなった。義勝の死の原因については、落馬説・暗殺説・病死説などがあるが、現在では赤痢による病死説が有力となっている。義勝の死後、将軍位は弟の三春(三寅)が継ぐこととなった。兄義勝の死の時点ではわずか8歳だった。そこで将軍位はしばらく空位とされ、1449年に14歳で元服し、正式に8代将軍となった。これが有名な足利義政である。
御今・烏丸・有馬
義政が10代のころ、その周辺の取巻きは母の日野重子であり、政所の長官であった伊勢貞親(いせさだちか)だった。日野重子は6代将軍義教の後妻となった人物だ。義教の死後、重子はまだ幼い義政を後見し、将軍の権威を守るために力をつくした。また伊勢貞親は、義政の養育係として側近く仕えていた人物である。もともと伊勢氏は3代将軍義満の時代から、将軍家跡継ぎの養育係をになってきた家柄だった。そのならわしに従って、義政も貞親夫妻によって養育された。
そのこともあって、義政は貞親を「御父」、その妻を「御母」とよんでいたと言う。通説によれば、まだ幼かった義政は、母の重子と「御父」の貞親によって、あたかも人形のように操られているうちに、いつしか政治に対する主体的な判断力を喪失したとされている。義政が成人の年齢に達し、精神的にも自立してしかるべき時期となったころ、義政の新たな側近となったのが、今参りの局(いままいりのつぼね)・烏丸資任(からすますけとう)・有馬持家の3人だった。
今参りの局とは固有名詞ではなく「新参の女官」という意味の普通名詞だ。彼女の本名も正確な年齢も不明だが、義政よりは10歳ほど年長であったと言われている。今参りの局は義政によって溺愛され、二人の間には女子も誕生している。烏丸資任は日野氏の一族で大納言、有馬持家は義政の近習という関係であったが、彼らに今参りの局を加えた3人は「幕政の三魔」とよばれた。「三魔」とは、「イマ・カラスマ・アリマ」からきた表現で、「政(まつりごと)は三魔(さんま)に出ずる也」という言葉が残されている。
三魔の中で、最もわがままな振る舞いがはなはだしかったのは今参りの局だった。雲泉大極(うんせんだいきょく)という禅僧は、その日記「碧山日録(へきざんにちろく)」の中で、当時の今参りの局の勢力の強さを次のように表現している。
室家の柄を司り、その気勢焔焔として近づくべからず。其の為す所殆ど大臣の執事のごとし
事実、今参りの局は、義政の寵愛をよいことに、大奥の実権を握り、守護職の人事などにも口をはさむほどであった。そのため母の重子やまだ年若い管領であった細川勝元らが今参りの局の追放を義政に強くせまった。ところが「今参りの局に首ったけ」の義政の寵愛は変わらず、当の局の方も「さすがにまずい」と思ったのか、一時はおとなしくなったが、二年後(1455年)に先ほどのべた義政の子を出産してからは、再び幕政に口を出すようになった。さて、今参りの局が義政の子を出産した1455年8月、義政は正夫人をむかえた。これが有名な日野富子である。ときに富子は16歳、夫の義政は20歳だった。
日野家
日野家の系図をさかのぼると、藤原内麻呂の子である真夏の名が出てくる。この真夏は、嵯峨天皇の側近として藤原北家の興隆のもとをつくった冬嗣の兄弟に当たる人物だ。つまり日野家は藤原北家につながる由緒ある家柄である。真夏の孫であった家宗が、山城国日野に法界寺を建立し、家宗の5世の孫であった資業の時代から、日野氏を称するようになった。日野家は代々、儒学と歌道によって朝廷に仕え、鎌倉時代の後半から天皇の側近として頭角を現すようになった。有名な日野資朝や俊基が活躍したのはこの時代のことである。室町時代に入ってからは、日野康子が足利義満の室となったのをはじめ、代々の将軍と縁を結び、しだいに幕府の中で権勢をふるうようになった。
富子対今参り
日野富子が16歳で義政の正夫人となると、将軍家の大奥は富子派と今参り派の二派に分かれて激しく争うようになった。富子が義政のもとへ嫁いでから4年後の正月早々、つまり富子が20歳になった年に、富子は義政が待望していた男子を出産する。義政にはすでに何人か子があったが、すべて女子だった。しかし、富子が生んだ待望の男子は、残念なことに生まれるとすぐに亡くなってしまう。普通であれば「悲嘆にくれる」しかない状況だが、何と富子は我が子の死を、今参り追い落としに利用した。
富子は生まれた子が死んだのは、今参りが「呪い」をかけたためであると義政に訴えた。そして義政はこの訴えを簡単に信じこんでしまったという。それまでの寵愛ぶりから考えると不思議な気もするが、やはり待望の男子の死は義政にとってもショックだったのだ。富子の訴えを聞いた義政は烈火のごとく怒り、今参りを琵琶湖に浮かぶ島のひとつである沖の島に流罪とすると宣言した。今参りの局は沖の島へ流されることなく、死を迎えてしまう。今参りが亡くなったのは沖の島への護送の途中、現在の滋賀県甲良町であった。
実は富子の命令で、護送途中の今参りに対し、刺客が放たれた。伝説によれば、この時、刺客に討たれることを潔しとしなかった今参りは、自殺して果てたとされている。しかもその自殺の方法は切腹であったという。普通、女性が自殺する場合は短刀で喉を突くというのが一般的だ。もしこの伝説が事実なら、今参りの局は日本で最初に切腹した女性ということになる。
大奥における富子と今参りの対立は、富子の勝利という形で決着がついた。しかしこれで「めでたし、めでたし」となったわけではない。当時の幕府は、有力な守護大名たちの内紛や関東統治の問題など、解決すべき課題は山積みの状態だった。そしてこの状態に追い打ちをかけたのが「異常気象」という自然現象だった。
寛正の大飢饉
11459年は、不思議な太陽が空に現れて人々を驚かせた年であったと伝えられている。たとえば6月と7月には空に二つの太陽が出たといわれ、8月には太陽が急に赤銅色に変わったと言う。この年は太陽だけでなく、気候も異常だった。5月から8月にかけ、雨がほとんど降らなかったと思うと、9月からは連日のように雨が続き、京都の賀茂川は50年来とよばれた大洪水を起こした。そしてこの「異常気象」は翌年も、さらにその翌年も続いた。そして3年続きの大飢饉をもたらす結果となった。この飢饉を当時の年号にちなんで寛正の大飢饉と言う。
京都もこの飢饉と無縁ではなかった。全国の飢えた人々が「都へ行けば何とかなる」と考え、多くの人々が京都へ流入した。しかし、もちろんそんなことはなく、京都では飢饉と疫病のため、まさに「地獄絵図」の状態におちいっていた。当時の記録によれば、京都では1460年の冬から翌年の春までに餓死した者は「毎日五百人、あるいは三百人、あるいは六、七百人」とある。1461年の春には賀茂川の河原には死体が山積し、まるで石を積み重ねたような状態であったと言う。
死者を埋葬する余裕もないので人々が争って死体を川へ捨て、そのために川の流れがせき止められて、京都の市中は死体の腐臭に満ちあふれるという悲惨な状態であったと伝えられる。ここで有名なエピソードをご紹介する。
京都の市中が前述のような惨状に陥ったことに心を痛めたある僧が、せめてもの供養にと小さな木片で8万4千の卒塔婆をつくり、死体の上にいちいち置いて歩いたそうだ。そして記録によれば、すべての死体に卒塔婆を置き終わったあと、残ったのはわずかに2千であったと言う。
大飢饉の中の土木工事
寛正の大飢饉で人々が飢えに苦しんでいた時、義政は室町の邸をつくりかえることに熱中していた。祖父の義満がつくった「花の御所」に負けないものをつくりたいと考えたのである。義政は京都中の寺社や貴族の邸宅から名木や庭石をとりよせ、室内の調度品においても最高の材料を用い、一流の絵師や職人を招いて、まさに大豪邸の建築に熱中していた。
飢饉に対して義政が何の手段も講じなかったわけではない。願阿弥(がんあみ)という時宗の信者が私財を投じて粥を用意し、飢えに苦しむ人々を救っていた人物に銭を与えて援助したという記録がある。しかし、それ以外では京五山の禅寺に命じて死者の冥福を祈らせた程度であったという。つまり、何ら実効性のある処置はとらなかったのだ。将軍としてなすべきことは何もしなかったと言われても仕方がないようなありさまだった。
それどころか、この飢饉の最中に義政は、豪邸をつくるための費用をすべて民衆から税として取り立てたと言う。さらには死者であふれかえる中を行列を組んで物見遊山へ出かけることも何度かあったそうだ。その他には能の興行を行ったり、自分の欲しい絵画や陶器・磁器などのコレクションに熱中していたと伝えられる。
満城の紅緑誰がために肥ゆる
飢饉で人々が苦しんでいる最中であるにもかかわらず、救いの手を差し伸べようともせず、自分の趣味・嗜好に熱中するばかりの義政だった。あまりのことに時の後花園天皇は、義政を諫める漢詩をつくり、送ったと言われる。
残民争採首陽薇 処々閉炉鎖竹扉
詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥
意味はおおよそ次のようになる。飢えに苦しむ人々は争って首陽山のわらびを取っている。どの家のかまども火が消え、扉を閉ざしてしまっている。本来心がはずみ、詩心がわく春であるはずなのに何と不幸なことか。花や木はいったい誰のために輝いているのか。
少し説明すると、首陽山とは古代中国で周の武王が殷の紂王を討った際に、この武王のふるまいに抗議した伯夷・叔斉という人物がこもった山である。二人は山のわらびだけを食べ、餓死した。武王(の悪政)への抗議の餓死だったわけだ。後花園天皇はこの故事になぞられて、「お前の悪政のために人々が餓死している、それでいいのか」と義政を諫めようとしたのだ。しかし、そんな後花園天皇の心も義政には届かなかった。
 
足利義政と東山文化

 

「恐妻家」義政
1473年12月、将軍位をわずか9歳の足利義尚にゆずった義政は、妻子を室町第に残し、新しくつくらせていた小河の新邸に移り住んだ(1474年3月)。本来であれば、まだ幼い将軍の後見をして当然だ。しかも応仁の乱はまだ終わっていないから、義政のとった行動は、無責任きわまりないものだ。さらにその2年後の1476年2月、失火のために室町第が炎上した。そのため、後土御門天皇と義尚・妻の日野富子が小河邸へ避難した。すると義政は、小河邸を出て、聖護院の山荘へ移ってしまった。
この義政のふるまいを外から見れば、誰でも「妻子と一緒に暮らすのが嫌なのだな」と分かる。義政と富子の仲は、修復が不可能なぐらいこじれていた。この義政のふるまいに、後土御門天皇も使者を送って、帰宅するようたしなめたそうだ。このときばかりはさすがの義政も邸にもどったという、それにしても、富子も嫌われたものだ。
日野富子は、「日本史上最大の悪妻」「最も金に汚い女」などというレッテルがはられている。富子は蓄財に大いにはげんみ、有名なところでは、京都七口に新しい関所を設けて通行税をとり、それを自分の懐に入れていたという話がある。ため込んだお金で米の投機を行い、さらに大もうけをしたと言う。応仁の乱では戦費に困った守護大名たちに、高利で金を貸し付けた。驚くべきことに、味方の東軍ばかりでなく、敵であるはずの西軍の大名にも貸し付けを行ったと言う。
尋尊(じんそん)の日記に、次のような記述がある。
天下は富子の思うがまま、天下の富が富子のもとに集まっている。戦費に困っている大名は、高い金利を払って、富子から金を借りている。天下の金はすべて富子のもとへ集まっているのではないか。最近は投機にも手を出しているらしい。聞くところによれば、畠山義就も先日、一千貫文借りたらしい。
夫婦仲がこじれてしまったのは、富子に義政が愛想をつかしたからなのか、反対に将軍としてはまことに頼りない義政に富子が愛想をつかして蓄財へと走ったのか、そのあたりは知るよしはないが、事実として義政は、「静かなところで、落ち着いて暮らしたい。」「自分の好きなことだけをして、日々を過ごしたい。」という欲望を持っていたことは確かなようだ。
東山山荘の造営
「自分の心のままに余生を送りたい。それにふさわしい、静かな邸が欲しい。」という義政の欲望はかなり強いものであったようだ。1482年、義政は東山にあった浄土寺を手に入れ、ここに山荘をつくる工事を開始した。実は、義政が山荘をつくろうとしたのは、このときが初めてではない。将軍となって20年あまりたったとき、義政が30歳のころ(1466年)に一度準備したが、翌年に応仁の乱が始まったことで、計画は中止された。この頃は、義政にはまだ将軍としての権威があり、全国の守護へ命令をくだすこともできた。
1482年現在、すでに将軍の権威は地に落ち、山荘の造営は思うようには進まなくなっていた。例えば義政は、膨大な費用を諸国の守護大名に負担させようとした。しかし、祖父である義満が、北山第を造営したときのように喜んで負担に応じ、先を争うように手伝いに集まるという状態にはなかった。むしろ、造営費用の集まりは悪く、そのために山荘の造営は長引いた。
表だって、費用負担への不満を口にする者まで現れるという有様だった。不足する費用を補うため、義政は幕府のお膝元である山城国に臨時の税を割り当てるが、農民たちの不満を高めるだけだった。中には「一銭の金も出すことはない。」といって、臨時の税をはっきりと断った村まであった。造営にはたいへん苦労したが、着工した翌年の1483年、常御所(つねのごしょ)が完成し、義政はここに移り住んだ。1486年には持仏堂である東求堂(とうぐどう)が完成し、1489年には観音殿も完成した。ちなみに持仏堂とは、守り本尊を安置するためのお堂。観音殿は2層の楼閣で、上層は禅宗様で潮音閣とよばれ、下層は書院造で心空殿とよばれた。上層に観音像を安置したので、この建物を観音殿というが、祖父義満の金閣にならって、銀箔をはる計画があったとされ、この建物を銀閣と呼ぶ。ちなみに銀箔ははられていない。
書院造
銀閣は金閣に比べ、「華やかさ」という部分では見劣りする。しかし、錦鏡池のほとりに建つ銀閣は、しっとりと落ち着いた趣のある建物である。東求堂は、持仏堂としてつくられたが、建物の中では同仁斎(どうじんさい)という部屋がたいへんに有名だ。同仁斎は書院とよばれることもある。書院とはもともと、硯・筆・書物などを飾っておく書物棚のことだ。やがて、この書物棚や明書院(あかりしょいん)などがある部屋のことを書院というようになった。ちなみに明書院とは、机のような板をしき、その前に明かりをとるための障子を立てたものである。
部屋としての書院は、書物を読んだり、文字を書いたりするなど、一言で言えば学問をするための部屋だ。現代風に言えば書斎である。やがて、邸の主人は、学問をするだけでなく、客をもてなす応接間としても書院を使うようになった。やがて、書院を中心にした邸がつくられるようにもなり、これを書院造と呼ぶようになった。書院造では、建物の正面に玄関があり、部屋にはすべて畳が敷きつめられている。また、天井がはられ、部屋と部屋は襖や障子で仕切られている。部屋には床の間がつくられ、掛け軸がかけられたり、生け花が飾られたりするようになっていった。
この書院造の形式が、和風建築とよばれるものの元になっている。東求堂は、この書院造のおこりとなった建物として有名である。
同朋衆
東山山荘に集まって、義政の側近くに仕え、その信頼を得ていたのは、相阿弥(そうあみ)、善阿弥(ぜんあみ)など、同朋衆と呼ばれた。名前に「阿弥」がつくのは、時宗の僧侶であったことの名残であると言われている。彼らのもともとの仕事は、戦に従軍し、死者を弔うことだった。やがて彼らは、戦いの合間に、武士たちを慰めるため、茶の湯や連歌の会などを催すようになり、それぞれの芸に秀でるようになっていった。相阿弥は、唐物奉行と呼ばれ、中国から伝わった絵画・茶碗・硯などの目利きであった。善阿弥は、河原者として差別を受けるような身分であったのに、義政の命を受け、東山山荘の作庭に、すぐれた才能を示した。
相阿弥や善阿弥の他にも、東山山荘には、生け花・連歌・能・狂言など、さまざまな芸に秀でた芸術家が多く集まってきた。義政は彼らとともに芸術を語り、自然を楽しんだのだ。東山山荘を中心に、義政好みの文化が栄え、東山文化と呼ぶ。この東山文化は、現代の生活や文化の中に生き続けている。あるいは、現代の伝統文化の多くが、この時代に生まれたものだと言ってもよい 。
水墨画
水墨画は、義政の時代に始まったものではない。それ以前に、禅宗の広まりとともに、宋や元から伝えられ、禅宗の寺院を中心に発達してきた。水墨画とは、墨一色を用い、その濃淡だけで、自然の様子を象徴的に描き出す絵画である。禅の心とも通じるものであると、考えられた。京都の相国寺の如拙やその弟子の周文は、水墨画の名手として知られていた。
水墨画は、書院造の建物が広まるにつれ、一層盛んになった。襖や床の間に飾る掛け軸などに描く絵画として、欠かせないものとなった。
義政の時代の水墨画家としては、相国寺で周文の教えを受けた雪舟が特に有名だ。雪舟は、1420年備中国に武士の子として生まれた。その後、寺で修行をすることになった。雪舟に有名なエピソードがある。
寺で修行を始めた雪舟は、絵が好きで、僧としての修行をおろそかにしがちだった。そこで、おこった和尚は、雪舟をこらしめてやろうと、雪舟を柱にしばりつけてた。やがて、「もう許してやろう」と和尚が雪舟のところへ行ってみると、どうでしょう。雪舟の足もとにネズミがちょろちょろしていた。和尚はびっくりしたが、これは雪舟が涙で描いた絵だった。
雪舟は、やがて京都画壇の画風にあきたらなくなり、明に渡って水墨画の修行をした。帰国してからは、山口を中心に、北は山形の立石寺にまで足を伸ばすなど、全国を放浪しながら、多くの作品を描いた。「山水長巻」「天橋立図」は雪舟の代表作として有名だ。
枯山水
一滴の水も使ず、石組みだけで大自然を表そうとする枯山水も禅の心と通ずるものとされ、さかんにつくられた。枯山水で最も有名なのは、細川勝元の発願とされている京都は竜安寺の石庭だ。竜安寺の石庭は、15の石を配してつくられている。「虎の子渡し」と呼ばれ、海を渡る虎を表したものであると説明されている。しかし石庭を虎の子と見るか、大海原のような広く豊かな情景を思い浮かべて心が洗われるような気持ちになるか、あるいは俗世から遠く離れた清浄の地に立つ思いになるかは、見る人にまかされている。このように見る人によって自由に解釈できる石庭(枯山水)は、禅の心と通じるものがある感じられる。
能と狂言
能と狂言の歴史は、奈良・平安時代に行われていた田楽や猿楽にさかのぼることができると言われている。室町時代の初め頃までは、身分の低い者が行うものであるとして、公家や僧からは馬鹿にされていたようだ。なぜなら、田楽は、田植えの頃に豊作を祈って行われる田遊びから始まったもの、猿楽は、奇術・曲芸・舞など、村や町の庶民の間に広がった芸能だったからだ。
観阿弥・世阿弥父子が登場して以降、義満の保護を受けたこともあって、能は上流階級の人々にももてはやされるようになった。特に、能の大成者として知られる世阿弥は、能の台本である謡曲を多くつくり上げ、さらに能(芸能)に対する意見や考えをまとめた「風姿花伝(ふうしかでん)」を著したことで有名だ。「初心忘るべからず」は、「風姿花伝」にある言葉だ。
義満の時代以降、能が上流階級にも広がっていったが、能がたいへんおごそかな雰囲気の中で演じられるのに対して、能の合間には、こっけいさを主にした狂言が演じられるようになった。狂言は、庶民の日常生活を舞台に、武士や僧の暮らしや考え方を皮肉った内容のものが多く、多くの人々に指示された。
茶の湯と生け花
茶を飲む習わしが始まったのは、奈良時代からであると言われている。その頃は、眠気をさますため、また、薬として用いられていたようだ。室町時代になると、闘茶(とうちゃ)と呼ばれる遊びが行われるようになった。これは、一座に会した人々が、数種類の茶を飲んで、その産地を当て合うというものでした。書院造の広まりが、この闘茶にも変化を与えた。書院の間に集まり、床の間や違い棚に飾られた水墨画や器などを鑑賞しながら茶を楽しむということが多くなっていったのだ。
大和国の禅僧であった村田珠光(むらたじゅこう)は、きらびやかな飾りを一切なくし、簡素な四畳半の茶室で静かに茶を味わう侘茶(わびちゃ)を提唱した。水墨画や作庭に見られたような禅の心が、茶の世界にも禅の心が取り入れられたのだ。侘茶は、義政が好んだこともあって、しだい広まっていった。後の時代になって、千利休によって、茶道として大成されることとなる。
生け花も、書院造や茶の湯の広まりとともに、その形式を整えていった。花を飾るという行為自体は、おそらくかなり古くから行われていたと想像される。初めの頃は、仏殿や大広間などに、大がかりに生けられたようだが、それが書院の間や床の間などに、自然の美しさを生かしながら生けられるようになり、さらに茶室のしつらえに合わせて、生け方がいっそう工夫されるようになっていった。
連歌
連歌とは、幾人かで寄り集まって、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を交互に読み連ねていく文芸である。どのくらいの長さかというと、50句とか、100句といった長さになる。連歌の最初の句(五・七・五)を発句(ほっく)というが、この発句だけを独立させたものが俳諧、すなわち俳句である。50句・100句と連なった連歌の最後の句(七・七)を挙句と言う。この挙句から、「あげく」という言葉が生まれた。「あげく」は、「いろいろな事をした最後に行き着いた(好ましくない)結果」という意味だ。
連歌はもとは公家たちの間で行われていたものだが、室町時代になると武士や庶民の間にも広がり、人々の大きな楽しみのひとつとなった。連歌を楽しむためには、多くの人が集まる必要があり、連歌の会は人々の社交の場でもあった。そして連歌の会は、一揆の相談の場になるという可能性もあるた。幕府は、たびたび連歌の会の禁止令を出しているが、理由はここにあったようだ。
連歌を大成した人物は宗祇(そうぎ)である。宗祇は若いときに出家し、和歌を飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に、歌学を東常縁(とうつねより)に、連歌を宗砌(そうぜい)などに学んだ。連歌が興隆したことについて、宗祇の力が特に大きかったのは、彼が公家や武家のへだてなく、連歌の会に出席し、連歌を広めたことにある。また宗祇は、全国を旅して歩き、地方の大名や大商人、豪農にも連歌を伝えた。
御伽草子
室町時代、庶民の力が強くなるにつれ、庶民を主人公とした物語がたくさんつくられるようになった。現在、私達がよく知る「一寸法師」や「桃太郎」などの「おとぎばなし」の原型となったものだ。室町時代に生まれたこれらの物語は、御伽草子とよばれ、絵巻物や絵本の形で伝えられた。御伽草子のお話は、どれも民間伝承をもとにつくられたもので、作者は不明だ。また、何らかの教訓を含む場合が多いのも特徴のひとつだ。江戸時代になって、大坂の商人によってまとめられた御伽草子は、「御伽文庫」と名付けられて刊行された。いずれも短編で、その総数は300余り。民衆の文化を知る上で、重要な史料となっている。

義政が東山山荘で過ごした年月は8年余りだった。9代将軍である我が子義尚が死んだ2年後の1490年、義政は病死した(55歳)。
 
京都の建物

 

寝殿造
平安貴族の暮らしをイメージするとき、その生活の舞台として一緒に思い浮かぶのが寝殿造(しんでんづくり)の邸宅です。寝殿造とは、平安時代に京都で成立した貴族住宅の様式をいい、江戸時代の和学者沢田名垂(さわだなたり、1775-1845)が著述した日本住宅史の概説書「家屋雑考」(かおくざっこう)によって名付けられたものです。
寝殿造の邸宅では、周囲に土塀をめぐらした敷地内に正殿として寝殿を建て、その南に面した中庭を取り囲むように、南向きのコの字形に建物が配されていました。
こうした建物の配置をはじめとする寝殿造の様式は、中国古来の都市住宅の建築や、いち早くそれを取り入れていた日本の内裏の建築方式にならったものといわれ、10世紀頃にほぼ完成したとされています。
居住と儀礼の空間 寝殿(しんでん)・対(たい)・南庭(なんてい)
寝殿造では、庭の周囲に並べられた建物によって、外塀の内側にもう一つの囲いがつくられました。このような二重の空間構造は、寝殿造の大きな特徴の一つです。
内側の囲いが邸宅の中核部分になります。その最も重要な建物が寝殿(しんでん)と対(たい)です。寝殿は南に面して建てられ、対は寝殿の東西や北などに配置されました。これらは渡殿(わたどの)と透渡殿(すきわたどの)という2つの細長い建物でつながれます。
寝殿造は本来、左右対称を理想としたようですが、ほとんどは片方の対が縮小・省略される傾向にあったようです。寝殿造では東西いずれかの外門を正門とし、反対側の門・建物はそれほど重要ではなかったため、こうした変化が進んだと考えられます。また必要に応じて東北・西北の位置にも対が築かれました。
寝殿や対は、主人や家族の居所となったほか、平安貴族の生活と深くかかわっていた儀礼や行事の舞台にもなりました。寝殿の前面に整えられた南庭(なんてい)も、現代のような観賞用ではなく、寝殿と並ぶ儀式の場としてつくられた空間(ハレの場)なのです。対は寝殿の北にも築かれましたが、こちらはさらにプライベートな空間(ケの場)という意味が強かったようです。北対など北側の空間は主人の妻の居所にもなり、そこから「北の方」「北政所」(きたのまんどころ)などの語が妻の別称となったともいわれます。
また庭に大きな池がある場合には、中島や橋が設けられ、遊宴の際には池に舟を浮かべて詩歌管弦などに興じました。その水は主に北方から引かれ、寝殿の脇、つまり渡殿の下を通して池に流されていました。これを遣水(やりみず)といいます。
内と外の境界─中門廊(ちゅうもんろう)・中門(ちゅうもん)
寝殿と渡殿で連結された東西の対からは、さらに中門廊(ちゅうもんろう)と呼ばれる細長い建物が南に向かって延びていました。廊の南端は池に臨み、池に面して納涼や観月、雪見などに利用される釣殿(つりどの、泉殿<いずみどの>)という建物がつくられました。
この中門廊には、その名の通り中門(ちゅうもん)が設けられており、儀礼の場となった南庭や寝殿・対などに入る玄関としての意味を持ちました。つまり来客者は、東西の外門から入った後、もう一度中門廊・中門を通ってから、対・寝殿あるいは南庭へと向かったわけです。寝殿造邸宅の二重構造は、中門と中門廊によって内外に区別されていたことになります。
出入りと事務方の空間 車宿(くるまやどり)・随身所(ずいじんどころ)・侍廊(さむらいろう)
中門から内側が居住や儀式に使われていたのに対し、外周部となる中門から外門の間は、外への出入りや家の事務にかかわる空間として利用されていました。
たとえば中門の附近には、牛車を置いておく車宿(くるまやどり)や、主人の警護や行列への随行を職務とした随身(ずいじん)が詰める随身所(ずいじんどころ)などがありました。現代になぞらえると、車を置くガレージとガードマンの詰める警備所といったところでしょうか。
また家内の事務を任された家人が詰めた侍所(さむらいどころ)が置かれていた侍廊(さむらいどころ)も、同じくこの空間にありました。
さらにこうした諸施設のほか、邸宅の北側にあたる空間には倉や雑舎(ぞうしゃ)など雑多な建物が置かれていたようです。
寝殿・対の内部構造と「室礼」(しつらい)
一方、寝殿造の建物そのものに目を向けると、その主要殿舎であった寝殿や対は、桧皮葺(ひわだぶき)・入母屋造(いりもやづくり)で、母屋(もや)の周囲には屋根とその下の床がめぐらされていました。これを庇(ひさし)といい、さらに庇の周囲に孫庇(まごびさし)が付け足されることもありました。
また母屋には塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる壁で囲まれた部屋もつくられましたが、それ以外に間仕切りは存在せず、屏風・御簾(みす)・几帳(きちょう)などの調度品を適当に置いて広い空間を仕切りました。また板敷の床には、座る場所にのみ畳や筵(むしろ)などの座具を敷き、そのほか用途にしたがって家具調度が配置されていました。
こうした寝殿造建築の開放性や柔軟性は、さまざまな儀式に応じて空間の広さや調度・座具の配置などを頻繁に変更する必要があったためと考えられます。調度で室内を区切り飾り付けて設営することを「室礼」(しつらい)といいます。
書院造
以上のような寝殿造の様式は鎌倉時代以降も受け継がれ、社会の移り変わりや日常生活の変化に対応しながら発展していきました。そうした流れのなか、室町時代後期から江戸時代初期にかけて書院造(しょいんづくり)が成立していくことになります。
書院は本来、禅僧の住房の居間兼書斎の名称でしたが、やがて床の間(とこのま)・違棚(ちがいだな)・付書院(つけしょいん)など座敷飾(ざしきかざり)と呼ばれる設備を備えた座敷や建物を広く呼ぶようになったものです。この書院を中心に構成された住宅の様式を書院造といい、格式を重んじ、対面・接客の機能を重視してつくられていました。
今日でも、和風住宅といえばすぐに床の間や畳敷きの和室が思い出されるように、書院造によって生み出されたさまざまな様式は、現代にいたるまで受け継がれています。
書院造は大きく分けて「表向き」と「奥向き」から構成されていましたが、特にそれらの中心となったのが、対面や接客のために使用された書院(広間・対面所とも)です。
表には公的な対面・接客のための書院をはじめ、出入り口には寝殿造邸宅の中門・中門廊にあたる玄関、武士の出入りや詰め所となった遠侍(とおざむらい)や控えの間、また来客に送迎の挨拶をするための式台(しきだい、色代)などが設けられました。
一方、奥には日常的な政務・対面の場となった御座の間(ぎょざのま)や居間・寝室となった御寝の間(ぎょしんのま)などに使用された書院のほか、台所など勝手回りの場も奥にありました。
このように用途や場所の異なる複数の書院を備えた邸宅や寺院では、それぞれの書院を、大書院・小書院、黒書院・白書院、また表書院などと区別して呼ぶこともありました。
近世初期の書院造の典型とされる二条城二の丸御殿の場合、建物は雁行形に配置されて、表向きには遠侍や式台、公的な対面所の大広間があり、奥向きには私的な対面所の黒書院や御座の間となった白書院が設けられています。
書院造では、書院に限らず、以上のような部屋や建物は、それぞれ特定の使用目的を持っていました。寝殿造では寝殿・対が居住と儀式の空間を兼ねたことを考えれば、このことは書院造の大きな特徴の一つといえます。
さらに書院造建築の内部でも、寝殿造とは違って母屋と庇(ひさし)の区別は失われ、また襖・障子など間仕切りの発達によって屋内は細分化されており、各部屋の用途がそれぞれ定められていました。また、床には畳が敷き詰められました。
書院造で最も重要な場といえる書院には、庭に面した複数の部屋が用いられており、主人の座が置かれた主室は上段につくられ、さらに上々段が設けられることもありました。
また主室の背後には、主人の座を荘厳なものにするため、書画の掛軸や生花・置物などを飾る床の間(とこのま)や、上下2段の棚板を左右食い違いに吊した違棚(ちがいだな)、縁側に張り出した机や飾り棚の付書院(つけしょいん)などの座敷飾(ざしきかざり)が集中して備えられていました。
こうした書院の構造や意匠も、対面・接客儀礼を目的に、主客の身分格差を空間的に表現するためのものといえます。  
内裏(だいり)と大内裏(だいだいり)
内裏とは、天皇が住み、儀式や執務などを行う宮殿のことで、禁中・禁裏・御所などともいいます。平安宮内裏は延暦年間(782-806)に造営されました。内裏の周囲には朝堂院(ちょうどういん)・豊楽院(ぶらくいん)や二官八省をはじめとした官庁が並び、諸官庁のまわりは大垣(築地)で囲まれていました。その囲まれた区域を大内裏あるいは平安宮と呼んでいます。
大内裏という呼び方は、六国史(りっこくし、勅撰の6つの国史)などには見えず、12世紀頃の記録から使われはじめます。ちなみに、それまでは大内裏を指す言葉としては「大内」(おおうち)という語がよく使われていました。
大内裏の四面には合せて14の門が設けられ、南面中央の朱雀門(すざくもん)を入ると朝堂院(ちょうどういん)がありました。朝堂院の北東には内裏があり、内裏の西には「宴の松原」(えんのまうばら)という空閑地が広がっていました。
朝堂院は大内裏の中心に位置し、天皇の即位式や外国使節の謁見など国家的行事のなされる場でした。その中心となる御殿(正殿<せいでん>)が大極殿(だいこくでん)です。朝堂院の西にある豊楽院(ぶらくいん)は、国家的行事に伴う宴会の場で、その正殿が豊楽殿です。平安宮大内裏建設において、大極殿は延暦15(796)年にでき、豊楽殿は遅れて同19年に完成しています。
大内裏の諸殿舎は、火災や大風などでたびたび被害を受け、その都度復興されましたが、11世紀になって天皇が大内裏外の里内裏(さとだいり)に常住するようになると、維持がむずかしくなり、豊楽院は康平6(1063)年焼失後、朝堂院は治承元(1177)年焼失後、ともに再建されることはありませんでした。
大内裏内外の諸官庁も平安時代後期頃から廃絶するものが増え、13世紀になるとほとんど殿舎を失い、大内裏の跡地はいつしか内野(うちの)と呼ばれる荒れ野になりました。
内裏は、その正殿を紫宸殿(ししんでん)と呼び、北に仁寿殿(じじゅうでん)・承香殿(じょうきょうでん)・常寧殿(じょうねいでん)・貞観殿(じょうがんでん)と並び、西に天皇の日常の居所である清涼殿(せいりょうでん)がありました。この他にもたくさんの殿舎があり、それらは廊下によって結ばれていました。
平安宮内裏は、14回もの焼失・再建を繰り返しましたが、嘉禄3(1227)年4月再建途中に焼けたのを最後として、宮城内の内裏は廃絶しました。
内裏火災の度に、天皇は京内の藤原氏の邸宅などに移り住み、そこを里内裏と呼びました。11世紀半ばから天皇は堀河院・一条院・枇杷殿(びわどの)・京極殿・東三条殿などの里内裏に常住することが多くなり、里内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を光厳天皇(こうごんてんのう)が居所と定めてからは、北朝の主たる皇居として定着、明徳3(1392)年、後小松天皇の在位時に南朝より三種神器が渡され、南北朝が合一されると、以後、他所へ移ることなく、この場所が皇居と定まりました。
京都御所の変遷
現在の京都御所は土御門東洞院内裏の後身にあたり、元弘元(1331)年の光厳天皇即位時には、紫宸殿と清涼殿を兼用するような小規模な里内裏でした。その後、何度も焼失を繰り返し、そのたびに織田信長や豊臣秀吉など時の権力者によって再建が行われました。
天明8(1788)年に天明大火で焼失した際、幕府は老中松平定信(まつだいらさだのぶ、1758-1829)に命じて内裏造営にあたらせました。寛政2(1790)年、定信は裏松固禅(うらまつこぜん、1736-1804)の「大内裏図考証」(だいだいりずこうしょう)に従い、承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の形式で復元再興しています。安政元(1854)年にも焼失しますが、翌年には寛政時と同規模で再建されました。
内裏敷地は、江戸初期の慶長造営時に東に拡大して、その後何回かの拡張を経て、現在は東西で254m、南北で453mとなり、中世の土御門東洞院内裏の数倍の広さになっています。御所の東南には別に築地をめぐらした仙洞(せんとう)・大宮御所があります。
江戸時代まで御所を取り囲むように、有栖川宮などの宮家や、近衛・九条・一条などの公家の邸宅などが並んでいましたが、明治2(1869)年の東京遷都以後は、広大な京都御苑(後の国民公園)となりました。  
金閣寺
金閣寺は正式には北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)といい、臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)に属する寺院で、北区金閣寺町に所在します。
本来は、寺の中心部にある金箔張りの三層楼閣(釈迦の骨を祀る舎利殿<しゃりでん>)を指して金閣といいますが、この建物が大変印象深く有名であるため、現在では寺全体が金閣寺と呼ばれて一般に親しまれるようになりました。
金閣寺の建つこの地は、鎌倉時代には、幕府とも親しい有力公卿西園寺公経(さいおんじきんつね、1171-1244の御願寺(ごがんじ)西園寺の堂舎群と山荘北山第(きたやまてい)がありました。
その後、応永4(1397)年になり、室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)がこの地を譲り受けました。義満は西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに、自身や夫人らの御所北山殿(きたやまどの)を造営し、翌5年にこの地へ移りました。そして義満はこの地を政治・外交の中心とするとともに、北山文化をも花開かせたのです。
やがて応永15(1408)年5月に義満が没した後も、義満の室日野康子(ひのやすこ、北山院、1369-1419)はこの地に住み続けました。しかし彼女が同26年11月に死去すると、翌月には北山殿の一部が解体され、南禅寺・建仁寺・等持寺(とうじじ、中京区柳馬場通二条下る周辺にあった足利家菩提寺)などに移築・寄進されました。
一方、遅くとも応永29(1422)年までに、義満の長男四代将軍足利義持(1386-1428)は、禅僧夢窓疎石(むそうそせき)を名目上の開山として招き、義満の法号鹿苑寺殿を寺号にとって、北山殿の舎利殿(金閣)を中心に禅寺としました。
その後も歴代の足利将軍は護持に尽力し、しばしば参詣を行っています。この頃には舎利殿(金閣)の他、仏殿・不動堂・泉殿などがあったようですが、応仁・文明の乱(1467-77)が起こると当寺は西軍の陣所となり、金閣を除く多くの殿舎が焼失して荒廃を余儀なくされました。
近世以降の金閣寺
しかしその後、江戸時代末までに、金閣寺は住持僧などの努力によって不動堂・茶室夕佳亭(せっかてい)・方丈・大書院・小書院・鐘楼・鎮守・庫裏(くり)・唐門などが再建・建立され、現在、私達が見ることのできる堂舎群が整えられました。
江戸初期の鹿苑寺住持鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が記した「隔記」(かくめいき)は、この頃の寺内のみならず文化のありさまなども知ることのできる貴重な史料で、寛永12年(1635)8月から寛文8(1668)年6月までの記事が現存しています。
明治のはじめ、夕佳亭とその裏にあった拱北楼(義満が政務を執ったと伝える建物)が焼失しましたが、後に再建されました。「大工頭中井家文書」の中には、江戸時代中・後期の夕佳亭の起し絵図が残されています。起し絵図とは、設計図を切り抜いて組み立てた立体的な建築図面です。
金閣は明治36(1903)年から解体修理が行われ、後には国宝にも指定されましたが、昭和25年、放火によって焼失してしまいます。金閣の放火焼失事件は三島由紀夫の「金閣寺」(昭和31年)、水上勉の「金閣炎上」(昭和54年)といった小説の題材としても取り上げられました。しかしその後、同30年には復元・再建され、これが現在の金閣になります。
ちなみに現在、当寺の周辺地域には大北山不動山町・衣笠馬場町・衣笠西馬場町・衣笠総門町・衣笠東御所ノ内町・衣笠御所ノ内町・衣笠西御所ノ内町といった名を持つ町があります。創建当初の北山殿は、東は紙屋川、北は衣笠山、南は現在の衣笠総門町周辺を境界としていたといわれ、現在の町の名やその範囲からも、かつての寺域の規模を窺うことができます。
鳳凰
足利義満が北山殿に建てた三層楼閣の舎利殿で、寺の中心にある鏡湖池(きょうこち)の畔にあります。屋根はこけら葺きで、二層・三層部分は漆の上に金箔が貼られ、屋根には鳳凰が飾られています。
応永5(1398)年の創建当初、この建物は舎利殿・重々殿閣・三重殿閣などと呼ばれていましたが、文明16(1484)年、はじめて「金閣」の名が見えるようになります。
一層は法水院(ほうすいいん、鏡堂)と呼ばれ、西側には船着場と池に突き出した漱清(そうせい、釣殿<つりどの>)を持つ寝殿造の阿弥陀堂です。また二層は潮音洞(ちょうおんどう)と呼ばれる書院造の観音堂、さらに三層は究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれる禅宗様(唐様)の仏間、という形式を持ち、住宅と仏堂の様式を併用・統合した建物になっています。創建当初、二層には足利義満筆の「潮音洞」、三層には後小松天皇筆の「究竟頂」の額がかけられました。
この金閣は、北山殿創建以来から残っていた唯一の建物でしたが、昭和25年7月2日に焼失してしまい、同30年に再建されました。その後、同62年秋にも漆や金箔が修理され、現在では創建当初を想起させる、まばゆいばかりの装いに一新されました。平成15年春にも、金箔のはり替えなどが行われています。
鳳凰と後小松天皇筆「究竟頂」の額については、昭和25年の焼失時には金閣から取り外され保存されていたため、難を免れました。
庭園
義満が西園寺北山第から受け継いだ景観をもとに、鏡湖池(きょうこち)を中心としてさらに大きく改造した庭園です。室町時代を代表する池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の庭園として、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。西と北を山に囲まれて、鏡湖池には葦原島(あしわらじま)といわれる中島や幾つもの岩島があり、これらの岩には畠山石・細川石と創建時に奉納した諸大名の名が付けられています。また、池の東に建つ方丈の北側には「陸舟の松」と呼ばれる舟形の大変立派な松があり、義満の手植えの松といわれています。
安民沢(あんみんたく)
金閣の建つ鏡湖池の背後の一段高い山腹にある池で、その中央には西園寺家の鎮守といわれる石塔「白蛇の塚」があります。また池裾には、義満がお茶の水に用いたと伝えられる「銀河泉」(ぎんがせん)、義満が手を清めたという「巌下水」(がんかすい)、中国の故事登龍門にちなんだ「鯉魚石」(りぎょせき)が置かれた「龍門滝」(りゅうもんのたき)の3つが並んで設けられ、今なお清水をたたえています。この安民沢と龍門滝は、鎌倉時代の西園寺北山第の池泉の遺跡をとどめているといわれています。
夕佳亭(せっかてい)
江戸時代、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)を迎えるために鳳林承章が茶人金森宗和(かなもりそうわ、1584-1656)につくらせた数寄屋造の茶室で、「夕」日にはえる金閣が「佳」いという意味から「夕佳亭」と名付けられました。明治のはじめに焼失し、現在の建物は明治27(1894)年に再建されたものです。茶室の南天の床柱や萩の違棚が有名で、亭の前にある石燈籠と富士形の手水鉢は、室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ、1436-90)が愛用したものと伝えられています。
不動堂(ふどうどう)
現在の不動堂は、天正年間(1573-1592)、安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣であった宇喜多秀家(うきたひでいえ、1572-1655)が再建したとされ、金閣寺の境内に現存する最も古い建物です。本尊の石造不動明王は鎌倉時代のものといわれ、室町時代には信仰の対象として多くの人々が参詣に訪れたようです。現在は秘仏ですが、2月の節分と、大文字の送り火が行われる8月16日には開扉法要(かいひほうよう)が営まれています。  
銀閣寺
銀閣寺は正式には東山(とうざん)慈照寺(じしょうじ)といい、臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)に属する寺院で、左京区銀閣寺町にあります。
当寺は室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ、1436-90)が造立した東山殿(ひがしやまどの)全体を指しています。この東山殿内に建てられた二層楼閣(観音殿<かんのんでん>)を銀閣と称し、それが寺全体の象徴的な建物となったことから、慈照寺は銀閣寺と通称されるようになりました。
創建当初、この観音殿には実際に銀箔を貼る計画があったともいわれますが、創建者の義政が建設途中に没したため、詳しいことはわかっていません。
結果的に銀箔は貼られなかったものの、やがて江戸時代以降になると、室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ、1358-1408)の建てた鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣(舎利殿<しゃりでん>)に対して、慈照寺の観音殿は銀閣と呼ばれるようになり、さらには寺そのものも銀閣寺と称されるにいたったのです。
銀閣寺の建つこの地は、本来、平安時代中頃から天台宗の名刹浄土寺(じょうどじ)があったところでした。しかし室町時代に起こった応仁・文明の乱(1467-77)のために浄土寺は焼失し、さらに義政がこの地を好んだことから、文明14(1482)年、義政は寺跡に宿望の山荘(東山殿)造営を行い、翌15年に移り住みました。
義政は庭園を中心とした山荘を建てることを意図し、自身が起居する常御所(つねのごしょ)をはじめ、西指庵(せいしあん、禅室)・起然亭・東求堂(とうぐどう、持仏堂)・会所(かいしょ)・泉殿など多くの殿舎や楼閣を東山殿内に設けました。そして、さらに観音殿(銀閣)の造営を開始しましたが、延徳2(1490)年正月、義政はその完成を見ることなく65年の生涯を閉じることになりました。その間、東山殿を中心として東山文化が開花したことはあまりにも有名です。
義政没後の銀閣寺
義政の没後、東山殿は遺命にしたがって禅寺に改められ、義政の法号慈照院喜山道慶にちなんで慈照院と命名されました。ついで延徳3(1491)年3月には名目上の開山として禅僧夢窓疎石(むそうそせき、故人)を招き、慈照寺と改められました。
その後、足利将軍家の衰退とともに寺運は衰えていきますが、それに追い打ちをかけたのが、天文19(1550)年11月、三好長慶(みよしながよし)と十三代将軍足利義輝(あしかがよしてる)とが当地附近で戦った天文の兵火でした。
江戸時代に入ると、銀閣寺は徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い、荒廃していた庭園の修築にもつとめました。現在の庭園も、大半がこのときに修築されたものです。
また明治時代には、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受けて一時逼迫しましたが、住持の努力によって東求堂・方丈・観音殿などを修理しました。また東求堂の北側に義政時代の遺構弄清亭(ろうせいてい)を再興し、さらに庭園にも手を加えて、見事に復興をとげました。
銀閣
池の西北角にある観音殿で、東山殿内で最後に建てられ、また創建当初からの遺構を現在に伝える建物です。宝形造(ほうぎょうづくり)、柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で、屋根には鳳凰が飾られています。金閣と同様、このような楼閣建築を邸内につくるのは足利将軍邸のしきたりだったと考えられています。
1階は心空殿(しんくうでん)と呼ばれる書院造、2階は潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる禅宗様(唐様)で観音像が安置されています。
江戸時代に数度改修され、大正2(1913)年には大規模な解体修理が行われました。そして、昭和26年6月、戦後最初の国宝指定時に、銀閣は国宝に指定されました。
庭園
北・東・南の三方を山に囲まれたこの庭園は、義政が数多く築造した庭園のなかで唯一、現在に残されている遺構です。義政が最も好んでいた西芳寺(さいほうじ、苔寺<こけでら>)庭園を模倣してつくられ、彼が東山殿に移住した後、みずから指揮して、さまざまな場所から植木や庭石を移植させ、作庭したといいます。この庭園は、本来、現在の庭園より一段高い場所にあったと推定される漱蘚亭(そうせんてい)跡(昭和6年に発掘)の庭と、現在の境内中心部の庭からなる上下二段の形式を取っています。漱蘚亭跡の庭の石組・泉・水流の跡をはじめ、東求堂正面の白鶴島(はっかくとう)や仙桂橋(せんけいきょう)・仙袖橋(せんしゅうきょう)などは義政創建当初の様子を残しているといわれています。
一方、東求堂正面の座禅石・大内石をはじめ、銀閣正面の池泉(錦鏡池<きんきょうち>)周辺、すなわち境内の庭園の大半は、江戸時代の元和元(1615)年・寛永16(1639)年に修復されたものです。
また、中国の西湖の風景を模倣したといわれる本堂(方丈)前の向月台(こうげつだい)と銀沙灘(ぎんしゃだん)は、安土桃山時代頃までには既につくられていたともいわれますが、江戸時代の修復の際、さらに拡大してつくり替えられたようです。この向月台は東山に昇る月をこの上に座って待ったといい、また銀沙灘は月の光を反射させるためにつくられたといわれています。
方丈(本堂)
慈照寺の本堂となる建物で、江戸時代初期、寛永年間(1624-44)の建築といわれています。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を安置します。また、内部には江戸時代の俳人・画家与謝蕪村(よさぶそん、1716-83)と画家池大雅(いけのたいが、1723-76)の共作による襖絵があります。
東求堂(とうぐどう)
東山殿創建当初から存在した義政の持仏堂で、元々は阿弥陀三尊を本尊とした阿弥陀堂でした。造りは一重の入母屋造(いりもやづくり)、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、昭和39-40年の修理以前は柿葺(こけらぶき)でした。
現在、東求堂は方丈の東に位置していますが、創建当初は銀閣(観音殿)の近くにあり、後に現在地へそのままの形で移動されたと考えられています。
堂内には義政像が安置され、南には仏間、東北隅には義政の書斎である同仁斎(どうじんさい)があります。同仁斎は、4畳半で、机の役割を担う一間の付書院(つけしょいん)と物を収納する半間の違棚(ちがいだな)が北側に設けられています。住宅遺構として最も古く、書院造が完成する以前の状態を示すものとして貴重な建物です。
足利義政墓
室町時代、相国寺の塔頭が足利家歴代将軍の位牌所であったことから、義政の墓は現在、相国寺惣墓地にあり、焼香を行うための場所である香火所も塔頭慈照院にあります。
義政死去の後、その遺骨は相国寺内の別の塔頭であった大智院に安置されていました。しかし、義政の香火所をつとめる寺は院名を慈照院と変更しなければならなかったため、大智院の反対にあいました。その結果、別の塔頭である大徳院が彼の香火所として慈照院と名を改め、遺骨もそこに移されて現在にいたっています。  
京都の離宮
離宮とは、皇居以外に設けられた宮殿のことで、東京では赤坂離宮や芝離宮が迎賓館や旧芝離宮恩賜公園に姿を変えて今にその面影を残しています。京都に現在残っている離宮は、西京区にある桂離宮と左京区にある修学院離宮の2つです。
京都の離宮は江戸時代には「山荘」や「別業」「茶屋」などと呼ばれていましたが、明治維新以後、岩倉具視(いわくらともみ、1825-83)が発案した京都保存政策の一環として、建物が宮内省の管轄下に置かれ、離宮という名称が正式に使用されるようになりました。ちなみに、二条城も明治16(1883)年頃には「二条離宮」と称し、保存の対象となっていました。
桂離宮は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の異母弟である八条宮智仁親王(としひとしんのう、1579-1629)とその息子の智忠親王(としただしんのう、1619-62)によって、修学院離宮は後水尾上皇(ごみずのおじょうこう、1596-1680)によって造営されました。
王朝文化へのあこがれ
桂離宮・修学院離宮の造営がはじめられた慶長から寛永の時期(16世紀末-17世紀前半)、京都では、公家や上層町衆を中心に、絢爛豪華な桃山美術とは趣を異にする、平安時代の貴族が好んだ王朝文化に関心が高まりました。
池に浮かべた船上で和歌を詠み、管弦をかなで、酒宴を設けるといった、「源氏物語」などで描かれる王朝文化的な生活にとって、郊外の山や川に臨んだ場所に造営された両離宮は、まさに理想的な場所でした。そのため、いずれの離宮も王朝文化を実践するため、数寄屋造(すきやづくり)の建物群のまわりには意匠を凝らした茶屋を配し、船遊びなどができる広大な苑池を造営しています。
八条宮智仁親王(としひとしんのう) 桂離宮の創始者
八条宮智仁親王(1579-1629)は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第一皇子陽光院誠仁親王(さねひとしんのう)の第6子として、天正7(1579)年に誕生しました。勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)の娘晴子(はるこ、新上東門院)を母とし、幼名を胡佐麻呂(こさまろ、胡佐麿)と称しました。智仁親王は天正16(1588)年、豊臣秀吉の猶子(ゆうし)となり、豊臣家の継承者として期待されますが、翌17年に側室淀君に男子鶴松が生まれたために解消、同18年八条宮家を創設し、翌年には親王宣下を受けて智仁と名乗り、式部卿に任ぜられました。
その後、豊臣政権の庇護を受けて皇位についた後陽成天皇は、秀吉の死後、慶長3(1598)年10月、突然、天皇の弟にあたる智仁親王への譲位の意を表明します。しかし、この譲位の儀は中止となります。
智仁親王は幼少から学才にすぐれ、早くから細川幽斎(ほそかわゆうさい、1534-1610)に歌道を学んでいましたが、譲位の一件以後は、「万葉集」「古今集」「源氏物語」など古典文芸へ深く没頭するようになり、慶長5(1600)年には、22歳で幽斎より古今伝授(こきんでんじゅ)を受け、名実共に当代を代表する宮廷文化人に成長しました。その後、親王は桂離宮造営に着手します。
後水尾上皇 修学院離宮の造営者
後水尾上皇(1596-1680)は、後陽成天皇の第三皇子として慶長元(1596)年に誕生しました。名は政仁(ことひと)といい、生母は前関白(さきのかんぱく)近衛前久の娘前子(さきこ、中和門院)です。
はじめ、後陽成天皇は、弟の八条宮智仁親王に譲位する意向でしたが、前関白九条兼孝(くじょうかねたか)と内大臣(ないだいじん)徳川家康の反対があり、実現されませんでした。その後、東宮(とうぐう、皇太子)となった政仁親王が慶長16(1611)年に即位します。
譲位の時期も政仁親王への皇位継承も、後陽成天皇の意に反するものでしたが、徳川家康の強引な干渉によって実現しました。この政仁親王は徳川政権のもとで即位した最初の天皇で、その即位は幕府による朝廷支配の第一歩でした。元和6(1620)年には徳川秀忠の娘和子(まさこ・かずこ、後の東福門院<とうふくもんいん>、1607-78)を女御として入内させ、寛永3(1626)年には二条城行幸が盛大に行われ、朝幕関係は好転するように見えました。
しかし、その翌年、禅僧に紫衣(しえ)着用を許す天皇の綸旨が幕府によって無効となった「紫衣事件」を契機として、寛永6年、にわかに女一宮(おんないちのみや)興子(おきこ)内親王(明正天皇)へと譲位します。
上皇となった後は、当時の文化人の中心的存在となり、修学院に山荘を造営、庭内に窯(修学院焼・しゅがくいんやき)を開きました。
桂離宮
八条宮家(後の桂宮家)の別荘として造営された桂離宮は、「源氏物語」松風の巻にみえる「桂殿」のモデルになったと伝えられる藤原道長(ふじわらのみちなが)の桂山荘の故地で、藤原師実(もろざね)・忠通(ただみち)なども別荘を構えました。
桂離宮は、八条宮家初代智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王により、約50年、3次にわたる造営と改修を経て成立しています。第1次の造営は、元和元(1615)年頃、智仁親王がこの地に「瓜畠(うりばたけ)のかろき茶屋」と称する簡素な建物を営んだのがはじまりで、これが古書院の原形をなし、寛永元(1624)年頃、作庭も含めて一応の完成をみました。
同6(1629)年、智仁親王の死によって茶屋などは急速に荒廃しましたが、同18(1641)年、智仁親王の息子である智忠親王が第2次の造営を開始し、従来の古書院に接続して中書院を増築し、庭園には5カ所の茶屋を設置しました。
その後、明暦4(1658)年と寛文3(1663)年の後水尾上皇の御幸に際し第3次造営を行い、中書院南側の楽器の間・新御殿の建設とともに、庭園を大幅に整備し、第2次造営の際の5カ所の茶屋を廃し、松琴亭(しょうきんてい)・月波楼(げっぱろう)・賞花亭(しょうかてい)・園林堂(おんりんどう)を設営しました。明治16(1883)年には、建物を宮内省に移管して離宮と称するようになります。現在、桂川の流れを引いた大池の西に、東より古書院・中書院・楽器の間・新御殿が並んで建っています。
桂離宮の建物と庭園の融合調和は、ドイツ人建築家のブルーノ・タウトが戦前に記した「日本美の再発見」(岩波新書)によってその美しさが世界に紹介されました。昭和51年から同57年にかけて、解体大修理が行われました。
松琴亭(しょうきんてい) / 池の東岸に建つ茶屋で、入母屋造(いりもやづくり)茅葺(かやぶき)の屋根をもつ一の間・二の間、柿葺(こけらぶき)屋根の茶室などによって構成され、中央に坪庭を設けたロの字形の建物です。いたるところに変化に富む意匠が見られ、特に一の間北側の深い土庇(つちびさし)、その下に張り出した板縁に設けられた竈構え(くどがまえ)、一の間南側の床・袋棚など、独創的な構想で造営されています。
月波楼(げっぱろう) / 古書院の北の小高くなったところに建つ茶屋で、寄棟造(よせむねづくり)柿葺、一の間・中の間・口の間の三室と竈構えをもつ板敷からなり、これらがコの字形に配列されて入り口となる土間庇を囲んでいます。簡素・軽快な構造で、一の間に竹の竿縁天井(さおぶちてんじょう)を張るほかはすべて化粧屋根裏をみせており、竹の垂木と小舞、丸太・面皮材・皮付の曲木(まげき)を自由に組み合わせた軸組など、定型にとらわれない奔放な構想力を駆使しています。全体としてきわめて開放的で、中から庭園の景観を楽しむために、部屋の配置や開口部に細心の工夫が施されています。
賞花亭(しょうかてい) / 賞花亭は、中島山上に建つ峠の茶屋といった風情で、切妻造(きりづまづくり)茅葺、間口二間・奥行一間半の小規模な建物であり、洛中の八条宮本邸にあった茶屋「竜田屋」を移建したものと推定されます。正面の壁面には竹の粗い連子窓(れんじまど)が開けられ、その左右の袖壁には下地窓(したじまど)がつくられています。この連子窓と下地窓の配分や形の比例のよさは見事です。また、この茶屋からは離宮殿舎の全景が眺望できます。
園林堂(おんりんどう) / 園林堂は、智忠親王の代に造立された賞花亭の西側にある宝形造(ほうぎょうづくり)本瓦葺の建物で、屋根に唐破風(からはふ)の向拝(ごはい)をつけた、方三間の仏堂です。桂離宮にある建物の中で唯一この小堂だけが本瓦葺で、堂内には観音像のほか宮家代々の位牌と画像を安置し、傍らに細川幽斎の画像が祀られています。
修学院離宮
桂離宮と並ぶ江戸初期の代表的な山荘である修学院離宮は、寛永6(1629)年に退位した後水尾上皇が企画した洛北の地にある広大な山荘のことです。当地には以前から上皇の茶屋である隣雲亭がありましたが、明暦元(1655)年、東福門院とともにこの近くに住む円照寺尼宮(上皇の第一皇女)の草庵に御幸した際、改めてそのすぐれた風光に魅せられ、翌2年から大規模な山荘造営に着手し、万治2(1659)年春に一応の完成をみます。
現在離宮は上・中・下の御茶屋から構成されており、上御茶屋はこの隣雲亭を中心に計画され、広大な苑池(浴龍池<よくりゅうち>)と中島をつくり、その中島には窮邃亭(きゅうすいてい)があります。また、池には中島に渡る楓橋・土橋、中島と万松塢(ばんしょうう、大きな2個の石をいただく島)を結ぶ千歳橋が架けられ、隣雲亭からは、遠く鞍馬・貴船・岩倉・松ヶ崎・愛宕の山々を背景に、京都の市街が一望できます。
一方、山麓に営まれた下御茶屋は、上皇が御幸の際に御座所とした使用した寿月観(じゅげつかん)を中心に、茶室蔵六庵(ぞうろくあん)・御清所(台所)などの付属建物を配しています。 また、中御茶屋は楽只軒(らくしけん)・客殿(きゃくでん)などからなり、後水尾上皇の没後、第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)によって建立された尼門跡寺院林丘寺(りんきゅうじ、現左京区修学院林ノ脇)が隣接しています。
修学院離宮 上御茶屋 / 窮邃亭は、三間四方の宝形造柿葺の建物で、東と南は深い土庇が、池に面した西と北には肘掛窓がそれぞれ取り付けられています。この建物は上・中・下御茶屋の中で、造営されてから今日まで建て替えられていない唯一の建物でありますが、各部の材料はずいぶん取り替えられて新しくなっています。南の土間庇の軒下には、後水尾上皇宸筆による「窮邃」の額が懸かっています。
寿月観(じゅげつかん、下御茶屋) / 寿月観は、数寄屋風書院造、起り屋根(むくりやね)柿葺の建物で、庭園に面してL字型に部屋が配置されています。これは室内からの眺めと同時に、庭園から見た場合の建物の姿が考慮されたためです。庭園に面した側は全面腰障子で、まわりに濡縁(ぬれえん)がめぐらされた開放的な外観となっています。障子の外に立つ雨戸は、戸袋を省略するために隅部で回転させて、北側の裏に納まるように工夫されています。また、屋根を軽くみせるために柿葺の軒先は薄い一重軒付となっています。
林丘寺(りんきゅうじ、左京区修学院林ノ脇) / 林丘寺は、臨済宗天龍寺派の寺院で、後水尾上皇の第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)の朱宮御所(音羽御所<おとわのごしょ>)が寺の前身です。朱宮は父後水尾院より修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称しましたが、延宝8(1680)年、上皇の崩御によって朱宮は落飾、照山元瑤(しょうざんげんよう)と号し、御所を林丘寺と改め、尼門跡寺院とします。天和2(1682)年には本堂が建立され、その後、客殿が東福門院奥御対面所から移建されました。明治の初めには男僧住院となりましたが、明治17(1884)年、宮内省に寺地の約半分を返上、同19年、楽只軒と客殿を離宮内に残し、現在地に玄関・書院・庫裏等を移して、もとの尼門跡に復しました。現在、離宮内にある客殿は、華麗優美な意匠でまとめられ、床脇の五段の違棚(霞棚<かすみだな>)は桂離宮・醍醐三宝院の棚と共に天下の三棚と称されています。
 
