昭和の日本 [1]

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雑学の世界・補考   

大庭みな子「三匹の蟹」 ミニスカート文化の中の男女

大庭みな子の作品は、ボーダレス(無国籍的)な魅力を持っている。特に1968年に「群像」新人賞及び芥川賞の両方を獲得した「三匹の蟹」は、大庭がアメリカ社会に対していかに深い洞察力を持っていたかを如実に物語っている。
大庭がアメリカに渡ったのは、1959年。大庭は「わたしを相手にしてくれない故郷ならとび出してやれという気分だった」から渡米したといっている。しかしそれは夫の利雄が日本資本でアラスカのシトカに建設されたアラスカパルプの技術指導者として転勤になったから可能になった選択であった。私がこの点を強調したいのは、海外転勤になった夫に妻が同行するというのは、女性史の上でも画期的な出来事であったからだ。
それまでは、欧米諸国で暮らすことができた日本人女性は一部の豊かな家系の娘か、政府から送られた留学生に限られていた。むろん第二次世界大戦が終わった後は、アメリカをはじめとする占領軍の兵士と結婚して夫の国で暮らす戦争花嫁と呼ばれる人々がいた。だが日本人と結婚した女性たちが、海外転勤になった夫に同行して外国に長期滞在することは稀だった。ところが日本経済が高度成長期に入ると、企業にも海外で働く社員に妻や子供を同行させるだけの経済的ゆとりがでてきた。大庭夫妻は、いわばそのはしりであった。したがって、大庭のアメリカ行きは、江種満子が指摘したように、日本の「資本主義経済の成長期あるいは爛熟期に遇い得たことが可能にした選択肢だった」わけである。
ちなみに村上春樹や吉本バナナの作品が海外で人気を博すようになったのも、日本人の生活にゆとりができ、日常の生活様式や人々の意識が西欧化し、それが彼らが描く作品にも反映していることが大きい。言い換えれば、日本文学の国際化は、日本経済の発展と密接な関連をもっている。この点は、大庭の作品を考慮する場合にもやはり視野に入れておかねばならないと思う。
もっとも利雄の転勤先はアメリカ本土ではなく、アラスカにあるシトカという小さな町であった。だが作家志望の大庭にとって幸運なことに、辺鄙の地ではあっても、シトカは先住民族である「インディアンと、最初の植民者であるロシア人と、ロシアからアメリカ合衆国が購入してから流入した多様なアメリカ人、というふうに多人種・他民族による集合的な文化世界ができあがっている」コスモポリタンな町であった。
大庭が書いた随筆や作品を見れば、彼女はそこで実に多様な住民と親交を結んでいたことがわかる。彼らの名前が本名かどうかは明らかではないが、ニュージーランド生まれで元看護婦のメアリー、少年の時ロシア革命に出会い、父親につれられてロシアを脱出した画家のアンドレア、同じくロシア人で声楽家のマリア、ポーランドから来たミーチャとヤダーシュカ夫婦などとは、一緒に釣りやブリッジなどをするだけではなく、個人的な問題についても相談しあえる仲であった。ちなみに柄谷行人は、コーネル大学で近代日本史を教えているシトカ出身の学者の母親が大庭と親友で、その学者は大庭から少年時代に日本語を学んだことがきっかけで、日本に興味をもつようになったと話してくれたと記している。
大庭はまたさまざまな機会を通して、トリンギット族などのインディアンの人々とも交流があった。「三匹の蟹」で主人公の由梨が一夜を共にする「桃色シャツ」を着た男が、1/4トリンギットの血が混じっているという設定も、大庭がトリンギットの人々に対して親しみを抱いていたことを物語っている。
大庭はむろんシトカにのみ閉じこもっていたのではなく、家族と共に度々アメリカ本土へも旅行し、見聞を広めている。そして1962年には、仕事で動けない夫を残して、ウイスコンシン州立大学美術科の大学院生としてマジソンにも住んだ。さらに1967年には、シアトルにあるワシントン州立大学美術科に在籍し、そこでは主に文学の講義に出ていた。そのような長期に渡る大学生活を通じて、大庭はアングロサクソン系米国人と親交を結んだだけではなく、さまざまな国から来ていた留学生たちとも親しくなった。そのような体験が、大庭の国際的感覚に一層みがきをかけることになったようである。
大庭が小説を書きはじめたのは、10代のときからで、利雄とも小説を書きつづけることを条件に結婚している。しかしW大学大学院で油絵を学んでいる日本人留学生を主人公とした最初の作品「構図のない絵」は、1963年ウイスコンシン州立大在籍中に執筆。二作目の「虹と浮橋」を完成させたのは1967年、ワシントン州立大に在籍中のことであった。そしてその年の秋シトカに戻ると、短期間で「三匹の蟹」を書き上げ、「群像」新人賞の応募作として日本に送っている。その選択は大あたりで、「三匹の蟹」は1968年度の「群像」新人賞を獲得しただけでなく、同年上半期の芥川賞も受賞した。その直後に「構図のない絵」と「虹と浮橋」も出版された。それによって大庭は職業作家として華々しいスタートをきったわけで、大庭文学はアメリカ在住の経験なしには生まれなかったといってもよい。
「三匹の蟹」が画期的だった理由はいくつかあるが、その一つは主人公が産婦人科医の夫とアメリカに在住して数年になる専業主婦となっていることである。そのような主人公の出現は、先に大庭自身についても言及したように、日本経済の発展抜きには考えられないことであった。その意味で、主人公由梨は、日本が豊かな資本主義社会の仲間入りをしたことを象徴する存在だといっても過言ではない。むろんそれは産婦人科医をしている由梨の夫の武や、物理学者の横山とその妻などについてもいえることである。
ただし「三匹の蟹」が日本の文壇に一大センセーションを巻き起こしたのは、由梨が「桃色シャツ」を着たゆきずりのアメリカ人と一夜を過ごすという出来事にあった。そこでまずこの事件はどのような意味をもっていたのか、当時のアメリカの状況なども参照しながら論じていきたい。
性の革命とミニスカート文化
文庫本として出版された「三匹の蟹」の解説の中で、リービ英雄は次の様に指摘した。
「三匹の蟹」がセンセーションを巻き起こした25年前の批評、特に群像新人賞や芥川賞の選評に目を通すと、「桃色シャツ」が「アメリカ人」や「外人」を具現し、日本人の日本人妻由梨がその「アメリカ人」、あるいは「外人」と「姦通」したことに「衝撃」の大半があったように見える。
リービは続いて当時の審査員だった人々の選評をいくつか抜粋して紹介しているが、その中には例えば次の様な評がある。
大庭みな子さんの「三匹の蟹」は、気が利いたショッキングな作品だ。この人妻はすでに外人と寝たことがあり、浮気するならあとくされのない男をさがせと友達に忠告するような女である。
アメリカ居住の日本人の夫婦者・・・・・
その妻は・・・・・一人家を出て、夜景の遊園地に行って、初めて出合ったヘンなゴロツキの若い男と共に遊園地で時間を過ごして、しまいに若い男の車で海岸に行って、三匹の蟹という赤いネオンの曖昧宿に入る。
確かに選者たちがいうように、由梨はアメリカ人と性的関係があった。だが厳密にいえば、由梨はアメリカに住んでいるわけだから、彼女の方が「外人」と呼ばれるべきであるが。実はそれよりも重要なのは、これらの選者、そしてリービ自身も、由梨が夫婦以外の間の性的な関係が大ぴらに認められている社会の中で暮らしていたという点を見逃していることである。
由梨と武が開いたブリッジ・パーティに招待されている男女、すなわち物理学者の横田とその妻、アメリカ文学を教えているフランク、バラノフ神父と妻のサーシャ、それに画家で教師のロンダは、実は非常に入りくんだ関係にある。武は歌手でもあるサーシャと浮気を楽しんでいるし、由梨もフランクと寝たことがある。もっとも由梨はフランクではなく、その前に関係のあった男性に今なお心惹かれているが。
重要なのは、由梨も武もお互いの浮気に気がついていて、時折皮肉を言い合ってはいるけれども、離婚しようという気があるわけではないことである。一方サーシャは無神経で気の良い夫を無視して武とだけではなく、これまでにも多数の男性と性的関係を結んでいるし、由梨の相手のフランクの方は既に離婚していて、目下はやはり離婚して二人の子供を育てているロンダとつきあっている。ところがロンダはシカゴから仕事できていた技師と親しくなり、技師と週末を過ごすためにシカゴへ行こうと計画している。
由梨はそのように性的に放縦な社会で暮らしていたわけであるが、ここでもう一つ考慮しなければならないのは、当時のアメリカでは「ワイフ・スワッピング」(妻の交換)、または「キー・パーティ」と呼ばれる現象が広がっていたことである。「ワイフ・スワッピング」については、桐島洋子がさまざまなアメリカ紀行文で紹介しているが、それは文字通り、男たちが他の男の妻と性を楽しむことを意味していた。
「キー・パーティ」の方は、パーティに集まった男性たちが車の鍵を容器に入れると、妻や同行の女性たちが思い思いにその鍵を選び出し、鍵の持ち主とセックスを楽しむという一種のゲームであった。このようなゲームは、1973年の東海岸の小都市を舞台にしたリック・ムーデイの小説「Ice Storm」(氷嵐)の中にも描かれている。ただしムーデイの小説が出版されたのは1994年で、1970年代には10代だった主人公が当時の両親たちの生活を回顧する形式になっている。そしてこの小説は台湾出身の監督アン・リーによって1997年に映画化され、映画の出来がよかったこともあって、「キー・パーティ」も、1970年代初めの虚無的なムードを反映した現象の一つとして改めて注目を浴びることになった。
ちなみに大庭が「三匹の蟹」を書いた1967年には、マイク・ニコルズ監督の「Graduate」(卒業生)という映画も発表されている。この映画は日本でも話題を呼んだようだが、ダステイン・ホフマンが演ずる大学を卒業して間もないベンジャミンという主人公の青年が、母親の知り合いである中年女性、ロビンソン夫人に誘惑される話である。ベンジャミンはそのうちロビンソン夫妻の娘エレーンを愛するようになり、夫人から離れていくわけだが、夫人がそれまでにも数多くの情事を楽しんできたことや、ベンジャミンが去っても、また後釜をみつけるであろうことがわかるように描かれている。
大庭はそのようなアメリカ社会の性的風俗を、「三匹の蟹」で作品化しているわけだが、しかしアメリカも、常にそのように性的に奔放な社会だったのではない。少なくとも女性に関する限りはそうであった。それが変化した一つの要因は、1961年に経口避妊薬(ピル)が市販されるようになったことである。それまで女性は、既婚や未婚の有無にかかわらず、妊娠への恐れからセックスには男性のようには積極的ではなかった。また既婚女性が夫以外の男性の子供を身ごもれば、社会から排斥されることも覚悟しなければならなかった。
文学作品を見ても、例えば、名作といわれるナサニエル・ホーソンの「緋文字」は、年老いた夫が何年も不在の間に自分と同じ年令の独身の牧師と恋におちたヘスターが、妊娠したために姦通罪に問われて投獄され、釈放された後も姦通の罪を示す緋文字を常に胸につけて暮らさねばならないという話が描かれている。それは過去のことを描いたフィクションであった。けれども、アメリカ社会でも姦通を犯し、妊娠した女性は社会的制裁を覚悟しなければならなかった。むろん未婚の母も排斥された。
そのように女性の性的自由が束縛されていたのは、家父長制を守るためであったが、日本でも戦前までは既婚女性が夫以外の男性と性的関係をもつことは犯罪であった。姦通を描いた小説も発禁になったりした。しかし1947年に姦通罪はなくなり、それとともに、大岡昇平の「武蔵野夫人」(1950)などのように、既婚女性の婚外恋愛を描いた小説が登場するようになる。それでも姦通という言葉には反社会的なイメージがつきまとっていたが、そのようなイメージを変えるのに一役買ったのは、三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」(1957)であった。
この小説では年上で金持ちの男と結婚した主人公が昔の恋人に再会し逢瀬を重ね、妊娠すると三度も中絶する話だが、三島はそれを「美徳のよろめき」という洒落た表現に変えたわけである。それが大当たりし、「美徳のよろめき」という言葉はたちまち流行語になり、妻が夫以外の男性と性的関係を持つことが罪だという考えは薄れていく。最近ではそのような関係は不倫と呼ばれているが、その言葉の持つ道徳性を抹消するために、「フリン」とカタカナ書きされることすらある。
また日本の場合、女性が性的に自由に行動するようになった背景には、姦通罪がなくなるのと前後して、妊娠中絶も簡単にできるようになったことがあった。そのような状況を反映して、小説でも女性が中絶する話がでてくるようになり、三島の「美徳のよろめき」では、主人公は妊娠すると三度も中絶する。しかも悩むことなく簡単に中絶する。その意味で、この小説は「中絶天国」と呼ばれる日本の状況をよくとらえているといえよう。
おそらく日本ではこのように妊娠中絶が簡単にできたため、政府が経口避妊薬ピルの市販を許可しなくても、女性は性的に自由に行動できたのであろう。しかしキリスト教の影響が強い国では、1960年代のはじめには法的に中絶を禁止しているところが多く、アメリカでもそうであった。また欧米諸国では、女性たち自身も、やはりキリスト教の影響で、中絶に罪悪感を抱くことが多かった。
したがって経口避妊薬ピルが簡単に手に入るようになったことは、女性たちにとっては画期的な出来事だった。むろん避妊の方法としてはコンドームもあった。けれどもコンドームは、男性の協力なしには出来ない避妊法である。ところがピルは、女性が自分の意志のみで避妊することができるようにした。つまりピルの出現は、女性が男性から性的に自立することを可能にしたのである。
ただしその反面、ピルの出現によって、女性たちは、男性たちから〈妊娠の心配がないのだから、自分たちの性的欲求に従ってもいいじゃないか〉という圧力をかけられるようにもなった。そのようなピルのもたらした否定的な面も、むろん認めねばならない。しかしピルの出現によって、妊娠の恐怖から解放された女性たちが性に対して積極的になったことは確かであった。
そのようなピルの効能と共にもう一つ留意しなければならないのは、女性たちがミニスカート文化の広がりなどによって、自分たちを縛りつけていた旧来のモラルからも自由になっていったことである。
誰がミニスカートの発案者かについては議論がわかれていて、一説では、1965年冬におこなわれた春と夏のファッション・ショーで、パリのオートクチュールのデザイナー、クレージュが、膝上10cmのミニスカートと白いブーツのモデルを登場させたのが発端だったといわれている。そしてクレージュの「ショーが終わったときには、観客の心も、それを身につける女性たちの心まで解放していた」という。
一方ロンドンでも、新進のデザイナー、マリー・クワントがそれよりも短いミニスカートを発表して有名になっていた。クワントは自分が着たいと思う服を作ったと述べているが、クワントの服はたちまち若い女性の心をつかみ、世界中で大人気となった。それでクワントの方が「ミニ」の元祖または「ミニの女王」として知られるようになり、1968年には英国に巨額の外貨をもたらした功績を認められ、エリザベス女王から「英帝国勲章」を授けられている。
ミニスカートは、むろんアメリカでも大流行したが、大統領夫人のジャックリーン・ケネディーが公式の場でミニをはいたことが、ミニの流行に一役買ったといわれている。
周知のように日本でも、ミニスカートは大はやりだった。「ミニスカートが中高年女性も巻き込んで日本で爆発的に流行するのは翌68年からだが、67年にすでに街の風俗として定着していた」という。ミニの流行に拍車をかけたのは、1967年の10月、クワントが18歳のモデル、ツイギーを伴ってやってきて、国技館でファッション・ショーを開いたことであった。その時、8500人もの観客が国技館につめかけ、その中には一目ツイギーを見ようとやってきた男性も多数いたという。
クワントのミニスカートが革命的だったのは、一つには、ファッションを誰にでも手に入れる値段で提供したことであった。それまでは、ファッションを楽しめたのは、金持ちの女性たち、特に裕福な中年女性に限られていた。そのためにそれを着ると、若い女性でも「少なくとも35歳には見えた」。ところが若いクワントは、若い女性に似合う服を、彼女たちが自分のサラリーや小遣いで買える値段の服を売り出したのである。
それは中年の女性たちにも受け、クワントの店では、安い給料で働いている若い女性たちと金持ちの中年女性が一緒に買い物をする風景が見られるようになった。つまりファッションによる民主化である。事実クワントはインタビューで、「ファッションの本質は民主主義。大事なことは、つくる側が、一方的に命令する独裁を拒否することと既成概念から自由になることです」と語っている。
女性はまたミニスカートの誕生によって、従来のきっちりとセットされた堅苦しい髪型や、体をギュウギュウ締め上げてウエストを細く見せるコルセットなどからも自由になった。パンティストッキングができると、動きにくいガードルからも解放された。これもミニが女性たちに受けた理由の一つであった。それまでは、ファッションは中年の裕福な女性たちのためにデザインされていたから、高価なだけではなく、軽快に動きまわれない服が多くしかもそれを着ると、若い女性でも中年のようにふけて見えたわけである。ところがミニは、女性たちを若々しく見せただけではなく、活動的にした。ミニと共にローヒールの靴やブーツが流行するようになったことも、女性たちの行動を活発にするのに一役買ったといわれている。
ちなみにミニスカートが流行すると、男性たちの間でもファッション革命が起きている。ビートルズの影響で長髪が増えてきただけではなく、彼らはさまざまな色やスタイルの服を着るようになり、由梨の情事の相手の「桃色シャツ」のように、ピンクのシャツを着る男性も増えた。そのため「ピーコック革命」という言葉が流行ったりしたが、そのような男性のファッションの女性化から、ジーンズやTシャツなどのユニセックスなファッションが生まれてくるのである。
重要なのは、そのようにファッションが変わると、女性たちの意識も変わったことである。つまり旧来の堅苦しい服を脱ぎ捨てると、女性たちは自分たちを縛りつけていた過去の習慣も脱ぎ捨てて、自由な生き方をするようになったのである。
それに対しては非難の声もあったが、クワントは、自分の服が女性の意識を変えたのではなく、新しい生き方を探していた女性たちがミニの流行を生み出したのだと反論した。ちなみに、私もその当時ロンドンで美術やデザイン関係の仕事をしていたという英国人の伝記作家に会ってその頃のことについて聞く機会があったが、彼も自分の周りの女性たちが新しい生き方を模索している時に、ミニがでてきたのだと語っていた。
つまりミニは、「新しい生き方を模索していた女性たちの心をつかみ、彼女たちをいきいきさせ、女であることに誇りと自信を持たせた」わけで、そこにはファッションと人間の心理との間に密接な関係があることがうかがわれる。
むろんその頃には、経口避妊薬ピルも簡単に手に入るようになっていた。それらのことがあいまって、女性たちも男性と同じく性の自由を楽しむようになっていく。
その後、ベトナム戦争に反対し、平和と自由と愛の自然をもとめたヒッピーやフラワー・チャイルドといわれる若者たちの出現によって、フリーセックスは、若者文化の一部として定着していった。1969年にジョン・レノンとヨーコ・オノがアムステルダムやモントリオールで戦争よりも愛をというメッセージを伝えるために公共の場で「ベッド・イン」するのも、そのような若者文化を象徴する出来事の一つであった。もっとも二人はただ一緒にベッドに入っていただけだが。
そうした若者文化の影響で、既婚者の性のモラルも急速に変わり、離婚も増えていった。そしてアメリカでは「ワイフ・スワッピング」や「キー・パーティ」のような退廃的なゲームを楽しむ人々もでてきたわけである。
「三匹の蟹」の登場人物たちはそこまで退廃的ではないが、大庭が彼らを当時のアメリカ社会の縮図として描いていることは明らかである。
とはいえ、大庭はそのような性の自由をささえていた経口避妊薬ピルについては直接は何も言及していないが、作中の女性たちが簡単に不倫をしたり恋人を取り替えたりするのも、ピルを飲んでるからこそだという風に読める。また由梨が妊娠したかもしれないといっても武が信じないのも、やはり彼女がピルを飲んでいるのを知っているからであろう。むろん彼らの避妊の手段がコンドームだと読めないこともない。だが由梨がフランクや、見ず知らずの「桃色シャツ」とも簡単にセックスを楽しむのは、やはりピルを飲んでいるからだという風に読める。逆にいえば、「桃色シャツ」が簡単に由梨を誘うのも、他の女性たち同様、由梨もピルを飲んでいると考えたからだと解することができる。
もっとも由梨は、「桃色シャツ」に「どうして、ミニ・スカートをはかないの?」と聞かれると、「だって、きれいな脚じゃないもの」というので、ファッションの上では、当時の流行に迎合しているわけではない。けれども彼女もミニスカート文化と経口避妊薬ピルがもたらした性の自由は、たっぷりと楽しんでいるといえる。
このように60年代後半に顕著になってきたアメリカ社会の性に対するモラルの変化を考えれば、由梨が「桃色シャツ」と一夜を共にするのは決して突出した行為だとはいえないことがわかるであろう。
「台所症候群」と由梨
大庭は「三匹の蟹」では、いくつか別のテーマも追求している。その一つは、後に日本で「台所症候群」と呼ばれるようになる主婦たちの神経症についてである。
由梨は専業主婦で、子供は10歳の梨恵一人。自分の車を持ち、週末には自宅に友人たちを迎え、ブリッジ・パーティを開いたりする優雅な生活をしている。自宅で二組のテーブルを置いてブリッジをするくらいだから、居間も広いだろうし、台所もケーキを焼いたりできるモダンなものであろう。そのような由梨の生活は、当時の日本の主婦たちからすれば羨ましいほど恵まれた生活に見えたに違いないが、しかし由梨はそのような生活にうんざりしきっていた。
由梨はお菓子の粉を混ぜ合わせながら、胃の奥の方で微かな痛みを感じた。彼女は機械的に卵を割りほぐし、バターをこね合わせ、ベーキング・パウダーや塩をふり入れながらまるで悪阻の時みたいに生唾が咽喉元まで上ってくるのを感じた。
由梨が吐き気をもよおすほど嫌悪しているのは、実は自分の生活そのものである。これは彼女が夫や娘と交わす会話によってしだいにわかってくる。ブリッジ・パーティを開こうというのも、実は夫の提案だった。由梨自身はお客のためにケーキを焼いたり、ブリッジ・パーティをやることに飽き飽きしていた。
そして客が集まってきて会話が始まると、なぜ由梨がそのようなパーティに嫌悪感をおぼえているのかわかってくる。彼らは皆、何とかして相手よりも気の利いたことを言おうとやっきになっていて、辛辣なことばかりしかいわないし、相手をほめる場合にも、お世辞であることが明らかな見え透いたほめ方しかせず、本音で話す者は誰もいなかった。
実はこの会話だけで構成されているパーティの場面は、「三匹の蟹」の中でも特に秀逸な箇所だいう定評がある。「群像」新人賞の選考委員の一人江藤淳は、E・オールビーの「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」と類似しているけれども、それは作者の体験にもとづいて描かれたものであるとも指摘している。またもう一人の選考委員の大江健三郎も「それぞれの「他者性」を明瞭にきわだたせた」優れて「演劇的」な会話だと評価している。
確かにその通りである。しかし私は、大庭がこの場面を舞台劇のように構成したのは、それぞれの人物がインテリーにふさわしい役を演じようと躍起になっており、彼らの間では心の通った真のコミュニケーションが失われていることを、構成の上でも示すためだったと考える。
むろん由梨自身も決して本心を見せず、客に負けないほど辛辣な発言をする。しかもサーシャと親密な関係にあることを大ぴらに見せつけていた「武の視線にぶつかると」、急に横田によりそうようにして、「横田さん、あなたって、ほんとに詩人。フランクはね、フォークナーの研究家ですけど、あれ程詩人じゃないひともないわよ」と、芝居気たっぷりな見え透いたお世辞をいって、横田の気をひこうとする。
ただし由梨が彼らと違うのは、「自分の無意味な言葉と一緒に、生あくびが泡みたいに胃の奥から上ってくるのを感じた」というように、つい無意味なことをいってしまう自分に嫌悪感を抱いていていることである。だからこそ由梨が口実をもうけて、パーティを抜け出そうとすることにも同情できるのである。
由梨が、サンフランシスコにいる姉が飛行機の乗り換えで、この町に来るけれども短時間しかいられないので、飛行場まで会いに行かねばならないといい、その口実が信憑性を持っているのは、前にも指摘したように、日本経済の高度成長によって海外在住の日本人が増えたということが背景にある。
そして車を走らせて遊園地にでかけた由梨は、そこで「桃色シャツ」の男と一夜の恋のアバンチュールを楽しむわけである。
このように自分の生活を吐き気をもよおすほど嫌悪し、性的冒険をおいかける由梨のあり方は、実は1963年にアメリカで出版されたベティ・フリーダンの「The Feminine Mystique」(直訳は「女らしさの神話」だが、日本語訳の題は「新しい女性の創造」)に報告されている専業主婦たちの悩みや行動と非常によく似ている。
フリーダンは自分の卒業したスミス大学の同期生にアンケート調査したことをきっかけに、経済的には恵まれた生活をしているアメリカの専業主婦たちが、夫や子供の世話だけに明け暮れる生活に満足感をえることができず苦しんでいる実体を明らかにした。中には「生きているような気がしないのです」とか、「疲れきった感じで・・・自分ではっとするくらい子供たちに腹がたつのです・・・わけもないのに泣きたくなるのです」と訴える女性もいた。
また結婚するために19歳で大学を中退した4人の子持ちの主婦は、「私は子供も夫も自分たちの家も愛している」「しかし私は絶望し切っている」「私って一体誰なのか」と訴えてきた。しかも「大勢の女性が、手足に、出血するおおきな水ぶくれができた」経験を持っていたが、それは神経的なものからくる疾患だった。
フリーダンの調査でもう一つわかったのは、このような悩みをもつ主婦たちの多くが、セックスをしている時だけが、自分が生きていると感じられる瞬間だと返答したことであった。このように「郊外住宅の主婦が、近所の男性や知らない男性に、すすんで身をまかすようになり、夫を自分の家の家具のように考えるようになったのは、彼女たちが自己と生きがいを見出す必要にせまられているからだろう」と、フリーダンはいう。
ちなみに裕福な中流階級の家族に焦点をあてた前述のムーデイの小説でも、専業主婦の一人は近所に住む男との不倫にふけり、性にあまり関心のないその男の妻は、心の空虚さを、万引きをやってそのスリルを味わうことで埋めている。男性であるムーデイは、フリーダンとちがって、専業主婦たちの苦悩自体には全く同情を示していないが。
興味深いのは、日本でも満たされない思いで暮らしている主婦たちの中には、売春行為に走るものもいたという。例えば、1970年の「朝日ジャーナル」に掲載された「身もだえする幻想」という記事にはこうある。
東京を中心にした、あるコールガール組織を摘発してみたら、そのグループの2/3が家庭の主婦、全員が30歳代で、ほとんどが10歳以下の子どものいる家庭だった・・・昨年摘発された中にも中央官庁の高級官僚の妻、某出版社幹部の妻などがいたという・・・彼女たちは売春をするようになった原因として「家にとじこもっているのが退屈だった」「こづかい銭がほしくてグループに入り、そのまま抜けられなくなった」「性的不満」などをあげている。
そしてこの記事に書き手である男性は、無聊に苦しんでいる新婚の若い女性から受け取った近況報告の手紙を紹介しているが、その手紙には次のように書かれていた。
結婚して半年たちますが、あまりに暇で頭がヘンになりそうです。せめて子供ができるまででも働きたいと思いますが、気の優しい主人なのに、パートタイムでも「絶対いかん」と認めてくれません。仕方なく家の隅々まで念入りにお掃除をし、なるべき遠くへ毎日のお買い物をしに出かけるようにしています・・・これでいいのかと、毎日毎日自分に同じことを問いかけては日を送っています。
この記事の筆者は、「彼女に不幸の意識はない。むしろ逆で、いいひとと結ばれて大変幸せだと思っている。あるいはそう思い込まされている」が、「夫婦の愛なる幻想が崩れ、日常のルーティンが彼女を支えなくなったときはどうなるか」と、疑問を投げかけ、「主婦売春は、もてあましている暇を埋め、ポケットマネーを稼ぐことができ」「かなり多くの主婦が売春行為に走るチャンスをポテンシャルとしてもっているのではあるまいか」と問いかけている。
このような記事を見れば、日本でも「主婦幻想」にからみ取られ、夫や子供たちの世話や家の管理以外に生きる場をもたないために苦しんでいる女性たちが多く、中には売春行為に走る主婦もいたことがわかる。
フリーダンは、そのような女性たちの不満や悩みは、「夫や子供を通して自己を確認することは出来ないし、毎日の家事からも自分を見出せはしない」ことを明らかにしていると指摘。そして女性たちが満たされない思いに苦しむようになったのは、第二次世界大戦後戦場から帰った男性たちに職場を提供するために、政府や学者やマスコミが「婦人は家庭に帰れ」と奨励し、女性の幸せは家庭にあるという神話をつくりあげたことと深い関連があるという。そしてフリーダンは、女性たちが自分の生活を意義あるものにするためには、何よりもまずつくられた女らしさの幻想を碎き、自らの人間としての能力をのばしていかねばならないと指摘した。
フリーダンの本の「女らしさの神話」という原題はそこから来ているのだが、この本はたちまち女性たちの心をつかみ、大ベストセラーになった。そしてそれは米国における女性解放運動の生まれる契機をつくり、フリーダンは1966年に成立した全米女性連盟の初代会長に推された。その時連盟の初代委員長に選ばれたのは、大庭が学んだウイスコンシン大学継続教育部部長のキャサリン・クラレンバックであった。
ジョンソン大統領はそのような女性たちの影響を受けてその年、つまり1966年に、「アメリカの女性の能力を十分に活用しなかったことは、わが国にとって、最も悲しい、かつおろかな無駄である」、だから「女性が専門職につける機会を多くする方法を、大統領に助言するためのスタディー・グループを構成するよう命じ」、ハンフリー副大統領も、女性は「基本的人権を認められていない多数」だ、「アメリカが過去において、女性の能力、才能を無視してきたことは恥ずべきことだ」と述べている。
大庭が「三匹の蟹」を書いたのは、アメリカにそのような新しい動きが出て来た時であった。そこで大庭は、フリーダンの本を読んだり、全米各地に支部を持つようになっていたフリーダンが会長をつとめていた全米女性連盟のことを知っていたのではないか。全米女性連盟の初代委員長は大庭がかつて学んだウイスコンシン大学の人でもあるし。そう思って、大庭の著書を調べてみた。
すると全米女性連盟については何も記されていないが、「黄杉 水杉」(1989)の中で、大庭はこう述べている。「ベティ・フリーダンの女性論を読め読めとしつこくわたしにすすめたのはオリガだった。ボーヴォワールに一足遅れて、世界の女たちをひきつけた人だった」「その頃--わたしもオリガも20代の頃、わたしたちはよく男の話をして長い白夜を過したものだ」「20代で2人の子供を連れて夫と別れたオリガは、当時としては勇気のあるフェミニズムの先駆者といったタイプの女だった。というより、そういう体験、妻と幼い子供を紙屑のように丸めて放り出し、酒浸りになる男と結婚した運命がフェミニストにしたのであろう」と。
「黄杉 水杉」は自伝ではなく、小説である。だから「わたし」をそのまま大庭だとみなすわけにはいかないが、そこに登場する人物たちは、大庭が2002年にシトカを訪問した時の紀行文にも出てくる。したがって「わたし」という登場人物には、大庭自身の体験が投影されていると見てもいいであろう。
いずれにしろ大庭がフリーダンの本を読んでいたことは確かである。だから「三匹の蟹」でも、主人公の由梨が、フリーダンのいう「得体の知れない悩み」に苦しんでいるという設定をとったのであろう。なおそのような症状は後に「suburban neurocis」(郊外神経症、しかし日本では「台所症候群」)と名付けられるようになるわけだが、由梨が憂さ晴らしに、性のアバンチュールを楽しむのも、フリーダンの本の内容とよく似ている。
ただし「三匹の蟹」は、フリーダンが会長をしていた女性運動についてはふれられていず、かわりに女性たちがまだ連帯せず、孤立したままでいる状況をとらえた小説である。それが最も顕著なのは、ロンダが「ユリ、淋しいのよ。そうでしょう。淋しいのよ。困ったことねえ」と訴えても、由梨は耳をかさず、「どうにもならないわねえ。どうしようもないわねえ。
じゃあ、又。ロンダ、--愉しんでいらっしゃい」と振り切って出ていく場面である。つまりロンダの方は自分たちの置かれている現状への不満を由梨と語り合い、淋しさを分かちあいたいと思っており、女同士の連帯を求めているが、由梨はまだ同性と連帯したいという気持ちは持っていないわけである。それは由梨がまだ男性とのロマンテイックな対幻想にとらわれているからだが、しかしそのような対幻想が破られれば、由梨もロンダと淋しさを分かちあい、連帯する可能性をもっているということでもある。
事実小説の展開を見れば、由梨のロマンティックな対幻想は、ロンダと別れた後出かけた遊園地で出会った「桃色シャツ」の男に置き去りにされたことで破られるという風に話が進んでいく。
おとぎ話への挑戦
「三匹の蟹」が画期的な作品である理由はもう一つある。それは女性が自己を変革し、独自の人格を形成していくには、何よりもまず王子様と王女様が結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話がつくり出す結婚幻想から自由にならなければならないと示唆していることである。それは由梨がケーキを焼きながら次のように武と娘にいうことによって明らかにされている。
「子供の前では、甘い優しい創り話。きれいなお姫さまと凛々しい王子さまが恋をして、ガラスのお城に棲んで、夢の綿菓子を食べて、タララララ」
このようなおとぎ話に対する由梨の皮肉な態度は、武との結婚生活が、子供の時に聞かされた王子さまと王女さまが恋をして結婚して目出たし、目出たしで終わるおとぎ話の結末とはかけ離れていることへの不満からきている。これは武との刺々しい会話に表明されているが、由梨がおとぎ話にこだわっていることは、梨恵を相手に次のようにいうことでもわかる。
「松浦嬢には性的魅力があるとか、サーシャはバラノフ神父の奥さまで、パパの女友達だとか、ママはそういうお客を呪いながら、お菓子をつくっているとか。あーあー、お菓子の中から、ぱっと黒い鴉が十羽もとび出したら、ふっふ。タララララ」
由梨はそのお菓子で「サーシャと松浦嬢を豚のように肥らせ」るのが望みだというのだが、「呪い」をかけるというのは、おとぎ話には欠かせないモチーフの一つである。またお菓子から鴉がとび出すというのも、英語圏の子供むけの物語からきている。
そのような由梨のおとぎ話にたいするこだわりは、彼女がいまだにおとぎ話、特に王子さまと王女さまが恋をして結婚し目出たし、目出たしで終わる話の影響を受けていることを示すものである。だから武に愛想をつかした由梨は、新しい王子さまを求めて遊園地に出かけていくのである。
元来遊園地は子供の遊び場であったが、ここでは由梨が子供の時よく聞かされたおとぎ話の世界に戻り、新しい王子に出会いたいという願望を実現させる場である。これは9時をすぎた夏の遊園地は、「手をつないだ恋人達がネオンのついた乗物を幸福そうな眼つきで眺めてい」る世界であり、モーター・ボートの中にも「ハンドルに、倖せそうにもたれかかって水のしぶきを放心したような眼で眺めている恋人達」がいたりと、どこを見ても恋人達ばかりであることによって示されている。
しかも遊園地の中にあるオペラ・ハウスで上演されているのも、「マゴット・フォンテンの白鳥の湖」であった。いうまでもなかろうが、「白鳥の湖」もおとぎ話によく似ていて、魔法で白鳥に姿を変えられた美しい王女が、勇敢な王子の愛によって魔法をとかれ、王子と無事結ばれて目出たし、目出たしで終わる話である。それゆえ、これも自分を救ってくれる王子にめぐり会いたいという由梨の願望を示している。
そして由梨は、遊園地の中にある「アラスカ・インデアンの民芸品の展覧会場」の管理人をしている「桃色シャツ」の男と出会うわけである。このロマンティックな色のシャツを着た男が王子の役を与えられていることは、おとぎ話の王子のように名前を与えられていないことを見ればわかる。男が背が高く、若白髪はあるけれども黒い髪で、「眼は緑色に近い碧眼」だという設定も、ロマンティックな恋物語の「トール・ダーク・ストレンジャー」(背が高く、髪が黒く、異邦人)というヒーローの典型像をふまえて造型されていることが明らかである。
男が「1/4、エスキモーで、1/4、トリンギットで、1/4、スヰーディッシュで、1/4、ポール」の混血であるのも、彼が由梨の望む理想の男性であることを示している。これは由梨が純粋の日本人である武やアングロサクソン系のフランクにうんざりしていることを見ればわかる。
武はエゴイストで毒舌家であり、機会さえあれば由梨をこきおろす。ブリッジをやるというのも武の発案であり、「悪いけど、わたし、とっても胃が痛くて駄目だから、誰か、もうひとり招んでよ」と由梨が懇願しても、武は心配する気配は見せなかった。
それで由梨が口実を設けてパーティを抜け出そうとすると、「君は大体傲慢だ。君が他人に我慢すると思うのは自分が秀れている、と思うからだ」ときめつけ、由梨が「わたし、ほんとうに駄目なのよ。癌か、若しかしたら、子供ができたのかも知れないわ」といっても、冗談としか受け取らない。しかもフランクが来ると、「ユリは最近、しきりに胃が変だというんでね、妊娠したのではないかと思っている」と他人事のようにいってのける。またフランクに対しても、相手の痛い所を容赦なく攻撃し、「ロンダは先週、シカゴから来た道路設計の技師と夕食をしてたぜ。自分の家に招んだんだ。
残念ながら彼氏が何時にロンダのアパートから帰ったか、見た奴は無い」などという。それは由梨がフランクと寝たことがあるのが気に喰わないからだが、自分はサーシャと仲のいいところをみせつけたあげく、こういった。
「サーシャ、済みませんが、由梨にカルメンがホセをののしるところの、タラララ、という節の正確なところを教えてやって下さいませんか。僕にはどうも1/4音狂っているような気がしてならないんだけれど」
由梨は即座に、「武、公衆の面前で妻を侮辱するのは離婚の時の慰謝料の額にひびきますよ」とやり返したが、武が思い遣りにかけていることは明らかである。
一方フランクも、由梨にこそ手厳しいことはいわないけれども、ロンダに向かっては、自分は絵の専門家でもないくせに、皆の前で彼女の絵をこき下ろした。
「ロンダ、近頃流行の、ポップ・アートなんて真似はやめなさい。君は大学で講座が持てる身分なんだから、もっと真面目な仕事をしなくちゃ駄目だ」
「まあ、フランク、あなたにもっと真面目になれって言われるなんて。わたし、落ちるところまで落ちちゃったと思うしかないわね」
「君は仲々の自信家だけど、自信家すぎて、強情なところがあるよ」(中略)
「わたしがひっそりと優しい絵をかけば、「少女小説の口絵だ」みたいなことを言うしねえ」
ロンダは嘆息した。
つまりフランクも女性に対し思い遣りがなく尊大なことでは、武と五十歩百歩なのである。
ところが半分アジア人で半分白人の血が混じった「桃色シャツ」の男は、とにかく親切でやさしかった。由梨が展示会場でころびそうになると、さっと駆け寄って抱きとめてくれるし、由梨のハイヒールの踵の皮がさけて垂下がっているのを見ると、持っていたナイフでそれを手際よく取り除いてくれ、会場に置き忘れたハンドバッグもみつけて持ってきてくれた。そのようなやさしさを示す男に、武やフランクの思い遣りのなさに傷ついている由梨が惹かれていくのは当然だったといえる。
なおリービは、「桃色シャツ」の男に「由梨が徐々に引かれてゆく(原文ママ)のは、ただの「国際的」な姦通ではなく、むしろ最も「近代的な「会話」の場を逃げた一人の近代人の、自らの前近代的感性そのものとの「姦通」ではなかろうか」といった。これは由梨が彼のエスキモーという部分に自分との血のつながりを感じているとあることからすれば卓見であろう。
トリンギットというのは、由梨が見に行った民芸品を作った「アラスカ・インディアン」の一部族であるが、「桃色シャツ」がその血を1/4受け継いでいることも、近代人を自任している武やフランクにうんざりしている由梨にとっては望ましい男性像、つまり理想の王子様の一つの要素であった。それは展示場で鴉の帽子をみた由梨が次のように考える場面を見ればわかる。
この鴉の帽子は(中略)写実的な鴉とは似ても似つかぬもので、殊に眼などは抽象化されたにしても人間の、それもかっと見開いた男の眼であったが、全体として見ると、奇妙な、人間と鴉の混同した生命のある面なのである。未開の人種達の間では自然界の木とか草とか、山とか谷とか、動物に人間の同化した生活感情ともいうべきものがあり、お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられているようだ。
リービは、この「人間と動物の「お互の間の意志の疎通は信仰に近い形で信じられていた」というアニミズムの領域は、すべてが認識の玩具としてもてあそばれるブリッジ・パーティの世界からよほど遠い」といっている。それは確かに卓見である。
しかし私は、この理想的なアニミズムの領域は、由梨にとってはおとぎ話の世界に踏みいることでもあったことに、注意を喚起したい。そこで「由梨は、人間の祈りや、呪いの、ぶつぶつという低い呟き」を聞くとあるのも、おとぎ話の王女のように由梨が魔法の呪文をかけられたことを意味している。そして呪文をかけられた直後に、流行のロマンティックな色のシャツを着た背の高いハンサムな男に声をかけられるが、このような筋書きも、おとぎ話を踏まえたものである。
このように見ていけば「桃色シャツ」は、由梨が求めているところの近代人でありつつかつまた自然界との結びつきを持った理想の王子様であることが明らかになる。もちろん彼らの関係も、勇敢な王子と可憐な王女の物語のように進展していく。
まず「桃色シャツ」は、すでに指摘したように、由梨が展示場を出ようとして「ぐらりとして危く尻餅をつきそうにな」ると、さっと「走りよってきて、由梨を抱きとめたので、由梨は派手にころばなくて済んだ」し、由梨のヒールの皮が破れて危険なのを見ると、「ポケットからナイフをとり出し」、皮を切ってくれた。物語の王子は王女が危険な立場にあると剣をふるって助けるが、近代の王子の「桃色シャツ」は、剣の代わりにナイフを使って助けるわけである。靴がとりもつ縁というのも、シンデレラの物語の亜流ないしはパロディ化と読める。そして由梨が展示場にハンドバッグを忘れたまま出てしまうと、「桃色シャツ」はそれを持ってきてくれただけでなく、またしても転びそうになった由梨をやはり抱きとめてころばないようにしてくれた。
その後「桃色シャツ」はジェット・コースターに乗ろうと誘うのだが、注目すべきは、自宅では終始雄弁でかつシニカルな態度しか見せなかった由梨の変化である。「わたし、怖いわ。若しかしたら、我慢できないかも知れないわ」と弱音をはき、「乗ったことある?」と聞かれると、「ううん」と少女のように「かぶりを振った」ので、「桃色シャツ」は「大丈夫さ。僕につかまっていれば」というわけである。これは由梨が、勇敢な王子に守られる可憐な王女に変身してしまったことを示している。
なおその時由梨は、昔武とデイトしている時に、後楽園のジェット・コースターに乗りに行くけど、結局は乗れなかった挿話を思い出すが、これは武との結婚生活がうまくいかないのは、間違った王子を選んでしまったからではないか、と由梨が考えていることを明らかにしている。
そして「桃色シャツ」は、口だけは達者だが頼もしさややさしさに欠ける武とは違い、ジェット・コースターがスピードをあげ、由梨が怖がると、「由梨の腰に手をまわして、しっかりと抱きしめるように指先に力をこめ」たので、由梨も安心して「男の肩に重心をかけていた」。そしてジェット・コースターがとまると、「桃色のシャツの上に顔を伏せていた」由梨を、「抱きかかえるようにして立ち上らせ、更に抱きよせるように由梨の顔を覗き込」み、「大丈夫?」とやさしく声をかける。由梨の方は、やはり何を聞かれても、「こっくりと頷い」たり、「かぶりをふった」りするだけで、全く可憐な王女様になりきっている。
そしておとぎ話では、王子と王女が舞踏会でダンスをするのも特徴の一つだが、案の定、「桃色シャツ」も由梨をダンスに誘った。
由梨がどうするか決心しかねていると、突然「ドビュッシイか何かの音楽」が聞こえてきて、「オペラ・ハウスから、着飾った観客が」出てき、「黒いスーツの男達が、むき出しの女の肩を覆うように身をかがめて、囁いていた」と叙述がある。これは舞踏会のような雰囲気をつくり出すための装置である。
もっとも二人は舞踏会には行かず、流行のゴーゴー・ダンスを踊りにいく。そして「スローの曲にな」ると、「桃色シャツ」はおとぎ話の王子のように、由梨をぴったり抱き寄せて踊り、「優しく笑いかけ」たので、「由梨も優しく笑い返し」「二人はただふんわりと流れていく雲の上にのっているように音楽に任せて」体を動かしていた。それは「武と上手に踊ろうと努め」「ステップを間違えまいとからだを硬ばらせた」時の経験とは大違いであった。
このように由梨がことあるごとに武と「桃色シャツ」と較べているのは、選択を誤って武を選んでしまったために、自分の人生は上手くいかないのだと考えていることを示唆している。
一方「桃色シャツ」は、終始おとぎ話の王子やロマンティックな恋物語のヒーローのごとく振るまい、踊っている時にも「君はまるで、押えていないと、ふわりと飛んでいってしまう羽みたいに軽いよ」などと、甘いセリフを口にする。むろん武も、そしてフランクも、そのようなロマンティックなことはいわず、やさしくもなかった。だからこそ由梨は「桃色シャツ」に誘われるままにドライブにいき、ついには一夜を共にするのである。この部分はいかにも性の革命の進んだ60年代的な物語である。
ところが翌朝由梨が眼をさますと、「桃色シャツ」の男はすでに姿を消してしまっていた。しかもバスで遊園地まで戻る途中、由梨はハンドバッグから20ドル紙幣が消えているのに気がつく。当時の20ドルといえば、今の百ドルくらいの値打があるが、それを抜き取っていったのは、明らかに「桃色シャツ」であった。ということは、由梨は素敵な王子様に出会いたいという夢を叶えるために、20ドル支払ったということに他ならない。
この結末は、構成の上では冒頭におかれているが、そこに含まれるメッセージは次のように解釈することができる。すなわち、おとぎ話は夢物語にすぎず、理想の王子様などいないのだ、だから自分の人生を有意義なものにするためには、結婚幻想を追わず、自分で自分の生き甲斐をみつけていかなければらなない、と。
これは決して結婚そのものを否定した結末ではない。このことは、やはり確認しておかなければならない。フリーダンも、結婚幻想に強く影響されている女性ほど結婚した時の幻滅や不満も大きいので、不満を解消するためには自分の生き甲斐をさがすように提案しているが、結婚そのものを排斥しているのではない。
ちなみに時代は大幅に下るが、シャーロット・メイヤーソンも、1996年に出版した「Goin' to the Chapel」という著書の中で、彼女のインタビューに答えた女性たちのうち、子供の時から女性は結婚すべきだと教えられ、結婚幻想にとらわれていた女性ほど結婚後の人生に失望を持つものが多いと報告している。一方コレット・ダウニングは、1981年に出した「シンデレラ・コンプレックス」という著書で、子供の時から物語を通して男性に依存した生き方をすべく教えられた女性たちは、職業上成功しても仲々心理的に独立できず、男性に依存してしまいがちだと指摘している。
ここでもう少しおとぎ話の問題について言及すると、おとぎ話が女の子たちに結婚幻想を抱かせ、成人しても男性に頼る受け身の生き方を選択させるようになるということが問題にされるようになるのは、実は女性運動が盛んになった1970年代になってからであった。その口火を切ったのは、作家でもあったアリソン・ルーリであるが、ルーリは1970年に発表した論文でおとぎ話は強い女性たちを描いているので、女性解放を推進するのに役立つと力説した。
それに反発し、おとぎ話を批判する論文が続々あらわれるようになり、おとぎ話の研究はフェミニズム運動の一環となっていく。それらの研究は一様に、おとぎ話が女の子に性別による役割の違いを教え、物語りの王女のように従順で貞淑であれば、王子様と結婚し幸せに暮らすことをできるという受け身の生き方をするよう書かれたものであることを明らかにした。
そして1983年には、ジャック・ザイプスが世界中の昔話や児童文学の研究家に衝撃を与えた「Fairy Tales and the Art of Subversion: The Classical Genre for Children and the Process of Civilization」 (直訳は「おとぎ話と転覆の芸術/子供のための古典的ジャンルと文明化の過程」だが、2001年に出た日本語訳は「おとぎ話の社会史」という簡潔な題となっている)を発表した。
ザイプスは古典的おとぎ話は「無害で楽しいもの」と見なされてきたが、それは人々、特に子供たちを教育するために構築されたものであること、そして欧米の主要な古典的作者であるシャルル・ぺロー、グリム兄弟、ハンス・クリスチャン・アンデルセンなどは、「ブルジョアジーの価値観や関心を浸透させ、文明的過程でのブルジョアジーの勢力をひそかに強化」したと指摘した。またザイプスは、女の子に対する物語は、家父長制を強化し、維持するために有利な価値観を教えようとするものであり、その伝統はハリウッドのアニメーションにも継承されていると指摘している。
以上のようなザイプスの研究が明らかにしたのは、昔話やおとぎ話の文学化は、特定の価値観を子供たちに教え込むための強力なイデオロギー装置であったこと、そしてそれらの物語りは子供たちの精神世界を支配しただけではなく、成人して後の人々の無意識の領域を形成するまでにいたったことなどである。
このようなザイプスの研究は、結果的にはそれまでのフェミニストのおとぎ話研究を正当化するものであった。
その後もおとぎ話の研究は続けられ、マドンナ・コルベンシュラーグは「眠れる森の美女にさよならのキスを」を書き、古典的おとぎ話の家父長的価値観を転覆し、女性が主体性をもてるようになる物語を創作していくことの重要性を説いた。
このような歴史を考えるなら、大庭が1967年という早い時期に、女性に結婚幻想を与えるものとしておとぎ話に注目し、それを脱構築しようと試みたことがいかに画期的であったかが理解できるであろう。
そして大庭は、小説の結末部分(構成上は冒頭にある)では、由梨の乗ったバスは深い霧につつまれ、視界があまりきかないといっているが、これは由梨にはまだ自分の進んでいくべき道が見えていないことを示したものであろう。もっともその結末からは、いつか霧が晴れるように、由梨にも自分がやるべきことは何かが見えてくることは予測できる。
おそらくロマンティックな男性への対幻想から醒めた由梨は、ロンダと次に会った時には、子供を育てながら働いているシングル・マザーの彼女の寂しさや苦悩を理解し、親密な友情を築き上げていくであろうし、松浦嬢とも、セックスアピールで張り合うかわりに、彼女が米国に一人でやってきて博士号をとろうと頑張っていることを肯定的に評価できるかもしれない。実際に歴史はそのように変化し、女性たちは自分たちの地位を向上させるために共闘していった。
そのような歴史の動きは、1967年に大庭が「三匹の蟹」を書いた時点ではまだはっきりとは見えていなかった。だから大庭は、由梨が将来どのように生きていくかについては、明確な解答は与えられなかったのかもしれない。また見方を変えれば、大庭は深い霧に包まれた孤独な由梨の姿を通して、女性解放運動が広がる直前の孤立した女性たちのあり方を描き出そうとしたといえる。
大庭自身は専業主婦ではなく、結婚しても小説を書くことをあきらめず、夫の転勤を最大限に利用して、アメリカの大学で勉強したりした。しかし主婦業の単調さや、どんなに家事を完璧にやっても仲々充足感や満足感がえられないことも、周りの女性の生活から理解したであろうし、時には自分自身でも感じることがあったに違いない。だからケーキを焼きながら苛立つ由梨の姿が生き生きとリアルに描けたのではないかと思われる。また大庭が、自力で子供を育てているアメリカ人女性ロンダ--つまり父親業と母親業と主婦の三役をこなさなければならない立場にいる--を深い共感をもって描いたのは、オリガのように離婚して二人の子供を育てていた「フェミニストの先駆者」といえる友人がいたからであろう。
「群像」新人賞の選考委員の一人であった安岡章太郎は、「三匹の蟹」は「海外留学団地小説」だと評した。それから30年後に江種満子は、「大庭みな子の文学では、アメリカはたんなる旅先でお客様になる国ではなく、またたんなる情報や題材にとどまるような借りの滞在先・他人の国でもなく、その異文化空間に棲む生活者として、日本女性が自分の生き方を創り出していく闘いの場そのものであった」と評価した。
確かに「三匹の蟹」も、江種がいうような特徴を備えた作品であるが、そこにはロンダを通して、アメリカ女性の闘いも描かれている。また由梨の造型には、すでに指摘したように、オリガという名を与えられている友人が奨めてくれたフリーダンの本の影響もみられる。そのため由梨は日本人の専業主婦というだけではなく、アメリカの専業主婦の典型としても通用する。言い換えれば、由梨という女性はジェーンというような非日本的な名前に変えても違和感がない存在であり、「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもそのような由梨の造型にあるといえる。

参考のため付け加えておけば、私はニュージーランドで「三匹の蟹」を教えているが、その際には、学生たちにフリーダンの「新しい女性の創造」と、カレン・ローの「フェミニズムとおとぎ話」(1979)という論文を参考文献として与える。するとほとんどの学生が、専業主婦である由梨の不満や悩みがフリーダンのインタビューに答えた女性たちの不満や悩みと共通していることを指摘する。中には、60年代のニュージーランドでも多くの主婦たちが同じような問題を抱えていたからアメリカと同じように女性運動が広がったのだ、と指摘してくる学生もいた。
そしてほとんどの学生が、「桃色シャツ」がおとぎ話に呪縛された由梨の王子様であり、彼との関係を通して由梨はおとぎ話の世界を再体験しようとするけれども、それは惨めな結果に終わり、男性に頼って生きていく主体性を欠いた生き方を変革せねばならないことを思い知らされる、これが小説の筋だという分析をしてくる。つまり「おとぎ話」というキーワードがあれば、あまり文学的訓練をうけていない学生でも、「桃色シャツ」が果たしている役割がわかるわけである。もう一つの収穫は、学生たちがロマンスを描いた小説やハリウッドの映画などが、いかにおとぎ話と同じ家父長的イデオロギーを説いているかにも気づくことである。その意味で、「三匹の蟹」はジェンダー教育に適切なテキストの一つである。
以上のように、「三匹の蟹」は日本人の専業主婦を主人公としているけれども、そこで描かれた問題は、アメリカをはじめ、様々な国の女性たちが直面している問題でもあった。そして女性は結婚幻想から抜け出して、新しい生き方を見い出さねばならないという大庭のメッセージも、70年代に様々な国に広がった女性運動の発するメッセージと同じであった。「三匹の蟹」のボーダレスな魅力の一つもこの点にあるといえる。
「三匹の蟹」がボーダレスな魅力を持つもう一つの要因は、おとぎ話やロマンティックな恋愛小説の説く結婚幻想に挑戦し、それを脱構築したことであるが、欧米のフェミニストの間でおとぎ話の研究がはじまるのが70年代になってからだということを考えるなら、大庭がそれを1967年という早い時点でおこなったことは、革新的であったといわねばならない。また二項でふれたように、大庭がアメリカ在住の日本人のみに焦点をあてず、フランクやロンダ、そして「桃色シャツ」の男などを通して、1960年代にアメリカ社会でおきていた結婚や性に関するモラルの変化を描いたことも、「三匹の蟹」をそれまでの日本文学の枠を越えたボーダレスな魅力をもつ作品にしているのではないかと思う。
 
近代における日本、中国の文人・作家の自殺

 

自殺は人類文明とともに発生し、今に至るまで自殺の存在しない社会はまだないと「エンサイクロペディア・ブリタニカ」は記述する。人類学では、原始人の群に既に自殺があり、少なくとも4000年も前の自殺の遺書が、近年エジプトで発見された、という確かな証拠を提出している。
人類の歴史全体を通じて見れば、近代以来、文人もしくは作家と呼ばれるような人たちの自殺はもっとも多いように思われる。文人・作家の自殺は、ある時代における文人・作家の社会的環境が大きく変化し、彼らの心のバランスが崩れたことを反映しているとみられる。ところで自殺とはいったいどういうものか。なぜ文人・作家には自殺者が多く出るのか?そして、なぜ近代に入ってから、日本人の文人・作家には目立って多くの自殺者を出し、自殺の伝統のなかった中国でも文人・作家が、近代に入ってから、自殺者は増えたばかりか、プロレタリア文化大革命中、夥しく自殺した者が出たのか?本論では、自殺の社会的要素を主な視点として、近代に起きた日本と中国の文人・作家の自殺について比較的議論を展開してみたいと思う。
我々は、孤立的に存在しているのではなくて、社会という関係体系のなかに共存している。個人の生活は、個人の自由意志によって支配されているかのように見えているが、実際、いろいろ思想的に行動的に社会というものに関連し合い、互いに制約されている。文人・作家の自殺も大抵、家庭という社会を構成する細胞から、文壇という小社会、国内社会乃至国際社会にいたるまで、いろいろの事柄に深く関わっているから、その自殺を研究するには、何よりもまずそれに着眼しなくてはだめだと思う。この意味から言えば、フランスの社会学者デュルケムは、誰よりも先に社会的要素に着眼した「自殺論」の重大な意義は否定できない。
人間を徹底的に「社会的存在」として考察していくこの社会学者(デュルケム)の眼は、人間の生というものがいかに集団生活によって影響され、左右されるものであるかをするどく看てとっている。いいかえれば、自殺は、この行為にはしる人間の生きてきた集団生活にかかわる要因をぬきにしては、じゅうぶんに説明されえないということなのだ。
宮島喬氏がいろいろ説明し補足した通り、デュルケムの学説は当時欧州諸社会の自殺を通じてその社会の病態にメスを入れたばかりか、社会的要因はいかに重要なのかを強調し、そして社会学的に自殺を分類したことも、後の研究者に重要な手がかりを提供した画期的な貢献と言わざるを得ない。ところが、同じく宮島喬氏が指摘したように、今日の目から見ればデュルケム学説には、いくつか問題点があることも否定できない。たとえば、「社会的要因」と「非社会的要因」という分け方の厳密でないことや、根拠にした官庁統計のデータは確実に権威のあるものだとは限らないことや経済的貧困・病苦を軽視したことなどが挙げられる。
そのほか、筆者の思うところでは、社会には統合力があると言われているが、物理学の力学原理に基づいて、その反動も必ずあり、統合力は強ければ強いほど、その反動も強くなるのではないか。たとえば、中国のプロ文革という特定の時期中、社会的統合力は強くないとは言えないのに、なぜ夥しく文人の自殺が出たのか。因みにデュルケムの研究は、19世紀のヨーロッパ向けで、東洋人の自殺のケースには必ずしもぴったり当てはまるとは限らない。それにデュルケムは、自殺する人間を受動的なものとして固定的に扱っているように思われ、自殺者の主観的能動性を見逃したのではないかと思われる。
ここではまず、自殺の定義、種類や自殺率などから検討して、文人・作家の自殺の多発の原因を探るとともに、近代以来とくに有名な日本と中国の文人・作家の自殺を例にして、比べながら、法則らしいものを探ってみたいと思うのである。
自殺の考察
自殺の定義
自殺とは何か?自殺という現象を定義づけることは難しいことで、米国自殺学会会長、著名な自殺研究学者シュナイドマン(E. S. Shneidman)が、「Definition of Suicide」(自殺の定義)という一冊の本を出版したぐらいである。
そこで自殺の定義として次のようにのべることができよう。死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。
右は近代における自殺研究の先駆者デュルケムの定義づけであるが、これは自殺の定義の代表的なもので、その後の研究者たちから、またいろいろ修正されたり、細かくしたりされていった。
なお、自殺の定義を研究していた前記のアメリカのシュナイドマンの定義は次のように自殺者の必要の角度から自殺の性格を社会の「病」と定義している--
自殺とは「人間が自ら引き起こした、そして自ら意図し、生命を終わらせる行為」であり、「自殺とは意識的に自らがもたらした死の行為であり、ある種の問題にたいして最善の解決策であるとみなす必要に迫られた人にとっての多次元的な病として最もよく理解される」。前記諸氏の定義の言葉遣いこそまちまちであるが、まとめて通俗に言えば、すなわち、自殺とは、死にたいと思っている、心理的に成熟した人間が、死ぬことを予知しながら、自分の意志で自分の生命を終わらせる行動を取る、ということかと思う。「自らの意図」と「結果予測性」が大抵、定義中の二つの欠くべからざる要素である。
自殺のメカニズムと法則
ある人間がなぜ自殺しなければならないのか?普通は生理、病理、心理、社会などの面からその原因が探られる。
病理学的に言うと、自殺の思いつきは憂鬱感と大いに関係があるが、これは、医学、生物化学、生理学、病理学の分野で、学者たちの重要な研究課題である。普通精神医学と心理学において、憂鬱は反応性と臨床性とがあり、前者は落第や失恋や事業倒産などによるはっきりした憂鬱感をさす。このタイプは、その憂鬱の源を無くしさえすれば、時間が必要であるものの、回復する可能性は極めて大きい。それに対し、後者の憂鬱は、はっきりした原因もないのに、理解しがたい絶望感に陥ってしまって、実際一種の原因不明の精神病であると言う。大抵、精神医学の学者の研究は比較的にこの方面に傾いている。
心理学的に言えば、フロイトは攻撃性を、人間の持っている破壊本能が姿を現したものだとかんがえた。殺人にも自殺にもこの傾向が見られるのであるが、殺人の場合にはこれが外に向けられ、自殺の場合には、これが自分自身に向けられる……人間には生命をつくり、子孫を増やしていこうとする傾向と、その反対に生命を分解して無機物にしようとする傾向がある。前者が「生の本能 Eros」であり、後者は「死の本能 Thanators」である。
自殺と社会との関係を社会学的にデュルケムが次の法則をまとめている。
自殺は宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は家族社会の統合の強さに反比例して増減する。
自殺は政治社会の統合の強さに反比例して増減する。
デュルケムの説によれば、すなわち、社会関係の組織がよく統合され、高度の社会的集結のあるところでは、人々は自分の属する社会の一成員であることを強く自覚して、心理的孤独や寂しさから抜け出すことができ、これが自殺への志向を思い止まらせる強力な要因となるという。逆に社会的集結力の低い社会では、文化的価値は普遍性を失って個人はアトム化され、相対化され、孤立されて、成員の経済や健康や気候などの条件とは関係なく、人々を自殺に追い込む原動力となるわけである。言い換えれば、社会的自由度の多い社会では、むしろ自殺が多発するというのである。なお、「非社会的原因」と「社会的原因」の比重につき、デュルケムは
説明しなければならないこの現象(自殺)は、きわめて非社会的原因に起因するか、そうでなければ、まさに社会的原因に起因するかのどちらかでなければならない。そこでまず、非社会的原因のもたらす影響がどのようなものであるかをたずね、それが無に等しいか、もしくはごく限られた影響でしかないことをあきらかにする。
と、非社会的原因より、社会的原因に主に着眼している。心理文化学理論の創始者アメリカのファーバーの理論をまとめれば、集団における自殺頻度は、その集団が含む高度に傷つきやすい個人の数、及びその集団に特徴的な社会的欠乏の規模に正比例する。この法則を一般公式にすると次のようである。
S=F(V,D) / Sは自殺の確率(the probability of suicide)/Fは関数(function)/Vは人格の脆弱性(vulnerability in the personality)/Dはある種の特定な欠乏(degree of certain deprivations)
自殺の確率は、人格の脆さとある種の特定な欠乏との関係によって決定されるという。すなわち社会学者としてのデュルケムがこのうちのDだけを強調し、精神分析理論がVだけを考慮していたのに対して、ファーバーの公式では自殺の「社会的」要因と「個人的」要因がともに考慮されているわけである。自殺の仕組みの分析上、より全面的だと思われる。1960年以来、欧米では、自殺行動と生化学的指標の関係について焦点が当てられ始めた。日本の自殺研究学者高橋祥友氏のまとめによれば、
a「死後脳を対象にした初期の研究」、b「自殺企図者の脳脊髄液の研究」、c「死後脳の受容体結合の研究」、d「内分泌学研究」などがあるが、「現段階では生物学的な研究はあくまでも研究の域を出ておらず、いまだ日常臨床に活用するにはほど遠い。
と、生物学的研究はまだまだ結論に達しない状況であることを示している。
ところが、自殺について、在来のデュルケム理論と全く視角の違ったフランスのジャン・バッシュレール理論が現れ、自殺の是非問題に関わってきたので注目を集めている。バッシュレールは、「自殺者」という著作の中で、デュルケム理論に対抗する研究を発表した。彼の説によれば
自殺は究極的には個人の心理のレベルにおいて理解されねばならず、デュルケム理論のように、個人と社会との結合度から説明できるものではないという。また、すべての自殺行為を簡単に精神異常と結びつけてしまっては、自殺を主観的世界のなかで、とらえることは不可能になる。氏はドイツの社会学者マックス・ウェーバーの「社会行動論」を重要視して、自殺者の社会的境遇、立場または他人との関係を理解することを重んじている。自殺原因究明の場合、「この人は長い間連れ添ってきた最愛の妻に先に死なれたために意気消沈して自殺をした」という第三者からの純客観的釈明よりも、「この人は死別した最愛の妻とあの世で再会するために自殺をした」という自殺者の主観的立場を尊重する理解が必要と主張している。
このバッシュレールの解釈は、自殺者にたいする純客観的デュルケム理論の第三者的解釈より、もっと主観的に自殺者の意志にアプローチした理解だと言われている。意味深いことには、こうすると自殺という行為は自殺本人にとって、当たり前の主観的理由が作られ、そして、その悩みにたいする最も積極的な決断行為ということになる。
結論として、この理論は、自殺行為をも、人生における対応の一つの型として考え、自殺に対する個人の権利を肯定し、精神障害とは別な次元の積極的な人間の社会行動と見なしている。この理論は、倫理上の諸問題に関わり、かつ自殺の是非問題にも関わるので、フランスのインテリの中で大変な反響を呼んだが、精神科の医者からは大きな反感と敵意を買ったのは云々するまでもない。日本人の自殺事情を、バッシュレールの説明に当て嵌めたら、反社会的な三島や川端などの自殺も、合理的なもの、同情すべきものだと言えそうであるから、このすべての自殺を肯定する理論は明らかに偏った一面があると思われるのである。
筆者は、デュルケム理論よりアメリカのファーバー理論とバッシュレールの解釈に強く興味があるが、上記欧米人の理論は、東アジアにおける日本と中国の文人・作家の自殺を旨く説明できず、別にその法則を掘り出さなくてはならないと思う。
自殺の種類
デュルケム理論によれば、自殺の社会学的分類は次の通りである。
社会的原因と社会的タイプ
自己本位的自殺
集団本位的自殺
アノミー的自殺
宮島喬氏も、デュルケム理論に基づいて、自殺の分類を次のようにまとめた。
自己本位的自殺(suicide egoiste)。社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団生活から切り離されて孤立する結果として生じる自殺。
I集団本位的自殺(suicide altruiste)。反対に社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強制したり、奨励したりすることによって生じる自殺。また、個人を超えたなんらかの集合的利益や信仰上の大義のために一身を犠牲にする行為もここにふくまれる。
Iアノミー的自殺(suicide anomique)。社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲求への適切なコントロールがはたらかなくなる結果、無際限の欲求にかりたてられる個人における幻滅、むなしさによる自殺。
宿命的自殺(suicide fateliste)。その反対に欲求にたいする抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感絶望感がつのって生じる自殺 。
社会的原因による自殺タイプとして、デュルケムは自己本位的自殺、すなわち、自己中心型(その特徴として、社会との結合度が比較的弱くて個人主義が強く、作家や独身者などに多発する)、集団中心型(その特徴として、集団との結合度が強く、自己より集団を重んじて軍人や警察など国民意識の強い群れに多発する)、アノミー型(社会的規範のないタイプ、その特徴として、社会の激変期や、いきなり到来した好況や不況などの動乱時期などに多発したり、芸能人や倒産者や失業者や定年後の老人や配偶者の喪失者などに多発したりする)と分類している。
また、デュルケムの分類した三種類を、それぞれ、自己的自殺、愛他的自殺と虚無的自殺という別の三つの名称に解釈する学者もいる。
自殺率の考察
比較する年度が多少異なるが、日本は欧米と比較すると、自殺死亡率はほぼ中間から上位に位置し、G7(先進七カ国)の中ではきわめて高い値を示している。理由は後述するが、自殺者のうち、文人・作家の占める比率は多い。デュルケムによれば、19世紀に行われた自殺性向を職業別に見る調査において芸術家、学者を含む創造的職業に従事する人々は首位の軍人に続く自殺率を示しているという。
フランスでは、1826年から80年まで自殺の首位を占めていたのはこの自由業であった。すなわち、この職業集団の人びと百万あたりの自殺は550であった。イタリアでは1868-76年の期間では、この同じ職業従事者百万あたりは483であり 、バイエルン(バヴァリアのこと)では芸術家、文学者、記者の416であった。
日本の文人・作家の場合、専門的な統計数字が見つかっていないが、第一学習社出版の2002年度の「新訂総合国語便覧」に載っている詩人、俳人、評論家を含む近現代文人・作家260名のうち、北村透谷、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、原民喜、火野葦平、三島由紀夫、川端康成、田宮虎彦の10名の有名な作家が自殺した。それで計算すれば、文人・作家の自殺率は4%というわけである。また、「近代作家研究事典」)に載せられた144名の作家のうち、芥川龍之介、有島武郎、川端康成、北村透谷、久保栄、太宰治、火野葦平、牧野信一、三島由紀夫という9名の自殺者が出た。これで計算すると、作家の自殺率は、低く見積もっても6%になるわけである。
けれども、1899-1984年の日本男子の平均自殺率は、0.232%に過ぎなかった。すなわち、10万人の日本男子に、23.2人しか自殺者が出てこないのに、4%の自殺率で計算するにしても、10万人の文人作家には、4000人以上も自殺者が出てくることになる 。すなわち、文人・作家の自殺率は、少なくとも近代日本の男子の平均自殺率の172倍以上である。
中国の自殺率はどうであろうか。色々の原因で完全なデータが見つからないが、張朝陽氏の「人類自殺史」の中の完全でないデータを引用しよう。
わが国(中国)は、なお全国的自殺率のデータに欠けている。各省市のばらばらの報告に基づいて、次のように紹介する。自殺率:中国の自殺率は、17.7/10万人(1989)、毎年自殺による死亡人数は、およそ19-21万人である。
なお、張朝陽氏によれば、作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。それ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は激しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった のである。したがって、中国人の自殺者の中に作家の占める比例は、かなり低いことが分る。
文人・作家の自殺は上記の社会学的分析によれば、第一種類の自我中心型に属するもので、個人主義や自由主義の発達した欧米に多発する筈であって、日本人の自殺は大抵集団中心型に属するとされているというのに、なぜ近代に入ってから、「集団本位自殺」でない自殺の作家が続出するのであろうか?なぜ中国の文人・作家の自殺は少ないか?ただし、自殺の伝統がなかった中国の文人作家の自殺がプロ文革中なぜ夥しく出たのか。デュルケムの自殺の法則に相応しくないこれらの社会現象は、特殊な研究課題と言わざるを得ない。
全体的に言えば、日本と中国の文人・作家の自殺は、ある程度、デュルケムと宮島喬氏のまとめた法則に適うこともあるが、両氏とももっぱら文人作家の自殺を論じたものはなかったのである。事実上、日、中の文人・作家の自殺は、デュルケム理論に当てはまらないこともある。たとえば、北村透谷、藤村操の自殺も、川端康成、三島由紀夫の自殺も、密接に社会的要因に関わるが、実はそれは同じ類いのものではない。
中国のプロ文革中自殺した作家老舎や文学者傅雷や文人作家ケ拓ども、デュルケム理論では説明できない。なお、宮島喬氏の指摘したとおり、「「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機(失業、破産など)、病苦といった要因にはほとんど注意を払っていない」ので、川上眉山や牧野信一や中国の詩人朱湘などの自殺も、デュルケム理論から根拠が見出されないのである。
本論では、デュルケムと宮島喬氏の研究の補足というつもりで、両国のそれぞれ代表的な10人の有名な文人・作家(学生であった藤村操と陳天華の場合、自殺してから有名になったものであるのに対し、後の9人はもともと有名であったが、自殺してからなおいっそう有名になった。なお藤村操や陳天華は学生であったが、その自殺は影響が大きかったから、文人・作家の中に一応入れておくことにした)の自殺を簡単にまとめて、さらに議論を展開したいと思う。
近代における自殺した日本人の文人・作家概観
明治以来影響力のある自殺した文人・作家を次の表にまとめてみた。
(年月日/自殺者/自殺の手段/自殺の理由とされた主な事情)
明治時代
1872・2・27 小説家 一宮猪吉郎 自殺 不明
1894・5・16 評論家 北村透谷 縊死 思想の苦悶など※
1895・4・12 小説家 藤野古白 拳銃 うつ病※
1898・9・3 小説家 中西梅花 自殺 不遇に発狂
1903・5・22 一高生 藤村操 滝に身投げ 思想の苦悶、哲学の思考
1908・6・15 小説家 川上眉山 剃刀 創作危機に貧困
大正時代
1913・11・5 小説家 山本飼山 自殺 発狂
1921・10・28 作家 野村隈畔 入水自殺 愛人と心中
1922・11・10 評論家 竹内仁 婚約者の親を刺殺後縊死 不明
1923・6・9 小説家 有島武郎 縊死 苦悶で愛人と心中
昭和時代
1927・7・24 小説家 芥川龍之介 睡眠薬 社会への不安など
1930・3・10 詩人 金子みすず 睡眠薬 離縁で親権獲得上社会への不平など
1930・5・19 詩人 生田春月 船から身投げ 神経衰弱に妻、愛人との関係の悩みなど
1932・12・12 小説家 中村進治郎 ガス自殺(未遂) 心中(高輪芳子死去)
1936・3・24 小説家 牧野信一 縊死 創作危機苦悶に貧困など
1945・8・19 作家 蓮田善明 ピストルで連隊長を射殺してから自殺 軍国主義思想中毒の深さ
1945・12・31 小説家 生田葵山 入水 一家死絶など?
1948・6・13 小説家 太宰治 入水 幻滅、罪悪感など
1949・6 作家 長沢延子 自殺 戦後の虚無的な現実
1949・11・3 作家 田中英光 服毒割腕  幻滅に模倣 
1950・4・15 評論家 木村荘太 縊死  出身、父親の放蕩など?
1951・3・13 作家 原民喜 鉄道自殺 核戦争への恐怖と不満
1952・12・31 作家 久坂葉子  (川崎澄子) 鉄道自殺 家庭落ちぶれと失恋など
1953・12・22 劇作家 加藤道夫 縊死  戦争の残した翳など
1956・1・1 評論家 服部達  服薬凍死 創作危機、貧困に恋愛など※
1956・12 劇作家 寺島信男 服毒 不明
1958・3・15 小説家 久保栄 縊死 神経性疾患※社会への不満
1959・6・22 小説家 村雨退二郎 服毒 不明
1960・1・24 小説家 火野葦平 睡眠薬 或る「不安」など
1969・6・24 「二十歳の原点」 作者 高野悦子 鉄道自殺 「連合赤軍」、人生への悩み
1970・11・25 作家 三島由紀夫 切腹 「芸術的自殺」※
1972・4・16 作家 川端康成 ガス自殺 不眠症、うつ、三島自殺※
1973・8・18 小説家 小林美代子 睡眠薬 病苦
1975・3・29 評論家 村上一郎 動脈切り 神経症に久保、三島の自殺の影響
1975・7・17 「僕は十二歳」 作者 岡真史 ビルから身投げ 心の悩み
1976・3 中国文学者 村上知行 自殺 不明
1979・4・22 作家 江口榛一 縊死 病苦に生活難?
1981・4  劇作家 金具省三 縊死 うつ病
1981・6 放送作家 杉江慧子 白骨発見 不明
1982・7・17 作家 江上美好 縊死 不明
1986・2・17 作家 鈴木いづみ 縊死 不明
1988・4・9 作家 田宮虎彦 マンションから身投げ 年齢と病苦?
1988・6・16 作家 石沢英太郎 縊死 老齢問題?
平成時代  
1990・10・10 作家 佐藤泰志  縊死 何回も芥川賞落選など?
1993・12・13 作家 藤田五郎 ビニール袋窒息死 不明
1999・7・21 作家 江藤淳 割腕 病苦
2001・2・2 作家 加堂秀三 縊死 不明
2001・6・17 作家 青山正明 縊死 麻薬からうつ病
2002・5・29 作家 矢川澄子 縊死 離婚、親しい者に死なれて寂しくなるなど?
2004・4・11 作家 鷺沢萠 縊死 不明
日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。中世では、愛情の心中よりも、武士の切腹が多かったが、そのうち「殉死」というのは、実際は真の自己意志による自殺ではなくて、強いられた死である。その自殺は、したくてもしたくなくても、本心からの死ではない。「興津弥五右衛門の遺書」の中で鴎外は、一片の恩義が人を死なすことを美しく描き、封建道徳を肯定していながら、また一方、「阿部一族」の中で弥一右衛門の末路を通じて、殉死を否定した。文学作品中の人物であるにもかかわらず、封建的因襲の野蛮な慣わしによって、生きようとしても死のうとしてもできないという哀れな境遇がありありと描かれている。それに対して、文人・作家の自殺は少なかった。
一方、近世では、戯作家たちは、大衆の娯楽を旨として、それに工夫を凝らしていたが、あくまで自己追及告白により身を苛む近代作家と根本的に違っていて、近世作家の自殺はまず、聞いたことがない。
日本が明治維新以来取った「富国強兵」政策は、対外侵略を狙って庶民たちの苦難を全然顧みなかった。そういう「近代化」に疑問符をつけ、その答案を求められずに悩んだ挙句、理想主義を旨とした北村透谷は、あきらめて自殺した。日露戦争の直前、哲学青年の藤村操は、立身出世主義に背を向け、新しい人生価値を求められずに人生は「不可解」という「巌頭之感」を残して煩悶自殺した。
明治維新以来、知識人は、自我に目覚めたからこそ、自殺を以って社会に反抗したのである。自己で自己の運命を握れること。この意義からいえば、明治時代に自殺した透谷、藤村と川上の自殺には、積極的な意義も全然ないとは言えないと思う。透谷も藤村も、社会の歪みによって自殺したと言えそうであるとともに、社会の進歩と政治的空気の緩やかさを示したとも言える。川上眉山の自殺には、そこに文壇という小社会の原因も加わるが、直接の原因は生活難であって、これは正に社会の歪みによるもの以外の何物でもない。
大正時代に起こった民主主義を求めるという、大正デモクラシーの動きが高まっていた。様々な運動や文化が花開き、新たな言論活動も始まった。大正政変で幕が開き、第一次護憲運動(1912-1913年)によって、桂内閣を退陣させ、普通選挙運動が高まる。米騒動(1918年)、第二次護憲運動(1924年)もおこった。世界大戦を繰り返したくない願いが、新しい時代を要請したのである。が、社会主義対策として普通選挙の実施で予想される無産政党の進出を阻むために制定する治安維持法も成立する。「国体の変革」と「私有財産制度の否認」を目的として結社をつくることが禁じられた。
大正時代に、民主主義、大正教養主義の機運の中で、自殺した作家は確かに少なかった。唯一の自殺した影響力のある作家は、心中の仕方を取った白樺派の有島武郎である。実際は単なる心中ではなくて、「第四階級」(有島の言葉・プロレタリア階級のこと)の発展を予感して、自らが所属する階級の前途への絶望の上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。表面的に取れば、確かに有島と秋子は心中だと取れそうであるが、深層の原因は本階級の前途への絶望が本当の原因だと思う。この意味から言えば、有島にしてみれば、生命を愛しないのでもなくて、むしろ並みの人よりも生命の価値を理解したかったのではないかと思うのである。
1926年から1989年にかけての長かった昭和時代であったが、昭和8年までにもはや大正デモクラシーの余韻は消え、軍国主義が日本中、大手を振って歩き始めた時代であった。1927年金融恐慌の最中、未来のプロレタリア階級の社会を予見しながら、その運動に踏み切る勇気がなかった芥川は、神経衰弱も加わって自殺した。なお、軍部の台頭が明らかになった1936年、「2・26事件」の9カ月後には牧野信一が、書けない悩みともあいまって悲観厭世で自殺した。
恐慌、エロ・グロ・ナンセンスの時代は、ファシズム戦争の敗北を経て、戦後の焼け跡と生活窮乏の時期を迎えた。退廃・絶望のなかで、自分が地主の息子であることと、プロレタリア運動に共感していたこととが大きな矛盾として脳裏に焼きつき、死だけが自分を救う唯一の手段と思った無頼派の太宰治は、何回も自殺し損なったのち、とうとう戦争未亡人の山崎富栄と一緒に入水自殺することに成功した。太宰の自殺はある意味では、典型的な「恥の文化」「罪の文化」の犠牲者といえよう。その翌年に、同じく、毒薬、酒色に耽った田中英光も、その師匠に追随して太宰の墓前で自殺した。また朝鮮戦争の最中、情勢が危うく核戦争になろうとする頃、自らの深刻な体験から核戦争に大反対の原民喜は、鉄道自殺を遂げた。
50年代から60年代、日本は民主化の道を歩み始め、1955-57年の「神武景気」と1960-61年の「岩戸景気」を経て、60年代中頃の「所得倍増」によって人々は生活難からようやく抜け出し、戦争への憎しみと平和の有難さを一旦舐めた日本の庶民は70年、戦争につながる「安保自動延長」反対闘争に立ち上がったが、そういう民主的ムードに不満を感じ、かつての「大日本帝国」の夢を見ようとした三島は同じ年、世論を驚かせる芝居を演じてから切腹自殺した。
1972年、日本はますます「伝統美」を失ったと感じた川端は、ノーベル文学賞をもらった4年目に「輪廻転生」という甘美な夢を抱いてガス自殺した。前記50名の自殺した文人・作家の統計はもちろん、かなり不完全なものである。にもかかわらず、資料入手の難しさによる原因不明の10名のほかは、本当の精神的発狂のケース、すなわち生理、病理的原因のみによる自殺は、中西梅花と山本飼山の二名だけである。
そして中西梅花の場合、恐らく不遇も自殺原因の一つであろう。なお、「うつ病」の原因のある者には、藤野古白、久保栄、村上一郎があるが、久保と村上の場合、どちらも単純なうつ病ではなく社会的原因もかかわっている。その他の自殺の決定的主な原因は、思想の苦悶、悲観厭世、社会への不安・不満、家庭の事情、恋愛失恋、病苦、そして老人問題など、すなわち全部が社会的要因に関わっている。これから見ても、自殺は、この行為に走る人間の生きてきた集団生活に関わる要因をぬきにしては、十分に説明できないのである。

中国でもはるか昔から自殺があった。何千年も前に、氏族の首領共工が「怒りて首を不周の山に触して天柱折りて地維絶つ」という記述があるが、これはおそらく中華民族の一番最初の自殺の記録であろう。ところが、中国には、「好死不如頼活着」(どんなに立派な死に方も、辛うじて生きていることに如かず)などの俗言があるように、よほどの場合でもない限り中国人は自殺することはないのである。
中国の文人・作家の場合、周知の事情で確実な資料は限定されているが、歴史上の特殊な時期以外、自殺者はかなり少ないようである。紀元前277年に楚の詩人屈原は、楚懐王、楚襄王から信用してもらえず、免官の上、追放にまでなった。のち楚は秦に敗れ、気骨のある屈原は汨羅江に身投げして自殺した。
儒家と道家の思想の影響によって、これまで確かな統計数字がなかったにもかかわらず、五四運動まで中華民族の自殺率は低いものであった。五四運動によって、「孔家店を撃ち潰せ」以降、儒家思想が弱まって自殺者は増えた。作家を例にして言えば、楚の屈原から五四運動前まで、作家の自殺は合わせても30人を越えず、平均して百年ごとに一人という割合である。これ以降、特にプロ文革期間中、作家の自殺は夥しく増え、その人数はこれまでの数倍を超えてしまった。
五四運動以前の自殺した文人・作家を挙げれば、屈原以降宋元の転換期に、文学者の謝枋得は、何回も元の朝廷からの出仕の勧めを断り、20数日間絶食して死んだ。明から清への転換期、崇禎の進士陳子龍は、民衆を集めて抗清の戦いを続けて敗北し捕まったが、南京への護送の途中、39歳の若さで川に身投げして自殺した。19歳で進士になった詩人倪元■も、李自成が北京を攻め落とした時縊死した。
上記の3人の自殺は、いずれも「周の粟を食わず」という「民族的気骨」のためであった。ここから見ても中国人に与えた儒家思想の影響はいかに大きいかがわかるであろう。近代以降西側からの影響で自殺の原因も少々変化して、いろいろの社会的要因が入るようになった。「文壇の彗星」と呼ばれた王以仁は、才華に溢れて人生を探ることを自分の文学の使命として、長詩「霊魂の哀歌」の中で、
「バラが飛び散った芳しい土地を/私は捜し求める/ああ--私の辿ってきたのは/罪悪で敷かれた道路ばかりだ」
と詠み、その中から、現実改造への道を求める屈原式の抱負が窺われる。彼が24歳で自殺したのは、通説として失恋だと言われているが、実際は憂国の情がないでもない。34歳で入水自殺した朱湘は、性質が率直ゆえに、安徽大学での講義の内容について大学当局と衝突し、怒りの余り辞職してしまった。原稿料の収入だけでは生計を立てられず、旅館の家賃を払えなくて旅館内に拘束されることさえあった。途方に暮れた彼は、舟で上海から南京への途中、李白の入水自殺した場所である采石磯で入水自殺した。
文学者王国維の自殺の理由には色々ある。カントやショーペンハウエルやニーチェなどの哲学思想の影響によって自殺したという説もある。また羅振玉から借金を責められて困り果てた説もあるし、清の王朝に殉じたという説もある。陳舜臣氏も、「3年前にも一度自殺未遂事件を起こしたことを考えると、自殺の動機はやはり、没落し滅亡していく古い世界に殉じたと考えるべきであろう」と書いているが、中国の学者はいう。
彼(王国維)は清が滅びてから溥儀の師匠をしていたが、皇帝復位活動に参加することは念頭になかった。しかし、あくまでも彼は溥儀の臣民で、自分よりも溥儀の安危を重要視しなければならなかった。彼は「君が侮辱されれば臣が死ぬ」という旧道徳旧礼教の桎梏の下でとうとう「義は重ねた侮辱無し」という理由で、自分の生命を絶った。われわれは王国維のために忌む必要がない。この近代史上の優れた学者は、実際、旧道徳旧礼教の殉道者である。
1949年から1976年にかけての中国は、特殊な「政治文化」の時代で、とくに1966年のプロ文革の時期、著名な作家孔厥、老舎、傅雷、ケ拓、海默、楊朔、羅広斌、周鵑、詩人聞捷など……自殺した文人・作家が驚くほど出た。自殺の伝統のなかった中国で、その時期これほど多くの自殺者を出したのは大抵政治運動によるもので、近代まで自殺者が少なかったのも、現代の政治運動で夥しく自殺者を出したのも、いずれも、儒教思想の影響によると思う。前者は「身体髪膚之を父母に受く。敢へて毀傷せざるは孝の始めなり」、という影響であるが、後者は、儒教の「士は殺されてもいいが、侮辱されるべからず」という「気骨」のためであろう。
プロ文革以降の文人・作家の自殺の原因については、80年代中後期の社会の転換期に繋がっている。商品経済の衝撃によって、文学の方舟は狂熱的な頂上と、読者や社会の供えた神壇から墜落して立ち往生の境地に陥った。情勢の激変は文人の位置づけのやり直しを要請し、時宜にかなって筆の方向を変えさせるが、適応できない文人は自殺に走りやすい。ルポ作家の徐遅の自殺は正によい例である。
なぜ日本の文人・作家の自殺は多発であるか/作家という職業の危険性
創造は自分自身の血で描かれる記述である。文学者の極致とは、切腹の前に武士が辞世の句や歌を詠むのと同様の姿勢で、一生涯書き続けるような作家が書遺すものは、いわばすべてが辞世の歌だ。
芸術家の世界は常に異常であり、病的である。創造的職業はうっかりすれば健康に有害と言える。なぜかというと、作家は生命を創造するという比類なく魔術的な力を備えており、作曲家、画家などよりも、より多く創造者だからである。造物主の役割を簒奪しようとする志向は、他のいかなるジャンルの創造者よりも強い。自分の血で書かれたものであるから、そんなにやすやすと消されない。
自殺した日本の詩人・生田春月の次の詩
或る肉体は、インキによって充たされている。
傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。
20年、インキに浸った魂の貧困!或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。
自分の存在を隠蔽せんがために、
象徴の烏賊は、好んでインキを射出する
は、作家とその作品との血肉の如き関係をいきいきと示している。詩人、ドイツ文学翻訳家としての生田は烏賊のように「インキ」で感傷的な詩多数と3巻からなる自伝体の長編小説「相寄る魂」を残して、船から湖の中に身投げした。
春月さんはペンで戦わなかった戦いを死によって戦い、ペンで書き上げなかった生きた詩を死によって書き上げたのである。
創造は創造者に最高度の自由を感じさせる活動である。最高度の自由とは、恐怖の外に身を置くものであって、霊感というものに捉われている時、恐れるものは全然ないと言っても過言ではない。そんな時彼らは天の寵児のように、自らの命を絶った同業者を見下げていた。が、時が経つにつれて、その自分自身も我が命を絶つ決意をする時が訪れる。三島由紀夫はそのよい例である。彼は30歳の時、「私は自殺する人間が嫌いである。自殺する文学者というものをどうも尊敬できない」と放言していながら、15年も経たないうちに彼自身も「自殺する文学者」となった。
また、川端康成も、「末期の眼」のなかで、「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」という大言壮語を発した何年か後に、やはりガス自殺を遂げた。あらゆる芸術家の中で、作家は最も傷つきやすい。文人・作家は社会の脈動に敏感で、同じ苦悩でも並みの人よりもっと強く感じられ、自分の人生を小説と混同しやすい。
21歳の若さで惜しくも自殺した文学少女久坂葉子がよい例である。川崎重工の創始者川崎正蔵の孫娘に生まれた「箱入り娘」としての彼女は14歳の頃、戦災で家屋を焼かれてしまった。泣き面に蜂というのか、次いで父親が「公職追放」され、勉学中の彼女は喫茶店などでアルバイトをして生計をたてざるをえなかった。天上から地に落ちた彼女の心は、その時から既に傷痍だらけになっていた。困苦の生活にくじけなかった彼女は、島尾敏雄や富士正晴などの指導で、18歳で「ドミノのお告げ」という小説を発表し芥川賞候補者になって文名が上がった。
昨年11月頃の「朝日新聞」は、久坂葉子についての文章を載せたが、文章の副題は、「戦後の恋に散った久坂葉子」であった。確かに久坂は伝統観念に挑戦した勇敢な娘であって、彼女はある詩の中で隠すことなく京都のある男性への愛を告白し、そしてその愛が結実できないことへの苦悶を述べた。新旧時代の交叉した時代に、才華に溢れた彼女は、生活の重荷を担がざるを得なかったし、古い伝統を打ち破って美しい愛情を追求しようとしたが、思うままにならなかった。不如意は彼女に宿命論を信じさせ、死以外に打開策がないと信じ込ませた。
古い傷痕に新しい傷痕が加えられ、彼女は小説と現実を混同してしまって、とうとう自殺したわけである。何事も集団で一致して行われる日本社会では、もっぱら個人的な職業としての文人・作家は、当然ながら自殺しやすい立場にある。文人・作家は一人ぼっちの作業で孤独になりやすいが、孤独は自殺に密接につながったものである。浅原六朗氏は、牧野信一の自殺の原因を分析した時、作者のもつ孤独地獄は、作者にしか解らないものである。作者はお互いにその哀しみをもっている。それをお互いに持ち合わせながら、慰め合うことのできない世界に作者の孤独地獄はあると書き、
また、彼のお母さんが牧野の弟の子供をつれて海に行こうとした時、「さびしくっていけない。海なんかに行ってくれるな、ここにいてくれ」とたのんだそうである。しかし子供がせがむので、お母さんは子供をつれて海に行ってしまった。その留守に彼は死んでしまったのである。隙をねらって自殺したのではなく、隙のなかに吸い込まれてしまったのであると牧野が孤独を怖がって、自殺に走ったことをありのままに伝えている。太宰治の場合も、自己独自の閉ざされた世界の中に住み、外界との生ける接触感の欠如にいつも悩まされていた。本質的に他者と了解不能であるという恐怖を持っていた。他者や外界には本能的に興味を抱かない。彼の関心は内閉的な自己の世界だけにあった。
個々から見れば、孤独は自殺の温床と言えそうではないか。
社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めることは自殺に走りやすい。人間は大抵、いわゆる阿Qの「精神勝利法」があるなら、どんな事態が起こっても自分で悩みを解消させることができて、自殺せずにすむわけである。現代に比べれば、近代の文人・作家の中には、少なからず社会的現実に姑息的、妥協的態度を取らずにとことんまで突き詰めるような人がいた。彼らは、yes と no のどちらかをあくまで守り通す性質がある。例えば芥川の場合、未来はプロレタリア階級のもので自分の出る道はないと決め付けて、「ぼんやりとした不安」を感じた。
それに新しい時代に、彼の友人であった久米正雄や菊池寛などは、通俗小説のなかから活路を見つけ、大きな成功を獲得したのに、芥川だけは頑として、いわゆる「純文学」の陣地に立てこもり続け、少しも妥協しようとしなかった。一作ごとに練りに練った挙げ句、彼の文学創作は枯れてしまうことが避けられないことになった。政治的にも文学的にも明るさを見出せないという事態に、彼は自然に自殺に逃げ道を求めたくなる。太宰治の場合は、なかなか自分の信条を変えようとせず、自分の堕落を大目に見られず、「失格」した人間として、死ぬよりほか道がないと決め付けていた。
僕たちはそれ以後、彼ほどに共感させられる文学を未だ知ることなく、彼ほどに純粋な真摯な作家を未だ発見することができないのです。
なぜ文革以前の中国の文人・作家の自殺は少なかったかと聞く読者がいるかもしれない。前述したように、中国の文人・作家は、生死問題に対して、まったく別な文化系統に属し、観念の上で日本人と全然違っている。中国の古代社会でも社会動乱、政治暗黒、専制迫害などしばしばあるが、中国の文人・作家は自殺より別な出道を見つけるようにした。魏晋時代の知識人がその代表的なものである。政治的迫害を受けた場合の普遍的な対策は、馬鹿のように狂気のふりをしたり、毎日酔っ払って支配者の注意を紛らす。
一身不自保、何况恋妻子(自身でさえ自ら守れないのに、ましてや妻子を恋しく思わんや)。
迫害が今にも来ることがわかっていた竹林七賢の一人、阮籍は、自殺せずに酔払いの振りで誤魔化した。
不与世事、遂酣■■常(世事にかかわらず、遂に大酒を常とす)。
いま一人の竹林七賢、劉伶も有名な大酒である。そのほかに当局と合作せずに老子・荘子の道を嗜み、自殺するどころか、かえって延年益寿を求める。稽康はその例である。「采■■菊下、悠然■南山」と詠んだ陶渊明の方法は、役人の身でありながら帰省隠居し、仏禅を信じて空寂の境に入る。仏教の虚無的思想は彼らの精神を支えて乱世の中で解脱を求め、自分の手で自分の生命を絶つ考えなど毛頭なかったのである。
日本人の文人・作家の自殺の特徴
日本の古代では、少数の男性が政治的失敗のため自殺するほか、女性の多くは愛情のために自殺する。中世では、情死よりも武士の自殺が多かった。それに対して、文人・作家の自殺は少ない。中世から近世までは、武人の切腹自殺も情死も多発し、益々日本人の自殺の伝統を固めた。明治維新以降、思想は幕府の支配から解放され、文明の進歩とともに見せはじめた社会の歪みに抵抗するように、文人・作家の自殺が多発する。それらは社会に訴えるものが多かったので、デュルケムの言う「アノミー自殺」の類に属している。軍国主義時代には、集団本位的自殺が多発するが、文人・作家では少ない。戦後になって主に社会との矛盾による文人・作家の自殺が種々起こるが、いずれもケースバイケースで一概に論ずることは出来ないのである。
次に三つの面から見てみよう。
日本人の特殊な倫理観、死生観と価値観
世界的にその名をよく知られる5名の日本の作家のうち、谷崎潤一郎だけが無事に一生を全うした。あとの芥川之介、太宰治、三島由紀夫、川端康成の4名とも自殺した。前章で述べたように、自国の人々が誰も彼も集団を組んでいるのに、作家だけが孤独な創作エネルギーで時代に対抗するよりほかはない。それでもし書く力が尽きたり、霊感が枯れたり、憂鬱やパニックに陥ったり、思想的行き詰まりが出たりしたら、自民族の倫理観に打開策を求めるのである。日本の作家の場合、各国の作家に共通するものに加えて、日本民族なりの「郷土色」を帯びない筈はない。
日本の倫理思想は神道が基礎となっており、日本人の道徳価値観の中に宗教心理と宗教情緒として深く存在する。中国の倫理思想は、血縁関係、宗法制度を基礎としているから、これによって形成された等級身分制、権力本位観念は今もなお中国社会に影響を与えている。
日本人の倫理思想は、ほかの国々と全く違った歴史文化の背景の下で生まれ、発展してきた。紀元5世紀まで日本には土着民俗信仰としての神道思想があった。「古事記」「万葉集」などに見られるように、すべてを神の威力に帰して、現世を肯定、生命を謳歌する思想であった。
日本の倫理思想を変化させたのは、中国の儒教と仏教の導入である。紀元7世紀の初めに、聖徳太子は政治変革を目指して留学生を中国に派遣し、直接、儒教と仏教を導入した。その時から日本の倫理思想は、神道から儒仏思想を吸収する方へと変容したが、当時、自殺を認めない文化としての儒教は、主に仏経などへの信仰と崇拝に止まり、社会生活の道徳の中には、まだ沁みこんでいなかった。一方、8世紀になってから仏教は国教とされ、以来、江戸時代まで仏教倫理はずっと社会生活の中で主導的地位を占めるようになった。
仏教文化は、死を容認する文化であって、中国の浄土思想が伝わって以来、早く死んで極楽浄土に往生しようとする者が増える。仏教では、「生あるもの、形あるもの、必ず滅す」という理念に発端し、肝心なのは、浮世の儚さを悟って仏のお慈悲を乞うこと。仏は芸芸たる衆生のことを可哀相に思って、死を以て浮世からの解脱を諭す。したがって浄土宗系仏教では、死のことを死と言わずに「往生」と言う。浄土思想は、死を容認する文化的背景を作り出した。
浄土往生の願いは、社会組織の下で生きざるを得なくなった人間が、名聞利養といった非本来的な価値や欲望に衝き動かされて生きる状況を、如来の智慧によって虚妄の現実と気付かされたところに成立した願望であった。命の営みの根源から、人間意識の表層に念仏という幽かな回路を通して届けられた智慧が、浄土願往生の心であった。
単一の宗教に偏執するのを好まない日本人は、神、儒、仏が並立し、競い合い、習合し、道教、道家思想もそれらと並立しているにもかかわらず、神道、仏教思想の影響で、日本人は現世を肯定する思想よりも死を容認する思想が強いようである。
16世紀中頃、キリスト教も鹿児島に上陸し、日本に伝わってきた。キリスト教で最も大切なのは、死んで魂が天国に行くとされることである。この世はその準備のためで、用意のない魂は地獄へ落ちる。堅く自殺を禁じ、この世での生存はいくら辛くても、それに耐えられる人が天国に行けるという。神の作った生命を、人間が勝手に絶つと言うことは、創造主にたいする反逆だとされる。しかし幕府の鎮圧によってキリスト教は日本の支配的宗教にはならず、死を容認する思想はあまり影響を受けなかった。
江戸時代は、日本儒学の発展の最も輝かしい時代であって、理論的に朱子学派、古学派、陽明学派などが形成され、封建主義的道徳思想がよりいっそう実った。鎌倉時代から発展してきた「武士道」が、神道と仏教の影響のほか、儒学の影響をも受けて、武士の道徳は更に理論化、系統化された。
仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心を与えた。神道は、武士道の中に主君への忠誠と愛国心を徹底的に吹き込んだ。
また、それは江戸時代に儒教思想の朱子学などに裏付けられて、封建支配体制の観念的支柱となった。忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んずる。
もし、名誉と名声が得られるのであれば、サムライにとって生命は安いものだと思われた。そのため生命より大事だと思われる事態が起これば、彼らはいつでも静かに、その場で一命を棄てることもいとわなかったのである。
すなわち、日本人の価値観は、集団のため、自身の名誉のためなら、いつでも自殺する心構えでいるというものである。武士道のこの死生観は、日本人の死生観に多大な影響を与えた。後になって武士道は軍国主義者に悪用されて、侵略された国々の百姓を無断で殺す道具に成り下がったが、日本の武士たちの自殺は、いわば標準的なデュルケムのいう「集団本位的自殺」と言えよう。
国家仏教としての仏教思想の影響が重いせいか、日本人は、死を終点と看做さずに、起点と見ている。芥川は、「けれども、自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いている。川端康成と三島由紀夫の「輪廻転生」信仰は周知の通りであるし、透谷や太宰なども死をいろいろに美化し、理想化したり、憧れさえしたりしていた。こういう思想は、ある程度、自殺を助長する働きを果したと言えよう。透谷は、「死や、汝何時来る?/永く待たすなよ、待つ人を」との詩句を書いているし、太宰は「やはり3日に一度は死ぬことを考え」との言葉を残して自己の死を予期していた。大正10年11月20日に、教え子梅子と千葉県の海岸で心中した評論家野村隈畔の自殺直前の日記には、
10月2日、愈愈革命来る。自由実現の絶対境に入るのである。4日、永遠の世界を憧れている者は、俗人には分るものか……永劫無限の世界に旅立つ、是れ哲人の希望であり、歓喜である。明20日こそ断じて決行しなければならぬ、日誌は今日で終を告げる。
永劫への世界の旅行者 隈畔
とあるが、自殺のことを、何か憧れの未知の海外旅行のようにさえ思わせるではないか。
一方、昔から、日本列島のなみなみならぬ生活環境、頻発する台風、地震、火山噴火などの自然災害による死亡の突発性と不可抗力は、日本人に仏教の「人生無常」の観念を強めた。この観念の支配の下で、日本人は切に生命を把握し、生を大切にする一方、死亡を尊敬したり、崇拝さえしたりする。いわゆる「惜生崇死」である。日本人の理念には、「菊と刀」に書かれているように、二律背反な面がある。「仕事の鬼」と言われるほど懸命に働く一方、また思う存分娯楽を楽しむ。極端に自我を抑圧する一方、また極端にストレスを紛らすことをする。日本人の民族的心象と民族精神は、このように矛盾だらけである。
日本のこうした特異な思想史と価値観によって、自殺を制限する宗教観はないと言えそうである。自殺は、ある特定の場合の問題解決の手段として、かなり多くの日本人の心の中に根を下ろしてきた。これはさらに、「死はすべてを浄化する」という贖罪思想にまで繋がってきた。「引責自殺」も多く出る。因みに、日本人には、昔からの古い自殺の伝統がある。日本語から外国語に入ったものとして、どの言語の辞書にも、有名な二つの語があるという。それは、「切腹」と「神風」である。この二つの単語とも自殺にかかわるのである。確かに、日本ならではの文化である。
日本における自殺は、愛するものにとっては悲劇であることに変わりはないが、文化的には恥辱なことであるとか、宗教的な嫌悪感を伴わないことも事実である。それどころか、自らの手でこの世に別れを告げることには、むしろ崇高さに近い感情が存するように思われるのである。西洋人は、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、もしくは利己的でさえあったりした者が最後に行き着く場として、自殺をとらえる傾向がある。中国人は、迫害されて途方にくれる時以外に普通は、自殺を考えない。それに対し、上に述べた原因で、日本は、文化的には全く特異な性向を持っており、特定の場合の自殺という考え方は、日本文化にもっと深く根差したものである。
日本人の自殺の古い伝統
次の例を見れば分るように、そもそも古代日本社会の自殺というと、圧倒的に多いのは、恋の葛藤から死を選んだ女性たちであり、その精神構造から言えば、感情的な自殺と言える。男の自殺なら大抵、政治的な失敗による自殺のケースが多い。
(自殺者/原因/出所)
桜児(さくらこ) 二男が一女を争うことから、女が林に入って縊死 「万葉集」
蔓児(かずらこ) 3人の男から愛され、解決されず、池に身投げ 「万葉集」
菟原処女(うないおとめ) 二人の男に愛されて、男たちを仲良くさせるために、自殺 「万葉集」
赤猪子(あかいこ) 雄略天皇から80年も待たされた結果、自殺 「古事記」
サホ姫 兄サホ彦のために自殺 「日本書紀」
大友皇子(おおとものおうじ) 壬申の乱の際、吉野軍の宮廷乱入で逃げられず、縊死 「日本書紀」
蘇我蝦夷(そがのえみし) 大化の改新の際、火中に身を投じて自殺 「日本書紀」
右の例には神話伝説のものが混ざっているが、文献に記載される実在の人物中、切腹の一番早いのは、中世の平維盛の自殺(「平家物語」)、13世紀から「古事談」に出ている藤原氏の末裔藤原保輔の「立腹自殺」、その後1170年(?)、源為朝31歳の割腹がある。鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士道精神と禅宗精神が流行り、武士の切腹が多発した。たとえば、1189年の「判官」源義経の自殺などがある。
元禄時代以降、切腹と心中の歴史は事実よりも文芸に移る。文学作品「平家物語」と史書「我妻鏡」には、平維盛、平敦盛、熊谷直実などの死が描かれている。維盛の場合、集団から離脱した時、既に出家、入水を決めている。集団からの離脱はつまり一種の自殺行為であった。もちろん、入水や焼身などで、浄土での再生を願うという宗教的性格も帯びている。敦盛の場合は、武士の名誉のために、直実から逃げなさいと言われても逃げようとせずに、とうとう直実から討たれた。逃げられる機会を与えられても逃げずに名誉の死を遂げたことも、実際一種の自殺である。
なお直実の場合、我が子が頭に浮かんで、やむを得ず敦盛を殺してから出家遁世したのも、実際やはり一種の自殺と言えよう。したがって、村井康彦氏は
中世の自殺ないしは自殺的行為を特質づけるものとしては、このような宗教的な意味をもつものとともに、武士社会の発展のなかで見られたそれを見落とすことはできない。なぜなら、武士社会に生まれた主従意識昂揚、それを基調とする武士の実践倫理ともいうべき「もののふの道」「武者の習」は、つねに死と隣合わせであったから。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、近世武士道の書「葉隠」の言である。
と説明しており、こうした中世の死-自殺の(的行為)精神構造を検討するとき、自分自身を客観的にある種の状況に追い込んだうえではじめて行動を決定するという、こんにちでも日本人にみとめられる精神構造と行動様式とが、実は中世に形づくられたものであることが思われてくるのである。と結論している。
封建時代の日本において、自殺の作法が儀式化され、たとえば、江戸時代では、有名な赤穂47浪士の復讐後の全員切腹や美濃平野の治水の失敗による薩摩藩士35名の引責切腹などがそれである。
情死・心中も自殺の一種である。宮島喬氏は、「わが国で「心中」とよばれる複数自殺のうち、情死は、恋愛感情をともなうものをさす」と書いており、周作人は、「情死のことは「昔からあるものである」、南北朝時代には、記載が見られるが、「心中」という名称は徳川時代の産物であった」と書いている。なぜ近世になってから、心中・情死などは多くなったのか。宮島喬氏は
封建身分制度の確立した江戸時代には、武士階級の道徳が支配的な位置に立ち、家の観念、貞操の観念がつよめられ、未婚男女の交際は禁じられ、身分の差のある者どうしの結婚はゆるされなくなる。しかし、農民や町人の階級には、自然の性愛を肯定する古来の伝統がある程度存続しており、とくに経済的に台頭する町人は、その金力にものをいわせて遊女たちと性愛を享楽することが可能になる。こうした性愛の肯定や結婚の否定という二つの価値の対立という背景のもとで、主として町人のあいだに情死の流行がみられるにいたった。
と大原健士郎氏の説明を引用している。
なお、近世では、文学作品の中に出てくる自殺の形は、「切腹」と「心中」が多数ある。たとえば、黙阿弥「加賀鳶」の五郎次の入水、「三人吉三」の土佐衛門伝吉の入水、「弁天小僧」の中の弁天の「たちばら」、西鶴の「好色五人女」の中の樽屋おせんの自殺、「忠臣蔵」の中の判官の切腹など。心中情死も切腹と並んで近世社会の特徴的な自殺である。たとえば、近松の「曽根崎心中」の手代徳兵衛と遊女お初との心中、「心中天網島」の中の紙屋治兵衛と遊女小春との心中などがある。近世の自殺は、要するに、罪状刑罰からの逃避や厭世や生活難や失恋などのものではなくて、封建社会的関係連帯の中における自己以上の誰かのために自殺するタイプが多い。だから、ある学者が「日本近世劇の自殺の大半は第二の愛他的自殺だ」と言っている。
近代の明治時代には、文芸評論家の北村透谷や小説家の川上眉山などが自殺したが、大正時代になってから、作家有島武郎の波多野秋子との心中事件があった。多くの人々から「男女心中」と取られていたが、それは単なる心中ではないと思う。太平洋戦争時の「神風」特攻隊と「回天」人間魚雷は自殺ではあるが、本当の意味で言えば、脅迫的な自殺と言えよう。昭和時代以降、世界中の注目を集めた「武士道精神への回帰に象徴される」とされる作家三島由紀夫の1970年の自決などは、全世界の世論を賑わわせたし、その後の川端康成のガス自殺も、いろいろの謎を世の中に残した。有島と三島という2件の自殺は、人々に近世の心中と切腹の尾を引いたかのように思わせた。
したがって、この特殊な死生観の問題は、日本人文人・作家の自殺者が多い重要な原因の一つだと思う。
日本作家の独特な文学理念と審美観
日本文学は、その歴史的原因や地理的原因や気候的原因や風土的原因などで、上代から、ほかの民族と違った文学理念を形成してきた。
上古の日本民族は現実の事物に素朴な親近感を持ち、自然に「まこと」の文学理念を形成した。皇室や民間に伝えられてきた神話・伝説・説話や歌謡は、天皇中心の国家体制の確立や国威の誇示を意図して編まれた「古事記」「日本書紀」「風土記」に取り入れられた。……古代の人々はこの大和の風土の影響を受けながら、明朗素朴でたくましい気風をはぐくんできた。その気風は、そのまま上代文学にも反映され、感動を率直に表現した素朴で力強い「まこと」の文学を生んだ。
ところが、世界を悲しむという仏教の人生観は、思想意識体系のバックに欠けていた日本の美意識の中に素早く浸透するようになった。楽天的に現世に直面する、「まこと」の美学観は、悲しみに溢れた「もののあはれ」に取って代わられた。
中古文学は優美・繊細な情趣を基調とする。その中心理念は、しみじみとした「もののあはれ」である。それは、生活に調和的優美さを求めてやまぬ平安貴族が生み出したものであり、はなやかさの裏に、社会の矛盾を鋭く感じ取って、苦悩の日々を送った女性たちが生み出した理念でもある。「もののあはれ」は紫式部の「源氏物語」で完成した。
浄土宗は貴族や庶民のなかに普及した。それは、この汚れた現世を厭い(厭離穢土)、一心に念仏を唱えることによって、死後は極楽浄土にゆくことを求めよ(欣求浄土)と説き、悩める人々に光明をもたらし、文学にも深く浸透した。
「幽玄」は、「もののあはれ」の流れをひくもので……南北朝時代から室町時代にいたると、正徹が余情妖艶美の幽玄を唱えたのに対し、心敬が氷のように冷え冷えした平淡な美の情趣を求め、近世の「さび」につながっていくのである。
中世になって動乱に次ぐ動乱は、人心に不安から逃れようとして、心の救いを宗教に求めさせた。この時代の文学には、優雅な貴族文学から現実的な庶民文学へ移行する過渡的な姿が見られる。宮廷貴族は気力を失い、武士は戦乱に追われて文学に志す者が少なかったので、文学の担い手として、戦乱をよそに文筆に親しみ、作品を残したのは、主として僧侶・隠遁者であった。
したがって、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」、源平盛衰を描いた「平家物語」などは、仏教的無常観の色の濃い文学として、後世の人々の人生観や死生観などに多大な影響を残してきた。近世になってから、文学理念としては、町人文学の「粋」「通」「意気」などが生じたが、蕉風俳諧は、閑寂・枯淡の境地を求める「さび」を求めていた。
芭蕉の「さび」は、内面的で、しかも人間的なものの中に発見された「心の色」といえよう。
桜は、綺麗でありながら命を惜しまずに、燦爛たる咲き盛りを過ぎると未練なく萎えて、大地一面に落英で飾りまくる。日本人はあたかもこの桜のように、咲かないならば、それまでであるが、咲くと言えば燦爛として咲かなければ気がすまないのである。
特に切腹自殺を美化する風潮として、江戸時代の浄瑠璃作家近松門左衛門が20年間に15点、自殺を描く本を書いたと言う。腹を割って首を切って血が2メートルあまり迸り、その苦痛は烈しいものなのに、日本人は、これは「壮絶」というくらいの美だと思い、痛みを我慢する時間が長ければ長いほど、美しいという。日本人の中には、切腹してからの流血を眺めることを美談として、それは、たとえようのないほど美妙で壮烈なものだという人もあったそうだ。惨めであればあるほど壮烈になるのである。三島の切腹が求めたのは、まさにこういう「美」の効果と言えよう。
近代に入ってから、外国からいろいろの文学思潮が導入され、日本に色々な文学流派を形成させてきたが、「もののあはれ」「さび」などという哀愁の色と日本人独特の審美観は、相変わらず一部の作家の頭脳に残り、それはそのままその作品の中に表れ、それは言うまでもなく、自殺を誘発するもってこいの条件となる。72歳でガス自殺した作家川端康成とその作品が、典型的な例である。彼は「哀愁」の中で次のことを書いている。
敗戦後の私は日本古来の悲しみの中に帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものもあるいは信じない。
川端の美学意識の中で、伝統的「真・善・美」は「哀愁・虚無・幻覚」の美と変容してしまった。
中国人の文人・作家の自殺の特徴
中国の文人・作家の自殺は、古代から清末にいたるまでは、わずかな人数であった。民国から1949年に至るまで、やはり少数であった。1949年から1976年までは、政治運動で知識人を抑圧する迫害によって自殺した文人・作家は多数になった。1977年から198五年まで社会は安定していたので、文人・作家の自殺は少数であつたが、1986年から現在にいたるまで、転換期による矛盾とショックによって多発した。この時期の文人・作家の自殺は、デュルケムの第三種類の「アノミー自殺」に属している。
次に三つの視角から見てみよう。
中国人の死生観、倫理観、価値観
儒家では、「未知生、焉知死」(いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん)、「未能事人、焉能事鬼」(いまだ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん)(「論語」)と主張している。が、一方、「殺身成仁(身を殺して仁と成す)」「舎生取義」(生を捨てて義を取る)」という言葉が示すように、「仁」・「義」のためなら、自分を殺してもいいということを主張している。例えば、幸徳秋水は、伊藤博文を暗殺した安重根の行動を、「舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震 秋水題」(生をすてて義をとり身をころして仁をなす安君の一挙 天地みなふるう)と褒めていた。幸徳も安も中国人ではないが、もちろん中国の儒教思想の影響を受けていたであろう。
なお、孔子は論語「里仁編」において言う、「朝聞道、夕死可矣(朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)」と。
まとめれば、儒教では生を惜しむ一方、仁を目指したり、道を習得したりする場合、決して死を恐れないという態度である。つまり、必要ある場合の自殺を認めないのでもない。例えば、老舎や傅雷やケ拓の場合、その自殺はいずれも儒教の影響によるものである。
道家では、自殺を容認しないばかりか、「自然」「無為」「修身」を主張し、煉丹によって長生きさえ求める。「禍莫大於不知足、咎莫大於欲得」(足りるのを知らないことくらい大きい禍はない、得しようとする欲くらい大きな咎めはない)(老子「道徳経」)と、楽天知命を提唱していて、煉丹によって長生きを求める。
仏教では、輪廻転生、来世を重んじるが、仏教が伝わってきた時、儒家思想の倫理観が既にしっかりしたものとなっており、儒家では、社会生活の理性精神を重んじるので、それによって、「人々はめったに空想して精神的な「天国」を追及し、人倫道の生きた経験生活を離脱して超越、先験、無限と本体を追及することをしない」。
中国の文人・作家の文学理念と審美観
儒家思想の強い影響で、中国文人の文学理念は歴史を貫くものがあった。それは「詩言志」や「文以載道」という観念である。「尚書・舜典」には「詩言志、歌永言。聲依永、律和聲」(詩は志を言い、歌は言を詠む。声は詠みにより、律はその声に和す)とある。「文心雕龍」には、「大舜云:詩言志、歌永言」(大舜曰く、詩は志を言い、歌は言を詠む、)が書いてある。「志」とは何か。
「志」とは、内心に隠される思想感情といえそうであるが、先秦以来、儒家は「詩言志」を主張し、詩を政治道徳の道具としていた。それでも、実際、「思想」「志」「抱負」を重んじるが、思想感情は排除していなかった。前後漢になってから、「廃黜百家、独尊儒術」と言って、儒家思想は学術文化の凡ての分野を制御していた。「五経」は一切の文学作品を計る最高基準となってきた。漢の儒者の目から見れば、文学は経学の従順な奴隷にすぎない。彼らは、詩歌の政治教化の作用を強調し、詩歌には、道を載せることを要求していた。したがって、「志」は「情」を遠ざかり、「道」「義」に偏ることを要求された。
「文以載道」も中国古典文学の基本的理念の一つである。「道」とは何か。ここでは、「道」とは「儒家思想」をもっぱら指している。宋の「五子の一人」周敦頤は「不載物之車、不載道之文、雖美其飾、亦何為乎」(「文辞第 二十八」「周子全書」)(物を載せない車、道を載せない文、その飾りは美しいが、亦何の使い道があろうか)と言って、「載道」の重要性を強調した。実際、孔子、孟子の思想の中には、既に、「文以載道」のような思想が含まれていた。ただ周敦頤はそれをまとめて、最初に「文以載道」という言葉で、こういう理念を表した人物である。儒学、宋学(程朱理学)がいずれも官学となるにつれて、「文以載道」は中国古典文学の「最高指針」となってきた。
「五四運動」の「新文化運動」の中では、ある程度、こういう文芸理念は批判されたので、「五四」以来の文学には、政治を離れて人間の情けと情欲を描いたものが現れた。そして、王以仁、朱湘などの自殺した文人・作家も現れたのである。専制的国民党時代の「莫談国事」(国事を語ってはいけない)や延安時代以来の「文芸は必ず政治に奉仕しなければならない」などで、中国では、五四以来の魯迅らの作品以外に、自律性のある文学というものは、ほとんどなかったのである。体制反対とか、哀愁色彩とかいうものはかなり少なかった。こういった文学理念が、作家の自殺を誘うことは、まずないと思う。
次は、中国人の審美観を見てみよう。中国人の美意識は社会生活の理性精神に富んでいる。儒教では、美の社会性、功利性を重んじている。
・「■憤忘食、■以忘■、不知老之将至」(「論語」、憤りを発して食を忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ)。
・「有朋自■方来、不亦■乎」(同前、朋あり遠方より来たる亦た楽しからずや)。
・「天行■、君子自■不息」(「周易」、天行健なり、君子自らつとめて、息まず)。
・「■九死其■未悔」(屈原、「離騒」、九死と云えども猶悔いぬ)。
儒教の美学観は美の社会性、功利性が強く、社会生活、倫理道徳につながる。道教では、人格精神と天地自然との統一を求めている。
・「搏扶搖而上者九万里……背■青天而莫之夭閼者」(庄子、「逍遥遊」、扶搖に搏ちて上ること九萬里……背に青天を負いて、之を夭閼する者なし)。
上記から見て、道教は人間が物によって役されることに反対し、「自然」「無為」を主張し、人格心身の絶対な自由を要求するからと言って、人生が嫌になり、来世を求めることはしない。「苦海■■ 回■是岸」(苦界は果無し、悔い改めば救わる)と主張している仏教が中国に伝わってくるまでに、儒家、道家及び先秦の諸子百家はもはや中国固有の道徳体系を完成し、これらの思想はいずれも仏教の思想と相殺する働きがあるのである。したがって中国人には、仏教の影響による悲観厭世の美意識はたいへん少ないのである。
上記から見て、中国人の美意識は社会生活の理性精神を重要視し、人々はめったに空想して精神的な天国を追求しない。虚無的精神的追求は少ないのである。
中国人には昔から自殺の伝統がない
中国の民間俗言の中の、次のようなものは子供でも老人でもよく口にしている。
・「好死不如■活着」(いくら優れた死でも辛うじて生きることに如かず)。
・「忍辱偸生」(侮辱を忍んでどうにか生きていく)。
・「■■尚且■生、何况人乎」(虫けらでさえ生を貪るのを知っているのに、ましてや人間はなおさらのことだ)。
これらは中国人の死生観をよくあらわしている。こういった死生観は、中国の特別な社会歴史の要素によって形成されたものであるが、この中には、中国人の倫理観、価値観が潜んでいる。
奴隷社会では、「普天之下、莫非王土、率土之、莫非王臣」と言われ、貴族に反対する古代ギリシァ、ローマのような強大な平民がなく、氏族から転じてきた奴隷主の貴族のみが政権を握っていた。国家が作られてからも、元の血縁関係から離脱しなかった。封建社会では、小家庭を単位とする農業と手工業の結合で、安定して自己調節できたので、資本主義の芽生えを抑えていた。そして支配階級は文化専制主義を推し進め、秦の始皇帝の「焚書坑儒」、漢の武帝の「廃黜百家、独尊儒術」など、人々の思想を制圧してきた。科挙を通じて人材を選抜する一方、他方では残酷に異端を弾圧して、「学」と「仕」に結びつけるようにした。
したがって倫理思想は政治と一体化し、強固な血縁と宗法色彩を帯び、強烈な「中庸」の息吹を持っている。それで人倫、精神、人道を重んじて、倫理を実現し、功業を達成させることを生命よりも高いものとされていた。
儒家と道家の思想の影響によって、「五四運動」までは中華民族の自殺率は低かった。「五四運動」の「孔家店を打ち砕け」による儒家思想の弱まりによって、いくらか自殺者が増えた。
近代日本における著名な作家の自殺
自殺した日本の文人・作家には、いうまでもなく前述のほかにそれぞれ自分なりの理由があるのである。資料収集と紙幅に限りがあるので、日本近代以来最も影響のある10人の自殺だけを例にして、その自殺の原因を分析してみよう。いくつかの項目により比較する一覧表を次の通り作ってみた。
(氏名/生年月日/自殺年月日/年齢/生計難/自殺手段/女性問題/自殺の理由と判断される事柄)
北村透谷 1868・11・16 1894・5・16 25 有 縊死 有 理想主義で、社会の抵抗に敗北した
藤村 操 1886・7 1903・5・22 16 無 滝に身投げ 有? 人生への思考で行き詰った悩み
川上眉山 1869・3・5 1908・6・15 39 有 剃刀 無 文壇での行き詰まりと生計困難
有島武郎 1878・3・4 1923・6・9 45 無 心中縊死 有 社会への絶望で恋に逃げ道を見出した心中
芥川龍之介 1892・3・1 1927・7・24 35 無 睡眠薬 有 未来社会への不安
牧野信一 1896・11・3 1936・3・24 40 有 縊死 無 人生への絶望、生計困難、孤独
太宰 治 1929・6・19 1948・6・19 39 無 投水心中 有 誠実を極めた「恥の文化」「罪の文化」の典型的犠牲
原 民喜 1905・11・15 1951・3・13 46 無 投水心中 有 無残な人間同士の殺戮への抗争
三島由紀夫 1925・1・14 1970・11・25 45 無 切腹 無 大日本帝国の古い時代に殉じた反社会的な切腹
川端康成 1899・6・14 1972・4・16 72 無 ガス 無 美の発掘の中で涅槃に憧れる
19世紀後半になって、鎖国の眠りから覚まされた日本は、激変する世界の情勢に追いつくために、絶対主義の政権の確立、立憲政治の採用、経済の資本主義化、植民地の獲得など、短期間に一挙に実現しようとして、まっしぐらに突進した。19世紀末から20世紀はじめにかけての日本の近代史は、西洋社会の進歩を圧縮した形で一時に再現しようとした時代であった。
西洋の目覚しい進歩は、長い伝統を基礎として初めて可能であったが、ところがそういう基盤を持たず、鎖国期の孤立した社会から突如として近代社会への転換を企てた日本の場合には、数え切れない複雑な問題が現れた。最も社会に敏感な階層としての知識人は、社会の抱えた問題に気づきやすい。しかも、それへの反感から、批判を加えたり、抵抗したりして、大人しくする「順民」は少ない。したがって、文人・作家の自殺は、ある程度から言えば、社会の風見のようになっている。文人の自殺の様子から、大体、その当時の社会の事情を窺うことができるわけである。
筆者があげた日本の最も有名な自殺文人の置かれた時代は、北村透谷の生まれた1868年から、川端康成の自殺した1972年にわたって、前後して104年、一世紀あまりである。日本の時代区分から言えば、ちょうど明治維新の年から、沖縄返還実現と日中共同声明国交正常化の年にかけてである。明治時代全般、大正時代全般と昭和時代の大半をカバーしている。前述の分析を通じて、我々は、文人の自殺は殆ど、社会の脈動に深くかかわっていると分る。
北村透谷の場合、近代自我と時代・社会との対峙相剋を認識し、魂の触覚を近代の外部に伸ばそうとし、社会の猛烈な抵抗に遭遇し、社会に自我の確立を求められず、悩みの挙句、遂に若くして生命を絶ったし、自殺のドミノ効果を引き起こした16歳の一高学生藤村操も、天皇絶対主義・国家主義思想の蔓延した中で、近代自我に目覚め、「先に国家、後は個人」に哲学的懐疑、苦悶、絶望した結果、自殺したのである。この二人の自殺は、もちろんデュルケムの言う「社会的統合力」にかかわっていた。
一方では、明治時代は江戸時代ほど統制が強くなかった点において、この二人の自殺は近代社会の文明や進歩を標識してはいるが、もう一方では、彼らの自殺した時の社会は、決して統合力が弱い方でもないのである。むしろ明治中期の天皇絶対主義や国家主義思想がのさばっていた時代と言えよう。明治維新はアジアのどの国よりも早く、立ち遅れた封建的生産関係生産方式の束縛を突き破って新しい生産方式と社会文化を成功裏に作った一方、維新以降の「富国強兵」の政策は、列強の弱肉強食の国際規範に因襲し、侵略略奪の歪んだ道にずれたので、先覚者が、必ず、それを疑ったり、それに反抗したりするのは当たり前である。
この二人の自殺は全く自己本位とは言えず、後の人々に対する先駆や目覚ましの作用があり、少なくともある程度、積極的自殺といえそうである。それで、ある意味では、デュルケムの理論では説明しにくくなる。
川上眉山の場合、侵略に拍車をかけて、人民の生活難に見向きもしない明治政府のもとで生計に困った上、自然主義思潮の気勢にのまれた悩みから自殺したのである。文学的に行き詰まりという点では、自己本位の種類というデュルケム理論に当て嵌められるが、もう一方では、まさにデュルケムの見逃した経済的原因によったものであるので、デュルケム理論はやはり当て嵌まらないのである。
大正時代に自殺した者は、この10人の中、有島武郎ただ一人であるが、彼の自殺は男女心中の形ではあるが、逍遥の言う「消極的自殺」の類に属している筈であって、宮島喬氏のまとめた「宿命的自殺」の中に分類できそうに見えるが、前述したように、その深層的原因として「第四階級」の発展を予感し、自階級の前途への絶望を感じた上、社会道徳から追い詰められて、知識人の潔癖から、経済的方法で解決しようとせずに、愛情至上に逃げ場を見つけて、「生命の燃焼」という自殺をしたのである。したがって、有島の自殺もデュルケム理論では、完全に説明されにくい。
昭和時代になってから、芥川龍之介の自殺は、精神的要因以外に主として彼自身が言ったように、未来社会への「ぼんやりとした不安」がその要因である。牧野信一の場合も、その本人の神経衰弱も原因の一つであるものの、「2・26事件」発生の9カ月後、国内の右翼勢力の台頭が牧野の社会への絶望をもたらさないとは、断言できるであろうか?ましてや、牧野の場合、眉山と同じように、生計困難というデュルケムの見逃した原因もあると思う。有島、芥川、牧野の自殺は、確かに社会的原因に関わってはいるが、社会的統合力が弱くなったという明確な証明が見られないではないか。
太宰治の自殺は1948年に起こったのであるが、その当時の社会はまだまだ「特需」とか「神武景気」とか「岩戸景気」とかいう経済飛躍の気配は毛頭見せていなかった。焼け跡や闇市などの敗戦のシンボルともいうべきものがなお残っていた。とくに、侵略戦争を起こして「御国」のことを無限神聖なものとし、人間の個人の自由と利益は、殆ど全部奪い取られてしまう戦争中の思想への統制さえなければ、敗戦後、その反動としての堕落鼓吹に全力を尽くした無頼派が生ずることは、まずない筈である。
したがって太宰治などの退廃と堕落もあるはずがない。したがって、あくまで追求すれば、無頼派の退廃、堕落と社会への絶望の根源は、やはり、この「大東亜戦争」にあるのではないかと思う。もちろん、戦後の滅茶苦茶な社会で、ほかの人はなぜ自殺しなかったのかという点からすると、太宰や田中英光自身には、確かに彼ら自身の原因も認められる。太宰と田中の自殺はある程度、デュルケムのいう「アノミー型自殺」に近いと思う。
社会的要因を最も著しく表現したケースは、原民喜の自殺である。研究者たちはいろいろ民喜の精神的要因を過大視して、その社会的原因を見逃した。虚無的要素も否定できないが、米、ソなどが核戦争を起こそうとして社会に核の脅威をもたらしたため、彼は戦争に対しての反感、抵抗と恐怖から発する人類の前途への絶望などが主な原因となって自殺したのである。当時の情勢が、核戦争になりそうな危機一髪のものでなければ、原民喜は、ひょっとしたらもう少し生き延びただろうと思う。
ところで、70年代初めの三島由紀夫と川端康成の自殺にも社会的要因があるが、事情はだいぶ違うものだと思う。なぜかと言うと、太宰治の自殺までは、社会はまだ、いろいろ不満足な点が多かったが、70年代以降、平和憲法のもとで、一歩ずつ民主化へと歩むとともに、人民の生活も、世界の経済大国になったくらい豊かになった。社会的歪みが既になくなったとはもちろん言えないが、大きな流れとして、日本は基本的に、ある程度、自国の世界での位置と果たすべき使命が分るようになって、平和を求めるために、世界の人民との心の触れ合いを求めようとしている。
それなのに、このような社会に不満を懐き、自殺を敢行したケースは、何と言っても反社会的な行為と言わざるを得ない。三島の場合は、過ぎ去った「大日本帝国」の伝統を追求し、パフォーマンスをやってのけた自殺であったし、川端の場合、社会の発展、進歩が自分と全然関係ないという現実社会への不満から、美への発掘をする中で仏教的涅槃に憧れる虚無的生死観を懐き、「功成りて名遂げた」時、涅槃的な自殺を遂げた。この二人とも輪廻転生の夢を見ていたのかもしれない。
さて、社会、国家乃至世界という視角で歴史的に全面的に文人の自殺を見れば、その自殺者には、それぞれ違った生理的原因とか、心理的原因とかがあるにもかかわらず、その共通となる主な原因は、社会的要素となっている。これまでの多くの研究者、特に、精神医学者たちは、自殺者の生理状態や心理状態に拘り過ぎて、自殺者を国内乃至国内の社会環境の中に置くことをあまりせずに、自殺文人の個人的生理的原因を過大視したりして、「神経衰弱」や「狂気」や「非社会的」とかいう結論を下す傾向がある。文人であるだけに、神経は繊細で、自分の置かれたマクロ・ミクロの社会環境に、並の人の倍ぐらいに敏感であるから、ごく個別のケース以外に、たいていの文人の自殺は、社会的原因と切り離すことが出来ず、社会学的に説明できそうである。
日本の近代までは、心中や武士の切腹が多かったが、近代に入ってから、文人作家の自殺が著しく増える。バッシュレール理論によれば、時代の発展と文明の進歩の標識と言える。現代では自殺する作家がますます少なくなるのは、近代以来の文人・作家たちほど、真剣に社会への使命感に燃え、真剣に人生を思索することをしていないことを物語っていて、これもかなり思索に値するのではないかと思う。
近代中国における最著名な文人・作家の自殺
日本の文人・作家に対して、中国では、「五四運動」までは、前述したように、儒家思想や科挙などの影響で、文人はしばしば役人と重なっていて、個別の不遇な人の自殺(屈原など)以外に、南宋文人謝枋得、崇禎進士陳子龍、明の文人兼役人倪元■などは、いずれも自己の王朝に殉じて自殺したもので、儒家思想の影響が中国人にとってどれほど強かったかを立証した。辛亥革命で清王朝が倒れたが、革命の成果は軍閥にのっとられ、反封建主義、反帝国主義の「五四運動」が起こるまでに、革命先駆者としての陳天華は、海に身投げして封建主義反対の先兵となった。
陳天華の自殺は藤村操の自殺よりも、積極的意義がある。それと反対に、倒れた清の廃帝の教師を担当したことから、孔孟の古い倫理道徳に殉じた王国維の自殺は、取るに足らなかった。「五四運動」があってから、胡適や陳独秀や魯迅などが、封建文学を倒そうとした結果、現代文学としての「狂人日記」などが現れたばかりでなく、儒教思想の束縛から解放されたからこそ、王以仁や朱湘などの自殺があったのである。
したがって、王以仁や朱湘などの自殺は、その軍閥混戦の社会の歪みを訴えるとともに、封建王朝の束縛から解放された社会の進歩をも示した。この点では、透谷や眉山などの自殺と大差がない。とりわけ、貧困に追い詰められて自殺した朱湘の場合、生計に困って人の厄介になる引越しの前日に自殺した眉山と、なんと似通っていることであろう。ところで、陳布雷の場合、わりと特殊なケースであるが、中国の知識人としての彼は、自分が将来性のない人に仕えて、誤った道に嵌ったと知っていながら、改心しようとせずに、あくまでもその政権に殉じたことも、儒教思想の束縛以外の何物でもない。
1949年からプロ文革にかけては、中国の文人・作家の災難に満ちた歳月であった。連続した政治運動は、「三反」「五反」「鎮圧反革命」運動以外は、殆どその矛先は全部知識人に向けられたものであった。「反右」の時に自殺した文人作家はまだ夥しいとは言えず、プロ文革中、非業の死に迫られた文人作家は数えきれないのである。老舎、傅雷やケ拓はそのうちの一番有名な人々にすぎない。
しかし、この3人とも儒教思想の影響から、自分の人格を守るために死を以って迫害に訴えたのである。ここから見て儒教思想は、人間に「気骨」というものを与えることができ、糟粕でない精華部分は馬鹿にされない。大陸と社会制度の違った台湾作家三毛の自殺は、何と言っても、やはり、仏教の虚無的思想の影響によるものだと言えよう。三毛の自殺はデュルケムの婚姻事情の法則に当て嵌まるものである。あの世に行ってしまった夫の傍に行きたいというのは、社会とそれほど関係がなかったかのようであるが、実際、三毛に不安感を生じさせたものは、社会以外の何物でもなかった。
ルポ老作家徐遅の自殺は、1996年に起こったことであるが、これは、転換期の純文学を頑張った文人・作家の心理的アンバランスの屈折による。それとともに、現代社会の社会病--老人問題を仄めかしている。この点において、田宮虎彦や江藤淳などの自殺と似通ったところがあるのではないかと思う。
まとめて見れば、日本、中国の文人・作家の自殺には、個別なケース以外に大抵、社会事情がかかわっている。日本の文人・作家の自殺は、同じアジアの中国の作家・文人の自殺とは社会事情の違いで、完全にデュルケム理論で説明しきれない。透谷や操などの自殺には積極的な一面があるが、デュルケムたちは、それを見逃している。一方、三島、川端の自殺は、透谷、操の自殺と同じく反社会的性格を持っているが、透谷、操の自殺は、進歩的思想を代表し、社会の前進を推し進める働きがあるのに対し、三島、川端の自殺は、逆コースを代表していて、社会の後退を願っていたから、消極的な作用と影響が大きい。
自殺の是非
理屈によれば、人間は世の中に生まれて、自分の生命と肉体を把握する権利がある筈である。しかし、自殺は、倫理上、いったい悪いかどうか、これはかなり複雑な問題である。昔から自殺に対しては、哲学者や宗教家によってさまざまな意見が述べられ、そして、時代や国や民族や信仰などによって道徳的な評価には、幾多の変化も見られた。
カントは故意に己れの生命を断つことは、まづ其が一般に犯罪であると証明され得る場合にのみ自殺(homicidium dolosum)と名づけられる。この犯罪は或いは吾吾自らの人格に対して行われ、或いは又かく己の生命を断つことによりて他の人格に対して行われる(例えば妊娠している人が自ら死ぬ場合の如く)
と書いて自殺を基本的に否定しているが、また、
祖国を救うために自ら万死の中に突き進むことは自殺であるか?--或いは人類一般の福祉のために身を犠牲に供する決意的殉教は亦之と等しく英雄的行動と看做さるべきか
という疑問を出している。坪内逍遥は、「自殺は二大別あり、殆ど救ふべからざるものと救ひ得べきものと、是れなり」と分類し、「救ひ得べきもの」を「消極的自殺」と「積極的自殺」に分けている。逍遥の結論として、
自殺は絶対に非なるにあらず、利他救世の誠意の存在は多少之れをして是ならしむるなり。但し単に自己の為のみにする消極的自殺は概ね皆非認すべし。その形体苦のためにすると精神苦のためにすると其の有形を対象とすると、無形を対象とすると、動物欲のためにすると悔恨、慚愧、憤怨、嫉妬のためにすると名誉欲、権力欲、究理欲等のためにするとを問はざるなり。そのうち業秒不治のために自殺するは人情の上より之れを憫み、罪悪悔恨のためにするは倫理上より見ても幾分か是なりとなす。若し夫れ謂ふ所超倫理の批判に至りては、悉く人類と絶ち悉く人道を離れて事を是非するの標準成り立たざる限りは、殆ど全く意義無きにひとし
というものであった。
筆者は逍遥の観点に基本的に同感している。普通の中国人の目から見れば、自殺は生存意志の貧弱な臆病行為だと言われる。プロ文革中、「畏罪自■」(罪を畏れて自殺する)「自絶于人民」(自ら人民に絶する)という流行語があったのをはっきり覚えている。実際、プロ文革中の自殺者はほとんどが冤罪を蒙って自殺したのである。
何年か前、ピストルで自殺した元北京市副市長王宝森氏こそ、文字通りの「畏罪自■」である。「江東の父老」に面する顔がないと烏江で自決した項羽は、絶対に劉邦を畏れたというわけではない。項羽は自殺を以って、自分の名誉と節操を保てたのである。プロ文革中、中国現代の優秀な作家老舎の場合、その投水自殺も絶対に「罪」を畏れるのではなくて、自分の人格を紅衛兵の侮辱から守るためであった。したがって、自殺者にたいして、一概に弱虫だと論ずることは公平を失うことであると思う。
否定論として、臆病や無責任や人生の敗北などであるとか、精神が錯乱したり、権利を剥奪されたり、絶望したり、利己的に過ぎる人間にはもってこいの末路(西洋人)である、とかがある。それに対し、肯定論としては、何かよいものを追求したり、悪いことと抗争したり、それから逃避したり、人々に訴えたり、呼びかけたり、目覚ませたりするように、危険や侮辱から個人の人格と尊厳を守る行為で、勇気のある、男らしくて尊重すべき行為とか、正義、正統とされる事業や人間に殉じる英雄的な行為とか、恥ずかしくて自分の汚名を雪ぐような背徳謝罪や引責謝罪の行為とかがある。
全体から見れば、カトリック教の影響の強い国では、自殺は少ないが、仏・禅の影響の強い国では、自殺はわりと多い。国と民族によって違う自殺に対しての議論と評価はケースバイケースである。各種の文化の是非を評論することは難しい。ある要因に迫られて死よりも生の方がもっと苦しく思われる場合とか、または、人間らしく堂々として健康に生活していけないうえ、生存条件を変える力がない場合とか、果てしない苦しみからの解放策として、良心をごまかして辛うじて生きていくより、むしろ清らかで潔く死んでしまうほうがいいという自殺した死者を厳しく非難することは出来ない。
それにしても、自殺はあくまでも生命の誤った道であって、人間の生命は尊いもので、一回しかない。そして、人類の歴史と全ての財産は人間の生命活動の基礎の上に作られてきた。避けることが出来ればやはり自殺しないほうが妥当である。無視できないことには、現代社会では、生を軽んずる傾きは往々にして現代意識の中の人文思想に繋がっている。
人々はますます人間の自己価値、個性、尊厳、独立人格、内省を重んじれば重んじるほど、現在の秩序の抑圧と人間関係の隔たりによる孤独感と苦悶が生じやすい。そこで自殺に救いを求めるのである。これは、社会のよりよい改善と現代科学意識の発展に期待を寄せるとともに、有益な古典を勉強して、現代でますます希薄化していく人間自身の心理素質と精神の修養を高めるほうも肝心ではないかと思う。
結び
本文の結びとして、次のことを申し上げたい。同じ東アジアにおいても、儒家思想の影響で中国の文人は特殊な政治運動の時期(それでも気骨を守るための自殺は多い)以外に自殺者が少ないのに対し、神道、仏教の影響で日本の文人は自殺者が多い。日本、中国の文人・作家の自殺は本物の精神病によるものが極めて希で、殆どが社会的要因に関わっている。この点について、フランスの社会学者デュルケムが誰よりも先に社会的要因に着眼した「自殺論」の意義の重要性は否定できない。
全体的に言えば、日、中の文人・作家の自殺は社会的要因という点で、大抵のケースはデュルケム理論に当てはまるものである。
然るに、デュルケム理論はあくまでも、19世紀のヨーロッパの国々に向けたものであって、百年来のアジアの日本と中国に全てがぴったりと当て嵌まるわけではないのも理解できそうなことである。宮島喬氏の指摘したとおり、「自殺論」の著者は、自殺の「社会的」要因をいろいろ挙げるに当たって貧困、経済的危機、病苦といった要因を見逃しているので、日本の川上眉山や牧野信一や中国の朱湘などの自殺は、デュルケム理論で完全に説明できなくなるのである。
なおデュルケムは、自殺する人間の動機を受動的なものとして固定的に捉えているように思われ、自殺者の主観的能動性(社会発展に積極的な自殺及び社会発展に不利な消極的な自殺に分けられると思う)を見逃している。透谷や操や陳天華や老舎などの自殺には積極的一面がある一方、三島や川端や蓮田や王国維など、社会の後退を願ったものであるから、その消極的な作用と影響は無視できない。
プロ文革中、社会の統合力がいままでになく強いのに、夥しい数の文人・作家の自殺者を出したのは、政治運動の迫害によるものである。デュルケム理論では、婚姻状態の悪化は自殺を増やす重要な要素とされているが、プロ文革中、夫婦で一緒に自殺した史学家翦伯賛、文学者傅雷、史学家呉■、詩人聞捷など、いずれも恩愛夫婦であったのに、みな夫婦連れで一緒に自殺した。
婚姻の良好状態は自殺者のへ圧力を緩めるのに足らないことを物語っている。だから、デュルケム理論は常態社会にしか当てはまらないが、非常態社会(中国のプロ文革中など)には当てはまらない。それから、明治という専制支配時代の文人・作家の自殺は、低年齢という特徴があるのに対し、60年代後半に入ってからの文人・作家の自殺は、田宮虎彦や江藤淳や徐遅などのように、高年齢化の傾きがある。老人問題という深刻な社会問題を仄めかしている。
 
