奈良平安の日本

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雑学の世界・補考   

奈良時代の文化と情報

問題の提起
現代社会というのは情報社会だとだれにも思われていて、そして誇りにもされていることは、ある意味では否定できないでしょう。なぜならといいますと、情報なしで現代社会の存在は絶対あり得ません。けれども、現代人の慢の<情報>は現代だけに適用・限定されるのでしょうか。古代、中世も情報の流通・交換が勿論、行われていました。ただ、時代によっては、その特徴がだいぶ違って、それぞれの特質が見られるのが事実です。環境と環境に対する考え方、生活様式、習慣、宗教、農業・産業の発展、国内政治、国際情勢等々の広い意味での文化生業の影響を受けながら、時代別の情報の流通・交換の有り様は特徴づけられています。
情報は一定の手段によって伝えられています。古代社会にとっては身振り、音楽、絵、口、文字などがそれです。人間、homo sapiens ができた時に、口と身振りしかなかったが、だんだん進歩しながら偉大な発明をして、情報を伝える新しい技術手段を使うようになりました。それとともに情報のインフラスタラクチャもできました。そのなかに楽器、文字、文房具、乗り物、道路、などがあります。
人間社会と情報とは、切ってもきれない関係にあります。古代にしても、現代にしても、情報の流通なしで人間の社会自体が存在しえないといっても過言ではありません。早く、間違いなく情報を相手に届けられるのは社会の充実した進歩、発展の大きな前提です。情報の面で遅れている国・社会は、全面的に遅れるほかはありません。その理由はいろいろあると考えられます。たとえば、人口の少ない領域が広すぎると、空間・スペースそのものが信号の伝達に大きな障害となります。ロシアは広い国土、豊富な資源があっても、情報のインフラスタクチャは、時代を問わず完成していなかったため、国家・国民の同質性がなかなか達成できず、大きな問題を発生させたというのはその典型的な実例でしょう。物理学の空間といっても、人間社会もそうであるが、遠ければ遠いほど、信号が弱くなって、誤解、ゆがめることも多くなります。同じロシアであっても、地域性がいまでも非常に目立っている承知のようです。
奈良時代前後の文化というのは、今の日本文化と多くの点でいちじるしく違いますが、やはり両方ともおなじく日本文化です。いや、奈良時代の文化は、現代日本文化のはじまりだといってもいいでしょう。情報としても、なおさらです。奈良時代には、情報(とくに文字情報)に対する日本人の考え方が形成しはじめられていて、そしてそのいくつかのパターンはそれ以降もよくみられています。そのなかのひとつは、その時に文字が普及され、情報の流通、文化全体がいちじるしく変更されたのは、とくに重要な意義をもつものでしょう。それらにかかわる諸問題は山のように多く、私の知識と能力を大幅に越えていますが、歴史学の一般観点を変えながらその諸問題をとりあげて、少しでも解明させるのが本発表の目的です。今日はこの場を借りてとくに文字文化の情報に集中したいと思います。情報理論によると、情報伝達は図1(省略)のように行われています。
一番分かりやすい例を挙げると、ラジオです。情報源はアナウンサーで、送信器はマイクとラジオ送信機です。マイク前のアナウンサーは声のメッセージを出して、電磁気の波に変えさせて、送信信号となります。その信号は通信路、すなわち空気を通じてトランジスター受信器まで伝えて、また人間の声に変えて、行先の聞き手に聞こえます。これは通信系といいます。もし天気のせいで雑音が入ったら、天気はノイズ源と見なされています。
この情報理論を歴史学に利用すれば、どうなるのでしょうか。もちろん、そのままで使用できませんが、一応の改正をしなければなりません。送信器と受信器(ラジオ、テレビ、電話、コンピュータ等)のようなものは、前世紀と今世紀に発明されたもので、そのまま奈良時代に適用できません。ノイズ源としても、また同じです。古代文字情報にはノイズがまったくないとはいえないのですが、きわめて少ないと思われています。文書が雨に降られて、文字も薄くなって、よく見えなくなった、または戦争などで文書の情報が届けられなかったぐらいの特殊な例に限られています(違った意味で情報をとらえるケースは別の問題、受信器の人間に内蔵されたノイズ源の問題として見たい)。そういたしますと、歴史学情報理論からみれば、情報の通信系が図2(省略)のようになります。
それでは奈良時代、律令国家に当たっての情報源、行先、通信路、メッセージはなんのことでしょうかと考えなければなりません。
情報源と行先
律令国家というのは、いわゆる中央主権国家なので、タテの要素が極めて強かったのです。ですから情報をも支配手段の一つとして使用していました。地方に対して命令文書(メッセージ)を出して国家を統治していました。平城宮にはいろいろな役所がおかれましたが、話をより分かりやすくするため、平城宮においての諸役所を総役所と呼びたいと思います。その総役所は情報理論の情報源に当たっています。
その命令文書の行先はどこだったのでしょうか。総役所の下には国府、郡衙が、里(郷)がおかれました。総役所が送っていたメッセージの直接の行先は国府でした。国府はそのメッセージを受けて、そのメッセージのうえで、総役所の命令を具体化して、文書を作成して、さらに下の方、郡衙にメッセージを送ります。郡衙もまたその下の里にメッセージを送ることになっています。
けれども上から下へ命令の文書を送るだけではなくて、下から上の方へ報告することもあったので、場合によっては情報源と行先は逆になります。それによってフィードバック(コミュニケーション)が行われていました。
通信路
現代通信路というのは、主にケーブルや空気や道路となっています。昔は、もちろんケーブルのようなものはまったくありませんでした。空気を通すものは人間の声、または人間の目に見られるもの以外はなにもありませんでした。律令国家には烽のネットワークが整備されましたが、それによって送信できるメッセージの内容は極めて限られていました。だから少しでも遠いところの場合、口コミか文字を記したモノを運ぶほかはありませんでした。情報(命令文書と報告文書)の交流に一番関心したのは総役所でしたので、道路の築造に大きな力を入れていました。その前にも地域ごとに自然に成り立ってきた道路がもちろんありましたが、全国的なネットワークは存在しませんでした(古代道路の最新研究としては吉川古弘文館の「古代を考える」シリーズの木下良編「古代道路」)。当時、日本列島を「統一国家」の単位で取り上げたのはまず第一に中央政府でしたから、道路のネットワークも政府の指導で築造するようになりました。その目的は地域と地域を結ぶよりも平城宮(情報源)と地域(行先)を結ぶことでした。
道路ネットワークの築造によってすくなくとも三つの問題を解決することができました。すなわち、軍隊の移動、物資の輸送、通信(情報)の伝達です。今日までに現物運送、軍隊の移動を中心に道路の研究が進んできましたが、今になって千田稔教授が指摘されましたように情報の面も検討の的となっています(「古代の情報ネット」。滋賀県立大学人間文化シンポジウム。平成8年11月3日)。道路の通信路としての機能を考慮しないと、古代道路の本来的な意義も把握できないと歴史学会の大きな動きとして見ていただきたいのです。
奈良時代の律令国家はいくつかの膨大なプロジェクトを実行できましたが、そのなかでも道路ネットワークを築造、整備するのは、おそらく一番おおきなひとつでした。中央集権国家の存在そのものが道路の全国的なネットワークなしでは全然ありえないと思ってもいいでしょう。ですから大化2年(646)の総合的な改革の計画でもある「改新の詔」のなかでは駅馬、伝馬のシステムがきわめて重視されていました。その具体的な実施は少しあとになったかもしれませんが、改革派の考え方をよく表しています。
駅馬の制度は七道を中心にしていましたが、基本的には30里(16Km)ごとに一駅を設け、公使が乗る駅馬を置いていました。七道を大・中・小と区別して20頭、10頭、5頭を置きました。大路は京と太宰府を結ぶ山陽道(外交の重要性)、中路は東海道・東山道(東国の開発、蝦夷の征夷の重要性)で、そのあとの北陸道、南海道、山陰道、西海道は小路としました。伝馬は郡衙に5頭ずつおかれました。
そういたしますと、駅馬は京(平城宮の総役所)と国府、伝馬は郡衙と国府との間に情報伝達を確保しました。10世紀の「延喜式」によりますと、当時の駅数は402でしたが、駅制衰退時期の記録ですから、8世紀の方はそれよりも多かったと想像できるでしょう。
律令国家は陸上ルートを重視することで、8世紀の官道の築造、駅の設置によって貢進ルートと情報ネットワークをほぼ整備したと見られます(水駅はほとんどありませんでした)。このネットワークは平安時代よりもよく働いていました。たとえば、奈良時代には太宰府-京間を四日三晩から五日四晩、陸奥-京間を八日七晩で達した飛駅使は、平安時代には前者が6日から12日まで、後者は13日もかかりました。
駅路は計画的な道路で、できるだけはやく移動できるような直線的なものが多いです。そして地元の集落とは無関係に設置されました。その道路の幅は案外広くて、駅路は6-13mで郡内の伝馬用の道路は6m以内でした。そして駅家が個人に馬、食料、まぐさなどを供給しなくて、六位以下無位の庶民に到っては駅に立ち入ることすら認めませんでした。これを考えてみますと、駅路の主な機能は政府関係の情報伝達にほかありませんでした。
伝達された情報はなんのことだったのでしょか。その内容(メッセージ)の問題に入りたいと思います。
メッセージの形態
通信路(駅路)を通して送信された律令中央国家関係のメッセージは文字の形をとっていましたが、文字が記される素材は紙と木材でした。すなわち、紙の公文書と木簡です。
同じ文字であっても、公文書と木簡の機能は明らかに違っています。そのなかのひとつはそれぞれの寿命です。紙の公文書は原則として永く保存されましたが、木簡は今の使い捨てのもののようでした。ですから当時の当局はほんとうに大事と思われた情報を全部紙に記していました。木簡の情報を紙にコピーするケースも見られています。
歴史のひとつの皮肉ともいえますが、奈良時代の公文書は木簡よりも少ないし、そして木簡はどんどん出土されていますので、そのギャップも一段と大きくなるでしょう。素材の違いはいまでもよく現れているからです。
よく知られていますが、木簡というのは、墨書された木片です。現在、約20万ぐらいの木簡が出土されました。出土場所は約350にのぼり、全国的に使用されました。しかし75%ぐらいは平城京に集中しています。平城京の調査は地方よりも進んでいると考慮しなければなりませんが、中央集権国家の性格としても当然なことでしょう。このタイプのような国家はモノを京に集中させるだけではなく、情報をも集中させます。その情報を手に入れて、その判断のうえで具体的な対策をとることになっています。
私のような日本文化史を研究している学者にとっては、木簡の一番大きな意義というのは当時の文字文化がかなり普及されていたことにあります。そういたしますと、紙の文書(古事記、日本書紀、律令、公文書等)は日本における文字文化の第一歩ではなくて、文字文化発展のひとつの結果となります。
木材に文字を記す風習は世界の国々に認められていますが(岸俊男編「ことばと文字」)、極東としてはその原型はいうまでもなく中国です。紙のない時代につくられましたが、冊書とよんでいます。その冊書の木(竹)簡に一行か二行の文字を記し、それを何本も、場合によっては数百本をも紐でつないだものです。そうすると、まとまった長い文書にもなります。しかし3世紀以降は紙の普及にともなって中国の冊書も見えなくなって、木簡の使用分野も狭くなりました。ところが、中国文化の影響を受けた朝鮮半島を通じて木片の墨書の風習が日本までも伝えられました。
日本の一番古い木簡は7世紀の第二四半紀とされています。発掘調査のおくれもあって、朝鮮木簡の数は100にしかのぼりませんが、その形態、出土条件、内容などから見ると、日本とほぼ同じであるというのが木簡の研究に優れている和田苹教授の結論です。けれども朝鮮と日本の木簡は中国の前代の冊書ではなくて晋代以後の木簡に似ています。その主な特徴は文書が一本の木片だけで記されています。狭いですから、表裏両面に文字を記したのは日本も朝鮮もまた一致しています。
そういう一致したところがあっても日本における木簡の役目は、当時の中国にしても朝鮮にしてもそれよりも大きかったのではないかと私はみています。技術の面で遅れていましたので、紙の生産・供給もきわめて不十分で、しかたがなく木簡にひとつの重点がおかれました。
いまのところ、約20万の木簡が出土されましたと先に申し上げましたが、その大多数(約75%)は読めない状態にとどまっております。その理由は木簡使用に特徴があったからです。一本の木簡にデータを入れて、不要になると、文字部分を削り取って、何度でも再使用できるようにします。当時の役人にとっては大きな利点がありましたが、我々としてはとても不自由なところがあります。使用済みになると、木簡を捨てました。捨てる場所はごみあな、溝、などでした。トイレ用のヘラとなるケースもありました。
メッセージとしての木簡の内容
木簡はいろいろありますが、国家的な性格をもっているものが圧倒的です。その内容の区別もさまざま考えられますが、定説はないらしいです。たとえば、鬼頭清明氏によると、文書の類と付け札に分けられます。文書木簡は人間にあてて情報を伝達する狭義の文書です。付け札は荷物の内容を中心にして、その荷物にあてるのです。そのほかも木簡のいろいろな区別がありますが、歴史学情報理論からみれば、どうなるのでしょうか。情報源、行先の観点から木簡の区別は次のようになります。
(イ) 平城宮(総役所)に勤務していた役人(役所)が宮内で書いたもの。その行先は同宮内に勤務している役人(役所)です。
(ロ) 地方から総役所あての租税の現物につけられた荷札です。これは国府、郡衙、場合によっては里で記されたものです。
情報源・行先とメッセージの内容をあわせると、前者のなかに次のものがあります。
一、物品の請求状たとえば、東大寺の建設にあたって食料を請求する木簡。
二、物品の送り状。物品が請求されているのにたいして、送ったことを知らせる木簡。
三、領収を示すもの。請求した物品を受けたという木簡です。
以上は物の移動に関するコミュニケーションの木簡ですが、人の移動に関する木簡もあります。
一、役人の呼び出し状。役所が役人を呼び出すために記した召喚文書の木簡です。
二、労役の割り当ての報告。たとえば、柱を抜く11人の割り当ての木簡です。
三、パスポート平城宮の出入りのパスポートと諸国の百姓は往来の箇所の証明書。
ご覧のように木簡のルート(通信路)は宮内または上から下へ(下から上へ)でした。郡と郡、国と国との間にメッセージのやりとりはあまり見られないのです。それは律令国家の政治、経済、情報の実情をよく反映しているのではないかと私は思っています。すなわち、通信路のタテの働きは律令国家に一番重視されました。国内(郡内を除いて)のヨコのつながりが少なかったので、律令国家の将来の解体のいちばん大きな理由となりました。
情報の教育インフラスタラクチャ
以上のようなタテの通信路を支えたのは道路、駅のネットワークだけではありません。木簡、紙の文書のやりとりを行っていた役人たちは読み書きがもしできなかったら、このネットワーク全体が意味をまったく失ったでしょう。ですから律令国家は役人の教育に大きな力を入れました。すなわち、情報の流通を確保するには、通信路だけではなく情報源と行先をつくらなければなりませんでした。
日本においての文字文化を促す大きな最初の刺激となったのは大陸(中国と朝鮮)からの国家を統治する関係の知識を獲得する希望でした。旅行の少ない時代ですから、その知識を獲得・生かす方法は文字を勉強するほかはありませんでした。ですから遣唐使を送ることにあたって、外交訪問のほか、書物を獲得するのは遣唐使の大きな任務でした。帰国後、もってきた書物が写されて、普及しました。それによって外国文化を取り入れるひとつのパータンが形づくられました。すなわち、知識を得る方法は人間の付き合いよりも書物を通じて得られるのです。奈良時代でも新羅の中国との7-8世紀の接触は日本のそれよりもずっと活発的であっても、日本人の中国についての知識は新羅とほぼ同じでした。
いうまでもなく、この知識を消化するには、日本国内のインフラスタラクチャが必要でした。律令政府はこれを十分認識していたらしいです。京の大学、諸国の国学をつくって、同時に2〜3千人ほどの学生が勉強していました。毎年、600人ぐらいが卒業しましたが、当時としては膨大な数字だと思われます。木簡のなかにも宿題木簡ともいえるものが少なくありません。何回も同じ漢字をくりかえして書いたものです。
役人のほか、読み書きができたのは仏教関係者でした。仏教者にとっては、お経を読むのは大変大事でした。そして、仏教はお経を写すのを大きな徳としてみとめていますから、教育の普及を促進させました。仏教についての知識を普及させるには通信路(道路)を求めました。ですから、寺院・仏教者は道路、橋の建設に活躍していました。行基菩薩はその代表的な例でしょう(千田稔「天平の僧行基:異能僧をめぐる土地と人々」)。
そういたしますと、情報の面においては律令国家と仏教の関心に一致点は多かったのです。奈良時代の国家仏教の形成過程もそれをよく裏づけています。
結論
律令国家は通信系をつくるにあたっては大きな努力を払いました。すなわち、情報源と行先(平城宮の総役所と地方の諸役所)、通信路(道路のネットワーク)、文字コミュニケーションを支える教育ネットワークをつくることができました。しかし、その通信系は圧倒的に国家の枠内の、タテのかたちをとっていて、無理なところも多くて、庶民の生活、地方の経済に無関係ですから、律令国家衰退と同時にそれらのネットワークも全部衰退しました。しかし、文字の重要性・必要性はかなり多くの人々にじゅうぶん理解されたらしいです。ですから、平安時代の文字文化はかたちを変えましたが、違った通信源、行先、通信路を使いながら発展を遂げました。
最後になりますが、人文科学における情報研究の意義をもう一度強調したいと思います。人文科学のどんな学問であっても、まず第一に情報の性格を考えなければなりません。いま、われわれが取り扱っているデータはすべてむかしの情報です。歴史学の史料、文学の古典、宗教学の文献なども、そうです。言い換えれば、それぞれの文書はひとつのメッセージでした。現代の人文科学は著者(情報源)に重点をおいていますが、それはきわめて不十分と思われています。奈良時代の情報というのはだれでも買える本が並んでいるいまの本屋とちがっています。むかしの文献はみんなのためのものではありませんでした。一定の定めた行先がかならずありました。ですから、著者のことだけではなくて、その文書の読み先(行先)をふくめて通信路のことを総合的に研究しなければなりません。そうしないと、メッセージの内容も正確に読み取れないでしょう。
 
国風文化

 

国風文化のおこり
894年、菅原道真の意見によって遣唐使が停止された。唐は8世紀ごろからすでに衰退がはじまっており、航海にともなう大きな危険をおかしてまで、交渉を続ける必要はないと考えられたからだ。
907年、東アジア文化の中心であった唐がついに滅び、「五代十国(ごだいじゅっこく)」とよばれる混乱の時代をへて、960年に宋が中国を統一した。
しかし日本は、新しくおこった宋と正式な国交を開かなかった。正式な国交はなかったが、宋の商船は、博多などに貿易のためしきりにやってきた。
中国の東北部では、奈良時代以来日本と親交のあった渤海(ぼっかい)が、926年に遼(りょう)に滅ぼされ、朝鮮半島では918年におこった高麗が、935年に新羅を滅ぼして半島を統一した。
日本はこれらの国々とも正式な国交を開こうとしなかったが、朝廷の許可を得て中国へ留学する僧があったり、宋から書籍や工芸品・薬品などが輸入されたりと、大陸との交渉は行われていた。以上のような国際情勢の変化の中で、10世紀以後の日本の文化にも大きな変化が現れた。
その変化とは文化の国風化、つまり日本化である。この時代に栄えた文化を国風文化とよんでいる。7世紀以来続いた遣唐使によって吸収した大陸文化を土台として、それをより日本の風土に合うように洗練されていったものが、国風文化である。この時代に国文学や芸術が新しい姿をとって出現し、平安時代以後も長く伝えられていくことになった。
この国風文化の伝統が形づくられていった時期は、藤原氏の摂関政治が確立した時期と重なり、それは同時に藤原氏が栄えた時期でもあり、国風文化のことを藤原文化とよぶこともある。
「仮名文字」の発達
文化の国風化をあらわす、もっともわかりやすい例は、仮名文字の発達である。表意文字の漢字の読みだけをかりて、それを表音文字のように使う「万葉仮名」は以前からあった。平安時代になって、漢字の一部をとった片仮名や漢字の字体をくずした平仮名がつくり出された。11世紀の初めごろには、現在の形のように字形もほぼ一定し、広く使われるようになっていった。
日本語の学習に欠かせない「五十音図」や今はあまり使わなくなった「いろは歌」も、国風文化の時期には成立していたと考えられている。
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」、こうして平仮名だけで書くと、何の意味もないように思えるが、元はちゃんと意味がある歌になっていた。
「色は匂(にほ)へど 散りぬるを 我が世誰(たれ)ぞ 常(つね)ならむ 有為(うゐ)の奥山 今日(けふ)越えて 浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず」。俗に「いろは47文字」と言われているが、「いろは歌」を見ると、濁音にはなっているが、ひとつも重複がない。しかもそれに意味を持たせているのから、すごいの一言につきる。現在では使わなくなった「ゐ」と「ゑ」も入ってますが、「ん」がない。
「いろは歌」が文学的なのに対し、「五十音図」は科学的な感じがする。「五十音図」のしくみは、基本となる「あいうえお」、これを「あ行」といい母音の集まりで、日本語の音はこの五音が基本になっている。
「五十音図」を縦ではなく横に読んでみる。すると「あかさたなはまやらわ」になるが、これを「あ段」という。「あ段」はどんな性質の音の集まりなのか、ローマ字で書いてみるとよく分かる。
「a-ka-sa-ta-na-ha-ma-ya-ra-wa」、「あ」だけは「a」単独だが、それ以外は「○+a」の形になっている。ローマ字で書いた場合の○に当たる音を子音という。何となく法則が見えてくる。
念のため「い段」で同じことをやってみると。「i-ki-si-ti-ni-hi-mi-☆-ri-wi」、☆のところはあてはまる音がないことを示している。やはり「い」だけは「i」単独だが、それ以外は「○+i」の形になっている。ちなみにwiが平仮名で書くと「ゐ」になり、現在では使われていない。
「あ段」と「い段」をローマ字で書くと、日本語の基本音は、「a-i-u-e-o」の5つの母音と「k-s-t-n-h-m-y-r-w」の子音の組合わせでできていることがわかる。「五十音図」はそれを整理したものだ。
国風文化が栄えた時期に、現在まで続く「書く日本語」の基礎がかたまったと考えられる。
今は使われなくなった仮名で、「ゐ」「ゑ」がある。ローマ字表記では「wi」「we」だ、古文などでこの二つが出てくる場合は、現在では「i」「e」と発音しているが、もともとは「い」「え」とはちがう音だったようで、現在では日本語の中で失われてしまっている。音は失われてしまい、字は残っている仮名に「を」がある。ローマ字表記では「wo」だが、発音は「o」だ。
仮名文字が発達した頃になっても、まだ正式な文字は漢字だった。漢字は「男手(おとこで)」ともよばれ、正式な文書は漢字を用いて漢文で書かれた。ただし、純粋な漢文とはかなりへだたりのある「和風」のものだった。それに対して平仮名は「女手(おんなで)」とよばれ、そのやわらかな字体からなのか、おもに女性が用いた。
仮名文字の発達と広まりにより、日本人特有の感情や感覚をそのまま文字に写すことが可能になった。その結果、国文学が大いに発達した。
まず和歌が漢詩とともに公式な場でももてはやされるようになった。このことをもっとも端的に示すのが、905年に編纂された「古今和歌集」である。「古今和歌集」は、紀貫之らが編纂した最初の「勅撰和歌集」だった。古今和歌集に収録された和歌は、古今調とよばれ、繊細かつ技巧的な表現にその特色がある。古今調の歌はその後、長く和歌の模範とされた。また勅撰和歌集は、鎌倉時代に編纂された「新古今和歌集」まで8種類編纂され、それらは「八代集」とよばれている。
平仮名は和歌をのぞいては公式の場では用いられなかったが、日常生活では広く用いられ、「仮名文学」とよばれる多くの作品がこの時代に成立した。代表的なものをいくつか紹介する。
「仮名文学(国文学)」の発達
「仮名文学(国文学)」でまずご紹介すべきは「竹取物語」だ。日本人なら誰でも知っているおとぎ話「かぐや姫」の原典がこれだ。誰が書いたものなのかは伝わっていない。
次に有名なのが「伊勢物語」で、作者は不明だが、主人公は在原業平で、和歌を随所にちりばめた「業平の一代記」とでもいうべき作品である。和歌を中心として構成されているので、「歌物語」ともよばれている。
その他、作者は不明だが、「宇津保物語」「落窪物語」などの作品がある。おもしろいのは「落窪物語」で、内容を簡単にのべると、「継母にいじめられていた娘が幸福になる。」というお話しである。グリム童話の「シンデレラ」みたいである。
「物語文学」以外のジャンルとして、「日記文学」とよばれる作品群がある。「日記文学」とは、平仮名で、主に女性の手によって書かれた日記のことで、女性特有の細やかな観察と感情がこめられている。
最初の平仮名で書かれた日記は、紀貫之の「土佐日記」である。その冒頭にはこうある。「男が書くという日記を、女の私も書いてみよう。」この中で「私」というのは貫之のことである。貫之は男性で、どうして「女」になっているのか、当時、男性が日記を書く場合は、必ず漢文で書いていた。平仮名は「女手」だからだ。しかし貫之は平仮名で日記を書こうと思った、だから女のふりをして書き始めたのだ。
貫之は930年、土佐守に任じられ、その任期が終わった934年12月に土佐を発ち、翌年の2月に京へもどった。このときの「旅日記」が土佐日記で、当時のようすを知る貴重な史料でもある。
その他の「日記文学」に、藤原道綱母の「蜻蛉日記」や菅原孝標女の「更級日記」などが有名である。この二つは女性の手によるもので、特に「蜻蛉日記」は女流日記文学のさきがけとなるものだった。
「源氏物語」と紫式部
作者は紫式部で、記録によると紫式部は1007年頃、一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕える女房(宮廷ではたらく女官のこと)となっていたが、すでに「源氏物語」の作者として知られていたようだ。1008年には少なくとも物語の一部は流布していたことが、彼女自身の日記である「紫式部日記」からも分かっている。また菅原孝標女は、1021年に「源氏物語」を読みふけっていたと「更級日記」に記しているから、そのころまでには完成していたようだ。
「源氏物語」は、全部で54帖ある。11世紀の初め頃にこれだけの長さの、しかも現代でも読み継がれている(つまり現代にも通用する)物語が書かれたというのは、実は世界に類のないことだ。「源氏物語」は「日本最初」ではなく、「世界最初の長編小説」である。
シェークスピアには「ハムレット」「リア王」「オセロ」「ロミオとジュリエット」がある。ダンテと言えば「神曲」が有名で、セルバンテスと言えば「ドン=キホーテ」がある。彼らはヨーロッパで「ルネッサンス」とよばれた文芸復興期に活躍した作家だが、生没年の順では、ダンテ(1265-1321年)・セルバンテス(1547-1616年)・シェークスピア(1564-1616年)となる。つまり一番古いダンテよりも「源氏物語」は、その百年以上も前に完成している。
「源氏物語」54帖の「あらすじ」は以下のようなものだ。
ある天皇の時代、その天皇の寵愛を一身に受けた桐壺更衣(きりつぼのこうい)という女性がいた。たいへんな美人だった。彼女は玉のような男の子を産むのですが、他の妃や女官たちの嫉妬を買い、それに悩まされて、若くして無亡くなってしまう。残された男の子は成長し、光り輝くような美男子になり、これが物語の主人公光源氏である。
光源氏は天皇の子で、当然親王ですが、母桐壺の身分が低いこと、さらに別に兄もいたことから、父である天皇は、光源氏の将来を考え、臣籍降下(しんせきこうか)させて源氏姓を与えた 。
光源氏は幼い頃に母を亡くしたせいか、母に似た女性にあこがれをもつようになった。そして父である天皇の新しい女御となった亡き母とそっくりの藤壺と、光源氏は密通し、藤壺を身ごもらせてしまう。父である天皇は、そんなこととは露知らず、生まれてきた子を自分の子であると信じ、たいそう可愛がる。また光源氏に対しても愛情をもって接した。そのために光源氏はよけいに罪の意識に悩まされることになった。
光源氏はその後もさまざまな女性と関係をもち、とうとう母桐壺更衣のライバルであった弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の妹とも通じてしまう。この行動が弘徽殿女御の怒りを買う結果となってしまった。父である天皇が亡くなり、弘徽殿女御の生んだ親王が新帝となると、光源氏は形勢の不利を感じ、正妻の紫上や親しい人々を都に残し、須磨そして明石でわび住まいをする。
新帝は眼病に悩まされ、母の弘徽殿女御も病気となるなどよくないことが続き、光源氏はよびもどされる。光源氏が都にもどった翌年、新帝は弟に位をゆずるのだが、この弟こそ光源氏と藤壺女御との間にできた子であった。この天皇を今上帝(きんじょうてい)と呼ぶ。
以後、光源氏は正妻の紫上と順調な人生を歩む。そして、自分が光源氏の子であると知った今上帝から太政大臣に任命され、さらには准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)、つまり天皇の父である上皇に準じる待遇を与えられる。
ここまでの話が、第1帖から第33帖までなのだが、研究者はこの部分を「源氏物語」第1部としてとらえている。内容を一言で言えば、光源氏の「成功物語」といえる。第34帖から第41帖までを第2部ととらえると、内容は光源氏がその輝きを失っていく話と言える。
准太上天皇となった光源氏に、新しい妻として内親王が降嫁してくる。そしてこれが光源氏と正妻紫上の仲に亀裂を生じさせるきっかけとなる。さらに内親王は、青年貴族の柏木と密通してその子を産む。光源氏はかつての自分の父帝と同じような運命をたどることになったわけだ。まさに「因果応報」という形で、物語は展開してい く。
その後、光源氏は最愛の妻である紫上にも先立たれ、失意の中、紫上の一周忌が過ぎて、光源氏は出家を決意する。
この場面で第2部は終わり、続いて第42帖から54帖までが第三部になる。この第2部と第3部の間に「雲隠」というタイトルだけがついた、中身は白紙という帖が昔からあるそうだ。元々あったものか、後世の人がつけ加えたものかは不明だが、この間に光源氏が死んだことを暗示しているのだと考えることができる。
第3部の主人公は光源氏ではない。光源氏に降嫁した内親王と青年貴族柏木との間にできた不義の子である薫が主人公だ。第3部では恋に揺れ動く薫の姿を宇治を背景として描いている。第45帖から第54帖までを特に「宇治十帖」と呼ぶ。
「源氏物語」は、古くは与謝野晶子や谷崎潤一郎、最近では円地文子や瀬戸内寂聴などの現代語訳が出版されている。
「枕草子」と清少納言
「世界最初の長編小説」である「源氏物語」とならぶ、国文学の傑作とされているのが、清少納言の「枕草子」である。清少納言は藤原道隆の娘で、一条天皇の中宮であった定子(ていし)に仕えた女房だ。
「枕草子」は、物語でもなく、日記でもなく、随筆というジャンルに分類されている。現代風に言うと「エッセイ」だ。「枕草子」の有名な冒頭部分を紹介する。
「春は曙。ようよう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」(春はあけぼのがよい。しだいに白んでいくと、山頂あたりの空が少し明るくなって、紫がかった雲がその山に細くたなびいているのがよい。)
このような感じの文章がおよそ300ほどおさめられているのが「枕草子」だが、その内容は、3つに分類されることが多い。
まずは「類想的なもの」。自然や人の営みなどを項目や特色によって集め、それに批評を加えたものだ。有名なものに「すさまじき物」「うつくしき物」「にくき物」「鳥」「虫」などがある。
次に「随想的なもの」がある。自然や人の営みを鋭い観察と独特の感受性で表現したもので、最も有名なのが「春は曙」で始まる冒頭部分である。
最後に「回想的なもの」。およそ10年にわたる筆者の宮廷生活の体験を描いたものだ。有名なものに「雪のいと高う降りたるを」がある。
「枕草子」第280段、「雪のいと高う降りたるを」は、冒頭部分とならんで特に有名で、ここに紹介する。
「雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐりて、炭櫃(すびつ)に火をおこして、物語などして集まりさぶらふに、
少納言よ、香炉峯(こうろほう)の雪、いかならん
と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。」
(大意/たいそう雪が降り積もったある日、定子が「少納言、香炉峯の雪はどうであろうか」と尋ねた。他の女房たちは、何のことか分からずにいたが、清少納言は定子の言葉を聞くと、すぐに閉めてあった格子(雨戸)を上げさせ、立ち上がって簾(すだれ)を巻き上げた。清少納言のそのふるまいを見た定子はほほえんだ。)
実はこれ、清少納言の自慢話なのだ。白楽天は中国唐の時代の有名な詩人である。その作品のひとつに、「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峯の雪は簾をかかげて看る」という一節がある。
定子はこの詩を知っていて、清少納言に「ナゾ」をかけたわけだ。もちろんその詩のことを知っていた清少納言が、「香炉峯の雪はどうであろうか」という問いかけに対して、言葉でなく行動(簾をあげる)で答えた場面なのだ。定子は降り積もった雪を見たかったのかもしれない。そのために簾をあげる必要があるわけだが、それを直接言わず、白楽天の詩の一部を引用して「ナゾ」をかけた。それに対して清少納言が見事に応えた。そのように解釈することもできる。
この話が「枕草子」にあるため、清少納言は、「自分に教養があることを鼻にかける嫌な女だ」という評価があるようだ。
女流作家
紫式部が清少納言のことを日記に書き残している。「紫式部日記」の中に以下のくだりがある。
「(清少納言は)実に高慢な顔をして、えらそうにしている人である。利口ぶって漢学の教養を皆にひけらかしているが、よく見ればまだ不十分な点が多い。このように他人よりもぬきんでようとする人は、ますます全く感心できない軽薄な感じになるだろう。」
さんざんな書かれようである。とくに、「利口ぶって漢学の教養を皆にひけらかしているが」という部分は、「香炉峯の雪」のエピソードを連想させておもしろい。
残念ながら、清少納言の紫式部評は残っていない。二人はライバルだったとよく言われるが、清少納言が宮仕えを止めたのが1001年頃、紫式部が宮仕えを始めたのは1005年頃で、実際に二人が宮中で会うということはなかった 。
「女流作家」の名前について触れておく。清少納言とか紫式部とかいうのは本名ではなく、通称だ。日本では、時代をさかのぼればさかのぼるほど、女性の本名が記録に残っていない。例外は天皇の后となって子どもを生んだ場合ぐらいだ。だから藤原定子や藤原彰子というのは本名である。清少納言というのは、父が清原氏(きょはらし)の出身で少納言であったため、そのようによばれたようだ。ちなみに清少納言の父は元輔(もとすけ)といい、かなり有名な歌人だった。
紫式部の父は藤原為時という人だが、紫式部の本名は伝わっていない。藤原氏の出身なので、彰子に仕えていたときは藤式部(とうのしきぶ)とよばれていたようだ。死後、「源氏物語」で光源氏の正妻となった紫上(むらさきのうえ)にちなんで紫式部とよばれるようになったと言われている。ちなみに式部というのは女官につけられた名称で、この名称は一族の男性が式部省の役人であった場合につけられたようで、紫式部の他に有名な人物としては、和泉式部がいる。
「蜻蛉日記」の作者は藤原道綱母である。彼女は、藤原道長の父である兼家と結婚し、後の右大将道綱を生んだ。しかし、本名が分からないので、このようによばれている。同じように「更級日記」の作者は本名が不明で、菅原孝標女のようによばれている。
貴族の生活
美術や工芸の分野でも国風化の傾向が見られるようになった。
建築の分野では寝殿造とよばれる貴族たちの住宅が考え出された。寝殿造とは、主人が住む寝殿を中心に、渡廊下で釣殿(つりどの)・泉殿(いずみどの)に結び、池や鑓水(やりみず)・築山(つきやま)などの庭をもつ建築様式で、和風の趣が豊かな邸宅である。
建築内部を見ると、襖や屏風には、平安初期の唐絵(からえ)に代わって、大和絵が描かれるようになる。大和絵は日本の風物をなだらかな線とたいへん美しい彩りで描いた絵画である。大和絵はこの時代に発達した物語文学と結びついて絵巻物にもなった。
絵巻物でもっとも有名なのは「源氏物語絵巻」である。今はほとんど見なくなった「二千円札」に琉球の守礼門(しゅれいもん)とともに描かれていたのが「源氏物語絵巻」だ。
屋内の調度品には、日本独特の発達をとげた蒔絵(まきえ)の手法が多く用いられ、華やかさの中に落ちついた趣をそえている。蒔絵とは漆器に漆で文様を描き、それに金や銀などの金属の粉を蒔つけて模様としたもので、平安時代から特に発達し、海外でも高い評価を受けている日本が誇る技術である。貝殻の真珠光の部分を薄くみがき、さまざまな形に切って漆器に埋め込む螺鈿(らでん)の技術もこの時代に発達した。
書道の分野では、平安時代初期の唐風のものから和風のものへと変化した。唐風書道の大家は、「三筆」とよばれた嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)が有名だ。和風書道の大家には小野道風・藤原佐理(ふじわらのさり)・藤原行成(ふじわらのこうぜい)らがいる。彼らは唐風の「三筆」に対して「三蹟」とよばれた。
服装の面においても国風化がみられる。有名なのは貴族の女性の服装である。「十二単」は、色のちがう服を何枚も重ね着したとても美しいものである。女性の「十二単」に対して、男性は「束帯」とよばれる衣服が正装となった。「束帯」とならんで「衣冠(いかん)」という服装もあるが、これは「束帯」を簡略にしたものだ。
この時代、貴族の男子は10-15歳ぐらいで元服、女子は裳着(もぎ)という儀式を行い、成人としてあつかわれたようだ。
 
後三条天皇と荘園整理

 

後三条天皇の即位
1068年、後冷泉天皇が44歳で亡くなった。その後、後冷泉の異母弟である尊仁親王(たかひとしんのう)が皇位を継ぎ、後三条天皇となった。後冷泉・後三条の父は後朱雀天皇(ごすざくてんのう)だ。そして兄である後冷泉の生母は藤原道長の四女である嬉子(きし)、弟である後三条の生母は禎子内親王(ていしないしんのう)だ。禎子内親王の父は三条天皇、母は三条天皇の中宮で、道長の次女妍子(けんし)なのだ。新帝後三条の生母である禎子内親王は、藤原氏と血縁関係にはあるがあくまでも皇族である。
後三条天皇は、実に宇多天皇以来の藤原氏を外戚としない天皇で、これは実に171年ぶりのことだった。藤原摂関家にとってはまことに耐え難い状況であった。藤原摂関家の「基本政策」は、天皇の外戚となるという一点にあった。現天皇の外戚であるからこそ、摂政・関白として政治を思うままに動かせるわけからだ。もちろん、当時の関白頼通もただ手をこまねいていたわけではない。先帝後冷泉に頼通は娘の寛子(かんし)を、また頼通の弟の教通(のりみち)も娘の歓子(かんし)をそれぞれ入内させていた。
しかし、いずれも男子にめぐまれないまま、後冷泉天皇は亡くなってしまった。後三条天皇(尊仁親王)は父である後朱雀天皇によって、その後継者である後冷泉天皇の皇太子に立てられた(立太子は1045年)。そして亡き兄の後、後三条天皇として即位したのがさきほど述べた1068年で、何と23年間も皇太子であったことになる。関白頼通は尊仁親王(たかひとしんのう)立太子に反対し、陰に陽に尊仁親王に圧迫を加えた。これは藤原摂関家からみれば当然の行為である。
なぜなら尊仁親王は藤原摂関家を外戚としていないわけだ。頼通がそのような態度を尊仁親王に対してとり続ければ、尊仁親王が頼通に反感を抱くのも当然の流れである。頼通もこの点は十分に分かっていたのだろう。尊仁親王が後三条天皇として即位すると、頼通は関白の職を弟の教通に譲って政界を引退し、宇治に住まいを移した。このとき頼通は77歳、弟の教通は73歳だった。
1074年2月、頼通はその生涯を閉じた。即位当時、すでに35歳の壮年に達していた後三条天皇は、藤原摂関家をはばかることなく、「天皇親政」を開始した。後三条天皇は「天皇親政」を行うにあたり、大江匡房(おおえのまさふさ)を登用した。宇多天皇が菅原道真を重く用い、藤原氏に対抗させたことを思い起こさせる。大江匡房は、歌人であり学者でもあった。この点も道真に似ている。後三条天皇の即位によって、歴史の流れに変化が生まれた。
そのポイントは、後三条が藤原氏を外戚としていない、という一点にある。
延久の荘園整理
1069年、後三条天皇は「延久の荘園整理令」とよばれる命令を発した。この整理令の主な内容は次の二つだ。一つは1045年以後の新立荘園を認めない、もう一つは荘園を設立した際、手続きに不備があるものは同じようにこれを認めない、というものだった。この命令を実行するため、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)という役所を新たに設けた。この役所は、略して記録所ともよばれた。
1045年は、後三条の兄である後冷泉天皇が即位した年だ。この年、「寛徳の荘園整理令」が出され、この年以後の新立荘園を認めないとする決定が下されているん。そして寛徳の後も、1055年「天喜(てんぎ)の荘園整理令」、1065年「治暦(じりゃく)の荘園整理令」と荘園整理令が矢継ぎ早に出されている。この二つも1045年以降の新立荘園を認めないとする内容をもっていた。「延久の荘園整理令」もこれに先立つ「諸整理令」の内容を踏襲している。
なぜ荘園を整理する必要があったか、荘園(私有地)は言うまでもなく、律令制度(公地公民と班田収授法)に真っ向から対立する存在である。少しオーバーな表現をすれば、「荘園とは律令制度における癌である」と言える。公地公民と班田収授法という律令制度の屋台骨を覆してしまう存在が、荘園なのだ。荘園が増えれば増えるほど公地である国衙領(こくがりょう)は減る。
当然、国家財政は悪化の一途をたどるわけだ。この悪循環を断ち切るため、何度も荘園整理令が出されたが、何度も出されたということは、効果が上がらなかったという証拠でもある。どうして効果が上がらなかったのでしょうか、答えは簡単である。「延久の荘園整理令」以前の整理令は、それを出す当面の政治担当者が藤原氏であったからだ。藤原氏は最大の荘園所有者でもあった。政治責任者(摂政・関白)としての藤原氏は、律令体制を崩す原因である荘園の増加は見過ごしにできない。しかし自分たちの富の源泉である荘園は失いたくない。相反する事情がある限り、荘園整理が実効あるものにならなかったのも道理だ。
「泥棒に泥棒を捕らえさせる」ようなものだった訳で、後三条天皇の出した「延久の荘園整理令」は、それまでのものとはちがい、内容がきわめて具体的だった。
後三条天皇は、諸国の国司に命じて国内にあるすべての荘園の名前・数・成立時期・広さを報告させた。そしてそれぞれの荘園領主にも、どこの国に、どのような経緯で、どのくらいの規模の荘園を得たのかを証拠の文書を揃えて提出させた。さらに後、例外はいっさい認めなかった。有力な寺社の荘園であろうが、あるいは藤原摂関家の荘園であろうが、特別扱いはしなかった。つまり、すべての荘園から券契(けんけい)を提出させ、それを綿密に調査して、不正な手続きによって設立された荘園は没収した。この荘園整理の実際の作業を行う役所が、前述の記録荘園券契所であった。
延久の荘園整理の意義
後三条天皇の荘園整理は成功をおさめた。荘園が律令体制の癌ならば、どうして整理などと言わず廃止しなかったか。実はこの時代になると、荘園というものが社会のシステムの中に完全に組み込まれ、すべて廃止するなど、現実的には不可能だったのだ。これは大きな矛盾だが、天皇家も荘園をもっていた。つまり天皇家の私領である。
天皇家の私領、極めて不思議な存在である。本来は公地公民なので、日本の土地も人民もすべて国(天皇)のものということになるはずだ。にもかかわらず、天皇家にも私領があったのだ。この点から考えても、荘園の全廃はもはや不可能になっていたことがよく分かる。実際、後三条天皇は荘園整理で没収した荘園を公地とせず、天皇家の私領に加えた。
そしてこのとき没収された荘園が、後の時代、院政の経済的な基盤となった。もうひとつ、荘園整理の皮肉な結果がある。不正のある荘園はすべて没収されてしまったわけだが、そのかわり、整理をへて没収されなかった荘園は、すべて国家承認の荘園として確固たる地位が認められた点だ。つまり、いくら律令制と矛盾しようと、これらの荘園については、「正しい荘園」として認められたことになったわけだ。
後三条天皇の譲位
荘園整理以外の後三条天皇の政策で有名なものに、1072年9月に出された斗升法(としょうほう)がある。これは地域によってばらばらであった升の大きさを統一せよという命令だ。このとき基準とされた升のことを特に「延久の宣旨升(せんじます)」と言う。記録によるとこの升の大きさは、「方一尺六分、高三寸六分」だったが、残念ながら残っていない。
1072年12月、後三条天皇は在位わずか4年で、当時20歳の貞仁親王に位を譲った。白河天皇の誕生である。そして後三条は翌年4月に出家し、5月には病気のため亡くなった、享年40歳だった。
なぜ後三条は即位後わずか4年で位を白河に譲ったのでしょうか、定説はないが、譲位後わずか半年足らずで病死しているので、理由は健康面だと考えることもできる。
しかし、昔から「そうではない」とする考え方があり、以下に背景を説明する。
後三条天皇は藤原氏を外戚としない天皇として、藤原摂関家から政治の実権を取り戻すべく、天皇親政を行った。そしてそれはかなりの部分成功した、後三条が考えたのは、「この成功した天皇親政をこれから先も続けるにはどうすればよいのか」という点にあったのではないかと想像できる。その答えは簡単で、藤原氏の娘が生んだ子を後三条の次の天皇にしなければよいのだ。
実は白河天皇の母は、藤原茂子(ふじわらのもし)という女性で、茂子は藤原能信の養女だが、藤原氏一族の出身である。能信は頼通の異母弟にあたる人物で、当時は大納言である。さらにややこしいことに、貞仁親王(後の白河)には、すでに能信の孫である道子と、頼通の義理の孫である賢子(けんし)が嫁いでいた。白河と道子・賢子との間に男子が生まれれば、その後も藤原氏を外戚とする天皇が誕生することになる。これはとりもなおさず摂関政治の復活を意味するわけで、そのような事態になれば、後三条の本意とはかけ離れたものであることも明らかだ。
どうして後三条は白河に譲位したんでしょうか、実は後三条には、藤原茂子の生んだ貞仁親王(白河天皇)以外にも皇子があった。源基子(みなもとのきし)との間に生まれた実仁親王(さねひとしんのう)である。摂関政治の復活を何としてでも阻止するなら、貞仁をとばして実仁に皇位を譲るということも可能だったが、これは現実的ではなかった。なぜなら譲位の時点で貞仁20歳だったが、実仁はわずか2歳だった。そこで後三条は藤原氏を外戚にもつ貞仁(白河)に皇位を譲るかわりに、非藤原系である実仁を皇太子に立てさせた。
つまり、非藤原系の天皇に継がせるのが理想だが、それには無理があったので、一旦は藤原系の貞仁(白河)に譲り、その次は非藤原系の実仁を天皇に、というのが後三条の意図ではなかったかという説だ。
この説を裏付ける行動を後三条はとっている。1072年12月8日、白河に譲位した後三条は上皇となったが、12月21日に院庁(いんのうちょう)を開き、その後3回に分けて院司(いんのつかさ)の任命が行われた。院司には藤原能長ら藤原氏出身者からも多く任命されている。しかし、彼らの多くは藤原氏ではあっても、反摂関家的な性格をもっていた人々だった。
この点からも後三条天皇が藤原摂関政治の復活を阻止しようと考えていたことが窺われる。院庁は後三条が初めて設置した役所ではない。政治の現場から引退した上皇の世話をするのが院庁の役目で、上皇がいる場合はこれまでも設置されてきま。しかし、後三条の院庁設置は、単に上皇の世話を目的としたものではなく、明らかに別の意図があったとされている。その意図とは何か、天皇以上の力を持つ上皇となって、天皇を監視し、政務の実権も握るというものだった。
宇多天皇の時代、宇多は菅原道真を重用し、藤原氏の勢力をそぐことに成功したが、上皇となったとたん、後を継いだ醍醐天皇は、藤原氏の讒言にのせられ、道真を大宰府へ追放してしまった。本来は天皇の方が上皇よりも上である、そうなっては摂関政治が復活してしまう。そこで後三条は天皇よりも強い上皇になろうとしたのではないか、と考えられている。後三条の意図する摂関政治復活の阻止を実現するためには、天皇よりも強い上皇になることが必要だったのだ。
 
白河上皇と院政

 

堀河天皇の即位
1072年、後三条天皇の譲位を受けて即位した白河天皇は、父帝と同じく天皇親政を行い、着々と親政の実を上げていった。そして白河天皇と中宮賢子(けんし)との間には、後三条天皇が心配した、二人の男子が生まれた。賢子は関白頼通の義理の孫にあたる。二人の親王のうち、長男の敦文(あつふみ)は幼くして亡くなったが、次男の善仁(たるひと)は無事に成長した。
1084年、中宮賢子が病に倒れる。通常、このような場合、実家に下がるのが当時の慣例だったが、白河は賢子を熱愛していたらしく、それを許さなかった。そして白河の願いもむなしく、賢子は白河に看取られながら亡くな った(28歳)。最愛の女性を亡くした白河天皇は嘆き悲しみ、寝室を一歩も出なかったほどで、ひたすら賢子の供養にいそしみ、譲位を考えるほどに白河天皇の嘆きは続いたと伝えられている。
翌年1085年、思いがけないことが起った。後三条天皇によって、白河の皇太子に指名されていた実仁(さねひと)親王が、疱瘡にかかり、急死した。実仁は白河の異母弟で、母は源基子(きし)だ。ここで、父である後三条天皇の遺志を尊重するのならば、実仁の同母弟である輔仁(すけひと)親王を次の皇太子に指名すべきだった。しかし、白河は「皇太子に万が一のことがあれば、その弟を皇太子に立てよ」という後三条の遺言を無視し、自分と最愛の女性である賢子との間に生まれた善仁(たるひと)親王を皇太子に立てた。それが亡き中宮賢子への供養にもなると考えたのかもしれない。
白河は当時まだわずか8歳であった善仁親王に譲位した。堀河天皇である。本来ならここで、摂関政治が復活してもおかしくない状況であった。堀河天皇の母、賢子は藤原師実(もろざね)の娘で、師実は堀河天皇にとっては外祖父にあたることになる。事実、師実は堀河天皇の即位後、摂政に就任している。しかし賢子は師実の実の娘ではなく養女で、賢子の実父は、右大臣源顕房(あきふさ)で、顕房の兄である俊房は左大臣であった。
師実は堀河の外戚とは言い難い部分があった。しかもこの時代の朝廷は藤原氏と源氏の二大勢力の微妙なバランスの中にあり、道長の時代とはかなり状況が変わっていた。源氏は969年の安和の変以降、藤原氏に圧倒されて「没落」していたと考えられるはずなのに、どうしてこの時期になって、左右大臣を出すほどに勢力が回復していたか、その秘密は後三条天皇の政治にあった。後三条が藤原氏の勢力をそぐために源氏を積極的に登用したこと、また荘園整理によって藤原氏の経済的基盤が道長の頃に比べてかなり弱まっていたことが「源氏復活」の原因だ。
院政のはじまりと受領層の支持
堀河に譲位した白河は上皇となった。そして幼帝を後見すべく、後三条天皇と同じように院庁(いんのちょう)を組織し、引き続いて政治を行った。本来なら、慣例から幼帝の後見は摂政である師実が行うべきところ だが、白河上皇はそれを許さず、自分が政治の実権を握り続けた。1086年に始まった、この新しい政治のやり方を院政と言う。新しい政治システムである院政は、藤原摂関家にとっては自分たちの権勢をはばむ認めがたいもの だった。
この新しいシステムを支持する人々もあった、受領層である。受領とは国司に任命された際、実際に現地に赴任する役人のことだ。藤原氏、とくに摂関家に連なるような上級貴族たちは国司に任命されても実際には現地に赴任せず、目代(もくだい)とよばれる代官を派遣し、自分たちは都にいて領国から上がる収入だけを手にするという遙任を行うのが普通 だった。ですから受領として現地に赴くのは中級以下の貴族たちであった。しかし受領となった人々は嫌々現地に赴任したわけではなく、むしろ受領に任命されることを希望し、任命されれば喜んで現地に赴任していった 。
というのも、受領は定められた税だけを朝廷に送ればそれで義務を果たしたことになり、あとは農民たちから搾取した分を自分の懐に入れることができたからだ。つまり受領になると蓄財ができたわけで ある。受領層にとって、利害が最も対立する相手は誰か、それは荘園領主である。荘園には国司の権力が及ばず、不輸の権によって税を取ることはできず、不入の権によって荘園内に立ち入ることすらでき なかった。そして任国に荘園が多ければ多いほど、国司が税を取れる国衙領(こくがりょう)は少ないことから、受領たちが「蓄財に励む」ことが難しくなるわけだ。
受領の最大の敵は大荘園領主であったと言うことができる。最大の荘園領主は、言うまでもなく藤原摂関家であった。皮肉なことに受領層は敵であるはずの藤原摂関家に対し、 媚びへつらい、ときには賄賂を送ってまで取り入らなければならなかった。というのは誰をどの国の国司に任ずるか、受領たちの人事権を握っていたのは他ならぬ藤原摂関家だったから だ。受領たちは国司となって現地に赴かなければ「甘い汁」をすうことはできない。任命されるためには、敵であるはずの藤原摂関家におべっかをつかわなければならない、これは大きな矛盾で あった。当然受領たちは面白くなかった。
国司の任命権が藤原摂関家から他の権力へ移れば、当然受領たちはその新しい権力を支持するようになる。その新しい権力が院庁(院政)だったわけだ。白河上皇の院政開始によって、天皇の権力は当然弱体化した。しかし後三条天皇の登場までは、藤原摂関家によって天皇の権力はすでに弱体化していたと言え る。後三条天皇のような非藤原系の天皇が即位すれば天皇の権力は強化され、その反対に藤原摂関家の権力は衰える。しかし摂関制度が無くなるわけではないので、藤原氏を外戚とする天皇が即位すれば、また元に戻ってしまうことにな る。
院政は引退した上皇が政治の実権を握ることから、天皇の権力は当然弱まる。同時に藤原摂関家の権力も衰えるわけで、結果で見ると「天皇家全体」の権力は強まったことにな る。つまり院政は、天皇の権力回復を犠牲にし、政治の実権を藤原摂関家から天皇家へ取り戻すことに成功したということができるわけだ。もちろん、朝廷の「憲法」である律令には、上皇が天皇をおさえて政治の実権を握ることができるなどという規定は ない。上皇の権力には法的な根拠はないのだ。
上皇には先の天皇、つまり現天皇の父であるという権威がある。この権威が白河上皇の「自分の直系の子孫を皇位につけたい」という考えを実現するために利用された。そして本来、利害関係の上で藤原摂関家と相容れない受領層の支持を得て、強化され、完成されていった院政というシステムが、藤原摂関家による摂関制度を圧倒し、衰退させる結果とな った。
三不如意
白河上皇の院政は、1086年から1129年まで、43年間も続いた。院とはもともと住居の意味で、上皇の住居をさす言葉だが、この頃から一般に上皇自身を指すようにな った。白河上皇は藤原摂関家に対抗する意味もあって中・下級の貴族、とくに荘園整理を歓迎する受領層を支持勢力に取り込んだ。そして院に北面の武士や武者所をおき、源義家や平正盛らを側近として、院の権力を強化し た。院庁の職員は院司とよばれた。院司として白河に仕えた近臣たちは、院近臣とよばれ、朝廷での官位がさほどは高くない蔵人や弁官、受領層の他、上皇やその乳母の近親者などが多く用いられた。
院政のもとでは院庁から下される院庁下文や上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、政治に大きな影響を与えるようになった。
白河上皇の専制ぶりについては、さまざまな逸話が伝えられている。もっとも有名なのが「三不如意(さんふにょい)」である。
「源平盛衰記」によれば、白河上皇は、「自分の意のままにならぬのは鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師の3つだ。」と語ったと言う。つまり、京都の治水・賭博と僧兵だけが、自分の思い通りにならないということ だ。逆から言えば、その他は自分の思い通りになるということである。
他に仏教を篤く信仰していた白河は、厳しい殺生禁断を命じ、漁師の網を見ると焼き捨てたので漁師たちが困窮したという逸話も伝えられている。また、白河があるとき法勝寺(ほっしょうじ)で金泥一切経(こんでいいっさいきょう)の供養を行おうとしたところ、雨が降り出し、しかたなく延期したが、次もその次もと雨にたたられ、延期すること3回におよんだという。激怒した白河は何とその雨を容器に入れて投獄したという。これは「古事談」という書物が伝える「雨水の禁獄(きんごく)」という逸話で ある。以上の逸話から、寺社勢力の統制という問題が見えてくる。
寺社勢力の台頭
寺社はもともと財源を寺田・神田に頼り、それは朝廷から供与されるという形を取っていた。時代がたつにつれ、寺田・神田から納めれられるものを「神仏に供える特別なもの」と位置づけるようにな った。公地公民のたてまえからすれば、寺田・神田とはいえ、それは国家のものだが、寺社はそれを自前の財源として確保するようになった訳だ。
これらの財産を守るために武力が必要で、下級の僧侶を僧兵として組織していった。僧兵の多くは地方武士の出身で、武士と変わらない武力を寺社ももつようになった。自分たちの利益を守るための武力であったものが、やがて寺社同士の勢力争いや同じ寺社内の権力争いなどにも用いられるようになってい った。
有名な寺社間の争いとしては延暦寺と三井寺の争いがある(三井寺は園城寺ともよばれる)。所領をめぐって国司と争ったり、さらには神木(しんぼく)や神輿(しんよ ・「みこし」のこと)を先頭にたてて朝廷に対し強訴を行い、自分たちの要求を通そうとするようになった。
1093年大和国興福寺の大衆(だいしゅ・僧徒の意)が、近江国守高階為家(たかしなのためいえ)の非法を訴え、春日神社の神木である榊を奉じて京へ入った。春日神社は藤原氏の氏神であり、興福寺は氏寺であったので、摂関家もうかつに手を出せず、為家は佐渡へ流刑とな った。強訴が成功し、神木の威力が証明される結果となった。
延暦寺も負けてはいない。美濃国守源義綱が、美濃国内の延暦寺寺領において、非道なふるまいをした僧を追捕(ついぶ)した際、僧侶に死者が出た。これに怒った延暦寺の僧兵たちが、義綱の流罪を要求し、日吉神社の神輿を奉じて、朝廷に強訴しようとした(1095年)。この延暦寺の行動に対し、時の関白藤原師通(ふじわらのもろみち)は断固たる処置に出 た。義綱や大和源氏の源頼治(みなもとのよりはる)らに命じて、僧兵たちを迎え撃たせ、神輿をはばからず矢を射かけて入洛を阻止した。しかしその四年後、関白師通が急死すると、神輿のたたりであるとの噂が流れた。たたりを恐れた貴族たちは動揺し、結局源頼治は佐渡に流刑とな った。
これ以後、他の寺社も神木・神輿を奉じて入洛・強訴におよぶようになり、さすがの白河上皇も手を焼いた。ちなみに比叡山を北嶺、興福寺を南都と言う。この仏教勢力には後世の為政者も扱いに苦慮し、何と織田信長の登場までこの状態は続 いた。
白河上皇と武士
白河上皇は、当時その勢いを増していた武士の力を利用して、台頭する寺社勢力を抑え込もうとした。その一方で武士の力が大きくならないように注意も払っていた。1091年、前九年の役や後三年の役で名をはせた武士の棟梁源義家とその弟の義綱が対立し た。その原因は義家と義綱の郎等が、河内国の所領をめぐって起こした紛争にあったが、この出来事に端を発し、義家と義綱が市中で合戦に及びそうになった。この事態に白河上皇は院宣を発し、義家の兵が入京すること、さらに義家に荘園を寄進することを禁止し た。
白河上皇は、大きくなりすぎた義家の勢力を牽制しようとしたのだ。翌年には、義家の諸国にもっていた荘園を停止することを命じる宣旨も出した。義家は徹底的に冷遇されたが、反対に弟の義綱は陸奥守に取り立てられた。つまり、義家を冷遇し、義綱を取り立てることで、武士の勢力のバランスを取ろうとした。
1093年、義綱は出羽国で国司の館を襲撃した平師妙(もろたえ)・師季(もろすえ)の追討を命じられ、みごとにその任を果たした。その功により、従四位下の官位を与えられ、陸奥守から美濃守に任じられた。
1096年、白河上皇の愛娘が亡くなる。彼女は白河が熱愛していた中宮賢子(けんし)の忘れ形見で、白河の落胆は激しく、近臣が止めるのもきかずに出家した。ちなみに上皇が出家すると法皇とよばれるようにな る。白河法皇は、出家したからといって、娘の供養に専念するのではなく、放蕩三昧の生活を送っていたと記録にある。
そんな白河の前に一人の女性が現れ、その心をとらえた。祇園女御(ぎおんのにょうご)とよばれたその女性の素性ははっきりとは伝わっていないが、白河の近臣藤原顕季(ふじわらのあきすえ)の縁者である源惟清(みなもとのこれきよ)の妻であったとする説が有力 だ。
白河法皇の寵愛を受けた祇園女御は、朝廷内で大きな力を持つようになる。そして祇園女御に取り入ることで勢力を伸ばしていった武士があった。それが伊勢平氏の平正盛で ある。正盛は北面の武士として院に伺候し、また若狭守に任じられた。白河は台頭する平氏とのバランスをとるべく、長い間冷遇していた源義家に院への昇殿を許した。院とはいえ殿上人の仲間入りは画期的なこと だった。
白河上皇の死
1101年、白河は権大納言藤原公実(ふじわらのきんざね)の娘を養女とし、猫っかわいがりにかわいがったと伝えられる。彼女の名は璋子(しょうし)といった。璋子が成長するにつれ、白河院の寵愛はますます深くなった。
1107年、堀河天皇が29歳の若さで没すると、その長子であった宗仁(むねひと)親王が新しい天皇として即位した。宗仁は白河の孫にで、当時まだ5歳で、鳥羽天皇 となった。白河は孫である鳥羽の後見を行うわけで、白河院政が強化される結果になった。本格的な院政の開始はここから始まったとされている。
1117年、17歳になった璋子は、2歳年下の鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)することになる。この入内が後に悲劇を生む。1123年、鳥羽天皇は21歳の若さで白河によって譲位させられ、璋子の生んだ、当時5歳であった顕仁(あきひと)親王が即位した。崇徳天皇で ある。白河はなぜこのようなことをしたか、公然の秘密だったが、璋子の生んだ顕仁親王の父親は鳥羽ではなく、白河だったのだ。
白河は、「自分の孫の嫁」と密通していたということだ。鳥羽にすればたまった話ではないが、この事実は当人である鳥羽も知っていて、事実、鳥羽は顕仁のことを「叔父子(おじご)」と呼んでいたと記録にあ る。顕仁は白河の息子だから、鳥羽からみれば父である堀河の弟、つまり叔父に当たるというわけだ。鳥羽は譲位させられ、上皇となったが、祖父である白河がまだ健在で あり、政治の実権は白河にあった。
院政において、上皇(引退した天皇)が複数いる場合、政治の実権を握る者のことを「治天の君」と言う。当然、治天の君は白河で、鳥羽上皇には何の実権もないわけで、文字通り、ただの「元天皇」という立場で あった。この状況は鳥羽にしてみれば、当然おもしろくないものだ。崇徳天皇即位の6年後の1129年、崇徳天皇がまだ11歳のときに白河が77歳で亡くなった。後三条崩御の後、57年もの間、政治の実権を握り続けた白河の死は「巨星墜つ」という印象を当時の人々に与えた 。
政治の実権は新しく治天の君となった鳥羽上皇が握ることになる。
そして鳥羽の「復讐」が始まることになった。
 
奈良の大仏

 

古代の日本をつくった3つの仏像、最後は奈良・東大寺に鎮座する「大仏」です。いわゆる「奈良の大仏」は通称ですね。本当の名前は知っていますか?
盧舎那仏(るしゃなぶつ)、あるいは、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)といいます。盧舎那とは、サンスクリット語で、ヴィロチャナー、光を放つもの、という意味なんですね。
世界最大級の木造建築、東大寺大仏殿に収められている盧舎那仏は、高さが約15m強。この像全体が、3mもの高さがある巨大な蓮弁(れんべん=ハスの花びら)の上に座っているんですね。蓮弁に描かれた模様をよく見ると、これがまったく驚きなんです。
そこには、太陽系のような小宇宙が何億も集まり、銀河系のようなものができている様子がデザイン化され、線刻されています。これはまさしく現代にも通じる宇宙観ですよね。世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)さえ、はるか下界の小さな宇宙の一つに描かれている。
この図を「蓮華蔵世界海図」といい、あらわされている広大な大宇宙を三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)といいますが、この宇宙全体が、盧舎那仏の台座に描かれているんですね。
つまり、人間には計り知ることのできないほどの大いなる世界の上に座り、この世界を体現する仏、それが大仏、盧舎那仏なんですね。仏教がつくりあげた、おそらく最大、最高の仏像です。これが華厳(けごん)の仏なんです。
南都六宗のひとつで、最後にさかんになったのが華厳宗だ、と前回、タカハシ君がうんちくを語ってくれましたね。その中心経典は「華厳経」というたいへんに長いお経です。4世紀ごろからインドで編集されていたこの経典が中国に伝わり、740年ころ、新羅の僧、審祥(しんじょう)が日本に伝えて研究が始まりました。それまでの仏教を総合し、世界像を示しているこの華厳経に、盧舎那仏があらわされている。それは宇宙全体を総合する仏、宇宙的な生きた体として描かれているのですね。
さあ、奈良時代に入り、ひとつの国家として動きはじめた日本では、バラバラな豪族とか地域を、具体的な施策で統合して治める必要が出てきます。ではいったい、どのような方法がいいのでしょうか。
そこに出てきたのが、それぞれが似たようなものを照らし合い、お互いにお互いが映り合い、影響し合うネットワーク、そういう仕組みをつくるというアイデアでした。
つまり、ここで日本が取った政策とは、この盧舎那仏をいただいた華厳経の仕組みを使うことだったのです。華厳経には、それぞれの存在が一種の真珠のように磨かれた鏡の球で、盧舎那仏の光を受けて、お互いにお互いが映り合うような宇宙観が描かれています。日本という国をつくるために、この華厳世界をモデルにしたネットワークが、大仏のつくられた東大寺を中心に展開されていくんですね。
東大寺には今も、「四聖御影」(ししょうのみえ)という絵が残されています。たいへん有名な絵ですが、ここには大仏建立に携わった4人の中心メンバーが描かれているんですね。その4人とは誰でしょうか? 
それは建立プロジェクトのトップとなった聖武(しょうむ)天皇と、大仏の設計図ともいえる華厳(けごん)経を解釈した僧の良弁(ろうべん)、中国から日本に招かれたインド僧で大仏開眼の導師となった菩提僊那(ぼだいせんな)、そして、民衆の力をまとめて建立に貢献した行基(ぎょうき)の4人です。
行基は法相(ほっそう)宗の僧です。この時代、僧たちによる民衆救済の活動がはじまりました。行基はそこに自らの使命を見いだしたのですね。
諸国をめぐり、貧困や病気の人々を助けるだけでなく、貧しさの原因そのものを取り除くために、農業技術の指導、橋や道路の補修など、さまざまな社会事業を成し遂げていった。行基菩薩と呼ばれてたいへんな尊敬を集めました。
ちなみに現存最古の地図といわれる日本列島の地図は、「行基図」と呼ばれています。行基本人の作ではないようですが、江戸初期まで広く使われたといいます。行基がいかに日本中をくまなく歩き、情報を集めようとしたか、よくわかりますね。行基の下には各地の人々が結集し、草の根のネットワークができてきます。
このような民衆のネットワークに今度は上からの動きが重なります。730年頃からたびたび天然痘の大流行がありました。740年には九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱も起きる。国家を揺るがすこれらの事態に悩んだのが聖武天皇でした。
聖武天皇は、741年に河内(大阪)の仏教信者たちが造営した智識(ちしき)寺を訪れ、本尊の盧舎那仏をみて感激するんですね。
そこで聖武天皇はすぐ、大仏の建立の詔(みことのり)を出します。743年のことでした。疫病や争乱で乱れた国を、智識寺で行われていた人材、資材、知恵、資金を調達するしくみをモデルにして復興しようと考えたのですね。
そのときプロデューサーとして登用されたのが行基だったのです。民衆の組織力に長けた行基が、諸国の信者たちの寄付や労力のまとめ役となります。こうして大仏建立は官民一体の一大国家プロジェクトとして推進されていくんですね。
同時に聖武天皇が行ったことがもうひとつあります。それは日本の各国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建設することでした。その名称はいまでも各地に残っていますね。全国の国分寺・国分尼寺の中心になったのが、大仏をおさめる奈良の東大寺と聖武天皇の皇后である光明皇后がつくった法華寺でした。
この2寺をセンターとし、各国分寺を通じて、各地に知識や技術をもたらされるしくみです。国分寺ネットワークはそれぞれ、今でいうと、研究所やシンクタンクに、病院や図書館を合わせもったような役割を果たしていたわけですね。
つまり、ピカピカに磨かれた玉の鏡面に映りあう華厳のネットワーク・イメージが現実化して、国造りの基盤を担うものとなって現れたわけです。
743年の「大仏建立の詔」から約10年。752年に、いよいよ大仏の開眼供養が盛大に行われました。国内だけでなく、唐、新羅をはじめ、遠くベトナム、インド、ペルシアなどからも人々が招かれ、非常に国際色豊かな祭典でした。参列した聖武太上天皇(譲位した天皇です)はこのとき僧の身分です。すでに行基の元で出家をしていたんですね。
さあ、古代最大のナショナルプロジェクトと言うべき、大仏建立の意義はわかりましたか? こうして仏教は、これまでの氏族仏教、一族の仏教ではなく、国をつくり、守るという考えにもとづいて信仰されるようになります。これを「鎮護(ちんご)国家」の思想といいます。
では、この鎮護国家のトップに立つのはだれでしょうか?仏でしょうか?仏は、理想の国の祭主(さいしゅ)なんですね。現実の国のトップ、それは、天皇でした。
行基
天智天皇7年-天平21年(668-749)
大阪・堺生まれ。貧しい者の為に社会事業に取組み、生前から菩薩とよばれた奈良時代の高僧。今日の社会福祉の基を開いた。百済王の子孫(帰化人)。15歳で出家し薬師寺に入り、当時の仏教界の第一人者・道昭(どうしょう)に学ぶ。若い行基は道昭に随行して諸国を巡り、重税にあえぐ民衆の貧困生活と、都の貴族の贅沢な暮らしぶりの格差に衝撃を受ける。行基は仏教本来の目的は民衆の救済にあると考え、700年(32歳)に師の道昭が他界すると、その遺志をついで本格的に社会事業に乗り出した。704年(36歳)、故郷の堺に戻り生家を道場として家原寺を開く。多くの人々が行基の説法を聞く為に集まり、民衆は彼を菩薩と呼んで慕った。次第に地方の豪族にも行基の支持者が現れ始め、1000人の信者が行基と行動を共にするようになった。行基は各地で橋を架け、道路を整備し、水害対策で堤を築き、農業の為に池を掘った。同時に多数の布施屋(無料宿泊所)を設けて貧民を救済。建立した寺院は畿内だけで49ヶ所、全国では約700に及ぶといわれている。
「続日本紀」の記録によると、730年に行基が仏法の集会を開いた際、1万人もの民衆が集まったという(当時の少ない人口を考えると驚異的)。
ところが、朝廷は行基を危険人物と見なし始める。庶民の不満に行基が耳を傾けることは、体制への反抗を扇動する行為というのだ。当時は「僧尼令」が定められ、僧侶の役目は国家安泰を祈ることであり、寺の外で活動すること(民衆教化)は固く禁じられていた。事実、行基のもとへは朝廷に不満を抱く庶民が多く集まった。これを警戒した聖武天皇は行基を激しく弾圧し、ついには平城京から追放する。その結果、人心はますます聖武天皇から離れていった。741年(73歳)、聖武天皇は行基に謝罪。そして東大寺の建立のために協力を要請した。朝廷が大仏造りを呼びかけても人々は積極的に動かないが、行基が声をかければ嬉々として民衆が集うことを朝廷は認めざるを得なかった。745年(77歳)、行基は聖武天皇から日本初の大僧正(僧侶の最高位)に任ぜられた。749年(81歳)、行基は奈良西部の菅原寺で数千の弟子に囲まれ他界。生駒の山中に葬られる。それから3年後に大仏が完成し、開眼法要が営まれた。
1235年、行基の墓と伝承されていた場所から二重の銅筒が発見され、中に入っていた銀瓶に「行基菩薩遺身舎利之瓶云々」と記された札があった。これによって正式に行基の墓と確認され、同地に竹林寺が建てられた。行基が火葬された奥山往生院にも五輪塔がある。
東大寺修二会(お水取り)では読み上げられる過去帳には、聖武天皇、光明皇后の次に、行基菩薩の名が記されている。どれほど行基が大仏建立で大役を果たしたかが分かる。
全国を巡った行基が作ったとされる日本最初の地図(行基図)は、江戸時代に伊能忠敬が測量図を作成するまで日本地図のスタンダードだった。
日本全国に行基が発見したとされる温泉がある。
行基の師、道昭は日本法相宗の開祖。道昭は遣唐使で大陸に渡り、あの玄奘(三蔵法師)に師事した。道昭は日本で初めて火葬された人物でもある(遺言で火葬された)。
 
「方丈記」五大災厄

 

「方丈記」といえば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし。」云々という、冒頭の名文は有名ですが、この短い古典の全文を読まれた方は少ないのではないでしょうか。
この冒頭の文からは、無常観を説いた抹香くさい内容を想像してしまいますが、少なくとも「方丈記」の前半部分は、平安末期の混乱期の京都・平安京の生々しいドキュメントとなっています。
そういう意味で作者の鴨長明は、12世紀の優れたドキュメンタリ記者ということができるでしょう。現代に暮らしている私たち(特に京都に暮らしている私)にも、このような記録には関心をもたざるを得ません。
長明は、「方丈記」の前半で五つの災厄を語っていますが、その中の四つは自然災害で、一つは人災(清盛による福原遷都とその失敗)です。これらは1180年から1185年の間に立て続けに起こり、長明は廿代の若い時期に体験しているのです。自らが目撃・体験した同時代の災害や政治の大変化を、それを蒙った人々と京都・平安京の有り様を、その時代を生きた目から生々しく記録しています。この記述は非常に具体的で、そこに登場する地名は今日の京都の地名とも共通するものがあり、読んでいるとその状況が彷彿としてきます。特に自然災害とそこに住む人々の描写はその正確さにおいて特筆すべきものだと思います。
特に飢饉の極限的な状況は、まさに地獄絵巻と言っても過言ではありません。死者の数の統計を客観的に記述しようという人間の理性的な営みにも感嘆しますが、その数の語る悲惨さに(特に京都に住んでいる私としては、地名が具体的に解る関係もあり)、驚嘆します。
また大地震の記述は、京都も大地震に襲われうるのだということを、我々に喚起させてくれるのです(実際に京都の東北には花折断層が走り、これは吉田山の東を通過し、聖護院にまで至っているということです)。
ここで、長明の時代がどんなものだったのかを考えてみます。同じ時代に生きた人としては、平清盛、源頼朝・義経、木曽義仲、藤原俊成・定家、西行、法然上人などがいます。平家の全盛の時代から、源平合戦を通じて、壇ノ浦での平家の滅亡(1185年)、源氏の政権・鎌倉幕府の確立へと、続きます。この動乱の時代に、自然も歯車を狂わせたのか、次々と苛酷な災害をもたらすのです。
・大火(1177年、長明23才)
・竜巻(1180年、長明26才)
・遷都(1180年、長明26才)
・飢饉(1181-2年、長明27才)
・地震(1183年、長明29才)
長明は50才ごろに隠遁したとされています。それまで歌人として活躍していたのが、以降の隠棲の様子は、「方丈記」の後半に詳しく描かれます。大原から日野(山科方面)に移り、そして長明58才(1212年)ごろに、「方丈記」が完成しているのです。健保4年(1216年)、62才で長明死去します。
このように見てくると、長明の生きたこのころは、まさに貴族の世の中から武士の世への転換期、激動の時代であったと言えます。このような時代についての貴重な証言を、この「方丈記」は語っているのです。
大火
およそ物心ついてよりこの方、四十年あまりの年月を生きてきたが、その間にこに世界の不思議な出来事を見ることが、やや度々になってきた。
さる安元三年(1177年、長明23才)四月二十八日だったろうか。風が激しく吹き、騒々しい夜、戌(いぬ)の時(午後7−9時)のころ、都の辰巳(東南)の方向から出火し、戌亥(いぬい、北西)に広がった。最後には朱雀門、大極殿、大学寮、民部の省まで燃え広がって、一晩のうちにすべて灰になってしまった。
火元は樋口富小路であったそうだ。病人を寝かせていた仮の家屋から火が出たそうなのだ。強く吹く風に火勢は増し、燃え広がる様子は、扇を広げたように、末になるほど広がっていった。遠い家でも煙にまかれ、近い家ではただ炎を地面に吹き付けるばかりだ。
空は灰が吹き上げられるので、炎の光が照り映え、一帯が紅いに染まる。その中を、風に吹き切られた炎が一・二町を越えて飛び火していく。それに巻き込まれた人々は正気でいられいただろうか。あるものは煙りにまかれて倒れ伏し、あるものは炎に包まれてたちまち絶命してしまった。
身体一つでかろうじて逃れたものは、家財を運び出すことはできなかった。貴重な財宝も塵となってしまった。その損害はどれほど莫大だったろうか。この大火で公卿の十六の館が焼けた。その外の焼けた家は数知れない。すべて都のうち三分の二にもおよんだということだ。男女死んだ者、数千、牛馬のたぐいは数知れない。
人がなす営みはみな愚かなものだが、これほど危険な京のなかに家を作ろうと財を費やし、心を悩ますことは、大層愚かしいことなのだ。
竜巻
また治承四年(1180年)四月二十九日のころ、中の御門京極の辺りから大きな辻風が起こって、六条辺まで、きつく吹いたことがあった。
三四町にわたって吹きまくったが、その範囲にあたった家などは、大きいものも小さなものも、ことごとく壊れてしまった。さながらぺちゃんこになってしまったものもある。桁と柱だけが残ったものもある。また門の上を吹き払って、四五町ほどもさきに飛ばされたものもある。また垣根が吹き飛ばされ隣と一続きになってしまったものもある。
ましてや家の中の財宝はことごとく空に舞い上げられ、桧はだ葺きの板のたぐいは、冬の木の葉が風に吹き乱れるのと同じだ。塵を煙りのように吹きたてるので、なにも見えなくなる。はげしく鳴り響く音に、声はかき消され聞こえない。あの地獄の業風であったとしても、これほどのものだろうかと思われる。
家が破壊されるばかりでなく、これを修理するあいだに怪我をして、身体が不自由になってしまったものは数知れない。この風は未申(ひつじさる、南西)の方角へ移動して、多くの人の嘆きをうみ出した。辻風は普通に見られるものだが、こんなひどいのは初めてだ。ただ事ではない。さるべきものの予兆かなどと疑ったものだ。
遷都
また同じ年(1180年)の六月のころ、にわかに遷都が行われた。これはたいそう意外なことであった。そもそもこの都の始まりを聞くと、嵯峨天皇の御代に、都と定められて以来、既に数百年を経過している。さしたる理由なく安易に変えるべきものではないので、これを世間の人々が難儀なこっちゃと嘆きあっているのも当然すぎるほどだ。
しかしとやかく言ってもしかたなく、帝をはじめとして大臣・公卿はことごとく摂津の国浪速の京(福原京、現在の神戸)にお移りになった。公に仕える人は誰一人として京に残る者はいない。自分の地位を守ることに懸命で、主君の覚えを頼りにする人は、一日でも早く移ろうと汲々とした。タイミングを失いあぶれてしまった者は、嘆きながら京にとどまった。
かつては軒を競った家々は、日がたつにつれて荒れていく。家は壊されて淀川に浮かび、見る間に土地は畑にされていく。人の心はすっかり変わってしまって、馬に乗るためにただ鞍を重宝し、牛車を必要とする貴人はいなくなった。だれもかれも西南海の方面の領地を望み、東北方面の荘園は嫌がる。このころたまたま機会があり、津の国の新都に参った。その地勢を見ると、土地は狭く条理制とするには足りない。北は山に向かって高くなり、南は海に面して低くなっている。波の音はいつもうるさく、潮風はとりわけはげしい。内裏は山の中なので、あの木の丸殿もこんな様子だったのではと思わせるばかりで、なかなかな珍しい光景で、風情を感じる点もある。
日々に壊して川面も混雑するくらい運び下る家はどこに作るのだろうか。さらに空き地は多くなり、作る家は少ない。旧都は既に荒れて、新都はいまだ形をなさない。
あらゆる人がみな、覚束ない不安を感じていた。もともとこの土地に住んでいた人々は、土地を奪われ憂い嘆き、新たに移り住んだ人々は、建設の苦労を嘆く。往来をみると車に乗るべき人々が馬に乗り、衣冠の盛装を着用すべき人々は普段のひたたれを着ている。都の風俗はたちまちに変わって、ただ田舎びた武士風になってしまった。これは世の中が乱れる兆しだとものの本に書いてあるが、まさにその通りだ。
人心も治まらず、民衆の不満がいや増してきたので、同じ年の冬に、帝はまた京に帰ってこられた。しかしながら壊してしまった家などはどうなっただろうか。隅々まで元のように復元したわけではない。
かすかに伝え聞くに、昔の賢帝の時代には、慈悲の心ろをもって国を統治された。つまり宮廷に茅を葺いて、軒さえ整えなかった。都に煙りの上がり方が少ないとご覧になる時には、多くないみつぎものさえお許しになった。これは民が潤い、世の中を救済されるためであった。今の世のありさま、昔と比較し知るべきである。
飢饉
また養和のころ(1181年)だったろうか、だいぶ昔になって定かには覚えていない。
二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどいことがあった。春夏の日照り・干ばつ、秋冬の大嵐・洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。春に田を耕し、また夏に植え付けの作業をするが、秋に収穫し、冬に貯蔵するものがなにもない。
こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、国境いを越え、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。京の都の日常では田舎の産物をたのみにしているのに、それもすっかり絶えた。京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。耐え切れなくなって、さまざまな財産を片っ端から捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。しまいには笠をかぶり足を包んで、そこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。屋敷の土塀のわきや、道ばたに飢えて死んだ者は数知れぬばかりだ。遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。これを問い糺すと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。
濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
またたいそうあわれなことがあった。愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。その理由は、自分のことを後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないでいとけない子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
仁和寺に慈尊院の大蔵卿暁法印という方が、このように人々が数しれず死んで行くのを悲しんで、僧侶たちを大勢使って、死体を見る度に、その額に成仏できるようにと阿(あ)の字を書いて仏縁を結ばせることを行った。死者の数を知るために、四月と五月の二月の間その数を数えさせた。すると京のなか一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀大路よりは東の区画(都の中心部)で、路傍にあった死体の頭は、総計四万二千三百あまりあったという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、白川あたり、西の京、その他の周辺地域を加えて言うと際限がないはずだ。いわんや全国七街道を合わせたら限りがない。最近では崇徳院のご在位の時代、長承のころにこういった例があったとは聞くが、当時の様子は私は知らない。まことに希有なことで、悲惨なことであった。
天候不良による飢饉が京の都に与えた悲惨な状況を、長明は同時代の目でビビッドに報告しています。特に、ここで注目したいのは、死者の数の統計をとって具体的に記述していること。これは二カ月間という期間を限定し、また地域を限定しており、かなりの科学性をもって信頼性は高いとも思われます。
ここで限定された地域は、北を一条通り、南を九条通り、そして東は京極通り(現在の新京極あたり)、西は朱雀通り(現在の千本通り)で囲まれた長方形の区画で、現代の京都の中心部分(ただし河原町通りは含まれない)であり、また当時としては都の範囲を示しているのではないでしょうか。そこに四万二千三百もの遺体が、転がって腐敗していくという様子は、想像を絶しています。しかも鴨河原などには、それを超えるような数が打ち捨てられていたというのです。まさに800年前の京都には地獄が存在したと言えるでしょう。
地震
また元暦二年(1185年)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙りのようだ。地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でないので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸(3cm)ばかりも飛び出してしまった。その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これは気の毒だが当然のことだと思われる。
このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。
四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては殊なる変をなさず)
むかし、齋衡(854-857年)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。
とかくこの世は・・・
すべてこの世の中は、住みにくく、我が身と我が家がはかなく、かりそめの存在であることは、こういったことを見てもわかる。
ましてや、その身分や地位によって相応の悩みをもつことは、数え上げればきりがない。もし自分の地位が取り立てていうほどのものなく、権力者に仕える身分であったならば、たしかにいい目はできるかも知れないが、真に楽しむことはできない。思いきり泣きたいような時でも、声をあげて泣くことはできないかもしれない。ちょっとした行動にも遠慮をして、主人の顔色を窺わなければならないさまは、あたかもスズメがタカの巣に近づいた時のようだ。
もし自分が貧しくて、金持ちの家の隣りに住んでいたなら、朝夕みすぼらしい身なりを恥じて、へつらいながら出入りすることになる。妻や子供、それに召し使いたちが隣りをうらやんでいる様子を見るにつけ、また金持ちの家の者が横柄な態度をするのを見るにつけ、そのたびに心が動き、少しも平静でいられない。もし狭苦しい土地に居るのなら、近くの火事にも、類焼を免れない。もし片田舎に住んでいるなら、町にでるのも大変で、また盗賊が出没する心配も多い。
また成功して勢いのある者は貪欲で、頼るべき人をもたない孤独な者は他人に軽んじられる。財産を多くもてば、心配ごとが多く、貧しければ恨みごとは切実である。他人を頼りにすれば、自分の身は他人の所有物になってしまう。子供を作れば心は子供に対する愛着で振り回される。世の論理に従えば窮屈だが、従わなければ、つまはじきにされる。この世でどんな位置を占め、どんななりわいをすれば、少しの間でも、心安らかに日を送ることができるというのだろうか。
この部分は、五つの災厄を述べてきたすぐあとに続いています。
こんなに悲惨ではかなく無常な世の中に対する厭世観を述べています。この部分には、下敷きにした先行文学の影響が顕著であるといいます。  
 
唐代の文化と天平文化

 

この度朝日新聞で天平文化に関する講演会を開くについて、私にも一席お話するやうにといふことであります、私はこゝに掲げました通り「唐代の文化と天平文化」といふ題を出しました。実を申しますとこの題について考へましたことは、この講演が初めてゞはありませぬ、二三年前に奈良に仏教美術といふ雑誌がありまして、そこで天平芸術の研究号といふものを出したことがありました時に、私にやはり之と同じ題で話をするやうにといふ向ふからの注文でありました、それでこれと同じやうなことを話して「仏教美術」に筆記してもらつてあります。今日お話いたしますのも大体それと同じ意味でありますけれども、その当時ある部分は大変に粗略にいたしましたところがありますので、今日はなるべくそのときに粗略に話をいたしたところを、少し詳細にお話をして見たいと思ふのであります。
随分この問題は大きな問題でありまして、単に日本ばかりの問題ではありませぬ。私は一体日本歴史が専門でありませぬ、支那の歴史が専門でありますけれども、支那の方から申しましても、この日本文化といふものがやはり一つの大きな問題でありまして、東洋全体から考へますといふと、支那といふ大きな文化の中心がありまして、その文化が四方に伝播していつて、その周囲の国々の文化をだんくひき起しまして、新しい文化を形作らしめるやうになつてをりますことは、恰度西洋におけるギリシヤの文化が欧羅巴の国々に拡がつたと同じやうな形になつてをります。殊にその中で過去――古い時代はもちろんでありますが、近代を通じましても、此日本における天平時代の文化といふものは、支那文化が拡がつて形づくりました周囲の各国文化のうちで最も重要なものであるといふことができると思ひます。それで支那文化の伝播を調べる上については、天平文化を調べるのがよほど必要なことであります、さういふところから私ども[#「どもも」?]大に興味をもつてこの天平文化に関することを考へても[#「も」衍?]見ましたのであります。もちろん単に吾々が日本人である立場から申しましても、日本の文化が支那文化の影響を受けて、どういふ風に芽を出して来たかといふことを考へるのは、よほど興味ある問題でありますところから、そのことも考へないことはありませぬが、ともかく私から申せば、その方は枝葉でありまして、支那文化の伝播といふ方から考へる方がよほど興味があります。殊に支那文化は日本に影響を及ぼしたばかりでなしに、支那の周囲の国々に皆影響を及ぼしてゐるので、その状態がその国々によつてどういふ風に各々できてをるか、どの国が一番巧く支那文化を応用して、自国の文化を創造したかといふことがよほど面白い問題であります。
文化の中心といふものは単に支那の内部だけにおきましてもだんだん動いてをります、いつでも同じ地方で文化が栄えてゐるわけでありませぬ、支那におきましても最初北の方の渤海湾の沿岸地方で第一に文化が発達しまして、それからだんく南の方に及んで、今日では南の方が文化の中心地になつてをります。この文化の中心がだんだん移動して行くのは、国境には関係ないのでありまして、支那の内地でもだんく文化の中心が移動した以上は、それから国境を越えて、他の国に往つて栄えることもあると思ひます。さういふ関係から日本文化が東洋において、どういふ径路を経て、竟に東洋文化の中心になるか、今日既になりつゝあると思ふのでありますが、それがどういふ径路を経来つて居るかといふことは重要な問題であります。
また文化についてもう一つの考へ方があります、我邦に於ては昔は支那の学問の影響を受けまして、すべての文化と申しますか、道徳その他のことは古代が非常によくて、だんだん後になると堕落するものと考へてをりました。然るに近年になつては殊に西洋の文芸復興期以後の考へ方の影響を受けまして、世界は進歩するものだ、すべての民族は進歩するものだといふ風に考へてをりまして、だんだん後ほどよくなると考へるやうな傾きになつてをります。それはどちらもある点においては各真理でありませう、私ども歴史家と申しますものは、世の中を年代順に縦に見て行くのでありますから、これがもし進歩が停止するといふ風に考へると、ちつとも興味のないものでありますが、しかしそれが果して今日の時代に考へるやうに、必ず進歩するものかどうかといふこともこれも一つの疑問だと思ひます。これまでも私どもは随分支那の歴史をなるべく進歩したものと考へやうとして居るのであります、支那のやうな保守的といはれている国でも進歩してをると考へてをるのであります。また支那のやうな国にもたまにはさういふことを考へた歴史家があります、そのことは後でその人のことに触れることがありまして申しますが、さういふことを考へた歴史家がたまにはあります。それでありますからなるべくさういふ風に考へて見ようと思つたのでありますが、しかし近年になりまして朝鮮において関野博士が楽浪の発掘をされてから以後、今から二千年ほど前の漢代の文化といふものが非常に立派なものであるといふことが分つてから、少しその事に疑ひを持つやうになりました。或はある時代にある種類のものが非常に絶頂に達するまで発達した以上は、そのことについてはその以後の時代にはもうそれより以上発達しないものではないか、それ以後の時代において発達するのは、その発達すべき種類が変つて来るのであつて、その文化の高さのレベルからいつたら、ある時代に絶頂に達したものはそれぎりになるのではないかと考へるやうになりました。これらはいろく考へやうでありまして、今日以後において世界の歴史が統一されて考へられ、世界の文化が統一されて発達するまでは何ともいへない問題であります。しかしともかくさういふ風に、ある時代にはある種類の文化は絶頂に達するものだといふことを考へて見ますことも事実においては必要だらうと思ひます、その点からこの天平文化といふものを見ますとよほど面白いのであります。もちろん日本においても天平時代から平安朝にかけて非常に立派な文化を形造つたのでありますが、それではその後において日本の文化といふものが退歩したかといふと、さうではないので、また後の江戸時代になりまして、相当にまた別の種類の発達をしてをるのであります。でありますが、天平時代に日本が造り上げたところの文化は、近畿地方において造り上げた文化は、その種類のものにおいてはその後の時代にどんなに立派ないろくなことをやつて見ても、同じ種類のものにおいては、それ以上できないのではないかといふ考へも起されるほど、天平文化といふものは日本の各時代の文化において、よほど高価なものであるといふことができるのであります、その点はこの天平文化といふものを考へる上においてまづ予め考への中へ入れてよいことであらうと思ひます。
しかし私は今日さういふ総体的の議論をながくいたすつもりではありませぬので、なるべく部分々々について、今私が申しました総体的の考への証拠になるべきやうなものゝ材料についてお話をして、その材料に対する興味からして、皆さんが自然にそのことを御自分で研究せらるゝやうになることを希望しますので、そのためにこゝにいろいろな参考品を持つて参りました。殊に私は彫刻の専門家とか、絵画の専門家といふやうなものでもありませぬので、それらの点にも話は及びますけれども、それは極めて大体を申しまして、ともかく天平文化といふものを総体的に眺め得る材料をこゝに提供したいと思ふ。それについていろいろの問題に触れることになりますが、第一に考へておきたいと思ふことは先ほども申しましたやうに支那文化といふものは支那をめぐるいろいろな民族、そのいろいろな民族の多くは殆んど尽く支那よりも遅く発達した国でありまして、支那文化の影響を受けて、各自分の文化を形造つた国でありますから、その支那をめぐる各民族が各文化を形造つたもので、日本と相類したものがあれば、それと恰度この比較をして考へて見るといふことは、日本文化の値打ちを見る上においてよほど手取り早く分ることだと思ひます、それでさういふことに注意しようと思ふのであります。支那の国をめぐる国といひましてもいろいろありますけれども、今日まで多少文化といふものを持ち伝へてゐる国は沢山ありませぬ。西の方にはまつ西蔵がありまして、これは元来その国語の性質などは支那と同一系統のものでありませうけれども、中ごろから文字を採用するのに支那文字をその国の文字に採用せずに、印度の文字を採用しましたところからして、文化が支那と同じやうな径路を辿つて発達しないことになりました、いはば支那の同文の国でなくなりました、元来は国語の性質は同様であるのに、途中から全く異つた文字の国になりました、ともかくそれが現代に続いてをります。それから日本の文化は隋唐以前から支那の文化を受けて居りましたが、その盛んになつたのは唐代からであります。之と似たのは朝鮮であります、朝鮮は殆ど日本と何から何まで同じやうな径路を経て支那の文化を受入れてをるのであります、その国語から申しましても朝鮮語と日本語とは同じ系統の国語であります、それからして支那の文字を用ひまして、一時は全く支那の文字だけで、支那の文章を自分の国の文章として用ひるやうになつたことも大体日本と同じであります。それでこの日本文化を朝鮮の文化に比較して見ると真に興味があり、また支那文化を受入れた支那をめぐる国々の中で、最も長く文化を相続してをつて、その間に多少特色の異つたところのあることを示してをり、比較研究によほど便利なものでありますから、私の今日のお話も時々朝鮮文化に触れることになります。大体これは全体のお話の前置きであります。
その文化の本質に至りますと、まつ政治に関することからお話して見たいと思ひます。政治に関すること、これも実は今度の講演会では日本の政治が支那の政治の影響を受けた、殊に天平時代において最も多く受けてをりましたから、その方の専門家にごゝでその講演をして戴きたいと思うたのでありましたが、何か御都合でその専門家の方が、別の問題について話されるやうになつたらしいので、それでまつその遺漏を補ふ意味もあつて、私が柄にもないことでありますけれども少しその方のことを申上げて見たいと思ふ、それだけでも今日お話をすればおしまひになる位の大問題でありますが、今日は極く簡単に話して見ます。
支那の政治と申しましても大きな話でありますが、大体政治を運用する上において官職といふものが重要なものであります、その官職に関する支那の歴史は随分こみ入つたものでありまして、唐の時代になるまで既に幾多の変遷を経てをります。支那人はよほど古く周代・漢代あたりからしてこの官職に関する事については、いろいろな実際の官職の外に、又官職に関する理想もありまして、その理想と実際必要上発達してくるところの官職と、その両方から支那の官制即ち職官といふものが発達して来た。一面において実際上の必要からいろいろ官職ができます、一面においては総体的の理想からかくかくに官職を制定したがいゝと、両方から考へられました。その総体的の理想から考へましたことも、もう漢代において既にその二つの派がありました、私ども支那の学問を特別にいたすものにはそれを今文派古文派と申します、この二つがありましてその二つが既に官職に関する理想において別々の考へを持つてをりました。それでその内容を申せばなかく長いことでありますけれども、ともかくそれらの二つの派で今日素人が見て誰でも気のつくことは官職の数の揃へやうがはつきり異つてをること、それは今文派の官職の揃へ方はすべて三の倍数で揃へてあります。天子の下に三公を立てる、其下に九卿を立てる、それから大夫が二十七、元士が八十一、さういふ風にしまして大体三の倍数で官職を整頓して行きます。この今文派と申しますのは漢学に興味のおありの方は御承知でありませう、礼記王制と申しますのが今文派の理想を書いたものであります。もう一つ古文派と申しますりは、周礼が即ち古文派の理想を書いたのでありまして、これは六の倍数で官職を考へました、大体において政府の組織を天官、地官、春官、夏官、秋官、冬官、といふやうに六つに分けて、その各の官に六十官づゝおきまして即ち三百六十官、さういふ理想で造つたのであります。その外に実際の必要上できてくるところの官職があるのであります、それがだんだん秦の始皇から以後、漢代六朝を経て唐代までに、この二つの理想と、実際上の必要から起るところの官職と、それが組み合つて唐の時代の官制といふものができました。唐の時代の官制の本には――今日でも唐六典といふのがありまして、日本でも唐の官制を摸倣した結果、唐六典は非常に大事な書として研究されたのであります。それで唐代官制は理想と実際と.の官職が両方から互に組み合つて出来た結果として、自然冗官が沢山できた、理想の方から考へて造つたものと実際上から考へて造つたものと、それが同じやうな仕事を両方でしなければならぬやうなものができました、これは唐の六典を見ると分るのであります。
ところが唐の時代に既にそのことについて考へのついた政治家がありました、前に申しました支那で世の中は進歩するものだといふ考へをもつた歴史家と申しました、杜佑といふ人が、即ちその政治家であります。この人は名著の通典といふ本を作つてをりますが、その人は唐の中ごろの政治家で、恰度弘法大師が入唐された時代の人でありますから、天平時代の少し後の人でありますが、ともかくこの人は私の考へでは歴史家として史記を作つた漢の司馬遷以後の第一の歴史家であると思ひます。この人の特色ともいふべきは、即ち支那の歴史家に殆ど見ないところの、支那の国がだんだん進歩するといふことを考へて居たことで、それが通典といふ本の至るところにその考へが現はれてをりますが、多くの人はこの通典といふ本を読んでも、その意味を今日まで殆ど誰も注意してをらなかつたのでありますが、私は先日友人の狩野教授の記念論文集ができました時に、その意味のことを論文として書いておきました。さういふ人で非常に歴史家として偉い人でありますが、政治家としても勝れた考へを持つてをつた人であります。この人が唐の官制を論じたことが通典の中に見えてをります、その通典の中に見えた官制論には、唐の制度には矛盾し、重複して居る官職が沢山あることを認めてをります。それでこの人の申しました大体を申しますと、刑罰の方を掌る、今で申すと司法省に当る官職でありますが、それが二つあります、一つでいゝことであるのに二つある。唐の制度では尚書省、門下省、中書省これが一番主なる官職であります。この尚書省の中に六部を含んでをります、即ち周礼の六官から来ました所の吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六部を含んでをります。このほかに唐の制度に九卿がありまして、それは王制の方から来たのであります。それでこの九卿の中には大理寺といふものがありまして、これが司法官、前の六部の中の刑部も司法官、かういふ風に司法に関する官が二つ重複してをります。又工部が尚書省の六部の中にある上に、将作監といふ工作に関するものがあります、これも重複してをります。戸部は内務大蔵を一緒にしたやうな官であります。それが唐代には別に司徒の官があつてこれも重複してをる。礼部これは今日で申せば文部省であります、これもこの礼部のほかに礼儀使といふものがありまして重複してをる。この外にもかういふ風に重複したものがいろいろあります。それをこの人が挙げまして唐の制度はかういふ風に重複して無駄があるから、これを整理する必要があると論じました。当時の人で杜佑の如きいゝ頭を持つた宰相などはなかつたから、この議論は用ひられなかつたのであります。ともかくさういふ議論を唐代に杜佑が出しましたが、これは唐代のことでありますけれども、吾々が天平文化を考へる上について考へておくべきことであります。
それは日本で唐の制度をとつて八省を作りました時に、唐の制度を摸倣したのではありますけれども、唐の制度を鵜呑にしたものではないのであります。太政官がありましてそのほかに八省を作つたので、その八省の中に大体唐の六部を含んでをり、又中書省をも含んでをります。さうして太政官には尚書と門下の両省を含んでをります。かういふ風に日本では唐の制度を取り入れたのでありますが、大体唐の時は尚書、門下、中書この三つの主な機関に分けまして、中書省といふのは天子の秘書官で、今日でいへば内閣と同じ意味のものでありますけれども、これは天子の直接の秘書官でありまして主に詔勅、さういふものを取扱ふところのものであります。門下省と申しますものは、これは当時代議制度はありませぬが、官吏の中で天子の命令即ち中書が起草する命令の不都合だと思ふことを駁論することを許されたところのもので、門下省といふのはその審議の機関であります。それで唐の政治といふものは中書省、門下省とが両方で相談して、中書省は天子の意志を代表し、門下省はそれに対する審議機関で、此の両省で考へを練つてそれがいよく極つたところで尚書省といふ執行官に移します、その尚書省の中の六部が各分担するところの仕事を執り行ふのであります。かういふ風に唐の制度が分けてありましたが、一種の合議政治、貴族的合議政治といつてよろしいか知りませぬが、専制政治のやうでも天子の意志ばかりで行はれるのでありませぬ。それを日本でも太政官八省に移しますときに、太政官には尚書と門下との二つを取入れました。太政官の中に弁官があります、弁官といふのはこれは執行官でありますが、その外の大納言、中納言、少納言といふのが門下省に当りまして、即ち天子の命についていろく審議するところであります。唐の中書省は日本では中務といふものを作りまして、八省の中にあります。つまり唐の六部のほかに、中書省が日本では八省の中へ並んで来たわけでありますから、それで七省になります。処でなぜ八省になつたかと申しますと、日本では唐の戸部を民部と大蔵と二つに分けました、今日でも内務と大蔵と二つに分れてをります如く、唐の戸部に当るところが日本では民部、大蔵の二つになりましたからそれで八省になりましたわけです。かういふのは日本のやり方ですが、これは単に謂なくしてやつたのでなく、日本の歴史によつて分けました。日本の歴史では大蔵といふものは、唐の制度を取入れる前から特別な発達をしてをりましたので、其起原に溯ると、日本の財政は海外交通のため開けて来たのであります。奈良朝以前には大和川の大和、河内の国境に当る辺に船氏といふ船のことを掌る百済帰化人の末孫がをりまして、それが税関の職務をしてをりました、それから淀河の枚方から上の方に河内首といふ支那帰化の税関官吏の人がをります、さうして此の両地で大和へ入る運上を取立てゝをつたのであります。其外に秦氏には長蔵、大蔵の職になつた者があり、漢霊帝の末孫には内蔵、蔵人、椋人になつた者がある、それらが日本の財政官のぞもくの初めだといつてよろしいので、その方が唐の制度を摸倣する前に既に大蔵といふものゝ形に発達してをりました、それで日本ではその歴史を重んじてこの戸部を二つに分けて民部と大蔵といたしました。日本で八省百官を作つて唐の制度を移しましたについてはなかなかそこに苦心がありまして、日本従来の発達と唐の制度とを巧く考へ合せてやりました。太政官の中にある弁官は執行官でありまして、少納言といふが門下の職で、これを太政官の中に含んでをるやうに巧く取入れたのであります、日本の国情に合ふやうにしたのであります、これが全体の官職に関する唐の制度と日本の制度との関係であります。
そのほかにつきましても偶然ながら杜佑が申しましたやうな、支那の制度の理想と実際から生れて来た重複を努めて省きました。日本には司法官其他が二つづゝできるやうなことはありませぬ、後になると便宜上それが変つて来ますけれども、ともかく最初制度を作りました時は支那のやうに司法官が二つできることもありませぬ、工作の官が二つできることもありませぬ、支那の制度における矛盾と重複とを日本で採用するときに省いたのであります。杜佑は奈良朝以後、平安朝初期の人でありますから、日本で杜佑の論を参酌する筈がありませぬ。日本の政治家が支那の制度を取入れるときによく考へて重複しないやうに巧く取入れた、こゝらが日本の制度を作る苦心の存するところでありまして、おそらく明治年間に西洋の制度を取入れるよりもつと苦心が大きかつたと思ひます。明治年間に西洋の制度を取入れるには、その以前において発達した制度を記した大宝令その他制度に関する本が日本にありまして、明治初年の王政復古の時にそれを再興するやうな傾きがあつて、その古い制度を考へた上に西洋の発達した制度を取りましたから、両方の発達した制度を巧く照し合せる上においてよほど便宜があつたのでありますから、この天平以前において日本の原始制度の上に支那の制度を取入れるよりは苦心が少なかつたといつてもよろしいのであります。天平以前の支那の官職の取入れ方はよほど考へたといふことがこれでわかります。
これは日本の事蹟ばかり見てをりますと格別ありがた味が分りませぬが、これを朝鮮の制度に比べますと大変よくわかります。朝鮮では我が天平時代は新羅の国が朝鮮をともかく統一した時代に当ります、それから後新羅は二百余年間朝鮮を統一して支配してをりましたが、その間の制度については今日は至つて文献が少なく、日本のやうに制度に関する特別の本も残つてをりませず、ただ三国史記など朝鮮の古代史のうちに幾らか残つてゐるに過ぎませぬ。或はもつといろいろの事があつたが、文献が失はれた為わからなくなつたともいはれませうか、今日歴史の上に残つてゐる新羅の制度を見ると、初めから日本に比較にならないほど、唐の制度を取入れる手際が不味いといふことが明かであります。新羅には到底支那の従来の理想の六部のやうなものを全部取入れる考へも出ず、日本の太政官八省のやうな整然たる制度を作り上げる考へも出なかつた。それは今日三国史記即ち朝鮮で一番古い歴史、朝鮮で古い歴史と申しましても、三国史記は藤原の末ごろに書かれたものであります、それに載つてをる制度を見るとお粗末のものでありまして、とても日本の当時のやうな整然たる制度ができなかつた。ところがその次の高麗の時代になつて、恰度日本では藤原時代でありますが、その時以後にできたものがはじめて唐の制度の摸倣をやりました。この摸倣はまるつきりの摸倣で、日本のやうにその国情を考へ、唐の制度の欠点を考へて、巧く抜き差しをする、さういふやうな考へがなしに、殆んど鵜呑に唐の制度を採用したのが高麗の制度であります。それでありますから朝鮮の唐制度の採用の仕方は初めから日本より劣つてをります。新羅の時代のいろいろな仏像、その他発掘物の中には随分芸術的価値の立派なものがあつて、定めし非常に文化が発達してをつたらうと申すものもありますが、その実制度の上において先づよほど日本より劣つてをるといふことが明かであります。唐制の中で新羅の国の摸しましたものは、太政官のやうなところと礼部とそれ位しかありませぬ。その他の官職は日本のやうな整然としてをるものにとても及ばなかつたのであります、いよいよ高麗になつて唐の制度を摸倣しましたが、しかしそれは全く鵜呑で、日本のやうに自分の国の国情を考へる余地がなかつた、さうして見ると当時の日本の政治家といふものはよほど偉いものであつたといふことがわかる。どういふ人がこれをやりましたか、表面に現はれてをるは大織冠鎌足の子藤原不比等、さういふ人がやつたのでありませう。そのほか支那へ留学した人々がいろいろ考へたことでありませうが、その当時支那の文化の日本に対する勢力は、今日の西洋文化の日本に対する勢力よりも遙かに盛んであつたと思はれますが、日本でこの制度を考へるときはその支那の燦爛たる文化に魅惑されずに、自国の国情を考へてしたのであります。
これが大体の官制でありますが、そのほかに唐の制度を摸倣して日本でいろいろのものを立てました、それは律、令、格、式であります。これは唐の制度を組立てる全体の法令でありますが、今日では唐律だけは満足に残つてをりますが、唐令、唐格、唐式は殆どなくなりまして、僅かに残闕が世の中にあるばかりであります。律といふのは今日の日本でいへば六法であります、幸に唐律は全部残つてをりますが、日本がそれに摸倣して作つたところの日本の律はそれは大方なくなりまして、今日残つてゐるのは四つしかありませぬ、名例、衛禁、職制、賊盗、これも全部は残つてをりませぬがこの四つだけは幾分残つてをります。名例律は法律用語の定義を定めたのであります、そのほかは一部分一部分の法律であります。今日残つてをるところの日本律と唐律とを比較しますと、日本律は唐律を採用して、あるものは殆ど文句までまるで同じでありますが、それでもその間に大変斟酌を加へまして、例へば一番重い罪を支那では十悪と申します、日本ではそれを二つ省いて八虐としました、さういふ風で大体から申しますと日本律は唐律に比較して罪の科しやうが軽減されてをります。支那に必要であつたが日本には必要でないことは律に除いてあります、法律などを定めるにおきましても、よほど日本の国情を斟酌してやつたといふことがわかります。しかしまた日本で向ふのものを殆どそのまゝとつたところも随分ありますが、そのとり方の苦心、短い間にそれだけのものを考へて拵へる苦心がわかります。
その次に令でありますが、令は日本には幸ひに一部分残闕してをりますけれども大部分が残つてをります。ところが唐の令は殆ど今日はなくなつてをります、全くなくなつてゐるといつてもよろしいのであります、ところが幸ひに一部分を私がフランスで発見しましたので手づから写して参りました。令の中に公式令といふものがありまして、これが規定の文書に関する式を現はしたもので、つまり詔勅命令其他の文書の式でありますが、その部分が残つてあつたので写して来ました。それは支那の敦煌から発掘したのでありますが、それをフランスの国民図書館に蔵してをります。それを私は写真に撮らうと思うたのでありますが、既に裏うちをして肝心の令の方へ紙を貼つてあつた、その反対の面に紙を貼ればいゝのに令の方に貼つてあつた。それで仕方なしに一生懸命眺め透して写しとりましたが、幸ひに公式令のところであつたので、日本へ帰つてから大宝令の公式令に比較して見ましたが、日本では太政官八省になつてをり、支那では尚書省の六部その他の官職でありますので、文書を往復する官署の名は違ふが、文書をやり取りする方法、それは全く支那の真似をして居りますので、公式に関する文書は殆ど同じであります。私が紙を貼つた下の見えない字を一生懸命読んだのでありますから、写し違ひが二三字ありましたが、日本の令を調べて見ると、其の誤字を日本の令で直せるくらゐである。それくらゐ日本の令と唐令といふものは一致してをりました。しかしこれも日本の方は大体国情から考へましてすべてが簡単になつてをります、往復文書は大した差はありませぬが、唐の辞令書は中書、門下、尚書この三省を経て手続きがなかなか面倒であり、その辞令書が長い文句で書いてありますが、日本では尚書門下を一つの太政官で取扱ふから大変辞令が簡単になります、今日でもそのやり方が残つてをりまして、辞令はすべて内閣で取扱ひます。日本は太政官の簡単なやり方が残つてをつて、唐のやうに中書から門下に移し、それから尚書に移すといふ手続きが省かれてゐる。さういふことが日本の令の特色であることがわかる。幸ひフランスに僅かの断片がありましたので日本の令といふものは、どういふ風に唐令を取入れたかといふことを知ることができた。
それから格であります、格は散頒刑部格といふものがやはりフランスの図書館にあるものを写した、それはロトグラフで写して来てをります。大体唐の時に重大な法令は、律令にあるので、今の日本でいへば、憲法其外六法全書にあるやうな者が律令にあるのでありますが、そのほか細かい臨時の伺、指令のやうな規定は即ち格でありまして、格といふのは実行に役に立つところの規程でありますが、散頒刑部格とありますのは六部のうちの刑部の格で、さうしてこの格には留司格と散頒格といふものと二通りあります。留司格と申しますのはその取扱ひをする役所に留めておく格を留司格、一般の心得のため布告する格は散頒格であります、私が写して来たのは即ち刑部に関する散頒格であります。日本にも三代格といふものがあります、その三代格にこの唐の時の格を比較して見ると著しく違ふのは、日本の格は非常に簡単で細かい規定などが割合にない、唐の格は非常に複雑であることである。それは日本のことを善く解釈しますれば、日本は唐ほど役人でも人民でも悪賢くなかつた、法律を潜るやうなことを日本人はしなかつたから、日本ではさういふ綿密な格を造る必要がなかつたといふことであります。また一面からこれを悪く考へて見ますと、律令といふやうな難しい制度を唐から真似はいたしましたが、実際の当時の日本の事情が唐の当時のそんな細かい規定までを必要とするほど進歩してはいなかつた、といふ風に考へることも出来るのであります。兎も角唐のものに比較して日本の方は至つて簡単であつたのであります。
式につきましては、日本では延喜式といふものがあります、唐式は敦煌から発掘されて支那の羅振玉氏が出版した水部式だけが残つて居つてその他はありません、これは河川とか水利に関するものであります。私がフランスに行くまでは、律令格式の中で水部式が敦煌から出たといふことは知れてをりましたが、他の律令や格はありませんでした。所が幸ひ私がフランスで調べた結果、令も格も皆出て来ましたのみならず、律の断片もありましたが、これは今日世に伝はつてをる唐律と全く変りがありません。日本の律令格式のやり方は唐のを真似たものであるといふことは前から分つて居りましたが、日本が支那の制度を摸倣する上に如何に慎重なる態度を以てしたかといふことが、此等の実物の比較によつて判るやうになりました。
以上は政治に関することでありますが、その他については先づ第一に文学のことを申上げて見たいと思ひます。唐の文学を日本に輸入するについては、第一必要なことは書籍の輸入でありました。唐から輸入された書籍につきましては日本国見在書目録といふ本がありますが、これは天平より百六七十年後即ち宇多天皇の寛平年間に書かれたもので、その当時日本に現在してゐた所の支那の書籍目録であります。それに載つて居る書籍が大部分天平時代に既に輸入されて居つたかどうかといふことは疑’問でありまして、天平時代の人が果してどれだけ支那の本を見て居つたかと申しますと、若し日本国見在書目のやうなものが、天平時代に出来て居れば世話がないのでありますが、これは不幸にして纒つた目録がありません。それ故色々な材料から、天平時代までに輸入された支那書籍の目録を抜き出して、直接には天平時代の人がどれだけの書籍を知つて居つたかといふことを知り、又此等、の書籍と後の日本国見在書目とを対照して、間接に天平時代に読まれたらしく思わるゝ書籍の概況を推想する外,に方法がありまぜん。その内で第一に注意さるゝのは、天平時代の政治家で又学者である所の吉備真備が持つて来たといふ本があります。続日本紀によると天平七年に吉備公が唐から帰つた時、唐礼一百三十巻、大衍暦経一巻、大衍暦立成十二巻、楽書要録十巻を献じたとあります。唐礼一百三十巻とあるのは、唐の高宗の永徽礼であるらしいので、又大衍暦といふのは、有名な唐僧一行の新しく造つた暦の本であります。楽書要録も此時に持つて帰つて居りますが、此本は後に支那には絶えてしまつて、其の残闕本が日本にのみ伝はりました。それで支那の或る学者は楽書要録は日本人が偽造したものだなどゝいつてゐますが、それは確に誤りです。それからまた続日本紀には載つて居りませぬが、吉備公は東観漢紀一百四十三巻をも持つて帰られたことが日本国見在書目録に出てをります。それに吉備公は三史五経、名、刑、算術、陰陽、暦道、天文、漏刻、漢音、書道、秘術、雑占、一十三道を伝へ学ばれたと扶桑略記にありますから、此等諸道の本を自ら持ち帰られたか、或は其以前に輸入して居つたのでありませうか、惜しいことには其の目録がありません。第二に注意すべきは聖武天皇の宸翰雑集といふ本が正倉院に尊蔵されて居りますが、それは聖武天皇がその当時御覧になつた支那の本の中から、大部分は仏教に関する詩文を御手づから抄写せられたものであります。これは佐々木信綱博士が先年出版になりましたが、それを見ますと、六種ほどの本の中で三種ほどは日本国見在書目録にありますが、あとの三種はその中にない本であります。さうして見ますといふと、日本国見在書目録の時代には既に無かつたやうな本を天平時代の人は見て居つたといふことが判ります、随つて大体平安朝に劣らぬ程、天平時代にも支那の本が豊富にあつたらしく想像されるのであります。第三に注意すべきことは、どなたも御承知の日本書紀は奈良朝に出来た漢文の日本歴史でありますが、その本には支那の本を沢山引いてある、中にははつきりと書名を挙げて引いてある処もあります。即ち神功皇后紀に晋起居注といふ本を引いて居りますが、これは今日支那にもなければ、日本でも無くなつてゐます、しかし見在書目には載つて居りますから、此本は日本書紀を編纂した天平以前から見在書目の時代まで現存してゐた証拠であります。その外日本書紀は、日本の歴史を書くのに、その文章を漢文で美しく書かうといふので、支那の天子の詔勅をそのまゝ丸抜きにして日本の詔勅として書いた処などあります。後世の史論から申すと日本書紀の此の態度は事実に遠く、後から支那の歴史の文を借りて、文章を飾るために書いたのであるといつて排斥されませうが、文化の方から考へますると、日本の歴史を文飾するために用ひらるゝ丈のいろくな支那書籍を、奈良朝時代に持つてゐたといふ証拠にもなります。
当時既に豊富に支那のいろいろな本を持つて居つて、日本書紀を編纂した人々はいろくな支那の材料を読みこなして、どの辺に詔勅に使ふに都合のよい文句があるかといふことを知つて居つて、それを採用したといふことが判ります。かくの如く和銅養老年間頃、日本書紀を編纂した時には既に支那の本を豊富に持つて居つたのであります。此の外にも奈良朝の書籍やら文章で、其の引用文を調べたら同様の結果を得られる者がありませう。第四には佐々木博士が聖武天皇宸翰雑集と同時に発刊した、南京遺文といふものがありますが、それはやはり正倉院に在る奈良朝の古文書其他を集めて一冊とされたものであります。其中に天平二十年六月十日、更可請章疏等として仏書並に漢籍の目録が挙げてありますが、其全文は大日本古文書第三巻に出て居ります。其漢籍の中、半分位は見在書目録にある本であります、またそれになければ支那の正史の中の書目、即ち隋書経籍志とか旧唐書経籍志、又は新唐書芸文志とかに載つて居る本であります 。
之によつて推想しますと当時の唐の主なる本は天平時代に既に我邦にあつたのでありまして、見在書目録の時代と大した相違はなかつたらしく、又見在書目録に出てゐない本で天平時代にあつたと思はれる本もあるのであります。仏教の書籍は別といたしまして、当時日本ほど支那の本を沢山持つてゐた国は、支那を繞る他の国々において見ることが出来なかつたのでありませう。又仏教の本に致しましても、続日本紀に吉備公と同時に入唐した僧玄■が五千余巻の仏書を携へて帰つたことが記してある。五千余巻といへば殆んど当時の一切経全部であつたと思ひます。当時の日本の学者並びに僧侶が支那の知識を得るために、どれだけ支那の書を利用したかといふことがこれでも分ります。猶又これ等の材料から、当時の人々が如何に漢文なり詩なりを自由に扱ひ得たかといふことに就て更に考へて見ませう。
続日本紀といふ本は当今の官報のやうな材料を日記体に並べたものでありますが、奈良朝、天平時代を中心としてその時代のいろいろの文献を含んでをります。詔勅などは歴代のものが皆な含まれてをりまして、それが全部漢文で書いてあります。或は有名な人が書いた文章などがありますが、それが頗る美文に出来て居りまして、当時如何に漢文を巧みに作り得たかといふ標準になるのであります。その中に宝亀元年吉備大臣が作つた骸骨を乞ふ啓があります、孝謙天皇が崩御になつて光仁天皇がまだ皇太子で御位に即かれなかつた間のことでありますが、四六文で美事に書いてあります。宝亀三年にまた文屋大市といふ人がやはり骸骨を乞ふ表を奉つてをります、私はこれはやはり吉備公が書いたものだと思ひます。何となれば文屋大市といふ人はこれは天武天皇の系統の人でありまして、当時既に姓を賜つて人臣となつてゐた人でありますが、孝謙天皇崩御の後、皇嗣の候補者の一人であり、殊に吉備公が此人を天子にしようといふ意見を出したほどで、吉備公に関係の深い人ですから、これも吉備公が作つたものだと思ひます、これもなかなか立派な漢文で書いてあります。その外公の奏議には、唐で安碌山の乱の時、太宰府の防備に関する者などがありまして、公の籌略と共に其の文才をも見るべぎものがあります。かやうに当時の学者の第一人者である吉備公の文はともかく二三だけ発見されたが、その出来栄の上手な所から見ると、その当時の人々がどれだけ漢文を作り得たかといふ実例が、我々の頭にはつきり分るのであります。
その外に我々がその前後の人の漢文の中で最も感心するのは古事記を奉るの表であります。これは太安万呂といふ人の作で、和銅五年のことでありますから、吉備公よりずつと以前のことであります。これがやはり四六文で書いてありますが、その中に日本の故事が沢山使つてありまず、支那の故事を使つて漢文を書くのは比較的楽でありますが、この人が日本の神代以来の典故を盛んに使つてある手際には実に敬服に堪へません。これ等のことから推して当時の人々の漢文に対する技倆を窺ひ知ることが出来ます。これを他の国に比較して見まするといふと、当時朝鮮にはどれだけ漢文を書き得た人があつたかといふと、現存して居る者には我邦に比較し得べきものはありません。但し強首、薛聡、金大問など有名な人が作つた漢文があるといふことでありますが、今日では既にそれ等の文献も多くはなくなつて、其のたまたま残つて居る者も真偽不明であるために、之を証明すべき物がありません。
次に考へられることは詩でありますが、我邦当時の詩を集めたものに懐風藻といふ本が出来て居りまして、其の序文も四六の名文でありますが、その中に奈良朝時代の人々の詩が百二十首ほどありまして、多くは当時流行の五言古詩でありますが、中には七言の詩もあります。弘文天皇、大津皇子は勿論、鎌足の子孫の史とか宇合とかいふやうな人も其の作家の一人であります、それ等は初唐の詩と殆ど同じやうな風調であります。これも朝鮮の方に較べ得るものがあるかといふと、文献を失つて不明なためかも知れませんが、殆どありません。朝鮮には今から五百年ほど前に東文選といふ本が出来て、古い詩文が出てをりますが、日本の天平以前に当る時代の詩がたゞ一首だけ載つて居ります、而も作者の名は知れませぬ。唐時代の人の詩も幾らかありますが、多くは平安朝の菅公頃の時代の人々の詩のみで、それ以前のものは殆どありません、無いからといつて作らなかつたと速断する訳には行きませんが、兎も角日本では百二十首もあつたのに、朝鮮では一首より無かつたといふことは実際朝鮮には、あまり詩人が無かつたのでないかとも思はれるのであります。これで当時の我邦の文化は朝鮮に比して、優つても劣らなかつたといふことが断言出来ると思ひます。この懐風藻の百二十首の中には、阿部仲麻呂が唐から日本へ帰らうとした時に作つた、有名な五言詩は入つて居りません。
それからまた或はこれは支那本国と比較することは無理でありませうが、支那以外の国と比較して我邦の偉かつたことは、日本の国語で文章や歌を作つたことであります。歌では日本書紀や古事記などにも載つたものもありますが、当時の歌を集めたものは万葉集であります、これなどは殆ど朝鮮に比較するものが無いといつてよい位であります。尤も新羅時代の朝鮮語の歌らしいものが全く無かつたかといふとさうでもありません、三国遺事といふ本に五六首遺つて居ります、けれども今日ではこれを読むことさへ既に困難であります、我邦の万葉集のやうに二十巻も遺つてゐるものはありません。其外日本では当時国語の文章がありまして、乃ち続日本紀などに載つて居る宣命などがそれで、雄大荘厳を極めた者でありますが、朝鮮ではどうでありますか。朝鮮の国語で書いた文章は全くなかつたかといふと必ずさうでもありません、今日京城の総督府博物館に慶州地方から発掘した天宝十七年の葛項寺石塔記といふ碑文があります、それが当時朝鮮語で書いたかと思はれるものであります。又今日では実物はもうありませんが、対馬に朝鮮の鐘が渡つて来たことがありまして、八幡宮の中にありました、その鐘の銘の拓本が伝はつて居りますが、それがやはり新羅時代の朝鮮語で書いたらしい文でありまして、この一二つが残つてをります当時の新羅の国語で書いた文章であつたに違ひありません。しかしこれは日本ならば法隆寺の金堂の薬師三尊の光背銘位の程度のものでありまして、到底日本ほど自分の国語を以て、歌なり文なり、雄篇大作をするといふほどには至らなかつたものと考へられます。この点即ち国語の独立は日本国民の最も大きな.仕事の一つであります。支那の文学を受入れて支那と同じやうに文なり詩なりを作る上において、又日本固有の文なり歌なりを盛んに作つた事に於て、両つながら当時の日本人が他国民に優れた非常な能力を持つて居た証拠であらうと思ひます。
又その頃から既に漢文を読むのに、日本読みにすることが行はれまして、吉備公などは五十音を作つたといふ言伝さへあります、ともかく当時漢文を日本の国語の法で訓読することが盛んに行はれたので、送り仮名のやうなものが、当時既に出来て居りました。漢文を読むについてオコト点とか、送り仮名などは平安朝になつて始めて現はれたといふ説がありますけれども、私はどうしても奈良朝時代からあつたものだと信じて居りましたが、近年になつて尊勝院の聖語蔵にあつた多くの仏経が調べられた結果、当時から既に訓読のものがあつたことが明かになりました。支那の文章なり詩を読むについて、日本読みにするといふことは、当時支那の文学に対して日本人の理解力を増す上において非常な力があつたことゝ考へます、それは当時の文化に余程大きな影響があつたものでありませう。当時新羅の方にも日本の仮名のやうなものが発達して、即ち吏吐が新羅の薛聡によつて作られたといふ伝説がありますが、その訓読の仕方は日本と異つてをつて、支那語の文法をくづさない訓読をしたものであります。これに反しまして日本ではなるべく日本風に理解するやうに、訓読したといふことは、これは当時日本の文化を支那の文化より独立させるといふことについて、余程重要なことであつたと思はれるのであります。
芸術のことにつきましては、これは私の専門外のことでありまして、十分な自信を持つて申上げることは出来ませんが、幸に今日は専門家の関野博士も御出になつて居られますから、思ひついたことだけを申上げて御批判を願ひたいと思ふのであります。第一に彫刻のことについて申して見たいと思ひます。彫刻のことはこの天平時.代、奈良朝にかけて非常な発達をしたのでありまして、私が申上げたいのは天平時代の彫刻と、朝鮮の当時の彫刻を比較して見たいのであります。茲には多少似寄つた種類のものを並べたのでありますが、朝鮮では慶州の石窟菴といふ処に沢山な彫刻がありまして、それが皆な優秀なものであります、この石窟菴の彫刻は、従来の批評家の説では支那の彫刻が既に朝鮮に輸入されてから一種の発達をして、朝鮮の特色を現はしたものであると言はれて居つたやうであります。それを当時の唐時代の日本彫刻に比較して見ますると、石窟菴の彫刻と同種の題材を取りました日本の東大寺の三月堂及び戒壇堂の四天王、興福寺の釈迦十大弟子などを比べて見て、一見して気のつくことは、日本の彫刻が大体からいつて大変写生味を帯びて居つて、余程実際の人物に近くなつてゐるといふこと、それから日本の彫刻には、日本固有の伝統的な一種の技術があつて、その特色を現はしてゐるのではないかといふことであります。三月堂などにあるものは、殆どさうであると断定し得る位でありまして、その面相などを見ると頗る写生味を帯びてゐる、そしてその全体の姿勢を見ると、何処となく日本で従来伝へ来つた埴輪の土偶の形式に似通つてゐることを見出し得るだらうと思ひます。それで天平時代の日本の芸術は非常に発達して居つて、写生的技倆を持つて居り、それに古くからの伝統、埴輪式のものが多少加味されて居つたのではないかと思はれます。即ちそれが日本の地方色を帯びた特色を現はしてゐることゝ、当時支那の唐時代の彫刻などが写生味を帯びて来た、その発達の程度を日本に取入れて、それと同様な程度にまで進んで行かうとした努力を示すものではないかと思ひます。処が石窟菴の方の彫刻は余程それと趣を異にして居つて、その姿勢なり顔付なりが総て写生味が少ない。姿勢に就いても、これに似たものを考へると、支那では六朝時代からあつたもの、即ち竜門の彫刻(附記を参看すべし)とか、又関野博士が発見されました天竜山石窟にある石仏(附記を参看すべし)などの中、六朝時代の特徴ともいふべき一種の姿勢、即ち身体がフワリフワリと動いて居るやうな流動式の姿勢とも申しませうか、一種の姿勢があります、それに共通点があるやうであります。それが又絵画の上にも現はれて居りますので、例へば顧凱之の女史箴の巻中にあります人物、其外曩きに日本へ一度来たことがありましたが、買手がないので持つて帰つた間立本の帝王図巻の人物の姿勢がやはり流動式姿勢を持つてゐます。さうして見ると六朝から唐の初めまでに伝統的に相続した所の絵画彫刻の風格を、朝鮮では石窟菴時代まで依然伝へて居つて、そのやうな形が彫刻の上に現はれて居るのであらうかと考へます。日本贔負の考から申しますといふと、日本では既に天平時代に隋、唐時代の絵画、彫刻に写生味を加へ、しかもその間に埴輪以来の伝統をとり入れて固有の特色を発揮したに拘らず、朝鮮の彫刻は猶六朝時代の形式を鵜呑にして、日本ほど発達しなかつたものと思はれるのであります。
その外絵画について見ましても、六朝から唐の時代の間には支那でもいろいろと変遷をして居りまして、六朝時代の画は閻立本までが、一つの時期を為して居ります。その後有名な呉道子といふ人が出て、画風が一変して白描の画風が流行した、即ち一種の筆意を持たした墨の使ひ方をした、これが重なる一つの変化であります。それからもう一つは張萱、周■といふこの二人が開元天宝時代に興りまして、非常に肉感的な写生風の絵を描きました、これがまたその当時の流行になりまして、それ以後の絵は美人などを描きますと肉付の豊かな美人を描くやうになりました。天平時代はちやうど呉道子の時代から周■、張萱の時代に亘るのでありますが、既に唐のさういふ最近の画風の感化を受けてをつたといふことが感ぜられます。六朝式の絵といふもの、即ち閻立本風の絵は、日本では法隆寺の玉虫の厨子の扉とかさういふ古いものに多くあり、呉道子のやうな絵は正倉院の麻布に描いてある菩薩の絵、あれなどが呉道子の風の絵であらうと思ひます。支那にも確かなものがありませんので、比較することは困難でありますが、農林大臣の山本悌二郎氏が所有してをられる呉道子の送子天王像巻といふのがありますが、それが宋の頃の摸本だと言はれて居るのでありますが、その呉道子の画と較べて見ますると、麻布の絵の面貌などの描き方は余程共通した点がありまして、日本には既にその当時呉道子風の絵が伝はつて居つたことが判ります。周■の方は本社の上野さんが持つて居られる美人の琴を聴いてゐる画が、明の仇英の摸本で余程よく周■の風神を伝へたものだと思ひます。張萱の画はボストンの博物館に宋の徽宗の墓本がありまして、これは唐の原本そのまゝだといはれて居りまして、これを見ますると薬師寺の吉祥天図、正倉院の屏風画の樹下美人、又は法華寺の来迎仏の屏風などは周肪、張萱等の写生派と美人画の風を日本で受けて居た証拠だと思ひます。其の時代も殆ど天平時代と同時であるが、画風の影響が日本に来たことが非常に早かつたもので、向ふで流行するといふと直ぐに日本へ伝はつた、如何に当時文化の関係が敏速であつたかといふことが判ります。恐らく当時日本の奈良の都といふものは、唐の進歩した地方、長安、洛陽、揚州などの地方と殆ど同じやうな程度の文化を有.して居る程、進歩して居つたものと見えます。
書の方につきましては、こゝに先づ欧陽通の書いた道因法師の碑文を出して、一の標準と致しましたが、又欧陽通が晩年に書いたもので高句麗の泉男生の墓誌があります、泉男生は高句麗から唐へ降つて唐で死んだ人でありまして、その墓誌は最近洛陽で発掘されたのであります。欧陽通は父の欧陽詢の風を承けた唐の初の書の大家でありますが、不思議なことにはこの人の書に酷似した書が日本にあります、支那人に見せますと欧陽通の字だといつて、日本人が書いたものとは信じません。なくなられた御影の小川為次郎さんが持つて居られた金剛場陀羅尼経といふのがそれでありまして、それには丙戌の歳といふ干支が書いてあります。丁度朱鳥元年に当るのであります、川内国志貴評内知識為七世父母及一切衆生云云とありまして教化僧宝林と奥書にあります。之は日本で書いたものに相違ないのであります。さうすると欧陽通が日本に来る筈がないから日本人の書いたものであることが判る、しかしそれが如何にもよく欧陽通に似て居りまして、誰でも名前を隠して見せると欧陽通の書だと思ひます。又それと同一人の書いたものではないかと思ふ書が日本の金石文にあります、即ち朱鳥元年のものでありますが、長谷寺の千体仏の下の銘がそれでありまして、両方を較べて見まするとその書体が殆ど同じであります。兎も角日本では右の金剛場陀羅尼経と長谷寺千体仏の二つだけではありますが、欧陽通そのまゝの文字があるのであります。道因法師の碑を書いたのは、泉男生墓誌よりも十六年前で、金剛場陀羅尼経と長谷寺千体仏とは泉男生墓誌より七年後であります、即ち殆ど欧陽通と同じ時代の人が書いたのでありますが、既に当時欧陽通そのまゝの書風を書いた人が我邦にあつたといふことは、如何にその時代の人々が支那の文化を受け入れるのに敏感であつたかといふことが判ります。
又欧陽通の父欧陽詢の書風を余程うまく書いたものに、やはり故の御影の小川さんの所蔵で華厳音義といふものが二巻ありますが、これは多分、原は東大寺あたりにあつたのでありませうが、昔浄土宗の管長をして居られた養■徹定といふ有名な高僧がもつてゐられたものでありまして、それが後に西本願寺に入り、西本願寺の売立め時に小川さんが買はれたのであります。其の書風は欧陽詢の文字と同じでありまして、支那人に見せると余りよく似ているのでビツクリするほどであります。しかし此の音義の中には日本語が入つて居りますので、どうしても日本で書いたこと疑ひなきものであります。これ等は当時の有名な支那の書家の書風を日本人が如何によく習つて書いたかといふ二三の例でありますが、この外に高野山に文館詞林といふものがあり、巻物で十二巻ほどになつてゐます、その内の一巻に唐の有名な書家の楮遂良によく似た字があります。これは嵯峨天皇の朝に写したのであります、奈良朝時代ではありませんが、平安朝の極く早い時で奈良朝に近い頃であります。これなどは従来人が余り注意して見なかつたのでありますが、近年発見されたものであります。又弘法大師の灌頂記、風信帖は顔真卿の書に似て居りまして、大師はよく唐の当時の新しい書風を学ばれ、よく書かれたものと見えます。それから以後に唐では柳公権といふ人が出ましたが・・・
 
雅楽・舞楽

 

神前での結婚式や神社などで奏される、特殊な楽器が使われ、独特の音色の、ゆったりと優雅な格式を感じる音楽、というのが一番身近な雅楽(ががく)だろう。その音色は、内容は解らなくても、場の威儀を整え、荘厳にする役割を果たしていることは分かる。これは外来楽舞の1つ・唐楽(とうがく)というジャンルに含まれ、漢文帝が作ったとされる起源の古い管絃曲で、「越殿楽(えてんらく)」という名称のものである、と言って、ピンと来るだろうか?雅楽と聞いて、楽器の種類に始まり、起源、範疇に含まれる歌・曲・舞の種類・名称などを一通り説明できる方は、関係者か、ウルトラ級の雅楽ファンではないだろうか。雅楽と一言で言われるが、実に広いジャンルであることはあまり知られていない。
一方の舞楽(ぶがく)は、語からすると音楽を伴う舞全般のようだが、雅楽のうち舞を主としたものを指し、舞を伴う舞曲のことである。雅楽と舞楽は相関性が高いため、一緒に説明すべく同じ項目としたが、いずれも種類が多く、耳慣れない独特の語の羅列なので要する説明も長くなるため、全容を知りたい方は腰を据えてじっくり読んで頂き、どうでもよい方は、端的にまとめた最終行あたりに移動して頂きたい。  
雅楽という語は、古代中国における礼楽思想に基き、俗楽に対し「雅正の楽」の意を持つものであった。この中国の雅楽が語と共に外来音楽の一つとして日本に伝わった。大和朝廷(4〜7世紀頃)による大宝律令(701年)で雅楽寮(うたまいのつかさ)が創設され、そこで所管された外来楽舞のみを指したが、今日は宮中での祭儀に用いる楽舞を指している。時代により雅楽の範囲も内容も異なるが、宮中所管のもので、代々継承され、演じられてきた音楽を指すと考えれば間違いないだろう。
まず、その起源から触れてみる。
太古の日本において、歌舞は祭事儀礼の中で演じられる宗教歌舞として発展していったと考えられており、弥生時代・古墳時代には既に、楽器を伴った演奏が存在していたことが出土品から確認されている。こうした日本各地の風俗歌舞が雅楽寮で整備・統一されて宮廷の祭祀楽(式楽)となった。隼人舞・国楢舞・吉志舞・楯伏舞・久米舞・筑紫舞・諸県舞などが風俗歌舞として知られている。以下にその概要を述べる。
隼人舞(はやとまい)とは大隅・薩摩の国人及びその徴兵により伝えられる舞で、祖先の火照命(ほでりのみこと)が海で溺れ苦しむ様を模したとされる。現在は正確な姿が伝えられておらず、鹿児島県姶良郡隼人町・鹿児島神宮の「追儺式」での隼人舞に古の姿を想像できるのみである。また京都府京田辺市・月読神社で復活された「大住隼人舞」は、弓・松明・隼人特有の楯を持った少年の舞人が舞う、動きが激しくテンポが速い舞を現在見ることができる。一般的に隼人舞は勇壮な舞であったと考えられている。
国楢舞(くずまい)とは、応神天皇の吉野離宮の行幸の際、山奥の国栖の村人が一夜酒を作り歌い踊った故事が起源とされる。国楢村落は他と交流を絶ち古俗を継承しており、奈良・平安時代には宮中の祭事で土地の贄を献じ、歌舞を献ずる慣例があったという。国栖奏(くずのそう)・翁舞とも呼ばれ、口鼓(舌を鳴らす)を打ち風俗歌を奏する歌舞が奈良県吉野郡吉野町・浄見原神社に継承されている。
吉志舞(きしまい)とは神功皇后(仲哀天皇の皇后)が三韓征伐(新羅征討)から凱旋し大嘗会を行なった際に豪族・安倍氏が奏したという舞で、楯節舞(たてふしのまい)とも呼ぶので、楯伏舞(たてふせまい)と同じものと思われる。吉志氏は安倍氏と同じく朝鮮系の渡来人で、当時の戦闘で、先頭に立ち呪術を使用して敵を倒したという呪術集団(巫女集団)の家系といわれ、隼人舞同様、勇壮な舞であったと考えられている。
久米舞(くめまい)とは、初代天皇である神武天皇の即位(紀元前585年頃)以前の大和平定の時、倭王権の軍事集団であった久米部(くめべ)が歌った久米歌に大伴氏・佐伯氏が舞を付したもの。戦闘歌・祝勝歌であり隼人舞同様、勇壮な舞であったと考えられている。国風歌舞の「久米歌」参照。
筑紫舞(ちくしまい)とは、謎の芸能集団・傀儡子(くぐつ)により一子相伝の口伝で伝えられた芸能で、筑紫神舞(ちくしかんまい)とも呼ばれる。長らく絶えたと思われていたが、近年その継承者が見つかり復活の動きがある。
諸県舞(もろかたまい)とは、豪族の諸県氏が戦闘に敗れ、鎮圧を受けて服属を表すための歌舞で、天皇への服属儀礼で演じられたものとされるが、鎮魂歌説もある。
以上、全て舞曲で、舞楽の起源であり、また雅楽として集大成される以前の源流となっている。雅楽寮は4種の職に分かれており、そのうち3つでは、これら日本古来の歌舞の整理・継承が行われ、国風歌舞に分類され平安時代に完成されてゆく。雅楽とは、狭義には5世紀頃から仏教文化伝来とともに中国・朝鮮半島から日本に伝わってきたアジア大陸諸国の儀式用楽舞を融合し日本化したものを指し、広義には前出の日本古来の楽舞(国風歌舞)や平安時代の頃成立したとされる歌曲(催馬楽・朗詠・今様)と、狭義の雅楽である外来楽舞の双方が含まれる。上述の風俗歌舞の流れは、国風歌舞(くにぶりのうたまい)・上代歌舞(じょうだいかぶ)と呼ばれる雅楽となり、他の雅楽曲と違い外来音楽の影響を受ける以前から日本に存在した古来の歌舞のジャンルに含まれる。  
以下に、次の流れとなる国風歌舞として雅楽寮で所管された歌舞を以下に述べる。各々の曲目は少ないが、現在も主に宮内庁式部職楽部により伝承されている。装束も他の雅楽に比べると簡素で、舞・振りも素朴だが、高雅で荘重な趣を持つ。歌の伴奏には和楽器・外来楽器が併せて用いられる。
「神楽歌」(かぐらうた)とは、広義には神事・神前で奏される歌謡全般を指し、狭義には宮廷神楽(御神楽)で奏される歌謡のことを指す。里神楽(宮中以外の神楽)にも神楽歌は見られ、内容はいずれも天岩戸(あまのいわど)の故事にまつわるもので、天照大神の神霊を慰める神事のための歌である。宮中賢所で毎年行われる「御神楽ノ儀(みかぐらのぎ)」が平安時代には制度が確立し、当時30曲余りの楽舞が奏されていたらしいが、そのうち10数曲のみ現在に伝承されている。「人長舞」「其駒」「榊」などが代表的。
「大和歌・倭歌」(やまとうた)とは上古に大和地方に発生した歌曲で、伴われる舞は大和舞・倭舞(やまとまい)と呼ばれる。新しい天皇が即位した年に行われる新嘗祭(にいなめさい)で、宮中賢所で行われる「大嘗会」(だいじょうえ)の際に大和舞と供に演じられる。現在は前奏曲としての「大直日歌(おおなびのうた)」と当曲である「大和歌」の二曲からなる。
「東遊・東游」(あづまあそび)とは、東国地方(当時の朝廷より東側)の風俗歌舞で、歌と群舞の双方があり、皇霊祭などで神事舞として奏されている。安閑天皇の御世(531〜535年)、駿河国宇土浜(現・静岡県宇戸浜)に天女が舞い降りたという伝説から作られ、阿波礼・一歌・二歌・駿河歌(舞)・求子歌(舞)・大比礼歌からなる組曲として奏されている。
「久米歌」(くめうた)とは、初代天皇である神武天皇即位(紀元前585年頃)以前の大和平定の時、倭王権の軍事集団であった久米部(くめべ)が歌った歌が久米歌(来目歌)といわれる。兵士の戦闘ぶりを後世に残すために歌い継がれた戦闘歌とされ、大伴氏・佐伯氏が受け継ぎ舞を付した。大嘗祭・紀元節などに奏されてきたが断絶し、現在演奏されているのは江戸時代に再興されたものである。
「大歌」(おおうた)とは、五節舞(ごせちのまい)の伴奏として奏される歌曲で、天武天皇が在位中(673〜686年)、吉野の離宮で箏を弾いていると天女が現れ、歌い舞ったという伝説から作られた群舞である。大嘗祭(だいじょうさい)の豊明節会で舞うと定められていたが南北朝時代に一度廃絶し、大正天皇即位の際、宮内庁楽部の当時の楽長が復元し再興したものが現在演じられている。
「誄歌」(るいか)とは、舞を持たず、和琴一つだけを伴奏に和歌を音楽化したもので、古事記に記載のある倭建命(やまとたけるのみこと)が東方平定後、病死の時に后(きさき)や子供が泣きながら詠んだ「四首の歌」に旋律を付けたものといわれ、天皇の葬儀に歌うことになっている。誄歌も長らく断絶し、明治天皇の葬儀に作曲し、復興したものが現在演じられるものである。
「田歌」(たうた)とは、天智天皇の時代(661〜671年)に奏された歴史の古い歌舞で、大和歌の楽曲の1つとして大嘗会で奏されてきたが、近年は大歌と供に演じられなくなった。各地の田遊びや御田の奉納歌として伝承されている。
「悠紀・主基」(ゆき・すき)とは、大嘗祭の悠紀殿の儀・主基殿の儀で演じられる「悠紀地方の風俗歌舞」・「主基地方の風俗歌舞」の総称である。行事のために新しく作られる歌舞で、ほぼ再演されることがない特別なものである。創作の前にト占により場所が2つ選ばれ、その土地の風景・地名を詠み込んだ歌を4首づつ作り曲を付し、祭祀の中で歌われる。饗宴では更に舞も付され雅楽舞台で舞われる。  
これら国風歌舞が成立を見る頃、並行して5〜9世紀初頭の約400年間に日本に伝来したアジア大陸諸国の音楽舞踊について、次に触れる。現在の形は当初使われていた楽器が省略されたり、楽曲がアレンジされたりして一つの形式に統一され、改良されたものであり、伝来楽舞とはいえ日本独特の楽舞になっている。
狭義の雅楽ともいわれる唐楽・高麗楽など外来の大陸系の楽舞は、その伝来経路で大きく2つに分類される。
「唐楽」(とうがく)は、主に中国大陸から遣唐使や来日した僧侶によって伝えられ、その形式で日本で作られたものを指すのだが、中国ばかりでなく、インドの天竺楽・ベトナムの林邑楽などに起源を持つ古代アジア南方系の楽曲と舞を指す。100曲余りが現存し、250曲余りが失われたとされる。その音律により壱越調(いちこつちょう)・平調(ひょうぢょう)・雙調(そうぢょう)・黄鐘調(おうしきちょう)・盤渉調(ばんしきちょう)・太食調[たいしきちょう)の6つに現在分けられている。唐楽舞は左方(さほう)・左舞(さまい)と呼ばれ、舞人は左の方から進み出て舞台に登り、朱系に金の金具が用いられた三巴の装束で舞う。
「高麗楽」(こまがく)は、主に朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)と旧満州(渤海国)に起源を持つ楽曲と舞で、三韓楽(韓国・朝鮮)と渤海楽(旧満州)がその起源とされる。主に朝鮮半島より伝えられ、その形式で日本で作られたものを指す。30曲ほどが現存し、15曲余りが失われたとされる。その音律により高麗壱越調(こまいちこつちょう)・高麗平調(こまひょうぢょう)・高麗雙調(こまそうぢょう)の3つに分けられる。高麗楽舞は右方(うほう)・右舞(うまい)と呼ばれ、舞人は右の方から進み出て舞台に登り、原則は青緑系に銀の金具が用いられたニ巴の装束で舞う。
また演奏形態によって分類される場合は、次の2つになる。
「管絃」(かんげん)は、楽器のみによる合奏で、楽(曲)を主とし、唐楽で主に用いられる。平安期の貴族の間で流行し、日本で独自に完成された形態のもの。3つの管楽器、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)と、3つの打楽器、鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)、2つの絃楽器、琵琶(びわ)・筝(そう)を用いる。高麗楽の場合は龍笛の代わりに高麗笛(こまぶえ)、鞨鼓の代わりに三ノ鼓(さんのつづみ)が用いられ、現在は絃楽器(琵琶・筝)を用いないことが多い。管が各3人、鼓が各1人、絃が各2人の計16人編成が一般的である。
「舞楽」(ぶがく)は、舞を伴う舞曲で、舞を主とし、唐楽と高麗楽両方に用いる。狭義の舞楽がこれにあたる。管絃で用いる楽器の伴奏で舞われるが、現在の形式では絃楽器は用いられていない。
更に舞により、左方・右方に関わらず表現方法・雰囲気・舞手などにより、以下の5つに分類される。
「平舞(ひらまい)」は、武具を持たずにゆるやかに舞うもので、文舞(ぶんのまい)とも呼ばれ、4人又は6人で舞われる。主に襲装束や蛮絵装束なと豪華絢爛な衣装が用いられる。ほとんどの大曲(長編曲)や楽(曲)が平舞である。
「武舞(ぶのまい)」は、鉾・盾などを持ち勇壮に舞うもので、4人で舞う。現行曲は「陪臚」(ばいろ)「太平楽」(たいへいらく)の2曲のみである。
「走舞(はしりまい)」は、一人又は二人が着面で剣印や拳を持ち、躍動的に舞うもので、主に裲襠装束が用いられる。
「童舞」(どうぶ)は、子供によって舞われる舞容のことで、4人又は1人で舞うものだが、現行の7曲以外は他の舞容に変容したとされる。
「女舞」(おんなまい)は、女性により舞われる舞容であるが、現在は行われておらず、他の舞容に変容したとされる。6人・8人・10人・12人などの多人数編成で舞われていたとされる。  
楽(曲)と同時に多種の外来楽器も伝来したが、平安時代に取捨選択され、楽団編成は小規模な室内楽形式に変えられた。また本家中国宗廟で儀式に演奏されていた「雅楽」ではなく、俗楽的要素を持つ、酒宴の場などで奏される宴饗楽(燕楽)の方で日本雅楽として採用され、その骨格を形作った。平安時代に集大成されたといわれる雅楽であるが、その頃作られた歴史的には新しいジャンルの歌物について以下に触れる。
歌物・謡物(うたいもの)とは古代歌謡とも呼ばれ、狭義には上述した大陸系の音楽の影響を受け、平安時代に創り出され、唐楽器等の伴奏で歌われるようになった声楽曲のことであるが、広義には前述の日本古来の原始歌謡(風俗歌舞)の流れを継ぐ「国風歌」も含まれる。国風歌については先に述べたので、以下、狭義の歌物(催馬楽・朗詠・今様)について触れる。
「催馬楽」(さいばら)とは、平安時代に新たに作られた声楽で、当時の民謡や風俗歌の歌詞に外来の雅楽旋律を付したもの。各地の民謡・流行歌が貴族により雅楽風に編曲され、雅楽器の伴奏で歌われるようになると宮廷音楽として取り入れられ大流行した。笙・篳篥・龍笛・楽箏・楽琵琶という管絃に用いられる楽器で伴奏され、笏拍子を打ち、俗調の和文を拍節的に歌う。句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。室町期には衰退したが古楽譜に基づき17世紀に再興されたものが現在奏されている。
「朗詠」(ろうえい)とは、漢詩に旋律を付け雅楽器のうち笙・篳篥・龍笛の伴奏で朗誦する歌曲のことで、大半の曲が訓読で歌われる。催馬楽と異なり拍節が無く、ゆるやかに流れる雅びやかな節で閑雅な漢詩文を歌うのが特徴的で、15作品が現在に伝えられている。催馬楽と同様、句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。
「今様」(いまよう)とは、催馬楽・朗詠の後、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて流行した民衆の中から生まれた新興の歌謡で、貴族から庶民まで広く愛好された。京の流行風俗が語られたり、世評が諷刺される他、法文歌・仏歌・神歌・雑歌(物づくし)・長歌など内容的に多様で、他の雅楽と異なり庶民的である。現在は「越天楽今様(えてんらくいまよう)」が最も有名。  
以上、雅楽に取り入れられた各芸能を追ってみたが、これらは主に平安時代に行われた楽制改革によって曲の分類や雅楽器の編成などが整理され、現在の雅楽体系になった。現在言われる雅楽はこれら各芸能が融合してできた芸術で、10世紀頃にこうして完成し、皇室の保護下で宮廷音楽として伝承されてきた。戦国時代に衰退をみたが、豊臣秀吉が京都に「三方楽所」を創設して宮廷音楽復興に努め、雅楽を再び祭式に用いて以来復活へと動き出した。江戸時代、徳川家が江戸に楽人を集め、楽所を造り演奏会などが行われるようになり、明治時代に入り首都が移転すると、京都の楽人たちも天皇家とともに都内に移動し、政府内には「雅楽局」が組織され、日本の雅楽の中心となった。残念なことに雅楽局が行った「明治選定譜」作成のための選定のため、過去の雅楽曲の多くを切り捨て、雅楽曲の整理をしたため、明治選定譜により千曲以上あったとされる雅楽曲が百数曲に絞られ、選定曲以外の演奏を禁止したために、除外曲は絶えてしまった。よって現在宮内庁式部職楽部に100曲余りが継承されているのみである。豊臣秀吉が創設した最古の様式を伝える四天王寺の天王寺楽所(大阪)、宮中の大内楽所(京都)、春日大社の南都楽所(奈良)の三方楽所は、東京に集められて現在の宮内庁楽部となったが、各々の楽所は各々の地で、現在も雅楽が伝承されている。
昭和30年、宮内庁楽部の楽師による雅楽は国の重要無形文化財に指定され、楽部楽師は重要無形文化財保持者に認定され、その伝統を正しい形で保存するよう努力がなされている。
現在雅楽は、宮内庁では儀式・饗宴・春秋の園遊会などの行事で演奏され、また昭和31年から広く一般公開するため、皇居内の楽部において毎年春・秋の2回演奏会を催している。文化庁や都道府県教育委員会の要請により毎年2回ほど全国各地で地方公演を行い、年1回程度、国立劇場において公演会を催している。更に外務省などの要請で昭和34年にはニュー・ヨーク国連総会議場で初めて海外公演を行い、その後は米国各都市・ヨーロッパ内の都市などで公演を行い、世界的にその歴史的・音楽的価値が認められている。  
千数百年の時の経て、形を変えずに存在している伝統音楽・芸能として世界に誇るべき芸術文化であり、洋楽の五線譜より千年以上前に完成した「世界最古の楽典」である。音楽要素としても「三分損益法」による旋律は12平均律の音階より美しいとも言われ、現代音楽に多大な影響を与えている音楽的価値は大きいといわれている。  
 