山城の国一揆

 

大乗院寺社雑事記
文明17年12月11日、山城の国人が集会をした。年齢は上は60歳、下が16歳・15歳であった。同じく山城国中の土民たちも、たくさん集まった。今度の畠山両陣の処理を相談して決めるためだという。もっともなことであろう。ただし、これは下剋上がきわまったものだ。これに対して、畠山両陣営がどのような返答をし、やりとりが行われたかについては、まだ聞いていない。
文明17年12月17日、古市が山城から陣を引きあげてきた。これは63日の山城布陣であった。筒井も同様に退散してきた。十市も同様だ。越智も同じ。畠山両陣の武士たちは、それぞれ陣を引き払ってしまった。これは山城一国中の国人たちが相談して取り決めたためである。今後、畠山両陣営は、山城国内に入ってはならない、本所領の荘園などは、それぞれ元通り本所の支配とする、新しい関所を設置することは一切禁止するということである。結構なことだ。
文明18年2月13日、今日、山城の国人が平等院で会合した。山城国中を統治するための掟をさらに定めるのだという。まことに感心なことだ。但し、これ以上盛んになると天下のためにはよくないことになるだろう。
上記は山城の国一揆の史料として有名な「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」の一節だ。筆者は関白であった一条兼良の子で尋尊(じんそん)という人物で、奈良の興福寺の僧侶だ。
山城国
文明17年(1485年)、応仁の乱がおさまってから8年余りたった頃のことだ。この頃、京都での戦いはおさまっていたが、応仁の乱のきっかけをつくった畠山政長と畠山義就の軍勢は、戦場を山城国(現在の京都府)の南部に移して、まだ争いを続けていた。両軍は、戦場となった土地の人々から、きびしく戦費をとり立てた。人夫もかり集めた。物資の輸送に使う木津川の川舟もすべて徴発したという。さらに、戦場から遠く離れた奈良にも手をのばして人夫を集めることさえしたようだ。
そのため、自分たちの土地や財産を捨てて、逃げ出す人々も多かった。このような状態の中で、山城国で大きな一揆が起こった。この時代は、一揆が起こることはめずらしくなかった。なぜ尋尊は、ことさらこの出来事を日記にとり上げ、「下剋上のきわまったもの」とまで記したのか?
一揆の要求
この一揆は、この地域の国人や地侍が中心となって起こしたものだ。そして彼らは、次のような三つの要求をかかげた。
両畠山の軍勢は、ただちに山城国から撤退すること。
寺社・公家の領地(荘園)は、元の持ち主に返すこと。
今後、新しい関所を設置しないこと。
この要求は、当時としては特異なものであったと言える。当時の一揆は、地下人・百姓などのいわゆる「土民」を中心に、徳政を要求するものがほとんどであったからだ。ところが山城国では、地域の指導者・地主であり、ときには守護の家来として、または荘園の役人という立場にあるような国人たちが中心になり、しかもきわめて政治性の高い要求をかかげた。尋尊がこの一揆に注目し、「下剋上のきわまったもの」と記したのも、この一揆の特異性に理由があったのではないかと想像される。この一揆は、国人が中心となり、一国規模で起こされたものであることから、山城の国一揆と呼ばれている。
要求の背景
山城の国一揆がかかげた要求を少し細かく見る。
最初の要求はよく分かる。争いによって、人々が多大な迷惑をこうむっていたのだ。。
ふたつ目の要求は、ちょっと不思議な感じがする。なぜ元の領主の支配を認めるような要求をしたのでしょうか。もちろんこれは、元の領主を大切に思う気持ちから出たものではない。「よそ者(両畠山の軍勢)」が支配者となって入ってくるのを防ぎ、同時に元の領主に恩を売ることで、元の領主に強く要求して、国人たちが実際の支配を握ろうと考えていたのだ。実は、このふたつ目の要求は、荘園領主たちを大いに安心させたようだ。荘園領主の側も一揆をおさえようとはしなかった。つまり一揆側は、ふたつ目の要求をかがげることで、荘園領主からの圧力をたくみに避けることに成功したのだ。
最後の要求の意味は、両畠山の軍勢が、街道のあちこちに関所を設け、ここを通る人々から通行税を取り立てていたことへの反発である。両畠山は、通行税によって、戦費をまかなおうとしたので、百姓たちが困り果ててしまったのだ。最後の要求をかかげることで、国人は地侍や百姓たちの支持を集め、一揆への協力を得ようとしたのだ。
両畠山軍の撤退
一揆を起こした国人たちの要求は、意外にもすんなりと受け入れられた。両畠山の軍勢は、次々に山城国から引きあげていった、政長と義就の両畠山の軍勢が、引きあげた第一の理由は、山城の国人・地侍・地下人・百姓らが、「要求が受け入れられなければ、武力に訴えても」という強い決意を示したことにあったと言われている。
しかし、研究が進むにつれて他の理由も明らかになってきた。第二の理由として、山城の国人たちは、戦いをやめさせ、山城国から両軍を引きあげさせるために、義就方の家来の一人に大金を支払い、両軍が引きあげるように説得することを依頼したことが判明した。
そして第三の理由です。この頃、幕府でもっとも強い力をもっていたのは細川政元だった。政元は、山城の国人たちから信頼をよせられていた。政元は、両畠山の軍勢と争いをおさめるための話し合いを進めていたのだ。
両畠山の軍勢は、これらの理由で、国人たちからの要求を受け入れ、山城国から引きあげたのではないかと、考えられている。
惣国の政治
両畠山の軍勢が引きあげた後、山城国は、国人たちを中心として団結を固め、強くまとまるようになった。当時、自治的なまとまりをもった村は惣と呼ばれていた。これに対し、山城国のまとまりは惣国とよばれるようになった。山城国が、惣国としてのまとまりを持つようになり、次に問題となるのは、山城国の政治をどのように行うかである。
史料の「文明十八年二月十三日の記事」にあるように、一揆を起こした翌年(1486年)、国人たちは宇治の平等院に集まって寄合を開き、山城国を治めるための新しい掟を定めた。この寄合で36人の代表を定めている。彼らを36人衆と呼び、彼らが相談して、山城国の政治を進めていくこととなった。36人衆の中に、地下人・百姓は入っていない。しかし、国人たちは地下人たちが力を合わせたからこそ、一揆が成功したのだよく分かっていた。地下人たちの要求をまったく無視することはできなかった。36人衆は、どのような方針を定め、政治を行ったのかは、はっきりと分かっていない。しかし、次のようなことを行ったのは確かであったようだ。
荘園から領主に納める年貢のうち、その半分を惣国に納めさせること。
いわゆる半済(はんぜい)である。これによって国人たちは、政治を行うための費用をまかなおうとしたのだろうと想像できる。
国の中で、犯罪を犯した者を捕らえ、罰すること。
記録に残っている例をあげますと、1487年、奈良符坂(ふさか)の油売りが殺人を犯して物を奪ったとき、国人たちはこの油売りを捕らえ、斬罪に処している。
国内の通行については、国人たちがその一切を管理すること。
山城国の人々は、奈良街道などを利用し、品物を運搬・売買して収入を得ていた。ですので関所が設けられたりすると、困ってしまう。そこで、通行のことは国人たちが管理し、商品の移動が自由に行えるようにしたのだ。
幕府の対応
山城国で国人たちが行った政治は、元来、それぞれの国の支配をまかされていた守護が行うべきものだった。これでは、幕府の面目は丸つぶれである。何しろ、南山城は、幕府のある京都のすぐ近くだ。幕府は、山城国に守護を任じ、幕府の命令が確実に伝わるようにしたいと考えた。しかし、山城の国人たちは、「自分たちの土地は自分たちで治める。守護などはいらない。」という考え方である。
1486年に山城国守護に任ぜられた伊勢貞陸(いせさだみち)も、その次に守護に任ぜられた伊勢貞宗も、ついに山城国に入ることはできなった。そして、約8年の間、山城国は国人たちによって支配され、自治が行われた。「8年間も続いた。」と考えるか、「8年間しか続かなかった。」と考えるのかは意見の分かれるところだが、山城の国一揆が、国人たちが中心となって起こした国一揆の代表例であることはまちがいない。正確には、山城の国一揆と呼ばれているが、実際に国一揆が結成されたのは、綴喜(つづき)・相楽(そうらく)・久世(くぜ)の三郡で、南山城地方である。
一揆の崩壊
山城の国一揆は、なぜ8年で崩壊したか理由は、時がたつにつれて、惣国の人々の団結に乱れが生じてきたからだ。まず、国人同士の争いがおこった。つまり、「自分こそが惣国の指導者になりたい。」という勢力争いだ。そして、関所をつくって通行税をとろうとする動きが起こってきた。そうなると当然、国人たちと地下人・百姓たちとの対立が生まれた。このような惣国の乱れにつけこむ形で、ついに伊勢貞宗の命令を受けた古市澄胤(ふるいちすみたね)が、軍を率いて山城国へ入った。
武力で国人たちを打ち破り、惣国のまとまりを崩すことに成功した。山城の国一揆が崩壊したのは、1493年のことだ。山城の国一揆が崩壊した頃から、全国の一揆発生件数もしだいに減りはじめた。最大の理由は、国人・地侍と地下人・百姓との対立がはっきりしだしたという点にあると考えられている。
国人・地侍は、はじめのうちは地下人・百姓の側についていた。守護や荘園領主に対抗するには、地下人・百姓を味方につけた方が有利だったからだ。しかし、しだいに国人や地侍たちが土地を買い集めたり、地下人・百姓を相手に金を貸したりするようになっていった。また、自分の権力を強めるために、守護や荘園領主との結びつきを強め、地下人や百姓を押さえつけようとする者も出てきた。このような流れで、国人・地侍と地下人・百姓との対立が強まっていったのである。こうして、国一揆はしだいに減っていったが、これにかわるかのように増えていった一揆がある、一向一揆である。
  
加賀の一向一揆

 

蓮如
一向宗ともよばれる浄土真宗を開いたのは、鎌倉時代の親鸞だ。親鸞は絶対他力をとなえ、阿弥陀仏の本願にすがれば、極楽往生ができると説いた。親鸞の存命中は、その教えは多くの人々の支持を得て、受け入れられていった。しかし、親鸞の死後、浄土真宗の勢力は拡大しなかった。衰えていったと言う方が正しい。親鸞の死から数百年後には、東国にいくつかの門徒の集団があっただけと言われている。
門徒とは、浄土真宗の信者のこと。浄土真宗は、親鸞の死後、滅びつつあった宗派だった。15世紀の初め、「風前の灯火」であった浄土真宗に救世主が現れる。蓮如(れんにょ)である。浄土真宗中興の祖である蓮如は、1415年に、京都は東山の大谷にあった本願寺で生まれた。大谷本願寺は、親鸞が晩年を過ごした場所に建てられた寺だ。浄土真宗の衰えとともに寺も衰え、蓮如はたいへん貧しい生活を送っていた。
蓮如はそのような生活にくじけることはなかった。むしろ、開祖親鸞の教えを広めるとともに、教団の勢力をもり返そうと考え、熱心に布教に努めた。蓮如が布教した地域は、近江・摂津・三河・河内・和泉・越前・加賀などの各地にわたっている。蓮如の努力で、門徒の数はしだいに増えていった。また「筆まめ」であった蓮如は、門徒にわかりやすく教えを説いた手紙を出し、布教の維持・拡大に努めた。この手紙を御文(おふみ)と言う。
蓮如は1478年から、京都の山科の地に、新しく本願寺を造営し始めた。もちろんこれは、しだいに数を増した門徒の人々の寄進によるものだ。山科本願寺は、周囲に堀をめぐらせた広大な境内の中に、美しくみごとな建物がいくつもならび、人々から「まるでこの世の仏国だ」と言われたほどのすばらしさであった。山科本願寺の造営は、浄土真宗の熱心な信者が、全国各地に生まれたことのあらわれであると考えることができる。蓮如の時代には、浄土真宗は数百万の門徒をかかえる大教団へ発展したと言われている。
講と末寺
各地の門徒は、身近な者同士で、講(こう)とよばれる寄合をつくった。そして講につどった人々は、村々につくられた末寺に集まった。講の中心になり、門徒たちを指導したのは、末寺の僧や村の有力者であった武士や豪農だった。末寺の僧や村の武士・豪農たちは、門徒たちの信仰と生活の指導者となったわけだ。このような村では、同じ信仰をもつ者同士という連帯感が生まれ、その結びつきはたいへん強いものとなりました。他方、村々の末寺は、地方ごとに、有力な末寺を中心として、より大きなまとまりをつくるようになった。
しかも蓮如は、これらの有力末寺の住職に自分の子どもたちを任ずるようにしたので、有力末寺の権威は高まり、その下にある末寺を指導する力も強くなっていった。有力末寺を指導したのが、山科本願寺だ。山科本願寺には、蓮如が法主(ほっす)としてひかえている。こうして蓮如は、山科本願寺−有力末寺−末寺−講というピラミッド型の教団のしくみをつくり上げた。法主を中心とする、「本願寺王国」のような組織だ。
一向一揆
門門徒の勢力が強い地域でも、土一揆はおこった。これを特に一向一揆と呼ぶが、他の一揆に比べ、次のような大きな特色があった。
一揆を起こした門徒たちは、信仰を通じて固く団結していた。
浄土真宗(一向宗)の信者である門徒にとって、阿弥陀仏への信仰、阿弥陀仏とのつながりは、最も大切なものであり、現世での主従関係より、強いものだった。その団結力は他の追随を許さないものがあった 。
一揆を起こした門徒たちは、死を少しも恐れなかった。
門徒たちは死を恐れなかった、門徒たちは死後は極楽往生が決定しているからだ(門徒たちがそのように信じていた)。門徒たちは、「進むは極楽、退くは地獄」と唱えて、敵に向かっていった 。
一カ所で起こった一揆は、門徒の多い地域に、たちまち広がっていくことが多かった。
山科本願寺の指図によって、広い地域の門徒が、いっせいに一揆をおこすことも少なくなく、お互いに援助や協力をしあってもいたようだ。
15世紀の半ばに始まった一向一揆は、16世紀を通じて猛威を振るい、各地の戦国大名は一向一揆にたいへん苦しめられることとなる。信長や家康もその例外ではなかった。
大乗院寺社雑事記・蔭凉軒日録・実悟記拾遺
文明6年11月1日加賀国の一向宗の信者の土民が武士達と争った。その結果、武士達はすべて土民の勢力によって国の中央部から追い払われてしまった。守護代は武士側に味方したのだが、守護代の小杉氏は討たれてしまった。一向宗側は二千人ほどが討たれた。加賀国の中央部は焼けてしまった。応仁の乱で東軍に属している富樫鶴童丸(富樫政親)は加賀国の中央部へ攻め込んだが、自力では支配を維持できないということだ。多くの土民が武装して立ちあがるというのは驚くべきことだ。(大乗院寺社雑事記)
長享2年6月25日今朝、香厳院で叔和西堂が次のように話してくれた。「私は今月5日に越前の府中に行った。この日より前に越前の守護朝倉氏の援軍が加賀国へ向かって出発していた。しかし、一向一揆の軍勢二十万人が富樫氏の高尾城を包囲していた。そのため今月9日には城は攻め落とされ、みな殺されてしまった。そこで一向一揆側は富樫一族の者一人を加賀国の守護にとりたてた。」(蔭凉軒日録)
富樫泰高を守護としてからというもの、その実権は百姓らが握り、最近では「百姓の持ちたる国」のようになってしまった。(実悟記拾遺)
この三つの史料は、みな有名で、加賀の一向一揆に関するものだ。
大乗院寺社雑事記は、興福寺の僧であった尋尊の日記である。蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)は、相国寺鹿苑院蔭凉軒主の公用日記で、実悟記拾遺(じつごきしゅうい)は、蓮如の子である実悟の本願寺関係記録である実悟記にもれたものを、先啓という僧が補ったもの。
一向宗門徒の武装蜂起
1471年、比叡山延暦寺からの攻撃から逃れるため、越前の吉崎に逃れ、この地に坊を営んだ(坊とは僧侶の住居のこと)。これを吉崎御坊(よしざきごぼう)と言う。蓮如は吉崎御坊を拠点とし、北陸地方に布教活動を行った。その結果、当地では急速に一向宗門徒がその数を増していった。蓮如による北陸門徒の統合が進んでいた頃、応仁の乱が北陸地方へも広がってくる。
西軍が優勢であった北陸地方で、細川勝元が朝倉孝景に守護職を与え、東軍に寝返らせた。その結果、窮地に立たされた甲斐常治(かいつねはる)は加賀に逃れ、富樫幸千代(とがしこうちよ)を頼った。幸千代は、富樫家の内紛で、東軍についた富樫政親と対立関係にあった。幸千代・常治と政親・孝景が争う形となるが、この争いに門徒勢力が巻き込まれることになる。
政親・孝景らは門徒勢の武力を頼んで、蓮如に援助を要請した。幸千代は、蓮如の教団と対立する浄土真宗(一向宗)の教団である高田派門徒を味方につけ、蓮如の本願寺派を攻撃させた。文明6年(1474年)、富樫政親と結んだ本願寺派門徒は、富樫幸千代を攻め、幸千代方の拠点を次々と襲って、幸千代の守護代であった小杉氏を討ち取り、圧倒的な勝利を得た。本願寺派は、富樫政親を加賀国の守護に立てた。
蓮如の退去
翌年1475年、加賀の本願寺派門徒は、早くも自ら立てた富樫政親と対立するようになった。蓮如は同年7月、「御文」を発し、寺社・他宗への攻撃を禁止し、現世の支配者との対立をいましめ、正統の仏法にしたがって他力信心を内心に深くせよ、と命じた。しかし、門徒勢の現世権力に対する反抗の姿勢は改まらなかった。守護への年貢納入を拒否し始めた百姓と、あわよくば領主にと考えた門徒の地侍層は、守護の支配にかわる新しい支配のしくみを志向した。それはすなわち「仏法領」の実現だった。急進化する門徒勢をおさえることができなかった蓮如は、1475年8月、吉崎を退去して、河内の出口に移った。
百姓の持ちたる国
蓮如が吉崎から去った1475年、加賀の一向宗門徒勢は、ついに富樫政親との間に戦火を交えた。この戦いに、敗れた門徒勢が越中へ逃れた。しかしその後、長享2年(1488年)6月、北陸各地の門徒勢の援助を受けた加賀の門徒勢は、再度、富樫政親に戦いを挑み、ついに政親を滅ぼすことに成功した。このときの門徒側の軍勢は20万を数えたと言う。門徒勢は、富樫一族の泰高を新しい守護とした。この1488年の出来事を歴史上、加賀の一向一揆と呼んでいる。1488年以降、約100年間に渡って、加賀国は、門徒勢によって支配されるようになり、「百姓の持ちたる国」と呼ばれるようになった。そしてもちろん、加賀国の門徒勢の上には、山科本願寺があるわけだ。つまり加賀国は、実質的に山科本願寺の領国となったことになる。守護も荘園領主も、そして幕府でさえも、山科本願寺との話がつかなければ、加賀国には口出しができないようになった。
山城の国一揆も、加賀の一向一揆も、地侍や百姓が守護を打ち破った一国規模の一揆であるという点で共通している。しかし、山城の国一揆に比べ、加賀の一向一揆は、宗教性の強い門徒による支配であり、大規模・長期支配であったという点で大きな特徴がある。
 
日本史上の奧州

 

抑も奧州地方は、多くの場合に於て出羽と併稱し、奧羽と云ひならされて居るのであるけれど、しかし日本海を負ふ所の出羽と、太平洋に面して居る奧州とは、歴史上必ずしも一概に論じ難い點が多いのである。北陸道からして海傳ひに開けた出羽と、主として常陸下野から陸路拓殖を進めて行つた奧州との間には、日本文明波及の點に於て少からぬ遲速の差のあつたこと明かであつて、一方は阿曇比羅夫時代に既に津輕まで屆いて居るのに反し、一方は日本武尊東征の傳説を除いては、之と比肩すべきほどの事實を見出すことが出來ぬ。奧州の方面に於ては彼の有名な白河の關なるものがあつて、これより以北は支那でいふ荒服の地同樣に目せられて居つたことは今日に傳はつて居る數多の文學其中にても卑近な例を擧ぐれば能因法師の作として人口に膾炙[#「膾炙」は底本では「炙」]して居る「都をば霞と共に立ちしかど」の歌、降ては梶原源太景季の「秋風に草木の露を拂はせて」の歌等に徴しても分かるのであるが、出羽の方には此白河の關ほど經界として明かに認められて居るものがないといつてよい。鼠ヶ關(念種關)などいふ所もあるけれども、奧州の方の咽喉なる白河の關の如く世に知れ渡つては居らなかつた。つまり昔の日本人が出羽をば奧州程に半外國扱をしなかつたことは、此例によつても分かるのである。越(古志)といふ汎稱につきては、從來種々の議論もあるやうではあるが、予は之を以て、北陸道から出羽津輕及び北海道の少くも西部を包括する所の總名であつたと考へるのが、穩當であると信ずるので、一方に於て和銅年間に越後を割いて出羽の國を置かれたのは、日本港岸の拓殖の大に進んだ證據であるのに、之に反して太平洋に面した方の常陸以北は、日本に於て文化の浸潤の最も緩漫であつた地方といふべきで、若し和銅年間に郡家を閉伊に置いたといふ事實を大げさに考へるとすると、當時奧州の拓殖も出羽に劣らず捗つたとも想はれるのであるけれども、之果して如何であらうか。其所謂郡家なるものが今の閉伊郡の何の邊であつたかは不明であるが、多分は海岸に近い所であつたらうと想像されるからして、若し彼の「黄金花さく陸奧」といふ其黄金が、果して今の遠田地方から出たものとするならば和銅の郡家も、之を閉伊沿岸でも氣仙界から餘り離れぬ邊に置くのが安全であるのである。若しさうでなくして陸路拓殖を進めた結果として閉伊に郡家を置いたとするならば、前九年の戰などは、少し説明しにくゝなる恐れがあらう。つまり此和銅に郡家の置かれたといふ事は、察するに太平洋沿岸の航海區域が一段北に延長した爲と見るべきである。今日でも京都附近の神社に縁りのある神社が、出羽の方に多くして奧州の方に少く、又出羽の羽黒山の如く早く靈場として開け、且つ都人士の間に有名になつた山の、奧州の方に見出し難いことなども、予の上述の假定説を慥かにする種と考へて不都合がなからうと思ふ。大體拓殖の進んだ程度を以て比較すれば、奧州の方は藤原時代に至つて、漸く王朝の出羽位に開けたものだとするのが適當であらう。然らば何故日本北端の兩半に斯かる差異が生じ、且つ其差が久しく消えなかつたかと云ふに、出羽奧州兩國の關に連互して居る脊梁の大山脈が、兩國相互間の交通に尠からぬ妨害をなして居つた爲と見る外はない。同じく山脈の中でも、南北に走る山脈は、東西に走るものよりも、餘計に交通を遮斷するとの説が、人文地理學者中に唱へられて居るのであるが、陸羽間の山脈は即ち此後者に屬するものである。今日でも陸羽を聯絡する山道の數は少く、且いづれも峻嶮であるによつて推せば、昔は其數更に少く、且つ一層難澁な峠であつたに相違ない。中尊寺に近い所でいふと、前九年の役に、清原武則の率ゐた出羽の軍勢が、松山を越えて、磐井郡中山大風澤に著陣、翌日同郡萩の馬場に著、此所は小松柵を去る事、僅か五丁餘なりと云ふ記事が、傳はつて居るから、一ノ關附近にも當時陸羽聯絡の通ひ路が一筋あつたらしいのであるが、抑も此道路たるや今日通行者のさまで繁きものでないのによつて見ても、當時は今にもまさる惡路であつたと見做さゞるを得ない。此より以北になると、彼の文治の頼朝の奧州征伐の時に、出羽を進んだ側衞が比内から東に越えたといふ山道、これは多分今の仙岩街道でもあらうか、それを泰衡の首級を携へて降人がやつて來たといふ今の鹿角街道、その外には同じく鹿角から馬淵河の流に沿ひて海に出づる通路、以上三筋程あるのみで此外に藤原時代の終り迄には、陸羽を結ぶ交通路とてはなかつたらしいのである。而して出羽奧州兩國間の交通果して此の如く不便であるとすれば、假令出羽の方の文明が、昔の奧州に比して一段進んで居つたものとしても、この優秀文明が直に奧州の方に影響するといふ譯には行かぬ。要するに日本國中最も廣く仕切られ、且開發の最も久しく停滯して居つた地方は即ち奧州で、其奧州の中でも殊に北上川流域、及び其以北に走る舊南部領などは、當時の日本全國中何處よりも進歩の遲くれて居つた地域と見做すを得べきである。
此の如き日本のはてともいふべき奧州も漸次に王化に霑うたことは言ふを須ゐないが、前九年役の頃までは、所動的に霑うたといふのみで、自ら働きかけて上國の文明を輸入するといふやうな努力の痕跡が見えぬ。して見ると中尊寺を立てたり、佛像を上方の佛師に誂へ造らしめたりするやうになつた平泉中心の、即ち藤原時代の奧州は、阿部氏以前の奧州に比して、莫大の進境があると云はねばならぬ。而してこれは當然斯くなるべき筈のことであつて、遙か後世の今からして昔を回顧すれば、阿倍時代と相距ること、甚だ遠からぬやうにも思はれるけれど、計算すると前九年役の終りから文治年間の泰衡征伐までには、其間約百廿年の[#「約百廿年の」は底本では「約廿年の」]歳月を經て居るからには、進歩の遲い奧州とても、可なりの進境なかるべからざる譯である。然らば此進歩を促がしたことに與りて力のありしものは何々かといふに、奧州から上方に、觀光に出かけて歸つた人々と、上方の人士で遙々奧州に下り、優等なる文化の種を邊陬に撒いた人々と此二樣にある。上國から下向した者の例に就いては、花かつみの歌に風流をとゞめた流人實方卿の[#「實方卿の」は底本では「實力卿の」]如き縉紳は云はずもがな、前九後三の役に從軍して、家族移民をなした下級の者も等閑に附し難い。其外にも平泉藤原氏以前に於ては、若し奧州後三年記の記事を信じ得るとすれば、清原眞衡が其「護持僧にて五所うのきみといひける奈良法師」と碁を圍んだといふ話がある。平泉藤原氏時代の始めには、散位道俊といふ者が、清衡の許に赴き、弓箭の任に堪へざるを以て、筆墨を以て之に事へたと、三外往生傳に見えるもある。また良俊といふ公卿の清衡をたよつて陸奧に下向したのは、これ五位以上の者猥りに京畿を離るべからずとの制禁を蔑如し、國家に背きて清衡に從つた者であるとて、其廉を以て相當の制裁を加へむとの僉議があつたことが、中右記天永二年正月廿一日の條に載つて居る。なほまた同じ清衡の妻が、其夫の歿後上洛して、檢非違使義成といふ人に再嫁したといふことが、長秋記大治五年六月八日の條に見えて居るから、此妻女も元は都から下つて、清衡に連れ添つた者と推察される。さもなくて、もし此女人が奧州生え拔きの人であつたならば、斯かることには成るまいと思ふ。此の如くして或は身輕な、漂泊ずきな僧侶或は京都で生活難に追ひ立てられたはした公卿、さては大膽な婦人などの、遙々奧州に罷下るといふことが、清衡の頃及び其以前から既に時々あつたとすれば、まして基衡秀衡と代を累ぬるに從ひ、斯る族の愈多くなつたことを想像し得られる。扨て此連中の大部分は、何か己に利する所あらむと欲して、遠路を厭はず奧州くんだりまで下向した者共で、必しも邊陲の開拓を思ひ立ち、それが爲に奇特にも態々出張したのではない。現に前述の清衡の妻と稱する女などは、其上洛の際に夥しき珍寳を持參したと記されてある。しかしながら彼等の下向の目的が那邊にあつたにせよ、上國の文明が、彼等の力によつて、徐々と奧州に輸入されたことは、蓋し疑を容れざることであらう。
それと逆しまに、奧州の方から上方に出かけた人々に就いては、姓名の知れて居る者が少いが、しかし其實は多數あつたに違ひない。久野山縁起には、平泉館師忠の子僧源清の事が見える。恐らくは久野山のみならず、僧となつて京洛に住した者もあつたらう。又清衡は志を叡山に運び、其千僧供の爲めに七百町歩の保を立て、其後此莊園が次第に擴張されたといふからには、其等の用向で上る人も勿論あつたらう。貢賦に關しては頼長の台記で其一端が窺はれる通りであつたらうし、中尊寺建立の爲めには、殊に往返を繁げからしめたであらう。續世繼(みかさの松)に見ゆる、基衡が其寺の爲めに仁和寺に依頼して勅額を乞ひ下したとの事、既に以て秀衡以前に京都式文物の摸倣に就いて、少からぬ努力のあつたことを證するのであるが、秀衡の時に至つては、單に京都のみでなく、東大寺造立供養記によると、奈良にも慇懃を運んだ樣であるし、又阿闍梨定兼の承安三年の表白文によると、高野山にも歸依して四ヶ年の衣糧を運んだとある。此等の用向を辨ずる爲には奧州人が少からず上方に往來したに相違ない。遠く隔つた畿内地方との交通にしてすら、既に可なりに頻繁であつたとすれば、それよりも平泉に近い地方との往來は尚更のことで、越後との間には、しかも海路の交通が開けて居つたらしい。撰集抄に越後國志この上村といふ所を「奧よりの津にて、貴賤あつまりて朝の市のごとし、只海のいろくす、山の木のみ、布絹のたぐひをうりかふのみにあらず、人馬のやからを賣買せり」と述べてあるが、唯茲に奧といふ丈けでは奧州を斥するものとは限られぬけれど、長秋記(大治五年六月八日)清衡の二子相鬪へるを記せる條に、兄の方が「依難堪卒子從廿餘人、乘小舟迯越後」とあるのを參考すると、陸奧と越後との海上の往來のあつたことが分かる。唯當時發著の港灣の明かに知り難いことのみが遺憾といふべきだ。而して此の如く奧人が遠近の上國を觀光して歸へることにより、東北陲の文化が次第に其舊態を替へた事は云ふ迄もなからう。つまり秀衡の時に平泉に中尊寺の建てられたのは決して偶然でなく、而して此中尊寺の建立が因となつて、更に四圍の文物を向上せしめたこと、亦歴史上自然の成り行きである。
此の如くにして奧州は平泉藤原氏三代の間に、其平泉を中心として可なりの發達を仕遂げたのであるけれども、然し京都の方からは之に格別の敬意を拂ふに至らず、基衡が折角に請ひ得たる額は、其の頼み主の素性が知れると共に奪ひ返され、嘉應に至りて秀衡が鎭守府將軍に任ぜられると兼實は其玉葉に於て之を評し、夷狄のくせに征夷の任を拜するとはこれ亂世の基だと云ひ、つまり奧州の者は共に齒すべからざる夷狄で、日本の國家の化外に立つ者だと考へられて居つたのである。されば奧州の地の眞に日本の一部と認められ、内地同樣の統治が茲に行はるゝやうになるには、一方に於ては奧の藤原氏の亡滅、一方に於ては、京都藤原氏の攝關政治がやんで、幕府の鎌倉に開かれるのを待たなければならなかつたのである。
文治の役は日本と奧州との間の障壁を殆ど徹し去つたものと云つてよろしい。「君が越ゆれば關守もなし」と源太景季が詠じたのは文明北漸史上の眞理を言ひつくして居る。今迄は上國の文明奧陬に及んだとは云ふものゝ、國内波及といはむよりは、寧ろ國際波及といふ姿を持つて居つたのが、鎌倉時代になると、一國の内で文明が中樞から偏僻の地に流るゝといふ形を奧州に對しても始めて持つやうになつた。要するに以前よりは一層自由に弘宣波及するやうになつたのである。而して斯く成り來つたのは一般氣運の漸移によること勿論ではあるが、政權が兵馬の權に伴つて、其の中心を京都よりも奧州に近い鎌倉に移したこと、與りて大に力がある。王朝の地方政治も、藤原氏の莊園制度と、共に未だ深い印象を與へて居らなかつた其奧州の地に、守護地頭の制度は上方に踵いて布かれるやうになつた。千葉葛西等の、武總に蟠居したる有名な平氏、伊豆相模の豪族たる工藤曾我等の諸氏、野州の宇都宮藤原氏、さては甲斐源氏の諸族等、所謂關東豪族の歴々が多く陸奧に采邑を得るに至つた。中には關東と奧州と兩方で地頭を兼ねたものもある。紫波郡の國道筋に近く、唯今も走湯神社といふのが殘つて居るが、これ或は其附近の地が伊豆國出身の某武人の采邑になつた事がある一證ではあるまいか。總じて東北地方には、歴史の研究に必要な記録も文書も共に殘存する所のもの至て稀で、北に進むに從ひて愈々少く、藤原時代は勿論鎌倉時代の事をも明かにし難く、岩手縣以北に關したもので、今日の所稍まとまつて居るといふべきは、結城文書、宇都宮文書、遠野の南部家文書、石卷の齋藤氏文書、盛岡新渡戸仙岳氏、紫波郡宮崎氏の所藏文書等である。此等の文書中時代の最も早いのは、承久四年三月十五日、津輕平賀郷に關したもので、之によれば、曾我五郎次郎の父小五郎の時から、即ち鎌倉時代の始めから之を領して居ることがわかる。其他今の岩手縣廳の所在地盛岡の一區劃は、仁王郷といふ名で鎌倉時代から知られ、駿河大石寺の所藏文書の中に、後藤佐渡三郎太郎基泰といふ人が、建武元年頃に之を領して居つた事が見える。それから少しく南になると、今の稗貫郡八幡村であらうと思はれるのが、結城小峯文書に八幡庄として載せてある。此の如く北は津輕のはて迄も、鎌倉の政令に服して居つたのであるからして、三衡以來の遺跡である此中尊寺の保存に就ても、當時決して注意を懈らなかつたもので、其詳細は中尊寺文書にも見えるが、其外にそれに關する史料で、一寸思ひがけなき場所に在るものを擧ぐれば、京都下京區住心院の文書中、文永元年十月の鎌倉將軍宗尊親王の下知状に當時の執權が連署したものである。
政治の勢力による開發と相伴ひて奧州の文明を進め導いたのは宗教の勢力である。此時代に出來た宗派といへば、いづれも當時新に政權の中心となつた鎌倉は勿論のこと、其周圍即ち東國地方の布教に盡力したのであるが、更に進んで出羽奧州にも及ぼした。それより以前天台眞言の二宗亦出羽奧州に入らなかつたといふではないが、新宗派の方が其活動振りに於て遙かに前二者にまさつて居る。先づ淨土宗に於ては、法然上人の高足なる證空上人の白河の關を踰える時詠んだ歌といふがあるから、同上人も奧州に入つたのであらうし、法然上人の弟子で有名な隆寛律師は奧州に配流になつたことがあり、其弟子實成房も亦奧州に活動した。其外法然門下の一人なる石垣の金光坊といふ僧の如きは、奧州の布教を其終生の事業として、遂に津輕で歿した(或は栗原郡で歿したとの説もある)禪宗に於ては榮西の弟子記外禪師、聖一國師(辨圓)の弟子無關禪師、歸化僧佛源禪師、空性禪師、佛智禪師等、いづれも奧州の布教に力め、道隆の風化も奧州の南邊には及んだらしい。面白い事には鎌倉時代奧州に於ける禪宗の布教的活動は、中山道や北陸道よりも時代の早いことである。次に眞宗に於ては最も有名なのが岩代東山に居を占めたる如信上人で、親鸞面授の弟子の一人と稱せられてある。それよりも更に深く北に入つたのは、紫波郡に遺跡を有する同じく親鸞の弟子の是信房であつて、本願寺第三世の覺知宗昭も、如信の遺跡なる東山迄は來たことがある(最須敬重繪詞)。日蓮宗では日蓮の直弟子日辨日目共に奧州に入り、日興に至つては、今の陸中迄深入りして布教したといふ傳説になつて居る。其他にも日蓮の孫弟子、曾孫弟子等の、奧州に布教したもの數多ある。時宗に至つては開祖の一遍上人が親ら奧州に巡錫したので、弘安三年には江刺郡に祖父河野通信の墳墓を訪ねたとあつて、唯今稗貫郡寺林にある光林寺といふ時宗の寺院は、即ち一遍上人の此巡錫を因縁として出來たとの傳説である。此の如く新に勃興した諸宗派の僧侶が、當時尚ほ麁野の境遇に在つた奧州の住民に與へるのに、宗教的の感化を以てしたのみならず、一般文化の進歩にも少からぬ貢獻をなしたであらうとは、蓋し何人も想像し得る所であるが、それと同時に歴史の研究者にとりて興味の深いことがある。即ち當時此等諸宗の僧侶で奧州に宣教した者は多く奧州にのみ其活動を限つて、出羽の方には入らず、出羽の方へ布教を志した人々は、越後からして入るのを普通とし、出羽奧州兩國を跨いで布教した者とては、其數甚少い。これは此兩國の、鎌倉時代に於ても、やはり其以前と同樣に、風馬牛互に沒交渉と云つて可なる關係に在つたことを示すものと認むべきである。而して王朝文明は奧州よりも出羽の方に早く、且つ深く影響したに反し、鎌倉時代の文化は出羽よりも寧ろ奧州の方に多く感化を與へたことが、これまた此布教の歴史からしても推測され得るのである。
さりながら、斯る諸の事情が共に働いて奧州の文明を向上せしめたとは云ふものゝ、鎌倉時代に於ける奧州は、要するに大した開け方をなし了はせたとは見えない。馬は既に名産の一つになつて居り、閉伊郡大澤牧、糖部郡七戸牧、同宇曾利郷中濱御牧等は、牧場として其名上方にも聞えた事であるが、さて馬の外に名産として算ふに足る程のものがあつたとも見えぬ。蝦夷は此時代を終るまで集團をなして陸奧に居住し、安東家の差圖によつて屡叛亂を企て、それが爲め東北地方に兼ねてより關係のあつた關東の豪族即ち工藤右衞門祐貞、宇都宮五郎高貞、山田尾張權守高知等が、嘉暦年間に相踵いで出征を命ぜられたことが、北條九代記に出て居る。而かも此征伐は蝦夷の殄滅によつて落著したのではなく、和談を以て結末をつけて歸參したとあるからには、蝦夷は其儘に居殘つたに相違ない。藤原氏は武家の爲めに政權を失つたが其武家殊に源氏が勢力を養つたのは奧州征伐によつてゞある。然るに其源氏の開いた鎌倉幕府も、其亡滅のきつかけは、安東征伐、手短かに云へば奧州の蝦夷を征伐したが爲めといふ。して見れば數世紀に亘つて日本の爲政者を惱ました問題は、實に此奧州の始末方の如何であつた。されば兩統對立の時代になつてから、南朝が主として此奧州に於て官軍を募る事を力め、中尊寺には殊に關係の深い彼有名な北畠顯家卿を、陸奧守として派遣したのも、亦決して偶然ではないのである。此顯家卿については舞御覽記と云ふものに元徳三年(元弘元年)其宰相中將たりし頃蘭陵王を舞しときの樣を叙して「夕づく日のかげ花の木の間にうつろひて、えならぬ夕ばへ心にくきに、陵王のかゞやき出たるけしきいとおもしろくかたりつたふるばかりにて」と云ひ更に「この陵王の宰相中將君は、この比世におしみきこえ給ふ入道大納言(親房)の御子ぞかし、形もいたげして、けなりげに見え給ふに此道にさへ達したまへる、ありがたき事なり」と云へり。斯樣なやんごとなき殿上人の奧州、蝦夷のまだ住んで居る其奧州に、國司として赴任するといふことは、俗にいふはき溜めに鶴の下りた樣なものであるが、此顯家は靈山に居つて下知を傳へ、南部を始めとして其他奧州の官軍を其麾下に從へ、延元二年には十萬餘騎と號する大軍を組織して白河の關を越え、關東の平野に殺到し、鎌倉を陷れ、延元三年には東海道を打登り、追躡して來た足利勢を美濃垂井に逆撃し、首尾よく畿内に乘り込んだ。奧州人の大擧南下したのは、これが始めてである。其前に義經に從つて奧州の者共が源平合戰に參加した事があるけれど、其規模の大小迚も此延元の時に比すべくもない。若し此時に顯家の軍勢が勝利を得たならば、南朝方の御利運といふのみでなく、奧州の者で上方に地歩を占める者も多くあつたらうし、又上方から奧州へ下る者の數も殖え、鎌倉の始に既に殆ど撤廢されて尚ほ少しく殘つて居つた日本と奧州との障壁も、爰に全然取り去られ、奧州の文化は其お蔭で長足の進歩をなし得たであらうと思はれるが惜しい事には事此に及ばず、奧州勢が其中堅をなした顯家の軍は安倍野の合戰に打ち敗れ、顯家は泉州石津といふ所で戰死し、神皇正統記に所謂忠孝の道極まつたのである。が、これ單に顯家卿忠孝の道極りて、親房准后の嘆きを増したのみではない、奧州開發の運命もこれが爲めに暫く閉ぢらるゝ事になつた、これ誠に遺憾の次第と云はざるを得ない。
足利時代になると奧州は鎌倉管領の支配に屬し、諸大名は關東衆といふ名の下に一括され、所謂謹上衆と稱する第二流諸侯の資格を與へられ、篠河殿といふ觸れ頭が奧州に置かれてからは、其統率を受くることゝなり、要するに奧州と上方とは間接の關係になつた。けれども公け以外には上方との個々直接の交通絶えたるにあらずして、大名の遙々見物がてら京都に參覲し、將軍の諱の一字を貰ひ受け、それを土産に歸國するもの少からずあつた。南部家の歴代の中に晴政といふ人があるが、此人上洛して將軍義晴の一字を貰ひ受け、晴政と名乘つたなど其一例である。南部系圖には、甲斐源氏として同族なる武田晴信の晴の一字を請ひ受けたと記し將軍義晴の一字を賜はつたことをば唯別説として記してあるが、却へりて公儀日記の方には、此度偏諱を賜はり度いとて上洛して居る南部といふ者は、奧州でも聞ゆる豪の者であるから、望み通り與へられて宜しからうと評議一決したことが載せてあつて、晴の字が將軍の偏諱であること紛れもない。斯かる例は南部に限らず、その他奧州の諸大名に共通なことで、義輝將軍の頃までは此連中可成りにあつたらしい。義昭の時には將軍の光りが大に薄くなつて、參覲者の數も殆ど皆無となつたが、それでも、石川大和守ばかりは、義昭將軍に謁見し、諱の一字を賜はりて昭光と名乘つたといふ。上洛者の獻上物は南部などは馬であるが、一般には鷹であり、京洛に滯在し久しきに渉る者は、歌道などを稽古し、一廉の歌人となり、名を新菟玖波集に列し得て歸へるもあつた。大名のみならず其臣下の者共までも伊勢參りをし京都見物をして歸へるもあり、兵亂の爲めに歸路を斷たれた上洛者の中には、その儘都に留まりて、或は旅宿の娘などに契り、彼の地で一生を終へた者もあつたらしい。上方からして奧州へ下る者には鷹買、馬買、遍歴藝人、武者修行、僧侶等であつて武者修行の中には根來法師等も交つて居つた。奧州に始めて鐵砲戰を教へたのは、其等根來法師のやうである。斯く上方と奧州と兩方からの往返絶えず、その爲めに奧州に於ける文武二道は振興し、住民の見聞も大に擴まつたから、足利末の奧州は之を鎌倉末の奧州に比べて、若干の進境を見たこと爭ひ難い。有力なる大名の城下には、未熟ながら文化の小中心も出來た。會津の如きは其尤なるものである。
若し大彦命に關する傳説を、其儘に信じ得るならば、奧州の内で古るい歴史を有して居る土地といへば、先づ會津に越すものはなからう。又之を假托説とするも、それにしても會津の名稱は、書紀編述時代に既に知られて居るから、今日奧州にある諸都市よりも遙かに古るいこと明かである。蓋し會津の地たるや、四方山脈に取卷かれて居るにも拘はらず、奧州からして出羽と越後とに入り得る要樞であるから早くよりして可なりの繁昌があつたらしく、鎌倉時代の末には、此土地の平民の家に生まれた孤峰和尚といふが應長元年商舶に附して入元したとある。後醍醐天皇の歸依を博した、雲樹國濟國師といふのが即ちそれだ。斯かる人を出した事によつて、當時の會津の文化の、まんざらでなかつたことが推せる。其後戰國時代になつてから、會津は蘆名、伊達、上杉、蒲生等の名族の城下となつたが、主は頻繁に替はつても、會津の繁昌は益加はつた。といふのは前にもいふ如く地の利を得て居るからである。徳川時代になつて有力なる親藩を爰に置いて、奧羽の諸大名を監視させたのも、斯かる理由あればである。いま繁昌の一端を述ぶれば、蘆名家記によると、盛重時代に其城下たる會津黒川、即今の若松の大町柳の下といふ所に風呂屋があつて、蘆名家の侍共が、毎日それに出入りする故、伊達政宗からして、太寄金助といふ間諜を、此の風呂屋につけ置いて蘆名家の内情を探らしたとある。今こそ錢湯が何處にもあつて、珍らしいものではないが、江戸ですら徳川幕府開設の當初は、風呂屋といふものが、珍らしかつた。それが天正頃に會津に在つたのであるから、當時黒川即若松の、決してありふれた田舍町でなかつたことを知るに足るのである。されば上方からの素浪人のみならず小笠原長時の如き名將も、漂泊の末此所に來り、遂に此地に歿したが、其の長時の會津滯在中に星野味庵に授けたのが、即味庵流、畑奧實に授けたのが即畑流と稱し、共に小笠原一流の弓馬の古實である。文藝も茲に一種の發達をなしたものゝ如く、當時廣く日本にもてはやされた平家の如きも、爰で相應に流行したものと見え蒲生氏郷の從妹で南部利直の室となつた人の、嫁入の際に持參した道具の中には、他に類の少い平家の語り本が一部あり、其奧書には、永禄年中に會津黒川の諏訪某が所持して居つた旨記されてある。又相當に文化の中樞となつて居つたればこそ、耶蘇教もいち早く此方に入つたので、其事は日本西教史にも記されてあるのみならず、上述の平家物語と同じ持參道具の中に、念入りな宗教畫を張つた屏風のあるのでも證據立てられる。
足利時代に奧州地方が右の如き發達をなし得たのは、陸上交通の發達を前提としなければ、想像の出來難いことであるが、しかし各地方とも秩序の定まらなかつた當時のことなれば陸路の外に、海上の交通をも併せ考へなければ、十分な説明が出來ぬ。然らば此陸運は[#「陸運」はママ]どうであつたかと云ふに、彼の北畠顯信が義良親王を奉じて、伊勢から海路陸奧に赴かむとした事によつても、鎌倉末足利の初に既に斯かる航路の開かれて居つたことが分るし、又日本海廻りの航路に就いては、永享文安の頃、奧州十三湊の豪族安倍康季が、後花園院の勅命によつて、若州小濱の羽賀寺を再建したといふ、羽賀寺縁起の記事、若州の武田氏が北海道に渡つたとの傳説等によりて、鎌倉以來依然として、絶えずあることを知る事が出來る。蓮如上人御文章の第一帖に、上人が文明四年吉崎に坊舍を建て、暫し之を根據地とせし際の記事あり。其中に出羽奧州等七ヶ國の一向門徒此吉崎へ集まり參詣せしとあるが、七ヶ國の中に野州は見えず。さすれば奧州人は野州を通過して吉崎に赴きしものと考へられず。その上に前述の事項を併せ考ふるときは、奧州の信者の日本海廻りにて、吉崎に參詣したらむこと、強ちに有り得がたきことゝ斷ずべからず。扨て此日本海廻りにて北海道、それより更に京都に至るべき道筋は、新井白石の奧羽海運記にもある如くに、越前敦賀に著津の後、山中を駄運して近江の鹽津に出で、それから舟にて琵琶湖を横ぎり、大津を經て京都に達したものであらう。越前坂井郡三國の港は、今こそあまり振はない場所であるけれど、昔は北陸の要津であるが、此港に、久末といふ舊家が今でも存して居る。其久末家で先年内藤文學博士が採訪された文書によると、同家の祖先久末久五郎といふ人が、元和元年大阪夏陣の時、南部利直の爲めに、其武具雜品を手船にて輸送し、又翌年南部領内大凶作の際、同じく手船を以て米を輸送した度々の功により、其手船を以て船役なしに南部領田名部浦に入港する特許を與へられ、其特許状は家老連署を以て幾回も書き改められて右久五郎の代々の子孫に交附されてあることが分つた。此事なども日本海海運の好史料であると思はれる。
當時の船舶の構造から考へると太平洋沿岸の航海すら既に頗る危險であるから、まして風浪荒き日本海廻りに至つては、白石の所謂備さに難辛を極め、勞費最多くして遭利廣からざるものであつたので、彼の定西法師傳に在る天正頃琉球の日本町に奧州の者もあつたとの記事に至りては、其漂流人でない限り、少し受取りにくい話であるとしても、足利時代の奧州の海運は陸上交通と相俟ちて其開發を助けたもので、決して輕視すべからざるものと思ふ。
海陸の交通の發達に伴つて、邊鄙の奧州も段々に開けて來たことは、上述の如くであるが、然しながら奧州はやはり依然として文明進歩の遲々たる所で、足利時代を終つても、まだ/\上國と比肩する迄には行かなかつた。其の例を擧げれば數限りもないが前に一寸述べた安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。また鐵砲使用の年代に徴して見ても當時の奧州の文明が、どれ丈け上國よりも遲くれて居つたかゞ分かる。天文十二年に種子島に渡つたといふ鐵砲は、永禄の末にはまだ東國に少く、奧羽永慶軍記に、永禄十二年小田、眞壁兩家の合戰を叙して、「鐵砲は、まだ東國に稀にして、今日も以上八挺の外は來らず、爰に根來法師大藏房鐵砲の上手なりしが云々」とある。稍廣く行はるゝに至つたのは天正の半ば過ぎてからであらう。
物ごと何によらず斯く上國に遲くれて居るからして、一方に於ては朴素の風が尚ほ存し、輕薄に流れず、士人の間にも、恩を思ひ忠を盡くすの念は頗る厚かつた。松隣夜話にある太田三樂から長尾景虎への注進状の中に「奧筋諸將の所存專ら族姓を撰申事に候」とあるは其一端を示すもので、清和の嫡流とでも云へばうつけたる人をも神の如く敬つたらしく、重恩の武將死する時は、其臣下の二三人殉死せるのみならず、其殉死者にまた殉死する者もあり、友人の殺されたのに居合はさざりしを遺憾として切腹した者もあつた。殉死は當時一般の風習にして珍らしからずとは云ひながら、さりとは念入りと評せなければならぬ。而して斯く人物が固くあり過ぎる代はりに、一つまかり違へば、途方もなき傍若無人の所業を敢てした者も亦少くない。足利時代に出來たかと思はれる彼の人國記に、奧州人の氣質風俗を評して、「日本ノ偏鄙成故ニ、人ノ氣ノ行詰リテ、氣質ノカタヨリ、其尖ナル事萬丈ノ岩壁ヲ見カ如ニ而、邂逅道理ヲ知ルトイヘトモ、改テ知ルト云事スクナク、タトヘ知ルトイヘトモ、江水ノ流ナクテ、塵芥之積リテ清ル事ナキカ如シ(中略)右之如之氣質故、頼母敷トコロ有テ、亦ナサケナキ風俗也」と云ひ又「人ノ形儀イヤシフ而、物語卑劣ナレトモ、勇氣正キ事、日本ニ可劣國トモ不被思也、因茲也朋友無益討果、主君ヘ志ヲ忘、父母ヘ孝ヲ忘ナトスル類、不知其數、雖男子上下トモニ勇ヲ以テ本トスル處ナレハ、偏鄙偏屈ナリトイヘトモ、潔キ意地アツテ恥ヲ知故、是ヲ善トス」とも云へるは、褒貶共に先づ要領を得て居ると云はなければならぬものであらう。
國史に於ける奧州といふのは、先づ大體は上に述べた如くであつて、以て徳川時代に入つた。徳川時代には太平につれて偏僻の奧州も可なりの進歩をなし、人國記に「名人ノ名ヲ呼フ程ノ人ハ不得聞ヲ也末代以テ如此成ヘシ」と一言で以てけなされて居るにも拘らず、多少の人材を出し、日本全體の文明にも少は貢獻する所あつた。けれども大勢はやはり足利時代の通りで、絶えず上方の後塵を拜し來り、それが惰性をなして明治時代まで續いて居る。米國エール大學の教授にハンチングトンといふ人があつて、世界各地方の住民の文明進歩の程度を測る爲め、諸國の學者に十點を滿點として評點せしめ、其平均をとつて各地の文明點數を定めるといふ試みをやつて見たが、其地方の區分法もかなり綿密で、一國の内の中でも人情氣風の差によつて幾つにも分けて居るから、世界は總計百八十五區に分かれ我日本の如きも、南日本と北日本との二つにして、別々に點をつけることになつて居る。而して其採點の參考となるべき要件としては、其地方の住民の自發的活動力、新思想形成力及び其實行能力、自治力、他人種を統治指導する能力等諸種能力具有の程度、及び道徳の標準の高低等であつた。五十四人の採點平均の結果最高點は英國の十點であるが、日本のうち南日本は八點三分、北日本は六點二分とある。斯かる計算法は隨分精密に見えて、而かも危ないものであるのみならず、私は日本の南北兩半の間に果して二點一分の差あるかどうかを斷言し兼ねるが、兎に角日本の北半、殊に奧州が、南日本よりも文明の今もなほ遲くれて居ることは爭ふべからざることゝ思ふ。されば奧州史の研究は、奧州にとりて得意な懷古の種たらしむるよりも、寧ろ將來發奮の資たらしむること、何よりも願はしいことである。  
 
