日本の美意識 [1]

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雑学の世界・補考   

「物のあはれ」

「物のあはれ」とは一体何なのか。私はそれを今日の課題にする。「物のあはれ」について考えてみると、どのようなことが言えるだろうか。
初めに、「物のあはれ」というのは、いわゆる「日本人の美意識」を代表する一つの概念だと言っても差し支えなかろう。近代の日本美意識論を問題とする書物を見れば、「物のあはれ」という言葉を欠かすことはまずない。それ故、この言葉が基本的に一つの美的理念として認められている。
他になにが言えようか。「物のあはれ」を表す具体的なイメージを挙げるならば、どのようなイメージになるのか。私がよく聞くのは、二つの有り触れた日本のイメージである。それらは桜と武士。恐らく「物のあはれは何なのか」と聞かれる時に、桜と武士という二つのイメージが多数の日本人の頭に浮かび上がるかも知れない。見る人間がまだ見飽きていない内に、華麗な花が散ってしまう。同じように、青春の絶頂にいる武士が、何も思わず、後悔もせず、主がために命を捨てる。この二つの例には、同じような切なさ、同じような消えて行く美が含まれていると言えよう。しかし、その中で一体何が「物のあはれ」なるものであるか。そのはかなさ?それともその美?あるいは主観的に言えば、そのはかなさが見る者に呼び起こす感情あるいは同情?
私が始めてこの語に会った時は英訳でしか見ていなかった。Sources of Japanese Tradition(日本伝統の源泉)という分厚いアンソロジーの中で、「物のあはれ」は「the sorrow of human existence」として訳されていた。「the sorrow of human existence」。それを返して日本語に直訳すると、「人間存在の悲哀」になる。なるほど、「あはれ」を「悲哀」の「哀」という字で書ける。この時、私は「ああ、物のあはれはある種の美しい悲哀を言うんだなあ」と納得した。しかし、そのアンソロジーの編者の中の一人、ドナルド・キーンさんが、後に自分の著作で「物のあはれ」について、「the sorrow of human existence」よりも、「a sensitivity to things」として訳した方がいいと説明している。「a sensitivity to things」―「ものへの敏感さ」。
なるほど、この方が「美的」に聞こえる、と私は思った。しかし、「悲哀」はどうなっただろうか。「sorrow」と「sensitivity」とはかなり違うように感じるであろう。その悲哀と敏感さとはどのような関係を持つのか。以上の二つの英訳はかなり早く出てきたが、もちろんその後ほかの訳も出た。少し挙げましょう。「源氏物語」について書いているハルオ・シラネが「物のあはれ」を「emotional sensitivity to things」(「ものへの感情的敏感さ」とし、同じ「源氏」を取り扱うノルマ・フィエルドが「the affectedness・the pathos・of things」(「ものの感情なる趣」)にした。この二つも感情を主とすることがすぐわかる。全然違う方向で、「物のあはれ」をかなりポスト・モダーン的に解釈したナオキ・サカイが「the meaningfulness of mono」(「ものの意味を持つ性」)としました。ここでは「あはれ」は「sorrow」でも「sensitivity」でも「affectedness」でもなく、「meaningfulness」になっている。「物のあはれ」の英訳を見れば見るほど、この問題はかえって段々複雑になってしまった。私はそう思った時に、幸いに日本語も読めるようになった。それですべての英訳を置いておいて、日本の学者が書いたものを見ようとした。
しかしそれは問題を増やしただけであった。あっちこっち見ると、どれほど「物のあはれ」についての歴史が長いかが分った。やはり、それは「物のあはれ」の難解性の根本的な原因である。「物のあはれ」の一番早い出現は935年に書かれた紀貫之の「土佐日記」の中である。ただし、「あはれ」という言葉だけを見ると、その用例は「古事記」と「日本書紀」にも出てくる。「物のあはれ」の意味を見出そうとする際には、一体どこの用例を中心的に見た方がいいか、何を根拠にすればいいか、ということは大きな問題になるわけである。平安文学の用語法に拠った方がいいのか、それとも江戸時代の本居宣長の文学論を拠り所にしたほうがいいのか。現在の用語法をどれ程重要にしなければならないのか。ある「物のあはれ」説を立てる学者は一つのいわば超歴史的な意味を目指すのであるが、そのような方向が適当であろうか。やはり、歴史上の変化も認めなければならないであろう。一つの一貫している意味を捜すには無理があるに違いない、と思った。
現在の「物のあはれ」の日常用法を基礎にすれば、もう一つの困難が生じる。西洋の美的理念、例えば「美」(beauty)・「悲壮」(tragedy)・「優美」(grace)・ユーモアなどは、ヨーロッパの言葉で早くから一般的なことばとして使用されてきた。例えば「悲壮」の場合を考えよう。曖昧さはあるとは言え、ある種の演劇や文学、そして映画は「悲劇」と呼ばれて、しかももっと日常のレベルでも、様々な人間的な事情も、「悲壮」として見られる。例えば、あるサラリーマンが65歳まで勤勉に仕事をしてから、年金の最初の月払いをもらわない内に亡くなる場合。そのようなことは決まって、悲劇である。「美」は同様である。beautifulを言うに誰も美学的な意味を考えているわけではない。人によって何でもbeautifulになりうるであろう。
却って、「物のあはれ」だけでなく、「幽玄」・「わび」・「さび」・「いき」というような日本の代表的な美学理念を考えると、それらの場合は何となく違うように感じる。それらの言葉は普通の言葉になっているとは思えない。むしろ、すべてはまだ、それぞれが表現する日本の伝統的な美意識の片面を言うに他ならない。もちろん、「あわれ」という言葉は日常会話にも現れる。「彼は哀れなやつだなあ」というような意味を持つが、その言い方の「哀れ」は美学者が研究する「あはれ」とは大分違う。最近ある京都の観光バスの広告ポスターを見かけた。それに四つのコースが書いてあった。その中の一つは「雅びコース」であって、もう一つに「わびコース」と名付けられたものがあった。「わびコース」は大徳寺の有名な茶室を見学してから、「わび」が中心的な理想とされている茶の湯に相応しい料理をごちそうになる。他方、「雅びコース」は「わびコース」より平安時代を思わせるようなお寺を見学してから、大半の時間を豪華な懐石料理屋さんで費やした。さすがに「雅び」や「わび」が今でも京都の美を「売る」ために使われている。豪華で、贅沢な平安っぽい「雅び」と素朴な、室町時代の禅仏教を思わせる「わび」と。残念ながら「物のあはれコース」はなかった。参加できれば勉強になったかも知れないね!
この例が示すとおり、現在の使い方でこれらの概念はまだまだ日本人の伝統的な美意識の特定の要素を表している。しかしそれにもかかわらず、その美意識を明確に説明することは大変困難である。古代から日本の芸術理論と文学理論もこのような概念の定義を避けた。例えば、平安時代から歌の善悪が頻繁に論じられてきても、歌合の判詞でその善悪を言う様々の用語(例えば「をかし」「あはれ」「やさし」「いう」「たけたかし」など)は、全然体系的に説明されていない。このように考えると、これはソクラテスとアリストテレスの伝統ではないということを私は実感する。しかしたくさんの日本人に「物のあはれ」について尋ねると、たいていこう言われる。「「物のあはれ」を言葉で説明するのは無理かも知れないが、我々は心の中で分かっている」と。なるほど。そう言われたらそうかも知れない。恐らくそのような歴史の複雑な、難しい概念を明確に説明するためにある高いレベルの教養や論理性は要求される。それを持っている人は、どの国にも少ないに違いない。しかしアメリカ人の私も、「物のあはれ」を確実に理解したい。理解してから、学生にも教えなければならない。そのためには、明確に、簡潔に、言葉で説明するしかない。
明治維新とそれに伴った、いわゆる近代化を越えて20世紀に入ると、様々な日本の学者も私と同じように考えてきた。例えば京都大学の九鬼周造先生などだ。彼の傑作とされている「「いき」の構造」は今でも岩波文庫で出ている。あれほど難解な本がそのようなベスト・セラーになるくらいの人気を持つのを意外に思うが、よく読まれたようである。その中で九鬼は「いき」という江戸時代の花街の美的理念を、ドイツで習った当時の流行の理論を以て解釈する。こんにち読んでもそれは一つの優れた解釈として認めなければならないが、九鬼が「媚態」・「意気地」・「諦め」という三つの契機から成立する「いき」の、内面的な構造を語る時に、それは一体何に基づいているか、という事は明らかでない。九鬼は数多くの引用を江戸時代の浮世草子から引くとは言え、その中には「いき」という語はほとんど見いだせない。そのことによって、最近、ある学者は「いき」という言葉を美的理念として、九鬼自身が創ったものとしてさえ見るようになった。例えば井原西鶴の「好色一代女」において、「いき」の用例はただ二つである。江戸時代にその語がどれほど頻繁に使用されたかはわからない。「その語はまだ祇園で使われているよ」という風に応える方もいるかも知れない。しかし、今の花街に通う人はどのように使っているのか。その使い方は江戸時代の使い方とどのような関連を持つのか。あるいは、彼らは九鬼の解釈通りに使っているのか。これで問題が見えてくるであろう。「いき」という概念の意味は九鬼周造が与えた意味なのか。それとも九鬼が見出した意味なのか。江戸時代の意識を持たなければ、その答えが出ない。
「物のあはれ」の場合はもっと難しい。「いき」は江戸の概念とされているのに対して、「物のあはれ」はいわば平安時代の概念だと見なされている。先に言った通り、「あはれ」ということばが「古事記」にも見える。「もののあはれ」は古代・中世の文学や詩歌に使用されるが、本居宣長の論になるとそのことばはある重大な、新しい意義を帯びるようになる。彼は「物のあはれ」を物語や和歌の本意とした。「源氏」のような物語と和歌とはどのように生まれてくるかという問題に関して、宣長が「物のあはれを知ること」より出てくると答えた。紫式部が生活の中で経験した感情や感動が、一つ一つ彼女の心の中にとどまってきた。宣長はその感情や感動を「あはれ」という。心があはれに満ちた時に、式部はそのあはれを表現せざるを得なかったので、そのあはれを他人に伝えるために「源氏物語」を書いた、と周知の通りに宣長が論じた。多数の学者が「物のあはれ」という語を聞くと、やはり宣長の「物のあはれ論」を思い出すに違いない。
近代になって、西洋哲学を学び、九鬼のようにその方法を以てこの伝統的な語を説明しようとする学者も少なくはない。ある学者は宣長の論説を基礎にするけれども、別の学者は古代に遡って、文学における用例を中心的に解釈するので、意見の相違はかなり激しい。例えば、和辻哲郎によると、「もののあはれ」は「永遠への思慕」である。美学者大西克禮は単なる「あはれ」を一つの派生的美的範疇として論じようとする論文の中で、その語を「世界苦」(ドイツ語のWeltschmerz)として定義したこともある。九鬼も「あはれ」について言葉を残している。しかしここで、これらの近代の説を飛ばして、「物のあはれ」の原点まで遡りたいと思う。それで平安と鎌倉文学から三つの引用を中心に見てみたいと思う。その三つはそれぞれ「物のあはれ」が持つ異なる要素を示していると言ってもよかろう。
美的趣味論の要素
初めに「土佐日記」における一番最初の出現を読むと、
かく別れ難く言ひて、かの人々の、口網も諸持ちにて、この海辺にて、担ひ出だせる歌、
   惜しと思ふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそ我は来にけれ
と言ひてありければ、いといたく賞でて、行く人の詠めりける、
   棹させど、そこひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな
といふ間に、楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く去なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。(27日の条)
この場面を少し説明しないと言葉の意味が不明であろう。ここでは土佐の守という職を終えて、紀貫之が都へ帰ろうとしている。友達が酒とつまみとを持ってきて、送別会のようなものを行う。もちろん別れの悲しみもあり、そして平安朝の貴族の習慣通り、様々な歌が詠まれる。貫之の散文は一つの歌を参考にして流れる。もう一つの歌はある李白の詩を典拠とする。これらは単なる凡人が詠むような歌ではなく、かなりの知識が前提とされている歌であることによって、この場面の優雅な雰囲気とそのメンバーのいい趣味がわかるであろう。その中で一人の鄙びやかな人がその気分に乗っていない。それは舵取りである。彼は既に酒をたっぷり飲み、風と波を見ると自分の身の安全しか考えられない、いわば「物のあはれ」を知らないやつである。すなわち彼はその時の美に対して鈍感だった。まわりの人が感じた美的な趣を把握できなかった。英語の美学用語で言うと、これはある趣味論的な問題である。彼は趣味(taste)を欠いているわけである。この引用をこのように説明したら一番自然な解釈になるであろう。この舵取りは皆のひたった美的雰囲気がわからなかったので、「物のあはれ」を知らない人と呼ばれている。そうすると、「物のあはれ」は一つの当時の美意識を表現する趣味論的な基準になり、平安時代の美的判断の水準をあらわすと言ってもよかろう。