華道

 

生け花は仏に対する信仰心から自然に咲く草花を室内へと持ち込んだものといわれるが、生け花を単なる技芸としてではなく、人間としての修養の面を重視した呼び名が華道である。世阿弥(室町前期の能役者・能作者)の言葉に「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」というように、花を植物としての美しさだけでとらえるのではなく、「美」として昇華させた美意識がなければ「華道」は成立しない。古代のわが国では、自然を崇拝する原始宗教(アニミズム)によって大きな岩や樹木などに「神」が宿る(依代ーよりしろ)という信仰が芽生え、なかでも松はその樹形や一年中枯れない(常緑)ことから神の依代として特別に扱われてきたが、こうした信仰によって神木が戸外から庭へ、そして室内へと移され、仏に捧げる花が生活を彩る生け花へと変遷してきたのである。
生け花の歴史
現在の生け花の原型は奈良時代の供花(くげ)に始まるといわれる。神仏へ供えていた花が平安時代に入ると観賞の対象ともなり、室町時代では、建築形式の変化もあって仏は大きな伽藍から書院造の床の間の掛け軸へと移されるとともに、供花も信仰とは無縁の観賞を目的とした 「たてはな」と呼ばれる形式が成立した。「たてはな」は桃山時代には構成理論を確立し、真(しん)、副(そえ)、請(うけ)、真隠(しんかくし)、正真(しようしん)、見越(みこし)、流枝(ながし)、前置(まえおき)の七つ枝によって自然界の景色を表現するものとなった。しかし江戸時代中期の元禄年間には衰退し、代わって新しい様式の生花(せいか)が誕生した。更に、江戸時代後期になると一般の人々にも普及し、同時に、それまで男性が独占していた生け花が女性の芸事の一つとして定着することになった。明治時代に入ると自由思想が広く浸透し始めるとともに、その気風を取り入れた“盛花(もりばな)”が一気に普及し、第二次大戦後は時代を反映した前衛的な生け花が脚光を浴び、海外にまで認識されるようになった。
茶花・盛花・投入れ
茶花 / 茶室の構成要素として誕生したもの。山野草の素朴な一輪挿しなど、茶道の“侘び”の精神に沿ったものが特徴で、派手さを競う華道とは対照的である。たて花が立花として大型化したのと対照的に、茶花は投げ入れ花が小型化したものでもあった。
盛花 / 明治時代、後に小原流を創立した小原雲心が池坊の要職にあったときに考案したもので、水盤という新たな花器を使って注目を集めて盛花と名づけられた。当初、はっきりした花型を持たなかったが、いけばな人口の増加に伴って花型が規定されるようになって今日に至った。
投げ入れ花 / 江戸時代になると、単純に瓶にさす投げ入れが華麗な立花に対して普段着のいけばなとして再評価されるようになり、その後、大正、昭和にかけて盛花と共に、 「傾斜型」「直立型」「下垂型」などやさしい花型が規定された。
自由花 / 大正から昭和初期に登場したもので、創造力や自由な感覚に満ちた造形的な表現を盛り込んだいけばな。
華道の流派
生け花が広がるとともに技巧の達人や名手が数多く登場し、それが多くの流派に分かれていくきっかけとなり、今日では、池坊から枝分かれした流派の数は日本いけばな芸術協会に登録されているだけで400流派近いという。主な流派としては池坊(いけのぼう)、古流(こりゅう)、遠州流(えんしゅうりゅう)、未生流(みしょうりゅう)、小原流(おはらりゅう)、草月流(そうげつりゅう)などがある。
 
香道

 

辞書には“香木を焚いてその香りを鑑賞する芸道。組香・炷継香(たきつぎこう)・一炷(いっちゅう)・香合わせなどの種類がある。”とあるが、仏のための供香から始まった香は、その後、室内や衣装にその香りを移してもてなしや身だしなみのグッズとなり、詩歌や物語、あるいは季節の風情と結び付いて我が国独特の文化へと発展していった。以下、香の歴史を追ってみた。
奈良時代以前
聖徳太子が活躍した推古3年(595)、日本書紀に、淡路島に香木が漂着したという記述があり、これが“香”に関する最古の記事とされるが、それより更に50年ほど前、百済を経て仏教が我が国に伝えられた際に仏像や経典と共に唐文化の一つとして香が伝えられたという説がある。香料を直接火で焚いて仏前を清め、邪気を払い、厳かな雰囲気を醸し出す「供香」として用いられ、宗教儀礼としての意味合いが強かった。正倉院の遺物をみればそうした仏教と香との関わりの深さを知ることができる。
平安時代
香料が多種輸入されるようになると香料を選んで練り合わせてその香気を聞く「薫物(たきもの)」が主流になる。すでに奈良時代の末期には、仏のための供香が貴族たちの住居に持ち込まれ、家庭でも香を焚く習慣が生まれていたというが、衣服に香をたき込めてその香りを楽しむ「移香(うつりが)」や「追風(おいかぜ)」「誰が袖(たがそで)」、部屋に香りをくゆらす「空薫(そらだき)」などが日常の生活のなかにみられるようになった。
鎌倉・室町時代
武士が台頭すると、それまで貴族が好んだ「薫物」に代わって香木の自然な香りが好まれるようになる。出陣に当たって、沈香の香りを聞いて心を鎮め精神を統一させたり、甲冑に香をたき込めて戦場に臨んだともいう。また、足利義政のもとで志野宗信や三條西実隆ら文化人の手によって「六国五味(りっこくごみ)」といわれる香木の判定法や組香が体系化されたのもこの時代である。六国とは沈香の分類の基準で、香木を産地別に分類した、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那賀(まなか)、真南蛮(まなばん)、寸門多羅(すまとら)、佐曾羅(さそら)のこと。五味は味によって香りの相違を知るもので、辛(からい)・甘(あまい)・酸(すっぱい)・苦(にがい)・鹹(しおからい)。
江戸時代
“組香”の創作やそれを味わうための香道具の製作などが大いに発展し、庶民の間にも香道が浸透していっ。数百種にも及ぶといわれる今日の組香の多くはこの時期に創られたという。また、線香の製造工程が伝わったのもこの時期で、その手軽さから国内に一気に広がった。
香の流派
活動を停止したものを含め、今日では、三条西実隆を流祖とする「御家流」(おいえりゅう)、志野宗信を祖とする「志野流」(しのりゅう)が主流となっているが、志野流の分流で米川常伯を祖とする「米川流」(よねかわりゅう)や、風早実種を祖とする風早流、古心流、泉山御流、翠風流などがある。
香席におけるマナー
香炉の扱い方:香炉を左手の上に水平に乗せ、右手で軽く覆って親指と人差し指の間から香りを聞くようにする。
香の聞き方:香炉を水平に保った状態で背筋を伸ばし、深く息を吸い込むようにして三度香りを聞く。これを三息〔さんそく〕といい、吸った息は脇へ軽く逃がす。一人があまり長く聞き続けていると良い香り末席まで保てないので、一人三息は必ず守らなければならない。
香席に入るときは香水・オーデコロンなど匂いのあるものはもちろん、指輪や時計なども外す。服装は、男性はネクタイ着用、女性はスカート着用が好ましいとされている。
 
道教と古代日本「天皇」

 

天皇と道教
日本の古代文化が中国の土着宗教である道教の思想信仰と明確な関連性を持ち始めたのは、それまで「きみ」とか「おほぎみ」とか呼ばれていたこの国の元首を新しく道教の神学用語である「天皇」の概念を用いて、おごそかに、またすがすがしく呼び改めた時期からである。
その時期は、日本国として初めて中国と正式の国家的な交渉を持った遣隋使派遣の頃、すなわち聖徳太子が摂政として活躍された六世紀の終わりから七世紀の初めにかけてではないかとする説も有力であるが、道教との文献実証的に確実な関係ということになるとやはり、それよりも半世紀あまり後れる天武・持統の頃ということになる。
持統皇后を生母として天武の皇太子であった草壁皇子の西暦689年4月の若き死を悼んで、当時の宮廷歌人・柿本人麻呂の作った挽歌(「万葉集」巻二)に、「きよ清みはら御原の宮に神ながらふとしき太敷ましてすめろき天皇の敷きます国」とあるのがそれであり、その挽歌に用いられている「天皇」の語は、その五年前、天武十三年(684)に制定された「やくさ八色のかばね姓」が、中国の道教の神学で神仙世界の最級官僚を意味し、最高神の「天皇」とセットにされている「真人」の称号を、日本の天皇家の一族のみに賜る「姓」として採用していることと緊密に対応する。
日本の古代国家の元首を呼ぶ言葉として採用された「天皇」の概念は、右に述べたように本来は中国の土着宗教である道教の神学用語であったが、この「天皇」という神学的な概念が一たび日本の古代の国家元首を新しく呼ぶ言葉として採用されるようになると、その日本国の国家元首もまた必然的に「天皇」の概念が本来的にもっていたさまざまな道教的性格をほとんどそのまま継承することになる。
天皇と神器
道教の神学において、最高神である天皇は、その宗教的神聖性の象徴として二種の神器を持つとされる。鏡と剣とがそれであり、「神器」という言葉も道教の教典である「道徳真経」(「老子」)第二十九章などにその用例が見えている。
西暦712年、元明天皇の和銅五年に成った「古事記」の天孫降臨の記述において、天照大御神が邇邇芸命(ににぎのみこと)に対し、「此れの鏡は、専ら我が御魂として吾が前を拝(いつ)くがごと拝きまつれ」と詔しておられるのも、鏡を至人もしくは聖人の心、ないしは漢の王朝の劉氏の皇帝権力の神聖性の象徴と見るこれらの道教的思想信仰と密接な関連性を持つ。
一方また、剣を皇帝権力の神聖性の象徴とする道教的思想信仰も、漢の王朝の創始者・高祖劉邦の斬蛇剣の神話として既に古く「史記」や「漢書」に記述が見え、六朝時代の道教神学の確立者・陶弘景(とうこうけい)の撰著「古今刀剣録」にも、このような神剣・霊剣の宗教的神秘性ないし神聖性の具体的記述が見えている。
同じく「古事記」の須佐之男命(すさのわのみこと)の“斬蛇剣”である「草薙芸(くさなぎ)の太刀」が神剣として天照御大神に献上され、その神剣がまた天孫降臨の際に邇邇芸命(ににぎのみこと)に下賜され、その下賜された神剣がさらにまた「伊勢の大御神の宮」で倭比売命(やまとひめのみこと)から甥の倭建命(やまとたけるのみこと)に授けられて、遂に尾張の熱田神宮に奉祀されることになる?末も、道教の剣の思想信仰と密接な関連性を持つ。
道教の神学における鏡と剣を二種の神器とする思想信仰は、中国の六朝時代、「抱朴子(ほうぼくし)の著者・葛洪(かんこう)や「真誥」の編著者・陶弘景らによって、その理論的基礎が確立されるが、この二種の神器の思想信仰を日本の天皇の皇位の象徴として、ほとんど直訳的に取り入れているのは、八世紀初めに成った「日本書紀」である。
天皇と八角形
京都の御所を見学すると、紫宸殿の中央に「高御座(たかみくら)」が置かれ、その構造は明確に八角形となっている。この高御座は西暦1914年、大正天皇御即位の際に特に古式に則って造られたというが、一方また遠く古代に溯って、奈良の飛鳥の地域には七世紀後半に造られた天皇の御陵墓が幾つかあり、それらの構造も平面の形がそれぞれ八角形となっている。
さらにまた鎌倉時代に書かれたとされる神道書「皇太神御鎮座伝記」などの記述によれば、伊勢の神宮(内宮)の御神体とされている鏡もまた「八咫(やた)」もしくは「八頭、八葉形」すなわち一種の八角形であるといい、ごく最近に刊行された考古学関係の学術討論書「難波京と古代の大阪」(直木孝次郎編、学生社)を読むと、孝徳朝もしくは天武朝の前期難波宮遺跡からも「八角殿院」と呼ばれている宮殿建築の八角形礎石が発掘されたという。
いずれも日本国の天皇と八角形とが密接な関連性を持つことを示す遺跡構造の実在であるが、この関連性を有力に裏づける古代文献資料もまた容易に列挙される。
そして「古事記」の「序」にいわゆる「八荒を包みたまう」、もしくは「日本書紀」(神武紀)にいわゆる「八紘を掩いて宇と為す」などの表現も、道教の神学における宇宙の最高神・天皇(天皇大帝)の、八紘(八荒)すなわち、無限大の八角形の中心に高御座(たかみくら)を置いて、全宇宙(世界)を一宇(一家)として統治する神聖な政治理想を意味するものにほかならず、この神聖な政治理想はまた同期用の神学において、しばしば「天下太平」もしくは「天地太和」とも呼ばれている。いわゆる「八紘為宇」もしくは「八紘一宇」とは、道教の最高神・天皇(天皇大帝)の神聖な政治理想であると共に日本国の天皇の神聖な政治理想でもあった。
天皇と紫色
紫色は菊のご紋章と共に日本国の天皇ないし天皇家を象徴する尊貴な色であった。そして菊と呼ばれる植物の愛好が古くその由来を中国に持つように、紫色の尊重もまた遠くその思想的源流を中国に持つ。
もともと中国の思想史で永く正統の座を占めてきた儒教の教義では「紫の朱を奪うを悪(にく)む」という孔子の言葉(「論語」陽貨篇)が何よりも端的に示しているように、紫色は憎むべき反価値的な色であった。その紫色が西暦前三世紀――二世紀、秦漢の時代から宇宙の最高神として文献上に出現する太一神の住む宮殿を象徴する尊貴な色とされ(「准南鴻烈」天文篇)、ないしは太一神を祭る漢の皇帝たちの甘泉宮に設けた祭壇もしくは祭場の幄(とばり)を象徴する聖なる色とされるのは、太一神が漢代に北極星の神格化されたものと解釈され、その天空から地上に放つ光芒が紫色とされたからであった。
宇宙の最高神としての太一神は、西暦紀元前後、中国の前漢末期から後漢初期にかけて多数成立するいわゆる「緯書」の中に見える宇宙の最高神・天皇大帝と、その最高神である唯一絶対性の故に同一視され、この天皇大帝の住む地上世界の宮殿がまた紫宮もしくは紫微宮(紫宸殿)と呼ばれるに至る。
北極星の神格化である天皇大帝を二字に略して「天皇」と呼び、その天皇の住む天上世界の宮殿を明確に「紫宮」と呼んでいるのは、二世紀、後漢の張衡の「思玄賦」(「文選」巻十六)であるが、天上世界の天皇(天皇大帝)の委託を受けて地上の世界に君臨する皇帝(天子)の宮殿を同じく紫宮と呼んでいるのは、四――六世紀、北中国を強力に支配して道教を国教とした北魏の王朝であった。
日本国の天皇(天子)もしくは天皇家を象徴する聖なる色を紫とする思想信仰もまた、この北魏の王朝にその源流を持つと見てよいであろう。
天皇と神
この神宮という漢語は、「日本書紀」景行紀によれば、日本武尊が東夷の征討に向かわれる途中、「伊勢神宮を拝み、仍(よ)りて倭姫命(やまとひめのみこと)に辞す云々」と見え、同じく垂仁紀によれば、その伊勢神宮というのは皇室の遠祖とされる天照大神が、「この常世の波の重波帰(しきなみよ)する国に居らむと欲す」と誨(おし)えられたので、この伊勢の国の五十鈴の川上に造営されたのであるという。
ところで皇室の遠祖を祭る宮殿を「神宮」と呼ぶことは、中国最古の歌謡集「詩経」(魯頌)「閟宮(ひきゅう)」の神楽歌の鄭玄(127――200)注に、「(周王朝の)遠祖たる姜嫄(きょうげん)の神の依る所、故に廟を神宮と曰う」とあるのに基づき(「姜嫄」も女性神)、この神宮が造営された伊勢の国が「常世の波の重波帰するところ」という「常世」もまた、同じく垂仁紀に「常世の国とは神仙の秘区にして俗(人)の臻(いた)らむ所に非ず」などと見えている。
天皇家の遠祖とされる天照大神を祭る伊勢神宮の御神体が鏡であり、鏡であることが即ち道教の宗教哲学と密接な関連性を持つことについては既に述べたが、天照大神の「大神」という言葉の使用、神宮を内宮と外宮に分かち、斎宮、斎官、斎王、采女等々を置くことなども、それらの用語と共に道教をその代表とする中国古代の宗教思想ないし制度と密接な関連性を持つ。
西暦九世紀の初め、桓武天皇の延暦二十三年に伊勢神宮の神職から朝廷に献上されている「皇大神宮儀式帳」によれば、神宮の儀式儀礼の多くは道教ないし中国古代の宗教思想信仰と密接な関連性を持ち、例えば、祭祀に用いる「幣帛」や「五穀」、「人形(ひとがた)」や「五色の薄絁(うすぎぬ)」、神職の用いる「明衣(きよぎぬ)」、「裙(も)」、「袴(はかま)」にいたるまで、道教的な中国のそれが大幅に取り入れられている。
天皇と神道
「神道」という言葉が中国の思想文献で最も古く見えているのは、「易経」の「観」の卦の彖伝(たんでん)である。彖伝というのは、「易経」の六十四卦のそれぞれについて一卦のもつ総体的な意味を解説した文章であり、「観」の卦の彖伝の文章は、「盥(てあら)いて薦(すす)めず、孚(まこと)有りて、顒若(うやうや)し。下観て化するなり。天の神道に観て四時忒(たが)わず、聖人は神道を以って教を設けて天下服す」となっている。
神を祭る場合には先ず手を洗って身心を清める。そして、お供物などをすすめる前の、これからお祭りを行なうという精神の緊張した状態こそ真心がこもっていて敬虔さの極致であり、しもじもの人間に対して偉大な政治的感化力を持つ。聖人すなわち最高の有徳の為政者は、春夏秋冬、季節の循環に規則正しい大自然の、神秘霊妙な造化の真理を観察して、その真理に基づく政治教化を実践していく。かくて全世界の人間が悉くその政治教化に服従し、天下の太平と天地の太和とがこの地上の世界に実現するというのが、この文章の大意である。
そして、このような天下の太平と天地の太和の実現を天上世界の皇帝である「天皇」と結びつけて、「易経」よりもさらに徹底した宗教的信仰の立場で「神道」=神の世界真理=を強調しているのは、二世紀の半ば、中国の山東瑯邪(ろうや)の地区で「天神」から「神書」=神道の聖書=として道術の士の干吉(かんきち)に授
わが日本国において「神道」という漢語を最初に用いているのは、八世紀の初め、元正天皇の養老四年(720)に成った「日本書紀」であるが、例えば、「天皇、仏法を信じて神道を尊ぶ」(用明紀)、また「天皇、仏法を尊び神道を軽んず」(孝徳紀)などという「神道」の概念の使用法は、上記干吉の「太平清領書」のそれに最も近い。ただ天皇の概念が「太平清領書」における天上世界の皇帝から、七世紀、唐の高宗(649―683在位)における「天皇」の称号の使用と同じく、地上の世界の皇帝を呼ぶ言葉として変移していること、天皇が宗教的信仰もしくは祭祀祈祷の対象としてよりも祭祀祈祷の主宰者、すなわち新党の実践者として規定されている点が大きく異なる。
 
憶良述懐

 

貧窮問答歌 ( 【】は原注)
天平五年(七三三)も病で明けた。
平城(なら)は雪だ。
今夜のように雨がまじり、風が吹く夜は殊に節々が痛む。
眠れない。しかたなく藁床(わら-どこ)をはい出してかまどに行き、燃え残りに枯れ枝をくべて湯を沸かし、酒かすを溶いた。
咳(せき)が出る。そのつど鼻水をずるずるいわせ、あるかないかの鬚(ひげ)をかきなで、われほどの者はあるまいと、貧乏を誇ってはみるが、それでも寒ければこうして夜着をひっかぶり、ありったけの着物を重ね着して、たとえ酒かすのようなものでも塩をこそいではなめ、なめてはすすれるのだからと思うと、われよりも貧しい人のことが思いやられて侘(わ)びしかった。
われよりも貧しい人は、その父母(ちち-はは)は飢え凍り、妻や子は食べ物を求めて泣いているだろう。
そんなとき、お前さんは一体どうやって世の中を渡って行こうとお考えになられるのだい。
そうだろうそうだろう、そうだろうなあ。世渡りもくそもあったものではないはなあ。
天地は広いというが、われには開いてはくれない。日月は明るいというが、われには照ってはくれない。
みなもそうか、いや、われだけが邪険にされているのだ。
たまたま人と生まれきて、人並みに田畑を耕しているというのに、綿もなく、着物はミルかワカメのように破れちぎれ、ぼろだけが肩にかかって、たて穴の、草ぶきの、つぶれ家に住んで、地べたにわらを敷き並べ、父や母はわれの頭の方に、妻や子はわれの足の方に寄り添って嘆き悲しみ、かまどには火の気もなく、甑(こしき・米の蒸し器)にはクモが巣を張り、飯の炊き方さえも忘れ、おうおうと鳴くフクロウのような声でうめいているというのに、その上まだ「短い物の端を切る」といったぐあいで、竹のむちを持った里(さと)役人が税を出せと、寝ているところまで来てやかましく怒鳴り立てるのだから、たまったものではないわな。
まったくなあ、このように手立てがないのが世の中のきまりというものか。鳥であったら、飛び立って逃げ出すこともできようが。
とまあ、独りぼやいていると、
風雑(まじ)り 雨ふるよの 雨まじり 雪ふるよは すべもなく 寒くしあれば堅塩(かたしお)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ)
というのが口をついて出たので、
うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかき撫(な)でて あれをおきて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻被(あさ-ぶすま) 引きかがふり 布かた衣(ぎぬ) ありのことごと 着そえども 寒き夜すらを われよりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣からむ 此時(この-とき)は いかにしつつか 汝(な)が代(よ)はわたる
と続けて、
天地(あめつち)はひろしといへど あがためは 狭(さく)やなりぬる 日月は あかしといへど あがためは 照りやたまはぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに ひととはあるを ひとなみに あれもなれるを 綿もなき 布かた衣(ぎぬ)の みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け ふせいおの まげいおのうちに 直土(じか-つち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕のかたに 妻子(めこ)どは 足のかたに 囲み居て 憂(うれ)ひ吟(さまよ)ひ かまどには 火気(ほけ)ふきたてず こしきには くものすかきて 飯炊(いい-かし)く 事もわすれて ぬえ鳥の のどよひおるに いとのきて 短き物を端きると いへるが如(ごと)く 楚(しもと)取る 五十戸(さとおさ)らがこえは 寝やどまで 来(こ)立ちよばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道
と長歌にし、
世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
世の中を 苦しくつらく 思うけど 飛び立てないなあ 鳥でないから
と、三十一文字(みそひと-もじ)を添えて「貧窮問答歌一首あわせて短歌」と題し、「山上憶良頓首(とん-しゅ。頭を地につける。深く敬礼する)」としてみたが、贈るあてもなく、ほとんど愚痴だった。
どうしてこんなにも愚痴っぽくなったのか。病のせいか、それとも命に限りが見えてきたからか。
別棟(べつ-むね)にはまだ食い盛りの子がいるというのに、何の罪を犯してこのように病み、このように老いて行くのか。
ともし火までが心細かった。
翌朝、雪は止んでいた。遅い朝食を摂って、気晴らしに文章を書いた。
「沈痾(ちん-あ)自哀の文(持病を自らかなしむ文)」。
ひとり静かに思うのだが、朝夕、野や山に狩猟する者【常に弓矢を持ち、殺生を避ける禁猟日(毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)を守らず、出会う禽獣(きんじゅう。鳥とけだもの)は大小、腹に子を宿すものも宿さないものも考えず、共にみな殺して食らい、これを職業とする者】でもなお災いもなく世の中を渡ることができ、昼夜、河や海に漁猟する者【漁夫と海女はそれぞれ働くところが違い、漁夫は手に竹竿(たけ-ざお)を持って波の上で釣る者、海女は腰に鑿(のみ)と篭(かご)をさげて深みの底に潜って採る者】でもなお幸いを受けて生涯を終えている。まして、われは生まれてより今日まで、善を修める志をもち、いまだかつて悪をする心をもったことはなかった【釈迦の教えを聞くことをいう】。ただひたすら三宝(さんぼう。仏・法・僧。みほとけ。仏教の別称)を礼拝し、一日として勤めない日はなかった【毎日誦経(ず-きょう)し、懺悔(ざん-げ)の意を現わしたことをいう】。加えて多くの神々を敬い、夜も欠かしたことはなかった【天地の神々などを敬い拝んだことをいう】。それであるのに、ああ、恥ずかしいことだ。われは何の罪を犯してこの重い病に遭ったのか【いまだに、過去に造った罪であるのか、前世に犯した過(あやま)ちであるのかを知らない。罪を犯していないのであれば、どうしてこの病を患ったのかということをいう】。
はじめて病に罹(かか)って以来、年月はかなりになる【十余年経っているのをいう】。
いま現在われは七十四である。ひげも髪も白く斑(まだら)になり、筋肉の力も弱くなった。ただ年老いただけではない。更にこの病が加わっている。
諺(ことわざ)にいう「痛む傷に塩を注ぎ、短い物の端を切る(不運な上に不運が重なる。泣きっ面に蜂。弱り目にたたり目)とは、このことをいったのである。手足は動かず、節々はみな痛み、からだは非常に重く、鈞石(きん-せき。目方を量る重し。分銅)【二十四銖(しゅ)を一両、十六両を一斤(唐一斤六〇〇グラム)、三十斤を一鈞、四鈞を一石(せき)とする。斤に換算すると百二十斤である】を背負っているようなものだ。天井の梁(はり)から下げた布に手をかけて立とうとすると、翼の折れた鳥のようだし、杖にすがって歩こうとするとまるで足の不自由な驢馬(ろ-ば)だ。
われは早くから世俗に漬(つ)かり、心も俗事にわずらわされていたので、禍(わざわい。不幸)が潜んでいるところや祟(たたり。神仏の罰)が隠れているところを知りたく思い、占い師の家や巫女(みこ)・神主の家に行って訊ねなかったことはなかった。その答えが真(まこと)であっても妄(いつわり)であっても彼らの教えにしたがって幣帛(へい-はく。神への供え物)をお供えし、お祈りしなかったことはなかった。にもかかわらず、ますます苦しみは増し、少しも治らない。
われは聞いたことがある。昔は良医(りょうい。すぐれた医者)が多くいて、人々の病気を治した、と。楡柎(ゆ-ふ)、扁鵲(へん-じゃく)、華他(か-た)、秦(しん)の和(か)と緩(かん)、葛稚川(かつ-ちせん)、陶隠居(とう-おんこ)、張仲景(ちょう-ちゅうけい)などはみなこの世に実在した良医で、疾患を除き、治さないということはなかった【扁鵲(へん-じゃく)は渤海郡の人である。胸を割いて心臓を手にとり、改めてこれを置き、神薬(しん-やく。よく効く薬。妙薬)を入れると、目がさめたときにはもとのようなからだになっているのである。華他(か-た)は沛(はい)国(安徽〈あんき〉省北部)の人である。疾患が凝結(ぎょう-けつ)してそれがからだの奥深くにあれば、腸をえぐって病根を取り出し、縫い合わせて膏薬(こうやく)を塗る。四五日で癒えた】。だからといって、上に述べたような医者を望んでも必ずしも手が届くものではない。もし、良医に巡りあえば、敬い願って五臓(肺・心・脾〈すい〉・肝・腎臓)を割きえぐり、取り出して難病を探し、尋ね求めて膏盲(こう-こう。腹と胸の間)【盲(こう)は鬲(かく。隔てた部分)であり、心臓の下を膏(こう。脂肪)とする。鍼(はり)で攻めても攻めることができず、達しても達することができない。薬も届かないのである】の奥深いところに至り、ふたりの童子が逃げかくれたところ【春秋時代(前七七〇〜前四〇三)、晋(しん)の景公は病んで秦の医者緩(かん)を招いた。景公は緩が来る前に夢をみた。病がふたりの童子になって「膏盲にいれば緩も探し出せまい」と、話し合っていた。案の定、緩は景公を診察して「攻めても攻めることができず、達しても達することができません。薬も届かないので手がつけられません」といって帰って行ったのをいう。妖鬼(ようき。ばけもの)に殺されたというべきである】を顕(あきら)かにしたいものだ。生きる年数がすでになくなり、その天寿(てん-じゅ。天から与えられたいのち)が終わるのでさえ、なお悲しみとするのである【聖人・賢者・すべての生き物、誰がこの死を避けて通ることができようか】。まっして、寿命なかばで鬼(死神)に無理やり殺され、顔つきは壮年なのに病のなすがままに苦しめられる者ともなればいうまでもない。この世に生きている間じゅう大病であるのとどっちがひどいか【志怪(し-かい)記にいう。「広平郡の前の長官、北海郡(山東省)の徐玄方(じょ-げんほう)の娘が十八歳で死んだ。彼女の霊が馮馬子(ふう-まし)に語っていった。 「わたしの寿命を考えてみますと八十余歳まであります。いま鬼に無理やり殺されてすでに四年になります」と。彼女は馮馬子に遇ったことで再び生き返ることができた」。やはり生きることである。仏典もいっている。「インド人の寿命は百二十歳である」と。控え目に考えても、この年数は必ずしも越えられないものではない。なぜなら、寿延経(じゅえん-ぎょう)にいっているからである。「比丘(びく。僧)がいた。名を難達(なんだち)といった。命(いのち)が終わるとき、仏に詣(もう)でて延命をお願いしたところ十八年延(の)びた」と。ただし、善を修めれば天地と共にその命を終える(長生きできる)。若死には前世に行った善悪の報いが招くのである。その善行の長短によって寿命は半分となる。まだその年数が満たないうちに、しばしば死去するから、齢(よわい。年)なかばにしてというのである。梁(りょう)の任徴(にん-ちょう)君はいっている。「病は口より入る。だから、君子はその飲食を節制する」と。これに基づいていえば、人が病気に罹(かか)るのは必ずしも妖鬼ではない。何よりもまず、医者や学者の忠告、摂ってはいけない飲食物の教え、知り易く行い難いとする心の愚かさ、この三つは目に満ち耳に満ち、由来(ゆらい。来歴)も古い。抱朴子(ほうぼくし。葛洪〈かつ-こう。字〈あざな〉稚川〈ちせん。二八三〜三六四〉著)はいっている。「人はただ、その死ぬ日を知らないから、心配しないだけである。もし実際に、仙人が死期を延ばしていることを知れば、必ずこれをするはずである」と。このことによってみてもわかる。われの病は飲食が招いたのである。なんとか自分で治すことはできないものか】。
帛公略説(はくこう-りゃくせつ。古書名)にいう。「心に従い、自ら励む。これによって長生きする。生は貪(むさぼ)るべきであり、死は恐れるべきである」と。天地がもたらす恵みを生命という。したがって、死んでしまった人は生きた鼠(ねずみ)にも及ばない。王侯貴族であるといっても、一日でも息が絶えれば、黄金を山のように積んでいても誰が富豪と認めようか。権勢威力が海のようだとしても誰が貴人といようか。遊仙窟(ゆうせんくつ。唐の張文成著)にいう。「あの世の人は一銭の価値もない」と。孔子もいう。「生を天に受け、変えることができないのは形である。命を天に受け、求め増やすことができないのは寿命である」と【鬼谷(きこく)先生の相人書(そうじん-しょ。人相をみる本)に見える】。
そこで知るのである、生が極めて貴く、命が至って重いということを。ことばにしようとすればことばに苦しむ。何によってこれをことばにするか。考えようとすれば考えに苦しむ。何によってこれを考えるか。
思うに、人は賢者も愚者も、世間は昔も今も、すべてことごとくが嘆く。 「歳月は競い流れ、昼夜は休みなし」と【曾子(孔子の弟子)はいっている。「往って帰らないものは年月である」と。宣尼(せんじ。孔子)が川に臨んで嘆いたのもまたこれである】。
老いと病はたがいに催促しあって朝に晩にわれを侵し乱す。席の前の一代の歓びと楽しみがまだ終わらないのに、千年の愁いと苦しみが新しく座の後ろにきている【魏(二二〇〜二六五)の文帝(初代)が時の賢人を惜しんだ詩にいう。「まだ園遊の夜が尽きないのに、たちまち霊園の塵となる」と】【古詩にいう。「人の一生は百に満たないのに、どうして千年の憂いを抱くのか」と】。
総じて(一般に)生きものの類(たぐい)はみな限りある身であるから、ともに限りない命を求めて止まないのである。道士(どうし。占いや医術を修行する人)が自ら製薬書を背負い、名山に入って薬を調合するのも、生命を養い精神を和(やわ)らげ、長生きを求めるからである。
抱朴子にいう。「太古の帝王神農(しんのう)は「難病が治らないのにどうして長生きできるのか」といった」と。
帛公もまたいう。「生は良いものであり、死は悪いものである。もし不幸にして長生きできないのであれば、せめて生涯病を患わないことで幸せとせよ」と。
いま、われは病に悩まされ、横になることも座ることもできない。東を向いたり西を向いたりするだけで、どうしてよいかわからない。
幸せでないことといったらこの上なく、不幸はすべてわれに集まる。「人が願えば、天は従う」というが、まことであれば、仰ぎ願って急いでこの病を取り除き、頼み込んでもとのようなからだになることである。鼠(ねずみ)【すでに上に見える】を喩(たと)えにして、「死人は生きた鼠にも及ばない」といったが、どうして恥じないことがあろうか。たとえ鼠といわれても生きていることに越したことはないのである。」
しかし、諄(くど)いな。ご丁寧(ていねい)にもくだくだと【注】をつけたからか。詩経(中国最古の詩集。孔子編)にいう。「汝を教えること諄諄(じゅん-じゆん)」と。
それとも老いたからか。春秋左氏伝(左丘明著)にいう。「まさに年いまだ五十に満たず、しかるに諄諄たるか八九十の者のごとく」と。
いすれにせよ、この二つは免れない。くどいのはやはり老いたからだ。
家婢(かひ。下女)が便器を取り替えに来て、県(あがた)犬養の橘(たちばな)の三千代の宿祢(すくね。八姓の三位。敬称の場合は姓名の下につく)が死去なされた、と告げて行った。
正月の十三日というのだから、五日前だ。葬儀は散位(位階だけ)の一位に准(じゅん)じて行なわれるそうだ。
ご冥福を祈るしかない。
飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)の宮の御世(六七三〜六九三)に命婦(みょう-ぶ。女官五位以上の称)となられ、美努(みの)の王に嫁がれて佐為(さい)の王や葛城(かつらぎ)の王らを儲(もう)けられたあと、藤原不比等(ふじはら-の-ふひと。鎌足の第二子)の朝臣(あそみ。八姓の二位)の夫人になられて光明皇后をご出産なされ、皇后が皇太子であられたご同年の今上天皇(聖武天皇)の妃に迎えられたのを機に後宮に入られて御孫姫(ご-そんぴ)阿倍内親王(あへ-ないしんのう。孝謙天皇)のお世話をなされておられたのに、淋しいかぎりだ。
一人欠き、二人欠き、今までどれだけ多くの知人友人をあの世へ送り出したか。たとえ、地・水・火・風の四大(し-だい。仏教で物質を作るとされる四元素>。仏教は唯物論)からなる仮合の身(けごう-の-み。肉体・感覚・想像・心の働き・意識の五つが集まった煩悩の根源。いのち)とはいえ、あまりにもはかなく空しいではないか。
これを悲しまずにおられようか、これを嘆かずにおられようか、そこで再び筆を執ることにした。
「俗道の仮合(け-ごう。この世のいのち)の、すなわち離れて去りやすく留まり難いのを悲しみ嘆く詩、一首あわせて序」
ひとり静かに思うのだが、釈・慈(しゃく・じ)【釈迦(しゃか)と弥勒菩薩(みろく-ぼさつ)】が示す教えは、先に三帰(さん-き)【仏・法・僧を信じて頼る(帰依〈き-え〉する)こと】と五戒(ご-かい。五つの戒め)【一に生きものを殺さない、二に盗みをしない、三に不倫をしない、四にうそ偽りをいわない、五に酒を飲まない、の五悪禁制】を述べて、仏の世界に導くことであり、周(周王朝の礎〈いしずえ〉を築いた周旦〈たん〉)・孔(周旦を理想とした孔子)が伝える教えは、前(さき)に三綱(さん-こう。三本のおおつな。人として守らなければならないきまり)【君臣・父子・夫婦の道】と五教(ご-きょう。五つの教え)【父は義・母は慈・兄は友・弟は順・子は孝】を述べて国家を救うことである。これで知るのである。善に導く方法は二つあるが、心の迷いを取り除き、悟りを得るのは仏教である、と。
ただ思うに、世の中に永久不変なものはない。だから、丘が谷になったり、谷が丘になったりするのである。人にもきまった死期はない。だから、寿命も同じではない。瞬(またた)く間に百年は終わり、臂(ひじ。肘)を伸ばす間に千年もまた空になる。朝(あした)に座席の主(あるじ)であっても、夕(ゆべ)には墓場の客となる。駿馬(しゅんめ。足の速いすぐれた馬)で走ってきても、あの世には追いつけない。隴山(ろう-ざん。陝西〈せん-せい〉省と甘粛〈かん-しゅく〉省の間にある山)のほとりの青松は、信義の剣(呉の季札〈きさつ〉が帰りに徐君の墓標に贈った剣。史記または蒙求407参照)をむなしくかけ、野中の白楊(しろ-やなぎ)はただ悲しく風に吹かれている(古詩〈文選収録〉の一句。古い墓は耕されて田となり、松柏〈しょう-はく。まつとかしわ〉は砕かれて薪〈たきぎ〉となる。白楊〈しろ-やなぎ〉はただ悲しく風に吹かれ、ものさびしげに人の死を愁う)。これで知るだろう。世の中にはもともと死から逃れ隠れる場所はなく、原野にただ墳墓があることを。釈迦はすでにこの世を去り、孔子もこの世にはいない。もし、財貨で死を買い取り、免れることができるのであれば、古人の誰にその買い取る金がなかったといえようか。いまだに独り生きながらえて、遂に世の終わりを見たという人を聞かない。だから、維摩経(ゆいま-ぎょう)の主人公も方丈(ほう-じょう。三メートル四方の部屋)に病み、釈迦もからだを沙羅双樹(さらそう-じゅ)におおわれたのである(死んだのである)。涅槃経(ねはん-ぎょう。釈迦が死ぬときに説いたといわれる仏典)にいう。「黒闇(こく-あん)が後に来るのを願わないのであれば、徳天が先に来るのを入れてはならない」【徳天は生であり、黒闇は死である】と。再び知るがよい。生には必ず死があり、死をもし願わないのであれば生まれて来ないことである。まして仮にも生存年数を知って、その死ぬ時期を心配してどうするか。
俗道の変化は撃目(げきもく)のごとく  人事の経紀(けい-き)は伸臂(しん-ぴ)のごとし  空しく浮雲と大虚(おお-ぞら)を行き  心力ともに尽きて寄るところなしろなし
この世の移り変わりは瞬〈またた〉く間であり  人の一生は肘〈ひじ〉を伸ばすほどの短さだ  むなしく浮雲と大空を行くようなもので 心も力も尽きて身を寄せるところはない
死ぬしかないとは、達観(たっ-かん)に過ぎたか。
思えば詩歌の類(たぐい)をはじめて作ったのは、遣唐少録(しょう-ろく。書記官補)として唐に使いしていた四十五歳の時だった。
いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴(おおとも)の 御津(みつ)の浜松 待ち恋いぬらむ
さあ漕ぎ手よ 早く日本へ帰ろう 難波の浜の松が 待ち焦がれているだろう
を詠んだのがそれだ。 しかしこれは、帰国できる自分の喜びよりも、越州(えっ-しゅう。長江河口)で乗船してきた三人の老爺(ろう-や)に感動したからだ。  
亡命
彼らは四十年前、日本が百済(くだら)の救援に送り込んだ日本兵だった。白村江(はくそんこう。はくすきのえ。錦江)の戦で唐軍に捕らえられて官奴(かんど。六十歳満期の奴隷)にされていたのだ、といった。
四十年間、どれほど郷里を恋しく思い、帰りたかったことか。
日焼けして、深いしわに刻まれていたあの三人の顔は今でもはっきり覚えている。
いずれも頬がこけ、背の一番高かったのが讃岐の国那珂(なか)郡錦部(にしきべ)の刀良(とら)、頭が禿げ上がっていたのが陸奥(むつ)の国信太(しのだ)郡生壬(にぶ)の五百足(いおたり)、鼻の下にほくろがあつたのが筑紫(ちくし)の国山門(やまと)郡許勢部(こせべ)の形見(かたみ)で、帰国後、朝廷から労苦をねぎらわれて衣(ころも)一襲(ひと-かさね。上下の単位)に塩や穀(たなつもの。稲)を賜わられておられたが、まだ生きておられるだろうか。
あの時、われは、帰れる国、帰って行く国のあることをうれしく思いながらも、あの戦(いくさ)でどれほど多くの者が命を落とし、あるいは捕らわれの身となったかを知り、改めて申しわけなさ、すまなさを感じたものだ。 
彼らが送り込まれた国、百済(くだら)こそ、われが生まれた国だったからだ。
われは四歳だった。
天智称制(天皇代行)二年(六六三)、再興を計る遺臣(残された家来。旧臣)らの抗戦も虚しく、百済は滅亡した。
その日のことを、われが史料の訓詁注釈(くんこ-ちゅうしゃく。字句の意味解釈)で関与した「日本書記」は次のように記している。
「九月七日、百済の州桑(つぬ)の城がはじめて唐に降(くだ)った。このとき、国(百済)の要人(重要な地位にいる人)はともに語っていった。
「州桑(つぬ)は降った。この事態をどうするか。百済の名は今日ここに絶える。どうして墳墓の地(故郷。本籍地)に行くことができようか。ただ、弖礼(てれ)の城に行って日本の軍将らに会い、この先どうするかを相談することはできる 」と。
遂に、枕服岐(しぬふき)の城にいる妻子らを説得して国を捨てる覚悟をさせた。
十一日、牟弖(むて)に出発。
十三日、弖礼(てれ)に着く。
二十四日、日本水軍および佐平(さへい。百済官位十六位中一位)の余自信(よ-じしん)、達率(たつそつ。同二位)の木素貴子(もくそ-きし)・谷那晋首(こくな-しんしゅ)・憶礼福留(おくれい-ふくる)とあわせて国民(くに-たみ)らが弖礼(てれ)に着き、翌日船で発ってはじめて日本に向かう、と。」
これより先、斉明天皇六年、百済義慈(ぎじ)王二十年(六六〇)、王都扶余(ふよ)が落とされ、唐・羅(ら。新羅〈しらぎ〉)軍の陵辱(りょうじょく。はずかしめ)を恐れた女官三千余人が白村江に身を投げたということだが、われには炎以外記憶がない。
父は妻子らに手を貸すことなく、書籍を詰めた箱を担いでただひたすら歩き続けたと、後年語っていた。
その書籍が渡日してのち、どれほど役に立ったか、われの学問はすべて父のそれによるのだ。
朝廷は、亡命してきた父ら百済の遺臣を挙げ用い、秦(はだ)・漢(あや)・史(ふひと)といった豪族に縁故のない国民(くに-たみ)らは東国に住まわせたが、「書紀」を開いたついでに、百済滅亡の兆しが見える斉明天皇四年(六五八)から父が死ぬ朱鳥(あかみ-どり)元年(六八六)までの記事を顧みてみることにした。  
日本書紀
斉明天皇四年(六五八)「われが生まれる二年前だ」
この年、越(越前・越中・越後)の国守(こく-しゅ。長官)阿倍(あべ)の比羅夫(ひらふ)が粛慎(しゅくしん。北海道または沿海州という)を討ち、生きた羆(ひぐま)二匹と羆の皮七十枚を朝廷に献上した。
沙門(しゃ-もん。出家者。僧侶)の智踰(ちゆ)が指南車(古代中国の羅針盤)を造った。
出雲の国がいった。
「北の海の浜に魚が死んで積もり、三尺(唐尺約30センチもの高さになった。その大きさはフグのようで、雀(すずめ)のくちばしと針のような鱗(うろこ)があり、鱗の長さは数寸(唐寸約3センチ)、世間では 「スズメが海に入って魚となったもので、名を雀魚(すずめいお。ハリセンボン。別名すずめふぐ)という」と申しております」と。【ある本にいう。斉明天皇六年(六六〇)の七月に、百済の使いが「大唐と新羅が力を合わせてわが国百済を撃ち、義慈王ならびに王后・王子を捕虜にして連れ去った」と申して来る。これによって、日本が兵士と武装兵を百済西北の国境(くに-ざかい)に送り、城や柵(さく。とりで)を修理して山や川を断ち塞ぐ兆(きざ)しである、と】
また、西海節度使(さいかい-せつどし。九州総括軍事官)阿曇(あずみ)の頬垂(つらたり)が百済から還って来て、申した。
「百済が新羅を討って還って来た。時に、馬が昼も夜も休まず寺の金堂を巡り、ただ草を食うときにだけ止まった」と。【ある本にいう。斉明天皇六年(六六〇)になって、百済が敵のために滅ぼされるとの印(しるし)である、と】
五年(六五九)「われが生まれる一年前だ」
正月三日  斉明天皇が紀の温泉(ゆ)から帰られた。
三月一日  天皇は吉野に出かけられ、生贄(いけ-にえ)の祭りをなされた。三日、天皇は近江(おうみ)の平浦(ひらうら)に行かれた。十日、吐火羅(とから)人(四年前、日向〈ひゅうが。宮崎県)に漂着した二人の男と二人の女。ミャンマーまたはチベット人ともいわれる)が、妻の舎衛(しゃえ)夫人(同じく漂着の北部インド人)とともに来た。
十七日  甘檮(あまかし)の丘の川原に須弥山(すみせん。仏教の象徴で、世界の中心をなす高山。ヒマラヤを模すともいわれる)を作り、陸奥(むつ)と越(こし。越前〈福井北部〉・越中〈富山〉越後〈新潟〉)の蝦夷(えみし。先住民)をもてなした。
この月、阿倍の臣(おみ。八姓の五位)【名を欠く】を派遣し、水軍百八十艘(そう)を率いさせて蝦夷(えみし)の国を討たせた。
阿倍の臣は、飽田(あきた)・渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷二百四十一人の捕虜のうち三十一人、津軽郡の蝦夷百十二人の捕虜のうち四人、それと胆振サエ(いふりさえ)の蝦夷二十人を一箇所に選び集めてもてなし、禄を賜わった。そこで、船一隻と五色に染めた絹をその地の神に祭り、肉入籠(ししりこ)に行った。時に、問菟(とひう)の蝦夷胆鹿嶋(いかしま)と菟穂名(うほな)の二人が進み出ていった。「後方羊蹄(しりへし)に役所を置くべきです」と。阿倍の臣(おみ)は胆鹿嶋(いかしま)らのことばに従って、郡領(ぐん-りょう。郡の役所)を設置して帰った。
道奥(みち-の-く)と越(こし)の国司(こく-し。国府の役人)に位二階級、郡の長官と次官にそれぞれ一階級を授けた。【ある本にいう。阿倍の比羅夫が粛慎と戦って帰り、捕虜四十九人を献上した、と】
秋七月三日  坂合部(さかあいべ)の連(むらじ。八姓の七位)石布(いわしき)と津守(つもり)の連(むらじ)吉祥(きさ)を唐に使いさせ、陸奥の蝦夷男女二人を唐の天子(三代高宗)に見せた。
伊吉(いき)の連(むらじ)博徳(はかとこ)の日誌にいう。
「斉明天皇の御世、坂合部(さかあい-べ)の石布(いわしき)の連(むらじ)と津守(つ-もり)の吉祥(きさ)の連らの二つの船が呉唐(中国)に使わされた。
五年(六五九)七月三日、難波の津より発つ。八月十一日、筑紫の大津の浦(博多湾)より発つ。九月十三日、百済の南の国境(くに-ざかい)の島に行き着く。島の名は明らかでない。十四日、午前三時〜五時、二つの船は共に従い大海原に出る。十五日、日没時、石布(いわ-しき)の連の船が横からの逆風に遭って南海の島に漂着。島の名はニカイ。島人(しま-びと)に沈められ、東(やまと)の漢(あや)の長(なが)の直(あたえ)阿利麻(ありま)と坂合部(さかあいべ)の連(むなじ)稲積(いなずみ)らの五人は島人の船を盗んで乗り、逃げて括州(かつしゅう。浙江省麗水)に到り、州県の役人に送られて(後日)洛陽の都に到着した。十六日、吉祥(きさ)の連の船は越州(浙江省)の会稽(かいけい)県須岸山(すがん-せん。舟山列島)に行き着いた。東北の風が吹き、風が非常に速かった。廿二日、余姚県(ようよう-けん。浙江省)に行き着いた。乗って来た大船およびいろいろな道具類はそこに繋ぎ留めて残した。閏(うるう。余りの。二度目の)十月一日、越州の役所に行き着いた。十月十五日、駅ごとの馬を乗り継いで長安京(西安)に入った。二十九日、駆けて東京(とうけい。洛陽)に行った。天子(唐三代高宗)が東京におられたからである。
三十日、天子はお会いなされて、お尋ねになられた。
「日本国の天皇は平安であられるかどうか」
使者(副使の吉祥)は謹んで(気をつけて)答えた。
「天地の徳を集めて、おのずから平安を得ております」
天子は尋ねて申された。
「政治に携わる大臣らは達者であられるかどうか」
使者は謹んで答えた。
「天皇が憐れみ重んじ、大いに達者であります」
天子は尋ねて申された。
「国は平和であるかどうか」
使者は謹んで答えた
「統治は天地の道理に適い、万民は無事であります」
天子は尋ねて申された。
「これら蝦夷の国はどこにあるのか」
使者は謹んで答えた
「国は東北にあります」
天子は尋ねて申された。
「蝦夷は幾種類か」
使人は謹んで答えた
「類は三種類あります。遠くは津軽(つがる)と名づけ、次は麁(あら。粗暴)蝦夷、近くは熟(にぎ。融和)蝦夷と名づけております。今この熟蝦夷は毎年本国の朝廷に貢ぎ物を奉っております」
天子は尋ねて申された。
「その国に五穀(稲・麦・粟・黍・豆)はあるのか」
使者は謹んで答えた。
「ございません。肉を食らって生活しております」
天子は尋ねて申された。
「その国に家屋はあるのか」
使者は謹んで答えた。
「ございません。深山の中の樹の下に住んでおります」
天子は重ねて申された。
「朕(ちん。天子の自称。われ)は蝦夷のからだや顔の異なるの見て極めて喜び、不思議に思った。使者は遠くから来られてご苦労であった。退いて館(やかた)の中でおられよ。後でまたお目にかかろう 」と。
十一月一日、朝廷で冬至の宴会があり、再び天子にお会いした。宮殿に参上した諸外国の中で倭(やまと。日本)の客が最もすぐれていた。後に出火の騒ぎで宴会をやめたが、出火のことは調べなかった。十二月三日、韓の智興(ちこう)の従者西漢(かわち-の-あや)の大麻呂が嘘をいって、わが国の使者を中傷した。使者らは唐の朝廷に捕らえられ、罪を言い渡されて流罪がきまった。まず、智興を三千里(唐里約六キロ)の外に流すことになった。使者の中に伊吉(いき)の連(むらじ)博徳(はかとこ)がいて申し上げたところ、直ちに罪を許された。事が終わってのち、天子の命令が下った。
「国家(唐)は来年かならず海東(朝鮮半島および日本)の政(まつりごと。百済侵攻)をおこなう。汝ら倭(やまと。日本)の客は東に帰ってはならない」と。
遂に西京(長安)に留められ、別な場所に監禁されて身動きも許されず、困苦して年月を経た、と。」
難波の吉士(きし)男人(おひと)の日誌にいう。
「「大唐に向かった大使の船が岩礁に触れて転覆した。そのため、副使が自ら天子にお会いして蝦夷をお見せした。蝦夷は白鹿の皮一枚に弓三張(ちょう)と矢八十本を天子に献上した 」と。」
十二月十五日  群臣(多くの家来)に命じて、飛鳥(あすか)京の寺々に盂蘭盆経(うらぼん-きょう)を勧めて説かせ、先祖に報いさせた。
この年、出雲の国造(くに-の-みやつこ。首長)【名を欠く】に命じて。出雲大社を修理させ、厳(おごそ)かにした。狐が意宇(あう)郡の使用人が管理する葛(かずら)の梢(こずえ)を食いちぎって逃げた。また、犬が死人の腕を揖(いうや)神社に食い残した【天子がお亡くなりになる兆しである】
また、高麗(こま。高句麗。朝鮮北東部の国)の使者が羆の皮一枚を持って、その値段を「綿にして六十斤」といった。市場の役人は笑って立ち去った。
高麗の絵師の子麻呂が同姓の客を自宅に接待した日、官(かん。おおやけ。朝廷)の羆の皮七十枚を借りて客の席にした。客らは勧められるのを訝って(いぶかって。不審がって)帰って行った。
六年(六六〇)「われが生まれた年だ」
春正月一日  高麗の使者乙相(いつそう。官位名)賀取文(か-しゅもん)ら一百人余りが筑紫に来て泊まった。
三月  阿倍の臣(おみ)【名を欠く】に水軍二百艘を率いさせ、粛慎(しゅくしん。みちはせ)の国を討たせた。
阿倍の臣(おみ)は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて大河(石狩川という)に行った。渡島(わたり-しま)の蝦夷一千余りが海辺に群れ集まり、河にむかって家を連ねていた。
家から二人が進み出て、急に叫んでいった。
「粛慎(しゅくしん。みちはせ)の水軍が多く来てわれらを殺そうとするので、できることなら河を渡って行って仕官したい」と。
阿倍の臣は船を遣って二人を呼び寄せ、賊(粛慎)の隠れ家とその船の数を訊(たず)ねた。
二人の蝦夷はすぐに隠れ家を指していった。
「船は二十艘(そう)です」と。
阿倍の臣(おみ)は使いを出して粛慎(しゅくしん。みちはせ)を呼んだ。しかし、来るのを承知しなかった。そこで、絹物や武器・刃物などを積み上げて欲しがらせた。すると、粛慎は水軍を連ね、羽を木に結びつけて旗とし、棹(さお。かい)をそろえて漕いで来た。そして、浅いところに停まると、一つの船の中から二人の老人が出てきてぐるぐる巡り歩きながら積み上げた絹物などをつくづく眺め、やがて単(ひとえ)の着物を脱いで着替え、それぞれが布一端(たん。長さ十二・五×幅〇・七五メートル)を提げて船に乗り、帰って行った。ところが、すぐにまた戻ってきて脱いでいた単に着替え、提げて行った布も置いて船に乗り、退いた。
阿倍の臣は数船を遣って呼び戻したが、来ることを承知せず、幣賂弁嶋(へろべじま)【幣賂弁嶋は渡島の別名である】に還って行った。しばらくして、和議を申し出たが、遂に聞き入れず、柵(さく。とりで)に立てこもって戦った。
時に、能登の臣(おみ)馬身龍(まみたつ)が賊に殺された。なおも戦ってまだ戦力がある間に賊は敗れ、自分らの妻子を殺した。
夏五月八日  高麗の使者賀取文(か-しゅもん)らが難波(なにわ)の館に到着した。
この月、所管の役所は天皇のおことばを承(うけたまわ)って百の高座と百の納袈裟(のう-げさ。つぎはぎの僧衣)を造り、仁王般若経(にんのうはんにゃ-きょう)に基づいて百人の僧侶を招き、国家安泰・万民豊楽と天変地異の諸難を防ぐ法会(ほうえ。仏法を説く集会)を行なった。
また、皇太子の中(なか)の大兄皇子(おおえ-の-おうじ。天智天皇)が初めて水時計をつくり、民に時を知らせた。
また、阿倍臣【名を欠く】が夷(えみし)五十余人を献上した。
また、石上(いそのかみ。奈良天理市)の池のほとりに、高さが廟(みたまや。国家の主神を祀る社〈やしろ〉)の塔ほどもある須弥山(すみせん)を作り、粛慎(しゅくしん。みちはせ)四十七人をもてなした。
また、国を挙げて、人民が理由もないのに武器を持って道を往来した。【年寄りはいった。「百済の国が国を失う印か」と】
秋七月十六日  高麗の使者賀取文らが帰った。また、都貨羅(とから。吐火羅)人の乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)が故国に帰ろうとして、送りの使いを求めていった。
「お願いです。後で貴国に参りますので、妻を留めて証(あかし。嘘でない印)といたします」と。
こうして、送りの使い数十人と西の海の路に発った。
高麗の僧道顕(どうけん)の書いた日本世記にいう。
「七月云云(しかしか)、新羅武烈王春秋智(しゅんしゅうち。日本の人質になっていた)は唐の大将軍蘇定方(そ-ていほう)の手を借りて百済を撃ち滅ぼした、と。あるいはいう。百済は自滅した、と。義慈王の后(きさき)は妖女で道理にはずれ、勝手に国の権力を奪い、賢良な家臣の罪を責めて殺したので禍を招いたのである。よくよく気をつけなければならない、と。その注にいっている。 「新羅の春秋王は自分の願いが家臣の蓋金(がいこん)に受け入れられなかったため、唐に再び使いを遣わし、自国の官位・束帯を捨てて唐に倣(なら)い、天子高宗に願い媚(こ)びて戦禍を隣国百済にもたらし、滅ぼす考えを構えた(用意した)」と。」
伊吉博徳(いき-の-はかとこ)の日誌にいう。
「この年の八月、百済がすでに平らげられたあと九月十二日、幽閉されていた倭(やまと)の客を本国日本へ放した。十九日。西京(西安)より発って、十月十六日、東京(洛陽)に還りつき、はじめて阿利麻(ありま)ら遭難者の五人と会うことができた。十一月一日、将軍蘇定方(そ-ていほう)らのために捕らえられた百済義慈王以下太子の隆(りゅう)ら諸王子十三人、佐平(百済官位一位)の沙宅千福(さたく-せんふく)・国弁成(こく-べんじょう)以下三十七人あわせて五十人ばかりの人が、朝堂(ちょうどう。天子の政務所)に献上され、急(せ)き立てられて天子のところへ行った。天子は情けをかけられ、その場で許した。十九日、博徳らは慰めいたわられ、二十四日、東京より発った。」
※博徳らが目撃した百済太子隆の墓碑銘が洛陽で出土しています。それによりますと、隆は六四四年(義慈王四年)に太子となり、六六〇年王城陥落。捕らえられて唐に帰服、六六三年唐水軍と白村江の戦いに参戦。六六五年百済占領軍熊津(ゆうしん)都督(ととく。総司令官)となり、新羅文武王と和睦。のち新羅を恐れて唐に帰った、ということです。
九月五日  百済は達率(たつそつ。二位)【名を欠く】と沙弥(しゃみ。僧)らを遣わして来、申していった。【ある本はいう。逃げてきて難を告げる、と】
「今年の七月、新羅が力を誇って勢いをつけ、隣国百済と親しまず、唐人を誘い込んで事を計画し、百済を滅ぼしました。君臣は全員捕虜となり、ほとんど生き残っている者はいません。【ある本はいう。「今年七月十日、大唐の蘇定方が水軍を率いて尾資(おし)の津に戦い、新羅王の春秋智は兵馬を率いて怒受利(のずり)の山に戦をしかけ、百済を挟み撃ちにした。互いに三日戦ってわが王城を落とし、同じ月の十三日、王城を破った。怒受利(のずり)の山は百済の東の境である」と】このため、西部(さい-ほう。百済行政区五部・東西南北中の一つ)の達率(たつそつ)鬼室福信(きしつ-ふくしん)は激怒して任射岐(にさき)の山【ある本はいう。「北任叙利(きたにそり)山」に立てこもり、達率の余自信は中部の久麻怒利(くまのり)城】【ある本はいう。「都都岐留(つつきる)山」】に立てこもり、それぞれが一箇所に塞(とりで)を作って、残兵を誘い集め、武器は前の戦で使い果たしていましたので、棒で戦いました。新羅軍は破れ、百済はその武器を奪い、戦いが終わったあとは百済の武器は刀剣に換わっていました。唐軍はあえて入って来ませんでした。福信らは最後に国人を集めて王城を守りました。国人らは福信らを尊んでいいました。 「佐平(一位)福信、佐平自信」と。これは福信らが計り知れないすぐれた武徳を発揮してすでに滅びた国を興したからであります」と。
冬十月  佐平の鬼室福信と同じく佐平の貴智らが来朝して、唐の捕虜百余人を献上した。
今の美濃の国、不破・片県(かた-あがた)の二郡の唐人らである。ついで、援軍を乞い、救いを求め、あわせて日本に来ている王子の余豊璋(よ-ほうしょう)【ある本はいう。「佐平の貴智と達率正珍である」と】を乞い求めていった。
「唐人は稲を食い荒らす根切り虫のような新羅を率いてきてわが国の境を乱し、わが国を滅ぼし、わが君臣を捕虜にしました。【百済王義慈、その妻恩古、その子隆(りゅう)、その臣佐平千福、国弁成(沙宅)、孫登らおよそ五十余人が七月十三日に蘇将軍のために捕らえられて唐国に送られた。思うに、これは先に「人民が理由もないのに武器を持って道を往来し、年寄りが百済の国が国を失う印か」といっていたことの現われか】しかしながら、百済の国は遥か遠くに天皇の救護を頼り、更にまた、国人を集めて国を建て直しました。今、つつしんでお願いしたいことは、百済の国が日本の朝廷にお仕えさせている王子の豊璋(ほうしょう)を迎え、国主にしたく云云(しかしか)」と。
天皇は命じていった。
「援軍を求め、助けを乞うことをむかしにも承っていた。危急を助け、王室が絶えるのを継ぐことは明らかにするまでもなく国法にも書き記している。百済の国が困ってわが国に助けを求めて来たのである。本国が滅びて頼るところもなく、告げていくところもなく、困苦(こん-く)して励み、必ず救援してくれると思い、遠くより来て申し述べているのである。聞き入れないわけにはゆくまい。将軍らを分けて四方八方から前進させ、雲が湧き立ち、雷がとどろきわたるように沙喙(さとく。新羅の行政区)にあつまり、唐・羅軍を斬って、苦しみの縄をゆるめてやるべきである。よろしく所管の役所は、細々と配慮してやり、敬意を表して出発させよ。云云」と。【王子豊璋および妻子とその叔父忠勝らを本国に送る。その正しい出発の日時は七年(六六一)に示す。ある本はいう。「天皇は豊璋を立てて王とし、忠勝を立てて補佐とし、敬意を表して出発させた」と】
十二月  天皇は難波の宮に行かれた。福信の求めに応じて筑紫に出かけ、援軍を派遣しようとひとまず難波に行き、武器を準備されたのである。
この年、百済のために新羅を撃とうとなされ、駿河の国に命じて船を造らせた。造り終わって曳(えい)航し、績麻(おみ。地名)のはずれに至ったとき、その船が夜中に理由もなく向きを反対にした。人々は、これを見て、敗れることを知った。
信濃の国が申した。「ハエが群れて西に向かい巨坂(おお-さか。濃美の境という)を飛び越えた。大きさは十抱えもあり、高さは青天に至っていた」と。
ある人は、援軍が敗れるしるしであると悟った。
七年(六六一)「われ百済にあって二歳」
春正月六日  御船(みふね)は西征して始めて西の海路に就いた。
乗船者は、斉明天皇、中(なか)の大兄(おおえ)の皇子(みこ。のち天智天皇)、大海人(おおあま)の皇子(のち天武天皇)、中の大兄の皇子の皇女(ひめみこ)大田の皇女(大海人の皇子の妃)、妹のウ野の讃良(さら。のち持統天皇)の皇女、間人(はしひと)の皇后(きさき。舒明天皇の皇女。斉明天皇の弟故孝徳天皇の后)、額田(ぬかだ)の王女(ひめみこ)の方々であられた。
八日  御船が大伯(おおく=備前の邑久〈おおく〉)の海に至った。時に、大田の皇女が女(ひめ)をお産みになられ、大伯(おおく)の皇女と名づけられた。
十四日
御船は伊予の熟田津(にきたつ)の石湯(いわゆ。道後温泉)の行宮(あんぐう。仮宮)に泊まられた。
このときの御製(ぎょ-せい。天皇の作った歌)に
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今漕ぎいでな
熟田津で 船に乗って出ようと 月を待っていたところ ちょうど引き潮になった さあ今ですよ漕ぎ出すのは
というのがある。
国記(国の歴史記録)の類にまぎれこんでいたのを、われが拾い出して「類聚歌林(るいじゅうかりん。憶良撰集の古歌集。現存しない)」に収めたもので、記述がかさなるが、それにつけた詞書(ことばがき。説明)があるので記しておく。
飛鳥岡本宮御守天皇(あすかおかもと-の-みや-あめのしたしろしめす-すめらみこと。舒〈じょ〉明天皇)元年(六二九)と九年(六三七)十二月十四日との二回、天皇と太后(斉明天皇)は伊予の湯の宮に幸(いでま)された。
後の岡本の宮(斉明)天皇七年(六六一)春正月六日、(斉明天皇の)御船(みふね)は西征して始めて西の海路に就いた。十四日、御船は伊予の熟田津(にきたつ)の石湯(いわゆ。道後温泉)の行宮(あんぐう。仮宮)に泊まられた。天皇は昔の佇(たたず)まいがそのまま残っているのをご覧になられてたちまち往時を恋い慕われ、歌をお詠みになられて悲しみ痛まれた。
「書紀」はこれを採ったのである。
三月二十五日  御船は那(な)の大津(博多)に着き、磐瀬(いわせ)の行宮(あんぐう。仮宮)を住まいにされた。天皇はここの地名を改めて長津(ながつ)と名づけられた。
夏四月  百済の福信が使いを遣わして文書を奉り、王子豊璋(ほうしょう)を迎えたいと申した。
五月九日  天皇は朝倉の橘(たちばな)の広庭の宮に移られた。このとき、朝倉の神社の木を切り払って宮を建てたので、神は怒って宮殿を壊した。更に、宮殿の中に鬼火(おにび)が見えた。このため、大舎人(おお-とねり。宿直)と近侍(きん-じ。護衛兵)が病み、死人が多く出た。
二十三日  耽羅(たんら。済州島)が始めて王子阿波伎(あはぎ)を遣わし、貢(みつぎ)を奉った。
伊吉博徳(いき-の-はかとこ)の日誌にいう。
「斉明天皇七年(六六一)正月二十五日、西京より還り、越州に着いた。四月一日、越州より街道を東に行き、七日、大船を係留していたテイ岸山(ていがんせん)の南に着いた。八日、鶏鳴の時(午前二時ごろ)、西南の風に乗って船を大海原に放したが、海路に迷って漂い、辛苦した。九日八夜して、ようやく耽羅(たんら。済州島)に着いた。そこで、島人を招いてねぎらい(慰労し)、天皇の朝廷に献(たてまつ)るため王子阿波伎ら九人を客の船室に乗せ、五月二十三日、朝倉の朝廷に進上した。耽羅の人の入朝はこのときに始まったのである。また、韓の智興(ちこう)の従者東漢(やまと-の-あや)の草の直(あたえ)足嶋(たるしま)が中傷したので、遣唐使らは恩賞を受けなかった。このため、使者らの恨みが天の神に伝わり、足嶋は雷に当たって死んだ。時の人はこのことを称(たた)え、 「大和の天の神が唐・羅に報いるのは近いぞ」といった、と。」
六月  伊勢の王が亡くなった。
秋七月二十四日  (斉明)天皇が朝倉の宮で崩御(ほう-ぎょ。死去)なされた。六十八歳であられた。皇太子(中の大兄皇子)は素服(そふく。白の喪服)のまま称制(しょう-せい。天皇に代わって詔〈みことのり。命令〉を称〈とな〉えること。政務を執ること-を)なされた。
この月、唐の蘇定方将軍が突厥(とっけつ。トルコ)の王子契ヒツ加力(けいひつかりき)らと水陸から高麗(こま。高句麗)の城下に到着した。
八月一日  皇太子は天皇の喪(も。なきがら)に従われて長津の宮に移られた。この日の夕方、朝倉の山の上に鬼がいて、大きな笠(かさ)をかぶり、喪の儀式を覗(のぞ)いていた。人々はこれを怪しんだ。
この月、皇太子は長津の宮で海外の軍政を聞かれ、前衛将軍阿曇(あずみ)の比羅夫(ひらふ)の連(むらじ)、河辺(かべ)の百枝(ももえ)の臣(おみ)、物部(もののべ)の連(むらじ)熊、守の君(きみ)大石らを遣わして百済を救援し、武器と穀物を送った。
九月  皇太子は百済の王子豊璋(ほうしょう)に織冠(しょくかん。十九位中一位)を授け、多(おおの)の臣(おみ)コモ敷(こもしき)の妹を王子に娶(めと)らせた。そこで、狭井(さい)の連(むらじ)檳榔(あじまさ)と秦(はだ)の造(みやつこ)田来津(たくつ)に五千余りの兵を率いさせて守らせ、本国に送らせた。豊璋が入国したとき、福信が迎えに来て礼拝し、国政を奉ってそのすべてを王子に委(ゆだ)ねた。
冬十月七日  (斉明)天皇の喪が、還りの海路に就いた。皇太子はある所に泊まられて天皇を偲(しの)ばれ、心に思い浮かぶままに詠まれた。
「きみがめの こほしきからに はてていて かくやこひむも きみがめをほり」
(あなたのまなざしが恋しいばかりに 船を泊めました どうしてこれほどまで恋しいのだろう きっとあなたに見つめられていたいのです)
二十三日  天皇の喪が難波に泊まられた。
十一月七日  天皇の喪を飛鳥の川原に移し、これより九日して崩御を発表した。【日本世記にいう。「十一月、福信が捕えた唐人の続守言(ぞく-すごん。のち、漢音の教授・音博士となった)らが筑紫に着いた」と。ある本は、この年七年に百済の佐平福信が献上した唐の捕虜百六人を近江の国の墾田(こんでん。開墾地。はりた)に住まわせたといっているが、六年にもすでに福信が唐の捕虜を献上したとあった。いま注意書きを残しておくので、どちらの年が正しいかを決められよ(書紀編者の注)】
十二月  高麗の国が申した。
「この十二月、高麗の国は寒さがきびしくバイ(大同江)が凍りました。このため、唐軍の雲車(うんしゃ。はしご車)が陣を突き破り、鼓(つづみ)と鉦(かね)を吼(ほ)えるように鳴らしてきました。高麗の兵士は勇敢でした。改めて唐の二つの塞(とりで)を取り、残すはただ二つの塞だけでした。そこでまた、夜陰(や-いん。夜の闇)に乗じて取る準備をしました。ところが、唐兵はあまりの寒さに膝を抱えて泣き、剣も刀も力が尽きて抜くことができませんでした。臍(ほぞ)をかむ恥とは、これでなくして何でありましょう(後悔して恥じるとはこのことをいうのです)」と。【釈道顕(しやくどうけん)はいった。「新羅王春秋の考えを申せば、高麗と戦うために、先ず百済を撃ったのである。百済が近辺を侵されて非常にあわてたのはそのためである」と】
この年、播磨(はりま。兵庫県南部)の国司(こくし。国府の役人)岸田の臣(おみ)麻呂が、宝剣を献上して申した。
「狭夜(さや。兵庫県佐用)郡の人が稲田の穴倉で見つけたのです」と。
また、高麗救援の日本軍将らが百済の加巴利(かはり)の浜に泊まって火を燃した。すると、その燃え尽くしたあとの灰(はい)に穴が開いて小さく響き、鳴り鏑(かぶら。かぶら矢)のように鳴った。
ある人がいった。 「高麗と百済、ついに亡びる兆しか」と。
巻の第二十七 天智天皇
天智天皇は舒明天皇の太子(みこ)である。母は皇極(こうぎょく)天皇と申される。皇極天皇はその四年(六四五)、位を弟の孝徳天皇にお譲りになられ、葛城(かつらぎ)の皇子(みこ。中の大兄の皇子。天智天皇)を皇太子に立てられた。孝徳天皇が五年後に崩御なされたので、翌年、皇極天皇が重祚(ちょうそ。再即位)なされて斉明天皇となられ、七年(六六一)七月二十四日に崩御なされた。このため、皇太子(中の大兄の皇子)は素服(そふく。白の喪服)のまま称制(しょう-せい。天皇に代わって詔〈みことのり。命令〉を称〈とな〉えること。政務を執ること-を)なされた。
天智(称制)元年(六六二)「われ百済にあって三歳」
春正月二十七日  百済佐平(さへい。一位)鬼室福信に矢十万本、糸五百斤(唐斤約六百グラム)、錦一千斤、布一千端(端約十三メートル)なめし皮一千枚、稲種(いなだね。たねもみ)三千石(一石約六十キロ)を与えた。
三月四日  百済王豊璋に布三百端を与えた。
この月、唐人と新羅人が高麗(高句麗)を討ち、高麗は救いを日本に求めた。そこで、軍将らを送って疏留(そる。忠清南道扶余)城に陣取らせた。このため、唐人はその南の国境を破ることができず、新羅はその西の塁(とりで)を落とすことができなかった。
夏四月  鼠(ねずみ)が馬の尻尾に子を産んだ。釈道顕(しゃく〈僧〉-どうけん)が干支(えと)で占っていった。
「鼠は子(ね。北)であるから北の国の人が午(うま。馬。南)である南の国につこうとしている現われである。思うに高麗は破れて日本につくか」と。
五月  大将軍阿曇(あずみ)の連(むらじ)比羅夫らが、水軍一百七十艘(そう)を率いて豊璋らを百済の国に送り、天皇のお言葉を告げて豊璋に王位を継承させた。また、黄金の杖を福信に賜い、その背をなでて褒(ほ)め、爵位と俸禄を授けた。
時に、豊璋らと福信は頭を地につけて比羅夫の告げる天皇のお言葉をお受けし、人々は感激の涙を流した。
六月二十八日  百済が達率(たつそつ。百済官位二位)の万智(まち)らを日本に遣わし、貢ぎ物を献上した。
冬十二月一日  百済王豊璋とその家来福信らは、狭井(さい)の連(むらじ)と秦(はだ)の造(みやつこ)田来津と相談していった。
「この州柔(つぬ)は遠く田園を隔てて土地は痩(や)せており、農桑(のう-そう。農業と養蚕〈よう-さん〉)の地ではない。ここは敵を防ぎ戦う場所である。ここに長くおれば、民は飢えてしまう。今すぐ避(へ)城へ移るべきである。避城は西北に錦江(きん-こう。白村江)の支流が流れ、東南の深い沼地は大きな堤防が周りの田を囲い、堀が切り開かれていて、雨も降る。農産物の実りは韓国一肥えた土地に実るのであり、衣食の源は天地にめぐまれた土地によって恵まれるのである。土地が低いからといってどうして還らないでよかろうか」と。
すると、秦造田来津が進み出て、いった。
「避(へ)城と敵地の間は一夜にして行け、非常に近いのです。もしそのことを考えずに論じているのであれば、取り返しのつかないことになります。飢えを考えるのは後にして、亡ぶことを先に考えるべきです。いま、敵がむやみに攻めて来ないのは、州柔(つぬ)の城が山の険しい場所に作られて周りがすべて自然の防塁(ぼう-るい。敵を防ぐとりで)になっており、山が高く聳え谷が狭く、守りやすく攻めにくいからです。もし、低い地にいたら何によって周りを固め、不安もなく今日まで来られたでしょうか」と。
しかし、忠告を聞かず、遂に避(へ)城を都にした。
この年、百済を救うため、武具を修理し、船を整備し、軍糧を蓄えた。
また、ウ野の讃良(さら)の皇女(のち持統天皇)が那の大津で大海(おおあま)の皇子の皇子草壁(くさかべ)の皇子をお産みになられた。
(称制)二年(六六三)「われ四歳、百済を最後にする年だ」
春二月二日  百済が達率の金受(きむ-ず)らを遣わして貢物を奉った。
新羅人が百済の南の国境(くに-ざかい)にある四つの州を焼き払い、同時に徳安(とくあん。忠清南道恩津郡)の要衝(よう-しょう。交通の中心地)を押さえた。このため、避城はますます敵に近くなって城にいることができなくなり、州柔(つぬ)に還った。
この月、佐平鬼室福信が唐の捕虜の続守言(ぞく-すごん)らを長津に送った。
三月  前衛将軍上毛野(かみつけの)の君(きみ)稚子(わくご)・間人(はしひと)の連(むらじ)大蓋(おおがさ)、中衛将軍巨勢(こせ)の神前(かんざき)の臣(おみ)訳語(おさ)・三輪(みわ)の君麻呂、後将軍阿部の引田の比羅夫・大宅(おおやけ)の臣(おみ)鎌柄(かまつか)に、兵二万七千人を率いさせて新羅を討たせた。
夏五月一日  犬上の臣が馬を走らせて新羅と戦になったことを高麗に伝え、石(せき。忠清南道扶風)城に還って豊璋に見(まみ)えた(お目にかかった)。豊璋は鬼室福信の罪について語った。
六月  前衛将軍上毛野(かみつけの)の君(きみ)稚子(わくご)らが、沙鼻岐(さびき)と奴江(ぬえ)の二城を取った。
百済王豊璋は、福信に謀反の心があるとして捕らえ、皮革(ひ-かく)で手のひらに穴をあけて縛ったが、自分では判断がつかなかった。そこで、臣下に尋ねていった。
「福信の罪はすでに知っての通りだ。斬るか、斬らないか」と。
達率の徳執得(とく-しつとく)はいった。
「この悪逆人は許すべきではありません」と。
福信は執得につばを吐きかけ、「腐れ犬のたわけ野郎!」と、いった。
王は兵士に押さえさせて斬り、首を塩漬けにした。
秋八月十三日  新羅は百済王豊璋が自分の良将福信を斬ったので、直ちに百済に攻め込み、先に州柔(つぬ)を取ることを計画した。
百済王は新羅の企てを知ると、諸将に語っていった。
「いま聞いた。大日本国の救援将軍盧原(いおはら)の君の臣(おみ)が兵士一万余りを率いて海を渡って来ている。諸将は前もって作戦を練り、救援軍に応えて欲しい。われは行って白村で待ち、彼らを饗(もてな)す」と。
十七日  新羅の将軍が州柔に到着、王城を囲った。大唐の軍将が装甲船百七十艘を率いて白村江に陣を敷いた。
二十七日  日本水軍の先発隊が大唐水軍と交戦した。日本は勝ち目がなくて退き、大唐は陣を堅くして守った。
二十八日  日本の諸将と百済王は戦況を見ずに、互いに作戦を語っていった。
「われらが先を争って突進すれば、彼らは退却するはずだ」と。そこで、日本水軍は隊列を再編して中軍の兵を率い、大唐の軍船を討った。大唐は左右から日本の船を挟み、囲んで戦った。日本軍はわずかな時間で大敗した。水に飛び込んで溺れ死ぬ者が多く、船を旋回さすことができなかった。秦の田来津は天を仰いで祈り、歯を食いしばって数十人を殺し、戦死した。
百済王豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。
「こうして百済は滅び、遺臣らは妻子・国民を引き連れて日本へ向かうのだ。その条(くだり)は先に述べた」
この年、大田の皇女が那の津で大津の皇子をお生みになられた。大伯(おく)の皇女の弟皇子である。
(称制)三年(六六四)「われ五歳、難波津に着いた」
春二月九日  天皇中の大兄の皇子(天智天皇)は太皇弟(たい-こうてい)大海人(おおあま)の皇子に命じて冠位を二十六階(名称略)に増やし、臣(おみ)・連(むらじ)などの氏上(うじ-の-かみ。族長)を保証して大化の改新(六四六)で廃止していた民部(かきべ。豪族の私有民)と家部(やかべ。氏に隷属する家人〈けにん〉)の所有を許した。
三月  百済王豊璋の弟善光王らを難波に住まわせた。 星が京の北に隕(お。落)ちた。 この春、地震があった。
夏五月十七日  百済の鎮将(ちんしょう。占領軍司令官)劉仁願(りゅう-じんがん)が朝散大夫(ちょうさん-たいふ。官職のない五位)の郭務ソウ(かくむそう〈ソウ=立心偏に宗〉)を遣わして文書と献上物を進上した。 この月、大紫(だいし。五位)の蘇我の連(むらじ)の大臣(おおおみ)が亡くなった。
六月  島の皇祖母(こうそぼ。すめみおや。舒明天皇の母御)が亡くなられた。
冬十月一日  郭務ソウらに告げて出発させることにし、中臣(なかとみ。藤原鎌足)の内臣(うち-の-おみ。内大臣)に命じて沙門(しゃ-もん。僧)の智祥(ちさ)を遣わし、郭務ソウに物を賜わった。
四日  郭務ソウらに宴(うたげ)を催した。
この月  高麗の大臣蓋金(がいこん)が本国で死去し、子どもらに遺言していった。
「お前たち兄弟は魚と水のように仲良くし、爵位(しゃく-い。地位)を争ったりしてはならない。もしそのようにしなければ、必ず隣国から笑われることになる。よいかな」と。
十二月十二日  郭務ソウらが帰った。
この月、淡海(おうみ。近江)の国が申した。
「坂田郡の小竹田(しのだ)の史(ふひと)身(む)という人の飼っている豚の飼葉桶(かいば-おけ。餌さを入れる桶)にいきなり稲が生え、身(む)が獲り入れますと、身は日増しに富みました。また、栗太(くりもと)郡の盤城(いわき)の村主(すぐり)殷(おおし)という人の新婦の寝床の端に稲が一晩で生(は)えて穂をつけ、翌朝には穂が垂れて実りました。更に、次の夜も穂が一つ生えました。新婦が庭に出ますと、鉤(かぎ)が天から落ちてきました。新婦は拾って殷(おおし)に与え、殷は富みました」と。
ある人がいった。「近江に幸いあるの知らせか」と。
この年、対馬(つしま)・壱岐(いき)の島と筑紫の国に防人(さきもり。沿岸警備隊)と峰火(のろし)台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて水を貯(たくわ)え、水城(みずき)と名づけた。
(称制)四年(六六五)「われは六歳、難波の南、大伴(和泉)の地に住んだ」
春二月二十五日  間人(はしひと)の皇后(舒明天皇の皇女。孝徳天皇の后〈きさき〉)が薨(みまか)った。 この月、わが国と百済の官位を比較検討し、百済王豊璋に殺された鬼室(きしつ)福信の功績に照らして子の鬼室集斯(しゅうし)に小錦下(しょうきんげ。二十六位中十二位)を授けた【本の位は達率(百済官位二位)】。 また、百済の百姓(ひゃくせい。人民)男女四百余人を近江の国神前(かんざき)郡に住まわせた。
三月一日  間人(はしひと)の皇后を弔うため、三百三十人を出家させた。 この月、神前郡の百済人に田を給付した。
秋八月  達率答本春初(とうほん-しゅんしょ)を長門(ながと。山口県)に遣わして城を築かせ、達率憶礼福留(おくらい-ふくる)と達率四比福夫(しひ-ふくふ)を筑紫に遣わして大野(おおの)山と椽(き。福岡と佐賀の県境)の二箇所に城を築かせた。
この月、耽羅(たんら)の使いが来朝した。
九月二十三日  唐の国が朝散大夫沂州司馬(きしゅうしば。山東省北西の長官)劉徳高(りゅう-とくこう)らを遣わして来た【らとは、右戎衛郎将(うじゅうえいろうしょう。名を欠く)と郭務ソウをいう】。総員二百五十四人。七月二十八日、対馬に至り、九月二十日、筑紫に着いた。二十二日、文書を進上した。
冬十月十一日  宇治で閲兵(えっ-ぺい。軍隊を整列させて検閲)した。
十一月十三日  劉徳高らに宴(うたげ)を催した。
十二月十四日  劉徳高らに物を賜わった。 この月、劉徳高らが帰った。
この年、小錦守(もり)の君の大石らを大唐に遣わした【らとは、坂合部(さかあいべ)の連(むらじ)石積(いわつみ)および岐彌(きみ)と吉士(きし)の針間(はりま)をいう。思うに、唐の使い劉徳高らを送ってか】。
(称制)五年(六六六)「われ七歳」
春正月十一日  高麗が前部(ぜんほう。行政区の一つ)の能婁(のる)らを遣わして、調(みつぎ)を奉(たてま)った。 この日、耽羅が王子始如(しじょ)らを遣わして貢を献上した。
三月  天皇中の大兄の皇子は、自ら佐伯(さえき)の子麻呂の連(むらじ)の家に行かれて病を見舞われ、蘇我の入鹿を暗殺したときの功績を称えられた。
夏六月四日  高麗の前部(ぜんほう)能婁(のる)らが帰った。
秋七月  大水があった。
この秋、大水の被害で租・調(そ・ちょう。稲・絹布などの税)を免除した。
冬十月二十六日  高麗が乙相(いつそう。官位名)の奄鄒(えんすう)らを遣わして調(みつぎ)を進上した【大使乙相の奄鄒(えんすう)・副大使達相の遁(とん)・二位の玄武若光(げんぶじゃくこう)らである】。
この冬、都のネズミが近江に向かって移った。
ある人がいった。 「遷都の兆しか」と。
百済の男女二千余人を東国に住まわせ、癸亥(きがい。みずのとい)の年(天智二年)から三年間、官食(公の食糧)を支給した。
倭(やまと)の沙門知由が指南車を献上した。
(称制)六年(六六七)「われは八歳」
春二月二十七日  斉明天皇と間人(はしひと)の皇后を小市(おち)の岡のほとりの御陵に合葬した。この日、皇孫(こう-そん。みまご)大田の皇女(中大兄の皇女)をそのお向かいの御陵に葬った。高麗・百済・新羅の人はみな葬送を悲しんだ。
中の大兄の皇子は群臣に語っていった。 「われは皇太后(斉明天皇)が申されておられたお言葉をお受けして、万民を手厚く哀れみ、石郭(せき-かく。棺を納める石の外枠)の労役を民に課さなかった。以後、永代これを戒めとし、薄葬(はく-そう。質素な葬儀)を心がけよ」と。
三月十九日  近江に遷都(せんと)した。 しかし、人々は都を移すことを願わず、諷諌(ふう-かん)する(それとなく諌〈いさ〉める)者が多かった。また、童謡(どう-よう。わざうた。わらべ歌に託して時事をあてこすった歌)も多く、毎日毎夜あちこちで放火があった。
六月  葛野(かどの。京都)郡が白い燕(つばめ)を献上した。 ある人がいった。「天皇即位の印か」と。
秋七月十一日  耽羅が佐平(さへい。百済官位一位)の椽磨(てんま)らを遣わして貢(みつぎ)を献上した。
八月  中の大兄の皇子が倭(やまと。飛鳥)の京に行幸(ぎょうこう。外出)なされた。
冬十月  高麗の太兄(たい-けい。長男)男生(だんせい)が城を出て国を巡察した。このとき、城内にいた二人の弟は側近たちの悪口を聞き、男生を拒んで城に入れなかった。このため、男生は大唐に走り、高麗を滅ぼすことを計画した。父の蓋金(がいこん)が心配していたことである。
十一月九日  唐の百済鎮将劉仁願が、熊津(ゆうしん。忠清南道公州)都督府(ととく-ふ。総督府)熊山(ゆうせん)県令(県知事)司馬法聡(しば-ほうそう)らを遣わして、坂合部(さかあいべ)の連(むらじ)石積(いわつみ)らを筑紫の都督(ととく)府(太宰府)に送らせた。
十三日  司馬法聡らが帰った。伊吉(いき)の連(むらじ)博徳と笠(かさ)の臣(おみ)諸石(もろいし)を送りの使いとした。この月、倭(やまと)の国の高安および讃岐の国山田郡屋島と対馬の国金田に城を築いた。
閏(うるう。余り〈二度目〉の)十一月十一日  耽羅の椽磨(てんま)らに錦十四疋(ひき)、斧(おの)二十六、鉈(なた)十四、刀六十二枚ほかを賜わった。
七年(六六八)「われ九歳」
春正月三日  中の大兄の皇子が天皇位(三十八代。天智天皇)に即(つ)かれた。【ある本は六年の三月という】
中の大兄の皇子(天智天皇)の即位が遅れたのは、皇子に、
香具山は 畝傍(うねび)雄雄(おお)しと 耳成(みみなし)と 相(あい)争いき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしえ)も しかにありこそ 虚蝉(うつ-せみ)も 嬬(つま)を あらそうらしき
香具山は 畝傍山が男らしいといって 耳成山と争ったということだ 神代からそうであり 昔もそうであったのだから 今の人も妻(側室)を争うのだろう
の御製があることから、叔父孝徳天皇の皇后であられた同母妹の間人(はしひと)の皇后や、大海人の皇子の妃であられた額田の王女(ひめみこ)を妃にされていたことが原因ではなかといわれているが、その真偽のほどはわからない。」
七日  群臣を内裏(だいり。天皇の御殿)に招いて宴(うたげ)をした。
二十三日  送使の博徳が帰ってきて結果を報告した。
二月二十三日  天皇は、異母兄古人(ふるひと)の女(むすめ)倭姫(やまと-ひめ)の王(おおきみ)を皇后とした。
側室は四人を入れた。初めを蘇我の山田の石川麻呂の大臣(おおおみ)の女(むすめ)遠智(おち)の娘(いらつめ)といい、大田の皇女とウ野(うの)の讃良(さら)の皇女と建(たける)の皇子をお生みになられた。ウ野の讃良の皇女(持統天皇)は天下をお治めになられて飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)の宮に住まわれ、のち藤原の宮に移られた。建の皇子はことばが話せなかった。
次を遠智(おち)の娘(いらつめ)の妹姪(めい)の娘(いらつめ)といい、御名部(みなべ)の皇女と阿陪(あへ)の皇女をお生みになられた。阿陪の皇女(元明天皇)は天下をお治めになられて藤原の宮に住まわれ、のち乃楽(なら。平城)に移られた。
次を阿倍(あべ)の倉梯(くらはし)麻呂の大臣の女(むすめ)橘(たちばな)の娘(いらつめ)といい、飛鳥の皇女と新田部(にったべ)の皇女をお生みになられた。
次を蘇我の赤兄(あかえ)の大臣の女(むすめ)常陸(ひたち)の娘(いらつめ)といい、山辺の皇女をお生みになられた。
また、女官で皇子・皇女生むものがいた。忍海(おしぬみ)の造(みやつこ)小龍(おたつ)の女を色夫古(しこふこ)といい、大江の皇女と川島の皇子と泉の皇女をお生みになられた。
また、栗隈(くりくま)の首(おびと)徳万の女を黒媛(くろひめ)の娘(いらつめ)といい、水主(みぬし)の皇女をお生みになられた。
また、越道(こしじ)の君(きみ)伊羅都売(いらつめ)がいて、志貴(しき)の皇子をお生みになられた。
また、伊賀の采女(うねめ)宅子(やかこ)の娘(いらつめ)は、大友の皇子(三十九代弘文天皇)をお生みになられた。
五月五日  天皇は蒲生野(がまふの)に狩りをなされた。時に、太皇弟の大海人の皇子と諸王および内臣藤原の鎌足と群臣のすべてが従った。
秋七月  高麗が越(越前・越中・越後)の路より使いを遣わして貢を進上した。帰りは風浪が高く、帰国できなかった。この月、栗隈(くりくま)の王を筑紫の率(そつ。太宰府長官)に任じた。時に、近江の国が武術を習った。また、方々に牧場を作って馬を放した。また、越の国が燃える土(オイルサンド)と燃える水(原油)を献上した。また、浜の台(うてな。琵琶湖を臨む大津京の政庁)に多くの魚が水面を跳ねてやってきた。また、蝦夷をもてなし、舎人(とねり。宿直護衛)に命じて、あちこちで宴をさせた。世間の人はいった。「天皇の寿命は長くないのではないか」と。
九月十二日  新羅が金東厳(きむ-とうごん)を遣わして貢(みつぎ)を進上した。
二十六日  内臣藤原の鎌足が沙門(僧)の法弁と秦筆(しんひつ)を使いさせて、新羅の上臣大角于(だいかくう。最高位)の金ユ信(ゆしん)に船一隻を賜い、東厳らに託(ことづ)けた。
冬十月  大唐の大将軍李勣(りせき)が高麗(高句麗)を討ち滅ぼした。初め、高麗の仲牟王(ちゅうむおう。好太王碑〈中国吉林省〉に刻まれている始祖王鄒牟〈すうむ〉)は国を建てるとき、千年続くことを願った。母后はいった。「よく治めれば続くだろうが、そうでなければ続かない。ただし、七百年は続く」と。まさに七百年続いて、この国は亡んだ。
十一月一日  新羅王に綿五百斤となめし皮百枚を賜い、金東厳らに託(ことづ)けた。東厳に物を賜わった。
五日  道守(みちもり)の臣(おみ)麻呂と吉士(きし)の小鮪(おしび)を新羅使の送使(そう-し。おくり-の-つかい)とした。この日、金東厳らが帰った。この年、沙門の道行(どうぎょう)が草薙(くさなぎ)の剣(熱田神宮の御神体。日本武の尊がヤマタノオロチの尾を割いて取り出した天の叢〈むらくも〉の剣。尊が焼津〈やえず〉で火攻めに遭ったとき、草を薙ぎ倒したことから草薙の剣とあらためられた。伊勢神宮の御神体である八咫〈やた〉の鏡と八坂瓊〈やさかに〉の勾(まが)玉と併せて皇位継承に必要な三種の神器〈じん-ぎ〉といわれている)を盗んで、新羅に逃げて行った。しかし、途中、風雨に遭って迷い、帰って来た。
八年(六六九)「われ十歳」
春正月九日  蘇我の赤兄の臣を筑紫の率(そち。太宰府長官)に任じた。
三月十一日  耽羅が王子久麻伎(くまき)らを遣わして貢(みつぎ)を献上した。
十八日  耽羅の王に五穀の種を賜い、久麻伎に託(ことづ)けた。この日、久麻伎らが帰った。
夏五月五日  天皇は山科(やましな。京都東山)に狩りをなされ、太皇弟の大海人の皇子と諸王および内臣藤原の鎌足と群臣のすべてが従った。
秋八月三日  天皇は、高安の峰に登られて城の修復をお考えになられたが、民が疲れるのをご心配なされてお止めになられた。世間の人は褒めて「まことに仁愛(慈しみ)の徳の豊かなことか」といった。この秋、藤原の内大臣鎌足の家に雷(かみなり)が落ちた。
九月十一日  新羅が貢(みつぎ)を進上した。
冬十月十日  天皇は藤原の内大臣の家にお出でましになられて病状をお尋ねになられ、ひどくご心配なされて申された。「天は仁徳のある者をたすけるというが、嘘なのか。善行を積む家には至福があるというがいまだにその印がない。もし、何か言いたいことがあるのであれば、申すがよい」と。内大臣は応えていった。
「臣はもはやお役に立ちません。いまさら何を申すことがありましょう。ただ葬儀だけは簡素にお取り計らいください。生きて軍事内政ともに励まなかったのです。死んでどうしてご面倒をおかけできましょうか云々」と。
時(世間)の賢人は聞いて感心し、「この一言は昔の哲人のことばに匹敵するものだ。論功(ろん-こう。手柄の評定)に無関心であった大樹将軍(後漢〈二五〜二二〇〉の馮異〈ふうい。蒙求321〉)と時代を同じくして語っても決して劣らない」と。
十五日  天皇は東宮(大海人の皇子)を内大臣の家に遣わし、大織冠(だいしきかん。二十六位中一位)と大臣の位を授け、藤原氏の姓を賜わった。以後、藤原の大臣という。
十六日  藤原の大臣が薨(みまか)った【日本世記にいう。「内大臣の春秋(年齢)は五十、自宅で逝去された。なきがらは山の南に移して弔った。天は何を善しとしないで、年を取らせなかったのか。ああ、悲しいこだ」と。碑はいう。「春秋五十六で薨(みまか)る」と】
十九日  天皇は藤原の大臣の家にお出でになられ、大錦上(だいきんじょう。七位)蘇我の赤兄に命じておことばを述べられ、金の香炉を賜わられた。
十二月  大蔵(国税の収納庫)が燃えた。この冬、高安の城を修理し、畿内(きない。大和・山城・河内・和泉・摂津)の田租を取り立てた。時に、斑鳩(いかるが)の寺(法隆寺)が燃えた。この年、小錦中(十一位)河内の直(あたえ)鯨(いるか)らを大唐に使いさせた。また、佐平余自信、佐平鬼室集斯ら男女七百余人を近江の国蒲生群に移して住まわせた。また、大唐が郭務ソウら二千余人を遣わしてきた。
九年(六七〇)「われ十一歳」
春正月七日  (天智)天皇は群臣に命じて、宮門内で弓を射った。
十四日  朝廷の礼儀と道路での道の譲り合いを話された。また、人を惑わすような嘘(うそ)偽りを禁じられた。
二月  戸籍(庚午年籍〈こうご-ねんじゃく〉)を造り、盗人と浮浪者を良民から切り離した。
時に、天皇は蒲生郡のヒモ野(ひもの)にお出ましになられ、宮殿を建てる土地を観られた。また、高安の城に穀物と塩を貯えた。また、長門に一つ筑紫に二つの城を築いた。
三月九日  山の御井(みい。滋賀の三井寺の地といわれている)の傍(かたわ)らに神々の御座(みくら)を敷き、幣帛(へい-はく。ぬさときぬ。供え物)を分けて供え、中臣の金(こがね)の連(むらじ)が祝詞(のりと)をあげた。
夏四月三十日  夜半を過ぎて法隆寺が燃え上がり、全焼した。大雨が降り、雷が鳴った。
五月  童謡(どうよう。わざうた)がいった。
うちはしの つめのあそびに いでませこ たまでのいえの やへこのとじ いでましの くいはあらじぞ いでませこ たまでのへの やへこのとじ
板をかけた橋の 隅の遊びにいらっしゃい 玉手〈地名〉の家の 八重垣の刀自〈とじ。主婦。女房役〉よ いらっしゃいな 玉手の家の 八重垣の刀自よ
ある人がこれを解いていった。「内大臣の鎌足が死んだ。あちこちで放火があり、世の中は不穏になって来た。いずれ皇位をめぐって争いが起こる。そのときは手を貸すからと、大海人の皇子を誘っているのだ」と。
六月  村の中にカメがいて捕らえた。背中に申の字が書いてあり、上は黄色で下が玄(くろ。黒)く、長さは六寸(約十八センチ)ばかりあった。また、ある人がいった。「壬申(じん-しん。天智十一年〈天武元年〉六七二)の年に天下二分する印か」と。
秋九月一日  阿曇(あずみ)の連(むらじ)頬垂(つらたり)を新羅に遣わした。この年、水車を造り、鉱石を砕いて鉄を精錬した。
十年(六七一)「われ十二歳」
春正月一日  大錦上(七位)蘇我の赤兄の臣(おみ。姓があとに付くは尊称)と大錦下(九位)巨勢の人の臣とが宮殿の前に進み出て、元旦の祝辞を述べた。
五日  大錦上中臣の金(こがね)の連(むらじ)に命じて神々のことを述べさせた。この日、太政官(だいじょうかん。最高中央官庁)を置いて大友の皇子を太政大臣に拝し、蘇我の赤兄の臣(おみ)を左大臣に、中臣の金(こがね)の連(むらじ)を右大臣に、蘇我の果安(はたやす)の臣、巨勢の人の臣、紀の大人(うし)の臣をそれぞれ御史大夫(ぎょし-たいふ)とした【御史、思うに今(書紀編纂時)の大納言か】。
六日  東宮太皇弟(ひつぎのみこ。大海の皇子)【ある本は大友の皇子】が、天皇のお言葉を承って、冠位(二十六階)と法度(はっと。法律。制度)を施行し、天下に大赦(たいしゃ。罪人の罪の減免)を行なった。【法度と冠位の名はともに新しい(のちの)律令に載せている】
九日  (占領下の)高麗が、可婁(かる)らを遣わして貢(みつぎ)を進上した。
十三日  百済鎮将劉仁願が李守真らを遣わして文書を提出した。この月、大錦下(九位)を佐平余自信、沙宅紹明(さたく-しょうめい)【法官の大輔(だい-すけ。次官)】に授け、小錦下(十二位)を鬼室集斯(きしつ-しゅうし)【学職の頭(かみ〈長官〉】に授け、大山下(だいさんげ。十五位)を達率谷那晋首(こくな-しんしゅ)【兵法に熟達】・木素貴子(もくそ-きし)【兵法に熟達】・憶礼福留(おくらい-ふくる)【兵法に熟達】・答本春初(とうほん-しゅんしょ)【兵法に熟達】・本日比子(ほんにち-ひし)・賛波羅(さん-はら)・金羅金須(こむら-こむす)【薬に通じる】・鬼室集信【薬に通じる】に授け、小山上(十六位)を達率徳頂上(とく-ちょうじょう)【薬に通じる】・吉大尚(きち-たいしょう)【薬に通じる】・許率母(きょ-そつも)【五経(ごきょう。易経・詩経・書経・礼記・春秋)に明るい】・角福牟(ろく-ふくむ)【陰陽(いん-よう。天文・暦数・占い)に熟達】に授け、小山下(十八位)をほかの達率ら五十人に授けた。
童謡はいった。「たちばなは おのがえだえだ なれれども たまにぬくとき おやじをにぬく」(橘〈たちばな。みかん〉は それぞれの枝になっているが 乾して薬にするときは  同じ糸に通す) ある人が解いていった。「百済の官人が同じ大和の冠位に連なったことをいったのである」と。
二月二十三日  (占領下の)百済が台久用善(たいく-ようぜん)を遣わして貢を進上した。
三月三日  黄書(きぶみ)の造(みやつこ)本実(ほんじつ)が水準器を献じた。
夏四月二十五日  漏刻(ろう-こく。水時計)を新しい政庁に置き、はじめて時を打ち、鐘と鼓を鳴らした。この漏刻は、天皇が太子であられた時に自ら造られたものである。
この月、筑紫が申した。「八つ足の鹿が生まれてすぐに死んだ」と。ある人がいった。「多足の動物は兵乱の兆しである」と。
五月五日  天皇は西の小殿におられて、皇太子大海人の皇子と群臣が宴に同席し、この年二度目の田舞(た-まい。田植え舞い)を演奏した。
六月四日  天皇は百済の三部(さんほう。行政区画の一つ)の使人が求めていた軍事について述べた。
十五日  百済がゲイ真子(げいしんし)らを遣わして貢を進上した。この月、栗隈(くりくま)の王を筑紫の率(長官)とした。新羅が使いを遣わして貢を進上した。別に、水牛一頭と山鳥一羽を献じた。
秋七月十一日  唐人の李守真(り-しゅしん)らと百済の使人らがともに帰った。
八月三日  高麗の可婁(かる)らが帰った。
十八日  蝦夷をもてなした。
九月  天皇が病の床につかれた。【ある本はいう。「八月に天皇疾病」と】
冬十月七日  新羅の金万物らが貢を進上した。
八日  百体の仏像ができあがり、内裏で開眼法要を行なった。この月、天皇は使いを遣わして、袈裟(けさ)および金の鉢・象牙・沈水香(香木)・栴檀香(せんだん-こう)などの珍しい財宝を法興寺の仏に奉った。
十月十七日  天皇は病の床について苦しまれ、蘇我の臣(おみ)安麻侶を遣わして東宮大海人の皇子をお招きし、大極殿に引き入れられた。時に、安麻侶はもともと東宮に親しみをもっていたので密かに東宮を振り返っていった。「気をつけてものを言いなされ」と。
そこで、東宮(大海人)は何かの企みがあるのを疑って用心した。天皇は東宮に皇位を継ぐよう命じた。東宮は察して辞退し、譲っていった。
「臣は不幸にして病気勝ちでとうてい国家を支えることはできません。お願いでございます。皇位は皇后にお与えになられ、大友の皇子を皇太子になされることを。臣はきょうただ今出家して陛下のために功徳を修めたく思います」と。
天皇は許された。東宮は立ち上がって二度の礼をし、内裏の仏殿の南に行って折り畳み椅子に腰をかけ、髭と髪を剃って沙門となり、私有していた武器を所管の役所に収めた。
天皇は次田生磐(すきた-の-いくいわ)を遣わして袈裟を送った。
十九日  東宮は吉野の宮に向かった。このとき、左大臣蘇我の赤兄の臣、中臣の金の連、および大納言蘇我果安(はたやす)の臣らが送って行き、宇治で別れて帰った。ある人がいった。「虎に翼をつけて放した」と。東宮は夕方、島の離宮に泊まられた。
二十日  東宮は吉野に着き、住まわれた。東宮は舎人(しゃ-じん。とねり。側近)たちにいった。「われは今より仏門に入る。われに従い修行しようとする者は残れ。朝廷に仕えて名を成したい者は帰って仕えよ」と。しかし、帰る者はいなかった。そこで更に繰り返していった。すると、半分が残り半分が帰って行った。
十一月十日  対馬(つしま)の国司(こくし。地方官の役所)が太宰府に使いを遣(や)って申した。 「今月の二日、沙門の道久(どうく)と筑紫の君(きみ)薩野馬(さつやま)、韓島(からしま)の勝(すぐり)娑婆(しゃば)、布師(ぬのし)の首(おひと)磐(いわ)の四人が唐より来て、 「唐国の使人郭務ソウら六百人と、送りの使い沙宅孫登(さたく-そんと)ら一千四百人、あわせて二千人が船四十七隻に乗って比智島(ひちのしま。不詳)に泊まっています」と申し、 「いま、われらの船は数が多く、このままいきなり(博多)大津に行けば、恐らく防人(さきもり。辺境の守備兵)は驚いて矢を射かけてくるだろう」と考え、「来朝したわけをあらかじめお話しするため道久(どうく)らを遣りました 」と、申しております」と。
二十三日  大友の皇子は内裏の西の宮殿に行って織り仏像(刺繍〈ししゅう〉織りの仏像)の前に座った。左大臣蘇我の赤兄の臣(おみ)、右大臣中臣の金の連(むらじ)、巨勢の人の臣、紀の大人(うし)の臣が側にいた。大友の皇子が香炉(こうろ。香をたく器)を手にして先に立ち、誓約していった。「六人は心を同じくして、天皇のおことばをいただき大切にしようぞ。もしおことばに違うことあらば、必ず天罰を被るであろう云云」と。ついで、赤兄らが香炉を手にして次々に起ち、歯を食いしばって泣き、誓約していった。
「臣らは殿下(大友の皇子)に従って天皇のおことばを大切に守ります。もし違(たが)うことあらば四天王(須弥山を巡邏しているといわれる仏法の守護神。持国・増長・広目・多聞天)が打ち、天神・地祇(あまつかみ・くにつかみ)もまた誅罰(ちゅう-ばつ)なされる。三十三天(観世音菩薩が人々を救うために化身するといわれている守護神の数)もこの証(あかし)を知っており、子孫はまさに絶え、家門は必ず亡びるであろう云云」と。
二十四日  大津近江の宮が燃えた。火は大蔵の第三倉庫より出た。
二十九日  赤兄ら五人は大友の皇子をいただいて、天皇の前に誓った。この日、新羅の使い金万物に託して、新羅王に絹五十匹、粗絹五十匹、綿一千斤、なめし皮百枚を賜わった。
十二月三日  天皇が近江の宮に崩御なされた。
十一日  新宮に移されて弔われた。 時に、童謡はいった。
【その一】
みえしのの えしののあゆ あゆこそは しまべもえき えくるしえ なぎのもとせりのもと あれはくるしえ
御吉野の吉野の鮎よ 鮎は島辺にいてよろしいでしょうが、こちらはひどく苦しいですよ 水葱〈なぎ〉のもと芹〈せり〉のもとにいるわれは苦しいですよ
ある人がこれを解いていった。
「御吉野の吉野の鮎というのは、吉野にこもられている大海人の皇子のことです。 鮎は大伴の島辺にいてよろしいでしょうが、琵琶湖湖畔の水葱〈なぎ〉のもと芹〈せり〉のもと近江の左右大臣のそばにいるのは苦しいです、といっているのである」と。
【その二】
おみのこの やへのひもとく ひとえだに いまだとかねば みこのひもとく
臣〈おみ〉の子が八重の紐を解きますよ。一重もいまだに解かないでいますと 皇子が紐を解いてものにしてしまいますよ
ある人がこれを解いていった。「五人の家来が宮の八重垣に手をかけている。いまだに何の動きもしないでいると、大友の皇子が皇位を手に入れてしまいますよ、といっているのである」と。
【その三】
あかごまの いゆきはばかる まくずはら なにのつてごと ただにしえけむ
赤駒が足を取られて行き悩む真葛〈まくず〉原 どのような伝言かは知らないけれど 人伝〈づて〉にしないで 直〈じか〉にいってくればよろしいのに
ある人がこれを解いていった。「赤駒が足を取られて行き悩む真葛〈まくず〉原というのは、葛が生い茂る吉野のことで、大海人の皇子を指しています。何を言ってきたのか、兵が欲しければ人に託〈ことづ〉けたりしないで直接いって来なさい。協力しますよ、といっているのである」と。
十七日、新羅の金万物らが帰った。
この年、讃岐の国山田郡の人が、四つ足の鶏の雛〈ひな〉を飼っていた。また、大炊(おおい。大内裏の大炊寮。給食センター)では、八つある鼎(かなえ。釜)が鳴った。あるいは一つの鼎が鳴り。あるいは二つ、あるいは三つがともに鳴り、あるいは八つがともに鳴った。ある人がいった。「鼎が鳴るのは戦乱の兆しである」と。
※新羅はこの年、唐に亡ぼされた高麗の遺民(残された国民)を支援して唐軍と戦い、六月に百済総督府の熊津(ゆうしん)と泗ヒ(しひ)を攻略奪取しているので、郭務ソウらが連れてきた二千人は八年の二千余人についでの難民であろうといわれています。しかし、このあと天智天皇が武器を賜っていることから、あるいは壬申(じんしん)の乱の近江軍を支援するための到来であったとも考えられます。
送使の沙宅孫登は六年冬十月の原注【】に、百済義慈王らとともに捕らえられて唐に送られたとある佐平孫登で、博徳が日誌に「目の前で許された」と書いたあと、唐の臣下になったものと思われます。
天武天皇は天智天皇の同母弟である。幼いときは大海人の皇子と申された。生まれながらに才知がすぐれ、成長してからは群を抜いて勇ましく、天文(てん-もん。気象)と遁甲(とん-こう。忍術)を心得ていた。天智天皇の女(むすめ)ウ野皇女(うの-の-ひめみこ。讃良〈さら〉)を入れて妃とし、天智天皇七年(六六八)東宮(皇太子)となられた。
天武天皇元年(六七二)「われ十三歳。
いわゆる壬申(みずのえさる。じんしん)の年である
春三月十八日  朝廷は阿曇(あずみ)の連(むらじ)稲敷(いなしき)を筑紫に遣わして、天皇の喪に服していることを郭務ソウに告げた。郭務ソウらは喪服に着替えて三度悲しみの声を挙げ、東に向かって礼をした。
二十一日  郭務ソウらは箱に入った文書と志(こころざし)の品を進上した。
夏五月十二日  甲冑(かっ-ちゅう)と弓矢を郭務ソウらに賜い、ほかに粗絹(あら-ぎぬ)千六百七十三匹、布二千八百五十二反、綿六百六十六斤を賜わった。
二十八日  高麗が富加朴(ふ-かべん)らを遣わして貢を進上した。富加朴らはいった。
「新羅の文武王は、臣ら遺民が助け守った安勝王を立てて高麗を再建し、再び日本への朝貢を許してくれました」と。
三十日  郭務ソウらが帰った。
この月、朴井(えのい)の連(むらじ)雄君(おきみ)が大海人の皇子(のち天武天皇)に申していった。「臣は私事(わたくし-ごと)で一人美濃に行きました。するとそのとき、近江より美濃と尾張の国司(こく-し。役所)に通達があったのです。 「天智天皇の御陵を造るために人民を選別して集め、それぞれに武器を取らせよ」と。臣は思いますに、御陵を造るのではなく、必ずや事を起こすためであります。早く吉野を去らなければ危ない目に遭うかも知れません」と。また、ある人が申していった。「近江の都から大和の都にかけて至るところに監視所が置かれ、宇治橋の番人に命じて皇太弟(こうたいてい。大海人の皇子)の舎人(しゃ-じん。とねり)が食糧を運ぶのを妨害しています」と。皇子は聞いてこのことを憎み、調べさせたところ事実だったので、申していった。「われが位を譲り、仏門に入ったわけは、病を治して長く百年を生きるためである。そうであるのに、今、それが叶(かな)えられずに災いを受けようとしている。どうして黙って身を滅ぼすことができようか」と。
六月二十二日  村国の連(むらじ)男依(おより)・和珥部(わにべ)の臣(おみ)君手(きみて)・身毛(むけ)の君(きみ)広(ひろ)に命じていった。「聞くところによると、近江の朝廷の大臣らがわれを亡き者にしようとして計画を立てているということだが、お前たち三人は急いで美濃の国に行き、安八磨(あはつま)郡の湯沐令(とうもく-れい。大海人の皇子の直轄地の役人)多(おおの)の臣(おみ)品治(ほんじ)に事の重大さを話し、安八磨(あはつま)の兵を起こして美濃の国司らと図り、諸方の軍隊を出発させて東の要路である不破の関を塞がせよ。われもいま発つ」と。
二十四日  大海人の皇子が東に発とうとすると、一人がいった。
「近江の朝臣たちは早くから計画しており、きっと天下に告げてどの道も通れなくしているはずです。どうして一人の兵も無く、武器も無く東にお入りなられるのですか。臣は事が成就しないのを恐れます」と。
皇子はこのことばに従って男依(おより)らを呼び戻して従えることにし、大分(おおきた)の君(きみ)恵尺(えさか)、黄書(きぶみ)の造(みやつこ)大伴(おおとも)、逢(あう)の臣(おみ)志摩の三人を旧都倭(大和)の留守司(るす-の-つかさ。守備役)高坂(たかさか)の王のもとに遣わして、駅鈴(えきれい。通行証)をもらって来るようにいった。
「もらえなければ、志摩はすぐに帰って報告し、恵尺(えさか)らは馳(は)せて近江の国に行き、高市(たけち)の皇子と大津の皇子に声をかけて伊勢で落ち合え」と。
こうして、恵尺(えさか)らは大和に行き、東宮(とう-ぐう)大海人の皇子の命令であるといって駅鈴の発行を求めた。しかし、高坂の王は許さなかった。そこで、恵尺は近江に行き、志摩は帰って「鈴をもらえなかった」と、申した。
この日、皇子は出発して東国に向かった。
事が急だったので車馬が間に合わなかった。そのうち、県犬養(あがたいぬかい)の連(むらじ)大伴が鞍をつけた馬と出会って、大海の皇子はその馬に乗られ、皇后ウ野の皇女は輿(こし)に乗られた。津振(つふり)川で車馬が来たので、乗り換えられた。
最初から従っている者は、草壁(くさかべ)の皇子、忍壁(おさかべ)の皇子および舎人(とねり。護衛兵)の朴井(えのい)連(むらじ)雄君、県(あがた)犬養の連大伴、佐伯の連大目(おおめ)、大伴の連友国、稚桜部(わかざくらべ)の臣(おみ)五百瀬(いおせ)、書(ふみ)の首(おびと)根摩呂、書の直(あたえ)智徳、山背部(やましろべ)の小田、安斗(あと)の連智徳、調(つき)の首(おびと)淡海(おうみ)の仲間二十余人と若い女官の十余人で、その日のうちに宇陀(うだ)に着き、大伴連馬来田(まくた)と黄書(きふみ)の造(みやつこ)大伴の二人が吉野の宮から追いついた。
この時、屯田(みた。とんでん〈開拓守備〉)の司(つかさ。役所)の舎人(とねり。護衛兵)土師(はにし)の連馬手(まて)が車馬(大海人の皇子)に従う者に食事を出した。
甘羅(かんら)の村を過ぎるとき、狩り人が二十余人いた。頭(かしら)が大伴の朴本(えのもと)の連大国(おおくに)であったことから、全員呼び寄せて車馬(天皇)に従わせた。ついで美濃の王を招くと、やって来て加わった。宇陀郡の郡家(くん-け。郡役所)の近くでは、湯沐料(とうもく-りょう。直轄地の税)を運んでいた馬五十匹に遇い、米を捨てさせて徒歩の者たちに乗らせた。
大野(三重県名張)に着いて日が暮れた。山道は暗くて進めなかった。そこで、村の家の竹垣をこわしてその竹をともし火にして進んだ。夜半に名張(なばり)郡に着いた。
名張の駅家(宿場の宿泊所)を焼いて「天皇大海人の皇子が東の国にお入りになられた。村の衆は残らず集まって来い」と声をそろえていった。しかし、誰も来なかった。
横川(長田川)にさしかかったとき、大きな黒雲が空を覆った。天皇大海人は不思議にお思いになられ、ともし火をかかげてご自分で算木(さん-ぎ。うらないの卦〈け〉をしるした木、6本)を取り出し、占っていった。「天下二分の卦である。ならば、われが天下を取る」と。いい終わるや、直ちに伊賀郡に急行し、伊賀の駅家を焼いて伊賀の山中に行き、郡司(ぐん-じ。土着の地方官)ら数百人を引き連れて帰って来られた。
明け方、タラ野(不詳)に着き、車馬を止めて食事を摂られた。柘植(つげ。三重県柘植)の山の口で、鹿深(かぶか。滋賀県の甲賀)を越えて来る高市(たけち)の皇子に出会った。民の直(あたい)大火(おおひ)、赤染の造(みやつこ)徳足(とくたる)、大蔵の直広隅(ひろすみ)、坂上(さかのうえ)の直麻呂・古市の黒麻呂・竹田の大徳・胆香瓦(いかが)の臣(おみ)安陪が従っていた。ついで、大山を越え、伊勢の鈴鹿(すずか)に着くと、国司の守(かみ。長官)三宅の連(むらじ)石床(いわとこ)、介(すけ。次官)の三輪の君子首(こふと)および湯沐令の田中の臣足麻呂や高田の首(おびと)新家(にいや)らが参上した。そこで、五百の兵を出して鈴鹿の山道を塞ぎ、川曲(かわ-わ)の坂下に着いたところで日が暮れた。皇后がお疲れになられたので御輿を止めて休んだが、夜になって曇り、雨が降ってきそうになったので休む間もなく進んで行った。寒く、雷雨がひどくなった。従者の衣服が濡れて寒さにたえられなかった。
そのため、三重の郡役所に着くと、屋家を一軒焼いて暖を取らせた。夜半に、鈴鹿の関(不破・愛発〈あらち〉の関とともに三関の一つ)の役人が使いをよこして、「山部(やまべ)の王と石川の王が味方するといって来ましたので関に止めております」と、いった。
天皇(大海人の皇子)は路(みち)の直(あたい)益人(ますひと)を使いさせて二人を呼び寄せた。
二十六日  早朝、朝明(あさけ)郡の迹大川(とおがわ。三重の朝明川)のほとりで天照大神(あまてらす-おおみかみ。神武天皇以前にわが国を治めていたといわれる地神〈くにつかみ。ににぎのみことほか五神の一神〉)を遠くに望み、拝んだ。この時、益人が帰ってきて「関にいたのは山部の王や石川の王ではありませんでした。大津の皇子でした」といった。大津の皇子には大分(おおきた)の君恵尺(えさか)・難波の吉士(きし)三綱(みつな)・駒田の勝(すぐり)忍人(おしひと)山辺の君安麻呂・小墾田(おはりだ)の猪手(いて)・泥部(はせつかべ)のシキ・大分の君稚臣(わかおみ)・根の連(むらじ)金身(かねみ)・漆部(ぬりべ)の友背(ともせ)の輩(やから)が従っていた。
天皇(大海人)は大変お喜びになられた。朝明(あさけ)の郡役所に着く頃、村国の連(むらじ)男依(おより)が早馬で帰ってきて「美濃の軍団三千人を出して、不破(岐阜関が原)の道を塞ぐことに成功しました」と、いった。
天皇は、男依(おより)の手柄をほめた。
郡役所につくと、まず、高市の皇子を不破に遣わして軍事を監督させ、山背部(やましろべ)の小田・安斗(あと)の連阿加布(あかふ)を遣わして東海(静岡・愛知・三重地方)の軍団を出し、また、稚桜部(わかざくらべ)の臣(おみ)五百瀬(いおせ)・土師(はにし)の連馬手(まて)を遣わして東山(とうさん。近江・美濃・飛騨・信濃ほか東に及ぶ地方)の軍団を出した。
この日、天皇は桑名の郡役所に泊まられた。
近江朝廷は太皇弟大海人の皇子が東国に入られたと聞くと、群臣はみな驚いて京内(大津)は大騒ぎとなり、逃げて東国に入ろうとする者、あるいは山や沢に隠れようとする者もいた。
そこで、天智天皇の皇子であられる大友の皇子は群臣に語っていった。
「どうすればよいか」と。
一人の家臣が進み出ていった。
「のんびりと考えていたのでは遅れをとってしまいます。早く騎兵を集めて後を追わせることに越したことはありません」と。
しかし、皇子は従わず、韋那(いな)の公(きみ)磐鍬(いわすき)・書(ふみ)直(あたい)薬・忍坂(おしさか)の直大摩侶(おおまろ)を東国に、穂積の臣(おみ)百足(ももたり)・弟の五百枝(いおえ)・物部の首(おびと)日向を倭の京に、佐伯の連(むらじ)男(おのこ)を筑紫に、樟(くす)の使主(おみ)磐手(いわて)を吉備(岡山)の国にそれぞれ遣わして兵を挙げさせることにし、男(おのこ)と磐手(いわて)にいった。
「筑紫の太宰(おおみこともち。太宰府長官)栗隈(くりくま)の王と吉備の国守(くにのかみ。長官)当麻(たぎま)の公(きみ)広島の二人はもともと太皇弟についていたのであるから、このことを伝えればあるいは叛くかも知れない。もし従わないようであれば、殺せ」と。
磐手(いわて)は吉備の国に着いた。近江朝の命令書を授ける日、磐手は広島の刀をはずさせて自分の刀を抜き、広島を殺した。
男(おのこ)が筑紫に着いた。栗隈の王は命令書を受け取るといった。
「筑紫の国はいうまでもなく外敵から国を守るためにあるのである。城を高くして壕を深くし、海に向かって守備をしているのは国内の敵に対してではない。いま、命令を承(うけたまわ)って戦を起こせば、国の防備は空になる。万が一、不意を突かれる事変があれば国家はたちまち滅んでしまう。そうであるのに殺し合いをして何の利益があろうか。強いて命令に背き、兵を動かさないのはそのためである」と。
ときに、栗隈の王の子である美努(みの)王(橘の諸兄〈もろえ〉の父)と武家(たけいえ)王の二人が剣をつけて側に立っていた。男(おのこ)は柄(つか)に手をかけて斬りつけようとしたが、逆に殺されるのを恐れて果たすことができず、虚しく還って行った。
一方、東方に向かわせた早馬の使い韋那(いな)の公(きみ)磐鍬(いわすき)らは不破に着こうとしていたが、磐鍬ひとりは山中に大海人方の兵がいるのではないかと疑ってゆっくり行った。思った通り伏兵が出てきて先を行く薬らの後ろを遮(さえぎ)った。磐鍬(いわすき)は見ていて薬らが捕らえられるのを知ると、そのままあと返って逃げた。
当時、大伴(おおとも)の連(むらじ)馬来田(まくた)と弟の吹負(ふけい)は共に近江朝を嫌い、病気だといって倭(やまと。大和。奈良)に退いていた。しかし、天智天皇の後継者は吉野の大海人の皇子であられると思っていたので、先ず兄の馬来田(まくた)が太皇弟大海人の皇子に従い、吹負(ふけい)は「国家の困難を鎮めて名を一気に立てたい」といって倭に止まり、一二の氏族と豪傑(ごうけつ。才知武勇にすぐれた人物)数十人を集めていた。
二十七日  高市(たけち)の皇子が使いを桑名の郡家(郡役所)に遣わしてきて申していった。
「遠くに御所を置かれては政(まつりごと)が不便でございます。どうか近くにお越しください」と。
天皇大海人は即日、皇后ウ野の讃良(さら)を残して不破に入られた。不破の郡家(郡役所)に着くころ、尾張の国守小子部(ちいさこべ)の連(むらじ)スキ鈎(すきかぎ)が二万の兵を引き連れて来た。
天皇はほめて、その兵を分け、あちこちの道を塞がせた。野上(のがみ。岐阜県関が原)に着くと、高市の皇子が和ザミ(わざみ。関が原)からやって来て申した。
「昨夜二十六日の夜、伏兵が近江朝の早馬の使いの書(ふみ)の直(あたい)薬と忍坂(おしさか)の直大摩侶(おおまろ)を捕らえました。どこに行くのかと聞くと「吉野の太皇弟を倒すため東国の軍を起こしに行っている韋那(いな)の公(きみ)磐鋤(いわすき)の連れであるが、磐鍬は自分らが捕らえられるのを見て逃げ還った 」とのことでございます」と。
「そうか」と天皇はうなずいて高市の皇子に語っていった。
「近江朝には左右の大臣と智謀にすぐれた群臣がいて戦略を企ておるようだが、われには一緒に軍事を考える者がいない。いるのは女と子どもばかりだ。どうしたものか」と。
すると、高市の皇子は腕をまくり、剣の柄(つか)を握っていった。
「近江にすぐれた臣下がいかに多くいようとも天皇の威力には逆らえません。天皇はお独りではございません。高市の皇子がついております。臣たる高市が天地の神々を頼み、天皇のご命令をお受けして諸将を率いて討てばどうして防げないことがありましょうか」と。
天皇はほめて皇子の手を取り、肩をたたいて「決して怠るでないぞ」と、鞍つきの馬を賜い、すべての軍事を任せることにした。そこで、皇子は和ザミ(わざみ)に還り、天皇は野上に行宮(あんぐう。仮の御殿)を建てて住まわれた。
この夜、雷が轟(ととろ)き雨が激しく降った。天皇はお祈りしていった。「天の神よ地の神よ、われを助けるのであれば雷と雨は止むはずでございます」と。お言葉が終わると同時に、雷雨(らい-う)は止んだ。
二十八日  天皇は和ザミ(わざみ)に行かれ、軍事の様子を見て還られた。
二十九日  天皇は和ザミ(わざみ)に行かれ、高市の皇子に命じて軍隊に号令をかけさせ、再び野上に還って落ち着かれた。
この日、大伴の連(むらじ)吹負(ふけい)は、密かに大和の留守の司(つかさ)坂上(さかのうえ)の直(あたい)熊毛(くまげ)と相談して、陣営から漢(あや)の直(あたい。後漢の霊帝〈在位一六九〜一八四〉を祖とし、漢の植民地楽浪・帯方を経て高麗・百済より応神天皇二十年〈四世紀末〉に渡来した阿知〈あち〉の使主〈おみ〉の支族といわれている)らを一人二人呼び寄せ、語っていった。
「われは高市の皇子を名乗って十数騎を率い、飛鳥寺(法興寺)の北の路から出て陣営に挑む。そなたたちは陣の中にいてわれらの味方をせよ」と。
いい終わると、飛鳥百済村の家に還って兵を整え、南の門より出て、先ず、秦(はだ)の造(みやつこ)熊に犢鼻(とく-び。六尺ふんどし)をさせて馬で走らせ、飛鳥寺の西の陣営に向かっていわせた。
「高市の皇子が不破よりやって来る。大軍を引き連れている」と。
留守の司(つかさ)高坂の王と近江朝より兵を起こす命令を受けて来ていた使者の穂積の臣(おみ)百足(ももたる)らは寺の槻(つき。欅〈けやき〉の一種)の木を拠点に陣を作っていたが、百足は兵器を近江に運び出すため小墾田(おはりだ。高市郡飛鳥)の武器庫に行って陣営にはいなかった。
熊の叫ぶ声を聞くと、陣を造っていた兵士らは驚いて逃げた。そこへ、大伴の吹負が十数騎を従えて勢いよく入って来、坂上(さか-の-うえ)の熊毛(くまげ)と多くの直(あたい)らと連合したので、逃げた兵士もこれに従った。
ここで吹負は、高市の皇子の命令であるといって小墾田(お-はり-だ)の武器庫に穂積の臣(おみ)百足(ももたる)を呼びに行かせた。
百足は馬に乗ってゆっくりとやって来、槻(つき)の木の下に着いた。兵士が「馬を降りよ」といった。百足はなかなか降りなかった。そこで、兵士は彼の襟(えり)をつかんで引き落とし、矢で射貫いて刀で斬り殺した。弟の穂積の臣五百枝(いおえ)と物部の首(おひと)日向(ひむか)は捕らえて教え諭し、すぐに許して軍中に置いた。ついで高坂の王と稚狭(わかさ)の王を呼び、軍に従わせた。
こうして倭(大和)の京飛鳥の占拠が終わると、大伴の連(むらじ)安麻呂(やすまろ。旅人の父。家持の祖父)と坂上(さかのうえ)の直(あたい)老(おゆ。田村麻呂の祖父)と佐味(さみ)の君(きみ)宿那(すくな)麻呂らを不破の宮(野上の行宮)に行かせ、事の次第を奏上した。
天皇は大変お喜びになられ、吹負を将軍に任命した。このとき、三輪の君高市麻呂と鴨(かも)の君蝦夷(えみし)など多くの豪傑が将軍の旗の下に集まってきた。吹負は勢いを得て、近江の襲撃を計画した。軍勢の中からすぐれた兵士を選んで副将(分隊長)と軍監(兵士の監督官)にし、三十日、ひとまず乃楽(なら。奈良)に向かった。
秋七月二日  天皇は紀の臣(おみ)阿閉(あべ)麻呂、多(おおの)の臣品治(ほんじ)、三輪の君(きみ)子首(こふと)、置始(おきそめ)の連(むらじ)兎(うさぎ)に数万の軍民を率いさせて伊勢の大山を越え、倭に向かわせた。また、村国の連男依(おより)、書(ふみ)の首(おびと)根麻呂、和珥(わに)部の臣君手(きみて)、胆香瓦(いかご)の臣安倍に数万の軍民を率いさせて不破より出し、近江に入らせた。その兵には近江の軍民と区別するため衣服に赤色をつけさせた。このあと、特に多(おおの)の臣品治(ほんじ)に三千の兵を率いさせてタ荻(たら)野に駐屯させ、田中の臣足摩呂(たりまろ)に倉歴(くらふ。三重から滋賀への山道)を守らせた。
時に近江は、山部の王・蘇賀(そが)の臣(おみ)果安(はたやす)・巨勢(こせ)の臣比等(ひと)に数万の軍民を率いさせて不破を襲わせたが、犬上川(滋賀県犬上)のほとりで山部の王が蘇賀の果安(はたやす)と巨勢の比等(ひと)に殺されて軍勢が進まず、果安は犬上より引き返し首を刺して死んだ。このとき、近江の将軍羽田(はだ)の公(きみ)八国(やくに)が子の大人(うし)と一族を率いて降った。天皇大海人は改めて八国に将軍を拝し、北陸に向かわせた。これより先、近江は精鋭を放して玉倉部(たまくらべ。滋賀坂田)の天皇領を突いたので、出雲の臣狛(こま)を遣(や)って撃ち払った。
三日  将軍吹負が乃楽山の上に駐屯した。荒田尾(あらたお)の直赤麻呂が将軍に申していった。 「古京飛鳥は言ってみれば本陣のあったところであります。当然ながら固守しなければなりません」と。 将軍はそのことばに従って赤麻呂と忌部(いみべ)の首(おひと)子人(こひと)を遣わし、古京を守らせた。
赤麻呂らは古京飛鳥に着くと、道々の川に架かる橋の板を剥(は)がし取って盾を作り、京の周辺の十字路に立てて守った。
四日  将軍吹負は近江の軍将大野の君(きみ)果安(はたやす)と乃楽山に戦って敗れた。軍勢のことごくは逃げ、吹負もかろうじて危機を脱した。大野の果安はなおも追って八口(やぐち)に至り、登って京を見下ろしたところ、街の十字路ごとに盾が立っているので、兵が潜んでいるものと思い、引き上げて行った。
五日  近江の副将田辺の小隅(おすみ)が鹿深(かぶか)の山を越えて、旗を巻き鼓を抱いて静かに倉歴(くらふ)に至り、夜中に枚(ばい。声を出さないための木片)をくわえて城に穴を開け、一気に足摩呂(たりまろ)の陣営を襲った。その際、足摩呂(たりまろ)の軍民と区別し難いのを心配して一人一人に「金」と言わせるようにし、まず刀を抜いて殴り、「金」と言わない者だけを斬った。このため、足摩呂(たりまろ)の軍民は乱れ、突然のできごとになす術(すべ)を知らなかった。ただ足摩呂(たりまろ)だけは「金」が合言葉であると知り、一人「金」と言って逃げ終えた。
六日  小隅(おすみ)が再び進撃してタ荻(たら)の陣営を急襲した。しかし、将軍多(おおの)臣品治(ほんじ)が精鋭を投じてこれを追撃したので、小隅(おすみ)は逃走した。
このあと、小隅(おすみ)は二度と来ることはなかった。
七日  男依(おより)らが近江軍と息長(おきなが。滋賀坂田)の横河に戦ってこれを破り、その軍将境部の連(むらじ)薬を斬った。
九日  男依(おより)らが近江の軍将秦の友足(ともたり)を鳥籠(とこ。滋賀犬上)の山に討って、これを斬った。この日、東海の将軍紀の臣阿閉(あべ)麻呂らは将軍大伴の吹負が近江軍に敗走したと聞いて軍を分け、置始(おきぞめ)の連(むらじ)兎(うさぎ)に千余騎を率いさせて急ぎ倭(大和)の京飛鳥に駆けつけさせた。
十三日  男依らは安河(滋賀野州川)のほとりで近江(大友)軍と戦い、大いに破って社戸(こそべ)の臣(おみ)大口と土師(はにし)の連千島(ちしま)を捕虜にした。
十七日  栗太(くりもと。滋賀県栗太郡)にいた軍勢を討って、これを追撃し、二十二日、瀬田(滋賀県栗太郡瀬田川)に至った。
時に、大友の皇子(天智天皇の皇子。弘仁天皇)と群臣らは瀬田橋の西に陣を張って大軍を連ね、後ろが見えないほど入り乱れていた。軍旗と幟(のぼりばた)は野を覆い尽くして土埃(つち-ぼこり)が天に舞い上がり、打ち鳴らす鉦(かね)と鼓の音は数十里(唐里約五百六十米)四方に聞こえ、列をなして放つ大弓の矢が雨のように降っていた。
近江の将軍智尊(ちそん)は精鋭を率いて先頭に立ち、攻撃を防いでいた。瀬田橋の中央を三丈(約九米)ばかり切断して一枚の長板を置き、板を踏んで渡る者がいれば板を引いて落とした。
このため、大海人軍は進んで襲うことができなかった。
大分(おおきた)の君稚臣(わかおみ)は勇敢な兵士だった。長矛(ほこ)を捨てて甲冑(かっ-ちゅう。よろい)を重ね着し、刀を抜いて素早く板を踏み渡り、板の引き綱を切って矢を受けながら敵陣に突進した。敵兵は乱れて逃げ散り、止めようがなかった。将軍智尊は逃げる者を斬って恫喝(どう-かつ。脅〈おど〉)したが、それでも止めることができなかった。稚臣(わかおみ)は智尊を橋の袂(たもと。そば)で斬った。
大友の皇子は左右の大臣らと危機を悟り、逃げた。
男依(おより)らは粟津の丘のふもとに軍を集合させた。
この日、羽田(はだ)の公(きみ)八国(やくに)と出雲の臣狛(こま)が合流して三尾(みお。琵琶湖西岸)の城を攻め、降伏させた。
二十三日  男依らは近江の将軍犬養の連五十君(いそぎみ)と谷の直塩手を粟津の市場で斬った。大友の皇子は逃げたが、入る土地がなく、後返って山前(やまさき。三井寺の地)に隠れ、首をくくって死んだ。左右の大臣と群臣はみな散り散りになって逃げ、従っていたのは物部の連麻呂と一二の舎人(とねり。護衛)だけだった。
はじめ、将軍吹負が乃楽(なら)に向かって稗田(ひえだ)に着いた日、ある人が「河内より軍勢が来る」といった。そこで吹負は坂本の臣財(たから)、長尾の直真墨(ますみ)、倉墻(くらかき)の直麻呂、民の直小鮪(おしび)、谷の直根麻呂に三百の兵を率いさせて龍田(たった)を塞がせ、佐味(さみ)の君(きみ)少(すくな)麻呂に数百人をつけて大阪(二上山の北)に駐屯させ、鴨の君蝦夷(えみし)に数百人をつけて石手(いわて。葛城郡)の道を守らせた。
この日、坂本の臣(おみ)財(たから)らは平石(南河内)の野に宿泊していたが、近江軍が高安城にいると聞いて登って行くと、近江軍がすべての食糧庫を焼いて逃げたので、城の中に宿泊した。明け方、西の方を見ると、大津と丹比(たじひ。いずれも南河内)の道から大軍が来ており、軍旗と幟が間近に見えた。ある人は「近江の将軍壱岐(いき)の史(ふひと)韓国(からくに)の軍勢です」といった。財(たから)らは高安城を下りて衛我(えが。南河内)の河を渡り、韓国(からくに)と河の西で戦った。財らは兵が少数だったので防ぐことができず、紀の臣大音(おおおと)に守らせていたカシコ(かしこ。南葛城郡)の道に退却し、大音の陣営に入った。このとき、河内の国守(こくしゅ。長官)来目(くめ)の臣(おみ)塩籠(しおこ)は不破の宮(大海人方)につこうとして兵を集めていた。そこへ、韓国が進軍して来て塩籠の寝返りを聞き、彼を殺そうとした。塩籠は事が漏れたのを知って自害した。
一日が経つと、近江軍はあちこちの道から古京倭を目指して到着した。しかし、味方同士が戦うわけにはいかないので解散して退いて行った。
この日、将軍吹負は一二の騎兵と逃げていたが、黒坂(奈良県宇陀)で置始(おきそめ)の連(むらじ)兎(うさぎ)の軍がやって来るのと出会ったので、還って金綱(かなつな)の井(いずみ)に駐屯し、逃げ散っている兵卒を集めた。前後して、近江軍が大阪の道より来ていると聞くと、吹負は軍を引いて西の当麻(たぎま。二上山の東)に行き、葦池のほとりで壱岐の史(ふひと)韓国と戦った。時に久米(くめ)という勇士がいた。抜刀して近江軍に切り込むと、騎兵が次々進撃したので敵兵は逃げ惑い、背後から斬られる者が多かった。このため、将軍吹負は軍中に命令していった。
「戦を起こした訳は人を殺すためではない。悪の張本人を討つためである。よってむやみに殺してはならない」と。
壱岐の韓国が逃げた。吹負は遥かに目撃して久米に射掛けさせたが当たらず、韓国は遂に逃げてしまった。
吹負が古京の本陣に還るとき、多くの近江軍が従った。そこで、軍を分けてそれぞれ上中下の道に当て、吹負は中の道に当たった。
近江の将軍犬養の連五十君(いそぎみ)が中の道より進攻して来て村屋(むらや。奈良県磯城郡)に留まり、副将の盧井(いおりい)の造(みやつこ)鯨(くじら)に精兵二百を率いさせて吹負の陣営を突かせた。
吹負の軍兵は少なく防ぐことが困難と思われたが、大井寺の下男を勤める徳麻呂ら五人が従っていてこれらが先頭に立って矢を射ったので、鯨の軍は進めなかった。上の道に当たっていた三輪の君高市麻呂と置始(おきぞめ)の連兎が箸(はし)の御陵(十代崇神天皇の大叔母倭の迹迹〈とど〉姫の御墓)で戦って近江軍を破り、勝ちに乗じて鯨の背後を突いた。鯨の軍は陣形を解いて逃げ、多くの兵士が死んだ。鯨は白馬に乗って逃げたが、馬が泥田にはまって進むことができなかった。吹負は「あの白馬に乗っているのは盧井(いおりい)の造(みやつこ)鯨である。急いで追いかけて射よ」と、甲斐の勇者にいった。甲斐の勇者は馬を駆けて追った。追いつくころ、鯨が馬を鞭打ったので馬は泥田を抜け出て走り、鯨は逃げ去った。
将軍吹負は中の道に戻って駐屯した。このあと、近江軍は再び来ることはなかった。
ところで、金綱(かなつな)の井(いずみ)に駐屯していたとき、高市郡大領(たいりょう。長官)の高市の県主(あがたぬし)許梅(こめ)が突然口が利けなくなり、三日後、神懸(かみ-がか)りして(神霊が乗り移って)言ったのである。
「われは高市の森に住む事代主(ことしろぬし)の神であり、牟狭(むさ)の社(やしろ)に住む生霊(いくむすび)の神である」と。そしてその神になって申したのである。
「神武天皇(初代)の御陵に馬とさまざまな兵器を祭れ。そうすれば、大海人の皇子の前と後ろに立って不破の宮に送って還し、官軍の中に立ってこれを守護するであろう」と。そしてまた「西の道より軍勢が来ている」といい、言い終わると、神懸りが落ちてもとの許梅に戻ったのである。
そこで、許梅に馬と兵器を御陵に祭らせて拝ませ、幣(ぬさ。供え物)を捧げさせて高市と身狭の社の神をも祭らせた。
このあと壱岐の韓国の軍勢が大阪より来たので、時の人は「二つの社(やしろ)の神の教えはまさにこれであった」といった。
このほか、村屋の社(やしろ)の神も神主に乗り移っていった。
「今わが社の中の道より軍勢が至ろうとしている。よって、この中の道を塞ぐがよい」と。
それから幾日も経たないうちに盧井の鯨の軍勢が中の道より至ったので、時の人はいった。
「神が教えた通りである」と。
戦は終わった。将軍らはこの三社の神の言葉を奏上した。
これによって天皇(大海人。天武)は、三社の神の位を上げ、これを敬った。
二十二日  将軍吹負は倭(やまと)の地を平定して大阪を越え、難波に行った。副将らはそれぞれ上中下の道から進軍して山前(やまさき)に至り、河の南に駐屯した。吹負は難波の小郡(おごうり)に留まり、西の諸国の役所から官鑰(かん-やく。倉の鍵箱)・駅鈴(えき-れい。使用できる馬の数を刻んだ鈴)・伝印(でん-いん。おして。伝送許可の印)を提出させた。
二十四日  将軍らが佐佐浪(ささなみ。琵琶湖南岸)に集合し、近江の左右の大臣と諸罪人を探し出して捕らえた。
二十六日  将軍らは不破の宮に行き、大友の皇子の首を捧げ奉った。
八月二十五日  高市の皇子に命じて近江の群臣の罪状を述べさせた。
重罪八人を極刑にし、右大臣中臣(なかとみ)の連(むらじ)金(くがね)を浅井(滋賀浅井郡)の田で斬り、左大臣蘇我の臣(おみ)赤兄と大納言巨勢(こせ)の臣比等(ひと)および子と孫、併せて中臣の連金の子と蘇我の臣果安の子らを流刑にした。このほかはすべて許した。
これより先、尾張の国守少子部(ちいさこべ)の連スキ鈎(すきかぎ)が山に隠れて自害した。
天皇(大海人。天武)はいった。
「スキ鈎は手柄を立てたのに、なにか裏切りでもあったのか」と。
二十七日  手柄のあった者を表彰して物を賜わった。
九月八日  天皇(大海人。天武)は倭飛鳥に還られ、伊勢の桑名に宿泊なされた。
九日  鈴鹿に宿泊なされた。
十日  阿閉(あべ。三重県阿山郡)に宿泊なされた。
十一日  名張(なばり)に宿泊なされた。
十二日  倭の京(飛鳥)にお着きになられ、島(奈良県高市郡)の宮に休まれた。
十五日  岡本の宮に移られた。 この年、宮室を岡本の宮の南に作られ、冬、お移りになられた。これを飛鳥浄御原の宮という。
冬十一月二十四日  新羅の客の金押実(おうじつ)らを筑紫でもてなし、物を賜わった。
十二月四日  手柄のあった者を選んで冠位を加え、小山(しょうせん。二十六階中十八位)以上の者に物を賜い、それぞれ差があった。
十五日  船一隻を新羅の客に賜わった。
二十六日  金押実らが帰った。この月、大紫(だいし。五位)韋那(いな)の公(きみ)高見が亡くなった。 韋那の公高見は額田の王女の父である。