「徒然草」に見る鎌倉・東国

 

酒と味噌
こうして兼好は東国にやって来て滞在していたが、鎌倉とは少し距離をおいて金沢に住み、金沢氏が集めた多くの書籍を読んだものらしい。
百七十三段には小野小町のことについて書いた『玉造(たまつくり)小町壮衰書』に関する考証を行った話が見える。この書については三善清行が書いたという説があって、そのことは「高野(こうや)の大師の御作の目録」に記されているが、弘法大師は小町より先の人なのでおかしい、と指摘したものである。
しかるにその弘法大師の著作目録が現在、金沢文庫にあって、それには「玉造小町形衰記(けいすいき)、疑(うたがい)有り、或云(あるいはいわ)く、善相公作(ぜんしょうこうのさく)」と記されている。どうも兼好は『玉造』を金沢で見たようである。
さらに十三段は「ひとり、灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする、こよなう慰むわざなり」として、『文選(もんぜん)』『白氏文集(はくしもんじゅう)』『老子』などの様々な書物をあげているが、その書物の多くも金沢文庫に見える。そこですべてを読んだというわけではなかろうが、少なからぬ部分を吸収したことであろう。兼好の、一人で灯のもとに文を広げ、過去の世の人を友にして心を慰めるといった心境は、ここ金沢で培われたものかもしれない。
また既に触れたように『平家物語』の成立事情なども鎌倉で仕入れた話の可能性がある。なお文庫が広く整備されたのは、貞顕が二度目の探題を終え、京から戻ってきてからのことらしく、群馬県赤城神社に伝えられた『年代記』の正和五年(1316)条には、「今年、鎌倉より同国金沢に岳(がく)の文庫立ち、日本国中書籍を納(おさ)む」と見えているという。
こうして少なくとも二度は鎌倉に下った兼好ではあるが、眼前で起きた事件などは『徒然草』には一切記しておらず、遡って昔の話のみを載せている。名執権と謳(うた)われた最明寺(さいみょうじ)入道北条時頼の質素な生活振りの話を、北条一門の大仏宣時(おさらぎのぶとき)が語っているのが二百十五段である。
時頼からすぐに来るようにいわれたが、直垂(ひたたれ)がなくて手間どってしまっていた宣時であるが、「夜なれば異様なりとも、疾(と)く」と強く催促されたのでかけつけたところ、時頼が銚子に土器を取り添えて出てきた。一人で飲むのがさびしいので呼んだのだが、肴(さかな)もなくて、と言い、ちょっと台所を探してくれないかと頼まれた。宣時が、小土器に付いた味噌を見つけたところ、それでいいだろうということになり、二人で酒を飲んだ、という。
話の最後に「その世にはかくこそ侍しか」と宣時が語ったことを付け加えている。これは宣時がまだ「武蔵五郎」と称されていた時期(『吾妻鏡』建長二年〈1250〉三月二十五日条に時忠と見えるのが初出、弘長三年〈1263〉八月十五日条から宣時)のことであろう。『金沢文庫文書』には宣時と貞顕との親交を示す書状が見えており(『神』2355号)、その関係もあって兼好は宣時とも交流があったのであろう。
ところでこの話を載せたのは、兼好が下った頃の鎌倉では酒宴が盛行していた事実と関連があると見られる。幕府の奉行人筑前権守(ごんのかみ)政連(まさつら)が延慶元年(1308)に北条貞時に提出した『政連諌草(いさめぐさ)』(『神』1636号)は、「禅侶の屈請(くっせい)を省略せらるべき事」と題して、僧侶を招いて供養したり、仏の道を尋ねたりするのはよろしいことだが、それが一日おきに行われ、しかも華美な膳が設けられ、さらに「薬種(やくしゅ)を唐様の膳に加へ」られることが日々倍増の勢いでなされているのはよろしくない、という諌言を記している。唐物の流入や頻繋な饗応によって、鎌倉では酒宴が盛行していたのである。さらに同書は次の指摘も行っている。
一、早く連日の酒宴を止め、暇景(かけい)歓遊を催さるべき事
右、謙退(けんたい)の後、徒然の間、且(か)つは永日(えいじつ)を消し、且つは延年(えんねん)の為、盃酌(はいしゃく)に及ぶの条、何の難(なん)有らん哉(や)の由、存ぜしめ給(たま)ふの処、人々の勧誘去り難く、連々の経営相続き、た対略(たいりゃく)毎日、猶(なお)少し日を隔(へだた)つるか。
執権を退き出家した(謙退)ばかりの得宗の貞時が、徒然のあまりに毎日のように酒宴にふけっていることをよくないことと諌めたもので、君子は治世をもって安楽となすべきなのにどうして酒宴の歓楽をほしいままにしてよいことがあろうか、と『礼記(らいき)』や仏書を引用して戒めている。
さらに以前の時代は質素であり、控え目であったことを、酒宴を慎み政務に励んだ先人として執権の北条泰時をあげて、「建保以後、一生を限りて沈酔(ちんすい)せず」と、ひどく酔わないことをモットーとしていたことを述ベ、さらに執権補佐の連署の北条重時についても「終日公務に携り、晩陰(ばんいん)の予宴を催す」と、公務を終えた後に限られる、節度ある酒宴であった、と指摘している。 
足利邸での響応
先の段にすぐ続く二百十六段でも、同じ時頼の時代の質素な様を次のように記している。
西明寺入道、鶴が岡の社参の次(ついで)に、足利左馬頭(さまのかみ)入道のもとへ、先使をつかはして、立ち入られたりけるに、饗(きょう)設けられたりける様、一献(いっこん)に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三献に掻餅(かいいもち)にてやみぬ。其座(そのざ)には、亭主夫婦、隆弁(りゅうべん)僧正、主人(あるじかた)の人にて座せられけり。
「西明寺入道」時頼が鶴岡の社参を終えて、足を向けた足利邸の饗応の内容が、「一献に打ち鮑、二献に海老、三献に掻餅」で終わる、きわめて質素なものであったことを記しており、これもまた兼好の見た鎌倉での華美な饗宴への批判を背景に語っているのであろう。
そこに登場している足利左馬頭入道(義氏)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の一門であり、北条氏との政争によって多くの大名が滅んでゆくなか、最後に残された有力大名であって、時頼の叔母(泰時の子)を妻にして夫妻して時頼を自邸に迎えたのである。
その場に鶴岡の別当の隆弁が「主方」として座しているが、隆弁は四条隆房の子であって、百八十二段に登場する「乾鮭」の逸話の隆親の叔父である。三井寺に入り、鎌倉に下って当初は将軍藤原頼経の祈祷を行っていたものの、やがて北条時頼の近くに仕えるようになって、宝治元年(1247)六月二十九日には、宝治合戦で行った時頼のための祈祷の功により鶴岡の別当になっている。ではどうして隆弁は「主方」として座っていたのであろうか。
筧雅博氏は、この話の背景として、足利氏が時頼に親しく仕える隆弁を取り込んで、得宗(とくそう)と足利氏との関係修復を狙ったものと解している。義氏の息泰氏(やすうじ)が自由出家の咎で所領を没収される事件が起きたのは建長三年(1251)十二月のことであり、その付近の事情をこの話の背景に読み取ったのである。
しかし義氏の子は隆弁の甥隆親(たかちか)の妻となっており、本来は足利氏と隆弁との関係のほうが強い繋がりがあったのであり、鶴岡八幡宮の帰途のことでもあるから、鶴岡別当が以前からの関係によって「主方」に座ったものであろう。もしこの話が建長三年以後のことならば、その解釈も可能ではあろうが、この話はひとまずは富豪を誇る大名と時の権力者との間にも、倹約の気分の溢れていた時代を物語るものと考えておきたい。
さてその足利邸での饗応の後、時頼が、毎年頂戴している足利の染物が手元に少なくなっていると語ったところ、用意しましょうと義氏は述べるや、染物三十を後日に送ったという。必要に応じて贈物のなされるのがかつての習慣であって、それにひきかえ現今は何かにつけてこの有様である、という兼好の批判がそこに認められる。兼好が間近で見た現実はそれとはすこぶる異なっていたのである。
先にもあげた『政連諌草』は饗応の在り方をも真っ向から批判している。得宗周辺では華美を止め、倹約するように強く求めて、「他方入御(にゅうぎょ)の経営」の停止や、「御内(みうち)恒例の敷設」は粗品を用いるべきことなどを要請している。得宗が諸亭を訪ねると、一門や大名がその接待をするために多くの財が費やされるとして、今後は特別な必要以外の接待は「殿中伺候人(でんちゅうしこうにん)」(御内人)の家であっても、斟酌すべきである、と指摘するのであった。
こうした鎌倉の華美で裕福な様は、東国の三浦の武者の出身である「悲田院尭蓮(ひでんいんぎょうれん)上人」が語る百四十一段からもうかがえる。上人のもとに故郷の人がやってきて、吾妻人は頼みがいがあるが、京の人は承諾の返事はよくとも、頼みにならない、と語った。これに尭蓮は、京の人は心が柔らかく、情けがあるためにきっぱりと「いな」ということができず、偽りをしようというのではないものの、貧しくカのない人が多いために思い通りにゆかないのだと反論し、さらに東国の人に関してこう指摘している。
吾妻人は、我方(わがかた)なれど、げには心の色なく、情(なさけ)おくれ、ひとへにすくよかなる物なれば、初めよりいなと言ひてやみぬ。賑ひ豊かなれぱ、人には頼まるるぞかし。
東国の人の性格を「心の色なく、情おくれ、ひとへにすくよかなる」と率直に語っており、東国では人が「賑ひ豊か」であるという。兼好もそう感じていたことは、上人は声になまりがひどく荒々しいが、この一言を聞いて感心し「心にくく」思った、と記していることからわかる。 
鎌倉の良き時代
質素・倹約の時代を象徴する時頼の二つの話は、ともにその場の目撃者から伝え聞いたと記されており、そこからも眼前で繰り広げられている北条氏家督(得宗)を中心とした酒宴や饗応の華やかさへの強い批判がうかがえよう。
なかでも昔を回顧している一人は、貞時を補佐して幕府を運営してきた大仏宣時なのであった。もう一人の足利邸での饗応を伝えた人物の名は記されていないが、時頼に供奉(ぐぶ)していた人物であろうから、これも幕府を支えてきた人物と見られる。それだけに二つの話は幕府のかつての良き時代を語るものであった。
時頼は祖父の泰時が築いた跡を継いで幕府に安定をもたらし、これに応じて朝廷では後嵯峨院政が開始されて、東西が呼応して政治の安泰を謳歌した時代だった。そうした時代を鎌倉において代表する人物としてもう一人あげられているのが、百八十四段に登場する時頼の母の松下禅尼である。
時頼を家に迎えることになった松下禅尼が、自ら明(あか)り障子の破れを繕っていたところ、これを見た兄の安達義景がどうしてそのようなことをするのか、「なにがし男に張らせ候はむ」(誰某にやらせましょう)と語った。すると禅尼は「其男、尼が細工によも勝りさぶらはじ」と、その男が自分より上手ということはないでしょうと断り、さらに障子の破れた部分だけ張っているのを見て、皆、張り替えたほうがたやすいのでは、と義景が語ると、「き人に見習はせて、心づけんためなり」と述べたという。
女性なれども、聖人の心に通(かよ)へり。天下を保つほどの人を子にて持たれけるは、まことにただ人にはあらざりけるとぞ。
このように兼好は禅尼を高く評価するとともに、時頼のことを「天下を保つほどの人」と指摘している。そしてさらに次の百八十五段では松下禅尼の甥の安達泰盛を高く評価している。「左右(そう)なき馬乗り」である泰盛が、馬を厩(うまや)から引き出した際、馬が敷居をゆらりと越えるのを見て、「勇(いさ)める馬也」として他の馬に代えさせ、次に馬が足を敷居にあてると、鈍い馬だとして乗らなかった、という。その用心深さを称えて、「道を知らざらん人、かばかり恐れなむや」と評している。
泰盛は安達義景の子であり、ともに北条氏の得宗家の外戚であったが、同時に泰盛の娘は金沢氏にも嫁いでいたので、金沢氏の外戚でもあった。話は、北条氏の家督である得宗を支える安達氏を通じて、良き鎌倉幕府の時代を語ったものである。
こうして兼好は鎌倉で多くの見聞をしたのであって、何度も赴いたものらしい。そのうちの二度目の鎌倉行きを物語るのが家集の七十番である。
東へまかり侍(はべり)しに、清閑寺(せいかんじ)にたちよりて、道我僧都(どうがそうず)にあひて、秋は帰りまでくべきよし、申侍しかぱ、僧都
かぎり知る命なりせぱめぐりあはん秋ともせめて契りをかまし
東国に下るに際して、別れを告げたときの清閑寺の道我僧都の歌である。これによれば、ある年の春に立って、秋に帰る予定だったようであるが、道我は百四番の歌には「僧正」と見えるので、この歌は道我が僧都であった時期のものと見てよかろう。
道我が僧都になったのは徳治三年(1308)正月のことで、正和二年(1313)正月には法印になったという(『大覚寺文書』所収「大覚寺譜」)。また道我に宛てた後宇多上皇の院宣を見ると、正和元年五月十二日が「大納言僧都御房(ごぼう)」、同二年六月二十一日が「大納言法印御房」となっている(『鎌倉遺文』24602号、24898号)。道我僧都とあるのは法印になる正和二年以前のことであり、兼好の鎌倉行きは二度とも若い頃ということになる。
この別離の歌の前後には、東海道の所々で詠んだ歌が載せられているので、それらは二度目の道中で詠まれたものであろう。その宇津(うづ)の山での八十番の歌には「一(ひと)とせ夜に入りて、宇津の山をえ越えずなりにしかば、麓(ふもと)なるあやしの庵(いお)にたちいり侍(はべり)しを、このたびはその庵の見えねば」という詞書(ことばがき)がある。この時期には、一度ならず短期間ながらも鎌倉に下っていたのである。
ここで改めて先の二百十六段の宣時の語った時頼の昔話を見ると、「平宣時朝臣、老いの後(のち)、昔語りに」と始まって、わざわざ「老いの後」と記している。兼好が初めて鎌倉に赴いた時には宣時は連署の執権を辞めたばかりであったから、そう記すとは考えられず、二度目の鎌倉行きの際に話を聞いたものか、あるいはさらにもう一度、鎌倉に赴いたことがあって、その時のことかもしれない。宣時が亡くなったのは元亨三年(1323)六月である。では家集の七十六番に「武蔵の国金沢といふところに、むかし住みし家のいたう荒れたるにとまりて」とあるのは、はたして二度目か三度目か、どちらなのであろうか。
家集の二百四十二番には「平貞直朝臣家(さだなおあそんけ)にて歌よみしに」とあって「ふるさとはなれぬ嵐にみちたえて旅寝(たびね)にかへる夢の浮橋(うきはし)」という歌が載せられている。平貞直は大仏宣時の孫であり、幕府の引付頭人(ひきつけとうにん)という要職に座(すわ)った人物で、その邸宅に招かれて歌を詠んだものであろう。大仏氏は多くの歌を勅撰集にとられている、和歌の愛好家であった。
兼好の家集には他に「藤原行朝(ゆきとも)すすめ侍し、鹿島(かしま)の社(やしろ)のうた」として百三十六番から六首の歌が載せられているが、この藤原行朝は鎌倉幕府の奉行人(ぶぎょうにん)の二階堂行朝のことであって、正中二年(1325)三月に出家して法名を行珍(ぎょうちん)と名乗り、室町幕府では引付頭人になっている。また康永三年(1344)十月に足利直義(ただよし)が高野山の金剛三昧院(こんごうざんまいいん)に寄せた『宝積経要品(ほうしゃくきょうよぼん)』の紙背(しはい)に書かれた和歌の作者としても兼好らとともにその名が見えている。これらからして二度目、あるいは三度目には、歌の交流が相当に活発だったことが知られる。
兼好が鎌倉に下ったのは、古(いにしえ)の西行や鴨長明の鎌倉行きを強く意識したものであったろう。百六十五段で「宮(みや)この人の吾妻に行て身を立て」と記しているような、鎌倉で身を立てようとしたものではなく、そこで多くの見聞をして、改めて京の文化を考えることになったことであろう。 
饗応と賄
三献の肴、一杯の盃
饗応もまた食生活の一表現である以上、そこには、太古の昔から積み重ねられてきた民族の性格・習俗といったものが色濃く反映していることは否めない。その意味からすれば、摂政家の第に催される正月の大饗も、敦賀の豪族館における苧粥の※飯振舞も、その根源は、同じ土壌に発しているかにもみえる。ふだんの生活の中ではとても望めぬ献立を、飽きるばかりに享受する。それは、一椀の汁、一皿の餅が、今日のわれわれとは比較にならぬ重みをもっていた時代を生きた人々にとって、日頃の欲求を、思い切り満たすことができる待ちに待った機会だったに相違ない。
ひとたび飢饉が襲えば、たちまち路傍に死者が満ち、地獄絵図さながらの状況を呈した社会のなかで、饗応は、一種の安全弁の役割を果たしていたともいえよう。けれどもわれわれは、より複雑な、より屈折した人間感情の閃きを饗応の場に見出すことも可能ではあるまいか。
[史料]『徒然草』第二一六段
最明寺入道、鶴岡の社参の次(ついで)に、足利左馬入道の許ヘ、先づ使をつかはして、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりけるやう、一献にうちあはび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ。其の座には、亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。さて「年毎に給はる、足利のそめ物、心もとなく候」と申されければ、「用意しさふらふ」とて、色々のそめ物三十、前にて、女房どもに、小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。其時見たる人の、ちかく迄侍りしが語り侍りしなり。
執権時頼の来訪をむかえた「足利左馬入道」は、名執権と謳われた故北条泰時の聟(足利義氏)であった。時頼にとって「亭主夫婦」は、実の叔母とその夫にあたっている。極めて簡素な肴が添えられた三献の饗応は、執権北条氏と足利家との親密さの象徴であるかのようにみえる。しかし、その内輸に催された饗応の席には、もうひとり、主人側として意外な人物が存在していたのであった。
「隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。」僧正隆弁は、この物語の時期、鶴岡若宮別当の地位に在った人物である。つまり彼は、執権を社頭にむかえたその直後、執権に随伴して「左馬入道」亭に入り、饗応の席で「あるじ方の人」として振舞ったことになろう。
たしかに隆弁の甥、四条隆親は「左馬入道」の女を室に入れており、その意味からすれば隆弁の行動について、説明の余地はある。だが、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』をもとけば、かれ隆弁が、なによりもまず、執権時頼の篤い信頼をほとんどその一身にあつめていた、得宗側近随一の護持僧であったことが知られるであろう。執権の来訪をむかえた足利家は、なにゆえ、かくの如き僧侶を「あるじ方」の一人として、饗応の席に加えなくてはならなかったのだろうか。
『徒然草』の筆者は、饗応の席に当然連なっていたはずの人物の存在を、ことさらに無視している。亭主の嫡子であり、執権の姉聟たる足利泰氏その人を。居るべき嫡子(彼はすでに家督を継いていた)は、その名を記されず、かわって執権昵懇の僧侶が、主人側の一人として席に加わる。だが、その背景には、相応の理由が秘められていたのではなかったか。
建長三(1251)年一二月二日、下総国埴生荘において泰氏が突如出家を遂げたという事実を、この饗応譚にかさねあわせてみれば、泰氏の不在と隆弁の介在は、表裏ふたつながらあいまって、あらたな意味をもってくる。
泰氏の出家は、幕府の忌諱に触れ、埴生荘は、老父「左馬頭入道」の嘆頼にもかかわらず、収公された。足利家がうけた傷手は、たんに嫡子を失った、というだけにはとどまらぬ。この時代、その実否の如何によらず、一片の巷説が、ただちに一族の滅亡を招いた例は、枚挙にいとまがない。
おりしも摂家将軍から親王将軍への移行期にあたり、源家の嫡流をもって任ずる足利家は、さなきだに微妙な立場におかれていたのであった。かかる状況下にある足利氏にとって、問題を泰氏個人の次元にとどめつつ、幕府すなわち北条氏とのかわらぬ関係を、広く世間に示すことが切望されていたに相違ない。
最後の一句「語り侍りしなり」によって、『徒然草』の筆者は、饗応の席に出入りしていた人物から直接聞き取ったことが知られる。『徒然草』執筆の時期が、もしも大方の説がれるごとく、北条氏から足利氏への政権交代期にあたっていたとしたら、兼好が如何なる意味を行間に注ごうとしたか、なお臆測を試みる余地はあるかと思われる。古き良き時代への讃歌とみられてきた、この逸話は、新時代の権力者のうえをかつて幾度が襲った政治的危機のひとつが、懸命の努力によってともかくも払拭された、その忘れ難い瞬間をとらえていたがゆえに、ながく語り伝えられたのではあるまいか。 
 
歴史物語 [南北朝]

 

1 元弘の乱 
(1) 北条氏の執権政治
古典軍記物で「平家物語」と並び称されるのが「太平記」であり、その作者は小島法師である。では小島法師は誰か。当時、熊野本宮の荘園だった備中の児島ノ庄(*1)にいた山伏であると云う説がある。
三山の動静や修験者と縁の深い楠木正成に対する深い同情ぶりから見て恐らく飛鳥長床(*2)と呼ばれる修験行者だったと思われる。その書き出しを「太平記」は「後醍醐天皇と武家政治」の章から始めているから、それに習い話を進めよう。
「三上皇の流罪」と云う、臣下にあるまじき大事件を起しながらも、北条義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時の執権政治は
「名利を望まず、謙虚にして民に仁恩をほどこす」と云う明恵上人(*3)の教えを旨とする貞永式目(*4)を遵守し、極めて安定した政治ぶりで元寇の国難も見事に突破した。
然し勝利は得たが領土がふえた訳でなく、元に備える軍事費や将士に対する恩賞等の財源に苦しみ、全国の半ば近い三十余国を北条一族で占め、専制政治で乗切った。
然し、若い八代執権・高時になると田楽と斗犬にうつつを抜かした。執事の長崎高資は欲深で賄賂を専らにしたから、天下の人心は漸く北条氏から去り、革新政治を望む声が大きくなった。

(*1) 児島高徳は、和田備後守・範長の子。備前国児島郡の生まれ。熊野修験の太い分流である児島修験の中で育った。伝承によると、修験道の開祖・役行者の高弟・義学が、熊野権現のご神体を吉備の児島に安置。これによって児島修験が開かれた。
(*2) 熊野本宮では本殿前の長床(礼殿)を本拠とする長床衆という山伏の集団があった。
(*3) 華厳宗の僧。紀伊国の生れ。四歳にして両親を失い、高雄神護寺に文覚の弟子・上覚を師として出家。仁和寺・東大寺で真言密教や華厳を学び、将来を嘱望されたが、紀伊国有田郡白上や同国筏立に遁世。後鳥羽上皇から山城国栂尾(とがのお)を下賜されて高山寺を開山。戒律を重んじたので、念仏の信徒の進出に対抗し、顕密諸宗の復興に尽力。
(*4) 御成敗式目(ごせいばいしきもく)。武士と庶民の法律。それまでの律令(りつりょう)は貴族の法律。権力は武士、天皇(貴族)は権威。この政治体制は、明治まで続く。その源泉は明恵上人の哲学、「あるべきようは」と、それを実践した北条泰時の政治による。 
(2) 後醍醐天皇の即位
やがて文保二年(一三一八)八月になると、かねての両統交替案(*1)に基づき持明院系の温和で向学心に富んだ九十五代・花園天皇が退位して大覚寺系で新進気鋭の皇太子が九十六代・後醍醐天皇として帝位に就いた。
亀山上皇に愛されて育ち皇太子時代から豪気闊達な性格の上に和漢の学にも優れていた。しかし「英雄色を好む」の諺通り女性関係は放埒と称して良く、西園寺太政大臣の娘を強奪して皇后にした。かと思えば、御所第一の美女と云われた阿野廉子を始めその生涯に十八人の后妃から、男女合せて三十六人の子女を産ませた程の豪の者でもある。
それだけに持明院系では大いに警戒し、幕府に
「亀山上皇に朝権回復を遺言されているから、皇位に就けば必ず大乱になる」と力説した結果、
「在位は十年限りとしその皇子は皇位に就けない。皇太子は持明院系の皇子とする。」と云う条件付でやっと玉座に就かれた。豪気な性格だけに心中穏やかではなかったろう。
けれど就任当時の新帝は精励格勤、日夜政務に没頭され、先帝花園上皇が帝徳論で述べられた如く、
「日本は神国であるから天皇もそれにふさわしい徳を備えねばならぬ。天皇に徳があれば皇位も天下も安泰となり、道義にそむき徳を失する行いがあれば、天の怒りによって皇位も危うく万民を苦しめる乱世となる」との教をよく守られた。
その日常を見て花園上皇さえ
「聖の君が出現されたり」と、讃えた程である。各地にやたらと多い関所を廃して民を喜ばせ、飢饉に乗じ暴利をむさぼる奸商に米一斗百文の定価で売らせる。自から裁判を行い正邪を正す等、善政をしている。 
(3) 朱子学
新帝は「民の憂いは朕の罪なり」とされた醍醐天皇を理想として自から後醍醐と号された。父の後宇多上皇に要請して長く続いた院政を廃止し、親政体勢を樹立する。側近の「三房」と呼ばれた北畠親房、吉田忠房、万里小路藤房の参謀役や日野資朝、俊基ら新鋭の青年貴族を抜適して次々に親政の実を挙げていった。
好学の帝は当時流行した宋学の研鑽にも熱心だった。宋学とは朱子学の事である。北方の蛮族・金の侵攻によって江南に遷都し、漢民族は崩壊の危機に立たされていた。その精神昂揚の為に、朱子(*1)は司馬光の「資治通鑑(*2)」を解説して、
「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、古聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開くべし」と説く。王道を旨とする正統の天子と、覇道による支配者に区別し、宋帝に忠誠な士を善、覇者に従う者を悪、と断じる大義名分を説いた。
それが後に日本に渡り、南禅寺の僧・虎関は「元享釈書」を書いた。
「日本の神聖な国体の特質を明らかにすると、正統の支配者は天皇であり幕府は覇者でしかない。天皇が幕府を倒して奪われた政権を回復する事は絶対の善であり、それは宋学によっても明らかである」と論じた。

(*1) しゅし。宋(中国)の儒学者。(一一三〇〜一二〇〇)儒教の体系化を図った儒教の中興者。所謂、新儒教と呼ばれる「朱子学」の創始者。
(*2) しじつがん。北宋(中国)の司馬光が編纂した編年体の歴史書。一〇八四年の成立。収録範囲は一三六二年間。紀元前四〇三年の戦国時代の始まりから、九五九年の北宋建国の前年まで。当時の史料で散逸したものが少なくないため、近代以後も有力な史料。 
(4) 討幕運動1
これが後醍醐天皇や若き公卿達に大きな影響を与えた。机上の議論に止まらず、討幕運動に駆り立てられたのはなぜか。漸く天皇親政の世を実現したのに、十年で否応なく皇位を譲らねばならない。数多い優れた皇子に恵まれながら我子を皇位に就かせる事は出来ない。この約定に縛られていたからである。
かくて兵力を持たぬ後醍醐天皇が討幕戦力として期待したのはまず南都北嶺の大社寺や吉野、熊野三山の僧兵達。そして、大覚寺系の皇室領や、各地の反北条系豪族だった。
策謀好きな後醍醐天皇は皇子を叡山の座主とし、名ある大社寺院には行幸したり寄進を重ねて人気を集めて味方に誘う。有力な豪族達には日野兄弟がこれに当った。近畿一円は弟の俊基、東国地方は兄資朝が担当して、得意の宋学による大義名分論を説いて廻り、天皇に対する忠節を求めた。
俊基は、熊野湯ノ峯で病を治すと称して山伏姿で都を出ると近畿各地を廻ったが、当時の宮方(後醍醐派)と思われる豪族は次のようだった。
大和─興福寺の支配から独立せんとする南大和の越智、戒重西阿、宇野、二見や吉野山伏團
伊賀─御所に仕える大江氏、天台宗赤目山伏、増地、服部氏。
伊勢─神宮領の度会、潮田、愛須、古和氏。
熊野─三山豪族、八庄司、南郡の木ノ本、榎本氏。
紀伊─阿瀬川、湯浅、高野山、根来寺の僧兵團。
河内─楠木、和田、恩地、橋本氏。
其他─承久ノ乱(*1)で宮方となり所領を失い雄伏して時を待っている武将。

(*1) 武家政権(鎌倉幕府)と京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れた。後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に流される。乱の後、幕府が優勢になり皇位継承などに影響力を持つ。 
(5) 討幕運動2
そして俊基は新宮五人衆と呼ばれる、宮崎、新宮、楠木、矢倉、蓑島氏や水軍で知られた鵜殿一族を訪ね「尊皇討幕」を説いた。しかし鵜殿一族は、承久ノ乱で上皇から裏切られ非道い目に会っているだけに、
「宋学をまるで神のお告げのように云うが、世の中は『大義名分論』のみで通るものかい。その証拠に宋はとっくに亡んでしもうたわ。うっかり青公卿の口車に乗ったら承久の二の舞じゃ」と説く年寄共が多かった。新宮楠木、鵜殿、色川等の若手が俊基の熱意に感動しても到底挙兵に尽力する気力は無かったようだ。
田辺別当の定遍以下は大の幕府方だった。高野、根来の僧兵達も応じる気は無く、吉田定房らの幹部は
「天下の大勢から見て、討幕挙兵は時期尚早」と諫め続ける。
それでも後醍醐天皇は退位の期限が近づくと断呼計画を進めた。始めは新帝を讃えていた花園上皇も
「君臣共に狂人の如く云うべき事もなし」と嘆かれた。持明院派(反後醍醐派)の貴族達は一日も早く皇太子・量仁(光厳天皇)の即位をと幕府に働きかけた。 
(6) 討幕運動の露見
やがて正中元年(一三二四)秋、遂に討幕の密謀が露見して土岐頼兼、多治見国長は討死、日野兄弟は捕らえられた。後醍醐天皇は
「朕は何も知らぬ、側近共が勝手にやった事」と白を切られる。
坊ちゃん育ちで人の好い処のある高時はそれを信じて、資朝は流罪にしたが俊基は無罪放免した。持明院派(反後醍醐派)は
「好機来れり!」と譲位運動を一段と活発に進めた。
約束の退位期限の嘉暦三年(一三二八)が来たが、幕府は奥州の叛乱鎮圧に追われていていた。後醍醐天皇は再び俊基を登用して計画を促進させ、文観ら気に入りの僧に関東調伏の祈祷を命じ、高野山や園城寺には荘園を寄進して協力を求めた。
いっぽう持明院系の大御所である後伏見上皇は譲位の早期実現を洛中の名社に祈願して待ち兼ねていた。そして元弘元年(一三三一)春、討幕の密謀を知るや直ちに早馬を鎌倉に飛ばせた。
それを知った後醍醐天皇は苦肉の策として側近の吉田定房に
「首謀者は文観や俊基である」と鎌倉に密告させて幕府の追求を免がれんとした。 
(7) 後醍醐天皇、東大寺へ
文観らは忽ち捕えられ鎌倉に送られた。厳しい取調べで文観らはすべて後醍醐天皇の意向である事を自白して流罪となった。しかしそれを聞いた持明院系に
「何と手ぬるい、もっと厳罰にせねば今に天下は大乱となるぞ」と執権・高時を脅した。高時も漸く肚を決め、佐渡の資朝を処刑し、俊基を鎌倉に召して糾明の上、処断する事にした。
そして俊基を取調べの結果、幕府は
「この帝が在位する限り天下は治まらぬ。承久の例にならい天皇は退位させて遠島。最も過激な大塔ノ宮は処刑して泰平の世に帰さん」と結議し、二階堂真藤に二千の兵をさずけて上洛させる事になった。
これより数年前、討幕挙兵を計画した後醍醐天皇は数多い皇子の中で年長で覇気に満ちた護良親王を比叡山に送り込んでいる。護良親王は、尊雲法親王として天台座主に任ぜられ、三千の僧兵を味方につける事を命じられていた。
秘命を受けた親王は、僧兵達と共に専ら武芸の鍛練に努められた。大塔を住いにしていたので、「大塔ノ宮」と呼ばれていたが、密偵の急報により幕府の行動を知った宮は、直ちに行幸を願う急使を走らせた。
後醍醐天皇も
「今度はもうごまかせぬ」と北畠具行らに六波羅を襲わせた。叡山に移って天下に討幕の兵を募る計画を進めていただけに「スワこそ」と直ちに三種ノ神器を抱き御所を脱出された。途中で花山院・師賢に、
「朕を装ほい、叡山に登って戦え」と命じると自分はこっそり奈良の東大寺をめざした。 
(8) 後醍醐天皇、笠置寺へ
敵をあざむく策謀とは云え、叡山で僧兵達と苦労を共にし、帝を待ちわびている大塔ノ宮の立場などは少しも思いやらぬ下策である。坂本まで迎えに出た宮がそれを知るとガックリきたに違いない。
帝の行幸と知ってこそ僧兵達は勇み立ち、幕府の大兵を相手に決然と立って呉れたのである。それが偽物と知れた時、剛直一途の彼らがどんなに腹を立てるか長年彼らと寝食を共にして来た宮にはそれが痛い程よく判っていた。
仕方なく師賢を帝に接するような物腰で迎えると奥ノ院を行宮として幕兵に備えた。僧兵達も誠の帝と信じて大いに奮戦し、緒戦は見事に敵を敗走させ、全山の意気は大いに揚った。
然し何時までも騙し続けられる筈はなかった。或日、行宮の御座所にかけられた簾が山風にゆれた隙間から花山院と知った僧兵は
「何じゃ我らまでを偽られて」と怒り出した。
「あれ程信じていたのに大塔ノ宮までがぬけぬけと怪しからぬ」と大騒動となった。
「こうなったら、いっそ宮と共に六波羅に突き出して合戦の詫にしようではないか」と云う声まで聞え出したから、剛気な宮もやむなく僅かな腹心達と共に秘かに山を抜け出される。
其頃、天皇は東大寺を頼ったものの塔頭に北条の一族がある事が判った。急ぎ鷲峰山金胎寺に移り、ここも気に入らず笠置寺に入ると八方に兵を募られた。これを知って真先に馳せつけたのが伊賀の島ケ原の郷士達である。
彼らは源京綱(源三位頼政の嫡男・仲綱の三男)を祖とする。以仁王を奉じて平等院で奮戦したものの祖父も父も討死した。忠実な郎党に守られて島カ原の正月堂に住みついたのが始まりで、この当時は滝口重春以下十八家に栄えていた。
彼らは治田郷の上島入道らと共に勇将で知られた足助次郎の部下となり、一ノ木戸の守備を命ぜられ、大いに武功を輝かした。後の論功行賞で、菊紋の陣幕と宝刀を賜り、三ツ星の馬印を許されて、後世に伊賀郷士の名を残す事になる。 
2 正成と大塔宮 

 

(1) 後醍醐天皇の霊夢
元弘元年(一三三一)八月、笠置寺に入られた後醍醐天皇は標高三百米近い岩山の頂上の修行道場を行宮とした。兵を募られたが、大寺や名ある豪族の参ずる者もなく行宮を護る兵も少ない。
天皇は三河の足助党や伊賀、柳生の地侍達に囲まれながら先を案じられていた。或夜、南に枝を拡げた巨樹の下に玉座が設けられて居り二人の童子が現われると
「天下に身を寄せられる場もなき今、しばしはあれにお休みあれ」と涙を流しつつ、かき消えた夢を見られた。
後醍醐天皇はこれを霊夢と感じられ、南の木は熊野権現の神木の椰であるから童子は権現のお使いであろう、それに木偏に南を書けば楠木となる。
「近くに楠木と名乗る武士はなきや」と寺の長老に尋ねられた末に楠木正成(*1)を召された、と太平記は述べている。
けれどそれはフィクションであろう。当時の楠木正成は決して一介の郷士等ではなく、幕府の信頼も厚い豪族だ。その所領も和泉、河内、紀伊で併せて七千貫(貫七石と見て約五万石)の大名である。
従って天皇は、かねて俊基からも、宋学にも詳しく文武両道に秀でた尊皇思想の持主である事を聞かされていたに違いない。