「土佐日記」より少し下っての「拾遺和歌集」の中でも、「物のあはれ」が似ている意味で現れる。
春はただ花のひとへにさくばかり物のあはれは秋ぞまされる (拾遺集511) 
この歌においてある種の美的判断が行われているのは言うまでもない。春になると咲き乱れている花が綺麗だけど、秋の風景はもっと趣深い、と。しかしながら、これは一人の歌人の個人的な意見だけではないと私は思う。この歌はある有名な「万葉集」に入っている長歌にかなり似ているからである。それは次の額田王の春秋較べの歌である。
天皇、内大臣藤原朝臣に詔りして、春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王、歌を以て判る歌
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのぶ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は(巻1・16)
この歌で始めて、当時まで漢詩でしか表現されていない題が和歌の世界に入る。日本語の詩歌でも、季節の趣を表すことができる、という最初の証拠になるわけである。額田王の歌も、先の「拾遺集」の歌と同じように春と秋と比べる。「拾遺集」の、名前も残っていない歌人の「物のあはれは秋ぞまされる」という判断はあくまでも額田王の「秋山そ我は」と似ているであろう。ところで、この長歌の詞書を見ると、もう一つの面白いことがわかる。天皇が詔りしたのは、春と秋の景色の「競ひ憐れび」ということである。すなわち、春と秋の景色のあはれなる趣を比べることだと言っても差し支えないであろう。ここで「物のあはれ」の源泉のようなところが見える。
この2首の歌を見ると、平安時代の趣味論―あるいは美的判断の基準―を表現する言葉としての「物のあはれ」の含蓄している内容がより深く見えてくるであろう。その流行していた趣味は個人的でなく、勝手でもない。むしろその美的基準がある伝統―中国で始められて、そして日本でも発展してきた詩歌の伝統―に基づいていたということがわかる。そうすると、「物のあはれを知る」ということがその伝統と親しんで、その伝統が表す美意識を理解することになる。
ほぼ800年後、本居宣長も「石上私淑言」という歌論の中で、「物のあはれを知る」ことについて次のように云う。
さてその物のあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月に向ひて、あはれと情の感く、すなはちこれ、物のあはれを知るなり。これその月花のあはれなる趣きを心にわきまへ知るゆゑに感ずるなり。そのあはれなる趣きをわきまへ知らぬ情は、いかにめでたき花見ても、さやかなる月に向ひても、感くことなし。これすなはち物のあはれを知らぬなり。(「石上私淑言」「本居宣長集」)
宣長の比喩における一つの興味深いところはその選ばれた具体的な対象である。花―すなわち桜―と月とは古代和歌の根本的な歌題のふたつである。花と月を正しく鑑賞できない人はやはり「物のあはれ」を知らない、趣味の悪いやつである。今の日本でもそうであろう。
この趣味論的な要素を表すもう一つのかなり面白い歌を引いてみたい。これはいわゆる「新古今集」時代の代表的歌人の一人、慈円の「拾玉集」という私家集に入ったものである。
えびすこそ物のあはれは知るときけいざみちのくのおくへ行かなん 拾玉集177
ある耽美主義的なポーズを帯びて、慈円は美的趣味の良い、「物のあはれ」を知る仲間を見つけるためには、陸奥までもえびすに会いに行こうとしている姿はなかなか興味深い。
感情的な要素
本居宣長のもっともよく読まれた作品は恐らく「源氏物語玉の小櫛」であり、彼の著作の中でこれだけは現代の受験項目になっている。周知の通り、その「玉の小櫛」の中で宣長は「源氏物語」の本意を「物のあはれ」として論じる。それゆえ、どの文学作品よりも、「物のあはれ」を示すのは、やはり「源氏」だとよく思われている。「枕草子」は「をかし」「源氏」は「物のあはれ」。どの高校生に聞いても、多分これぐらいは言ってのけるであろう。
「源氏」の中では「あはれ」という言葉が千回あまり出るのに対して、「物のあはれ」の用例はただ16語に過ぎない。それゆえ久松潜一という国文学者は「源氏」の本意は「物のあはれ」ではなく、単なる「あはれ」だと言うべき、と書いたこともある。それにも関わらず、16語だけだと言っても、その中の意味合いは多様多彩であるから、ここでその意味を総括して、単純に述べるのは無理である。とりあえず、一つの場面を見てみよう。これは「柏木」の巻から引いたもので、光源氏と女三宮が話をしている。女三宮と柏木の密通はすでに終わり、柏木は悩みで没し、二人の仲にできた薫も生まれた。もちろん、この時に源氏はもうすべてを知っている。女三宮は源氏の嘆きを無視し、慌ただしく出家する。源氏はその尼の姿を見ると、泣きながら、「いで、あな心憂。黒染こそ、なほいとうたて目もくるる色なりけれ」と彼女を戒め、「今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ捨てたまひけると、恥づかしう心憂くなむおぼゆべき。なほ、あはれと思せ」と言い続ける。つまるところ源氏の頼みは「私をあはれに思ってくれ!」ということである。それに対して女三宮はこのように答える。「かかるさまの人は、もののあはれも知らぬものと聞きしを、ましてもとより知らぬことにて、いかがは聞こゆべからむ」(尼というものは物のあはれを知らないものだと言われる。私はもとより知らないものなので、どう答えたらいいかしら)それで源氏がその赤ちゃんの薫に向かって、「かひなのことや。思し知る方もあらむものを」と答える。(意味のないことをおっしゃいますね。知っていることもあるのに)。
この話の中の「物のあはれ」はどの意味を持つものか考えなければならない。源氏は密通について分かってからもちろん怒っているが、女三宮が出家すると、それは泣き面に蜂である。要するに、40歳の源氏は浮気されてから、振られた。その中学生ぐらいの、手紙さえちゃんと書けない女の子に。それで彼はもちろん嬉しくはない。女三宮が尼になったら、彼らの夫婦生活がなくなるのであろう。それで源氏は文句を言う、「何故俺を捨てるのか?悔しいなあ」と。
それで、女三宮が「私はもののあはれを知らないからよ」と答える。彼が夫婦の恋の終わりを嘆き、彼女は自分自身を彼が望んでいるような恋ができないような女として描く。何故この読みができるかというと、やはり、源氏の最後のことばでわかるであろう。彼女には恋ができる証明、すなわち彼女が物のあはれを知っている証明は、目の前にいる赤ちゃんだ。「物のあはれを知らない人ではないよ。ただ俺のことがあまり好きではないでしょう」とは源氏の意味であろう。
もちろん「物のあはれ」は様々な感情と結び付くことができる。「源氏」の中にも悲しさを表す用例もあれば、淋しさを表現するところもある。しかし、その様々な感情の大半は恋人に対するものである。死別か他の離別に向かって「もののあはれ」という場面のほとんどは恋人の別れをいう。親を「もののあはれ」に思うのは無理である。
本居宣長は「あはれ」に関係する感情について色々に書いている。そのことばは頻繁に引用されている。かれがいう。
又後の世には、あはれといふに、哀の字を書て、たゞ悲哀の意とのみ思ふめれど、あはれは、悲哀にはかぎらず、うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、おかしきにも、すべてあゝはれと思はるゝは、みなあはれ也(中略)但し又、おかしきうれしきなどと、あはれとを、對へていへることも多かるは、人の情のさまさまに感ずる中に、うれしきことおもしろき事などには、感ずること深からず、たゞかなしき事うきこと、戀しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずることこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をとりわきても、あはれといへるなり、(「本居宣長全集」)
これによるとどの感情もあはれになれるが、「悲し」「憂し」「恋し」はもっとも深いあはれを表す。彼の「物のあはれ論」を解釈する後代の著作を見ると、その著者は宣長の文章を終わりまで読んでいないのではないかと言う気がする。誰も悲哀を強調するが、私が読んだ中に誰も宣長の用いている「恋」という文字に充分の注意を払はない。しかし、実は宣長にとって、「かなし」と「うし」よりも、「恋」の方がはるかに「物のあはれ」に深い感情である。彼にとっては「物のあはれ」は取り分け「エロス」に近いものであった。宣長がいう「恋」は今で言う「恋愛」ではなく、ロマン派のloveでもない。それは体で感じる思慕、エロスであった。彼の言葉をする。
物の哀れをいみじういはんとては、必ず淫事はその借りると、それは単なる好色に近いのである。彼は次のように説明中に多くまじるべき理りなり。好色はことに情の深くかかるゆゑなり。好色の事にあらざればいたりて深き物の哀れはあらはし示しがたきゆゑに、ことに好色の事は多く書けるなり。(「紫文要領」「本居宣長集」)
そして、
人情の深くかかること、好色にまさるはなし。さればその筋につきては人の心深く感じて、物の哀れを知ること何よりもまされり。(「紫文要領」「本居宣長集」)
この見解は宣長が1763年に書いた「源氏物語」論たる「紫文要領」と和歌論たる「石上私淑言」と貫いている。彼の全体的な課題を考えると、このことが当たり前に見えてくる。つまり、彼は「源氏」と和歌を儒教や仏教的な、いわゆる「人の国」(中国)の解釈に対して反論せんとしたわけである。いうまでもなく、その最も弁護すべき所はその中の淫乱なるところであり、その好色であった。しかし宣長が以上のように書いたにせよ、その2冊の本の中で彼は自分の「恋」に関する主張に古典的な拠り所を全然見せないため、それは完全に彼自身が創造したものに見える。恐らく、平安時代の用例を見ると、「物のあはれ」と恋との関連を宣長自身のことば程率直にいう例は少ないであろう。すべては以上の「源氏」の話のように、言い回しをする。しかし、宣長は少なくとももう一つの重要な用例を見出した。何故それを「紫文要領」にも、「石上私淑言」にも入れていないか、疑問が残るが、1757年に書いたノートに過ぎない「阿波禮弁」に、次の藤原俊成の歌が引用されている。
恋せずは人は心もなからまし物のあはれもこれよりぞ知る 長秋詠藻352
これによると、その有名な歌人である俊成も「物のあはれ」と恋との関係を認めたということがわかる。
時間的な要素
次の引用は鎌倉時代の「徒然草」の第7段から引用する。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。徒然草 第7段
ここで二つの京都名所が現れてくる。もちろん、あだし野は平安時代から墓場として知られ、鳥部山は火葬地であった。両方とも仏教的無常観のシンボルとして文学によく現れる。この墓場の露が消えないならば、その火葬の煙が立ち去らないなら、すなわち人生には限りがなければ、物のあはれもないでしょう、と兼好が書いているのである。「世は定めなきこそいみじけれ」。「世の中ははかない―無常である―からこそ、人生は素晴らしい、ということになる。恐らくこの言葉ほど「物のあはれ」と無常とを親密に結びつけている用例はなかろう。「古今和歌集」まで遡っても、「あはれ」ということばを仏教的に表現している歌はいくつかあるが、もののあはれは「定めなき」ことに因っているというようなことばは恐らく平安朝の文学に見いだせない。
無常観と言えば、それは一つの特定の時間意識を示しているのである。露が消える、そして煙が空に立ち去るように、すべての人間はいつか死ぬ。すべては時間の経過によるものである。「物のあはれ」という言葉に平安朝の時間意識も含まれていると思う。その意識の中に、もちろん「はかなき」ものに対する敏感さを持つ無常観もある。
しかし過去への憧れも入っている。「源氏物語」を読むと、その中の登場人物は常に涙を流しながら昔のことを話している。例えば、朝顔の巻に次の言葉がある。
おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。
「あはれ」という語にも、ある風な昔への憧れ、ある種なノスタルジアが含まれているのである。「古今集」に入っている次の歌はそれを明確に示す。
あはれてふ言の葉ごとに置く露は昔を恋うる涙なりけり詠み人知らず
先に示した通り、兼好の「物のあはれ」にはその仏教的無常観がとても強くなっている。この事を中世文学、特に兼好と鴨長明が代表する隠遁文学に現れる末法思想の上で考えるならば、当然なことになるであろう。文学的無常観を勉強するに「徒然草」は昔から一つの不可欠なものとして読まれてきた。兼好は長明ほど平安朝の文化と生活を露わに憧れていないとは言え、彼の思想においては、その昔の貴族社会の繁栄を懐かしむ末法観があるに違いない。
ここで三つ目の「もののあはれ」の要素が見えるのであろう。それはある過去を中心とする、はかないものにこだわる時間意識である。しかも、平安時代の貴族の世界が崩れてから今まで、「もののあはれ」という語にその過去への憧れが強くなっているであろう。