二年(六七三)「われ十四歳」
春正月七日  酒を置いて群臣たちと宴(うたげ)をした。
二月二十七日  天皇(大海人。天武)は担当の役人に命じて高御座(たかみくら。即位や儀式に用いる玉座)を作らせ、飛鳥浄御原の宮に即位された。
正妃(きさき)のウ野の讃良の皇女(ひめみこ。天智天皇の皇女)を立てて皇后とした。
皇后は草壁の皇子の尊(みこと)をお生(う)みになられた。
先に、皇后の姉の大田の皇女(天智天皇の皇女)を召して妃とされ、妃は大泊(おおく)の皇女と大津の皇子をお生みになられた。
次ぎの妃の大江の皇女(天智天皇の皇女)は長(なが)の皇子と弓削(ゆげ)の皇子を、次の新田部(にいたべ。天智天皇の皇女)の皇女は舎人(とねり)の皇子をお生みになられた。
また、夫人の藤原の大臣(おおおみ)の女(むすめ)氷上(ひかみ)の娘(いらつめ)は但馬(たじま)の皇女を、次ぎの夫人氷上(ひかみ)の娘(いらつめ)の妹五百重(いおえ)の娘は新田部の皇子を、次の夫人蘇我の赤兄(あかえ)の大臣の女(むすめ)大ヌ(おおぬ)の娘(いらつめ)は穂積の皇子および紀の皇女と田形の皇女をお生みになられた。
天皇は初め、鏡の王の女(むすめ)額田の王女(おおきみ)を召して十市(といち)皇女を、次ぎに胸形(むなかた)の君徳善の女(むすめ)尼子(あまこ)の娘(いらつめ)を入れて高市の皇子の尊をお生みになられた。
次に宍人(ししひと)の臣(おみ)大麻呂の女(むすめ)楫媛(かじひめ)の娘(いらつめ)は二男二女、忍壁(おさかべ)の皇子・磯城(しき)の皇子・泊瀬部(はっせべ)の皇女・託基(たき)の皇女をお生みになられた。
二十九日  功労者に位階を賜い、それぞれ差があった。
三月十七日  備後(びんご。広島)の国司が亀石郡(広島県神石郡)で捕らえた白雉(しろきじ)を献上したので、これを祝って郡の課役を免除し、天下の罪人を許した。この月、写経生に一切経(いっさい-きょう。仏教の教えをすべて集めた教典。大蔵経)を川原寺(弘福寺)で写し始めさせた。
夏四月十四日  大伯(おおく)の皇女(ひめみこ)を天照大神宮(伊勢神宮)に仕えさせるため、泊瀬(はっせ)の斎(いつき)の宮に住まわせた。ここは神にお仕えする前に身を清めるところである。
五月一日  公卿、大夫(大臣・長官)および諸々の臣(おみ)、連(むらじ)と伴造(とものみやつこ。族長)らに命じていった。
「初めて朝廷に仕えようとする者は、先ず大舎人(おお-とねり。宿直護衛)として仕えさせ、そのあと、才能を選び出して適材適所に就けよ。婦女は夫の有無・長幼を問わず、仕えようとする者はすべて受け入れ、男子の官人と同じように才能で選らび適所に就けよ」と。
二十九日  大錦上(二十六位中七位)坂本の臣(おみ)の財(たから)が亡くなったので、壬申の年の功績を称えて小紫(しょうし。六位)を贈った。
閏六月六日  大錦下(九位)百済の沙宅照明が亡くなった。聡明で道理をわきまえ、時の人は秀才と称えた。天皇は驚かれてお言葉を下し、朝廷外の人に与える外(げ)小紫の位を贈り、重ねて本国の最高位大佐平の位を賜わった。
八日  耽羅の王子久麻芸(くまぎ)が都羅・宇麻らを遣わして貢を奉った。
十五日  新羅が天皇の即位の祝賀に金承元、金祇山(ぎせん)、霜雪(そうせつ)を、併せて先の天皇の喪を弔うため金薩儒(さつじゅ)、金池山(ちせん)らを遣わして来た。【あるいはいう。貢の使いである、と】。彼らを筑紫に送ってきたのは貴干宝(き-かんほう)と真毛(しんもう)である。
二十四日  貴干宝らを筑紫でもてなして禄を賜い、それぞれ差があった。干宝らは筑紫より国に返った。
秋八月九日  天皇は、伊賀の国の紀の臣(おみ)阿閉(あべ)麻呂らが壬申の年に挙げた手柄のありさまを語って、ほめた。
二十日  高麗が邯子(かんし)と碩于(せきう)らを遣わして貢を奉った。このため、新羅は金利益を遣わして邯子(かんし)らを筑紫に送った。
二十五日  天皇の即位を祝う新羅の使い金承元ら中位以上の二十七人を京に呼び、ついで大宰(おおみこともち。太宰府長官)に命じて耽羅の使者にお言葉を伝えさせた。
「天皇は新たに天下を平らげ、はじめて即位なされた。このことで、祝賀の使い(金承元ら)以外は京に招かないということを新羅の使いによって知ったであろう。時に寒く、波も高い。長く留まればかえって貴殿らが辛い思いをする。努めて早く帰られよ」と。
そこで、国にいる王と使者の久麻芸(くまぎ)らに初めて爵位の大乙(だいおつ)の上(十九位)を賜い、更に冠を錦で飾ってその国(耽羅)の佐平の位に当てた。
久麻芸らは筑紫より返った。
九月二十八日  金承元らを難波でもてなし、いろいろな音楽を奏でて物を賜い、それぞれ差があった。
冬十一月一日  金承元らが帰った。
二十一日  高麗の邯子(かんし)と新羅の弔使(ちょうし。弔いの使い)金薩儒らを筑紫でもてなし、禄を賜うにそれぞれ差があった。
十二月五日  大嘗祭(だい-じょうさい。即位最初の新嘗〈しん-じょう。にいなめ〉祭。天皇がその年の穀物を皇祖神と天地神に祭り、ともに食する儀式。今日の勤労感謝の日に当たる)に仕えた中臣(なかとみ)、忌部(いんべ)および神官と新穀を奉った播磨(はりま。兵庫県南部)と丹波(たんば。京都中央と兵庫の一部)二国の郡司以下手伝った人々に禄を賜い、郡司らには位一級を加えた。
十七日  美濃の王と紀の臣(おみ)訶多(かた)麻呂を高市(北葛城郡)の大寺(百済大寺)を造る役人に任命した。【いまの大官大寺(大安寺)である】。時に知事(寺の事務をとる役僧)の福林僧が老いのため知事を辞めたいと申したが、許さなかった。
二十七日  義成(ぎじょう)僧を小僧都(しょう-そうず。僧官の七位)とし、更に佐官(すけ。補佐)ふたりを加えた。佐官が四人となったのはこのときにはじまったのである。この年、木星(年数を数える星)は癸酉(きゆう。みずのととり)の位置にあった。
三年(六七四)「われ十五歳」
春正月十日  百済王の昌成(しょうじょう。善光の子)が亡くなり、小紫位(六位)を贈った。
二月二十八日  紀の臣(おみ)阿閉麻呂が死んだ。天皇は大変悲しみ、壬申の功績をたたえて大紫位(五位)を贈った。
三月七日  対馬の国守(長官)忍海(おしぬみ)の造(みやつこ)大国が申した。「銀がはじめてこの国に出ました。すぐに献上いたします」と。これによって、大国に小錦下(十二位)を授けた。およそ銀が倭(日本)の国に出たのはこのときがはじめてだったので、諸神社に奉り、小錦以上の大夫らすべてに賜わった。
秋八月三日  忍壁(おさかべ)の皇子を石上(いそのかみ)神宮に遣わして脂(あぶら)で宝を磨かせた。この日、天皇は命じて申された。「もともと諸家氏々が神宮(石上)の倉に納めたものである。いますべてをその子孫に返す」と。
冬十月九日  大伯(おおく)の皇女が泊瀬(はっせ)の斎(いつき)の宮より伊勢神宮に向かわれた。
※伊勢神宮には式年遷宮(二十年毎に隣の宮地に社殿を新しく建て替えて神々を移す儀式)があります。これは天武天皇が定められた制度で、持統天皇四年(六九〇年)に第一回の遷宮が行なわれ、平成五年(一九九三)に第六十一回が行なわれたということです。
四年(六七五)「われ十六歳」
春正月一日  大学寮(だいがく-りょう。四書五経などを教える役所。大学)の諸学生・陰陽寮(いんよう-りょう。天文・暦算を教える役所)・典薬寮(てんやくりょう。医薬を教える役所)および、舎衛(さえ。インドにあった国)の女、都貨羅(とから。中央アジアの国。斉明六年〈六六〇〉夫の乾豆波斯達阿〈げんずはしたつあ〉が置いて行った)女、百済王善光・新羅の仕丁(じちょう。雑技者)らが薬や珍しい物を奉った。
二日  皇子以下諸官僚が祝賀を述べた。
三日  初位(二十六位)以上が薪(たきぎ)を進上した。
五日  はじめて占星台(天文台)を建てた。
七日  群臣を朝廷でもてなした。
十七日  大臣および初位以上の官僚が西の門で弓射した。この日、大和の国が瑞鶏(ずいけい。めでたいとされる珍しいとり)を奉り、東(あずま)の国が白鷹、近江の国が白鳶(とび)を奉った。
二十三日  各神社に幣(ぬさ)を祭った。
二月九日  天皇は大倭(やまと)、河内、摂津(せっつ。大阪)、山背(京都)、播磨(はりま。兵庫)、淡路、丹波(京都・兵庫)、但馬(たじま。兵庫)、近江(滋賀)、若狭(福井)、伊勢(三重)、美濃(岐阜)、尾張(愛知)などの国に命じて申された。「国の人々の中から、上手に歌を歌う男女および滑稽(こっけい。口達者)と芸能にすぐれた人を選んで献上せよ」と。
十三日  十市の皇女と阿閉(あべ)の皇女が伊勢神宮に参った。
十五日  命じて申された。「天智三年に氏々に賜わった曲部(かきべ。私有民)は今より取り止めにする。また、親王・諸王および寺々に賜わった山・沢・島・浦・林・野・池も賜わった年が天智三年の前であれ後であれいずれも取り止めにする」と。
十九日  命じて申された。「群臣官僚および天下の人民は諸悪をしてはならない。もし犯す者があれば事件のたびにこれを罪にする」と。
二十三日  天皇は高安城に行かれた。この月、新羅が王子忠元および金比蘇(ひそ)、金天沖(てんちゅう)、朴武麻(むま)、金洛水らを遣わして貢を奉った。送りの使い金風那(ふうな)と金孝福が筑紫に送った。
三月二日  土佐の大神(おおみかみ。高知県土佐神社)が太刀(たち)一口(ひとふり)を天皇に進上した。
十四日  金風那(ふうな)と金孝福を筑紫でもてなし、二人は筑紫より帰った。
十六日  諸王位四位の栗隈(くりくま)の王を兵政官長(大宝令〈七〇一〉の兵部省長官に比定)とし、小錦上(十位)の大伴の連(むらじ)御行(みゆき)を大輔(次官)とした。この月、高麗が富干(ふかん)と多武(たぶ)らを遣わして貢を奉り、新羅が朴勤脩(はく-きんしゅう)と金美賀(みか)を遣わして調(みつぎ)を進上した。
夏四月五日  僧尼(そう-に)二千四百余りを招いて法会を行なった。
八日  お言葉があった。「小錦上(十位)当麻の公(きみ)広麻呂と小錦下(十二位)久努(くの)の臣麻呂の二人は参朝させてはならない」と。
九日  命じて申された。「諸国の稲の貸し出し税は、今より以後、人民を調べて貧富を上中下に分け、中以下に貸し与えよ」と。
十日  美濃の王と佐伯の連広足を遣わして風の神を龍田(たった)の立野(たつの。奈良生駒の龍田神社)に祭らせ、間人(はしひと)の連大蓋(おおがさ)・曽祢(そね)連韓犬(からいぬ)を遣わして、大忌(おお-いみき。穀物)の神を広瀬の河曲(かわ-わ。川の流れが曲がるところ)に祭らせた。
十四日  久努(くの)の臣麻呂が天皇の使いを拒んで罪になり、官位官職をすべて追われた。
十七日  諸国に命じて申された。
「今より以後、すべての漁師猟師を規制し、檻(おり)および落とし穴・しかけ槍などの類は使わせない。また、四月一日から九月三十日までの間は簗(やな)をしかけてはならない。また、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食ってはならない。もし犯す者がおれば罪にする」と。
十八日  三位の麻績(おみ)の王に罪があり、因幡(いなば。島根県)に流した。子の一人は伊豆へ流し、一人は値嘉島(ちかしま。長崎県)に流した。
二十三日  滑稽歌舞音曲(おん-ぎょく)の芸人たちを選らんで物を賜い、それぞれに差があった。この月、新羅の王子忠元らが難波に着いた。
六月二十三日  大分(おおきた)の君恵尺(えさか)が病で死に瀕(ひん)していた。天皇は大変驚かれてお言葉を述べられた。「恵尺(えさか)はわたくしに背いておおやけに赴き(滅私奉公して)、身命を惜しまず、雄々しい心をつくして壬申の役(えき。戦)に働いてくれた。永久に恵みを与え、そなたが死んでも子孫を厚く恵みたい」と。そこで、位を外小紫(六位)に上げた。数日して、自分の家で亡くなった。
秋七月七日  小錦上(十位)大伴の連国麻呂を大使とし、小錦下(十二位)三宅の吉士(きし)入石を副使として新羅に使いさせた。
八月一日  耽羅の調使(ちょう-し。みつぎのつかい)王子の久麻伎が筑紫に泊まった。
二十二日  大風が砂を飛ばし、家屋を壊した。
二十五日  新羅の王子忠元らが礼を終えて帰り、難波より船で発った。
二十八日  新羅と高麗の調使を筑紫でもてなし物を賜い、それぞれ差があった。
九月二十七日  耽羅の王始如(しじょ。天智五年〈六六六〉王子として来朝した)が難波に着いた。
冬十月三日  天皇は使いを四方にやって、一切経(いっさい-きょう。釈迦の説法をすべて集めたもの。大蔵経)を求めさせた。
十日  酒を置いて、群臣と宴(うたげ)をした。
十六日  筑紫より唐人三十人が献上されたので、遠江(とおとおみ。静岡西部)に定住させた。
二十日  天皇は命じて申された。 「諸王以下初位以上の者はみな武器を備えよ」と。 この日、相模(さがみ。神奈川県)の国が申した。 「高倉郡の女人が男の三つ子を生んだ」と。
十一月三日  人が宮殿の東の丘に登り、妖言(よう-げん。人を惑わす根拠のないことば。デマ)を飛ばして首を刎(は)ねて死んだ。 この夜、宿直に当たっていた者全員に位一級を賜わった。
この月、大きな地震があった。
五年(六七六)「われ十七歳」
春正月一日  群臣と諸官僚が拝朝した。
四日  高市の皇子以下小錦(十二位)以上に、衣・袴(はかま)・褶(かさね。乗馬用の袴)・腰帯(こし-おび。ベルト)・脚帯(あ-ゆい。袴の裾〈すそ〉を巻く脚半〈きゃ-はん〉。ゲートル)および、肘掛けと杖を賜わった。
十五日  諸官僚の初位(二十六位)以上が薪を進上し、全員が朝廷に集まって宴(うたげ)のもてなしを受けた。
十六日  褒美(ほう-び)の品を置いて、西の門で弓射をし、的に当てた者に褒美の品を賜い、順位に応じて差があった。この日、天皇は島の宮に行かれて宴をなされた。
二十五日  命じて申された。「およそ国司を任命するときは、畿内(京周辺の国。山背・大和・河内・和泉・摂津)および陸奥・長門を除いてすべて大山(十五位)以上とせよ」と。
二月二十四日  耽羅の客に船一艘を賜わった。この月、大伴の連国麻呂らが新羅より帰った。
夏四月四日  龍田の風の神と広瀬の大忌(おお-いみき)の神を祭った。この日、倭(大和)の添下(そう-の-しも)郡の鰐積(わにづみ)の吉事(よ-ごと)が瑞鶏(ずい-けい)を奉った。鶏冠(とさか)が椿の花に似ていた。また、倭の飽波(あくなみ。奈良平群郡)が申していった。「雌鳥が雄鳥になった」と。
十四日  命じて申された。「諸王諸臣に与えている封戸(ふこ。へひと。田作りの家)の税(ぜい。おおぢから。稲・産物・労力)は西国をやめて東国の税を与えるようにせよ」と。また、畿外の者で仕官しようとする者は、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とも-の みやつこ)および国造(くに-の-みやつこ)であれば許可せよ。この外、庶民であっても才能がすぐれておれば許可せよ」と。
二十二日  美濃の国司に命じて申された。「砺杵〈とき。岐阜県土岐〉郡にいる紀の臣阿佐麻呂(壬申の年、近江方についた)の子を東国に移して百姓(ひやく-せい。人民)とせよ」と。
五月三日  天皇は述べられた。「納期を過ぎても調(ちょう。みつぎ。絹・綿・布などの産物)を納めない国の役人らが与える損失は、しかしか」と。
七日  下野(しもつけ。栃木県)の国司らが申していった。「管内の人民は凶作(不作)の年に遭遇し、飢えて子を売りたがっています」と。朝廷は売ることを許さなかった。
この月、命令して、南淵(みなみふち)山と細川山(いずれも、奈良県高市郡)の立ち入りを禁じて草を刈ることも薪をとることもさせないようにし、畿内の山野で、もともと禁じているところは無闇(むやみ)に焼いたり折ったりしてはならないとした。
六月  四位の栗隈の王が病気で逝去した。次いで、物部の雄君の連も急病で死んだ。天皇は聞かれてひどく驚かれ、雄君が壬申の年に天皇に付き従って東国に入り大きな手柄を立てていたので、恩恵を施して大紫(五位)の位を贈り、氏の上(かみ。長)を賜わった。この夏、日照りが続いた。使いを四方に遣って幣帛を捧げ、諸々(もろもろ)の天神地神を祭った。また、多くの僧尼を招いて仏を祈った。しかし、雨は降らず五穀は実らず、人民は飢えた。
秋七月二日  卿(三位以上。大臣)大夫(四位・五位。省長官)および諸官僚の位を上げ、それぞれ差があった。
八日  耽羅の客が国に帰った。
十六日  龍田の風の神と広瀬の大忌の神を祭った。この月、村国の連雄依(おより)が死んだ。壬申の年に手柄があったので、外の小紫(六位)の位を贈った。箒(ほうき)星が東に出た。長さが七・八尺(唐尺約三十一糎)あり、九月になって、天に消えた。
八月二日  親王(しんのう。大宝令制で天皇の兄弟姉妹・皇子・皇女をいう)以下、内命婦(ない-みょうぶ。五位以上の女官)らに、食封(じきぶ。民戸の租税。俸禄)を賜い、それぞれ差があった。
十六日  命じて申された。「四方に大祓(おお-はらい。万民の罪や汚れを払う神事)をさせよ。用いる物は国毎に国造(くに-の-みやつこ。地方豪族の長)が生贄(いけ-にえ)の馬一匹と布一常(ひと-ひろ。約四米)を用意し、郡司(地方官)が屠殺解体の刀一口(ふり)・鹿皮一張・鋤(すき)一口・小刀一口・鎌一口・弓矢一具(そろい)・稲一束(いっそく。十把〈たば〉)、それぞれの家は麻一条とする」と。
十七日  命じて申された。「死刑・没官(ぼっ-かん。官の奴婢にされた者)・流罪は罪一等を減らし、徒罪(ず-ざい。労働刑)以下、罪にされた者されていない者すべて許せ。すでに流された者は許しの中には入らない」と。この日、諸国に命じて生きものを放した。この月、大三輪の真上田(まかみた)子人の君が死んだ。天皇は聞かれて非常に悲しまれ、壬申の年の功績で小紫(六位)を贈り、諡(おくりな。死後に贈る名)を大三輪(おお-みわ)の神(かみ)真上田の迎(むかえ)の君とした。
九月一日  雨が降って濡(ぬれ)るので、告朔(こう-さく。各役所がその月の行事を奏上する月例公事〈くじ〉)をしなかった。
十日  王および卿を京と畿内に派遣して、個々人の武器を調べさせた。
十二日  筑紫の大宰(太宰府長官)三位の屋垣(やかき)の王に罪があり、土佐に流した。
十三日  諸官僚および諸蕃(しょ-はん。唐・新羅など)の人らに物を賜い、それぞれ差があった。
二十一日  伊勢の神官が申した。「新嘗(にい-なめ)の新穀を献上する国を占ったところ、由岐(ゆき。東の祭田)は尾張の国山田郡(愛知県春日井)、須岐(すき。西の祭田)は丹波の国訶沙郡(京都府加佐郡)が占いと合った」と。この月、坂田の公雷(いかずち)が死んだ。壬申の年の功績で大紫(五位)の位を贈った。
冬十月一日  酒を置いて、群臣らをもてなした。
三日  新嘗の穀物を奉る諸神社に幣帛(へい-はく。ぬさ〈榊(さかき)の先に四手(しで。麻・布または紙・絹を短冊形に切り連ねた飾り)を垂れ下げた、大型の玉串のようなもの〉と絹布などの供え物)を祭った。
十日  物部の連麻呂を大使とし、山背(やましろ)の直百足(ももたり)を小使として新羅に遣わした。
十一月一日  新嘗のことがあったので、告朔(こう-さく)をしなかった。
三日、新羅が、金清平を遣わして教えを請(こ)い、あわせて金好儒(こうじゅ)・金欽吉(きんきつ)らを遣わして調(みつぎ)を進上した。送使(送りの使い)の被(ひ)珍那と副使の好福が清平らを筑紫に送った。この月、粛慎(しゅくしん。みちはせ)の七人が清平に付いて来た。
十九日  京に近い国々に命じて生きものを放させた。
二十日  使いを四方の国にやって、金光明経と仁王(にんのう)経(いずれも護国を説いた教典で、奈良時代以後法華経が加わりわが国の護国三経となった)を説かせた。
二十三日
高麗が、大使阿于(あう)と副使徳富を遣わして貢を奉った。新羅は金楊原を遣わして高麗の使者徳富らを筑紫に送った。この年、新城(にい-き、奈良県郡山)を都にしようとして区域内の田園を公私の別なくすべて耕さないでいたところ、ことごとく荒れてしまい、結局都にしなかった。
六年(六七七)「われ十八歳」
春正月十七日  南の門で弓を射った。
二月一日  物部の連(むらじ)麻呂が新羅より帰ってきた。この月、多祢(たね。種子島)の島人らを飛鳥寺の西の槻(つき)の木の下でもてなした。
三月十九日  新羅の使者の金清平以下十三人の客を京に招いた。
夏四月十一日  杭田(くいた)の史(ふひと)名倉が天皇を謗(そし)って罪に落ち、伊豆の島に流された。
十四日  清平の送使被(ひ)珍那らを筑紫でもてなして、筑紫より帰した。
五月一日  告朔(こう-さく。諸官が奏上する前月の勤務記録をご覧になられる儀式)をしなかった。
三日  詔して、大学の博士(はかせ)百済人率母に大山下(十五位)を授け、封戸〈ふこ。へひと。民戸の租税。俸禄〉三十戸を与えた。
この日、倭の絵師音檮〈おとかし〉に小山下(十八位)を授け、二十戸を与えた。
七日  新羅人朴(はく)刺破(しは)が、従者三人と僧三人とで値嘉島に漂着した。
二十八日  天皇は命じていった。「神戸(かんべ。神社を支える封戸)の年貢は三分の一を神に供え、三分の二を神主に与えるものとする」と。この月、日照りが続き、京と畿内で雨乞いをした。
六月十四日 大きな地震があった。
この月、東漢(やまと-の-あや)の直(あたえ)らに命じていった。
「汝(なんじ。お前)ら同族は昔から七つの不可(禁じていること)を犯して来た。小墾田(おはりだ)の御世(推古朝〈五九三〜六二八〉)より近江朝(天智天皇・大友の皇子)に至るまで、常に汝らを監視することを事として来た。今われの世となって汝らのして来たことを責め、犯したことを罪にしようとしたが、直ちに漢(あや)の直(あたえ)の氏を絶やそうとは考えていない。それゆえ、恩恵を下して今日までの罪は許す。以後、犯す者がおれば必ず許されることはない」と。
秋七月三日  龍田の風の神と広瀬の大忌(おお-いみき)の神を祭った。
八月十五日  飛鳥寺(法興寺のち元興〈がんごう〉寺)に僧を集めて大法要をいとなみ、一切経を読んだ。そこで、天皇は寺の南門に出かけられて御仏を敬った。このとき、親王・諸王および諸大臣に命じて、それぞれの縁者に一人の出家を許し、出家者は男女・長幼を問わず願いのままに得度(とくど)させ(仏門に入らせ)、大法要に集めるとした。
二十七日  金清平が国に帰ることになり、値嘉島に漂着していた朴破伎らを付けて本国に返した。
二十八日  耽羅が王子都羅を遣わして、貢を奉った。
九月三十日  命じて申された。
「およそ浮浪人は、国元に送り返した者にせよ、再び還ってきた者にせよ、いずれも共に課役(かえき。租税と勤労奉仕)を科せ」と。
冬十月十四日  小錦上(十位)河辺の臣(おみ)百枝(ももえ)を民部卿(みんぶきょう。かきべのかみ。民亊の長官)とし、大錦下(九位)を丹比(たじひ)の公(きみ)麻呂を摂津職(せっつしき。つのつかさ。直轄地の役所。国司よりも役割が大きい)大夫(長官)とした。
十一月一日  雨が降って告朔(こう-さく。諸官が奏上する前月の勤務記録をご覧になられる儀式)をしなかった。
筑紫の太宰(長官)が赤い鳥を献上したので、太宰府の諸役人に物を賜い、それぞれ差があった。また、赤い鳥を捕らえた者の位を五階級上げ、郡の人民の租税を一年免除した。この日、天下に大赦(たい-しゃ)した(罪人を許した)。
二十一日  新嘗祭をした。
二十三日  位のある諸官僚に食事を賜わった。
二十七日  新嘗に奉仕した神官と国司らに物を賜わった。
十二月一日  雪が降って告朔(こう-さく)をしなかった。
七年(六七八)「われ十九歳」
春正月十七日  南の門で弓を射った。
二十二日  耽羅人が京に向かった。この春、天神地神を祭るため、天下を払い清め、斎宮(さいぐう)を倉梯(くらはし。奈良県磯城〈しき〉郡)の河上に建てた。
夏四月一日  斎宮に行かれる日を占ったところ七日と出たので、明け方、先導の警備が動き、諸官僚は列を作って、天皇はお車に蓋(きぬがさ)を差しかけるよう命じられた。 出かけようとしてまだ出かけないうちに、十市の皇女(母額田の王女)が急に発病なされて宮中で亡くなられた。このため、行列は停まって行くことができず、天神地神を祭れなかった。
十三日  新宮(不詳)の西の庁舎の柱に雷が落ちた。
十四日  十市の皇女を赤穂(奈良県北葛城郡)に葬った。天皇は葬儀に臨み、悲しまれた。
秋九月  忍海(おしうみ)の造(みやつこ)能(よし)麻呂が珍しい稲五茎(くき)を献上した。茎ごとに枝があった。 天皇はこれをめでたいとして、徒刑(ずけい。労役刑)以下の罪をすべて許した。 三位の稚陝(わかさ)の王が亡くなられた。
冬十月一日  綿のような物が難波に降った。長さが五・六尺(十五〜十八米)で幅が七・八寸(二十一〜二十四糎)あり、ゆらゆらと松林と葦原を漂っていた。時の人は「天下泰平のしるしである」と、いった。
二十六日  天皇は命じて申された。 「およそ内外(中央地方)の文武官は、史(ふひと。書記)以上の部下で、毎年、陰(かげ)日なたなく勤めている者がおればその優劣を評価して進級の位を決め、正月上旬までに詳しく記して法官(式部省)に送れ、法官は調べて大弁官(大納言の下僚)に申し送れ。しかし、公用の出張を真の病気や父母の葬儀でないのに軽々しい理由で断わった者は進級させない」と。
十二月二十七日  臘子鳥(あとり。スズメ科の渡り鳥)が空を覆って西南より東北に飛んだ。
この月、筑紫の国に大きな地震があった。幅二丈(唐丈約三米)長さ三千余丈にわたって地が裂け、人民の家が村々で多く倒壊した。
時に、一軒の家が丘の上にあった。地震は夜で丘が崩れ、家が動いた。しかし、家は壊れなかった。家人は丘が地すべりを起こして家が動いたことを知らず、夜が明けてから知り、大いに驚いたという。
この年、新羅の送りの使い加良(かりょう)井山(せいさん)と金紅世(きむ-こうせい)が筑紫に着いていった。「新羅王は金消勿(しょうもち)と金世世(せいせい)らを遣わして今年の調(みつぎ)を奉るため、井山に消勿(しょうもち)らを送らせましたが、海上で暴風に遇って消勿らは行方知らずになってしまいました。井山は辛うじて岸に着くことができましたが、消勿らは遂に来ませんでした」と。
八年(六七九)「われ二十歳」
春正月五日  新羅の送りの使い加良井山と金紅世らが京に向かった。
七日  命じて申された。「およそ正月の集会で諸王および諸臣諸官僚は、兄姉以上親および氏上以外は拝礼してはならない。諸王は母であっても王族の出身でない母には拝礼してはならない。諸臣もまた身分の低い母には拝礼してはならない。正月の集会以外でもこれに倣(なら)え。もし犯す者がおれば罪にする」と。
十八日  西の門で弓射した。
二月一日  高麗が桓父(かんぷ)と需婁(じゅる)らを遣わして貢を奉った。新羅は甘勿那(かん-もちな)を遣わして桓父らを筑紫に送らせた。
三日  紀の臣(おみ)堅(かた)麻呂が死に、壬申の功績で大錦上(七位)を贈った。
四日  命じて申した。「二年後、諸王親王および諸官僚の武器と馬を調べる。よって予(あらかじ)め貯えておけ」と。この月、貧乏を哀れみ、飢えと寒さに苦しむ人々に物を賜わった。
三月六日  兵衛(ひょう-え。とねり。宮門警備)の大分(おおきた)の君稚臣(わかみ)が死んだ。壬申の大乱で先陣を切り、瀬田の塞(とりで)を破った。この功績で小錦上(十位)を贈った。
七日  天皇は越智(おち。高市郡)にお出ましになられ、後岡本(斉名)天皇陵を拝んだ。
九日  吉備の大宰(おおみこともち。長官)石川の王が病気になり、吉備で逝去した。天皇は聞かれてひどく哀しまれ、諸王の二位を贈られた。
二十二日  貧しい僧尼に綿を施した。
夏四月五日  命じて申された。 「食封(じき-ぶ。へひと)を持っている諸寺の由来を協議して、増やすところは増やし、止めるところは止めよ」と。この日、諸寺の名前を定め、斑鳩(いかるが)寺を法隆寺、飛鳥(あすか)寺を法興寺というふうに地名の名であったのを漢風にした。
九日  広瀬と龍田の神を祭った。
五月五日  吉野の宮に出でまされた。
六日  天皇は、皇后および草壁の皇子、大津の皇子、高市の皇子、川島の皇子(天智天皇の皇子)忍壁の皇子、志貴の皇子に命じていった。「われは今日、汝(なんじ)らとこの庭で誓いをし、千年の後までも事なき世であることを願うがどうであろうか」と。皇子らはともに答えて「よくわかりました」といい、先ず草壁の皇子の尊(みこと)が進み出て誓いのことばをいった。「天の神、地の神および天皇が証であります。われら兄弟は長幼あわせて十余王、それぞれ異腹より生まれる。しかし、違いを分け隔てすることなく共に天皇のおことばに従って助け合い、争いません。もし今より以後この誓いを守らなければ身命は滅びてしまい、子孫は絶えてしまうでしょう。忘れません、忘れません」と。
続いて残り五王も同じように誓った。
天皇は申された。 「われの皇子らはそれぞれ異腹に生まれたが、一母同産のように慈しみ合われよ」と。そして、襟(えり)を開いて六人の皇子を抱き、誓っていった。 「もしこの誓いに違えばたちまちわれの身も亡ぶだろう」と。皇后もまた天皇と同じように誓った。
七日  天皇は浄御原に還られた。
十日  六人の皇子はともに正殿(大極殿)に行き、天皇に拝礼した。
六月一日  氷が降った。大きな桃の実ほどもあった。
二十三日  雨乞いをした。
二十六日  大錦上(七位)大伴の社屋(もりや)が死んだ。
秋七月六日  雨乞い。
十四日  広瀬・龍田を祭る。
十七日  四位の葛城の王が死んだ。
八月一日  命じて申された。 「諸氏は女人を献上せよ」と。
泊瀬(はっせ)に出でまされ、迹驚(とどろき)の淵のほとりで宴をなされた。
これより先、王卿(大臣)に「乗馬用の馬の外に、脚が長く腰の細い馬を用意して出せ」と申し付けておられたので、浄御原に還られる日、王卿が用意した馬を迹見(とみ。磯城〈しき〉郡)の駅家の道のそばで見られ、すべての馬を走らせた。
二十五日  鬘(かつら)の造(みやつこ)忍勝がめでたい稲を献じた。株を異にして穂を同じくしていた。
二十五日  大宅の王が死んだ。
九月十六日  新羅に遣わされていた使者らが返り、天皇にお目通りした。
二十三日  高麗と耽羅に遣わされていた使者らが返り、ともにお目通りした。
冬十月二日  天皇は命じて申された。 「われは聞いた。近頃は無法者が多く街や村にはびこっていると。これは王卿らの責任である。無法者がいると聞いても煩(わずら)わしがって正さず、悪人を見ても怠(おこた)って正さない。そのつど罪を調べて正しておけばどうして無法者がはびころうか。今より以後は煩い怠ることなく、上は下の過ちを責め、下は上の悪を諌(いさ)めよ。そうすれば国家は治まる」と。
十一日  地震。
十三日  命じて、僧尼らの礼法および衣(ころも)の色、併せて馬の従者が街道と村道を往来する方法(交通道徳)を定めた。
十七日  新羅が金項那(ごうな)と薩累生(さち-るいせい)を遣わして朝貢した。調(みつぎ)の品は金・銀・鉄・鼎(かなえ)、錦・絹・布・皮、馬・犬・駱駝(らくだ)の類十余種で、天皇・皇后・太子には別に金・銀・刀・旗の類を献じ奉り、それぞれ多い少ないがあった。
この月、命じて申された。
「およそ僧尼は、常に寺に住んで御仏を守り、やがて老いて病を患う。永く狭い部屋に住んで老病に苦しめば、寝起きに支障を来たして清浄な地もまた穢(よご)れる。今より以後はそれぞれが親族および信仰の厚い人に引き取られて静かなところに住まいを建て、老いた者は身を養い、病んだ者は薬を服用するように」と。
十一月十四日  地震。
二十三日  大乙(だいおつ)下(二十一位)倭の馬飼部の造(みやつこ)連(つら)を大使とし、小乙上(二十二位)上(かみつかた)の村主(すぐり)光欠(こうけつ)を小(副)使として多祢(種子)島に遣わし、位一級を賜わった。この月、はじめて関所を龍田山と大坂山(いずれも奈良と河内の境)に置き、難波に城壁を築いた。
十二月二日  めでたい稲が献上されたので、親王諸王諸臣おやび諸官僚に物を賜い死刑以下はすべて許した。この年、紀伊(き)の国の伊刀(いと)郡が霊芝(れいし)を奉った。形はキノコに似ていて茎の長さは一尺、蓋(かさ)は二人で囲うぐらいあった。また、因幡(いなば。島根県)の国がめでたい稲を奉った。茎ごとに枝があった。
九年(六八〇)「われ二十一歳」
春正月八日 天皇は小殿に出でまされて正殿(大極殿)の庭で宴を開き、王卿をもてなした。この日、忌部(いみべ)の首(おびと)首(こふと)に姓(かばね)を賜い、連(むらじ)とした。首は弟の色弗(しきふつ)とともに喜び拝礼した。
十七日  南の門で弓射した。
二十日  摂津(つ。大阪)の国が申した。「活田(いくた。神戸市生田)の村に桃が実った」と。
二月十八日  鼓(つづみ)のような音が東方から聞こえた。
二十六日  ある人が鹿の角を献上していった。「葛城山で拾いました。角は二又で根元に肉がつき、肉の上に毛があります。毛の長さは一寸ほどで、異様なものなので奉りました」と。思うに、麟(りん。想像上の動物)の角か。
二十七日  新羅の仕丁(じ-ちょう。技能指導者。四年正月の人たちか)が本国に帰ることになり、恩恵を施して物を賜い、それぞれ差があった。
三月十日  摂津の国が白いシトド(鳥類。アオジの仲間)を奉った。
二十三日  天皇は宇陀郡の吾城(あき)にお出でかけになられた。
夏四月十日  広瀬・龍田を祭った。
十一日  橘(たちばな)寺(奈良高市郡)の尼の部屋から出火、十部屋を焼いた。
二十五日  新羅の金項那らを筑紫でもてなして物を賜い、それぞれ差があった。
この月、命じていった。 「およそ寺々は、国の大寺の二三を除いて役所が管理してはならない。ただその食封は支給された年月から三十年を限度とし、年数を数えて三十年に満ちれば止めよ。飛鳥寺(百済が崇峻〈しゅうしゅん〉天皇元年〈五八七〉に、仏舎利〈仏の遺骨〉・僧侶・寺大工・鑢盤〈ろばん。ふいご〉博士・瓦(かわら)博士・画工などを献上したのを受けて、蘇我の馬子が飛鳥の衣縫〈ころもぬい〉の造〈みやつこ〉祖樹葉〈そ-じゅよう〉の家を壊して法を興す寺を建て、この地を飛鳥真神原〈あすか-まがみ-の-はら〉と名づけたことによるといわれている)は役所が管理してはならないが、元は大寺として役所が常に管理して来た。また、功徳(く-どく)もあった。そういうわけで、役所が管理する寺に入れる」と。
五月一日  粗絹・綿・糸・布を京内の二十四寺に施し、それぞれ数に差があった。この日、はじめて、金光明経を宮中および諸寺で説かせた。
十三日  高麗が卯問(ぼうもん)と俊徳らを遣わして朝貢し、新羅の考那(こうな)らが筑紫に送った。
二十一日  大錦下(九位)秦の造(みやつこ)綱手が死んだ。壬申の功績で大錦上(七位)を贈った。
二十七日  小錦中(十一位)星川の臣(おみ)摩侶が死んだ。壬申の功績で大紫上(五位)贈った。
六月五日  新羅の客項那(ごうな)らが帰った。
八日  灰が降った。
十四日  雷が凄(すさ)まじかった。
秋七月一日  飛鳥寺の西の槻(つき)の木の枝がひとりでに折れて落ちて来た。
五日  天皇は県(あがた)犬養の連(むらじ)大伴の家に出でまされ、病を見舞われた。この日、雨乞いをした。
八日  龍田・広瀬を祭った。
十日  朱雀(あかすずめ)が南の門にいた。
十七日  朴井(えのい)の連(むらじ)子麻呂に小錦下(十二位)を授けた。
二十日  飛鳥寺の弘聴(ぐちょう)僧が終わった(死んだ)。大津の皇子と高市の皇子を遣わして弔わせた。
二十三日  小錦下三宅の連石床が死んだ。壬申の功績により、大錦下を贈った。
二十五日 納言兼宮内卿五位舎人(とねり)の王が病んで死に瀕(ひん)したので、高市の皇子を遣わした。翌日、亡くなった。天皇は大変驚かれ、高市の皇子と川島の皇子を遣わして葬儀に参列させた。諸官僚も悲しみ泣いた。
八月五日  法官(式部省)の人がめずらしい稲を奉った。雨が降り始めて三日間続き、大水となった。
十四日  大風が木を折り、家を壊した。
九月九日  天皇は朝嬬(あさずま。葛城郡)に出でまされて、大山(十五位)以上の馬を点検し、馬の的射(まと-い。騎射)をさせた。
二十三日  地震。
二十七日  桑内の王が自宅で死んだ。
冬十月四日  京内の貧しい僧尼や人民を哀れみ、施しをした。僧尼には粗絹四匹・綿四屯(とん。屯約百五十グラム)・布六反、沙弥(しゃみ。僧)と庶民には粗絹二匹・綿二屯・布四反であった。
十一月一日  日食があった。
三日  戌(いぬ。夜八時)から子(ね。十二時)にかけて東方が明るかった。
四日  高麗人十九人が本国に返った。これらは後岡本(斉明)天皇の喪に出合って弔使となり、留まって還らなかった者たちである「斉明天皇六年〈六六〇〉の使者賀〈が〉取文〈しゅもん〉ら一行百余人かと思われる」
七日  諸官僚に命じていった。「国家に利益をもたらし、人民を豊かにして行く術(すべ。方法)があれば朝廷に参って自ら申し述べよ。もし、その考えが道理にあえば、立てて法とする」と。
十日  西方に雷があった。
十二日  皇后がご病気になられた。そこで、皇后のために祈願し、はじめて薬師寺を興して(六九八年完成)百人の僧を得度(とくど。出家)させ、これによって安らぎを得た。この日、罪人を許した。
十六日  月食。草壁の皇子をやって恵妙(えみょう)僧の病を見舞わせた。翌日、終わった。このため、三人の皇子を遣わして弔わせた。
二十四日  新羅が金若弼(じゃくしつ)と金原升(げんしょう)を遣わして調を奉り、ことばを習う者三人を寄越(よこ)した。
二十六日  天皇がご病気になられたので、百人の僧を得度させた。すると、急に良くなられた。
三十日  臘子鳥(あとり。スズメ科の渡り鳥)が空を覆って東南より飛び、西北に渡った。
十年(六八一)「われは二十二歳」
春正月二日  神々に幣帛を奉った。
三日  諸官僚が天皇を拝礼した。
七日  天皇は小殿に出でまされて宴をなされた。親王と諸王を正殿に引き入れ、諸臣は周りの殿舎に座って共に酒を置き、音楽を聞いた。このあと、大山上(十三位)草香部(くさかべ)の吉士(きし)大形に小錦下(十一位)を授けて難波の連の姓を賜い、草壁の皇子の名を諱(いみな。恐れ避ける)とされた。
十一日  境部の連石積を六十戸に封じ、粗絹三十匹、綿百五十斤(唐斤約六百グラム)、布百五十反、鋤(すき)百口を支給した。
十七日  弓射した。
十九日  畿内と諸国に命じて、天地神の神社を修理させた。
二月二十五日  天皇と皇后は共に大極殿(正殿)におられて諸王と諸臣を呼び、申された。
「われは今、新しく律令を定めて方式を改めようと思う。それゆえ、臣らもともにこれを正せ。しかし、急いで取り掛かっては公務に支障を来たすので、分担して行なうようにせよ」と。
この日、草壁の皇子の尊(みこと)が成人(二十歳)になられたので、立てて皇太子とし、政治を執らせた。
二十九日  阿倍夫人(天智天皇の妻妾)が亡くなられた。
三十日  小紫の当麻の公(きみ)豊浜が亡くなった。
三月四日  阿倍夫人を葬った。
十七日  天皇は大極殿に出でまされて、川島の皇子、忍壁の皇子、広瀬の王、竹田の王、桑田の王、三野の王、上毛野(かみつけの)の君三千、忌部(いみべ)の連首(ふと)、阿曇(あずみ)の連稲敷、難波の連大形、中臣(なかとみ)の連大島、平群(へぐり)の臣子首(こふと)に命じ、帝紀(歴代天皇記)および上古の諸事を編纂させた。筆は大島と子首が執った。「書紀のもとになるものだ。われも史料の収集に加わった」
二十日  地震。
二十五日  天皇は新宮の井戸のほとりにおられて、試しに鼓吹の音楽(軍楽)を始められ、練習させた。
夏四月二日  広瀬・龍田を祭った。
三日  禁令九十二条を定め、命じて申された。「親王以下庶民に至るまで、身につける金・銀・珠玉・紫・錦・刺繍・綾織および毛織の敷物・冠・帯あわせていろいろの物にはそれぞれ差がある。その説明は詔書(天皇が布告する文書)にある」と。
十二日  錦織(にしごり)の造(みやつこ)小分(おきた)以下十四人に連(むらじ)の姓を賜わった。
十七日  高麗の客卯問(ぼうもん)らを筑紫でもてなして物を賜い、それぞれ差があった。
五月十一日  皇祖神武天皇の御魂を祭った。この日、命じて申された。「諸官僚役人は女官を敬って礼を尽くすこと甚(はなはな)だしい。あるいはその門に行って自分の思いを訴え、あるいはその家に行って贈り物を捧げ、媚(こ)びへつらっている。今後、このような事があれば男女とも罪にする」と。
二十六日  高麗の卯問(ぼうもん)らが帰った。
六月五日  新羅の客若弼(じゃくしつ)を筑紫でもてなした。
十七日  雨乞い。
二十四日  地震。
秋七月一日  朱い雀が現われた。小錦下(十二位)采女(うねめ)の臣竹羅(ちくら)を大使とし、当麻の公楯を副使として、新羅の国に使いさせた。この日、小錦下(十二位)佐伯の連広足を大使とし、小墾田の臣摩呂を副使として高麗の国に使いさせた。
十日  広瀬・龍田の神を祭った。
三十日  天下に命じ、すべてに大祓(おおはらい)をさせた。国造(くにのみやつこ)らはそれぞれの神社に祓の奴婢一人を出して祓った。
閏七月十五日  皇后が誓願して大いに供養し、経を京内の寺々で説かせた。
八月十日  来朝帰化した三韓(百済・高麗・新羅)の人々に命じて申された。
「先日、許していた十年の徴税猶予は終わった。しかし、課役は帰化の最初の年に来た子孫ともにすべて免除する」と。
十一日  上毛野(かみつけの)の君三千が死んだ。
十六日  伊勢の国が白い梟(ふくろう)を奉った。
二十日  多祢(たね-の)島に使いしていた使者が多祢の国の地図を献上した。その国は京を去ること五千余里(唐里約六百米)で、筑紫の南の海の中にあり、人々は髪を切り、草の裳(も。腰みの)をつけ、粳(うるち。米)が常に豊作で年二回とれ、産物はクチナシ・イグサのほか海の物などが多い。
この日、若弼(にゃくひつ)が国に帰った。
九月三日  高麗と新羅に使いしていた使者がともに還って来て拝朝した。
五日  周防(すほう。山口県)の国が赤い亀を奉ったので、島の宮の池に放した。
八日  命じて申された。「およそ諸氏で氏上のまだきまっていない者は早くきめて理官(のち治部省)に申し送れ」と
十四日  多祢の人たちを飛鳥寺の西の河辺でもてなし、いろいろな音楽を演奏した。
十六日  彗星が現れた。
十七日  火星が月に入った。
冬十月一日  日食。
十八日  地震。
二十日  新羅が金忠平と金壱世(いちせ)を遣わして調を奉った。金・銀・銅・鉄、錦・絹・鹿の皮・細糸織りの布類が各種あった。また別に、天皇と皇后および太子に金・銀・霞錦(かすみ-にしき)・幡(はた)皮の類を奉り、それぞれ数があった。
二十五日  命じて申された。 「大山(十五位)以下小建(二十六位)以上の人らはそれぞれ意見を述べよ」と。
この月、天皇は広瀬野(葛城郡)に狩りをなされようとして行宮(あんぐう。ご休憩所)を作り終え、支度をなされたが、遂にお出かけになられなかった。だだ、親王以下諸大臣だけが軽(かる)の市(畝傍山の南)にいて鞍馬(くら-うま。鞍を付けた馬)を点検し、小錦(十二位)以上の高官は樹の下に並んで座り、大山(十五位)以下の者はみな馬に乗り、大路に沿って南から北へ行っていた。そこえ新羅の使者が来て、告げていった。
「国王(新羅王)が亡くなられた」と。(七月一日薨る。諡〈おくりな〉文武〈三国史記〉)
十一月二日  地震。
十二月十日  河辺の臣子首を筑紫に遣わして、新羅の金忠平をもてなした。
二十九日  田中の臣鍛師(かぬち)以下十一人に小錦以下の位を授けた。この日、舎人の造(みやつこ)糠虫(ぬかむし)と書(ふみ)の直(あたえ)智徳に連の姓を賜わった。
十一年(六八二)「われ二十三歳」
春正月九日  大山上(十三位)舎人(とねり)の連(むらじ)糠虫(ぬかむし)に小錦下(十二位)を授けた。
十一日  金忠平を筑紫でもてなした。
十八日  氷上(ひかみ)夫人(鎌足の長女。天武天皇の妻妾)が宮中で亡くなった。
十九日  地震。
二十七日  氷上夫人を赤穂に葬った。
二月十二日  金忠平が国に帰った。
この月、舎人の連糠虫(ぬかむし)が死んだ。壬申の功績で、大錦上(七位)を贈った。
三月一日  三野の王らに命じて新城(にいき)に遣わし、地形を見させて都にしようとした。
二日  陸奥の蝦夷(えみし)二十二人に位を賜わった。
七日  地震。
十三日  境部の連石積(いわづみ)に命じて、更に新字一部四十四巻(万葉仮名かともいう。現存しない)を作らせた。
十六日  新城に出でまされた。
二十八日  命じて申された。「今より以後、親王以下諸官僚役人は位階の冠および狩り用の袴(はかま)と脛(すね)当てを着けてはならない。膳夫(かしわで。食事係)の采女(うねめ。女官)は襷(たすき、袖を繰り上げる紐)と肩巾(ひれ。スカーフの類)を着けてはならない」と。この日、命じて申された。「親王以下諸臣に支給している食封(じき-ぶ。俸禄田。封戸)は止める。みな公に返せ」と。この月、土師(はにし)の連真敷(ましき)が死んだ。壬申の功績で、大錦上(七位)を贈った。
夏四月九日  広瀬・龍田の神を祭った。
二十一日  筑紫の太宰(おおみこともち。長官)丹比(たじひ)の真人(まひと。姓は追記)島らが大鐘を奉った。
二十二日  越(こし。北陸)の蝦夷伊高岐那(いこきな)らが「捕虜にした七十戸を一つの郡にしたい」と願ったので、許した。
二十三日  命じて申された。「今より以後は男女とも髪を結い上げよ。十二月三十日以前に結い上げよ。ただし、結い上げる日は命令を待て」と。婦女が馬に乗るとき男と同じ乗り方をするようになったのは、この髪を結い上げる日に始まったのである。
五月十二日  倭漢(やまと-の-あや)の直(あたえ)らに連の姓を賜わった。
十六日  高麗に遣わしていた大使佐伯の連広足と副使小墾田(おはりだ)の臣(おみ)摩呂らが御所に参り、使いの報告を申し上げた。
二十七日  倭漢(やまと-の-あや)の直らの男女が全員参上して姓を賜わったことを喜び、天皇に拝礼した。
六月一日  高麗王安勝が婁毛切(る-もせつ)と昴加(こう-か)を遣わして産物を奉るというので、新羅は金釈起(しゃくき)を遣わして高麗の使者を筑紫に送らせた。
六日  男子ははじめて髪を結い上げ、漆紗(しっ-さ。漆〈うるし〉を塗った薄絹)の冠(かんむり)を着けた。
十二日  五位殖栗(えくり)の王(聖徳太子の王子)が死んだ。
秋七月三日  隼人(はやと)が来て、産物を奉った。 この日、大隅(おおすみ。鹿児島県)の隼人と阿多(あた。鹿児島県日置)の隼人が朝廷で相撲を取って大隅の隼人が勝った。
九日  小錦中(十一位)膳(かしわで)の臣摩侶が病んだ。天皇は、草壁の皇子の尊と高市の皇子を遣わして見舞いさせた。
十一日  広瀬・龍田を祭った。
十七日  地震。
十八日  膳(かしわで)の臣摩侶が死んだ。天皇は痛く哀しまれた。
二十一日  摩侶の臣に、壬申の功績によって大紫(五位)の位と物を贈られ、更に皇后も官位に準じて物を賜わった。
二十五日  多祢島・掖玖(やく。屋久)・阿麻彌(あまみ。奄美)の人らに物を賜い、それぞれ差があった。
二十七日  隼人らを飛鳥寺の西でもてなして色々な音楽を奏でた。物を賜うにそれぞれ差があり、僧尼も庶民もみなこの催しを見た。この日、信濃(しなの。長野県)の国と吉備の国(岡山県)が共に申した。「霜が降り、また風がひどく吹いて五穀が実らなかった」と。
八月一日  親王以下諸臣に至るまで全員に命じて、礼法を用いることを申し述べられた。
三日  高麗の客を筑紫でもてなした。この日、夕暮れ時、星が東より西に渡った。
五日  礼法を作った。大きな虹(にじ)が宮中にかかった。
十一日  火の色で、灌頂幡(かんちょう-ばた。釈迦の誕生日四月八日の花祭りや僧侶の資格秘法伝授式など、頭頂に水を注ぐ儀式に立てられる旗)のような形をした物が空に浮いて北へ流れた。どこの国からでも見えた。ある人がいった。「越(こし。北陸)の海に入った」と。この日、白い気(き。ガス)が東の山に起こった。大きさは四囲(よかこ)い(四人で手をつなぐほど)もあった。
十二日  大きな地震があった。
十三日  筑紫の太宰(おおみこともち。長官)が申した。「三つ足の雀がおった」と。
十七日  また地震があった。この日、明け方に虹が出た。天空の真ん中にあって日(ひ。陽)に向かっていた。
二十三日  礼儀とことば使いの形式(方法)を述べられた。また、命じて申された。「およそ官吏の選考に当たる者は、よくその家系と品行を調べてから決めよ。たとえ品行と能力が勝れていても、家系がはっきりしない者は選考の対象にしない」と。
二十八日  氷高(ひだか)の皇女(ひめみこ。草壁の皇子の皇女。のち元正天皇)【またの名は新家の皇女】が病になられたので、死罪以下の男女あわせて百九十八人の刑罰を許した。
二十九日  百四十四人を大官大寺(のち大安寺)で出家させた。
九月二日  命じて申された。「今より以後は跪礼(き-れい。跪〈ひざまず〉いての礼)と匍匐礼(ほふくれい。平伏〈ひれ-ふ〉しての礼)はともに止めて、難波朝廷(三十六代孝徳天皇)の立礼にせよ」と。
十日  正午に数百の大鳥(おおとり。コウノトリ)が大宮(伊勢神宮)に向かって空高く飛び、四刻(二時間)でみないなくなった。
冬十月八日  宴を催した。
十一月十六日  天皇は命じて申された。「親王諸王および諸臣・庶民に至るまでことごとく聞くがよい。およそ法を犯す者を暴き正すときは、宮殿の中であろうと朝廷の中であろうと、過ちを起こしたところで見るがまま聞くがままに隠し覆うことなく暴き正せ。犯した罪が重ければ、奏上する必要のあるものは奏上し、捕らえる必要のあるものは捕らえよ。もし反抗して捕らえられないときは、近くの兵士を連れて来て捕らえ、杖刑(じょう刑。杖で打つ刑)に当たれば、杖百回以下、九十・八十とその級を決めよ。また犯した罪がはっきりしているのに偽って罪がないといい、白(しら)を切る者はその犯した罪に偽りの罪を加えよ」と。
十二月三日  命じて申していった。「諸氏の氏人らはそれぞれ氏上を決めて申し送れ。またその一族が多い時は分けてそれぞれの氏上を決め、ともども役所に申し送れ。そうした後で、氏の姓名を検討して処理する。よって、役所の決めたことは承知せよ。ただ一族が少ないからといって、一族でない者を容易(たやす)く付けてはならない」と。
十二年(六八三)「われ二十四歳」
春正月二日  諸官僚が朝廷を拝礼し、筑紫の太宰(おおみこともち。長官)丹比(たじひ)の真人(まひと)島らが三つ足の雀(前年の七月に捕らえた)を奉った。
七日  親王以下諸大臣を大極殿(正殿)の前に呼んで宴を催し、三つ足の雀を諸臣に見せた。
十八日  命じて申された。「明(現)神(あきつかみ。現世に姿を現わしいる神)大八州(おおやしま。日本の国々)御(しらすめす。治める)日本根子天皇(やまとねこ-の-すめらみこと。倭の大本である天皇)の勅命(ちょくめい。命令)をすべての国司・国の造・郡司および人民らは聞くがよい。われがはじめて皇位に登ってより、天瑞(てんずい。めでたいしるし)は一つや二つではなく多くの数に至った。伝え聞くところでは、天瑞というのは、政治の道理が天道(天の運行。自然の法則)に適っているときに現われるという。それが今、われの世に毎年重ねて現われるのである。あるいは恐れ多いことであり、あるいは喜ばしいことである。これによって、親王諸王および諸大臣諸官僚あわせて天下の黎民(れい-みん。人民)とともに歓喜し、小建(二十六位)以上に物を賜い、死罪以下の罪をみな許し、人民の課役もみな許す」と。
この日、小墾田(おはりだ)の舞(民衆の田楽〈でんらく〉が三十三代推古天皇〈飛鳥小墾田の宮〉のとき様式化されたものといわれている。倭舞)を舞い、高麗・百済・新羅三国の音楽を宮中の庭で奏でた。
二月一日  大津の皇子が成人(二十歳)となり、はじめて朝廷の政治を聞かれた。
三月二日  天皇は僧正(そうじょう。大僧正・僧正・権〈ごん。仮・副〉の僧正)、僧都(そうず。大僧都・権の大僧都・僧都・少僧都・権の少都)、律師(りっし。律師・権律師)を任じて僧官(僧の官職)とし、命じて申された。「僧尼を法に則って一つにまとめ治めよ。しかしか」と。
十九日  多祢に遣わしていた使者らが返って来た。
夏四月十五日  命じて申された。「今より以後は必ず銅銭を用い、銀銭は用いてはならない」と。
十八日  命じて申された。「銀銭を用いることをやめてはならない」と。
二十一日  広瀬・龍田の神を祭った。
六月三日  大伴の連馬来田(まくた)が亡くなった。天皇は大変驚かれ、泊瀬(はっせ)の王を遣わして弔わせ、壬申の勲功と先祖代々の功績を挙げて顕彰し、大紫(五位)を贈って鼓吹(くすい。軍楽)葬とした。
六日  三位高坂の王が亡くなった。
秋七月四日  天皇は鏡の姫王(おおきみ。藤原の鎌足の妻)の家に出でまされて病をお尋ねになられた。
五日  鏡の姫王が亡くなった。この夏、はじめて宮中に僧尼を招いて安居(あんご。インドでは夏は雨季に入って屋外に出られないため、一箇所にこもって座禅したことによる。陰暦四月十六日から七月十五日までの三か月間行なわれ、雨(う)安居・夏(げ)安居・一夏ともいう)をさせ、浄行者(戒律を守って正しく修行した人)三十人を選んで出家させた。
十五日  雨乞い。
十八日  天皇は京内を巡行された。
二十日  広瀬と龍田の神を祭った。この月の初めから八月に至るまで日照りが続き、百済僧の道蔵が雨乞いをして雨を得た。
八月五日  大赦。大伴の連吹負(ふけい)が死んだ。壬申の功績で大錦中(八位)を贈った。
九月二日  大風。
二十三日  倭の直(あたえ)以下すべて三十八氏に姓を賜い、連(むらじ)を名乗らせた。
冬十月五日  三宅の吉士以下あわせて十四氏に姓を賜い、連を名乗らせた。
三十日  天皇は倉梯(くらはし)に狩りをなされた。
十一四日  諸国に命じて、陣形隊列の兵法を習わせた。
十三日  新羅が金主山と金長志を遣わして調を進上した。
十二月十三日  伊勢の王、羽田の公八国、多(おおの)臣(おみ)品治(ほんじ)、中臣の連大島ならびに判官(はんがん。三等官)・録史(ろくし。四等官)・工匠(たくみ。土木・大工)の者らを遣わして天下を巡行させ、国を分けて境界線を引かせることにしたが、この年は任務に就けなかった。
十七日  命じて申された。「諸文武官および畿内に官位がある人らは、四季の初めの月(一・四・七・十月)には必ず参朝せよ。もし死に至る病で集まれないときは、最寄の役所が詳しく記して法官(式部省)に申し送れ」と。また、命じて申された。「およそ都城・宮室は一か所だけではない。必ず二三か所に造る。それで、まず難波を都にしたく思うので、諸官僚はそれぞれ行って宅地を支給されよ」と。
十三年(六八四)「われ二十五歳」
春正月十七日  三野の県主(あがたぬし)と内蔵(くら)の衣縫(きぬ-ぬい)の造(みやつこ)の二氏に姓を賜い、連(むらじ)を名乗らせた。
二十三日  天皇は東の庭に出られて多くの臣下を側に置き、弓の上手な人と侏儒(しゅ-じゅ。小人)や側近の舎人を呼んで弓を射らせた。
二月二十四日  金主山を筑紫でもてなした。
二十八日  広瀬の王・大伴の連安摩呂および判官・録事・陰陽師・工匠らを畿内に遣わして都を造るところを調べさせた。この日、三野の王、采女(うねめ)の臣(おみ)筑羅(ちくら)らを信濃に遣わして地形を調べさせた。この地に都を造ろうとするか。
三月八日  吉野の宇閉(うべ)の直(あたえ)弓という人が、白椿を奉った。
九日  天皇は京内を巡られ、宮室を建てる土地を決められた。
二十三日  金主山が国に帰った。
夏四月五日  徒罪(ずざい。労働刑)以下をみな許した。
十三日  龍田の風神と広瀬の大忌(おお-いみ)の神を祭った。
二十日  高向(たかむく)の臣摩呂を大使とし、都努(つぬ)の臣牛飼(うしかい)を小使として新羅に遣わした。
閏四月五日  命じて申された。 「来年の九月に必ず軍事を視察する。よって、諸官僚に挙止(きょ-し。立ち居振舞い)および礼式を教えよ」と。また、命じて申された。
「およそ政治の要諦(よう-てい。たいせなところ。要点)は軍事である。であるから、文武諸官人は努めて武器の使い方と乗馬を習え。馬や武器とあわせて甲冑(かっ-ちゅう。よろい)も備えよ。馬のある者は騎士とし、ない者は歩兵とする。いずれも訓練を積んで、集会に差し支えがないようにせよ。もし、これに逆らって武器や馬に不都合があったり、身支度に不備があったりすれば親王以下諸臣に至るまでともに罪にし、大山(十三位)以下は罰すべきは罰し、杖(じょう。杖刑)にすべきは杖にせよ。このほか、努め励んで習い、よく技を磨いた者は、たとえ死刑になったとしても罪を二等減らす。ただし、技を自負していたずらに罪を犯す者は例外である」と。
また、命じて申された。「男女とも、衣服は襴(らん。上下のつながった衣)であっても襴でなくても、結い紐(ゆいひも。合わせ目を結ぶ紐)は短いものでも長いものでも思いのままに着けよ。男子は圭冠(けい-かん。角張った冠)があればかぶり、褌(ふんどし。したばかま。ももひき)を着けよ。女の四十歳以上は髪を結うも結わないも、馬に乗るのに縦乗りも横乗りも思いのままにせよ。巫祝(ふ-しゅく。神に仕えるもの)は髪を結わなくてよい」と。
十一日  三野の王らが信濃の国の図を進上した。
十六日  宮中で法会を催し、罪のあった舎人らを許した。
二十四日  飛鳥寺の僧福揚(ふくよう)が罪に坐して(かかわって)獄に下った(刑に服した)。
二十九日  福揚は自ら首を刺して死んだ。
五月十四日  帰化した百済の僧尼と俗人の男女あわせて二十三人を武蔵の国に定住させた。
二十八日  三輪の引田の君難波麻呂を大使とし、桑原の連(むらじ)人足(ひとたる)をを小使として、高麗に遣わした。
六月四日  雨乞いした。
冬十月一日  命じて申された。「更に諸氏の族姓を改めて八色(やくさ。八種)の姓(かばね)を作り、天下のすべての姓をこのいずれかにする。一を真人(まひと)、二を朝臣(あそみ)、三を宿祢(すくね)、四を忌寸(いみき)、五を道師(みちし)、六を臣(おみ)、七を連(むらじ)、八を稲置(いなぎ)という」と。
この日、守山の公(きみ)以下十三の氏に姓を賜い、真人を名乗らせた。
三日  伊勢の王らを遣わして諸国の境界を決めさせた。この日、県犬養の連手繦(たすき)を大使とし、川原の連加尼(かね)を小使として耽羅に遣わした。
十四日  亥の時(午後十時)になって大きな地震があった。国中の男女は叫び声をあげ、どうしてよいかわからなかった。山は崩れ、河の水は湧き上がり、諸国の官舎と人民の倉や家・寺・塔・神社が破壊され、その数は数え上げることができなかった。この地震で、人民と六畜(馬・牛・羊・豚・犬・鶏)が多く死傷した。
「われもまた叫び声をあげて柱にしがみつき、どうしてよいかわからなった」時に、伊予の湯(温泉)が引いて出なくなり、土佐東南の田園五十余万頃(けい。唐頃約五百八十アール)が沈没して海(土佐湾)となった。古老はいった。「これほどの地震はいまだかつてなかった」と。この夜、轟きわたる音があつた。鼓のような音で、東方に聞こえた。ある人が申していった。「伊豆の島の西と北の二面に自然と三百余丈を増やして更に一つの島となった。鼓のような音は神がこの島を造った響きである」と。
十六日  諸王大臣に物を賜わった。
十一月一日  大三輪の君以下五十二の氏に姓を賜い、朝臣(あそみ)を名乗らせた。
三日  土佐の国司が申した。「大潮が高く上がって(津波となって)海水がさまよい流れ、調(みつぎ)を運ぶ船を多く失いました」と。
二十一日  たそがれ時に、七つの星がともに東北に流れて落ちた。
二十三日  日没時に、星が東方に落ちた。大きさは甕(かめ)ほどあった。戌(いぬ)の時(午後八時)になって、天文ことごとく乱れ、星の落ちるのが雨のようであった。
この月星が天の中央で燃え盛って昴(すばる)と並んで行き、月末になって消えた。
十二月二日  大伴の連以下の五十の氏に姓を賜い、宿祢(すくね)を名乗らせた。
六日  大唐に留学していた土師(はにし)の宿祢甥(おい)と白猪(しらい)の史(ふひと)宝然(ほうねん)、および百済の役(えき。白村江の戦い)で大唐に捕らえられていた猪使(いつかい)の連(むらじ)子首(こふと)・筑紫の三宅の連得許(とこ)が新羅を通って帰って来た。
新羅は金物儒(きむ-ぶつじゅ)を遣わして、甥らを筑紫に送った。
十三日  死刑を除いて、それ以下の罪人はすべて許した。この年、天皇は伊賀・伊勢・美濃・尾張の四国に申された。「今より以後、調を送る年は役(えだち。一年のうち十日間上京しての勤労)を免除し、役の年は調を免除する」と。
倭の葛城下郡が申した。「四足の鶏がいました」と。また、丹波の国氷上郡が申した。「十二本の角の仔牛がいました」と。
十四年(六八五)われは二十六歳。
春正月二日  諸官僚が天皇に拝礼した。
二十一日  更に官位の号(呼び名)を改め、階級を増し加えた。諸王以上は明位(みょうい)以下十二階級とし、諸臣は正位以下四十八階級とした。
この日、草壁の皇子の尊(みこと)に浄広壱(じょう-こういち)位(十二位中六位)、大津の皇子に浄大弐(だいに)位(十二位中七位)、川島の皇子と忍壁の皇子に浄大参位(九位)を授け、以下諸王にも増し加え、それぞれ差があった。
二月四日  大唐人・百済人・高麗人あわせて百四十七人に官位を賜わった。
三月十四日  金物儒を筑紫でもてなした。物儒が帰ることになり、漂着していた新羅人七人をつけて還した。
十六日  京職大夫(きょうしき-たいふ。直轄地の長官)直(じき)大参(四十八位中十三位)巨勢(こせ)の朝臣(あそみ)辛檀努(したの)が死んだ。
二十七日  天皇のご命令があった。「諸国は国ごとに仏殿をつくり、仏像と経典を備えて礼拝供養せよ」と。この月、灰が信濃の国に降って草木がみな枯れた。
夏四月四日  紀伊の国が申した。「牟婁(むろ。白浜湯崎)の湯(温)泉が引いて出なくなった」と。
十二日  広瀬・龍田の神を祭った。
五月五日  南門で弓射した。天皇は飛鳥寺に出でまされて珍しい宝を仏に奉り、礼拝された。
十九日  直(じき)大肆(だいし。四十八位中十五位)の粟田の朝臣(あそみ)真人が位を父の島に譲った、しかし、天皇は命じて許さなかった。この日、直(じき)大参(十三位)の当麻(たぎま)の真人広摩呂が死んだ。壬申の功績で直大壱位(九位)を贈った。
二十六日  高向(たかむく)の臣(朝臣)摩呂を大使とし、都努(つぬ)の臣(朝臣)牛飼らが新羅より帰り、学問僧(仏教を体系的に研究している僧)の観常(かんじょう)と雲観を連れてきた。新羅王の献上した物は、馬二匹・犬三頭・オウム二番(つがい)・カササギ二番の外いろいろな宝物があった。
六月二十日  大倭(やまと)の連以下十一の氏に姓を賜い、忌寸(いみき)を名乗らせた。
秋七月二十一日  広瀬・龍田の神を祭った。
二十六日  明位以下の朝服の色を定めた。
二十七日  命じて申された。「東山道(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後)の美濃より東と東海道(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房〈あわ〉・上総〈かずさ〉・下総〈しもふさ〉・常陸〈ひたち〉)の伊勢より東の諸国で位のある人らの課役を免除する」と。
八月十二日  天皇は浄土寺に出かけられた。
十三日  川原寺に行かれて稲を僧らに施された。
二十日  耽羅に遣(つか)いしていた使者たちが還って来た。
九月九日  天皇は旧岡本の宮で宴をなされた。この日、皇太子以下の皇子に布を賜わり、それぞれ差があった。
十一日  宮処(みやこ)の王・広瀬の王・難波の王・竹田の王・三野の王を京および畿内に遣わして、役夫(えき-ふ。労働を課せられた人民)の武器を検査させた。
十五日  都努の朝臣(あそみ)牛飼を東海の、石川の朝臣虫名を東山の、佐味の朝臣少(すくな)摩呂を山陽の、巨勢の朝臣粟持を山陰の、路(みち)の真人跡見(とみ)を南海の、佐伯の宿祢広足を筑紫の使者として、それぞれ判官(三等官)一人・史(ふひと。書記)一人をつけて国司・郡司および人民の消息(しょうそく。死生増減)を巡回して調べさせた。
この日、命じて申された。「およそ歌を歌う男女・笛吹きらは今より直ぐ子孫らに歌や笛を習わせよ」と。
十八日  天皇は、大極殿に出でまされて諸王諸大臣らを呼び、と博戯(はくぎ。さいころ・すごろくなどの勝負ごと)をさせた。この日、宮処(みやこ)の王以下十人に衣服と袴を賜わった。
十九日  皇太子以下諸王諸大臣あわせて四十八人に熊の皮とカモシカの皮を賜い、それぞれ差があった。
二十日  高麗に使いしていた使者らが還って来た。
二十四日  天皇が病気になられたので、三日間、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で読経し、稲を三つの寺に納めた。
二十七日  帰化した高麗の人らに物を賜わった。
冬十月四日  百済僧常輝(じょうき)に三十戸を封じた。この僧は齢(よわい)百歳である。
八日  百済僧法蔵と優婆塞(うばそく。在俗の修行僧)益田の直(あたえ)金鍾(こんしゅう)を美濃に遣わして、白朮(はくじゅつ。おけら。薬草)を煎じさせ、これを労(ねぎら)って粗絹・布・綿を賜わった。
十日  軽部の朝臣足瀬(たるせ)・高田の首(おびと)新家・荒田尾の連摩呂を信濃に遣わして行宮を造らせた。思うに、筑摩の温泉に行かれようとなされたか。
十二日  泊瀬の王・巨勢の朝臣馬飼・判官以下あわせて二十人を畿内の職務に就かせた。
十七日  伊勢の王らをまた東国に行かせ、衣と袴を賜わった。この日、金剛般若経を宮中で説かせた。
十一月二日  備蓄の鉄一万斤(約六トン)を周防(すほう。山口県)の総令所(地方を総括する役所)に送った。この日、筑紫大宰が備蓄の物を求めたので、粗絹百匹・糸百斤(約六キロ)・布三百反・庸布(ようふ。労役の代替として納められた布)四百常(唐常約三.六米)鉄一万斤・矢竹(矢がら)二千連を筑紫に送り下した。
四日  四方の国に命じて申された。「大角(おお-づの)・小角(お-づの)の笛・鼓吹(軍楽器)・軍旗および弩抛(ど-ほう。石を飛ばす大弓)の類は私の家に置いてはいけない。すべて郡家(郡役所)に置け」と。この日、白錦の後苑(不詳)に出でまされた。
二十四日  法蔵法師と金鍾が白朮煎(びゃくじゅつ-せん。キク科オケラの煎じ薬)を献上した。
※この益田の直金鍾の住んでいた庵が、のち、東大寺となったといわれている。
この日、天皇のために招魂祭(しょうこんさい。肉体から魂を離れさせないための祭り。十一月の寅〈とら〉の日に行なわれる)をした。
二十七日  新羅が金智祥と金健勲(けんくん)を遣わして教えを乞い、調を進上した。
十二月四日  筑紫に送る防人(さきもり)らが海に流されてみな衣服を失った。そのため、布四百十八反を筑紫に給い下した。
十日  西の方から地震があった。
十六日  粗絹・綿・布を大官大寺の僧らに施した。
十九日  皇后の命令で、諸王大臣ら五十五人に朝服それぞれ一揃(そろ)いを賜わった。
持統天皇(第四十一代)朱鳥(あかみどり)元年(六八六)「われ二十七歳」
春正月二日  天皇(天武)は大極殿に出でまされて、諸王卿に宴をふるまわれた。
この日、命じて申された。「われが難問を出すから、答えて、それが正解であれば必ず賜わり物がある」と。これに答えて高市の皇子が正解を出し、榛摺り(はり-すり。榛〈はん〉の樹皮で染めた布)の御衣(み-ぞ。天皇ご着用に作られた衣)三揃えと錦の袴(はかま)一揃え、加えて粗絹二十匹・糸五十斤・綿百斤・布百反を賜わった。伊勢の王もまた正解を出し、栗染め(栗の渋皮で染めた布)の御衣(み-ぞ)三揃えと紫の袴一揃え、加えて粗絹七匹・糸二十斤・綿三十斤・布四十反を賜わった。この日、摂津の国の人、百済新興(にいおき)が白い瑪瑙(めのう。宝石)を献上した。
九日  僧官の三綱(さん-ごう。僧尼の元締め。上座・寺主・維那〈ついな。仏法を守り説く僧〉)、律師(戒律を守り説く僧)および大官大寺の知事(執務僧)・佐官(補佐)あわせて九人の僧を招き、俗人の飲食物を進上して粗絹・綿・布を施し、それぞれ差があった。
十日  諸王卿に袍(ほう。綿入れ)と袴一揃えを賜わった。
十三日  多くの才人(才能のある人)・博士・陰陽師・医師あわせて二十余人を招き、食事と物を賜わった。
十四日  酉(とり)の時(午後六時)、難波の宮の大蔵省より出火、宮室はことごとく焼けた。あるいはいう。「阿斗の連(むらじ)薬の家が失火して延焼し、宮室に及ぶ」と。ただし、兵庫職(ひょうく-しき。武器を保管する役所)は焼けなかった。
※この火災は考古学においても明らかになった。
大正二年(一九一三)、当時陸軍の建築技師であった置塩(おきじお)章氏が、大阪城に近い東区法円坂町の陸軍倉庫建設現場地下で奈良時代の重圏文(じゅうけんもん)と蓮華(れんげ)文の瓦(かわら)二枚を拾ったのを手掛かりに、昭和二十九年(一九五四)、山根徳太郎・藤田亮作(りょうさく)・浅野清・末永雅雄・藤原光輝・直木孝次郎氏ら考古学・歴史学の学者たちが法円坂町瓦拾収域(かわら-じゅうしゅう-いき)の発掘調査を開始、昭和三十二年(一九五七)、不可能と思われていた難波の宮址(みや-あと)を発見、翌三十三年(一九五八)、第八次の発掘でその下から焼壁土の詰まった柱痕列(ちゅう-こん-れつ)が現われたことによる。
十六日  天皇は大極殿に出でまされて諸王卿に宴をふるまわれ、粗絹・綿・布を賜わってそれぞれ差があった。この日、また、難問を出され、正解者に綿・粗絹を賜わった。
十七日  後宮(こう-きゅう。皇后・夫人ら)をもてなした。
十八日  朝廷の諸役人を大いにもてなした。この日、天照大神を祭った神殿の前に出でまされて、俳優には物を、歌を歌う人らには袍(ほう)と袴(はかま)を賜わった。
十九日  地震。この月、新羅の金智祥をもてなすために、川内の王、大伴の宿祢(すくね)安麻呂、藤原の朝臣(あそみ)大島、境部の宿祢コノシロ(このしろ)、穂積の朝臣虫摩呂らを筑紫に遣わした。
二月四日  大極殿に出でまされて近習(きんじゅ。舎人)六人に勤(ごん)の位(四十八位中十七〜二十四位)を授けた。
五日  命じて、諸国の役所で功績のあった九人を選らんで勤(ごん)の位を授けた。
三月六日  大弁官羽田の真人八国が病んだので、僧三人を得度させた。
十日  雪が降った。
二十五日  羽田の真人八国が死んだ。壬申の功績で直大壱(じき-の-だいいち。九位)を贈った。
夏四月八日  侍医の桑原の村主(すぐり)訶都(かと)に直広肆(じき-の-こうし。十六位)を賜い、連(むらじ)を名乗らせた。「われの父が病で臥したからだ」
十三日  新羅の客をもてなすために、川原寺(高市郡弘福寺)の伎楽(ぎがく。古代インド・チベットの仮面劇。高麗百済を経て推古朝(五九二〜六二二)のころ渡来。呉樂)を筑紫に送り、この謝礼に皇后田(こうごう-でん)の稲五千束(一束は穂先五把。約三キロ)を川原寺に納めた。
十九日  新羅が奉った調を筑紫が送って来た。細馬(さい-め。脚が長く腰の細い馬)一匹、騾馬(ら-ば)一頭、犬二匹、鏤金(ろう-きん。金を彫り散りばめた鉄の器)および薬の類百余種、また智祥らは智祥らで別に物を奉り、金・銀・霞錦・綾羅(あや-ぎぬ)・金の器・屏風・皮の鞍・絹布・薬などそれぞれ六十余種類あった。このほか、皇后・皇太子および諸親王らに献上された物にも各種数があった。
二十七日  託基(たき)の皇女・山背(やましろ)の姫王(ひめ-きみ)・石川の夫人(蘇我の赤兄の娘)を伊勢神宮に遣わした。
五月九日  託基(たき)の皇女が伊勢より還った。この日、侍医の百済人億仁(おく-にん)が病んで死を目前にしていた。そこで、勤大壱(ごん-の-だいいち。十七位)を授け、百戸を封(ほう)じた。「父に与えられたこの百戸は、その後のわれらの生活を助けた」
十四日  天皇は命じて、大官大寺に七百戸を封じ、税(ぜい。ちから。出挙〈すいこ〉。稲の種籾〈たねもみ〉を貸し与えて収穫時に取り立てる稲)三十万束を納めた。
十七日  女官らの位を増し加えた。
二十四日  天皇がご病気になられた。このため、川原寺に薬師経を説かせ、宮中で座禅させた。
二十九日  金智祥らを筑紫でもてなして物を賜い、それぞれ差があった。このあと、筑紫より帰って行った。この月、命じて、側近の大舎人(おお-とねり。宮中の宿直・雑事係)を諸寺に遣わして堂や塔を払い清めさせた。そこで、天下に大赦(たいしゃ)を出して獄舎をすっかり空にした。
六月一日  槻(つき)本の村主(すぐり)勝摩呂に連(むらじ)の姓を賜い、勤の大壱を加えて二十戸を封じた。
二日  工匠・陰陽師・侍医・大唐学生および一二の官人あわせて三十四人に位を授けた。
七日  諸役人のうち功績のあった者二十八人を選んで位を増し加えた。
十日  天皇の病を占ったところ、草薙(くさ-なぎ)の剣(天智天皇七年、僧道行が盗み出した)が祟っているということだったので、宮中より尾張の国の熱田神宮に送り返して安置した。
十二日  雨乞いをした。
十六日  伊勢の王および官人らを飛鳥寺に遣わし、僧らに命じて申された。「近ごろ、われは体の具合が良くない。御仏のお力をお借りして体を安らかにしたいと思う。そこで、僧上・僧都・および諸僧に誓願していただくよう、珍しい宝を御仏に奉る」と。この日、三綱・律師・および大官大寺など四つの寺の和上(わ-じょう。仏教指導者)・知事ならびに師の位にある僧らに御衣・御被(み-ふすま。夜着)を一揃えずつ施した。
十九日  命じて、諸官人を遣わし、川原寺で燃灯(ねん-とう。指燭〈し-しょく。小ぶりのたいまつ〉を灯〈とも〉す)供養をさせた。いわゆる、大斎の悔過(だいさいのけか。食物を絶ち、心身を清め、罪を悔い改める行〈ぎょう〉)である。
二十二日  名張の厨(〈み〉くりや)の司(宮中に食料を納める役所)に火がつき、燃え上がった。
二十八日  僧の法忍と義照の老後にそれぞれ三十戸を封じた。
秋七月二日  命じて申された。「改めて、男子は狩り用の袴と脛(すね)当てを着け、婦女は元のように髪を垂らせ」と。この日、僧正・僧都が宮中に参上して悔過(けか)をした。
三日  諸国に大祓えをさせた。
四日  天下(全国)の調を半分に減らし、徭役(よう-えき。勤労奉仕)を免除した。
五日  幣(ぬさ)を紀伊の国の国懸(くにかかす)と飛鳥と住吉(すみのえ)の神々に奉った。
八日  百人の僧を宮中に招いて金光明経を読ませた。
十日  雷が南の方で光って民部省の調税倉に落ち、民部省に火がついた。あるいは、忍壁の皇子の屋敷が失火して民部省に延焼したとも。
十五日  命じて申された。「天下のことは、大小(政治と祭祀)を問わずすべて皇后と皇太子に申せ」と。この日、罪人を許した。
十六日  広瀬・龍田の神を祭った。
十九日  命じて申された。「天下の人民は貧乏である。稲および財貨を貸し与えている者で、去年の十二月三十日以前の分は公私を問わずみな許せ」と。
二十日  改元して、朱鳥元年【朱鳥、これ阿訶美苔利という】とし、宮の名は飛鳥浄御原の宮といった。
二十八日  浄行者(修行中の仏徒)七十人を選んで出家させた。斎場(飲食をつつしみ、身を清める場所)を御窟(み-くつ)殿に設けた。この月、諸王臣らが、天皇の御為(おんため)に、観音像を造り、観世音経を大官大寺に説かせた。
八月一日  天皇の御為に八十人の僧を得度させた。
二日  僧尼あわせて百人を得度させ、図または像の菩薩百体を宮中に置いて観世音経二百巻を読ませた。
九日  天皇の病を神々に祈った。
十三日  秦の忌寸(いみき)石勝(いわかつ)を遣わして、幣(ぬさ)を土佐の大神に奉った。この日、皇太子・大津の皇子・高市の皇子にそれぞれ封戸四百を加え、川島の皇子・忍壁の皇子にそれぞれ百を加えた。
十五日  志貴の皇子に二百戸を加えた。
二十一日  檜隈(ひのくま)寺と邑玖菩(おおくぼ)寺にそれぞれ百戸を封じた。ただし、三十年間である。
二十三日  巨勢寺に二百戸を封じた。
九月四日  親王以下諸臣に至るまで、ことごとく川原寺に集まって天皇の病の御為に誓願した。
九日  天皇の病遂に癒えず、正宮(大極殿)において崩御なされた。御年五十六歳であられたか。
十一日  声を挙げて泣き、殯(もがり)の宮(埋葬までの間、死体を安置して置く所)を南の庭に建てた。
二十四日  南の庭に亡き骸を安置し、天皇の死を発表した。このときになって、大津の皇子が皇太子に叛いた。
二十七日  寅(とら)の時(午前四時)、諸僧尼が殯(もがり)の庭で発哭(はっこく。挙哀〈こあい〉。泣き声を発する悼礼)をして退場した。
この日、はじめて、酒食を供え、誄(しのびごと。生前のことを偲んで称え悼むことば。弔辞)を奉った。最初に、大海(おおあま)の宿祢蒭蒲(あらかま。天武天皇の養父)が壬生(みぶ。乳部。ご生誕・ご養育)のことを誄(しのびごと)し、次に、伊勢の王が諸王たちのことを誄し、次に、犬養の宿祢大伴が宮廷内のことを誄し、次に河内の王が大舎人のことを誄(しのびごと)し、次に、当麻の真人国見が兵衛(ひょうえ。護衛)とのことを誄(しのびごと)し、次に采女(うねめ)の朝臣筑羅が内命婦(ないみょうぶ。女官)のことを誄し、次に、紀の朝臣真人が膳職(かしわで-の-つかさ。食事係)のことを誄した。
二十八日  再度、諸僧尼が殯(もがり)の庭で発哭した。
この日、布勢(ふせ)の朝臣(あそみ)御主人(みぬし)が大政(だいじょう)官(諸省官を統括する最高官)のことを誄(しのびごと)し、石上の朝臣摩呂が法官のことを誄し、三輪の朝臣高市摩呂が理官(りかん。裁判を司る)のことを誄し、次に、大伴の宿祢安摩呂が大蔵(税の出納・度量衡・貨幣・金銀の売買などを司る)のことを誄し、次に、藤原の朝臣大島が兵政官(軍事を司る)のことを誄した。
二十九日  僧尼がまた、発哭した。
この日、阿倍の久努(くの)の朝臣摩呂が刑(ぎょう)官(刑罰・量刑・執行などを司る)のことを誄(しのびごと)し、次に、紀の朝臣弓張が民官(人口・戸籍・租税などを司る)のことを誄し、次に、穂積の朝臣虫摩呂が諸国の司(つかさ。国府)のことを誄し、次に、大隅・阿多(薩摩)の隼人と倭・河内の馬飼部の造(みやつこ)がそれぞれ誄した。
三十日  僧尼が発哭した。この日、百済王良虞(りょうぐ)が百済王善光に代わって誄(しのびごと)し、次に、国々の造(みやつこ)らが参上するままにそれぞれが誄し、いろいろな歌舞音曲を捧げた。
これで日本書紀巻の第二十九は終り、朱鳥元年(六八六)は日本書紀巻の第三十に入るのだが、父はすでに死んだ。天武天皇の殯(もがり)は明けて二年十一月十一日まで行われ、大内陵(奈良高市郡)に葬られた。
元年十月に起った大津の皇子の事件は父の忌(き)明けに聞いた。面識があったので残念でならなかった。
噂の多くは謀略説だった。われより三歳若く、亡くなられたときは二十四歳であられた。
皇子は天武天皇の第三子である。御父に似て容姿は雄々しく、幼いときから学才ともにすぐれ、特に文章と詩賦を愛しておられた。気さくなお方で、身分の分け隔てなくお声をお掛けになれるので人々は信頼を寄せ、それがかえって朝廷を警戒させたということだった。
事件については次の持統天皇紀でも避けているので、深くは触れない。
十月の二日に、皇子のほか八口(やくち)の朝臣音樫(おとかし)、壱伎(いき)の連博徳、中臣の朝臣麻呂、巨勢の朝臣多益須(たやす)、新羅の沙門行心(ぎょうしん)、家人の砺杵(とき)の道作(みちつくり)ら三十余人が逮捕された。
翌日、皇子は訳語田(おさだ)の家で自害させられ、髪を振り乱して裸足で駆けつけた妃の山辺の皇女は皇子の遺骸に泣き伏してそのまま殉じられ、見た者はみなすすり泣いたという。
山辺の皇女は天智天皇の皇女で、大津の皇子はご祖父に当たる天智天皇に大変かわいがられたとのことだ。
お子に粟津の王がおられたが、今は行方がわからない。
ここに大津の皇子の辞世と姉大伯(おおく)の皇女の歌があるので、それを記して、そろそろわれのことなどを語ることにする。
臨終(死に臨む)
金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨む  鼓声(こせい)短命を催す  泉路(せんろ)に賓主(ひんしゅ)なく  此(こ)の夕(ゆうべ)家を離れて向う
日は西〈黄泉の国〉に向かっている  時を知らせる漏刻の鼓は短い命を急かす  あの世には客と主人の区別はない 今夜家を離れて行くだけだ
大津の皇子が亡くなられるとき、磐余(いわれ)の池の堤で涙してお作りなられた歌一首
百伝(ももつたう)磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ
百伝(ももつたう。幾十百年もあり続けるという磐余〈いわれ〉のい〈五十〉にかかる枕)磐余の池の土手で鳴く鴨を 見るのは今日だけなのか われは死ぬのだ
大津の皇子が密かに伊勢の神宮に下って上がるとき(姉大伯〈おおく〉に会って帰るとき)、大伯の皇女がお作りになられた歌二首
吾がせこを 倭へ遣(や)ると さ夜深(ふ)けて 鶏鳴く露に 吾立ち濡れし
弟が 大和へ帰るのを見送って 夜もふけてしまい 朝露が降りるまで わたしは立ち尽くし濡れてしまった
二人行けど ゆき過ぎ難(がた)き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
二人で行っても 通りずらい 秋山なのに どのようにして弟は 独りで越えて行くのだろう 
大津の皇子が亡くなられた後、大伯の皇女が伊勢の斎宮より京に上られたとき、お作りになられた歌二首
神風の 伊勢の国にも有らましを 何しか来けむ 君もあらなくに
神風の(伊勢にかかる枕)伊勢の国におればよかった どうして来てしまったのだろう 弟はもう生きていないのに
見まく欲(ほ)り 吾がする君も有らなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
会いたいとわたしが望んでも 弟はもう生きていないのに どうして来てしまったのだろう 馬が疲れるのに
大津の皇子の屍を葛城の二上山(北葛城郡と河内の境の山)に移したとき、大伯の皇女が哀傷してお作りになられた歌二首
うつそみの 人にある吾や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と吾見む
現身〈うつせみ。この世〉の 人であるわたしは あしたからは 二上山を 弟として見ることにしよう
磯のうえに 生える馬酔木(あしび)を 手折(たお)らめど 見すべき君が在りといわなくに
磯のほとりに はえているあしびを 折りたいのだけど 見せる弟が生きているとは誰も言わない
述懐

「壬申」のあと、父は天武天皇に仕えた。亡命した当初は大伴氏の庇護を受け、薬草の栽培に当たっていた。
百済人として終えたのは百済王室が姓(かばね)を賜わっていなかったからだ。
北史(李延寿撰。歴史書)文苑伝に「道、轗軻(かん-か)にしていまだ遇わず 志、鬱抑(うつ-よく)して申(のび)ず」ということばがある。車が行き悩んで志を得ないことだが、父はその意味では叶えられたのではないか。国を失った憾(うら)みはあるも、医薬で成り得たのだから。
そこへいくと、われはどうか。
当然のように大伴家の記室(書記)に入り、その後、医薬は被菅(ひかん。大宝令八省に隷属する役所)であるとの驕(おご)りから父のあとは継がず、乞われるまま中務省(なかつかさしょう。天皇の諮問機関。詔勅・宣命・位記および国史の編纂・女官の選考などを扱う)の内記(ないき。記録・書記)に上がり、川島の皇子らの 「帝紀及び上古の諸事(書紀の基盤となったといわれる)」を手伝わされたことで歌と出会い、資料の中から歌謡類を選別して「類聚歌林」にまとめ上げたぐらいのものか。
そのころはまだ自分の歌が詠めず、名前も山於(お。〈の〉)億良(おくろう)だった。
山の上の臣(おみ)の憶良(おくら)を賜わったのは、大宝元年(七〇一)正月、粟田の真人(まひと)朝臣(あそみ)を執節使(しっせつ-し。勅命の旗印を持った全権大使)とする遣唐使の少録(録事補)に選ばれ、大宝三年(七〇三)大唐から帰国した翌年の慶雲元年(七〇四)、四十五歳のときだったと思う。
それからだった。順次昇級して、和銅六年(七一四)五月、「畿内・七道(北陸・東山・東海・山陰・山陽・南海・西海)諸国の郡・郷」の名は好字(こう-じ)で著わし、その郡内に生じる銀・銅・染料・草・木・鳥・獣・魚・虫などの物はくわしく種類を記録して、土地の良し悪し・山・川・原・野の呼び名の由来、また古老が伝える昔話や異変は歴史の書物に載せて報告せよ」との風土記撰述の勅命が下った翌七年の正月には従五位下(大宝令三十位中十四位)に叙せられるのだ。
しかし、これがわれの極位(きょく-い。最高位)で以後叙位には与(あずか)らなかった。
あの時われと並んだ同族の吉宜(きち-ぎ)はすぐにわれを追い越して従五位上(十三位)を授かり、被菅とはいえ今は大学の博士(はかせ)だ。
彼は天智天皇十年(六七一)、同じく同族の麻田の連(むらじ)陽春の父答本(とうほん)春初の大山下(二十六位中十五位)に次いで、小山上(十六位)を賜わった吉大尚(たいしょう)の息子で出家して恵俊(えしゅん)を号していたが、文武天皇(四十二代。草壁の皇子の皇子)四年(七〇〇)に還俗(げん-ぞく)させられて務広肆(む-の-こうし。浄御原令制四十八位中三十二位)を賜わり、父大尚の医薬を継がされていた。
陽春より年上だが、われよりは十年ほど若く、学芸も勝れているからまだまだ名を立てるだろう。
うらやましくはあるが、もはやわれの知るところではない。
われはただ、老いと病を憂えながら子らの行く末を思い、歌を詠むだけだ。
和銅八年(七一五)五月一日、諸国の朝集使(ちょうしゅう-し。国司が毎年管内の田地・地溝・役所の備品・公私の船・伝馬・駅馬・神社・僧尼・施政などを記録した朝集帳を持たせて朝廷に送る使い)に元明天皇の勅命が下った。
「天下の人民の多くは本籍地に背を向けて他郷を流浪し、課役を放棄している。浮浪してその地に留まる者で三か月以上経った者がおれば、ただちに本籍を断ち切って現住地に組み込み、その国の法にしたがって調・庸を送らせるようにせよ。また、人民をいたわり導いて農桑(のう-そう。耕作と養蚕〈よう-さん〉)を奨励するには慈しみ育てる心を持ち、人民の飢えと寒さを救ってやることこそが国・郡司の善政というものである。公人でありながら私に走り、農業を妨げ、人民を侵し貪るのであれば、これは実に国家の木食い虫(害虫)である。よろしく産業を勧め促がして資産を豊かにすれば、その国・郡司を上等とし、勧め促がしても人民の衣食を欠乏させれば中等、田畑を荒廃させて人民を飢え凍らせ、死亡させれば下等とする。死者が十人以上であればその国・郡司を解任せよ。また、庶民はそれぞれ仕事を持っている。いま職を失って流散するのはこれまた国・郡司の指導が正しくないからであり、残念ながら言いようがない。このような役人は罪を衆人に曝(さら)す罰を加えよ。今より以後、巡察使(じゅんさつ-し。諸国を巡り政事の良し悪しを朝廷に報告する役人)を遣わして天下を巡回させ、風俗(国の教化と民の暮らしぶり)を視察させて真心のこもった恵みある政治を遠隔の地までも行き渡らせ、諸国の人民が往来する通行証には本国の印を用いるようにすべきである」と。
次の歌はこの勅命に感じて詠んだものだ。
われは五十六歳だった。
「惑(まど。迷う)う情(こころ)を反(かえ)させる歌一首あわせて序」
ある人がいた。父母を敬い大切にすることは知っていても、側にいて養うことを忘れ、妻子を顧みず、まるで脱ぎ捨てた破れぞうりのように粗末にしていた。自ら苦沙弥(くしゃみ。出家入道)先生と称して世を捨て、意気は青雲の上(天上。仏教でいう真理の世界)に揚がっていても、体は俗塵の中にあって未だに仏道成就の知徳をあらわさない。思うに、これは戸籍を放棄して逃亡し、深山渓谷を浮浪する怠け者である。よって三綱(さんこう。君臣・父子・夫婦の道)を示し、更に五教(父は義・母は慈・兄は友・弟は恭・子は孝)を述べ、これを歌にして贈り、その迷う心を省みさせる。歌はいう
父母(ちちはは)を みればとうとし 妻子(めこ)みれば めぐしうつくし よのなかは かくぞことわり もちとりの かからはしものよ ゆくへしらねば うけぐつを ぬぎつるごとく ふみぬぎて ゆくちふひとは いわきより なりてしひとか ながなのらさね あめへゆかば ながまにまに つちならば おおきみいます このてらす 日月のしたは あまくもの むかふすきはみ たにぐくの さわたるきはみ きこしをす くにのまほろぞ かにかくに ほしきまにまに しかにあらじか
父母を 見れば尊い 妻子をみれば 可愛いものだ それが人の道というものだろう 鳥もち〈モチノキ・ヤマグルマの樹皮をつき砕いては水で洗って粘りを出し、竿の先などに付けて虫や小鳥をとらえる粘着物〉にでも かからないものか 行方がわからないのであれば まるで穴のあいた破れぞうりを脱ぎ捨てるように 家族を捨てて行くという人は 石や木から 出来ている人か お前さんの名をなのりなさい 天上界へ行けば 自分の思うままだが 地上では大君〈天皇〉がいらっしゃる この明るく照り輝く 日月の下は 天と雲が見えなくなる彼方から 蟇蛙〈ひきがえる・ガマ〉が渡っていく奥地まで 治めておられる 見晴らしのよいところぞ いずれにせよ 思いのままに ならないのではあるまいか
ひさかたの あまじはとほし なほなほに いへにかへりて なりをしまさに
久方の〈天・雨・月・光・星・都などにかかる枕〉 天路〈悟りの道〉は遠い ますます遠くなるばかりなのだから 家に帰って 仕事をしてもらいたいものだ
この歌の前年、紀の清人の朝臣(あそみ)と三宅の藤麻呂の臣(おみ)の二人が国史(書紀)の撰集に加わって来たこともあって、霊亀(れいき)二年(七一六。元正天皇〈氷高内親王〉四十四代)四月、われは伯耆(ほうき。鳥取県)の国守(長官)を仰せつかり、駿河(するが)・甲斐(かい)・相模(さがみ)・上総(かずさ)・下総(しもふさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の高麗人千七百九十九人を武蔵の国に移して高麗郡を置いた五月十六日の翌日、飛鳥藤原京から移って六年、都作りに沸いていた平城(なら)を後にするのだ。  

仕事は主に風土記の編纂にあった。そのため、神社・人口帳簿・人民慈育・農桑奨励・良民と使用人・僧尼・公私が所有する牛馬の掌握・租庸調・訴訟・米倉・兵馬・鼓吹・伝馬・通行証・宿場に関する一般業務は掾(じょう。三等官)以下郡司らにまかせてもっぱら地理(山川・陸海・気候・生物・人口・物産・交通)を調べ、時には地名・伝承・異聞の由来を訪ねて他国にも足を延ばした。
われが妻と出会い、はじめての子、古日(ふるひ)をもうけたのは伯耆の国でだった。
五十九歳のときの作に、子らを思った歌がある。越中に出かけていた折り、射水(いずみ)郡の駅館(うまや。富山県新湊にあった亘理〈わたり〉の駅舎といわれる)の柱に、
あさびらき いりえこぐなる かじのおとの つばらつばらに 吾家(わがえ)しおもほゆ
朝早く 入江を漕ぎ出ていく 梶〈かじ。ろ〉の音をきいていると つくづく わが家のことが思われる
と書き付けたことで、思いが募ったのだ。その歌、
「子らを思う歌一首あわせて序」
釈迦如来の 金の口(こがね-の-くち。尊称。釈迦のことば)は正に説かれた 等しく衆生を思うこと 羅ゴ羅(らごら。釈迦の子の名)の如し また説かれた 愛は子に過ぎたるはなし 至極の大聖(釈迦)すらなお子を愛(いと)おしむ心あり 況(いわん)や世間の蒼生(そうせい)誰が子を愛(いと)おしまざらむか
釈迦如来の尊いおことばははっきりとお説きになられた 「等しく生きもののことを思うと すべてが自分の子どものようである」と また説かれた 「愛は子に勝るものはない」と 俗を捨て、悟りを開かれた釈迦如来ですらなお子を愛する心を持っておられた ましてや世の中の人々の誰が子を愛さないことがあろうか
うりはめば こどもおもほる くりはめば ましてしのばる いずくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさね
瓜を食えば 子どものことが思われてならない 栗を食えば なおさら思われる 一体どこから やって来るのか 瞼(まぶた)の中に やたら現われて 安眠させてくれない
反歌(はんか。長歌のあとに付けてその意味を繰り返したり補ったりする歌。かえしうた)
銀(しろがね)も 金(こがね)も玉も なにせむに まされるたから こにしかめやも
銀も 金も玉も 何になろう 勝(すぐ)れた宝は 子ども以外にないのではなかろうか
われの父にも子を思う時期があったことだろう。愛(め)でる親の心がなければ子は育たない。
子はいとおしく可愛いものだ。その可愛い盛りの古日(ふるひ)が流行り病にかかって突然死んでしまったのだ。
あんな恐ろしいことはなかった。なりふりかまわず懸命にお祈りしたのに、生き返してはくれなかった。
辛かった。来る日も来る日も妻と二人で思い出しては泣き、思い出しては泣き、七七忌が過ぎて歌にした。
「男の子 名は古日を恋うる歌三首 長歌一首 短歌二首」
世の人の 貴(とうと)み慕う 七種(なな-くさ)の 宝も我は 何せむに わが中の 産まれ出(いで)たる 白玉の 吾が子古日は 明星(あか-ぼし)の 開(あけ)し朝(あした)は 敷きたへの とこのべさらず 立てれども 居れども ともに戯れ 夕星(ゆう-ぼし)の ゆうべになれば いざねよと 手をたずさわり 父母も うえはなさがり 三枝(さえぐさ)の 中におねむと 愛らしく しがかたらへば いつしかも ひととなりいでて あしけくもよけくもみむと 大船の おもひたのむに おもはぬに 横風(よこしまかぜ)の にふふかに 覆い来たればせむすべの たどきをしらに しろたえの たすきをかけ まそ鏡 てにとりもちて 天神(あま-つ-かみ) あふぎこひのみ 地祇(くに-つ-かみ) ふしてぬかずき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり 我れ乞いのめど しましくも よけくはなしに 漸漸(やく-やく)に かたちくつほり 朝朝(あさな-あさな) いふことやみ 霊(たま)きわる いのちたえぬれ 立ちおどり 足すりさけび 伏せ仰ぎ むねうちなげき 手に持てる あがことばしつ 世間(よのなか)の道
世の人が 貴(たっと)んで求める金・銀・水晶など七種類の宝も われには 何にもならない わが家に 生れ出た 白玉のような わが子古日は明星(あか-ぼし。明けの明星。金星)の(朝にかかる枕) 朝になっても 敷きたへの(夜具にかかる枕) 寝床から離れず 立っているときでも 座っているときでも 一緒に遊び 夕星の(ゆうぼし)の(夜にかかる枕) 夜になったらなったで さあ寝ようと 手をとって 父も母もと 上着にぶら下がり 三枝(さえぐさ)の(真ん中にかかる枕) ふたりの間に入って寝るのだと 何とも愛らしく 古日がいうので いずれ大きくなって 悪いことも善いことも見るだろうと 大船(おお-ぶね)の(頼む、渡る、津の枕) 望みを託して育てていたのに 思いもよらない横風が吹いて 覆(くつがえ)ってしまった(大船を受けてのたとえ。病気になってしまった)ものだから どうしてよいかわけがわからず しろたえの(衣・たもと・たすき・雲などにかかる枕)襷(たすき)をかけ 曇りのない鏡を手に持ち 天の神を仰いでは回復を乞い願い 地の神に伏しては額をこすりつけ 願いが叶わないもかなうも 神の思いのままにと やかましく騒ぎ立て われが乞い祈っているのに 良くはならず しだいに痩せ衰え 朝ごとに ことばの数も減り 霊(たま)きわる(いのち・内・世にかかる枕) ついにはいのちが絶えてしまったものだから 悲しみのあまり跳ね回り 地を踏み鳴らして叫び狂い 伏せたり仰いだり 胸を叩いたりして嘆いた せっかく手に入れたわが子を死なせてしまうなんて これが世の中の道かよ
反歌
わかければ 道行(みちゆき)しらじ まひはせむ したえへの使い おひてとほらせ
幼いので 道をしらないでしょう お金は出しますから 冥土の使いよ どうか負ぶって行ってやってください
布施(ふせ)おきて 吾こひのむ あざむかず ただにいゆきて あまじしらしめ
お布施〈僧への施しの金〉は充分にして われは祈っております どうか騙〈だま〉したりしないで 真っ直ぐに行って 天国への道を教えてやってください
喜びと悲しみの中で任期を迎え、養老四年(七二〇)二月、家族を引き連れて伯耆を発ち、三月、平城に帰り着いた。
主家の中納言(太政官次官)大伴の宿祢(すくね)旅人(たびと)は、国守の陽候(やこ)の麻呂を殺害して反乱を起こした大隅(おおすみ。鹿児島)の隼人の鎮圧に出て留守だった。
建設の槌音はなおも響いており、四年の間に多治比の真人県守(あがたもり)を大使とした遣唐使が派遣されて四船ともすでに帰って来ていた。
やはり、秀才の誉れの高かった阿倍の仲麻呂と吉備の真備(まきび)が留学生に選ばれ、留学僧玄ボウらと入唐(にっ-とう)したということだった。
仲麻呂は名門阿倍氏の一族だが、真備は吉備の土豪の子弟で藤原京(四十三代元明天皇)の衛士に召されていた下道(しも-つ-みち。吉備)の朝臣国勝が大和の八木氏に生ませた子だ。
いずれにせよ彼らにはこの国の将来がかかっている。
出発に際して、高市の皇子の王子長屋の王が、「山川域(いき。境)を異にすれども/風月天を同じくす/これを仏子(ぶっ-し。ほとけの弟子。仏徒)によせて/共に來縁(らい-えん。来世・あの世でのつながり)を結ばん」(訓読 青木和夫)という四句を刺繍(し-しゅう)した一千領の袈裟を託して唐国の仏徒に贈られたそうだが、目的はすぐれた戒律僧(僧として守るべき仏教の掟や規範を教える高僧)を招聘(しょう-へい)することにあったということだ。
治部(じ-ぶ)省は、先に義淵(ぎえん)僧正(僧官二位)から離れて勝手に法を広め歩いていた行基(ぎょうき)法師を「小僧行基」とののしり、その弟子までも「大道に散らばって、あるいは連れだって出没し、みだりに罪福(地獄極楽)を説いて仲間を作り、指を焼いたり肘の皮を剥いだりして家々を回り、強引に物を乞うては 「これが仏の道である」といつわり、僧侶までも迷わせ、四民(官農工商)に生業を捨てさせるに至っては、釈迦の教えばかりか国家の法令をも犯しておる」として弾圧するなど、いずれの宗派が善であるか、仏法はいまだに渾沌(こん-とん)としていたのだから正しい戒律が望まれてしかるべきだったのである。
そうした中で、大蔵省被管(ひ-かん。上級官庁に属する下級官庁の役人)の漆部(ぬり-べ)文部(あやべ)の忌寸の石勝(いわかつ)の子どもたちの話は美談だった。  

およそ三十八年の歳月をかけて日本書紀三十巻と系図一巻が撰上された翌月、六月のことだった。
役所の漆を盗んで流罪がきまっていた石勝(いわかつ)を助けようと、祖父(おじ)麻呂十二歳、安頭(あず)麻呂九歳、乙(おと)麻呂七歳の三兄弟が申し出たのだ。
「父の石勝は自分らを養うために役所の漆を盗み、その犯した罪で遠方に流され労役につくことになりました。祖父(おじ)麻呂らは父の心を慰めるために死を覚悟して申し上げます。どうか兄弟三人を官奴(かん-ぬ)にしていただき、父の重い罪を償いたいのであります」と。
中務(なか-つかさ)省は天皇のことばとして次のようにいった。
「人は生まれながらにして五常(ご-じょう。仁・義・礼・知・信)を天から授かっておる。仁義ほど大切なものはない。男子に成すことが幾百あろうと、先祖・父母を敬うのが第一である。今、祖父(おじ)麻呂らは官奴となって父の犯した罪を償い、父を労(いた)わろうとしておる。申し出を聞き入れないわけにはゆくまい。よろしく願いのままに官奴とし、直ちに父石勝の罪を許せ。ただし、共犯の犬麻呂は刑部省の裁きによって配所(流罪地)に送る」と。
表で騒ぎまわっているわれの子らとは大違いだ。
「家貧しくして孝子出ず」というが、果たしてあいつらはどうなんだ。遊んでばかりいて、われが死んだらどうやって生きていくのか。
あの年、養老四年(七二〇)は、八月に右大臣藤原の不比等(ふひと。鎌足の子)の朝臣が亡くなられて異例の大赦が出され、祖父麻呂らは官奴にされずにすんだが、われにとっては不本意な年だった。
九月に陸奥の蝦夷(えみし)が按察使(あんさつ-し。あぜち。地方官の監察官)上毛野(かみつけの)の広人を殺して反乱を起こしたことで、帰朝後、播磨の按察使になっていた多治比の県守(あがたもり)真人が持節(天皇の全権を任命するという印の刀を持った)征夷大将軍を拝命して討伐に向かうなど、忙しいのは武官ばかりで、われは家族が増えたこともあって、季禄(春と秋との二回、半年ごとに前年度の勤務日数が百二十日以上ある者に支給される俸禄)欲しさに、散位寮(さんい-りょう。任期などで官位を失った者が次の任官まで、勤務日数を埋め合わせるため出勤する役所。溜まり場で、普通、五位以上の者は体面もあって出寮しなかったという)に出ているしかなかったからだ。
そのせいか、それとも都の生活になじめなかったのか、妻は精気がなかった。
それでふと、四月に改正された衣服令(えぶく-りょう)のことを思い出して、夫が五位であればその妻子も蘇芳色(すおう-いろ〈暗紅色〉。インド・マレー原産。マメ科の落葉小低木で、色は心材〈木の中心部〉を細かく削って煮詰めた汁にミョウバンを加えて出し、広く染料につかわれた。原材料は交易でもたらされていたという)が着られるようになったことを話してやると、すぐにも立ち直って四人目をせがまれたのには参った。
女というものは喜びがあると情欲が湧くものらしい。
翌、養老五年(七二一)正月、大納言長屋の王が右大臣になられると、われも朝廷に召され、佐為(さい)の王(橘の諸兄の弟)はじめ文章(もんじょう。詩文・紀伝)の山田の史(ふひと)三方(み-かた)、紀の朝臣清人、楽浪(さざなみ)の河内、明経(経書の師)の越智(おち)の直(あたえ)広江、算暦(さん-れき。計算と天文)の山口の忌寸(いみき)田主、明法(みょうぼう。律令の師)の塩屋の連(むらじ)吉麻呂、のちに筑紫でともに歌を詠むことになる土師(はにし)の宿祢百村(ももむら)らとともに、退朝後、当時二十一歳の皇太子であられた今上(聖武)天皇の侍講(じ-こう。学問の師)としてお仕えすることになるのだ。
これは何度か行幸(ぎょう-こう。お出かけ)の供奉(ぐ-ぶ。おとも)に与った元明太上天皇の思召し(おぼし-めし。お考え。お気持ち。ご厚意)であられたのだと思う。
太上天皇は、征隼人副将軍笠(かさ)の朝臣の御室(みむろ)が東国より帰還して斬首の数と捕虜千四百余人をご報告したあと、臥(ふ)され、右大臣長屋の王と参議の藤原の房前(ふささき)の朝臣(不比等の長男)を病床に召し入れられてお言葉を申されたのは、十月十三日だった。
太上天皇は宣(のたま)われた。
「われは聞いておる。万物に死のないものはない。これは天地自然の理(ことわり)である。どうして悲しもうか。よって、葬儀に贅(ぜい)を凝らして人民の仕事を妨げ、服喪期間を長くして生活を損なわせたくはない。われが死したあとは、大和の国添上(そう-の-かみ)郡蔵宝(さほ。佐保)の山雍良(よら)の嶺にカマを造って火葬にし、よそに移してはならない。死後の名は、その国その「北」郡(平城の宮の所在地)の朝廷を御(ぎょ)せし天皇と称し、後世に流し伝えよ。また、今上(四十四代元正天皇)は平日と同じように政務の諸事を取り行ない、王侯諸卿も文武の諸官も職場を離れて棺(ひつぎ)の車に付き従ってはならない。それぞれが役所を守って通常通り仕事に励み、側近と五衛府(近衛・左右兵・衛府)は警護を厳重にして周辺の守りに専念し、とっさの事故に備えよ」と。
また、重ねて宣(のたま)われた。
「葬礼に関しては先に述べた通りにし、ことばを削ったり忘れたりしてはならない。棺の車の飾りに金玉をちりばめ、赤や青の装飾画を描いてはならない。生地(きじ)のままを用い、つつましく質素にせよ。山肌は掘らず、じかにカマを造り、いばらを刈り取って場所を開き、墓地として常緑樹を植え、碑を建てるだけでよい」と。
太上天皇は十二月七日、平城の宮の中安殿で崩御なされた。六十一歳であられた。
墓碑はご遺言に基づいて「大倭の国添上郡平城之宮馭宇(ならのみや-ぎょ-う〈あめのしたしろしめす〉)八洲(やえす)太上天皇陵是其所也(これそのところなり)養老五年歳次(やどれるほし。木星の位置)辛酉(かのととり)冬十二月癸酉(みずのと-とり)が朔(ついたち)の十三日乙酉(きのと-とり)に葬る 」と刻まれ、六年(七二二)の朝賀式は取り止めになった。
その年だった。山田の三方が朝廷の呼び出しを受けたのだ。ちょうど、大伴の旅人の宿祢と多治比の県守の真人以下訳語人(おさ。通訳)らが手柄を称えられた四月の半ばだった。
三方は間諜(かん-ちょう。スパイ)を警戒して倭からの留学生を拒んでいた往時の新羅に学問僧として送られ、帰国後、持統天皇六年(六九二)に還俗(げん-ぞく)させられて大学で文章を講じていたのだが、風土記の編纂でわれと同じように国守として周防(すおう。山口東部)の国に派遣されており、呼び出しはそのときのことに関してだった。
天皇は次のように宣(のたま)われたという。
「周防の国の前の守(かみ)従五位上(十三位)山田の史三方は監督に赴(おもむ)いて盗みを犯した。罪は氏姓剥奪に当たるが先の大赦(不比等の死)を経て許され、償いは終わっている。しかしながら、法によって盗品の代償を支払わなければならないのに、家に尺布(しゃく-ふ。一尺の布)もないとは困ったものだ。三方は外国に遊学して帰朝後は生徒に伝授し、大学の学士はすこぶる(非常に)文章を理解するようになった。誠にこのような人を敬わないでは学問を廃(すた)れさせることになる。そういうわけで特に恵みを加え、代償を取り立てさせてはならない」と。
聞いて人ごとではないと思ったものだ。われとて何度官稲に手を出そうとしたか。
それにしも山田の三方よ、家に尺布一本なかったとはなあ。
まったく学者文人という者は、処世には疎(うと)く、役には立たず、屁もひらずか。
ましてわれのように、愚にも付かない歌を詠んでいるようではなぁ。
白(しら)なみの 浜松の木の 手(たむ)むけ草 幾世までにか 年は経 ぬらむ
白波が寄せては返す 浜の松の木に 旅を祈って捧げられた供え物(ぬさ、松ヶ枝など)は どれくらいの 年月が経っているのだろう
鳥かけり ありがよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
鳥は空を飛んで 巡り回りながら 見ているだろうが 知らないのは人だけで 松は知っているのだろう
これらの歌は、われが「有馬の皇子の自(おの)が傷みを松が枝に結ぶ歌二首」
磐白(いわしろ)の 浜松の枝(え)を 引き結び 真幸(ま-さき)くあらば また還り見む   
岩代〈紀伊和歌山〉の 浜の松の枝を 両方から引き寄せて結び〈旅の無事を祈った〉 無事であれば また還りに見よう
家にあれば 笥(け)に盛る飯(いい)も 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
家にいれば 器に盛られる飯も 草枕〈旅・結び・露の枕〉 野宿しての旅だから 椎の葉に盛るのだ
に追和(ついわ。後日同調)して作った歌だ。
有馬の皇子は第三十六代孝徳天皇を父に阿倍の倉梯(くらはし)麻呂の娘、小足媛(おたらし-ひめ)を母として舒明天皇十二年(640)に生まれた。
その皇子がなぜ傷み悲しまれなければならなかったのか、われが聖武天皇にご講義申し上げた書紀より引く。
「斉明天皇三年(六五七)九月、有馬の皇子は性質が悪賢い。気の狂(ふ)れた真似をして牟婁(むろ。和歌山県西牟婁)の温泉(ゆ)に行き、病が治ったと偽って帰って来ると、国の政治を称え、申したのである。 「いやあ牟婁は実にいいところです。ちょっとお湯を見ただけで病は治ってしまいました」と。
天皇はこれを聞かれて喜ばれ、牟婁に行って見たく思われた。
四年(六五八)冬十月十五日、天皇は紀の湯に出でまされた。
十一月三日、留守の官(つかさ)蘇我の赤兄の臣(おみ)が有馬の皇子に語っていった。
「天皇が治める政治には三つの過ちがある。一つは、大きな倉庫を建てて人民の財貨を積み上げ集めていることである。二つは、長い運河を掘って公(おおやけ)の糧食を浪費していることである。三つは、舟に石を載せて運び、丘を造っていることである 」と。
皇子は赤兄が自分に親しみを持っているから心を許してこのようなことを話したのだと嬉しくなり、欣然(きん-ぜん)と応えた。
「それなら、われが年の始めに兵を挙げよう」と。
五日、有馬の皇子が赤兄の家に行って楼上に上がり、計画をたてていると、椅子がひとりでに壊れたので、これは縁起がよくないことだと知り、二人は挙兵の約束だけで止めて、皇子は帰って寝た。
その夜半である。赤兄は物部の朴井(えのい)の連(むらじ)鮪(しび)を岡本の宮の建設現場にやって役夫(えき-ふ。労務者)たちを率いさせ、有馬の皇子を市経(いちふ。奈良県生駒郡)の家に囲わせると、すぐに駅使(はゆま。早馬)を天皇のところに遣わしてこのことを告げた。
九日、有馬の皇子と守の君(きみ)大石・、坂合部(さかあいべ)の連(むらじ)薬(くすり)、塩屋の連コノシロ(このしろ)を捕らえて紀の湯に送った。舎人の新田部(にいたべ)の連米(よね)麻呂も従った。」
先の歌(141・142)はこの紀の湯に送られる道中のものだ。書紀は続く、
「ここに皇太子中の大兄(天智天皇)は自ら有馬の皇子に尋ねていった。
「なぜ謀反を企てた」
皇子は答えていった。
「天と赤兄だけが知る。われはまったく解からない」と。
十一日、丹治比の小沢の連国襲(くにそ)をやって、有馬の皇子を藤白坂(和歌山県海草)で絞めた。
この日、塩屋の連コノシロと舎人の新田部の連米麻呂を藤白坂で斬った。
コノシロは殺されるときにいった。
「お願いです。この右の手で国の宝器(仏具)作らせてください」と。
守の君大石(のち、遣唐使)を上毛野(かみつけの)の国に、坂合部の連薬は尾張の国に流した。
ある本にいう。
有馬の皇子と蘇我の臣の赤兄、塩屋の連コノシロ、守の君大石、坂合部の連薬が占いの算木を取って謀反のことを占った、と。
また、ある本はいう。
有馬の皇子が申した。
「先に宮室を焼き、五百人で一日二夜をかけて牟婁の津を遮り、足の速い水軍で淡路の国との交通を断ち、牢屋のように閉じ込めてしまえば成功するのではないか」と。
ある人が諌めていった。
「やるべきではない。計画はできても徳がない。皇子は十九だ。まだ人となっていない。人となって徳が備わるのを待つべきである」と。
他日、有馬の皇子と卜者が謀反の機会を占っているとき、皇子の肘掛けの脚がひとりでに外れた。これは不吉(ふきつ)な印なのである。にもかかわらず、その計画を止めず、遂に罪を責められ、死罪を被った。」
退朝後のお側仕(そば-づか)えとは申せ、このような断簡零墨(だんかん-れいぼく。文章の一部。きれっぱし)をご講義申し上げていたのだから、われという人物が推して知れよう。中には硬骨漢(こうこつ-かん。意志が固く、何ものにも屈しない男)と呼ぶ御仁(ごじん。他人の尊称)もおられるが、それをいうのであれ沙彌(しゃ-み。僧)の満誓(まんせい)だろう。彼は歌仲間でもあり、男の中の男だった。  

沙彌の満誓(まんせい)、俗の名を笠(かさ)の朝臣麻呂といった。吉備の豪族波区芸(はくぎ。伯耆)の県(あがた)が祖でご婦人には勝手気ままであられたようだが、任期を顧みず美濃と尾張の国守を十数年やって、大宝二年(七〇二)、多伎(たき。当耆)郡の民七百十六人を近江の蒲生(がもう)郡に移し、着工しながら一向に捗(はかど)っていなかった国境(くに-ざかい)の、往還艱難(おうかん-かんなん。みちがけわしくてゆきかえりがくるしい)といわれた防人泣かせの木曽路を和銅六年(七一三)に開通させて従四位下(十位)を賜わり、更に、元正天皇が「われは今年の九月、美濃の不破の行宮(あん-ぐう。仮宮)に行って数日滞在し、当耆(たき)郡多度山の醴泉(れい-せん。甘露水のわく泉)を見た(滝〈ろう〉の和訓〈わくん。やまとよみ〉タキはこの泉の所在地、多伎(当耆)によるといわれている)。自分で顔を洗ってみたところ皮膚が滑らかになり、痛いところを洗ってみると痛みが取れ、実際に効き目があった。また、ここに集まって来てこの泉を飲んだり浴びたりしている者はあるいは白髪が黒に戻り、あるいは禿げた髪が再び生え、あるいは失明した人の目が見えるようになったという具合で、このほか頑固な病もことごとくみな治るようである。むかし聞いたことがある。後漢の光武帝(在位二五〜六四)のとき、醴泉(れい-せん)が湧いてこれを飲んだ者は病がみな癒えたという。符瑞書(ふずい-しょ。めでたい印の手引書)にもある。 「醴泉は美泉なり。よって老いを養うがよい。思うに水の精であろう」と。真実(まこと)、考えてみるに美泉はめでたい印の最上である。われはおろかものではあるが、どうして天の賜わり物を見違えることがあろうか。天下に大赦して霊亀三年(七一七)を養老元年とする」と詔(みことのり)された改元の恩典で一級増し加えられ、四年後には右大弁(太政官の下僚)に迎えられたにもかかわらず、元明太上天皇がご病気になられるや直ちに髪を剃り落として県(あがた)犬養の橘の三千代の宿祢らと出家入道し、天智天皇が百済救援軍の指揮をとられておられたとき母后斉明天皇の御ために基(もとい)を築かれた造観世音寺の別当(べっとう。長官)に任命されると、さっさと筑紫へ乗り込んで行った男だ。
それに引き換え、われ憶良ときたら、古事記を撰上なされた民部卿従四位下太(おおの)の安麻呂の朝臣の葬儀に参列したあと患ってしまい、翌養老八年(七二四)二月四日の皇太子首(おひと)の皇子(聖武天皇)の御大典(即位式)に出席できなかったのだから、なんとも意気地がないとしかいいようがない。
おかげで即位・改元(神亀)の恩典には浴せなかったが、吉宜(きちぎ)が弟の従五位下の智首(ちしゅう)とともに吉田の連を、正八位上(二十三位)答本陽春が麻田の連、従五位上(十三位)薩妙観(さつ-みょうかん)が河上の忌(いみき)、従七位下(二十二位)王吉勝が新城(にいき)の連、正八位上(二十三位)高正勝が三笠の連、従八位上(二十五位)高益信(こう-えきしん)が男フサ(おふさ)の連、従五位下(十四位)都能(つの)の兄(え)麻呂が羽林(はねばやし)の連、正六位下(十六位)楽浪の河内が高丘の連、正七位上(十九位)四比(しひ)忠勇が椎野の連、正七位上(十九位)荊(けい)軌武(きむ)が香山(かぐやま)の連、従六位上(十五位)金宅良(たくろう)・元吉(がんきち)の双子が国看(くにみ)の連、正七位下(二十位)高昌武(しょうむ)が殖槻(うえつき)の連、正七位上(十九位)王多宝が蓋山(かさのやま)の連、勳十二等高禄徳(こう-ろくとく)が清原の連、無位狛(こま)の祁乎理和久(けおりわく)が古衆(ふるたみ)の連、従五位下(十四位)呉粛胡明(ごしゅく-こみょう)が御立(みたち)の連、正六位上(十五位)物部用善(ようぜん)が物部射園(ゆみその-の)連、正六位上(十五位)久米の奈保麻呂が久米の連、正六位下(十六位)賓難(ひんなん)大足が長丘の連、正六位下(十六位)胛巨茂(こう-ごも)が城上(しろかみ)の連、従六位下(十八位)谷那(こくな)康受(こうず)が難波の連と、白村江の二世・三世が日を追って氏姓を授けられていたのは喜びだった。
政治は、大宝律令に続いて和同開珎(わどう-かいちん)の鋳造や貯蓄した者に位を下賜する蓄銭叙位の法、墾田を奨励する三世一身の法などが布告され、太政官が「大昔は純朴で、冬は穴に夏は木の上に住みました。後世の聖人は代々宮殿を持ち、都を帝王の住まいとなされました。都は諸外国が集まるところです。壮麗にしなければ権威を示すことはできません。板葺きや草葺きは中古の造形で、住みにくい上に壊れやすく、民の財貨を無駄に使い尽くすだけです。お願いであります。どうか所轄の役所に言いつけて五位以上と庶民でゆとりのある者に瓦屋根の家を構えさせ、赤と白に塗らせていただきたいのであります」と奏言したことで、平城が都らしくなっていくのもこの年だった。
そして、われが左京二条二坊にあった長屋の王の邸宅に招かれ、今上(きんじょう。聖武)天皇のいいつけに応えて、
天のかわ 相(あい)向き立ちて 吾が恋し 君来ますなり 紐(ひも)解きまけな 
天の川と 向かいあって立っていると わたし(織女)の恋しい あなた(牽牛)が来られるという 衣の紐を解いて支度をしなくちゃ
久方の 天の川瀬に 船浮けて 今夜(こよい)か君の 我(わ)がり来まさむ
ひさかたの(枕) 天の川の瀬に 船を浮かべて 今夜ですよね あなた(牽牛)がわたし(織女)のもとへ来られるのは
の二首を詠んだのもこの年七月七日の夜で、養老八年(七二四)つまり神亀元年(七二四)だった。
あのころは楽しかった。病もすっかり癒えて妻とともに大嘗会(だい-じょう-え)に呼ばれ、武官にはお気の毒だったが書に耽り子どもたちとも遊ぶことができた。
実際、武官たちは相も変わらずご多忙で、多治比の県守の真人の副使として大唐に使いして来られた藤原の宇合(うまかい。不比等の第三子)の朝臣は、その年の四月に征夷持節大将軍を仰せつかって陸奥の国司を殺害した東山・東海の蝦夷(えみし)を討ち、翌神亀二年(七二五)閏正月にはその陸奥の捕虜のうち百四十四人を伊予に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉に割り当てるなどされ、後日、
往歳(おうさい)は東山の役(えき)  今年西海行(こんねんさいかいこう)  行人(こうじん)一生のうち  幾度(いくたび)か辺兵に倦(う)まん
先年は東山道の戦に行き 今年は西海道である 行人〈たびびと〉。兵士)は一生のうち 何度辺境に就くのか、もうあきた
と詩に詠み、嘆かれておられたが、われにとってはやはり何ものにも代えがたい至福の時で、
倭文手纏(しつ-たまき。枕) 数にもあらぬ 身にはあれど 千年(ち-とせ)にもがと おもほゆるかも
倭文手纏〈しつ-たまき。紙の原料にもなるクワ科の梶(かじ)の木や麻などを染めて織った布〉で創った腕輪。このころは大陸からの絹に押されて古臭く卑しいもになっていたので、粗末なものにかかる枕に使われたという) 数にも入らない 身分の低いわれではあるが 〈妻子といると〉千年もの命であればと 思うなあ
を詠んでいる。
それから間もなく、長屋の王と親密であられた大伴の旅人の宿祢が太宰府の帥(そち。長官)になられたこともあって、われは筑前の国守を仰せつかるのだ。
神亀四年(七二七)だった。
この年は、皇女井上(いのえ)内親王(母県犬養の広刀自〈ひろとじ〉)が伊勢大神宮の斎宮となられたり、皇太子基(もとい)の皇子(母光明皇后)が誕生なされたり、高麗のあとに興った渤海(六九八〜九二六)の初めての使節二十四人が蝦夷との国境(くに-ざかい)に着いて十六人が殺されたり、僧正義淵(ぎえん)法師が称(たた)えられて兄弟の市往(いちき)氏が岡の連(むらじ)を賜わられたりした年で、われは六十八になっていた。
一緒に行くという妻子らは残した。
筑紫は交易も盛んなかわりに流行(はやり)り病も多いところで、二十六年前、激しい風波に遇って翌年の六月まで滞留した博多大津でその恐ろしさを見ていたからだ。
それであるのに言うことを聞かず、三月と経たないうちに来てしまったのだ。
淋しくてといわれてしまえば、叱りようもなかった。
ただ、大伴卿(旅人)から逃れる口実にはなった。
憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾を待つらむぞ
憶良らは ただ今これで失礼させていただきます 子どもが泣いておりますしその母も わたしを待っておりますので
宴を中座しては家に帰り、妻や子どもらの相手をしてやったものだが、その妻が、まさかと思った。熱病にかかって古日よりもあっけなく逝ってしまったのだ。
言わなかったことじゃない。まるで死ぬために来たようなものではないか。
悔やんでも悔やみきれなかった。
日が経って大伴卿から悔やみの歌が届いた。六十五歳になられる卿も、四月に妻の大伴の郎女(いらつめ)を亡くされておられたのだ。
「太宰帥大伴卿が凶聞(きょうぶん。人の死の知らせ)に報(こた)える歌一首」がそれだ。
禍故重畳(かこ-ちょうじょう)して 凶聞(きょう-ぶん)累集(い-しゅう)す 永く崩心の悲しみを懐(いだ)き 独り断腸の泣(なみだ)を流す 但(ただ)両君の大いなる助けに依り 頃命(けい-めい)わずかに継ぐのみ 筆が言を尽くさないのは古今嘆くところである 
(災いと死がたび重なって 死の知らせが次々と集まる (妻の死もあって)長い間心も砕けるような悲しみを抱いて ひとり腸(はらわた)がちぎれるほどの涙をながしている ただ、両君(大伴の百代と山口の若麻呂の二人か。駅使に贈る旅人の歌二首〈五六六・五六七〉がある)が力になってくれるので 辛うじて老齢をつないでいるだけである 文章が思いをうまく言い表せないのは昔の人も今の人も嘆きは同じである」
よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり
世の中は 虚しいものだと 知った 〈その上またも死の知らせである〉いよいよますます 悲しくなってきたなあ
神亀五年(七二八)六月二十三日
無常を詠んだのでは満誓(まんせい)の
世間(よのなか)を 何にたとえん あさびらき こぎいにし船の 跡(あと)なきがごと
世の中を 何にたとえようか 〈そうだな〉夜明けとともに 漕いで帰っていった船の 跡形もないようなものだ
が、出家者らしく未練がない。
われは、道照(どうしょう)和尚に教わった「色不異空(しき-ふい-くう)/空不異色(くう-ふい-しき)/色即是空(しき-そく-ぜ-くう)/空即是色(色は空に異ならない/空は色に異ならない/色すなわちこれ空であり/空すなわちこれ色である(万物は無と同じであり/無は万物と同じである/万物は言いかえれば無であり/ 無はつまり万物である)因縁によって存在するすべての事象、すなわち言うところの万物は個々の意識がとらえる心象、仮の現われであって本来はみな無であり、存在しないものである」を繰り返し唱えた。  

道照和尚は、書紀の皇極天皇四年六月十三日の条に「蘇我の臣の蝦夷らは誅(ころ)されるに当たってすべての天皇記・国記・仏具を焼いた。船の史(ふひと)の恵尺(えさか)は焼いている国記を素早く取って中の大兄(天智天皇)に奉った」と記されている、あの船の恵尺の子息で、玄奘(げんじょう)三蔵法師に禅を学び、帰朝後は元興(がんこう)寺(飛鳥寺)に禅院を建てて住まわれ、布教のかたわら宇治橋を架けるなどされて、文武天皇四年(七〇〇)、七十二歳で入定(にゅじょう。死去)なされるときは火葬にするよう遺言なされ、天下の火葬は道昭和尚に始まるといわれている師である。
※玄奘三蔵法師(六〇〇または六〇二〜六六四)は洛陽に生れ、十二歳で浄土寺に入って仏教の原典研究を思い立ち、二十九歳のとき、唐朝の許可が下りないまま四年がかりで天山北路を抜けて仏教発祥のマカダ国(現ネパール)に至り、ナーランダーで経蔵(きょう-ぞう。釈迦の言行を納めた書)・律蔵(りつぞう。僧として守らなければならない戒律を納めた書)・論蔵(ろん-ぞう。釈迦の弟子たちの論述を納めた書)の三蔵を学んで、更に四年後、仏跡巡礼を兼ねてインド各地を研究旅行し、高まる名声の中で天山南路をとって、四十五歳で長安に帰り着いたときは、太宗(在位六二七〜六五五)以下数十万の民衆が出迎えたといわれています。 直ちに大慈恩(だい-じおん)寺が建てられて翻経院(ほんきょう-いん。仏典翻訳所)が特設され、持ち帰ったサンスクリット本六百五十七部のうち、大般若経(だいはんにゃ-きょう。般若経を残らず集めたもの)六百巻・瑜伽師地論(ゆがし-じろん。ヨガの修道研究書)百巻・大毘婆沙論(だいびばさ-ろん。釈迦教典の注釈書)・倶舎論(くしゃ-ろん。仏教の原理を証し、輪廻の諸相を示して悟りに至るまでを段階的に説いた書)・成唯識論(じょうゆいしき-ろん。十大論師のうち護法の唯識〈すべての事象は心の本体・意識の働きによって仮に現われたものであるとする教義〉を正義として体系づけた法相〈ほっ-そう〉の根本聖典)その他を翻訳し、ほかにも明(みん。一三六八〜一六六一)中期の呉承恩が書いた 「西遊記」のもとになったといわれる大旅行見聞録「大唐西域記」十二巻を著わしています。 
三蔵法師というのは三蔵を究めた僧が賜わる称号で、玄奘の固有名詞のようになったのは彼がその代表格であったからであるといわれ、西安の興教寺に五重の墓塔があります。 
このあと、調べごとがあって嘉摩(かま。筑豊)郡に行き、そこの駅家で大伴卿の「凶聞」に応じた。
蓋(けだ)し聞く 四生の起滅(き-めつ)は まさに夢のごとくみな空であり 三界の漂流は 環(たまき)の終わりなきにたとえらるる それゆえ 維摩大士(ゆいま-だいし)は 方丈に在って 染疾(せん-しつ)の患いを懐き 釈迦能仁(のう-にん。釈迦の尊称)は雙林(そう-りん)に坐し 泥オン(ない-おん)の苦しみをまぬがるることなしと ゆえに知る 二聖至極(し-ごく)なるも 力負(りき-ふ)の尋ね至るを払うことあたわず 三千世界 誰がよく黒闇(こく-あん)の捜し来るを逃れむ 二鼠(じ-そ)は競い走り 目を渡る鳥は旦(あした)に飛び 四蛇(し-じゃ)は争い侵し 隙(げき)を過ぎる駒は夕べに走る ああ痛ましきかな 紅顔は三従(さん-じゅう)と共に長く逝き 素質は四徳と共に永く滅ぶ 何ぞ図らむ 偕老は要期(よう-ご)に違い 独り飛んで半路に生きむとは 蘭(らん)室の屏風はいたずらに張り 断腸の哀しみはいよよ痛く 枕頭の明鏡 空しく懸かる 染イン(せん-いん)の涙ますます落つ 泉門ひとたび掩(おお)いて ふたたび見るに由無し ああ哀しきかも
およそ聞いている 哺乳類・鳥類・爬虫類・昆虫類すべて生き物の生死はみな夢のように空(むな)しく 欲界・色界・無色界(むしき-かい。こころ)の世界(三千世界。この世)を輪廻転生して漂い流れ 終わりなくつながっている腕輪にたとえられる だから インドの長者維摩(ゆいま)は三メートル四方の部屋に住んで般若皆空(存在はすべて空とする無の知恵)を文殊菩薩に説きながらも 病に苦しみ お釈迦さまは沙羅双樹の林に座られて悟りを開かれたが 涅槃(ね-はん。煩悩を抜け出した悟りの世界。死)の苦しみを避けられなかったと よって知るのである この二人の聖(ひじり)は 悟りの極限を究めた人ではあるが 捜し尋ねて来る死神を追い払うことはできなかった 三千世界(須弥山〈しゅ-み-せん〉を中心とする日月四大州が千集まったのが小千世界で、その三乗。三千大千世界。仏教の宇宙)に 死神から逃れられる者は誰もいないのである 白と黒の鼠(昼夜)は競い走って 朝は目をよぎる鳥のように飛び去り 身体を作っているといわれる地・火・風・水の四大はたがいに争い侵し合い 夕べは間隙(かん-げき。すきま)を通り過ぎる馬のように走り去る ああ痛ましいことよ 美しかった妻は 三従(父・夫・子に仕える心掛け)とともに死に 素質であり美徳である貞節と容姿・手芸とことば遣いともに死んでしまった 何を考えよう 共に老いるという約束とはちがい 独り生き残って残りの人生を生きようとは 寝室の屏風(びょうぶ。バーテーション)は用もなく立ち 腸(はらわた)がちぎれるほどの悲しみはいよいよ悲痛である 枕元の鏡は淋しく懸かり 舜(しゅん。中国古代の聖天子)の妻が流した涙が竹を染めたように涙はますます落ちる あの世への入り口は一度覆い隠されてしまえば 二度と見るわけにはいかない ああ哀しいことよ
愛河(あい-か)の波浪すでにして先に滅び  苦界の煩悩また結ぶことなし  従来この穢土(え-ど)を厭離(おん-り)す  本願もて生をかの淨刹(じょう-せつ)に託さん
夫婦生活を共にした妻は早くも先に死んでしまった 苦しみの多い世の中にあって悟りが開けるものでもない 前々からこの穢(けが)れた俗世を厭(いと)い離れようと思っていた 本々の願いはあの清らかな浄土に渡って生きることにある         
日本挽歌(死者を悼み送る大和歌)一首
大王(おお-きみ)の とほの朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす したひきまして いきだにも いまだやすめず 年月も いまだあらねば こころゆも おもはぬあいだに うちなびき こやしぬれ いはむすべせむすべしらに 石木(いわき)をも とひさけしらず いえならば かたちはあらむを うらめしき いものみことの あれをばも いかにせよとか にほどりの ふたりならびい かたらひし こころそむきて いへざかりいます
大君の 遠い朝廷といわれている 不知火(筑紫の枕) 筑紫の国に まるで泣く子のように 慕ってきて 息さえも まだ静まらず 年月もまだ経っていなかったから (まさかこうなろうとは)心にも 思っていかったのに いきなり病に倒れ 死んでしまわれては ことばもなく 何をどうしてよいかわからない 石木の墓標になってしまっては 問いかけてもわかるまい 家に置いておけば 形なりとあるだろうに 恨めしいかぎりだ 奥方さまは (この先)われに どのように生きていけというのか にお鳥の(カイツブリ。♂♀仲がよいので夫婦などにかかる枕) のように二人並んで 語らっていたのに われの心に背いて 家を離れて行ってしまわれた
反歌
いえにゆきて いかにかあがせむ まくらずく つまやさぶしく おもほゆべしも
〈野辺送りも終わった〉家に帰って われはどうしようか 〈きっと〉枕が並んでいる 妻の部屋を寂しく 思うことだろうな
はしきよし かくのみからに したひこし いもがこころの すべもすべなさ
可哀想なことをしたものだ こうなることがわかっていても 慕って来てしまった妻の心だけは どうするこもできなかった
くやしかも かくしらませば あおによし くにつことごと みせましものを
悔しいなあ こうなることがわかっていたら 青丹〈あお〉によし〈奈良の枕〉 都の隅々まで見せてやったのに
いもがみし あふちのはなは ちりぬべし わがなくなみだ いまだひなくに
妻が見た楝〈おうち。センダンの古名。初夏、枝先に薄紫の花を群れ咲かす。実は薬用。朱楝《しゅらん》であれば花は白。別名ザボン・《ぼんたん》。佐賀地方の特産で、殊にボンタン飴は長寿源といわれ、うまさ格別〉の花は 早くも散ってしまった われの涙はまだ乾かないのに
大野山 きりたちわたる わがなげく おきそのかぜに きりたちわたる
〈太宰府の北西にある〉大野山に 霧が一面にかかっている われが嘆く ため息の風で 霧が移動して行ったのだ
神亀五年(七二八)七月二十一日  筑前国守 山上憶良上(たてまつ)る、と。
あるいは謹上とすべきであったか。
主人筋であるのに、歌となると向こう張ってしまう。悪い癖だが、妻を亡くした悲しみは出ていたと思う。
あの日われは、自分の老いを嘆いて、もう一首詠んでいる。  

「世間(よのなか)に住(とど)まり難きを哀しむ歌一首あわせて序」
集まり易く排(はら)い難きは八大の辛苦 遂げ難く尽き易きは百年の賞楽 古人の嘆きしところ 今またこれに及(いた)る それゆえこれに因んで一章の歌を作り、もつて二毛(に-もう。老い)の嘆きを撥(は)ねる その歌はいう
(群がり寄り集まって来やすく、取り除くことが難しいのが八大といわれる生・老・病・愛別離〈あい-べつ-り。親・兄弟・妻子のと生死の別れ〉・怨憎〈おん-ぞうえ。恨み憎む者との出会い〉・求不得〈きゅう-ふ-とく。限りなき欲望〉・五蘊盛〈ごうん-じょう。色・受・想・行・識から生じる煩悩〉の苦しみである。最後まで生き抜くことが難しくすぐに終わってしまうのが百年の命であると、昔の人が嘆いていた年ごろに自分もいま来てしまった。そういうわけで、歌一節を作って老いの嘆き哀しみを弦に撥ねる。歌はいう。
世間(よのなか)の すべなきものは 年月は ながるるごとし とりつつき おひくるものは ももくさに せめよりきたる おとめらが おとめさびすと からたまを たもとにまかし よちこらと てたずさはりて あそびけむ ときのさかりを とどみかね すぐしやりつれ みなのわた かぐろきかみに いつのまか しものふりけり くれないの おもてのうへに いずくゆか しわがきたりし ますらをの をとこさびすと つるぎたち こしにとりはき さつゆみを たにぎりもちて あかごまに しつくらうちおき はひのりて あそびあるきし よのなかや つねにありける おとめらが さなすいたどを おしひらき いたどりよりて またまでの たまでさしかへ さねしよの いくだもあらねば たつかづえ こしにたがねて かゆけば ひとにいとはえ かくゆけば ひとににくまえ およしをは かくのみならし たまきはる いのちおしけど せむすべもなし
世の中で どうすることもできない 年月は 水が流れるように 後から後から続いて 追いかけて来ては あらゆるものに攻め寄せる 乙女〈おとめ〉らが 乙女らしくと 唐玉を手首に巻きつけ 同い年の子らと 手を取り合って 遊んだだろうに 若い盛りを止めることができないで 時に送り出され みなのわた〈カワニナのはらわた。黒髪の枕〉 黒い髪にいつの間にか白髪がまじり 美肌にしわが寄ってしまう 男子は男子で 男らしくと剣や太刀を腰につけ 射る弓を手に握り 赤毛の馬に 倭文〈しつ〉織りの鞍を置いて 這い乗り 遊び歩いた 時期が いつまであったか 乙女らが寝ている部屋の板戸を押し開け 探し尋ねて這い寄り 玉のような 美しい手と差し交わして 寝た夜が いくらもないうちに 〈早くも〉杖を握って 腰にあてがいあっちへ行けば人に嫌われ こっちへ行けば人に憎まれ 老いた男は 所詮こんものよ たまきわる〈魂の極まるところ。命にかかる枕〉 命は惜しいと思うが これといってなす術〈すべ〉もない
反歌
ときはなす かくしもがもと おもへども よのことなれば とどみかねつも
常緑樹は常に緑を保っている あのようにいつまでも若くありたいと 思っても 老・病・死は世の習いだから とどめ保つことはできないなあ
嘉摩(かま)の帰りに秋を拾った。
「山の上の憶良が秋の野花を詠む歌二首」
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば七種(くさ)の花 その一
秋の野に 咲いている花を 指折り数えてみたら 七種類の花があった
はぎの花 尾花葛(くず)花 なでしこの花 おみなえし また藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお)の花 その二
※万葉集に詠われている朝がおは桔梗(ききょう)の別名で、いわゆるヒルガオ科のアサガオは平安時代に遣唐使が下剤用に持ち帰った種が園芸用に改良されたものだといわれています。
この年は怡土(いと。伊都)郡にも行き、土地の者が崇(あが)めている鎮懐石なるものに一文を寄せた。
筑前の国怡土郡深江村子負の原の海を臨む丘の上に、二つの石がある。大きいのは長さ一尺二寸六分(約三十九センチ)、周りは一尺八寸(約五十センチ)、重さ十八斤五両(約十一キロ)、小さいのは長さ一尺一寸(三十三センチ)、周りは一尺八寸(約五十四センチ)、重さ十六斤十両(約十キロ)、ともにみな楕円で、形は鶏の子(鶏卵)のようである。その美好(びこう。麗しさ)は論じることができない。一般に言われている徑尺の玉(宝玉として整ってる玉)はこれである。【あるいはいう。「この二つの石は肥前の国彼杵(そのき)郡平敷の石で、占いに当たってこれを採る」と】。これらの石は深江の駅家を二十里近く離れた路のほとりにあり、公私が往来して、馬を降り、ひざまずいて礼拝しない者はいない。古老が代々伝え聞いて言うには「その昔、息長足日女命(おきながたらしひめ-の-みこと。神功皇后)が新羅の国を征討なされた時、この二つの石を用いて御袖(み-そで)の中に挿しつけて鎮懐となされた。【実はこれ御裳(み-もすそ)の中である】。だから行き来する人はこの石を敬い拝むのである。そこで、歌を作っていう。
かけまくは あやにかこし たらしひめ かみのみこと からくにを むけたひらげて みこころを しずめたまふと いとらして いはひまひし またまなす ふたつのいしを よのひとに しめしたまひて よろずよに いひつぐがねと わたのそこ おきつふかへの うなかみの こふのはらに みてずから おかしたまひて かむながら かむさけびいます くしみたま いまのをつつに たふときろかむ
口に出すのも 恐れ多い 足日女〈たらしひめ〉の皇后が 韓国を帰服させて御心を お鎮〈しず〉めになろうと お取りになられて 心身をお清めなられた 真の玉である 二つの石を 世の中の人に お見せになられ 万代に 言い伝えようと 海の底〈わた-の-そこ。沖の枕〉 沖の江の 海のそばの子負の原に ご自身でお置きになられて 神であられるままに 神々しく鎮座なされておられる 霊験あらたかな〈神のご利益が際立つ〉御玉は 今の世にあっても 貴いものであるよ
反歌
あめつちの ともにひさしく いひつげと このくしみたま しかしけらしも
天も地も 共に長く語り継げよと この霊験あらたかな御玉を置かれたらしいな
右のことを伝え申したのは、那珂郡伊知の郷(ごう)蓑(みの)島(博多区美野島)の人健部(たけるべ)の牛麻呂である
しかし「鎮懐石」は、帰るとすぐに注をつけて文箱の底に沈めてしまった。
古事記の、「その政(まつりごと。海を渡って新羅・百済を屯倉〈みやけ〉としたこと。帰服させたこと)がまだ終わらないうちに、ご懐妊の御子(みこ。大鞆和気命〈おおとも-わけ-の-みこと。応神天皇〉)が生まれようとなされた。そこで、御腹をお鎮めになられるための石をお取りになられて御裳(み-もすそ)の腰にまとわれ、新羅より筑紫の国に渡られてその御子をお生みになられた。だから、その御子の生地を宇美というのである。また、その御裳にまとわれた石は、筑紫の国の伊斗(いと)村にある」という史実を知っていながら、鎮懐(ちん-かい)を御懐(こころ。心)鎮めとする牛麻呂の話を正すことなく歌まで詠んでしまった自分の阿諛(あゆ。おもね・へつらい)が責められたのだ。
次の年、神亀六年(七二九)は、八月に「天平元年」と改元された。
これは二月に左大臣長屋の王が讒言(ざん-げん。人を陥れるための告げ口)によって自経(じ-けい。自ら縄で首をくくる死。自殺)させられ、八月に左京職の藤原の麻呂の朝臣(不比等の第四子)が甲羅に 「天王貴平和百年」の文様を背負った亀を献上したことによるものだった。
どこの何奴(ど-やつ)が仕組んだのか。王の事件を知らされたときは動転した。
われは、いまだに王が朝廷の転覆を謀(はか)ったとは思っていない。確かに、宮子夫人(聖武天皇の生母)の称号を大夫人となされた勅命に口を出されたり、藤原の不比等邸でお生まれになられた今上(聖武)天皇と光明子夫人の皇子であられた基(もとい)の皇子のお祝いには行かれなかった。しかし、だからといって位もない男の密告を真(ま)に受けて御子の膳夫(かしわで)・桑田・葛木・鉤取(かぎとり)の王子をも自経させ、あのおしとやかであられたご夫人の吉備内親王(草壁の皇子の皇女)までが後を追わなければならなかったのか。力の拮抗(きっ-こう。張り合い。対立)とはいえ、惨(むご)いことをなされたものだ。
王は五十三歳であられたろうか。詩を作り、歌を詠み、経書(儒学)ばかりか仏法をもお広めになられておられたのに。
恐らく「天と赤兄とが知る」、そう叫ばれた有馬の皇子と同じご心境であられたのではあるまいか。あるいは大友の皇子と。
われは佐保山(奈良市)の山荘に呼ばれた七夕の宴のことなどを思い出して、前の年、大伴卿が詠まれていた歌を何度も口にしたものだった。
793 よのなかは むなししきものと しるときし いよよますます かなしかりけり  