(*1) くすのきまさしげ。(?〜一三三六)。武将。幼名、多聞丸(たもんまる)。明治十三年(一八八〇年)に、贈正一位。父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしない。 
(2) 楠木正遠(まさとお)
凡そ太平記に登場する何千何万と云う武士の中で最も輝かしい存在は正成である。しかし、その活躍は元弘から延元までの僅か五年に過ぎず、出自に就いても明らかではない。
楠木系図によれば、橘氏で左大臣・橘諸兄(*1)を祖とするが、「正遠─俊親─正成」とするものと、「正俊─正康─正成」の両説がある。正俊の時代に河内金剛山下の七郷を支配し館の周囲に楠が繁っていたので楠木と称されたと云われているが、要するに歴史上では良く判らないのが定説である。
「熊野年代記」によれば、古代熊野の文化的巨人「秦ノ徐福(*2)」を祖とし、その墓碑の眠る「楠薮」と呼ばれる地に住み、代々新宮大社の要職を占める神官であった。
平安の弘仁年間、唐から亡命して来た将兵による南蛮の乱(*3)に熊野三党の軍師として活躍した楠富彦は代々新宮大社の三ノ太夫を勤めていた。この功により一族の中で都に召されて検非遣使に仕えた者がいた。その子孫に楠正定と云う人物がいて、その娘が橘盛仲に嫁いで正遠を生んだと云う。
正遠は本家熊野楠氏の縁により三山神領の下司職などに任ぜられ、河内金剛山麓を本拠とした。姓も楠から楠木と改め、播磨の荘園(*4)まで勢力を伸ばしていったようだ。
その頃、熊野の楠氏は別当嫡流の宮崎家の補佐役として衆徒(僧兵)と飛鳥長床(客僧)を支配し権勢を振っていた。正遠と熊野楠氏は、金剛山頂の修験道場に出入りする山伏達を通じて、昵懇の仲だったらしい。

(*1) 奈良時代の政治家。元皇族、葛城王(かつらぎのおおきみ)。敏達天皇の五世子孫。母の姓を継ぎ、橘諸兄に。国政を担当し、聖武天皇を補佐。左大臣、正一位。生前に正一位は日本史上、稀。孝謙天皇の時、藤原仲麻呂(恵美押勝)の力が増し、辞職。以後隠居。
(*2) じょふく。秦(中国。紀元前三世紀頃)の方士。秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と具申し、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。(司馬遷『史記』)日本各地に徐福伝説があり、和歌山県の那智勝浦町や新宮市が、特に有名。
(*3) 熊野伝説。嵯峨天皇の御宇(ぎょう。帝王が天下を治めている期間)弘仁元年(八一〇)十二月二十八日、南蛮の乱あり『外交志稿(外務省)』。新興部族の旧海人系部族に対する制圧戦だったことを想定させる『熊野の伝承と謎(下村巳六)』。諸説あり。
(*4) 次節参照。 
(3) 楠木正成1
河内は清和源氏発祥の地だけに、その守護には源義家以来の名門・石川氏が就任している。楠木氏はその地頭を勤めながら次第に勢力を拡げ、建久元年(一一九〇)頼朝が上洛した際に随行した武士の中に、始めて楠木四郎の名が記されている。
下って永仁二年(一二九四)の東大寺文書によると、播磨の荘園の農民から
「近年、悪党の楠河内入道が年貢を横取りしてしまうのでひどく困っている」と訴えられているのは正遠らしい。(*1)
大覚寺系に属した河内観心寺(*2)の寺伝によれば、正遠には四男一女があり長男が俊親、次男が正成で、彼は永仁元年(一二九三)の生れと云われる。八歳から十五歳まで同寺で修行した。
生来好学心に富み、学問は天皇の侍僧だった文観(*3)の弟子・滝覚坊(りゅうかくぼう)が観心寺にいたので彼から学んだ。この滝覚坊は和田義盛(*4)の子孫と云われ、特に弘法大師の「心地観経」により四恩(*5)に対する感謝を深く心に刻み込んだと云う。
そして軍学は観心寺から一里ばかり離れた加賀郷二百貫(千五百石)の豪族・大江時親(*6)を師と仰ぐ。かつて大江定基(*7)が中国から翻訳して送って来た「孫子」や六韜三略等の軍書を伝授された。
十五歳の時、兄の俊親が早死した為に楠木家の嫡子となった。此ころになると守護の石川家は衰えて、楠木家は河内きっての豪族となる。徳治元年(一三〇六)の初陣では、大敵・八尾氏を少年とは思えぬ軍略家ぶりを発揮して破り、人々を驚嘆させている。

(*1) 東大寺領播磨国大部荘。最近の研究で、永仁年間の悪党事件が、実は正応五年(一二九二)に始まったこと、大部荘の悪党「河内楠入道」が楠木正成の一族である可能性が大きくなったようだ。
(*2) 大阪府河内長野市寺元475。大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。▽「楠公学問所中院」と彫られた石柱がある。「中院」は楠木正成が8歳の時から15歳までの間の学問所とされる。また、湊川で討ち死にした楠木正成の首が届けられた時、正行(まさつら。正成の長男)が切腹しようとした所ともいわれる。▽「建掛塔(たてかけのとう)」が建っている。この建物は三重塔の建立予定だったが、楠木正成が湊川で討ち死にしたので、初重の段階で未完成のまま現在に至ったものといわれる。▽「楠木正成の首塚」がある。楠木正成が湊川で討ち死にした後、足利尊氏の命令で正成の首が当寺に届けられ、ここに葬られたとされる。
(*3) もんかん。後醍醐天皇に重用され、鎌倉幕府の調伏などを行っていた事が発覚し、硫黄島へ流罪。鎌倉幕府が滅亡すると京都へ戻り、建武の新政から南北朝時代となっても後醍醐方に属して吉野へ随行。楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物とも考えられている。
(*4) わだ よしもり。武将。鎌倉幕府の初代侍所別当。頼朝死去後、梶原景時の弾劾追放では中心的な役割を果たすが、二代執権北条義時により挙兵に追い込まれ、敗れて戦死。和田一族も滅亡した。
(*5) 父母の恩・社会の恩・国家の恩・三宝の恩。三宝とは、仏・法・僧。
(*6) 平城天皇を祖とする。大江家は、文筆家・兵法家の家系として著名。時親の曽祖父・広元は源頼朝の家臣。広元の曽祖父が源義家に兵法を伝授した大江匡房。時親は、滝覚坊の依頼により正成に兵法を伝授。正成の兵法家としての基礎はこの時培われた。
(*7) 伊賀平氏を参照。 
(4) 楠木正成2
正成が妻を迎えたのは何歳か判らない。恐らく周辺の豪族の娘を貰って勢力の拡大を計ったに違いないが、その妻は三人の娘を産むと早死したらしい。
父が亡くなったのは正和四年(一三一五)彼が二十二歳の時で、その所領は四千貫(二万八千石)。文武両道に優れた一門の若きホープと仰がれていた。
そして当時、宋学の第一人者と称された玄恵法印(*1)の妻は楠木一族の出で、その子が禅で有名な祖曇(そどん)だから、天皇側近の万里小路藤房とも交友を深めたものと思われる。
そんな関係からだろう。藤房の妹・久子を後妻に迎えたと云われる。嫡子・正行(まさつら)が生れたのは嘉暦元年(一三二六)である。正成はもう三十二歳になって居り、恐らく事実だったろう。続いて正時、正儀(まさのり)と優れた武将を生んでいる処を見ても、彼女は貞節な良妻賢母だったに違いない。
少し前の元享二年(一三二二)、正成は、摂津の渡辺・紀州の湯浅・大和の越智勢の掃討を幕府に命じられた。正成は、六波羅軍が散々に手こずった彼らを、農民・散民・山伏等を活用した独特の新戦法で次々に破った。幕府は喜んで兵衛(*2)の官職と三千貫の所領を加増している。
従って当時の正成は河内東条に居城を持つ五万石の大名である。抜群の戦さ上手であり、また領内の様々な領民を適材適所に活用して金剛山中から産出する水銀等の鉱産物で財力を高めている。散所(*3)出身の異色の武将として広く知られていただろう。

(*1) げんえほういん。天台宗の僧・儒学者。玄慧とも。虎関師錬(*1-1)の弟とも。天台教学を学び、法印大僧都に就任したが、一方で儒学や漢詩文にも通じていた。倒幕の密議の場で書を講じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じた。「太平記」建武の新政が崩壊後、足利氏に用いられ「建武式目」の起草に関与。寺子屋で習字や読本として使用された「庭訓往来」の作者。1350年、死去。
(*1-1) 虎関師錬。こかんしれん。臨済宗の僧。1322年(元亨2年)「元亨釈書」を著す。仁和寺・醍醐寺で密教を学ぶ。1339年(暦応2年・延元4年)南禅寺の住持。1341年(暦応4年・興国2年)東福寺海蔵院に退き、翌1342年(暦応5年・興国3年)後村上天皇から国師号を賜った。1346年、69歳で死去。
(*2) ひょうえ。兵衛府(ひょうえのふ)の四等官(しとうかん)以外の武官。
兵衛府とは、律令制の官司(かんし。官吏、役人の意)の一つ。宮門の守備、行幸・行啓の供奉、左右両京内の巡視などを担当。左右二府があり、四等官のほか兵衛四百人などが所属。
四等官とは、諸官司の四等級の官。長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)のことで、官司によって用字が異なる。
・長官(かみ)は最上の官位。庁務を総括する責任者。「上(かみ)」の意。人の上に立つから。
・次官(すけ)は第二位。職掌は長官(かみ)と同じで、長官を補佐し、時にその代理をする。
・判官(じょう)は第三位。庁内の取り締まり、主典(さかん)の作る文案の審査、宿直の割り当てなど。
・主典(さかん)は最下位の官。記録・文書を起草したり、公文の読み役を務める。佐(たすけ)る官の意の「佐官」の字音から。しゅてん。
(*3) さんじょ。古代末期〜中世、貴族や社寺に隷属し、労務を提供する代わりに年貢を免除された人々の居住地。また、その住民。鎌倉中期以降、浮浪生活者などを散所と呼び、多く賤民視された。中世末〜近世、卜占(ぼくせん)や遊芸を業とする者も現れた。 
(5) 正成、笠置に参上
正成の妹(卯木。うつぎ)が、伊賀の有力豪族である服部元成に嫁いで(駆け落ち)いたので、彼らとの繋りも深い。京都御所の台所役人となっていた名張の大江本家(*1)とも決して無縁ではなかったろう。
正成の妹の生んだ子が、かの有名な能楽の大家・観阿弥(*2)で、彼が素性をかくして足利将軍に近づき、南北合一をすすめ天下泰平の世の到来に活躍した秘話については時を追うて語る事にしよう。
従って元弘元年(一三三一)八月末、勅命を受けた万里小路藤房が河内を訪れた時、正成には他の武将達のように幕府に対する個人的な怨や、領土欲や出世欲などの名利私欲は一切なかった。
正成はかねて宋学から学んだ王道思想と「大義名分論」に対する彼の信条から、また尊皇討幕の情熱に燃えて先駆しながらもその日を見る事もなく散った日野俊基との男の誓と天皇親政後の散民に対する平等政治への期待、そんな数々が正成を立たせたに違いない。
藤房に対して爽やかに
「弓矢とる武夫としては此上もなき名誉であります」と答え直ちに笠置に参上し、それを聞いて後醍醐天皇は多いに喜び、
「直ちにこれに呼べ」と破格の待遇で側近く召され、今後のとるべき作戦を尋ねられたのは、かねて俊基から文武両道の優れた軍略家と聞かされていたからだろう。
静かな口調で、
「凡そ天下を平定するには武力と智謀の二つが肝要であります。関東勢の武力は絶大ながら智略に乏しき点あり恐れるには及びませぬ。
ただ勝敗は兵家の常なれば、一時の勝敗は気にかけられず正成一人生きてあらば、必ず聖運は開けると思し召せ」と、日頃は謙虚な正成が珍しく大言を吐いたのは、後醍醐天皇の不安を休める為と、彼自身の不動の信念でもあったろう。

(*1) 現在の名張市梅が丘に、大江一族の居城やその氏寺の大江寺があったと云われている。名張市大屋戸字大江寺の番地名が現在も残る。「梅が丘」の名は、近くの杉谷神社に祀られている菅原道真公の梅の紋所に因んでいる。
梅が丘の西隣「短野」には大きな五輪塔があり、杉谷神社を氏神とする東大寺荘園の荘官で名張最大の豪族、大江定基の墓と云われている。大江定基は東大寺から派遣されこの地を治めた。
天平勝宝七年(七五五)、伊賀国・名張郡(*1.1)に板蝿杣(いたばえのそま)を四至(*1.2)に限り、東大寺領に施入(せにゅう)『東大寺文書』。
(*1.1) 当時は国境が確定されておらず、豊原や波多野(共に山添村)などの大部分が伊賀領と見なされていた。
(*1.2) しし。東限・名張河、西限・小倉立蘇小野(こうの)、南限・斉王上路、北限・八多前高峯並鏡滝。
(*2) 四条畷の玉砕を参照。 
(6) 正成、赤坂山に築城
勅に応じた将兵は五千騎を越えた。正成は笠置を守る諸将と協議の末、河内に後醍醐天皇を迎えるべき城を築く事となった。直ちに帰途に就いたが、正成の人柄を見て大いに惚れ込んだのが大塔宮である。大塔宮は、後醍醐天皇に願って、正成と共に河内に向われた。
河内東条の館に帰った正成は急いで領民を総動員して築城工事を急いだ。その傍、食糧の確保に努めたらしく、当時の臨川寺の記録によれば「悪党楠木兵衛尉が乱暴な略奪を行った」と残されている。(*1)
然しこれは私事ではなく大塔宮の令旨による軍事行動である。後醍醐天皇を迎えて天下の大軍を支え抜く為には必要欠くべからざる処置であった。

(*1) 和泉の若松荘を楠正成が押妨したと臨川寺が訴えた『臨川寺文書』。若松荘は後醍醐の子・世良親王の死後、後醍醐が臨川寺から取り上げ、醍醐寺の道祐に与えた荘園。臨川寺の訴え後、後醍醐は若松荘を臨川寺に戻している。 
(7) 笠置山、落城
河内で昼夜兼行の籠城準備が続いていた九月始め、笠置山では七万と号する幕府勢の包囲攻撃が開始された。六波羅奉行・糟谷宗秋、隅田次郎に率いられた大軍がつづら折りの急坂を三の木戸、二の木戸と次々に攻め破って仁王堂の前まで攻め上った。
けれど一ノ木戸を固めた足助次郎の強弓と奈良般若寺の本城房や伊賀郷士らに悩まされ死傷続出。谷は死骸で埋まって後には地獄谷と呼ばれ、木津川は血で染め紅葉を散らしたようで、攻めあぐんだ寄せ手は遠巻きにして日を過ごした。
九月半ば、河内の楠木が挙兵して館の後に聳える赤坂山に築城して立て籠った。備後の桜山も吉備津ノ宮で叛旗を翻したとの急使が鎌倉に飛ぶ。驚いた北条高時は更に二十万の大軍を召集して一路怒涛の如く馳せ下らせた。
笠置城を囲んだ寄せ手の中に備中の陶山義高と云う勇将がいて、九月末の嵐の夜、城北の大岩壁を一族郎党五十余人と共に必死によじ登り、風雨にまぎれて城内に潜入した。
城方では大手の木戸には伊賀の大江、服部、富岡、増地ら千余騎が固め、搦手の東口は大和勢、南の坂口には和泉、紀伊勢が固めていた。しかし北口は絶壁を頼りにし、警備も手薄だった。
その隙をついて、陶山勢が行宮の裏手に放火して暴れ廻った。これに呼応した寄せ手の大軍が勢い立って攻め立てたので伊賀勢の力斗空しく落城する。後醍醐天皇や公卿達は裸足のまま赤坂城めざして風雨の中を逃げ落ちた。 
(8)後醍醐天皇、捕縛
始めのうちは後醍醐天皇を護って供をしていた人々も何時か散り失せて、藤房、季房の二人だけとなった。後醍醐天皇はみすぼらしい農夫姿に身をやつし歩き慣れぬ足をふみしめ山路を辿られた。
後醍醐天皇たちは、三日間は食べる物もなかった。昼はかくれ、夜は宛なくトボトボと辿るうち方向を間違えた。山城の有王山の麓に出てしまい、岩を枕に仮寝されつつ
さして行く 笠置の山を 出でしより 天が下には 隠れ家もなし
と後醍醐天皇が詠じられたのは有名な話である。こんな中にも歌心を忘れぬあたり、豪毅にして優雅な帝王らしい人柄が判る。
艱苦の末に、山城の地侍に捕えられてしまう。惨めな莚輿に載せられて奈良に向ったが、同じように尊良、宗良親王ら主だった者だけでも六十余人が捕えられた。
花園上皇はその惨めさを聞かれて、
「天下静安となり悦ぶべしと云うも、王家の恥、これにしかず」と歎かれている程である。
さてこれより先、天皇が御所を脱出して挙兵されるや、幕府はかねて持明院系の要望通り皇太子量仁王を即位させ光厳天皇とした。けれども次は大覚寺系の後二条天皇の皇子を皇太子と定めた。両統交替の約定を守っているのは、後の足利幕府に比べて遙かに誠実な政府だった事が判る。 
(9) 赤坂城の攻防
笠置が落ちた頃、正成は赤坂城の突貫工事に懸命になっていた。太平記にも
「城の三方は岸高く屏風を立てたる如し」とある通り、東と北は東条川が自然の堀となる。西は佐備川をへだてて岳山が聳え、南に拡がる平野の彼方に金剛山が霞んで見える要害の地だった。
十月に入ると幕軍は四道から進撃を開始した。第一軍、大仏貞直勢は宇治から、第二軍、金沢貞将勢は生駒山麓より、第三軍、江馬四郎勢は淀川を下って天王寺より進む。第四軍、足利高氏勢が伊賀を廻ったのは大江、服部ら正成と縁の深い豪族達の協力を絶つ為だった。
総勢合せて二十万の大軍は石川河原を遡って城に迫ったが、僅か二町四方の地に塀を巡らし、櫓を建てたちっぽけな城を見て
「あな、哀れの様よ、我が片手にて投げ捨つべし」と笑い、鎧袖一触の勢いで先を争って突進した。
正成はかねて五百の兵のうち弓の名手二百を城内に止め、三百は正季が率いて近くの山に伏せておいた。
「ただ一揉み」と城に押寄せた敵は猛射を浴びて忽ち千余の死傷を出した。 
(10) 正成、赤坂城を焼く
「これは手強い、まず腰をすえて攻め直そう」と軍を退いて幕舎を設け、鎧兜を脱いで休息を取り始めた。
これを見た正季(まさすえ。楠木正成の弟)は「時は今ぞ」と急襲した。城中かられそれに呼応して出撃したから、さすがの関東武士も大敗を喫した。
続いて釣塀作戦や熱湯作戦など思いも寄らぬ巧みな戦法で手ひどく奔弄され、やむなく兵糧攻めの持久戦となった。
二十日余りの籠城の後、笠置が落ちて後醍醐天皇が捕えられ、神器は新帝・光厳天皇に引渡され、やがて流罪になる、と云う情報が都に忍ばせた密偵から届いた。正成は大塔宮と協議の上、ひとまず城を焼いて自刃したと見せかけ、再挙を計る事となった。
腹心の山伏に案内させて、大塔宮を一足先に金剛山の山伏寺に落した。十月下旬の風雨の夜、城に火をつけ自刃したと見せかけ、正成以下は無事に脱出に成功した。
寄せ手は焼け落ちた城内の多くの死骸を見て、これが正成の策とも知らず
「敵ながら天晴な武将であった」と口々に誉め讃えつゝ凱歌も高らかに都に帰った。まさか当の正成一族が河内観心寺の宿坊に潜んでいようとは夢にも思わなかったようだ。 
(11) 正成、金剛山で戦略を討議
元弘元年(一三三一)十月の末、大塔宮と正成一族は無事に金剛山頂にある真言宗転法輪寺の山伏道場に集まった。今後の戦略を討議の末、正成らは金剛山、赤坂一帯に一大陣地を構築して再挙を計る。大塔宮は南部の情勢を探りながら熊野に落ちる。新宮大社の楠一族らの協力を得て熊野、吉野、十津川一円に同志を募ると、正成と呼応して再び討幕の錦旗を翻す。このような大作戦を決定した。
そして柿の衣に頭巾も眉深く熊野山伏姿に身をやつした大塔宮の一行は、ひとまず奈良の般若寺に隠れる。都に捕われている父君の動勢を探るべく腹心の者達を八方に走らせ情報入手に努めた。
それを知った興福寺の僧兵達に襲われ大般若経の唐櫃にかくれ危うく難を逃れた話は有名で、家臣達と協議して、このまま奈良にいては危険であり都の様子もひとまず判った上は急ぎ熊野に落ちるべしと云う事になった。 
(12) 大塔宮、東野の里へ
その山路の艱難は大変なもので太平記は、
「高峯の雲に枕をそば立て、苔の莚の袖をしく、岩もる水に渇を忍び朽ちたる橋に肝を消しぬ。山路もとより雨なくして、空翠つねに衣をうるおす。見上げれば万仭の青壁、刀を削り見下せば千丈の碧潭は藍に染みたり。数日の間かかる嶮難をへられて宮の御身もくたびれ果て、流れる汗は水の如く草鞋は血に染みたり。供の人々もその身鉄石に非ざれば皆々飢え疲れて、はかばかしくは歩み得ざれど、お腰を押し、御手を引いて道の程三十里余りを十三日目に漸く十津川へぞ着かせける」と述べている。
太平記では大塔宮の一行は十津川の大塔村の戸野兵衛の宅を訪ねているが、地形的に云って十津川北辺のここに入ったとは考えにくい。恐らく切目川から日高川の上流を遡って竜神の里に出たと思われる。
ここから牛廻山を越えて十津川の平谷に出る。別当定遍の目を潜びつつ、玉置山から山伏の奥駈け道を抜け、北山川の畔の東野の里に入ったのは元弘元年の師走に入った頃だったろう。 
(13) 滋子と大塔宮
豪族戸野兵衛の邸で一夜の宿を乞い、折から急病に苦しんでいたその妻を大塔宮が秘蔵の薬と真心をこめた祈祷で治療すると、新宮楠木からの依頼書を見せて尽力を乞うた。
感激した戸野は竹原村花知の叔父・竹原八郎宗規に事の始第を語った。尊皇の志の厚い彼は即座に快諾して、中根と呼ぶ地に宮の邸を建て、一行を歓待して時節を待つ事にした。
そして愛娘の滋子を側近く仕えさせたが純情で然も山家には珍しい美人だったので宮は彼女を「雛鶴」と名づけて可愛がり、それがやがて愛となり滋子は後に宮の子を生む縁となる。(*1)

(*1) 骨置(こうず)神社。和歌山県北山村。小塔ノ宮・綴連(つづれ)皇子を祭る。父は大塔ノ宮護良親王。母は滋子(地元豪族、竹原八郎の娘)。滋子は「雛鶴姫」(ひなづるひめ)と呼ばれ愛された人ではないかと云われている。甲斐信州地域に雛鶴姫の伝説が残されている。
「雛鶴姫が、鎌倉で殺害された護良親王の御首を持って逃げる途中、甲府(秋山村)の無生野で皇子を産むが、衰弱して二人とも死ぬ。二十年後、護良親王の王子、綴連(つづれ)王がこの地に来られる。村民の話に因縁を感じ、村に住んで七十三歳の天寿を全うした。村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建した」という伝説。雛鶴姫は北畠親房の娘とも。親王の首を御神体とした石船神社や雛鶴神社が残されている。 
(14) 大塔宮、奮戦す
其間にも大塔宮は、北山郷は勿論、吉野川上十八郷を奔走して朝敵追討の荒行を続けつつ同志を募られた。河野ノ庄司加藤政通を始め多数の郷士が参加し、一段と奮起した大塔宮は八方に奔走して、四月になると吉野、熊野、十津川一円に広く挙兵の令旨を発した。
大塔宮は、竹原から七色不動峠を越えて東熊野街道の要地・浦向に進み、豪族・楠木多良左衛門の協力で恵日院を本陣として出撃された。これに応じて北山郷は勿論、吉野川上郷の河野、西河、高原(*1)らの郷士達も次々に旗下へ馳せ参じ、伊勢領に突出して幕府方の地頭達を三人まで討取り凱歌を奏した。
然しその留守に郷士の中に怪しい動きが見えた。大塔宮は恵日院に相州貞宗の名刀を下賜して謝礼とし、大峰禅定の秘所池ノ峯明神池から行者道をへて奥駈け路の転法輪岳に登る。さらに行仙岳から玉置山を越えて十津川、高野をめざして急いだ。
けれどいち早くそれを知った折立の玉置ノ庄司は定遍の命を奉じて宮を追跡し、遂に花折塚では片岡八郎が奮戦の末に討死する。

(*1) いずれも現在の奈良県吉野郡川上村 
(15) 大塔宮、還俗
大塔宮の一行はその隙に十津川沿いに北上したが、芋瀬(温泉地)の庄司も宮を見逃す代りに近臣数名を渡すか、錦の御旗を渡せと要求する。赤松則祐が身代りとなろうとしたが、平賀三郎は、旗より人が大切であると、金銀の日月の紋のついた錦の御旗を渡して何とか関所を通り抜けた。
一足遅れて急ぎ大塔宮の跡を追いかけていた村上義光がこれを知り「何たる無礼ぞ」と怪力を振って数名を投げ飛ばし、美事に御旗を取戻して一行に追いついた。しかし中津川の峠で数百の玉置勢に道を阻まれる。「もはやこれまで力の限り戦って潔く腹切らん」と大塔宮は覚悟された。
その時、大塔宮の危機を救わんと馳せつけた中辺路の野長瀬六郎兄弟の軍勢によって危うく虎口を脱する。芦ノ瀬川を渡って、十津川河津の里に入り、暫しこの地で滞在されるうち、伊勢路の戦いから引帰して来た竹原八郎や戸野兵衛らの尽力で、十津川郷士達も次々に味方に参じた。
そこで谷瀬の対岸の要害の地に黒木御所を築くとここを根城として八方に呼びかけつつ再挙の準備に懸命となられた。元弘二年(一三三二)十一月、大塔宮は、還俗して護良親王と改めると十二月には高野山丹生明神に所願成就の祈願をこめられている。 
(16) 大塔宮、吉野金峰山へ
十津川渓谷の川風が一段と厳しさを増し、峯々に白雪が輝き始めた頃、河内の楠木正成から
「漸く再挙の準備も整いましたので近々赤坂、千早を出撃し紀伊、和泉、大和にも兵を進める所存であります。就いてはかねての打合せ通り、大塔宮には吉野に出陣賜り、金峰山を本城として天下に義旗を翻され、相呼応して朝敵討滅に邁進したい」との嬉しい使者が到着した。
それを見た大塔宮は
「よし!兵衛ノ尉(正成)よくやった。麿も負けずに頑張るぞ!」と大いに勇み立った。十津川に新しく居を移した竹原、戸野らを中心に千余の郷士や天川弁財天の社人や洞川滝泉寺の僧兵達を味方につけ吉野に向った。
元弘三年(一三三三)の正月、大塔宮が吉野金峰山の執行である吉水院の尽力で蔵王堂に本陣を置き討幕の令旨を広く各地に発した。召しに応じ、大量の弓矢を用意した川上郷の加藤政通らが真先に馳せつけ「更矢良道」の名を賜わっている。
宮や正成の再挙を知り事態容易ならずと見た六波羅からの注進で北条高時は関八州から三十余万の大軍を召集して怒濤の如く上洛させた。吉野には大仏高直、正成には阿曽治時を大将軍に任じ六波羅と協力して一気に壊滅せよと厳命した。 
(17) 大塔宮、吉野金峰山の戦い
元弘三年(一三三三)の二月半ば、二階堂出羽守の率いる六万が吉野に押し寄せた。吉野川原から眺めれば峯々には雲か花かとまがう宮方の旗差物が風になびき翻っていたが、その総勢は僅か三千余騎と云われている。
幕軍は「敵は小勢ぞ、一気に攻め落して手柄せよ」と急坂路を息も切らずに攻め立て、七日七晩、大激戦を交え双方とも死傷続出した。流れる血は吉野の山河を紅いに染めたが城は頑として落ちない。
処が寄せ手の中に岩菊丸と呼ぶ新熊野社の執行が加わっていた。元来、金峰山は新熊野と吉水院が交互に支配役となるのが常であったのに、大塔宮は吉水院ばかりを重んじるのに腹を立てていた。その執行は、幕軍の案内役となっていたが、寄せ手の苦戦を見て、
「正面攻撃だけでは駄目だ。夜にまぎれ裏山の愛染宝塔に潜入し火をかけるからこれを合図に総攻撃をかけよう。」と提案し、二階堂も喜んでこの作戦を敢行した。
思わぬ奇襲に城方は大苦戦となった。大塔宮は自から薙刀を振って大いに奮戦されたが多勢に無勢で次々に砦は落ちていく。大塔宮も数カ所に手傷を負われ
「最早これまで」と覚悟をきめると、蔵王堂の庭で最後の酒宴を開かれた。
大塔宮の鎧には七本の矢が刺さり、頬は血にまみれていた。流れる血を拭いもせず、木寺相模守が賊首を大刀に貫いて舞う「延年の舞」に興じる。朱塗の大杯を三度傾けられ「いざ最後の一戦」と雄々しく立上られた。 
(18) 大塔宮、逃げ延びる
それを見た村上義光は「御大将は最後まで望みを捨ててはなりませぬ。ここは我らが身代りに」と必死に懇願した。村上義光は宮の華麗な鎧兜を身につけて仁王門に駈け登った。群がる寄せ手に向い、
「我こそは大塔宮一品親王護良なり。汝ら逆臣共が武運つきたる時の手本にせよ」と大音声で叫び、腹一文字にかき切って壮烈な自決を演じた。続いて更矢良道も彼に劣らぬ勇者らしい最後をとげる。
寄せ手はこれを見て「それ御首を賜わって手柄にせよ」と我先に囲みを崩して、仁王堂に駈け集る。
その隙を突いて大塔宮は裏手の山道を天川めざして落ちられた。
途中で岩菊丸の一隊に追われたが、義光の子・義隆が独り踏み止まって奮戦の上で討死し、父子いずれも劣らぬ忠臣の身代りによって宮は辛うじて敵手を逃れ、吉水院執行の案内で天川から高野に落ちられる。
それとは知らず二階堂らの寄せ手は
「先帝の皇子の中でも最も勇猛で聞えた大塔ノ宮を討ち奉ったぞ」と高らかに都に凱旋したが、六波羅で首実験した結果、全くの別人と判った。
二階堂は残念至極と八方に追手を向け慌ただしく、高野山を襲ったが、全山の僧徒が頑として立入りを拒んで大塔宮をかばう。
其間に大塔宮は何とか金剛山に入らんとした。然し周辺の山野には蟻のはいる隙もない程に幕府勢が充満している。やむなく再び天川に下り、諸役免除の令旨を発して協力を要請すると再び十津川をめざした。その地には純情可憐な「雛鶴」の滋子が玉のような皇子を生んで宮の帰りを待っていた。竹原八郎などは初孫を「小大塔宮」と呼んで目の中に入れても痛くない程慈しんでいる。
「捲土重来じゃ。千早城の正成の奮戦を期待しつつ、暫しはいとしい妻子と共に山のいで湯で傷を慰やし、再挙の機会を狙おう」と、宮は聳え立つ山々に咲き匂う山桜を仰ぎ、内心そう呟きつつ、二百に満たぬ将士に囲まれ、清烈な十津川の流れを下って、谷瀬の黒木御所をめざされたらしい。 
3 決戦!金剛山千早城 

 

(1) 千早城
元弘元年(一三三一)十月、下赤坂が落ちたが、それから翌年十二月までの一年余に及ぶ楠木一族の忍苦に満ちた活動は、正しく人間業とは思えぬものがある。正成が如何に領下の住民達から厚い信望を得ていたかを示すものであろう。
赤坂城には幕府の命で紀伊の湯浅孫六勢が入って、楠木一族の動きを監視していた。従って、正成の本拠は観心寺(*1)や金剛山の転法輪寺に置かれていたと思われるが、厳しい敵の目をかすめて、よくあの大防衛陣地を完成したものである。
日本戦史に難攻不落の金字塔を打ち建てた千早城は「詰ノ城」と云われる。標高一一二五米の金剛山頂より西に走る山脈の中の六〇〇米の独立峯を中心として、全長三四〇m、幅二〇〜三〇m、馬の背のような尾根を本丸・二ノ丸・三ノ丸・四ノ丸の四つの曲輪に区切って陣屋や倉庫を建てている。斜面は袖曲輪を築いて防備を固めている。面積五四〇〇平方米の山城である。
城の周囲はそそり立つ妙見、風呂ガ谷、北谷が自然の堀となり、城の斜面は二百米の急峻な石垣の役を果している。そして何よりの強味は山伏達が「五所の秘水」と名づけた豊かな湧泉がある事だった。
それでも敵の火矢攻撃などを防ぐ為にすべての建物の軒には樋をかけて雨水を集め、落口には巨木をくり抜いた水舟三百余を配し、水の腐らぬ様に底には赤土を敷くと云う用心深さである。
築城の費用は風呂ガ谷から産出する水銀を主な財源とし全住民の協力で日夜突貫作業が続けられ、倉庫群には続々と籠城に必要な食料、塩、海藻、油や武器製造に必要な鉄類までが満たされた。

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
(2) 下赤坂城の奪還
元弘元年(一三三一)の暮、正成は紀伊隅田ノ庄に出撃して紀ノ川一帯を圧さえた。翌年二月「磯長合戦」で竹内峠から大和方面、古市から堺へ進出したのも、先に述べた物資と労働力を充実する為だった。
湯浅孫六の守る下赤坂城を奪い返したのは、元弘二年(一三三二)四月と云われる。
正成は彼らが食糧を故郷の阿瀬川から運んでいるのを知るや、途中で待伏せて難なく奪い取った。米の代りに武器を入れた俵を輸送隊に化けた味方に運ばせ、城の近くでわざと襲いかかるまねをしたのだ。
城兵達はまんまと騙され、直ちに援軍を差向けて無事に偽の輸送隊を城に迎え入れてしまう。夜になると俵の中の武器を取り出した彼らが勝手知ったる城内で暴れ出し、これに呼応して正成勢が城に突入したから忽ち落城してしまった。
その鮮やかな戦法と降者への人間味あふれる人柄に接した湯浅孫六らはすっかり心服し、正成の説く大義名分論に感動して家臣となり、以後は生涯を忠実な部将として彼の為に尽している。
幕府は湯浅が正成方となった事を、暫くは何も気がつかなかったらしい。前回の赤坂攻めに正成の一族でありながら、戦略上わざと幕軍についていた神宮寺や恩地一族の尽力だろう。 
(3) 上赤坂に本城
さて、城は取返したが敵も良く知った地形だからと新しく上赤坂に本城を築いた。標高三五〇米の三方は深い谷、南の尾根道だけが千早城に続く要害の地で眺望にも優れている。幅二〇米、長さ三〇米の頂上部に本丸と袖曲輪を築き、茶椀原には陣屋を配しその東に二ノ丸が作られた。大手口は北の城坂に置いて四カ所の木戸で固めたが、弱点は水のない事だった。
二粁ばかり離れた谷川から地中深く樋を埋めて敵の目に判らぬ様に城に引き、城主には平野将監を任じてその守備を任せた。正季を副将にしたのは、平野は元は北条方で不安があったからだろう。
赤坂本城と千早詰ノ城の周囲の要地には次々に砦が築かれた。金剛山の正面には国見城を設け、幼い正行(まさつら)と守役の湯浅孫六を配して、山頂の山伏道場の味方との連絡や背面の警戒にも万全を期する。
大防備陣が完成すると次は前哨砦にかかり、紀見峠に通じる天見には腹心の和田左近を配した。幕軍が楠木の再挙を知って「金剛寺を拠点に進撃する」との情報を聞くと、住職に戦勝祈願料と共に「決して敵軍を寺に入れぬよう」手紙を書いている。 
(4) 攻防
元弘三年(一三三三)に入り、大塔宮が吉野に進まれるのと呼応した楠木勢は紀伊、河内、和泉一円の幕府方を一掃する。摂津天王寺に出撃して来た六波羅勢七千を渡辺橋で潰走させ、大量の武器を手に入れて、その兵力は五千を越えた。
六波羅では折しも関東から到着した豪勇・宇都宮公綱勢を差向ける。正成は彼らが決死の勇者揃いであるのを見て、敢えて戦いを挑まず兵を退き、毎夜その周囲で松明を焚かせ次第にその数を増した。
さすが決死の宇都宮勢も三日三晩の徹夜警戒に神経衰弱となり京へ引揚げた。正成は再び天王寺に進出して武器食料を集め、関東の大軍が迫ると知るや、赤坂千早に退いて敵に備えた。
真先に上赤坂城に迫ったのは勇将で知られた阿曽治時の八方余騎で、元弘三年(一三三三)二月上旬には石川沿いの野山を埋め尽さんばかりの勢いで襲いかかる。
敵は軍を五陣に分けて火の如く攻め立てたが、城将・平野将監と正季は僅か三百の兵でよく防いだ。周囲の味方砦も盛んに側面攻撃に出て、敵は七日間の激斗に二千近い死傷を出し、戦さ上手で知られた参謀格の長崎高資も攻めあぐんだ。 
(5) 上赤坂城、水を断たれ、陥落
その状況を見た寄手の中で播磨の吉川八郎と云う歴戦の武士が
「城の三方は谷が深く僅かに南だけが山に続いている。城中の用水はここから引いているに違いないから水の手を断つ作戦を取れば良い」と大将の阿曽に進言する。
そこで城の裏手になる東坂から猫背砦を夜襲してこれを落した。多数の人夫を使って掘らせると、果せるかな、地下六米の処に埋められていた樋を発見した。これを断ち、再び強襲作戦に転じる。
城方では水の手を断たれても十日余りは耐えていたが
「このまま飢死するよりも降参しよう」と、平野将監は山を降りた。正季らは尚もで城に踏み止まって頑張ったが、何としても水がなくては戦えぬ、やむなく城を焼いて千早城に落ち延びた。
降伏した平野達は本領安堵の約束であったのに六条河原で斬首される。悉く哀れな最後を遂げたのでそれを知った楠木方の将兵は憤激し、以後は二度と降伏しよう等と思う者はなくなった。 
(6) 千早城の大攻防戦1
上赤坂城が落ちたのは吉野の落城と同じ二月下旬だったらしい。正成の予定よりも意外と早かったと思われるが、彼は少しも怯まない。千早城の大手口である鈴ガ滝をせき止めて水城とし、その両側にある肩衝、北山砦の守兵を励まして敵を待ち受けた。
かくして元弘三年(一三三三)の桜も綻ぶ春三月始めから後世にその名を轟かす千早城の大攻防戦の幕が切って落された。
寄手の先陣は上赤坂城を落して意気揚った阿曽治時と長崎高資の軍勢。そして大和方面から進攻した大仏貞直や金沢右馬助の新手勢。さらに吉野を落した二階堂軍に近畿西国から召集された軍勢。合せて総勢八十万と号され、城の四周数里の山野には連立する旗差物が秋の尾花にゆれる様に翻えり、幾千万の剣の煌きは星の群のようだった。
これに対する楠木軍の実数は千五百程度と思われ、太平記は
「この大軍にいささかも恐れず、誰を頼み、何を待つともなく、周囲一里に足りぬ小城に籠り防ぎ戦いたる楠木の心の程こそ不敵なれ」と記している。 
(7) 千早城の大攻防戦2
最後の詰ノ城・千早をめぐる緒戦は楠木勢の奮戦にも拘らず忽ち水城が破壊された。北山ら両砦を残したまま、寄手はひしひひと千早城の直下に兵馬を進めた。城の様子を一見するなり、
「これしきの小城を踏みつぶすに何事かあらん」と嘲笑した。ろくに準備もせず我先に城門に押寄せ強引な攻撃にかかるや、一打の太鼓と共に静まり返っていた全櫓から豪雨のような矢が降り注いだ。続いて大石が投げ落され、夥しい死傷者が続出した。
その数の余りの多さに驚いた戦奉行の長崎高資は
「直ちに合戦を中止して陣地の構築にかかれ。勝手な抜け駈けを計る者は重罰に処す」と厳命して死傷者の収容にかかったが、僅か一日で五、六千人にも及んだと云う。
寄手は猪突猛進の失敗にあわてて陣地を築いた。再び攻撃を再開したが、一向に成果がない。先に上赤坂で味を占めた阿曽治時の発案で水ノ手を断つ作戦に出て、名越勢三千が千早川辺の水汲場に陣をしき毎夜寝ずの警戒を続けた。 
(8) 千早城の大攻防戦3
処が城兵は一向に姿を見せず、見張兵の警戒心がゆるみ始めた頃、正成は精兵三百で名越の本陣を夜襲し散々に潰走させた。翌朝分捕った旗差物を陣門にかざし
「望しければ取りに来い」と笑いはやし立てる。
大将・名越高家は激怒して「我手の者共は全員討死せよ」と火の様に攻め立てたが大損害を受け壊滅した。
「この上は兵糧攻めしかない」と城を遠巻きにして気長に待っていると、或日の夜明に突然「わーっ」と凄しい喊声と共に城兵が出撃して来た。
「それ!敵は籠城に耐えかねて討って出たぞ」と勇み立った寄手は山麓に陣を構えた敵勢めがけて怒濤のように攻め寄せると、これが藁人形で、亦もや巨石と矢の集中攻撃を受け、惨敗を喫した。
まるで孔明の再来かとも思われる程の戦法の糞尿やら熱湯攻め、或いは新兵器を使った奇想天外な作戦。散々に痛めつけられ包囲したまま食糧の尽きるのを待つしか手はない。長陣に飽いて遊女を呼んで遊ぶうち仲間喧嘩で一族が殺し合うと云う事件まで起きた。 
(9) 千早城の大攻防戦4
十津川で再挙を計りつつ情勢を見ていた護良親王(大塔宮)は千早城の奮戦を聞くや再び斗志を燃やした。
「正成を殺すな」と野長瀬七郎らに食糧や武器の補給作戦を命じた。けもの道から千人の兵が百日食べられる米五百石が次々に到着して、城兵の志気を大いに高める。
折しも隠岐に流罪中の後醍醐先帝が名和長年の助けで船上山に脱出された、との朗報が入った。大塔宮の作戦は一段と活気を増し、宮自身も十津川から高野、吉野に出馬され、山伏、僧兵、各地の豪族ら七千余人を率いて盛んなゲリラ戦を展開された。
容易ならぬ情勢に高時は「一刻も早く千早を落せ」と六波羅に厳命し、四月半ばになると兵糧攻めを中止し、全力を傾けて総攻撃に転じた。
新田義貞のような転向組や日和見主義の連中は次々に脱落。残るは命より名を惜しむ阪東武士の猛攻に第二線の赤滝、富山、丸山の堅陣も落ちる。千早城正面の肩衝、北谷山の砦は死山血河の白兵戦の後に敵の坑道作戦によって遂に玉砕。四月下旬になると遂に千早本城のみとなった。 
(10) 千早城の大攻防戦5
勢い立った寄手は「残るは裸城一つ」と火の玉の如くに攻め立てたが、どうしても落ちない。風呂谷の一角に、幅五m、長さ三〇mの巨大な橋を制作し、城の石垣に架橋して突入せんとしたが、正成は用意した竜吐水ポンプで橋上に油を注ぎ、燃え立つ松明を次々に投げ落とす。忽ち橋は焼け落ち、数百人が谷に墜落惨死した。今も尚「懸橋」の地名が残されて当時の歴史を偲ばせている。
焦った寄手の幹部達は「残るは坑道作戦しかない」と人夫を総動員して三日三晩掘り進んだ。遂に正門の一部を破壊して突入したが、新しい皮盾、懸金柵を活用した正成の必死の反撃で追い落され、空しく屍を重ねるばかりであった。
精強を誇る関東武士の騎馬軍団よりも、正成の新しい徒歩足軽集団戦法の優秀性を示した戦史上の注目すべき戦いである。
「どうにも処置なし」と困り果てた寄手は、金剛山の背後から城の搦手を突く狭撃作戦を思いつき、一軍を五条方面に転進させて最後の猛攻を展開する。
然し宇智、葛城の地侍や、金剛山の山伏達のゲリラ戦に苦しんだ末、物資の補給路を断たれ、大塔宮の軍令で攻撃軍の本部さえ襲われる程の苦戦となった。 
(11) 千早城の大攻防戦6
元弘三年(一三三三)の五月に入ると天下の情勢は激変する。船上山を行宮とした後醍醐先帝の下に参集する将兵は引きも切らず、千種忠顕を大将とする大軍が続々と京をめざした。大塔宮の令旨に応じた赤松則村もこれに呼応して進撃する。
折しも幕府の最後の増援軍の大将を命じられながら抜け目なく持明院、大覚寺の両帝から綸旨を手に入れて日和を見つつ上洛したのが足利高氏である。代々の北条氏の厚遇に叛き、突如として六波羅攻撃に転じたのが致命傷となった。
「おのれ高氏!」無念の涙に咽びながら探題の北条仲時は千早城を囲む味方を呼び返す暇もなく、四面楚歌の中を持明院系の後伏見上皇、光厳天皇以下の公卿、殿上人を守って鎌倉に引揚げ再挙を計らんと都を落ちる。
思いも寄らぬ急変に千早城を囲んでいた大仏高直ら、精強で知られた関東勢も總崩れとなった。八十万の大軍を相手に僅か千五百の寡兵で百日に及ぶ籠城戦に耐え抜き、天下の情勢を一変させた正成の戦史に例のない偉業を、後に頼山陽(*1)は、
「天下の武夫らのすべてが承久の乱を戒めとして息を潜め、勤皇を唱える者一人も無き中に、楠公ひとり眇たる身を以て大義を説き、幕府の爪牙を砕きて義士の志気を鼓舞す。正に天下第一の功なり」と絶賛している。
正しくその言の通り、楠木正成こそ文武両道に秀で軍法戦術に並ぶ者なき武将だった事は、金剛山千早城図を一見するだけで明らかである。 
4 悲運の護良親王 

 

(1) 正成、後醍醐天皇と京の都へ
元弘三年(一三三三)六月二日、意気高く千早城を出た正成が七千余騎を率いて兵庫に後醍醐天皇を迎えに出た。笠置以来一年半ぶりに正成を近く召された帝は、
「今日の功はひとえに汝が忠戦にあり」と竜顔うるわしく先駆を命じられ、正成は感激にあふれて威風堂々都に向ったが、彼にとっては生涯に最も晴れがましい日であったろう。
然し正成と共に最大の功労者である大塔宮が何故か姿を見せず、信貴山城に北山・吉野以来の腹心や赤松、四条以下三千余の精鋭を擁して動かれなかった。土壇場で北条を裏切った足利高氏が京や鎌倉に勝手に軍政をしき、盛んに武士達の人気を集めているのを見て、彼が第二の頼朝たらんとの野望に燃えているのを知りそれに備えていたのだ。
久しく将士達と戦塵にまみれて苦楽を共にした大塔宮は、新政は天皇の独裁ではなく「公武一体」の政府とし、武士階級の信望を失わない為に、自から兵部卿となった。忠誠な武将を腹心に強力な官軍を作らねば再び武家の世となると痛感され、後醍醐天皇に強く望まれた。
六月半ば宿坊の任命を受けた大塔宮は大いに喜ばれて山を下り、北山以来の腹心である竹原、戸野、野長瀬らに護られ、歩武堂々都に入られた。赤松則村、四条隆資、法院良忠ら総勢三千の精鋭を見て、京雀達は早くも「宮が足利高氏を討たれる」と噂したと云う。 
(2) 天皇親政
八月に入ると天皇親政の手始めに諸将に論功行賞が行われた。雑訴決断所や武者所等が開設されたが、期待された天皇政治は勝利を我が天運と思い上った後醍醐天皇の独裁でひどいものだった。
北条高時の旧領二百万石はすべて天皇領や、さして功もない公卿や愛妃、僧等が分け取ってしまい。武将は僅かに高氏、義貞、正成、名和、結城らが守護に任じられた程度で武士達の不満は大きかった。
然しそれを聞いた北畠親房でさえ
「王政復古が成功したのは帝の天運によるもので何も武士共の力ではない。率直に言えば彼らは代々朝敵である。家を亡ぼさずに済んだ事に感謝して忠功を励まねばならんのに不平を云うとは怪しからぬ」と嘯いたと云うから後は押して知るべしで
「公家一統の世に下賤の武士共が何をほざく」と云った処だったろう。
然し後醍醐天皇が理想とした醍醐帝の頃でも公領は全国の三割程度で、今では僅か1%に過ぎず、とても天皇親政の律令政治などやれる筈はない。まして「建武」と云う中国皇帝をまねて、天皇が文武両官を一手に握る独裁君主制などは時代錯誤でしかなかった。
大塔宮が考えられたのは、武士を対照とした征夷大将軍府を置いて、父祖伝来の所領の増大に命さえかける武士社会の気風を尊重しながらも、楠木正成のような大義名分を重んじる忠誠な武士を重用して公武一体の政権を確立する事である。
その為にも最も大切な事は後醍醐天皇自身が「聖ノ帝」と讃えられた醍醐天皇のように私欲を抑え、公正無私、民の生活を思い「寒夜に衣を脱ぎ、食膳を減じる」清廉な生活を実践すべきだった。
然るに後醍醐天皇は即位当時の初心を忘れて豪華な宴遊にふけった。武士や庶民の苦しみを考えず御所の新築の為に重税を課し、寵妃・阿野廉子らの云うままに朝令暮改の失政で忽ち人心を失った。 
(3) 尊氏の策謀
元弘三年(一三三三)八月、武士達の不満が尊氏への期待に変るのを見た兵部卿・護良親王(大塔宮)は親族である北畠親房と計って奥羽鎮守府を設立し、義良親王と顕家を赴任させて尊氏の野望を背後から押さえんとした。
それを知った尊氏、直義兄弟は執事である辣腕の高ノ師直らと計り、阿野廉子が我子を何とか皇太子に就けたいと切望しているのに目をつけ莫大な賄賂を贈った。
「大塔宮を除かないとその望みは果せられませぬ」と色々宮の悪口を告げ、彼女の口から後醍醐天皇に焚付けさせた。
寵妃にかき口説かれた後醍醐天皇は専制君主ぶりを発揮して大塔宮を解任する。成良親王と直義(尊氏の弟)を鎌倉鎮守府に赴任させ、鎌倉を京と奥羽から狭撃せんとした宮と北畠父子の戦略を無力にしてしまう。
職を除かれた大塔宮は激怒された。信頼する正成を呼び、「最早猶予はならぬ」と尊氏(足利高氏は後醍醐天皇から「尊氏」の名を贈られ改名)を討つ計画を進めたが、それを知った尊氏は武力を固め、一段と廉子の歓心を買い、「宮は帝を退位させて自分が皇位に就こうとしている」等と讒言し、策謀を巡らした。
建武元年(一三三四)の春になると宮と同じく尊氏の野望を知った万里小路藤房も
「このままでは武家の棟梁をめざす器用な男が朝廷の失政を責め立て、帝を怨む武士達は招かずともその門に参集して第二の幕府を作らんとし、乱世となるのは必定である。」と思い切った諌書を提出して後醍醐天皇の反省を懇請した。しかし、一向に聞かれず、遂には藤房の顔を見るのも嫌がられる。かつて笠置落ちの際、最後まで後醍醐天皇を守り続けた忠誠な彼も果は絶望し、高位を捨てて出家し行方不明となる。(観心寺(*1)に潜んだとも云う)