例えば、国学者たる宣長の場合を考えてみよう。彼は明らかに復古主義を目指していた。今から見ると彼の古代観には様々のナイーブなところがあり、誤解も多いが、彼はあくまでも大陸思想が入る以前の純粋な、雅やかな和心―彼の先生に当たる賀茂真淵のことばでいうと真心―を和歌文学と物語文学から説こうとしていた。この復古主義において宣長も古代に対する憧れを示しているのではなかろうか。
「物のあはれ」を平安朝の貴族社会における美的と感情的な趣味として見ることができると以上に述べた。当時にはそのような役割のあったことを上に示したが、平安以来の「物のあはれ」がその理想である平安朝の美意識に対する憧憬をやむを得ず表している。それゆえ、中世以降の「物のあはれ」に以前にあったノスタルジアただ強くなっているのではないか。
今もそうであろう。具体的に考えると、現在にどのようなものを「物のあはれ」なるものとしてみるのか。散っている桜花。秋の夜。寂しいところにいる、恋人に逢えぬ一人。すべては平安和歌の歌題になっているものである。この傾向は鎌倉時代から平成まで存続している。平安美意識に対する懐かしみと憧れはかえって、「物のあはれ」の内面にも入っているのではないか。今の「物のあはれ」は平安の美意識と感情なる趣を言いながら、今の日本人のそれに対する憧れも言っているのではないか。昭和初期の様々な「物のあはれ」論の出現もこのことを示していると思う。たくさんの学者が欧米の美学を学んでから日本の独特な美意識を語る必要性を感じた。それで彼らが何よりも「物のあはれ」の解釈を行った。それは本当の日本の美、まことの日本の感情であると見られたからである。
結び
「物のあはれ」とは何なのか。私は以上に提出した三つの要素を以て、「物のあはれ」の根本的な意味が成立すると思う。一つに、「物のあはれ」は平安時代のtaste―平安時代の美的判断の基準を表現する。もう一つに、「物のあはれ」は主に恋―あるいはエロスによる、思慕の感じか寂しい感じ、を表現する。三つ目に、「物のあはれ」は時間の経過とそれによる昔への憧憬を表現する。この三つの要素から「物のあはれ」が成り立つ。
どうして三つの用例によってこの千年以上の歴史を持つ、しかも多様多彩に使用されたことばの意味がわかるか、と思う方もいると思う。さて、この三つのうちの一つも示していない用例はあるに違いない。例外がないとは思えない。しかしこのように考えてみると、やはり、様々な問題が解決できる。一つは本居宣長の18世紀の理論と平安文学との復古主義的な関係である。宣長は明らかに「物のあはれ」の趣味論的な要素との重要な関係を述べている。彼は憧れについて何も書いていないが、宣長の全体的なプロジェクトはあくまでもノスタルジアに基づいていた。
しかも以上の説明は現在の「物のあはれ」用語法とは一致していると言ってもよかろう。恋との関係が以上に述べた通り少し失われたが、そのほかの二つの要素は含んでいるだろうか。今の「物のあはれ」は平安の美意識を反映し、その朝廷の文学に写された感情的な趣も帯びている。しかもこの語はその失われた栄華―日本の美的頂点に立ったその耽美主義的な平安時代の栄華―を懐かしむのではないか。特にこの近代化された、西洋化された日本においては、その意味を見過ごしてはいけない。
「物のあはれ」は何なのか、と問われるに、それは平安時代の美的趣味、平安時代の恋愛観、そして平安時代にあった時間意識とその中に含まれているノスタルジアー時代が経ってからもっと強くなったノスタルジアーからなる概念である。
 
荘子の胡蝶は俳諧の世界に飛ぶ

 

江戸時代の俳諧には胡蝶のイメージを使う句がかなり多くある。次は江戸俳壇の三大流派であった貞門、談林、蕉門の俳人たちが作った蝶の句の中から選んだ一部である。
貞門
ちる花やこてふの夢の百ねんめ
ねるてふの夢想やひらく花下 季吟「山の井」(正保3年奥書)
談林
書院床までかよふ春風
蝶々の夢路やだうに迷ふらん 宗因「物種集」(延宝6年)
八百年もあだ夢の中
花にあそぶ胡蝶は前漢後漢まて 惟中 「梅翁判惟中独吟十百韻」
親ハ親ハの小蝶とぶ也
うつけとも夢ともあれが見えぬげな 宗因 「二葉集」(延宝7年)
地にあらバ胡蝶と成てねもしなん
百年の歓会(クハンクハイ)一夜の床入 宗因 「阿蘭陀丸二番船」(延宝8年)
蕉門
椹や花なき蝶の世捨て酒 芭蕉 「虚栗」(天和3年)
蝶居士が花の衾に夢ちりて 其角 「虚栗」(天和3年)
起きよ起きよ我友にせんぬる胡蝶 芭蕉 「笈の小文」(貞享4年)
巡礼死ぬる道のかげろふ 水
何よりも蝶の現ぞあはれなる 翁 「ひさご」「木このもとに」(元禄3年)
いろいろの名もむづかしや春の草 珍
うたれて蝶の夢はさめぬる 翁 「ひさご」(元禄3年)
時間の都合で右の句の意味を一々分析してみることができないが、これらの句を見ると一つの共通点がある。つまり、「胡蝶」のイメージはいつも「夢」、或いは、「眠」という表現と一緒に使われている。こういうイメージの組み合わせは偶然なことではない。これは中国の道家思想の古典「荘子」と関係がある。ご存じのように、「荘子」には「荘周の夢」という寓言がある。福永光司の日本語訳で読めば、それは次のような話である。
昔は荘周、夢に胡蝶と為なれり。栩栩然ひらひらとまいて胡蝶なり。自ずから喩たのしみて志こころに適えるかな。周たるを知さとらざるなり。俄然にわかにして覚むれば、まぎれもなく周なり。周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。
「荘子」の寓言に照して読むと、江戸時代の俳人たちは蝶の句を詠むとき、「胡蝶」を描写的なイメージとして使うより「荘子」の寓言が念頭にあったことが明らかである。
江戸時代の俳諧における「荘子」の影響はこれだけではなかった。延宝の初めの頃の江戸の俳壇の論争の中でも「荘子」はよく引かれた。談林の宗匠西山宗因(1605-1682)は「蚊柱百韻」を発表してまもなく、当時俳壇の主流であった貞門の俳人から批判された。「しぶ団」と言う俳書で貞門は「俳諧といふも和歌の一躰ならずや。歌は国を治め、身を治めるみちなり。」と強く主張し、談林の俳諧が「その本意をうしなひ、いひたきままにいひちらし」と否定した。これに対し、西山宗因の門弟岡西惟中(1639-1771)は「しぶ団返答」を発表して、つぎのように答えた。
俳諧といふものし(知)られぬ眼(まなこ)からは、歌の一躰じ(ぢ)ゃ、連歌のすが姿たじ(ぢ)ゃのとのゝしる。返(かへす)■■(がへす)「俳諧の蒙求」といふものをあけ(明)くれ(暮)まく(枕)らにして、俳諧といふ所に悟入せらるべし。俳諧といふ出所と本意と、さき(先)の「蒙求」に詳(ツマビラカ)なれども、猶またこゝにしる(記)しぬ。引あはせて見らるべし。それ、もろ(唐)こし(士)の書にては、「荘子」一部を俳諧の本意とおもひ、文字づか(遣)ひ、言葉のやう、皆俳諧としるべし。いま我(わが)国にしては、「源氏」一部の本意俳諧なりとおもふべし。されば、■(牡)(ぼ)丹(たん)花(くわ)肖(セウ)柏(ハク)の、「源氏」よ(読)み給ふにも、「おもては「荘子」が寓言(グ)(濁ママ)(ウゲン)にして、しるす所の虚誕(キョタン)なきは司(シ)馬(バ)遷(セン)が「史記」の筆法によれる」とのたまヘリ。
惟中は返答に興味深い見方を持ち出した。つまり、中国の古典「荘子」を俳諧の根本とするべきだというのである。この見方は実は惟中一人の見方ではなかった。当時の多くの俳人、とくに談林の俳人たちは「荘子」に深い興味を持っていた。宗因自身も、「抑俳諧の道、虚を先として実を後とす。和歌の寓言、連歌の狂言なリ。」と言った。宗因がここで言う「寓言」は「荘子」の寓言のことであるが、当時の俳人の間によく知られていることなので、説明する必要がないと思ってつかっているのであろう。俳諧と「荘子」のかかわりは談林俳諧に止まらなかった。当時談林の一人であり後に俳諧の第一人者になった松尾桃青(1644-1694)−芭蕉−も、談林門下にいた時代から「荘子」の寓言を好んで句に引用し、晩年まで「荘子」及び他の道家の古典を自分の俳諧の根源に置いた。
このように江戸時代の俳諧は「荘子」と深く関わっていた。この現象は早くから研究者たちの関心をよんだ。1937年に山本平一郎氏が既に「俳諧と荘子が寓言」という文章で貞門、談林、蕉門の作品に引用された「荘子」を調査した。そのあと、数多くの研究が発表された。その中で、今栄蔵氏と野々村勝英氏の論文は談林俳諧における「荘子」盛行の歴史的背景を探っていた。今氏は、談林期に盛んな寓言論は中世の源氏学者が出した寓言論をうけたものと指摘し、野々村氏は談林の「荘子」への関心は宋の時代の中国文人林希逸の「荘子」解釈、及び、宋学の影響と関係が深いと指摘した。これらの研究をふまえて、小西甚一氏と広田二郎氏は芭蕉の俳諧を中心に研究を行った。いずれも極く綿密な考査なので、簡単に要約することは難しいが、両氏はともに「荘子」の影響は芭蕉の詩の世界の成立に非常に重要な役割を果たしたことを強調した。此の外、穎原退蔵氏、尾形仂氏、神田秀夫氏、福永光司氏、仁枝忠氏などの学者の研究にも芭蕉の俳諧と「荘子」との関係について精到な分析が出された。
いままでの研究は豊富な証拠を通じて、「荘子」と俳諧の関わりの意義を証明し、江戸時代の俳諧を読む一つの重要な枠組みを提供した。しかし、この現象の発生原因について、まだ解けていない謎が残っている。なぜ、「荘子」の胡蝶が俳諧の世界に飛ぶのか。言い換えれば、どうして17世紀の日本の俳人たちには千年以上も前に他の国で作られた、文学作品でもない「荘子」という本に、これほど長続きする興味をもっていたのか。これは外国人しか持たない問題のようだが、俳諧と「荘子」の関連の文学的意義の究明に直接繋がっていると思うので、今日は、この場を借りて、一人の外国人としての観察を述べて、ここにおいでの皆さんと一緒にその原因を探ってみたいと思う。
一言でいえば、私は江戸俳人の「荘子」に寄せる関心は日本詩歌の古典重視と密接な関係があると思う。古典を極端なほど重視する伝統の中で、一つの新詩型の成立は古典によって根拠づけなければならない。詩の表現と評価も古典に基づかなければならない。後で述べるように、俳諧と「荘子」との出会いは、この伝統の具体的な現れである。江戸時代の俳人たちは「荘子」という古典を基にして、「下位的なもの」と思われる俳諧の文学的地位を確立し、その表現体系を更新させ、俳諧の表現力を豊かにしようとしたのである。
俳諧の立論と「荘子」
日本詩歌の古典重視は和歌から俳諧までの理論の述べ方にはっきり現れた。詩歌の本質や、機能を論じる時、古典の引用から出発するのは当時の慣例である。現存している日本最古の歌学書は宝亀3年(772)の「歌経標式」であるが、これは最古であるから、古典からの引用はないのではないかと思ったら、そうではない。「歌経標式」の冒頭の段落を読んでみると、中国の古典「詩経」の大序からの引用だとすぐわかる所が何箇所もある。「原夫歌者所下以感ニ鬼神之幽情一慰中天人之恋心上者也」(原夫れ歌は鬼神の幽情を感ぜしめ、天人の恋心を慰むる所以のものなり)とか、「蓋亦詠■之者無■罪聞之者足■以知■音。」(蓋し亦之を詠む者罪なく、之を聞く者以て音を知るに足る)とかいう「歌経標式」の表現は「詩経」の大序の「動天地、感鬼神、莫近於詩」(天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは詩より近きはなし)と「言之者無罪、聞之者足以戒。」(之を言ふ者は罪無く、之を聞く者は以て戒しむるに足る)という文から来たことは自明なほどはっきりしている。
中国の古典からの引用は「歌経標式」よりやや遅く、後世の日本詩論の手本になった「古今和歌集」(905)の序にもある。周知のように、古今集は漢語で書いた真名序と仮名で書いた仮名序があるが、ふたつとも詩経の六義を和歌の理論づくりに持ち込んだ。たとえば、「古今集」の序に書いてある次の文と「詩経」の「大序」との関係はよく指摘されている。
(前略)動■天地■、感■鬼神■、化■人倫■、和■夫婦■、莫■宜■於和歌■。和歌有■六義■、一曰■風、二曰■賦、三曰■比、四曰■興、五曰■雅、六曰■頌。
紀淑望 「真名序」
(前略)ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めにみえぬおにかみをもあはれとおもはせ、おとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。
(中略)そも■■歌のさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。そのむくさのひとつにはそへ歌、おほささぎのみかどをそへたてまつれるうた
なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこのはなといへるなるべし。ふたつにはかぞへうた
さくはなに思ひつくみのあぢきなさみにいたづきのいるもしらずてといへるなるべし。みつにはなずらへうた
きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむといへるなるべし。よつにはたとへうた
わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすともといへるなるべし。いつゝにはたゞことうた
いつはりのなきよなりせばいかばかり人のことのはうれしからましといへるなるべし。むつにはいはひうた
このとのはむべもとみけりさきくさのみつばよつばにとのづくりせりといへるなるべし。
紀貫之 「仮名序」