神亀六年・天平元年(七二九)は妻の忌明けの年でもあった。
卿の官舎の集会で詠んだ七夕の歌は寂しいものになった。
牽牛(ひこぼし)は 織女(おり-ひめ)と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 河に向き立ち 思う空 安けなくに 青浪(あお-なみ)に 望みはたえぬ 白雲に なみだは尽きぬ かくのみや いきづきをらむ かくのみや 恋つつあらむ さにぬりの 小船もがも 玉まきの まかいもがも 朝なぎに いかき渡り 夕塩に いこぎ渡り 久方の 天の河原に 天飛ぶや ひれかたしき 真玉手の 玉手さしかえ あまたよも 寝てしかも 秋にあらずとも
彦星は 織女と 天と地が 別れたときから いなうしろ〈川を引き出す枕〉川と向かい合って立ち 思いは 心安らかでない 横たわる青い波に 望みは絶え 行き交う白い雲に 涙は涸〈か〉れてしまった このように ため息ばかりついていていいのだろうか このように恋しがってばかりいていいのだろか 朱塗りの 小船がほしいなあ 玉飾りのついた櫂〈かい〉もなあ それがあればそれがあれば朝の波が静まっている間に 漕ぎ渡り 夕方の引き潮に 漕ぎ渡りして 久方の〈天の枕〉 天の河原に 天飛ぶや〈領布にかかる〉 領布〈ひれ。スカーフ〉を敷いて 玉のような 美しい手と差し交わして 幾夜も寝られるのになあ 秋でなくても
反歌
風雲は 二つの岸に かよへども 吾が遠妻の ことぞ通わず
風と雲は 両岸を 行ったり来たりしているのに われの遠く(あの世)にいる妻の ことばは通じない
たぶてにも 投げ越しつべき 天漢(あまのかわ) へだてればかも あまたすべなき
礫〈つぶて。小石〉でも 投げれば越えて向こう岸に届きそうな 天の川だが 地上からは離れているからなあ まったくどうすることもできないよ〈会いにゆきたくても〉
亡き妻こいし、妹(いも)恋し。
泣いて暮らしていたんだ、あの頃は。
そこへ行くと、大伴卿はあきらめがよかった。
われの肩をたたいて、十六歳もお若い藤原の房前の朝臣(不比等の第二子)と交わされた書簡を見せ、得意がっておられたのだから。
大伴の淡等(たびと。旅人)謹んで申し上げます
梧桐(ご-どう。青桐)の日本琴一面【対馬の結石山(ゆ-いしやま)の孫枝〈ひこ-え・切り株から生えでた枝〉で作った】
この琴が夢のなかで娘に化けて申したのです。「わたしは、島のはるか彼方の高い山の嶺に根を張って幹を太陽の大いなる光にさらし、つねに霞を腰に巻きつけ、俗世を離れた山川の隅から遠くの海を眺め、「役に立たない木は伐られない、鳴き声の悪い鳥はつぶして食われる(荘子山木編)」などと考えながら、百年後には空しく谷底に朽ち果ててしまうのではないかと恐れておりました。ところがたまたまよい職人に出会い、削られて小さな琴になりました。質が粗く音が小さいのを顧みず、常に貴人の左に置かれる琴(琴を左に書は右に、楽しみはその中にある〈古列女伝〉)でありたいと願っておりました 」と。そして、歌っていいました。
いかにあらむ 日のときにかも こえしらむ ひとのひざのへ わがまくらかむ
いつの 日になるのだろうか 〈あなたより〉音色のわかる 人の膝を わたしが枕にすることができますのは
僕(ぼく)は歌に答えていった。
こととはぬ 樹にはありとも うるはしき きみがたなれの ことにしあるべし
〈たとえ〉ものを言わない 木ではあっても 貴人が愛用する 琴にしてあげられるはずです
娘は答えていいました。
「ありがたいお言葉をいただき、大変しあわせでございます」と。
しばらくして目がさめ、夢の言葉に心を動かされて琴を哀れに思い、黙っていることもできず、公使(こう-し。おおやけのつかい)に付けて、大した物ではございませんが進上させていただきます。謹んで申し上げました。不具
天平元年(七二九)十月七日 使いに付けて進上いたします
謹んで中衛府の徳高き長官閣下に届きますことを 以下余白」
これに対して中衛府朝臣房前の返事は、
「跪いてお手紙を承りました。喜びと楽しみが交互に深まり、そして知りました。龍門(りょう-もん。尊称。貴殿。また、桐琴を産出する司馬遷の出身地・陝西〈せんせい〉省の山峡の名でもあるということです)の恵みが蓬身(ほう-しん。卑しい身分)の自分に厚いということを。貴殿を恋い慕う思いは常の心の百倍です。つつしんで遠く筑紫からの詩文に応え、野卑な歌を差し上げます。房前つつしんで申し上げます。
言(こと)とはぬ きにもありとも わがせこが たなれのみこと つちにおかめやも
ものを言わない 木ではあっても あなた様が 愛用なされたお琴を 〈どうして〉地べたに置いたりいたしましょうか
十一月八日 還りの大監(だいけん。太宰府の三等官。大伴の百代)に付けます
謹んで届きますことを尊き貴家の記室(書記)へ」
というものだった。
一体、粗末に扱わないとはいえ、「地べたに置いたりいたしましょうか」とはちと失礼ではないかと思ったが、卿には言わずに日を過ごし、翌二年の七夕にはわれも立ち直っていた。
秋風の 吹きにし日より 何時しかと 吾れ待ち恋し 君ぞ来ませる
秋風の 吹いた日〈陰暦の七月一日〉から いつ来られるのかと わたし〈織女〉が待ち焦がれていた あなた〈牽牛・彦星〉がついに来られるのですね
天漢(あまのかわ) いと河浪は たたねども さぶろうがたし 近きこの瀬を
天の川は 〈穏やかで〉少しも川波は立っていないのに 〈どういうわけか〉側に行くのが難しいんだな 近いこの浅瀬を渡って
袖振れば 見もかはしつべく 近けども 渡るすべなし 秋にしあらねば
袖を振れば たがいに見交わせるほど 近いのに 渡る術〈すべ。手立て〉がないのだな 秋〈七夕〉でないから
玉かぎる ほのかに見えて 別れなば もとなや恋いむ あう時までは
玉かぎる〈かげろうのように。枕〉 ほのかに〈かすかに〉見えただけで 別れてしまったのだから もとより〈いうまでもなく〉恋しいだろうさ 〈来年また〉会うときまでは
牽牛(ひこぼし)の 嬬(つま)迎え船 こぎづらし 漢(あま)のかはらに 霧の立てるは
牽牛の 妻を迎えに行く船が 漕ぎ出したようだな 天の川原に 霧が立ち込めて来たのは
霞(かすみ)立つ 天の河原に 君待つと いゆき還りに 裳(も)のすそぬれぬ
霞がかかった 天の河原で あなたを待って 行ったり来たりしているうちに 着物の裾を濡らしてしまった
天の河 浮き津の浪音(なみね) さわぐなり 吾が待つ君し 舟出しらしも
天の河の 浮き桟橋で波が さわいでいる わたしが待っているあの人が 船出をされるらしい
この年、卿は脚の瘡(かさ。できもの)も治り、任期の切れる最後の年でもあったので、七夕の宴は二夜三夜にわたって繰り広げられ、殊に鎮杆防守(ちん-かん-ぼうしゅ。おさえ・とどめ・ふせぎ・まもる)と蕃客(ばん-きゃく。外国人)の帰化業務に携わっている管内九国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)二島(壱岐・対馬)の国司らをねぎらって開かれた翌年の正月(旧)は例年にない賑やかさだった。
 梅の花や枝を冠(かんむり)に挿して、飲んで騒いで、そうだ、確か卿が序文をつけた「梅花の歌」の写しが行タク(こうたく。旅行用の袋)に入ったままになっていると思うので、出してみる。  

「梅花の歌三十二首 併せて序」
天平二年(七三〇)正月十三日、帥(そち)の老(おゆ。旅人)の家に集まったのは宴会を開くためである。時に、初春は二月、気候は穏やかで風は和み、梅は鏡の前の粉(こな。おしろい)のように白く咲き、蘭(らん)は腰の帯玉の香り袋のように薫(かお)っている。加えて、曙の嶺は雲を払い、松は薄絹をかけて衣笠(きぬ-がさ)を傾けているようである。夕方の嶺に霧が交わり、鳥は薄絹のような霧に封じこめられて林に迷う。庭に舞うのは今年生まれた新しい蝶、空を帰って行くのは去年飛来の古い雁。ここに天を笠に地に座り、膝を促(うな)がして杯を交わす。歓談はひとまず部屋の内に置き、衿(えり。うなじ。首)を霞(かすみ)に煙る外に開いて無欲に自分を解き放ち、心地よく満ち足りようではないか。
ここは学者文人が集まる翰林院(かんりん-いん。唐の役所)ではない。それでは何によって心を述べればよいか、詩経(し-きょう。中国の古典)は落梅の篇を記している。いまもむかしも梅に寄せる気持に変わりはあるまい。よろしく庭園の梅を詠んで、少しばかり歌を作ろうではないか。
この日は題詠(だい-えい。主題をきめた歌)だったので、上座の主席を務める太宰大弐(次官)の紀の卿から入った。
むつきたち はるのきたらば かくしこそ うめををきつつ たのしきをへめ
正月になって 春がきたら 〈毎年〉このように 梅よ梅よと 楽しく過ごそうではないか
次に少弐(次官補) 小野の大夫(五位の尊称)が詠んだ、
うめのはな いまさけるごと ちりすぎず わがへのそのに ありこせぬかも
梅の花よ いま咲いているように 散り急がないで わが官舎の庭園に 咲いていてくれないかなあ〈いつまでも〉
次いで少弐 粟田の大夫、
うめのはな さきたるそのの あをやぎは かづらにすべく なりにけらずや
梅の花が 咲いている庭園の 青柳〈あおやぎ〉は 髪飾りにしてもいいくらいに 芽がふいているではないか
次がわれ、筑前の守(かみ) 山の上の大夫である、
はるされば まずさくやどの うめのはな ひとりみつつや はるひくらさむ
春が来れば 最初に咲くのが官舎の梅の花だ 一人で眺めながら 春の日を暮らすのだろうか〈暮らすのだろうな〉
これを見ると、われはまだ妻の死から立ち直っていなかったようだ。
次いで豊後の守 大伴の大夫、
よのなかは こひしげしえや かくしあらば うめのはなにも ならましものを
世の中は 〈梅に思いを寄せる〉恋が盛んなようである こんなことなら 梅の花にでも なっておればよかった
次が筑後の守 葛井(ふじい)の大夫、
うめのはな いまさかりなり おもふどち かざしにしてな いまさかりなり
梅の花は いまが盛りである 思いを寄せる者同士が 頭の飾りにしてさあ ぱっとやろうよ われわれも今が盛りなんだからさ
次いで笠の沙弥、あの沙弥の満誓だ、
あおやなぎ うめとのはなを をりかざし のみてののちは ちりぬともよし
青柳と 梅と花を折って 飾りにし 飲んで騒いでその後は 散ってしまってもよい
死んでしまってもよい、の意味だといっていた。しきりに刹那(せつ-な。いまこの時この瞬間)を説いては家婢との間に子をもうけておられたが、その後、どうなされたか。本来なら、上座主席なのだが、僧衣であることを理由に譲られたのだ。
次いでこの日の主役、ご主人さま(旅人)だ、
わがそのに うめのはなちる ひさかたの あめよりゆきの ながれくるかも
われらの庭園に 梅の花が散っている 久方の〈枕〉 天から雪が 流れてきているようだなぁ
大袈裟な人だった。脚に瘡(かさ)ができたときも、遺言を書くのだといって早馬を平城に走らせ、庶弟(腹ちがいの弟)の大伴の稲公(いなきみ)と甥(おい)の大伴の古麻呂の宿祢を呼び寄せたんだ。あれは六月だったな、松浦(まつら)に行けなくて悔しがっていたから。
次いで大監(三等官) 大伴の百代氏、
うめのはな ちらくはいづく しかすがに このきのやまに ゆきはふりつつ
梅の花が 散っているのはどこですか それは この大野〈府の北西〉の城山には まだ雪が降っているのですよ
一字呼称は、属僚(ぞく-りょう。下役)たちである。
少監(三等官補) 阿氏の奥島が、
うめのはな ちらまくおしみ わがそのの たけのはやしに うぐいすなくも
梅の花が 散るのを惜しんで わが庭園の 竹林に うぐいすが鳴いているよ
少監 土氏の百村が、
うめのはな さきたるそのの あをやぎを かづらにしつつ あそびくらさな
梅の花が 咲いている庭園の 青柳を頭に飾って 遊び通そうよ
大典(四等官) 史氏の大原が、
うちなびく はるのやなぎと わがやどの うめのはなとを いかにかわかむ
〈梅の花に〉靡いて寄り添っている 春の柳と わが庭園の 梅の花とを どうやって分けたものかな
少典(四等官補) 山氏の若麻呂が、
はるされば こぬれがくりて うぐひすぞ なきていぬなる うめがしずえに
春が来たので 梢に見え隠れしながら うぐいすが 鳴いて渡り歩いているよ 梅の下枝に
大判事(裁判署(所)の長) 円氏の麻呂が、
ひとごとに をりかざしつつ あそべども いやめづらしき うめのはなかも
一人一人が 折って頭に飾り 遊んでいなさるが いやなんとも素晴らしい 梅の花ではあーりませんか
薬師(医者) 張氏の福子が、
うめのはな さきてちりなば さくらばな なきてさくべく なりにてあらずや
梅の花が 咲いて散ったら 桜の花が 続いて咲くように なっていーるではあーりませんか
続いて、下座の主席筆頭の筑前の介(すけ。次官) 佐氏の子首が、
よろずよに としはきふとも うめのはな たゆることなく さきわたるべし
このさき万代まで 年は過ぎて行っても 梅の花は 絶えることなく 一面に咲きつづけていくでしょう
を詠み、梅の花を興したのがよかった。この佐伯の子首は国司としてもよくわれを助けてくれた。改めて感謝しておく。
次が壱岐の守 板氏の安麻呂、
はるなれば うべもさきたる うめのはな きみをおもふと よいもねなくに
春だから 当然咲くのは解かっている 梅の花だが お前さんのことを思うと 夜も眠れなくてな
仲間に会える喜びからだったのだろう。次いで神司(かん-ずかさ。神主) 荒氏の稲布(いなしき)、
うめのはな をりてかざせる もろひとは けふのあいだは たのしくあるべし
梅の花を 折って飾りにしている 諸君 今日一日は 楽しいはずだ
次いで大令史(だいりょうし。判事の書記。署の四等官) 野氏の宿奈麻呂、
としのはに はるのきたらば かくしこそ うめをかざして たのしくのまめ
〈これからは〉毎年 春が来たら こうして必ず 梅を飾りにしてさ 楽しく飲もうよ
次いで少令史 田氏の肥人、
うめのはな いまさかりなり ももとりの こえのこほしき はるきたるらし
梅の花は いまが盛りである 多くの鳥の声が恋しくなる 春が来たらしい
次いで薬師(くすし) 高氏の義通、
はるさらば あはむともひし うめのはな けふのあそびに あひみつるかも
春が来たら 会いたいと思っていた 梅の花〈仲間〉である 今日の遊びに〈招かれて〉互いに会うことができた
仲間とはいいものだ。年老いて一人になって、つくづく思う。 
次は陰陽師 磯氏の法麻呂である。
うめのはな たをりかざして あそべども あきたらぬひは けふにしありけり
梅の花を 折って飾りにして 遊んでみたが 遊んでも遊び足りない日とは 今日のことだったのだ
次いで算師(天文暦数) 志氏の大道、
はるののに なくやうぐひす なつけむと わがへのそのに うめがはなさく
春の野原に 鳴いているうぐいすを 誘いこんで手なずけようと わが官舎の 庭園に梅の花が咲いたよ
次が大隅の目(さかん。四等官) 榎氏の鉢麻呂、
うめのはな ちりまがひたる おかびには うぐひすなくも はるかたまけて
梅の花が 散り乱れている 丘のほとりでは うぐひすが鳴いている 春よ来いと
次いで筑前の目 田氏の真人、
はるののに きりたちわたる ふるゆきと ひとのみるまで うめのはなちる
春の野原に 霧が立ち込めている 降っている雪と 人が見間違えるほど 梅の花が散っているよ
達者でいるかなあ、彼もよく働いてくれた。
次いで壱岐の目 村氏の彼方、
はるやなぎ かづらにをりし うめのはな たれかうかべし さかづきのへに
春の柳を 人の頭の飾りにして 梅の花を 誰が浮かべたりしたのか 人の杯に
次が対馬の目 高氏の老(おゆ)、
うぐひすの おときくなへに うめのはな わぎへのそのに さきてちるみゆ
うぐいすの 鳴き声を聞くにつれて 梅の花も わが官舎の庭園に 咲いては散っていくのが見える
次が薩摩の目 高氏の海人、
わがやどの うめのしづへに あそびつつ うぐひすなくも ちらまくおしみ
わが官舎の 梅の下枝で 遊びながら うぐいすが鳴いているが 〈梅の花が〉散るのを惜しんでいるのだ
次が土師氏の御通(おみち)、
うめのはな をりかざしつつ もろひとの あそぶをみれば みやこしぞもふ
梅の花を 折って飾りにしながら みんなが 遊んでいるのをみると 都のことを思う
次が小野氏の国堅、
いもがへに ゆきかもふると みるまでに ここだもまがふ うめのはなかも
恋人の家にまで 雪が降っているのではないかと思うほど はげしく乱れ散る 梅の花だなぁ
こうして「梅花の歌」の宴は、筑前の掾(じょう。三等官)門氏(かど-し。門部の連)の石足(いわたり)が、
うぐひすの まちかてにせし うめがはな ちらずありこそ おもふこがため
うぐいすが 待ちに待っていた 梅の花よ 散らずに咲いていておくれ 思いを寄せるわれら(うぐいす)のために
を、小野氏の田守、漢風名淡理が、
かすみたつ ながきはるひを かざせれど いやなつかしき うめのはなかも
霞の立ちこめる 長い春の一日を (梅を)飾りで遊んだが いやますます心引かれる 梅の花であることよ
を詠んで、終わった。
後日、大伴卿は、この「梅花の歌」のほかに「故郷を思う歌両(二)首」、
わがさかり いたくくたちぬ くもにとぶ くすりはむとも またをちめやも
わたしの盛りは過ぎて ひどく衰えてしまった 仙人の 薬をのんだとしても また若返ることはあるまい
くもにとぶ くすりはむよは みやこみば いやしきあがみ またおちぬべし
仙人の 薬をのむより 都を見る方が 老いさらばえたわたしのからだも また若返るだろう
と、次の「後に梅の歌に追和する四首」を添えて、吉宜(きち-ぎ)に贈っている。
のこりたる ゆきにまじれる うめのはな はやくなちりそ ゆきはきぬとも
残った 雪に雑じる 梅の花よ そんなに早く散らないでおくれ 雪は消えても
ゆきのいろを うばひてさける うめのはな いまさかりなり みむひともがも
雪の白さを 奪って咲いている 梅の花は 今が盛りである 〈ともに〉見る人がいたらなあ
卿も本心は、まだ淋しかったのだろう。
わがやどに さかりにさける うめのはな ちるべくなりぬ みるひともがも
わが官舎の 盛んに咲いている 梅の花が 散りそうになった 〈ともに〉見る人がいたらなあ
うめのはな いめにかたらく みやびたる はなとあれもふ さけにうかべこそ
梅の花が 夢の中で語っていった 優雅な花だとわたしは思います お酒に浮かべてお飲みくだされと
やはり歌は一人がいい。それであるのに、卿は何かといえばわれを誘った。  

あの年、七夕で会って三日目だった。四月に行った松浦に、六月は脚の病で行けなかったから行こうと、使いをよこして来たのだ。
われは断わりの書簡を書いた。
「憶良 誠惶頓首(せいこうとんしゅ。頭を地にすりつけ) 謹んで啓(もう)す」
憶良聞く 方岳(ほう-がく。四方)の諸侯 都督の刺史(し-し) 並(とも)に法典に依り 部下(ぶげ)を巡行して その風俗を察(み)ると 意の内端(ない-たん)多く 口外出し難し 謹みて 三首のいやしき歌を以て 五臓の鬱結(うっけつ)を写さんと欲す その歌に曰く
憶良は聞きました 四方の国司・郡司 太宰府の役人が ともども規則により 管内を巡行して 民の暮らし振りを視察するとのことでありますが 気持ちの中に多く 正したいことがありまして 口に出して申し上げることが難しく 謹んで三首の田舎びた歌に詠み この堅苦しい気詰まりを取り除きたく思います その歌にいう
まつらがた さよひめ(佐用姫)のこが ひれふりし やまのなのみや ききつつをらむ
松浦県〈まつらがた。県は班田(あかちだ)の意という。朝廷の料地になる前は県主(あがたぬし)が領有していた〉のさよひめが領巾〈ひれ。スカーフ〉を振ったという 山の名前だけで行かれるのか 聞きはしましたが〈わたしは〉行かずにいます
たらしひめ かみのみことの なつらすと みたたしせりし いしをたれみき
足日女 皇后が 魚をお釣りになろうとして お立ちになられた 石を誰が見たというのか〈単に伝説ではないか。やいのやいのいうことはない〉
ももかしも ゆかぬまつらじ けふゆきて あすはきなむを なにかさやれる
〈四月に行ったきり〉百日も行っていない松浦です きょう行ってあしたは帰って来れるとに なんか知らんばってん気に障っとですよ
天平二年(七三〇)七月十一日 筑前の国司 山の上の憶良謹んで上(たてまつ)る
腹が煮え繰り返ってしかたがなかった。
実際、そうではないか。もっともらしく隊列を組んで職務を果たすならともかく、物見遊山に走って何が巡行視察か、由来の多くを記紀から採って、何が風土記なもんか。
そんな思いに突き上げられていたのだ。
しかし、このあと一月ほどしてやって来られ、いつまでもお臍(へそ)をお曲げになられるな、といわれたときは気持は治まっていた。
卿は「松浦河(現玉島川という)に遊ぶ序」に歌を添えて、吉宜の返書と共に見せた。
「余、しばし松浦の県に行って逍遥し、いささか玉島の淵を臨んで遊覧した。たちまち、魚を釣る女子(こ)らに遭った。花のような顔かちは比べるものがなく、光輝く姿も敵(かな)うものがなかった。眉は柳の葉のようであり、頬は桃のようであった。気立ては雲を凌ぐほど高く、優雅さは世に飛びぬけていた。
僕は尋ねていった。
「何(なに)村の何家の娘らぞ。もしかして神仙界に住む者らか」と。
娘らはみな笑って答えた。
「児らは漁夫の家の児で、草葺きの小屋に住む身分の低い者です。村もなく家もなく、これといって名乗るほどの者ではありません。ただ生まれつき水になれ親しみ、また心は山を楽しみます。時には、玉島の浦を眺めて魚たちをうらやましく思い、あるいは山辺に横たわっていたずらに霞を眺めています。今、思いがけなくもあなた様と出会い、感激に堪えません。まことの心を打ち明けて末永く夫婦の契りを結ぶことはできないものでしょうか 」と。
拙者は応えていった。
「はい、できます、できます。つつしんでお受けいたします」と。
この時、日が山の西に落ちて、無粋にも黒毛が帰ろうとしたので、仕方なく胸の思いを述べ、歌に詠んで贈った。
あさりする あまのこどもと ひとはいへど みるにしらえぬ うまひとのこと
漁をする 海人の娘と 人は申しておられるが 見ればわかります 貴人の娘であることが
娘は答えていった
たましまの このかはかみに いへはあれど きみをやさしみ あらはさずありき
玉島の この川上に家はあるのですが あなた様に恥ずかしくて はっきり申しあげられませんでした
旅人らが更に贈った歌三首
まつらがは かはのせひかり あゆつると たたせるいもが ものすそぬれぬ
松浦河の 川の浅場がキラキラ輝いている 鮎を釣ろうと 立っている乙女の 裳の裾が濡れている
まつらなる たましまがはに あゆつると たたせるこらが いへじしらずも
松浦の 玉島川に 鮎を釣ろうと立っている娘らの 家に行く路が知りたいなあ
とふつひと まつらのかはに わかゆつる いもがたもとを われこそまかめ
遠つ人〈待つの枕。松にかかる〉 松浦の河で鮎を釣っている 乙女の袂を われが巻くだろう〈ともに寝るだろう〉
娘らが更に応えた歌三首
わかゆつる まつらのかはの かはなみの なみにしもはば われこひめやも
若鮎を釣る 松浦河の 川波の 波〈並み〉のお方と思えば わたしは果たして恋したでしょうか
はるされば わぎへのさとの かはどには あゆこさばしる きみまちがてに
春が来れば わたしの家の里の 水取り口には 鮎の子が走り回っていますよ あなたが来られるのを待ちかねて
まつらがは ななせのよどは よどむとも われはよどまず きみをしまたむ
松浦河の 幾つもの早瀬の淀みが 淀もうとも わたしは淀み滞ることなく あなたを愛して待っています
後の人(旅人)が追和した歌三首  帥の老(旅人)
卿が六月に作った歌だ。
まつらがは かはのせはやみ くれないの ものすそぬれて あゆかつるらむ
松浦河は 川の瀬の流れが早いから 紅の 裳の裾を濡らして 鮎を釣っているのだろうなあ
ひとみなの みらむまつらじ たましまを みずてやわれは こひつつおらむ
〈松浦に〉行った連中はみんな 見るであろう松浦路の 玉島を われは〈脚の病で〉見ることができないのだから 恋しく思いながらいるよ
まつらがは たましまのうらに わかゆつる いもらをみらむ ひとのともしさ
松浦河の 玉島の浦で 若鮎を釣っている 乙女らを見るであろう 人がうらやましいな
以下は宜(ぎ)の返書と歌。
「宜は申し上げます。伏して四月六日付けのお手紙をお受け取りいたし、跪(ひざまづ)いて箱を開きご文面を拝読いたしました。心が明るく開け、月を懐いた人といわれた魏の泰初(たいしょ。蒙求97)のようにほがらかになって卑しい思いが取り除かれ、雲をかき分けて青天を見るような人といわれた晋の楽広(がく-こう。蒙求370)のような気持ちになりました。辺境の太宰府に身を置かれ、往昔を思われてお心をお傷めになられ、過ぎ行く年月は止まらず、日々の生活を思って涙を落としておられるとのことですが、達人はものの移り変わりに安らぎ、君子は思い悩まないといわれています。伏して切にお願いいたします。朝には後漢の魯恭(ろ-きょう。蒙求121)のように雉を手なずける教えを広め、夕べには晋の孔愉(蒙求427)のように亀を放してやる仁愛を勧め、漢の張安世(蒙求400)・趙充国(蒙求74)のように百代も語り継がれる名臣となられることを心掛け、仙人の赤松子(せき-しょうし)や王子喬(おう-しきょう)のように千年の齢(よわい)を追いかけられることを。あわせて、お示しの詩歌を受け取りました。 「梅花」の宴席で多くの秀才が捕らえたことばや松浦の玉島における仙女の贈答は、孔子が弟子たちに述べさせたことばの類(たぐい)であり、魏の曹植(そ-うち。蒙求387・578)が仙女を詠んだ洛神賦に比べられ、読みふけり、歌い、ありがたく喜ばせていただきました。
宜の主人を恋い慕う心は犬馬以上であり、主人の徳を仰ぐ心は太陽を仰ぎ見るひまわりと同じでございます。しかしながら、青海原は地を分け、白雲は天を隔て、徒に恋情を募らせるだけで、行って心労をお慰めすることができません。
初秋の季節にあたり、伏して願います。多くの加護が日々新しく訪れますことを。今、相撲部領使(すまいのことりつかい。七月七日の御前試合に力士を連れて上京していた使い)に託し、謹んで拙い手紙を付けます。宜、謹んで申しました。不次
諸人(もろびと。三十二人)の「梅花の歌」に和して奉る一首
おくれいて ながこひせずば みそのふの うめのはなにも ならましものを
〈都に〉残って 長く恋い慕ったりはしないで 官舎の庭に生える 梅の花にでも なっておればよかった
松浦の仙女の歌に和した歌一首
きみをまつ まつらのうらの おとめらは とこよのくにの あまおとめかも
君〈旅人〉を待つ 松浦の浦の 乙女たちは 不老不死の国の 天女かもしれませんね
君(旅人)を思うこといまだ尽きず、重ねて二首にしるす
はろばろに おもほゆるかも しらくもの ちへにへだてる つくしのくには
はるか遠くに 思われてならないなあ 白雲が 千重に隔てている 筑紫の国は
きみがゆき けながくなりぬ ならじなる しまのこだちも かむさびにけり
君〈旅人〉が行かれて 長い月日が経ちました 奈良路にある 島の木立ち〈旅人の屋敷〉も 茂るに茂ってすっかり神々しくなってしまわれました
天平二年(七三〇)七月十日」
主従とはかくあるべきなのか。われはかなり動揺したのだと思う。卿が大納言(太政官次官)になられて都へ帰られる日に、次のような歌を差し上げているからだ。  

「書殿(しょ-でん。旅人を尊称した)の餞(はなむけ)の日の倭歌四首」
あまとぶや とりにもがもや みやこまで おくりもをして とびかへるもの
天飛ぶや(鳥の枕) 鳥にでもなれないものか 〈そうすれば〉都まで お送 りして 飛び返って来ますのに
ひともねの うらぶれおるに たつたやま みまちかづかば わすらしなむか
〈送別の〉人はみんな しょんぼりしておりますのに 〈河内と大阪の境の〉立田山に お馬がお近づきになれば 〈われらのことなど〉お忘れになられてしまわれるのでしょうね
いひつつも のちこそしらめ とのしくも さぶしけめやも きみいまさずして
〈今こうして〉語り合っていても 後になってきっと知るだろう 物足りなくて 淋しくなることを〈そうではあるまいか〉 主人が居られなくなられるだから
よろずよに いましたまひて あめのした まをしたまはね みかどさらずて
大納言になられたのですから〉永久〈とわ〉の世に いつまでもおられて 天下の政治を天皇にお取次ぎくだされ 朝廷を去らずに
敢えて私の懐(こころ)を述べる歌三首
あまざかる ひなにいつとせ すまひつつ みやこのてぶり わすらへにけり
天離る〈あまざかる。鄙(ひな)・田舎の枕〉 御門〈みかど〉を遠くはなれた筑紫の 田舎に五年も 住み続けて 都の風俗習慣を すっかり忘れてしまいました
かくのみや いきづきおらむ あらたまの きへゆくとしの かぎりしらずて
このように ため息ばかりついて暮らしているのだろうか あらたまの〈年にかかる枕〉 過ぎ去っていく年月に 限りがあるということも知らないで
あがぬしの みたまたまひて はるさらば ならのみやこに めさげたまはね
わが主人〈旅人〉の 恩恵をいただいて 春が来れば 平城の都に 召し上げてもらいたい
天平二年(七三〇)十二月六日 筑前の国の司山の上の憶良謹んで上る
実に嫌な歌を詠んだものだ。恨みがましく物欲しげで、酔ってでもいなければとうてい詠めたものではない。
こんなものを詠むくらいなら、何も逆らうことはなかったのだ。
吉宜の文面に狼狽したとはいえ、「あがぬしの」とは何だ。何が「みたまたまひて」だ。
ああ恥ずかし恥ずかし。
確かに大伴家はわれらの主家だった。大伴家なくしてわれらはなかった。
吉宜が「曹子健(子健は曹植〈ち〉の字〈あざな〉)の表(君主に奉る文書)」のことばを借りて、「主人を恋い慕う心は犬馬以上であり、主人の徳を仰ぐ心は太陽を仰ぎ見るひまわりと同じでございます」と書いてあったように、あるいはそうあり続けなければならないのかもしれない。
しかし、これからはともに国の奉公人だ。国の下僕だ。主従であることを超越しなければならない。
あの日、楼門を出て行かれる卿に手を振りながら、そう思った。そう思うことで、自分を回復させようとした。
私恩は私恩だ。へつらいは性質(たち)ではない。
ご子息の家持の宿祢が振り返った。息子の船主(ふな-ぬし)が手を振った。
卿が振り向いた。
お達者で。
門部の連石足と麻田の連陽春ら府の官人が芦城(あし-き)の駅家まで送って行った。
卿とはこれが最後になった。
代わって帥(そち。長官)に着任された舎人親王の御子であられる三島の王(皇胤紹運録〈こういんしょうん-ろく〉では淡路廃帝〈はいだい。淳任天皇〉の弟になっているといわれるが、続紀によると養老七年〈七二三〉正月に無位の三島王に従四位下が授けられており、廃帝の即位が天平宝字二年〈七五八〉八月、二十五歳であるから、無理である)は病弱であられたが、各地の視察にはよく出かけられた。
天平三年(七三一)四月、乞われて松浦に同行した。
都で評判になっている「松浦佐用姫(まつら-さよひめ)」のことが知りたいというので、「肥前の国風土記」を携えた。
「松浦(まつら)郡は郷が十一か所、駅が五か所、烽火台が八か所ある。
むかし、神功皇后が新羅を征伐なされようとされてこの郡に出でまされ、玉島河のほとりでお食事をお求めになられた。皇后は針を曲げて釣り針を作り、飯粒を餌に、裳の糸をつり糸にされ、河の石に登られて釣り針を捧げ、祝詞(のりと)を申された。「われは新羅を征伐してその財宝を求めようと思う。それが成功して凱旋するには、細鱗(あゆ)という魚がわれの釣り針をのむことである」と。果たして、しばらくあってその魚を得た。皇后は申された。「はなはだ希見(めずらし)いものである」と。【希見は梅豆羅志(めずらし)という】。よって希見の国という。今はなまって、松浦郡という。それだから、この国の婦女は夏の初めの陰暦四月になると、毎年針でこの年魚(あゆ)を釣る。男たちは釣っても獲ることはできない」
勿論、皇后が登られたという石はない。しかし、目を洗われるような新緑の中で、紅(くれない)の裳裾(も-すそ)を濡らして釣り糸を垂れている娘らを改めて眺めると、さもあったろうかと、仙女になぞらえて情交を夢みられた卿の、人恋しげなまなざしが思い出されてしばし佇(たたず)み、王にうながされるまま馬の首を 「鏡の渡り」に向けた。
「鏡の渡り【郡の北にある】
むかし、桧隈(ひのくま。明日香西南部)の庵入野(いおいりの)の宮で政治を執られた宣化(せんか)天皇の世(五三八〜五五三)に、大伴の狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那(みまな。朝鮮半島南端)の国を鎮めさせ、ついでに百済の国を救わせることにした。命令を受けた狭手彦はこの村に着くと、篠原村【篠は志奴という】の弟日姫子(おとひめこ)【日下部(くさかべ)の祖】を妻恋いして結婚した。容貌は非常に美しく、絶世の美女といわれていた。別れの日、狭手彦は鏡を取って嫁に与えた。嫁の弟日姫子は悲しみ、涙をこらえて栗川(松浦川)を渡っていると、鏡の紐が切れて鏡が川に沈んだ。これによって、鏡の渡りと名づけられた」
この弟日姫子がいうところの「松浦佐用姫」なのだが、それを知るには「褶振(ひれ-ふり)の峯」に行かなければならない。
「褶振の峯【郡の東にあり、烽火台の名は褶振の烽(とぶひ)という】。
大伴の狭手彦の連が船立ちして任那に渡るとき、弟日姫子はここに登り、褶(ひれ)を振って招き戻した。これによって褶振の峯と名づけられた。しかし、弟日姫子が狭手彦と別れて五日経ったのち、人がいて夜毎来ては嫁の弟日姫子と共に寝て、夜が明けると暗いうちに帰って行った。その姿かたちは狭手彦に似ていた。嫁はこらえて黙っておれなかった。
ある日、麻の紡ぎ糸をその人の単(ひとえ)の服につないで糸を尋ねていき、この峯の頂きにある沼のほとりにたどり着いた。寝ている大蛇(おろち)がいた。体は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の縁に臥していた。それがいきなり人になって語っていった。「しのはらの おとひめのこぞ さひとゆも いねてむしたや いへにくださむ や(篠原の弟日姫子よ 一晩だけでよかけん 寝ちいっちやらんね ほしたら家に帰しちやるけん そげんしちやらんね)」と。
この時、弟日姫子の付き人が走って親族に告げた。親族が大勢を遣って登ってみると、ただ人の屍だけがあった。みんなは弟日姫子の骨だといった。そこで、この峯の南に運んで行って墓を作り、葬った。その墓は今もある」
哀しい話でしょう、と王にいったら、返事はなかった。
大伴の狭手彦は、日本書紀巻の第十八の宣化(せんか)天皇二年(五三八)冬十月一日の条に、「天皇は新羅が任那に危害を加えたので、大伴の金村の大連(おおむらじ。連の長で大臣〈おおおみ〉と共に朝廷の中枢にいた)に命じて、子の磐(いわ)と狭手彦を遣わして任那を助けた。このとき、磐は筑紫の国に留まって筑紫の政事を執り、三韓に備えた。狭手彦は行って任那を鎮め、加えて百済を救った」とある狭手彦で、同じく巻の第十九の欽明(きんめい)天皇二十三年(五六二)の八月にも「天皇は大将軍大伴の連(むらじ)狭手彦を遣わして、兵数万を率いさせ、高麗を討たせた。狭手彦は百済の計略を使って高麗を撃ち破った。高麗の王は垣根を越えて逃げた。狭手彦は勝ちに乗って宮殿に入り、いろいろな財宝や七織りの帳(とばり)、鉄屋などを獲て還った。【鉄屋は高麗の西の高楼の上にあり、織り帳は高麗王の寝室に張ってあった】。七織りの帳を天皇に奉り、鎧二領・金飾の刀二口・銅鏤鐘(どうるしょう。銅を彫り込みちりばめた鐘)三口・五色の幟(のぼり)二竿(かん)・美女媛(えん)【媛は名である】・並びにその付き人の吾田子(あたこ)を蘇我の稲目(いなめ)の大臣に贈った。大臣は二女を入れて妻とし、軽の曲(かろ-の-まがり。奈良高市郡)の屋敷に住まわせた。【鉄屋は長安寺に置いた。この寺がどこの国にあるかは知らない(滋賀県栗太〈くりもと〉郡という)。ある本にいう。十一年、大伴の狭手彦は百済の国とともに高麗王陽香(ようきょう)を比津留都(ひつると)に蹴散らした】」とあり、「松浦佐用姫」は大伴卿が先祖の武勇にまつわる弟日姫子を悼み憐れんで、御霊(み-たま)鎮めのために詠まれた歌である。
その序文にいう。
若者大伴の佐提比古(狭手彦)が、特に朝廷の命令を受けて任那に使いした。船を整備して出航し、青海原に出た。妾(めかけ)の松浦【さよひめ】はこのはかない別れを悲しみ、彼に会えなくなるのを嘆いて高い山に登り、はるか彼方に去っていく船を望んで恨み哀しみ、失意のうちに精根尽きて遂に領巾(ひれ)をとってこれを振った。傍の者はみな涙を流した。これに因んで、この山を領巾(褶)振の峯(虹の松原の南)というのである。よって、歌に作っていう。
とほつひと まつらさよひめ つまごひに ひれふりしより おへるやまのな
遠つ人〈まつの枕〉 松浦の佐用姫が 夫恋しさに 領巾を振って以来 付いている山の名であるよ
後(あと)の人の追和
やまのなと いひつげとかも さよひめが このやまのへに ひれをふりけむ
山の名として 語り継げと、佐用姫は この山の上から 領巾を振ったのだろうか〈そうではあるまい〉
後後の人の追和
よろずよに かたりつげとし このたけに ひれふりけらし まつらさよひめ 
〈悲しみを〉末代まで 語り継げよとばかり この山で 領巾を振ったにちがいないのだ 松浦佐用姫は
折しも、青海原に向かう大船を女たちが見送っていた。
弟日姫子だけではない。古来多くの佐用姫が、ああして領巾を振って来たのだ。
佐用姫とは小夜姫、一夜妻にほかならなかったのだ。
このときわれは、遊女(うかれ-め)の児島らを相手に飲んでは
賢(さか)しらと 物言うよりは 酒飲みて 酔(えい)なきするし まさりあるらし
利口ぶって ものをいうよりは 酒を飲んで 酔って泣く方が よっぽどか勝〈まさ〉っているよ
と、詠っていた卿の心のうちに思い至って涙し、「最最(いといと)後の人の追和二首」を付けさせてもらった。
うなはらの おきゆくふねを かへれとか ひれふらしけむ まつらさよひめ
海原の 沖へ出て行く船に 引き返してくれとばかり 領巾をふったのだろうな 松浦佐欲姫は
ゆくふねを ふりとどみかね いかばかり こほしくありけむ まつらさよひめ
去っていく船を 〈領巾で〉振って止めることもできず どれほどか恋しいことであったろう 松浦佐欲姫は
と。三島の王は、栗毛の上で「後に松浦佐用嬪面の歌に追和する一首」を詠まれた。
おとにきき めにはいまだみず さよひめが ひれふりしとふ きみまつらやま
うわさには聞いているが 実際にはまだ見たことがない 佐容姫が 領巾を振ったという 君を待つ松浦山
われは空を見上げて、次の値嘉島はお断わりした。行けば知人もおり、うまい魚貝にもありつけるのだが、疲れてもいた。それで、別れに際して、風土記をお渡しした。値嘉島のことも記してあったからだ。
「値嘉の郷【郡西南の海中にあり、烽火は三か所ある】
むかし、同天皇(景行天皇。三〜四世紀)が巡行なされて志式(し-しき)島に行宮(かりみや)を置かれた。そのとき西海をご覧になられると、海の中に島があり多くが煙靄(えん-か。煙ともや)に覆われていた。従臣の阿曇(あ-ずみ)の連百足(ももたり)にいいつけてこれを調べさせたところ、八十余島あった。中の二つの島には人がいて、第一の島の名は小近(お-じか)といい、土蜘蛛(つち-ぐも。先住民)の大耳が住んでいた。第二は大近(おお-ちか)といい、土蜘蛛の垂れ耳が住んでいた。このほかの島には人は住んでいなかった。百足は大耳らを捕らえて天皇に申し上げた。天皇は彼らの罪を責めて殺そうとなされた。大耳らは頭を地に叩きつけて申し述べた。
「大耳らが服属しなかった罪は極刑に当たり、車裂きの刑にされても埋め合わせできるものではありません。もし、お情けで生きられるのでありますれば、進物をつくって差し上げ、常に食膳に供えさせていただきたく存じます」と。
そこで、大耳らは木の皮を取って、長鮑(なが-あわび)・鞭鮑(むち-あわび)・短鮑(みじか-あわび)・陰鮑(かげ-あわび)・羽割鮑(はわり-あわび)などの形を作り、御所に奉った。
天皇は恩情を施されて許し放した。
天皇はまた申された。
「この島は遠いというが、それでも近いように見える、近島というべきである」と。
これによって値嘉島というのである。
島には、びんろう・もくれん・くちなし・イタビカズラ・ツヅラフジ・なよ竹、しの竹・こうぞう・はす・やまごぼうがある。
白水郎(あま)は馬と牛を所有し、二つの島の周りには百余りの近島があり、あるいは八十余りの近島がある。西に船を泊める溜りが二か所あり【一か所の名は相子田の泊まりといい、二十余艇を泊めることができる。もう一か所の名は川原といい、十余船を泊めることができる】、遣唐使はこの泊まりより発って美祢良久(みねらく)の岬【川原浦の西の崎がこれである】に到り、ここから発船して西を指して渡るのである。この島の白水郎は容貌は隼人に似て、常に騎射を好み、その言語は世間とは異なる。」
しかし、民はみな実直で勤勉だった。
それだけに、官の都合で、多くは水手(かこ)としてだが、召し上げて海難で亡くすのは辛かった。
われが詠んだ「筑前の国の志賀の白水郎(あま)の歌十首」は、筑前にいた当時、荒雄(あらお)という志賀の白水郎の事故にかかわったものだ。
おおきみの つかわさなくに さかしらに 行きし荒雄ら おきに袖振る
大君〈太宰府〉が 命令したわけではないのに 自ら進んで行った荒雄らが沖に沈んで溺れているよ
荒雄らを 来るか来ぬかと 飯(いい)盛りて 門に出立ち 待てど来まさず
荒雄らが還って来るか来ないかと 陰膳(かげ-せん)据えて 表に出て待っているのに 一向に還って来てくださらない
志賀の山 痛くな伐(き)りそ 荒雄らが よすかの山と 見つつ偲ばむ
志賀の山を 〈姿が変わるほど〉ひどく伐らないでおくれ 荒雄らが 頼りの山として 眺めながら〈家族を〉偲んでいるのだから
荒雄らが いきにし日より 志賀のあまの 大浦田沼は さぶしくあるか
荒雄らが 行った日から 志賀の白水郎の住む 大浦田沼は 淋しくなったなあ
官(つかさ)こそ さても遣(や)らめ さかしらに 行きし荒雄ら 波に袖振る
〈大宰〉府が 殊更に指名して遣わしたのではない 自ら進んで 行った荒雄らが 波間に溺れているよ
荒雄らは 妻子(めこ)の産業(なり)をば おもわずろ 年の八歳(やとせ)を 待てどきませず
荒雄らは 妻子の暮らしなどは 考えていないのよ 何年経っても 還ってこないのだから
おきつ鳥 鴨といふ船の 還り来(こ)ば 也良(やら)の埼守(さきもり)早く告げこそ
沖つ鳥〈鴨にかかる枕〉 鴨という名前の官船が 還ってきましたら 也良〈博多湾能古島〉の防人よ 一時も早く知らせてくださいね
おきつ鳥 鴨といふ舟は 也良の埼(さき) たみてこぎくと きこえこぬかも
沖つ鳥 鴨という名前の官船が 也良の岬を 回って漕いで来たとは 聞かねえなあ
おきゆくや 赤ら小船に つとやらば けだし人見て 解きあけ見むかも
沖を行く 朱塗り〈官船〉の小船に わらで包んだ小包を送れば もしかして人〈荒雄〉が見て 中を開けて見てくれるだろうか
大舶(おおふね)に 小船引きそえ かづくとも 志賀の荒雄に 潜(かづ)きあわめや
大船に 小船を引き連らね 潜〈もぐ〉って捜して 志賀の荒雄に 〈果たして〉潜って会えるだろうか
右、神亀年間(七二四〜七二九)、大宰府は筑前の国宗像郡の百姓宗形部の津磨呂を選んで、対馬に送る糧船(かて-ぶね。食糧補給船)の舵師(かじ-し。操舵係)にしていた。
時に、津磨は滓屋(かす-や)郡志賀村の白水郎の荒雄のもとに行き、語っていった。
「僕はお願い事があるんだが、ひょっとして聞いてはもらえまいか」と。
荒雄は答えて申した。
「われは郡を異にしているが、長い間同じ船で働いて情愛は兄弟よりも濃い。あなたの死に殉じてもいいと思っているくらいだ。どうして断わろうか」と。
津磨はいった。
「府の役人は僕を選らんで対馬の糧船の舵師にしているが、体も歯も老い衰えて海路に耐えられそうにない。そこで、お伺いにあがったのだが、できれば替わってもらえまいか」と。
ここに、荒雄は承諾して津磨の仕事につき、肥前の国松浦県(まつら-がた)美祢良久の岬より船を発たせて真っ直ぐ対馬を目指し、海を渡った。
向かうとき、天が突然真っ暗になって暴風に雨が雑(ま)じり、遂に順風が吹くことなく海中に沈没した。
このことで、妻子らの、仔牛が親牛を慕うような心に耐えられず、この歌を詠んだ。
遺体でも揚がっていれば妻子もあきらめがついただろうが、そうでなかったから、どこかで生きていることを信じてやるしかなかったのだ。
まったく人の死というものはなあ。
熊凝(くま-ごり)の死も辛かった。
相撲(すまい)の部領使(ことり-づかい。引率者)として京に上がらせる途中だった。
随行した麻田の連陽春が彼を看取り、そのありさまを「大伴の君熊凝の歌二首」に詠んでいる。
国遠き 路の長手を おぼぼしく けふやすぎなむ ことどひもなく
国元を遠く離れ 長い道のりを 朦朧〈もうろう〉として 今日にも 死んでしまうのだろうか 〈親と〉ことばを交わすこともなく
朝露の きやすき我が身 ひと国に すぎかてぬかも おやのめをほり
朝露のように 消えやすいわが身だが 他国では 死ぬことはできない 親に会いたくて
可哀想で見ていられなかったと、陽春はいった。
そりゃそうさ、年端(としは)もゆかぬ若者が旅の空で死んで行くのだ。
われは上司でもあったので、陽春の歌に応じて熊凝を詠んだ。それが「筑前の国守山の上の憶良がつつしんで熊凝のために彼の思いを述べた歌に和する六首ならびに序」だ。
大伴の君の熊凝は、筑前の国益城(ましき)郡の人である。年は十八歳、天平三年(七三一)六月十七日、相撲の使い某国の司の官位姓名(どこそこのなにがし)の従者となり、京都に参上する。天のなせる不幸、路の途中病気になり、安芸(あき)の国佐伯郡高庭の駅家にて死ぬ。臨終のとき、長いため息をしていった。
「仮合(地水火風からなる)身は滅びやすく、泡沫の命は留まり難いと聞いています。多くの聖人はすでに去って、多くの賢人も留まっていません。まして、凡愚の卑しい者がどうして死から逃れることができましょう。ただ、わたしの老いた親は共に草ぶきの家に住んでいます。わたしの還りを待って日を過ごし、恨みに思うほど心を痛めているに違いありません。わたしの還りを待ち望んでいるのに約束の日に帰らなければ、きっと失明なされるほどの涙を流されます。哀しきかも、わが父。痛ましきかも、わが母。わたしの身が死んで行くのは少しも煩いません。ただ、両親が生きて苦しむのを思うと悲しいのです。今日長く別れてしまえば、いずれの世に会えることができましょうか」と。
そこで、歌六首を作って死ぬ。その歌はいう。
うちひさす 宮へのぼると たらちしや ははがてはなれ 常しらぬ 国のおくかを 百重(ももえ)山 越えてすぎゆき いつしかも 京師(みやこ)をみむと おもひつつ かたらひおれど おのがみし いたはしければ 玉矛(たまほこ)の 道のくまみに くさたおり しばとりしきて とこじもの うちこいふして おもひつつ なげきふせらく 国にあらば 父とりみまし 家にあらば 母とりみまし 世の中は かくのみならし いぬじもの 道にふしてや いのちすぎなむ
内日さす〈宮の枕〉宮中へ上がるために 垂乳(たらち)しや〈母の枕〉母の手元を離れ普段は通ることもない 国の奥地を 幾山も越えて行き いつになったら 都が見えるのだろうと 思いながら 〈みんなと〉語り合っていたけど 自分の病んだ体が 苦しいので 玉矛の〈道の枕〉道の隅に 草をちぎり 柴〈しば。小枝〉を取って敷き 寝床のようにして 横たわり 〈あれこれ〉思いながら 嘆き臥した 国にいれば 父が世話をしてくださるだろう 家にいれば 母が看病してくださるだろう 〈しかし〉世の中というものはこうして死んでゆくものなんだ 犬のように 道に伏して 命を終えてしまうのだろう
たらちしの ははが目みずて おぼぼしく いづちむきてか あがわかるらむ
垂乳しの〈枕〉母に会わずに もうろうとしたまま どっちを向いて わたしはお別れしたらよいのだろう
つねしらぬ 道の長手を くれくれと いかにかゆかむ かりてはなしに
普段は通ることもない 長い道のりを とぼとぼと どうやってついて行ったらいいのだろう 食糧もないのに
家にありて ははがとりみば なぐさむる こころはあらまし しなばしぬとも
家にいて 母が看病してくれれば 慰められ 心は安まるだろう たとえ死んでしまうにしても
出でゆきし 日をかぞえつつ けふけふと あをまたすらむ ちちははらはも
出て行った 日を数えながら 今日か今日かと わたしの帰りを待っておられるだろうな 父母らはなあ
一世(ひとよ)には にどとまみえぬ ちちははを おきてやながく わがわかれなむ
一生かぎりで 二度と会えない 父母を 残して わたしは別れてしまうのだろうか
われは作りながら、泣けて泣けてしかたがなかった。  
十一
熊凝から二か月が経って、大伴卿の凶聞が届いた。
亡くなられたのは七月二十五日、従二位(三十位中四位)に叙せられて七か月後のことであられたとのことだった。
享年六十八歳。
われはしばらく歌をやめた。
九月に入ると、三島の王がご病気で退職され、代わって大納言正三位(五位)藤原の武智麻呂の朝臣(不比等の第一子。南家の祖)が大宰帥を兼任された。兼任だから現地には来られない。
十一月、畿内に惣官(そう-かん。治安警護の官職)、諸道に鎮撫使(ちんぶ-し。治安および巡察の官職)が設置されて、新田部の親王が大惣官(長官)に、従三位(六位)藤原の宇合(うまかい。不比等の第三子。式家の祖)の朝臣が副惣官に任じられ、従三位多治比の県守の真人が山陽道に、従三位藤原の麻呂(不比等の第四子。京家の祖)の朝臣が山陰道に、正四位下(八位)大伴の道足の宿祢が南海道にそれぞれ着任され、われは解任されて平城に帰ることになった。
あのときも前回の伯耆と同じように遷任(転勤)でなかったから、官の駅馬が使えず、道中金品が嵩(かさ)み苦労した。それでも、われのように位田・位禄(いずれも五位以上に支給される田畝と絹・綿・布などの俸禄)のあるものはまだよい。もっと苦労するのはこれらを賜われない六位以下の国司たちだった。貸し馬を借りようにも山田の御方ではないが、家に六尺一本あるわけでない。
そこで帰郷するとすぐ、太政官に上告しておいたら、ようやく今年(天平五年)の二月、四位の守(かみ)に六匹、五位の守に五匹、介・掾(じょう)に各三匹、目(さかん)・史生(し-しょう。書記)に各二匹の駅馬が支給される勅命が下りたということだ。
しかし、もはやわれがこれらの馬を使うことはあるまい。
外は梅が散って桜が咲いたというのに、去年の日照りで、大和・山背・摂津・河内・和泉・吉野・讃岐・淡路のほか、遠江(とおとおみ)と阿波の国が新たに飢饉を訴え出たそうだ。
一昨日、従四位上(九位)多治比の広成の真人がわざわざこの老いぼれを訪ねて来られ、遣唐大使を拝命されたことを告げられた。
思えば、われが唐国へ行って来てから三十年になるのだ。あのときは、三船のうち二船しか帰って来れなかった。
われは名誉を称え、四船全員の無事ご帰還を願った。
ましてこの度は、先の留学生仲麻呂・真備・玄ボウらの迎えに加え、唐国の名立たる伝戒師(戒律師)をお連れなされるとのことだ。
われは乞われるまま、歌を約束した。
今のわれに勤まるのは歌だけだ。
「好去好來(こうこ-こうらい。好〈さき〉く去〈ゆ〉きて好く来ませ。無事に行って無事に帰って来てください)の歌 反歌二首」
神代より いいつてくらく そらみつ 倭の国は皇神(すめ-かみ)の いつくしき国 言霊(こと-だま)の さきはふ国と かたり継ぎ いひつがひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さわに 満ちてはあれども 高光る 日のおおみかど 神(かむ)ながら めでのさかりに 天の下 奏したまひし 家の子と 撰びたまひて 勅旨(おおみこと) 戴きもちて 唐(もろこし)の 遠き境につかはされ まかりいませ うなはらの へにもおきにも 神づまり うしはきいます もろもろの 大御神たち 船(ふな)の舳(へ)に 道引きもうし 天地(あめ-つち)の大御神たち 倭の 大国霊(おお-みたま) 久かたの あまのみさらゆ あまかけり 見渡したまひ 事了(ことおわり) 還らむ日には また更に 大御神たち 船の舳(へ)に 御手打ちかけて 墨縄を はへたるごとく あちかをし ちかの岬(さき)より 大伴の 御津の浜びに ただはてに 美(み)船は泊(はて)む つつみなく さきくいまして はや帰りませ
神代より 言い伝えてきていることは そらみつ〈倭の枕〉 倭の国は天地皇祖神のおられる 厳かな国で 言霊〈神霊の宿った言葉〉が 幸せをもたらす 国であると 語り継がれ 言い継がれて来ている 今の世の 人もみんな 実際に 見たり聞いたりして知っている通りである〈世の中に〉人は大勢 満ちてはいるが 高光る〈日の枕〉 日の皇子の天皇が神として 殊更ご寵愛され 天下の政事を執られておられた 家の子〈文武天皇の左大臣島の第五子〉であるからと 〈大使に〉お選びになられたので 天皇のお言葉を 捧げもって 唐国の 遠い土地に遣わされ 辞去して船立ちいたせば 海原の岸にも沖にも 神が連なって 統治しています 大勢の 大御神たちが 船の舳先をお導きくだされ 天地の大御神たち 〈とりわけ〉大和の大国霊は 久方の〈天の枕〉 天の美空を 翔けめぐって 見守ってくだされています 〈お使い〉事が終わって 還る日には 更にまた 大御神たちが 船の舳先に 御手を置かれて 墨糸で 線を引いたように あちかおし〈値嘉の枕〉 値嘉島の岬より 大伴の 御津〈難波〉の浜辺まで まっすぐに迫ってきて み船は停泊するでしょう 〈どうか〉ご病気をなされないように 無事に行かれて 早く帰って来てください
反歌
大伴の 御津の松原 かきはきて われ立ち待たむ はや帰りきませ
大伴の 御津の松原を きれいに掃除して われは立って待っています 早く帰ってきてください
難波津に み船泊(はて)ぬと きこへこば 紐(ひも)解きさけて たちはしりせむ
難波津に み船がお着きになられたと 聞こえてきましたら 〈走りやすいように衣の〉紐を解き放して 急いで走って〈お迎えに〉いきます
天平五年(七三三)三月一日 良の宅にて対面する。献ったのは三日。
山の上の憶良謹んで上る
大唐大使の記室へ
良は父がつけ名である。憶良は賜わった名である
「好去好來」を贈って三月、船は四月三日に難波を離れたそうだが、われは「紐解きさけて」の騒ぎではなかった。
歩くことさえできなくなっていた。
皇后(光明)もいまだによくおなりになられないらしい。
まったく病というものはなあ。
先日、多祢(種子)島の熊毛郡の大領(郡長官)安志託(あした)ら十一人に多祢の後(しり)の国造(くに-の-みやつこ)、益救(やく。屋久)郡の大領加理伽(かりが)ら百三十六人に多祢の直、また能満(の-ま)郡の少領粟麻呂ら九百六十九人を直にして居住地の氏姓を賜わられたとのことだが、遣唐船の漂着を配慮されてか、それとも国が開けてきているのか。
倭の馬飼部の造の連と上(かみつかた)の村主(すぐり)光欠らが多祢の地図を天武天皇に奉って五十有余年。東では、武蔵の国埼玉郡の新羅人徳師ら男女五十三人が申し出ていた金の姓が許されたということだ。
やはり国は開けてきているのだろう。
隠然とした勢力を持つ漢・秦・史らの氏。
今、聞こえてくるのは、新興の藤原氏の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟だ。わずか二代(鎌足・不比等)で朝廷の中枢を握り、妹御許(いも-おもと)の光明子を皇后になされておられるのだから、約束されたご一族ではある。
われはどうか。ひとまず父は超えた。子らに蔭位(おんい。父祖のおかげの位。従五位なら、その嫡子は二十一歳になると従八位上を授かる)を残すこともできた。
しかし、われの命が明日にでも絶えれば、路頭に迷わせかねない。
ああ悲しきかも、憂きことかも。
願わくは、子らの冠礼(かん-れい。男子二十歳の成人式。古代中国で冠をつけた)を見届けたいのだが、こう日増しに病魔が力をつけてきているようではな。
霊(たま)きはる うちのかぎりは
また、歌になってしまった。
文箱から旧作を選んで加え、
「老いた身に病を重ねて年を経ることの辛苦および子らを思う歌七首 長一首 短六首」とした。
霊きはる うちのかぎりは【胆浮(せんぷ)州の人の寿命は百二十年であるという】 平らけく 安くもあらむを 事もなく もなくもあらむを 世間(よのなか)の うけくつらけく いとのきて 痛き傷には から塩を そそぐちふがごとく ますますも 重き馬荷に うわ荷打つと いふことのごと 老いにてある わが身の上に 病をと 加えてあれば 昼はも 嘆かひくらし 夜はも 息づきあかし 年長く やみし渡れば 月かさね うれひさまよひ ことことは しななと思へど 五月蝿(さばへ)なす さわく子どもを うつてては 死にはしらず 見つつあれば 心はもへぬ かにかくに 思ひわずらひ ねのみしなかゆ
霊きはる〈命の枕〉 この世に命がある限り【インド人の寿命は百二十年というが】 平穏で 安泰でありたく 何事もなく 凶事もなくありたいのに 世の中の 苦しく辛いことといったら はなはなだしく 痛い傷に 辛塩を 注ぐというように 加えて 馬の背の重い荷物の上に 更に荷物を乗せるといった諺のように 老いてしまった われの身の上に 病を 加えるのだから 昼は昼ではぁもう 嘆き悲しみ 夜は夜ではぁもう ため息をついて明かし 一年近く 病んでいるので 月を重ねるにつれて 嘆き迷い ことことは同じことだから、同じことなら 死んでしまおうと思うのだが さばへなす〈騒ぐの枕〉五月の蝿のようにうるさく 騒ぐ子どもたちを 置き去りにしては 死ぬこともできず 〈こうした有り様を〉見ていると 〈何もできない自分に〉気持ちばかりが先走って あれこれと 思い煩い 〈最後には〉泣いてしまうのよ
反歌
なぐさむる 心はなしに 雲隠り 鳴きゆく鳥の ねのみしなかゆ
憂さを晴らす 心の余裕もなく 雲に隠れて 鳴いて行く鳥のように 声をあげて泣いてしまうのよ
すべもなく 苦しくあれば 出ではしり いななとおもへど 子らにさやりぬ
なすすべもなく ただ苦しいばかりなので 外に走り出て いなくなってしまいたいと思うけど 子どもらが妨げになる
富む人の 家の子どもの きる身なみ くたしすつらむ 絹綿らはも
裕福な人は 家の子どもに 着る者がいないといって 腐らして捨てているよ 絹や綿の衣服までもなあ
あらたへの 布きぬをだに きせがてに かくや嘆かむ せむすべをなみ
〈子どもらに〉あらたへの〈布の衣の枕〉 布の衣服さえ 着せてやれないでこのように嘆いているのよ どうすることもできなくて
みなわなす もろきいのちも たくなわの 千尋(ちひろ)にもがと ねがいくらしつ
水の泡のように はかない命だが 〈子どもたちの行く末を思うと〉 たく縄〈コウゾウの繊維で綯《な》った縄。長いものにかかる枕〉 千尋〈せん-じょう〉もの長い長い命であればと 願って暮らしているのよ
倭文手纏〈しつたまき〉 数にもあらぬ 身にはあれど 千年〈ちとせ〉にもがと おもほゆるかも【去る神亀二年(七二五)にこれを作った。ただ類をもってのゆえ、更にここに載せる】
倭文手纏〈倭織りで作った腕輪。粗末なものにかかる枕〉 数にも入らない粗末な 身分の低いわれではあるが 千年もの命であればと 思うなあ
天平五年(七三三)六月三日に作る
思うに、「倭文手纏」は入れるべきではなかったのかも知れない。類をもってと注をつけたが、あの頃は幸せであったから「おもほゆるかも」という気持ちになったのだ。
しかし、今は違う。今は子どもらのために長く生きなければならないと願っているのだのだ。
夏が過ぎ、秋が過ぎた。
寒い。
家婢が便器を取り替えに来て、九月に遠江の君子部(きみこべ)の真塩女(ましおめ)という婦女が三つ子を産んだと話して行った。
われは怒鳴ってやった。
それがどうしたというんだ。三月も前の話しをしやがって。三つ子であろうと四つ子であろうと、勝手に産むがいい、鼠みたいにな。
外は雪になっていた。
風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は、か。
糟湯酒を作って飲む気力もない。
ただ、天井を見る。
暮れも押し詰まって、藤原の朝臣八束(やつか。房前の第三子)と河辺の朝臣東人(あずまひと)と名乗る二人の若者が見舞いに遣わされて来た。
枕の向きを変えてもらい、詔(みことのり)を賜わった。
「山の上の臣よ、朕(われ)は汝が帰京して以来、長く病痾(びょう-あ)に苦しんでおると聞いた。心が痛む。朕(ちん。われ)の耳の底には、汝の記紀歌謡の響きや、唐国の珍しい話がいまだに残っておる。致仕(ち-し。七十定年)を過ぎてなお官にとどまり仕えてくれたことも感謝する。老いての病というものは、さぞ心身に堪(こた)えるであろう。ここに肘掛けと銭五十貫(一貫千文)を贈って汝を労い、後進の励みとしたい。書面では気持ちの伝達は不充分であるが、二人の使者によって補充されたい」
われは礼を述べ、己を恥じた。公(おおやけ)を顧みることなく、私にかまけていたことを。
二人は申した。
吉田の宜(よろし)の連が、今月(十二月)二十七日付けで図書頭(ずしょ-の-かみ)になられたと。
吉宜が図書の頭か。そうであろう、そうであろう。男ならそうあらねばならない。
われは涙を拭(ぬぐ)った。
誠に申しわけない。何一つお役に立てなくて。
ふと、歌が口をついて出た。
士(おのこ)やも 空しかるるべし 万代(よろず-よ)に 語り継ぐべき 名は立てずして
男であるのに 空しいではないか 末永く 語り継がれる 名を立てないで
天井の煤(すす)が笑っていた。今更だもんな。
かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道  
 
法均口述抄

 

和気広虫 / 法均尼
[わけのひろむし 天平2年-延暦18年(730-799)] 奈良時代の女官。和気清麻呂の姉。藤野別広虫女とも称される。
従五位下葛木連戸主の妻となるが、その後死別。孝謙上皇に仕えるが、762年(天平宝字6年)上皇に従って出家し"法均(ほうきん)"と号した。765年(天平神護元年)に吉備藤野和気真人の姓を賜り、768年(神護景雲2年)大尼に任じられた。翌年宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、この時は病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させている。その神託の結果が道鏡の意に反していたことから還俗させられ、弟の清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国へ、広虫は別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させられて備後国へ、それぞれ配流に処せられた。770年(宝亀元年)に帰洛を許され、従五位下に叙せられた。774年(宝亀5年)清麻呂とともに朝臣の姓を賜り、以後昇任して785年(延暦4年)には従四位上に叙せられている。没後正三位が贈られている。
和気広虫は、孤児の養育に励んだことが伝えられている。 
(未整理)
世間(よ-の-なか)を 常なきものと 今ぞ知る 平城(なら)の京師(みやこ)の 移ろうみれば(万葉巻ノ6-1045)大伴家持
法華寺は、道鏡事件に坐して以来二十九年ぶりでございました。
ようやく涙も乾いてあちらこちらと歩かせていただいているのでございますが、青丹(あお-に)よしと謳(うた)われた平城(なら。奈良)の都は一部を残してすっかり荒れ果てていました。
朱雀(すざく)門も二条大路の宝珠(ほうじゅ)大橋も、延暦(えんりゃく)三年(784)の遷都で長岡に移され、朱雀大路の柳並木や唐国から鑑真大和上(がんじん-だい-わじょう)をお連れなされた普照(ふしょう)師が『果樹を植えれば夏は木陰、実れば食用(前漢・韓嬰〈かん-えい〉の語)』とご進言なされて植えられた桃李柑橘(とう-り-かん-きつ)も消え失せ、東西南北を画しておりました青朱赤白(せいしゅ-せきびゃく)の築地(ついじ。土塀)も落剥崩壊(らくはく-ほうかい)、瓦礫(が-れき)は路溝(ろ-こう。側溝)を埋めて、左京は大安寺、右京は稲穂が波打つ垂仁(すいにん)天皇陵の麓から唐招提寺(とうしょうだい-じ)の南、薬師寺までが見渡せ、日が昇り、どこからともなく死臭がただよってきて、草むらにハエがたかっていたり、カラスが群がっていたり、骸骨が散らばっていたりしますと、思わず手を合わせ、阿弥陀経を唱えているのでございます。
由緒のあられた屋宇邸宅(おくう-ていたく。家・屋敷)も田野と化して、何を生業(なりわい。職業)にされておられるのか、すすきの茂みに破屋陋屋(はや-ろうおく。あばらや)が寄り合い、船荷を降ろしておられる薬師寺の裏手、秋篠川の東岸からわたくしども吉備(きび。備前・備中・備後・美作〈みまさか〉。岡山および広島東部)の者らが住んでおりました池辺(いけ-の-べ)のあたりにかけてちらほら見えます牛は、国元が、吉備真備朝臣(きび-の-まきび-の-あそみ〈尊称の場合、八姓は後に付ける〉)のご生誕を祝われ、当時、藤原京(694〜710)の衛士(えじ)であられたご尊父右衛士少尉(うえじ-の-しょうじょう。三等官輔)下道圀勝(しもつみち-の-くにかつ-の)朝臣の妻、真備朝臣(まきび-の-あそみ)の母方であられる大和の八木氏に贈られた赤牛の番(つがい。♂♀一組)が、祖(おや)だということでございました。
吉備では牧牛が盛んで、唐の粛宗帝(しゅくそう-てい。玄宗の皇子。在位756〜764)が叛徒(はん-と)安禄山(あん-ろくさん。ソグド人〈ウズベキスタン地方の人〉。唐朝に仕えて玄宗の室・楊貴妃に引き立てられ、官吏の不正を正す御史台の長官と范陽〈はんよう。河北省〉の節度使〈せつどし。軍行政長官〉を兼任していた。のち、息子の安卿緒〈けいしょ〉に殺された)の鎮圧で武器を消耗なされてわが国に弓材の牛角をお求めになられた折り、諸国から集められた七千八百隻(せき。本)の数にも加えられ、時の太政大臣(だいじょう-だいじん)藤原仲麻呂朝臣(ふじわら-の-なかまろ-の-あさみ)のご面目をお保ちさせていただいたものでございます。
そのころの仲麻呂朝臣は天にも届くお勢いで、字(あざな。実名以外の名)は尚舅(しょう-きゅう)・藤原恵美(えみ-の)朝臣押勝(おしかつ)を賜(たまわ)られ、位階も確か正一位(大宝令制三十位中一位)であられたのではないでしょうか。
わたくし法均こと和気(わけ-の)朝臣広虫は、天平13年(741)13歳のとき、父乎(お)麻呂の勧めで吉備由利(ゆり-の)朝臣の采女司(うねめ-の-つかさ。女官を統括した役所)に上がり、聖武天皇(しょうむ-てんのう。701〜756。在位724〜749)のお后(きさき)であられた光明皇后(こうみょう-こうごう。701〜760)に召され平城宮の東に隣接されておられた皇后宮(こうごう-ぐう)、今の法華寺に参るのでございます。
もとは、皇后のご尊父藤原不比等(ふひと-の)朝臣(あそみ)のご邸宅であられたとのことでございますが、北東(うし-とら)の隅に小さなお堂をお抱えになられておられたことから隅寺とも呼ばれ、藤原氏の氏寺であられる山階寺(やましな-でら。鎌足の旧邸のち興福寺)の施薬院(せやく-いん。聖徳太子の悲田院にならって光明皇后が天平2年〈720〉に建て、病人や孤児、貧者の療養救済所とした)をお移しになられて、皇后宮というよりも明るい地獄のようなところでございました。
髪の抜け落ちた人、耳のただれた人、目のつぶれた人、鼻の欠けた人、瘡(かさ)の人、飢餓、行路病者、孤児、捨て子、それらの泣き叫ぶ声、うめき声、泣き、笑い・・。
御座(おまし。座敷。部屋)におられて琵琶(びわ)を弾かれるか、くご(ハープの一種)を奏でられるか、あるいはお好きな王羲之(おう-ぎし。303〜379。晋の書家)の書(しょ)でもご臨書(りん-しょ。書写)なされておられればよろしいのに、医師や薬師たちとまるで御身(おん-み)を鞭(むち)打たれるかのようにご奉仕なされておられた皇后。
わたくしはもっぱら帝姫(てい-き)阿倍内親王(あへ-ないしんのう。のち孝謙天皇。718〜770)の走り使いでございましたが、女官たちの話を聞くにつけ胸の痛む思いをしたものでございます。
四人のご夫人がおられた聖武天皇はほとんど出(い)でましになられず、ご尊父ご母堂ばかりか皇子(みこ)の基(もとい-の)王に次いで、藤原四兄弟ともてはやされておられた武智(むち)麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の兄たちまでも亡くされ、皇后ご自身もご大病をお患いになられたばかりでございましたので、み仏へのお傾きは並々ならぬものがおありであられたのでございましょう。 ご帰朝なされた入唐僧玄ボウ(げんぼう。俗名阿刀。智周大師に法相を学んだ)から、唐の高宗(在位655〜6830)の皇妃(こう-ひ)であられた則天武后(そくてんぶこう。在位690〜705)のお話を聞かれて国別に国分寺の建立を思い立たれましたのは、わたくしがお仕えする前の年、天平12年(740)の七月であられたとのことでございます。
自ら一切経(いっさい-きょう。釈迦の教えを説いた経・律・論ほか注釈書のすべて)をお写しになられ、諸国の国府(地方に置いた行政府。国の役所)に法華経10部の書写と七重の塔の建立をお勧めになられる詔(みことのり。天皇の命令)をご依頼なされるのでございますが、その年九月に、甥(おい)の大宰少弐(だいさい-しょうに。次官補)藤原広継(ひろつぐ-の)朝臣(あそみ。宇合〈うまかい〉の第一子)が筑紫で一万にあまる兵をお挙げになられ、隼人(はやと。鹿児島大隅地方にいた種族)を率いて板櫃(いたびつ。北九州小倉区到津〈いとうづ〉)まで攻めのぼって来られたということでございましたので、動揺なされた民心をお鎮めになられるため、更に観世音経(かんぜおん-ぎょう)の書写と観世音菩薩像一躯(く)をご追造なさられるのでございます。
まったく何をお考えになられてのご反乱かとお尋ねいたしますと、ご自分が大宰府へ追いやられたのは玄ボウと真備が重用されているからで、この悪臣二人を取り除かなければ天地の災害異変は続き国は栄えないと奏上(そうじょう)しているにもかかわらず、お取り上げになられないから自分が代わって征伐せんがためであるとのことでございました。
ご幼少のころから凶悪なご性格で、貴族の中の貴族をお鼻にかけられ、美男子でもございませんのに聖武天皇がご感銘なされた河内の智識寺のビルシャナ仏を気取られて、采女(うねめ。女官)に花を贈るのに、
この花の 一与(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の 言ぞこもれる おほろかにすな(万葉巻ノ8-1456)
(この花の 一弁の中には 思いを託した多くの 言葉がこめられているから おろそか〈粗末〉にするでないぞ)
などとお詠みになられ、通りすがりにお触りになられるものでございますから、采女たちはご遷任(せんにん。転勤)にほっとしておられたのでございます。
それがご反乱。
いくらご名門とは申せ、ご横暴きわまる浅はかな挙兵でございました。
すぐにも、長く蝦夷(えみし。先住民)とかかわり、数年前、陸奥(みちのく。福島・宮城・岩手・青森)と出羽(でわ。山形・秋田)の国を結ぶ奥羽(おうう)道百六十里(約73キロ)を開通なされた名将大野東人(あずまひと-の)朝臣が節刀(せっとう。勅命の太刀〈たち〉を帯びた)大将軍に任命されて征討に向かい、肥前の松浦(まつら)でお斬りになられるのでございますが、追いつめられた広継朝臣は思うように風を受けて走らない船をお恨みになられて「われは大忠臣、神によってお助けを」と祈られ、駅鈴(えきれい。官命で諸国を通行する使者が駅馬などを徴発するために授かる鈴)を海に投げ入たとのことでございます。
こうして討伐戦は五十日ほどでおわり、その間、宮中では金光明最勝王経の四天王護国品(ぼん)を唱えて反乱鎮圧のご祈願をなされておられたとのことでございます。ところが、聖武天皇は何を思われてか、
十月二十三日、
御前長官に塩焼王(しおやき-の-おおきみ。天武天皇の孫)、御後(ご-ご)長官に石川王、御前騎兵大将軍に正五位下(三十位中十二位)藤原仲麻呂朝臣、後騎兵大将軍に紀(き-の)麻呂朝臣を任じられて、東西史部(かわち-の-ふひと-べ)から秦(はた-の)忌寸(いみき。姓)を中心とする騎兵四百騎を徴発なされ、仲麻呂朝臣の兄御の豊成朝臣を留守の司(つかさ。宮中の留守番役)に、道祖(ふなど)王、安宿(あすかべ)・黄文・山背(やましろ-の-)王(ともに長屋王の王子)ほか、従二位(四位)橘(たちばな-の)諸兄(もろえ)・奈良麻呂宿祢(すくね。姓)父子、従五位上(三十位中十三位)下道(しもつみち-の)真備朝臣、正六位上(十五位)藤原清河(きよか-の)朝臣の諸臣を従えられて伊勢・近江へ発たれたとのことで、以後しばらく都が定まらなくなるのでございます。
天平十三年(741)、わたくしが由利朝臣(ゆり-の-あそみ)の司(つかさ。役所)に上がらせていただいた年でございます。
正月元旦、聖武天皇は宮垣が整っておられない恭仁(くに-の)宮(山城相楽郡)の周りに垣代(かいしろ。幕)をめぐらされて朝賀(元旦の祝辞)をお受けになられたそうで、
十五日、
藤原家が広嗣朝臣(ひろつぐ-の-あそみ)の謀反の罪を贖(あがな)われて返上なされておられたご先祖の永代封戸(ふこ。勲功によって与えられ、子孫が引き続き授かる俸禄)五千戸のうち三千戸を各国分寺の造仏の費用にあてがわれて、「牛馬は人に代わって勤労し、人をも養う」とのご理由で、屠殺および勝手に人民を駆り出されてなされる国郡司の猟を再度お禁じになられ、国分寺を『金光明四天王護国之寺』、国分尼寺を『法華滅罪之寺』と名付けられて国司の監督下に置かれ、
閏(うるう。余分の月。二度目の)三月、
広嗣朝臣(ひろつぐ-の-あそみ)のご反乱鎮圧をご祈願なされた宇佐八幡宮(大分県宇佐)に秘錦(ひきん。宮中秘蔵の錦)の冠(かんむり)一頭と金字の最勝王経および法華経各一部、出家得度者十人、馬五匹、三重の塔一区をご奉納なされて、
七月、
真備朝臣を阿倍内親王の東宮学士(教育係)にされ、『漢書』『礼記』『帝範』のほか善言集のご講義もされるようご要望なされますと、
九月
平城京の東西二つの市を恭仁(くに)京に移され、庶民に宅地をお分け与えになられておられました。  
明けて十四年(742)正月、
広嗣朝臣のご反乱で麻痺(ま-ひ)されておられた大宰府を廃されて官物その他の管理を筑前の国司に委託なされて、
十六日
節会(せつえ。節季の集まり)には五節の田舞い(五人の舞姫が舞う豊作祈願の女樂)に踏歌(とうか。地を踏みならして歌い踊る群舞。アラレハシリ)をお加えになられ、
新しき年の始めに かくしこそ 供奉(つかえまつ)らめ 万代(よろずよ)までに
(新しい年のはじめには、このようにして神にお仕え申し上げましょう 末永くいつの世までも)
と、六位(十六位)以下の琴歌で祝われて、
八月、
宮垣を築かれた造宮録(さかん。四等官)正八位下(二十四位)秦下島(はた-の-しもしま)麻呂に従四位下(十位)の冠位と太秦公(うずまさ-の-きみ)の氏姓のほか銭百貫(千文が一貫)などを賜られ、
十月、
広嗣朝臣に連座なされて伊豆に流されておられた弟御(おとうと-ご)の良継(よしつぐ-の)朝臣が、五人の女孺(じょじゅ。童女または下級の女官)と通じられた塩焼王と入れ替わられるように京へお戻りになられて、  
天平十五年(743)五月五日、
端午の節会は見事なものでございました。
二十六歳になられた帝姫阿倍内親王が元正太上天皇、聖武天皇、光明皇后、諸王・臣、百官に五節の田舞いをご披露なされ、
右大臣橘諸兄朝臣が
「口に出すのも恐れ多い、飛鳥浄御原(きよみがはら)の天皇(天武天皇)が上下の和をお考えになられて礼楽(礼儀と音楽)二つをあわせれば末永く安泰であろうと、神として願われ、おはじめになられた舞を、日嗣皇太子(ひつぎ-の-みこ)の阿倍内親王に学ばせ、受け継ぎ、きょうここにご覧いただけることに相成りました」
と、聖武天皇の詔(みことのり。おことば)をのりたまわれますと、
太上(元正)天皇が、
そらみつ やまとのくには かみからし たふたくあるらし このまひみれば
(そらみつ〈大和の枕〉 大和の国は もともと神の国であられるのに なおそれ以上に尊く思われることよ この舞いを見れば)
に次いで
あまつかみ みまのみことの とりもちて このとよみきを いまたてまつる
(天つ神の 子孫であられる天皇が 皇祖から皇孫へと仲立ちされて 祝われる このお神酒を いま捧げ供えます)
と、
やすみしし わがおおきみは たひらけく ながくいまして とよみきまつる
(ご安泰な わが大君が 平穏で 末永くあられることをお祈りして お神酒をお供えします)
を詠まれたのでございます。
このあと、吉備(下道)真備朝臣ほか東宮の官人および諸王・臣百官が位階をたまわられて、
二十七日、
墾田永代私財法(こんでん-えいだい-しざい-ほう。養老七年〈722〉の格〈きゃく。臨時の法令〉できめた三代一身の法〈新規に開いた地溝・開墾地は三代、既設の地溝を利用しての開墾地は一代かぎりとする土地私有の法〉の、一身〈一代〉の期限がきていることで、開墾の意欲を削(そ)ぐおそれがあることから、永久に収公しないことを条件に位階によって所有できる面積をきめた法)を詔(みことのり)され、
二十八日、
備前からの早馬でございました。
「邑久(おおく)郡新羅の邑久浦(おくら)に大魚五十二匹が漂着しました。長さは二丈七尺(約7メートル)以下一丈二尺以上、皮は紙のように薄く、目は米粒に似て、声は鹿のようです。古老は未だかって見たことも聞いたこともないと申しております」と。
わたくしは、めでたいしるしであればよろしいのにと思っていたのでございますが、
六月、
宇治川の水が涸れ、
七月、
日食でお日様がお隠れになられて、出雲では山が崩れて家や田畑が埋まり、
八月
上総(かずさ。千葉中部)の海浜に、一万余株の雑木が漂着するなどの報告が相次いだのでございます。
聖武天皇はご決意なされたようでございました。
十月、
甲賀郡に紫香楽(しがらき)の宮のご造営をはじめておられたこともあられて、郡の調(ちょう。産物)・庸(よう。年十日間の労役)を畿内(きない。山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国)に倣って軽減され、あわせて当年の田租をも免除なされますと、大仏建立の詔(みことのり)を発せられたのでございます。
「率土の浜(そっと-の-ひん。地の果て)すでに仁恕(じん-じょ。あわれみとおもいやり)うるおうといえども、普天の下(ふてん-の-もと。天の果て)未だ法恩(ほうおん。仏のめぐみ)にうるおわず。誠(まこと)は三宝(みほとけ。さんぽう。仏・法・僧。)の威霊(いれい。威力と霊験)に頼って、乾坤(けんこん。天地)相泰(あいゆたか)に万代の福業(仏に帰依したものの勤め・義務)を修め、動(物)・植(物)ことごとく栄えることを欲す。
ここに天平十五年(743)歳次癸未(やどれるほし-みずのと-ひつじ)十月十五日を以ってボサツの大願を発(おこ)し、ビルシャナ仏金銅像一躯を造り奉る。国銅(国中の銅)を尽くして象(かた。鋳型)に溶かし、大山を削って堂を構え、広く法界(万物が起生消滅している世界。全宇宙)に及ぼして、朕(ちん。われ)の智識(仏教で寄進。奉仕)となし、ついには同じく利益(りやく。仏のめぐみ)を蒙(こうむ)って共に菩提(ぼだい。さとりの世界)に至ることである。
それ天下の富を有するは朕なり、天下の勢(ちから)を有するも朕なり。この富と勢をもってこの尊像(大仏)を造る。事は成り易く、心は至り難し。ただし、おそらく徒(いたずら)に人を労する(働かせる)ことがあっては、よく聖なるものを感じることなく、あるいは誹謗(ひぼう。非難・中傷)を生じて、かえって罪に落ちるであろう。これゆえ、智識にかかわる者は手厚く心をこめ、真心を持ち、おのおのが福を招き留めて、よろしくビルシャナ仏を三拝し、自ら思いをすすめておのおのがビルシャナ仏を造るべきである。もし更に、一枝(ひとえ)の草、一握りの土を持ってでも大仏を造ろうと乞い願う人がおれば、ほしいままにこれを許せ。国郡の役人はこのことに託(かこつ)けて人民を侵し乱し、強制して取り立ててはならない。遠近に布告して朕の思いを知らせよ」と。
甲賀郡甲賀寺(大仏造営当初の寺)の寺地を開くに当たって一番乗りされたのは、大勢の弟子や庶民を率いられての行基(ぎょうき)法師でございました。
行基法師は天智天皇七年(668)に河内の国大鳥郡王爾(わに)氏の子孫高志(こうし)氏に生まれ、道昭(どうしょう)師(俗姓船の連〈むらじ〉。恵尺〈えさか〉の息子。白雉〈はくち〉四年〈653〉入唐、玄奘三蔵(げんじょう-さんぞう)に禅を学んで帰国。飛鳥寺〈元興寺〉に禅院を構えて禅を広め、宇治橋をかけるなどして文武天皇四年〈700〉七十二歳で没した)に禅を、義淵師(ぎえん-し。俗姓市往〈いちき〉氏。のち岡の連〈むらじ〉。内道場〈宮中の仏堂〉に仕え、神亀五年(728)に没した)に法相(ほっそう。森羅万象を心の働きによって仮に現れたものとしてとらえ、その因果を相〈あき〉らかにしようとする修業法)を学ばれて、ひところは「小僧行基」と侮られ迫害を受けておられたとのことでございますが、光明皇后が仏のご慈悲をお説きなされて導かれておられる法師にご理解をお示しなされてからは、そのようなことはなくなられたとのことでございます。
それにしましても宮処(みやこ。都)をどこになされますのか、平城宮の大極殿(だいごく-でん。天皇の執務のほか即位・賀正などに使われた。正殿)を恭仁(くに-の)宮に移されて四年になられますのに、多額の費用をおつぎ込みになられただけですぐに紫香楽(しがらき-の)宮をお造りになられ、  
十六年(744)閏(うるう)正月、
海浜の難波宮に行幸なされて、途中、県犬養(あがたいぬかい-の)広刀自(ひろとじ-の)宿祢(すくね。姓)を母御とされる皇子の安積(あさか-の)王が薨(みまか)れますと、更にお迷いになられて、都はどこがよろしいかを市人(いちびと。市場の出店者)にまで問われ、臣下ともども恭仁宮を推されましたのに、高御座(たかみくら。天皇の座席。朝賀・即位式などに用いられる)と大楯と兵器を水路で難波に運ばれて難波を皇都となされたのでございます。
その間、和泉(いずみ-の)宮に行幸なされて、雑戸(ざっこ。技能者)を良民(公民)とされ、安曇江(あずみ-え)では百済楽を奏で舞わられた百済王(おらけ。おう)の女天・慈敬・孝忠・全福の冠位をお上げになられ、
三月、
大和金光明寺(のち東大寺)の大般若経六百巻を紫香楽宮の安殿(あんでん。天皇の寝室)にご搬入なされて二百人のご僧侶に転読(てんどく。飛ばし読み)を願い、難波宮の楼殿(たかどの。二階建て以上の建物)では三百人でございましたが、それでも甲賀・紫香楽では山火事が絶えず起こり、肥前(佐賀・長崎)の八代・天草・葦北の三郡では官舎と民家四百七十戸、田二百九十余町、千五百余人が雷雨と地震で被水して溺れ死に、二百八十余か所の山が崩れて圧死者四十余人を出され、六月は氷雨が降る始末でございました。
そうした中、四畿内の国々が使う正税四万束(一束〈そく〉五把〈わ〉。籾〈もみ〉にして約一キロ)を割いて僧寺と尼寺にそれぞれ二万束を施され、毎年それを出挙(すいこ。農民に貸しつけてその利息をとる制度)として寺の造営に用いるようにされたり、巡察使(じゅんさつし。諸国を巡回して政治風俗を指導する役人)に訓令三十二条を配られて、私腹を肥やし公民を疲弊させておられる国郡司をきびしく取り締まるようにされたり、僧綱印(そうごう-いん。僧尼の元締めが押す印鑑)を思いのままに使われて無法な寺院経営をされておられる僧綱職を大臣の下に置くようにされたりなされて、
十月、
『愚志(ぐし)』一巻の著者で飛鳥の百済寺(大安寺)を平城に移された入唐(701〜718)律師道慈(どうじ)師の遷化(せんげ。死去)を悼まれ、
十一月十三日、
甲賀寺に立ったビルシャナ仏の骨柱除幕式に臨まれてその縄を引かれますと、
十二月八日、
金鍾寺(こんしゅう)寺(東大寺の前身)と平城の朱雀大路に灯火一万杯をお燃やしになられてお祝いなされ、  
明けて十七年の正月、
朝賀を廃されて紫香楽の新宮に移られ、宮の周りに帷(とばり)を張り巡らされて大楯と槍をお立てになられ、
七日
宴席で、藤原の仲麻呂朝臣に正四位上(七位)同じく清河朝臣に正五位上(十一位)、大伴の古麻呂と家持宿祢に従五位下(十四位)ほか諸王臣の位階をお上げになられて、
二十一日、
行基法師を大僧都(だいそうず。僧官一位)となされ、
四月、
唱歌師の託・ (ただ-の)真玉、大和の絵師楯部(たてべ-の)弁(わけ)麻呂ほか大仏造営長官国君麻呂(くに-の-きみまろ。のち国中の連〈むらじ〉公麻呂)らに外従五位下(外は中央の内位に対するもので地方の豪族などに与えられた)を授けられ、巡察使の上奏で諸国の去年の田租を免除なされて大赦(たい-しゃ)をだされるのでございますが、地震に加えて山火事がたびたび起こるようになり、甲賀寺の辺りかと思っておりますと伊賀の真木山が燃えだして、今にも紫香楽宮に迫りそうな勢いに、大安・元興・薬師、興福寺の四大寺にご相談なされましたところ、都はやはり平城がよろしいのではということになられ、やっとの思いで五年間の旅の仮住まいから解放されるのでございます。
恭仁京の泉橋で起こった人々の万歳の声、諸王臣百官のくつろいだ顔、顔。
平城宮には、諸寺の僧らが弟子の童子や清掃人を引き連れられて掃除に参られておられ、村里が空っぽになられるほどお集まりなられておられる農民の方々には田植えどきでもございましたので、ご奉仕をお労いなされてお帰りいただきましたが、山火事を避けて川原に埋めておられた財物を掘り起こされては先を競って平城へ急がれる市人たちの長蛇の列は、昼夜引きも切らさずでございました。
聖武天皇はとりあえずご座所を皇后の中宮院に置かれて元の皇后宮を寺(のち法華寺)となされ、荒れ果てた平城宮の修復に当たられるのでございますが、相次ぐ地震と山火事の消火が思うようにいかないばかりか、恭仁・紫香楽宮が盗賊に踏み荒らされておられるのを聞こし召されて難波宮で臥(ふ)せられるのでございます。
重病でございました。
すべては政治に誤りがあられたと自らを省みられて広く天下に大赦を出され、宮中の警護を厳重になされて駅鈴(えき-れい)と御璽(ぎょ-じ。天皇印)を平城宮より取り寄せられ、白壁王(しらかべ-の-おおきみ。天智天皇の孫)、塩焼・道祖(ふなど)・大炊(おおい)・三原・船王・栗栖(くりす)・長田・智努(ちぬ)・大市王(いずれも天武天皇の孫)たちを探し訪ねられてお呼びになられたのでございます。
由利朝臣は謀(はかりごと。謀反)をご心配なされてのことでございましょうと申されておられましたが、薬師悔過(けか)、諸神への幣帛(へいはく)、僧尼三千八百人の得度、写経、造仏、放生(ほう-じょう)など懺悔滅罪(ざんげ-めつざい)をなされてご快癒なされ、
九月二十五日、
平城宮へお還りになられたのでございます。  
翌十八年三月、
右京の尾張王が河内の古市でお捕えになられた白亀を瑞図(ずいず。めでたいとされるしるしの図鑑)に照らし合わされたところ、王者の徳があまねく潤っておられるときには神亀が現れ、孝行の道が広く行われているときは地亀が出るとのことでございましたので、
聖武天皇は、「ひとり薄い徳をもって何ぞうやうやしく授かるに堪えようか」と、ご謙遜なされながらも大いに自信を持たれ、天下の六位以下に位階一級、孝行な子・祖父母によく仕える孫・礼儀ただしい人・貞節な婦人・農事に励む人には二級、謀反・悪逆・大不敬などの八虐(はち-ぎゃく)、故意の殺人、ニセガネ造り・強盗・窃盗を除く以外の罪人に大赦をお恵みになられ、「およそ寺が土地を買うのは律令の禁じるところであって、近年の繁多な買い占めは憲法に反する」と、寺に太政官処分を下され、諸王臣百官の昇級、転任を逐次お進めになられ、風雨で日向(ひゅうが。宮崎・鹿児島の一部)の養蚕(よう-さん)が損傷を受けられた翌月、
十月六日、
元正太上天皇と光明皇后を伴われて金鍾(こんしゅう)寺へ行幸なされるのでございます。
甲賀寺から移されておられたビルシャナ仏の骨柱が塑像になられたからでございます。
一万五千七百余杯の灯火を塑像仏の前後にお並べになられ、更に数千人のご僧侶が指燭(ししょく。細長いタイマツ)を捧げ持たれて賛嘆の声を上げられ、巡られること三回、お帰りが深夜になられたほどで、ご鋳造開眼にむけられてのご決意を新たになされた聖武天皇のお顔はお悟りを開かれた『華厳経入法界品(けごんきょう-にゅうほっかいぼん)』の善財童子(ぜんざい-どうじ)のように、それはお美しく清浄であられたと、光明皇后が仰せになられましたので、それでは皇后陛下は文殊菩薩でございますねと由利朝臣が申し上げられますと、にっこりお笑いになられたとのことでございます。
あるいはお悟りを開かれたのかもしれません。
五年間にわたられるご彷徨(ほう-こう。さまよい)は、善財童子の旅に似ておられたからでございます。
己を貪欲に愛し、執着し、生・老・病・死に苛(さいな)まされておられた童子は、その迷執(めい-しゅう。迷いと執着)を智慧の光によって払い除けようと、仏の大悲大智をお求めになられて文殊菩薩をお訪ねになられるのでございますが、菩薩は黙って南の善知識(ぜん-ちしき。仲間の菩薩)を指されます。行きますと、その善知識もまた黙って次の善知識を指されます。行きますと、その善知識もまた黙って次の善知識を指されます。こうして童子はさまざまな職業に就いておられる善悪あらゆる階級の貴賎富貧老若男女の善知識五十三人を南へ南へと巡り、最後に普賢菩薩にたどりつかれて真実の仏とは何であられるかをお悟りになられるのでございます。
聖武天皇は大安寺におられた新羅僧審祥(しんしょう)師から新羅の国教ともいわれる『華厳経』のご講義をお受けになられて金鍾寺を天平五年(733)五月にご創建なさられたとのことでございますが、その『華厳』の教主を、いま像(かたち)になされようとされておられるのでございます。
ところでこの年、お気の毒なことが二つほどございました。
天皇の徳を慕われて来朝なさておられた渤海と鉄利(てつり。ツングース)人千七百余人が、出羽の国に置かれて衣食は賜われたものの冬の海に放ち還されることになられたのでございます。
もう一つは玄ボウ師でございました。
真備朝臣たちと入唐なされて法相学を学ばれ、玄宗皇帝から三品(唐官三位)に準ずる紫の袈裟を賜り、五千余巻の経・論などとともにいろいろなご仏像を携えてお帰りなられ、隅寺に航海安全の海竜王寺を開かれ、看病禅師(かんびょうぜんじ。宮中の道場で病気平癒を祈る僧)に迎えられて僧正(そうじょう。僧官二位)の位を賜られておられましたのに、封戸・封物の一切を没収され、筑紫の観世音寺別当(長官)に左遷されてしまわれたのでございます。
玄ボウ師が多治比(たじひ-の)広成(ひろなり-の)真人(まひと。姓)のお迎えで吉備真備朝臣らとご帰朝なされたのは、天平七年(735)の三月であられたとのことでございます。
その年は、あたかもお二人がお持ち帰りになられたかのように西国から豌豆瘡(えんどうそう。天然痘)が流行って一二年の間に右大臣や、参議であられた光明皇后の兄御たちであられる武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人までのお命をお奪いになられたとのことでございますから、広嗣朝臣のお怨みが玄ボウ師に祟られたというお噂もあるいはそのようなところにおありになられるのかもしれません。
玄ボウ師は、皇后の異父兄御であられる葛城(かつらぎ-の)王が母御の県犬養(あがたいぬかい-の)橘三千代宿祢の氏姓を賜られて大納言になられますと、中宮亮(すけ。皇后宮の次官)であられた真備朝臣を介されて皇后の姉御許(あね-お-もと)であられる聖武天皇の御生母宮子夫人の長年の幽憂(ゆう-ゆう。うつ病)をお治しになられ、天皇とのご対面を天皇ご出産以来三十七年ぶりにお果たさせになられてご寵愛を賜るようになられ、病にお倒れになられたときには、天皇の願いであの恐ろしいお顔が思い出されます『仏頂尊陀羅尼』一千巻が書写されたほどでございましたのに、きっと増上慢(ぞう-じょう-まん。仏教でいうおごりたかぶり)がお住みつきになられたのでございましょうと、由利朝臣は申されておられました。
後年、真備朝臣は長安時代(在唐717〜735)を顧みられて、唐朝(618〜900)の玄・粛・代宗の三代(713〜779)に仕えられて左補闕(さ-ほけつ。天子の側近)から儀王友(ぎおう-ゆう。第十子の学友)となられ、秘書校書(宮中の文書・記録を扱う秘書省の校正官)、従三品秘書監(長官)兼衛尉卿(宮門警護長官)、左散騎常侍(侍従)兼安南都護(ベトナム地方行政監督官)、光禄大夫(宮殿門守衛次官)兼御史中丞(弾正台次官)、北海郡開国公(山東地方総督府長官)、食封三千戸の宰相公爵(一位)にまでなられたご同学の阿倍仲麻呂朝臣が、あるとき玄ボウ師の栄達欲(出世欲。野心)をご心配なされたところ、家柄で位禄(い-ろく。二十一歳になると自動的に授かる位)がもらえる奴に何がわかると憤慨なされておられた、とお話しされたことがございましたが、玄ボウ師をお責めになられるようなことはございませんでした。
ご自分にも鄙介の性(ひかい-の-さが。ひねくれ根性)がおありだからだと申されたのでございます。
留学に際してのことであられたとのことでございます。
十七歳の阿倍朝臣と二十二歳のご自分とはともに甲第(こう-だい。登用試験の満点合格者)の秀才であられたそうでございますが、中務(なかつかさ)省大輔(次官)を父御に持たれる阿倍朝臣は一級加えられて従八位上(二十五位)を授かるのでございます。
唐ではもっと厳しく、大学は天子・公卿・大夫(五位以上の役人)の子弟のみで、貴族は国子監(国学)、庶民は四門学(しもん-がく。国子監の四つの門前にあった学舎)というふうに、出身門閥ごとに分けられ、阿倍朝臣は当然のように大学でございましたが、ご自分は四門学にも入れてもらえず、大使らの再三のご要請で、訓詁(くんこ。字句の意味解釈)の学者で四門学の助教を兼ねておられた趙子(趙玄黙)に束修(そくしゅう。束ねた乾し肉の意。進物)として、その織りの素晴らしさに唐人が驚かれたと申される『白(神)亀元年』の調布を進呈なされて弟子入りを許され、以後、帰国されるまでの十八年間を鴻臚寺(こうろ-じ。外国朝貢使を接待する役所)で学ばれたとのことでございます。
それでも『天を怨まず、人を咎めず』、阿倍朝臣が全唐の俊才を押さえられて科挙(か-きょ)の進士(しんし。難問の試験科目)ならびに身(容姿)・言(弁舌)・書(書道)・判(判断力)に合格され、儀王友(皇太子の学友)から秘書校書へと昇進されていかれても、それは詩人たちも認めておられるように仲麻呂の持って生まれた才色によるものだと割り切られ、ひたすら学問に励まれて唐朝から賜る年二十五匹の絹布を倹約されて、『唐礼(高宗の礼規)百三十巻』『大衍暦経(だいえんれき-きょう。唐の一行が作ったこよみ)一巻』『大衍暦立成十二巻』『樂書要録(音楽に関する書)十巻』測影鉄尺(日時計の影を計る定規)一枚・銅律管(調子笛)一部・その他角弓・射甲箭(しゃこう-せん。角の錐状の矢)・平射箭(平たい矢)などのご購入に充てられ、お持ち帰りになられたのでございます。
真備朝臣はご自分のことをよく猿公だと申されておられましたが、ご謙遜でございました。
遣唐使、特に留学生には学科・作文のほかに容姿も必要条件であられたからでございます。
玄ボウ師と同じ義淵師のお弟子であられたと申される行基法師が大宝元年(701)のご選考にお落ちになられたのはご容姿に不足があられたからだとのことでございました。
その行基法師でございます。
諸国を行脚(あんぎゃ)なされて道がなければ道を、橋がなければ橋を、池がなければ池を、お留まりになられるところには道場を、旅人には宿泊の布施(ふせ)屋を造られ、豪農豪族に説教なされては貧者救済の喜捨寄進をお呼びかけになられ、行路病者をみれば薬糧をお与えになられ、説法ばかりでなく生きていかれるための方法と知恵をもお説きになられるものでございますから、信徒はお増えになられるばかりで、聖武天皇も遂に戒律を守られるお弟子に限り得度をお許しになられ、大僧正を賜られた四年後、元正太上天皇が崩御なされた翌年、天平二十一年(749)でございました。  
天皇・皇后・宮子皇太夫人に戒律をお授けになられて、
二月二日、
人々に大徳(だいとこ。徳のすぐれた僧)とお慕いされながら八十年(続紀。墓誌八十二年)のご生涯を菅原寺で閉じられたのでございます。
そのころ、わたしの言い名付であられた葛木連(かつらぎ-の-むらじ)戸主(へぬし)は中宮職(ちゅうぐう-しき。皇后の庶務を扱う役所)の属(さかん。四等官)外従五位下でございましたでしょうか。
国中が春日のお麓(大仏)にご注目されておられて、中には「成る、成らない」と賽(さい。さいころ)をお振りになられる御仁もおられ、お気持ちがお休まれになられないのは聖武天皇でございました。
知識(奉仕)と浄財(寄付)でお成し遂げになられようとされておられましたので、ご徴発はお避けになられ、ご加護(神の助け)を得るためのご喜捨ご施入をはじめ、大赦・昇叙のほか農民の顕賞と褒賞を度々行われて人々に自発を促せておられたのでございますが、逃亡なされる役夫や工人もおられて思うように捗(はかど)らず、思いつかれたのが度牒(どちょう。僧尼になるための許可書)でございました。
出家なされますと、調庸が免除されます上に僧尼として崇拝され、しかもご家族三代が極楽往生できると信じられておられますので、志されるお方が多かったのでございます。
僧尼になられるには、幼少のころから寺に入り租税を課せられる十七歳まで師にお付きなされたあと、親元に帰られて優婆塞・(うばそく・い。在俗信徒の男・女)として修行をお積みになられ、師がお力をお認めになられますと治部省に貢進文(こうしんもん。願書)をお出しなされて戸籍の正否を民部省が照合し、過去十八年間に過ちがなければ貢進文に書かれてある通りの経文・呪文の読・誦がお出来になられるかどうか僧綱がお試しなされて合格され、太政官がお認めになられる度牒が必要でございました。
それが、師のご推薦で東大寺のご造営にご奉仕なされ、日数さえお積みになられれば得度(とく-ど。出家)できるようになられたのでございますから、ろくすっぽお経も読めない出家者が一度に千人も二千人も巷に吐き出されるようになられたのでございます。
この案を上表なされましたのは、ご方便で僧尼・役夫をお使いになられ、一介の舎人(とねり。近侍)から造東大寺の次官になられておられた佐伯今毛人(いま-の-えみし-の)宿祢でございました。
心が大きく物事にこだわらないご性格で、百衲衣(ひゃく-のうえ。ボロをつづって作った僧衣)をまとわれて指揮をされておられたことから東大居士(こじ。俗人で仏門に入った男子)といわれ、聖武天皇のご寵愛をたまわられておられたのでございます。
そうした折、行基大徳の三七(二十一日)忌でございました。
陸奥の国守百済敬福(きょうふく)王(こにきし)が小田郡で採れたと申されて、黄金を献上なされたのでございます。
これまでにも黄金は不足がちで、よその国から奉られることはあってもこの国では採れないものと思われておられた聖武天皇は大変お驚きになられて、これはビルシャナ仏がお恵になられたのだとお喜びになられ、
四月一日、
皇后、内親王とともに東大寺に行幸なされて大仏殿でのビルシャナ仏に北面(ほくめん。北向き。本来天子は南面)なされますと、
「かしこまって戴き持ち、これからも百官をひきいて拝み仕え奉る」との勅を左大臣橘諸兄宿祢がのたまわれ、つづいて従三位中務卿石上(いそのかみ)乙(おと)麻呂朝臣が大仏殿の後ろに参列されておられる群臣百官および士庶に、
「よって、この貴き恵みを一人でいただくのは恐れ多く、天下の人々と分かち合い喜ぶのが道理であろう。また、男だけが父の名を負い、女が負わないでよいはずがない。ともに立ち並んで仕え奉るのが道理である。大伴、佐伯の宿祢らは
『海行かば みずく屍 山行かば 草むす屍 大皇(おおきみ)のへにこそ死なめ のどには死なじ』(万葉巻ノ18-4094)
(海に戦いに行けば 水に漬かる屍となり 山に戦いに行けば草の生える屍となり 必ず大君のそばで戦って死に 決してのんびりと暮しては死なない)
と忠誠を誓った先祖を持つ子孫であるからこの心を失わず、赤き心(まごころ)で仕え奉れ云云」とのたまわれ、造東大寺にかかわっておられる人々に二階級、従五以上(十三位)の百済敬福王には従三位(六位)、叙位・叙勲は諸王臣百官にまで及び、死罪と破仏者を除く囚人に大赦を賜られ、
十四日、
年号を天平感宝元年となさられたのでございますが、お身体がすぐれないこともあられて、
閏五月、
大安・薬師・元興寺・興福寺・東大の五寺にそれぞれ絁(あしぎぬ)五百匹、綿一千屯(とん。約150g)、布一千端、稲一十万束、墾田地百町(一町約百アール)。法隆寺に絁(あしぎぬ)四百匹、綿一千屯、布八百端、稲一十万束、墾田地一百町。弘福(ぐふく。川原)・四天王の二寺にはそれぞれ絁(あしぎぬ)三百匹、綿一千屯、布六百端、稲一十万束、墾田地一百町。崇福・香山薬師・建興・法花の四寺にそれぞれ絁(あしぎぬ)二百匹、布四百端、綿一千屯、稲一十万束、墾田地一百町を施されて発願され、
「華厳経を本にした一切の大乗・小乗の経・律・論・抄・疏などは必ず転読購説してことごとく尽し終わらせよ。遠く月日を隔てて未来の際を究めたい。ゆえにこの資物をつつしんで諸寺にほどこすのである。天皇沙彌勝満(しょうまん。聖武天皇の法名)が乞い願うところは諸仏を擁護して仏法の効能を万遍なく行き渡らせ、万病を消除して寿命延長、一切の所願ことごとく満足させ、仏法を長く留めて衆生を助け救い、天下を大平にして多くの人民を楽しく幸せにし、法界の有情(う-じょう。いきもの)とともに仏道をなそうというものである」とのたまわれ、
七月二日、
大極殿で阿倍内親王にご譲位なされたのでございます。
女帝となられた内親王は、大納言藤原仲麻呂朝臣の上申で諸寺の墾田の上限を四千町下限を百町となされ、皇后宮の名称を紫微中台(しび-ちゅうだい。天帝が住むといわれる星の中宮)とされ、紫微令(長官)に仲麻呂朝臣を兼任なされて、大弼(だい-ひつ。次官)に大伴兄(え)麻呂の宿祢ほか、少弼(次官補)に脊奈(せな)福信王(高麗滅亡後来帰した福徳の孫)ほか、大忠(三等官)に鴨角足(かも-の-つのたり-の)朝臣ほか、少忠(三等官補)吉田兄人(えひと-の)連と葛木(かつらぎ-の)連戸主(へぬし)ほかを任命なされ、
九月、
それら令・大少弼・大少忠に相当する官位をおきめになられて、
十月、
聖武太上天皇の御為に河内の智識寺に行幸なされ、
十二月、
造大仏にご協力された宇佐八幡大神の禰宜(ねぎ。神官)大神(おおみわ)の杜女(もりめ)外従五位下と主神司(かんづかさ。神社の祭祀を司る)大神(おおみかみ)の田麻呂従八位下(二十六位)に大神朝臣の氏姓を賜られて早馬でお知らせになられたところ、すでに神のお告げがあられて京へ向かわれたとのことでございましたので、大嘗祭(だい-じょうさい。即位後最初の新嘗祭)もそこそこに宮中は大慌てでございました。
急ぎ、参議と侍従を迎神使に立てられて街道筋の国々からお集めになられた兵士百人余りを警備におつけになられ、殺生をお禁じになられて行列の従者に酒肉は供せず、道路は掃き清めて汚させないようにされ、京では宮の南の梨原(なしはら-の)宮に神宮を造られ、東大寺に参拝される折は乗輿(じょうよ。天皇の輿〈こし〉)とまったく同じ紫の輿であられたのでございます
お喜びなされたのは聖武太上天皇でございました。
百官および諸氏がことごとく東大寺にお集まりになられてご僧侶五千人が大仏ご礼讃の読経をあげられ、大唐・渤海・呉の樂に続いて五節舞・田舞・久米舞をご披露なされたあと、八幡大神(おおみかみ)に一品(いっぽん。親・内親王一位の位)、比(ひめ)神に二品を奉られ、左大臣橘諸兄宿祢が、
「天平十二年(740)に河内大県郡智識寺にいますビルシャナ仏を拝み奉りてすぐに、朕(われ)も造り奉りたく思うたが、造れないでいる間に八幡(やはた)の大神が『神であるわが天神地祇を誘(いざな)い率いて銅(あかがね)の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん』とのたまわれ、成ってみれば嬉しく貴く、そのままにはしておけず、恐れ多いとは存知ますが、ご冠位を奉ることを恐る恐る申し賜れます」
と、太上天皇のお言葉を読みあげられ、
尼の杜女朝臣に従四位下(十位)、主神司大神田麻呂朝臣に外従五位下を授けられ、東大寺に封戸四千戸、下男百人、下女百人を、また造東大寺にかかわられる人に位をお授けになられたのでございます。  
次の年、天平勝宝二年(750)、
仲麻呂朝臣が従二位(四位)、諸兄宿祢が朝臣の姓を賜り、八幡大神が封戸八百戸・位田(五位以上に支給)八十町、比(ひめ)神が六百戸と六十町を奉られて、真備朝臣は筑前の守に左遷でございました。
そうした中、葛木戸主が従五位下を賜りましたので、わたしは三つ子をお産みなされて稲三百束と乳母お一人を賜られた摂津(せっつ。大阪北西部と兵庫南東部)と三河(みかわ。愛知県東部)の刀自(とじ。主婦)を思い出して、「われもそなたの三つ子が欲しい」と申したのでございます。
このとき、たれが十四年後のことを予測されたでございましょうか。
お子が好きで、真備朝臣のご長男泉(いずみ-の)朝臣を可愛がっていたものでございます。
その泉朝臣が九歳のときでございました。
真備朝臣が遣唐副使として再び唐へ参ることになられたのでございます。
五十七歳でございました。
すでに大使以下随行なされる六百人の部署もきまり、航海の安全を祈願なされる幣帛も畿内七道の神々に奉られて七か月が経っていたのでございます。
出航は翌天平勝宝四年(752)閏三月でございましたが、節刀授与式で大使藤原清河(きよか-の)朝臣が正四位下(八位)、副使大伴古麻呂宿祢が従四位上(九位)、仲麻呂朝臣の子息で無位の留学生刷雄(よしお-の)朝臣が従五位下を賜り、副使がお二人というのも今回がはじめてでございました。
入唐経験者という以外これといって派遣される理由のない真備朝臣は、もし無事に着いたら阿倍仲麻呂を連れて帰ろうとひそかにご決意なされたそうでございます。
十八年前、長安の酒楼(しゅろう。料亭)で、唐人の夫人と幼子を残すことの不憫を訴えられて帰国を断念なされた仲麻呂、その仲麻呂を連れて帰ろう、と。
新羅や渤海の使者が伝えるところでは、仲麻呂朝臣は晁衡(ちょうこう)と名を改められて卿士・大夫(五品以上)に加えられ、王維(い)や李白と申される詩伯たちと交遊なされておられるとのことで、お連れしてお帰りになられるとすればどの船になされるか。
副使真備朝臣は第三船でございました。
遣唐使船は早くから四つの船と申されて、第一船が大使、第二船が副使、第三船が判官(三等官)、第四船が録事(四等官)という官司(役所)とおなじ四等官順位で船団が組まれ、帰りは第一船が帰朝者および唐使の高官をお乗せすることになられておられ、船もそのように造られておられ、前回、ご自身も往きは第一船、帰りは第二船であられたとのことでございます。
ともあれ四船とも無事お着きになられて、一行は玄宗皇帝のお許しを得られた阿倍朝臣の案内で西京(長安)の宮殿の内部や府庫(ふこ。経書・史書・紀伝類の文書、財貨、兵器などの収納庫)、君主教殿(夏・殷・周王朝が政治の基本原理とした教本を祀った殿堂)、老君之教堂(老子は唐王朝と同じ李姓であったことから祀られた)、釈(仏)典の殿堂などを拝見なされたあと、肖像画を描いていただいたりされて、  
翌天平勝宝五年(753)、唐暦天宝十二載(さい。歳。年)の正月、
朝賀式で、新羅が東列の第一席、大食国(サラセン〈イスラム圏〉)の上座に座り、日本が西列の第二席、吐蕃(とばん。チベット)の下に置かれたのを、副使の大伴古麻呂宿祢が、「新羅は日本に朝貢している国である」と、抗議なされて新羅と入れ替えてもらわれただけでなく、清河朝臣が特進正二品、古麻呂宿祢が仲麻呂朝臣と同じ銀青光禄大夫従三品、以下判官禄事ほか付き人にいたるまでが栄誉に浴され、仲麻呂朝臣も『日本国聘賀使(へいが-し。皇帝の訪問使)としてでしたが帰国を許され、船発ちのときは玄宗皇帝の『送日本使』や詩伯王維の『送秘書晁(ちょう)監還日本国』などの詩を贈られたということですが、その第一船が遭難なさられようとは。
大風雨に遭遇なされたとはいえ、ともに船団を組まれて阿児那波(沖縄)まで同行なされ、鑑真和上をお乗せになられた第二船は薩摩に、三十六年前、阿倍朝臣の従者として入唐なされた羽栗吉麻呂の子息翼(つばさ)と翔(かける)のご兄弟をお乗せなされた第三船は屋久島を経て紀伊の牟漏崎(むろ-が-さき)に、第四船は数か月遅れて薩摩の石垣浦に、それぞれ漂い流されながらも帰りつかれましたのに。
その後、来朝なされた渤海使によりますと、第一船は安南(あんなん。ベトナム)の驩州(かんしゅう。ユエ)と申されるところに漂着なされて蛮族に襲われ、かろうじて生き延びられた仲麻呂朝臣と清河朝臣は再び長安に戻られて、清河朝臣は河清(かせい)と名を唐名に改められ、晁(ちょう)卿とともに内乱で荒廃なされた唐朝に仕えておられるとのことでございました。
真備朝臣はあるとき、渤海使がお届けになられたと申されて、李太白(李白)が避難先で詠まれたといわれる『哭晁卿衡』の詩、
「日本晁卿(阿倍仲麻呂)帝都(長安)を辞す
征帆一片(ゆく船一隻)蓬壺(ほうこ。神仙の住む東方の島)をめぐる
明月(めいげつ。仲麻呂をさす)帰らず碧海(へきかい。青海原)に沈む
白雲愁色(白雲は悲しんで)蒼梧(そうご。遭難したとみられる広西梧州)に満つ」
を暗誦なされて、
「かの国の人にかくも惜しまれ、もはや帰るに及ばないだろう。われはもう案じないことにした」
と生駒山に沈む夕日を見つめられ、「それにしも安禄山だ。兵を挙げるとはなあ」と、嘆かれておられたことがございました。
またあるときは、仲麻呂朝臣が長江河口の明州でお詠みになられた歌だと申されて、
「あまの原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる みかさの山に いでし月かも(古今和歌巻ノ9-406)
(ふと大空を 仰ぎ見ると 月がでている 春日の三笠の山に 出ていた月なんだなあ)」
と口ずさまれ、「だから連れて帰ってやりたかった。子どもらの名に望郷の思いをこめた羽栗吉麻呂らもな」と。
「しかし、友はもういない」とも。
真備朝臣は天平勝宝六年(754)、入唐廻使(かいし。往復してきた使い)として正四位下(八位)を賜りますと、開眼されておられたビルシャナ仏を拝まれるいとまもなく、大宰大弐(次官)として再度筑紫へ赴かれるのでございます。
大仏開眼会は真備朝臣らが唐へお発ちになられて間もなくの、天平勝宝四年(752)でございました。
誠(実際)は、四月八日の灌仏会(かんぶつ-え。釈迦の誕生日で仏に水をそそいで祝う。花まつり)になされるご予定で太上天皇自らお筆を執られ、天平五年(733)の遣唐大使多治比広成真人の招聘をお受けなされて、途中、鑑真和上の第三船と四船はご遭難されましたが、第二船で唐僧道璿(どうせん)師や林邑(りんゆう。ベトナム中部)僧仏哲師たちと天平八年(736)に来朝なされたバラモン僧菩提僊那(ぼだいせんな。アイウエオの五十音図のもとになるサンスクリット音韻図を伝えたとされる)僧上(僧官二位)に開眼導師、隆尊(りゅそん)律師(僧官九位)に華厳経の講師をお勤めいただくよう、摂受敬白(せつじゅ-けいはく。お受入られることをつつしんで申し上げます)とご依頼なされておられたのでございますが、お体が思わしくあられなくて一日お延ばしになられたのでございます。
あの日、天平勝宝四年(752)四月九日の東大寺は美しく輝いて荘厳(そうごん。とうとくおごそか)でございました。
お堂の内外には氏々の子女がお作りになられた色とりどりの造花と花輪が飾られて灌頂幡(かんちょう-ばた。仏や入門僧の頭に水をそそぐ儀式にたてる金銀五色の旗)が並び、行基大徳の愛弟子であられる景静(けいじょう)師をはじめ、一万人のご僧侶をお招きなされて、聖武太上天皇、光明皇后、女帝孝謙称徳のご背後には諸王臣百官が画然と腰をおかけになられ、鼓吹奏を合図に南門から各寺の住持(住職)が、東門と西門からは蓋(きぬがさ)をさしかけられた輿の僊那僧正と隆尊師がそれぞれ玄蕃頭(げんばん-の-かみ。僧侶および外国使節を接待する役所の長官)、賀茂角足朝臣、橘諸兄朝臣の子息奈良麻呂朝臣らに先導されてご入場なされてまいられたのでございます。
式次第は元旦とおなじでございました。
左大臣橘諸兄朝臣が、延べ三百万人に余る諸国からの材木・労働の奉仕者、役夫、瓦・米・銭・布・牛・馬・車などの寄進者、また、お袖に土をお入れになられて運ばれた太上天皇を見ならわれて土を運び、基壇を突き固めになられた氏々にも感謝の意をのたまわれて詔勅をお巻きもどしになられますと、ご一同は金色に輝いておられる大仏(みほとけ)を仰ぎ見られ、童子が僊那僧正のお筆から引いて来られた開眼縷(る。糸。細い綱)にお手をお掛けになられたのでございます。
いよいよでございました。
太上天皇が智識寺のビルシャナ仏にご感銘なされて以来十二年、悲願とされてこられたビルシャナ金銅大仏に、今、漆黒(しっこく)の眼精(ひとみ)が入るのでございます。
鼓吹奏が一斉に高まり、三月にご落慶(らくぎょう。落成祝い)された鐘楼(しょうろう。鐘撞き堂)の大梵鐘(ぼんしょう。つりがね)が新緑の山々に響きわたられておられました。
やがて律師がご講演を終えられますと、雅楽寮(がらくりょう。舞楽をつかさどる役所)に続く諸王臣氏の五節(ごせち)・久米・楯伏(たて-ふし)・踏歌(とうか)・袍袴(ほうこ)の舞いが庭の東西で始まり、唐・林邑・高麗・百済楽が加わりますと、太上天皇は
「仏法東帰してより、斎会(さいえ。僧を集めて読経し食事をふるまう)の儀、未だかってかくのごとく盛んなるはなし」
と手放しでお喜びになられておらましたが、わたくしどもは大忙しで、この夜、女帝は藤原仲麻呂朝臣のご邸宅であられる左京四條二坊の田村第にご座所(宿泊所)を置かれ、わたくしは夫戸主の板屋に下がらせていただいたのでございます。
大勢の孤児をお預かりさせていただいていたからでございます。
畿内諸国では賈奕天(こえきてん)とか陸賽(ろくさい)とかと申される双六(すごろく)賽が流行っておられて、お役人までが憲法(法令)をおそれず、ひそかに仲間をお集めになられて博打に走られ、父は妻子を顧みず、子は子で父に従わず、ついには家業を滅ぼして孝道(父母妻子の養育)を欠くに至っておられましたので、止めない者は、六位以下男女を問わず鞭打ち百回、五位は任務を解いて位禄・位田の没収、四位以上は封戸の停止とし、これを取り締まれない国・郡司はことごとく解任、また、これらの者を二十人以上暴き通報すれば、無位には三階級、有位者には粗衣(あら-ぎぬ)十匹と布十端を賜うとの布令をだされたのでございますが、一向に効き目がなく、
七月、
宮子皇太后が崩御され、女帝天皇が聖武太上天皇と光明皇后のご長寿を薬師如来にご祈願なされておられますのに、氏々は鷹狩りをされたり、力士に相撲をお取らせになられたり、騎射をされたり、打毬(だきゅう。乗馬して球を打つ競技)をされたり、蹴鞠(しゅうきく。けまり)をされたり、賭け碁をされたり、果ては女児や童子とお戯れになられる始末で、公の出挙稲を掠め取られたり、許可もなく京へお遊びに来られたりなされる国郡司も相変わらずで、宇佐八幡の杜女(もりめ)・田麻呂朝臣などは薬師寺の行信師と志を同じくされて人を操るまじないをされ、加えて五年前の神のお告げが嘘偽であられたことから共に除名、官位剥奪の上、日向と多祢(たね-が)島にそれぞれお流されになられ、封戸と位田のすべてを大宰府が収めることになられたのでございます。  
翌七年、
仲麻呂朝臣が唐朝の制度を見習われて暦年の呼称「年」を「載」に、朝服の衿(えり)の合わせ方を右前にお改めになられる奏上をなされた
三月、
杜女・田麻呂朝臣を恥じられた八幡大神が、
「神であるわれは偽って神命に託すことを願わない。請われて比(ひめかみ)神と共に受け取った封戸一千四百戸と田地一百四十町は徒(いたずら)にして使い道がなく山野に捨てておくようなものである。よろしく朝廷に返し奉って常の神田(しんでん)に留まるとする」
とのご神託をのたまわれましたのは、さすがでございました。
この年、七年
女帝は山科(やましな。天智天皇)・大内東西(天武天皇と持統天皇)・安古(文武天皇)・真弓(草壁の皇子)・奈保山東西(元明天皇と元正天皇)の山陵とともに太政大臣(藤原不比等)の墓にも幣帛を奉られて太上天皇のご病気の平癒をご祈願なされ、  
翌、天平小勝宝八歳(年)(766)二月、
左大臣橘諸兄朝臣の致仕(ちし。七十歳による退官)をお許しになられますと、伊勢神宮への幣帛、智識寺への行幸を繰り返され、大赦と貧しい人たちへの米塩をお施しになられるなどなされたのでございますが、御験(み-しるし)あられず、最も華やかで最も力あふれる都(みやこ)平城をお築きになられた聖武太上天皇は
五月二日、
道祖王(ふなどのおう。天武天皇の孫)を皇太子になされる遺詔(いしょう。遺言)を残されて、五十六歳で崩御なされたのでございます。
このため、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の関を固守なされ、藤原豊成朝臣、文屋智努(ふんや-の-ちぬ-の)真人(天武天皇の孫)、藤原永手朝臣、安宿・黄文王、橘奈良麻呂朝臣らをご装束の司、百済敬福王、塩焼・山背の王、大伴古麻呂宿祢、高麗福信朝臣、佐伯今毛人宿祢らを山陵作りの司に任じて、京・畿内の寺々には誦経をおこなわせになられ、はじめて白無地の素服(そ-ふく。喪服)をおつけになられた文武百官の、内院南門外での挙哀(こあい。悲しみの泣き声をあげる悼礼)が朝夕城内に響いてそれはそれは悲しい三日間でございました。
女帝は、太上天皇のご病気平癒のご祈祷にご懇請なされた看病禅師百二十六人の家の調庸を免除なされ、鑑真和上と義淵師のお弟子で東大寺根本僧正の良弁(ろうべん)師に大僧都(四位)、法相・華厳の学僧慈訓(じきん)師に少僧都(七位)、その他法進師と慶俊(けいしゅん)師に律師(九位)をお授けになられますと、五七忌の斎会を大安寺、六七忌を薬師寺、七七忌は興福寺に設けられたのでございます。
斎会にお招きされたご僧侶は沙彌を合わされて千百人ほどでございましたでしょうか。
由利朝臣が
「お鉢を捧げ持たれてこられるご僧侶には別け隔てなく盛られよ」
と触れて歩いておられる橘奈良麻呂朝臣をご覧になられて、長屋王(676〜729。高市の皇子の王子。天武天皇の孫)のお話しをなされたのでございます。
神亀六年(729)と申されますと、わたくしが生まれた年で、八月五日に天平と改元されるのでございますが、その年、二月八日、聖武天皇は元興寺でご誓願をお立てになられ、斎会を司られておられた左大臣長屋王が、列に割り込まれてはやたら鉢を差し出される沙彌の頭を牙笏(げしゃく。象牙の笏。メモの紙をはりつける板)でお打ちになられたことで、周りにおられたご僧侶たちが血を流されて立ち去られる沙彌を憐れまれ、「あのようなことをなされてよいことはありますまい」と、囁かれておられたそうでございます。
それから二日後、長屋王はご謀反の嫌疑をおかけられになられて左京三条二坊のお屋敷を軍兵に取りかこわれ、その場に居合されなかった側室の不比等朝臣の郎女(いらつめ)とそのお子の安宿(あすかべ)・黄文・山背の三王子たちを除くご家族全員に毒を盛られて絞殺なされ、自らもおくくりになられるのでございますが、都の人々も「おのれの高徳を恃(たの)んで(自負して)沙彌を打ち、自らくくるは仏の罰」と、王の所業をお咎めになられておられたとのことでございます。
ところが十年後、左兵庫(さひょうく。兵器庫)の少属(しょう-さかん。四等官)大伴子虫宿祢と右兵庫(うひょうこ。兵器庫)の頭(かみ。長官)中臣宮処(なかとみ-の-みやこ)東人連(むらじ)とがたまたま碁を囲んでおられて長屋王のお話しになられ、連(むらじ)が
「おかげで無位から一気に五位下を賜ったよ」
と申されたことで、長屋王にお仕えなされておられた宿祢が憤怒なされて連(むらじ)をお斬り殺されになられたことから、王の謀反が連の誣告(ぶこく。嘘偽りで他人を陥れる行為)であられたことが明るみになられたとのことでございますが、仏徒であり、唐のご僧侶に千領の袈裟をお贈りになられ、道璿(どうせん)和上や僊那(せんな)僧正、ひいては何度も難破なさられてお二人にお遅れになられること十八年、鑑真和上を日本へ誘(いざな)われるきっかけをお作りになられた王が沙彌にきびしく当たられましたのは、お考えが儒に基づいておられたからでございましょう、と由利朝臣はお付け加えになられておられました。
その年八歳(756)は、
唐の玄宗皇帝が安禄山の反乱で蜀(しよく)の地に亡命なされた年で、
十二月十六日、
女帝はわたくしどもの孤児で成人になった男子九人と、後にわたくしの弟子になる女子一人のちの明基(みょうき)に葛木の氏姓を賜られ、
三十日、
華蔵界極楽浄土の宝刹(ほうせつ。寺院)に向かわれておられる冥路(よみじ)の太上天皇をお助けなされるため、東大・薬師・大安・元興・山階(やましな。興福)の各寺で梵網(ぼんもう)経を講じられてその年は暮れるのでございます。  
明けて九歳(757)、
正月、
橘諸兄朝臣がお亡くなりになられ、
三月、
道祖(ふなど-の)王が太上天皇の服喪中にもかかわらず、近侍の童子と私通なされた罪で皇太子位をお取り消されになられますと、仲麻呂朝臣が兄御右大臣豊成朝臣の推される道祖(ふなど-の)王の兄の塩焼(しおやき-の)王と左大弁古麻呂宿祢が推される池田王をお退けになられ、亡くなられたご長男の妻であられた粟田諸姉(あわた-の-もろね-の)朝臣をお娶らされになられて田村第に住まわせておられた大炊王(おおい-の-おう。舎人皇子の第七王子。天武の孫)二十五歳を皇太子にお据えになられたのでございます。
女帝は日嗣の皇子が新たにお決まりになられましたので、
四月四日、
三月二十日に寝台の天井の塵受けに現れた『天下太平』の四字を前代未聞と不思議がられながらもお気をよくなされておられて、
「み仏がまず国家の太平を記し、天地の諸神が国家の安泰を前もって示してくれた。これは王侯士庶が忠を尽して正し助けてくれるから、このようなめでたい文字を天が授け賜われたので、これからは古傷を洗い濯(すす)いで共に新しい福を蒙ろう」
と、天下に大赦をだされ、国を治め民が安らかになるには、一家が『孝経(こう-きょう。子が親に尽くす方法を孔子と弟子の曾子が問答形式で述べたもの)』を備え、これを日々読んで励むのが人の踏み行う道であると、仲麻呂朝臣がお勧めなされておられる孝行をご奨励なされ、
「近づく太上天皇の一周忌に必要な品々を諸司の男女が朝夕怠りなく作ってくれるならば位二級を加えて綿布を賜い、そうでない者は一級へらす。また八十歳以上の舎人(とねり)、雑工、衛士府の雑役で三十年以上仕えてきた者には一級、六位以上格式の高い神社の神主には物を賜い、独身の男女、孤児、孤老、障害者、身障者には物をめぐみ、古く天皇の徳を慕って来帰した高麗・百済・新羅人で氏姓を願い出る者はことごとく許し、戸籍に姓のない者および阿蘇君(あそ-の-きみ)族、出雲臣(いずも-の-おみ)族などと族を名乗っておる者は道理に穏やかでないので改姓するよう」にと勅(みことのり)なされて、東大寺の匠(たくみ)、造山稜の役夫ほか四畿内諸国の兵士、鎮兵、衛士、火頭(かとう。軍団の飯たき)仕丁、鼓吹戸(くすい-の-へ)、輸車戸(ゆしゃ-の-へ)の頭(かみ)の田租当年分を免除なされ、
五月二日、
東大寺に千五百人のご僧侶を招かれて、聖武太上天皇の周忌会を催されたのでございます。
そしてその二日後、皇居大宮をご改修なされるとのご理由で田村第にお移りになられた女帝は、仲麻呂朝臣を大臣に準ずる紫微中台(しび-ちゅうだい。北斗七星の北東にある十五星の一つで、天帝の居所とされている。王宮)の内相になされて内外の軍事権をお与えになられ、臨時の昇級で低い官職に高い給付がなされているなど諸官の位階と官職のつり合いがとれなくなっていましたので、
「以後は外祖父不比等の朝臣が養老年(717〜723)に修正なされた律令によれ」
と勅(みことり)なされ、仲麻呂朝臣の奏上であらたに五条を制定なされたのでございます。
「その一、諸氏の長らは公務に関与せず、ほしいままに輩(やから)を集めている。今より以後はしてはならない。
その二、王臣の馬の数は法令によると制限がある。これを超えて馬を蓄えてはならない。
その三、法令によると、身につける武器にもそれぞれ制限があり、これを超える数は蓄えてはならない。
その四、武官を除く以外は武器を京内で所持してはならない。前にすでに禁断してあるが、まだ止まない。よろしく所管の役所に告げて固く禁じよ。
その五、京内で二十騎以上が集まってはならない。
以上、よろしく所管の役所に告げて厳しく禁断を加え、もし犯す者がいれば違勅の罪を科す」と。
こうして、
六月十六日、
正四位下の橘奈良麻呂朝臣が右大弁、歌詠みでもあられる従五位上大伴家持宿祢が兵部大輔に、正四位上池田王が刑部卿(ぎょうぶ-きょう)に、正四位上塩焼王が大蔵卿に、左大弁正四位下大伴古麻呂宿祢が陸奥鎮守将軍兼任に、佐伯全成(またなり-の)宿祢が副将軍兼任に、正五位上賀茂角足朝臣が遠江守(とおとうみ-の-かみ)に、石上乙麻呂朝臣のご子息であられる家嗣(やかつぐ-の)朝臣が相模守に、従四位上山背王が但馬(たじま)守など諸臣が諸官に任じられておられた矢先のことでございました。
佐伯全成(またなり-の)宿祢が故橘諸兄朝臣が謀反を起こそうとなされた文書のことで取り調べをお受けなられておられたことが、『田村第日記』に記されておられたとのお噂が立ち、しばらくして、父の長屋王をありもしない告げ口で亡くされになられておられた山背王が
「諸兄の子息で従弟の奈良麻呂が兵器を備えて田村宮(第)を囲もうと謀っており、大伴古麻呂もまたその事情を知っております」と、告げてまいられたのでございます。
女帝は光明皇后のご忠告もあられて慎重でございました。
七月二日、
とりあえず王公たちをお呼びになられて、
「この頃ひそかに兵を集め、宮を覆そうとしておるとの声がつたわって来るが、一体どこの誰奴か。黙っておったが、多くの人が申してくるので放っておくわけにもいかず、聞いた。止めるならいまのうちに止めよ。大命に従わず、われ一人がかばって国法を曲げるわけにはいかない。よって、おのが家々おのが祖々(おやおや)の名を穢し失うようなことはやめ、つつしんで仕えよ」
と詔なされ、更に光明皇太后が右大臣豊成以下の群臣をお召入れになられて、
「汝らはみなわが甥(おい)、近親ではないか」
と、お叱りになられたのでございます。
「卿らは童子のころから(聖武)天皇に近侍しておってしばしば『われが亡きあとも太皇后によく仕え、お助けせよ』とのたまわれていたのを忘れたか。大伴佐伯らは遠き天皇の御世から近衛として仕え、まして大伴古慈斐はわが妹の夫ではないか。みなが心を一つにして皇朝を助け、仕え奉っておれば、このような醜事(しこごと。不道。スキャンダル)は聞こえて来るはずがない。以後、よろしく心を入れ替えて明き清き心で仕えられよ」と。
一同は深く肝に銘じられたようでございました。
ところがその日の夕方、わたくしの弟清麻呂と同じ中衛府の舎人上道(かみつみち-の)斐太都(ひたつ-の)臣が田村宮に駆け込んで参られて、
「備前の前の守で、十七年前広嗣の乱に連座して官位姓名を剥奪され、東西の市でムチ打ち五十を受けて伊豆へ流された上司の小野東人から『王族の中に皇太子大炊(おおい-の)王と内相の仲麻呂を殺そうという者がおるがお前は従うか』と聞かれましたので、王臣とは誰でございますかと尋ねましたところ、『黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、ほか大勢』と申され、更に『精兵四百を率いて田村の宮を囲うやり方と、将軍古麻呂が任地の陸奥に向かおうとしているので、そのまま美濃(不破)の関に至り、病と偽って関を塞ぐやり方の二つを考えておる』との答えでした。それで斐太都(ひたつ)はしばらくして『あえて上官の命令には背きません』と答えました」と、告訐(こっけつ。他人の秘密を官に訴え暴くこと)をなされたのでございます。
しかもこれより先、六月にも、
「右大弁巨勢堺麻呂朝臣が薬の調合を頼みに答本(とうほん)忠節の家に参りますと、忠節が『古麻呂らのたくらみを右大臣に告げたところ、右大臣は弟の大納言(仲麻呂)は年が若いから傲慢に打ち振る舞っているので、古麻呂らを教えさとして弟らを殺させないようにしようといっていた』と、語っておりました」
と、ひそかに告げて参っておられたということでございましたから、首謀者がどなたであれご謀反は必至であられたのでございます。
仲麻呂朝臣はすぐにも上奏なされて内外の諸門をお固めになられますと、高麗福信朝臣たちに兵を率いさせて小野東人・答本忠節たちを追捕されて左衛士府に監禁なされ、豊成・永手の朝臣たちを尋問なされるのでございますが、確かなことは知らないということでございましたので、皇太后は再び塩焼・安宿・黄文の三王と奈良麻呂朝臣、古麻呂宿祢の二臣をお呼びなされてお諌めになられたのでございます。
「汝(おまし)らの謀反(はかりごと)は人が告げてきた。近親ゆえ怨みがあるとは思えない。皇朝もまた相当の位禄を賜れておられる。何を怨みに思うてそのようなことをしようとなされるのか思い当たらぬが、とりあえずこれをもって汝らの罪は許し賜う。この先そのようなことはしてはならぬ」と。
五人は南門の外へ出ますと、座して頭を地面にすりつけしばらく皇太后のご恩に感謝なされておられたのでございます。
それが徒(あだ。むだ)になられましたのは、小野東人が永手の尋問に屈されて
「斐太都の申したことは事実であります」と、吐かれたからでございます。
「去る六月半ば、三度会って事を謀りました。はじめは奈良麻呂の家、次は図書の蔵の庭、後は太政官院の庭においてであります。集まったのは、黄文王、安宿王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比犢養(うしかい)・礼(いや)麻呂・鷹主・大伴池主・兄(え)人でほかの者は暗闇で面(おもて)がみえませんでした。庭の中ほどで天地四方を礼拝し、共に塩汁をすすって誓い合いました。七月二日の日没をもって兵を起こし、内相の邸宅を囲んで殺し脅かし、すぐに大殿を囲んで皇太子を退け、次に皇太后の宮を傾けて駅鈴と御璽(ぎょじ。天皇印)を取り、右大臣豊成を召して号令させ、しかるのち帝を廃して安宿・黄文・塩焼・道祖の四王から君を立てん」と。
こうして謀反が発覚し、方々の名があげられますと皇太后もかばいようがございませんでした。
次々に捕えられて尋問官の尋問をお受けになられるのでございますが、
安宿王が「黄文王に欺かれてついて行った」と答えられたほかは、どなたも東人の『塩汁の誓い』と大同小異であられたようで、
ただ、奈良麻呂朝臣だけは「内相の行政に無道(むどう。道にはずれたこと)が多かったから先ず兵を起こして」と述べられ、「無道とは何をさすのか」と問い直されて、「東大寺を造り、人民を辛苦させていることである。氏々もこれを憂えている。また奈良に関を置いたこともすでに大いなる憂いである」と申されましたので、「氏々とは誰か、東大寺は汝の父のときから造っているのに、そのことで人民辛苦、人の憂いをいうのは漱石枕流(そうせき-ちんりゅう)、牽強付会(けんきょう-ふかい)ではないか」と質されますと、朝臣はことばに詰まって斬に服されたとのことでございます。
黄文王は「たぶれ」、道祖王は「まどい」、古麻呂宿祢・犢養(うしかい-の)真人・東人および逆賊を導きいれるために田村の宮の見取り図をつくり、謀反の阻止に向かわせないために、額田の邸宅で高麗朝臣や坂上忌寸(いみき。姓)らに酒を飲ませた賀茂角足朝臣は「のろし」に名を改められて杖打ちの刑に斃(たお)れ、安宿王は妻子ともども佐渡へ、大伴古慈斐宿祢は任国の土佐へお流されになられ、佐伯全成宿祢は申し開きならず自ら首をおくくりになられ、塩焼王は女帝のお情けを得て氷上塩焼真人を賜り臣下に落とされただけでございました。
告げ口なされた山背王と巨勢堺麻呂朝臣は従三位、上道斐太都臣(おみ)は従四位下と朝臣の姓を賜られて中衛少将に昇格され、右大臣豊成朝臣はご子息が謀反に関わられておられたのと、堺麻呂朝臣からお聞ききした忠節の話を奏上せず、事件の究明にも不義不忠であられたとして右大臣の任務を停止され、大宰員外の帥に降ろされたのでございます。
女帝はこのほか、奈良麻呂朝臣に雇われた秦氏や「たぶれ」に騙されて加担した庶人を出羽の雄勝(おかち)の柵(き。城)に移され、
八月十三日、
駿河の金刺(かなさし-の)舎人(とねり)麻呂という人が献上なされた『蚕児成字(かいこ-の-なす-じ)』を殊のほかお喜びになられ、改元の勅をのたまわれたのでございます。
「恐れ多くも皇位をついで九年、日夜氷を踏む思いで携わってきたが、去る三月二十日、天井の塵受けに現れた『天下太平』の四字は天下の安泰をあらわし、治世が永く続くことを示してくれた。その上、すぐれた宰相がおられて賊臣逆王のことごとくは天の報いを受け、宮内で排除された。そこへめでたくもまた、この蚕児の成す『五月八日開下帝釈標知天皇命百息』の文字である。欣喜雀躍するとともに恐れをいだき、群臣の審議を仰いだところ、『五月八日は太上天皇の周忌会が明ける日で、ここに帝釈天(たいしゃくてん。仏の守護神)が皇帝皇太后の真心に感じて通天門を開き下界のすぐれた治世を鑑みて陛下の領土を標(しめ)し、百年の長き統治を約束し、日月の見渡すところはすべて子孫が繁栄し、天地を戴くところはすべて皇位の永続を認める。仁徳の教化は広く行き渡り、天下は安らかで天皇の恵みは遠くをうるおし、国家はまったく平和であるとのしるしである』とのことであったから、つつしんで考えた。蚕(かいこ)は虎の模様をして馬の口をしておるが、争うことをしない。室(むろ)の中で育ち錦や衣服を作ってくれる。時には字を書いて神異(しんい。不思議)をあらわす。天の助けであり、めでたいしるしである。五八(5×8)はまたわれの不惑(四十歳)でもある。日月は明かりを共にして紫微(しび-の)宮に永く連れ添って並ぶ皇太后と天皇の姿であるともいう。かえって徳の少ないのを恐れる。このようなめでたいしるしを受け賜ったのもひたすら宰相の功績である。よろしく王公と共にこの賜り物に感謝して天下にも恵みを授け、天平勝宝九歳八月十八日を天平宝字元年(757)とする」と。
改元を祝われて諸国郡の調庸を免除なさて、奈良麻呂朝臣らの資財を庶民に分配なされ、
「平民の苦しみはこれより起こる」
とのたまい、国郡司の無知と人民酷使をお叱りになられて、雑徭(ぞうよう。臨時の労役)の日数の半減、改元以前の出挙(すいこ)の利子の免除をなされ、金刺舎人麻呂に従六位上(十七位)と粗絹二十匹、綿四十匹、布八十端、稲二千束を賜って、蚕の文字を取り持たれた二三の人にも品々を賜い、
新たに、
「上を安らかにし民を治めるには礼よりよいものはない。風(ふう)を移し俗を変えるには音楽よりよいものはない。礼・楽を教えるのは大学寮と雅楽(うた)寮であり、学生が苦労しているのは衣食である。また、天文・陰陽・暦算・医薬針灸は国家の要である。よって共に公廨田(くげでん。免税田)を置いて諸学生に供給すべきである」
との勅をのたまわれて大学寮に三十町、雅楽寮に十町、陰陽寮に十町、内薬司(うち-の-くすり-の-つかさ)に八町、典薬寮(くすり-の-つかさ)に十町を賜い、
「国を治める大本は文と武にある。一つを廃らすわけにはいかない。これまで文才を奨励するのに公廨田を置いていたが、武には欠いた。そこで武芸を起こすために」
と、中衛府に三十町、衛門および左右衛士ならびに左右兵衛府にそれぞれ十町の射騎田を設けられ、
閏八月八日、
上道斐太都朝臣を吉備の国造(くに-の-みやつこ)になされますと、
十七日、
内相仲麻呂朝臣が維摩会の許しを奏上なさられるのでございます。
「臣は聞いております。功績を後世に永く表し示すのは、国を維持する者のきまりであり、父母への孝を限りなく考えるのは家を継ぐ者の勤めであります。曾祖藤原内大臣鎌足は近江大津の宮で聖君天智天皇を助けて制度を考え正し、法令(近江令)をつくった功績によって功田百町を賜り、臣ら一門は曾祖の勲功によって高位高官の門に名を連ね、代々公卿を重ねてきました。比べますに富貴は長続きし難く、栄華は凋(しぼ)みやすいものです。思いがけない出来事に遭い、奈良麻呂らの逆賊が皇室を傾け、いまだに先祖の恩に報いていない臣の本家をも滅ぼそうとしました。願わくは曾祖内大臣の冥福を修め、長く名誉を保つために曾祖が起こして三十年間絶えていた山階(やましな。興福)寺の維摩会を藤原の宮(686〜696)を再興した太政大臣不比等のあとを受け継いで再開し、毎年冬十月十日に講を始めて内大臣の忌日の十月十六日に終わらせたいのであります。どうか、内大臣の功績を天地とともに長く伝え、お孫であられる皇太后の誉れを日月とともに遠くへ照らしたく、鎌足の功田百町を山階寺に永く施して維摩会を助け興すことを伏してお願いいたします」と。
維摩会と申しますのは、ご在俗のまま仏法を会得されて文殊(もんじゅ)菩薩など多くの僧を論破なされ、般若皆空(はんにゃ-かいくう。一切の実相はすべて空であるとする悟りの知恵)をお説きになられたビシャリ城(中インド)の長者維摩詰(ゆいま-きつ)の事績をおたたえになられる『維摩詰所説教』を講師が講じられて藤原大臣鎌足を供養なされる法会で、もとは百済の尼(あま)法名尼(ほうみょう-に)が山階の陶原(すえはら)の家で内大臣のご病気平癒のために読経なされ、その快癒に報いられて行われるようになったものでございます。
女帝は内相の報徳のお心がけをお褒めになられてこれをお許しになられますと、仏法を護持するには律を尊ぶしかなく、律を奨励するには礼物を施すことにあるとみことのりなされて、戒本師田(かい-ほんし-でん・比丘・比丘尼に講義する律師を賄うための公田)十町を官の管理する官大寺に永く置くことにされ、また東大寺に戒壇院(出家者に戒律を授ける式場)を設けられてご指導なされておられる鑑真和上の唐禅院に衆僧のお食事代として備前の墾田一百町、山階寺の施薬院には貧困者の救済費として越前の墾田一百町をそれぞれ永く施しになられ、街道の国々が衣食の供給に苦しまれておられるのを聞こし召されますと、坂東諸国の防人を廃されて、
「以後、西海道七国から兵士七千人を集めて防人司にあてがい、規律によって防備につかせ、府に集まる日には兵法五教を習わせよ」にはじまる勅令を、
翌天平宝字二年(758)にかけ出されるのでございます。  
その一、
「諸国の税を運ぶ脚夫(きゃく-ふ)たちは事が終って帰郷するときは路が遠く食糧も絶え、病んでは親切に恵み養ってもらえず、飢え死にをまぬがれようと乞食しながら生を願い、ともに辛苦の途中で遂には野垂れ死にしておると聞く。はなはだ胸が痛む。よって京と国の役所に申し付けて食糧と医薬を給付し、郷里に帰りつけるようにせよ。怠慢な役人は違勅の罪を科す」
その二、
「国司らが交代の日に、おのおのが公廨稲を欲しがり貪って上下の見境もなく競い争っているのは高潔とする風習を穢して醜い。そこで規律を立てる。まず当年収穫の公廨をすべて計算して官物の欠損と正税の未納分を補填(ほてん)し、国内の備蓄分を割いたあと、その残りを長官が六分、次官が四分、判官が三分、主典が二分、史生が一分、博士・医師は史生に準じ、員外の官は主典に準じよ」
その三、
「近年、諸国の博士・医師の多くがその才能がないのに請託で選ばれていると聞く。これでは国は損をし、民は得をしない。今より以後はこのようなことはしてはならない。学科を学び任用されてのち、公廨の一部を師に贈らせるようにせよ。そうすれば、師を尊ぶ道も遂には行われ、教え導く業も永く続くことになろう。担当の役所に告げて早く施行せよ」
その四、
「われは聞いておる。天に則って教化するは聖王が残したきまりである。よって、諸国八道(京畿・東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)に使いを分けて遣わし、巡回の道を天と仁とに合わせてその恩恵を取り次ぎ、病弊をことごとく除き、豊年万作をなして家から貧困の憂いをなくし、国民が喜びをもつことである。担当の役所はよろしく心の清い公平な使いを差し向け、物を恵み与えてわれの意をかなえよ」
その五、
「時世に応じて制度をつくるは国を維持するためのきまりである。時代を論議し、権限を動かすのは昔の王の教えである。しかるに、この頃は梅の花に浮かれて民間は宴にたむろし、ややもすると身分や職分の区別なく悪者同志が集まって朝廷をそしり、あるいは酔って乱れて節度を失くし、挙句に殴り合いの喧嘩をしておる。はなはだ道理に合わぬ。以後、王公以下は酒を禁じ、祭りの供えと病気の治療以外は飲んではならない。また友人同僚や内外の親しい者がひまなときに尋ね合う場合は、まず役所に申し出てしかるのち許す。犯せば五位以上一年間俸禄を停止し、六位以下は解任、以外の者は杖打ち八十回とする。願うところは風俗を清め、人が善をなし、知らず知らずのうちに礼を習い乱れを未然に防ぎたいからである」  
こうしたなか二月二十七日でございました。
大和の国守従四位下大伴稲公宿祢がまたまた『文字』の出現を奏上なされてまいられたのでございます。
「管轄の磯城(しき-の)下郡三輪山に奇態な藤が生えてその根本に虫が『王大側并天下人此内任大平臣守昊(こう)命』の、十六字の文を彫り成した」というものでございました。
これを読み解いた博士らによりますと、意味は
「臣下は天下を守り、王の大いなる政治と合わさり一体となっている。内政はこの人にまかせれば昊命(こう-めい。天が支配するところ。天下)は太平である」
と、いうものでございました。
女帝は「なるほどこれでわかった」と膝を叩かれ、
「群臣が忠を尽くしてともに天下を守っており、王は大いに天地を包んで一つに束ねておるから、この人に内政を任せておけば天帝は徳に報いて命令を下され、太平であると申すのだな。加えてここは三輪の地である。藤、これはまさに今の宰相仲麻呂の姓であり、事ごとはすでに天から授けられて政治はよくなっておる。更に何をまた疑うことがあろう。われはうやうやしく天の賜り物を受け、顧みて徳のないのを恐れる。ああ卿士らよ、これを戒めよ、これを慎めよ。神の教えに敬順し、各々が職を正し、民の愛育に勤め、ともによい政治をいたそう」
と宣(の)られますと、大和の今年の調を免除なされたり郡司の階級をお上げになられたりなされて『文字』の献上者を従六位下に叙せられ、
三月十日、
「われは聞いておる。孝行な子が親を思う心は終生変わらないという言葉が竹簡に記されて大昔から削りとられずにある、と。去る天平勝宝八歳五月、先帝聖武天皇は昇天された。われはこの不幸に遭遇してより感傷を抱きながらも、礼のために吉事である神事を行ってきた。しかし、このたび五月五日の端午に臨んで宴を開くことは忍びないので今より以後、天下は公私とも九月九日の重陽の節句に准じて永く祝い事を止めることにした」
と詔(みことのり)されて、
十六日
遣唐使船の『播磨』と『速鳥』にそれぞれ従五位下と錦の冠をお授けになられ、
四月、
薬師奈良が、高麗から百済に帰化して泊瀬朝倉(はつせ-あさくら。雄略天皇。在位457〜479)のとき来朝し、小治田(おはりだ)の朝廷のとき五世の孫の恵日が唐に使いして医術を学んで来たことで薬師の姓を賜り、このため愚かで物事に暗い愚暗な子孫までが薬師の姓を蒙っておりますと申し出られましたので、願いによって奈良たち難波の薬師十一人に難波連(なにわ-の-むらじ)を賜い、
六月、
大宰府の陰陽師余益人(よ-の-ますひと)と造法華寺判官余東人たち四人に百済朝臣、越後の目(さかん。四等官)高麗の馬養使主(うまかい-の-おみ)・内侍(ないじ。後宮)の典侍(すけ)高麗浄日使主(きよひ-の-おみ)たち五人に多可連、散位大属(さかん)狛広足、狛浄成たち四人に長背連を賜られて、去年の八月以降、陸奥の国に投降してこられたた蝦夷の捕虜男女一千六百九十余人の公民化をお許しになられ、
大和の国葛上(かつらき-の-かみ)郡桑原人勝史(ふひと)男女一千百五十五人が
「天平勝宝九歳(757)五月二十六日の詔勅で内大臣鎌足と太政大臣不比等(ふひと)の名を称してはならないことになりました。年足・人勝らは難波高津の宮仁徳天皇(在位410?〜425)の世に高麗より帰化した後漢の子孫ケ言興(とう-げんこう)ならびに帝利らの子孫であります。今は数姓に分かれていますが本は同祖。勅によって等しく史(ふひと)の字を改め、桑原・大友桑原・大友・大友部・桑原史(ふひと)戸(へ)・史戸の六氏に桑原直(あたい)、船史には船直(ふね-の-あたい)を賜りたい」と願い出られた表文をお許しになられて、
七月二十八日、
「朝廷を安泰に天下を太平になさんがため金剛般若経三十巻を写し奉り、国分寺僧寺に二十巻、尼寺に十巻を納め、常に金光明最勝王経に添えてともに転読せよ」と勅なされ、
八月一日、
光明皇太后のご看病にご専念されるべく、のちに廃帝(はい-だい)淳仁帝の諡号(し-ごう。死後の名)を贈られる大炊(おおい-の)王に位をお譲りになられたのでございます。
お喜びになられたのは仲麻呂朝臣でございました。
お得意の漢籍を紐解(ひも-と)かれて女帝上皇と皇太后のご功績をたたえられてお持ち上げになられ、是非とも尊号を戴かれるよう、菩提僊那(ぼだいせんな)僧正からもお勧め願っていただき、『文字』のようなめでたい印がしきりに現れるのは上皇と皇太后がまさに聖であり神であられるからであり『人が欲すれば天は必ず従い、たとえ狂言であっても聖人はお取り上げにならなければなりません』と上表なされて、上皇陛下に『上台宝字称徳孝謙皇帝』、皇太后陛下には『中台天平応真仁正皇太后』の称号をご奉呈なされたのでございます。
女帝上皇は謙虚でございました。ご自分たちだけがとお考えになられ、
「この新たなる号を受けて、どうして古きを改める令法がなくてよかろうか」と、かねて仲麻呂朝臣が奏請なされておられた百官の改称をお許しになられると、囚人をことごとく放免なされ、諸国の山林にこもる十年以上の逸士(いっし。世捨て人)の得度、大炊王の即位にあやかられる二十五歳以上の学生に一級、大僧都(僧官四位)の鑑真和上に大和上の号を賜り、「内相も勲功あるも報いは薄くいまだに名前と字(あざな)が加えられていない。そこで、参議八省の卿、博士らに下して古きになぞらえる名字を考え奏上せよ」と勅(みことり)なされたのでございます。
それから間もなく、大炊王淳仁帝も「子が父を尊ぶのは儒者の奨励するところである」と、先帝聖武天皇に『勝宝感神聖武皇帝』の尊号とその徳をたたえられた『天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)』の諡号(し-ごう。死後の贈り名)をご追贈なされて、その祖父にあたられる草壁皇子に『岡宮御宇天皇(おかのみや-あめのしたしろしめし-すめらみこと)』を奉られ、
「来年は己亥(き-がい。つちのと-い)の大凶大厄の年で洪水や日照り、流行病の災いがあるといわれておる。よって、男女老少・文武百官は歩いている時も座っている時も、朝廷に出勤する道中でも口が暇なときは『摩訶般若波羅蜜多(まかはんにゃはらみった)』の中の四句の偈(げ。仏の功徳をほめたたえる言葉)を念唱せよ」と勅なされ、
八月二十四日、
武蔵の国に新羅の僧三十二人と尼二人、男十九人と女二十一人を移されて新羅郡を置かれますと、
翌二十五日
「綱紀をすべて持し、国家の政治をつかさどる太政官は天が徳を施して万物を育成するようなものである」から乾(けん)政官、「宮中にあって勅を奉り、諸司に配分を行う紫微中台は地が天を承って庶物を生成するようなものである」から坤(こん)宮官、以下太政大臣は大師、左大臣は大傅(ふ)、右大臣は大保、大納言は御使大夫、中務省は勅語をのべ伝えるのに必ず信をもたなければならないから信部省、大蔵省は財物を出納するのに節約しなければならないから節部省というふうに諸官の名称をお改めになられ、
「善を褒めて悪を懲らすは聖王の格言であり、手柄をほめて労に報いるは明王の教訓である」
からと,仲麻呂朝臣を大保(右大臣)になされて「汎恵の美(はんけい-の-び。広く恵みをもたらす美徳)はこれより美なるはなし」と、藤原の氏姓に『恵美』の二字をお加えになられ、さらに「暴を禁じて強に勝ち、戈(ほこ)を止めて乱(奈良麻呂)を鎮めた」功績によりとのたまわれて『押勝』をお付けになられ、さらにまた「われの舅(しゅうと。伯叔父)たちの中で卿はもっとも尚(たっと)い」とみことりなされて尚舅(しょう-きゅう)の字(あざな)とともに三千戸の功封と一百町の功田を増し加えられ、
「大保をわれが父、藤原の郎女(いらつめ。房前の娘。仲麻呂の妻)をわれが母と思う。されば家の子らはわれが同胞(はらから)であり、父御(ちちご)舎人親王に『崇道敬皇帝』を追号し、その兄弟姉妹をことごとく親王として冠位を上げないでおられようか」
と仲麻呂の子息の位をお上げになられ、いまだかって官以外にゆるされたことのない鋳銭と出挙(すいこ)の権利および『恵美之家印』のご使用をもお許しになられ、数年後には稲百万束と近江の浅井・高島両郡の鉄穴(てっけつ。鉱山)までもお与えになられて、
九月十八日、
越前に帰り着かれた渤海大使従五位下小野田守(おの-の-たもり-の)朝臣がなされた、
「三年前の天宝十四載(天平勝宝七歳。757)十一月九日、御使大夫(官吏の不正をただす官の長官)兼范陽節度使(はんよう-せっとし。河北省の軍行政長官)の安禄山が反乱を起こし自ら大燕国(だい-えんこく。河北はもと燕といった)聖武皇帝と称して范陽を子息の安卿緒(けいしょ)に治めさせ、自ら精兵二十余万騎を率いて南に行き、洛陽を落して百官を置き、天宝十五載(天平勝宝八歳。758)六月六日、天子玄宗皇帝は剣南(四川省)にのがれ、七月六日、皇太子璵(よ。粛宗)が皇帝に即位して渤海に兵馬を求め仰いで反撃するも、十二月二十二日、幽州(河北・遼寧〈りょうねい〉地方)節度使の史思明(し-しめい)が粛宗帝を討つことをたくらんで反乱しかしか・・」
との復命をお受けになられたのは、大嘗祭(だいじょう-さい)をおえられて陸奥の桃生(もものう)の城(き)と出羽の雄勝の柵(き)の造営をはじめておられた
十二月十日でございました。
淳仁帝はただちに大宰府に命じられて
「安禄山はこれ狂える胡人(こ-じん。クルド人)の小童(こがっぱ)なり。天にそむいて反逆するも事は必ず利あらず。しかし疑えば、洛陽を治めることができずに、日本を掠め取ろうとしてやって来るかもしれない。古人は申した。蜂とサソリにすらなお毒がある、と。何をかいわんや、まして人である。太宰府の帥(そち)である船王(淳仁帝の兄)と大弐(次官)の真備は博学の人として世に聞こえ、われも心から重任を委ねておる。このありさまを知ってすぐれた防備を考え、たとえ襲来がなくとも貯え備えて悔いのないようにせよ。その方法と備えの雑事は一つ一つくわしく記録して知らせてくるがよい」
と申されたので、
府が報告いたしますと、
「壱岐・対馬・博多大津を警備する船は当地の臨時の役夫で造り、東国の防人を使うは衆議の許さないところである」
と、西国の窮状はお認めになられず、田守朝臣について来朝なされた揚承慶(よう-しょうけい)渤海大使から、新羅が唐の制度を布かれたと聞こし召されて、
「行軍式(旅団の軍規)を作れ、新羅を討つ」
と、勅を下されたのでございます。
当然ながら仲麻呂朝臣のお考えでございました。
大師仲麻呂朝臣はご子息の三人までも参議になされて、楊梅宮(やまもも-の-みや)の南に内裏をお臨みになられる高楼のご邸宅をお建てになられ、身辺警護の授刀衛を置かれて真備朝臣のところへ諸葛亮(181〜234。字孔明)の八陳(はちじん。八通りの陣立て)や孫子(前770〜前)の九地(戦うに有利な九つの地形)を学びに遣らせるなどされておられたのでございます。
政令は繁文縟礼(はんぶん-じょくれい。飾りばかりで中身のない規則儀礼)になられ、巡察使があきらかにされた隠し田は武蔵の国だけでも九百町を超えられ、万年通宝、大平元宝、開基勝宝と相次ぐ新銭鋳造と私鋳銭の横行でわずか一二年の間に、一石四百文のお米が七百文にもなり、国から調庸を運んでこられてそのまま物乞いや浮浪人になられる人民が東西両市に群がり、諸国では餓死者が出ておられるとのことでございました。
人心は公私ともに荒まれ、葦原王のように酒屋に入り浸りになられて博奕(はくえき。ばくち)の末、お相手をお刺し殺しになられ、その股の肉(ペニス)を膾(なます)にされたり、東大寺の華達僧のようにやはり博戯(はくぎ。すごろく)の争いから同坊の範曜僧をお殺しになられたり、あるいは大伴上足宿祢のように『災い事十条』なるものを巷にばら撒かれたりなされる事件が起きておられて、そのような中で光明皇太后の一周忌が近付いておられたのでございます。  
崩御は去年の六月七日でございました。
ご聡明で慈悲深く、皇后におなりになられた折に賜られた湯沐料(とうもく-りょう。化粧料)の食封二千戸を施薬院にご喜捨なされたお話やご病人の傷口をお吸いになられてご治療に当たられたお話など、政治でお救いになられない人々にお手をお差しのべになられての六十年であられたのでございます。
わたくしは今、法華寺内の明基の庵に宿をとらせていただいてこのようなものを口述しているのでございますが、西南に見えております阿弥陀浄土院は女帝上皇が皇太后の周忌会を設けられるためにお建てになられたものでございます。
このほか、阿弥陀丈六像一躯と脇侍の菩薩像二躯を各国分尼寺にお造らせになられ、山階寺と法華寺に毎年忌日に梵網経を講じられるよう、それぞれ四十町と十町の田をご施入なされて法会を終えられますと、
十月、
大師仲麻呂朝臣の奏上でご改修をお始めになられた平城宮の東朝集殿(ちょうしゅう-でん。役人の集合所)を鑑真大和上の唐招提寺にご寄進なされ、淳仁帝と共に近江の保良(ほら)の宮にお遷りになられるのでございます。
政治は大師のご専断でございました。
新羅の朝貢使を「接待するに足りず」と追い返されて、新羅を討つために美濃と武蔵の国ごと二十人の少年に新羅語をお習わせになられ、
十一月、
ご子息の従四位下藤原恵美朝狩朝臣を
船一百五十二隻・水手(かこ。漕ぎ手)七千五百二十人・兵士一万五千七百人・国郡司の子弟七十八人の東海道節度使(せっと-し。軍事総督)に、
従三位百済敬福王を
船一百二十一隻・水手(かこ。漕ぎ手)四千九百二十人・兵士一万二千五百人・国郡司の子弟六十二人の南海道(紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防)節度使(せっとし。軍事総督)に、
正四位下真備朝臣を
船一百二十一隻・水手(かこ。漕ぎ手)四千九百二十人・兵士一万二千五百人・国郡司の子弟六十二人の西海道節度使にご任命なされて、  
翌六年一月、
迎入唐大使を仰せつかり、揚承慶渤海大使一行をお送りなされた後、清河朝臣のお迎えに渤海路から唐国に入られておられた能登守(のと-の-かみ)高元度外従五位下が、『内使の勅(唐皇帝の使いが持って来た命令書)』の『特進秘書監藤原河清は今、使いの申し出によって帰朝させたいと思うが、ただ恐らく安・史らの残党がいまだに平らげられておらず、道路は難が多い。そこで元度はよろしく南路を取って先に帰り、復命(使いした結果の報告)をせよ』を承り、羽栗翔録事を清河朝臣のもとに残されて蘇州(浙江蘇省呉県)で長さ八丈の船をお造りしていただき、押水手官(おうすい-すかん。水手の取締官)越州(浙江蘇省紹興県)浦陽(ほうよう)府折衝(せっしょう。地方設置軍の軍将)沈惟岳(しん-いがく)たち九人と、別将陸長什たち三十人に送られて持ち帰られた、新しい様式の武器、甲冑一具・刀一口・槍一竿(かん)・矢二隻(せき)を手本になされて五行の色(しき。青・赤・黄・白・黒)に倣い、青地には朱、赤地には黄、黄地には朱、白地には黒、黒地には白の甲板(こうはん。鉄の胸板)の形を描く甲冑、一行四千五十、五行合わせて二万二百五十具を節度使が使用するとして大宰府にお造らせになられ、
二月には綿の甲冑一千領を鎮国衛府(中衛府)にお貯えになられて、伊勢・近江・美濃・越前に国郡司の子弟および百姓の四十歳以下二十歳以上の中から弓馬のお出来になられる人たちを抜き出されて健児(こんでい。国府・関所などの衛士)を設けられるなどされておられたのでございます。
女帝上皇はお怒りでございました。
淳仁帝をおたしなめになられましたところ、女帝上皇がご病気中の折、道鏡禅師と過ごしておられたことを申されましたので、仲たがいなされて、帝が中宮院へ帰られますと上皇も平城宮へお帰えりになられ、
五月二十三日、
法華寺へ出でまされてご落飾(らくしょく。剃髪)なされ、法名「法基」を賜るのでございます。
わたくしは一日遅れて二十四日、「法均」でございました。
そのころ、藤原良継朝臣が大伴家持・佐伯今毛人宿祢、石上家嗣朝臣たちと大師のお殺害を謀られてお一人で罪を被られ、氏姓官位をお取り上げになられるという事件が起きておられて、大師仲麻呂朝臣に新たに護衛の帯刀資人(たちはき-の-とねり)六十人を賜られて都合百人になされますと、女帝上皇は
六月三日、
「われの御祖(みおや)大皇后(元正天皇)が岡宮御宇天皇(おかのみや-あめのしたしろしめし-すめらみこと。草壁皇子)の日嗣を絶やさないために女子ではあるがこのわれに継がせよとのりたまわれて政事をおこなって来た。かくして今の帝(淳仁)を立て、暮らしてくる間に、帝は従うことなく、卑しい人らが仇に言うがごとくいい、言うてはいけないことまでもいい、してはいけない業(政事)もしてきた。およそかく言われるようなわれではない。別宮にいたときをそのように言うのであろうが、これはわれが劣るからそのように言うのであろうと思えば恥ずかしく哀しくおもいます。また一つにはわれが菩提心を発(おこ)す機縁であろうと思いまして、これをもって出家し、仏の弟子になりました。ただし、政事は常の祀りと小事は今の帝が行い、国家の大事と賞罰二つの権限はわれが行う。この政治の形を聞くがよい」と、宣(のたま)われたのでございます。
それでも仲麻呂朝臣は旅団の調教をおやめになられず、妻の袁比良(おひら-の)郎女(いらつめ)がお亡くなりになられてもなお伊勢神宮と香椎宮((かしい-の-みや。福岡。仲哀天皇と神功皇后をまつる)に新羅征伐の幣帛を奉られ、北京(ほっ-きょう)となされた保良宮のご造営にも力をお入れになられておられたのでございます。  
翌七年(763)正月、
遣渤海使の伊岐(いき-の)益麻呂連についてこられた王新福渤海使が、
「唐朝は李家(唐王朝の姓)の玄宗と粛宗がともに崩じられて広平王(代宗)が摂政されておられますが、作物は実らず、人民は互いに殺して食い合っています。史思明の子の朝議が力を興して李家は蘇州だけを保ち、訪問使の道路はいまだに通れません」
と海外事情をお話しされたのを女帝上皇はお受けになられ、安芸でお造りになられた遣唐使船が回漕中に難波の江の口で座礁なされたこともあられて、大宰府に
「唐国は荒乱して使いは送り難い。よって沈惟岳折衝らは先々も優遇して季節の服は府庫のものを給し、国を懐かしむ情が深く帰郷を願い出る者がおれば駕船に水手をつけて発たせよ」
との勅命をくだされ、
五月六日、
七十七歳で物化(死去)なされた鑑真大和上をご丁重に送られますと、各種の造営に携わられておられる兵士の田租を緩和なされ、飢饉・疫病、神火として報告される失火や河川の氾濫は官司(役所)の政治のあやまちであり、人民を嘆かせ米価を押さえられない無能な国郡司は帰郷させて有能な人材を登用せよと、長年離れておられた政治の感をお取戻しになられ、
八月十八日、
暦の儀鳳(きほう)暦を真備朝臣がお持ち帰られておられた大衍(だいえん)暦にお改めになられ、
九月四日、
山階寺(やましな-でら。興福寺)の慈訓法師を降ろされて道鏡禅師を少僧都(七位)になされ、次の年  
天平八年(764)正月は人事の一新でございました。
真備朝臣を造東大寺長官に任命され、
七月、
道鏡禅師のご舎弟弓削淨人連(ゆげ-の-きよひと-の-むらじ)に弓削宿祢を賜り、弓削一族の名を諸官にお連ねになられるのでございます。
このほか、紀寺の益人たち七十余人が奴婢を不服とされて訴え出られましたのを、新しく御史大夫(大納言)となられた文屋浄三真人(ふんや-の-きよみの-まひと。智努王)が奏上なされた古典の明文(古代の王の政治倫理)である『賞の疑わしきは重きに従い、刑の疑わしきは軽ろきに従う』によってお裁きになられ、近江大津宮(天智天皇)が戸籍原本として残された庚午年籍(こうご-ねんじゃく。戸籍)から解放なされて京の戸籍に編入されるようなこともされておられましたが、御代(み-よ)が代わられた宝亀四年(773)にお一人を除いて元へ戻されておられました。
ところで仲麻呂朝臣でございます。
いつ新羅をお討ちになられますのか、三十一年前に普照(ふしょう)師たちと入唐なされた戒融師(かいゆう-し)が去年、渤海経由で帰国なされておられ、唐の勅使の
「日本国の僧戒融を送って本国に届けさせること、すでに終えて日がたつ。もし平安に国に帰ったのであれば、当然知らせがあるはずなのに今日にいたるも寂として音沙汰がない。よろしくこの使いを差し向けてその消息を天子に奏上したい」
との牒(ちょう。公文書)を持って博多大津に参られた新羅使に、授刀衛大尉(じゅとうえい-だいじょう。三等官)粟田道麻呂たちを遣わされて、
「このごろ、かの国(新羅)から帰化してくる民が申しておる。『本国が兵を起こして警備しているのは恐らく日本国が来て罪を問おうとしているからであろう』と。その事の真偽はどうか」と詰問なされたところ、『唐国が乱れて海賊がまことに繁しく、これによって武装兵を徴発し、縁辺を防ぎ守らせているのであって、すなわち国の備えであります。事はもとより嘘ではありません』とのことでございましたのに、大師はなおも「都督使(総指揮官)四畿内・三関・近江・丹波・播磨・等国習兵事使」の肩書を上奏なされてひそかに軍事力を強化されておられたものでございますから、謀反のお噂はかなり広がっていたのでございます。
九月十一日、
女帝上皇が退官なされる文屋浄三真人に
「『止まるを知れば殆(あや)うからず、足るを知れば辱(はずかし)められず』(老子)とは、卿のことをいうのである」
との書状を添えられて、肘掛けに杖と新銭十万文を贈られた七日後のことでございました。
大外記(太政官の書記)の高丘比良麻呂連が、禍(わざわい)がご自分に及ぶのを恐れて上告に参られたのでございます。
「都督使が兵を徴収する権限は国ごとに二十人であります。それを仲麻呂朝臣は太政官印を使って百人を召集なされました」
と。
ご心配であられたのは中宮院に置いておられる駅鈴の印でございました。これを示せば関所は自在に通行できるのでございます。
すぐにも中納言の山村王を走らせたのですが、朝臣の子息の訓儒(くず)麻呂朝臣たちが待ちかまえておられて争奪戦となられ、駆け付けた授刀衛少尉坂上苅田麻呂忌寸(いみき)たちが訓儒麻呂らを射殺なされましたので奪われずにすみましたが、朝臣はその日のうちに一族を田村第に集結なされて兵をお挙げになられたのでございます。
女帝上皇も即応でございました。
藤原朝臣の姓・官位・職分田・功封その他一切の雑物を剥奪没収なされますと、
「勇士がいて押勝を切り捨てる者がいれば重く賞する。また、太政官符を持つといっても決して通してはならぬ」とのたまわれ、追討する臣下の位階をお上げになられて豊成朝臣をもとの大臣に召喚なされたのでございます。
あわただしい一夜でございました。
真備の朝臣は東大寺の正倉から兵器を借り出されて工匠(たくみ。木工・大工)たちに武装を命じられ、写経奉仕に参られておられた兵士たちをそのまま寺の警備におつけになられ、討伐将軍に任じられた良継朝臣のご舎弟(しゃてい)蔵下(くらじ)麻呂朝臣に暁の出撃をお命じになられたのでございます。
城外は蜜蜂の巣箱をつついたようでございました。
都を出られた仲麻呂朝臣は宇治から藤原氏ゆかりの近江に入られるのでございますが、兵馬の調達に出された使いが造池使の淡海三船(おうみ-のみふね。大友皇子の曾孫)真人たちに取り押さえられた上、瀬田橋が田原道(城陽市青谷から大津市勢田への道といわれる)を疾駆なされた官軍の先遣隊に焼き落とされておられたものでございますから、色をなくされて高島に走られ、宿をとられた少領(郡司の次官)の家の宿舎に甕(かめ)ほどもある星が落ちて来られた翌日、塩焼王を帝にお仕立てになられて朝狩朝臣たちを三品にされ、越前へ抜けようとなされたところ愛発(あらち-の)関で阻まれ、船で対岸の浅井に渡ろうとなされますと逆風に煽られて戻され、もう一度山道から愛発(あらち-の)を目差されて一時は官軍をお攻めになられるのでございますが、到着なされた蔵下麻呂軍に壊滅なされ、妻やお子らと湖上に浮かばれたところを大初位下(三十位中二十八位)石村石楯(いわむら-の-いわたて-の)村主(すぐり。姓)に捕えられて家来三十四人ともどもみな鬼江の頭(ほとり)で斬られ、刷雄(よしお-の)朝臣だけが僧衣であられたことから隠岐へお流されになられるのでございます。
酷い七日間でございました。
「寵愛極まりて罪過多し」
仲麻呂五十九歳のお首が届けられた二日後の詔でございます。
「哀れ仲末呂遂に落つ。先に捨てさりし道祖(ふなど)の兄である塩焼を帝に立て、書き物を天下に撒き散らして諸人を惑わせたばかりか、三関に使いをやってそれらの国々から兵士六千を徴発した。これを見ても仲末(麻)呂の心がいかに逆に汚れていたかが知れる。忠義面して奏してきたことはことごとく騙しでありヘツライデあった。おのれ一人が朝廷の実権を一手にしようと兄の右大臣豊成を讒言(ざんげん。事実でない告げ口)した。しかるにわれは汚き邪(よこしま)な奴(やっこ)の奏上によって政治を執り誤り、諸氏の氏人らを登用も理にかなっていなかった。よって、これよりのちは仕え方次第で登用することにする。
さて仲末呂は、ここに控えられる道鏡禅師に心が安まらず、たびたび退かせたまえと奏しておったが、禅師の行いを見るにいたって清く、仏の教えをつなぎ広め、われをも導き護りくだされておりますわれが師をどうして容易(たやす)く退けられようか。われは髪を剃り仏の御袈裟を着ておるが、国家の政事はしなければならない。仏も経で『国王が王位にあるときは菩薩の浄戒をうけるがよい』と、のたまわれておられる。それゆえ、帝が出家しておるときは出家の大臣もおってよかろうと思うのである。殊更禅師が願っておられるわけではないが、この道鏡禅師に大臣禅師の位を授け奉ることにした。担当の役所はよろしくこれを知って職分田および封戸は大臣に准じて施行されよ」と。
官職名を旧来にお戻しになられて、逆賊仲末呂をお討になられたお手柄の諸王臣百官に位階をお加えになられたり、宇佐八幡大神に封戸二十五戸をお当てがわれになられたりされておられましたが、わたくしは夫戸主の負傷を心配しながら捕えられて来る逆徒を弁護し、斬刑から救い出すことに力を注いでいたのでございます。
お斬りなられて新たなご不幸をお作りになられるよりは、生かされてたとえ蝦夷の地であられようともお送りなされる方がどれほどよろしいか。
そこは女帝上皇でございました。
三百六十五人を流刑に減じてくだされ、明基たちと収容して回った八十三人の捨て子に葛木首(かつらぎ-の-おひと)の姓を賜られたのでございます。夫が息を引き取る三日前のことでございました。
やがて淳仁帝が淡路国の公(きみ)にお退(しりぞ)かされになられ、兄の船親王が隠岐に、池田親王が土佐にお流されになられますと、
十二月、
大宰府から「西方に音声あり、雷に似て雷にあらず。ときに(それが)大隅と薩摩の二つの国の堺に当たって煙雲晦冥(えんうん-かいめい。噴煙が暗闇をつくって)奔電去来(ほんでん-きょらい。稲妻が走り行き来)した。七日のち、天は晴れ、鹿児島信爾(しなに)村の海に砂石が集まり変化して三つの島(御岳・鍋山・南岳。桜島)となる。炎気露見して冶鋳(やちゅう。鉱石を溶かして吹き分ける)をなすがごとし。島は互いに連なり、望めば東屋(あずま-や)のようである。島のために埋もれたもの、民家六十二戸、人民八十余人」の早馬が届き、その年は京の米が一石千文に跳ね上がって暮れるのでございます。  
明けて九年(765)は改元でございました。
正月七日、
重祚(ちょうそ。再び帝位につくこと)なされた女帝は神霊が逆風を吹かせて国を護りたまわられたと勅なされて年号を天平神護とされ、命を惜しまず正しく清い心で朝廷を護り仕えられた諸王臣百官の位階をお上げになられますと、
三月五日、
墾田の開発は勢力のある家のみが人民を駆使し、貧窮の百姓は自分で耕すいとまもないと永代私財の法をお禁じになられ、
十三日、
正六位下(十六位)のわたくしと右兵衛少尉(しょう-じょう)従六位下(十七位)の弟藤野別(わけ-の)真人清麻呂ほか吉備のもの二人に吉備藤野和気真人を、郷里藤野郡の郡司藤野別公(きみ)子麻呂たち十二人に吉備藤野別宿祢を、近衛の従八位下(二十六位)別公薗守(そのもり)たち九人に吉備石成(いわなし)別宿祢を賜り
四月十五日、
代々の家門から二人(広嗣と仲麻呂)もの逆臣をだされたことを恥じられた豊成朝臣が、ご先祖の永代功封五千戸のうち国分寺建立時に三千戸を返還なされた残りの二千戸をお返しになられ、
八月一日、
仲麻呂朝臣の謀反の準備をいち早く告げられて勲二等功田五十町を賜られておられた和気王(舎人親王の孫)が殺されるのでございます。
呪いの達人で知られる紀益女(き-の-ますめ)朝臣と通じられて「淡路公(淳仁帝)を京に召し上げられよ」と願われ、「怨敵男女二人(女帝と道鏡)を殺されよ」と呪いをお懸けなされたとか、参議になられておられた粟田道麻呂朝臣たちと皇位をうかがう飲食をなされたとかの嫌疑で、率河社(いさかわ-の-やしろ。大和添上郡)に潜まれておられたところを捕えられて伊豆へお流されになられる途中、山城の相楽(さがら)で、益女朝臣は綴喜(つづき)郡松井村で同じく絞殺でございました。
粟田道麻呂朝臣は道鏡大臣禅師が教え導かれると申されて飛騨の国の員外の次官を命じられ、どういうわけであられたのか、互いに怨みあっておられたと申される上道斐太都朝臣が時を移さず飛騨の国守に赴任なされて道麻呂ご夫妻を一院にお閉じ込めになられてしまわれましたので、日月を積み重ねるうちに衰弱死なされたとのことでございます。
淡路公(淳仁帝)は憤死でございました。
商人を装われた人々が公との間をひそかに行き来なされておられ、脱走をお企てになられた上でのことであられたとのことでございます。
そのころ、女帝は道鏡禅師と紀伊・大和・河内の三国に行幸なされておられて、弟清麻呂の話しによりますと、淡路公がお亡くなりになられた十月二十三日は南浜の望海楼でご宴遊なされて名草郡に入られ、二十六日、海部郡から和泉国日根郡深日(ふけ)の行宮に到着なされますと、西の空がにわかにかき曇って常とは異なる風雨が襲ってまいり、お供のなかには淡路公の怨念だと申される方もおられたとのことでございましたが、女帝陛下は行幸をおつづけになられ、先々で調庸の免除、高齢者への施し、罪人の放免などをなされて、禅師の出生地河内国若江郡の弓削寺では唐・高麗樂を催され、還幸なされてまいられたときは、大臣禅師が太政大臣禅師に昇格されておられましたので、留守居の諸臣百官は一様に驚かれ、とりあえずお祝いのお言葉をお述べになられたのでございますが、
京では、
『法師らを裙著(もはぎ。僧衣)とばかりあなどるな、中に腰帯薦槌(たちはき-こもづち。ふんどしに隠れた性器)下がりて、いや立つこと立つこと恐ろしき卿ぞよ』とか『あが黒む、素股に寝たまえ、人となるまで』などの童謡が歌われておられて、流行らせておられるのは采女(うねめ)くずれと戯れて、
『御肴(みさかな)に何よけむ鮑(あわび)さざえか石陰子(かせ。女陰)よけむ』
などと歌っておられる下司(げす)なお役人どもでございました。
禅師は俗姓弓削連で、師の義淵(ぎえん)師がなくなられたあと東大寺の根本僧正(開祖)となられておられた良弁(ろうべん)師にご師事なされたり、役君(えん-の-きみ。小角〈おづの〉。妖術を使うとして天武天皇三年〈699〉伊豆へ流された)が鬼神を飼いならされておられたといわれる葛木山で、神験(しんげん。祈祷力)を身に付けられたり梵文(ぼんもん。サンスクリット)を学ばれたりなされて内道場に入られ、女帝の引き立てを蒙るようになられたのはご効験が灼(あらたか。神仏の力の働きがすぐれているさま)であられたからでございます。
わたくしは恐れ多くも四六時中女帝のお側にお仕えさせていただいていたのでございますが、禅師にお気持ちをお傾けになられておられるとは申せ、正しい菩薩戒(ぼさつかい。不殺・不盗・不淫などのいましめ)をお受けになられておられるのでございます。ご一緒なされておられますのはご安堵からで、読経を共になされるとお心が安らぐとのことでございました。ただ、禅師にご野心がおありであられるかどうかは知る由もございませんでした。  
女帝は、暮れに右大臣豊成朝臣が亡くなられましたので、年が明けた天平神護二年(766)の正月、大納言藤原永手朝臣を右大臣に、中納言正三位(五位)白壁王(しらかべ。のち光仁天皇)と藤原真楯(またて-の)朝臣を大納言に、参議正三位吉備真備朝臣を中納言になさられるのでございますが、
二月、普照(ふしょう)師の母御であられる白猪与呂志女(しらい-の-よろしめ)に従五位下を賜られた翌月、真楯朝臣が急逝なされたものでございますから、真備朝臣を大納言にお繰り上げになられ、大宰府が言上なされておられた勇健な東国兵による防人(さきもり)の復活を、「東西が融通しあって差し障りがないようにすべきで、筑紫には東国の防人(天平宝字元年757に廃止)が多く留まっておると聞く。調べまとめて守りにつかせ、その欠員を補充するに止めよ」とみことのりなされて、十二年前に没収なされた宇佐八幡の封戸のうち比盗_の六百戸をお返しなされますと、
五月四日、
大納言真備朝臣の奏上で、中(内裏)の壬生(みぶ)門の西に『およそ役所に押さえつけられている者はよろしくこの下にきて願い出よ』と『人民で無実の罪を着せられている者はよろしくこの下にきて申し訴えよ』と書かれた二本の柱をお建てになられたのでございます。
早速でございました。
備前の国守従五位上石川名足(なたる-の)朝臣が訴えの文書を出されたのでございます。
「藤野郡は土地が皮と背のようで、人々は最も貧困であります。公の仕事をあれこれ割り当てられましても、交通の要衝にあって山陽の駅路を預かり、任務が絶えないばかりか、西海に通ずる道に続いていますので送迎が相次ぎ、馬は疲れ、人は苦しみ、いずれも生かし救うことができません。加えて、しきりに旱魃(かんばつ)に遭い、わずか三郷(百五十戸)では人は少なく仕事は繁忙で、どうしてよく労賃の支払いができましょうか。伏して願いますことは、邑久(おおく)郡の香登郷、赤坂郡の珂磨。佐伯の二郷と、上道郡の物理(ものろい)・肩背・沙石の三郷を藤野郡につけてもらいたいのであります」と。
続いて、美作の国守従五位上巨勢浄成朝臣でございました。
「勝田(かつまた)郡の塩田村の人民は郡役所から遠く離れて他郡に近接しておりますので、租税を課されてもその運搬に極めて辛苦しております。望み願いますことは居住しているところ、すなわち藤野郡につけてもらいたいのであります」と。
いずれも申し出をお許しになられ、大風で桑と麻に被害を蒙られた日向(ひゅうが)・大隅・薩摩の柵戸(さくこ。大宝二年〈702〉隼人を平らげた入植地)の調庸を免除なされ、殊に大隅では二年前に国神がお造りになられた新島(桜島)の噴煙と震動がいまだにおさまらず、民の他国への流亡がつづいているとのことでございましたので、救済を施され、
六月二十八日、
六十九歳でお亡くなりになられた刑部卿従三位百済敬福王の、自由気ままで酒色を好み、清貧の士庶を助けて物を与えられ、政治にも才量のあられた人柄と黄金献上の功績に対して弔いの金品を贈られ、
七月、
大政大臣禅師のご推挙で役の君の孫と申される賀茂氏の円興律師を大僧都になされますと、
九月、
同じく仲間の基真禅師に正五位上を賜り、八幡大神の主神大神(おおみわ-の)田麻呂朝臣を本の位に戻され、
十月二日、
法華寺内の隅寺の毘沙門天から舎利(しゃり。仏の骨。仏教が中国に入ってからは瑠璃)が出現なされるのでございます。
女帝は、由利朝臣が『天朝の奉為(おんために)』と写し奉られた一切経の律・論・疏(そ。戒律と意義を箇条書きにしたもの)などは無視なされてのお喜びようでございました。
舎利の前後に金銀朱紫の衣服で着飾られた氏々の見目麗しい五位以上の壮年二十三人と六位以下の壮年百七十七人とに幡(はた)と蓋(きぬがさ)を捧げもたされになられて法華寺に安置なされますと、
「この如来の尊きみ舎利は常に拝み眺めているものよりも大きくお色も照り輝いていと美しく、お形も円満で殊に良い。どうしてこのような玄珪緑字(げんけい-りょくじ。黒曜石と緑(黒)字は神のお告げ、とされた)が現れたのか不思議で究め難いが、思うに昼も夜もあきることなくみ仏を敬い仕え奉り、おのれの浅はかな徳を戒めておるから慈しみ救いたまわれたのであろうと思うが、やはり人あってのことで、大法師らを率いてその上にいますわれの大師(高僧の尊称。道鏡)太政大臣禅師の日々の教化の力があってこそ、奇しくも尊きみ験(しるし)がたまわられたのであり、このような嬉しいことをわれひとりで喜ばれようか」
と詔なされて、
道鏡禅師に法王の位を、またいろいろの大法師の、なかでも特にわれが大師と同じ心の持ち主であられるからと、円興禅師に法臣大僧都(大納言に準じる)を、基真禅師に法参議大律師と正四位上物部朝臣浄之(きよし)の氏姓をお授けになられ、永手朝臣を左大臣に、弓削御浄(みきよ-の)朝臣を賜られて、参議従三位になられておられたご舎弟の浄人宿祢を正三位中納言になさられたのでございます。
このほか白壁王の第一子であられる山部王(のち桓武天皇)に従五位上、宇合朝臣の孫に当たられる藤原種継朝臣と弟清麻呂らに従五位下を授けられ、
十一月、
陸奥の国の磐城と宮城の稲穀(モミ米と雑穀)あわせて一万六千四百余石を貧民に施されて、
十二月十二日、
一条三坊にご造営中の西大寺に出でまされ、
二十八日
大安寺の東塔に雷が落ちて、この年、もう一つ記憶に残っておりますのは、お捕えになられた私鋳銭(し-ちゅうせん。にせがね)造りの足かせに鈴をつけられて鋳銭司でお働かせになられたことでございましょうか。  
翌三年(767)二月、
不作で種もみに困窮なされておられた淡路と和泉の国に播磨と讃岐の国などから苗八万束をお移しになられ、真備朝臣の子息近衛将監従五位下吉備泉朝臣に大学員外助(いんげ-の-すけ〈次官〉)を兼ねさせられ、従四位下八位佐伯今毛人宿祢を造西大寺長官に任じられて、
三月、
阿波国の板野・名方・阿波の三郡が、
「庚午年籍(こうご-ねんじゃく)で凡直(おおしのあたい)と記されましたが籍にはみな費(あたい)の字がついておりました。このあと、郡長の凡直麻呂らが朝廷に述べてあらためて粟凡直(あわ-の-おおし-の-あたい)となり、決着がつきました。ところが、天平宝字二年(758)の編籍(六年ごとの組み換え)の日に遡ってまたもとの凡費とつけられました。これでは心が休まりません」
と、言上なされた訴状を読まれて、粟凡直になされ、
二十日、
道鏡禅師の法王宮に職(役所)を置かれて
四月十四日、
東院に新しく造成された瑠璃(るり)葺きの玉殿を祝われ、
二十一日、
禅師にゆかりのあられる常陸(ひたち-の)国の鹿嶋神社の神賎(しんせん。奴婢。蘇我の馬子に滅ぼされた物部守屋の部民の末裔)男女百五十五人を解放なされて、八月十六日、天平神護三年(767)を神護景雲元年にお改めになられたのでございます。各地でめでたい兆しの景雲が現れたからでございます。
六月十六日が発端でございました。
「大変めずらしく、殊に麗しい雲が七色に相交じりあって立ち昇った」
と、内裏が騒いでおりますので庭におりてみますと、生駒の烽火台のあたりのようでございましたが、どなたもみなお色めきたたれておられて、
十七日、
五色の雲が渡会(わたらい)の等由気(とゆけ。伊勢豊受大神宮)の宮を覆われ、
七月十五日、
陰陽寮(天文・地相・の吉凶を占う役所)が西北の方角にほかの雲と違った美しい雲をご覧になられたと申されて、
二十三日、
東南(たつみ)の方角に、『根元は朱く、広がるほどに黄ばみ、ほぼ五色』の雲が現れたのでございます。そこで、使いを出されて書き写されて来られた「等由気の五色」を瑞書(ずいしょ。図鑑)でお調べになられましたところ、間違いなく瑞雲であり、大瑞であられるとのことでございましたので、
八月八日、
参河に現れたのを祝いなされて西宮の道鏡禅師の寝殿に六百人のご僧侶をお招きなされ、斎会(さいえ。食事会)を設けられたのでございますが、手を叩き足を跳ね上げ歓喜なされるお行儀の悪さと申しましたら正にご僧侶、大宮人はあきれかえられておられました。
それでも改元に当たられては
「とりわけ大神宮をお覆いになられた景雲は天照大御神のお恵みであり、口にだすのも恐れ多い御代御代の、先の皇祖の御霊がお助けたまい、恵みたまわれ、大法師らの勤めをはじめ、諸臣の政事が理に適っておるから、三宝(みほとけ)・諸天(天地の神)帝釈(たいしゃく)・梵天(ぼんてん)たちがともに霊験をあらわせたまわれたので、ともに頂いてともに喜び天地のご恩に報い奉るしかしか」と、伊勢大神宮の禰宜(ねぎ。神官に次ぐ)以下、諸国の祝部(はふり。次官)、左右京の六十歳以上の男女に階級をたまい、孝子・順孫・義夫・節婦・力田には二階級を加えられてその人の門に田租の終身免除を示される旌(はた。牛のしっぽに鳥の羽をつけたもの)をお立てになられ、八十歳以上および鰥(かん。やまお)・寡・孤・独の人には籾、極刑者・贋金造り・強盗窃盗を除く死刑以外の罪人には恩赦をだされ、陰陽寮の紀益麻呂朝臣と山上船主臣(おみ。姓)および天文博士や呪禁師たちをも叙位されたのでございます。
正倉は底を尽きはじめ、土佐安芸郡の少領外従六位下凡(おおし-の)伊賀麻呂直の稲二万束・牛六十頭の献上に外従五位上、散位正七位上秦真成忌寸(いみき)の銭二千貫・牛十頭に外従五位下、伊予宇摩郡の凡継人直の銭百文・麻布百端・竹笠百蓋(がい。単位)・稲二万束に外従六位下、その父に外従五位下というふうに、位階と引き換えに墾田・稲・牛・馬・鶏・豚・鋳銭・産物などの献上者を募られておられますのに、真備朝臣が筑前の守であられたときに開墾なされた対馬の墾田三町一段・陸田五町二段・雑穀二万束を献上なされますと、島の貯えになされるようにと仰せになられ、道鏡禅師と西大寺に行幸なされて曲水の宴にお招きなされた文武百官に禄をたまわられ、大寺へのご施入ご喜捨ばかりか、宇佐八幡大神宮に比唐フ神宮寺をご造営なされたり、弓削氏の位禄をお上げになれば、藤原、吉備、ひいてはわたくしども姉弟の位階までお上げになられたりされておられたのでございます。
この年は寒い年で十一月に入りますと
十七日に参議の従三位治部卿山村王が四十六歳で亡くなられ、
二十日、
私鋳銭(し-ちゅうせん。にせがね)造りの王清麻呂たち四十人の姓を鋳銭部(じゅせん-べ)と改められて出羽国へお流されになられ、
十二月、
田畑の少ない阿波国にある、諸王臣の功田位田を公収なされて人民の口分田になされると、  
神護景雲二年(768)正月、播磨国が白い鹿を奉られ、
夏四月、
弓削御浄広方朝臣が武蔵の介(すけ。次官)になられ、
六月二十日、従五位上に進まれておられた山上船主臣(おみ)の一族十人に朝臣の姓が賜られますと、
二十一日、
武蔵国橘樹(たちばな)郡の人飛鳥部吉志の五百国(いおくに)が久良(くら)郡で捕らえたと申されて白雉(はく-ち。しろきじ)を献上なされて参られたのでございます。
瑞祥(ずいしょう。めでたいしるし)でございました。
山上朝臣ら群卿・博士たちによりますと、諸臣百官が心を一つになされておられる真心に、天が感応なされたもので、白色は当代の天子が徳を輝かして民を治めているしるし、国を武蔵というのは武を収めて文を尊ぶしるし、郡の名を久良と称するのは天子の寿命のしるし、姓の吉志は韓人の敬称で多くの民が子が親を慕うように天子のもとに慕い寄って来るしるし、名の五百国は五方が朝貢してくるしるしであられるとのことでございましたので、
女帝は
「むかし、隆盛を誇った周の国が刑罰をやめたとき越(ベトナム南部)の国が白雉を贈り、孝徳天皇(在位645〜654)が平和であったときは長門が白雉を献上した。このめでたいしるしを長く言い伝えるには、恵みを施すべきである」
と勅(みことのり)なされて、武蔵国の天平神護二年以前の正税未納分を三分の一になされ、国郡司に一級、五百国には従八位下と粗絹十匹その他を賜り、
二十八日、死去なされた内蔵頭(うちくら-の-かみ)兼大外記・遠江守従四位下高丘比良麻呂宿祢に、
「先祖の沙門詠(えい)は近江朝天智天皇三年(664)に百済より帰化した。父の楽浪(さざなみ)河内は正五位下大学頭であった。神亀元年(724)あらためて高丘連となった。比良麻呂は若くして大学に遊び、書籍を漁り学び大外記を歴任、外従五位下をさずけられた。天平宝字八年(764)仲麻呂が叛くことを告げて従四位下を授けられた。神護景雲元年(767)宿祢の姓を賜った」
との哀悼のおことばを贈られ、
七月、
三河の国が白鳥、肥後が赤目の白亀、日向が白い尾の青馬、
十一月は三日に、
美作の掾(じょう。三等官)恩智の神主広人が白鼠、
十三日に
大納言兼衛門督(かみ。長官)正三位弓削御浄清人朝臣が大宰帥を兼任なされて、
十二月は基真禅師の転任でございました。
基真禅師は法参議になられるやお肩でお風をお切りになられ、卿大夫が申されるも片っ端からお怒鳴りお散らされになられますものでございますから、道行く人はどなたもみな虎を恐れる百獣のようにお逃げまわられになられておられたのでございます。
お若いときから呪道を好まれ、童子に呪いをおかけしては動けないようになされたり、人の隠し事をおしゃべらされになられるようなこともなされておられたようで、隅寺の『大御舎利』も実はむかし大道でやっておられた『奇術を使ったまでのことよ』とご吹聴なされておられたものでございますから、円興法臣大僧都が見かねて飛騨へお飛ばされになられたのでございますが、
女帝は歯牙にもおかけになられず、
翌神護景雲三年(767)は元旦が雨でございましたので、
二日、
文武百官と陸奥の蝦夷の朝賀をおうけになられて、
七日、
法王宮のご宴会にいでまされ、
二月三日、
左大臣永手朝臣の屋敷においでになられて従一位とご家族の位をおあげになられ、
十七日、
「陸奥の国の桃生(ももお)と伊治(これはる)の二城の造営はすでにおわった。その土地は肥えていて作物はゆたかに実る。よろしく坂東八国に告げて管内の百姓を募らせよ。もし農業と養蚕に親しみをもってかの地の開拓につくものがおれば願いに任せて転居させ、好きなように居住させて法の取り決めのほかにも優遇し、労役を免除して民が移りやすいようにせよ」と勅を出され、
二十四日、
右大臣真備朝臣の邸宅にいでまされて正二位を、
二十六日、
子息の泉朝臣に正五位下を、
三月十三日、
陸奥の国の人々に氏姓を賜られ、
二十四日、
西大寺に行幸なされて佐伯今毛人宿祢たちを叙位なされ、
五月十八日、
左右大臣にそれぞれ稲十万束を賜られた七日後の二十五日の未明でございました。
大勢の衛士たちが宮を駆け抜けていかれたのでございます。
呪詛(じゅそ。のろい)の露見でございました。
仲麻呂朝臣に連座なされて内親王の位をお剝ぎとられになられておられた故氷上塩焼真人(塩焼王)の妃不破内親王(女帝の異母妹)がご長男の志計志(しけし)麻呂真人を日嗣(ひつぎ。皇太子)にと願われ、法華寺の東南を流れる佐保川から拾われてこられた髑髏(ろくろ)に恐れ多くも女帝の御髪(み-ぐし)を盗み出されてお詰め込まれになられ、呪を三度もおかけになられておられたというのでございます。
お聞きなされた女帝は
「ビルシャナ如来・最勝王経・観世音菩薩・護法善神の梵天・帝釈・四天王の不可思議な威力と神力とかけまくも恐れ多い天地開闢以来の天の下しろしめす天皇の御霊、天地の神たちの護り助け奉られる力により、それらが穢く謀られた呪いであったことはすべて発覚した」
と、あたかも呪詛をおかけになられるようにのたまわれ、不破内親王を厨(くりや-の)真人厨女(くりやめ)と改名なされて京払い、志計志麻呂真人は土佐、共謀の県犬養姉女と忍坂・石田の女王は遠流になされ、
二十八日、
清麻呂以下備前の近衛(このえ)士に新たな氏姓を賜られて、数日後のことでございました。
呼ばれて参りますと、女帝は薄織の生絹(すずし)越しに意外なことを仰せになられたのでございます。
「外でもないが、大宰府の主神(かんずかさ)が法王を皇位につければ天下は太平であるとのたまう八幡大神の神託(しんたく。神のお告げ)を奏上して参った。どうしたものかと朝に考え、夕べに悩みしておるうちに、昨夜大神が夢枕に立たれ、是非奏上したいことがあるから尼の法均を遣わされよとのたまわれた。しかしながら、豊前までは遠い。そこで、汝の弟を代わりに遣わすことにした。近衛将監(このえ-しょうげん。三等官)藤野真人清麻呂じゃ。このごろ内裏に泊って夜も仕えてくれておられる右大臣吉備真備朝臣に負けず劣らずの剛直(ごうちょく。強情で正直)滅私奉公の持ち主であると聞いておる。三十七歳は使者としても適齢じゃ。ただし、帰り申し(復命)は法均がせよ」と。
翌日、道鏡禅師は退朝の鼓(こ。一日の職務がおわる正午の合図)のあと、清麻呂を法王宮に招いて、
「八幡大神は神功皇后以来国家の守護神であり、早くから七重の塔を建てて朝廷が奉られた経蔵を読誦され、神宮寺の造営も始めておられる仏法護持の大神でもあられる。大仏建立をはじめ、広嗣や仲麻呂の乱にも威力を示された。このたび使いを要請なされたのは、われ(道鏡)の即位を伝えるためであろう。神教(お告げ)を受け賜ってわれの欲するところを得れば汝に太政大臣を授け、もし言葉に違えば汝を重刑に処するのみ」
と申されて、お取り巻きも、
「ならば清麻呂」
と杯を差し向けられ、
「成ろうぞ太政大臣じゃ」
と、お囃しになられたそうで、お嘆きであられたのは禅師の儒学の師でもあられた路豊永(みち-の-とよなが-の)真人であられたとのことでございます。
この日、宝珠大橋のそばで清麻呂をつかまえられて、
「古来政治に携わる者は仁(じん。おもいやる心)・義(守るべき正しい道)・礼(秩序をみださないための礼節)・知(わきまえ。分別)・信(まこと。うそいつわりがない)の五常を修め、品性(人格)を養い、常に民百姓を思う有徳の士であらねばならぬとされてきた。それを奴(きゃつ)ときたら天朝が仏法を信奉するのにつけあがって軽々しく力役を興し、伽藍を造り修理しておる。ために国費は空費され民は公私ともに意気消沈しておるではないか。そればかりではない。勢いに驕って皇位までも狙いおる。奴が天皇になるくらいなら殷(いん。前16世紀〜前11世紀)の伯夷(はくい。首陽山で餓死した史記列伝中の人物)にならって餓死する方がましだ。どうしてあんな奴につかえることができようか」
と唾棄なされ、別れ際に
「道を踏み誤るでないぞ」
と申されて、
真備朝臣は主神の習宜(すげ-の)阿蘇麻呂は豊前の国司でもあるから威厳をもって接し、決して供応を受けてはならない、などとの心得であられたとのことでございます。 
出発は駅鈴を授けられた六月の暑い盛りでございました。
八歳になる清麻呂の息子広世(ひろよ。のち典薬頭兼大学頭。弘文院を建てて数千巻の図書を蔵し学問を奨励した)たちと羅生門に見送ったあと、
二十六日、
備前国藤野郡の別部・忍海部・財部・邑久郡の別部・藤野郡の物部たち六十四人が石生別公(いわお-わけ-のきみ)、藤野郡母止理部(もとろいべ)・赤坂と美作国勝田両郡の家部(やかべ。下男下女)たち六人と、
二十七日
美作備前両国の家部、母止理部の二氏が残らず石野(いわの-の)連を賜り、
二十九日
藤野郡が和気郡に改まるのでございます。
わたくしは清麻呂の無事を祈って、明基の運んでくる二度の食事を摂る以外はほとんど経をとなえていたのでございますが、それでも厨(くりや-の)真人厨女に落とされた不破内親王が四十二戸の封戸と十町の田をたまわられたことや、道鏡禅師が「法王宮職の印」をお使いはじめになられたことなどは聞こえておりまして、清麻呂が戻って参りましたのは、下総(しもうさ。千葉北部と茨城南部)の猨(さる)島で穀米六千四百余石の正倉が焼け落ちたとの知らせが届いておられた八月の中旬でございました。
日焼けして被服は土埃(つちぼこり)に塗(まみ)れておりましたが、不精ひげは平然としておりましたので、手渡された表文を持って寝殿にあがったのでございます。
沙汰は「帰って待て」でございました。
清麻呂は筑紫の綿の花が美しかったことや、帰途、藤野の駅で氏姓を賜られた別部たちから礼を述べられたことなどを話してから、宇佐八幡では終始帯剣に手をかけていたと、語り始めたのでございます。
大宰府から同行なされた主神(かんずかさ)があまりに動揺しておられるので、答えなければ斬る、そう覚悟して『神教は国家の存亡にかかわっております。もう一度ご託宣くだされ』と迫りましたところ、にわかに大神(おおみかみ)が形を現されて長さ三尺にもなられて満月のように光り輝かれたのだそうでございます。もう魂消(たまげ。びっくりし)てしばらく度を失っていますと、大神は震怒なされて『道鏡神器を望むは悖逆無道(はいぎゃく-むどう。道にそむくこととはずれること)、わが国の君臣は開闢(かいびゃく。天地が開けたとき)以来、分定(ぶんじょう。 区別)されておる。汝帰りてわが言葉のごとく奏上せよ。すなわち、天の日嗣は必ず皇太子をもってなし、無道の者はすみやかに掃討せよ』
と、のたまわれ、
『汝、道鏡の怨みを恐れることなかれ、われ必ずや救い助けん』
と、お付け加えなられたと、話しているところへいきなり剣をお抜きになられた舎人たちが現れ、神託を捏造したと申されたのでございます。
訳がわからないまま、わたくしは引き立てられて収監され、清麻呂は因幡(いなば。鳥取東部)の員外の介でございました。
九月二十五日、
引き出されて宮へ参るのでございますが、わたくしの生えふいた髪は真っ白のようでございました。どなたもがそのように申されておられたからでございます。
「これより天皇(すめらみこと)が大命(おおみこと)をのり給われる」
詔を読まれたのは大納言白壁王でございました。お歳は道鏡禅師より二つ三つお上の六十歳であられたかと思います。
「それ臣下というものは君(くん)にしたがい清く正しく赤い心(まごころ)をもって君を助け護り、対面しては無礼な顔はせず、退出しては謗(そし)ることなく、よこしま、偽り、へつらい、曲がれる心なく仕えまつるものである。それを従五位下因幡国員外の介輔治能(ふじの)真人清麻呂はその姉法均と極めて大きく悪いよこしまないつわりごとを作り、われに向かって法均は奏した。これをみるに、面(おもて)の色形口(いろ-かたち-くち。表情の端端)に言うこともなおあきらかにおのれが作って言うておることをあたかも大神命(おおみかみ-の-みこと)を借りて言うておると知った」
「つくりごとではありませぬ」
わたくしは思わず叫んだのでございます。
すると、右大臣真備真人の笏(しゃく)が返り、
『赤心を推して人の腹中に置く(まごころは人の腹のなかにおく。人を厚く信頼して疑わない)』と書かれていたのでございます。
わたくしは恐れ入って額を地面にこすりつけ、白髪に至った自分を恥じるしかございませんでした。 
「そこで問い求めたところわれが思うておったとおり大神命(おおみかみ)にはあらずとはっきり申した。ゆえに法によって退けるのである。そうせよと人に申されたからではない。筋道が逆(さか)さまなのである。顔つきも無礼で、われに向かっておのれが言葉を聞き用いよとは何事か。このようなことを天地が逆さまというが、これより勝るものはない。あえて人が申さなくとも、心のうちの悪しく汚く濁った人は必ず諸聖天神地祇が示したまうものである。これをもって人々はおのが心を明らかに清く正しく謹んで仕えまつれとのりたまう大命をきこしめされよ。まことのことを知って清麻呂らと相(あい)謀った人がおるのは知ってはおるが、君は恵みをもって政事を行うものであるから、慈しみ憐みたまいて許す。しかるに度重ねる人は法に従って裁きたまう。  
このようなありさまを悟って先に清麻呂らとこころを同じくして一つ二つのことを相謀った人らは心を改めて明らかに正しくある心をもって仕えまつれ。 
清麻呂らは仕えまつれる奴(やっこ)と思えばこそ、姓も賜い、教化もしてきた。しかし今は穢き奴として退けるのであるから、賜った姓は取って別部(わけべ)とし名は穢(きたな)麻呂とする。
法均の名も広虫売に戻した上、狭(せま)虫とする。また明基は広虫売と身は二つであるけれども心は一つであると知ったから、そなたの名も取りたまいて退ける。しかしながら、これでは法王の怒りがおさまらない。そこで除名して官位官籍を剥奪し、穢麻呂は大隅へ狭虫は備後へ流すことにする」
こあと、十月の一日であられたとのことでございます。
元正天皇の遺言詔勅であられる
『王(おおぎみ)たちはおのれが得ることのできない尊い御位(み-くらい)である皇位を望み求めて人を誘い、悪しく穢い心をもってさかしまな謀りごとを起こす。臣たちはおのが思い思いにこちに付きあちに寄りして頑(かたくな)に無礼な心で邪(よこしま)な謀りごとを構える。このような人をばわれは必ず天翔(あまかけ)て見回り、退け捨て去り嫌いまする云云』にお加えになられて、
聖武天皇の大命(おおみこと。ことば)であられる
『天下の政事は慈しみをもつて治めよ。上は三宝(みほとけ)の教えを栄させて出家と修行者を治めまつり、次は諸々の天神地祇の祭祀を絶やさず、下は天下の諸々の人民を憐れみたまえ。また、帝(みかど)の位というものは天の授けたまわぬ人に授けては保つこともできず、かえって身を滅ぼしてしまうものぞ。われが皇太子に立てている道祖(ふなど-の)王といえども汝の心によからずと知り、目に見えて悪ければ人を変えて立てることは心のままにされよ云云』の二つをお引きになられ、
『それ、君の位というものは求めても甚だ得がたいことはみなも知っての通りだが、先の奈良麻呂・仲麻呂・不破内親王らは謀(はかりごと)を恐れず、あわよくばと周到に謀って必ずや皇位を得ようと思い、いろいろに願い祈れどもなお諸聖天神祇の御霊は許したまわぬものであるから、自然に人も申し現して、おのれが口で言うてしまい、かえって身を滅ぼし災いを蒙ってついにはおのれも人も同じ罪に至らしめてしまった。これによって天地の神々を怨み、君臣をも恨む。それでもなお心を改め、正しく清くあったならば、天地も憎みたまわず、君も捨てたまわず、福を蒙り身も安らいでいたであろう。生きては官位を賜り栄え、死しては善い名を遠い世に流し伝えたであろうに、惜しいことよ。これゆえ、むかしの賢人も言うておる『体は灰とともに地に埋もれてしまうが、名は煙りとともに天に昇る』と、またいうておる『過(あやまち)を知っては必ず改め、能きことを得ては忘れるな』(千字文)このようなことをわれが教え諭すのも、今の世では世間の栄誉と孝・福を蒙って正しく清き名を現し、後の世では天にいます神々のあらゆる安らぎを受けて蓮華座上の仏になってほしいと思うからである』
と詔なされ、金泥(こん-でい。金粉をにかわで溶いたもの)で両端に『恕(じょ。おもいやり、ゆるす)の字を書いた紫の綾帯を五位以上にたまわられたとのことでございます。
手かせ足かせのわたくしどもがちょうど生駒山を越えていた日で、翌日賊に襲われるのでございますが、閃光雷鳴したかと思いますと、「汝、道鏡の怨みを恐れることなかれ、われ必ずや救い助けん」のおことばが天空に轟きわたり、まさしく八幡大神宮の御旗を立てられた騎兵隊があらわれてことなきを得たのでございます。
流刑地(配所)についてからは藤原百川(ももかわ-の)朝臣が備後の封戸二十戸を割いてくださいましたので、殊更辛い思いをせず、清麻呂は耆小神(きさしむし。しらみ)に悩まされながらも、口嚙みの酒(大ガメに乙女たちが飯を噛み入れて発酵させた酒)の仲間になって楽しく過ごしたと、のちに語っておりましたが、わたくしはもっぱら京からの便りでございました。
十月十日、
大宰府が申した。
「この府は人と物があふれて天下一の都会であります。年少で学ぶ者がだんだん多くなってきていますが、府の蔵は五経(易・詩・書・礼・春秋)を貯えているだけで、まだ三史(史記・漢書・後漢書)を持たず、書物を漁り読む人はその道をひろめることができません。伏して乞い願います。列代の諸史(代代の歴史書)をそれぞれ一本ずつたまわって管内に伝え習わし、学業を興したいのです」と。
詔があって、
史記・漢書・後漢書、三国志・晋書の各一揃えを賜った。
十月二十一日、
女帝が由義(弓削)の宮に行幸なされて竜華寺の西の川上に仮の市場を建て、河内の商人に市を開らかせた。
十月二十八日、
無位の上(かみつかた-の)村主刀自女の九十九歳をすぐれるとして従五位下を賜られた。
二十九日、
霊亀二年(716)請益生(しょうやく-しょう。遣唐使船の滞留期間中に学ぶ短期留学生)として入唐し、真備朝臣とともに『律令二十四条』を改定した大和長岡宿祢が死去した。大和の国造で正四位下八十一歳であった。
三十日、
由義宮を西京とし、弓削御浄清人朝臣に従二位を賜った。
わたくしの郷里、美作の和気の先祖の墓が何者かに荒らされ、一抱えもある大木が切り倒された。
十一月十二日、
新羅の使節、一行二百二十六人が対馬に来着した。
二十六日、
大隅薩摩の隼人が伝統芸能を奏したので位階を賜った。  
神護景雲四年(768)
正月二十二日、
大宰府管内で大風があって官舎と百姓の家一千三十余戸が壊れ、損害を被った人民を救済した。
二月二十三日、
西大寺東塔の礎石を破砕して用いないことにした。
その石は一辺が一丈(じょう。約3メートル余り)で厚さが九尺(しゃく。約2.7メートル)ほどあり、東大寺の東の飯盛山にあった。
はじめ数千人で引いていたが、日に進むこと数歩。時にまた地響きをたてたりした。
人を増やして九日がかりで至り、削り刻んで基礎にすえたところ、男女の占い師が何かにつけて石の祟りを申したので、柴(しば)を積み上げて焼き、三十余石(こく。約二キロリットル)の酒を注いで片々に砕き道路に捨てた。
三月三日、
女帝が由義宮の近くの博多川に臨み、宴遊した。
百官および文人学生が曲水の詩を奉った。
四日、
新羅使が王子の金隠居(おんこ)が唐国で託されたと申して藤原清河と阿倍仲麻呂の書状を届けた。
女帝が病気になった。占うと、砕いた東塔の礎石の祟りを申したので拾い集めて清らかな場所に置き、人馬に踏ませないようにしたところ良くなった。
十九日、
もと備前の雑役の内掃部(うち-の-かもん)の司であった秦刀良(はた-の-とら)の四十余年の狭畳(たたみ)作りを労い、外従五位下を授けた。
二十八日、
葛(ふじ)井・船・津・文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人が女帝に歌垣をたてまつった。
青摺り(藍〈あい〉や青草の汁をすりつけて描いた模様の細布衣〈ほそぬの-ごろも〉)に紅染めの長紐(ひも)を垂らした男女が相並び、
「乙女らに 男立ち添い 地を踏み鳴らす 西の都は よろず世の宮
(乙女らに男らが 立ち添い 地を踏み鳴らしておどる 西の都は すたれることのない永遠の 都であることよ)
淵も瀬も 清くさやけし 博多川 ちとせを待ちて 澄める川かも
(淵も瀬も 清らかですかすがしい博多川は 千年の先までも澄んでいる川であることよ)」
と、歌の拍子ごとに袂(そで)を挙げ、節(ふし)をつけて繰り返す群舞に五位以上の内舎人(うどねり。行幸を警備する中務省の帯刀の侍)と女孺(じょじゅ。若い下級の女官)が加わられたそうで、きっと満足のゆく歌垣であられたことでございましょう。
「つくせども つくせども つしたりずにしすものを けふももとめて これでもかとおもふ」
これはわたくしに飯を盛っていた小柴女と申す娘御の歌でございます。
恋をしていたのでございます。
四月一日、
陸奥の黒川と賀眉の捕虜三千九百三十人が、おのれらの父祖はもと天皇の民である。捕虜の名を返して調庸を納めたいと願い出た。
二十六日、
仲麻呂の朝臣を誅伐(ちゅうばつ)されてすぐ発願された供養塔、三重小塔百万基が成り、法隆寺など十大寺に安置した。
五月十一日、
白鳩、白鹿、白雀と、このところ天子の恩徳に感応して多くの瑞兆があれこれ込み合って次々に出るので、恩賞に等級をつけた。
女帝が再び病気になった。
七月十八日、
常陸の那賀郡が白烏、筑前の嘉麻郡が白雉を奉った。
二十二日、
河内の志紀・渋川・茨田(まんだ)の堤を修復するのに労働者のべ三万余人を要した。
二十三日、
罪の軽重を問う布告により、奈良麻呂の朝臣にかかわった逆党四百四十三人のうち、二百六十二人が罪の軽いのを認められ、戸籍を本籍地にもどされた。ただし、本人の入京は許されなかった。
京では、女帝が再即位なされていたころに歌われていた童謡がまたうたわれるようになった。
「葛城寺(かつらぎ-でら)の前なるや 豊浦寺の西なるや おしとどとしとど 桜井に 白璧(しらたま)しづくや よき璧(たま)しづくや おしとど しかすれば 国ぞさかえるぞ おしとどとしとど
(葛城寺の前ですよ 豊浦寺の西ですよ おしとどとしとど 桜井に 白璧(しらたま)が沈んでいるではありませんか よい璧が沈んでいるではありませんか おしとど そうなされば 国は栄えますぞ おしとどとしとど」
識者はこの童謡を解いて、白璧は白壁のことであり桜井の井は白壁王の妃(きさき)井上内親王(不破の姉)の名であるから、思うに天皇に即位する兆しであると申されたとのことでございます。
八月四日、
女帝陛下が西の宮の寝殿に崩御(ほうぎょ。死去)した。春秋五十三歳であられた。
ああかけまくも恐れ多い女帝陛下、宝字称徳孝謙皇帝、高野天皇、わが師法基尼。
ご病気なされてからは、由利朝臣以外はどなたもご臥所(がしょ。寝所)にお近づけになられなかったとのことでございます。
わたくしはただ涙するばかりでございました。
宮中では永手・百川二人の朝臣が動かれて女帝の遺言と申されるものをのたまわれ、白壁王を皇太子になさられたとのことでございます。
六日、
天下は挙哀した。
服喪は一年と限られ、近江国の兵二百騎を朝廷の警護にあてた。
十日、
蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかめ-の-きみ-うくはう)らが、ただちに仲間を率いて蝦夷の地に逃げ帰った。
十七日、
女帝を大和の国添下(そう-の-しも)郡佐貴郷高野山陵に葬った。
道鏡禅師は女帝の御霊を弔うため、山陵のそばに庵を結んで留まった。
二十一日、
道鏡禅師に皇位簒奪(さんだつ)の姦計があったことを坂上苅田麻呂が告げた。
皇太子白壁王は女帝の手厚い恩幸があられたことを顧みられ、禅師を処罰するに忍びず、造下野(ぞう-しもつけ。栃木-の)国薬師寺別当に送るべく、左大弁佐伯今毛人宿祢を迎えに行かせた。
禅師は泣いてなかなか離れなかった。
二十二日、弓削一族が土佐に流された。
二十六日、
河内の職(しき。役所)を国に昇格した。
慈訓法師と慶俊法師が少僧都に戻された。
二十八日、
従四位下大学頭(かみ。長官)山部王を侍従とし、従四位下吉備泉朝臣を大学頭とした。
三十日、
女帝高野天皇の四七忌を大安寺で行った。
九月三日、
皇太子が文書を布告した。
「この数年、大宝律令で増やした令制外の役人はその数が木の実のように多く、いたずらに国費をついやし、公の目的に益をなしていない。官を省き職を削るはむかしの聖人が良しとした典(のり)である。必要な役所を除く以外は兼任するなどしてことごとく省くべきである。
ついで、去る天平勝宝九歳(757)に首(おひと)・史(ふひと)の姓を首皇子や不比等に通じるとして共に改めて毘登(ひと)としたが、いずれとも分けがたく、氏姓が混乱して使うのに穏やかでない。そこで、元の姓にしたがうことにする。
また、先に普段着を作るのに一匹(布地・反物〈たんもの〉の単位)を限度として天下の臣下に着用させていたが、窮屈(きゅうくつ)であるとして言うことを聞かず、近頃では意にまかせてゆったりとしたものを好み、仕立てるのに更に半匹(一反)を加えている。普段着も礼服も同じにして表裏をわきまえず、世間一般の習いを見習っている。浪費を行うことはなはだしい。今より以後更にこのようなことがあってはならない」と。
九月六日、
わたくしと清麻呂が許された。
十月一日、
白壁王が即位なされて神亀景雲が宝亀元年に改まった。
召されて京へ参りますと、一年であられた服喪が神をまつる吉礼に戻されて巷(ちまた)には粛清の風が吹いるようでございました。
わたくしは一まず清麻呂の家に腰を下し、お世話いただいた先々へお礼に上がったのでございます。
右大臣真備朝臣は、皇太子のご選定で文屋浄三(智努〈ちぬ)王〉)と大市真人ご兄弟をご推薦なされてすぐに兄の浄三真人がご老衰で亡くなられたこともあられて、
「力が耐えられずして勤める者はすなわち廃し、心が及ばずして極まる者は、必ず道理に暗いと聞いております云云」との上申書を奉られ、退職を乞われたとのことでございますが、兼任の中衛大将をお解かれになられただけでございましたので、「まったく上申書通り耄碌(もうろく)しておるのに」と嘆かれておられました。
それから間もなくわたくしども姉弟は復位して恥をも顧みずともに和気公を賜り、以後従五位下(十四位)和気宿祢、正五位上(十一位)和気朝臣と進んで、宝亀三年(773)五月、皇后井上内親王と皇太子他戸(おさべ)親王(白壁第二子)が天皇をお呪いになられる呪いをなされたとの嫌疑で廃され、
天応元年(781)四月三日、
山部親王が今上天皇にご即位なされて、
十二月二十三日、
光仁大上天皇が崩御なされ、年号が延暦(えんりゃく)と改められてからもご恩幸を賜り、弟清麻呂が河内川を西の海に通す工事や『民部省例二十巻』、光仁天皇の皇后になられた高野新笠朝臣(たかの-にいかさ-の-あそみ。桓武天皇の生母)の系図、百済武寧(ぶねい)王につながる『和氏(やまと-うじ)譜』を作り奉って、従三位六位民部卿長官兼造平安宮大夫長官美作国造になれば、わたくしも従四位下典蔵(くら-の-すけ。次官)正四位上へとすすみ、従二位右大臣藤原継縄(つぐただ-の)朝臣の妻の百済明信王が尚侍(ないし-の-かみ。長官)であられた内侍司(ないし-の-つかさ。後宮十二役所を司る)の典侍(ないじの-すけ。次官)に迎えられるのでございます。
その間、都は平城から乙訓(おとくに)郡長岡に遷(うつ)されて、
十年後の
延暦十三年(794)十月、
清麻呂の働きで再び葛野(かどの)郡宇太(うた)に遷され、「平安京」と名付けられますと、平城のことごとが思い出されて菩提を弔いたく、このたびの法華寺となったのでございます。  
早いものでわたくしも六十九歳になってしまいました。
配所(はい-しょ。流刑地)の備後から帰って二十八年、最初に聞いたのが、永手朝臣の訃報でございました。
宝亀二年(771)二月二十二日光仁天皇が朝臣に賜られた弔辞でございます。
「『藤原左大臣に天皇がお言葉を述べます。そのお言葉を伝えます。
大臣は明日は参上して来て仕えてくれるであろうと待っておったのに、十分に休んで良くなって参上することなく、天皇(すめら)の朝廷を残して死去したと聞き、思った。人を惑わす噂か、たわごとかを言うと。
実(まこと)であれば務めであった太政官の政事を誰に任せて逝ったのか、任務をたれに譲って朝廷を出て行ったのか。恨めしかも悲しかも。わが大臣よ、たれにわれは語っていたのか、たれにわれは政治を尋ねていたのか、悔み、惜しみ、痛み、かなしみ、われは号泣しています』
と、のたまう天皇のお言葉を述べます。
『悔しいことよ、惜しいことよ、今日よりは、大臣の仕える姿は見られなくなるのであろうか。日月が重なりゆくにつれて悲しい事ばかりがいよいよおこるのであろう。歳時が積りゆくにつれて淋しい事ばかりがいよいよ増すのであろう。
わが大臣よ、春秋の麗しき景色をたれとともに見に行き、楽しめばよいのか。山川の清きところをたれとともに見に行きほがらかになればよいのか』
と嘆き憂えておりますとのたまう天皇のお言葉を述べます。
『汝(みまし)は、大臣万般の政事はすべてをもって怠り緩むことなく、曲げ傾けることなく、王臣たちをも彼此(ひし)別け隔てすることなく、あまねく平らかに奏上し、公民のたてまつる意見をも広く厚く慈しみ、奏上することはこればかりでなかった。
天皇の朝廷をしばしも退出して休憩することなく、治める国の政治を朝といわず夜といわず思い考え奏し仕えてくれていたので、喜び楽しみ安らぎ頼もしく思いながらおりましたのに、たちまちにしてわが朝廷を離れて遠くへ行かれてしまわれれば、言葉をかける手立てもなくなすすべも知らず、ただ悔しく侘しく思うています』
と、のたまう天皇のお言葉を述べます」と。
そのお言葉をいただいた永手朝臣のお屋敷も、今は田野と化して跡形もございません。
吉備真備朝臣も辞職を請われた翌年、重ねて辞職の文書をたてまつられ、退職が許されてからは、ご生前親交のあられた道璿(どうせん)和上の伝記や『顔氏家訓』を手本になされた『私教類聚五十巻』の著作に励まれ、筑前怡土(いと)城の築城、焼失された大蔵省雙倉(ならびくら)の再建、礼典に基づく大学の釈奠(せきてん。孔子をまつる儀礼)の整備など多くの功績を残されて『わが朝の学生が名を唐国に播(ま)いたのは、ただ大臣と朝衡(ちょうこう。仲麻呂の唐名)二人のみ』と称賛され、
宝亀六年(775)の十月二日、正二位勲二等、八十一歳で逝去なされたのでございます。
前年の宝亀五年(774)正月二日、妹御許(おもと)の由利朝臣が従三位尚蔵(くら-の-かみ)を最後にお亡くなりになられておられ、光仁天皇が玄宗皇帝に倣われてご誕生日の十月十三日を『天長節』と名付けられた年でございました。
道鏡禅師は宝亀三年(772)四月七日、下野で死去され、庶民として葬られたとのことでございます。
禅師を山陵のお庵にお迎えにあがられた佐伯今毛人宿祢は、宝亀八年(777)、遣唐大使をご拝命なされて朱雀大路を下られる途中、病をお患いになられ、節刀をご返上なされるようなこともされておられましたが、参議、皇后大夫、従三位民部卿と昇られ、大宰帥を最後に、八年前、延暦九年(790)十月二日、七十一歳で亡くなられました。
奈良麻呂朝臣の謀反を暴かれた上道斐太都朝臣も、正四位下飛騨守を最後に。
奈良麻呂朝臣に与(くみ)されて流罪になられた大伴古慈斐宿祢もその後許されて宝亀八年(777)八月、従三位大和守を最後に。
大仏建立で黄金出土の宣旨(せん-じ・天皇の下達)を橘諸兄朝臣に次いでのたまわれた石上乙麻呂朝臣も、従三位中納言を最後に。
大仏を造られた国中公麻呂連も宝亀五年(774)十月、従四位下散位を最後に。
仲麻呂朝臣の殺害を謀られた広嗣朝臣のご舎弟良継朝臣も、宝亀八年(777)九月従二位内大臣(左右大臣に次ぐ)を最後に、六十二歳で。
良継朝臣と共謀なされた石上宅嗣朝臣も、天応元年(781)六月、正三位式部卿兼近江按察使であられた藤原種継朝臣のご殺害に名を連ねられたことで死後除名されておられましたが、「仏儒もと一体」のお考えのもとに儒学書をお集めになられた芸亭(うんてい・図書館)を旧宅の阿閦(あしゅく)寺にお建てになられ、延暦四年(785)八月、従三位中納言を最後に。
仲麻呂朝臣のご謀反で山村王を援護なされた坂上苅田麻呂忌寸もその後、大忌寸をたまわるのでございますが、後漢霊帝在位(169〜184)の曾孫阿知王の末裔であり、代々弓馬をもって仕えてこられた家系であられることを上表なされて大宿祢を許され、延暦五年(786)正月従三位左京大夫を最後に、五十九歳で。
仲麻呂朝臣の使者を取り押さえられて勢多橋を焼き落とされた淡海三船真人も、宅嗣朝臣と詩賦の首(おさ)を競われながら大学頭、文章博士を経られて、延暦四年七月従四位下刑部卿兼因幡守を最後に、六十四歳で。
仲麻呂朝臣を追討なされた藤原蔵下(くらじ)麻呂朝臣も宝亀六年(777)七月従三位勲二等大宰帥を最後に、四十二歳で。
仲麻呂朝臣の首級を奉られた石村石楯村主も従五位下勲四等坂上忌寸をたまわり、中衛将監を最後に。
夫戸主の上官であられた背奈王高麗福信朝臣も高倉朝臣を賜られて延暦八年(789)十月、従三位弾正伊(いん。かみ。長官。役人の風俗をただし、違法をとりしまる)兼武蔵守を最後に、八十一歳で。
わたくしども姉弟に封戸二十戸を割いてくだされた百川朝臣も宝亀十年(779)七月九日従三位参議中衛大将兼式部卿を最後に、四十八歳で。  
こうして過去帳をめくっておりますと、すべては夢のあとでございました。
佐伯今毛人宿祢が節刀を返上なされた遣唐使は副使の小野石根朝臣を大使代理になされ、帰国は宝亀九年(778)の十月から十一月にかけてでございました。
風浪に遭われて第一船は舳(へさき)と艫(とも)が二つに折れ、石根朝臣ほか三十八人の和人と唐使趙宝英ほか二十五人の唐人が波に呑まれ、艫(とも)にすがりつかれた唐判官たち五十六人は薩摩の甑(こしき)島に。衣装をかなぐり捨てて裸身になられた藤原清河朝臣の娘喜娘(きじょう)たち四十一人は、方丈ほどの舳(へさき)に重なりしがみつきして六日六晩口に入れる米水もなく、肥前天草の西仲島に漂着なされ、『かくして臣が再び生を得たのは造物主の救うところであり、歓喜の至りに耐えません』と、復奏なされた大伴古麻呂宿祢の子息で遣唐判官であられた継人宿祢は、九年後、藤原種継朝臣を射殺なされて斬刑に処せられ、准判官であられた従五位下羽栗翼臣は従五位上を賜り、延暦八年(789)、内薬正(かみ。長官)侍医兼内蔵助(すけ。次官)になられておられました。
真備朝臣の子息泉朝臣が造東大寺長官を降ろされて佐渡守に移されたこと。
大宰府にとどまられておられた沈惟岳(しん-いがく)折衝が従五位下清海(きよみ-の)宿祢惟岳(これたけ)の氏姓をたまわられて美作国の権掾(ごん-の-じょう)に任じられたこと。
唐国で亡くなられた阿部仲麻呂朝臣の葬儀に礼の欠けるところがあったのはご家族が貧乏であられたとの勅がだされて、東(あずま)の粗絹(あら-ぎぬ)一百匹・白綿三百屯を唐使に託されたこと。
賊の敵将阿弖流為(あてるい)に大敗なされた征夷大将軍紀古佐美朝臣が解任処罰されて、坂上苅田麻呂大宿祢の子息近衛少将坂上田村麻呂大宿祢が鎮守将軍になられるなど、語りたいことはまだまだあるのでございますが、これらのことごとは去年延暦十六年(797)二月九日に奉られた『続日本紀(しょく-にほん-ぎ)四十巻』にも詳しく記述されておられますので、わたしの話はそろそろ終わらせていただくことに致しきます。
ご健在なのはお寺ばかりで、西市の跡地は佐伯今毛人宿祢が東大寺の造営長官であられたころ、東市に近い相模の国の御調(みつぎ)の保管所一町を買い取られて寺の倉庫になされたことから他の寺々も倉を持つようになられ、今では寺のための市になっているようでございました。
遷都のたびに朝発(あさ-た)つ群鳥(むら-どり)と揶揄(やゆ)られておられた市人衆も、不動の大寺をお相手になされるようになられてからは、長岡のときも宇太のときも先を競ってまでお移りになられるようなことはございませんでした。
とは申せ、お若いのにすべての人を平等に成仏させる目標をお立てになられ、比叡山に籠られて道場一乗止観院をお開きになられ、去年、延暦十六年(797)でございますが、宮中にお仕えする内の供奉(ぐぶ)十禅師のお一人にお加えられになられた最澄(さいちょう)師や、『三教指帰(さんごう-しいき)』を著作なされて『虚空蔵求聞法(こくうぞう-ぐもんじ-の-ほう)』の修行をされておられる佐伯真魚(さえき-の-まな-の)直のような若いご僧侶がお育ちになられてまいりますと、京からほど遠いこの平城の寺々も飛鳥や斑鳩のようにいつかは寂れてしまわれるのでございましょう。
今はまだ住む人も絶えていないようでございます。
大和言葉に慣れておられない人々、白幡(しろ-はた)を囲んで泣き叫んでおられる人々、鉦(かね)や鼓をたたいて舞踏歌謡に興じておられる人々、青洟(あお-ばな)をたらした童子、相撲をとったり、独楽をまわしたり、飛んだり跳ねたり、小藪の雀、咲く野花、茂みの衣、婚交(くなか)う妹背(いも-せ。女と男。夫婦)一(ひ)、二(ふ)、三(み)、四(よ)・・・・
阿弥陀経を唱えて佐保川へ出ますと、無患子(むくろじ)のにおいでございました。
娘たちが衣を打ち、髪を洗っているのでございます。
光明皇后にお教えいただいた無患子
甘くてまろやかな匂い、無患子、 むく
青くてすべやかな泡立ち、無患子、むく
堅くて黒いたね、無患子、むく
阿部内親王とともにいただいた無患子の数珠
風が吹いてさざ波、菅生(すげう)の岸部。
捨ててあるもの、疫病払いの土器(かわらけ)、土偶の馬・牛・鳥、下駄、糸車、鋤(すき)、瓦、帯金(おび-がね)、陀羅尼塔。
見上げれば青い空。
日は葛城山に傾いて畝傍(うねび)、耳梨(みみなし)、香久(かぐ)のハゲ山。
舟を引く運夫。
行き交う人はみな茱萸(しゅ-ゆ。グミ)を頭に挿して、もしや今日は重陽(ちょう-よう)節句、九月九日邪気払い。
国忌(こっ-き。天武天皇の命日)が取り除かれて八年になりましょうか。
皁(そう。黒)衣・黄衣は奴婢百姓、綾(あや)・紗羅(さら)・錦は輿の人。
鐘は東大寺、法華寺は小奈辺(こなべ。古墳)の南。
そっと東へ回って潜り戸から明基の庵へ。
失礼、途中馬桶(ばとう。座便)を跨いでおりました。
黒衣(こく-え)を脱いで厨子(ずし)の観世音菩薩にご灯明。
思い出して無患子の数珠
『世間虚仮 唯仏是真 (せけん-こけ ゆいぶつ-ぜしん。世の中は仮の世界であり 仏の世界〈天上界。宇宙。空〉だけがまことである)』
聖徳太子のお言葉でございました。  
 