中国人大学生が見た日本のテレビドラマ

 

最近、日本では「韓流」と呼ばれる韓国のエンターテインメントは非常に人気がある。新作映画の公開はもちろん、「冬のソナタ」を初めとするテレビドラマも次々とNHKBS2で流れている。「冬のソナタ」で一気にスーパースターとなったぺ・ヨンジュンは「ヨン様」と呼ばれ、多くの中高年女性の心を掴んだ。ヨン様は電通が行ったインターネット調査「消費者が選んだ2004年上半期の話題商品ベストテン」の第4位となり、彼は大塚製薬「オロナミンC」、ロッテ「フラボノガム」と「マカダミアチョコレート」、SONY「ハンディカム」、ダイハツ「ミラ」、KDDIau「グローバルパスポート」などのテレビコマーシャルに出演するなど、日本のテレビや雑誌に引っ張り凧となっている。
一方、韓流には負けまいという勢いで、映画や流行歌をはじめとする香港のポップカルチャーも日本に進出している。昨年末、梁朝偉(トニー・レオン)、木村拓哉、章子怡(チャン・ツィイー)、王菲(ウォン・フェイ)といったアジアのスーパースターの豪華共演を実現できた王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の香港映画「2046」が日本で初公開された。中国のエンターテインメントと言うと、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の「英雄」に続き、章子怡、金城武、劉徳華(アンディ・ラウ)をキャストとするアクション映画「ラヴァーズ」も大いに日本で受け入れられた。
そして、中国の古典楽器に西洋的ポピュラーミュージックを融合させた「女子十二樂坊」は2003年から連続2年間日本で演奏会を開き、日本中に旋風を巻き起こした。これらの現象を考えてみると、どうもアジア漢字文化圏のメディアとポップカルチャーの交流は、非常に顕著になっており、アジア全体の文化向上のためにそれぞれの国と地域はお互いに協力しているように見える。かつて、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」1983)の中で国民国家という共同体は活字メディアと国語の普及により作られたものだと指摘した。現在、映画、テレビや衛星放送、CDやDVD、インターネットといった新しい視聴メディアは、あたかも地域共通の「汎東アジア文化」とでも呼ばれるものを生み出しているようである。
このような流れの中で、日本のポップカルチャーはアジア地域においてどんな影響力を持っているのか、地域の文化向上にどんな役割を果たしてきたのか、そしてなぜ広く消費されたかについて、今日は、主に1990年代半ばから2002年まで中国でヒットした日本のトレンディ・テレビドラマ(通称「日劇」)を例にして、日本の文化商品を消費する一つの主力である中国人大学生の声を交えながら、分析していきたいと思う。
ここで用いるデータは、主に中国における日本大衆文化の受容に関心を持つきっかけを与えてくださった香港大学の中野嘉子博士と共に、2001年から2年にかけて北京、南京、上海、蘇州で行ったインタビュー調査の結果である。今日のお話も二人の共著の論文「プチブルの暮らし方 中国の大学生が見た日本のドラマ」をベースにしている。
ここで取り上げる例は、経済発展の著しい江南地域の都市部に住む大学生のことであるから、彼らの日劇に関する考え方や日本観は中国の一部の大学生の声しか反映できていないことを敢えて強調したい。私のお話を聞いていただき、日本大衆文化の海外での受容の現状や、1990年代以降の中国の急激な社会変動を少しでも理解してくだされば幸いに思う。
1990年代初期、中国の計画経済システムが全面的に市場経済に移行するにしたがって、大都市では外資系のデパートやスーパーマーケットが次々とオープンし、その豊富な商品、多彩な陳列法、そして明るいショッピング環境が中国人の目を丸くさせた。ケーブルテレビ、衛星テレビネットワークの実現やマスメディア産業の発展は、中国人が海外の映像を見るチャンスを増大させた。スイッチを入れれば、外国の人々がどんな日常生活をしているのか、画面上でいつでも見られるようになった。
こうして外国人との暮らしの違いが目に見えるようになった1995年3月に、上海東方テレビ放送局は中国語版の日本テレビドラマ「東京ラブストーリー」を放送し、大ヒットさせた。これをきっかけに、日本のテレビドラマは中国の都市部若者の間で人気を集めた。ここで言う日本のテレビドラマとは、1980年代後半のバブル絶頂期に制作し始め、そして1990年代に入ってからのバブル崩壊を背景に、フジテレビ、TBSなどの民放テレビ局が制作した東京の若者の都市生活を描くトレンディ・ドラマやポスト・トレンディ・ドラマのことを指す。
20代の人気アイドルが主役であるから、中国では「日本青春偶像劇」と呼ばれ、また「日劇」とも略称される。これはテレビがまだ普及していなかった1980年代(千人に一台)の頃に、中国全土でヒットした日本のテレビドラマとは全く違うタイプで、主に台湾や香港でのブームを受け次第に中国の都市部若者の間に浸透してきたものである。
1980年代の人気日本テレビドラマというと、主に四つある。第一は、テレビ番組の不足を埋めるために海外の番組を輸入し始めた80年代初期に、上海電視台によって中国語に吹き替えられた「姿三四郎」である。次のヒット作は、日本女子バレーボール選手の戦う姿を描いた「サインはV」である。
三番目は、1984年に放送された山口百恵の「赤い疑惑」である。当時、このドラマの放送時間になると、皆一目散に帰宅したり、テレビのある親類や友達の家に集まったりして、町中の道路が閑散となったという人気振りだった。
四番目のヒットドラマは「おしん」である。これらの人気ドラマに共通する特徴は、いずれも各年齢層を越えて注目を集めるホームドラマであり、伝統的な家族生活、家族愛、人間関係、若者の純情、誠実な愛情、日本人の勤勉さ、忍耐強さ、残酷な運命と戦う精神などを描くものが多かったのである。
なぜ日劇が面白い
等身大の物語、リアルな話
では1990年代半ば以降の日劇は、1980年代までの日本テレビドラマとどんなところが違うのだろうか。それは、主に視聴者層が10代後半から30代半ばまでの若者向けの恋愛ドラマという点で大きな違いがある。北京、南京、上海、蘇州などでインタビューをした時、大学生たちは皆楽しそうに「東京ラブストーリー」「ロングバケーション」「GTO」などのことを語ってくれた。彼らにしてみれば、日劇の魅力はストーリーの面白さ、キャラクター、ドラマの魅力を高める制作技術(テーマソングとバックグラウンド音楽、行き届いた細部描写、繊細な心理描写などの非言語効果の使用)、適切な長さ、文化的近似性(容姿、感性、愛情表現、人間関係)などの要素である。
しかし、中国の現代化した都市地域に暮らす若い学生たちが最も共感を抱いたのは、日劇の中に映った中国国内のテレビ番組にはないリアルな等身大の物語、つまり自分と同じ年齢の異国の若者の大都会での恋愛模様、友情、仕事、暮らしぶりなどである。例えば、2001年に南京の東南大学で調査をしたとき、コンピューター・サイエンス専攻の大学3年生王浩君は、「東京ラブストーリー」を見た後の感想を次のように述べてくれた。
完治は日本の会社に勤めているごく普通のサラリーマンでしょ。僕らもあと2、3年で彼のような会社員になりますよね。そうすると彼の身の上で起こった恋愛物語は僕の上でも起きるかもしれないし、僕の周りの人々にもあるかもしれない。
上海同済大学で力学を専攻し、夜は繁華街のパブでピアノを弾いて月に2万元の高額なアルバイト代を稼いでいる四年生の陳傑君は、福山雅治と常磐貴子主演の「めぐり合い」を4、5回も見て、心がゆさぶられるほど感動したという。
このドラマが僕に深い印象を残してくれたのは、とても自分の生活に似ていて、これまでにない共感を覚えたからです。…中でも福山雅治が演じる役に最も共感します。彼は建築エンジニアですが、僕の専攻もそれに近い。彼は撮影が好きなので、卒業後建築関係の仕事に就かず、アルバイトをしながら、写真を撮ったりして、撮影の勉強をしていました。つまり、職業を選択することや、理想の仕事と現実生活の関係を処理することにおいては、このドラマは僕と共通点がありますね。僕も時々音楽を自分の職業にするかどうか迷っています。ですからこのドラマを見たとき心が痛みました。人間は自分の道を選択する時はとても迷ってしまいますね。
陳君は結局高給取りの方を選択し、今も徐家にある台湾人経営のパブでピアニストをしている。彼のこの証言は、日劇のリアリズムが若い視聴者を惹きつけ、彼らに感情移入を引き起こさせたことを示唆している。
ドイツとの教育や文化交流が盛んな上海同済大学でコンピューター・サイエンスを専攻している銭勇君は、日本の若者のライフスタイルに目を向けている。彼は次のように語ってくれる。
彼らは狂ってるほど仕事をしてるね。週末も残業をする。大企業はHigh-risesがいくつもあってね。日本人は水を沸かさないで直接蛇口で飲む。彼らの冷蔵庫はでっかいね。スラム街に住んでいる人もいるが、金持ちはみんな高級マンションに住んでいる。「ラブ・ジェネレーション」でみたら、日本人はセックスに対してとても開放的でね。夜遅くまで外で生活をしてる。男女デート用の専門ホテルさえあるし…
ドラマの中の暮らしぶりが若者に注目される点は、戦後日本の「朝日新聞」に掲載されていたアメリカのマンガ「ブロンディ」が日本人に受容された頃の状況を連想させる。当時の日本人にとって、電化製品に囲まれたアメリカ人の便利で豊かな家庭生活は夢のようだった。中国の若い学生たちの目に、「衣食の心配がない」日本の若い男女が送っている自由で充実した豊かな都市生活と美しい恋愛物語は夢のように映る。
若者ドラマの欠如
1995年に「東京ラブストーリー」が放映されるまで、中国には若者個人に焦点を当て、彼らの学園生活や恋愛模様、仕事などを描いた等身大のドラマはほとんど制作されていなかった。
中国では長い間、テレビドラマを娯楽ではなく教育メディアとして捉えてきたから、共産党のイデオロギー的な要素が強く出てくる。新中国誕生とその発展の歴史や、社会主義建設の業績、改革開放の著しい成果を題材にするドラマは、キーノート・ドラマといって、国家のプロパガンダのような役割を果たしている。娯楽としての主力ドラマには、時代劇がある。清朝の宮廷を舞台に、清廉潔白な官僚と貪欲な悪徳官僚を対照的に描くことで、実際は現代の政治腐敗を風刺している宮廷ドラマは特に人気がある。香港の作家金庸、古竜の原作に基づいて制作した、日本で言う剣豪ドラマも人気がある。
もっと身近な題材のドラマというと、主に都市と農村の住民の家庭生活を描くホームドラマや、「改革開放の問題点」とされた浮気、失業、犯罪などのことを扱ったドラマがある。どれも内容が切実で、若い人々に夢を抱かせるようなおとぎ話ではない。
主義主張のない娯楽映像というと、香港、台湾などの華人社会の映画・ドラマ、そしてハリウッドと日本のものがある。恋愛ドラマは、1980年代の後半から香港、台湾、シンガポールのものが放映されてきたが、これも日米のアニメを見て育った世代には物足りなくなる。というのは、これらのドラマは、往々にして金持ち一族の話で、家柄の格差がモチーフで、若い世代のラブストーリーに親世代の葛藤が織り込まれ、幾組かのカップルが登場し、主人公の年齢設定も少し高い。話の展開が複雑だから、延々と40話以上続いてゆく。親が姿を見せない一人暮らしで、恋愛そのものをテーマにし、その過程におけるさまざまな喜びや悩みを繊細に描写するものは稀だった。
そこへ、織田裕二演じる田舎ッ子の永尾完治が、鈴木保奈美演じる都会ッ子の同僚赤名リカと恋に落ちる「東京ラブストーリー」が放映され、大当たりしたのである。
突然、こういった種類の日本製トレンディ・ドラマが出てきて、描いている主人公は自分たちの年齢と大体同じで、ストーリーはまた身の回りでおきる可能性のあるラブストーリーですから、みんな興味津々でしょう。(上海大二女子経営学専攻2002年夏)
中国の若者には、東洋の隣国の大都会にいる同世代の主人公たちが繰り広げる恋愛物語が新鮮に映った。
ハリウッド映画は、1995年から年に10本輸入され、中国語に吹き替えて上映されるようになり、香港映画と共に中国の娯楽映像の主流となっている。しかし、ハリウッド映画と日本のテレビドラマとを比べると、上海外国語大学英文科の2年生で、学内放送のDJをしている陳偉君は、「(たとえば両親が映画で)ヨーロッパ系の人を見ていると、非常に自分とは遠いなという感じすると思う。つまり動物園でも見ているような感じ。日本人を見ていると、お互いに似ているという気がします。みなアジアの民族ですから、感情面が理解しやすいし、彼ら(ドラマの人物)が何を考えているのか理解できるから」と、文化と感性の類似性から日劇の受け入れやすさを語ってくれた。
日劇の流通パターン
日劇の人気は中国ではまずテレビ放送で定着し、次第に海賊版VCD(ヴィデオCD)、そして構内ネットワークやインタネットカフェに接続するパソコンでの視聴へと消費のパターンが個人化していく。
テレビ放送
1991年にフジテレビで放映された「東京ラブストーリー」などの日劇は、越境放送のスターテレビでの放映によってすでに台湾・香港・シンガポールなどで大反響を呼んでいた。その影響で、日劇の人気は1990年代の半ばに、上海という国際大都市で爆発的にヒットした。1995年3月に中国語に吹き替えられた「東京ラブストーリー」が上海東方電視台により放映された。このドラマはその後すぐ北京と地方都市のテレビ局からも放映され、全国的に好評を博した。この結果を踏まえて、中国各地のテレビ放送局は、質の高い日本ドラマを導入し始めた。
日劇は、中国国内のテレビで放映される場合、まずテレビ放送局で中国語に吹き替えて、直轄市や省レベルの地方テレビ局、もしくはケーブル・チャンネルで放映される。中央電視台や衛星チャンネルのネット放送網を通じて全国的に放映される場合もある。しかしなんといっても中国における日劇の普及は、上海の各テレビ局による放送に負うところが大きい。例えば上海電視台14チャンネルの「白蘭氏劇場」は、上海各テレビ局から中国語字幕つきで原語による外国の映画とドラマを放映する番組である。
1997年から、この「劇場」は普段勉学に忙しい学生のために、日本のテレビドラマの番組に倣って、「日曜劇場」と銘打った時間帯を設け、中国語字幕付きで日本語のドラマをそのまま流す番組を作って、毎回2、三話の日劇を放映してきた。青少年を対象にする上海教育電視台も、2000年より毎夕6時から7時までの1時間を「青春劇場」とし、主に日本のドラマを放映してきた。上海東方電視台は、平日の連夜、いわゆる帶番組で日劇を放映していた。
1990年代半ば頃から2002年まで、上海で放映された日劇は、「101回目のプロポーズ」「一つ屋根の下」「理想の結婚」「Beautiful Life」など、50作品を超えていた。
しかし放送・映画・テレビを管轄する国家広播電影電視総局は、地方テレビ局やケーブルテレビ局による外国ドラマの放映数があまりに多いことは、国産テレビドラマの放映や制作事業の発展にとり不利になると判断し、2000年より規制強化に乗り出した。2000年1月4日付けの通知によると、「国産テレビドラマを繁栄促進させるために、午後6時から10時までのゴールデン・アワーには、海外のドラマの割合を15%以内とする。午後7時から9時半までの間では輸入番組を放映してはならない」と定めている(国家広播電影電視総局 2000年)。
この規制の影響で、2000年からゴールデン・アワーには、日劇を真似た上海や北京を舞台とする国産アイドルドラマが大量に放映され、そのおかげで日劇の放映は数が減った。さらに2001年頃には韓国ドラマをはじめとする韓流ブームが北京から起き始め、韓国ドラマが日劇に取って代わるようになった。そのために今やテレビ放映による日劇の本数が激減した。
日劇は、香港ベースの衛星テレビ局であるスターテレビの中国語チャンネル・鳳凰衛視中文台によっても放送されている。鳳凰台の日劇も中国語への吹き替えであるが、字幕には香港や台湾で用いられている「繁体字」が当てられている。鳳凰台の訳は、国内の訳より笑いのセンスがいいと学生たちは高く評価するが、受信には衛星テレビのパラボラアンテナかケーブルテレビが必要なので、すべての家庭で受信できるわけではない。外国語大学以外、普通の大学の寮では鳳凰台の番組は映らないことが多い。また広東省に限られたことであるが、香港の地上波テレビ局TVBとATVの番組が受信できるから、香港の広東語に吹き替えられた日劇が流れている。
海賊版VCD
中国の大学生は学期中、ほとんどテレビを見ないのは勉強が忙しいからである。自宅通学はきわめて稀で、在学中は大学内で4人から6人が一部屋の寮生活をしている。ほとんどの部屋にはテレビがない。1000人の学生が暮らす寮に、管理係事務室のテレビが一台だけということも珍しくない。息抜きは、週末の映画鑑賞あるいはコンピューターでの映像視聴ということが多い。
そこへ現れてきたのが、海賊版VCDである。VCDは中国や香港では主流で、画質はそれほどよくないが、値段がやすい上、VCDデッキやパソコンがあれば手軽に再生でき、時間的制約もないから、普段勉強で忙しい高校生や大学生、若い会社員には歓迎されるメディアリソースである。最新の日劇をテレビで見逃した人はたいてい海賊版VCDでそれを見る。中国では1997、8年頃から、日劇VCDが流通し始め、1999年から2001年にかけてブームはピークを迎えた。現在はDVDに取って代わられている。
2001年の日劇ブーム最盛期には、日本でヒット作の放送が終了するとすぐこれに繁体字の字幕がついて、数週間のうちに大都市のビデオ店や露天商にVCD数枚の入ったボックスセットで現われた。全編の値段は、たいてい50-75元(およそ730-1000円)である。2001、2年の時点で、上海最大のレンタル・ビデオチェーン店・美亜音像租賃連鎖店には、日劇の50タイトルが整然と並んでいた。
海賊版VCDは、大都市だけではなく地方都市のビデオ店にも現れた。蘇州の町中のビデオ店には、30タイトル以上の日劇が、流行りだした「韓劇」と共に店内の一番人目の付く場所に置かれていた。旧日本帝国陸軍の駐在地であった南京理工大学内のレンタル・ビデオ店にも、日劇がほぼ40タイトル置かれ、一話が1日1元(およそ14円)で貸し出されていた。こういうVCDは国営の新華書店やスーパーでは「日本経典[名作]テレビ連続ドラマシリーズ」という企画化されたボックスセットで販売されており、日本にはVCDという映像商品がないことも知らないから、中国人はほとんど自分の買った、あるいはレンタルしたVCDが海賊版であることを知らずに、正版として消費している。
大学生はVCDを主にレンタルする。普段勉強に追われているので、週末や休暇中にVCDを全編借りて、数日のうちに十数時間のドラマを最終回まで見終わる。私が属する北京日本学研究センターの学生のクラスに、次のような逸話があった。朝10時に始まった「日本社会文化論」の授業中、日本人の先生が「東京ラブストーリー」を持ってきて学生に見せたところ、あまりにも面白かったので、12時に授業が終わっても、誰も食事に行かず、夜の9時までずっとドラマを鑑賞していた。つまり、日劇のマラソン観賞はすっかり定着していたのである。
VCDの観賞は、自宅ではVCD再生機で、大学であれば、主にコンピューターによることになる。特にデジタル技術の発達によって、ワンクール11、二話のドラマを1、2枚のMPE格式に圧縮したソフトも出てきた。このソフトはコンピューターでしか見ることが出来ない。10元(約14円)で1枚を買えば一つのドラマが見られるから、学生にとっては一番買い得のようである。
中国の経済発展のスピードがすこぶる速いことと同じく、中国の店舗の営業回転率もはやい。2002年に上海で調査したときに立ち寄った繁華街淮海路と同済大学近くの美亜音像租賃連鎖店は、今年(2005年)の初頭になると、すでに跡形も見つからなかった。政府が主導する海賊版ソフト取締運動のため、海賊版の映像は、表通りの音像書店の店頭には置かれなくなったが、都市中心部の古い住宅地のファッション店や靴屋の裏手には小さいビデオ店が経営され、そこには、図5と6に示したようなハリウッド映画や日本の映画、ドラマ、アニメのDVD海賊版映像が販売されている。
ブロードバンドを通じての視聴
2002年頃から、ブロードバンドが普及し始めたおかげで、復旦大学、清華大学などの大学内はネット化された。構内がネット化されると、学生の娯楽生活のソースも多くなる。復旦大学「構内ネットワーク」では、これに繋がっているすべてのコンピューターは、お互いにソフト資源がシェアできるようになっている。1-2台のコンピューターに日劇を保存しておけば、特定のドラマを見たい学生はネットワークに接続して、そのソフトをダウンロードすればいつでも見られる。
この構内ネットワークが出来て以来、さまざまなルートを通じて最新の娯楽ソフトを手に入れ、ネット上でリソースを提供する熱心な「専門家」まで現れた。このような専門家のおかげで、20年前に中国でヒットした「赤い疑惑」などのドラマも大学キャンパス内で流通するようになった。アニメやテレビドラマに趣味を持つ学生は、またネット上でTV版のサブ・ウェーブサイトを作って、特定の作品についての感想文を載せたり、人気ソフトを推薦したりして、情報を交換している。
ブロードバンドの普及によって、インターネット・カフェでネットを通じて日劇を見る学生も増えた。たとえば、蘇州では1時間2元(およそ28円)でハリウッド映画や日劇が楽しめる。上海と北京でも大体同じ値段であり、随分安い。このように日劇の海賊版ソフトは、テレビの放送を待たずに早く、安く、手軽、しかも内容が新鮮という要素が揃っているので、共同研究者の中野嘉子博士は「デジタル・ファストフード」と格好よく命名した。こうして日劇の人気は、主にデジタル世代の若いエリート予備軍によって支えられていた。
日劇のヒットに触発されて、2000年頃から日本のトレンディ・ドラマを真似た韓国と台湾製の青春偶像劇が台頭してきた。例えば2001年には日本のマンガをもとに製作された台湾のドラマ「流星花園」は、毎日勉強しないで恋愛のことばかり考えている貴族的学生の学園生活を描いているため、親たちの要請により、テレビでの放送が禁止されたが、若者はVCDを通じて見ていた。
先にも触れたように、2001年の半ばから、中国ではスターテレビによる韓国製ドラマの大量放送に先導され、韓劇を放送するブームが引き起こされて、日劇のヒットは次第に「韓流」に乗り変わって行った。しかし、学生たちは、韓国の恋愛ドラマは生と死を主題にするものが多く、〈リアルではない〉〈ストーリーの進展が緩やか過ぎて付いていけない〉〈家族関係が中国に類似しているから新鮮味がない〉〈自分たちはやはり日劇が好きだ〉と口を揃えて言っていた。日本での「冬のソナタ」のような熱狂ぶりは、中国ではまず考えられないと思われる。
中国のドラマ制作者も、1999年頃から国産のアイドル・ドラマをつくり始めた。しかし、これらのドラマは、大学生の間ではあまり評判が芳ばしくない。たとえば図7の国産ドラマ「将愛情進行到底」と図9の「新聞小姐」は、それぞれ「あすなろ白書」や「ニュース女」といった日劇のストーリーをそのまま下敷きにしたものである。しかもロケ地は普通の若者が行けそうもない高級な場所ばかりで、30、40代の中年男女が20代の若者のラブストーリーを演じるものだから(「新聞小姐」はまさにそうである)、「日劇クローン」とあだ名を付けられたり、デタラメ物語と悪評されたりしていた。
時間の関係であらすじの詳細な紹介は省略するが、国産クローン劇「将愛情進行到底」と日劇「あすなろ白書」に共通する筋書きを見てみよう。女性主人公が、男性主人公との最後の仲直りのチャンスとして、「何時まで、どこそこで待っている」という言葉を友人を通してその男性に伝えて貰ったのだが、結局は事情があって彼は約束の時間に来られなかったため、女性はいつも自分のそばで見守ってくれている別の男性に想いを傾けていく、というものである。
また、「将愛情進行到底」のストーリーは中国の社会事情、価値観などにそって、ある程度修正されている。たとえば、ラブシーンや同性愛のことは、国産クローンの中では姿を見かけない。とは言え、中国西北部の小さい町から上海の名門大学に入学した貧乏大学生の設定である男性主人公は、こんなお洒落な格好をしているはずがないと思われる。
台湾・韓国の偶像劇にしろ、国産の日劇クローンにしろ、日劇はトレンディ・ドラマの教祖である地位は揺るがないものであるようだ。
プチブル気分と日劇
次に中国で台頭してきた「プチブル」気分と日劇の関係を見てみよう。大学生の間で日劇がヒットしたのは、1994年以降、市場経済導入と教育制度の改革によるキャンパス・ライフと大学生の将来像の変化とが関連するように思われる。就職制度の変化によって、進路の幅やライフスタイルの選択が広がり、大学生は自分の将来を夢見ることができるようになったにもかかわらず、生活の変化に見合った国産のソフトが「空白」であるため、海外のソフトで以てその空白を埋めたのである。たまたまそのソフトが「プチブル」気分のあふれる日劇であった。
プチブル(小資)の意味
では中国における「プチブル」、中国語でいう「小資」の言葉の意味は何だろう。
ご存じのように、社会主義国家中国では、階級意識や階級などを論じることが長い間タブー視されていた。毛沢東時代には、階級は政治的理念に基づいて労働者階級、農民階級、知識人階級の三つに分けられていた。そしてブルジョア階級は無産階級を搾取する人民の敵であり打倒すべきものとされていた。
「小資」は元々小資産階級(プチ・ブルジョア)の省略的な言い方で、毛沢東の時代には、知識人とほぼ同義語として使われていた。毛沢東にしてみれば、ブチブル階級には両義性がある。すなわち、その中の青年学生は知識人で、政治感覚が鋭いから革命指向性はある。しかし同時に、小資産階級の魂の奥には自由主義と個人主義の傾向が強くあるから、革命の対象でもある。
ゆえに、1940年代の延安では、プチブル気分は共産党知識人の自己批判の対象だった。50年代後期、小資産階級は反共産党反社会主義の右派として処罰され、文化大革命の間は、都市部の知識青年は農村に追放され、肉体労働を通じて「再教育」を受けた。つまり「小資産階級」は「資産階級」と同じように政治的レッテルであり、革命群衆や社会主義と対立するという意味を持っている。そして「小資情調(プチブル気分)」は、取り除きがたい精神として、無産階級の政治理念上においては一種の脅威となっていたのである。このようなコンテクストがあるから、1990年代の初期になっても、「小資」というとまだマイナスのイメージが強くあった。
しかし、改革開放以来20年、中国は著しい経済成長を遂げ、階層構造にも大きな変化が生じてきた。とくに1992年に市場経済に移行して以降、中間階層(ミドルクラス)が形成され、「小資産階級」も生まれてきた。そのメンバーは大学卒の学歴を持つインテリ、各種の企業に勤めている若いホワイトカラー、都市の独身貴族、フリーランサー、自由度の高い新聞記者、編集者、芸術家などである。「小資産階級」になれる条件は、多少とも時間やお金があって、個性的な文化趣味があるということだ。
中産階級とは、中国社会科学院の「当代中国社会階層研究報告」(2002年)の定義によると、「頭脳労働を主とし、給料やボーナスで生活している。高い収入、いい職業、高い消費水準を有し、生活の質にはゆとりがある。一家の年収は、5万元から7万元(約716,000円から1,002,000円)で、ライフスタイルについては、マンションと自家用車を所有し、定期的に旅行に出かける」という。普通の中国人にとって、「中産階級」という呼び方より「ホワイトカラー」のほうが馴染み深い。
こうした階層構造の変化に便乗して、1998年から社会階層や各層の生活様式、品位に関する大衆向けの本が続々と発行され始めた。たとえば、ケンブリッジ大学で博士号を取得した陳少は「階層」という著作の中で、イギリスにおける社会階層と生活様式の分析をもとに、90年代中国の階層意識と各階層の行動パターンを描いている。「新週刊」では、マイカーを所有し、犬の散歩をする家政婦つきの都市部「中間階層」の主婦、モーターバイクに家族をのせて出かける四川省のある小さい町の「中間階層」家庭のイメージを紹介している。
さらに2001年7月1日、江沢民は社会階層や、社会移動の実践について発表した。彼は私営企業主(資本家)の大部分も社会主義の建設者で、その中の先進分子は共産党に加入してもかまわないと指摘した。この「 七一講話」をきっかけに、資本家を異端視、階層意識をタブー視する時代は終焉を迎えた。
同じ時期、もう一つ注目される光景がある。それは、大都会上海で流行り出した1920、30年代の旧上海への懐旧ブームである。この懐古趣味を代表するいくつかの現象を見てみよう。まず、1940年代のベストセラー作家、清末の名官僚・李鴻章の曾孫に当たる張愛玲の小説ブームがある。張は上海や香港を舞台に「傾城の恋」などの人気恋愛小説を多数書いたが、中国で言う漢奸文人(民国時代汪精衛政権の親日派)と結婚したことや、香港に移住してから反共産党の作品を書いたため、1990年代初期まで彼女の作品は大陸で出版を禁止されていた。
しかし海外では張愛玲の文学に対する評価は高く、香港映画に対する彼女の影響も強いため、1990年代半ば頃から中国大陸でも彼女の文学作品を現代女性文学集に収めるという見直し傾向が現れ始めた。張の小説に現われる旧上海のエキゾチックな雰囲気、モダン女性のファッショナブルな生活、洒落たライフスタイルは、2000年に出版されたハーバード大学教授李欧梵の中国語版著作「上海摩登」の評判で、再び注目された。
改めて張愛玲は戦前のプチブルの代表と見なされ、彼女の小説に登場した広告やチャイナドレスを研究する人さえ出てきた。李欧梵の研究する上海は、租界時代の上海、1920-40年代の西洋化したオールド上海で、そこには、映画館、建築物、デパート、広告の中のモダンガール、ダンスホール、カフェなどに象徴されるモダニティがあって、「新感覚」派の作家たちや張愛玲の「プチブル」ムードがある。
また2002年に、1930年代に旧上海の大型総グラビア雑誌「良友画報」の編集を担当した馬国亮が、「良友懐旧」という本を出版し、古写真を以て旧上海の繁栄と華やかな都市消費文化を再現した。上海育ちの現代中国女性作家・王安憶や陳丹燕も、旧上海の資本家や中産階級の生活を懐かしく思い起こす小説やエッセイを著している。
文壇の上海懐旧ブームに煽られて、上海のテレビ局は「プチブル」作家張愛玲、鴛鴦胡蝶派作家・張恨水、現代女性作家・王安憶などの原著に基づいて、旧上海の資本家大家族をめぐる家族関係、恋愛、商業競争などの海派ドラマを多く制作し放映してきた。このようにメディアの生産により、1990年代から始まった旧上海の懐旧ブームは、21世紀の初期にピークを迎えた。
2001年の夏、私が中野さんのリサーチ・アシスタントとして上海を訪れたとき、コーヒーを飲むために繁華街淮海路の喫茶店に何軒か入ったことがある。いずれの店も1920、30年代の雰囲気を味わえるように内装しており、壁にはファッショナブルな「モダンガール」のポスター広告絵や旧上海町並みの写真が貼られ、当時流行していた蓄音機、電話機などが置かれていた。
たとえば、図13は英米煙草公司の哈徳門というブランドの紙巻煙草の月牌[絵入り広告付き暦]のポスターで、高級そうなイアリング、指輪と腕輪をしている端麗な若奥様が精緻に細工された煙草入れをもって、誰かに煙草を勧めようとするポーズを取っている。彼女が着ている半袖の襟、袖、ふちの模様は、当時シャネルのファッションで使われたアールデコのデザインのようだ。彼女は明らかに裕福な上流階級の出身であろう。
図14のチャイナドレスのパーマ美人は、日本の化粧品メーカー中山太陽堂の双美人白粉、クリーム、石鹸、歯磨きなどの商品を宣伝している。国産化粧品・美容商品を生産する大中華化学工業社が作った月牌広告絵の中で、洋式ガーデンの中で洋犬の散歩をしているファッショナブルな若い主婦の姿を描いている。このイメージはいかに前述の写真に示された犬の散歩をしている今の都市部中間階層の主婦に類似していることだろう。
図16の月牌広告絵は、パーマをかけハイヒールを着用する女性を描いていると同時に、洋風の室内スペース、モダンなインテリアをも強調している。
図17は、旧上海の南京路にある四大百貨店のひとつ、大新デパートの写真である。
図18は、1920、30年代のファッション名店街霞飛路(今の淮海中路)の様子を示す写真である。図19は、当時上海に進出していた日本商社・旧三井物産が所有していた三井ガーデンである。自分の趣味やステータスを示すために、現在の上海新中間階層は、古董品店から1930年代の中・上流階級家庭に使われていた家具を買い集め、マイホームを品位のある洋風なものにしようとする。
一言で言えば、1920、30年代の月牌広告絵に象徴された、西洋風の美意識やデザインを取り入れ、チャイナドレスを着たモダンガールのイメージ、さらに洋楼、ガーデン、洋犬、洋風な室内空間などに代表されるブルジョア的なライフスタイルは、現在の中産階級、資産階級のイメージと重なるところが多いと言えよう。私からみれば、旧上海に対するこの種のノスタルジア・ブームは、過ぎ去った繁華、モダニティへの追想というより、むしろ余裕ができた現代中国人の、よりよい生活、品位のあるライフスタイルを勝ち取りたいという欲望の象徴だと思われる。資本主義の復権でもあるといえるだろう。
こうした情況の下で、2001年に「プチブル」は全くプラスイメージの流行語として使われるようになった。現在では、プチブルは二重の意味を持っている。人の生活様式や趣味を指す場合は、個性的な都会のライフスタイル、文化的趣味や娯楽のことで、人を指す場合は、主に以上のものを持ち合わせた都会の若者のことである。
日本のテレビドラマとプチブルのライフスタイル
プチブル・ブームの中で、プチブルのライフスタイルを紹介するカタログ本も次々と出版された。たとえば「小資女人」という本の中で、作者の黄海波は、プチブルが見なければならない映像ソフトとして日劇を挙げている。彼女によれば、
「東愛」は、プチブルの間で使われる日劇「東京ラブストーリー」の愛称だ。プチブルたちは、これまでの自分の生活で「すてきな体験欠乏症」と「恋愛欠乏症」であったため、日劇でそれを埋め合わせている。彼らは美しい恋をすべき時、なにかとプレッシャーの多い生活をしていたから、純粋に美しいというわけにも、心身ともに恋に捧げるというわけにもいかなかった。しかし、日劇の中では、恋愛が一大プロジェクトだ。生活の細かいこと一つ一つにまで美しさがゆき渡っている。日劇はおしゃれで、温かく、普通の人にも模倣できる要素に富んでいる。
岩渕功一(2001)が、台湾では日劇は「使用可能なイメージ」として消費されていると指摘した。中国でも同様である。ただし手本となっているのは、主人公の暮らし全般である。これについては後にもう一度触れよう。
キャンパス・ライフと大学生将来像の変化
1994年の大学教育制度改革まで、大学生は自分で将来の進路を決めることができなかった。国が一貫して大学生の募集から卒業までを管理していた。大学は国家幹部候補生の養成機関であるから、学費は無料だった。そして就職は、国が学生を就職先に割り当てる「分配」制度を実行していた。就職先は学生が自分で探したり、選んだりするものではなかった。
居住地の移動も規制されていた。中国には出身地による都市戸籍と農村戸籍という戸籍制度がある。農村戸籍の人は大学進学と入隊によって、幹部になり都市戸籍に変更する以外、一生農村で生活しなければならない。上海戸籍の人が北京の戸籍に変わることは容易ではなかった。大学進学の場合、地方出身の学生は故郷の戸籍を持ってきて、学校側の集団戸籍に登録し統一的に管理される。就職の「分配」の際には、北京には何人、上海には何人、南京には何人が就職できるという定数の割当てがあった。
分配システムのもとでは、「又紅又専」の学生、つまり成績が優秀だけでなく、政治的にも共産党を支持する先進分子の学生党員や共青団員は有利だった。地方出身の学生の夢は、卒業後に大都市の戸籍を取得し国営企業に勤めることだった。国営企業に就職することは、当時の学生にとっては「鉄飯椀」(鉄のお椀)、すなわち一生の保障が得られたのである。1990年初頭には、給料のいい外資系企業に勤めたいと思っても、地方出身者にはできなかった。というのは外資系企業には、従業員の故郷の戸籍を企業所在地の戸籍に変更する「指標」の割り当てがなかったからである。
10年、20年前の大学生にとって、上からのコントロールの対象は将来の進路ばかりではなかった。キャンパスには、政治補導員と呼ばれる教師がいて、政治学習から日常生活にいたるまで、全般的に学生の動向を把握していた。恋愛しても、分配制度が原因で、恋人同士が同じ都市に就職できるというわけには行かなかったから、学生たちはひたすら勉強に励み、恋愛に陥らないように努力する。
実際、1985年まで大学生の恋愛は禁止されていた。キャンパスでの婚前交渉は、カンニングや窃盗と同じ「罪」とみなされ、見つかれば大学の掲示板に「退校」の処罰が貼り出された。北京大学などでは、婚前交渉の罪で退校の処分を受けた若いカップルが自殺に追い込まれた事件も発生した。婚前交渉どころか、当時はデートをしたくても行けるところは映画館と公園だけで、気楽に入ってゆっくりと 二人の時間を過ごせる喫茶店もなかった時代であった。
2001年4月になって初めて教育部が、大学を受験する人に対して年齢と婚姻状況の制限を取り消し、大学生が結婚できるかどうか議論されるようになった。2001年12月、武漢大学が「法律法規に違反しなければ、大学が学生の結婚申請を干渉しない」(2001年12月12日付けの「武漢晩報」)と、新中国史上初めて大学生の結婚を認めた。2004年5月1日、天津師範大学の23歳の王洋が結婚式をあげ、中国最初の結婚した女子大学生となった。大学生のプライベートの生活は徐々に自由が利くようになった。
生活のカタログ
計画経済から市場経済に移行するにつれて、1994年以降のキャンパスは大いに状況が変わった。まず、就職口は大学から指定されるものから、自分で探すものになってきた。10年、20年前には学生が描く自らの将来像はぼやけたものだったが、今は次第に実現も可能な夢に変わってきている。現在の大学生にとって、従来からの公務員、教師の職は、福祉待遇もよくなり「鉄飯椀」であるゆえ、希望の多い就職先である。また、外資企業のエンジニア、人事・広報担当、ハイテク・ベンチャー企業の創業者、欧米の留学先で就職して駐在員として中国にUターンするなどは、将来マイホームやマイカーを所有できる中間階層に入る理想を成就できる職業である。
蘇州大学で観光学を専攻している大学3年生の呉美玉さんは、地元蘇州でいずれは観光産業の管理職になって、「中産階級のレベルまで到達」し、20万元の年収を獲得したいと宣言する。20万元という数字は駆け出しの大学教師の年収の10倍、中国社会科学院が規定した中間階層の収入の3-4倍になる。そして、どうして中産階級になりたいかと問うと、呉さんは「中産階級の生活はゆとりがあって、自分のライフスタイルをどうしたいとか、家の中にどんなモノを並べようかとか考えられるからです」と答えた。
1998年に中国では、持ち家政策が実施され、全国各地の都市部では、マンションの建設ブームに沸いた。生まれて初めて自分の家を所有する中国人ならば、それを住み心地のよいマイホームにしたい願望は強いだろう。そこで、インテリア内装ブームが起こり、外資系のインテリアショップも数多くオープンした。スウェーデンのインテリアショップIKEAは、上海や北京で特に人気がある。
前述の呉さんは日劇が好きで、レンタルビデオショップから海賊版VCDを借りて見ている。一番関心を持って見ているのは、登場人物の着ている服であり、それから若者たちがどんな物を使い、またどんな遊びをするかなどの生活のレベルもチェックするという。「上海電視週刊」の調査によれば、スチュワーデスや美容師は特に化粧の仕方や髪型を日劇から学んでいるという。
つまり、日劇は中国では「東京のファッション、インテリア、消費財、音楽」の情報源であり、おしゃれのカタログとしての役割を担っている。日本の女性ファッション誌「Ray」は、中国軽工業出版社からも出版され、訳名は「瑞麗」である。誌面では日本の流行のアイテムを紹介しているが、1冊18・8元(約270円)の値段は決して安くはない。購読者は、経済力のあるホワイトカラーの若い女性に限られるだろう。
中国には外国の出版物の輸入規制があるため、台湾や香港のように日本語版の若い女性向けのファッション誌「Non-no」などがどのコンビニででも買えるというわけにはいかない。そんな限られた東京ファッション情報の中で、日劇は流行のカタログとして見られている。たとえば、日劇の粗筋、テーマソングを始めとする日本の流行歌を紹介するJ-pop専門誌の「日之韻」「EASY」では、日劇の人気俳優が劇の中で着用した服のブランド名、使っている携帯電話、着けている飾り物、よく行く場所など一々枚挙に遑がない。
蘇州大学で将来英語教師を目指して勉強している于宏偉君は、宮崎駿のアニメが好きで、日劇は高校生の時に受験勉強の息抜きとして見ていたという。彼にとって一番印象深いのは、日劇の中の主人公たちの自由な暮らしぶりである。
日本ドラマに出てくる主人公の大半がホワイトカラー階層で、生活の上では相当の保障がありますね。経済的な基礎があるといろいろ自由が利くでしょ。(主人公たちは)生活面でかなり自由です。親の世代とのジェネレーションギャップも回避しているから、とても自由に見えます。若い人たちはそもそも自由に憧れているでしょう。
若い僕らもよく勉強して、将来いい仕事につけば、夢も見られるし、やりたいこともできるでしょう。日劇はとてもいい出発点を目の前で見せて、未来への夢を膨らませてくれます。
この于君は、日劇のライフスタイルは「いわゆるはやりのプチブル気分」に溢れていて、上海や蘇州などの目覚しい発展を遂げた江南地域にはよく馴染むのかもしれない、と語った。
自由な恋愛 「女倒追男」 異性同居など
日劇の中の恋愛はとりわけ自由に映って見える。前述の「あすなろ白書」の中には、若い男女が一晩を一緒に過ごすシーンが2回ほど出てくる。「東京ラブストーリー」の中でも赤名リカは、永尾完治からの初めての「好きだ」のお返しに、「ねぇ、セックスしよう!」と直接に投げかけ、完治がリカの一人住まいのマンションに泊まっていくシーンがある。これについて、プチブル本の恋愛指南では、恋人と夜は一緒に過ごすけれど結婚には縛られないというのが「小資的婚恋方式」だと説いている。つまり、プチブルブームの2002年に新しいとされた自由な恋愛を、日劇では1990年代初期にすでに演じてみせていたのである。
さらにこれらの作品は、女性主導の恋、つまり「女倒追男」の恋愛パターンを提示してくれた。男性が自分の好きな女性に愛を告白するというのは、通常のパターンであるが、「東愛」においては、都会ッ子のリカは、地方出身の完治を初めからリードする。しかし、最後には完治の彷徨の意志を理解し、彼の幸せを思いパッと離れていく。
上海で土木工学を勉強している凌奇君は、言うこと為すこと大胆なリカが好きで、国内のドラマにはない女性像だと言っていた。「リカは、女子学生より男子学生に与える影響が強かったと思う。このドラマを見て、かなりの男子学生が女子学生への見方を変えたよ」と言う。そして、もし現実の生活の中で、リカのような女性がいれば、自分も付き合うつもりでいる、と言っていた。
男女の新しい付き合い方は、日劇のセールスポイントだ。日劇の中には、自立した彼女、年下の彼氏、男女の友達の同居、同性愛など、様々な男女関係の話題を提示している。二人きりの自由なマンション生活に憧れたら、これをすぐに実行に移す学生もいる。
1998年の持ち家政策が実施されてから、中国の住居環境も少しずつ整いつつある。大学でも市場経済の影響で、学費だけでなく、学生寮の費用も徴収するようになったので、これまで4人から6人部屋という全寮制が、徐々に個室や二人部屋に変化していく。大学の掲示板や電信柱には、オフ・キャンパスの貸し住宅の広告がいっぱい張られて、経済的に許せば一人暮らしもできるようになっている。中国のマスコミによれば、最近大都市ではアパートを借りて同居生活を始める若い男女が増えていると言う。
これらの男女は、きっと「ロングバケーション」の中で描かれた木村拓哉が扮する失意のピアニスト瀬名と、山口智子が扮する彼氏に捨てられたモデル南とが支えあう同居生活を見たことだろう。しかし去年の6月、中国教育部が大学生は校外でアパートを借りてはいけないという規定を各大学に通達した。大学生の生活は自由になりつつあるにもかかわらず、国からのコントロールはまだまだあるので、外国のドラマに映った自由な恋愛生活やライフスタイルは、真実の憧れとして都市部の若者の間に浸透してきたのである。
日本に憧れていますか
日劇のプチブル暮らしは、中国の若者にも実現できそうな夢というイメージを提示してくれる。蘇州大学に通う李暁君は、日劇の「物質生活の豊かさ」が目を引いたと言った。「(日劇が流行ったのは)日本の工業が発達しているからじゃないかな。日本の今日は、中国の明日でしょ。僕たちが、彼らみたいな生活を送ることができる日がきっと来ると思います。一種の期待があります」と言う。
もちろん日劇は憧れの対象というばかりではない。中国の大学生にとって、日本の女子高校生や大学生が物的欲望や生理的悦びを満たすために実行する援助交際などは批判すべきことである。
そして、日劇に登場する職場の光景は一番意見の分かれるところだ。広々としたオフィスで働く日本のホワイトカラーの充実した仕事振りを楽しく見ている学生もいるが、日本のサラリーマンのような働き蜂にはなりたくないという学生もいる。上海生まれの李遠君は外国語大学で英語を専攻しているけれども、意欲的に法律の勉強もしている。一日中じっとしている仕事はいやで、広報やマスコミ関係の仕事が志望である。
彼は次のように述べてくれた。
ボクは将来日本の会社に勤めることはないと思います。あまりにもモノカルチャーでつまらないから。こんなに広い場所が細かく区切られていて、毎日その1コマ1コマにたくさんの人が細工物みたいにはめ込まれてるでしょ。朝9時に出て夕方5時にあがる。それを7、8年間勤めてやっとマネージャーに昇進じゃつまらない。ボクはもっと挑戦的な仕事がしたいです。
そして日劇の暮らしに憧れるかというと、前述した「めぐり逢い」の中で福山雅治が演じる主人公の運命に感動した上海同済大学の陳君は「他人の家のモノはいくらよくても他人のモノです。
日本がいくらすばらしくてもそれは日本のことです。ただ、日本が発展していく段階での経験は学ぶべきですね。でも学ぶべきことがあっても、日本と同じようになれないこともあるでしょう。自分は中国が日本のような発展国になってほしい」と言い、実にクールな見方を持っている。学生たちはそれぞれ自分なりの見方で、日劇の「合理」的で吸収すべき要素と、切り捨てるべき要素を見分けているのだ。
中日関係の展望
日劇はデジタル・ファストフードとして、海賊版VCDの形で中国の都市部若者の間で広く消費されている。そうしたドラマを通じて映った現代的な日本、美しい愛情劇は、中国若者のステレオタイプ的な日本像を少しずつ変えたり、彼らの反日感情を和らげたりする面も確かにある。例えば、上海、蘇州の大学生の中に、靖国問題に対して理解を示している男子学生がけっこういる。
それは中国人が天安門広場にある人民英雄記念碑を参拝することと同じで、どこの国にも民族の英雄がいて、違う形で祭られているという意見だった。近年来の中日関係は確かに緊張を強めている。中国人若者の日本に対する不信も確かにまだ根強い。これは去年のサッカー・アジアカップの試合で起きた中国人観客が日本チームにブーイングを浴びせ、日本人サポーターにごみや瓶を投げつける反日事件からも窺うことができる。中国の経済成長に伴って、若者のナショナリズム情緒はさらに高揚していくと思うが、一方、日本の生活文化、若者のライフスタイル、ポピュラー文化に対して好意を持っていることこそ、中日両国の新しい世代による相互理解の可能性も示しているのではないかと思われる。
 
淡路島における災害と記憶の文化 / 荒神信仰

 

日本人の文化的記憶と災い
私は、学生や研究者、時には訪問者として、10年以上にわたって日本で生活してきました。そのなかで、私は、日本の方々が、昔から今日に至るまで残されてきた記憶の目印に敏感であることを見聞いたしました。1ヵ月ほど前に、台湾の南西海岸の沖の吉貝小島で調査を行っている間に、私はこのことに思いあたりました。それは、1776年に石碑の上に刻まれた中国語の碑文です。
それには、次のように書かれています。「石の上に刻み込むことで、私たちが合意したことを子孫たちも記憶にとどめることであろう」と。しかし、日本の先祖からのメッセージのすべてが何かに刻み込まれているわけではありません。それらのなかには、特別な場所に、ある決まったやり方で置かれた、独特な形状をした石として姿を現わすことがあります。このような石が伝えているメッセージは、毎年儀礼が行われる機会に、繰り返し人々に思い起こされていたのです。
しかし、伝統的な生活様式から離れてしまった現代の世代は、これらの石が、何のために存在しているのか、を忘れてしまっています。加えて、多くの日本人は、もはや周囲の共同体とのつながりを保っていません。今日、私は、あるお坊さんが、大地の裂け目から先祖のメッセージをどうやって読み取ったのかという物語を、みなさんにお話いたします。
この報告では阪神・淡路大震災について検討しますが、私がこの報告の準備をしている間にも、中越沖地震が再び新潟県を襲い甚大な被害をもたらしました。また、それと前後して、第二次世界大戦後、最大級の大きな台風が日本を襲い、各地で多くの方々が被害にあわれました。私の報告を始めるに当たって、阪神・淡路大震災の被災者の方々に改めてお悔やみを申し上げるとともに、これら最近の大災害の被害者の方々にも、お見舞いの意を表したいと思います。
森と記憶-淡路島の大地震の体験と出来事
「天災は忘れた頃にやって来る」という、みなさんがよくご存じのことばは、日本人が持っている災害についての深い知識を私に思い起こさせてくれます。この知識は、人間と環境との相互作用の賜物です。しかしこれは、環境の絶え間のない変更と、地方の過疎化、都市部における人口の過密化などとともに、いくらか再考を必要とするようになってきました。ところでいま、私が知識といった時に、これが意味しているのは、通常は、宗教と呼ばれている文化の一側面を指しています。
これから、私は、荒神信仰として表現された民間信仰が、1995年に発生した阪神淡路大震災に際して、淡路島北部の島民の間で、どのようにして、彼らが体験した破局を説明するための装置となったかについて紹介していきます。言い換えると、荒神信仰は、大地、もしくは島の、地質学的特徴についての、具体的に表現された知識を象徴するものなのです。
この物語は、淡路島の北淡町から始まります。淡路島は、日本の文化的記憶にとって極めて重要な地域です。日本神話の中では、アマテラスオオミカミ〔=天照大神〕が、天皇家の祖先神であるとされていますね。「古事記」では、淡路島は、アマテラスオオミカミの両親である、イザナギ・イザナミの二柱の神々が、最初に生んだ島と書かれています。「万葉集」では、淡路島は「御食国」とされ、食べ物が豊富で、島民たちは奈良の天皇に食べ物を貢納していたとされています。この島はまた、古代から後世に至るまで、中国大陸や朝鮮半島と行き来する際に、海を航海する人たちにとって、重要な目印であり、中継地でした。淡路島は、本当に特別な「場」であったのです。
しかし、中世においては、淡路島は、本州から四国の阿波へ旅する際の単なる通り道でした。現在では、淡路島は、明石海峡大橋によって本州に結び付けられています。この橋が架けられる30年以上前、すなわち、1970年代から1990年代にかけて、インフラストラクチャーの革命が北淡町で起こりました。淡路島の北部は、兵庫県、特に神戸市の市街地の土地の拡張と再構築のための資材の供給地になりました。1970年代から、多くの盛り土が北淡町の丘の地表からはがされました。その結果として、丘陵地帯だった町は平坦になり、谷と平野が大きく広がるようになりました。また、切り崩されてテラス状になった地域もあります。さて、ここで、土地利用について見てみましょう。
1.たとえば、1975年から2005年の間に、居住地域である可住地面積が27・552Km2から32・594Km2と、おおよそ5・042Km2拡大したことを含めて、牧草地が増加しました。この増加は、丘陵部の掘削に原因があり、それゆえ、平坦地の拡大を意味しています。もとの高台の土地から、それと等しい平坦な土地に換算するための手続きに問題があるため、実際には、以前の丘陵地帯の所有者の多くは、自分たちの取り分を手に入れていません。
拡大した平坦地の下の大きな凸凹のわだちの跡は、日本のバブル経済がはじける前の投機の結果を象徴しています。土地投機家たちは、ゴルフコースや別荘地の開発を計画していました。バブル経済がはじけた時、投機家たちは淡路島経済を破産させたまま去っていきました。要するに居住地・牧草地は、1975年を100とすると、2005年には約1・18倍に拡大したことになります。
2.森林地域が削られた結果、かつて12・179Km2あったものが8・619Km2へと、ほぼ3・56Km2減少しました。すなわち森林地の場合、1975年を100とすると、2005年には70・7へと減少したことになります。
3.もう一つの興味深い変化は、農地が減少し、造園地が増加したことです。農地は0・888Km2減少しました。すなわち8・453Km2から7・665Km2へと減少しました。つまり、農地は1975年を100とすると、2005年には95に減少しました。
4.造園地は1・381Km2から3・240Km2へ、すなわち1・859Km2増加しました。1975年を100とすると、造園地は、2005年には234に拡大しました。造園地が好まれて農地が放棄されるということは、コミュニティが老齢化して後継者がいないことを示しています。
北淡町のインフラストラクチャーに関係した最初の大きな観光産業は、今日も存続している1964年に建設されたゴルフコースでした。1970年代の直前には、斗の内地区の周辺で巨大なベルトコンベアーによる、丘陵から輸送船へと直接に土砂を運び出す事業が始まりました。これらの丘陵から採取された土砂は、関西国際空港の建設に際し、大阪湾を埋め立てるために使われました。
これは1980年代の後半まで続きました。1970年代初期、島内の交通は、山々を切り開いて、島の東海岸から西海岸へと島を横切る斗ノ内バイパスが建設されたことによって再編成されました。豊島地区の採掘操業を奨励する記述のなかで、1971年の写真の見出しは、毎日のように際限なく森が消えていくことを「豊島では開発の波が押し寄せ、緑は日一日と消えていく」と表現されています。このような「破壊」が続いた結果、淡路島の住民は1973年には、仁井地区に空港を建設する計画に対する反対運動を起こしました。
しかし、北淡町の浅野出身の野心家で、国会議員であった原健三郎氏は、淡路島と本州を結び付ける橋を建設するように国土交通省を説き伏せることに成功しました。その地鎮祭が1986年に行われました。10年の後、淡路島を通る本州・四国連絡橋が開通しました。
しかし、その一年前の1995年、マグニチュード7・2という大地震が関西地方を襲いました。震源地が淡路島にあったことから、この地震は、後に阪神・淡路大震災と命名されました。淡路島では、野島断層と名付けられた活断層が発見されました。野島断層は、北の江埼灯台から南の野島川に至るまで、南北に約7キロメートルにわたって続いている断層です。断層は二つに枝分かれしており、長い方の断層は豊島の南部に向かって断続的に続いていて、全体で約10キロメートルに及ぶ活断層をなしています(中田高・岡田篤正〔編〕「野島断層」1999、135-6)。
地震から11ヵ月後の12月12日から18日にかけて北淡町の各地で行われた毎年恒例のお祭りの儀礼に際して、祭司を勤めていた僧侶は、数多くの荒神様が断層に沿って分布していることに気づきました。「環境破壊」が最も激しかった時期の出来事と年代を示した図をご覧下さい。ここにご紹介したお坊さんのように、この地域の住民の多くは、荒神様の怒りは北淡町の土地を丸裸にしてしまったことの結果であると信じました。
1997年の1月には、荒神様の怒りという噂が広まっていたと私は考えております。この1年後には、実際の断層と、断層によって倒壊した家屋を保存した震災記念公園が建設されました。ここには、震災の被害の様子を展示する展示館もあります。さらに2年後には、震災記念公園の職員が、北淡町の教育委員会の職員に断層に沿って存在している七つの荒神様の祠を調査するように依頼しました。
荒神様の写真が撮影され、荒神様の祠に関する短い報告書が作成されました。しかし、報告書の執筆者によると、荒神様が断層線に沿って存在しているという現象に触れた資料や文献を何も発見できなかったということです。結局、この調査は、この短い報告書が出されただけで終わってしまいました。
破壊と祟り
荒神さんは荒神山とも書かれ、荒ぶる神の宿る山という意味になります。一般には荒神さんと言われ、「さん」(または「様」)は敬称で、「尊いお方」を意味することになります。
蟇ノ浦出身のインフォーマントによると、荒神山とは、荒神さんの社が祀られている丘の上の場所だそうです。この二つの言葉は、「さん」という発音に当てられた同音異義語ですね。荒神さんは、土地の神様です。日本の、他の多くの場所と同じように、蟇ノ浦でも、これは妥当な見方です。
「日本民俗事典」によれば、荒神さんとは、竈神を指し示す囲炉裏の神様だそうです。みなさんがご存じのように、日本の伝統的な家屋では、台所は土を突き固めて作られていました。近畿地方では、それは荒神様と呼ばれており、その性格は、火の神様、同族の守り神、部落の守り神、あるいは、家の敷地の、つまり屋敷の神様、などとされています。全体として、それは、血縁でつながっているか、隣接する場所を共有している世帯、もしくは世帯の集団を包み込んでいる特定の場所の神を意味しています。
荒神さんは、普通、東に面した丘陵地域の森に位置しているか、台所の供物台の上にあります。荒神信仰は、北日本から、沖縄まで広範囲に分布しています。瀬戸内の島々や、9州、中部地方では、一般に、荒神さんは土地の神として知られており、荒ぶる神とされています。大分県では、旦那さんは、奥さんが怒っている状態にある時、それを荒神さんと呼ぶそうです。本質的には、荒神は、台所の神で、特に水の神であるようです。
すべての村に共通しているのは、荒神さんの存在している地域への女性の立ち入りを禁止していることです。このタブーに関しては、原因不明の病気に悩むことになった地方新聞の記者についての有名な話があります。彼女は、朝の6時から始まる荒神祭りを取材しようとして、その準備のために一人で早朝の3時に荒神様のある場所に行ったそうです。それからというもの、彼女は、原因の診断がつかない病気に悩まされたということです。
直江広治氏(「淡路島の民俗」)によると、二つのタイプの荒神信仰が存在しているそうです。すなわち、一つは、屋内、もしくは台所に見出されるもので、三宝荒神の信仰と呼ばれて敬われているものです。もう一つは、家屋の外に存在しているもので、部落神、同族神、組神、株神、屋敷神といったものです。これらのなかで、淡路島で見出されるのは、部落神と組神だけです。荒神を祭る祭祀が継続されないと、何か悪いことが起こるという信仰があります。荒神森という場所があって、そこには、儀礼の主要な部分が行われる小さな祠が祀られています。
淡路島北部の島民の先祖は、野島断層について知っていたのではないかという議論は、荒神様の祠の環境を検討してみると何らかの信憑性が生じてきます。私たちは、丘陵は何万年も前に起こった地底からの隆起によって形成されたものであることを地理学で学びます。地震が、いくつもの丘陵や山岳を消滅させることがありますが、同時に、それらを創り出すこともあります。
北淡町では、長年にわたる丘陵や森林などの自然の破壊によって、荒神様の祠のいくつかが掘り返されてむき出しの状態となり、そうでないものも、適当な避難場所に移転させられました。私は、これらの森に覆われた丘陵に住んでいる神々の典型的なものに光を当てようと思います。そうすると、石上の荒神様が典型的なもので、おそらくそれは他の祠よりも、もっと古いものだと思われます。
私の考えでは、荒神様の祠の理想的な形は、富島の石田にある荒神様のように森に覆われた丘に位置しているものだと思われます。この写真では、荒神様は女性の立ち入りが厳重に禁止されている丘の上に存在していることを示しています。轟のように丘陵が卓越している地域では、海を見晴らすことのできる丘の上に荒神様の祠が祀ってあります。蟇ノ浦では、荒神様の祠は氏族の第二の埋葬地に程近い森に覆われた丘の上にあります。それで、これら三つの例は、これらの荒神様の祠が緑に覆われているか、森になった高い場所にあることを示しています。
しかし、すでに言及しましたように、丘陵のいくつかは平坦にされてしまい、祠の他の地への避難と、荒神様の住まいの雰囲気の変化を招きました。小倉の祠の場合は悲惨な例です。小倉の長畠地区の河野さん一家のお話によると、丘の上の場所には四軒の世帯が住んでいました。彼らの山の居住地域では、1970年(昭和45)から神戸製鋼により、西宮と大阪湾に使用するための土地掘削が始まり、それが、約10年間続きました。
荒神様のお社は、保護のために、20年間にわたって近くの場所に移転されていました。
1989年の平成時代の初めから、再び、ここの土砂は、関西国際空港の建設に使用されるようになりました。そして平成になってお社は現在の場所に帰ってきました。しかし、1995年の地震がお社に沿って通り過ぎていきました。そして、この地域一帯は地震の記憶を保存する記念公園を作るために政府によって買い上げられました。
1998年の記念公園の完成により、敷地のなかの他の四つの神聖視されている神々を含めて、荒神様の新しい社は、現在では、誰でも見る事が出来るようになっています。これは、荒神様の石の目印が現在どのように見えているのかの様子です。他の暴かれてしまったものに較べれば、この祠はまだ運の良い方だと思われます。
私は、時に、隠されていない、あるいは剥き出しにされてしまった荒神様は、その正体が暴露されてしまったことによって、その力を失ってしまったと考えたくなります。なぜなら、それらは、もはや森に覆われた丘の上の聖域ではなく、そこに行くための舗装された道路に付属している平地の開かれた場所にあるからです。
神秘的な何かは、どこかへ去ってしまいました。もちろん、全ての荒神様が同じ不運に見舞われている訳ではありませんが。かつて舟木の一部である小倉にあった運の良かった荒神様が、舟木の山の神の間に再建されています。この荒神様は、現在では権現様と不動明王とともに森に覆われた丘を共有しています。それは、石上神社にある荒神さんと共に崇拝されています。
この荒神様のための森に覆われた特別な丘は、その領域のなかへの女性の立ち入り禁止が厳格に守られている唯一のものであるという点で、全ての荒神のなかでも別格です。そこでは、木々の住居と石上さんとお稲荷さんという神々もまた隣り合って保存されています。北淡町で祭られている全ての荒神様のなかでも、この荒神様は、書き残された文書に基づいて規定されている最も複雑な儀礼と祭儀で守られています。この、特別な荒神様は、野島断層の上にはありませんが、それでも、やはり、その近くにあります。
次に、とくに舟木部落の荒神祭りを例として取り上げ、やや詳しく紹介してみたいと思います。
舟木部落には、現在22の世帯が居住していますが、1955年には30世帯が存在していました。これらの世帯が、この儀礼執行の主体となることになっています。しかし、現在では、そのうちの21世帯が、儀礼への積極的な参加を続けています。この参加は、世帯主の奥さんの状況によって左右されます。
時には、家族の中の誰かが亡くなった、というような理由で、ある世帯とそのパートナーになる世帯が参加できないこともあります。近親者が亡くなった時の喪に服している状態は、ケガレの観念によって不浄であると信じられているからです。1884年以降は、儀礼のやり方が書き残されるようになりました。その中には、お供え物の作り方、荒神祭りの準備と実行に責任を負う当番の順番、饗応されるべき食べ物、などが決められています。それ以来、村の人々は当番の指示に従って役割を果してきています。
荒神さん祭りは、2ヵ所で行われてきました。一ヵ所が石上神社の荒神さんで、もう一ヵ所は、山ノ神の荒神さんです。これらのコミュニティの森林の丘の二つとも、他の村の守り神です。石上神社の中には、石上さんとお稲荷さんの祠があると言われていますし、山ノ神の中には、権現さんと不動明王さんがあるそうです。ここの荒神さんは、もともと小倉にあったのですが、採石に伴って森に覆われた丘は平坦にされてしまい、そのため、その地域の住民は、現在の場所でお祭りを行うように依頼されたのだそうです。
結び
景色の美しい小島の名前であった野島は、もはや「万葉集」の歌のなかに残っているだけです。それは、その場所に因んで名づけられた近くの村の名前です。それから、何百年もたって、この名前は、丘陵地帯の人々の生活に凄まじい破壊をもたらした大地の亀裂の残された傷跡として、もう一度、今度は永遠に記憶されることになったのです。大昔の祖先たちは、後世の人々に、危険な場所はどこであるかを知らせるために、そこに荒神の祠を祀ったのでした。
荒ぶる神を喜ばせることは難しいことではありませんでした。その怒りをなだめるために、12月にお供え物を捧げて儀礼を行い、祝うことによって、コミュニティは、それを記憶しておくように注意を促されていたのでした。荒神信仰は、大地、土地、あるいは場の観念が、いかに取り扱われるかが理想的であるかを示しているのです。
この考察は、私に、糸魚川から静岡にかけて走っている日本列島最大の断層で、本州を二つの地理的なエリア、すなわち東の関東と西の関西、に分割しているフォッサ・マグナについての類似した見方を思い起こさせてくれました。30年以上前の日本の人類学者によると、地質学的な分割は、文化的な分割に対応していると言われています。すなわち、東日本の文化は家を中心とする見方で理解できるのに対して、西半分のそれは、組や講、座の存在によって理解できるというのです。私たちはこの見方を民俗的と呼ぶかもしれません。しかし、それはまた、長期にわたる文明のなかで、自然環境と社会環境の調和を通して、日本人がどのようにしてその知識を蓄えてきたかを理解するもう一つの道となるかもしれません。
数十年前の民俗の消滅についての柳田國男の嘆きは、人々が、1930年代における、日本の急速な近代化に吸収された工場労働者の単なる一人となってしまうならば、私たちの祖先が残してくれたものを、学ぶことはないだろうという意味でした。
しかし、阪神・淡路大震災の後に、彼らは、もう一度声を発したのです。今こそ、私たちは、民衆の叡智に耳を傾け、再考する時ではないでしょうか。
文化の解釈者としての私の作業は、私自身に、森や自然の破壊、祟り、そして共同体のあり方について考えさせてくれました。
淡路島の人々の経験を通して、森は、荒神様のお住まいになっている神聖な茂みとして再来しました。地の神様は、他の人々が自分達の島を建設しようとしたことによってその住まいから追い立てられて、淡路島の森の自然破壊が生じました。淡路島を真っ二つに引き裂いた1995年の阪神淡路大震災は、何千年にもわたって荒神様が守ってきた自然の無差別な破壊に対する祟りであると解釈されました。毎年のお祭りの体験のなかで、荒神様を讃える儀礼を通して、人々は、荒神さまの「力」を私達の周囲の環境を守っているものとして理解し、このことにより地域共同体が存続してきました。
さて、ここで、私の国、フィリピンと日本が共に属している、豊かな水に恵まれたモンスーン気候からいったん離れてみてください。すると、私達の小さな森が、広大な砂漠のなかに残された貴重なオアシスのように思われてきませんか。私は、私達が、自分達の周囲にある森を保護するだけでなく、他の人々、例えば、私の国、フィリピンの熱帯雨林や、アマゾンの熱帯雨林などの、他の国々の森をも守るようになりたいものだと思います。私は、今年、日本を襲っている異常な雨不足や、局地的な集中豪雨を見るにつけ、一地方や地域にとどまらず、祟りが、地球的規模で起こっているのではないかと心配でなりません。皆さん、思い出してください。「天災は忘れた頃にやって来る」のです。
 
近代日本小説における女性像

 

幻想文学における女性
この話題を選んだのには、色々な理由といいますか、動機がありました。私は特に女性作家を研究しているわけではないのですが、数年前に、日本文学の中にBildungsromanというドイツ生まれの青春小説、あるいは教養小説のようなものがあるかどうかということに興味をおぼえました。
Bild‐ungsromanについてはあとでもっと詳しく説明いたしますが、今申し上げておきたいのは、私の考えでは、日本文学には二種類のBildungsromanがあるのではないかということです。つまり男性を主人公としたものと女性を主人公にしたものです。Bildungsromanのことはかなり大きなトピックなので、しばらくわきに置いておきますが、私が今研究しているのは、幻想文学というちょっと変わったSubjectです。
日本では幻想文学というと色々な先入観があるようですので、ここでは英語のFantasyと言っておいた方が安全かもしれません。要するに、現実の世の中には有り得ないものはすべてFantasyです。いわゆるFantasy Literatureは一つの分野ですが、西洋でも日本でも、リアリズム作家だと定評のある人の作品の中にも、大変幻想的な小説が驚くほどたくさんあるので、特に日本文学では、現実と幻想はそれほど遠いものではないと思われます。
そういうことを研究するために、去年の春から泉鏡花を読み始めました。皆さんもよく御存知のように、鏡花は幻想文学の大家ですが、それだけではなくて女性の描き方もすばらしいと思います。しかし鏡花は少し難解な作家ですから・コントラストとして、同時に筒井康隆の小説も読み始めました。
そうすると、二人の作家の女性像が随分違うことにただちに気がつきました。おそらくそれはまず第一に、二人の作家自体の資質の違いから来たものと思いますが、更に他の作家達の作品を読みますと、やはりそれは戦前と戦後の作家の違いであるとも言えるだろうと思いました。しかしそれだけではないと思います。女性作家のものになると、幻想的な作品中の女性が非常に興味深い役割を果たしています。
このようなことを色々考えているうちに、これからお話するようなことを思いついたのです。話のタイトルが現実と幻想というふうに分けてありますので、まず現実の方から始めましょう。しかし現実と言っても、これは文学についての話で、世の中のReal Worldの現実ではありません。特に女性の描き方についてみると、たとえRealistic Fictionと言っても、女性は割合に象徴的な役割を演じています。
確かに日本近代文学には力強い印象を与える女性も登場して来ます。例えば谷崎潤一郎の「細雪」の幸子や三島由紀夫の「宴のあと」の主人公、大江健三郎の「個人的な体験」の火見子などのような、かなりリアリスティックな女性像もありますが、これらはむしろ例外的で、日本の現代文学全体を展望すると、大部分の女性は、男性と比べるとあまり深みや個性といった3 Dimensionality(三次元性)を感じさせません。
これは別に驚くべきことではないと思います。ブラム・ダイクスタラというUCLAの学者の「I dols of Pervesity」という本には、19世紀の英国作家の文学における女性の、いわゆる象徴性が細かく研究されていますが、ダイクスタラによりますと、ビクトリア時代の男性は工業化が進むにつれて神経衰弱になって来て、色々な不安や恐怖に襲われるようになったと言うのです。
その結果、彼らの文学で描かれる女性は、夢と悪夢を表わすFantasyとして、二つの対称的な役割を果たすようになります。一つは19世紀的悩みからの一種の避難場所、あるいはオアシスという役割です。例えば漱石が愛したPre‐Raphaelite(ラファエロ前派主義者)のように、工業化された醜い社会から逃避して、理想化した中世を描き出し、その中に美しく、神秘的な女性をはめ込みました。このように女性は避難場所として象徴される一方で、逆に、これもやはりFantasy文学におけるのと同じように、男性の心に僣んでいる恐怖も象徴します。
資本主義や帝国主義の中心だったビクトリア時代のイギリス文学には、皮膚の色が黒くて魔女のような力を持つ、男性にとってAlienのような女が、男の健全な精神や生活を脅かし、破滅に導いたりしています。他の例もたくさんありますが、私がここで強調しておきたいのは、これは西洋独特の傾向ではなくて、むしろ西洋化と工業化という二つの問題に同時に苦しんだ明治・大正の日本文学において、このような傾向がはるかに強いのではないかということです。
漱石・谷崎・鏡花における女性
避難場所としての女性の例を、漱石の作品の中にもう少し詳しく見てみましょう。先に申しましたように、漱石はPre‐Raphaeliteを好んだだけではなく、むしろPre‐Raphaeliteの描いた女性を手本にして、自分の作品の中に同じような女性を沢山創り出しました。「幻の楯」のクララ、「草枕」のお那美、「明暗」の清子等、神秘的な美人を描き出しました。そうした美人たちはただPre‐Raphaeliteの模倣ではなく、英国の女性と同じように、困難な近代社会に生きる男性の静穏なオアシスとなっています。静かで穏やかであることは大事なことなのです。
漱石の作品の中では、男性とは反対に女性は動かなければ動かないほど良いのです。この男と女の基本的な違いが一番よく描かれている場面が、「三四郎」の中に見出されます。そこでは広田という年配の学者が夢を見るのですが、その夢の中に小さな女の子が出てきます。彼女と広田の出会いが非常に感動的で、象徴性の上でも大事ですから、少し良くなりますが、引用してみましょう。
夢だよ。…‥僕が何でも大きな森の中を歩いてゐる。…‥突然その女に逢つた。行き逢つたのではない。向かうはじつと立つてゐた。見ると昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔の髪である。つまり20年前見た時と少しも変はらない12、3の女である。僕がその女に、あなたは少しも変はらないといふと、その女は僕に大変年をお取りなすつたと言ふ。
次に僕があなたはどうしてさう変はらずにゐるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日が、一番好きだからかうしてゐると言ふ。それは何時の事かと聞くと、20年前あなたにお目にかかつた時だと言ふ。それなら僕は、何故かう年を取つたんだらうと自分で不思議がると、女があなたはその時よりももつと美しい方へ方へとお移りなされたがるからだと教へてくれた。そのとき僕が女に、あなたは画だと言ふと女は僕にあなたは詩だと言つた。
漱石の小説には、美しい画のように物体化された女性が随分出て釆ます。彼女らは何も要求せず、ただじっと男の精神的進歩(Bildung)を見守りながら、男性にとっては大変都合の良い役割を果たします。過去への憧れに満ちた主人公を慰めたり、励ましたりもします。
これらおおむね肯定的な役割をする漱石の作品中の女性に比べると、谷崎の作品に登場する女性はもっと個性的な役割を演じます。谷崎の作品中の男性の主人公にも過去への憧れを持っている人は少なくないのですが、その憧れと同時に、将来に対してのObsession(脅迫観念)とか恐れとかを持っている人物も、かなり多いと思います。「痴人の愛」の浮気なナオミ、「瘋癲老人日記」の欲張りな娘や「鍵」の恥知らずな主人公のように、西洋の魅力と欠点を兼ね備えた悪女がいっぱい出てきます。ビクトリア時代のイギリス文学に現れる肌の黒い女性とはちょうど逆に、西洋化された女性が男にいわば魔法をかけ、とりこにするのです。
もちろん、谷崎の作品には、日本的女性であっても悪女はいますが、悪い女と言っても、西洋的女性に比べて、あまり積極的な悪は行いません。特に谷崎の一番理想とする女性像、つまり谷崎の母親をイメージした人物は、たいてい男の望む通りの行動をします。例えば谷崎の名作を見てみますと、「夢の浮橋」は「母胎への回帰」としての構造を持っていると言えます。
しかもこの母は、一個人の母というより、むしろ日本文化全体を守っている母を意味しているのは明らかです。この美しい憧れに満ちた小説には、「源氏物語」をはじめ、「新古今集」や能など、日本の古典文学の名作の多くが引用されています。小説の中心となっている「庭」も同様に、母の体内の象徴であって、一つの日本文化の表現として認めて良いと思います。谷崎の小説におけるこの近親相姦とでも言うべき関係は、一種のエディプス・コンプレックスの願望達成と言うこともできるでしょう。
「夢の浮橋」はFantasyに大変近い小説だと思いますが、本物の幻想文学では女性の取り扱い方はどうなるでしょうか。泉鏡花の作品を見ると、一応は谷崎の取り扱い方とそんなに変わっていないと思われますが、もう少し詳しく見ていくと、すぐに泉鏡花の女の方がずっと積極的で、恐ろしいということがわかって来ます。例えば「高野聖」を見ますと、谷崎も描いているような美しい神秘的な女が、暗い体内を思わせる谷間に現れます。
この女は客であるお坊さんを親切にもてなしますが、同時に非常に誘惑的な態度を見せます。これも谷崎のものとあまり変わりませんが、やがて彼女は男を動物に変えてしまうという、実に残酷な態度を示します。こうしたことは、谷崎の作品には見られない行動です。鏡花の女は、単に受身的に日本の伝統や習慣を象徴するだけでなく、女性は過去の日本が失望に満ちた現在に一種のむごたらしい復讐を与える手段として、非常に積極的な役割を果たしているのです。
藤本徳明が言うように、「鏡花文学にはしばしば古風で心やさしい美貌の女性の愛が成金的俗物的男性の金力や権力によって踏みにじられんとするテーマが描かれる。それは、力ずくで成金的俗物利潤追求的な近代欧米的男性原理の受容を迫られんとした明治の日本の古風な女性原理の悲歌であったかも知れないのである。」しかし、鏡花の女性はいつも多様な受難の存在であったわけではありません。
「高野聖」の女だけが男を動物に変える魔力を持っていたのではなく、「夜叉ケ池」の姫は彼女の力を信じない村人を洪水で苦しめますし、あるいは「天守物語」の姫は恋人を救おうとしてかなり積極的な行動をとります。鏡花の女は魔力によって現代に復讐しますが、その復讐も女自身もかなり肯定的に描かれています。しかしそうした女性においてもやはり、漱石や谷崎の作品中のもっとリアリスティックで伝統的な女主人公と同じように、日本の古い伝統を守るという象徴的な役割が非常に重要なものなのです。
戦後文学における女性
戦後文学になると、特に幻想文学において女性の役割が大分変わって来ました。簡単に言えば、その変化は女性がほとんど母性を喪失したこと、時には全く女性が不在になるということです。その不在には色々な表われ方があります。例えば、安部公房の「密会」では妻は誘拐され、井上ひさしの「吉里吉里人」のベルゴ17という女性は、殺されて肉体を男性のために提供されますし、筒井康隆の「問題外科」の看護婦は犯されてついに殺されるなど、不具にされたり、変形されたり、あるいは全く消滅させられたりする女性の数が目立って増えて来ます。
その消滅させられた女性の中で一番面白い表わされ方は、筒井康隆の「ポルノ惑星」におけるサルモネラ人間の不在の女だと思います。この「ポルノ惑星」というSF的な話は、鏡花の「高野聖」ほど知られていませんが、意外に鏡花の名作と共通している点がありますので、もう少し詳しく比較すると面白いと思います。
両方ともエロティシズムに満ちた旅、あるいはQuest、つまり探索の構造をとっています。それに両作品とも、エロティックで遠く隠れた一種の理想郷を描いています。その国では男性が変な動物に変えられてしまったりすることがよく起こるので、主人公は最後に一種の悟りに達する結果になります。そのうえ「高野聖」では蛙や蛇が住んでいる林が、また「ポルノ惑星」では明らかに性的な「おっぱい太陽」とか「夜泣き山」等が背景になっています。
ところが、この二つの小説には一つの興味深い違いがあります。それは女の存在と不在ということです。先ほど述べましたように、「高野聖」の中心には美しくてやさしい神秘的な女がいました。しかし「ポルノ惑星」の性にあふれた背景の前には、女性が一人も登場しません。一番女に近いものは、性別がないのに母の役割を果たしているクモのような動物です。そして小説のクライマックスでは一人の男性、最上川先生というかなり年配の科学者がそのクモに変わってしまいます。驚いたことに、最上川先生はその変化を嘆くどころか、むしろ喜んでいます。やっと「性から開放された。うれしい、うれしい」と叫んでいる彼の姿が、小説の最後のイメージです。
筒井康隆の小説がかなりユーモラスに性的な問題を取り扱っているのに比べて、安部公房の「密会」という小説は性と女の関係を非常に暗く描いています。この小説は、主人公の妻が或る日突然さらわれて、おそらく近くの大病院に閉じ込められたらしいという、ありそうもないような出来事から始まります。主人公も妻を探すために病院の中に入って行きますが、このQuest(探索)の形をしている小説にはハッピーエンドがありません。
むしろ主人公が病院の内部に入って行くにつれて、ますます雰囲気が暗くなって行きます。やがて妻らしい女がやっと見つかりますが、この女性は仮面をかぶって、大きなベッドの上で大勢の男とSexをしています。最後は、主人公がその場から逃げ出して、病院の地下で一人ぼっちの生活を送ることになるという気味の悪い結末です。戦前の文学にも、谷崎の「母を恋ふる記」のように、女を探すという構造を持っている小説がありましたが、その中では、女を発見したことはハッピーエンドを意味し、安部公房の暗いビジョンとは全く違います。
谷崎の小説では、老人が夢の中で幼い頃に戻り、悪夢のような景色の中を旅しながら、ついに若くて美しい母を見つけ出すのです。ところで、母のイメージについて話しますと、最近の幻想文学では、母の描き方も大分変わって来ました。例えば「吉里吉里人」の主人公の母は、彼を呪っているとでも言っていい位に、いつもその息子にとって最悪の時に現れて、息子に屈辱を与えてしまうという、大変否定的な役割を果たします。
他の幻想的小説では、母性がそれほど重要視されずに、母親としての生産性、つまり赤ちゃんを産むことが否定的に強調されています。例えば、安部公房の後期の作品で、主人公の妻が怪物のような赤ちゃんを産みますが、それも先に述べた「ポルノ惑星」の構造のきっかけになっています。つまり、ポルノ惑星に滞在している女性科学者が変なものを妊って、そのお腹の中の「何か」を中絶するために、Quest(探索)が始まったという構造なのです。
大江健三郎の最近の小説では、母とか一般の女性が割に肯定的な役割を果たします。例えば「洪水はわが魂に及び」の主人公のガールフレンドのいなごが、主人公の息子のじんを救って新しい未来の訪れを象徴していますが、初期の大江作品の女性は、たいてい男の夢を破るという、随分否定的な行為をしています。大江の問題作「同時代ゲーム」でも、主人公の妹が大事な役割を果たすのにも関わらず、妹自身は作品の内に登場しません。
現代文学における女性の不在とか、否定的な描き方とかは、結局どういう意味をもつのでしょうか。戦後の日本人男性作家がみな急に女嫌いになったのでしょうか。そんなことはないと思います。もしかしたら、女性はもはや過去とか伝統とかを象徴することができなくなったと同時に、男性作家が西洋的文明による明るい未来も信じられなくなったために、未来を象徴することも出来なくなったためではないかと考えられます。あえて言えば、日本の戦後の作家が、やっと自国の歴史と、明治時代以来公式に認められて来た文明開化のビジョンから、解放されたということかも知れません。この解放は一概に良いことだとは言えません。私が今まで述べた例から見ても、そこには寂しい暗い面もあるのです。
戦前の女性作家における女性
その暗い面をもっと理解するために、これから女流文学の方に少し触れてみましょう。女性作家の文学にも現実と幻想の違いがあるので、それを心にとめながら現実の方から始めましょう。
これも少し大袈裟な言い方かも知れませんが、明治以来の日本の女流文学には、女性としての一種のIdentity Crisis(危機)というか、女性独特のBildung(進歩、教養)とでもいうようなパターンが発見できると思います。ところがこのパターンは、男性のような歴史と家から解放されるというBildungではありません。漱石の「こゝろ」とか、藤村の「破壊」のような小説が描いた若い男性が、伝統にそむいてやっと自分のアイデンティティを見つけ出すのとは違って、女性の主人公は、いくら家とか自分の過去にそむこうとしても、必ずと言っていい位、それに負けてしまいます。
例えば、樋口一葉の作品をちょっと取り上げてみます。一葉の「十三夜」という短編に、そのパターンがはっきり見られます。ある若い女性が、彼女に冷たい残酷な夫と一緒に暮すことが耐えられなくなって、実家に帰って来てしまいます。実家の親はある程度同情してはくれますが、絶対に彼女を家に泊めません。そして父親の説得によって、最後には夫の所に戻ることを承知します。そこで夫の家に戻るために人力車に乗りますが、偶然にもその車夫が彼女の前の恋人だったのです。しかし女は何も言わずに、諦めて夫の家に戻るという結末です。
ある面からみれば、一葉の主人公は一種のアイデンティティを見出したとも言えますが、それはどのようなアイデンティティでしょうか。彼女が見出したものは、女は一個の人間ではなくて、母であり、妻であり、娘であるということだったのです。私はこの小説の構造をCircular Chain「円を描いてもとに戻るくさり」というふうに名付けました。日本語に訳せば、「円形のくさり」ということになるでしょうが、英語のChainの方が色々なニュアンスをもっていますので、Chainという言葉をそのまま使った方がいいかも知れません。Chainという言葉が、どういう意味を表わすかと言いますと、やはり先Chainの一番基本的な意味である、一つの物体Solidなもの)ではなくて、沢山の輪(Links)で出来ているということです。
私の見るところでは、女はそのChainのLink(輪)の一つにすぎません。前のLinks(輪)は過去の象徴で、過去とは個人的なもの、つまり親や祖先への責任を意味し、ときには超個人的過去、つまり日本の社会への義務も意味します。後のLinks(輪)はやはり子供とか社会の将来への責任です。英語にはKarmic Chain、つまり因果という表現がありますが、先程の一葉の宿命観というか、諦めに満ちた小説には、このKarmic Chainの意識が僣んでいると思います。円地文子の「女坂」という小説には、この因果ということがはっきりと書いてあります。
円地文子の小説では、一葉の主人公と同じように、残酷な男と結婚した若い女が、その結婚から逃げようとして逃げられず、結局自分の人生を諦めてしまいます。しかも彼女は、自分が自由ではなくて、くさりの一つの輪だということを、ちゃんとわかっているのです。しかし円地の主人公は、最後の望みとして、死んでからは絶対に夫の家族と一緒のお墓に埋めてもらいたくない、灰を海にばらまいて貰いたいという、苦しみに満ちた願いを遺します。ところが、彼女が死んだ後、彼女の望みは何一つかなえられませんでした。彼女の願いは無視されてしまったのです。
英語のChainには、もう一つのニュアンスがあります。それは囚人の為に使うくさりという意味です。女の側からみると、いくらそのくさりを断ち切ろうとしても、社会があまりに強すぎるために、最後には女性はいつも牢獄に戻されるということです。
戦後の女性作家における女性
今まで申しました例は、みな戦前に書かれたか、或は戦後に書かれても、戦前に行われていたことについての小説ですが、戦後のことになるとどう変わるでしょうか。驚くことに、私には戦後の小説にもCircular Chainがまだ見られるように思われます。そのChainは時々変な形を取りますが、まだまだ女性の個人的行動をはばんでいます。
例えば円地文子の「女面」では、非常に神秘的な姑が自分の娘と義理の娘を奇妙な目的のために利用します。その利用の原因となっているものは、死んだ息子とこれから産まれる孫のためで、過去と将来両者のためです。円地の作品が暗示するように、女性作家の作品で一番重要な関係は、男女の間のことではなく、母と娘の闘いです。それに、谷崎とか鏡花の文学と比べると、母が非常に冷たい形を取ります。一葉の「十三夜」のように、娘が実家に戻ろうとしても、母親に拒絶されるというパターンが戦後文学にも続いています。
例えば津島佑子の「草の臥所」では、若い女が恋人と別れて家に戻ってきますが、母親は歓迎するどころか、娘を批判し、無視しようとします。「草の臥所」の一番痛切な場面は、先程の谷崎の「母を恋ふる記」の夢とよく似ています。津島の主人公は幼い時のことをよく覚えていますが、特に彼女がスーパーマーケットに行って母親とはぐれてしまったという、怖い思い出を持っています。スーパーマーケットを隅から隅まで探しまわっても、母はなかなか見つからなかったのですが、最後にやっと母が現れます。しかし、谷崎の愛に満ちたハッピーエンドと違って、母はただ娘を強く叱り、黙ったまま家に帰ります。
母が単に冷たいだけでなく、時には積極的に娘を家から追い出そうとすることもあります。高橋たか子の「相似形」では、母が夫と息子と一緒に住むために、娘を家から追い出そうとします。
もちろん、くさりから解放されて個性的な人生を送っている例外もありますが、女性作家のリアリズム文学では、その例外はまだまだ稀なように見えます。ところが幻想文学になりますと、くさりを断ち切って一人の女として生きるビジョンが驚くほど増えて来ます。しかしその一人ぼっちのイメージは、たいてい現実から離れたFantasyにすぎません。
例えば、大庭みな子の「山姥の微笑」という非常に感動的な短編についてちょっとお話ししますと、「山姥」の一番興味を引く点は、そのファンタスティックなタイトルにも関わらず、話そのものは強く心に訴えるリアリスティックなものです。いわゆる「山姥」は、他人の気持や考えがわかるという超自然的な力を生まれつき持っています。その能力のために、いつも人の犠牲になってしまいます。例えば、山姥が年をとって死にそうになった時、自分の子供の「私達の迷惑だからお母さんに早く死んで欲しい」という気持がわかって、子供の希望に従って自殺するという場面があります。
「山姥の微笑」から二つの興味深い点を取り上げてみたいと思います。一つは、そのタイトルの反語的な皮肉です。この小説の主人公は、山姥どころかごく普通の人間なのですが、女性である以上、このような超人間的な力を持つのが当然だとされている点です。もう一つの興味深い点は、その主人公が抱くビジョン(幻覚)です。その幻覚は孤独に憧れているビジョンです。それは、実際に山姥となり、風が吹きすさぶ岩の上に裸で立っているという、かなり強烈な印象を与えるビジョンです。しかし、くさりの中の女である限り、そのビジョンが単なる幻覚にすぎないのだということが、読者にはすぐに分かるはずです。
円地文子の「女面」の最後には、孤独のビジョンはないのですが、男性不在の特別な世界を暗示しています。円地や大庭の小説では、男性の不在は割合はっきりしない描き方がしてありますが、金丼美恵子の「兎」というすばらしく純粋なFantasyでは、ヒロインが何の躊躇もなく、家族から、男性から、責任から解放された生活を追求しています。
「兎」は、語り手が突然大きくて白いうさぎに出会うという、神秘的な場面から始まります。近づいて見ると、それはただ兎の衣裳を来ている女性ですが、その女性の話がますます小説を幻想の世界へと導くのです。その女性の母と兄弟が或る日いつの間にか消えてしまいました。ところが彼女は驚きも嘆きもせずに、平然として父と新しい生活を始めます。
その生活はとても自由で、学校にも仕事にも行かず、ただ兎を育て、それを殺したり食べたりするという非常に単純なものになります。娘はこの生活に満足しているらしいのですが、或る日、今度は父が急に死んでしまい、全く一人きりの生古を始めることになります。その生舌が非常に兎に似てきて、兎を食べるだけでなく、衣服に兎の毛を使い、兎の毛と血で一杯の家に住んで、一人ぼっちの生活をします。話の終わりには、最初に現れた語り手も影響されて、兎のようになろうと決心するのです。
「兎」の気味の悪い、しかし新鮮なFantasyは色々な面から解釈できると思います。すぐ感じることは、谷崎のような一種のエディプス・コンプレックスのちょうど逆で、つまりエレクトラ・コンプレックスに他ならないということです。女の子の暗い夢のように、ライバルの母と兄弟がいなくなって、愛する父と二人きりで自由で制約のない生活を送ることになります。
しかし話はそこで終わりません。終わりの方がずっと暗いのです。その最後に出てくる兎小屋のビジョンも色々な意味をもっているでしょうが、その一つは明らかに女性の体特有の場所のシンボル、即ち胎内、子宮だと思います。けれども、その一番女性的で、しかも母性的なシンボルの中に、女は一人ぼっちで住んでいるのです。やはりいくら父を愛しても、やがては孤独に憧れ、「山姥の微笑」とか「女面」の女性と同じように、男性なしの世界の方に惹きつけられるのです。もしかすると、これは男性に対するだけではなく、つまりただ男嫌いの女性の復讐を意味するだけではなく、圧力が強すぎ、責任が重すぎ、くさりが多すぎて息がつまりそうな社会全体への復讐のFantasyなのかも知れません。
女性不在の意味
復讐のテーマは女流文学に限りません。日本文学では、男性が描いた女性のイメージと、女性作家が描いた女性のイメージには、意外に共通している点があります。簡単に言えば、戦後の男性作家の幻想文学における女性像はたまたま否定的な描き方をされていますが、それは困難と失望に満ちた社会からの避難場所となる女性ではなくて、むしろその失望に満ちた社会の重要な象徴になっているのではないでしょうか。ですから、その女性殺害とか、女性不在とかは一種の男性側からの復讐だと思います。
女流文学では、女性の登場人物はたいてい肯定的、または同情的に(少なくとも、被害者のように)描かれていますが、女性作家の幻想文学になりますと、その登場人物が被害者でもなく、いわゆる良い女でもなく、円地や大庭の小説におけるように、段々と力を持ち、普通の人間世界を超越した女になって行きます。しかし面白いことに男性女性作家両方とも、その作品の主人公の最後のビジョンは孤独です。その不在の原因は、時には男性がわざと殺害した場合もありますが、安部の「密会」のように、男性の貴任ではなく、偶然の出来事である場合が多いのです。女性の主人公が一人ぼっちになるのは、常にと言っていい位、女性自身の選択によるものです。
最後にこの孤独な女性や男性が現代日本のReal World (実世界)とどういう関係にあるか、考えてみたいと思います。皆様は私よりずっとご自分の社会にお詳しいのですから、もしかするとこの問題はおまかせした方がいいのかも知れません。しかし、私のような傍観者としての一外国人からの感想を申させていただきますならば、この孤独のイメージは現代日本社会の暗い面を反映していると甲わずにはいられません。
今までグループ意識が強いことで有名であった日本社会が、突然孤独に憧れているイメージでいっぱいになったということは、非常に興味のある傾向だと思います。女性から見れば、それはくさりを断ち切り、個性的に生き始めたという証拠の一つでもあると言えるのではないでしょうか。長い間、私の話をお聞き下さいまして、本当に有難うございました。外国人ですので、皆様から御覧になれば、随分見当外れの意見を申し上げたかも知れませんが、ひょっとして、それがかえって日本社会の現在の状態、皆様は当然として疑問をお感じにならない男性や女性の立場などを見直すきっかけの一つになりましたら、大変嬉しいと存じます。
 
現代日本に於ける仏教と社会活動

 

本日は、現代日本に於ける仏教と社会活動についてお話したいと思いますが、先月の講演者は、5ページにわたる印象的な資料を配布され、48ものテクストの引用と10の画像を用意されましたが、私は皆様にお配りするものを持ち合わせておりません。これは禅宗本来のやり方ですね。私のこの研究はまだまだ取り掛かったばかりですので、成果よりも疑問点の方が多い段階です。したがって今日のこの機会に、皆様方からのご意見やご指摘を頂戴したいと思っております。
また、「社会活動」という言葉で題をつけさせて戴いておりますが、これは、social engagementという言葉の意味でお聞き願いたいと思います。日本語の「社会活動」より少し広い概念で、社会と関わること、社会的な問題に携わることを意味します。この「社会活動」ということを仏教と関連させた場合、潜在的には、悩めるティーンエイジャーへの僧侶のカウンセリングから、仏教の救援団体によるビルマ難民の救援活動まで、大変広い範囲の現象を覆います。仏教団体による多くの伝統的な活動−−説教や法事、葬式など−−も、勿論、仏教と社会との関わりの一形態です。
さらに、読経や一人っきりでの瞑想でさえも、伝統的な仏教の考え方に基づいて非二元論的に解釈するなら、基底のレベルで世界に影響を及ぼしていると想定できるのです。しかしながら、この広範な枠組みの中で私が最も関心を抱いておりますのは、意図的に外に向かってなされる社会的ないし政治的な活動形態なのです。すなわち、地元でリサイクルのキャンペーンを組織する僧侶の方が、人間と自然の一体性について説教する僧侶より、私の関心を引くのです。
もちろん、共に正当的な活動なのですが。また、仏教と社会活動について研究する場合、「仏教」という言葉が意味している内容を再検討する必要があります。しかし、この問題はこの場で取り上げるには大きすぎるようです。本日話題にいたしますのは、日本仏教の既成教団、とりわけ、浄土宗、浄土真宗、禅宗、そして日蓮宗などですが、折にふれて立正佼成会のような仏教系の新興宗教にも言及することになると思います。
社会活動の分類
まず最初に、概観した上での一般的結論は、現代の日本の仏教界はそれほど社会に関わっている訳ではないというものでした。皆さんも御存知の通り、既成教団に対して「葬式仏教」という蔑称が投げつけられることがありますが、これはある意味で正しいのです。既成教団はその慣習となっている行事を執り行うことに甘んじて、自らの宗教団体を維持存続させることに汲々としております。
確かに、日本の仏教者たちが共通の活動方針に賛同することがない訳ではありません。しかし、それは最も議論を喚起しそうにないたぐいのプロジェクト、例えば世界平和会議ですとか、現在のネパール国内にある釈迦牟尼の生誕の地に建物を建てるといった計画なのです。一般的に言って、日本仏教は社会活動に携わってはおりませんが、特定の分野に限って見ますと、僅かではありますが幾つかの活動を見出すことができます。
これらの片隅の活動は、その構成や目的、展望に於て大変広範にわたっており、きちんと類別することは困難です。が、取りあえずの措置として、それらを四つのレベルに分類することに致します。すなわち、個人と、地域と、国家と、国際のレベルです。もちろん、これらのレベル間の境界は明確なものではありません。ある僧侶が個人でスリランカへ行き、孤児院で働いたとしましょう。この場合、個人と国際の二つのレベルが関係します。あるいは、当初は地域的な運動であったものが、しばしば国家的問題や国際的問題と取り組むようになります。そして、国際的に活動している組織も、国内からの支援なくしてはありえません。
個人レベルの活動
大きなグループに参加せずに、個人レべルで社会活動に携わっている仏教者が、少しずつではありますが生まれてきております。奈良には東南アジアの難民のために定期的に一人で托鉢をしているお坊さんがおり、彼はある時はビルマの難民のために奈良駅で終日一人で募金活動をしました。福知山の禅宗寺院の若い住職は、日本で勉強することを望んでいるビルマの僧侶が文化ビザを取得できるようにと、舞台裏で入国管理事務所に掛け合っています。名古屋の真宗の住職は、インドの困窮している農民たちを様々な方法で支援しております。すなわち、学校の新設のための募金活動をし、9人の若者をインドに連れて行って当地の下層農民と共に働き、インドの学生を一人自分の寺に置いて保証人になったりしました。
地域レベルの活動
個人レベルの活動に関しましては、まだまだ幾らでも例を挙げることができますが、地域的なレベルに目を移しますと、日本中、小都市のほとんど、大都会の全てで、多様なグループやプロジェクトを見ることができます。そのメンバー構成も僧職者と在家者の割合によって様々です。多くの場合、僧侶はそのグループの活動目標を支持して、自分の社会的地位を利用して便宜を計ったり、建物を提供したりしています。
これらの活動の最初の発案者が僧侶自身である場合もありますし、寺院の壇信徒である場合もあります。あるいは寺とは関係のない、その地域の活動団体である場合もあります。具体例を挙げさせていただきますと、京都の有名な浄土宗の寺院である法然院の若き住職は、幾つかの環境問題について活動を始めました。
関西地区の環境問題と取り組んでいるグループと協力して、京都東山の営利的な開発に反対してきましたし、関西に新たに原発を建設することに断固として抵抗しております。また、彼は自然研究会を主催し、月に一度勉強会を開いたり、小学生たちに環境問題を手ほどきする講習会を開設いたしました。だからといって、法然院はその本来の関係者たちに対しておざなりになっている訳ではありません。
檀信徒や法然の墓所にお参りにくる各地の信者、そして観光客たちもおります。この住職はまだ33歳ですが、日本の若い僧侶の中の新しい一つのタイプを代表しております。彼らは急速に責任ある地位に就いており、この体制内で働く意味を理解しつつ、同時に別の社会的課題を追求しております。京都市南部の浄土宗の寺院、道澄寺の住職は、お寺の外観を喫茶店のように改装して、映画フィルムを上映し、講師を招き、寺院を若者の集う場所として解放しました。
彼はこう言っています。「もとどおりの伝統的な様式にすると、膨大な費用がかかってしますということもありましたが、それ以上に既存のお寺のイメージを取り除こうと、思い切り現代風にしたのです。お墓とか法事とか、人とお寺のかかわり方はごく一部分に限られてています。それをもっと全体的にかかわりたい。そのためには、目に見えるものを変化させることも必要ではないかと思われます。」と。
名古屋の精力的な真宗の住職は、多くの地域的プロジェクトに参加しております。彼は名古屋地区のタイから移民した人々が日本の生活になかなか適応できないことを知ると、タイの若いソーシャル・ワーカーが来日できるよう手配し、彼のお寺に住まわせ、移民した人々の手助けができるようにしました。また彼は、広島の被爆者が宗教はなぜもっと核兵器に反対しないのかと問いかけていることを聞いて、名古屋の電話帳で全ての寺院の住所を調べ挙げ(およそ1600件)、各住職宛に手紙を書き、宗派を越えて平和について話し合うよう招待しました。
その結果生まれたグループは、広島と長崎に原爆が投下されたその時刻に鐘をつくよう、名古屋の全寺院に呼びかけました。およそ百あまりの寺院がこの行事に参加し続けています。僧侶のグループがある特定の目的を掲げて公式の組織を作るのは、また別のタイプの地域的な活動です。京都仏教青年会がこの好例です。この会はおよそ40人の仏教僧侶で構成されております。「青年会」という名称ではありますが、関係者の大半は自分の寺院の住職を務める50代から60代の人たちです。
宗派関係は既成の各教団に広く跨っており、浄土宗(13名)、臨済宗(8名)、天台宗(5名)、曹洞宗(4名)、真宗(3名)、法華宗(3名)、日蓮宗(2名)、真言宗(1名)という割合になっております。5年前に会が始まって以来、青年会は老人や重篤の病人の要求に活動の焦点を合わせてきました。メンバーの主要な活動は、病院や老人ホームを訪れ、そこで病人や医者や看護婦と話し合うことです。会はまた月に一度セミナーを開き、医療関係者の最新の関心事を話題にします。メンバーの一人が次のように私に語って下さいました。
「日本人は一般に、病院で僧衣を見かけることを嫌います。というのも、何か葬式に関連したことで僧侶がそこにいると考えるからです。でも私たちは、病に苦しんでいる孤独な人々の何人かでも、その人たちの力になり、慰め、楽しませるためにそこに行っているのです。私たちは特定の宗派に改宗するように勧めたりなどしません。老人は既にどこかに所属しているものです。でも、宗教が話題になった時には、私たちは喜んでそのことについて議論します。」と。
彼らは国家的あるいは地域的な課題すら、新たに自分たちの現在の課題に付け加えようとはしておりません。ただ、青年会のメンバーの一人がアメリカで"grief-work"と呼ばれているセラピーの一形態を始めました。これは、損害を被ったり個人的な悲劇で悲嘆に暮れている人々のための、自由参加のワークショップです。しかし青年会のメンバーの大部分は、会の当初からの活動形態に満足しております。確かに、各自のお寺にお互いを招待しあうということで、宗派間の交流という機能も果たされてはおりますが、彼は青年会の中に、例えばgrief-workのような新しいアイディアに対する関心が生まれることを期待しております。
次に、在家の仏教信者が指導的役割を果たしてきたグループがあります。京都に基盤を置くFASというグループがその一つです。日本語でもエフ・エー・エスと言うのですが、この略語は「分割できないものとしての、自己と、世界と、歴史」を意味しています。このグループは、1944年に、久松真一(1889-1980)によって創設されした。当時、久松真一は京都大学の仏教学の教授だったのですが、それよりも在家の禅の師匠として尊敬を集めるようになりました。FASの教えは、精神的修行と、学問と、社会的関心との三者の均衡です。1951年に彼らは「人類の誓い」と題された文章を公表しました。次のようなものです。
私たちはよくおちついて本当の自己にめざめ
あはれみ深い心をもつた人間となり
各自の使命に従つてそのもちまへを生かし
個人や社会の悩みとそのみなもとを探り
歴史の進むべきただしい方向を見きはめ
人種国家貧富の別なく みな同胞として手をとりあひ
誓つて 人類解放の悲願をなし遂げ
真実にして幸福なる世界を建設しませう
しかしながら久松の没後、この会はリーダーシップの不在に苦しんでいるように思われますし、一握りのメンバーが週に一度座禅と話し合いのために集まり、年に2回、5日間の修練の会を開いております。この会が立てた目標の一つが「新しい歴史の建設」であるにも拘らず、今や政治的・社会的活動から後込みをしているのです。久松の掲げた理想が如何に創造的であり、革新的であったにせよ、彼が巣立たせた運動は、今や遺憾ながら完全に臨済宗の本流の中に取り込まれております。
今まで申し上げたことを簡単に整理してみましょう。私は地域的活動のレベルで幾つかの事例を取り上げました。法然院の住職は環境問題に携わっておりましたし、もう一人の京都の住職は自分のお寺を若者たちに開放しました。名古屋の住職はタイのソーシャル・ワーカーを援助し、広島と長崎の被爆に因んで反戦のための行事を始めました。京都仏教青年会のメンバーは病院でボランティア活動を行っていますし、FASのメンバーは座禅と社会的自覚とを結びつけようと試みております。
お分かりのように、これらの人々やグループの目標は極めて変化に富んでおります。皆さんは、これらの成果はたいして目ざましくもないし、興奮させるようなものでもないと思われるかも知れません。あるいは、こんなものを報告する価値が一体あるのだろうか、といぶかしんでおられるかも知れません。私自身、プラスとマイナスの両方の面を見ております。つまり、いま行われていること自体は賞賛したいのですが、同時に、それで充分だとも思っておりません。
国家レベルの活動
国家的レベルと申しますのは、扱う課題そのものが本来的に国内の問題であり、それが国家的スケールで働くことをもくろんだ運動のことです。このレベルに関しては、西洋的見地からすれば、2種類の活動を予期するものです。すなわち、一つ目は既成の宗派によって組織されるか、あるいは援助されている改革運動です。二つ目は既成教団を拒否し、あるいはそれに挑戦する草の根的運動です。
しかし、実際は宗派が援助する運動は僅少ですし、国家的広がりを持った草の根運動は事実上皆無です。既成の仏教教団の中で、取り上げる価値のあるものが二つありますが、ともに真宗大谷派(東本願寺)と関係があります。一つは真宗同和推進本部です。この名称は「同和」という言葉に馴染みのない人に取っては曖昧なものに響きますが、その活動内容は明解です。すなわち、日本人社会全体に蔓延している被差別部落民に対する差別と取り組んでおります。そして部落民のおよそ80パーセントは真宗の門徒であると見積られています。
日本の過去の歴史に於て、宗教はそのような偏見をくじくというよりも、寧ろ助長する傾向にありました。例えば江戸時代には、僧侶たちは被差別部落民に対して偏見を補強するような戒名を与えました。1920年代には、真宗内部でそのような差別に向けて幾つかの努力がなされましたが、反差別運動が重大な関心を呼ぶためには、1969年を俟たねばなりませんでした。この年、大阪の難波別院で一人の僧侶が差別的な言動をし、この発言は解放同盟からの糾弾を引き起こしました。
今日でも、この糾弾という方法は同和運動を進めている解放同盟の主要な方法です。東本願寺にある同和推進本部には10人の常勤のスタッフがおり、真宗の僧侶のために月例のセミナーを開き、何種類かの定期刊行物を出版しております。このプログラムの目的は、自らが受けている批判を超克することにありますが、真宗教団の内部ですら、その影響力がいかほど及んでいるのか、明瞭ではありません。
関係者の一人はこう言っています。「こういった差別糾弾を受けた教団は何も真宗大谷派だけではないのですが、たいていの場合、「けっして差別する気はなかったのだが、不注意で申し訳ない。今後はこのようなことをくりかえしません」というふうに表面上は恐縮してみせていても、本当は腹の中で舌を出している。差別体質が明るみに出て糾弾を受けたのは不運だった、というぐらいにしか考えていないことが多いのです。」と。
ちなみに申し上げますと、既成の仏教教団は日本に存在する他の多くの被差別者のグループの人権問題を真剣に取り上げてはおりません。すなわち、在日韓国人、アイヌ人、外国人労働者や移民者、障害者、そして女性たちの問題です。さて宗派が援助している国家的規模の活動の二つ目の例は、真宗大谷派の片隅でもっと不安定な位置しか持っておりません。これは日本の軍国主義や国家目的に宗教を利用することに反対するものです。もう少し具体的に申しますと、靖国神社に行政が恩恵を与えること、新天皇の即位式に感じられる宗教的な色彩、そして大嘗祭に公金を充てることに反対しております。
京都に基盤を置いておりますが、「真宗大谷派反靖国全国連絡会」というのがその正式な名称です。この会は「兵戈無用」という会報を出版しております。この名称は「大無量寿経」の一節から取られたもので、この言葉によって軍隊と兵器の廃絶を訴えているのです。仏教者の別のグループと比較すれば、反靖国と協調しているメンバーは斬新な思想を打ち出しております。少なくとも言論の上では、彼らは現存の権力構造に挑戦し、「菊のタブー」、すなわち天皇に関する禁忌を公然と無視しています。
この会のリーダーの一人が人々の会に対する反応について正直に述べております。「実は、こうした信教の自由や政教分離のたてまえからの反靖国の論理と運動は、今日にいたるまでほとんど成果をあげなかったのではないかと思われる。戦争で死んだむすこのために天皇や総理大臣に靖国に参ってもらう、それが自分の「真宗」の信仰の自由を犯すことになるなんて考えられない。」と。また、この会は愛媛や大阪、その他の地で靖国問題を法廷に持ち込んでいます。が、依然として彼らの過激論には限界があります。例えば、別の国の仏教の活動家たちとは違って、彼らは良心の名に於て、例えばガンジーやアンベードカルのように、非暴力的な市民的不服従の行動を起こすなどといったことはありません。
国際レベルの活動
さて次に、国際的レベルの活動について見てみましょう。国際的な開発事業の分野で民間の組織の目録を調べてみますと、12、3の仏教関係の団体が活動していることが分かります。これらのうち、半数近くを新興宗教が運営しております。例えば立正佼成会は平和基金や庭野平和財団を通じて、昨年度だけで2億2千万円をアジア・アフリカに対する救済計画、様々な国連の救援団体、そして日本の関連事業に寄付しております。
立正佼成会はまた、World Conference on Religion and Peace(世界宗教者平和会議)ですとか、International Association for Religious Freedom (国際自由宗教連盟)のような異なった宗教に跨る組織の重要なスポンサーでもあります。新興宗教は現在の所、私の研究の主な対象ではありませんが、彼らの経済的にも潤沢で、しかも異種の宗教との交渉にも積極的な活動は、既成の諸宗派の国際的な活動に対する冷淡さと好対照を示しております。国際的に活動している日本の仏教者による救援団体は幾つかありますが、個人会員を基礎とする組織は五つだけです。
そのうち四つは、年間予算2千万円以下で活動しております。注目すべき残る一つは、曹洞宗ボランティア会(Sotoshu Volunteer Association(SVA))で、海外ではJapan Sotoshu Relief Committee(JSRC)(曹洞宗東南アジア難民救済会議)として知られております。この組織は、1979年のカンボジア危機の高まりの中で、カンボジア難民の救済を目的として設立されました。そのとき以来、この会はバンコクのスラムの住人やタイの貧困農民など、別の難民のグループにもその救援対象を拡大してきております。
宗教に基盤を置いた幾つかの国際救援組織とは違って、SVAは如何なる布教活動もしようとはしておりません。というより、寧ろそこに暮らす人々の固有の文化を育むことを重視し、それを援助しているのです。現在、SVAは、1300人の個人会員を擁し、年間予算はほぼ2億5千万円となっております。曹洞宗からは独立した組織でありますが、その多くを日本中の曹洞宗の僧侶や信者の支援に頼っております。組織の持つ優先順位が、その活動のスタイルに反映しております。すなわち、収入の80%が個人の寄付や補助に基づいており、東京の事務所は書庫の上の狭苦しい一室です。
会で働く57人の事務員のうち、45人は海外で活動しており、しかもその殆どが東南アジアの出身者です。会の設立以来、ずっと 二人の禅僧が指導的役割を果たして来ております。有馬実成と松永然道のお二人です。有馬は山口県の寺院、原江寺の住職です。500軒の檀家に対する責任を果たしながら、彼はそれでも週に4日の東京行きを工面し、しかもしばしば東南アジアへ出かけております。SVAの月刊の会報「地球市民」の最近の号で、有馬は会の目的を解説しております。それは、社会に関わっていく日本仏教についての国際的な視野を持った簡明な解説です。次のように言っています。
我々はSVA(地球社会)を構築し、自らを(地球市民)として意識改革していくための運動体にしていきたいと思う。勿論、この地上にはその運動の前に立ちはだかる様々な厄介な問題が山積していることを承知している。これの解決にどう努力するか、それが我々に課せられた課題となる。その一つは、南北問題である。北側先進国と第三世界の国々との間の落差の問題である。とめどもなく巨大化する世界経済は第三世界の国々を圧倒し、貧困を加速化させつつある。
(中略)我々は南の草の根の人々と共に連帯し、また、日本の問題として市民と共に開発協力に今一層の推進をしていかねばならない。二つには、人権の問題である。世界には今なお大勢のいわれなき差別と抑圧に苦しむ人々がいる。(中略)我々はそれを認めることはできぬ。我々は人権の視点を活動の座標軸の基準におきたい。三つには、地球環境問題である。この問題は正直に言って我々には新しい問題であり、これから取り組みのための学習を始めねばならないが、(中略)次の世代にも美しい地球に生きる権利を譲り渡していく責任があるのである。
理由は何であれ、SVAは極めて低い扱いを受けています。この会は仏教関係の進歩的なサークルにすら、事実上知られておりません。スタッフの一人は次のように言います。
それ相応の援助さえ受けることができたら、SVAの活動は10倍に拡大することができるのです。確かに、会員数は1300人にまで増えてきています。しかし、曹洞宗の寺院が15,000寺あることを考えてもみて下さい。
さて、最後にご紹介する国際性を志向しているグループは、仏教者国際連帯会議の日本支部です。このグループの本部の活動について、先ずご説明しましょう。英語ではInternational Network of Engaged Buddhists、すなわちINEBとして知られております。この会は1987年にタイの仏教者、知識人でもあり、活動家でもあるスラク・シバラクシャ(Sulak Sivaraksa)によって設立されました。バンコクにある小さな事務所がその本部です。
INEBは固定的な中心メンバーというものを持ちません。従って、指導者レベルでの折衝というよりも、寧ろ草の根的「ネットワーク」を構築することを尊重します。3年前に創設されて以来、INEBはスリランカに紛争調停団を派遣し、ビルマ難民のために危険を孕んだジャングルの中で秘かに高等教育を施し、暴力的手段に訴えない政治活動の方法論を身につけさせるよう努め、数々の国際会議を組織するなど、様々な活動を行ってきました。
この組織の日本支部はINEB-Japanと自称しており、主な参加者は日蓮宗と真宗の僧侶ですが、様々な宗派からも参加者がおり、愛知県のある寺院が日本支部の事務局となっております。10人強のメンバーが常時活動しており、彼らの主な機関誌(日蓮宗の系列下にある「大海」という月刊の機関誌)は、1200部発行されております。会のメンバーは、苦しんでいる人々のことに心を砕き、その人たちのためにより多くの日本人がより一層努力すべきであると考えているのです。この心情が「大海」誌上に次のように吐露されております。
タイの売春問題は日本とのつながりが深く、日本へのホステス出稼ぎは、フィリピンからの数をこえたと聞く。タイの仏教界が女性問題を避けて通ってきたことも問題だが、日本人男性の売春問題を放置してきた日本の仏教界も同罪である。(中略)逼迫した女性たちの苦しみと嘆きに反応できず、観念的な教学や信仰が語られる寺院の教化活動は、タイや日本だけではなく、仏教国全体のような気がする。女性問題は裏返せば男性の意識の貧困である。
さて、INEB全体の中で日本の代表団は幾つかの点で独特です。先ず第一は、日本の代表団は行動的であるということです。他の国のINEBのメンバーがまだ議論を重ねている段階で、既に実際行動を起こしてしまっているほどです。例えば、彼らは去年バンクラディッシュの仏教徒に対する残虐な迫害について、日本の大衆を啓発し、政府を動かすためのキャンペーンを組織しました。ごく最近では、INEB-Japanはビルマの難民を支援し、ビルマの圧制的な軍事政権に日本から圧力を加えるために運動しております。
第二点は、会員相互の関係の親密さです。他の国のINEBのメンバーは組織とは緩やかな関係しか持たず、グループの一員としてではなく、主体的な個人として活動します。それに対して、INEB-Japanは本当に単一のグループです。メンバーは共通のヴィジョンを分けあい、仲睦まじく一緒に働きます。INEB-Japanの顕著な特徴の第三点として、彼らは社会活動に携わる仏教者の国際的なネットワークの中で孤立する傾向があるということです。相変わらず言語上の障壁は深刻な障害であり、日本人仏教者の中で最も「国際的」な人々の中にあってさえ、英語に堪能な人はただ一人です。
しかも、この言語上の孤立は時に日本人の文化的特質によって助長されます。例えば、日本人は何かというと群れたがりますし、公的な場所で発言することをためらいます。あるいは、別の種類の仏教理解と直面した時に、尊大さを露呈します。確かに、INEB-Japanには幾つかの弱点がありますが、メンバーは日本仏教のあるべき姿を指し示している誠実なパイオニアたちです。より多くの人々に語りかける方途を見出すことができさえしたら、彼らは大きな影響力を持つことができるに違いありません。
四人の例
社会活動に携わっている日本の仏教者に関しては、まだまだ沢山申し上げなければならないことがあります。彼らのバックグラウンド、彼らの既成仏教批判、あるいは未来に向かっての希望などなど。しかし、ここでは、簡単に4人の方に絞って紹介させて頂きたいと思います。丸山照夫(57歳)は東京在住の日蓮宗の僧侶ですが、信者を抱えてはおらず、評論家として活動し、かつINEB-Japanの指導者の一人でもあります。彼は6、7冊の著書をものしていますが、「日本をダメにした名僧・悪僧・愚僧」が最もよく知られていると思います。
彼は日蓮宗の大本山の末寺の子弟として育ち、青年期になると、戦争と平和の間を急速に揺れ動くイデオロギーによって混乱させられました。すなわち、第二次大戦の間は戦争の遂行を支持するよう教育され、占領下では平和と民主主義を尊重するように言われ、ついで朝鮮戦争が勃発しました。自分自身の立場を確立しようとして、彼は朝鮮戦争に反対する運動に参加しました。彼の周囲にいた日蓮宗の僧侶たちは反発し、彼を共産主義者と誹謗しました。丸山は言っています。
「ともあれ私は既にそのラベルを貼られたのだから、それが意味するものを知ろうと決意し、高校3年の時に共産党に入党しました。」と。彼は大学の卒業年次まで党員でした。丸山のバックグラウンドの中で、宗教と政治の要素は、彼の精神革命への呼び掛けや仏教僧侶に対する歯に衣着せぬ批判に見ることができます。最近行われたパネルディスカッションで、彼は次のように述べております。
日本の仏教のお坊さんたちは眠りこけてしまっている。はっきりいってお寺の中に安住していて、(中略)職業といいますか、それによって生業を立てているという職業的・専門職としての自覚さえも明瞭に持っていないんじゃないですか。ですから、強力な揺さぶりをかけて一回衣を剥ぎ取らないと、目覚めようがない、そういう感じがします。
(中略)10年なり15年の間、教団改革の夢を見ることもたぶんできないだろうと思います。そういう意味で改革についてはほとんど絶望しております。あきらめたところから、あらためて出発せざるを得なかったということです。最近の私の考えは、日本仏教全体をトータルな意味で環境を変えなきゃだめだということです。
有馬実成(54歳)は、すでにご紹介しましたが、曹洞宗ボランティア会の事務局長を努める徳山市近郊の原江寺の住職です。彼もまた寺院子弟として育ちました。1944年有馬が9歳の時、父親が中国で死亡しましたので、彼が学業を終えるまで、祖父が住職を務めました。祖父が84歳で亡くなった時に、有馬は22歳で住職となりました。有馬は少年の頃、地方工場で朝鮮人が強制的に働かされているのを見ました。でも彼にはどうしても理解できなかったのです。
「なぜ彼らはあんなに酷く食い物にされているのだろう?」と。次いで大戦の間、その工場は爆撃の目標になりました。彼の寺にはほとんど連日、死体が運び込まれました。有馬には不思議でした。「日本人の死体はなぜ朝鮮人の死体より丁寧に扱われるのだろう?」と。彼は巡査に聞いてみました。その答えを彼は今でも思い出します。「あれァ、ヨボじゃけえのう。」(「ヨボ」は、朝鮮人に対する蔑称です。)このような経験は、生涯を通じて人間の間、国家の間の障壁を打破ることへ傾倒していく種を、有馬に植え付けたのでした。
彼は書いております。「人と人、国と国とが言語や文化やイデオロギーの違いを越えて相互に尊敬され、国境や国家を越えて共生し、個々の尊厳性とアイデンティティが保証されるような、そんな時代であらねばならないと考える。」と。次に、戦後生まれで、しかも戦後の窮乏状態の記憶を持っていない若い世代の仏教活動家から、お二人の例を挙げさせて戴きます。成田大航(35歳)は京都府の北西部にある福地山市の曹洞宗の寺院、円覚寺の住職です。寺院の子弟ではありませんが、若い時にアメリカの禅センターで1年間修行する決心をします。
彼はセンターで僧侶になるつもりもないのに禅の修行に励む何百人ものアメリカ人と出会い、彼らの熱意に打たれます。彼は自分が社会活動に関わっていった契機を、次のように回想しています。「アメリカの禅センターにいった時に、救世軍の活動に興味を覚えたのがきっかけです。日本へ帰って来てから、仏教の教えを現代社会で実際に生かしていくにはどうすればいいのか考えていた時に、あるお寺でJSRC(曹洞宗ボランティア会)のポスターを見て参加を決意しました。
タイには80年の10月から83年の12月までいました。」と。成田はこうして曹洞宗ボランティア会の最初の現地ボランティアの一人になりました。彼はまた、タイで3年を過ごす間に、当地の仏教で出家しました。帰国してから曹洞宗で再び得度し直し、永平寺の僧堂で1年間修行しました。彼は寺役や家庭人としての務めに加えて、SVAや他の運動に関わり続けています。例えば、彼の寺は骨髄バンクに登録することによって白血病患者を救う新しい運動の事務局になっています。成田は、仏教者の社会活動がより大きく育っていくとこを望んで、次のように言います。
「こういった活動を他の人に伝えていくことは、本当に難しいと感じています。逆にこれはものすごく大切なことなんだという気持もあります。初めからそうだったんではなく、やはりタイでの活動を通して、自分の中で変革が起こってきたためなんです。」と。さて、寿台順誠(33歳)は石川県小松市選出の社会党議員である、正敏の秘書です。名古屋の真宗寺院の次男坊ですが、反靖国運動や同和運動に大変熱心な人です。
彼が20代の頃、真宗大谷派の保守派と改革派との間の緊張が高まり、彼の家族の中でさえ、日毎に対立があらわになりました。寿台の父親は保守的なグループである興法議員団で活動しており、一方寿台は仏教青年同盟に所属しておりました。寿台自身が当時の事情を述べておりますので、引用しましょう。「興法議員団対大谷派仏教青年同盟というような教団の対立が、そのまま寺の日常となったような数年を経て、その最中に父親がガンで亡くなった。それは私にとって全くかけがえのない日々であったが、また同時にやりきれぬ日々でもあった。
が、病気の父とまるでカタキのようにしてやり合ったのも、ひとえに寺が変わると思ったからであった。」と。他の若い仏教活動家と同様に、寿台も社会改革や仏教改革に身を投じました。彼が社会党政治家と密接な関係を持っているのは、意見の一致などという以上のものをはらんでおります。彼は勇敢に年上の世代と対立しております。それが如何に苦渋に満ちたものであるにせよ、これは来るべき時代の予兆なのです。
おわりに
そろそろまとめに取り掛からないといけません。私は社会に関わっていく仏教に関するこの予備的な調査で、仏教者を実際活動へと突き動かす多様な課題に注目してきました。環境問題、核兵器・原子力(発電)、人権、婦人問題、第一世界と第三世界の間に横たわる問題、東南アジア及び南アジアの難民や孤児、他の国々での仏教者への迫害、天皇制、政治と宗教との融合、などなどがありました。
これらはその課題の性質に関しても、またかかわり合い方のレベルに関してもまことに様々ですので、私と同様、仏教者自身、その課題の重要度に順位を付けることは困難です。また、他の国々の仏教者が深い関心を抱いているにも拘らず、日本の仏教活動家たちはまださほど真剣に考慮していない課題が多く存在しております。例えば、構造的な経済的搾取の問題、大量消費と資源のムダ使い、妊娠中絶、ターミナル・ケアー、動物保護のような問題です。私は「社会に関わっている仏教」という言葉を日本と関連させて用いてきましたが、今や、その言葉によってある一つの統合された運動を意味して使っている訳ではないことを、お分かり頂けたことと思います。
この「運動」(movement)という言葉ですら、時期尚早なのかも知れません。これらの多様なグループを統合する包括的組織は存在しません。広範な支持層を持った指導的活動家も存在していません。あまつさえ、幅広い読者層を獲得した感化力を持った書物すら存在しておりません。私は繰り返し驚かされました。活動に参加している人々の大多数は、別のグループの活動を知らないのです。グループとグループの間、そして人々の間を繋ぐ本当の意味でのネットワークが存在していないことは言うまでもありません。
ほとんどの場合、仏教者の社会活動は既成教団から無視され、あるいは陰湿に妨害されております。そして皆さんもご存じの通り、いわゆる一般大衆は私がいま述べて参りましたような事柄に関して無知であるのが現状です。本日私が取り上げて参りましたのは、社会問題に対する仏教者の対応でしたが、我々全員にとって最も関心があるのは、国籍や信仰を問わず、こういった問題に対する人類の対応です。ですから、もしも仏教というラベルが却って何らかのプライドの原因になったり、他人を隔てることになる位なら、それなしで済ませることを望んでいる進歩的な仏教者たちもおります。
彼らは仏教のある種の特権的地位を強調するのではなく、それを危殆に瀕している人類共同体にとっての潜在的な資産であると考えています。丸山照夫は次のように言います。「仏教再生というのは、何も仏教のためにやるんじゃなくて、(中略)人類の滅びというふうな問題とのかかわりの中で、仏教はもう一度問い直されるべきたという考えに最近至っています。」と。
世界という舞台で日本が重要な役割を果たすようになるにつれて、日本の責任が増大しつつあるように、日本仏教に対して新たな要求が突きつけられつつあります。私がこの課題に取り組んでまだ1年になりません。それにも拘らず、私はしばしば海外の人々から、日本の仏教者に伝えるべき様々な要求を受け取りました。ダライ・ラマとともに国際的な仏教救援団体に参加していくのにふさわしい人は誰かいるのか?
カンボジアの若い僧侶たちに、失われつつある仏教の伝統を教育するための資金は、一体どこで調達したらよいのか?国際的な捕鯨の禁止を日本の仏教者は支持しているのか?また、アメリカのテレビのプロデューサーから受け取ったものはこうです。伝統的宗教が、社会問題に創造的に関与している様子を示すためには、一体何を撮影すればよいのか?
これらは私がここ数カ月の間に実に受け取った質問です。ほとんどの場合、私は応えることが出来ませんでした。さて、私たちはこの報告を疑問から始めましたが、同じように疑問で終えなければなりません。人類全体が直面している緊急の課題に、仏教はどのように応えるのか?人類全体が直面している緊急の課題に、日本はどのように応えるのか?これに対する回答は、それがなされた時に、仏教について、日本について、そして我々自身について重要な何事かを告げてくれるに違いありません。
現在日本仏教界は難問に直面しておりますが、これは同時に絶好の機会でもあるのです。もしも囚われている文化的拘束から幾分でも解放されるなら、もしもその高度な教義を現実に対応したものに為し得るなら、全地球の共同体にたいして大きな貢献を為すことが出来るのです。仏教には「自利利他円満」という言葉があります。人を助けることは自分を助けることになる、つまり自分自身を利することと他の人々を利することとが、究極的には一致するという意味ですが、この言葉を仏教と社会の関係に当てはめるべきではないでしょうか。
仏教は、自らを真に社会に有用なものとすることによって、初めて今後も生き残って行くことが出来るのだと思います。そしてもしもこの自己変革に失敗したら、私たちは「葬式仏教」について議論するのではなく、「仏教それ自体の葬式」について話し合うことになるのかも知れません。
 
泉鏡花と谷崎潤一郎 / 近代文芸におけるゴシック風小説

 