(前略)故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。先王以是經夫婦、成孝敬、厚人倫、美教化移風易俗。故詩有六義焉。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。
「詩経」「大序」
右の「古今集」の序からの段落の傍線の有る部分は、「詩経」の「大序」からの転用だといえるであろう。勿論、「古今集」序は詩経の六義を借りたといっても、そのまま、和歌に適用したのではない。一部適用したとしても、詩論と詩の実作が一致しないことが少なくない。「古今集」の序に六義を引用したから、それが和歌の原則になったとは、ただちに言えない。私はここで日本詩歌の独特の抒情性と表現を否定するのではない。ただし、江戸時代の俳論を読んでいる時、面白い現象に気がついた。つまり、日本の詩論家のほとんどは「詩経」「大序」の筆者に従って、詩歌の表現的抒情的機能を実用主義の立場から説明しようとした。そればかりか、和歌から俳諧まで、多くの歌論俳論が六義の説明から論理を展開し、自分の主張した観点やスタイルの正当化を証明しようとした。江戸の俳論家達は「古今集」序よりもっと説教的、実用的な見方で六義を説明した。「しぶ団」の作家と疑われた貞門の理論家、北村季吟(1634-1705)は「しぶ団」の出る前の年、1673年に「俳諧埋木」という俳諧の論書を出した。冒頭の所に、その俳論書を書く目的についてこう書いている・・
■六義の事しきしまのやまとことの葉にハ。古今集にぞ侍るを。京極黄門の御説に。凡六義の根本ハ毛詩よりことおこれり。よろしく是を披見して。其たゝずまひを見よとかやの玉ひけり。連哥にハ心敬僧都。大かたむくさの心句ごとにわたるべき也などきこえ玉へりき宗■などもしるし給へるに。俳諧の句。ことなるべきにあらねば。今此説■にしたがひつゝ先師のしめし給へる句どもをつらね次に愚句を(板欠「も」カ)□て心あてにそれかとばかりかきけがし侍る
「京極黄門の御説」というのはあの有名な和歌歌人藤原定家の歌論のことである。季吟のこの「俳諧埋木」に示されたように、和歌論の古典から著名な連歌師の論説まで、「詩経」の六義は大事にされてきた。歴代の詩論には六義をどのように論じたかというと、季吟の説明を見てみよう。季吟の説明は結構長いので、六義のなかの「風」と「雅」に関する部分だけをここでよんでおこう。
一 風 八雲御抄に風と云ハそへうた也。物を物にそへよめる也。其事をいハでその心をさとらすといへりと■■京極黄門の御説にハ風といふものハ。其色見えず(ママ)物によせあはせて。其品あらハるゝためしなり風の哥もかくあるべきにや。いかなる事にてもあれ其事のよしをいはむとてあらぬ物をひきよせてよむを風の哥と申也。扨清輔の説にいハく毛詩■云 上以■風化下(ママ)。以■風刺■上註云風ー化風ー刺皆謂譬喩。不■仟(ママ、「斥」)■言■也今案に同書云風ハ諷也。そふとよむ也。そふと云ハ題をあらハにいは(ママ)ずして。義をさとらする也。故に風をそへうたと云。宗祇古今の抄ニ云毛詩の六義にハ。種■義ありて。或経緯といひ。或ハ躰用と分つとしるせり。風にして興を具するもあり。其様すこし本朝に異也又義通ずる説もありといへり。連歌ニハ心敬僧都そへ哥の心とて■名ハ高く声ハうへなし郭公。と云句を引て二条太閤様を時鳥」(ママ「に」脱)そへ。称揚し奉る成べし。物にそへて。句の心をあらハすを風の句なるべしとのたまへり半松斎宗■も心におもひ目に見そへいふ義也。などしるし給へりし是になぞらへ侍らば。誹諧の句もなにかことならん(中略)
五 雅 八雲に云雅ハたゞこと哥と云り。古今是ハことのとゝのほりたゞしきを云也。定家卿云雅ハ思ふ事をすこしもかたよる事なくたゞ一筋に。始よりをハり迄いひ下すなり雅に二つあり■一にハ言雅■二にハ意雅なり言雅と云ハこと葉にあらハして。そバよる事なくよむ也■意雅と云ハ心はなを■■とことなる事なく詞にすこしうたがハせて。治定なきさまなどもよミなしたらんを云べし。春立と云ばかりにやみよしのゝ山もかすミてけさハミゆらん 此哥ハ心ハなを■■として詞ハすこしうたがひたり則ばかりに■やのやの字と終りの■らんの字ハうたがひたり。これなんかなふべき哥也。清輔云毛詩云。言■天下之事■形■四方之風 ■謂■之雅■雅ハ正也。政有■小大■政有■小雅一焉有■大雅一焉■今案ニ雅ハまさしき也たゞしき也。物にもそへずたとへをもとらぬ也。故に雅をたゞこと哥と云■宗祇云雅ハ賦に似たりしやうなれ共。賦は政の善悪をかぞへいふ也。雅ハ政をたゞしくありめにいふ也■心敬僧都雅の引句に。夏草も花の秋にハ成にけりと云をしるしてたゞちにいひたる句也。ことば心をたゞしくいへる雅の句也とのたまへり。宗■ハおもふ事をたゞことにいふ義也とて。■いつをミん山ハうす雪うす霞■あけやすき比とや出て夕月夜など云句を引たまへり
「風」と「雅」は日本文学の詩歌の代名詞になったので、以上の「風」と「雅」にたいする見方はその作家達の詩歌観と見てもいいであろう。六義が季吟の総括していうように日本の詩学の歴史に浸透していたかどうかは今日の話題ではないが、おもしろいことに、季吟の俳論に出た定家、宗祇などの有名な詩人たちは論を書くときに誰でも六義を大切にしているようである。季吟、および、季吟が引用した作家達のこういう書き方自身は興味深いと思う。この現象は日本詩学の古典重視という伝統を立証しているのではないかと思う。このような古典重視の因習は江戸俳諧における「荘子」盛行に直接導いた。
周知のように「俳諧」というのは誹諧とも書き、元もと中国から来た言葉で、滑稽を意味する。中国の唐の時代には誹諧詩は滑稽な詩のことであった。日本最古の勅撰集、「古今和歌集」にも俳諧の部があって、そこに滑稽な和歌が集められた。後に俳諧の連歌が誕生したが、これも滑稽な連歌という意味でつかったのである。連歌というのは最初、歌人の遊びとして生まれたのだが、だんだん、一部の連歌師はこれを和歌におとらぬ高雅な芸術にしようとして、連歌の滑稽な本質を否定しようとした。滑稽を中心とするものは正統ではない、品の低いものと考えられたからである。だから、室町末期から盛んになった俳諧の連歌は、遊びものと見られ、純正高雅の連歌から除外され、俳諧の連歌とは言われずに、ただ、「俳諧」と呼ばれるようになった。詩歌の正統から除外されたということは俳諧の「荘子」との出会いに直接関係があったと思う。なぜなら、俳諧は連歌の一体として生まれ、形式の上では、連歌とあまり区別がなかった。連歌と唯一の違いはその機智の言葉づかいと笑いの本質である。しかしその違いは俳諧が格式の低いものとされた原因になった。だから、中世末期近世のはじめに、俳諧が新興階層の好みに投じて、独立したジャンルとして大いに発展したとき、俳人たちは俳諧の文学的地位を高めるために、その滑稽な表現の正当性を証明しなければならなかった。古典重視の伝統から出発して、その証明の理論根拠はやはり古典から探しだした。たとえば、貞門の季吟は次のように言った。
誹諧といふ事。奥義抄云。漢書之誹諧者。滑稽也。滑ハ妙義也。稽詞不■尽也。史記滑稽伝ノ考物云。滑稽酒器也。言ハ出■口成■章ヲ詞不■窮ルコト竭セ一若二滑稽 ノ吐■酒也
(中略)
誹諧の字ハわ(ママ)ざことゝよむ也。これによりて皆人。偏に戯言と思へり。かならずしもしからざ(ママ)るか。今案に。滑稽のともがらハ。ミちにあらずして。しかも成■道者也。又誹諧ハ非■王道ニ■してしかも妙義を述べたる哥なり。故にこれを准■滑稽■そのおもむき弁ー説利ー口あるものゝ如■シ言語■火を水にいひなす也。或ハ狂言にして妙義をあらはす。此中又心にこめ詞にあらはれたるべし
季吟はここで儒家系の古典から、論拠を引いた。彼はまず滑稽の意味を中国の史書によって説明し、滑稽という言葉の人を笑わせる意味を否定して、「滑稽」が限りない「妙義」だと説明した。それから、季吟は俳諧の滑稽は「ミちにあらずして。しかも成レ道者也。又誹諧ハ非二王道ニ一してしかも妙義を述べたる哥なり。」と言った。しかし、こういう論理は俳諧の滑稽な本質と詩の説教的な機能のあいだに存在している固有の矛盾を簡単に解決できなかった。たとえば、貞徳の句にも傾城に戯れるものがあったが、それはどう説明していいかと聞かれて、季吟は次のように答えた。
答哥道は春夏秋冬恋雑の六を題とするゆへに。世■の勅撰にも恋の部をことにたてられたれば。誹諧にも恋の句になりては。心をふかく。思」ひ入あるをこひねがへり。しかれ共偏(ママ)に色欲におぼれたる心よりせし人の句と。かの正道を教るといへる誹諧の本意をしりたる人の句は。其たましゐことなる故に。似たることは似て実(ジツ)はひとしからざる物也。知者の作る罪(ツミ)は罪(ツ)(ママ)ともに善(セン)。愚者(グシャ)のつくる善は善ともに罪といへる事も侍るぞかし。源氏五十四帖も紫式部のもとの趣向は。五倫の道ををしへ。菩提を求る縁とすべきの本意といへどおもてはたゞ好色の物語と見ゆるがごとし。荘子が寓言は根なし詞に託(タク)して道をとけるを。是をもよのつねのうそつきの類(タグイ)とせんは。よく荘子」を見しれる人とはいふべからず。希逸か註の旨かくのごとし。仏の方便(ベン)の説をも(ミナジツ)皆実(カイジツ)不(フ)■虚(コ)の内証をしらでたゝにそらことし給へりと世の虚妄(コマウ)の人とひとしくいはゞ。まことに仏道の罪人なるがごとく。先師の誹諧もたゞに詞の末をのみ見て浅くかろくは思ふまじきわざなるべし
俳諧の説教的作用を鼓吹した貞門も、ここで「荘子」の寓言を例にして、貞門俳諧の内容のために弁護しなければならなかった。「荘子が寓言は根なし詞に託して道をとけるを。是をもよのつねのうそつきの類をせんは。よく荘子を見しれる人とはいふべからず。」という見方は貞門の「荘子」理解を代表している。しかし、俳諧の理論を説教的/実用主義的詩歌観の正統に基づいて成り立たせようとした貞門のこういう努力は、俳諧の俳諧たる本質を無くしてしまう危険性があるのである。前に書いたように、俳諧は形式上には連歌と区別がない。俳諧の滑稽な本質と世俗性を打ち消してしまったら、俳諧の存在の理由もなくなるのである。
貞門とは違って、談林は説教的、実用主義的な立場に反対し、笑いの詩の価値と正当性を「荘子」を通じて証明しようとした。談林の「荘子」寓言論は普通反伝統的だと考えられているのであるが、その古典に基づいての立論方法からいえば、伝統主義のパターンから離れていないと思う。惟中の俳論は季吟と同じように、古典の引用から始まったのである。「近来風体」に彼はこう書いた。
一、俳諧の事、余があめる蒙求に、和漢の出所を顕したれども、見聞に任てしるしぬ。清輔奥義抄に、俳諧は王道にあらずして、しかも妙義をのべたる也。その趣、弁説利口にあるものゝごとし。火をも水にいひなす也。狂言にして妙をあらはす也。心の弁説・詞の弁説・心の利口・詞の利口・心の狂言・詞の狂言、是也。
俳諧の妙が「奥義抄」に説かれた王道を表す「妙義」であるという惟中の立場は前に引いた季吟の説と一緒である。ただ、その妙義の趣は心と詞の利口であると惟中は解釈した。惟中が引用し日本と中国の古典のなかに、「荘子」は特別に重視された。彼の「俳諧蒙求」に、「「荘子」一部の本意、これ俳諧にあらずといふ事なし。」とまで書いた。惟中は「荘子」の本意を笑いの精神と修辞上の自由変化と理解し、それはそのまま俳諧に適用できるものだと考えた。次は「俳諧蒙求」に出た惟中の論である。
一、「荘子」一部の本意、これ俳諧にあらずといふ事なし。「逍遥遊の篇」、林希逸(りんきいつ)が註に、「不■知是レ滑稽ノ処如今イマノ人ノ所謂(いわゆ)ル 断頭ノ話ハ也」とあり。またその下の註に「読■ニ荘子ヲ■其実その(ジツ)皆寓(グウ)言也」ともみえたり。先(まづ)、「荘子」が心は、たとへば、「北のうみに鯤(コン)といふ魚あり。その魚のおほ(大)いさ、いくばく千里といふ事をしらず。(「と」)その魚変(ヘン)じて鵬(ホウ)といふ鳥となり、そのせなか(背中)幾千里といふ事をしらず。この鳥、海の動く時、北より南のうみへうつらんとす。水には(羽)う(打)つ事三千里、風にのりてのぼる事九万里」と書(かけ)り。これ則(すなはち)、心の天遊、変化自然の大自在底(テイ)也。しかれば、いまする俳諧も、方寸の胸中より顕(アラハレ)出(いで)て、天地の外にうちむか(向)ひ、自由変化の趣向(シュカウ)をおもひめぐらし、ある事ない事とりあはせて、活法自在の句躰を、まことの俳諧としるべし。山にか(駆)けり、野にあそびて、はな(花)をめ(賞)で、紅葉にあこがるゝ折ふし(節)ごとに、このこゝろをも(以)て作する事、これ俳諧の逍遥遊(セウヨウユウ)ならずや。(中略)是(これ)、かの大小をみ(漫)だり、寿夭(ジュヨウ)をたが(違)へ、虚を実(ジツ)にし、実を虚にし、是(ゼ)なるを非とし、非なるを是とする荘子が寓言、これのみにかぎらず、全(マッタ)く俳諧の俳諧たるなり。
談林俳人にとって、「荘子」は伝統詩論の中心をしめた儒教の古典に匹敵できる権威性を持っていて、そして、俳諧に似たような機智滑稽な文体を持っているので、笑いの文学の正当性を証明する理想的な理論根拠になれるのである。惟中の「荘子」理解は、そんなに深いものとは言えないが、説教的機能より、文学的価値を重んじた点では、俳諧の発展に一歩進めたといえるであろう。
このように、古典重視という日本詩論の伝統は俳諧の正当性を古典に拠って証明することを要求した。江戸時代の俳人と「荘子」との出会いはこんな背景において現れたのである。先に引いた貞門と談林の俳論から見ても分かるように、貞門も談林も、それぞれの必要から「荘子」の寓言を利用し、いずれも「荘子」の真意をつかむことができなかった。が、「荘子」は談林の後に活躍した蕉門俳諧にも大変重視され、俳諧が高い思想性と芸術性を持つジャンルへ発展することに大いに寄与した。談林から蕉門までの俳諧創作に、「荘子」はどのような役割を果たしたかについては小西甚一氏と廣田二郎氏の全面的な研究があるので、ここで重複する必要がないが、次は俳諧表現の古典への依存とその本意更新における「荘子」の役割についてお話ししたいと思う。