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
(4) 大塔宮、捕らわれる
大塔宮は遂に尊氏暗殺さえ考えられたが、そのうち建武元年(一三三四)の十月になると紀伊粉河寺の南にある那賀郡飯盛山で、北条一族の佐々目憲法が湯浅党の六十谷定尚らと叛乱を起した。それを聞いた尊氏は好機とばかり、正成に鎮圧の勅命の下るように運動して正成を出陣させた。
そしてその留守中に、前々から手に入れていた大塔宮が書かれた尊氏討伐の令旨を天皇に見せ、
「かくの如くまず私を討ち、次には帝を廃して皇位につかんと云うのが宮の本心と思われます。この大罪をば、どのように処分なさいますか」と強く迫ったので後醍醐天皇も大いに驚かれ、尊氏の云うままに大塔宮の逮捕を許された。と『太平記』は述べている。
けれど『梅松論』では
「宮の計画は、実は天皇の意向に基づいたものだが、尊氏から責められて困った帝は罪を宮になすりつけたのである」と説いている。
恐らくそれが真相だろう。と云うのは十一月の或夜、後醍醐天皇の歌会に召された大塔宮が気軽に清涼殿に向った事でも判る。大塔宮は、若く優れた戦略家で、かつ天性の鋭い感と度胸に恵まれ、今まで幾十度も修羅場を潜って来られた。
然るにこの時ばかりは
「まさか父君が我子である麿を犠牲にされる筈はない」と云う気持から宮中に漂う妖気を見過されたのは当然かも知れない。
北山、十津川以来の腹心十名余りを供にして参内し、鈴の間に入られるなり、勅命を受けた名和、結城らの手で捕えられて馬場殿に幽閉される。大塔宮が冷たい床に孤独の日々を送るうち、宮の側近で日野資朝の弟になる浄俊以下三十余人が次々に捕えられて容赦なく首をはねられた。 
(5) 大塔宮、鎌倉に流罪
紀伊へ出陣中にそれを知った正成は秘かに忍びの者を派遣して、大塔宮の嫡男・万寿王(興良親王)や罪もない同志を助けんと苦心した。竹原兵庫と平賀三郎らを見事に救出し脱走させている。
正成が叛乱を鎮圧して都に帰ったのは建武二年(一三三五)の早春だった。何とか大塔宮の助命に尽力したに違いないが、朝廷での公卿評議によって遠流の刑が決定され、身分の低い彼にはどうにもならなかった。
大塔宮は幽閉中に元弘以来の生死を共にした近臣達が容赦なく斬られたのを知り、
「君見ずや、申生死して晋の国乱れ」(*1) と晋王が後妻の云うままに嫡男の申生を処刑せんとし、主の無実を知っている家臣達が救出せんとした時、申生は「他国に逃れても父を殺そうとした子だと憎まれるだろう。万事は天命、濡衣のまゝ死のう」と自刃した例を挙げてその無実を上奏されている。
しかし帝はそれを許さず、鎌倉に流罪にされた。事もあろうに仇敵である直義の手に渡したと云う点からも後醍醐天皇が大塔宮を見殺しにしたのが判る。それを知った大塔宮は思わず独り言で「怨めしいのは尊氏より父君……」と呟いたと云う。

(*1) 紀元前六百六十年頃、古代中国の春秋時代。晋の国の献公は、絶世の美女・驪姫(りき)に惑わされて、太子・申生を殺してしまう。 
(6) 大塔宮、死す
大塔宮の悲運を知った正成は、それでも真の父である帝が我子にそんな非道い処置をなさる筈はない、鎌倉には成良親王も居られる、時がたてば必ず許されて再びお目にかかれようと信じていた。
然しながら建武二年(一三三五)七月、思いがけぬ高時の遺子・北条時行の乱が勃発し、戦い敗れた直義(尊氏の弟)がどさくさに乗じて大塔宮を殺そうとは、さすがの正成も考えなかった。
直義は鎌倉を敗走する際、腹心の淵辺高博を呼び
「時行を滅すくらいは易いが、足利一族にとって最も強敵は護良親王(大塔宮)だ。死刑にせよとの勅命はないが此際殺してしまうのが得策と云うもの、急ぎ刺し殺してしまえ」と命じた。
淵辺が兵七騎をつれて大塔宮の幽閉されている薬師堂の谷にやって来ると、灯火の下で経文を読んでいた宮は「麿を殺しに来たな」と素手で立ち向われ淵辺の大刀を奪い取ろうとされた。
然し長い牢暮しで足が利かず、遂に無念の最後をとげられた。斬り落された御首は両眼をカッと見開き、唇には噛み砕かれた白刃が光っていたと云うから、大塔宮の凄しい気迫が判る。享年二十七歳。余りにも気の毒な宮の人生であったと云えよう。
その悲報を知った時、正成の心は断腸の思いで、若い頃から宋学に親しみ、理想としていた王道政治の夢が砂上の楼閣のように崩れ落ちた。
「我子を見殺しにする様な天皇が天下や万民を安らかに出来ようか」と感じつつ「大義親を滅す」(*1)と涙をのんだ。
そしてその想は、熊野中辺路の鮎川の里に潜んで大塔宮の再起を待ちわびていた竹原兵庫、平賀三郎らも同じか或いはそれ以上で、悲憤の涙に咽びながら宮の菩提を弔ったに違いない。
かつて挙兵の際に大塔宮から賜わった名剣を御神体とする「剣神社」(*2)を建立して宮と、罪なくして斬られた野長瀬、更矢ら同志の供養を欠かさず、生涯を御墓守りとして終えたのは如何にも「智の平賀」らしい生き方だった。
そして宮の御鎧を千早での奮戦の賞として賜わった湯浅家でも家宝と仰いで年々七月の命日には絶やさず供養を続けたのを始め、吉野熊野の各地には宮にまつわる伝説が数々残されている。

(*1) たいぎしんをめっす。国家、君主の大義のためには、人として最も深いつながりの親・兄弟などの肉親さえも顧みない。『春秋左氏伝−陰公四年』
(*2) 現在、住吉神社。和歌山県西牟婁郡大塔村大字鮎川 
(7) 大塔宮伝説 / 雛鶴1
悲劇の英雄・義経にも劣らぬ数多い大塔宮伝説の中に「雛鶴」がある。
北山から十津川の黒木御所に移り宮から「雛鶴」と呼ばれて愛された竹原八郎の娘滋子は、宮と共に上京していたが、やがて身重となり十津川に帰っていたようだ。
そして宮が鎌倉に幽閉されたと聞くや、驚いて宮の近臣の松木中将宗光や菊地次郎武光達にいたわられつつ鎌倉に急いだ。けれど僅かの差でその最後には間に合わず、遺骸にすがって泣き崩れたと云う。
折しも北条軍が鎌倉に迫ったので、大塔宮の御首は松木達が「富士浅間大社」に納めた。姫には馬場正国が供をし、甲斐信濃を廻って十津川に帰る事に決め、秋山村の無情野(都留市)まで来た時、姫が産気づいた。
けれど何処にも宿る家がない。やむなく松葉を敷きつめた仮の産屋で、姫は皇子を生まれた。松葉のつづれの中で生まれたので「綴連皇子(つづれおうじ)」と名づけたが、こんな中での出産にすっかり衰弱された姫は、
果てぬとて 松の緑は 勝りけり 我が黒髪も 風のさなかに
との句を辞世に哀れや此地で果てられたと云われ、今も尚、雛鶴神社(*1)が残されている。
浅間大社に納められた護良親王の御首は漆ですっかり塗り固められ神宝と尊ばれていたが、後に幕軍の戦火をさけて雛鶴神社から峠一つを越えた石船神社の御神体となって今も祭られて居り、『富士古文書』もそれらを史実として明記している。

(*1) 正成と大塔宮を参照 
(8) 大塔宮伝説 / 雛鶴2
大塔ノ宮の嫡男は興良親王で大塔若宮と称され、父の志をつぎ南朝方として関東、奥羽に奮戦されている。他に赤松氏に擁された赤松宮。また太平記では宮に最後まで仕えた南ノ方が生んだ皇子は鎌倉本国寺で僧となり、日叡と称されている。
竹原滋子の生んだ皇子の事は史書には残されてはいない。しかし大塔宮が赤坂落城後から王政復古を迎えた元弘三年(一三三三)六月までの二年近く吉野熊野を東奔西走された事は間違いない史実である。
従って此様なエピソードが生れても不思議はない。現に北山竹原の里には、「古宇土骨置宮」と呼ばれる古社が残されて居り、綴連、塔宮の早逝を悲しんだ人々が社を建てたと伝えられ信仰されている。
また十津川河津ノ里には大塔宮の七人の愛妾の塚と称される伝説もあり興良親王の令旨等も残されているが何故か雛鶴の話のないのは姫が遠い甲斐で世を去られた為であろう。
それでは都留市の史跡を訪れた地元の佐古氏の一文を記そう。

北山村 竹原 佐古守 
数年前に突然来訪された郷土史家の井戸先生から贈られた『熊野年代記(南北朝の巻)』を読んだ。竹原一族の史跡を守る立場からも、雛鶴姫の産んだ小大塔宮・綴連皇子(つづれおうじ)を「古宇土骨置宮(こうとうこうずのみや)」と呼んで産土神と仰ぐ氏子の一人としても、是非とも姫の終焉地を訪れてみたい。香華を献じたいと思い立った。そして平成七年の夏、妻と共に甲斐の国をめざし出発。中央高速道を富士山を右に眺めつつ、甲府−大月−都留−秋山村と、延々六百粁を走破した。漸く雛鶴峠を貫いたトンネルを出ると新装の立派な姫を祭る社殿に到着する。
境内に立つ姫の美しい石像を拝して神前に妻の心尽くしの熊野名物「目張りずし」を供えた。声高く心経を唱えてその冥福を祈ると、杉の木立ちの中に静まる姫の円墳にぬかずき、八百年の風霜をへた幽翆の気に心うたれて香華を手向ける。
次には護良親王を祭る石船神社(*1)に向かった。緑の森に包まれた社前に立てば
鎌倉宮に詣でては つきせぬ親王(みこ)のみ怨みに 悲憤の涙わきぬべし
との古歌を思い出す。先年、鎌倉の土牢の前に立ち、妻と共に熱い涙を流したのが昨日のようだ。
「熊野で二年を過ごされた宮だからきっと懐かしく食べて頂けるだろう」と「高菜ずし」を献上して合掌すればジーンと胸が迫り涙がこみ上げてくる。それでもホッと肩の荷を下したような気分になり、暫くは静寂な境内で一時を過ごした。
朱塗りの神殿の奥に、浅間大社の宮司が心をこめて漆で塗り固めた宮の御首(みしるし)のことを偲び、何とも云えぬ森厳の気に打たれる。
やがて梢から爽やかな鶯の声がこだまして我に返り
「さあ、これで良い。また雲山万里をへだてた熊野の里に帰ろう」と再びハンドルを握った。

(*1) 正成と大塔宮を参照 
(9) 正成、大塔宮を供養す
建武二年(一三三五)の涼秋八月の始め、元弘ノ乱で赤坂城に立籠り死生は共にと誓い合った大塔宮の悲憤の最後が河内の楠正成の耳に届いた。深く悲しんだ彼はその年の彼岸になると館に近い森屋の地に「寄手塚」と「身方塚」と称する二基の五輪塔を建立した。
そして、広く領民を集め千早赤坂の戦いに殉じた敵味方の大供養会を営んだのは、此地で奮戦された宮への慰霊をも兼ねていたに違いない。
金剛寺や観心寺(*1)を始め領内から多くの僧侶が集まり、三日三晩、懇ろな読経の声が戦場一帯の野山に流れた。やがて法要が終ると正成は参列の将士や住民達に向って、
「この供養塚により今度の戦いによって命を落した敵味方の多くの人々の事は未来永劫、忘れられる事はなかろうし、亦忘れてはならない。この塚にあやかって我が良き名を後世に止めたいと願う者は誰でもこの地に墓を建てる事を許す」と布告した。このあたり、正成の人柄が良く判る。さらに味方塚より寄手塚が巨大で立派なのは犠牲者の数の大小からと云われる。敵味方の区別なく戦没将兵の霊を弔っている点からも、正成が単に武略に秀でただけの武将ではなかった事は明らかである。

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
5 湊川、四条畷の玉砕 

 

(1) 北条時行の中先代の乱
建武二年(一三三五)七月、俗に「中先代の乱」と云われる北条時行(*1)の乱は、単に北条氏の再挙だけでなく、朝廷内部に深く根ざしている。
すなわち大納言・西園寺公宗が後醍醐天皇の余りにも醜い独裁政治に怒り、日野中納言資名ら持明院系公卿らと密謀して後醍醐天皇を邸に招いて刺殺し、光厳上皇の新政を開かんとしたのである。処が計画が洩れ、彼らは捕えられる。北陸に逃れていた時行らはここで挙兵する。諏訪大社の宮司らに助けられ五万の大軍となって鎌倉に進撃した。足利直義は激戦の後に三河に敗走して都に救援を求める。足利尊氏は征夷大将軍となり鎮圧に向いたいと天皇に奏上した。
然し天皇は彼が第二の頼朝となる事を恐れて許さなかったので、尊氏は勝手に征討将軍と称して出陣する。新政に愛想をつかした武士達は我も我もと従軍して、八月半ばには鎌倉を回復し高らかに凱歌を奏した。

(*1) ほうじょうときゆき。鎌倉幕府第十四代執権・北条高時の次男。後醍醐天皇により高時ら北条氏は滅亡。時行は信濃に逃れ、諏訪氏などに迎えられた。建武二年(一三三五)七月、十歳前後(七歳とも)の時行は、信濃の諏訪頼重に擁立され挙兵。尊氏の弟・直義を破り鎌倉を一時(二十日程度)占領。駆けつけた尊氏が時行の軍を敗るが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間の一時的支配者となったので、中先代の乱と呼ばれる。 
(2) 尊氏の反乱
戦いが終っても尊氏は都に帰らない。鎌倉の幕府跡に邸を建て、自から征夷大将軍と号し、気前よく将兵に恩賞を乱発したが、新田義貞の所領まで奪った上に「君側の奸を払う」と称して義貞討伐の軍令を発した。
これを知った義貞は激怒した。尊氏の野望と、大塔宮を弑逆した大罪を責めて後醍醐天皇に訴える。今までは尊氏の武力を恐れ、その人物を信頼して我子(大塔宮)を殺してまで妥協を計って来た後醍醐天皇も、遂に逆賊として義貞に追討を命じた。
建武二年(一三三五)冬、義貞は各地で尊氏の大軍を撃破して進んだ。しかし勇敢ではあっても大局を見る戦略眼に乏しい彼は、勢いに乗じて一気に鎌倉を突くべき時に三島に逗留して勝機を逸した。箱根の決戦に大敗し、総崩れとなって都に敗走している。
尊氏は機を逸せず、建武三年(一三三六)正月、数十万と号する大軍を擁して上洛し、男山八幡宮の山麓に布陣。官軍は瀬田に名和、山崎に千種、淀に義貞、宇治に正成を配して防戦に懸命となった。
正成は紀伊、河内、和泉から兵五千を集めて尊氏の大軍と戦い、珍しく焼土作戦を断行して宇治を守り抜いた。しかし山崎を守った千草勢が裏切りによって敗走した為に、敵勢は京に乱入し、天皇は慌しく叡山の麓の阪本に蒙塵される。
そこで官軍は敵を都に閉じ込めて糧道を断つ正成の作戦を採用した。折から馳せつけた北畠顕家の奥州勢と合流して園城寺に進出した尊氏軍を破る。戦局が一進一退を続ける中に、正成は「懸金柵」と呼ぶ千早で考案した新兵器で、敵の騎馬軍団を苦しめた。
それは牛皮を張った軽い楯の両端の鉤を結んで長い柵を作り、これを三重に配備して敵の騎馬隊を落馬させると雨のように矢を注ぎ槍で刺すと云うものである。後年、信長が武田軍を長篠で全滅させるヒントとなった戦法で、さすが関東の荒武者共も菊水の旗印を見ると忽ち戦意を失って逃げ走ったと云う。 
(3) 尊氏、西海落ち
建武三年(一三三六)の一月末、西海に落ちて再挙を計らんと打出ノ浜から敗走して行く尊氏を慕い多数の敵兵ばかりでなく、官軍の将士さえ脱走して行った。それを見た正成は如何に彼らが新政に失望しているかを痛感した。追撃を中止したのは、
「武士に理解のあった護良親王(大塔宮)亡き今、公武一体の政治体勢をまとめてゆける者は尊氏しかない」との構想がその心に浮んだに違いない。
尊氏には源氏の名門と云う血筋と、寛容で気前が良く人好きのする性格を備えている。第二の頼朝たらんとする野望と目的の為には手段を選ばぬ狡さはあっても、自分を大きく用いてくれた後醍醐天皇に対する忠誠心を失ってはいない。
公家の驕奢もひどいが、武士達もまた貪欲で、高ノ師直などの様に
「天皇とか院とか云う厄介者は離れ小島に流してしまえ。どうしても飾り物が必要なら神社や寺のように木か金で作って飾れば良いんだ」と平気で放言する連中もいる。
こんな大義名分も知らぬ下剋上の武士共を圧さえてゆけるのは尊氏しか無く、忠良の勇将ではあっても義貞は政治的、人間的な器量で大きな差がある。 
(4) 正成、後醍醐天皇に物申す
正成は追撃を打切り、後醍醐天皇が叡山から還御されて祝勝の気分に沸き立つ都に帰ると、熟慮の末に、敢えて天皇に拝閲を願い出た。それは「人心の動向に大きく耳を傾ける」と云う意味で「延元」と改められた二月の下旬だった。清涼殿の廂の床に平伏した正成は、
「このままでは聖運も危うく、思い切って尊氏を召し、義貞に代えて武門の統御を命ぜられる以外に策はありませぬ。何とか勅諚を賜って九州に赴き、尊氏に会って聖旨を伝え、一日も早く動乱の世を静めたいと存じまする」と言上した。それを聞かれた後醍醐天皇は驚き呆れられたが、正成はいささかも憶せず、
「尊氏は近々九州四国の大軍を率いて東上して来るに違いなく、さすればこれを防ぐ手段はありませぬ。例え如何に帝が聖明であられても、武略の道にかけては正成の判断に誤りはなく、天下に泰平をもたらし万民の幸福を計る道はこれ以外にありませぬ」と毅然として奏上した。
けれど後醍醐天皇は黙して答えない。側近の公卿達も色を変え「分をわきまえぬ申し条」と、「河内に帰り気憂の病を癒やすべし」と騒ぎ立てた。 
(5) 尊氏、後伏見法皇から院宣を賜わり、正成、河内に帰郷す
正成がこの意見具申をしたのは、尊氏が敗走の途中で北朝の後伏見法皇から院宣を賜わって大義名分を得んとしたからだ。
病床にあった後伏見法皇や光厳上皇に奏上して望み通りの院宣を賜わると、醍醐寺三宝院・日野賢俊が勅使となって尊氏の後を追い、備後の鞆ノ津で彼にそれを渡した。
首尾よく賊名を除かれた上に、持明院系の鎮西将軍と云う大義名分を得た尊氏は踊り上って喜んだ。石堂義慶を熊野に赴かせ、院宣と重賞を約した御教書を渡し、尽力を乞うよう命じていた。
新宮楠氏と近畿各地の山伏情報網を利用していた正成は恐らくそれを知って、急ぎ後醍醐天皇に意見具申をしたのだ。だからもし後醍醐天皇が正成を勅使として尊氏に会わせれば、皇恩と正成の人柄を高く評価していた彼だけに、直ちに承諾したに違いない。
さすれば日本史上の最も醜い「君と君との争い」で、万民を約百年も塗炭の苦しみに投じる南北朝の大乱は避けられただろう。
然し残念ながら正成の奏上は許されなかった。公卿達の間には「正成の不遜は許されぬ、断呼処分せよ」とか「いや彼は乱心したらしい、田舎に帰して養生させるが良い」などの意見が乱れ飛んだ。
そしてそれを裏付けるように都に梅や桃の花が咲き匂う延元々年(一三三六)三月の始め、僅かな供をつれた正成の一行が漂然と故郷河内をめざし、「三木一草」と称された寵臣の一人で河内、和泉両国の守護殿とは気付く者もない侘しい旅姿だった。 
(6) 義貞、敗退し、正成、再び都へ
九州に入った尊氏が三月二日、世に云う「多々良浜の合戦」を展開したものの緒戦は足利方の完敗で尊氏は「もはやこれまで」と自刃せんとした程だった。しかし勝ち誇る菊地勢の背後にいた松浦党の裏切によって戦局は一変した。
この奇跡的な勝利で尊氏の勢力は忽ち九州全土に及び、再び京都進撃の為に博多を出発したのは四月上旬だった。
これに対する朝廷の対策は何とも手ぬるい。三月下旬、北畠顕家の奥羽軍は悠々と帰国の途に就く。同じく三月末、後宮きっての美女・匂当内侍(こうとうのないし)を賜った義貞は左近衛ノ中将に進み、山陽山陰十六カ国の管領を拝命して都を出た。
総勢六万の兵を率いた義貞は、赤松則村の籠る白旗城一つ落せぬままに、五月始め、加古川の本陣を捨てて兵庫へ総退却した。兵力は二万に満たず、義貞は慌てて都に早馬を飛ばして、尊氏の東上を知らせ、救援を乞うた。
後醍醐天皇は驚いて河内の正成に勅使を走らせ、即時参内を命じた。その時、正成は私財を投じ、観心寺(*1)境内にかねて神願の三重塔の建立に着手していた。命を受けるや工事は一時中止するが、後日再開する事を住職に確約して上洛した。
これを見ても正成の事だから尊氏の東上や戦局の情勢は充分知って居り、前回同様に敵を都に入れて補給を断つ包囲作戦に大きな自信を持ち、湊川で迎撃する気などは毛頭なかったようだ。

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
(7) 正成、死を覚悟す
久方ぶりに正成に接した後醍醐天皇は僅か三カ月前「乱心したか」等と嘲笑した事も忘れたように「兵庫に出撃して義貞を救援せよ」と命じられた。しかし正成は自信満々に、
「時流に応じた新鋭の大軍に寡兵で正面から当るのは万に一つの勝算もありませぬ。帝は直ちに叡山に動座され、義貞を召還して阪本を守らせる。敵が都に入るや私は河内を本拠としてその糧道を断ちます。さすれば敵は次第に困苦し、味方は日毎に勢いを増しましょう。その機を待って義貞は叡山より、正成は熊野水軍らと淀川筋より攻め立てれば、敵を潰滅させる事も不可能ではありませぬ」と、奏上した。
けれども後醍醐天皇が都を捨てて不自由な行宮に移るのを嫌っているのを察した宰相・坊門清忠は
「帝には天の加護がある。年に二度も都を捨てる事は帝威を軽んずるものだ。汝は命のまま直ちに出陣せよ」と声高に命じた。
太平記は
「正成の大敵を破り、勝利をもたらさんとする智謀を容れず、只々大軍に当り心なき討死せよとの勅定を、“ござんなれ”と義を重んじ身を顧みぬこそ忠臣、勇士の所存なり」と記している。
正成はもはや何も云わず、黙然と退出し、一族の禅僧・祖曇の師である元僧・明極を訪ねて
「生死交差の時や如何」と問い、
「一剣、天によって寒し」との言葉を聞くや莞爾として辞したと伝えられる。 
(8) 青葉茂れる桜井の駅
正成は恐らく心の中で「非理法権天」は我が信条、例え必敗と思われても、事の成否は天に任せて全力を傾け「斃れて後やむ」の尽忠報国の精神に徹せんと覚悟したに違いない。
袖小路の邸に帰ると主だった武将を集めて朝議の模様を語り
「事すでにここに至る。潔く朝命に従い、兵庫表に出陣して全力を挙げて戦う」と決意を示した。
けれど諸将の中では
「勝敗の算は余りにも明らかであり、みすみす敗れると知りながら朝命のままに部下を死地に投ずるのは将の道に非ず」と反対する者も少なかったようだ。
当時、河内、和泉の守護だった正成揮下の総兵力は先の宇治での戦いの際にも判るように水陸約五千と思われる。彼は断呼として
「河内、和泉の兵は五月十七日までに桜井ノ駅に参集、紀伊淡路の水軍は二十日までに兵庫沖に集結せよ」と布告した。
かくて五月十六日、菊水の旗差物を薫風に翻しつつ都を出た正成一族はかの「青葉茂れる桜井」の駅に到着。ここに一泊し、参加将兵を待ったが、その数は少なく、総勢併せて千数百程度だった。 
(9) 正成、嫡男・正行(まさつら)を帰す
そこで正成は、「父と共に死なん」と嘆願する嫡男・正行に老臣・湯浅孫六以下五百余の若者をつけて故郷に帰るよう命じた。頼山陽(*1)はその状況を、
「正行、時に十一歳これを河内に帰さんとして誡めて曰く、『汝幼しと云えども、よく我が言を記憶せよ。今度の合戦は天下の安危を決する処にて、恐らく再び汝を見る日も無からん。父の討死後は足利将軍の天下となるは必定なれど、汝は必ず慎みて、義を忘れ、禍福得失を比べて利に向い、父の志を空しくする事なかれ』と声涙共に下る教訓を述べた」と記している。正成は、泣く正行と最後の一夜を共にし、翌十七日、共に死なんと望む僅か七百余騎を率いて兵庫をめざした。
その孤軍の中に正成の妹の夫である服部元成と云う武士が交っていた。彼は北伊賀の名門の出だが、河内玉櫛ノ庄で正成の妹と逢って恋に落ち、やがてめでたく結ばれる。金剛山でも大いに働いたが、湊川出陣に際しては、「義兄と共に死なん」と覚悟し、妻子を残して出陣していた。その時幼児だったのが、後の観阿弥(*2)で、彼もまた“悲恋つゝ井筒”の一人である。歴史の大渦の中には此様な哀話が数々秘められているのを忘れてはならない。

(*1) らい さんよう。江戸時代後期の歴史家、漢詩人、文人。芸術にも造詣が深い。陽明学者でもあり、大塩平八郎に影響を与えている。『日本外史』の著者。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。
(*2) かんあみ。南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師。息子の世阿弥とともに、能を大成した人物。時宗の法名は観阿弥陀仏。その略称が観阿弥。観世家の祖。 観阿弥最後の舞台は静岡市葵区宮ヶ崎町の静岡浅間神社。26世宗家観世清和氏による顕彰碑がある。 
(10) 正成の計略
やがて延元々年(一三三六)五月下旬、正成は、兵庫会下山に本陣を置いた。夢野に正季を、鷹取山に前哨陣地を配備し、長田神社の森に騎馬隊を潜める。堺港沖に淡路沼島の本田一族の見張船を出して熊野勢の案内を命じる。等々、一切の戦さ仕度を終ったのは五月二十四日である。
敵の進撃状況から見て決戦は明朝あたりと考えた正成が、最後の打合せの為に和田岬小松原に本陣を構えた総大将・新田義貞を訪ねたのは、もう夕刻近かったと云われている。
中国十六カ国の管領として六万の大軍を率い、威風堂々都を出陣しながら勝運に見放され敗戦続きで意気消沈した義貞を、正成は力強く励ました。正成の温かい友情に義貞も漸く心を開いて斗志を燃やし、戦さ上手で知られた正成の説く戦法にじっと耳を傾ける。
「敵は五十万と号しているが身共の調べた処では二十万程度と思われる。然し二万余の我が兵力でまともに戦ってはとても勝目はない。よって今度の戦いは足利兄弟を討取る事を目的とし拙者はそれに一命を賭す覚悟でござる。それには先づ直義を斃す為に新田殿は此地に堅陣を構える。そして尊氏に備えながら、会下山の我らが直義本陣を強襲した際、時を移さず一軍でその側面を突いて下されば、必ず我らは直義を討取って見せましょう。弟・直義の苦戦を見た尊氏が驚いて救援に向うに違いない。新田殿がこの本陣によって防戦している間に、沼島の水軍に先導された熊野水軍が尊氏の背後に逆上陸を敢行して挾討ちとする。かくのごとき計画なれば、尊氏の首は是非共貴殿の手によって挙げて戴きたい。この二人さえ討取れば、敵はいかに大軍なりとも忽ち敗走するか降伏するに違いない。何せ近頃は美味い餌のある方につくのが侍共の習いでござるからのう」
正成が明るくカラカラと笑ったので、義貞も大いに勇気づけられ、両将は久方ぶりに杯を交し、明日の勝利を誓い合った。 
(11) 決戦の前
しかし、夜ふけて会下山に帰った正成は谷水で身を浄め、襟を正して後醍醐天皇に対する最後の筆を取った。
「今度の戦は必ず敗れるものと思われます。先の元弘の乱で金剛山に籠った時は名のない私ひとりの戦いであったのに広く国中の人々に助けられて勝つ事が出来ました。然るに今回は河内、和泉両国の守護として勅命による出陣であるのに一族の中でさえ難色を示す程で一般の士民は一向に集まりませぬ。これは人心が帝から去った為と思われます。我ら一族はあくまで臣節を重んじて戦い抜き、真先に命を捧げる覚悟でありますが、正成亡き後、帝は天下の人心を第一に考え一日も早く泰平の世を招来せられん事を心からお願い致しまする……」
一語一句、心肝をふり絞って筆を取る正成の頬には熱い涙が止めどなく流れ落ちていたに違いない。
延元元年(一三三六)の盛夏、五月二十五日(現在の七月十二日)、会下山中腹の楠木本陣に掲げられた「非理法権天」の菊水の長旗には爽やかな朝風が流れていた。
今日が一期の戦いと覚悟を極めていた正成も、名にし負う(有名な)熊野水軍が間に合って呉れぬかと、それだけが気にかかって、時々は紀淡海峡の彼方に瞳をこらしたろう。
然しそれらしい船影はなく、白い霧が晴れると兵庫一帯の山河には赫々たる夏の陽ざしが輝き、遙か明石の海から無数の白旗を翻した尊氏の大船団と共に、須磨口の鉢伏山麓を巨竜がのたうつような直義の陸上軍が進撃して来た。 
(12) 尊氏の先陣壊滅
鷹取山の前哨から
「敵は山手、西国街道、浜手の三道に分れて進み、大将・直義は中央にあり、各軍の兵力は約一万程度なるも、須磨口には尚予備軍あり」との急使が入る。
正成は敵の山の手軍、斯波高経に対しては夢野と刈藻川の平地に得意の新兵器「懸金柵」を二重に備えて専ら防衛に当り、直義の中央軍に長田神社の森に潜ませた主力の騎馬集団を三方から突入させて本陣をつき、浜ノ手は義貞勢に任せる作戦だった。
午前八時過ぎには大船団の中央に錦の御旗に金色の日の丸を輝かせ、天照大神と八幡大菩薩の大幟をなびかせた尊氏の旗艦が、会下山の本陣からもハッキリと見える程、汀に近づいて来た。
その楼上には総大将・尊氏がどっかと腰をすえて、敵(正成方)には水軍の備えがなく、特に最も案じていた若一王子、熊野権現の旗印をかざした熊野水軍の快速船団が見えないのを知った。「上陸開始」の合図旗を高々と揚げ、それを見た先陣の細川勢が一斉に灯明台と経ガ島に上陸を始める。
「我こそ一番乗り」と勇み立った四国讃岐衆数百が浜辺一帯に下り立つと、林の中に潜んでいた新田軍の中でも勇将で知られた大館氏朝の三千余騎がドッとばかり迎え討って忽ち彼らを全滅させた。
経ガ島の上陸軍(細川勢)も脇屋義助勢に襲われて壊滅状態となるのを見た尊氏は、いきり立って第二軍を上陸させんとする細川定禅を止め、「退却」の鐘を乱打させて船団を沖合に退かせる。 
(13) 義貞、正成との約束を破り、尊氏の上陸を許す
敵船団が先陣の壊滅で俄かに船列を乱しながら沖合に退却するのを見た正成は「時こそ来れ」と会下山の三方から直義の本陣めざして総攻撃を命じ自から、騎馬奇襲隊の先頭に立って楠木軍得意の縦隊突撃を敢行した。
火の玉のような楠木勢の地の利を得た攻撃にさしも大軍の直義軍もなだれを打って崩れ落ち、もし約束通り義貞軍がそれに呼応して敵の側面を突けば直義は討取られ大敗走となっただろう。
然るに義貞はそれを果さなかった。と云うのは沖合に退いた敵の大船団が急に進路を東に転じて遙か後方の生田ノ森をめざし、その先頭に金の日の丸と錦の御旗を翻えした尊氏の旗艦がハッキリ見えたからだ。愕然と立ち上った彼は、
「さては尊氏め、我が軍の背後を断ち袋の鼠とせんとの作戦じゃ!」と正成との打合せも忘れ、全軍に敵船団を追い生田に急進せよと命じるや真先に馬を飛ばしてしまったのである。
けれど義貞はどうして正成との約束を守り、せめて燈明台にいた大館勢の三千を西国街道に残して正成との連繋を取らせなかったのだろう。果せるかな、新田勢が西国街道の要地である小松原の陣地を捨て、続々と生田ノ森に急進し始めるや、大船団の後備の一群が針路を転じて長田ノ浜をめざしたが、そこにはもう一兵の新田軍もいなかった。 
(14) 正成、直義を追い詰める
安々と無血上陸に成功した足利勢は忽ち街道一円に進出、中でも駒ガ林の宝満寺に陣を進めた将士の群に総帥の尊氏が交っていようとは味方でさえ気がつかぬ程であった。
尊氏は船団が沖に退いた時、秘かに旗艦を下りて後備の船に移乗し、吉良、石堂らの諸将に囲まれて長田浜に上陸したのだ。その頃二万の新田勢は金の日の丸を掲げて悠々と航行する旗艦を睨み、必死に馬を疾駆させ、徒歩の兵達はもう息も絶え々々だったと云う。
義貞はまんまと一杯食わされた訳だが、それをいち早く気付いたのは正成で、直義本陣をめざして猛攻撃を敢行しながら傍らの正季に、
「どうやら囲まれてしまったようじゃ」と苦笑し
「義貞殿は尊氏の旗艦めざして天狗のようにすっ飛んで行ったが、なあに彼はそんな処にいるものか、恐らく今しも西国街道に進出したあの軍の中に交っているに違いない」と駒ガ林辺を指して見せ、
「もし沼島の見張りが打合せ通り熊野衆を和田岬に上らせれば、尊氏を挾み討ち、戦局を一変させられるかも知れん。然し先づ直義じゃ」と一段と馬をあふった。
元来、彼は阿修羅の如く敵陣に突入する等と云う出血の多い戦法は好まず、恐らくこれが始めてであろう。けれどいかに当代きっての軍略家であっても、最早とるべき戦法はこれしかなかった。
すなわち、楠木流の「十死一生の戦法」である。正季軍を併せて約五百の兵を三つに分け三本の槍の如く敵陣を突破すると一度集結して体勢を整え、再び三隊に分れて次の陣に突進する。後世これを学んだ真田幸村が徳川家康を追いつめたのもこの戦法である。
大軍の直義もその凄まじい戦法に歯が立たず、蓮池の台の畔りで愛馬を倒され、自分も足に重傷を受けて進退窮まった。「もはやこれまで」と切腹せんとした時、子飼の郎党・薬師寺十郎次郎が己の馬を譲り、自分は身代りとなって討死する間に辛うじて逃げ延びた。 
(15) 尊氏、直義の救援を命ず
折しも宝満寺の本陣で直義勢が総崩れとなったのを見て驚いた尊氏は「新手の兵を差向け直義を救え」と命じた。吉良、石堂、上杉ら六千余騎が正成勢の背後から怒涛の如く襲いかかる。
正成はやむなく直義を捨て、矛を転じて尊氏の本陣をめざし、刈藻川に沿い敵の目をそらしつつ一路突進した。この時、尊氏を守る兵は僅か二百しか残っていなかったと云うから、もし熊野衆が呼応すればその首を挙げられたかも知れない。
其頃、熊野勢の鯨船は沼島衆の先導で必死に湊川をめざしていたが、残念ながら戦場に到着するにはまだ一刻の時間が必要であった。名もない一兵の果までも主と共に死なんと鬼神の如き奮戦を見せていた楠木勢も漸く力が尽きかけんとしていた。
それも当然で早朝から六時間、数十倍の大軍を相手に十六度に及ぶ突破戦を重ねたのだ。後世「日本一の強兵」と云われる五千の真田幸村勢でさえ最後は彼孤りとなり、乱軍の中で討たれている。
それに比べて正成勢は尚も一個小隊七十余騎の隊形を崩していなかった。然し七度目に正季と顔を合せた時、さすがの正成も十余カ所の傷口から流れ出る血によって遂に気力も萎えたか、
「今はこれまでじゃ、良き場所にて腹切らん」と湊川沿いに山路に進んだ。会下山から半里ばかり下った今も「楠谷」と呼ばれる地に建てられた野小屋(時宗道場とも云う)に入った。 
(16) 正成、死す
最後まで生き残った五十余人のうち、軽傷で家を継ぐべき二十余人に
「最後の命令じゃ、布引の山から戦場を落ち河内に帰って正行を助け再挙を計れ」と厳命して否応なく脱出させて主将の任を果したのは立派である。
正季以下橋本八郎、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら二十八人と念仏十称の後に切腹の仕度にかかった正成は
「人は死際の一念によって善くも悪くも生れ代ると云うが、正季そなたは何に生れたいか」と問いかけた。
正季がカラカラと笑いつつ
「七度まで人間に生れて朝敵を滅したい」と答えるや、さも嬉し気に
「罪深い念願ながら、わしもそう思う。さらば共に生れ代って本懐を遂げようぞ」
と固く誓って刺し違え、それを見て人々も我遅れじと自刃し、新田勢に加わりながら心腹する正成を案じて敵中を突破して来た勇将・菊地武吉までが
「名将の最後を見て何んでおめおめ帰れよう」と追い腹を切ったと云う。時刻は午後五時で正成時に男盛りの四十三歳、遺骸の傍には血にまみれた「非理法権天」の菊水の旗が残され、今も湊川神社の社宝となっている。 
(17) 遅かりし、熊野水軍
正成が待ち望んでいた熊野水軍が田辺沖で北軍を撃破した為に遅れ「熊野大権現」の長旗を翻えし、艫に設けた鯨鐘を乱打しつつ湊川々口に突入して来たのは此頃だった。
今一刻早ければ正成勢と呼応して尊氏本陣に突入し見事に尊氏を討取って、戦史を大きく書き改めたかも知れないのに誠に惜しみて余りがある。
戦機を逸し、正成一族が全滅した事を知った彼らはその責任を痛感したのであろう。目に余る足利勢を相手に善戦敢斗の末に玉砕。悉く屍を戦場にさらして再び故郷に帰る日はなかった。
只一つ彼らの玉砕を物語る証人とも云うべきは、後世、漁師の網によって附近の海底から引揚げられた沈船の陣鐘で、それは俗に「鯨鐘」と呼ばれる熊野水軍独特の小型陣鐘である。今も尚、那智大社に残っている「正中二年(一三二五)別当定有の命により大工河内ノ介鋳造」との文字が刻まれた品で、現在も網干英賀神社(*1)の神宝となっている。

(*1) 英賀神社。兵庫県姫路市飾磨区。 
(18) 観心寺、大楠公首塚を建立す
正成の最後は、その場にいた時宗(*1)の僧が細々と語ったのを、興福寺大乗院住職が聞書し
「楠判官一族二十八人が腹を切り小屋に火をかけたが、細川勢がその首を取り将軍に献じた処、尊氏は魚見堂五十町の田地を寄進して懇ろに供養した」と記録されたのが原本となっている。
その首級は尊氏から丁重に観心寺(*2)に送り届けられ今も大楠公首塚として建掛塔の奥に鎮座され、戒名は彼を惜しんだ帝が「忠得院殿大円義龍大居士」と名づけ下賜されている。
湊川に於ける正成の壮絶な最後は日本史でも高く評価され、『太平記』は
「仁を知らぬ者は朝恩を捨てて敵に走り、勇なき者は死を逃れんとして反って罪に落ち、智なき者は時勢を見る力なく道を誤るに中に、良く三徳を兼ね、死を善道に守りたるは古今を通じ正成ほどの者、未だなし」と讃え、尊氏びいきの『梅松論』さえ
「誠に賢才武略の勇士とはかような武夫なりと敵も味方も惜しまぬ者は無かりける」と賞め、増鏡は
「心武くすこやかなる武夫」と評している。

(*1) 浄土教の一宗派。開祖は一遍。浄土教では阿弥陀仏への信仰が中心である。時宗は、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。
(*2) 正成と大塔宮を参照。 
(19) 正成、何を思う
若くして玄恵禅師(*1)の宋学に心酔し、笠置では
「正成ひとり生きてある限り必ず聖運は開き給ふべし」と断呼揚言した楠木正成が、建武の失政をその目で見た上、同じ志に燃えた大塔宮の悲劇に接するや、後醍醐天皇の独裁政治が、如何に時流に適しないかを痛感せざるを得なかった。
頼む大塔宮亡き後、日本民族の伝統である正しい天皇制を後世に残さんが為には貴族のエリート意識と武士の強欲と覇道主義を厳しく統御する「公武一体」政策以外になしと感じて「尊氏を召して武門の棟梁とする」意見を具申したのだろう。
それが空しく却下されるや、父祖代々朝廷の重臣だった万里小路藤房でさえ
「君、諌めるも聞かざれば即ち去る」と宋学の説く通り、山野にかくれて風月を友とし余生を楽しんでいる。しかし正成は勅命に従い敢て死地に赴くと力の限り戦い抜いた末、臣節に殉じた。その事によって天皇を始め日本中の貴族、武士達に大きく反省をうながさんとした。
浮世の勝敗や栄枯盛衰、功業名利には一切心をとらわれず、愛児に
「忠死のみありて他なかれ」と訓えたその心根の清廉さは当時の武士社会では皆無で、一族の断絶さえ覚悟した信念の壮烈さは後世、他に比を見ない。

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
(20) 正成の死後
正成が死んでから、数年後に書かれた北畠親房の『神皇正統記』は、正成について一語もふれていない。
正成がその名を残し、世に知られたのは、その死に感動した熊野山伏、小島法師が『太平記』を書いた為である。それがなければ河内の一介の土豪で名もなく空しく埋れてしまったに違いない。
戦前の皇国主義全盛の時代には、やたらと「七生報国」を讃え、「湊川」と云えば「勝敗は無視して死に赴く特攻精神」の代名詞とされた。その為に戦後は反動で軍国主義の権化の如く批判され、「悪党(*1)」の語意を取り違えた左翼人の槍玉に挙げられたが、正成こそ日本民族の華と云うべきであろう。
彼が世を去った後の南朝は「南風競わず(*2)」の言葉通りで、「かくてはならじ」と遺臣らが渋る北畠親房に、正成の遺策による二大戦略を強く進言した。
一、伊勢、熊野、伊予の水軍を南朝基幹戦力とし奥羽、関東、四国、九州に活躍する味方の大動脈とする。
二、吉野、熊野周辺の大社寺を味方にし、正成が活用したように山伏、山民、野伏らを新戦力に登用する。
このような作戦を決定したが、散所の民の利用等は貴族意識の極端に強い親房には余程の事だったろう。

(*1) 悪党とは鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活動した武士の集団。既得権益を守るために自主独立し、荘園領主など外部勢力に抵抗。「悪い」というよりも「強い」という意味。伊賀国名張郡黒田荘(東大寺の荘園)の武士、河内国の楠木氏(楠木正成ら)、播磨国の赤松氏(赤松則村ら)、瀬戸内海の海賊集団などが代表例。
(*2) 勢いの振るわないこと。『左伝 / 襄公十八年の条』が出典。江戸時代末期に頼山陽が著作した日本の歴史書『日本外史』では、南朝の勢いの衰えたことに借用している。 
(21) 南朝大船団、遭難す
延元三年(一三三八)秋十月、伊勢大湊から三つの大船団が出港した。奥羽をめざす義良親王と北畠顕信に結城宗広。常陸に向う親房や伊達行朝。遠江をめざす信濃宮宗良親王と新田義興の船団である。
然しながら武運つたなく遠州洋で台風に襲われて船団は四散し、多くの将士が敢なく遭難した。九死に一生を得た老将・宗広(*1)は安濃津(三重県津市)で病み、
「このまま空しく果てるとは無念至極、我が後生を弔わんと思わば供養などは一切無用にして朝敵の首を墓前に並べよ」と遺言して没した。
義良親王は尾張に漂着してやむなく吉野に帰られた。宗良親王と親房は満身傷痍で遠江や常陸に到着し、井伊道政や小田治久ら豪族に助けられて勢力拡大に懸命となった。
天運の非を改めて痛感された後醍醐天皇は今更のように正成の事を偲ばれたか、勅使を河内の正行(まさつら。正成の嫡男)に走らせ楠木神社に参籠して神助を祈らせる等している。さすがの後醍醐天皇も今は神仏に頼るしかなかったようだ。

(*1) 結城宗広。ゆうきむねひろ。もと北条氏の家臣。朝廷側につき鎌倉幕府を滅ぼす。功績により、北畠顕家と共に奥州方面の統治。足利尊氏が京都を一時支配下に置くと奪還。尊氏の再起時、顕家と共に戦うが、顕家敗死、宗広は吉野へ。南朝勢力再起のため、北畠親房と海路から奥州へ向うが、海上で遭難。伊勢国で病死。墓所は津市結城神社。または伊勢市光明寺。 
(22) 後醍醐天皇、死す
かくして延元四年(一三三九)八月半ば、吉野に移って三年余、五十二歳の秋を迎えた後醍醐天皇は病を得て重態となった。高野山から僧を召して即身成仏経を聞き終ると皇位を義良親王に譲られ、やがて両手に剣と法華経を持ち、
「玉骨は南山の苔に埋むとも、魂魄は北天を望まん、もし命に背き義を軽んずれば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」との烈しい遺言を残して世を去られたので、その御陵は珍らしく北向に築かれている。(*1)
折しも関東筑波山麓の小田城で『神皇正統記』の筆を進めていた北畠親房(*2)は涙に咽びつつ
「大日本は神国なり、天祖始めて基を開き、日神長く統を伝う。我国のみ此事あり異朝にはその例なし、故に神国と云う」との書き出しから始まる歴代天皇の年代記を完稿した。
然し征旅は百戦功なく、親房が孤影消然と吉野の新天皇(後村上)に閲したのは興国四年(一三四三)の暮で、正成没して七年忌を迎えた頃であった。