「文学」の時代、歴史なき時代?

 

平安時代の宮廷は日本最初の「物語」とされる『源氏物語』の舞台である。
舞台であるとともに、『源氏物語』は、その宮廷に生活していた女性が、その生活上の体験をもとに書いた「物語」でもある。平安時代の宮廷は、『源氏物語』の舞台であるとともに、それを育んだ母胎となった場所でもある。
『源氏物語』だけではない。随筆である『枕草子』も、『蜻蛉日記』などの日記文学も、この平安王朝を舞台とし、その後宮に仕える女性が書いた文学である。平安時代は、王朝から生まれ、王朝を舞台とした宮廷女性文学の全盛期であった。それは、かな文字文学として、日本の文字で日本のことばをつづった文章の出発点でもあったのである。
ところが、その時代を現代の歴史学が語ると、とたんに「王朝」は後景に退かされてしまう。
平安時代の歴史はふつうどんなふうに描かれるだろうか。
平安時代の最初は、奈良時代のつづきとして描かれる。天皇親政と律令制が行われ、和同開珎から始まる銭の鋳造がつづけられ、『日本書紀』からつづく公式の歴史書「六国史」が編纂される。
しかし、それが徐々に破綻し、かわって、全国から荘園を集めた藤原氏が勢いをつけて、摂政・関白として権力をふるう時代が来る。
その摂関時代も、後三条天皇の親政と白河院政の開始で院政時代へと移る。院政時代には、「もと天皇」である天皇の父「上皇」が権力を振るい、それを支える勢力として、「院の近臣」とよばれる中・下級貴族や平氏・源氏などの武士勢力が抬頭する。これがいわゆる治承・寿永の乱を経て直接に武家政権の時代を開く。
つまり、平安時代の前半は奈良時代の律令体制が崩壊していく時代であり、後半は武家政権の時代の開幕の時代であるとしてえがかれる。前と後ろがべつの時代の歴史の一部として切り離されているのだ。そして、そのあいだは、単純に「藤原氏が摂政関白の地位を独占した華やかな時代」として描かれるのである。
このような歴史叙述は、王朝の中心であった「王」つまり天皇と天皇家の歴史をまったく視野の外に追いやってしまうのである。  
いまさら「王の歴史」か?
それでいいじゃないか、という意見もあるだろう。いままでの歴史は天皇や貴族の歴史だった、これからは「民衆の歴史」を探求する時代ではないか、それなのにいまさら天皇と天皇家の歴史がないなどと騒ぐことに何の意味がある?
こういう批判は見かけはいかにももっともらしく見える。
ところが、本書によると、こういう意見はじつはあまり事実を反映していない。
「進歩的」な歴史学が批判するであろう明治天皇制のもとでの歴史学でも、平安時代の天皇や天皇家の歴史はほとんど重視されなかったというのだ。
その理由は単純だ。『源氏物語』の「絢爛たる」世界を考えていただければいい。源氏物語を読んだことはなくても、テレビなどでときどき映る絵巻物などでご覧になったことはあるだろう。その華美な雰囲気を想像していただければいい。王朝社会のなかで天皇はまったく「神聖」でも「不可侵」でもない。浮気もするし、スキャンダルの対象にもなる。
貴族社会との関係も、絶対君主というよりは、「天皇という職を担当する家柄の貴族の一員」である。
天皇が気に入らなければ臣下が天皇を退位させる。花山天皇が騙されて退位させられた話や、その後、清少納言の主人の定子の兄弟の伊周(これちか)・隆家が同じ家の娘に恋をしたという関係から花山院を狙撃したという話は、スキャンダルとして伝えられている。一度、臣下の地位に下っていた人物が天皇家に復帰して天皇になったこともある。宇多天皇がそうである。天皇家以外が摂政・関白の地位を占めつづけたことも含めて、その前後の時代とくらべて天皇・天皇家のメンバーと貴族社会との距離が失われていたのがこの平安時代なのだ。
しかも多くの天皇が仏教の信者であり、またケガレなどをめぐる日本土着の宗教観を共有している。神社・仏閣の「強訴」に天皇家が弱いのはそのためである。
ヨーロッパ式の絶対君主制度をたてまえとする明治国家とそれを支えてきた歴史学にとっては、天皇がそんな状態では困るのだ。
「天皇制」というと、古代からつづいてきた古いものだというイメージが、「天皇制」批判者のなかにもあるかも知れない。だが、天皇の血統が続いてきたということと、制度として同じ制度が続いてきたということはまったく別である。制度としては明治国家の「天皇制」は日本史上まったく新しいものとして生まれたものだ。
いわゆる明治の「天皇制」の由来は単純ではない。ヨーロッパの国王・皇帝制度を取り入れ、それを近代的な絶対君主制として整えるとともに、それを支えるイデオロギーには神道や儒教が活用された。そのような制度が作られたのには、西洋諸国と対等に渡り合える国家体制として作られたという一面のほかに、高度な専制体制を早くから作っていた中国の皇帝制度に対抗できる君主制を作らなければならないという動機があったと私は考えている。甲午戦争(日清戦争)までは、日本にとって、「隣の大国中国からどうやって日本の国家の独立を守るか」ということはつねに重要なテーマだったのだ。
天皇制イデオロギーに依拠した戦前・戦中までの歴史学は、その「神聖不可侵」な明治の天皇制の像を過去にさかのぼらせているのである。それでは、「神聖」でも「不可侵」でもない平安時代の天皇の歴史はそのなかから排除されてもなんら不思議ではない。
この『平安王朝』のアプローチはそれとはちがう。
「神聖不可侵」な明治の「天皇制」の前身としてではない。平安時代の天皇と天皇家の歴史を、平安時代の王朝についてどう考えればいいのかという歴史像のなかで捉えようとした試みが、この『平安王朝』である。  
摂関時代の天皇の地位
『平安王朝』に登場する天皇は、だから、国制史に断片的に登場する天皇でもないし、「神聖不可侵」という明治の天皇のあり方を溯らせた天皇でもない。どちらかというと、スキャンダルと愛情欲望の渦のなかに生きている『源氏物語』の世界の天皇に近い。
しかし、愛情や欲望が「プライベート」なことであって、政治などの公的な舞台にはかかわりのないことでなければならないというのは、近代以降のきまりごとにすぎない。
前近代の王制で、王位継承が、たとえば今日の皇室典範のような法でかっちり決められていないばあいには、「次の王」をだれにするかという問題がつねに発生する。王に子どもが生まれたとか生まれないとか、その母親がだれだとか、そういうことがたえず問題になる。そこでは肉体を持ち欲望を持った存在としての王のあり方を避けて通るわけにはいかない。
これまで私たちが聞かされてきた平安時代の歴史は、藤原氏対他の貴族であったり、藤原氏対天皇であったり藤原氏対上皇であったりという構成であったものが多い。ところが、現実にはそういうものではないらしい。
それよりは、天皇家のなかの家どうしの争い、藤原氏のなかの家どうしの争いが重要だというのである。「藤原氏」が起こした陰謀事件とされる事件でも、こまかく検討してみると、天皇家のある一族と藤原氏のある一族の連合体に対して、天皇家の別の一族と藤原氏の別の一族の連合体が挑戦し、勝ったり負けたりしているという例が多いらしいのだ。そして、その勝利の最大の目標は、摂政関白の地位ではなくて、だれを次の天皇にするかということにあった。「摂関政治」の時代といっても、あくまで焦点は「王」の地位なのであって、摂政関白の地位などはそれに付随するものにすぎなかったのである。  
天皇家のお家騒動
もともと人間の家族である以上は、子どもは一人とは限らない。なかなか子どもが生まれないこともある。ことに王位継承権者を男子に限ると子どものなかに適格者がいないということもよく起こる。かと思うと、王位継承候補が、複数、生まれることもある。
そのとき、いまの王(天皇)の次をだれにするかということがつねに問題になる。子どもに継がせるのか、それとも弟に継がせるのか。子どもに継がせることにすると、今の王の直系の子孫に王位を伝えることができる。それが父・子・孫ぐらいまでつづけば、ある王の子孫だけが王家として王位に即く資格があるという伝統を作ることができる。
しかし、都合よく子どもがいてくれるとはかぎらない。とくに、青年時代や幼少のころに王位に即いたばあいには子どもがいない。すると、男子継承を前提とすると、弟を「次の王」(皇太子)の地位につけなければならないことになる。そのあとに王に男の子が生まれたりするとこれがお家騒動のもとになるのが世の常ってものだ。応仁の乱のときの足利将軍家など、武家時代のお家騒動を見ればこのパターンが多い。
天皇家でこのような「家」どうしの「本家」争いが問題になったのは、まず、鎌倉時代の「大覚寺統」「持明院統」の対立であろう。
鎌倉時代に天皇家が大覚寺統・持明院統と呼ばれる二つの「家」に分かれ、両家から交替に天皇を出すという「両統迭立」ということでひとまず解決した。しかし、これに院政が並行しているため、院政をやるためには相手の家から出てきた天皇に地位を譲らなければならない、天皇は上に相手の家から出た上皇がいてそれが院政をやっているということで、どちらにとってもうっとうしいことこの上ない。「両統迭立」が最終的な解決策になるわけもなく、これは最終的に南北朝の対立にまで発展する。
これとともによく知られている天皇家のなかの「家」どうしの対立は壬申の乱である。天智天皇の王子とその弟の天武天皇が武力を使って争った事件だ。その結果、飛鳥時代後半から奈良時代までは天武天皇の直系の子孫が天皇の地位を独占することになった。しかも、天武−草壁−文武−聖武−孝謙(=称徳)という血統が、同じ天武系でもほかの系統の王子を排除し、ついに聖武に男子がいなかったため、直系女子の孝謙天皇(称徳天皇)のあとには天智系の光仁天皇を王位に即けなければならなかった。直系男子による王位相続にこだわり、競争者を肉体的に抹殺するということをくりえした結果、「直系男子が生まれない」(生まれたのだが夭逝した)という事件で「王家」自体が断絶するという脆さを見せてしまったのである。  
「両統迭立」の時代
飛鳥時代後期から奈良時代までの天武系と天智系の対立と鎌倉時代の「大覚寺統」と「持明院統」の対立に挟まれた期間が平安時代である。さて、平安時代はこの「両統迭立」問題と無縁だったかというと、そんなことはけっしてない――というのがこの本の論旨である。
この本によれば、複数の王家の並立は平安時代には普遍的な現象だった。著者のいう「平安王朝」の始祖である桓武天皇自身は弟の早良親王を抹殺して息子に王位を伝えているが、その王子のあいだから、平城系と嵯峨系でさっそく対立が起こりかけている。
嵯峨系から仁明−文徳−清和と伝わった王位は、清和の王子の陽成が藤原氏の対立に巻き込まれて退位に追い込まれたことで王位から排除される。普通は「陽成は粗暴な振る舞いが目立ったので」と言われるが、著者はそれは口実にすぎないと考えている。陽成のあと、天皇の位はもういちど文徳の世代に戻って文徳の弟の光孝から宇多−醍醐−朱雀と伝わる。
ここまでは、複数の家が王位に対して同等の資格を持って対立するという事態はとりあえず避けられている。どちらかが優位に立つか、ライバルを王位への資格のない地位に追い込むかであった。
さて、朱雀には男子がなく、弟の村上天皇からその子の冷泉天皇に位が伝わる。ところが、冷泉天皇は精神に障害を起こし――具体的にはちゃんと書いていないのだが鬱病のようである――、退位することとなった。そこで、冷泉の子の花山と弟の円融の両者が王位への対等の立場で並び立つこととなった。これによって、冷泉系と円融系の王子がかわりばんこに王位につくという「両統迭立」が現実のものとなった。
このような王家分裂の危機がつねに潜在していたことが摂関家の権力のひとつの重要な源になったと著者は考えている。数ある候補者のなかから、王(天皇)にふさわしい王子を選択することは、その王子たちの母や妻を出している摂関家以外では果たすのが難しい作業だった。
一方、親から子どもへ子どもから孫へと王位を伝えたいと親は当然に願う。みんな京都に住んでいるのだから、現在のように、遠くに住んでいる甥なんて顔も知らないよ〜なんてことはなかったと思うが、やっぱり、甥や甥の息子より自分の子どもや孫のほうがかわいい。そうすると、父としては、自分が生きているうちに息子の地位を安泰にし、息子が一人前に仕事ができて必要な人脈もできるように指導しておいてやりたい。父とは概して親ばかなものである――かどうかは知らないが、ともかくかかっているのが一国の王の位である。息子がちゃんと王の地位を守れるのと、それとも王位から除外されて和歌の達人として一生を終わるのとでは、父としての満足度もだいぶちがうだろう。そうすると親ばかな父はどう考えるかというと、自分が生きているあいだに息子を王の位につけ、自分が保護・監督しながら一人前の王になれるよういわばオン・ザ・ジョブ・トレーニングをやることを考える。つまり院政である。
院政は白河上皇に始まるとされているが、著者は、平安時代を通じて、天皇が院政を行おうとする動きは普遍的にあったとする。一般に、白河天皇の前の後三条天皇が院政を行おうとしていたことはよく指摘される。しかし、著者によれば、嵯峨・清和・宇多・円融なども、息子に譲位したあと(円融天皇のばあいは甥の花山天皇をはさんで息子の一条天皇が即位したあと)、事実上の院政を行っていたり、院政を行おうとしていたりしたということである。嵯峨天皇といえば、「平安王朝」の創始者の桓武天皇の息子の世代である。なお、じつは嵯峨天皇の兄の平城天皇も「上皇」として政権を執ろうとしているが、このときには嵯峨天皇に阻止されて失敗している。
天皇家をめぐる「王家分裂」→「両統迭立」の危機がつねに潜在していたことが、一方では、その調停役としての摂関家の権力の源となり、他方では天皇を「院政」に駆り立てる動力になった。つまり、天皇家がつねに抱えていた「王家分裂」の危機こそが、摂関政治と院政との両方の政治のスタイルの中心にあったのである――というのが、この『平安王朝』の眼目のようである。  
「万世一系」の虚構
このように見ると、「万世一系」の天皇家という表現が虚構にすぎないことが理解できる。
古代のことはここでは問題にしない。継体天皇はそれまでの王家とは別の地域から出てきた別の氏族の出身であるらしいが、ともかく、遅くとも欽明天皇から現在まで、男系だけで血統はつながっている。これ自体はたしかに世界史的に見て希有なことである。
しかし、もし、ヨーロッパのように王家に姓があれば、大覚寺統と持明院統は別の家として認識されていたのではあるまいか。
天智系と天武系も同様である。孝謙天皇(称徳天皇)は弓削道鏡と親しくなり、道鏡に天皇の位を伝えようとしたのを、和気清麻呂が宇佐八幡まで神託の確認に行って阻止したというエピソードがある。天皇制イデオロギーによる歴史観では、これは単純に野心家の道鏡が悪くて和気清麻呂が忠臣だということになる。しかし、孝謙天皇は天武直系王家の最後の一人であったということを考えなければならない。孝謙自身が女性なので、どうやっても男子直系には王位を伝えられないのである。そのとき、天智系に王位を伝えるか、それとも仏教界のトップに立つ道鏡に伝えるか――この選択肢は孝謙(称徳)天皇にとっては「どちらも本来の王家の出身者ではない」ということで同等の価値を持ったということはないだろうか。
このときには貴族社会が天智系の王家を王位継承の資格上優位と認めて光仁を擁立したので、王位は天皇家の一員の手に残されることになった。光仁の正妃(皇后)に天武系の井上内親王を配することで天武王家の血筋を残すという条件がこのときにはあったようであるが、井上内親王は廃立され、かわって7世紀に滅亡した百済の王家の血を引く桓武が即位するのである。
このように考えると、天皇家のみが姓を持たないという仕組みはあんがい重要だったように思える。姓を持たないために、王家が分裂しても、それは「家」の分裂としてではなく、「統」の分裂として理解されるに過ぎなかった。そして結局は同じ血統を継ぐ「天皇家」の大きな同族集団の一員にその地位が回収され、また、社会にも「王統がつづいている」と理解されたのである。
逆の事態を想定してみよう。たとえ血統がつながっていても、家が分裂すればそれぞれが家に名まえをつけ、それが争うということになれば、「A王家とB王家が争い、その内紛からC王家の統一王朝が生まれた」という、イギリス史やフランス史であったような認識で捉えられていたかも知れない。
王のあり方には、王が平民はもちろん他の貴族からも隔絶した高い地位にある専制支配の形態と、王がたくさんいる貴族たちの「同輩中の首席」の地位にいる形態との二種類がある。アウグストゥス帝に近い世代のローマ帝国の帝制初期の皇帝は「同輩中の首席」であり、ローマ帝国末期のディオクレティアヌスやコンスタンティヌスは専制支配者である。
また、中国でも、三国時代から南北朝時代までの皇帝は「同輩中の首席」である。それは、魏王朝の創始者である曹操がのちの晋王朝の始祖となる司馬懿(仲達)を召し出したときに、司馬懿が「あんな素姓のわからないやつに頭を下げられるか」といったん断ったというエピソードからもうかがえる。王家だから、皇帝家だからといっても貴族に遠慮はしてもらえない。だから、力のない人物が皇帝になればすぐに臣下に皇帝の位を奪われる。それで頻繁に王朝交替を経験した反省から、隋帝国以後は皇帝への権力集中が進み、宋の時代になって世襲貴族の階級が消滅して皇帝専制が確立した。
日本でも、平安時代の天皇は「同輩中の首席」にすぎなかったように思える。それでも、明らかに王家の者と臣下とで区別がついていたのは、天皇家に姓がないことがその王位への特権を示しているからである。いくら権勢があっても、「藤原」というような姓を持っていては、「天皇」の地位には即けないのだ。  
準天皇家としての「源」氏?
ただ、例外がある。
「源」の姓だけは、姓のない状態にもどって天皇になることができるという認識が、一時期、あったようなのである。
もともと、「源」という姓は、源頼朝とか「八幡太郎」義家とかを出したことで有名な武士の清和源氏にかぎらず、天皇の息子などが臣下の地位を得たときに天皇から与えられる一般的な姓であった。
陽成が廃立されたあと王位に即いた光孝天皇は、緊急避難的に王位についた「中継ぎ」の王であることを確認するため、王子をすべて「源」姓にして臣下扱いにしている。ところが「中継ぎ」のあとを押さえる「押さえ」がいなかったために、けっきょく光孝の「家」で天皇の地位を継がざるを得なくなり、「源」姓を与えられていた源定省が宇多天皇として即位した。退位させられた後の陽成院は、宇多天皇について「あんなのもとの臣下じゃないか」と言っていたという。
最終的に光孝が選ばれることになる陽成を廃立した後の「天皇」の人選もなかなか錯綜した。この過程でも「源」姓を与えられていた源融(とおる)という天皇家出身者が「候補がいないのなら自分はどうだろう」などと言い出したらしい。
そこで考えなければならないのが、本書の範囲は超えるが、清和源氏である。
関東で「関東国」の最初の王「新皇」平将門は桓武天皇の子孫であることを強調して関東国の王の位に即いた。「裏切り者」平貞盛の逃走を延々と自分で追撃するとか、自分で戦場に出て戦死するとかいういくつかの戦術的失敗がなければ、この国家はもうすこし長続きしたかも知れない。
次に「関東国」独立政権の王に迎えられるのは源頼朝である。
しかし、なぜ頼朝なのだろうか?
清和源氏は武士の家であったことが強調される。最近の研究では、それがとくに摂関家のガードマンとして京都の都市貴族とともに成長した武士団であったことが強調されているようである。
ところが、この清和源氏も、満仲(多田満仲=ただのまんじゅう)のころには、むしろ天皇家出身の貴族として行動していたということが本書では描かれている。
さて、源頼朝を関東の「王」に迎えるのは北条・三浦などを中心とする平氏系の関東の武士団である。なぜ頼朝なのか。清和源氏が、前九年・後三年の対東北政権戦争を経て長く関東の武士団を統率する統率者の地位にあったのはたしかである。しかし、それだけではないのではないか。
清和源氏が天皇家の血を引く「源」氏であったのが重要ではないかという気がするのである。
鎌倉将軍は、大きく分けて三つの家から、こまかく分ければ四つの家から出ている。最初が源氏、次が藤原氏、その次が天皇家で、さらに天皇家のなかでも途中でそれまでの将軍家を排して持明院統出身者に切り替えている。このうち、藤原氏から将軍を迎えたのは、北条氏にとっては、後鳥羽上皇が天皇家からの将軍を拒否したためのやむを得ない選択であった。
北条氏は、源氏断絶後、天皇家出身の将軍をつねに求め、しかも、その将軍が一人前に成長すると京都に送り返すということを繰り返している。他方、源氏将軍に対しては、頼家・実朝を殺害・暗殺するなど、鎌倉の武士団はより暴力的な手段をとっているが、頼朝一人を除いて、将軍を実権を握れる条件になるまで育てていないという点は共通している。
どうも、源氏将軍と天皇家出身の将軍(「宮将軍」という)では待遇が同じなのだ。
ということは、関東の武士団は、清和源氏の将軍を、天皇家の一族として見ていた、だからその断絶後は天皇家からの将軍を要望したと解釈することができるのではないだろうか。このあたりは素人の妄想の域を出ないので、専門に研究している方からのご指摘を待ちたい。  
怨霊の時代
平安時代は、著者によれば、また怨霊たちの時代でもある。桓武天皇に排斥され、壮絶な絶食死を遂げた早良親王の怨霊に始まり、源平の争乱を引き起こしたと認識された崇徳上皇の怨霊にいたる時代が平安時代だった。そのあいだにも、たとえば、藤原時平や醍醐天皇を呪い殺し、平将門に「新皇」の位を授けたとされる菅原道真の怨霊も「活躍」している。
はっきり言って、あんまり「平安」な時代ではない。
だが、他方、この時代の宮廷は死刑を行わなかった。平城上皇と嵯峨天皇の抗争である「薬子の乱」で死刑があった以後、関東の武士団が死刑を持ち込むまで、京都では死刑は行われなかった。日本の別の時代を見ても、諸外国を見ても、国王に対する反逆は死刑とされるのが普通で、しかもしばしば非常に残虐な肉体的刑罰を課している例がある。
ところが、「平安王朝」では、王に対する反逆の疑いであっても、せいぜい太宰府に左遷する程度である。政敵と対立しても最後まで相手を追いつめることはしない。勝負がついた段階で救いの手を差し伸べるのが平安王朝の流儀だったようである。そういう意味では、「平安」に非常に気を使う時代だったのはたしかなようだ。
それは今日の死刑廃止論のように「人権」への配慮があるからではない。
あまり追いつめて怨みを持って死なれると、あとで怨霊になってやった以上の仕返しをされるからである。
この本はあくまで宮廷史として書かれている。だから、庶民信仰との関係などはここでは論じられていない。
しかし、このような平安王朝の持つ「政治文化」を探るには、たとえば当時の日本の――すくなくとも京都文化圏で一般的だった死生観など、より広い社会の視野で問題を捉えていく必要があるように感じる。
「天皇や貴族の歴史ではなく民衆の歴史を」などとスローガンを掲げるのもよいかも知れないが、「天皇や貴族の歴史」を「民衆の歴史」とどのように結びつけていくかという方法を、なるだけ豊富に開発していくことが、歴史学的にはずっと意味があるのではないだろうか。
 
「万葉集」

 

(まんようしゅう、萬葉集) 7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。  
書名の由来
「万葉集」の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の「万葉集註釈」では、「古今和歌集」の「仮名序」に、
やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、「古今集」の成立は「万葉集」よりも時代が下るので、この語釈が「万葉集」成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま「万葉集」の由来としてあてはめることには疑問もある。そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、「古事記」の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。  
編者と成立年代
「万葉集」の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など古来種々の説があるが、現在では家持説が最有力である。ただ、「万葉集」は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。
「万葉集」二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。
1.巻1の前半部分(1 - 53番)… 原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したか。
2.巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集 持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したか。
3.巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集 契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を支持する証拠は多い。元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したか。
4.残巻増補…20巻本万葉集 延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成。
ただし、この「万葉集」は公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、「万葉集」という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)にようやく完成したといってよい。「万葉集」は平安中期より前の文献にはない。この理由について、延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから「万葉集」が史料にみえるようになったとする説[1] がある。  
構成と内容
全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方があり、歌数も種々様々の説がある。各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌・挽歌の三大部類になっている。
雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。
表現様式からは、
寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現
などに分けられる。
巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総・下総・常陸・信濃四国の雑歌、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥十二国の相聞往来歌、遠江・駿河・相模・上野・陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。
歌体は、短歌・長歌・旋頭歌の三種に区別されている。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。短歌は、五七五七七の五句からなるもの。長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。  
時期区分
歌を作った時期により4期に分けられる。
第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。
第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。
第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。  
歌風と万葉仮名
「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵はこの集を評してますらをぶりと言った。全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
万葉仮名で書かれた大伴家持の歌
(万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾
(訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)
山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌
(万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
(訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)
万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。 そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。  
 
大伴家持 / 諸国の遊行女

 

大伴家持の生きた時代、諸国に派遣された国司は妻子を伴わず、単身赴任するのが原則だったようだ。家持が越中に単身赴いたのも、この原則に従ったのだろう。だから、諸国の官衙は独り者の男たちで構成されていた。一時代前の連隊兵営を思い起こせば、その雰囲気が伝わってくるだろう。
男だけの世界であるから、万葉の時代の諸国の官衙は殺風景そのものだったろう。それらの男たちに、現地の女たちが遊行女となって接近したのは、万葉の時代に限らず、いつの時代にもおきうる自然な現象だった。
家持がそうした遊行女たちを傍に近づけたかどうかはわからない。しかし時折催した宴の席に、遊行女をはべらしたことはあった。万葉集には、遊行女も加わって宴をなした時の様子が、家持自身によって記録されている。 
―四月の一日、掾久米朝臣廣繩が館にて宴せる歌四首
  卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも(4066)
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
  二上の山にこもれる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ(4067)
右の一首は、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)がよめる。
  居り明かし今宵は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむそ(4068)
二日ハ立夏ノ節ニ応(アタ)ル。故(カレ)明旦ハ喧カムト謂ヘリ。
右の一首は、守大伴宿禰家持がよめる。
  明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜の故(から)に恋ひ渡るかも(4069)
右の一首は、羽咋郡の擬主帳(ふみひと)能登臣乙美がよめる
これは、掾久米朝臣廣繩の館にて催された宴の席での歌のやり取りである。季節は四月の朔というから、今で言えば5月の半ば過ぎ、そろそろホトトギスのやってくる頃だと家持が歌の口火を切る。すると、遊行女婦の土師が、ホトトギスよ、だんな様に聞かせたいから早うやっておいでと、受けて歌う。遊女らしい即妙な座の持たせ方だ。
宴の場の雰囲気に合わせて、即席に詠むことができたのであるから、この遊女はある程度の教養を有していたのであろう。この時代の遊女がどんな階層の出身だったか、詳しいことはわからぬが、中には怪しからぬ素性の女もいたのだろうか。
このほか、蒲生娘子という遊行女の歌も家持は書きとめた
―遊行女婦(うかれめ)蒲生娘子(かまふのいらつめ)が歌一首
  雪の島巌に殖(た)てる撫子は千世に咲かぬか君が挿頭に(4232)
撫子を歌った一連の歌の中で取り上げられたものだ。この遊女がどんな素性のものかは、やはりはっきりせぬが、歌い振りには利発さを感じさせる。
家持の父大伴旅人にも、遊行女と交わした歌がある。旅人が大納言に任ぜられて京へ旅立つときに、兒島という遊行女が歌を贈って餞の言葉とした。
―冬十二月、太宰帥大伴の卿の京に上りたまふ時、娘子がよめる歌二首
  凡(おほ)ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍ひてあるかも(965)
  大和道は雲隠れたりしかれども吾が振る袖を無礼(なめ)しと思ふな(966)
右、太宰帥大伴の卿の大納言に兼任(め)され、京に向(のぼ)らむとして上道(みちだち)したまふ。此の日水城に馬駐め、府家を顧み望む。時に卿を送る府吏の中に遊行女婦(うかれめ)あり。其の字を兒島と曰ふ。是に娘子、此の別れ易きを傷み、彼の会ひ難きを嘆き、涕を拭ひて自ら袖を振る歌を吟ふ。
これに対して、旅人は歌を贈って応えた。
―大納言大伴の卿の和へたまへる歌二首
  大和道の吉備の兒島を過ぎて行かば筑紫の子島思ほえむかも(967)
  大夫(ますらを)と思へる吾や水茎の水城(みづき)の上に涙拭(のご)はむ(968)
遊行女の児島の歌は、身分の高いものに対する敬意のようなものが表れ、教養を感じさせる。それに対して旅人も相応の礼儀を以て応えた。このやりとりは、この時代の諸国における遊女の姿を髣髴とさせるような一齣である。
ところで、官衙の役人たちの中には、遊女とねんごろになり、スキャンダルを巻き起こすものもいたようだ。家持には、そんなスキャンダルを起こした部下の役人を諭す歌がある。興味深いものがあるので、取り上げてみよう。
―史生(ふみひと)尾張少咋(をはりのをくひ)を教喩す歌一首、また短歌
七出の例に云はく、但一条を犯せらば、即ち出すべし。七出無くて輙ち棄らば、徒一年半。三不去の例に云はく、七出を犯すとも、棄るべからず。違へらば、杖一百。唯奸悪疾を犯せれば棄れ。両妻の例に云はく、妻有りて更に娶らば徒一年。女家は杖一百にして離て。詔書に云はく、義夫節婦を愍み賜ふ。先の件の数条を謹み案(かむが)ふるに、建法の基、化道の源なり。然れば則ち義夫の道、情存して別無く、一家財を同じくす。豈旧きを忘れ新しきを愛しむる志あるべしや。所以数行の歌を綴作み、旧きを棄る惑を悔いしむ。その詞に曰く、 
  大汝(おほなむぢ) 少彦名(すくなひこな)の 神代より 言ひ継ぎけらく
  父母を 見れば貴く 妻子(めこ)見れば 愛(かな)しくめぐし
  うつせみの 世のことわりと かくさまに 言ひけるものを
  世の人の 立つる異立て ちさの花 咲ける盛りに
  愛(は)しきよし その妻子と 朝宵に 笑みみ笑まずも
  打ち嘆き 語りけまくは とこしへに かくしもあらめや
  天地の 神言寄せて 春花の 盛りもあらむと
  待たしけむ 時の盛りを 離(さか)り居て 嘆かす妹が
  いつしかも 使の来むと 待たすらむ 心寂(さぶ)しく
  南風(みなみ)吹き 雪消(け)溢(はふ)りて 射水川 浮ぶ水沫(みなわ)の
  寄る辺無み 左夫流(さぶる)その子に 紐の緒の いつがり合ひて  
  にほ鳥の 二人並び居 奈呉の海の 奥(おき)を深めて
  惑(さど)はせる 君が心の すべもすべなさ(4106)
佐夫流ト言フハ、遊行女婦ガ字(アザナ)ナリ
反歌三首
  青丹よし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか(4107)
  里人の見る目恥づかし左夫流子に惑はす君が宮出後風(しりぶり)(4108)
  紅はうつろふものそ橡(つるはみ)のなれにし衣になほしかめやも(4109)
右、五月の十五日、守大伴宿禰家持がよめる。
史生尾張少咋というから、この部下は越中国の書記官で「をくひ」という名の役人だったのだろう。この男が「さぶるめ」という名の遊女とただならぬ関係に陥った。そこで上司の家持は放っておけなくなったのだろう。歌には人倫に訴えかける上司家持の立場が表出されているが、その訴えかけは何となく迫力に欠ける。
前書きに、当時の夫婦関係を律すると思われる規則について触れている。「七出」とは、夫が妻を離縁できる七つの事由であるらしい。その内容はわからないが、七つの事由のうち一つに該当すれば、妻を離縁できるといっている。これらの事由がないにかかわらず妻を捨てれば1年半の徒刑に処せられたらしい。
両妻とは、今でいう重婚のことである。重婚を犯した男は1年の徒刑、相手をした女の方は100回鞭で打たれるとある。諸国の官衙に勤める役人たちの中には、重婚まがいのことをする男たちが絶えなかったのかもしれない。
この上で、家持は「義夫節婦」、つまりつつましい夫婦関係を薦め、それに外れたものたちを厳しく戒める。
家持は、さぶるめの色香に迷ったをくひに対して、京に残して来た妻子を思いやれと訴えている。「愛しきよし その妻子と 朝宵に 笑みみ笑まずも」とは、山上億良の歌を思わせる。家持には、億良の妻子を思いやる歌は、家族の絆の象徴のように受け取られていたようである。
その後、をくひがどうしたかはわからぬが、少なくともをくひの妻は決然とした行動に出たようだ。彼女は、夫の浮気を知ると、とりもとりあえず馬に乗って越中まで押しかけてきたのである。
―先の妻、夫の君の喚(め)す使を待たず、自ら来たる時よめる歌一首
  左夫流子がいつぎし殿に鈴懸けぬ駅馬(はゆま)下れり里もとどろに
駅馬とは、当時街道ごとに設けられていた交通手段だった。をくひの妻は、夫の所に一刻も早くたどり着きたかったのだろう、夫が公用の馬を迎えに出すというのも省みず、駅馬に乗ってやってきた。その勢いや、現代人の我々にも伝わってくるようだ。  
筑紫娘子(つくしのおとめ)

 

生没年未詳 / 通称を児島(こしま)と言った。筑紫の遊行女婦(うかれめ)。大伴旅人が大宰府にあったとき親しくしたらしい。万葉集巻三に一首、巻六に二首の歌を残している。
筑紫娘子、行旅(かうりよ)に贈る歌一首 娘子、字(あざな)を児島(こしま)と曰ふ
家思ふと心進むな風(かざ)まもり好くしていませ荒しその路(万3-381)
故郷の家が恋しいと、あまり心を急がせなさいますな。風向きが好転してから出航なさいませ。海路は荒くてございます。
「行旅」は旅行者。送別の宴で詠み上げた歌であろう。下と同じく大伴旅人上京の折の作と見る説もあるが、「延喜式」に大宰大弐以上は陸路を取るべしとの規定があり、旅人たち一行に贈った歌ではないと思われる。
冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時、娘子の作る歌二首
凡(おほ)ならばかもかもせむを畏(かしこ)みと振りたき袖を忍びてあるかも(万6-965)
普通の方でしたら、どうとでも振る舞いましょうが、貴方様に対しては恐れ多いので、今この場で袖を振りたい思いを堪え忍んでいるのですよ。
大伴旅人への惜別歌。「凡(おほ)」は「普通」「平凡」といった意で、「畏み」の反対として言っている。相手が特別な方であるから、自分のような者が袖を振ることは遠慮しなければ、といった気持。
大和道(やまとぢ)は雲隠れたりしかれども我が振る袖を無礼(なめし)と思ふな(万6-966)
右は、大宰帥大伴卿、大納言を兼任して京に向ひて上道(じやうだう)す。この日、馬を水城に駐め、府家を顧み望む。時に、卿を送る府吏(ふり)の中に遊行女婦(うかれめ)あり。その字(あざな)を児島(こしま)と曰ふ。ここに娘子、この別るることの易きを傷(いた)み、かの会ふことの難きを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて、自ら袖を振る歌を吟(うた)ふ。
大和への道は雲の向うに隠れて見えません。あなたが出発なされば、まもなく私の姿も見えなくなるでしょう。それでも、私はいつまでも袖を振っておりましょう。そのような振舞を無礼だとはお思いにならないで下さい。
前の歌では堪え忍んでいると言ったが、姿が見えなくなれば袖を振ろうというのである。
 
大伴家持

 

(おおとものやかもち、養老2年頃-延暦4年/718-785) 奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。
父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際には、母・丹比郎女、弟・書持とともに任地に従っている。後に母を亡くし、西下してきた叔母の大伴坂上郎女に育てられた。天平2年(730年)旅人とともに帰京。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)藤原広嗣の乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下に叙せられる。天平18年(746年)3月に宮内少輔、6月に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。
少納言に任ぜられ帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。翌天平宝字3年(759年)1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。
天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に4人は逮捕されるが、藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったものの、翌天平宝字8年(764年)に薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。天平宝字8年(764年)9月、藤原仲麻呂の乱で藤原仲麻呂が死去。
神護景雲1年(767年)大宰少弐に転じる。神護景雲4年(770年)称徳天皇が没すると左中弁兼中務大輔と要職に就き、同年正五位下に昇叙。光仁朝では式部大輔・左京大夫・衛門督と京師の要職や上総・伊勢と大国の守を歴任する一方で、宝亀2年(772年)従四位下、宝亀8年(777年)従四位上、宝亀9年(778年)正四位下と順調に昇進、宝亀11年(780年)参議に任ぜられ公卿に列し、翌宝亀12年(781年)には従三位に叙せられた。
桓武朝に入ると、天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。
没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806年)に罪を赦され従三位に復された。
歌人
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。
勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている。
戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」の作詞者でもある。
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ
(海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない) 
 
大伴家持の見た日本海

 

1 大伴家持と越中国
万葉の歌人大伴家持が、越中国司として赴任したのは、天平18(746)年7月、北陸の野山に女郎花(おみなえし)や萩の初花が咲く頃であった。
当時の中央政界は、天皇は聖武天皇であり、皇后が藤原氏出身の光明皇后である。左大臣は橘諸兄で、大伴氏とは非常に親しい有力政治家であった。青年政治家の大伴家持とすれば、橘諸兄が左大臣でもあり、自分が越中に国司として赴いた時には、おそらく政治家としての明るい将来が約束されていたと考えたはずである。
彼が越中で5年間の歳月を過ごしている間に、都の政治情勢が大きく変わり、その後の中央政界での出世コースは待っていなかった。因幡、薩摩、大宰府、相模、やがては多賀城へと、最後にはどこで亡くなったかさえわからないような末路であった。
「万葉の世紀」といいながら、現実の政界の厳しさを知ることになるが、越中赴任中はそこまでは予想もしていなかったであろうから、家持は橘氏と親しい関係にあって、将来への夢を持ちながら越中での5年間を過ごしたであろう。
2 越・越中の表記
『万葉集』において家持自身は「越中」を、「越中国守」「越中守」「越中風土」と漢字で表現している。
しかし、「越中」を万葉仮名で発音する場合は、一貫して「コシ」であり、越中という音読の呼び方はしていない。万葉仮名で「故之」、「古之」、「故志」と3種類あるが、いずれも「コシ」である。「越」と書いて「コシ」と呼んでいると思われるところが2箇所だけある。
もう一つ興味深いのは、「コシノウミ」という万葉仮名である。「古之能宇美」乃安里蘇乃奈美母(コシノウミノアリソノナミモ)、「故之能宇美」能信濃野波麻乎(コシノウミノシナノノハマヲ)、あるいは、「越海」之角鹿乃浜(コシノウミノツノガノハマ:敦賀のこと)などとあり、まさに「コシノウミ」という表現こそ、日本海のことを指していると考えられる。
ところで、「コシ」とは何処かとなると意見が分かれるのだが、いずれにしても、「コシ」は北陸地域に相当する広い範囲であったと考えられる。まず、7世紀中頃、大化改新の頃は「高志」の表記が行われた。その頃「コシ」国があったとしても、表記は「高志」で統一されていたと考えられる。藤原京跡で発掘された木簡に「高志調」銘があり、この「高志」について、国か郡か郷かなど、いろいろ意見があると思う。京都大学近くの小倉別当町遺跡で見つかった無文銀銭には「高志」と刻まれており(文字の無い銀銭に文字が刻まれている)、これは地名か人名か今をもって謎である。
さて、7世紀の後半から末にかけて、いよいよ「高志国」名が登場する。一つは「高志国…評…五十戸」、その次は、「高志国…評…里」という表記である。「五十戸」(さと)が「里」に変わった時期は、私の見通しでは、ほぼ天武天皇12(683)年から持統天皇元(687)年の4年間の間に絞り込んでいくことができる。
次に、「高志国」がいよいよ3つの国に分割される。越中国は「高志中国」(コシノナカノクニ)という表現に変わった。現在のところ、持統天皇3(689)年から6(692)年までの3年間に、「高志」は「高志」の後(しり)、中(なか)、前(くち)に分かれたであろうということができる。この時の「高志中国」は、大きな行政区画を持っており、蒲原、古志、魚沼、頚城そして現在の富山県のベースとなる新川、婦負、利波、射水、これだけの郡を含んでいた。
やがて、大宝律令が大宝元(701)年に制定され、これを画期として国域の表記は、また大きく変わっていく。この頃に、「コシノナカノクニ」が2文字の「越中」という漢字に変わったであろうと思われる。大宝2(702)年に蒲原、古志、魚沼、頚城の4郡が越後国に併合され、その後、養老2(718)年に、能登半島で能登、羽咋、珠洲、鳳至の4つの郡で能登国が出来上がり、8世紀中頃、大伴家持が越中に来る5年前、天平13(741)年に隣の越中国と併合している。これから天平宝字3(759)年までの10数年間、越中国の中に能登半島が含まれていたことになるが、この間に、都から青年政治家の家持が赴任してきたわけである。
当時の史料は非常に少ないが、家持はこの「越中」という漢字を、随所に使っている。大伴坂上郎女が歌の中に読んでいるのは「美知乃奈加 久尓都美可未波…」、越中のことを、「美知乃奈加」(ミチノナカ)と詠んでいる。当の家持は、歌中で越中とは言わないで「古思能奈可」(コシノナカ)と立山の賦の中で詠んでいる。実は、平安時代の『和名類聚妙』には「古之乃三知乃奈加」(コシノミチノナカ)と見えるが、この表記は、「万葉の時代」の読み方を反映している可能性が高いと思う。
「高志中国(コシノナカノクニ)」という表現が2文字=「越中」国の名前に統一される以前に、「高志道中国」と表記した段階があるのではないかと推定する。この史料が、いずれ木簡などの形で発見される可能性があると思っている。
ここで、ひとつの傍証を挙げてみよう。「コシノウミ」に面する「高志」が越後、越中、越前に3分割されているが、これに類似した変遷を示すのが吉備国である。吉備は高志と同様に備後、備中、備前の3国に3分割される。飛鳥で発見された木簡の中から「吉備道中国」というのが出ているが、これは、まさしく「高志道中国」に対応する国名だと考えている。
3 大伴家持と「越」の四季
家持は、『万葉集』の歌に様々な表現の万葉仮名で、北陸の自然の表情を歌いこんでいる。家持が作った歌は、『万葉集』では巻十七から十九に集まっており、数え方によって少し違うが、220首余りの歌をのせている。足掛け6年にわたる生活の中で自然と風土の織り成す四季折々の情景や情緒を詠んだ歌が多く残っている。
(1) 春
○ 物部の八十少女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花
代表作の一つ。多くの乙女たちがお寺の井戸の辺で、堅香子の花の咲いてる所で水を汲み合っているという情景である。
(2) 夏
○ 立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
非常に気高い歌で、立山連峰全体を「立山」と表現していると思われる。
(3) 秋
○ 安の河い向かひ立ちて年の恋日(け)長き子らが妻問ひの夜そ
七夕、天の川の夜の想いが込めれている。
(4) 冬
○ この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む
消え残る雪の中で、山橘の実の映える様子が際立って心に留まる。
(5) 布勢水海
○ 藤波の影なす海の底清み沈着(しづ)く石をも珠とそわが見る
○ 渋谷を指してわが行くこの浜に月夜飽きて馬暫(しま)し停め
渋谿の崎は、松田江の長浜につながっていくが、布勢水湖への往来に必ず通ったところで、そこから眺める波の妙、海底の色合い、海越しの立山連峰の景観など、それは昔も今も変わることはない。
4 「古之(越)」の村々 / 万葉びとの活動舞台
『万葉集』に出てくる村は限られている。村は沢山あったはずだが、行政では村を公式の組織として扱ってはいなかった。しかし、『万葉集』に出てくる僅かな村が、近年注目を浴びている。
旧江村 / 「天平勝宝2年3月9日、出挙の政せむとして旧江村に行く」。現在の氷見のどこかの地にあたる。
荊波村 / 「荊波之里」だが、同じ地名を書き記した東大寺開田図(正倉院宝物)の絵図の1枚の隅に書かれている漢字は「従荊波往紵道」(《荊波》より紵へ往く道)。紵は一方で辛虫村と書かれているから、「荊波」はおそらく「荊波之里」と言われていたであろうし、「荊波村」とも呼ばれていたであろう。家持はこの近辺を通っているから、この「荊波村」や「辛虫村」は「万葉の時代」、家持が活動した時代に実在した村であったことになる。
畝田村 / 『日本霊異記』下・第16に出てくる加賀郡大野郷畝田村である。「コシノウミ」に隣接する地域で、秋田から鳥取、山口県にかけて、『万葉集』の時代の遺跡がもっとも集中する場所として、金沢港の周辺地域がある。狭い平野部を北陸道が通っていたわけで、この辺りは海の深さがあり、大型の船舶が入って来れる所である。今、発掘が進んでたくさんの遺跡や遺物が見つかっているのだが、日本で初めて、「天平ニ年」という年号を書いた土器が発見されて注目を集めている。
5 「古之(越)」の海と渤海使の往来
日本海を挟んで大陸から渡ってきた渤海使が、ある時期現地に滞在した場所がある。加賀郡もそのひとつで、港があったことが確認されている。その港周辺の遺跡のひとつが、金石本町遺跡である。大型建物も含め建物が40棟を超え、墨書土器が100点以上発見されている。その横に畝田・寺中遺跡があり、土器に天平2年と書いてあった。港の役所を示す「津」や「津司」も見つかっている。実は、天平2年という年号は、日本の初期の対外交流史を考える上で、画期的な意味を持つ。
中国の東北三省、ロシアの沿海洲、朝鮮半島の北部の領域を全部包み込んだ渤海国があった。唐はこの国が大きくなることを懸念し、妥協して「渤海郡王」という称号を与えた。この国は郡のように小さいわけでなく、大変大きな力をもった大王が支配する国で、歴史も長く続く。日本には、神亀4(727)年に始まり、延喜19(919)年まで、わかるだけでも33回、数え方によっては34回、使いを寄こしている。一回目は蝦夷が支配する出羽国のもっと北の方に着き、24名の内16人が殺され8人だけが許されている。都に行っていかに蝦夷が驚異かということを詳しく説明させる意図があったのだろう。二回目も何故かこの危険なルートである。風と潮の影響で、出羽国の方へ流されたのではないかという見方があり、あるいは、それ以前から出羽国の方へ行く、私的な交易のルートがあったのではないかという意見もある。
家持が越中に赴任したときには、すでに渤海と日本の交流が始まっていたため、いつ越中国の香島津(七尾)へ使いが来ても不思議ではなかった。
やがて越前国にしばしば到着し、長く滞在した。また、能登の福良津(福浦港)という良港に到着して、その後に加賀郡の港に入っていった。日本のどこかに到着してから都に入るまでは、すぐ移動せず、季節の衣服や食糧を与えられて、大体正月に合わせて都に入っていく。天皇から官位をもらったり、さまざまの宴会や接待をこなして、やがて夏の風、日本側から大陸に風が吹く頃に、能登半島を経由して日本海に船出した。日本に来る時は、冬の風、大陸から日本に向けて吹く風を利用してやって来る。冬風と夏風をうまく利用して航海していた。
越中も関係ない訳でなく、その情報は逐一入っていたと思われる。そこへ来ていた使いの一人をわざわざ招いて、越中国庁で若い学生たちに渤海語を教えている。これは、やはり渤海の人たちと積極的に交流することを目的としていたのだと思われる。
渤海の研究は、今、中国の研究者が活発に始めている。かつて、日本の東大の研究調査団が大きな成果を出していたのだが、その後は、中国の黒龍江省、遼寧省、吉林省等で新たな調査研究成果がでていて、日本でもこうした学術情報が入手しやすくなっている。
おわりに
この講義は、「万葉の時代」の北陸を理解する上で、参考になればと願っており、きっとこの事が、私たちの生活している「越の国」の持っている歴史や、風土を理解する上で、無意味ではないと考えている。
『万葉集』に詠まれている多くの歌に見える地名・花・鳥や風物は、現在の日本海沿岸地域に色濃く形を留めていること、形は当時のままではないが、その場所から眺める、たとえば、海の色や山の眺望から受けとれる季節ごとの想いは、1,200年以上の時空を越えて「万葉の時代」に共通するものを感じとることができるのではないかという夢を抱かせてくれる。
 
「万葉集」における祈りの服飾

 

はじめに
祈願という言葉がある。自身の努力ではなく、別の何かに自分の願いを叶えてもらおうとすることであるが、現代の日本においては一般的に神道と結びつきの強い行為であると言える。たとえば正月には家内安全を願って初詣をしたり、悪いことが続くと厄除け祈願をしたり、受験期には学業成就を願ってお守りを買ったりする行為は珍しくはない。神社に行って何かを祈る際、人は賓銭を入れ、拍手を打ち、鈴を鳴らし、礼をする。そのときの服は普段着であることが多い。あるいは、少し改まった格好をして神主に商売繁盛の祈願のための祝詞(のりと)を奏してもらったり、盛女に舞を舞ってもらったりすることもできる。
人が何か神に祈るという行為は古代でも行われていたものである。しかし上記に挙げた祈りの形式や服飾そのままが古代から受け継がれてきたものであるとは言えない。
そこで古代の祈りの様子を知る手がかりとして、「万葉集」に注目したいと思う。「万葉集」は日本最古の歌集であり、二十巻のうちに4540首cLlを収録し、作者層は天皇・皇后をはじめ皇族・貴族・宮廷宮人から農民・遊行女婦・乞食者に至るまで実に多様な階層にわたっている。そして大別して二部に分かれA、第一部と第二部で違いは色々あるが、大きな特徴として、第一部はおおむね時代順に配列され、さらに廃韻」B・「相聞」C・「挽歌」D等の部立Eによって分類されていることが挙げられる。このことによって歌の詠まれた心情や、状況や風俗的背景を探ることができる。そして第二部は部立がなく笑祥業苦の歌を中心とした日記のような内容であり、時間軸と大伴家持に関わる文化的背景を知ることができる。つまり「万葉集」は、様々な階級の人々に関わる祈りの様子を広く深く研究できる文献として重要なものなのである。
しかし「万葉集」における服飾についての先行研究は、中村典子「万葉における袖の研究」(1984)、中田尚子「万葉にみる頬粧と眉について」(1989)、中滞美恵「「しろたえ」について」(1991)、中田尚子「「万葉集」にみる袖」(1999)など、当時の服飾品そのものを取り上げ、その構成や役割を探っていくものであり、神道にかかわる服飾という視点での研究は多くはないF。
よって、本稿では「万葉集」に収録された神道および民間習俗を背景とした歌から、自己の望みを神に願う行為、つまり祈りを行う際、どのような形式、特にどのような服飾で行っているかを明らかにすることを目的とする。
本稿で研究文献として使用したのは「万葉集本文篇・訳文篇」Gである。
まず歌の中に祈りに関する動詞Hが含まれているもの、および神事や祈りに関する事物Iが含まれているものを抽出し、そして、歌の内容によって祈りの服飾が異なる可能性があるため、それぞれを内容別に分類した。その結果、1)任地-の旅や遣唐使の航行などの無事を神に祈る歌、2)恋人の幸せ・自身の願い・天皇や主人の幸せを神に祈る歌、3)神や神事にかかわる歌、の三つにまとめることができた。  
1)任地への旅や遣唐使の航行などの無事を神に祈る歌
「万葉集」には多くの防人や遣唐使の歌が収録されている。防人や遣唐使自身が故郷を偲ぶ歌が目立つが、出発に際してその家族や友人から贈られた歌も数多く見受けられる。
その中に旅の無事を祈る様子がえがかれている歌を見つけることができた。たとえば、
秋芽子乎 妻問鹿許曽 一子二 子持有跡五十戸 鹿見白物 吾濁子之 草枕 客二師徒者 竹珠乎 密貫垂 斎戸ホ 木綿取四手而 忌日管 吾思吾子 真好去有欲得 (9・1790)J
秋萩を妻問ふ鹿こそ一人子に子持てりとい- 鹿子じもの我が一人子の草枕
旅にし行けば竹玉をしじに貫き垂れ斎念に木綿取り垂でて斎ひつつ
我が思ふ我が子ま幸くありこそ
とあり、これは天平五(733)年巽西の春閏三月に遣唐使の船が難波を発つ際、その旅に同行する子にその母親が贈った歌である。この歌から旅の無事を祈るときは、竹で作った管玉を繋ぎ、神に供える酒を入れる器に白い布を取り付けるという形式が明らかになる。
また、
杭毛見目屋中毛波可自久佐麻久良多姫由久伎美乎伊波布等毛比氏 (19-4263)
櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思いて
とあり、これは天平勝宝四(752)年間三月に衛門督大伴古慈悲宿弥の家で入唐副使大伴胡麻呂宿弥等に鰻する際に大伴宿弥村上と大伴清継が伝話した歌である。この歌から櫛を使って髪を杭かないこと、家を掃除しないことが旅をしている人の無事を祈る行為として認識されていたことがわかる。また、旅をする当人も旅に際して久ホ具ホ乃夜之里乃加美ホ奴佐麻都理阿加古比須奈牟伊母賀加奈志作 (20・4391)
国々の社の神に幣奉り我が恋すなむ妹がかなしさと歌っており、残してきた人の無事を旅行く道すがらの神社で祈り、お供えをしている様子が明らかである。
家族の旅先での無事や、残された人の安寧を祈る歌はその他にも27首抽出でき、「竹玉」や「玉だすき」を用い、旅行安全の神を邸内に配っている様子をえがく歌もあった。  
2)恋人の幸せ・自身の願い・行事などで天皇や主人の幸せを神に祈る歌
「万葉集」には恋の歌も多く、その中には恋愛成就や恋人の幸せを神に祈る様子がえがかれているものがある。たとえば、
管根之根毛-伏三向凝呂ホ吾念有妹ホ縁而者言之禁毛無在乞常斎戸平
石相穿居竹珠乎無間貫垂天地之神祇乎曽吾祈甚毛為便無見 (13-3284)
菅の根のねもころごろに我が思-る妹によりては言の忌みもなくありこそと
斎念を斎ひ掘りすゑ竹玉を間なく貫き垂れ天地の神をそ我が祈む
とあり、作者は不明だが恋人に悪いことがあってほしくないという願いを神に祈る際、祭耐用の酒の器を地中に掘り据えて、竹で作った管玉を間のないように貫いたものを用いている様子がわかる。また、
白玉之人乃其名実中々二辞緒下延不遇日之数多過者懲日之累行者
思遣田時乎白土肝向心推而珠手次不懸時無口不息吾轡見失玉釧
手ホ取持而真十鏡直目ホ不視者下槍山下逝水乃上丹不出吾念情安虚欺毛 (9-1792)
白玉の人のその名のなかなかに言を下延- 逢はぬ目のまねく過ぐれば
恋ふる目の重なり行けば思ひ遣るたどきを知らに肝向かふ
心砕けてたまだすきかけぬ時なく口止まず我が恋ふる児を玉釧
手に取り持ちてまそ鏡Tgif=B'に見ねばしたひ山下行く水の上に出でず
我が思ふ心安きそらかも
と歌ったのは田辺福麻呂で、愛しい恋人に早く会いたいと願っている歌である。この歌では「たまだすき」や「玉釧」「まそ鏡」など神事に関わる物が枕詞として用いられている。
しかしおそらくは実際にも神に恋人に会えるよう願う時にはこれらの物を用いていたと考えられる。なぜなら、
(前略) 知波夜夫流神社ホ氏流鏡之都ホ等里蘇倍己比能美皇
安我麻都等吉不平登善良我伊米ホ都具良久奈我古敷流曽能保追多加波
真追太要乃波麻由伎具良之(後略) (17・4011)
(前略) ちはやぶる神の社に照る鏡倭文に取り添え乞い頑みて
我が待つ時に娘子らが夢に告ぐらく汝が恋ふるその秀つ鷹は
松田江の浜行き暮らし(後略)
という大伴宿弥家持の歌があるのだが、これは飼っていた鷹が逃げてしまい、行方を心配して神社に奉幣したところ、夢に乙女が出てきて鷹の行方を教えてくれたことに感動して作った歌という説明があり、この歌からかなり私的な願いであっても神社に願っている事実を伝えているからである。
また宴の中で臨席者の幸せを神に祈る様子が分かる歌もある。
和我勢故之可久志伎許散婆安米都知乃可未乎許比能美奈我久等曽於毛布 (20・4499)
我が背子しかくし聞こさば天地の神を乞い痛み長くとそ思ふ
これは天平宝字二(758)年二月に式部大輔中臣清麻呂朝臣の邸宅で宴が催された際、中臣清麻呂が客の長寿を祈る歌である。さらには宴の中で、遊行婦女とよばれるもともとは盛女であったといわれる女性が、踊りや歌を以って祈りを神に奉げていると考えられる歌もある。たとえば、
雪嶋巌ホ植有奈泥之故波千世ホ開奴可君之挿頭ホ (19-4232)
雪の山斎巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに
という歌は、天平勝宝三(752)年一月三日に窟軍界磁)憲与誠巌畠の館で宴があったときに遊行婦女である蒲生娘子が縄麻呂の栄華を祈って歌った歌である。このように神-の祈りを専門とする人は宴に同席し、貴人と共に歌い合うことで一種の言祝ぎの儀式を成立させているのだと考えられる。なぜなら今までのような「たすき」や「幣」は歌われていないが、その場にある神聖性を帯びているものKに事寄せて将来-の願いを歌っているからである。
以上のような私的な願いを神に祈る様子のわかる歌はこの他に25首あり、その様子は1)の旅の安全を祈る様子と同様に、願いを叶えて欲しい当人が神-祈ったり神社に赴いて幣をささげたりする場合もあれば、饗宴の中で神-の祈りを専門とする者を同席させて言祝ぎを行わせている場合もあることが歌の内容から確認できた。また服飾としては「木綿だすき」や「竹玉」を肩や手に懸け、「にぎたえ」「倭文幣」など様々な幣を持って神に祈っていた。  
3)神や神事にかかわる歌
歌っている場や歌い手が神道に関わっている、あるいは神事の様子を具体的に表現している歌をここにまとめた。たとえば
新室踏静子之手玉鳴裳玉如所照公乎内等白世 (11・2351)
新室を踏み鎮む鬼し手玉鳴らすも玉のごと照りたる君を内にと申せ
という室寿の儀式の様子がうかがえる歌や
三幣烏取神之祝我鎮賓杉原僚木伐殆之囲手斧所取奴 (7-1403)
み幣取り三輪の祝が斎ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ
五十串立神酒座奉神主部之雲衆玉蔭見者乏文 (13・3229)
岩鼻立て神酒据ゑ奉る祝部がうずの玉蔭見ればともしも
という神社で神祇に携わる人の様子がうかがえる歌などである。律令において神祇官Jという機関がおもに朝廷内で行われる祭紀をつかさどっていたが、同時に諸国の神社も管理しており、それぞれの神社には祈りを専門とする人々が存在していたことがこれらの歌から改めて確認できる。また、
久堅之天原従生来神之命奥山乃賢木之枝ホ白香付木綿取付而
斎戸乎忌穿居竹玉乎繁ホ貫垂十六白物膝折伏手弱女之押目取懸
加此谷裳吾者祈奈牟君ホ不相可聞 (3・379)
久かたの天の原より生れ来る神の命奥山のさかきの枝にしらか付け
木綿取り付けて斎食を斎ひ掘り痴ゑ竹玉をしじに貫き垂れ
鹿じもの膝折り伏してたわやめのおすひ取り掛けかくだにも我は祈いなむ
君に逢わじかも
という大伴坂上郎女が天平五(733)年の冬11月に氏神を祭るときに歌った歌から、神聖な榊に白い布を結び、神酒を入れる聾を地中に掘って入れ、竹で作った管玉を持ち、鹿のように深々と膝を折って伏し、女性のつけるおすひという布を肩から懸けて、懸命に祈っている神事の様子が読み取ることができる。当時各家々での祭配はその家の刀自Nが行っておきながたらしひめのみこと
おり、坂上郎女も神事を担う役割を持っていたようである。この他にも息長足日女命Oの神話に関する歌から足日女命が新羅征討のための祈りを行う様子や神職の存在を確認できる歌が22首ある。しかし神事に関わる人の祈りの様子や服飾の特徴はこれまでにでてきたものとそう変わらず、「たすき」や「幣」「まそ鏡」など、神事に関わる服飾を使用していることが確認できた。ただし、「竹玉」を含む歌はすべて女性が歌っていることは注目すべき点であり、「竹玉」自体も珍しい服飾として研究の余地のあるものであると言えるP。  
まとめ
以上、「万葉集」から祈りに関する歌を抽出し、内容別にそれぞれの祈りの様子や服飾を検討していった。その結果以下のようにまとめられる。
当時仏教もすでに輸入されており、「万葉集」に収録された歌の中にはその影響を感じられる歌もあったが、祈りに関わる歌は神道とも関係の深いアニミズムを根底に持っ、自然発生的な信仰を背景に作られているように感じられた。特に律令制度の中で専門職として位置づけられた神祇官の管轄である祝部や祝、砿女の存在ははっきりしているにもかかわらず、老若男女が神に関わる事物を歌に詠み込むことができ、それによって祈りの心情をあらわし、また実際に祈りを行っていることがわかる。つまり、祈りの内容や祈り手が異なっていてもその様子や服緬は共通しており、よって「万葉集」に収録された歌が作られた時期には祈りの形式や服飾は様式化し、誰もが神事を行うことができたということがはっきりするのである。
そして「万葉集」の歌からうかがい知れる祈りの様子や服飾は、共通して大変質素なものであると言える。沢山のお供え物をしたり、きらびやかな装身具をまとったりするような祈りの歌はまったく見られない。椿でつくった「木綿だすき」(図)を肩から掛け、麻や木綿や紙で作った「幣」を持ち、女性ならば「おすひ」をまとい、「竹玉」を装飾品として用いるのが「万葉集」における祈りの服飾である。それらは簡素であるからこそ清浄さや神聖さが宿り、神-の祈りのひたむきさが感じられる服飾であったということが言える。
今後の研究課題であるが、本論の最後にも指摘した、祈りの服飾として登場した「竹玉」についてである。現代において勾玉や管玉はお守りのモチーフなどで用いられて認知度は高いが、「竹玉」は今回の分類において初やて目にした装飾品であった。もちろん竹は竹取物語を代表として神秘的な植物として知られている。それで作った玉であれば神聖性を内包しているのは当然のように思われるが、「万葉集」においては女性が歌う歌にしか登場しない「竹玉」は大変興味深い存在である。よって「竹玉」の起源および変遷については今後さらに研究が必要であると考える。  

@「新編国歌大観」(角川書店、昭和58-平成4年刊行)による。「国歌大観」(松下大三郎編、明治34-36年刊行)によると4516首と数えるのが一般的であるが、誤りが多いため「新編国歌大観」で修正された。
A 第一部は巻-〜巻十六の十六巻であり、第二部は巻十七〜巻二十の四巻である。
B 三大部立の一つで、名称は中国六朝の詩文集「文選」によるといわれている。「万葉集」の雑歌は常にほかの部立に先行し、公的色彩が濃い。
C 三大都立の一つで、本来は手紙のやりとりくらいの意味だが、「万葉集」においては相聞に分類される歌の9割以上が男女の恋歌である。
D 三大部立の一つで、人を葬るときに棺を挽くものが歌う歌の意だが、「万葉集」では葬送の歌をはじめ、病中や臨終の作、死者追悼の歌、伝説上の人物の死を悼む歌など広く死に関する歌が見受けられる。
E「万葉集」の分類上の名称。
F「万葉集」における「袖を振る」という行為が、恋人の無事を祈ったり思いを伝えたりする意味を持ち、「紐を結う」という行為が再会を期した恋人との愛の誓いであるという意味を持つことから、これらは呪術的行為である、とされている。この場合の呪術とは民間習俗を意味し、特定の宗教を指してはいない。
G 佐竹昭広・木下正俊・小島憲之共著、塙書房より1967年刊行。本文は西本願寺本万葉集を底本としている。
H 「斎ふ」・「祈る」・「拝む」・「祈む」・「祈う」・「乞う」・「乞い痛む」などの動詞。
I 足羽の神・神の社・幣・玉だすき・斎食・窟損など神道および神事に関わる事物。
J「新国歌大観」による通し番号と巻数。以下の表記も同様。
K この歌に歌われた「なでしこ」は、縄麻呂の邸の庭に積もった大雪に彫刻を施して岩山を作り、それに挿した造花のことである。造花なので枯れることはなく、それを主人の栄華になぞらえて歌ったと考えられる。
L 幣は神前に供える布のことであるが、手に持っ場合には現代の御幣のようなものであるとも考えられる。
M 太政官と並ぶ政府の最高機関である。
N その家の主婦を指す言葉であるが、古代においては一族あるいは一家の祭配を担う女主人の意でもある。
O 神功皇后のことである。
P「万葉集」において上代からの装身具として一般的な碧玉や金、粘土などで作った勾玉や管玉はほとんど登場しなかった。
I そのほかの分類方法として表記の違いによる分類が可能である。というのも訳文篇では同じ漢字を使っていても本文篇では異なった漢字を用いている場合があるのである。たとえば「斎ひつつ」が「斎乍」や「忌日管」、「伊波比都々」、「幣」が「幣」や「奴佐」、といったように複数の表記が見られる。また今回研究文献として挙げた本以外での書き下し文の漢字や読み仮名の違いもある。たとえば本稿の研究文献では「神主部」が「祝部」とあるが、小学館発行の「新編日本古典文学全集万葉集」では「神主」となっていた。しかし用字法の違いが実際の行為や事物を本質的に異なったものにしているわけではないので本論ではこの方法は用いないことにした。  
 