俳諧の表現と「荘子」
日本詩歌の古典への依存は作詩の方法と表現体系にもはっきりみられている。よく知られる例でいえば、和歌の古典と認められた最初の八部の勅撰和歌集(いわゆる八代集)の主題、イメージ、言葉などは作詩の規範となって、何百年にも亘って変えることはなかった。こういう古典への依存は、日本詩歌が短詩型であることと密接な関係があると思う。
日本詩歌の発展は形式からみれば、短さから短さへの運動であるといえる。「万葉集」に収められた有数の長歌を除いて、短さは日本既存の詩のジャンルのすべてを形容することができると思う。31音節の和歌は既に短かったが、連歌は更にこの31音節を2句に分けて、17音節の長句と14音節の短句の繰り返しで新しいジャンルをつくった。俳諧が成熟した17世紀に、詩型の短縮化は極端に至った。まず、17音節の発句は独立して、今日「俳句」として知られている、世界でもっとも短い詩型の一つに形を成した。発句だけを詠む作は俳諧以前の連歌師の間でもあったのであるが、これは、あまり流行っていなかった。でも、江戸時代になると、発句の句合が盛んになった。発句の独立と同時に、各句の意味も独立化におもむいた。俳諧では、17音節、あるいは14音節の一句が必ず独自の世界を作り上げることが原則である。貞門の宗匠、松永貞徳(1571-1653)は、これについて、こういった。「そうじて、歌と連歌は替りめあり。歌は上の句の事を下句にて理ことわりいふ事も有。連歌は上と下と分べつ分に其理りなくては叶はず、詼諧もなをかくのごとし。」
句の独立は、内容的にも形式的にも俳諧の表現を濃縮した。しかし、詩意のある一つの世界を17、14音節で築き上げることはそんなに容易なことではない。これがどれほど難しいかを知るために、同じ漢字を使う中国の詩と比較してみよう。中国の古典詩で比較的に短いものは律詩であるが、7律は7字1行の8行で構成する。5律は1行が5字で、これも8行で一首の詩を成す。いずれも俳諧の句より長い。江戸時代に日本でも流行した漢詩型7言絶句(しちごんぜっく)の長さは、7律の半分しかないが、その4行28字の表現が、俳諧の17、14音節と比べて遥に長い。それに、中国語の一つの漢字と日本語の1音節とはその表現力においてかなりの差がある。一つの漢字で表現したことは日本語のかな音節で言うと、二つ以上の音節が要る場合が多い。たとえば、「椹」という漢字は中国語にも日本語にも使われているが、中国語のその一字は、日本語の読み方でいえば、「くわのみ」と、4音節になる。句につかうと、漢詩では「椹」は一字しか数えないが、俳諧の17音節の句になるとそれはもう全句の1/4ぐらいの音節数を占めた。だから、俳諧の句を作る場合、二、三のイメージを入れたら、もう一句の音節数をつかってしまうぐらいである。
このような短詩型に課せられた制限は、俳諧の表現を難しくしたと同時に、読者の側にも問題を起こした。詩という芸術は、言いたい事を直接いわないのを本領とするのだから、二、三のイメージで曖昧に暗示された詩意を理解しようとすることは、暗号符号をあてるほどのしごとであろう。だから、俳諧の表現の完成は、作者と読者の間に共有の連想方式や詩歌に関する共有知識が必要である。特に作者の狙った連想を読者側に呼び起こせる媒介的表現(これから「媒介項」という)及び間テクスト的(intertextual)構造への依存度が高い。現代の記号論者ミカエル・リファテールは、詩の表現の間テクスト性(intertextuality)を論じた時、「解釈項」(interpretant)という特殊の詩語の重要性を強調した。「解釈項」はリファテールの説明では、文学表現の表面的意味を解釈して、その深層の詩意を解明する記号で、作者が追究する意義と読者が今まで読んだ作品に基づく理解を一致させるものである。簡単にいえば、これは今の作品と過去の作品の間の媒介項である。文化的時間的違いが大きいが、これは東洋の古典詩によく使われていた「典故」の機能に非常に似ていると思う。典故というのはご存じのように、古典名作に出た言葉、イメージ、話などが、後世の作品に何度も引用転用された結果、多層の意義を含む凝縮の表現である。典故を使うことは中国の詩が始めた方法で、日本詩歌においても歴史が長い。直接「典故」とは呼ばないが、典故の本質を持つ本意、本歌、本説といったものはずいぶん早くから存在し、古典の引用を非常に系統化されたといえる。
いままで申し上げた俳諧の特徴を「俳文学大辞典」の定義で締め括ると、「短詩形文芸の一つ。和歌、連歌の雅に対して、俗を特性とする」のである。このような特性に支配されて、江戸時代の俳諧師たちは矛盾し合うような二つの作業を続けた。一方では、既存の和歌と連歌の慣例を乗り越えて、世俗性を導入することによって、新時代の要求に適応する活力を俳諧に持たせようとしたが、他方では、短詩である俳諧の表現力を拡充するために、既存の表現体系に依存することが多かった。
既存体系というと、まず、歌語のことが挙げられる。前に触れたように、古今集から新古今集までの八代集は事実上同じ言葉を使っていた。八代集に使われた言葉は後に詩の表現の規範となり、和歌ばかりではなく、連歌においても、少数の例外を除き、この規範歌語以外の言葉を使うことは許されなかった。俗語を使う俳諧が流行になってはじめて、伝統的歌語の権威性は挑戦された。貞門は滑稽の本質を否定して、俳諧を正統の和歌や連歌と並立しようとしたが、俳言−規範歌語に見られない日常の言葉と漢語から来た言葉−をもって、俳諧を伝統連歌から区別した。談林は前に言ったように、表現の自由変化を俳諧の本意としたものなので、完全に既存歌語の制限にとらわれたくなかった。蕉門の場合、「三冊子」にもあるように「詩歌連歌はともに風雅也。上三のものには餘す所も、その餘す處迄、俳は至らずといふことなし」と主張した。これは漢詩、和歌、連歌の表現の見残し、あるいは、表現できないことを表現するものが俳諧であるとしたのである。しかし、規範歌語を乗り越えた結果、俳諧の表現体系に大きなあなをあけられてしまった。なぜかというと、伝統的な歌語は、単に高雅な言葉だけではない。一つ一つの歌語の後ろには、本意−長い歴史において形成した豊富多層の詩的意義|があるのである。こういう本意は短詩形の表現を支える欠かせない存在である。
「本意」は詩学の用語として、平安時代から既に歌合わせの判詞に使われた。初めは本意が物事の元々の本質と在り方を意味した。平安朝を通して、八代集に現れた詩語やイメージの意義がじょじょに固定化され、特定の詞やイメージが詩の中で何を意味するかは、名句に詠まれた意味に拠って取られ、歌人が任意に決めることでも読者個人の理解によることでもなくなった。固定化された本意の体系は後に連歌と俳諧に取り入れられて、季題季語の使用に浸透していった。季語季題は連歌俳諧の構成にとても大切なものである。連歌の百韻にしても俳諧の三十六歌仙にしても、必ず四季を題とする句を含み、そして、特殊な場合を除き、発句には必ず季節を表す言葉を使うことは連歌俳諧のルールである。化石化された本意はイメージや季語の意味を規制しただけではなく、それを句の中にどのように描くかも限定した。これは連歌歌人である宗祇(1421-1502)の時から既に厳しい規範性を示した。例えば、冬の雨は時雨の意味で使うことに限定された。詩人が体験したのは長続きの雨であっても、句にそのまま出せなかった。同じように、春の雨のイメージは静かに煙るように詠まなくてはならない。たとえ、杜鵑がその場でしきりに鳴いていても、なかなか、そう描いてはならず、寂しい一声啼いたぐらいのように詠むのが本意である。
このように、本意の体系において、詩のイメージはコード化された記号になった。外部世界に存在している物事や詩人の内心世界を表すより、それは古典作品の使い方によって類型化された意義を重んじるのである。言うまでもなく、こういう固定化された本意は創作の個人性を大いに制限していた。にもかかわらず、俳諧は、このようなコード化された表現が必要なのであった。短詩形である俳諧の表現力の制限については前に述べたが、それに加えて、俳諧の集団性も表現の背後に既存のコードがあることを要求した。尾形仂氏は俳諧を「座の文学」と呼び、俳諧の共同制作は一座の俳人の詩的対話だと指摘した。俳諧を作る座では、作者は同時に鑑賞者である。作者として、彼は在席の他の俳人の期待と読み方を念頭において句を作らなければならず、鑑賞者として、かれは前の句が狙った意義を正確に読み取り、妥当な付け句を即時に詠まなければならないのである。この付け句を作る時、また次の句への発展を勘定に入れて考えなければならない。俳諧の座にとって、コード化された表現体系は相互理解と共同制作のコンテクストを提供できるので、ぜひとも必要なのである。本意がある古典の詩語はリファテールのいう「解釈項」みたいな機能があるのである。それは、過去の名作を連想させ、そこに凝縮した多層の意義を呼び起こし、詩の表現力を大いに拡大できるのである。そして、長い伝統に基づく本意は一座の共有知識になったから、詩的対話の進展の根拠を提供するものである。だから、保守的な貞門にしても、反伝統的と考えられた談林および蕉門にしても、本意について深い知識があって、その役割を重視した。
ところが、俳言を作品に導入したとき、この部分の言語表現に既存の本意がなかった。これは、俳諧の表現力に直接影響があったと思う。俳諧の表現体系に大きな穴をあけてしまったと言える。拠れる解釈項がないと、句が理解しにくくなったり、文字の表層意味だけが読み取られたりして、俳諧のおもしろさは減ってしまったのである。この問題の救済策として、談林が、「荘子」を俳諧の本意体系に持ち込もうとした。前に示したように、貞門は説教的詩論の立場から、俳諧的表現の根拠を作ろうとしたが、それは、あまり説得力がなく、そして、俳諧表現の活力を束縛したのである。貞門と違って、談林は、惟中が書いたように、「「荘子」一部の本意、これ俳諧にあらずといふ事なし。」(「俳諧蒙求」)「「荘子」一部を俳諧の本意とおもひ、文字づかひ、言葉のやう、皆俳諧としるべし。」(「しぶ団返答」)という立場をとった。これらの言葉は、滑稽な俳諧の正当性を弁護するただの理屈だけではなかった。惟中は俳論の中で、「荘子」の寓言を大量に引用して昔の和歌、連歌、俳諧の句の本意を解釈した。例えば、彼は「「古今集」俳諧の部の和歌も、寓言を本意とする也。歌によまぬ俗語は俳言といふものなり。誠は俳諧のたはぶれなり。一首たはぶれをあらはして、俳諧をしらしむもの也。」といって、「むめの花見にこそ来つれ鴬のひとくひとくといとひしもおる」などの句の本意は「荘子」の「外物篇(がいぶつのへん)」に出た一つの鮒魚(ふぎょ)にものを言わせる寓言にみるべきだと書いた。
惟中の意図は和歌の擬人化の歌と「荘子」の擬人化の寓言とを結びつけて、「荘子」が早くから日本詩歌の本意体系の一部だと証明しようとしたのである。惟中のこういう「荘子」本意論は「しぶ団返答」の論説にもはっきり見られる。前の話しに出た宗因の「蚊柱千句」は、既存の規範を意識的に破る作なので、詩の「本意をうしなひ、いひたきままにいひちらし」と貞門に酷く批判されたが、惟中は「しぶ団返答」において、宗因の句のために弁護し、その本意を一句一句古典に基づいて説明した。惟中の論拠に挙げられた日本と中国の古典には、「荘子」はもっとも重要である。たとえば宗因の句には「ままくはふとや虫もなくらむ」というのがあった。虫というイメージは和歌と連歌にはよく出るもので、特定の本意がある。伝統的な本意によると、虫の鳴き声は秋の哀愁を意味する。その典型的な描きかたは弱々しい虫の声が静かな秋夜に響いていて、限れない儚さを喚起するシーンである。しかし、宗因の句は伝統的な本意と違って、滑稽な画面を作り出した。彼は「虫」という雅語を「ままくはふ」という俳言と結び付けて、虫の本意を変えた。これに対し、貞門は「ままくはふの、酒のまふの、といふ虫、終にしらず。世には珍敷虫のある事や。その虫を見もききもせば、世の思ひ出たるべしと、ねがふより外なし。」と評した。貞門の批判は、詩が物事の実際を伝うべきという正統的な観念を反映した。この観念に従って、架空の作り事は詩の本質と相容れないものである。そこで、惟中は、次のように返答した。
まゝ(飯)(はふ(う)とやむし(虫)もなくらむ
返答「荘子」秋水篇(ノヘン)に「■(き)謂(いひ)テ■■ケンニ曰(いはく)。吾(ワレ)以 テ■一足ヲ■■ ■(シンタク)シテ而行ク。予無(なし)■如シクコト矣。今子之ガ使フ■万足ヲ■。独リ奈何(イカン)。■ノ曰(いはく)。不(しからず)■然。」是(これ)■とむかでの問答なり。右「俳諧蒙求」にも、猶、鳥のものいひ、魚のものいふ事しるしたり。(中略)さて■■かゝる事を本意にあらずなどゝいひて、あり事ばかりいひ出(いづ)る俳諧し(師)のこゝろの眠をさまさん事、いまこの時の幸(サイワイ)なり。連哥にはかうはせぬことなれども、俳諧はそれが本意とおもひあらためて、向後(きやうこう)俳諧せられば、このこゝろを会得(エトク)して、せめて一句なりともせられよ。
惟中の答えは談林の「荘子」関心の一つの重要な原因を示している。新しい俳諧の表現を作り上げるには、既存の本意体系を更新しなければならないのであるので、「荘子」を恰好な典拠として、その本意更新に使ったのである。