ヨーロッパで、イギリスを中心にして小説にゴシック様式が現われたのは18世紀でした。ファンタジーの一様式としてのゴシックは、今日こんにちまで根強く続き、今では小説を越えて他の色々な芸術分野をも包み込むぐらいに拡がっています。その中でも一番目立つのは映画でしょう。ゴシック風の映画で思い浮かぶのは、無声映画時代の「ノートルダムのせむし男」や、だいぶ後にヴィンセント・プライス主演で何本か作られた「博士の異常な愛情」シリーズなどです。ご覧になったことのある方なら、そのいかにもゴシック風な雰囲気を思い浮かべていただけると思います。
18世紀のゴシック小説の特徴は、不当な監禁がモチーフになっていることです。最も古典的な話の筋は、無実の主人公が城や僧院に30年間も幽閉され、狂気、死、悪霊、お化けなどが頻繁に出て来ます。18世紀のイギリスのゴシック小説家にとっては、フランス革命ほど格好の舞台は他にありません。ゴシック小説はほとんど常に誇張が激しく、メロドラマチックなものですが、邪悪な坊主や不当な監禁などの描写に一抹の写実主義がうかがわれるのも事実です。ヨーロツパの一部では、その当時でも貴族は小作人たちに対してまだかなりの統制力を持っていました。
そして、聖職者に対するあからさまな反感が異常に誇張されているのも、宗教改革前の中世のキリスト教会の行き過ぎに根を持つものであることは容易に推測できます。19世紀も後半になると、ヨーロッパでは都市集中化が進み、とくにロンドンやパリはそれが激しく、古い封建体制が消滅するにつれ、ゴシック小説は再び盛んになります。ただ、世紀末の芸術運動においては、ゴシックは人間の心理の無意識の領域に足を降ろしました。
産業革命によって生みだされた都市の勤労者の孤立感は、お化けや悪霊、荒れはてたロマンチックな景色などが、往々にして、疎外された都市の住人の持つ心理的ストレスとユートピアの幻想の比喩であるという文学の一形式を生みだしました。ヨーロッパでゴシックは威厳を持つようになり、当時の名のある作家ならほとんど誰しもが一度はこのジヤンルに手を付けてみました。19世紀の幕が下りようとするころに翻訳されて日本の読者や作家へ大量に紹介されたのは、こういう作家たちとその作品だったのです。
ゴシックは、ロマンスの一様式であるとか、ファンタジーを細密画のように詳しく描いたものとか、その他様々な言い方で定義されていますが、私は、広範囲の著述形式を包み込めるように、ゴシックというものをできるだけ広義に解釈して21世紀初頭の日本の小説家にあてはめ、西洋のゴシック様式の歴史との比較はせずに、日本の各作家に共通の文体とテーマ上の類似点に光を当てていきたいと思います。歴史上、日本近代の小説が伝統的に西洋から影響を受けていることは否定できませんが、ここでは特にその追跡に力を注ぐことは避け、ゴシックという概念を作品解釈に活用する比較論的なアプローチを採用しています。
近代日本文学の中の美学の歴史を簡単にまとめた橋本芳一郎氏は、後には悪魔主義に発展していくデカダンの風潮を、明治日本にニーチェを紹介した人として著名な19世紀末の思想家・高山樗牛(1868-1902)から浪漫的な思想家兼詩人・北村透谷(1868−1894)と上田敏(1874−1916)までたどってみせました。世紀末のデカダンの文人として透谷と敏は、西洋におけるデカダンの文人のこともよく知っており、雑誌などの記事を書いて日本へ紹介しました。
橋本氏は、美学上のこのデカダンの伝統が、次から次へと鎖のように影響し伝わって、永井荷風(1879−1959)や谷崎潤一郎(1886-1965)に至ってついに花咲く過程を再構築してみせました。橋本氏によると永井荷風も谷崎潤一郎もデカダン美学の後継者というわけです。デカダン美学といいますのは、日本文学、ヨーロッパ文学、英文学に共通してみられる世紀末の文学のある一面を意味しています。
この一面は、従来の道徳や倫理感に拘束されないエロテイシズム、罪の意識、そして「美」の概念にこだわるものです。世紀末文学のこの一面は、従来の道徳、とくにキリスト教道徳に対して、ニーチェのような哲学者を指導者として起こった一般的な哲学的革命の一部を構成していました。ダーウィンの「種の起源」は、人間が理性よりも本能に振り回されるという点では動物と変わりがないことを暴く本として広く読まれました。この人間観は、小説の中で、性的情熱の動物的な描写をエスカレートさせることになりました。
文学はまた、はばかりなくエロテイックになり、性の表現は姦通、つまり罪深いエロティシズムと変態性に集中するようになりました。フランスでは、ゾラやモーパッサン、後にはピエール・ルイス、そしてイギリスでは、オスカー・ワイルドやアーネスト・ダウソンなどがこの傾向の代表的作家です。もちろん、ゴシックの影響は、江戸川乱歩や夢野久作などといった大衆文学に顕著ですが、私は彼らよりもう少し前の時代に焦点を当て、テーマよりも文体から検討を始めていきたいので、橋本氏が描く影響の鎖も、こういう対照的な見方をすると、少し異なった様相を見せるのではないかと思います。
デカダンの文体において鍵となる要素は、比喩、つまりメタフォーと語り手の視点です。文体の話になってきましたので、ちょっとここで、近代の文体の研究のための要因をはっきり設定した、野口武彦氏の「小説の日本語」という非常に大きな影響力を持つ本をご紹介してみたいと思います。
野口氏の近代小説の研究は、彼自身が言うように、現代ではほとんど読まれていない作家、岩野泡鳴(1873−1920)から始められています。野口氏の分析によると、泡鳴こそ、自然主義運動を、それまでの小説が出るに出られないでいた従来の枠の外へ乗り越えさせた、小説技法上の根本的な突破口を作った作家なのだそうです。しかし、日本の小説をまったく新しい概念の詩的感覚に導いたのは泉鏡花だといいます。
野口氏は、「比喩であることをすら越えた比喩」そして「文彩が文彩以上の何ものかである」といって、鏡花の比喩と直喩の使い方が、別世界、超現実を感知させるほど見事に突飛で幻想的であるといいます。文彩というのは、文章の飾りという意味です。通常の比喩において、実在する喩(たと)えられるものを所喩、英語でテナー (tenor) といい、不在の喩えるものを能喩、英語でヴィークル(vehicle)といいますが、たしかに鏡花の比喩は、所喩を能喩に喩えるという図式をすっかりくつがえすことによって従来の言述の様式を越えています。
野口氏はまた、鏡花の小説に神話の色を帯びた別の言語空間を見いだしますが、それはまだ幼ない時に母を失った鏡花の不幸な少年時代から来るものであると言っています。言い換えると、鏡花の別世界に棲む女怪、妖怪、お化けは、彼の心の中に本当に出没する悪霊に他ならないというのです。
さて、ゴシック小説にこれと同じような分析法をあてはめた人がいます。それはピーター・ブルックスといって、1976年に「メロドラマティック・イマジネーション」という本を書いた人で、ゴシック小説とは「超自然性探索の旅」の描写であり、白昼の自我、自己満足している心には説明できないある力の存在を再び主張するものであるといいました。つまりゴシックは神の喪失に対する一つの反動であり、ロマンテイックなあるいはポスト・ロマンテイックな世界において神話を創るのは個人でしかありえない、そして、個人のエゴがゴシックの中心的価値であると断言し、そのために世界そのものは縮小してしまうか、エゴそのものが世界になるといいます。
泉鏡花は、近年、ゴシック小説の作家であるとよくいわれるようになりました。そしてコーデイ・ポールトンが、「鏡花の初期の作品のセンセーショナリズムの大部分は、鏡花のメロドラマヘの偏愛と、彼の取り上げる題材が驚くほど革命志向であることに起因しているといっていい」と言っていますが、たしかに、鏡花の中に、メロドラマとマルクス主義との関連が見える、と言って言い過ぎであれば、少なくともこの二つの言述様式を連想させる二つの考え方がつながっているように見受けられます。
鏡花が文壇に最初のインパクトを与えたのは1890年代で、初期の作品で最も有名なのは1895年に書かれた「外科室」という作品です。この作品ではある外科医が、愛人である人妻の手術をすることになり、情事の発覚を恐れるあまりその人妻は麻酔を拒否します。遂に貴船白爵夫人と呼ばれるその人妻は、手術台の上で外科医のメスを自らの胸に刺してしまいます。ドナルド・キーン氏は、「外科室」を「どうしようもなくメロドラマティック」と評しましたが、この作品は、日本の読者の想像力をがっしりとつかみました。
ここで、ちょっと皆さんのご注意を引かせていただきたいのは、キーン氏が「メロドラマティック」という言葉を、意識して軽蔑的に使っていることです。後ほど「メロドラマ」という言葉を肯定的に定義し直す見地もあることをご紹介したいと思います。さて、「外科室」へ戻りますと、大袈裟な誇張こそこの作品の魅力の根本にあり、日本の文芸評論家が、鏡花は文章技巧もテーマも、18世紀から19世紀へかけて人気のあった洒落本や草双紙に負うところが大きいと言っているのは注目に値すると思います。また、鏡花の話の筋の出所として民間伝承を挙げる評論家もいます。勝本清一郎は、「封建末期の頽廃文学と文明開化文学との混血児が維新の幻影にとりつかれて、云々」といって、鏡花が西洋と日本の浪漫的かつ頽廃的な伝統の後継者であることを強調しました。
鏡花は超自然の物語を数多く書きましたが、彼自身お化けや魑魅魍魎を信じていたらしく、そのために鏡花の作品は、よく似た技巧を使った有島武郎のような作家よりもはるかに西洋のゴシック小説に似通っています。しかし、超自然的な妖怪が書かれているにもかかわらず、有鳥武郎の場合と同じように、読者は作者個人の心の風景をうかがい知ることができます。野口氏もこのことには注目を促しています。ゴシック小説と文体に関して、過剰性のメロドラマ的な使用法、つまり「修辞上の過剰性」を検討したブルックスの説はそのまま鏡花の小説に応用できます。
私がここで強調しておりますのは、ゴシック表現様式の中のある一部分だけです。つまり、ゴシック小説の言語と、心理を描写するのに超自然現象を使う、その使い方です。しかし、鏡花やその他の日本の作家はゴシックから表現方法を借用しただけに留まっているなどというつもりはありません。彼らの人気を沸騰させた悪霊やエロテイックな題材なども、元をたどればやはりゴシックなのです。鏡花の作品における過剰性は、「形式上の本質的なもの」であることは確かです。実際、心理の内部の風景を描く上で、そのような過剰性がいかに有意義であるかを力説するメロドラマやゴシックの研究者はブルックスだけではありません。
ファンタジーについて研究したローズマリー・ジヤクソンは、「ゴシック小説以来、不思議なこと(英語でいうとthe marvellous)から奇怪なこと(英語ではuncanny)へと徐々に移行している、つまり、ゴシック的恐怖物語リバイバルの歴史は、自我が生んだ恐れの認識および漸進的内向化の歴史である」と言っています。「uncanny」つまり「奇怪なこと」という言葉をこの文脈で使用しているのは単なる思い付きではありません。
フロイドが「ダス・ウンハイムリッヒェ」、英語では「The Uncanny」と題する有名なエッセーを1919年に出版し、「uncanny」という言葉に特別な意味を与えているからです。ローズマリー・ジヤクソンはフロイドの定義を「無意識の欲望と恐れを周囲に、そして他の人に投影する効果」と言い換えています。フロイドは、奇怪な経験を抑圧されたコンプレックス、あるいは死に対する恐怖などの原始的な信仰に結び付けます。
「これまで抑圧されていた幼い時のコンプレックスが何かの印象で再現されるような場合、あるいは、これまで克服されていた原始的な信仰がもう一度確認されるような場合に奇怪な体験が起こる」とフロイドは言います。心理的過剰性、奇怪な過剰性という形を取りながら語り手の心の奥底にある不安を鮮明に映し出すという手法で、原始的な恐怖が描写され、心の風景に息吹が与えられている最もよい例は、鏡花の作品の中では「高野聖」なのではないかと思います。
1900年に初版が出版されたこの作品は、ほとんど全編を通じて語り手の独白という形になっており、高名な僧、宗朝(しゅうちょう)がふとしたことで知り合った私を相手に物語を聞かせるという設定です。宗朝上人は、飛騨の山越えをやったとき、不思議な森の中で道に迷い、この世のものではないような恐ろしい生き物に次から次へ出くわしたあと、やっとのことで一軒の山家へ辿り着きます。この山家には、鏡花の言葉を使うと、唖か白痴のような少年と美しい女が住んでいます。
一夜の宿を頼むと女は承知し、滝に導いて怪しく煽情的に体を洗ってくれますが、僧侶の身なので宗朝はぐっとこらえます。その間にも不思議な生き物が人れ替わりたち代わり寄って来ますが、女はそれを邪険にふり払います。しかしなぜか女は白痴のような少年にはやさしいのです。上人は、次の日、山家を出ますが、女への想いがつのってどうしようもなくなり、山家へ取って返します。
その途中、昨日山家でちらっと会った親仁おやじに会います。親仁は女が超自然の生き物で、男を誘惑し、飽きると様々な動物に変えてしまうのだが、昨夜宗朝が助かったのは彼の優しい性質のために違いないと話してくれます。上人はここで話を終えて行きずりの話相手である私から去っていき、この話は終わります。
ストーリーは、旅人である私、上人、そして親仁という三者の語りが混ぜあわさり、二重三重に重なっています。このような複雑な語りの構造を好む傾向と、そして鏡花がこの作品で明らかに語り直している神話や寓話の使い方についてはこれまでにも何度か取り上げられています。しかし、何よりも、鏡花の他の作品もそうですが、この作品が日本の読者に衝撃を与えたのは、彼の小説言語です。
鏡花の小説言語は、詩的で緻密であり、彼の描くイメージは、その速度と動きがまるで映画のようです。三島由紀夫は、鏡花のことを、「夢や超現実の言語的体験といふ稀有な世界へ踏み入っていた。」と言う一方で、修辞上の過剰性と心理上の過剰性をつないで、「彼の自我の奥底にひそむドラマだけしか追及しなかった。」ともいっています。また、評論家の吉田精一氏は、「高野聖」について「読者が文とともに運び去られて、あと戻りが出来ない」といっています。
そして、批評家の川村二郎氏は、「説話体とは、物語の世界が日常から遮断された仮構の別世界であることを強調するための表現方法である。物語の登場人物が、自己の見聞としてまた一つの物語を報告する。登場人物のおかれている場がすでに、日常の空間とは別種の仮構空間であるわけだが、この空間の中にさらに新たな仮構が嵌めこまれる時、その新たな空間の、日常からの距離は、大幅に拡大することになる。」といいます。このコメントは、小説全般にあてはまるかも知れませんが、仮構の空間が言語で構築されるという考え方は、注目しておく必要のある要素だと思います。
もし「高野聖」から特定の例をとって考察してみると、鏡花が景色の描写をするとき、超自然なものへの恐怖というゴシック風な色調を与えているのがわかります。そしてその色調は、外界の現実と同じぐらい、内部の現実をも反映しているのです。ここで、「高野聖」の第8章、上人が飛騨の山越えの道中に、暗い森に入り込んで、頭の上の樹の枝から笠の上に何かが落ちてきたところを引用してみます。
鉛の錘(おもり)かとおもう心持ち、何か木の実ででもあるか知らんと、二三度ふってみたが付着(くっつ)いていてそのままには取れないから、何心なく手をやってつかむと、滑らかに冷ひやりと来た。
見ると海鼠(なまこ)を裂(さ)いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投げ出そうとするとずるずるとすべって指の尖(さき)へ吸いついてぶらりと下った、その放れた指の尖からまっかな美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚(びっくり)して目の下へ指を付けてじっと見ると、今折り曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂れかかっているのは、同じ形をした、幅が五分(ぶ)、丈(たけ)が3寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
あっけに取られてみる見るうちに、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太っていくのは生血(いきち)をしたたかに吸い込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞(しま)をもった、疵胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは(ひる)じゃよ。…ともはや頚(えり)のあたりがむずむずしてきた、平手(ひらて)で(こ)いてみると横撫(よこなで)に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋ぴき、蒼くなってそツと見ると肩の上にも一筋。
思わず飛び上がって総身(そうしん)を震いながらこの大枝の下をいっさんにかけぬけて、走りながらまず心覚えのやつだけは夢中でもぎ取った。何にしても恐ろしい、今の枝には蛭がなっているのであろうとあまりのことに思って振り返ると、見返った樹のなんの枝か知らず、やっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
これはと思う、右も、左も、前の枝も、なんのことはないまるで充満(いっぱい)。
私(わし)は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、するとなんと?このときは目に見えて、上からぽたりぽたりとまっ黒なやせた筋の入った雨が体へ降りかかってきたではないか。
この段では、景色の輪郭とともに自然界の基本要素そのものが恐ろしい吸血蛭に変形されています。このシーンは、幻か現(うつつ)かわかりませんが、美しい女の姿を借りて人の生き血を吸う魔性のものが棲む山家で上人を待っている危険を象徴的に前触れしているのです。この女の吸血鬼のような性的渇望は、蛭という自然の一部に変形されています。その言語は、見かけは現実的なようでも妖怪が恐ろしさを増すにつれ底にあるゴシック風のファンタジーが透明になっていきます。
文体はリズムがあって非常になめらかです。「ビクトリア時代の小説ではゴシックの同化がぎこちないため、現実的な主文の中に、もう一つの非現実的なテクストが、カモフラージュされていたり隠れていたりしても必ず存在することがよくわかる」といってローズマリー・ジヤクソンが言語表現におけるゴシック様式をビクトリア時代の小説にあてはめてみせましたが、そのほとんど完璧な実践例をここに見るような気がします。
言葉を変えていうと、心理的におおげさな表現の裏にはもっと暗いモチーフがあるということです。これから「高野聖」からの引用を読んでみますが、鏡花が描く世界の終焉のような情景は、作者が持っているといいたいところですが、少なくともこの物語の語り手が持っている深い不安感を暗示しています。フロイドの「uncanny」つまり「奇怪さ」という概念に少し手直しをしたヘレーネ・シシューという人の説も鏡花の文章に適応します。シシューは、「奇怪さに近親感がないのは、それが、置き換えられた性的な不安感であるばかりでなく、純粋なる不在である死との遭遇のリハーサルでもあるからだ」といっています。第9章の先に読みました引用部分のすぐあとに続く部分で、たつた今目撃したばかりの恐ろしい情景について上人が立ち止って考える場面を読んでみます。
およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮(うすかわ)が破れて空から火の降るのでもなければ、大海が押しかぶさるのでもない、飛騨国(ひだのくに)の樹林(きばやし)が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代(だい)がわりの世界であろうと、ぼんやり。
なるほどこの森も入口ではなんのこともなかったのに、中へ来るとこのとおり、もっと奥深く進んだらはや残らず立樹(たちき)の根の力から朽(く)ちて山蛭(やまびる)になっていよう、助かるまい、ここで取り殺される因縁らしい、取り留めのない考えが浮かんだのも人が知死期(ちしご)に近づいたからだと、ふと気が付いた。
この時点で、語り手である上人はある種の悟りに達します。彼は自分の恐れを白昼にさらけ出してみせたのです。死ぬかも知れないという可能性をまっすぐ正視し、今見た世界の終末のような情景は、死との対決が生んだものだと一旦気づいてみると、先に進むために必要な力が内から湧いて来ます。鏡花はその次の文章で「そう覚悟が決まっては気味の悪いも何もあったものじゃない…」と書いています。
「覚悟」が決まったから恐怖に打ち勝ち前進することができたわけですが、「覚悟」という言葉は、真実を知るという意味でもあります。また仏教の「道理を悟る」という意味も含まれています。旅の上人が飛騨の森林に分け入る恐ろしい旅は、僧侶としての悟りへの旅でもあるのです。語り手を襲うゴシック的な恐怖は、彼自身の心理を内省してはじめて知覚されており、フロイドやシシューの言う「奇怪性」にぴつたりの実際例と言えるでしょう。
「高野聖」では、ブルックスのいうメロドラマ的過剰性がこなれて和風のゴシックになっているようです。鏡花のテーマとテクニックは伝統的な江戸後期の読本よみほんを受け継いでいるようですが、鏡花の作品とヨーロッパのゴシック小説とは、表現方法への関心が並んだ線上にあることやロマンティックなファンタジーの使い方などから見て、ただよく似たジャンルに属するというだけではないほど近似しています。鏡花とエミリー・プロンテのようなヨーロッパのゴシック作家とがなぜ共通の問題意識を持っているのかを探るのは大仕事ですが、二者が近似していることには疑いがないと思います。
鏡花の小説技巧は、あいまいさを見事に駆使します。旅の僧が語ったことはただの幻覚だったのか、それともこの超自然的な恐怖物語は、どうしてかはわからないけれども本当に起こったことを語ったものなのかは知るよしもありません。野口氏は、「鏡花の小説言語にあっては、所喩(テナー=実在する喩えられるもの)と能喩(ヴイークル=不在の喩えるもの)とは互いに自在にその位置を変えるばかりでなく、一つに融即する… 言語宇宙なのである。
鏡花の小説言語は、この互換性原理にしたがって、現実と超現実との二つの言語秩序、二重の言語意味作用を持つ。」といいます。この引用は少しわかりにくいのですが、野口氏は、目の前にある何か(所喩=テナー)を目の前にない他のもの(能喩=ヴイークル)と比較する際に、鏡花の小説では、その両者の境目があいまいになり、どちらも現実に存在しないものを比較したりしているので、意味が反対になっても差しつかえがないという事態が起こり、その結果、独特の超自然的雰囲気がかもしだされていると言いたいのだと思います。
所喩(テナー)とか能喩(ヴィークル)という言葉は、1936年にイギリスの言語学者、I・A・リチャーズが比較的単純なアイデアを説明するために考案した言語学の専門用語です。実世界のものと、別世界、夢の中の世界、またはファンタジーやイメージの中の世界のものを比較して、比較の対象が逆さまになったり、時には同一になったりするのは鏡花の小説の特徴です。
言い換えれば、この意味のあいまいさは、鏡花の文体の基盤そのものが生むものであり、これこそ鏡花の作品の根本なのです。このあいまいさは、後期浪漫主義を自我について意識しながら探索してみれば必ず辿り着く近代特有の「不信の停止」をもたらします。(「不信の停止」とは、文学に使う言葉で、読者が作品を読むときに虚構の内容を一時的に真実として受け入れることを意味します。)
根本的に、ゴシックとはロマン主義の伝統から生まれた芸術探求の様式です。しかしロマン主義が日本文学に吸収されていった過程についてお話しするだけの時間は今日はありませんので、またの機会に回させていただきたいと思います。また、谷崎潤一郎の初期の作品に見られるゴシック的な面についても深く掘り下げていく時間も今日はありませんが、ただ、谷崎の初期の作品にみられる独特な文体上の要素の中に、ゴシックと結び付けられるものがあるように思いますので、ここでちょっと簡単にお話ししたいと思います。
谷崎は、鏡花と比べてずっと意識的に心理小説を書いた作家です。初期の作品でさえ谷崎は、ペンから溢れ出る文章の彩(あや)や比喩をしっかりとつかんで操ることができているように思えます。谷崎を論ずるとき、よくオスカー・ワイルドが引き合いに出されますが、ワイルドと同じように谷崎は常に素材を手にとってコントロールしていますし、またワイルドと同じように自分のアイデアを表現するとき、様々な新しい方法をためらいなく試しています。
ワイルドの代表作である「ドリアン・グレイの肖像」の中心となるモチーフは、芸術家と芸術の関係です。芸術家は自分の芸術に蹴押され、ワイルドの文章には、芸術が芸術家を圧する力を表現するサド・マゾ的な比喩がちりばめられています。谷崎は、1910年に「刺青」を書いたときはまだ24才に過ぎませんでしたが、作家として成熟した最初の作品で、やはり明白にサド・マゾ的な隷従の比喩が見られます。
「刺青」は、多分皆さんご存じのことと思いますが、江戸時代に設定された筋は単純そのものです。清吉という若い刺青(ほりもの)師は、針で男たちを痛めることを喜ぶという人知れぬ快楽と、いつか光輝(こうき)ある美女の肌へ己の魂を彫り込みたいという宿願を持っていました。
ある日、江戸の深川で清吉は篭(かご)から女の足がのぞいているのを見ます。すっかりその足に惚れ込んだ清吉は、しばらくしてその足の主の娘に偶然出会います。これから芸者に出ようというその娘は清吉に睡眠薬を飲まされます。眠っている間に清吉入魂の女郎蜘蛛を背中一面に彫られた娘が眠りから覚めると、状況は反転して清吉ではなくその娘が主(ぬし)になっているという筋です。
「刺青」においては、「高野聖」のように、筋のテクストに平行する自然現象のテクストというものが一切ありません。谷崎の文体が作り出す絢爛(けんらん)として異様な雰囲気は、鏡花の超自然現象ないし心理現象とは全く違います。それは、語り手の声が明らかに皮肉っぽいからです。
この意味で、谷崎の語り手は、立派に一人の登場人物として存在感を持っています。そもそも冒頭の「それはまだ人々が「愚か」といふ貴(たふと)い徳を持つて居て、世の中が今のやうに激しく軋み合はない時分であつた。」という書き出しからして、鏡花の「高野聖」の語り手には見られない自己意識的な皮肉っぽさを見せています。
「刺青」のゴシック的要素は、清吉の心理描写にもあり、話が展開していくにつれて明かされていく女の隠れた凄さにもありますが、単なるゴシック風の恐怖小説ではありません。なぜでしょうか。それは皮肉っぽい語り手が恐怖小説のすさまじさを読者に語りながらも少し距離をおくことによってある種のユーモアをほのかに感じさせるからです。
劇的に残酷な話の筋は、明らかにサド・マゾ的心理を描きながら、「高野聖」にみられるコントロールのきかない夢の世界ではなく、作為をもって表現された欲望という安定した語りの枠組みの中でその役割を果たしています。清吉のサド・マゾ的偏執狂ぶりは、これから読みます引用によく現われています。
この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んで居た。彼が人々の肌を針で突き刺す時、真紅の血を含んで膨れ上がる肉の疼きに堪えかねて、大抵の男は苦しき呻き声を発したが、その呻きごえが激しければ激しい程、彼は不思議に云い難き愉快を感じるのであった。
彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を彫り込むことであつた。その女の素質と容貌とについては、いろいろの注文があつた。啻(ただ)に美しい顔、美しい肌とのみでは、彼は中々満足することが出来なかつた。
これは作為の透けてみえる心理描写で、そういう意味でゴシックは、表面に出ている、背景よりも前景に置かれていると言えるでしょう。この作品の暗い副文脈は、かなり早いうちからはっきりと示される女の中のサディスティックな傾向に潜んでいます。これはまさに先程申し上げました「奇怪さ」と呼ぶべきものだろうと思います。
「これはお前の未来を絵に現はしたのだ。此處に斃れて居る人たちは、皆これからお前の為に命を捨てるのだ」
こう云つて、清吉は娘の顔と寸分違わぬ画面の女を指さした。
「後生だから、早くその絵をしまってください」
と、娘は誘惑を避けるがごとく、画面に背いて畳の上へ突っぷしたが、やがて再び唇をわななかした。
「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持っていますのさ。
その「奇怪さ」は、また女の背中の彫りものが完成したときその全容を現わします。しかし、語り手がこの女の性質を先に予告しているので、読者には女の残酷さを目の当たりにしても特別意外だとは思いません。「痴人の愛」のナオミが譲二の作り上げたものであるように、この残酷さは清吉の作り上げたものだといわれるかも知れませんが、谷崎の自己意識の強い語り手は、様々な手法で最初からその可能性をほのめかしています。
谷崎の小説には鏡花の小説同様に、人物の魂、そして世界そのものの描写の底に、同じような暗い要素があるのがわかります。その意味では二人の作家を結ぶゴシックの糸が見えると言ってもいいかも知れませんが、決して全く同じではないのです。谷崎の使うゴシック風の語りは、明らかに非常に意識的な使い方で、多分これは鏡花よりも谷崎の方がゴシックの伝統をよく知っていたからではないかと思います。
谷崎も鏡花のように、草双紙の影響を受けており、また有島武郎のような日本のゴシック作家などの影響も受けていますが、谷崎は、19世紀後期の西洋のゴシック作家たちを広く読んでいて、アイデアを借りるにしても鏡花よりよほどあからさまに借りています。そういう意味で、谷崎は形というものをわざともて遊んでいます。これは初期の作品より後期の作品にはっきり見られます。
大正時代の作家がこういう谷崎から受けた影響はあまりに大きく、ゴシツクをロマンスの一様式にしか過ぎないとか、作家として好きなように使ったり捨てたりできる表現の一様式とみなすまでになりました。つまり、谷崎こそ、日本のモダニズムの基盤の一つとしてゴシックを確立した一連の作家たちの鎖の最後の輪なのです。
ゴシック小説
18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した中世趣味による神秘的、幻想的な小説。ゴシック・ロマンス(Gothic Romance)とも呼ばれ、その後ゴシック・ホラーなどのジャンルも含むことがあり、今日のSF小説やホラー小説の源流とも言われる。
ゴシック・ロマンスの流行
イギリスの作家ホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」(1764年)がその先駆である。イギリスでは16、17世紀には大陸から輸入されたロマンスやピカレスクが盛んに読まれたが、その後はリアリズム小説の流行で下火になる。ウォルポールは別荘のストローベリ・ヒルを改築して自分好みの中世ゴシック風に仕立ててこれが大変な評判になり、またある日に見た夢をもとに中世の古城を舞台にした幻想的な小説「オトラント城奇譚」を書き人気を集めた。ストローベリ・ヒルと「オトラント城奇譚」はゴシック・リヴァイヴァルの契機となるとともに、ゴシック趣味の流行に決定的な影響を与え、クララ・リーブ「イギリスの老男爵」(1777年)、東洋趣味的なウィリアム・トマス・ベックフォード「ヴァテック」(1786年)、アン・ラドクリフ「ユードルフォの秘密」(1794年)、「森のロマンス」(1792年)、「イタリアの惨劇」(1797年)、マシュー・グレゴリー・ルイス「マンク」(1795年)、チャールズ・ロバート・マチューリン「放浪者メルモス」(1820年)など、幽霊や怪物、その他の超自然的な現象を登場させたり、イメージとして指し示すような作品が書かれた。ウィリアム・ゴドウィン「ケイレブ・ウィリアムズ」(1794年)は政治性の強い犯罪小説風のゴシック小説だが、その娘のメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」(1818年)も傑作の一つに数えられる。
これらの作品は「恐怖派(The school of Terror)」とも呼ばれ、それまでの幻想的な作品が信仰や伝承、迷信の世界を描いたのに対して、超自然的な驚異にまつわる恐怖やサスペンスを主題にしており、近代小説の手法によるロマンスとも言える。多くがイギリスではない大陸を舞台にしているところも特徴の一つ。「フランケンシュタイン」では人造生命という、純粋に空想の所産による恐怖を生み出した点でも画期的である。
時代背景
ゴシック的嗜好は、1740年代には墓場派と呼ばれる詩人たちに現れており、その一人トマス・グレイはウォルポールの友人でもあった。また当時のロマン主義や、ピクチャレスク的な美意識も時代的感性として育っていた。18世紀イギリスの流行であるサミュエル・リチャードソンなどの感傷小説(Sentimental Novel)で登場する薄幸の乙女の成長は、ゴシック・ロマンス作品では「迫害される乙女」テーマとして取り入れられている。
19世紀初頭になると、ファンタスマゴリアと呼ばれる幻灯機の興行が始まり、幽霊や怪奇現象を映像として見せる、小説よりも強烈な刺激として人々を惹き付け、次いで大衆雑誌の興隆の中で残虐な犯罪実話を元にした娯楽読物に人気が集まるなどしたことで、ゴシック・ロマンスの人気は終焉する。
ゴシックの系譜
イギリスでの流行は19世紀初めに終わるが、フランスでは「オトラント城奇譚」が1767年に翻訳されて以来ゴシック小説は大いに読まれて、サド侯爵「小説論」で礼賛され、またシャルル・ノディエが影響を受けた作品を書いた他、ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」(1911年)などが生まれ、フレンチ・ゴシックと呼ばれる。ドイツでもこれらの影響によりゲーテ「ドイツ亡命者の談話」や、シラー「招霊妖術師」などが書かれた。アメリカでは「緋文字」(1850年)のナサニエル・ホーソンや、「アッシャー家の崩壊」(1839年)「大鴉」(1845年)などのE.A.ポーがその系譜を継ぐ作家であり、ハーマン・メルヴィルも「幽霊船」(1855年)などがゴシック小説的作品と言われる。イギリスでもシェリダン・レ・ファニュや、ブラム・ストーカー「ドラキュラ」(1897年)など、この分野の怪奇小説が書かれる。
ゴシック小説的手法を用いた作品として知られるものには、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」(1847年)や、トマス・ピンチョン「V.」(1963年)がある。「オトラント城奇譚」は20世紀になるとシュルレアリスト達によって再評価され、特にアンドレ・ブルトンはこの作品が夢から着想を得た点に注目した。アメリカではシャーリイ・ジャクスンら、ゴシック・ノベル、ゴシック・ホラーなどと呼ばれる現代的ゴシック小説が高い人気を保っており、1990年代にはポスト・モダンがE.A.ポーと言われるパトリック・マグラアなどのニュー・ゴシックが注目された。
ゴシック小説定番のモチーフは、怪奇現象、宿命、古城・古い館、廃墟、幽霊などであり、それらは現代のゴシック小説でも継承されている。
 
「谷崎潤一郎」考

 

初期の短編小説
筆者が谷崎潤一郎を初めて読んだのは、まだ高校生の頃だった。「刺青」はじめ短編小説を何本か読んだあと「痴人の愛」を読んだのだが、その濃艶な文体と異様な人間心理の描写に圧倒されながらも、何ともいやな気分に陥り、それ以上読みすすむのを放擲してしまった。この文学はどこかに異常なところがある、それは単にそれ自身が異常であるばかりか、読むものまで異常にしてしまう、こんなものばかり読んでいると、きっと頭がおかしくなってしまうにちがいない。筆者は未発達で青臭い知性を以て、そんな風に考えたのだった。
中年になって分別の定まる頃、再び谷崎潤一郎の世界に挑戦した。今度は抵抗なくすらすらと読み進むことができた。というより筆者はすっかり谷崎の世界の虜になってしまったのである。そんなわけで、中央公論社版の谷崎潤一郎全集をかたっぱしから読み漁った。一篇また一篇と読むごとに、筆者は谷崎の世界の奥深さに圧倒されたのである。
そこで筆者は、何故自分の少年時代には谷崎に嫌悪感を覚えたのか、その理由を考えてみた。結局世間知らずだったというのが結論のようなものだった。自分はまだ経験が浅く、性愛のこともまともに知らないばかりか、この世の中には、サディズムだとかマゾヒズムだとか、性的フェティシズムだとか性同一性障害だとか、したがってゲイとかレスビアンとかいった人々の存在も、決して不思議なことではないのだ、ということがわかっていなかった、それ故、そういった世界を正面からとりあげた谷崎の世界が、少年の自分には理解を超えていたのではないか。そんな風に考えたわけである。
谷崎の世界は無論、上述したような倒錯的な世界にかかわるものばかりではない。「細雪」をはじめとしたリアリズム風の作品世界もある。そうではあるが、やはりその真骨頂と言うべきものは、人間の性的な、あるいは常軌を逸した側面に焦点を当てた作品群だろう。谷崎のもっとも谷崎らしいところは、人間の本質を、異常性を通じてあぶりだすことにある、と筆者は考えるようになった。
そういう意味からすると、谷崎の初期の短編小説群には、谷崎が生涯にわたって展開することになったテーマが、網羅的に出ている、と言うことができるのではないか。
こんな問題意識から、谷崎潤一郎の初期の短編小説をいくつか読みなおしてみた。中公文庫版「潤一郎ラビリンスT 初期短編集」所収の、刺青、麒麟、少年、幇間、飆風、秘密、悪魔、恐怖の諸編である。
「刺青」は実質的に谷崎のデビュー作と言ってよい作品だが、ここで谷崎が描き出したのは、肉体性へのこだわりである。人間というものは、当たり前のこととはいえ、肉体でできている。その当たり前のことを、谷崎は当たり前に描き出したのである。しかし、当たり前が当たり前すぎると当たり前でなくなることがある、それは人間を、心を持っているということを度外視して、ただただ肉体からできているのだということにこだわることから起きる。谷崎は、人間とは肉体以外の何物でもないということを、この作品の中で徹底的に主張しているのである。
それ故、この作品は、女の肉体を描いているにもかかわらず、官能的な雰囲気を持っていない。ウェットなところがいささかもなくて、乾ききっているといっても良いくらいにドライでクールなのである。
彫り物師が若い女の脚を見て、その持ち主が超一流の肉体からできていると直感し、その素晴らしい肉体に刺青をほどこしたいと願う、そして遂にはその願いがかなって、女の肉体には巨大な蜘蛛の刺青が出現する。その過程を描いているに過ぎない。最後に、十六七のうら若い女が、未成年から成熟した女へと変身するのであるが、それは精神性の成熟によってではなく、肉体の変化によってもたらされた結果なのである。つまり少女は別の肉体に生まれ変わることで、真の女になるわけなのだ。
「麒麟」は伝道の旅を続ける孔子の一行が、衛の君主夫人によって誘惑される話である。孔子は誘惑に負けることはないが、かといって衛の夫人を改心させるわけでもない。孔子の精神世界と夫人の肉の世界とはどこまでも並行していて、決して交わることはないのである。こういうことで谷崎は、肉の世界の自立性を語っているようである。
「少年」は、幼い子どもたちの間で形成されるサド・マゾ関係を描いた作品である。主人公の少年たちは、はじめのうちは仲間の少女に対してサディスティックな暴力を加えているが、そのうちその関係が逆転して、少女に暴力を加えられる立場になる。ところがその暴力を、少年は苦痛と感じるのではなく、愉快に感じるのである。つまり、それまでサディスティックな加虐の喜びに耽っていたものが、今度は被虐を喜ぶマゾヒストの境地に転変する。谷崎はそれを、少年の心を舞台に描くことで、サド・マゾのあり方が人間には自然に根差しているのだということを言いたいのかもしれない。
「幇間」は、他人に虐待されることに喜びを感じる道化師の話である。幇間と言うのはもともと、他人に馬鹿にされながら、人様を喜ばすことが商売なのだが、その馬鹿にされるということが、商売の都合ではなく、本当の喜びになってしまった、そんな男の業のようなものを描いたのがこの作品なのである。
「飆風」は男の性欲を描いた作品である。決して浮気はしないと女に約束して旅に出た男が、行く先々で性欲の衝動に苦しむという他愛ない話だ。半年ぶりに東京に戻ってきた男は、真っ先に女のもとにはせ参じ、長い間抑圧してきた性欲を一気に開放するのだが、興奮のあまりに発作を起こし死んでしまう。今でいえば腹上死だ。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、その馬鹿馬鹿しさをまじめくさって描いている、というのがこの作品なのだ。
「秘密」は、女装して街を歩くことに喜びを感じる男の話だ。つまりトランスジェンダーがテーマなのだが、わからぬことに途中からトランスジェンダーのテーマは吹き飛んでしまい、つまらぬ異性愛の物語に終わってしまう。そこのところが中途半端だが、女装するトランスジェンダーをテーマに取り上げたのは、恐らく谷崎が最初ではないか。
「悪魔」は、従姉から漂ってくる性的な魅力に心を惑わせられる男を描いた作品である。男は従姉に対する愛を実現することができない。そのかわりにその代替行為に走る。従姉が鼻を噛んだハンカチを秘かに持ち歩き、機会をみてはそれを舐めるのである。鼻汁の何とも言えない嫌なにおいが、男の性欲をますます掻き立てる。鼻汁を舐めることはセックスの代替行為なのであり、マスターベーションのようなけちなものではない。そんな風に描かれているわけである。
「恐怖」は列車にのるとパニックになるという、一種の強迫神経症のような症状を描いている。谷崎の手にかかると、たんなる脅迫神経症も、人間の心の不安を表す極限的な状況として迫ってくる。
こんな具合に見てくると、谷崎が初期の短編小説群を通じて、人間の肉体性や性欲、そして心の不安と言ったものに、こだわっていたことがわかる。  
「神童」と「異端者の悲しみ」
谷崎潤一郎の二遍の中編小説「神童」と「異端者の悲しみ」は、ともに谷崎自身の自伝的色彩が強い作品だと解釈されている。前者が少年時代を、後者が作家としてデビューする直前の青年時代を描いたものだということになっている。
こうした解釈が広がった背景には、谷崎自身のコメントも作用している。谷崎は「異端者の悲しみ」の「はしがき」のなかで「周囲の人物は別として、少なくとも此の小説の中に出てくる四人の親子だけは、その当時の予が心に事実として映じたことを、出来る限り、差し支へのない限り、正直に忌憚なく描写した物」であり、「此の意味において、此の一篇は予が唯一の告白書である」といっているのである。
実際、「異端者の悲しみ」の中で描かれている主人公の妹は、谷崎の一番上の妹園をモデルにしているというのが定説になっている。
それにしては大胆な描写である。もしもこれらの小説の中の主人公の姿や考えが、現実の谷崎自身を描いているのだとしたら、これほど自虐的な自己描写はありえないだろう。というのも、これらの作品に描かれた主人公は、およそ健全性とは縁遠く、堕落しきった、悪徳の塊のように見えるからである。それは、後になって谷崎が「痴人の愛」などで描いて見せたあの倒錯した生き方が、実は自分自身の生き方でもあったということを、公然と認めたといってもよいほどだ。
そうだとしたら、谷崎は自らの倒錯した人生観を、作品の中でそのまま展開したのだということになる。谷崎が描き出した妖艶で背徳的な世界は、谷崎の頭の中にだけ存在するファンタスティックな作り物などではなく、谷崎自身の実人生を投影しただけなのだといえそうだ。谷崎は作品の世界のみならず、現実の世界にあっても、世人の目から見れば倒錯した生き方に沈殿していたということになるわけだ。実際、谷崎は実人生においてもマゾヒストであったとか、あるいはサディスティックな面をもっていたなどの証言もある。
「神童」は、神童と呼ばれるほど頭の好い少年の物語である。少年春之助は、自分自身でも頭が良いと自認し、周囲からもおだてられているうちに、至極傲慢な人間となり、子ども仲間はもとより、学校の先生や自分の両親でさえ軽蔑しないではいられない。自分は古の聖人君子と肩を並べる偉い人間なのであり、周囲の大人たちは無自覚に生きているだけの情ない連中なのだ。
「神童」の春之助は両親と妹との四人家族で日本橋薬研掘のあばら家に住んでいるが、家が貧しいために、小学校卒業後あやうく丁稚奉公にやられそうになる。少年は、自分のような聖人君子がこのまま丁稚になるのは世の中の不合理だと反撥する。そこへ幸いに、学校の校長が春之助の才を惜しんでくれ、春之助の父親の店の主人に頼み込んで、学資を出させる算段をしてくれる。こうして少年は、主人の家に寄宿しながら学校に通うかたわら、主人の子どもたちの家庭教師役を務めることとなる。
このあたりのシチュエーションは、谷崎自身の少年時代を反映していると言われる。谷崎の実の父親倉五郎は婿養子に入ったのだが、家業を傾けて、息子の潤一郎を中学校に通わせる経済的余裕がなかった、そこで谷崎の才を惜しんだ小学校の教師が、住込みの家庭教師の口を世話してやり、谷崎はそのおかげで中学校に進学できた。こうした少年時代の自分の境遇を、谷崎はこの小説の中で、再現しているわけである。
主人の家に住み込んだ「神童」春之助は、その小さな世界にあって、自分の身の丈に合った生き方をするようになる。傲岸不遜な春之助でも、自分の立場はよくわかっているから、主人夫妻に対しては、犬のように服従する一方、自分より弱い者、たとえば主人の長男玄一には居丈高な態度をとり、時には頭を殴ったりして虐待する。主人の子どもでも、自分より年上の娘鈴子には慇懃な態度で接する。数人いる女中との関係では、それぞれとの間で微妙なバランスをとっている。春之助は、心の中では相手を馬鹿にしながらも、人間関係には相応に気を使うわけなのだ。
「世の中は出鱈目である。自分は天才である」 これが春之助のモットーだ。春之助はこのモットーを心の中に掲げて、世の中を斜視している。ところが、そんな春之助を悩ませることがひとつあった。それは、主人たちの贅沢をつくした暮らしぶりが、うらやましく映じたことである。主人たちは毎晩うまいものを食い、歌舞管弦に打ち興じている。春之助にはそれがまばゆく映るのだが、不幸なことに、自分はその輪の中に入れてもらえない。それでも、なにかの拍子に御馳走の御相伴にあずかれることもある。そうこうしているうちに、春之助は、なんとかしてその御相伴にあずかる機会が増えないものかと、賤しいことばかり考える卑劣な人間になっていく。
春之助は、自分が天才であることなど忘れてしまって、目先のことばかり考える、情けない状態に陥っていく。そうなると、自分の欠点ばかりが目につくようになる。自信を失った春之助は、自分の容貌にも自信が持てなくなる。容貌の醜さに加え、運動能力の拙劣さも自虐のタネになる。ようやく思春期に差し掛かろうという頃になった春之助は、マスターベーションの悪癖に耽るようになる。こんなことをせずとも、生きた女を抱くことができたらどんにかいい気持ちがするものかと、マスターベーションをしながら、春之助はますます落ち落ち込んでいく。
こうして春之助は、「己は子どもの自分に自惚れていたような純粋無垢な人間ではない」と気づくのであるが、その一方で、「己はいまだに自分を凡人だと思うことはできぬ。己はどうしても天才を持っているような気がする」と思わないではいられないのである。
「異端者の悲しみ」は、大学生になった春之助が章三郎という名前で登場する。章三郎は両親の家でゴロゴロしている。大学の友人との間で不義理なことがあって、大学に行けない事情があるのだ。そこで章三郎は自分の部屋にこもって妄想に耽ったり、便所に閉じこもってマスターベーションに熱中するのである。
章三郎の妹は肺結核で死にそうな状態にある。そんな妹に対して章三郎は一向に同情することがない。章三郎は、自分のこと以外に気を使うということがないのだ。
章三郎は時々大学の学生仲間と羽目をはずして遊ぶことがある。金がない章三郎は、他人の懐をあてにするのだが、そのことが章三郎を卑屈にし、幇間のような人間にしていく。学生仲間はそんな章三郎を、気晴らしのタネくらいに考えて驕ってやることもある。
こんな具合で、この小説は章三郎と言う人間の、人間として鼻持ちならない側面を、オン・パレードのように盛り込んだ作品だ。「神童」もそうだが、読んで面白いということはない。不愉快な気分になるのが関の山だ。
一体、谷崎はどんなつもりでこんな小説を書いたのか、読んでいて不可解な疑問に駆られることもある。しかし、そんな疑問を小説の持つ勢いのようなものが吹き飛ばしてしまう。不思議な作品だ。  
「母を恋ふる記」
谷崎潤一郎の母関は美しかったらしい。浮世絵にもなったというから、相当の美人だったに違いない。関には姉妹が二人あって、彼女らもまた浮世絵になるほど美しかったらしいが、潤一郎の母関は群を抜いて美しかった。少なくとも息子の潤一郎はそう思い込んでいたようである。
そんな母親の美しい姿を、夢のように歌い上げたのが、短編小説「母を恋ふる記」だ。この小説の中の、潤一郎と思われる小さな男の子は、母親を恋い求めて歩き続ける。そうしてその男の子の前に現れた女は、雪のように白い肌をもった美しい女であった、いや美しくあらねばならなかった。なぜなら男の子である潤一郎は、夢の中で美しい母親を恋い求めていたからだ。
この小説を谷崎が書く二年ほど前に、母親の関が死んだ。母親が生きていた頃、谷崎は「神童」や「異端者の悲しみ」といった自伝風の作品の中で、自分の母親像に触れないわけではなかった。そこで谷崎が書いた母親像は、生活力のない、気の弱い女であった。息子にとっては、心やさしい母親として描かれてはいたが、しかし、美しい女としては描かれていなかった。
谷崎はこの作品の中で、自分の母親を、心優しいばかりか、美しい女として描いた。そうすることで、母親に対して抱いていた自分の気持ちに、ひとつの区切りとしての形を与えたかったのかもしれない。それは男の子なら誰もが抱く母親像の典型と言えないでもないが、それにとどまらない余剰のようなものもある。その余剰の部分が谷崎だけの母親体験に根差したものであることは、間違いないところだろう。
この小説は、夢物語という体裁をとっているが、最初からそのことが明示されているわけではない。というのもこの小説は、主人公の男の子による一人称の語りという体裁をとっているからだ。語りと言うのも当らないかもしれない。語りは語りかけられる相手を予想しているが、この小説の中の少年は別に誰かに対して語りかけているわけではない。ただ自分に向かって呟いているに過ぎないのだ。
少年は自分の目に映る眺めを、自分に向かって確認するようにつぶやくのである。少年は松並木の間の細い道をどこまでも歩いていく。左手には海があり、右手には沼があるようだ。少年は左手から海の音を聞き、右手には沼に映った月影を見ながら、どこまでも前へと歩いていく。少年は母親の姿を追い求めているのだ。
やがて家灯りが見え、その家の中で一人の女が台所仕事をしているのが見える。少年はその女が自分の母親に違いないと早とちりする。しかし女は少年の母親などではなかった。少年はその女に空腹を訴えるが、女は邪険にも少年を追い払う。
少年はなおも、その細い道を歩き続ける。すると月明かりの中に一人の女が浮かび上がる。女は三味線を弾きながら新内節を歌う。肌は月明かりを受けて雪のように白く、三味線の立てる響きが「天ぷら食いたい、天ぷら食いたい」と聞こえる。無意識ながら少年の空腹がそうさせるのかもしれない。
少年はこの女が自分の母親だとは、最初のうちはわからない。だから小母さんと呼びかける。その小母さんが目に涙を浮かべて泣いているように見える。するとその女は「これは月の涙だよ。お月様が泣いていて、その涙が私の頬の上に落ちるのだよ」といって、自分が泣いているということを認めようとしない。
しかし、その女が泣いていることは間違いないことなのだった。少年がそのことを問い詰めると、女も自分が泣いていることを認め、「お前は何が悲しいとお云いなのかい? こんな月夜に斯うして外を歩いて居れば、誰でも悲しくなるじゃないか。お前だって心の中ではきっと悲しいに違いない」と少年にいう。
こう言われた少年は、自分も悲しいと言って、女とともに泣く。すると女は、「おお、よく泣いておくれだねえ。お前が泣いておくれだと、私は一層悲しくなる。悲しくって悲しくってたまらなくなる。だけど私は悲しいのが好きなのだから、いっそ泣けるだけ泣かしておくれよ」といって泣き続けるのである。
少年はその女が自分の母親であることがなかなかわからない。かえって、自分の姉さんのように思えるなどと、甘えごとをいう。それに対して女は初めて、自分がお前の母親なんだと明らかにする。
「ああ、お母さん、お母さんでしたか。私は先からお母さんを探していたんです」
「おお、潤一や、やっとお母さんがわかったかい。わかってくれたかい」
母は喜びに震える声でこう云った。そうして私をしっかりと抱きしめたまま立ちすくんだ。私も一生懸命に抱きついて離れなかった。母の懐には甘い乳房の匂が暖かく籠っていた」
最後に谷崎は、これが自分の見た夢であったことを読者に打ち明け、次のように言うのだ。
「私はふと目を覚ました。夢の中で本当に泣いていたものと見えて、私の枕には涙が湿っていた。自分は今年34歳になる。そうして母は一昨年の夏以来此の世の人ではなくなっている。〜この考えが浮かんだ時、更に新しい涙がぽたりと枕の上に落ちた」
母親との関係を、それも思慕に満ちたあり方を小説の中で取り上げる作家はあまりいない。谷崎のこの作品は、そうした点で二重に珍しい。一つは、母親を永遠の女性として理想化するという点、もうひとつは、そんな母親に執着する自分をあからさまに描いている点、この二つである。  
「痴人の愛」
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」を、筆者が初めて読んだのは高校生の時だったこと、その時には何とも嫌な気分になって、それがきっかけで、谷崎作品に先入見のようなものを感じるようになった次第については、先稿で書いたとおりである。この小説の何が、思春期の筆者をして拒絶反応を引き起こさせたのか。老人となった今、この小説を読み返して、改めて考えてみた。
この小説には、二つの特徴がある。ひとつは人間の性について焦点をあてていること、もう一つはマゾヒズムの匂いを忍ばせている事である。そしてここでのマゾヒズムには、性的倒錯というべきものが纏いついている。というか、性的な倒錯がマゾヒズムの形をとっている。この小説では、性的倒錯とマゾヒズムとは同義語なのである。
こんなわけだから、未だ少年の状態から完全に脱し知れていない人間にとっては、理解することが困難だったということは言えるだろう。
ただ単に、人間の性をテーマにしているだけだったら、少なくとも拒絶反応は起こらなかっただろう。「刺青」などは、やはり人間の性的な感情を描いたものなのに、筆者はそこでは嫌な気分はおこらなかった。だから、性的なテーマが筆者の理解を超えたということではなかった。また、性的倒錯についても、それ自体としては理解出来ないことではなかった。「秘密」などは、そうした倒錯した世界を描いたものであるのだし、筆者はそれを十分に受け入れることができたのである。
では何故、「痴人の愛」があれほどに激しい拒絶反応を起こさせたのだろうか。マゾヒズムと言い、性的倒錯と言い、それ自体では理解可能な事柄であっても、両者が結合して一つのモノになると、そこに理解を超えた超越的な世界が現出するからであろうか。その超越的な世界が、読むものに向かって、名状しがたい誘惑のようなものを感じさせ、それが読者をして尻込みさせるのでもあろうか。
高校生の頃に感じた拒絶反応を今から分析してみると、どうやらそこには、この小説の持つ攻撃性といってよいようなものが作用していたのではないか、そんな風に思われる部分がある。
攻撃性と言ったが、それは一口で言うと、読者をそそのかして、自分が意図しない方へと駆り立てられていくような、非自発的な感情を生じさせる力のことである。この攻撃性のおかげで、読者は心を鷲つかみにされたあげくに、自分もまた小説の世界の主人公と同じような行動に向けて駆り立てられるのを感じる。それは自分の意図しないことであるがゆえに、不愉快なことがらである。その不愉快さが、あの拒絶反応につながったのではないか。
この小説には、読者をして小説の主人公に感情移入させながら、しかも同時に反発を感じさせるような、矛盾した要素がある。その矛盾した要素は、大方の大人たちにとっては破壊的な作用を及ぼすことはないが、まだ少年期を脱していない人間にとっては破壊的に作用するのだろう。実際老人としての筆者には、この小説は不愉快であるどころか、愉快極まりなかったのである。
こんなわけで、この小説は分別を備えた大人が読むべきものである。少なくとも少年は読むべきではない。それが筆者の感想である。この感想は重い経験に裏付けられているから、世の教育者は耳を傾ける価値がある。
ところでこの小説の何が、筆者のような老人を含めた大人の読者にとっては愉快なのか。
それは、小説の中の主人公格のカップルが、読者たちが現実の世界では味わいえない冒険的な感情を、疑似的に味あわせてくれるからだと思う。性的倒錯と言い、マゾヒズムと言い、それ自体としては興味深い事柄だ。しかしそうした事柄を現実の世界で演じられるものは多くはいない。いるとしたらその人間は、すでにこの世界の秩序からはみ出してしまっているのであり、したがって世の中において善良な人間として自己主張することができない立場に自分を追い込んでいることになる。
この小説は、自分をまずい立場に追いこまないままで、性的な倒錯やマゾヒズムとサディズムの戯れ合いと言った、いわばゲームをしているかのような感情を味あわせてくれるのだ。
この小説が完全な作り物であり、したがって現実とはかかわりのない物語の世界を描いていることは、この小説の結構そのものが現実離れしていることから明らかである。30歳を過ぎた主人公の男が、15歳の少女を、あたかも犬や猫を買かのようにして、自分の支配下に置く。男は力関係の非対称性を十分に利用して、この少女をペットのように扱う。少女はこの男のペットとしてこの小説に登場するのである。こんなことがいかにありえないことで、しかも思うだけで非道徳的なことであるかは、論じるまでもない事柄だ。
これだけでも、非道徳的でかつありえない事柄だったはずの、男と少女の関係が、次第に反転していく。ペットであった少女は、自分のペットとしての魅力を逆手にとって主人である男を反対に自分の意に服させるようになる。ついにはペットと主人の立場が逆転する。今やペットであった少女が主人公の主人となる。主人であったはずの主人公は、いまや少女の意思に逆らえない弱弱しい存在に化する。しかし弱々しいといっても、それが苦痛なわけではない。なぜなら主人公は少女によって虐待されることに喜びを感じるからだ。少女は少女でそんな主人の性癖を逆手に取り、自分の意思を最大限に貫こうとする。
そこにゲームの感覚が物を言う世界が成立する。マゾヒズムはサディズムの裏返しと言われるように、いじめられることに喜びを感じる者は、いじめることに喜びを感じる者の存在を前提にする。それ故、この小説の主人公たちは、二人そろって初めてゲームが成立するような関係にある。どちらが欠けてもゲームは成立しない。
こんな次第でこの小説は、物語性だけでなく、ゲームとしての資格をも兼ね備えている、非常に見事な作り物だといえよう。  
「痴人の愛」一人称と性的言語
谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のすごさというか迫力の源泉は、その独自の言語空間ともいうべきものに由来している。谷崎はこの小説において、語り方としては一人称形式を用い、語られる内容には性的言語を多用した。そこから、主人公の主観的な意識を通じて展開されるお話の世界が、それでなくとも融通無碍な性格を帯びがちなところに、性的言語が氾濫することによって、非日常的で祝祭的な雰囲気さえ帯びるようになる。谷崎は、彼独自の言語空間をうまく活用することで、この小説の表現しようと意図するところの倒錯的な世界を、じめじめした陰鬱なものとしてではなく、明るく祝祭的なものとして描き出しているのである。
一人称の形式と言うのは、日本の近代文学においては、珍しいことではなく、むしろ普通のと言ってもよかった。私小説とよばれるジャンルの小説などは、好んで一人称を採用している。その場合の一人称の描き方は、どちらかと言うと、観念的になったり、いいわけがましくなったり、要するにじめじめした印象を与えがちであった。少なくとも、陽気な感じがする私小説と言うものは、形容矛盾といってよいほど、ありえない組合わせのように見えるのである。
ところが、谷崎はここで、一人称形式を通じて、主人公の口からお話をさせるわけなのだが、そのお話が、何とも陽気で面白いのである。祝祭的と言ってもよい。語られる事柄が、男女のセックスにまつわる事なので、余計に祝祭的になりうるわけである。
男女のセックスにも、じめじめしたものはあるし、読者を憂鬱にさせるようなものもないわけではないが、セックスとは本来そんなものではなく、祝祭的で人の心を高ぶらせるものなのだ、ということを、谷崎はよくわきまえているのであろう。
ところで、一人称形式には、短所もあれば長所もある。短所の最たるものは、言説に客観性を付与することが難しい点だ。したがって、大河小説のような結構の壮大なものは、一人称にはなじまない。逆に長所とすべきものは、主観的な観念の世界を描き出すのに威力を発揮することだ。実際、一人称小説と言うものは、個人の視点から見た世間を描いているわけであるから、視点にはブレができず、しかも観念の細かいひだまで描き出すのに優れている。
日本の私小説とよばれるものは、一人称の持つ短所を避け、長所を生かそうとつとめたわけであるが。谷崎の場合には、短所も長所も、両方とも盛り込もうとした。つまり、視点は単一で、したがって主人公の主観的な意識を反映したものでありながら、主人公の語ることは、主観的な妄想などではなく、客観的な出来事なのだと、読者に思わせようとする。そこから、ユーモアのようなものが生まれる。
というのも、主人公の意識における主観的なものと、彼を囲む客観的な世界とがずれているのに、主人公はそのずれを意識できない、自分はあくまでも客観的な世界で客観的に生じたことをごく客観的に語っているのだと言う態度を取っている。しかし主人公の主観的な意識と彼が客観的と考える事態の間には大きなずれが存在するのだ。そのずれが、ユーモアを呼び起こすわけである。
たとえば、主人公がナオミによって騙されていることを、主人公は知らない。主人公が知らないのであるから、主人公から話を聞かされる立場の読者も当然知らない。ところが、主人公の語る話そのものは、現実の事態を踏まえているわけであるから、そこには主人公は明示的には知らないまでも、実は直美が騙していることを暗示するような言説が現れる。つまり、主人公の意識の主観性と事実の持つ客観性とが、ここでは分裂するわけである。その分裂、つまりズレがユーモアを生むのである。谷崎はこのユーモアを大事にしている。
性的言語は、直美の言葉遣いの中に現れている。この小説の開始時点でのナオミはまだ15歳の少女だが、彼女ははじめから少女らしくない言葉をしゃべっている。
「譲治さん、今日はビフテキをたべさせてよ」
「ええ、あたし一生懸命勉強しますわ、そしてほんとに譲治さんの気に入るような女になるわ」
この時代の15歳の少女なら、「あたしビフテキ食べたい」とか「ちゃんと勉強する」というところだ。それなのに、こんな持って回った云い方を、谷崎はこの少女にさせている。
こうした言葉遣いは、日本語学者の中村桃子女史が「てよだわ」ことばと名づけたものだ。明治時代に女学生を中心に使われ始めたのだったが、それを文学者が好んでとりあげ、作中の女たちに使わせたことばだったという。それも主に性的なコンテクストの中で、このことばを多用した。漱石も「それから」の中で女性主人公の美千代に一度だけこの言葉をつかわせているが、それは、大助から愛を告白されたシーンでだった。こんなところからわかるように、こうした言葉遣いは性的なイメージを伴っていたわけである。谷崎はそんな言葉づかいでもって、あからさまな性的イメージを想起させるような会話を、主人公たちにさせているのである。
たとえば、主人公とナオミがトランプをする。ナオミは主人公の気をそらせようとして、性的な仕草をする。主人公が、そんな手はないといって、ずるいやりかたを責めると、ナオミは、次のように言って、反撃する。
「ふん、ないことがあるもんか、女と男が勝負事をすりゃ、いろんなおまじなひをするもんだわ。あたし余所で見たことがあるわ。子どもの時分に、内で姉さんが男の人とお花をする時、傍で見てゐたらいろんなおまじなひをやってゐたわ。トランプだってお花と同じじゃないの」
こんな具合で、谷崎の性的なものに対するこだわりは尋常ではない。それがこの小説に一貫性のようなものを付与する原動力になっていることは間違いない。
主人公の意識のなかの主観性と、事態の客観性との間の亀裂は、小説のいたるところで現れる。そうしたシーンの中でも、男たちが初めてやって来て泊り、一つの部屋の中で雑魚寝するシーンは心憎い場面である。三人の男と一つ部屋に泊ったナオミは、男たちを相手にさんざん性的な遊びに耽ったあげく、主人公の寝ている隙をみはからって、別の男とキスしたりする。そんなことには全く気付いていない主人公は、朝目が覚めるとナオミの寝顔を見ながら、次のように思うのだ。
「ナオミちゃん・・・・と、私はみんなの静かな寝息をうかがひながら、口のうちでそういって、私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああ、この足、このすやすやと眠ってゐる真っ白な美しい足、これはたしかに己の物だ、己はこの足を、彼女が小娘の時分から、毎晩毎晩お湯へ入れてシャボンで洗ってやったのだ、そしてまあこの皮膚の柔らかさは、〜15の歳から彼女の体は、ずんずん伸びていったけれど、この足だけはまるで発達しないかのやうに依然として小さく可愛い。さうだ、この親指もあの時の通りだ。小指の形も、踵の円みも、ふくれた甲の肉の盛り上がりも,総てあの時の通りじゃないか。・・・私は覚えず、その足の甲へそうっと自分の唇をつけずには居られませんでした」
谷崎はまた、古典を引用して、性的なイメージに花を添えることも忘れない。主人公との戦いに勝利して、主人公を奴隷の境遇に追いやったナオミは、主人公からキスを求められると、はあっと息を吹きかけることで、我慢させようとする。主人公はキスがしたくてたまらないのだが、たとえキスができなくても、ナオミの息に触れるだけでもうれしくなる。というのも、ナオミの息にはまなめかしい香りが立っているからだ。
「彼女の息は湿り気を帯びて生暖かく、人間の肺から出たとは思へない、甘い花のやうな香がします。〜彼女は私を迷わせるために、そっと唇に香水を塗ってゐたのださうですが、さういふ仕掛けがしてあることを無論その頃は知りませんでした。〜私はかう、彼女のやうな妖婦になると、内臓までも普通の女と違ってゐるのじゃないかしらん、だから彼女の体内を通って、その口腔に含まれた空気は、こんななまめかしい匂いがするのじゃないかしらん、と、よくさう思ひ思ひしました」
このシーンはいうまでもなく、平中の故事を踏まえている。遠い昔の物狂いの物語を谷崎は20世紀の日本に復活させたわけである。色事には時空を突き破る力があるとでも、いいたげなように。  
「卍」
「卍」はほぼ同時期に書かれた「蓼食ふ虫」と比較されることが多いが、筆者はむしろ「痴人の愛」の延長上にとらえている。一人称のネトッとした文体、倒錯した恋愛感情、そして登場人物間の思惑のからみあいといった要素が、互いに共鳴しているように受け取れる。
痴人の愛の文体は、それが男によって語られているということもあって、ネトッとした味わいながらも、一方では論理的な筋道を感じさせたが、この小説では語り手が女であり、しかも関西弁で語っているということもあって、一種独特の味わいをかもしだしている一方、論理より心の動きが表に出ている。語り手である主人公の女は、自分の心に浮かんだことを、浮かんだとおりに語っていくわけで、そこには論理の筋道よりも、出来事の前後が物語の道筋になっているわけだ。
それでいて、物語の進行に無理がなく、破綻せずに展開していくのは、作者が物語の結構をあらかじめ入念に作り上げていることのおかげだろう。極めて複雑で、一つ一つの出来事が互いに錯綜しあっている物語が、語り手の口を借りて一直線に進んでいくのは、あたかも見えない糸に操られているかの感を催させるのだが、その見えない糸とは、作者によってあらかじめ整えられている糸なわけである。
作家には、筋書を考えてから書き始めるタイプと、書きながら考えを整え筋書を作り上げていくタイプとがあるように思われるが、谷崎は前者の典型のように見える。
語り手の女によって語られることは、女自身の倒錯した恋愛感情であり、また女をめぐる幾人かの人物たちの、これもまた倒錯した恋愛感情である。痴人の愛にあっては、男女の間のサド〜マゾの関係が、男の立場から語られたが、ここで語られる倒錯した恋愛とは主に女同士の同性愛である。それにインポテンツの男のゆがんだ恋愛感情がからまり、またもともと「正常人」であった女の夫までもが、「不義密通」の世界に巻き込まれてゆく。こうした様々な愛が縺れ合うところに、この物語の道筋が成り立っているのだ。
このように、この作品は痴人の愛に比べて主要な登場人物が多いだけ構成も複雑になっている。痴人の愛ではナオミを巡って幾人かの男たちが出てきて脇筋を挿んでいくが、本筋はあくまでも主人公のナオミに関する感情の吐露である。したがって、物語全体を通して筋道は一貫している。主人公が物語の絶対的な中心になっていて、すべては主人公の男の視線を通してえがかれる。
これに対してこの作品では、物語の中心が語り手の女であることは間違いないが、女の同性愛の相手もまた、主人公に劣らず強い役割を果たしている。というのも、主人公の女が知らないところで、この同性愛の女が物語に大きく影響するような行動をしているからである。この一組の女たちを巡って、インポテンツの男と主人公の女の夫とが介在するわけであるが、この四人が、それぞれの思惑を絡ませ合いながら、物語を面白くさせていくわけである。
したがってこの作品は非常に物語性の強い作品となっている。その物語が女の口をかりて、しかも関西弁で語られるところから、物語の物語性、つまり虚構的な性格は一層強くなる。
物語の結末は、同性愛の女たちと主人公の夫と、この三人が睡眠薬を飲んで死ぬことになっているが、何故この三人が死ななければならないのか、その理由は深く説明されていない。死ぬことがあたかもファッションであるかのように、さらりと描かれるのである。死ぬことに深刻さもなければ、じめじめとした暗さもない。つまり、物語を一応完結させるための一つの可能な様式として、主人公たちの死というものも考えられる、そういっているかのようなのである。
しかし結局は、死ぬのは愛する人と夫だけ、主人公の女は生き残る。彼女が生き残ったのは、彼女の深い愛を読者にあらためて感得してもらうのが目的であるかのように。さればこそ、この小説の最後は、次のような言葉で結ばれるのだ。
「あゝ・・・先生(柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した)・・・今でも光子さんのこと考へたら憎い、口惜しい思ふより恋しいて恋しいて・・・ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい」
物語を締めくくるにあたって主人公の女が流す涙は、女の愛の強さ、深さを物語る涙である。日本の小説で、これほどフィナーレの引き締まった作品は他にそう多くないのではないか。
ところで題名の「卍」が何をイメージしているのか、筆者にはいまひとつわからない。谷崎自身は小説の中でこの言葉についての説明をしていないので、勝手な空想をするしかないが、これ自体は本来仏の身にあらわれる瑞相のことを指しているところから、仏と関係があるのかもしれない。小説の中で主人公の女が同性愛の相手の裸体を描くところができてきて、それを観音様の像だといっているが、果してこの観音様のイメージが「卍」のイメージにつながるのだろうか。  
「卍」と「蓼食ふ蟲」の共通性
かつて丸谷才一は「卍」と「蓼食ふ蟲」とを一双の屏風に譬え、このふたつの作品が、形式的にも内容的にも深い関連を有していると指摘したが、筆者もまた同じ感を抱いてきた。筆者がこの二つの作品を相次いで読んだのは、かなり昔のことだが、以来、この二つを姉妹作品のように思いなしてきたのである。
最近読み返してみて、あらためてその感を強くした。というのも形式的な類似性はともかく、内容においても響きあうものを感じたのである。外見的な姿は無論かなり異なる。一方は同性愛を中心にして、背徳的な男女が愛憎を繰り広げるドラマチックな小説であるのに対して、他方は、破たんした夫婦関係を淡々と描きながら、その合間に、文楽の鑑賞やら、淡路の人形浄瑠璃の話やら、日本の伝統芸能に関する作者の薀蓄が語られる。片方は動的な印象を与え、もう片方は非常に静的である。こうしたことからして、両者は一読して非常に異なった印象を与えるのであるが、しかしよくよく考えると、底の方で深く響きあっているのである。
そこでこの二つを深く結びつけている絆とはどんなものなのか、筆者なりに分析してみた。
まず、両者とも関西の同じような場所を舞台にして、関西人の生き様と言うようなものにこだわった書き方をしているということ。それも東京人の立場からする批判的な書き方をしていながら、その批判の対象となる関西風な生き方が淡々として描かれていくということだ。「卍」のほうは主人公が一人称で語るという形を取っているのだが、それでも、ときおり作者の意見が出てきて、その中で作者は関西人のいやみったらしさを、東京人の立場から非難している。「蓼食ふ虫」においても、妻の父親とその妾との関西風の生活ぶりが、東京人の要の目からみると異様な風に受け取られている。それでいながら両者ともに、物語の世界は関西風の色彩を帯びたまま展開していくのである。その色彩みたいなものの共通性が、この二つの作品を、ムードの次元で、深く結びつけているのではないか、そんな風に受け取れるのである。
二つ目は、女を崇拝しているということ。女を崇拝するのは、ある意味で谷崎文学の核心と言える傾向なのだが、この二つの作品ではそれが素直に出ている。これらは女の素晴らしさを男の目から描いた小説なのである。その素晴らしさは、「卍」の場合には光子観音とうかたちで形象化される。「卍」という小説は、この観音様のような女性像を巡って繰り広げられる、女の崇拝の物語なのである。一方「蓼食ふ蟲」においては、女の素晴らしさは岳父の妾の人形のような美しさとして形象化される。当初要はこの女を他人の妾としか思っていないのだが、いつしか気持ちをそそられる自分を感じる。それは女のもつ美しさが、男をして崇拝させずには止まない強い引力をもっているからだ、と言わんばかりなのである。
三つ目は、夫婦だけが男女関係の唯一のモデルではないという主張である。「卍」においては、女同士の同性愛が夫との夫婦愛をしのいでいき、その夫もまた、光子観音と背徳的な結びつきに走っていく、かくして夫婦関係はもろくも崩れ去り、その廃墟の上に新たな背徳の愛が成長してくる。「蓼食ふ蟲」においては、主人公の夫婦関係は物語の始めから崩壊している。主人公の夫妻は互いに離婚を考えており、妻の方は須磨に愛人を持ち、夫の方は神戸の売春宿に足しげく通って性欲をなだめている。しかし、「卍」においては、夫婦関係が崩壊した後に新しい愛が仄めかされているのに対して、「蓼食う蟲」にあっては、そのような愛の形は保障されていない。それ故夫婦関係が崩壊するだけで、その後にはなにも残らないかもしれない。そうした点では、こちらのほうがストレートに夫婦愛を否定しているのだと捉えることもできる。
谷崎は何故、この二つの小説において、夫婦愛のあり方にかくも強烈な攻撃を加えたのであろうか。それを理解するカギは、これらを執筆していた当時の谷崎の事情にあると考えてよい。
この二つの小説が書かれたのは昭和3年前後だが、その時期の谷崎は一家をあげて関西に移住してきたものの、妻千代との関係は冷え切ったままだった。千代の方は他に男を愛人に持つようになり、谷崎は谷崎で、それを黙認した挙句、昭和5年には、千代を離婚、佐藤春夫に譲るといういわゆる「細君譲渡事件」に発展している。こうした生活上の背景が、とくに「蓼食ふ蟲」の方には色濃く反映されているのだろうと思う。
一、 美佐子は当分世間的には要の妻であるべきこと
一、 同様に阿曽は、当分世間的には彼女の友人であるべきこと
一、 世間的に疑いを招かない範囲で、彼女が阿曽を愛することは精神的にも肉体的にも自由であること
に始まる覚書は、主人公の要が、妻とその愛人阿曽をめぐる関係のあり方について、自分から持ち出した条件と言うことになっているが、この段を読むと、細君譲渡事件にあたって谷崎が関係者に出した挨拶状の文言を彷彿させる。
こんなとことから「蓼食ふ蟲」という小説は、谷崎が当時生きていた生活感情を、かなり忠実に盛り込んだ作品だと考えられるわけなのである。  
「吉野葛」
日本の伝統文化に対する谷崎潤一郎の関心は、「蓼食ふ蟲」で人形浄瑠璃を取り上げたあたりから本格化するが、ほぼそれを前面に出して小説を構成したのが「吉野葛」である。吉野の山奥を舞台にしたこの小説は、謡曲二人静や国栖、それに吉野朝の最後の王子たちの伝説を材料にして、言い伝えの世界と目の前に展開する自然とを一々対応させながら、そこに登場人物の母への思慕の感情をからませる。古の伝統的な世界と今に生きる人間の生き様とが混然と溶け合った美しい作品である。
エクリチュールは谷崎得意の一人称だ。語る者は作家と言う設定になっていて、その作家が友人に誘われて吉野の奥の方を訪ねる。吉野は神話的なイメージが豊かなのと南朝にかかわる伝説も豊富で、それらを材料にして一篇の小説が書けるだろうという思惑があってのことだった。友人は友人で自分なりの思惑を持っていたことは、小説の最後の部分で明らかにされる。
谷崎は読者を吉野川の流域に案内する。まず芝居の舞台として有名な妹背山が現れる。その先にある川原は菜摘の里といって謡曲二人静の舞台であり、また万葉の詩人たちがたわむれたところでもある。その菜摘の里で、作家と友人はある家を訪ね、そこに保存されている初音の鼓なるものを見せてもらう。
初音の鼓というのは、静御前が使っていたとされる由緒ある鼓で、狐の皮でできている。そして静御前がぽんと鳴らすと忠信狐が飛び出てくると伝えられている。その鼓とともに、「菜摘邨来由」と題する巻物を見せてもらったが、それには、「義経公の愛妾静御前村国氏の家に御逗留あり義経公は奥州に落ち行き給ひしより今ははや頼み少なしとて御命を捨て給ひたる井戸あり静井戸と申し伝へ候」とあり、静御前はこの地で死んだということになっている。所有者もそれを疑わず、静御前が後日頼朝の前で舞を舞わされたなどと言う史実は全く頭にないのである。
吉野川を更に遡ると謡曲国栖の舞台となった村里がある。ここは和紙の産地だそうで、村中に和紙が干されているのが見える。友人はここに住んでいる親戚を通じて、一人の娘を嫁にもらいたいと思って、訪ねてきたのだった。その妻恋の道中に作家を誘ったのは、相手の娘が自分の妻に相応しいかどうか鑑定して欲しかったからだというのである。
友人が何故国栖にこだわるようになったか。その理由は、亡くなった母親の実家がここにあったことにある。その友人は、子供の頃に亡くした母親の面影が忘れられずに、学業を放擲してまで母親の面影探しに夢中になっていたのだが、あるきっかけから母親の実家を突き止めることができた。その実家と言うところには一面の琴があった。それは母親が少女時代に弾いていたものらしかった。それを見た友人は、子供の頃にある婦人が検校とともに琴を弾いていた光景を思い出した。その時に弾いていた極は狐噲という地歌であった。友人はその婦人こそ母親ではなかったかと想像するのである。
こうしてその実家で、母親の少女時代のことなどを訪ねているうちに、一人の娘と出会った。友人はその娘に母親の面影を認めて、自分の妻にしたいと思ったというのである。
こんな調子で、母恋物語が妻恋物語に発展し、その発展しゆく物語が伝説の世界を舞台に展開していく。非常に手の込んだ結構を、この小説は持っているのである。
妻恋に並行して、作家が吉野川の源流を数日かけて探索する場面が出てくる。源流近くの人跡途絶えたところに、南朝方最後の王子自天王が隠れていたという場所があった。自天王は、追っ手のものによって首をあげられてしまうのだが、それは里人が不用意に王子の居場所を漏らしてしまったためだった。それ故その里人の子孫は代々不具に生まれたそうだ。
このように、この小説には読ませどころが沢山ある。それでいてあっさりとした仕上げになっている。作者の技巧がすぐれている証拠である。  
「盲目物語」
「盲目物語」について谷崎潤一郎は、「実は去年の"盲目物語"なども始終御寮人様のことを念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました」と根津松子(後の谷崎婦人)宛書簡に書いているとおり、これは新たな思慕の対象となった一婦人にたいするオマージュのような作品ということができる。以後谷崎は松子夫人をテーマにした作品を次々と手掛けていくが、この「盲目物語」は、それら松子ものともいうべき作品群の嚆矢となるものである。
この作品は盲目の按摩が自分の思慕する夫人について第三者に語りかけるという体裁をとっている。スタイルの点ではだから「卍」の延長にあるものだが、語り手はこの場合は男の按摩であり、語られる内容は自分がかつて思慕した一人の女性の身の上についてである。男である按摩は、この女性の美しさに感嘆し、その女性を思慕しつづける、そしてその女性が子どもを残して死んだ後は、思慕の対象をその女の子に移すのであるが、女の子からは拒絶されて、悲しい後半生を送るというものである。
盲目の按摩が憧れている女性とは織田信長の妹で、不幸な生涯を送ったお市の方である。按摩はふとしたきっかけで近江の大名浅井長政に仕えることになったのであるが、そこに信長の妹市が長政の妻として嫁いでくる。按摩はこの市の方に大層気に入られ、始終お傍につきそうようになる。按摩は市の方の柔らかい肉をもみほぐしたり、三味線を弾き語りしたりして、慰め申し上げる。そうこうするうちに、この女性に恋心を抱くようになるのだが、如何せん身分も違うし、境遇も異なる。そこで按摩はせめてお傍にゐられることに喜びを感じようと自らに言い聞かせるのだ。
やがて浅井長政は信長と対立するはめに陥り、ついには亡ぼされてしまう。其の際に市の方は夫の云いつけに従って城を逃れ信長に保護を求める。按摩もその市の方母娘と一緒に信長の清州の城で暮らすようになるが、それは按摩にとっては、生涯でもっとも幸せなときであった。というのも、市の方は夫に死に別れた未亡人であり、かつ世の中から身を引いてひとり静かに暮らしている。按摩はそのお傍に仕えて、いわば市の方を独占できるような立場にいられることができたからである。といっても、按摩は市の方の肉を揉むことができるだけで、その肉を自らのものにできるわけもない。その女性はあくまでも、心の中での思慕の対象でしかないのだ。それ故にこそかえって、その思慕はすさまじいほどの怨念に彩られるわけである。
市の方が未亡人になったのは20歳ころのことと設定されているが、それから10年ほど後に本能寺の変が起きる。弔い合戦に勝利した秀吉はかねて市の方に懸想しており、信長亡き後その思いをとげんとして市の方に迫るのであるが、市の方は秀吉が嫌いなので、柴田勝家に再縁することを選ぶ。ところがこの再縁は半年しか続かない。勝家は秀吉と対立し、ついに亡ぼされてしまうのである。その際に市の方も夫と運命を共にすることを選ぶのだ。
按摩もかねてから市の方と生死をともにする決意でいたが、土壇場になって市の方の長女お茶々の命を助ける役をひきうけることになる。茶々を背中に負って、落城する城を落ち延び、秀吉の保護を求めに赴くのだ。その際按摩は、茶々の尻を両手で抱えながら、その肉の柔らかさが、母親の若い頃の肉の柔らかさを思い出させるのを感じ、狂おしいほどの欲念に囚われる。その欲念が、かつて思慕した女性の娘とともにもう一度生き直したいという欲望を起こさせるのである。
その部分をちょっと引用しておこう。「せなかのうへにぐったりともたれていらっしゃるおちゃちゃどののおんゐしき(臀)へ両手をまはしてしっかりとお抱き申しあげました刹那、そのおからだのなまめかしいぐあひがお若いころのおくがたにあまりにも似ていらっしゃいますので、なんともふしぎななつかしいここちがいたしたのでござります・・・お茶々どののやさしい重みを背中にかんじてをりますと、なんだか自分までが十年まへの若さにもどったやうにおもはれまして、あさましいことではござりますけれども、このおひいさまにおつかへ申すことが出来たら、おくがたのおそばにゐるのもおなじではないかと、にはかに此の世にみれんがわいて来たのでござります」
この部分を読むと、書かれている内容の妖艶さはともかく、表現のスタイルまでもが艶っぽく感ぜられる。谷崎は文章をただ音節の連続としてのみならず、視覚的なイメージとしてもとらえていたのがわかる。
ともあれこの物語は、美しい女性とその娘の母子二代にわたって仕えた按摩のあわれな片恋の物語なのである。その片恋を按摩は必死になって生きる。按摩にとって生きることとは、自分が思慕する女性と一体であるという感覚を得られることなのである。つまり按摩は女性に自分の存在を捧げることで、その女性によって生き直させてもらっているという安心感を抱くのだ。その安心感と言うか、女性に対する思慕の情は、これを書いている間に谷崎が松子夫人に対して抱いていた感情そのものだというのであるから、この作品が、作家による自画像のようなものだといわれる所以である。
ところで谷崎は小説の末尾で、いくつかの史実に言及している。それらの史実を持ち出した理由は、市の方の傍らに按摩が付き添っていたとしても不自然とはいえないこと、またこの作品で按摩は三味線を弾いているが、三味線が天正時代にはすでに普及していた形跡があるなどといいたいためのようだ。そうすることで谷崎は、この作品が荒唐無稽なものなのではないと云いたかったのかもしれないが、それはいらぬつけたしのように見える。  
「芦刈」
谷崎潤一郎の小説「芦刈」は「吉野葛」、「盲目物語」に続いて書かれた作品だが、そのためというのでもなかろうが、この先行する二つの作品を足し合わせたような体裁を呈している。前半部分では「吉野葛」を思わせるような紀行文的なスタイルを用いて古の日本を回顧するというやり方をとり、それに続いて後半部分では、ふと作品世界に紛れ込んできた一老人の口を借りて、盲目物語におけるような女性賛美をするのである。賛美される女性のモデルが、その頃に谷崎がぞっこんであった松子夫人であるのはいうまでもない。
「吉野葛」が謡曲「国栖」を連想させるのに対して、「芦刈」は同名の謡曲を連想させる仕掛けになっている。そのことは、小説の冒頭に、「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき」という、謡曲のテーマとなった歌が置かれていることからも窺われる。しかし「吉野葛」において天武天皇にかかわる伝説が語られることがなかったのと同じく、ここでも芦刈の夫婦愛が語られることはない。語られるのは、淀川の支流水無瀬川の風景であり、そこを舞台に展開された後鳥羽院の物語である。しかしてその舞台も芦刈の舞台であった難波の浦ではなく淀川の中流域、つまり「江口」の舞台だったところである。
その淀川の中流域の一支流水無瀬川のたもとに後鳥羽院が離宮を作った記事が「増鏡」に見える。その御殿は「南に淀川、東に水無瀬川の水をひかへ、この二つの川の交はる一角に拠って何万坪といふ広壮な庭園を擁していたにちがひない。いかさまこれならば伏見から舟でお下りになってそのまま釣殿の勾欄の下へ纜をおつなぎになることも出来、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせたまひてといふ増鏡の本文と符号してゐる」
こんなわけでこの小説の前半は、日本の古典を材料にして、谷崎が日頃身に溜めた知見の薀蓄を語り散らすという趣向になっている。そこには小説としての仕掛けは全く内在していないから、読み方によっては面白くないかもしれない。とくに筆者のような関東の人間にとっては、舞台である関西の地理に土地勘がないせいもあって、面白さのうち半分は伝わってこないようになっている。というのもこの小説の面白さの半分は、道行の文章の面白さに支えられているといってよいからである。荷風散人の「日和下駄」が東京人にとって魅力をそそられると同様な機制によって、この小説の中の道行の文章は、関西人の郷愁をかきたてるだろうと思われるのだ。
さて谷崎本人と思しき作中の老人が淀川の中州で一人月見酒をしていると、突然ある老人がどこからともなく現れて谷崎老人の横に座を占め、一献すすめながら昔話を始める。その昔話と言うのが、さる夫人を巡るものであって、語る老人は、父親から聞かされたといって、その夫人の美しさや心根のたぐいまれなありさま、その夫人に対する父親の異常ともいえる愛の形について、諄々として語り続けるのである。その語り方と言うのがまた、「盲目物語」における按摩の語り方に重なり、得も言われず優艶な趣をたたえている、といった具合なのだ。
こうしてみれば、この小説の眼目は後半部分にあるといってよい。谷崎は「盲目物語」で、松子夫人を信長の妹お市の方になぞらえて散々礼賛したのであったが、それでも物足りずにもうひとつ礼賛の文章を書きたくなった。しかしただ礼賛しただけでは小説としてだらしがなくなるから、前半に古典を借りた道行の文を配し、舞台を整えたうえで、按摩ならぬ幽霊に語らせるという方法をとった。幽霊と言ったのは、この物語の老人は小説の最後でふと消えてしまうからである。
盲目の按摩でも幽霊でも、婦人のたぐいまれな美質を語らせることについては不足はない。むしろ余計なことにまぎらわされることがないだけに、婦人の美質を完璧に語ることが出来る。谷崎はそう考えて、松子夫人に対する我が思いのありたけを、幽霊の口を借りて存分に語ったのではないか。
その幽霊が語る夫人と父親との間柄は世にも変ったものであって、父親は一方では夫人に対してプラトニックな愛を貫きながら、他方では夫人の生身に恋焦がれていると言った風なのである。そんな父親のもつれた感情を示すものとして、父親が夫人の乳を吸う場面がある。
「お遊さんが乳が張ってきたといっておしずに乳をすはせたことがござりました・・・あんさんも飲んでごらんとちちくびからしたたりおちてゐるのを茶碗で受けてさしだしますから父はちょっとなめてみてなるほどあまいねといって何げないていに取りつくろってゐましたけれどもお静が何の意味もなく飲ませたものとばかりには思はれませなんだので自づと頬があからんでまゐりまして、その場にゐづらくなりまして口の中が変だ変だといひながら廊下へ立っていきましたらお遊さんはおもしろさうにころころわらふのでござりました」
まあ、なんとなまめかしい文体ではないか。この一文からも読み取れるように、この小説で谷崎は、文体と言うものに最大限の配慮をしている。まずひらがなを多用し、言葉に円みを持たせるようにしている。円みだけではない、よどみのなさというか、流麗さと言うか、和文の持つあの独特のリズムを再現しようともつとめている。それは読点をあまり用いず、文が切れ目なくつながっていくという書き方にもつながる。その結果文章の段落が異常に長くなったりする。こういう文章は現代風の仮名遣いではなく、伝統的な仮名遣いで読むほうが味わいが深まる。
こんなわけでこの小説には、いろんなところで実験の意思が感じられる。  
「春琴抄」
谷崎潤一郎の作品「春琴抄」を評して川端康成は「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と絶賛しながら、ただひとつ難癖をつけるとすれば、鶯と雲雀であるといっている。それらを語った部分が薄手に感じられる、「もし、鶯や雲雀の奥儀を極めた人が読めば、さう感じるであらうと、想像される」というわけである。
たしかにそうかもしれない。しかし谷崎はこの作品を鶯や雲雀を愛する人たちに向けて書いたのではなく、女性をこよなく愛する男たち、また自分の美しさにうっとりする当の女性たちに向けて書いたのであるから、川端の難癖はあまり意味をなさない。
というのも、谷崎は「盲目物語」、「芦刈」と立て続けに女性の美しさを書いてきたその延長線上に、女性賛美のいわば集大成のつもりでこの作品を書いたと思うからだ。だから、鶯や雲雀はさしみのつまのようなもので、主菜はあくまでも女性の美しさにある。その美しい女性が谷崎の恋の相手松子夫人であることはいうまでもあるまい。
「盲目物語」ではお市の方に仕える按摩の口から、「芦刈」では美しい婦人に生涯を捧げた男の子どもと名乗る幽霊の口から、それぞれ一人称の語り物と言う形をとって女性賛美を展開した谷崎だが、ここでは三人称の形を取って、女性賛美の物語を紡ぎ出している。三人称と言っても、完全な意味での三人称ではない。登場人物たちに多大な関心を寄せるある人物が、その登場人物たちの生涯について、架空の伝記を材料にして詮索するというかたちをとっている。だから他人事ではない。他人事を語るのではないから、勢い当事者の語り口になる。それ故いわば一人称を拡大したような形を取ることとなる。つまり親密さの余り、登場人物たちに感情移入したようなところが、一人称の語り方を感じさせるのである。
この小説が第三者の立場からする客観的な事実描写といえぬことは、文章の形式にもあらわれている。それは事実にかんする説明的な文体と言うより、感情を込めた、訴えかけるような文体である。谷崎は「芦刈」の中でそういう文体を意識的に追及していたが、それがこの作品のなかでは見事に花開いている。たとえば句読点の扱い方。芦刈の中では読点を意識的に省いていたが、この作品では句点でさえもが最小限に抑えられている。句点や読点は論理展開をたどるための装置であって、したがって科学論文や説明的な文章においては必要なものだが、発話にあっては必ずしも必要不可欠なものではない。発話に必要なのは間合いであって、そうした間合いは、別に句読点によらずとも表現できる。谷崎はそう考えて、一人称的な小説においては、句読点にこだわらないのであろう。
この小説における女性賛美は谷崎独特のものである。谷崎は「芦刈」の中で女性のわがままさを、美しさとを共存させて描いていたが、この小説の中では、女のわがままは最大限に誇張されてサディスティックな様相を呈している。そしてその女性に子供の頃から仕える男は、女性のサディズムを受け入れるあまり、そこにマゾヒスティックな喜びを感ずるような具合になっている。つまり谷崎はこの小説の中で、「痴人の愛」において実験的に描いていた男女のサド・マゾ関係のあり方を全面的に展開してみせたのである。
谷崎のマゾヒズム傾向はどうも生来のもののようだが、それが全面的に展開するのは、松子夫人と出会った以降であると考えられる。谷崎は、松子夫人との関係におけるマゾヒスティックな喜びを作品の中で再現してみたいという、そういう強力な衝動に駆られて、わがままな女とそれに服従する男の物語を紡いでいるうちに、この小説の中ではそれを全面的に展開することが出来た。そういえるのではないか。それ故この小説はまた、谷崎にとってはつきせぬ喜びの泉にもなったことであろう。
マゾヒストの喜びというのは、サディストによって痛めつけられることに感じる喜びであるが、この小説の中では、佐助は自分の手で自分の身体に痛みを加える。傷つける相手が自分自身であるとはいえ、日頃マゾヒストであった佐助は、自分に暴力を振るう場面においてはサディストになっている。一人の人格の中でサディストとマゾヒストが合体したといえる。これは二重の意味における倒錯である。他者によっていじめられることに喜びを感じるのが第一の倒錯だとすれば、その弱い自分に向かって自分自身がいじめを行う、これが第二の倒錯だというわけである。
しかし佐助が自分自身に暴力を加えて失明するのは、愛する人と一体になりたいという願いからだった。それ故佐助は恍惚感の中で自分の目に針を刺すことが出来たわけである。その恍惚感のなかから怪しい情念が沁み出してきて、読者をも擒にしていく。これは実に恐ろしい物語である。  
「細雪」
細雪を読んでの最初の印象は、それ以前の谷崎の作品と大分トーンが違うなということだった。谷崎のもっとも谷崎らしさの所以であるところの、あの悪魔的な雰囲気がこの小説には感じられない。もとより大作家の力を入れた作品であるから、結構から文体に至るまで良く書けてはいるが、なにかしら物足りなさを感じる。これが谷崎文学の粋といえるだろうか、という消極的な感想を抱いたわけである。
その辺は谷崎自身も意識していたらしく、読者に対して申し訳ないといった感情を持ってもいたようである。その辺の事情を谷崎は「細雪回顧」という小文の中で、ちらりと触れている。軍部による弾圧が、この小説について当初抱いていた構想に大きな影を落とし、結局は軍部の意向を損なわない程度のおとなしい内容へと変更させたというのだ。つまり谷崎は、時代の圧力に恐怖し筆を曲げたと白状しているのである。
谷崎がこの小説を構想したのは昭和17年、第一回目は翌18年の正月に発表した。その頃はすでに太平洋戦争が進んでいて、戦況はなかなか厳しいものがあった。そんななかで軍部は文化面への干渉を強め、国民の戦意を損なうようなものをかたっぱしから弾圧した。谷崎の「細雪」もこの弾圧に引っ掛かり、「時局にそわぬ」という理由で出版の差し止めを命じられたのである。その際に感じたところのものを、谷崎は次のように書いている。
「ことは単に発表の見込みが立たなくなったと云ふにつきるものではない。文筆家の自由な創作活動が或る権威によって強制的に封じられ、これに対して一言半句の抗議ができないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云ふ一般の風潮が強く私を圧迫した」(細雪回顧)
しかし谷崎はそうした風潮に逆らうことなく、自分自身も流されていった。そこが消極的とはいえ抵抗の姿勢を崩さなかった荷風散人と違うところである。ともあれ谷崎は、いつの日にか出版する機会もあるやと思い、執筆は続けた。しかし当初の構想をそのまま採用するのは憚られ、おとなしい内容へ改めた。
谷崎が当初抱いた構想と言うのは、「関西の上流中流の人々の生活の実相をありのままにうつさう」というものであり、したがって不倫や不道徳の面を赤裸々に描いてみたいというものだったそうである。しかしそれを正面から書くことは、当時の谷崎にとっては命の危険にかかわることだと思われ、したがって筆を曲げざるを得なかった、そう谷崎は弁解するのだが、筆を曲げたことについては、遺憾なこととはいえ、そう深刻には考えていないようである。谷崎は次のようにあっさりとした言い訳をいうのみなのだ。
「今云ふやうに頽廃的な面が十分に書けず、綺麗ごとで済まさねばならぬやうなところがあったにしても、それは戦争と平和の間に生まれたこの小説に避けがたい運命であったともいえよう」(同)
まるで他人ごとのような言い方である。ともあれこんな事情が働いて「細雪」はそれ以前の谷崎の小説とはかなりトーンの異なるものになった。谷崎自身はそのトーンを「綺麗ごと」といっているが、綺麗ごとなりに良く書けてはいる。関西の上流中流の人々の生活はかなり突っ込んで描かれているし、それらのモデルになった松子夫人の姉妹たちに対する谷崎の思いも十分に盛り込まれているのだろうと推測できる。
クライマックスといえる風水害の場面は、余りにも迫真的に描かれているので、谷崎自身の体験に裏打ちされているのだろうとも推測されたところだが、谷崎自身はその時安全なところにいたので、怖い思いはしていないといっている。当たり前のことだが、これは作家の想像力が発揮された場面なのである。
上述の通りこの作品の誕生には、戦争というものが大きな影を落としているが、作品そのものの中には戦争の影は一切出てこない。戦争の暴力は、風水害と言う自然の威力によって黙示的に表現されるのである。
こんなわけで「細雪」と言う小説は、一人の作家が時代と向き合うなかから生まれてきた、極めて社会的な意味を内在させた作品なのだと言える。  
「少将滋幹の母」
「少将滋幹の母」は、谷崎潤一郎の古典趣味の傑作であり、なおかつ一連の母恋ものの到達点というべき作品である。古典趣味も母恋の感情も、谷崎文学のうちにあっては、マゾヒズム趣味とは異なったところで、強い重力を発していたのであるが、その方面が最大限発揮され、凝集されて怪しい光を放つに至ったのが、この作品なのである。
谷崎はこの小説の骨格を古典から借りる一方、そこに架空の逸話を差し挟むことで、母恋の物語を織り込んでいる。古典とは、この場合主として今昔物語であり、そのなかの平中の逸話と藤原時平が叔父の国経の妻を奪い取った話を中心に据えて、足りないところを「平中物語」や「大和物語」などで補うという方法をとっている。母恋の物語の主人公になるのは、国経の子どもと言うことになっているが、その子供が自分を捨てて他の男にもとに去って行った母親を、生涯思い慕うという設定にしている。谷崎は、平中や国経にかかわる物語を借りて、それをもとに日頃の古典趣味を披露するかたわら、そこに架空の母恋物語を忍び込ませ、母をめぐる子のやるせない感情を堪能しているわけなのである。それ故この作品には谷崎の高度な遊びの精神が感じられる。
平中は、今昔物語には本名を兵衛佐平定文といい、名うての色好みとして紹介されている。源氏物語の末摘む花にも話題として出てくるほどだから、その色男ぶりは広く知られていたのだろう。その平中をめぐる今昔物語の中の有名な逸話を紹介するところからこの物語は始まるのである。
平中はある女の許に足しげく通い、なんとかして自分のものにしようとしていたが、その相手と言うのが、藤原時平の屋敷に仕えていた侍従なのであった。時平は平中とは遊び友達で、なにかと暇を見つけては女の品定めなどして楽しんでいたが、或る時時平が平中に平常経の妻について尋ねた。この女性は非常に美人だと言われているが実際にそのとおりかと。時平がそう尋ねたわけは、平中が一時期その女性とねんごろになっていたことを、どこからか聞きつけたからであった。平中は、時平がその女性に下心を抱いていることを感じとったが、自分は今では他の女に夢中になっていることだし、聞かれるままにその女性のことを話してしまった。すると時平はその女性を我が物にしたいという思いを俄に強めるのであった。
ここから以降は今昔物語の名高い一節が物語るとおりである。小説はその物語を一とおり語り終えるところで、もう一つの物語を語り始める。それは妻を奪われた男の嘆きであり、母親を奪われた子の悲しみの物語なのである。
妻であり母でもあるその女性は在原業平の孫女ということになっており、実在した女性であるが、その女性にこの小説の主人公である滋幹という子があったのかどうか、筆者にはよくわからない。谷崎は、彼女が当然実在したものとして話を展開している。また谷崎は、滋幹が日記を残しており、その中で父親のことや、母親に対する自分の思いのたけを縷々綴っているといっているが、そんな日記が果して本当に実在したのかどうか、それも筆者にはわからない。おそらく谷崎がでっちあげた架空の日記なのであろう。しかし、その日記が物語の出所と言うことになっているので、小説の成り立ちにとっては大事な意味を持ったものなのである。
さてその日記をもとに、谷崎は母親が連れ去られた後に、子供が何回か母親のもとを訪れたこと、そのひとつの折に、平中と母親との恋のやりとりの仲立ちをさせられたことなどを淡々と語る一方、妻を奪われた国経が、生きる気力を失っていくさまを、子供の目を借りて描いていく。
妻を奪われた時の国経はすでに70歳にもなり、性欲もなくなってはいたが、やはり妻に去られてみると、恋しい思いがいや増しに高まるのであった。恋しくて恋しくていたたまれない。どうしたらその恋しい思いをなだめることが出来るか。でなければ恋しさのあまり狂い死にするかもしれぬ。そう思った国経はさまざまな努力をするうちにも、不浄観というものをするようになった。不浄観とは、人間の肉体が醜悪だと悟ることで、肉体への固執から自由になることを目的とする修行のことをさすのだが、その修行と言うのが、この場合には、野ざらしの死体置き場に行って、腐乱する死体を眺めるということなのであった。
ある晩、国経は床を抜け出して不浄観に出かけていくが、その気配を子が気づいて、父親の後をつけていった。夜道を歩いて父親がたどり着いたのは、荒涼たる死体置き場で、そこには月の光を浴びた様々な死体が腐乱しているのが見えた。その場面を谷崎は次のように描写している。
「橋から一丁ばかり下のちょっと小高く盛り上がった平地に、土饅頭が三つ四つ築いてあって、それらはいづれも土が柔らかで新しく、頂上に立ててある卒塔婆も真っ白な色をしてをり、折柄の月に文字まではっきりと見えるのであった。卒塔婆を立てないで,代りに小さな松杉などを植ゑたのもあり、土饅頭でなく、柵で囲って、石を積み上げて、五輪の塔を据ゑたのもあり、簡単なのは、死体を一枚の莚で蔽うて、しるしの花を供へただけのものもあったが、中には又、この間の野分で卒塔婆が倒れ、土饅頭の土が洗はれて、死体の一部が下から露出してゐるのもあった・・・瞳を凝らしてゐるうちに、それが若い女の死体の腐りただれたものであることが頷けてきた。若い女のものであることは、部分的に面影を残してゐる四肢の肉付きや肌の色合いでわかったが、長い髪の毛は皮膚ぐるみ鬘のやうに頭蓋から脱落し、顔は押し潰されたとも膨れあがったとも見える一塊の肉の塊になり、腹部からは内臓が流れ出して、一面に蛆が、うごめいてゐた」
凄惨な光景というべきであるが、これは餓鬼草子に描かれた埋葬場所のイメージとほとんど重なっている。谷崎がそうした絵をもとにしてこの場面を書いたことは十分に察せられるところである。
父親がこのように若い女の死体を見ることで不浄観をものにし、そのことで自分の母親たる女性の面影を追いやろうとするのだとしたら、それは自分の母親を汚しているのと同じことだと子どもは思い、父親を憎むのであったが、それにしても不浄観と言うものにはすさまじい迫力が感じられる。その迫力とは、父親をある種のノイローゼに追い込むことからもたらされるのだと考えられる。つまり父親は重ねて若い女の醜悪な死体を見ることである種のノイローゼに落ち込み、どんな美しい女を見ても醜い肉の塊にしか見えない、そういう心境に追いやられてしまうわけである。似たよう体験は筆者もしたことがある。
筆者がまだ壮年の盛りの頃、都営火葬場の場長を二年ばかりつとめたことがあったが、そのあいだ筆者は毎日のように、人の死体の焼かれるのを見、焼かれた遺体が骨になって火葬炉から出てくるのを前にして拝んでいるうちに、人を見ると骨に見えるようになってしまったのだった。そんな折、空いた電車の中で筆者の前に腰かけた若く美しい女性を目で追っているうちに、その女性が突然骸骨に見えてきて、びくっとしたことがあった。またその付近に座っている若い男の顔を見ると、しゃれこうべが顎の骨を動かしてガムを噛んでいるではないか。筆者は自分が深刻なノイローゼにかかっているに違いないのだと、そのときには呆然としたことを覚えている。
さて母恋物語の結末は、少将滋幹が母親と再会するということになっている。滋幹は成人しても長らく母親と会うことを憚っていたのだったが、壮年になったある日、比叡山に上った帰りに西坂本へ通じる道を下りて行った。その途中には滋幹の母が時平との間に産んだ義理の弟敦忠の生前の別業が立っているのだったが、今は主を失って荒れ果てていた。そこへ足を踏み込んだ滋幹は、裏手の方へ回ってみると、そこには一本の桜の木があって、妖艶な中を咲かせていたが、良く見ると、その木のもとに一人の女性がもたれかかっているのが見えた。滋幹は瞬時に、それが母であることを直感し、彼女の方へ進んでいくと、その胸の中に自分の顔を埋めたのであった。五歳の幼童のときにそうしたように。  
「鍵」
谷崎のこの小説は「鍵」についてのくだくだしい言い訳から始まる。そのいいわけとは、56歳の大学教授が書いている日記のなかでなされる。その日記の中でこの老教授は、妻への色々な注文(それは主に45歳になる妻とのセックスに関することであるが)を書くのだが、それを是非妻に読んでほしいと思う。しかし自分から読むように勧めるのは気恥ずかしいので、妻が偶然この日記の存在に気づき、ひっそりと隠れて読むように仕向けたい。そのためには、とりあえずこの日記を鍵のかかるところに保存して、おいそれとは手にすることが出来ないようにしたうえで、その鍵が妻の手に、さも偶然に入るようにしなければならない、というような事情が、老教授が書き始めた日記の最初のページで、くだくだしく説明されるわけなのである。
老教授の期待に応えて、妻はその鍵を使って夫の日記を手にすることとなる。その日記を読んだ妻は、夫が自分との性生活に不満を持っていることに気づく。実はそうした不満は妻の方でも夫に対して抱いていたところなのであった。つまり、夫は妻との間でもっとエロチックで刺激的なセックスができるよう期待している一方、妻は妻で夫が勢力に乏しく、自分の性欲に十分応えてくれないことに不満を持っているのであった。ところがこういう期待や不満は、いくら夫婦でも面と向かっては言いにくい。そこで二人は、日記を通じてそれぞれの思いを相手に伝え、豊かなセックスを享受したい。そんな思惑から、疑似交換日記ともいうべきことを始めるのである。
しかし二人とも、表立っては相手の日記を読んでいない振りを通す。それでいながら、相手が自分の日記を読んでいることを前提に日記をつける。疑似交換日記という所以だ。そこから奇妙な展開が生まれる。そこがこの小説の最大の読みどころだ。
この疑似交換日記の最大の目的は、夫婦がお互いに協力して刺激的なセックスを楽しむことである。しかし、老教授の方は聊か性欲減退気味で、ちょっとやそこらでは性的な興奮が得られなくなっている。彼が性的に興奮するのは妻に強烈な嫉妬を感じる時なのだ。そこで老教授は妻に不倫めいたことをさせ、それによって強烈な嫉妬を味わい、その嫉妬の焔で自分の性的な興奮を高めようとする。妻は妻で夫の期待に応え、若い男との不倫を楽しむ。その若い男と言うのが実はこの夫婦の一人娘敏子の恋人なのだというから、話が非常にコングラがってくる。
夫の方は、大学ノートにカタカナでペン書きしている。それに対して妻の方は、雁皮紙に蚤のような筆字で書いている。雁皮紙を選んだのは、音がしにくいという理由からであった。やはり表向きは日記を書いているところを知られたくないということになっているわけだ。
さて夫は、軽い気持ちから妻を木村と言う若い男にくっつかせるのだが、それが効を奏して、夫は妻と木村に強い嫉妬を感じるようになり、それがもとで自分の性欲が異常に高まるのを覚える。夫は一方では妻の不倫を苦々しく思いながら、それが自分の性欲を高めさせてくれる限り、そのことに対して喜びを感じ、したがって妻に対しても、若い男に対しても、感謝するというような倒錯した感情を味わう。妻は妻で、夫が自分に対して感謝しているという事実を日記から読み取り、次第に大胆になる。夫と妻とのあいだのこうした関係は、サド・マゾ関係に類似したものを思わせる。
妻は最初のうちは、夫の期待に応えるために若い男といちゃつくふりをしていたのだが、したがって最後の一線は踏み越えずにいたのであるが、そのうちついにその一線を踏み越えたばかりか、娘の恋人であるこの若い男とねんごろな関係に落ち込んでしまう。そうなると、夫の存在が改めて問題になる。いまや夫とのセックスより若い男とのセックスにより強い喜びを見出した妻には、夫の存在が邪魔になってきたのである。
しかし妻にとって都合がいいことには、夫はハードなセックスがもとで体調を崩していまい、次第に危険な健康状態に陥っていく。そして二人がそれぞれ日記を書き始めてから3か月あまり立った頃、毎晩のようにセックスをしている最中に、夫は妻の腹の上で脳出血の発作を起こしてしまうのである。すぐに駆けつけてくれた医師は、夫が真っ裸の状態で倒れているのを見て、彼が妻の腹の上で発作をおこしたことをすぐに見破るのである。
夫が倒れたあとは、妻の日記だけが続く。その日記には、最初は夫に読まれることを依然警戒している様子が伺われるのだが、そのうち大胆になって、なんでもかんでもあけすけに書くようになる。そして、最初に倒れてから半月後に、夫が二回目の発作を起こして死んでしまった後で、自分と夫との奇妙な関係について、深い反省をめぐらすのである。
その反省とは一言でいえば、セックスの本当の喜びに目覚めた一人の女の開き直りのようなものである。自分には実は淫乱な傾向があり、セックスがしたくてたまらないくせに、いままで遠慮がちであったのは、父母によって授けられた封建的な道徳のなせるわざであった。ところが、夫の方でも刺激的なセックスに飢えていることがわかると、夫の期待に応えて刺激的なセックスをするのが恥ずかしいことではないと分かった。恥ずかしいことどころか、それは夫の期待に対して妻が当然応じてしかるべきことなのだ。その夫の期待というのが、自分に嫉妬の感情を抱かせることだったとしても、それはおかしなことではない。「何よりも、夫を嫉妬せしめるように仕向けることが結局彼を喜ばせる所以であり、それが貞女の道に通じる」のであれば、胸を張ってしてもよいのだ、と女は開き直るのである。
しかし、若い男とセックスを重ねるうちに、夫の存在がうっとうしくなった、と女はまた開き直って言う。そこで何とか夫を亡き者にしようと考えるうちに、夫を腹上死させようと目論む。そこで日記の中で、自分の余命も短いというような嘘をつき、夫がますますセックスにのめり込むように仕掛け、彼の血圧を絶えず上昇させることに意を砕いた結果、ついに目論見が成功し、夫は自分の腹の上であえなく亡んだのであった。
こうしたことが妻の日記の最後の方で語られる。この小説は、夫の日記で始まったのであったが、それが妻の日記の、それも一方的な記述で終わるというのには、象徴的な意味合いを感じる。
夫は当初、妻に対して自分の性欲を満足させてほしいという気持を、子どもが母親にねだるような形で訴えていた。その訴えは弱者から強者への訴えである。だから屈折的にならざるを得なかった。その屈折した夫の思いに妻の方でも答えたのは、そうすることによって自分自身の性欲が満たされるからであった。二人は性欲の実現を巡って、秘かに共犯の関係を作り上げていく。その果てにあるのは、強者が弱者を飲みこみ、一方だけが生き残るということである。
このように、この小説では、サド・マゾの倒錯した関係が、二人の当事者によってそれぞれの立場から語られる。これ以前に谷崎が書いたマゾヒズムものは、単一の視点から描かれる場合が多かったのであるが、この小説ではそれが複眼的な展開になっている。その展開するありさまを「エロスの遊戯」に譬えることも出来よう。そこのところが、この小説の新しいところだ。  
「瘋癲老人日記」
「瘋癲老人日記」は昭和36年11月から翌年の5月にかけて雑誌に連載されたというから、それを書いていた、というより口述していた谷崎は、小説の主人公と同じく77歳だったわけだ。その当時の谷崎は主人公の老人同様に手がマヒして筆をとることがままならなかったので、口述筆記の形で創作を行っていたのである。その創作ぶりというのは、作中の老人が女性の足の裏の拓本をとるのに夢中になったのと、ある意味同じような意味合いの行為だったのかもしれない。谷崎は沸き出づる想念を形にすることに、老いの生きがいを感じたのではあるまいか。
77歳と言うのは半端な年ではない。まず肉体の衰えはどうしようもない。実際谷崎も筆を操ることが出来なくなった。知的な能力だって衰えたことだろう。この作品にもそんな衰えを感じさせるところがある。文章にたわみと言うか、締りのなさを感じさせるところが散見される。それでもひとつの作品としての体裁をなしているのは、作家の情熱の賜物なのだろう。この年まで作家としての情熱の火を絶やすことがなかったことは、谷崎の最も偉大な所以であろう。
谷崎がこの小説を日記体で書いたのには、それなりの理由がありそうである。日記体というのは、いうまでもなく一人称であるから、主観的な世界を展開するのに適している。無論結構(筋書きやスタイルといったもの)も意味を持つが、客観形式の小説に比べれば、エクリチュールの自由度はずっと高い。老人の取り留めもない内面世界を表現するには、おあつらえ向きの形式と言える。
谷崎はもともと一人称で書くことを好んだ。中期を代表する作品「痴人の愛」はその典型である。そして「盲目物語」、「芦刈」、「春琴抄」へと続く一連の一人称ものの中で、谷崎は人間の心の内面を、ひとつの同じ視点から展開してみせたのであった。その視点とは、物語を語る主人公の目線のようなものだ。物語はこの目線の先に展開することによって、同じ色調に染まるのである。
谷崎は「鍵」で初めて日記体を用いたが、それはちょっと変わったやり方だった。夫婦の交換日記といった体裁をとったのである。そうすることで、描き出される世界は、単眼的な世界ではなく、二つの視点からなる複眼的な世界となった。そこには互いの目を意識しながら、縺れ合い戯れ合う視線の動きが揺らめいていたのである。
これに対して「瘋癲老人日記」は、老人の書いた日記だけからなっている。完全に単眼的な世界である。老人の個人的な日記と言う体裁をとっているので、そこでは老人の心の中の動きが、誰の目もはばからず、のびのびと展開されているのである。
77歳になり、肉体的に衰え、また精神的にもボケかかった一人の人間の心の動きが何憚ることなく自由に語られる。老人が日記を通して語るという行為は、生きることの代償行為だともいえる。老人は無論、現実の生活の場においても、性欲だとか食欲だとかに執着しているのであるが、それを日記の中でも繰り返すことで、必ずしも意のままにならない生活の不足する部分を取り戻そうと、貪欲になっているふうなのである。
この日記の中で、老人の最も重要な関心事は息子の妻颯子である。老人はこの女性に性的に執着する。颯子の方もコケティッシュな小悪魔として描かれていて、老人をなにかと挑発する。老人は一緒にシャワー室に入って、颯子の足の指を口にくわえこんだり、ネッキングと言って首にくらいついたりして、歪んだ性的欲望を満足させる。老人にとってはいまや、この女性へ執着することが、生きることそのものと同義になる。
この辺は、谷崎の若い頃からの性癖であるフェシティズムの集大成といったところだろう。谷崎のフェティシズムが女の足に執着していることは「刺青」以来の古いことであったが、それが此の日記の中では全面的に花開いている。それが颯子の側からの応答によることはいうまでもない。この老人は老いての後に、貴重な伴侶を得ることが出来た次第なのであった。もっともその代償に高額な宝石を交わされるはめにはなるが。
老人がこの女性を相手にする性的な遊戯は健康にとっては危険な面がある。血圧が異常に上がるのだ。そこで老人は、颯子の足を舐めながら、自分はこのまま死んでしまうのではないかと恐れるのだが、だがそれならそれでもよい。恍惚のうちで死んでいけるなら、これほど良いことはないと開き直る。
実際老人は興奮の余り倒れてしまうのである。だが九死に一生を得たのは、老人の強運のためか、生きんとする妄念の賜物か。生き返った老人は、自分のための墓地を作ろうと思って、颯子を伴って京都へ行く。そしてある浄土宗の寺に墓地を作ることとする。そこでどんな墓が良いか、石屋を呼び寄せて相談するうちに突如いいアイディアが思い浮かぶ。それは、愛する女性の足跡の拓本をもとに仏足石をつくり、それを墓石の代わりにして立てさせ、自分はその下に埋めてもらう。そうすれば死んだ後でも自分は愛する人の足に踏まれ続けていることが出来る。こんなにありがたいことはない。
「彼女が石を踏みつけて、アタシハ今アノ老耄爺ノ骨ヲコノ地面ノ下デ踏ンデイル、ト感ジル時、予ノ魂モ何処カシラニ生キテイテ、彼女ノ全身ノ重ミヲ感ジ、痛サヲ感ジ、足ノ裏ノ肌理ノツルツルシタ滑ラカサヲ感ジル。死ンデモ予ハ感ジテミセル。感ジナい筈ガナイ・・・泣キナガラ予ハ痛イ、痛イト叫ビ、痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテイタ時ヨリ遥カニ楽シイ、ト叫ビ、モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ、ト叫ブ」
この辺りは、谷崎のマゾヒズム趣味の真骨頂ともいえるところだろう。
颯子の方は老人の計画に理解を示し、ホテルの一室で終日床に寝そべり、老人が自分の足の裏の拓本をとるのを自由にさせていたが、やはり気味が悪くなり、翌日黙って東京へ帰ってしまう。それを追いかけた老人であったが、無理をしたことが災いして、そのまま倒れてしまう。そして老人の日記もそこで終わってしまうのである。
「鍵」の場合と違って、老人が死ぬことはないのだが、しかし日記を書き続けられなくなったというのは、死んだも同然だ。この老人にとっては、日記の中の世界を生きることが、現実に生きることとパラレルの行為だったのだから。
なお、この日記の中には、食べ物のこととか、こまごまとした薬の名前とか、東京と言う街の味気なさとか、日本の古典芸能とかについての、谷崎の日頃の感想が挟まれている。そのひとつひとつは何とも云うことのない瑣事ではあるが、それが集まって塊になると、そこから谷崎の人格の片鱗が浮かび上がっても来る。
此の日記体小説は、性をめぐる人間の欲望のおぞましさと、世界に対する生活態度とでもいったものとが、渾然と融合しあった独自の世界を展開することに成功している。谷崎老いてなおうるわしい生を生き得た、といえるのではないか。  
永井荷風論
谷崎潤一郎は、永井荷風の評価によって文壇に認められたと自覚していたこともあり、生涯荷風に敬意を払った。その谷崎が荷風の文学を正面から論じたものがある。一応褒めているといえるので、往年の借りを返したということかもしれないが、それでいてなかなか辛辣な批評を述べてもいる。「つゆのあとさきを読む」と題した小文のことである。
「つゆのあとさき」は荷風が十数年ぶりに書いた小説である。「隅田川」から「おかめ笹」に至る一連の花柳小説を書いた後、長い沈黙期に入っていた荷風が、今度は私娼を主人公にしたいわゆる痴情小説を書くようになる。その曲がり角をなす作品がこの「つゆのあとさき」であったわけだ。久しぶりに復活した荷風の作品を読んで、谷崎は感じるところがあったのだろう。そこで早速一文を草し、先輩に敬意を表したというわけなのだろう。
荷風は、「珊瑚抄」を書いてことからわかるように、非常に耽美的、享楽的な側面を持っていた。「アメリカ物語」や「フランス物語」などはそうした側面がよく発揮された作品である。そうした荷風の側面については、いろいろな評価があるが、谷崎の場合はそうした側面の方を高く評価していたようだ。ところが、「隅田川」を境にして、荷風の筆は客観的叙述の方向へと逸れて行ってしまった。「自分はそれを読んで、荷風も変わったなとさびしく思った」と谷崎はいっている。
荷風はどう変わったのか。谷崎はそれを、江戸趣味への後退といっている。ここでいう江戸趣味とは、西鶴、春水、紅葉山人に連綿と流れる傾向のことをさす。彼らの小説は徹底した写実主義に立っていて、人間の動きを微細にわたって描き出すが、それでいて西洋の小説のようなあくどさを持ち合わせていない。心理描写などはほとんどないし、思想を云々するようなこともしない。登場人物は無論人間だが、人間でありながら木石同様物としての扱いを受けている。つまり心がこもっていない、木偶の坊同然の扱いをされている。そう谷崎はいうのだ。
こうした傾向は、江戸趣味の小説のみならず、広く東洋文化の特徴だとも谷崎は言う。たとえば水滸伝。これには夥しい人間が登場するが、ひとりひとりの人間には個性がない。みな似たり寄ったりで、その意味では将棋の駒と何ら違いはない。そこから一種のニヒリズムが生まれてくる。西鶴や紅葉の作品にもこうしたニヒリズムが反響しているのであって、そこから登場人物になんら感情移入もできないような、ある意味無味乾燥な世界が展開される、と谷崎はいうのである。
「隅田川」から「おかめ笹」にいたる一連の花柳小説は、花柳界という妖艶な世界を描いているにもかかわらず、そこで展開されるのは、心のこもった人間の物語とは到底いえないしろものである。登場人物はまるで木偶人形であるかのように振る舞い、心のこもらないセックスにうつつを抜かす。そうした傾向は、「つゆのあとさき」にも健在で、荷風は主人公の君江という女を、人形の如く心のこもっていないものとして、つきはなした冷たい筆致で描き出している。
しかしその冷たさが、君江という女の不気味さを描き出すのに、かえって力を発揮しているのではないかとも谷崎はいう。「最も肉欲的な淫蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いている」ところが、いかにも東洋の文人らしく、独特の迫力があるというわけなのだ。
褒めているのかけなしているのかわからないところだが、「つゆのあとさき」が荷風のひとつの転機を現していることは、谷崎も認めるところだったようだ。長い沈黙ののちに、荷風の文体はいよいよ乾いたものになってきた。その乾いた文体が、「肉欲的な淫蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で」書くことを可能にさせたといいいたいのだろう。
「思うに荷風氏は、長い間心境策落たる孤独地獄の泥沼に落ち込んで、苦しく味気ないやもめ暮しの月日を送りつつあるうちに、いつか青年時代の詩や夢や覇気や情熱を擦り減らしてしまって、次第に人生冷眼に見られるようになられたのであろう。享楽主義者が享楽に疲れるようになれば、大概はニヒリストになるのが落ちであるが、氏もかくの如くにしてその当然の径路をたどられたかと思われる」
谷崎はそういって、荷風の変化の背後について同情のこもった推察をしている。
ともあれ谷崎は荷風の転機を「江戸趣味への後退」と見たわけだが、後退と否定的な響きのある言葉を選んだのには理由がある、と谷崎はいう。「一人荷風氏ばかりではないが、それにしてもそういう人たちの懐古趣味がせいぜい徳川末期、化政頃の戯作者の世界にとどまって、それより古い時代に遡る者の少ないのは何故であろう。何故彼らは江戸文学の狭い範囲にのみ跼蹐して、室町、慶長、元禄頃の上方文学の広い領域へ目を向けないのであろう。比較的近代の産物である江戸情緒のみが特にそういう人たちに牽引力を及ぼすらしいのを私は不思議におもうのである」こう谷崎はいって、荷風の江戸趣味の了見の狭さを非難するわけである。
その江戸趣味は、東京と言う都市への荷風のこだわりにも現れていることは、誰でも気づくことで、荷風こそは東京のローカルカラーを最も意識的に描いた。例えば「つゆのあとさき」のなかでも、銀座界隈、牛込市ヶ谷付近、外堀の土手の景色などが繰り返して描かれているが、それらの文章を読むと、東京という都市の顔が、襞の細部まで見えるような感じになる。
荷風は、小説の中で東京を描いただけではない。東京をテーマにした文章を夥しく書いている。日記「断腸亭日乗」の中でも、東京と言う街を隈なく歩き回ったさまが記録されている。荷風はたしかに東京という都市のローカルな側面に生涯こだわった人だったともいえよう。  
日本的恋愛論
谷崎潤一郎の書いた随筆というのは、自分の日頃思っていたことを、何の工夫もなくストレートに表現したものが多いので、深みと言うか、教えられるところは殆ど何もないが、しかしそれなりに読ませるところがある。その面白さは、小説と同じく、これはあくまでも作り物だよということを、読者に納得させたうえで、いわば了解づくで語りかけてくることの、無責任さから生まれるのだといってよい。そんなこともあって谷崎が随筆に手を染める時、そのテーマはおよそ肩の凝らない性格のものが多いのである。
「恋愛及び色情」と題した随筆などは、そうした無責任さが横溢した一篇で、書いている事の信憑性は殆ど問題にならないながら、というか馬鹿馬鹿しい限りながら、それでいて、というかそれ故というか、とにかく面白いのである。
「日本の茶道では、昔から茶席へ掛ける軸物は書でも絵でも差支えないが、ただ"恋"を主題にしたものは禁ぜられていた。ということはつまり、"恋は茶道の精神に反する"とされていたからである」
こう谷崎は書き出すのだが、日本では茶道に限らず様々なところで"恋"が白眼視されていたと谷崎は嘆息する。最近になって日本人が"恋"を白眼視しなくなったのは、西洋文学を始めとした西洋文化の影響である。しかし日本人は太古の昔から男女の恋愛を白眼視してきたかと言えばそうではない。それは平安時代の文学を読めばおのずとわかることで、源氏物語などは"恋愛"をおおらかに賛美したものである。
それが、「武門の政治が起こり武士道が確立するに従って、女性を卑しめ、奴隷視することになった」そういう雰囲気の中では自ずから恋愛が賛美されることなどはもってのほかで、男女の恋愛沙汰は抑圧されるべきこととなってしまったわけである。
何故そうなったのか、その背景までは、谷崎は詮索しない。ただ、日本人が男女の恋愛を白眼視するようになったのは、武門支配の成立という、歴史的な条件と深くかかわっていたということを、指摘するにとどめるのだ。
ところで、平安時代の男女の恋愛には今日の日本ではおよそ考えられないようなことがなされていたと谷崎はいう。それを一言でいえば、女性の地位が高く、男性による女性賛美が普通だったばかりか、弱い男を強い女が支配するといった事態まで見られた。要するに女は男と対等、またはそれ以上の強さを以て生きていたというのである。
谷崎はそうした女の強さや、女を敬い奉る男のことを、「古今著聞集」や「今昔物語集」を引き合いに出して紹介しているのであるが、その紹介ぶりは、当時の男女の間柄には、今日のそれとはかなり違った面があったということを強調するだけの皮相なものであって、何故平安時代以前に女たちが強い存在でありえたかについての、歴史的な視点はない。
谷崎は文学者であって歴史学者ではないのだから、平安時代の女が今日の女より強かったことの歴史的な背景など論じるいわれはないのかもしれないが、それにしても、そうした歴史的な背景を一切捨象して、今日の男女関係を平安時代の男女関係と比較しても、あまり生産的なことにはならないだろう。事実、この比較を論じる時の谷崎の態度は、学問的な香りを一切感じさせない。
さて、いよいよ谷崎の筆は、今日の日本人の恋愛と諸外国とのそれとの比較に移っていく。
まず俎上にのせるのは、日本女性の肉体の性的アピール度とでもいうべきものである。「精神にも"崇高なる精神"というものがある如く、肉体にも"崇高なる肉体"がある。谷崎はこういって、女性の肉体が恋愛にとってもつ意味を強調するのであるが、翻って日本女性の肉体を見ると、これが非常に貧弱である。豊満な肉体を持つ女性が非常に少ないうえに、そうした持ち主がいた場合でも寿命が短い。西洋の女性がもっとも美しくなる年齢は31-2歳なのにたいして、日本の女性は精々24-5歳くらいまでで、しかも独身時代に限られる。一たび結婚してしまえば、すっかり所帯やつれしてしまう。
「だから」と谷崎はいう。「西洋には"聖なる淫婦"もしくは"みだらなる貞婦"というタイプの女がありえるけれども、日本にはこれがありえない。日本の女はみだらになると同時に処女の健康さと淡麗さを失い、血色も姿態も衰えて、醜業婦と選ぶところのない下品な淫婦になってしまう」
ここの部分がはたして谷崎の本音であるかどうか。もし本音であるとするなら、谷崎は随分人を食った人間だということになる。というのも、谷崎文学の本質は、女性賛美にあるということになっているからで、その女性賛美の影にこんな本音が隠れているのだとすれば、それはとんでもない欺瞞だということになる。
次いで谷崎は、我々日本人が、セックスに淡泊なことに言及する。「われわれは性生活において甚だ淡泊な、あくどい淫楽に絶えられない人種であることは確かである。横浜や神戸あたりの開港地にいる売笑婦に聞いてみてもこのとこは事実であって、彼女らの話によると、外国人に比べて日本人は遥かにそのほうの欲望が少ないという」
「われわれが性欲にあくどくないのは、体質というよりも、季節、風土、食物、住居などの条件に制約されるところが多いのではないか」と谷崎はいう。というのも、西洋人も日本に長く滞在すると、頭が悪くなって、性欲も減退するようだからである。彼らはだから、日本滞在が長くなると、英気を養うために本国に帰るか、日本国内で転地療養のようなことをする。軽井沢が西洋人に人気のあるのは、カラッとした空気が彼らの健康に良い働きをすると信じられているためだ。日本にいて頭が悪くなる最大の要因は、どうやら湿気の多さにあるらしいのだ。
こうして谷崎は、日本人が性欲にあくどくないのは、べとべとと湿気の多い気候に最大の原因があると結論付けるのだが、ならば湿気の多いインドや南支那はどうかというと、彼等は彼らなりに日本人よりはるかにあくどく性欲を楽しんでいるらしいと訳の分からぬことを言っている。そのうえ、べとべととした湿気にかかわらず性欲を発散させたおかげで、彼等は勢力を使い果たし、その結果自分の国を西洋人の蹂躙するにまかせたのだと、あまり根拠のないことをいっている。いわんや、「われわれが今日東洋に位しながら世界の一等国の班に列しているのは、即ちわれわれがあくどい歓楽を貪らなかった所以であるともいえる」というにおいておや、である。
「恋愛を露骨にあらわすことを卑しみ、かつその上にも色欲に淡泊な民族であるから、われわれの国の歴史を読んでも陰に働いた女性の消息というものが一向明らかに記していない」谷崎は最後にこういって、日本の女性がいかに軽く扱われてきたかに言及している。例えば系図を見ても、男の経歴は詳しく記されているのに対して、女の方は単に「女」あるいは「女子」と書かれているだけだといったことである。
それ故、日本人にとって、女性というものは陰に隠れた存在として、長い歴史を生きてきたわけだ。中には、北条政子や日野富子のような例外はあるけれど、彼女らはその行為の異常な悪女ぶりが歴史家の注目を引いただけのことであって、あくまでも例外に過ぎないというわけであろう。
日陰の存在ということについては、日本の女は、女がまだ強かった時代から、闇の世界と結びついていた。つい最近の時代まで、日本の夜というものは、文字通り漆黒の世界であったわけだが、平安時代の昔においては、男女がちぎりを結ぶのはその漆黒の闇の中であったのである。さればこそ、光源氏は末摘花の鼻の頭が赤いことに気がつかぬまま、長い間過ごしたわけなのである。これは、妻問婚という日本独特の婚姻の風習がもたらした珍事といえるのであるが、谷崎はそうした歴史的な背景にはあまり興味がないらしく、ただことがらのおかしさを、笑っているかの風情がある。  
関西観
谷崎潤一郎は関西に移住した後すっかりそこが気に入ったと見えて、空襲が激化して疎開を余儀なくされるまで住み続け、関西を舞台にした多くの作品を書いた。「卍」では、関西弁での一人称形式を取り入れるなど、関西文化に熱を入れていたことが伺われるが、その一方で、関西人の一種あくどさといったものに辟易している様子も見せていた。自然なことながら、谷崎の関西観には複雑なものがあったようだ。
「私の見た大阪及び大阪人」と題する随筆は、そんな谷崎の関西とりわけ大阪の文化や人々の生活ぶりについての印象を語ったものである。書かれたのは昭和7年であるから、関西に移住して9年近くたっている。当初は面食らった関西人との交渉にようやく慣れてきて、そろそろ親しみを感じはじめた頃の印象記である。関西人に対する否定的な観察と、積極的に肯定する部分とがないまぜになって、非常に正直さを感じさせる体のものだが、何分戦前の関西人についての観察であるから、関西人を含めた今日の読者にとって如何ほどの現実性があるかどうか、それは別問題である。
谷崎は、東京人にとって関西というところの居心地の悪さから書き始める。それに慣れるまでには5年から10年はかかるだろうといって、東西の文化の違いを言挙げするのであるが、何がその相違を生む原因となっているのか、谷崎は東西の間に横たわる様々な溝に着目する。
東西両者の相違のうちでも最も目につくのは、生活風習や経済感覚といった物質的な方面であり、谷崎もそこのところを最も強調しているのであるが、それと並んで、精神面における相違にも強い関心を寄せている。読者が面白いと感じるのも、この方面における東西の比較だろうと思う。
谷崎がまず注目するのは、関西人の顔つきや立居振舞についてである。関西人の顔つきをよく見ると、東京人には決して見られない顔つきの者がいる。その顔つきとは、古代の日本人を思い出させるような顔だというのである。「仮に彼らの羽織や、インバネスや、背広服を脱がして、烏帽子狩衣や直垂を着せ、女には市女笠を被らせ、あるいは頭を下げ髪にさせたなら、宛として伴大納言や一遍上人絵巻中の街頭の光景が現出するであろうほどに、その風貌は数百年以前の俤を伝えている。京都に比べると大阪はそれほどでないけれども、前者をお能の面とすれば、後者にも文楽の人形の首ぐらいの古さはある」
これは関西人がいまだに古来の日本人の伝統と、直接連続していることの現れだろうと谷崎は見ているのである。東京は徳川時代に人為的につくられたこともあり、関西程伝統へのこだわりがなかったせいで、伝統とは切れたところがある。それ故西洋風の行儀にも比較的良く馴染み、それに従って顔つきも変わっていった。それに対して関西は、古来の伝統と切れることがなかった。それ故いまだに、平安時代を思い出させるような顔が町を歩いているというわけである。
古代との連続性は女子においてより強く見られるという。関西の女は洋服が似合わないが、それは彼女らがいまだに古来の立居振舞の動作様式が身から離れないせいだと谷崎は言う。そうした動作様式は和服のために発達してきたものであって、洋服とはなじまないというのだ。「西洋の婦人の歩く姿を見ると、左右の臀の肉が交互に出たり入ったりするのがハッキリと分って、その大きな骨盤の上に胴体がしっかり載っかっているが、彼女たちの臀部にはスカアトがひらひらしているばかりで、殆ど肉の感じがしない。これは体格が繊弱な上に足の運びが小刻みなせいもあろう」
もっとも谷崎がこの文章を書いた昭和7年ごろは、東京でも女は和服姿が一般的であったわけだから、谷崎のこの観察は東京の女にも当てはまったにちがいないのだが、それが関西の女にとりわけ顕著に見えたのは、谷崎特有のバイアスのせいかもしれない。
顔つきのみならず、声にも顕著な相違があると谷崎はいう。東京人の声は「カサカサした、ひからびたような声である」。それに対して関西人の声は、「粘っこい、歯切れの悪い、ねちねちした声」である。また、「大阪人の声は往々ドスが利き過ぎるので、東京人が聞くと、たまらない不愉快がこみ上げて来て、胸糞が悪くなることがある。しかも驚いたことに、女でもこれを出すのだ」
しかし、関西人の声には長所もある。特に女の場合はそうで、トータルでいえば東京の女より大阪の女の方が声が美しい、と谷崎は感心する。楽器に例えれば東京の女の声がマンドリンで、大阪のはギターだというのである。マンドリンはあっさりとした音色で、ギターは連綿たる情緒を語るといいたいのだろう。そこで、「座談の相手には東京の女が面白く、寝物語には大阪の女が情がある」ということになるのだろう。
声だけではなく、言葉の使い方にも、東西には大きな相違がある。東京の言葉遣いが文法に忠実で緻密なのに対して、関西の言葉遣いには省略が多く、正確さよりも余韻を貴ぶ風がある。それは日本語が古来もっていた美質で、それを関西の人々はいまだに伝えているのに対して、東京人は西洋文化に毒されて、言葉にも正確さを重んじるあまり、日本語の良き伝統を捨ててしまったのだと言いたげである。
それ故、猥談などをしても、関西の女は品よく仄めかして言うすべを知っており、また商談などでも、相手の感情を傷つけずに自分の意思を表現する手段を知っている。「腹の中では油断なくそろばんを取りながら、どんな時にも露骨にはいわない。それでいて借金の断り、催促、その他義理の悪いようなこと、厚かましいこと、貧乏なことをそれといわずに知らせること、相手に恥をかかせないようにして虫のよすぎることを諷すること、肯定するようにして否定すること、前提だけいって結論を言外に示すこと等、まるで謎をかけるような遠回しの云い方で、何処までも礼儀を失わずに体裁よく防禦し、あるいは攻撃し、それで目的を達するのだから恐ろしい」
こうした言葉遣いの文化がいまだに関西人に伝わっているかどうか、筆者にはよくわからないが、たしかにこうした文化は、東京との対比において目覚ましいばかりか、世界的に見ても珍しいのではないか。「卍」に出てくる女性のような人は、東京は勿論世界中どこを探したっていないに違いない。
東西の経済感覚の違いについても、谷崎は触れることを忘れない。関西人の締り屋ぶりは半端じゃないというわけである。たとえば、「東京の家庭では、御飯のお菜はいくらか余るぐらいに拵えるのが普通だが、大阪では人数きちきちに、少し足りない目くらいに作る。そういえばあの長州風呂と言う鉄の釜の風呂が関西に多いのは、恐らく燃料の節約から来ているに違いない」
長州風呂というのは、「五右衛門風呂」というやつだろう。これなら昔の東京人も使っていたから、別に関西特有というわけでもないと思うが、谷崎の目にはそれが、関西人の吝嗇ぶりを象徴するものとして映ったのかもしれない。
しかし谷崎は次のように言って、関西人とくに大阪人のけちなことを擁護している。「欲張りとか金銭に汚いとかいうけれども、此処は商人の都だ。商人が欲張りなのは当たり前ではないか・・・東京の青白いインテリゲンチア階級よりも、進出的で、男性的で、線が太いだけ、明朗な感じがするようにも思う」  
「陰翳礼讃」
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、筆者が高校生時代の国語の教科書に載っていたから、これが多分筆者の読んだ最初の谷崎作品だった。もとより全文ではなく、その一部を抄出したに過ぎなかったが、その部分と言うのが、日本家屋の特徴を論じたもので、要するに日本の伝統家屋には陰影がつきものだということを論じた部分であった。
筆者がその小文に感心したのは、谷崎が論じる日本家屋の特徴を、筆者が住んでいた家にも見ることが出来たからであった。というのも当時筆者が住んでいた家は、書院造の純日本風の家であって、藁葺の巨大な屋根を持ち、家の周りに縁側を巡らし、外の空気とは、雨戸を取り払えば、障子一枚で隔てられているといった開放的な造りなのであったが、何故か部屋の奥まったところは薄暗い雰囲気になっていて、そこに谷崎が言うような深い陰影が生じているのであったが、普段はあまり気にしない、そういう家の造りの持つ意味について、この文章が考えさせてくれたというわけなのであった。
筆者がとくに心を惹かれたのは床の間について論じた部分だった。谷崎は日本家屋のうちでも床の間こそが最も陰影の深い場所だと言って、落し懸けの後ろや違い棚の下を埋めている闇を指摘し、それを「空気だけがシーンと沈みきっているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領している」と評しているのだが、たしかに筆者の家の床の間にもそんな気配が感じられた。谷崎は更に、床の間の脇についている書院の組子障子について、それは明り取りと言うよりも、「むしろ側面から差してくる外光を一端障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている」とも書いているが、要するに明り取りの工夫にも陰影の妙を求めようとする日本家屋の奥ゆかしさについて、筆者の目を開かせてくれたのであった。
この文章に興味を抱いた筆者は、早速高校の図書館から「陰影礼賛」全文を収めた書物を借り出して読んだ次第であったが、そこでもまた新たな発見ができて大いに喜んだ次第であった。その発見とは厠に関するもので、谷崎は「日本の厠は実に精神が休まるように出来ている」といって、日本の伝統的な厠を絶賛しているのであった。
谷崎が例として取り上げた厠は、母屋とは別の場所に建てられていて、母屋と渡り廊下でつながっているといったものであったが、筆者の当時の家の厠は、母屋の一角ではあるが、縁側のはずれに位置していて、その点では、家の内部と外部との中間領域といってもよかった。しかしてその厠の内部の造りは谷崎が縷々書いていることとほぼ違いがないのであった。すなわち、床は無論朝顔まで木でできていて、金隠しの向う側には掃出し窓がついていた。そこで筆者はその掃出し窓の向こう側に、谷崎がいうような雨の滴り落ちる音や蟲の鳴く声を、用を足しながらの合間に、しみじみとした雰囲気の中で聞くことが出来るのであった。
さてこのたびは約半世紀ぶりに「陰影礼賛」を読んだわけであったが、その半世紀という日時の介在は、この文章の受け取り方に決定的な影響を及ぼしているのがわかった。というのは、昔読んだときには、谷崎の書いていたことを自分のことに引き寄せて受け取ることが出来たのに、いまでは、そんなことは全くできなくなっているからなのであった。家の造りは西洋風になり、谷崎がいうような陰影は家のなかからなくなってしまった。また便所も機能一点張りになって、谷崎がいうような「精神が休まる」ような作りにはなっていない。今の筆者の家では、狭い空間の中に大小兼用の陶器の便器が据えられていて、筆者はその便器の上に扉の方向を向いて腰掛け、ただ用を済ますだけなのである。とてもそこでは、雨の音を楽しんだり、虫の音を聞いたりする贅沢は味わえない。そんなわけで、今の人の目からすれば、谷崎が日本家屋について書いていることは、歴史的な意味合いしか帯びないのではないか。
しかし、今回「陰影礼賛」を読んで、高校生時代には気が付かなかったことまでわかったような気がした。谷崎は「陰影礼賛」といって、日本の家屋の陰影について論じているばかりか、およそ西洋と比較したうえでの日本文化の特徴というか、その奥ゆかしさについて礼賛しているのである。西洋文化は確かに便利ではあるが、しかし日本を含めた東洋文化には、東洋文化でなければ味わえない様々な利点がある。その利点をことごとく捨てて、西洋かぶれになってしまうのはいかにも芸がない、そういって谷崎は我々日本人が今後も、日本の伝統文化を大事にしていくことの必要を説いているわけなのである。
ただ単に日本文化を保存するにとどまらず、できうれば西洋文化を取り入れる際に、それを日本流にアレンジしたうえで取りいれる、そんなことも必要だろう、と谷崎はいって、次のように書いているほどだ。
「たとへば、もしわれわれがわれわれ独自の物理学を有し、化学を有してゐたならば、それに基づく技術や工業もまた自づから別様の発展をとげ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でも、もっとわれわれの国民性に合致するやうな物が生まれてはゐなかったであらうか・・・わたしはかつて"文芸春秋"に万年筆と毛筆との比較を書いたが、仮に万年筆といふものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛筆にしたであらう」
谷崎自身は毛筆で原稿を書いていたから、こんな発想が出てくるのだろうと思われる。
ところで、「陰翳礼讃」は日本家屋にある闇の存在を強調するあまり、その闇との関連で、漆器や金細工など日本独自の什器類が発達したのだと強調してもいる。漆器などは闇のように暗いところで用いられることを前提にして作られているのであって、それを明るい場所で見たのでは美しさがそがれる。同じことは女性の美しさについてもいえるのであって、日本の女性は暗闇の中で見て美しくなるように、自分を作り上げてきた、そうも谷崎はいうのである。
どういうことかというと、日本の女性は伝統的に暗い室内で暮らしていて、男たちは暗い所でしか女性の肌に接することが出来なかった。そんな場所では、女性の美しさは顔と手先にしか窺い知ることが出来ない。それ故、顔には特別の工夫をこらす必要がある。鉄漿と言うのはそうした必要に答えたものであって、暗いところで女性の顔を見ることから生まれたものなのである。というのも、真っ白い歯をむき出しにした女の顔と言うのは、暗い闇の中では幽霊のように薄気味悪く映るものなのである。
こんなわけだから、日本の女性には顔と手先だけがあればよく、胴体はいらないという極論も出てくる。それは文楽の人形からの連想がそうさせたのであって、たしかに文楽の人形には顔と手先だけがあって胴体がない。「胴や足の先は裾の長い衣装のうちに包まれているので、人形使いが自分たちの手を内部に入れて動きを示せば足りるのであるが、私はこれがもっとも実際に近いのであって、昔の女というものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う」
そして、「極端にいえば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだといってよい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやりと覚えているが、胴体については記憶がない」とまで谷崎は言うのであるが、生涯女性の肉体にこだわった谷崎の、女性の肉体に関しての原体験ともいうべきものが、こういう事情だったとは、非常に面白いところである。
ちなみに筆者自身は、母親の身体は、顔や手足に止まらず、胴体についてもよく覚えている。  
「月と狂言師」
谷崎潤一郎が日本の伝統文化に深い関心を寄せていたことは良く知られているとおりで、中でも能については小説の題材に使ったり、あるいは謡曲の一節をふと文中に忍び込ませたりしているほどであるが、自分でも実際たしなんでいたようである。「月と狂言師」という小文は、そんな谷崎の能楽趣味が彷彿と伺われる作品である。
この随筆とも短編小説ともつかない不思議な読み物は、戦後間もない頃の京都南禅寺を舞台にして、南禅寺の住人と称するグループが狂言師の茂山千五郎一家を南禅寺境内の塔頭の一室に招き、そこで月見がてら狂言の稽古を催した、その模様を情緒たっぷりに描いたものである。
茂山千五郎一家といえば、大蔵流狂言の名門であり、京都を本拠にしている。その茂山家と谷崎との接点になったのは、南禅寺の塔頭に仮住まいをしている上田氏とかいう人で、その人がやはり当時南禅寺境内に住んでいた谷崎のために、茂山千作を招いて狂言の舞台を設定してくれたのであった。舞台といっても、塔頭の一室で、師匠の千五郎とその一族の外、弟子たちが交互に小舞や狂言小唄を披露するというもので、よくある能楽同好会の狂言版というようなものであった。
そこで招かれた谷崎は夫人を伴い歩いて舞台の場所に出かけてみると、そこは池水や座敷の配置が狂言の稽古舞台として適しているばかりか、月を愛でるにも格好の造りになっているのであった。谷崎は池水にせり出した床張りの勾欄にもたれかかりながら、弟子たちの演じる番組を眺めていたが、そのうち千作翁が「弱法師」を、千五郎が「福の神」を、これは谷崎のために特別に舞ってくれた。千作翁はこのとき85歳の老人であったが、年を感じさせないところに谷崎は驚愕している。
番組がひととおり終わったところで、あらかたの弟子たちは帰ってしまったが、谷崎と千五郎一家の外数人の者が残って、月見となった次第だった。十五夜にくっきりとした月を見るというのはなかなか難しいらしく、せいぜい十年に一度あるかないかなどといいながら、谷崎は振る舞われた弁当で一杯やりながら月の出るのを待っていたが、幸運にもその宵の月はくっきりとした姿を現してくれたのだった。
すると千作翁が狂言「月見座頭」のなかの一節を口ずさみだした。「ざわざわと鳴るわの、〜、よしの葉のよい女郎が参りて酌を取りたうは候へども、子持のならひとて子を抱いたやれ〜、御子抱いたやれ〜、殿に隠れてまどろまうとしたれば、窓から月がぎがと差すわの、やれ干せや細布、竿に干せや袖ぼそ、今宵の月はくまない月やよの」
他の者たちも千作翁の後について謡い、「窓から月がぎがと差すわの」あたりから大合唱になった。千作翁が他の小謡を謡いだすと、座の一人が「今宵は八月十五夜、名月にて候程に、をさなき人を伴ひ申し皆々講堂の庭に出でて月をながめばやと存じ候」と、謡曲「三井寺」の一節を謡う。すると一同も後に続けて、「名を名月の今宵とて、〜、夕べを急ぐ人心」と合唱する。そうこうするうちに月は次第にかたぶいて、しずしずと舞台の方に向かってせり出してくる感じがする。
誰かが「東遊びの数々に、〜」と「羽衣」の一節を謡う、すると一同が「その名も月の宮人は三五夜中の空にまた、〜」と続ける。「月は一つ、影は二つ、満潮の夜の車に月を載せて・・・」、「月海上に浮かんでは兎も波を走るか」とさらに続けて合唱しているうちに、月はすでに山の端を離れて池の面が輝きだした。
こうして月が中天に上った頃には、宴たけなわとなった次第で、皆月に浮かれながら様々な余興を披露しだした。天秤棒を担いで「油屋」を演じる者、「がんでん〜」といいながら「壬生狂言」を演じる者、バレーのアクロバットもどきに、着物姿で両足を広げ一座を仰天させるものなど、「いろ〜な人がかわる〜跳び出して来てはありとあらゆる滑稽、猥雑、狼藉の限りを尽くした」。それを見ていた谷崎は大いに感心して、「花に浮かれる人々はしば〜見ることがあるけれども、かように月に浮かれる人々は珍しい」というのである。
この文章を読んだ限りでは、谷崎夫妻はもっぱら見たり聞いたりする側で、自分からは芸なり余興なりは演じていないようである。演じているのは弟子たちであり、また師匠の千作翁である。その千作翁のきさくな態度に谷崎はいたく感心したようで、次のように書いている。
「茂山氏の家族は・・・七五三氏千之丞氏に至るまで既に世間に名を知られた一廉の芸人たちであるが、最前から見ていると、親子兄弟が仲が好いばかりでなく、われ〜に対しても寸毫も芸人らしい気取がない。かといって、別にお世辞や追従をいうのでもなく、全くわれ〜と同じ気分に浸りこんでいるのである」
この夜の茂山家の人々が、一家揃って谷崎のために尽くしてくれたのは、ひとつはこの大文豪に対する尊敬の気持ちからも知れないが、それにとどまらず、千作翁をはじめとした一家の人々の謙虚な姿勢から出ているのであろう。
この一文を読んで、筆者は非常にうらやましい気分になった。謡曲の稽古には何度も出たことがあるが、そこで披露される素謡や仕舞は至極まじめなもので、笑いという要素を期待することはできない。無論楽しいことは楽しいのだが、羽目を外すような楽しさとは違う。ところがこの文章の中で展開されている狂言の稽古は、その羽目をはずしたような楽しさが充溢している。こんな稽古なら、是非参加させてほしいものだ。  
「所謂痴呆の芸術について」
谷崎潤一郎の小文「所謂痴呆の芸術について」は、義太夫の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判したものである。それも、谷崎が日頃懇意にしていた義太夫の巨匠山城少掾から、義太夫を擁護してくれるような文章を書いて欲しいと頼まれて書いたということになっている。山城は、谷崎の友人である辰野隆が義太夫のことを余りに悪しざまに言っていることが憤懣に耐えず、それへの反駁分を書いてもらいたいといってきたのだが、それに応えて書いた文章が、結果的には辰野隆以上に義太夫を悪しざまにいうことになったというわけなのである。
谷崎はまず、山城が何故自分に義太夫の擁護を頼んで来たか、その背景に目を向ける。そしてそれは自分が文楽の賛美者であると思われているからだろうと推測する。その上で、自分が文楽を愛するのは、人形のかもしだす御伽噺的要素を愛するのであって、義太夫を愛するからではない、自分はむしろ義太夫の荒唐無稽さ、馬鹿馬鹿しさを軽蔑する者であるとして、次のようにいう。「歌舞伎を痴呆の芸術と言い出したのは正宗白鳥氏であったと思うが、辰野の云うのもつまりはそれで、痴呆と言う点ではむしろ義太夫の方が本家であるから、恐らくその意味の悪口であろう」
義太夫のどこが荒唐無稽で、どこが馬鹿馬鹿しいのか。谷崎は「合邦摂州辻」を例にとって説明している。「所謂痴呆の芸術のうちでも此れなぞは最も典型的なもの」だというのである。
まず、この浄瑠璃が能の「弱法師」を下敷きにしている点を指摘したうえで、「あの謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃のほうにはどこを探しても見られない。同じく仏教を取り入れながら、一方が瞑想的な日想観を凝らすのに、一方は騒々しい百万遍を操る。そういう相違が全般に行き渡っていて、あの弱法師の、単純で、自然で、素朴な物語から、どうしてああいう猥雑で、不自然で、晦渋な筋を考え付いたのか不思議である」といっている。
ここでいう筋とは、たとえば玉手御前を能とは違って善人に仕立て上げたうえで、弱法師を救うために自分の腹を父親に裂かせたりとか、それは玉手が俊徳丸に惚れていたからだとか、荒唐無稽な筋書きのことをそしていう。それは、「お客をハラハラさせておいて最後にほっとさせる、ということばかりに囚われて、ああでもないこうでもないと趣向をひねくり回した結果、遂にこんな不自然な筋をでっちあげたのだ、と見るのが当たってはいないだろうか」というわけである。
こういうことは合邦の玉手に限らず、鮨屋の権太にも、寺子屋の松王にも、陣屋の熊谷にもあてはまる。忠義のためには他人の子どもを殺すことさえ平気でする、こんな馬鹿げているばかりか、不道徳極まりないことが、義太夫ではあたりまえのことのように描かれる。こういって谷崎は、「いったい、江戸時代に生まれた他の浄瑠璃はそんなことはないのに、義太夫だけが変に残虐な場面を描くことを好み、血を見なければ承知しない文学と言った趣がるのはどうしたことか」と疑念を呈する。
ここでいっている他の浄瑠璃には近松のものも含まれているようで、谷崎は「巣林子(近松のこと)の物などはもっと素朴で、自然であったのに、世が降って、巣林子ほど天分のない、亜流や末流の作者が出るにしたがって、こういう風ないやらしいものに堕落した」と厳しく批判している。
もっともその近松でも、所謂世話物には自然の感情をうたったものが多いけれども、歴史物には荒唐無稽なのもある。例えば出世景清などは、景清は女を踏みにじってやりたい放題のことをしたうえで、頼朝と和解するということになっている。しかしそれでは、平家の侍たる景清は浮かばれないだろう。
ともあれ、かように義太夫を非難する谷崎ではあるが、全面的にこれを排斥するのかと言えばそうではない。義太夫も山城のような名人が歌うと、ほれぼれとするような気持になるし、時に旅芸人が門を流しているのを聞いて、つい恍惚としてしまうこともある。それは「何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用とでもいうのであろうか」と谷崎は言って、われわれが義太夫をこっそりと楽しむ分には別に問題はないと言っている。問題なのは、これを国粋芸術だなどと称して、大々的に売り込もうとすることなのだ、というわけである。
というのも、日本人だけで楽しんでいる分には問題はないが、これを西洋人に聞かせると様々なぼろが明るみに出るからである。「演じられている芝居そのものが馬鹿げているのみならず、それを国粋芸術だとか何だとか礼賛しつつ見物している客席の人間全体が馬鹿げて見えるに相違ないので、定めし外国人たちは、日本人と言うものを凡そ頭の悪い国民だと思うであろう」
かように谷崎は、義太夫そのものには同情すべき点があるとしながら、なおかつ批判すべき点があると言って、それを義太夫の国粋主義との結びつきということに求めた。それというのも、義太夫は一時衰えかかっていたものだが、それが息を吹き返したのは、戦争に便乗したからである、と断罪するのだ。そして、義太夫と軍閥政府との結びつきを、谷崎は次のように描写するのである。
「あの義太夫の知性に欠けているところ、矛盾や不合理を敢えてしてそれを矛盾とも不合理とも感じないところ、まるで小便でもするように簡単に腹を切ったり人を殺したりして、人名の重んずべきを知らないところ、非人間的な残忍性を武士道的だと思っているところ、それらは同時に軍閥政府の特徴でもあったからである」
谷崎がこの小文を書いたのは昭和23年7月のことである。当時はまだ戦争の記憶がまざまざと生きていて、多くの日本人はもう戦争はこりごりだと思っていた。そんな時に、相変わらず戦争を賛美するかのようなことを平然と続けている義太夫の古い体質が、谷崎には我慢ならなかったのであろう。
それにしても山城少掾は義太夫の擁護を託する人を間違えたようである。  
「疎開日記」(その一)
谷崎潤一郎には断続的に日記をつける習慣があったが、そのうち昭和十九年一月一日から同二十年八月十五日までの分を、「疎開日記」と題して一篇にまとめている。戦争末期から終戦当日までの約一年半をカバーしている。この短い期間に谷崎は、神戸市の魚崎にあった本宅から別荘のある熱海へ、そして岡山県の津山、勝山と、疎開先を転々としている。それはまさに、B29の轟音に急き立てられながらの、より一層安全な場所を求めての逃避行であったわけだ。
この日記は戦後雑誌等に発表されるにあたって、恐らく大幅に手を入れたのだと思われる。読物として緊張感を持続させようとの配慮からだろう、些細な記事を省き、校正を重ねたフシが伺われる。それ故、出来事の展開がドラマチックに浮かびあがってくるようになっている。読んでいて面白いのである。その面白さは、荷風の断腸亭日常とはまた別の趣のものである。
この日記からは、色々なことが伝わってくるが、筆者が特に関心を惹かれたのは次の三つである。一つは、戦争に対する谷崎の視線のようなもの、一つは、戦時下における谷崎の創作への姿勢、そして谷崎の交友関係、特に荷風とのかかわりである。
まず、戦争への谷崎の視線。荷風と違って谷崎は、日記の中で戦争を表立って批判したり、無能な政治指導者たちを罵倒したりはしていない。かといって肯定したり、まして賛美したりもしていない。一市民として、戦争というものと、それが自分自身に及ぼす影響といったものを、淡々と受け止める、そんな姿勢が伝わってくる。谷崎にとって戦争とは、大義とか何だとか大袈裟なことではなく、自分と自分の家族にとってどんな危険があるのかといった、実際的な関心の対象たるに過ぎないようである。彼にとっては、戦争とは身に迫る空襲の脅威であり、生活の不便なのであった。
日記の始めのほうでは、戦争はまだ差し迫った脅威とは感じられていない。それでも、いろいろな噂を聞くと、より安全な場所へ疎開したほうがよいのだろうというくらいは感じている。それで谷崎は、本宅のある魚崎から別荘のある熱海に生活の拠点を移そうという気になる。魚崎は阪神工業地帯の近くで、米軍の攻撃の的になりやすい。それに比べれば熱海ははるかに安全だという判断からだ。こうして谷崎一家は昭和十九年四月に熱海に拠点を移すのだが、そこもいつまでも安全ではいられない。
七月十四日には、「東京都防衛本部の名にて空襲切迫」と書き、翌日には「サイパン島陥るとの大本営発表あり」と書き込む。サイパン島の陥落は、米軍による本土空襲が現実味を帯びてきたことを、谷崎なりに受け取っているのである。
八月十六日には、長崎、小倉、米子の空襲にふれて、「小倉は・・・ひどくやられ人心殺気立ち居り誰も防空壕などに入らぬ由」と書いている。本土空襲がいよいよ始まったことに敏感になっている部分である。
十一月二十四日には、東京北多摩の中島飛行機の工場が、百以上の米機によって空爆されているが、その当日に、谷崎は次のように書いている。「程なく錦ヶ浦の上空に飛行機雲現れ頭上に爆音きこゆ、家人等壕に入らんとしてあれ〜と空を仰いでゐるので予も出てみる、一機東京を目指して飛ぶ、高く〜鰯雲の中にあり、爆音によりて敵機なること判明、日本機のガラ〜云ふ音と異なりて、プルン〜と云ふ如き振動音を伴ひたる柔かき音なり、後部より吐くガスが飛行機雲となりて中天に鮮やかなる尾を曳く、機体もスッキリしてゐて美しきこと云はん方なし」
ここで谷崎は心の自由を失っていなかったことを敢えて言いたかったのだろうか。高みの見物を装っている。そこには米機に対する憎しみは出ていない。しかし、高みの見物とは言っていられないようなことが続いて起こる。少年時代を過ごした故郷の町と言うべき日本橋界隈が、十一月三十日の空襲で焼かれてしまうのだ。そのことを知った谷崎は、十二月二日の記事で次のように書いている。「当夜東京に侵入せるは僅か十機内外が二回にわたりて来りしのみにて風もなく雨の夜なりしにも拘らず此の被害にては今後本格的な空襲来らば帝都は忽ち焼野原とならんとの説盛なりと」
それでも谷崎は平静を装っている。十二月十三日には次のような記事が見える。「今晩も空襲あり・・・熱海上空も夥しく飛来す、家族は皆壕に入りたれども予は細雪を執筆す」
つまり米機の空襲が自分の足元に迫っていることを確認しながら、それでも自分は平静さを失わないのだと、この記事は語っているようにも受け取れる。
翌年三月十日の東京大空襲は谷崎にとっても大きなショックだったようだ。当日のうちに噂を聞いた谷崎は、「昨夜の敵機は百三十機にして今朝八時半まで火災続き下町大半烏有に帰すと」と書き、翌十一日には、「日本橋神田下谷本所深川浅草は殆ど一軒も家なく一望の焼け野原にて死人何万なるを知らず」と書く。そして友人の安否や中央公論も気忙しいので早速上京したいと書いている。谷崎はこれに先立って、細雪中間の原稿を中央公論社に託していたのである。
三月十二日、谷崎は夫人と共に東京を訪れる。和服にモンペ姿、それに靴を履くといったいでたちだった。その日は渋谷の知人宅に一泊し、翌日都心に出てみると、想像以上の惨状、ただ「尾張町四角(銀座四丁目交差点)にて焼け跡に歌舞伎座のたっているのを望みえた」。そして午後二時頃、松子夫人の姉一家と再会を果たす。「家人、姉ちゃんと云ひたるまま姉妹万感迫りて言語出でず、夜も貰ひ泣きし涙を隠す能はず」
五月二日にはムッソリーニが、五月三日にはヒトラーが死んだことを記し、五月五日には銀行預金をすべて引出し、いよいよ関西以西へ疎開することにする。
ひとまず魚崎の家に骨を休めた谷崎一家は、五月十一日に空襲の洗礼を受ける。その折の様子を谷崎は次のように書いている。「午前九時頃警戒警報ついで空襲警報となる。紀州南部に集結せるB29の編隊北上して魚崎上空を通過。高射砲の音しきりなるを以て皆々壕に入る・・・魚崎小学校に負傷者続々運びこまれつつある由聞き予と家人と行きてみる。三人ばかり担架で運ばれ行くを見る・・・先刻壕内にて想像したるよりは遥かに身近に危険が迫ってゐたことを知り今更恐怖す」
夫人の妹の夫が津山藩主の末裔にあたることもあり、谷崎はその手づるを期待して、まず岡山県津山に疎開することにした。しかしその津山には二カ月弱いただけで、七月初め谷崎一家はさらに勝山に移転した。津山での生活で頼りにしていた友人が急になくなったことと、勝山に適当な借間が見つかったというので、移転することにしたのだった。
谷崎が勝山についたのは七月七日、それから一か月ちょっと先に終戦を迎える。その短い間に細雪の原稿をコピーさせたり、また荷風との再会があったりしたわけである。  
「疎開日記」(その二)
二つ目の着目点である戦時下の谷崎の創作活動と言う点では、この日記が触れているのはもっぱら「細雪」である。この小説は前年(昭和18年)の1月から3月にかけて雑誌に連載しはじめたところを、「時局に相応しくない」という理由で出版を差し止められていたという経緯があった。それ故、この日記を書いていた時点では公開の見込みがなかったわけであるが、谷崎は自家判にして親しい仲間に配るくらいなら大丈夫だろうと思って、稿を書き続け、昭和19年の7月に上巻を完成して、自家判30部を印刷させた。しかしそれについても当局からなにかと介入があって、谷崎は危うい思いをさせられた。その辺の事情はこの日記では触れていないが、後に回想記(細雪回顧)の中で詳しく触れている。
上巻刊行の時点で、中巻のほうも大分進捗しており、谷崎は引き続き執筆にいそしむ。12月13日に空襲をうけた際には、家族が防空壕に非難するなかで一人部屋に残って原稿を書き続けたほどの身の入れようである。その甲斐あって12月20日には、「中巻まさに完結せんとす」までに至った。そして翌年の7月には原稿のコピーを命じている。他日のために万全を期しているわけである。
こうしたところを見せられると、谷崎の作家魂のようなものを感じさせられる。当面は発表の見通しが立たないにしても、やはり書かずにはいられない。それに、こんな異常な事態は永遠に続くわけのものでもあるまい、いつかは正常な事態に立ち戻って発表の機会がやってくるかもしれない。ひとりの無力な作家としては、その可能性にかけて執筆するほかはない。そんな覚悟が伝わってくるところである。
三つ目の交友関係と言う点については、谷崎が実に広い交友関係の中で暮らしていることに括目させられる。戦争が押し迫っても、谷崎はこの広い交友関係を伝手にして様々なところを歩き回っているし、大勢いる家族親戚とも固く結束している。そのために疎開生活も惨憺たるものにならずに済んだ。人間と言う者はやはり、他の人間たちとどのくらい豊かな係わりをもてるか、とくに逆境の時期においては、そのことが切実に思えてくる。その点、谷崎は幸運な人間であったと言えよう。
その谷崎の戦時下の交友関係でもっとも筆者の目を引いたのは荷風散人との係わり方だった。荷風のほうは谷崎とは違ってあまり広い交友はない。ほとんど身一つといった孤独な状態で、戦時下の暗い日々を過ごし、あまつさえ東京大空襲に見舞われて何もかもを失い、命からがら安全な場所を求めて放浪する羽目になる。そんな荷風が藁をもすがる思いで頼った人の一人がこの谷崎だったわけである。
この日記の中では、谷崎は昭和十九年三月四日に麻布の偏奇館に荷風を訪ねている。この日谷崎は、娘のあゆ子に合いに渋谷に出てきたのだが、そのついでに荷風を訪ねることにしたのだった。その事情を谷崎は次のように記す。
「抑も本日永井氏を訪ねたるは、(中略)まだ一度も訪ねたることなき偏奇館を機会あらば訪問せんと思ひつつ、時局のためや、冬は寒くて外出の元気なかりしためやらで延引今日に及びたるなり・・・今日を逸すれば又いつの日に上京し得るや不明なるを以て、強いて本日来訪のことを決心したるなり」
谷崎の訪問を受けた荷風散人は折から台所に腰かけて一人食事をしている最中だった。しかしこの時点では世帯やつれはしていない。「糸織か八端らしき縞物を着角帯を締めたる風情、若かりし頃の俤あり、さうしてゐると荷風氏は実に若く、嘗て代地に住み茶や歌沢の稽古に通ひし頃と余り違はざる感じなり」といった印象である。
二人が交わした会話は、荷風の全集発行に関するものだったようだ。というのも、荷風は嘗て自分の全集発行にあたっては、谷崎の協力を仰いていた経緯があるらしいのである。その辺の事情を、当日の荷風の日記が示唆している。
「三月初四、晴。正午谷崎君来り訪はる。其女の嫁して渋谷に住めるを空襲の危険あれば熱海の寓居に連れ行かんとする途次なりといふ。余昨冬上野鶯渓の酒楼に相見し時余が全集及び遺稿の始末につき同氏に依頼せしことあり。この事につき種々細目にわたりて問はるるところあり」
谷崎が訪ねたのは、主に荷風の日記「断腸亭日乗」のことだったようだ。その辺のことは日記の次のような記事から伺われる。
「予は全集編纂のことにつき種々質問す、荷風氏の未発表のものにて最も貴重なるは大正年間以来の日記なり、日記は榛原製雁皮の罫引に実に丁寧にそのまま版下になるやうに記しあり、美しく製本して五冊づつ秩入りになりをれり」
この日別れた二人が再開するのは翌年の八月十三日である。あたかも終戦の日の二日前のこと、二人は谷崎の疎開先岡山県勝山で出会い、述べ三日共に過ごしたあと、終戦の当日の午前に別れた。それぞれが終戦を知ったのは、その日の午後であった。
この再会に至るまでの間、荷風は東京大空襲で偏奇館を焼かれ、身一つで友人たちを頼り、放浪の果てに岡山にたどりついた。谷崎の方は荷風程ひどい目にはあわなかったが、やはり難を避けて関西以西に疎開先を求め、岡山県の津山、次いで勝山に疎開した。谷崎は荷風が自分の近くに疎開していることを知って、六月二十六日の日記に次のように記している。「岡山合同支社長来訪永井荷風氏の伝言を伝ふ、氏は津山と岡山間の某所に疎開の目的を以て西下、目下岡山ホテルに滞在中の由、まことに以外の吉報といふべし」
その荷風は岡山ホテル滞在中の六月二十八日にまたもや空襲に会う。その折の断腸亭日記の記述には鬼気迫るものがある。ここでは、現行日乗本文からではなく、戦後発表した「罹災日録」から、その部分を引用する。
「果せるかな、この夜二時頃岡山の市街は警戒警報の出るを待たずして猛火に包れたり。余は夢裏急雨の濯ぎ来るが如き怪音に驚き覚むるに、中庭の明るさ既に昼の如く、叫声足音街路に起るを聞く。倉皇として洋服を着し枕元に用意したる行李と風呂敷包とを振分にして表梯子を駈け下りるより早く靴を履き、出入り口の戸を排して出づ・・・焼夷弾前方に落ち農家二三件忽ち火焔となり牛馬の走り出でて水中に陥るものあり。余は死を覚悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を観望す」
こうして身に危険が迫るのを感じた荷風は、勝山に谷崎が来ているのを知って、訪ねることにした。できれば谷崎を頼って、勝山に疎開したいと考えたのである。
空襲で焼け出され、着の身着のままになった荷風は、八月十三日に谷崎に会いにきた。その時の荷風の様子を谷崎は次のように書いている。
「午後一時頃荷風先生見ゆ。今朝9時頃の汽車にて新見廻りにて来れるとの事なり。カバンと風呂敷包とを振分にして担ぎ外に予が先日送りたる籠を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤革の半靴を履きたり。焼け出されてこれが全財産との事なり。然れども思ったほど窶れても居られず、中々元気なり」
谷崎は荷風をできる限り歓待した。荷風の方でもそれに感謝している様子が、断腸亭日記の記述から伺われる。今の荷風にとっては宿屋で出されたありふれた朝飯でも、「今の世にては八百善の料理を食するが如き心地」になるのである。
谷崎は荷風から疎開への援助を申し出られて、最初はなんだかんだと理屈をつけて断っていたが、結局応じることにする。しかし今度は荷風の方で遠慮しだして、八月十五日の午前中に岡山へ引き上げてしまうのである。
終戦の報に接した二人の反応を、ここで並べて紹介しておく。まず谷崎。
<荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。予は明さんと駅まで見送りに行き帰宅したるところに十二時天皇陛下放送あらせらるとの噂を聞き、ラヂオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラヂオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみほぼ聞き取り得、予は帰宅し二階にて荷風氏の「ひとりごと」の原稿を読みゐたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラヂオを聞きて涙滂沱たり・・・>
次いで荷風。
<午前十一時二十分発の車に乗る・・・新見駅にて乗換をなし、出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり、欣喜措く能はず、食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾箇所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停留所をも後にしたり、農家の庭に夾竹桃の花咲き稲田の間に蓮華の開くを見る、午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎に帰る。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ>
谷崎は細君の感極まって涙滂沱たりしを記し、荷風は恰も好しと記す。その落差思うべきである。  
永井荷風の谷崎潤一郎論
永井荷風は谷崎潤一郎を高く評価した最初の人だった。谷崎は荷風の高い評価によって、文壇にゆるぎない地位を築くことができたといってもよいほどである。そのことを谷崎は深く感謝して、生涯を通じて荷風を畏敬し続けた。戦争末期に荷風が空襲から焼き出されて関西方面を放浪していた時、谷崎が岡山県の疎開先で荷風の面倒をみたのも、そうした感謝の現れだった。谷崎はある面で非常に義理堅いのである。
荷風の谷崎論「谷崎潤一郎氏の作品」は、「幇間」以前の谷崎の初期作品を論じたものである。それらの作品を取り上げながら、荷風は谷崎が前代未聞のユニークな作家であることを強調する。
「明治現代の文壇において今日まで誰一人手を下す事のできなかった、或は手を下そうともしなかった芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。語を替へて言へば、谷崎潤一郎氏は現代の群作家が誰一人持ってゐない特殊の素質と技能とを完全に具備してゐる作家なのである」
冒頭からこう述べているように、荷風の谷崎に対する評価は非常に高い。荷風によれば谷崎は、題材の目新しさで群を抜いているばかりか、表現の能力においても、他の追随を許さない、稀有の才能の持ち主なのだ。
ではどんな要素が谷崎の作品を特徴づけているのか。荷風はその特質として三つあげている。
「第一は肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄である」と荷風はいう。谷崎は普通の観察者とは違って、人間を肉体としてとらえたうえで、肉体の残忍さがもたらす恐怖を描くことに成功した作家だということになる。人間を、心と体からなると考えるのが普通の観察者だが、谷崎は人間をもっぱら肉体に還元してしまう。そこが誰にも真似できない斬新さなのだ、と荷風はまずとらえるわけである。
そうした傾向はボードレールやポーにも通じるところがある、と荷風はいう。そして「肉体上の恐怖と此の屈辱に対する病的の狂愛とを併せて、谷崎氏の作品をば糜爛の極致に達したデカダンスの芸術の好適例と見做すのである」といって、谷崎の文学がデカダンスという面で、世界文学の普遍的な傾向にもつながっていると看破している。
第二は、「まったく都会的たる事」だという。その都会的たることの内実については、荷風はほとんど語るところがないのだが、それは、荷風は東京に生まれ育った都会人として、同じく都会人たる谷崎に親近感を抱いていたからで、いちいち文章で説明しなくても、都会人であればわかることだと、いっているのかもしれない。
ただひとつ、谷崎の文学を泉鏡花の亜流とする見方に対して荷風は、鏡花は江戸的ではあるが都会的ではないといって、それに反論している。鏡花の江戸情緒はロマンチックな脚色の上に成り立っているのに対して、谷崎の場合は、まさに都会的たることを自然に振る舞っているに過ぎない。その自然な振る舞いのうちから、都会的な洗練された雰囲気が自然と醸し出されてくるのだ、と言いたいわけであろう。
第三に、文章の完全なる事だという。そしてこれが谷崎の最大の天賦であると荷風は見ていたに違いない。荷風の目から見れば、同時代人の文学なるものは「未だよく辞句と文章と語格との整頓しえない」稚拙な文章が目立つ中で、谷崎の文章は、「河岸の物揚場を歩いた後、広い公園の中へでも入ったような心持がする」ほど、すっきりとしていると見えたのだろう。
谷崎の文章は、誇張を用いながらしかも誇張に溺れず、文意は明晰でかつ冷静である、と荷風は言いたいようだ。「自分は谷崎氏ほど其の云はんとする処を云ふに当って、先づ冷静沈着に其の云ふべき処の何物たるかを反省し、然る後最も適切なる辞句を選び出して、泰然自若として此れを筆にする人は他にあるまいと思ふ位である」
これはつまり、谷崎の文章が非常に論理的であることを指摘しているわけである。論理的に説明しながら、しかも非論理的で直感的な印象を生ぜしむるのが、谷崎の文学なのだ、と荷風はいいたいのだろう。
論理的で冷静な文章を以て、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」を描く、それが谷崎文学の最大の特質なのだ。これが最初の谷崎潤一郎論で、荷風がたどり着いた結論だったわけだ。
谷崎自身も、こうした荷風の指摘を、好意的に受け入れたようだ。彼はその後生涯を通じて、文章をいうものにこだわり続けたのであったが、それは荷風の指摘した自分の美質を、さらに深く追及し、日本語のあらゆる可能性を文学という場で試したいとする、谷崎一流の野心を物語っているとも受け取れるのである。  
「つれなかりせばなかなかに」 瀬戸内寂聴
谷崎潤一郎と佐藤春夫との間でなされたいわゆる「細君譲渡事件」は、大方の人にとっては、どちらかというと佐藤の方が谷崎の妻に横恋慕して、挙句の果ては略奪したのであり、谷崎は被害者だったのだと思っているのではないか。筆者なども一時はそう思っていた。しかし、実際にはそうではなく、これは何から何まで谷崎が意図的に仕掛けたことなのであり、谷崎の妻千代夫人も佐藤も、谷崎に振り回されたのだということが明らかになってきた。その辺を明らかにするとともに、千代をめぐる第三の男の存在についてもとりあげて追及したのが瀬戸内寂聴尼の「つれなかりせばなかなかに」という本である。
この本によれば、まず小田原事件の背景として、谷崎が千代の妹セイ子との結婚を考えていたことがあげられる。小田原事件とは、谷崎が妻の千代を佐藤に譲渡する約束をしたにもかかわらず、それを破ったことで、佐藤が絶縁状を叩きつけたというものであるが、谷崎が約束を破ったのは、セイ子に拒絶されたからだと寂聴尼はいう。
このセイ子という女性は非常に魅力的だったらしく、谷崎は彼女がまだ15歳の時に自分の手元に引き取って溺愛したそうだ。「痴人の愛」のナオミはこのセイ子がモデルだという。谷崎は自分好みに育て上げたこのセイ子を自分の妻にしようとして、姉の千代の方を虐待し、その挙句、友人の佐藤春夫に押し付けようとしたのであるが、セイ子に拒絶されて目が覚め、千代と縒りを戻そうとしたらしいのである。
細君譲渡事件は小田原事件の9年後(1930年)に起きている。この事件の前後における谷崎の行動にも不可解なものがある。1926年に、和田六郎と言う青年が押しかけ弟子として谷崎の家に居候をするようになるが、この青年が千代に夢中になり、谷崎もその愛を認めて千代と結婚させようとまでしたというのだ。このことは、寂聴尼が明らかにするまで、文壇では問題にされてこなかった。ところが、「蓼食ふ蟲」は、千代と和田との恋愛関係をテーマにした小説だというのである。
その辺の事情を寂聴尼は次のように書いている。「二人の恋をモデルにした"蓼食ふ蟲"は実に現実の恋愛事件と同時進行形で新聞に書かれていたという事実である。潤一郎は千代に六郎との恋を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させていたらしいことである。"蓼食ふ蟲"は実に恐ろしい小説である」
結局この二人の恋は成就せず(千代は六郎の子を妊娠・堕胎したこともあった)、六郎が姿をくらました後に、あの細君譲渡事件が起きるのである。
谷崎は結局千代を愛せなかったらしい。そこで今度は改めて千代を佐藤に譲渡する気になった。佐藤もそれを受け入れた。この二人は小田原事件後長く絶交状態にあったが、譲渡事件の起きる数年前には仲直りしていた。佐藤は千代と和田との関係も知っていたと思われるが、それにもかかわらず千代を受け入れた。よほど千代に惚れていたのである。
事件が起きた前後に谷崎の心をとらえていたのは、後に妻となる松子であるが、何故か谷崎は、千代と離婚した後すぐ松子と結婚する努力をせず(松子は他人の妻であった)、一旦古川丁未子と結婚する(1931年)。そして翌々年には丁未子と早々と離婚し、やがて松子と同棲を始めるようになる。彼らが正式に結婚するのは1935年、谷崎は48歳になっていた。
事実をひとつひとつ点検しながら、寂聴尼の視線は千代にやさしく、谷崎には厳しい。谷崎はあまりにも身勝手すぎる。その身勝手さを妻の千代は忍従した。被害者は一貫して千代の方であったのだ。だから千代が谷崎と別れて佐藤と一緒になったのはよいことだった。千代は圧制者から解放されて本当に自分を愛してくれる男と一緒になることができたのだというわけである。そんな千代の傍らでは佐藤の影は薄い。佐藤は愛する女を進んで獲得することもできないぼんくらで女々しい男というふうに扱われている。まあ、例の「秋刀魚の歌」などを読む限りは、そういう女々しい男という印象は伝わってくる。
付録として、未亡人となった松子と、セイ子との対談が収録されている。セイ子のほうは91歳になっているが、年齢を感じさせないほど生き生きしていると寂聴は言っている。スタイルが抜群で顔は鼻筋が通っている、とても千代の妹とは思われない、もしかしたら種が違うのではないかと寂聴尼は言っている。ともあれナオミのモデルといわれるだけあって、奔放な生き方をしてきたらしい。谷崎から結婚を申し込まれた時には、いやだよといってあっさり断ったそうだが、それは谷崎がちびで醜男だったからだそうだ。
一方松子夫人のほうは、しゃきしゃきとした受け答えで、知性のあることを感じさせる。その夫人が最初谷崎に抱いた印象は異常さだったというから面白い。
なお題名の「つれなかりせばなかなかに」は千代への気持を歌った佐藤の詩の一節である。  
マゾヒストだったか
「痴人の愛」などを読むと、谷崎潤一郎にはマゾヒズムの傾向があったのではないかと思わせられるところがあるが、実際谷崎にはそういう傾向があったとする者がある。谷崎好きの作家河野多恵子である。河野は谷崎を「心理的マゾヒスト」と呼んで、その傾向が一時期の谷崎文学を著しく彩ったと評している。
マゾヒズムとは、厳格に言えば肉体的な被虐を喜ぶ傾向であり、心理的なマゾヒズムと言うのは外道だ。実際マゾヒズムは自分の肉体を加虐するサディストを前提にするものであって、マゾヒズムとサディズムとはコインの表裏の関係にある。ところが谷崎には自分を肉体的に加虐するような存在もいなかったし、自分から進んで肉体的な被虐を求めたこともない。それにもかかわらず、谷崎には被虐を喜ぶ性向が厳然としてある。精神的に虐待されることを喜ぶ傾向である。そのような傾向を指して河野は「心理的マゾヒズム」というのであろう。
そのような被虐性向を伺わせる言葉を、河野は谷崎の松子夫人宛の手紙の中から探し出してくる。
「御主人様どうぞお願いでございます御機嫌をお直しあそばして下さいまし」
「先達、泣いて見ろとおっしゃいましたのに泣かなかったのは私が悪うございました」
「かういふ御主人様にならたとひ御手打にあひましても本望でございます」
「決して決して身分不相応なことは申しませぬ故一生私をお傍に置いて、お茶坊主のやうに思し召してお使ひあそばして下さいまし」
こういう文面から感じとれるのは、いじめられた相手に対して脂下がり、そのいじめられたことを快感に感ずる性向である。ここではいじめた方にいじめたという実感はないのかもしれない。また肉体的な意味でのいじめはサラサラないのであるから、そこにサド・マゾの関係が成立しているとも思えない。いじめられたと思い込み、それに快感を感じているらしいのは、谷崎一人なのだといってよい。
こんなところから河野は、谷崎の心理的マゾヒズムは谷崎の一方的な性向、つまり一人芝居だとみる。松子夫人はそれに共犯者として巻き込まれているのだが、彼女が自覚して共犯者を演じた気配はない。彼女には別に、谷崎をいじめることに快感を感じるような、サディスティックな傾向はなかった、というのが厳然たる事実であったようだ。
マゾヒズムには加虐者としての高貴な女性というのが現れるのが普通であるが、松子夫人は決して高貴な女性と言うイメージを持ってはいなかった。彼女は大阪商人の世界に生きていた人であるし、その大阪商人には身分と言う感覚がそもそもないことからしてわかるように、松子夫人は高貴さとは縁がなかった、かえって庶民的なさばさばした女性であったようだ。高貴さと言う点では谷崎の二度目の婦人古川丁未子の方が正真正銘の高貴な夫人といってよいが、この女性には谷崎は被虐の喜びを感じることがなかった。谷崎が心理的に溺れたのは、あくまで松子夫人だったのである。
そんな女性を相手に谷崎は、なんでまた心理的マゾヒズムのゲームを仕掛けたのだろうか。そのことについて河野は触れていない。しかし一時期の谷崎の作品がマゾヒズムの影を深く帯びていることを、次のように書いている。
「谷崎の人及び文学に心理的マゾヒズムが垂れ込めるようになったことと、同じ時代の彼のさかんな陰翳礼讃や、春琴抄、盲目物語、聞書抄等盲人を扱った作品群の出現の間には、大きなかかわりがあるはずなのである」(河野多恵子「心理的マゾヒズムと関西」)  
 