長歌・旋頭歌・片歌

 

「長歌・旋頭歌・片歌」は、古の日本において、言葉よりも的確に心情を表現できる手段として日常的に用いられていたものだというので、どちらかと言えば歌謡に近い。人間はその遺伝子のどこかに、歌や踊を愛好し、代々行ってきたという記憶を眠らせているのかも知れない。鼻歌のように口から流れ出てくる言葉や旋律に、深い意味はないのかもしれないが、その表現方法から人間の文化的行動の発達の流れが見えてくるように思う。現在の歌謡曲にも5・7句で4拍子の構成のものが多いのは、日本人の体内に刻まれたリズムのせいかもしれないし、また日本の歌謡にはしっくり合うから不思議なものである。
本項では、その歴史を追いながら、上代歌謡の栄枯盛衰と社会的背景を探ってみようと思う。
まずは、簡単に和歌について触れ、そのイメージを膨らませてみることにする。
日本固有の詩歌である「和歌(わか)」は、長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称であり、「やまとうた」とも呼ばれているが、数ある中でも狭義には「短歌」のことを指す。短歌以外の和歌は、歴史的にも早い時期に衰退してしまうのだが、万葉集の頃を最盛期として上代から日本で詠まれていた定型歌形式のもの、と定義付けられている。
中でも「長歌」は、その消えていった和歌の1つであり、簡単に言い表すなら、4分の4拍子に合わせて5・7・5・7音の句が続き、最後が7・7音の句で終わるものである。5音7音の句を3つ以上繰り返し、最後7音で締める構成以外には何の制約もないという。短歌と長歌、どちらが先に誕生したかは定かではないが、いずれも母胎は古代歌謡(上代歌謡)にあるとされているので、この辺りを始点として流れを追ってみたいと思う。
まず歌は、各地で自然発生したであろうことは、常識的に考えれば想像できる範囲のものである。日常生活の中での雑然とした言葉をリズムに乗せることで、言葉を非日常的な、神の世界との交信を可能にすることができると考えた。発した言葉が物事の吉凶を左右するという思想、祝詞や忌み名などの思想は現在の日本でも見られる。言葉に宿る霊的な力を信仰する「言霊思想(ことだましそう)」を基に、文字の発生以前から古代人は歌にして心情を表現し、自分の意志を声に出し表明する「言挙げ(ことあげ)」が行われ、それが口伝・口承されてきた。日本各地に伝承された歌・舞を「風俗歌舞」と呼び、希少ながら現在にも伝えられている。これらの発生時期は定かではないが、上代歌謡の源流となり、繋がっていったと考えられている。日本舞踊「雅楽・舞楽」の項にも、歌舞の創成期について触れているので参照して頂ければ幸いである。
上代歌謡という言葉は一般に、「日本書紀」の128首・「古事記」の112首・「風土記」の25首・「続日本紀」の8首・「仏足石歌碑」の21首・「日本霊異記」の9首などの万葉歌を指し、奈良時代末までの文献に収録されている歌の総称となっている。「古事記」「日本書紀」に収録された上代歌謡は、特に「記紀歌謡(ききかよう)」と呼ばれている。祝祭儀礼歌・集団歌舞歌・作業歌・遊行漂泊芸謡・宮廷化芸謡など種類も分類も様々あり、時代を経るに従い、個人が胸中を文字化して謡い表すという創作的立場を主体とした叙情詩、いわゆる「詩歌」へと変質してゆく。その流れの中で、自然に定型が浸透・慣例化していったと考えられている。
歴史背景を見ると、初期の大和時代は氏族中心の社会が営まれており、信仰心が厚く、神話・伝説などを信じ、祭祀儀礼として古代歌謡や呪詞(じゅし)などが口承で行われていたという。しかし4、5世紀頃、大和朝廷として国家統一が起こり、大化の改新・壬申の乱などを経て国として安定してゆき、天皇の権威は絶対的なものとなっていった。この中央集権・専制君主という国家体制成立は思想的に民衆に多大な影響を与え、変化をもたらしたと考えられている。口伝してきた「氏族」の伝承は必要なくなり、次第に「朝廷」への絶対服従に換えられ、古い歌体である「謡」は「歌」へと徐々に遷り変わり、「謡」は詩歌ではなく歌謡のまま存続したと考えられる。現存する最古の和歌集である「万葉集」は、この変遷期に作られたもので、歌と謡の双方が収録されており、年代的には第16代天皇・仁徳天皇の427年(古墳時代)から、天平宝字期の760年前後(奈良時代)の万葉集の編纂までのものが収録されている。一般に文字の使用と詩歌の始まりは密接なものと考えられているが、史実上の文字の使用の初見は第21代天皇・雄略天皇の名と思われる万葉仮名が刻まれた金錯銘鉄剣が、5世紀の稲荷山古墳から発見されており、漢字の音を借りて固有語を表記する方法は5世紀には確立していたと考えられている。文字の使用後、一定の語を句末に用いて声調を整えるという詩の形式の歌謡として、「せどうか短歌」「施頭歌」「片歌」「長歌」などが発達したというので、長歌の誕生もこの頃と推定される。
しかし奈良時代編纂の「万葉集(まんようしゅう)」には260首もの長歌が収録されているが、平安時代の「古今和歌集(こきんわかしゅう)」には長歌は5首、旋頭歌は4首しか見られないため、平安時代には既に衰退してしまったようだ。そこで、これらの歌の最盛期である「万葉集」成立の周辺について少し触れてみることにする。
万葉集(萬葉集)は現存する日本最古の歌集としてあまりにも有名であり、前述のとおり奈良時代の760年前後に編纂されたと言われている。全20巻・4,500首余りを収録しており、内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌(そうもんか)・挽歌(ばんか)の三大部類に分け、誰の手により成立したかは不明であるが、大伴家持が現存の形に近いものにまとめたと考えられている。約400年にわたる全国各地の、天皇・皇后から庶民までのあらゆる階層の人の歌が収められている。五七調で、庶民の心情や豊かな人間性、自然の雄大さなどを素朴・率直に表現したものが多く「ますらをぶり」とも呼ばれる作風が特徴的である。関東・東北地方を舞台に詠まれた「東歌(あずまうた)」や、筑紫・九州北部での軍備・警護に当てられた人々の哀歌「防人歌(さきもりうた)」なども含んでおり、地域性も豊かである。歌の種類は短歌が大半を占めるが長歌なども収録されており、歌には万葉仮名(平仮名や片仮名の替わりに漢字で日本語を表記したもの)が多く用いられ、後に万葉仮名を基にして平仮名・片仮名が誕生したという。
「万葉集」には和歌のみならず、分類名・作者名・題詞・訓注・左注などの記載があるが、和歌以外の部分はほとんど漢文体で表記されている。対して和歌の表記には、先に触れた万葉仮名が使用されており、奈良時代当時の音節数は清音60・濁音27だったことが分かっている。現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多く、現在同じ発音の「い」などの表記は複数存在し、音節は「い」「ゐ」の2種類、といった具合で、現代日本語より複雑だったことが想像できる。
さて、短歌4207首、長歌265首、旋頭歌62首、仏足石歌1首、連歌1首収録されているうち、以下に長歌・短歌以外のものについて、その形式について少し触れてみることにする。
「旋頭歌(せどうか)」とは、5・7・7の句に対し、5・7・7と返すといった具合に片歌を反復したもの。5・7・7・5・7・7の6句よりなり、神と人との問答を原型にしたとされる古い旋律の歌であり、下三句が頭三句と同形式を反復することから名が付いたとされる。又は最初の句頭のイメージを、次の句頭で反復するので旋頭歌と呼ばれるとも。山上憶良や大伴家持らの有名な歌人も作ったが、民謡が多く、かつ方言が使われているものが多い。
「仏足石歌(ぶっそくせきか)」とは5・7・5・7・7・7の6句からなり、普通の和歌の形式(短歌)の後に、最後1句が繰り返しや歌い換えになっているもの。「仏足石」とは仏(釈尊)の足の形を石に刻んだもののことで、奈良時代に日本に伝播したのち各地で作られたという。その石に刻まれた歌を仏足石歌と呼び、一番古いものは薬師寺にある。
「連歌(れんが)」とは、5・7・5の句と7・7の句を交互に多数の作者が詠み継ぎ、一定の句数で完結させるもので、1つの詩になるよう競い合って楽しんだ。大伴家持と尼との唱和が万葉集に収録されており、これが最古とされる。「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」は鎌倉〜江戸時代の連歌の基本形で、100句まで読み継ぐもの。また江戸中期以降は「歌仙連歌(かせんれんが)」と呼ばれ、36句を詠み継ぐものになり、現在の連歌の基になっている。
万葉集の主な歌人としては、額田王・柿本人麻呂・山上憶良・大伴家持などが挙げられる。いずれの歌人も有名であるし、日本辞典の「日本人物辞典」を参照されると時代背景も分かるだろう。以下に簡単に紹介することにする。
額田王(ぬかたのおおきみ)万葉集の代表的歌人の1人で、最初の宮廷歌人であり、皇室の行事・出来事に密着した歌が多い。生没年は不詳だが鏡王の娘で、額田姫王とも呼ばれる。日本書記によると、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に嫁ぎ、十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、後に中大兄皇子(天智天皇)に仕えた。天武天皇の兄・天智天皇に寵愛されたという説も根強くあり、また藤原鎌足(ふじわらのかまたり)に嫁いだ鏡女王(かがみのおおきみ)の妹とも言われるが、いずれも確証はない。未だ謎めいた女性ゆえ、歌に魅力を感じるとも。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)万葉集第一の歌人と称され、長歌首・短歌・旋頭歌を合わせて365首ほどの歌が収録されており、官人達の儀礼的な場で詠んだ宮廷賛歌や旅の歌などが有名である。生没年は不詳だが、年代が判明している歌から、天智天皇の娘・持統天皇(690〜697年)の下で活躍したと考えられている。比較的長い長歌を作り、独創的な枕詞や、序詞・枕詞・押韻などを上手く取り入れた格調高い作風で知られ、三十六歌仙の1人で「歌聖」と称されている。特に漢詩文に強く、その影響を受けつつ、複雑で多彩な対句を用いた長歌を作り、長歌を形式上・表現上の双方から一挙に完成させたことから「長歌の完成者」とも呼ばれている。
山上憶良(やまのうえのおくら)702年の第七次遣唐使船の少録に任命され同行し、唐に渡り儒教・仏教などの最新の学問を学び、帰国後は東宮侍講を経て伯耆守・筑前守と国司を歴任し、特に筑前守の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、多くの歌が残された。かの地で大伴旅人に刺激を受け、数多くの歌を詠んだとされるが、社会派の異色の歌人であり、万葉集には40才を過ぎてからの約80首が収録されている。代表的な歌に「貧窮問答歌」や「子を思う歌」などがあるが、彼が儒教や仏教の思想に傾倒していたために死・貧・老・病などの問題に敏感であり、老齢であったことから社会的な矛盾について深い観察眼をもっていたことなどが背景にある。百済(韓国)からの帰化人との説もある。
山部赤人(やまべのあかひと)山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)は、柿本人麻呂より一世代後ではあるが、人麻呂と並び万葉を代表する歌人であり、大伴家持に「山柿の門」と言わしめた。宮廷歌人として荘厳で格式の高い儀礼的な長歌を作ったが、自然の風景を描き出すような叙情的な短歌にも優れ、後世に大きな影響を与えている。万葉集には約50首採り上げられており、中でも富士の高嶺を詠んだ歌が有名で、長歌・反歌共に現代でも親しまれている。
大伴旅人(おおとものたびと)万葉集には「大宰帥大伴卿(だざいのそちおおともきょう・おほとものまえつきみ)」「大納言卿(だいなごんきょう)」などの敬称で載っている。大らかな、風雅な情緒と、叙情に溢れる歌を詠んだ。万葉集には、76首の歌が載っているが、大宰府師であった老年以降のものしか現存していない。大宰府師の地は「万葉筑紫歌壇」とも称されるほど歌人が集まり、山上憶良らと交流し、多くの歌を残した。特に酒を讃(ほ)むる歌が13首も収録されている点などから、大変な酒好きだったことがうかがい知れる。
大伴家持(おおとものやかもち)万葉集の成立に深く係わり、編纂者の一人と言われているが確証はない。歌人として名が知られているが武士の家系で、官人としては聖武〜桓武朝まで6代の天皇に仕え、藤原仲麻呂暗殺計画を立案するなど政事に対して精力的に活動した。三十六歌仙の一人で、長歌・短歌など最多の473首余りが万葉集に収録され、万葉集の巻17〜巻20までの4巻は、大伴家持の「歌日記」とも言える内容となっている。自然をよく観照し、孤独の心情を深化させるところに独自性を発揮した歌人である。
以上、主な歌人を採り上げたが、前述したように長歌から短歌へと遷り変わる過渡期にあり、各々の歌人が様々な形式の歌を詠んでいる。万葉の奈良時代には「長歌」の後にそれを要約・補足・まとめたりする形で「反歌(はんか)」を伴う作法が確立した。通常は短歌を1・2首、反歌として添えるものであったが、万葉集には短歌を3首以上、又は旋頭歌を反歌とするものもあり、歌が作られた時代と収録された時代とのギャップや変遷が伺える。
公的な場での宮廷歌人らによる儀礼的な歌には長歌が代々読まれたこと、返歌や反歌の公的普及により短歌の手法が確立し、また前出の代表的な歌人など最先端で活躍していた者が、短歌を公的に披露したことなどにより、平安時代の古今和歌集が編纂される頃には、和歌といえば短歌を指すほど普及し、長歌・旋頭歌・片歌は衰退の一途を辿ることとなった。
しかし、江戸時代に入り国文学で万葉集研究に重点を置かれたことなどもあり、再び長歌が詠まれる時代が来たという。確かに考古学・民俗学・政事学等、他分野的に見ても貴重な資料であったろうと思われるし、未だに未解読の歌もあるというほど完全な解釈は困難である。確かに解釈は様々あろうが、歌と、詠われた状況から古代人が何を感じ、どんな生活をしていたのかを探ることができるのはとても興味深い。
内容的な部分に少し触れてみると、通い婚であったこと、火葬が行われ始めたこと、航海に命の保証などなかったこと、宮中奉仕への憧憬、流刑・斬首などの厳罰や防人に対する哀感など、当時の様々な世情と、それに対する民衆の視点が見えてくるだろう。
日本人の感覚は古来より中国・朝鮮など周辺の人々とは違っていたと言われている。例えば、武功を立てた者がそれを主君にアピールする行為は慎むべし、といった具合である。物事を意思のままストレートに表現しない日本人特有の概念は、古来より歌に詠まれた詩情からもみることができる。そんな複雑で繊細な感覚の人々の作った歌を、現在完全に理解することはかなり難解であるように思うし、詠われた状況を再現できる訳でもないので、ほとんど不可能ではないかと筆者は思う。
「花のにほふ」という言葉がある。花の美しさが空間を埋め尽くし、それを見る人の心もまた同じ美しさに染め上げる、との意味であるという。これがしっくりと合う花、「桜」を日本人が古代より、こよなく愛し続けるのは、「花のにほふ」中に、恍惚となる感覚を日本人は好んできたとも言えるのではないか。こうした言葉で表現し難い感覚を日本人は定型歌にして表現してきたのである。和歌は、こうした略語とも言える様な言葉が満載である。研究者によるこうした解説抜きでは、歌を詠んでもピンと来ないところは悲しいものである。  
 
短歌 (和歌・俳諧)

 

「短歌(たんか)」は、小学校の教科書から触れる伝統的詩歌である。日本固有の詩歌である「和歌(わか)」の形式の1つであり、「三十一文字(みそひともじ)」とも言われるとおり、5・7・5・7・7の5句、31音で構成される定型歌である以外には特に決まりはない。和歌とは長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称であり、「やまとうた」とも呼ばれているが、数ある中でも狭義には「短歌」のことを指す。というのも記紀歌謡末期から万葉集初期の頃に成立して以来、古今を通じ広く詠まれ、長歌の衰退に伴って和歌といえば短歌を指すようになったという流れは「長歌」の項でも触れているので参照していただけると幸いである。和歌の中でも最もポピュラーであり、一般庶民に愛され続けてきた長い歴史を持つため、採り上げて説明するには少々広すぎるジャンルとも思えるのだが、全体像が見えるよう、歴史の流れに沿って触れてゆくことにする。
まず歌は各地で自然発生したであろうことは、常識的に考えれば想像できる範囲のものであろう。日常生活の中での雑然とした言葉をリズムに乗せることで、言葉を非日常的な、神の世界との交信を可能にすることができると考えた。発した言葉が物事の吉凶を左右するという思想、祝詞や忌み名などの思想は現在の日本でも見られる。言葉に宿る霊的な力を信仰する「言霊思想(ことだましそう)」を基に、文字の発生以前から古代人は歌にして心情を表現し、自分の意志を声に出し表明する「言挙げ(ことあげ)」が行われ、それが口伝・口承されてきた。日本各地に伝承された歌・舞を「風俗歌舞」と呼び、希少ながら現在にも伝えられている。これらの発生時期は定かではないが、上代歌謡の源流となり、繋がっていったと考えられている。日本舞踊「雅楽・舞楽」の項にも、歌舞の創成期について触れているので参照して頂ければ幸いである。
集団で高揚した時に発せられた叫び・掛け声から歌が形成され、祭などで集団で歌ったものを「上代歌謡」といい、「古事記」「日本書紀」に収録された上代歌謡を特に「記紀歌謡」と呼んでいる。上代歌謡という言葉は一般に、「日本書紀」の128首・「古事記」の112首・「風土記」の25首・「続日本紀」の8首・「仏足石歌碑」の21首・「日本霊異記」の9首などの万葉歌を指し、奈良時代末までの文献に収録されている歌の総称となっている。記紀歌謡には短歌形式のものが見られるため、長歌に伴った反歌(短歌と同型で、長歌の要約・補足などの目的で詠まれた)が独立したとも、短歌の成立後、発展して長歌が作られたとも言われるが、未だ明らかにはなっていない。しかし概ね7世紀頃には短歌が詩歌として完成したと言われ、日本最古の歌集「万葉集」が短歌の原点として位置付けられている。祝祭儀礼歌・集団歌舞歌・作業歌・遊行漂泊芸謡・宮廷化芸謡など種類も分類も様々あり、時代を経るに従い、個人が胸中を謡い表すという創作的立場を主体とした叙情詩、いわゆる「詩歌」へと変質してゆく。集団で歌われた歌謡では掛け合いで問答形式になったものが多かったが、統一国家が安定し、大陸から漢詩が入ってきた影響なども加わって個人で詠うようになると、自然に定型が浸透・慣例化していったと考えられている。
奈良時代〜平安時代前期、政治において律令政治が始まり、並行して文学においては中国・唐の漢詩文が隆盛を極め、「凌雲集」「文華秀麗集」など勅撰漢詩集が編纂され、公的な文学として和歌を圧倒したのだが、その後の唐の弱体化や遣唐使廃止に伴い、平安時代中期の日本では「国風文化」への自覚が高まり、仮名文字の発達と同時に和歌が再び公的な場に復活し、歌合も行われるようになった。905年頃成立した日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」から1439年成立の「新続古今和歌集」までに「二十一代集」と呼ばれる勅撰集(天皇の勅命によって編集された歌集)が誕生することになる。この時期が短歌の最盛期とも言われているので、以下に二十一代集の概略に触れてみることにする。
「古今和歌集(こきんわかしゅう)」三代集・八代集・二十一代集の第1に数えられ、「古今集」とも略される。905年(914年という説もある)、醍醐天皇の勅命により、紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)の4人が撰し成立した。六歌仙・撰者らの歌1,110首余りを収め、全20巻の構成となっている。歌風は、雄健でおおらかな万葉集に比べ、「たをやめぶり」と呼ばれ、優美・繊細で理知的・観念的とされる。仮名序・真名序が添えられ、真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。
「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」三代集・八代集・二十一代集の第2に数えられ、「後撰集」とも呼ばれる。古今和歌集成立から半世紀を経た951年頃、村上天皇の頃に成立した。村上天皇は聡明で学芸に秀で、漢詩・和歌を推奨すべく和歌所を置き、「天暦の治」と呼ばれる善政で後世に名を残した。半世紀後に作られた「枕草子」では、この御代を治世の理想像としている。全20巻構成で、1,425首余りが収録され、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源順(みなもとのしたごう)・紀時文(きのときぶみ、貫之の子)・坂上望城(さかのうえのもちき)の5人が撰し成立した。最大の自然な感情である恋の歌を花鳥風月に託し、権門貴族・女房たちが華やかな物語世界を繰り広げる貴族の贈答歌が中心のもの。
「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」三代集・八代集・二十一代集の第3に数えられ、「拾遺集」とも呼ばれる。後撰和歌集から半世紀後の1006年頃、一条天皇の頃に撰進された。全20巻構成で1,350首余りが収録され、撰者は不明だが、花山院親撰とするのがほぼ定説となっている。「古今和歌集」の伝統を受け継いで典雅で格調高く、平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多い。
「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」八代集・二十一代集の第4に数えられ、「後拾遺集」とも呼ばれる。白河天皇の勅命で藤原通俊(ふじわらのみちとし)を撰者として1085年の奉勅から1087年の奏覧まで3年を経て成立した。全20巻構成、1,220首余りを収録しており、平安時代後期の貴族社会が変化する中、三代集の伝統を乗り越えるべく編まれたという。よって古今・後撰集の歌人を外し、当代の歌人を重視したことが三代集との大きな違いであり、平安の最盛期の人々の作が網羅され、最盛期の宮廷生活をよく反映させたものと評価されている。
「金葉和歌集(きんようわかしゅう)」八代集・二十一代集の第5に数えられ、「金葉集」とも呼ばれる。白河法皇の勅命により源俊頼(みなもとのとしより)を撰者として、三奏の後の1126年頃に成立したとされるが、現存するのは二度目の上奏の際の「二度本」の写本のみである。それまでの慣例を破る10巻構成で660首余りを収録し、ほぼ当代の歌人のみで編まれた。王朝貴族社会の解体に伴い、庶民世界との交流から誹諧味や田園趣味といった新味を加え、古今以来の伝統的用語・景物からの逸脱を推し進め過ぎた気風があり、趣向に偏り過ぎとの厳しい批判もあったという。
「詞花和歌集(しかわかしゅう)」八代集・二十一代集の第6に数えられ、「詞花集」とも呼ばれる。崇徳上皇の勅命により左京大夫・藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)が撰して1151年に成立した。410首余りを収録した全10巻構成で、新風を打ち出しつつも古今のバランスに配慮し、後拾遺集時代の前代歌人を重視し、当代の歌人の作品は原則として1人1首とした選歌は、彩り持った珠玉の歌集となっている。続詞花和歌集は顕輔の二男・清輔が撰者で二条天皇の勅命で編纂されたが、完成前に天皇が崩御したため私撰集になった。
「千載和歌集(せんざいわかしゅう)」八代集・二十一代集の第7に数えられ、「千載集」とも呼ばれる。後白河法皇の勅命により藤原俊成(ふじわらのとしなり)が1188年に奏覧したと言われる。全20巻構成で1,280首余りを収録し、平氏が都落ちした年に後白河上皇が宣下し、源平争乱期を経て成立した。後白河法皇が高野山で保元の乱以来の戦死者の追善法要を行ったことに基調を置き、詠嘆述懐調の歌風に幽玄・有心を追究し、貴族から武士へ政権が移りゆく無常の世に、戦没者への鎮魂を込めて後白河院が編ませたとされる。僧侶の入選が全体の約19%を占め、勅撰集の中では最高比率になっている。
「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」八代集・二十一代集の第8に数えられ、「新古今集」とも呼ばれる。後鳥羽上皇の勅命により源通具(みなもみちとしとも)・藤原有家(ふじわらのありいえ)・藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)・藤原家隆(ふじわらのいえたか)・飛鳥井雅経(あすかいまさつね)・寂蓮(じゃくれん)ら6人を撰者とし、1205年に奏覧したが改訂作業はその後10年余り続けられた。八代集中最多の1,980首余りを収録した全20巻構成で、それまでの7集を集大成する目的で編まれ、「余情妖艶」を追究、本歌取の技法を確立するなど、新興文学の連歌・今様の脅威の下にあった短歌界に典雅・古典を復帰させようとした。「万葉」「古今」と並び三大歌風の一つである「新古今調」を創出し、文学界に絶大な影響を及ぼし、短歌の文化は頂点を極めた。この背景として鎌倉時代、政権を奪われた貴族たちが伝統文化を心の拠所としたことから和歌は盛んに詠まれた。鎌倉幕府への対抗意識もあって後鳥羽院は和歌に非常な熱意を示したという。
「新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)」十三代集の第1、二十一代集の第9に数えられ、「新勅撰集」とも呼ばれる。後堀河天皇の勅命で藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)が撰者となり、1235年に完成した。全20巻構成、1,370首余りを収録し、華やかな新古今調から一転して平明枯淡・保守的な歌風となり、定家の晩年の趣向の影響と言われる。表現の華麗さよりも心の内実を重んじた撰と指摘されるが、これが二条派に尊重され、中世和歌の手本となったという。
「続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)」十三代集の第2、二十一代集の第10に数えられ、「続後撰集」とも呼ばれる。後嵯峨上皇の勅命により藤原為家(ふじわらのためいえ、冷泉為家)が撰して1251年に成立した。全20巻構成、1,400首余りを収録し、歌の排列に細心の注意が払われた調和のとれた構成は絶妙と評される。新古今時代の主要歌人の歌を多く収録しているが、万葉集から当代まで幅広く取材している。
「続古今和歌集(しょくこきんわかしゅう)」十三代集の第3、二十一代集の第11に数えられ、「続古今集」とも呼ばれる。後嵯峨院から勅命を受け、藤原為家(ふじわらのためいえ)が撰者となったが、3年後に為家の御子左家(二条派)と反対勢力であった九条基家・衣笠家良・六条行家・真観(葉室光俊)が撰者として加わったことで憤慨した為家は、嫡男・為氏に仕事を任せたとの逸話もある。全20巻構成、1915首余りを収録して1265年に奏覧し完成した。九条基家筆の仮名序と菅原長成筆の真名序を有し、活発で華やかな後嵯峨院歌壇を反映した多彩な作風であるが、撰者の歌観・対立などが選歌にそのまま顕れたとも言われる。
「続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)」十三代集の第4、二十一代集の第12に数えられ、「続拾遺集」とも呼ばれる。亀山院の勅命を受け藤原為氏(ふじわらのためうじ)が撰者となり、1278年に奏覧して完成した。全20巻構成、460首余りを収録し、御子左家(二条派)の父・為家の続後撰集を受け継ぐが、全体的な構成としては千載集に立ち返っており、復古的で平淡優美な歌集となっている。父・為家の歌が43首と最多で収録される他、御子左家系の歌人が多い。
「新後撰和歌集(しんごせんわかしゅう)」十三代集の第5、二十一代集の第13に数えられ、「新後撰集」とも呼ばれる。後宇多院の勅命を受け二条為世(にじょうためよ、藤原為世)が撰者となり、1303年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,610首余りを収録し、新勅撰集・続後撰集に倣った構成である。御子左家(二条派)が多く収録されているものの、対立派の京極派の歌も割合多く、異色にも津守氏を優遇しているため「津守集」とも呼ばれるほどである。
「玉葉和歌集(ぎょくようわかしゅう)」十三代集の第6、二十一代集の第14に数えられ、「玉葉集」とも呼ばれる。伏見院の勅命を受け京極為兼(きょうごくためかね)が最終的に撰者となり1312年に奏覧して完成したが、完成まで複雑な経緯がある。当初勅命の下った4人の撰者のうち2人が死亡、1人が配流になり、再度の勅命で配流された為兼が撰者となり、反対派を押し切って京極派色の強い歌集として完成させた。全20巻構成、2,800首余りを収録し、勅撰集の二十一代集で最大規模である。万葉集から当代にまで及ぶ取材や名義は「万葉集」を連想させるが、斬新かつ革新的な技法を採用し、優美ではないが目新しく非凡な歌集となった。
「続千載和歌集(しょくせんざいわかしゅう)」十三代集の第7、二十一代集の第15に数えられ、「続千載集」とも呼ばれる。後宇多院の勅命を受け二条為世(にじょうためよ、藤原為世)が撰者となり1320年に奏覧して完成した。全20巻構成、2,100首余りを収録する。玉葉集の革新的な歌風は排除され、対立派の歌人を極度に減らし、全体として形式的・保守的な構成であるのも二条派を重んじた収録のためであろう。
「続後拾遺和歌集(しょくごしゅういわかしゅう)」十三代集の第8、二十一代集の第16に数えられ、「続後拾遺集」とも呼ばれる。後醍醐天皇の勅命を受け、二条為藤(にじょうためふじ)が撰者となったが急逝したため、為藤の養子・二条為定(にじょうためさだ)が撰者となり1326年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,350首余りの収録は十三代集中のうち最少であり、二条派を重んじ、対立する京極派の歌人の収録は非常に少なく、保守的で平凡な歌集としてまとまっている。
「風雅和歌集(ふうがわかしゅう)」十三代集の第9、二十一代集の第17に数えられ、「風雅集」とも呼ばれる。花園院が監修し、光厳院が親撰するという、勅撰集の二十一代集の中でも特異な歌集となった。正親町公蔭・玄哲(藤原為基)・冷泉為秀らが寄人となり1348年頃に完成した。全20巻構成、2,210首余りを収録し、万葉集と同じく真名序・仮名序を有する大勅撰集の風格がある構成となっている。玉葉集の歌風を受け継ぎ、完成期の京極派と、その後継である後期京極派の歌人たちが代表歌人として収録され、繊細な自然描写と閑寂な風雅を追求し、千利休の茶道に通じるようなワビ・サビを感じさせる歌集である。
「新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)」十三代集の第10、二十一代集の第18に数えられ、「新千載集」とも呼ばれる。後光厳天皇の勅命を受け、二条為定(にじょうためさだ)が撰者となり1359年に奏覧して完成した。全20巻構成、2,360首余りを収録しており、玉葉集に次ぎ勅撰集の二十一代集の中で第二位の規模を誇る。二条家歌人と近代の天皇を重んじて収録し、南朝方の歌人は入集していないものの、万葉集の頃から当代まで幅広く取材しており、伝統的な詠風で保守本流の歌集としてまとまっている。
「新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)」十三代集の第11、二十一代集の第19に数えられ、「新拾遺集」とも呼ばれる。後光厳天皇の勅命を受け、二条為明(にじょうためあきら)が撰者となったが完成前に病没したため頓阿(とんあ・とんな)が継いで撰者となり1364年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,920首余りを収録しており、為明の父・為藤が最多入集の他、二条派歌人が多く収録され、持明院統の天皇が優遇されつつも対立派である京極派も収録され、保守的になりがちな二条派なりに多彩さと新味が加えられた歌集となっている。
「新後拾遺和歌集(しんごしゅういわかしゅう)」十三代集の第12、二十一代集の第20に数えられ、「新後拾遺集」とも呼ばれる。鎌倉幕府第3代将軍・足利義満の執奏による後円融院の勅命を受け、二条為遠(にじょうためとお)が撰者となるが急逝したため、二条為重(にじょうためしげ)が継いで撰者となり、1384年に完成した。全20巻構成、1,550首余りを収録し、ほぼ続拾遺集に倣って作られているが太政大臣・二条良基(にじょうよしもと)の序を有する。当代歌人の占める比率が比較的高く、京極派歌人が少ないが、比較的身分の低い武士や僧侶などが新顔として収録されている。新古今風の伝統的で優艶な歌風の歌集となっている。
「新続古今和歌集(しんしょくこきんわかしゅう)」十三代集の第13、二十一代集の第21に数えられ、「新続古今集」とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代将軍・足利義教の執奏による後花園天皇の勅命を受け、権中納言・飛鳥井雅世(あすかいまさよ)が撰者となり1439年に完成した。全20巻構成、2,140首余りを収録し、真・仮名序は共に古典学者であった摂政関白・一条兼良(いちじょうかねよし、かねら)による。衰退してしまった二条家に代わり異例の飛鳥井家の撰であるが伝統的な二条派の歌風と変化はなく、流れとして新古今的な幽玄・優艷の追求を継承している歌集である。
以上、二十一代集を簡略に触れてみたが、古今集から新続古今集まで500年余りの流れに少し触れておく。古今集により新しい様式を完成した平安時代の和歌は、100年余りのうちに様式の様々な可能性は追求し尽くされて活力を失い、より新しい和歌を求める時代になっていたようだ。江戸時代までの主流の詠歌態度として、万葉集の頃とは異なり自己の実感を極力抑えて想像世界をいかに美しく詠むかにあったようだ。洗練された言葉・巧緻な技法が次々と求められ、象徴的表現・本歌取りの技法などを用い、想像した世界を絵画や物語のように美しく謳い上げるのである。実体験ではなく空想世界を詠んだものが大半を占めるなど技巧化が進む中、自然への愛や人生観を詠んだ西行、万葉調の源実朝も尊ばれたようだ。そんな中で生じた幽玄への追求は仏教的無常観と相まって、わび・さびの中世的美意識の先駆となったという。
歌壇の大きな流れとしては「新古今和歌集」編纂の中心となった藤原定家と子・為家が亡くなると、家系・歌壇共に二条派・京極派・冷泉派の三派に分かれて対立したことで歌風の相違が生じた。南北朝の頃から和歌は僧侶や武士を中心に詠まれるようになり、形骸化した和歌は衰退してしまったという。
その後の戦国・江戸時代を経て明治まで短歌の文化は継承されるが、俳諧に比べて伝統的・貴族的な和歌の革新は遅れがちであった。江戸・元禄期には因襲性の批判から伝統への反省が生じ、日本独自の文化・思想・精神世界を明らかにすることを目的として本居宣長(もとおりのりなが)や賀茂真淵(かものまぶち)らを中心に国学が誕生した。国学の中で研究の中心は万葉集にあったが、江戸時代後期になると京都で和歌革新の動きが起こり、歌人・香川景樹(かがわかげき)を中心に「桂園派」が登場した。桂園派は二条派の分流でもあり「古今和歌集」を尊重して声調を重んじ、明治時代初期頃まで歌壇で重きをなした。明治半ば頃からは日本の伝統短歌に西洋の詩を導入して表現するという「口語短歌」の試みが始まり、石川啄木(いしかわたくぼく)などが有名である。口語短歌運動は今日まで続いているそうだ。
明治時代以降から戦前にかけて、義務教育の教科書にも登場する有名で優れた歌人が登場し、数々の名作を残している。よく知られているので名前と歌風だけ触れてゆく。
明治時代の主要な歌人
「伊藤左千夫(いとうさちお)」率直な感情に即し、荘重な響きの歌風。
「正岡子規(まさおかしき)」近代短歌の革新者といわれ、「万葉集」を理想とし、客観写生の歌風。
「与謝野晶子(よさのあきこ)」歌集「みだれ髪」で知られ、女性的な官能・情熱を、大胆で絢爛たる言葉でうたう浪漫主義的歌風。
「与謝野鉄幹(よさのてっかん)」「明星」を創刊し、日本近代浪漫派の中心となった。初期は「ますらおぶり」と呼ばれる歌風。
「石川啄木(いしかわたくぼく)」歌集「一握の砂」「悲しき玩具」で知られ、貧困生活の中から深い哀傷と軽やかなリズムを持つ歌風。
「若山牧水(わかやまぼくすい)」自然主義の歌人で、旅と自然を多く題材にし、愛唱性に富む響きの良い歌風。
大正時代の主要な歌人
「斎藤茂吉(さいとうもきち)」生々しく強烈な生命感を有する歌人で、重厚で格調高い歌風。
「北原白秋(きたはらはくしゅう」童謡で知られる。豊饒な感性で頽廃的・耽美的な歌風だが、後期は枯淡の世界へ目を向けた。

現在は「サラダ記念日」で有名な俵万智(たわらまち)などの歌人が活躍している。叙情詩であるため内容が自由であり、恋歌・日常の描写・社会問題・子の成長・物語・幻想世界に至るまで何でも受け入れられることが現在まで根強い人気を集めている魅力の一つであろう。近代以降の歌人の多くは短歌結社に所属し、その結社の雑誌に作品を発表しているようだが、新聞等の投稿欄に作品を寄せている歌人も多く、その場合は特に「投稿歌人」などと呼ばれるようだ。また最近はインターネットのホームページやブログに作品を発表する「ネット歌人」も現れてきているという。
短歌を詠まない筆者には、それを愛する感覚が捕らえ難いものなのだが、芸術を完成させた時の達成感に類するものだとすれば、無防備の素人でも入りやすいものではないだろうか。完成度は評価する人間があってのものなので自分が楽しむ範囲であれば、形式や道具や題材が自由かつ極力少なくて済む短歌は、非常に馴染みやすいものであろう。しかしながら短歌の可能性は逆に無限大で頂点がないように思え、詠み出したら完成まで時間がいくらあっても足りないようにも思う。歌人が題材を捕らえて当意即妙に軽妙洒脱で絶妙な歌を完成させているならば、やはり凡人が詠むのは無謀にも思え…要するに筆者には近くて遠い存在に思えるのである。創作は自己表現であり、少なからず作り手の人間性が出てしまう訳で、数をこなせばとも言われるが、稚拙な歌ならやはり稚拙な部分が自分にあると認めねばならない、多分そこが筆者には越えられない山なのである。  
 
連歌・連句

 

「連歌(れんが)」と「連句(れんく)」が本項の主題であるが、この2つの違いをご存知だろうか。いずれも和歌(わか)から派生した文芸であり、上の句(5・7・5)の17音からなる長句と、下の句(7・7)の14音からなる短句とを複数の人が順に作り、1つの詩になるように競い合って楽しむものである。形式上の大差はないとも言われるが、表現上では、連句は滑稽味や感興味が強く、連歌は格式や伝統があるイメージであり、また歴史的背景のためか、短歌を嗜む人は「連歌」、俳句を嗜む人は「連句」と呼ぶ傾向があるという。この2つは非常に近いものだと思うのだが、どちらかと言えば連歌という言葉は耳にしても連句の方はあまり知られていないようだ。以上を踏まえ、歴史を追いつつ2つの文芸の目指すところを探ってゆこうと思う。
まず連歌のような唱和(呼応・問答)形式の最古のものの初見に、記紀歌謡に収録されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と秉燭人(ヒトモシビト)の唱和や、更に遡りイザナギ・イザナミの唱和があり、日本では古くから問答形式の歌あるいは贈答歌の遣り取りを行っていたようだ。連歌を「筑波(つくば)の道」と呼ぶのは、この日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の唱和を連歌の起源とするところからであり、この頃の歌の形式は4・7・7などもあり定型歌ではあっても連歌そのものというよりは源流と言うべきものであろう。このような2人による唱和体で、連歌の初期の形のうち5・7・5に7・7を返して短歌を成立させるものは「短連歌」と呼ばれており、この後の奈良〜平安期に始まり平安時代を通じて全盛となり、院政時代まで興隆が続くことになる。「万葉集」の8巻に収録されている大伴家持(おおとものやかもち)と尼との問答歌(唱和)が有名であることから、厳密に言うと万葉集が連歌の起源とも言われている。後に長大な句の連なりを一つの作品とするような長連歌(いわゆる現在の連歌)と区別するため、連歌文芸を総称して「付合文芸」と呼ぶこともある。「付合」は後述するが、連歌が前句と付句の2句の相関で成立させる文芸であるところからであろう。短連歌が形式的に完成するのは藤原定家が活躍した「新古今和歌集」の時代であり、この頃の連歌は和歌を理想に置き、和語だけを用いて作られた。その後、短連歌は徐々に長さを増し、百韻形式(100句まで連ねるもの)が出現して大衆の人気を博し一般化し、詩文の内的充実とともに専門の連歌師が生まれ、連歌壇を形成していく訳だが、まずここで連歌の基本形となっている「長連歌」について触れることにする。
連歌は日本の伝統的な詩形として1ジャンルを確立しており、連歌といえば狭義には「長連歌」を指す。多人数による連作形式を取るがために厳密なルール(式目)を基にして全体として1つの作品となる構造を持つ。和歌の強い影響下で成立しつつ進化し、その心は茶会、後の俳諧の連歌(連句)や発句(俳句)の源流となっている。即興で創作し、他人の歌を鑑賞しながら再び創作するというように繰り返しながら共同で1つの詩を制作する、世界でも類の少ない文学の形態であるという。
当初より短連歌は2人が合同で1首を作るという遊戯的な試みにより始まり、大衆に受け入れられたので、もっと大人数が集まって一座となり作成する長い唱和の形に進化してゆくのも自然な流れであろう。鎌倉時代には複数の作者によって句を連ねらてゆく長大な形式の「長連歌」に変化し、江戸時代中期にかけて和歌をも凌ぐ勢いで大流行した。「長連歌」とは短連歌に対する呼び名であり、初期には「鎖連歌」とも呼ばれ、また複数の人が一つの場に寄り合って行うものなので「座の文芸」とも言われている。
鎌倉〜江戸時代の基本形となった連歌形式は、長句・短句を交互に連ねて百句で一作品とした「百韻(ひゃくいん)」「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」であり、これが現在も一般的である。百句もの句を多人数で詠み継ぐため発想が重なり反復することなども生じ、それを避けるためにルール(式目)が作られ、こうして形式を整えつつ南北朝時代から室町時代にかけて大成し、室町時代を通じて最盛期を迎えた。集団制作の詩形をとる長連歌は、鎌倉時代後期から特に天神信仰の「天神講」と結びついて発展したとされ、この連歌会は「天神講連歌会」と呼ばれていたようで、その記録は現存しており、大和国を中心に発達し、室町時代には畿内から各地へ伝播してゆく様子がうかがえる。1467年の応仁の乱で京都の文化が地方へ伝播するとともに連歌は広まり、日本各地で連歌会が行われるようになった。
最初の准勅撰連歌集である「菟玖波集(つくばしゅう)」は南北朝期の1356年、二条良基(にじょうよしもと)らによって撰集され、これにより和歌から連歌が独立し、芸術的意図の下に幽玄・優美な「有心連歌(うしんれんが)」が発達した。連歌の主要な法則を集成した「連歌初学抄」は、室町時代の1452年に一条兼良(いちじょうかねよし/かねら)により成立し、後崇光院(貞成親王)に進上されたというので、この頃には式目(ルール)も確立し、浸透していたようだ。また、室町後期の1495年に成立した准勅撰連歌集である「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」は、山口・周防の守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の発願で、宗祇(そうぎ)らにより編まれたものである。大内氏は文化の興隆に尽力した人物で、約250人もの連歌を集め、この書は全20巻、約2000句余りの連歌の集大成となった。
南北朝期に端を発する室町文化は公卿から武家、更に大衆へと文化の担い手が移り代わる過程にあり、文化様式も大きく様変わりする面白い時代である。連歌は室町文化の代表的な遊戯の1つとして能楽と並び称されるほどだったという。この頃までに南北朝時代の歌人・二条良基(にじょうよしもと)、室町時代の連歌師・宗祇(そうぎ)、室町中期の歌人・心敬など有名な連歌師が登場し、公卿や有力寺社などで連歌会が数多く催される中で活躍していたようだ。連歌も百韻から形式の拡大が図られ、百韻を十作品あつめた「千句」、千句を十作品集めた「万句」などの形式も現れる一方、室町中期から江戸時代にかけては、より緊密な作品作りを目指して縮小・省略も行われ始め「世吉」(44句)、「歌仙」(36句)、「半歌仙」(18句)などの形式も誕生した。
大きな括りとして長連歌に触れてみたが、連歌の特殊な形式として「聯句連歌(れんくれんが)」が存在する。連歌発生の頃から日本に存在したのだが、近代までは研究対象としてあまり日の当たらなかったジャンルであったようだ。通常の連歌に五言の漢詩形式の句を交えたもので、「和漢聯句(わかんれんく)」と一般に呼ばれている。後には漢聯句に和句を交える「漢和聯句(かんわれんく/かんなれんく)」という形態にも派生して登場した。和漢聯句は第一句(発句)が和句で第二句(脇句)が漢句の形式であり、第一句が漢句で第二句が和句の形式のものは漢和聯句と呼ばれている。元々、長連歌の誕生には中国の「聯句」が介在しており、聯句は複数人が一つの主題に沿って五言二句ずつを交互に付けて進める合作形態の詩である。歴史的には漢・武帝の「柏梁台聯句」に始まるとも言われるので、紀元前には既に成立していたようだ。日本では平安中期頃より行われ、長連歌の成立に先立ち百韻の形式を確立していた。聯句連歌は主として禅林や堂上などで盛行して南北朝・室町時代の頃に最盛となり、式目(ルール)は連歌のものを緩和して用いられていたようだが、和漢聯句のための式目も制定されていた。中国と日本の詩歌の折衷のため硬軟錯落した変化の面白さと独特の味わいを有し、この和漢混淆の賦物として季語が誕生したため、聯句は漢詩と共に俳句の父ともいわれる。  
長連歌のその後の歴史
戦国時代から幕末にかけても連歌は必須の教養とされており、戦国時代には里村紹巴(さとむらじょうは)が連歌書を多く著すとともに多くの諸大名と交際し、武家階級にも教養としての連歌の地位を確立させた。里村家は江戸期には徳川宗家に仕え、幕府御用達の連歌師として連歌界を指導したという。戦国時代末期になると式目は煩雑になって形式に流されたためマンネリ化し、創作への活力を失い、徐々に衰退していくことになる。元来、連歌とは和歌に準じつつも、滑稽味や機知を含むものであったのだが、時代が下るにつれて和歌に非常に近い素材・用語・発想に拠るようになってしまい、簡単に言えば格式ばってつまらないものになってしまった。代わって登場したのが荒木田守武(あらきだもりたけ)・山崎宗鑑(やまざきそうかん)らによって大成された「俳諧(はいかい)の連歌」である。それまでの連歌に滑稽味や風刺、機知を取り入れた、いわゆる「俳諧」「連俳」とも呼ばれるもので、和語のみならず俗語・漢語・口語なども自由に使うことができ、伝統的な宮廷文化の枠組みの中にあった連歌の題材を自由にし、広く世相に求めたことなどにより庶民の間で人気を集め、近世以降は俳諧が本来の連歌と並存するようになる。伝統的な詩形や題材と相反する卑近なものとの組み合わせから面白味を見い出そうとする試みが、山崎宗鑑の著した「新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)」などにも見られ、この著書は特に「俳諧連歌集の祖」と称され今日でも有名である。その後、江戸前期に松尾芭蕉が登場する頃には俳諧の連歌は100句を詠み継ぐ百韻から、36句で完結する「歌仙(かせん)」「歌仙連歌(かせんれんが)」へと中心が移り、式目(ルール)も簡略化されていった。江戸期は俳諧が隆盛となり、松尾芭蕉や松永貞徳、井原西鶴らを輩出しつつ新たな道を突き進み、伝統的な連歌の方は廃れ、俳諧の連歌もまた江戸後期には「月並流」といわれる形式を重視したものに変化した。明治時代に入ると正岡子規が提唱した俳諧から俳句への革新によって、俳諧も衰退へと向かう。
このように連歌は現在のいわゆる連歌(狭義の連歌)と俳諧の連歌(俳諧)に大別することができ、明治時代に連歌から「発句」のみを独立させて成立したのが俳句であるという。連歌の魅力は、多数の人たちが次々と詠み継いでいくことにより十人十色の発想や変化が生じるところにあり、階層を越えて広まり、遊戯的な楽しみともなっていたのだが、文学でありながら文芸要素を持つことが仇となり衰退の一途を辿る反面、俳諧や俳句の基ともなった。この辺りは後ほど発句のところで述べるので、発句を解かり易くするために長連歌の式目について先に触れることにする。
連歌の式目(ルール)は先に述べたように、複数での一座の中で同じような発想や言葉の繰り返しを避ける為に作り出されたものである。南北朝期の1372年、二条良基が制定した「応安新式」は、初めて連歌式目を全国統一した書であり、「連歌新式」とも呼ばれている。それまでの「連歌本式」「建治新式」を基にして作られたもので、ルールの確立により、展開の美を競う文芸の性格を強めたという。連歌一巻(長連歌の1つの作品)を巻く(完成させる)ために前へと進めるために考案されたルールなので、基本的には制限のある中でも自由な変化を認め、乱脈を避けるためにあるのだが、連歌会により式目に多少違いがあるようだ。主なものを以下に挙げてみた。  
「発句(ほっく)」連歌の一番最初、第一に読まれる句であり、連衆に対する挨拶句とされ、必ず季語・切れ字を入れる。特別な客がいる場合はその人が詠む。発句、脇(2句目)、第三(3句目)は「三つ物」と呼ばれて重視されている。
「挙句(あげく)」発句に対し連歌を締めくくる最後の句であり、めでたい句となり、1巻を締める重要な句である。「挙句の果て」の語源でもある。
「句数(くかず)」「春」「秋」「恋」が詠まれた句の後は2句以上は続け、5句を越えない。その他の「夏」「冬」「雑」「月」「花」「新年」などは1句で捨ててよい。伝統的な連歌・俳諧では「春」「秋」の句は3句以上と決められていた。
「去嫌(さりきらい)」森羅万象の事物(賦物)に関しては、同分類の語(言葉)は定められた句数を隔てれば再度詠んでもよい、というように状況により使用できる語を制限したもの。
「輪廻(りんね)」同じような発想・イメージ・言葉の繰り返しのことで、これを避けて付句することが望ましいとされる。特に打越(前句の前の句)との反復は「観音開き」と呼ばれて忌避される。
「付合(つけあい)」前句と付句の関連を抽出して句の付け方(付様)をみるもの。平付(ひらづけ)・四手(よつで)・景気付(けいきづけ)・心付(こころづけ)・詞付(ことばづけ)・埋付(うづみづけ)・対揚(たいよう)などの型がある。  
次に様式・作法を見てゆこう。用語が総じて独特だが、一々解説できないので括弧書きにした。長連歌では当初は百韻連歌を1巻とし、懐紙全紙を横に半折した折紙4枚「初折(しょおり)」「二の折」「三の折」「名残りの折」の折目を下に表裏に1句を2行に分けて書き留めてゆく。第一紙「初折」の表の右端に張行年月日・場所を細字一行で記し(端作り)、句は全紙の3分の2のあたりから書き始める。初折は表に8句、裏に14句、二の折・三の折は表裏に各14句、名残りの折には表14句、裏に8句を綴る、といった執筆(書記役)の規則がある。次に風韻のための規則には、連衆(れんじゅ)、会衆と呼ばれる連歌メンバーが2人(両吟)、3人(三吟)から十数人(大矢数)集まり、頭役(座の世話人)、宗匠(連歌を統括するベテラン)と執筆(書記)の指南・記録によって1巻を詠み進める(張行)ものとされる。亭主役(張行主)が居る場合は脇句(2句目)は張行主が詠み、第三(3句目)は相伴客か宗匠の次席が詠む。場の作法としては、会席の床の間に連歌の神である天神の画、又は名号の掛軸を掛け、花を立て、その前に文台と円座を設置して宗匠と執筆が座る。宗匠の会釈で連歌会が始まり、懐紙の折り方、墨の摺り方・使い方などの「もてなし」などを入れつつ長時間にわたる一座建立となるが、一の折は「序」に、二の折は「破」に、三・四の折が「急」に相当するなど起承転結にも注意を払って張行する。このややこしくて格式ばっている連歌形式は茶会そっくりであるが、察しの付くとおり後の「茶の湯」が真似て、今日にまで息づいている訳である。
こうした式目が連歌を共有する一座の創作の背景に必要だったことは頷けるが、創作の場にある個々にとって重荷となり、発想の豊かさや機知を阻害したであろうことも想像できる。先にも触れたように、連歌の進む新たな試みとして第一句のみを単独で鑑賞する「発句」という形式が起こり、更に松尾芭蕉らの登場により俳諧の芸術性が高まったことで「俳諧の発句」が独立して「俳句」へと発展してゆく一方で、連歌は次第に衰退していったという。  
連句
「連句(れんく)」とは、既に前述している「俳諧の連歌」のことであり、その別称であり、明治期以降に「伝統的な俳諧の連歌」を表すために用いられた。別の呼称を用いた背景が少々複雑で、俳壇と連歌壇の流れを追わないと理解し難いため、当時の文学論を交えて流れを追ってみよう。
俳諧の連歌(連句)は、江戸時代前期の松永貞徳(まつながていとく)によって大成され、1651年の著書「俳諧御傘(はいかいごさん)」では俳諧の式目を定め、「貞門派(貞門俳諧)」の祖となった。和歌・連歌・狂歌・古典注釈など多岐に渡って活躍した人物で、連歌に俗言や滑稽を取り入れたため庶民の間の俳諧流行の基礎を作り、貞門派は一時代を築いた。やがて新風の「談林派(談林俳諧)」が連歌師・西山宗因や井原西鶴らにより登場し、短いながら一時代を築いた。談林派は新興町人階級の意欲や感情を詠み、斬新・軽快であり俳諧の中心になった。しかしすぐ後に松尾芭蕉が登場し「蕉風(しょうふう)」と呼ばれる新しい作風を提示すると、俳諧は芸術の域に達する。芭蕉は「さび・しおり・細み・軽み」を重んじ、閑寂で格調高い俳諧を目指したという。以上、江戸の三派を比較して貞門派の「詞付(ことばづけ、縁語・掛詞による付け方)」、談林派の「心付(こころづけ、全体的な意味や風情に応じた付け方)」に対して、蕉風は「匂付(においづけ、余情に応じる付け方)」と評された。
芭蕉没後、付句の技巧を競う「川柳」を中心として元禄期から盛行であった「雑俳」が栄えたが、江戸俳諧中興の祖と称される与謝蕪村(よさぶそん)らによって再び活気を取り戻して盛り返した。蕪村は俳画の創始者でもあり、言語感覚に優れ、その機能美を駆使して写実的で絵画的な発句を得意とした。江戸時代末期には小林一茶が現れ、俳諧師として独自の作風を創出して活躍し、約二万の発句を残している。
江戸時代を通じて俳諧は連歌形式が主流であり、発句のみを抽出して鑑賞することはあっても不動の地位にあったが、明治時代に入ると、正岡子規により従来の座の文芸である俳諧連歌から発句を独立させた個人の文芸として、近代の「俳句」が確立された。この俳句成立より後は、伝統的な座の文芸たる連歌の俳諧を近代文芸として行う場合、俳句と区別して「連句」と呼ぶようになったという。子規により提唱された「俳句革新」の動きは、それまでの連歌・俳諧に大きな転機をもたらすことになる。
国を挙げて近代化に向かっていた明治維新後の新風と混乱の中、連歌形式の文学(連歌・俳諧)を西洋近代文学の視点から「文学に非ず」と否定した正岡子規(まさおかしき)の「連俳非文学論」に端を発する。時流に乗り、俳句が近代国民文学として興隆し、700年余りも広く国民各層に親しまれ続けた連歌・俳諧は日陰に追いやられた古い文学として軽視されるようになった。連歌形式は座の文芸であるが故に感興に重点が置かれ、単なる個性の表現になり得ない社交的遊戯とも見られたためである。子規の俳句の弟子でもあった高浜虚子(たかはまきょし)は、師に反して俳諧を擁護することもできず、俳諧を「聯句(れんく)」と言い替え、子規の没後には「聯句」を「連句」にすり替えて「連句擁護論」を展開、提唱した。それより俳人が「連句」と称するようになって定着し、追随して文学者らも俳諧を「連句」と呼ぶようになったという。俳句が興隆して1ジャンルを確立し、「俳諧」が俳句や連句を含めた総称的な用語になったため、連句として独立させようとの意図があったためで、現在「俳諧」と言えば発句(後の俳句)と連句(連歌)形式の双方が含まれる。江戸時代以前は「俳諧」と言えば連句(連歌)形式のみを指す言葉であったし、芭蕉は「俳句」の祖であると一般に言われるが、連歌形式の文学の完成者もしくは大成者という表現もできるだろう。
かくして正岡子規に始まった近代俳句の隆盛の中、第二次世界大戦後には近代芸術の自閉性・独善性などが批判され、連句の集団制作性に着目し、連句的創作の存在が見直され始めた。伝統詩形として連歌・連句に再び回帰する動きも生じ、現代の作家・詩人らによる連句の試みは1960年代後半から始められ、その中心には現代詩詩人・大岡信、丸谷才一、安東次男、石川淳らによる歌仙の興行がある。歌仙連句を巻き、後で付合の雰囲気や意図を解説・対談を行うという形式によって、連句の可能性が追求された。大岡は「連詩」という概念をここから発展させ、伝統的な枠にあまり囚われない集団詩としての連句を実践する試みの中で外国語での詩作の可能性なども追求している。現在も雑誌「すばる」を中心に連句興行が続けられている。
このような復興の動きがある反面、俳句人口が100万人と言われるのに対し連句人口は数千人とも言われ、僅少といえる状態であり、規模が絶対的に小さい。複数人が一同に会して座を形成するという場所や時間の都合、式目(ルール)が複雑なこと等からくる敷居の高さなどが連句人口に歯止めをかけていると思われる。
伝統的な連句、新しい連句、双方とも現代のインターネットの普及により、ウェブ上で見知らぬ人同士が句を連ねるという新しい試みがなされている。インターネットは「座の文芸」に全く新しい可能性を導き出した。バーチャル世界において、年齢や階級などの垣根がないネットワーク上にいる全ての人が連衆(参加者)になり得るし、個と全体の絶妙の調和や思いがけない発想やイメージが広がる可能性を秘めている。連句人口増加への課題として挙げられる場所や時間の都合はウェブ上であれば容易であり、あしらいなど作法も必要なくなる訳であるが、逆に一座における風韻という発想は消えてゆく。  
まとめ
古風と新風、伝統と革新、いずれを時代が選ぶかによって栄枯盛衰が生じる。連歌・連句においては、そうした時代のうねりが顕著に見え、本来あるべき姿を見失ってしまい、彷徨いつつ現在に至っている様に思う。文芸と文学の狭間にあって、いずれの岸辺にも到達し得ない模索の状態が長く続き、時を経すぎて誰にも行く先が解からなくなってしまったかのようである。結局のところ、現在あるという2つの流れ(伝統的連歌・連句への復古と、連句から派生した連詩・集団詩)のうち、集団詩の方が、実は伝統的連歌の本来の姿に近いようにも思える。連歌・連句を詠む集団は各々の時代を生きる人間であるのだから、わざわざ和語や旧式の式目を引っ張り出して、特定の時代の文化を真似てみても、それは既にあるべき姿ではないように思われる。英語が日本語より身近であれぱ、英語で句を詠んでみても良いという位の器でなければ、閉ざされて衰退してゆくのは必須である。  
 
額田王と弓削皇子

 

額田王(ぬかたのおおきみ)は、天智天皇の近江の宮廷で、もっとも大きく輝いた歌人であった。しかるに女として、もっとも悲しい歌人でもあった。
時代は七世紀のなかば。天皇家の外戚蘇我氏を打ち倒し、大化の改新をなしとげた天智天皇(在位668〜672年)。彼の政治は中国にならうところが多かったため、中国学が盛んになり、宮廷には漢文学の花が咲いた。それとともに大和ことばの和歌の製作も、さまざまな宮廷行事の折々になされることとなった。額田王はこうした風潮の中に出現した宮廷歌人の一人であった。
額田王は、はじめ天智天皇の弟である大海人皇子(おほしあまのみこ)の寵を得て、十市皇女(とをちのひめみこ)を生んだ。しかしこの皇女が成人して天智天皇の嫡子の大友皇子(おおとものみこ)に嫁ぐにおよび、彼女も近江の宮廷に移り、天智天皇に仕えることとなった。そこで有名な「熟田津(にぎたづ)の歌」や、「春秋の優劣を判定する歌」を作るなど、宮廷行事の輝かしい歌人となった。後世の賞賛は、ほとんどがこうしたはなばなしい歌に集中している。
しかし、こうした有名な歌の陰で、ほとんど注目されないままになっている歌もある。例えば次の弓削皇子(ゆげのみこ)との贈答歌である。
弓削皇子
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆづるは)の 御井(みい)の上より 鳴き渡り行く
(むかしを恋しがる鳥なのでしょうか、弓弦葉の茂る井戸の上から鳴いて飛んで行きます。) 
額田王
いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし わが念(も)へる如
(むかしを恋しがる鳥とは、霍公鳥のことでしょう。きっと鳴いたでしょう。わたしの思いのように。)
弓削皇子は、大海人皇子の第六子であった。母は天智天皇の娘、大江皇女(おおえのひめみこ)である。弓削皇子にとって、額田王はいわば母のむかしのライバルであった。その女性に皇子はなぜこのような歌を贈ったのであろうか。また額田王はなぜ若い弓削皇子に、「わが念へる如」などど、深い思いを伝えようとしたのであろうか。歌の贈答、すなわち「相聞」の間柄としては不自然に思える二人を考えた時、この二首の歌の背後には、何か深い謎が隠されているように思われて来る。
「むかしを恋しく思って鳴く鳥の声は、わたしの心の声です」と告白するこの額田王の歌は、『万葉集』にある彼女の歌の最後から二番目のものである。歌人としての晩年の作ということになろう。かつて近江の宮廷の花ともてはやされた歌人は、天智天皇亡きあと、天武天皇として即位した大海人皇子の側にもどり、さらに天武天皇亡きあとは、天武天皇の妃であった持統天皇の下にいる。そうした人生の残照の中で、どのような「むかし」を思い起こしているのだろうか。  
額田王の地位
額田王の出自および生没年について、はっきりしたことは分かっていない。『日本書紀』の「天武紀」には鏡王女(かがみのおおきみのむすめ)と記されているが、この鏡王という人もよく知られていない。土橋寛氏は『万葉開眼』の中で、鏡王は近江の鏡里に居住していた百済系王族ではなかったかと言っているが、興味深い説である。なぜなら額田王の中国文学的教養がそれで理解できるからである。また彼女が歌人としてはもてはやされながらも、天智天皇の妃にも、天武天皇の妃にもなっていないことの説明もつく。皇族でもなく、豪族の娘でもなく、ただの帰化人の娘であったのなら、正式な妻の一人になれるはずがなかったのである。
『日本書紀』によると、天武天皇には四妃、三夫人があった。四妃はそろって天智天皇の皇女で、三夫人は二人が大化の改新の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)の娘、一人が大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘である。天武天皇はこの正式の妻たち以外の女にも子を生ませており、額田王はそうした女の一人であった。
額田王は天武天皇がまだ大海人皇子であった頃に寵を受けた。しかしそれは必ずしも彼女の幸福にはならなかったようである。彼女が生んだのは皇女であり、その娘は成人すると、あたかも人質のように、天智天皇の息子の大友皇子に嫁がされた。額田王が天智天皇に仕えるようになったのも、十市皇女の母親として、併せて人質的に献じられたのかもしれない。
『日本書紀』には、天智天皇の妃、宮人として九人の女性の名が上がっているが、その中に額田王の名はない。天智天皇の寵を受けていたかもしれないが、彼女は再び子を生むことはなかった。女としての幸福からは遠い人であったようである。しかしそれを別にすれば、彼女は天智天皇の近江の宮廷でもっともはなやいだ歌人であった。
しかしながら、彼女の宮廷歌人としてのはなやぎは、天智天皇の死によって幕を閉じる。近江の宮廷は天智天皇の死とともに滅びるからである。
天智天皇は自分が亡きあと、弟の大海人皇子が皇位を奪うのではないかと疑っていた。そこで病の床に弟を呼び寄せ、わざと皇位を彼に渡そうと申し出た。これに対して大海人皇子は次のように答えた。
「わたくしは幸い多い者ではございません。もともと多くの病をもっており、 とても社稷を保つような任には耐えません。どうぞ陛下は天下を皇后にお渡し 下さい。そして大友皇子を世継の太子にお立て下さい。わたくしは今日出家して、陛下のために功徳を修めたいと存じます。」
そして言葉どおり、即日出家して、吉野に去って行った。ある人が言った。
「虎に翼を付けて放してしまった。」
にわか出家の姿で去って行く大海人皇子を、額田王はどのような思いで見送ったのであろうか。もしも彼が一生を出家者として山中で過ごし、大友皇子が無事に即位すれば、彼女の娘、十市皇女に栄えと幸福がやって来る。十市皇女はすでに大友皇子の長子、葛野王(かどののおほきみ)を生んでいたからである。しかし、もしも彼に・・・。
額田王の危惧は的中した。天智天皇が亡くなって間もなく、大海人皇子が反乱を起こした。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。そして近江の朝廷は滅ぼされ、追いつめられた大友皇子は自決して果てた。
天智天皇は山科(やましな)に葬られた。その御陵から退く時に額田王がよんだ歌は悲しい。
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつ在りてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は 去き別れなむ
(国土のすみずみまで治められたわが大君の畏れも深い御墓におつかえして、山科の鏡の山に、 夜は夜中、昼は昼中、慟哭し、哀泣していたが、葬儀もはてて、大宮人たちは今散り散りになって行く。)
今散り散りになって行く大宮人の中には、飛鳥浄御原の宮廷で即位した天武天皇の側に引き取られて行く者たちがあった。十市皇女をはじめとして、彼女の子の葛野王、そして母の額田王。また天智天皇の皇子、皇女たちであり、彼らにとって、その日は長い苦難の日々のはじまりであった。  
歌わぬ歌人
『日本書紀』によると、天武四年二月、十市皇女は天智天皇の娘である阿閉皇女(あへのひめみこ)と伊勢神宮に遣わされている。目的は記されていない。しかしもしそれがよく言われているように、壬申の乱における神々の加護を感謝するものであったとしたなら、二人の皇女にとって大変つらい使命であったことだろう。阿閉皇女にとっては父の朝廷、十市皇女にとっては夫の朝廷を滅ぼすことに力を貸した神々に感謝するわけだからである。しかし天武側の衆目の中で猜疑を避けるためには、本心を押し殺してつとめなければならなかったことであろう。
この後、十市皇女については、七年四月に最後の記録がある。
「夏四月丁亥の朔日、天武天皇はいつきのみやに行幸されようとして卜った。七日の日がよい日であると卜いに出たので、寅の刻を出発とし、すでに先払いの者達は動き出した。百官も列をなし、天皇の乗り物や傘蓋などもすべて準備されたが、これから動きだすという時になって、にわかに十市皇女が病を発して、宮中で亡くなった。このため行列は動き得ず、行幸はとりやめになり、神祇を祭ることができなかった。・・・十四日、十市皇女を赤穂に葬った。」
いつきのみや(斎宮)とは、天皇みずからが神祇を祭るために籠もる場所である。天武天皇のそれは倉梯(くらはし)の河上に建てていた。
天武天皇は即位以来、多くの宗教的行事を行なっていた。神々の祭りにとどまらず、川原寺で『一切経』を書写させたり、僧尼を何千人も招請して大きな法要をするなど、仏教の行いも怠らなかった。自分が滅ぼした近江朝廷側の人々の鎮魂を行う必要があったのかもしない。
いつきのみやへの行幸も、そうした宗教的行事のひとつであったが、十市皇女の突然の死という不祥事で中止になってしまった。
十市皇女は、本当に病死したのであろうか。突然の死ではあっても自然死だったのならば、行幸がとりやめになるところまで行かなかったかもしれない。もしかしたら、変死、つまり自殺であったのでは?
かつてともに伊勢神宮に行かされた阿閉皇女は、天武天皇の子の草壁皇子(くさかべのみこ)の妃になっていた。しかし未亡人の十市皇女には、どのような幸福が約束されていたのだろうか。彼女がもしも大友皇子を心から愛していたのだったら、夫を死に追いつめた父に恨みを抱いていたとしても不思議ではない。また滅ぼした後で鎮魂の行事を行なう父の偽善をも憎んでいたとしても不思議ではない。それゆえ父の大事な神事のひとつを、死によって汚そうとしたのかもしれない。
十市皇女の葬儀の日、天武天皇は「発哀(みね)」を行なったと記されている。「みね」とは喪儀にあって泣き悲しむ儀礼である。この葬儀の場に額田王がいたかどうか記録にはない。『万葉集』にも高市皇子(たけちのみこ)の挽歌があるのみで、額田王の歌はない。
額田王はなぜわが子のために歌をよまなかったのであろうか。歌などよみえないほど心が張り裂けていたのだろうか。
しかし彼女が歌をよまないのは、この時だけではない。天武側に戻らされてからの彼女は、弓削皇子に歌を贈られるまで、全くの沈黙を守っているのである。天武の宮廷に宴や遊びがなかったわけではないだろう。しかし額田王はもはや歌わない。おそらく歌えなくなったからではなく、歌わせてもらえなかったからに違いない。
近江の宮廷で額田王がはなやぐことができたのは、天智天皇の正妃倭姫(やまとひめ)が大 した歌人でなかったからであろう。宮廷の宴や遊びで誰かがはなばなしく喝采されても、倭姫はそれほど意にとめなかった。しかし天武天皇の正妃の菟野皇女(うののひめみこ)は 歌人であった。自ら歌をよむ者であり、しかもその才が額田王より劣っていると知っていたら、天武天皇の宮廷の行事の折々に、額田王に歌をよむ機会を許したであろうか。
歌の才に対する嫉妬だけでなく、菟野皇女には女としての嫉妬もあったにちがいない。かつて大海人皇子は、額田王を近江の宮廷に渡してしまった後も愛し続けていた。それは『万葉集』にある二人の歌によって知られる。
額田王
茜(あかね)さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
(美しく照りはえる紫草の野、しめ縄でかこった御猟地をあちらに行き、こちらに行って、わたしに袖を振るあなたを、野守が見ていないでしょうか。)
大海人皇子
紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 
(紫草のように色香のあるあなたが憎いならば、人妻となったあなたをこうして恋うることもありませんよ。)
これは天智天皇が蒲生野(がもうの)で狩猟をした時の歌である。「人妻」という言葉から察することができるように、かつての大海人皇子の愛人は、今や天智天皇の愛人である。大海人皇子は大胆にも、野のあちらこちらで彼女に向って袖を振り、愛を告白しているのである。
この歌が『万葉集』に収められている以上、二人の絶えざる愛の関係は周知のものであったに違いない。そうした二人に対して、菟野皇女がどのような気持ちであったかはゆうに想像できる。
大海人皇子が天武天皇となったことは、額田王、娘の十市皇女、孫の葛野王の下降であると同時に、菟野皇女、息子の草壁皇子、孫の軽皇子(かるのみこ)の上昇であった。菟野皇女は今や天武天皇の正妃として並びなき者となり、飛鳥浄御原の宮廷で、栄光を一身に集める存在である。昔日の屈辱を流し去って、額田王を親切に遇するとは思えない。
額田王はかつての大海人皇子との愛が知られたものであるがゆえに、ことさら目立たないように、出来るかぎり天武天皇から遠ざかって生きて行かなければならなかったであろう。それはまたわが身ひとつのためでなく、十市皇女、葛野王のためにも必要なことであった。
額田王はもう歌わない。最愛の娘の死にあっても、彼女は沈黙する。沈黙は遺された孫の葛野王のためにも必要なことであったに違いない。  
弓弦葉
葛野王は、本来ならば皇位をつぐ太子になるべきであった。しかしそれを人に思い出させることは、彼の命とりになったであろう。天武の朝廷で、彼は極力政治から遠ざかり、学問、詩文、書画の世界に身をひそめていた。後の勅撰漢詩集『懐風藻』には、葛野王の漢詩が二首収められている。
「春日翫鶯梅」(春の日に鶯と梅を喜ぶ)
聊乗休仮景    たまたま休日をいただき
入苑望青陽    苑に入って春を眺望する
素梅開素靨    白梅はえくぼを浮かべて開き
嬌鶯弄嬌声    鶯はつややかな声をころがす
対此開懐抱    この景に対して心を開けば
優足暢愁情    愁の情はやわらいで行く
不知老将至    老いが間もなく至ることも忘れ
但事酌春觴    ただひたすら春の杯を満たす 
「遊龍門山」(龍門山に遊ぶ)
命駕遊山水   車を呼んで山水に遊べば
長忘冠冕情   冠冕の生活の情を忘れる
安得王喬道   いかにすれば仙人王喬の道を得
控鶴入蓬瀛   鶴に乗って蓬莱に至れるだろうか
この二首の漢詩が、いついかなる場において作られたのかは明らかではない。しかし近江の日々ではないであろう。その頃の葛野王はまだ幼い子供だったからである。従って二首とも天武の朝廷においての作であると思われる。         
『懐風藻』は葛野王の詩にかなり長い前書きを置いている。その中で彼の人柄が次のように説明されている。  
「王子は天智天皇の孫であり、大友太子の長子である。母は天武天皇の長女の十市内親王である。王子は器量度量が大きく、すぐれた風采に遠大な識見を持っていた。才能は棟木となる材であり、門地は皇族の戚であった。若くして学を好み、経書史書に広く通じていた。文章を作ることを好み、また書画をよくした。天智天皇の嫡孫として、浄大四位を授けられ、治部卿に任ぜられた。」
彼の学問は確かに広く深かった。但し好んでいたのは政治的理想を追求する儒家思想ではなく、個人の精神的自由を第一とする道家思想であった。二首の漢詩でも、彼は冠を着用する政治の生活から抜け出して、独り静かに自然を楽しもうとしている。祖母の額田王が出来るだけ天皇やその取り巻きから遠ざかっていたように、彼もまたなるべく「世の中」から遠ざかり、出来れば中国の王喬(おうきょう)のように、鶴の背にのって蓬莱に飛んで行きたかったのであろう。
天武天皇は在位十四年で亡くなった。近江側の人々にとって、更に苦しい日々が始まる。菟野皇后の女帝時代が始まるからである。
『日本書紀』によると、菟野皇女は大海人皇子の妃となって以来、終始彼を助け、天武朝廷を建てるにあたっての陰の功労者であった。天武天皇の皇后となってからは、常に政治にまで提言し、天皇を補佐するところが多かった。天皇が亡くなると、彼女は即座に「臨朝称制」(即位の式を挙げないで政務を摂る)を行なった。
男帝にとってはどの皇子皇女もわが子であるが、女帝にとってはわが生みの皇子皇女のみがわが子である。菟野皇后にとって、わが子は草壁皇子しかなく、わが孫は軽皇子しかなかった。そのわが子の草壁皇子が、こともあろうに天武天皇崩御から三年後に病没してしまった。
天武天皇の皇子は、彼女の草壁皇子の他に、大津皇子(おおつのみこ)、長皇子(ながのみこ)、弓削皇子、舎人皇子(とねりのみこ)、新田部皇子(にひたべのみこ)、穂積皇子(ほづみのみこ)、高市皇子(たけちのみこ)、忍壁皇子(をさかべのみこ)、磯城皇子(しきのみこ)と、九人もいたのであるが、菟野皇后は彼らをさしおいて自分の孫の軽皇子に皇位をつがせようと思っていた。そうした彼女の陰謀であろうか、天武崩御の翌月、大津皇子が謀反のかどで捕らえられ、死を賜った。残る皇子の中で最も有力なのは、長子であり、すでに太政大臣をしている高市皇子であった。ところがこの皇子は草壁皇子のあとを追うように、翌年亡くなってしまった。
菟野皇后はここに至って王公卿士をよび集めた。世継ぎの太子を定めるという名目である。『懐風藻』の葛野王の詩の前書きは、この時のことを次のように言っている。
「群臣はこの時さまざまな私情を抱き、衆議は紛々とした。すると葛野王が進みでて次のように申し上げた。『わが国の法によりますと、神代からこのかた、位は父子伝承になっております。もしも兄弟伝承になりますと乱が起こるからです。仰いで天の意志を知ろうとしても、誰がよく推測できるでしょう。しかしながら人の世の事柄にもとづいて推測するならば、天子の世継は自然に定まるものです。これに誰が反論できますしょう。』そこには弓削皇子も参列していて、何か言いかけた。しかし葛野王が叱りつけたので、そのまま黙ってしまった。菟野皇后は葛野王の一言が国の大事を定めたと言って喜んだ。そこで特別に正四位を授け、式部卿に任じた。この時、葛野王は三十七才であった。」
葛野王は女帝の意図を読んでいたのであろう。女帝は公正なる衆議によって世継ぎの太子を定めようとしたのではない。彼女の意図は最初から軽皇子の立太子にあり、衆議において誰がそれに賛成し、誰がそれに反対するか見ようとしたに違いない。反対に立つ者は、大津皇子の例でも分かるように、容赦なく消されてしまうであろう。それを見抜けなかった弓削皇子が何か言いかけたのを、葛野王はビシッと叱りつけ、彼を危機から救いだしたのである。
葛野王の進言は矛盾に満ちている。もしも彼が言うように皇位が父子継承であり、兄弟継承としないというのが神代以来の法であるならば、天智天皇の嫡孫である葛野王こそ正しい皇位継承者である。そして天智天皇側から皇位を奪いとった弟の天武天皇は、法にそむいた簒奪者なのである。弓削皇子はそれを言おうとしたのかも知れない。女帝もそれを見抜いたかも知れない。しかし彼女は無視した。正義よりも必要なもの、それは軽皇子の立太子であり、葛野王がそれを支持したというだけでよかったのである。それゆえ彼女はあつい恩賞を与えた。
葛野王の進言を単なるへつらいと解してしまっては気の毒であろう。彼は生き延びなければならなかった。額田王が歌わぬ歌人として生き延びているように、彼も正当な皇位継承者であることを忘れ、あらゆる屈辱を忍んで生き延びなければならなかった。
菟野皇后は軽皇子が世継ぎの太子に立てられると、その成長までの間という名目で即位し、持統天皇となった。名実ともに女帝となった持統天皇は、宮中の遊びよりも吉野宮への行幸を楽しんだ。かくて歓楽の場は吉野に移る。そしてはなやかな宴席で女帝の御代を讃美するのは、男性の歌人、柿本人麻呂であった。
行幸に従駕した弓削皇子は、吉野の歓楽の宴を見て、大和の都に置き去りにされている額田王を悲しく思い出したのかも知れない。彼は歌を送った。歌わせてもらえない歌人にもう一度声を上げさせるべく。
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉の 御井の上より 鳴き渡り行く    
井戸の側に繁る「弓弦葉(ゆづるは)」は、「譲る」のかけことばであろう。弓削皇子は暗に言う。
「あなたは本来自分が、娘が、孫が享受すべき栄光を、すっかり女帝に譲っ  ておしまいになった。近江の日々を恋しく思っておいでなのではないかと、  井戸の上を鳴きわたって行く鳥を見て思いました。」
長く沈黙していた歌人は、ここにようやく声を上げる。すべてを呑み込んで静まっていた淵が、突然声をあげたかのように。その声は言う。
いにしへに 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし わが念へる如  
霍公鳥
「いにしへに恋ふる鳥」を、額田王は「霍公鳥」と呼んだ。
「霍公鳥」の音読みは「かっこうどり」であるが、普通そうした音読みはされないで、「ほととぎす」と訓読みされる。「かっこう」と「ほととぎす」は今日違う鳥として区別されているが、『万葉集』においては混同されており、大伴家持の歌などでは「霍公鳥」と「保登等芸須」が同じ鳥に使われている。「保登等芸須」は正式の和名であり、「霍公鳥」は鳴声をもじった表記法である。ほかにも同じ表記法のものに「郭公鳥」があるが、額田王はそれを使わずに、「霍公鳥」を使った。そして『万葉集』で、彼女がそれを使った最初の歌人なのである。
「霍公鳥」の表記法を最初に考えたのは誰であったのだろうか。漢名のように聞こえるが、中国にこの名の鳥はいない。中国で「ほととぎす」にあたるのは「杜鵑」(とけん)である。ほかに「子規」(しき)、「杜魄」(とはく)、「蜀魂」(しょくこん)、「鶗鴃」(しけつ)、「鵜鴃」(ていけつ) などとも呼ばれる。主に南方に棲息した鳥で、風物のひとつとして民間の歌などによくあらわれるが、上流の貴族文学にはめったにあらわれない。『楚辞』の「離騒」にはあらわれるが、不気味な鳥としてである。
恐鵜鴃之先鳴兮    わたしの恐れは先ず鵜鴃が鳴いて
使夫百草為之不芳   そのため百草が凋んでしまうことだ
この鳥が鳴くと百草が枯れてしまう。あまりにもその鳴声が悲痛だからなのであろう。
漢の楊雄が書いた『蜀王本紀』にこの鳥の話が出てくるが、ここでも不気味な鳥である。その話によると、中国の南西に位置する蜀の地に、杜宇(とう)という者がいた。彼は揚子江の源の井戸の中から現われた名利(めいり)という女を妻としていたが、後に蜀の地の王となり、望帝(ぼうてい)と称した。望帝が百余才になった頃、荊の地から鼈霊(べつれい)という者の死骸が揚子江を流れ下って来て、蜀の地に至って生き返った。望帝はその奇蹟に感じてこの者を召し、宰相に任じた。
それから蜀の地は、大洪水にみまわれたが、望帝はこれを治めることができなかった。代わりに宰相の鼈霊が治めると、水は引いて民が救われた。望帝は自らの不徳を恥じて帝位を鼈霊に譲り、国を去った。望帝が去る時、杜鵑が鳴いた。蜀の人々はそれ以後、杜鵑の悲しげな鳴声を聞く度に、望帝を思念したという。
杜鵑にまつわるこのような伝説は、万葉人にはあまり知られていなかったであろう。『蜀王本紀』は史書の中で目立った書物ではない。万葉時代にこの伝説を知っている者がいたとしたら、よほど漢学の知識が広かったはずである。
しかして額田王が帰化人の娘であったというのが事実であるとするならば、彼女がこの書物を知っていた可能性が考えられる。また漢学の素養が深かった葛野王と親しくしていた弓削皇子も、これを知っていたかもしれない。事実、彼が額田王に贈った歌は、あたかもこの書物の伝説をふまえているかのようである。望帝の妻は揚子江の源の井戸の中からあらわれたが、弓削皇子が歌う「いにしへに恋ふる鳥」も、井戸のそばの弓弦葉の上にいる。
杜鵑の伝説は、六朝の宋の鮑照(ほうしょう)の詩にも言及されている。
愁思忽而至         突然憂愁に襲われ
跨馬出北門         馬に跨がって北門を出る
挙頭四顧望         目を上げて四方を眺めれば
但見松柏園         ただ松と柏の墓園のみ
荊棘欝蹲蹲          いばらの灌木は欝蒼としげり
中有一鳥名杜鵑      その中に一羽の杜鵑
言是古時蜀帝魂      古代の望帝の魂と言う
声音哀苦鳴不息      悲痛な声で鳴いてやまず
羽毛憔悴似人髭      羽毛は人の髭のように憔悴し
飛走樹間啄虫蟻      樹間を飛んで虫や蟻を啄ばむ
豈憶往日天子尊      昔日の天子の尊貌は今どこに
念此              これを見れば
死生変化非常理      死と生の変化はまさに無常
中心惻愴不能言      心中悲しみに満ちて言葉を忘れる
この詩は『鮑集』にあるが、万葉人がよく読んだ『文選』にも『玉台新詠』にものっていないので、彼らの目に触れる機会は少なかったであろう。しかし再び額田王は帰化人の家の出であったという説を信じるなら、彼女は『鮑集』を知っており、弓削皇子も知っていたかもしれない。弓削皇子はほかにも霍公鳥の歌をよんでいるが、それなどは鮑照の詩の剽窃ではないかとさえ思われる。
霍公鳥 無かる国にも 行きてしか その鳴く声を 聞けば苦しも
(霍公鳥のいない国に行ってしまいたい。その鳴く声を聞くと苦しくなるのだから。)
女帝は栄光を一身に集めている。しかしそこにいたるまで、彼女は何人の者を倒して来たのだろうか。天智側の者たちだけではない。天武側の者たちも、倒され、あるいは屈服させられた。弓削皇子も女帝の孫のためにすべてを譲らされた者の一人であった。彼はそれでも宮廷の晴れの行事につらなることを許されている。しかしもっとも多く譲らされて者は、決して晴れの場に呼ばれることはなかった。額田王に対する彼のひそかな同情は、きわめて深かったことだろう。
しかしながら近江の残党であり、しかも女帝のかつての恋敵であった女性に同情をあらわすことは、大きな危険だったに違いない。弓削皇子はそこで二人の間でしか通じない中国文学の知識をもちいて、額田王になぞめいた同情の歌を送ったのではないだろうか。
額田王は彼のなぞを解いた。そしてその鳥を、和名でも漢名でも呼ばず、「霍公鳥」と呼んだ。この表記法はすでにあったのだろうか。いや、そう考えるよりも、『万葉集』で最初に使った額田王の創案であったと考えたい気がする。なぜなら同じく鳴声をもじっての「郭公鳥」は、彼女の歌に何の生彩も加えないが、「霍公鳥」となると深い陰影が加えられるのである。「霍」という字は、「あわただしく飛ぶ音」、「すみやか」などの意味だからである。
近江の宮廷の日々、はなやぎの日々、それらは何とあわただしく、すみやかに過ぎ去ってしまったのだろう。大化の改新を成し遂げた天智天皇も、その子の大友皇子も、あわただしく飛び去る鳥のように、この世から去ってしまった。そしてまた一時約束されていたわが娘の幸福、わが孫の幸福も、それとともに消え去ってしまった。この世のものは「霍然」として過ぎ去り、悲しく死んだ者の魂は鳥に化して、霍公! 霍公!と、血を吐くまで叫ぶ。この鳥の名は、額田王にとって、「保登等芸須」でも「郭公鳥」でもなく、「霍公鳥」でなければならなかったのではないだろうか。
持統天皇は偉大な歌人を黙らせた。しかし霍公鳥を黙らせることはできなかった。悲哀のきわみで叫ぶその鳥の鳴き声は、それから今にいたるまで、万葉の林から響いてくるのである。これからも、ずっと・・・・。  
 
朝廷と陸奥国の蝦夷

 

■宝亀6年(775)
3月23日
陸奥国の蝦夷が(前年)夏から秋にかけて騒動を起こし、民が砦に立てこもっていたため、放置された田畑が荒廃します。天皇は詔して、この年の課役・田租を免除しました。
5月27日
平城京の倉庫の真綿一万屯と甲斐・相模両国の真綿五千屯を使い、陸奥子に襖(おう・鎧の下に着る綿入れ)を作らせました。
9月13日
天皇は陸奥国鎮守副将軍で従五位上の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)を陸奥介に任じ、27日には正四位下の大伴宿禰駿河麻呂と従四位下の紀朝臣広庭(きのあそみひろにわ)をそれぞれ参議に任じました。
10月13日
出羽国が言上します。「蝦夷との戦いの余燼がくすぶっており、いまだ穏やかならざる状況です。ついては鎮兵996人の増援を願います。また要害の地を守りながら国府を遷したく思います」
天皇は勅を発し、相模、武蔵、上野、下野四国の兵士を現地に派遣しました。
11月15日
天皇は「蝦夷の反乱を討ち鎮め、また懐柔して服従させたことは賞賛に値する」として、使者を陸奥国に派遣して詔を宣示させ大伴宿禰駿河麻呂以下1790余人に勲功により位階を加え授けました。  
「続日本紀」巻第三十三・宝亀6年(775) 光仁天皇
三月・・・丙辰。陸奥蝦賊騒動。自夏渉秋。民皆保塞。田疇荒廃。詔復当年課役田租。
五月・・・己未。以京庫綿一万屯。甲斐。相摸両国綿五千屯。造襖於陸奥国。
九月・・・従五位上紀朝臣広純為陸奥介。鎮守副将軍如故。・・・戊午。以正四位下大伴宿禰駿河麻呂。従四位下紀朝臣広庭。並為参議。
冬十月・・・癸酉。出羽国言。
蝦夷余燼。猶未平殄。三年之間。請鎮兵九百九十六人。且鎮要害。且遷国府。
勅差相摸。武蔵。上野。下野四国兵士発遣。
十一月・・・乙巳。遣使於陸奥国宣詔。
夷俘等忽発逆心。侵桃生城。鎮守将軍大伴宿禰駿河麻呂等。奉承朝委。不顧身命。討治叛賊。懐柔帰服。勤労之重。実合嘉尚。駿河麻呂已下一千七百九十余人。従其功勲加賜位階。
授正四位下大伴宿禰駿河麻呂正四位上勲三等。従五位上紀朝臣広純正五位下勲五等。従六位上百済王俊哲勲六等。余各有差。其功卑不及叙勲者。賜物有差。  
■宝亀7年(776)
2月6日
陸奥国が「来る4月上旬には2万人の軍勢を以て、山海二道(陸奥と出羽)の賊を討つべきです」と言上します。天皇は直ちに勅を発して出羽国の兵士4000人を動かし、雄勝の道から出た軍勢は陸奥の西辺の賊を討ちました。
5月2日
出羽国志波(しわ)村の蝦夷が反逆して、出羽国の朝廷軍と戦闘状態になりました。戦況は朝廷軍に不利なものとなり、天皇は下総、下野、常陸等の国から騎兵を現地に向かわせ、賊を討たせました。
5月12日
天皇は近江介で従五位上の佐伯宿禰久良麻呂(さえきのすくねくらまろ)に、陸奥鎮守府の権副将軍を兼任させました。
7月7日
参議で正四位上、陸奥按察使兼鎮守将軍、勲三等の大伴宿禰駿河麻呂が亡くなりました。天皇は従三位を追贈し、絁30匹、麻布100端を贈りました。
7月14日
天皇は安房、上総、下総、常陸の四国に船50隻を建造させ、陸奥国に配備して不慮の事態に備えさせました。
7月21日
天皇は従五位下の上毛野朝臣馬長(かみつけぬのあそみうまおさ)を出羽守に任じました。
9月13日
陸奥国の俘囚395人が大宰府管内の諸国に分配されました。
10月11日
度重なる征討の戦いを経た陸奥国では人民は疲労し生活も窮している、として当年の田租が免除されました。
11月26日
天皇は陸奥国の兵士3000人を動員して胆沢(岩手県奥州市)の賊を討伐させました。
11月29日
出羽国の俘囚358人が大宰府管内及び讃岐国に分配されました。内78人は諸官吏、参議以上の貴族に賤民として分け与えました。
12月14日
陸奥国諸郡の人々から奥地の郡を守る者を募り、直ちに現地に定住させ3年分の租税を免じました。  
「続日本紀」巻第三十四・宝亀7年(776) 光仁天皇
二月甲子。陸奥国言。
取来四月上旬。発軍士二万人。当伐山海二道賊。
於是。勅出羽国。発軍士四千人。道自雄勝而伐其西辺。是夜。有流星。其大如盆。
五月戊子。出羽国志波村賊叛逆。与国相戦。官軍不利。
発下総下野常陸等国騎兵伐之。
戊戌。以近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂為兼陸奥鎮守権副将軍。
秋七月・・・壬辰。参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍勲三等大伴宿禰駿河麻呂卒。
贈従三位。賻絁卅疋。布一百端。
己亥。令造安房。上総。下総。常陸四国船五十隻。置陸奥国以備不虞。
丙午。以従五位下上毛野朝臣馬長為出羽守。
九月・・・丁卯。陸奥国俘囚三百九十五人分配大宰管内諸国。
冬十月・・・乙未。陸奥国頻経征戦。百姓彫弊。免当年田租。
十一月・・・庚辰。発陸奥軍三千人伐胆沢賊。
癸未。出羽国俘囚三百五十八人配大宰管内及讃岐国。其七十八人班賜諸司及参議已上為賤。
十二月・・・募陸奥国諸郡百姓戍奥郡者。便即占著。給復三年。  
■宝亀8年(777)
3月
陸奥国の蝦夷で投降する者が相次ぎました。
■5月25日
天皇は相模、武蔵、下総、下野、越後の各国に命じて、甲(よろい)200領を出羽国の守りのために送らせました。
5月27日
天皇は陸奥守で正五位下の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)に、陸奥按察使を兼任させました。
9月15日
陸奥国が「今年の四月には国を挙げて軍を動かし、山海の両賊を討ちました。その結果、国中が戦後処理に追われ何かとせわしなく、人民は生活苦にあえいでおります。そこで当年の調・庸並びに田租を免除して、人民を休息させて頂けますよう願います」と言上。天皇はこれを許可しました。
12月14日
陸奥国の鎮守将軍である紀朝臣広純から天皇に、「志波(しわ)村の賊が蟻のように集まり反逆しました。出羽国の軍が戦いましたが、敗退してしまいました」との報告が入ります。天皇は近江介で従五位上の佐伯宿禰久良麻呂を鎮守権副将軍に任じて、出羽国を鎮圧させました。
12月26日
出羽国の蝦賊の賊が反逆します。官軍が不利な戦況となり、武器を損失しました。  
「続日本紀」巻第三十四・宝亀8年(777) 光仁天皇
三月・・・是月。陸奥夷俘来降者。相望於道。
五月・・・乙亥。仰相模。武蔵。下総。下野。越後国。送甲二百領于出羽国鎮戍。○丁丑。陸奥守正五位下紀朝臣広純為兼按察使。
九月癸亥。陸奥国言。
今年四月。挙国発軍。以討山海両賊。国中怱劇。百姓艱辛。望請復当年調庸并田租。以息百姓。許之。
十二月辛卯。初陸奥鎮守将軍紀朝臣広純言。
志波村賊。蟻結肆毒。出羽国軍与之相戦敗退。
於是。以近江介従五位上佐伯宿禰久良麻呂為鎮守権副将軍。令鎮出羽国。
・・・癸卯。出羽国蝦賊叛逆。官軍不利。損失器仗。  
■宝亀9年(778)
6月25日
陸奥・出羽の国司以下の者で、蝦夷征討に功のあった2267人に天皇より位が与えられました。按察使で正五位下、勲五等の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)に従四位下・勲四等を、鎮守権副将軍で従五位上、勲七等の佐伯宿禰久良麻呂(さえきのすくねくらまろ)に正五位下・勲五等を、外正六位上の吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)と第二等の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)にそれぞれ外従五位下を、勲六等の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)に勲五等を授けました。
12月26日
天皇は唐客が拝朝する時の儀仗兵とするため、陸奥国・出羽国に命じて蝦夷20人を召しました。  
「続日本紀」巻第三十五・宝亀9年(778) 光仁天皇
六月庚子。賜陸奥出羽国司已下。征戦有功者二千二百六十七人爵。(後略)
十二月・・・戊戌。仰陸奥出羽。追蝦夷廿人。為擬唐客拝朝儀衛也。  
■宝亀10年(779)
9月27日
天皇は陸奥と出羽等の国に勅を発し、「常陸国の調の絁(あしぎぬ)、相模国の庸の真綿、陸奥国の税の麻布を渤海・鉄利などの禄に宛てよ」と命じました。続けて勅を発し、「出羽国に滞在している蕃人(渤海・鉄利の人々が来着していた)359人については、今は厳寒の時でもあり、海路も荒れて険しいものとなっているので、もし今年は留まりたいと願うならば、それを聞き入れるように」と命じました。  
「続日本紀」巻第三十五・宝亀10年(779) 光仁天皇
九月・・・癸巳。勅陸奥出羽等国。用常陸調絁。相摸庸綿。陸奥税布。充渤海鉄利等禄。又勅。在出羽国蕃人三百五十九人。今属厳寒。海路艱険。若情願今年留滞者。宜恣聴之。  
■宝亀11年(780)
2月1日
陸奥国の按察使兼鎮守副将軍で従四位下の紀朝臣広純が、天皇より参議に任じられました。
2月2日
陸奥国が天皇に言上します。「船路をとり賊の残存した兵を打ち払おうと考えていますが、近頃は寒さが甚だしく川が凍結して船を使うことができません。しかし、現在も賊の来襲は止まりません。このような状況では、まずは賊の侵攻路を塞ぐべきと考えます。そこで軍士3000人を差し向けて3、4月の雪が消え、雨水が溢れる時に直ちに賊地に進み、覚鼈(かくべつ)城を造ろうと考えています」
これに対し、天皇は勅を下しました。「海道の諸地域はかなり遠く賊が犯してくるには不便だが、山地の賊は居住地が近いこともあり隙を窺い来襲してくる。このような賊は打ち払わなければ、その勢いは更に強いものとなろう。今こそ覚鼈城を造り胆沢の地を得るべきである。陸奥・出羽両国のためによいことである」
2月11日
陸奥国が再び天皇に言上します。「去る正月26日、賊が長岡(宮城県大崎市)に入り、民家を焼き討ちしました。官軍は直ちに追討しましたが双方に死傷者が出ました。若し今すぐ賊を討伐しなければ、おそらく賊の襲撃は止まないことでしょう。来る3月中旬に兵を発して賊を討伐し、併せて覚鼈城を造り兵を置いて、防衛の任に着かせることを請い願います」
天皇は勅を下します。「狼は子でも野心があり恩義を顧みることがない。同じく蝦夷も敢えて険阻な地形を恃みとして辺境を侵犯し止むことがない。兵器は凶器でもあるが、使用するのはやむを得ないことである。宜しく3000の兵士を発して、残る賊を一人も残さず刈り取るべきである。情勢を見極めて効果的に軍勢を動かすように」
3月22日
陸奥国上治(かみじ)郡の大領で、外従五位下の伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が反乱を起こしました。呰麻呂は徒衆を率いて、按察使・参議・従四位下の紀朝臣広純(きのあそみひろすみ)を伊治城で殺害します。広純は大納言・中務卿(なかつかさきょう)兼任、正三位の紀朝臣麻呂(きのあそみまろ)の孫で、左衛士督・従四位下の宇美(うみ)の子でした。広純は宝亀年中に陸奥守に任じられ、続いて按察使に転任。在職中は有能な人物として称えられていました。呰麻呂は俘囚の子孫でした。初めは事情があって広純を嫌っていましたが呰麻呂は恨みを隠し、広純に媚びるようにして仕えていました。そうとは知らない広純は呰麻呂に気を許し、多大なる信頼を寄せていたのです。また牡鹿(おじか)郡の大領である道嶋大楯(みちしまのおおだて)は、同じ蝦夷である呰麻呂を事あるごとに見下し嘲り、蝦夷として遇していました。このような理不尽を呰麻呂は深く根に持つようになります。ある時、広純は建議して覚鼈柵の砦を造り、警備関係の兵を遠くに配置しました。続いて広純は蝦夷の軍勢を率いて伊治城に入り、そこには大楯と呰麻呂が共に従っていました。ここにおいて呰麻呂は蝦夷の軍と内応し、彼らを誘導して反乱を起こします。呰麻呂はまず大楯を殺し、徒衆を率いて按察使の広純を攻め、これを殺害しました。陸奥介である大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな)一人だけは、囲みの一角を開いて出し、多賀城へと護送しました。多賀城は長年、陸奥国司が治めてきた所で兵器や食料の備蓄は十分なものがありました。城下の人々は競って城中に入り保護されんことを願いましたが、陸奥介の真綱と陸奥掾(じょう)の石川浄足(いしかわきよたり)は後門より逃げ出してしまいます。これによって拠り所をなくした人々は一時に散り去ってしまい数日の後、多賀城に賊徒が入り府庫の物を争って取り、重い物まで持ち去ってしまい、後に残ったものは放火して焼いてしまいました。
3月28日
天皇は中納言で従三位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそみつぐただ)を征東大使に任じ、正五位上の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)と従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を征東副使に任じました。判官(じよう)、主典(さかん)はそれぞれ4人です。
3月29日
天皇は従五位下の大伴宿禰真綱(おおとものすくねまつな)を陸奥鎮守副将軍に任じ、従五位上の安倍朝臣家麻呂(あべのあそみやかまろ)を出羽鎮狄(でわちんてき)将軍に任じました。軍監・軍曹はそれぞれ2人です。征東副使で正五位上の大伴宿禰益立に陸奥守を兼ねさせました。
4月4日
天皇は征東副使で正五位上の大伴宿禰益立に従四位下を授けました。
5月8日
平城京の庫と諸国にある甲(よろい)六百領について、直ちに出羽鎮狄将軍のもとに送ることになりました。
5月11日
天皇は出羽国に勅を下しました。「以前、渡嶋(わたりしま)の蝦夷が心をこめて来朝し、貢献してから時久しいものとなった。今、俘囚が反逆し辺境を侵略、騒乱を起こしている。将軍や国司は渡嶋の蝦夷に饗宴を賜る日に、彼らを慰労し諭すべきである」
5月14日
天皇は勅を下しました。「軍事に要する機材など、備えを欠くことがあってはならない。坂東諸国及び能登、越中、越後に糒(ほしいい)三万石を備えるよう命じよ。飯を炊ける数量は限りあるものだから、損失を生じないようにすべきである」
5月16日
天皇は勅を下しました。「賊は狂ったように反乱を起こし辺境に侵攻しては騒いでいるが、我が方の狼煙(のろし)台は心もとなく、斥候も守りの役に立っていない。今、征東使と鎮狄将軍を向かわせて、道を二つに分けて征討させている。期日までに軍勢を集結させるには、須らく文官・武官が謀議を尽くし、将帥も力量を発揮して、賊徒を征伐し元凶は誅殺すべきである。宜しく進士を広く募り、一刻も早く軍部隊に送るようにせよ。若し進士らが感激して忠勇に励み自らの効を願う者があれば、特にその者の名を記録するように。賊を平定した後、抜擢するであろう」
6月8日
天皇は従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)を陸奥鎮守副将軍に任じ、従五位下の多治比真人宇佐美(たじひのまひとうさみ)を陸奥介に任じました。
6月28日
天皇は陸奥持節副将軍の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)らに勅を下しました。「去る5月8日の将軍らの奏上では『兵糧の備えを怠りなく且つ、賊の機をうかがい、今月下旬を以て陸奥国府に進み入り、然る後、機会を見て返事に乗じて天誅を行おうと考えています』と言上してきて既に二月が経過している。こちらは日数と道程を考え、賊の連行、献上を待っているのだが、その姿はまだ見えない。軍を率いて出陣し、賊を討伐するのは国の大事ではないか。今後は我が軍の進退及び動静を引き続き奏聞すべきである。しばらく報告がないということはどういうことなのか。これからは細かなことまで報告せよ。もし文書だけでは意を尽くせないようであれば、軍監以下で細かく報告できる者を一人向かわせ報告させよ」
7月21日
征東使が甲一千領を請求してきたので、天皇は尾張・参河(みかわ)等の5箇国に命じて、軍所に運ばせました。
7月22日
征東使が襖(おう・鎧の下に着る綿入れ)四千領を請求してきたので、天皇は東海道や東山道等の諸国に命じて襖を作らせ、現地に送りました。
天皇は勅を下しました。「今、逆賊を討伐するために坂東の兵士を徴発する。来る9月5日を期限として陸奥国多賀城に赴かせ集結させよ。現地で必要となる軍糧は太政官に申請して直ちに送るように。兵士の集結には時期があり、食糧を継続して送るのは難しく飢えてしまうおそれもある。食糧搬送路の便や距離を考慮すれば、下総国の糒(ほしいい)六千石と常陸国の糒一万石を来る8月20日を期限として、現地に届けさせよ」
8月23日
出羽国の鎮狄将軍である安倍朝臣家麻呂(あべのあそみやかまろ)等が言上します。「夷狄(いてき)の志良須(しらす)や俘囚の宇奈古(うなこ)らが『我等は朝廷と官軍の権威によりまた、それを頼みとして城下に住み時久しいものとなります。今、この秋田城のことについては色々と伺っていましたが、遂に永久に放棄されてしまうのでしょうか。それとも旧来通り兵士が交替で守ってくださるのでしょうか』と尋ねてきました」
天皇は返答します。「そもそも秋田城については前代の将軍、宰相らが詮議して建てたものである。その城は長年にわたり敵の攻撃を凌ぎ、民を守ってきた。そのような城の全てを放棄してしまうのは、良い計画とは言えないであろう。宜しく多少の軍士を派遣して鎮守の任に着かせ、彼ら俘囚の帰服の思いを損なうことのないようにせよ。直ちに使者または国司一人を派遣して、秋田城に専任させるように。また由理柵(ゆりのき)については賊共の要害の地であり、そこより秋田城への道が通じている。よって由理柵にも兵士を派遣し、現地ではお互いが助け合って防御にあたるように。思うに宝亀の初め、国司が『秋田城は保ち難く、河辺城は治めやすい』と言い、当時の評議によって河辺城を治めることになったが長年、秋田城下の人々は移住しようとはしなかった。これを以て移住ということについては、大変な重荷と感じている人が多いということを知るべきである。このような心情を踏まえた上で俘囚や人々に尋ねて、詳細に秋田城と河辺城の利害を言上せよ」
9月23日
天皇は従四位上の藤原朝臣小黒麻呂(ふじわらのあそみおぐろまろ)に正四位下を授け、持節征東大使に任じました。
10月29日
天皇は征東使に勅を下しました。「今月22日の奏状により、征東使らが遅延し既に征討の時宜を失しているのを知った。将軍らが出発し現地に赴いてから久しく月日がたち、終結した歩兵、騎兵は数万余となっている。加えて賊地に攻め入る期日を何回も上奏している。将軍らの上奏通りなら、今頃は狂賊を攻め滅ぼして平定しているはずである。しかるに今になって『今年は征討できません』と上奏している。夏は草が茂っているといい、冬は襖(ふすま・防寒上着)が欠乏しているといい、結局は巧みに言いつくろって今に至るも部隊は戦わず駐留したままとなっている。兵を集め武器・食糧を準備するのは将軍の職分である。ところが兵士を集める前に備えをすることもなく、かえって『城中の食料は不十分です』という。こんなことでは何月何日に賊に誅伐を加え、伊冶城を回復しようというのか。今、将軍は賊に欺かれた故に緩慢となり、その結果、長い逗留になってしまったのである。まだ11月になっていないのだから、挙兵して十分な兵力をもって戦いに向かうべきである。しかるに勅旨に背を向けて、尚も攻め入ろうとしない。人馬が悉く痩せ衰えてしまっては、何を以て賊に相対しようというのか。よき将軍の策はこのようなものではないであろう。将軍にあっては宜しく兵士達を教え諭して彼らを発奮させ、征討に向かわせるべきである。若し、今月も賊地に攻め入らないならば、多賀城・玉作城等に駐留し、防禦を強固なものにして、戦術を練り上げるようにせよ」
12月10日
征東使が奏上します。「うごめく虫のような蝦夷どもには仲間が多く、誅罰から言葉巧みに逃れたり、隙を窺っては害毒を周囲に及ぼしています。このため2000の兵を遣わして、鷲座(わしくら)、楯座(たてくら)、石沢(いわさわ)、大菅屋(おおすげや)、柳沢等の五道を攻め、木を切って道を塞ぎ、溝を深くして守りを固め、逆賊が首尾を窺う要害を断つものです」
これに対し、天皇は勅を下しました。「聞くところでは、出羽国の大室塞(おおむろのせき)等もまた賊の要害の地であり、わずかな隙を窺っては頻繁に来襲し、略奪を重ねている。宜しく将軍と国司に地勢を視察させて非常時の防御をさせるように」
12月27日
陸奥鎮守副将軍で従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)らが言上します。「さる戦いにおいて、我等は賊に包囲され兵士の疲労は極に達し、矢は尽きてしまったことがありました。そんな時、桃生と白河等の郡の神11社に祈願したところ、神の加護を得て賊の囲みを破りました。これが神の力に非ざるものならば、何故に自軍の兵が生存できたのでしょうか。桃生、白河等の11社を幣社とされますよう申請いたします」
天皇はこれを許可しました。  
「続日本紀」巻第三十六・宝亀11年(780) 光仁天皇
二月・・・陸奥按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純。並為参議。
・・・丁酉。陸奥国言。
欲取船路伐撥遺賊。比年甚寒。其河已凍。不得通船。今賊来犯不已。故先可塞其寇道。仍須差発軍士三千人。取三四月雪消。雨水汎溢之時。直進賊地。因造覚鼈城。
於是下勅曰。
海道漸遠。来犯無便。山賊居近。伺隙来犯。遂不伐撥。其勢更強。宜造覚鼈城碍胆沢之地。両国之息莫大於斯。
・・・丙午。陸奥国言。
去正月廿六日。賊入長岡焼百姓家。官軍追討彼此相殺。若今不早攻伐。恐来犯不止。請三月中旬発兵討賊。并造覚鼈城置兵鎮戍。
勅曰。
夫狼子野心。不顧恩義。敢恃険阻。屡犯辺境。兵雖凶器。事不獲止。宜発三千兵。以刈遺蘖。以滅余燼。凡軍機動静。以便宜随事。
三月・・・丁亥。陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使参議従四位下紀朝臣広純於伊治城。
広純大納言兼中務卿正三位麻呂之孫。左衛士督従四位下宇美之子也。宝亀中出為陸奥守。尋転按察使。在職視事。見称幹済。
伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。広純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。
時広純建議造覚鼈柵。以遠戍候。因率俘軍入。大楯呰麻呂並従。至是呰麻呂自為内応。唱誘俘軍而反。先殺大楯。率衆囲按察使広純。攻而害之。独呼介大伴宿禰真綱開囲一角而出。護送多賀城。其城久年国司治所兵器糧蓄不可勝計。城下百姓競入欲保城中。而介真綱。掾石川浄足。潜出後門而走。百姓遂無所拠。一時散去。後数日。賊徒乃至。争取府庫之物。尽重而去。其所遺者放火而焼焉。
・・・癸巳。以中納言従三位藤原朝臣継縄為征東大使。正五位上大伴宿禰益立。従五位上紀朝臣古佐美為副使。判官主典各四人。
甲午。以従五位下大伴宿禰真綱為陸奥鎮守副将軍。従五位上安倍朝臣家麻呂為出羽鎮狄将軍。軍監軍曹各二人。以征東副使正五位上大伴宿禰益立為兼陸奥守。
夏四月戊戌。授征東副使正五位上大伴宿禰益立従四位下。
五月辛未。以京庫及諸国甲六百領。且送鎮狄将軍之所。
・・・勅出羽国曰。
渡嶋蝦狄早効丹心。来朝貢献。為日稍久。方今帰俘作逆。侵擾辺民。宜将軍国司賜饗之日。存意慰喩焉。
・・・丁丑。勅曰。
機要之備不可闕乏。宜仰坂東諸国及能登。越中。越後。令備糒三万斛。炊曝有数。勿致損失。
・・・己卯。勅曰。
狂賊乱常。侵擾辺境。烽燧多虞。斥候失守。今遣征東使并鎮狄将軍。分道征討。期日会衆。事須文武尽謀。将帥竭力。苅夷姦軌。誅戮元凶。宜広募進士。早致軍所。若感激風雲。奮賜於E。情願自効。特録名貢。平定之後。擢以不次。
六月・・・辛丑。従五位上百済王俊哲為陸奥鎮守副将軍。従五位下多治比真人宇佐美為陸奥介。
・・・勅陸奥持節副将軍大伴宿禰益立等。将軍等去五月八日奏書云。且備兵糧。且伺賊機。方以今月下旬進入国府。然後候機乗変。恭行天誅者。既経二月。計日准程。佇待献俘。其出軍討賊。国之大事。進退動静。続合奏聞。何経数旬絶無消息。宜申委曲。如書不尽意者。差軍監已下堪弁者一人。馳駅申上。
秋七月・・・癸未。征東使請甲一千領。仰尾張参河等五国。令運軍所。
甲申。征東使請襖四千領。仰東海東山諸国。便造送之。
勅曰。
今為討逆虜。調発坂東軍士。限来九月五日。並赴集陸奥国多賀城。其所須軍糧。宜申官送。兵集有期。糧餽難継。仍量路便近。割下総国糒六千斛。常陸国一万斛。限来八月廿日以前。運輸軍所。伊予国越智郡人越智直静養女。以私物資養窮弊百姓一百五十八人。依天平宝字八年三月廿二日勅書。賜爵二級。
八月・・・乙卯。出羽国鎮狄将軍安倍朝臣家麻呂等言。
狄志良須俘囚宇奈古等款曰。己等拠憑官威。久居城下。今此秋田城。遂永所棄歟。為番依旧還保乎者。
下報曰。
夫秋田城者。前代将相僉議所建也。禦敵保民。久経歳序。一旦挙而棄之。甚非善計也。宜且遣多少軍士。為之鎮守。勿令衂彼帰服之情。仍即差使若国司一人。以為専当。又由理柵者。居賊之要害。承秋田之道。亦宜遣兵相助防禦。但以。宝亀之初。国司言。秋田難保。河辺易治者。当時之議。依治河辺。然今積以歳月。尚未移徙。以此言之。百姓重遷明矣。宜存此情歴問狄俘并百姓等具言彼此利害。
九月・・・甲申。授従四位上藤原朝臣小黒麻呂正四位下。為持節征東大使。
冬十月・・・己未。勅征東使。
省今月廿二日奏状知。使等延遅。既失時宜。将軍発赴。久経日月。所集歩騎数万余人。加以入賊地期。上奏多度。計巳発入。平殄狂賊。而今奏。今年不可征討者。夏称草茂。冬言襖乏。縦横巧言。遂成稽留。整兵設糧。将軍所為。而集兵之前。不加弁備。還云。未儲城中之糧者。然則何月何日。誅賊復城。方今将軍為賊被欺。所以緩怠致此逗留。又未及建子。足以挙兵。而乖勅旨。尚不肯入。人馬悉痩。何以対敵。良将之策。豈如此乎。宜加教喩存意征討。若以今月。不入賊地。宜居多賀玉作等城。能加防禦。兼練戦術。
十二月・・・庚子。征東使奏言。
蠢茲蝦虜。寔繁有徒。或巧言逋誅。或窺隙肆毒。是以遣二千兵。経略鷲座。楯座。石沢。大菅屋。柳沢等五道。斬木塞径。深溝作険。以断逆賊首鼠之要害者。於是。
勅曰。
如聞。出羽国大室塞等。亦是賊之要害也。毎伺間隙。頻来寇掠。宜仰将軍及国司。視量地勢。防禦非常。
・・・丁巳。陸奥鎮守副将軍従五位上百済王俊哲等言。己等為賊被囲。兵疲矢尽。而祈桃生白河等郡神一十一社。乃得潰囲。自非神力。何存軍士。請預幣社。許之。  
■天応元年(781)  

 

正月1日
天皇は詔の中で「伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)らによって誑かされ賊軍となった民衆でも、改心して賊軍を抜け出してきた者には3年間、租税を免除するように。蝦夷征討軍に従い兵として陸奥、出羽に赴いた諸国の人民は長く及んだ兵役に疲れ、多くの者の家業が傾き破綻している。それらの家については今年の田租は免除しなさい。また、蒔くべき種籾が無ければ、その地の国司は然るべき量を貸し与えなさい」と命じました。
朝廷による蝦夷征討は38年戦争と称されるほど長きに亘るものでしたが、この詔の言葉一つからも、従軍した諸国の人民の負担は多大なものだったことが分かります。
正月10日
天皇は参議で正四位下の藤原朝臣小黒麻呂を陸奥按察使兼任としました。
正月15日
天皇は蝦夷征討の兵糧を進上した功により、下総国印幡郡の大領で外正六位上の丈部直牛養(はせつかべのあたいうしかい)と常陸国那賀郡の大領で外正七位下の宇治部全成(うじべのまたなり)に外従五位下を授けました。
2月30日
天皇は相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸等の諸国に命じて、穀十万石を陸奥の軍所に船で送らせました。
4月3日
光仁天皇は病により皇太子に譲位、桓武天皇が即位しました。
5月7日
桓武天皇は参議で陸奥按察使、正四位下の藤原朝臣小黒麻呂に兵部卿を兼任させました。
5月27日
天皇は従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を陸奥守に任じました。
6月1日
天皇は参議・持節征東大使・兵部卿・正四位下・陸奥按察使・常陸守である藤原朝臣小黒麻呂等に勅を下しました。「去る5月24日の奏状を得て、具に蝦夷との戦いの情勢を知った。ただ彼の蝦夷の性分といえば無数の蜂や蟻が集まる如くで、何かと乱のもとになっている。こちらが攻撃すれば山や藪に逃走し、そのまま放っておけば城や砦に攻撃してくる。加えて伊佐西古(いさせこ)、諸絞(しょこう)、八十嶋(やそしま)、乙代(おとしろ)らは賊の中でも首領級で、一人が千人にも相当する。伊佐西古らは山野に姿を隠しこちらの様子を見ては隙を窺っているが、我が軍の威力に恐れをなして未だ敢えてその毒を振りまくようなことはしていない。今、将軍らは賊の首を一つも斬っていないのに、先に征討軍を解散してしまった。事は既に始まっているのであり、これをいかにして止めることができようか。ただ先と後の奏状を見たところ賊の軍勢は四千余人であり、その内あげた首級はわずか七十余人ばかりで、いまだ多くの賊が健在である。何故に先に勝利したとして、都へと凱旋することを申請してくるのか。たとえ旧例があるからといっても、朕はこれを認めることはないであろう。宜しく副使の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)と多朝臣犬養(おおのあそみいぬかい)のどちらか一人を駅馬に乗せて入京させ、まず軍事における委細を申し述べさせよ。その余のことについては後の指示を待つように」
7月10日
天皇は正四位下の藤原朝臣小黒麻呂を民部卿に任じ、陸奥按察使についてはそのままとしました。
8月25日
陸奥按察使で正四位下の藤原朝臣小黒麻呂が蝦夷征討を終えて入京。天皇は特に正三位を授けました。
9月3日
天皇は五位以上の官人と内裏で宴を催し、従三位の藤原朝臣継縄に正三位を授けました。
9月8日
天皇は正五位下の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)を陸奥守に任じました。
9月22日
天皇は詔を発して蝦夷征討の功労を称え、従五位上の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)に従四位下・勲四等を授けました。ほかにも、従五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)に正五位上・勲四等を、正五位下の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)に正五位上・勲五等を、従五位下の多朝臣犬養(おおのあそみいぬかい)に従五位上・勲五等を、従五位下の多治比真人海(たじひのまひとうみ)に従五位上を、正六位上の紀朝臣木津魚(きのあそみこつお)と日下部宿禰雄道(くさかべのすくねおみち)、百済王英孫(くだらのこにきしえいそん)に従五位下を、正六位上の阿倍猿嶋朝臣墨縄(あべさしまのおみすみただ)に外従五位下・勲五等を、入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)に外従五位下を授けました。
9月26日
征東副使の大伴宿禰益立(おおとものすくねますたて)は蝦夷征討に発する際、従四位下を授かり当初は大いに期待されていました。しかし、天皇のその後の益立に対する認識は厳しいもので、彼は軍勢を動かす時機を誤り滞留して動かず、徒に軍糧を費やして月日を引き延ばすような有り様だった、というものでした。これにより天皇は征東大使として藤原朝臣小黒麻呂を派遣します。小黒麻呂は到着後、直ちに進軍して各所の城塞を奪還しました。天皇は詔を発して益立が進軍しなかったことを責め、彼の従四位下の位を剥奪しました。
10月16日
尾張、相模、越後、甲斐、常陸等の国人12名が軍糧を自力で陸奥まで届けた功により、運搬量に応じて位階が授けられました。また軍功のあった蝦夷の人には、勲六等相当には一等を、勲八等には二等を、勲九等には三等を、勲十等には四等が授けられました。
12月1日
天皇は陸奥守で正五位上の内蔵忌寸全成(くらのいみきまたなり)に鎮守副将軍を兼任させました。  
「続日本紀」巻第三十六・天応元年(781) 光仁天皇〜桓武天皇
天応元年春正月辛酉朔。
詔曰。
・・・又如有百姓為呰麻呂等被詿誤。而能棄賊来者。給復三年。其従軍入陸奥出羽諸国百姓。久疲兵役。多破家産。宜免当戸今年田租。如無種子者。所司量貸。
・・・参議正四位下藤原朝臣小黒麻呂為兼陸奥按察使。
・・・乙亥。下総国印幡郡大領外正六位上丈部直牛養。常陸国那賀郡大領外正七位下宇治部全成。並授外従五位下。以進軍糧也。
二月・・・己未。穀一十万斛仰相摸。武蔵。安房。上総。下総。常陸等国。令漕送陸奥軍所。
五月・・・参議陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂為兼兵部卿。
・・・乙酉。以従五位上紀朝臣古佐美為陸奥守。
六月・・・勅参議持節征東大使兵部卿正四位下兼陸奥按察使常陸守藤原朝臣小黒麻呂等曰。
得去五月廿四日奏状。具知消息。但彼夷俘之為性也。蜂屯蟻聚。首為乱階。攻則奔逃山薮。放則侵掠城塞。而伊佐西古。諸絞。八十嶋。乙代等。賊中之首。一以当千。竄迹山野。窺機伺隙。畏我軍威。未敢縦毒。今将軍等。未斬一級。先解軍士。事已行訖。無如之何。但見先後奏状。賊衆四千余人。其所斬首級僅七十余人。則遺衆猶多。何須先献凱旋。早請向京。縦有旧例。朕不取焉。宜副使内蔵忌寸全成。多朝臣犬養等一人乗駅入京。先申軍中委曲。其余者待後処分。
秋七月・・・丁卯。正四位下藤原朝臣小黒麻呂為民部卿。陸奥按察使如故。
八月・・・辛亥。陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂。征伐事畢入朝。特授正三位。
九月戊午。宴五位已上於内裏。授従三位藤原朝臣継縄正三位。
・・・癸亥。正五位下内蔵忌寸全成為陸奥守。
・・・丁丑。詔授従五位上紀朝臣古佐美従四位下勲四等。従五位上百済王俊哲正五位上勲四等。正五位下内蔵忌寸全成正五位上勲五等。従五位下多朝臣犬養従五位上勲五等。従五位下多治比真人海従五位上。正六位上紀朝臣木津魚。日下部宿禰雄道。百済王英孫並従五位下。正六位上阿倍猿嶋朝臣墨縄外従五位下勲五等。入間宿禰広成外従五位下。並賞征夷之労也。
・・・辛巳。初征東副使大伴宿禰益立。臨発授従四位下。而益立至軍。数愆征期。逗留不進。徒費軍糧。延引日月。由是。更遣大使藤原朝臣小黒麻呂。到即進軍。復所亡諸塞。於是。詔責益立之不進。奪其従四位下。
冬十月・・・辛丑。尾張。相摸。越後。甲斐。常陸等国人。総十二人。以私力運輸軍糧於陸奥。随其所運多少。加授位階。又軍功人殊等授勲六等一等。勲八等二等。勲九等三等。勲十等四等。
十二月乙酉朔。陸奥守正五位上内蔵忌寸全成為兼鎮守副将軍。  
■延暦元年(782)  

 

5月3日
天皇は軍糧を献じた功により、下野国安蘇郡の主帳で外正六位下の若麻続部牛養(わかおみべのうしかい)と陸奥国の人で外大初位下の安倍信夫臣東麻呂(あべしのぶのおみあずままろ)らに外従五位下を授けました。
5月12日
この頃、陸奥国では兵乱があり、奥郡の人民はそれぞれの村落に集まれずにいました。このため天皇は勅を下して租税を3年間免除することにしました。
5月20日
陸奥国が「戦いにおいて、鹿嶋神に祈祷して凶賊を討ち払いました。鹿嶋神の霊験は本物です。鹿嶋神に位階を授けられることを望みます」と言上。天皇は勅を下して勲五等と封(ふ)二戸を授けました。
6月17日
天皇は春宮大夫で従三位の大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)に陸奥按察使と鎮守将軍を兼任させ、外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)を陸奥介に、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守権副将軍に任じました。  
「続日本紀」巻第三十七・延暦元年(782) 桓武天皇
五月・・・又下野国安蘇郡主帳外正六位下若麻続部牛養。陸奥国人外大初位下安倍信夫臣東麻呂等献軍糧。並授外従五位下。
・・・甲午。陸奥国頃年兵乱。奥郡百姓並未来集。勅給復三年。
・・・壬寅。陸奥国言。
祈祷鹿嶋神。討撥凶賊。神験非虚。望賽位封。
勅奉授勲五等封二戸。
六月・・・春宮大夫従三位大伴宿禰家持為兼陸奥按察使鎮守将軍。外従五位下入間宿禰広成為介。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄為権副将軍。  
■延暦2年(783)  
4月15日
天皇は勅を下しました。「聞くところでは、近頃、坂東八箇国は籾(もみ)米を陸奥の鎮所へと運んでいるが、現地の将や役人らは稲をもって籾米と交換してしまい、その籾米を軽い物(絹布等)と交換して京へ送っているという。このような利益を得て恥じることがないとは、なんたることであろう。また鎮兵をみだりに使役して、多くの私田を経営しているという。このようなことだから鎮兵は疲れ切ってしまい、賊を討伐することもできない状態である。このような行為は法に照らせば深刻な罪罰となる。だが、これまでは恩赦にもあずかり寛大に許されてもいた。今後はこのような私腹を肥やす行為は一切止めるべきである。違反者があれば捕らえて軍法によって裁き、二度と悪事を働けないようにせよ」
4月19日
天皇は坂東諸国に勅を下しました。「蛮夷(ばんい)が侵入して世を乱すことは、古(いにしえ)よりよくあることだ。このような賊は武力で討伐しなければ、いかなる手段によって民の害を除けるというのか。これによって、昔の(中国の)帝王が有苗(ゆうびょう・中国南方の蛮族)を征討したり、獫狁(けんいん・北方の匈奴)を討伐するなど、その用兵は故あることだと知った。近頃、蝦夷は狂ったように乱暴を働き、辺境の守りを失ったのである。事止むを得ず頻繁に軍を動かし征討に向かわせ、遂には坂東の諸国を兵の動員と物資の調達で疲弊させ、人民を久しく武器・軍糧の輸送などで疲労困憊にしてしまった。朕はこのような事態となってしまったことを哀れに思う。今、使者を派遣して慰問し、倉庫を開けて民の労に報いたい。民に喜びを与えて使う、というがこれは優れた王が民を愛するからであろう。およそ東国全土に朕の意を遍く知らしめよ」
6月1日
出羽国が言上します 「宝亀十一年(780)に雄勝・平鹿二郡の人民は賊に侵略され各自の本業を失ってしまい、疲れきっています。そこで郡役所を建て各所へ散ってしまった人民を再び招集して口分田を支給していますが、作業に追われいまだ休むことができません。そのため、調と庸を進上することが困難な状態です。このような人民の租税を免除し、疲弊しきった民に休息を与えて頂けるよう要望いたします」
天皇は勅を下し3年間、租税を免除しました。
■6月6日
天皇は勅を下しました。「蝦夷の乱は止むことがなく、王命にも従わない。彼らを追えば鳥のように散り散りとなり、放置すれば蟻のように群がってくる。我が軍は兵士の訓練、教育に励み、賊の侵略に備えなければならない。今聞くところでは坂東諸国では事が起きた時に軍役を課せられても、多くの者が身体が弱く、戦に堪えられないという。雑色や浮浪人の類には弓術や乗馬にたけ、戦闘に堪える者がいるのに、徴発のある度に今まで使われることがなかったという。同じ皇民であるのに、どうしてこのようなことになったのだろうか。これよりは坂東八箇国に命じて、各国の散位の子、郡司の子弟及び浮浪人の類で身体が軍士として堪えられそうな者を選抜して、その国の大小によって1000以下、500以上の者に兵士としての教育を施し、装備を整えさせよ。役人となる者には便宜をはかり、当国にて勤務評定を行い無位の公民には徭(よう)を免除するように。この件については、職務に精通した国司一人を専任として処理させよ。非常時には軍士らを率いて現地に急行し、状況を報告させるように」
11月12日
天皇は常陸介で従五位上の大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)に征東副将軍を兼任させました。  
「続日本紀」巻第三十七・延暦2年(783) 桓武天皇
夏四月・・・辛酉。勅曰。
如聞。比年坂東八国。運穀鎮所。而将吏等。以稲相換。其穀代者。軽物送京。苟得無恥。又濫役鎮兵。多営私田。因茲。鎮兵疲弊。不任干戈。稽之憲典。深合罪罰。而会恩蕩。且従寛宥。自今以後。不得更然。如有違犯。以軍法罪之。宜加捉搦。勿令侵漁之徒肆濁濫。
・・・乙丑。勅坂東諸国曰。
蛮夷猾夏。自古有之。非資干戈。何除民害。是知。加徂征於有苗。奮薄伐於獫狁。前王用兵。良有以也。自頃年夷俘猖狂。辺垂失守。事不獲已。頻動軍旅。遂使坂東之境恒疲調発。播殖之輩久倦転輸。念茲労弊。朕甚愍之。今遣使存慰。開倉優給。悦而使之者。寔惟哲王之愛民乎。凡厥東土。悉知朕意焉。
六月丙午朔。出羽国言。宝亀十一年雄勝平鹿二郡百姓。為賊所略。各失本業。彫弊殊甚。更建郡府。招集散民。雖給口田。未得休息。因茲不堪備進調庸。望請。蒙給優復。将息弊民。
勅給復三年。
辛亥。勅曰。
夷虜乱常。為梗未已。追則鳥散。捨則蟻結。事須練兵教。卒備其寇掠。今聞。坂東諸国。属有軍役毎。多尫弱全不堪戦。即有雑色之輩。浮宕之類。或便弓馬。或堪戦陣。毎有徴発。未嘗差点。同曰皇民。豈合如此。宜仰坂東八国。簡取所有散位子。郡司子弟。及浮宕等類。身堪軍士者随国大小。一千已下。五百已上。専習用兵之道。並備身装。即入色之人。便考当国白丁。免徭。仍勒堪事国司一人。専知勾当。如有非常。便即押領奔赴。可告事機。
十一月・・・常陸介従五位上大伴宿禰弟麻呂為兼征東副将軍。  
■延暦3年(784)  
11月11日
天皇は平城宮から長岡宮に移りました。  
「続日本紀」巻第三十八・延暦3年(784) 桓武天皇
十一月・・・戊申。天皇移幸長岡宮。  
■延暦4年(785)  
2月7日
蝦夷征討に参加した功により、天皇は陸奥国小田郡の大領で正六位上の丸子部勝麻呂に(わにこべのかつまろ)に外従五位下を授けました。
2月12日
天皇は従五位上の多治比真人宇美(たじひのまひとうみ)を陸奥按察使に任じ鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国守はそのままとしました。
3月9日
天皇は授陸奥按察で従五位上の多治比真人宇美に正五位下を授け、彩色した絹十疋(ひき)・絁(あしぎぬ)十疋・綿二百屯を与えました。
4月7日
中納言・従三位で春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍の大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)らが言上します。「名取(なとり)以南の14郡は山地や海沿いという僻地であり、多賀城から遠く離れています。そこから兵を徴発しても危急の事態には間に合いません。そこで多賀・階上(しなかみ)の2郡を設置して人民を募集し、人や兵士を国府に集め、東西の防御を固めたところです。これはまことに不慮の事態に備えたもので、官軍の鋒先を万里の先まで及ぼすものになります。しかしながら、名目上は開設したといっても、郡の統領はいまだ任命されておりません。民が周囲を見回しても心のよりどころはないのが現状です。郡を正式につくっていただき、官員を配置してくださるよう申請いたします。しかれば、民は朝廷が全てを統率していることを知り、賊は官軍の隙を窺う望みが断たれることになるでしょう」
天皇はこれを許しました。
※14郡
宮城県・亘理(わたり)、伊具、刈田(かつた)、柴田
福島県・宇多、行方(なめかた)、標葉(しめは)、磐城(いわき)、菊多、信夫(しのぶ)、安積(あさか)、磐瀬、白河、会津
5月20日
天皇は従五位下の百済王英孫(くだらのこにきしえいそん)を陸奥鎮守権副将軍に任じました。
6月2日
出羽国と丹波国の穀物が不作となり人民は飢饉に苦しんだので、天皇は物を恵み与えました。
9月29日
天皇は従五位下の百済王英孫を出羽守に任じました。
11月25日
天皇は坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)に従五位下の位を授けました。  
「続日本紀」巻第三十八・延暦4年(785) 桓武天皇
二月・・・壬申。授陸奥国小田郡大領正六位上丸子部勝麻呂外従五位下。以経征戦也。
・・・丁丑。従五位上多治比真人宇美為陸奥按察使兼鎮守副将軍。国守如故。
・・・甲辰。授陸奥按察使従五位上多治比真人宇美正五位下。又賜彩帛十疋。絁十疋。綿二百屯。
夏四月・・・辛未。中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍大伴宿禰家持等言。名取以南一十四郡。僻在山海。去塞懸遠。属有徴発。不会機急。由是権置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於国府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建為真郡。備置官員。然則民知統摂之帰。賊絶窺窬之望。
許之。
五月・・・従五位下百済王英孫為陸奥鎮守権副将軍。
六月乙丑。出羽。丹波。年穀不登。百姓飢饉。並賑給之。
九月・・・従五位下百済王英孫為出羽守。
十一月・・・坂上大宿禰田村麻呂並従五位下。  
■延暦5年(786)  
正月7日
左京大夫(だいぶ)・従三位で右衛士督(うえじのかみ)・下総守の坂上大宿禰苅田麻呂(さかのうえのおおすくねかりたまろ)が59歳で死去しました。
8月8日
天皇は従五位下の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)を東海道に、従五位下の紀朝臣楫長(きのあそみかじなが)を東山道に遣わし、道ごとに判官(じよう)一人、主典(さかん)一人を任じました。また蝦夷征伐のため軍士を選んで閲兵し、武具の点検を行いました。
9月18日
出羽国が言上します。「渤海国の使節、大使・李元泰(りげんたい)以下65人が船一隻で漂着しました。その際、蝦夷に襲われ連れ去られた者が12人で、現存者は41人です」  
「続日本紀」巻第三十九・延暦5年(786) 桓武天皇
春正月・・・左京大夫従三位兼右衛士督下総守坂上大宿禰苅田麻呂薨。
八月・・・使従五位下佐伯宿禰葛城於東海道。従五位下紀朝臣楫長於東山道。道別判官一人。主典一人。
簡閲軍士。兼検戎具。為征蝦夷也。
九月甲辰。出羽国言。
渤海国使大使李元泰已下六十五人。乗船一隻漂着部下。被蝦夷略十二人。見存四十一人。  
■延暦6年(787)  

 