談林が「荘子」を自分たちの新しい本意論に持ちこもうとしたもう一つの原因は、「荘子」が日本の文人詩人の間によく知られている古典なので、俳諧の詩的対話の基盤になる共有知識になりやすいからである。「荘子」を新しい本意の典拠にしたら、既存本意のない俳諧表現を便利に解釈項的媒介項的な機能をもたせることができる。前に触れたように、こういう解釈項的媒介項は俳諧にとって、句の表層的意味を詩人の追求する深層意義に翻訳し、詩的対話のコンテクストを明確にさせる大事なものである。「荘子」はこの面でどのように使われていたかについて、宗因の次の句を見てみよう。
うつけの山路(やまぢ)通路(かよひぢ)の露
この句について、「しぶ団」は「「うつけの山」、いづくに有(ある)名所共きかず。是も例の私事(わたくしごと)か。其上、この「露」は風のさそはず共こぼれやすからんとお(を)かし。袖の下にて、文字をかぞふる程の初心も、かくは置まじき事なり。」といった。名所というのはここで普通の有名な所という意味ではなく、文学史によく知られている地名、特に名歌名句のテーマになったところを指している。名歌名句に詠まれたところなので、名所はそれに付く特定の本意がある。名所を句に使う場合、作者は伝統的本意を表すように期待されていて、私事として思うままに取り扱ってはいけない。宗因の「うつけのやま」は、虚構の地名であるから、典拠のない、作詩の要領を得ないものと批判された。これに対し、惟中はまた、「荘子」を引いて、反駁した。
返答「うつけの山」いまだし(知)られぬか。かの荘子が「無何 ガ(濁ママ)有(ウ)之郷(サト)」といひ、(濁「ママ」)(クワウバク)「広莫之野(ノ)」といひ、あるひは「赤水(セキスイ)之北崑崙(キタコンロン)之丘(ヲカ)」などゝ(濁「ママ」)書たり。その山、その野のあるにあらず。いま「うつけの山」もそのたぐひ(濁「ママ」)としるべし。一句のもち(用)ひやうは、うつけのつも(積)りたるをいふとこゝろ得らるべし。
「無何有之郷」と「広漠之野」はみな「荘子」の第一章に出た虚構の地名である。物ひとつない、人ひとりいない曠野と言う文字通りの意味より、一切の人間的なものを超越した自由の世界の喩えである。惟中の答えかたは「荘子」にある「無何有之郷」とか「広漠之野」とかいうような暗喩的な表現が既に談林俳人の共有知識になって、一座の対話を広げる基盤になったことを示している。「荘子」に基づく本意を念頭に置いたら、「うつけ」は普通の「まぬけ」や「おろか」の意味でだけ使っていないことがわかる。「うつけ」を荘子の「無何有之郷」と「広漠之野」などの表現への媒介項として読めば、「うつけの山」は「うつけ」の当て字、「空け」、あるいは、「虚け」が示している「空虚」の意味があって、「無何有之郷」と「広漠之野」に似る意義を暗示していることがわかる。そして、地名を虚構する修辞法自身も、「荘子」の表現の自由変化の本意であって、談林俳人の追求する本意であった。惟中は「しぶ団」の作家がこれぐらいの知識もなくて、宗因の句が理解できなかったことを笑った。
こうして、「荘子」は俳諧の表現体系に生じたギャップを埋める大切な存在となった。江戸時代の俳人たちは「荘子」を新しい本意の根拠として使ったばかりでなく、直接、「荘子」を本説として盛んに引用した。本説という概念は本歌と共に、典故の用い方の体系化から来たものであると思う。本歌が八代集に収められた和歌の古典を意味することに対し、本説はそれ以外の日本と中国の古典のほとんどすべて−日本の早期の物語や諺、中国の古典詩文など−を含めている。現代記号論は詩における「解釈項」を言葉に基く解釈項(lexematic interpretant)と本文に基く解釈項(textual interpretant)に分けた。前者は媒介的言葉であり、二つ、あるいは、二つ以上のテクストの意義を同時に詩に喚起するものである。後者は、媒介的本文であり、詩のなかに引用した時、詩の表意コードの転換の拠り所となって、その古典の権威性を以て特定の意義表現を規制するのである。かなり違う用語であるけれども、言葉に基く解釈項と本文に基く解釈項の機能は、日本詩歌における本意と本歌本説と非常に似ている。記号論の概念を借りると、本意をもつ詩語や俳言は言葉に基く解釈項に類似し、本歌本説は本文に基く解釈項の役割を果たすといえるであろう。これを見て、日本の詩人たちがこれほど早い時期に複雑な媒介項の機能を発見し、間テクスト構造の表現力を上手に生かしたことに感心するよりほかはない。
詩的イメージの本意としての「荘子」、そして、本説としての「荘子」がどのように俳諧の表現力を拡充したのかについて、談林蕉門俳諧の例を見てみよう。「荘子」からの本意を伝える数多くのイメージのなかで、「胡蝶」はもっともよく知られていて使われていた一つである。談林が「荘子」を俳諧の本意として鼓吹する前に、荘周の夢という寓言は既に胡蝶というイメージの本意の背景にあった。蝶々という季語の本意について、季吟の「山の井」の中に次のように書いてある。
てふ■■てふは菜の花にとまり、花に宿りて、余念なげ成ひるねのけしき、羽衣のたもとをひるがへし、雪をめぐらしつゝ舞たるありさま、猶荘周の夢をよせて、こてふの夢の百年めなどいへり。
季吟が書いた「蝶々」の項はこのイメージを句の中でどんなふうに描き、どんな意味でつかうべきかを説明している。この説明から、俳諧における蝶の象徴的意味は主に「荘子」から来ていることがわかる。実作の例として、季吟は幾つかの句をあげた。例えば、「ちる花やこてふの夢の百ねんめ」という一句がある。普通の語意に従えば、蝶、夢、百年という三つの言葉の組み合わせはおかしいといわなくても曖昧で分かりにくいといえるであろう。しかし、この組み合わせの背後にある「荘子」を知っている人にとって、蝶のイメージの本意、および、全句の本意が「荘子」との間テクスト的関係にあるのははっきりしている。間テクスト的コンテクストにおいて、蝶は夢とともに記号学の所謂「言葉に基く解釈項」の役割を担って一句の中心的暗喩を構成している。即ち、はかないリアリティは夢と違わない。
胡蝶のこういう本意は談林の俳人たちに非常に愛用された。談林の主役宗因も惟中も胡蝶の句を多く作ったが、宗因の次の句だけを見てみよう。
蝶々の夢路はだうにまよふらん
さきに季吟の「山の井」から引いた句と同じように、ここで「蝶」と「夢」との組み合わせがこの句の「荘子」との間テクスト的関係を示している。おもしろいことに、宗因は「だう」という掛詞をつかって、「荘子」の寓言を滑稽にもじった。「だう」ということばは「道」という漢字で表示できる。漢語語源なので、これは俳言である。「道」の発音は、普通の道路とも老荘の道家思想の最高理念としての道ともとらえるから、宗因の句は描写的な読み方と間テクスト的な読み方との二つの読み方がある。先の「ちる花やこてふの夢の百ねんめ」という句と違って、宗因の句は蝶の間テクスト的本意を知らなくても、全然おかしくない。飛んでいる蝶の有り様の擬人化された描写として読んでも、これは面白い句である。しかし、「だう」を老荘思想の最高理念と理解すれば、蝶々のイメージが、荘周の夢と連想されて、一句の意義は洒落になった・・胡蝶|荘子のもう一つの自己像|は、夢のなかでは自分の最高理念としての道を失ってしまったのであろうという意味を暗示している。それだけでなく、「道にまよふらん」を「冥途の道に迷ふ」とか「六道の辻に迷ふ」とか、「成仏できない」という意味で使われる仏教的慣用表現と関連して考えれば、この句の意味はもっと多層化になる。つまり、一句は夢の中の懐疑論者である荘周は成仏できないのではないかと、笑いながらの揶揄も暗示している。こうして、典故に基づいたイメージと間テクスト構造は短い句に多層的な意味を表現することを可能にした。この構造を踏まえてはじめて、宗因の狂句的笑いが成立できる。こういう笑いこそ談林の俳人たちが求めた俳諧の本意であった。
談林は「荘子」を詩的イメージの本意として追求したと同時に、「荘子」を根拠に俳諧の付け方の本意をも更新させようとした。俳諧と連歌において、句と句との付け方は非常に複雑な芸術で、簡単に説明しにくいが、おおざっぱにいうと、内容に基づく心付けと言葉に基づく詞付けがある。言葉の使い方と同じように俳諧の句と句の付け方にも本意がある。それは上の句と下の句の言葉、イメージ、テーマなどの間の伝統的連想や関聯である。既存の詩語の本意のように、既定の付け方の本意は俳諧一座の対話をスムーズに発展させる環境を造りだすと同時に、その対話の発展の可能性を制限していた。だから、談林は「荘子」によって俳言の本意を立てようとするかたわら、詩的連想のより多くの可能性も「荘子」に求めた。例えば、前にあげた「まゝくはふとや虫もなくらむ」という句の付句として、宗因は次の句を措いた。
まゝくはふとや虫もなくらむ
野あそびにかけりまはりて又しては
「しぶ団」はこれは「放埒なる一句也」といった。「「又しては」とは何事ぞ。かけ廻りては又しては、前の「虫」がまゝくはふといふか。にが■■し。」と批判した。貞門の批判に対する惟中のこたえはまた「荘子」の寓言に基づいた。
この付心(つけごころ)、前の「まゝくはふ」といふに「かけりまはりてまたしては」と付(つけ)、「む(虫)しもな(鳴)きたる」に「野遊(ヤユウ)」を付たるい(行)きやうもあり。またそのまゝ、野あそびに虫がかけ(駆)まは(迴)りてまゝくはふ、と付(つけ)たるとい(言)ひても、かの寓言を本意とおもへば、ざうさ(雑作)もなく埒(ラチ)あきたるなり。俳諧といふ事しらぬ上からは、さおも(思)ふもことは(わ)りにこそ。
惟中は貞門の批判が俳諧の真の本意を知らないからであると反論した。「荘子」の表現の虚構と自由を知るとこれは何もおかしくない付け方だと言っていた。このように、談林は付けかたの可能性を大いに拡充させて、自由変化の趣向を求めた。
談林の「荘子」利用は、いままでの例にみられるように、修辞上の表面的価値に限られる所が多かった。彼らの関心は「荘子」の虚構の方法や表現の自由変化、そして、有名な寓言の概念にだけあった。だから、談林のそれらの作品は印象的であるけれども、長続きする芸術的魅力が持てない。しかし、談林の「荘子」本意論は、あとに来る俳人たちを啓発した。まもなく談林から出発した桃青は中国の詩を通じて、「荘子」に対するより深い理解に達した。桃青は芭蕉という号でしられている。貞門の道徳教訓的引用と談林の修辞上の趣味とちがって、芭蕉は「荘子」を中国詩歌の伝統との関係、特に中国の詩における隠逸精神との関係で読み取った。蕉門−芭蕉とその門弟−の作品は初期から中国文学を大量的に引用した。その驚くべきほどの量の引用の中で、「荘子」の逍遥遊と自然無為の思想を表現したものが主であった。「逍遥遊」と「自然無為」の精神は蕉門の詩の重要な主題となり、芭蕉の俳論にも大きな影響を与えた。
蕉門の初期の「荘子」引用には談林の色が濃かった。ただ蕉門の「荘子」への関心が中国の詩にたいする理解と密接に結び付いて「風狂」「風流」の隠逸趣味として表れたという点は談林とちがった。これは蕉門初期の作品にも明らかであった。蕉門の螺舎(宝井其角、1661-1707)作桃青判の「田舎の句合」(1680)にはこういう序がある。
田舎の句合
■翁(たうをう)、栩(く)々(く)斎(さい)にゐ(い)まして、為(ため)に俳諧無尽(むじん)経(きょう)をとく。東坡(とうば)が風情(ふぜい)、杜(と)子(し)がしやれ、山谷(さんこく)が氣色(けしき)より初(はじめ)て、其躰幽(そのていいう)になどらか也。ねりまの山の花のもと、渭北(ゐほく)の春の霞を思ひ、葛西(かさい)の海の月の前、再(ふたたび)江東の雲を見ると。螺(ら)子(し)此語(このご)にはずんで、農夫と野人とを左右に別(わか)ち、詩の躰五十句をつゞる。章のふつゝかに、語(ご)路(ろ)の(巷ちまた)のまがり曲れるをもつて、「田舎(ゐなか)」とは名付(なづけ)たる成(なる)べし。仍以(よってもって)是(これ)に翁の判を獲(え)たり。判詞(はんじ)、荘周(さうしう)が腹中を呑のんで、希逸(きいつ)が弁(べん)も口にふたす。遠くきく、大江(おほえの)千里(ちさと)は、百首の詠(えい)を詩の題にならひ、近所の其角は、俳諧に詩をのべたり。あゝ千里(ちさと)同腹(どうふく)中(ちゅう)なる事を知ル。しるといへば、我是(これ)をしるに似たり。しらずして爰(ここ)に筆をとる、又是これしらざるなり。
この序にはほとんど句ごとに出典がある。その出典の内容に特に注意すべきなのは蕉門の「荘子」受容と中国詩歌受容の相互関係である。冒頭のところに書いた「栩々斎」は芭蕉の書斎の名であるが、それは、「荘子」の「荘周の胡蝶」という寓言から来たことは明らかである。それから、この序は4人の中国詩人のことにふれる。蘇東坡、杜甫、黄山谷の名前は冒頭のところに書いてある。4人目の中国詩人はあの有名な李白である。李白の名前は直接出ていないが、「ねりまの山の花のもと、渭北の春の霞を思ひ、葛西の海の月の前、再(ふたたび)江東の雲を見ると」という芭蕉の話に暗示されている。中国の唐の時代の大詩人杜甫の「春日懐李白」という詩に「渭北春天樹、江東日暮雲」の句があって、渭北は杜甫の居住地、江東は揚子江の東岸、李白の住んでいたところを指している。芭蕉は比喩的な表現で杜甫や李白のことを持ちだし、俳諧をつくるとき、常に中国の偉い詩人の詩をおもいだして、劣らないように考案しなければならないと門弟たちに教えていたのであった。こういうモデル意識は実は芭蕉のこの時期に使った号にもみられる。「桃青」という号は李白のことを念頭に置いてつくったものだとよくいわれている。