「恐怖時代」 谷崎潤一郎

 

行為としての悪
ドナルド・キーン先生がこんなことを書いていました。近代日本文学における最高の大家を定めることは難しいが、森鴎外の名を挙げれば賛成する人はかなりいるだろう、夏目漱石を挙げてもまず誰も反対しないだろう、しかし、谷崎潤一郎が一番優れていると答えたら軽佻に聞こえる恐れがあると云うのです。だが正直に言えば自分は谷崎文学の方により魅力を感じると、キーン先生は書いていました。(ドナルド・キーン:「日本文学を読む」〜雑誌「波」1973年9月号)なるほど谷崎潤一郎は変態作家と呼ばれることもあるくらいですから、「細雪」はこれは例外としても、他の作品に興味があると言うと「変な趣味がありそう」なんて思われそうで、谷崎作品のことを書くのはちょっと勇気が要るのでしょうかねえ。
かく言う吉之助は、谷崎作品について「蓼喰う虫」と「卍」についての評論を書きました。実はこれらの2本の評論は吉之助にとっての密かな自信作で、「歌舞伎素人講釈」の記事のなかからベストの批評を選べと言われたら、多分、吉之助は 現時点ではこの2本を挙げると思います。どうして歌舞伎批評でなくて文芸批評を挙げるのかと聞かれそうですが、この2評論をお読みになれば分かりますが、吉之助にとってはこの2評論は文楽人形論であり、近松門左衛門論でもあります。これらの作品については多くの文芸評論家の方が文章をお書きですが、そのどれもが主人公の夫婦関係とか・主人公の嗜好や行動 など、つまり谷崎のアブノーマルな方向に興味が行っているように思います。これらの文章を読んでいると、大変失礼ですが、みなさん「あまり文楽をお分かりでないですなあ」と感じますね。「イヤ文楽ぐらい知っている」と返されそうですが、知っているのと・分かっているのとは違います。「蓼喰う虫」と「卍」を読めば、吉之助から見ると、これら2作品は文楽や近松に重ね合わせて、ある意味においては自己を冷徹なほどに客観的に突き放して、戯画的にストーリーを練り上げています。非常に技巧的かつ・造花のように工芸的に作り上げられた小説なのです。谷崎がどれほど深く文楽を理解しているか、吉之助にはよく分かります。そのこと自体が谷崎の感性のノーマル性を示しています。
ところで谷崎の随筆に「感覚的な悪の行為」という ものがあります。冒頭で大正の初め頃に小田原の劇場(恐らく旅役者の芝居 でしょうが、この時代の旅芝居ならばほぼ歌舞伎だと思って良いでしょう)で見た血生臭い残虐な筋立ての芝居の思い出を書いています。 悪い殿さまが忠義の家来を何の理由もなく・ほとんど自分の楽しみのために嬲るという芝居であったようです。
『私の歌舞伎劇から味わう「悪」の気持はほとんどすべてがこうした「行為」の上の悪であると言っていい。(中略)要は感覚的に示唆する「悪の行為」が深刻に多量であればあるだけ、歌舞伎劇の特有な感じに陶酔せられると云った訳になる。その意味から云えば、愚劣なる狂言により多く「悪」の分子が濃厚と云い得よう。(中略)大体私は、歌舞伎劇のおもしろ味なるものは、多く「形」の上に在るのではないかと思っている。(中略)なまじいい加減に取り扱われた人物の性根の描写などよりは、刻々に描かれていく「行為の上の種々ある形」の方が、遥かにすぐれた力を持っていると考える。』(谷崎潤一郎:「感覚的な悪の行為」・大正11年5月・「演芸画報」)
こうして谷崎は歌舞伎での「行為の上での悪」の魅力を説くのですが、歌舞伎に出てくる悪人は実在の必然性に乏しい、存在的根拠が乏しく、同時にそれは筋のために体よくでっちあげられた悪人であるということも書いています。つまり、残虐な場面・凄惨な場面に官能を刺激されながらも、それがドラマ的に不毛であるということを、谷崎はちゃんと承知しています。 そこに歌舞伎の歪んだ要素があります。
これは吉之助の「蓼喰う虫」論(その12を参照)でも触れましたが、主人公斯波要がバートン版「アラビアン・ナイト」英訳本を取り寄せて・その注を誤読する箇所とも重なります。要は自分たちの行為は世間から裁かれならねばならない不道徳な行為であることを認識しており、ラカン流に言うならば、要はまさに自分たちがそうならねばならない(世間から擯斥されねばならない)と思っているので自分が望む通りにその注を読んでいるのです。西欧の人々は「アラビアン・ナイト」を当時の時代的気質において人間の深層に潜む欲望・願望をイメージ豊かに羽ばたかせた幻想であると同時に、それは厳格な規律によってどこか歪んでいると読みました。密かな楽しみはその厳格さによってさらに高められました。これが二十世紀初頭の時代感覚とシンクロした谷崎の感覚です。だから「のどかですなあ・・」と要が繰り返し語っている淡路人形を見る旅も、ホントはのどかどころではない。併行して妻美佐子との離婚の思惑が要の頭のなかで交錯しているからです。 要は義理の父にそのことをいつ切り出そうかと悩みながら一緒に旅を続けているのです。そこを多くの文芸評論家の方が失念しています。
谷崎の戯曲「恐怖時代」は大正5年の作品。(ちなみに「蓼喰う虫」と「卍」は、これよりちょっと後の作品で、昭和3年から5年までにほぼ併行した形で執筆されました。)当時の官憲の演劇に対する取り締まりは厳しいもので、「恐怖時代」はその不道徳性と残虐性を理由に、すぐに発禁処分になりました。「恐怖時代」に限りませんが、谷崎の戯曲はレーゼドラマ風(上演のためと云うよりも、読むための戯曲)であって、谷崎は小説を書く時の態度と・戯曲を書く時の態度にさほど区別をしていないように思われます。「恐怖時代」でも、同じような事柄が同じような言葉で・しかしちょっと違う表現で繰り返し語られます。お家乗っ取りを企む悪人数名がいて、彼らが悪の行為をする段取りの為に筋があるのです。お家乗っ取りの目的の為に如何に邪悪で残酷で凄惨な手段を取るつもりかを、得々と語る。武智鉄二は、「谷崎潤一郎の戯曲について」(昭和31年3月)のなかで、いざ原作を切り詰めようとすると、同じようなことが語られていても・その表現の差異に人物の心理の変化が克明な筆致で展開されており、どこを削除しても作品の有機的な構成を破壊してしまうことになるので、台本の切り詰めにはとても苦労したと書いています。だから会話と言ってもモノローグ的な感覚であり、だからそのまま上演すると冗長な感じになるでしょうが、谷崎からするとそこがお楽しみなのであって、そこが小説的であるのです。
武智が昭和26年8月京都南座での歌舞伎再検討公演(後にマスコミにより「武智歌舞伎」と呼ばれることになった)で「恐怖時代」を上演した時、上演は大変な話題を呼びました。この時、武智は原作脚本を三分の二 ほどに切り詰めたそうですが、その舞台を見た谷崎からは「もう少し台本を縮めても良い」といわれたそうです。その一方で、谷崎は「とにかくト書きを活かして欲しい。この芝居はト書きが良く書けてるんだ」とも言ったそうです。つまり、「行為の上での悪」を描くことが谷崎の目的であって、細かい筋の辻褄合わせは問題ではない。あえて愚劣なる悪の戯曲を書いてみせたというところなのでしょうか。
歌右衛門のお銀の方
昭和56年8月26日に武智鉄二古希記念公演として一日だけ歌舞伎座で上演された武智演出の「恐怖時代」については別稿「髪を梳く歌右衛門」でも触れました。この時のプログラムは「俊寛」と「恐怖時代」の二本建てでした。マスコミによって後に「武智歌舞伎」と呼ばれることになる昭和24年から昭和28年にかけての歌舞伎再検討公演の意義については、本稿で 触れませんが、武智歌舞伎の代表作として何を挙げるべきかは議論のあるところだと思います。武智歌舞伎のなかでも「恐怖時代」は当時話題になったもので、強烈に印象が強いもの であるのは確かですが、古希記念公演として出すなら「恐怖時代」とは如何なものかなどと、当時の吉之助は思ったものでした。 実を言えば武智歌舞伎の代表的なものとして「熊谷陣屋」とか・「太十」とかの演出を、吉之助としては見たかったのです。また昭和26年の武智歌舞伎の「恐怖時代」は幕末小芝居風の演出であったようですが、六代目歌右衛門を中心とした豪華配役の歌舞伎座での上演では大歌舞伎になってしまって、当時の武智歌舞伎の雰囲気は片鱗しか味わえないだろうということ は明らかでした。
実際、この時の「恐怖時代」は1日だけの上演ということもあって台詞が入っていない役者が多く、全体としての出来はいまひとつであったことは否めませんでした。特に思い出すのが二代目鴈治郎の珍斎の珍演で、アドリブをやっているのか・出まかせをやっているのか区別が付かない演技で、それでも役の 雰囲気は何となく掴んでいるというところが・まあ鴈治郎らしいところなのだが、「恐怖時代」幕切れでは呆けた表情で縛られた姿のまま・死体が転がっている舞台のあちらをフラフラ・こちらをフラフラ、そして時たま客席の方へ顔を向けてニタ―ッと笑うという具合いで、あれが武智の指示だったのかどうか分かりませんが、客席からはそれを見て笑い声が起きるし、 何となく締まらない幕切れでありました。そのなかにあって六代目歌右衛門のお銀の方は群を抜いて凄いものでした。吉之助は歌右衛門の当たり役と云える役どころはほとんど見ましたが、今思い返しても、この時のお銀の方の演技を歌右衛門ベスト5に入れたいくらいです。しかも、歌右衛門がお銀の方を演じたのは生涯でこの1日だけでした。聞くところでは武智は「成駒屋さんが承知してくれないなら、この古希記念公演の企画自体を止めます」と言って、歌右衛門 の出演承諾を得たそうです。ですから歌右衛門の方も気の入れようが普段と違ったのかも知れません。
この件については別稿「髪を梳く歌右衛門」でも書いたので・繰り返しになりますが、お銀の方の部屋の場での「髪梳き」は、谷崎の原作では家老春藤靭負が部屋を下がり医者細井玄澤が部屋を訪れるまでの単なる「つなぎ」に過ぎません。原作でのこの部分のト書きは、「お銀の方は鏡台に据わり 、やや暫く化粧に念を入れてから、輝くばかりに美しくなって、再び元の席に就く。」とあるだけです。今回(平成26年6月歌舞伎座)でお銀の方を演じた扇雀が髪に櫛を入れる場面で要する時間くらいが、普通ならば芝居の「つなぎ」としては観客を退屈させない常識的なところだと思います。ところが歌右衛門がこの場面に要した時間は、時計で計ったわけでないが・感覚的には扇雀の十倍くらい(ちょっと大げさか・・)かと思うほど長かった。何しろ歌右衛門は鏡台の前に据わり、入念に髪を梳き、いったん髪を解いて下ろして、それをまた自分で結い直したのです。全体に妖気と緊張感が漂い、その一挙一動が何か確信のある・意味のある演技のようで何気ない動作さえ見落としてはいけないように思えました 。
お銀の方は玄澤の来るのを待っていますが、実は彼女には目的があって手持ちの毒薬の効き目を試してやろうと考えているのです。玄澤をどうたらしこんで毒薬を飲ませるか、毒薬がどんな効き目を現すか、玄澤がどんな苦しみ方をして死んでいくか、どうやって殺してやろうか、それを思うと嬉しくて嬉しくて堪らない・・・という思いを押し隠しつつ、お銀の方は美しく化粧をするのです。お銀の方の長い化粧と髪梳きは、殺しを十二分に舐めるように楽しむ為の入念な準備です。台詞もない静かな舞台のようですが、実は邪悪な陰謀と官能が騒がしいほどに渦巻いている。そのような場面なのです(つまり「蓼喰う虫」の淡路の旅と同じようなものです。それが入念な間奏曲(インテルメッツォ)になっているのです。 このように間奏曲が肥大して行く事自体に歪んだ要素があるわけで、そのことは「蓼喰う虫」で離婚話に挿入される、のどかな淡路文楽人形の旅の場面とまったく同じであると云うべきなのです。)幕切れでお銀の方の膝の上で苦しんでピクピクしている玄澤(富十郎)の口を懐紙で押さえてその顔をじっと見下ろす歌右衛門のお銀の方の表情といったら、それはもう凄いというか恐 しいというか、ホントに忘れられません。
谷崎は「とにかくト書きを活かして欲しい。この芝居はト書きが良く書けてるんだ」と谷崎が武智に言ったことは、先に書きました。歌右衛門は、この2行のト書きをここまで引き延ばした歌右衛門の力量も凄いですが、この長い髪梳きの場に作者谷崎が意図した以上に谷崎美学の本領が発揮されたと云うべきなのです。この当日の感想で、この演技が歌右衛門の自己顕示欲の現れだみたいなことを発言した方(敢えて名前は伏す)がいましたが、見当違いも甚だしいことです。
歪んだドラマ
「私の歌舞伎劇から味わう「悪」の気持はほとんどすべてがこうした「行為」の上の悪であると言っていい。」(谷崎潤一郎:「感覚的な悪の行為」・大正11年5月・「演芸画報」)
ここで谷崎が云う「行為の上の悪」とは、悪いこと・残虐なことをする為に生まれた悪、正義の側(主人公は大抵正義であるから)を苦しめる為だけに生成した悪ということです。別稿「返り討ち物の論理」でも触れましたが、歌舞伎の悪人は性格や性根の描写に深みがなく・類型に留まることが多い。したがって、 悪の動機も・方法も明確でなく、薄っぺらである。例えば「恐怖時代」の場合、正義の側が存在しない(太守を諌める二人の武士は嬲られる為の材料に過ぎないので、正義の側というのとはちょっと違います)特殊な例ですが、お銀の方とその一味はお家お銀の方の子・照千代君を後継ぎにし てお家を乗っ取ろうというわけですが、これは悪の行為の口実に過ぎ ません。正室を毒殺してから・どういう風に太守を操縦して・お家乗っ取りに持って行くかということも芝居のなかではいろいろ語られますが、全然実効性がない。現に珍斎の告白ですべてが露見してしまうと、悪人どもの悪事はアッと言う間に破綻してしまいます。だからその程度の薄っぺらの悪事なのです。筋のなかで用が済んだら、悪人 どもには滅びてもらわねばなりません。「もはやこれまで・・・」、そういう時の悪人は随分と諦めが早い。それとも潔いのかな。昔の芝居の悪というものは、みんなそんなものでした。昔の見物は悪人を 真面目に見ようとしなかったのです。大体昔の芝居では、悪人に嬲られた善人側の苦しみ・悲しみの方にこそドラマがあったのです。しかし、「恐怖時代」にはそもそも善人側がいませんから、「最後に悪が滅びて善が栄える」というオチさえない。この点においても「恐怖時代」は、構造的に歪んだドラマです。
要するに悪人の性格や性根に深みと云うものを、作者谷崎は最初から求めていないのです。「恐怖時代」のなかで谷崎は小田原で昔見た血生臭い小芝居の記憶を確かにリフレインして いるようです 。しかし、谷崎は回顧趣味で「恐怖時代」を書いたのではありません。歪んだドラマのなかに、20世紀初頭の世界的な思潮である表現主義的なものを見ているのです。表現主義とは、印象主義と対立した形で登場した概念で、内面の表出を強調するために、非写実的な歪みの表現を多用しました。「恐怖時代」の残虐趣味・スプラッター嗜好も、そのような表現主義的な視点から、人間のなかに潜む 醜く歪んだ要素を抉り出して、それを強調した形で出てくるものです。そこに「恐怖時代」という芝居の近代性があるのです。前項で紹介した歌右衛門演じるお銀の方の長々しい髪梳きもまたそうです。それは劇構造の歪みを生み出しました。歌右衛門は、谷崎のト書きからドラマの歪みを直感的に読み取ったのです。そこが歌右衛門の感性の凄いところです。それは歌舞伎様式の歪んだ要素が、表現主義的なアヴァンギャルドな要素 とどこか相通じることを、期せずして示したのです。
谷崎と映画との関連
大正期の谷崎は視覚芸術の先端であった映画(活動写真)にも大きな興味を持っており、映画に材を採った短編小説としては、例えば「人面疸」(大正7年)、「青塚氏の話」(大正15年)などがあります。また これはあまり知られていませんが、谷崎は大正9年に設立された大正活映株式会社の脚本部顧問になって、映画製作にも係りました。谷崎が制作に係った映画は4本ありますが、谷崎が脚本を書いた最初の映画が「アマチュア倶楽部」という海浜喜劇(大正9年11月封切り・フィルムは現存していないそうです)で、この映画で妻千代の妹で「痴人の愛」(大正13年)のナオミのモデルとなるせい子を「葉山三千子」の芸名でデビューさせています。この時代の谷崎は、小説よりもむしろ戯曲の方を活発に書いていた感があり、「恐怖時代」は大正5年の作ですが、その前後 の作品を見ると、「恋を知る頃」(大正2年)・「法成寺物語}(大正4年)・「愛すればこそ」(大正十年)・「マンドリンを弾く男」(大正14年)・「白日夢」(大正15年)など多くの戯曲がいずれも大正期です。
ところで谷崎は「白日夢」を映画「カリガリ博士」の影響のもとに創ったと、武智に語ったそうです。(「白日夢」は武智によって2度映画化され、それらによって現在の武智は伝統芸能家ではなくて、エロ映画監督として世間に記憶されることなったことは周知の通り。)「カリガリ博士」(ローヴェルト・ヴィーネ監督)は1920年にドイツで制作されたドイツ表現主義のサイレント映画ですが、その芸術的価値において・その後大きな影響を与えたとされる作品です。この映画の日本での公開は翌1921年(大正10年)5月のことですから、「恐怖時代」には「カリガリ博士」との直截的関連はもちろんないのですが、「恐怖時代」もこの時期の谷崎の映画への関心、すなわち表現主義への志向と関連付けて考える必要があ ります。例えば別稿「歌舞伎の見得〜クローズアップの手法」でも触れましたが、映画のクローズアップの技法とは「我々がそのようであると信じていたものの有様(ありさま)が視点を近づけることで違う様相を呈してくる・しかもそのすべての様相は断ち切られているようでいて・実は相対的につながっていてひとつである ・そしてひとつであるようでいてやはり断ち切られている」と言うことを表現する歪んだ技法です。そのような映画の視覚技法が持つ反自然主義的・表現主義的な要素への関心が、谷崎の戯曲執筆の原動力になったことは明らかです。
また谷崎の小説においても、映画的技法を感じさせる場面があります。そう云うと「細雪」の京都の花見の華やかな場面を思い浮かべる方が多そうですが、吉之助が言いたいのはそういうことではなく、例えば「蓼喰う虫」(昭和3年)の結末部分がそうです。これについては別稿「生きている人形〜「蓼喰う虫」論」の最終章が関連します。夕立が始まって要の意識が次第にたそがれ状態になって来たところで、「・・・いよいよ降って来ましたなあ」という女性の声(実はお久の声)が響きます。その瞬間、女形人形が突然口を聞いたように感じられて、要は一瞬、ぞっとしたに違いありません。この場面は、吉之助にはとても映画的に感じられます。と云うより、このシーンは映画をイメージして読むべき場面です。 文章に心理的なクローズアップ効果が使われています。この箇所を映画的に読めなければ、「蓼喰う虫」の筋がどうして文楽と強く関連せねばならないか、谷崎が文楽をどのように感じ取ったかは、多分よく理解できないだろうと思います。
実は「恐怖時代」はそれまでも何度か上演されましたが、純歌舞伎様式で上演されたのはこの昭和26年の武智歌舞伎での上演が最初のことでした。しかし、上記のことを勘案するならば、「恐怖時代」はやはり歌舞伎様式で演じられることが、やはり作者の意図に最も沿うものであっただろうと思います。 昭和26年の武智演出を谷崎はとても気に入って、「延二郎(三代目延若)の太守と扇雀(現・四代目藤十郎)の伊織之助は持ち役にしたい」と言って、上機嫌だったそうです。それは谷崎の歌舞伎への懐古趣味・あるいは草双紙趣味から来るのではなくて、 実は谷崎は歌舞伎技法のなかに近代的な要素・歪んだ側面を見ていたからです。エイゼンシュタインが「歌舞伎の見得は、映画のクローズ・アップだ」と看破したエピソードは、このことを考える時に、非常に重要になります。(別稿「歌舞伎の見得〜クローズアップの手法」を参照ください。) 近代の芸術家として、同じようなことを谷崎も考えていたに違いありません。谷崎は小説・戯曲を書く為に、映画も・歌舞伎も・文楽も、どれも同じ視点から眺めていたということです。
あっさりした仕上がり
昭和26年の武智歌舞伎での「恐怖時代」は幕末期小芝居を意識した演出で、血糊をふんだんに使って話題となりました。幕末の歌舞伎は閉塞した世相を反映し、趣向が息詰まったところから、草双紙趣味の・グロな趣向に活路を見出そうとしました。「弁天小僧」のような、美しい娘と思っていたのが尻を捲って男の泥棒の正体を現わして観客を驚かせるなんて趣向も、そんなものです。武智はこれを歌舞伎の一番悪い見本として、その手法を「恐怖時代」に取り入れたわけです。しかし、これはもちろん手法の応用に過ぎません。武智は「恐怖時代」が谷崎の残酷趣味・スプラッター嗜好だと見ていたということではなく、近代的な人間理解の立場から、人間のなかの醜く歪んだ要素を抉り出した表現主義的なドラマであると考えていたのです。だから流血がどんどんエスカレートして、芝居で使用した血糊の量は相当なものになったようです。
今回(平成26年8月歌舞伎座)での「恐怖時代」ですが、全体にあっさりした仕上がりでありましたね。チラシには武智鉄二演出とクレジットされているけれども、実際は斎藤雅文が武智演出を土台に手を入れたということだそうで、草双紙趣味の・グロな雰囲気があまりしません。吉之助が見た昭和56年・武智古希記念公演の時でも、伊織之助が主人を諫言した武士を嬲り殺しにする場面など、殺し場面をしくこく引っ張って、ふたりの衣服を剥いで切りつけて血まみれにして凄惨でありました。このように場面を長く引っ張るところが、歌右衛門のお銀の方の髪梳きと同じく、表現主義の歪んだ要素です。そこに「行為の上での悪」がドラマの歪みとなって現れます。そこに往年の武智歌舞伎の片鱗を見た気がしたものでした。
そのような舞台を知る者にとっては、今回の舞台はまことにあっさりしたもので、物足りない。しかし、まあ昨今の観客にとっては、近代表現主義の感覚自体がもはや共有し難いかも知れない。いきなりドギツイものを見せられてドン引きされるよりは良いかなとは思います。しかし、このあっさりした舞台では、谷崎がどうしてこういう芝居を書いたのかというところは、多分見えて来ないでしょう。何と薄っぺらなドラマか・・やっぱり谷崎の変態趣味の産物か・・という感じしか持てないかも知れない。そのような迷いが、演出の斎藤雅文や演じる役者の側にもあるようです。例えばお銀の方の悪事が露見して、怒った太守が照千代の首を斬って珍斎に持たせて登場するという、原作にない改変がされています。この件に関しては、お銀の方を演じた扇雀が次のように語っています。
『なぜ2人 (お銀の方と伊織之助)が死を選ぶのかという理由が伝わりにくいと感じた。2人が死を選ばざるを得ないよう加筆し、観客を納得させたい単なるお家騒動で、お銀の方が殺人鬼という芝居にしたくない。彼女は心から伊織之介と愛し合い、運命に翻弄されても最後は好きな男と死ねてうれしい。そんな感情を表したい。』(中村扇雀談:読売新聞・2014年8月4日)
役者がこの芝居にそのような疑問を感じて改変がしたくなる気持ちは、十分理解が出来ます。自然主義演劇の観点からすれば、当然そうなるのです。役の心理・行動に必然を求めようとするからです。ただし、谷崎の文学的立場は反自然主義なのであってね、こういう改変はお節介以外の何物でもない。これでお銀の方の悪の動機と、死を選ばざるを得ない必然が補強できて、その人間性に深みが出たでしょうか。原作にもない子供の生首を持ち出して、余計なグロ趣味を出しただけのことです。お銀の方と伊織之助の純愛なんて、そんなものが、この芝居のどこにあるのでしょうか。薄っぺらなものは、薄っぺらなままにしておけば良いのです。
大正期のアバンギャルド
今回(平成26年8月歌舞伎座)での「恐怖時代」があっさりした仕上がりなのは、オリジナルの武智演出を手直ししたらしい斎藤が責を負うべきですが、グロを全面に押し出すのを躊躇して、これを笑いで中和しようとしているような感がありますね。だから観客 は芝居を受け入れやすくなっていると思いますが、谷崎がこの芝居に求めたものからはちょっと遠い感じになっています。また、これが武智歌舞伎か・・と思われるのも、武智の弟子を自認する吉之助にとってもちょっと不本意です。前項で書いたように、「弁天小僧」のような、美しい娘と思っていたのが尻を捲って男の泥棒の正体を現わして観客を驚かせるなんて趣向も、今ではこれが歌舞伎の醍醐味だなんて思われているでしょうが、本来これはグロなのです。武智が歌舞伎の一番悪い例とした、そのようなグロな味わいが、大正期のアバンギャルドな感覚で処理されねばなりません。それでないと、谷崎としての、そして武智歌舞伎としての、同時代的な意味がないのです。
例えば気の弱い茶坊主珍斎ですが、これは本来「四谷怪談」の按摩宅悦と同様で、恐怖を増幅させる・観客を怖がらせる役であると考えられます。ところが斎藤の演出であると、どうやら観客の恐怖を紛らせる・観客を笑いに逃す方向に、珍斎が使われています。その意味においては勘九郎はよくやっていると言えます。故・十八代目勘三郎は珍斎を演じませんでしたが、父親がこの役をやったらなるほど確かにこんな感じであったろうなと思える「笑える」珍斎です。親子だから当然かも知れないが、声も間合いもよく似てい る、と云うより、父親を真似ている。ただし、これは「十八代目中村勘三郎の芸」でも書いたことですが、勘三郎は「観客を笑わせてくれる楽しい役者だ」というイメージを観客に刷り込んでしまったおかげで、真面目な芝居をしても観客に笑いを期待されて、それで要らぬ苦労をしたのです。歌舞伎では当代は先代のイメージの継承を求められるということはよくある話だけれども、勘九郎は芸質としては実事に向いた役者であろうから、父親と同じ轍を踏まぬように願いたいものです。父親のイメージを追うことが必ずしも良いとは限りません。
七之助の伊織之助は、演技のなかで女形と若衆の切り替えを意識しているようですが、もっと思い切って変成男子の気持ち悪さを前面に出した方がよろしい。七之助の伊織之助は刀を構えると目付きが キリッと しちゃうのだな。まあ普通の感覚ならばそれで良いわけだろうが、そこが変態作家の谷崎です。吉之助が見た昭和56年・武智古希記念公演の時の伊織之助は現・藤十郎(当時は扇雀)で、これは谷崎が「伊織之助は扇雀の持ち役にしたい」と褒めたものでしたが、果し合いの時もグニャグニャと軟体動物的にシナを作って気持ちの悪い伊織之助でありました。これは武智が日ごろ嫌っていた歌舞伎の女形のオカマ芸的な要素を極大化させたものです。グロな芝居の肝が、伊織之助という役です。
このような伊織之助を隠し愛人にしているお銀の方との関係が純愛であるはずがありません。爛れて腐敗しきった愛欲です。原作にない改変をして、殺された息子・照千代への母親の情なんて、この悪女に最後の最後に「女の誠」を主張されるのも困ったものです。そういうわけで扇雀のお銀の方は性根の根本のところを間違えていますが、これも演出の斎藤が責を負うべきです。薄っぺらなものは、薄っぺらなままにしておけば良い。大事なことは、「恐怖時代」は最初から歌舞伎として関かれたわけではないけれど、大正5年に書かれた近代戯曲だということです。谷崎の懐古趣味・残酷嗜好だけの作品だと決めつけてはなりません。 かりそめにも大正・昭和の大作家の作品なのですから、何かがあるはずである。何がこの作品を近代戯曲たらしめる要素か、そうある為には何が必要なのかをよく考えることです。作品を考える時には、その作品が成立した時の時代と関連付けて、作品を読み込まねばなりません。脚本だけを眺めてウンウン唸っているだけでは、何も見えて来ません。映画「カリガリ博士」などもご覧になると参考になると思いますね。  
 
弁当と日本文化

 

この論文では、弁当の機能と用途について述べ、更に、日本文化でのその意義について考えてみたいと思います。
日本では、弁当は昔から広く使用されてきました。今では日本人の生活様式はすっかり近代化、西欧化されています。それにもかかわらずこのような食様式が、そして容器が、なぜ、どのようにして今日まで絶えることなく引き継がれてきたのか、ということに私は強い関心を抱いています。この論文で私は、弁当箱がどのようにして新しい価値水準、一つの象徴にまで達したかを、個人的意識および国家意識を中心に、社会的な相関作用やグループ意識について述べながら、検討してみたいと思います。
言うまでもなく、弁当箱は大抵の国で昔から使用されてきています。これを旅行に持っていく国もあるでしょうし、毎日の仕事に持参する国もあるでしょう。弁当は本来このように実用的な目的で生まれたもので、現在でもほとんどの国で学校の昼食かピクニックに限られており、日常の社会生活で見ることはまずありません。ところが日本では、学校に持っていく弁当箱も大きく変わってきていますし、レストランでさえ弁当箱を特別メニューの贅沢な容器として使っているのです。
箱に関しては、日本には長い伝統があります。これは食器として、また食物の保存容器として、広く用いられてきました(The Illustrated Encyclopedia of Japan, 1933)。奈良時代すでに、便利で美的見地からも価値のある箱がありました。そのいくつかは今でも正倉院の宝物として残っています。
このように長い伝統をもっている日本の弁当箱は、その歴史の中で、形状・外観においても、象徴としての面、表にでない種々の価値の面でも、それぞれの時代にあわせて変身してきました。現在のようにマクドナルドやスパゲッティの洪水の中にあっても、日本の弁当箱は社会的ステータスと名声を維持し、しっかりと生き残っているのです。それどころか、スパゲッティやハンバーガーでさえ、その中身として取り込んでしまっています。
他の日用品同様、弁当箱も用途・目的にあわせて形状、外観、サイズ、色などを変えて作られています。現在その資材として一番多く使われているのはプラスチックですけれども、伝統的な形のものや、一昔前のアルミの弁当箱などもリバイバルしています。もっとも形は現代風の新しいものに、品質もずっと良いものになっていますけれども。若い人は今でもプラスチックの明るい色の物を好みますが、成人や中高年それに若いOLたちは、いわば伝統の再発見といったところでしょうか、このような新しい感覚を盛り込んだレトロなスタイルのものに戻ってきています。
日本のレストランでみかける弁当や弁当箱は、お客を殿様か大名、貴族あるいは富裕な商人になったような気分にしてくれます。弁当が運よく手に入ったとしても、中身はご飯と梅干しだけだった時代、玄米と麦のご飯しか入っていないために弁当の中身をかくして食べなければならなかった時代は、もう昔のことになってしまいました。以前は、お弁当を持ってこられないために昼御飯の時間に「消えて」しまう人が決まって何人かいたものでした。
皮肉なことに、現在では多くのOLが「体型を保つために」弁当を食べています。弁当は今では、簡単で低カロリーのものでもデラックス・メニューのものでも自由自在になっているからです。
日本史や、現在の日本人の生活、社会の変化などを学ぶ場合に、弁当文化の研究は非常に有益です。日本人にとって、弁当箱は「グループ意識を失わずに自己を表出できる方法」ではないかと私は考えます。人々にとって、これは他人とのつながりを強調しながら、しかも自分のアイデンティティを主張できるチャンスなのです。それでもやはり、人々は弁当によって自分が所属するグループの中での自分の役割と位置を意識させられます。
豊かで洗練された食文化から生まれた道具である弁当箱は、社交の有用な歯車として働きます。そして最後に、弁当箱を通じて、日本社会、日本文化の中に「遊び心」がどのように育ってきたのかを知ることもできます。この「遊び心」は、長い間戦争や国際紛争、国内の動乱などに苦しんだ後で、日本人がいま満喫している平和と大きな関連があります。
私は、いたるところにレストランやキャフェテリアのある今の日本で、なぜ弁当箱がこんなに人気があるのか、その理由も分析したいと思っています。そしてまた弁当箱が、その資材、サイズ、色などの点でなぜこのように大きく変わったのか、なぜ弁当を特集した雑誌が毎年こんなに沢山出版されるのか、なぜほとんどの婦人雑誌がさまざまな形で弁当の作り方をのせているのかを分析してみたいと思っています。
日本における弁当の歴史

 

まず最初に、弁当とその古い用語である面桶(めんつう)という言葉の起源について述べます。次に、箱の外観とその中身は密接な関連があると思われますので、中身についても述べたいと思います。
弁当の起源 −古代および中世
最初に弁当箱として使用された容器は、竹皮、熊笹の葉、木の葉などだったに相違ありません。これらは通気が良く食物の保存にとてもよく適しています。特に竹皮や熊笹の葉は殺菌力も高いと考えられています。初期のこのような包装用品は次第に箱に変わって行きました。その箱も最初は柳の枝や木で作ったもので、たいてい使い捨てでした。ラッピングの点でも、日本には非常に豊かな文化を育ててきた歴史があるのです(Joy Hendry, 1989, 1993)。
「外国人のためのお弁当」(伊藤みどり編、1966)という本によれば、戸外で食べる昼食については、すでにかなり古い時代の日本文学にみることができます。奈良時代の「古事記」では、倭建命が東日本を征伐した折り、足柄の坂本の野で昼食の御粮(みかれひ)を食べているとき、土地の神が白い鹿に身を変えて現れました。そこで倭建命は御粮と一緒に食べていた蒜をその鹿(土地の神)の目に投げつけて、殺しました。
御粮とは乾飯(かれいひ)を約した言葉ですが、干して固くした旅行に携帯する食物です。古代の弁当はこの種の乾燥米だったと考えることができます。この御粮という言葉は、干飯(ほしいひ)とも呼ばれていました。干飯は今でもあり、私も入手することができました。現代のものは湯をかけるだけで数秒もすれば食べることができます。しかし古代のものはもっと固かったようで、旅人はしばらくの間口に含んでほとびさせてから、食べていました。これはもう少し後の時代には乾燥させてあるかそうでないかで、干飯(ほしいひ)または糧、粮(かりて)と呼ばれるようになります。
そしてまた時が経つにつれて、中身が乾飯(かれいひ)、それを入れる容器がかれひけと呼ばれるようになりました。そして平安時代の初めには、かれひけという語は破子(わりご)と変わり、容器のみを指すようになりました。江戸時代の有名な学者小山田与清は「1573年から1592年の間に、破子は弁当とよばれるようになった」と言っています(伊藤、前掲書、17ページ)。中身については、にぎりめしなどの語が早くも平安時代の文献にみることができます。後になって、にぎりめしはおむすびとも呼ばれるようになり、芯に梅干し以外のもの、特にかつおぶしなどが入れられるようになりました。
しかし、弁当そして特に弁当箱の発展には長い歴史があります。1591年、「多聞院日記」に「一揃いの塗り箱の蓋の裏には箸を三組とりつけてあって、各段には数人分のご馳走が入っている」という描写がでてきます。この箱はおそらく現在重箱と呼ばれている物でしょう。当時は重箱という名称はありませんでしたけれども、上流階級や富裕な人々がよく使っていました。一方、もっと下のクラスの人々は、一人分の食物を木の葉、布切れ、網などに包んでいました。古い形の弁当箱の一つに、先にのべた破子があります。これが多分内部に仕切のついた容器の始まりではないかと思われます。これは薄い板でできており、食べた後は捨てていました。現在でも、使い捨ての箸にこれと似たような「割り箸」という言葉が使われています。この箸は、使う前に割って二本にします。
破子と割り箸は漢字は違いますが、どちらも「分ける」「割る」「破る」という意味で、したがって共通の性格を持っています。破子は少なくとも二つの同じ大きさの部分に分けることができます。破子という言葉には「使い捨てできる容器」という意味と「いくつかの部分に分けることのできる容器」という二つの意味がありますし、また、ある時期には「米」および/あるいは「食事」という意味もありました。
このように破子は、違った食物(ご飯と魚、肉、野菜などの総菜)を分けて入れられるように仕切のついた最初の容器と言えます。その次に現れたのが面桶です。これは一種のお椀ですが、個人用の箱に更にアイディアを加えたもので、自分の分だけを運べるように蓋がついており、現在の弁当箱の始祖ともなりました。
面桶は丸い形の、仏教の僧侶が使うお椀に似ていました。僧が寺に入るときには、あらゆる私物を捨てて来なければなりませんでしたが、自分専用のお椀だけは持ってくることを許されたのです。これは修行中、皿として、また水やお茶を飲む茶碗として、あるいは食事時の食器として用いられました。個人的な親密さも私物を持つことも許されない社会にあって、僧侶が個人用として所持するのを許されたたった一つのものでした。
食事用の食器です。弁当箱に対する日本人の態度はこのような状況と関連があるのではないかと、筆者は考えます。筆者が日本に住んでいたとき「食事やお茶に使う食器は非常に個人的なものと考えられていて、だれもが自分専用の茶碗、お椀、箸を使っている」ということに気がつきました。そして、これは日本人が個を主張するための一つの方法ではないか、と思うこともままありました。
ここで忘れてはならないのは、いつの時代にも数人分を入れた共同の容器が使用されてきた、ということです。古代では食事はおそらく団体行動であり、皆が同じ容器から食べていただろうことは容易に想像できます。14世紀以降、この共同の容器は主に特別な集まりや祝い事の際に用いられるようになりました。現代の重箱が主に行楽や人々の寄合の際に、皆がそれぞれの器に取れるように、食物を運んだり並べたりするのに用いられているのと同じです。
しかし多人数の食物を運ぶ場合には、このような大きな器と共に一人分ずつ取り分けるための皿や弁当箱も用いられました。大きな器には「ステータスと社会階級を示す」という目的もありました。日本文化の中では弁当箱、器、皿の間に何の区別もありません。いずれも食物を入れて運ぶ、という目的だけでなく、食べるためにも用いられています。弁当箱はレストランでは食器として使用されていますし、ご飯茶碗に似た容器が食物を運ぶのに使われているケースもあります。これは弁当箱の社会的な使用に大きな影響を与え、弁当箱が現在まで生き残るのに大きな役割りを果たしています。
弁当 −その種類、名称と定義
「弁当箱」という本(荒川浩和、1990)には、桃山時代から江戸時代にかけての弁当箱についてのデータが豊富にあげてありますが、その多くは東京国立博物館、神戸市立博物館、徳川美術館、出光美術館、早稲田大学演劇博物館など、日本の有名な博物館から集めたものです。
この本に取り上げてある弁当箱は主に大名や貴族など上流階級のものですが、種々様々の贅をこらした弁当箱の写真をのせると同時に、「弁当」の古い用語もあげて解説しています。その用語に私が辞書(広辞苑、百科事典、漢字語源辞典、字源)から拾った用語もあわせて、外出先で食べる食物、「弁当」にあたる昔の言葉をあげてみます。古い時代には食物は大きな木の葉に包んで携帯していましたので、何と呼んでいたかははっきりとはわかりませんが、容器と中身の両方を指していたようです。しかし次にあげる最初の三つの用語はその中身、食物だけを指していました。
中身による分類と名称
御粮(みかれひ)/干飯(ほしいひ)/かれいひ-乾燥食物/乾燥米
「弁当」という言葉は中国語からの借用語のようにみえますが、これは日本人が作った語です。広辞苑第二版には弁当は「外出先で食事するため、器物に入れて携える食品、またその器物。転じて、外出先でとる軽食」となっています。弁当という語の語源を突き止めた人は、江戸時代の国文学者、喜多村信節(1783│1856)です。
現在では弁当という語は、戸外で食べる食事の中身にもそれを入れる容器にも用いられていますし、またレストランのメニューの一つとしても、給食会社の宅配サービス昼食にも使われています。
中身を指す名称で一番よく使われているものにはどんなものがあるかみてみましょう。これをみれば、日本食文化の興味深い面をいろいろと知ることができます。
おむすび弁当/にぎりめし弁当 おにぎり
あくまき 昔の携帯食の一つで、餅米を灰汁に浸けて竹皮に包んで蒸したもの。昔、薩摩藩が朝鮮の役に出征するときに持参したものだそうです。現在でも、鹿児島の人は5月の節句にこれを食べます。
海苔弁/海苔弁当 炊いたご飯に海苔をのせたもの。
鮭弁当 ご飯と焼いた塩鮭の弁当。
松茸弁当 松茸という高価で香り高いキノコを炊き込んだご飯。秋の風物の一つ。
日の丸弁当 白米の真ん中に梅干しをのせて、日本の国旗のようにみえる弁当。第二次大戦中は、戦場で戦っている兵士を偲ぶため、週に一回はこれを職場や学校に持って行かねばなりませんでした。梅干しには防腐剤の働きがありますので、食物を良い状態に保つのに役立つとも考えられています。
鰻重弁当 白いご飯にうなぎの蒲焼きをのせたもので、漆(またはその代用品)を塗った角形の弁当箱にいれます。
そば弁当 そばをいれた弁当。
いか飯弁当 イカの中にご飯をつめて炊いたもの。北日本に多い料理。
すし弁当 すしをいれた弁当。
釜飯弁当 野菜などを入れて炊いたご飯で、スペインのパエリアに似ています。これは「釜」と呼ばれる小さな陶器の鍋で炊きあげた「飯」ということで、容器が非常に重要な意味を持っています。
愛妻弁当 妻が夫のために作る弁当で、できる限りおいしい食べ物をきれいに盛りつけて、愛情を示したものです。この場合、中身、食べ物と容器の取り合わせが非常に重要です。
鯛飯弁当 鯛(これは非常に高価です)をいれた弁当。
焼き鳥弁当 和風ローストチキンをいれた弁当。
中華弁当 ご飯と和風中華料理をいれた弁当。
ハンバーグ弁当 ご飯とハンバーグステーキをいれた弁当。
牛肉弁当 ご飯と牛肉と野菜をいれた弁当。
サンドイッチ弁当 サンドイッチの弁当。
御膳弁当 白いご飯とおかずをいれた弁当。「御膳」とは「ご飯」の尊称ですので、これは「米を主食とした弁当」という意味になります。御膳という語は最近の宅配サービスの弁当やレストランのメニューにも使われています。
行事・購入場所等による分類と名称
どのような行事、あるいは目的で使われるかによって、いくつかのカテゴリーに分けることができます。しかしいずれの場合も中身と容器は密接に関連しています。
「行楽弁当」これはスポーツの会などに持って行く弁当です。以前はこの種の弁当は季節と密接な関係がありましたが、今ではスポーツに関連しています。もう一つは「観劇弁当」劇場で食べる弁当です。行楽弁当と観劇弁当は見分けがたいこともありますが、行楽弁当はあくまでも戸外で食べるもので、観劇弁当は劇場かスタジアムに持っていって食べるものです。容器はその行事にあったものでなければなりません。
次にあげるのは、どちらかというとめでたい行事や楽しい行楽に昔から使われてきたものの名称ですが、もっと新しいものもあげてあります。
以前は両親、友達、親戚の人などと一緒に食べていましたので、弁当箱は数人分を入れられる特別なものでした。これは新しいタイプの行楽弁当です。
花見弁当 春、桜の樹の下に集まって、花を愛でながら食べる弁当。
紅葉狩り弁当 秋の紅葉を見ながら皆で食べる弁当。
月見弁当 9月に満月を見るために集まって食べる弁当。
運動会弁当 学校の運動会で食べる弁当。
次にあげるのは観劇弁当の範疇にはいるものです。
幕の内弁当 劇場(主に歌舞伎)の幕間に食べる弁当。しかし、現在では、レストランの定食メニューの一つとなっています。これは箱に仕切をつけて、ご飯、野菜、魚および/または肉、果物、甘いものなどを分けて盛りつけたものです。
顔見せ弁当 歌舞伎で新しい演目が上演されるときや、役者がデビューするときに、箱に入れて供される弁当。
ドーム弁当 これは、初め福岡の野球場(ドーム)で供された特製弁当です。箱は野球場の形をしていて、観光客がツアーでこの野球場を訪れたときや、野球観戦のときに買いました。これは人気を呼び、日本中どこの野球場でも売られるようになりました。そして、さらに行楽に持っていくようになると、これは行楽弁当のグループに入ると考えられるようになりました。しかし、スポーツ観戦用とする限りでは、これは観劇弁当のグループに入れるべきだと、私は思います。
どのような行事、あるいは場所で食べるか、どのような形で販売されるか(家庭で作ったものでも店舗や鉄道の駅などで買ったものでもない場合)、さらに大きさなどによっても違った名前がつきます。
駅弁 駅や長距離列車の中で販売される弁当。これは今では「遊び」の性格をおびていますので、行楽弁当の範疇にいれてもいいでしょう。近年これはとても人気が出て、注文もできますし、年に二回デパートで行われる「駅弁まつり」で買うこともできます。(これについては後で詳しく説明します。)容器の形、中身は種々様々です。これから見ていくように、駅弁では、食物はその地方独特のものですし、その容器もお客を引きつけるように入念にデザインされ、選択されています。
宅配弁当 給食会社やレストランが、会社や個人宅に配達する弁当。これは昔からある「出前」(レストランのケータリング)と同じやり方ですが、「宅配」というのは非常に新しい言葉で、ケータリング会社はこのほうを好んで使います。
学生弁当 男子学生用の沢山はいる大きな弁当。
どか弁 男子学生やスポーツマンが食べる大きな弁当。「学生弁当」によく似ています。
容器の種類と名称
さて、弁当の種類と名称についてはすでにのべましたので、今度は容器の中でよく知られているものについてのべます。容器と中身は密接な関係がありますので、時には中身と容器の両方を指し、はっきりとは区別できないものもあります。中身が変わり種類が多くなるにつれて容器にもますます多くの新しい意味、用途、名称が加わりました。容器は、主に材料、形、そして時にはその用途によってもその名称前が変わります。
かれいけ 乾燥させた食物をいれる容器。
面桶(めんつう) 食物を一人分づつ盛って配る容器。
面桶(めんつ) 右に同じ。発音が異なるだけ。
物相/盛相(もっそう) 面桶に同じ。本来の意味は「計量して盛りつけた飯」
めんぱ 面桶に同じ。
輪っぱ(わっぱ) 同じく一人分をもりつける曲木で作った容器。
破子(わりご) 蓋つきで中に仕切のついたはじめての容器。
面子(めんこ) 軍隊で兵士が携帯した個人用弁当箱。桃山時代から用いられはじめ、明治以降も使われた。
はんこつりょう 明治以前に主に兵士が用いていたものですが、日清戦争の時にも使用されました。
飯盒(はんごう) 明治以降、大正、昭和にかけて兵士が携帯したアルミニウムの個人用容器。
櫃(ひつ) 前にのべた重箱(箱を重ねた容器)に非常に良く似ていますがこれは円形です。
食籠(じきろう) 弁当箱の別称で、「大海」(たいかい)ともよばれています。
瓣當(べんとう) 一人用。旧漢字で今では使われていません。
便當(べんとう) 上に同じですが、「べん」の漢字がちがいます。ここでは「便利」の「便」です。
弁当(べんとう) きっちり一人分。現在使われている漢字。
籠弁当(ろうべんとう) 弁当箱の別称。
弁当袋 おにぎりを入れる特別な網袋。
網代弁当(あじろべんとう) 籠の形をしたもの。
腰弁当 腰に下げる弁当箱。身体の線に添うように曲げてあります。
印籠弁当箱 取手のついた籠の弁当箱。これは印鑑と呼ばれる日本式シールを入れる小さな袋と形が似ているために、このように呼ばれました。徳川時代には、薬を携帯する小さな袋も「印籠袋」と呼ばれ、よく用いられました。
次にあげるのは「遊び」用のもので、「行楽」「観劇」の弁当と関連しています。
茶弁/茶弁当 他の容器やお茶道具のはいった弁当用の容器で、「懐石」(茶事で供される食事)用のもの。
野弁当 昔、花や季節の鳥を見に行く時など、野外での食事に。また野点でも用いられましたが、今では使われていません。
蒸籠弁当 特製の箱の中で蒸してそのまま供されるご飯。したがって、この容器は料理道具としても食器としても使われることになります。
杯弁当 汁物や酒を飲むためのボールの形をしたもので、昔、戸外での特別な集まりのために使われた揃いの食器の一部でした。
樽(たる/だる) 円形の容器で、通常大きな宴会のために酒を運ぶのに使われます。
指樽(さしだる) 二つの部分に分けられる容器で、一つには酒を、もう一つには弁当を入れますが、酒だけのこともあります。結婚式など特別な集まりに用いられました。
外居/行器(ほかい) 円形の容器で、特別な行事や旅行、遠方に住む人へ食物の贈り物をするとき、さらに供物を供える宗教儀式などで、食物を入れて運ぶために用いられました。
提げ重 上と同じようなものですが、手で提げて運べるよう取手がついています。
重箱 箱を重ねた容器で、多くの人が集まって祝い事をする時などに用いられました。各段の箱にはそれぞれ数人分の料理を入れます。現在では、新年の正月料理を入れるのによく使われています。
重弁当 重箱の形をした重ねの弁当箱ですが、中身は一人分です。
松花堂弁 懐石料理用の中を四つに仕切った箱で、それぞれの仕切りには違った料理を入れます。主に劇場、歌舞伎などで用いられます。
船弁当 漁夫が漁にでたときに船で食べる弁当。
酒樽弁当 寿司をいれる容器。寿司屋で使われています。
柳行李 昔、樵が山で作業するときに持っていった弁当。この名前は、柳か竹で編んだ籠形の箱からきています。時が経つにつれて、これは戸外での行事を楽しむための器と考えられるようになりました。現在ではこの言葉は弁当箱としても使われています。最近では、これは弁当雑誌で「バスケット・ランチ」と呼ばれ、楽しいイメージのものとなっています。
弁当とことわざ
「弁当」という言葉は現在、「ランチボックス」「戸外に持っていくランチ」の意味で使われていますが、同時にまた、給食会社が特別な行事のときに、あるいは会社や料理のできない家庭に、毎日宅配する料理にも使われています。更にまたこれは、レストランの高価な特別メニューとしても使われています。これは中をいくつかに仕切った塗りの箱に、いろいろな料理をほんの少しずつ入れたものです。
私はまた、弁当に関する日本語のことわざもいくつか見つけましたので、それもみてみましょう。
「弁当持ち、先に食わず」
これは「召使いは主人が食べるまで待たねばならない」という意味です。
「弁当のおかずにたくわんを三欠け食べると身を切ると言う」
「弁当用にたくわんを三切れつけるということは、身体を切れという意味になります」という意味です。このような言葉遊びによって「弁当用に三切れに切るということは縁起が悪い」と言っているのです。
「弁当箱、枕にならず」
「弁当箱は枕の代わりにはならない。」という意味で、「どんな物でも用途は一つだけ、それが作られた本来の目的だけだ」と言っているのです。
「弁当は宵から」「弁当は前の夜から」
「弁当は前もって作っておいたほうがよい」という意味で、「良い結果を得たいなら、前もってよく準備しておかねばならない」と言っているのです。
これらのことわざを見れば、日本文化の中で弁当が毎日の生活と切っても切り離せない関係にあることがわかります。
弁当と現代日本社会

 

弁当の発展
日本では昔から、上流社会は洗練された高価な漆塗りの弁当箱を用い、一方、労働者、漁夫、工員、学生などは、編籠や木製(最近ではアルミやプラスチック)の簡素な物を使ってきました。ここで、日本では人前で食事することはあまり良いたしなみとは思われていなかった、ということに注意してください。貴族や武士たちは、家の外で食事する必要のあるときは自分の食事を持っていくのが常でした。これは多分、他人に食物を手渡すとか、他人の作った食事を食べることから生じる「浄」「不浄」の感覚と関係があったのでしょう。
実際、弁当を大量に作るというようなことは、15世紀になるまで見られませんでした。これが徐々に完成されたのは江戸時代後期になってからです。食材の種類が増え、食物の保存法が向上して、惣菜のメニューが増えました。茶の湯は日本食文化の発達に重要な役割を果たしました(「日本の近世」、熊倉功夫)。
弁当箱の種類が豊富になり洗練されていくのには、戦争と平和のどちらもが大きな役割を果たしました。その影響は、これから見るように、非常に異質のものでした。
室町時代、桃山時代は、江戸時代同様、弁当の歴史に大きな役割を果たしています。戦時には兵士たちは、安全で持ちやすい方法で自分用の食料を携帯しなければなりませんでした。織田信長時代の安土城建設のときには、兵士や作業員の食料を運ぶのに大きな器が用いられました。後になると、戦場に食料を携帯するために兵士には個人用の容器が配られました。当時の人は一人分の食料はいわゆる「面子」に入れて、あるいは、他のアジア諸国でも見られることですが、乾燥させた食料を木の葉に包んだだけで携帯していました。鹿児島では武士や足軽が、灰汁に浸けた餅米を竹皮に包んで蒸した「あくまき」を戦場に持っていったことについては、前にのべました。
豊臣秀吉の時代は、芸術的なデザイン創造に恵まれた時代でした。その頂点にくるのが茶の湯の発展とそれに伴う「茶弁」です。これは、通常特製の弁当箱(お茶を入れた容器がついているもの、また時には茶事用の料理を入れるためのもの)に入れて供されました。東京国立博物館と彦根城宝物館には、桃山時代、江戸時代に富裕な人々が使っていたこれらの美しい容器が展示されています。
江戸時代は、一般市民の自由な旅は許されていませんでしたが、参勤交代制度がありましたので「旅の時代」とも言えます。この制度では、大名と武士は家族の住んでいる首都江戸と自分の領地との間を定期的に旅しなければなりませんでした。このお陰で日本中を旅人が行き交い、弁当箱デザインの創造が盛んになり、弁当箱はより優雅で装飾的なものとなりました。
このような洗練された塗りの弁当箱の発展に貢献したもう一つの要因は、歌舞伎、狂言、文楽などの演劇の振興です。こうした演劇は非常に長い時間をかけて行われますので、人々は幕間に食べる食事を持って行きました。現在でも歌舞伎では食事が出されますし、相撲でも観客は自分の弁当を持って行くか、そこで購入して取組みの合間に食べます。何しろ、相撲は朝始まって終わるのは午後6時ですから。秦恒平という作家によれば、「幕の内」という言葉は、「人々が演劇の幕間に食事をとるようになった」のより以前に、上級武士が戦場では「陣幕の中で」食事していたことからきている、ということです。
しかし、歌舞伎や狂言でも幕間に食べる弁当は「幕の内弁当」と呼ばれました。幕が下ろされている間に食べる弁当という意味です。前に述べたように、この言葉の本来の意味は「戦場の陣幕で食べるごま塩のおにぎり」であったように思えますが、これが後に「劇場で幕間に食べる弁当」へと発展していきました。
舞台演劇についてみてみますと、「長屋の花見」という落語があります。その筋書きは次の通りです。店の主人が店員たちを花見に連れて行くことにします。弁当と飲物は当然主人が用意しなければなりません。ところが主人はあまりお金を使いたくありません。そこで、酒のかわりにお茶を、卵焼のかわりにたくあんを、かまぼこのかわりに大根を出します。この噺からも、当時弁当がすでに一般的になっていたこと、そしてどのような折りにそれを準備し持って行ったかなど、社会的慣習をみることができます。
日本が鎖国時代を経て世界にその扉を開いたとき、外国から種々の影響を受けました。明治時代には英国式の弁当箱も見られるようになりました。しかしそのすぐ後に植民地戦争と産業化の波が押し寄せ、材料、デザイン、中身に新しい流行がもたらされました。明治から昭和にかけては、軍隊の飯盒が広まります。これは一人分ずつを入れ、兵士が背嚢につけて携帯できる便利なアルミの容器で、どんな火を用いてもすぐに暖めることができます。飯盒は昭和期を通じてずっと使用されてきましたし、今でもボーイスカウトではこれに似たものを使っています。
この間にも、富裕な家庭では優雅な漆塗りの箱が使われていました。1868年の開国から第二次大戦まで日本は外国から種々の影響を受けましたが、博物館に所蔵されているいくつかの弁当箱にもそれが見受けられます。明治以降は、米国や欧州諸国にみられるような弁当箱も好まれました。現在でも日本では、バスケットに入れた弁当を「バスケット・ランチ」と呼んでいます。
日本が植民地戦争と侵略にあけくれていた歳月には、一般の人々が美しい贅沢な弁当箱を買い求めるようなチャンスはあまりありませんでした。それに入れる惣菜が手に入らなかったからです。白いご飯でさえ特別な日にしか食べられませんでしたし、それもだれでもできるわけではありませんでした。中身が貧弱になるにつれ、それを入れる箱も、デザイン、材料ともに貧弱になりました。
子供たちはお祭りや、遠足、運動会などの特別な日を待ちこがれました。このような日には弁当に卵焼きを入れてもらえたからです(卵は高価で普段は口にできない食物でした)。弁当のご飯には大麦をまぜてあることが多く、海苔をのせてあることもありましたが、おかずは梅干しだけ、というのが普通でした。
よく知られていることですが、第二次大戦の初めには、仕事場や学校に持っていく弁当は、少なくとも週1回は、「日の丸弁当」にしなければなりませんでした。これはご飯(大麦をまぜることもありました)の真中に梅干しをいれた弁当のことで、それがちょうど日本の国旗のようにみえたのでこう呼ばれたのです。日本で私が取材で面接したある中流上クラスの女性が私に次のようなことを語ってくれました。「祖母が私を可哀想に思って、だれにもわからないようにご飯の下にこっそりおかずを隠し入れてくれたものでした。もしこれがわかるとひどい罰をうけますし、そうなると私だけでなく家族全体の恥になりますから、私はもう怖くて怖くて。でも、大好きな祖母が私のために作ってくれたお弁当を食べるのは、とても幸せでした。」
これは別に珍しいことではなかったでしょう。できさえすれば、同じ事をした人が他にもいたと私は思います。
1945年の敗戦以来、日本は貧しくて新しい容器どころか食物さえなかなか手に入らないほどでしたが、朝鮮戦争以降、特に東京オリンピック後は、日本は新たな繁栄と消費の時代にはいりました。
昔から「弁当」という言葉には「面桶」という言葉にはない楽しい意味あいが含まれていました。「弁当」は劇場、楽しい外出、旅行などに持っていく食べ物を入れる器で、「面桶」は、たいてい農夫、職人などが畑や職場に持っていく弁当箱を指していたからです。
「弁当」という言葉は今でも残っていますが、「面桶」という言葉はもう使われていません。上流階級の言葉であったものが、徐々に社会の全階層に広まっていったものと思われます。しかしこの事実から、日々の生活のあらゆる面で「遊びの雰囲気」を追い求める日本人の国民性について考えさせられます。この「遊び感覚」を好む傾向は弁当箱の様式、形、色だけでなく、「弁当用品」(弁当風呂敷や袋、おしぼり入れ、調味料入れ、取り分け皿、使い捨て用品、ポータブルの調味料、小さなフォーク、お箸、魔法瓶等々)にもみられます。
伝統的な贅沢な箱の好きな人たちや、それを懐かしむ人たちには、本物の漆塗りあるいはイミテーションの塗りの箱で、蓋の上に花や植物を描いて季節感をだしたものもあります。また子供や学生の場合には、外国語、特に英語をふんだんに使ったものや、可愛い動物、植物、テレビの人気キャラクターなどを描いたものもあります。メーカーやデパートは次々に新しい面白いデザインのものをだしてこの傾向を助長していますし、また日本人が「初物」「変化」「季節感」といったことを好む性質をねらって、「春の弁当箱フェア」「幼稚園児の弁当箱特別セール」「花見用弁当箱の特別セール」といった催し物も行っています。
弁当の使用状況−幼稚園児から会社員まで
前に述べたように、日本では数多くの雑誌が、学童の毎日の弁当から正月の特別なものまで、種々の用途、催しのための美しくて栄養のあるおいしい惣菜料理の作り方をのせています。そのどれかの弁当特集を見れば、今の弁当の傾向と様式を知ることができます。そこでまず手始めに、手近に買える雑誌で弁当を特集しているものがどれくらいあるか調べてみました。
1998年、大阪阿倍野のあべの書店に行き、弁当を特集している雑誌がその時点で一体どのくらいあるか調べてみました。タイトルに「お弁当」という言葉がはいった記事を扱っているのが381種、その他に「弁当」という語の含まれているものが93種ありました。これはたった一軒のデータですので、別の書店ではまた数字が違ってくると思いますが、それでもサンプルとしては役に立つと思います。
このような弁当の作り方をのせた雑誌の洪水の中から、いま私は「主婦と生活」の1992年10月号をここに持ってきています。もう今では絶版でしょうが、そのタイトルは「素敵な料理」というものです。その16ページで、ある女性が「本当に良い弁当は四色四味でなければなりません。そして見た目にもきれいでなければなりません。」と言っています。また34ページでは別の女性が次のように言っています。「勿論、健康によくて栄養のバランスのとれた弁当を作るのに心を砕いていますが、私にとって一番大事なのは色の取り合わせです。勝負は子供の目で決まりますから。」
日本の保育所の研究をしたLois Peakによれば、ある保育所で、園長が母親や先生たちを前に弁当について話をしたそうです。その目的は「弁当が子供たちの教育、躾けにとってどんなに大事か」を母親たちに伝えることでした。毎朝手間暇かけて良い弁当を作ることで、母親は自分の愛情を子供たちに伝えます。園長は次のように話しました。「母親が毎朝少し早く起きて子供のために何かしてやれるのは学校にあがるまでのことです。学校に入ってしまえば給食です。昨夜の残り物とか大人の弁当の余りなどでなく、子供のために特別に作る、ということも大事です。
家庭では母親は、父親や大きな子供の好きなものを作ります。お弁当はその子のためだけに何か特別なことをしてやれる、そして食欲をだせるようにしてやるチャンスなのです。私たちは母親たちに三、四種の料理とご飯、果物をいれた小さな弁当を作ってもらいました。味つけは子供好みでなければなりませんが、たいていの子供たちはどんな料理でも甘い味つけを好みます。また、栄養価が高くて子供の好きな料理で、色どりがきれいで見た目も可愛くなければなりません。
昼食時に子供が弁当箱の蓋をとったときに、母親の愛情が箱から飛び出してくるようなものでなければなりません。こどもたちが「これはボクのお母さんがボクのためだけに作ってくれたもの」と思うようなものでなければなりません」(Lois Peak, 1991)
したがって、弁当は学校活動や子供たちの生活と密接に関連しています。しかしここで、子供だけでなく母親の社会化という点でも、弁当が大きな役割を果たしていることを指摘しておく必要があるでしょう。
子供たちが幼稚園や保育所に入ったときから、母親たちは種々の活動に参加することを求められます。例えば、子供をきちんとした身なりで時間におくれないように登校、登園させること、学校や園と家庭の円滑なつなぎ手となること、給食のない場合には(小学校はどこでも給食があります)毎日おいしくて栄養のある弁当を作って持参させること、などです。
このように学校弁当は就学前から始まりますが、これには重要な象徴的な意味があります。母親たちは急いで弁当の作り方を書いた雑誌や本を買い、他の母親と意見交換をし、小学校に入ってからも、教えて欲しいという母親があれば教えてあげます。
弁当は母親と子供の絆を、さらに家庭と学校の絆をも深めます。弁当を作りながら母親は子供のことを思い、食べやすくてきれいで、栄養があっておいしい弁当を作ります。80年代の終わりに私が日本に住んでいたとき、人気の高い子供向けテレビ番組の歌に次のようなのがありました。「これくらいのお弁当箱に・・・」という歌で始まり、弁当によく使われる料理とその作り方を説明します。
幼稚園児はほとんどこのテレビ番組を見ていましたし、母親たちはまだ幼稚園にも行かない幼児にもこれを見せていました。若い母親たちは「弁当作りの儀式」を通じて社会に出ていき、「若い母親のグループ」のメンバーとして自分のアイデンティティを獲得します。そして子供たちもまた、クラスメートたちと弁当を一緒に食べることによって、外の世界の真のメンバーとなります。したがって弁当は、家と外の境界を示す一つの道具ともなるのです。
特に学校に入って初めの数ヶ月間、毎月の母親の集まりで、繰り返し、それも長時間話題となるのは弁当の正しい作り方で、時には1時間の集まりの30分以上にわたることもあります。この話合いは別に、西欧的な意味での栄養の原則についての論議でもありませんし、りんごでウサギを作るとか人参で花を作るとかいったような料理技術の話でもありません。話題の中心は主に、食物のつめ方や包み方、学校や家庭でどのような食卓マナーを教えたらいいか、卵やスパゲッティ、それに握ってないご飯は食べにくいので入れてはいけない、床に落とした食物はテーブルでなく箱の蓋に入れるべき、などなどです。(Lois Peak, 1991)
Peakは、自分が研究調査を行った幼稚園で子供たちが弁当を食べる前にピアノにあわせて先生と一緒に歌っていた歌を紹介しています。子供たちはお弁当の時間が来たことを喜びながら、楽しげに「お弁当に入っているものは全部おいしくいただきます」と歌っていました。(Lois Peak, 1991)
前に述べたように、公立の小学校ではすべて給食(学校で用意するみんな同じ昼食)です。これには昼食だけでなくミルクも含まれます。公立の小学校が給食をはじめた根本的な理由は児童間の食物の差を避けるためでした。中には学校に弁当を持って来ることのできない子供さえいたからです。しかし家から弁当を持ってきたいという生徒もいるため、数年前から家庭の弁当か給食会社のものか、いずれかを選ばせる小学校もでてきました。そして1996年にはこの傾向が急速にひろまりました。ただし、その理由はちがいます。
外国人の母親たちが子供を日本人の学校にいれる場合、そうでなくてもいろいろな苦労があるのに、弁当も作ってやらねばなりません(Lois Peak, 1991)。私自身も、横浜の国際学校に問い合わせてこの間の事情を知ることができました。日本人の母親を持つ子供たちは、別に問題もなくおいしそうなお弁当を可愛らしい箱に入れて持ってきて、それを食べます。しかし両親が外国人の場合、あるいは国際結婚で母親が日本人でない子供たちは、たいていアルミホイルに包んだだけのものや、金属の大きなランチボックスに入れたものを持ってきます。
中身はサンドイッチとジュースを分けもしないで一緒に入れたもので、特別その子のためだけに料理したものではありません。1996-97年の学期に、ある外国人の子供がほとんど毎日弁当に手をつけずに残すようになりました。先生がその理由を尋ねると、その生徒は「ハムは大嫌いなのに、お母さんがほとんど毎日ハムサンドをもたせるの」と答えました。「お母さんは君がハムを嫌いなことを知っているの?」と先生が聞くと、その生徒は「もちろん。でもお母さんは、好き嫌いをせずに何でも食べられるようにならなくてはいけません、と言うの」と答えました。
これをみると、学校側と、文化背景の異なる母親側との間の要望と期待の食い違いがわかります。外国人の母親たちは子供が好き嫌いがなくなるよう、特に、嫌いなものを食べられるように、躾けに努力しています。それに反して日本人の母親たちは、子供たちが喜び、その食欲を増すような可愛い弁当を作るよう、学校から指導されているのです。
日本では多分いまこのような状況でしょう。しかし筆者が面接した日本人インフォーマント(被調査者)で年輩の人たちは、「私たちの母親は食べようが食べまいがあまり心配しませんでした。それよりも十分な食物を得られるかどうかのほうが気がかりでした。時には兄弟で争ったり、弟や妹が特別な料理を貰っているのを見ると不平を言ったりしました」と言っています。
当時は母親の作った弁当は美しくもなく、ただ米、麦、豆、さつまいもなどを混ぜたもので、特別な時だけ魚や卵がつきました。日本でも地域や家庭によって大きく異なっていたでしょうが、第二次大戦前には学校から帰って家で昨夜の残り物を食べる子供もいました。遠くて食べに帰れない子供たちは弁当をもってきました。弁当箱はアルマイトで蓋がきっちりとは閉まらないので、食べ物がもれて教科書やノートを汚すこともありました。冬になると、子供たちは弁当を教室のストーブの上に載せて暖めたものでした。
公立学校の中ではおつゆを出すところもありました。その理由は多分、どの子も弁当を持ってこられるとは限らなかったからでしょう。おつゆの給食は、戦後にもみられました。50年代にはおつゆの代わりに戦後アメリカから日本に送られてきた粉ミルクになりましたが、これは大変嫌われました。
東京出身のある小学校の先生が筆者に語ってくれたところによれば、終戦直後から50年代半ばまで、弁当を持ってこられない生徒のために、ほとんど毎日3-4個の弁当を用意しなければならなかったそうです。生徒数30人のクラスで昼食時に食べる物のない生徒が7-8人ほどいて、先生たちはそのような生徒たちに食物を与えていたそうです。
前に述べたように、第二次大戦が始まった頃はまだ食料は不足していませんでしたが、戦場の兵士を偲ぶため、出先で食べる弁当は週に一度は日の丸弁当にしなければなりませんでした。経済情勢が悪化し米が手に入らなくなると、人々はアルマイトの弁当箱に入れる食物の入手に頭を悩ますようになりました。食べることは容易ではありませんでした。この間の事情は野坂昭如の有名な小説「火垂るの墓」(これは後に宮崎駿がアニメ映画にしました)を読めばよくわかります。
戦争の終わり頃から直後にかけては、多分中に入れる食料が手に入らなかったからでしょうか、新しい弁当箱は出てきませんでした。戦後は東京や大阪のような大都市では、一匹の鰯のために喧嘩や殺し合いさえ起こりかねない状態だったのです。
日本の教育制度では、給食があって学校が用意した昼食を揃って食べるのは公立学校だけです。ということは、幼稚園や私立学校に通っている子供たちはみな弁当を持っていく、ということになります。小中学校生徒の60%と公立高校の学生は毎日弁当を食べています。このように公立の小学校では給食があるので、公立学校に通っている小学生が弁当箱を使うのはピクニックや運動会など、特別な学校行事のときだけです。私立の小学校では事情が異なり、弁当が広く使われています。
外観の美しさも重要な地位を占めていますが、ダイエットも大事で、多くの弁当雑誌は選択が正しく行えるよう、カロリー数を示しています。(同じことは給食会社や弁当販売店についても言えます。たいていの所が各メニューにカロリーを表示しています。)ダイエットと弁当箱については、あとでもっと詳しく述べます。
今日の弁当ブームで弁当箱の創造性も盛んになってきています。デパートは、可愛い、お洒落な、変わった、そしてオリジナルな、種々の弁当箱に大きな売場をとって展示しています。その多くは少女むけです。女の子の鞄にうまくおさまる二段になった長く細い箱が今大流行です。たいていは電子レンジで加熱できるもので、色も飾りもソフトで上品です。
一番新しいのは真空タイプのもので蓋が二つついています。下の蓋にはボタンがついていて、それを押すと自動的に真空パックに変わり、冷凍しなくとも食物の長期保存(24時間)が可能になり、風味も味も保てます。この手の弁当箱については、後で特にOLとの関連で考えてみます。
1994年3月東京で行ったアンケート調査によれば、都心のビルで働くOLの75%が自分で弁当を作り、それを自分のデスクで食べているそうです(「朝日新聞」、1997年7月24日)。調査対象となった女性たちの年齢層は25-37歳です。たいていの人が「弁当ならバランスのとれた健康な食事ができる」と言っています。また、時間やお金も節約できます。昼食時には安いレストランは長い行列になることもありますから。
多くの人がお金の点を強調しています。自分で弁当を作れば月に2万円(200米ドル)ほどの節約になりますが、これは月あたりの収入が15万円(1500米ドル)のOLにとってはちょっとした金額で、衣類、レジャー、旅行、化粧品、美容院などにあてることのできる大事なお金です。ダイエットも弁当持参の重要な理由の一つです。現在販売されている弁当箱の中で主に若い女性が買い求めるのは、中に仕切がついていて一定の量のご飯しかはいらない、したがって体型を保つのによい弁当箱です。三角のおむすびが二つしかはいらない三角形の容器も流行っています。
前にのべた真空の弁当箱は1993年、カタログによる直接販売(単価2000円)で売りだされましたが、大変な人気で、似たようなものがデパートで1500-2000円で売られるようになりました。もう一つ普通のタイプのものでOLがよく使っている弁当箱は、昔ながらの模様がついた塗りのもの(本物の漆ではない)で、昔の「曲げ物」や「綰物(わげもの)」を真似たものさえ使われています。古い形の弁当箱(主に江戸時代のものの模倣)を買い求めるのも流行していますが、このような古い形のものはいつの時代でも大事にされてきました。
私のインフォーマントの一人で50歳代の女性が次のような話をしてくれました。「高校時代には授業中は弁当箱をロッカーにしまっていました。ところがある日、私のロッカーが壊されていて弁当箱が消えていました。その日昼食抜きになることは大して気になりませんでしたが、大好きな弁当箱がなくなったことはショックでした。それは塗りの古風なもので、だれもがアルミの弁当箱を使わざるを得なかった時代には非常に珍しいものでした。」筆者もデパートの特別売場で似たような弁当箱を見つけました。そしてそこで、主に若い女性がそれを買うということを教えてもらったのです。
1993年、1994年、1996年に筆者自身が訪れて質問した近鉄デパートの弁当箱売場によれば、自分用のあるいは人に頼まれて弁当箱を買いにくる人の95%が女性で、多くの主婦が友人(男女)や親戚の子供たちへの贈り物に買っている、ということでした。このように、この市場は完全に女性指向です。男性が弁当箱を使わないわけではありませんが、それを買ってくるのはたいてい女性の家族や友人なのです。
これは多分、日本の社会ではほとんどの女性が母性的に振る舞いますし、食事は特に母親らしいことの一つだからでしょう。女性は、毎日の生活の中でこのような面ですべての世話をみるよう期待されています(Dorinne K. 近藤、1990)。大きなデパートの弁当箱売場に行くと、沢山の弁当箱を見ることができます。弁当箱売場は普通、子供用、大人用、それに有名なアニメや漫画のキャラクターを描いた「キャラクターもの」の三つのセクションに分けられています。
プラスチック製や木製(柳、杉、檜製のものさえあります)のもの、塗りのもの、柳の小枝などを編んだ籠、アルミ製のもの(一時はこれが流行っていました)、最近では電子レンジで使えるもの、真空のもの、カレーやビーフシチューなど暖かい食物を入れるもの、等々です。
新しい弁当箱を買う時期、新しいデザインのものが展示されるのは春、3-4月です。この時期には学校の新学期が始まりますし、会社には新入社員が入ります。そして新入生や新入社員は、新しい学生生活、社会人としてのスタートに必要なものを買い求めます。
学校を卒業して新入社員として会社に入るのは春ですが、いわゆる「青田刈り」で、採用はほとんどが前年末までに決まってしまいます。このように実際に卒業・入社する時よりも数ヶ月も前に就職が決まってしまいますので、新生活に必要なものは3月前に買い求める事ができます。弁当箱もその一つです。前にも述べたように、日本社会では何事であれ「事始め」は非常に重要だと考えられています。
親にとっては、小学校にはいるピッカピカの一年生には最上のものがふさわしいのです。そこでデパートは、子供たちの新しい身分の象徴である新しい弁当箱を選ぶために、続々とやってくる母親たちを歓迎します。それまで幼稚園で使っていた古い小さな弁当箱は台所か食器棚の隅に忘れ去られてしまいます。中学や高校に通っている生徒たちも、このチャンスとばかりに新しい流行の弁当箱に買い替えます。
多分、成長して食べる量が増えて今使っているのでは小さすぎるようになったということでしょうか、あるいは、新しいもっと素敵なのが流行しているというだけのことでしょうか。このような新入生でない子供たちの多くは、新学期のお祝いとして、学校や職場でママの味を楽しめる弁当箱をもらいます。
入学は子供の通過儀礼の一つです。子供たちは、親密で甘えられる家族とは異なる新しいグループの一員となり、その中で全く新しい役割を果たすことを求められます。これまでより責任が重くなり、このような状況は将来のために非常に有意義なのだと教えられます。これは、子供たちがもっと高いステータスに到達したこと、大人の段階に一歩近づいたことの印なのです(Merry White, 1933)。
日本の学校は子供たちの私生活にも強く干渉します。学校の校則の中に、衣類、校外での社会生活、食習慣に関するものがどれくらいあるかを調べなければなりません。学校の職員は低学年の生徒の弁当箱の中を覗いて、母親の世話が届いているかどうかを知りたがります。そして定期的に行われるPTAの集会で、もっと変化に富んだ食品を、もっとよい惣菜を、子供が肥らないよう量を減らして、などと強調します。
あるPTAの会合で、そこの校長が「この頃のお弁当はお袋の味になりましたね」と言って、母親の配慮を求める話をしました。ここで校長は「ふくろ」の二つの意味、「袋」と「母親」をかけています。すなわち、子供の昼食に冷凍して袋につめた既製品を使っていることを皮肉って「今頃のお弁当は袋詰めの味がふえている」と言っているのです。「お袋の味」というのは普通、母親の手料理の味のことを指します。しかしこの場合、校長が全く別の意味で使っているのは明らかで、子供たちにちゃんとした栄養をとらせるという母親の配慮が欠けていることを注意しているのです。母親たちは笑いながらもこの注意をよく心にとめました。
弁当の正しい作り方と、それをきちんと子供が食べるようにする躾けは、幼稚園以来の母親たちの頭痛のたねです。母親が作った弁当を食べることは子供たちの甘えの絆を強めます。ここでも母親たちは手の込んだ魅力的で色彩豊かな可愛らしい弁当を作るよう求められているのです(Lois Peak, 1991)。
このことから多くのことが引き出せます。子供たちが食物のことで不満を抱き、母親たちが「どうしてもっと沢山の食物を、あるいは子供たちの望む食物を与えられないのか」を説明しなければならなかったのは、さほど遠い昔のことではなかったのに、今では事情はまるきり反対です。筆者のインフォーマントは次のように話してくれました。「昔は母親が作ったお弁当を食べさせてほしいと願ったんだが、今は、私たちが作ったお弁当を子供が食べてくれるように一所懸命に考えるんだよね。」
入試競争が激しさを増し夜の塾に通う生徒が多くなるにつれて、弁当箱は子供の夕食を運ぶのにも用いられるようになりました。私が日本に住んでいた頃よく見かけた事ですが、母親たちは毎日2種類の弁当を作っていました。一つは昼食用、もう一つは夕食用です。塾に通う子供たちは、学校から帰ると服を着替え、おやつを食べ、学校の教科書を家に残して夕食用の弁当、塾用のノートを持って出かけます。塾の生徒はほとんど皆弁当を持ってきて一緒に食べていました。
筆者は東京と大阪のいくつかのデパートで「子供たちが塾に持っていく弁当で一番よく売れているのはどれですか?」と尋ねたところ、ほとんどの店員が「食物を暖かいまま食べられるポット・タイプですね」と答えました。日本では、昼食は冷たい食事でも気にしないようですが、夕食はそうではないようです。
弁当にする理由としては、健康、ダイエットおよび/あるいは実利的な目的の他に、何かしら神秘的な理由もあります。給食会社やレストランでは、値段の安いものから高いものまであらゆる種類の料理を提供しています。カップルがドライブに行くときは、普通女性がおいしい弁当を2人分作ります。筆者が日本滞在中に在籍した日本の大学で調べたところでは、男性と女性が一緒にグループ旅行に参加するときでも、女性がみんなの食事を作るものと考えられていました。
男性担当は通常、車と運転ですが、時には女性が皆のために作ってくる弁当のお返しに、母親の作ったご馳走、お菓子、スナック、果物、飲み物などを持ってくることもありました。
大分県のある年輩のインフォーマントは「2、30年前までは、職場近くに住んでいるサラリーマンが夜遅くまで残業しなければならないときには、妻に弁当を作って持ってこさせることもありました」と語ってくれました。近くの店に出前を頼めるのに、あるいはひとまずスナックを食べて家に帰るまで待つこともできるのに・・・それでも妻に「手作りの弁当」を持ってくるように頼むことは、妻に自分の仕事の大変さをみせ、自分たちの大黒柱としての役割を家族に再認識させる一つの方法でした。
つい先頃までは、たいていの病院では、患者の弁当は家族が運んでくることになっていました。日本の病院は小さすぎて、特に長期入院者の場合など、給食のサービスにまでは手がまわらなかったからです。現在でも事情が完全に変わったわけではありません。豊かになって、たいていの病院では別の事情が生じました。筆者が東京広尾の日赤病院で娘を出産したとき、ここは一流の病院でバランスの取れた食事が出されていましたが、ここでも、友情や愛情の証として患者に弁当をもってくるケースを数多く見かけました。
もちろん持ってくるのはいつも女性で、親戚や友人の説明を聞くと必ず「どうぞ召し上がって下さい。ほんの気持ちだけですから。病院の食事ってだれでも同じものなんでしょう?」というようなことを言っていました。この人たちは「勿論その必要はないでしょうけれども、あなただけ「特別」と感じてもらうためにこのご馳走を作ったのです」と言いたいのです。
これは、弁当が社交的な用途にも用いられるということだけでなく、他の国同様日本でも、毎日の生活で食事に関することは、その必要がないときでさえも、女性が行うべきだと考えられていることを示しています。
したがって、弁当は単に食物を入れてあるものというだけでなく、多くのシンボルやメッセージをも含んでおり、社会的な関係を作りだしそれを強める道具ともなります。中身だけでなく容器についても同様です。家族、学生、職場仲間のグループが遠足や運動会、あるいは花見や紅葉狩りのような伝統的な集まりに行くときは、弁当の中身を交換するのが習慣になっています。
花見や紅葉狩りのときは容器は数人分のものを使い、弁当を食べることが行楽の主な楽しみとなります。これは、同じ容器から同じ食物を食べることによってグループの絆を強めるという独特の雰囲気に基づくもので、他の国とさして違いません。
今日、弁当は昔ながらのご飯、塩鮭、漬け物、梅干し/梅干しを入れたおむすび/白いご飯のおむすびに醤油につけた海苔をのせたもの/明治時代以来庶民の日常の食事であった鮭ご飯、などとは大きく違ってきています。弁当箱は多様性に富んだ洒落たものとなり、東洋・西洋のあらゆるご馳走を入れるようになりました。
また季節ごとに、外観の面からも中に入れる惣菜の面からも、その季節特有の弁当があります。色、容器への盛りつけ、種々の料理の組合わせと容器の関係、これらは正月に重箱で供されるお節料理と同じくらい非常に重要です。まるでそれぞれの料理に「収まる場所」があるかのように、中身の料理は箱の中のそれぞれの場所に配置されます。箱の内部の仕切は取り外しや移動が可能で、各種の食物が形と色もバランスよく非常に美しく組み合わされています(これらは弁当に関する本や雑誌記事をみれば必ず出ています。
昔は食料が乏しく、食事に変化をつけることはむずかしかったでしょう。しかしすでに平安時代には、上流階級の人は前にのべた重箱を、行楽やお客を招いたときの食事や調理した料理の保存などに使っていました。昔も今も重箱は漆塗りで、ふつう内側と外側は違う色に塗り分けられています。これは現在では、主に家庭でお正月や特別に行事で多くの人が料理を分け合う時に使用されています。また、高級料亭でも、料理を入れる特別に高価な容器として使われています。
京都のある一流の料亭にはいろいろ高価な「弁当メニュー」がありますが、中身の料理にも容器にもすべて季節感を出すよう工夫されています(納屋、前掲書、1993、全ページ)。お正月の場合、中身の料理は、健康、幸運、繁栄などを願う縁起の良い名前のものを使います。昔はその料理をつくることが家庭の主婦の腕の見せ場、家庭で重要な役割を果たしていることを証明する晴れ舞台の一つでした。今日同様、美しさ、料理、女性というのはすべてないまぜになって、ひっくるめて「女性的なもの」と考えられていました。
経済事情さえ許せば、美しさとバランスのとれた組み合わせは今も昔も必須条件です。ある年輩のインフォーマントは「よい弁当には海の物、山の物、畑のものが入っていなければなりません」と話していました。日本人の食感覚ではこの三種に分けるのが一般的ですが、これは神道の価値観、自然観、人工的な景観を反映しています。
弁当箱の中身の盛りつけは、通常の日本料理の盛りつけ方とほとんど同じです。しかしここでは日本的な「間」の感覚は忘れ去られます。これは機能上の理由によるもので、箱の場合は縁までいっぱい詰めます。美的見地からは、箱と空間、空間と料理のバランスがとれていなければなりません。空間の量は日本でも地方によって異なり、北部では沢山詰めます。コントラストへの意識は強く、食物によって切り方も違います。
幅の狭い長方形の人参は半円形のかまぼこの隣におきます。食物で切ったものや塊状のものの数は、三、 五、七といった奇数が好まれます。これは古代中国からきたものと思われます。中国では昔、偶数はyin(凶)、奇数はyang(吉)で、食物は奇数のほうが縁起がよいと考えられていました。
この論文で用いている「箱」という言葉は、広く「容器」を指します。日本では、箱には様々な形、様式、材料のものがあります。筆者自身の調査でも、中身で箱の構造が決まり、箱の形、色、大きさはそれを使う人の性、年齢、仕事によって変わることが判明しました。筆者の体験によれば、ピンクや赤は女性だけ、青とマリンブルーは主に男性が用いていました。
黄色と緑は、男性の方が多いとはいえ、今では男女の別なく用いられていますし、テレビアニメの有名なキャラクターの場合もそうです。小さな女の子の場合、女の子用のアニメだけでなく男の子のアニメのキャラクターのついた弁当箱もよく使われていますが、その反対のケース、小さな男の子が女の子用のアニメのキャラクターのついた弁当箱を使う例はあまり多くはありません。
筆者が日本に滞在していたとき、そしてまた、その後何度か訪れたとき、弁当を持って行くような社交的な集まりや行事に何度か参加したことがあります。特に忘れられないのは娘の学校の運動会と大学の友人や隣人たちとの花見です。数日前からみんな弁当に持っていく料理のことで夢中でした。子供たちはひっきりなしに母親に尋ねたり、時には何々にしたら、などと提案したりしていました。
皆と分け合って食べる弁当には二つの重要な点があります。可愛らしいこと、および/あるいは美しく詰め合わせること、それに誰もが好む料理を詰めること、です。そして花見の場所とか景色のいい場所に来ると、花や景色を見るよりも、弁当を広げて食べることに気を奪われているように見えました。他の人が手作りの弁当を広げると、それを食べる前に「おいしそう」「きれい」といったような言葉がかけられます。
このような会食では、社交的な絆を強める一つの方法として、お酒もよく出されます。このような機会は酒を酌み交わすことが有意義な時でもあり、このような会食を指す「酒盛り」という言葉さえあります。そして男も女も一緒に集まり、酒を飲み料理を食べることでグループや共同体の一員としての絆を強めます。今日では「花見」や「運動会」がそれにあたります。
弁当の中身はその行事と密接に関連していますが、容器の重要性も無視できません。そのような集まりや行事が自然と関連するもの、季節的なものである場合、弁当は色、景色、季節感を反映していなければなりません。季節感がよく出るよう、容器は中身とよくマッチしたものでなくてはなりません。春や秋の自然を楽しむ会、お盆、お正月のお節料理などがそうです。
日本料理では、料理を入れる弁当箱で、美しさ、質、盛りつけなどの効果が強められます。家庭では、どのような場合の食事か、どのような料理を入れるのか、によって違った食器を用いますが、弁当箱の場合も全く同じです。
前にも述べたように、日本では奇数が好まれますが、それがなぜか、なぜ料理でも奇数を使った盛りつけをするのかはよく知られていないようです。たいていの人は自分たちの母親がする通りにするのです。
女性の多くは弁当雑誌の説明に頼り切っています。しかし、食物を四切れに切るのは縁起が悪いということは誰でも知っています。日本では数字の四の発音は「死」と同じだからです。しかしこれは弁当箱の中の仕切では関係ないようです。「松花堂弁当」と呼ばれる30cm平方の塗りの箱がありますが、この箱は内部が同じ大きさの四つの部分に仕切られていて、そこに懐石料理(以前は茶席で出される料理でしたが、今では和食のなかで一番上品で高級なものの一つとなっています。)を入れて供します。
この事実を見てもわかるように、食物を切り分けるときに縁起が悪いと考えられている数字でも、弁当箱の仕切りの場合には関係がないようです。筆者の友人で30歳台の人の話によると、その人のお母さんはいつも、弁当に入れる食物を何切れに切るかで悩むそうです。三切れも四切れも困るからです。この友人は新潟出身ですが、この地方には筆者が先ほど紹介したのと同じことわざ「弁当のおかずを三切れつめるのはよくない」があるそうです。
「み」と発音する語は「三」と言う意味であると同時に「身体」という意味にもなりますので、その弁当を食べる人に悪運をもたらすおそれがあると考えられるのです。その友人は言いました「二切れでは足りないし、5-6切れでは多すぎるし・・・これがお母さんが毎日弁当作りで悩む原因なの。」筆者はことわざ辞典を引いてこのことわざを見つけました。千葉県には同じような意味の他のことわざ「弁当のおかずにたくわんを三切れ食べると身を切るという。」というのもありました。
このような例をみても、弁当がいかに多くのメッセージや暗号を伝えるものであるかということがわかります。現在よくつかわれている暗号は昔のものとは異なります。女性の中には、弁当で夫や子供に秘密や暗号を伝える人がいます。狭くて壁の薄いアパートに大勢で住んでいると、真のプライバシー、他の人に聞かれないですむなどということは望むべくもありません。そこで、蓋を閉じる弁当箱は主婦にとって絶好のコミュニケーションの手段なのです。
日本人は言葉よりもシンボルやサインのほうを好みます。例えば新婚の妻は、弁当雑誌で海苔をハート型に切る方法とか、海苔や胡麻で「好き」と書く方法とかを教わります。ところが残念なことに、夫の同僚はその「愛妻弁当」をのぞき込みたがります。そして結局「秘密のメッセージ」は秘密でなくなり、夫は同僚に冷やかされて当惑してしまうのです。しかしこの「当惑」は幸せなもので、だれもが、このような愛妻弁当を作ってくれる妻を持った男は運がいいと羨むのです。
そしてその幸運な男は束の間の幸せを満喫します。このような状態は長くは続かないことを知っているからです。特に子供が生まれると妻の注意はすべて子供に向けられてしまうからです。夫が仕事で昇進すると、妻はその日の弁当に「おめでとう」と書きます。
大阪出身で39歳のある女性の話では、昔、「今夜愛し合いたい」と思うとき、特に15歳になる息子が高校入試の準備のために通っている塾から夜遅く帰ってくるときに、夫に暗号メッセージを送ったものだそうです。彼女の夫は苺が嫌いでしたので、普段夫の弁当には決して苺をいれませんでしたが、夫にそれを知らせたいときには、わざと苺を一個いれて早く帰宅してもらったそうです。
良い話ばかりではありません。ある77歳の女性は、高校教師の夫に女が居ることを知っていながら、「夜遅くまで残業しなければならない。」と嘘を言う夫のために、夕食の弁当を作らされたそうです。そこで「わざと美しくもおいしくもない弁当を作って復讐したの?」と聞きましたところ、彼女は誇り高く「とんでもない。精魂傾けて最高に美しく作りました。だって、彼女の目にふれるんですよ。」と答えました。
彼女の夫とその女との関係は10年以上も続きました。そしてその間、夫が「今夜は試験の採点、あるいは教材の準備で遅くなる。」と言うときは(本当はその女の所に通っていたのですが)、可能な限り最上の弁当を作り、それを子供に届けさせたそうです。彼女は、夫の弁当を作るときにはいつもそのライバルのことを頭において、中身も入れ物も念入りに選びました。その女に「見て。この男にはこんな素晴らしい妻があるのよ。私に頭を下げさせようたってだめよ。」と告げたかったからです。
このケースを見ればわかるように、日本では弁当箱は比喩的なメッセージを伝えるのにも使われ、女性たちはその方法をよく知っているのです。
弁当の普及
(1) 学校給食とO157事件
1996年、日本の公立小学校でO157と呼ばれるバクテリアが検出され、子供が数人死亡するという事件がありました。その原因は学校で食べた給食による食中毒と判明しました。当初は少し混乱していて、当局は原因の調査に積極的ではありませんでした。しかし時が経つにつれて更に多くの人が中毒症状をおこし、中には死亡するものまで現れて、ついに学校給食は一時中止されることになりました。
朝日新聞と産経新聞の記事をいくつか切り抜いてありますが、これをみると7月はいろいろと問題の多い月だったようで、これらの件についても沢山の記事があります。ところがさらに8月末から9月末にかけて、また別の食中毒事件が発生しました。子供たちに犠牲者が出て学校給食は中止され、母親たちが子供の弁当を作ることになりました。
PTAは当局に原因の究明と事情の説明を迫りましたし、母親たちは弁当をもたせることを拒否し、安全な給食を要求しました。
このような食中毒事件の大半がおこった大阪近郊の堺市では、子供たちは弁当を持参するように指導されました。9月には、全体で92校のうち24校の70人の生徒が弁当を持参することができませんでした。弁当を持って来ることのできた生徒は合計で約42、200人でした。家に帰って自宅で昼食をとることにした生徒も一人いましたが、その生徒以外の弁当を持参できない子供たちのためには、学校がミルクとパンを配りました。
73校の200人ほどの生徒は、昼休みの始まる直前に母親に弁当を持ってきて貰いました(「朝日新聞」1996年9月25日)。
文学や新聞記事には弁当を神秘化するような文章をみかけますが、それと同時に神秘のベールを剥ぐような文章にも出くわします。同じ新聞に「隣の山田さん」という連載漫画が掲載されていますが、その中で、主婦である山田さんが台所で姑と話をしています。「9月から給食があるって学校は言ってるから、弁当作りで早起きしなくてもいいわね」というと、姑は「あ、そう」と答えます。一方公園では、山田さんの娘が友達と話をしています。
娘:「すてき!明日から給食よ」娘の友人:「あなたO157がこわくないの?」娘:「そうねェ。でも、いつかお母さんが作ったお弁当には卵の殻とマヨネーズ容器の蓋がはいっていたのよ!」
O157事件が発生してから間もないころです。新しいマーケッティング戦略を探していた弁当箱のメーカーは、人々が食中毒事件に過敏になっているのをみて、しかも犠牲者は主に学童でしたので「抗菌処理済み」とうたった弁当箱を発売しました。これは別に目新しいものではありませんでした。抗菌処理したプラスチックの箱はとうの昔から製造されていたのです。しかし、不安を抱いていた母親たちは古い弁当箱を捨て、その捨てた弁当箱と大差ない、新しい「菌の不安のない」ものに飛びついたのです。
1996年の夏以来、学校給食も大きく変わりました。グリーン・サラダの代わりにコンソメ・スープが、生野菜の代わりにジュースや缶詰の野菜が出されるようになりました。生野菜を調理する前に数秒間熱湯に浸けている学校もあるそうです(「朝日新聞」1996年9月17日)。
O157は1997年の夏には姿を消し、すべてが元通りになったようにみえます。しかしそれでも、1996年以来、販売されている弁当箱の多くは「抗菌加工」と記されています。
またこの時までに、新しい弁当箱、温食用のポット・タイプのものが販売されるようになりました。これは一つには、母親たちの多くが子供の弁当に生ものを使うのを避けようとするため、また一つには、生徒の多くが(主として男子生徒)が、スープ以外は冷たい和風の料理よりも暖かい肉を好むためで、塾で食べる弁当の場合は特にそうです。
このように、1996年の春から夏にかけてのO157事件以後、弁当箱の多くは「抗菌加工」をしたものが売られています。弁当箱には種々の年代のもの、好みのものがありますが、私たちはその外観を見ただけでどのような社会グループの人が使うかわかります。人々は様々なタイプや値段のものから、自分の好みと用途にあったものを選ぶことができます。
(2)弁当と国際化・外国からの影響:在外日本人と弁当・日本在住外国人用の弁当
グループが個人に及ぼすプレッシャーは、世界中どこでも若い人の間で強いものです。ですから、ある女の子はマリンブルーが好きだったとしても、クラスメートにいじめられれば、もっと女の子らしい色に変えてしまいます。筆者の1978年から87年までの10年におよぶ滞日、またその後の数回の短期滞在の経験からみて、日本社会での「女らしさ」と「男らしさ」の感じ方には今日ではある種の変化がみられます。これはファッションや言語などいろいろな点に反映していますが、弁当でもそうです。
若い人々は「西欧」の影響を受けており、弁当箱の蓋のちょっとした飾りにさえ英語がよく用いられています。このような西洋の影響は弁当の中身にも及んでおり、ハンバーガー、スパゲッティ、フライド・チキンなどが若い人に人気があります。
年齢層別のグループは弁当箱のタイプで決まります。筆者の娘も、スペイン人なのに、与えられた弁当箱を嫌いました。その弁当箱の蓋が人気のテレビ・アニメ「セーラー・ムーン」のキャラクターだったからで、「私はもう15歳よ。こんなのは小さな女の子しか使わないわ」と文句を言いました。当時娘は日本人学校に通っていたので、多分クラスメートの影響もあったのでしょう。
小さな動物の頭を形どったもの、ハート型のものなど、可愛い形のものは就学前の幼児用です。デパートに行けば最近の傾向や値段を知ることができます。英語その他の外国語も沢山使われているところを見ると、飾りとして効果的なのでしょうか。それもその言葉に何かの意味がこめられているというのではなく、ただ外国語でありさえすればいいようです。(岩下トシの1982年の著作とKenrick Mirandaの1988年の著作の中で、日本における英語の使用に関してこのようなことがのべてあります。)
日本語を使っているときでも多くはローマ字です。このように外国語をよく使うのは一種の「遊び」で、たいていの場合、使われている外国語には意味はありません。これは、お客様へのウインクみたいなものといえるでしょうか。あるいは、弁当箱の蓋を飾っている外国語の文章は「日本人向け」のメッセージともみることができます。というのも、そのような文章が英語で書かれていようと、フランス語やドイツ語であろうと、その意味は日本人にしか分からないものだからです。
筆者が収集している弁当箱の中に、蓋が四種類の模様に区分けされていて、さらに、真中のもう一つ区切られた部分に次のようなメッセージが記されているのがあります。
APPLE(右下):籠には人を幸せにする魔法の果物が一杯はいっています。私たちは今日は元気です。
WO BIST DU(中央): フルーツの世界もう一つ別のものには、蓋にカバが描かれています。そのカバの身体に、
“A LOVER OF NATURE. How nice is to know that dreams can become true”
さらにもう一つ別の弁当箱の蓋には、奇妙な動物と次のような文が書かれています。
“BONJOUR, BARBAPAPA! PAPA PASSE SES VACANCES A LA MER”
アルミの小さな弁当箱(幼稚園児がよく使うタイプ)の蓋には次のようなメッセージが書かれています。
“NOUS PROMENONS LE DIMANCHE AU BOIS DE BOULOGNE”
筆者が最近買い求めた新しいタイプのアルミの弁当箱の蓋には、次の文章です。
“THE UNITED KINGDOM THEY’RE OUT ON THE STREETS” 
何人かの日本人に、このような文についてどう思うか尋ねましたところ、そんなのは絵やイラストと同じで飾りにすぎない、という答が返って来ました。言うまでもなく、このような外国語を書いた弁当箱はみんな幼児用です。
他の品物同様、弁当箱も自己を認識、再認識する手助けとなります。Merry Whiteが1993年の著作で指摘しているように、これを通じて子供たちは個人として、また同時に社会の一員としての自分を意識するようになります。大人たちもまた弁当を通じて、社会的なあるいは職業上の身分の変化にあわせて、自己を認識し直すことができるようにみえます。
弁当はまた、文化の枠を越え、日本に住む外国人にも影響を与えます。日本の会社でも従業員を海外に派遣する傾向が広まるにつれて、家族連れで海外に居住するケースも増えました。海外に駐在する日本人家庭の子供は、ほとんどが現地の学校か、その国にある国際学校に通っています。
朝日新聞社は1996年、「旅/海外での生活」というテーマで、国外に居住する日本人子女の作文コンテストを行いました。その結果は1997年1月に発表され、入賞作品が新聞紙上に掲載されました。一位に入賞したのはスイスに住む13歳の少女、永井史子さんの「日本食大好き」という作文でした。この作文の中で永井さんは、「海外生活の中で一番楽しみなのは、私が通っている国際学校でクラスメートと一緒にお弁当をたべることです」と言っています。
「他の子が学校に持ってくるいろいろな弁当を見るのはとても楽しいですし、これは食事を通じて様々な文化を学ぶチャンスでもあります。」彼女はまた、始めて学校に日本式のお弁当を持っていったときのことにも触れています。お母さんは「学校の子供たちは日本食を好きじゃないと思うけど」と言いました。でも驚いたことにみんな彼女の食物を喜んだようで、おにぎりさえ食べたのです。ある日学校でバザーがあって、各自自分の国の料理を作り、それをキャンパスで販売しました。
ここでもまた驚いたことに、焼鳥がたった2時間で売り切れてしまったのです。「日本にいたときには、外国人がこれほど和食に興味を持つとは想像もしませんでした。今では私自身が日本食にとても興味を抱いています」と、彼女は言っています。
この作文から私たちは、この少女が他国の人々の目と胃袋を通して、自分の国を再発見したことがみてとれます。日本にいたときには日本食の特徴など全く考えたこともありませんでしたのに、外国に行って自分の国を再発見したのです。外国の文化にふれて、はじめて自分の国の食文化に関心を持ち、評価するようになったのです。
さらに、他国の人々が自分の国の食文化に対して示してくれた態度が、彼女自身の関心と評価を高める結果となりました。この話の大事な点は「日本人が日本文化を評価するようになるきっかけは今ではさまざまだが、しかしその多くが日本人以外の人との接触で生まれている」ということです。この種の評価、特に日本の若い世代が自国について持つイメージは、彼らのアイデンティティや成長してからの生活に大きな影響を与える可能性があります。
海外に居住する日本人の子供たちが違った食物を食べなければならないときには、どうするでしょう?筆者はマドリッドの日本人学校でそれを自身の目で見ました。前に述べたように、筆者の娘(夫も筆者も100%スペイン人ですから、完全なスペイン人です)は筆者が日本に滞在しているときに日本で生まれ、保育園に通い、次いで東京の国際学校の小学校一年課程を終了しました。
娘は保育園に通っている間はセンターで毎日2回食事しましたが、5歳になったときに上記国際学校幼稚園の最終年に編入し、毎日家から弁当を持っていくことになりました。子供たちの多くはいろんな国からきていましたが、国際結婚で生まれた、片親が日本人の混血児も何人かいました。その頃娘は、筆者が娘のために作った弁当はだれのよりも良い、ととても喜び、母親を誇りに思ってくれていました。
スペインに帰国して2年生に編入することになりましたが、両親ともスペイン人であるにもかかわらず、マドリッドの日本人学校に入学を許されました。娘は、日本人の同年代の子供と全く変わらないくらい日本語を話せたからです。
彼女が4年生になったとき筆者はPTAの役員となり、学校のいろいろなことを決定する、特に給食のことを話しあう会議に参加するようになりました。(日本で公立学校に通っていたとしたら、給食があったのでしょうけれど。)その学校の生徒たちは100%日本人でしたので、娘は、筆者が作った弁当はクラスメートのものほどきれいでないとか、他の子が持ってくるのと比べたら変化に乏しい、などと不満をもらすようになりました。
また、新しく与えられた弁当箱にも敏感になり、大きさや色が自分の年にはあわないと感じたものは「私は男の子じゃないのよ。女の子よ」などと言って拒否することさえありました。東京の国際学校に通っていたときはこんなことはありませんでしたので、「この子はクラスメートに強く感化されている」と思ったことでした。
1987年の夏、娘が日本人学校の2年生に編入したときには近くのスペイン料理店が週に2回学校に昼食を納入していましたが、他の日は弁当を持ってくることになっていました。次の年、納入業者がイタリア料理を得意とするレストランに変わりました。このほうが子供たちの好みに合うと思われたからです。これまで通り月曜日と木曜日には給食がでるようになりました。問題は、料理の量が多すぎたことです。
スープかサラダ、パスタかご飯、それから魚か肉、そして最後にフルーツその他のデザート。子供たちの中には、パンだけ、あるいはサラダやデザートをほんの少しだけ、というのもいました。これを知った母親たちはレストランにもっと量を減らし、値段の安いものにするよう交渉しました。しかしレストランの方では「これですでに子供用のメニューだし、量を減らすことも値段を下げることもできない」と断ってきました。
何度も集まって話し合った結果、「給食は止めて毎日弁当を作ってもたせたほうがいい」ということになり、後に日本料理店が週に2回安い値段で「弁当メニュー」を供するようになるまで、この状態が続きました。そのメニューとは母親が家庭で作れるようなものでしたが、時には肉料理が、昼食直前に暖かい状態で学校に届けられることもありました。
母親たちのなかには、「せっかく外国に来ているのに、日本食ばかりで勿体ない」とこのプランに反対する人もいました。しかし実際のところ、子供たちは出された食事を食べられなかった、あるいはほんの少ししか食べなかったのですし、母親たちも子供たちが食事を大量に残すのがとても気がかりだったのです。
このような例やエピソードから、私はいくつかの結論に達しました。一つは、日本人が海外に行って西欧の習慣や品物を持ち帰ることで「西欧を取り入れ」ようとする傾向は、いま変わりつつあるということです。お互いに影響をうけるのですから、これが完全になくなったわけではありませんが、同時に日本人は西欧を「自分自身を映し出す鏡、自分たちがほとんど忘れてしまっている特性、良い点を再確認する道具」と考える傾向がつよくなってきています。
このように西欧から学ぼうとする傾向と同時に、新しい傾向も併存しています。いえ、今ではこのほうが主かもしれません。その傾向とは「自分の国についてよく知らない日本人が、外国に滞在して日本を再発見すること」です。こうして発見された「日本」はまた外国人の目を通してみた「日本」でもあり、日本の伝統的な生活様式や道具を変わったやり方で再発見する理由の一つでもあります。
また外地にあってその地の人々と全く付き合わず、いわば「エリート部落」にかたまって住む多くの日本人のケースもあります。その場合、男性よりも女性の方がもっと孤立していると言えるでしょう。日本女性の多くは外で出会った人、知らない人とは滅多なことでは話をしようとはしません。住んでいる国の言葉を学んでいる人でも、その国の女性たちとのコミュニケーションが、例えば、買い物に行くときに食物について尋ねるといったようなことが非常に難しいのです。
海外に住んでいる場合、その国の食物をどこで買うか、何を買うか、どう料理するのか、は雑誌の説明だけではどうにもなりません。中でも一番厄介なのは子供の教育です(Merry White,1988,p.73)。食物は子供たちの健康にとって非常に重要です。一般的に言って、家庭ではあまり新しい食習慣を試してみようとはしません。それが子供たちの学校の成績に悪影響を及ぼすかもしれないからです。外国にある日本の商店が日本から輸入して日本での価格の3倍で売っているような食品を弁当用に使用するのも、このような理由からきているのかもしれません。
筆者が90年代の始めに帰国してからは、スペインの特殊な商店や日本のデパートでも日本の弁当箱(主に、テレビのキャラクターを描いたもの)を見かけるようになりました。それからまもなく、スペイン製で日本式弁当箱ととてもよく似たものを店頭にみかけるようになりました。色は日本のもののように派手ではありませんが、とてもよく似ていました。
デパートで、どんな子がそれを買うのか聞いてみましたところ、「国際学校に通っている子供たち、あるいは、自分で持参する弁当か学校が出す給食かのいずれかを選べる学校に通っている子供たちです。今は景気がよくないですし、お母さんたちは、子供たちが時には食べもしないような学校給食にお金を払うより、家庭で子供の弁当を作る方を望んでいます」とのことでした。
さて今度は、日本に住んで日本の食物抜きではすまされない外国人にとって、何が問題となるかについて考えてみましょう。
弁当は、日本に住み日本の生活様式に順応しなければならない外国人に深刻な影響を与えます。中には好きで完全に日本風の生活をする人もいるでしょうが、そうでない人、日本式生活を選ばざるを得ない人もいます。特に、中国、韓国、インド、フィリッピン、ベトナム、ラテン・アメリカなどから出稼ぎに来た人々がそうです。この人たちはたいてい安い給料で働かねばなりませんので、日本人の生活にあわせ、子供たちは公立学校に通わせるしかありません。そこで、食物が一番むずかしい問題となります。
1990年11月、台湾その他広東語を話す人々のために、大阪で相談電話「ヘルプライン」が開設されました。その目的は「外国人が日本の生活に慣れる手助けをしましょう」というものでした。このヘルプライン・サービスの代表、伊藤みどりさんによると、「人が新しい文化に順応しようとする場合、最初の2年が非常に重要な時期で、言葉の壁、習慣、伝統、価値観、特に食事の違いなどが、フラストレーションにつながりがちです」ということです。
「関西生命線」は最初、無料で電話相談にのりましょうということで始まりましたが、後に、大阪府教育委員会、大阪府、大阪市の後援で、外国人居住者のためにお弁当の作り方についての講習会を3回開きました。その後まもなく、この団体はその講習の内容を三ケ国語で書いた本を出版することにしました。1996年9月に、日本語、中国、英語で1冊にまとめた「外国人のためのお弁当」が出版された経緯は、こういうことです。
この本の目次をみれば、弁当を作る場合に何がどのような順で重要かがわかります。調味料/だしの取り方/ご飯の炊き方/お米について/卵・鶏肉・豚肉・牛肉について/魚について/野菜について/揚げ物について/冷凍食品について/加工食品について/乾燥食品について/漬物/果物/お弁当箱のいろいろ/お弁当の詰め方・幼稚園児用・小学生用・女子中高校生用・男子中高校生用/お弁当の包み方/四季のお弁当/調理器具   
94ページには、日本人が弁当を作るときに私がすでに教わったのと同じアドバイスが書いてあります。即ち「見た目をきれいにするために赤、黄色、緑を意識して入れましょう」ということです。そして終わりに「写真は、同じメニューでもお弁当箱の種類によって詰め方が異なってくる例です」という注意書きがついています。
この本で重要な部分は、性別や年齢によって弁当箱のタイプが違うという写真つきの説明です。
講習会の後、出席した外国人の何人かがその感想を話していましたが、ある中国人らしい母親は、「今日はきれいで栄養バランスのとれた弁当の作り方を教わりましたし、日本料理の基本が中国料理と似ていることも知りました」と言っていました。
このサービスは、80年代以降に結婚などのために日本に来たアジア系女性を対象として始められました。しかし、いろんな国から日本にやって来る人は年々増え続けていますし、日系南米人も多いことを考えると、関西生命線は今後その活動幅をもっと拡げなければならないでしょう。
弁当の新しい用途
日本では、結婚式や葬式などの通過儀礼の際には、参席者全員に特製弁当を用意するか、あるいは料理屋から仕出し料理を取り寄せなければなりません。特に葬式の場合には一人分のもので、中身も不祝儀にあったものでなければなりません。このような場合に用いる箱はフォーマルなもので遊びは許されません。昔ながらの重弁当が一般的です。中身は伝統的なもので、西洋料理はほとんどみられません。葬式のような厳粛な会合では、食事も和風でなければなりません。私も日本滞在時いくつかのフォーマルな式に参加して、見たことがあります。
前の章で、働く女性の多くが弁当を使うようになったと述べましたが、それにはコストが安い、健康によい、静かな場所で友人や同僚たちと一緒に食事できるなど、いくつかの理由があげられます。日本の全国紙の一つである産経新聞は、女性会社員の間で弁当が流行していると書いています。
この新聞によれば、外で食事するOLは1984年には50%でしたが、1997年には40%になっています。働く女性たち(その年齢層は主として22-23歳ですが)は、弁当ならリラックスした雰囲気の中で食べることができるし、食べるために長い行列に並ぶ必要もないし、好きなものを食べられるし、しかも健康にも良い、と言っています(「産経新聞」1997年1月23日)。
働いている男性はどうでしょう?男性会社員はまだ同僚と近くの飲食店に食べに行くケースが多いようですが、新しい傾向もみられるようです。産経新聞によると、35歳以下の若い会社員の多くは、社員食堂のある会社で働いている人でも、ほとんど毎日弁当を買っているそうです。コンビニ弁当を食べる理由としては、「一人住まいだから」「社員食堂はあまりおいしくない」「コンビニ弁当のほうが安い」などがあります。
またこれとは別に、会社からの帰りにも弁当を買う人が沢山います。自分で夕食を作らねばならない場合、コンビニ弁当のほうが安いし変化に富んでいるからです。セブン・イレブンなど日本のコンビニ・チェーン店の1997年の弁当売上高は平均で28億円でした。
弁当の流行に関してもう一つあげねばならないのは、駅弁です。これは地方の駅で販売するために作られた郷土料理の弁当です。
1868年の開国後、日本では全国に鉄道が敷設され始めました。新しい時代は、旅行や娯楽の黄金時代をもたらしました。日本人は本来大の旅行好きです。しかし江戸時代には地方に旅行するには当局の許可が必要でした。それが1986年以降、どこにでも自由に旅行できるようになった上に、列車のおかげで移動も楽になったのです。こうして「ディスカバー・ジャパン」の時代が始まりました。
日本で最初の列車が新橋から横浜まで走ったのは1872年です。駅弁が始まったのはおそらくその後まもなくのことでしょう。その3年後には、京都-大阪-神戸の鉄道も完成し、各地で弁当が販売されるようになりましたので、どこがはじめてだったのかはっきりとはわかりません。しかし、1885年7月16日、宇都宮駅が最初だったと言われています。メニューはにぎりめし(中に梅干しをいれてごま塩で握ったもの)とたくあんでした。
その時以来、駅弁は非常に人気が高くなりました。このほかにはすぐに簡単に食物を手に入れる手段がなかったからです。駅弁は、列車が駅に停まっている間に、あるいは乗車する前に買い求めます。それぞれの駅では、そのn方の料理を使った独自のメニューを作ろうと努力しました。しかし、概して質、量ともに創造性に富むものとは言いがたいものでした。
人々が駅弁を、その中身のおいしさと盛りつけの美しさ、両方の面から楽しむようになったのは60年代に入ってからのことです。1958年には「こだま」が走るようになりましたが、これが駅弁と大きな関係があります。多くの人が、地方のおいしい郷土料理を食べたいということでその地方に出かけるようになったのです。駅弁は、その地に旅行しない限り食べられないものでしたので、人々はその有名な弁当を食べるために、喜々としてその地に出かけました。
地方の郷土料理を食べに行く旅行の流行は、伝統的な民間宗教にみられる「はれ」と大きな関係があります(波平恵美子、1986)。「はれ」とは、明るさ、日常とは切り離された特別な祝い事、祭りなどを指します。昔の日本では「しばらくの間日常すなわち「け(褻)」を忘れて祝い事を楽しむ」というのは、ほんのわずかな場合にしか許されていませんでした。旅行に出かけるというのはたいていの場合、どこか遠い知らない駅で買った特製の弁当を楽しむ、言い換えれば「はれ」の気分にひたるための口実にすぎませんでした。
日本の人々がそのことに気付いていないとしても、この事実は、昔ながらのイメージが現在も残っていることを示しています。
新幹線の開通でこのようなローカル駅の弁当は終焉を迎えたようにみえました。しかも大会社が車内食堂を運営するようになりました。しかし現在では、駅弁愛好家が集まって、自分たちの弁当を販促し、良い販路を探そうと「駅弁友の会」というものを作っています。
近代的な生活、巧みなマーケッティング、生鮮食品保存法の向上、迅速な宅配サービスなどのおかげで、弁当は救われました。「村おこし」運動によって、ふる里料理への需要が高まりました。「ふる里」という言葉が現代日本社会でいかに重要な役割を果たしているかについては、多くの本で論じられています。今では駅弁は商品化され、美しい景色、名所、季節の脇役として販売されています。
駅弁友の会ではその後も製造を続け、いろいろなルートを通じて注文販売もしていますので、今ではどこの駅弁でも、日本のどこからでも注文することができます。また、前にも述べたように、大手デパートによる販売網もあります。友の会では、正月、2-3月、7月に全国のデパートで駅弁大会を開きます。人々は、自分の住んでいる街や村に居ながらにして、北海道のおいしい鮭を、富山県の鱒を、讃岐のうどんを、熊本の鮎を、それもコレクターが珍重する特製の箱にきれいにつめたものを味わうことができるのです。
1998年、熊本市で34回目の駅弁大会が開催されました。その時のパンフレットによれば、中身の面でも器の点でも独創的な、様々なものが展示されました。この時の熊本大丸デパートでのハイライトは、北海道の「いくら弁当」、小樽の「かに弁当」、富山の「ます弁当」、函館の「あわび弁当」、下関の「ふぐ弁当」だったようです。容器で変わったものは、「だるま弁当」(箱がだるまの形)、「ふぐ弁当」(蓋がふぐの形)、「うさぎちゃんの夢」(箱がウサギの形)、「すきやき弁当」などがあげられます。
特にこの「すきやき弁当」の箱には卵がはいっていて、ひもを引っ張ればすきやきが暖められるようになっています。ちなみに、同じ熊本市でそれより前に開かれた駅弁大会で一番面白かった容器は、桃の形をしていて、蓋におとぎ話の有名な英雄、桃太郎が描かれている「桃太郎弁当」でした。
弁当の調製元は、競争に遅れないよう、消費者の好みに関するデータを沢山集めています。最近では中身も容器もとてもしゃれた、変わった駅弁が発売されています。例えば、岐阜県の飛騨高山駅で販売されている「まきちゃんの作ったお弁当」(海苔巻きがはいっていて、蓋にまきちゃんという有名な漫画の主人公が描かれている)とか、「とってもヘルシーだちょーん弁当」などです。
この弁当の名前はかたかな、ローマ字、ひらがな、漢字をまぜて書かれていますが、一種の言葉遊びで「駝鳥の肉がはいっている」という意味と「びっくりするような昼食」(ちょーん)というイメージを与えます。これは兵庫県の和田山駅で販売されています。
旅行もしないで駅弁を食べている人は幸せを感じているのです。というのも、本来その駅弁が販売された場所を昔訪れた、その時の感じをもう一度味わい、束の間今の日常生活を抜けだすことができるからです。駅弁の調製元は、企業から注文を貰うために、その会社の特別な行事の際や、他県から来ている従業員が多い場合に、特別サービスをすることがあります。
ここに「日本人の心を捕らえる駅弁」という日本経済新聞の切り抜きがあります。この記事によれば、「駅弁は以前にもまして人気がでており、1997年には売上が2、800億円に達した」ということです。毎日の生活で駅弁の最大のお得意はサラリーマンで、朝、電車に飛び乗る前に駅のキオスクで買っています。駅弁はどこの通勤駅でも、またどの長距離列車でも販売されているからです。
これを考えれば、デパートで催される駅弁大会での売上げは、非常に重要です。駅弁大会を催したデパートのデータによれば、1996年から1997年にかけて一番人気のあった弁当は、ご飯と烏賊の入った北海道の「いかめし弁当」だったそうです。(また、別のデータによれば、1997年に駅弁が販売されていた場所は催し物の場合を除いて日本全国の360カ所で、毎日11万食が売れ、年間の売上げ利益は5600億円だったそうです。)
駅弁を調製・販売している会社は大きなものもありますが、家族で経営している中小規模のものも沢山あります。このような家族経営の場合は従業員は6人以下、時には夫婦だけで、近くの駅から出る始発列車に間に合うよう朝4時から働いている、というのもあります。
販売されている弁当でも、梅の花で早春のイメージを出したり、紅葉の形に切った一切れのかまぼこで秋の感じをだすなど、季節感が盛り込まれます。
駅弁は行楽弁当の範疇にはいるだけでなく、旬を味わうという点でも大切です。「旬」とは「ある食材が一番おいしい季節」と言う意味です。駅弁は、いつも「その季節の食材」を組み合わせて作ってあります。たいていの日本人は、季節の食物をその産地で食べることに特別な感情を抱いています。特に、駅弁をよく食べる40歳以上の年代の人がそうです。
また、一昔前なら現地に行かなければ絶対に食べられなかった食物を楽しめるという喜びもあります。駅弁なら今ではそれ以上のこともやってくれます。デパートの駅弁大会で駅弁を買った人の中には、次のように言う人もいました「私たちにとって、ここで買う弁当は、駅や列車で買ったものよりずっとおいしくて、もっと楽しいのです。」デパートの駅弁大会で弁当がこんなによく売れるのは、多分こういう理由によるものでしょう。
弁当の流行を理解するもう一つの手がかりは、歌舞伎や能を見に行ったときにこれを食べるという慣習にもみることができます。この慣わしが消えることはないでしょう。1996年には国立劇場が創立30周年を記念して「顔見せ弁当」を販売しました。ちなみに「顔見せ」という言葉は、歌舞伎開幕前にその興行で演ずる俳優が揃って挨拶することを指し、江戸時代にはとても有名でした。国立劇場のこの弁当は1996年の創立30周年記念の時だけ販売されたものですが、江戸時代のものによく似ていました。
販売された弁当は二種類あって、「顔見せ弁当」が3、400円、「鯛飯」が1、500円でした。「顔見せ弁当」のほうは焼き魚と刺身が入っていて、刺身用の醤油はただの醤油ではなく、酒に鰹節と梅干しを混ぜて煮たものでした。また江戸時代に好まれた「きくらげトーニ」(卵豆腐の一種)や「揚げ出し大根」(油で揚げた大蕪)と油で揚げたこんにゃくもついていました。「鯛飯」のほうには、江戸時代に有名なご飯、鯛飯がはいっていました。
千葉大学の松下幸子名誉教授は、「このメニューは江戸時代の料理が種々記録されている文書から選んだものです。当時の人々は、劇場に行くときにはこのようなものを食べていましたが、現代では量も多く質ももっと良くなっていますので、現代人の好みに合わせることもできます」と話しています
「昔の料理を、もっと質を高めて今の時代に楽しむ」これは非常に重要なことだと思います。現在歌舞伎を見に行って昔のように顔見せ弁当を食べている人は、現代生活の種々の恩恵に浴しながら古い時代に旅し、その時代の一番良いところを楽しむことができるからです。この弁当が受けたもう一つの理由は、これがこの時だけ、劇場の創立30周年記念の時しか食べられない、ということでした。時間が限られていると希少価値が増します。実際、国立劇場ではこの記念事業が終わると同時に「顔見せメニュー」の販売も止めました。
弁当はこのように広く普及していますが、サリン・ガス事件を引き起こしたオウム真理教も弁当にいくらか関係があります。いまここで犯罪について論じるつもりはありませんが、1996年8月19日付けの朝日新聞で奇妙な記事を見かけました。それによれば、オウム真理教の信者たちは、蓋の中に麻原教祖の写真が印刷されている弁当を買うことができたそうです。この写真は、蓋を開けた瞬間に見えるように、すなわち、蓋を開けないと見えないようになっています。
これをちゃんと立てれば、どのような場所でも周りの人に気付かれないで祈ることができます。それとは全く関係のないことですが、これはキリスト教が禁止されていた江戸時代のかくれ切支丹が用いていたイエス・キリストとマリアの絵を思い起こさせます。同時にまた、オウム真理教創立者、麻原彰晃の写真を隠せる用具は沢山ありますのに、その中で弁当箱が選ばれたということは、多分、これが非常に日常的なものであり、日本人の毎日の生活で広く使われているからでしょう。
本来の用途の面でも比喩的な意味でも、弁当が絶えることなく使われているもう一つの例は、1996年10月31日付けの朝日新聞にみられます。環境整備活動の一環として山の清掃をするボランティア・グループが結成されました。これはお金のためにするのではない、どのような団体からもお金は貰わないことを説明するために、この新聞記事は「作家六人呼びかけ。主婦、学生手弁当で」という見出しをつけています。
「手弁当」という言葉は、翻訳するのはさほど簡単ではありませんが、普通「弁当は自分で持参する」あるいは「弁当代は自分で払う」という意味で使われます。しかしここでは「自分の弁当を持っていく」だけでなく、さらに「その他いかなる金品も受けないボランティア活動である」という意味がふくまれているのです。
マーケッティング戦略−デパートとコンビニ弁当
この章では「デパートの弁当売場とコンビニ弁当」について述べます。日本では、毎日24時間開いているコンビニエンス・ストア(以下「コンビニ」と略します。)は70年代からあり、非常に流行っています。一人住まいのサラリーマンやOLが主な客で、いろんな種類の弁当が売られています。コンビニは種類が多く、総カロリーも明記されています。
コンビニで弁当を買う人の平均的人物像は30歳前後の会社勤めの男性ですが、OLや学生も沢山います。コンビニが実施している第一のマーケッティング戦略は、顧客の好みを良く把握することと、低コストで提供することです。コンビニの中には小さな会社、時には毎日弁当を作っている女性と手を組んで、その店で弁当を販売させているものさえあります。
普通のコンビニは大小の弁当製造会社から仕入れていますが、仕入先は通常一社にしています。(弁当調製会社間の競争は熾烈ですので、私の知る限りでは、日系南米人や、アジア諸国からきた女性を使っているところもあります。)弁当のマーケッティング戦略に関しては、デパートの役割を無視することはできません。デパートの弁当大会一日だけで駅での売上げ一週間分以上の売上げがある、ということを忘れることはできません。デパートは、特に春に弁当箱キャンペーンを支援し、伝統的なイメージや古い習慣をアピールします。
Millie R.Creightonは、「デパートは、輸入品の販売という点で西欧の受け入れに欠かせない存在ですが、同時にまた、日本の商品の販売においても伝統の再発見という点で重要な役割を果たしています」と言っています。
「お弁当」というプロの弁当調製者向けの本(柴田書店編、1992)の序文には次のように書かれています。「私たちが売っているのは弁当だけではありません。便利さ、最上のサービスも提供しているのです。単に食物を提供しているだけなのではなくて、家庭や職場にありながら、レストランのようなサービスと利便性をうけられる食事を提供しているのです。
21世紀には家庭への食事の宅配が大きなビジネス・チャンスとなるでしょう。」このことは、「弁当のロマンティシズム」にもかかわらず、食事の宅配サービスとファーストフードは伝統という衣を着せて、今よりももっともっと利用されるようになる、ということを意味しています。80年代には「ホッカホカ弁当」店が流行るようになりました。これは、作ったばかりの暖かい弁当を買って帰ることのできる店です。
最近ではこれを真似た「あたたか弁当」という店もできましたし、コンビニやキオスク、デパートの食品売場でも、いろいろな種類、大きさの弁当を売っています。「ほかほか」という言葉は「暖かくてまだ湯気の立っている状態」を表す言葉で、家に帰っても暖かい食事が待っていることを望めない一人住まいの男性や女性にとって、食欲をそそられるような親しげな響きを持っているのです。
「暖か」という言葉には「ほかほか」ほどの親しみは感じられませんが、これも愛のこもった暖かさをもつものに対して使われます。この二つの言葉が既製の食品を販売するのに使われたのはこのためです。この種の食物は非人間的で、暖かい感情抜きで作られる、と考えられていました。しかし「ほっかほっか」や「あたたか(い)」という言葉を使うことによって、お客は家族的な親しみのこもった人間的なつながりのある食事(お母さんの作ってくれた料理のような)と感じることができるのです。
1970年代、筆者がカナリー諸島に住んでいたとき、あちこちのレストランがドイツ人客を呼び込むために「どれもお袋の味」という大きな看板を出していたのを思い出します。ドイツ人客は、あたかも「ふる里」にいて、むかし愛するお袋が作ってくれた料理を楽しんでいるかのような暖かさ親しみを感じることができる、というわけで、同じようなマーケッティング戦略の一つです。
新幹線では、車中で買える有名ホテルやレストランの弁当も非常に人気があります。オフィス・ビルや大きな会社への配達を専門とする給食宅配サービスも日に日に成長しています。このような会社は、好きなものが選べるよういろいろな種類の弁当のカラー見本をだしていますが、そのなかには、低カロリーのダイエット弁当もあります。このことは、ダイエット意識がますます浸透してきていること、弁当もその例外でないことを示しています。
コンビニが社会に及ぼす影響は大きく、まずここから始まって人が真似するようになったものもいくつかあります。一つは、おにぎりと海苔を分けて包む小さなパラフィン紙です。お客は食べる直前にこの紙をはずせば、パリパリした海苔がたべられる、というわけです。家庭でおむすびを作るときには、最初からおにぎりに巻いてありますので、湿気て柔らかくなっています。そこでデパート弁当箱売場の最新のトレンドは、おむすび用のこの特製パラフィン紙なのです。
コンビニがつくり出したダイエットの影響とみられるもう一つのトレンドは、新しいタイプの箱です。これは、少量のご飯と各種の総菜を分けて入れられるようになったもので、今では他でも販売されています。これを使う人(特に若い女性)は、食べる量がわかります。デパートやコンビニは人々の好みに敏感です。そして人々はデパートやコンビニから影響を受け、今ではOLのほとんど、それにダイエットを意識している人々は、非常に個人的な「弁当闘争」で、店に対抗しています(「朝日新聞」、1998年3月20日)。
前に述べた「お弁当」という本(前出、p.56)には、紙、カートン紙、アルミ、漆器、プラスチック、軽い木の箱など、弁当箱として使える材料のリストがのっています。いずれも、これはよくてもあれは駄目といったように、中に入れる総菜の向き不むきがありますし、電子レンジに使えるものとそうでないものもあります。箱のタイプで中身が洋風か和風かもわかります。昔と同様、現在でも容器と中身は密接に関連しています。すなわち、中身で容器がきまるのです。
結論
弁当箱は日本社会の発展・変化と密接な関連があります。日本では、弁当箱は数人の人が分け合って食べる共用の容器だった時代から個人用の工芸品にまで発展し、かつてのように同じ容器から食べるという機能はもう消えてしまいました。しかし同時に、分けあって食べる容器としての機能は、特別な会合、外出、通過儀礼や祝い事の儀式専用となりました。
弁当箱の設計・製造は、室町時代末期から江戸時代にかけて、完成の域に達したといえるでしょう。貴金属の使用、デザインの独創性、総菜の多様化が顕著だからです。弁当はまるで日本社会を映す鏡のように、社会の新しい動向に従って形も用途も新しく変わりました。戦争も弁当箱の発展に寄与しています。頑丈なアルミ製で腰に下げて運ぶ飯盒や、腰弁当箱(これはすでに存在していました)が開発され、広く使用されるようになったのはこの時期です。
現在の平和な時代には、弁当の製造は中身の点でもデザインや資材の独創性の点でもブームとなりました。少し前までは、生きるための食事が問題でした。しかし今では、弁当は日本の食文化の中で確固とした地位を占めるようになったかに見えます。現在の日本では、食べることは人生の喜びの一つだからです。幸いなことに、日本人の多くは、単に「生きるため」ではなく「楽しみのため」に食べているようです。
しかも弁当箱は、日本社会の「遊び」の感覚を示す工芸品となっています(熊倉功夫「京都新聞」、1994年9月13日)。お客をひきつけようと「おかしな」仕掛け(英語の使用、可愛らしい形、古い伝統的なものの模倣など)が広く使われているのを見ると、マーケッティング戦略もこの点を看破しているようです。
弁当、弁当箱、仕出し弁当が最近ブームになり、OL、学生、サラリーマン、主婦たちみんなが弁当を大量に消費しているのは偶然ではありません。中身が変わったことも重要ですが、私の調べたところでは、弁当箱の形、大きさ、色の変化も大きな意味を持っています。ホーム・メイドの弁当でも既製品の弁当でも、歴史上の事件や危機、女性の地位、教育システム、バブル経済などを反映しています。
しかし私たちは、今の日本が全く新しい役割を果たしている国際的な舞台も無視することはできません。弁当箱を使うことによって、現代の日本は伝統を保っていけるだけでなく、それを取り戻すことさえできるのです。しかも時には洋風の総菜を詰めて、ちょっと洗練されたエキゾチックな感じを味わったりしながら。日本人は自分たちがほとんど忘れてしまった伝統を創り直しながら、同時に、世界共同体の一員としての自己、自分たちが日本と世界の両方に属していることを再確認しているのです。
外国の食文化を弁当に合うように作り直して自国のものとし、慣れた食べやすいものとしてしまいます。外国からの影響がますます増える社会で、「日本らしさ」の感覚も強められ、自国風に作り直されます。
日本を良く知っている人ならきっと、「日本では外国の影響が日常にあまりに広く浸透しているので、自分たちが外国商品および/あるいは外国文化に浸っていることを、時には日本人自身が忘れてしまう」ということに気付いたことがあるでしょう。ある15歳の日本人の少年が米国に留学し、アメリカのホームステイ先で、「おやまァ、アメリカにもマクドナルドがあるんですね」と言ったという有名な笑い話があります。
しかしこれは日本人だけのことではありません。私たちはみんな、どの国の人でも、自国の伝統文化、自国の伝統的な物品、自国の伝統的な料理についてはちっとも知らない、ということがあり得るのです。
伝統的なスタイルに作り直された弁当箱で新らしく考案された総菜の弁当を食べることによって、多くの日本人は外国を、そして同時に、一番大事な日本文化も同時に味わうことができるのです。日本人のアイデンティティの構造と、西欧のものの自国への取り込みが、単に「ポスト・モダン・消費者・情報型の社会」の出現のせいだけではなく、これまでの歴史の中にみられるはずであるとすれば、自国の工芸品の使用のリバイバルについても似たようなことが言えるはずです。
緊密にからみあった世界の中で、たえず変化し種類も豊富な弁当箱は、二重の橋のような働きをしています。すなわち、多くの日本人は新しく作り直された自国の伝統工芸品に接し、あるいは良く知り、そして、あるいは楽しむことができるのです。
弁当箱を使用することによって、日本の人は伝統のよさと同時に現代の豊かさの利点(外国文化の影響は、自分たちのアイデンティティ、毎日の生活、好み、スタイルなどすべて自分たちにあうものに作り変えて)をも享受することができるのです。弁当箱など日本社会の分析とは何の関係もない、と考える人もいるでしょうが、弁当箱はこれからもきっと日本社会の変化を反映し、日本人と日本人の日常の行動に影響を与え続けていくでしょう。これはまた、いつの日か他国の習慣や生活様式にも影響をおよぼすようなことになるかもしれません。
  