2月5日
天皇は従五位下の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)を陸奥介に任じ、鎮守副将軍を兼任させました。
2月25日
天皇は従五位下の藤原朝臣葛野麻呂(ふじわらのあそみかどのまろ)を陸奥介に任じ、従五位下の池田朝臣真枚(いけだのあそみまひら)を鎮守副将軍に任じました。
閏5月5日
陸奥鎮守将軍で正五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)が「ある事件」に連座して日向権介(ひむかのごんのすけ)に左遷されました。
12月1日
陸奥国に軍糧を進上した功により、天皇は外正七位下の朝倉公家長(あさくらのきみいえなが)に外従五位下の位を授けました。  
「続日本紀」巻第三十九・延暦6年(787) 桓武天皇
二月・・・従五位下佐伯宿禰葛城為陸奥介。・・・陸奥介従五位下佐伯宿禰葛城為兼鎮守副将軍。
・・・従五位下藤原朝臣葛野麻呂為陸奥介。・・・従五位下池田朝臣真枚為鎮守副将軍。
閏五月丁巳。陸奥鎮守将軍正五位上百済王俊哲坐事左降日向権介。
十二月庚辰朔。授外正七位下朝倉公家長外従五位下。以進軍糧於陸奥国也。  
■延暦7年(788)  
2月28日
天皇は陸奥按察使・陸奥守・正五位下の多治比真人宇美(たじひのまひとうみ)に鎮守将軍を兼任させ、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)を鎮守副将軍に任じました。
3月2日
来年の蝦夷征討のため、天皇は陸奥国に命じて軍糧35000余石を多賀城に運び収めさせました。また糒(ほしいい)23000余石と塩について、東海道、東山道、北陸道などの諸国に命じ、7月を期限として陸奥国に運ばせました。
3月3日
天皇は勅を下しました。「東海道、東山道、坂東の諸国の歩兵と騎兵52800余人を徴発して、来年3月を期限として陸奥国の多賀城に集めよ。兵士を選び出すにおいては、戦闘経験がある者、叙勲された者や常陸国の神賤(しんせん)を徴発し、その後に弓、乗馬に堪能な者を選ぶべきである」
天皇は更に勅を下します。「近年、国司らは公務を行うに心なく、怠け、手を抜くのが常となっている。しかも蝦夷征討の計画に誤りもあった。いやしくも官人の仕事がこのようなものでよいのであろうか。若し、このようなことを繰り返すならば、『軍興乏しきは斬』の条文により必ずや処罰する」
3月21日
天皇は従五位上の多治比真人浜成(たじひのまひとはまなり)、従五位下の紀朝臣真人(きのあそみまひと)、佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)、外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)をそれぞれ征東副使に任じました。
12月7日
征夷大将軍の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)が天皇に別れの挨拶をします。天皇は詔して、古佐美を殿上に昇らせ召し、節刀を授けます。続いて古佐美は勅書を賜りました。「日を選び将軍を任命するのは詔によるものである。将軍として任命し征討をなすからには、一切は将軍に任せられている。聞くところでは、副将軍らは軍令を守ることなく滞留することがこれまで相当あったという。その理由を聞けば法を軽減してきたことによるものだった。以後は副将軍らに死罪に相当する罪があれば、身柄を拘束して朕に奏上するように。軍監以下の者が法を守らなかったならば斬るべきである。坂東の安危はこの一戦にある。将軍らは宜しく勉め励むように」 続いて、天皇は夜具2領、彩色した絹30疋、綿300屯を与えました。  
「続日本紀」巻第三十九・延暦7年(788) 桓武天皇
二月・・・陸奥按察使守正五位下多治比真人宇美為兼鎮守将軍。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄為副将軍。
三月庚戌。軍糧三万五千余斛仰下陸奥国。運収多賀城。又糒二万三千余斛并塩。仰東海。東山。北陸等国。限七月以前。転運陸奥国。並為来年征蝦夷也。
辛亥。下勅。
調発東海。東山。坂東諸国歩騎五万二千八百余人。限来年三月。会於陸奥国多賀城。其点兵者。先尽前般入軍経戦叙勲者。及常陸国神賤。然後簡点余人堪弓馬者。
仍勅。
比年国司等無心奉公。毎事闕怠。屡沮成謀。苟曰司存。豈応如此。若有更然。必以乏軍興従事矣。
・・・従五位上多治比真人浜成。従五位下紀朝臣真人。佐伯宿禰葛城。外従五位下入間宿禰広成並為征東副使。
十二月庚辰。征東大将軍紀朝臣古佐美辞見。詔召昇殿上賜節刀。因賜勅書曰。夫択日拝将。良由綸言。推轂分閫専任将軍。如聞。承前別将等。不慎軍令。逗闕猶多。尋其所由。方在軽法。宜副将軍有犯死罪。禁身奏上。軍監以下依法斬決。坂東安危在此一挙。将軍宜勉之。因賜御被二領。采帛卅疋。綿三百屯。  
■延暦8年(789)  
3月9日
諸国から徴発された兵士が陸奥の多賀城に集結し、軍勢は分散して賊地へ攻め入りました。
3月10日
蝦夷征討を告げるため、天皇は使者を伊勢神宮に遣わして幣帛(へいはく、みてぐら)を奉納しました。
5月12日
天皇は征東将軍に勅を発しました。「最近の奏状によれば、官軍は前進することなく衣川に停滞している。去る4月6の奏状では『3月28日、官軍は渡河して三か所に軍営を設置しました。その態勢は鼎の足の如くです』と報告している。しかるに、その時から30余日も経過しているのに未だ進軍しないとはどういうことなのか。朕にはその理由を見つけることはできない。用兵は拙速が大事であるのに、巧遅でよしとするのは聞いたことがない。これからくる6、7月は極めて暑くなる。今、賊地に攻め込まなければ恐らくは時機を失してしまうことになるであろう。その時を逸してしまったならば、悔やんでも何も及ぶところがない。将軍らは機に応じてある時は進み、ある時は退き、間断なく作戦を続けるべきである。現状は一か所に留まって、いたずらに日を重ね兵糧を費やしているが、朕は訝しく思う。官軍が停滞している理由と賊軍の実態を詳しく書き、駅使に託して奏上せよ」
5月26日
征討の途上、征東副将軍・民部少輔・下野守で従五位下・勲八等の佐伯宿禰葛城(さえきのすくねかずらぎ)が死去し、天皇は正五位下を贈りました。
6月3日
征東将軍の紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)が奏上します。「副将軍で外従五位下の入間宿禰広成(いるまのすくねひろなり)と左中軍別将で従五位下の池田朝臣真枚(いけだのあそみまひら)は前軍別将で外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄(あべのさしまのおみすみただ)らと作戦会議を行い、三軍(前・中・後)が同じ戦術で力を発揮して渡河の後、賊を討伐することとし、期日を約しました。中軍と後軍からそれぞれ2000人を選び出し共同で渡河を決行。賊の総帥である阿弖流為(あてるい)の居所に至った時、賊徒300人ばかりがおり交戦しましたが、官軍の勢いが強く賊徒は逃げ散りました。
官軍(中軍・後軍)は戦いを進め、村を焼き払いながら巣伏村(すぶせむら)に至り前軍と合流しようとしましたが、前軍は賊徒の攻撃にあい渡河も前進もできません。ここに賊徒800人ばかりが来て官軍に攻撃をしかけてきました。賊徒は強力で、官軍がやや後退すると直ちに追撃してきます。さらに賊徒が400人ばかり東の山から現れ、官軍の背後を断ち切ってしまいました。官軍は前後に敵を迎え撃つことになってしまい、賊徒は勇み立って攻撃してきました。結局、官軍は排撃されて別将の丈部善理(はせつかべのぜんり)、進士の高田道成、会津壮麻呂(あいづのおとこまろ)、安宿戸吉足(あすかべのよしたり)、大伴五百継(おおとものいおつぐ)らが戦死しました。焼き滅ぼした賊の村は14。家屋は800戸ばかり。武器類、雑物については別の報告の通りです。官軍の戦死者は25人。矢に当たった者は245人。河に飛び込んで溺死した者は1036人。裸身で泳ぎ着いた者は1257人でした。別将の出雲諸上(いずものもろかみ)、道嶋御楯(みちしまのみたて)らは生き残った兵と還ってきました」
ここにおいて天皇は征東将軍に勅を発します。「最近の奏状では、『胆沢の賊は河の東に集結しています。まずこの地を征して後に賊地に深く攻め込もうと作戦を練っています』としている。ならば軍監以上の者が兵士を率いて攻撃態勢を取り威容を厳として、前軍と後軍が相続いて賊徒を討伐すべきである。しかるに軍士は少なく将の身分は卑しいもので、攻撃するも敗北という結果となってしまった。これ即ち、その分野の副将らの作戦が失敗したものである。丈部善理ら戦死者と軍士の多数の溺死者にいたっては、その心情を思うに胸が痛むものがある」
6月9日
征東将軍の紀朝臣古佐美が奏上します。「胆沢の地は賊徒の中心地です。今、官の大軍が征討し、敵の村々を潰滅させましたが、生き残った賊が鼠のように潜伏しており、現れては人を殺し略奪をしています。また子波(しわ=志波・盛岡市西南部)、和我(わが・岩手県和賀郡)のような僻地は遠く奥深い所にあります。我が官軍が遠征して討伐しようとしても、食糧の運搬は難しいものがあります。玉造塞(たまつくりのとりで)から衣川の軍営に至るまで四日、食糧・軍用品の受け渡しで二日、往復で十日もかかることになります。衣川から子波の地に至る行程を仮に六日とすれば、食糧・軍用品の受け渡しを含めて往復で十四日を要します。総計すると玉造塞から子波の地に至るまで、往復二十四日程の日数を要します。道中、賊に遭遇して戦闘となったり、雨により前進できない日はこの行程には入っていません。河と陸の両道から食糧・軍用品を運ぶ者は12440人で、一度に運ぶ糒(ほしいい)は6215石です。我が征討軍は27470人、一日に食べる量は549石。これをもとに計算すると、一度に運べる食糧・軍用品で支えられるのはわずか11日間です。
臣らの考えでは、現状のまま子波に進軍すれば補給に事欠くことになります。そこで征討の兵士を割いて補給部隊とすれば、今度は戦う兵士が不足して賊の征討ができません。加えて賊地に進軍して以来、春から夏となって兵士や運搬用員は皆疲れ切っているのが実状です。こんな状態で進軍するのは危険ですし、持久戦に持ち込んでもこちらに利はありません。長期間賊地に駐屯し、食糧・軍用品を百里以上も運ぶのは良策とはいえません。虫のうごめくような小さな賊が天誅から逃れても、水田陸田は耕し種をまくことはできず農耕の時機は既に失しており、滅びるのを待つだけになってしまいます。臣らは合議して、今回の征討軍を解散し、非常用の食料を残しておくことにしました。また兵士の一日の食事量は2000石となります。若し、今回のことを上奏して裁定を待つことになると、更に多くの消費、出費となる恐れがあります。故に今月10日以前に、征討軍を解散して賊地より出るようにとの通牒を諸軍に送り知らせます。臣らの討議を上奏し、かつ征討軍解散を進めようと思います」
天皇は勅を発して返答します。「今、先の奏状と後の奏状を見ると『賊は河の東に集結し、官軍に抵抗して進軍を阻んでいます。まずこの地をおさえてから、後に賊地に深く入ろうと考えています』とあるのに、今度は『深入りすれば戦いが不利になるので、征討軍を解散すべき』と言っている。今回のことは詳細をまとめて奏上すべきことで、しかる後に解散して賊地を出ても遅くはないであろう。ところが、賊地に進軍することなく解散して兵を帰したい、という将軍らの策に道理というものがあるのだろうか。将軍らは凶悪な賊をはばかり恐れて、滞留していた、ということを朕は知った。将軍らは巧みに上辺だけの言葉で言い繕い、罪や過失から逃れようとしているのである。不忠なること、これ以上甚だしいものはない。
入間広成と安倍猿嶋墨縄は長く賊地にあって戦場経験も豊富なので、副将の任を委ね、その力を戦場で発揮してくれると期待した。ところが、彼らは軍営内で静かにして勝敗の成り行きを見守るだけで、戦地には部下を向かわせた挙句、大敗という結果となってしまった。君主に使える道がかくの如き有り様でよいのだろうか。そもそも戦場に出て功をあげられないのは、良将の恥とするところである。今、征討軍に損害を出し兵糧を費やし、国家に多大なる損失を与えてしまった。征討軍の将軍がこのようなことでよいのであろうか」
7月17日
天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに勅を発しました。
「今月10日の奏状で将軍らはいう。
『蝦夷の生活圏である胆沢というところは、水流豊かで原野は広大です。官軍が一挙に大兵で進攻しますと、たちまちのうちに大地は荒廃、集落は廃墟と化しました。たとえ生き残りが息を潜めていても、朝露のようにもろいものです。しかも軍船は互いの艫(とも)と舳(へさき)が触れ合うほどの多さで、これが百里に亘って連なりそこに天子の兵が加わっているのですから、官軍の先に強敵など存在しません。賊地の海辺の浦にある、窟(いわや)の住まいに再び煙が昇ることはなく、山谷の賊の巣穴もただ鬼火が見えるだけです。まことに喜ばしいことで、駅使を急がせて上奏いたします』
今、先の奏状と後の奏状を確認すると、賊の斬首は89級で官軍の死亡者は1000人余り、負傷した者は2000人に達する。そもそも賊の斬首は100級未満なのに対し、官軍の損亡は3000人に及んでいる。このような事態なのに、何を以て喜べというのだろうか。また大軍が賊地を出る際に、凶悪なる賊に追撃されたことは一度だけのことではない。なのに『官軍が一挙に大兵で進攻しますと、たちまちのうちに大地は荒廃しました』といっている。これまでの経緯からして、このような報告は虚飾というべきであろう。また池田真枚と安倍猿嶋墨縄らは部下の将を河の東に遣わしたが、官軍は敗北を喫して逃げ帰り、溺死した軍士は1000余人もいる。ところが奏状には『一時に渡河して戦闘を繰り返しては村々を焼き払い、賊の巣穴を一掃し、官軍の本営を維持しました』と言っている。ここには溺死した軍士のことが書かれていない。また多治比浜成らが賊を掃討し彼の地を攻略したことは、僅かとはいえ他の戦果よりは勝っているといえる。但し、『天子の兵が加わっているのですから、官軍の先に強敵など存在しません。山谷の賊の巣穴もただ鬼火が見えるだけです』とは、このような浮かれた言葉は現実離れした戯言というべきものである。およそ戦勝報告する者は、賊を平定し功を立てて然る後に奏上すべきだ。今、賊の奥地まで進軍することもなく、集落を攻め落としたといい、喜ばしいとして駅使を急ぎ遣わしている。恥ずかしいこと、この上もない」
8月30日
陸奥国の民で蝦夷と戦った者らの今年の田租を皆免除し、兼ねて二年間、租税の負担を免除する。牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、賀美、黒川などの11郡については、賊の近接地であって陸奥国と同等にはできない。故に11郡は特に租税負担免除の年限を延ばすものである。
9月8日
持節征東大将軍の紀朝臣古佐美は陸奥国より到着、天皇に節刀を進上しました。
9月19日
天皇は勅を発し、大納言で従二位の藤原朝臣継縄(ふじわらのあそみつぐただ)と中納言で正三位の藤原朝臣小黒麻呂(ふじわらのあそみおぐろまろ)、更に従三位の紀朝臣船守(きのあそみふなもり)と左兵衛佐(さひょうえのすけ)で従五位上の津連真道(つのむらじまみち)、大外記(だいげき)で外従五位下の秋篠宿禰安人(あきしののすくねやすひと)らを太政官庁に遣わして、征東将軍らが滞留して蝦夷に敗れた状況を聞き取り、調査しました。大将軍・正四位下の紀朝臣古佐美、副将軍・外従五位下の入間宿禰広成、鎮守副将軍・従五位下の池田朝臣真枚、外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄らはそれぞれの理由を申し述べて、皆が敗戦の責任を承服しました。
ここに天皇は詔を発します。「陸奥国の荒々しい蝦夷を討伐すべく任命された大将軍・正四位下の紀古佐美朝臣らは、任を受け賜わった時の作戦を遂行せず、攻め入るべき奥地にも達しないで征討は失敗し、軍勢を消耗し兵糧を費やすばかりで還るにいたった。今回の事態は法に照らして罪を問い糺すべきことであるが、久しく仕えていることを鑑みてその罪を問わずに許すこととする。また鎮守副将軍・従五位下の池田朝臣真枚と外従五位下の安倍猿嶋臣墨縄らの戦いぶりは、愚かで頑ななものであり、賊を恐れて拙劣、進軍するのにも判断を違え、戦いの時機を逸してしまった。今、これを法に照らせば墨縄は斬刑、真枚は官職を解任、位階の剥奪にあたる。しかし、墨縄は長く辺境の守りに着き奉仕してきたので、その点を考慮すると、斬刑ではなく官職と位階を取り上げることにする。真枚は日上の港で溺れていた兵士を助けた功労があるので、位階は剥奪せず、官職を取り上げることにする。また大小に関わらず功労のある者は、その軽重により取り計らい、小罪人でも罪を免れることにする」
この天皇の勅については、「天皇の仰せを皆の者はしかと承るように」と徹底されました。
10月23日
天皇は従五位下の巨勢朝臣野足(こせのあそみのたり)を陸奥鎮守副将軍に任じました。  
「続日本紀」巻第四十・延暦8年(789) 桓武天皇
三月・・・辛亥。諸国之軍会於陸奥多賀城。分道入賊地。
壬子。遣使奉幣帛於伊勢神宮。告征蝦夷之由也。
五月癸丑。勅征東将軍曰。
省比来奏状。知官軍不進。猶滞衣川。以去四月六日奏称。三月廿八日。官軍渡河置営三処。其勢如鼎足者。自爾以還。経卅余日。未審。縁何事故致此留連。居而不進。未見其理。夫兵貴拙速。未聞巧遅。又六七月者計応極熱。如今不入。恐失其時。已失其時。悔何所及。将軍等応機進退。更無間然。但久留一処。積日費糧。朕之所怪。唯在此耳。宜具滞由及賊軍消息。附駅奏来。
・・・丁卯。詔贈征東副将軍民部少輔兼下野守従五位下勲八等佐伯宿禰葛城正五位下。葛城率軍入征。中途而卒。故有此贈也。
六月甲戌。征東将軍奏。
副将軍外従五位下入間宿禰広成。左中軍別将従五位下池田朝臣真枚。与前軍別将外従五位下安倍猿嶋臣墨縄等議。三軍同謀并力。渡河討賊。約期已畢。由是抽出中後軍各二千人。同共凌渡。比至賊帥夷阿弖流為之居。有賊徒三百許人。迎逢相戦。官軍勢強。賊衆引遁。官軍且戦且焼至巣伏村。将与前軍合勢。而前軍為賊被拒不得進渡。於是。賊衆八百許人。更来拒戦。其力太強。官軍稍退。賊徒直衝。更有賊四百許人。出自東山絶官軍後。前後受敵。賊衆奮撃。官軍被排。別将丈部善理。進士高田道成。会津壮麻呂。安宿戸吉足。大伴五百継等並戦死。惣焼亡賊居。十四村。宅八百許煙。器械雑物如別。官軍戦死廿五人。中矢二百四十五人。投河溺死一千卅六人。裸身游来一千二百五十七人。別将出雲諸上。道嶋御楯等。引余衆還来。
於是勅征東将軍曰。
省比来奏云。胆沢之賊惣集河東。先征此地後謀深入者。然則軍監已上率兵。張其形勢。厳其威容。前後相続。可以薄伐。而軍少将卑。還致敗績。是則其道嶋副将等計策之所失也。至於善理等戦亡及士衆溺死者。惻怛之情。有切于懐。
庚辰。征東将軍奏称。
胆沢之地。賊奴奥区。方今大軍征討。剪除村邑。余党伏竄。殺略人物。又子波。和我。僻在深奥。臣等遠欲薄伐。糧運有艱。其従玉造塞。至衣川営四日。輜重受納二箇日。然則往還十日。従衣川至子波地。行程仮令六日。輜重往還十四日。惣従玉造塞至子波地。往還廿四日程廃。途中逢賊相戦。及妨雨不進之日不入程内。河陸両道輜重一万二千四百四十人。一度所運糒六千二百十五斛。征軍二万七千四百七十人。一日所食五百四十九斛。以此支度。一度所運。僅支十一日。臣等商量。指子波地。支度交闕。割征兵加輜重。則征軍数少不足征討。加以。軍入以来。経渉春夏。征軍輜重。並是疲弊。進之有危。持之則無利。久屯賊地。運糧百里之外。非良策也。雖蠢爾小冦。且逋天誅。而水陸之田。不得耕種。既失農時。不滅何待。臣等所議。莫若解軍遺糧。支擬非常。軍士所食。日二千斛。若上奏聴裁。恐更多糜費。故今月十日以前解出之状。牒知諸軍。臣等愚議。且奏且行。
勅報曰。
今省先後奏状曰。賊集河東。抗拒官軍。先征此地。後謀深入者。然則不利深入。応以解軍者。具状奏上。然後解出。未之晩也。而曾不進入。一旦罷兵。将軍等策。其理安在。的知。将軍等畏憚兇賊。逗留所為也。巧飾浮詞。規避罪過。不忠之甚。莫先於斯。又広成。墨縄。久在賊地。兼経戦場。故委以副将之任。佇其力戦之効。而静処営中。坐見成敗。差入裨将。還致敗績。事君之道。何其如此。夫師出無功。良将所恥。今損軍費糧。為国家大害。・外之寄。豈其然乎。」甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓為田井。古爾等為玉井。鞠部等為大井。解礼等為中井。並以其情願也。
秋七月・・・丁巳。勅持節征東大将軍紀朝臣古佐美等曰。
得今月十日奏状称。所謂胆沢者。水陸万頃。蝦虜存生。大兵一挙。忽為荒墟。余燼縦息。危若朝露。至如軍船解纜。舳艫百里。天兵所加。前無強敵。海浦窟宅。非復人煙。山谷巣穴。唯見鬼火。不勝慶快。飛駅上奏者。今兼先後奏状。斬獲賊首八十九級。官軍死亡千有余人。其被傷害者。殆将二千。夫斬賊之首未満百級。官軍之損亡及三千。以此言之。何足慶快。又大軍還出之日。兇賊追侵。非唯一度。而云大兵一挙。忽為荒墟。准量事勢。欲似虚飾。又真枚墨縄等遣裨将於河東。則敗軍而逃還。溺死之軍一千余人。而云一時凌渡。且戦且焚。攫賊巣穴。還持本営。是溺死之軍棄而不論。又浜成等掃賊略地。差勝他道。但至於天兵所加前無強敵。山谷巣穴唯見鬼火。此之浮詞。良為過実。凡献凱表者。平賊立功。然後可奏。今不究其奥地。称其種落。馳駅称慶。不亦愧乎。
八月・・・己亥。
勅。陸奥国入軍人等。今年田租。宜皆免之。兼給復二年。其牡鹿。小田。新田。長岡。志太。玉造。富田。色麻。賀美。黒川等一十箇郡。与賊接居。不可同等。故特延復年。
九月丁未。持節征東大将軍紀朝臣古佐美。至自陸奥。進節刀。
・・・戊午。勅遣大納言従二位藤原朝臣継縄。中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂。従三位紀朝臣船守。左兵衛佐従五位上津連真道。大外記外従五位下秋篠宿禰安人等於太政官曹司。勘問征東将軍等逗留敗軍之状。大将軍正四位下紀朝臣古佐美。副将軍外従五位下入間宿禰広成。鎮守副将軍従五位下池田朝臣真枚。外従五位下安倍猿嶋臣墨縄等。各申其由。並皆承伏。
於是。詔曰。
陸奧國荒備流蝦夷等乎討治尓任賜志大將軍正四位下紀古佐美朝臣等伊。任賜之元謀尓波不合順進入倍支奧地毛不究盡之弖敗軍費粮弖還參來。是乎任法尓問賜比支多米賜倍久在止母承前尓仕奉祁留事乎所念行弖奈母不勘賜免賜布。又鎭守副將軍從五位下池田朝臣眞枚。外從五位下安倍猿嶋臣墨繩等。愚頑畏拙之弖進退失度軍期乎毛闕怠利。今法乎兼尓墨繩者斬刑尓當里。眞枚者解官取冠倍久在。然墨繩者久歴邊戍弖仕奉留勞在尓縁弖奈母斬刑乎波免賜弖官冠乎乃未取賜比。眞枚者日上乃湊之弖溺軍乎扶拯閇留勞尓縁弖奈母取冠罪波免賜弖官乎乃未解賜比。又有小功人乎波隨其重輕弖治賜比。有小罪人乎波不勘賜免賜久止宣御命乎衆聞食止宣。
冬十月・・・辛卯。以従五位下巨勢朝臣野足為陸奥鎮守副将軍。  
■延暦9年(790)  
3月4日
天皇は日向権介・正五位上・勲四等の百済王俊哲の罪を許して入京させました。
3月10日
天皇は従五位上の多治比真人浜成を陸奥按察に任じ、陸奥守も兼任させました。
閏3月4日
天皇は勅を発し蝦夷征討の為、諸国に命じて革の甲2000領を作らせます。東海道では駿河国より東、東山道では信濃国より東の国々に数を割り当てて、3年以内に作らせることにしました。
閏3月29日
天皇は勅を発し蝦夷征討の為、東海道は相模国以東の諸国に、東山道は上野国以東の諸国に、兵糧の糒(ほしいい)14万石を乾かして準備させました。
5月5日
陸奥国が言上します。「遠田郡の郡領で外正八位上・勲八等の遠田公押人(とおだのきみおしひと)がいうには『蝦夷の濁った風習については、私は既に洗い落としています。更に天皇の清浄なる化導を敬っております。志は内地の民とかわらず、習わしは天皇の国を仰ぎ学んでいます。ところが未だに田夷(にぎえみし)の姓は免除されず、これでは永く子孫の恥となることでしょう。他の民と同じように、夷の姓を改めて頂きますよう伏してお願いいたします』といっています」
天皇は「遠田臣」(とおだのおみ)の氏姓を授けました。
10月19日
天皇は蝦夷征討に功績のあった者4840余人に功の軽重にしたがい、勲位を授け位階を進めました。これらは天応元年の例に基づいて行われました。
10月21日
太政官が奏上します。「蝦夷は国家の規律に違反し、長い間天皇の誅罰が下されておりません。官の大軍が勇猛果敢に攻撃しましたが、未だに賊の根絶ができない状態です。対して今の坂東諸国は長戦に疲れ切っています。強壮なる者はその筋力を軍に捧げ、貧弱であってもそれらの者は食糧・軍用品の運搬で働いていました。ところが、富裕なる者はこのような苦労を免れて、前(宝亀)後(延暦)の戦いでも苦労することはありませんでした。また坂東以外の諸国の民は、もともと軍役に着くことすらなく、兵士の挑発にあたっても地域が対象外ということもあり無関係な顔をしていました。坂東諸国の苦労と他の国々の安逸を比べても、とても同日に論じることはできません。天子の徳があまねく行きわたる下、同じ皇民であるからには国家が総力を挙げる時に共に苦労せずして、それでいいことがあるのでしょうか。
そこで左右京、畿内5箇国、七道の諸国の国司らに命じて、土着の民、浮浪の民、王臣家の佃使(たつかい)も分け隔てなく、甲(よろい)を作れるほどの財力のある者を調べ記録し、各自が蓄えている物の種類、数量、郷里の姓名を添えて、本年中に報告させます。また甲の製造量については、各自の申告によるものとします。私達は天皇のもと政治の要に連なる者として、征討に関して各国に生じる不公平を黙って見過ごすことはできず、敢えて愚見を申し述べて天皇の耳を煩わせます」
天皇は太政官の奏上を許可しました。
11月25日
陸奥国黒川郡の石神山精社(いわかみのすだま)が官社(神祇官の幣帛を受ける)になりました。
11月27日
坂東諸国は頻繁に軍役が課せられているところに疫病と旱魃が起きたため、天皇は詔を発して今年の田租を免除することにしました。  
「続日本紀」巻第四十・延暦9年(790) 桓武天皇
三月・・・日向権介正五位上勲四等百済王俊哲免其罪令入京。
・・・従五位上多治比真人浜成為陸奥按察使兼守。
閏三月・・・庚午。勅為征蝦夷。仰下諸国令造革甲二千領。東海道駿河以東。東山道信濃以東。国別有数。限三箇年並令造訖。
・・・乙未。勅東海相摸以東。東山上野以東諸国。乾備軍糧糒十四万斛。為征蝦夷也。
五月・・・庚午。陸奥国言。
遠田郡領外正八位上勲八等遠田公押人款云。己既洗濁俗。更欽清化。志同内民。風仰華土。然猶未免田夷之姓。永貽子孫之恥。伏望。一同民例。欲改夷姓。
於是賜姓遠田臣。
冬十月・・・辛亥。征蝦夷有功者四千八百四十余人。随労軽重。授勲進階。並依天応元年例行之。
癸丑。太政官奏言。
蝦夷干紀久逋王誅。大軍奮撃。余孽未絶。当今坂東之国。久疲戎場。強壮者以筋力供軍。貧弱者以転餉赴役。而富饒之輩。頗免此苦。前後之戦。未見其労。又諸国百姓。元離軍役。徴発之時。一無所預。計其労逸。不可同日。普天之下。同曰皇民。至於挙事。何無倶労。請仰左右京。五畿内。七道諸国司等。不論土人浪人及王臣佃使。検録財堪造甲者。副其所蓄物数及郷里姓名。限今年内。令以申訖。又応造之数。各令親申。臣等職参樞要。不能默爾。敢陳愚管。以煩天聴。
奏可之。
十一月・・・丁亥。陸奥国黒川郡石神山精社並為官社。
己丑。授無位藤原朝臣家刀自従五位下。坂東諸国。頻属軍役。因以疫旱。詔免今年田租。  
■延暦10年(791)  
正月18日
天皇は次の蝦夷征討の準備を始めます。正五位上の百済王俊哲と従五位下の坂上大宿禰田村麻呂が東海道に、従五位下の藤原朝臣真鷲(ふじわらのあそみまわし)が東山道に派遣され、軍士を選んで検閲、武具の検査を行いました。
2月5日
延暦8年の蝦夷征討で軍功がありながらも戦死した外従七位下の丈部善理(はせつかべのぜんり)に、天皇は外従五位下を贈位しました。善理は陸奥国磐城郡の人で、延暦8年に官軍に従軍して胆沢に至り、官軍が不利になった時に奮戦空しく死亡した人物です。
2月21日
天皇は陸奥介・従五位下の文室真人大原(ふんやのまひとおおはら)に鎮守副将軍を兼任させました。
3月26日
天皇は京、畿内、七道諸国の国司・郡司に命じて甲(よろい)を作らせます。それぞれの国・郡の規模に応じて数量が定められました。
6月10日
天皇は諸国に命じて、鉄製の甲3000領を新しい仕様で修理させます。国毎に数が割り当てられました。
7月13日
天皇は従四位下の大伴宿禰弟麻呂(おおとものすくねおとまろ)を征夷大使に任じ、正五位上の百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)、従五位上の多治比真人浜成(たじひのまひとはまなり)、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)、従五位下の巨勢朝臣野足(こせのあそみのたり)を征夷副使に任じました。
9月5日
軍糧を進上した功により、天皇は陸奥国安積(あさか)郡の大領・外正八位上の阿倍安積朝臣継守(あべのあさかのあそみつぐもり)に外従五位下を授けました。
9月22日
天皇は下野守で正五位上の百済王俊哲に陸奥鎮守将軍を兼任させました。
10月25日
天皇は東海道、東山道の諸国に命じて、征矢(そや)34500余具を作らせました。
11月3日
天皇は坂東諸国に命じて、軍糧の糒(ほしいい)12万余石をあらかじめ調べ準備させました。  
「続日本紀」巻第四十・延暦10年(791) 桓武天皇
春正月・・・己卯。遣正五位上百済王俊哲。従五位下坂上大宿禰田村麻呂於東海道。従五位下藤原朝臣真鷲於東山道。簡閲軍士兼検戎具。為征蝦夷也。
二月・・・外従七位下丈部善理贈外従五位下。善理陸奥国磐城郡人也。八年従官軍至胆沢。率師渡河。官軍失利。奮而戦死。故有此贈焉。
・・・辛亥。陸奥介従五位下文室真人大原為兼鎮守副将軍。
三月・・・丙戌。仰京畿七道国郡司造甲。其数各有差。
六月・・・己亥。鉄甲三千領。仰下諸国。依新様修理。国別有数。
秋七月・・・壬申。従四位下大伴宿禰弟麻呂為征夷大使。正五位上百済王俊哲。従五位上多治比真人浜成。従五位下坂上大宿禰田村麻呂。従五位下巨勢朝臣野足並為副使。
九月・・・癸亥。授陸奥国安積郡大領外正八位上阿倍安積朝臣継守外従五位下。以進軍糧也。
・・・庚辰。下野守正五位上百済王俊哲為兼陸奥鎮守将軍。
冬十月・・・壬子。仰東海。東山二道諸国。令作征箭三万四千五百余具。
十一月己未。更仰坂東諸国。弁備軍糧糒十二万余斛。  
■延暦11年(792)  

 

正月
陸奥国が言上します。「斯波(しわ)村(岩手県紫波郡)の夷(えみし)、胆沢公阿奴志己(いさわのきみあどしき)らの使者が来て言うのには『私達の、天子の徳に帰服して導きに従おうという思いは、いつの日も忘れたことはありません。しかし伊治(これはり)村の俘(ふ)が要路を遮断して自由に往来できず、朝廷方との連絡が思うようにできません。彼ら俘を征伐し通路が長く確保されることを願います』とのことでした」
これに対し、朝恩を示すため物を下賜して帰らせました。
天皇は「夷狄(いてき)は虚言を吐き、不実なのが性分。帰服すると称して、ただ己らの利を求めるのがいつものことである。今後は夷の使者が来ても、通常の賜物を下賜するように」と指示しました。
7月25日
天皇は勅を下します。「今、聞くところでは、夷(えみし)である尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)が遥か遠い地より天皇の徳化を慕い、帰服することを望んでいるという。その忠心は深く誉め称えるべきものである。彼の夷地より京までの路次となる国は、壮健なる軍士300騎を選んで国の境で京へのぼる阿破蘇を出迎え応対し、専ら威勢よきことを示すように」
10月1日
天皇は帰服してきた蝦夷を懐柔するため、陸奥国の俘囚である吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)と大伴部宿奈麻呂(おおともべのすくなまろ)を外従五位下に叙しました。
11月3日
天皇は、陸奥国の帰服した夷俘である尓散南公阿破蘇(にさなのきみあわそ)、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)、俘囚の吉弥侯部荒嶋(きみこべのあらしま)らを朝堂院で響応しました。阿波蘇と隠賀には蝦夷への爵位の第一等を授け、荒嶋には外従五位下を与えました。これらは朝廷にとっては、荒々しい者達を懐柔するために行われたものでした。
天皇は詔を発します。「天皇へ参上して仕え奉っていた蝦夷の尓散南公阿波蘇と宇漢米公隠賀、俘囚の吉弥侯部荒嶋らが『自国に戻り奉仕したい』と願い出たことを聞かれ、位を授け、天皇みずから御手をもって物を渡し賜る、と申し聞かせる。また宣せられるには、これより後も奉仕に励むならば、ますます物を賜ることになる」
11月28日
天皇は今後長く出羽国の平鹿、最上、置賜の三郡に居住する狄(てき)に対し、田租を免除することにしました。
夷(い)=東北地方太平洋側の非服属民
狄(てき)=東北地方日本海側の非服属民
閏11月28日
征東大使である大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)が天皇に暇乞いをしました。  
「日本後紀」巻第一・延暦11年(792) 桓武天皇
春正月・・・丙寅。陸奥国言。
斯波村夷胆沢公阿奴志等 遣使請曰己等思帰王化 何日忘之。而為伊治村俘等所遮 無由自達。願制彼遮闘 永開降路 即為示朝恩 賜物放還。
夷鏑之性 虚言不実 常称帰服 利是求。自今以後 有夷使者 勿加常賜。
秋七月・・・戊寅。勅。今聞。夷尓散南公阿破蘇 遠慕王化 情望入朝。言其忠款 深有可嘉。宜路次之国 撰壮健軍士三百騎 迎接国堺 専示威勢。
冬十月癸未朔。陸奥国俘囚吉弥侯部真麻呂 大伴部宿奈麻呂 叙外従五位下。懐外虜也。
十一月・・・甲寅。饗陸奥夷俘尓散南公阿波蘇 宇漢米公隠賀 俘囚吉弥侯部荒嶋等於朝堂院。阿波蘇 隠賀 並授爵第一等。荒嶋外従五位下。以懐荒也。詔曰。蝦夷尓散南公阿波蘇 宇漢米公隠賀 俘囚吉弥侯部荒嶋等 天皇朝尓参上仕奉弓 今者己国尓罷去天仕奉牟止白止聞食行弓 冠位上賜比 大御手物賜久止宣。又宣久。自今往前母伊佐乎之久仕奉波 益々須治賜物曾止宣大命乎聞食止宣。
・・・己卯。永免出羽国平鹿・最上・置賜三郡狄田租。
閏十一月・・・己酉。征東大使大伴乙麻呂辞見。  
■延暦12年(793)  
2月17日
天皇は征東使の名称を改めて征夷使としました。
2月21日
征夷副使である近衛少将の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が天皇に暇乞いをしました。  
「日本後紀」巻第二・延暦12年(793) 桓武天皇
二月・・・丙寅。改征東使 為征夷使。
・・・庚午。征夷副使近衛少将坂上田村麻呂辞見。  
■延暦13年(794)  
正月1日
征夷大将軍である大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に、天皇より節刀が下賜されました。
正月16日
天皇は五位以上の者と宴を催し、身分に応じて禄を下賜しました。続いて蝦夷征討のことを山陵(山階=天智天皇、[後]田原=光仁天皇)に報告しました。
正月17日
天皇は蝦夷征討を祈願するため、参議である大中臣諸魚(おおなかとみのもろうお)を伊勢大神宮に派遣して幣帛(へいはく)を捧げました。
5月6日
蝦夷征討に大軍を発動したことから、天皇は騎射をとりやめました。
6月13日
征夷副将軍である坂上大宿禰田村麻呂以下の者達が蝦夷を征討しました。(はたしてどのような戦いが行われたのか?結論が記録されるのみで、その実態は不明なようです。)
9月28日
天皇は新都(平安京)への遷都と蝦夷征討の成功を祈願して、諸国の名神に幣帛を捧げました。
10月22日
天皇が新京(平安京)へ遷りました。
10月28日
征夷大将軍・大伴弟麻呂が蝦夷征討の戦果について、「斬首457級、捕虜150人、馬の捕獲85疋、焼落した村75箇所」と奏上しました。  
「日本後紀」巻第二・延暦13年(794) 桓武天皇
正月乙亥朔。・・・是日。賜征夷大将軍大伴弟麻呂節刀。
・・・庚寅。宴五位以上。賜禄有差。告征夷事於山陵。山階・田原。
辛卯。遣参議大中臣諸魚 奉幣伊勢大神宮。為征蝦夷也。
五月丁丑。停馬射。以発大軍也。
六月甲寅・・・副将軍坂上大宿禰田村麻呂已下征蝦夷。
「日本後紀」巻第三・延暦13年(794) 桓武天皇
九月・・・戊戌。奉幣帛於諸国名神。以遷于新都、欲征蝦夷也。
冬十月・・・辛酉。車駕遷于新京。
丁卯。征夷将軍大伴弟麻呂奏。
斬首四百五十七級 捕虜百五十人 獲馬八十五疋 焼落七十五処。  
■延暦14年(795)  
正月29日
征夷大将軍・大伴弟麻呂が参内して天皇に拝謁。節刀を返進しました。
2月7日
天皇は詔を発し、征夷大将軍以下の者達に加階を行いました。
5月10日
俘囚である外従五位下の吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)と息子が同じ俘囚の大伴部阿弖良(おおともべのあてら)に殺害され、阿弖良と妻子ら親族66人が日向国に配流されました。
8月7日
陸奥鎮守将軍である百済王俊哲が死去しました。
11月3日
出羽国が言上します。「渤海国使の呂定琳(りょていりん)ら68人が夷地・志理波(しりは)村に漂着し、襲撃を受け数名が死亡、持参品も失ってしまいました」
天皇は勅を下し、生存者は越後国へ移し、規定により給養せよと命じました。
12月26日
蝦夷征討中に逃亡した諸国の軍士340人について、天皇は死罪を赦し陸奥国に配置して長く柵戸とすることにしました。  
「日本後紀」巻第三・延暦14年(795) 桓武天皇
春正月・・・戊戌。征夷大将軍大伴弟麻呂朝見、進節刀。
二月・・・乙巳。詔曰。云々。征夷大将軍以下加爵級。
五月・・・丙子。配俘囚大伴部阿弖良等妻子・親族六十六人於日向国。以殺俘囚外従五位下吉弥侯部真麻呂父子二人。
「日本後紀」巻第四・延暦14年(795) 桓武天皇
八月・・・辛未。陸奥鎮守将軍百済王俊哲卒。
十一月丙申。出羽国言。
渤海国使呂定琳等六十八人 漂着夷地志理波村。因被劫略 人物散亡。
勅。宜遷越後国 依例供給。
十二月・・・己丑。逃軍諸国軍士三百四十人 特宥死罪 配陸奥国 永為柵戸。  
■延暦15年(796)  
10月22日
天皇は陸奥国の博士と医師(くすし)の官位を少目(しょうさかん)なみとしました。また陸奥国の多賀神に従五位下を授けました。
10月27日
天皇は近衛少将で従四位下の坂上大宿禰田村麻呂に鎮守将軍を兼任させました。
11月2日
陸奥国の伊治(これはり)城と玉造塞(たまつくりのせき)の間は35里ほど離れているので、中間に駅家(うまや)を置き、危急の事態に備えることになりました。
11月4日
天皇は陸奥国人で従五位下の道嶋宿禰赤竜(みちしまのすくねあかたつ)を右京に貫付しました。
11月5日
天皇は、蝦夷征討で功績をあげた外正六位上の上毛野朝臣益成(かみつけぬのあそみますなり)、吉弥侯部弓取(きみこべのゆみとり)、巨勢部楯分(こせべのたてわき)、大伴部広椅(おおともべのひろはし)、尾張連大食(おわりのむらじおおはみ)らに外従五位下を授けました。
11月8日
天皇は伊勢・三河・相模・近江・丹波・但馬等、諸国の婦女各二人を陸奥国に派遣し、養蚕を2年間教習させることを命じました。
11月21日
天皇は相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の民9000人を、陸奥国の伊治城に移住させました。
12月29日
天皇は陸奥国の人で外少初位下の吉弥侯部善麻呂(きみこべのよしまろ)ら12人に、姓・上毛野陸奥公(かみつけぬのむつのきみ)を与えました。  
「日本後紀」巻第五・延暦15年(796) 桓武天皇
冬十月・・・己卯。陸奥国博士 医師官位准少目。奉授陸奧国多賀神従五位下。
・・・近衛少将従四位下坂上大宿禰田村麻呂為兼鎮守将軍。
十一月・・・陸奥国伊治城。玉造塞。相去卅五里。中間置駅。以備機急。
辛卯。陸奥国人従五位下道嶋宿禰赤竜貫于右京。
・・・外正六位上上毛野朝臣益成。吉弥侯部弓取。巨勢部楯分。大伴部広椅。尾張連大食。授外従五位下。以戦功也。
・・・遣伊勢・参河・相模・近江・丹波・但馬等国婦女各二人於陸奥国。教習養□□以二年。
・・・発相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等国民九千人。遷置陸奥国伊治城。
十二月・・・陸奥国人外少初位下吉弥侯部善麻呂等十二人。賜姓上毛野陸奥公。  
■延暦16年(797)  

 

1月13日
天皇は陸奥国白川郡の人で外□八位□の大伴部足猪(おおともべのあしい)らに、大伴白河連の姓を与えました。他にも亘理(わたり)郡の人で五百木部黒人(いおきべのくろひと)に大伴曰理連を、黒河郡の人で外少初位上の大伴部真守(おおともべのまもり)、行方(なめかた)郡の人で外少初位上の大伴部兄人(おおともべのえひと)らに大伴行方連を、安積(あさか)郡の人で外少初位上の丸子部古佐美(まるこべのこさみ)、大田部山前(おおたべのやまざき)、富田郡の人・丸子部佐美(まるこべのさみ)、小田郡の人・丸子部稻麻呂(まるこべのいなまろ)らに大伴安積連を、遠田郡の人で外大初位上の丸子部八千代に大伴山田連を、磐瀬郡の人・□に大伴宮城連の姓を与えました。
11月5日
天皇は従四位下の坂上大宿禰田村麻呂を征夷大将軍に任じ、副将軍等も置きました。  
「日本後紀」巻第五・延暦16年(797) 桓武天皇
春正月・・・庚子。陸奥国白川郡人外□八位□大伴部足猪等賜大伴白河連。曰理郡人五百木部黒人大伴曰理連。黒河郡人外少初位上大伴部真守。行方郡人外少初位上大伴部兄人等大伴行方連。安積郡人外少初位上丸子部古佐美・大田部山前・富田郡人丸子部佐美。小田郡人丸子部稻麻呂等大伴安積連。遠田郡人外大初位上丸子部八千代大伴山田連。磐瀬郡人□大伴宮城連。
十一月・・・丙戌。従四位下坂上大宿禰田村麻呂、為征夷大将軍。有副将軍等。  
■延暦17年(798)  
6月21日
天皇は勅を下します。「相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等の国に居住する帰服した夷俘は、朝廷の恩沢により生活している。彼らに望郷の念を起こさせないようにするため、絶えず慈しみを加えるべきである。帰服した夷俘には毎年、季節ごとの服、禄物を支給するようにせよ。糧食が絶えた時には、直ちに恵み与えて憂いのないようにせよ。季節の饗宴は国司に命じて行わせ、報告させよ。他の恵みについは、上申した後に行うようにせよ」  
「日本後紀」巻第七・延暦17年(798) 桓武天皇
六月・・・己亥。勅。
相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲等国 帰降夷俘 徳沢是憑。宜毎加撫恤 令無帰望。時服・禄物 毎年給之。其資粮罄絶。事須優恤。及時節饗賜等類 宜命国司 且行且申。自余所須 先申後行。  
■延暦18年(799)  
2月21日
陸奥国新田郡の百姓である弓削部虎麻呂(ゆげべのとらまろ)と妻の丈部小広刀自女(はせつかべのこひろとじめ)らは長く賊地に住み、夷の言葉を習得していましたが、しばしば不遜な言葉で夷俘を扇動したことにより、天皇は夫妻らを日向国に配流しました。
3月4日
天皇は陸奥国柴田郡の人で外少初位下の大伴部人根(おおともべのひとね)らに、大伴柴田臣(おおとものしばたのおみ)の姓を与えました。
3月7日
陸奥国の富田郡が色麻(しかま)郡に、讃馬(さぬま)郡が新田(にいた)郡に、登米(とよま)郡が小田(おだ)郡に、それぞれ合併されました。
3月8日
天皇は出羽国の山夷(さんい・狩猟生活を主とする蝦夷)への禄支給を停止し、山夷と田夷(農耕生活の蝦夷)の別なく、功労のある者に禄を支給することにしました。
8月5日
常陸国が言上します。「鹿島・那珂・久慈・多珂の4郡で、今月11日早朝から夜までに津波が15回おしよせました。大きいものは海岸線よりも1町ほど内陸におしよせ、引く時には20余町ほど遠ざかりました。海沿いに住む古老達は『このような津波は今まで見たことがない』と言っています」
12月16日
陸奥国が言上します。「俘囚の吉弥侯部黒田(きみこべのくろだ)と妻の吉弥侯部田苅女(きみこべのたかりめ)、さらに吉弥侯部都保呂(きみこべのつほろ)と妻の吉弥侯部留志女(きみこべのるしめ)らは賊の野蛮なる心を改めることなく、賊地を行き来しています」
これにより4名は身柄を太政官へ送られ、土佐国へ配流されました。  
「日本後紀」巻第八・延暦18年(799) 桓武天皇
二月・・・乙未。流陸奥国新田郡百姓弓削部虎麻呂。妻丈部小広刀自女等於日向国。久住賊地。能習夷語。屡以謾語騒動夷俘心也。
三月・・・戊申。陸奥国柴田郡人外少初位下大伴部人根等賜姓大伴柴田臣。
・・・辛亥。陸奥国富田郡併色麻郡。讃馬郡併新田郡。登米郡併小田郡。
壬子。停出羽国山夷禄。不論山夷田夷。簡有功者賜焉。
八月・・・丙子。常陸国言。鹿嶋。那加。久慈。多珂四郡。今月十一日。自晨至晩。海潮去来凡十五度。満則過常涯一町許。涸則踰常限廿余町。海畔父老僉云。古来所未見聞也。
十二月・・・陸奥国言。
俘囚吉弥侯部黒田。妻吉弥侯部田苅女。吉弥侯部都保呂。妻吉弥侯部留志女等。未改野心。往還賊地。因禁身進送。配土左国。  
■延暦19年(800)  
3月1日
出雲国介(いずものくにのすけ)で従五位下の石川朝臣清主(いしかわのあそみきよぬし)が言上します。「俘囚らへの冬の衣服については、慣例により絹と麻布を交えて賜ることになっていますが、今回は前例を改めて、絹を支給しました。また、俘囚一人につき一町の乗田を支給して、富める百姓に耕作させてきました。新しく到着した俘囚60余人は寒い中、遠方より来ましたので、皆を優遇してやる必要があり、各人に絹一疋、綿一屯を支給。5、6日ごとに饗応し禄を賜い、毎月一日ごとに慰問するべきです。続けて百姓を招集して、俘囚の田畑を耕作させる予定です」
これに対し天皇は勅を発します。「俘囚の慰撫については 先に指示した通りである。しかしながら、清主は指示の意に反して饗応、賜物に多額な費用を要しており、俘囚に支給した田の耕作のことでも百姓を煩わせている。これらは皆、朝制とすべきものではない。また夷(えみし)の性質というものは貪欲であり、若し常に厚遇するならば、それを変えた時には怨みかねないので、今後は夷を厚遇するようなことがあってはいけない」
5月1日
陸奥国が言上します。「帰服した夷俘は城塞の守りに着いたり国庁に勤める等、各々の仕事に励んでおります。賊のように荒々しい者を教育するには、威風と仁徳が必要です。若し、夷俘を優遇し賞を与えなければ、天子の威徳は失墜してしまう恐れがあります。今は夷俘の食料が不足しています。そこで30町分の収穫を以て夷俘の食費、生活費などに充てることを伏して要請いたします」
天皇はこれを許可しました。
5月22日
甲斐国が言上します。「甲斐国に移住した夷俘らは狼の如き野蛮な性格を改めることなく野心のままで、地元民に親しむことができず百姓ともめ事を起こし、婦女を勾引(かどわか)し牛馬を盗んでは自分の者として乗っています。もはや朝廷で掟を定めて頂かなければ、粗暴なる夷俘らを懲らしめることはできません」
天皇は勅を下します。「蝦夷を彼の地から離して国内に居住させるのは、野蛮な賊の生活を改めて皇民として生きられるよう教化するためである。彼らの野蛮な性情を放置して、良民に損失を与えるようなことがあってはならない。蝦夷については宜しく、国司が懇ろに教え諭して、それでもなおも改めることがなければ法に則って処罰するべきである。蝦夷が移住した諸国についても同様にせよ」
6月6日
駿河国が言上します。「去る3月14日から4月18日まで、富士山が燃え上がり、吐き出す煙によって昼でも暗く、夜は火炎が天を照らす如く激しいものがあります。富士山は雷鳴のような音を発しながら灰を雨のように降らしており、山麓の川の水はみな紅色となってしまいました」
(富士山の噴火、「延暦大噴火」です。)
10月28日
天皇は征夷副将軍を任命しましたが、氏名の記録はありません。
11月6日
天皇は征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位上・陸奥守・鎮守将軍の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)を諸国に派遣して、移住した蝦夷の監督をさせることにしました。  
「日本後紀」巻第九・延暦19年(800) 桓武天皇
三月己亥朔。出雲国介従五位下石川朝臣清主言。
俘囚等冬衣服 依例須絹・布混給。而清主改承前例 皆以絹賜。又毎人給乗田一町 即使富民佃之。新到俘囚六十余人 寒節遠来 事須優賞。因各給絹一疋 綿一屯 隔五六日 給饗賜禄。毎至朔日 常加存問。又召発百姓 令耕其園圃者。勅。撫慰俘囚 先即立例。而清主任意失旨    饗賜多費。耕佃増煩 皆非朝制。又夷之為性 貪同浮壑。若不常厚 定動怨心。自今以後 不得更然。
五月・・・戊午。陸奥国言。
帰降夷俘 各守城塞 朝参相続 出入寔繁。夫馴荒之道 在威与徳。若不優賞 恐失天威。今夷俘食料 充用不足。伏請。佃卅町以充雑用。
許之。
己未。甲斐国言。
夷俘等狼性未改 野心難馴。或陵突百姓 奸略婦女 或掠取牛馬 任意乗用。自非朝憲 不能懲暴。
勅。夫招夷狄以入中州 為変野俗以靡風化。豈任彼情 損此良民。宜国司懇々教喩。若猶不改 依法科処。凡厥置夷諸国 又同准此。
六月・・・癸酉。駿河国言。
自去三月十四日 迄四月十八日 富士山巓自焼。昼即烟気暗瞑 夜即火光照天。其声若雷 灰下如雨。山下川水 皆紅色也。
冬十月・・・癸巳。任征夷副将軍。
十一月・・・庚子。遣征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍坂上大宿禰田村麻呂 検校諸国夷俘。  
■延暦20年(801)  
2月14日
天皇より、征夷大将軍である坂上田村麻呂に節刀が下賜されました。
9月27日
征夷大将軍である坂上宿禰田村麻呂らが言上します。「私たちが聞いたところでは(略)ということです。賊である蝦夷を討ち平らげました」
10月28日
征夷大将軍である坂上田村麻呂が天皇に節刀を返進しました。
11月7日
天皇が詔を発します。「(略)陸奥国の蝦夷らは数代の天皇にわたり、辺境を侵略して乱を起こし、百姓を殺害、略奪を重ねてきた。そこで従四位上の坂上田村麻呂大宿禰らを派遣して、賊を討伐、一掃することにした。(略)」
天皇は田村麻呂に従三位を授け、それ以外の者にも位を授けました。  
「日本後紀」巻第九・延暦20年(801) 桓武天皇
二月・・・丙午。征夷大将軍坂上田村麻呂、賜節刀。
・「日本後紀」巻第十・延暦20年(801) 桓武天皇
九月・・・丙戌。征夷大将軍坂上宿禰田村麻呂等言。臣聞。云々。討伏夷賊。
冬十月・・・丁巳。征夷大将軍坂上田村麻呂召進節刀。
十一月乙丑。詔曰。
云々。陸奥国乃蝦夷等 歴代渉時天 侵乱辺境、殺略百姓。是以 従四位上坂上田村麻呂大宿禰等乎遣天 伐平掃治之牟流尓。云々。田村麻呂授従三位。已下授位。  
■延暦21年(802)  

 

正月7日
天皇は五位以上の者と宴を催し、身分に応じて束帛(そくはく)を下賜しました。天皇は、征夷将軍が「霊験があった」と奏上してきた陸奥国の三神について、神階を上げました。
正月8日
天皇は、征夷軍の軍監以下軍士以上の者それぞれに、等級をつけて勲位を与えました。
天皇は勅を下します。「駿河国と相模国が『駿河国の富士山が昼夜を分かたず燃え続け、霰(あられ)のような砂礫を降らしている』と言ってきた。これについて占うと、干ばつと疫病の予兆だという。駿河・相模両国に命じて、神の怒りを鎮めて読経を行い、災を払うように」
正月9日
天皇は従三位の坂上大宿禰田村麻呂を現地に赴かせ、陸奥国に胆沢城(いさわじょう)を築造させることにしました。
正月11日
天皇が勅を下しました。「官軍は賊を討伐し、支配地を遠方にまで広げた。駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等の各国は、国中の浪人4000人を陸奥国・胆沢城の柵戸とするように」
正月13日
出羽国・雄勝城の鎮兵の兵糧として、越後国の米10600石と佐渡国の塩120石を、毎年、現地に運ぶことになりました。
4月15日
造陸奥国胆沢城使・陸奥出羽按察使・従三位の坂上大宿禰田村麻呂らが言上します。「夷大墓公阿弖流為(えみしおおものきみあてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)らが500余人を率いて降伏しました」
7月10日
造陸奥国胆沢城使の田村麻呂が阿弖流為と母礼を従えて帰京します。
7月25日
多くの役人が上表を提出して、蝦夷の平定を喜び祝いました。
8月13日
夷大墓公阿弖流為と盤具公母礼らが斬刑とされました。阿弖流為と母礼は、朝廷側からは陸奥国でも奥地である胆沢地方の賊の首領と見られていました。二名を斬るに際して、将軍・坂上田村麻呂らは「この度は阿弖流為と母礼の願いを聞き入れて胆沢に帰し、賊を招いて取り込もうと思います」と申し出ました。しかし公卿らは自論に固執していて、「蝦夷は野蛮で獣のようであり、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた賊の長を、田村麻呂らが言うように陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、虎を養って患いを後に残すようなものである」と主張して、阿弖流為と母礼を引き出して河内国の植山で斬刑に処してしまいました。
12月8日
天皇は鎮守軍監で外従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を陸奥国大国造(おおきくにのみやっこ)に任じました。  
「日本後紀」巻第十・延暦21年(802) 桓武天皇
春正月・・・甲子。宴五位已上 賜束帛有差。甲子。陸奥国三神加階。縁征夷将軍奏霊験也。
乙丑。加征夷軍監已下軍士已上勲 各有等級也。
是日。勅。駿河相摸国言。駿河国富士山 昼夜烜燎 砂礫如霰者。求之卜筮 占曰。干疫。宜令両国加鎮謝 及読経 以壤災殃。
丙寅。遣従三位坂上大宿祢田村麻呂 造陸奥国胆沢城。
戊辰。勅。官軍薄伐 闢地瞻遠。宜発駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等国浪人四千人 配陸奥国胆沢城。
庚午。越後国米一万六百斛 佐渡国塩一百廿斛 毎年運送出羽国雄勝城 為鎮兵粮。
夏四月庚子。造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂等言。夷大墓公阿弖流為 盤具公母礼等 率種類五百余人降。
秋七月・・・甲子。造陸奥国胆沢城使田村麻呂来。夷大墓公二人並従。
己卯。百官抗表 賀平蝦夷。
八月・・・丁酉。斬夷大墓公阿弖流為・盤具公母礼等。此二虜者 並奥地之賊首也。斬二虜時 将軍等申云。此度任願返入 招其賊類。而公卿執論云。野生獣心 反覆無定。儻縁朝威獲此梟師 縦依申請 放還奥地 所謂養虎遺患也。即捉両虜 斬於河内国植山。
十二月・・・庚寅。鎮守軍監外従五位下道嶋宿禰御楯、為陸奥国大国造。  
■延暦22年(803)  
2月12日
越後国より米30石、塩30石が造志波城所(岩手県盛岡市西郊)に送られました。
3月6日
造志波城使で従三位・近衛中将の坂上田村麻呂が天皇に暇乞いをします。天皇より彩帛(さいはく)50疋、綿300屯(とん)が下賜されました。
4月25日
天皇は、摂津国の俘囚で勲六等の吉弥侯部子成(きみこべのねなり)ら男女8人と、陸奥国の勲六等・吉弥侯部押人(きみこべのおしひと)ら男女8人に雄谷(おたに)の姓を授けました。  
「日本後紀」巻第十・延暦22年(803) 桓武天皇
二月・・・癸巳。令越後国米卅斛・塩卅斛、送造志波城所。
「日本後紀」巻第十一・延暦22年(803) 桓武天皇
三月・・・是日。造志波城使従三位行近衛中将坂上田村麻呂辞見。賜彩帛五十疋・綿三百屯。
夏四月・・・乙巳。摂津国俘囚勲六等吉弥侯部子成等男女八人、陸奥国勲六等吉弥侯部押人等男女八人、賜姓雄谷。  
■延暦23年(804)  
正月15日
天皇は夷(えみし)第一等の浦田臣史閫儺(うらたのおみしこな)に外従五位下を授けました。
正月19日
蝦夷征討のため、武藏、上総、下総、常陸、上野、下野、陸奥等、諸国の糒(ほしいい)14315石と米9685石が、陸奥国小田郡の中山柵(なかやまのさく)へ運ばれました。
正月24日
従五位下の佐伯宿禰社屋(さえきのすくねもりや)が出羽守に任じられました。
正月28日
天皇は、刑部卿で陸奥出羽按察使・従三位の坂上大宿禰田村麻呂(さかのうえのおおすくねたむらまろ)を征夷大将軍に任じ、正五位下の百済王教雲(くだらのこにきしきょううん)と従五位下の佐伯宿禰社屋(さえきのすくねもりや)、従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を副将軍に任じ、軍監8人、軍曹24人をおきました。
5月10日
陸奥国が言上します。「斯波城(しわじょう)と胆沢郡家は162里も離れており、道中、山谷は険しく往来するのが大変です。途中に駅家(うまや)を置かなければ、危急の事態に対応できない恐れがあります。そこで小路(駅道の大・中・小の三等)にならい、一駅設置されることを伏してお願い申し上げます」
天皇はこれを許可しました。
11月7日
陸奥国栗原郡に三つの新駅が置かれました。
11月22日
出羽国が言上します。「秋田城は建置以来40余年となりますが、痩せた土地では五穀が豊熟することもありません。位置的にも北辺に孤立した状態であり、事が起きた時に救援を求める官軍も近くにはいません。そこで秋田城を停廃して、河辺府を永く防衛拠点とすることを伏して要望致します」
これに対し、秋田城を停廃してその地を秋田郡とし、土人・浪人の分け隔てなく地域の者は秋田郡の民とせよ、と令されました。  
「日本後紀」巻第十二・延暦23年(804) 桓武天皇
春正月・・・夷第一等浦田臣史閫儺授外従五位下。
乙未。運武藏。上総。下総。常陸。上野。下野。陸奥等国糒一万四千三百十五斛。米九千六百八十五斛於陸奥国小田郡中山柵。為征蝦夷。
庚子。・・・従五位下佐伯宿禰社屋為出羽守。
甲辰。刑部卿陸奥出羽按察使従三位坂上大宿禰田村麻呂為征夷大将軍。正五位下百済王教雲。従五位下佐伯宿禰社屋。従五位下道嶋宿禰御楯為副。軍監八人。軍曹廿四人。
五月・・・癸未。陸奥国言。斯波城与胆沢郡。相去一百六十二里。山谷嶮□。往還多艱。不置郵駅。恐闕機急。伏請准小路例。置一駅。
許之。
十一月戊寅。陸奥国栗原郡。新置三駅。
癸巳。出羽国言。
秋田城 建置以来卌余年。土地墝埆。不宜五穀。加以孤居北隅。無隣相救。伏望永従停廃。保河辺府者。宜停城為郡。不論土人浪人。以住彼城者編附焉。  
■延暦24年(805)  
2月5日
相模国が言上します。「年来、相模国より鎮兵350人を陸奥・出羽の両国に派遣していますが、当国では雑徭(ぞうよう・地水灌漑工事などの労役形態の租税制度)として仕える徭丁(ようてい)が少なくなってしまい、帯勲者が多数となっています。そこで鎮兵を分けて半分は勲位の者より、もう半分は白丁(はくちょう・徭丁)より徴発して兵士とすることを伏してお願い申し上げます」
天皇はこれを許可しました。
10月23日
野心を改めず縷々国法に違反したとして、播磨国の俘囚・吉弥侯部兼麻呂(きみこべのかねまろ)と吉弥侯部色雄(きみこべのしこお)ら10人が多褹嶋(種子島)へ配流されました。
11月13日
陸奥国の海道(太平洋岸沿い)諸郡の伝馬が、不要になったとして停止されました。
12月7日
中納言・近衛大将・従三位の藤原朝臣内麻呂(ふじわらのあそみうちまろ)が前殿に侍しているところで勅があり、参議・右衛士督・従四位下の藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそみおつぐ)と参議・左大弁・正四位下の菅野朝臣真道(すがののあそみまみち)とに、天下の徳政について議論させました。緒嗣は「今、天下の苦しみは蝦夷征討と平安京の造営です。この両事を停止すれば、人民は安らぎを得ることができます」と述べましたが、真道は異議を述べて固執、譲りませんでした。天皇は緒嗣の案を以て善しとし、直ちに蝦夷征討と京の造営を停廃することにしました。桓武天皇の決断を聞いた有識者は皆、感嘆しました。  
「日本後紀」巻第十二・延暦24年(805) 桓武天皇
二月乙巳。相摸国言。頃年差鎮兵三百五十人。戍陸奥・出羽両国。而今徭丁乏少。勲位多数。伏請中分鎮兵。一分差勲位。一分差白丁。
許之。
「日本後紀」巻第十三・延暦24年(805) 桓武天皇
冬十月・・・戊午。播磨国俘囚吉弥侯部兼麻呂。吉弥侯部色雄等十人配流於多褹嶋。以不改野心。屢違朝憲也。
十一月・・・戊寅。停陸奥国部内海道諸郡伝馬。以不要也。
十二月・・・是日。中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣。与参議左大弁正四位下菅野朝臣真道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事与造作也。停此両事。百姓安之。真道確執異議。不肯聴焉。帝善緒嗣議。即従停廃。有識聞之。莫不感歎。  
■大同元年(806)  

 

3月17日
桓武天皇が内裏正殿で死去しました。
10月3日
平城天皇が勅を下しました。「帰服した蝦夷=夷俘らは教化を慕い内地に住んでいる。夷俘らを要害の地に居住させれば、不慮の事態に備えることができよう。そこで近江国に住む夷俘640人を大宰府に移して、防人とするように。大宰府においては、国毎に掾(じょう)一人以上を夷俘専門の担当とせよ。夷俘の労役、処罰については平民と同列にすべきではない。情状を考慮して対応し、夷俘の野心を刺激してはいけない。彼らへの禄物、衣服、公粮(こうろう・食料)、口分田などは男女を問うことなく、前格によって支給せよ。但し、防人の食料については(欠)。口分田は以前の防人が耕していた乗田を、永く支給するように。さる年に置いた防人411人については皆、停廃するように」  
「日本後紀」巻第十三・大同元年(806) 第50代・桓武天皇 > 第51代・平城(へいぜい)天皇
三月・・・有頃天皇崩於正寝。
「日本後紀」巻第十五・大同元年(806) 平城天皇
冬十月・・・壬戌。勅。夷俘之徒。慕化内属。居要害地。足備不虞。宣在近江国夷俘六百卌人。遷大宰府置。為防人。毎国掾已上一人。専当其事。駆使・勘当。勿同平民。量情随宣。不忤野心。禄物・衣服。公粮・口田之類。不問男女。一依前格。但防人之粮終□。永給口分田者。以前防人乗田等給之。其去年所置防人四百十一人。皆宣停廃。  
■大同2年(807)  
3月9日
以下のことが制定されました。「帰服した蝦夷=夷俘について、功有る者には位を授けているが、現在の陸奥国司は判断基準があいまいなまま選出しては位階を授け、或いは村長に任命したりしている。いたずらに授位を行っていたのでは何の意味もなく、無駄な出費が重なるばかりである。これより後はみだりに授位を行ってはならない。若し、功績があり褒賞が必要ならば按察使(あぜち)が処分してから授けるようにせよ。国司においてはみだりに行うものではない」  
「日本後紀」巻第十五・大同2年(807) 平城天皇
三月・・・丁酉。制。夷俘之位、必加有功。而陸奥国司、遷出夷俘、或授位階、或補村長。寔繁有徒、其費無極。自今以後、不得輒授。若有功効灼然、酬賞無已者、按察使処分、然後叙補。不得国司輒行。  
■大同3年(808)  
5月28日
天皇は従六位下の坂上大宿禰大野(さかのうえのおおすくねおおの)に従五位下を授け、陸奥鎮守副将軍に任じました。また従四位上の藤原朝臣緒嗣(ふじわらのあそみおつぐ)を東山道観察使に任じ、陸奥出羽按察使を兼務させました。
尚、緒嗣は6月1日に、陸奥出羽按察使として職責が全うできなくても許されるよう、天皇に言上しています。
6月9日
天皇は鎮守将軍で従五位下の百済王教俊(くだらのこにきしきょうしゅん)を兼陸奥介に任じ、従五位下の坂上大宿禰大野(さかのうえのおおすくねおおの)を陸奥権介に任じ、外従五位下の道嶋宿禰御楯(みちしまのすくねみたて)を陸奥鎮守副将軍に任じました。
7月4日
天皇が勅を下しました。「そもそも鎮守府の将の任務というものは、辺境にあって敵を寄せつけない万全の守りを固めることであり、不慮の事態が起きた時に対応できないようなことがあってはならない。今、聞くところでは、『鎮守将軍・従五位下・兼陸奥介の百済王教俊は常に陸奥国府(多賀城)にいて、遠く離れた鎮守府(胆沢城)にはいない』ということである。辺境を守る将がこのようなことで、非常時の緊急対応ができるのだろうか。以後は態度を改めて辺境の任につくように」
7月16日
天皇が勅を下しました。「陸奥鎮守府の官人については従来、任期の定めがなかった。これより後は国司と同じ任期(6年)とせよ。医師の任期は8年とせよ」
12月17日
東山道観察使・正四位下・右衛士督・陸奥出羽按察使である藤原朝臣緒嗣が「官職と封戸を返上し他国の長官となりたい」旨を言上しますが、天皇は勅により許可しませんでした。  
「日本後紀」巻第十七・大同3年(808) 平城天皇
五月・・・己酉。従六位下坂上大宿禰大野授従五位下。・・・従四位上藤原朝臣緒嗣為東山道観察使。・・・従四位上藤原朝臣緒嗣為陸奥出羽按察使。・・・従五位下坂上大宿禰大野為陸奥鎮守副将軍。
六月・・・庚申。・・・鎮守将軍従五位下百済王教俊為兼陸奥介。従五位下坂上大宿禰大野為権介・・・外従五位下道嶋宿禰御楯為陸奥鎮守副将軍。
秋七月・・・甲申。勅。夫鎮将之任。寄功辺戍。不慮之護。不可暫闕。今聞。鎮守将軍従五位下兼陸奥介百済王教俊。遠離鎮所。常在国府。儻有非常。何済機要。辺将之道。豈合如此。自今以後。莫令更然。
丙申。勅。陸奥鎮守官人。遷代之期。未有年限。宜自今以後。一同国司。其医師以八考為限。
十二月・・・甲子。東山道観察使正四位下兼行右衛士督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣緒嗣言。(後略)  
■大同4年(809)  
正月16日
天皇は従五位下の佐伯宿禰耳麻呂を陸奥鎮守将軍に任じました。
3月23日
東山道観察使・正四位下・右衛士督(うえじのかみ)・陸奥出羽按察使の藤原朝臣緒嗣が辺境へ着任するため、内裏へ暇乞いをしました。天皇は緒嗣を殿上へ招き、典侍(ないしのすけ)・従五位上の永原朝臣子伊太比(ながはらのあそみこいたび)を介して衣一襲(きぬひとかさね)と被等を下賜しました。
4月1日
第52代・嵯峨天皇が即位しました。  
「日本後紀」巻第十七・大同4年(809) 平城天皇
春正月・・・癸巳。・・・従五位下佐伯宿禰耳麻呂為陸奥鎮守将軍。
三月・・・戊辰。・・・是日。東山道観察使正四位下兼行右衛士督陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣。為入辺任。辞見内裏。召昇殿上。令典侍従五位上永原朝臣子伊太比賜衣一襲・被等。
「日本後紀」巻第十八・大同4年(809) 嵯峨天皇
夏四月戊子。皇太弟受禅 即位於大極殿。皇太弟謂嵯峨天皇。  
■弘仁元年(810)  

 

5月12日
東山道観察使・正四位下・陸奥出羽按察使の藤原朝臣緒嗣が言上します。「国は民を以て本となし、民は食を以て命を保ちます。しかるに鎮兵3800人の1年の粮料として50余万束を陸奥・出羽の両国は負担するため、百姓は疲弊し倉庫の米もなくなっている状態です。かといって食糧の蓄積を怠ると、非常時に賊の攻撃を防ぐことができません。今までは蝦夷征伐が行われる度に、必ず坂東諸国に仰せつけて軍粮を用意させてきましたが、これよりは坂東諸国の官稲(かんとう)を陸奥国の公廨(くがい)として充て、陸奥国の公廨を官庫に収め留めることを伏して請願いたします。このようにいたしますと、公私ともに場所を得て民の負担も和らぐことでしょう」
天皇はこの言上を許可しました。
5月13日
藤原朝臣緒嗣が再び言上します。「また陸奥国では元来、国司と鎮官らは各人、差をつけて公廨を支給され、米4000余石を舂(つ)き人を雇い運ばせて、その年の粮料に充てています。長年このようにやってきましたが、法的な根拠はありません。但し、辺境では国の中央とは頗る異なることもあります。それは苅田(かつた)郡以北の近郡の稲は軍粮とし、信夫(しのぶ)郡以南の遠郡の稲を公廨に充てていることによります。これら遠郡は国府(多賀城)から2、300里、城柵(胆沢城・志波城等)からは7、800里も離れていて、事力(官人の従者)の力を以てしても、舂いて運ぶのは難しいものがあります。若し従来のやり方を停止すれば、国府・鎮守府は飢餓状態に陥ってしまいます。そこで公廨を舂(つ)き運送にかかる費用を支給して頂き、法として行われることを請願いたします」
天皇はこの言上を許可しました。
9月16日
天皇は参議で正四位上の文室朝臣綿麻呂(ふんやのあそみわたまろ)を大蔵卿(おおくらきょう)兼陸奥出羽按察使に任じました。  
「日本後紀」巻第十九・弘仁元年(810) 嵯峨天皇
五月・・・辛亥・・・東山道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣言。云々。
国以民為本。民以食為命。而鎮兵三千八百人 一年粮料五十余万束。因此百姓麋弊 倉廩空虚。如無蓄積 何防非常。加以往年毎有征伐 必仰軍粮於坂東国。伏請以坂東官稲 充陸奥公廨 以陸奥公廨 留収官庫。然則公私得所 実愜便宜。
並許之。
壬子。東山道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使藤原朝臣緒嗣言。云々。
又陸奥国 元来国司・鎮官等 各以公廨作差 令舂米四千余斛 雇人運送 以充年粮。雖因循年久 於法無拠。但辺要之事 頗異中国。何者苅田以北近郡稲支軍粮 信夫以南遠郡稲給公廨。其去国府二三百里 於城柵七八百里 事力之力 不可舂運。若勘当停止 必致飢餓。請給舂運功 為例行之。
並許之。
「日本後紀」巻第二十・弘仁元年(810) 嵯峨天皇
九月・・・癸丑。・・・参議正四位上文室朝臣綿麻呂為大蔵卿兼陸奥出羽按察使。  
■弘仁2年(811)  
正月11日
陸奥国に和我(わが)・薭縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の三郡が設置されました。
3月20日
天皇は陸奥出羽按察使で正四位上の文室朝臣綿麻呂(ふんやのあそみわたまろ)、陸奥守で従五位上の佐伯宿禰清岑(さえきのすくねきよみね)、陸奥介で従五位下の坂上大宿禰鷹養(さかのうえのおおすくねたかかい)、鎮守将軍で従五位下の佐伯宿禰耳麻呂(さえきのすくねみみまろ)、副将軍で外従五位下の物部匝瑳連足継(もののべのそうさのむらじあしつぐ)らに勅します。
去る2月5日の奏には「陸奥・出羽両国の兵士を合わせて2万6千人を動員して爾薩体(にさったい)、幣伊(へい)の二村を征討することを承認願います」とある。将軍らの願い通り兵を動員して賊を討滅せよ。征討軍の力により後に煩いを残さないようにすべきである。また3月9日の奏では軍士を一万人減らしたという。将軍らは国を憂い心中深く考えて奏上をしたのであろうが、征討にあたっては兵力が必要であるから軍士を減らす必要はない。将軍らはこの旨を知り互いに心と力を合わせて征討を完遂すべきである。
戦いでは、出羽守で従五位下の大伴宿禰今人(おおとものすくねいまひと)が謀をめぐらし、勇敢なる俘囚300余人をもって雪中、賊の不意打ちを行い、爾薩体の蝦夷60余人を殺しました。今人の名は一時に知れわたり、後にまで伝えられました。
4月17日
天皇は正四位上の文室朝臣綿麻呂を征夷将軍に任じ、従五位下の大伴宿禰今人、佐伯宿禰耳麻呂、坂上大宿禰鷹養を征夷副将軍に任じました。二日後には勅を発して征討の努力を促しています。
5月23日
大納言正三位兼右近衛大将兵部卿の坂上大宿禰田村麻呂が死去しました。
7月3日
出羽国の鎮兵らは辺境防衛のために家業が廃絶する事態となっているため、天皇は鎮兵に三年間課税免除を行うことにしました。
7月14日
天皇は征夷将軍正四位上兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。「今月4日の奏状では、俘軍一千人を吉弥侯部於夜志閉(きみこべのおやしべ)らに委ね、弊伊村を襲伐すべきである、としている。かの村の夷俘は勢力があるので、もし少人数で戦いに臨めば機を失してしまう恐れがある。よって陸奥・出羽両国の俘軍を各一千名動員して、来る8、9月に左右に軍勢を配置して攻撃するのが良策であろう。将軍は副将軍及び両国司らと再三討議した上で、作戦計画書を奏上せよ。これは国の大事であり、決して軽々しい戦略であってはならない」
7月29日
出羽国が奏上します。邑良志閉(おらしべ)村の帰順した夷である吉弥侯部都留岐(きみこべのつるき)が「私達は爾薩体(にさったい)村の夷・伊加古(いかこ)らと長年対立してきました。今、伊加古らは兵を集め訓練して都母(つも)村に居住し、幣伊(へい)村の夷を誘い、邑良志閉村の私達を討つつもりです。そこで伏して兵粮を請い、我らが先に伊加古らを襲撃したいと思います」と申し出てきました。ここで対応を考えますに、賊を以て賊を討伐するのは軍国の利でありますので、吉弥侯部都留岐らに米百斛(こく)を支給して励まし、彼らの計略を実行させたいと考えます。
天皇はこの奏上を許可しました。
10月4日
天皇は征夷将軍参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。「去る9月22日の奏上では、『情勢を分析して我が軍勢を四方面に展開させましたが、少ない兵士を多方面に配置せねばならず、加えて長雨により軍糧、物資の補充が滞っています。このままでは欠乏状態となってしまい、軍を動かすのに支障の出る恐れがあります。伏して、陸奥国の兵士千百人を補充、動員することを願います』とあった。この奏上を許可する」
10月13日
天皇は征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂らに勅を発しました。「今月5日の奏状では、多くの蝦夷を殺害、捕らえている。降伏する者も相当数である。士卒らが戦功をあげ、将軍らの計略が功を奏していることが窺われる。蝦夷については、申し出により国内へ移配すべきである。ただし帰順している俘囚は事情を考え、その地に留まり居住してもよいであろう。彼らに教え諭して騒ぎが起きないようにせよ。また、新たに捕らえた蝦夷については、将軍らの奏により、早速、朝廷に進上せよ。ただし、人数が多いので、道中、諸国が必要なものを十分に供給するのは難しいであろう。そこで体力のある者には歩行させ、弱体の者は馬を使用せよ」
12月13日
天皇は詔を発しました。「陸奥国の蝦夷らは天皇の代々にわたり乱を起こし辺境を侵略し、百姓を殺害してきた。そこで桓武天皇の時に故従三位大伴宿禰弟麻呂らが征討に向かい現地を平定したが、討伐を逃れた賊の活動は続き余燼はくすぶり続けたままであった。また、故大納言坂上大宿禰田村麻呂らを派遣して遠く閉伊(へい)村まで征服したのだが、賊の一部は山谷に逃げ隠れて潰滅させることはできなかった。よって、正四位上文室朝臣綿麻呂らを征討に向かわせ、勢力の弱まってきた蝦夷を討伐させた。征討の副将軍らは各位が心を合わせて軍略をめぐらして身命を惜しまずに奮戦し、今まで討伐を免れていた奥地まで攻め込み、賊の巣穴をもれなく破壊し、遂には一人として残すこなく蝦夷を殲滅した。よって辺境の防備は解除でき、軍糧補充の必要もなくなった。長年の懸案であった蝦夷を平定した彼らの功労は大とすべきで、位を上げるに十分なものがある。功績の大小により、彼らの位を上げることにする」
そこで天皇は、正四位上の文室朝臣綿麻呂に従三位を授け、従五位下の佐伯宿禰耳麻呂に正五位下を、従五位下の大伴宿禰今人と坂上大宿禰鷹養に従五位上を、外従五位下の物部匝瑳連足継に外従五位上を授けました。
閏12月11日
征夷将軍参議従三位行大蔵卿兼陸奥出羽按察使の文室朝臣綿麻呂が奏言しました。「この度、官軍が一挙に攻勢をしかけ蝦夷を悉く討ち取りました。事が成りましたからには鎮兵は廃止して百姓を安堵すべきですが、城柵等に搬入する武器と軍糧が大量にありますので、それが終わるまでは守備の兵士が必要となります。伏して兵士千人を配置して警備にあてることを要望します。志波城は近くに川が流れており水害に遭うことも度々ありますので、適地に移転すべきと考えます。伏して、二千の兵で城の守備にあたり、移転が完了しましたら千人は防衛のために残して他の者は復員させて頂くことを要望いたします。また有事への備えを怠らないのが兵士というものですが、既に軍事上の煩いがなくなったからには兵士を置く必要がありません。ただし辺境の守りを疎かにするわけにはいきませんので、伏して、二千の兵を置き他は復員させることを要望いたします。宝亀5年より当年に至るまでの38年間、辺境では騒乱が絶えることなく戦いは止みませんでした。ために幅広い年代層が征討の戦いや軍事物資などの負担に疲れ、百姓は困窮して休まることがありません。そこで、伏して、四年間は税を免除して頂き、様々な方面の疲弊を休ませてくださるよう要望します。鎮兵については順に招集して、現役となる者については税を免除したいと思います」
綿麻呂の奏言は許可されました。  
「日本後紀」巻第二十一・弘仁2年(811) 嵯峨天皇
春正月・・・丙午。於陸奥国。置和我。薭縫。斯波三郡。
三月・・・甲寅。勅陸奥出羽按察使正四位上文室朝臣綿麻呂。陸奥守従五位上佐伯宿禰清岑。介従五位下坂上大宿禰鷹養。鎮守将軍従五位下佐伯宿禰耳麻呂。副将軍外従五位下物部匝瑳連足継等曰。去二月五日奏偁。請発陸奥出羽両国兵合二万六千人。征爾薩体。幣伊二村者。依数差発。早致襲討。事期殄滅。不得労軍以遺後煩。又得三月九日奏。知減軍士一万人。将軍等。憂国之情。中心是深。然而捜窮巣窟。衆力是資。故依先奏。不労減定。将軍等宜知之。勠力同意。相共畢功。于時出羽守従五位下大伴宿禰今人。謀発勇敢俘囚三百余人。出賊不意。侵雪襲伐。殺戮爾薩体余櫱六十余人。功冠一時。名伝不朽也。
夏四月・・・庚辰。正四位上文室朝臣綿麻呂為征夷将軍。従五位下大伴宿禰今人。佐伯宿禰耳麻呂。坂上大宿禰鷹養為副。
五月・・・丙辰。大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上大宿禰田村麻呂薨。
秋七月乙未。出羽国鎮兵賜復三年。以在辺戍家業絶亡也。
丙午。勅征夷将軍正四位上兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省今月四日奏状。具知以俘軍一千人。委吉弥侯部於夜志閉等。可襲伐弊伊村。彼村夷俘。当類巨多。若以偏軍臨討。恐失機事。仍欲発両国俘軍各一千。来八、九月之間。左右張翼。前後奮□。宜与副将軍及両国司等。再三詳議。具状奏上。国之大事。不可軽略。
出羽国奏。邑良志閉村降俘吉弥侯部都留岐申云。己等与弐薩体村夷伊加古等。久構仇怨。今伊加古等。練兵整衆。居都母村。誘幣伊村夷。将伐己等。伏請兵粮。先登襲撃者。臣等商量。以賊伐賊。軍国之利。仍給米一百斛。奨励其情者。許之。
冬十月・・・乙丑。勅征夷将軍参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省去九月廿二日奏云。随機量便。更分四道。士卒数少。充用処多。加以霖雨無息。転餉有滞。不加軽重。恐乏兵糧。伏望点加陸奥国軍士一千一百人者。依奏。
甲戌。勅征夷将軍参議正四位上行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂等曰。省今月五日奏状。斬獲稍多。帰降不少。将軍之経略。士卒之戦功。於此而知矣。其蝦夷者。依請須移配中国。唯俘囚者。思量便宜。安置当土。勉加教喩。勿致騒擾。又新獲之夷。依将軍等奏。宜早進上。但人数巨多。路次難堪。其強壮者歩行。羸弱者給馬。
十二月・・・甲戌。詔曰。天皇詔旨良麻止勅命乎。衆聞食止宣。陸奥国乃蝦夷等。歴代渉時弖。侵乱辺境。殺略百姓。是以掛畏柏原朝庭乃御時尓。故従三位大伴宿禰弟麻呂等乎遣弖。伐平之米給比支。而余燼猶遺弖。鎮守未息。又故大納言坂上大宿禰田村麻呂等乎遣弖。伐平之米給不尓。遠閉伊村乎極弖。略掃除弖之可止毛。逃隠山谷弖。尽頭弖究殄己止不得奈利尓太利。因茲正四位上文室朝臣綿麻呂等乎遣弖。其傾覆勢尓乗弖。伐平掃治之牟流尓。副将軍等。各同心勠力。忘殉心以弖。不惜身命。勤仕奉利。幽遠久薄伐。巣穴乎破覆之弖。遂其種族乎絶弖。復一二乃遺毛無。辺戎乎解却。転餉乎毛停廃都。量其功労波。上治賜尓足止奈毛御念須。故是以其仕奉状乃重軽乃随尓。冠位上賜比治賜久止宣天皇御命乎。衆聞食止宣。
正四位上文室朝臣綿麻呂授従三位。従五位下佐伯宿禰耳麻呂正五位下。従五位下大伴宿禰今人。坂上大宿禰鷹養従五位上。外従五位下物部匝瑳連足継外従五位上。
閏十二月・・・辛丑。征夷将軍参議従三位行大蔵卿兼陸奥出羽按察使文室朝臣綿麻呂奏言。今官軍一挙。寇賊無遺。事須悉廃鎮兵。永安百姓。而城柵等所納器仗・軍粮。其数不少。迄于遷納。不可廃衛。伏望置一千人充其守衛。其志波城。近于河浜。屡被水害。須去其処。遷立便地。伏望置二千人。蹔充守衛。遷其城訖。則留千人。永為鎮戍。自余悉従解却。又兵士之設。為備非常。即無遺寇。何置兵士。但辺国之守。不可卒停。伏望置二千人。其余解却。又自宝亀五年至于当年。惣卅八歳。辺寇屡動。警□無絶。丁壮老弱。或疲於征戍。或倦於転運。百姓窮弊。未得休息。伏望給復四年。殊休疲弊。其鎮兵者。以次差点。輪転復免者。並許之。  
 
対蝦夷戦争

 

古代の福島県の人々にとって租庸調などの税負担はさほど大きいものではありませんでした。おそらく、福島を含む東国の人々にとってもっとも過酷だったのは対蝦夷戦争の軍役でした。
律令の規定では正丁(21歳以上の男子)の1/3を軍役に従事させるとあります。1/3も徴兵したら地域社会は崩壊してしまいますから、実際はもっと少なかったと思いますが、それでも対蝦夷戦争の最前線にある福島県の人々の兵役負担は大きかったと思います。
大和朝廷は奈良盆地に生まれた政権でしたが、それまでほとんど武力を使わないで支配地の拡大に成功してきました。九州も関東も戦争らしい戦争もしないで帰属させてしまいました。それが東北地方の北部を支配するにあたって始めて本格的な戦争をせざるをえなくなりました。大和朝廷にとって、対蝦夷戦争は大きな試練の戦争でもありました。そこで、この対蝦夷戦争を見ることにします。  
対蝦夷戦争の始まりは大化の改新から
奈良時代以前から東北地方の北部には蝦夷(えみし)とよばれる人々が住んでいました。この蝦夷の人については、それこそ縄文人の子孫とかアイヌの末裔ということが言われますが、これは事実ではなく、彼らもやはり稲作を行う弥生人の子孫でした。ただ、大和朝廷の支配に入らなかったので異族視されました。大和朝廷は、漢民族を中華とし他を夷狄とする中国の中華思想を日本に当てはめて考えました。ですから、蝦夷という言葉も適切ではありませんが、ほかにありませんのでここでもこれを使うことにします。
この対蝦夷戦争は、桓武天皇が任命した征夷大将軍坂上田村磨の活躍で解決したように思われています。しかし、田村麻呂が登場した時にはこの戦争は終息を迎えようしていました。ですから、田村麻呂はその幕引きをしたということでした。
大和朝廷が蝦夷攻略をはじめたのは意外と早く、大化の改新後の3年後の648年にはもう秋田県に砦を築いています。その後、朝鮮半島での戦争(対唐新羅との戦い)や壬申の乱(天智天皇後の皇位継承をめぐる争い)で、一時中断した時期もありましたが、これらの問題が解決するとまた対蝦夷戦争を再開しました。この対蝦夷戦争が終結するのは、田村麻呂が斯波城(盛岡市)を築いた804年ですから、実に150年間も続きました。そして、この戦争がもっとも激しかったのは多賀城が設置された720年前後の、奈良時代の初めでした。  
田村麻呂は軍事貴族
奈良平安時代の律令政府は不思議な政府で直属の軍隊というのを持ちませんでした。こういう政府は外国にはなく、日本でも奈良・平安時代の律令政府だけでした。したがって、この時代は、政府が戦争をする場合も都から大軍を派遣することはなく、現地で兵士を集めて戦争をしました。対蝦夷戦争でも同じでした。これを、「夷をもって夷を征す(野蛮人を使って野蛮人を征服する)」といいます。
都から派遣されるのは司令官だけでした。最初は阿部比羅夫でした。彼はもっぱら日本海側の蝦夷地を攻略しました。その後、さまざまな将軍が活躍しましたが、最後は坂上田村麻呂が終息させました。しかし、この田村麻呂も、朝廷の権威と律令の法令に基づいて関東と福島県域の人々を兵士として徴発して戦争をしたという点では同じでした。
日本の歴史を見ると、戦争の震源地は常に関東と東北でしたが、それに対して政府がとった対応はすべてこのやり方でした。たとえばずっと後に源頼義・義家父子が東北で前九年と後三年の役の戦争をしましたが、この時も頼義と義家は単身関東にやってきて、朝廷の権威で兵を集め、この軍を率いて戦争をしました。
このやり方は義家の子孫である源頼朝も同じでした。頼朝は平家を滅ぼして征夷大将軍になりましたが、頼朝は最後まで自分の軍隊というものを持ちませんでした。頼朝は、関東の豪族たちを、まるで一本のムチでトラやライオンを思いのままにあやつるサーカスの猛獣使いのように自在に動かして鎌倉幕府を作りました。
坂上田村磨や源義家・頼朝のような人のことを歴史では軍事貴族といいます。彼らの本質は武士ではなく貴族です。彼らは中央政治の中で、軍事部門を専門に担当する貴族でした。  
対蝦夷戦争の組織
対蝦夷戦争も実際の戦闘を行ったのは関東と陸奥の人たちでした。彼らは団と呼ばれる軍団に組み込まれました。この団は基本的には郡単位で編成されました。規定では団の定員は1000人で、大毅と呼ばれる団長が指揮をとりました。この団については記録がほとんど残っていなく詳細はわかりません。政府の記録を見ると、815年の時点では陸奥国には6団があったことがわかっています。そのうち県域の団は、白河団 岩城団 行方団 安積団の4団でした。白河郡や岩城郡はともかく、行方郡や安積郡のような小規模の郡では単独で団を編成するのはむりですから、他郡と合同だったか、定員を下回る編成だったと思います。こういう構成は関東の兵士たちも同じだったと思います。  
対蝦夷戦争の戦線は二つありました
大和朝廷はこの対蝦夷戦争を2方向から進めました。一つは山形県と秋田県の日本海側で、もう一つは宮城県の北部と岩手県南部でした。この両方に兵を送るのに都合がよかったのが宮城県の多賀城でした。ここから西に進めば山形秋田方面に行け、そのまま北上すれば岩手方面に行けるからです。そこでこの多賀城に行政担当の国府と軍事担当の鎮守府を置いて蝦夷攻略の拠点にしました。
多賀城府の設置が確認できるのは724年ですが、たぶん、それ以前から基地のような役割はしていたと思います。
日本海側の蝦夷征服は比較的順調に進みました。それは船が使えたからです。大和朝廷はたくさんの船を用意して兵員と武器を搬送しました。そのうち、多賀城からの陸路も通じるようなりましたから、海と陸の両面作戦が可能になると作戦は非常にスムーズに進みました。
それに対し、宮城県北部の対蝦夷戦争は難渋をきわめました。780年には逆に蝦夷の人たちが多賀城を攻撃し、国府が焼き討ちされてしまいました。この蝦夷との戦いでは大和朝廷軍にも多くの犠牲者がでました。  
対蝦夷戦争の目的は土地
大和朝廷が蝦夷を征服した目的がはっきりしません。ふつうは金と馬が目的とされています。確かに、昔は馬が重要で、馬は今で言うところの乗用車とトラックのようなものでしたから交通手段として欠かせません。また当時仏像がたくさん作られ、金は仏像に鍍金するために使われました。ですから馬と金が目的というのも一理あります。しかしそれだけのための150年近くも延々と戦争を続けたというのがどうにも釈然としません。
たぶん、金と馬の獲得もあったかもしれませんが、それ以上に大きかったのは蝦夷の土地だったと思います。そうでなければこんなに長く戦争が続くことはありえないからです。
大和朝廷の作戦は次のようなものでした。先ず戦闘兵士からなる軍隊を送り込み、砦を築き橋頭堡を確保します。これを柵(き、さく)といいます。そして、この柵をしばらく持ちこたえると、頃合を見て柵を拡張して城を築きます。この城には治安維持のため守備兵を置きます。守備兵たちが周辺の治安を維持し、土地の住民たちがおとなしくなると、今度は関東や陸奥から農民たちを移住者として送り込みます。この移住者たちが定住することで大和朝廷の支配地が確立します。するとまた別の土地に柵を作り、城を築き、内地から農民を移住させる。この繰り返しでした。
蝦夷征服の目的はこの農民の移住にあったようです。そして、内地からの移住者たちはたぶん面倒な開拓や開墾などはしなかったと思います。彼らはすでに農民が耕している農地を取り上げて自分のものにしました。簡単に言うと略奪です。
自分の力で開墾すれば、明治の北海道開拓のような大変な苦労があります。しかし、すでに農地になっている土地を奪えば簡単です。移住者の背後には大和朝廷の軍がいました。それで、内地からの移住者たちも安心して続々とやってきました。この移住については史書や政府の記録にも残っています。その主なものだけでも以下の通りです。
714年  尾張、上野、信濃、越後等から200戸を出羽柵に移住させた。
715年  関東五ケ国から富民1000戸を移住させる。
759年  東国の浮浪人2000人を雄勝柵(秋田県。場所は不明)に入れる。
802年  肝沢城(いざわじょう。岩手県水沢市)を作り、東国10ケ国の浪人4000人を入れる。
しかし、実際はもっと多かったようです。「和名抄」で宮城県の郷を見ると、白河郷・磐城郷というのが3郷、岩瀬郷と会津郷が1郷あります。これはいずれも福島県域の郡名です。このことは、これらの郡が県域から移住した人たちによってつくられた村であることを示しています。たぶん、県域ばかりでなく、関東甲信越からも大勢の農民が集団で移住していったと思います。とくに、平らな土地が多く、そのため水利の便がよくない関東は、稲作農業が難しい所でしたから、関東からの移住者は多かったと思います。  
蝦夷の人たちの対応
そうはいっても、土地を奪われれば蝦夷の人々は生活できません。彼らのとる道は二つしかありませんでした。一つはあきらめて土地を明け渡すこと。もう一つは絶望的な抵抗をすることです。
土地を明け渡した蝦夷の人々は俘囚(ふしゅう)とよばれ内地に送られました。そして、反乱を起こさないように、県域を含め全国に分散して隔離されました。
奈良時代には俘囚稲というのがありました。これは国府が正倉の稲を出挙(すいこ)として農民に貸し出し、その利息で俘囚たちを養う制度です。この俘囚稲は九州四国をふくめほとんどすべての国に設けられました。だから、彼らは一見すると保護されたように見えます。しかし、その待遇は決して満足できるものではなく、厳しく監視され差別されました。当然、暴動が起きます。そして、これが俘囚を割り当てられた国の国府の大きな悩みでもありました。
これに対し、土地の明け渡しを拒んだ人たちは、大和朝廷と戦争をすることになりました。蝦夷の人たちは国家という組織を持っていませんでした。彼らは地域ごとに目の前の敵と戦うことになります。その戦いは戦争というよりはゲリラ戦でした。
大和朝廷軍の主力は人口が多い関東の人たちでした。政府はそれまで関東の人たちを防人として九州に派遣していましたが、757年からは防人は九州の現地人を召集することにし、関東の人たちは対蝦夷戦争に専念させました。関東地方の国々は兵士を提供するばかりでなく、武器の製造を命じられました。そして、これら兵士と武器や食料は東山道を通って続々と戦地に送られていきました。
やがて蝦夷の中から一人の指導者が現れます。アテルイとよばれる人です。このアテルイのため、789年、胆沢城(岩手県水沢市)の戦いでは大和朝廷側は3000人の損害が出し、うち1300人が戦死したという記録が残っています。
しかし、結局は繰り返し大軍で押し寄せる大和朝廷軍の敵ではありませんでした。坂上田村麻呂の出陣でとうとうアテルイは降伏します。802年、アテルイとその母は都に送られ処刑されてしまいました。
アテルイの後、804年、田村麻呂は志波城(盛岡市)を築き、最前線を胆沢城から志波城に移しこの地域を確保しました。
これでようやく長い戦争も終結することになりました。志波城の北にも大地はありまましたが、大和朝廷にとっても東国の農民たちにとっても何の価値もありませんでした。そこは稲作には向かない不毛の地だったからです。  
 
飛鳥時代の都と日本初の女帝・推古天皇

 

『ヤマト王権の歴史』の項目では、第32代・崇峻天皇(在位587-592)が蘇我馬子の陰謀で暗殺されて、日本初の女帝となる第33代・推古天皇(在位592-628)が即位しますが、第31代・用明天皇は同母兄であり崇峻天皇は異母弟でした。推古天皇は日本史上で初めて『大王(おおきみ)』ではなく『天皇』という称号を名乗った人物とも言われますが、男性天皇である第40代・天武天皇(在位673‐686)が初めて天皇を呼称したという説もあります。用明と推古の母は蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)であり、崇峻の母も蘇我稲目の娘の小姉君(おあねのきみ)でしたから、古墳時代の天皇家と蘇我氏の血縁的な結びつきは非常に深いものでした。
日本の歴史時代の区分は、縄文時代(1万年以上前‐B.C.10世紀頃)‐弥生時代(B.C.10世紀頃‐A.D.3世紀頃)‐古墳時代(4‐6世紀)から飛鳥時代(6世紀末‐8世紀初頭)へと続きますが、飛鳥時代にはそれまで中華文明圏から『倭(わ)』と呼ばれていた日本列島が『日本』という国号を用いるようになります。以前は、奈良の平城京が築かれる前の不安定なヤマト王権の時代をまとめて大和時代(古墳時代・飛鳥時代)と呼んでいましたが、ここ最近は飛鳥地方に都(皇居)が置かれた推古天皇の御世からを飛鳥時代と呼んで区別しています。飛鳥時代には多くの都が造営されましたが、飛鳥地方は現在の奈良県高市郡明日香村周辺の地域にあたり、天香久山の南から橘寺以北の地を指すと言われています。
物部守屋との政争に勝利した蘇我馬子は588年に飛鳥寺(法興寺)を建立し、仏教信仰の祖と言われる聖徳太子は593年に摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建立しましたが、崇仏派・蘇我氏が排仏派・物部氏に勝利したことによって飛鳥時代の幕が開けたとも言えます。厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも言われる聖徳太子(574‐622)は物部氏との戦争の勝利を仏に祈願して、『この戦いに勝利すれば、必ず四天王を崇拝する仏塔(寺社)を作る』という誓いを立てました。その結果、四天王寺を建立することになりましたが、用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の子である聖徳太子(厩戸皇子)はもともと蘇我氏と深い血縁関係にありました。
蘇我氏の権力拡大と推古天皇(額田部皇女)の登場に伴って飛鳥時代が始まりますが、推古天皇が592年に即位した豊浦宮(とゆらのみや)や603年以降に執政を行った小墾田宮(おわりだのみや)は正確には飛鳥ではありません。飛鳥地方そのものが蘇我氏の権力基盤であったとも言われていますが、飛鳥時代に造営された都(宮・皇居)には以下のようなものがあります。天皇の御所としての宮(都)が建設されることで、中国(隋)や朝鮮(百済)の外交使節を公式に接受できる場所が準備され、日本は中央集権的な独立国としての性格を国内的にだけではなく対外的にも強めていきました。  
飛鳥時代に造営された都(宮)
     都の名称  /  天皇と時代区分
豊浦宮(とゆらのみや) / 第33代・推古天皇が592年に即位するまでの宮
耳梨行宮(みみなしのかりみや) / 推古天皇の暫時的な滞在地
小墾田宮(おわりだのみや) / 603年以降、推古天皇と聖徳太子の時代の宮。冠位十二階や十七条憲法の制定。
飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや) / 630年以降、第34代・舒明天皇の時代の宮。火災で焼失して一時的に田中宮を設営。
後飛鳥岡本宮(ごあすかおかもとのみや) / 板蓋宮が消失した656年以降、第37代・斉明天皇(皇極天皇が重祚)の時代の宮。
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや) / 643年以降、第35代・皇極天皇の時代の宮。蘇我蝦夷(そがのえみし)が建設。645年に大化の改新(乙巳の変)が起きて、第36代・孝徳天皇(軽皇子)が即位。655年に火災で焼失。
難波宮(なにわのみや, 645-655)・難波長柄豊埼宮(なにわながらのとよさきのみや) / 652年以降に、中大兄皇子らと孝徳天皇が設営した飛鳥ではなく大阪にある宮。
飛鳥川原宮(あすかかわはらのみや) / 655年以降、斉明天皇が一時的に御所とした宮。斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮へと移る。
近江宮(おうみのみや, 667-672)・近江大津宮(おうみのおおつのみや) / 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた第38代・天智天皇が、667年に後飛鳥岡本宮から遷都したのが滋賀県にある近江大津宮である。天智天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も近江大津宮で即位。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや, 672-694) / 第40代・天武天皇と第41代・持統天皇の時代の宮。壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)に勝利した大海人皇子(天武天皇)が、天智天皇・弘文天皇の拠点である近江宮(滋賀県)を離れて再び飛鳥(奈良県明日香村)の地に飛鳥浄御原宮を置いた。
藤原京(ふじわらきょう, 694-710) / 奈良県橿原市周辺に造営された日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)の本格的な中国風都城(とじょう)である。第41代・持統天皇、第42代・文武天皇、第43代・元明天皇の時代の都で、大和三山(北に耳成山・西に畝傍山・東に天香具山)を抱える壮大な規模の古代日本の首府だった。貴族文化である白鳳文化が隆盛を迎えるが、710年に平城京に遷都し711年に藤原京は焼失する。
592年に崇峻天皇が馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、593年に厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の摂政となりますが、推古朝の時代には蘇我馬子と厩戸皇子が国政の主導権を握っていました。593年には、物部守屋との戦いで仏教に戦勝を祈願して寺社の建立を誓っていた蘇我馬子が、日本初の本格的な仏教寺院となる飛鳥寺(法興寺)を建設しました。飛鳥寺の建設には朝鮮半島の百済(くだら)からやってきた渡来人の技術者や仏僧が活躍したといいますが、当時の中国(隋・唐)や朝鮮(高句麗・百済・新羅)は仏教や学問などが盛んな文明の先進地でした。日本仏教に仏舎利(釈迦の骨)をもたらしたのは司馬達止(しばたつと)であり、日本最古の仏像である飛鳥大仏を制作したのは司馬達止の孫の造仏工・鞍作鳥(くらつくりのとり)でした。鞍作鳥(止利仏師)は古代日本で最も著名な仏像制作者(仏師)であり、文化・芸術・学問が隆盛していた中国の北魏の影響を強く受けていたといわれ、法隆寺金堂の釈迦三尊像を作ったことでも知られています。  
聖徳太子(厩戸皇子)の中央集権的な政治改革と外交姿勢
推古天皇の時代の歴史的事件については『日本書紀』『隋書 倭国伝』などに記されていますが、聖徳太子(厩戸皇子)の歴史的な功績と法隆寺関連の伝承については『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』に詳しく記録されています。なぜ、天皇に即位していない聖徳太子に『帝』という呼称がついているのかの理由は不明ですが、現在残っている五部編成の『上宮聖徳法王帝説』は平安時代初期に編纂されたものと考えられています。聖徳太子(しょうとくたいし)という呼び方は後世に付けられた尊称(号)なので、最近では本名である厩戸皇子(厩戸王)と呼ばれることが多くなっています。聖徳太子は、天皇を中心(主権者)とする中央集権国家の整備に尽力した政治家であり、当時の新興宗教である仏教を保護して隆盛させた信仰者として知られています。聖徳太子の中央集権的な政治改革で最もよく知られているものに『冠位十二階(603)』と『十七条憲法(604)』の制定があります。聖徳太子が中国や朝鮮に対峙するための政治改革に関心を寄せるきっかけになったのは、595年に来日して政治・仏教の師となった高句麗の僧・彗慈(えじ)との出会いでした。
摂政の厩戸皇子(聖徳太子)は、603年(推古11年)に儒教の徳治主義と仏教国・百済の官位制を参考にした『冠位十二階(かんいじゅうにかい)』という位階制を制定しました。冠位十二階は儒教の『徳・仁・義・礼・智・信』の徳目を参考にした位によって臣下(豪族)を序列化するもので、天皇が直接豪族を冠位に任命したので天皇の専制権力と権威を強化する目的を持っていました。厩戸皇子は、蘇我氏・大伴氏・物部氏など出身氏族によって身分(職務)が決まる古墳時代の『氏姓制度』を、個人の能力や適性によって冠位(身分)を与える実力主義の要素を持った『冠位十二階』に変革しようと考えました。7世紀初頭の段階では、まだまだ蘇我氏・大伴氏などの有力豪族や血縁集団(氏族集団)の権力が強く冠位十二階の目指す天皇中心体制は十分に実現しませんでしたが、701年の大宝律令の制定に向けて次第に天皇の権力・権威が強化されていきました。実力・功績重視の冠位の任命の事例としては、607年に遣隋使として隋に派遣された小野妹子(おののいもこ)の大礼から大徳への昇進があります。冠位十二階によって始まる古代日本の官位制は、平城京・平安京(奈良・平安時代)で確立した律令国家(りつりょうこっか)の律令官位制として完成度を高めていくことになります。
冠位十二階には、冠の色と髻華(うず)の種類という『外見的な意匠の特徴』で簡単に身分の上下が判断できるという特長があります。髻華(うず)というのは冠につける飾りのことで、『金・豹の尾・鳥の尾』の3つの種類があり、最も冠位(身分)が高い大徳・小徳は金の髻華をつけていました。冠位十二階の具体的な内容(冠位・色・髻華)は以下のようになっています。大徳・小徳のような大と小の冠位の色の違いは、大が『濃い色』、小が『薄い色』というように決まっていました。
•大徳・小徳……紫色で金の髻華
•大仁・小仁……青色で豹尾の髻華
•大礼・小礼……赤色で鳥尾の髻華
•大信・小信……黄色で鳥尾の髻華
•大義・小義……白色で鳥尾の髻華
•大智・小智……黒色で鳥尾の髻華
604年(推古12年)に、厩戸皇子は天皇が統治する日本国の豪族・役人(官吏)の心構え・服務規定を説いた『十七条憲法』を定めますが、十七条憲法は後世の潤色(加筆変更)を受けていると考えられています。加筆や変更が加えられたのではないかという根拠には、当時使われていなかった『国司』という言葉が十七条憲法の中に見られることなどがあります。飛鳥時代の十七条憲法は、現在のような国家の最高法規としての性格を持っておらず、儒教・仏教の思想が混合した道徳規範として作成されたもので『君臣の身分秩序・和の思想・仏法の保護・公私の区別』などが謳われています。『和を以て貴しとなせ』『篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり』『詔を承りては必ず謹め』という冒頭の三つの教えは有名であり人口に膾炙しています。仏法の熱心な信仰者であった厩戸皇子(厩戸王)は、6世紀末に四天王寺を建立し、607年に斑鳩寺(法隆寺)を建てたことでも知られますが、斑鳩寺(いかるがでら・若草伽藍)の設立年については史跡・遺構による根拠があるわけではありません。『日本書紀』では、601年から厩戸皇子が斑鳩の地域に宮室(斑鳩宮)を造営し始めたとあり、交通・軍事の要衝の地にあった斑鳩宮に605年に移り住みました。仏法関連の聖徳太子の著述としては、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』があります。
政治家としての厩戸皇子(聖徳太子)は、中国(隋)と朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)に対して積極外交を展開し、日本が中華思想に基づく冊封体制(中国との主従関係)に帰属していない独立国であることを強く主張しました。古代〜近世に至るまで東アジアの国々の多くは、大帝国である中国(隋・唐・明・清など)を宗主(君主)とする封建的な冊封体制(さくほうたいせい)に組み込まれており、中国からその国の支配権の正当性を認めてもらい『国王』という称号を与えられていました。中国の皇帝から自国の統治権を認めてもらって『王』として任命されれば『中華思想的な冊封体制』に組み込まれることになり、中国に対して貢ぎ物を持っていく朝貢(ちょうこう)を行わなければなりません。しかし、聖徳太子(厩戸皇子)は日本が隋(中国)に服属しない対等な独立国であることを明確に示すために、遣隋使に持たせた国書(上表文)に『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(つつがなきや)。云々。』という文言を書きました。日本の天皇と中国の皇帝を同列の地位に置いたかのような国書を読んで、野心的な暴君として知られる隋の煬帝(ようだい)は激怒し、これ以降は日本国の使節を自分に取り次がないようにと伝えたといいます。
607年に小野妹子をはじめとする遣隋使(けんずいし)を派遣して、隋(中国)の先進的な政治制度や文化様式、学問・仏教などを輸入した厩戸皇子ですが、天皇中心の中央集権的な国家整備を進める中で中華文明圏に呑み込まれない独立国の建設に力を尽くしました。厩戸皇子(聖徳太子)はまた朝鮮半島に対する積極的な軍事外交も展開しており、600年に新羅(しらぎ)に出兵して日本に『調(年貢の一種)』を朝貢するという約束を取り付けました。602年にも、同母弟である来目皇子(くるめのおうじ)を将軍とする軍勢2万5千を九州の筑紫に集めて、新羅への大遠征を計画しましたが来目皇子が急死したために遠征計画は中止されました。摂政の聖徳太子は最大の豪族である蘇我馬子と協調路線を取って、国内的には中央集権体制の確立を進め、対外的には主権を持つ独立国の体裁を整えていったのです。
聖徳太子は622年に没し蘇我馬子は626年で死去しますが、古墳時代末期から権勢を拡大し続けた蘇我氏は、蘇我馬子‐蘇我蝦夷の親子の代で絶頂期に到達します。天皇の外祖父・伯父となることで天皇の権威に及ばんとするほどの絶大な権力を振るった蘇我馬子は、624年に蘇我氏の本拠地と称する葛城県(かずらきのあがた)の割譲を推古天皇に強引に要求します。葛城県は天皇の直轄領的な性格を持つ大和六県の一つだったので、推古天皇は『蘇我氏の出自』を強調しながらも葛城県の割譲を拒否しました。天皇の直轄領の割譲を要求するところに蘇我氏の専横と増長の兆候が現れていますが、645年には、政治の主導権を天皇に取り戻そうとする中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)による『大化の改新(乙巳の変)』が起こります。
推古天皇は628年に病没しますが、推古天皇の死後には蘇我蝦夷の妹婿である田村皇子(舒明天皇)と聖徳太子の子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が皇位争いで対立します。この時点の皇位の継承は『父子の直系継承』ではなく『群臣推挙による継嗣決定』だったので、推古天皇は自分の後継者を明確に決定することができず、田村皇子と山背大兄皇子の内紛を招きました。蘇我蝦夷が田村皇子を推挙し、山背大兄皇子を蝦夷の叔父の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が推挙しましたが、最終的に境部臣摩理勢は蝦夷の刺客に暗殺され、田村皇子が舒明天皇(即位629−641)として即位することになります。『古を推す(いにしえをおす)』という意味を持つ推古天皇が没したことで、日本の古代大和朝廷の時代に区切りがついたと考えることができ、『古事記』の天皇の系譜は推古天皇で終わっています。舒明天皇は天智天皇と天武天皇の兄弟の父であり、井沢元彦氏のような『天智と天武の非兄弟説』もありますが、舒明天皇の即位によって古代日本は一つの歴史的・心理的な区切りを迎えたと言えるでしょう。
第35代の女帝・皇極天皇(在位642-645)の時代に、宮中クーデターである大化の改新(乙巳の変)が勃発します。この大化の改新によって、国政を支配していた蘇我入鹿(そがのいるか)は宮中で突然殺害され、父の蘇我蝦夷は自宅に火を放って自殺することになりました。蘇我稲目‐馬子‐蝦夷‐入鹿と続いてきた蘇我氏の宗家が滅亡すると、皇極天皇は第36代の孝徳天皇(在位645‐654)に譲位しますが、孝徳天皇(軽皇子)の後に再び第37代・斉明天皇として即位します。そのため、皇極天皇と斉明天皇は同一人物の女帝ということになります。蘇我馬子が葬られた桃原墓は奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳ではないかと言われていますが、石舞台古墳は横穴式石室を持つ巨大な古墳で膨大な労働力を使役して作られたと見られる古墳です。  
 
『天智系』の光仁天皇と桓武天皇の即位

 

『飛鳥時代の歴史』の項目では、推古天皇の時代の豊浦宮(とゆらのみや)から藤原京・平城京までの都を紹介しましたが、奈良時代末期になると第49代・光仁天皇(在位770‐781)の長子である第50代・桓武天皇(在位781‐806)が長岡京への遷都を断行することになります。桓武天皇は平城京から長岡京への遷都(784)だけではなく、長岡京から平安京への遷都(794)を決断した人物として日本の古代史(貴族政治)の中で最も重要な人物の一人となっています。『鳴くよ(794)ウグイス平安京』は日本史の年号の語呂合わせで最も有名ですが、長岡京への首都移転を具体的に見ていく前に桓武天皇に至るまでの『天皇の血統(系譜)』を振り返ってみます。
桓武天皇の父は光仁天皇(こうにんてんのう)であり、母は高野新笠(たかののにいがさ)ですが、幼名を白壁王(しらかべおう)と言った光仁天皇は『天武系から天智系の血統へと皇位を取り戻した人物』であり、高野新笠は『百済の王族系氏族(渡来人)の末裔』として知られる女性です。高野新笠の父は和乙継(やまとのおとつぐ)と言い、6世紀初頭の伝説的な武烈天皇の時代に和氏(やまとし)は日本人として帰化したといいます。母は土師真妹(はじのまいも)は葬送儀礼に専従した豪族・土師氏の末裔ですが、広大な勢力圏を持っていた土師氏の中では立場の弱い氏族に位置づけられていたといいます。
高野新笠の身分は皇族の妃としては高くなく光仁天皇の寵愛を受けていたものの、皇后である井上内親王(いのえないしんのう)よりも明らかに低い地位にありました。その為、光仁帝と高野新笠の間に産まれた長子である山部親王(やまべのみこ、桓武天皇)には皇位継承権はなく、光仁帝と井上内親王の間に産まれた第四子の他戸親王(おさべのみこ)が次期天皇になる予定でした。高野新笠は元々父親の姓である和(やまと)を名乗って和新笠と言っていましたが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると宝亀の年に高野朝臣を賜姓されたといいます。『高野』という姓には、死後に奈良県の高野山陵に葬られて、高野天皇と呼ばれた称徳天皇(天武系)との血縁関係をイメージさせるという政治的意味合いもあったようです。
皇后の井上内親王は聖武天皇の娘であり、子の他戸親王は立太子されていましたが、772年に井上内親王が光仁天皇を呪詛して禍いをもたらそうとしたとして、井上内親王は廃后され退けられました(光仁天皇呪詛事件)。当然、母親が天皇を呪詛して廃后されたのですから、子の他戸親王も廃太子されることとなり、山部親王(桓武天皇)に皇位が回ってくることになりました。なぜ、既に身分が保障されていて我が子の皇位継承が決まっていた井上内親王が光仁天皇を呪詛したのかには諸説あります。最も有力な仮説としては、藤原百川を首謀者とする陰謀説があります。井上内親王・他戸親王を支持していた藤原北家の藤原永手(ふじわらのながて)が771年に死去しますが、その後、山部親王(桓武天皇)を立太子しようとする藤原式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)・藤原百川(ふじわらのももかわ)が勢力を拡大し井上内親王と他戸親王を陰謀に陥れたという説です。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が主導した645年の大化の改新(乙巳の変)によって、専横を極めた蘇我入鹿が暗殺され天皇親政の政治体制(天皇自らが政治の指揮を執る体制)が一時的に復活します。一時的に天皇親政が復活するというのは、東大寺の大仏建立で有名な第45代・聖武天皇(在位724‐749)を懐柔した藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)が登場する奈良時代末期から、臣下である藤原氏の影響力が急速に強大化していくからです。奈良時代が終わって平安時代になってくると、天皇を傀儡化して外祖父である藤原氏が政権を掌握する『藤原摂関政治』によって朝廷の政治が動かされるようになっていきます。藤原摂関政治というのは、まず藤原氏の娘が天皇の皇后になり皇太子を出産して、皇太子(次期天皇)の祖父に当たる藤原氏の男性が『摂政・関白』という最高位の官職に就いて政治の実権を握るというものです。
平安時代末期には、保元の乱(1156)と平治の乱(1159)で源氏に勝利した武家の一族である『平氏(平清盛)』が政治の実権を握りますが、武家である平氏も公家の藤原氏を真似て自分の娘を天皇に嫁がせる『摂関政治』を行いました。その為、藤原氏のようになろうとした平氏は『質実剛健な武士の気風』を弱めていき急速に貴族化の度合いを強めていくのですが、平氏が源氏に敗れた背景には『生活様式の貴族化』と『(地方武士に恩恵を与えない)貴族化による地方武士の支持率低下』があったとも言えます。白村江の戦い(663)など朝鮮半島政策において強硬に『百済の復興(防衛)』を目指した第38代・天智天皇(626-672)が没すると、天皇家の内乱である壬申の乱(672)が勃発して、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子に勝利し皇統に乱れが生じます。中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)は中大兄皇子を兄とする兄弟であり大友皇子は天智天皇の子ですが、天武天皇が大友皇子(第39代・弘文天皇)を打倒したことで皇位継承権が天智系から天武系へと移行しました。
第40代・天武天皇(在位673‐686)は『天皇』という呼称を初めて公式に使用した天皇と言われ、事実上の初代天皇は推古天皇か天武天皇ではないかと推測されています。飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇は、天皇・皇族が政権を掌握する中央集権的な律令国家体制(皇親政治体制)を整備し、『八色の姓(やくさのかばね)』という身分制度を制定して実力主義的な論功行賞を行いました。天武帝以降は、持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇(称徳天皇)・淳仁天皇と『天武系(女帝を4人含む)』で皇位が継承されてきましたが、道鏡の愛人としての俗説でも知られる第48代・称徳天皇(孝謙天皇)の後に久々に『天智系』の光仁天皇に皇位が巡ってきました。
光仁天皇(白壁王)は、称徳天皇に反旗を翻した『恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764)』の鎮圧に貢献したことで称徳天皇からの評価は高かったのですが、天武系から隔たった血統から考えると皇位に就くことは難しいと見られていました。しかし、称徳天皇の死後に『有力な天武系の皇太子がいなかったこと』と『白壁王の皇后が聖武天皇の娘である井上内親王』であったことから、62歳という高齢で光仁天皇が即位する運びになりました。左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備(きびのまきび)、参議・藤原宿奈麻呂(ふじわらのすくなまろ・藤原良継)らの支持を受けての即位でした。光仁天皇は天智天皇の孫に当たり、桓武天皇は曾孫に当たりますが、藤原百川・藤原良継らの謀略によって天武系の井上内親王と他戸親王が排除され、天智系の桓武天皇(山部親王)も皇位に就くことになります。  
桓武天皇による長岡京・平安京の建都
第50代・桓武天皇(山部親王)は、773年に立太子して781年に即位しますが、天武系の血統でないというハンディキャップは大きく、782年には天武系の塩焼王を父に持つ氷上川継(ひかみのかわつぐ)が反乱を起こしています(氷上川継の変)。782年には三方王(みかたおう)という天武系の皇子も反乱を起こしており(三方王の魘魅事件・えんみじけん)、天智系の天皇である桓武天皇の正統性を周囲に認めさせるにはある程度の時間がかかりました。そして、旧世代の天武系とつながった政治機構(貴族勢力)や政治に容喙(ようかい=口出し)する寺社勢力を一掃するために桓武天皇とその側近が考えたアイデアが『長岡京への遷都(新都建設)』でした。100年近く続いてきた平城京での政治運営に終止符を打つために、桓武天皇は平城京の造宮や修繕を役務とした『造宮省(ぞうぐうしょう)』の廃止を宣言し、784年には藤原種継の補佐を受けて長岡京への遷都を決断します。藤原式家(藤原宇合が始祖)に属する藤原種継(ふじわらのたねつぐ、737-785)は、桓武天皇からの信任が非常に厚く長岡京遷都に重要な役割を果たした人物です。
他戸親王(天武系)を排して桓武天皇(天智系)の即位に貢献したとも言われる藤原百川(732-779)ですが、藤原百川に連なる親族はその後桓武天皇に厚遇されており、百川の子・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と百川の甥・藤原種継は二人とも年少で参議(さんぎ)という高官に抜擢されています。長岡京建設の任務を負う造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)に任命された藤原種継は、藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)らと共に784年5月に山背(京都)の長岡の地を視察し、784年11月には桓武天皇が遷都を宣言することになります。
ほとんど新都建設の下準備をする時間がない中での慌しい遷都となりましたが、ここに、桓武天皇の新政権を構築せんとする意志の強さと旧都を廃棄しなければならない切実な状況が現れているようでもあります。なぜ、京都(山城・山背)の長岡京の地に都(宮)が置かれたのかの理由について桓武帝自身は『水陸の交通の便の良さ』を上げていますが、それ以外にも怨霊信仰をベースとする『都(首府)のケガレ』によって平城京を棄てざるを得なかったという説や東大寺の大仏建設による公害問題が深刻化したというような意見もあるようです。
約半年という極めて短い工期(建設期間)で長岡京は造都されたわけですが、長岡京を構成する建築資材は旧都の平城京や難波宮(なにわのみや、天智帝が建設)を解体して集められ、朝廷の中心にある大極殿(だいごくでん)や朝堂院(ちょうどういん)は難波宮の建築物をそのまま再現したとも言われます。長岡京の建設に伴って難波宮の解体作業が進められたといいますが、その任務には摂津職の和気清麻呂(わけのきよまろ)が当たりました。和気清麻呂(733-799)は怪僧・弓削道鏡を天皇にしようとした孝謙天皇(称徳天皇)に逆らって、宇佐八幡宮神託事件を起こしました。その結果、孝謙天皇から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国(鹿児島県)へと流された人物ですが、桓武天皇の時代には名誉回復が為されて高位の官職に就いていました。
長岡京遷都を先頭に立って指揮した藤原種継は桓武帝の強い信任を受けながら造都計画を進めましたが、遷都反対派の大伴継人・大伴竹良や佐伯氏、丹治比氏の陰謀によって暗殺されました(785)。藤原種継暗殺の前に死去していた大伴氏の頭領である大伴家持も官位を剥奪され、暗殺を阻止できなかった皇太弟(天皇の弟である皇太子)の早良親王も乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されて廃嫡されました。早良親王は最終的には淡路島に流刑されており、長岡京を棄都して平安京という新たな都(宮)を建設した理由として、早良親王の怨霊やケガレを恐れたという仮説もあります。早良親王は無実の罪で淡路島に流された可能性が高く、藤原種継暗殺事件そのものが、早良親王ではなく我が子である安殿親王(あでしんのう、第51代・平城天皇)に皇位を譲りたかった桓武天皇が仕組んだ陰謀であるという説もあります。
早良親王は桓武帝と同じく光仁帝と高野新笠との間に出来た子ですが、11歳時に東大寺で出家しており、初代の東大寺別当・良弁(ろうべん)の後継者に指名されるほどの高潔で禁欲的な人物であったと言われます。早良親王を淡路島に配流した後に、東北(蝦夷)遠征の失敗や母・高野新笠や皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の死など不幸を経験した桓武天皇は、早良親王の怨霊を恐れて800年に『崇道天皇(すどうてんのう)』という諡号を早良親王に送っています。
東大寺建立や大仏建設などに関わり造長岡宮使としても活躍した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)も中央の官職を解任されて太宰帥(だざいのそち)として九州に左遷されています。長岡京建設に当たって藤原種継の母方(秦朝元、はたのちょうげん)の親族である秦氏が大きな経済支援をしていたといいますが、藤原種継暗殺によって秦氏の支援の割合は小さくなりました。長岡京の造都事業に優れた手腕を発揮していた藤原種継と佐伯今毛人という二人の人物を失うことで長岡京の建都は頓挫して失敗しますが、その背景には自分の子である安殿親王を天皇にしようとした桓武天皇の個人的願望が潜んでいたのかもしれません。
桓武天皇は和気清麻呂の勧めもあり792年頃に長岡京を棄てて新都建設を決断し、平安京の地の地相調査を実施させていますが、平安京遷都の原因には上述した早良天皇の怨霊説や天災(水害)による長岡京の疲弊説などがあります。平安京の造都は、和気清麻呂と菅野真道(すがののまみち)らによって推進されましたが、現在の京都の地を『山背(やましろ)=大和・奈良から見た山の向こう』ではなく『山城』と呼び始めたのは平安京遷都後に出した桓武天皇の詔(みことのり)に起源があります。大規模な平安京の羅城門・大極殿・朝堂院などの造宮には無数の技術者と労働者が参加していたと考えられますが、この時代に建築の技術者を多く輩出していたのは飛騨国(岐阜県)であり、飛騨の工匠たちは『飛騨匠(ひだのたくみ)』と呼ばれていました。
平安京の造営や官衙(かんが)の修繕は基本的に律令制(公地公民制)に基づく『公民(百姓)の徴発・労役(強制労働)』によって行われましたが、造都の労働力として徴発された人民を『造宮役夫(ぞうぐうやくぶ)』といいます。飛騨匠のような木工技術者は造宮役夫の中で『諸国匠丁(しょこくしょうてい)・年貢匠丁(ねんこうしょうてい)』と呼ばれ、一般労働者は労働対価として一定の食糧が配給されたので『雇民(雇夫)』と呼ばれました。
桓武天皇の業績の中で最も重要なのは、『平安京の新都建設』と坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍に任命して行った『東北地方(陸奥地方)の征討』ですが、これら二つの国家の大事業は大人数の公民(百姓)たちの徴兵や労役を必要としたので非常に大きな負担となりました。しかし、805年に桓武天皇の御前で徳政(仁徳のある良い政治)について藤原緒嗣(参議・右衛士督)と菅野真道(参議・左大弁)が議論する『徳政相論』があり、『人民・百姓の大きな負担・不満になる軍事(蝦夷征服)と造都(平安京建築)を停止すべきである』とした藤原緒嗣の意見が桓武天皇に採用されました。
この徳政相論によって、平安京建設の任務に当たる『造宮職(ぞうぐうしき)』と徴兵(兵役)による国家の正規軍が大部分廃止されましたが、桓武天皇は兵役の軍隊に代わって平安京や重要拠点を守るための精鋭部隊である『健児(こんでい)』を置きました(奈良時代からある健児の制の拡大)。また桓武天皇は、地方政治の公正と中央集権的な指導体制を守るために国司(地方長官)の行政を監査・監督する『勘解由使(かげゆし)』という令外官(りょうげのかん=律令に規定のない官職)を置きました。文化的で貴族的というよりも東北征討(蝦夷攻略)に見る武断的なところの多かった桓武天皇は、平安京の建都を始めとして『平安時代の礎石』を固めた天皇と言えるでしょう。
桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏の間には、安殿親王(平城天皇)とその弟・神野親王(嵯峨天皇)がいましたが、桓武帝の死後に情緒的に不安定で病弱だった安殿親王(あどしんのう)が第51代・平城天皇(へいぜいてんのう、在位806−809)として即位します。依存的で未熟なところのあった平城天皇は、藤原種継の娘で母親といってもおかしくないくらいに年齢の離れた藤原薬子(ふじわらのくすこ)を寵愛して、後に第52代・嵯峨天皇(在位809-823)と対立して『薬子の変・平城太上天皇の変(810)』へとつながっていきます。
桓武天皇が存命中から安殿親王は、既に藤原縄主(ふじわらのただぬし)と結婚していた藤原薬子を愛していたが、桓武は不倫を許さずに激昂して薬子を後宮から追放しました。しかし、桓武天皇の死後(806)に再び平城天皇の寵愛を受けるようになった藤原薬子は、朝廷の尚侍(ないしのかみ)に任命されて兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)と共に専横を極めます。平城天皇は体調悪化を理由にして809年に神野親王(嵯峨天皇)に譲位しますが、平安京から旧都の平城京に拠点を移して影響力を維持しようとしました。
嵯峨天皇と平城上皇の対立によって、平安京と平城京の二つの都から政令が出される『二所朝廷』という異常事態が生まれましたが、平城上皇の背後には絶えず藤原薬子と藤原仲成の兄妹の姿がありました。二所朝廷という異常事態を収拾するために、嵯峨天皇は尚侍・藤原薬子の権限を奪うために『蔵人頭(くろうどのとう)』という官職を設け、平城上皇はそれに対して藤原仲成を参議に任命して対抗しました。遂には、平城上皇が首府(都)を平安京から平城京に戻すという『平城還都令』を出して、平安京の貴族官僚たちに再び平城京に戻ってくるように呼びかけました。
しかし、それに激昂した嵯峨天皇は、速やかに坂上田村麻呂や藤原冬嗣が率いる軍を差し向けて藤原仲成と藤原薬子を捕縛しました。藤原仲成は捕縛された次の日に処刑されますが、平安時代には仲成の死刑以後は死刑が廃止されることになり、保元の乱(1156)が起こるまで死刑が執行されることはありませんでした。平城上皇が深く寵愛した藤原薬子は服毒自殺を遂げることとなり、平城上皇は出家してその後も生まれ故郷である平城京に静かに住み続けました。『平城(へいぜい)』という漢風諡号(かんぷうしごう)は、旧都・平城京への還都を目指すほどに平城京を強く愛した安殿親王の意志を反映して送られた号なのです。  
 
坂上田村麻呂による蝦夷征討と東北経略

 

『平安時代の歴史』の項目では、桓武天皇による長岡京・平安京の建都と平城天皇・嵯峨天皇による『二所朝廷』などを取り扱いましたが、ここでは桓武天皇の勅命を受けて陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)征伐を行った坂上田村麻呂を中心にして解説していきます。奈良時代末期から平安時代初期の武官・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ、758-811)は、東北地方の征討・経略(統治)に非常に大きな貢献をした人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が信奉した第二代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)としても有名です。794年頃に征夷大将軍に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍と解釈する見方が有力ですが、当時は東国支配の長を征東大使や征夷使とも呼んでいました。坂上田村麻呂は、797年に桓武天皇によって征夷大将軍に任命されています。
征夷大将軍という臨時の官職名(律令に規定のない令外官)の前提には中国の中華思想と律令政治があり、天命を拝受した天子(皇帝・天皇)が夷狄(いてき=野蛮な異民族)を征伐するという意味合いがあります。実際には、奈良時代から平安時代にかけての関東以北(坂東以北)の陸奥・出羽地方(奥羽地方)の原住民(蝦夷)が、必ずしも野蛮・凶暴だったわけではありませんが、大和朝廷(天皇)中心の日本国の内地拡大の正統性を示すために『蝦夷征討(未開の異民族の征伐)』という言い方が為されています。中華思想の華夷秩序によって、天皇の在所(朝廷)がある大和・山背(山城)など近畿地方周辺を『文明圏』と考え、その文明圏から遠く離れれば離れるほど『未開の異民族(蝦夷)』が支配する領土に入っていくという地理感覚が当時の貴族(公家)にはありました。大和朝廷の軍事力による『奥羽地方の蝦夷攻略』というのは、飛鳥時代や奈良時代から続く『東国支配の延長上』にありました。律令制を整備しようとした聖徳太子の登場以降、中央集権的な日本国の領土を関東以北(奥羽地方)に広げようという政策が続いていました。壺の石碑(いしぶみ)によると、724年に東北支配の拠点となる多賀城(たがじょう)が大野東人(おおののあずまんど)によって建設され、762年には藤原朝葛(ふじわらのあさかり、葛の字は正確には「けものへん」が必要)によって多賀城の補強工事が為されました。
朝廷は奥羽地方を統治する官職として按察使(あぜち、地方行政の監督官・令外官)を719年に制定し、780年には紀広純(きのひろずみ)が按察使を務めていましたが、夷俘(俘囚=朝廷に帰属した蝦夷)出身の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こしました。多賀城を襲撃した伊治呰麻呂は食糧・財物を収奪して放火しましたが、この反乱に対して平城京の朝廷は、征東大使・藤原継縄(ふじわらのつぐただ)、征東副使・大伴益立(おおとものますたち)・紀古佐美(きのこさみ)を陸奥の多賀城に派遣しました。しかし、藤原継縄率いる蝦夷征伐のための官軍は伊治呰麻呂らの俘囚軍に圧倒されて敗戦し、光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)に置き換えて再度戦いを挑みますが反乱の鎮圧に失敗します。光仁天皇は781年に桓武天皇に譲位して、桓武天皇は長岡京遷都を間近に控えた784年(延暦3年)から本格的に陸奥地方(東北地方)の反乱の制圧に取り掛かり始めます。桓武天皇の二大業績は『長岡京・平安京の造都(中枢の強化)』と『陸奥地方の征討・経略(周縁の拡大)』ですが、この二つは長岡京遷都のある784年以降同時並行的に進められていくことになります。古代の昔から明治時代に至るまで、日本は京都・江戸(東京)に中央政府を置いて南北に領土を拡大していきましたが、平安時代には南方にいた異民族の隼人(はやと)は大部分が既に朝廷の権威に服属していました。
784年に、持節征東将軍・大伴家持(おおとものやかもち)、副将軍・文室与企(ふんやのよぎ)と大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らの兵力が陸奥の多賀城に向かいました。老齢の大伴家持が征東将軍に任命された背景には、前回の陸奥遠征で讒謗(ざんぼう)によって処分された大伴益立の汚名を雪ぐ(すすぐ)という本人(家持)の意志がありましたが、家持は目立った戦果を上げることができず785年8月に陸奥の地で客死(かくし)しました。大伴家持(718-785)というと『万葉集』の編纂に関与した歌人としての顔が有名ですが、大伴氏は元々軍事貴族であり大伴家持自身も朝廷の武門としての自負を持っていたようです。桓武天皇の御世には合計して5回の蝦夷征討(東北征討)が実施されますが、1回目(大伴家持)と5回目(坂上田村麻呂)の蝦夷征討では実際の戦闘は行われず、5回目の征討(804年)の二年後(806年)に桓武天皇は崩御しました。桓武帝の蝦夷征討や蝦夷の指導者・アテルイ(阿弖流爲)については、『日本紀略』や『続日本紀』などの史書に記述が残されています。第一次征討(788)では紀古佐美(きのこさみ)が征東大使、多治比浜成(たじひのはまなり)が副使となり5万2800余名の兵士を率いますが、胆沢(いさわ)に本拠を置く蝦夷の賊帥・アテルイ(阿弖流爲)に巣伏村の戦いで大敗を喫して撤退しました。
第二次征討(791-794)では、征東大使・大伴弟麻呂を副使の坂上田村麻呂が補佐して、初めて蝦夷軍に大勝利を収めることに成功します。また、793年にはそれまで『征東大使』と呼ばれていた東北討伐軍の長の官職が『征夷大使』と改められており、桓武天皇の蝦夷経略に対する意気込みの強さが表れています。794年には大伴弟麻呂が史上初の征夷大将軍となっていますが、蝦夷との実際の戦いを指揮して卓越した武勇を見せ付けたのは坂上田村麻呂でした。第三次征討(797-801)では、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されており、朝廷の陸奥地方における勢力圏を多賀城の北部へと拡大しました。蝦夷との戦いに勝利した坂上田村麻呂は多賀城の北に陸奥統治の拠点となる胆沢城(いさわじょう)を造営し、その後、胆沢城は官衙(かんが=行政機関)としての役割を果たすようになっていきます。第三次征討の翌年に当たる802年には、蝦夷軍の指揮官であったアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が胆沢城に投降してきますが、平安京に移送されたアテルイとモレは坂上田村麻呂の助命も虚しく処刑されました。胆沢城の更に北には軍事的な前線基地としての役割を果たす志波城(しわじょう)が803年から造営され始めますが、天災被害を受けることの多かった志波城の機能はすぐに徳丹城(とくたんじょう)へと移されました。
蝦夷を平定した坂上田村麻呂の奥羽経略の拠点は多賀城・胆沢城・徳丹城(志波城)となりましたが、桓武天皇の深い信任を受けた田村麻呂は『征夷大将軍・近衛権中将・陸奥出羽按察使・従四位下・陸奥守鎮守将軍』という陸奥・出羽地方の全権大使としての肩書きを得るまでに昇進しました。蝦夷反乱を鎮圧して東北地方(奥州地方)を日本の領土に組み込んだ坂上田村麻呂は、その後、『武人の鑑』として神格化されていき胆沢の鎮守府八幡宮には田村麻呂の剣や弓矢が奉納されて武家の崇拝の対象となりました。東北地方各地にはさまざまなエピソードと共に田村麻呂伝説が残っていますが、京都・清水寺(きよみずでら)の開基にも坂上田村麻呂とその妻が関わっています。京都・清水寺の縁起によると、805年に桓武天皇から田村麻呂が清水寺の寺地を賜り、807年に田村麻呂の妻が寝殿造りの建物を壊して、仏像を安置する仏堂を造営したのが清水寺の創建となっています。
第50代・桓武天皇と坂上田村麻呂による東北征討の後には、第51代・平城天皇が808年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)を陸奥按察使に任命し、810年には第52代・嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を陸奥按察使・征夷大将軍(811)にしています。文室綿麻呂の蝦夷軍に対する決定的な勝利と対立的な蝦夷の日本各地への強制移住によって、蝦夷は次第に日本国へと同化していくことになります。907年に編纂された『延喜式(えんぎしき)』によると日本各地に『俘囚料』という行政支出が見られるので、『服属した俘囚の同化政策』の推進のために俘囚の人たちの強制移住が行われたことがわかります。桓武天皇の陸奥地方経略以前の時代には、東北地方の先住民を『蝦夷(えぞ・えみし)』と呼んでいたのですが、坂上田村麻呂や文室綿麻呂の征伐によって朝廷に服属する蝦夷が増え、蝦夷は『俘囚(ふしゅう)』や『夷俘(いふ)』と呼ばれることが多くなりました。『俘囚』には朝廷に完全に服属した異民族という意味合いがあり、『夷俘』という場合には中央政府への服属や同化の程度が弱い蝦夷という意味があります。しかし、蝦夷の人たちは朝廷の軍事力によって強制的に服属させられたわけですから、比較的安定した9世紀以降にも何度か俘囚による反乱蜂起が起こることになります。
『三代実録(さんだいじつろく)』という史書によると、出羽地方(秋田県)で878年に『元慶の乱(がんぎょうのらん)』という俘囚の反乱蜂起が勃発したといいますが、この反乱の原因は秋田城司・良岑近(よしみねのちかし)の俘囚に対する重税と抑圧・差別にありました。元慶の乱の平定には、備中国司の藤原保則(ふじわらのやすのり)と蝦夷の言語に精通していた鎮守将軍・小野春風(おののはるかぜ)が当たりました。官吏側の苛烈な悪政に反乱の原因があると理解していた藤原保則は、俘囚(夷俘)の反乱に対して武力鎮圧を用いずに小野春風を起用した対話外交の懐柔策で臨み、俘囚たちを自発的に投降させることに成功しました。元慶の乱の後には暫く俘囚の大規模な反乱は影を潜めますが、11世紀には、俘囚長・安倍頼良が源頼義に反旗を翻す『前九年の役(1051-1062)』と俘囚の清原氏が滅亡する『後三年の役(1083-1087)』が起こっています。  
徳一の東国下向と陸奥の宗教文化
奥州・出羽の東北地方には、『軍神・毘沙門天の化身』ともされる征夷大将軍の田村麻呂伝説が数多く残っていますが、奈良(南都仏教)の興福寺の僧侶であった徳一(とくいつ、780頃-842頃)に関する伝承・寺社縁起も多く伝わっています。徳一は徳逸・徳溢とも表記しますが、『南都高僧伝』にその名前が載っているように元々は陸奥(奥州)地方の人間ではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)で修円(しゅうえん)に付いて学んだ法相宗の僧侶でした。修円の師は、唐招提寺の鑑真(がんじん)から直接授戒を受けた賢憬(けんけい)であり、藤原氏の氏寺である興福寺は戒律(具足戒)を重要視する法相宗の総本山です。そのため、興福寺の修円に学んだ徳一は、初め仏教界の中ではエリートに属する僧侶だったと考えられます。
血縁的には徳一(徳逸)は、称徳天皇(孝謙天皇)に厚遇された後に反乱を起こして失脚した藤原仲麻呂(恵美押勝、706-764)の子であるとされていますが、年齢的に若干の矛盾があり正確な出自には謎が残っています。奈良時代の平城京では、法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の南都六宗(奈良仏教)が隆盛していましたが、これらの仏教は皇室・貴族鎮護の学問仏教としての性格を濃厚に持っていました。法相宗の開祖は道昭(どうしょう)、中心寺院は興福寺・薬師寺、三論宗の開祖は恵灌(えかん)、寺院は東大寺南院、倶舎宗の開祖は道昭、寺院は東大寺・興福寺、成実宗の開祖は道蔵(どうぞう)、寺院は元興寺・大安寺、華厳宗の開祖は良弁(ろうべん)、寺院は東大寺、律宗の開祖は鑑真、寺院は唐招提寺でした。藤原鎌足や藤原不比等との所縁が深い興福寺は藤原氏の氏寺であり、南都七大寺(東大寺・法隆寺・薬師寺・大安寺・元興寺・西大寺・興福寺)の一つとして数えられます。
興福寺の学僧であった徳一は20歳前後で平城京から東国へと下向しますが、なぜ文化・宗教の中心地である平城京を離れて、奥州会津の恵日寺(えにちでら)や常陸筑波山の中善寺に行ったのかの理由は定かではありません。一説には、平城京の仏教界の中の勢力争いに巻き込まれて東国に流刑されたという説もありますが、自分自身の決断で中央政府の喧騒を離れて奥州(福島県)や常陸(茨城県)に赴いた可能性も否定できません。徳一が活動の拠点にしたのは、奥州会津で磐梯山(ばんだいさん)を背景に望む恵日寺と常陸筑波山の中善寺でしたが、晩年には『筑波山徳一』と呼ばれていたように筑波山の中善寺の方に本拠を置いていたようです。徳一大師の事績と徳行を重視する『恵日寺縁起』では、筑波山で死去した徳一の首を弟子の金耀が掻き切って恵日寺に持ち帰ったという伝説が残されています。
現在では、奥州会津の恵日寺と筑波山の中善寺のどちらをより重要な拠点としたのかは推測するしかありませんが、徳一が何処かの時点で会津から筑波山へと拠点を移したのは確かなようです。徳一は天台宗の開祖である最澄(767-822)と激しい論争を交わしたことでも知られていますが、『仏性抄(ぶっしょうしょう)』という書物を書いて天台教学を苛烈に非難しました。最澄と徳一の論争を『三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)』といいますが、これは、仏教の解脱・成仏の条件として『生まれながらの貴族的身分』が必要か否かといった問題を巡る論争で、修行によって万人が解脱(悔悟)できるとする最澄に徳一は強く反対しました。真言宗(真言密教)の開祖・空海(774-835)から『徳一菩薩』と呼ばれて敬われていた徳一(徳逸)ですが、徳一は空海の密教的な呪法・儀式にも批判的であり、奈良仏教(南都北嶺)の貴族主義的な伝統を重視していました。
奈良時代の南都六宗に代わって平安時代には最澄の天台宗と空海の真言宗が隆盛します。奈良仏教と平安仏教の違いは、平安仏教が万人の救済を説く大乗仏教の要素を取り入れたことにあり、教義研究よりも加持祈祷・呪術秘儀(密教)を重視し始めたところにあります。徳一はどちらかといえば平城京の貴族アイデンティティが強くエリート学僧としての側面を持っていましたが、東北地方の寺社の縁起にその名前が多く見られるように、奥羽の仏教文化の発展に大きな貢献をしました。東北地方には『田村麻呂伝説』と『徳一の縁起』が数多く残されていますが、それは、征討した奥羽地方に多くの内地人が早くから移住したことの証左であり、段階的に蝦夷(俘囚)の人たちが平安京の文化・宗教に順応していったことを示しています。  
 
 

 

 
 

 

 
日本古代史

 

1 『古事記』と『日本書紀』と太安万侶・稗田阿礼  
わが国で最も古い書物と言えば『古事記』と『日本書紀』である。
『古事記』の編算は西暦六八一年頃、天皇家の歴史を伝えるために、天武天皇の願いで作られた。
その資料に神話・伝説や『帝紀』『旧辞』などを編纂し、舎人(とねり)・稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させた。阿礼は聡明で多くの事柄を一度見るだけで覚えて暗誦することが出来たという。
その後、編纂の作業は西暦六八六年に天武天皇の崩御で中断、三〇年後に再開され、学者であった太安万侶(おおのやすまろ)が筆記し編纂されて、元明天皇に献上された。近年奈良市の郊外から遺骨と墓標誌銘が出土された。
『日本書紀』については、日本初の正史として西暦六八一年、天武天皇の命によって編纂が始まった。作成には川島皇子の他六名の皇族ら官人、学者が参画し、後に紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂、太安万侶も加わったと思われている。その後、四十年の歳月を経て養老四年(720)に完成され舎人皇子が元正天皇に献上された。『日本書記』については誰がどのように作成したかは記述はなく、時の権力者藤原不比等が関与したのではと思われている。
二つの古書の違いについては過去から様々な論議や推測がされているが、その意味には多くの謎が残されていている。
『古事記』は天皇家の私史として、神話の天地開闢から推古天まで、出雲編と氏族の詳しく述べられ、和文体を併用した漢文体で、全三巻で構成されている。
『日本書記』は対外的に正史として、天地開闢から持統天皇まで、漢文で全三十巻系図一巻で作成されている。日本正史として六国史『日本書記』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』が明記され、『古事記』『日本書記』は互いに比定しながら、欠落部分を補完しつつ日本の起源を探る基本古書となっている。
古事記研究には四大国学者の研究によって少しずつ今日のような形に解明されていった。
『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。『古事記』の存在を証明する物証もなく、従って古くより古事記偽書説がながれ、最古の写本が室町時代のものとされ、懐疑的な論議がなされたが、近年、昭和五十四年(1979)太安万侶の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。その事によって『古事記』と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
近年難波に宮跡発掘で7世紀中頃の、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が発見され、万葉仮名は七世紀末とされているが、これらの発見で二、三十年遡ることになる。
万葉仮名は漢字一字を一音にあてて表記したもので、その後太安万侶の『古事記』編算で一句の中に音と訓を交えている、言ってみれば日本語、漢字の「併用表記」と言えるのではないかと思われる。
そう言った点、稗田阿礼の記憶している記憶されている『古事記』の事柄に太安万侶の苦心が窺われる。
『古事記』については偽書説が一部の学者から提起されたが、近年、『古事記』実在の裏付けと、その記述の真価が認められ、再認識されている。
『古事記』の写本は主として「伊勢本系統」と卜部本系統の別れ、最古の初本は真福寺古事記三帖(国宝)である。奥書の祖本は上下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本で、道果本で真福寺本に近いとされ、その他は卜部本(うらべほん)系統とされている。
これら室町時代、南北朝時代の写本となっている。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(1669〜1736)京都は伏見稲荷社の神官の二男に生まれた。賀茂真淵(1697〜1769)が荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣長(1730〜1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前44巻を著した。平田篤胤(1776〜1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。
上記の学者らによって、「記紀」で『日本書記』のテキスト、参考文献でなかった『古事記』を『日本書記』以上に重要性を世に知らしめた。
近年津田左右吉、折口信夫などの学者によって、新たな『古事記』に対する新説が生まれ、様々な評価もなされて行き、今から1300年前に記され、『記紀』に思いを巡らせ議論が重ねられ、古代の謎を解く鍵と深い推測が生まれつつある。  
太安万侶(おおのやすまろ) / (?〜73)日本最古の『古事記』の撰者。安麻呂とも書く、祖は神武天皇の第二皇子八井耳命と伝えられる。父は壬申の乱で大海人皇子側の功臣多臣品治と言われ国内外で活躍した氏族で、天武朝で朝臣、大宝二年(702)薩摩で多褹の反乱で功績をあげて元明天皇より稗田阿礼誦習の『帝紀』『旧辞』の編纂を命じられた。翌年には『古事記』3巻を撰上。1979年(昭和54年)奈良市此瀬町の茶畑から、太安万侶の遺骨と墓誌その他が発見された。重文、墓文には「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶以癸亥」太安万侶伝造営の墓の日、「左京四条四坊」は安万呂の本籍で奈良市三条添川町。三条大宮付近に当る。
荷田春満(かだのあずままろ) / (1669〜1736)江戸中期の国学者。羽倉氏。通称斎宮斎。京都伏見稲荷社の神官羽倉信詮に次男として生まれ、家学の神道、歌学を修めた。古義学を提唱し、伊藤仁斎や山崎暗斎の門下の大山爲起の影響を受けて、霊元天皇皇子妙法院宮に仕え、和歌を進講。その後江戸に出て神道、故実、儀礼を講義、13年後帰京し。多くの門人を得た。また赤穂浪士の討ち入りに助力し
稗田阿礼夷(ひえだのあれい) / (生没年不詳)天武天皇の舎人推定681年二十八歳の時、天皇はこれを認めた『帝紀』『旧辞』の誦読を命じられた。稗田氏は天宇受売命(あまのうずめのみこと)の子孫とする。猿女の一族である。大和国稗田(現在の奈良県大和郡山稗田の在)漢字の訓読ができて、阿礼誦習の『帝紀』『旧辞』の編纂をしたという。
本居宣長 / (1730^1801)伊勢松坂の木綿商小津定利の後妻の長子として生まれ、幼名富之助、通称弥四郎、小津一族は代々松坂の有数の商家であり、宣長も裕福な教育を受けて、両親の熱心な浄土宗信仰を受けて仏教的教義を培った。11歳の時に父が亡くなって家は没落し、家督は兄が継いだ、19歳の時に他の商家に養子に行き二年後に離縁をして実家に戻った。この頃から和歌に没頭し、この頃に伝統文化に帰属すべき所を見いだし予感した。やがて兄が亡くなって家督を相続し医者に志23歳の折、上京し医学を学び、同時に小津氏の先祖が武士だった本居氏に改名しやがて契沖の著作に接し、日本古典を読んで開眼、景山や荻生徂徠の著作から示唆されて和歌を詠み複雑な人間同士の表現方法として『護園談余』を読み、中国も日本も淳朴な「神の代」から始まったと言う見解に出会って、日本文化の原点の「神の代」の求める思想の可能性に予感した。
平田篤胤 / (1776〜1843)江戸時代の国学者、大角(おおかく)または大壑とも称し、秋田藩士大和田祚胤として四男として出羽国久保田に生まれる。二十歳で江戸に出従するがその後の静動は不明。1800年には備中松山藩に平田藤平篤穏の養子になる。その後は半兵衛篤胤名乗った。篤胤は幽契により本居宣長の生前に門人になったと言っているが、実際は死後に宣長を知っている。講本の形で『古道大意』『俗神道大意』を著し、本居宣長の影響は大きい。
『古事記』の編纂作成についてはそれまで『旧辞』『帝紀』を文書化された当時の非常なる決意と熱意を持ってなされたことが窺える。『古事記』は奈良、平安時代には『日本書紀』の古事記を補足資料程度に扱われた時期があったが、江戸時代には再評価され、今日では『日本書紀』以上に重きに置かれて再評価され特に神話の部分が日本の起源を解く鍵をもっと多く含まれているのではないかと思われている。また『古事記』の真偽性について検証は近年の発掘で太安万侶の墓碑、墓文によって存在を確認しつつある。  
2 ヤマトタケルの英雄伝説  

 

古代伝説で最も日本人に人気の高いヤマトタケルの説話は、景行天皇の御子であるヤマトタケル命(小碓命)である。八十人からいる御子の中でヤマトタケルを含めノ三人御子が皇継と思われていたが、幼少の頃に腕力と乱暴で誤解を受ける。話の食い違いのために、兄御子を掴み潰し殺してしまった。以後父王に疎んじられ冷遇された。
生い立ち編
この筋書きで『古事記』『日本書紀』とでは随分違って述べられている。
最初の編で『古事記』は兄の大碓命は父寵妃を奪った。父の指示に従わなかったので諭すように(注意くらいする様に指示)乱暴にも素手でつかみ殺してしまった。
その腕力に恐れをなした天皇は、ヤマトタケル(小碓命)を遠ざけるためか疎まれ、遠ざけるために、九州の支配者クマソタケル兄弟を討ち取るように命令をした。
僅かな従者しか与えられず小碓命は良き理解者の叔母倭姫命の住む伊勢に赴き女装の衣装を授かる。この頃は少年の年頃に描かれている。
『日本書紀』では兄殺しの話も無く、父天皇が平定をした九州に再び叛乱が起き、十六歳の小碓命が討伐に遣わされ従者も与えられている。叔母の倭姫命も登場しない。
※『古事記』では父天皇と小碓命の凶暴性を描き親子の不信がと小碓命は少年として表現している。伊勢の斎王の倭姫命も支援をしている。
『日本書紀』には父天皇が九州の叛乱を収めた実績を記述されていて、国難の叛乱を征伐する役割が明記されている。
※神話部分でも古代編の説話には兄弟の跡目争いが出てくる。大方の場合弟が良識ある人物として描かれ、兄が無謀と理不尽に悪者として登場する場合が多く、東南アジアや中国の伝説、説話と取り入れた形跡が窺える。
小碓命は天皇に疎んじられ暴力的な人物像に仕立てられている。良き理解者の斎王の倭姫命は伊勢神宮の皇統を強調するために挿入されたのかも知れない。
ここでは兄の大碓命は目立った活躍はなく、『日本書紀』には大碓命の場面は描かれていいない。
熊襲(くまそ)・出雲征伐編
『古事記』ではヤマトタケルは「倭建」と表記、熊襲と出雲征伐に関して『古事記』では叔母のヤマトヒメから御衣と御裳とお守りを受け取ると意気揚々と西に向かった。
九州に着くと熊襲の首長クマソタケル兄弟の館に辿り着いた。その時には宴会の最中、護衛の隙を窺って潜入し策を練って叔母からもらった品で女装をした。
少女に変装したヤマトタケルはクマソタケル兄弟に近づきお酌をした時に懐中から取り出した剣で二人を討ち取った。
絶命の際にヤマトタケルの名与えた。クマソ征伐を終えたヤマトタケルは九州から出雲国に入り、猛々しいイズモタケルと友情を結び、肥の河で水遊びに行って腰に付けていた剣を、木の偽物とすり替え、水から上がったイズモタケルに決闘を申込み、騙し討ちにして殺した。
『日本書紀』ではヤマトタケルを「日本武尊」と表記、九州に入った日本武尊は熊襲の首長梟師タケル一人される点と天皇家に従属的な面を除けば、ほぼ同じ筋書きになっている。
『日本書紀』には出雲タケルの説話は出てこない。熊襲退治の後は吉備や難波の邪神を退治して水陸の道を開き天皇称賛と寵愛を受ける。
東征出発編
『古事記』には手柄を立てて帰還した倭建命に労いもないまま、父王は東征を命じた。
東征に赴く途中に伊勢に居る倭姫命叔母にあって、父王の冷たい仕打ちに嘆き胸の内を明かした。
そして東征に行く倭建命の身を案じ、身を守る為の品々を叔母は手渡した。草薙の剣と困った時に明ける袋を貰って東征に赴いた。
叔母倭姫命から授かった品々は伊勢神宮に在った神剣、草那芸剣と袋は窮地の時に開けるように言われる。
『日本書紀』には当初大碓命が将軍に選ばれたが怖気つき逃げ出した。かわって日本武尊が行くと名乗りを上げる。天皇は称賛と皇位を譲ると約束をする。吉備氏や大伴部氏を随行させる。日本武尊は伊勢で叔母に草薙剣を賜る。
東征編
『古事記』倭建命は尾張の国造家に入り、美夜受媛と婚約して東国へ赴く。
伊勢・尾張から相模国で悪い国造に騙まし討ちに遭い、窮地に叔母の貰った袋を開けて火打ち石と剣で、敵から放たれた火の海から脱出、悪い神を倒した。
さらに東に進み、走水(浦賀水道)で大嵐に会い、妻の弟橘姫が海神を鎮めるために自ら身を投じて助かるが、その後姫の櫛が海岸に見つけられた。
やがて東国の蝦夷を平定し、足柄山に着き、甲斐・科野国へとたどり着き、尾張に着いて、この地で見初めた美夜受媛と結婚する。美夜受媛に草薙剣を預け、伊吹山の「山の神」を退治するために山に登った。
途中に白い猪に出遭い、帰りに退治しょうと行き過ぎた時、白い猪は侮られたと怒って、大粒の雹を降らせ倭建命を打ちのめした。
傷つき衰弱したヤマトタケルは伊勢国の能煩野まで辿り着き、「倭は国のまほろ場・・」と言って息絶えた。
『日本書紀』尾張での対応する話はない。相模の話はほぼ同様、悪い国造を火打ち石で迎え火を付けるだけで、剣は出てこない。
征伐の順路が上総から更に海上を北上し、北上川流域に至る。その後甲斐に入り武蔵・上野を廻って群馬の鳥居峠から信濃に入り、坂の神の蒜(ひる)を殺し越に廻って吉備武彦と合流して尾張に至る。
日本武尊は伊吹山では山の化身の大蛇をまたいで通ったために、神は怒り氷を降らし意識が朦朧としたまま下山し病身になった。
尾津から能褒野に帰る途中で伊勢神宮に捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わせ報告した。
終末編
『古事記』倭建命の死の報せを聞いて、大和から訪れた后や皇子は陵墓を築いて周囲を廻り悲しみの歌を討遭った。やがてヤマトタケルの遺体から白鳥が舞い上がり、大和に向かい、河内は志紀に留まった。その地に御陵を造った。
やがてその白鳥は何処かへ飛んで行った。
『日本書紀』父天皇は日本武尊の死を聞いて、寝食も進めず、百官に命じて日本武尊を能褒野に葬るが、日本武尊は白鳥となって大和の方に向いて飛んで行った。  
景行天皇 / 『記紀』には第十二代天皇。和風諡号では大足彦仁代別天皇。父は垂仁天皇、母は丹波道主王の娘。日本武尊・成務天皇・五百城入彦等の父。『記紀』にあるように全国支配の確立期としてこの天皇の位置づけ。
倭姫命 / 垂仁天皇の皇女。伊勢神宮の起源譚の主役で伝承上の初代斎宮。豊鍬入姫命に関わって天照大神を身に着け、鎮座地を求めて近江・美濃を経て伊勢に至った。
熊襲 / 『古事記』『日本書紀』に登場する、南九州に居住するヤマト王朝に服従しない豪族、『古事記』には大八島国の国造りの項目に『筑紫嶋』四面の一つ熊曾国とし建日別と言う。『古事記』熊曾『日本書紀』に熊襲と表記する。熊を表わす字体に地名「球磨」と大隅国の「隅」の熊からの連称とする説があるが明確ではない。
出雲健 / 『記紀』に登場する支配者。タケルが勇猛果敢な事を表わす普通名詞ならば、出雲地方の勇敢な支配者のタケルと考えられ、物語が肥河で沐浴のあと受け取った太刀は木刀であった説話が出てくる。
ヤマトタケルは皇位を継承はできなかったが、御子が皇位を継いでいる。熊襲征伐は先住民族の隼人を指し、出雲征伐は古代出雲王朝が有ったかも知れない。東征は先住民の蝦夷が住んでおり大和王朝に服従させるための、大和朝廷の支配拡大に大きく寄与した。またヤマトタケルの戦略手法は決して正々堂々と言ったものではなく九州の熊襲征伐には姑息な一面も赤裸々に説話は解かれている。  
3 神功皇后の三韓征伐と聖母像  

 

景行天皇の後、成務天皇が即位するが、後継の皇子がなく、ヤマトタケル命の死後の第二子、足仲彦(たらしなかつひこ)(仲哀天皇)が即位した。ヤマトタケルの熊襲征伐後、再び朝廷に背いたので、天皇は九州に向かった。その時に下された神託に仲哀天皇は従わず、神の怒りに触れて急死する。
『古事記』では最初に帯中日子天皇は穴門の豊浦宮と香椎宮において天下統一された。
仲哀天皇は香椎宮で神の宣託(天照大神・住吉神)に従わず急死をした。
神功皇后は大神の指示通り新羅に遠征をした。
神功皇后は軍勢を整え、船を揃えて進軍すると大波が来て新羅の国の半ばまで達し、新羅の国王は降伏をした。
その時皇后は出産が差し迫り、帰国まで遅らせるために「石」を越しにつけ引き伸ばし、筑紫国に着き出産をした。
皇子が太子になって、筑紫から大和に帰られる時に、異母兄弟の香坂王と忍熊王の反逆に遭われ、太子軍は琵琶湖の湖上まで追跡し撃退をした。
そこから武内宿祢が供をして、近江・若狭の国々を廻られ、気比大神に参られた。
『日本書紀』は詳しく描かれている。神功元年から神功六九年まで政務と執り行った。神託に従って、神功皇后は、熊襲・土蜘蛛を征伐し従わせた。その後、住吉神の神託により新羅遠征に向かい、新羅は戦わずして降伏し。朝貢を約束した。
百済・高句麗も朝貢を約束させ服従させ、これを三韓征伐と言われている。帰還後には筑紫で誉田別皇子を出産した。
神功皇后が三韓征伐を終えて畿内に入ると、応神天皇の異母兄の籠坂王・忍熊王が反乱を起こし戦いとなった。武内宿祢(たけうちすくね)や武振熊命らの働きによって制圧をした。
勝利をした太子(応神天皇)をお連れし武内宿祢は穢れを祓う為に気比神社の参拝をしている。
『古事記』『日本書紀』も神功皇后は九州を中心に展開されており、九州に関連した王権と考えられる。  
神功皇后 / 『古事記』『日本書紀に』『風土記』などに見える伝承上の人物。仲哀天皇の皇后、父は開花天皇の孫、名を気長足媛尊と言う。父は開化天皇の孫、母は新羅国の王子天子天之日矛の五世の孫と伝える。
仲哀天皇 / 『古事記』『日本書紀』に見える伝承上の人物。父は日本武尊、母は垂仁天皇の両道入姫命。皇后気長足姫尊(神功皇后)皇后と共に熊襲征伐に筑紫に香椎宮に至った時、新羅を討伐の神託を受けたがそれを信じなかったために急死をした。享年『記紀』とも五十二歳である。
武内宿祢 / 孝元天皇の孫。伝承上の人物。建内宿祢とも書く。成務・仲哀・応神・仁徳・景行と神功皇后の各天皇に仕えた長寿大臣。蘇我氏を始め多くの氏族の祖。神功皇后の場合神の宣託を聞く役割を果たした。弟の味師内宿祢の讒言にたいし、盟神深湯で潔白を証明するなどの性格を持つ。渡来人を指導して開発にあたらせる多くの伝承を持つ。天皇を補佐する理想に人物に描かれている。そこで伝承は蘇我氏との関係を『記紀』に入ったとする説。
気比神社 / 敦賀市曙町にあって旧官幣大社・祭神は伊奢少別命・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・「気比宮社記」によれば神功皇后が三韓征伐の成功を祈願をし、穴門に向かう途中に千・満の珠を得たと記す。気比大神は海人族の信仰した神と思われる。
神功皇后が実物に存在したかについては、その立証は難しいが、『新唐書』東夷倭日本「仲哀死以開曾孫女神爲王」と記されている。
『宋史』日本国神功天皇、開化天皇之曾孫女、又謂之息長姫天皇」天皇と有り、一時の本の歴史上神功皇后を天皇に加えていたが、大正時代に歴代天皇として外されている。
また神功皇后の卑弥呼説も今では時代的に符合しないので否定されている。国外でその名が見受けられる以上その存在をすべて架空とは言い難く、尚、神功皇后に代わる存在があるか検証の余地はあるのではないかと思われる。
神功皇后には神託と神の威光で、立ちはだかる神々を退け、謀反を制圧する神の加護が有った。男子にもなしえない熊襲の制圧と三韓征伐と応神天皇の擁立には神託が必要だった。
神功皇后は仲哀亡き後の世継ぎの御子(応神天皇)を出産の三韓征伐の最中、出産を遅らせるための「月延石」や「鎮懐石」などの説話は、天皇の世継ぎを生む覚悟の程を知らしめるものであった。
また『古事記』では神功皇后・応神天皇の編では「天之日矛」の新羅の国王の物語の説話が語られていて、応神・神功は渡来系に深い関係があるのではと推測がある。
また冒頭の帯中日子天皇は穴門の豊浦宮と香椎宮において天下統一された。
この記述で王権が九州の王権から取って代わったと言う説が生まれる。
卑弥呼と神功皇后の関連性は薄く、この伝説は朝廷に伝えられた朝鮮半島の南部平定伝承と、京都府綴喜郡に居住した「息長」一族の伝承や、母子信仰に基づくオホタラシヒメの伝承と習合して。7〜8世紀の古代天皇制の思想の影響を受け、『記紀』に定着したものと思われている。  
4 仁徳天皇の聖帝像  