(*1) 後醍醐天皇は「北」に怨みを抱いて崩御したため、御陵も北向きに造られた。吉野の南朝に対して、京の都にある北朝をも暗示している。後醍醐天皇の怨みを抱いた遺詔は次の通り。「朕憾不滅國賊,平天下。雖埋骨於此,魂魄常望北闕。後人其體朕志,竭力討賊。不者非吾子孫、非吾臣屬。按劍而崩」『日本外史』
「…思之(これをおもふ)故ニ玉骨ハ縱(たとひ)南山ノ苔ニ埋ルトモ。魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望ント思フ。…。」「遺勅有(あり)シカハ。御終焉ノ御形ヲ改メス。棺槨ヲ厚(あつく)シ。御坐ヲ正(ただしふ)シテ。吉野山ノ艮(うしとら)ナル林ノ奥ニ圓丘ヲ築テ。北向ニ奉葬(ほふむりたてまつる)。」『太平記』
(*2) きたばたけ ちかふさ。公家。「神皇正統記」の作者。北畠顕家の父。南朝の中心人物。後醍醐天皇の皇子世良親王の養育を託されるが、親王急死。責任を感じ38歳の若さで出家。倒幕により後醍醐の新政が開始され、親房は再び政治の舞台に。尊氏に京都を占領されると、後醍醐が開いた南朝に従い、勢力の拡大を図る。伊勢・度会家行の神国思想に影響を受ける。伊勢国大湊(三重県伊勢市)から海路東国へ渡ろうとするが、暴風にあい単独で常陸国へ上陸。陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかける。『神皇正統記』の執筆がされたと言われているのはこの時期。常陸での活動は5年に渡ったが、戦い破れ、吉野へ帰還。四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が敗れると、吉野から賀名生(奈良県五條市)に落ち延びる。観応の擾乱(足利氏の内紛)で、尊氏が南朝に降伏。正平一統(一時的な南北朝の統一)成立。一時は京都と鎌倉の奪回にも成功する。1354年に賀名生で死去。阿部野神社(大阪市阿倍野区)や霊山神社(福島県伊達市)に北畠顕家と共に祀られている。 
(23) 正行
そして正行は老巧・湯浅定仏を始め、父が残してくれた数百の忠実な一郎党に囲まれ、文武両道に精励した。その甲斐あって、今や芳齢二十一歳の颯爽たる青年武将に成長し、既に可愛いい男の子も生れている。
性来が仁愛に富む上に、将たるの修養に務め、清廉にして己に厳しくとも将士に厚いのは父譲りであろう。功は部下に譲り、責は己が負う。衣食は兵と同じく艱苦を等しくしたので「死生を共にせん」と誓う将兵は既に二千に近かったと云う。
その上、若くして禅に帰依し、夢窓国師(*1)の高弟だった黙庵が河内に行脚した際も礼を厚くして教を乞うている。興国五年(一三四四)には建仁寺の高山昭禅師(*2)を招いて河内宝山寺を創建している。これは恐らく父の遺志を果したものだろうが、正しく文武両道の麒麟児と云えよう。
親房は正行に接するや特に河内守に昇進させると積極作戦の先駆を命じた。正平二年(一三四七)八月、久方ぶりに菊水の長旗を翻えした楠木勢は紀ノ川を下って隅田治道の岩倉城(和歌山県橋本市)を攻略、附近一帯を支配下に入れ、高野山への連絡路を確保して初陣を飾った。 
(24) 正行、快進撃
それを聞いた尊氏は愕然とした面持で
「獅子の子はそのままにしては置けぬ」と歴戦の武将・細川顕氏に精兵三千を授けて京を出発させ、八月十四日、天王寺に進出して吉野をめざす様子を見せた。
親房は再び正行に出撃を命じたので、正行は七百騎を率いて藤井寺に陣をしいた。正成流の奇襲戦法で六角氏泰を始め名ある勇将多数を討取る。顕氏自身も命からがら都に敗走すると云う快勝ぶりで、幕軍の肝を冷やした。
尊氏も舌をまいて顕氏を励まし、勇猛で知られた山名時氏を援軍としてその年の十一月、七千余騎の大軍で天王寺に出撃させ「必ず敗北の恥をすすげ」と厳命した。
僅か三月余に三度勅命を拝した正行は連戦の疲れも見せず二千の総力を挙げて瓜生野に進出して好機を狙い、住吉、天王寺の敵陣を強襲。楠木勢の手強さを知っている細川軍はひとたまりもなく敗走した。
けれど新手の猛者を揃えた山名軍は必死に戦い大激戦となった。丈余の長槍を揃えた楠木勢の先陣阿間了願らが忽ち三十余人を突き倒して猛攻撃を展開したので、時氏は重傷、三人の弟も次々に討ち取られて総崩れとなった。
正行は機を失せず追撃に転じた。淀川に架った渡辺橋(現天満橋)にさしかかると、狭い橋上を押合いながら潰走した多数の敵兵が厳寒の河中に転落して溺れていた。正行はそれを見るとすぐに追撃を中止し、溺れている敵兵の救出を命じた。
そして多くの兵を救い上げると焚火で凍えた身体を暖め、雑炊を食べさせたり傷の手当をし、衣類や物具まで与えて都に帰らせている。
これは楠木一族の家風で戦いが終れば敵味方の差別なく苦しむ者をいたわり救うと云う人間愛の発露だったが、この時代としては例のない事で救われた兵の多くがその温情に感動して彼の四條畷で正行と死生を共にしたと云う。 
(25) 南軍、出撃す
正行軍の連勝ぶりを見た親房は
「これぞ新帝の御稜威、天運は我にあり」と感じて一段と攻撃作戦に転じ、正行を激励して念願の京都進攻作戦を決行せんとした。
しかし尊氏も度重なる敗戦に此際思い切った大軍を集めて一気に楠木軍を潰滅させんと二十数カ國の軍勢を動員した。直義を総司令官に、高師直、師泰兄弟を大将とする八万の大軍を集めた。
正平二年(一三四七)も押し詰った十二月の末、直義は男山に軍を進め、師直軍は枚方へ、師泰軍は天王寺に進出して総攻撃体勢をとる。これを見て河内東条に本営を進めた親房や四条隆資ら南軍首脳陣は、赤坂城で作戦会議を行った。
彼我の戦力から見ても南軍は地の利を活かし、吉野を中心として河内、和泉、大和、伊賀一円に強力な防衛陣を固め、正成流のゲリラ戦で応ずべきだった。にも拘らず親房らが強引に決戦を挑ませたのは、湊川の二の舞と云える。
正行には、正時、正儀の二人の弟があり、純情清廉な兄に比べて正儀は政戦両略に長じた政治家肌で、その無暴としか云えない特攻作戦に強く反対した。しかし親房らは「経験浅い若輩が何を云うか」と問題にしない。父と同じく一つの勝算もない決戦に潔ぎよく死を覚悟した正行は後事を正儀に託し、正時以下の一族郎党百四十余人を率いて吉野の行宮に参内したのは十二月二十七日だった。 
(26) 正行、鏃(やじり)の辞世
出撃軍(南軍)の大将である四条隆資が
「敵が大軍を以て決戦を挑んで来た以上、官軍の面目にかけても、賊首を獲るか我首を渡すか思いきった決戦を展開せんと存じまする」と一同を代表して奏上した。
すると二十歳の若き後村上天皇は、南殿の御簾を高く巻き上げて正行を親しく召され、
「今度の合戦こそ天下の安危を決するもの、進退をよく弁え、機に応じて戦うこそ勇者の心得であり、進むべきを知って進むは時を失わぬ為、また退くべきを見て退くは後を全うせんが為である。朕は汝を股肱と頼んで居るが故に慎んでその生命を全うすべし」と正行にとっては此上もない綸言を賜う。父が湊川に向う時に比べると格段の差で、後村上天皇は彼を失いたくなかったに違いない。
純情な正行は万感胸に迫る想で声もなくひれ伏すと、かの
返らじと かねて思えば 梓弓 亡き数に入る 名をぞとどむる
の句を、如意輪堂の壁に鏃(やじり)で刻み、雪白き吉野を降った。 
(27) 正行軍、特攻す
かくして正平三年(一三四八)正月四日、師直はいち早く六万の軍を五陣に分けた。飯盛山には県勢、外山に川津勢、生駒山に佐々木勢を配して地の利を占め、四條畷に二万の本陣を置いて正行軍を待ち構え、師泰は二万の兵を堺に進めた。
一月五日、南軍の親房は河内東条に護良親王の子・興良を擁して本営とした。四条隆資、小山実隆らに紀和一円の山伏、野伏達二万を率いさせ旗差物も賑やかに生駒山東麓を進撃して飯盛山を突かんとする偽勢を見せる。其間に西麓を急進した正行の三千が一挙に師直の本陣に突入してその首を挙げると云う作戦だった。
が、偽軍である四条に二万の大軍を与え、正行には僅か三千に止め、然も総帥たる彼自身は決戦場に姿も見せない様では勝てる訳がない。
せめて前線司令官である四条隆資は大軍を率いて正行の背後をガッチリと固め、特攻隊長である正行軍をして後顧の憂いなく突進させるべきである。なのに、自分も囮軍に加わったのは逃腰と云うしかない。
果して生駒、飯盛山の地の利を占めていた歴戦の足利軍は四条隆資の偽勢には目もくれず、ひたすら師直陣に突進する楠木勢を見て、
「スワこそ本陣危うし」と先ず飯盛山から県下野守の五千余騎が山をかけ降って防いだ。しかし決死の正行勢に忽ち討ち破られて県は重傷を負う。続いた武田伊豆守の第二陣も潰走し、楠木勢はまっしぐらに師直本陣をめざした。
「これはいかん!全軍突撃して本陣を救え!」
驚いた佐々木道誉は声をからして兵を叱咤しつつ楠木軍の背後に襲いかかる。小勢の楠木後陣は次第に乱れ始めた。 
(28) 正行、散る
もし此時
「里人、百姓なんども甲斐がいしく召具して集り候え、正行様の一大事ぞ」と我先に馳せ集ったと云う数千の領民達が殿軍に加わって居れば、彼らは必死に防ぎ戦って正行本隊は後顧の憂いなく師直本陣を襲い得たろう。
残念ながら彼らはすべて囮軍に配され、四條畷から遠く離れた生駒山中でいたずらに旗差物を翻しているだけで何の役にも立てなかった。
三千と号した正行勢も後陣から崩れて残るは僅か三百余騎となった。しかし細川、仁木、千葉、宇都宮ら名だたる勇将の率いる堅陣を楠木流の「十死一生戦法」で次々に突破し、遂にめざす敵本陣に斬込む。
「我こそ源氏累代の執権として武功天下に高き高武蔵守師直なり」と名乗った高氏の紋入りの鎧武者を見事に討ち取ったから、正行は喜んだ。
「今日こそ他年の本望を達したり、見よや者共!」とその首を宙天高く投げ上げて凱歌を奏した。しかし、これが師直の鎧をつけ身代りとなった上山六郎左衛門で、その隙に師直は必死に逃げ走っていた。
やがて師直を討ちもらした事を知った正行はその首を片袖で包んで丁重に葬った。そして田の畦にどっかと坐り、箙の中から笹の葉で包んだ弁当を取出して悠々と食べ始める。それを見た敵勢は、
「これ程の決死の勇者を討つのは惜しい、むしろ退路を開き逃してやろう」と包囲体勢を取らなかった。元気を回復した正行は、北の野に輪違いの旗の印の下で師直らしい屈強な老将を囲んだ百余騎の一団があるのを見た。正行は再び勇気を振い起し追撃に転じた。
これを見て西の側面から高ノ師冬勢が喰止めんとするのを撃破。正行は師直を僅か一丁ばかりの距離まで追い詰めた。早朝から夕刻まで三十余度の合戦に残るは三十余人となり、馬は倒れ無傷の将士は独りもいない。それでも正行は最後の死力を振り絞って野面を突き進んでいく。
その時、正行の左右の膝や顔面、弟・正時は眉間と咽喉の急所に夥しい数の矢が突き刺さった。九州一の強弓で知られた須々木四郎らの猛射を浴びたのである。
「もはやこれまで、敵の手にかかるな」と正行は覚悟を決め、深田の中の僅かに繁った楠の森影で弟・正時と刺し違えた。三十余人の郎党も次々に主に殉じ、最後まで師直を狙い続けた和田賢秀も望みを果せみまま怨を呑んで散った。 
(29) 正行、宝筐院に眠る
正行たちの死を惜しんで、太平記は
「今日一日の決戦に楠木、和田兄弟一族郎党達、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双の功に残せり。」と父に劣らぬ壮烈な最後を讃える。
時に正行二十三歳、花の盛りである。「戦の勝敗は天皇の御稜威」などと馬鹿な事を広言する長袖族がなまじ軍事に口を出さず、すべてを正行らに任せれば、彼は父に劣らぬ名将として永く南朝の柱石となったに違いない。
大局的に見れば親房の計画したこの積極作戦は彼我の戦力を無視した神がかり的作戦でしかない。『孫子(*1)』の云う「己を知り敵を知らば百戦危うからず」を全く無視している。唯々「天佑神助」を頼むのみで前途有為な若将を死地に投じて玉砕させ、南朝の首都・吉野行宮を焼土と化すと云う惨たんたる大敗戦を演じる結果となる。
正行の戦死を知った北朝の公卿達は「強族討滅」とお祭り騒ぎを演じたが、尊氏は安心しながらも敢えて喜ばず、その子・義詮は内心悲しんだらしい。
正行が梟首されるやそれを知った黙庵禅師は尊氏に願って、彼が再興した白河天皇の勅願寺である嵯峨の善入寺に葬り、懇ろに供養している。
後でそれを聞いた義詮は大いに感動し、
「正行公は敵ではあっても誠に立派な武将で深く尊敬していた。私も死後は是非とも彼の側に眠らせて貰いたい」と要請し、二十年後、望み通り正行の首塚の隣に葬られた。
今日、彼の院号に因んで宝筐院(*2)と改められたその寺内には菊水と丸に=引の紋章の刻まれた石扉の奥城には両将の碑石が苔むした枯山水の庭と紅葉と竹林のそよぐ中に静かに眠って居り、野望と非情の渦まく南北戦史の中でゆ一の爽やかなエピソードを残している。

(*1) そんし。余りに有名な兵法書。著者・孫武は紀元前500年頃の人で、呉に仕え、その勢力拡大に貢献した。なお孫武の子孫といわれ、斉に仕えた孫?(そんぴん)も兵法書を著しており、かつて『孫子』の著者は孫?であるとの説もあった。
(*2) ほうきょういん。京都府京都市右京区嵯峨迦堂門前南中院町9  
6 楠氏と観世一族 

 

(1) 後村上天皇、勝手神社で詠ず
正平三年(一三四八)正月、河内東条に籠り己の建てた作戦に天佑ありと自信満々で勝報を待っていた親房は案に相違して正行一族の玉砕を知る。大いに驚いたが、最早とるべき策はなかった。
『太平記』によると、勝ち誇った師泰の二万余が石川河原に向い、付け城(*1)を構えて東条攻撃にかかったのが八日である。師直が別に三万を率いて吉野に向ったのを知るや、親房は慌てて四条隆資を御所に走らせ、
「正行は既に戦死し、明日にも敵は皇居に迫らんとして居ります。この地はさしたる要害でもなく守兵もありませぬ故、急ぎ今夜中に退去下さい」と奏上させたと云う。
後村上天皇は訳も判らず夢うつつで馬に乗られ、皇后や皇族を始め公卿、殿上人やその奥方、女官、侍童に至るまで慌て騒いだ。取る物も取りあえず嶮しい山路を辿り、垂れこめる山の雲霧を分けて吉野の奥に迷い入った。
勝手明神(*2)の社を過ぎる時、
頼む甲斐 なきにつけても 誓いてし、勝手の神の 名こそ惜しけれ。
と詠じられて行く末を案じている。

(*1) すみやかに敵の城を攻略できそうにない場合、敵城および領内を押さえる要地に、味方の軍勢を置きその周辺地域を鎮圧するために築いた小型の城
(*2) 勝手神社。祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、木花咲耶姫命(こなはなさくやひめのみこと)ほか三神。『古事記』によると、大山祇命の姫神が木花咲耶姫で、この姫神はまた桜の神とされる。 
(2) 後村上天皇、天川弁財天に到着す
その責任を負うべき親房は、いち早く東条から水越峠を越えて十津川街道の穴生の里に逃げ走っていたようだ。
後村上天皇の一行は川戸から小南峠を越えて大峯山への登り口である洞川に入り滝泉寺の山伏達に守られて虻峠をあえぎつつ、川合寺から南下すると天川村坪ノ内にある天川弁財天に到着される。
後に日本三大弁天(厳島、竹生島)のトップに置かれる同社の創建は役ノ行者(*1)である。役ノ行者が大峯修行中にまず出現されたのが弁天様だったが、女人禁制の山だけに天川に祭ったと云われる。後に天武天皇(*2)が社殿を築かれ吉野総社とされた。
そして唐から帰られた弘法大師(*3)が高野開山前の三年間ここを根拠とした。また聖宝上人(*4)が大峯中興に励まれ、その奥ノ院として弥山頂上に弁天社を改修された。それにより一段と繁栄して当時の社家、山伏の数も吉野に次いだと云う。
後村上天皇は、この地で足弱な皇后や幼い皇子、内親王、多数の女官達を、七堂伽藍を守る社人、僧兵達に託した。天皇の軍は更に紀伊の山間を踏破して遠く花園、清水、阿瀬川上城を転々とされる。

(*1) えんのぎょうじゃ。役小角。えんのおづの、とも。634年?〜706年?呪術者で修験道の開祖。はじめ葛城山に住み、呪術によって有名に。699年、弟子の讒言で伊豆島に遠流。鬼神を使役して水を汲み薪を採らせ、命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。『続日本紀』
(*2) てんむてんのう。631?〜686。第40代天皇。672年、壬申の乱で天智天皇(兄)の息子である大友皇子(甥・弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位。
(*3) こうぼうだいし。醍醐天皇に贈られた名前。774〜835。一般には空海(くうかい)の名で知られる。真言宗の開祖。俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。最澄(伝教大師。天台宗開祖)とともに、旧来の奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教を転換させた。
(*4) しょうぼう。832〜909。諡号は理源大師。真言宗の僧。当山派修験道の祖。天智天皇の6世孫。空海の実弟・真雅の弟子。権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄で知られる。役行者に私淑して、吉野の金峰山(きんぷせん)で山岳修行。以降途絶えていた修験道、即ち大峯山での修験道修行を復興。 
(3) 正儀、河内を守る
正月半ば、勝ち誇った師直が「吉野退治」と豪語して三万の大軍を率いて吉野に迫った。しかし山上には最早一兵の影も残っていないのを知って腹を立て、行宮を始め蔵王堂(*1)や宿坊の悉くを灰燼に帰した。
暴行掠奪の限りを極めた師直は当麻寺(*2)に本陣を置いて附近一帯の南軍掃射作戦を展開した。しかし正行亡き後の楠氏三代の棟梁となった三男・正儀の指揮する山民、野伏らの激しいゲリラ戦によって死傷者が続出した。
ばさら(*3)大名の佐々木道誉の子・季宗を始め名だたる勇士が討死し、道誉自身も重傷を蒙ると云う大苦戦で、さすがの師直も閉口して後は弟の師泰に任せて早々に都に引き揚げている。
代った師泰は楠木の本城千早城を攻略すべく河内東条に進攻したが、正儀の巧みな持久作戦に手を焼き、一年後には遂に音を挙げて見るべき戦果もなく都に引上げ、河内は再び楠木一族の支配下に入った。

(*1) 奈良県吉野郡の金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現三体のほか、多くの尊像を安置。「白鳳年間、役行者(えんのぎょうじゃ)の創建」、「奈良時代に、行基菩薩が改修された」と伝えられる。平安時代から焼失・再建を数回。現在の建物は天正20年(1592)頃に完成。
(*2) 奈良県葛城市の寺院。本尊は弥勒仏。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立。創建は聖徳太子の異母弟・麻呂古王。曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる。継母の暗殺から、当麻寺に入り尼となり、一夜で蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経の曼荼羅)を織った。
(*3) 南北朝時代の流行語。身分秩序を無視し華美な服装や振る舞いを好む美意識で、下剋上的行動の一種。足利尊氏は「ばさら」を禁止。『太平記』には近江国(滋賀県)の佐々木道誉(高氏)や土岐頼遠など世にいう「婆沙羅大名」の「ばさら」的行動が記される。 
(4) 師直・師泰兄弟、武庫川河原に死す
其間に後村上天皇は五条から十津川天辻峠の中間にある穴生(*1)に行宮を置いて体勢を立直し、天川弁財天に居られる皇后以下は安らかな日々を過され、以来天川は吉野十八郷の秘められた南朝の中心拠点となったようだ。
正平五年(一三五〇)に入ると直義(*2)と師直の争いが激化(*3)し、秋になると直義は権力の座から追い落された。思い余った末に出家姿で都を落ちると、かねて敵ながら信頼出来る人物と目をつけていた楠木正儀の門を秘そかに叩いて南朝に帰参したいと申し出た。
湊川の父の仇を目の前に見て正儀も驚いたが「窮鳥ふところに入らば」の諺もあり政略家の正儀は親房に引き合わせて協議の末にそれを認める事になった。直義は南朝の綸旨をかざして畠山、桃井の諸大名を味方につけ忽ち京都を占領すると摂津で尊氏師直軍を大敗させた。
尊氏はやむなく師直兄弟の出家を条件に和議を結び都に帰ったが、その後から俄坊主になった師直達がトボトボついているのを見た上杉憲能は「父の怨みを思い知れ」とばかり襲いかゝる。
さしも強欲、狡猾な師直、師泰も積悪の報い逃れ艱く一人の郎党の助けもなく、まるで野良犬のように斬り殺されて武庫川河原に醜い末路をさらすのだが、こうなると僅か二年前に彼の首を求めて玉砕した正行一族が今更のように惜しまれ「長袖兵を論じて国傾く」の感が深い。

(*1) あなう。現在の奈良県西吉野村賀名生(あのう)。この地の郷士・堀孫太郎信増が後村上天皇を迎えた。一時南朝の御所が置かれ、正平六年(一三五一)十月、尊氏が南朝に帰順。北朝が否定され南北朝統一(正平一統)。翌年正月、後村上天皇は、京都に還幸。「願いが叶って目出度い」から「加名生(かなう)」の名に。後、「賀名生」に改名。
(*2) 足利尊氏の弟。兄・尊氏と二頭政治を行う。執事の高師直と対立し、観応の擾乱に発展。直義は罷免、出家して和睦。後、師直討伐を掲げて南朝へ降り、高兄弟とその一族は死す。政務に復帰するが、正平一統(南北朝統一)後、鎌倉の浄妙寺に幽閉され急死。
(*3) 観応の擾乱。足利直義と高師直の争い。 
(5) 尊氏、北朝を廃立して、直義討伐に向う
直義は再び幕政を握り、正儀と協議して改めて南北合一の和議を進めたが、親房は王政復古、幕府否認を力説して聞かず遂に破談となり、政治的立場を失った直義は都を落ちて鎌倉に奔った。
そして正平六年(一三五一)の秋になると、驚いた事に南朝は、尊氏と義詮の降伏を認めるとあべこべに直義追討の勅命を発した。さすがの正儀さえ呆れた程だが、これは親房と尊氏の極秘交渉の結果である。その約定は、
「北朝は廃止し神器は返還する。今後の朝政は一切南朝に任せるが、其間に兵を用いる事は共に決してしない。」と云う条件だったらしい。
アレヨアレヨと云う間に正平六年(一三五一)秋には崇光天皇と皇太子直仁親王が廃され、北朝は忽ち解体された。(*1)北朝方の公卿達は途方に暮れただけでなく、興福寺(*2)の一乗院が南朝に参じて大乗院との間に合戦となり、結崎郷一円を支配していた井戸一族も吉野から熊野に進出して熊野八荘司(*3)と提携を計ると云う激動の世となる。
正平七年(一三五二)正月、かつて北朝を担ぎ出して幕府を創立した尊氏は、事もあろうに南朝に降伏して北朝をあっさり廃立した。親房の云うままに光厳上皇以下を幽閉し、神器を南朝方に渡すと、京都を義詮(*4)に守らせて慌しく鎌倉の直義討伐に向った。

(*1) 南北朝統一。正平一統と呼ばれる。
(*2) 法相宗大本山。創建は藤原不比等。平安時代、上総国・信濃国・飛騨国・備後国に荘園を得た上、春日大社の神威を「神仏習合」により配下に。藤原摂関家と結び強力な政治力を持った。大和国の多くの寺社(法隆寺・薬師寺・西大寺等)を支配下に。しばしば東大寺と衝突。一乗院と大乗院の両門跡が、交代で別当を出すようになる。戦国時代、各地の荘園が武士に侵され、一乗院の坊人であった筒井氏が戦国大名化する等、寺勢は衰退。
(*3) 荘司とは荘園の雑事を担当した職。もともと熊野神宮領の荘園で仕事をした。『武装集団』に発展。有力武士団は八つあり熊野八荘司と呼ばれた。その一つの鈴木氏が有名。この一族は熊野の出自で平安末期に和歌山県海南市に本拠を定めたと云われる。
(*4) 室町幕府2代将軍。足利尊氏の第三子で嫡男。 
(6) 尊氏、直義を毒殺
それを見た親房は「してやったり」とほくそ笑み、楠木正儀、北畠顕能らに京都進撃を命じた。常々「正直と慈悲」を振りかざす大学者とも思えぬ君子豹変ぶりで、親房を信じていた義詮は忽ち都を追出される。
十七年振りに入京した親房は意気揚々と「京都回復の淮三后(*1)の宣旨」を発し、捕えた北朝の皇族を賀名生に送りつけると後村上天皇に出陣を乞い、天皇も勇んで楠木の根拠地河内東条に入られる。
けれど口さがない京雀達は「偉い学者さんやと思うていたが、まるで火事泥じゃおへんか」と囁き、南朝の品位を傷つけ戦いを更に泥沼化する事になる。
正平七年(一三五二)一月、尊氏は直義と和睦して鎌倉に入ったが、折しも親房が約定を破って都を占領。後村上天皇が賀名生を出て摂津住吉に行宮を進め、宗良親王を征夷大将軍に任じて尊氏追討を命ぜられた。その事を尊氏が知るや激怒したのは当然だった。
三月、直義が南朝に利用されるのを恐れて毒殺し、火の玉の如く鎌倉を回復した。同じ頃、近江に逃れて体勢を整えた嫡男・義詮も三万の兵を擁して反撃に転じ、連戦連勝の勢いで都に迫った。

(*1) じゅんさんごう。皇后(*1-1)や皇太后(*1-2)と同格の地位。親房の地位が上がったということである。
(*1-1) こうごう。天皇の正妃。
(*1-2) こうたいごう。先代の天皇の正妃。太后とも略される。 
(7) 親房、賀名生で病死す
親房は、「淮三后」と云う皇族に準ずる待遇で、「天下の耳目を驚かせ」つつ年号を正平に戻した。また、北朝の崇光天皇を廃して三種ノ神器や上皇方を賀名生に移して権勢を誇っていた。が、三月半ばには再び逃げ出さねばならなかった。
お気の毒なのは後村上天皇で、男山八幡宮(*1)まで進み晴れて還幸の日を待ちわびていた。しかし遂に都の土をふむ日もなく、五月には義詮軍の夜襲をうけて四条隆資らは討たれ四分五裂となって潰走した。
それも後村上天皇自身が三種の神器を葛籠に入れて馬の鞍にかけ、雑兵の群に交って命からがら逃げ走られると云う惨状で帝の鎧には流れ矢が十数本もささっていたと云う。
尊氏が窮した挙句の降伏とは云え、一旦結んだ約定を信義を以て守れば、少なくとも南朝は正統の皇室と仰がれ、二十余年の戦乱を収めて万民に泰平をもたらす事が出来た筈である。
その責任は明らかに総帥・北畠親房にあり、楠木正儀などもその言行不一致ぶりを見て「麒麟も老いれば駑馬」と痛嘆し、王政復古などの時代遅れに固執せず、武家政治を認めて一日も早く泰平の世を開かねばならんと決意したようだ。
いっぽう尊氏は血肉を分けた弟を毒殺し南朝軍と大激戦の後に漸く都を回復したものの三上皇を連れ去られた為、飾り雛とは云え玉座に坐る内裏様がなくて困り果てた。
仕方なく光厳上皇の第二皇子・弥仁親王を女院の命により神器なしで皇位につけ後光厳天皇としたが、それも京雀の物笑いの種となったらしい。
そんな中で病を得た親房は、正平九年(一三五四)の四月になると敢なく賀名生の行宮で病死した。南朝の総帥であった彼は元弘以来、独裁者の後醍醐天皇の謀臣として粘り強く戦い、神皇正統記を書いて南朝の正統性を力説し王政復古をめざして懸命に尽した。
けれど勝敗は天皇の威光などと信じて無謀な作戦を強行して正行らを空しく玉砕させ、大学者にあるまじき策略により南朝の品位を落し、両統を合一して万民に泰平をもたらす機会を失した責任は免がれない。
それでも一族が斃れ尽し僅かに姓を改めて十津川に潜みかくれた楠木一族に比べて北畠家は幕府に降って歴代伊勢国司の座を保ち続けた為に後世も高く評価されてはいるがその功罪は半々としか思えない。

(*1) 石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)。京都府八幡市、男山の山頂にある。九州の宇佐神宮、関東の鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮。祭神は本殿中央に八幡大神(*1-1)、西に比淘蜷_(ひめおおかみ)(*1-2)、東に神功皇后(じんぐうこうごう)(*1-3)。この本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神という。伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。
(*1-1) 誉田別尊(ほんだわけのみこと)。すなわち第15代応神天皇(おうじんてんのう)
(*1-2) 宗像三女神、一説に仲津姫命、あるいは本朝国母玉依姫命(ほんちょうこくぼたまよりひめのみこと)
(*1-3) 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと) 
(8) 尊氏、急死す
後村上天皇が行宮を金剛寺に移されたのはその十一月で以来六年間この地は南朝勢の大本営となり、南朝皇族は摩尼院を住居とし、食堂を天野殿として政務を取られる。
北朝皇族はその裏手の観蔵院に囚われの身として四年の歳月を共にする事になるのも哀れである。
正平九年(一三五四)の暮には足利直冬(*1)や桃井直常らが南軍に帰順した為にその勢力は強大となった。我子に攻められた尊氏は後光厳天皇を擁して近江に逃走したから、天野山の南朝皇居は大いに沸き立ち、それに比べて北朝貴族は侘しい春を迎えたろう。
明けて正平十年(一三五五)三月になると尊氏は京の南軍を敗走させて再び勢力を盛返す。金剛寺に囚われていた光厳上皇らが京に帰られたのは正平十二年(一三五六)の春で此頃になると北軍の勢力が此地にまで拡大されたのだろう。
そして正平十三年(一三五八)四月、突然北軍の総帥・尊氏が懐良親王を擁する南朝征西府を自から鎮圧せんと準備中に急死すると云う大事件が起った。
尊氏は熊野三山の造営にも大きく貢献しているが、その願文を見れば「大願成就し我家が繁栄せば社殿を新築し田地を寄進す」と神仏まで物で釣るような言葉が見られる。正成が産土神に対し、「朝敵亡び天下泰平とならば毎日社前に法華経を誦読して厚く感謝の誠を捧げん」と記しているのと好対象である。両者の品性や思想、行動に格段の差があり「理想の武夫は正成一人のみ」との『太平記』の評価も当然と思われる。
然し当時の武士社会は源平時代の「名を惜しみ、物の哀れを知るこそ武士」とする信条より物欲第一であった。敗れても死を急がず「降伏すれば所領の半分は残る」と利を先に、「今日は南朝、明日は北朝」と景気の良い方につくのが常となった。それらの時勢をもたらせた張本人が尊氏であったと云える。

(*1) あしかが ただふゆ。足利尊氏の妾腹の子。妻や、冬氏ほか数人の子が存在したと言われている。実父・足利尊氏に認知されず、幼少時は相模国鎌倉の東勝寺(神奈川県鎌倉市)で喝食(*1-1)となる。後、還俗して上洛、京都で玄恵法印に紹介され叔父・足利直義の養子に。直義に一字を与えられ直冬と名乗る。
(*1-1) 禅宗のお寺で食事の時間などを知らせたり、食事のメニューを声を出して、知らせる役目をする僧で、少年、童子がその任にあたり喝食行者(かっしきあんじゃ)と呼ばれた。 
(9) 正儀、京を攻め、義詮、近江に逃走す
さて尊氏亡き後、二代将軍となった義詮は楠木正行に武将として深い尊敬を抱いていた。それだけにその弟・正儀のあくまで時流に媚びず、臣節を貫かんとする態度に好感を持ちつつ、何とか一日も早く「両統を一体として天下泰平の世をもたらせ」と云う父の遺言を果さんと望んでいたようである。
正平十四年(一三五九)も実りの秋になると、紀伊龍門山に於ける激戦や、九州筑後川での南朝勢の勝利を聞いて此際、新将軍の武威を大いに示さんと関東勢を召集して大挙河内に進撃した。
後村上天皇は当時河内天野の金剛寺を行宮にしていたが正儀は畠山国清らの大軍が迫るのを知るや後村上天皇を観心寺(*1)に遷し、金剛寺の松に高々と非理法権天の菊水の旗を翻えして激しく迎え討った。
善戦三カ月の後、正平十五年(一三六〇)の三月になると幕府勢は遂に大門を突破して寺内に乱入し、三十余坊を焼き立てたが正儀は頑として守り抜いた。
幕府は遂に諦めて都に引揚げ、天皇は再び観心寺に還えられたが、土地の名産の餅米で作った「寒晒(*2)」が好物と聞いた里人は競って手作り品を献上してお慰さめしたと伝えられている。
河内和泉一円を回復した正儀は勢いに乗じ正平十六年の暮には突如として長駆京に進攻し、驚いた義詮は慌てゝ北帝を擁し近江に逃走する。
この時、ばさら大名・佐々木道誉は都落ちに際し自邸を清め山海の珍味と茶器の名品を揃え、まるで賓客をもてなす様な態度で立ち退き、それを見た正儀も「さすがは風流人よ」と感心した。

(*1) 正成と大塔宮を参照。
(*2) かんざらし。白玉のこと。白玉粉は寒晒し粉ともいい、厳寒の候に、餅米を清水で晒しながら作る。水にさらして作るので暖かいと痛みやすいから、変質を防ぐため寒い時期に作る。河内の観心寺の名物だったので、古くは観心寺粉とも呼ばれていた。 
(10) 正儀と道誉、肚を割って話す
北朝勢が大挙京に迫るや、今度は正儀が同じように邸を清め、秘蔵の兜などを置き土産にして整然と引揚げた。道誉はその人柄に惚れ、義詮と話し合い何とか正儀を話相手にして戦いを止め南北合一して泰平の世にし民の苦しみを救おうと決意したようだ。
いっぽう政略家の正儀も同じ考えだったが、幕府(北朝)の有力大名だった細川清氏が義詮と合わず南朝に降参し「先鋒として都を攻略したい」と申し出てきた。公卿達は喜んで許そうとしたが正儀は、
「現在、京を取るのは我一族だけでも出来る。然し維持するのは困難だし、敵も意地になって奪回せんとするに違いない。いたずらに戦いを繰返すより此際は連戦で疲れた兵や民を休め、徐ろに大局を眺め直して事を処すべきである。」と力説して中止させている。
この様な正儀と道誉が後に肚を割って話し合い、
「武力で得たものは武力で失う。このままでは果てしない争乱の中で優れた人材を殺し、罪もない民を苦しめるだけだ。一日も早く南北合一を実現して泰平の世をもたらさん」との結論に達する。その影の力には両者が共に親しかった有名な猿楽師、観阿弥の存在を無視する事が出来ないのは確かで、そこら辺りを調べて見よう。 
(11) 観阿弥〜田楽や猿楽
正平十八年(一三六三)楠木正儀が南朝方の大黒柱として奮戦し京都を奪還して広く戦略家としての器量を知られ、北朝の重鎮の一人であった佐々木道誉からも共に天下泰平を論ずべき人物と注目されていた頃。
伊賀名張郡小波田の豪族である竹原大覚の領内に新しい猿楽の一座が創設され、座長観阿弥の芸達者が人々の間に大きな評判となっていた。
こゝで当時流行した田楽や猿楽の歴史に就いてざっと眺めて見よう。
我国古来の神楽や唐や高麗、百済の外来舞踊が加わって様々な神事芸能が生れるのだが、田楽と云うのは農民が豊作を願って田の神を喜ばす為の歌や踊りから発達した国粋的なものである。
これに対し猿楽は始めは散楽と云われた外来のもので滑稽な物まねや曲芸、歌、舞踊などが交った庶民相手の芸能の中から特に歌と舞を基本として発達し平安中期以来、共に大社寺の祭礼や法会には欠かせぬ行事となった。
平安末期には専業者の同業組合の座が京や奈良を始め各地で結成されているが、田楽では京都白河の本座や奈良の新座が有名で、猿楽では春日大社に奉仕する大和猿楽、伊勢神宮の伊勢猿楽、法勝寺の丹波猿楽、日吉大社の近江猿楽が名高い。 
(12) 観阿弥〜楠木との縁
さて次には観阿弥と云う人物の生い立ちだが、諸説ある。
大和では、伊賀の平宗清を祖とする服部保清の三男で結崎に移住して結崎清次と改め義満に仕えて観阿弥宗音と称する。
伊賀では
「観阿弥の父は北伊賀浅宇田の豪族上嶋景盛の三男で杉ノ木の服部家を継いだ服部元成であり、母は河内玉櫛ノ庄の楠木正遠の娘だった」と云うから正成の義弟になり、観阿弥から云えば正成は伯父、正行や正儀は従兄になる。
北伊賀の服部家と云えば平氏の流れを汲む名門で、壇ノ浦後も各地で生き残った人々は根強く繁栄し、伊勢伊賀各地の山々から出る丹砂、朱、水銀等をその経済源として勢力を伸ばしていた。
南伊賀には大江定基(*1)の子孫が東大寺をバックに栄え、当時は、後醍醐天皇の台所を預かる「大膳司」に任じられて興福寺と対抗し、赤目寿福院の天台系山伏とも深い関係を持つ大豪族であった。
正成の軍学の師大江時親もその一族であり、金剛山風呂ガ谷の水銀鉱山の開発にも大江領内の発掘関係者の技術指導があったと思われる。服部家と同様に正成とは因縁浅からず元弘の乱後は、南朝方の有力な同志の一人だったろう。

(*1) ?〜1034。和泉式部の父親であると伝えられる。伊賀平氏を参照。 
(13) 観阿弥〜生い立ち
観阿弥が生れたのは正成が金剛山で北条の大軍を一手に引受け大活躍をしていた元弘三年(一三三三)で、父の元成は当然その同志として働いていたと思われる。幕命を奉じた足利高氏が金剛山に向う途中に伊賀路を選んで進撃しているのも彼らの動きを圧さえる為であったようだ。
幼名を観世丸と称したと云う観阿弥が四歳の時、湊川で正成一族が討死している。観阿弥が幼なくして長谷の猿楽法師に託されたのは、楠木一門と生死を共にせんと決意した父元成が、せめて三男の彼だけは自由にその天性を伸ばしてやりたいと願った為かも知れない。
観世丸が長谷に移ってからも母の里である河内楠木家は南朝の牙城として戦火の絶える日がなかった。正平三年(一三四八)四條畷で正行一族の壮烈な最後を聞いた観世丸は(恐らく元服して服部清次と名乗っていたと思われる)、在りし日の凛々しかった従兄達の死に若い胸を震わせたに違いない。
そして勝ち誇った足利勢は此際南朝勢力の一掃を計り、師直軍は吉野へ、仁木勢は伊賀に向い、大江一族の守護神と仰ぐ杉谷神社や大江寺等も大きな被害をうけ北伊賀の南朝勢も大打撃を蒙ったようだ。 
(14) 観阿弥、小波田福田神社に創座
苦難に襲われた故郷の事を案じながらも観阿弥の厳しい芸道修行は続けられ、大和猿楽の四座である竹田(金春)山田(観世)外山(宝生)坂戸(金剛)に遊学して一段とその芸を磨き、当時田楽の名人と称された一忠にも師仕し、数々の本も読破した。
正平四年には京都四条河原で架橋の勧進田楽が催され、尊氏も大いに喜んで臨席しているが、熱狂した見物の大騒動で桟敷が崩壊し多数の死傷を出した時、観阿弥もその場に居合わせていたようだ。
此様に二十余年の修行を重ねた末、山田座の山田小美濃太夫家光の養子となり創座の認可を得た観阿弥は妻の父である竹原大覚の尽力で伊勢参宮街道の道筋にある小波田福田神社に創座し晴れの初演を迎えたのである。
それは正平十八年(一三六三)の秋で、観阿弥は男盛りの三十歳、長男藤丸は八歳で伊賀の浅宇田ですくすく成長し、次男(後の世阿弥元清)は生れたばかりだったと伝えられている。
観阿弥一座は伊賀一ノ宮敢国神社や名張宇流布志根神社の奉仕能の楽頭職に任じられ次第にその評判が高まった。 
(15) 観阿弥、大和結崎に移る
観阿弥一座は、大和結崎井戸の里の糸井神社(観世音寺)の叔父・糸井行心の招きでそちらに移る事となった。この地の領主は藤原氏の血をうけた忠文がここに土着して井戸を創立し、代々興福寺一乗院衆徒の下司職として勢力を振ったが、領下の糸井神社は結崎宮とも呼ばれ春日大社傘下の名社で古くから奉仕猿楽の座があったようだ。
然し糸井行心と共に名張小波田に創座した観阿弥の名演技を見た領主井戸某は昔ながらの芸を後生大事に続けている楽頭職を更迭して新風を起したいと思い、礼を厚くして招いたらしい。
観阿弥も創座したばかりの小波田座を捨てる気はさらさら無かったが、何と云っても大和は猿楽の本場だけにここに第二の根拠を作り、次には都に進出せんと考え、伊賀各社の奉仕能を勤めつつ結崎に移る事を承知したようだ。
糸井神社の古伝によれば貞治二年(一三六三)の嵐の夜、天から能面と葱の種が降ると云う奇跡が起ったので観世音寺の別当とも協議の上、境内の一角に面塚を築き、今評判の観阿弥を招いて結崎座を創立したと云う。
大和結崎に移り結崎清次と改めた観阿弥の胸中に秘められていたのは能楽の大成と共にかつて都に遊学した際に見た哀れな民衆の生活に一日も早く泰平の世を招かねばならぬと云う悲願であったろう。 
(16) 観阿弥、泰平な世を願う
当時の公卿日記によれば「四条大橋に立てば流屍無数、流れる水を堰止め、腐臭鼻をつく」とあるように花の都でさえ打続く戦乱と飢饉で家を焼かれ家族を失った民衆は望みを失い、男は乞食や群盗となり、女は色を売る遊女となってその日暮しを続けていた。
平安の律令政治は無力化し、打続く南北両朝の争乱に昔の清廉だった北条幕府に比べ足利幕府は未だその権威を確立出来なかった。大名達の下剋上の嵐が吹きすさぶ中で貪欲な商人共は
「この世は夢。天下がどうなろうと、我身さえ富貴栄華を欲しいままに過ごせればいいんだ」と嘯いている。
観阿弥はそれを見て此様な末世に生涯の理想とする能楽の大成を成就させる為に、何よりも大切なのは「戦いの無い泰平な世にする事」で、自分として出来る限りその実現に努力するのが、亡き伯父・正成を始め一門の人々の冥福を祈る最大の供養だと考えた。そして観阿弥は母の里を訪ねて、同じ年頃の従兄である正儀と会う度にそれを語る。彼は武士を捨て猿楽と云う卑しい芸能一筋に生きながらもその恩を忘れず、
「二十余年に及ぶ戦乱の中で塗炭の苦しみに喘ぐ民衆に一日も早く泰平の世を」と人間愛に満ちた切々たる願いを訴える。その願いに、正儀もまた真剣に応えたいと考えていた。 
(17) 道誉、正儀と会う
更に「ばさら大名」として世に知られつつ、乱世の中で連歌、茶道、能楽など風流の道を極めた異色の存在である佐々木道誉が正儀を相手に合一を計る事になったのも観阿弥の秘められた尽力があったに違いない。
正平二十年(一三六五)、北条の六波羅を倒した歴戦の武人で四條畷でも正行を討った道誉が新宮大社の式年遷宮の総奉行となった。道誉は、名ある武将三十九名に率いられた千人近い大工職人達を続々と新宮に送り込み、自から工事監督に姿を見せたのである。
その頃の彼は宇治川の先陣で有名な佐々木高綱の血を受けた近江源氏の名門と元弘の乱以来数々の武功によって亡き尊氏の信望も絶大であった。その事から義詮からも重んじられ今や幕府の重鎮となっていた。
それが征西将軍・懐良親王の活躍で、九州全土は元より、四国の河野一族さえ村上義弘の尽力で宮方となり、大挙東上の機運が見える重大な時勢に遠路はるばる新宮大社の造営にやって来ると云うのは、
定めなき 世を憂き鳥の 水がくれ 下やすからぬ 思いなりける
との彼の歌の通り天下泰平を恵まれる熊野大神の神助を求める切な気持からである。大社の幹部の一人で楠氏の本家である楠刑部を介して、秘そかに正儀と会い、「南北合一」の和議を進めたいと念じたのだろう。
道誉の要請を受けた楠三ノ太夫は喜んで河内に飛鳥山伏を走らせ、それを聞いた正儀も渡りに舟と直ちに新宮に向いここでじっくりと協議を重ねた末に双方とも合意に達したらしく、道誉は造営工事の完了を待たず帰京している。 
(18) 正儀と道誉、和睦に尽力す
それは正平二十年(一三六五)の秋で、大和結崎井戸の里に新座を開いた観阿弥も内々それを聞いて大いに喜び、その座名も観世座と改め「自然居士」や「翁」の新作に取組みながら一段と芸道に精励し続けた。
その前年の北朝の貞治三年(一三六四)、観阿弥は醍醐の清滝の神事で京での大評判を得た。彼は「猿楽の芸は衆人愛敬をもて一座の寿福とす」という信念通り、あくまで民衆の芸能を基盤として、「通小町」「卒都婆小町」「吉野静」等を次々に創作する。そうして、一日も早く泰平の世が到来し民衆と共に能楽を楽しめる日を待ちわびていたに違いない。
翌正平二十一年(一三六六)になると、将軍・義詮が大旦那となった新宮大社の造営が九月には完成。嫡男・義満も神興と数々の神宝を寄進し、大社では大いに喜んで別当嫡流の宮崎、矢倉らが御礼言上に上洛したと云う情報が金峯山寺から行宮に報ぜられた。
頼みとする熊野の動向を見て、後村上天皇も何とか遺勅に背かぬ条件で泰平の世を迎えられればと決意された。正儀とも協議の上、正平二十二年(一三六七)四月、側近の葉室中納言が講和の使者として入京し義詮と面談した。
けれど綸旨の中に「足利方の降参」と云う言葉があった為に交渉は難行した。道誉と正儀の尽力でどうやら妥協が出来て、次には幕府の使者が吉野を訪れて最後の仕上げに入った。 
(19) 義詮と後村上天皇、没す
然しその十二月、肝心の義詮が没し、望み通り正行の首塚の隣りに葬られる。為に交渉は一時中止され、三代将軍に幼い義満が就任、執事には細川頼之が任じられた。交渉が再開されんとした翌年の春、今度は後村上天皇が崩御されると云う悲劇が発生した。
それは正平二十三年(一三六八)の三月十一日で、
仕うべき 人や残ると 山深み、松の戸閉も 尚ぞ訪ねん
の句を辞世とした。四十一年の生涯に戦いの止む日もなく住吉の行宮で没し、御陵は桧尾山観心寺(*1)に葬られ、其為に交渉は再び中断された。
もし天が両者に後半年の齢を恵まれれば、南朝に正儀あり、北朝には大政治家・細川頼之と道誉が健在だったから、後のように契約不履行などと云う事もなく、後南朝六十年の悲劇も生じなかったろう。誠に惜しい限りだった。
年代記には何も記されてないが、南朝三代の皇位には長男の長慶天皇が就かれた。大覚寺系らしい豪気果断な性格で和平派の正儀より抗戦派の四条隆俊らを好まれ、折角合意に達した和議を破棄してしまう。
「勅諚なれば止むなし」と正儀は悄然と河内に帰った。

(*1) 正成と大塔宮を参照。 
(20) 正儀、北朝に降参す
正儀は、今まで骨を折って呉れた人々にも面目なく悶々たる日を過したに違いない。無謀な勅命にも黙々と従い「七生報国」の遺戒を残して臣節に殉じた父や兄の志を継いで二十余年を粘り強く戦い抜いて来た彼である。
けれども果てしない戦乱の中で疲れ切り、安らかな日々もなく飢え苦しんでいる民衆の生活を考えると、このまま戦い続ける事が果して正しいのか大きな疑問を感じた。
父が曽つて「皇室の安泰と万民の泰平を守る為に、尊氏を召し義貞を除くべし」と帝に直言したのを聞いていた彼は幾夜かを考えあぐねた末、遂に思い切った決意を固めた。一族は勿論、和田、橋本ら一門にも打明けず、秘そかに上京した。
そして道誉と細川頼之に会い状況を物語ると
「南北合体して泰平の世を招く為に正儀一族は北朝に降参する。幕府はそれを利用して大挙南朝を攻めると云う事は決してやらず、抗戦派の勢力を弱めて和平実現に努める」と決めて帰国し一門に伝えた。
かくして正平二十四年(一三六九)正月、住吉行宮では長慶新帝を囲む強硬派の側臣達が色を失う大事件が勃発する。大黒柱の正儀が北朝に降参したと云う思いも寄らぬ悲報が入ったからである。 
(21) 正儀、河内と和泉を平和にする
四条、北畠の公卿達はまるで飼犬に手を噛まれたような顔付で楠木一門の和田、橋本ら武将達を責め立てる。彼らも正儀との打合せ通り何喰わぬ顔で腹を立てたふりをして直ちに出陣し赤坂城の空攻めにかかる。
四月になると上洛して来た正儀を迎えた頼之は義満に接見させ約束通り大軍を派遣して彼を助けた。強硬派の筆頭である四条隆俊らを斃してその力を示すと、さっさと兵を退いて和平の機運が興るのを悠々と待つ。このあたり、正に鶏群の一鶴(*1)で、強欲で先の見えぬ幕将の中では道義心に溢れた第一の政治家と云えよう。
正儀の降伏によって幕府は彼を河内、和泉の守護に任じ領下の人々は久方ぶりに戦いのない平和な月日を迎えた。農民は農耕に漁民は海浜の稼業に精励し、久方ぶりに豊作の祭太鼓が村々に流れ、以後十幾年と云う長い平和な歳月が続いた。
良き領主として正儀の名声が都にも知られる頃、従弟の観阿弥は大和四座のトップとして京に進出し、今熊野神社の奉仕能で名曲「翁」を舞って口うるさい京雀から絶賛され、猿楽の第一人者の地位を築いたのは応安元年(一三六八)だった。
正儀と観阿弥親子は共に京に住み泰平の世の招来に尽力し合った事だろう。