「菊と刀」 のうら話

 

私が初めて「菊と刀」を読んだのは大学4年生の時でした。西洋社会の「罪の文化」と日本社会の「恥の文化」の比較をしたらどうかと指導の先生に言われて、「菊と刀」を卒業論文の出発点にしたのです。卒業論文では宗教および文学の観点から罪と恥の比較をし、大学院では中世イギリスにおける罪と恥の意識を調べましたが、「菊と刀」はメインテーマではありませんでした。
しかし、日本では「恥の文化」といえばどうしても「菊と刀」を連想してしまい、「それじゃ、ルース・ベネディクトってどんな人でしたか」とか、「菊と刀」について質問されても返答できないことが恥ずかしく、ルース・ベネディクトや「菊と刀」について研究するようになりました。調べていくうちに「菊と刀」の裏にある研究状況もわかってきましたので、ここではベネディクトという人を紹介しながら、彼女が戦争中にどのように日本のことを研究したかをクリアにしたいと思います。
ルース・ベネディクト
資料 (付録1) には、ベネディクトの経歴と主な研究業績が書いてあります。それを見ていただきますと、ベネディクトは文化人類学者で、名門コロンビア大学でずっと教えていたことがわかります。日本ではほとんど「菊と刀」を書いた人としてしか知られていないのですが、実は文化人類学者として大変な影響力のあった人で、それだけ活躍していたからこそ「菊と刀」を書く機会が与えられたとも考えられます。この点が日本ではあまり知られていませんので、ベネディクトという人をまず紹介しましょう。
ルース・ベネディクトは、1887年6月5日、ヴィクトリア時代に生まれた女性です。日本で言うと明治20年生まれの女性です。こんなに有名な著作だからベネディクトというのは、当然男性であると考える日本人が多いのですが、これは偏見です。また、家柄がよく上品な人だったようです。祖先はメイフラワー号でアメリカに最初にわたってきた熱心なバプティストの一人でした。祖父やおじは牧師でしたが、幼いルースにとって、この人たちがあれだけ熱心に説教するわりに、やることと言うことが時々一致しないのは何故だろうかと考えることがあったようです。
母親は当時の女性としては珍しく、名門ヴァッサー女子大で大学教育を受けています。この大学では多くのアメリカのお嬢さんたちが教育を受けてきました。元大統領夫人のジャッキー・ケネディから女優のメリル・ストリープまで最近だけでも多くの有名人が卒業生にいます。また日本とも縁がありまして、津田梅子とともに明治時代最初の女子留学生だった山川捨松(後の大山巌夫人)がこの大学を卒業し、日本の女性として初めて海外で学位を取っています。
後にルースも妹と共にヴァッサーで勉強するようになりますが、これについては後でふれます。母親はこのように大学を出ていましたのでインテリとも言えるし、教育熱心な人でした。母親は結婚して二人の子供をもうけ、また父親は当時の医学界(ホミオパシー)で若きホープとして期待され実験的にいろいろな手術の可能性を探っていました。しかし、当時は手術技術やその衛生状態についてあまり知られておらず、ある時、注射針から逆に傷を負い細菌体に入って父親は病気になり、カリブ海の暖かい島へ行ったりした保養のかいもなく、ルース2歳、妹マージェリー生後2ヶ月の時に亡くなります。
父の死後、幼い子供2人は母親とその実家で生活します。これはニューヨーク州の北の方にある牧場でした。そこに祖父母、母の兄姉など親戚が大家族で生活していました。後にルースは学校に入る時に身体検査を受け、初めて難聴ということがわかるのですが、それまで家族の中では、あまり返事をしないむずかしい子だと思われていました。それと比べて、妹のマージェリーの方は明るく、お手伝いもよくするかわいい女の子だったようで、ルースとは対照的な存在でした。
耳がよく聞こえないルースにとって大家族は非常にうるさいもので、誰が何を言っているのかよく区別のできない環境でした。彼女はなぜ自分が悪いのか、どうして妹だけがかわいがられるのか、などの疑問を小さい時から抱くようになります。
母親がインテリだったことが救いになったのかも知れません。母親は再婚せずに自分の家族を養おうと決め、子供を連れて実家から離れ、教員や図書員をして生活費を稼ぎました。そしていい学校を選んで働きましたので、子供たちはそこに安く入れてもらえました。決して裕福な家庭ではありませんでしたが、いわゆるお嬢さん学校に通うことができました。また、難聴の問題がわかると母親はルースに作文を書かせ、それを読んだ母やおじが誉めたことで、ルースは書くことによって自分を表現できることがわかってきます。
作文の他に彼女は詩にも興味を持ち、心の本質的な部分を文章で表現して聞こえないフラストレーションからある程度解放されるようになります。このようにルースにとって文章で情報の本質を正確に伝えることが大変重要で、若いときから「書くこと」の技術にも気を配りました。これは後の研究の成果に大きな影響を与えることになります。たとえば、「菊と刀」は翻訳ではわからないかも知れませんが、原文の文章、それから構成が非常によくできています。やはり、難聴というハンディを抱えていたので書くことに大きな力を入れ、そのために文章がコンパクトで読みやすいものになったのではないかと考えられます。
母親のおかげでルースとマージェリーはよい学校でよい教育を受け、優秀な成績で高校を卒業し、二人同時に奨学生として1905年にヴァッサー大学に入学します。転校しているうちに年齢の異なる二人は同学年になっていたのです。ヴァッサーでルースは文学を専攻し、ファイ・カッパ・ベータ(最優秀の成績)で1909年に卒業します。妹は大学で社会活動(ボランティア)によく参加し、活動中に若い牧師さんと恋をし卒業後すぐに結婚してカリフォルニアに引っ越します。
ルースは卒業後1年間二人のお金持ちのお嬢さんとヨーロッパを旅行することになります。これは成績優秀なルースに「足長おじさん」が留学とホームステイの12ヵ月旅行をプレゼントしたもので、相変わらず裕福でなかったルースには貴重な機会となりました。ヨーロッパでルースは初めて異文化と出会います。小さい時から自分の行動がいけないとか、いろいろな悩みを抱えていたのですが、ヨーロッパに行ってみたら、違うやり方や価値観など自分が育った環境とは異なる文化があることがわかりました。それまで他人と自分が一致しないことになんとなく負い目を感じていたのですが、必ずしも間違っているわけではないということに気づき、自分に自信をもてるようになってアメリカに帰ってきたのです。
帰国後は社会活動などをしていましたが、母親と共に妹のいるカリフォルニアに引っ越し、文章の好きな彼女は高校の英文学の先生になりました。そして、1913年の夏休み、久しぶりに祖父母のいるニューヨーク州の牧場に帰ったとき、ヴァッサー大学時代の友人のお兄さんだったスタンリー・ベネディクトに紹介されて恋に落ち、翌年結婚しました。
彼はコーネル大学の優秀な化学研究者でした。二人は新居をニューヨーク市郊外におき、彼女は専業主婦になります。しかし、子供を作るとルースの体に危険があるとわかり、スタンリーは子供をあきらめました。ルースも専業主婦だけでは満足できず、再び「書くこと」に挑戦し始めます。詩はもちろんですが、当時のフェミニストについても研究し、出版はかないませんでしたが、かなりの成果をおさめています。
さらに勉学への意欲をわかせて、当時開講されたばかりのニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチ(社会科学系の大学)に聴講生として通い始めました。そこで彼女は人類学という当時の新しい学問を学ぶことになります。彼女のすばらしい才能に気づいた教師は、さらにルースを、コロンビア大学教授で後に文化人類学の父とも言われたフランズ・ボアズに紹介しました。ルースは彼のもとで大学院生として研究を続け、なんとわずか三セメスターというはやさで博士論文を書きあげたのです。
マーガレット・ミード
博士号を収得した後、ルース・ベネディクトはボアズの助手になりました。となりのバーナード女子大でボアズが非常勤講師をするのを手伝いに行くことになり、そこで授業をとっていた若いマーガレット・ミードと出会います。ミードはやがてコロンビア大学の大学院に進み、博士論文のためにサモアで調査を行い、その研究で一気に有名な文化人類学者になりました。当時の1920-30年代のアメリカにおいて「セックス」というトピックはタブーで、セックスを初めて意識するようになる思春期は青年にとって葛藤の時期と考えられていました。
しかしミードは、サモアの若者が自由にセックスに慣れる環境におかれ、アメリカの若者のようにセックスや結婚について罪の意識や悩みを抱えることがないことを報告しました。これはアメリカ中で話題になり、ミードはよく講演を行ない、また研究の一環として女性の社会的地位についても論じ、初期のフェミニストとして大変な活躍をしました。
結果的に、ミードは大変有名になりましたが、そのミードはベネディクトとともに初期の文化人類学の発展に大きく貢献し、セットとして考えられているようです。後に、ミードはベネディクトの伝記を2冊書いており、それを読まなければベネディクトを語る資格はないといっても過言ではありません。二人は終生、同僚であると同時に親友でもありました。
しかし、ミードはベネディクトとあまりにも親しかったため、伝記にすべてを書くことができませんでしたし、個人的な情報をある程度避けざるを得ませんでした。その上、「菊と刀」の時代に関して言えば、ミードが子供を産み、さらに戦時中のイギリスに出張したり政府の委員会等の仕事で大変多忙な毎日を送っていたので、ミードはベネディクトの戦時中の研究についてそれほど詳しくないようです。したがって彼女が描いたベネディクト像には一種のバイアスがかかっているといわざるを得ません。
ミードにとってベネディクトはあこがれの対象だったために、いいところ、特に詩人のベネディクトを強調する傾向がありました。ベネディクトは詩を書くのが上手で雑誌にも載ったことがありましたが、ミードは大学時代から詩を書くことが好きでもそんなに才能があったわけではないようです。それでも、伝記ではベネディクトの「詩人的」な才能を強調することによって、自分にも詩を書く才能が少しあったことをアピールしようとしています。やがてこの少しオーバーに紹介されたベネディクトの趣味が日本で誤解を招くことになります。
1981年に津田塾大学教授ダグラス・ラミス氏が、ミードの伝記にもとづいて「菊と刀」は「詩人ベネディクト」によって書かれたものだとし、直感的に書かれたとか政治文学だとかいって批判していますが、これは間違った解釈だと考えられます。残念ながら、彼の著書「内なる外国「菊と刀」再考」は多くの日本人によって読まれ高く評価されていますが、やはり元のデータを提供したミードにだまされていると私は思います。
ミードとベネディクトの関係
ベネディクトとミードは対照的な二人で、まずベネディクトはミードより15も歳上です。それからベネディクトは背が高くスマートでスポーツも上手で、非常に穏和でシャイな性格の持ち主でした。いろいろな人がベネディクトについて書いていますが、必ず書くことは彼女が美人だったということです。これと比べて、ミードは背が低く、スポーツをできるだけ避けるタイプでした。出しゃばりで、話題の中心となることが大好きなタイプでした。
また、私が読んだものの中では、美人の「び」の字も見つかりません。とにかく、二人の関係は非常に面白く、最初は学生と先生の関係から始まり、次にミードもコロンビア大学の大学院に進み博士号をとると、ベネディクトと一緒に仕事をするようになります。博士号をとるまでミードはベネディクトのことを必ずミセス・ベネディクトと呼んでいましたが、学位を取ってからはファースト・ネームで呼び合います。友人それから同僚という関係になり、伝記ではミードも秘したままですが、一時的に同性愛の関係を結びます。
ミードはいつでもいろいろな人と関係をもちたいタイプで、三角関係も少なくなかったようです(Caffrey, 1989)。ミードは3回も結婚しましたが、ベネディクトの場合、スタンリーとうまく行かなくなり、1930年に別居しますが離婚しません。やがてスタンリーは1936年に若くして亡くなります。生涯でベネディクトは二人の女性と生活を共にしますが、まず自分より若い人、そして別れてしばらく後には心理学の専門家と1940年頃から一緒に住みます。これも次々とパートナーを変えたミードとは対照的に、長く安定した関係でした。
50年代のアメリカで二人の同性愛を明らかにしたらミードの社会的評判はがた落ちだったに違いなく、ミードも秘密を明かさないように、たとえば詩によって結ばれた関係のみを強調しています。したがって、ミードが書いているものをそのまま鵜呑みにはできません。ミードの伝記を拠り所にするラミスの著書も注意して読む必要があります。ラミスの議論を要約すれば、ベネディクトは詩人と人類学者の二重人格者であり、優位となった「詩人の人格」がその理想を日本文化に投影しようとするあまり、データを操作して日本文化論をつくりあげた、それゆえ「菊と刀」は非学問的な、アメリカ流デモクラシーのプロパガンダにすぎないというのです。
しかし、詩人の理想「日本文化」と政治的文学「菊と刀」との関係は不明確で、ラミスが根拠としているデータこそ、かなり恣意的に操作されています。そもそもラミスは、ベネディクトの残した一次資料を用いず、マーガレット・ミードがベネディクトの遺稿を編纂したものを「孫引き」しているに過ぎません。彼は、ミードが強調したベネディクトの若い時代すなわち「詩人としてのベネディクト」に関する部分をピックアップし、「菊と刀」等を執筆した晩年のベネディクトに関する部分は無視しています。若い時代からベネディクトと同性愛を含めて親密な関係にあったミードによるベネディクト論のバイアスに、ラミスはまったく気づいている様子がないのです。
ベネディクトの業績
ベネディクトの話に戻りますと、ベネディクトは小さいときから難聴などいろいろなことについて悩みました。そして、同性愛者に対する社会のタブーについても考えさせられます。また当時は女性であるだけで、仕事をもったり昇進することはむずかしかったのです。ベネディクトはさまざまな差別や価値観の違いに直面していたからこそ、文化人類学者としてさらに深い理解力を得たのではないかと思います。
さて、ベネディクトは博士号をとってすぐにボアズの助手になりましたが、別居するまでは夫の収入があるということで、ボアズは彼女を専任教員として雇いませんでした。1930年に別居して、ようやく専任講師になり仕事に拍車がかかります。論文を次々と発表し、1934年に文化人類学では古典となった「文化の型」を出版します。これは今でも人類学では大学のテキストとしてよく使われるもので、これは文化概念についての考えに大きな影響を与えました。
やがて、ヨーロッパの方で第二次大戦が始まり、ヒトラーは人種主義的なプロパガンダをもとにユダヤ人や障害者、黒人、同性愛者を虐殺します。ユダヤ人のボアズはすでに1933年からいろいろな反対運動をやっていました。彼は人種とは何か、人種は文化とどう異なるかについて論文集「人種、言葉と文化」(Race, Language and Culture, 1940)を出版しましたが、これは学問の世界ではともかく一般読者にほとんど読まれませんでした。
以前より、彼は自身の限界とベネディクトの文章の才能をよくわかっていたので、誰でも読める人種に関するわかりやすい本を書くように頼んでいました。ちょうど大学の方ではすでに引退していたボアズの後任の主任教授の人事を行っている時でした。
ベネディクトが2年も主任代理をやっていたのに、女性ということで、シカゴ大学からラルフ・リントン(男性)を迎えることになり、それに不満なベネディクトはサバチカル(研究休暇)を取り、「人種主義 その批判的考察」(Race:Science and Politics, 1940)を執筆したのです。ベネディクトは、主任代理になった1937年に準教授に昇進していましたが、主任のポジションを見送られた後、教授になるのは亡くなる2ヶ月前の1948年7月でした。優秀な学者として尊敬され、よく知られていたベネディクトでしたが、女性であるだけで大学内では業績に見合う地位を与えられなかったのです。
人種主義研究をめぐるトラブル
著作「人種主義」の第一部で、ベネディクトは人種は単なる科学的分類にすぎないということを明らかにし、第2部では人種主義というのは人種に対する差別というより、弱いものに対する差別、あるいは政治的にいじめたいものに対する差別だということを大変わかりやすく説明しています。そして、この著作が出版されると大変な評価を得ます。やがて、アメリカが第二次世界大戦に参戦することになり、人種主義問題は社会的にも大きくとりあげられます。
1942年、コロンビア大学では人種主義対策の委員会が開かれ、パブリック・アフェアズという教育者と社会科学者の非営利組織が出版する月刊パンフレット・シリーズで、人種主義をとりあげることが決定されました。ベネディクトは同僚のジーン・ウェルトフィッシュ助教授と一緒にRaces of Mankind という著作を出すことになりました。それは翌1943年に出版され、10セントという安い価格で広く求められるようになりました。
内容的にも、マンガ入りの口語体で書かれ、人種偏見は不安による恐怖から生まれ近代以降大きくなった社会病理であると説明されています。また、ユダヤ人やアジア人に対する偏見がおもに取り上げられていますが、アメリカにおける黒人差別にも注目しています。
そこで彼女たちは、第一次世界大戦中、百万人のアメリカ兵を対象にした知能テストを例にあげ、黒人に対する差別の迷信を明らかにしました。テストの分析結果は白人より黒人の知能のスコアが平均的に低いことを示していましたが、その後、知能テスト自体に偏りがあること、環境によっては黒人のスコアが白人よりうわまわるケースがあることが証明されました。すなわち、教育機会のある北部の黒人は平均すると南部の教育水準の低い白人および黒人よりスコアが上だったので、人種による知能の差より環境による知能の差が示されたことになります。
しかし、このパンフレットの内容が、後にベネディクトをトラブルに巻き込むことになります。発売後間もなく、米軍慰問協会(USO)はヒトラーのプロパガンダに対抗するため、アメリカの軍人にYMCAをつうじてこのパンフレットを配り始めました。ところが突然、USO会長のチェスター・バーナード(あの近代経営学の祖)が1944年1月、USOによる配布にストップをかけたのです。バーナードによれば、USOは国民の税金によって運営されているのだから、このようなマイノリティーに偏向したパンフレットは配布できない、というのです。本当は内容よりその政治的影響を懸念したのでしょう。
しかし彼のコメントが伝わると、マスコミはじめ世間に疑問の声があがりはじめ、2月には事態を重くみた陸軍省情宣局(War Department, Army Morale Division)が、USOをつうじて陸軍の教育将校に配布する予定だったパンフレット55,000部をワシントンの倉庫に引っ込めてしまったのです。
いったん収まりかけた騒ぎに再び火をつけたのが、下院軍事委員会の委員長でケンタッキー選出のアンドリュー・メイ議員です。3月6日、彼は南部選出議員の声に押され、改めて陸軍への配布を全面的に禁止するように訴えました。しかし、彼の行為は逆効果を生んでしまい、反対に40あまりの学術団体が、パンフレットの内容は客観的事実を述べておりデモクラシーに貢献する内容だと反論したのです。
マス・メディアも、メイ議員の行為は自由や真理を妨害隠蔽するものだと全国に報道した結果、さまざまな団体がパンフレットを大量に買い上げ、陸軍のみならず国会議員、市民一般にも配布することになりました。特に教会関係者は南部各州に集中的にそれを配布しました。おそらくメイ議員はパンフレットを詳しく読まず、配布中止になった理由もよくわかっていなかったに違いありません。
あわてた彼は3月中に配布を止めなければ、パンフレットが書かれた政治的背景を暴露すると脅迫めいた発言をしています。選挙を目前に控えていたメイ議員は、白人有権者にアピールしようと必死でした。実際には前の選挙で黒人から7000票を得たおかげで当選したにもかかわらず、追い詰められた彼はどうしてもパンフレット配布を禁止する理由が欲しかったのです。
そこで軍事委員会の小委員会で、南部選出の同僚ダラム議員にパンフレットについての秘密審議を要求させ、パンフレット作成の意図が不明確で配布に値しないという強引な報告を引き出しました。誤解、中傷だらけの報告であったにもかかわらず、メイ議員は南部選出の議員を代表して、このパンフレットは「共産主義のプロパガンダ」だと決めつけたのです。
「人種主義」の方は高く評価されたにもかかわらず、同じ内容がパンフレットになっただけでなぜこれほどまでに非難されたのでしょうか。南部の議員たちの不満は北部の黒人の知能が南部の白人と変わらないという分析内容にありました。彼らはさまざまな反論をしてみました。
たとえば、このパンフレットの内容は同棲や異なった人種間の結婚を拡大させるであろうとか、著者は共産主義者がよく利用するトピックス、たとえば政治、社会学、労働組合にとらわれて客観性をなくしている、などと難癖をつけ、あげくの果てに挿画のアダムとイブの二人の姿にへそがあるからけしからんなどと「反論」しました。この一見他愛もない苦情のかげには、さらに合理的な動機が隠されていました。
それは、知能の差は環境の問題だとはっきりいわれると、北部に比べて南部では教育費をはじめとする福祉予算が少ないという印象をパンフレットが与えることになりかねず、結局は議員の能力が問題にされることになり困るというものでした。結局、Races of Mankind のパンフレットは百万部以上売れ、広い範囲での知識の普及を達成することができました。そして後にマンガ、教育用の映画、子供の絵本、高校のテキスト、新聞や雑誌の短い記事などとしてこの内容が活かされました。
しかし、皮肉なことに、ベネディクトはそのために逆に差別の根強さを知らされることになりました。憎しみいっぱいの手紙が届き、ユダヤ人やニガー(黒人を指す差別用語)びいきだと非難されたり、国会では共産主義の布教者と呼ばれました(Congressional Record ≪米国の連邦議会議事録、上院≫1944年、4495-4500頁)。パンフレットで述べられた、不平等による恐怖とスケープゴートづくりから人種差別が起こるとの指摘が、見事にベネディクトとウェルトフィッシュにはねかえってきました。
共産主義への「恐怖」が政治的に利用され、彼女たちが非難されました。ベネディクトは1943年6月から合衆国戦時情報局につとめ、そこで「菊と刀」のベースとなる研究を行うことになるのですが、着任後まもなく政治信条に関するさまざまな調査がおこなわれ、数ページにわたる回答を求められました。客観性を守ったベネディクトは最終的に信頼に足りる人物と保証されましたが、偏見に真正面からぶつかっていく彼女の勇気は一部の人々には恐怖でさえあったに違いありません。
しかし、ベネディクトに関するでっちあげは終わりませんでした。戦後、マッカーシズムのもとで反共感情が高まった1952-53年、共著者のウェルトフィッシュは2回も上院国家保安委員会で「破壊活動のプロパガンダ」と烙印されたパンフレットに関する審議に応じなければならず、すでに亡くなっていたベネディクトの政治信条までも問題にされたのです。このような出来事は差別を支える迷信の強さを象徴しています。
ベネディクトが明快に説明した迷信そのものが、彼女を叩くために使われてしまいました。しかし彼女の科学的なアプローチへの強い信念は、戦後に日本研究の古典となった「菊と刀」を生む原動力となるのです。以上のようなトラブルが起こっていた時、ベネディクトはもうすでにアメリカの戦時情報局(Office of War Information)で働いていました。大学でのぎくしゃくもあったため、1943年に情報局での文化研究を依頼された際にはすぐイエスと返事しました。
しかし、戦時情報局員が「赤」といわれることは重大と受け止められました。先に述べたようにベネディクトの潔白は証明されましたが、国のためにできるだけ科学的で客観的なパンフレットを出したのに、政治的な理由で迫害を経験し、改めて差別やデタラメのプロパガンダの恐ろしさを知ったのでした。
米国戦時情報局
ベネディクトは戦時情報局でまず東ヨーロッパとタイ、ビルマを調べて、その文化的特徴のレポートをまとめます。彼女は日本という敵国を研究するために情報局に雇われたのだとよくいわれますが、これは間違いです。おそらく、本人は局に入った時、そのうちに日本文化を研究対象にするなどとは予想もしていなかったでしょう。最初の一年間、彼女は敵国と味方の文化を研究しました。
何故、味方のことを調べる必要があったのかといいますと、アメリカの軍隊がいずれその国にお世話になる時、文化的な違いによって変なトラブルが起こると必然的に「国際問題」になるからです。例えばオランダでアメリカの兵士がかわいい女の子を気軽にデートにさそうかも知れません。当時のオランダでは彼女の家まで迎えに行ってご両親に挨拶をすれば、たいてい結婚を申し込んでいるように受けとめられ、大きなトラブルにエスカレートする可能性がありました。だから、このような基本的な文化知識を軍隊のリーダーと兵士のために用意する必要があったのです。
当然、戦争中なのでベネディクトはそれぞれの国に行って調べることができません。そこで彼女は、オランダやルーマニアについて調べる際には、その国で育った人、あるいはその国で長く生活をしたことのある人に面接をしたり、アンケートに答えてもらったりして、できるだけ「生」に近いデータを収集しようとしました。もちろん、それぞれの国について参考文献を読み、歴史、習慣、制度、儀礼、文学等も調べながら調査に挑みました。だから、ベネディクトは現地でフィールドワークができなくても、かなりよいデータを集めるコツをこの仕事の間に覚えました。その後の研究対象には、ルーマニア、タイ、ビルマ、北欧、ドイツ、オーストリア、中国、ポーランドなどが含まれました。
海外戦意分析課 (Foreign Morale Analysis Division)
1944年に入ると、戦争の中心がだんだんヨーロッパから太平洋の方へ移ります。そこで日本という敵国について情報を集める必要性が生じ、夏から海外戦意分析課が設立されます。ここでは日本の軍隊と市民はいつまで戦う気かを予想することが仕事の中心で、文化人類学以外にも、政治学、社会学、心理学、日本のことをよく知っている日系人などの専門家310人ぐらいが集まって課が構成されました。ですから、ベネディクトが一人で日本のことを調べていたのではなく、大きな研究チームで行いましたので、早いペースでたくさんの情報を処理することができました。
海外戦意分析課では、主に海外で捕虜となった日本の兵士の面接データを分析して日本人の考えていることを想定しました。例えば、日本人は天皇についてどう考えているかということも大きな課題でした。何千人のデータのうちの3000人ぐらいが天皇について何かをコメントし、そのうちたったの7人しか悪口を言っていません。ここから日本人にとって天皇が大変重要な存在であることが判明しました。連合軍にとって天皇はヒトラーのような存在で、当然死刑にすべきだと信じていました。
しかし海外戦意分析課では、天皇を死刑にすれば日本の社会的秩序が一気になくなるだろうと予測しました。ちょうど終戦前、天皇の問題をどう扱うかを決める会議が行われ、情報局の代表として出席したのがレナード・ドゥーブ(Leonard Doob)という人だったのですが、彼女はベネディクトのことをよく知っていたしその判断力を尊敬していましたので、ベネディクトに相談しています。
ベネディクトは、天皇を死刑にすれば日本人は絶望的になる、ヒトラーと同じように扱うことは事実の単純化にすぎない、などとアドバイスをしました。結局、会議ではプロパガンダで天皇の悪口を言ってはならない、天皇の死刑は占領に悪影響をもたらすだろうという方向づけがなされ、天皇を特別扱いにする結論となりました。戦後「タイム」誌にベネディクトの記事が載せられた時、見出しは「彼女が天皇を救った」(She saved the Emperor)となっていました。
ベネディクトがどこまで決定に影響を与えたのかはっきりしませんが、そのアドバイスが何らかの形で高いレベルに届いたに違いありません。海外戦意分析課には捕虜の面接以外にも、日本の新聞やラジオ放送、兵士から没収した日記や手紙、あるいはときどき入ってくる軍事機密などの情報が、連合軍の最新情報とともに入ってきました。課では「日本人はどこまで戦う気か」を分析しながら、日本の兵士に「早く降参しよう」というパンフレットやチラシをまきました。
日本人に最も説得力のあるメッセージとはどんなものかを探るのも海外戦意分析課の仕事でした。そこでベネディクトは主に新聞報道やラジオ放送を担当していました。アメリカでは日本人はわけの分からない人たちで、天皇のために自分の命がなくなるまで戦う恐ろしい敵だ、というイメージが非常に強かったのです。この「わけのわからない日本人」を説明するために、他の研究者は日本人の性格が強迫的なので攻撃的になる(Gorer 1942; LaBarre 1945)とか、アメリカの10代の青年と同じぐらいの精神年齢なので、10代の青年として調べたらわかるだろうとか、暴力団の心理に似ているからギャングと比較できるだろう(Mead 1944)とか、まさに「訳の分からない研究方法」を用いて日本人の性格を解明しようとしました。
つまり、西洋社会で発達した理論や方法を、西洋社会で適用する心理学的な方法と同じように、日本社会に適用しようとすれば、当然、結果的に日本人は「アブノーマル」に見えてきます。しかし、ベネディクトは自分のそれまでやってきた文化人類学の研究から、日本人には安定した文化的なパターンがあるとわかっていたので、日本人の行動をアブノーマルなものとして受け取るのではなく、日本人にとってその行動にどのような意味があるのかということを探ろうとしました。
レポート25号
情報やプロパガンダについてベネディクトは多くのレポートや覚え書きを書きましたが、戦争が終わりに近づくと、戦後の日本の占領政策についても考える必要があることが明らかになりました。そこで海外戦意分析課では日本人の基本的な文化的行動、あるいは文化的パターン、価値観についてのレポートがあれば大変役に立つだろうと考え、その専門家として認められていたベネディクトにレポートの作成を指示しました。レポートは最終的に57ページとなり、「レポート25号-日本の行動パターン」(Report 25: Japanese Behavior Patterns)というタイトルがつけられました。
そこでは恩と義理、義務、人情というキータームについて論じられていますが、このレポートが後に書かれる「菊と刀」の原型となります。ベネディクトが海外戦意分析課に入ったのは1944年9月上旬で、このレポートが提出されたのは終戦前でした。つまり、ベネディクトが日本文化を研究できる期間はたったの1年間、しかももっと驚くべきことは、このレポートがわずか2カ月ぐらいで書き上げられたことです。
レポートの日本語訳は最近出版されましたが(「日本的行動パターン」NHKブックス、1997年)、今までその存在についてはあまり知られていなかったのです。ヴァッサー大学の図書館とアメリカの国立公文書館に今でも保存してありますが、「菊と刀」の完成度が高いので調べる必要はないと多くの人が思ってきたようです。しかし、この資料が掘り起こされたことによって、「菊と刀」がさらに面白く読めるようになったと感じます。
情報局で、ベネディクトは限られた情報で、短い間に、様々な文化の特徴を分析する「練習」を重ねていきました。情報を理解するために、まずいろいろな文献で調べてから面接調査でその情報を確認しました。日本文化を研究する際に、彼女が特に頼りにした日系人がロバート・ハシマ(Robert Hashima)です。同僚のハシマはベネディクトがなくなってからその追憶を書いています。
それによると、ベネディクトは夏目漱石の「坊っちゃん」を読んだ時に日本人の文化的な特徴についてヒントを得たそうです。彼女は日本人の倫理システムを明らかにしようとしていましたが、そのベースとなっているものは、恩と義理と義務の複雑な関係だと考えついたのでした。彼女は早速ハシマにいろいろ具体的な質問をしました。まず、彼女はカギとなる概念について日本語で何というのかと聞き、その言葉がどのような文脈において使われるかを確かめました。
彼女は英語に訳された、英語の意味のままで受け取らないで、日本語とその言葉の意味を日本人と同じように理解しようとしました。そして、ハシマ自身の体験の中で、この恩と義理と義務関係に関するエピソードがあればそれを教えてくれと頼みました。ハシマだけでなく、他の日系人や日本に住んだことのある人にもこのような質問をしました。「菊と刀」を読むとたくさんの具体例がでてくることに気がつくでしょう。
また、彼女は日本の映画を資料として利用することもありました。映画を見る時に日系人と一緒にみて、彼らが自分と違った反応をする箇所があるとそこをマークし、後で何故日本人がそのような反応をしたのかを探りました。それで、日本人とアメリカ人との根本的な違いについていろいろ理解することができました。ベネディクトはたえず情報をできるだけネイティブに近い人に確認し、あるいは海外戦意分析課の専門スタッフと相談しながらこのレポートを書きました。
だから、レポートはチームによって書かれたと言ってもいいでしょう。「菊と刀」の下書きを見ますと第一章ではまず「I」(私)とタイプしてありますが、彼女はその第一章のすべての「I」を鉛筆で「WE」と書き直しています。つまり、このチームで書いたよということを示したかったのだと思いますが、最終的に出版社は「I」のままにしておくことにしました。
この「レポート25号」と後に書く「菊と刀」には異なるところがいくつかあります。まず長さがずいぶん違いますので、同じものではないことがすぐわかります。「菊と刀」では、最初の部分、研究方法と歴史的背景という部分、それから最後の子供のしつけに関する「子供が学ぶ」の各章と最終章を後からつけ加えています。それは一般読者のために日本の歴史的な事情や子供の性格形成などを示そうとしたのです。
そうすることによって、今まで恐ろしい敵だった日本人は、「訳の分からない奴」ではなく理由があって行動をする人間なのだ、という説得力のある説明が可能になりました。「菊と刀」を書いた目的は、敵の日本人が実はアメリカ人と同じような人間だということを普通の人に理解してもらうことでした。アメリカの文化的行動についてもたくさんの例をだし、アメリカ人に訳の分からない習慣が多くあっても自分たちの文化的文脈内で矛盾がないように、日本人の一見不可解な行動も日本人にとっては合理的なのだということを知らせたかったのです。
これと比べてレポートの目的は違います。レポートは終戦前に書かれていますので、二つの目的がありました。まず、できるだけ早く戦争を終わらせること、それはもちろんできるだけ人が殺されない方法で。もう一つは、占領軍が日本に入った時に日本人とどのように接したらよいかを明らかにすることでした。そのためには、プロパガンダによって描かれていた日本人像はどこが間違っていたかをはっきりさせる必要がありました。
つまり、日本人はサルだとか、精神的年齢が低いなどのイメージが強かったのですが、そのイメージで終戦後に日本人に接したらトラブルが起こるだけだからです。そこで彼女が強調したのは日本人の責務体系でした。つまり、その恩、義理、義務などの倫理システムを説明して、ほらこれだけ日本人はモラルの高い国民だ、とアピールしようとしたのです。そして、日本人は状況に応じて行動を変えることが得意なので、きっとこれから平和な世界をつくるために働いてくれるに違いない、とレポートの最後で主張しています。
つまり、ベネディクトが言いたかったことは、日本人は一応、理由があって戦争を起こしたのであり、それに対して「アメリカが正しい価値観を教えてやる」という態度で占領したら、何も改善されないということで、できるだけ日本人の立場を理解した上で改革などをめざすべきだということを占領にかかわる人々に印象づけたかったのです。結果から言うと、レポートのメッセージはアメリカ側にもうまく受け入れられ、日本でも「菊と刀」が今でも読まれ続けられているところをみれば、ベネディクトが日本人の行動についてカギとなるところをついていたと言ってよいでしょう。
 
ギアーツの『菊と刀』論

 

アメリカの著名な人類学者クリフォード・ギアーツ(Clifford Geertz)が1988年に Works and lives: the anthropologist as authors (仕事と生活:著作者としての人類学者)という本を著しました。その中でベネディクトに対する論評が行なわれ、『菊と刀』がまないたに乗せられています。
はじめにお断わりしておきますが、ギアーツは非常にユニークな文章でものを書く人で、彼の英文を日本語に翻訳するのはたいへん困難です。どういう意味でユニークであるかということさえ簡単には言い表わせませんが、構文が極端に複雑なケースが非常に多い上に一つ一つの語の概念を限界まで利用するかのような表現が多用されているとでも言えばその難しさの一部を言ったことになるだろうかと思います。そういうわけで、ひとつの日本語訳だけを見て彼が言ったことを理解したつもりになるのは一種の冒険と言ってもよいのではなかろうかとさえ思われます。
ギアーツのその本のことを以下では『仕事と生活』と呼ぶことにします。その本ではレヴィ=ストロース、エヴァンズ=プリチャード、マリノウスキーおよびベネディクトという有名な人類学者が論評されています。どの章のタイトルもひねったものですが、ベネディクトをとりあげた第5章の場合もそうで、‘Us/Not-Us: Benedict's Travels’というのです。それは一見したところ「われわれ対われわれでないもの:ベネディクトの旅」ですが、‘we’でも‘our’でもなく‘us’としたのは、おそらく‘see’とか、‘observe’とか、‘interpret’とか、‘understand’といった他動詞の目的語になる場合のことを言い表しているのでしょうが、それだけではなく‘United States'(合衆国)にひっかけてあるのです。しかもいま「対」という日本語にしたのは、‘versus'というような双方を対等に見る語ではなく、分数の記号‘/'で、そしてその分母は‘Not-Us'です。したがって‘Us/Not-Us'というのは、「合衆国でないものを基準にして見た合衆国」というようにも読めます。むしろこの読み方の方がその第5章での論述をよりよく反映しているとさえ言えるのです。
筆者はその第5章についてのコメントを述べようとしているのですが、先に言ってしまうと、その章には非常にすぐれた一面と、立派な学者らしくもないと思われる一面とが共にあるように筆者には見えます。まず前者から明らかにしましょう。
非常にすぐれた一面
第5章はベネディクトに対する論評ですから、当然、『菊と刀』ばかりでなく『文化の型』および数編のモノグラフをも視野に入れた論述がされています。それらを通じて彼は、ベネディクトをジョナサン・スウィフト(「ガリバー旅行記」の作者)になぞらえています。
スウィフトの作品と同様に、……ベネディクトの著作においても、文化的に身近なものが異様で気まぐれなものとされ、文化的に遠いものが理にかなった、そして直截なものとされている。われわれ自身の生活の諸形態は、見慣れない人々の見慣れない習慣となる。どこか遠い所 ― 現実のであろうと想像上のであろうと ― に見られる生活の諸形態は、環境のありようによっては当然に行なわれることなのだ。むこうがこちらを困惑させる。われわれでない人びと(the Not-usつまりU.S.でない人びと)がわれわれを狼狽させる。
しかしながら両者はまったく同じというわけではありません。スウィフトの場合には「風刺」という言葉がぴったりと当てはまりますが、ベネディクトの場合には、ある意味では風刺と言えなくもないのですが、やはり違います。それは、ギアーツによれば、次の理由があるからです。
しかし、ベネディクトの業績に行きわたっているトーンは高度に真面目なものであって、どう見ても嘲りではない。彼女の文体は、その目的が人間的な虚飾を覆すことにあったという意味ではたしかに喜劇的だし、また態度は世俗的であるが、それでもその調子は命がけの真剣さから出たものである。彼女のアイロニーは誠実そのものである。
その「命がけの真剣さ」で日本の文化の型を探究したとき、誰にも真似のできない著作が現われたのです。ギアーツはそれについてこう言っています。
ベネディクトの書物の偉大な独創性(もちろん、その源泉は彼女の知性と戦争中の情報宣伝活動という任務にあった)と、そしてその書物に対して最も厳しい批判を加えた人さえ感じた力の基礎は、次の事実の中にあった。すなわち彼女は、日本及び日本人を解明することを、変な具合に針金で縛られた人たちが住みついている奇妙な具合にできた世界の感覚を和らげることによって行なおうとしたのではなく、逆にそれを強調することによってしたのである。「われわれが知っているとおりの」自分たちを「このように想像される」彼らと対照させるという習慣的な方法は、ここで頂点にまで持ち上げられる。それはあたかも、アメリカ・インディアンやメラネシア人に関する研究が「真に」違ったものの研究の準備体操であったかのような観を呈している。そればかりか、対照化は今やあらわでしかも具体的であり、『文化の型』におけるような暗示的、一般的なものではなく、特定のあの事柄に対する特定のこの事柄になっている。
彼は、その実例として『菊と刀』の中にある数行ないし二十数行の文を七つ引用しました。それらはいずれも第九章「人情の世界」にあり、せいぜい十ページ程度(原書で)の範囲内から引き出されたものです。それでもそこに引用された文を読むと、これでもか、これでもかと言うかのように「日本では…」、「アメリカでは…」また「日本人は…」、「アメリカ人は…」とたたみかけてくる論調を改めて確認させられます。ギアーツは、そのさまざまな主張がすべて十分な経験的妥当性を持っているとは言い切れないことを示唆し、そこに使われているものについては「われわれでない人々と対比されるわれわれというモチーフが、全般的な信任かさもなくば同様に全般的な懐疑かという二者択一を迫るひたむきさのようなものを伴った広範囲のごちゃまぜの源泉(伝説、映画、日本人移住者と戦時捕虜へのインタービュー、学術論文、新聞記事、ラジオ放送、“古文書”、小説、議会での演説、軍事機密報告)から抽出された広範囲のごちゃまぜの材料の膨漠たる領域を通じて追求された」と、好意的とは言い難い表現をしながらも結局は次のように言いました。
しかしながらこの、「彼ら」が変なものに思える例から「われわれ」のほうが変なものに思える例へと移っていくところの、さして長くもない一連の引用からもわかるように、この文化的差異を通り抜けるように圧力をかけられた行進のゆくてには狼狽させるような捻れが現れる。すなわち、そのキャンペーンをコースからちょっと外れさせる思いがけない逸脱である。それは、次の事実の中に立ち現れる。すなわち、航行不能に陥った軍艦を助けたアメリカの提督に勲章を与えて顕彰するのが当然だということを容易に信じない日本人のことから日本人は自殺の中に達成を見ることができるという点を容易に信じないアメリカ人のことに至るあらゆる事をベネディクトが述べていくうちに、どういうわけか日本人のことが少しずつ変なものでないように見えてくるのに対して、アメリカ人の方は、どういうわけか、だんだん変なものに見えてくるのである。実際、「この絵はどこが変なのか」というような問題はどこにも存在しないのであって、それを逆さまに見ている人が居るだけである。そして本の初めではわれわれがこれまでに戦った敵の中で最も気心の知れないものであったのが、その本の終わりにくると、われわれが勝った相手の中で最も筋道の通ったものになる。
この文は『菊と刀』が読者の価値観を転覆させることを言い表わしていますが、このことは見かけよりはるかに大きい問題につながっているのです。それについてギアーツは次のように言いました。
アジア側から見ればつむじ曲がりから実用主義的へ、アメリカ側から見れば穏健さから偏狭へ、硬直性と柔軟性が太平洋の真ん中あたりで入れ替わるという、この奇妙な道が、『菊と刀』において語られる物語の本当の筋である。もっとも、もう一度言っておくが、それは筋道の立った話と言うよりはむしろ実例と心証の説教という形を取っていると言う方が当たっている。東洋的神秘を解明しようというありふれた試みとして始めたものが、西洋的明晰さの、avant la lettre[文字以前の]、余りにも見事な脱構築だけに終わったのである。結局の所、『文化の型』の場合もそうであったが、われわれにとって不思議に思われることがある。お告げ下さいと祈るのは、われわれの確実性は何に依拠しているのかということである。明らかに、それがわれわれ自身のものだということのほかにはどれほどのものもない。([ ]訳者補記)
ギアーツが『菊と刀』をどう読んだかということを問うとすれば、西洋的明晰さが依拠しているものを疑って、明晰と思われていたものを脱構築するという概念が導き出されたこの部分が最も重要です。おそらくそれはベネディクトが初めから狙っていた事であろうと思われます。それは、ギアーツほどの人物であって初めて見抜ける事です。このことはおおいに評価すべきだと思います。
日本人は、そういうものを見ずに、直接言及されている自分のくせや欠点ばかりに気を取られていたのです。日本人には、すでに自分が知っていることをベネディクトがどう書いたかということにしか関心が持てなかったのです。言い替えると、自分の心の中の「地図」にすでに載っていること、更に言えば過去と同一視できることしか見ようとしなかったのです。
学者らしくない一面
すでに見たようにギアーツの書いたことのいくつかはたしかに正鵠を射ていますが、筆者は、彼の所論の全部を無条件に信じることは避けるべきだと思います。彼が事実の認識において間違いを犯したことは、次の文を見れば分かります(長い引用になりますが、誤解を避けるためですからご容赦ください)。
この内気で、礼儀正しく、どちらかといえば欝気味な、どちらかといえば高慢な、そしてどのように言い表しても良いが正気とだけは言えない女性が、耽美的人間行動観に最も活動的な社会科学の衣装(疎外の感覚、結合への欲望、確信への意志、人類学でさえ取り除くことのできないキリスト教的理想主義)をまとわせたいと望んだとしても、それは彼女の個人的生活の霧の中に見失われてしまう。しかしながら、子育ての章に入ったとたんにそれまでの自信に満ちた記述的表現形式からはるかに自信のない因果的表現形式に移っているところを見ると、彼女はそうすることにまるっきり安住していたのではないことが分かる。階層社会や、道徳的負い目や、「人情の世界」や、また修養に関する日本人の考え方を論じた中程の諸章は引き締まって論点の整理されたものものであるが、そこでは、あらゆるものが、何等かの慣行または感覚または確信または価値を文脈の中で意味を持つように、少なくとも日本的な意味を持つように、ある型の中に位置づけるということに尽きている。同じ本の中で最も長く、最も散漫な「子供は学ぶ」という章では、プロジェクトはメカニズムの探索へ、特徴的な社会化の慣行へと方向を変える。その慣行は、あたかも熱が沸騰あるいは火傷を起こすように、日本人が「笑われることに耐えられない」とか、手入れが行き届いていない庭園を嫌うとか、鏡をご神体としてまつるとか、神様が慈愛に満ちていると信じるとかいうことの理由を説明できる心理学的性癖をもたらすものである。形の話が混乱してレバーの話になる。
もちろん、ここでレバーと言うのは、悪名高いとは言わないまでも、おなじみのもの、すなわち幾重ものおむつ、愚弄する母親、同輩グループのいじめである。ところがここで興味深いことにそれらは、その本の他の所ではまるで気密になっているかのように知的独立独歩なのに、大部分が彼女自身のものではないのだ。おむつをかゝせる仕事のことは事実上あたふたと語っているだけであるが、もちろんジェフリー・ゴアラー(Geoffrey Gorer)から得たものである。イギリスの熱狂者ゴアラーは、ベイトソンがワシントン・サークルから退いた後にミード(Margaret Mead)がコロンビアへ連れてきた人物である。ベネディクトは、どちらかと言えば冷静に、「日本人のトイレット・トレーニングの役割を強調した」人物の一人として彼のことを参照しては居るものの、気前のいい「謝辞」からは感動的と言っても良いほどに彼を無視したのである。子供をからかう仕事(子供は繰り返し見捨てられたり、抱きしめられたりする)についてはもっと多くのことが言われているが、それはベイトソンとミードがバリ島について書いた1942年の論文からの借用であり、元の論文ではそれは全編におけるテーマであった。そして同輩グループのすることも、またもやゴアラーの戦時レポートからの借用で、これについては最小限の引用が行われた。
これら借り物の考案物は不手際に持ち込まれ、不細工に応用されているが、そういうものがベネディクトの本にとって外在物であることはその章自体の進行を見れば分かる。すなわち難儀しながらそれらの間を通り過ぎると、ほっと漏らしたため息が聞こえてくるほどの調子で、結論に向けての描写 ― 満開の桜、茶会、日本の人々の漆塗りの生き方 ― に立ち帰っていく。だが、そういう過程の緊張を最もよく表していると思われる描像は、またもやマーガレット・ミードからもたらされる。ミードがベネディクト没後約十年を経てから書いたところのベネディクトとその著述に関する書物は、主として―復讐をこめて、先輩をあたかも後輩であるかのように見せながら―その年上の女性のペルソナを自分の内に取り込もうとするものであるが、その書物の中でミードは、それ以外の点では聖者伝的であるにもかかわらずそこに限って、憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子で、『菊と刀』がなぜあれ程までに成功したのかを述べている。
そして彼は、ミードが1959年に発表した Anthropologist at Work から次の文を引用しました。
ルース・ベネディクト自身は、彼女が用いた方法から世界の安全への有用性に向けて完全に転向させられた。それと同じ方法について他の人が書いたいくつかの詳細な説明は、読者を敵にまわした。というのは、読者に不快感を抱かせるものとして鳴り響くところの洞察を導き出す方法をむき出しにしたからである。彼女自身が精神分析的方法に依存しなかったこと ― この場合について言えば、彼女にとっては何の意味もなかったところの身体部位への依存が行なわれなかったという意味である ― は、その本を読者にとって心地よいものにした。その読者たちは、今は誉めているが、ジェフリー・ゴアラーが1942年に最初に日本の天皇に関する洞察を初めて言い出したときにはそれに逆らったものであった。更にまた、彼女がアメリカ文化に関して同世代の大半のリベラルと共有していた懐疑的態度は、リベラルが日本文化の徳に対する彼女の同情的な理解を受け入れることを可能にした。それというのも、自国の文化に対しても同様に同情的な態度を取ることを強制されているという感じを持たずに済んだからである。そしてこれはまた、そういう懐疑的な態度の強くなかった人類学者たちの進路にあった邪魔物を取り除いた。大佐が将軍に、また 艦長が提督に、「唐人の寝言」への怒りをぶちまけられることを心配せずに言及できるのはこの種の本であった。そしてまた「長髪のインテリどもが言うこと」を頭から警戒して掛かる議員先生に手渡しても安全なのはこういう本であった。論点はたいへん優雅に、またたいそう説得力を持つようにまとめられているので、その本は、左翼思想に凝り固まっている人とか、自分自身の日本に関する経験から永年にわたって培われてきた、たいそう明晰な、そしてたいていは不完全な知識を持っている人 − 別の文脈では「古くさい中国通」と言われるような人々は別として、ほとんどすべての仮想敵を武装解除した。
この文が「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」と言うには当たらないこと、そして「この内気で、……」に始まる引用文のどこが事実と食い違っているかということについては以下に話しましょう。  

 

第1は、ギアーツは「子供は学ぶ」の章を正確に把握したのだろうかということであり、第2は、ギアーツが引用したミードの文は、本当に「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」だろうかということです。これらを追究すると、一見精緻なギアーツの議論にも案外雑な所があることがわかります。
まず第1点から見ていきましょう。筆者には、ギアーツが「子供は学ぶ」の章を正確に把握していなかったように思われます。彼に言われる迄もなく、『菊と刀』の中でベネディクトが最も苦心して書いた章が「子供は学ぶ」であることは明らかです。それは、第一章「研究課題 ― 日本」で、「私は彼らの子供が育てられてゆく過程を見ることができなかった」ということが「非常な不利」の一要素として挙げられているのを見ればわかります。しかしだからといって、彼女がゴアラーやミードの業績を盗んだかのように言うのは正しくありません。
育児の問題に関して彼女が遭遇した「非常な不利」は、具体的に言うと次のようなことでした。だいいち、伝統的な子育ての方法などというものは誰一人印刷物に載せようなどとはしなかったのです。そんなものは親から子へ、姑から嫁へと、実行と口頭の伝達で教え、教えられるものだったのです。そしてたとえ外国人に質問されたとしても、その時行なわれる説明は必ずおおまかなもので、決して細部 ― ベネディクトにとって細部こそ重要であることは第一章で強調されています ― は言語化されません。細部は実行されているところを観察するしかありません。ところが彼女は多くの困難な課題を早急に解決しなければならず、育児の観察だけのために何週間というまとまった時間を費やすわけには行かなかったと考えられます。
その時すでにゴアラーが日本人の育児方法に関するデータを持っていたのです。そのデータは、北米東海岸に居る日本人に面接して得たものでした。こういう場合にベネディクトがそのデータを利用したのは、ゴアラーの名前を出してのことでもあり、決して非難されることではありません。
はっきり言っておきますが、ベネディクトはゴアラーが収集したデータを利用したのであって、決して彼の仮説を取り入れたのではありません。ところがギアーツには、彼女がデータだけでなく仮説も利用したように見えたのです。それで「子供は学ぶ」の章の育児に関する記述が「これら借り物の考案物は不手際に持ち込まれ、不細工に応用されている」などと言ったのですが、それはギアーツの重大な誤認です。
ギアーツはゴアラーの仮説の内容に言及しませんでしたが、その内容を『菊と刀』と比較し、検討すれば、ベネディクトとゴアラーのどちらがより高い知的水準に居たかは明らかになりますし、彼女が謝辞を述べなかった理由も分かるのです。その話をしましょう。 ゴアラーが掲げた仮説は次の通りです。ただし、筆者はその原文を手に入れていないので、ここに掲げるのは加藤秀俊(編)『日本文化論』(近代日本の名著13)〔徳間書店(1966)〕に収録されているところの、G・ゴアラー(著)、山本澄子(訳)「日本文化の主題」に含まれている文です。
これらの仮説は、社会人類学、精神分析、および刺激−反応に関する心理学の諸原則からみちびき出されたもので、社会科学の統合理論の最初の試みであることを示している。これらの公式は仮説的であることをまぬがれない。それは十二ある。
(一) 人間の行動というものは、理解することのできるものである。どんなに辻褄のあわないバラバラの事項があらわれたとしても、どのような観察された行動も、十分な証拠さえあれば説明することができる。
(二) 人間の行動は、おもに、学習によるものである。幼児はいくつかの本能をもって生まれる。生存するためには、それをどうしても充足させなければならないような基本的衝動をもって生まれる。そしてまた、幼児が生まれついた社会の、他のメンバーから受ける処遇というものがあり、環境の影響も受ける。それらが成人の行動形式にとって、非常に重要な役割を果たすのである。(この点、日本人の遺伝的特質は、ほかの人類集団とくらべてみて、生まれつきの心理学的なちがいはないと、常に仮定していることをことわっておきたい)
(三) すべての社会において、同じ年齢、性、身分にある個々人の行動は、同一の状態におかれるならば、相対的に画一性を示すものである。これは、非公式な非言語的状況においてもあてはまることである。
(四) すべての社会は、その社会が理想とする成人の性格(ないしは、性と身分にもとづく諸性格)をもっている。それは、両親が賞罰の対象にするような子どもの行動の項目を選択するうえで、たいそう重要である。
(五) 習慣は、賞罰を区別することによって形成され、それは社会の他のメンバーによってあたえられるものである。
(六) 人生の初期に形成された習慣は、すべて、後の学習に影響を与える。したがって、乳幼児期体験は、いちじるしく重要なものである。
(七) 乳幼児期におけるおもな学習は、飢え、適温への要求、苦痛回避、性と排せつ、および、(たぶん学習によるところの)恐怖と怒り(不安と攻撃性)などの、生得的な衝動を抑制し修正することからなりたっている。そして、このことは、社会のおとなたちから要求される。その結果、彼らに課せられるこれらの抑制のタイプについての知識や、その方法、時期は、成人の行動を理解するうえで、大きな重要性をもっている。
(八) どこでも、子どもに賞罰を与えるのはたいていその両親であるから、父母およびその度合は少ないがきょうだいに対する子どもの態度は、あとになって出合うすべての人びとに対する彼の態度の原型になる。
(九) 成人の行動は、つよい生理的ストレスがないかぎり、一次的な生物的衝動の上に重なっている。学習による(二次的・派生的)衝動や欲求によって動機づけられている。
(一〇) これらの欲求の多くは、非言語的で、無意識的なものである。そのわけは、これらの欲求が動因となるような習慣を形成する賞罰が、乳幼児期に与えられるからでもあり、また、これらの欲求を口にだしていうと、ひじょうに重い罰を受けるからでもある。この仮説の系としていえることは、人々には、その動因を言葉に表現できないことが多く、実際においては、ある一定の状況にあってどんな満足が得られるかは、観察して推測しなければならないということである。
(一一) 初期のしつけによって得られたこれらの諸欲求が、国民の大多数に共有されるとき、それらを充足させるために、同時に、いくつかの社会制度が発達する。そして、既存の社会制度や、他の社会からの借りものの制度は、一次的な生物衝動の満足をさまたげないかぎりで、これらの諸欲求に適合するようつくり変えられる。
(一二) 同質文化内においては、支配と従属、服従と傲慢というパターンは、家族から宗教・政治の組織にいたるすべての局面で、ある一貫性を示す。また、その結果、これらの制度のすべての中で要求される行動型は、相互に補強しあう。  

 

これは、ざっと見た感じとしてはベネディクトの考え方と似ているように見えるかもしれません。たとえば(一)は『菊と刀』の第一章にある「さらに私は文化人類学者として、どんな孤立した行動でも、お互いに何らかの体系的関係をもっている、という前提から出発した」という言葉に対応していますし、(二)の冒頭の「人間の行動は、おもに、学習によるものである」は、同じ章にある「…人間の行動というものは日常生活の中で学習されるものであるという、人類学者の前提…」とそっくりです。更に(三)、(四)及び(五)もベネディクトの考え方との間にほとんど違いがないと言っても良いと考えられます。しかしながら(六)以下については、話は全く別です。「子供は学ぶ」の章にある次の文は、十分注意しないと(六)とあまり違わないように見えるかもしれませんが、それは似て非なるものです。
嬰児がこのような容赦ないしつけを通じて学ぶ事柄が、やがて成人してから、日本文化のもっと複雑微妙な強制に従う素地を作るのである。
ゴアラーの仮説の(六)は、幼児期の経験が直接当人の性格を決定するということを意味していると考えなければつじつまが合わないものです。そしてそれは(七)から(十二)までのすべての基礎になっています。 ところがベネディクトは決してそういうことを認めてはいません。幼児期の経験によって作り出されるのは「複雑微妙な強制に従う素地」であって、性格ではありません。この違いは決して無視してはなりません。簡単に言えば、ベネディクトの説は柔軟で、一人々々の個性を超越して適用できますが、ゴアラーの説は硬直したものであり、いろいろな個性を持った多数の人々に一様に適用してもよいとは考えられないのです。
ゴアラーの失敗の原因は、「精神分析、および刺激−反応に関する心理学の諸原則」を社会人類学に持ち込んで「社会科学の統合理論の構築」をしようという野心的な企てに手を染めながら、社会というものが個人の単純な集合であるかのように考えた所にあります。ベネディクトは、そんな安直な考え方をしませんでした。『文化の型』の第三章にある次の文がそれを明らかにしています。
文化的行動の特質は、それが地方的なものであれ、人為的なものであれ、大きい多様性をそなえたものだとはっきり理解したとしても、それで十分だとはいえない。文化的行動はまた統一されてゆく性質をそなえているのである。ちょうど一人の個人のように、ひとつの個別文化はいわば思想と行動のともかくも一貫したパターンなのである。個々の個別文化のなかで、独自のいくつかの目標がつくられる。それが他の形態の社会と共通のものである必要はない。この目標に沿うように、人びとはその経験をしだいに整序してゆく。そ してこの目標に沿うという意図の強さに応じて、多様な行動の項目はしだいに適当な形態 をそなえるようになる。よく統一された文化において採用されたとき、もっともまとまり のない行為が、しばしばもっとも予想しにくいような変貌をとげて、特異な目標をめざす 行動になっている。こうした行為のとる形式は、なによりもその個々の社会の情緒的、知的な源泉を理解することによってのみ理解することができる。
このような個別文化のパターンの形式を、不必要なディテールであるかのようにみなして無視することはできない。多くの分野で現代科学が主張しているように、全体はその部分の単純な集合ではない。部分の組みあわせとその相互関係が、あたらしい全体をその結果としてつくるのである。火薬はただの硫黄と炭素と硝石のよせあつめではない。自然状態におけるこれらの物質の形状や性質をすべて知っていても、火薬の性質を示すことにはならない。要素のなかには存在していなかったあたらしいポテンシャリティが、合成の結果あらわれてくるのである。そしてその行動様式は、おなじ要素のほかの組み合わせの場合とは、まったく変化したものになってしまう。
「文化的行動はまた統一されてゆく性質をそなえている」という考えに近いものをゴアラーの仮説の中に求めると、(四)が見つかります。一つの社会の成員が共通して持つ理想的人格は、たしかに、その社会の文化の方向付けと関係を持っています。それは、「独自のいくつかの目標」の一つであり得ます。しかし、それだけでベネディクトが言う文化的行動の統一を説明することはできません。親がわが子をその理想的人格に近付けようとすること、そして社会の成員がそれを評価することだけでは彼女の言う文化の型は成立しません。だいいち、そういう理想的人格が何世紀にもわたって変わらないというようなことは、それ自体の性質によって説明できることではありません。そこに何等かの他の要因がなければ、理想的人格などというものは早晩変質するか崩壊するでしょう。これに対して何も言えないということは、ゴアラーの仮説が致命的欠陥をもっていることを意味します。
話を余りにも単純化してしまうという批判が出るかもしれませんが、ゴアラーとベネディクトの違いは社会の目標を単数と見るか、複数と見るかというところにあると言ってもよいと考えられます。先程の、「嬰児がこのような…」で始まる引用文の慎重な言い回しは、ベネディクトが幼児のしつけにおける親の態度を「いくつかの目標」の一つと考えた結果に違いありません。彼女は、それを書くより12年も前に、その目標が複数であることがいかに重要であるかを火薬の比喩によって強調していたのです。
ゴアラーが先に引用した十二ヶ条の仮説を書いたのは1943年、すなわちPatterns of Culture の初版が出てから9年も後のことですから、上に引用した「文化的行動の特質は… 」に始まる文の内容を知らなかったとは考えられません。彼はそれを全く理解していなかったか、そうでないとすれば無視したのです。ベネディクトがそういう人に謝辞を書かなかったのは当然でしょう。
ギアーツはこの点に気が付かなかったのです。これは、彼が「嬰児がこのような…」で始まる文の意味を取り違え、それがゴアラーの仮説の(六)と同じだとと考えていたことを意味します。このことは、前回引用した長い引用文の最初の段落で述べられたことによって確認できます。彼は、ベネディクトが日本人の「笑われることに耐えられない」とか、手入れが行き届いていない庭園を嫌うとか、鏡を御神体としてまつるとか、神様が慈愛に満ちていると信じるとかいう態度を「心理学的性癖」として説明したと思っています。もし彼の言う通りだとすればベネディクトの方法はゴアラーの方法 ― 精神分析の真似事 ― の同類であったということになります。しかし実際には、ミードも認めているように、ベネディクトは精神分析的方法に依存していたわけではありません。彼女は独自の方法論に従って論を進めているのであって、「子供は学ぶ」の章では、今し方『文化の型』から引用した文で言われているところの「経験をしだいに整序してゆく」過程が説明されているのです。これを精神分析的方法だと思って見れば不手際あるいは不細工に見えたかもしれませんが、それは見る方が間違っているのであって、ベネディクトがくだらない事をしたのではありません。
第2点に移りましょう。ギアーツが引用したミードの文は、本当に「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」でしょうか。そのように見えるのは、ベネディクトの物事を分析する能力が他の人々(たとえばゴアラー)と大差ないという前提を認めた場合に限られるのではないでしょうか。その前提を疑わない人がその引用文を読むと、1942年にゴアラーが言い出した説をベネディクトが剽窃し、それをミードが暴露したのだと思うかもしれません。しかし、先ほど筆者が指摘した事 ― ゴアラーの能力がベネディクトと比較できるようなものでなかったこと ― を知っている人はそう思わないでしょう。仮にゴアラーが天皇に関して言った事が後にベネディクトによって『菊と刀』に掲げられた事と外見上似ていたとしても、その各々を支える理論の強さが比べものにもならないことは明かです。
こう考えると、ミードが書いたのはやましい行為の暴露ではなく、単なる事実の記述にすぎません。一見同じ趣旨の記述がされているように見えても、ゴアラーが書いたものは理論的裏付けが貧弱なために読者に不快感を持たせ、反発されたが、ベネディクトが書いたものはしっかりした理論的裏付けを伴っているので歓迎されたのです。こういう場合に、たとえゴアラーが先に書き、ベネディクトが後から書いたとしても、ベネディクトがゴアラーの業績を盗用したかのように言うのは正しくありません。ある言明が理性によって裏付けられたものであるか否かは、学問の世界では決定的に重要です。しっかりした根拠を伴わずに書かれたものと、それを伴ったものとの間には、ガラスとダイアモンドほどの違いがあります。ミードはそのことをよく知っていたと思われます。だからこそ彼女は Anthropologist at Work を「聖者伝的」に書いたのであって、ギアーツによって引用された部分もその基本線を踏み外したわけではないのです。それでも、ベネディクトの能力が他の人々のものと大差ないという偏見を持っている人の目には「憤慨した、そして怒りに満ちたとさえ言える調子」に見えたのかもしれません。
このように、ギアーツは『菊と刀』に対して大きい誤解をしましたが、一方では、他の人ではできないと思われる高い評価を与えました。全体としては、彼は『菊と刀』を肯定的に読んだのです。
  
「愛玩」/ 安岡章太郎の「戦後」のはじまり

 

「神話」が砕け散る虚しさ
「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び成年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。そしてそれらの作品を大まかにわけると、「戦中の時代を書いたもの」と「戦後の時代を書いたもの」に二大別できるのではないかと思う。
前者に該当する作品は、「宿題」(1952年発表・「文学界」)「悪い仲間」(1953年発表・「群像」)「蒸し暑い朝」(1961年発表・「中央公論」)「遁走」(1956年発表・「群像」)「相も変わらず」(1959年発表・「新潮」)「肥った女」「青葉しげれる」(1958年発表・「中央公論」)「サアカスの馬」(1955年発表・「新潮」)「質屋の女房」(1960年発表・「文芸春秋」)などであり、後者を代表する作品は、「陰気な愉しみ」(1956年発表・「文学界」)「ハウスガード」(1953年発表・「時事新報」)「ガラスの靴」(1951年発表・「三田文学」)「ジンゲルベル」(1951年発表・「三田文学」)「雨」(1959年発表・「文學界」)「サアヴィス大隊要因」(1954年発表・「新潮」)「海辺の光景」(1959年発表・「群像」)「軍歌」(1962年発表・「新潮」)「家族団欒図」(1961年発表・「新潮」)「愛玩」(1952年発表・「文学界」)などであると考える。
後者の作品の中から、この論文では「愛玩」を取り上げ、安岡氏はいかにこの作品をもって自分の中の「戦後」をシンボリックに表現しようとしたかを探ってみたいと思う。
安岡章太郎の作品のほとんどは自分自身の自伝を題材にとり、それをほぼ忠実に語るものであり、誰の目から見ても、「私小説」的な要素に満ちているが、「私小説」という評価の枠内におさまるものではない。「愛玩」やその他の多くの作品にはその深い想いや主張がシンボリックな形で表現されている。私は他に安岡章太郎の 二つの作品を分析し、その中に含まれると思われるアレゴリーを取り上げた。
この二つの作品とは、「宿題」と「肥った女」である。「宿題」を取り上げたとき(1)、「父親の不在」というテーマに焦点をあてながら、特に戦争ドキュメンタリ映画上映の場面に出てくる数多くのアレゴリーを分析してみたし、また「肥った女」の論文(2)でも女郎の街が「幻想の世界」もしくは「非日常の世界」のシンボルとして象徴されたのではないかという読み方に立って論じた。同じように、「サアカスの馬」や「蛾」や「ガラスの靴」などの場合も、アレゴリーやシンボルが使われていると思われる。
つまり、シンボルもしくはアレゴリーを使って「戦争」に対する自分の心中を述べるのは安岡章太郎のそのころの複数の作品の共通点といえよう。
安岡章太郎はこれらの一連の作品を通して自分の胸の奥深くに秘められたある想いを伝えようとしている。そういう印象がすこぶる強い。そしてその内容は安岡章太郎の「戦争」に対する自分の複雑な想いに他ならないと考える。
安岡章太郎は学徒兵として戦争の緊迫した空気を味わい、敗戦の苦さも味わった。これは私自身が少年・青春時代を過ごした状況と、国と文化と歴史は異なるものの類似なる部分が多く、そのような経験から、「戦争」というものが安岡氏の文学世界においては如何にもとても大きなテーマであり、殆どの作品に奥深く根ざしているものでとても重みのあるものだと充分認識した。「愛玩」を4年ほど前にはじめて読んだとき、私は30年ほど前の第三次中東戦争の「終戦」の日を思い出した。
そのとき自分は小学校5年生の10才だったが、その日の出来事は昨日のようにハッキリと覚えている。戦争が勃発して6日目のことだったが、その日の朝から夕方までラジオから流れてきた軍事声明の内容はたった一つで、「我がエジプト軍が攻防戦をあらためるため、シナイ半島からスエズ運河の西側へ撤退し防御線を固めようとしている」というのであった。私を含めて家族やまわりの隣近所もマサカと思ってラジオに耳を当てながら固唾を呑んでいた状態。
この戦争がはじまる前まで、新聞やラジオやテレビそして学校の先生もすべてが「ナセルや中東最強のエジプト軍の絶対勝利」の話を毎日のように何度聞かせてくれたことだろうか。私たち子供から大人までラジオから流れてくる軍歌と合わせて声を上げてどれほど歌ったことだろうか。しかしその6日目の夕方に、テレビの画面にナセル大統領が登場し緊急声明をしたことで、今までの「神話」が嘘のように一瞬にして砕け散ってしまったのであった。
当時47才の若さのナセル大統領の顔は70才の疲れきった老人の顔にみえた。敗北そして辞任の声明を発表する前に、すでに私はその顔を見ただけでその悲劇の真相を悟ってしまった。声明発表のときなぜかテレビ画面の調子が急に悪くなり、映像が斜めに歪んでしまった。親父が必死に幾ら調整のつまみをいじっても画面の映像は一向になおらない。
これまで教祖様のように信じて愛しつづけてきたナセル大統領のあの歪んだ顔は、言い表せないほど私に大きな衝撃を与えてしまい、消えることのない深い悲しみを胸に植えつけられてしまったのであった。大統領の敗北・辞任声明が終わった瞬間、窓から暮れていくカイロの空を涙ぐんだ眼で見上げると、その空は対空砲から打ち込まれ破裂した無数の砲弾によって真っ赤に燃え盛っていた。
私はその日からあらゆることに対して不信感をいだきはじめ、そしてそれが私にとっての「戦後」のはじまりであった。そのときからまたなぜか両親の仲が悪化してしまい、家の空気は熱っぽく重苦しくなってしまった。これも私にとっての「戦後」を一層耐えがたいものに作り上げてしまったのであった。
しかし不思議なことに、私を含めて殆どの当時のエジプト人は自国の敗北の悲劇をただ嘆き悲しむばかりでなく、いつかそれが一種の滑稽さに変わってしまい、エジプト軍の圧倒的な敗北は沢山の小話のネタになった。言い換えれば敗北の悲劇を乗り越えるために、皆はそれを自嘲的に扱い批評したり笑い飛ばしたりしたのである。そのとき自分は、悲劇の極限に達するとそれが皮肉や滑稽にさえ変わってしまうと思うようになった。「愛玩」を読んだとき、以上述べた思い出が30年間という深い溝を一瞬に飛び越えて眼の裏に噴水のように吹き出してしまったような感じであった。以上の個人的な体験もあって本論文では安岡章太郎の「愛玩」を取り上げようと思う。
状況や経緯などが違っても恐らく安岡章太郎は「戦後」つまり日本の敗北の悲劇によって大きな衝撃を受け、支配階層をはじめ身の周辺のものや親までにある種の不信感を抱きはじめ、そして悲劇の極限に達したところでそれがある種の滑稽さや可笑しさに変わり、自虐的に自嘲的に沢山の作品を書き出すようになったのではないかと思われる。いわば、彼の作品は、自虐的、自嘲的な主人公の立場から、「時代」の不当さを笑いとばす批評をふくんでいる点に特徴があると思われ、そして、このような彼の姿勢は、肉親や家庭生活をモデルにした沢山の自作に一貫してみられるところである。
そして、「愛玩」を取り上げるには、より大きな理由がある。エジプト人やアラブ人は第二次世界大戦やその後の日本の社会や政治の行方に対してすこぶる興味を持っていて知りたがっている。アラブ人日本研究者の第1世代である私と数少ない仲間にもそれに応える義務のような気持ちが働く。政治でもなく経済でもなく、文学を専攻する自分としては、その過程を語る日本文学、強いて言えば「戦後文学」と呼び得るものから代表作品を選び、紹介したいと考えている。そのひとつとして「愛玩」を選ぶに至ったわけである。
では「愛玩」という作品は、安岡章太郎が書いた作品、特に「戦争」を伏線的なテーマとしてもつ沢山の作品群の中でどう位置づけられるのだろうか。
安岡文学を形成する大きな要素としての「戦争」
序で述べたように、「戦争」というテーマは安岡章太郎の少年時代及び青年時代そして父親が亡くなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。
[1] 安岡章太郎は幼い頃から軍医を務めていた父の仕事の関係で、軍隊のある町を転々と移っていく。
安岡が9才になるまで4年間ほど父親の勤務先である朝鮮に留まり、11才のとき(つまり1931年)父と別れて母親と一緒に東京の赤坂区へ移る。彼は少年時代に6回もの転校体験をした結果、結局学校嫌いになってしまう。その傾向がずっと尾を引いて入隊するまで続くのであるが、勉強嫌いで学校をさぼっては不良仲間と一緒に色々な冒険をしながら、ところどころ戦争をそれとなく皮肉って言ってみたりする。それは、「宿題」「悪い仲間」「青葉しげれる」「サアカスの馬」「肥った女」「質屋の女房」「蒸し暑い朝」などの沢山の作品に見られる。
つまり、日本は戦争の緊迫した空気にあった最中、軍人であった父の絶え間ない転勤のおかげで安岡や母は、それに引きずられ振り回された。安岡は生活の安定を失った上、繰り返される転校のことで学校嫌いになり、仲間をつくることもできないので段々閉鎖的になってゆき、逆に母親の存在がそのころの自分の人生の大きな部分を占めるようになっていくわけである。
そこからおそらく彼はそのような状況をもたらした軍隊という父の属するものに対して嫌悪感を抱くようになり、従って戦争そのものに対しても反発を感じたのではないかと思う。自分の小学校時代の勉強嫌いな様子を描いた「宿題」などを読んでいくと、軍人である父の「不在」が如何に影響して彼の心の中の孤独を増したことがうかがわれる。ところどころ「戦争」が彼の視界の中に入り込み、皮肉られているのは、以上に述べたような心境によるものではなかろうか。
[2] 「戦争」に対する安岡章太郎の複雑な心境を生んだもう一つの原因と思われる要素には入隊経験がある。戦局が日本の不利に動いていくなか、安岡は1943年12月に第一回学徒兵として入隊した。そのころ、日本軍はすでにガダルカナル島を撤退していた。そして翌年の3月に彼は東京第六部隊に現役兵として入営し、ただちに満州第981部隊要員として北満孫呉へつれて行かれた。
その年の8月に彼は胸部痴患で入院した。ちょうど入院の翌日、彼が属した同部隊はフィリッピンへ移動したが、レイテ島では全滅してしまった(3)。一見して彼が病気になったおかげで助かったというふうに見られるであろうが、仲間全員が戦死しながら自分だけ奇跡的に助かったことはとてもショッキングな出来事であり、彼のこころに大きな暗いかげを投げ落とした。この点について村松定孝氏は、「(安岡章太郎の)同世代の多くの若者たちが戦争で散っていったことに対する、つまり死にそこなった悔恨と羞恥がつきまとっている。
(中略)どうして不当な戦争で生き残ったことが侮いられたり、恥ずかしかったりするのか。(中略)これは戦中派にしか理解できない、口にしてはならぬ、言葉にできない辛さ」である、と言っている(4)。おそらくそれが戦争が終わってもずっと尾を引いており、安岡章太郎のこころの中に戦争のイメージを作り上げるのに大きく影響しただろう。したがって安岡文学においても決して無視のできない跡を残したはずである。
[3] 安岡章太郎は翌年、つまり1945年3月に内地送還になる。同年7月に、彼は金沢の陸軍病院で現役免除になったが、その後、東京の家は戦災で焼け、同年10月(終戦後)に、藤沢市鵠沼に住みはじめる。彼はそのころ脊椎カリエスになるが、医療費不足のため医者にはかからず寝たきりの生活になる。これが「愛玩」の背景をなす。そして体の調子のよいときは進駐軍へ労務者として働きにいく。
これが「ハウスガード」「ガラスの靴」などの背景となっている。このように彼がまた脊椎カリエスになって長い間、闘病生活を送ったことがたまたま敗戦の状況と重なった。これもまた「戦争」に対する彼なりのイメージを作り上げるのに大きな要素として働いたであろうし、さらに彼の文学に大きな影響を及ぼしたに違いない。
安岡や同世代の若者がずっと信じきってきた沢山の物事が敗戦によって嘘のように見えてしまったことは、まわりのすべてのもの、そして自分自身に対してまで、ある種の癒しがたい「不審」を抱かせてしまったと思われる。こうして安岡はその後ギブスのコルセットを胴に付け、数年間、動きの不自由な生活を送りながら、敗戦後の混乱した様々な状況をくぐり抜けながら筆を取って作品を書きはじめるわけである。
言い換えれば、安岡は背中を患ってほとんど寝たきりの状態になったおかげで、逆にある意味の余裕を持って今までのすべてのことに思いをめぐらすことができるようになり、自伝的なスタイルで自分や自分の家族をモデルにした作品を書くことが可能になったのである。
[4] もう一つ取り上げるべき要素は父親の戦場からの帰還とそれを伴った安岡の複雑な心境なのである。終戦の翌年、つまり1946年になると、安岡章太郎の病気が悪化してしまう。同年の5月に、軍医を務めていた父は南方(シンガポール)の捕虜収容所から復員した。しかし父の様子もおかしく、生活能力もなかった。別な言い方で表現すると、「父親にとっての$後とは、敗戦によって生活の手段を失った元職業軍人の生活ということである」。
但し、父親の生活能力喪失よりもむしろ父親の「不名誉な帰還」の方が安岡章太郎にとって大きな衝撃だったのではないかと思われる。敗戦とともに、安岡氏は母親と二人で、知人の家などを何軒も泊まり歩いて暮らしたり、軍隊で患った病気でほとんど起きて歩くことさえ出来なかったり、あらゆる物資が不足して、生活の不安は戦時中の何層倍も大きくなったりした。しかし空襲がなくなり、軍隊もなくなったというだけでも安岡氏は「気が楽になり心がひらいて、何か手枷足枷をはずされたような軽々とした心持になった」と書いてもいる。
このときまで安岡章太郎にとっては、本当の戦後の悲劇は実感されていなかったとも言えよう。父親の生存が確認され、日本への帰還は時間の問題だと安岡章太郎も母親も安心して安穏な日々を送っていた。父親が帰還したときのことを安岡氏は次のように語っている。
しかし、この異様なほど明るい気分は、ある日、突然、かき消された。父の帰還は戦争が終わったときから当然予期されたことだし、復員局からも事前に報せがあって、母もそれなりの準備はしていた。しかし、その日、昼すこし前に玄関の戸のあく音がして、そこに階級章を剥ぎとった軍服姿の父が立っているのを見たとき、私は突然戦後見つづけてきた平和の夢が音もなく消え去るのをハッキリと悟られた。
シナ事変以来、10年近く不在だった父は、私たちにとって不意に訪れた客人のような存在だった。(中略)父は明らかに以前の父ではなくなっていたのだ。

以上述べた四つの状況をもとに「戦争」というものに対する安岡章太郎のイメージが作り上げられ、作品中にそれが表現されていくのである。「愛玩」もまた、他の作品と同様に、そのイメージをシンボリックに結晶させて表した作品である。そして「愛玩」という作品には、上に述べた四つの要素の中で、彼に一番強烈なインパクトを与え、「戦後」のはじまりを形作ったと思われる父親の不名誉な帰還とそのだらしない無能力、また寝たきりの自分自身のだらしない無能力が最も強く表されている。
「戦後」の意味・「敗戦の後遺症」
ここであらためて安岡章太郎の作品群の中に表された「戦後」の意味を考えてみるなら、それはなによりも「敗戦の後遺症」であろう。そして「愛玩」という作品は、その意味で、安岡章太郎個人にとっての「敗戦の後遺症」であり、また「日本」にとっての「敗戦の後遺症」をたくみに表現していると思われる。それは「愛玩」の対象、つまり「ペットの兎」に象徴されているように思われる。
父親の不名誉帰還と「戦後」のはじまり
まず、父親の不名誉な帰還や彼の生活能力喪失及びある種の発狂をあらわす幾つかの段落を以下に引用する。
軍人だった父は獣医官だったのでどうやら戦犯にもならず、無事に南方から引き上げてまる4年になるのだが、あちらでの占領期間中よほどおどかされたらしく、ぶん殴られることを警戒して、この鵠沼の家の門から外へはほとんど一歩も出たことがない。
また父は戦場生活の影響で自分に必要とするものは何でも宝物にしてしまいこむ。(中略)欄間や天井や電灯のコードがクモの巣に覆われているのは云うまでもないが、その上に白い細かいカビの花のようなものがまつわりついている。
この鵠沼海岸は波が荒く風が強いことで有名な土地だが、舞い上がる砂煙のなかで「ひえーッ、ひえーッ」というカン高いかけ声とともに、踊り狂う人のようにクワをふるっている父の姿は、やりきれない徒労の孤独と絶望とに僕を追いやる。こんなにして芝をはがしてみても雨が降れば必ず水びたしになって、何もとれない畑にしかならないと云うのに。そしてまた、となりの部屋からは父と母とのイビキの合唱や、たわけた寝言。
・・父は突如、馬のいななくような笑い声をあげたかとおもうと、「オキキモモ」と大きな声でさけぶ。これはよくきくと「おチチのむ」と云っている。(中略)最初僕は、戦地からかえってきた父のネゴトを、働きたくないための僕らに対する欺瞞の煙幕かと思っていた。だが、滋養のために僕がドライミルクをのんでいるのを、そばでシンから欲しそうに見つめているところをみると、そうではないらしい。などのような段落が認められる。
母親の「発狂」と「戦後」のはじまり
安岡章太郎にとってのもう一つの決定的で悲しい「敗戦の後遺症」は、母親の精神的な異常の発生だった。その経過は「愛玩」にはじまり、「海辺の光景」の母親のドラマティックな最期でおわる。「宿題」や「悪い仲間」や「青葉しげれる」など、つまり「戦中」を時代的な土台にした作品では母親は恐ろしくてしっかりしたイメージで登場する。「戦後」まもなくの時代を舞台にした「愛玩」では、それが変わり果てている。一見皮肉で滑稽に描写されているものの、その描写の隙間から安岡章太郎の悲しみや虚しさが感じ取れる。母親のおかしくなった様子を描いたふたつの段落を引用してみよう。
母は、父とちがって社交的であったから、こんな時代には大いに活躍するにちがいないと期待されていたのだが、サッカリンの行商をやって忽ちしくじってしまった。イカサマ物を近所の人に途方もない値で売ってしまい、それ以来配給当番になっても疑ぐられるしまつである。その結果彼女もまた、おそろしいインフェリオリティ・コンプレックスに陥って、あらゆることに全く自信を失い、何より困ったことに金銭の勘定がおぼつかなくなって毎日のちょっとした買い物にも、商人に財布をわたしてその中から代金を受けとらせなければならない程だ。
人は茶箪笥の中からノコギリが出てくるのを見て驚くであろう。これは母が狂った連想でカツブシ削りとまちがえたためだ。
安岡の病気悪化と「戦後」のはじまり
一方、「僕」つまり安岡は戦争が終わってから自分の病気(脊椎カリエス)が悪化してしまい、「愛玩」では上半身をギブスのコルセットに固めて、敗戦の後遺症を背負ってまったく能力を失った存在として描かれている。この3人の「敗戦の後遺症」をこうむった様子をもっとも的確に描いたのは次の段落である。
こんな生活能力を徹底的に欠いた人間ばかりが集まっている一家の混乱は、見た人でなければちょっと想像もつかないほどだ。
ここには正に一家3人の悲劇が浮き彫りにされている。このような一家3人の家へ、途方もない訪問者がやってくる。それは何より父親が連れ込んできたあの二羽の白い兎であった。父の計画は、獣医である自分の本職の技術を発揮し兎を飼ってはその毛を売って一家の経済的ジレンマを挽回しようというのであった。
父は「これであと半年もすれば、月々8000円もうかるんだ」と期待をかけたり、母はその父の発言を聞くと、たまげて歯のない口をあけて、まるで幼児が見たこともない大きな砂糖菓子をあたえられた顔をして、嬉しさのあまり笑いが止まらなかったり、一方「僕」ときたら始めはペットが嫌いで人の肌におしつけてくる獣を愛する人の気さえ分からないが、畳の上にじっととまって眼を赤く光らせている例の兎を見たとたん思わず「可愛いな」と言ってまわりが明るくなったと思ったりして、3人はその訪問者に対して期待や楽しみを抱きはじめるのである。
しかしその家で兎が生活を送り出すと、先ず「僕」にとってはその楽しみや明るさの雰囲気がどこかへ飛んでしまい、火に油を注ぐような感じで自分の背中の痛みやかゆさがエスカレートしていくばかりであった。次はこの様子を表す幾つかの条である。
だが、ふと僕は畳の上に黒いコロコロした玉をみつけた。それは点々として部屋中いたるところに撒き散らされている。恥知らず、とはこのことであろう。ぴょんと一とはねするごとに、ポロリポロリと黒い玉を股の間からおとしながら、二匹そろってテレるでもなく、媚びるでもなく、ウサギはじつにシラジラしさそのものの表情である。馬鹿みたいに赤い眼をポッカリあけたその顔に、僕はわるい予感がした。
ウサギはひる寝て、夜暴れる。ガリガリ檻の木をかじる音や、床板をバタバタふみならす音(中略)、排泄物の流れる音、これらの騒音が闇のなかから不規則に、そして絶え間なくきこえてくるのだ。僕は夜半に、枕もとから駆け込んだ物凄くずう体の大きなネズミに足か頭かを齧られている夢で眼をさます。(中略)こんどは本物の魔物が僕を食いにやってくる。(中略)すると身体につけているかぎりのものが僕をガンジガラメにしはじめる。ギプスをはずしてシャツをめくって、ぽりぽり背中を掻いてみるがムダだ。クスグッタさは奥の方へ逃げ込んでしまう。
騒音にかこまれた暗闇のなかで、不眠のため一層神経質になった僕は、自分の身体が内側と外側と両方からばらばらになって溶けてしまいそうな気がする。(中略)背中のクスグッタさはますますひどくなる。そいつが無秩序な部屋の、ホコリや、ボロ布や、鼻汁だらけでほうり出してある紙クズや、そんなものから沼地のメタンガスのようにブクブクわき上がっては、みな僕の身体のなかに這入りこむらしい。
掻けもしない奥の方にあるクスグッタさを我慢するために、僕はただ満身の力をこめて体を硬直させている。
それで、とうとうウサギどもは座敷で僕らと雑居するにちかい状態となってしまった。家全体はまさに家畜小屋だったが。
・・・そのため家中には昆虫類、ナメクジ、ミミズのたぐいがおびただしく棲息することとなった。畳の上のそこここにソウスや、みそ汁だらけになった虫が這っている。
これらの条を読むかぎり、いかに「僕」にとってはウサギの存在が大変な迷惑であり自分の病気を悪化させる憎い存在へと変わってしまったことがうかがわれる。
また「僕」から見ると、この憎いウサギのおかげで折角一時期父が一家を救うために見せはじめた頼もしい頑張りぶりが、いつか「僕」をイライラさせるばかりに変わり、父は気がおかしくなったように見えた程である。この様を表す幾つかの条を引用しよう。
鼻の穴に白いウサギの毛をからませて、呼吸のたびにそれがヒクヒクゆれているのも知らぬけに、前歯を動かしながらものを食っているときなど、だんだん父の顔からは人間風なところが消えてゆくようだ。
皿にも鍋にも、あらゆる食器という食器には、食い残りの汁や、魚の皮や、茶のカスなどが入っている。父はすべての食べ物の栄養分析表を暗記しているので、頭の中にあるそれらのヴィタミンや熱量の数字が水といっしょに流れだすのを惜しんで、どうしても食器を洗わせないのである。
おまけに彼はお膳で年中、眼をキョロキョロさせながら僕らが何を食べ残すかを見張っている。
父のモクロミというのは、人間の頭髪のなかにある或る栄養分を抽出して、これをウサギに食べさせることによって、兎毛の成長をうながそうとすることであった。(中略)ときどき独り言みたいにして、「床屋へ行けば髪はたくさんあるのだがなァ」といっていた。(中略)夜など僕が寝ていると、どことなく陰険な眼つきになりながらそばへよってこようとする傾向がある。とうとうある晩、父はたまりかねたように自分の頭をゴシゴシ掻きながら云った。「お前の頭、ずいぶん毛があるなァ」。思わず僕は両手で頭をおさえた。
またウサギが家に棲息しはじめることによって、母親の関心は全部その訪問者に注がれ、母親の可笑しい行動がエスカレートしていくばかりであった。母親は主人の発想に同意し、「家」を襲った貧窮という苦しい敗戦の後遺症から立ち直るために、彼女はそのウサギに期待を託すわけである。彼女はその目標を果たすため父と力を合わせて一生懸命に色々な種類の餌を工夫してはウサギにやったりした。しかしその必死な様子は「僕」の眼には、いつしかある種のヒステリックもしくは発狂にさえ映っていた。母親のそういった様子を表す幾つかの段落を引用しよう。
「これであと半年もすれば、月々8000円もうかるんだ」と云った。それを聞くと母は「おッと、・・・」とたまげて歯のない口をあけて、まるで幼児が見たことのない大きな砂糖菓子をあたえられたような顔をしていたが、やがて父の「一年の収毛量がいくらで、それによって得られる毛糸が何ポンド、布地が何ヤード、・・」といった話がはじまると、もう笑いがとまらず・・・・」
おまけに彼(父親)はお膳で年中、眼をキョロキョロさせながら僕らが何を食べ残すかを見張っている。・・このことは年をとって台所仕事をメンドくさがる母の不精をますます助長した。実際母にとってこんなに都合のいい口実はなかった。茶ワンや皿は汚れたままほうっておけるし、おかずはマズく味をつけるほどウサギの餌になるものがふえて、よろこばしいというのだから。
母はまた、子ウサギを見たとたんから、あらたな母性をよみがえらせた。毛のムクムク生えた小さな動物を四六時中抱いて、胸をひっかかれるのもかまわず、ふところへ入れて寝たりする。そして僕が赤ん坊だったころのことを、ウサギに話しかけでもするように、くりかえしくりかえし子供の言葉でつぶやいている。
こうしてみると、ウサギは最初、一家の救世主にすら見え、そこで両親はその救世主に回復の期待をかけ、力を合わせて育てていくという筋がはっきりうかがわれる。通常たかがか弱い、小さい存在だが、こういった危機のときであればこそ期待をかけられ頼られる。敗戦の犠牲になって生活能力を失った家族3人は、もはや資産だけでなく気力や希望さえ失い、敗戦の後遺症に悩み果てていた。
皮肉なことに3人は敗戦の後遺症を乗り越えるための気力や希望を、その小さな存在に求めようとするのである。しかし、しばらくすると、それが逆に裏目に出て、「僕」の病気がそのおかげで悪化したり、父もおかしな行動を起こし、途方もない寝言を発したり、母も気が狂ったような態度を見せて前より肥ってしまったりして、あげくの果て父も母もウサギにほとんど顔まで似てきてしまう。そして「家」といえば、ほとんど「無秩序」の状態に変わり果ててしまう。つまり「敗戦の後遺症」がさらに深刻な状態になってしまうのである。
「愛玩」・自信と希望の回復
そしていよいよ一家の深刻な状態のクライマックスがやってくる。折角皆がいろいろな犠牲を払ってウサギを繁殖させ、いよいよウサギを売って甘い汁を吸おうとしたのだが、ところが、こんどはウサギの毛皮が流行らなくなり、仕方なく途方もなく安い値段で仲買人に売らなくてはならなくなってしまう。一家全員の努力は一夜にして水の泡同然に挫折してしまうのである。「戦後」つまり「敗戦の後遺症」を絵に画いたような、なんとも虚しい状態が訪れるのだ。
仲買人が家へやってくると、もはや邪魔で「無用」なウサギに対して「僕」は、「僕にとっては、そんなことはどうでもよかった。いまは何を置いても、この無用の長物を整理してしまう必要がある。うまく料理してくれるなら僕自身が食べたってさしつかえないところだ」と思ったり、一方母親は、
毎日買うオカラのために着物を売ってしまった、とことごとにグチをこぼしだした。彼女には絶えず、畳の上を這っている獣がモグモグと着物を食っているところが見えるらしかった。以前には、こんなにハッキリとショールや手袋を吹き出しているところが見えていたのに。「チュウ、チュウ」という鳴き声に交じって、いまは老婦人のヒステリックな声がしょっちゅうきこえる。まあ、また、こんなところにオシッコをして・・・と、一刻も早く、この役立たずの嫌でうるさい小さな生き物を厄介払いにしようと思う。ウサギを買いに来た仲買人もこのウサギたちを見下げて小馬鹿にするばかりであった。彼は、ウサギ一匹を背中の皮のところから摘んで宙につり上げながら言った。
しろうとは、みんなひっかかるですよ、これに。(中略)誰でも最初は馬か牛をほしがるですが、それが買えないのでブタで我慢しようと云うことになる。ここまではまァいいが、これも買えないとなると次がウサギだ。(中略)まァだんなも気を付けなさい。ウサギなら食えもするがモルモットとくると食えないからね。もっとも、このアンゴラてェやつは食ってうまい肉じゃねえが・・・と。しかし背中の皮からぶら下げられたウサギは、自分が小馬鹿にされていることが分かったかのように馬鹿力を発揮してもがきだす。ウサギは突然虚空に肢をふんばると、仲買人の腕に噛みついた。これは「僕」をはじめ、父も母もびっくり仰天した。「僕」は思わず「もっと噛め」とこころにつぶやく。
この段落には注目すべきだろう。なぜなら、ここは、安岡章太郎の他の作品、たとえば「サアカスの馬」や「蛾」のいくつかの段落に酷似しているからだ。まず「サアカスの馬」(7)の場合は次の段落がある。
あの曲がった背骨をガクガクゆすぶりながらやってくる。鞍もつけずに、いまにも針金細工の籠のような胸とお尻とがバラバラにはなれてしまいそうな歩き方だ。・・・しかしどうしたことか彼が場内を一と廻りするうちに、急に楽隊の音が大きく鳴り出した。と、見ているうちに馬はトコトコと走り出した。(中略)おどろいたことに馬はこのサーカス一座の花形だったのだ。人間を乗せると彼は見違えるほどイキイキした。(中略)あまりのことに僕はしばらくアッケにとられていた。けれども、思い違いがハッキリしてくるにつれて僕の気持ちは明るくなった。(中略)僕はわれにかえって一生懸命手を叩いている自分に気がついた。
また、「蛾」(8)では次のような段落がある。
・・春吉氏(医師)がボール紙の筒を私の耳にあて、懐中電灯で誘導すると、まるで涕をかむより簡単に、長さ二3分の小さな蛾が飛び出したのである。どうせのことにそれがヒラヒラと飛びつづけて窓から天に昇ってくれれば、まだよかった。・・・・しかし、蛾は急に明るいところへ出たためか、とび出すや否や床の上に落ちた。(中略)そんな話を退屈な思いで聞きながら、ふと足もとを見ると、蛾は灰色の翼を重そうに垂れて、それでも脚をときどきヒクヒク動かしている様子であった。
以上の二つの段落に、共通するポイントは、これまで弱そうで無力そうでどう仕様もなく思われた存在が急に逆転し、驚くほどの元気のよさや生命力を発揮するということである。また、そうされることによって語り手は、それまで馬や蛾を見損ねていたことに気づき、その弱そうな存在を見直し、こころの中で応援し励ますようになる。
「愛玩」の場合も同じことが言えよう。それまでうるさく、無用であり、さらには自分の体に悩みをもたらしさえするウサギが、小馬鹿にされた挙げ句に、急に踏ん張りだして想像を絶するほどの生命力や根性を発揮するのである。「蛾」の語り手が自分の耳の奥に3日以上住み着いた憎い蛾が、出てきたときに蛾のしぶとさや生命力に対して同情し感動したとき、そして憎たらしいウサギが仲買人の手を噛んだとき、おそらく語り手のこころの中では自分自身の姿が馬や蛾や兎の姿と重なり合い、弱者で負け犬で自信喪失のどん底に陥っていた自分にも救いがあるとさとり、自信を取り戻して、気力や希望を回復するのである。
結局ウサギは、「敗戦の後遺症」に悩まされ、病気や不名誉や狂気そして貧窮の餌食になり、自信喪失をし、生活能力を失った語り手一家に気力を取り戻させ、希望を回復する大きなエネルギーを与えてくれるのである。
日本国民の戦後回復・日本精神発揮への期待
仲買人はウサギに噛まれると、彼は反射的にウサギに自分の怒りをぶつけて「ちくしょう」と叫びながらウサギをふりまわす。そして、その頭を縁側の柱にぶつけてしまう。その瞬間、骨の割れるような物音がした。普通ならそのような小さな生き物はその衝撃でひとたまりもなく死んでしまうのであるが、まもなく、ウサギは何も見えないような赤い眼をまるく開けて「僕」たち3人家族の方を見ていた。ウサギの眼はそのとき、まるで3人に、「おれは死なないぞ、君たちも頑張れ」と訴えたような感じに語り手には映ったのではないか。次の段落では、仲買人がウサギたちを次つぎに竹籠の中へ詰め込み、自転車に乗って庭の門へ向かっていく。そして最後の段落は次のように書かれている。
籠はふたを閉じた上にホソビキがかけられた。けれども竹の編み目からは白い毛がはみ出して、それ自身生き物のように動いていた。(中略)不思議にそれだけが、決して腐らず、いつまでも生き残っているウサギ専門の飼料の、ジュットクソウとリュウゼツナとがツルや葉を思いきりのばしている庭の畑の彼方に、門の方へ消えて行く仲買人の自転車を、僕たち3人は、おたがいに一言も口をきかずに見送った。
この条からは、次のようなことが読み取られよう。
[1] 竹籠の編み目から靡くウサギの白い毛は死におもむく、にもかかわらずしぶとく、明るく生き抜く合図であるかのように感じられるだろう。
[2] 「僕」は、父がおどり狂う人のように鍬をふるって畑を耕し、ウサギたちの餌になる草を植えようとしていた姿を、はじめは「やりきれない徒労の孤独と絶望」というふうにしか見ていなかったが、その草だけが「けっして腐らない」と思ったことは、戦場からの不名誉の帰還をした父の「敗戦の後遺症」からの回復への努力が、けっして水の泡のようなものだったわけではなく、明るい未来への希望につながるものに思えたことを示していよう。
[3] つまり、これまで親子3人の間は、長い戦争中やその敗戦後まで互いにいろいろな複雑な感情が入り乱れ、そのせいか、あきらめや自身喪失や反発などの想いに悩んでいたが、ウサギが3人の生活へ飛び込むことによって3人はそのおかげでまとまり、家族の絆をしっかり確かめ合い、そして「敗戦の後遺症」から立ち直る希望や勇気や根性を持つことになる。

以上が短編小説「愛玩」という全体のモチーフをシンボリックに示す場面である。しかしこの小説にはそれ以外にもシンボリックな記述が幾つか拾える。
ウサギは「チュウ、チュウ」と云って鳴くのである。この鳴き声をきくと僕はなんだかガッカリする。陛下のお声をはじめてラジオできいたときのような、あの空しさがやってくる・・・
そして、あんなに重そうな音をたてて暴れるくせに、何だってあんなタヨリない声で鳴くのだろう・・・と、「僕」が感じる条である。
私は先ずこの文章を読んで自分の記憶に眠っていたあの30年ほど前のナセル大統領の敗戦・辞任声明が亡霊のように蘇ってきて、安岡章太郎にとっての天皇陛下の頼りないお声の弱さと私にとってのナセル大統領のテレビに移る映像の歪みが重なり合って一層以上の文章のインパクトが強烈なものとなったわけである。ただし、安岡章太郎の「敗戦」の強烈な印象が聴覚的なものであったところに対して、私の印象は視覚的なものであったということが言えよう。
ここで安岡章太郎が敢えてこの小説の題に付けた「愛玩」という言葉の意味が垣間見えるような気がする。「ウサギ」という小さな生き物が日本国民の「精神」そのものをシンボリックに描いているようにさえ感じられはしないだろうか。
付け加えて、ここで想像されることは、父親が最初にウサギをわが家へ持ち込んだのは、その毛皮を売って一家の経済ジレンマを乗り越えようと計画したからであり、ウサギはあくまでも「手段」としてしか思っていなかったことである。つまりウサギは「愛玩」の対象つまり「ペット」として飼われる存在ではなかった。それなのになぜ安岡章太郎はこの小説の題に「愛玩」つまり「ペット」という表現を与えたのだろうか。むしろそこに安岡章太郎の意図が隠されているのではなかろうか。手段としてではなく、むしろ家族3人の愛情に包まれて大事に育てなければならない「ウサギ」とは、何の「シンボル」であろうか。
「海辺の光景」では、父が家の庭で鍬をふるって畑仕事をしたり鶏を飼ったりして家の経済的な危機を乗り越えようと思ったという話は、長々と語られている。しかし「海辺の光景」には、「ウサギ」の記述は出てこない。しかし、「家族団欒図」にはアンゴラの話が出てきており、あるいは父親は実際に兎を飼ったことがあったかもしれない。では、一体なぜ安岡章太郎は「愛玩」で「鶏」ではなく「ウサギ」こそにこだわる必要があったのだろうか。また「アンゴラ」であれば様々な種類の様々な色があるはずだが、特に「白い」ウサギにこだわる必要があったのか。
小説のはじめの部分と終わりに近い部分に「ウサギ」の描写が表れる。まずはじめの部分では、
しかしその家でウサギが生活を送り出すと、まず僕にとってはその楽しみや明るさの雰囲気がどこかへとんでしまい、火に油を注ぐような感じで自分の背中に痛みやかゆさがエスカレ−トしていくばかりであった。(中略)ばかみたいに赤い眼をポッカリあけたその顔に、僕は悪い予感がした・
そして、終わりに近い文章は次のように書かれている。
仲買人はウサギをふりまわすと頭を縁側の柱にぶつけた。(中略)ウサギはそれでも死んだのではなかった。何も見えないような赤い眼を、まるく開けてぼくらの方を見ていた。
この両場面におけるウサギの眼の表情が対照的で180度違って書かれている。ばかみたいに赤い眼をぽっかり開けたその頼り無い顔から、見くびっていたその小さな生き物の眼が今度は真っ赤に燃えて真剣にみつめる顔に変わっている。シロイ兎にアカイ眼、この取り合わせは「日の丸」を思わせるではないか。そして、この眼の描写は小説の内容から行っても「哀願」ともとれる。そのようにいくつかの意味が重ねられたシンボルとして、ウサギの赤い眼を読むことができるのではないか。
もしかしたら、主人公の「僕」を含め家族3人、つまり日本国民が「ウサギの大切な愛らしいその赤い眼」、つまり「赤い日の丸」に自分たちの切実な願いを託し、たとえ小さくか弱くとも、それを信じて一刻も早く自分たちを敗戦の後遺症から立ち直り、明るい未来に向かうことを約束するものとして、この白いウサギは書かれているのではないか。つまり、この「ウサギ」という小さな生き物が、それ自体が日本国民の「精神」のシンボルである「日の丸」を象徴するかのように感じられるのである。
安岡章太郎は戦争のことを皮肉り、いろいろと滑稽に取り上げて書いてはいるが、戦争中から大日本帝国の指導部の姿勢や戦争そのものに対して皮肉で滑稽な想いを抱いていたとは限らないのではなかろうか。彼が天皇をはじめ軍部や古来の日本を支えてきた「精神」、そして自分自身の「自信」に対して彼はある種の癒しがたい「不審」を抱いたのは、敗戦をきっかけとしてであり、そしてそれが「敗戦の後遺症」という形に変わっていったのではないだろうか。彼が腰に付けたあのコルセットの中で何年も背中をかゆく蝕んだあの「虫」が、彼の中にある文学才能をくすぐり刺激を与え、そして、それ以後小説が書きはじめられたのではないだろうか。
「愛玩」における家族はまるで「日本国民」を象徴したもので、そしてその家の「無秩序」は、敗戦後日本を取り巻いた無秩序状態もしくは日本国民の精神的な迷いや乱れを象徴し、その混沌の中へ引き入れられる「ウサギ」に、本来あるべき日本人の精神力が託されていると読むことができるだろう。とすれば、「家」に踏み込んだ仲買人は、「進駐軍」に見立てることができるかもしれない。
確かにウサギが「家」に住み込みはじめたとき一家3人に大きな迷惑をかけ混乱を引き起こしただろうが、最後に同じウサギのおかげで一家3人は一体となり、無秩序の状態になった「家」の秩序回復に向けて立ち直る。これは「日の丸」、つまり日本精神を強調したあげくに敗戦の悲劇を味わわねばならなかった日本国民が、それでも「日の丸」を信じ、そのもとで団結し、敗戦の後遺症を挽回しようとする意味にも通じるのではないか。換言すれば、「愛玩」は日本国民に戦後からの早期回復、つまり「敗戦の後遺症」からの立ち直りを促し希望を与えるものへと、その位置転換をしているのではないか。この点に作品「愛玩」の神髄があるのではないか、と私は考えるのである。
むすび
「戦争」というテ−マは安岡章太郎の少年時代及び成年時代そして父親がなくなるまでの壮年時代を題材にした作品の多くに、背景として取り上げられている。その中から、この論文では「愛玩」(1952年発表)を取り上げ、安岡章太郎はいかにこの作品を以てシンボリックに自分の中の「戦後」を表現したのか、という点を探ろうとする。そこで先ず、安岡章太郎のこころの中に「戦争」のイメージを作り上げただろうと思われる幾つかの要素が取り上げられる。
[1] 少年時代から、軍人だった父親の仕事の都合のせいで転校生の生活を数回も強いられ、結果的に学校嫌い・勉強嫌いになり自分の世界に閉じこもってしまうわけだ。これで彼は軍及び戦争に対して自分なりのイメージが出来てしまったのではないか。
[2] 太平洋戦争の終わりころに入隊をしたときの嫌な思い出。
[3] 敗戦の時期を伴った安岡章太郎の発病(脊椎カリエス)及びその長い闘病生活。
[4] 敗戦後の安岡章太郎家族3人による生活無能力の情けなさ。
[5] 両親の夫婦関係悪化。
[6] 戦場からの父親の不名誉な帰還。
[7] 母親の発狂。
以上の7点の中から、この論文では、特に3点目から7点目まで取り上げてみた。これは「愛玩」から幾つかの引用と照らし合わせながら考えてみた。また、以上の七つの要素をもとに、安岡章太郎の胸の中にある種の「敗戦の後遺症」と呼び得るものができたのではないかと考えた。
結論とするところは、愛玩つまりウサギは日本国民の「精神」をシンボリックに描いていて、安岡章太郎一家3人、つまり日本国民に敗戦の後遺症の早期回復の希望を促すものではないかというのが一つの点である。もう一つの点は、いわばこの作品ではもしウサギが日本精神を表すものなら、これはまた「日の丸」のシンボルではないだろうかという点である。ウサギの白い毛や赤い眼が大事なキーワードではないかと思われる。
 