なぜ大勢の中国の詩人の中からこの4人を選んであげたのか。これは三つの可能性が考えられる。一つはこれが偶然である。序の作者嵐雪が文章を書く便利上、芭蕉の教えに出た中国詩人から任意にこの4人を選んだ。もう一つの可能性は、中国詩論の影響である。「李杜」(李白と杜甫)とか「蘇新黄奇」(蘇東坡の新味、黄山谷の奇抜)とかいう表現は中国の詩論によく現れているから、芭蕉あるいは嵐雪はその4人を例にあげた。三つ目の可能性は、林希逸の「荘子」注釈の影響である。李杜蘇黄は林の注釈にもっともよく引用された詩人であるから、それによって、芭蕉とその門弟は影響された。この三つ目の原因は、蕉門の「荘子」にたいする関心および中国詩歌の伝統に対する関心を理解するためにはとても重要である。
林希逸は■斎と号し、宋の端平(1234-37)年に進士になった学者であった。かれの「荘子■斎口義」(1253)という注釈書が江戸時代の俳人たちに広く読まれたことは「田舎の句合」序からもわかる。詩書画の上手な林希逸は「荘子」の説明に、常に文学作品から例を引いた。例えば、林は「荘子」をよむ重要性をこのように強調した。
此書不可不讀。亦最難讀。東坡一生文字。只従此悟入。(此の書は読まなくてはならず、亦、最も読みにくいのである。蘇東坡の一生の作、只此から悟り入ったのである。)
これは林の注釈の巻頭に書いた言葉であるから、俳諧の新しい内容表現を探していた芭蕉たちの印象に残らないことはなかったとおもう。林の「荘子■斎口義」は「荘子」が詩人文人の必携であるという印象を作ったいっぽう、芭蕉たちの中国詩の読み方にも影響をあたえた。これは「田舎の句合」序に見られる例であるが、序の作者嵐雪は杜甫の特色をいう時、「杜甫のしやれ(洒落)」という言葉を使った。杜甫はとても複雑な詩人であり、杜詩は全体的に一番特徴づけにくいといわれているが、数多くの杜甫詩評の中で洒落と言う表現はこの「田舎の句合」序の前にでたことがなかった。それで、洒落という評判はどこからきたのか、そして、何の意味で使っているのか。この問題について、石川八朗氏は林の「荘子■斎口義」からきたのであると論じた。「荘子」には「和之以天倪」という説がある。
何謂和之以天倪。曰。是不是。然不然。是若果是也。則是之異乎不是也。亦無辯。然若果然也。則然之異乎不然也。亦無辨。化聲之相待。若其不相待。和之以天倪。因之以曼衍。所以窮年也。忘年忘義。振於無竟。故寓諸無竟。
(何をか之を和(ととの)うるに天(おのずか)ら倪(ひと)しきことわりを以てすると謂(い)う。曰わく、是(ぜ)と不(ふ)是(ぜ)とあり、然(ぜん)と不然(ふぜん)とあり。是(ぜ)もし果たして是(ぜ)ならば、則ち是(ぜ)の不(ふ)是(ぜ)に異(こと)なること、亦(また)弁(あげつら)うまでも無からん。然(ぜん)もし果たして然(ぜん)ならば、則ち然(ぜん)の不然(ふぜん)に異なること、亦(また)弁(あげつら)うまでも無からん。化の(よしあし)声い(あげつら)の相待(あいまつ)ことは、其の相待たざるに若(おなじ)。之を和(ととの)うるに天ら倪(おのずかひと)しきことわりを以てし、之を因(したが)わしむるに曼衍(かぎることな)きを以てするは、年(よわい)を窮(つ)くす所以(ゆえん)なり。年(よわい)を忘れ、義(よしあし)を忘れて、竟(かぎ)り無きせかいに振(はばた)く。故に諸(これ)を竟(かぎ)り無きに寓いこわしむるなり。)
「荘子」のこの概念を説明する時、林は次のように云った、
和之以天倪。盡可游衍。盡可窮盡歳月。故曰因之以曼衍。所以窮年也。因之。順之也。曼衍。游衍也。窮年。猶子美所謂瀟洒送日月也。能如此。則不特可以窮年。併與歳月忘之矣。非特忘歳月。併與義理忘之矣。■義既忘。則振動鼓舞於無物之境。此振字便是逍遥之意。既逍遥於無物之境。則終身皆寄寓於無物之境矣」
(之を和するに天ら(おのずか)倪(ひと)しきことわりを以てして、盡に衍く(おもうままかぎりな)あそび、歳月を窮くさん。故に曰く、「之を因(したが)わしむるに曼衍(かぎることな)きを以てするは、年(よわい)を窮(つ)くす所以(ゆえん)なり」。「之を因(したが)わしむる」は之に順(したが)うことなり。「曼衍(かぎりな)き」は衍く(かぎりな)游ぶことなり。「年を窮くす」は、猶、子美の所謂瀟洒にして日月を送る也。能く此の如くならば、則ち以て年を窮(きわ)むるのみならず、あわせて歳月を忘れん。歳月を忘るるのみならず、あわせて義理を忘れん。歳と義とを既に忘れば、則ち無物之境に振(はばた)き鼓舞す。此の振の字はつまり逍遥の意味なり。既に無物之境に逍遥せば、則ち終身を皆、無物之境に寄寓せん。)
林の註に書いた「子美」は杜甫のことである。「瀟洒送日月」という句は杜甫の「自京赴奉先県詠懐五百字詩」(755)の中の一句で、安禄山の乱の直前に書いたものである。詩の初めに自分の出仕の道での失意を述べて、それから、13、4行目のところに「非無江漢志、瀟洒送日月。」という句が出た。「江漢志」というのは隠逸生活を追求する志であり、中国文学には隠者のことをよく江河の浜に隠れた者と言う表現でいった。文学における隠逸趣味というと、中国の古典詩人の自己像は両面性のあるのが多い。大多数の詩人文人は自分の作品に儒家の教えに従って、国を治めることを責任にし、天下を憂する官僚文人の顔を真剣に描いていながら、世俗の功利から遠く離れて、江河の傍らで悠然と魚を釣っている隠遁者の姿も好んで作りだすのである。どの顔の側面が強いかは人によって違うが、杜甫は隠遁者の面影が全然ないと言えなくても、かなり淡い方である。にもかかわらず、林は杜甫の詩に少ないこのような句を「逍遥於無物之境」(無物之境に逍遥す)の例として出した。この例は芭蕉とその門弟たちの杜甫像に深い影響を与えた。恋石川氏の分析では、「しゃれ」(洒落)という言葉の当て字は例に出された杜甫の句の「瀟洒送日月」の「洒」と同じ漢字を使っている。そして、「洒れ」という表現は蕉門の作品にはいつも林の解釈にでた「瀟洒」と同じように隠逸の逍遥の意味で使われた。だから、石川氏は蕉門の杜甫印象が林の説明に影響されたと推測した。石川氏の分析はとても説得力があるとおも(思)う。実は杜甫は芭蕉が最も多く引用した中国詩人であるが、芭蕉の引用した部分は杜甫の実用功利的表現がほとんどない。そればかりでなく、杜甫は常に寒山や西行のような世俗から離れた中日詩人と並べられて、遁世趣味のコンテクストにおいて扱われた。
こうして、芭蕉の中国詩の受取方はかれの「荘子」理解につながっている。彼は「荘子」を通じて中国詩に浸透した逍遥遊の精神を見つめていた。それと同時に、芭蕉にとって、「荘子」は哲学の本より、詩の古典であり、文学の必読書であった。芭蕉のこういう「荘子」の読み方と中国詩の読み方との関連は「田舎の句合」の序にもよくみられる。冒頭のところに書いてある「■翁、栩々斎にゐまして、為に俳諧の無尽経(むじんきょう)をとく」とあとに出た「(翁の)判詞、荘周が腹中をのんで、(林)希逸が弁も口にふたす。」などのところをよんで、芭蕉が「荘子」を教えているのかそれとも作詩を教えているのかわからなくなったと読者がおも(思)うであろう。実は蕉門においてその二つは不可分なものとなった。芭蕉の判詞はどのように「荘周が腹中をのんで」いるかというと、螺子(其角)の次の句と芭蕉の評判をを見てみよう。
鳶に乗(のっ)て春を送るに白雲(しらくも)や(判詞:)右の句の鳶にのって無窮(ブキウ)の空■(くうくう)たるに逍遥(セウヨウ)せんこと、楽たのしみ猶なお窮きはまりなかるべしや。
螺子の句は表では晩春の景色を想像的なイメージで描いているが、芭蕉は「鳶に乗(のっ)て」という表現の本意を「荘子」の「鵬」についての寓言(さきに引用した惟中の「俳諧蒙求」に出た)に見つけて、「逍遥遊」の楽しみをこの句からよ(読)みとった。「荘子」には「逍遥遊」は無限の自由を実現した状態の比喩的な表現であり、逍遥遊の状態に達したことは無窮の楽しみとしている。芭蕉は修辞上の本領より「荘子」精神を表した螺子の句の本意を評価している。この句は前に出た談林の例と同じように、「荘子」との間テクスト関係に依って深層意義を作り上げたのであるが、「荘子」から直接イメージを借りず、典故を想像力に富んだ描写に隠した。このような解釈項としての典故を読み取るには「荘子」についてのより深い知識が必要である。「田舎の句合」の序に示されたように、この時期に芭蕉は門弟を導いてよく「荘子」を勉強したようであるが、これも俳諧本意の新しい基盤をつくるための努力であろう。しかし、この段階では、蕉門の「荘子」引用はまだ概念的なものに限られている。この限界はまもなく、芭蕉の逍遥遊の詩精神を追求する実践によって打破された。
1680年の冬、芭蕉は江戸を離れて、深川の岸にある草の庵に遷った。広田氏はこの草庵を「逍遥遊の実践の場」であるといった。逍遥遊の思想は芭蕉の草庵生活の唯一の動機だとは言えないかも知れないが、芭蕉の深川移住は「荘子」の逍遥遊にハイライトされた反功利的反因習的風狂精神への誠実な追求であったといえる。この追求は、この時期に発表した芭蕉の詩に生き生きとしてあらわれた。次の句は「みなし栗」という俳諧集に出たもので、芭蕉の草庵生活を描いている。
茅舎(ぼうしゃ)買■フ水ヲ  氷苦(こほりにがく)偃鼠(えんそ)が咽(ノド)をうるほせり
句の前の題もあって、この句の表面的意味は難しくない。寒いので飲む水も凍ってしまった草庵生活のユーモラスなスケッチであるとだれでもすぐわかるような描写である。しかし、偃鼠(えんそ)という変な俳言の出現は読者の注意力を引き、なんだか単なる描写的読み方に満足できないように感じさせる。この変な俳言は実は大勢の研究者たちに指摘されたように、ただの写実的な描写ではなく、「荘子」からの典故である。「荘子」には次のような話がある。尭という賢明な君主は天下を許由という有名な隠者に譲ろうとした。すると、許由はこう答えた。
子治天下。天下既已治也。而我猶代子。吾將為名乎。名者。実之賓也。吾將為賓乎。鷦鷯巣於深林。不過一枝。偃鼠飲河。不過満腹。歸休乎君。予無所用天下為。庖人雖不治庖。尸祝不越樽爼而代之矣
「子(きみ)、天下を治めて天下既に已(すで)に治まれり。しかるを我なお子(きみ)に代(かわ)らば、吾れ將(まさ)に名を為(もと)めんとするか。名は実(じつ)の賓(そえもの)なり。吾れ將(まさ)に賓(そえもの)とならんとするか。鷦鷯(みそさざい)は深(しげ)れる林(はやし)に巣(す)くうも一枝を用うるにすぎず、偃鼠(むぐらもち)は河(おおかわ)に飲(みずの)むも腹を満たすにすぎず。帰り休(いこ)われよ君(きみ)、予(われ)は天下に用(きみ)となるも為(いた)し所(かた)なし。庖人(りょうりにん)は庖(りょうり)を治(まかな)わず雖(ど)も、尸祝(かんぬし)は樽(たる)と爼(まないた)を越(うば)いて之に代らざるものを。」と。
「荘子」のこの話について、林希逸は偃鼠(えんそ)は許由が自分の事を喩えて言うのであると説明した。つまり、「偃鼠」というイメージは隠者の質素な品質と自由精神を賛美する意味でつかわれたのである。これは芭蕉の句に出たイメージの本意でもある。こうした間テクスト構造において、「偃鼠」は芭蕉の句に解釈項の役割を果たしている。この媒介的典故によって、一句の意義は逍遥遊の伝統のコンテクストに翻訳され、滑稽なスケッチが深い精神的魅力を持つようになった。媒介項として読めば偃鼠は質素な草庵生活を楽しみとした風狂の詩人の自己像でもあった。
芭蕉のこのような典故の使いかたは談林流のそれと根本的な違いがあった。詩の表現力を拡大する間テクスト的構造を作り上げると同時に、芭蕉の典故の用い方はそのモデルテクストに代表されている伝統と共鳴している自分の感情と美的体験をも表している。いいかえれば、芭蕉の詩における典故は解釈的だけでなく、抒情的でもある。この意味では芭蕉は談林の手に詞の遊びになった俳諧に日本詩の抒情性を再建した。芭蕉の句のこの本質は彼の草庵生活および後の風狂の旅生活から離れれば実現できない。正直な詩人である芭蕉は自分の芸術態度と生活態度を一体化して、詩に表現したいものを生活に実践したのである。
勿論、「荘子」の典故を使った芭蕉の全ての作品は抒情的だとはいえない。しかし、蕉風成熟期の作品において、古典の引用はいつも詩人の実際の美体験に溶け込み、間テクスト構造は描写と一体になった。晩年の芭蕉は荘周の蝶のようなきまり文句になった典故を意識的に避けていたようであるが、「みなし栗」の時期にそれをつかっても、できるだけ自然に句に織り組むように工夫した。次は今日の話の始めにあげた例の一つであるが、蝶のイメージを用いた句である。
椹や花なき蝶の世捨て酒
この句は「蝶」と「夢」の古くさい組み合わせのかわりに、「蝶」を「椹」という季語とともにつかって静かな田園風光を描き出した。17音節の一句はクロズアップされたイメージの連続である。まず読者の目に移ったのは椹であり、それから、そこに泊っている蝶である。最後のイメージ「世捨て酒」が出るまでは読者はほとんど間テクスト構造なんかの存在に気づかずに一句を田舎の景色の描写として観賞している。しかし、「世捨て酒」という表現は読者を全句の意義を隠逸精神の伝統との関連において考えるようにすすめた。隠逸趣味のコンテクストにおかれて、中国文学の教養のある読者にとっては、最初の二つのイメージ「蝶」と「椹」は間テクスト的構造の媒介項である性質が現れてきた。桑(くわ)の木は早くから、中国の隠逸詩に愛用されたイメージであった。中国隠逸詩人の第一人者である陶淵明(365-427)がこれを「帰園田居」(田園に帰して居す)という有名な詩に使って以来、桑の木は隠逸生活と隠逸趣味を象徴するシンボルになった。もっと具体的にいえば、桑の木は世俗を離れた隠者が見つけた大自然という心の故里を連想させる特定のイメージになった。椹という詞は、和歌にも使われた。隠逸生活との関連はそんなに顕著でないにもかかわらず、やはり田舎風のイメージとしてつかった。陶淵明が芭蕉の作品によく出る中国詩人の一人であるから、「椹」を「蝶の世捨て酒」とする表現は陶淵明の「帰園田居」からの伝統にふまえて考えられたと言っても、無理はないであろう。そうすると、「椹」は簡単な描写的なイメージではなく、典故としての役割をもはたしている。「椹」というイメージの意義転換は同時に「蝶」に対する間テクスト的理解を呼び起こしている。「椹」という解釈項を理解する上で、読者はこの椹にとまっている「蝶」も単なる一匹の昆虫ではなく、荘子の描いた蝶であることがわかってくる。この蝶は現実のはかなさを観察する担い手であり、この蝶の感覚には、世をすてる隠遁が賢明な選択でもあって、精神的享受でもある。そして、この蝶にとってこそ、隠者の庭にある椹がおいしい酒になるのである。