(*1) ぐんけいのいっかく。鶏の群れの中の一羽の鶴という意味で平凡な人の群れの中の優秀な一人であること。 
(22) 道誉が没し、細川頼之が失脚して、和平遠のく
ところが、文中二年(一三七三)になると幕府内で南朝撃滅論が高くなり、やむなく正儀が先陣となって、天野金剛寺を行宮としている長慶天皇を攻めざるを得なかった。
金剛寺伝でも「正儀しばしば襲来す」と記されているが、天皇が巧みに吉野天川や宇智の栄山寺に遷られているのを見ても彼がいち早く密使を走らせ急を告げたに違いない。金堂や天野殿などの歴史的な殿堂を戦火によって失う事のないよう、深追いを中止して軍を引いている。
文中三年(一三七四、北朝・応永七年)に入ると恐らく佐々木道誉らの推薦があったのだろう。十八歳の義満は、観阿弥父子の今熊野神社に於ける勧進能に始めて臨席して大いに感動した。十二歳の可憐な世阿弥を深く寵愛し、身近に仕えさせて祇園の山鉾見物にも伴い、口さがない公卿達から冷評されている程である。
義満の観阿弥父子に対する寵愛が深まるにつれて正儀が彼の邸を訪れる機会も増し、和平実現の為の相談を重ねつつも、義満に対しては観阿弥が楠木の親族である事は絶対秘密にしていた。
観阿弥父子は、様々の新作を自作自演して義満を尊氏以上の能楽好きとした。そうして「天下の万民が挙って能楽を楽しめる為にも一日も早く泰平の世を」と正論を説き続ける。しかし観阿弥父子の努力も、道誉が没し、細川頼之が失脚するとさっぱり進展しなかったようだ。 
(23) 正儀、南朝に帰参す
天授五年(一三七九)三月には長慶天皇から新宮大社の大納言法印御房宛に「阿波国日置ノ庄を寄進するから勝利を祈願されたい」との綸旨が届いている程で、南朝方の戦意は一向に衰えていない。それにしても霊光庵主を大納言なみの法印待遇に任じたのは前例のない扱いで、孤城落日の感が深い。南朝としては何とか熊野と高野を味方につけて体勢の立直しを計りたかったのだろう。
弘和元年(一三八一)に入ると、九州で菊地本城が落ち、関東の小山は降伏。これを見て幕府内には天川の南朝皇居を断呼壊滅せよとの意見が高まった。
義満から河内、和泉の守護に任じられた正儀は懸命に南朝の温存を計っていた。しかし弘和二年(一三八二)に入ると最早このままでは到底止められないと、遂に南北合一の望みを捨てた。落日の南朝に殉ずべく、秘かに観阿弥父子に別れを告げると、正儀は河内に急いだ。
「正儀帰参」の報は全南朝軍の志気を鼓舞したらしい。北朝方の新宮大社に、熊野川上流・北山一帯の南朝勢が大攻勢に出て鵜殿城に迫り、相野谷の社家弥宜達も南朝に味方して大激戦が展開された。
戦いは九、十月と続きその為に大古以来、幾千年も連綿として絶える事なく続けられた大社の秋祭りが開催出来なくなり、前代未聞の出来事なので大社の幹部達も途方にくれたらしい。
幕府の要人達に親しい宮崎、堀内らは都に走り、庵主や楠三ノ太夫は十津川を北上して天川に行宮を移されている長慶天皇に拝閲を願い、「皇位無窮と天下泰平」を神願とされる熊野三所権現の大祭が烏止野船や相野神官不参の為に遂に開催出来なかった実情を訴えて何とか平和の世を招来し大神の怒りを鎮めて戴きたいと要請し、神威を盾に居直ったのは当然の事かも知れない。 
(24) 観阿弥、富士浅間大社にて死す
正儀らの奮戦によって幕軍の進功を喰止めた翌弘和三年(一三八三)十月、硬派の長慶天皇が退位された。弟君の温和な人柄の後亀山天皇が即位されたのは、前述の事情からとしか考えられない。
万民の泰平を求める正儀や観阿弥らの悲願は今や熊野権現の神威に助けられ、徹底抗戦の南朝方に漸く和平を望む風潮をもたらしたと云えよう。
大覚寺系では珍しく人の好い後亀山新帝の皇后が
庵さす 宿は弥山の 陰なれば、寒き日毎に 降る霰かな。
と詠じられた程に寒気の厳しい天川弁天社にも、果てしない動乱の中に漸く和平の機運が漂い始めていた。
そして翌年、至徳元年(一三八四)の五月十九日、観阿弥は駿河の浅間大社の勧進能興行に出演する。
富士浅間大社の大宮司は、秦ノ徐福の子孫で、時の五十八代大宮司は長男・義利が継いでいた。義利は、南朝方として宗良親王や護良親王の若き皇子達を助け、秘かに活動を続けていた。その様な大社の奉仕能を演じると幕府に憎まれる事は良く判っていたが、観阿弥は敢て出演した。そして見事な演技で民衆を喜ばせたが、何故かその直後に急死している。
幕府の記録は「五月十九日観阿弥清次、駿河にて客死す。歳五十二才」とのみ記され、万世の太平を求めて奔走した彼の苦斗は一切秘されている。 
(25) 正儀、忽然と消える
続いて翌年、元中二年(一三八五)になると長慶上皇が高野山丹生明神に、「今度、天下の雌雄を決すべき決戦を行うに際し格別の神助を賜わり度」との願文を奉納している。これから見て、天ノ川行宮を中心に吉野、金剛山、紀伊一帯にわたり、山名氏清を大将とする幕府の大軍を相手に大激戦が展開されたと思われる。
そして南朝戦力の中心である正儀が金剛山中にその消息を絶ってしまうと云う大事件が起るが、何故かその戦いの状況は父や兄のように詳らかではない。
幕軍の将兵の中にも彼を討ち取ったと名乗り出た者がいない点から見て「忽として消えてしまった」としか云い様がない。親族の観阿弥急死の翌年だけに恐らく大きな謎がかくされているに違いないが、今となっては確かめようもない。
父の正成は挙兵より五年、兄の正行は僅か一年で玉砕して歴史に不朽の名を止めた。それに比べて正儀は四十年近くも苦斗を続けているのに、皇国史学全盛時代には不肖の子として抹殺され、逆賊扱いされた。戦後は逆に正成の子と云う立場から尊氏の如く英雄視される事もなく空しく埋没している。
今も天野山金剛寺(*1)には、鹿皮に金箔を縫いつけ「非理法権天」と墨書し、十二菊に波頭の紋章を記した旗差物を背にした血みどろな正儀は残されている。
そんな正儀の姿を仰ぐ度に、誠に気の毒でならない。
幸い日本外史の頼山陽が
「正儀の行動は南朝が崩壊する事なく何とか南北合一に到達させんが為の深慮遠謀であり、彼がいた為に南朝は何とか面目を保って合一に漕ぎつけ得たのだ。」と力説。さらに
「正儀は決して父に劣らぬ清廉な武将である。もし彼が私欲の為だけに動いたのなら、南朝が志気盛んな正平年間に北朝に降り、壊滅の危機の迫った弘和年間に帰参すると云う馬鹿げた行動をとる筈がない」と断じている。
正に其通りで、四條畷以後は若くして楠氏三代の棟梁として父の遺志を胸に柔軟な政戦両略を巧みに駆使して四十幾年を戦い抜いた。真に南朝の大黒柱は親房ではなく正儀だったと信じている。
そして結崎糸井神社や名張小波田座のゆかりの地に楠木と観世父子の碑を建立して秘話を詳しく社史に綴り、広く氏子一同の胸に刻み込んで郷土の歴史に止めるべきだと思う。

(*1) あまのさんこんごうじ。大阪府河内長野市にある真言宗御室派の大本山。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも。聖武天皇の勅願により行基が開いた。南北朝時代には南朝方の勅願寺であり、南朝の後村上天皇の行在所(あんざいしょ)ともなり、北朝の光厳・光明・崇光天皇の行在所とされた時期もあった。 
7 万世に泰平を求めて  

 

(1) 老僧と下級公卿、嘆く1
楠木正儀が金剛山中に姿を消してより五年後の元中七年(一三九〇)になると天川の南朝勢は曽つて関東、九州への動脈だった大湊、堺、新宮、田辺港を失う。吉野熊野の郷士や山伏達、河内から十津川に退いた楠木一族、伊勢大河内の北畠らによって僅かに支えられていた。
然し地元民から戦火で焼失した天川河合寺の再建を要請されても「天業成就の後に」と逃げ口上を云わねばならぬ程に財力は窮乏していた。高野も熊野も北朝になびいて遷宮費の寄進を仰ぐ時勢となってしまった。
『太平記』の作者はその当時の世相について二人の文化人を登場させてこの動乱の世情を批評させている。
一人は、元は北条幕府の評定衆だったと云う高位の武士でありながら、足利幕府に失望し、出家僧となって諸国を放浪して歩き、衆生済度を念願としている老僧。
今一人は、父祖代々朝廷に仕え最近まで南朝方として吉野、賀名生、天川の行宮を転々とした末に、やはり望みを失い都に帰って侘住居をしている下級公卿である。二人は秋の月の澄み渡る夜、乏しい懐をはたいて濁り酒を求め、古寺の縁先でそれを汲みながらしみじみと浮世話を交した。
老僧が
「北条幕府は明恵上人の教えを受けた泰時様や時頼様以来、私欲を捨てた清廉な政治の伝統があって善政が続き、部下の奉行達も常に正しい政治を心がけていた。けれど今の足利幕府の高官共は貪欲で功を誇る連中ばかりで、何だかんだと重い税金を取上げては喜んでいる。これでは世の中が安らかに治まる筈がありませぬなあ。それに比べると貴方の仕えていた南朝の人々は君も臣も片田舎の貧しい山の中で共に苦斗を重ねて居られるから、民の辛苦も良く判って居られましょう。こんな方々が政治を取られたらと大きな期待を持って居ります。」 と云うと公卿は淋しく首をふって、
「南朝の帝が本当に万民に泰平をもたらそうと努められ、その廷臣達も私心をなくし、清貧を旨として君を補佐して居られれば、腐り切った幕府の世などはとっくに奪回出来ている筈です。それが何十年かかっても出来ないと云うのはその政治が人心を得ていないからで、とてもとても期待なんぞ出来ませぬよ」と答えている。 
(2) 老僧と下級公卿、嘆く2
老公卿に率直に云わせれば
「古代から天皇たるべき者の使命は天照大神の如き愛と慈悲を以て万民に接し、一切の私心を捨てて公平無私な政治を司り泰平の世をもたらす事にある。」
然るに後醍醐天皇は己とその一族の権勢を保たんが為に宋学の説く大義名分論とやらを盾として天皇を絶対至高とした。その命に背く者を賊とし覇道と決めつけ、正嫡の北朝の君との約定さえ無視している。
それに対し尊氏ら幕府の武士達は逆賊の名を免れん為に北朝の帝を奉じてはいても誠に尊王の心を持たず「力こそ正義なり」と信じ、所領や名利を得る為には臣節も信義もなく北条幕府とは比較にもならめ武家独裁社会を作り上げた。
かつて武夫の理想は「命を惜しまず、名を惜しみ物の哀れを知る者」であったのに今ではその様な精神を旨とする武人は数える程もないと云った心境であったろう。
そして両者がせめても希望の星と仰いだのが「人生五十年、功なきを恥ず」と詠じた宰相・細川頼之が再び政府首脳として返り咲いた明徳二年(一三九一)の春に入ってからだったと思われる。 
(3) 細川頼之、南北合一の交渉を続けて、死す
細川頼之の政治信条とする処は他の大名達とは大きく異なり、
「政治の根本は万民の為に泰平をもたらしてその生活を安定させ、豊かな物資を生産させてその心を豊かにし“衣食満ち足りて礼節を知る”公武一体の世の中を築き上げ、王朝文化の伝統を後世に残しつつ、清廉な武家政治を樹立する」ことにあった。
彼は十一国を領した権臣・山名氏清の反乱を鎮圧して守護大名の強欲を戒めつつ、かねて念願の南北合一を実現して天下の泰平をめざした。南朝びいきの『太平記』の作者もその大志を讃え、
「外相内徳、実に人の云うに違わざれば人々これを重んじ、外様大名もその命に背かず、中夏泰平無事の世となりめでたかりし事なり。」と述べて全四十巻を結んでいる。
その期待された頼之は、元中九年(一三九二、北朝の明徳三年)大和の栄山寺を舞台に紀伊の守護に任じた大内義弘に命じて南朝との和平交渉を進めた。基本約定の合意を得て安心したか、その春、頼之は後事を養子・頼元に託して六十四歳で世を去った。
「立って禅塔を尋ね清風に臥せん」と死の床で詠じた彼の瞼の底には、合一をめざして苦斗を続けた佐々木道誉や楠木正儀、或いは観阿弥の面影が次々に浮かんでは消えた事だろう。 
(4) 南朝・後亀山天皇、天川を去る
その遺志をついで彼の死後も義満は新宮大社の要求に答え、数々の神宝を献じて天下の泰平を祈願した。大内義弘や北朝の日野中納言を督励して南北合一の実現を早めるべく交渉を続けさせた。
けれど文中二年(一三七三)以来、天川行宮を最後の居城として二十余年、
浅からぬ 契もしるし 天ノ川、橋は紅葉の 枝を交わして。
と詠じつつ、尚も斗志を燃やされる長慶上皇を始め、四条、中園の公卿や一部の武将達は強硬で、交渉は難行し続けた。
そして遂に紅葉も早い天川行宮の秋たけなわの頃、南朝側の最終案に対して淮三后・義満は素直に同意し、
「幕府としては南朝の正統を認め、神器は譲位の儀式によって北朝に伝えられる。以後の皇位は両統交替とし、大覚寺系皇族は国衙領、持明院系は長講堂領を以て生計費とする」と云う約定を結んだ。
長慶上皇始め硬派の連中は尚も「幕府の約定は信じられぬ」と反対したが、後亀山天皇が「運命は天に任せて民の憂いを休めん」と決意された。後村上天皇の皇子の一人である惟成親王が、
散り果てて 残る紅葉も 無きものを 何を染むべき 時雨なるらん
と詠じられている事は力尽きた南朝の実情を如実に物語っている。
久しく行宮として尽力してくれた弁財天社に、後亀山天皇は残り少ない南朝の所領の一つである宇智郡の庄を寄進した。 
(5) 南朝・後亀山天皇、嵯峨野へ
後亀山天皇が天川を発したのは、元中九年(一三九二、北朝の明徳三年)十月末で『続紀伊風土記』はその陣容を、
「先陣は中辺路の山本判官の五百騎、二陣は熊野八荘司で那智の色川左兵衛ノ尉、芳養の杉若越後守、栗栖川の真砂兵庫、近露の野長瀬六郎、古座の高川原摂津守、周参見の周参見主馬、三箇の小山式部、安宅の安宅左近」と詳記している。
本陣には吉野川上の更矢通重や楠木、越智、北畠の諸将が続いたと思われる。秋雨の中を吉野から栄山寺、橘寺、興福寺と泊りを重ねて、いよいよ入京の際の廷臣は僅か十七名、武士は二十余名と云うから、護衛の将士は途中で天川や故郷に帰ったらしい。
明徳三年(一三九二)の十一月三日、後亀山天皇の鳳輩がいよいよ入京した。その僅かな一群は京の北西にある嵯峨野の旧嵯峨御所大覚寺門跡に入った。ここは平安の昔、嵯峨天皇の別荘であり、その皇女が仏寺と改め、孫に当る恒寂法親王が初代の住職に就かれた名寺である。
後嵯峨、亀山以来の御所で日本最古の庭苑池と云われる大沢の池に臨む広大な境内を有し、真言宗大覚寺派の本山である。華道発祥の地とされ、弘法大師の上奏によって一字三礼の誠を尽し般若心経の浄書を行う修行道場でも有名だった。
後醍醐の父の後宇多法皇が院政を執られるに際し冠を傍に置かれたので「御冠の間」と称される正寝殿も残されて居り、承久ノ乱(*1)で没収した広大な八条院領を幕府は後に亀山天皇に返した為にこれが大覚寺系の荘園となり討幕の主要な財源となった。

(*1) 武家政権(鎌倉幕府)と京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久三年(一二二一)、後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げて敗れた。後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に流される。乱の後、幕府が優勢になり皇位継承などに影響力を持つ。 
(6) 三種ノ神器入洛す
けれど当時の嵯峨野・大覚寺は後醍醐天皇が二度も叡山に移られた際に尊氏の軍勢に侵され、長い吉野朝時代にも南朝発祥の地と云うので広大だった寺領も荘園も失って財力も乏しく、霊明殿や、正寝殿等の建物も朽ち果て満足なものではなかったろう。
僅かな供奉の人々に護られて大覚寺の門内に入られる天皇の一行を拝した元南朝の公卿などは「定めし後悔なさる事に違いない。今回の御進退は粗忽であった」と呟いているが、果せるかなその予想は正しかったようだ。
その翌日、合一の約定は早くも破られる。
北朝の後小松天皇も義満も姿を見せず「禅譲の儀式」は挙げられない。三種ノ神器のみが引取られると、北朝御所の内侍所で三日三晩の崇かな神楽の調べと共に後小松天皇は始めて正統の天子に就かれた。
かつて皇国学華やかなりし明治末期、歴史学界は大論争の結果「地に二王なし」として「一天両帝」の南北朝時代を否定し、後醍醐天皇の南朝を正統とし「吉野朝時代」と定め、南北合一後に始めて後小松天皇を第百代の正統の天皇としている。
けれど『熊野年代記』は明徳三年の南北合一に就いて単に「三種ノ神器入洛す」と記すだけである。北朝の貴族達が「南朝降参」と豪語するのも無理からぬ処であり、当時の時勢が如何に南朝に不利で、「南北朝が平和のうちに合体された」等とはとても云えない実情だった事が判る。 
 
歴史物語 [室町時代]

 

1 後南朝序曲 
(1) 後亀山天皇、嵯峨の大覚寺に入る
後醍醐天皇の厳しい遺詔を奉じて吉野、賀名生、住吉、天川行宮を転々としながら南朝再建に苦斗した事六十年、「一天両帝の世」と稱された果しなき動乱も終った。
明徳三年(一三九二)の時雨が冷たい日、後亀山天皇は「万世の太平を開かん」と決意され、都に還られた。
天下泰平と皇位無窮を願う熊野三山や楠木正儀或いは道義政治家・細川頼之ら、幾多の人々の努力によって遂に南北合一して天下泰平の世が開かれんとする時代が訪れた。
後は北朝の貴族達と足利幕府が誠意を以て
「南朝の正統性を認め神器は禅譲の儀式を以て後小松天皇に渡し以後の皇位は昔のように両統交替とする。南朝の生計は国司の支配する国衙領の税収によって賄う」との約定を果す事だった。
嵯峨の大覚寺に入った南朝方の貴族や吉野熊野の遺臣は勿論、観世一族も心からそう願いつつ一段と藝道に精進し、日本古典藝術の粋である侘とさびの幽玄の世界を求める能楽の大成に努めていたに違いない。 
(2) 足利義満、約定を破る
然しながら虎の威を借る北朝の貴族達は約定などは守る気はなく
「南朝は降伏したものとして扱うべきだ」との強硬意見で禅譲と約束された神器の授受にも儀式などはせず強引に取上げ、後小松天皇は顔も見せなかった。
後亀山天皇に対しても太上天皇(上皇)の尊号を贈らず、幽閉同様の扱いで賀名生で捕えられていた時の怨を晴らし、将軍・義満に色々と訴えて対等の待遇を与えるのを阻んだ。
そして義満も位人臣を極め、将軍職は義持に太政大臣は辞して出家はしても法皇の如く官位の任免や、都の土地支配権、警備違使など公武の実権を一手に握った。そうなると、もはや両統交替を実現して北条幕府の二ノ舞を演ずる気は毛頭なく北朝を飾り雛とした武家独裁政治をめざしていた。
両統交替の約定から云えば次は南朝系の皇太子が選ばれるべきだのに一向に実現せず、南朝系貴族は次々に出家させてその血筋を絶やそうとした。有名な一休さん(*1)も母が南朝系の為に父は後小松天皇と云われても寺にやられている。
日々の生計費も全国衙領が大覚寺へ入る約束だったのに僅か紀伊の一部しか入らない。亀山上皇以来の広大な荘園も打続く戦乱で幕府の守護や地頭達に奪われて、役職にも就けぬ南朝公卿達の中には栄養失調で病床に伏す人達も出たがそれを救ってやる事も出来ない。

(*1) 臨済宗の禅僧・一休宗純の愛称。1394〜1481。南朝・後小松天皇の落胤という。6歳で京都の安国寺に。早くから詩才に優れ洛中の評判に。21歳で師の死によるものか、自殺未遂。後、大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子に。25歳で『洞山三頓の棒(*1-1)』という公案に対し、「有漏路(*1-2)より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、一休の道号を授かる。応仁の乱後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に。88歳、酬恩庵(*1-3)で没。
(*1-1) 曹洞宗を開いた洞山がまだ若い頃、雲門大師を訪ねた。雲門「どこから来たのか」、洞山「サトから」。雲門「この夏はどこにいたか」、洞山「湖南の報恩寺」。雲門「そこをいつ出発したか」、洞山「8月25日」。すると、急に雲門は「三頓の棒(打ちのめすこと)をくれてやりたいところだが、今日は帰れ!」と大声を発して追い返した。一晩中悩んだ洞山は翌日「私の返事のどこがいけなかったのでしょうか」と尋ねた。雲門は「まだそんなことを言ってるのか、帰れ!」と一喝。この時、洞山は悟りに至った、という話がある。
宗純(一休の戒名)は、平家物語「琵琶法師の祇王・祇女姉妹と仏御前(*1-4)」の一節を聞き、この公案を解いたという。その心境を「有漏地より〜」と詠った。
(*1-2) 有漏路(うろじ)は迷いの世界、無漏路(むろじ)は悟りの世界。
(*1-3) しゅうおんあん。通称「一休寺」。京都府京田辺市の薪地区。荒廃していた妙勝寺を一休が再興した。墓は酬恩庵にあるが、宮内庁管理の御廟所で、一般の参拝は不可。
(*1-4) 白拍子(*1-5)の祇王は、妹の祇女、母の刀自とともに平清盛の寵愛をうけ、幸せに暮らしていた。ある日、仏と呼ぶ白拍子が現れ、清盛に会いに来るが追い返される。哀れに思った祇王は仏を招き、清盛の前で歌わせてやる。清盛は、たちまち仏に魅せられて祇王を遠ざける。無常を知った祇王は、「もえいづるも枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋にあはではつべき」と歌を残し、親子三人出家して山里に去る。ある夕暮れ。親子が念仏していると、出家姿の仏が来た。祇王の歌を見て、いつかは同じ運命をたどる身の上を悟り、ならば余生は一緒に念仏をと、やって来たのであった。四人は念仏三昧の暮らしを送り、往生の願いをとげたという。
(*1-5) しらびょうし。一種の歌舞及びそれを演ずる芸人。男装の遊女が歌いながら舞った。 
(3) 長慶上皇、死して、楠木正勝、敗れる
かねて義満のやり方に不信感を持たれて都に還らず、天川行宮に残って幕府の態度を見ていた長慶上皇(*1)や四条資行、日野邦氏、中園宗頼らの公卿、楠木正元、越智通頼や熊野八庄司の山本修理、湯川式部、色川左兵衛達も「見ろ!思った通りだ」と憤激して上皇を奉じて挙兵せんとした。それを知った幕府は秘かに刺客を派遣したらしく十津川に残る傳説によれば、上皇は殺害され河中に投ぜられた御首が無残にも河津の里の川畔に流れついた。
そして黄金色に輝いていたので里人は驚いてその岸辺に丁寧に葬ると南帝陵と呼んで葬ると、年忌供養を怠らずその麓に建立されたのが現在の国王神社(*2)で今も尚毎年盛大に祭り続けられている。
長慶上皇は、恐らく傳えられる様な非業の死を遂げられたのだろう。その皇子達も世を捨て、僧門に入られたり、野に下ったりしただろう。伊賀でも伊豆有綱の子孫で南朝方として活躍した服部季行に助けられた成円親王は、義経が潜伏していた神戸の永浜家に入り、「高貴な家」と里人から敬われている。
これでは南北合一は全く北朝と幕府の詐欺行為で、断じて天下の政治を司る者の取るべき態度ではなかった。
応永十一年(一四〇四)には正儀の四男・正勝が再び金剛山に立籠って善戦したものの衆寡敵せず十津川に落ちた。再挙を計るうち惜しくも十津川の武蔵の里で病死する。(*3)

(*1) 長慶上皇は、謎につつまれた上皇で、伝記には諸説ある。全国二十六個所も崩御の地と伝わる。唯一高野山にご宸筆の祈願文だけが残る。南朝派の最後の拠点と云える北東北地方には、長慶上皇伝説が多い。岩手県宮古市の黒森神社などに終焉の地の伝説が残る。
(*2) 奈良県吉野郡十津川村高津。十津川村上野地字の河津裏に、毎夜水底より、不思議な一条の光が発せられた。村人が尋ねてみると、十津川の上流、天の川で難にあわれた長慶上皇のお首だった。丁重に葬り玉石を安置してお首塚と呼んだ。宮を建てたのが、今の国王神社。大鳥居の額の「国王神社」の四字はかの大久保利通の筆。
(*3) 応永十一年(一四〇四)は不明。一般には、元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)足利義詮の和議申し入れを拒否したため、大軍が千早城を総攻撃、陥落。後、正勝は十津川に走り、以後再び千早城に戻ることはなかった。応永六年(一三九九)南北朝合一後、正勝・正秀兄弟は堺で足利軍に完敗。以後の正勝の消息は不明。十津川で亡くなったとか、摂津の西光寺(*3-1)に隠棲したと伝わる。
(*3-1) 大阪市東淀川区豊里6丁目。現在の定専坊。 
(4) 世阿弥、『井筒』を作る
楠木一族の苦斗を知った世阿弥は内心「何とか義満公が南北合一の約束を守ってほしい。」と願っていただろう。しかし父・観阿弥とは違い「能楽は民衆の敬愛と貴族の心に叶う風体を為すべし」との信条だけに、敢えて火中の栗を拾わなかった。子の元雅に任せ、自身は専ら『花伝書』や夢幻能『井筒』の完成に勵んでいたようだ。
この曲を創作するに際して世阿弥は結崎の観世座の人々を糸井神社(*1)の金比羅の井や石上の在原寺(*2)の業平神社などに走らせて詳しく調べ上げ、自らも足を運んで想を練ったと云われる。
やがて彼自身も「幽玄能の上花」と誇っている『井筒』が世に出るのだが、そのあらましを述べよう。
諸国の行脚僧が初瀬寺を詣でる途中に石上の在原寺に立ち寄り業平やその妻の旧跡を弔っていると、美しい里の女が古塚に花と水を手向けている。話を聞けば、これが業平の妻の亡霊でやがて忽然と井筒の陰に消えてしまった。
その夜更けに僧は夢に業平の形見の冠や直衣(*3)をつけた目も覚めるような美女が現れて「恥ずかしや昔男に移り舞い」と歌いながら井戸水にその姿を映し「目にも見えず男なりけり」と業平の面影を懐かしんで幽玄な舞を繰り返しつつ、暁の光と共に消えた処で目が覚める。
こんな内容で、現在も石上の在原寺に幾ばくかの史跡が残っている。

(*1) 開祖・右衛門忠文を参照。
(*2) ありわらじんじゃ。天理市櫟本町。祭神は阿保親王、在原業平。第51代平城天皇(774〜824)の孫、在原業平の居宅跡に十一面観音を祭った在原寺の跡。創建は平安初期、阿保親王。謡曲『井筒』の舞台になった。明治までは本堂・楼門・庫裏を具えた寺だったが廃寺となりわずかに神社として残った。本堂は大和郡山岩槻の西融寺に移されたという。『筒井筒(伊勢物語)』の歌に縁ある井戸はこの地で、低めの井筒がある。河内高安(現在の十三峠西麓)にも同様の話が伝わる。伊勢物語では少年少女は行商人の子になっているが、河内高安では通う男は「業平」本人になっている。
(*3) のうし。平安時代以降の天皇、皇太子、親王、および公家の平常服。 
(5)三代将軍・義満、急死す
応永十五年(一四〇八)の三月になると百万貫の巨費を投じて北山文化の代表的存在である金閣寺(*1)が完成し、後小松天皇を迎えた義満は豪華な祝宴を催おし、世阿弥や近江猿楽の犬王が初の天覧能を演じた。
観世父子の絶妙な演技は後小松天皇を大いに感動させ、能楽史上輝かしい一頁を止めた。将軍・義満は「北山の法皇」と呼ばれた程の独裁者となり、勘合貿易の利益で金閣寺を建て、能、連歌、茶、立花など我国の古典文化の基礎を築いたと云われる。その義満はこの豪華極まる大遊宴の直後に急死した。
女房を国母にして頼朝や尊氏さえ考えもしなかった皇位の上に立たんとした野望家が五十一才で死神に召されたのは天命である。
この四年前の応永十一年(一四〇四)、大和では興福寺衆徒・筒井順覚(*2)と春日若宮の箸尾為妙(*3)とが合戦となり国内は二派に別れて騒動となった。(*4)
幕府は慌てて国中の衆徒と国民(外様大名)五十余名を招いて忠誠を誓わせるとその中の有力豪族二十名を官符衆徒に任命し、結崎の豪族・井戸氏がその一人に加えられたのも観世一族の尽力が大きかったようだ。

(*1) 京都市北区金閣寺町。舎利殿(*1-1)の金閣が余りにも有名なため、通称金閣寺と呼ばれるが、正しくは鹿苑寺(ろくおんじ)。臨済宗相国寺派。鹿苑の名は、創設者の足利義満の法号・鹿苑院殿に因んだ。鹿野苑はお釈迦さまが初めて説法された場所。
(*1-1) しゃりでん。仏舎利を安置した建物。一般に方形で、中央に舎利塔を置く。
(*2) 永享元年(一四二九)将軍・義教から興福寺領河上五ヶ関務代官職に任ぜられる。永享六年(一四三四)八月、戦死。(*4)の大和永享の乱による。
(*3) 箸尾氏は摂関家領大和国長川(長河)荘の荘官として勢力拡大。大和国は大乗院と一乗院に分裂した興福寺が守護で、荘園有力者たちは、衆徒・国民と呼ばれた。箸尾・筒井・越智・十市の四氏は大和四家と称された。
(*4) 南北朝の抗争は、明徳三年(一三九二)、両朝の合一で一応収束。だが幕府は約束を守らず、大和は筒井党(幕府)と越智党(後南朝)とに二分。以後、両党の間で抗争。箸尾氏は越智党で筒井党と対立。応永十一年(一四〇四)、箸尾為妙は十市氏と結んで筒井順覚と戦い、筒井郷を焼き討ち。永享元年(一四二九)七月以降、豊田中坊・井戸両氏の争いに端を発して他の国人衆も巻き込んだ戦いに。抗争十年に及び、大和永享の乱と呼ばれる。幕府は応永二十一年(一四一四)、大和の衆徒・国民を京に呼び、私合戦の禁止などを誓わせた。上洛した大和武士は、衆徒では古市・筒井氏ら、国民では越智・十市そして箸尾氏ら五十名にのぼった。 
(6) 亀山上皇、都を出て、また都に帰る
応永十七年(一四一〇)になると亀山上皇が皇太子の恒敦親王や僅かな近臣達と共に秘かに京を抜け出られた。そして天川行宮に入り、約定を守らぬ幕府の非を天下に明らかにし、都での困窮ぶりを訴えられる。
合一の約束を信じて都に還えられてから十八年間の上皇の辛苦を知った南朝の遺臣達は続々と行宮に参集して討幕の院宣を待った。しかし亀山上皇の
「再び動乱の世をもたらして民を苦しめるのは本意ではなく、唯々幕府の反省をうながして約定の実現を待つ。」との意向を拝し情勢を見守る事となった。
処が応永十九年(一四一二)、亦も約定を破って北朝の称光天皇(*1)が即位されるや、関東の伊達持宗、伊勢の北畠満雅らはその違約を責めて挙兵する。
満雅が義旗を翻えしたのは上皇の嫡孫である若き小倉宮実仁親王らが天川から伊勢に潜行して満雅を頼まれたからである。応永二十一年(一四一四)八月には松坂の阿坂城に籠城して近畿一円に義兵を募った。
幕府は一色、土岐、仁木氏らに命じて阿坂城を攻撃し、北畠軍は城内の水不足を欺く為に白米で馬を洗って「白米城」の勇名を残しながらも、翌年五月には落城した。
情勢不利と見られた天川の亀山上皇は秘かに在京の弟・説成親王に指令されたのだろう。説成親王と赤松則佑の仲介で和睦が結ばれ、将軍・義持(*2)も「次の皇位は必ず南朝方に」と約束して上皇の還幸を願った。

(*1) しょうこうてんのう。1401〜1428。在位は1412〜1428。第101代天皇。
(*2) よしもち。1386〜1428。室町幕府4代将軍。父は足利義満。兄弟に義教、義嗣ほか。 
(7) 亀山上皇と将軍・義持は逝き、後南朝は敗れる
応永二十二年(一四一五)夏、六年ぶりに亀山上皇は都に帰った。伊勢にいた小倉宮も同行して、時節を待つうちに、まず恒親親王が世を去った。次に子に先立たれて力を落された亀山上皇が孫の小倉宮実仁親王の即位も待てず七十五才で崩御される。病を得た将軍・義持が退位し、正長元年(一四二八)の正月になると、くじ引きと云う手段で僧籍にあった弟の義教(*1)が六代将軍となる。
続いて七月、北朝の後花園天皇の即位が決定するや、小倉宮実仁親王は泰仁、尊義の二皇子と共に京を脱出した。かねて伊勢の義仁親王や北畠満雅と内々打合せた通り、伊賀をめざし名張郡に入った。
一行は北畠家の侍達に護衛され長瀬太郎生川を遡り、三多気から伊勢奥津に入ると八幡神社の神宮寺である禅寺・金華山崇福寺(現・念仏寺)を御座所とした。これは峠一つを越えると北畠顕能以来の本拠である多気館や霧山城と云う便利な要害の里で、義仁親王が御所とされていた為だろう。
「時こそ来れ!」と北畠配下の大和の秋山、沢や楠木、越智一族もこれに呼応し吉野、熊野の南朝方の志気も頗る高かった。しかし、十二月に入って津の中津川での三日に及ぶ決戦で主将・満雅が武運拙なく討死した為に戦局は急転直下、悪化した。
大河内城での顕雅や教具の懸命な力戦も兵糧尽きて落城寸前となるや、小倉宮父子の助命帰京を条件に降伏和睦も止むなし、と云う事になった。赤松満祐の尽力で辛うじて伊勢国司の名だけは許されたが、支配地は僅かに飯高郡一郡のみと云う哀れさであった。

(*1) よしのり。1394〜1441。室町幕府第6代将軍。3代将軍義満の3男で4代将軍義持の同母弟。当初出家。義持の子・5代将軍足利義量が急逝。義持も後継者を決めず没。管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮で行われたくじ引きで将軍に。就任の際には斯波氏、畠山氏、細川氏から「将軍を抜きに勝手なことをしない」と証文をとった。 
(8) 観世元雅、天川で舞う
二年後、永享二年(一四三〇)の春になると天川行宮だった弁財天の社殿の舞台に突然南朝方の志気を鼓舞するかの如く能楽の大成者・世阿弥の嫡男・元雅が姿を見せた。
そして「唐船」等数々の能楽を奉仕し、その入神の芸の見事さで人々を沸き立たせると「所願成就」としたためた能面を寄進している。彼の所願とは能楽の大成に事よせてはいても、実は幕府が約定を守って真に天下が泰平の世となる事を望む、観阿弥以来の変らぬ悲願であったに違いない。
観世元雅が天川を訪ねたのは宇智の高取城に籠って幕軍を相手に孤軍奮斗している南朝方の越智伊予守の切なる要請があったとは云え、元雅自身が南朝方に心を寄せる同志でもあったからだろう。
然し観阿弥家が楠木一門と縁戚であり、元雅が戦火の中を天川に潜行して弁財天に奉仕能を演じた事を知った将軍・義教は、激怒して側近の斯波三郎に暗殺を命じたらしい。その独裁者ぶりから「悪御所」と仇名された人物のやりそうなことである。 
(9) 観世元雅は逝き、世阿弥は佐渡に流される
前年、永享元年(一四二九)七月には大和一円に永享の大乱が勃発する。石ノ上に城を構えた興福寺衆徒の井戸杢之助時勝と豊田中ノ坊との争いで、官符衆徒筆頭の筒井順覚らは井戸を助けた。南朝方の主将となった越智維道は中ノ坊に加勢して十年にも及ぶ戦乱の世となってしまう。応仁の乱の前兆とも云える。
永享三年(一四三一)には刺客により観世元雅が伊勢の津で興行中に祖父と同じように急死して四十年の生涯を閉じた。父と子を黒い手で失った世阿弥の嘆きは痛ましい。
然し世阿弥は断固として屈しなかった。次男・元能に『申楽談義』を口述させると仏門に入らせて越智家の領内に匿って貰い、自分はひたすら能道に打ち込み『高砂』『羽衣』を始め、伊勢物語の『井筒』などの数々の名曲を完成している。
『井筒』については前述のとおりであるが、後世の井戸良弘(*1)も我家を代表するような名曲にゾッコン惚れこんで十八番とし、その巧みさは「大名芸に非ず」と感嘆されている。そしてそれを見た関白秀吉も文禄慶長年間しきりと自から上演して居り、現在も石上の在原寺に業平の「烏帽子塚」、郡山には「姿見の井戸」と云う史跡が残っている。
世阿弥の最後の苦難は執拗な義教の命で七十過ぎた身で佐渡に流罪となった事で、それは元雅の三回忌も済まぬ永享六年(一四三四)の夏だった。
その理由は義教の寵愛する甥の音阿弥に観世の四代当主を譲らなかった為とされている。世阿弥としては我子を殺させた悪御所の命によって生涯の事業とした芸道を曲げる事は死を賭しても断じて出来なかったに違いない。
佐渡に流された後もそのファイトは少しも衰えず数々の研鑽を重ねた。幽玄能の世界の大成に努めているあたり、さすがは楠木一族と伊賀の名族服部家の血をうけた武夫の出らしい斗魂であった。

(*1) いどよしひろ。1532〜1612。戦国時代の武将。井戸覚弘の子。室は筒井順慶の娘。若狭守。井戸城城主。大和国の国人領主の一人として筒井氏に仕える。永禄年間、松永久秀のため居城井戸城を攻め落とされるなど苦戦。後、井戸城を息子の井戸覚弘に譲り、自らは織田信長に仕える。数々の戦功により山城国填島二万石を任された。しかし1582年、本能寺の変の後の山崎の戦いで羽柴軍に与さなかった為に改易。関ヶ原の戦いでは、東軍の細川幽斎につき、丹波国田辺城で西軍の小野木重勝軍を相手に篭城。戦後は大和国に戻り、余生を過ごした。なお、井戸氏にはこの良弘の子孫で同じく良弘と名乗った人物が数名存在する。 
(10) 南朝の天川行宮、陥落する
そんな中にも大和に於ける筒井、井戸と越智、豊田の戦いは互に一進一退を繰返す。将軍・義教の側近となった順覚の子・光宣の尽力で幕府が出撃して豊田城を陥落させる。
それに憤激した越智方が、「元雅の弔い合戦」と死斗の末に筒井順覚を討取り、勢いに乗じてその本城を落して凱歌をあげる。
続いて石ノ上の井戸城を包囲して遂にここをも攻略したのは、永享六年(一四三四)の秋と云われ、井戸一族は涙を呑んで結崎に敗走したようだ。
その情勢を見て「時こそ来れ」と小倉宮実仁親王が再び京を出奔して吉野川上郷で遺臣を集められ、再び兵を挙げたのは永享八年(一四三六)だった。後南朝派の越智一族は高取城に籠り、多武峰で仏門に入っていた四条、日野、三輪らも還俗して義旗を掲げ、延暦寺の僧兵もこれに同調した。
七月には義教と将軍職を争った弟の大覚寺義昭が、三井寺円満院の説成親王の子・円胤を擁して挙兵せんとした。しかし事が露見したので、義昭は大和の越智を頼って天川行宮で南朝再建の峰火を挙げる。
それを怒った義教は畠山持国、土岐頼持に厳命して大軍を催おし多武峰と高取城の攻撃にかかる。南軍は良く健斗して永享十年(一四三八)まで持ちこたえたが衆寡敵せず春に多武峰が落ち、夏には天川が陥落した。

(*1) 室町幕府の第十五代将軍。石上姫丸城を参照。 
(11) 南朝派の越智維道、長谷寺で死す
円胤王は吉野北山に潜み、義昭は伊勢から海路九州に逃れる。小倉宮実仁親王も川上郷を転々とされるうちに秋には遂に高取城が落ち、越智維道は宮と合流して再挙を計るべく吉野をめざした。
然し永享十一年(一四三九)春には越智維道が長谷寺の門前で壮烈な最後をとげる。残された一族は十津川に落ちて再挙を計り、兵火は遠く新宮大社にまで及んで大騒動となっていた。不屈の越智勢の中に、父の『申楽談義』を聞書した後に出家した世阿弥の次男・元能の姿も交っていたと云う。南北朝の合戦に多数の時宗僧や天台、真言の山伏が加わって奮戦しながら、戦死者の供養や負傷者の手当に活躍したのは事実である。
楠木正成の最後を後世に伝えたのも時宗僧や山伏たちであった。元能も単なる世捨人ではなく、楠木一族の血をひく人情厚い従軍僧として、南軍の戦士達に深く信頼されつつ充実した人生を送ったと思われる。 
(12) 赤松満祐、将軍・義教を暗殺
嘉吉元年(一四四一)六月、将軍・義教は九州に逃げた弟・義昭の首を実験し「まずこれで一段落。」と嘯いて天下人の威勢も高く側臣赤松満祐の館で催された猿楽鑑賞の盛宴に臨席した。
管領細川持之を始め、畠山、山名、京極ら大名も列席して大盃が巡らされ、観世音阿弥の猿楽が開演された。その時、突如として庭先に荒馬が乱入して大騒動となったと見るや、後の襖を破って白刃を閃めかせた武士達が将軍に襲いかかった。
盃を落す暇もなく義教は一刀の下に首を刎ねられ、豪華な狩衣を朱に染めて惨めな屍をさらした。その独裁ぶりから虎狼の如く恐れられた彼にも似ぬあっけない最後で犯人が邸の主の赤松満祐と気づく者もない鮮かさだった。
かねて義教が意にそわぬ守護大名を次々に誅し将軍の権力を確立せんと考え赤松氏の領国播磨美作を没収せんとしているのを知った満祐が機先を制した訳だが、義教を守って討死した者は僅か三名しかなく人々は先を争って逃げ落ちた。 
(13) 赤松満祐、死す
事件を知った貴族達は
「将軍のこんな無様な犬死は昔から聞いた事もないが、自業自得じゃ」と冷評し、南朝の遺臣達ばかりでなく大名達さえ内心快裁を叫んだ。将軍の権勢は忽ち地に落ち、それを見て一時下火となった土一揆が再び勢いを盛返した。
数万の群集が土倉や酒屋を軒並に荒し廻って手がつけられぬ情勢下に、重なる怨を晴した満祐は幕府の討手を待ち受けたが一向に姿を見せない。さらば故郷で最後をかざらんと義教の首を淀川の崇福寺に投げ捨てると播磨の白旗城に引き揚げる。
やがて満祐は、幕府の大軍を相手に力戦二カ月、遂に力つきて潔よく自刃した。一子・教康は同じ村上源氏の出で、かつて阿坂城で北畠氏との和睦に仲介の労を取った縁を頼り伊勢に逃れた。しかし教具に裏切られて哀れな最後をとげ、名家赤松家は断絶する。
世に云う「嘉吉ノ変」で、喜んだのは吉野熊野の遺臣達である。彼らは、先年吉野天川郷で挙兵したものの武運拙なく敗れ熊野北山に潜んでいた円胤王や、川上郷で日々の糧さえままならぬ生活に耐えて居られた小倉宮実仁親王に、変らぬ臣節を尽しながら時節を待っていた。
「もはや幕府の約定は嘘八百じゃ、この上は詐し取られた神器を力づくで奪い返し新しい後南朝を建設せん。」と協議し秘そかに同志を募って着々と準備を進めた。 
(14) 楠木正秀、立つ
嘉吉三年(一四四三)五月七日、中心と仰ぐ小倉宮実仁親王が俄かに崩じられた為に計画は頓座したが、不屈の遺臣達は宮の皇子を擁して計画を進めた。佐渡流罪からやっと許され帰京した世阿弥が八十一歳と云う長寿で没した秋の半ば、都近くまでも凄しい土一揆が荒狂っていた九月末の月の美しい夜、一斉に皇居を襲った。
彼らが奉じたのは小倉宮の三男・円満院宮泰仁、四男・万寿寺宮尊義王である。後鳥羽上皇の子孫と云う源尊秀や楠木正儀の子・正元、正秀、越智一族に更矢喬重ら川上郷士を幹部とする三百余人だった。
さらに従一位日野大納言有光、資親父子が足利氏に対する怨みから彼らに味方して手引をしてくれる事になって居り、洞院、冷泉、高倉卿らも参加して自から先導された。
作戦は軍師・楠木正秀が立て、先ず神泉苑に集結して管領や将軍御所を襲撃するとのデマを流す。幕府の警備兵がそちらに集結する際に二手に分れて御所に乱入。神器を取戻して比叡山に登り、僧兵の協力を得て南朝の再興を天下に号令せんとの大計画だった。 
(15) 楠木正秀、神器奪取
不意を打たれた警備兵達を八方になで斬りつつ、正秀は南殿の昼ノ間、夜ノ御座所から内侍所に突入すると、案内知った高倉卿の指示を受け大納言典侍から難なく三種の神器を奪い取る。
折しも夜ノ間で寝ていた後花園天皇が驚いて女御の被衣をかぶり逃げられるのを兵が一太刀浴びせかけた。既に危うかったが侍従藤原親長が必死に庇い、其隙に四辻季長が手を引いて裸足のまま庭を駆け抜け辛うじて近衛殿に逃げ込んだ。
其頃になると燃え上った炎は清涼、紫宸殿や内侍所を包み、泉殿や常御所にも飛火して目も開けられぬ情況となった。折しも東門に佐々木判官の率いる幕軍が続々と押寄せるのを見た正秀は
「神器は取戻した、取り囲まれむうちに糺ノ森から川沿いに叡山へ急げ!」と令し、自から神璽を抱いて先頭に立つと疾風の如く月明の中を突走る。
神器奪取に成功したと聞かれて、両親王はいち早く叡山に向われた。同志である信海、円實らの案内で西塔と釈迦堂に本陣を置き、全山に令旨を飛ばせて尽力を乞われる。
宝劍は正秀の郎党波多野五郎が肩にかけ、内侍所の宝鏡は湯浅九郎が背負って敵中を突破し懸命に叡山をめざした。 
(16) 正秀ら、二宝を奪い返され、十津川に落ち延びる
然しながら神皇正統記に云う「誠の神器を持つ帝こそ正当の天子なり」を確信する南朝党の死斗も空しく、波多野は清水寺、湯浅らは四条西洞院で力尽きて討たれ、二宝は奪い返されてしまう。
最も貴重な「伝国の玉爾」を抱いた楠木正秀だけが辛うじて叡山の西塔に辿りつき高らかに凱歌を奏したのも束の間。賞金に目がくらんだ叡山の裏切りによって激戦二日で南朝方の惨敗となる。
日野、高倉郷や源尊秀、楠木正元以下多数の将士は討死、泰仁王以下六十余名が捕えられ日野資親らは翌日容赦なく首をはねられて無念の死をとげた。
幸いにも尊義王は源尊秀が身代りとなった隙に更矢達に護られて東阪本から湖上を突破した。かねて潜伏していた甲賀の山邸蔵人館に入られ、玉璽を身につけた正秀達も比良山越えに十津川に落ち延びた。
正秀らは円満院宮を始め多くの同志の悲惨な最後を知った。亡き人の志を貫く為にも最も重宝とされる神璽を尊義王に献じて後南朝の創建を計らんとし、嘉吉四年(一四四四)正月十津川に全遺臣の参集を求め大会議を行った。 
(17) 後南朝の創建
後南朝の創建に同志達も喜んで賛同し、直ちに川上の更矢喬重が近江甲賀の山邸方に参じて尊義王に決議を言上して奮起を乞うた。三十半ばの豪毅活達な尊義王が金剛寺に入られたのは嘉吉四年(一四四四)正月中旬で二月五日を期して擧式と決した。尊義王は、その日の早朝には吉野川の清流で洞院、葉室侍従と共にみそぎされ、颯爽と金剛寺に入った。伝国の神璽を本堂に奉じ厳粛な式典が古式通り進行し、里の美しい乙女達の舞う「千秋万歳」の雅楽の調べも華やかに歌い納められた。
去る元中九年(一三九二、南朝の明徳三年)、後亀山天皇が還京されて以来五十余年ぶりに「天靖」と云う南朝年号が復活した。征夷大将軍には北山に潜んでいた円胤ノ宮が還俗され、義有王と改めて就任される。
楠木正行の孫である正隆、正理父子や正儀の子正秀一族、湯浅定仏の血を受けた湯浅掃部助、熊野那智党の音無喜大夫、越智駿河守ら名だる武将に昇任の沙汰が下された。
川上十八郷の更矢一族を始め北山郷の豪族達にも広く論功行賞が発表された。二千を越える将士は柏木金剛寺川原を埋めて、後南朝の前途に大きな夢と希望に燃え、祝宴の賜酒に頬を染めながら時の移るのも忘れた事だろう。
吉野熊野十津川一円の南朝の遺臣達を挙っての盛大な即位ノ大典が終ると人々は喜び勇んで新しい任務に就いたが、御所の近衛隊長を命じられた更矢正道の苦心は大変だった。
この日の後南朝の盛典に就いては八月の中原康富の日記にも
「本宮より吉野の山奥にて南朝の宮方が御旗を挙げられたる旨の注進あり、聖護院検校ノ宮上奏さる。」と記されている。 
(18) 後南朝初代・尊義王、立つ
朝廷(北朝)は驚愕し、
「一日も早く吉野の後南朝方を潰滅させると共に神璽奪還を計らねば」と懸命になったが、将軍空席の中だけに直ちに出撃とはいかない。
それに対して柏木の南方党でも吉野に通じる街道上の要処である仏カ峯、北方の鷲家口に通う鷲ノ尾峠、それに東熊野街道を南下して熊野北山、伊勢口に通じる難所の伯母峯峠の三カ所に堅固な砦と関所を築いた。警備隊士には川上十八郷の由緒正しい筋目の士を選んで日夜警戒を怠らなかった。
幕府の密偵や刺客を防ぐ為に月毎に合言葉が定められて、うさん臭い旅人は決して通さず、正通は常に金剛寺御所に詰めて日々の情報を集めそれに対し万全の配備をした。
そして諸事が一段落すると北畠家の大河内城に匿われていた尊義王の三人の皇子を迎えた。武内氏の娘が生んだ一ノ宮、二ノ宮は、柏木の更矢家の邸内に新居を建てて、ここに住んだ。幼い三ノ宮とその母の大納言ノ局は、柏木の入波からさらに山深く分け入った三ノ公谷の八幡平に新しい行宮を建て、安住願ったと云う。
北畠満雅の亡き後、当主となった顕雅や教具は苦戦の末に万策つきて幕府に降伏したものの、南朝に対する忠節は失わず、数々の軍需品に幾十人かの忠實な近臣をつけて送り届けて来た。
南帝・尊義王は大いに喜び、征夷大将軍・義有王と協議して
「本年は戦力の充實に努めつつ広く義兵を募り、訓練を重ねて精兵を育てる事に専念し、来春は紀伊から中原に旗を進めん」と斗志を燃やし、かくして後南朝四代五十余年に及ぶ苦斗の歴史が展開される。
その詳細は、拙著『熊野年代記(南北朝の巻)』に述べた通り、北山滝川寺の雪の夜の惨劇、熊野光福寺行宮での敗北、入鹿村大河内、那智色川行宮での激斗等々、余りにも血涙にまみれた悲話は再び語るに忍びない。せめて南帝の御名と行宮の所在地のみを記して筆を置こう。 
2 結崎井戸の里 

 