生と死 / 四谷怪談・イザナギ・イザナミ神話

 

東京新聞夕刊連載企画[生きる/心のページ]は地味だが、中高年にそれなりの固定読者を持っているのではないか?と推察させる記事である。上下で連載された[想像する死と無常]は「死後の救いを願わぬ現代人・生者の都合だけで完結」と「冷徹に生を洞察する眼差し・「私」見失った今こそ必要」。(筆者は廣澤隆之・大正大学人間学部仏教学科教授、智山伝法院院長、八王子市・真言宗智山派浄福寺住職。1946年東京都生まれ。専門分野はインド大乗仏教教理学。著書に「図解雑学・仏教」や難しい名前の本がたくさんある。)
内容は難しかった。約めて言えば、最近は身近な人が死ぬと甘く美しい思い出の世界に行き続ける、という考えが一般的になっているのだが、これは生きている「私」の都合を優先させ過ぎていないかと問い、「生きるために不都合なものを抱え込み、死者との不条理な関係を生きることが見失われているのが現代の文化の特徴かもしれない。」
と言うのだ。「千の風になって」の歌詞への批判である。
「かつては、おどろおどろしい闇の世界から死者が私たちに語りかけてくることが想像されていた。それは数多くの謡曲でも、あるいは卑近な幽霊譚にも見られる。死者の世界を想像することは、生きている自分の根本を問いただすものであった。たとえば四谷怪談では自分の都合で身勝手な生活をする伊右衛門に貞淑な妻であった岩が復讐するのであるが、それは勧善懲悪的な道徳律であると同時に、死者との共存が見失われた生者の生存が危機的になるという宗教性を含みもっていた。」
「死者の世界は生者によって身勝手に想像されるのではなく、深いところで生き方を支える死者と生者の共存が私たちの文化を伝統的に基礎づけていたのではあるまいか。私たちはそのことを凝視することなく、むしろ死を直視する文化を捨て、生きる者の都合のみで完結する消費文明を極端にまで推し進めてしまっている。しかも近代の文明は死の管理を徹底し、もはや死体を直視することもなく私たちは死を想像する。」
として、清潔な病院での死、清められた身体、数日後に死体を火葬し、もはや死体を直視することがない現代では、
「死が嫌悪すべき醜悪な様相をもって私たちに迫らなくなっているからこそ、私たちは死者との交わりを稀薄にしているのではないかと考えられる。」
という。ここまでくると、イザナギ、イザナミを連想するだろう。著者はその話題に入る。
「かつて人は死をまざまざと見なければならなかった。死体は硬直し、次第に腐爛し、むきだしの骨となる。このような死体を見た者は、けっして死者の世界を甘美なものとだけ想像することはできない。それはイザナギノミコトが黄泉の国に死んだ妻を訪うという神話にも見られる。かつて情愛で結ばれた甘美な思い出の中の死者への感情と、他方では現実の醜悪な死を忌避する感情、この背反する感情が同居するにしても、そこに生きる「私」を見つめることを神話は記述しない。死者を直視する「私」が生きることの意味を問う文化は、日本に仏教的無常観が伝えられて著しく展開する。」
仏教の「無常観」を体得するために、釈迦は修行者に死体置き場で死体を直視するよう教えたのだという。そして、林の中で瞑想し、死体を思い浮かべるのだ、という。死体が硬直し、次第に斑点が浮かび、腐爛し、ついには犬やカラスなどによって死肉が食われて骨が散乱する。この過程をまざまざと直視し、林の中の瞑想でそれをありありと思い浮かべるのだ、という。次に自分の死体が同じように骨となって散乱するまでを思い浮かべる。そのようにして無常な身体への執着を離れるとき、修行者は真に無常を体得し、生きるためにかき立てられた欲望を抑制することができるようになる、というのだ。
このような瞑想を「不浄観」といい、「無常観」の一つだそうだ。
「きびしい実践による人間の生死への洞察が無常観なのである。このような洞察を抜きにして無常は知られない。このことを知らなければ私たちは無意味に生と死を繰り返すのみである。」
ところが、次第に日本の文化の展開の中で死を凝視し生を洞察する態度が変容し、はかなく移ろうものへの詠嘆の感情によってイメージされる死が文学的に表現されることが多くなった、という。永遠に生きると思われた釈迦でも老いて死ぬという厳然たる事実を通した「諸行無常」のイメージと現世のはかなさが重ねあわされた詠嘆が「平家物語」だ、という。インド仏教とは違った傾向が日本仏教に浸透している証拠だ、と。「方丈記」もそうだ、と。
「時間の流れを超えた来世に希望を託す浄土往生の宗教感情は、現世に生きることのむなしさをことさらに強調する情緒を強める。だが他方で、現世の享楽にこだわる文化も日本には根強い。現世に生きる価値にこだわりつつ、美文調の詠嘆が美化されると、死のイメージは自然の風物の中に溶け込み、稀薄になる。美しい自然の中で生きることを日本文化の特徴と見る傾向が強いが、そこには無常観のように冷徹に死と生を凝視することもなく、むしろ生と死の密接な関係を稀薄化する傾向もあわせもってしまっているのかもしれない。」
「このことが現代の世相の中で問われる意義があると思う。欲望が渦巻く現世の中で感性に支配されて生きる人間的営みも、そして死後に思いをはせることも、究極的には死に行く存在として自分が今、ここに生きていることを凝視することにもとづく。死に向かって生き続ける「私」を洞察する冷徹な眼差しが現代にも必要なのではあるまいか。とりわけ、科学技術にもとづく消費文明が肥大化し、「私」が見失われ、生と死の共存する文化を失った現代においてこそ、このことを問い続ける必要があると思われる。そのことを一遍上人の次の一文が見事に教えているように思う。」 として、
「華麗を愛し月を詠ずる、やヽもすれば輪廻の業。仏をおもひ経をおもふ、ともすれば地獄の焔。」
をあげていた。難しいが、何とか読み通した。生が死に向かっているものだ、ということをいつも意識せよ、というのか?今一つ分からないのだが、何か大切な教えのようだ。
 
南方熊楠

 

博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、その他。
別名「歩く百科事典」。坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれた。6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼を呼んだ。7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては百科事典「和漢三才図会」(全105冊)を見せてもらった。まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した(彼は植物図鑑25巻や名所図絵等も同様に写している)。
1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴がいた(すごい時代)。ところが地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。さらに、米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。そんな有様なので当然学業の成績は急降下。翌年に落第したので“ちょうど良い機会”と自主退学し、田舎の親を仰天させる。
アメリカへ
1886年(19歳)、実家に戻った熊楠は「学問はアメリカの方が先を行ってます!」と父に渡航の意義を力説。だが、明治維新からまだ間もない時代、親にしてみれば国外に行くのは永久の別れも同然。“無茶を言うな”と大反対された。しかし、熊楠は8ヶ月にわたって熱弁をふるい続け、ついに親も根負けした「行って来い!」。12月22日、横浜から米国に向けて出航!
年が明けて1887年、船は半月後にサンフランシスコへ無事入港した。19世紀のアメリカで20歳の若者が一人暮らしを始めたのだ。恐るべき行動力。
熊楠は大陸を東へ進んでシカゴに入り、続いてミシガン州に至った。同地の州立農学校を受験しこれに合格。しかし翌年、学生5人でウイスキーを飲み、泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され放校処分(21歳)。以降独学し、頻繁に山野へ出かけ、植物採集などフィールドワークに汗を流した。この過程でさらに粘菌の魅力にとりつかれていく。1891年春(24歳)、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫」という情報を聞くと居ても立ってもいられず、顕微鏡など研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道でフロリダへ向かう。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になりつつ、ひと夏の間採集を続け、秋に南端のキーウエストからキューバに渡った。「キューバには日本人はいないだろう」と思っていたら、首都ハバナで公演中のサーカス団に日本人がいてビックリ。両者は意気投合し、熊楠も一座に加わった。象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。
イギリスへ
1892年秋(25歳)、米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する(大英博物館にも行きたかった)。9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンへ到着。ロンドンで弟の手紙を受け取った熊楠は、優しかった父が夏に病没していたことを知り絶句する。
1893年(26歳)、下宿で標本整理を続ける一方、天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌「ネイチャー」に掲載された。「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。
熊楠は連日のように大英博物館へ足を運び、気に入った本から書き写した。この頃の熊楠は「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、民俗学、宗教学に強く関心を寄せている。筆写ノート「ロンドン抜書(ぬきがき)」は52冊に及び、紙代を節約する為に小さな字でぎっしり埋め尽くした。
※後年の熊楠は18ヶ国語を操ったと言われ、このぶ厚い「ロンドン抜書」でも、英・スペイン・ギリシャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれている。
大英博物館の図書部長は熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼した。彼は大英博物館東洋調査部員となった。同館では展示品の仏像名を考証するなど様々な形で東洋美術に関った。冗談好きの熊楠は、袈裟を着た僧侶姿で働くなど(この服は訪英中の高野山管長から貰った)、茶目っ気のあるところも見せた。当時の彼は亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。
しかし順調なことばかりではない。欧州では東洋人への蔑視がひどく、気の荒い熊楠は屈辱を受けると腕力で返事をした為に、何度も騒動を起こしていた。人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人種差別を人一倍許せなかった。30歳の時には館内で英国人を殴りつけ、一ヶ月間入館禁止になり、翌年にも声高の女性を注意した際に騒ぎになり、とうとう博物館を追放される。その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いだが、ついに困窮極まり8年間過ごした英国と別れ、日本への帰国を決意した。
1900年9月1日午後4時、テムズ川から船は出航した。日記には短く「夜、しばらく甲板に出て歩く」。熊楠、ときに33歳であった(この翌月、熊楠と入替わるように日本の国費留学生第一号、即ち夏目漱石がロンドンに到着している)。
14年ぶりの帰国
同年10月15日、神戸港に到着。14年ぶりの日本。出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位もとらずに書物と標本だけ持ち帰ったことを知り唖然。和歌山への帰郷後は酒屋を営む弟宅(那智勝浦)に一ヶ月ほど身を寄せ、「長く日本酒が呑みたかった」と毎日浴びるように大酒した。一呼吸つくと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。
1901年(34歳)、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家まで遊びに来てくれ、2人は思い出話で盛り上がった。同年、那智で苔の採集中に小畔(こあぜ)四郎という青年に出会う。彼は熊楠の半生を聞いて腰を抜かし、すぐに門弟となった。彼は船会社に勤めており、各国の寄港地で採集した標本を熊楠に送ってくれた。
これら熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作った。また世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の「方丈記」をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み、完成させた。孫文やロンドン大総長との交流のように、紀州にいてもインターナショナルな熊楠だった。
1904年(37歳)、和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。お寺(和歌山市円珠院)に寄宿した時期もあったが、彼がキノコや藻・苔類などを大量に部屋に置き、身だしなみも無頓着で不潔だったので寺が悲鳴を上げ、出て行くことになった。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。
1905年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知された。
1906年(39歳)、神社宮司の娘・松枝と結婚。翌年、長男熊弥(くまや)誕生。赤ん坊を見た熊楠は「児を見て明け方まで眠れず」と日記に歓びを刻んだ。生活が落ち着くと採集活動を再開した。田辺周辺で山に分け入り、道に迷って野宿したり、珍しい植物を発見して歓声をあげながらブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性達が天狗が出たと思って逃げ去った等、様々なエピソードが伝えられている。
環境保護に立つ
1909年(42歳)、熊楠は「神社合祀(ごうし)反対運動」を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。
熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
※当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。
熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、鎮守(ちんじゅ)の森の破壊は、心の破壊だと憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃した。彼は国内の環境保護活動の祖となった。
1910年(43歳)、熊楠は合祀派の県役人が田辺高校の教育講習会に出席することを知り、直談判すべく会場を訪れる。しかし面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んだ。彼は「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間拘留された。でも、熊楠はどこでも熊楠。拘置所で珍しい粘菌を見つけた彼は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言い出ようとしなかったという。
1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えた(柳田は熊楠の家に話を聞きに行った)。同年、長女誕生。この頃から自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関するものも大量に書き始める。
1912年(45歳)、熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えた。
1915年(48歳)、6年前にアメリカ農務省から省内に入って欲しいと要望書が届いていたが、ちょうど合祀反対運動の開始時で返事をしなかった。すると、この年にわざわざアメリカから農務省の役人が田辺までやって来て、再度の渡航要請をした。しかし彼はまだ反対運動が続いていること、家族のことを考えて辞退した。この米国農務省の一件は、日本社会に熊楠がどれほどスゴい男・世界的博物学者なのか知らしめた(熊楠は海外では有名だったけど日本では無名に近く、近所の人も変わり者の親父と思っていた)。
1917年(50歳)、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見し、英の学会で「ミナカテラ・ロンギフェラ」(ミナカタの長い糸)と学名がついた(和名・ミナカタホコリ)。
1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになる。※世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、僕らが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんある。
最後まで全力疾走
1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を練り、建設資金集めに奔走していた。この年に寄付を求める為に書いた「履歴書」が、超密度の濃い人生を象徴するかのように7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、世界最長の履歴書と言われている。翌年には資金作りの為に「南方閑話」「南方随筆」「続南方随筆」という3冊の著書が刊行された。海外への論文は何度も書いてきたが、国内に向けた一般著書はこれが初めて。59歳での初出版となり、人々は随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆した。
1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、この場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。
1933年(66歳)、白浜の御船山神社境内に天皇の行幸を記念した博物館設立が決まると、「神社に博物館を置くのは文化の破壊」と民俗学者として反対運動を展開し中止させた。翌年、神島の自然を保護するため、島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物の申請書を提出。2年後に政府から認定された。
1937年(70歳)、日中戦争が勃発。戦局が拡大するなか、高齢になった熊楠は体調を崩し病床に就く。それでも人生の集大成として、「日本産菌類の彩色生態図譜」(日本菌譜)の完成に向け、これまで採集した標本と、連日弟子達が持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る作品にするべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘し、4500種・1万5千枚の彩色(カラー)図譜を完成させた。熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んだ。
1941年、病状悪化から死期を悟った熊楠は、家族への形見として「今昔物語集」に署名する。12月8日、米英に知人の多い熊楠は、真珠湾攻撃のニュースに絶句。その18日後の29日朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最期に激動の人生を終えた。享年74歳。翌日に熊楠の希望で脳解剖され、阪大医学部に脳髄が保存された。田辺市郊外、神島を望む真言宗高山寺に埋葬される。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。1965年(没後24年)、和歌山県白浜町に南方熊楠記念館が開館した。

「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)
江戸時代に生まれ昭和に死んだ熊楠。なんという破天荒な人生、天衣無縫さ。あまりにカッコよすぎる。記憶力も驚異的だけど、熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本し、自分の足で世界各地の山野に分け入り標本を集めた「努力の人」だ。熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったという。熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。
「ネイチャー」に論文が載るのは研究者の夢。科学者なら一生に一度は掲載されたい。東大、ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、研究チームも“いつかはネイチャーに”というのが悲願。それを熊楠は51回!しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリ。
学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠)
※日本で孫文と再会した時に、別れ際に熊楠へ贈った孫文愛用のパナマ帽や、熊楠が大英博物館で作成した「ロンドン抜書き」、ルーペ、メガネ、採集用具などは、白浜の南方熊楠記念館で公開されている。
※粘菌や昆虫(害虫も含めて)など微小なものを徹底して観察した熊楠は言う--「世界に不要のものなし」。

親日仏教と韓国社会

 

二〇〇二年、日本と韓国のあいだでは、これまでなかった多くのことが起こりそうな予感がします。もちろん、五月には日韓共催のワールドカップもありますが、そのほかにも何かと多忙な一年になりそうだなと思います。そういった予感からではありませんが、私は昨年の大晦日から元日にかけて、今年も良いことだけ起きますようにと、神様や仏様に頼みごとをするために初詣に行きました。大晦日の夜十一時五〇分ぐらいに一〇八の鐘をつくために、この近くにある新京極の「誓願寺」に行きました。誓願寺は落語家の祖といわれる安楽庵策伝上人のゆかりの地でして、多くの芸能者が芸道上達を祈願するために訪れる寺でありました。私も芸事が上達するように祈りました。私の場合は芸道上達というよりも、日本語がもっと上手くなりますようにとお願いをしました。それから、私はけっこう欲深い人間でして、同じ新京極の通りにある「錦天満神社」に行きました。錦天満神社は北野天満宮に縁を持つ神社でありますので、これからも学業が上達するようにと神頼みをして、家に帰ってきました。それからお昼過ぎには、家の近くにあるお酒の神様を祀る「松尾大社」に行き、今年もおいしいお酒が沢山飲めますようにと、またお願いをいたしました。これらのすべてが、日本のお正月には欠かせない伝統的な風景であります。特に、私がおこなったすべての行為は、偽りのない宗教行為でもあります。
このような初詣はとなりの国、韓国では行われていない新年の行事でもあり、宗教行事でもあります。むしろ、韓国では寺や神社に行く代わりに、大晦日の夜から親戚が集まり、元日の朝、祖先に対する「茶礼」という礼拝を行うのです。これは、宗教的な祈りや儀礼であるというよりは、儒学の教えに基づいて長年行われている祖先に対する感謝の意を表す行事の一つであります。そうすると、やはり日本と韓国の宗教は大きく異なるのではなかろうかといえます。その中でも特に、神社の存在が気になります。韓国には神をまつる神社が日本のような形ではありません。むろん、朝鮮半島に住んでいる人々も神を信じていますが、こんなに多くの神社はありません。その代わりに、日本よりもはるかに多いのがキリスト教会です。もし、韓国に行く機会がありましたら、韓国の夜空(ソウルでもどこでもいいですが)を一度見上げてみてください。日本の夜空とは異なる風景が目の前に広がると思います。それは、韓国の夜空を彩採っている十字架、それも華やかなイルミネーションの十字架の数にびっくりすると思います。一九九八年度の韓国プロテスタントとカトリックを合わせた教会の数は、六四、四二七ヶ所であり、キリストを信ずる信者の数は二三、五二七、六三五人にも上ります。全国民の半分が教会に通っているクリスチャンであるということです。しかし、これらの統計は宗教団体が自ら申告した数によるものでありますので、それほど信憑性は高くないと思います。それに比べ日本のキリスト教信者は、全国民の一%弱にも満たないといわれています。そのことを考えると、いかに韓国に教会とキリスト教信者の数が多いのかが分かると思います。
しかし、韓国で一番長い歴史と伝統がある宗教は、仏教です。今現在韓国にある寺の数は、一八、五一一ヶ所であり、その信者の数は、三〇、七六四、〇四五人にも上るのです。この韓国の仏教が、一時期日本の仏教の影響を受け、親日的な性格が強い宗教として批判されたことがあります。今は韓国の仏教を「親日仏教」であるという人は誰もいません。しかし、日本の植民地支配を受けた韓国仏教に親日仏教としての傷跡は未だ完全に消えていないように思われます。今日は、どうして韓国仏教が親日仏教といわれるようになったのか、韓国社会はどのように受け止めているかについて少しお話してみたいと思います。
まずそのために、朝鮮半島における「親日」という問題を考えなければなりません。「親日」という問題は、今日の韓国の政治・経済・文化のどの断面をみても様々な問題が未だに残っています。また、韓国人のナショナリズムをくすぐる気持ちの問題でもあります。日本の植民地支配から解放されてすでに五十年も経っているにもかかわらず、何一つ解決される兆しは見えてこない歴史的な傷跡なのではないでしょうか。日・韓両国のあいだで何かと不協和音が発生する度に必ず問題にし、両国の緊張感を高潮させる道具として利用されているように思われます。二〇〇二年日韓共同開催のワールドカップを迎え、こういった問題を解決するためにも、日韓両国のあいだに内在している問題は何かについてもう一度考えるべき時期に来ているのではないでしょうか。
朝鮮半島の近代宗教形成の問題は、他の政治問題とほぼ同じくらい関係性があると思います。いわゆる、朝鮮王朝が封建的な君主国家から近代国家への扉を開いていく過程で形成された韓国的ナショナリズムと深い関わりを持っています。また、近代日本に対する「親日」と「反日」という民族的な感情問題も含まれております。そのため、今日においても慎重に扱わなければならない神経質な課題であります。今日のお話は、私が今もっとも関心を抱いている「日本と韓国の近代宗教形成史」の中から、再生宗教としての朝鮮仏教が持つ親日性についてであります。韓国における近代的な宗教形成史において、この「親日」や「反日」の問題は、これまでそれほど綿密に論じられてきた内容であるとは思われないのです。朝鮮半島における近代の成立は、日本の近代と深く関わりをもっている日本研究の一つでもあります。 
朝鮮王朝の排仏政策と朝鮮仏教の特徴
朝鮮半島における仏教の始まりは、三七二年に高句麗の小獣林王(三七一―三八三)が、中国から伝来してきた仏像と仏典を受け入れたことによるといわれています。当時、高句麗が仏教を受け入れた目的は、古代国家として王室の権威を高め、民衆の精神的な統一を狙うことにあったと思われます。このように受け入れられた仏教は、伝来当初から国家の庇護下で大きく発展し、「鎮護・護国仏教」として定着するようになりました。仏教は、準国教時代の統一新羅を経て、国教として高麗時代の末に至るまで、文化を創出する主役としての地位にありました。仏教は、単なる宗教の範疇を超えた民族の精神を培ってきた文化の一つでもありました。そして、周辺諸国を始め、国際的な文化交流の担い手でもありました。このことから古くから日本とのあいだにおいても、この仏教が文化交流の担い手であったことはいうまでもないと思います。朝鮮半島における仏教は伝来から一六〇〇年のあいだ、多くの王様や僧侶たちによって、そして民衆たちが力を合わせて守ってきた伝統的な民族の宗教であります。
この伝統宗教仏教が高麗時代の末に至ると、政治的・経済的な不祥腐敗の温床になってしまったのです。腐敗した仏教に対する批判の声も次第に高まり、排仏政策を取るべきであるという世論も形成されるようになりました。特に、儒学を身につけ、科挙を通じて政治舞台に登場した一部の新進士大夫と、革新的な武士階級が排仏を強く要望するようになりました。そして彼らは、一三九二年に仏教王国高麗を倒し、朝鮮を建設したのであります。新たな国家朝鮮は、儒学思想を基盤とした両班官僚組織と政治体制を構築するのでありました。彼らはすべての政治・経済体制を儒学思想に基づいた国家建設を目指しました。彼らの「排仏論」や「排仏政策」の原因は、高麗時代の仏教があまりにも国家の庇護を受けながら政治的、経済的に膨張していたことと、僧侶の地位が貴族化され、風紀を乱していたことが上げられると思います。そのため朝鮮の王様たちは、政治機構から仏教色を排除、撤廃し、儒学思想による「徳治主義」の理想政治を実現するために様々な排仏政策を行うことになりました。
朝鮮両班社会からの冷遇と中央政権から見放された僧侶たちは、社会的な地位が低下し、経済的にも零細化を逃れることはできなかったのです。大部分の僧侶は、製紙などの手工業に従事することとなり、奴婢階層と何ら変わりのない身分の位置に置かれてしまったのです。朝鮮仏教には、いつの間にか「護国仏教」としての色合いがうすくなってしまいました。その代わりに、僧侶たちの物貰い行為や寺の世俗的な信仰行為の傾向が益々強く現れるようになりました。その世俗的な信仰体系が一般庶民には受け入れられ、仏教を崇拝する伝統も相変わらず続いていたのです。
こういった朝鮮仏教の姿は、崇儒排仏を唱えていた為政者や男性から離れ、両班たちの家を守る役割を担っていた内房(婦人)によって、保全されることになったのです。女性たちによって、守られた仏教は、家族の成功や死後の祈願や病気を治すなどの行事を担当する役割をしたのです。僧侶たちも困難な寺院を維持するために、仏教行事の中に土俗的な信仰を習合させていたのです。本来の信仰形態から大きく逸脱した不健全な状態であったかも知れませんが、民衆レベルに根強く生き残る方法を選択したのです。排仏という嵐が吹き荒れた朝鮮時代においても、仏教は女性たちの信仰心によって生き残ることができました。
朝鮮時代の仏教は、現世利益のために求福祈祷の形式ではあったが、宗教としての役割を十分果たしていたともいえます。朝鮮時代の崇儒排仏政策によって、お寺や僧侶の姿は都城や村から消え、町から山中に追いやられたことによって、「山中仏教」もしくは「山僧仏教」ともいうようになりました。そして、信仰の対象者が男性から女性へ移行したことによって、「家内(内堂、内房)仏教」ともいうようになりました。この一連の宗教施策と宗教形態の変貌が、結局、朝鮮仏教を特徴づける要因になりました。国家による保護や仏教思想を重視していた時代とは異なり、朝鮮時代の仏教は、政治性が欠如している姿になりました。その代わりに、貴族の宗教から生活に密着した「民衆の宗教」として、「庶民の宗教」として定着したともいえると思います。 
開国と朝鮮仏教の再生
一八七六年二月二六日、朝鮮政府は「日朝修好条規(江華島条約)」を結ぶことで、長いあいだ堅く閉ざしていた鎖国の扉を開くようになりました。この規程付録によって、釜山港における「日人居留地祖界条約」が調印され、後に、釜山が日本に開港されました。一八八〇年四月十二日に、元山に日本領事館が開館され、一八八三年九月三十日、仁川では「日本居留地借入約書」が、竹添進一郎と閔泳穆との間に調印され、使節の交換及び治外法権が認められるようになりました。この開港条約が成立したことによって、朝鮮内部では先進国日本と親密な関係をもつ親日的な性格の政治的集団が形成されました。また、それに対して敵対心を抱く反日的な政治勢力も形成されるようになりました。(むろん、親清勢力も、親露勢力も、親米勢力なども現れていた時代でありました。)開港された港を中心に、多くの日本人が経済活動をするため進出してくるようになり、それに伴って日本の宗教界も、とりわけ仏教界が活発な宗教活動を行うようになりました。
一八八〇年代に伝来してきた日本仏教が行っていた布教活動に、朝鮮仏教界も大きな刺激を受けたことはいうまでもないことだと思いますが。しかしすでにお話したように、当時の朝鮮仏教は、排仏政策によって宗乘も宗旨も信条も曖昧な状況に堕ちていたのです。このことを念頭に置くと朝鮮仏教界が、いかに日本仏教界の活動に対してあこがれを持つようになったのかについては想像できると思います。むろん、先進的な行政機構の改革と西洋文物の受容に関して、朝鮮仏教界も大いに刺激を受けており、新たな自覚運動が始まる時期でもありました。こういった朝鮮仏教の動きが自力で軌道に乗る前に、日本仏教日蓮宗本佛寺住職佐野前勵(後に、日宗宗務統監に就任した)の登場によって、朝鮮仏教界の親日性が具体化されるようになりました。
日蓮宗の僧侶佐野前勵は、一八九五年三月三日、釜山に上陸した後、仁川を経てソウルに入り、日本公使館の後援を得て布教活動を始めた人物であります。佐野前勵は、当時摂政を行っていた大院君に謁見し、王室に接近するための法華経と香炉などをプレゼントし、「立正安国論及び古代綴錦」を献上したのです。それから同年四月二十二日に総理、内務、外務、度支、学務、宮内の諸大臣を次々と歴訪し、「僧侶都城出入禁止」解除の上書を内閣総理大臣金弘集に提出しました。その建議書の内容は、朝鮮僧侶たちの都城出入禁止の不当性を指摘した上、この出入禁止に対する解禁を願うものでありました。金弘集内閣は、その建議書を受け入れ、その年四月二十三日次官報に「僧侶の都城出入禁止令」を緩和させるという成果を挙げたのです。
これは一五〇三年、燕山君によって、僧侶たちにソウル四大門内の都城出入りを禁じていた、この「都城出入禁止」の解除および許可の快挙でもあったといえます。朝鮮仏教界の長年の夢であった都城出入が、日本からきた僧侶の力によって実現したのです。佐野前勵は、一躍にして朝鮮仏教界に再生のきっかけを与え、宗教活動の自由を吹き込んだ聖者になったのです。日本からの僧侶の意志によるものであったのか、それとも日本帝国政府の政治的な意図がどの程度働いたかは確かではありません。しかし、朝鮮僧侶たちの「都城出入禁止」が解かれたことは大きな意義があることには変わりのないことです。そして、長いあいだ足を踏み入れることを許されなかった都の城内で自由に弘法できることは、朝鮮仏教の新たな再出発と近代宗教への道を見出すようになったともいえます。
都城出入禁止解除に対する朝鮮仏教界の反応の中には、佐野前勵に対する感謝の意を積極的に表明した僧侶もありました。水原龍殊寺尚順崔就墟僧侶は、佐野前勵に感謝状を贈呈していたのです。また、北韓山中興寺住職李世益に日蓮宗を伝えた佐野前勵は、出入禁止令撤廃六日後に中興寺に「日蓮宗教会本部」の看板を掛けました。佐前勵野は、一八九六年に北一榮で、都城出入禁止を解除してくれた皇恩に報いるために、中興維新の大業を祝賀するという意味で高宗のために御安泰を祈る大祈祷祭をも開催しました。この祈祷祭には、南・北漢山と金剛山及び華渓寺・白蓮寺・龍殊寺から来た僧侶三〇〇人と外務・学務・農商工部大臣以下高官二十名、日本の名士五十名など一五、〇〇〇名が参加した盛大な親日法会が行われました。これを機に、日本仏教界の各宗派が日本人の保護と精神的な慰安機関としての役割を果たす目的を持って、次々と朝鮮半島に各宗派の別院を建立し、宗教活動を行うための地盤を整え始めました。そして、日本仏教の活動範囲も、次第に朝鮮人を対象とするようになっていったのです。佐野前勵による朝鮮仏教の解放は、日本帝国の朝鮮支配と仏教の布教の宗教侵略の基盤を形成する期となり、一八九七年に、朝鮮から大韓帝国に国号が変わる時期、僧侶の都城出入り禁止が完全に解かれるようになったのです。 
近代日本仏教の布教
十九世紀の末に入ると、日本帝国と朝鮮との政治関係が深く絡み合うことに歩調を合わせたかのように、日本仏教界と朝鮮仏教界との関係も深くなったことはすでに述べてきました。特に、日露戦争が勃発したことによって、日本仏教は朝鮮開教への転機を迎えることになりました。それも日露戦争が日本の勝利に終わり、朝鮮半島に対する利権を得た日本政府は、一九〇五年十一月に「第二次日韓協約」を締結しました。やがて一九〇六年二月に、漢城に韓国統監府を開庁するようになりました。これがいわゆる朝鮮半島における「統監政治」の実施を意味するものであり、統監府は、大韓帝国の外交権を始め、実質上の内政を干渉することで統監府による統治を始めたのです。そして、日本仏教各宗も朝鮮開教に対する意欲が一層高まり、すでに開教を実施していた諸宗は益々力を注ぐようになりました。未だ開教に着手していない真言宗・曹洞宗等も一斉に朝鮮布教に着手することとなりました。これらの各宗派も、日本政府の協力と援助により、急進的な成長を成し遂げることになりました。日本仏教界を代表する本願寺が一九〇六年十月に、ソウルの龍山に「開教総監部」を設置したことで、日本仏教の宗教的な進出の本格的な基盤を形成したのです。韓国仏教界は、近代的な日本仏教界の政治的、経済的な力を見せつけられることになりました。
この「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」が締結されると、全国各地で反日的な性格の義兵運動が、次々と発生しました。「乙巳保護条約」に反対する義兵たちと日本軍が衝突する事態が頻繁になりました。それに追い打ちを掛けるように一九〇七年に韓国軍隊が解散されると、武装解除された韓国軍が抗日義兵運動に参戦することによって、戦いが益々激しくなっていったのです。近代的な武器で武装した日本軍に劣勢であった多くの義兵たちは、山中の寺院を根拠地とし、抗日運動を展開するようになりました。そのため山中の寺院は、戦場化し、日々荒廃するようになったのです。このことを好機に、統監府は、朝鮮仏教を保護推進する計画を打ち出しました。その際、相当数の朝鮮の寺刹が、日本仏教の各宗派の末寺として隷属することで戦火を逃れようとしたのです。
そして、統監府は宗教を規制するために、一九〇六年十一月十七日に統監府令第四十五号として、「宗教の宣布に関する規則」を発布しました。日本帝国が植民地統治を行うための宗教に関する政策とその関連法案の整備は、すでに統監府時代から始まったのです。この「宗教の宣布に関する規則」は、すべての宗教活動に関する認可や不認可を統監府令によって規定するものでありました。その時、宗教活動の認可対象となったのが、日本神道、仏教、その他の宗教に限られました。その他の宗教という曖昧な枠の中身は、主に外国からの宣教師が布教活動を行っていたキリスト教のことでありました。それ以外の宗教、いわゆる韓国の自生・新興宗教及び民間宗教は、宗教としての認可対象にならなかったのです。いずれにせよ、この「宗教の宣布に関する規則」によって、日本帝国から朝鮮半島における布教活動に対する許可権を獲得しなければならなかったのです。この規則は建前上において日本の宗教であれ、外国の宗教であれ、その宗教活動が反国家的であると認められれば、朝鮮半島内での布教活動は許可しないことも可能であるということでありました。
さらに、一九〇七年七月に統監府は、宗教活動そのものを統制するために「保安法」を制定し、公布施行したのです。この法案は、韓国人だけにその効力がある法案でありました。この保安法を用いて統監府は、韓国の宗教教団を一般社会結社として扱っていたので、その活動をきわめて制限するものでありました。日本は植民地支配を行う中で、日本が望む秩序の安定とその方向性のため、一般結社のような宗教の活動は固く制限、禁止され、治安維持の名目で警察の手によって、管理されることになりました。
一九一〇年、「日韓併合」が成立するまで展開された日本仏教界の活発な布教活動は、開港地と租借地が増えるにつれ、宗教活動の拠点も増していきました。日本仏教の代表的な六つの宗派は、ソウルを初め全国二十六地域で布教活動を行っておりました。その各宗派が設置した寺院及び布教所の数も一八〇ヶ所に上りました。日蓮宗は、朝鮮内に十一ヶ所の寺刹を保有しており、真宗派本願寺は、二〇ヶ所の布教所及び出張所を保有し、附属事業として十個の教育機関と青年会を運営していました。曹洞宗は五ヶ所の寺刹と四ヶ所の布教所を、真言宗は、一ヶ所の寺刹と二ヶ所の布教所を設けており、浄土宗は、二〇ヶ所の寺刹及び出張所を運営していました。また、朝鮮人に布教するために四ヶ所の出張説教所を設置し、活動を行っていたのです。浄土宗の開教監督には、白石堯海、堀尾貫務、廣安眞随などが継承し、着実に教勢を拡大していました。浄土宗の布教活動によるその成果は、一九一〇年の浄土宗に所属していた朝鮮人の信徒数、五、三四三名であったのが、一九三七年には、九五、〇五二名に昇る教勢を形成していました。浄土宗は、朝鮮半島で布教活動を行っていた他の仏教教団と比べ、信徒の数がもっとも多かった宗派でありました。浄土宗はその勢いをもって、朝鮮人による寺院と朝鮮人の教役者まで養成しようとしました。韓国仏教界と僧侶たちは、日本の仏教に親しみをもっており、開港後の日本の近代仏教の流入という外部的条件に便乗し、朝鮮仏教界の再起と再生を図っていたためであるといえます。 
植民地統治と朝鮮仏教の日本仏教化
朝鮮総督府は「日韓併合」の翌年である一九一一年六月三日に、朝鮮総督府制令第七号「寺刹令」を制定し、「朝鮮総督府官報第二二七号」に掲載・発布しました。この「寺刹令」は、韓国仏教界に対する懐柔と弾圧という両面性をもつものであるといえます。朝鮮総督府はこの「寺刹令」を利用し、韓国仏教界を日本仏教に附属させ、統治しようとする目的があったと思います。この「寺刹令」を通じて、朝鮮半島全国山地に散在している寺刹の運営を効果的に統制しようとしたものでした。そして、同年七月八日に続いて、朝鮮総督府令第八四号「寺刹令実施規則」八ヶ条をも発布しました。この規則によって、朝鮮の寺刹を三十本山(一九二四年に華厳寺を加えて三十一本山となる)に統併合し、住職を朝鮮総督の統制下においたのです。総督府は、朝鮮仏教界を三〇個の教区域に分割させる方策をとったのです。「寺刹令及び同令施行規則」は、朝鮮仏教を構造的に総督府の支配下におき、日本仏教に隷属させるための法案でありました。この「寺刹令」の内容は、第一に、朝鮮仏教の宗派を統一して禅教両宗としました。第二、寺刹財産の安全を図ったのです。第三、寺刹の本末の関係を附し、統轄を図りました。第四、寺法を定めて法網の振粛寺務の刷新を図ったという意義を唱えるものでした。
この「寺刹令」の制定と、その趣旨に関する説明では、千余年の歴史を有している朝鮮の寺刹の頽廃を防ぎ、仏法を保護更生することにあると述べていたのです。「寺刹令」によって、当時全国にあった一、三〇〇の寺刹と、七、〇〇〇名の比丘僧が総督府の統率下におかれることになりました。韓国仏教界の多数の人たちが、この「寺刹令」を擁護する立場で現実を認識していたようであります。総督府の仏教政策に従うことが、「国民の義務であり、仏教者として修業のためにも当然である」という見解も多く現れていたのです。「寺刹令」に対する朝鮮仏教の各寺刹の反応は、とても良かったといえるものでありました。当時の仏教界が「寺刹令」によって、すべての活動と組織が正常化されたということについて各界からの極讃もありました。「寺刹令」を喜んだのは韓国仏教界の認識のなかに、韓国の仏教界が近代的に組織化されるということに注目し、そこに大きな意義を置いたためであります。また、僧侶たちの身分が社会的に安定され、寺刹の財産が保護されることに大きな満足を示していたといえます。
朝鮮総督府の宗教政策は、施政以来終始一貫して、朝鮮仏教の保護善導に努めたという建前の下で、一九三七年二月に併合以来最初の試みとして、「三一本山住職会議」を開催しました。この「三一本山住職会議」が動機となり、朝鮮僧侶の覚醒を促すという名目で有力な住職らは様々な画策を試みるようになりました。それが「帯妻制度」であります。一九一一年、総督府が発布した「寺刹令」には、「各本山の寺法制定する際にも比丘に限って、本末寺の住職とする規定」となっていました。しかし、朝鮮仏教界は日本仏教のように僧侶の結婚、いわゆる帯妻を制度的に保証する条文を盛り込ませたのです。朝鮮仏教に「帯妻制度」を取り入れたのであります。このことは、暗黙のうちに進めていた日本仏教化を公然と行おうとする意志を表明したものであると思われます。近代日本仏教の特徴である「帯妻制度」を朝鮮仏教界にも導入させ、そうすることで、日本仏教と同一なものである認識を朝鮮の僧侶たちに植え付けようとしたのです。この「帯妻制度」は、日本仏教界に一八七二年に出された「太政官布告第百三十三号」によって、公布されました。その内容を見ると、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」となっていました。この太政官の布告をそのまま韓国仏教界にも取り入れたのでありました。この「帯妻制度」が、公然と朝鮮仏教界に広まることによって、比丘を中心としていた朝鮮仏教の特色を薄め、より日本仏教界の形態に近いものにしようとした政策であったと思われます。この「帯妻制度」が、解放後の韓国仏教界においてもっとも大きな親日問題として残るのでした。
特に、韓国仏教界の中堅僧侶として積極的に活躍していた留学僧たちは、帰国後彼等はおおむね結婚をしただけでなく還俗もしていたのです。彼等は公費または、私費留学で日本に渡り、日本の仏教を学んできた僧侶であり、その数は、六〇〇人を上回るといわれています。彼等の言い分は、「日本の僧侶は妻子がいるにも関わらず日本の社会から尊敬されている」といっているのでありました。日本仏教の一断面を見た韓国の留学僧侶たちに、伝統的な朝鮮仏教の持戒に対する価値観に変化をもたらしたといえます。このように帯妻制に対しては、国内の多くの仏教者たちも賛成しており、親日的な傾向もさらにつよく現れてくるのでありました。僧侶たちは、日本の女性や両班家門出身の女性を娶ることによって、その社会に進出し、朝鮮時代に抑圧されてきた政治的、社会的な地位や権限を取り戻そうとしたのです。 
解放の喜びと悲しみの親日仏教
一九四五年八月十五日、連合軍の勝利によって、朝鮮半島は日本帝国の植民地から解放されることになりました。それは政治的な解放だけでなく、経済的・文化的にも解放されたのです。仏教も他宗教と同様に日本の植民地支配からやっと解放されることになりました。植民地からの解放は、韓国仏教に宗教として自由と独立の喜びをもたらしただけでなく、韓国仏教界に混乱と親日というレッテルをも同時にもたらしたのです。
解放後の韓国仏教界の宗権を握っていたのが、解放以前と同様に帯妻僧でありました。彼等は日本の植民地時代にも権力の座に就いていた親日宗教家といわれていた人々でありました。彼らの政治活動が、韓国仏教界に内在していた「親日の問題」を表面化させたのです。解放後、韓国仏教界を始め、各宗教界の最も大きな問題点であった日本帝国への協力と、協力の見返りとしての財産を蓄積した親日者に対する処分が問題となりました。特に韓国仏教界において、日本の植民地支配に便乗し、一般の民衆が苦しむとき「帯妻肉喰」を行いながら、華やかな生活を送っていた親日僧侶が何よりも大きな問題になりました。勿論、これらの問題は、仏教界だけの問題と言うよりも、社会全体に内在していた「親日」や「親日派」の処理問題でなければならなかったのです。新国家建設の基本的な前提は、日本帝国よる植民地時代の残骸を削除し、「親日」及び「親日派」の処理が問題でありました。しかし、解放後の韓国仏教界内部は、親日的な要素の削除に足を捉えられ、教団の浄化という時代的な要求に応えることができず、そのまま生き残っていたのです。
一九四五年、韓国仏教界の帯妻僧の数は七、〇〇〇名でありましたが、それに対して、伝統的な韓国仏教を主張した比丘僧の数は、わずか五〇〇余名に過ぎなかったのです。これは帯妻僧の数が、比丘僧の十四倍をも上回るものでありました。これは解放後の韓国仏教界において、その実権を掌握していたのが、帯妻僧侶たちであったことを証明する証であったといえます。彼等は、植民地支配の協力者としての反省も行わずに、解放後も経済的、政治的基盤を守るための政治活動を行い続けていたのでありました。
今日、韓国の寺刹や寺院の数は、約一八、五一一にも上る数があるといわれております。その殆どの僧侶たちは「帯妻肉喰」をしない比丘及び比丘尼という清僧と尼僧に変わっているのです。いわゆる、伝統的な韓国の仏教本来の姿と、清浄比丘による宗教活動に戻っていることを意味するように思います。しかし、今日のような伝統的な仏教の姿へ戻る過程には、様々な苦境が待ち構えていたのです。アメリカ軍政は韓国仏教界を統制するための法律的な根拠として、日本植民地時代下で制定された「寺刹令」と「朝鮮仏教曹渓宗総本山○○及び三十一本寺・末寺法」をそのまま存続させていたのです。そして、一九四九年六月に公布された「農地改革法」は、土地収入に依存していた仏教宗団に大きな打撃を与えたのです。土地収入が経済的な基盤であった仏教宗団は、再び自立のための経済基盤を失うことになったのです。韓国仏教教団は解放直後、自らの民族的覚醒と宗教的良心による教団浄化の意志が、政治的な混乱と民族間の戦争によって、中断されることになりました。また、韓国仏教界は朝鮮戦争による被害が整理される前に、旧日本寺院と個人の所有になっていた多くの寺刹財産が、キリスト教団体や個人に売却されるなどの損失を受けたのです。
そして、朝鮮戦争が一九五〇年六月二十五日勃発し、一九五三年休戦が成立するまで、同族間の激しい戦争によって、国土は荒果ててしまいました。その翌年である一九五四年五月に、李承晩大統領は「仏教浄化に関する諭示」を発表したのです。この「仏教浄化に関する諭示」は、一九五五年までのあいだ、七回も発表されたのです。大統領の仏教浄化という名分の諭示は、当時七千名の帯妻僧侶と、五百名余りの比丘の間に仏教紛争を招来し、帯妻僧と比丘僧とのあいだでは政治的な争いが始まったのです。その第一次諭示の内容は、「過去四十年のあいだ、日人たちは所謂神道というものをもってきた。自分たちの天皇を天神のように崇める制度を作り、神社参拝を行うとき宣教師は参拝を拒否し、韓国から追放された人もおり、被迫された人もいる。我々韓人教徒たちも神社参拝を拒否して獄中で被迫された人の数も多く、死んだ人もいる。同時に日人たちは所謂仏教というものを韓国に伝播させて、我々の仏教で行わないすべてのことを行い寺刹を都市と村落に混ぜ、僧侶に家庭を持たせ俗人たちと一緒にいさせた。(中略)韓国の高尚な仏道を抹殺させようとした。その結果、今日の僧侶は、僧であるか俗人であるか混沌している。そのため我々の国の仏教というのは有名無実になっている。」こういった内容でありました。これらの諭示に基づいて第三次の諭示では、「仏教浄化委員会」が設立されました。また、一九五五年二月四日に「韓国仏教浄化対策委員会」を構成し、仏教浄化の基本問題に対する公開討議が行われました。その後、文教部長官の報告書という形をもって、寺刹浄化に関する仏教教団内の両院(総務院側と禅学院側)の合意の下で、僧侶の資格に関する「八大原則」をも決めました。こういった原則を始め、大統領の仏教浄化に関する諭示は、日本帝国から解放後成立した大韓民国が民主国家として掲げていた政教分離の原則に反していたといえます。これはいわゆる、政府権力による新たな宗教弾圧の一場面であったとも考えられます。
当時、国家運営に携わっていたアメリカ軍政には、李大統領の政治的な意図が大いに含まれていました。一種のキリスト教指向の宗教政策であったともいえます。アメリカ軍政は仏教が韓国民衆の伝統的な民族宗教であり、民衆を巻き込む政治的な力を得ることに対して不安を抱いていたのです。アメリカ軍が軍政を行うに当たって、戦略に韓国仏教界の政治的、経済的な弱体化の必要性を唱えていたといえます。敬虔なキリスト教徒であった李承晩大統領との宗教的な対立も、大きく関わりを持っていたと思われます。政界に進出していた仏教系政治家(特に帯妻僧)に対する政治的な牽制であり、政治的な計算が含まれていたといえます。しかし、李承晩大統領が行った仏教浄化政策がもたらした影響を始め、親日仏教としての性格が、今日の韓国仏教界に未だに残存しているのです。 
おわりに
私は「近くて遠い国」という言い方や、「近くて近い国になろう」という言い方も嫌いです。日本と韓国は「隣人」や「隣国」ではなく、となりの友だちになるべきではなかろうかと思います。友たち同士では、喧嘩もするけれども、互いの痛みを共有できる家族以外の唯一の存在であります。
今日は、「親日」「反日」の話を近代期に向かい再生された朝鮮仏教にもたらされている「親日性」についてお話しました。「親日」という言葉や「反日」という言葉は、あまりにも日本と韓国の人的・物的交流を妨げる壁のように感じます。
今、私は友だちになろうという話をしましたが、ハングルで友だちは「■■(チング)」といいます。■■(チング)という字を漢字で書きますと「親しくて旧い」と書きます。この親しくて旧い■■(チング)という文字をよく頭に浮かべ考えて見ると、これまで幾度ともなく話していた「親日」という文字のあいだに縦の線を一本書き入れれば、「親旧(チング・■■)」となるのです。これからも日本と韓国は友人として、いわゆるチングとして一緒に歩く運命ですのでこれからも隣の友人を知るための努力をしてくださるようにお願い申し上げます。 
 
三島由紀夫書評

 

『豊饒の海』 輪廻転生について  
左翼系学生運動が過激さを増す1970年、三島由紀夫(本名:平岡公威)は、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自衛隊に愛国心に基づく決起を促した。しかし、その自立的な民族防衛と天皇中心の国体復帰を志向する先鋭なナショナリズムの目的は挫折し、彼の理想的な死の形式である割腹自殺によって三島は自決した。
三島由紀夫が晩年にその文学的才能の心血と自らの美的情熱の精髄を全力で注ぎ込んだ作品が、『豊饒の海 4部作』である。
第1作から最終作までのタイトルを並べると、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』という風になっているが、一冊一冊が非常に重厚長大で、用いられている語彙や表現は独特な艶やかさと華美な装飾で彩られている。
複雑さを凝らした美しい表現と精細を描ききる巧緻な心情描写が、『豊穣の海』を読む者を、三島の創造する官能的な美と清冽な思想が支配する世界へ引き込んでいくだろう。
なかなか気軽に速読できるような類の本でもないので、一冊を読了しようと思えばそれなりの集中力と静かな時間が必要となってくる作品であり、全巻を読むのは時間と気力の余裕がないと骨が折れるものだ。
私はまだ『春の雪』と『奔馬』までしか読んだことがないので、既読の2作についての書評を書いて、後の2作は読む機会があればまた感想や解釈を付してみたいと思う。
三島由紀夫のライフワークである『豊饒の海』に流れる通奏低音は、『輪廻転生の仏説』である。『春の雪』で、自らの屈折した感情と不器用な聡子との交際によって恋に破れ非業の死を遂げた松枝清顕(まつがえきよあき)は、『奔馬』において飯沼勲(いいぬまいさお)として転生するといった物語の展開になっている。
輪廻転生を遂げて全く異なる人格と思想、人生観をもって産まれた二人だが、それでもなお、二人は同じ悲劇的な結末へと自然に突き動かされていってしまうのである。『豊穣の海』では、主要な登場人物の死が、次の物語の主人公の生に火を灯す役割をしている。輪廻するバラモン教的なアートマン(我)は、延々と『不可思議な循環する生』の担い手となって、前世の業を現世の物語へと転換し続けるのである。
前世の業(カルマ)については、仏教思想の解釈や仏教の宗派によって賛否両論あるが、元々は古代インドの支配民族であったアーリア人が既存の社会秩序を維持する為に考案した『善因善果・悪因悪果』の思想である。
その為、現世の不幸な境遇や身分差別、心身の障害、虐待や搾取を『前世の悪しき行為の積み重ねとしてのカルマ』で説明することで、現在のカースト制度や身分秩序を肯定する役割を果たしてきた。
つまり、『バラモン(司祭階級)やクシャトリア(貴族階級)といった上位階級の権益と支配』を正当化し『ヴァイシャ(庶民階級)やシュードラ(奴隷階級)といった下位階級の苦役と差別』を諦観させる役割を、前世が来世を無条件に規定するというカルマの思想は果たしてきたといえる。
自分のあずかり知らない過去の悪しき振る舞いによって現在の低い身分や不幸な人生があるのだという考え方は、個人の自立性と身分制の否定を前提とする現代社会では到底受け容れられないものだが、カルマと輪廻転生の思想には肯定的な側面もないわけではない。
現在の政治体制や身分制度を肯定する為のカルマの思想、これは全面的に否定されるべき思想だといえるが、現世の人生で功徳を積み、利他的な慈悲を施して生きれば来世はより良い生に転生できるという思想はそれほど害悪のあるものではないだろう。
前世のカルマによる輪廻転生を他者の不幸や苦痛を正当化する責任転嫁の道具として用いることは愚劣だが、現世で善いカルマを積む利他的な行為、来世の善き転生の為に徳を積みたいとする信仰そのものは尊いものであろう。
仏教に現世利益を期待してはならないとするストイックな諸法無我や煩悩の消尽を重視する信者もいるかもしれないが、多くの苦悩を抱える信者にとって現世利益(目的志向の信仰)の全否定はあまりに酷であるのもまた事実である。とはいえ、現実の人生を『仮初めの生や前世の応報』と見るような三世の業による輪廻転生の思想が内在する危険性には意識的であるべきだろう。
輪廻転生の教えを仏教の開祖である釈迦は自らの言葉で述べておられず、カルマ(業)や三世(前世・現世・来世)、輪廻転生など『死後の世界を前提として前世から来世への生まれ変わりを示唆する教義概念』に対して『無記=論証不可能な形而上学の対象について肯定・否定を言及しない』の態度を貫かれたという学説もある。
三島由紀夫の文学作品への書評なので仏教思想に余り深く踏み込む余白がないが、知っておくと三島の『豊饒の海』の作品理解に役立つであろう仏教思想についてだけ解説を付しておこうと思う。輪廻転生は、釈迦が確立した仏教固有の思想ではないとする考え方は有力であるが、これは、『バラモン教の我(アートマン)の思想』と『仏教の無我(アナートマン)の思想』との思想体系を区別しようとする考え方でもある。
もちろん、古代から現代においてインドの伝統的宗教であるバラモン教やヒンズー教の影響は仏教よりも強く、その思想や信仰の仏教に対する影響は無視できない。釈迦自身も、ウパニシャッド哲学やバラモン教の信仰の影響から完全に自由であったとはいえないし、パーリ経典には輪廻転生の記述も見られる。
輪廻転生は、インドの伝統的な土着信仰であるバラモン教の死生観を仏教が継時的に受け継いだものと言われるが、一般的に、長い歴史を通して仏教体系(大乗仏教)の中に輪廻転生は組み込まれており、多くの仏教徒は輪廻転生や業を前提として仏教を信じてきた。インドという長大な観念的営為の歴史を持つ土地において、古代バラモン教やウパニシャッド哲学に起源を持つ思想概念の影響は余りに根深く強固であった。
輪廻転生とは、紀元前のインドの人々にとって懐疑の対象にさえならない極めて常識的な当たり前の死生観だったと考えることができる。その為、当時の新興宗教であった仏教が、その伝統的な死生観や世界観に対して真正面から否定的な教義を提唱することは、仏教自体の信頼性や有効性を貶めることにつながったのかもしれない。
個体が死んでも異なる個体となって生まれ変わり、その死と生の円環は途絶えることがないという輪廻転生の起源はバラモン教のウパニシャッド哲学にあるとされる。
輪廻転生が仏教本来の死生観でないという証左の一つとして、輪廻転生は仏教の根本教義である『四法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦』に含まれておらず、各法印の教える『自我への執着や常住する実在を否定する』内容は、輪廻転生のぐるぐると生まれ変わる循環的な生のあり方を否定する。
また、輪廻転生は、個人の自我の振る舞いを超えた前世の業(行為が生むカルマ)によって六道輪廻を繰り返し続ける苦悩を意味する思想でもある。六道輪廻とは『天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄』の6つの世界における生まれ変わりのことであり、人は、前世の行為(カルマ)によって次の人生を生きる場所が決定されてしまうという思想である。
人間界でも四苦八苦に代表される無数の苦悩や悲しみ、痛みがあるのに、それよりも苦しくて悲惨な状況にある修羅以下の世界には生まれ変わりたくないというのは人情である。
それ故に、人は因果応報や自業自得といった自己責任を意識せざるを得なくなり、敬虔な原始仏教の信徒は仏教の究極目標である『解脱』を目指して修行精進することになるのである。
解脱とは、輪廻転生の生まれ変わりの円環の苦悩から解法された悟りの境地であり、同時に、煩悩によって心を揺り動かされることのない涅槃寂静の仏陀の境地でもある。
釈迦自身が、仏陀や阿羅漢に至る悟りに輪廻転生からの離脱という意味を明確に込めていたのか否かははっきりしないが、釈迦生存当時の古代インド社会では、苦の因果としての輪廻転生は常識として受容されていたと考えると分かりやすい。
仏教の輪廻転生にまつわる話が長くなりましたが、三島由紀夫の『春の雪』の書評に戻ります。『春の雪』は竹内結子、妻夫木聡を主演に展開する大正ロマンの恋愛物語としてついこの間映画化されたようですが、鑑賞する機会を逸してしまったのでいつかDVDで鑑賞してみたいと考えています。
この手の邦画は、人気の高いハリウッド映画などと比べて劇場公開期間が結構短いので、気づけば既に公開が終了している場合が多いですね。 
『春の雪』『奔馬』 
前回の記事で、三島由紀夫の『豊饒の海』の各作品を架橋する超越的な古代インドの宗教理念である輪廻転生について説明しました。
『春の雪』と『奔馬』の登場人物である松枝清顕と飯沼勲が輪廻転生の円環によってつながっているという本多繁邦の直感の中で、悲劇的な物語は淡々と流れていきます。
幼児期に公家の家に預けられ、京都の貴族的な文化風土の中で育った松枝清顕は、武家の人間に似つかわしい剛毅さや豪放さを身に着けることなく比類なき美貌を備えた美青年へと成長した。清顕の生家は元々質実剛健な武家であり、あまり高貴な家柄ではなかったが、突出した武人であった祖父が挙げた明治維新の武勲により華族制度における侯爵の地位を賜ったのである。
渋谷の高台にある広壮な松枝侯爵の豪邸には、明治天皇も行幸なされたことがあり、その際に清顕は春日宮妃殿下のお裾持ちの役割を果たした。
華やかな貴族的な行事の中で一層引き立つ清顕の世俗離れした圧倒的な美しい容貌に、父親である松枝侯爵は、超越的な美が内在する脆弱性をそれとなく感じ取っていた。
清顕の教育や面倒を見る侍従として傍近くに使える書生の飯沼茂之は、清顕とは対照的な剛毅さと朴訥さを愛する硬骨漢で、軽薄な振る舞いと柔弱な雰囲気を疎ましく思っていた。
飯沼茂之は、学業優秀で体格も抜きん出たものがあり、文武両道を地でいくような男で、清顕の祖父で幕末の戊辰戦争で獅子奮迅の活躍をした先代に心酔していた。
しかし、飯沼茂之は、清顕に生理的な疎ましさを感じてはいたが、清顕に対する忠義忠誠に一点の曇りもなかったし、清顕を剛健な力強さに満ちた武家の人間らしい男子にしたいという希望を持っていた。その点には注意する必要があるだろう。
『奔馬』では、成長した飯沼茂之は、右翼の思想団体を統率する首領のような立場になっているが、本多と再会して清顕の死を偲ぶ時には心の底からその死を惜しみ融通の利かなかった過去の自分を反省している様子も見られる。
質実剛健を絵に描いたような祖父が興した松枝侯爵家が、京の柔弱な公家のような奢侈と遊興に塗れた生活をしているのが飯沼茂之には何より不本意であったのだ。
飯沼が清顕に対する不快感や違和感は、その余人を寄せ付けない清顕の美しい外貌に集約されていた……美しさの孕む脆弱さや儚さ、国事国難に関する意識の低さ、武人らしい剛健な雰囲気の欠如、そういった美貌の清顕の持つ特性の全てが、武功の名誉ある松枝家にはふさわしくないと飯沼には思えたのである。
18歳の清顕は同年代の少年が持つ野蛮や粗雑を嫌悪していたため、余り多くの友達を持たなかったがそんな清顕が唯一親しい交友関係を持っていたのが本多繁邦であった。本多の父親は大審院で判事を勤めているという法律一家であり、頭脳明晰な本多も将来は法律家になることを志している。
前述した清顕のお側付きの飯沼茂之とこの親友の本多繁邦は、豊穣の海第ニ作の『奔馬』でも非常な重要な登場人物になっていく。清顕は『春の雪』の主人公ではあるけれど、その生命は第1作で燃え尽きて、その自我の不可知な本質が延々と輪廻し続けることになるのである。
『春の雪』では、暗い情念と武骨な猛々しさを心の奥に控えた飯沼と本多は折り合いが悪くて殆ど話さない。本多もどちらかといえば物静かで消極的な性格だったが、その繊細な感受性には理知的で論理的な光が宿っていた。
清顕は自分の内面的な感情の動きを他人に洞察されたり言及されることを嫌っていたが、そういった友人の感性に対して本多は敏感であり、清顕の望む友情のあり方を見事に体現していた。
世に稀な美貌を身体に宿した侯爵家の跡取り松枝清顕は、全ての行動と思考が浮世離れしていて、侯爵家の地位や名声を自分が守ろうというような公的な決断の意識や社会的なアイデンティティとは全く無縁であった。優雅な生活と洗練された振る舞い、貴族的な特性の集積が清顕の身に一身に降り注いでいるかのようであった。
余りに世俗を離れた美しさを所有するものの宿命なのか、清顕は他人から強く求められ愛される「受動の愛」には必要以上に恵まれているが、彼は自分から他人を強く求めて狂おしく身悶えるような「能動の愛」とは全く無縁であった。
親友の本多と紅葉山が色づき始めるうららかな晩秋の日に、広大な庭にある池でボート遊びを楽しむ。ふとした思い付きで本多が『中の島まで行ってみるか』と声を掛ける。
その中ノ島の草叢に寝転んで目にしたのが水色の爽やかな色合いの着物を着た幼馴染の綾倉聡子であった。
母の側仕えをする大勢の女中の中に混じった若く清楚な女性である聡子は、光沢のある美しい刺繍を施した絹の着物を着ていて、夜明けの空のように一際輝いてみえたのだった。
清顕の奥深い感情の原野には、幼少期を共に過ごした美しい聡子に対する淡い恋心は芽生えていたが、それよりも先に聡子のほうが清顕への愛情を抱いていた。
聡子は、清顕よりも2歳年上で、いつも幼い時の清顕の側にあって、書道や和歌など公家的な素養を清顕に教えてくれたのだった。
清顕の「自分の感情を素直に受け止めて行動に移せない」未熟な性格は、周囲に賞賛と喝采を浴びすぎたために生まれた冷ややかな毒のようなものであった。
他者を強く愛そうとする自分を悲劇的な結末へと導いてしまう性格、『自分を愛してくれる人間を軽んじ、軽んじるばかりか冷酷に扱う傾向』を清顕は所有していたし、その事を敏感に察していたのが親友の本多でもあった。
そして、この『自分の強烈な恋愛感情を素直に表現することを頑なに拒む清顕の悪癖』が自分自身の身の破滅と愛する聡子の孤独な人生との原因になってしまうのである。
松枝侯爵家は、幕末の戊辰戦争で明治政府側について大きな功績を上げたことの恩賞で侯爵という高い爵位を得た成り上がりの武家であるのに対して、聡子が生まれ育った綾倉家は現在は財政的に貧窮していて実権はないが、平安の昔から高貴な身分であった生粋の公家の家柄であった。清顕の祖父は、剛毅で朴訥な武人であったが、父親の侯爵は貴族的な文化教養の雅やかさを自分の武道一点張りの家系に取り入れたいという憧れを持っていて、その為に清顕は綾倉家に預けられたのである。
月修寺の門跡(僧侶)の語った元暁(げんぎょう)の髑髏不ニの法話(心の機能によって価値が生じる)を聞いた清顕は、純潔な青年の純潔な恋という理想の異性関係のあり方に心を寄せる。
『春の雪』の主要テーマは『一抹の穢れなき純粋無二の愛する人(綾倉聡子)への恋情』であり、『奔馬』の主要テーマは『一切の私心なき純潔無二の主君(天皇)への忠誠』なのである。
その滅びの美学に貫徹された三島の文学世界の観察者であり証言者に選ばれたのが、明晰で透徹した理性を持った清顕の親友・本多繁邦であった。
そして、輪廻転生譚としての『豊饒の海』の通奏低音を知覚と実感によって認識できるのも本多繁邦だけなのである。
時代を超えて輪廻する主体が何なのかについて仏説では一応『中有(中陰)』という主体が仮定されていて、霊魂や幽霊のようなものは仏教では否定されている。
現実的な人間世界の規範としての法を修得して、法の根底に普遍的真理の存在を探そうとする本多が、無条件に清顕の生まれ変わりとして飯沼茂之の息子・飯沼勲を見てしまったのは仏教的な思考に対する親和性の為だったのだろうか?
古代インドの法体系を構築したマヌ法典では、宗教・法・道徳・習俗が渾然一体となっていて、ヨーロッパの自然法のように明晰な理知による規範の対照を為している。
マヌ法典は人間世界の限定された規則というよりは、混沌とした大宇宙の人間知性を寄せ付けない法則として記述された法の集大成であり、そこでは輪廻転生という非現実的な法則があたかも常識のように書き付けられているのだ。
卓越した聡子の美貌に一目で惹きつけられた洞院宮治久王殿下は、聡子との婚姻を希望するが、婚姻の儀が執り行われるまでにはまだまだ余裕があったし、聡子が他の男性から求婚されているという事実が明らかになれば取りやめにすることも出来た。
清顕は両親から『聡子の結婚について異存はないか?気持ちにひっかかりはないか?』と何度も尋ねられたが、自分自身の恋愛感情や性的関心を素直にありのままに表現する事ができず、また自分の聡子への燃え盛る恋情を認めることに恐れや恥を感じていた。
清顕は、傷つきやすい自尊心や潔癖な虚栄心を守るために、成就できたはずの恋愛を自ら破綻の淵へ追いやったのである。
結局、天皇家の親王との縁談が進んでから、清顕は聡子との逢瀬を重ねる禁断の関係にのめりこんで行くのだが、それは究極的な破滅としての死へと一歩一歩近づく道であった。
清顕の身体的な死と聡子の女性としての死との軌跡は放物線を描いて、急速に没落の度合いを強め、清顕の輪廻する中有は『奔馬』の勲の無謀な政治的熱狂、純粋無垢な忠義の暴挙へと継承されていく。
『春の雪』は、現代的な恋愛とは遠く隔たった純潔と淫靡が交錯する男女の純潔の物語である。『逢瀬』という男女の性愛関係を意味する言葉が機能していた時代の恋物語であり、儚く舞い散る穢れなき『春の雪』のように届きそうで届かない『耽美的な純潔の愛』の挫折を美麗な筆致で描写したものである。
『春の雪』は、幻想的な恋愛への耽美が主旋律であり、『奔馬』は、純潔の忠義心と政治への熱狂が主旋律であるが、どちらも『現実世界では実現不可能な純粋無垢なイデア』を追い求めてやまない三島由紀夫の執念にも似た美意識を宿した作品という意味で通底している。
美と信義を巡る潔癖な完全主義者の自滅的な人生の展開、破綻に向かって転げ落ちていく生の悲哀がそこにはある。
そして、『奔馬』における悲壮な忠義ゆえの自決、国粋主義的な天皇への忠誠に燃え盛る飯沼勲の自決は、その割腹自殺に至る経緯と光景に違いはあれど、書き手である三島由紀夫の将来を不気味に暗示するアレゴリカル(寓喩的)な悲劇として機能しているのである。
この後に続く『暁の寺』と『天人五衰』は未だ読んでいないので、輪廻転生譚としての豊穣の海がどのようなエピローグへ向けて紡がれていくのか機会があれば読んでみたいと思っています。『豊穣の海』は時代背景を色濃く反映したストーリーも確かに意義深いものがあるのですが、作品本来の魅力は三島由紀夫でないと表現できないような色彩感豊かな艶やかな文章や感覚的にゆさぶりを掛けてくる美しい情景描写にあると思います。
ロマン主義や耽美主義の一つの極地として屹立する三島文学の特徴がもっとも良く現れているのが、『金閣寺』とこの『豊饒の海』だと思いますので、未読の方は、一度読んでみると現代文学やミステリーとは異なる感動や発見を得られると思いますよ。 
『暁の寺』『天人五衰』 
三島由紀夫の壮大な構想と豪奢な舞台の下に描かれた『豊饒の海』の第3部『暁の寺』は、仏教の信仰厚いタイ(シャム)の地を中心に話が進められる。
第4部『天人五衰』では、莫大な財産を偶然の幸運によって築き上げた本多繁邦の聖俗相半ばする生涯の総決算がなされる。
時代と歴史の傍観者として天寿を全うしようとする理智の権化であった本多が、夭折した清顕や勲への贖罪を意識し、清顕の輪廻転生と彼が信じる安永透を養子にとることになる。
安永透が、清顕や勲のような過剰な自尊心、潔癖な理想主義によって『運命的な死』を選択せずに済むように、本多は透を観念的な理想に没頭しない平凡な社会人へと育成して救済しようとする。
高潔と俗悪、名誉と愚劣、栄光と堕落、理智と無知の二面性を併せ持った本多の光と影が余すところなく白日の下に晒され、彼の信じ続けてきた清顕の輪廻転生譚にとりあえずの回答が与えられる。
第1部『春の雪』の主人公であった松枝清顕の親友・本多繁邦は、炎暑の国タイのバンコク(バンコック)へと五井物産の薬品輸出のミスに絡んだ国際裁判の仕事で飛ぶ。
第2部『奔馬』において、情愛の陶酔にその生命を捧げた松枝清顕の魂魄は、政治的熱狂に恍惚を見る飯沼勲に転生し、両者とも20歳を迎える前にその人生を終える事となった。
第3部『暁の寺』において、松枝清顕から飯沼勲に転生した魂は、性別を超えて本多繁邦と因縁浅からぬタイの姫君・ジン・ジャン(月光姫)へと転生を遂げていく事となる。
第4部『天人五衰』において、松枝清顕から飯沼勲、ジン・ジャンへと転生してきた魂は、清浄な美しさと明晰な頭脳を併せ持った少年・安永透に転生したと本多は信じて、彼を養子にすることとなる。安永透が清顕以来の輪廻と結びついていると考えるのは、本多の錯誤であり願望の投影に過ぎないようにも思えるが、結局、透も二十歳を迎える前に社会的な不適合者となり自らの意志で狂気の世界へと足を踏み込んでいく。
清顕から勲、ジン・ジャンへの輪廻転生の証拠だと本多が深く信じ続けてきたのは、その身体的特徴としての『腋の下の3つの黒子』だった。
その身体的特徴は、安永透にもあったのだが、透は前世に生きた清顕・勲・ジン・ジャンの示した『神聖な生の輝きや情熱』を裏付ける清らかな自尊心を持っていなかった。
土地の所有権を巡る行政との民事訴訟に、時代の流れによる偶然の結果、勝訴することになった本多繁邦は莫大な財産を所有する事になった。本多繁之は、貧困と不遇に見舞われていた優秀な青年・安永透の3つの黒子を見て、彼が清顕の生まれ変わりだと頑なに信じ込んでしまい透を突然、自らの養子にする。
初めは本多に気に入られる好青年を演じていた徹だが、本多の老衰が進行して、不名誉な覗き見の性癖が暴露されると、その地位と財産を簒奪しようという俗欲を露わにしてくる。
本多繁邦の窮地を救ったのは、本多の親友で最も信頼している女性であった久松慶子であった。彼女は、本多が透を養子にした輪廻転生の理由を丁寧に語り、『自分が特別な才能の持ち主である』という透の自尊心を巧みにくすぐって、透が自滅的な破局を選択せざるを得ない事態を作り上げた。
安永透の俗悪趣味と精神の汚濁が暴かれてしまうと、本多は輪廻転生が真実なのか夢想なのか分からなくなり事態は混沌の度合いを深めていく。最後に、死を間近に控えた老齢の本多は、親友・清顕が深い思いを寄せて死んでいった相手の女性・綾倉聡子の元を訪れる。
綾倉聡子は、松枝清顕の優柔不断と不器用な振る舞いによって清顕と別離せざるを得なかった女性である。清顕が二十歳で死去する以前に、既に俗世を捨てて出家し松枝家とも所縁のある月修寺の僧侶となっていた。
老後になって本多が再会した月修寺の門跡聡子は、高位の尼僧となっていて俗世への欲求や過去の束縛から自由になっていたが、あれほどの深い因縁があった松枝清顕の存在を覚えていないはずはなかった。
しかし、有徳の高潔な門跡となった聡子は、何の逡巡も葛藤もなく『その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?』と繰り返すばかりである。
現実と空想の境界線が揺らぎ、本多繁邦が最も堅固で磐石だと思っていた過去の記憶がその足場を失って曖昧なものとなった。
本多繁邦の過去の明瞭な記憶の中に生きる綾倉聡子にとって、松枝清顕は決定的に重要な人物で忘却のしようのない人物であるはずだ。それなのに、目の前にいる嘘をつくはずもない高徳の尼層となった綾倉聡子には、その最も大切な過去の人物にまつわる記憶がすっぽりと抜け落ちていて『現世でそのような人物と会った記憶はない』と言う。
本多が人生の全てを賭けて追い求め続けた親友の清顕の輪廻転生の想像的な物語は、素早く暗転して虚実曖昧な様相を呈してくる。
松枝清顕の純粋な愛情、飯沼勲の悲壮な覚悟、ジン・ジャンの美麗な肉体、安永透の表層的な浅はかな才知……冷徹な観察者として生き続けた本多繁邦は、精神内界の歴史的変転を正しく記述し続けてきたはずだった。
しかし、正確で堅固なものであるはずの本多繁邦の記憶は不明瞭なものとなり、『豊饒の海』は、あまりにもあっけなく明鏡止水の静けさをもって終結することとなる。
延々と繰り返される生と死、前世から現世への中有(輪廻する主体)の転生と滅亡、『豊饒の海』の主旋律は飽くまで輪廻転生にあり、『暁の寺』という作品の大部分が仏説の説明に費やされている。
その意味では、『暁の寺』という三島の小説は、現代において小説の形式や定義に当てはまるものではなく、仏教思想と随想小説が融和した形式なのではないかと思う。
膨大な分量が割かれた難解な仏教の歴史の回顧と唯識論の概念の説明は、仏教思想に興味がある者でも読むのに難儀する。
小説本来の物語としての面白さやテンポの良い場面展開を殺してでも、三島由紀夫は仏説の詳細な回顧と説明を『豊饒の海』に織り込んだ。
この意図は、読者に伝達したかった三島の『不退転の意志や透徹した美意識』が、仏教の無常観やヒンズー教の輪廻という概念において結晶化するからではないか。
徹底した観察者(傍観者)として人生を無難に歩み、蓄財の果てに老後の不名誉を甘受した本多繁邦は、政治活動に奔走する以前の三島由紀夫の自我の投影であるようにも思える。
観念的な理知や論理の世界に閉じ込められた本多繁邦に象徴される三島由紀夫の自意識が、諸行無常の摂理と諸法無我の諦観によって『観念や知識を捨てた行動主義』へ開かれたという事が出来る。
厳密には、理性と論理で防御壁を巡らした本多繁邦だけでなく、純粋な愛の陶酔に生命を投げ捨てた松枝清顕も、政治の堕落や民衆の退廃に義憤を燃やした飯沼勲も、肉体的な魅惑と背徳の官能の内に死したジン・ジャン(月光姫)も、三島由紀夫の自我や美意識の反映である。同時に、私達個々人の理想や願望の投影として、『豊饒の海』の登場人物の生涯や思想を眺める事も出来る。
バンコクは、無数の水路によって結ばれる水上交通と商業活動が発達し、古来からの仏教信仰の敬虔さを示す黄金や陶器で装飾された豪奢な寺社が林立している。禁欲と謙譲に覆われた仏教の静謐なる観念は、過剰な形容詞の祝福で彩られたバンコクでは、豪華絢爛な寺院となって燦然と輝いていた。
大袈裟で仰々しい繁文縟礼の仏教国のタイの文物や風土を、本多繁邦はメナム川を見下ろせるオリエンタル・ホテルから観察し自らの人生経験との対比の中で吟味していた。そして、文明的な豊かさと快適が保証されたオリエンタル・ホテルの一室からは、メナム川を挟んで神聖な『暁の寺』が茫漠と静かに佇んでいた。
タイを代表する歴史ある仏教寺院ワット・ポーやワット・プラケオに足を運んだ本多は、ホテルからぼんやりと日没の方角に見渡せるワット・アルン(暁の寺)へも舟を使って訪問してきた。ワット・アルンは、本多が実際の物象に接近するにつれて重層感のある優美な外観、色彩豊かな華美を露わにしてきた。
数え上げる事の出来ない膨大な数の皿が適切な場所に配置されることによって、色鮮やかな可憐な皿の花を次々と花開かせていたのである。幾重にも張り巡らせた累積し集積する重厚感のある人工的な花の美しさは、人間の思念や願望が無機的な皿という物質に反映されたものであり、無常で過酷な現実世界に造形された『枯れる事を知らない花』なのであった。
自然は生成消滅を繰り返し、人の心に無常観の現実を知らしめようとし、人間は永遠不変のモノやシステムを想像して、それを科学や理知の力で顕現しようとする。しかし、今までの地球誕生以来の歴史では、絶えず人間の人工的な意図を反映した文明や科学は、自然の諸行無常の摂理に圧倒されてきた。
『暁の寺』は、鮮やかな色彩と目映いばかりの光輝に覆われて、人間の視線を超えた遥かなる高みを目指し、古代バビロニアの『バベルの塔』のように高貴ではあるが冷然とした存在感を示して屹立していた。
近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿を隈なく鏤めているのが知られた。いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は紫紺であった。嵌め込まれた数知れぬ皿は花を象(かたど)り、あるいは黄の小皿を花心として、そのまわりに皿の花弁が開いていた。あるいは、薄紫の盃を伏せた花心に、錦手の皿の花弁を配したのが、空高く続いていた。葉は悉く瓦であった。そして頂からは白象たちの鼻が四方へ垂れていた。
塔の重層感、重複感は息苦しいほどであった。色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂きに向かって細まるさまは、幾重もの夢が頭上からのしかかってくるかのようである。すこぶる急な階段の蹴込(けこみ)も、隙間なく花紋で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支えている。一層一層が幾重の夢、幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なお累積し累積して、空へ向かって躙(にじ)り寄って成した極彩色の塔。
メナムの対岸から射し初めた暁の光を、その百千(ももち)の皿は百千の小さな鏡面になってすばやくとらえ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。
この塔は永きに亙(わた)って、色彩を以ってする暁鐘の役割を果たしてきたのだった。鳴り響いて暁に応える色彩。それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つように造られたのだった。
本多繁邦は、裁判官としての職務と地位を、松枝清顕の魂が転生したと彼が信じる飯沼勲の為に投げ打った。彼は裁判官を辞職して弁護士になってからも、優秀な能力を持つ法曹として活躍したが、彼の心から情熱や理想という書生じみた感慨は消え去っていた。
また、本多繁邦は自ら持てる利益と地位を全て捨て去って救済しようとした飯沼勲の死により、『他人の救済』という善意を信頼することがなくなった。本多は『他者の救済』や『社会正義の実現』といった情熱に裏打ちされた理想を諦める事によって、実利的な法的救済をより多くの他者にもたらし、法律家としての高い評価を得ることが出来るようになっていた。
本多が、若い頃に軽蔑し疎んじていた俗物としての法曹に自分自身がなる事によって、彼は道徳的に自由になり、快活で陽気な人格を表面的に身につける事が出来るようになった。飽くまで、表面的な世俗迎合であって、本多の内面奥深くで燃え盛る仏教的な思想や真理探究の熱狂は完全には収まっていなかった。
仏教国タイに訪れた本多の目的は、五井物産の法律問題の解決といった仕事の為だけではなく、清顕を通して知り合った二人のシャム(タイ)の王子に再開する目的もあった。
27,8年も前に、シャムのラーマ6世の弟のパッタナディド王子とその従兄弟でラーマ4世の孫クリッサダ王子が松枝清顕の広大な屋敷に下宿して学校に通っていた。
本多と清顕が最も多感で情熱的だった時代に、シャムの二人の王子は留学してきたのだが、その時にも知識と理性の鎧で自分の感情を露わにしなかった本多は傍観者として彼らの生活に関わっていただけだった。
パッタナディドの最愛の恋人・月光姫は彼が留学中に故郷のシャムで死に、月光姫との愛の証であった大きなエメラルドの指環は遠い異国の日本で失われた。悲恋の記憶と哀愁の余韻を残して、怜悧で明晰な印象のあるパッタナディド王子と快活で愛嬌のあるクリッサダ王子は日本からシャムへと帰っていった。
シャムの王子と過ごした過去の時間を緩やかに想起しながら、純粋な日本の原形と異国の風物のあり方との違いを本多は述懐し、『純粋な思想』と『運命的な死』の接近を考えるのだが、これは三島由紀夫自身が『純潔な思想に忠実な行動の先』には『逃れがたき死』があると考えていた事を示唆しているように思える。
一切の偽善や妥協を受け容れない排他的な思想は、その目的や理想がどれだけ正しく清浄なものであっても非常に危険なものに成り得るという事を思わずには居られない。これは政治的な国粋主義や排他的なナショナリズムの危険性だけに限ったものではなく、他の価値観や信念への妥協や寛容を一切受け付けない誇り高いイスラム教原理主義やキリスト教根本主義にも当てはまる危険性なのである。
純粋無垢なもの、偽善なき正義を徹底的に追い求めることは、政治領域の危険性のみならず個人の人生の活動領域においても破綻や自滅の危機を招来する。余りに透徹した美しいものや一点の曇りのない正しいものは、現実世界において開花する事が至難なイデア界のものなのかもしれない。 
『暁の寺』『天人五衰』 仏教解説に込められた『存在・生命』への思い  
下記の引用部分からは、飯沼勲の悲劇的な人生の末路と晩年の切迫した三島由紀夫の心情や悲劇の予兆が重なってしまうかのような印象を受ける。
三島は、『暁の寺』でくどくどしく記述した仏教的な静穏や安寧を思いながらも、狂信的な政治行動と共に訪れる悲劇的な死の結末の誘惑に抗し切れなかったようにも思える。
――それにしても王子たちの日本の回想は、よしんば時の流れが懐かしさを増したにしても、決してよくはあるまいと本多は懼れた。王子たちの居心地を悪くしたものは、孤立であり、言葉の不自由であり、習俗の違いであり、又、盗難であり月光姫(ジン・ジャン)の死でもあったろう。
しかし、最後のところで王子の理解を拒んだものこそ、本多や清顕のような普通の青年のみならず、白樺派の自由な人道主義的な青年たちをも孤立させた、あの威丈高な「剣道部の精神」だった。困ったことには、王子の味方には本当の日本は稀薄で、王子の敵にこそ濃厚な日本が在ったことを、王子たち自身も多分おぼろげに感知されていた。
その狷介な日本、緋縅(ひおどし)の若武者そのままに矜り高く、しかも少年のように傷つきやすい日本は、人に嘲笑されるより先に自ら進んで挑み、人に蔑(なみ)されるより先に自ら進んで死んだ。勲は、清顕とは違って、正にこのような世界の核心に生き、かつ、霊魂を信じていた。
五十に近づいた本多の年齢の一得は、もはやあらゆる偏見から自由になったことだといえよう。自ら権威となったことがあるから権威からも。自ら理智の権化となったことがあるから理智からも。
すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに与らなかった本多をも含めて、一時代を染めなした紺絣の精神だったから、今となっては本多も自分の記憶の青春を、それに等しなみに包括させることに吝かでなかった。
これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたっては、本多はそれと青春を共にしたわけではなく、外側から瞥見しただけだったが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦い自滅していった姿を見ては、『自分をこうして生き延びさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思想の力だ』と覚らざるを得なかった。固有の思想は人を死なせるのだ。
もし、生きようと思えば、勲のように純潔に固執してはならなかった。あらゆる退路を自ら絶ち、全てを拒否してはならなかった。
勲の死ほど、純粋な日本とは何だろうという省察を、本多に強いたものはなかった。すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすら全て拒絶し否定することのほかに、この最も生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか?誰もが恐れてそれを言わないが、勲が身を以って、これを証明したのではなかろうか?
しかし、四部作の最終巻『天人五衰』で、安永透という美少年を通して示唆されるような『肉体的な美しさと永遠に衰退しないエロスへの憧憬』によって三島は自滅的な生の終幕を自ら下ろしたようにも思える。
タイを訪れた本多は、清顕の過去の思い出と結びついたパッタナディドやクリッサダと旧交を温め合う機会は得られなかった。彼らシャムの王族の大部分は、スイスのローザンヌに生活の新たな拠点を移していて、めったにシャムの宮殿には帰らなくなっていた。
そんな中で、唯一、シャムに残り続けている王族がいた。それは、7歳になったばかりのパッタナディド殿下の末娘ジャントラパー姫(月光姫,ジン・ジャン)であった。パッタナディドは、悲しい別離を迎えた過去の恋人の名を、自身の娘の名前として与えていたのだった。
ジン・ジャンは、『自分は日本人の生まれ変わりである』と主張して意味不明な妄想的な発言を繰り返して暴れるので、薔薇宮という宮殿に半分幽閉されている状態にあったのである。
精細なバラの装飾とガラス細工に覆われた薔薇宮で、本多はジン・ジャンと謁見することになるが、そこで半狂乱となって泣き叫びながら本多に縋りついてきたジン・ジャンは信じられないような事を語る。
『本多先生、私はあなたにお世話になりながら、黙って死んだお詫びを申し上げたい。こんな姫の姿をしているけれど、実は私は日本人で、前世は日本で過ごした。どうか私を日本につれて帰って欲しい』と語るジン・ジャンは長じてから日本に留学して、本多と再会するのだがその時には輪廻転生に関する記憶は全て失っていて過去のこの発言も全く覚えていない。
日本に留学してきた妙齢のジン・ジャンは、屈折した性的嗜好と純潔性への憧憬に引き裂かれる本多繁邦の欲求の対象となる。
しかし、飽くまでジン・ジャンの魅惑的な裸体と清浄な処女性は、本多にとって『直接的な行為の対象』ではなく『間接的な観察の対象』であった。
社会的な高い評価と経済的に圧倒的な富裕を手にした本多繁邦は、他者の性的行為や性的身体の観察という愚劣な窃視の衝動によってしか彼の性欲を満たすことが出来なくなっていた。
裁判官という正義執行の職務や弁護士という秩序維持の職務を長い期間にわたって遂行してきた本多繁邦は、背徳的な覗き見、善良な市民から唾棄され断罪されるべき窃視癖という悪徳に惑溺してしまうようになっていた。
第4巻『天人五衰』の後半において、富裕な生活と社会的な名誉を享受して安閑と生活する老境の本多繁邦を『不名誉な覗き見趣味の老人』として失墜させるのもこの歪んだ性衝動の表れである窃視の悪癖であった。
公明正大な正義の執行者、理性的道徳を遵守する有徳者として本多繁邦が守り続けてきたイメージは、老境における余りに凡愚で低劣な性的趣味の暴露によって一瞬で瓦解した。
『天人五衰』という小説の表題になっている言葉は、『至高の清浄と優美を備えている天界に住む天人』が臨終、終命を迎える時にあたって表す徴候の事を意味する言葉である。
そもそも五衰とは、天人命終の時に現れる五種の衰相を云い、出典によって多少の異同がある。すなわち増一阿含経第二十四には、
『三十三天に一天子あり、身形に五の死の瑞応あり。云何(いかん)が五と為す、一に華冠自ら萎み、二に衣裳垢ふんし、三に腋下より汗を流し、四に本位を楽しまず、五に王女違反す』
とあり、又、仏本行集経第五には……。(中略)
ここまでは似たり寄ったりであるが、大毘婆沙論第七十は、大小二種の五衰をあげて、もっとも詳細に亙っている。
まず、『小の五衰』とは、一は天人が往来し舞い翔けるにつれて、常ならば、どんな楽人の奏楽も及ばぬほどの美しい五つの楽声を、身に具えた楽器から発するのであるが、死が近づくと、楽は衰え、声は不如意にかすれてしまう。
二は、常ならば天人は昼夜を問わず、身光赫奕(かくやく)として、その身内からかがよう光りが、影を添わせることがないのに、ひとたび死が迫ると、身光はいちじるしく暗くなって、身は薄暮のような影に包まれてしまう。
三は、天人の肌は滑らかで凝脂に包まれ、例えば、香池に入って沐浴をしても、水を出るときに、たちまち蓮華の葉のように水を弾くのであるが、死が迫ってくると、その肌にも水が着くようになる。
四は、ふだん天人は一つの境地にとらわれることなく、まるで巡る火の輪のように、決して一箇所にとどまらないで、ここと思えばまたかしこ、何をやっても巧みにこなし、次々と打ち捨ててはよそへ移ってゆく天稟であるのに、死が近づくと、もっぱら一箇所に低迷して、いつまでもそこを脱け出すことができないようになる。
五は、天人の身は力に満ち溢れ、眼は決して瞬くことがないのに、死が迫るや、身力はか弱く衰えて、しきりに目ばたきするに至る。
以上述べたところが小の五衰の相である。
『大の五衰』の相はどうかというのに、その一は、浄らかだった衣服が垢にまみれ、そのニは、頭上の華がかつては盛りであったのが今は萎み、その三は、両腋窩から汗が流れ、その四は、身体がいまわしい臭気を放ち、その五は、本座に安住することを楽しまない。
これによれば、ほかの出典の五衰とは、みな大の五衰を説いたものであり、小の五衰の生じている間は、死を転ずることも全く不可能ではないが、ひとたび大の五衰が生じた上は、もはや死を避けることが出来ないのであった。
永遠の美麗と無限の叡智、完全な清浄の属性を持っていると俗世の人間が思っている天人であってさえも諸行無常の理から完全に自由になることは出来ず、清浄は汚濁へ、叡智は愚鈍へ、美麗は醜悪へと時間と共に変化していく。
天人でさえも五衰の衰微や停滞から逃れられないのであれば、俗世で生きる人間もその宿命的な老化や衰退から自由になれないのは当然である。
表層的に完全と見える美しさや清らかさ、永遠に継続するように見える栄華や繁栄も、『平家物語』冒頭の句のように、『諸行無常の響き』に包まれ、『盛者必衰の理』に従いゆく他はないといった愛惜を天人五衰の教義は伝えてくる。
ジン・ジャンの話に戻ると、ジン・ジャンも松枝清顕や飯沼勲と同じように、二十歳になった春に鳳凰木の樹下で猛毒を持つコブラに咬まれて死んでしまった。本多繁邦が、綾倉聡子の侍従だった老婆の蓼科から譲り受けた、蛇の毒に効果のあるという経典『大金色孔雀明王経』の功徳は、遠いタイの国の宮殿に住まうジン・ジャンの身体には届かなかったのだ。
死せる人間の中有という主体が、ぐるぐると他の身体へと乗り換わって循環を続けるという輪廻転生譚の物語は、その科学的真偽はともかくとして、清顕、勲、ジン・ジャンという円環を描いて運命的な回避不能な死をそれぞれにもたらしたのである。
本多は、タイを訪問したついでにインドの聖地ベナレスへと飛んで、神聖と汚辱が入り乱れた聖なる河ガンジスで複雑な宗教的思索に耽り、世俗の不幸と苦痛の果てにあるとインド人が信じる来世の至福に思いを寄せた。
ベナレスは、敬虔な信者たちの神聖が極まる町であると同時に、生活と生命が生み出す汚穢が極まる町であった。
そして、私達の生きていかなければならない世界は、精神的な清浄と汚濁が交錯し、身体的な快楽と不快が交じり合う世界であり、行動に移される善意と悪意が複雑怪奇に葛藤し続ける世界なのである。
本多がインド古代よりの聖地ベナレスで受けた衝撃と回心とは、文明的な道徳や科学的な理性で切り裂く事の出来ない生活世界の不条理であり、理智の及ばない予測困難な混沌であったのかもしれない。
さるにてもベナレスは、神聖が極まると共に汚穢も極まった町だった。日がわずかに軒端に射し込む細径の両側には、揚物や菓子を売る店、星占い師の家、穀粉を秤売りする店などが立ち並び、悪臭と湿気と病気が充ちていた。
ここを通り過ぎて川へ臨む石畳の広場へ出ると、全国から巡礼に来て、死を待つ間乞食をしているライ者の群が、両側に列をなしてうずくまっていた。たくさんの鳩。午後五時の灼熱の空。乞食の前のブリキの缶には数枚の銅貨が底に貼り付いているだけで、片目が赤くつぶれたライ者は、指を失った手を、剪定されたあとの桑の木のように夕空へさしのべていた。(中略)
すべてが浮遊していた。というのは、多くの最も露わな、もっとも醜い、人間の肉の実相が、その排泄物、その悪臭、その病菌、その屍毒も共々に、天日のもとにさらされ、並の現実から蒸発した湯気のように、空中に漂っていた。ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。千五百の寺院、朱色の柱にありとあらゆる性交の体位を黒檀の浮彫であらわした愛の寺院(アジャンタの石窟寺院)、ひねもす読経の声も高くひたすらに死を待っている寡婦たちの家、住む人、訪う人、死んでゆく人、死んだ人たち、瘡だらけの子ども達、母親の乳房にすがりながら死んでいる子ども達、……これらの寺々や人々によって、日を夜に継いで、喜々として天空へ掲げられている一枚の騒がしい絨毯だった。
広場は川へ向かって斜面を作り、行人が自然にもっとも重要な水浴階段(ガート)、十馬犠牲(ダサシュワメド)のガートへ導かれるようになっていた。創造神ブラーマが十頭の馬を犠牲(ヤイナ)に捧げたと伝えられているところである。
そこに水嵩も豊かに湛えた黄土色の川こそはガンジスだった!カルカッタで、真鍮の小さな薬缶に恭しく納められ、信者の額や生贄の額へわずかずつ注がれていた聖水は、今目前の大河になみなみと湛えられていた。それは神聖さの、信じられないほどの椀飯振舞(おうばんふるまい)なのであった。
病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死の者も、ここでは等しく黄金の喜悦に満ち溢れているのは理である。蝿も蛆も喜悦にまみれて肥り、印度人特有の厳粛な、曰くありげな人々の表情に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔さが漲っているのも理である。本多はどうやって自分の理智を、この烈しい太陽、この悪臭、この微かな瘴気のような川風の中へ融け込ませることができるかと疑った。
どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦の音、物乞いの声、病人の呻吟などが緻密に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没していくことができるかどうか疑わしい。本多は、ともすると、自分の理智が、彼一人が懐に秘めた匕首の刃のように、この完全な織物を引き裂くのではないかと怖れた。
要はそれを捨てることだった。少年時代から自分の役割と看做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によって、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれていたが、今はこの汗と病菌と埃の人ごみの中へ、人知れず捨ててゆくほかはなかった。
『暁の寺』では、輪廻転生する主体(魂・我)の不在を、精緻な理論で克服しようとした無著を始祖とする唯識論についても深く触れられています。
輪廻転生譚を小説として読み進んでいく面白さの他にも、仏教的な解説書として味わえる魅力も『豊饒の海』は持っているのですが、阿頼耶識と末那識、種子薫習に関する説明はかなり冗長で、仏教に興味がない人は読み飛ばしたくなるかもしれません。
この世界の存在と現象の究極的根拠を阿頼耶識に還元してしまおうとする唯識論に、三島由紀夫が拘泥したのは『一瞬一瞬に生成消滅しているこの世界の事象に何らかの確固たる根拠』を与えたかったからではないのかという思いがしました。
世界や生命は刹那刹那に少しずつ変遷し衰退に向かうけれども、世界や生命そのものは衰退しつつも転生し続け、その『存在そのものの永続性』は普遍的な阿頼耶識の存在によって保証されていると考えるとき、有限の生命を抱えて懸命に生きる私達個々の生命に、何らかの意味や救済がもたらされるのかもしれません。
そう考えると、輪廻転生とは、仏説において『衆生の苦・業の因果』とされながらも、輪廻する事を止めずに存在を継承し続けることで、世界の法則や生命の継続は保証されていると解釈する事が出来ます。
重厚長大な文章と荘厳華美な修飾によって構成された4部作『豊饒の海』を読了した感想を簡単に述べるのは難しいですが、『存在と行為の相互的な関係の中で、如何に生きている価値や意味を見出すのか』という問いかけが為された作品であるように思いました。
本多繁邦が苦悩と病苦、貧困がひしめくベナレスを訪れる場面は印象的ですが、聖と俗がぶつかり合う場所というのはベナレスのような特別な聖地だけではなく、私達が生きている平凡な生活の場でも聖と俗は烈しくせめぎ合っています。
高尚な理想に没頭し過ぎての破滅、低劣な現実に順応し過ぎての堕落……極端な言動を排する中庸の魅力の乏しさとの葛藤……『豊饒の海』に登場する多様な人物の生涯を通して考えることは、人それぞれだと思いますが、そこから学び取れる事柄が、それぞれの人生や世界にとって肯定的なものであれば良いなと思います。 
 
三島由紀夫 檄文

 

檄文
われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。
かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。 
演説文
私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。
静聴せよ、静聴。静聴せい。
自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。
静聴せい。静聴せい。
それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。
静聴せいと言ったら分からんのか。静聴せい。
それでだ、去年の十月の二十一日だ。何が起こったか。去年の十月二十一日に何が起こったか。去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。
なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。
治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。
諸君は、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が二十年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の一〇・二一から一年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。
それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。
シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。
………そこでだ、俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。………そうした自衛隊の………最後の三十分に、最後の三十分に………待ってるんだよ。
諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。
そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ
抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。
それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!
まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 
三島事件
1970年11月25日に、著名な作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。楯の会事件とも呼ばれる。
1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(当時は、東京都新宿区の市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。
総監の益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛り縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた自衛官もいた。また総監室も金額としては数百万円相当(当時)の被害を受け、後に平岡(三島の本名)家が弁償している。
三島らは、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に向け30分間演説することを要求しそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をした。しかし自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容についての反発も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた。
この時三島はマイクを用意しておらず、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義・享楽主義になっていたから」だとしている。現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという。なおこの演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした。
総監室に戻った三島は、森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、恩賜煙草を吸い、上半身裸になり「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀を突き立てた。この時、介錯人の森田は自身の切腹を控えていた為か、手の震えで二度失敗し(刀も曲がってしまったともいう)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって一刃の元に刎ね、続いて切腹した森田必勝の介錯も行なった。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出し、舌を噛み切っていたことも検死報告されている。
ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決は、日本国内だけでなく世界各国で注目を集め論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。
決起に至った理由
自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島はこれらの檄文と遺書を事件直前に、「楯の会」の会員を通じNHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。
日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞」と断じていた。演説で、三島は自衛官らに「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。
三島の自決の決心に決定的に影響を与えたのは三島の自決の前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決であった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、ここからは江藤青年の至誠と壮絶な自決が三島の出処進退に多大な影響を受けたことが読み取れる。
自殺の原因には諸説が挙げられるが、更にその一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である(三島自身「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている。なお荷風とは、系図上では遠戚関係にある)。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた。
そして更に一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。
そして更にもう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムがある。そのことは1960年に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。
三島は、同年7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得ていない約束』の題名で寄稿している。その中で、戦後民主主義を「偽善というおそるべきバチルス」と断言し、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来た」ことに負い目を感じていた、と告白する。そして、これまでの自分の作品は排泄物に過ぎず、「その結果賢明になることは断じてない」とまで言い切る。そして、文章の最後で「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来への絶望を吐露している。この文章は、実質的な『遺書』の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。
三島が死に急いでいたことは檄文に、元来は「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべき箇所を、「昭和四十五年十月二十一日」と書いていることなどからも伺える。検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという。 
 
三島由紀夫

 

本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)大正14年-昭和45年(1925-1970/11/2)
日本の小説家・劇作家。戦後の日本文学を代表する作家の一人である。晩年は、自衛隊に体験入学し、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、新右翼・民族派運動に大きなな影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊長として隊員4名共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に東部方面総監を訪れ、その部屋で懇談中に突然日本刀を持って総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、約一時間後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。
生涯
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒学者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業。卒業後の明治26年(1893年)、武家の娘である永井なつと結婚。内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
作家永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。つまり、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。

公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味を含む過保護な教育を行った。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)に公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。
高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから「アオジロ」。しかし初等科6年のとき、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出して「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという。
1937年(昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。
1938年(昭和13年)には『輔仁会雑誌』に最初の短篇小説「酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。
1939年(昭和14年)、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まった。この頃には、生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会っている。清水が学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。
1940年(昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書いた。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。この頃オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。

1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説「花ざかりの森」を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斎藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。のちに天皇制に関して、深い傾倒を見せることと成り、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった(蓮田は終戦直後に南方にて自決)。同年12月7日に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。
1942年(昭和17年)に、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は新関良三、野村行一(昭和32年に東宮大夫在職中に死去)らがいた。体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する。
1943年(昭和18年)、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、三島は弔辞を奉げた。『赤絵』は2号で廃刊となった。
1944年(昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
なお、三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と書いてはいるが、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる。
本籍地の兵庫県加古川市(旧・加古郡加古川町)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「仮面の告白」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局は合格し、召集令状を受け取ったものの風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。
1945年(昭和20年)、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。
2月に入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅、多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。「エスガイの狩」などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。
8月15日終戦、第二次世界大戦が終わった。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えたが、8月19日に軍用拳銃で自決。
10月23日には妹・美津子がチフス(菌を含んだ水道水を誤飲したのが原因)により、17歳の若さで急逝する。
同年暮、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子。のちに侍従長となる三谷隆信の娘、親友三谷信の妹。のち鮎川純太の伯母となる女性)が銀行員と婚約し、翌1946年5月5日には両者は結婚。恋人を横取りされる形になった三島は「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」と書いている。
文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の元を訪ね、短編「中世」、「煙草」を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』(編集人木村徳三)に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」が文芸雑誌『群像』に掲載される。
1946年12月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。
1947年(昭和22年)11月、東京大学法学部(旧制)卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、先述の通りの健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。
1948年(昭和23年)、雑誌『近代文学』の第二次同人拡大に際し参加(この件りは『私の遍歴時代』に詳しい)。河出書房の編集者坂本一亀から書き下しの長編を依頼され、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟り渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを、ようやく父梓が許可した)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。
1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ、旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。北米・南米・欧州を経て、翌年8月に帰国。
自己改造と『金閣寺』
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組み始める。元々痩身で先述の通りの虚弱体質であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった。三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163cmと、当時としては平均的であった。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173cmです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173cmだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。
古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛に行い、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の皇后美智子と見合いを行ったのもこの時期のことであると考えられている。
1954年「ゴジラ」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えている。またクラークの「幼年期の終り」を絶賛し、SF同人誌「宇宙塵」に序文を書き、自らもSF性の強い作品である「美しい星」を執筆するなど、当時の文化人には珍しくSFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。
世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年より)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数か月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃からボディビルに加えて剣道・居合を始める。舩坂弘と剣道を通じて交友。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4か月前にサンケイ新聞夕刊で発表した「果たし得ていない約束」において、「(戦後)二十五年…私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と告白している。
この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。日本国外外での評価が高さを示すこととして、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た「Death,Night & Blood (Mishima)」という楽曲を発表している。
楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークとした四部作の長編『豊饒の海 第一部 春の雪』が、1965年(昭和40年)より『新潮』で連載開始された(1967年まで)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降も引き続き候補として名が挙がった。三島はノーベル文学賞受賞を期待し、受賞者が発表される当日に羽田空港にVIPルームを予約し報道に備えたが、結局新聞記者は三島のもとには現れず、受賞した川端康成を取り囲んだ。
同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』、『葉隠入門』、『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。特に文化防衛論においては「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。
同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後に『暁の寺』に結実した。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海 第三部 暁の寺』(1970年前半まで「新潮」に連載)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。同年8月、43歳時に剣道五段を修得した。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。
1969年2月11日(建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士・江藤小三郎青年の壮絶な自決に大きな衝撃を受け、その心情を『若きサムラヒのための精神講話』に記す。5月に東大教養学部で、全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わした。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年に、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演(薩摩藩士田中新兵衛役)。勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演した。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは、三島事件の中心メンバーとなった。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝に、間接的に担当編集者(小島千加子)へ渡された『豊饒の海 第四部 天人五衰』最終回が遺作となった。介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ武田泰淳は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。
翌年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長川端康成、弔辞船橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。三島を取材した通信社の元記者の取材ノートが、松戸市内の古書店の店主宅から見つかり元記者の長女に返還された。 
 
三島由紀夫の自決

 

三島と天皇制
1970年、昭和45年、11月25日、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷の東部方面総監部に入り、そこのトップの益田兼利陸将を拘束、バルコニーから演説をぶって、その後その部屋で割腹自殺を図るという事件が起きた。
三島由紀夫は前々から「楯の会」というものを組織して、その会員達を度々自衛隊に体験入隊させて、自衛隊という組織とは別に自分の軍隊というか、私兵というか、自分が思うままに動かせる組織を作っていた。
そして、その組織が体験入隊を通じ、頻繁に自衛隊に出入りする事によって、自衛隊というものの信頼を勝ち得ていた。
だからその組織のトップとしての三島由紀夫は、今までの信頼関係により、自衛隊の営門を潜り、やすやすと自衛隊のトップのいる場所にまで行けたに違いない。
三島由紀夫の檄文は、私のような右よりな思考のものには大いに共鳴する部分があるが、彼の行為というのはやはり左翼過激派の行為と何ら変わるものではない。
彼は、自らの命に刃を向けたが、その刃の向きが内側を向いているのか、外側に向いているのかの違いで、行為としては全く同じ軌跡を踏んでいると思う。
「楯の会」というのも、ある意味で過激派の集団と同じなわけで、意味も知らずに赤軍派を結成した左翼過激派と全く同じ発想であり、行動である。
テロリズムで貫かれているという点では優劣つけがたいわけである。
三島由紀夫の憂国の信条というのも、私のような右傾化した人間には痛いほどわかるが、三島由紀夫の演説は、とうの自衛隊からでさえ野次られていたわけで、それは彼が独善的であった、ということの証拠である。
人々を感銘させるに至っていなかった、ということである。
それをもっと具体的にいえば、街頭で左翼の人たちが街宣車でガナっているのと同じだ、という事である。
彼の論旨は、左翼の考え方の対極にあるように見えたが、その行動が同じでは説得力に欠けたものになってしまった。
三島由紀夫という作家は、個人的には好きな作家である。
「潮騒」などという作品は、心を洗われるような良い作品である。
エログロ・ナンセンスの作品が多い戦後の文学の中で、稀に見る気高い作品だと思う。
しかし、彼の行動というのは不可解な部分が多いように見受けられた。
尤も、我々はマスコミの報道からしかそれを知ることが出来ないが、彼の生き方そのものが、やはり普通の人の思考を超越したものであったようだ。
我々、日本人の生き方としては、イワシの大群やメダカの群を観察した時に見られるように、ある何かの切っ掛けで、群全体が皆同じ方向を向くという不思議な性質がある。
この民族性は、事の良し悪しとは別に、我々の持って生まれた潜在意識とでも言わなければ説明がつかないように思う。
三島由紀夫の場合、そういう群の動きから泰然と超越しているという感じがする。戦後の我々の生きかたというのは、日本全国の全部が左翼の振りをしてきた。
戦前は猫も杓子も軍国主義者であったものが、戦後というのは、日本人の全部が全部、左翼に理解を示す、物分りの良い文化人に成り変ってしまった。
政府の悪口を言い、自民党の悪口を言わなければ、日本人ではないかのような印象を受けたものである。
その中で三島は自衛隊に理解を示す事を恥じずに、堂々と「楯の会」という組織を作ったわけである。
この「楯の会」というのは、自衛体経験者の隊友会とも違い、防衛協力会とも違っているわけで、やはり一番近い表現では三島の私兵という言い方が一番的を得ているのではないかと思う。
左翼ではない三島のような人間が、日本という国を真剣に考えると、それは天皇の問題を避けては通れないのではないかと思う。
そして、天皇の問題に触れると、どうしても憲法の問題に触れざるをえないように思われる。
これらの問題は、この当時、左翼の独断場で、それらを否定する声ばかりが鳴り響いていたわけで、三島由紀夫はそういう声に疑問を感じていたに違いない。
人が大騒ぎをして騒ぎ立てれば、「それは何故に騒ぐのであろう」と自分なりに深く考察したに違いない。
そして、自分で考え、自分で判断してみると、どうも世間で言っている事のほうが可笑しいのではないか、という結論に至ったものと私は推測する。
どうして天皇がいけないのか、よくよく深く考えてみれば、天皇とは古の昔から連綿と続いてきたわけで、天皇自身は臣民を直接統治したことはないわけである。
何時の時代も日本の象徴であり、象徴以外の何ものでもなかったわけである。
こういう言い方をすると、世が世ならば打ち首獄門にされかねないが、要するに、毒にも薬にもならないただの象徴であったわけである。
しかし、日本以外の主権国家からこの天皇の存在というものを見てみると、この毒にも薬にもならない、ただの象徴でありながら、日本人の心に厳然と根付いている天皇制というものには、理解しがたい畏怖の念があったわけである。
それは彼らが日本人でないから、畏怖の念を抱いていたわけで、日本人ならば、空気か水のように思えることが、西洋人にはそうは取れなかったわけである。
西洋人からすれば、この天皇制というのは宗教に映るわけで、宗教ならばその宗派というのは、日本人の全部をカバしているに違いない、と思い込んだわけである。ところが我々の側にしてみれば、天皇の存在というものをそういう観点から見たことがないものだから、西洋人にも説明しきれない部分があるわけである。
ならば天皇は日本民族の統治者かといえば、統治者としては、昔は幕府と言うものがあり、明治維新以降は、他に政府と言うものがあり、天皇は実質的な統治は全くしていないわけで、まさしく政治の場面では象徴的であり、形式以外の何者でもない存在である。
ところが、日本がアメリカの戦争で負けてみると、勝った側としては、誰かを戦勝の血祭りに上げなければ、自分達の国民に労苦を背負わせた証が立たないわけで、そこで一部の勝利者の側では天皇をその血祭りの餌食にしようとした国もあった。ところが負けた日本を実質的に統治しようとしていたアメリカは、この何ともつかみ所のない天皇というものを、統治の道具として利用する事を考えたわけである。それでアメリカが日本に押し付けた暫定的な憲法で、天皇の地位を日本国民の象徴という形で、定義つけて利用しようとしたが、我々は既に天皇というものを以前から象徴として崇めていたわけである。
ところが、この天皇を崇めるという事を、キリスト教徒達が彼らの視点で見てみると、日本人はキリスト教徒がキリストを崇めるのと同じスタイルで崇めているものと思っていたところが、我々はそういう形では崇めていなかったわけである。
その事は、天皇を宗教の教祖という捉え方をするから、そういう齟齬が生まれたわけである。
我々は天皇を神様と捉えているが、我々のいう神様というのは、イワシの頭からトイレの神様まであるわけで、日本には八百万の神様がいることになっている。
天皇というのは、その中の一つであるという認識に立てば、そうそう天皇制に反対を唱える必要はない。
日本との戦争に勝利したアメリカは、戦争に勝った後、日本を如何様に管理するかで、相当知恵を絞ったはずである。
その第一が天皇の人間宣言として神性の否定であったが、天皇はもともと神様などではない、という事を本人が一番よく知っていたわけである。
ただ後知恵ではあるが、天皇も、軍国主義者が日本を奈落の底の突き落とす前に、その神性の否定をしておれば、奈落の途中で何かにひっかかっていたかもしれない。 
三島の軍隊に対する認識
戦前の日本の軍国主義者というのは、何とも言葉では言い様のない、愚かな人間であった。
しかし、これも先に述べたイワシの大群かメダカの群と同じで、一番先頭で真っ先に方向転換する日和見な人間がいたという事であり、残りの大多数の人間は、盲目的にそれに引きずられたといえる。
「軍国主義者でなければ人であらず」という旗振りを先頭にたって振り回した愚かな人間がいたことも事実ならば、それについていった愚かな大衆がいたというのも歴史的事実である。
そしてこれと同じ行動パターンが戦後の左翼である。
戦後の日本の進歩的知識人という左翼集団である。
三島由紀夫は、多分、そこに気が付いたと思う。
イワシの大群や、メダカの群が大声で騒いでいる事には信憑性がない、ということを肌で感じていたのかもしれない。
現実の政治というものを、じっくりと目を見開いてみていれば、それは自ずとわかることで、戦後からこの時に至るまでの間に、いわゆる左翼の言っていたことと反対の事を保守陣営はしてきたわけで、その結果として、戦後の復興があったわけである。
しかし、戦後の日本というのは、マスコミの報道を見る限り、日本人の精神的統一というものは見えてこないわけで、まさしく51:49の意見対立があるように見えたわけである。
日本人の半分は共産主義に帰依しているかのように見えたわけである。
その現状を鑑みて、三島由紀夫はあのような特異な行動に出たものと思われる。
三島由紀夫の考え方の中で最大の欠点は、やはり暴力の肯定である。
昭和11年の2・26事件の時の青年将校と同じ発想で、「政府の要人を殺害してでも昭和維新をしなければならない」という思い込みは、そのまま左翼の思想とつながってしまうわけで、この点が彼らしくない発想だと思う。
そして赤軍派の重信房子と同じ発想で、自らの軍隊を持たねばならない、と思い込んだところが、思想的に稚拙である。
ある意味で、組織だった軍隊というものを知らないという事になる。
いくら「楯の会」が自衛隊に体験入隊したところで、それは軍隊になりえない。
それは軍隊というものを全く知らないという事に他ならない。
重信房子にしても、他の赤軍派のメンバーにしても、連合赤軍にしても、又三島由紀夫にしても、本当の軍隊というものを全く知らないということである。
鉄砲を担いで、教練だけをすれば、それが軍隊だと思っていたとすれば、これほどの認識不足もありえない。
大体、戦後半世紀の間に、日本では軍隊というものの研究という事は御法度になっていたわけで、そういう中で本物の軍隊というものを一般の人が理解するという事はありえない。
鉄砲を担いで、少々分列行進ができる程度では、山賊か、馬賊か、盗賊程度のもので、とても軍隊とは言い切れない。
赤軍というのはソビット赤軍にしろ、中国の赤軍にしろ、共産主義革命の中で、政府軍から分捕った兵器をもった、物盗り、山賊、農民、無頼漢、逃亡兵、傭兵たちがそれぞれに寄り集まって集団をなして出来上がったわけで、基本的には軍隊と呼べる代物ではなかったはずである。
ところが共産主義革命が成功して、民衆、大衆を押さえつけて、政権を維持していくには、暴力という実力行使がどうしても必要なわけで、それには武力がどうしても必要不可欠であった。
それでそういう無頼漢たちの存在意義が生まれ、これを国軍として処遇したわけである。
国家建設の理念から組織だって作られたものではなかった。
共産主義革命で、既存の政治体制を潰した後、大衆や反対勢力を力で押さえつけるための便宜的な存在が肥大化したものである。
無から軍隊を作り上げたわけではなかった。
その点、我々、日本人というのは、旧大日本帝国軍隊というものを無から有に作り上げたわけである。
それに大きく貢献したのがいわゆる徴兵制という制度である。
これによって日本の軍隊というのはまず人を集めたわけである。
それから大日本帝国の総力をあげて装備を作り上げたわけである。
人と装備が揃ったところで、慢心したのが第2次世界大戦に首を突っ込むということになったわけである。
軍隊というのは、主権国家が国力を傾注して作り上げても、尚不十分であったわけで、それを例え私兵としてでも、又その類似のものを作ろうとしたとしても、どだい無理な話である。
そして左翼の過激派にしろ、三島の私兵にしろ、事を解決するのに暴力も辞さないという考え方は、最初から民主主義の否定という事につながっている。
私は暴力というものを全面否定するものではない。
ある意味で、極めて好戦的、時と場合によっては戦争も辞さない好戦的な人間であるが、戦争には大儀がある。
テロには大儀がない。
大儀があるように見えるけれども、それは仲間内だけの自己満足の大義であって、統治される側の大儀を代弁したものではない。
人は誰でも「戦争はいけない」「戦争はしてはならない」「平和で行くべきだ」「私達の子供を戦場に送るな」と叫ぶ事が平和だと思っている。
確かにそれは万人が認めざるをえない真理である。
それは充分にわかっている。
充分に解っているけれども、それでもなおしなければならない時と場合があるという事を我々は認識していない。
どんな時でも我々は相手に屈服すればいいと考えている節がある。
どんな時でも相手に屈服すれば確かに戦争はしなくても済む。
戦後の日本人はそういう日本を夢見ていて、日本をそういう国にしたいと願っているわけである。
主権国家同志の食うか食われるか、倒すか倒されるか、弱肉強食の国際社会の中で、日本は相手の言うことを全部丸飲みさえしていれば確かに戦争というのはありえない。
戦後半世紀、日本はその手で過ごしてきた。
湾岸戦争で、金だけ出して世界から哄笑されても、我々の生命財産が搾取されたわけではない。
我々は今までどおり大過なく過ごさせてもらえている。
だから戦争というのは、何がなんでも回避すべきだ、というのが戦後の日本を支配した知識人の大方の考え方である。
我々、日本人は大過なく過ごさせてもらえているが、他所の国の人は犠牲を払っているわけである。
そのことを忘れたまま、我々は平和な生活が出来ているので、「戦争は御免だ」と言う発想は、全くもってひとりよがりで、唯我独尊的な、自分勝手な発想だと思う。だから湾岸戦争に、金だけ出して血も汗も流さなかった日本が蔑まれたわけである。
三島はその矛盾に気が付いたのではないかと思う。
彼の胸中に飛来したのは、やはり民族の魂ではないかと思う。 
三島の憂慮
私は三島由紀夫の研究者ではないので、彼の思想の移り変わりを語る資格はないが、彼の行動から勝手に推測する限りにおいて、彼は日本民族というものを振り下げて考えていたに違いない。
そして日本の民族全体がまさしくエコノミック・アニマルに成り下がっている現状を鑑みて、こういう特異な行動に出たものと推測する。
彼が我慢ならなかったことは、戦後の日本の知識人というのが、民族の誇りを失ってしまった事にあったのではないかと思う。
大学の先生方が打ち揃って日本の独立に反対し、占領中のままでいることを選択する現状を見れば、三島の憂慮も理解しえる。
確かに、我々は、見栄や外聞、誇りや名誉で飯が食えるわけではない。
飯を食うためには物乞いだろうが、盗人だろうが、人からいくら侮られようとも、刃向かってはならず、じっと我慢の子でなければお恵みにありつけないわけで、こういう発想が日本人のインテリーの間に浸透している事への反発であろうと思う。こちらが卑屈になれば、相手はお恵みを与えてくれるという発想も、我々の側の勝手な思い込みにすぎないわけで、必ずそうなるという補償は全くないわけである。相手にも、出来ることと出来ないことがあるわけで、こちらがいくら卑屈になったところで、相手はそれに応えてくれるとは限らない。
三島が日本人、日本民族と言うものを深く考察すればするほど、現実の日本人の在り方というものが我慢ならないものになっていたのではないかと思う。
ならば自分でその現状を少しでも変えてやろう、という気になって「楯の会」というものを立ち上げ、自衛隊に体験入隊して、軍隊というものの雰囲気を味わおうとしたわけである。
自衛隊のバルコニーから三島が演説をしても、それを聞いた自衛隊員の方では、野次を飛ばし、哄笑していたわけで、これだけ三島由紀夫と現実の自衛隊員との間にはギャップがあったわけである。
誰一人として三島由紀夫に共鳴したものがいない、ということは彼の行為、彼の発想が如何に浮上がっているかということである。
それは同時に、今の自衛隊が如何に現実の日本人の生き方に密着し、シビリアン・コントロールの元に、国民感情に浸り、権威を誇示しない存在か、という事の証明でもある。
三島由紀夫は自衛隊と旧軍隊とを全く同じ物だ、という認識にたっていたようだが、そこがまるっきり違っていたわけである。
確かに、陸海空と、戦うための装備、人を殺すための装備とノウハウは持っている点では旧軍隊とも世界中の同じような組織、つまり世界の軍隊と同じ機能をもっている事に変わりはない。
しかし、それを形作っている自衛隊員というのは、旧軍隊の軍人とはまるっきり違った人種であったわけである。
中身の人間は、昔のように1銭5厘のはがきで農村や山村から集められた召集兵ではないわけで、この豊穣な日本の中で、そう給料も多くなく、過酷な訓練を自ら志願してきた若い連中で、そうかと言って愛国心に満ち溢れた若者かといえばそうでもなく、いわば自己のとの戦いに自分で挑戦している若者というべきであろう。
要するに、自衛隊という組織を、自己との戦いの場として捉えているわけで、人殺しの装備と、そのノウハウはその為の手段と手法に過ぎないわけである。
いわば自己練成の道場と捉えているのである。
そういう人間を目の前に、いくら三島由紀夫が美文調の檄文を読んだところで、それは陳腐にしか映らないように思う。
現にそうであったわけである。
この現実は日本の素晴らしい進化だと思う。
戦後の日本の民主主義の素晴らしい実績だと思う。
それを三島由紀夫は見落としていたところに、彼の秀才としての慢心があったに違いない。
左翼の進歩的文化人と呼ばれている人々は、この自衛隊を旧軍隊と同一視しているが、その意味で三島由紀夫も文化人の一人として、自衛隊と言うものが旧軍隊の伝統を引きついたものと認識していたに違いないが、戦後の日本の自衛隊というものは旧軍隊とは全く異質のものであった。
その違いが彼にとっては不甲斐のないものと映っていたかもしれないが、その不甲斐のなさが、自衛隊の信条として一番大事なわけで、自衛隊が主導権を握るようなことがあったとしたら、それこそ危機である。
シビリアン・コントロールこそが、民主主義国家の軍隊のあり方として最善のものでなければならない。
問題は、自衛隊の方はシビリアン・コントロールに徹しようとしているが、それを統括する側、つまり政府与党の方に、その認識が欠如している点である。
その最大の欠点は、政府内というよりも、与党と野党の間での話し合いなり、議会の中の論戦の場なりで、国会議員、政党人、党内の意識の中に、軍隊とか、国防とか、平時とか、戦争というものの知識というべきか認識というべきか、国益を守るという発想が極端に不足している事である。
シビリアンたるべき政治家に、安全保障の意味を全く解さない人がおり、ただ単なる言葉尻をあげつらい、揚げ足取りに終始している点である。
それは保守陣営、革新陣営共に認識を欠いているわけで、物を知らないもの同士が知らないまま不毛の議論をしているわけである。
これでは自衛隊を管理運営する側も、される側も、無駄な努力を強いられるわけで、それが最大の問題だと思う。
太平洋戦争の前の日本では、軍人の政治家が、軍隊出身だからこそ、軍隊の便宜を図ったので、ああいう結果を招いたわけであるが、そういう経験から考えれば、軍人でないものが真剣に日本の国防、乃至は国益という観点から政治経済というものを考えなければならないのに、それが党利党略のみで政治を語り、外交を語っているので、真の国益とか国防という視点が抜け落ちてしまっている。
自衛隊を如何に使うかということは、何も戦争だけではないわけで、戦争のないときにも自衛隊という自己完結的な組織を有効に使う方法はいくらでもあるはずである。
それを自衛隊の一言、国防という一言、防衛という一言を聞くだけで、過剰反応をし、過敏に順応する反政府勢力の存在というものに、三島は憂慮の念を抱いていたに違いない。
そして、そういう勢力の反政府キャンペーンというのは実にすさまじく、当時の日本社会党、日本共産党、反政府勢力の反日キャンペーンというのは、まさしく外国人の日本攻撃に等しいくらいの勢いであった。
そしてそれを日本の進歩的知識人というのが全面的にフォローしているわけで、世の中は左翼でなければ、反日でなければ、非日本人でなければ生きてはおれないような様相を呈していたわけである。
日本人でありながら、日本を陥れようとする同胞を見て、三島は檄を飛ばしたわけである。
我々が戦後、日本の魂を失ったのは一体どういうことなのであろう。
共産主義を根底に秘めた左翼過激派の人間も、究極のところ、日本人でありながら日本というものを否定し、自らは無国籍人間になろうとしたわけで、それを言葉を変えればコスモポリタンを目指すという言い方も出来るが、そういうものに理想を求めたわけである。
そのベクトルが逆方向に向いたのが三島由紀夫ではなかったかと思う。 
人間の本質
日本という4つの島に生息する人種が、無国籍な方向に進むことが我々の至福につながると思い込んでいたのが戦後の日本の進歩的な左翼の人たちであるとすれば、三島の場合は、日本人はより日本的になればなるほど至福に近づけるという発想にいたったものと思う。
ところがそこに至る過程で、のんべんだらりと河が清くなるのを待つ政治では我慢ならないわけで、一気呵成にそれを実現しなければならないと思い込んだところに彼ら、左翼も右翼も道を踏み違えた理由がある。
そしてその両方ともが、人間の思想、日本人のよりよき生き方というものを追い求め過ぎたわけで、人間の心というものは、そうそう綺麗なものではない、という人間の本質を見失っていたわけである。
日本を終戦という究極の混乱に貶めた旧の軍人政治家は、私服を肥やすという意味ではかなり清廉潔白で、太平洋戦争の開戦を決議した東条英機なども、GHQに逮捕される時点で、実に質素な生活をしていた。
日本民族を究極の混乱に導いた政治家というのも、政治家として私服を肥やすという意味では実に潔白で、その意味からすれば、戦後の政治家の方がよほど汚い精神の持ち主が多い。
特に、族議員などという呼称をいただいている議員は、砂糖に群る蟻そのものである。
国会議員というのはボランテイア活動ではないわけで、国から歳費という形で給料が出ている。
基本的には、その給料の中で生活するとすれば、族議員などという種族が徘徊する政治にはならないはずである。
政党活動に金がかかるというのは詭弁にすぎない。
戦後の政治家というのは、利権という甘い汁を吸うための政治屋であるからこそ、野党に叩かれ、日本の進歩的と称する知識人からそっぽを向かれるわけである。
その意味からすれば、与党、保守陣営というのは汚い政治家、政治屋の集まりであるということは否めない。
ところがこれが人間の本質なわけである。
甘い汁を吸うために蜜のあるところに虫が集まるように、人間も甘い汁を吸わんが為に、少々腐りかけて、人を惑わすような芳香を放つ臭い場所には政治家どもも集まるわけである。
これは人間の本質である。
政治の腐った部分には利権という芳香が漂っているわけで、その芳香に誘われて、何処かに甘い蜜があるのではないかと、鵜の目鷹の目で嗅ぎまわっているのが族議員という政界の毒虫である。
そういうものを一切排除して、綺麗な政治家が綺麗な政治をしましょうというのが革新系の発想であるが、彼らとて人間の本質からは逃げられないわけで、甘い蜜に群れたがる性癖というのは克服できていない。
蜜の内容が変わるだけである。
蜜の中身が変わるだけである。
資本主義社会ではその蜜というのは金であったが、社会主義国家では、それが権力であったり、権勢であったりしたわけで、権力や権勢が甘い蜜であったわけである。そしてそれは同時に金にもつながっているわけで、資本主義であろうと社会主義であろうと、人間の欲望の行き着く先は金である。
いきなり現金というものに行き着かなくても、人間がより快適な生活をしたい、という欲望は金を介してしか存在しないわけで、政治をするという事の究極の目的というのは、金儲けという事に行き着いてしまうわけである。
その意味からすると、戦前の日本の軍人政治家というのは、金に関しては比較的淡白であったように思われるが、戦後の資本主義の中の政治家というのは、金に意地汚いわけである。
しかし、当の政治家というのは、そういう事はおくびにも表面には出さないわけで、いかにも国民のため、国民の至福の為に、というポーズをとっていながら、裏でやっている事は利権に群がる蟻のようなものであった。
革新系の議員なら潔白かというと、これも後のバックが違うだけで、基本的には同じ構図であるから、やはり同じ穴の狢なわけで、政治家というものが私服の追求に血道を上げているという現実は変わらないわけである。
これは人間の集団である限り、大なり小なり付き纏う人間の業なわけで、民族を超え、種族を超え、社会体制を超え、主義主張を超えた人間の潜在的な変えることの出来ない本質である。
人は自分の至福を一番最初に考え、それから周りの人に偽善を施すには如何なる手法があるか、と思いを巡らすわけである。
人間は、まず最初に自分を一番安全な場所に置いておいて、それから人を助けるという行為に移るわけである。
これだからこそ人類は生き延びてきたわけである。
自分の身を省みず人助けする動物であったとすれば、人類は生き延びれなかったに違いない。
しかし、こういう人間の生き様というのは、純情な青年にとっては我慢ならないわけである。
純真であればあるほど、こういう人間の生き様、大人の在り方というのは我慢らなわいわけで、どうしても清らかな社会を早急に作らなければならない、という発想につながるわけである。
早急に作ろうと思うものだから、そこで暴力を肯定しなければならなくなるわけである。
暴力という力で無理やり社会を変え、清らかな人間が、清らかな政治をする社会を作らねばならない、という理想に耽ってしまうわけである。
その思いは、主義主張が違っても、目指す結論は全く同じなわけで、そういう理想郷というものは人間の英知では作りえない、という現実を自分の目でしかと見ようとしないわけである。
左翼も右翼も、自分達が決死の覚悟で革命やクーデターを起して、自分達は死んでも後世のものが清らかな社会を作り上げれてくれれば本望だ、と言いながら人殺しという暴力を行使するわけである。 
三島の美学としての死生観
私は個人的には、左翼よりも右翼に近いスタンスを取っているので、三島由紀夫が言わんとする事は、信条的には十分理解できる。
戦後、この時期までの間の日本の政治状況というのは、まさしく左翼であらずんば人であらずという風潮であった。
終戦から25年を経過した時点で、日本の政治・外交というのは、アメリカの庇護の下で、共産主義国家に向かっているが如き反体制の嵐であった。
日本の政治家というのは、政治の見えない部分ではしっかりと資本主義、自由主義を堅持しながら、アメリカと歩調を合わせて、戦後の復興に努力してきた。
ところがマスコミで報道されている部分には、そういう面は全くないわけで、この戦後の日本は、日本国民の総意がまるでの社会主義国に進むことを願っているかのような報道のされ方であった。
日本の国民の全部が社会主義国の建設を待ち望んでいるにも関わらず、日本の政府と日本の保守陣営が、それを邪魔しているかのような報道のされ方がされていた。そういう状況下で、三島由紀夫はそれに対抗すべく、立ち上がらねばならない、と檄文を飛ばしたわけである。
ところが案に相違して、自衛隊員も、日本国民も、そうそう馬鹿ではなかったわけである。
日本の国民はマスコミの報道している事を話半分に聞いていたわけで、丸呑みはしていなかったわけである。
しかし、日本のマスコミが報道している事が話半分であったとすれば、視聴者を欺瞞していたという事になる。
目に見える形の商品であれば、欠陥商品で、返品されてしまう。
商品に欠陥があれば、欠陥商品を消費者に買わせたとして、そのメーカーは社会的な制裁を受けるのが当然である。
マスコミの報ずる商品は、いくら嘘八百を並べて、虚偽の報道であったとしても、それを返品して金を返してくれという事はありえない。
欠陥商品であったとしても、クレームの持っていきようがないわけである。
誤報であろうが、故意に操作された世論形勢のキャンペーンであろうが、放送局なり、印刷機を離れた瞬間、それは返品の効かない商品となってしまうのである。
テレビや新聞を見る側は、「この報道は嘘だから払った金を返せ」とは言えない仕組みになっている。
これを「報道の自由」とか、「知る権利」と言って、如何にももっともらしく権利意識を振りかざしているが、これほどの欺瞞も他にありえない。
腐った食品を知らずに買って食べた人が食当たりしたとすれば、その人はメーカーに訴訟を起し、損害賠償倍を勝ち取る事が出来るし、警察も調べ、保健所も調べに入るが、過激な檄文で、それを信じて過激派に入ってしまった青年の親は、その過激な檄文を公表したり掲載した出版社を告訴できるであろうか。
その意味からすれば、三島由紀夫もマスコミの中で生息していた人物で、マスコミの中で評価を得、マスコミを生きる場所としていたわけであるが、そのマスコミの中で、自分の民族というものを深く考えたに違いない。
戦後25年を経過した時点で、日本民族というものを考えると、表面的にはアメリカから独立して、日本の自主性があるように見えるが、日本人のアイデンテテイというものは一向に見当たらないわけで、石を投げれば左翼に当たり、政府首脳を見れば、アメリカの属国に成り下がっている現状を鑑みると、やはり日本人として、日本民族としてのアイデンテテイーが欲しかったに違いない。
主権国家が一番主権を具現化しているのが軍隊である。
国益がほんのちょっとでも犯された場合、真っ先に出動するのは、普通の主権国家であれば軍隊の筈である。
そのことはすぐにドンパチと戦争をするという意味ではない。
三島由紀夫はそういう国家を望んでいたのではないかと思う。
しかし、もしそういうものを望んでいたとすれば、それは一昔前の世界の認識で、今では時代遅れになっている思考である。
特に日本の場合は想像だに出来ない事である。
我々の場合、国益という言葉さえ死語になっているわけで、日本人の生命財産という場合、動物学的な命、生物的に生きた状態の継続のみで、そこには日本人としての名誉も、誇りも、全く埒外に置かれているわけである。
戦後の日本人の中の知識人は、日本という国土の中に住む我々は、奴隷のように、昔の百姓のように、生かさぬよう殺さぬよう、命さえ長らえれば、どんな屈辱を受けても、相手に刃向かうことなく従順に生きるべきだ、と若い世代に教え込んでいるわけである。
この発想は恐らく三島由紀夫にとって我慢ならなかったに違いない。
それだからこそ「楯の会」などというグループを作って、「日本人の誇りとは何ぞや」という問題を提起していたものと想像する。
日本人を深く考えると、行き着くところはその死生観にいたるわけで、それを突き詰めると、腹切りということに行き着いてしまったわけである。
これはある意味で三島由紀夫ならずとも日本人の民族的性癖の最たるものである。桜の散るのを見て死生観を悟るのは、西洋人の感覚からすれば、一種の短慮に他ならない。
あまりにもあっさりしすぎている。
それは象徴的に日本人の心そのものであった。
美しく死ぬと言う事が、日本人の誇りである、と言われているが、これはそれこそ大和魂そのものである。
それはあまりにもあっさりしすぎて、形式美に浸りすぎている。
西洋人の発想では、「どんな屈辱を受けたとしても、死んでは元も子もない」、という発想であるが、我々の場合は、美しく死ぬ事が民族の誇りとなっている。
この死生観というのは、三島由紀夫以外の日本人でも、かなりの人に受け入れられており、これが日本人の誇りだ、と思い込んでいる節がある。
死ぬ事を美と捉える感覚というのは、日本人独特のものではないかと思う。
これがあったが故に、神風特別攻撃隊があり、学徒出陣があり、国難に殉ずるという発想が根付いたものと思う。
この死生観というのは戦前のもので、戦後はそれが消滅していたわけである。
三島由紀夫はその再生を密かに願っていたものと思われる。
戦後の民主教育というのは、戦前から戦後へと、あの戦争の中で辛くも命を永らえてきた日本の知識人というのが、戦前の価値観を全部否定してしまったので、こういう価値観も消滅してしまった。
その代りに世間に台頭してきた発想が、民主主義の名の元に個人の権利、私権の横行である。
この私権の横行というのは異常に拡大解釈されて、「報道の自由」とか、「知る権利」などと、お門違いの使い方がされるようになってきたわけである。
先にも言辞したように、間違った情報を流しておいて、それが「知る権利」だとか、「報道の自由」の名の元に許されるような事が公然と行われているわけである。
私権を少しでもコントロールしようとすれば、それは反動だとか、封建主義だとか、復古調だとか、反民主的というレッテルを貼って、私権の制限にブレーキをかけようとしたのが、戦後の日本の知識人層であった。
三島由紀夫の美学からすれば、そういうものには我慢ならない感性を備えていたに違いない。
彼の美学にしてみれば、世の中が如何様になろうとも、その中で生活を共にする人間というのは、全体に奉仕すべき存在で、まず最初に全体があって、その下に個人が存在する、という意識ではなかったかと思う。
ところが戦後の民主主義というのは、個人の存在というものを過大評価しているわけで、個々の個人が好きな事を言っていれば、何時まで経っても意見が纏まらない事に三島は憂慮の念を抱いていたに違いない。 
三島のノブレス・オブリッジ
それを突き詰めて考えれば、戦後の日本国憲法に行き当たるわけで、主権在民という概念と正面からぶつかるわけである。
ここまで考えが深まってくると、主権在民と天皇制の問題という事になってしまう。天皇制というのは、太古より日本民族の象徴として存在していたわけで、先の大戦中は軍部がそれを政治の道具として使ったところに問題があったわけであるが、基本的には、あの時代が天皇制として異常な時期であったわけである。
もともとは日本の民族の象徴としての存在であったわけである。
だからこれからも天皇というものは政治の場に引っ張り出さないほうがいいと思う。ところが左翼の陣営は、天皇制反対という言辞でもって、結局は天皇を政治のまな板の上にのせるようなことをしているわけである。
主権在民というのは民主主義の基本であるが、それは独裁者に対するアンチ・テーゼとしての言葉であって、私権の大幅な拡張とは次元が違うわけで、人は個人の我侭を最大限に拡大しても通る、というものではないはずである。
最大多数の最大幸福という主旨に立てば、大勢の人が迷惑をこうむるような私権は当然制限されますよ、という暗黙の了解がそこには横たわっているはずである。
その部分を故意に無視しようとするのが戦後の日本の知識人の発想である。
民主主義というものは国民の全部にまんべんなく利便を分かち与えるものであるという認識がそもそも間違っている。
主権在民とはいっても、私権を制限される側の人も含めて、おおよそ全体のレベルアップを図りましょう、というのが本当の民主主義である。
全員の至福を図るための主義だとすれば、それは絶対主義であり、全体主義であり、共産主義であり、大政翼賛会式の思考ということになってしまう。
その私権のあまりにも無制限は在り方というのが、戦後の日本を混乱に陥れているわけである。
教育の機会均等ということでも、この言葉上のイメージは実に立派である。
人間の形をしたものは、その能力の如何に関わらず教育の機会を与える、という事は理念としては非常に素晴らしい事で、尚且つ崇高な事である。
しかし、教育を受ける側がそれを受けたくない、勉強などしたくないと思っているものにまで、無理やり教育を受けさせようとするから、学級の崩壊を招致しているという現実を知るべきである。
誰でも彼でも、人間の形をしたものには教育を施す事が理想だ、という発想はある意味で理念の押し付けになっているという事に気が付いていない。
規則を守らないものを処罰すると、それは個人の自由意志を踏みにじるもので、管理であり、人権を侵害しているという論法になるわけである。
ルールを皆が守る事で、民主主義が成り立っているという事を無視した発想である。
人間が集団で生きている社会では、個々の人間が好き勝手な事をしていてはまとまりがつかないのでルールと言うものが出来、そのルールを皆が守る事で秩序ある社会というものが成り立っている。
その中でルールを守らない者を処罰すると、それが個人の「人権の侵害」という形で、私権を社会のルールよりも優先させる事がさも進歩的な考えかのような錯覚に陥っている。
社会の秩序を形作っているルールよりも、個人の我侭を優先させようとするのが戦後の進歩的知識人の発想の中にはあるわけで、だからこそ社会が混乱に陥っているわけである。
社会のルールの中には法律で定めたルールもあるが、この法律で定めたルールというのはある意味でミニマムなルールである。
その前には倫理とか、軌範とか、伝統という成文法で規制されていない不文律というものもある。
戦後の変革では、この不文律というものを、封建的というレッテルを貼って、あらゆる法律が文書であらわされていない限り、それをルールとみなさないようになってしまった。
戦前にあった教育勅語というのは、その内容を考えてみると、それの言わんとしている事は、何時の時代にも通用し、如何なる国家でも国民に知らしめてもいい、民族を超えた普遍性があり、人が人として社会生活を維持して行く上ではこれほどまっとうな指針はないというものである。
しかし、それを戦前は小学校という教育の現場で押し付けたわけで、それでもって覚えきれない子供を制裁したりする事が横行していたわけである。
勅語であるから法律ではないわけで、あくまでもスローガンとして、それを忘れたからといって刑務所に入れられるというものではない。
問題はそれを軍国主義教育に利用した側の先生の方である。
この時代の先生というのはどうしてああも横柄で威張り散らしていたのであろう。それは、国家が「臣民に教育を施してやっている」という意識が根底にあったからではないかと、私なりに推測している。
官と民の関係で言えば、官というのは、上に天皇を戴いているのだから、「俺達は普通の民間人よりも偉いのだぞ」という意識があったようの思える。
ここでやはりノブレス・オブリッジの問題に再度帰り着くのではないかと思う。
庶民・大衆というものの心の卑しさが頭をもたげているのではないかと思う。
戦前の日本の社会構成を考えると、言うまでもなく農民が大衆の大部分を占めていたわけで、その農民の中でも段々があって、大地主から水飲み百姓まで色々な階層があったわけである。
それは当然、農民以外の職業にもそういう階層はあったが、その階層の中で、知識階級をなすものというのは、必然的に裕福な階層である。
ところが明治維新で、裕福でないものにも教育を受ける機会が与えられると、その貧困層からでも教育を受ける機会を得る人間があらわれるわけで、そういう人たちが教育を終えた後社会に出ると、今までは虐げられていたものが今度は立場が逆転しているわけである。
言い方を変えれば、権力をほしいままに出来るわけである。
だから教育勅語というのはこの当時に日本人の生きる指針に過ぎなかったものを、小学生に丸暗記させて、いわば自分の権力を傘にして自分の児童を虐めていたわけである。
それともう一つ、それは現場の先生のアイデアではないわけで、学校を管理する上のほうからの指令でそういうことが現場の教育で行われていたわけである。
日教組的に言えば、現場教師の自主性を無視した学校管理であったわけである。
そこで問題になる事は、この学校の管理と教育勅語の中身というのは全く関係がないという事で、良いものは捨てる必要はなく、これからもおおいにそれを利用すればいいわけである。
組織の目的と、その組織の持つ使命と言うものが乖離して、この二つが輻輳してしまった事がかっての日本が軍国主義に傾いていった最大の理由ではないかと思う。ある未開な民族国家が近代化を計ろうとして、教育に力を注ぎ、民主化を進める事は人類全体の発展のために必然的なことであったに違いない。
その時、国民の全部に教育が行き渡り、国民の知的レベルが上昇する事は、トータルで見れば喜ばしき事である。
ところがそのことは同時に、今までの封建主義的な階級制度の崩壊をもたらすわけで、この階級制度の崩壊も民主的という観点から見れば慶賀な事ではある。
しかし、物事には裏表という事があり、日当たりの面と日陰の面があり、メリット、デメリットがあるわけで、国民の全員が高等教育を受けるような時代になれば、悪人は駆除できるかとなれば、そうはならないわけで、知的に高等な悪人というのが世にのさばる状況というのが出現してきた。
戦前の小学校で、小学校の教員が小学生に教育勅語を丸暗記させるというのも、ある意味で、学校の先生による生徒に対する虐め以外の何物でもないはずである。
教育というものの本質を忘れた行為といわなければならない。
それは先生だけの責任ではなく、恐らく教育界の組織の上のほうからの指示だとしても、組織全体として、教育というものの本旨とを知らない人の押し付けであったに違いない。
今日の民主主義の日本では、国民が高等教育を受けることは文句なく良い事だという認識に至っているが、それは同時に高等教育を受けた悪人を作っているという事でもある。
一番ホットな事例では、2002年の年初に元札幌国税局の局長を勤めた人が脱税容疑で捕縛されている。
こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。
税務署員と警察官では職務内容は違うとしても、要するに、泥棒を捕まえる側の人間が泥棒をしていたと同じ事である。
ノブレス・オブリッジの欠如の見本のような事である。
ノブレス・オブリッジという観点から、三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷総監部でアジ演説をして、その後割腹自殺をするという行為を見れば、高等教育を受けた人のする行為ではないはずである。
「楯の会」を作って、その活動を通じて世論に刺激を与える、というところまでは知識人の行為として許されると思うが、最後の行為に至っては、完全に知識人を裏切る行為である。
他人を殺したわけではないから、という同情は許されないと思う。
このことは戦後の日本ではノブレス・オブリッジというものが喪失したと言うことだと思う。 
三島は現実逃避したのか?
ノブレス・オブリッジ、日本語で言えば、地位の高い人の社会的義務とでも言うのであろうか。
昔の階級制度の存在を前提とした意識である事は論を待たないが、基本的には、人間は地位を得、身分が高くなり、金持ちになれば、大衆の見本となるべき生き方を選択すべきだ、という事だと思う。
貧乏人が高等教育を受け、その教育でもって立身出世をはたして、高い地位を得、功なり名を上げたならば、その社会的地位にふさわしい生き方をしなさい、という事だと思う。
ところが生い立ちが貧乏人なものだから、その貧乏人根性というものがいくら立身出世をしても拭い去れないわけである。
日本の戦後という時期、つまり1945年以降の日本というのは、戦争で無一文になり、価値観は全く逆転してしまったが故に、逆に経済活動においては自由闊達に出来たわけで、そういう時代に高等教育を受けた世代というのは、ところてん式に功なり名を上げる事が出来たわけである。
それは終戦で価値観が逆転した中にも、旧来の悪しき伝統が居残った部分があったからである。
新しい価値観と古い価値観の狭間で、革新を望みつつ、行動力を発揮せずに、じっと我慢をしていた人たち、いわゆる無気力というか、人が革新するのをじっと見ていた人、つまり自分は手を汚さず、人が改革をした果実だけを享受しようとした人たちというのは、名実共に結果だけを得たわけである。
それは年功序列というシステムであった。
このベルト・コンベアに乗っかった人というのは、まさに労せずに戦後の復興期という上潮に便乗した人々である。
そのどさくさに高等教育という通行手形を手にした人達は、労せずに立身出世ができたわけで、こういう人達というのは、このノーブル・オブリッジという意識が身につかなかったわけで、乞食根性丸出しの生涯を送っていたわけである。
戦後の経済事犯というのは全てこういう人たちがしているわけで、経済事犯とまでは行かなくても、あのバブル崩壊というのは、日本全国が良識とか、良心とか、倫理というものを失ったから起きたわけである。
あれは全て日本の、それも戦後の日本の、高等教育を受けた世代の生き様の結果である。
銀行の不良債権のことを考えて見よう。
銀行が不良債権を抱えるということは、既に銀行としての本質を見失い、機能を喪失しているわけで、その銀行は学歴のない人間が運営しているであろうか。
日本の最高学府を出た人が運営しているわけで、日本の最高学府を出た人が、何十人、何百人と集まって、それも銀行の営業を何年も経験した人が寄り集って不良債権を出しつづけたわけである。
こんな馬鹿な話があるものかといいたい。
日本の高等教育というのは一体どうなっているのかと問いただしたい。
三島由紀夫はああいう行為をすることで、この失われたノーブル・オブリッジを世間に思い出させるつもりしれないが、結果は顰蹙を買っただけで終わってしまった。
三島のああいう行為が、世間から受け入れられなかったという事は、ある意味で、日本の民主化の成果でもあるが、それは当時の左翼の対極のあり方であって、考え方は対極であっても、その行動では同一化されてしまっている。
その最大の欠点は暴力の是認という事である。
私は人とは違って、そうそう暴力に非寛容な人間ではない。
時と場合によっては暴力も辞さない、という考え方を秘めている人間であるが、こういう問題を暴力で解決しよう、などという発想は完全に受け入れらない。
三島由紀夫や左翼の過激派が、暴力で事を解決しようというのは、ものを知らないという事だと思う。
政治の変革を求めるのであれば、政治の場でそれをすべきであり、それがものの道理というものである。
戦後の日本では、曲がりなりにも民主主義のもとにおける議会制というものが機能しているわけで、野党が政権を取りたかったら、国民の信頼を得る理念を掲げて、議員を過半数超えるまで獲得する手法を講じなければならない。
戦後、あれだけ日本の社会が革命前夜のような情況を呈していながら、それでも尚自由民主党が過半数を得、最近では連立をしなければならないほどであっても、尚保守系に人気があるということは、完全に国民の選択の結果である。
ならば野党の宣伝は効果がなかったのか、と問えば明らかに野党、旧社会党、社会民主党には魅力がなかったわけである。
その意味で国民の選択は間違ってはいなかったわけである。
三島由紀夫も、あの時点ではこういう観点で日本の政治というものを見れていなかったわけである。
この先10年か20年で日本はこの地球上から消滅してしまうと写ったに違いない。だから慌てて、自衛隊を引き吊り込んででもクーデターを起さねばならない、と思ったに違いない。
ところがドッコイ、自衛隊の方はそんな誘いには乗らなかったわけである。
考えてみると、日本人の政治というのは実に不思議だ。
戦前の2・26事件でも、三島由紀夫の事件でも、日本の政治というのは、クーデターではひっくりかえることがないわけである。
2・26事件などは、時の政府の要人を殺してしまっても、その場では一向に政治に影響が出た節はない。
三島由紀夫の時には微動だにしなかった。
しかし2・26事件は、日本が奈落の底に転がり落ちる遠因にはなっている。
あの事件があったが故に、日本の戦前の民主主義というものは、自らを終焉の方向に導いていったわけで、民主主義が尻すぼみになって代わりに台頭してきたのが、軍国主義であった。
これも不思議な事に、日本人の選択であったわけで、犯人を特定する事は多分不可能であろう。
太平洋戦争の開戦の責任者として、東条英機に罪をなすりつける事は安易に出来るが、戦前の日本がアメリカとも戦をしなければならなかった真の原因は、東条秀樹の存在とは無関係なところにあるような気がしてならない。
我々は、民主主義というものを受け入れる前に、自らの民族の生き様として独特の考え方を持っていたのではないかと思う。
「和を以って尊しとす」ということは、ある種の集団指導制のようなもので、一人の独裁者が、上からの上意下達で命令を下すものではない。
皆で、わいわいがやがやと会議をして、結論が出たのか出ないのかわからないのに、何となく事が流れ、月日が流れ、解決したのかしないのか分からないうちの終わってしまうというのが我々の政治の特長であろうと思う。
戦後の政治にもそれがあるわけで、我々は「民主主義で行く」といっておきなら、その一方で「少数意見も尊重しなければいけない」などと訳のわからない事を言っている。
少数意見を尊重していたら民主主義が死滅してしまうという事がわかっていない。民主主義というのは少数意見を切り捨てるということが前提になっているわけで、それを一番明確に文書化しているのは他ならぬ日本共産党の綱領である。
民主主義を声高に叫びながら、その片一方では民主主義をぶち壊すような事を平気で言っているわけである。
それが同時に起きれば、事の解決はおぼつかないわけで、事が解決しないまま時が流れ、時の流れと共に問題は変質してしまって、終わったのか終わらないのか、解決したのかしなかったのか、新しい問題の提起となるわけである。
これが我々の政治ではなかったかと思う。
ところが戦争というのは相手があるわけで、相手は待っててくれないわけである。即断即決が迫られるわけである。
こうなると我々は実に意気地ないわけで、あっさりと敗北するわけである。
敗北した後の復興という場面になると、ある意味で、時間はたっぷりとあるわけで、皆が首を揃えて鳩首会談をしながら、ああでもないこうでもないと議論しつつ、時間稼ぎが出来たわけである。
その中でも占領政策というのはアメリカからの押し付けで、これは時間稼ぎしている暇がない。
そういう環境の中で押し付けられたのが例の日本国憲法である。
日本国憲法というのは、アメリカ占領軍としてのマッカアサー元帥の個人的な願望の具現化であったわけで、アメリカが敗戦国に憲法を押し付けるということは、連合国側でも問題視されそうになったものだから、アメリカはさも日本が自主的に作ったように外見を繕ったわけである。
押し付けた側のアメリカも、日本国民が自主権を回復した時点で、当然、それは改正するに違いない、だからそれまでの暫定的なものと捉えていたわけである。
それを日本人の進歩的といわれる知識人は、「こんな素晴らしい憲法は又とないから変える必要はさらさらない」、と言うものだから国論が二分化してしまったわけである。
三島由紀夫が何処まで民族主義に被れていたかは知らないが、少なくとも民族の誇りをもった者ならば、アメリカ占領軍の押し付け憲法で満足するわけにはいかない。これを押し付けと感じないものの気が知れない。
少しこの時代の社会の動きを見れば、明らかに押し付けであるにも関わらず、最近に至っても、あれは自主的に日本人が案を練ったものだ、という論考を展開している識者が現れた。
確かに、民族の誇りで人は生きてはいけない。
奴隷になって、民族の誇りをかなぐり捨て、大国の僕として生きていくだけならば憲法など触らなくても生きていける。
ならば僕に徹しきれるかといえば、そういう場合には国の指導者のリーダーシップを問題にするわけである。
「政治家のリーダー・シップがなっていない」からと、問題の本質を他人に転嫁するわけである。
これが日本の識者の2枚舌なる所以である。
傍観者として、人の事には常に批判の刃を向け、自分に降りかかってくる災禍は全て人の所為にするわけである。
これが日本の識者達の共通認識である。
ノブレス・オブリッジの現実である。
それは同時に戦後の教育の成果でもあり、民主化の成果でもあり、大学で左翼の教授達が若者を善導した結果である。
三島由紀夫はそういう現実に我慢ならなかったに違いない。 
 