 

第十六代天皇・仁徳天皇は名君として誉れ高く『記紀』に記されている。難波は高津宮にて天下を治め、高台から昼に炊飯の焚く煙が上がらないので、炊事も出来ないほど苦しい民の暮らしに、税金の猶予を施し、数々の治水事業に尽し聖帝と称された。
仁徳天皇の御世は『古事記』干支崩年から試算して西暦394年から427年となっており、皇位継承をめぐり父の言い残した三人の役割を兄御子(大山守)は謀反を企て、弟皇子に知らせ謀反を制圧した。
勝利した兄弟は、弟皇子と皇位を譲り合ったと美談があるが、『日本書紀』では自殺と記され、順調に皇位に就いたとは思えず、何かは波瀾があっての大雀命(仁徳天皇)擁立が有ったのだろう。
またある説に応神天皇と類似している点があって、同一人物かもしれないと、また存在そのものが疑われる説から、聖帝仁徳の裏面はいろいろと語られている。
説話によれば渡来した秦氏を使って、この時代河内平野に大坂湾岸部は洪水や耕作に適さない湿地地帯、そこで治水に着手したのが、池・河・道・堤などの治水事業に力を注いだと記され、港湾として墨江津を整備、茨田の堤と屯倉、丸迹池、依網池と堀江の海への水路などの社会事業を施したと記されている。
「日本書紀」には外交と内政では新羅が五十三年間朝貢は無かった。使者を遣わし朝貢のない事を問われた。戦いになり必死の抵抗についに新羅軍が潰れ五百人を殺し、四つの邑の民を捕えて帰った。
その後呉国・高麗国が朝貢をした。
蝦夷が叛いた。そこで田道を遣わして討たせた。蝦夷に破られ伊時の水門(石巻)で死んだ。田道の墓を掘った蝦夷は墓から出てきた大蛇に、蝦夷は沢山死んだ。
断片的に蝦夷と新羅国などが記されている。
仁徳天皇の存在について伝承上の人物とする反面『倭の五王』の中国の『宋書』の記述も見逃す事は出来ない。(下記の「倭の五王」を参照)
それらの地名も現存し確かに関与し施策をした形跡は窺える。一方、仁徳天皇自身の人間像としては、女性関係が多くみられ、それによる皇后との嫉妬が多く語られ『古事記』では歌に詠まれて、皇后の出身有力豪族の葛城氏との関係も窺える。
女性にまつわる説話に「皇后の嫉妬と吉備の黒日売」では皇后石之日売命は、嫉妬されることが多く、天皇が召された妃を宮殿には入れられなかった。
天皇は吉備の海部直の娘の容姿が美しいので天皇が召されたが、黒日売は皇后の嫉妬深さに恐れて国元の吉備に逃げ帰ってしまった。
天皇は淡路に行った折に、黒日売に会いたさに島伝いに吉備に行かれ、暫しの間、黒日売と日々を過ごされたと言う。
その後皇后石之日売命が酒宴に奉じる御綱柏を採りに紀伊国に行かれた折、天皇は八田若郎女を召して大宮の中に入れられ、この際の皇后の嫉妬から不仲になられた皇后と天皇の不仲は以後皇后の郷、葛城に帰り二度と宮中には戻らず、筒城宮でなくなり、平城山に葬られ、三年後に八田日売は皇后になられた。「聖帝」と言われた仁徳帝も女性には積極的であったようだ。  
仁徳天皇 / 第十六代天皇、仁徳天皇はただ一人「聖帝」と評され、父は応神天皇、母は品陀眞若王の女仲姫命、第四子であり大雀命と言う。大雀命は高津宮で天下を治めた。葛城の曾都毘古の女、石之日売命を皇后として、生まれた皇子は大江の伊邪本和気命、墨江の中津王、蝮の水歯別命、男浅津間若子宿祢の四人、髪長比売妃から生まれた御子は二人、八田若郎女妃からは御子が生まれず、宇遅能若郎女妃からも生まれなかった。御子は合わせて六人である。
仁徳陵(百舌鳥古墳群) / 大阪堺市の西部中央に位置する古墳中期に象徴される大型古墳群、墓域は河内・和泉に移った五世紀造営のピークを迎えた。その頃中国の『宋書』の記載される「和の五王」の時代と重なり、日本第一の大山古墳などが点在する。
倭の五王 / 『宋書』夷蛮出伝倭国条に見える五人の倭国王、「讃さん」・「珍ちん」・「済せい」・「興こう」・「武ぶ」・の五人の王について、仁徳天皇もその一人に該当する考えである。五王について『古事記』『日本書紀』で五王がどの天皇に該当するかについては、伝えられる天皇名や系譜関係から検討され試みられたが、讃については、それがホムタのホムと意訳からみて応神天皇、オホサザキの讃の音訳から仁徳天皇、珍は反正天皇の実名ミツハワケのミツの意訳、反正天皇とみなし、その兄とされる履中天皇はあてる諸説がある。済は允恭天皇に実名オアサツマワクゴノスクネのツ(津)の意訳。興は安康天皇の実名アナホの音訳とみる。武についてはワカタケルのタケルの意訳とみて雄略天皇に否定するのが今日一般的見解である。
応神天皇の神功皇后の九州で出産はとりもなおさず、九州に関係の深い氏族の大和朝廷の征服と穿った見方もできないわけでもない。なれば仁徳天皇は難波・河内を拠点にした「河内王朝」の創始者と言ってもよいだろう。その理由に治水事業の所在地が未だ大阪近辺に地名として残されていて、その形跡もある。何より河内から泉にかけての古墳群と仁徳・応神の巨大古墳が何よりそれを物語る。これほどの巨大古墳の造成は豊かな財力と支配地が広まっていて、支える豪族の背景が無ければ到底成しえないことである。  
5 継体新王朝の波瀾  

 

歴代天皇で特異な形での即位が継体天皇である。武烈天皇に継嗣がいなかった。そこで突如登場した次期天皇候補に上がったのが、近江の国の生まれ幼少期には越前で行って育ったとされる応神天皇の五世の孫「袁本杼命・男大迹・別名彦太」の継体であった。
『日本書紀』には重臣の推挙で近江の国の応神天皇の血筋と言う大義名分、継承の正統性を持っての即位である。誰が見ても不自然で無理があるが、男大迹王は性格が良く、親孝行で皇位継承者として相応しい方であると評価され選ばれた。
『日本書紀』によれば武烈天皇の後継者が無く、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国に居た仲哀天皇の五世の孫の倭彦王を抜擢し迎えの兵士を見て恐れをなして山中に隠れ行方不明に、次に越前に居た応神天皇の五世孫の男大迹を兵士をだし迎えに出した。
そこで重臣は近江に迎えの兵士を送られたが、兵士を見て恐れをなして、山中に身を隠し行方不明になったと記されている。
翌年には臣・連たちが、君命を受けた印に旗と神輿を備え、三国に迎えに行き、兵士が容儀いかめしく到着すると、天子の風格が出来ていたが、尚且つ疑いを持って居られたので、三日三晩、本意を伝えた。ようやく承知され三国を発たれた。
ほどなく河内の国の交野郡葛葉(樟葉)に宮に着かれた。その後、仁賢天皇の手白香皇女を皇后とし尾張の草香の娘や近江の息長真手の娘などを妃にされた。
天皇としての擁立に宮を山城の筒城、弟国と移し大和周辺を転々と宮を替え、磐余玉穂宮に移ったのは二十年も経てからである。
継体天皇の時代の対外的な問題は、任那四県の割譲と己汶・帯沙を廻る争いであった。国内的には九州は磐井の反乱が起きた。折に近江の毛野臣が六万の兵を率いて任那に行き新羅に破られた失地を回復し任那に合わせようとした。
これを知った筑紫の国の国磐井が反乱を計画、密かに新羅と連携、磐井は九州各地を押さえ、海路を遮断したので、応援の大伴・物部・許勢(こぜ)の軍勢を差し向けている最中、継体の突然の崩御、死去原因は「辛亥の変」その後の皇位を継いだ欽明天皇によって磐井の乱は平定された。
反乱と朝鮮半島の内紛が継体天皇の政治基盤を不安定にし、国内的にも「辛亥の変」が起きたと思われる。  
継体天皇 / (450〜531)男大迹・平富等・袁本杼。応神天皇の五世の孫と伝える。皇后は仁賢天皇の皇女の手白髪皇女で欽明天皇を生んだ。即位前から妃であった尾張連氏目子媛は、安閑天皇・宣化天皇を生んだ。父の彦主人王は近江国高島郡三尾の別業に、垂仁天皇七世の孫、振媛を迎え妃とした。継体の父が幼少の頃に死亡したので、振媛は郷里の越前で彼を養育した。武烈天皇が死去したことで皇統が絶えるため、大伴金村らにより迎えられた。最初河内は樟葉宮で即位し、山背・弟国宮など経て、大和国の磐余玉穂宮に入ったのは即位して二十年後のことであった。
王朝交代説 / 日本史の中で度々論議の課題に載っている。戦前では万世一系を否定するものとして、公然と語ることが憚れた時代もあったが、誰が見ても継体天皇の継承は不自然な面は否めない。継体天皇は全く血統の異なる異質の民族の征服による王権交代なのか、戦前の学者の津田左右吉氏の九州の国家の王の仁徳の系譜が畿内の王朝を征服して成立する大和朝廷の祖になった。当然それは邪馬台国九州説に発展させるものだった。また戦後の水野氏の三王朝交代説は崇神天皇・仁徳天皇・継体天皇の三王朝は実在し、継体天皇は現天皇の末裔とする理論である。少なくともヤマトに君臨をした王朝は三王朝で血脈関係はあるかについては疑問視されている。それぞれ王朝交代となれば大動乱、大事変となるので、もしそう言った事変があれば、もっと大きな記述が残されていても良いはず、『記紀』はこの大動乱をどう穏便に記述に留めるかについては、『記紀』編纂に苦慮したのではないか、また強烈な事変や動乱を机上の上だけに書き留めることが出来ものではない点も疑問が感じるものである。
こう言った畿内以外からの天皇擁立と言った、特異な皇位を継承には大きな不安要素があった。皇位継承の正統性に20年も掛かり、王権移譲に力による移行が推測され、大和朝廷の根強い抵抗があったと思われる。継体天皇の皇位継承にも波瀾が生じた。継体天皇は国内の反乱に、乗じて朝鮮半島の三国間の紛争に巻き込まれ、次期天皇の宣化・欽明朝の内紛にも翻弄されたようで、まだその詳細は解明されていない。  
6 蘇我一族の盛衰  

 

欽明天皇の時代から台頭してきたのが蘇我一族である。蘇我伊奈米・伊那米とも記す。高麗の子、『紀氏家牒』馬背の子とある。
宣化・欽明朝の大臣となって娘の堅塩媛(かたしおひめ)、小姉君の二女を欽明妃として送り込み、用明・崇峻・推古の外祖父となって、蘇我氏繁栄の基礎を作った。
王権の政策に参画、筑紫・吉備・備前・大和国の高市・紀伊国海部などの屯倉の設置に関わり、屯倉経営に手腕を発揮したと言われ、仏教の受け入れに深い理解を示したという。
蘇我氏の起源としては在地の勢力が成長した説、本拠については1大和国曾我2大和国の葛城南部、3河内国石川に分れる。1が有力で五世紀に渡来人した百済高官の木氏一族が大和国曾我に定着した説である。
系図にも武内宿祢と蘇我石河宿祢を始祖とするものである。雄略朝に朝廷の三蔵(倉庫の総称)役を蘇我満智が検校したと言う。
継体朝から進出の機会を掴み、その際渡来系の東漢氏の諸氏の支持を得たらしい。先に滅んだ葛城氏の領有していた、葛城漢人らを集団支配に取り込んでいった。
その後久米氏・桜井氏ら南大和の諸氏を抑え込んでいった。六世紀半ばには蘇我稲目が宣化天皇擁立をもってその地位を築いた。
その後蘇我馬子が引き継ぎ、敏達朝には大臣に就き権勢を振るった。  
蘇我馬子(そがうまこ) / (?〜626)は稲目の子、六世紀から七世紀前半に執政官として活躍、572年に(敏達元年9に大臣に就任し、推古朝に没するまでその地位にいた。敏達朝には吉備に派遣、稲目同様屯倉に力を注いだ。その間に物部守屋大連とは対立を深めて行った。敏達の死後、蘇我系の用明天皇の擁立に多くの群臣の支持を取り付け、物部守屋を圧倒していった。用明天皇が崩御するや物部の穴穂御子を擁立するのに対して、蘇我系の崇峻天皇の擁立を計った。その内崇峻天皇と対立、馬子は東漢直駒の命令し暗殺させ、推古を天皇として擁立をした。推古朝を厩戸皇子(聖徳太子)と共同で国政に当り、内政・外交と聖徳太子の補佐役として参画した。厩戸皇子の死後は傲慢な強硬策に転じている。
蘇我蝦夷(そがえみし) / (?〜645)は馬子の子、馬子の没後に大臣に就任した。自宅に群臣を招き、天皇家と同じような儀式を執り行い、独断専行は目立ち、群臣との意見の食い違いと、蘇我家内にも対立を生み聖徳太子の御子の山背王を指す叔父と対立したが、摩理勢を滅ぼし、田村の即位を強行した。皇極天皇の即位後は入鹿に後を譲った。
蘇我入鹿(そがいるか) / (?645)蝦夷の子、皇極天皇の頃から国政に参画、皇位を古人大兄に図り、その障害に成る山背大兄王を斑鳩宮に攻め滅ぼして、権力を掌握した。急速な権力志向に群臣からも反発を受けたが、大化元年(645)の「乙巳の変」で中大兄の皇子と鎌足、従兄の蘇我石川麻呂らの立てた乙巳の変で暗殺された。
物部氏 / 古代豪族・大伴氏と共に大連の職を占めた。天武帝時代に朝臣の姓を賜る。大連の職を歴任をした物部氏は軍事・警察の任務に起用され活躍をした。継体朝には筑紫の磐井の乱の征伐に活躍は有名、このほか伊勢の朝日郎(あさけのいらっこ)の征伐、その後多くの事件やその処分に関わった。大和朝廷の領域・境界線の拡張に関係した諸集団の指導者とも考えられている。軍事豪族として大伴氏と共に警備・軍事を受け持った。その後崇仏派の蘇我氏と対立し、物部氏は廃仏で敗退していった。
稲目より栄華栄誉を築き、蘇我一門の血脈を皇権に注ぎ込み、外祖父として朝廷を思いのままに蹂躙した蘇我本家は馬子の崇峻天皇の暗殺、入鹿の山背大兄王の暗殺と暴挙によって崩れ去った。だがその後の蘇我傍流は影響を残し続けるが、政変に粛清されて衰退していった。何時の時代にも氏族や政権の執権は、時代の趨勢に盛衰を重ねるのである。  
7 聖徳太子像の謎  

 

聖徳太子(574〜622)用明天皇を父として、穴太部間人皇女を母として誕生した。厩戸皇子と呼ばれ優れた功績と仁徳によって聖徳太子と称され多くの名前で呼ばれて、古くより日本人の畏敬の理想人格像として賞賛されている。
太子の偉大とされる功績の事例として、仏教導入に積極的に活動され深く帰依された。人格を形成された「三経義疏」講義するほどの見識と徳性は、仏教は高句麗の渡来僧慧慈と百済僧慧聡によって、儒教は百済の渡来人の覚狽ノよって習得されたものと思われる。
国政においても剛腕な馬子が一目を置くほどの聡明さと手腕によって、推古女帝に代わって摂政をされて辣腕を振るわれて、太子(次期天皇として)して地位が約束されていた。
国家祈願の仏教として、西暦593年に四天王寺を建立、続いて14年後に法隆寺を建立された。
外交面で隋に新羅・百済が朝貢国であることを知らしめるために、対等外交を展開されて隋に「遣隋使」を派遣「日出ずる処の天子、書を日没する天子に致す」の国書を奉呈した強気の外交政策が窺えるものであった。
太子は新羅・百済積極外交を展開、新羅と任那(大和朝廷側)の衝突に、援軍を派遣遠征は成功したという。また遠征軍の太子の実弟の来目皇子が将軍となって行ったが途中で客死した。後任に異母弟の当麻皇子を派遣、この皇子も同行の妻が播磨で客死し結果新羅への遠征は中止された。
しかし太子の身内を戦場に送り出す、その身を削る痛みの共有が朝野の信頼を得たのかも知れない。遠征の失敗後は内政に注がれ官吏の序列を定めた「冠位十二階」定め、有名な「憲法十七条」を制定し国体を組織化された。  
遣唐使 / 推古朝から朝廷より派遣された使節『隋書』倭国伝に当時の倭王「多利思比孤(たりしひこ)」とみえ聖徳太子に否定できる。遣隋使の航路も対馬・壱岐・筑紫が見える北航路である。『日本書紀』には四回の派遣が見え、『隋書』倭国伝に三回、同煬帝紀に(608)日本から二回の朝貢が見える。派遣回数・派遣主体に諸説があるが、隋と倭国に外交関係があったことは明白である。この外交は朝鮮三国と外交の駆け引きの為の目的に意識され、思惑があったのだろう。この『遣隋使』の交流の成果は『簡易十二階』『十七条憲法』への中国の参考資料の導入や学生の渡来によって摂取されたものと考えられる。
『三経義疏』 / 聖徳太子が作成をしたと言う『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の注釈書、(法華経義疏・勝鬘義疏・維摩義疏)の総称。『日本書紀』は注釈書について触れていないが、聖徳太子の作成とされている。仏教に対する見識があって注釈書は解読に欠かせない手引きともいえる。一部学者は聖徳太子の作成を疑問視する説もある。
『簡易十二階』『十七条憲法』 / 隋との外交で得て摂取された文化の数々の中で国家体制の根幹を成そうとする法規制と階級の導入は倭国に取り一流国家への布石であった。冠位十二階制度は儒教に基づく徳目で徳・仁・礼・信・義・智の六階級に大小の組み合わせによる十二階の制定である。冠の色については、紫・青・赤・黄・白・黒の順で大小の濃淡で表現したものである。『十七条憲法』は『日本書紀』の日本最古の成文法とされ倫理の面の強調になっている。1]仏教の崇拝 2]詔の重視 3]臣君の道、礼の強調 4]歓善微悪6からは官吏として民に対する事柄を明記されている。これらは大化の改新に少なからず影響を与えていると思われる。
こう言った輝かしい聖徳太子の遺徳に懐疑的な説、「聖徳太子は実在を否定」と言った学者の学説に、聖徳太子の称号と功績の事例は後に作り上げられたものと、その功績に疑問を掲げる説まで多様に否定する論説まで様々、国民の心情は聖徳太子の遺徳を冒涜するものとして怒りを覚える人も多い。
聖徳太子として上宮家の数々の記述に、四天王寺・法隆寺の建立に、新羅・百済の朝貢の史実に、任那救援などの記録に「冠位十二階」「憲法十七条」の制定は太子の聡明な見識であり、「遣隋使」中国の『隋書』に記述が残され、前例のない輝かしい外交であった。
新羅遠征も身内を失った事柄が架空のものとしてとらえ難く、聖徳太子を否定する奇抜な仮説で注目を引くための説ならば日本人の心情を傷つける許し難いものがある。
厩戸の皇子の死後早くから宗教的信仰の対象とされ、法隆寺の調査で造られた仏像は聖徳太子の思慕の為の仏像の文字が発見され、作られた聖徳太子像と実際にあった厩戸皇子の実像の虚像とまで言えないのではないだろう。
『聖徳太子未来記』聖徳太子に仮託された預言書。文書と碑文の二つの形態がある。『聖徳太子伝暦』四天王寺から発見された『四天王寺御手印縁起』など断片的に見られ、河内は磯長陵から瑪瑙(めのう)石から『御記文』が発掘されなどあった。数々の聖徳太子伝説が死後発生し形成された面も否めない。
また聖徳太子の死後の上宮家の悲劇が道場を呼び、その後聖徳太子像に美化されていったことも一因と言えよう。それらは一史実を拡大解釈によって増幅された面も考えられる。  
8 「乙巳の変」の中大兄と鎌足  

 

大化元年(645)六月十二日に古代最大の政変「乙巳の変」が起きた。大化の改新の起因となった「乙巳の変」は前兆として蘇我入鹿の傲慢な振る舞いと、上宮家の山背大兄王への襲撃であり、露骨な越権行為が群下や豪族たちの反目を買った。
何より危機感を持ったのは中大兄皇子であった。次は自分かも知れない、そんな危機意識に察知し、そっと中大兄に近づく鎌足がいた。
「乙巳の変」の起る要因に蘇我氏の横暴があった。朝廷の政治を担っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去し、蘇我氏に対する抑えを効くものがいなくなって、蘇我の天下になってしまった。
その専横は天皇家を凌ぐほどになり、蘇我馬子が亡くなってこの蝦夷が大臣になり推古が後継者を決めずに崩御した。
有力な後継者に田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいて血統的には山背大兄王が優位だったが、有能な山背大兄王を嫌って蝦夷は田村の皇子(舒明天皇)を指した。
蘇我氏主導の政治に豪族たちは朝廷には出廷せず、蘇我家に出向く始末、舒明天皇即位の十三年後崩御、その後を皇后の宝皇女が即位し王権に就いた。
即位後蘇我家は天皇家しか許されない「雨乞いの儀式」を仏式の法り読経させ祈祷させたとこ呂雨は一向に降らず、翌月皇極が雨乞いをしたところ、雷雨になって五日間降ったと言う説話が残されている。
専横は止まる所知らずに、入鹿は蘇我の血を引く古人大兄皇子を次期天皇に擁立ためには、有力候補の山背大兄王を抹殺するために刺客を差し向けた。
巨勢徳多・土師娑婆連の軍勢は山背大兄王の斑鳩宮を攻め込んだ。必死の抵抗をしたが持ち堪えられず上宮王家は一族共々滅亡した。
これを機に一期に蘇我家に対する反目が皇族内、豪族内に広まって、中大兄皇子・藤原鎌足の蜂起に繋がって行った。
中大兄皇子(天智天皇)(西暦661年〜668年)父は舒明天皇、母は皇后で舒明亡きあと皇位を継ぎ皇極天皇で蘇我系の血筋を引くにも関わらず対立をしていた。
中臣鎌足(西暦614年〜669年)藤原氏の祖。父は中臣御食子、母は大伴夫人。中臣氏は代々神祇祭祀を司る家柄であった。鎌足は家業を嫌って病と称し三島(大阪府高槻・茨城付近)に引き籠っていたと言う。その後中大兄が通う学問所、南淵請安の許に通い接触し結び、蘇我入鹿の打倒に協力し大化の改新を進めた。
乙巳の変に参画した蘇我入鹿の包囲網の面々は、首謀者の若き中大兄皇子は十九歳、この時すでに中大兄には蘇我倉田山石川麻呂の娘の遠知娘の間に大田皇女・持統も生まれていた。
蘇我も傍流の倉田山石川麻呂も本家とは敵対する中大兄の姻戚関係で阻害されていたのか、すでに入鹿打倒の計画に参画をしていたのだろう。そして企画演出者の鎌足は三十一歳であった。
記述によると物語はこう伝えられている。
入鹿暗殺当日は、三韓進調の日の儀式に決定され、石川麻呂が三韓の国書を皇極天皇の前で宣読する役で、勿論蘇我入鹿も左大臣として出席をする。そこに佐伯連子麻呂が切り込み一太刀を浴びせる手はずが中々出てこない。
その内に石川麻呂は震え汗が出る始末、不審に思った入鹿は尋ねた。「どうして震えているのか」
「大王の前で畏れ多く緊張しているのです」と石川麻呂は答えた。
その場を取り繕ったが、中々斬り突ける者が居ない。それもそのはず権勢を誇って、その威の恐れて斬り蹴られるものはいない。
見かねて中大兄が気合い諸共に「やあつ!」と切りつけた。続いて子麻呂も斬り付けた。
不意を突かれた入鹿は動転し、立ち上がろうとすると、又も斬り付ける。傍若無人の入鹿も。玉座まで転がり、土下座をして命乞いをした。その惨劇を見て皇極は「いったい何事だ!」と中大兄に尋ねた。
「大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしております」
余りの突然に何も言わず宮中に入ってしまった。その後、尚切り付け続け入鹿も絶命、雨の降りしきる中、入鹿の遺体に菰がかけられた。
この場面を一部始終見ていた古人大兄は、謎めいた言葉を残し甘樫丘の私邸に引き籠った。
王族は蘇我の反撃に備えたが、高向国押ら説得で蘇我入鹿らは自決し事態は終結した。
この蘇我本家の滅亡後、大化の改新へと大きく舵は切られた。  
中大兄皇子・天智天皇 / (626〜671)葛城皇子・開別皇子とも言う。父は舒明天皇、母は皇極天皇。同母兄弟に大海人皇子(天武天皇)間人皇女がいる。異母兄に古人大兄皇子がいる。古人大兄の妹倭姫を皇后とし『日本書紀』によれば八人の嬪に四人の皇子と十人の皇女がいたが血筋の良い皇子に恵まれず、後継者で後々問題の起ることになる。
藤原鎌足 / (614〜669)藤原氏の祖。本姓は中臣連鎌子と言う。父は中臣御食子、母は大伴夫人。子に不比等・定恵・氷上娘・五百重娘がいる。中国からの僧旻に学んだ。家業は神祇祭祀を継がず、政治に志した。乙巳の変も大化の改新も、外交、内政にも関与したようである。藤原氏の氏寺興福寺を興した。
乙巳の変は大化の改新に繋がり、一体のもので蘇我本家の滅亡が何故、改革に繋がったのかそれは仏教伝来とともに大陸の中国文化の導入にあったと思われる。乙巳の変でも活躍した高向玄理による学識が要因だろうと思われる。高向玄理(?〜655)高向黒麻呂ともいう。
官人。百済系渡来人の漢人(アヤヒト)推古朝から舒明朝まで隋・唐で留学。乙巳の変後新政権で国博士に登用された。遣新羅使にとなり金春秋を伴い帰国。新羅と接触したのち入唐し唐高宗に謁見し緊急時には新羅を救援せよ、お墨付き状を授かる。帰国することなく唐で客死する。こう言った学者らがもたらした文化が大化の改新の原動力となった。
また「乙巳の変」の政変は軽皇子の首謀説があって、軽皇子の本拠地が難波周辺にあって遷都をにらんだ変後の布石とも思われている説。また皇極天皇と中大兄皇子との不仲説などがある。  
9 蘇我石川麻呂の変  

 

「乙巳の変」で蘇我本家を滅亡させた中大兄皇子と鎌足は、新体制の構築に着手しなければならなかった。
それは乙巳の変と連動する「大化の改新」であった。
大化の改新が順調に進むかと思えた時に、阿倍左大臣倉梯麻呂が死んだ。乙巳の変以降、皇極は弟の軽皇子に譲位し、孝徳天皇自ら難波の宮の正門へ朱雀門で哀悼の意を表し、皇極上皇も、皇太子の中大兄もその死を悼んだ。
右大臣の石川麻呂にとって、辛苦を分けた倉梯麻呂の死を悲嘆の思いをしただろう。その葬儀の七日後に一族の身内の蘇我日向から密告が始まる。
「石川麻呂は、皇太子が海辺に遊びに行くときに狙って暗殺を計画しようとしている」中大兄に告げた。しかも訴えたのは石川麻呂の弟、石川麻呂は中大兄の妃の父親、まさに下剋上の時代の様相、密告した日向は兄の出世をねたみ、何故に失脚をさせようと企てたのか、兄に取って代わろうとしたのか、それを承知の上で中大兄は天皇に伝えた。
真偽をただす意味で使者を出して虚実を問いただした。石川麻呂は「天皇の御前で申し開きをしたと訴えたが、天皇はこれを許さず兵を差し向けた。
御子の処置には中大兄の助言によるものか、平生の慎重さを考えてみても、蘇我入鹿を討つときの重要な人物だったことを考えれば、何か秘められた事情でもあったのか、助命を提言してよい立場が、そんな冷淡さが、その後の中大兄の生き様に節々に見られることになる。
石川麻呂は難波から自宅の大和飛鳥に逃れ、山田寺に入った。そこには子の興志がいて、石川麻呂の氏寺の造営中であった。興志は寺を砦として戦い迎い討つことを主張した。
父の石川麻呂はこれを許さず山田寺の金堂の前で首をつって自殺、妻子もこれに従い、この事件で連座して二十三名が死罪、十五名が流罪となった。
その後の調べで石川麻呂の謀反の事実が無く、早まった処置に反省をしたのか、日向を大宰府に流罪とした。その後、中大兄の妃は父の死を知って悲嘆末、心傷つき病死をしたという。
この時こそ中大兄は悲しさを思ったことに違いがない。たとえ義父であろうと先々の邪魔者には容赦がない。蘇我一族の不審は中々払拭されない拘りが有ったかも知れない。  
蘇我石川麻呂 / (?^649)大化の改新政府の右大臣。馬子の孫。雄正の子。連子、赤兄らの兄。蘇我倉山田麻呂とも記されている。蘇我一族内の有力者、娘の造媛・遠智娘を中大兄皇子の妃として、乙巳の変の蘇我本家打倒に参画、大化の新政府に発足と同時に、右大臣に就任、左大臣阿倍内麻呂と旧勢力の一翼を担い、急進派の中大兄、鎌足と対立した。弟の日向に密告させられ粛清され、後で無罪と判明し中大兄は大いに悔い嘆いたと言う。
大化の改新 / 改新の大きな目玉の項目は1鐘櫃の制、民の意向を反映2男女法、生まれた子供の帰属を定める。3大化薄葬令、墓制。4公地、公民制、5班田収授制。6律令制。などを定めたがどの程度の実効性あったかは不明である。その他郡評論争がある。七世紀に半ば地方行政組織をコオリを「郡」「評」の表記したかを廻る論争がある。
皇極は乙巳の変でもその考えを示さなかったし、孝徳も然り石川麻呂の変にも自分の考えを示さず、中大兄の判断に任せたのは何故か疑問は残る。また「乙巳の変」の功労者の鎌足はその後の政権に顔出さない。この時点でまだ内臣のままであったのだろうか、石川麻呂で裏での発言が有ったのか、記述には記載されていない。石川麻呂は中大兄にとって重臣で義父でもある疎ましい存在に変わりなく、蘇我本家の一掃にも協力者であったはずである。新旧の対立から端を発した粛清と言うことも考えられる。中大兄の目的には容赦のない決断は後で悔いを残すものとなっただろう。  
10 難波宮遷都と孝徳天皇  

 

孝徳天皇(?〜654)で皇極天皇の弟で幼名は軽皇子、即位と遷都の時期については詳しく記述に載っていない。大化の改新の後に皇極女帝が譲位を受けて即位をした。皇極天皇と妃の阿倍小足媛の間に悲劇の皇子、有馬の皇子がいる。
大化の改新の末には難波長柄豊碕宮に遷都をしたと言う。遷都については一挙にせず徐々に進めて難波の地域を行宮し転々として白雉元年(650年)荒田井比羅夫を将作大匠の用い翌年長柄豊碕宮とした。
白雉二年には味経宮において、二千七百余人の僧尼が招かれて朝廷にみちあかしが灯された。大化の改新以来六年の月日を費やされて、長柄豊碕宮に移された。
「その宮殿の状、ことごとく論ずべからず」“筆語に言い難い”と称した。
今の上本町の馬場町あたりで、遺跡は前期難波の宮、聖武天皇の後期難波の宮がある。孝徳天皇の難波の宮は上本町は法円坂から馬場町あたり、瓦が使用されておらず、掘立柱の建造物、驚くべきその規模は、中枢部の朝堂院は東西230メートル・南北260メートル・内部に十四堂以上の朝堂、朝堂院と内裏南門の朱雀門は、平城京の物より凌ぐ規模、八角殿院は例を見ない規模だった。
難波の宮は栄えて朝廷には外交、国内の儀式などを執り行い都としての機能風格を備えていた時に、
突如、中大兄が新宮を捨てて飛鳥に帰ると言い始めた。孝徳天皇はこれを許さなかった。
中大兄について飛鳥へは前天皇の他、大海も孝徳天皇の間人皇后まで一緒に引き連れて強引に飛鳥に帰ってしまった。
しかも公卿・大夫・百官まで飛鳥川の畔の川辺の行宮に移ってしまった。孝徳天皇の衝撃は如何ばかりか、妻まで捨てて飛鳥に向かった失望は例えようがなかった。
臣下の大半が難波の宮を去り失意のうちに、翌年孝徳天皇は難波宮で崩御された。
『日本書紀』には皇太子は天皇が病気で亡くなられたことを聞き、皇極上皇、間人皇后、大海皇子、公卿らを率いて難波に赴かれた。殯宮は南庭に建てた。そして磯長陵に葬られた。
孝徳天皇の死後、翌年に栄華を誇った難波の宮は焼失し孝徳の夢と共に消え去った。  
孝徳天皇 / (?〜645)皇極天皇と同母兄弟の軽皇子、父は敏達天皇の孫の皇子の子、茅渟王。母は欽明天皇の孫の吉備姫王、皇后は中大兄の妹の間人皇女、妃の阿倍小足媛の間に有馬皇子を設けている。
難波宮 / 前期難波宮の歴史は皇極四年(645)乙巳の変後即位した孝徳天皇の難波遷都に始まる。白雉元年(650)孝徳天皇は当初難波付近を行宮を転々としたが、荒田比羅夫を将作大匠に用い、翌年に完成し新宮豊碕宮と名付け完成をした。孝徳が崩御し都が飛鳥に移されてからは難波を副都として「複都制」を採択し、官人に難波に宅地を求めるように指示した。摂津職大夫を置き羅城などお築き副都として維持管理したようである。
孝徳天皇の飛鳥から大阪上町台地への遷都の動機と理由として、河内王朝の仁徳天皇の高津宮に誘引されたのかも知れない。大化の改新の推進者の中心人物で、飛鳥から難波宮遷都はある意味では成功したのではないかと思われるが、中大兄との間の軋轢の違いは何だったのか、中大兄は本格的天皇像に懸念があっての次期皇位継承者が中大兄から孝徳天皇の皇子に有馬皇子に移行すると言う懸念の事前払拭とも考えられる。  
11 古人大兄・有馬皇子の悲劇の冤罪  

 

大化の改新に難波の宮遷都とめまぐるしく変化を続けている最中に皇族内で暗い出来事が起きた。一つは古人大兄皇子が吉備笠臣垂と言う人物が、古人大兄が蘇我田口臣川堀らと共謀し謀反を企てていると密告が有った。
中大兄は直ぐに兵を向かわせて吉野に居る古人大兄を討たせた。垂はこの時の功績で昇進し。功田を二〇町もらっている。
古人大兄皇子のついては蘇我入鹿が乙巳の変で打たれる前は蘇我系の御子として皇位継承の一人として優位な地位に立っていたが蘇我滅亡後は後ろ盾を失った。
乙巳の変ご皇位の継承の打診をされたが即座に断り髪をおろして吉野に出家をした。すでに身の危険を感じていた古人大兄は陰謀によって消されてしまった。
ここに蘇我系の御子は消滅をした。
次に悲劇の皇子になったのは、有馬皇子で父孝徳天皇、母は阿倍内麻呂の娘の小足媛で舒明十二年(西暦640年)に生まれた。
西暦654年に父孝徳天皇が難波に宮で皇族らが飛鳥に去って失意のうちに崩御した時は、十五歳の年齢で父孝徳の苦悩を間近で見ていたのが有馬皇子であった。
いわば皇位継承の有力な候補だった。と言っても万が一にも有馬の皇子に皇位を廻ってくるわけではない。
しかし僅かな皇位継承者の芽を摘むのが古代の王権の鉄則、これを中大兄は見逃すわけがなく、中大兄には皇位に直ぐに就かれない事情があったとされている。
同母妹の中が憚れ、禁断の恋であった。その間の皇位継承者の存在は許されない事情があった。もし有馬皇子は皇位に就けば亡き父の仇を討つことが出来るが、その前に中大兄が先手を打った。斉明天皇が重祚して斉明三年に有馬皇子は温泉言って元気で帰ってきた。
その後斉明天皇は牟婁温湯に出かけた。
留守官として残っていて蘇我の赤兄が有馬皇子の所に訪ねて来た。赤兄は石川麻呂を讒訴した日向の弟である。日向が九州に赴いたので蘇我家では長老に地位であった。有馬皇子は快く迎えた。赤兄の用件は謀反を進めることにあった。
「天皇は三つに失政が有ります。一つに多くの倉庫を建て財政を圧迫する事。二つに長い溝・側溝を掘って国費を浪費させたこと。三つに船に多くの石を積んで丘とせんこと。」を挙げて民衆の苦労を訴えた。厳しい徴税などを聞き有馬皇子は大いに喜んで、
「この年になって始めて兵をあげることが出来る時が来た」
孤独な皇子は巧みな赤兄の言葉に共感を覚えた。赤兄も自分の身内が冤罪で恨みを並べ立てて、有馬皇子の心を動かしたのだろう。皇子は一日置いて、五日に赤兄の所に行って謀反の密議に入った。他に塩屋連小丈・守屋大石・坂合部連薬が同席、皇子の計画では、都の皇宮を焼打ちし、次に五百の兵を持って牟婁の津を封鎖して、軍船を持って淡路と牟婁津を遮断し、天皇、皇太子を動かないように綿密に策を立って、仲間の結束の誓いを立て別れた。
皇子が家に帰って夜半、赤兄は宮を造る人夫を集めて、物部朴井連鮪に引き合わせ、有馬皇子の家を包囲し、一方紀伊の牟婁津に使いを送った。
有馬皇子は見事に罠にはまった。捕えられた皇子は密議を交わした者に捕えられて、紀伊の温湯に護送された。紀伊の温湯で審問を受けた。皇子は一抹の望みとして中大兄の温情に期待していたが、太子の容赦のない詰問が待っていた。
「何故謀反を企てたのか」と問いに、「天と赤兄が知る、吾は全く解らず」と答えた。
それから三日後に有馬皇子は絞首された。  
古人皇子 / (?〜645)舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘の法提郎女(ほうていいらつめ)。吉野太子・古人太子とも言われ、古人皇子の娘倭姫王が天智天皇(中大兄)の皇后に、上宮王家滅亡後古人大兄にされた。乙巳の変後、皇位継承に打診されて固持した。身の危険を感じ吉野に隠遁生活、しかし吉野に蘇我蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂らが古人が政権に謀反を企てようとしていると、吉備笠臣垂が自首した。このため古人大兄は家族ともども自殺をした。
有馬皇子 / (640〜658)孝徳天皇の皇子、母は阿倍内麻呂の娘小足媛、名前については、摂津の有馬温泉の因むと言われる一方、和泉国和泉郡の有真香邑(ありまかむら)に由来の可能性がある。次期天皇候補の為に意図的に除外された観がある。皇極、中大兄の紀伊の温泉に行き留守中に蘇我赤兄に策略にはめられて抹殺されたのが一般の見解である。一方有馬皇子の被害者の見解に対し準備周到で大規模な挙兵計画に実際に有ったか可否は断定できない。
蘇我赤兄 / (生没年不詳)馬子の孫、658年皇極天皇と中大兄が紀伊の温泉に行った折に留守官となったが、有馬皇子に謀反を誘発し、策略に載った有馬皇子を捕えて紀伊の温泉に送った。
こう言った皇族の粛清に皇極は黙認し、何等発言はなかったのか不思議さえ覚えるものである。平城京で天武系の皇系が淘汰粛清されて、ついに無くなって天智系の白壁の皇子に戻ったように、中大兄の皇系の粛清は天智帝の近江宮での大友の皇子の皇位を絶たれた結果に導かれていくのであろう。また重臣の鎌足などの助言が無かったことにも謎が残るものである。  
12 女帝斉明の重祚  

 

大化の改新後、難波宮の見切りをつけ皇族の主だった者、官人までも飛鳥に引き上げ、孝徳天皇は病死後に、飛鳥に戻った皇極や中大兄は飛鳥板蓋宮に戻り、そこで再び重祚(ちょうそ)(二度即位する)し即位をした。
名を斉明と替え斉明天皇とした。前回の皇極天皇の時と違って、蘇我の抑圧も気を使うこともない。その後、後世にもその足跡に見るような祭事付きや「石と水の都」と言われる都作りに精力を尽くしたようで、まず後飛鳥岡本宮を造営した。飛鳥は「石と水の都」と言われる様に今も造営物が残されている。
飛鳥に戻って最初の板蓋宮が焼失し、岡本宮に宮地を定めたが、その後田身嶺(多武峰)の両槻宮、吉野宮の両宮の造営を行った。「興事」好きは『書紀』にも記されていて、香山(香久山)と石上山の間に渠(運河)を掘り、直線距離20キロはあり、舟200隻で石上から石を運んで宮の山に積んで行った。この運河を「狂心の渠」(たぶれこころ)と呼び石の山丘を作っても作る先から崩れ、有馬皇子が赤兄の口車に乗せられた謀反の話の時に同じことが語られ、そこから見ても狂気じみているように思える興事好きであることを窺い知れる。
この石の丘を造るのに延べ7万人もの人が従事したと言われている。飛鳥寺の北西から石神遺跡から石人像や須弥山石(仏教の世界)が、亀石、酒船石遺跡は謎の石造物・酒船石がある丘陵は『日本書紀』にある両槻宮ではないかと思われている。
亀型、弥勒石など飛鳥に点在し何のために造られたかはいまだに解明されていない。その中に祭事用に、儀式用に作られたと考えられるものも多く、斉明帝は国内外から都に上がってくる使者に謁見をしたであろう。祈祷師や雨乞いの儀式や禊を執り行い、祈願の聖域をかもし出した場所などあらゆる国家祭事が考えられる。  
石神遺跡 / 七世紀から八世紀前半にかけて宮室関連遺跡。奈良県高市郡明日香村飛鳥石神にあって、明治時代に掘り出され、昭和初期の発掘調査で石組溝や石敷きが発見された。近年調査の結果建造物や塀や石組池、石組溝、石敷き等多数の検出し、斉明朝から天武朝まで五期に渡って作られたことを確認された。
両槻宮 / 斉明天皇が田身嶺に築いた離宮「二月宮」とも記す。調査で酒船石に据わる丘の標高130メートの石垣を廻る、その西正面の四段の石段は天武帝時代に崩落した。
こう言った飛鳥時代で重祚をした女帝斉明は乙巳の変から大化の改新、難波遷都と時代の変化で、その存在に発言はなく、飛鳥に戻って以後、石の都作りに、その後に展開する蝦夷征伐、新羅への遠征と活発な生き方をしていく斉明女帝は飛鳥時代に時事辺々を積極的に生きた天皇と言えよう。
こう言った斉明天皇の石と水の都の造営の影響は何処から受けたのか、百済・新羅との往来は頻繁に行われ。唐の国の情報も伝わっていたのではと思われる。
運河を張り廻らす中国にも無い分けでもないので、その刺激もあったのかも知れない。また中大兄が初めての漏刻が石神遺跡の近くから発見され、「水落遺跡」である。時計と時間が使われることに大きな進化と進歩であると思われる。
また王権の権威を表すための儀式が須弥山の下に行われた形跡があって、”化外の民“蝦夷や隼人などの服属の儀礼などが有ったのではないかと推測される。  
13 阿倍比羅夫(あべのひらふ)の東北遠征  

 

飛鳥に都を移して間もない頃、日本海への阿倍比羅夫の大規模な北方の遠征が挙行され、『書紀』に何篇かに渡って記事から、記述に多少の混乱があるようだ。
斉明四年(658)斉明天皇の命を受けた阿倍比羅夫は北伐に向かった。四月に阿倍比羅夫は軍船百八十艇を率いて、すでに服従していた津軽の蝦夷を水先案内にして齶田(秋田)に来航した。鰐田・渟代(能代)の蝦夷は比羅夫軍の軍勢を見て降伏をした。
その行程は越国守阿倍比羅夫が北陸地方の豪族であったので、地域に詳しく関係の深い氏族であった。日本海は、冬は荒れるが春から夏へは波も穏やかで、能登半島の七尾・伏木辺りで集合し、態勢を整えて渟足・磐舟港を前線基地として準備万端をして進軍、征伐隊は順調に顎田・渟代を押さえた。
組織と戦力に勝る比羅夫軍に蝦夷は何の戦いも組織の無いまま降伏しこれを比羅夫軍は許した。蝦夷は鰐田の浦の神に懸けて朝廷に従うことを誓った。
比羅夫は蝦夷の首領に位を授け、渟代(めしろ)・津軽の二部を郡領に任命をした。最後に有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き、大いに饗応して帰還した。
翌年の三月に、比羅夫は二回目の遠征に出発した。飽田(あきた)・渟代の津軽の蝦夷を三五〇人余りと、胆振鉏(北海道南部)の蝦夷二十人を一カ所に集め大いに饗応して禄を授けた。この年の遠征は北海道まで及んだと思われる。
さらに翌年の斉明六年(660)の三月の三回目の遠征には、粛慎(あしはぜ)と言う未知の民族と遭遇する。
比羅夫は陸奥の蝦夷を水先案内人と大河(石狩川)の河口付近に着くと、渡嶋の蝦夷千人余りが対岸に集まって仮住まいをしていた。
二人の蝦夷が大声で、川向うから「粛慎の軍船が多数襲ってきて我々を殺そうとしております、朝廷に仕えます、助けてください」と言って助けを求めてきた。
そこで比羅夫は粛慎人と接触を試みるが失敗に終わり、ついに戦闘となった。比羅夫軍に加わった能登臣馬身龍という能登地方の豪族が戦死する。
結局粛慎は破れて自ら妻子を殺したと言う。五月には粛慎人四十七名が来朝し、飛鳥石の都にある須弥山像の下に服従の儀礼を行なった。凱旋をした比羅夫はヒグマの生け捕り二頭とヒグマの毛皮七〇枚を献上した。以上が阿倍比羅夫の北方の遠征の概略である。
また斉明朝時代には活発に外交が展開されて様で、国内的に比羅夫の北方遠征に新羅・百済に使者や唐まで蝦夷らを連れて行き、倭国の属国があって支配地を広く大きく見せたい虚勢が窺い知れる。  
阿倍比羅夫 / (生没不詳)七世紀の有力豪族、比羅夫の名は貝の名前。比羅夫の阿倍は氏の中でも大和国は磯上郡辟田郷を本拠とする家系の出身であったことを示す。七世紀後半は引田氏が阿倍氏の主流を占め、阿倍氏の主流は後の布勢氏に移って行った。斉明四年(658)の東北遠征には輝かしい功績を残し、その結果大和朝廷は未知の世界を知ることが出来、一歩東北に勢力を広げた間があるが、その後の東北政策は苦難を極め、平安京に入って坂上田村麻呂の蝦夷征伐まで待たなければならなかった。
蝦夷(えみし) / 古代の新潟県の北部から東北地方・北海道にかけ居住した先住民族の総称、中国では古代から漢民族が自らの国家・文化が優れたものとものとして世界の中心の中華思想があって、それに影響されて日本の大和朝廷は国家に組み込まれていない東北、北海道・新潟地方の民を夷狄(いてき)(野蛮な異民族)の一つを蝦夷として設定をした。帝国型国家は地域・人民を天皇支配の内か外かに区別することで化内・化外(けがい)(王家の及ばない所)に分けて夷狄と諸蕃共に化外の属すると考えた。
粛慎(しゅくしん) / 中国の古典に見る春秋戦国以前の東北の伝説的民族であるが、実体は「ポルッツエ文化」を担ったバレオ・アジアート系の種族と考えられ、分布範囲は中国東北部からロシア沿海途方に及ぶ。その末裔は粛慎として中国や高句麗と通交した。日本の蝦夷と違う民族集団とみられる。この間に659年の遣唐使に北海道の蝦夷の男女を同行し皇帝高宗に謁見をさせている。この事は倭国もこのように服従する国々があると言う、アピールであった。興味を持った高宗は蝦夷に何種類の種族があるかと問うたと言う。
遠いものから「都加留・麁蝦夷・塾蝦夷の三種」と答えた。また五穀はあるか?
「ございません、獣を食べて暮らしております」また蝦夷を見た高宗は蝦夷の顔、体つきに興味深く思ったと述べている記述が『新唐書』『通典』に記録が留められていると言うことは、実際に斉明朝の次期に北海度の奥深くまで達していて、日本の記録は間違いがなかったと言えよう。
粛慎人を見てさぞかし飛鳥人は驚き、ヒグマを見て尚驚いたであろう。
三年連続で蝦夷や粛慎と称される種族を遭遇し交流などを出来たのは、季節的に条件が良かったのと、海沿いを添って北上したことが成功の要因に思える。
飛鳥時代は東北は未知の世界、大和朝廷の支配の及ばない所、勢力圏を拡大したい思惑で阿倍比羅夫は派遣された。行く先々で出遭った未知の先住民と交渉を重ねながら大きな功績を残した。
しかも遣唐使は大国中国に見栄を張って誇らしげに従属民族を示した。歴史は日本一国だけに留まらず中国も絡んで交渉と国交を結んで行ったものである。  
14 白村江の戦い  

 

斉明帝の政策は国内の征服に、海外にまで展開し、皇極天皇時代の高句麗攻略失敗にし、一方新羅は百済攻略の手詰まりに唐の連携を深めて、接近策を取って唐の年号を使用し、唐の着服をして筑紫に来航すると、倭国の心証を悪くし、新羅を討つべし、強硬論まで飛び出した。
こう言った倭国を取り巻く外交は「遠交近攻」状態であった。唐は高麗と敵対し、攻め倦んでいた。新羅は百済を攻め倭国に救援を求めて来て、倭国は新羅とは険悪な状態で唐服を着て筑紫に来て発覚したわけである。
近い国と戦い、その向こうの国と親交を結ぶ、敵の敵は味方なのだ。こう言った状態は今日の国際情勢に似ていることは、時代が変わっても国交は利害関係で絵に書いたような融和関係が生まれにくいのである。
新羅は唐の高宗に救援を求め、水陸10万の兵を持って百済に進撃を開始した。斉明四年(660年)百済はついに消滅した直後に倭国に使者を送り多数の君臣が捕えられ捕虜になり、残された重臣等は必死に抵抗を続けていた。倭国に援軍を求めて百済の復興をしょうとしていた。
倭国は直ちに援軍の派遣を承諾した。無謀な承諾であった。新羅ならいざ知らず、唐国まで敵に回す国力はない。この時斉明は六十歳になっていた。
斉明天皇は筑紫に拠点を置くことを決意、自ら難波に向かって武器を整えた。翌年老女帝は、正月に中大兄皇太子、大海人皇子と妃の大田皇女・鸕野皇女の姉妹らを伴って難波を出発した
瀬戸内海を一路西に向かった。途中大伯海(岡山県東の海)まで来た時位に、大田皇女が出産をした、名前を大伯皇女と名付けられ、妻子同伴の従軍は、伊予国の熱田津(愛媛県松山市)に寄港に石湯(道後温泉)に行宮(仮宮)出産直後の大田皇女を考えても当然の話、しばらく滞在旅の疲れを温泉の湯で癒したのか、筑紫の博多に三月二十五日に到着をした。
約四カ月の長旅は老女帝の斉明天皇には疲労が目に浮かぶようだ。奥まった朝倉の地に朝倉橘広庭宮が完成したが、不吉なことが連続して起った。宮殿が倒壊し、身の回りの者が病気にかかり死ぬ者が多く出て、神社の木を切った祟りとか疑心暗鬼に陥った。
七月にはとうとう斉明天皇は客死、崩御をした。まるで強権神功皇后の新羅征伐に酷似した、女帝斉明の新羅征伐の姿が彷彿とさせる。
斉明天皇が崩御したからと言って百済救援を中止をするわけにはゆかない。倭国の威信に関わる事で、士気を失わせれば、勝てる戦いも敗戦に繋がりかねない。
また斉明帝の老いの一徹が廻りの者にその決意を新たにさせた。
斉明帝の崩御後は、中大兄皇太子は素服(麻製の喪服)のまま称制を行なった。中大兄は直ちに朝倉宮から「水表の軍政」の儀式を行った。
中大兄は女帝の遺志を継いで、安曇比邏夫連(あずみひらふむらじ)・阿倍引田比邏夫臣ら五名を前、後の将軍に任命を志五千の兵を百済に護送させた。
中大兄は百済の援軍の用意を進めて陣頭指揮を執って実行し、十月には、亡き斉明女帝の遺骸を運ぶために海路大和に向かった。翌月飛鳥川の河原で殯を行なわれた。翌年には糸・布・縄など軍需物資を百済復興軍に送った。
一方翌年三月に新たに前・中・後の将軍任命し軍勢を編成し二万七千人の兵力で新羅を討つために増援軍を派遣をした。
しかしこの頃には百済では二人の倭将の豊璋(ほうしょう)と福信が意見の違いで対立し、豊璋が福信を殺してしまった。この分裂を見て唐・新羅軍は一気にたたいてしまおうと水陸から周留城に攻撃をかけた。そして唐の水軍が白江と白村江に陣取っていた。
蘆原君(静岡清水市の国造)に率いる倭の水軍が遭遇した。蘆原君の部隊は周留城が包囲されたので急遽その支援に向かった。この日は倭軍は唐軍の水軍に挑んだが、その堅い守りを破ることが出来ず、退却を余儀なくされた。
翌日再び戦火を交えるが、唐軍の統制の執れた軍船の挟み撃ちにあい、倭軍は大混乱に陥り大敗をした。多くの倭兵は白江に飛び込んで溺死をした。
この時の記述として『旧唐書』「倭の舟四百艘は炎を上げ、火炎は天まで立ち上り、海水まで赤く染まった」と書かれている。  
鬼室福信 / (?〜663)再興の英雄。百済第30代の武王の甥、660年、百済滅後、遺民と共に百済再興に兵をあげたが民は佐平福信と尊んだ。百済軍は優勢であったが、日本の救援を求め、父、義慈王により人質に送られていた。余豊璋王子を百済王に迎えることを申し出た。日本は豊璋と援軍とともに送った。ところが豊璋は形だけの王の地位に耐えられず、福信を殺した。新羅は百済に攻め込んだ。唐軍は白村江で日本軍を破り王城は落ちた。福信の死後3カ月後のことだった。
倭軍はこのような大敗をしたかは、唐軍の百戦錬磨の水軍と陸軍も要因があるが、倭軍は遠く海路を経て兵も静岡など遠方の兵を徴兵し、対馬海峡を渡り疲弊し切っていたのではないだろうか。
それに百済の仲間割れに、倭軍の二派に別れての援軍、地理不案内に敵の作戦の術中に嵌ってしまった感じである。
それに大国唐国の国力の差は歴然としていた。倭国は百済支援の前には阿倍比羅夫の北方遠征に蝦夷から北海道まで勢力を伸ばして実績を上げて、唐に派遣をして、その倭国の属国支配を誇示してきたばかり、百済の勢力下に新羅と凌ぎを削り、唐国と交戦はその時の国際状況が図り切れない部分もある。
それにしても島国の倭軍は小国でありながら、高句麗・新羅・百済の三つ巴に巻き込まれた観があった。斉明帝の百済援軍は朝貢などの親交があっての大義名分が無理承知の援軍ではなかったろうか。  
15 近江遷都と天智天皇  

 

中大兄にとって白村江の戦で倭国は危機的な状況に追い込まれた。国内的な動揺と不安定さで内紛が起こりかねないことと、唐からの反撃が倭国本土に及ぶ危機感からか、この後中大兄は遷都を決意したのではないか。
白村江からの撤退後、国土防衛に強化を図らなければならなかった。まず対馬・壱岐・筑紫などの防人に飛ぶ火、烽火(のろし)台などを設置である。筑紫の水城を築いたと記され『日本書紀』には大堤を築いて水を貯めた水城を造った。
また敗戦処理として百済からの亡命者を大宰府の南北に一カ所ずつ、長門にも築かせた。
防衛の策として海に慣れた戦いには西日本の兵を起用し、勇猛であるが海に慣れない東日本の兵は内陸部に護らせて、半島攻撃ものこのような策を良い防人制に要所、要所に配備された。
この頃の中大兄は天皇に即位はしておらず、女性関係も複雑であった。中大兄には直ぐに結婚できない事情は、同母妹との仲があって、皇位を継承できるものは大海人以外にはいない状態、大海人には特別に気を使っていたようで、自分の長女の大田皇女を与え、鸕野皇女も与えた。
年の差は13,4歳のあろう。もちろん先々の布石の政略結婚である。
またもう一つの女性関係で万葉集でも恋の取りざたされた、額田女王の関係である。額田女王は屈指の歌人でその出生に着いては詳しく分っていない。
その気品のある作風から、皇族に生れた、父親の鏡王とされる出自についても分らない。ただ当初大海人皇子の妃となって十市皇女を生んで、その後に天智天皇に召され、妃になったと言うことで微妙な三角関係と思われている。
この頃には歌が詠まれ当時の人間模様が推測され、貴重な歴史参考記述となっている。
天智六年(667年)中大兄は王都を近江大津宮に遷都した。遷都と同時に中大兄は即位をした。
大和から外に出るには伝説時代とは違って、歴史的にも例外的で既存の大和の豪族や氏族にとって強い抵抗があったのであろうと思われる。
『日本書紀』には遷都の時の様子を「天下の百姓、都遷すこと願わずして、風刺するもの多く、童歌も風刺する者の多し日々毎夜、失火の処多し」と庶民から恐らく臣下まで不満があって不穏な空気が漂っていたのだろう。
また無理をしてまで中大兄は遷都しければならなかったのか、唐の倭国への攻撃を予測し警戒からで、防衛線の強化も余念がなかった。
近江遷都後に翌年中大兄は七年間の称制から即位をする。天智天皇の出現である。
この頃、唐と新羅は和睦を結び親密になって行き、倭国が近江遷都の翌年には高句麗は滅亡し、新羅が勢力を伸ばし、やがて唐国と対立化して行き、俄に新羅が日本に使節を頻繁に派遣されてくる半島情勢であった。
遷都してその冬、鎌足の病状が悪化、天智天皇は親しく見舞われた。
しかし衰弱ははなはだしく、天皇は死に際に際し、何か望む物はあるかと、問われたが、何もなく死にあたって御厄介をかけるので簡素な葬儀をして欲しいと言い残して死去した。
天皇は大臣の称号と藤原姓を下賜された。
その年の暮れには高安城の造営に畿内の田税をそこに集めた。  
中大兄皇子は国情で遷都を余儀なくされたが、孝徳天皇は大和飛鳥から難波宮に遷都へ、結果的に人臣の心は離れ大和の帰ってしまった。
また壬申の乱では大和の豪族が大海人に共感を覚えて、近江を見限った。古代には「大和は国のまほろば」の故郷的郷愁があってなかなか遷都は難しいのではないか、飛鳥から藤原京・藤原京から平城京へと、徐々に都の移動は懸命だったかもしれない。
また中大兄の即位は実妹の入間皇女が亡くなってからのことで、即位せず長き称制の原因は国内的事情もあるが、禁断の入間皇女の関係が無くなって皇位に就くことが出来たと言われている。
近江大津宮に七年間都が置かれた。記述には近江大津宮の有り様を詳しくは伝え残してはいない。
近年、近江大津宮の所在地に徐々に解明されつつあるが、壬申の乱で悉く焼失し灰塵と化したのだろうか。  
16 近江大津宮の滅亡と“壬申の乱“  

 

近江大津宮に遷都して天智天皇と大海人との関係が微妙にずれが生じ始めた。
「乙巳の変」より時代の変化の節々に、中大兄と大海人は一体になって政局を乗り越え、男子の継嗣に恵まれなかった。
天智天皇の次の皇位は大海人が継ぐ、それは暗黙の了解事項になっていた。
天智紀にも大海人を「大皇弟」と呼ばれている。また天武紀には天智天皇即位時には、大海人は東宮(皇太子の居所と同時に皇太子を指す)に立てられた。
その後の経緯についてはどの参考資料も同じことが記されている。
天智帝には後継の皇子には恵まれず、三人の皇子がいたがどの皇子も母方の身分も血筋も良くはなかったが、中でも伊賀の采女の宅子郎(やかこのいらつめ)女の母とする大友皇子は仁徳に優れ、評判も良く来朝した唐使劉徳高が「この皇子、風骨(風格と容貌)世間の人に似ず、実に国の分に非ず」と称賛した。
手元において大友皇子にますます寵愛をされていく中、思ってはならないことが思うのが人情、大友皇子に皇位を継がせたい。そんな欲望が老いて体力、気力の衰えた天智帝によぎった。
669年に苦肉を共にし、補佐をしてきた、側近中の重臣鎌足の病が重くなり、天智自ら足を運び見舞いに行った。更に容態が重くなると大海皇子を派遣し、最高位の大織冠と大臣の位を授けた。更に「藤原」と言う姓を与えた。鎌足はその翌日に亡くなった。
天智十年(669年)には太政大臣を新設して大友皇子をその任に就かせた。同時に左右大臣、御史大夫を任命し、大友皇子を首班とする政権を樹立をした。
大海人皇子はその時点では太子の地位に留まっていたが、微妙な立場に立たされ、大海人皇子の立場が無くなってきた。やがて天智帝の容体が悪くなるにつれ、大海人皇子を蘇我安藤麻呂に呼びに行かせた。
この時使者となった蘇我安藤麻呂は「心してお答えください」と大海人皇子に進言をした位だから、中大兄が今まで皇位継承者を何人罠にはめて粛清したかを熟知しての進言であった。
大海人皇子はその一部始終を目の当たりにしていて、熟慮して天智帝に会った。
大海人皇子が天智帝の枕もとに行くと「後事は全てお前に任せたい」と切り出し大海人の心を探った。
大海人皇子は答えて「私は病を抱えた身です、とても天下を執れることはできません」とそつなく答え、皇位は倭姫さまに譲られて、そのもとに大友皇子に立太子にされて、政務を譲られるがよいともいます、自分は出家して陛下のために仏道に励みます」答えて、出家に許しをもらった大海人皇子はすぐさま、吉野に発った。
人々はその有様を見て「虎に翼を付け野に放つようなもの」と称したと言う。
十二月三日、天智帝は四十六歳の生涯を閉じた。
翌五月に吉野に戻った大海人皇子は舎人が近江方の不穏な動きを伝えてきた。その者が美濃に使いに行った所、朝廷は天智天皇の山陵を造営の為と言って美濃・尾張の人夫を徴用させ、武器を持たせていた。
これは吉野を攻撃するに違いがないと言うのである。近江から飛鳥への要所、要所に斥候を置き、途中の宇治川では守橋を置き、吉野に行く荷物のじゃまだだてをして通さないと言う連絡を受けた。
吉野方しては武器も持たず、座して撃たれるより、決起をすることを思い立った大海人皇子は、三人の美濃出身者の美濃国宰を動かして兵士を徴発し、その兵力を美濃と近江の国境の不破道の側に閉鎖する様に命じた。
この作戦はその後の作戦に優位に動いた。二日後には大海人は大胆な行動に出て、近江朝廷が倭京に留守居司に駅鈴を借りようとして失敗をする。
駅鈴の奪取は失敗は直ぐに近江方に通報される。当時は大海人の家族がまだ近江に半ば人質のような状態で有ったので、大海人は妃の鸕野皇女と王子の草壁・忍壁・舎人二十人余りを引き連れて吉野を発って美濃を目指した。当時は高市皇子・大津皇子が近江宮にいたので密使を送り脱出を指示し、一行は菟田を経て伊賀の隠(なばり)に入り、途中で日が暮れたので道脇の家の垣根を壊して日の灯りにして進み続けた。
その時は無防備でもし追手の、近江の兵に見つかれば致命的な状態だった。途中で従者に出会い徒歩から馬に乗り換えて、途中にまた美濃王や漁師に出会い伊賀評の官人ら数百人が大海人に帰順し隊が整い,行軍をし続けた。
夜通しで行軍し積殖(つむえ)(三重県伊賀)辺りで近江から脱出した高市皇子・大津皇子らに合流することが出来、さらに進んで伊勢の鈴鹿に着き、力強い味方の守、宰、介を得た。
ここで五百の兵で近江に通じる道を封鎖させ、三重の評家(こおりけ)に婦女子を家一軒をもやし休息し、その後迹太川畔に着き、伊勢神宮を遥拝した。三重の朝明けに来た時に評三千人を率いて不破の道を封鎖した。その内、東海道・東山道方面に使者を送り更なる動員の要請をした。
尾張からも二万の兵の動員を受けた。一方近江方は動揺が広まり直ぐに騎兵隊を派遣して大海人を討つべし、進言が有ったが大友皇子はこれを退け、みすみすのうちに機会を逃してしまった。
後手、後手に回った大友皇子は、東国・大和・吉備・筑紫へ使者を送り派遣の要請を送った。
東国への使者は不破道で吉野方に捕まって一人だけが逃げられた状態、反対の大海人皇子は日々帰順する兵の数が増え、近江方の徴兵に成功したのは河内地方だけになった。
何より近江人皇子の力良い味方は高市皇子であった。先頭に立って兵を率いて進めて行った。河内で蜂起した近江方は吉野方に変じ、合わせ数万の兵が大津宮を目指した。
一方近江方の防衛戦線も数万の兵で迎え撃ち、瀬田川を挟んで最後の決戦となった。やがて近江方の総崩れが生じ、大友皇子、左右大臣らがばらばらに逃走した。逃げる宛のない大友皇子は、大津の長等で自決をした。  
大友皇子 / (648〜672)伊賀宅子郎女。天智朝の最有力の皇子、天智十年(671)我が国初の太上大臣に任じられ、天智天皇の後近江朝廷の中心になった。壬申の乱では叔父大海人皇子に敗れ、大津は山前の長等山で自害をした。妃に天武天皇の皇女十市皇女がいる。
評家 / 七世紀の地方行政組織。評とも言う。大宝元年(701)から群制に変わる。評家は地域の官人の長。
大津宮で大友皇子が即位をしたかしなかったについて、紆余曲折があって江戸時代から徳川光圀『大日本史』は即位していたが『日本書紀』は大友皇子を倒して即位した天武天皇の正統性を強調するために即位しなかったと記されている。
明治天皇は弘文天皇の贈り名を持って歴代天皇に数えられている。
この壬申の乱の筋書きの編纂は天武系の人々が携わった以上、天武系の利する展開となっていることは間違いが無く、吉野から近江への行軍の様子が事細やかに書かれていることを見ても明白である。
あくまでも天武天皇の方から見た壬申の乱の記述であることに注意を払わなければならない。それを差し引いても、近江方の緩慢な対応が吉野方に有利に動いたことは間違いがない。
何よりこの物語は天武天皇の正統性を強調するもので、近江方の対応のまずさと、重臣の支持もない事の例を出してみても理解が出来る。
何より老練な大海人の判断と経験がものを言い、日頃の豪族、氏族らと馴染みが、軍勢に加わった評、宰(役人)の多さが要因になった。
近江方の失敗の要因は若さゆえの経験不足、人臣の把握に欠け、文人であっても武人でなかった弱さであった。  
17 天武帝の天皇像  

 

天武天皇(大海人皇子)は兄天智天皇(中大兄皇子)と共に乙巳の変より一心同体、兄、弟は結束して難局を乗り越えて、飛鳥時代の一大功労者である。
六七二年(天武元年)九月十二日、壬申の乱に勝利した大海人皇子は。飛鳥古都に凱旋をした。岡本宮の横に宮室を建て、大海人皇子は此処に即位をする。
武力による王権の奪還の成功はわが国始めてである。「壬申の乱」の後に論功行賞が行われ、乱後の皇族の団結と秩序を回復するために「吉野の会盟」が吉野宮行幸の際行なわれた。
この吉野の会盟こそ天武系の争いを絶つための天武の固い思いがあった。
天皇は皇后及び草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子を召して「自分はお前たちと共に朝廷を盟約し、千年の後まで継承の争いの無いように図りたい」と問われ、それに答えて「我ら兄弟長幼合わせ十余人は同母であろうとなかろうと天皇の言葉に従って争い事は致すまい」と誓われたと言う。
蘇我氏の台頭で仏教の導入で進められた反面、王権を危うくする蘇我氏を「乙巳の変」で王権の確立に、今度は王権内の粛清後、日本は半島や唐との関係を半島三国と倭国,唐国の派遣を巡る戦いの中でも、大化の改新を進めて来て、新しい国家体制を築こうとし、また唐に見習い都作りにも本格的王都を造りに取り組み始めた途端に、孝徳から斉明に重祚された。
「行きつ戻りつ」の倭国の変化であった。この波瀾の政変と外交を目の当たりに見ていた天武帝は冷静沈着に国家形成に律令体制への指針を示した。
まず国体と成す律令国家への施策として、諸国に配置していた官人の起用を畿内出身者の創出など、官人制など機内重視、その後冠位などと八姓の姓はそれまであった、
臣・連・君・直・造・史から整理し真人・朝臣・宿祢・忌寸・導師・臣・連に改めたことなど律令国家への施策である。この律令は天皇の権力の地位を高め、中央集権政治を確実化され、それを明確にした点にある。更に飛鳥浄御原令施行までかかったとされる。
天武天皇のもう一つの側面は、敬虔な仏教信望者であった。川原寺の一切経の写経であり、大官大寺、飛鳥寺は共に官寺として栄え、この仏教への理解がその後の平城京の聖武天皇に受け継がれていく。
天武朝のもう一つの貨幣作りで無文銀銭と富本銭で流通したかは疑問である、祭事や儀式に使われたのではと思われるが、銅銭の鋳造技術が有って、また近年鋳造跡が発見された。
天武九年(680)皇后の鸕野賛良皇女が病気の祈願をして薬師寺を建立した。その後、天武は飛鳥浄御原宮で五十六歳で死去した。二日後に、殯宮(もがりみや)が執り行われた。  
飛鳥浄御原令は天皇は律令を制定して方式を改めるように詔を出した。唐の律令を基に作られたと思われる。律令と言っても今日のような義務と権利でなく、罰則と命令で構成されているが、法として造られた意味は大きい。天武天皇の功績は国家形成作りで、律令国家の求めるものは、豪族蘇我氏の台頭で王権が脅かされる事態の経緯を一部始終目の当たりにした天武帝の経験に寄るかも知れない。  
18 持統天皇と藤原京  

 

天武天皇の皇位継承については、波瀾が有った。年齢的に長子の壬申の乱でも活躍した高市皇子(長王の父)は血筋で母親が北九州の豪族で胸形君徳善の娘の尼子娘であったので皇位継承は無理であった。
これは壬申の乱で悲運の大友皇子もそうであったように、母方の血脈がもの言う。次に最も有力な草壁皇子と大津皇子の二人は一つ違いで大津皇子が上で、母方が姉妹であった。
皇位継承の筆頭の二人には鸕野賛良皇女(持統)の皇子は草壁皇子で影が薄く、評判も芳しくなく体も脆弱であったらしい。
それに対して一歳年下の大津皇子は文武両道に長けていて、資質も文句なし評され、天武帝生存中は両者同対等な立場で登場するが、天武帝の没後から大津皇子の身辺が急変する。
天智帝の殯宮葬儀が執り行われている最中、大津皇子の謀反が発覚する。四日間取り調べの後に、捕えられて自邸で死を賜った。
この事件で連座して三十人が逮捕されたが結局、大津皇子に謀反を進めた新羅からの渡来僧行心が謀反を進めたと言う配流されたが、これは明らかに冤罪で持統らの仕組んだ策略と思われる。
こう言った王族内の粛清に似た、抹殺を危惧して天武帝が吉野の会盟が死後何の意味も持たないことと、天武帝の予測が的中した形だった。
持統天皇の在位中に夫天武帝がかねがね意としてた、「飛鳥浄御原令」を編纂するに至り、二十二巻、作成には難航を極め、中国唐律に大きく依存し影響されたものになった。
主として中央集権の構築するために、八色の姓等など豪族統制策が盛り込まれた。
次に「庚寅年籍」戸籍について。次に課役について「賦役令」「調・田令・課戸・計帳」「陵戸」などが大宝律令まで効力を発した。  
持統天皇 / (645〜702)称制四年、在位十二年長きに渡り天皇不在の中継ぎの女帝、父は天智天皇、母は蘇我石川麻呂の女遠智娘。天武天皇の皇后なり草壁皇子を生んだ。壬申の乱後夫大海人皇子と行動を共に支え続けた。
草壁皇子 / (662〜689)天武天皇の第一皇子、大津皇子と同様に筑紫に娜の大津で誕生、母は鸕野皇女、吉野で盟約を行い、翌々年に立太子した。天武が病の中、皇后と共に天下事を委ねられたが即位しないままに没した。
大津皇子 / (663〜686)天武天皇の皇子、母は天智天皇の皇女で大田皇女。大津皇子は百済救援戦争に筑紫に向かう途中に誕生した。壬申の乱の時も最後まで祖父の天地天皇ところに留まっていた。これは天智帝が有能な後継者として期待してた結果だろうと思われている。
七年前のことで、天武と持統は天武の皇子四人と天智系の御子二人を集め、互いに裏切ることなく千年の誓いを地祇天神に盟約をした。持統の目した寵愛の皇子は皇位を継ぐことなく、若くして亡くなった。
こうして次期皇位継承者の出現までの中継ぎとして、持統即位し藤原京に着手、これは亡き夫の天武帝の願いでもあった。
最近の発掘で藤原京の造営計画は天武帝の病気祈願の頃から定めら、我が国初の本格的都城の藤原京が造営されることになった。
勿論都城は中国の都城に刺激されてのことだったろう。この藤原京造営と天武帝没後の四年後に正式皇位を継承、即位をしたのが六九〇年で二年後に地鎮祭が執り行われた。
大藤原京の規模は諸説があって、東西五・二キロメートル、南北五・二キロメートと考えており、南北十条、東西十坊と想定され、その中央に藤原京が周囲一キロメートルと思われている。
現在地としては奈良県橿原市付近で北に耳成山、西に畝傍山、南東に香久山の大和三山に囲まれていて、藤原京の周囲には掘立柱を塀の大垣で囲まれている。
外堀(外濠)の幅五メートル、東西南北面に三カ所の門が開き、中央に朝堂院と正殿として大極殿のある堂々たる藤原京であった。  
19 文武即位と藤原不比等の台頭  

 

中継ぎの持統天皇は子の草壁皇子と妹元明との間に生れた孫の皇太子軽皇子に譲位をするために、草壁の遺児の、軽皇子の即位の年齢まで待たなければならなかった。
軽皇子(かるみこ)十五歳に達するのを待って万を期しての譲位であった。文武天皇として即位後も、五十三歳の持統老女帝と孫の文武の二人三脚の治世であった。
この頃太政大臣であった高市皇子は前年に死去し、右大臣に多治比嶋に加え、大神高市麻呂が任じられ、文武の配偶者に、藤原不比等の娘宮子が夫人になった。
藤原不比等は表面的には出ないが、裏方で代々引き継がれた皇室の特別な存在として支えた。持統系の後継を引き継ぐためには重臣の協力なければ治世は難しく、父の鎌足同様裏方で支え続けた。
ただ不比等には文武の夫人に宮子を嫁がせることによって皇族の外戚となる事が出来るのは、蘇我一族と同じであった。
やがて藤原一族の朝廷中枢支配の足掛かり人っていくのである。鎌足の死から持統朝の三十一歳で官職に着くまでの履歴は明確でなく、鎌足の二男で長男の定恵は僧侶の道に入って、あの道照と同じ道を歩んだが若くして亡くなった。
父鎌足が死去した時には十一歳の少年であった。
大宝二年(702)持統太上天皇は死去した、天武没後から十六年間政務を執り、律令国家建設に尽力を尽くした。
持統の没後を支えたのは、草壁の兄弟の刑部親王が知太政官事に任じられた。右大臣に阿倍御主人(69歳)、大納言に石上麻呂(64歳)藤原不比等(46歳)紀麻呂(45歳)の三人。その後刑部親王が死去、阿倍御主人が死去し、知太政官事に天武の子、穂積(ほずみ)親王が任じられた。
その内、粟田真人が帰国、唐国の長安から持ち帰った長安の都城の情報に藤原京も参考にされた事だろう。
しかし文武天皇は病弱で707年二十五歳の若さで死去した。
この時には文武の子、首皇子は八歳、健在の舎人親王(とねりしんのう)、新田部(にいたべ)親王ら天武の皇子たちをさしおいて即位できる年齢ではなかったが、中継ぎの天皇として、その母阿閇皇女であった。
天智天皇を父として、草壁皇子の妃として、氷高内親王(元正天皇)、吉備内親王(長屋王の妃)、軽皇子(文武天皇)を生んだ。
阿閇皇女が即位して元明天皇となった。元明が即位をした正統性は、草壁皇子の皇子文武への継承であり、持統太上天皇と治めてきた。
文武天皇は自分が病気の身、治療に専念するためにあなたが天下を治めてくださいと譲られた。だが私はその器でないと断ったが、文武が死の際に譲位の意思を表明したので「命に承ます」と答えて皇位を継いだ説明がなされた。
元明天皇の即位後、孫で幼少の首皇子(聖武天皇)までの中継ぎとして祖母元明は即位をした。  
元明天皇 / (661〜721)中継ぎの女性天皇。在位八年間、阿閇(あへい)。持統とは異母妹で草壁皇子の妃、元正天皇・文武天皇・井上内親王の母、慶雲三年(706)病身の文武天皇から即位を要請されたが辞退した。翌年に文武天皇が病死し遺詔により即位をした。これは直系の男子の首(おびと)皇子は幼少にある為で、先帝皇后の即位は異例としての即位と思われている。在位中は藤原不比等らの政権を中心に平城京遷都など重要な懸案を相次いで行って言った。八年後の首皇子(聖武天皇)を皇太子としたがまだ幼少の為に霊亀元年(715)に元正天皇に譲位した。その後も太上(だじょう)天皇として実権を把握していた。
藤原不比等 / (659〜720)奈良時代の官人、鎌足の二子。母は車持君国子の女、兄定恵は出家ご夭折しており、鎌足が賜った藤原姓をただ一人の男子が継承した。長女宮子を文武天皇の夫人として送り込み、その生まれた皇子に首皇子(聖武天皇)には三女の安宿媛を妃として皇室に深く結びつけた。中納言から大納言に、そして右大臣に上り詰めた。藤原京の遷都事業は不比等中心に進められたと思われる。遷都と同時に山階寺(厩坂寺)を平城京に移し興福寺の建立を進めたが生前に間に合わなかった。
粟田真人 / (?〜719)7世紀から8世紀にかけての官僚。天武朝に小錦下を授けられ、朝臣姓となって筑紫大宰として隼人・174人に衣装を与えた。文武三年(699)に藤原不比等と共に禄を受けた。その後、遣唐執節使となって、大宝律令を持って唐に出発、翌年唐に着き則天武后に謁見した。唐で評価は「好く経史を読み、属文をを解し、容止温雅」と評された。帰朝し中納言。大宰師、を歴任し正三位を与えられた。
この時代に活躍した人物に、粟田真人は見逃せない。持統太上天皇が崩御した時には入唐し輝かしい成果を上げ、倭国にその情報をもたらした官人である。また大宝律令の編纂にも加わり大役を果たした。
粟田真人が唐国で見て学んだものの中に長安城は東西九・七キロメートル南北八・六キロメートルとやや長方形の形をして、東西十四条、南北十一条の中に東西二・八キロ、南北一・八キロの宮城がある。人口は約百万人巨大都城である。
因みに平城京が五万人から十万人もないかもしれないがその規模が窺い知れる。このような大規模の都城を見て粟田真人はどう思っただろうか、また建造物はレンガ造りで、日本の様な風土とは全く違った所で律令令が布かれていた。
粟田真人はこの広大な宮殿で臆することなく、則天武后に謁見をしている。
記述は藤原京に付いては詳細な事柄は残されておらず、平城京への思惑の方が優先されているようである。  
20 元明天皇と平城京への道  

 

慶雲四年(707)文武の葬儀が終わって、気運は平城京に向けられた。
この頃武蔵国の秩父に和銅が献上されて、これを祝って和銅と改められた。和銅の産出は精錬の入らない使い勝手の良い純度の良い自然銅である。
和銅改元は元明と不比等とによって進められる平城遷都に向けての銭貨「和同開珎」の発行である。
貨幣については実際に流通していたかは疑問であるが、貨幣への認識はあったのか、勿論庶民にはその認識はなかったろうが、朝廷の中枢などは粟田真人の唐からの帰国によって周知していただろう。
和銅元年(708)平城京への遷都の詔が出された。その後の八年間は遷都に明け暮れていたと言われ、現在のような整地されていなく、平城山から延びる丘陵があって、その間に南から入り組んだ谷合があったらしい。平城京遷都への建設は地ならしから始まり、大極殿、内裏、東院など主要な建造物が建てられていった。『続日本紀』に依れば和銅三年に平城に遷都をする。
平城京の規模様子は南北に九条の通りがあって、北の中央に平城宮、その中央の門、朱雀門があって南に下り羅城門の左右にそれぞれ四坊の筋があって、東北に外京に東宮に東大寺や興福寺などの寺院が置かれ、外京を除き東西4,3KM・南北4、8KMと言う規模の中に約10万人の人が住んでいた。
新都造営と政情不安が伝えられ、多くの民の労役が徴用されたようである。
この平城今日においては女帝が目立つことになる。藤原京においては持統天皇の主導もとに行われたが、平城京は元明女帝が積極的に進められた。
皇位継承者に血筋に適合した者が居ない場合、また候補がいても天武系の持統の長子の草壁が早世し、文武も天皇の地位に就くが病弱で亡くなって、次の首皇子の継承までの間の中継ぎの天皇に止む無く祖母の元明が成っても仕方のない所で、天皇家の主流を成す者の継承を優先した観がある。
707年に文武が病死した翌月、元明は即位をした。例によって皇位に就いた正統性とその理由を「宣命」形にして「地祇(ちぎ)天神のしずめし神の天皇の勅命、臣、公民のもろもろの聞こえる宣による・・・」と謳っている。
本来なら当時九歳の首皇子が文武の皇子として継ぐべき所、皇継から外れた祖母の皇位に継ぐに当たり廻りの者に気を使ったものである。
元明天皇のように天皇系の嫡子でないものの即位は一応特異な例と言える。しかも女帝であるが八年後の715年に娘の氷高皇女の皇位を譲り、個々に二代続いて女帝が誕生し、本格的男子の皇位までの「仲(なかつ)天皇(すめらぎのみこと)」としての皇位である。
氷高皇女が即位をして三十六歳で元正天皇となった。それでも文武天皇の嫡男の皇太子首皇子は幼く、それまでは元正は政務を執らなければならなかった。
元正天皇の即位時には首皇子は十五歳であったが、祖母の老女帝元明にはまだまだ不安があって、首皇子を
立太子させた。異母姉の持統は孫の文武天皇の譲位をさせるのに、五年間後見人の様な立場であったが、今自分も同じように首皇子の後見人の様な立場で見守らなければならかった。
持統の子の草壁皇子にしても、元明の文武皇子も病弱であった。何故なら生物学的にも近親結婚は病弱な子どもが生まれやすいらしい。
元正天皇の重職の布陣も随分と様変わりをして、左大臣の石上麻呂が亡くなって、代わりに臣下の筆頭は右大臣に不比等が成り、次男の房前が三十七歳で参議に就任、着々と藤原景が朝廷の重職に就くようになって来た。
元明と不比等の二人三脚も、710年の平城京遷都の五年後に元明は没した。
一方不比等は藤原家の基礎を築き、興福寺を建立の完成前の養老四年(720)に没した。その影響力は大きく文武の妃に娘の宮子を嫁がせ、聖武天皇には光明子を嫁がせて朝廷への盤石な影響力を有して功績を残した。  
元正天皇 / (680〜748)女性天皇、在位九年間、父は草壁皇子、母は元明天皇、文武天皇・吉備内親王姉、二品から一品に叙せられる。首皇子は幼少の為に元明天皇から即位をした。藤原不比等から長屋王が首班になって重要な政策を実施「三世一身法」などを施行。元明在世中は元明が実権を握り、没した三年後は「聖武天皇」(首皇子)に譲位し中継ぎの役を果たした。
藤原宮子 / (?〜754)文武天皇の夫人、不比等の娘、大宝元年(701)に首皇子(聖武天皇)を生んだ。聖武天皇が即位すると母宮子を尊び大夫人とする勅令が出された。ところが長屋王らの指摘によって撤回され,皇太夫人に、この事件で長屋王は失脚をした。長年宮子は病の為に聖武天皇に会えず天平九年に玄ムの看護により会えたと伝える。
平城京 / 八世紀の古代都城。京域の大半は現在の奈良市にあり、西南の一部は大和郡山市に含まれる。藤原京から遷都の動きはすでに文武天皇の時に在り、慶雲四年(707)には諸王臣に五位以上の者に遷都の事を論じさせた。翌年に元正天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山、鎮を作す」と指摘されている。藤原京から平城京への発起と思いの要因は粟田真人や遣唐使が間近に見聞した長安の大明宮含元殿をわが国にも取り入れたい思いもあった。平城京に作られた大極殿は含元殿が類似している点にある。京域は朱雀門と羅生門を結ぶ朱雀大路を中心に、東が左京、西が右京で、それぞれ東西の方向を大路には中央の羅生門を左右に一坊から順に外に向かって増え外京は別に増えて行く、南北に大路があるが南北には一条から九条に、条里制に基づくもので、坊と坪と里と条里制は班田図によって表現される。平城京の人口は10万人位と予測され、もともと京内に居住し官職を持っている上級官人、地方から赴任してくる官人、京外に住み生活必需品の供給する人、人口十万人の首都平城京は当時としては大変な賑わいであったろう。
和同開珎 / 日本最古の銭貨。本朝十二銭の最初の銭貨。銀銭と銅銭がある。和銅元年(708)発行の。銭文「和銅」には年号、調和を表わす吉祥句の両方の意味が含まれている。律令国家が重点をおいた銅銭で、高い法定価値を付与して支払に用い、銭貨発行の収入を得た。銀銭は、和同開珎の発行以前に存在をしていた地金の銀の貨幣機能を銅銭に受け継がせようとするための媒介物として発行された。このため銅銭が流通する存在意義は減少し、銀銭禁止令が出された。現在にある記念硬貨的色彩と銭貨発行による収入源も見込めたが貨幣としての流通は程遠いものがある。
この頃の藤原京から平城京への人物上の大きな動きと詳細な記述はなく、二官八省など律令国家ついて述べられている。皇位継承に首皇子への引き継ぎに元明・元正女帝思いが遷都と「和同開珎」の発行で機運を高めるための意図が窺える。  
21 長屋王から藤原四兄弟  

 

長屋王の頭角
時代は不比等から長屋王へと変わって行った。元正が没した。
養老五年(721)政権は不比等に変わり、長屋王が就いた。本来なら皇族の重要な地位でもあったが、あえて皇籍を降り、臣籍と成っての政権だった。
天平元年(729)栄光から悲劇の失脚までの、謎の多い八年間を平城京の政権を担った。本来なら天武の長子高市皇子の王子として後継の有力候補として、皇族の中枢でいるはずが、高市皇子の母方の血筋が九州豪族の娘と言うことで身分の低さから父と同様皇権から外されていた。
だが高市皇子は壬申の乱の折には若干十九歳にして、勝利に導く働きの功績は大きかった。その後持統五年(690)持統在位中では八年間太政大臣として、朝廷を支えた。
妃には天智の皇女御名部皇女が向けられた、元明天皇の上の姉に当たる。
草壁皇子に継ぐ存在だったが享年四十三歳で没した。御名部皇女の間に三人の皇子と三人の皇女が生まれた・父高市皇子と違い長屋王は母が天智女である以上最も王権に近い存在だった。
だがもし長屋王が王権に意欲を見せていたならば、政争に巻き込まれて、排除されて、抹殺されていた可能性は、否定できない。
父はそんな事を察知しいち早く、臣籍の道を歩むことを、選択したに違いない。
まして首皇子が誕生した以上は全ての皇族は、皇権に意欲のないことを示さなければ、身の安全は無ことは熟知していたかも知れない。
運命の選択は父の生き方を、知った上の官人として登り詰めて行った。
北宮王家と木管
長屋王自身その生き方に臣籍に活路を求めた。
長屋王については、謎が多かったが、奈良市の大型建築物の基礎工事で元長屋王の住居跡から長屋王の関係する、多くの木管が出土し、その権力と、その暮し振りや様子が解明されつつある。
長屋王 天武五年(676)飛鳥で高市皇子の長子として生まれた、母は御名部皇女である。
妃に吉備内親王、草壁皇子と元明天皇の内親王で三人の王子が生まれている。*膳夫王、葛木王、鍵取王。
石川夫人には王子が一人。*桑田王。
安倍大刀自夫人に一人の女王。*加茂女王。
藤原不比等の娘の長我子の間に四人の王子。*安宿王、黄文王、山背王、教勝?
他に分かっているだけで六人の女王。三人の王子。*円方女王、紀女王、忍海部女王、珎努女王、日下女王、栗田女王、林王、小冶田王、太若?
なかでも吉備内親王の血縁は深く微妙である。
それが北宮王家(高市皇子、長屋王)という特別な存在だった。あたもかも、聖徳太子の上宮王家を彷彿とさせるものがある。
首皇子の誕生以降は皇位継承からも外されてからは、その代償として、特別な処遇であった。
政治家の道を選択した長屋王は、父同様にその才覚を発揮したのではないだろうか、平城京遷都から失脚する十九年間、長屋王邸宅は正殿と脇殿と建つ、床面積三百六十平方メートルという、天皇の次に観られる大きな邸宅である。
上記の家族構成に充分住居としても、特別扱いだった。
その機能やシステム構造は宮殿を少し小さくしたもので、政所、務所、(事務所)主殿司、(殿舎管理)大炊司、(食料庫)膳司、(調理)菜司、(野菜所)、酒司、主水司、(水酒の管理)染め司、(染色工)工司、(職人所)鋳物司、銅造司(金物の製造)嶋造司、(庭園所)仏造司、斎会司、(仏事)薬師処、馬司、犬司、鶴司、など多岐に渡りあって、あって一国の王宮のまかないのに相当するものである。
これらの長屋王の関係する人々の従事する人数は数百人に及んだだろうと思われる。
邸宅は北門の二条大路に面し、大路には本来門を開いてはいけないのに、表通りに開く北門があって、広大な邸には、妃、夫人と、それぞれの家族に王子、女王が、区割りされた処に住み長屋王の一族を成していた。
そんな大勢の人々の暮しを守るだけの、物資、資金を考えた場合、奈良の大型デパートの建設の折り、たまたま長屋王の邸跡だった。
出土された、多くの木簡は、奈良時代と長屋王の謎を解く鍵として、大量に出てきたのである。
木管は長屋王のその暮し振りと、当時の情景や、情報が膨大に出てきたのである。
しかも途方もない作業であった、木管は長さ二十センチ位で、幅三センチ位、厚さ四ミリ、紙の代行で諸国を流通する、貴重な木札であった。役割は書簡、命令書、明細書、荷札,連絡書など多彩である。
木といっても貴重である、決して使いすではない。削って再利用するのである。その削りカスを、一つ一つ広げて、判読するのである。
三万五千点に及ぶ木管を解明しつつある。
実に気の遠くなるような話である。そんな中から当時の長屋王の日々暮らしを見ることができる。
領地から送られてくる数々の品は、その豊かな食卓を物語るものであるが、荷札の木管からは、父の領地、遠くは高市皇子の母方の宗像(宗形)から送られた物があり九州からの結びつきを物語る、封戸四千五百戸分に相当する。
諸国父高市皇子から受け継いだものを入れ三十七カ国にも及ぶ、摂津国の塩漬け鯵、伊豆国の荒鰹、上総国のゴマ油、越後国の栗、阿波国の猪なで、近郊から野菜など、夏には奈良の山手の氷室から氷まで、その豊かな美食が窺い知れる。
長屋王の取り巻く家族はそれぞれの夫人の王子や女王に加え、妃や夫人の背景をも巻き込み、北宮王家として存在していた。
北宮王家についての呼称の由縁は、藤原京時代に父高市皇子が京の北側に住居したのが始まりという。
そういえば藤原四家も北家、南家も藤原京の方角に住んでいたからだと言われている。
長屋王政権
不比等から長屋王へ、やがて藤原四兄弟の台頭、不比等が長屋王に全権を委ねる見返りに、わが子の抜擢を促すが如く、長子武智麻呂の妻に長屋王の妹竹郎女王を嫁がせ関係を深める。
養老四年(721)十二月元明太上天皇が没し、十二月に右大臣長屋王が誕生し、打ち出した政策は、農業振興政策で、良田百万町の開墾政策で、遷都十年平城京の米などの消費に生産が追いつかず、増産するために開墾を奨励する政策である。
次に出した政策に「三世一身法」で開墾と道、水路を整備したものには、三世代に渡りその土地の占有を認めるということである。
聖武天皇(首皇子)父文武天皇・母藤原宮子・皇后藤原光明子・五六歳没・在位二六年間・
養老八年(724)天武、持統、草壁の、直系の期待の首皇子が万を辞して、大極殿に於いて即位した。
平城京の申しの皇子、聖武天皇の誕生である。
元明、元正と仲継ぎの天皇十七年にも及ぶ女帝を経ての天皇誕生には皇族内に安堵があっただろう。
異例と云えば皇位継承に、皇族を母に持たない天皇は初例であった。
長屋王の変
それが、その後の長屋王の問題に成っていったのであるが、大夫称号事件が起きた。
皇族でない藤原宮子は、天皇の母のその処遇に当初は大夫人と呼ぶ勅をだしが。そこで長屋王は、勅に従っていれば問題が無かった。
所が長屋王は聖武に大夫人とは「令」に照らし合わせても呼ぶことが出来ないと発言した、 
皇を上に加えれば可能と進言、「令」を出して宮子の名を聖武に云ったことには悪意は無かったが、宮子に「皇」の一字を付けることで威光を持たせたかったのが本心だったろうが、律儀と言えば律儀、返って聖武天皇、光明皇后の威信を傷つける結果となった。
結局、長屋王の意見が通り「皇大夫人」となったが、口頭では「大御祖」と呼ぶことで落ち着いた。
天皇の発言に異を唱えたことの重大さに長屋王は気がついていなかった。
神亀三年(726)この頃より元正は体調を崩し、災害が起こり、信心深い聖武は写経や仏に寺院建立に励む日々であった。
翌年には待望の皇子の誕生に、宮廷の官人までが、明るく一変し祝賀に庶民まで恩恵を受け、税や免除が、物が振舞われた。
処が翌年、生後一年で皇子は世を去り、聖武、光明の落胆は計り知れないものだった。
この頃より益々、聖武、光明は仏への信心は深まり、大きく仏教へ傾いていくのである。
仏教への深まりは光明の影響から、余々に光明の発言力の強さへと変化していった。
鎮護国家への道は聖武と光明に取り最早、長屋王は邪魔な存在でしかなかった。
それもなんの予告も無く、突如神亀六年(729)二月十日の夜、六衛府の兵が長屋王の邸を取り囲んだ。
兵を指揮していたのは、藤原四兄弟の三男の宇合と次官であった。
手順として逃亡の恐れありと、地方の兵の混乱を避けるために、固関(こげん)が実施された、三関(鹿関、不破関、愛発関(あらちぜき))これからの起こる政変に備えてである。
皇族からは、舎人親王、新田部親王、他、大納言、中納言、藤原武智麻呂などが長屋王の罪状を問うために門を叩いた。
その嫌疑は国家転覆罪、左道を持って天皇を呪詛したという疑いで取調べを受けた。
密告者は下級役人三人で、明らかに冤罪であるが、抗弁、弁明しても、覆るものではない。
長屋王は翌日には自決享年五十四歳のことだった。
自決の前に、妻子、吉備内親王と三人の子、膳夫王、葛木王、鉤取王と、石川夫人の子桑田王に毒を飲ませて絞殺、こうして長屋王家、北王家は悲劇の結末で滅亡した。
一族は生駒山の麓の平群に葬られ、吉備内親王には罪がないと理由でその葬を賎しくしてはならないと長屋王の他の夫人、王子、女王には一切罪は問わない勅が下された。  
長屋王 / (684〜7299奈良時代の左大臣。高市皇子の子で天武天皇の孫。母は天智天皇の女。妻は元明天皇の子の吉備内親王。天平元年(729)左道を学び国家を傾けようとしているとして訴えられ、吉備内親王や膳夫(かしわで)・葛木王らと共に自殺し滅亡した。長屋王邸が宮城の北側にあったことから「北宮王家」と言われている。
左道 / 1 不正な道、邪道、転じて、不都合、不謹慎の意。2 粗末の意。
長王の変で解るように皇権に近い長王は臣籍に降下して政権を担ったが、聖武帝を取り巻く皇族や重臣にとって目障りな存在でしかなかった。
新興勢力の藤原四兄弟の台頭が相まって長屋王の突き落としに一役買ったかもしれない。とりもなおさず藤原宮子、光明子の立場や存在を否定するものではないが、皇位継承保持者の存在は除外に他ならない。  
22 “藤原四家の台頭”と藤原宇合の東征  

 

不比等が没し、代わって政権に就いた長屋王は八年で失脚、その後の政界を牛耳ったのは藤原四兄弟だった。
長男武智麻呂、次男房前、三男宇合(うまがい)、四男麻呂の兄弟であった。不比等が没する前には、それぞれ四人の息子には政治の中核に要職に就けてあって、自分の没後を考えて次の布石は打ってあって、抜かりが無かった。
平安を通して藤原家の隆盛は留まる所が無く、全ての要職は藤原一門で占められていたが、その基礎にあったのが、奈良時代の藤原四兄弟の活躍が無ければなしえなかったものである。
この四兄弟が朝政の重職に名を連ね、長屋王失脚から八年間その隆盛に時代が続いた。
光明とは異母兄弟に当たり、聖武に取っても母の兄弟になり血縁関係で深く結ばれていた。
安定した八年間は、国内、国外の目だった事件は起こらなかった。
ただ朝鮮半島の高句麗が滅んだ後は、突如出現した渤海国が国書を携えて使節がやって来た。
天然痘大流行
神亀二年(725)八月に、九州の大宰府管内で西海道諸国で疫病が大流行し始めた。
「続日本記」には天然痘と呼ばず「豌豆瘡」と呼んでいた。
勿論外国との交流の多い地区は当然そんな危険はついて回る。処が天然痘は治まるどころか、山陰道、山陽道を東上して、全国的な広がりを見せ、朝廷も何とか食い止めるべく、天然痘の進入を防ぐために「道饗祭」と言った祈祷、呪いをするしか方法が無かった。
そんな祈祷が効いたのか一時小康状態なったが、此の時に皇族や貴族、官僚などが倒れて言った。
中でも天武の子新田部皇子、舎人皇子も亡くなった。
聖武、光明が熱心に写経する経典の収集するために、遣唐使が持ち帰った多数の貴重な経典の、見返りに厄介な天然痘を付いてくる側面を見せ付けられた。
天然痘の大流行で国家の機能がマヒし混乱をきたすようになっていった。
聖武、光明は天然痘の猛威を、またそれで亡くなった人達の供養に拍車が掛かったことは,云うまでもない。
天平八年(736)六月、聖武、光明は即位後三回目の芳野行幸に旅立つが、それがどんな意味を持つか定かではないが、十六日間も何を考えてか、天武系の蜂起した時の思い出の地で、疫病の苦悩の払拭のためか。
翌年一月、参議、兵部卿藤原麻呂が持節大使として、陸奥国に向け派遣されることになった。
東北政策と四兄弟の病死
この頃東北は蝦夷の動きが不穏な動きの、気配が伝えられて来た。
東北政策はその拠点造りと、民の移動させる事に大和政権の長年の摩擦で、一挙に解決できず、一進一退を繰り返していた。
柵から、城塞へと地道に北上していったのであるが、融和政策と強行突破とを織り交ぜながら、開拓、入植と蝦夷の分断、硬軟政策を講じなければならなかた。
物資の確保は、往路の整備に多くの人員を投入しなければならなかった。
この頃の大和朝廷の東北への支配勢力圏は多賀柵から、出羽柵までの最短路の往路を確保に途中に、雄勝村に拠点を造り、群家を置き、民の移動させるのに、陸奥按察使(鎮守将軍)の大野東人から混乱を鎮圧する為の要請があった。
騎兵千人を配置、前線の大野東人に精鋭隊百九十六人、玉造柵、新田柵、牧鹿柵など四百五十九人を配置、多賀柵に残る麻呂に三百四十五人を預け、その他陸奥国兵士や服従蝦夷の総勢六千人をもって色麻柵を出発した。
その頃都では、あの忌まわしい天然痘が再流行をしだし、麻呂の兄の参議、房前が天然痘で病死、次々と重職官人や貴族まで、感染し亡くなる事態に打つ手無く、政治の機能化に影響を与える程になってきった。
それは一般庶民、民、百姓まで感染し、世情が不安定になっていった。
最早、麻呂に取り東北遠征所ではなくなって来た。
急遽、都に引き返した時には、大宰府弐小野老、中納言多冶比県守が亡くなり、帰郷して兄の見舞いに行って感染した麻呂は、七月に死亡四十三歳だった。
直後に、長男武智麻呂までもが天然痘で死去、そして続いて三男宇合までが死亡、四十四歳であった。
皇族の天智皇女、水主内親王までこの世を去った。
朝廷は諸神社に弊帛捧げ、宮中の十五カ所で僧七百人に大般若経と最勝経を講読させ祈祷せた。
あの隆盛を極めた、藤原四兄弟の相次ぐ死亡で、藤原政権はあっけなく消滅、意外な幕切れとなった。  
藤原武智麻呂 / (680〜737)奈良前期の公卿、不比等の長子、母は蘇我連子(らじこ)の女娼子。豊成・仲麻呂・乙麻呂・巨摩麻呂らの父、藤原南家の祖。邸宅が平城宮の南に有ったので南卿と称されている。大学頭など学問に関わり歴任し皇太子首皇子の教育に当たった。藤原四兄弟時代を作った。右大臣に昇進したが、当時大流行した天然痘に侵され没した。
藤原房前 / (681〜737))次男として生まれ、不比等の第二子。母は蘇我娼子。北家の祖で北卿と称された。一歳上の武智麿とり早く朝政に入り要職に就いた。参議、議政官に上がり、長屋王との親交が深く、武智麿呂の南に対して北に住んでいたので北家と呼ばれていた。やはり疫病「天然痘」で他の兄弟同様に病死をした。
藤原宇合(ふじわらのうまかい) / (694〜737)藤原不比等の三男として生まれ母は娼子、田麻呂・百川・蔵下麻呂の父。行動的な人柄で、霊亀二年(716)遣唐使として唐に渡り、帰国後常陸守になり、兄の式部卿の後任に、蝦夷の反乱の制圧に、持節大将軍になり、遠征しこれを納めた。参議、議政官に加わり、文武両面を持ち合わせ、長く式部卿を務めたので,式家と呼ばれるようになった。西暦727年に兄弟は天然痘で病死した。
藤原麻呂 / (695〜737)、四男、母は鎌足の女五百重娘という。浜成・百能らの父。京家の祖、京職太夫に任じられことによって京家と称された。左右京大夫(京職)を務め、主として平城京の行政を受け持ち、参議から、議政官に加わった。
平城京で栄耀栄華を誇った藤原四兄弟も天然痘であっけなく全員病死、死去した。藤原四兄弟に依存をした朝廷の落胆は如何ばかりか計り知れなく、10万人の人口で二割や三割の人口は消滅したか定かではないが、東北地方を襲う飢餓疫病で四分一の人口が亡くなり盆の回向は伝統となって続く事例があって、一時平城京の衝撃は大きかった。聖武天皇は仏教に傾斜していく要因に身の回りの者の供養、回向の思いが拍車をかけたとされている。  
23 聖武帝・光明皇后と平城京  

 

養老七年(723)左京から両眼の赤い白亀が献上され、祥瑞の亀の出現によって、神亀と改元された。
それを期に大極殿において満を持しての皇太子首皇子の即位である。
天武、持統、直系の皇子草壁、文武天皇を若くして亡くし、耐えて仲継ぎの女帝元明、元正と血脈の粛清をも越え、聖武天皇が即位し、同じ齢の光明を妃、皇后と、その間多くの有力皇族は消えた。
今や藤原一門を背景に事が進んでいく時代に成っていた。
期待の皇子の誕生に元明は孫の首皇子に対する思いは、帝王学は並々ならぬものがあった。母宮子は病弱で、会えたのは聖武が成人してからのことだった。
幼い頃より、祖母元明に、伯母に元正に帝王学を教育され国内の博士、学者による、仏教の書経、唐の儒学など諸学を徹底的に教え込まれた。
聖武の出した勅の随所に出てくる言葉に。
「朕と民」「国に納める、朕の徳」処々に出てくる、大仏発願にも国を治める君主の心がけが、所々に出てくる。
君主としての振る舞い、気品、決して暴君ではない、信心深い面、理想を求め、気まぐれではあるが、律儀で博識で繊細である。それに対して光明は十六歳で聖武に元に来て、常に行動的で活発な面があった。
平城京を二人三脚で歩んだ面は否めない。
光明子の性格は父不比等より、その気丈さは母県犬養橘三千代の影響の方が大きい。
聖武の人柄についての記述は無いが、光明について、「幼い頃より、総慧、敦く仏道を崇み、仁慈にして、志、物を救う」と評価は良い。
母の三千代は天武、持統、元明の四代の天皇に仕えた内命婦(高級女官)で天皇、皇后の身回りを世話する者である。
その功績に橘宿禰の姓を賜った、平城京の門に「県犬養門」があるそんな由緒ある姓を賜ったのは、敏達天皇の五代目の美怒王に嫁ぎ、葛城王、佐為王、牟漏女王を生んだ。
不比等に見初められて、再婚して生まれたのが光明子であった。特に県犬養三千代は聖徳太子に深い信仰を持っていて、法隆寺の三千代の「橘持念仏」が残されている。
そんな光明子の運命は十六歳で聖武と結婚し、十七歳で阿倍内親王が生まれて、二十七歳で待望の皇子、基皇子が生まれたが、一年後没し、その後は継子に恵まれなかった。
基皇子を失った後、二人は益々仏教に引かれて行ったが、やがて写経に没頭し、写経所を造り、国を上げ組織的に行われたようだ。
専門の写経する教師、校正、装潢生といった人達の集団が生まれ、仏典の一切教と言って全ての教を網羅して写経すると言うことに徹した。
写経についても、聖武直筆による、仏教関連の「雑集」は仏教による功徳を説いたもので、その書体からは律儀で、几帳面で純粋に仏教への求道心が窺い知れる。
これに対して光明の筆跡は男性的で、積極的な書体でその性格が顕著に表している。
特に光明は興福寺の寺院の拡充に力を注ぎ、堂塔の東金堂、建立に天平二年には薬師寺の東塔、四月には興福寺の五重塔、天平五年には母三千代の供養に西塔を建立している。
聖武天皇は光明皇后より早く仏教に帰依していた。後々にその仏教への没頭ぶりは大仏建立へと続くが、この時点では一切経の書経を早くより内裏で開始をしていた。
光明皇后は藤原家の氏寺への献身的な供養、建立が顕著にみられ、特に母の供養に熱心であった。聖武天皇は身の回りの重臣等が相次いで天然痘で没し、そのための供養に大仏建立に拍車をかけた。
これに対して邸宅を伽藍として法華寺を建立し、東大寺に対して寺名に総国分尼寺で法華滅罪之寺に由来する。  
聖武天皇 / (701〜756)在位二十五年間、父文武天皇。母は藤原不比等の女、宮子。
聖武天皇の子の継嗣に恵まれず、
☆光明皇后に阿倍内親王・某王。
☆県犬養広刀目に井上内親王・不破内親王・安積親王。聖武天皇には継嗣に恵まれず、不比等の女の☆安宿媛夫人に某王が生まれて立太子するが翌年死亡した。
光明子や藤原一族は県犬養広刀目の安積親王の皇位継承を恐れた、そのため光明子の立后で邪魔な長屋王を除外し策略で失脚させた。そ
そして阿倍内親王を立太子させた。王族でない光明子の立后も女性の立太子も異例で藤原四兄弟の強権によるものであった。
光明皇后 / (701〜760)聖武天皇の皇后。なは安宿媛、光明子、藤原不比等の三女、光明皇后は永谷王排斥の後仏教に大きな影響をもたらし、興福寺の五重塔や西金堂、新薬師寺、法華寺など建立に務め皇后宮職に施薬院、悲田院を設け救済事業お行なった。また国分寺、国分尼寺の造立を聖武天皇に勧めた。今日の東大寺の正倉院が現存する功績が大きい。
県犬養橘三千代 / (?〜733)藤原不比等の妻、父は県犬養東人。美怒王との間に葛城王(橘諸兄)佐為王・らがいる。天武天皇から元明天皇まで仕えた功績を称えられ橘宿祢姓を与えられた。元明太上天皇の病気祈願ため出家。没後正一位が贈られた。
平城京の君主、聖武天皇は藤原一族に支えられ政務は執り行われた。また光明子の性格も母県犬養橘三千代の影響が強く表れ、気丈な面が表に出て聖武天皇をしばしば先行する。また複雑な血脈関係はその後の橘諸兄と仲麻呂時代に移って行く序奏に他ならない。  
24 広嗣(ひろつぐ)の乱と吉備真備  

 

藤原一族に取り逆風であった。とりわけ宇合の子の、広嗣の事件が起きた。
広嗣は性格と素行が悪く、大宰府に左遷されてしまった。天平十二年(740)聖武天皇に大宰府の少弐藤原広嗣から上表文が届いた。災害が続くのは政治が悪いからで、それは僧正玄ムと右衛士監の下道真備の重用が要因である。
聖武天皇、これは謀反であると判断、討伐の兵を指示した。
その事がから、事件が勃発、大宰府の隼人を巻き込み、反乱軍と成った広嗣軍と、大将軍に任命された大野東人の広嗣征伐軍とが関門海峡を挟み、繰り広げられたが、政権に就いて間もない橘諸兄は直接指揮を取った様子もなく、聖武の敏速な指令で、あっさり広嗣が捕らえられ処刑されたが、政権の不安定さは否めなかった。
事の経緯はこうである。広嗣は、大和朝廷の不満をそのまま九州の隼人の民衆に潜在しているのを目に付け、不満を煽りたて自分の大宰府の兵と合流させ蜂起したが、大和の官兵諸国より一万七千を徴兵、広嗣軍の隼人とを分断させるため、畿内よりの隼人を派遣し戦力を弱める作戦を取った。
戦局は関門を渡り、板櫃川を挟んでの決戦となった。
広嗣は北周りの鞍手道から大隈、薩摩、筑前、豊後の五千の兵を広嗣の弟綱手が率いて進む予定が政府軍の豊前掌握に綱手軍が進路を絶たれが、結局、北へ遠賀川付近で広嗣軍、綱手軍が合流、そして板櫃川へと向った、官軍六千に対して広嗣軍、綱手軍総勢一万とが板櫃川を挟んで対峙した。
此の時の時の様子を、こう記されている。
官軍方の隼人から、広嗣軍の隼人へ動揺させ分断させる為に巧みな心理作戦の呼びかけに、裏切り、寝返るもの続出、広嗣の正当性のない反乱軍は、逆賊広嗣の陰謀が、陣営内にも暴露され九州各地より結集した郡司達も政府軍に帰順する者余々に増え、統制の利かない広嗣軍は西へ敗走、五島列島から、済州島付近まで行ったが、強い西風に拭き戻され、五島列島の宇久島で捉えられて、大宰府へ護送される途中で処刑された。
何故無謀な反乱を企てたのか、身内からも疎外され九州に左遷され、孤立感から、玄ム、下道真人への妬みは藤原一門への腹いせにあったのか、無名に近い二人は唐国に十七年も大陸の文化物品、備品、仏教の経典は新鮮なものだったに違いない、そして何より聖武や光明に取り求めたものは唐の情報が欲しかったに違いない。
大陸の情勢や、政治文化も気に成っていただろうし、また聖武の母の宮子の病気の怪しげな祈祷まで買って出た、益々聖武は玄ムを信じ切っていった。
異例の抜擢、成人に成るまで会えなかった母宮子の病を手懸け、効果が有ったか無かったは定かではないが、野心満々な政僧玄ムはたちまち政治の中枢に参入していった。
処がその後の政変で失脚した。天平十七年(747)九州は筑紫の観世音寺に左遷、翌年栄華を極めた玄ムは没した。
一方下道真人は出身の吉備の名を取り、吉備真備と改め、常に政治の中枢に有って、節目、節目に登場し重要な役割であり続け、孝謙の時代まで朝廷を支え続けた。  
藤原広嗣 / (?〜740)奈良前期の貴族、宇合(うまかい)の長子。藤原広嗣の乱の首謀者。大養徳守に任じられたが素行が悪く評判は芳しくなく、大宰府に左遷された。藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の没後、藤原勢力の復興を図り、橘諸兄、玄ムに対立し孤立した。玄ム、吉備真備を除外することを上表し、大宰府に挙兵し敗れ逃走し捕えられ惨殺された。
吉備真備 / (695〜775)奈良時代の政治家、父は下道朝臣圀勝、母は渡来系。下道真備と言う。阿倍仲麻呂の玄ムら遣唐使と一緒に入唐し滞在17年にも及ぶ、藤原四兄弟しご橘諸兄政権下から重用され、称徳天皇の信任厚かった。その後の仲麻呂政権下では冷遇され二度目の遣唐使帰国後は大宰府で地方官として十数年間不遇の時代を送り、再び帰京後は造東大寺長官として活躍、恵美押勝の乱では敵の退路を断ち一気に壊滅させた。
玄ム / (?〜746)法相宗の僧、俗性は阿刀氏。義淵に師事し、養老元年に入唐、天平七年(735)帰国、経典仏像持ち帰る。聖武天皇・光明皇后の信任を受けて僧正となり、内道場に供奉した。朝廷も橘諸兄も玄ムを重視した。その野栄華も長続きせず広嗣の乱の五年後の筑紫ニ左遷させられた。翌年に配所に死ぬが広嗣の霊に殺されたという。
問題の発端になった吉備真備は(695〜775)政治家で父は右衛士少尉下道道朝臣、母は渡来系、養老元年(717)遣唐使に留学生として安倍仲麻呂や玄ムと共に入唐し。滞在17年にも及び、儒学、礼儀、律令、軍事などを諸般の多くの学問の書物を持ち帰った。
帰国後、孝謙天皇に重用され学士になった。以後この女帝に厚遇され、藤原四兄弟死後の橘諸兄にも登用された。九州大宰府の藤原広嗣の名指しで追放を掲げて反乱された。
その後、仲麻呂政権下では冷遇され、嫌われて西海道に左遷されるが、再び遣唐使で唐に渡るが帰国後も帰京は許されず地方の役人として十数年を過ごした。
天平宝字八年(764)造東大寺司の長官として戻り、恵美押勝の乱(藤原仲麻呂)では率先し敵の退路を断ち活躍した。
その後、弓削の道鏡政権下では異例の出世をした。七十二歳の高齢で右大臣に上り詰め、七十七歳で右大臣を辞し、四年後八十一歳で生涯を閉じた。吉備真備ほど長きに渡り時代の節々に活躍した人も稀で、唐との文化導入の橋渡しの功績は大きい。  
25 聖武帝の遷都と橘諸兄政権時代  

 

全盛時代を迎えた藤原四兄弟時代はあっけなく天然痘で相次いで没し幕切れとなった。
次ぎに登場するのが、橘諸兄と、長屋王の変で失脚した残った人々の復権であった。
一般に橘諸兄の起用については、光明の強い意志が働いていたのだろうと思われているが、また長屋王の王家の残された人々の復活も、聖武、光明の判断の誤りで、後に悔いと償いの意味を込めての処遇でもあるが、いずれにせよ藤原四兄弟が健在だとすれば、まずこれらの話は不可能だったと思われる。
橘諸兄は光明の異父兄弟の兄で橘三千代の子で、同じ異父兄弟の藤原四兄弟を失った今となっては心の支えになっていたのは間違いのないところである。
天平八年(736)葛城王を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰(たちばなすくね)の姓を祝う宴が開かれたと言う。
葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母県(あがた)犬養(いぬかい)橘(たちばな)三千代(みちよ)の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。
天平十年(738)武智麻呂右大臣の死去の後に、橘諸兄が成ったことはひとえに母橘三千代の威光と後ろ盾が有っての事だろう。
諸兄も左為王も自ら願い出て臣籍を得たと言う、橘政権を示唆したのは光明である事は誰もが推測する事で、光明の身内で固めたい思いは当然の事だったのだろう。
そして贖罪で失脚した長屋王の弟の鈴鹿王が参議から知太政官事になり、隆盛を極めた藤原四兄弟の子からは武智麻呂の長子豊成が参議になった位なものだった。
藤原四兄弟の子たちはまだまだ若く政権に参画できるほどに成人して居らず、した積みの時代にあった。
藤原広嗣の乱の最中その対策も、留守居に任せ、聖武天皇は遷都探しの行幸に出た。御共に同行したのは、元正前天皇・光明天皇他右大臣の橘諸兄ら重臣と、藤原仲麻呂と紀麻呂の率いる騎馬兵四百を前後に平城京を出発した。
伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕原宮に着いた時は一カ月半は過ぎていた。右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。
聖武天皇が廻った順路は丁度、天武天皇が壬申の乱に吉野を出て、近江に攻撃をかける時に進んだ順に廻った形で、その地を「恭仁宮」と名付けられ、直ぐに平城から官人などを呼び寄せて官庁を移転させた。
恭仁宮の場所は平城京の真北にあって、早く言えば木津川を挟んで直ぐ側の場所、聖武天皇の遷都の決意の要因は、天然痘の忌まわしい禍からの払しょくと、長屋王の変の後味の悪さからの払拭とも言われている。何か深い迷いが有ったのかも知れない。
更に聖武天皇は近江国甲賀郡の信楽村に行幸し、恭仁宮造営中の造営卿智努王に紫香楽宮の造営を任命した。
聖武帝は留守居の平城宮に恭仁宮の大極殿で朝賀を受けたり、新都に行ったり来たり往復をした。こうして紫香楽宮が進める中、大仏造営の詔を出した。
かねてより河内は知識寺の廬舎那仏を見て感銘を受けて造立を決意をしていた。そんな中、聖武帝は難波の宮に向かった。難波宮は孝徳天皇の跡地で副都として活用しようと思っての計画だったろう。
聖武は官人を朝堂に集めて、恭仁宮と難波宮の何れを都にすべきかと問い意見を述べよと言った。答えは恭仁宮に多くの官人は答えた。
聖武天皇の決意は定まっていて平城京から「天皇の大権の証」駅令と内印を難波宮に運ばせていた。そんな中、聖武の唯一の皇子の安積親王が死去した、時に十七歳になっていた。その皇位後継者とみられた安積親王の死にはその後も多くの謎が残されている。
その後、紫香楽宮での大仏造営に転々とした新都造立に疲弊し切った民に山火事が多発し、聖武帝は難波行幸から還都を決意、六年に渡る遷都の継続断念の引き換え条件に平城京に大仏造立を新たに決意したのである。  
橘諸兄(たちばなもろえ) / (684〜757)奈良時代の公卿、父は美努王、母は県犬養橘三千代。奈良麻呂の父。始め葛城王と称していたが、左大弁など経て参議に、天平三年(731)佐為王の弟と共に上表し、母が忠誠を賞されて元明天皇から与えられた橘姓を名乗ることを請い、許されて橘諸兄と改名をした。藤原四兄弟の亡き後、大納言、右大臣となって政界の中心的存在になった。しかし唐から帰った吉備真備や玄ムの重用に藤原氏の反発を買い、その後台頭する藤原仲麻呂に権勢の強まりに、諸兄の影響力は低下、756年に致仕した。
恭仁京 / 京都府相楽郡加茂町、山城町、木津町にまたがる所在の古都宮都。740年より744年までの暫定的な都。藤原広嗣の乱の引き金となって、再び平城京に戻るまでの間、聖武天皇は恭仁をはじめ紫香楽、難波と転々とした。
聖武天皇の迷想遷都の旅は果てしなく続き、臣下は疲弊を余儀なくされたのであるが、しかもその少し旅に出ると言って都を後にして、伊賀、伊勢、美濃、近江を行宮や郡衙に泊まり巡り山背国相楽郡の甕原(みかのはら)宮に着いたのは一カ月半は過ぎていた。
右大臣橘諸兄は天皇の行く先々に廻って準備を整えた。丁度その行程は壬申の乱で天武天皇が廻った行程をなぞるように、しかも落ち着いた所は平城京の真北の直ぐ側の地点、何の思い出で巡行したかについては明白に語れていない。
夢多き帝の思いは臣下には到底理解しがたいものであるが、大仏建立と言い、新都の謎想に模索と言い、理想化の反面、写経に見る繊細で律義な性格は民の疲弊は気にも留めなかったようである。  
26 大仏造営の布陣  

 

平城京に戻った聖武帝は仏教に没頭し、のめり込んでいった。遷都迷走と共に大仏建立の地も模索をしていた。
平城京に還都した聖武天皇は外京の東の山裾に有った金光明寺(金鍾寺)である。
もともと夭折した聖武の皇子の冥福を祈るための建立された山房である。この地に大仏造立に向け歩み出すのであった。
大仏造立の廬舎那仏への影響は河内の知識寺で拝んだことにあると伝えられ、聖武は早くより華厳の教義に惹かれていたようだ。
廬舎那仏の教えは事々無礙(むげ)・重々無尽の法界で、梵網経が描く世界が大仏の台座の蓮弁に線刻されている。一枚の弁に上・中・下の三段の仏界に別れ、上段に釈迦を中心に左右、各十一体の菩薩が集まり釈迦の頭上か発せられる十二本の光明に数体ずつの化仏が居て、中段は無色界、色界、欲界の三階に別れ描かれ、下段は須弥山を中心とした仏界が描かれ、弁一枚に気宇壮大な仏教の世界を描かれているものである。
大仏と総国分寺の仏教による鎮護国家への先例は、隋・唐に有った一洲ごとの一寺を置いては第三代高宗の妃則天武后に習ってのことだった。
知識寺の仏像から大仏への発想は玄ムや吉備真備などの遣唐使の見聞による影響は窺える。
巨大な像物は中国の敦煌・竜門・雲崗などを朝廷は聞き大きな刺激と影響が有ったと思われる。日本には石仏を造る場所も地域も見当たらず、金銅の仏像に辿り着いたに過ぎない。大仏造立には膨大な資金と物資と人員が必要とされ、諸国より徴発された。
東大寺大仏造立には行基と良弁の貢献は大きい。聖武帝の思いは民衆の「一枝の草一把の土を持ち寄って民衆の協力」が理想であった。
この理想の実現には行基とその集団であった。紫香楽に大仏造立の詔が出された四日後には多くの弟子たちを引き連れ勧進活動を続けた。
また後の東大寺別当で根本僧正と呼ばれた良弁が支えた存在を忘れてはならない。
木材や資材に5万五九〇人・役夫百六十六万五千七十一人・鋳造等に三十七万人・鋳造役夫五十一万四千九百一人・米五千石・鋳造に使用する材木は途方もない量で示された造立必需品は断片的であり、何より巨大仏像大仏を納める大仏殿には播磨国から巨木を50本を瀬戸内海、木津川を遡って奈良にその苦労も偲ばれる。
それにも増して鋳造技術は大陸より招かれたと思われ、前例のない国家大事業となった。
大仏完成前にして聖武帝の頭痛は大仏に塗装する金がない事であった。折しも陸奥国から黄金が産出した知らせが届いた。
年号を感謝の意を著すために「感宝」と改められた。
完成間近になるにつけ聖武帝の体力は衰え始め、宮中で千人の僧を得度させたり、天下に恩赦を与えたりして聖武帝の健康を祈願した。
その頃にようやく聖武帝の皇女の阿倍内親王を即位させた。大仏の本体鋳造が出来、後は塗金を施すだけであった。
大仏の本体の重量250トン、弁座30トン、金色に輝く大仏が出来上がった。
天平勝宝四年(752)三月十四日に開眼供養が執り行われた。
開眼の九日の当日は菩提を導師に元聖武帝・光明皇后・孝謙女帝の三人は大仏殿に布を敷いた板殿に座し居並ぶ公家、重鎮官人と僧侶ら静まったなか菩提の手に持った筆が大仏の眼精に点ずる、その手に持った紐が長く伸び聖武らの手に繋がっていた。
読経に雅楽に舞にあでやかに、はでやかに開眼供養は執り行われた。  
良弁 / (689〜773)東大寺の僧、出自は近江国の百済氏とも相模国の漆部氏ともいう。義淵に師事し新羅の僧審祥に華厳を学ぶ、神亀五年(728)某王の供養の為に金鐘寺となる山房が建立されたが良弁は智行僧として怕言ったと思われる。ここを舞台に講師として六十華厳を講義し活躍をする。少僧都となって翌年の大仏開眼供養には東大寺別当に任命される。
行基 / (668〜749)この大仏造立に貢献した人物に行基がいる、河内国大鳥郡蜂田(現家原寺)に生れ、父は渡来人、母は蜂田首虎身。十五歳で出家し、大和国葛城上郡の金剛山山腹で修業し、山林修行者として各地を廻ったが、その後山林暮らしを止め故郷の家原寺に帰った。三階教に出会ってからは民衆宗教の活動に変更、布施行、布施屋、船屋や架橋、ため池作り、土手や道作りなどの社会事業に、民衆の信仰の寺院を建立、再建もした。こう言った社会事業に不審を受け、制圧や叱咤を受けた。その内、行基の社会奉仕を理解され活動は許され、大仏造立事業に協力し大僧正に任じられ、行基の建立した寺院は四十九院と呼ばれ、開創または仏像の行基制作を伝承とする寺院は七百七十箇所を数える。生存中から菩薩と呼ばれた。晩年平城京は喜光寺で暮らし没した。
華厳宗 / 南都六宗の一つ『大方広仏華厳経』『華厳経』それに関連する諸経、本山は東大寺。全世界は毘廬舎那仏の顕現、森羅万象、一見無関係と思われる相印相関関係があると思われている。天平八年(736)来朝した唐僧道璿のように精通しいて影響を受けた。河内国の知識寺には信徒による六丈の廬舎那仏が安置され後に東大寺建立の機縁となった。
律義で気まぐれな聖武帝は仏教に深く帰依し大仏殿造立について、その発心は民と共に造ることが重点に置かれ、鎮護国家の心で国を思い祈願して建立に心身共に傾けた。東大寺は総国分として、諸国に国分寺の配布をすることに国家の命運をかけた。
仏教への影響は、六十華厳による壮大な廬舎那仏の世界の教えに従って、中国の則天武后にある仏教による国を治めるにある。  
27 孝謙天皇と仲麻呂政権時代(恵美押勝)  

 

聖武の容態は実母の太后の宮子の死去から徐々に悪くなり、病床の聖武は光明・孝謙を伴って難波行幸した後、河内の六カ寺を廻って天平勝宝八年(756)五十六歳で死去した。
天平感宝元年(749)聖武天皇の皇女阿倍内親王は平城京は大極殿において即位した。
孝謙天皇の誕生である。
聖武の死去後に即日に人事が行われ、参議に藤原仲麻呂が大納言に昇格し橘諸兄の子橘奈良麻呂なども参議に入った。
その後、橘諸兄が引退し天皇の身の回り雑事、世話をするする内豎(ないじゅ)の淡海三船(大友皇子の曾孫、三十五歳)誹謗の罪で拘禁され、暗い影が見え始めた矢先に今度は聖武天皇の死の間際に仲麻呂に言い残した後継者に道祖王への指名に、未来を予測してか、聖武の遺言に背いたならば天地地祇の災い身に降りかかると予言をした。
天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱が勃発し、孝謙天皇と仲麻呂政権の蜜月期に橘奈良麻呂は多治比、大伴、佐伯の各氏らは計らい、塩焼王、安宿王、道祖王の中から皇嗣を出そうと計画を立てたが左大臣の父橘諸兄の死、大炊王の立太子を機に実行に移そうとするが山背王(長屋王の子)、巨勢堺麻呂などの密告によって未然に捕獲された、この乱で反藤原勢は一掃された。
橘奈良麻呂の血脈は父橘諸兄、光明と父は異父兄妹、母は藤原不比等の娘、敵対する仲麻呂は従兄に当たり、複雑な人間関係であった。
この橘奈良麻呂の乱で謀反の疑いの奈良麻呂の処遇は明記されていないが、おそらく獄死をしたのだろうと思われている。
奈良麻呂の乱から一段と発言力が高まった藤原仲麻呂の強権体制は大炊王の天皇擁立である。
孝謙天皇は皇太子の大炊王に譲位し、淳仁天皇が誕生した。淳仁天皇に時代に入って大きく変わったことは、役所名を変えたことで、これは強権仲麻呂の示唆によるもので仲麻呂は中国の国家体制に関心を寄せていたのでそれを実行に移した。また自ら名前を藤原仲麻呂から藤原恵美朝臣と改めた。
政権の支配者は実質的には孝謙天皇と恵美義勝で何事も淳仁天皇は孝謙の太皇太后にお伺いを立てねば物事が進まない傀儡政権であったようである。
事態が大きく変わったのが恵美押勝の叔母光明が亡くなって大きな後ろ盾を失ったと言うことである。
逆に孝謙はかねがね大炊に即は快くは思っておらず半ば恵美押勝に押されに譲位した形が、母の光明と言う箍が外れた状況は皇権の逆襲に出た。
この頃、天皇の王権の象徴として「鈴印」が有った。天皇の命令を伝える「鈴令」と天皇が認めた時に押す「印」が必要、「鈴印」争奪戦が始まった。
先に仕掛けたのは孝謙太上天皇の方だった。少納言の山村王を派遣して淳仁天皇の許に有った鈴印の奪取を試みた。鈴印奪取に気付いた押勝は淳仁に近侍していた子の訓儒麻呂に鈴印を奪い返した。
訓儒麻呂は一旦、山村王から奪い返すことに成功したが、授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足(じゅとうしょうそうおじかしまたり)を急行させた。
ここからまるで喜劇映画を見るような活劇が始まる。場所は法華寺と中宮院と結ぶ線上の平城京内、内裏から県犬養門に至る宮内近辺と思われる。
この戦いで訓儒麻呂は弓で射殺された。鈴印は再び山村王に手に移った。押勝は鎮国衛将監矢田部老に山村王を追わせ再度鈴印を山村王の手から取り返そうとするが、矢田部老は授刀舎人紀船守に刺殺されて、山村王から鈴印は孝謙の手に戻された。
鈴印が孝謙の手許に戻ったことからこう言った行為は謀反の行為に当たると見なされた。
孝謙は直ちに押勝の大師(以前は大臣だったが押勝が官僚の名前を変えた)を解任、位階を解き、資産の全てを没収した。
一方押勝はその夜の内に、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。
近江国は琵琶湖を擁した要所で、代々藤原氏の政治基盤の国司を務めた所で藤原氏の領地が点在し、東海道を行けば伊勢国、東山道を行けば壬申の乱の美濃国は押勝の子が守を命じられた所で少しでも追手を逃れれば勝ち目はない事は無い分けでもなかった。
そこで最大の難関、瀬田川を渡らなければならない。孝謙方は瀬田川の勢多橋を焼き落とした。
止む無く押勝は琵琶湖の西岸を北上した。
孝謙側は押勝に阻害されていた吉備真備が孝謙方の参謀となって東山道からと琵琶湖北上軍との挟み撃ちにあって、吉備真備の術中に嵌ってしまった。
押勝の子も殺され、最早勝ち目はなく湖上に逃れ船に乗って鬼江に浮かぶ所で捕獲され処刑された。押勝の死は平城京を離れ二日後のことだったと言う。
この勝利の知らせが孝謙に知らされ即日、押勝に左遷されたりしたものの復権がなされ、押勝の兄藤原豊成が右大臣として復帰した。
孝謙は早晩に淳仁の決着をつけるために、数百の兵を出して中宮院を包囲し淳仁天皇を廃し、大炊王として馬で淡路島に向かわされて幽閉された。
押勝によって変えられた官名や仕組みを元に戻されたと言う。  
孝謙天皇 / (718〜770)在位九年間、重祚で称徳天皇在位六年間、女性天皇で聖武天皇の皇女。母光明皇后。女性として初の立太子。実際の政治は光明皇后と恵美押勝の負う所が多く、母の影響で仏教の帰依深く、752年に父聖武天皇の東大寺大仏の開眼供養を行ない、754年には大仏殿の前で戒壇院を設け来朝した鑑真に父母と共に菩薩戒を受けた。756年に父聖武天皇が没すると、仲麻呂の意向を受けて大炊王を即位させ淳仁天皇として即位させた。その後病気になって道鏡に病を治療され、道鏡を重用し仲麻呂らと不仲になって、再び天皇に重祚をした。
藤原仲麻呂 / (706〜764)奈良時代の官人、藤原武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉。叔母光明皇后の信任を得て、政権を把握した。756年聖武天皇は道祖王を立太子として遺詔を残して死去するが、道祖王を偽って廃し、自分が後見人になって大炊王を擁立した。その後橘奈良麻呂の乱を鎮圧、仲麻呂傀儡政権の淳仁天皇と孝謙太上天皇と対立し、ついに仲麻呂、淳仁天皇は敗北し、逃亡の末近江の琵琶湖上で斬殺された。
淳仁天皇 / (733〜765)奈良後期の天皇。在位六年間。父は舎人親王、母は当麻山背。池田王・船王の兄。仲麻呂との関係深く、仲麻呂の顕彰し、恵美義勝の名を与える。孝謙大上天皇と不仲になり藤原仲麻呂の乱の後、廃帝された。
藤原四兄弟が亡くなっても、その子らが平城京に影響を及ぼすものである。藤原宇合の子の広嗣は反乱を引き起こし、仲麻呂は専制政治で淳仁天皇の傀儡政権で孝謙太上天皇と紛争を起こし、遂に仲麻呂の乱の末斬殺された。
強権恵美押勝も光明皇后と言う叔母の後ろ盾を失って、失墜し逃亡の身に、其の追手に冷遇された吉備真備は俊敏な仕返しに仲麻呂も成す術がなかった。
橘奈良麻呂の乱で反仲麻呂の一掃も何の意味もなさなかった。辣腕を振るった仲麻呂も遂に琵琶湖の湖上の露と消えた。
天智系から天武系に時代が移っても皇位後継に問題がつきものであった。
この仲麻呂の乱は鈴印の争奪戦は活劇を見るような展開である。  
28 道鏡と宇佐八幡宣託事件  

 

神護景雲三年(769)事実上天皇に近い行動をしていた法王道鏡は、後は形式的手順を踏むだけになって行った。
そんな時に大宰府の祭祀を担当する官職にある習宜阿曾麻呂が「道鏡を天皇にしたならば天下泰平になるだろう、と宇佐八幡神が言っている」と道鏡に触込んだ、これ幸いと真に受けた道鏡は、早速称徳に報告した。
これを聞いた称徳は輔治能清麻呂(後の和気清麻呂)に「託宣を下したいことがあるから尼の法均(和気清麻呂の姉)を寄こすように、と云う八幡神お告げがあった。」遠路の為に法均に替わって宇佐八幡に赴くように命じた。
所が清麻呂の持ち帰った内容は意に反するもので神は「わが国では国家始まって以来ずっと君臣の秩序が定っている。臣が君になったことは一度もない。
皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」との託宣し、道鏡排除のための協力を約束したと言う。
当然称徳、道鏡は納得したわけでもなく、道鏡は内心激怒をしただろう。
二人はこの託宣を捏造と決めつけ、清麻呂に因幡員外介に降格し左遷して大隅に配流、法均は還俗させ別部狭虫として備後に配流したのである。
誰が見ても清麻呂は宇佐八幡の神託をそのまま伝えただけで、誰かが仕組んだ罠にはまっただけに過ぎない。
その後、称徳は反省をしたのか「自分から皇位を願っても、諸聖、天神地祇の御霊が定めたものでなければ、かえって身を滅ぼすと・・・・・」道鏡への戒めの言葉を投げかけたと同時に自分にも戒めているような言い回しである。
称徳は由義宮に行幸し、此処を西京とする。由義宮は弓削行宮した時に整備されたものと思われ、規模は河内国大県・若江・高安三郡にまたがる位の大規模なものと考えられる。
神護景雲四年(770)由義宮に行幸した称徳はにわかに体調を崩した。
平城京に帰ったものの以後政務を見ることはなく、女官の吉備由利だけが病床の称徳のその意思を取り次いでいた。
この時点で道鏡の発言力や権威はなく、一切表に出ることが無い、称徳依存の地位だった。左大臣藤原永手が近衛府、外衛府、左右兵衛府を、又右大臣の吉備真備は、中衛府、左右衛士府の統率を担当し、万が一の体制がとられた。七七〇年八月四日、称徳は平城京の西宮の寝殿で死去した。時に五十三歳であった。
称徳の死を知った重臣たちは前後策を模索した。皇位継承者の人選に入り天武の孫の文室浄三とその弟の文室大市を指す吉備真備と永手、宿麻呂が推す天智の孫の白壁王の三人に絞られ、永手が称徳の遺詔を読み上げ決着した。その後、吉備真備は致仕して新しい時代の到来となった。
その日の内に白壁王は立太子し、称徳の高野山陵に埋葬を済ませた。道鏡は下野薬師寺に左遷、弟の浄人は土佐に配流された。
白壁王は即位し光仁天皇の誕生となった。天武系の長きに渡る政権の移譲は、皇位継承者の失墜に注がれてやがて後継者不足に迫ったことは誠に皮肉なことで、飛鳥浄御原宮から平城京の終焉を持って天智系の孫白壁王に以上されたことも歴史の不変則の摂理を垣間見る思いがする。
また王権に見向きも興味も示さない姿勢と、貫き終始、自ら酒におぼれる道化に扮した白壁王に朝廷の王権が負託されたのである。  
宇佐八幡宮神託事件 / 宇佐八幡は伊勢神宮に次ぐ第二の祖廟。日本最初の神仏習合の官寺。祭神は誉田別尊・比売大神・大帯姫命。縁起によれば欽明朝から大神比義が広幡八幡麻呂の神託によって和銅五年(712)鷹居社を建立した。『記紀』によれば宇佐国造がいて高魂命を祀っていたが九州で最初に大和朝廷に服属したと言う。
この時期宇佐八幡者の神託がもたらされたかは定かではないが、朝廷と宇佐の関係は続いていたのか、神功皇后の九州に発した応神天皇の関係から深い結びつきがあったのか、穿った見方すれば朝廷の仕組んだ道鏡落としの罠であったかもしれない。
何れにせよ称徳の失った道鏡は糸を切られた風船の様なもの、下野薬師寺に左遷され同寺で生涯を閉じた。  
29 桓武天皇即位  

 

天武系以外の天皇が一世紀ぶりに誕生した。
折しも宝亀二年(771)光仁天皇の擁立の立役者の左大臣の藤原永手の突然の死によって平城京の政変が起きた。皇后井上内親王が光仁を呪詛したとして廃され、三カ月後、他戸親王が皇太子の地位を追われる。
これは井上内皇后・他戸親王と、高野妃と山部親王・早良親王の主権争いである。
皇后井上内親王・他戸親王は光仁天皇姉の難波内親王の死去にかこつけて呪詛したと嫌疑がかけられて、大和国宇智郡に幽閉され翌年の同じ日に死去している。少なくとも陰謀と粛清に他ならない。
替わって他戸の兄の三十七歳の中務卿の山部親王が皇太子になったが、この立太子は異例中の異例、母の高野新笠は百済からの血を引く皇太子で、この擁立に裏面から支えたのは藤原良継・百川兄弟であった。良継の娘は山部皇太子の妃になっており計算づくの擁立であった。
光仁天皇在位十一年間の間の記録は余り多くは残されていない。宝亀十一年(780)三月に陸奥の国に起こった叛乱である。
桃生城・伊治城などの造営に蝦夷の強い反発を呼び、陸奥国の海道の蝦夷が蜂起し桃生城を襲い、これを契機に三十八年間の動乱の時代が始まった。
天応元年(781)山部皇太子は病気の父光仁天皇から譲位し桓武天皇が誕生する。
この藤原良継の娘と桓武天皇(山部親王)の間に次の天皇になる平城・嵯峨天皇が生まれることになる。
桓武天皇には天武系の払しょくと、一庶民で渡来系の血筋を持つ母のコンプレックスの即位で平城京には未練も思い入れもなかった。
また旧来の皇族からの一新に又とない機会でもあった。しかしその旧来のしこりが噴出、一波瀾が有った。氷上川継の乱である。平城京で後継者の一候補になった塩焼王の子で天武の曾孫に当たる。
母は井上内親王の姉妹で血統から言えば桓武と遜色はない。
その従者が武器を持って乱入、捕獲された。捕えられて自白した所に寄れば、平城宮に押し入り、新帝桓武を廃し、川継を皇位に就けようと計らった。
そこで桓武は川継を逮捕したが光仁天皇の没後一年も満たないからという理由で死罪を免れて伊豆に配流された。
この事件で本当に川継が謀反を企てたと言う説と仕組まれた桓武側の陰謀とする説がある。
こうして平城京の柵を経て桓武は即位し母親の高野新笠は皇太夫人となった。また同時に同腹兄弟の早良親王が皇太子に立てた。
この後、早良皇太子に暗い影が忍びつつあった。宝亀五年(774)この頃には既に桓武の皇子の安積親王が生まれていた。  
光仁天皇 / (709〜781)白壁皇子・在位十一年間、天智天皇の孫、志貴皇子の子。母は紀橡姫。宝亀元年(770)称徳天皇が没すると、藤原永手・百川らによって擁立された。
井上内親王を皇后とし、翌年に他戸親王を立太子としたが、翌々年の772年に呪詛の罪を問われ。皇太子を廃し、773年に高野新笠との間に生まれた山部親王を皇太子として、781年に病を理由に譲位した。
桓武天皇 / (737〜806)在位25年間。父は光仁天皇、母は高野新笠。当初は山部親王と称したが、称徳天皇が没し、父白壁の皇子が光仁天皇になって、井上内親王が皇号になって、その皇子の他戸親王が皇太子になった為に山部の皇子は官僚などしていたが、藤原百川の謀略によって、それまでの皇后、皇太子が廃され、山部親王が皇太子になった。
そして弟の早良親王が皇太子になったが、藤原種継の陰謀によって廃太子となった。変わって安殿親王が立太子したが病弱であり、無実で死んだ早良親王の怨霊と桓武天皇の心を悩ませた。
藤原永手 / (714〜771)房前の次男。母は牟漏女王。長岡大臣の号。藤原仲麻呂の乱の功績で昇進し、大納言、左大臣に転じ称徳天皇が没すると、藤原百川らと図り、白壁皇子を擁立した。
早良親王 / (750〜785)光仁天皇の皇子。母は高野新笠。桓武天皇同母弟。若くして東大寺に出家し,大安寺に住持した。藤原種継射殺事件で捕えられた大伴継人らの自白により、早良親王を君主にする大伴家持らの計画が露見して乙訓寺に幽閉させられた。10日余り食物を絶ち移送される途中で、河内国で没し、屍は淡路に送られ葬られた。
藤原良継 / (716〜777)公卿,宇合の次男。母は石上麻呂の娘、初めは藤原宿奈麻呂と言ったが、良継と改めた。広嗣の乱に連座して伊豆に流され、復帰し越前・上総・相模・上野守を歴任。仲麻呂の乱に功があって昇進、その後内大臣に称徳が没すると白壁皇子を擁立した。藤原乙牟漏が桓武天皇の皇后となると外祖父として厚遇された。
時代が変わっても皇位継承には粛清、淘汰が生じるのは古今東西、歴史の摂理か朝廷はそんな忌まわしい事柄や悪しきことに嫌気がさして新天地を目指すもの、桓武天皇も平城京を捨てて新京を目指すのである。
またもや桓武天皇に皇子も生まれ、摩訶不思議な藤原種継の射殺事件は出家した弟の早良親王に降りかかって行きあらぬ嫌疑がかけられ、大伴家持らの自白で言い訳のできない状態に追い込まれ、幽閉され移送されて謎の死を遂げた、遺体は淡路島に送られ葬られ、早良親王の疑獄は闇の中に消えて行った。
その後は怨霊を恐れ、御霊神社で魂を慰霊する皇族、公家、公卿の良心の呵責だった。  
30 長岡遷都  

 

延暦三年(784)桓武天皇は山城国乙訓郡長岡に視察を命じた。長岡京遷都をめざし動き始め、翌年はこの地で朝賀を迎えたいと慌ただしい。
視察には藤原小黒麻呂と藤原種継と同行に官僚と警備の者を連れての視察であった。
早速、突貫工事が始められた。この宮のへの造営のために動員された諸国の百姓は三十一万四千人と言われている。
取り敢えず、その年の内に天皇の遷居が行われた。この時に華々しく采配し活躍したのが種継ぐと言われている。
その後十年かけて造営がされたが結果打ち切られて平安京に向けて変更された。
長岡京については本格的遷都ではなく平安京への復都として陪都(中国では別に都が造られた)であると見解が分かれ、規模にしては平城京や平安京より小さく、立地条件も芳しくない。
そんな長岡京造営の最中、延暦四年(785)九月二十三日、夜造営中の陣頭指揮に当っていた中納言式部卿の藤原種継が、体に二本の矢を射ぬかれて翌日死去する事件が起きた。
種継は藤原家式家の孫、清成の子であった。天皇の信任厚く内外の事皆決めると言われるほどの寵愛ぶりであった。その時桓武天皇、娘朝原内親王の伊勢神宮に斎宮として向かい、その途中の平城京まで見送りに行って、付近で狩りを楽しんでいた所、急遽長岡京に引き返した。
犯人は大伴継人。継人は鑑真和上を日本に連れ帰る功績があった。連座して直前に死した中納言大伴家持も死後除名と言う屈辱な仕打ちを受けた。
事は継人と共に佐伯高成の自白に寄れば、そもそも家持が大伴、佐伯氏の糾合し早良皇太子の了解を経て起きた事象であった。
早良親王と種継は普段から仲が悪く、この事件で早良の責任は免れず、東宮を出た早良は9月二十八日の夜中、乙訓寺に幽閉され、自ら食事を絶ち十日間ご淡路島に移送される途中に絶命をした。実際は食事も出さず衰弱死したと言う。
その後、長岡京では安殿親王が皇太子に、同母弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が誕生し、同年に藤原旅子を母として大伴親王(後の淳和天皇)が誕生した。
所が長岡京は中途半端な形で未完成な状態に追い打ちをかけるように、延暦十一年(792)六月と八月に風水害に見舞われ、その洪水に皇太子安殿新王まで病床に伏し、その前に旅子、新笠、乙牟漏など続けて無くなって、不吉な兆候として早良親王の祟りとささやかれ、長岡京に見切りをつけ平安京への遷都を模索するのであった。  
藤原種継 / (737〜785)宇合の孫、清成の子。母は秦忌寸朝元の女。仲成、薬子の父。各役職を歴任し四十七歳にして中納言、造長岡京使に任ぜられ、造営を主導した。その功に正三位に叙せられた。桓武帝が行幸中に、右大臣藤原是公と共に造営長岡京で留守中の夜中に大伴継人に・竹良に箭を射られて負傷し翌日死去した。尋問の結果早良親王も関与していたことが露見し皇太子が廃されて憤死した。
長岡京 / 延暦三年(784)から10年間。山城国乙訓郡・京都府長岡市・大山崎町に営まれた。遷都の理由に「水陸の便」とされ桂川・木津川・宇治川の合流地点で、淀川に注ぐ、桓武天皇の妃高野新笠が渡来人と意識し、皇統正当化のために、積極的に中国の思想を取り入れた。遷都は反体制直を抑え込む為に、計画的に執り行われた。和気清麻呂を摂津太夫に任命し、後期難波宮を解体し、新都を公表し、直後に造長岡使を任命をした。難波宮を移築し、翌月には大極殿で朝賀の儀式をするほどの速さで進められ、造長岡使長官に藤原種継ぐが暗殺されるほど抵抗が強かった。平城京の宮城門が移築される頃には一段落したが後期造営直後から夫人、皇太后、皇后の死から、早良親王の祟りを恐れるに及んで廃都を決定し、建設から10年後平安京に天皇は移る。造営工事に費やされた延べ人数は31万4000人が和雇された。
桓武天皇の遷都は平城京の天武系の払拭と、心機一転の思いがあった。それに井上内親王から高野新笠へ皇后が変わっての抵抗も見逃せない。早良親王、他戸親王と恨みを残す皇位継承の柵があって、桓武は長岡京で渡来人の協力を得ようと試みた。
桓武天皇の遷都の協力者の藤原種継の暗殺は何より遷都反対の根強さの現れであった。桓武帝は早良親王の怨霊と言う幻想に怯えながら、更に平安京に向かって秦氏の協力を求めて遷都を模索する桓武天皇であった。  
31 平安遷都と蝦夷征伐  

 

延暦十三年(794)十月二十二日、桓武天皇新京に移る。十一月山背国を山城国に改め、新京を平安京と名付ける。
新京誘致に秦氏の影響が語られている。そう云えば平安朝には多くの渡来人の活躍を見ることが出来る。桓武天皇の母が高野新笠で渡来人の出自で、長岡京で活躍した種継の母も、蝦夷征伐の坂上田村麻呂も菅原道真も渡来系を祖先に持つ人々であった。
新天地の平安京には新勢力として渡来人の活躍できる土壌が有ったのかも知れない。誘致の提案者は、あの道鏡を追放に尽力をした和気清麻呂が主唱者と言われている。
平城京の時には恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と国民は疲弊しきっていた、今回も長岡京から平安京への遷都に不満