(1) 武家は笑い、公卿は泣く
室町時代は金閣の出現(一四〇八)によって始まり、応仁の乱(一四六七)によって終ると云ってもよいくらいである。足利幕府は将軍の力が弱く、まるで政治不在の世の中と云った印象が強い。
然し実際には農業生産は大きく延び、倭寇や私貿易は活発を極め、輸入品のトップが「書物や絵画」であったと云うから驚かされる。
現在に全世界から注目を浴びている日本の古典文化の代表とされる能、茶道、立花、小笠原礼式、数寄屋建築ら数々の美術工芸品が誕生したのも実にこの時代なのである。
と云っても我世の春を歌うのは武家ばかりで、公卿の衰微は甚だしく、都を焼土と化し雲雀さえずる野と変えてしまった。
応仁ノ乱の終った百三代・後土御門天皇の文明九年(一四七七)に入ると、果てしなく続く戦乱で皇室領さえ豪族達に横領されて年貢が入らなかった。毎年正月熊野三山から献上されていた牛王ノ証紙も絶えて朝廷では任官辞令の用紙を買う金さえ無い有様。
まして公卿、殿上人の窮迫ぶりは甚だしく、前ノ関白は奈良興福寺の居候となり、大納言は家伝の妙薬と称する薬を売って日々を凌ぐ。中納言などはまるで乞食同様な姿で知人宅を転々とさすらう状況だった。 
(2) 寺社勢力は、守護に対抗する
年を追う毎に足利幕府が担当すべき伊勢、熊野の式年遷宮は遅れ、皇居の修理も滞った。将軍を補佐してその祭り事を果すべき斯波、畠山、細川の三管領も領内に吹きすさぶ下剋上の嵐の中で在って無きが如く、世は正しく群雄割拠、弱肉強食の世となった。
守護、地頭共の横暴に対抗して自衛力を講じ何とか法燈祭典を守り続けるべく必死となったのは、叡山、高野、南都、根来の中世以来の大社寺ばかりではない。本願寺を大本山とする一向宗(浄土真宗)などは地侍と信徒で強力な武装集団を組織して法王国家をめざした。北陸、三河、伊勢長島などには地元豪族らが本願寺と組んで守護を追出して政権を握るいわゆる「一揆持ち」の村々が急増していた。 
(3) 後土御門天皇が逝き、葬式代に困る
西軍の山名宗全に擁され「西陣の南帝」と呼ばれた後南朝第四代の帝・熊野宮信雅王が「南北併立」の悲願を諦めて野に下ったのは明応九年(一五〇〇)と云われる。この年に崩御された北朝の後土御門天皇の大葬の費用がなく、朝廷は困りきっていた。
百四代・後柏原新帝の即位の大典などは二十年後にやっと挙行されている。これを見ても勝者の北朝とても名ばかりで、もし第二の将門の如き覇者が出現すれば、天皇制は絶えていたかも知れないと薄氷をふむ想いがする。信長の登場が約八十年遅れたのは天の配慮であったろう。 
(4) 興福寺・東大寺は、大和に守護を入れなかった
そんな世の中でも春日神国を誇る大和は守護不入(*1)の歴史を守り続けた。興福寺の一乗院、大乗院や東大寺等は、向井、井戸一族や北畠配下の越智や秋山、沢、吉野の宇陀三人衆らを下司(*2)職として、その権威を維持し続けた。
藤原式家の宇合(*3)六代の孫と云われ、将門、純友らを征討して朝廷の危機を救った忠文公を開祖と仰ぐわが井戸家は大和に居を構えてより五百余年、結崎井戸を本貫とし九条辰市、石ノ上平尾山らを拠城として二万数千石を支配し、第二十五代と云われる時勝や時武、覚弘が代々住民から深い信頼を受けてその地位を守り抜いてきたのである。
特に覚弘は筒井中興の傑物と賛えられる順覚の右腕と信頼されていたらしい。

(*1) 守護不入権。守護(*1-1)またはその使節が荘園内に立ち入ることを禁ずる権利。
(*1-1) しゅご。鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制。当時の国単位で設置された軍事指揮官・行政官。令外官である追捕使が守護の原型。後白河上皇が幕府に守護・地頭の設置を認めて、幕府の職制に。設立当時の任務は、在国の地頭の監督。
[参考] 守護領国制…守護は各種権利(*1-2)により、領国内の荘園(*1-3)・国衙領(*1-4)へ侵出。応安元年(1368、正平23年)6月、の「応安の半済令」で、土地を半分割して接収する権利が、守護に与えられた。また、荘園領主・国司と請負契約を結び、収入の中から領主・国司へ年貢納入する一方で、実質的に荘園・国衙領を支配していく「守護請(しゅごうけ)」も行われる。現代でいう「取り立て屋」のようなものである。これらにより守護は、各地の荘園・国衙領の下地進止権(土地支配権)を主張。土地を獲得し荘園制を解体していく。これらは、荘園領主の利害と真正面から対立したため、荘園領主の中には朝廷や幕府へ働きかけて守護不入権(前出)を獲得し、守護と対抗する者も現れた。
(*1-2) 半済(はんぜい)給付権(年貢半分の徴収権)や、段銭(たんせん)徴収権(臨時に課する税。銭納が原則)など。
(*1-3) しょうえん。私有地。荘園領主の私有財産で、公的支配を受けない。
(*1-4) こくがりょう。公有地。国衙は国の役所。
(*2) げし。下級役人。現地で実務を行った荘官。京都の荘官の上司に対して云う。げす。
(*3) 天皇は神にしませばを参照。 
(5) 戦国時代には水田面積が70%増えた
戦国時代と云えば常に戦いで明け暮れたように聞こえるが、応仁ノ乱が終って帰国した武将達は農地を開拓して生産力の拡充に懸命だった。各地に溜池を築き用水路を掘削して新田を作っている。室町初期、全国で九十四万町歩だった水田が戦国末期には百六十万町歩にも達している。(70%増)
正に“水を治める者は国を治める”との諺通りで、武力的征服と荒野開発の二本立政策の結果とも云える。優れた武将は常に優れた土木開発のベテランでもあった。
兵農一体だった当時の軍役から云えば、百石取りの侍は兵四、五人を連れるのが常だから、二万石の井戸家の兵力は千人程度と思われる。その中で侍は精々二百、残りは半農半漁の農漁民で「いざ出陣!」となれば鍬や櫂を刀や槍に替え戦場に飛出す有様だった。
それでも戦場で臆病な振舞を見せれば戦いが終り村に帰っても笑い者になって人並みに扱って貰えないから彼らは精一杯勇戦奮闘し、一坪でも農地を増し漁場を拡めて貰う為には命がけで頑張ったらしい。
然しこれでは専門の兵士とは云えず、信長が「天下布武」と号して兵農を分離した精兵組織がめざましく躍進し続けたのは当然だったかも知れない。
信長が生れた天文三年(一五三四)と云う年は歴史上の大きな節目と考えて良かろう。
そしてこの年には紀伊守護として広城を最後の居城として下剋上の波を必死で圧さえていた畠山尚順が、武田源氏の一族である御坊の湯川氏の攻勢に耐えきれず都に奔った。紀伊もまた守護不入の本願寺派一揆持ちの国となるのである。 
(6) 井戸の里(奈良県磯城郡川西町)
井戸覚弘の次男が生れたのも同じ天文三年(一五三四)で、生れつき聰明利発な処から才助と名づけられた。長男は小殿之助と呼ばれ早くから主家の筒井本城で育ったが、彼は糸井神社の井戸の里でノビノビと育ち、大和宮の若君として観世一族や里人達にもその前途を期待されながら文武両道に勵んだだろう。生れつき清廉正直で能や茶道を好み親孝行で知られていた、と伝えられるから、武よりも文人肌の夢多き少年だったらしい。 
(7) 糸井神社
結崎郷には井戸、市場、辻、中村、出屋敷の五つの里があり、いずれも井戸氏創立当時の重臣や拠点の名である。しかし現在「井戸」を名乗る家は一軒もない。
糸井神社は井戸の里の中にあり、鳥居を潜る。境内には井戸の里在住の観世八世左近が慶長八年(一六〇三)寄進の立派な石燈籠が林立する。社殿は江戸中期、春日大社から移設建立とか、歳月の流れが感じられる古社である。社殿の裏手に神宮寺(観世音寺)跡があり、「結崎還濠」が残っている。
寺川の土手に出ると対岸に広大な島の山古墳が横たわっている。四世紀末の前方後円墳で皇后御陵とか入鹿の墓とも云われる立派なものである。 
3 石上姫丸城 

 

(1) 鉄砲渡来し、翌年には根来寺が国産する
天文十年(一五四一)武田信虎が子の晴信に追われて今川義元の邸にかくまわれた話が乱世のビッグニュースとして大和一円の噂話として流れた頃、井戸家では嫡男の小殿助が若狭守良弘と改めた早々に若死した。
筒井家では順興に代って十二歳の順昭が当主となったばかりだけに、後見職となっていた覚弘は辰市城で慌しい日々を送っていたが、やむなく次男・才助を嫡子に改め筒井本城に預ける。
七才になった少年は、以後は順照の娘達に囲まれて家族同様に温かく育てられた。当主の順昭が若く思いやりの深い人間であったからだろう。
才助が元服して兄の良弘の名を継いだのは天文十二年(一五四三)種が島に鉄砲が渡来した年である。
ポルトガル人のもたらしたこの新兵器の射程は六十m程度とは云え従来の弓矢に比べて格段の威力だ。大金を投じそれを買った根来寺の杉ノ坊(*1)は早速国産品の製造にかかり、翌年には早くも第一号を作り上げた。
それを知った雑賀党や堺衆でも我遅れじと競い合い、忽ちのうちに続々と生産されて各地に出廻った。当時の日本人の優秀性に白人達は舌をまいている。
五年後の天文十七年(一五四八)、「尾張のうつけ者」で知られた織田信長が美濃の斉藤道三の娘を妻にしているが、初対面の際に信長は数百丁の鉄砲隊を率いていたと云う。

(*1) 根来寺(*1-1)の杉の坊算長(かずなが)は種子島に渡り、鉄砲と火薬の製法を習い、同じ物を根来坂本に住む堺の鍛冶師・芝辻清右衛門に製作させた(本州最初の鉄砲)。鉄砲の国産化と量産化に成功した算長は、根来鉄砲隊を創設。砲術を工夫しその精鋭度を高めた(津田流砲術の始祖)。
算長は、津田監物(つだけんもつ)ともいい、楠木正儀の三男で河内の国・交野郡津田(現大阪府枚方市津田)の城主、津田周防守正信の六代の孫と伝えられる。
(*1-1) ねごろでら。正しくは大伝法院。大法五年(一一三〇)新義真言宗の宗祖・覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院密厳院を創建。高野宗徒との対立が続き、正応元年(一二八八)、根来の地に移転。室町時代末期の最盛期、坊舎二千七百余、寺領七十二万石、根来衆と呼ばれる僧兵一万余を擁する一大軍事集団だった。織田信長、豊臣秀吉に抵抗し、天正十三年(一五八五)秀吉の討伐により焦土化。江戸時代より復興。新義真言宗の総本山として、八百五十年あまりの法灯を護り継いでいる。 
(2) 織田信長、筒井順慶、井戸良弘らの父、死す
天性、武将としての器量に恵まれていた筒井順照は、覚弘らの尽力によって着々と勢力を拡大した。
天文十三年(一五四四)には二十歳の若き主将として六千の大軍を指揮して古市城を落し、続いて兵法者で聞こえた柳生宗厳の柳生城を三日で攻略して国中に武名を轟かせた。
天文十五年(一五四六)、順昭が一万と号する大軍で宿敵・越智氏の籠る高取城を落して大和一連を支配下に収めた。やがて嫡男・藤勝(後の順慶)が誕生する。
天文二十年(一五五一)、順昭は病に侵された。再起不能と知るや娘婿の福住、箸尾らを枕辺に集めて嫡男・藤勝への忠誠を誓わせたが、其際末娘の婿として幼馴染の才助を選んだ。
順昭はかねて虎視眈々と大和を狙っている三好、松永らに備える為にも、彼と良く似た風貌の盲目僧・黙阿弥を招いて死後一年間は病床に臥させて喪を秘めさせた。
その死が発表されたのは天文二十一年(一五五二)で、将軍・足利義勝が三好長慶と和睦し、近江から京に帰った年である。
筒井家の当主は僅か四才の藤勝で、家老職には島と松倉、一門としては福住、箸尾ら。若い井戸良弘も若狭守に任官して将来を期待されていた。
折しも尾張の織田信秀が没し、良弘と同じ歳で「大うつけ」と仇名された信長が当主の座についたが、その奇妙な行動から到底長く家督を守れまいと見られていたらしい。
良弘が井戸家の当主に就いたのは天文二十二年(一五五三)で老父・覚弘が没し、供養の為にと、彼は阿弥陀如来石像を菩提寺・花園寺(*1)に寄進してその冥福を祈っている。
石上平尾山に新城を築いて守りを固めると、幼馴染の新妻とここに移住し、弘治元年(一五五五)には長男も誕生する。
夫婦仲も至ってむつましく、人々は良弘を石ノ上殿とか「つつ井筒殿」と呼んで羨んだらしい。

(*1) けおんじ。奈良県天理市石上町67。浄土宗。 
(3) 織田信長は今川義元を破り、井戸良弘は松永久秀を破る。
三好長慶に仕えた松永久秀(*1)は「蝮の道三」と云われた斉藤道三と同国の山城生れの稀代の姦物で、此年には長慶の堺代官として着々と支配力を伸ばしていた。
永禄二年(一五五九)の夏、摂・河・泉三国を手中に収めた松永は、信貴山城(*2)を築いて反三好派の飯盛山城主・安見美作守を襲った。敗走した安見が救いを求めて石ノ上平尾城に入るやそれを追って激しく責め立てた。
良弘は再三敵を撃退したが、救援に馳せつける途上の筒井勢が惨敗した為にやむなく開城して再挙を計った。これは当時は降伏しても領土の半分は残る習わしだったからで、皆殺し等と云う惨酷な扱いは信長以後であったらしい。
石ノ上城を手に入れた松永はそこに築かれていた三階櫓に感心した。後に松永が、東大寺に近い高地に豪壮な多聞城(*3)を築いた際に、これを「天守閣」と名づけたと云われている。
永禄三年(一五六〇)になると海道一の弓取りと稱された今川義元が四万と号する大軍を率いて上洛する。その途上、意外にも“大たわけ殿”と仇名された信長に首を取られて、人々を驚かせた。
同じ年の秋、突如石ノ上城を夜襲して松永勢を壊走させた良弘の快勝に、筒井勢は大いに振い立った。情況不利と感じた松永は飯盛山城に入って、長慶や三好三人衆を説いて入洛させた。勢力拡大を計ると共に、長慶の手足とも云うべき一族を毒牙にかけて、実権を手に入れる。松永は、長慶没後も三人衆を扇動して、将軍・義輝を襲わせている。
それは永禄八年(一五六五)の五月で、兵法者で知られた十四代将軍・義輝が三好家の大軍を相手に凄しい奮闘の末に見事な最後をとげた。それを知った旧臣達は涙を流してその冥福を祈ると共に、下剋上の乱世を一掃して天下泰平を実現する英雄の出現を待ち望んだに違いない。
けれどもそれが尾張の大たわけ殿の信長であり、彼から「猿」と呼ばれて重宝がられている氏素性も判らぬ土民上りの秀吉であろうとは夢にも思わなかったろう。

(*1) 通称・松永弾正。三好長慶に仕えたが、長慶の死後は三好家を凌ぐ実力をもって第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配。織田信長に降伏して家臣になるが、後に反逆して敗れ、爆死(文献上では日本初)で自害。下克上の典型的な戦国武将。第十三代将軍・足利義輝暗殺、東大寺大仏殿焼失の首謀者など、狡猾で傲岸不遜の乱世の梟雄として悪名。一方、立ち振る舞いの優雅な美男子で連歌や茶道に長けた教養人、領国に善政を敷いた名君としても知られる。墓所、奈良県王寺町の達磨寺。
(*2) しぎさんじょう。奈良県生駒郡平群町にあった木沢氏・松永氏の居城となった山城。大和国と河内国の国境にある生駒山系・信貴山(標高433m)山上。大和国と河内国を結ぶ要衝の地で、松永久秀は山上に南北700m、東西550mに渡る巨大な城郭を築いて、大和国経略の拠点とした。
(*3) 多聞山城(たもんやまじょう)とも。奈良県奈良市法蓮町にあった。城には多聞天が祀られていた。現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれる。東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和国支配の拠点となった。城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四重櫓(四階櫓とも)は、安土城をはじめとする近代城郭における天守の先駆け。その様子は、宣教師ルイス・フロイス(*3-1)によってヨーロッパにも伝えられた。
1562年、松永久秀が入城。
1573年、久秀は信長に反逆、降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入る。
1574年、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院の名香「蘭麝待」を切り取る。
1577年、久秀は信貴山城で爆死。それまでに、多聞山城は筒井順慶によって破却。石材は筒井城に、更に郡山城にも移されたという。現在の城跡は奈良市立若草中学校。周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏が幾つか残っている。
(*3-1) リスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。1569年、織田信長と対面して、畿内での布教を許可された。『日本史』を執筆。 
(4) 松永弾正が東大寺大仏殿を焼く
十三代将軍・足利義輝亡き後の都は一段と乱世が続き、興福寺一乗院門跡だった弟の覚慶(*1)の命さえ危うくなった。それを知った筒井順慶は官符衆徒筆頭の立場上見るに忍びず、良弘とも協議して一族は打倒松永の兵を挙げる事に決め、三好三人衆と共同作戦を展開した。
永禄九年(一五六六)の夏、石ノ上城に中坊秀祐ら二千の将兵を迎える。喜んだ良弘は、家宝の“つゝ井”と銘した茶碗を、今日の祝いにと順慶へ献じた。世阿弥が夢幻能『井筒』を完成させた記念に井戸家に贈ったものである。高麗産の飯茶碗型の蜜柑とビワ色の釉の肌もあざやかな逸品で、後世、利休の高弟・川上宋二が“井戸茶碗”と名づけた。
喜んだ順慶は、城内の井戸から沸き出す名水で茶を立て
つゝ井筒、筒井の底の 岩清水 結ぶ手多き 今朝の東雲。
と詠じて、意気高く出陣の茶会を催したと云う。
永禄九年(一五六六)十月、順慶は五千の兵を率いて松永弾正の多聞城攻略に向う。翌年になると三好家と合流して一万五千の大軍となり、東大寺一帯に布陣して總攻撃の機を狙った。
それを見た松永勢は手当り次第に放火して廻ったから
「大仏の回廊の火が仏殿に移り、やがて天をも焦がす猛火となり、雷電の如く大仏も湯にならせ給う。治承四年の平氏の放火より四百余年、その修復は百年かけても不可ならん。誠に言語道断なり」と記される惨状となった。

(*1) 室町幕府の第十五代将軍・義昭のこと。第十三代将軍・足利義輝は同母兄。仏門(興福寺一乗院)に入り、覚慶と名乗った。義輝が松永久秀らに暗殺されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて京都から脱出。美濃の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて信長によって京都から追放され、事実上、室町幕府は滅亡。その後は毛利輝元、そして、豊臣秀吉らの援助を受けて余生を送った。 
(5) 織田信長が伊勢の北畠一族を攻略する
永禄十年(一五六七)の春に入ると織田信長が老臣・滝川一益の大軍を北伊勢に派遣して北畠傘下の神戸、関一族の攻略にかかった。その猛攻により、三重郡の正成の子孫と云われる楠木貞孝が善戦した程度で、次々と織田の軍門に降った。信長は神戸家に信孝(*1)、関家に信包を養子に入れて幕下に加えた。
翌十一年(一五六八)、信長は義輝の弟・義昭を奉じて入洛し、十四代将軍に就任させた。「天下布武」の理想実現の第一歩であり、引続いて南伊勢の北畠一族の攻略に乗り出した。
永禄十二年(一五六九)八月になると八万の大軍を動員した信長の包囲作戦により大河内城では糧つきて餓死者が続出した。北畠具教も遂に抗戦を諦め、信長の次男・信雄を養子に迎え、やがて当主とする事で和を結んだ。
その案が出された時、頭の古い北畠の重臣達は
「信長の子を人質に取って置けばお家は安泰じゃ」と喜んで賛成したが、どっこい信長は役者が一枚上だった。
守役と云う名目で滝川一益を始め織田家でも頭の切れる優秀な家臣二十余名を派遣し、貴族流に門閥を第一とする北畠の家中に実力第一主義の織田の新風を吹き込んだ。「見込みあり」と見た人物は思いきり抜擢した。
その為に北畠の家中は二派に分れた。具教の弟・具康の子などは滝川一益の娘婿に望まれ、滝川三郎兵衛と改めて信雄の寵臣となって忽ち立身出世する。それを見て具教の側近の中にさえ進んで信雄方につく者が出た。
反対に忠義一徹で「奴らこそ獅子心中の虫」と旧主を擁して信雄派に対抗する硬骨派も生れる。二百年一致団結を誇った北畠国司家も混乱状態となったのを見て信長は内心ほくそ笑んだに違いない。

(*1) のぶたか。織田信長の三男。永禄11年(1568年)、信長が伊勢国を平定の際、伊勢中部を支配する豪族神戸氏を継ぐ。▽天正10年(1582年)、四国征伐の総司令官になり、三好康長の養子に。四国渡海の準備中、本能寺の変が勃発。「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流。総大将として山崎の戦いに参戦し、明智光秀を撃破。弔い合戦の総大将であったが、織田氏の後継者は甥の三法師に決定。三法師の後見役として美濃国の岐阜城主となる。▽後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介。柴田勝家・滝川一益らと結び、秀吉に対して挙兵するが失敗。▽天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで再度挙兵。しかし、頼みの勝家が北ノ庄城で敗れると、降伏。後、自害。享年26。 
(6) 織田信長が松永弾正に「大和一国切り取り勝手」を認める
そんな中でも筒井勢の松永弾正に対する攻撃は休みなく続けられた。信貴山城を落して志気大いに振ったが、永禄十一年(一五六八)の秋に入ると情勢が一変した。
足利義昭を十五代将軍に就任させた信長の天下布武の勢いの鋭さを見て、松永弾正が「これはいかん!」と大芝居を打ったからだ。すなわち、単身信長を訪ね、世に名高き「つくも茄子の茶入れ」と、天下に一振と云われる銘刀・吉光を手土産にした上で、臣従を申し出たのである。
信長は、弾正が「主の子や弟を毒殺し、将軍を自刃させ、大仏を焼失する」と云う稀代の姦物であるのを百も承知の上でこれを許し、「大和一国切り取り勝手」の朱印状を与えたから筒井順慶らには降って沸いたような大災難となった。 
(7) 松永弾正が春姫と権介を処刑する〜姫丸城の由来〜
忽ちにして弾正勢は織田軍をバックに次々と大和を侵攻し、筒井本城や良弘の辰市、石ノ上城に襲いかかり、順慶は福住城に敗走する。良弘は中坊一族と石ノ上城を死守せんと悪戦苦斗を続けた。
然し虎の威を借りた松永弾正勢の大軍に攻め立てられ、元亀元年(一五五八)の一月には孤立無援の中で全滅寸前となった。城に籠った中坊の一族は松永に内通せんとして裏切る寸前に気づき辛くも喰止めたが、城内の将兵は「卑怯者を処刑して見せしめにせよ」と迫る。
それを知った弾正は筒井城で捕えた良弘の娘・春姫や松倉の子の権介を濠際に引き立てて開城せねば刺殺すると脅しつける。
良弘は断腸の思いで娘を諦めた。「生死を共にせんと誓った人々に背く事は武士の義が立たぬ」と松永の申し出を拒んだから、哀れや、末は夫婦と約した幼馴染の春姫と権介は悲惨な最後をとげる。
このいたましさに一族は血涙にむせび、“つゝ井筒城”と呼ばれたのが「姫丸城」と云う悲恋の城と変ったらしい。 
(8) 井戸良弘が松永弾正から姫丸城を取り戻す
城内の将士は主将・井戸良弘の義に感激して一段と結束を固めた。籠城半年に近い三月末の夜半、良弘は突如として壮絶極まる總攻撃を敢行する。防衛網を突破し、東方の山中に脱出したが、一人の老幼男女も敵に残さなかったと云う。
それを知った弾正は切歯扼腕して腹いせに全城を焼払ったが、歴戦の織田兵らは口々に「敵ながら天晴れ!」と舌をまいた。その噂は織田一の出頭人と稱される明智光秀の軍にも伝えられたらしい。落城直後の『多聞院日記(*1)』にも「井戸良弘が城内に生活用具一式を備え籠城に徹した事」に驚いている記述がある。筆者の多聞院・英俊は松永に気嫌伺いに参じているが、この辺りに当時の社寺の様子が伺える。
井戸勢の再挙は早かった。その秋には「蔵の庄城」に梅鉢の馬印を掲げて十市城の順慶と呼応し姫丸城奪回の機を狙う。翌年早々には、櫟本の松永守備隊を潰走させて見事に姫丸城を取戻している。
愛娘をむざむざと松永の毒牙に失った痛恨の地を我手に取戻した良弘は、その年の三月の初午の日に城の守護神である姫丸稲荷社を新築して、ささやかな遷宮祭を催したらしい。筆者は、その吉日に始めて城に一歩を印しようと思い立った。

(*1) たもんいんにっき。奈良興福寺の塔頭・多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。 
(9) 石ノ上・姫丸城〜石ノ上広高宮〜
江戸時代には同社の大祭は伏見ら三大稲荷の一つに数えられて盛大を極めたと云われ、今年も三月八日に挙行されると云う。
春姫ゆかりの里の聖女に天理王命が天降られる云う人智では計り知れぬものを感じて平尾山をめざすと、四つ角に古びた巨石の稲荷社への道標が立ち、昔の繁盛ぶりが偲ばれる。
資料によれば神社の丘近くに別所城跡があり田部の井戸若狭守の居城と言われている。良弘の父祖時勝が永享年間に始めて築かれたものらしいので先ずそれを訪れる。五百年の星霜をへた現在でも広い城跡とそれを囲む濠も残っており、井戸家中興の祖三代が苦闘した歴史を物語るようだ。
良弘が築いた姫丸城は、ここから数百米の北方に連なる丘一帯に築かれている。一段と高まった頂上に本丸を設け姫丸神社を守護神と仰ぐ平山城である。深い外濠が築かれていたと思われる山麓伝いに大手門跡の石の小道から急坂を登ると「石ノ上広高宮(*1)跡」の碑石がたっていた。

(*1) いそのかみのひろたかのみや。第二十四代仁賢天皇(にんけんてんのう、四四九〜四九八)の都。同市嘉幡との説もある。 
(10) 石ノ上・姫丸城遊歩〜姫丸城〜
五世紀中頃の二十四代仁賢天皇の皇居が置かれた広い台地の奥に姫丸稲荷の社殿が建っており、大勢の信者が焚火を囲んで忙しげに働いている。
境内の四辺には山頂の宇賀御霊大神(*1)を中心に白滝、姫丸、広隆、兼松、藤時、藤徳、の諸神の石碑が林立してその歴史の古さが判り、中でも春乗大神の碑前に立つと
「これがつゝ井筒の悲恋の姫を祭った霊碑に違いない」と直感され、謹んでその冥福を祈り、合掌する。
城の配置等は何も判っていないので碑前でスケッチの筆を走らせていると素朴な農夫らしい信者が
「よう参られた。何せ年に一度の大祭じゃからマア一杯祝って下され。」とコップ酒を振舞ってくれる。遠慮したがその気持ちが嬉しくて、
「これは春姫よりの賜り物。辞するは礼に非ず」と有難くお流れ頂戴し、里に残された伝説などを聞かせて貰う。すきっ腹に神酒が心地良くしみ急に元気が出て城跡を一巡した。裏手には広々とした用水池が拡がり、到る処に古墳が散在して銅鐸等も発見されたらしい。
天守閣跡を求めて歩いたが、竹藪と雑木に覆われて判らない。一段と高い社殿の裏の丘に立てば遙かに生駒から二上山に連なる山々が霞の彼方に浮び、まほろばの野を渡る風にほのかに梅の香が漂う。
「良弘公が建てた日本最古の三階櫓はここに聳えていたに違いない」と草をしとねに日の丸弁当を開き、過ぎし数々の歴史を回顧する。
苦闘の籠城、裏切り者への処刑、礫柱に縛りつけられた“つゝ井筒の二人”。玉砕を覚悟しての大突撃、天を焦がす落城の日の業火、元亀二年(一五七一)の初午に催された遷宮等の風景が走馬灯のように流れた。
そして今、満目(*2)城跡を偲ぶ何物をも止めず、城春にして只草木のみ深い。豊臣秀長が百万石の大守としての厳命で根こそぎ郡山城に運び去った為であろう…。

(*1) うがのみたまのおおかみ。元来「稲」を主宰し給う神。五穀豊穣・商売繁昌の神と崇められる。
(*2) 見渡す限り、あたり一面の意。 
(11) 石ノ上・姫丸城遊歩〜花園寺〜
汲めども尽きぬ歴史のエピソードを追って時移るのも忘れ、フト気づけば竹林の彼方の三輪山には肅々と(*1)暮色が流れる。
「これはいかん。今日は良弘が父の供養に建立したと云う天文二十二年(一五五三)の石仏だけは何としても一見せねば」と急いで山を降り花園寺を訪ねた。長閑な石ノ上の里のはずれに立つ小ぢんまりとした本堂の参道の角に、きれいな阿弥陀如来の石仏が立っている。敗戦後に寺の墓地を整理中に発掘されたもので、肉眼では判らぬが超音波をかけると
「天文二十二年覚弘、良弘建立……」と刻まれているのが読み取られ、良弘が父の菩提の為に築いたものとされている。
始めて中興の祖と対面した感激に胸も高鳴る想いにうたれ
「さあこれからがいざ本番だぞ。名利を求めず信ずるままに一介の里の夕辺を愛する翁として八十年を生き抜いた尊敬すべき祖先の生き方をしっかりと学ぶのだ」としみじみ石仏に祈り、喜び勇んで家路についた。

(*1) しょうしょうと。さみしいようす。 
(12) 石ノ上・姫丸城遊歩〜在原寺〜
十一年後、平成八年三月の午の日にも城を訪れた。JR櫟本駅を降りると第一番に業平ゆかりの井筒を見たくて在原寺(*1)を訪ねる。
縁起によれば光明皇后(*2)が、四十五代聖武天皇の御縁仏である十一面観音を本尊にして、平尾山に本光明山補陀落観音院の在原寺を創建されたのが始まりである。阿保親王は深くこの観音を信仰して業平が生れたので彼をここで育てる事にしたらしい。
承和二年(八三五)少年が元気で十歳になった年に、阿保親王はこの地に在原寺を建立して、旧所在地の平尾山から移転している。親王が亡くなられた後も業平はここに住み、都に出て朝臣となってからも折あらば訪ねているのは、若き日の数々の思い出があったからだろう。
天慶四年(八八〇)、業平の没後はその遺言によって邸は在原寺に寄進されたが、その名が世に知られるや立派な業平神社が創建されて人々の参拝も絶えなかったと云われる。
境内には業平の烏帽子塚や「つゝ井筒」を始め「夫婦竹」や「むら薄」の史跡も残されて昔を語る。かの芭蕉翁も訪れたらしく
うぐいすも 魂に眠るか 嬌柳(たおやなぎ)
の句碑が立っていた。あたりには幽翆の気が漂い、木陰から今にも冠、直衣の美しい姫が出現しそうだ。

(*1) 後南朝序曲を参照。
(*2) 聖武天皇の皇后。 
4 辰市城の快勝 

 

(1) 信長が筒井順慶を味方にする
元亀二年(一五七一)春、天下布武をめざす信長が伊勢長島の一向勢に苦戦していた頃、大和では姫丸城を奪回した井戸良弘が仇敵・松永久秀に対抗して本貫地(*1)の一つでもある九条辰市の倭文神社(*2)一円に堅固な砦を築き始める。
折しも将軍義昭は元の興福寺一乗院門跡の縁から春日大社官符衆徒頭梁の筒井順慶に九条家の姫を嫁がせ己が傘下に加えんと秘そかに話を進め、それを知った明智光秀は直ちに岐阜に急報。
信長はそれを知って
「『毒になる奴は薬になろう』と大姦物の弾正めを臣下に加えたのが将軍は気に容らんようじゃ。よし先手を打って筒井一族を大和鎮圧の筆頭に活用しよう。即座に手配せい」と命じた。
姫丸城での良弘の奮戦ぶりを聞いていた光秀も「それが正論」と仲介に奔走した。信長の京都管領とも云うべき智将光秀の人柄に惚れ込んだ良弘が順慶にすすめ、話はトントン拍子で約定を交したのは五月始めだったと云う。
そして、五月半ば窪津城(*3)に攻めかかった松永勢を敗走させた良弘は急ぎ辰市の倭文神社や神宮寺の僧兵、神官總代らを説得して本格的な築城工事に入り、突貫工事で終えた六月末、櫟本の松永方の付城を攻めて凱歌をあげる。

(*1) 律令制で、戸籍に記載された土地。転じて、本籍地。出身地。
(*2) 開祖・右衛門忠文を参照。
(*3) 不明 
(2) 井戸良弘が松永弾正に勝つ〜辰市城の戦い〜
それを知った多聞城の松永久通(久秀の子)は大いに怒り、信長との密約も知らず父の久秀に援軍を乞い辰市攻略を計画。久秀も一軍を率いて出撃し、八月四日總攻撃と決した。
松永軍の總兵力は三千と云われ、それに対する辰市城の良弘勢には勇将で知られた島左近、松倉右近ら千余の他に、秘そかに郡山城を取戻さんと虎視眈々の順慶主力を併せると二千に近かったろう。
八月四日の戦いは大和最大の合戦と云われ、両軍は開戦に先立ち鬨の声を三度繰返すと一斉に弓鉄砲を乱射し、その声は天地をゆるがせた。
緒戦は松永勢の案内に立った豊田中ノ坊とベテラン戦略家で知られた松永の作戦の巧みさによって優勢に進められ、堀には忽ち橋が架けられる。
城塀は引倒され多勢を頼みとする寄手は三の丸、二の丸に攻めこみ五千近い両軍の激斗が半日近くも続いた。
夏の日が西に傾いた頃、突如として思いも寄らぬ森陰から出現した筒井勢が松永軍の背後を突いたのが決定打となり、戦局は急転して松永勢の勇将河奈辺伊豆、松岡左近を始め松永孫四郎、久三郎の一門までが次々に討死し戦局は一転した。
歴戦の弾正も為す術なく武器弾薬から兵糧一切を放棄して壊走。筒井本城を守る味方も見殺しにして命からがら信貴山城に逃げ走ったと云われ、その損害は死者五百、傷者は千を越えその中には剣の名手・柳生石舟斉の嫡男・厳勝も交って居り彼は不具者となって生涯を柳生谷に籠って終える事になる。 
(3) 信長が井戸良弘を部下にする
井戸勢の大勝を喜んだ光秀は信長に上覧を乞い、八月七日には兜首二百五十余をひっさげた良弘らが信長の検分を賜った。
其際信長はひどく上機嫌で色々と良弘の身の上を尋ね、生れが天文三年と知って
「ホウそなたも余と同じ午か」と傍に控える午年の細川藤孝に
「午が三頭そろたとはめでたいぞ!」笑いかけると、すかさず藤孝が
「同じ馬とは申せ、殿は金覆輪の鞍置いたる名馬、それに比べて若狭殿はちと荒駒、身共などはさしずめ荷駄馬のたぐいかと存じ候。」と軽口を飛ばし一同大笑いになったと伝えられる。
それを知って腹を立てたのは信貴山の弾正で
「己れ信長め今に思い知れ!」と洩らしたのは「大和一国切り取り勝手」の約束を袖にされたからであろう。
これが縁となり良弘の爽やかな男振りが気に入った信長は光秀を呼んで
「春日坊主の順慶には過ぎた男じゃ余に仕えさせい」と命じ、猜疑心の強い彼だけに順慶の母・大方局ら人質の世話役と云う名儀で話をつけさせたのは吝ん坊の信長らしく仲に入った光秀も頭を悩ませたに違いない。 
(4) 井戸良弘は明智光秀の丹波平定に参加する
良弘が住み馴れた結崎井戸の里や石ノ上姫丸城を順慶に託し、辰市城は嫡男・覚弘に譲り、後見を井上(戸)十郎とし、岐阜に出発したのは元亀三年の春で良弘は三十九歳の男盛りであった。
妻や若い次男三男を伴い、主席家老・中村刀祢(*1)以下「生死は共に」と望む将兵二百余を率いて始めて岐阜城下に入り、到着のあいさつに参上すると喜んだ信長は当座の糧として山城国久世郡(*2)一万石を与えたと云う。
光秀や藤孝の初任給に比べると二倍と云う破格の待遇で如何に信長が期待したかが判るが、清廉で物欲も爽やかな良弘は内心「これも光秀殿の取りなし」とその好意に感謝したに違いない。
やがて望み通り光秀の与力となり困苦に満ちた丹波平定の軍旅が始まる。「天下布武」の礎石としての使命感に燃えた良弘の文武両道に秀でた働きは、尾張の田舎育ちの武将に比べ抜群のものがあったらしい。
光秀の信頼も深く、「天下平定の暁にはきっと一国の主に推挙致す」と約束された程で前途は正に洋々たるものがあったようだ。

(*1) 井戸家の重臣
(*2) 現在の京都府宇治市(宇治、槇島等) 
(5) 九条辰市城〜倭文神社〜
郡山駅から佐保川に沿って北上するとやがて道端に羅城門(*1)跡の碑石が立っている。改めて平城京の広大さに驚きながら国道を横切ると赤い鳥居が見える。近づいて始めて辰市神社(*2)と判り、その隣が開祖の一人である時風神社(*3)だった。
元は伊勢神宮領であったのを時風が手に入れ、辰の日に市を開いたので辰市神社と呼ばれたらしい。時風神社は彼を旧姓の「中臣連」としているのは不思議(*4)だが、きっと色々な歴史が秘められているに違いない。
考えながら行くと、右手に楠の古木にかこまれた大きな神社と、神宮寺だったらしい建物が鎮座されている。鳥の音と薫風が楠の若葉をゆるがして爽やかに流れる大鳥居の傍に墨色も鮮やかに「倭文神社(*5)」と記されている。由緒書には「神護景雲三年(七六八)時風が武羽鎚、経津主、応神天皇の三神を奉じてこの地に創建したと云う。
神国大和の守護神である春日大社の武神(経津主)を織物神(武羽鎚)に奉じたのは何故だろう。
「女王日御子(ひみこ)が魏王に斑布二匹二丈を献じたのが西暦二三九年で、時風が神社を創建したのがそれから五百年後になる。日本の織物技術は決して浅い歴史ではなく縄文時代から始まると云えるかな(*6)」「平城宮南面の鎮護に創建された神社だけに主神は倭文大神であっても配神は武神であるのは当然であり、まして後世の動乱時代には防衛の拠点となり、大和第一の大戦に彼の武名を轟かす日がやってくるのは不思議ではない。良弘公はついていたなあ」と感じられた。

(*1) らじょうもん。平城京や平安京といった条坊都市の中央を南北に貫いた朱雀大路の南端に構えられた大門。
(*2) たついちじんじゃ。奈良県奈良市杏町64。祭神…武甕槌命(*2-1)、經津主命(*2-2)。辰市神社は杏町東西集落の中央、時風神社の向いに鎮座する。もと神宮神社(こうのみや・鴻の宮)と称した。祭神は春日大社神で「常陸国鹿島明神」と「下総国香取明神」のニ座。鎮座地は春日大社社家中臣氏の采地で、その末裔・辰市家の居館地であった。
神護景雲二年(七六八)春日大神が御蓋山に遷座された。後に侍従の社司・中臣時風(なかとみのときふう)、中臣秀行(なかとみのひでつら)がその住居を神託によって西南の方へ神木を投じその落ちる所とした。それが辰市郷中この地に落ちたので、このあたりに居住し、春日の神木を崇敬し、中臣時風らが奉祭したのが、この神宮社すなわち今の辰市神社である。
天正年間(1573-70)筒井順慶が松永久秀との戦いで、その戦火のため南門拝殿神楽所移殿ことごとく、焼滅。その後、慶長の乱などがあって神楽もほとんど中絶。享和二年(1802)から神事は再興され、明治・大正にかけて社殿や境内は復興された。例祭は十月十日。
(*2-1) タケミカヅチノミコト。「神産み」においてイザナギがカグツチの首を切り落とした際、「天之尾羽張(あめのおはばり)」という剣の根元についた血が岩に飛び散って生まれた。葦原中国(あしはらのなかつくに。出雲地方。諸説あり)平定において、アメノトリフネとともに敵を制圧。タケミナカタとの戦いは相撲の起源とされる。
また「神武東征」において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下(タカクラジ。物部氏の祖神である饒速日命の子)に自身の分身である佐士布都神(*2-2)という剣を与えた。
名前の「ミカヅチ」は雷のこと。雷神は剣の神でもある。別名のフツ神は本来は別の神。フツヌシは香取神宮で祀られている神。
元々は鹿島の土着神で、海上交通の神。ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることに。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。
(*2-2) さじふつのかみ。ふつぬしのみこと。「ふつ」は物を断ち切る音を表す。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣。剣の霊力が軍勢を毒気から覚醒させ、戦争に勝利。荒ぶる神を退けるちからを持つ。
物部氏によって石上神宮に移され、御神体となる。鹿島神宮にも布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝指定で、鹿島神宮の宝物館にて展示。
(*3) ときふうじんじゃ。奈良県奈良市西九条町414。杏町の辰市神社の道をへだてて、すぐ南にある。祭神は御蓋山(*3-1)に鹿嶋の神を遷してきた中臣時風・中臣秀行の霊をまつる神社である。時風は辰市家の祖、秀行は大東家の祖といわれる。例祭は十月十日。
(*3-1) みかさやま。春日山は御蓋山と書いて「みかさやま」の別名がある。奈良公園の東端の若草山(わかくさやま)も山が三つ折り重なっているため三笠山(みかさやま、みかさのやま)とも呼ばれ、両者はよく混同される。
(*4) 「天御中主尊−略−国摩大鹿島命−1.大楯命、2.相鹿津臣命、3.巨狭山命」の系譜がある。時風は「1.大楯命」の系統で、鹿島大宮司家 / 春日社司家へ連なる。藤原氏の開祖・鎌足は「3.巨狭山命」の系統。だから時風は中臣姓。
(*5) 開祖・右衛門忠文を参照。
(*6) 「弥生時代から」の誤記か。 
 
「祇園祭を見た宣教師」 (1562年)

 

戦国時代の日本にイエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスが当時のわが国の記録を詳細に残している。
フロイスのこの著書に、今年ももうすぐ山鉾巡行が行われる京都『祇園祭』の記録を見つけたので紹介したい。イエズス会が我が国に派遣したポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィレラについての1562年の記録の一節を引用する。
「この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われた。それらのいくつかは、人々が語るように、華麗さ、外面的な費用においてはなはだしく以前に比べて劣るとはいえ、今なお行われていた。第六月の十五日には、祇園と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは、都の郊外に、多数の人が訪れる霊場を有し、次のようにして行われる。」
今では、京都「祇園祭」は「八坂神社」のお祭りとして知られているが、「八坂神社」は明治の「廃仏毀釈」により神社にさせられるまでは「神仏習合」のお寺(天台宗)であり、「感神院祇園社(かんしんいんぎおんしゃ)」あるいは「祇園社」と呼んでいた。歌川広重(1797-1858)の絵で「京都名所之内」より、「祇園社雪中」という絵があるが、この鳥居の扁額には「感神院」と書かれているのが読める。
「都名所図会」には多宝塔や薬師堂などの仏教施設の絵が描かれている。ただしこの多宝塔は、「廃仏毀釈」とは関係なく、寛政年間に焼失したようだ。
京都ガイドブックによると「祇園祭」のルーツは9-10世紀に始まった祇園社の御霊会「祇園会(ぎおんえ)」で、中世前期までは、三基の神輿、十三本の馬上鉾、五匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祇園社からお旅所へ渡り、14日に祇園社に戻るという日程で行われていたそうだ。
平安時代の「祇園会」の様子が「年中行事絵巻」に描かれている。この絵巻物には行列の先頭に鉾を担いでいる人物がいて神輿や牛車が描かれ、山鉾がどこにも見当たらないことに誰でも気づく。
山鉾巡行が始まるのは14世紀の半ば以降のことで、応仁の乱(応仁元年[1467]〜文明9年[1477])の前には山鉾の数は58基にもなったそうだが、応仁の乱後しばらく中断され、明応9年(1500)に山鉾38基で復活されたという。ちなみに現在の山鉾数は33基だ。
ガスパル・ヴィレラやフロイスらが日本にいた時代には、祇園祭の山鉾巡行は(太陰暦の)6月7日と14日の年2回行われていたはずなのだが、フロイスはどういうわけか祭りの日を6月15日と書いている。フロイスの記述では「祇園社」から神輿が出ていることから、7日に行われた祭りの日を間違えたものと考えられる。
明治5年の11月に明治政府が暦を太陰暦から太陽暦に変更することを発表し、明治10年以降は山鉾巡行の日程が7月の17日と24日に移されたのだが、昭和41年以降は人手不足から、7月17日の一回に変更されて現在に至っている。
フロイスの記述では「祇園と称せられる偶像を敬う」と書いているが、「感神院祇園社」が祀っていたのは「牛頭天王(ごずてんのう)」で、これはインドの釈迦の生誕地にちなむ祇園精舎の守護神であり疫病を防除する神と信仰され、「神仏習合」の考え方では薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体だと考えられてきた。近世の神道家や国学者にとっては、記紀の中でヒーロー的存在であるスサノオと習合している「牛頭天王」は目障りであったらしく、明治政府は「神仏分離」政策を推し進める中で、「牛頭天王」を祭神とするすべての神社について、祭神をスサノオノミコトに代えさせているのだそうだ。
このような経緯で、明治時代の初めに「感神院祇園社」の仏教施設は撤去され、名前は「八坂神社」に改名されて、祭神はスサノオノミコトとされたのである。
フロイスの記録の続きを読んでみよう。
「祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ち出さねばならない出し物が割り当てられる。次いで当日になると、朝方、無数の群衆が、この祭りを見物するために都に殺到して来る。また別の人たちは祭りに参加することを誓約したためにやって来る。そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、まず上部にはなはだ高い舞台が設けられた15台、またはそれ以上の車が行く。それらの車は、絹の布で掩われているが、すでに古く、長く使用されたものである。そして舞台の真中には非常に高い一本の柱がある。その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣をまとった、都の市民の子供たちである大勢の少年がいる。彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技したり大声で歌ったりする。その一台一台の後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく。これらの大きい舞台付の車が通過すると、他の、より小さい車が続く。その上には、立像によって日本の古い歴史上の幾多の故事や人物が表徴されている。[日本人は、それらを非常に上手に製作する。すなわち、彼らは万事において非常に器用であり、はなはだ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような仕事にたずさわるのである。]かくて彼らは、これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごすのである。」
フロイスが「一同は行列のようにして繰り出す」と書いているのは「山鉾巡行」のことであるが、「山鉾」が「鉾」と「山」に分かれているということは、当時の外国人宣教師には理解できなかったのかもしれない。
「鉾」というのは屋根に長大な鉾を戴き、直径2メートル程の車輪が付き、2階にお囃子が乗っているもので、「山」というのは、鉾の代わりに松の木を戴き、山の上で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておらず、「鉾」よりも一回り小さいものをいう。今年は142年ぶりに「大船鉾」が復活し、巡行する山鉾の総数は33となっている。
フロイスは「楽器を携え…大声で歌ったり」と書いているが、「祇園囃子」のことを書いているのであろう。実際は鉦(カネ)と笛と太鼓で奏でられている。注意深く聞くと、同じ鉾の囃子には何種類かあり、また鉾によっては囃子の旋律やリズムが異なることがわかるのだが、西洋のような五線紙はなく、この伝統を何百年に亘り継承してきたことは大変な事なのだ。
また、フロイスは「後ろから、自分の職業の印を持った職人たちが進み」と書いている。現在は町内単位の山鉾ばかりだが、昔は職業組合が出す山鉾もあったらしいのだ。続けて「皆、槍、弓、矢、長刀、すなわち、はなはだよく作られた鎌の形の半槍のようなものを持ち、本当の兵士たちがそれに続いていく」とあるが、今では山鉾巡行の行列で武具を携えて歩く人はいない。
また、フロイスが「これらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像のところに行き、そこで午前を過ごす」と書いているのは、事実を確認して書いたものとは思えない。重たいものでは12トンもあると言われる山鉾が人を乗せて坂を上ることは考えにくいことだしし、今もそうだが江戸時代の「都名所図会」の記録でも、山鉾のルートは「感神院祇園社」に行くことにはなっていない。
「祇園という偶像」と書いているのは「牛頭天王」の事だと思われるが、そもそもキリスト教は偶像崇拝を禁止する宗教であり、内心では仏像などに対する祈りの行為を認めたくなかったはずだ。
フロイスの文章は続いて山鉾巡行の後に行われる「神幸祭」の記述となる。
「午後、彼らは非常に立派に飾られた大きい輿(みこし)を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ、双手を挙げてこの輿を拝む。そしてその時には、たとえ酷暑であっても、輿が通過する間、誰も頭に帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。なぜなら輿に先行している下賤の者がそうした人を見つけるとその頭を棒でなぐりつけるからである。その後方から別の一台の輿が来るが、人が語るところによると、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程離れて一定の位置に、続いて祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過す。そして日本人は自負心が強く、また群集の数がおびただしいので、この行列の際には、ごく些細なくだらぬことから喧嘩や騒動が起り、その際通常は多数の負傷者が出、幾人かの死者も出る。」
八坂神社から三つの大きな神輿が繰り出すのだが、最初に出発するのは写真の真ん中の「中御座」と言う六角形の神輿で、スサノオノミコトを祀っている。次いで出発するのは「東御座」という四角形の神輿で、スサノオの妻であるクシナダヒメを祀っている。最後に出発するのは「西御座」という八角形の神輿で、スサノオの8人の子供であるヤハシラノミコガミを祀っている。
フロイスの記述を評価する前に、廃仏毀釈で主祭神が変わったことを知る必要がある。
明治時代の廃仏毀釈以前の主祭神は以下の3柱であった。
(中の座) 牛頭天王 (ごずてんのう)
(東の座) 八王子 (はちおうじ)
(西の座) 頗梨采女 (はりさいにょ)
頗梨采女は牛頭天王の后神であることからスサノオの后であるクシナダヒメと同一視された。クシナダヒメは方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定されていたのだそうだ。
ここまで調べると、フロイスが「正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なるものを表徴し」と書いているのは全く根拠のない偏見にすぎないことがよくわかる。
宣教師からすれば意味のない「偶像」が中に入った神輿を担ぐことが「滑稽な儀式」に見え、この神輿を見るために大勢の群衆が集まって盛り上がることは「盲目的な愚行」にしか思えなかったという事なのか。 
 

 

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