三島由紀夫の「辞世」

 

三島由紀夫氏は次の「辞世」を遺された。
「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」
直訳させていただくと、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合はないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐へてきたが今日初霜が降りた」といふ意。
しかし、「鞘鳴り」は、単に音がするといふ物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿ってゐるといふ信仰があった。鞘が鳴るといふのはその刀剣に宿っている靈が発動するといふ意味である。
太刀のみならず、日本における矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であると共に呪術的機能を持った神であった。弓は弦を鳴らして鎮魂する。
「太刀」は、「断つ」「立つ」と動詞の名詞形が語源である。「太刀」の神霊が発動して、一切の罪穢れ・邪悪を絶つのである。それが「太刀」の本質である。
三島由紀夫氏は、太刀の靈力が発動するのを何年間も耐へたといふことを歌はれたのである。『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ」といふ叫びに呼応する歌なのである。
「今日の初霜」といふ季節感のある言葉を用いて志を述べるのは、まさに日本文藝・敷島の道の道統を正しく継承してゐる。 
憂国
三島由紀夫は、人によって好き嫌いがはっきりと別れる作家だと思うのだが、佐高も西部も苦手だといっている。嫌いではないのだが好きでもない、苦手だというのだ。苦手とはどういうことかいまいち判然しないが、要するにかかわりになりたくないということだろう。三島を材料にして何かいうと、変な方向から余計なリアクションが返ってくる。それをまともに相手にしていると非常に疲れる。だから触らぬ神に祟りなし、という態度をとりたくなるらしい。
この二人の対談はどちらかというと、自分たちの好き嫌いの感情をものごとの判断の基準にして喋り捲っているところがあるので、このように苦手な人間を相手にものをいうというのは、なかなかやりにくかっただろう。実際、三島を語るときの彼らの語り口には、何を言いたいのか判然しないところがある。
そんな中で、三島の鬱屈した行動を説明する一つの手がかりとして、三島が戦争に行かなかったという事実を、佐高が持ち出しているところが気になった。佐高はこのことを、城山三郎の発言から引っ張り出してきているのだが。たしかに三島は大正14年の早生まれで、普通なら戦争に行っていなければならなかった立場にあった。それを逃れたのは、高級官僚だった父親の差し金らしいが、三島はこのことを、自分の生涯の汚点として、気に病んでいたのではないか。彼の行動の異常なところは、この兵役逃れのコンプレックスから説明できるのではないか、といいたげなのである。
また、三島は国家を云々するのが非常に好きな男だったが、普通の右翼とは違って、愛国という言葉を使うのを嫌った。三島はその代わりに憂国という言葉を使った。憂国とは国を憂えるということである。
このことの背景にも、三島の兵役逃れへの自責が絡んでいるのではないか。二人はそのことをあからさまに語ってはいないが、行間からはそれが伝わってくる。三島は普通の若者のように国を愛することができなかった。本当に国を愛していたら、たとえ父親の差し金があったとしても、自分の意思で兵隊になっていただろう。国を愛すること切であった城山三郎少年の如きは、自分から志願して少年兵になったわけだから。
そこで、愛国という代わりに憂国ということになった。愛国とは人ないしその他の対象を心霊こめて愛することだ。愛する者と愛される者とは一体の関係にある。愛する者のためには自分の命を捧げてもよい。愛こそが自分の存在根拠なのだ。
ところが国を憂えるということには、そのような一体感は必要ない。外的な視点からでも、いくらでも憂えることはできるのだ。
しかし、三島は最後には、国のためといって自分で自分の命を奪った。やはり外的な視点から国を憂えていることに泰然自若としていられなくなって、国と一体化したいと希うようになったからではないか。それもやはり、兵役逃れのコンプレックスが働いた結果だといえなくもない。 
天皇観
先日、西部邁と佐高信が対談の中で三島由紀夫を語ったことについて、このブログで取り上げた際には、三島の憂国ということをテーマにしたわけだが、この対談にはもうひとつ面白いテーマがあった。それは三島の天皇観とでもいうべきものだ。三島は、天皇の人間宣言をひどくショッキングに受け止めたらしく、「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」という言葉を発したが、それは三島が天皇について誤解していたあらわれだと西部が言ったことに、筆者は聊かの関心を覚えたのだった。
西部は、三島がこういうわけは、彼が天皇を神だと考えていたからだとした上で、三島のその認識は誤っているというのだ。西部の考えるところでは、天皇というものは神ではない。神をまつる神職の最たるもの、つまり神主の親玉に過ぎない。そんな天皇を神と勘違いしたからこそ、三島はその神に命を捧げることもできたのだろうが、もしそうなら、三島の死は無駄死にだったといわざるをえない。こんな趣旨のことを、明確な言葉としてはあらわしていないにしても、西部は言っているように、筆者には聞こえたのである。
西部は、同じ右翼でも、天皇原理主義的な右翼ではない。むしろ、天皇に対しては距離を置いているように見える。だから、このような発言が出て来るのだろう。
たしかに天皇は、もともと神を僭称していたわけではない。記紀神話の中でこそ、天皇家は天孫の末裔だというようなことを言っているが、それは神話の中だけの話で、実際のまつりごとにおいては、天智天皇の時代はともかく、その後の天皇の時代においては、天皇みずからが神と名乗ったことは一度もない。
天皇が神を僭称する、あるいは人々が天皇を神に祭り上げる、そういうことが起こったのは明治維新以降のことであり、天皇の神格化が庶民の間にも当然のこととして浸透したのは、日本が世界を相手に戦争するようになって以降のことである。
戦争とは、当然のことながら、国民を徴兵して、彼らを戦場に駆り立てることを前提とする。普通の国民を戦争に駆り立て、彼らを、死を恐れず戦うように仕向けるには、それ相応のモチベーションが要る。人間というものは、余程のモチベーションが無ければ、自分の命をかけてまで戦う気にはならないものだ。
そのモチベーションとして、明治以降の軍国主義者たちが注目したのが天皇の神通力ともいえる力だ。その神通力を以てすれば、一般国民に天皇を神と思わせ、天皇のためには喜んで命を捧げる、そのようなモチベーションを確立することができる。当時の軍国主義者たちが、そう考えたのには相応の理由があったと言わざるを得ない。
兵士たちが天皇陛下万歳と言いながら死んでいったことの背景には、天皇を神だとする一般庶民の素朴な信仰があり、その信仰が兵士たちを奮い立たせて戦場に赴かせた、そしてそれを巧妙に仕組んだのは、明治以降の軍国主義者たちだった、ということは十分に言えることなのだ。
戦前の戦意高揚映画を見ると、「子どもは天子様からの授かりものだから、天子様にお返しするのは当たり前のこと」というような言い方がよく出てくる。これは、天皇を神として位置付け、自分の子どもをその神の授かりものだとする考え方であって、徴兵制度を、人々の意識の底から支えるような考え方であったわけだ。こうした考え方が一般庶民の間にも浸透していたからこそ、子どもや夫を戦場に送り出した人々は、その死を自分自身のみのこととしてではなく、国家公の必要事として、受け止めることができたのであろう。
だが、これは虚構だ、と西部はいうわけだろう。その虚構に三島は囚われていた。天皇は、三島が考えていたような神ではなく、ただの神主だった。そのただの神主である天皇を、三島も、また戦前の庶民も、神としてあがめた。ところがその神という言葉は、中身のない空虚な呪文のようなものだった。
だとすれば、戦争で子どもや夫を天皇の名のもとに失った人々は、自分を慰めるべき支えを持たない。まして三島の天皇崇拝には確固とした根拠はない。そう西部はいうわけだろう。
しかし、なぜ三島ともあろうものが、このような錯誤にはまってしまったのか。それについて、西部は言及することを避けている。それは、西部が三島を心から愛していることのあらわれなのだろう。 
 
三島由紀夫考

 

はじめに
老子を読んでいると、三島由紀夫が反面教師として浮かんでくる。
老子はエネルギーをシフトダウンして、ゆっくり生きようと提唱しているのに、三島はエネルギーをトップのところまでシフトアップして、全速で突っ走る生き方をしたからだ。
老子を開けば、、次のような章句が並んでいる。
木強ければ折る
物壮なれば老ゆ
善く士たるものは武ならず
鍛えてこれを鋭くすれば、長く保つべからず
いずれも三島に対する警告の言葉みたいではないか。だが、反老子的な生き方をしたお陰で、彼の周辺が活気に満ちていたことは間違いない。社交上手だった彼の家には、海外からも客が押し寄せ三島との歓談を楽しんだ。彼の生き方が、そうした千客万来の賑やかな日常を生んだのである。
私はこれから三島由紀夫の生涯を概観するけれども、こちらは何しろ生来の老子愛好家だから、以下の拙文が三島ファンの逆鱗に触れるだろうことはほぼ確実である。 
討ち入り
三島由紀夫が自衛隊員の決起を促すために市ヶ谷自衛隊総監部に乗り込んだのは、昭和45年11月25日であった。
それまでに三島はかなり入念な準備を積んでいたように見える。市ヶ谷に同行した「楯の会」の学生らの選定をその年の4月中に済ませているから、少なくとも決行の半年前には具体的な準備に入っていたのである。
6月13日には、同行する学生たちと計画の具体的な内容を決めている。市ヶ谷駐屯地に赴いて東部方面総監を人質にした上で、自衛隊員の決起を促し、国会を占拠するという計画である。その後も彼らは頻繁に顔を合わせて計画に手直しを加え、11月25日の決行の日に至っている。
しかし、それにしては決行当日の彼らの行動はあまりにもお粗末だった。猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」、ヘンリー・スコット=ストークスの「三島由紀夫 死と真実」などに依拠しながら、当日の状況を再現してみよう。
総監室に乗り込んで益田兼利陸将を縛り上げるところまでは計画通りに進んだ。だが、廊下から総監室に入るドアをバリケードを築いて封鎖したものの、隣りの部屋に通じるドアを閉鎖することを怠ったため、ここから幕僚らの突入を招いてしまう。三島はこのとき、日本刀を振るって獅子奮迅の働きを見せ、何人もの幕僚に斬りつけて重傷を負わせている。
自衛官らをバルコニー前に集結させることにも成功した。だが、ここにも誤算があった。この日、900人の精鋭部隊は富士演習場に出かけていて留守で、残っていたのは通信・資材・補給などの実戦とは縁のない留守部隊だった。
集まった自衛官の前に、同行した学生がバルコニーから垂れ幕を巻きおろした。しかし白地の布に書き連ねたアピールの檄文は、細字で書かれていて隊員たちには読みとれない。ここは、太字でスローガンだけを箇条書きにしておくべきだったのである。
続いて学生の手でビラが撒かれた。だが、束のまま放り投げられたから、ビラは固まったままドスンと地に落ち、自衛官の手にほとんど渡ることなく終わった。もし全員の手にビラが渡ったとしても、あまり効果はなかったちがいない。今読んでみても、檄文には三島らしい華がないのだ。
やがて、三島がバルコニーに登場する。
このころになると事件を聞きつけたテレビ局などのヘリコプターが上空を旋回し、騒然とした雰囲気になった。これでは集結した全員のところまで三島の声は届かない。自衛官への演説を1時間近く予定していながら、彼らはマイクを手配することをしなかったのである。自衛官たちは私語を始め、三島を野次り、演説に耳を傾けるものはなかった。
苛立った三島は、「静聴しろ、静聴ツ」とか、「静聴せい、静聴せい、静かにしろ」と叫ぶ。しかし聴衆からは、「聞こえねえぞ」「ばかやろう」「下へ降りてきてしゃべれ」という罵声が返ってくるばかりだった。
三島は、最後に蒼白になって訴えた。
「諸君の中には一人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」
三島は10秒ほど待った。
「一人もいないんだな。よし、俺は死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。(ゆったりした口調で)それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳、万歳、万歳」
バルコニーから総監室に戻った三島は、誰にともなく「仕方がなかったんだ」とつぶやいて、切腹の準備を始めた。
上着を脱いで上半身裸になった彼は、「やあっ」と廊下にまで届く凄まじい気合いを入れて、短刀を臍の下4センチのところに突き刺した。
介錯を命じられていた森田必勝は、次に自分が切腹することになっていたから動揺していた。振り下ろした刀は三島の肩を切り裂いただけだった。二回目も失敗した。森田は最後の力を振り絞って三回目の刀を振り下ろしたが、やはり三島の首を切り落とすことはできなかった。
「浩ちゃん、代わってくれ」
森田の差し出した刀を剣道の心得がある古賀浩靖が受け取って、一刀のもとに三島の首を切断した。こうして「天才作家」三島由紀夫は45年の生涯を終えたのだった。まさに壮絶な死であった。 
臆病者
壮烈な死を遂げた三島は、日頃「尚武の精神」とか「文武両道」を強調していたが、さほど勇気のある男ではなかった。彼が金箔付きの臆病者だったという証言がたくさんあるのである。
三島由紀夫は、林房雄との対談で学生時代に書いた遺書について大いに弁じている。昭和20年2月15日、軍隊への入隊命令を受けた時に彼が書き残した遺書は、以下のような文面になっている。
 遺書 平岡公威
一、御父上様 御母上様 恩師清水先生ハジメ學習院並二東京帝國大學在學中薫陶ヲ受ケタル諸先生方ノ御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ友情マタ忘ジ難キモノ有リ諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二続キ一日モ早ク皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ皇恩ノ万一二報ゼヨ
 天皇陛下萬歳
末尾を「天皇陛下萬歳」で結んだこの遺書に関連して、三島は次のように語るのだ。
「それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません」
三島のこの言葉に嘘はないかもしれない。実際、戦争中の彼は天皇のため、皇国のために、命を捨てる覚悟でいたのである。
しかし、三島は入隊前の身体検査で軍医が「この中に肺の既往症がある者は手を挙げろ」と言ったときに、サッと手を挙げるのだ。彼は嘘をついて兵役を逃れた「入隊拒否者」だったのである。
この時の自身の振る舞いについて、彼は「仮面の告白」に次のように書いている。
「何だって私はあのようにむきになって軍医に嘘をついたのか?何だって私は微熱がここ半年つづいていると言ったり、肩が凝って仕方がないと言ったり、血痰が出ると言ったり、現にゆうべも寝汗がびっしょり出たと言ったりしたのか?」
必死になって嘘をついたお陰で彼は、入隊を免除され帰宅を許された。
検査場の門を出るやいなや、三島は付き添ってきた父親と一緒に脱兎のごとく逃げ出した。「さっきの決定は取り消しだ」と言われはすまいかと、父親の表現によれば「逃げ足の早さでは脱獄囚にも劣らぬ」勢いで、一目散に駆けだしたのだ。
三島の恐怖症については、空襲警報が鳴り出すと真っ先に防空壕に逃げ込んだというような逸話があるし、あれほど作品の中で海を美しく書いた三島が、家族で海岸に出かけても海が怖くて泳ごうとしなかったという話にも現れている(夫人の談話)。
だが、こうした弱さは誰にもあることである。だから、あまり詮索しないとしても、彼の「蟹」恐怖の激しさには、やや異様なものを感じる。三島は料亭の出す膳に蟹があると、恐怖のあまり顔色を変えたというし、蟹という文字さえ嫌悪したというから、症状は半端ではなかった。
「からっ風野郎」という映画に出演したときの挿話にも、引っかかるものを感じる。彼はこの時の映画監督(増村保造?)をひどく怖がって、撮影所長以下のお歴々に泣きつき、彼らに立ち会ってもらって最後の場面の撮影を完了したというのだ。
恐怖に駆られて子供が親にすがるように、本能的に撮影所長にすがる。世俗的な権威にすがる代わりに、日本刀にすがる場合もあった。
明敏な頭脳を持っていた三島は、対談・討論などで誰を相手にしてもひけを取らなかった。だが、唯一の例外が新左翼系のいいだ・ももで、彼と対談するときには日本刀持参で席に臨んだという。そして形勢が不利になると、話の途中で相手の頭上で白刃をぶんぶん振り回した。何時でも優位に立っていないと不安になる三島は、こんな子供っぽいやりかたで頽勢を挽回しようとしたのである。
特に勇敢とはいえなかった三島が、市ヶ谷の総監室で見事に腹を切り得たのはなぜだろう。当時の新聞報道によると、一緒に死んだ森田には「ためらい傷」があったが、三島にはそれがなかったという。彼のこの果敢さは、何時いかにして生まれてきたか、それを探ることがこの文章の主たる目的である。 
生育環境
彼の気の弱さ、そして大人になっても抜けない幼児的な恐怖への過剰反応を生んだのは、特異な生育環境だった。人が臆病になるのも、粗暴になるのも、幼児期の生育環境の結果であり、本人の責任とはいえない。三島の場合は特にそうなのである。
三島は生後49日目に両親から引き離されて、祖母の手元に移された。その頃、彼の両親は祖父母と同居して二階に暮らしており、祖父母は階下にいたから、赤ん坊の三島は二階から階下に移されたのだ。母の倭文重が息子に会えるのは、日に数回の授乳の時だけだった。
祖母の夏子は、独裁者として家の中に君臨していた。彼女は樺太庁長官まで勤めた夫を憎み蔑んで尻の下に敷き、息子夫婦を頭から押さえつけて一言も文句を言わせなかった。家族全員が腫れ物にさわるように祖母に接したのは、彼女が夫から性病をうつされてやや精神に異常を来していたからであり、座骨神経痛に悩まされて騒音に過敏に反応したからだった。
三島は、老いの臭いと病臭のこもる祖母の部屋で、12年間を過ごしたのである。三島が自家中毒で死にかけるという出来事もあって、祖母は何より孫の病気や怪我を恐れた。留守中に三島が階段から落ちて怪我をしたと知らされたときに発した祖母の言葉は、「死んだのかい」だった。
祖母は三島が「危ないこと」をするのを恐れ、外出を禁じた。そして年上の女の子3人を友だちとしてあてがい、おはじきや折り紙で遊ばせた。
小学校に上がるようになると、帰宅した三島は祖母の用意しておいたオヤツを食べ、彼女の枕元で勉強する。祖母は事故を恐れて学校行事の遠足にも三島を参加させなかった。そして三島に家門の誇りと、貴族趣味を教え込んだ。
夏子の祖父は若年寄にも取り立てられた名門旗本永井玄蕃頭であり、彼女は皇族の有栖川宮熾仁邸に12歳から17歳までの5年間、行儀見習いのため住み込んでいたのである。
三島は物心ついたときから、祖母の命じることにはどんなことでも従った。彼は、幼い囚人だった。しかし、注目すべき点は、三島がこうした状況を決して嫌ってはいなかったことである。彼は成人してからも病臭の籠もる祖母の部屋を懐かしんで「私の内部のどこかがまだ暗い病室の枕元のほうが好きだったのだ」と書いている。
三島のあとに生まれた妹と弟は、両親と一緒に二階で暮らしている。そのことを不満に思うより、家の中の絶対的権力者である祖母に自分だけが選ばれ、特別に庇護されていることを喜ぶ気持の方が強かったのだ。生まれつきひ弱で、学校に通うようになってからは「あおじろ」とあだ名されるような三島は、支配される不満を感じる前に、庇護される特権を誇らしく感じたのである。
三島が数えで13歳になったとき、祖父が「いくらなんでも中学生ともなれば、他の弟妹と離しておく訳にはいかないだろう」と夏子を説得してくれたおかげで、彼は両親と一緒に暮らせるようになった。両親は三島を引き取ることになったのを機に、祖父母とは別の借家に移り住むことになる。
祖母の支配から脱したと思ったら、三島は今度は父親の圧制下でくらすことになった。三島の父は農林省の役人だったが、文学に興味を示し始めた息子が気に入らず、三島が小説本を読んでいると、それを取り上げて床に叩きつけたり、書きかけの原稿を引き裂いてゴミ箱に捨てたりした。三島が可愛がっていた猫を捨ててしまうかと思えば、悪戯をした息子を木刀を持ち出して折檻しようとした。
三島の父は、息子に厳しい態度で臨んだ理由を「抵抗が人間を育てるんだ。そのために僕は、倅にきびしく当たってきた」と弁明している。
こうしたときに、三島を庇ってくれたのが母親の倭文重だった。彼女は息子が詩に関心を持ち始めたと知ると、三島を連れて詩人の川路柳虹宅を訪ね、息子の指導を頼んでいる。川路は華麗な作品を作る詩人で、私には三島の人工的で壮麗な文体は、川路の影響を受けているように思われる。
三島は自分を庇護してくれる母を他のいかなる人間よりも愛していた。
猪瀬本には、友人の見聞として、20代の三島に関わるこんな話が載っている。ある時、友人が三島を訪ねていったら、倭文重が「ちょっと足が痛くて」と言った。すると、三島が「お母ちゃま、どこ、どこ?」と人目もはばからず、一心に母の足をさすり始めたので、目のやり場に困ったというのである。
同じ頃に、三島は二人の女性に求婚したが、実らなかった。
その理由を娘の一人は、「あれほど濃密な母と息子の関係を見せられると、とても入り込んでいけないと思われたから」と語っている。
三島を庇護してくれたのは、祖母や母ばかりではなかった。
学習院中等科に通うようになった三島は、同学年の友人よりも年長の先輩や教師との交渉を深め、彼らの手厚い庇護を受けている。
最初につきあった年長の先輩は、8歳年長の坊城という上級生だった。当時高等科3年だった坊城は、中等科1年の三島が校友会誌に発表した作品を読んで感心し、彼の方から交際を求めてきたのだ。そして二人は毎日のように長い手紙を交換するようになった。坊城の次に親しくなった東文彦も、5歳年長の先輩である。
三島の早熟の才能に目をつけたのは、先輩ばかりではなかった。
国語教師の清水文雄と、その後任の蓮田善明は、三島を高く評価し、その作品を自分たちの関係している同人誌に紹介する労を取っている。高等科に入ってからはドイツ語教師新関良三にも目をかけられた。
清水と蓮田は「日本浪漫派」系の教師だったから、三島もその影響下に保田与重郎などの作品を耽読するようになった。日本浪漫派系の詩人や作家たちは、あの破滅的な太平洋戦争のさなかに、競うようにして死と滅びの美しさを歌い上げていた。
三島と同じく戦中派の私は、日本浪漫派に心酔している友人を何人か知っているけれども、そのうちの一人が「これはいいなあ」と、まるで夢見るような表情で賞賛した保田与重郎の作品を思い出す。それは、ビルマ戦線かどこかで、友軍とはぐれてしまった兵士が象にまたがって森の奥から戻ってきた話をメルヘン風に描いた作品だった。
戦争末期の青年たちは、日本浪漫派を読むことによって間近に迫った死を一種の恍惚状態のうちに待ち望んでいた。それは蛇を前にした蛙が、麻痺したようになって赤い口の中に呑み込まれて行くのに似ていた。
あれだけ聡明な三島が、さほど優れているとも思われない国語教師に惹かれ、その導きのままに日本浪漫派に傾倒ししていったのは、庇護してくれるものに随順するという物心ついた頃からの習性による。
三島は学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を貰っている。
後年の天皇主義は、こんな所に根を持っているのかも知れない。天皇主義者になってから、彼は天皇みずから自衛隊の各部隊に連隊旗を手渡せ、と提言している。そうすれば、天皇と隊員を結ぶ感情的な靱帯は、一層強くなるというのだ。
彼が学習院を首席で卒業したことは、彼がペン習字の手本のような文字を書いていることと並んで興味深い。祖母や母を喜ばせ、目をかけてくれる教師たちの期待に応えようとすれば、どうしても世俗の側に立ち優等生という勲章を目指して努力しなければならない。すれっからしに見える三島の内部には、庇護者に純情を捧げる熱いロイヤリティーが潜んでいた。三島には、目をかけてくれる上長の人間への臣従癖があるのだ。
彼は川端康成の紹介で文壇に登場し、「盗賊」を出版したときに川端康成から序文を書いて貰った。この序文を保管する封筒に、三島は「川端康成氏から賜はりたる序文」と記している。 
夢想
少年期の三島は、門の外に出ることを許されず、危ないことは一切禁じられ、祖母の病室に幽閉されていた。並の少年なら、このまま温和な人間になったかもしれない。しかし三島は想像力を駆使して外の世界に逃れ出て、そこで祖母から禁じられている危険なアヴァンチュールを楽しむ能力を持っていた。
彼は空想の中で勇士になり英雄になって、決死の冒険に挑戦する。が、その果てに勝利の栄光が待っているのではなく、悲劇的な死の待っている点が、大方の夢物語と違っていた。5歳で読み書きができるようになった三島は、手にはいる限りのお伽噺を読んだ。だが、彼は、王女たちをどうしても好きになれず、殺される王子や死ぬ運命にある王子に興味を覚え、「殺される若者たちを凡て愛した」のだった。
祖母は三島が事故死することを恐れていたから、彼は逆に自分が殺されたり、戦死したりする場面に刺激を感じるようになった。祖母が家系を誇り、宮家で過ごした過去を語り草にしたから、彼は無知で粗野な糞尿汲取人を愛したのだ。
(「仮面の告白」では、彼が糞尿汲取人に惹かれた理由を同性愛の嗜好があったからだと説明している。諸般の事情から見て、三島がホモだったという伝説は甚だ疑わしい。彼は文学的な戦略上、自分を同性愛者であるかのように見せかけたのだ)
子供の頃、死にからまる耽美的な空想にふけっていた三島は、祖母の手を離れて両親と暮らすようになると、空想の対象を変化させはじめた。両親が安全を旨とする小市民的な生活を送っていたので、三島は平穏な生活を覆すような凶事を待望するようになったのである。大抵の三島論は、15歳の三島が作った「凶ごと」という詩を引用している。
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事を待った
凶変のどう猛な砂塵が
夜の虹のように町並みの
むこうからおしよせてくるのを
凶事を待望し、悲劇的な死を願っていた少年が、さらに成長して学習院高等科に進む頃になれば、二・二六事件の青年将校たちに関心を持つようになるのは自然なことだった。なぜか戦時下の東京には、血盟団、五・一五事件、二・二六事件などに関する本が大ぴらに売られていたのである。
重要なことは、三島が処刑された青年将校たちの心情に目を向けたことだった。日本浪漫派の洗礼を受けて、「高貴な魂は卑俗な現実の前に滅びて行かざるを得ない」と考えていた彼は、その「高貴な魂」を青年将校たちの上に見たのである。
どのような戦争にも、人間を純化する側面があるものだ。
戦争中に「農耕隊」に編成された農学校生徒の話を聞いたことがある。彼らは松林の中の寮に泊まり込んで、食糧増産のために毎日、あちこちの空き地を耕して回ったのだが、国のため天皇のために働いていると思うと空腹も疲労も全然気にならなかった。
毎朝、戸外で洗面していると、松林の向こうから朝日が射してくる。その朝日が清らかな霊気を含んで輝いていた。それは、この世ならぬ光に見えた・・・・。
この農学校生徒に限らず、個を越えた大きなもののために生きようと思ったときに、人はこれまで知らなかったような浄福に包まれる。三島も、天皇のために兵を起こし、その天皇の命令で逆賊として処刑された青年将校の運命に自分を重ね合わせたときに、怒りとも悲しみともつかない深い激情のとりこになったのだ。
彼がそれまでに知っていた死は、自傷行為としての死であり、耽美的な死だったが、青年将校たちの死は、自分一個のためではなく、他のなにものかのために身を捧げ、酬われることなく終わった死だった。 
芸術至上主義
三島は学習院高等科時代から、世に出るために人一倍努力を重ねている。
国語教師の清水・蓮田を介して文壇人や編集者への接近をはかり、大学に入ってからは勤労動員先の工場が休みになるたびに作家訪問を試みている。お陰で、「花ざかりの森」の出版にこぎつけはしたが、功を焦る三島の行動は関係者にあまりいい印象を与えていない。
詩の師匠だった川路柳虹は、三島のことを「あれは早熟でも天才でもない。ただの変態だ」と冷評していたし、つてを頼って作品を読んで貰った志賀直哉(志賀の娘は三島の学友)からは、「平岡(三島の本名は平岡公威)の小説は夢だ。現実がない。あれは駄目だ」とにべもなく一蹴されている。
詩人の伊東静雄は、「花ざかりの森」の序文を何度頼まれれても、書こうとしなかった。それでもあきらめず三島は伊東の自宅まで押し掛けて頼み込んだが、伊東はやはり断っている。彼はその日の日記に、三島のことを「夕食を出す。俗人」と書き、その後、また三島が手紙で序文を頼んで来た日の日記には、「平岡から手紙。面白くない。背のびした無理な文章」と記している。
当時、「文芸」の編集者をしていた野田宇太郎は、三島が持ち込んだ原稿を読んでその才能を認めたが、「岬にての物語」には感心しなかった。達者な文壇小説にすぎないという印象を受けたからだった。
野田が「君は一体文壇の流行作家になりたいのか?」と問いただすと、三島は平然と「有名な流行作家になりたいです」と答えて、以後野田から遠ざかってしまった。野田は「もう私の利用価値もそこが見えたのだろう」と推測し、「私は小賢しい三島という男がいやになった」と書いている。
努力の甲斐があって、戦後、川端康成の紹介で三島の作品が「人間」に作品が掲載されることになった。三島にはジュリアン・ソレルの面影があると感じていた「人間」の編集者は、そのころ「光クラブ」の経営に失敗して自殺した学生高利貸しをモデルに作品を書いてみないかと勧めた。彼と三島の間に共通するものを感じたからだった。三島も乗り気になって原稿を書き始めたが、「青の時代」と題名をつけて作品を発表する段になると、掲載誌をアイデアを出してくれた「人間」から、「新潮」に切り替えてしまった。「新潮」の方が大きな雑誌だったからだ。
「人間」の編集者は、(三島はまさにジュリアン・ソレルだな)と思った。
三島は、その後も能力のない人間や、利用価値のない者を冷酷に切り捨ててきた。これは流行作家に共通した行動ともいえるが、三島のように目から鼻へ抜けるような人間のすることだと、こうした点がよけいに目に付くのである。しかし、これらは彼がすぐれた作品を次々に発表しているうちは問題にされることはなかった。こうした性癖は、才能ある作家にはつきものだと大目に見られたのである。
実際、デビュー後の三島の活躍は目覚ましかった。
まるで鶏が卵を生むように易々と短編・長編小説やら、エッセー・作家論を発表する。しかもそのどれもが、水準を抜く出来映えなのである。彼は魔術師のように巧みに言葉を操り、明晰で切れ味鮮やかな文章を書いた。意表をつく構成、あっと驚くどんでん返し、鮮やかな論理展開、どれをとっても水際だっていた。彼を新進作家たちの中においてみると、カラスの群の中に舞い降りた鶴のような感じだった。
三島の成功は、戦後日本の市民的幸福にシニックな冷嘲を浴びせる作品を量産したことにあった。
記憶が定かでないけれども、「日曜日」という短編があったと思う。日曜日だけにデートできる貧しい恋人が、一年先の分まで日曜日の予定をギッシリ立てている。ところが、その二人はデートの帰りに、プラットホームから落ちで電車に轢かれるのだ。そして、この作品は二人の首が線路脇にごろりと転がってしまうところで終わるのである。
丹念に作り上げた予定表も、ちょっとした事故で簡単に崩れ去る。市民的幸福なんて、そんなものだよと三島は言うのである。
「私の修業時代」で、三島は敗戦を恐怖をもって迎えたと書いている。「日常生活」が始まるからだった。彼は、市民的幸福を侮蔑し、日常生活への嫌悪を公然と語り続けた。
「何十戸という同じ形の、同じ小ささの、同じ貧しさの府営住宅の中で、人々が卓袱台に向かって貧しい幸福に生きているのを観て彼女はぞっとする」(「愛の渇き」)
市民的幸福に対する呪詛に近いまでの攻撃は、福祉国家否定へと発展する。三島は週刊誌の質問に答えて、「人間の絶望的状態である完全福祉国家」といい、「福祉国家までいかないと、福祉国家の嫌らしさは分からない」と放言している。
デビュー後の三島の長編小説には、共通の特色がある。
「愛の渇き」のヒロインは、密かに愛していた若者が愛を返してよこしたとき、嫌悪感に襲われて相手を殺してしまう。
「沈める滝」の青年技師は、愛人関係にあった人妻を棄て、女を自殺に追い込んでしまうが、それは不感症だった女が性の喜びを知るようになったからだった。
三島の最高傑作とされる「金閣寺」も、似たような構造をしている。金閣寺を愛していた青年僧は、美が滅びるのは、美そのものよりも美しいと言う理由で金閣寺に放火する。そして美の囚われ人だった彼は、寺を焼き払うことによって初めて自由になり、蘇生する。自由を実感するためには、愛するものを抹殺するしかないという冷酷なまでの自己中心主義。
三島の主人公たちは、愛の完成・美の享受を目指して営々と努力して目的を達する。普通、物語はここで大団円になり、めでたしめでたしで終わるところを、三島はくるりと反転して彼らを奈落の底に突き落とすのだ。そして、その後には歌舞伎にみるような残酷な殺しの場面が続く。彼らは揃って、愛するヨハネの首を欲しがったサロメ的人間なのである。 
芸術至上主義の裏側
市民的な幸福や常識的なモラルをシニックな目で描いた三島は、登場以来、芸術至上主義者と目されていた。だが、彼の実生活は芸術至上主義とは程遠いものだった。というより、彼は自分が作品の中で軽蔑して見せた常識的・世俗的な幸福の中にぬくぬくと安住していたのである。
職業作家になったばかりの頃に、二人の女に求婚して両方から断られるという苦い経験をした三島も、今や、「上流社会」の女性たちからから競って秋波を送られる身になった。
彼は夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になったが、執筆のかたわらスタンドプレーも忘れなかった。彼は乗馬クラブに通い、馬を馬場から一般道に進め、避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。
軽井沢では、上流の令嬢や夫人によるパーティーが開かれていた。三島はそれらに顔を出して、岸田今日子・兼高かおる・鹿島三枝子・「鏡子の家」のモデルになった人妻などと親しくなった。
やがて彼は歌舞伎の楽屋を訪ねた折りに一緒になった料亭の娘と親しくなり、三日にあげず旅館で逢瀬を重ねるようになる。肉体交渉を伴うこの関係は、数年間続いている。
彼の「世俗的生活」を象徴するのが、ビクトリア朝風の白亜の邸宅だった。
「鏡子の家」の印税を前借りして建てられたというこの家は、欧米人の目には異様に映り、日本人にはグロテスクに見える金ぴか趣味の邸宅だった。家の中には、骨董品を寄せ集めたような得体の知れぬ家具がごたごた並び、ソファには三島が少年時代から大事にしていたお気に入りの人形が置いてあった。
さほど広くない庭の真ん中に「理性に対する軽蔑の象徴」として大理石のアポロ像が据え置かれて、訪問客の目を驚かせた。客の応対に出る女中は、西洋風の白いキャップに白エプロンという格好をしており、食後には客にブランデーと葉巻が出された。三島邸を訪ねた外人記者は、「これほど西洋式を徹底する日本のインテリを見たことがない」と語っている。
三島の所有する「外車」も人目を引いた。彼はアメリカ製の大きな青い自動車を買い込んでいた。とにかく彼は他人と違うことをしていなければ気が済まなかった。「三島由紀夫 死と真実」の著者によると、彼にとっての日常とは、やたらに自分を飾り立て、派手な演技をする舞台に他ならなかった。
三島は、約束の時間を違えず、原稿の締切も厳守するという市民的な美徳の持ち主だったが、同時に金の貸借にも合理的で、友人に貸した金などを厳しく取り立てた。
こうした作品と実生活の乖離はどこから来るのだろうか。
三島由紀夫の基層にあるのは紛うことなき俗物性だった。
彼には祖母直伝の貴族趣味と、両親から受け継いだ小市民主義があり、また、自身で育てたエリート意識があった。三島は、祖母・母・先輩・教師の庇護を離れて自立するようになってからも、自分を支えてくれるものを求めた。それが、世評であり、他から抜きんでることであり、たえず周囲から注目されることだった。
彼は世俗的なもので身を包んでいないと安心出来なかった。それは、自分には何か大事なものが欠けているという強い不全感があったためと思われる。祖母や母から行き過ぎた庇護を与えられているうちに、彼はそれは自分に何か欠けているものがあるからだと感じるようになったのだ。
俗物的な生活を送りながら、反俗的な作品を書くという二重の構図は、祖母に守られて安全第一の日々を送りながら、頭では流血の死にあこがれた少年期の二重生活を引き継ぐものだった。彼はこの二重性の故に、頭では世俗を否定し、大衆社会現象を軽蔑していながら、その世俗から受容され賞賛されることを渇望したのである。
三島は自らの性格的なひ弱さを克服しようと、いろいろ努力している。だが、その努力も、結局は自分の世俗的価値を高める方向に向かってしまう。
小学生だった頃に、彼は省線電車の中で、大人の乗客をにらみつけ相手が目を逸らすまで凝視を続けるという「自己訓練」を行っている。最初、相手はいぶかしそうに彼を見返すが、やがてうるさくなって視線を逸らす。すると、幼い三島は「勝った」と思うのだ。
三島を知る誰もが口にする彼特有の高笑いを、ラジオで聞いたことがある。私は病気療養中、安静時間にはラジオを聴いて過ごしていたが、ある日、「高校生の作家訪問」という番組を聞いていて、あの有名な高笑いを聞いたのである。それは、相手の感情を無視した傍若無人の哄笑で、聞く者を脅かして不安にさせるような耳障りな笑い方だった。この高笑いを彼は新進作家時代に身につけたと言われる。
話をするとき、相手を真っ正面から見据え、続けさまに相手の心を脅かすような哄笑を浴びせかける対話術は、相手より優位に立っていないと崩れてしまう三島の幼児的な弱さから来ていた。
世俗的な生き方をしながら、反俗的な作品を書き続けるという矛盾は、何時かは馬脚を現さずにはいない。それは彼が、「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった」と誇らかに記してから4年後に起こった。
「大体において、私は少年時代に夢見たことをみんなやってしまった。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによって、全部成就してしまった。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」
三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。
「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。
美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。
日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。
この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。
三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。
峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。
だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。
江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。
「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。
「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。
ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。 
三島狂乱
年譜によると、三島は「鏡子の家」を発表した翌年に大映映画「からっ風野郎」に出演している。この時、彼は大映と専属俳優契約を結んでいるから、この後も続けて映画に出る積もりだったに違いない。
「からっ風野郎」での三島の役はちんぴらヤクザだった。
この映画に出たことで三島は、彼を愛する読者たちに幻滅をもたらすこととなった。それまで、三島には天才作家というイメージがあったけれど、映画で見る彼は短躯短足、気の毒なほどに貧相な人物だったのだ。ラッキョウ頭だけが目に付くその体には、未成熟で病的な印象があった。致命的だったのは、役柄の関係もあって、彼が精神的にも深みに欠けた薄っぺらな男に見えたことだった。
三島はこの悪評にもめげず、やたらに週刊誌や新聞の三面記事に登場するようになった。
町内会の一員として、はっぴ姿で御輿を担ぐところを写真に撮られるかと思うと、ゲイバーに出かけて自分で作詞したシャンソンを歌い、衆人環視の中で丸山明宏(三輪明宏)と抱き合ってキスをした。
彼が最も熱中したのは、肉体の改造だった。
三島は夜中に執筆し、夜明けから正午まで就寝するのを例としたが、午後からボディービルや剣道の道場に通うようになった。その熱心さは異常な程で、間もなく彼の身体には「隆々たる筋肉」がつき始めた。
不全感の所有者がやることには、限度というものがない。自分の体に自信を持ち始めた彼は、機会あるごとに肉体を誇示するようになった。三島は、「男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのだ」と弁解しながら、機会あるごとに裸になった。
彼は「三島由紀夫展」のカタログに次のように書いている。
「私はようやくこれ(鍛え上げた肉体)を手に入れると、新しい玩具を手に入れた子供のように、みんなに見せ、みんなに誇り、みんなの前で動かしてみたくてたまらなくなった。私の肉体はいわば私のマイ・力ーだった。・・・・・しかし肉体には、機械と同じように、衰亡という宿命がある。私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもっとも危険な道を歩かされているのである」
かくて「薔薇刑」と題する自らのヌード写真集を出版し、「わが肉体は美の神殿」と自称するにいたる。ここまで来ると、もう狂気の沙汰としか思えない。彼は書斎に等身大の鏡を据え付け、自分の姿を鏡に映しながら執筆しているという噂がたった。
三島がしきりに愚行を重ねるのは、自分を評価しなくなった知識人に当てつけるためだった。すると、その度に、彼に対する評価は落ちていった。三島文学は本質的に青春文学だから、若かった頃に三島の作品を愛読した読者も、年を取ると次第に彼の逆説や反語、装飾過多の文章をうるさく感じるようになる。そこへ三島の露出趣味である。年輩の読者の三島離れは、急速に進行し始め、その結果、新作を出すと20万部は売れていた彼の著書が、1960年代(35歳以後)には2〜3万部しか売れないことが多くなった。彼が苦々しげに「作家殺すに刃物はいらぬ、旧作ばかりをほめればよい」と書いたのもこの頃である。
世評にも増して三島を打ちのめしたのは、相次ぐ旧友の離反だった。
彼は当代一流の知性である中村光夫・大岡昇平・福田恒存・吉田健一と「鉢の木会」を作って定期的に交流していた。自分にとっては先輩格に当たるこれらの面々から、会の一員として迎えられたことは三島の大きな自信になっていた。が、ある日メンバーの一人から、「お前は俗物だ。あまり偉そうな顔をするな」と面罵される事件が起きたのだ。
三島は「鏡子の家」に続いて有田八郎元外相をモデルにした小説「宴のあと」」を書き、有田側からプライバシー侵害で訴えられていた。ところが、この時「鉢の木会」の吉田健一は三島を裏切って有田側に立つ発言をしたのである。
「文学座」の運営で同志の関係にあった福田恒存にも裏切られた。福田は、三島由紀夫と杉村春子に後足で砂をかけるようにして、文学座の有力俳優を引き抜き劇団「雲」を発足させたのだ。
そして三島は、杉村春子からも裏切られる。
杉村春子は、昭和38年、三島の戯曲「喜びの琴」を右翼的であるとして、上演を拒否した。この件で、三島は朝日新聞に抗議文を載せ、10年近く続いた彼と「文学座」の濃密な関係は遂に絶たれてしまった。他に、三島は年少の友人黛敏郎とも絶交している。
読者の離反、旧友の離反に続いて川端康成がノーベル賞を受賞したことも、三島にはかなりのショックだったと思われる。三島の作品は、若者向きである以上に、外人向きに出来ていた。日本には私小説の伝統があって、作品は作家の生活や人となりと絡めて鑑賞されるのが常だったが、三島は作品を自分から完全に切り離し、それ自体で成立する自律世界に仕立て上げていた。自伝的作品とされる「仮面の告白」ですらそうだった。
これは西欧的な文学作法に他ならなかった。三島も、文学作品は一つの夢をシステマタイズすることによって成り立つと語り、中村光夫との対談では「物語というものは、人を知らぬ間に誘い出し、どこか水の中にポコンと落として溺れ死にさせるようなものですね」と言っている。
こうした事情もあって、日本文学を海外に紹介することに貢献したドナルド・キーンなどは、早くから三島に注目し、その作品を英訳して自国に紹介している。三島自身もアメリカやフランスに渡り、欧米の出版業界に顔を売る一方、各国の文学関係者に知己を増やしていた。そのため、1960年代の半ば以降、毎年のように三島がノーベル文学賞を獲得するのではないかという下馬評が流れるようになった。
三島もその気になって、ノーベル賞の受賞がほぼ確実というニュースが流れた時など、自ら記者会見場を予約して吉報を待ったほどだった。が、結果は川端康成の受賞に終わった。三島はその報を聞いて、祝辞を述べるために真っ先に川端邸に駆けつけている。そして「この次にノーベル文学賞を取るのは自分ではなくて大江健三郎だろう」と語り、格別、悔しそうな顔も見せなかった。大江の受賞を予言したところなど、三島の眼力はさすがだった。
苦心の労作が批評家に黙殺されるというようなことは、作家なら誰でも経験することだった。だが、三島は「鏡子の家」が期待したほどの評価を得られなかったことで「狂っちゃった」り、ノーベル賞を逃したことで深刻な失意に陥ったりする。三島は世評を軽蔑するポーズを取りながら、麻薬患者がモルヒネを必要とするように周囲からの絶えざる賞賛を必要としていたのである。
いまや彼の耳に入ってくるのは嘲笑ばかりだった。三島は石川淳に「(僕が)一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする」と愚痴り、林房雄には「身から出たさびだと思っています。やはり僕の行跡がたたっていましてね、何をやったって信じてもらえない」と語っている。
三島は、俗物に徹することが出来なかった。彼には天才作家という肩書きがどうしても必要だった。基層の俗物的部分を満足させるには、上層の作家活動で成功し、芸術的価値の高い反俗的作品を書きつづけなければならない。ここに彼のジレンマがあったのである。
三島は文壇に登場する際、戦略として同性愛者を装った。今度は、行動する作家という戦略をとることにして、剣道、ボクシング、空手などに熱中しはじめたのだ。ゴルフをやる作家はいても、武術や格闘技をこなす作家はいない。
行動する作家として認知されるには、理論武装も忘れてはならない。その理論は現代人の手で汚されていない、そして今も脈々と日本人の意識の底を流れる地下水系のような思想でなければならない。
アメリカの社会学者リースマンの著書を愛読していた三島は、社会には「横の社会」と「縦の社会」があり、前者は個性を失った砂のような人間によって形成される大衆社会だが、後者は歴史的民族的社会で、このなかに「汚れていない思想」が眠っていると強調する。
この見地から彼が持ち出してきたのが「葉隠」であり、陽明学だった。彼は何かの思想に触れると、たちまちその使徒になり、高らかに人寄せのラッパを吹き始める。
が、文壇の反応は冷ややかだった。彼の行動主義は、それまでに彼が演じてきた人気取りのパフォーマンスと同列に見られ、「ああ、また始まったか」と作品の評価をさらに引き下げることになった。
こうなったら彼に残された道は、暫くマスコミと関係を切り、鳴かず飛ばずの状況に身を置くことしかなかった。が、三島は沈黙を守るどころか、「知識人の顔というのは、何と醜いのだろう!」というふうなことを感嘆符つきで言って、八つ当たりをはじめる。
ドナルド・キーンなど外国の友人は、三島に一年ほどカナダに行ってひっそり暮らすことを勧めている。
だが、三島は自宅に毎日客を招き、マスコミから対談・対論の注文がかかれば、どこへでも出かけていって誰とで議論することを喜びとしているような男だった。そんな男が1年間もの孤独に耐えられるはずがなかった。
だが、この頃の三島は極めて危険な状況にあったのである。
「豊饒の海」に着手する1年あまり前、三島邸に一人の青年が押し入ってきた。この青年はすぐに警察の手に引き渡されたが、三島はこの小事件を素材にした短編「荒野より」を書いている。このなかで、三島はあの青年はどこから来たかと自問し、三島自身の心の荒野から来たのだと書く。
「それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部にはちがいないが、地図には誌されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。そこは見渡すかぎり荒涼としており、繁る樹木もなければ生い立つ草花もない。ところどころに露出した岩の上を風が吹きすぎ、砂でかすかに岩のおもてをまぶして、又運び去る。私はその荒野の所在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。明らかに、あいつはその荒野から来たのである」
三島由紀夫が、何時頃から自死を日程表にのせはじめたか確言できない。
三島には死に向かう体内時計が埋め込まれていたという説もあり、彼は死を恐れていたから、死を選んだという者もいた。あまりたくさん書きすぎて、もう書くことがなくなったので死んだのではないか、と推測する作家仲間もいる。
早くに名声を得て、その後もずっと名声を維持してきた作家が突然自殺するというケースをしばしば見受ける。例えば、芥川龍之介は、夏目漱石に認められて早くに文壇に出てから、一貫して第一線を歩み続けた。にもかかわらず、突然、自殺している。
芥川本人は、遺作の中で「ぼんやりした不安」がその原因だと説明している。
しかし友人の菊池寛は、自殺する前の芥川に作家活動を暫く休んで、大学教師にでもなったらどうかと忠告していた。書く素材が尽きて、芥川が自信喪失に陥っていると見たからだった。
最初から「一流」の地位を維持してきた芸術家は、そのレベルから脱落することをひどく恐れる。そして、もう一流の地位を維持できないと見切ったときに、実に簡単に自殺する。自分が二流の存在に堕してしまうことが耐えられないのだ。
三島には、まだ種切れの兆候はなかった。執筆依頼が途切れることはなかったし、書きたいテーマも少なくなかった。
だが、彼は疲れ傷ついていた。死を願いつつも、踏み切ることができないでいた。その状態は「鏡子の家」が不評だった頃から、ずっと続いていると言ってもよかった。 
スプリングボード
人は外に向けていた攻撃的エネルギーを自分自身に向けることで自殺する、というのが精神分析派の考え方である。
例えば事業家は、攻撃的エネルギーを仕事に振り向けて懸命に働くが、どう頑張っても潰れそうな会社を立て直すことが不可能だと悟ると、エネルギーを自身に振り向けて自殺する。仕事を辞めてからも、事業に向けていた攻撃的エネルギーはそのまま残り、別の攻撃対象を探して自分を殺すことになるのだ。
三島は自分を認めなくなった知識人に戦いを挑み、ボクシングジムに通い、空手初段になって見せた。それだけでは不十分だとして更に戦線を拡げ、民族的伝統の擁護者になって「文化防衛論」を書いたりした。これは、戦後民主主義そのものへの挑戦を試みた攻撃的な著書だったが、話題にもならなかった。
折から、安保反対の風が吹きまくっていたから、好機到来とばかり彼は「敵」の牙城東大に乗り込み新左翼の学生たちに論戦を挑んだけれど、これも三島特有のパフォーマンスと受け取られて三面記事的な興味を呼んだだけだった。彼のやることはすべて空転し、「やはり僕の行跡がたたっていましてね。何をやったって信じてもらえない」と述懐するような結果になるほかなかった。
三島の攻撃的エネルギーが反転して自分に向かった時期に、彼の内部で自己中心主義から天皇中心主義への転換が始まったのだった。
攻撃的エネルギーが自分に向かえば、過去に演じてきたパフォーマンスへの自己嫌悪や、ジュリアン・ソレル的行動への悔恨が群がり起こる。虚偽と汚辱に満ちた過去を思い、自分のエゴ・セントリックな性格を慚愧の気持ちで反省しているうちに、三島は自分にも純な気持ちで生きていた時期があったことを思いだしたのだ。
三島は日本浪漫派に心酔し、二・二六事件の青年将校たちに涙した過去を想起した。あれほど醇乎たる気持で、天皇と国家について思いめぐらしたことはなかった。
自己中心主義を捨てて、主人持ちの身になること、これ以外に自分が再生する道はない。三島はそう思ったのだろう。そして、そうなれば死ねると思ったのである。
主人持ちの人間が死と親和することを描いているのが「葉隠」だった。武士道とは死ぬことと見つけたり、生きるか死ぬか迷ったら死ぬ方を選べ、主人が間違ったことをしたら死んで諫めよ、葉隠のどこを開いても主人持ちの人間の美徳は死ぬことにあると書いてある。
「葉隠」には自己中心的に生きる武士たちの醜さも的確に描写されていた。三島は、それを大衆社会日本に生きる現代人の肖像だと思って読んだ。
彼は「葉隠」を座右の書にするようになった。三島は「葉隠に書いてあるのは、絶対間違いない、聖書と同じでね」と確信を持って語っている。この瞬間に三島の内部で、自死に向けた号砲が鳴り響いたのである。
三島は目から鱗が落ちるような気がしたのだ。自分は子供の頃から死にあこがれてきた。そして大衆社会現象の支配する日本では、自分の生きる場所がないと嘆きながら、女々しく生きながらえてきた。そうなのだ、主人持ちの身になれば死ぬことができる。
三島は下校してから、祖母の用意しておいたオヤツを食べ、枕元に座って勉強した小学生時代の気持ちを思い出した。他者の命に素直に従うことの心地よさ。
あとで誤診であることが分かったけれど、愛する母が余命幾ばくもないと知らされたときの胸つぶれる気持ちも思い出された。母のために祈った、あのときの一念ほどに純粋なものはなかった。
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」にはこんなやりとりがある。
−さうすると三島美学を完成するためには、どうしても絶対的な権威が必要だといふことになり、そこに……
−天皇陛下が出てくる。(笑)
−そこまでくると、私はぜんぜん三島さんの意見に賛成できなくなるんです。問題は文学上の美意識でせう、なぜ政治的存在 であるところの天皇が顔を出さなきやダメなんですか。
−天皇でなくても封建君主だっていいんだけどね。「葉隠」における殿様が必 要 なんだ。それは、つまり階級史観における殿様とか何とかいふものぢやな く て、ロイヤリティ(忠誠心)の対象たり得るものですよね。……天皇でなく ても いい。『葉隠』の殿様が必要なんだ。
三島にとっての天皇は、ロイヤリティーの対象としての天皇であり、もっとハッキリ言えば自死へのスプリングボードとしての天皇だった。 
三島の天皇主義
三島の考えている天皇は、現実の天皇ではなかった。美の総覧者・日本文化の体現者として、非人間的な徳性を備えた架空の天皇だった。だから、現実の天皇に対する三島の評価は、極めて低かった。
昭和天皇は、二・二六事件では青年将校らを逆賊と認定する過ちを犯した上に、戦後は人間宣言を行って、特攻隊員を裏切ってしまった。特攻隊員は神である天皇のために死んだのだから、天皇に人間宣言をされたら、その死が無意味なものになってしまうではないか、と三島は言う。
皇太子時代の現天皇についても、福田恒存との対談で手厳しいことを言っている。
三島:皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを、ぼくは非常にいいたいことです
福田:いまの皇太子にはむりですよ。天皇(昭和天皇)も生物学などやるべきじゃないですよ
三島:やるべきじゃないよ、あんなものは
福田:生物学など、下賤な者のやることですよ
三島は現に目の前にいる天皇の内実がどうあろうと、天皇のために死ぬことを思い決めた。ひとたび、方向が決まるとそれに向かってすべてのエネルギーを集中し、自分の思いを滔々と説きたてるのが彼の癖だった。
彼の脳裏にある天皇は架空の存在なのだから、このために死ぬのは「イリュージョンのための死」に他ならない。そこで彼はこう解説するのである。
「ぼくは、これだけ大きなことを言う以上は、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない」
「イリュージョンをつくって逃げ出すという気は、毛頭ない。どっちかというと、ぼくは本質のために死ぬより、イリュージョンのために死ぬ方がよほど楽しみですね」
彼の死は、天皇への「諫死」という形式を取るはずだった。が、天皇に聞く耳がなければ、その死は犬死にとなり、無効に終わる。そこで彼は又こう注釈をつける。
「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに純粋行動の本質がある」
三島は死ぬ覚悟を決めると、積極的に自死する事を予告し始めた。私は三島の対談集を数種類読んでみたが、晩年の彼は自分の死をにおわせる発言を繰り返し行っている。対談相手が(またか)と持て余ますほどに。
ヘンリー・スコット=ストークスは、三島の死に関して「人間の自殺が、これほど綿密に計画されたのは、例が少ないことだろう」と感想をもらしている。そしてまた、対談で、講演で、また評論で、これほど頻繁に自殺を予告している例も少ないに違いない。
一、二例を挙げれば、対談ではこんな風に語るのである。
「ぼくぐらい行動というものにあこがれて自分が行動していない男はいままでない。何もしないで行動行動といっている。・・・・・(が、今に行動するから見ていてほしい)自分だけ死んで笑われるかもしれないけれども、それでもいいじゃないか」
こんなのもある。
「(自分は文学外の行動と、文学が同じ根から出ていることを証明しようと努めてきた)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがぴたっと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる」
自死の予告は、市ヶ谷のバルコニー上から撒いたビラの末尾にも書かれていた。
「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。・・・・・今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」
三島がこれほど頻繁に自殺をにおわせたのは、何故だろうか。一般に、予告は、自殺を引き留めてほしいというサインだと考えられている。
彼が最後の瞬間まで生に執着していたことは、上掲の「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」という部分にほの見えているし、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」という辞世の歌からも感じ取れる。
自分の行動を、死を恐れる臆病な世人と対比してみせるところに、かえって彼の未練のようなものが透けて見える。
だが、そんなふうに考えるのはこちらの邪推で、自分を後戻りさせないための手段としてだったのかもしれない。とすると、彼の気持ちはまだゆらいでいたことになり、これもやはり未練の表明だったと言うことになる。
死へ向かって自分を追いつめて行く過程で、三島は「豊饒の海」四部作に着手する。戦争末期に「花ざかりの森」をこの世に残して戦死することを夢見た彼は、「豊饒の海」を遺作として世に残すことに決めたのである。
「豊饒の海」は生まれ替わり物語である。生まれ替わりというテーマを選んだ三島の気持ちには、かすかに死後の再生を期待する願望があったかもしれない。しかし彼はそうした気持ちを「豊饒の海」という題名によってうち消している。豊饒の海は月面にある空虚な海の名前であり、彼はこの題名によって再生譚を否定しているだけでなく、自分の生涯そのものを否定している。
三島は「荒野より」で彼の心を取り囲こむ荒野について語った、月面にひろがる豊饒の海もあの荒野を思い出させる。三島はこうした虚無的な心をかかえて、「豊饒の海」四部作に着手し、自衛隊に体験入隊し、F104超音速戦闘機に試乗し、「楯の会」結成に乗り出したのだった。
「楯の会」に百名足らずの学生を集めたことで、三島は自死へのお膳立てを整えた。そうとは知らない世間からもマスコミからも、三島はすっかり愛想を尽かされてしまった。彼の親しい友人ですら、「その悪趣味や酔狂な行動は時とともにグロテスクの度を増し、楯の会にいたってその頂点に達した」と書いている。
「荒野より」で老人のような寒々とした心境を吐露した三島が、「楯の会」では打って変わって、生来の幼児性をむき出しにしている。彼は会の発足に当たり、全員で巻紙に血書することにした。そして指を安全剃刀で切り血をコップに溜め、血書を済ました後で、皆でコップの血を飲んだ。隊員の中には、脳貧血を起こすものや、吐きそうになるものが出た。
それから彼はデザイナーに頼んで、まるで「ホテルのドアマンのような(猪瀬)」制服を作り、隊の制服にした。この制服を見て、隊を脱退するものも現れた。
「仮面の告白」の読者は、女児のように育てられた三島の過去を思い出して、兵隊ごっこは子供の頃からの彼の夢だったのだろうと考える。だが三島は、委細かまわず隊員を自衛隊に体験入隊させ、自分の前で分列行進をさせた。
ロンドン・タイムズやニューヨーク・タイムズの東京支局長をつとめたヘンリー・スコット=ストークスは、三島に呼ばれて訓練の様子を見学に出かけた。そして「楯の会の隊員が、富士山麓を分列行進するさまは、まるで一団のデクの坊だ」と書いた。
外人記者には、世界的な名声を誇る作家三島が、「楯の会」を発足させた理由が分からなかった。そこで記者が会の目的を質問すると、三島は「サムライの伝統を復活するためだ」と答え、「今なおサムライの魂を持つ日本人は、ヤクザだけだ」と断定して相手を唖然とさせている。
「楯の会」結成は、第二次安保騒動に備える目的だったが、結局、三島の自殺をサポートするだけに終わり、三島の死後解散している。
入念な準備の上に決行したはずの市ヶ谷討ち入りは空振りに終わった。それは、計画が失敗したら全員切腹すると決めていたからだった。そして、参加者全員が計画は結局失敗するだろうと予想していたのである。成功する見込みがあれば、念を入れて計画を練り上げるけれど、失敗するとわかっている計画に真剣に取り組むものはいない。
三島が失敗覚悟で計画を強引に推し進めたのは、切腹という方法で「諫死」をすることが既定の路線として行動予定表に組み込まれていたからだった。天皇と日本国民に反省を促すために、衆人環視の中で死んで見せる、これが彼の数年来の計画だったのだ。
それが年来の計画だったのなら、はたから何もいうことはない。
しかし、それなら宮城の前で一人で割腹自殺すべきだったのではないかという疑問は残る。決行の間近になって、三島は彼と学生隊長森田必勝2人だけで切腹することに変更したけれど、最初は4人の学生全員を道連れにして死ぬ積もりだったのである。
結果として、彼は森田という春秋にとむ若者を死なせただけでなく、総監室では刀を振り回して数多くの部外者を傷つけている。ここに伝記作者が、「冷酷なほどの自己中心主義者」と表現する三島の性格の一端が現れている。「東大を動物園にしろ」という本の中で、三島は次のように発言しているのである。
「羽田事件のときつくづくと思ったね。佐藤首相をアメリカヘやりたくなきや、殺せばいいぢやないか。簡単なことだよ。テロは単独行動で、大衆を組織化するといふ彼らの理論に反するかもしれんが、要は度胸がねエんだよ。一人でやる度胸がねエんだ」 

出口裕弘「三島由紀夫・昭和の迷宮」には、三島が死んだ後の母について記した一節がある。
「ジョン・ネイスンによると、自決の翌々日、平岡家は弔問客に門をひらいた。ある弔問者が白薔薇の花束を持って訪れ、三島の遺影を見上げていると、うしろから母の倭文重がこう言ったという。
『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな』
平岡公威を産み、乳児のうちから姑にその子を奪い去られ、ようやくわが手に取り戻してのちは、一貫して「三島由紀夫」の第一読者だった人の言葉である。」
三島には妹と弟がいたが、妹は戦後間もなくなくなり、弟は外交官になって海外で暮らしていた。だから母にとって身近にいるのは三島だけだった。
母は三島の書斎に自由に出入りして、原稿用紙・ペン・お茶・果物・毛布などを用意してやっていた。彼女は息子の作品を生原稿で読んでいる「第一読者」だった。息子の死後、彼女は家族の誰一人三島を理解しようとしなかったと怒り、その怒りは夫と嫁に向けられた。彼女は夫とはうまく行かず、ひそかに離婚を考えていた。
そういう母親にとって、三島は恋人のような存在だった。事実、彼女は三島が死んだときに「恋人が私の手許に帰って参りました」と言っている。母親は息子の欠点も長所も知り尽くし、彼が何を企てているか察知していながら、そのすべてを許し受容していたのであった。
三島が、天皇主義などではなく、かの谷崎潤一郎のように母親賛歌をうたい続けたら、あのような死を迎えることはなかったろう。 
最後に
とにかく三島由紀夫は先を急ぎすぎた。彼は自分の作品について次のように書いている。
「書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、未来への鞭にしかならぬ」
彼は一つとして同じ趣向の作品を書いたことはなかった。三島はマンネリズムとは無縁の作家だったのだ。一つの作品を完成するたびに、もっと新しいものを、もっと知的刺激にとんだものをと、自分に鞭を当て続けたから、立ち止まって自分の作品を賞味し反芻するゆとりがなかった。
思想についても同じで、俊敏な三島は次々に新しい思想を渉猟し、それをすぐに評論や作品の中に吐き出して見せた。だが、一つの思想を内部に留め置いて静かに熟成させることがなかったから、それらは単なる彼の知的アクセサリーにとどまり、何の力にもならなかった。吸収したものが「心の糧」になることはなかったのである。
それどころか、彼はとんでもない読み違えをしている。
陽明学は葉隠とならんで、晩期の三島を支えた思想的支柱である。これを彼は行動的ニヒリズムに基づく「革命哲学」だと規定しているのだ。
そして、彼は「陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極地をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである」などと意味不明なことを言い始める。
王陽明は、「万物一体の仁」を説いた愛の哲学者で、行動的ニヒリズムに類するようなことは一言も口にしていない。彼は、人間の内面が二層を成していると考え、下層を躯殻的己、上層を真己に分けている。下層の躯殻的己は私欲に汚れた自己であり、これを突き抜けた上層に天地万物と繋がる宇宙的な自己がある。これが真己なのである。
この真己(良知ともいわれる)が発動すると(致良知)、「知行合一」の行動になる。つまり、内なる愛の本能が具体化されたら、その行動は自ずと理にかなった知的行為になると王陽明はいうのだ。
三島が陽明学を理解できなかったのには、理由がある。
三島は唯識論や臨済禅について作品の中で蘊蓄を傾けているけれど、彼ほど非宗教的な人間はいない。宗教的世界を理解するにはエゴを超えた超越体験が必要とされるが、三島は死ぬまで自我圏内を出ることがなかった人間だった。彼の宗教論議は、すべて頭でこね上げた牽強付会の説であり、真実からは遠いのである。
王陽明が二層の自己に開眼したのは、32歳の時、陽明洞という洞窟の中で「光耀神奇、恍惚変幻」の神秘的な体験をしたからだった(洞窟内で霊的な光に遭遇したところはマホメットの体験に似ている)。
もし三島が長生きをして、本気になってインドあたりでヨガの修行をすれば、唯識論も臨済禅も、そして陽明学もすべて自家薬籠中の物にしたはずである。三島なら、ひとたび求道の志を立てたら、インドでもチベットでも、どこにでも出かけて猛烈な修行をしたに違いないのだ。この点でも彼の早世は惜しまれるのである。 
 
「椿説弓張月」 三島由紀夫

 

「いやになっちゃう」
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
引用したのは雑誌「演劇界」で三島由紀夫を囲んで行なわれた座談会での利倉先生(当時の「演劇界」編集長)の発言です。他の出席者は郡司正勝・杉山誠という顔触れでした。この記事は作家三島由紀夫と歌舞伎を考える時にとても参考にな ります。(この時代の「演劇界」の記事はとても面白いですね。)そこで「椿説弓張月」のことを考える前に、この座談会での各氏の発言をちょっと取り上げておきたいと思います。まず杉山 先生が、「「地獄変」(昭和28年12月初演)にせよ「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月初演)にせよ、あなたの意図したところと、歌舞伎の連中の受け取り方とは違うんじゃないかな」と三島に 聞く場面です。
三島:「ほんとは、ぼくはそれが嫌なんです。それなら、いっそのこと新劇をやらせちゃうという気持ですね。はっきり言うと、勘三郎はうまいっていわれているでしょう、新作をやっても。」
利倉:「そのくせ、テクニックに関しちゃ新しいものを出してないんでね。」
三島:「まあ、新しいつもりなんでしょう、あれで。(笑)」
杉山:「そうすると、あなたとしちゃ、新歌舞伎的なものとして扱われることが・・・。」
三島:「嫌なんです、というよりは不満ですね。それに、あの人たち、とっても照れるんですね。こういうことは恥ずかしいというんです。」
上記発言に出てくる勘三郎は十七代目(先代)のことで・「鰯売」初演で鰯売猿源氏を主演しました。 勘三郎の猿源氏はとても好評でしたが、三島は不満であったそうで、この座談会でも「くすぐったくて、ほんとにいやになっちゃった」と言っています。三島が言いたいことは、自分は昔の芝居を書いたつもりなのに・それを新作として扱われるの が不本意だということです。ところが、歌舞伎役者は感じ方が逆で、新しいものなのに・それをさも古いもののように演じるのは恥ずかしいと言うというわけです。さらに三島の発言を引きます。
三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」 (中略)「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心なんだね、逆に。(笑)僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」
三島のこの発言はとても興味深いと思います。歌舞伎役者とてこの時代に生きる現代人であるわけですが、我々は彼らを江戸時代の心を持つ現代人で・江戸の心を演じる特別の人たちだと思っています。もちろんその自負は彼らにもあるはずです 。それは確かにいわゆる古典(「忠臣蔵」だとか「千本桜」など)を演じている時はそんなものなのです。手垢にまみれた在来の型のなかに新しい現代的な視点を取り入れるなんて言えば 、いかにも先進的でカッコ良く思えます。ところが、擬古典的な作品をいかにも昔風に演じろというと、途端にぎこちなくなってしまうのです。「相変わらずあんな古臭いことやってらあ」と 笑われるのが恥ずかしいという感じになってくるらしいのです。「お前たちのやっているのはこんな程度の芝居だよ」と、自分のコンプレックスな部分を改めて鏡で見せ付けられ たような鼻白む気分になるのでしょう。そこで役者は捻じれた行動に走ります。三島歌舞伎のなかから作者がここは隠して欲しいと思う現代的な要素をほじくりだして、そこ を解釈の取っ掛かりにしようとするのです。もしかしたら、これはこんな意地悪な作品を書いた作者(三島)への・役者のちょっとした仕返しなのかも知れません。
ここで歌舞伎役者のコンプレックスということをもう少し考えてみたいのですが、歌舞伎役者には、自分たちの演じている芝居が、敷居が高くて・「古典」とか「伝統芸能」ということで一応祭り上げられてはいるけれども、忠義とか仇討ちとか身替わりとか、時代錯誤の・現代人にまったくアピールしない変な芝居だとどこかで誰かに笑われていないかな?という不安がどこか付きまとっているのかも知れません。
現代では歌舞伎は時代から隔絶した芝居です。チョンマゲで刀差した日本人など今の日本のどこにもいないのです。お客に見放されたら芝居は終わりですから、「歌舞伎は古臭い」と言われることに・役者はいつも内心ビクビクしていて、周囲に「歌舞伎は古臭くない」とアピールするためにつねに肩肘張っていなければならないのかも知れません。観客を映画やテレビにごっそり取られた体験がその不安をますます掻き立てます。もっと自信を持って・自然体で・・と言いたいところですが、役者の気持ちも分からないことはありません。
新歌舞伎というのは、座付き作者ではない・外部の作家が書いた歌舞伎作品のことを言います。歌舞伎役者のために江戸風俗を材料に芝居を仕立ててはいますが、当然ながらそこに作者の明治以後の・近代の視点が入ります。またそれがないと新歌舞伎にならない のです。そこに見慣れた古典作品にはない魅力と新鮮さを観客に感じさせます。今日の歌舞伎のレパートリーとなっている新歌舞伎の大半は二代目左団次によって初演されたものですが、それらは歌舞伎(旧劇)の手法を踏まえ・しかし表面上はそれを否定し・乗り越えて新しい時代の芝居を作ろうとするところから発しています。(別稿「左団次劇の様式」をご覧下さい。)
一方、三島歌舞伎の場合は、作者本人が「新歌舞伎的なものとして扱われることが嫌なんです、というよりは不満です」とはっきり言っているわけです。上記座談会の三先生はよく分かっていらっしゃいます。利倉先生は「歌舞伎役者が、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」と仰っています。
三島歌舞伎を新歌舞伎のなかに位置付けて、戦後の新作歌舞伎、たとえば 舟橋聖一の「源氏物語」や大仏次郎の「若き日の信長」などと 比べて、その擬古典的な文体や手法においてのみ異なるのだと考えていると間違えます。三島歌舞伎はその発想段階において、まったく向いている方向が異なります。 なぜならば、三島は最初から古臭い芝居を書こうとしているからです。ですから、三島歌舞伎というのは、どこかの旧家の土蔵のなかから・江戸末期の作者不詳の古い芝居の台本が発見されて・それを三島由紀夫なる作家が 手を入れて世に出したと、そんな風にでも考えて演じた方がよろしいと思いますね。両者がそんな捻じれた位置にあるので、歌舞伎役者と三島の関係はギクシャクしたものになってきます。
「故郷へ帰ったつもりで・・」
「今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」という利倉先生の発言についてもう少し考えます。
歌舞伎は出雲のお国以来・ほぼ400百年の歴史を持っている演劇と言われていますが、歌舞伎はこれだけの長い年月をすんなり真っ直ぐ伸びてきたわけではないのです。いろんな要因で、その流れはあちこちで途切れたり・捩(よじ)れたりしています。現行歌舞伎でどうやら辿れる・最も古い形態の芝居は「対面」や「暫」のような元禄歌舞伎ということになりますが、これとて当時とそっくりそのままに上演されているわけではありません。
芸というのは刻々変化していくものですから・まあそれは仕方ないことですが、そう考えると現行歌舞伎の芸の引き出しというのは案外狭いもので、遡ってもせいぜい幕末の黙阿弥よりもちょっと前くらいまでのもの だと考えられるのです。その限られた芸の引き出しでレパートリーをどうにかこなしているというのが、歌舞伎の現状なのです。(最近は黙阿弥の七五調さえ怪しくなっているということは、別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」で触れましたからそちらをお読みください。)近松でも南北でも、現行歌舞伎は基本的にどれも黙阿弥のテクニックで通しています。それは 例えば台詞回しでは、語調を無意識のうちに七五に揃えたがる・台詞の末尾が不自然に伸びるというようなところにフッと現れます。ホントに微妙な差異なのですが、そんなところで芝居の感触が何となく粘ってきて、本来の近松 や南北の感触とは異なるものになっているのです。利倉先生の発言は、そのことを踏まえて読まねばなりません。
三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」
郡司:「つまり、それは黙阿弥劇でのテクニックでやっているからなんでしょう。」
三島:「そうですね。」
(中略)
杉山:「やる方の側としちゃ、そいつ(三島歌舞伎)を当てがわれることによって、やっぱり一種の新しがりをやってると思うんだ。ほんとは全然逆のコースを取らないといけないのに・・・、たとえば黙阿弥から逆に元禄時代、近松時代、あの辺まで遡ってやらなきゃいけないのに、黙阿弥以後で新しがってやっちゃってるわけだからね。」
郡司:「故郷へ帰ったつもりでやればいいんだがねえ。」
三島:「その故郷を失なっちゃってるわけさ。(笑)」
杉山:「歌舞伎は伝統芸術だって言うけれども、今や根無し草になってるな。」
(中略)
三島:「新劇は今故郷を模索している段階だけど、歌舞伎には故郷そのものがないんですね、現在は。」
杉山:「そういった意味じゃ三島君の夢は、一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。とにかく今の歌舞伎って自分こそふるさとなりって顔してるでしょう。(笑)それが間違いだってことを、歌舞伎自身にそろそろ感じさせなければ駄目だね。そのくせ手前が故郷だという顔をしているのだから、困るねえ。(笑)」
この座談会を読むには昭和32年という時代の雰囲気も踏まえなければなりません。戦争が終わって・日本が高度成長期に入り・昭和28年にはテレビ放送が始まり、歌舞伎は民衆の日常生活から乖離し・娯楽としての方向性が次第に見えなくな り始めた時期 でした。この時期には雑誌「演劇界」などでも、歌舞伎に対して結構辛らつな議論が多く出ていたわけです。女形不要論・歌舞伎滅亡論などが盛んに交わされました。昨今の歌舞伎批評ではちょっと考えられないことです。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代になるとすっかり保守化して、こうした議論は影を潜めてしまいました。以後平成の今日まで「歌舞伎こそ 我がふるさとなり」という感じの論調ばかりです。歌舞伎役者もそういう風潮に乗ってきました。
別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れましたが、二代目猿翁(三代目猿之助)はとても素晴らしい仕事をしましたが、ある一面に於いて新しがりをしているわけで(皮肉ではなくスーパー歌舞伎などまさにそこが本質かも知れません)、歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)を持たなかったと吉之助は思っています。この点では、杉山先生が指摘した昭和30年の状況と何も変わっていないわけです。
したがって「そういった意味じゃ三島君の夢は、(歌舞伎を)一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。」というところをよく考えなければ、三島歌舞伎のホントのところは分からないということだと思います。三島が考えるところの「歌舞伎のふるさと」というのはどんなものなのでしょうか。
「新しいのは新劇で結構だ」
三島は歌舞伎作品を8本書きました。まず最初が柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)、「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)でした。そこから約10年の空白があって、最後に書いたのが「椿説弓張月」(昭和44年11月)です。
三島:「地獄変」は実のところ少々面白半分で書いて、「鰯売」はもう十分手に入って書いたつもりで、「大内実記」じゃ、もう大凝りに凝っちゃってね、それで大体限界が分っちゃったんです。つまりそれからは詰まらなくなっちゃった。」
郡司:「(作品を役者に)当てはめて書く限界じゃないですかね。」
三島:「俳優は割りと考えないんですよ。よく書けたと言われるけれども、考えないんです。古典劇の楽しさを何とかして出そうとしたのが「大内実記」なんですが、これが退屈になっちゃった。それを救うのが浄瑠璃なんで、「大内実記」もそれをやったんだけど、(役者が)新作としてとてもついて行けない。初めの前段が終わって、舞台を空にして、また長々と浄瑠璃の語りが始まると、とてもついて行けないというんです。これが文楽なら幾らでもやってるんですがね。」
この座談会は昭和32年のことですが、「詰まらなくなっちゃった」と三島は言っているけれども、すぐに「むすめごのみ帯取池」を書いたのです。しかし、この後に、「椿説弓張月」を書くまでに約10年の空白があります。この空白の10年にはいろいろな意味がありそうです。恐らくこの時期の三島はもう再び歌舞伎を書くつもりはないという気持ちであったと思います。昭和30年の「大内実記」以後、三島は歌舞伎に対する情熱を次第に失い、そのエネルギーを新劇に振り向けることで・その渇を癒したと吉之助は想像します。それは例えば文学座創立20周年記念公演のために書かれた「鹿鳴館」(昭和31年11月初演・主役の影山伯爵夫人朝子を演じたのは杉村春子)です。あるいは「サド侯爵夫人」は昭和35年11月初演・主役のルネを演じたのは丹阿弥谷津子)です。どちらも新劇として書かれているけれども、どこか様式的な歌舞伎の感触を持つ作品です。新劇役者の方がそのような古臭い匂いに何かしらの新鮮さを感じて飛びつく。少なくとも新劇役者は作品に対して素直に取り組む・素直に作品を考えようとするということだったのかも知れません。
三島:「新しいのは新劇で結構だ。(笑)」
郡司:「それは名言だ。」
三島:「ところが歌舞伎役者は洋食を食うのが好きで、踊りの先生はゴルフをやるのが好きだし、新劇の役者は、このごろ能・狂言を見に行くのが好きでね。」
杉山:「小唄もあるよ。」
郡司:」「歌舞伎役者が新しいことをやるよりも新劇の人が古いことをやる方がまっとうかな。」
昭和41年(1966)11月に国立劇場が開場とまり、この時に国立劇場の方針として七つの項目が掲げられました。それは原典の重視、通し狂言中心、古典作品の復活、上演演目の選定と演出の分かり易さ、配役の適材適所、演出の統一、伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした戯曲の創作と上演、というものでした。(国立劇場の現状を見ると、その理想は何処へ?ということになるかも知れませんが、そのことは今は置く。)翌・昭和42年3月に三島は国立劇場の非常勤理事に就任しました。
三島が「椿説弓張月」で歌舞伎に戻ってくるのには、心中期するところがあったに違いありません。昭和44年に書かれた「椿説弓張月」がそれまでの三島の歌舞伎作品と異なる点は、まずひとつは松竹歌舞伎ではなく・国立劇場での上演のために書かれたものであることです。次にそれまでの作品で主役を演じてきた六代目中村歌右衛門が出ていない・つまり歌右衛門のために書かれたのではないこと。もうひとつは、これまでの一幕物ではなく・多幕物の通し狂言として書かれたことです。このことすべて国立劇場の当初理念と密接に関連します。つまり、門閥主義で・手垢にまみれた歌舞伎の演出を作品中心に戻す、そのために自分は役者のためにでなく・歌舞伎のために(自分の見たい理想の)歌舞伎を書き・これを自分の演出で上演する、歌舞伎を面白く見せる為に役者にだけまかせておけない、国立劇場に出演する役者は家の意識を捨て・演出には従ってもらわなければならないということなのです。
王の無知を嘲笑う道化
別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」でも触れましたが、三島は本読みが巧い人でした。本読みというのは、芝居稽古の最初の顔寄せの時に集まった役者の前で作者が台本を読んでみせる儀式のことです。役者になったつもりで台詞を 本格で言うものではなく、あくまで感情を込めずにサラサラと読み飛ばすべきものですが、そこは自分の書いた台本を読みわけですから・そのなかに作者の意図が微妙に反映するものです。六代目歌右衛門が次のような証言をしています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。(中略)それこそ本当に観ているようなの。本当ですよ。歌舞伎の本読みなさるのとは、ちょっと違うわ。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
三島の本読みは、「椿説弓張月・上の巻」の録音を実際に全集で耳にすることができます。 その本読みは義太夫と下座音楽も交えたものですが、役者気取りで声色をしているということではなく て、あくまで本読みです。本読みだから感情を抑えて・淡々と進めようしていますが、やはり歌舞伎好きの地は抑えきれないようで、役によ り口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものだと思います。昭和44年11月国立劇場初演の「椿説弓張月」総稽古の際に、三島はこの録音を持ち込んで、居並ぶ役者たちに向かって(正確な物言いは分かりませんが)「こんな感じで演ってくれ」ということを言ったそうです。これに役者たちが反発してしまって、その後の稽古がギクシャクし始めたのです。
三島は、国立劇場での「椿説弓張月」上演は・これまでの松竹歌舞伎と上演の考え方がまったく異なるもので、役者は家の意識を捨て・作者兼演出家である自分の考え方に全面的に従ってもらわなければならないというスタンスを全面的に打ち出した のです。ところが、これは歌舞伎役者には受け入れられませんでした。歌舞伎役者というのは、25日興行で・月が変わればまた違う演目が始まる、そのサイクルでとりあえず観られるレベルに数日で仕上げる手腕は優れているのです。役作りは個々の役者に任され、座頭格の役者が全体の流れを整理すれば・それで 済むのです。しかし、何ヶ月もかけて作品を読み込み・役を解釈し、ひとつのコンセプトのもとにアンサンブルとしての舞台をがっちり作り上げてことにはまったく不慣れなのです。
国立劇場設立当初のコンセプトのなかには、型(演出)の整理・定本となる上演を目指すということがありました。これが三島の論拠でした。いきなり「仮名手本忠臣蔵」で型の見直しをやろうとすれば、在来型を演り慣れた役者の抵抗が大きいことは必至です。新作である「椿説弓張月」ならば前例(型)はないわけだし、演出は作者である三島自身が行なうのだから大丈夫 だと、三島は踏んだのかも知れません。しかし、実際には役者の反発は想像以上に大きかったのです。
『(三代目)市川猿之助さんがある日こういった。三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ。でも三島さんが国立劇場でやった「椿説弓張月」 には出演してたんでしょう、とぼくはきいた。うん、でてましたよ、猿之助さんはかすかな微笑をうかべていった。その微笑みは、まるで王の無知を嘲笑う道化、といった明るささえただよわせていた。ぼくは「椿説弓張月」の猿之助さんの熱演をおもいだしながら、芸能する者が文学を至上のものとする者にたいしていだく、これは生理的な報復なのだと思わずにはいられなかった。』(蜷川幸雄:「道化と王」〜「卒塔婆小町・弱法師」演出メモより〜「蜷川幸雄・Note1969−2001」に所収・河出書房新社)
三島は「椿説弓張月」演出に相当てこずったようです。「椿説弓張月」での失敗が三島の自決の遠因になったと分析する研究者さえあるほどです。まあそれはないだろうと吉之助は思いますけれども、三島がかなり落ち込んだことは事実です。評論家古林尚との生涯最後の対談でも「椿説弓張月」演出について「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。
それにしても、作家が歌舞伎に夢見たものの芸術的なレベルがどうかということは確かにあるでしょうが、原作者・演出家がそのアイデアを具現化しようと悪戦苦闘している時に、作家(あるいは演出家)に対する尊敬を忘れて、役者がせせら笑って・言う事を聞かないで・自分勝手なことをし始めるのでは、お話しにならないのではないでしょうかね。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうやったら歌舞伎になるんだよ、そんなことも知らないのかよ」というわけです。そういうのは役者の態度として良ろしいものでしょうか。「椿説弓張月」稽古で起こったことはそういうことなのです。
「おそろしかりける」の響きが重要なのだ
武智鉄二は、女形の台詞の末尾の「・・・じゃわいなあ」という修飾が大嫌いな人でした。「・・・じゃわいなあ」という箇所で台詞の息が抜けると云うのです。武智は 昭和30年に「近代能楽集」の「綾の鼓」を演出した時のことを、次のように回想しています。
『例を挙げると「綾の鼓」の後の場で、華子が言う待ち謡(別段待ち謡として書かれたものではないけれど、しかし、能楽的ドラマツルギーのなかで、それは必然的に待ち謡の形式を捉えていた)の文句、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」を、謡のフシをつけて謡ってみると、それがいかにも冗長で冗漫な感じが、私にはしてきたのであった。つまり、それは接尾語だけが余分だという感じであった。謡の文句としては、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分なのであった。「わ」とか「よ」とかという言葉が、謡独特のフレージングをつけたユリブシで長く引き伸ばされて謡われる時、現代語の空虚が、伝統芸術という祖先の声によって、厳しく批判され、非難されているという気が強く実感として、私に起こったのであった。』(武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」・昭和46年)
台詞の核心にビラビラした装飾的な尾ひれが付く感覚が、武智は嫌なのです。武智はこの台詞は、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分だと言います。能においては台詞の核心をシンプルに提示すれば良いわけで、これで台詞の意味は通るからです。「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」というと、武智の言う通り、どこか装飾的で余計なもの を感じます。この装飾的な尾ひれには、恐らくいわゆる女性らしさとか・媚びであるとか・あるいはその役の生活感とか、いろんなものが絡みついています。武智は、そういうものを余計なものだと します。素材としてシンプルに女性を提示出来れば、それで良いはずだと武智は考えます。吉之助は弟子を自認するくらいですから武智の言いたいことはもちろん良く分かります が、歌舞伎の女形の場合には、吉之助は師匠とは若干違うことを考えています。
武智の言うことを逆に取るならば、次のようなことが考えられます。「・・・じゃわいなあ」というのは歌舞伎の女形の常套の修飾ですが、いわゆる女性らしさとか・ 女くささ、あるいは女性の媚びやしなり、あるいは役の生活臭とか、そのようなものを表現するために、歌舞伎の女形は「・・・じゃわいなあ」という修飾を必要としたということです。歌舞伎の女形は、能のような象徴性にとどまっているわけに行きません。もっと具象的で生(なま)に近い女性を提示せねばならないのですから、素材としてシンプルに女性を提示出来ればそれで十分というわけに は行かないのです。しかも、女形は男性が女性を演じるという嘘が前提になっていますから、その齟齬を覆い隠すための修飾が必要になってくるのです。つまり、「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものだということになります。このことは歌舞伎の本質にも深く結び付いてきます。
三島と武智との対談「現代歌舞伎への絶縁状」のなかで、武智が「今の歌舞伎には「じゃわい」とか、「わいな」とか、そういうものがいっぱいついている」といつもの自説を披露しますが、対する三島の方は、「あなたは昔からきらいですね、ああいうのが・・」と力なく応えています。この対談が行われたのは昭和45年7月9日 (つまり自決の少し前のことですが)のことで、その前年の国立劇場での「椿説弓張月」初演で三島がかなり自信喪失したらしいことが察せられます。しかし、本来ならこの場で三島はこんな風に反論しても良かったはずです。
『歌舞伎劇を歌舞伎様式で書くことが何か実験的なことであるとは、日本的近代のふしぎな現象である。歌舞伎は楽劇である。伴奏音楽にはもちろん、セリフにも音楽性が要求され、殊に浄瑠璃の入る場面では、情景描写も心理も音楽の助けを借りて構成される。ところでその音楽は、伝来の日本楽器であって、西洋音楽とは成り立ちがまるで違う。その旋律自体が、古文の、それもきわめて特殊な文体にのみ完全に調和するようにできている。ナマな現代語が一語入っても、音楽は崩れ去る。舞台のハーモニーは消失する。「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。むかしの浄瑠璃作者や歌舞伎作者は、そんなことはみん なカンで知っていた。俗語を使っても、俗語が様式とどこまで馴染むかは、職人のカンでよく分かっていた。現代のわれわれはそうは行かない。擬古文を書くこと自体が、ディレッタンティズムであり、一定の知的教養の所産である。こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
ここで三島は、文体には「おそろしかりける」はあくまで「おそろしかりける」でなくてはならず・「おそろしき」では駄目な場合がある、だからこの箇所は「おそろしかりける」と自分は意識して書くのだと宣言しているのです。
武智の「近代能楽集・綾の鼓」批判を先に出しましたから・吉之助の考えを言えば、これは我が師匠に対する反論になりますが、三島はこの芝居では「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」では駄目だと感じたに違いないと、吉之助は思うのです。三島には「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」でなくてはならない 何かがあったはずです。「来ましたわ」 を繰り返すそのリズム、「からよ・・」という響きが重要であったに違いないのです。もし本当に三島が現代語を使って能様式の芝居を書くつもりであったのなら、もちろん三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」と簡潔に書いたでしょう。三島がそう書かなかったということは、三島には 現代風俗や現代語を使って能様式で芝居を書くという意図はなかった、「近代能楽集」というタイトルにそのような意図は込められてなかったということであろうと理解しています。 世阿弥が現代に生きていればこんな現代劇を書いたかなという遊び心であろうと思います。この点を多くの文学者・演劇関係者が誤解していると思いますねえ。 三島のほどの天才ならば、書こうと思えば簡潔な台詞くらい簡単に書けたはずです。敢えてそれをしないところに三島の意図があるのです。
「近代能楽集」と「椿説弓張月」の創作態度は、その方向がまったく異なります。「近代能楽集」は現代語・現代風俗で能の題材を芝居に仕立てるということです。「椿説弓張月」は、曲亭馬琴の原作を材料に現代の作家が現代の感覚を加えて擬古文で歌舞伎にするということです。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』
それでは「椿説弓張月」歌舞伎化に際して、三島はどんな夢をその文体に託したのでありましょうか。以後にこのことを考えていきます。
三島歌舞伎の言葉の過剰性
三島由紀夫の小説・戯曲については、言葉が装飾的でキラキラして・細工物のように精緻であるけれども・そういう作為的なところが好きじゃないという方は結構いらっしゃると思います。逆に吉之助はそこが好きなのですがね。このことは別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」で触れました。三島文学の言葉の過剰性というものは、ちょうどモーツアルトが存命中に・当時の聴衆から「モーツアルトの音楽は音符が多過ぎて、うるさい」と言われたのと同じようなものです。現代のわれわれから見れば、モーツアルトの音楽は耳に心地良いロココ調で 、「うるさい」などと夢にも感じないでしょうが、モーツアルトの音楽の過剰性は当時の保守的な聴衆(それは当時の王侯貴族たちでしたが)をイライラさせた前衛性であったということです。そのためにモーツアルトは有力なパトロンが得られず、生活苦で若くして死にました。吉之助は、三島文学の言葉の過剰性を前衛性として捉えて行きたいのです。とりあえず「近代能楽集」について考えてみます。三島由紀夫はこう言っています。
『「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の言葉から考えられることは、(これは畏れ多くも我が師匠武智への反論になりますが)明らかに三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」という響きではなく、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」の響き(あるいはリズム)を必要としたということなのです。どこに「近代能楽集」の前衛性があるのでしょうか。それはまさに武智が指摘している「いかにも冗長で冗漫・接尾語だけが余分」というところにあるのです。日本語の接尾語には、いろいろな余分なイメージが付きまといます。そこから身分とか・性別とか、あるいは生活の匂い・感情の微妙な綾などが醸し出されます。そのような余分なビラビラした言葉が引きずっているイメージ、これをキラキラした言葉の機関銃に仕立てること、これこそが「近代能楽集」の前衛性となるものです。つまり、ダダダ・・と打ち出されるリズムの煌めきのなかに、接尾語があるのです。(その前衛性は鈴木忠志演出SCOTの「サド 侯爵夫人」の舞台によく出ていたと思います。別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」を参照ください。)
同様に三島歌舞伎「椿説弓張月」にも言葉の過剰性があるわけですが、そこでは発想ベクトルが逆になってきます。現代劇では機関銃のようにダダダ・・と出ていた言葉が、三島歌舞伎では逆となるのです。つまり、接尾語が伸びていくのです。「・・・じゃわいなあ」が伸びていくのです。そこに三島歌舞伎の前衛性があるのです。六代目歌右衛門がこう証言しています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
いわゆる新歌舞伎というものは、座付作者ではない・外部の文学者が歌舞伎を書いたもので、その多くが、綺堂にしても青果にしても、現代語のタッチで書かれたものでした。ほとんど三島のみが擬古文調で歌舞伎を書きました。擬古文調で歌舞伎を書くことが、少年時代から歌舞伎好きであった三島の回顧趣味か(それはある意味事実ですが)、教養趣味か・はたまた時代錯誤の産物であったかのように世間では思われていますが、それは間違いなのです。三島自身がそれは「実験」だとはっきり書いています。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』 (三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
前項で『「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものということになる、これは歌舞伎の本質にも深く結び付く』ということを書きました。実は、これは塩梅がとても難しいところです。「・・・じゃわいなあ」が歌舞伎の本質だと言いながら、実は吉之助も、師匠武智と同じく、「・・・じゃわいなあ」が好きではありません。それはちょっと塩梅を間違えると、吉之助の大嫌いな、いわゆる「歌舞伎らしさ」の方に墜ちていくのです。歌舞伎臭い・ダラ〜ッとした定型演技に墜ちていく。しかし、それが歌舞伎の本質に深く結び付いていることも、また確かなのです。ですから本稿冒頭に引いた利倉先生の発言がここで大事になって来ます。
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
つまり、歌舞伎役者が昔の本を持ってきても昔の芝居が出来ない・その作品が初演された時のような、たった今生まれたような・洗い立てで糊の利いたワイシャツのようなパリッとした感覚で、歌舞伎役者が芝居を作れないということです。実は、そこが現代の歌舞伎役者の問題なのです。(昭和30年代には歌舞伎批評でもそのような議論があったわけですね。これは今の感覚だと、ちょっと驚きではありませんか? )下手をすると、いかにも使い古して・ちょっと饐(す)えた匂いのする衣服のような・間延びした感覚の芝居になってしまうのです。真新しい陶器に古色を施して、江戸時代の贋作に仕立てるようなものです。それでは困る。歌舞伎役者には、本物の江戸を再現してもらいたいわけです。ですから「・・・じゃわいなあ」は伸びても良いけれども、伸び過ぎちゃあいけないということになるでしょう。 (正確には息遣いと云うか・フレージングが問題なのですが、本論ではそこまで深入りしない。)そこから三島歌舞伎の言語の過剰性の、前衛的な要素が浮かび上来ることにな ります。それじゃあ、そこをどうするか。その塩梅が難しいところです。
三島が竹本付きで「椿説弓張月・上の巻」を本読みして録音したのは昭和44年8月下旬(東京・杉並公会堂)で、これは「椿説弓張月」初演(昭和44年11月国立劇場)の2か月前のことでした。芝居好きの三島だけに役により口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものですが、キリッと引き締まった密度の高い出来とまで行っていないのは確かです。細部を丁寧に描写しようとして、間延びしているところが結構あります。まあこれは素人だから仕方ないことではあります。しかし、そこを割り引いて聴くならば、 一生懸命さのなかに三島が歌舞伎に求める「昔の芝居」のイメージが垣間見えては来ないでしょうか。「昔の芝居」のイメージを想像しながら、そこの塩梅をどうするかということを、考えながら 録音を聴かねばなりません。洗い立てで糊の利いた ワイシャツのようなパリッとした感覚に出来るか、饐えた匂いの使い古しの衣服の感覚に墜ちるか、実はそれはほんのちょっとの差なのです。
あらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマ
三島の「椿説弓張月」は、それまでの三島の歌舞伎作品が一幕物であるのに対し、多幕物であるということも、その特徴です。これは曲亭馬琴の長編小説の劇化ですから、筋を追って、主たる場面・面白い山場をピックアップして劇化していくならば 、自ずと多幕物となるということは 、もちろんあります。ところで多幕形式の芝居というものの・多幕たる意味は、どこにあるのでしょうか。この点については「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェりズモ」で触れましたが、古典悲劇においては英雄が破滅していく過程を因果論的に論理的に積み上げていく、そのために多幕形式が必要 となるのです。そうすることで主人公が悲劇的状況に陥ることを「然るべき・やむを得ないことだ」と観客は納得することができるわけです。そう考えるならば、三島の歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることが分か ります。
それは歌舞伎「椿説弓張月」では、主人公源為朝はある状況において悲劇に落とされるという・その過程を描いているのではなく、為朝は芝居の最初から悲劇の主人公として「在る」ということです。歌舞伎「椿説弓張月」の上の巻は伊豆国大嶋の場であって、保元の乱で負けて、伊豆大嶋に流された流人となって 以降の為朝を描いています。三島は、馬琴の小説の前半部分、そこは歴史物語「保元物語」に取材し・多少の誇張はあっても大筋において史実に乗っ取った部分であるわけですが、その部分をばっさりカットしてしてしまいました。
為朝は強弓において無双の豪の者とされ、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称しました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦しま した。この時、為朝は敵陣に夜討ちをかけることを進言しますが、左大臣・藤原頼長に退けられました。ところが逆に敵方が夜討ちをかけてきて、そのために崇徳上皇方は敗退してしまいます。つまり為朝の進言が入れられていれば崇徳上皇方は勝ったかも知れないわけで、こうして為朝に「あともうちょっとのところで勝利が実現するというところで、勝利がスルリと逃げてしまう」悲運の武将のイメージが出来上がります。史実の為朝は、配所の大嶋において国司の命に従わず伊豆諸島を支配しようとしたため、追討を受けて自害したとされています。しかし、民衆はその死を惜しんで、実は為朝は追討を逃れて現在の沖縄に渡って・為朝の子が琉球王家の始祖舜天となったという伝説がいつしか生まれま した。馬琴の小説の後半部分は、この大嶋以後の為朝伝説を基にして馬琴一流の空想を展開したものです。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の歌舞伎「椿説弓張月」は、馬琴の小説の・大嶋以後の為朝を取り上げています。つまり、馬琴の小説の前半部分をバッサリ切り落とすことで、為朝の英雄たる描写をほとんど捨てています。三島は、主人公為朝の悲劇のドラマを描いているのではなく、主人公為朝の・悲運たる有様、夢は描いても決して実現はされない、夢が実現するかと思った瞬間にスルリと彼の手から逃げてしまう」という悲運の状況だけを描いているのです。
つまり、歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることになります。 このことは歌舞伎の時代物として見た場合、腹にグッと来る悲劇の重みを実感させてくれないということになります。 序幕は院本風の重々しい体裁を取ってはいますが、極論すれば、そこにドラマがないのです。もちろん三島ほどの天才が、このことを分からないはずがありません。分かっているから、三島はこの作品を見せ場の連続にしようとしました。三島の言を引きます。
『上の巻は、ギュウギュウ詰めにできたいわば「悲劇の缶詰」である。中の巻は、これに反して、一場一場に見せ場を設け、白峰の場の亡霊出現にはわざとプリミティヴなトリックを用い、又、木原山中山塞の場では、大嶋配流以前の武藤太処刑のエピソードをここへもってきて、馬琴らしいグロテスク趣味を横溢させ、さらに颱風のシーンでは、文楽語りによるスぺクタキュラーな場面を拵えた。下の巻では、夫婦宿の場で再び沈滞して、わざと古くさい、やりきれないほどねちっこいモドリの場面を描き、故意に「ト書き浄瑠璃」くさい浄瑠璃の文句を書き、一転して大詰では、澄んだ詩情を示して、為朝の清爽な人格を際立たせようと試みた。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
しかし、たとえ見せ場があったとしても、見せ場が見せ場としてぽっかり浮かんだままで、それが悲劇の結末へ向かって繋がっていかないのです。 それぞれの見せ場が、乖離しています。見せ場が見せ場として機能せず、空虚さを漂わせることになります。これについては、三島との対談で作家石川淳が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」と率直かつ正直な感想を述べています 。(三島由紀夫・石川淳対談「破裂のために集中する」・昭和45年) これはまったくその通りなのです。ただしそれは役者の責任でもありますが、確かに脚本のせいに違いないのです。これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは。」と力がない返事をしています。
それでは三島の歌舞伎「椿説弓張月」は失敗作なのでしょうか。吉之助は、そのようには考えません。歌舞伎「椿説弓張月」は、あらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマだと云うべきなのです。吉之助は、そこに三島の歌舞伎「椿説弓張月」の前衛性を見ます。それゆえ歌舞伎「椿説弓張月」は、あらゆる見せ場を取り込んで膨張して行きます。これは形式的な面から見たところの、過剰性だということです。実は、そこに歌舞伎「椿説弓張月」の現代性があるのです。擬古典形式をとっており ・時代錯誤の作品に思えるかもしれませんが、実はそこが昭和の新歌舞伎たる所以です。(このことはクラシック音楽における古典形式の完成形であるはずだった交響曲が、 その後、合唱を取り込んだり(例:ベートーヴェンの第九番「合唱」)、協奏曲風になったり(例:ベルリオーズの「イタリアのハロルド」・ラロのスペイン交響曲)、 オラトリオ的要素を取り込んだり(例:マーラーの第8番「一千人の交響曲」)して変容していくことにも似ています。)
三島ほどの天才の仕事です。歌舞伎「椿説弓張月」をあらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマであるとして、見せ場が乖離した空虚な作品に意図的に仕立てたと、吉之助は考えているのです。このことは、三島作品として見た場合に、どういうことを意味するでしょうか。再び三島の言うことを引いてみます。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを言えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完」の英雄のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・・・』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
「あらゆる戯曲が告白を内包している」ならば、心情的に為朝が当時の三島の気持ちと重なることは明らかです。
『われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。』(三島由紀夫:「激」・昭和45年11月25日)
昭和45年11月25日の三島の自決の時、吉之助は中学生でしたが、当時の報道は鮮明に記憶しています。吉之助には三島の目的はよく分からぬけれども、恐らく三島はその演説を聞いて自衛隊が立つなどということは まったく期待していなかったと思います。三島の考えていたことはむしろその逆で、三島は「その期待はつねに裏切られ、 つねに挫折し、そのたび機会を奪われる」と思っていたと思います。歌舞伎「椿説弓張月」を読めば、吉之助には、そのように思われます。
「椿説弓張月」幕切れについて
歌舞伎「椿説弓張月」最後の場面は、運天海浜宵宮の場となっています。すでに平家一門は西海に没し、為朝は「君父の仇亡びては、われ亦誰を仇として討つべき・・」と嘆きます。 自らの手で崇徳院と父為義の仇・平家を討つという為朝の悲願は機会を失して、またも実現されなかったのです。こうなっては為朝の残る願いは、崇徳院の御陵に詣で腹掻き切って死ぬことだけ しかない。為朝が祈ると、にわかに沖に白波が立って白馬が現れます。為朝は「これぞまさしく白峯よりお迎えの神馬と極まったり」と喜んで、神馬にまたがって、「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」と一同に別れを告げて去っていきます。
これが歌舞伎の最終場面ですが、聞くところでは三島には、神馬にまたがった為朝が馬ごと宙乗りをするというアイデアがあったそうです。ちなみに三代目猿之助(現・二代目猿翁)が「 四の切」の狐忠信で初の宙乗りを行ったのが昭和43年(1968)4月国立劇場のことでした。多分、三島の思い描いたアイデアは、花道上客席をはるかに飛ぶのではなくて、舞台上を横に飛ぶという形 ではなかったかなと思いますが、馬ごとワイヤーで釣り上げるということは、当時は技術的な問題があって実現出来なかったようです。神馬にまたがった為朝の宙乗りは、その後、平成14年(2002)12月歌舞伎座での猿之助の為朝によって実現されました。 神馬にまたがった猿之助の為朝は、花道上を高く舞い上がってはるか三階客席へ消えました。
ところで吉之助が見たこの時の猿之助の為朝の印象ですが、最後の場面の宙乗りは如何にも猿之助歌舞伎らしい明るい幕切れでありましたねえ。客席は拍手喝采。きっと猿之助の為朝は新たな冒険を求めて新天地を目指して飛翔するのでありましょう。 「信ずれば必ず夢はかなう」というスーパー歌舞伎「新・三国志」での孔明の台詞を思い出しました。この時の雑誌に、スペクタクル性をふんだんに取り入れた三島の「椿説弓張月」がその後の猿之助のスーパー歌舞伎の出発点 であったと感激した劇評が出たようです。まああの幕切れならば、そういうご感想が出るのも分からなくはないです。しかし、「三島さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」と薄ら笑いを浮かべていた猿之助のスーパー歌舞伎の原点が三島の「椿説弓張月」だったとするならば、これはずいぶん面妖なことではありませんか。
吉之助は、猿之助は三島の「椿説弓張月」の最終場面の意味を百八十度変えてしまったと思います。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうすればもっと面白い歌舞伎に出来るんだよ」と言って中身を作り変えてしまったのです。昭和44年11月国立劇場での初演の時、中の巻・薩摩海上の場で・海に投げ出された高間夫婦が大岩に辿り着き・そこで壮絶な自害を遂げます。猿之助が演じる高間太郎は腹に大量の血糊を入れた袋を巻き付けて・刀を刺すと・そこから血がピューピューと吹き出して、この場面は当時の週刊誌でも「ハラキリ決定版」などの見出し付きで話題となりました。しかし、この場面については、寺山修司との対談で三島は、「あれは猿之助の工夫で、ぼくは、あんなに血を出す気はなかった」と語っています。(寺山修二・三島由紀夫対談:「エロスは抵抗の拠点になりえるか」・昭和45年7月)結局、猿之助はこの作品の表面的なスペクタクル性のみを受け入れて、三島を理解することはなかったと思います。三島が為朝について書いている次の文章を見てください。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
曲亭馬琴の原作「椿説弓張月」残篇巻之五には、神馬に乗って去った為朝の後日談が記されています。讃岐国白峯の崇徳院の御陵を守る護衛が腹を十文字に掻き切った武士が御廟の柱に身を寄せて息切れているのを発見します。国の守護がその鑑定に向かいますが、従者のひとりが死人の面を見て、「怪しやこの者の面影は筑紫の御曹司(為朝)に似たり」と言います。これを聞いて皆はどっと笑い、「為朝はその昔大嶋で 自害したはずだ・どうせこれは平家の残党だろう」と言って誰も信じません。その後、かの死骸は忽然と消え失せて、行方がまるで分らなくなってしまい、人々はこれは狐狸の仕業で はないかと噂したとあります。
このエピローグが述べているところは 、スーパー歌舞伎の「信ずれば必ず夢はかなう」という宙乗りとは、まったく似て非なるものではないでしょうか。ここには絶対の孤独があります。吉之助は、「椿説弓張月」最後の場面の宙乗りには、「孤忠」が凝縮されなければならないと思います。幸運は決して為朝に巡って来ることはない。願望は実現することはなく、決して報われることはない。しかし、為朝は決して絶望しているのではありません。それでもおのれの信じるところに向かって進んでいくという気持ちを持っているということです。為朝にとっては、腹を掻き切るという行為でさえ、自己の信念を貫く前向きな行為です。死んでなお一層激しく生きるということです。それは悲しいまでに孤独で、身体にツーンと来るほど冷たい感触なのだけれど、失ってしまってはならない大切なものがそこにあるような気がする、そのようなものなのです。「椿説弓張月」では崇徳院・あるいは父為義への思いが繰り返し何度も語られますけれども、ここでの「孤忠」というものを、封建概念的な忠義という風に読むことは適切ではありません。それは自分の信じるものに対する忠であるという風に捉えた方がよろしいのです。そのように考えれば、それはまさに吉之助が云うところの「かぶき的心情」であることが明らかなのです。かぶき的心情があるのならば、それは確かに歌舞伎です。
ところで、幕切れの為朝の「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」という台詞は、馬琴の原作の同場面にはないもので、これは三島の創作です。「月」というキーワードは、当時の三島が並行して取り組んでいた 遺作「豊穣の海」・四部作の題名にもあるものです。「月」というところに何か共通したイメージがあることが想像されます。これは別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」で触れたことですが、改めて記しておきたいと思います。
「豊饒の海」という題名については、月にある窪地の名前から付けたということを、三島自身が書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴している、それが小説「豊饒の海」の主題であると書いている評論が 実に多くて、これがほぼ定説となっているようです。しかし、そのように考える方々は、石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が、視点を変えれば(つまり遠くから見る人が見るならば)、それはやはり豊かな生命の海であるという「 真実」をお分かりではないのです。 そのように読んでしまうと、「豊饒の海」の最終場面の意味が全然変わってしまうと思います。 三島は「月」を不毛の象徴として見てはいないという証拠を挙げておきます。
『こうした濃紺の夏富士をみるときに、本多は自分一人でたのしむ小さな戯れを発見した。それは夏のさなかに真冬の富士を見るという秘法である。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、目の残像は真白になって、一瞬、白無垢の富士が青空に浮かぶのである。いつとはなしにこの幻を現ずる法を会得してから、本多は富士は二つあるのだと信じるようになった。夏富士のかたわらには、いつも冬の富士が。現象のかたわらには、いつも純白の本質が。』(「豊饒の海」・第3巻・「暁の寺」)
三島が言いたいことは、そこに豊かな生命の海があると信じるからこそ、我々は月を憧れ続けることが出来るということなので す。たとえもしかしてそれが不毛の地であったとしてもです。 逆に歌舞伎「椿説弓張月」の幕切れにおいては、為朝の思いは「信ずれば必ず夢はかなう」というような明るい様相を呈することは決してないのです。そこには常に暗さが漂っている。「たとえそれが虚しいことであったとしても・・・」という悲壮感が漂っていなければなりません。そうでなければ三島作品には決してなりません。
歌舞伎「椿説弓張月」のスペクタクル性というものは、形式上から見たところの過剰性であるということを先に書きました。それは空虚さ・不毛さを象徴しています。石川淳が指摘している通り、「芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」というようなものです。ドラマ性と結び付かなければ、スペクタクルというものは、そういうことになるのです。三島ほどの天才がそういうことが分かっていないはずはない。だから意図的にそういる振りをしていることになるでしょう。ですから作品が呈する感触は直截的にはそんなところにあるのだけれど、読み手はそのような空虚さ・不毛さのなかから豊饒さを引き出して読まねばなりません。それでないと作品を読んだことにはならないのです。舞台では決して実現されることはないでしょうが(多分それが可能なのは映像においてのみでしょう)、白馬に乗った為朝は弓張月の方向へ向かって飛んで行き、やがて点となって消えていく、そのようなイメージが正しかろうと思います。そして、 その思いは三島自身の最後の「激」においても、多分、同じことなのだろうと思っています。 
 
「天人五衰」 三島由紀夫

 

1 自決についての政治的評価
三島由紀夫の「豊饒の海」は、昭和四十五年十一月二十五日に書き上がるが、同じ日に三島は自衛隊にクーデターを呼びかけ、「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる」と「憲法に体をぶつけて」切腹して果 てた。
三島自決は唐突奇異の感をもって迎えられ、「三島狂せるか」と思わしめた。三島についての政治的評価は全く否定的である。
「三島の行動は民主主義に反する」という新聞の社説的見解が定着し、自決は不毛で無害なものに風化してしまったように思われる。
死後十年の余になって、彼の檄文を読んでみると、彼の行動に対する民主主義的全面 否定は全く無意味の事であり、三島は議会制民主主義の根幹である「日本国憲法」に問題を提起しているのである。この点について世間は、「楯の会」会長という彼の仮面 にまどわされて、その行動の小児性を軽蔑し去っているが、憲法九条に擬された白刃の光芒を私は見、戦慄を憶える。この日私は、檄のコピーを入手することができたので、不可解なる三島自決を理解しようと試みたのである。
三島の理論は歯の浮くようなもので、「自らを否定する憲法を守れ」などという屈辱的命令に憤慨し、「真の日本の自主的軍隊たるために共に起ち、共に死のう」というのである。自衛隊の体質は、四年間(学生は三年)「隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育」を受けた三島は熟知していたはずである。「『生ぬ るい現代日本で、凛烈の気を吸収できる唯一の場所』である自衛隊を愛するが故に、この挙に出た」というのは、彼が反省しているように「強弁」であろう。慎重な三島にして、昭和四十四年十月二十一日の総理訪米の日付を、二枚目では昭和四十五年十月二十一日とあやまっている。三島はよほど死に急いでいた。「死に場所、死ぬ 日」を求めていたといわざるを得ない。冷静に彼の檄文を読めば、かかる方法、かかる作戦によっては、自衛隊はその体質からしても、決起することはありえないことを承知の上で、「真の武士として死ぬ ために、切腹してみせた」のである。
これは「愚挙」であり「犬死に」といわざるを得ないが、「葉隠」によれば「武士に犬死にといふものはなきものなり。武士道とは死ぬ ことと見つけたり」とあるから、三島は武士道を実践したのである。まさしく、それは、「一片の打算なき」死である。日本国憲法と民主主義に対する抗議である。とすれば、民主主義的打算に立つ政治的評価は色を失うにいたるだろう。
三島は、七年制高校である学習院を、戦時の短縮のため高等科二年で東京帝大法科に入学し、そのため普通 より二年早く、最後の高等文官試験に合格し、大蔵官僚となった。戦争下の強烈なエリート教育だけを受け、しかも恩賜の時計までいただいたということは、全く不幸なことであったといわざるを得ない。彼の大義は「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことに集約し、この視点から、「核停条約は五・五・三の不平等条約の再現であり、自衛隊は真の自主的軍隊として、本土の防衛責任を自覚せねば、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵と化するであろう」と予言するのである。  戦後の民主主義教育を受けた自衛官達に、この理論の高踏性が理解されることはないであろう。まして、一場の演説で、銃をとって国会へ行動をおこすことはありえない。二・二六事件の時代とは国軍のあり方が異なるのである。三島はそのことは承知の上である。まさにその国軍のシビル・コントロールのあり方を正すために、彼は自決する。  私は戦後、大蔵省につとめた三島に逢ったことがある。国民貯蓄課というところで、木造のガタガタ倉庫の如き建物の二階で、彼は郵便貯金の取締り係をやっていた。
大蔵省というと、霞ヶ関の厳めしい建物を思い起すが、それは何たる思い違いであろう。
「大蔵省というところはね。昨日煙草を一本借りたというので、今日は一本の煙草をうやうやしく返してくれるところだよ。」  とモーパサンの小説に見るような小役人の小市民性を笑っていたが、彼が文学のデーモンなどにとりつかれず、次官クラスになって、郵貯戦争で大衆に味方してくれる図を思いえがくのだが、それこそ彼の本来の大義「本位 」というものではなかったろうか。  公務員法は、暴力を以て時の政府を倒したり、煽動したりすることを禁じているので、彼は公務員をやめたら参議院全国区から立候補して、与党の大物になったかと思う。こういう具体的実現性をもった場合の改憲論は、切腹的方法よりはよほど戦慄に値する。
日本国が、外国の軍隊によって、侵寇されないという保証はどこにもない。朝鮮動乱を想起してみるならば、決起の如き南下軍は、壱岐・対馬・九州にまでせまるかと思われた。  非武装憲法を逆手にとって、時の政府は事なきを得たが、あの時点で、米軍特需に応ずるということは事実上の戦争であった。ベトナム戦争に巻き込まれたとすれば、日本は破局に立ったかもしれぬ と思う。
三島は憲法を改正して、自主的国軍の礎石たらんとするが、改憲は先のこととしても、自主的国防を必要とする時代は必ず当来するであろう。アメリカの傭兵となっては日本は生存もおぼつかない事態となる。  このあたりを恐れる三島の政治的信念を「狂」ということはできない。
三島は繁栄を謳歌する昭和四十五年に、栄華の中に腐臭を感じ、体制の根幹に白刃を擬して「天人五衰」を書いたのである。
2 「豊饒の海」の文学的評価
「豊饒の海」とは月の海の名であると三島は「春の雪」の後註に記している。月はこの小説の転生輪廻する円環の上にあって、直円錐状に、意識の隅々を照らしている。
見事な「様式」の完成であって、鴎外の「雁」以外に、これ程完璧な「様式」美を成した日本の作家を私は知らない。転生する夢の物語は、「浜松中納言物語」を典拠とすると註されているのは国文学者を悩ませてやろうという三島の策で、大古典の権威をもちだして転生輪廻する松枝清顕の話を現実化することに成功している。清顕は綾倉聡子と恋をして子を宿させるが聡子は宮家へ輿入れの話が進行する。やむなく聡子は月修寺で尼になるというプロットは浜松中納言の王朝の夢を再生して、川端康成に「古今を貫く名作、比類を絶する傑作」といわしめている。清顕は死ぬ が、その友本多繁邦は、三輪神社の剣道試合で飯沼勲を見出し、滝に打たれる飯沼少年に三つの小さな黒子があるので松枝の生まれかわりだと確信する。勲は奔馬の如く切腹して死ぬ が、暁の寺で、シャムの王女月光姫に再生する。ジン・ジャンの左乳首の左に、三つの黒子があるのを、本多は覗き見る。「浜松」では中納言と大姫の契りは、大姫が式部卿宮に嫁することになったので破れ、大姫は尼となり、中納言は、亡き父宮が唐の第三皇子に生まれ変わっているという、夢のお告げによって渡唐する。
三島の転生は「男―男―女」というように性を変えながら、それを思慕する本多(三島的人物)によって画かれてゆく。三島の転生は浜松の作者とされる菅原孝標女の夢よりも更に壮大である。私はここらに三島の間性をみるのであるが、年老いた本多は月修寺をたずねて、門跡となった聡子に逢う。八十三才の老尼は、「松江清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言う。「それなら勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも」と本多は、自己の存在も無とみる。
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据え、「それも心々ですさかい」という。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。  庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる……          
「豊饒の月」完 昭和四十五年十一月二十五日  と、こう三島は書いて「決死」の行動を起こしたのである。
三島文学の「豊饒と不毛」については、「国文学 解釈と鑑賞」(一九七八年一〇月)に長谷川和泉氏の「神話か近代小説か」があり、長谷川氏は「天人五衰」を三島自身の「様式」の衰弱とみておられる。長谷川氏の分析によれば、「豊饒の海」各巻のキー・ワードは左のようになる。
「春の雪」 ― 「優雅」  「奔馬」 ― 「純粋」「武」  「暁の寺」 ― 「終末」  「天人五衰」 ― 「無」  そして、戯曲に於て卓抜な作品を残した三島が、戯曲を捨てた時に、様式家としての衰弱を示したものが「天人五衰」であるという。
長谷川氏の見解は『様式家が、外在的様式を充実させる緊迫、内面的充実と、創造性を喪失した場合に、内部から崩壊する危険をはらむことは当然』ということで、文学的評価もまた「不毛」であるとするのである。
佐伯彰一氏の「現代史のなかの三島由紀夫」は三島の政治性について同情的ではあるが、「神話的認識の作品化」「神話小説」であると「評伝 三島由紀夫」でのべておられる。これに対し長谷川氏は、「黒子」に転生のあかしを求めるようなおとぎ話を、すべて否定し去った老門跡に近代性に拮抗するものを見ておられる。
いずれにせよ、三島文学は五衰したと見るのであって、文学的評価もまた否定的といわざるを得ない。
3 「天人五衰」に対する宗教的唯識論的評価
「豊饒の海」は「正統的と見なさるべき神話小説であり、神話的認識の作品化」であると認めたのは佐伯彰一氏の「評伝 三島由紀夫」である。それでも佐伯は、「輪廻、魂の持続の全否定であるのか、それとも一種の解脱、個我超越の境地を暗示したものであるのか」という疑問を提起し、「最高の解脱の境地として、輪廻転生をすら一つの妄執と断じて、この途切れざる連環から解き放たれた状態を思い描くことができる」と唯識的思考構造を是認して、これは神話小説だというのである。
「春の海」に月修寺の先の門跡が、「唯式三十頌」についてのべ、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に、第七識「末那識」(自我意識)があり、そのさらに奥に阿頼耶識があり、「恒に転ずること暴流のごとし」とし、無着の「摂大乗論」(大乗を総集したもの)の時間論をのべて、阿頼耶識と染汚法が現在の一刹那に同時存在して、それが互いに因となり果 となることで、この一刹那をすぎれば双方共に無になるが、次の刹那にはまた阿頼耶識と染汚法が新たに生じ、それが交互に因となり果 となる。存在者(阿頼耶と染汚法)が刹那ごとに滅することによって、時間が成立している。時間というものは点と線のように、刹那(点)に断滅しつつ連続する。
こういう説をのべて門跡のさとりが「池を照らす天心の月のやうに」自分たちの運命を照らし出しているのに気づかなかった。  と書いている。  月は、この意味で、円環をなす輪廻の頂点に立って見事である。様式の崩壊を説く、長谷川説は当をえないというべきであろう。
しかしながら、大乗のアーラヤ識を体得した三島であるなら、何故に不毛の死を遂げたのであるか、という疑問が生ずるであろう。
一切を無と観ずる悟りに立つなら、三島の行動は何と評価すべきか。これはおかしいのではないか、と宗教的評価もまた否定的にならざるを得ない。随所にちりばめられた三島の博識も印度哲学史をもう一度聞かされるような退屈の感を覚える。
4 「天人五衰」と三島の死の意味 ― その哲学的評価
三島は、望月「仏教大辞典」によって、「天人五衰」の項を書いている。それは「天人五衰」と題された四部作の最終章、四で、本多が夢を見るところからはじまる。三保の松原を天人が群飛するところで、望月「仏教大辞典」(Vol.4 P.3815)「天人五衰」の項を引き、起世経第七、三十三天品を引いて、その身には、火、金、青、赤、白、黄、黒の光明ありとし、特に、欲界天の交会について説明する。
「欲事を成ずるに、夜魔諸天は手を執り、(手をとり合ふだけで)兜率陀天は憶念し、(お互ひに心に想ひ合ふだけで)、化楽諸天は熟視し、(見つめ合ふだけで)他化自在天は共語し、(語り合ふだけで)情を遂げることができる」。  としている。  「魔人諸天は相看て共に暢適なることを得」というところは省略しているが、これは「見つめ合ふだけ」の化楽諸天と同じようなことになってしまうからであろう。
「仏説によれば」として
「天人の男は天子の膝辺、天人の女は天女の両股の内に生じ、自ら過去の生処を知り、常に天の須陀味を食する」とあるのは同経からの孫引きで、「又その寿量 尽きんとする時、五衰の相現ず」によって、五衰の一つの「本位を楽まず」という言葉を思い出し、「ずつと昔から本位 を楽しんだおぼえのない自分が、一向に死なないのは、天人でないせゐにすぎぬ のか」と考え、「本位はいささかも五衰を怖れてはゐなかつた」と重要なことを述べている。
五種の衰相についても、増一阿含経第二十四、仏本行集経第五、摩訶摩耶経巻下、大毘婆沙論第七十の大小二種の五衰をあげて、「もつとも詳細に亘つてゐる」と、仏教大辞典「五衰」の順に引用を続ける。
小の五衰は、
  一、音声は不如意にかすれてしまふ。
  二、身は薄暮のやうな影に包まれてしまふ。
  三、肌にも水が着くやうになる。
  四、一ヶ所に低迷して、いつまでもそこを脱け出すことができない。
  五、しきりに目ばたきするにいたる。
大の五衰は、
  一、衣服先には浄くして今は穢る。(浄らかだつた衣服が垢にまみれる)
  二、華冠先には盛にして今は萎む。(頭上の華がかつては盛りであつたのが今は萎み)
  三、両腋忽然として汗を流す。(両腋窩から汗が流れ)
  四、身体にたちまち臭気を生ず。(身体にいまはしい臭気を放ち)
  五、本座に安住することを楽まず。(本座に安住することを楽しまない)
を挙げ、「小の五衰の生じてゐるあひだは、死を転ずることも全く不可能ではないが、ひとたび大の五衰が生じた上は、もはや死を避けることができない」と述べる。
三島は、遺書としてこの遺言を残していることを知る。彼は、「本座に安住することを楽しまなくなつた」ので死を避けることはできないと述べているのである。  謡曲、「羽衣」の天人は、大の五衰の一をすでに現じているというのは、北野天神縁起絵巻の五衰図によっている。「手近の写 真版で」とことわりながら、
「頭上華は悉く萎み、内的な空虚が急に水位を増して……身体と精神の一番奥底で、まだたき続けてゐた火が今消えたのである。もはや腐敗がどこかではじまつてゐる気配を嗅いだ。遠い空を染める水あさぎ色の腐敗」を三島は絵巻の五衰図に見たのである。
三島自決の動機は、「本位を楽しまなくなつた」彼自身の腐敗である。のがれ難く、それは死に至るであろう。
作家は通例、辞典を引き写しをやらぬものである。やってもわからないように韜晦するのがふつうである。にもかかわらず、手のうちをトランプのカードのように示したのは、彼が遺書のつもりで、最後の切札を示しているのである。三島は「五衰」のカードを示し、そしてあとは、サッとカードを切ってしまった。
心にくきわざであるが、「豊饒の海」は「浜松中納言物語」を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunijatis の邦訳である、などと後註する。これでもか、これでもか、と故人は五枚つづきのストレート・フラッシュをかけてくるように思える。昭和四十五年といえば、高度成長華やかな、豊饒の時代であった。三島は、この豊饒の中に、腐敗を嗅ぎとったのである。この腐臭に対して、「本位 を楽しんではゐられなかつた」のは三島の天才的直感といわねばなるまい。
5 意識と記憶の円環
私は、「豊饒の海」は三島の意識と記憶(こころ)を象徴的に画いてみせた意識小説だと想う。プルウストと同様の事を、三島は唯識論を借りて試みたものである。佐々木現順氏「仏教における時間論」は刹那の本質とその意義について、仏教における刹那(Ksana)という概念は、瞬間(Moment)と考えてよい。諸行とは events である。有部は「諸行無常にして生滅ある法」(長阿含遊行経)といい、世親は「諸有為法皆刹那滅」であるという。生・住異・滅は北伝の衆賢や南伝アビダルマ仏教の仏音によれば、インドの根本思想である輪廻転生の世界であると解釈し、仏教的刹那の構造としてこれを論理化している。
シチェルバトスコイ(大乗仏教概論)によれば、「唯識」とは唯心論的見解 Vijnana-vada ということで、小乗では限定できぬ意識(citta 心=manas 意=vijnana 識)に加えて、基本的な意識(alaya-vijnana 阿頼耶識)の存在を認め、外的世界の実在性を否定した。このヨーガ行派は二派に分れ、古派はアサンガ(無着)の流れをくみ、新派はディグナーガ(陳那)を継承する。神秘的直観にはいったヨーガ行者は、差別 を絶した純粋意識(advaya-laksanam vijnapti-matram 不二法相唯識量)の直接的認識を有していると考えられる。  かくして、小乗における因果律の理論は、大乗において変容され、実在して不滅なるブッダは神秘的直感にたよって認識せられる。
仏教は多元論から一元論へ向うのである。永遠の相の下に、輪廻は即ニルヴァナとなり、それは視角の変化によるとされている。
こういうヨーガ的神秘主義に、三島が近親感をいだいたのは、思えば三十数年の昔である。三島は稲垣足穂を「日本で唯一の天才」と認め、その「ミロク」について語ったことがある。弥勒(マイトーレア)の作とされる「瑜伽師地論」を展開したのが無着(アサンガ)の「唯識説」であるから、もともと三島はヨーガ的純粋意識に興味をもっていた。
「クナーベン・リーベ」と題する三島の未発表原稿によれば、稲垣のクナーベン・リーベは、「文体そのものが、かたい、少年のような肉感をもつ」という。
三島の自決を、政治的に、また文学的に、また宗教哲学的に、評価する時に、それぞれ否定的評価が下されること、前述の如くであるが、三島の意識の少年愛的展開とみれば、これはまことに同感、肯定せざるをえないのである。三島の間性については先に述べたが、彼は「若い時、結婚と自殺はしない」と約束したものである。自殺しそうなのは私の方であった。それにもかかわらず、三島は結婚して児をなし、遂に自殺し果 てた。
「豊饒の海」の巻頭にあらわれる滝の中の黒い犬の屍は、三島自身の屍を象徴するものである。三島の自決はまさに、黒い犬の屍のように「犬死に」である。
しかし武士道には、犬死にというものはない。武士道とは死ぬことであると葉隠は言う。切腹を報じる新聞紙上に、ころがされた三島の黒い頭部を見て、私は「春の雪」の黒犬の屍を思い出した。『これはまさしく「犬死に」を遂げたな』と思うのであった。  生命より貴いものとは何か。  三島の死は、のがれ難く死に至る昭和四十五年の、高度成長のもろもろの政治的腐臭を予感していないか。さらに最近の防衛論議の中核をも指し示してはいないか。アメリカの傭兵になるなとは、これは三島の残した決死の遺書なのである。
6  心とは何か
世親の『唯識二十論』は『世界は表象のみのものであると証明する二十詩頌』論というのが原題である。心、意、認識、表象はみな同義異語である。唯識は唯心ということで、世界はただ心の表象にすぎないと教えられる。人には自我がないと(人無我)さとり、人は、物事に実体がないこと(法無我)に悟入する。
『唯識三十論』は、三十の詩頌よりなる『唯現象識論』が原題で、ダルマパーラ(護法)の注が玄奘によってもたらされ、漢訳されて『成唯識論』として法相唯識宗の根本聖典となる。仏教来伝当時、道昭がこれを伝え、行基、良弁等の学匠が現われる。唯識では瑜伽行者の菩薩道という神秘階梯が述べられるが、これが日本人の心を深くとらえたのはなぜであろうか。
菩薩道は四段階に分れ、第一段階では、眼、耳、鼻、舌、身という物質的認識能力によって、認識される客体と、認識する主体を別 々にとらえる二種の執着が去らず、その潜在形態は滅することがない。
第二段階では、対象として実在する物自体にかかわりなく、唯、心であるにすぎないと見ても、現前に固執して、いまだその現象識を表象することを放棄していない。
第三段階では、認識される客体がないときには、その客体を認識する主体もないと知るので、知られる対象も、知るはたらきも、まったく平等で、いかなる構想もなく、衆生の世界内存在を超越した知が生ずる。主客二種の執着は放棄されて、みずからの心の存在するがままの如性の中心に心そのものがあって定まる。天人五衰の最後に、門跡がこういう心・心の無について説いている。  最高段階では、心は、認識する主体としての心がなくなり(無心)、迷いの存在根拠が転換し、新たなるさとりの存在根拠として、現成してゆくはたらき(転依)となる。解脱して自由の身になった身体は(解脱身)であり、大いなる沈黙の聖者(大牟尼)の、真理そのものと呼ばれる身体(法身)となる。
月修寺門跡は、こういう神秘体験を通してものを言っているので、あらゆる迷いの存在をあらしめる可能力をもつアーラヤ識の存在根拠を転換し、主体、客体という二種の限りなく深い迷いの有限性を知れ(無二知)というのである。心とは、「世界は観念である」と大乗仏教で説くもので、「心、意、認識、表象と、それに伴う心作用の連合」であって、「三界は心のみのものである」という時には外界の対象の存在をすべて否定するから、「のみ」というのである。
唯識は一元論的唯心論で、これはシャマンの神秘的融即(Participationmystique)に近いものがある。人間は側頭部に強い衝撃を受けると、記憶はなくなり、したがって時間の意識もなくなる。刹那の連続に痛覚だけがやって来るが、昨日痛かったということは忘れてしまう。これを軽度に実修するには、意識を眉間に集中したり、シャマンの出土例のように、側頭部を緊縛して成育し、側頭部が変形するほどの、「はちまき」を着けたりする。日本人がはちまきをするのは、記憶をやや喪失し、刹那に連続する心のはたらきにより行動するので、このはたらきを霊魂とみて不滅と考えれば宗教となり、一種の記憶喪失と考えれば心理学の問題となる。
三島にとって、心は唯識の説く神秘的認識であって、漢訳仏典の難解な壁を取去ってみれば、一元的唯心論に外ならない。三島が門跡に見たのは、永遠に母なるものへの思慕であるし、三島の行動は史的唯物論に対する刹那唯心論の最後の突撃である。
三島は「休戦ラッパの鳴り渡る、何の物音もしない世界」、を理想としていた。私も嚠喨と鳴り渡る休戦ラッパを敗戦の日、浜松の営庭できいた。三島は日本精神という「たてまえ」でなく、「本音」のところで日本人の心(意識)を描いてみせたのである。 
 
三島由紀夫 幻の遺作を読む

 

著者の井上隆史氏は三島由紀夫の遺稿を保存する山中湖文学の森三島由紀夫文学館の研究員で、「幻の遺作」とは副題に「もう一つの『豊饒の海』」とあるように、同館が収蔵する創作ノートと草稿の研究から想定された『豊饒の海』の別の結末である。
『豊饒の海』は輪廻転生の物語だが、生涯の最期をこういう作品で締めくくったからといって三島が生まれ変わりを信じていたと考える人はいないだろう。20歳で夭折しては転生する人物を主人公にすえたのは昭和の御代をまるごととらえるための大がかりな趣向であって、随所で披瀝される唯識説は趣向をもっともらしく見せるための飾りだというあたりが大方の受けとり方ではないか(わたしもそう考えていた)。
ところが本書によるとそうではないらしいのである。三島は生まれ変わりは信じていなかったにしても輪廻を救済と見なし、輪廻のメカニズムを説明する唯識説にも大真面目にとりくんでいたというのだ。
三島がはじめて輪廻に言及したのは思いのほか早く、昭和20年5月25日に執筆した「夜告げ鳥」という詩においてである。20歳の三島はこう書く。
「今何かある、輪廻への愛を避けて。
それは海底の草叢が酷烈な夏を希ふに似たが
知りたまへ わたくしを襲うた偶然ゆゑ
不当なばかりそれは正当な不倫なほど操高いのぞみだ、と
さように歌ひ、夜告げ鳥は命じた
蝶の死を死ぬことに飽け、やさしきものよ
輪廻の、身にあまる誉れのなかに
現象のやうに死ね 蝶よ」
詩は「蝶の死を死ぬこと」から訣別し輪廻を願えと呼びかけるが、ここでいう「蝶の死」とは三島が熱愛していた伊東静雄の「八月の石にすがりて」という詩を踏まえている。
伊東の詩は「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる」と蝶のはかない死を讃美し、それこそが「運命」だと歌いあげる。いかにも日本浪曼派的な悽愴美であり、処女作の「花ざかりの森」で惑溺していた世界でもあるが、20歳になった三島はそのような美に甘んじることなく、はかない美の背後に想定される永遠の輪廻にむかえと歌う。
なぜ三島は日本浪曼派の世界に訣別し、輪廻の思想にすがったのだろうか。
著者は詩の書かれた昭和20年5月25日という日付が鍵だという。入隊検査で肺浸潤と「誤診」されて出征をまぬがれた三島は神奈川県の海軍高座工廠に徴用されていたが、24日未明に自宅のあった松濤が爆撃されたと知り急遽帰宅した。その時に瓦礫と化した東京を見た衝撃が日本浪曼派的な美を色褪せさせてしまったのではないかと推定し、『暁の寺』で本多が目にする焼け野原こそその時の記憶だという。
三島にとって輪廻とは全的な破滅を「現象」として相対化してくれる永遠の視点であり、そのような視点を獲得することが救済となるというわけだ。
救済としての輪廻という思想は「夜告げ鳥」の直後に草した「二千六百五年に於ける詩論」(皇紀2605年は昭和20年)ではより一層明確に語られている。
「運命観の最高のものたる輪廻は、永遠と現存とを結ぶ環でもあるが、無数の小輪廻は個々人の裡にめぐりつゝ、相接する歯車の如く宇宙の大輪廻へと繋がります。即ち詩人は個人の小さき歯車の中でも特殊な歯車の持主といふべく、自我内の永遠から唐突が仕方で宇宙的永遠に連なる一方、この大小の永遠の間を、軽業師の身軽さと手妻使ひの気易さ、総て超自然の模倣者たる矜りを以て自由に往来するのであります。神人交通が詩人に於てほど容易になされる例はありません。詩人は輪廻を愛する人であります。」
輪廻が救済だという発想は仏教本来の考え方とは真逆である。仏教では生まれ変わり死に変わる輪廻を苦と見なし、輪廻からの脱却をはかる。解脱とはもう生まれ変わってこない状態のことである。仏教にはそもそも永遠の救済という発想はなく、阿弥陀仏に救いとってもらうのも修行のできる環境に生まれ変わって、現世でかなわなかった解脱をとげるためだ。もはや生まれ変わらず、消えてなくなることが仏教の最終目標なのである。
20歳の三島は輪廻思想を誤解していたが、戦後作家として登り坂の間は輪廻への憧憬が表面化することはなかった。事実『仮面の告白』にも『金閣寺』、『潮騒』にも輪廻は登場しない。
しかし『鏡子の家』の失敗と、それにつづく『宴のあと』裁判、深沢七郎の「風流夢譚」事件への関与、さらに文学座の分裂騒動が三島に中年の危機をもたらした。はたから見ると『からっ風野郎』で若尾文子と共演したり、ボディビルに凝って写真集『薔薇刑』を出したりと華やかな生活を送っているようだったが、実際は深刻なスランプにおちいり、三島がもともともっていた世界崩壊感覚を深刻にしたというのだ。
この危機にあたって焼趾の廃墟で20歳の時にすがった輪廻=救済という発想が甦えり、『豊饒の海』四部作の構想に発展したというのが本書の骨子である。
仏教的には輪廻が救済になるという考えは誤解以外のなにものでもないが、そもそも輪廻は救済になるのだろうか。生まれ変わり死に変わる永遠の生命などというものを持ちだしたら、今ここで生きている自分はかりそめの現象にすぎなくなり、むしろ虚無に突き落とされるのではないか。勲が清顕の生まれ変わりだと気がついた本多は「精神の氷結」から甦えるような歓びを覚えた反面、「ひとたび人間の再生の可能性がほのめかされると、この世のもつとも切実な悲しみも、たちまちそのまことらしさとみづみづしさを喪つて、枯葉のやうに落ち散るのが感じられた。……中略……それは、考へやうによつては、死よりも怖しいものであつた」と戦慄している。輪廻による救済は虚無と紙一重であり、この宙吊り状態が本多を、あるいは三島を輪廻の理論である唯識説研究に向かわせた。
唯識説は中観派の空観とならぶ大乗仏教の二大潮流の一つであるが、一切を空とする中観派に対し、現象の世界を顕現させる阿頼耶識の存在を認めており、阿頼耶識が輪廻の主体だと考える。阿頼耶識によって三島の世界崩壊感覚は解決されるはずだったが、著者が明らかにしたところによると三島が依拠した唯識説はわれわれが概説書など接することができる唯識説とはかなり違ったものである。
教理史的にいえば唯識説は説一切有部の三世実有説(荒っぽく要約すると事物は原子が仮に寄り集まったもので無常だが、原子そのものは過去・現在・未来にわたって実在するという考え方)を現在においてのみ実在すると修正した経量部から発展した思想で、心(識)の存在を現在においてはさしあたり認めており、一切を否定する中観派と鋭く対立していた。
ところがアサンガの『攝大乘論』を漢訳して最初に中国に唯識説をもたらした真諦は心がさしあたり存在するということは存在しないことと同じだとし、唯識説を中観派の空観に近く解釈していた。この立場を摂論宗という。
その後インド留学からもどった玄奘三蔵が唯識経典を新たに訳し直し、その新訳にもとづいて法相宗がたてられる。摂論宗は法相宗に圧倒され衰退したが、三島が学んだ唯識説は主流の法相宗ではなく、摂論宗の唯識説だった。
法相宗では阿頼耶識はそれ自体に悟りの種子を含んでおり、半ば汚れ半ば無垢な真妄和合識ととらえるのに対し、摂論宗では阿頼耶識はあくまで妄識にすぎず、悟りの要因は外から依りついているだけだと考える。三島は唯識説に救済を求めながら、よりによってニヒリスティックな摂論宗の立場にのめりこんでいくのである。
三島は『曉の寺』において空襲で焼死体の転がる渋谷の焼趾を前に本多にこう述懐させている。
「――これこそは今正に、本多の五感に与へられた世界だつた。戦争中、十分な貯へにたよつて、気に入つた仕事しか引受けず、もつぱら余暇を充ててきた輪廻転生の研究がこのとき本多の心には、正にかうした焼趾を顕現させるために企てられたもののやうに思ひなされた。破壊者は彼自身だつたのだ。」
『豊饒の海』の第三作で三島は救済から虚無へと舵を切った。最終作では虚無から救済へと反転し大団円を迎えるのだろうか。
大団円どころかより救いのない虚無へ落下していくことをわれわれは知っているが、著者は創作ノートを検討した結果、『天人五衰』とは別のプランが構想されていた時期があったことを明らかにした。それが副題でいうところの「もう一つの『豊饒の海』」である。
最後の章では著者はいろいろな時期の創作ノートを切り貼りし、ありえたかもしれないハッピーエンドを再構成しようとしている。ハッピーエンドで幕を閉じていれば『豊饒の海』は『失われた時を求めて』や『ユリシーズ』に匹敵する全体小説になったかもしれないというが、その構想は三島自身によって否定され、むしろ「世界崩壊の究極の形」として完結することになった。結局著者はこう結論する。
「『天人五衰』において『春の雪』にまで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。」
『天人五衰』は失敗作だと思っていたが、こういう見方もありうるわけである。今度読みかえしてみよう。 
 
宇野千代

 

1
宇野千代と聞いて、なにを想起するだろうか。
艶やかな着物姿のハイカラでモダンなおばあちゃんを、であろうか(宇野千代は着物のデザイナー、プロデューサーでもあった)。あるいは幾多の男性遍歴で名を馳せた女流作家としての彼女を、であろうか(五度の結婚歴がある)。もしくは名作「おはん」の作者であることを、であろうか(「おはん」は第五回野間文芸賞、第九回女流文学者賞を受賞した)。もし、あなたが女性ならば、晩年のベストセラー「生きて行く私」を、たちどころに思い浮かべるのかもしれない(宇野千代という女性の放つ個性と生きざまに共鳴しながらの、ひそかなる羨望とともに)。「私は去年八十四歳になって、始めてテレビに出た。それまでは、てれびに出るのが可厭(いや)であった」 八十四歳の自分の顔が、精巧なテレビカメラに堪えられるのか。何の抵抗もなくしゃべられるものなのか、ということでいつも尻込みしていたからだ。ところがNHKの仲の好い友だちに、つい、誘われて、那須の自宅でテレビに収まってしまったのである。それで尻込みがなくなったのか、こんどは前から話のあった「徹子の部屋」にも、出演することになった。すると、「忽ち、あの〈しゃべらせ上手〉の黒柳徹子の口車に乗せられて、つい、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫の誰彼と寝たことまで、しゃべって了ったのであった」 あとで黒柳徹子に大笑いされる。「あたし、あんなに、寝た寝たと、まるで昼寝でもしたように、お話になる方と、始めてお会いしましたわ」
このエピソードに添えて、「生きて行く私」に宇野千代はこう書く。「このときも私は、自分がそんなに明るい気持ちで、自分の気持ちをしゃべれたことが、やはり幸福であった。幸福は伝染する。そのときのテレビも、その私の幸福が伝染してか、〈とても面白かったわ〉と人々から言われたものであった。人間同志のつき合いは、この心の伝染、心の反射が全部である。何を好んで、不幸な気持ちの伝染、不幸な気持ちの反射を願うものがあるか。幸福は幸福を呼ぶ。幸福は自分の心にも反射するが、また、多くの人々の心にも反射する」だから花咲き爺さんならぬ花咲き婆さんに、宇野千代はなりたいのだという。
「生きて行く私」は、やがて米寿(88歳)を迎えようとする作者が、それまでの起伏に富んだ人生を振り返った自伝エッセイである。昭和57年(1982)から、ほぼ一年半にわたって毎日新聞日曜版に連載された。ここに書かれているのは、明らかに不埒(ふらち)で放埓(ほうらつ)なはずの女一代記なのであるが、それがちっともそのように映らないのはこれはどうしたことだろう。それどころか、むしろ、痛快にさえ思えてくるのである。これは告白的文章に特有の陰湿で湿潤なもの(悔恨さえも)が見当たらないせいであろうか。「私はいつでも、自分にとって愉(たの)しくないことがあると、大急ぎで、そのことを忘れるようにした。思い出さないようにした。そして、全く忘れるようになった。これが私の人生観でもあったが、ひょっとしたら私は、それほど弱虫で、臆病でもあったのか」 欠点をどうかしてプラスに転じようとするのは、誰しもが(無意識のうちにでも)試みていることではあるだろうが、これを〈忘却〉という概念で積極肯定してみせたのは宇野千代のほかに誰かいただろうか。
「世の中の凡(あら)ゆることは、この、〈忘れる〉〈思い出さない〉ということで、解決されることが多いからです」と、別の著作でも宇野千代は書いている。人生の妙諦(みょうてい)は忘れることだ。文学者として着物の事業家としても宇野千代は一流の域に達した。すべては過ぎ去ったことだから、成功をおさめた現在からふり返ってみれば、過去はそのように思いやれるのであろうか。どうもそれだけではないようである。宇野千代にとって真に自分が生きているのだと実感されるのは、己の気持ちに忠実にふるまえたときだという。世間的な規範、道徳的判断と関係なく、心のおもむくままに自然な行動がとれたときであると。「私は好んで、自分の生きている生き方を、〈鴉が空を翔ぶように〉と形容する癖がある。鴉が空を翔んでいるのを見て吃驚(びっくり)仰天する人はいない。ああ、翔んでいる、と思うだけである。何だ、あの鴉は翔んでいる。何と言う横着な鳥だろう、と思う人もいない。ただ、翔んでいる、と思うだけである。鴉の翔ぶのは生まれつきなのである。翔ぶのが性分なのである。知らぬ間に翔んでいるのである」 しかし宇野千代のこのような性情は、世の常識とされる基準とはみ出す行状を呈したのも必然の成りゆきであったか。
宇野千代は明治30年(1897)に山口県岩国市(錦帯橋で有名)に生れた。長女であるが、一歳で母親(25歳)が病死。造り酒屋の次男坊だった遊び人の父親(43歳)はその翌年、後妻リュウ(17歳)を迎え、腹違いの弟妹四男一女が生れる。「生きて行く私」の最初の章題を宇野千代は、〈よくぞ生んでくれた〉としている。肺病で死んだ生母の記憶は全くないのであるが、八十歳を過ぎてのある日、面影もない母親に突然、感謝の念が沸き起こってきたことから書きだしている。母が死んでしばらく父の生家に預けられていた千代を呼びもどして、父は言う。「今日から、これがお前のお母(かか)じゃ」。千代はリュウを実母と信じて育つ。十七歳の後妻は千代を総領娘としての扱いを示して、きちんと我が子を教育した。このことによって、五人の弟妹たちは千代を慕い、終生仲の良い兄弟となった。
十二歳で岩国高等女学校へ入学した翌年、死んだ母方の姉から実母のことを聞かされたうえ、その伯母の息子である藤村亮一(17歳)に父の命令で嫁がされる。しかしこの婚礼は十日ほどで何事もなく自然解消される。放蕩無頼ながらも妻子には厳格極まりなかった父が長い患いのあと死んだのは、その翌々年始めだった。従兄弟に嫁入りさせたのは父の死病のせいだったのか。父の死は千代をいっきに解放した。好きな文学にいっそう親しみ、文学仲間と交わる。女学校を卒業すると、実家からほど近くにある村の小学校の代用教員になった。十六歳の先生である。「七十年も昔の田舎では、小学校の教員になるのが、たった一つの、女の仕事なのであった」。千代先生は子供の能力を上手に引き出す有能な先生だった。このころ六、七人の文学仲間たちと同人雑誌を発行している。
月給は袋ごと渡してリュウに感謝されていたが、そのうち祖母(リュウの母)が見つけてくれた下宿で一人暮らしをするようになる。一人暮らしと師範学校出の新任教師佐伯が赴任してきたことによって、宇野千代の運命が大きく変転する。「最初の一瞥(いちべつ)で心を奪われた」千代は、佐伯とたまたま二組ある同じ学年を受け持ったこともあり、急速に親しくなる。やがて千代の下宿から朝帰りする佐伯の姿を村人に目撃されると、二人の仲は村中のうわさとなり、ついに千代は校長に呼ばれ諭旨免職を言い渡される。教員同士の恋愛は禁制であった。「男の方は見逃され、女の方だけが罰則をうけた」のであるが、佐伯がなんの咎(とが)めもないことに千代は安堵した。だが、二人に何の解決策もなかった。うわさを避けるために、千代の頭にふと浮かんだのが朝鮮の京城(ソウル)に行くことだった。そこで女学校時代の恩師が教師をしていたのだ。
懐いてくれていた生徒たちに最後の別れをしようと、髪を島田に結い、袴と矢絣のいでたちで登校すると、校長に挨拶さえも拒まれた。暗い中、人目をしのんでの出立の船出を見送ってくれたのはリュウだった。リュウは免職の理由も聞かなかったし、朝鮮行きにも反対はしなかった。夫のすることをただ黙って見守るしかなかったリュウは、その娘に対してもおなじ態度をとった。(「おはん」や「風の音」などの心優しい主人公の姿は、このリュウが原型になっているという)。京城に着いた千代は毎日のように長い手紙を書いた。だが佐伯からは極くたまにしか返事は来なかった。しかも最後に届いた手紙には住所は書いてなく、自分も罰をうけて山奥の学校に流された、これ以上手紙は送ってくれるな、ふたたびうわさになれば身の破滅になる、というものだった。
一読、母が病気になったとの口実をもうけて世話になった恩師に告げると、千代は即座に帰郷する。京城に来てからまだ半年と経ってはいなかった。岩国駅に降り立つと、その足で佐伯のいる村に向かった。思い焦がれる人に会うやいなや、一途な思慕は失恋に変色していた。離れた恋人の心を取り戻すことはすでに不可抗力であることを悟るしかなかった。「もし、私と同じような経緯(いくたて)で、失恋した人があるとしたら、その、どの人に向ってでも、私はこう言いたい。〈私のした通りにして下さい。決して、もう一度、雨戸を叩いたりして、男を呼んだりはしないで下さい〉」 佐伯が追い返して閉めた雨戸を、千代はもう二度と叩くことはなかったのである。最初の恋愛から学んだ人生訓は終生のものとなった。
ところが失意の千代に、新しい出会いが待っていた。弟たちを連れて氷屋に入ると、そこに(最初の、夫ともいえない)藤村亮一の母とその弟の忠とに偶然出会ったのである。忠の帽子には三本の白線が入っている。忠は京都第三高等学校の学生なのであった。忠は千代より六か月ほど年上である。それをきっかけに伯母の家に遊びに行ったりする都度、京都で下宿している忠のところへ行くことを、伯母の言動は千代に慫慂(しょうよう)しているように思えるのだった。ときどき忠からも手紙が来るようになり、冬休みの帰省途中に広島で落ち合う約束をした千代は、そのまま広島の場末の旅館で忠と一夜をともにした。「お母、そいじゃ行くけえの」「風邪をお引きなよ」。朝鮮行きの日とそっくりおなじ別れの言葉を交わして、朝まだきの船でこっそり千代は京都に向かった。忠との京都生活は「二度とはないくらいの呑気な生活であった」。従兄弟同士の結婚を正式に届け出たのは大正八年、宇野千代二十一歳のときである。宇野千代は藤村千代となった。
その二年前の大正六年、藤村忠は東京帝国大学法学部に入学し、二人の生活は東京に移っていた。忠の父親が裁判所を定年になっていたので仕送りが途絶え、忠は大学に籍を置いただけで役所につとめ、千代もさまざまな仕事に就いた。そのひとつ、本郷にあった西洋料理店のウエイトレスをしていたときの来客に、今東光、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫などがいた。なかでも「絶世の美少年」だった今東光とは、とりわけ親しくしていたようだ。(芥川龍之介の作品「葱(ねぎ)」は、今東光と宇野千代をモデルにしたものだといわれている)。また近くにあった中央公論社の瀧田樗蔭はかならず昼食に訪れていたという。このころ、千代も小遣い稼ぎをかねて懸賞小説に応募しては、ときに賞金を射止めていた。忠は大学を卒業すると、北海道拓殖銀行に就職。大正九年、新婚夫婦は東京を離れ、札幌に転居するのであったが、二人が東京に出て来たばかりのころ、とりあえず転がり込んだのは忠の兄、あの亮一の間借り先であったという。千代にとっては五、六年ぶりの再会であった。亮一は女と同棲しており、どこの学校にも通ってはいず、何をしているのか分からないような生活をしていた。こののち亮一は肺結核を患い八丈島に転地療養していた。二人が見舞いに行ったときには骨と皮だらけとなっていた亮一が死んだのは、それからまもなくであった。
札幌での新生活は安定したものであった。藤村千代は札幌で初めての冬を迎える。雪に閉ざされた夜ふと目にしたのが、「時事新報」の懸賞短篇小説の募集記事だった。年が明け、正月の新聞に応募した自分の小説「脂粉の顔」が一等に当籤していることを知る。二等に尾崎士郎、四等に横光利一の名前があった。選者は久米正雄、里見敦とある(註1)。送られてきた賞金の二百円という大金に驚く。「小説とは何と言う金の儲かるものか」。それまでの仕立て物の内職をやめ日夜小説を書きつぎ、東京のレストランで見知っていた中央公論社の瀧田樗蔭宛て(註2)に作品を送付した。だが、瀧田樗蔭からは何の音さたもない。どうなっているのか、こうなれば事情を確かめに中央公論社まで行くしかない。駅に見送りに来た夫とこれが今生の別れになるとは、思いだにもせず千代は上京したのだった。(註1・このときの選者を宇野は徳田秋声、久米正雄、菊池寛と書いている。註2・瀧田は名編集長として名高く、中央公論誌に小説が載るのは名誉であった。)
おりよく、瀧田樗蔭は社にいた。「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」 瀧田樗蔭は眼の前に積んであった、六、七冊の雑誌の一冊を千代の前に投げ出し、まるで怒ってでもいるように言った。「ここに出てますよ。原稿料も持っていきますか」「忘れもしない、それは大正十一年の四月十二日であった。中央公論の五月号に、私の小説『墓を発(あば)く』が載っている。私はぶるぶると足が慄(ふる)えた。眼の前に投げ出された、この夥しい札束は何であろう。あとで正気に帰(ママ)ったとき、その札束が私の書いた原稿百二十二枚の報酬である三百六十六円(註)だと知ったとき、私は腰も抜けるほどに驚いたものであった」 (註・原稿料は一枚三円であった。女子の初任給が十二円の時代だった、と宇野自身別著に記している。)
まさに有頂天となった藤村千代は、札幌には遅くなると電報を打ち、凱旋帰郷を思いつく。「あの遠い北海道で私を待っている筈の忠の姿が思い浮かんだ。この大金を持って帰り、第一番に見せてやる筈の北海道へは帰らず、こんな遠い岩国の自分の家に帰って了った。この私の行動は自分でも理解しがたい」「まあ、こんとうに貰うても、ええかいの」金を受け取るとリュウは泣いた。六年ぶりに会う母の手は節くれ立ち、かさかさに荒れていた。女手ひとつで五人の弟妹を育て上げた母の労苦が忍ばれたが、このときの心情を自分はただ母に自慢したい心に占領されていただけにすぎない、と記す。夫の実家にも寄って行くのかと母が訊ねたが、夫の親には会いたくないけど、祖母(リュウの母)には会いたいと思うのも、理解しがたいではあろうが、これも自分のそのときの本心であった、とも記している。
岩国からの帰途、札幌までの切符を買っていたのが東京で時間があったので、先だってのとき碌に礼もきちんと言ってなかったので(できれば次作のことも打ち合わせられたらと)、中央公論社に立ち寄る。と、こんども瀧田樗蔭は在社していた。が、先客が二人いた。その一人が二等当選していた尾崎士郎だといって引合された。「ぼ、ぼくが、そ、その、二等賞の尾崎士郎です」尾崎士郎には少し吃(ども)りがあった。この運命的な出会いはこう説明されている。「私はその瞬間に、ながい間、意識することもなしに過して来た渇望のようなものが、ふいに、堰(せき)を切って、溢れ出すような錯覚に襲われたのであった。この感情を何に喩(たと)えたら好いのか。それは、無防備な、抗し難いものであった」「この奇遇に乾杯しようや」ともう一人の連れが言い出して、三人は尾崎士郎が止宿していた菊富士ホテルに繰り出す。列車の時間が迫って来た。連れは席を立ったのに、「私は立てなかった」「この感情は恋でもない、愛でもない、一種、放蕩に似た、いや、もっと切実なものであった」 有夫のことも告げずに尾崎と一夜を明かし、驚くことに、藤村千代はそれっきり札幌へは帰らなかったのである。
夫は千代を待つことをやめ、父母を北海道に呼び寄せた。何事にたいしても喜怒哀楽の感情をあらわさない、夫忠の胸中は全くわからない。ただ、汚れ物や洗い物をそのままにして飛び出してきたことを、伯母に知られることをのみ恥じた。そういう北海道の消息は尾崎士郎と暮らし始めて半年くらいのちに、リュウが手紙で詳しく知らせてきた。「母はその手紙でも、一言半句も、私を難詰してはいなかった」 それは亡くなった夫にたいしてそうだったように、かつての千代の不祥事のときもそうだったように、ただ見守っていてくれただけであった。
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たちまちのうちに意気投合した宇野千代と尾崎士郎が、文士の村といわれた東京馬込に小さな家を建て生活を始めたのは、北海道に夫を残して上京した大正11年春の一年後のことであった。新進作家として頭角をあらわした宇野千代は、中央公論などにつぎつぎと短篇を発表、大正13年には藤村忠との協議離婚が成立する。夫の尾崎士郎は明治31年(1898)愛知県生れ、早稲田大学政治学科卒業していた。生年は宇野の方が一年上であるが、26歳の同年夫婦であった。後年、小説「人生劇場」で国民的人気を博した尾崎はまだ雌伏の時代を過していた。「万人に愛せられる習性」を持ったおおらかな尾崎士郎のもとには、多くの友人たちが集った。岩国へ尾崎を連れて帰省すると、母親のリュウまでもが「何ちゅう、尾崎さんはええお人じゃろう」と嘆声をあげた、と妻は自慢している。
作家となった宇野千代も尾崎士郎の交友の恩恵をうけて知己を拡げていく。平林たい子を知り、広津和郎を知り、萩原朔太郎を知る。宇野千代が生涯好んだ遊び、麻雀を覚えたのもこの馬込時代である。当時の風俗であったモガ(モダンガール)と呼ばれる断髪スタイルの髪型に宇野がすると、萩原朔太郎夫人、転居してきた川端康成夫人までもがそれにならって、流行のダンスに興じていた。ところが朔太郎夫人がダンス仲間の若い男と駆け落ちをするにおよんで、離婚となった原因をつくったと、朔太郎の親友であった室生犀星(馬込の住人になっていた)が激怒し、口もきいてくれなくなってしまった。そのしこりがとれたのは四十年後であったという。大正12年の関東大震災、昭和2年の芥川龍之介の自殺も馬込時代のできごとであった。
馬込とおなじく昭和のはじめの伊豆湯ヶ島は、文士たちの交流の地となっていたことでも有名である。「伊豆の踊子」を書く前の川端康成、広津和郎、萩原朔太郎、梶井基次郎、三好達治藤沢桓夫などである。宇野千代の湯ヶ島行きは、むろん尾崎士郎に連れられてであったのだが、尾崎が引き揚げてからも留まったりしたことによって、馬込ではあらぬうわさを立てられてしまう。特に疑われたのが、梶井基次郎とのことであった。「私は梶井の話も、その書くものも好きなのであった」から、つい深入りして誤解を生んでしまったというのが、その真相であったろう。しかし梶井に(おなじ作家として)、「精神的に恋していた」のも事実ではあった、とも宇野は告白している。(たしかに梶井基次郎の短篇小説はそれほどに魅力的であろう)。
うわさ話というのは常に、そのうわさされている当人には届きにくいものである。このときにもそうだった。しかも当の宇野千代にうわさになるようなことをしているという自覚がないのだからなおさらである。気づいたときには様相は一変していた。尾崎士郎にはいつのまにか若い恋人ができ、恋人の両親のまえでかための盃まで取り交わしているのさえ、宇野一人だけが知らなかった。肝心の尾崎そのものからも一言もなかったのだから、事後承認するしかなかった。それと並行してこんなエピソードも書いている。尾崎のいない馬込の家に、牧野信一がしばしば遊びに来て、一、二ヶ月も帰らないことがあった、すると、(牧野の)細君が子供を連れてくる。それは「良人(おっと)の様子を見に来たのではなく、自分たちもちょっと一緒に遊びたい、そう思って来たのであった。・・・・呑気なことであった」 これが尾崎と別れてからのことなのか、はっきりしないが、いずれにしても尾崎との離縁は、はたから見れば、宇野千代の軽挙妄動が招いたということであったのか。こののち、文士たちが集まっている場所で、へべれけに酔った牧野にからまれたことも披歴している。牧野信一が自宅で首を吊ったのは、しばらくしてからだった。宇野は(梶井とおなじく)牧野の文学に渇仰(かつごう)の念を抱いていたのである。
尾崎士郎と別居状態から、正式に離婚したのは昭和5年であるので、中央公論社での初見から八年後ということになる。宇野は32歳になっていた。その前年より新聞小説「罌粟(けし)はなぜ紅い」(註)を連載していた宇野は、作中の情死の場面が描けないでいた。ふと思いついたのが東郷青児のことだった。電話では話しにくいというので東郷の指定した酒場まで行くと、ここには仲間がいるからと、そのまま東郷の自宅にさそわれた。18歳のころ、宇野が東京の西洋レストランでウエイトレスをしていたときの来客の一人として東郷(今東光の友人でもあった)を、見知っていたのであろう。とはいえ、この夜をさかいに宇野千代は馬込には帰らず、東郷青児との同棲をはじめたのである。(註・この題名は梶井基次郎の案出だといわれている。)
東郷青児は、のちに美術団体二科会のドンと呼ばれた画家である。その独特のフォルムによる抒情的な女性像は、広く大衆に愛されデパートの包装紙などにも採用された。宇野とおなじ明治30年(1897)鹿児島生れ。青山学院中東部卒。当時、子供が生まれたばかりの妻を残しての長いフランス留学から帰国して活躍の場を広げていたが、東郷青児の名を一挙に有名にしたのは、その画業よりも一年前におこした情死未遂事件(註)によってであった。四年後の昭和9年に東郷とは別れるのであるが、その翌年に発表した「色ざんげ」はこの情死事件に至る経緯を描いた中篇小説である。東郷自身の女遍歴を聞き書きした「色ざんげ」は、「私の全著作の中で一番面白く、そのためにその作品は、どこの出版社でも版を重ねた」、「おはん」とならぶ宇野千代の代表作とみなされている。「君はあの話(「色ざんげ」のこと)を聞くために、僕と一緒にいたんだな」と笑いながら後年、東郷に揶揄(やゆ)されたものであるが。(註・相手は軍人の年若き令嬢であった。)
東郷青児と別れた事由は、その情死未遂事件をおこした女性と東郷が復縁したことによる。女性はその後結婚していたようであるがうまくいかなかったのか、東郷とは偶然に再会したのだという。最初の妻とのあいだに男児、そしてこの女性にも女児が生まれるのであるが、後年、宇野はこの二人とも親交を結んでいる(男児とは幼少のころ、一時母親代わりの世話をしたことがあった)。「僕が死ぬときには宇野さん、大阪の家へ来てくれますね、僕の枕許で、僕の手を握っていてくれますね」「ええ、好いわよ。手を握ってて上げるわよ」 肺結核での死を予感していた梶井基次郎は、東郷との結婚を知って「とんでもない奴と一緒になった」と憤慨しながら、昭和7年に32歳で没した。むろん大阪の梶井の枕元に、宇野千代ははべってはいない。このころは東京での(東郷青児との)愛の生活の絶頂期にいたからである。
宇野千代が最後に結婚した男性が北原武夫である。北原武夫は明治40年(1907)神奈川県出身。父親は医者だったのでそれを継ぐように強要されたので、高校(旧制)は理科に進んだものの大学は慶応の文学部を出て、都(いまの東京)新聞社に勤めながら小説を書いていた。北原には学生時代から同棲していた女性がいた。大学を卒業するや、女児の父親になっていた。昭和12年4月1日、宇野千代が出会った北原武夫は、内縁の妻を3月に結核で亡くしたばかりで、女児は重度の脊椎カリエスを患うという境遇にいた。すでに東郷青児との離別から三年が経過していた。
学芸部の記者であった北原武夫は、その日、宇野の自宅に取材に来たのであった。一目見るなり宇野は北原に吸い寄せられた。「まず、紅顔の美少年とも言いたいその美貌に、心を惹かれた」のと、「その彼が、『妻』と言う高度で緊密な作品(註1)の作者(註2)であることを知るに及んで、その関心は倍加した」 梶井基次郎や牧野信一もそうであったように、「その人が文学的に優秀な素質がある、という認識が、いつでも先行するのが私の癖であった」 その日から宇野は、毎日のように勤務先の新聞社まで北原を訪ねて行くのであった。「あの女に会うのは危険だ。やめた方が好い」と上司から注意されるほど、宇野千代の悪名はとどろいていたにもかかわらず、北原は会ってくれた。6月には宇野のうながしを聞き入れて、新聞社を退社までしたのである。(註1・「妻」は第8回芥川賞候補作品。この回の受賞は中里恒子「乗合馬車」。註2・これより前、昭和8年に北原の小説「悪徳の街」を読んで感動、宇野は賞賛の葉書を出していた。)
北原武夫に出会う一年前、宇野は日本で最初のファッション専門婦人雑誌「スタイル」を創刊していた。新聞社でつちかった北原の経験と才能は、その雑誌の拡張に貢献した。二年後のおなじ4月1日を記念して、エイプリルフール結婚式が帝国ホテルで挙行された。仲人は藤田嗣治(「スタイル」の表紙画を描いた)と吉屋信子に依頼した。宇野千代41歳、北原武夫は32歳であった。「この年齢のことなど、一度として考えたことはなかった。それほど北原を愛するのに急であった。いや愛するのではない。愛している、と自分自身が思い込んでいるのに急だった」 北原の父母も、十歳も年上女房を「気にしているような風は、けぶりにも見えなかった。・・・・このことを、いまでも、この父母に感謝している」 この年7月には、北原の先妻の子が息を引き取った。
「生きて行く私」はこのあと夫妻の中国旅行、弟光雄(32歳)の病死、北原の陸軍徴用(このとき太平洋戦争勃発)、ジャワ島への従軍、徳島の人形師天狗屋久吉への傾倒(註)、熱海への疎開で谷崎潤一郎夫妻との食糧入手などの交流、北原の栃木の実家への再疎開などが描かれる。栃木で敗戦を迎え、引き返した東京で取り組んだのが、(援助者の出現があって)昭和21年2月の雑誌「スタイル」の復刊であった。有楽町の焼けビルの四階に「スタイル社」を創立、北原が社長、宇野が副社長となる。新聞に年間予約購読の広告を出すや、日ごとに為替が殺到する。この封筒で毎日風呂を焚(た)いたというのだから推してしるべしである。雑誌を求めて行列がビルを取り巻く。湯水が湧くような金(かね)。(註・昭和18年小説「人形師天狗屋久吉」となって刊行。)
さっそく、住居を兼ねた木造二階建ての社屋を建設、社員を増やし、熱海に別荘、奢侈を極めた豪邸を新築、昭和26年には友人の宮田文子(元竹林夢想庵の妻だった)とヨーロッパへ(この年母リュウ68歳で死去。林芙美子が48歳で急逝)。繁栄もここまでであった。世の中が落ち着いてくると競合雑誌も増え売り上げは停滞し、そのうえ脱税の摘発をうけ、多額の追徴金が追い打ちとなり経営は一挙に下降線をたどる。資産を売却しながらの青息吐息であった「スタイル社」が、息の根を止められたのは昭和34年4月のことであった。「スタイル」最終号は奇しくも、〈皇太子御成婚記念特集〉となった。北原と宇野は莫大な個人的負債(註1)を背負ったまま、「スタイル社」から身を引いた。原因は放漫経営にあったのだろうか(註2)。土地や家などの財産もすでに使い果たしていた。(註1・年譜には八千数百万円とある。註2・この経緯は傑作小説「刺す」に詳しい。)
「スタイル社」が倒産したとき宇野は還暦をすぎ、61歳になっていた。宇野千代の最高傑作といわれる「おはん」が、十年の歳月をかさね完成をみたのは、その還暦の年であった。昭和57年11月28日は宇野千代、85歳の誕生日であったのだが、「生きて行く私」を連載中にこの日を迎えた。たまたまその日は「生きて行く私」の連載日でもあった。そのことを、〈満八十五歳の誕生日〉と題して喜びの文章にしている。「さて、この、今日までの八十五年と言う長い間に、私の一番うれしかったことは何か」といいながら、「おはん」が単行本になったとき帯に書いてくれた小林秀雄の批評文をあげている。「近松でも読む様な一種の味ひがあって面白かった。特に初めの方がよいと思った。作者は、時も場所も不問に附し、不思議な魅力をもった話術を創案して、言葉が、言葉だけの力で生き長らへたいと言ってゐる様な、一種の小説的幻想世界を発明してゐる。事実に屈服した現代小説界で珍しい事である」「批評の神さまである小林秀雄に、これほどまでのことを書かせた作品が、まだ、ほかにもあったか、とでも言うような、人事ではない喜びが、これを読んだ瞬間に、私の心を走ったのを、私は忘れることができない。今日の、満八十五歳の誕生日に、もう一度、この文章を収録して、私の喜びを述べ、この日の締めくくりにする」
「宇野さんも、こんな、きものを作って売ったりしないで、どうして文学一筋にやって行かれないのかねえ」と、宇野の着物の店に立ち寄ったとき、平林たい子が言ったと耳にした宇野の反応(平林の言葉は宇野への好意からの発言)。「そと側から見ただけでは、私は決して、文学一筋ではなかった。しかし、私の心の中は、そのときの生活とは関係なく、いや、そのときの生活が文学から離れていればいるほど、文学一筋なのであった。・・・・『おはん』のことを思わない日は一日もなかった」 軌を一にした「スタイル社」と「おはん」の十年。こうしてみると、両者は真逆のベクトルを指していたということになるのだろうか。出版業というある意味もっとも現実的な世界に身を置いてなお、こつこつとひそかにひとつの小説をつづりつづけた文学者宇野千代にとって、「おはん」がひとしお感慨深い作品であったというのは、たとえ、小林秀雄の称賛がなくとも、後世の部外者のわれわれでも容易に想像がつくのである。
蛇足ながら、「生きて行く私」の平林たい子のことについて。尾崎士郎と暮らし始めまだ住居を転々としていたころ、平林たい子が若い男と〈匿(かく)まって貰いたい〉と言って逃げ込んできた。宇野は平林のことを何も知らなかったが、平林は社会運動の女闘士だった。尾崎は泊めた。時代は過ぎて、「スタイル社」が倒産、暴力団に手形がわたり、この金がないと暴力団に殺されるという状況に宇野は追い込まれる。このとき「前後の見さかいもなく」駆け込んだのが、平林の家であった。〈お金を二十万円貸して下さい。今日、その金がないと、大変なことになるんです。〉「平林たい子は何も訊(き)かずに金庫の中から、その金を出してくれた」いまの金で、二、三百万になるのだろうか。「そんな切っ端(せっぱ)詰まった金なら、どうせ返せないのは決まっている。そう思われた筈であるのに、それでも貸してくれたのであった。私はそのときのたい子の顔を見て、観音さまかと思い、後光がさしているように思ったものであった」
これを読んで手近にあった文学全集を拡げて、平林たい子の欄を開く(平林たい子は日本文学史の一角を占める重要な作家なのである)。そこにある平林たい子の顔は、ただの(その名前のような)偏平な顔であった(偏平とは、ひらたくて、たいらかなという意味である)。それが、じっと、よくよく見つめていると、不思議なことに、宇野千代がいうように平林たい子の偏平顔が、瞬時、偏平顔の仏さんのように見えてきたのである。
3
「私たちはスタイル社の末期の状態のとき、会社の借金を、宛(あた)かも私たち自身の借金でもあるような、所謂(いわゆる)、〈個人保証〉をしていた。この個人保証と言うことによって、どんなに恐ろしい債務を負わなければならないのか、それさえ、私たちは知らなかった。それが、いまは、はっきりと分かっていた。私たちは夜も昼も、そのために働かなければならなかった。それが当然の罰だと言うことが、いまは、はっきりと分かっていた」「いつの間にか私たちは、別々の工場で働いている、職人のようになっていた。私たちは、私たちの共通の借金を返すために、相手がいま、何をしているのか、それさえ分からぬことがあった」 青山の露地奥の家にい逼塞(ひっそく)、宇野千代は文筆に加え着物の商売(註)を始め、北原武夫は純文学一辺倒から中間小説に手を染めざるを得なくなっていた。「毎月の月末になると、二人はその月に稼いだ金を持ち寄り」、「火のつくような借金」を返却するだけの日々を送っていたのである。(註・着物仕事は「宇野千代株式会社」にまで成長、発展する。)
負債の返済が完了したのは、「スタイル社」倒産の五年後の昭和39年春であった。「ひょっとしたら私は、この借金が全部すんで了ったら、二人の間をつないでいるものが、何もなくなる、そう思っていたのではなかったか」「前から考えていたことだが、もし、出来たら、別れてくれないかと思ってね」宇野の部屋に這入って来た北原は切り出した。「咄嗟(とっさ)の間に私は、笑顔になろうとして、何か歪んだような顔になりはしなかったかと思う。・・・・〈ええ、好いわよ〉」 離婚届けに署名し、判を押すと北原は部屋を出た。「声を立てずに泣いた。涙がとめどもなくこぼれた。別れるのが可厭(いや)で泣くのではなかった」「むしろ、別れるのが、自然のような状態であった」 涙は「〈ながい間、一緒に暮らしていたなあ〉とでも言うような、一種、感慨の涙でもあったか」 66歳と57歳の、いまでいう熟年離婚であった。(この年、二月に尾崎士郎(66歳)が病没しているけど、「生きて行く私」にそのことが一行の記述もないのはなぜだろう)。
離婚の翌年に、北原は八年も待たせてあったという女性と結婚する。青山の家でときに見かけていた女性であった。腎臓の持病を抱えていた北原は、二度ほど入院をしたことがあった。入院先に見舞いに行くと、その妻となった女性と顔を合わせたりもしていた。恢復後には、そのころ宇野が住んでいた那須の家に、夫婦で遊びに来る約束までするようにもなっていた。北原たちがパリに旅行したときには、宇野に素敵なマフラーの土産も買ってきてくれた。その北原が腎不全で死んだという知らせを受けたのは、昭和48年9月だった。66歳である。「私が北原と離婚してから、もう、十年たっていた」 ちょうど、岩国へ里帰りしていた宇野の気持ちは千々に乱れる。通夜は代理を立て、葬儀の前夜には顔を出したが、もはや、自分の出る幕ではない。北原の妻がいろいろと心遣いをしてくれたのは、身に染みたが遠慮した。
東郷青児の急逝は、それから五年後の昭和53年4月だった。故郷鹿児島から熊本への旅行中、突然昏倒したのだという。宇野と同年だから80歳である。知らされたとき、宇野は風邪気味で寝込んでいた。吹きこぼれる涙は蒲団に吸いこまれた。東郷の娘(註)と三回忌の「東郷青児を偲ぶ会」にて、久しぶりに(「おはん」の出版記念会の席でピアノ演奏で祝ってくれた)を顔を合わせ、娘がときどき宇野の家に遊びにくるようになり、ある日東郷の居宅におもむくことになる。「生涯の間に、東郷青児の仏前に座して線香を立てる瞬間があろうとは、夢にも思い設けなかった私であった。その私の胸に去来する感慨は何であったのか」 しかもその日は、まだ子供だった東郷の最初の結婚相手の一人息子(かつて宇野が東郷と夫婦になったとき、一時、一緒に暮した)までもが駆けつけてくれていた。「あなた、もう幾つにおなりになったの」訊くと、「僕ですか、もう六十歳ですよ」顔つき、声までもが東郷にそっくりだった。(註・宇野と別れたあと、結婚したかつての情死事件の相手との一粒種の娘。画家になった。)
北海道で別れたきりの藤村忠の消息が判明したのは、雑誌社から回送されてきた手紙によってであった。「初めてお便りします。私は京都に住んでいる中学二年の女の子です。この間、テレビで拝見させて頂きました。そうしたら、無性に、亡くなった祖父が懐かしくなったのです。(あなたのことを、なんとお呼びしたら良いでしょうか)千代さん、(失礼ですけど、こう呼ばしていただきます)あなたは私の亡くなった祖父、藤村忠の従妹にあたるのですね。残念ですけど、私はまだ一度も、千代さんの作品を読ませて頂いていません。せめて、一つでも・・・・とは思ったのですが、思い立つと、いても立ってもいられなくなってしまって。ほんとうに薄いのですけど、千代さんと私は血がつながっているのですね。それを除くと、祖父を知ってること以外に、つながりはなくなってしまいます。祖父は(もちろん千代さんの方がずーっと御存じでしょうけど)とっても優しい人だった。とっても、私をかわいがってくれた。写真を同封します。見て下さい。この幸せそうな世界、幸せそうな私の顔を・・・・でも、悲しいのです。涙が出てきます。お願いします。私の知らない、祖父のいろいろなことを教えて下さい。めちゃくちゃな、へたくそな文章をお見せするのが恥ずかしいです。いまはだめですけど、大人(大学生)になったら、必ず千代さんに会いに行きます。(会って下さいますか?) 大好きなおじいちゃんの写真もありますか。(おかしければ、指摘して下さい)あなた様が遠い親戚であることを知ったのは、とても幸せなことだと思います。お返事は、いつでも、気の向いたときでいいです。でも、いまの住所を教えて下さい。もっともっと手紙を(許して下されば)書かして頂きます。千代さんはとっても尊敬すべき方ですから・・・・では、さようなら」
手紙の全文である。もし、自分が85歳の宇野千代の立場であったら、この手紙にどう反応しただろうか。「始めは何のことか分からなかった。あ、これは、あの私の最初の良人であった従兄の藤村忠の孫からよこした手紙だと分かったとき、私は魂も打ち抜かれたもののように、吃驚仰天した。札幌の駅のホームで別れたまま、六十年ものながい間、会うこともなかった藤村忠に、こんな孫があったのか。では、藤村忠は私と別れたのち、新しい妻を迎え、その妻との間に生まれた娘に(註)、いま私にこの手紙を書いてよこした、中学二年生の女の子が生まれたのか、と思うと、私は一種言い難い安堵の気持ちと同時に、自分のしてきた許しがたい行為に、おののくような気持ちを感じたのであった」(註・忠に娘がいたから、京都に嫁入ったという意味なのか?)
女の子がテレビで見たと書いているのは、宇野が「徹子の部屋」の番組に出演して、藤村忠のことを何の気もなく、べらべらとしゃべったのを言っているのだ。宇野はこの手紙によって、藤村忠(生きていれば宇野とおなじ85歳)の死んだことを知ったのである。つとめてあのことを思い出さないようにして、今日まで生死さえ確かめずにいたのに、大好きなおじいちゃんの写真など持っている筈がない。「私は同封してあったキャビネ形のぼんやりした写真を見た。確かに藤村忠に違いない七十歳ぐらいの男の膝にまるまると太った赤ん坊が、あの女の子なのか。この幸せそうな世界、幸せそうな私の顔を・・・・と書いているのは、この写真の顔なのか」
宇野は女の子に著書を二冊と、ハガキに「毎日新聞日曜版に毎週『生きて行く私』と言うのを書いている。ちょうど来週くらいのところから、あなたのおじいさまのことが、続けて出る筈だから、毎日新聞をすぐにとって下さい」と書き送る。しかし、女の子からは「本を受け取った」とも「毎日新聞を読んだ」とも、言っては来なかった。「ひょっとしたら、女の子が私のところへ手紙を出していることが、うちの人に知れて、あの女に手紙を出すとは何事か。どんなことがあっても、あの女と文通することはまかりならぬ、と小っ酷く叱られたのではなかったか。女の子の家の人たちにとっては、あの優しい藤村忠を捨て去った女は許せない、といまでも私のことを思っているのではなかったか。私の犯した罪は、人々にとっては永久に許せないことなのか。何十年たっても、それは過去にはならないのか。その罪を犯した本人の私自身だけが、もう過ぎ去った過去のことだと言って、平然としている。許し難いのはそのことだ、と言うのか。そこまで考えると、私には、女の子から何とも言って来ないのがよく分かった」
「女の子よ。あなたもまた、あの優しかったおじいちゃんを苦しめた私のことを、許せない、と思うようになるのか。世間の人の中で、このことに無関心な人だけが、平気で私の罪を見過ごしているのか。しかし、私は忘れたい。いや、忘れている。そんなことなどなかったことのように忘れている。このことに限らず、私は凡ゆることを忘れている。許し難い、と思われている自分の罪も忘れ去っているのと同時に、自分が人からこうむった辛かったことも、忘れている。そんなことなど、なかったかのように忘れている。この、忘れ去っている、と言うことの愉しさ。私は凡ゆることを覚えていて忘れないほど、強くはない。私は弱くても好い。この『生きて行く私』の話の中で、どんなことを覚えているか、忘れているか、較べて見て貰いたい」 と、啖呵を切る。(これには後日談があって、のちに女の子からの礼状が来たことを書き加えている)。
「生きて行く私」の〈罪を犯した本人〉という一章のほとんどを引用した形になったが、ここに宇野千代の生きる(生きてきた)本質が凝縮されているように思えるからだ。「生きて行く私」はまだこのあともつづくが、もはや、もう付け足すこともあるまい。ほぼこれで一人の女性の八十五年の生涯を、やや圧倒されながらも俯瞰した。どの人の人生であれ人生というものは、言い知れぬ何かをひそめているのではあるまいか。宇野千代のそれは航跡の波立ちが少しばかし高かっただけなのかもしれない。その波高なぶん、何かの示唆となる飛沫(しぶき)の量が多かったということなのだろう、そういうことであろうか。ともかく宇野千代が、自己にに忠実に生きようとしたことだけは確かなようである。ここで、屋上屋を架すようであるが、いまいちど宇野千代の生年(明治30年)に注目してみたい。
宇野より前に生まれた文学者を見わたしてみると、一つ上に吉屋信子、尾崎翠、七つ上の三宅やす子、もっと古くはひと回り上の岡本かの子、さらには宇野が尊敬を払った(そして宇野より長寿だった)野上弥生子、その一つ上の田村俊子、さらに古くに与謝野晶子、樋口一葉など、これだけである。壺井栄と宮本百合子が一歳下、林芙美子、森茉莉、幸田文、佐多稲子、平林たい子、円地文子たちが七、八歳下に、芥川賞初の女性受賞者であり、宇野の友人でもあった中里恒子にいたってはひと回りちがう。「生きて行く私」には多くの男性作家が登場する。ついでに生年順に列挙すれば、宇野が作家として最も尊敬していたと思われる谷崎潤一郎はじめ、萩原朔太郎、里見ク、菊池寛、室生犀星、広津和郎、久米正雄、芥川龍之介、佐藤春夫、片岡鉄平、牧野信一などは宇野より年上である。今東光、今日出海の兄弟、井伏鱒二、川端康成、三好達治、青山二郎、梶井基次郎、小林秀雄、藤沢桓夫などはすべて年下になる。(註・女性、男性とも主な作家たちのみ挙げた。)
驚くに、宇野千代の生年が意外に古いことである。ここに挙げた作家で、宇野千代より長生きした人は一人もいない。宇野千代が最終ランナーだったのである(註)。その長生きのせいもあるのだろうか、宇野千代のイメージはひときわ若々しく感じる。年を取っても若々しい。それは発想のあり方によるものだろうか。「生きて行く私」は決して(エッセイでもあるし)文学史における重要な作品ではないが、先人としての生きるヒントにあふれたこの作品は、後続の世代に少なからぬ勇気を与えたのではないだろうか。今日の世相をみてもその生き方は斬新でさえあるのだから。いま、宇野千代と聞いて、もしかしたら瀬戸内寂聴を思い浮かべるかもしれない。瀬戸内寂聴も我が子を捨てて男の許へ出奔したり、奔放に自分の人生を生きようとした横溢する生命力は重なるところが多い。長生きしていることだって似ている。だいいち瀬戸内自身が先達としての宇野千代に敬意を払っているのをみても、年齢からいっても二人は(文学の、人生の)親子と称しても、それほど誤りではないだろう。(「生きて行く私」にも瀬戸内との親密な交流が書きこまれている)。(註・宇野の五人の弟妹も皆、先に死んでいる。)
さて、「生きて行く私」は中公文庫をへて、現在は角川文庫に収まっているようだ。それに添えられた〈角川文庫版に寄せて〉という一文は、「私はこのお正月で数えの百歳になった」と始まっているのであるが、この文章がとてもいい。「・・・・ずっと以前から、私はあまり年齢というものを意識せずに生きてきたような気がする。とりたてて長生きしようと努力したわけではない。長く生きたいからなにか特別なことをするというのは私の流儀ではないのである。しかし、そういう私にも、もう少し生きていたいという気持ちはある。なぜかというと、私は人一倍好奇心の強い人間だからである。あと四年ほど生きれば二十一世紀になる。新しい世紀に入った世界をこの目で見たいと思っているのである。明治、大正、昭和、平成と生きてきて、その上さらに二十一世紀が見たいとは我ながらなんと呆れたものではないか。しかも、必ず見られると思っているといったら極楽トンボと笑われるだろうか。私はこのごろなんだか死なないような気がしているのである。いまの私はごく自然に、正直にそう思っているのである。この自然に、ということを私は大切にしてきた。この本の中でも書いたように〈鴉が空を翔ぶように〉生きてきたのである。そのとき、そのとき、私は自分の気持ちに正直に行動してきた。人がどう思うか、とか、世間がなんというかなどということはこれっぽっちも私の頭には浮ばなかったのである。ただそれだけのことであるのに、私がなにか特別なことをしてきたかのようにいう人が少なくないとは、なんと面白いことではないか。・・・・」
しかしながら、宇野千代が二十一世紀に生きることはなかった。〈角川文庫版に寄せて〉の日付は平成八年新春とある。角川文庫初版は平成八年二月二十五日とある。宇野千代がその生涯を閉じたのは、この年の6月10日である。急性肺炎、98歳であった。ということは、この角川文庫の文章を宇野千代は、その前年の暮れか、この年の正月に書いたのであろう。文章末尾にはこうある。「・・・・今日この『生きて行く私』が角川文庫に収められることになって、とても嬉しく思っている。・・・・」「生きて行く私」は「生きて行くあなた」に読まれて、いまでも版を重ねているようだ。
あ、そうだ、あの中学二年生の女の子は大学生になって、千代さんに会いに行ったのだろうか? 
 
書評に見る昭和

 

羅生門の闇 / 芥川龍之介『羅生門』 
私たちはだれしも青春の入口にさしかかるころ、いちどは芥川龍之介を手にとる。そして今まで読んでいた少年少女読み物や童話や漫画とは違った人生の香気といったものにふれる思いをもつ。何かしら今まで見えなかったものが見えはじめるような感動を覚える。つまり芥川の作品は年若い人々に文学への目を開かせる文学入門の役割を果すことになる。同じころ、人々は夏目漱石をも手にとってみる。そして多くの人々は青春を後にしてもういちど漱石の作品を読み返す。しかし芥川を再び手にする人は極めて少ない。この師弟の差はいったい何を意味しているのだろう。それは多分、芥川文学は青春の文学であり、それを超え得なかったことを示しているように思えてならない。それでは芥川は自分の青春をどのように捉えていたのだろう。
遺稿『或阿呆の一生』(昭2)の「一、時代」は次のように書かれている。
それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、……(中略)彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。
「人生は一行のボードレエルにも若(し)かない」
彼は暫く梯子の上からこういう彼等を見渡していた。……
ここには死を前にした芥川が捉えた二十歳の青春の自我像が示されている。現実と芸術の間にかけられた梯子の上の宙吊りの自分が正確に描かれている。現実への嫌悪と芸術への憧憬の間に引き裂かれた自分の運命が象徴的に捉えられていて、彼の生涯はこの二十歳の自画像の構図からはみ出すことはなかったのである。彼の文学はついに青春を超えて、漱石が直面したような人間存在の奥底に広がる巨大な闇を見ることはなかった。しかし私は芥川の処女作『羅生門』(大4)の中に、人間存在の本質的な闇に迫り得る可能性が一瞬点滅したように思えてならない。
芥川の文学は存在の暗部に惹かれる傾向がある。<予が醜悪な心事を暴露せんとす>(『開化の殺人』大7)というモチーフが彼の文学を貫いていたように思う。それは実母の狂死と養家の<中流下層階級>的生活への嫌悪にその基盤を置いていた。そこでは人は外面的虚飾に捉われて<娑婆苦>という表層にとどまり、人間的真実から隔てられていると芥川は感じていた。彼はそのような自己の生存の位相を激しく憎んでいた。それが彼に醜悪なものに真実を求める心性を育てた。しかし彼は醜悪なものを醜悪なままに暴露した自然主義作家たちと違って、それをどこかで美に転化しようとする芸術家意識があって、そういう構えが彼の文学に粲(きらめ)きを与えているのである。彼の文学の根底にうづくまる、この醜悪な美といったものへの傾向が、例えば『今昔物語』をたぐり寄せるのである。後年『今昔物語に就いて』(昭2)の中で、
最後に『今昔物語』は最も野蛮に、―或は殆ど残酷に彼等(当時の民衆―引用者)の苦しみを写している。
と書いているように、国文学者の誰ひとり発見できなかったこの古典の美を、野蛮で残酷な美として発掘するのである。この発見で彼は醜悪な美を小説化する手がかりをつかんだのである。醜を描き続けると、そのはてに美が現出し、人間を描き続けると、背景が人間を押しのけて浮上するというパラドキシカルな小説のしくみを会得することで、『羅生門』は習作から飛躍し、芥川の文学的開眼を刻印する作品たり得たのである。
さて、『羅生門』の受容史をふり返ってみると、今までの読みの一般的傾向は、<下人の心理の推移を主題とし、あわせて生きんがために各人各様に持たざるを得ないエゴイズムをあばいたもの>という吉田精一の読みとそのバリエーションの域を出ていないようだ。登場人物に焦点を合わせ、その心理やモラルや生き方を解明していく「人間論」的読みに終始している。私はそのような読みではどうしでも読み切れないものが残っていくように思われてならない。それで羅生門に焦点を合わせた「状況論」的視点とでもいうべきものでこの作品を読んでみたい。
『羅生門』は周知のように『今昔物語』を素材としており、「羅生門登上層見死人盗人語」を主資料とし、「太刀帯陣売魚嫗語」を挿話として使っている。
ある日の暮れ方のことである。ひとりの下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
冒頭の一行で作品の状況の枠組をぴしゃりと決めている。<暮れ方>の<雨>の<羅生門>の下の<下人>という作品の骨格が出揃っているのである。続いて、
広い門の下には、この男のほかには誰もいない。ただ、所々丹塗りの剥げた、大きな円柱にきりぎりすが一匹とまっている。
の<きりぎりす>、こういうディテールによって状況を輝かすたくらみが随所にこらされていて、彼の文体を非常に技巧的にしている。こうして雨の夜の死体の捨て場と化した羅生門の異臭に満ちた状況が設定されるのである。
さて、<この雨の夜に、この羅生門の上で>という状況をふまえて、<火をともしているからには、どうせただの者ではない>と人物を状況にふさわしい異様な者として導き出してくるのである。そのただの者ではないと予告された老婆は
猿のような老婆
鶏の脚のような骨と皮ばかりの腕
瞼の赤くなった肉食鳥のような鋭い目
鴉の鳴くような声
蟇のつぶやくような声
というように動物の比喩によって、人間以下のもの、醜怪な動物的存在として形象されている。老婆は死骸同様、羅生門に醜悪さを添える飾りとしてそこに置かれている。
羅生門を通過する<旅の者>なる下人の形象も方向は同じである。
猫のように身を縮めて
やもりのように足音をぬすんで
というように、羅生門の荒廃に象徴される当時の都全体の衰微の中で、人間以下のものに転落せざるを得なかった者の姿を、動物の比喩を積み重ねて描き出そうとしているのである。このあたりは状況と人物の形象は一つの方向に統一されていて間然とするところがない。下人の<にきび>もほほ同じ用法であるが、
右のほおにできた大きなにきび
短いひげの中に、赤くうみを持ったにきび
赤くほおにうみを持った大きなにきび
右の手をにきびから離して
というように多用されるにつれて、醜悪さの添加から心理の推移へと用法上も混乱して、上手の手から水が漏れるのである。技巧におぼれるときの芥川の犯す失敗である。
作者は人物設定の最初のところで
きょうの空模様も少なからず、この平安朝下人のSentimentalismeに影響した。
と書いている。つまり下人の心理は状況を映す鏡であるということだ。この空模様にさえも影響を受けるサンチマンタリスムを持った人物の心理の鏡に、善だの悪だのが映ったにしても、それは観念やモラルの劇の反映ではなく、状況の幻影にすぎぬということなのだ。作者が下人にかかるしかけを仕組んだとすれば、この作品の中に、人間の心理だの、エゴイズムだの、善悪だのを読みとる、すべて『羅生門』を「人間論」として捉える読みは、作者の心理分析だの、モラリッシュな告白やらのあざやかさに惑わされて、このしかけを見落とした読みではなかろうか。
それでは、このような「状況論」的視点で作品の具体的な展開に即して読んでみよう。老婆の正体が明らかになるに従って、下人の心理は<恐怖>から<老婆に対する激しい憎悪>に、さらに<あらゆる悪に対する反感>へと推移していく。しかし、<悪を憎む心>といっても、<合理的には、それを善悪いずれに片付けてよいか知らなかった>というような極めて情緒的なものなのである。結局のところ、その情緒は、
この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許すべからざる悪であった。
というように、状況の異常さに由来していて決してモラルに基づくものではないのである。それゆえ、下人が大刀の鞘を払って老婆を屈服させたとき、征服者の優越感の中で憎悪の心は冷めてしまうのである。<悪を憎む心>とはそんなはかない心理の揺れにすぎなかった。下人に死人の髪の毛を抜く理由を問いつめられて、老婆は
この髪の毛を抜いてな、鬘(かつら)にしようと思うたのじゃあ。
と答える。この答えを聞いて、下人はその<平凡さ>にいたく失望する。
失望すると同時に、また前の憎悪が、ひややかな侮蔑といっしょに、心の中へ入ってきた。
と書くとき、下人のどこにもモラリストの風貌はなく、あからさまに審美家としてたち現われてくるのである。下人の仮面の下から作者の素顔が透けて見える個所である。審美家にとって<この雨の夜に><この羅生門の上で><死人の髪の毛を抜く>ことが、<鬘>にするなんて<平凡>な行為であってはならないのである。求められているのは<頭身の毛も太る>ほどの醜怪な戦慄でなければならない。老婆はその平凡さ故に罰せられなければならない。下人の冷ややかな気配を察して老婆は弁明する。老婆がいま髪の毛を抜いている女は、生前蛇を干し魚と偽って行商していた女である。
わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、飢え死にをするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。
影響を受けやすいサンチマンタルな心を持った男は、この老婆の論理のわなに見事にはめられて
では、おれが引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。おれもそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。
と言いざま、老婆の着物を剥ぎ取ってしまう。このエゴイズムの論理と派手な心理の逆転劇ほど、読者の目を欺くものはない。読者はこのひきの声で語られる老婆の論理のあまりの明快さに足をすくわれて、エゴイズムを追求した作品などと読んでしまう。しかし作品の構図から言えば、老婆の論理は彼女の着物を剥ぐためのしかけなのだ。老婆は平凡さの罰として、裸体にされていっそう醜悪な姿をさらさねばならない。『今昔物語』では、<死人ノ着タル衣ト嫗ノ着タル衣ト抜取リテアル髪>を奪っているのに、芥川の下人は老婆の着物だけを奪い取っているのを見てもそれは明らかである。剥ぎ取った着物を抱えて下人が夜の底へ走り去って後、
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それからまもなくのことである。老婆は、つぶやくような、うめくような声をたてながら、まだ燃えている火の光を頼りに、梯の口まではって行った。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
散乱する死骸から身を起こした醜い裸の老婆の逆づりになった白髪頭をてこにして、闇の底から黒々と異醜に隈取られて立ち現われてくる羅生門の、その醜悪な美、醜悪な状況美の創出にこの作品はかかっていたのである。醜のはてに美があらわれる反転力に、芥川の文学的営為はかけられていたのである。作者は、その創作当時をふり返っていう。
自分は半年ばかり前から悪くこだわっていた恋愛問題の影響で、独りになると急に気が沈んだから、その反対に、なるべく愉快な小説が書きたかった。(別稿『あの頃の自分の事』大8)
とは、この作品のモチーフが奈辺にあるかを語っている。作者は『今昔物語』という<昔>の<残酷>な素材を用いて、自分の落ちこんでいる青春の屈託を晴らすような<残酷>な美を創造しようとしているのである。<飢え死>か<盗人>かという一種の極限状況に投げ込まれた下人の、その生き方になど作者の視線は注がれてはいないのである。状況に弄ばれる下人の心理を<六分の恐怖と四分の好奇心>などと分析して楽しんでいる得意で愉快な作者の心が伝ってくるばかりである。作者の視線はひたすら状況、羅生門に注がれており、下人も老婆もそれに醜悪な花を添える飾りのごときものであり、羅生門がどれだけ見事な<悪の華>を咲かせるかにかかっていたのである。下人も老婆も冒頭のあの<きりぎりす>同様、状況を輝かすしかけの一つであり、<黒洞々たる夜>という、この作品のキーワードともいえる卓抜な秀句が作り出した暗夜の深淵で、<羅生門>は一瞬の光輝に包まれて醜悪な美に輝くのである。この人間の彼方の闇を描いたとき、芥川の文学は一つの可能性の前に立っていたのである。片々たる人間の苦悩など一状況美を構成する一要素にすぎないというアンチ・ヒューマニズムの視線が非情な暗夜の美を発見したとき、<娑婆苦>というような階級的コンプレックスを無化する視力まであと一歩ではなかったろうか。しかし、芥川はあと一歩の意味がわからなかったゆえに、自ら創り出した暗夜の中に消えていくのである。
どの作家にとっても処女作がそうであるように、『羅生門』もまた芥川文学の未来を予告する象徴的な作品なのである。この作品で芥川が創り出した闇の暗さから彼の文学はついに逃れることができないのである。芥川の世界はどうしようもなく暗い。彼はその暗い夜空に、例えば『地獄変』(大7)の檳榔毛(びろうげ)の車の凄惨な炎を噴き上げたり、『舞踏会』(大9)の華麗な花火を打ち上げたりするのだが、暗夜の底の真実の闇を照らし出すことはできなかった。闇は次第に濃度を増し、彼の芸術的構えすら無化し、やがて彼自身をも呑み込んでしまうのである。そのような彼の文学的生涯の入口で、『羅生門』は凛乎とした形象力に張られた暗夜の美を造り出していたのである。しかし、一方では、作者自身その状況美という自分の創り出した美の独創性に気づかず、その一歩向こうに広がる人間の真の闇という文学の新しい領域へは踏み出せず、結末の一行は幾度かの改作の後、
下人の行方は誰も知らない。
という「人間論」へ逆戻りの蛇足の一行で締めくくることになるのである。『羅生門』がはらんでいた小説の独創は、ついに小説の方法として自覚されることなく消えていくのである。

芥川龍之介(明25―昭2)
生後まもなく母が発狂し、母の生家芥川家の養子となる。この東京の下町、本所深川の中流下層家庭での生育史が彼の文学に深い影を落としている。自己の暗い心情の闇を芸術化せんとして、東西の古典に広く素材を求めて、磨き抜いた技巧美の作品世界を作り出した。 
 
花に嵐 / 井伏鱒二『屋根の上のサワン』 

 

長い彷徨のはてに人は自分の言葉に行き会うのである。自分にとって根源的な一つの言葉に。そのような人生の劇は、自己発見と呼ばれたりするが、つまりは自分の人生のテーマの発見であり、自分の宿命との遭遇に他ならない。文学においても傑作とは作家の宿命の基調音の表現であり、どんな複雑な長篇も、どんな片々たる短篇も、その底で一つの言葉が鳴りひびいているのである。文学鑑賞とは所詮作品の中からそのまぎれようもない言葉を取り出して、それが表出している作家の宿命を読み解くことではなかろうか。井伏鱒二もまた長い彷徨の後に、一つの言葉に出会うのである。彼の出世作『山椒魚』は大正八年、二十一歳でその原型を書き、大正十二年『幽閉』として発表し、昭和四年五月『山槻魚』として改作されるまでに実に十年の歳月を要したのである。<思いぞ屈する>という屈託をテーマにしたこの短篇に十年にわたってこだわり続けていたのである。そこに湛えられている時間は、井伏の生命の屈伸力の大きさを示していよう。それでは彼を捉えて放さなかった屈託という鬱屈した自意識は何に根ざしていたのか。一つは故郷との関係である。後年の 『厄除詩集』(昭12)所収の「寒夜母を思う」には次のような一節がある。
母者は手紙で申さるる
お前の痩せ我慢は無駄ごとだ
小説など何の益にか相成るや
田舎に帰れよと申さるる
ここには田舎からの都会批判、実生活からの文学批判が語られている。つまり井伏は田舎と都会、実生活と文学の矛盾の中に身を置いていたのである。もう一つは昭和二年、彼が所属していた同人誌『陣痛時代』の同人が彼を除いて全員左傾してプロレタリア文学に参加して、彼にも左傾を迫った事件である。屈託の背景には少なくともこれらの矛盾があった。それでは彼はそれらの矛盾にどう対処したのか。帰郷意志を抱きながら都会生活を続け、生活者に負い目を抱きつつ文学にこだわり続け、器用に時流に乗った転換ができなかったゆえに芸術派に取り残されたのである。こうして彼は彼を引き裂く二項対立の間を優柔不断に生き抜くのである。それが確乎たる優柔不断と化し、二項対立の状況を相対化したとき、屈託は一匹の山椒魚の中に封じ込められるのである。井伏をめぐる屈託を構成する要素は何一つ変わりはしなかったのだが、長い文学的格闘のはてに、寓話的象徴的手法で形象化に成功したのである。
昭和四年五月『山椒魚』が完成すると、作者はほとんど間を置かずその十一月に同じテーマで『屋根の上のサワン』を書く。こんどは負傷した鳥を素材とする抒情詩として書く。作品はまず主人公<わたし>と傷ついた雁との出合いからはじまる。わたしが撃たれて傷ついた雁を見つけたのは<言葉に言いあらわせないほど屈託した気持>を抱いての散歩の途上であった。さっそく家に連れて帰って五燭の電燈の下で鳥の傷の手当てをしてやるのだが、わたしの親切を誤解して暴れるので、わたしは彼の足を縛り、細長い首を私の股の間にはさんで治療する。その場面の抒情詩のしくみを検討してみよう。抒情詩は本来、静的で自己完結的な性格を持っており、ある感動を核として一つの絶対的な世界を形づくるものである。日本では抒情詩は何よりも和歌として完成し、俳諧はそのパロディとして派生したものである。例えば西行の
ながむとて花にもいたく馴れぬれば
散る別れこそ悲しかりけれ
それに対する宗因の俳諧
ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
は短歌と俳諧の関係をよく示している。井伏の抒情の解明にこの和歌的なものと俳諧的なものとを援用すると、雁は治療が終わるまで<あの秋の夜更けに空を渡る雁の声>(和歌的)が<わたしの股の間>(俳諧的)からしきりに聞こえてくるのである。<雁の声>が<股の間>から聞こえてくるおかしみは、異質の抒情の取り合わせから生じたものである。また雁が<五燭の電燈>(俳諧的)を<夜更けの月>(和歌的)と間違えて鳴いた哀切なおかしみもまた二つの抒情の落差から生じたものである。この和歌的なものと俳諧的なものとの共存、あるいは和歌的なものを俳諧的なものでひっくり返していくところにこの作者の文体の特徴がある。井伏文学のユーモアとぺーソスの源泉もまたここにある。
傷が治ると、わたしは雁にサワンという名をつけて、翼の羽を短く切って放し飼いにする。サワンとはインドで何月かの月の名称だという。月はサワンの故郷である空への想いをかき立てるというこの作品における月の役割を考えると、命名のうまさは卓抜だ。夏はわたしとサワンの穏やかにして平安な季節であった。サワンは人懐っこく、わたしたちは連れだって散歩し、めいめいが自分の領域で気ままに過ごした。
しかし、秋が来るとわたしたちの関係は一変する。ある秋の夜更け、わたしはサワンの悲鳴に驚かされる。空を飛ぶ僚友との必死の交信なのだが、そのときの情景は次のように描写される。
窓の外の木立はまだ梢にそれぞれの雨滴をためて、もし幹に手を触れると幾百もの露が一時に降り注いだでありましょう。けれど、既によく晴れわたった月夜でありました。
雨後の澄明な風景の中、空を見上げると、
月が――夜更けになって登る月のならわしとして、赤く汚れたいびつな月が光っていました。そうして、月の左側から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽の雁が飛んでいるところでした。
<雨後の澄明な風景>(和歌的)、<赤く汚れたいびつな月>(俳諸的)、<夜空に高く飛ぶ雁>(和歌的)、和歌的なものと俳諧的なものとの三重衝突で抒情詩は一瞬調和が狂うかに見える。狂わせたのはむろん<赤く汚れたいびつな月>である。この月は先の<五燭の電燈>のイメージを受け継いでいささかユーモラスではあるが、また一方ではサワンの中に深く隠されていた空への帰巣本能を呼び覚し、不意の狂気に近い悲鳴を誘発した不気味な月でもある。これはまた井伏好みの月であるらしく、<いびつな月><赤くただれた一箇の腥い月>(『岬の風景』大15)、<半分に欠けた月が――赤鉄鉱色の光をはなって>(『さざなみ軍記』昭5)、<大きな赤い月>(『丹下氏邸』昭6)と類似の異様な月がちょっと目を走らせただけで作品のあちこちから現われ出て、頻出しそうな気配である。さかのぼって行けば、ひょっとすると井伏鱒二の原風景に行きつくのかも知れない。それは多分井伏の、世界の秩序に投げかける暗い悪意に縁どられた諧謔の投影なのだ。ともかくその月はサワンの内部の激しい屈託と照応しつつ、<夜更けに登る月のならわしとして>という特殊なものを一般化する井伏独得の手法に導かれて、作品の空になにげなく浮んでしまうのである。かくて抒情の破綻は回避され、異和を異和として許容しつつ調和する井伏の不思議な空を、三羽の雁は高く飛び去るのである。サワンはこの雁と鳴き交していたのである。翼の羽を短く切られて飛ぶことのできないサワンは、表題の示すごとく彼が登り得る最も高い空との接点、屋根の上に登って鳴きすがっていたのである。そのサワンの姿に
遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様
という比喩表現によって唐突に異相の人間が現われる。漂流して十年目にはじめて沖を通る船を見つけて、思索の沈潜から身を起こして渾身の力をこめて絶叫する老哲学者の悲壮で意表をつくイメージは、今まで家畜のごとくにも穏やかにわたしに従順であったサワン の中に秘められていた屈託を鮮明に照出する。わたし以外に人間があらわれない作品に、雁のメタファー(暗喩)として人間があらわれること、その倒錯の中に、井伏の対人間、対社会への距離、孤独が暗示され、したがってその<屈託>の質もまた暗示されているだろう。ともあれ<漂流した老人の哲学者>とは井伏文学の中核的人間像であり、この作品ではじめて現われるのである。それはこの小品の井伏文学の中における位置を示していよう。先行作『山椒魚』にも老哲学者の風貌はなくはないが、<漂流>の要素が欠けており、ともかくあそこでは<屈託>は老哲学者的諦念へ収斂するのに対して、『サワン』の老哲学者は絶叫によって<屈託>を乗り超えるべく立ち上がるのである。
作品は次に抒情詩の核ともいうべき絶唱に至る。この章ではひそかなる孤独がひたすらに歌いあげられる。サワンは月の明るい夜には必ず屋根に登ってかんだかい声で空行く僚友と鳴き交す習慣を身につけた。
その声というのは、よほど注意しなければ聞くことができないほど、そんなにかすかな雁の遠音です。それは聞きようによっては、夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息(ためいき)かとも思われ、もしそうだとすればサワンは夜更けの溜息と話をしていたわけでありましよう。
こうして<夜更けそれ自体が孤独のためにうち負かされてもらす溜息>を媒介として、わたしとサワンの孤独な心はひそかな交信の回路を探り当てたかのごとくである。ついに孤独な心と心は触れ合ったかのごとくである。
しかし、わたしがサワンの孤独をほんとうに理解するには、サワンの屈託がわたしの監禁によることを理解するには、サワンの幾夜かの悲鳴の後のさらに耳を聾(ろう)する号泣が必要であった。ついにわたしの屈託はサワンによって癒(いや)されることはない。わたしは自分の屈託を癒そうとしてサワンの屈託を生んだだけである。わたしにせめてもできることは、サワンに出発の自由を与えて、サワンの屈託を解き放ってやることだけだ。わたしは古風な作法に則り、<サワンよ、月明の空を高く楽しく飛べよ>という言葉の指輪を彼の足に結んでやろうと思う。明日訪れるはずの美しい別れのために。
抒情詩はまさにロマンの香りを放って完結するかに見えた。しかし予定調和の世界に直面すると井伏のへそは少し曲がるらしい。和歌に俳諧、花に嵐のひとひねりというやつだ。翌朝、サワンは屋根の席に一本の胸毛を残して失踪していた。かかるどんでん返しで約束された美しい別離は醜い狼狽に変じる。ここに井伏鱒二の容易ならざるしたたかさがある。それは時には意地悪くさえ見える。あの世界に対する暗い悪意が作品をよぎる。しかし、井伏は自らの世界に投じた異和を新たなる調和へと転化させる。醜い狼狽を井伏はなんとさわやかに描いてみせることか。
岸に生えている背の高い草は、その茎の先に既に穂状花序の実をつけて
<穂状花序の実>という学術的用語がなんと硬質で詩的な輝きを発散することか。和歌的なものと俳諧的なものとの葛藤のはてに、一つの純正な詩的結晶に至るのである。
穂状花序の実をつけて、わたしの肩や帽子に綿毛の種子が散りそそいだのであります。
わたしはむろん狼狽のあまり草をかきわけかきわけ探索したのであるが、それがかくも美化され、作品は抒情詩の輝きを失うことはないのである。この屈曲に富んだ、したたかな文体は、原爆の悲惨を軽やかなユーモアを湛えて描いた『黒い雨』(昭41)の文体を予見させる。対象が異常であればあるほど、あくまで平凡な日常的感覚に執し抜く井伏流文体が、リアリズムでは決して描くことのできなかった原爆の巨大な惨禍を捕捉し得たのだ。井伏が『黒い雨』を書いたとき、人々は井伏と原爆の取り合わせを奇異に思ったが、負傷した鳥への愛の中にエゴイズムを見ずにおかない自意識が彼をプロレタリア文学に行かさなかったように弱者への愛は作品の表層へ浮上して風化せず、その底部を流れ続けて『黒い雨』を生むのである。
かくて作品は結末に至る。井伏は残された一本の胸毛から惨劇を仕立てるようなリアリストではない。<恐らく…>ではじまった作品の結びの一文もまた、
恐らく彼は、彼の僚友たちの翼に抱えられて、彼の季節向きの旅行に出て行ってしまったのでありましょう。
<恐らく…でありましょう>という微妙な言いまわしで構築された仮構の空を、サワンは美しく飛翔し去るのである。
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ(『厄除詩集』)
という井伏文学の基調音が、このとき鳴りはじめたのである。サワンはいちずな出発への意志を貫きとおし、長く捉われつづけた<屈託>に別れを告げて飛び去るのである。サワンの屈託が解消したとき、その原因を構成していた私の屈託もまた消滅するのである。こうして井伏文学の<屈託>の時代は終わるのである。これが『山椒魚』に踵を接して『屋根の上のサワン』が書かれねばならなかった理由である。
翌昭和五年、井伏は帝都を追われて流浪する平家の一少年の記録『逃亡記』を書きはじめる。
井伏文学の<漂流>の時代がはじまるのである。二項対立の矛盾の世界を悠久たる優柔不断の翼を拡げて井伏は漂いはじめるのである。この作品は十年にわたって書きつがれて『さざなみ軍記』(昭13)として完成する。さらに『集金旅行』(昭12)、『ジョン万次郎漂流記』(昭12)と書きついで、井伏は戦争の時代を漂流していくのである。

井伏鱒二(明31―平5)
広島県の加茂村の地主の家に生まれた。彼には農家出身だという自覚があり、それが彼を故郷につなぎ、その文学に庶民性を与えるもとになっている。その作品は淡々とした平凡な表層の底に、屈曲に富んだ詩情や微妙な人間味が隠されている。 
 
病者のダンディズム / 吉行淳之介『漂う部屋』 

 

人はだれしも脅えるものだ。人が脅えるとき、あるいは脅えに対して身構えるとき、その人のありようは紛れようもない形で浮かび上がる。それを作品化すれば、その作家の文学の原型がどこかであぶり出されるものだ。抑制の美学を基底にふまえた吉行の文学は、あらわな脅えを描出することはない。ところが入院体験を素材とした『漂う部屋』(昭30)は小説の時間の中で成熟するいとまもなく書かれたという事情とも相俟って、はからずも、そのエッセイ風なエピソードの行間から吉行の脅えが露見するのである。この作品が露呈している脅えは多分吉行文学の原質を示している。
『漂う部屋』の主人公<私>は肺結核の手術を受けるためにある療養所に入院しているのだが、その新しい環境のすべてに<自己嫌悪に陥る>ほどにも脅えている。この療養所では午後一時から三時まで絶対安静の時間であるが、そのとき仰臥している患者の多くは、タオルを細く折りたたんで両眼の上に載せている。その姿勢は不吉な予感を漂わせて私を脅かす。また広い病室の隅のベッドを白いカーテンで仕切って孤立させて重患用のコーナーを作っているのだが、その白い幕の隙間から覗いてみたならば、中に人間の形をしていないものがベッドの上にうずくまっているのが見える、という妄想に脅かされる。これらは病者の世界が醸し出す死の影への脅えであるが、それが後者のような形をとるとき、脅えというものは普通やみくもに襲ってくるものなのに、この恐怖には一定のフォルム(様式)があり、フォルムを通して恐怖を深化する吉行の感性の文化史があり、彼のすぐれた恐怖の語り手としての資質の片鱗を示している。
脅えがもっとあらわに露呈するのは対人間の場合においてである。まず呼吸停止の検査をする<色の黒い、眼の鈎り上がった、怒ったような顔つき>の看護婦には、ことあるごとに虐められる予感に脅かされる。またその呼吸停止のとき、私と同時に検査を受けて三十五秒しか停止できなかった青年が、私の停止時間が一〇〇秒を超えたとき、<あんまり、ムリするなよ>と悲鳴に近い叫び声をあげる。その声は、病者の世界では<一〇〇秒も息を止めているということは、許すべからざる裏切りだ>と叫んでいるようにおもえ、<入場券を持たないで劇場の中をぶらついているのを咎められたような気持>になる。さらに、私は同室の私のベッドの近くにいる電気屋の東野さん、大工の南さん、自転車屋の西田さん、国鉄の車掌の北川さんといった、幼い頃から自分で稼いでいる人々に妙な気おくれを感じる。これらの脅えははじめて出合った異質の人間への脅えであり、それはエリートの民衆へのコンプレックスに根ざしており、蕩児のかたぎへの負い目という色合いを帯びていた。もっと一般化して言えば、吉行の文学はこのかたぎの社会に入場券を持たないでぶらついている余計者の文学なのである。
人はそれぞれ自分の原風景を持っている。それはある状況の額縁の中であらわれる運命的な自我像である。彼の場合、それは太平洋戦争の開戦という歴史的状況の中で訪れる。この作家の超時代的ポーズにもかかわらず、彼がいかに時代の中に生きているかもそれは示していた。「戦中少数派の発言」というエッセイから引用する。
昭和十六年十二月八日、私は中学五年生であった。その日の休憩時間に事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。生徒たちは一斉に歓声をあげて教室から飛び出していった。三階の教室の窓からみると黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、私はどうしても忘れることができない。
ここには開戦という国家の祝祭に参加できないで集団から疎外された孤立感と、そのような集団の愚劣を冷然と見下ろす自恃に立脚した反俗のエリート吉行の原質が鮮明に示されていた。この戦争に背を向けた戦中少数派は戦後民主主義にも背を向ける戦後少数派と化し、自己の孤独な生理にふさわしい場所として娼家にたどりつくのである。この一般社会から疎外され、蔑まれた娼婦の町が反俗のエリート吉行の生理になじんだのである。彼はそこで蕩児という仮面をつけて生きることになるのである。彼はすでに「娼婦物」といわれる『驟雨』(昭29)を書いていたのである。
この学生、作家、娼家を自分の生活の領域として持ったエリートが、この病院ではじめて異質の他者、民衆と起居を共にしたとき、彼は自分を余計者として意識せざるを得なかった。ともあれ私は同室者への脅えに直面し、どういう対応をしていいのか見当もつかないので、窮余の一策として<ワイダン>を喋ることにする。<ワイダン>は音楽に似て、注釈抜きで通用するから。<脅え>に対するに<ワイダン>をもってする、そういう反応は次の医者への対応に似ていないだろうか。
医者は私のレントゲン写真を見ながら、<これは、骨を三本も取ればいいでしょう>と無造作に言う。私はその医者の言葉にひるみ、侮辱を受けた気持になる。私は自分の骨を医者の手から取戻し、その骨でイヤリングを造って好きな女の耳を飾ったり、耳かきをこしらえて耳の穴をほじくったりする空想をして、気持を紛らそうとする。医者から脅かされた<侮辱>を<イヤリング>や<耳かき>というユーモラスでとぼけたものに変形することで、心理のバランスを回復する、このようなダンディな反転力は彼の生得のものなのであろうか。
私は自分の脅えからして同室者の目に<小心で初心なサラリーマン>と映るだろうという私の予想を裏切って、意外にも<ズウズウしくて、スケベエで、物分りのよい人間、神経が顫動を起こすことには縁遠い人間>という<役割>を貰ってしまう。これには<動揺が表情にあらわれない>という私の体質もあずかっていよう。この役割の定着までに二ヵ月を要した。私は与えられた役割という<城>に潜りこんで、あたりを<観察>しはじめるのである。吉行の文学は<薔薇販売人>という仮面をつけることで、日常世界の裏側に広がるメルヘン的世界へ入って行く男を主人公とする『薔薇販売人』(昭25)からはじまったが、『漂う部屋』では、役割という仮面はすでに自ら選び取ることはできない。例えば同室の東野さんは女のこととなると頭の中が灼熱し尻に火がついたように病室から飛び出して行くので<ジェット機>という綽名をつけられ、それに不満で綽名を変更しようとあせるのだが、あがけばあがくほど事態はこじれていくばかりなのである。綽名や役割は他者との力関係に支配されていて、自分の力だけではどうにもならないのである。このような力学に規定された役割は、立てこもるべき<城>であるとともに、<観察>という出撃の拠点でもあるという柔軟にして強靱な構造を持っているのである。『薔薇販売人』の仮面から『漂う部屋』の役割へ、吉行流リアリズムは確実に精緻の度を加えていくのである。こうして<脅え>を<役割>で受け止め、反転させていくことで、私の生は新たな展開へ向かう。
病者である私を脅かすものは、何よりも手術であり、手術の痛みであり、その向こうに隠れている死の影である。手術に向かうとき私は、
痛い、とか苦しい、とかいう言葉を一言も言うまいと考えた。そういう気取りで身を装うことに心の支えを見付け出して、その瞬間をやり過ごして行こう。
と考える。手術を迎える心構えを<気取り>という言葉で表現するところに、私の生きる姿勢、あるいはダンディズムが示されている。入院前、私はまるで家屋改築の設計図でも作る具合に、机の上に図面や書類を拡げて研究したり、手術のカラー写真を刺戟を受けなくなるまで眺めたりした。それは自分の肉体を即物的に捉える医者の無造作な視線に迫る心情の鍛練なのである。この手術に臨む準備の周到さは、あの<気取り>というダンディズムがどんなストイシズム(克己)に支えられていたかをあます所なく示している。私に与えられた<神経の顫動を起こすことのない人間>という役割は、私の演じようとする人生の劇の役と符号していたともいえる。それゆえ、私は手術後目覚めたとき、まず自分を心配そうに覗きこんでいる人々に向って<ビールを飲みたい>とズウズウしい男としての自分の役割を演じることを忘れないし、また演じることに喜びを見いだしてもいるのである。この並々ならぬ演技力をみると、ダンディズムとはいかなるときも自分の役割をベストに演じぬく確乎たる倫理と化したかのごとくである。
この療養所には第四病室も第九病室もあり不吉とされる数字も避けていない。私は十三号の大部屋に入院し、手術を受けて一週間目、四号室の患者が死んだので、私がその後へ移ることになった。私に移室を告げる主任看護婦の毅然とした態度は、出て行く戸口で不意に崩れ、妙にもじもじしながら、<あのう、もしイヤだったら、我慢しないでイヤと言っていいのですよ>と言いはじめる。私に特定の数字を不吉におもう気持はない。脅えるはずのものが脅えないとき、脅迫者の毅然は揺らぐのである。その脆さのおかしみが私の観察眼にむき出しに捉えられる。それでも四号室の先刻まで死体が人間の形に排除していた空気の隙間の中に、私の躯がすっぽり嵌めこまれてしまったとき、
ぴったり死体に接触していた空気の壁をいくらかでも向うへ押しやろうとするような具合に、私は躯の痛いのも忘れて身じろぎしていた。次の瞬間、自分のしていることに気付いた私は、はげしい可笑しさに襲われた。
ここには死の恐怖にひたされた状況の中で、脅える自分を見つめ、脅えること自体のおかしさに気づき、笑いによって脅えを超えるダイナミズムがある。これこそ吉行のダンディズムを支える発条(ばね)である。このしなやかな反転力は脅かすものを対象化し、滑稽化する逆転の装置を内包している。同じ病者の文学でも、例えば芥川の自己観察にはそのような装置を欠いでいた。それは病院に行くことすら怖れて自滅する『歯軍』の脅えを思い出すだけで十分である。『歯車』からは痛ましい悲鳴しか聞こえてこないが、『漂う部屋』からはユーモラスな哄笑が聞こえてくるゆえんである。
吉行文学の笑いは、この作品の第一章に描かれている、部屋の隅にある白いカーテンの仕切りに入っているある重症患者の笑いの中に典型的に描かれている。その患者が何時間にもわたって喀血の咳が続いているとき、誰かのラジオが手違いで突然大きな声で、<ナムアミダブツ、ナムアミダブツ>とひびきわたったのだ。部屋の中は一瞬ざわめき、あちこちで笑い声が起った。それで終ればよかったのに、おせっかいな正義漢が出てきて、<ナムアミダブツなんて、××さん(白いカーテンの中の人)に悪いじゃないか>と言い出して、大喧嘩がはじまるのである。やがて人々は言ってはならないことを口にし、そのことに気づいて、一瞬病室が森閑とする。そのとき、笑い声が白いカーテンの中側から聞こえてきたのだ。
その声は、自虐や自嘲の陰のない透明な笑い声だった。私はカーテンの中の人の強靱さに、胸を衝かれた気持だった。重症の躯からもう一人のその人が脱け出して、いまの状況を眺め議論を聞き、そして普遍的な問題として笑うことができたのだろう。
この笑いこそ吉行のダンディズムの極致なのである。そしてこの作品は、そういう境地へにじり寄って行く男の苦闘を描いたものである。
最後に私が至りついた心境を示すエピソードを一つ紹介しよう。私が四号室へ移ってから毎夜、消燈時間が過ぎると四号室の呼び出しランプが私がベルを押さないのに点燈するという刺戟的な出来事が続き、深夜見まわりの看護婦が二人手をつないで、こわごわ歩いているという話がつたわってくる。四日目、またもや、寝入ばなに起こされた私は、顔を出したのが私が入院したとき呼吸検査をした色の黒い気丈そうな看護婦であったせいもあって、
迷惑な気持と、いたずら気とが一緒になって
「僕はベルを押しはしないけどね、なんだか天井の穴から青い手が伸びてきて、ベルを押したようだったよ」
とからかってみるのも、そういう状況の中で迷惑を楽める、恐怖を滑稽化できるダンディズムのあらわれであろう。
「ヘンなことを言うのはやめてください」と叫ぶように言うとドアを押しつけるように閉めた。私はその烈しい勢におどろいていると、しばらくしてからドアの外側で忍び笑いをする声が聞こえはじめ、その笑いが少しずつ大きくなりながら、廊下を遠ざかってゆく靴音がひびいた。
私は彼女の一瞬の脅えを確認し、ほぐれたやさしい気持になり、暗闇の中でしばらくひとりで笑う。こうして私はズウズウしい人間という役柄を噛みしめつつ、脅える人間から脅かす人間へと、演技の領域を拡げていくのである。現実を舞台と化す決意の中に作者吉行淳之介はいたのである。それが吉行文学の現実との距離である。つまり現実と作品を隔てているのは虚構でなく演技なのである。ここにこの作品の私小説性がある。
この作品には実は描くべくして描かれなかったもう一つの脅えがある。彼らが以前所属していた社会へ復帰できるかどうかという入院患者にとって切実な不安である。社会的経済的な脅えである。それは第四章の北川さんの退院の中で描かれているけれども、結局、この療養所を<外の世界から浮び上がり、漂っている><漂う部屋>と捉えるように、この部分はリアルに描かれていない。社会への脅えは極めて象徴的に<漂う部屋>という表題の中に閉じこめられ、暗示されているに過ぎない。正面から取り組むにはあまりに巨大で深刻なテーマなのだ。そこに吉行のダンディズムのアキレス腱があるのかも知れない。しかし、それは多分無いものねだりだろう。もともと吉行文学は社会という概念の拒否の上に成り立った文学なのだから。
ともあれ、入院は他者との接触の少なかった吉行にとって貴重な体験であった。娼家が彼の文学を育てた母胎であったように、病院は彼の人間学を深めた揺籃であった。蕩児のストイシズムは、さらに病者のダンディズムを加えることで、吉行文学の人間解釈学の味わいはいっそう深まっていくのである。

吉行淳之介(大13―平6)
新興芸術派の作家吉行エイスケの長男。若くして死んだ父へのコンプレックスに長くこだわる。反俗の知性が性と出合うところに吉行文学が成立する。あくまで性に執し抜くことで人間認識を深めていく。性への視座の変遷につれて、その文学も変容していく。 
 
狐の化生 / 石牟礼道子『椿の海の記』 

 

石牟礼道子の心の空洞には一匹の古狐が住んでいるという。『草のことづて』(昭52)の中のその小文を読んで以来、私はこの詩人の心に狐を住まわせるという不思議なありようを忘れることができなくなった。それはなんとも魅力的な存在の様式で、いつかこの詩人の希有な存在構造を解明したいと思い続けてきた。彼女の作品を読んでゆくうちに、その不思議を解くかぎは『椿の海の記』(昭51)にあるらしいと見当がついた。『椿の海の記』は驚くべき精緻さで復元された幼時体験の細密画である。ものごころつくという人生最初の劇をこれほど克明に描いた作品を私は知らない。それはまた、私たちの失ってしまった魂の原郷のありどころを実にくっきりと指し示してもいるのである。
<わたし>(みちこ)を狐の世界に導くのは祖父<松太郎>の二人の妻、正妻<おもかさま>と権妻(ごんさい=めかけ)の<おきやさま>である。祖父は自分の浮気がもとで正気の人でなくなったおもかさまを彼女(みちこ)たちの所に残し、おきやさまと湯の児(ゆのご)に住んでいる。祖父の工事道楽のために没落した彼女の一家は落魄したものたちが流れつく<とんとん村>に住みついている。とんとん村からは湯の児はいわば地の果てである。
<ここば、ずっとゆけばどこさゆくと>
<そこからまたゆけば>
<いちばん先はどこ>
それから、それからといい出したが最後、夜中でも明け方でも、どこへ向かって歩き出すのかわからぬ魂のおかしな娘が、<ゆこい、湯の児に>といいはじめると、もうどうにもならないのである。
そのときわたしが漠然と感じていて、行ってみたかったのは湯の児ではなくて、いちばん先の方、つまり毎日毎日一生かかってずっと海の岸に沿い、どこまでもどこまでもゆけば海のつきるところ、山のつきるところ、つまり地の涯までゆかれるにちがいない。
幼い魂をつき動かす無限志向は、いつも彼女をこの世ならぬ遠方へと駆りたててやまないのである。それにしてもこの無限志向はどこから来たのか。それは多分祖父松太郎から受け継いだ資質のように思われる。松太郎は<つかみどころのない創作欲>のごときものに一生憑かれていた<石の神様>といわれた石工で、生涯夢を追い続けたロマンチストの<夢助>であった。そのために全財産を蕩尽してはばからなかった。そして、この無限への衝動を天成の資質として持った幼女が数に出合うとどうなるのか。
数というものは無限にあって、ごはんを食べる間も、寝ている間もどんどんふえて、喧嘩が済んでも、雨が降っても雪が降っても、祭がなくなっても、じぶんが死んでも、ずっとおしまいになるということはないのではあるまいか。
という強迫観念に捉えられる。一生泥酔してこの世を見ていた父<亀太郎>は彼女に人間のありようを教え続けた教育者でもあった。亀太郎は彼女の無限に漂う魂を現実につなぎ止めようとする。
かんじょうしきれぬうちにくたぶれて、死んでしまうけれ、それでおしまいだ。
こうして彼女の幼い魂の苛酷な数のドラマは人間は死という有限によって救われる他ないという認識に到達することで終焉する。
しかし無限志向という一種の無間地獄に落ち込んだ幼い魂に救済は訪れず、次に諸関係の不思議という世界をさまようことになるのである。亀太郎は<人間死ねばおしまい>というけれども、彼女は死後の生まれ替りの世界の中に自分の本来を求めてさまようことになるのである。
かくて湯の児は無限のミニチュアとして彼女を招くのである。おきやさまはそのはるかさで彼女を惹きつけるのである。おきやさまは彼女を心から歓待し、
みっちゃんばおひとり、お客さまになってもろうて、語りましょうばい。
といって、四歳の彼女に葛の葉の浄瑠璃を語ってきかせるのである。
恋しくば訪ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
葛の葉がその正体を見破られて、愛する夫と子に別れて人間世界を去らねばならないあわれな狐の物語を、四歳の幼女ひとりに向かって髪ふり乱して語って聞かせるおきやさまの孤独な心のたたずまいは鬼気迫るものがある。
おきやばんな、前(さき)の生(しょう)か、後の生じゃ、けだもんばい、畜生ばい、ありゃあ、おもかさまを、あのような目に遭わせ申して
と世の人の冷たい指弾をあびて、
もとよりその身は畜生の、くるしみふかき身の上を・・・
と語ると、女の業の深さとあわれさが一種凄惨の気を伴って迫ってくる。しかし、それを受け止める四歳の幼女の早すぎる人生開眼はいったいどこからきたのか。
ものをいいえぬ赤んぼの世界は、自分自身の形成がまだととのわぬゆえ、かえって世界というものの整わぬずっと前の、ほのぐらい生命界と吸引しあっているのかもしれなかった。
ものごころつくとは、そのような<根源の深い世界>から転落するということであり、転落した不幸の自覚のはじまりであり、またその不幸を生きている大人の辛さがわかることでもある。それゆえ、あやす大人があれば笑わねばならないという子供の勤めの自覚でもあるのだ。
なにかと辛い大人たちに、つとめと心得て、子供のふりをすればするほど、胸の中の悲哀は深くわだかまる。
このような屈折した意識の重なったある日、突然爆発するような激しい自己顕示の情熱の虜となる。彼女は<髪結いの沢元さん>に入りびたっていて<末広屋>の女郎衆に可愛がられていた。
淫売という言葉を吐くときの想い入れによって、自分を表白してしまう大人たちへの好ききらいを、わたしは心にきめだしていた。末広の妓たちを慕わしくおもっていたわたし自身が、大人たちへのひそかなリトマス試験紙そのものであった。
ある日、彼女は<異常に早く来て去ったわたしの女盛りともいうべき>花魁(おいらん)道中を演じてみせるのである。家族の留守をねらって、花魁をまねて髪を結い、着飾り化粧して、往還道を日傘をさし木履をはいてしゃなりしゃなりと歩くのである。自分の愛する女たちの不幸をまるで祝祭のごとく演じてみせたこの道中は彼女の自己表現の形を示していた。四歳の幼女の一生一代の熱演は自己の不幸を媒介として他者の不幸に同化することを主軸としながら、自己と他者の、女の不幸と至福がどろどろとないまぜになった迫力があり、そこには女だけが持つある妖しい力が現われていて、そういう形で一種の女性開眼に達した幼女は、おきやさまの女の業の悲しみがわかるのである。そしておきやさまの語る葛の葉のあわれは、彼女が狐に化生(けしょう)する一本道へと続いていたのである。
わたしはなんとか白狐になって、それから人間の女性(にょしょう)というものに化身したくてならなかった。
単に狐に化生するだけではなく、それからさらに人間に化身するという、狐を通路にして人間に再帰する往復運動の中に石牟礼道子の化生の特異性がある。そこで彼女の想像力は世の常の化身の論理を超えるのである。狐を通路にして帰ってくる人間はもちろん元の自分ではない。このような転身の自在さこそ石牟礼道子の基本的な存在構造である。
狐に転生するきっかけを与えたのはおきやさまであるが、彼女の転生力を育てたのは祖母おもかさまである。彼女の属している下層社会の人々は、狂者を精神病患者とか異常者とか冷たくいわずに、哀憐の情をこめて敬称をつけ<神経殿>と呼んでいた。<神経殿の孫女>といわれていたので、いずれ自分もおもかさまのようになると思いこんでいた彼女は、自分の最深部でこの祖母につながっていた。それはまた伝承の世界の祖母から孫娘へという継承の型をふんでもいたのである。この作品では母は稀簿な存在でしかない。おもかさまが見えぬ目でどう歩いて行くのかはだしで往還道を漂浪(され)きはじめると、夜中でも雨降りでも雪降りでも、必ず走って行くのは彼女の役目でいつも影のごとく寄り添っていたのである。おもかさまは彼女以外の者は寄せつけなかったのである。天地の間にゆくところもなくさまようおもかさまとともに、彼女の魂もまたこの世の裂け目をふみはずしてさまようのである。この盲目の狂女に寄せられる温かさも投げつけられる石のつぶても冷たいしうちも彼女はそのすべてを受け止めつつ人間世界を知っていくのである。人間世界の底まで見える視力を彼女は獲得していくのである。人はこの盲目の狂女の前で自分の心の裸をさらすからである。
祖父の訪れない日のおもかさまの精神はおおむね平穏で、そんな日にはおもかさまは彼女に語って聞かせる。
山に成るものは山のあのひとたちのもんじゃけんもらいにいたても、欲々とこさぎ取ってしもうてはならん。カラス女(じょ)の、兎女の、狐女のちゅうひとたちのもんじゃるけん、ひかえてもろうて来。
それは人間と動物が対等な人格で共生しあっている世界である。このすべての生類のむつびあう世界の中で彼女は育つのである。おもかさまの属している世界は、神々やその眷属(けんぞく)やカゴという妖怪や、あるいは兎女や狐女の住む、神話や民話に彩られた古い伝承の世界である。やがてこの地に水俣病という近代の毒をふりまく新日本窒素株式会社ははるか地平にその姿を見せはじめてはいるが、彼女にはまだ無縁の別世界のごとくであった。彼女を取り巻いていたのは前近代の、村老たちがそれぞれに愛すべき多彩な神々との出合いの体験を物語る牧歌的な世界なのである。おもかさまはその過剰なやさしさゆえにそこからさえ踏みはずした人なのである。それは語る人間よりも語られる神々に近い存在なのである。彼女もまたあの失われた<根源の深い世界>への回帰を希求するゆえに、語られる兎女や狐女に近い存在なのである。それゆえ、
いっそ目の前に来たものたちの内部に這入って、なり替ってみる方がしっくりした。いのちが通うということは、相手が草木や魚やけものならばいつでもありうるのだった。
かくて彼女は自在になり替り、なり替りの秘法を天成の名手のように身につけてしまうのである。この希有な想像力によって、水俣病患者になり替って書いたのが『苦海浄土』(昭44)であり、あの書は如何なる意味でも聞き書きや記録ではないのである。ともあれ、四歳の幼女は狐に化生する。
狐の姿をあらわしかけて、ちょこちょこと爪立ち歩いてゆくきわの、あわれでならぬ葛の葉は、おきやさまであり、おもかさまである。
おもかさまの民語的世界に身をひたしながら、おきやさまの浄瑠璃という文化的世界を媒介にして、彼女の狐への変身は完了するのである。こうして正妻と権妻の、狂気と正気の、民話と文化の交錯する地点で彼女は異類に転生するのである。その狐の眼によって、この世の正相と異相が同時に見えはじめる。石牟礼道子の諸作品にあらわれるあの世からこの世を見返るような不思議な視線はこうして形成されたのである。
諸関係の不思議の中を彷徨する魂にとって最大の不思議は自己の存在である。彼女は自分はどこがら来たのか、どこへ行くのかと問う。それらを
五官のすべてを総動員して、わたしは知りたがり、ほとんどやつれてくらしていた。草とか水とか、麦とか雪とかになり替ってみることは、むしろ安息でもあったのだ。
自己の実相と虚相の裂け目の無間地獄に落ちて、自己の根源の深い世界を求めてさまよう魂にとって安息とは何だろう。なり替りとは根源に届き得ぬ魂の擬似安息であり、一種自己否定を通して死へ通底する回路でもあったのだ。梅雨の長雨の終りの出水の日、遠くで半鐘が鳴っていた。彼女は水に誘われるように母の呼ぶ声に背を向け、かなたの天と自分の中から低く呼ぶ声に従って水に向かって走る。
現世へはもう帰りたくなかった。わたしは泣きじゃくりながら、ひとりぼっちだった。音を立てて移動し出した渦の中に、ふいっと躰を投げいれて流れに乗った。広大な、曇った天のかなたをそのとき見た。
こうして四歳の少女は自らの人生の幕を引こうとする。そのとき彼女は<天のかなた>に何を見たのであろうか。
神話の世界から失墜した神が民話の世界では異形の者と化すように、根源の世界、生命界のみなもとから転落した石牟礼道子は詩人ならざるを得ない。
人の言葉を幾重につないだところで、人間同志の言葉でしかないという最初の認識が来た。草木やけものたちにはおそらく通じない。
彼女は神々の言葉を失ったゆえに巫女にはなれない。しかし生類の言葉の中での人間の言葉の限界についての痛覚の上に誕生する詩人は異形の詩人たらざるを得ない。古代の言霊をあやつった巫女的詩人とはまた別の、草木やけものたちと共生し根源の世界への憧憬を響かせた新たな言霊的詩人が出現するのである。石牟礼道子の文学は古い古い神話と民話を生きる人々の語りを基盤として、生まれ替りなり替る化生という変幻自在の想像力によって生み出された文学世界である。『椿の海の記』では狐つきの幼女という古風でありふれた視点を意表をつく文学の新しい視座として構築してみせたのである。彼女は後年、高群逸枝に出合い、その狐の詩を読む。
広い野原に一匹の
狐が穴を掘りました
夕べとなれば縁(ふち)に出て
野を見渡して申します
というような近代人の心情の投影にすぎない狐の詩から彼女は何らかの影響を受けたとは思われない。彼女の文学の視座は、四歳のときに心の深部に住みついた葛の葉の人間の時空を超えた痛苦によってすでに貫かれていたのである。

石牟礼道子(昭2―)
熊本天草の建設業の父の仕事先で出生、水俣で育つ。以後水俣に定住し、水俣病を生涯の課題として背負い続けている。幼時にめざめた人生の不思議をいつまでも生き続けて、その果てに文学の母胎と化す。庶民の心底に生きる原初の言葉で現代の病理を告発する。 
 
さらば司馬遷 / 武田泰淳『蝮のすえ』 

 

古来、冒頭一行の輝きによって、不朽の名作として人々の記憶にとどまるような幾つかの作品があるが、武田泰淳の『司馬遷』(昭18)もそういう名著の一つである。その冒頭<司馬遷は生き恥さらした男である>は一読、ある感銘を与えずにはおかない重い衝迫力を秘めている。この日本評論文学の白眉の名著をものしたエッセイストが、戦後、作家に転身しようとして、『審判』(昭22・4)、『秘密』(昭22・6)についで、三作目『蝮(まむし)のすえ』(昭22.8)で、『司馬遷』のあの著名な文体へ回帰するのである。<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と。この評論と小説の冒頭の部分を併記してみる。
司馬遷は生き恥さらした男である。口惜しい、残念至極、情なや、進退谷(きわま)った、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜中身にしみるやるせなさを噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた。(『司馬遷』)
生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない。戦争で敗けようが、国がなくなろうが、生きて行けることは確かだな。・・・・最初は恥を忍んで生きている気でいた。だがフト気がつくと、恥も何もなく、ただ生きているだけの一枚看板であった。(『蝮のすえ』)
二つの文章は、ともに恥辱にまみれてふてぶてしく生き永える人間の不逞な強靱さといったものにつらぬかれている。寺に生まれて僧侶であることの恥ずかしさに発して、<酒を飲まずに、小説なんか恥ずかしくて書けるか>という作家であることの恥ずかしさに至るまで、恥ずかしさこそ武田泰淳の存在の核をなすものである。恥辱をめぐって人物が形象されるとき、その人物が重い存在感を漂わすのは、彼のそのような存在の構造にかかわっているからである。これらの文章も泰淳的深淵から発せられたがゆえの、重い充足感を持っている。しかし、この二つの文章の微妙なひびきの差もまた見逃がしてはならないものである。泰淳の恥辱の最も痛切なるものは、中国体験にかかわっている。中国文学研究者でありながら、侵略者として軍靴で中国の土を踏み、征服者の一員に連なって特権を享受して生きた体験こそ、彼の恥ずかしさの極をなすものである。その自分の恥辱を司馬遷の恥辱に重ね合わせて『司馬遷』を書いた。『司馬遷』の文体は直情にあふれ、ひたすらである。同じ中国体験の恥辱をモチーフとしながら、『蝮のすえ』の文体は屈折したひびきを持っている。エッセイストから作家への転身の事由は、上海における敗戦体験を抜いては考えられない。異国での敗戦において自分が<滅亡の民>として根こそぎ否定される現実に直面する。それは『史記』の<滅亡>の追体験に他ならなかった。そのような史記的体験の中で、自分が体験している滅亡をその微小な一点に吸収してしまう『史記』という世界の巨大さが改めて彼を打つのである。同時にその巨大な世界全体を記録した司馬遷という男の巨体もまた、彼の前に聳立(しょうりつ)するのである。司馬遷と自分の目も眩むばかりの落差、自分の身の丈いっぱいの背伸びをしてみても、なおあまりに相手が巨大であるとき、ふと身を屈めてみる以外のどんなしぐさが可能であろうか。すると、彼の偉大さと自分の卑小さはいっそう際立ち、極限まで拡大された落差の中から生ずる奇妙で滑稽な平衡感覚、そのときパロディという方法が発見されるのである。史記的滅亡体験に立ちむかうとき、自分のちっぽけな小説の方法としてパロディ以外のどんな方法がありえようか。かくて、司馬遷コンプレックスを逆手にとっての『史記』のパロディとして『蝮のすえ』は書かれるのである。『蝮のすえ』がパロディである以上、主人公<私>=<杉>は司馬遷のごとき記録者であるはずがなく、しがない<代書屋>として設定されるのである。かくて聖書の中の神の怒りからのがれられない偽善者、パリサイ人なる<蝮の裔>というタイトルが与えられるのである。
中国語の書類を作る代書屋の私のところに<美麗な動物>のような彼女が<女の匂い、女のあたたかさ、女の光>をまとって現われる。<私、先生の詩よく読んでいますわ。主人も先生の詩が好きです>と私の昔の甘ったるい詩に言及して私に血が逆流するような屈辱を与える。私はすでに抒情を軽蔑し、理想も信念もなく、ただ生存しているだけの代書屋なのだ。それから、<私は恥を忍んで生きているんですの>といって、彼女のつらい、恥ずかしい身の上話をはじめる。戦時中・彼女は軍部と結びついて権力を恣(ほしいまま)にした夫の上司、辛島によって暴力的に所有されていたという。夫が辛島によって漢口に派遣された留守中、辛島に毎日辱しめを受けたという。しかし、私は彼女の話を素直には聴けなかった。私は自分の身にあてはめても、<つらい恥ずかしいの念も忘れてただ生存して行こうとする、イヤらしい、憎らしい人間の本能>を彼女の上に想像するからだ。私は淫女の要素を持っていそうな彼女の魅力に確実にからめ取られていく。<あなた、わたしを守ってくれる? 愛してくれる? わたしは、あなたを愛しているのよ>というように、彼女が自分の考え抜いた筋書きに従って私に接近し、私はその筋どおり彼女との恋愛関係におちこんでいく。私は彼女を通して彼女の夫と結びつき、<ね、あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばを通して辛島に結びつく。こうして私は、彼女をめぐる四角関係の網の目に組み入れられていくのである。
<あなたに辛島が殺せる?>という彼女のことばによって『史記』の世界に充満していた殺意がこの作品にも漂いはじめる。滅亡と殺人は『史記』の基本テーマであり、したがって泰淳の小説の基本テーマでなければならない。しかし、この作品が『史記』のパロディである以上、その殺意もパロディックなものに変形せざるを得ないのである。ある日、私は辛島に呼び出されて会見する。その席上、辛島は彼女をフランス租界に連れ去る。邪魔をすると殺すと通告する。<権力をつかみ取ったその力は俺の力だからな。え、いいかい、依然として俺自身の力だからな>と権力を失ってもなお自信に満ちた辛島がそこにいた。その辛島を私は殺せるか。
インテリーは社会の良心だ。そうだな、杉君。イヤがってもそれは責任だ。だが君らは社会の腕にも脚にも、胃にも腸にもなれやせん。せいぜいのところ神経だ。小うるさい、役にも立たぬ神経だ。しかも妙てけれんな一人種の末梢神経だ。騒いでもだめさ。世界も、俺たちも痛痒を感じんよ。俺たちは、まあ大げさに言えば心臓さ。とまりたい時はとまる。自分でとまる。君らにはとまることさえできないんだからな。
というのが辛島のインテリ批判である。作者の自己批判でもある。その会見の帰り、私は酔い乱れた足どりで、<奴が僕を殺す?><心臓が神経を?>と考えながら、わざと膝を曲げ、頭上の両手をゆらゆらさせ、ゴリラのようにして深夜の裏街を歩く。すると私は、あたかも森林を出て、血潮したたらんとする現場にいそぐ膂力(りょりょく)すぐれた怪獣のごとき力にあふれてくるのであった。日僑(中国在住の日本人)として中国衛兵に対するお辞儀や規則を守るといった市民的用心は消え失せてしまう。頭上に手をあげ身を屈めるとき、インテリとしての自分の内部に閉じこめられていた野生のエネルギーが解き放たれる。その文明以前の野獣的力の深淵を秘めているのが泰淳文学の魅力の一つなのだが、おどけたしぐさなしには、自分の深部に到達できない深い羞恥がパロディという仮面を必要とする。『史記』の刺客のパロディとしての森林のゴリラを通して、私の殺意は単なる末梢神経の痙攣現象ではなく、もっと黒々とした野獣的なものに根ざしていることを、この場面はユーモラスに表現している。
私は、彼女が暴力で租界へ連れ去られ、彼女の病気の夫がひとり残される、それを拒むのが正義だと考えたのではない。私は正義が存在するとは思っていなかった。しかし、私は事件から身をひくことは自分がゼロになることであることに気づいた。私は自分がゼロになることを拒否する人間だという発見に驚く。彼女は、<わたしを守ってって頼んだでしょう。あれ取り消すわ>と私を辛島の所へ行かせまいと懸命に止めるけれども、私はすでに自分の運命を決めてしまっていた。私は正義という外在的基準を拒み、ゼロになることを拒否するという内在的、実存的基準によって自分の行為を測定したとき、私は史記的世界とは異質の、戦後世界のただなかに生きていたのである。<恥も何もなく、ただ生きているだけ>の人間から、<ゼロになることを拒否する>人間へ、私を駆りたてたのは何か。
このまま何事もなく帰っては、貴重な機会を失する、そんな気がした。重苦しい涙や血で汚れた真実の塊りをギュッとつかんだ時の、戦慄が予感された。帰国前に、この上海で、そのグニャグニャした豚の内臓のように気味の悪い塊りを握らなかったら、永久にそれは私の前から姿を消すであろう、と思われた。もう一歩だけ進まねばならなかった。
これはこの作品のモチーフであるだけでなく、たぶん泰淳文学をつらぬくモチーフなのだ。泰淳にとって世界はその核の部分に<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>を内包しているものなのだ。そのような非合理的混沌への傾斜を持つゆえに、泰淳文学は、どこかで現在の地平を超える不気味な深淵をのぞかせているのである。私を殺人のほうへぐいと一押し押しやるのは、そのような原始的混沌への衝動なのである。
かくて私は辛島との対決にふみ切るのだが、それもあまりに他人まかせ、あまりにその場かぎりであった。私は武器さえも考慮していなかった。出かけるとき、そこらに転がっている小刀と、下宿の主婦の使っている斧を持って行く。この斧はもちろん、ラスコールニコフ(『罪と罰』の主人公)の斧以外の何物でもない。<私にはラスコールニコフのような強靱な思想も綿密な計算も、冷静な用意もない、何よりもあの深さがない>とすれば、私はラスコールニコフのパロディを演ずるより外のどんな演技ができようか。私がその斧を持って辛島に切りかかったとき、辛島の背中にはすでに一本の鋭利な刃物が突き刺っていた。私は何と滑稽な刺客であることか。この殺人場面の滑稽化には、自分の作品の主人公が殺人という大それた本質的な行為にコミットするについての作者の深い恥じらいがある。深いドストエフスキー・コンプレックスがある。ドストエフスキーは上海体験の中で深く彼を捉えた作家であり、彼の作家への転身に際して、多大の影響を受けた巨人である。
私は辛島殺害事件で滑稽な役廻りを演じたのだが、彼女の夫は私が辛島を殺したことを信じて疑わなかった。
自分のために殺人が行われ、それで私は満足し、安心していられるかどうか。僕は急にいてもたってもいられない苦しさ、恥ずかしさ、すまなさがこみあげてきて、泣いてしまいました。
しかし、私は辛島の死が忘れられない。彼が死ぬときの<おびえたような、情けなさそうな、訴えるばかりの目>を忘れることができない。人を殺したことの重さがずしりと私にのしかかる。私は辛島の死後すぐ、病院船で彼女と彼女の夫の付添の形で乗船して帰国の途に就くが、私の重苦しさはつのるばかりだった。辛島の死後、彼女の夫は、彼女が私を好きなことを嫉妬しはじめる。彼女でさえ辛島の影をひきずって私を脅かす。ある日、船上での私と彼女との会話、
「わたしをまだ愛しているの、え?」
「重苦しくて、ほかのことは考えられないんだ」
「何がそんなに苦しいの?」「辛島のことなの、わたしの夫のことなの?」
「全体だよ。自分が生きていることの全体だよ」
<生きていくことは案外むずかしくないのかも知れない>と冒頭で示されたところから、殺人を契機として、彼は<グニャグニャした豚の内臓のような気味の悪い塊り>にも似た苦悩に至りつくのである。作者は、恥辱の上に居直る人間の、人生のどん底に腰をつけたかにみえる安定も、仮りそめの安定にすぎなかったことを、私が恋愛という空間をずるずるとすべり落ち、苦悩の地獄に至ることを通して明らかにする。ここに至って一つの人間のドラマの環は閉じられようとする。
しかし、作者は主人公をもう一押し、向こうへ押しやるのである。病人は衰弱し、確実に死に近づいていく。ある日、病人は私に辛島の死について語る。
「あなたは、見ていて、あいつの心の中がわかりましたか。僕には、わかりますよ。死にかかって、あいつが考えていたことが」「自分が死んで、あなたが平気で生きていることは、何という妙なことだろう、とそう思っていたでしょうよ」「僕も、今、そう思っているところですよ」
そう話す彼の顔には、
とりつくしまのない意地悪さ、徹底した敵意が、色のわるい皮膚の全面ににじみ出していた。
彼女をめぐる四角関係は辛島の死によって三角関係になる。四角関係の中で隠されていたものが、次第に明瞭な姿を現わしはじめる。病人の視線の中で、私と辛島の位置が入れ換ってしまう。病人自身死が近づくにつれて死んだ辛島に近づき、重なってしまう。作品は最後に至って病人の視座が浮上して作品全体を照らしはじめる。死者の徹底した悪意の視線によって、私の殺意はあばかれる。それは彼女の夫のためなんどでは毛頭なく、私個人の恋愛感情に発した情痴のなせるわざではないのか。こういう死者の視線によるパロディックなどんでん返しの光に当てられて、私の重い苦悩の意味が解明される。
こうして『史記』のパロディとして書きはじめられた作品が、司馬遷的世界を突き抜けて、死者の視線の絶対性に裁かれる人間存在の偽善性という戦後文学の新しい地平にたどりつくのである。
最後に、四角関係という虚構の崩壊した私の目に、かつて「美麗な動物」として私を魅惑した彼女が、聖女に変貌するさまが描かれる。辛島を殺させたのは自分であると告白して私をいたわる彼女の姿が、<澄んだ水で患者の傷口を洗う美しい看護婦>のような聖女として現われる。彼女が事件の中で浄化されたように、私もまた<蝮のすえ>の苦悩そのものをひたすら生き抜くことによって浄化に至る道がかすかに暗示されている。彼女の<死なないでね>ということばは、私の浄化への祈りなのである。
戦後、エッセイストから作家への転身の模索の中で書いた第一作『審判』は、戦後作家としての彼の思想の核となる<滅亡論>を背景に、無辜の中国老人を殺害した二郎の贖罪を追求した倫理的作品である。第二作『秘密』は、<神の悪意>という反倫理性に立脚する小説の方法論を探求した作品である。第三作『蝮のすえ』は、この思想も方法も全く反対のベクトルを持つ二作品をふまえて、パロディという屈伸自在な小説の方法を発見することで、深々とした小説空間を構築してみせたのである。この『史記』のパロディという小説の宝庫を開くかぎの発見は、芥川の『今昔物語』発見を超える文学史的事件であった。しかし、彼の小説の道行きは芥川文学ほど単純ではなかった。その変幻する多様な作品群を創り出す泰淳文学の、それらの作品の根底のところに、『史記』のパロディという位相が読みとれるばかりだ。そして、最初の長編小説であり、初期短編小説の総和でもある『風媒花』(昭27)の中に、その方法は集約される。『風媒花』は泰淳の史記である。まことに『蝮のすえ』にはじまり『風媒花』に至るまでの初期短編には、パロディによって司馬遷を超えんとする不逞な志が鳴りひびいているのである。

武田泰淳(明45―昭51)
東京本郷の潮泉寺に生まれる。父の師僧武田氏を継ぐ約束で出生時から武田姓を名のる。僧侶となるべく運命づけられていた彼は仏教から深甚な影響を受けた。諸行無常の定理を基軸とする彼の文学は、相矛眉する要素をのみこんで多元多彩な様相を呈する。 
 
幻視異聞 / 大江健三郎『空の怪物アグイー』 

 

詩人はいつも現実の彼方にもう一つの世界を見続けてきた。それは多分、文学というものの基本的性格であり、文学の原初的形態である詩において、際だった形であらわれるものであるらしい。例えば、日本文学の発生期、初期万葉の詩人は次のようにうたう。
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜明らけくこそ
この古代の詩人は、夕焼けの海に旗雲がたなびく現実の風景を見、同時に、その彼方にわだつみの神の宮殿にはためく神の旗を見たのである。この正視と幻視の二重の視力こそ詩人の基本的能力であり、詩が本質的に比喩に根ざした異文である証左でもある。比喩とは一つのものを表現するのに、もう一つの異質のものに結びつけることによって濃淡二重の映像を結ぶ表現法だから。大江健三郎の文学の新しさは、何よりもその文体の新しさにあり、その文体は比喩を核とする詩的表現なのである。そのメタファーを構造的に取りこんだ文体で書かれた作品は、必然的にメタフィジックヘの通路を持ち、作品はある種の寓意性を帯びざるを得ないのである。そういう資質を開花させて大江は『奇妙な仕事』(昭32)にはじまる初期短編群を書き、「牧歌的な少年たちの作家」という位置を確立した。やがて、大江はその確立した牧歌的抒情性を否定し、『われらの時代』(昭34)にはじまる性と政治を主題とする諸作品を書き、「反牧歌的な現実生活の作家」への転身をはかるのである。その苦渋にみちた苦闘のなか、昭和三十八年六月、最初の子供が頭蓋骨に異常を持って生まれるという生活上の危機が、彼の文学にもうひとつの転機をもたらすのである。『空の怪物アグイー』(昭39)はその異常児を扱った最初の作品であり、次のように書きはじめられている。
ぼくは自分の部屋に独りでいるとき、海賊のように黒い布で右眼にマスクをかけている。それは、ぼくの右眼が、外観はともかく実はほとんど見えないからだ。といっても、まったく見えないのではない。したがって、ふたつの眼でこの世界を見ようとすると、明るく輝いて、くっきりした世界に、もう一つの、ほの暗く翳(かげ)って、あいまいな世界が、ぴったりかさなってあらわれるのである。そのため、ぼくは完全舗装の道をあるいているうちに不安定と危険の感覚におびやかされて、ドブを出たドブ鼠のように立ちすくんでしまうことがあるし、快活な友人の顔に不幸と疲労のかげを見出して、たちまちスムーズな日常茶飯の会話を困難な吃りの毒で台なしにしてしまうことがある。
このぼくの視線、<明るく輝いて、くっきりした世界>と<ほの暗く翳って、あいまいな世界>が重って見える視力こそ、大江健三郎の基本的な眼である。大江は決して、明るく輝いて、くっきりした明視の世界のみを見るリアリストではなく、いつも世界の裏側を透視する暗い幻視を持ち合わせてもいるのである。この視力の二重性は文体の二重性と照応しているのである。<不安定と危険の感覚>という平叙体は<ドブを出たドブ鼠のように立ちすくむ>という比喩体におきかえられるのである。明暗二重の視力は、濃淡二重の文体に対応しているのである。こうしてこの作品は、主人公Dの正気と狂気、現実と幻影の交錯する不思議な世界を語るのに、語り手<ぼく>が、<ふたつの視力二・○の眼>の一つを失うことによってはじめて、語り手たる資格を獲得するというふうに設定されているのである。正視を失うことによってはじめて見えてくるDの世界とは、いったいいかなる世界なのであろうか。
語り手<ぼく>はある銀行家の息子の若い作曲家Dの外出付添いのアルバイトに傭われる。Dの空にはいろんなものが浮游していて、その中にカンガルーほどの木綿地の白い肌着を着た肥りすぎの赤んぼうがいて、それが空から降りてきてDを訪れるという。そういう異様な幻影にとりつかれている故に、Dはひとりでは外出できないのである。ぼくと最初の外出のとき、Dはあたかも自分が存在していないかのように、<透明人間>のように振舞う。電車の中でも、<擬装死の小っぽけな獣みたいな状態><気むずかしげな沈黙の牡蠣>となってしまう。これらの比喩を形づくる<獣>や<牡蠣>は大江作品にあらわれるなじみの比喩であり、大江文学の原郷がいかなるものであるかを暗示している。
ぼくはDの看護婦を待伏したり、Dの命令でDの離婚した妻を訪問したりして、Dの幻影をつきとめようとする。以下はぼくの聞き出したDの離婚した妻の話である。
わたしたちの赤んぼうは生まれたとき、頭がふたつある人間にみえるほどの大きい瘤が後頭部についていたのよ。それを医者が脳ヘルニアだと誤診したわけ。それを聞いて、Dは自分とわたしとを恐ろしい災厄からまもるつもりで、その医者と相談して、赤んぼうを殺してしまったのよ。・・・・ところが死んだ赤んぼうを解剖してみたら、瘤は単なる畸型腫にすぎなかったのよ。それにショックをうけたDが幻影を見はじめたわけ。かれはもう、自分のエゴイズムを維持する勇気をなくしたのね。そして、かつて赤んぼうを生かせることを拒否したとおなじように、こんどは、自分が積極的に生きることを拒否したのね。
長男が頭蓋骨に異常を持って生まれ、手術を受けた事件は、大江を痛撃し、彼を根底から震駭(しんがい)させた。この実人生上の事件に大江はどのように立ち向かったかは、それから半年後に発表されたこの作品が語っている。ただこの作品には、事件から受けたであろう生々しい衝撃はすっかり拭い去られて、嬰児殺しというモチーフを残したばかりである。そしてそのモチーフの鋭い刃で自分の内面世界を切り開いてみせるのである。この生の事件と作品の関係には、やはりあの二重の視力が働いていて、実人生上の事件は見事に文学上の事件へ昇華されていたのである。
赤んぼうを殺した罪の意識のために、自分が積極的に生きることを拒否したDの内面の世界がぼくの探索によって少しずつ明らかになっていく。ある日、ぼくとDは自転車でD邸の周辺をひとめぐりする。そして野菜畑のあいだの有刺鉄線の張られた一本道で、Dのそばにかれの想像上の怪物アグイーが降りてくる。ぼくがDの看護婦から聞き出した話では、アグイーは犬と警官をこわがるということだった。ところが、この逃げ場のない一本道で十頭以上の犬の群をひきつれた調教師風の男に出合ったのである。犬の群が近づき、Dはかれのアグイーが犬の群に襲撃される恐怖に怯え、やむなく犬どもに立ち向かい、ずたずたに咬み裂かれてしまうだろう。ぼくは恐怖に立ちすくみ、硬く瞼を閉じ、茫然と涙を流して自己放棄する。そのとき、ぼくの肩に<信ずべからざる優しさの、あらゆる優しさの真の核心の優しさの掌>が置かれるのを感じる。ぼくはアグイーに触れられたように感じたのだが、それはぼくの雇傭主Dの掌であった。危機は回避されていた。アグイーはどうなったのか。Dはもうアグイーには気をつかうことなく、ぼくを救おうとしていた。恐怖にうちのめされて自失したぼくに救助の手をさしのべるDの大きな愛の掌、その優しさはいったいどこからきたのか。その出来事の直後、Dは自分の幻影について次のように語る。
空を、地上から、ほほ百米のあたりをアイヴォリィ・ホワイトの輝きをもった半透明の様ざまの存在が、浮游しているんだから。なにが空いっぱいにうずめて輝きながら浮游しているかといえば、それはわれわれが、この地上の生活で喪ったものだ。
この地上で喪ったものが空を浮游している世界、不可視なものが明視化され、喪い続けることが増え続けることであるという逆説的空間を創り出すことで、大江は喪失の意味を解きあかしてみせるのである。大江が作家としての盛名の坂を登り続けることで喪い続けていたものが、異常児の出生という衝撃によって一挙に明視化される。大江はこの事件で彼自身の本来の位置にひきもどされる。その作家の位置から、自分の内部の暗闇に照明を当ててみるのである。するとその暗闇の奥にうずくまっている狂気のかたまりの中に嬰児殺しの想念が一瞬よぎるのが見える。すでに人間内面に巣喰う狂気の影は『鳥』(昭・33)でその形象化の試みはなされているが、この作品ではもう一段深刻化されて、メタフィジックな空間の設定まで進んでいる。<浮游しているそれらの存在を見る眼、降りてくるかれらを感じとる耳、それらはわれわれがそれ相応の犠牲をはらって獲得しなければならないものだ>このようなメカニズムを持ったDの内面世界、Dはそれを説明するのに中原中也の詩「含羞(はじらい)」を引用する。
枝々の、拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち、まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ古代の象の夢なりき
初恋の甘美な思い出にふけるときでも、中也の呪われた空には死児等の亡霊にみちていたのである。それは、痼疾(こしつ)のごとく死と狂気を抱えこんでいる大江の宿命の琴線にふれる。大江が中也の詩を核とする詩的作品を書く所以である。この作品には抒情詩の静謐(せいひつ)、喪失を悼む鎮魂歌のひびきがある。大江の創り出した不思議な空間は、<それ相応の犠牲>大江の深い創痍によって創り出されたものである。その生々しい傷跡を拭い去って美しい異聞にまで織りあげた想像力というものを思わないわけにはいかない。
優しさはその想像力の質と深い関係があるだろう。Dの優しさについてDの愛人の女優の次のような証言がある。
死んだ人間の霊は、生きてた最後の瞬間の状態で思い出とともに永遠に存在しているはずでしょう? ・・・・Dちゃんは、赤んぼうの死んだ瞬間から、もう自分も死んだ人間のように新しい思い出はつくるまいとして、この現実の<時間>を積極的に生きなくなったんじゃない? それから赤んぼうのお化けにはどんどん新しい思い出をつくらせようとして、東京じゅうのいろんな場所で地上に呼びおろしているのじゃない?
Dの優しさは、このような贖罪意識による自己犠牲からもたらされたものである。その対象もアグイーに限定されてはいなくて、無力で傷ついた瞬間のぼくへも及ぶ、限りない優しさなのである。ただし、Dは現在のこの時間を生きることを拒否し、この愛人ともいかなる関係を持つことを拒否している人間だから、Dにはいっさいの地上的ドラマは起こり得ないのであ