蕉風の発展につれて、初期の蕉門俳諧のテーマに大きな影響を与えた「荘子」は作詩の根本原則に関わってきて、自然さを強調する芭蕉の晩年の詩風の形成にも役立った。表現の自然を重んじて、芭蕉の後期の発句と連句にはあからさまな典故の引用が少なくなった。しかし、彼の俳文紀行文には、本説典故、特に、「荘子」の文章を用いるところがまだ多い。特殊の詩型としての俳文紀行文は文体的に普通の文章と区別する特定の形がないので、典故という間テクスト的解釈項を通じてその詩の本質を明らかにする必要があると思う。こういう典故の役割は芭蕉の名作の一つ「笈の小文」の冒頭となる文章にはっきり見られる。
百(ひゃく)骸九竅(がいきうけう)の中に物有(ものあり)。かりに名付(なづけ)て風羅坊(ふうらばう)といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好(このむ)こと久し。終(つひ)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うん)で放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是(ぜ)非(ひ)胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)む事をねがへども、こが為にさへられ、暫ク学(まなん)で愚(ぐ)を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐ(ひ)に無能無藝にして只(ただ)此一筋に繋(つなが)る。
初めの行から、作者は普通の語意に基づく理解を拒否する表現を使った。百(ひゃく)骸九竅(がいきうけう)といった変なイメージや表現に面して、読者は文の意味を理解するために、推測するか間テクスト的参考文を探すかのいずれかを選ぶよりほかない。詩の表現の本質がその間接性にあるという説に従えば、この文章は間違いなく詩的である。芭蕉はこの作品に詩的品質を持たせるために意識的に典故を入れて意味の表現を屈折したのではないかと思われる。
この文章の間テクスト的解釈というと、この段落と「荘子」との関係はすでに大勢の学者に指摘された。最初に出た身体についての変な描写は「荘子」の「斎物論」の次の文から借りた所がおおいと言われた。
百骸九竅六藏■而存焉。吾誰與為親。汝皆説之乎。其有私焉。如是。皆有為臣妾乎。其臣妾不足以相治乎。其遞相為君臣乎。其有真君存焉。(百骸(がい)■九竅(きょう)■六藏(ぞう)、そなわ(■)りて存(あ)り。吾れ誰(いず)れをか親しむことを為さんや。汝みな之を説(よろこ)ぶか、其れ私することあるか。是(か)くの如くんば皆臣妾(しんしょう)と為すことあるか。其れ臣妾は以て相(たがい)に治むるに足らざるか。其れ遞(かわる)がわる相(あ)い君臣と為(な)るか、其れ真(まこと)の君(きみ)の存すること有るか。)
右に傍線の付いた文と比較して読むと、「百骸九竅の中に物有」は明らかに、荘子からの表現であり、「荘子」という本説の存在を示す解釈項である。この解釈項の存在によって、次の句に出る「風羅坊」に対する間テクスト的理解も可能になったのである。「荘子」の「百骸九竅」にある「真君」と同じように、「風羅坊」は詩人の精神的アイデンティティである。「うす物の風に破れやす」いため、かりにこれを以て自分の正体を号したと作者はい(言)う。「かりに名付けて」という言い方は、実は道家思想の色彩が濃い。広田氏はこれについて、「名付けることによって、物の本質が失われる、したがって無名を尊しとする思想は老荘の特徴であり、「老子」に繰り返し見られるばかりでなく、「荘子」にも「大道無称。」とか「至人無己、神人無功、聖人無名。」など多く見られるところである」と指摘した。なぜ、芭蕉は「風羅坊」をかりの名として、選んだのかに関して、穎原退蔵氏はその風に破れやすい性質が芭蕉という植物の葉と似ており、その性質に詩人芭蕉は深い関心を示したと言った。風に破れやすい性質は何かと考えて見れば、世俗の価値がないこと、自然の力に任せて自然の変化とともに変化することの形象化された表現であると思う。これはかなり荘子的な態度であり、芭蕉は「風羅坊」や「芭蕉」のようなイメージを通じて、自分の詩的自己像の趣味指向を示そうとしたのであろう。俳文「芭蕉を移す詞」には、詩人芭蕉は自分の草庵の傍に植えてある芭蕉の木をこう描いた。
猶(なお)明月のよそほひにとて芭蕉五本(いつもと)を植(うゑ)て、其(その)葉七尺餘(あまり)、凡(およそ)琴をかくしぬべく、琵(び)琶(は)の袋にも縫(ぬひ)つべ(ママ)し。風は鳳尾(ほうび)をうご(ママ)かし、雨は青龍の耳をうが(ママ)つて、新葉日■に横渠(わうきょ)先生の智(ち)を巻(まき)、上年上人(しゃうねんしゃうにん)の筆を待(まち)て開く。予はそのふたつをとらず(ママ)。唯此(ただこの)かげ(ママ)にあそび(ママ)て、風雨に破レ安からむ事を愛スのみ。
右の文に書いた「横渠先生」は著名な儒学者張載(1022-1077)のことである。「上年上人」は「少年上人」の誤りで、唐の時代の有名な書道家懐素(634-707?)のことである。二人とも一所懸命学芸にはげんだことで中国の歴史に知られていた。懐素はよく紙の替わりに芭蕉の葉を使って習字をしたといわれた。張横渠は芭蕉の葉の速やかな成長ぶりを見て、自分の学問の進歩も同じように速くなってほしいという意味の詩を詠んだ。これらの話は中国の明の時代に編集された「圓機活法詩学全書」の「芭蕉」の項に収めてあるので、芭蕉はそれを読んだのであろう。しかし、芭蕉は自分が張横渠と懐素に従わず、自然無為の生活を送ろうという意志を表明した。風に破られた芭蕉の葉を「鳳尾」や「青龍」のような美しいイメージで形容したことから、詩人芭蕉の世界では自然の移り変わりとともに消えていくことが決して悲しいことではないことがわかる。悲しくないばかりか、自然と一体になって、自然の懐に安らかにいるのは人生の美しい境地だと強調している。これは「荘子」の逍遥遊の思想の中心であり、芭蕉の多くの俳文の本意でもある。「笈の小文」に書いたように、「風羅坊(ふうらばう)」|芭蕉|は無用無為という荘子の姿勢を詩的生き方とし、「かれ狂句を好(このむ)こと久し。終(つひ)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦(うん)で放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是(ぜ)非(ひ)胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立(たて)むをねがへども、こが為にさへられ、暫ク学(まなん)で愚(ぐ)を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐ(ひ(に無能無藝にして只(ただ)此一筋に繋(つなが)る。」この一見して不思議な自己描写は「百(ひゃく)骸九竅(がいきうけう)」という解釈項によってその本意を明かにされ、変な文章は風狂の詩に転じられた。

芭蕉の俳文紀行文には「荘子」からの典故はまた沢山あるが、時間の都合で一々上げることはできない。でも、以上の例からも見られるように、芭蕉は「荘子」をかなり深いレベルで理解し、思想理念としてだけでなく、詩的表現の本意としても見事に俳諧に生かした。締め括って言えば、江戸俳諧における「荘子」の流行は俳諧の発展の必要から生じた現象であり、日本詩歌の古典重要視の伝統に深く関わった。貞門の実用的「荘子」寓言論から、談林の形式的「荘子」本意論を経て、「荘子」という異文化の古典は芭蕉の世界に創造的に生かされ、言葉の遊びから発足した俳諧を芸術性の高い、表現力の極めて豊富な詩に成り立たせる過程に重要な役割を果たした。
荘子(そうし・紀元前369-286年と推定)

 

中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。「莊子」が本来の表記、日本の文部省の漢字制限(当用漢字、常用漢字)以後現表記となる。荘子の伝記は「史記」巻63にあるものの、明らかではない。そのことから架空説も存在するほどである。
荘子の思想は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。しかし老子には政治色が色濃いのに比べ、荘子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている違いがある。
大まかな傾向をいえば、価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い、日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。
こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、これは古来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想的な、神秘主義思想として読むことになる。他方では、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。
荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。
近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれている。
荘子の著書と言われる「荘子」(そうじ)には、内篇7篇、外篇15篇、雑篇11篇があり、この中で内篇だけが荘子本人の手によるものと見られ、それ以外は弟子や後世の人の手によるものと見られている(異説あり)。実際、内篇に比べ外篇・雑篇は文章の点でも未熟であり、漢代になってから主導権を握った儒教に対する敵愾心が多く出過ぎており、無為の境地からは遠く離れたものとなっている。
荘子内篇は逆説的なレトリックが煌びやかに満ち満ちており、寓話を多く用い、読む者を夢幻の世界へと引きずり込む。
荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より、荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が「荘子祠堂記」に於いて論じているほどである。白川静は孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。
老荘思想が道教に取り入られ老荘が道教の神として崇められる様になっているが、老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説もある。
老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐の時代には、玄宗によって神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書「荘子」は「南華真経(なんかしんきょう)」と呼ばれるようになった。小説「三国志演義」の冒頭に登場する南華老仙は、荘子のことである。
 
「気」の思想・「こころ」の文化 / 日本人とタイ人の心のあり方

 

東洋人は感性的な面において繊細であるとよく評価されます。日本語とタイ語との間には、敬語の発達、男女間の言葉の違い、あるいは「気・こころ」を用いる多数の表現などといった感性的な面における共通性が多く見られます。それにもかかわらず、それぞれの思考や情緒を表出する時に、両言語の「心のあり方」によって微妙に違ったニュアンスが見られるのです。本発表は、そういう考えを踏まえ、歴史的・対照的分析を通して、両者の心的態度や意識構造を明らかにするとともに、それぞれの国民がどのように物事を感じ取るのか、どのように外界に接して物事を理解するのか、日本人とタイ人の「国民性」の一面を客観的に考察していきたいと思います。
「こころの文化」とは
「こころにも文化なんてあるのか?」と疑う方もいるかもしれません。確かに「こころの文化」ということをあまり耳にする機会はありませんね。しかし、「食文化」、あるいは「生活文化」などはよく聞いたりしていませんか?「食文化」や「生活文化」という言葉があるように、実は人間の知的・情意的な精神活動を果たす「こころ」にも、ある国の独特の食・衣装・住まい・生活などと同じように、それぞれの国民のモノの捉え方・感じ方、または表出の仕方によるいくつかの違いがあります。たとえば、「恥」・「笑い」・「愛情」または「怒り」というような情緒について考えてみましょう。それぞれの国の人は、同じような捉え方・感じ方、または表出の仕方をするのでしょうか?日本人は、「旅の恥は、かき捨て」というほど、他の国の人より普段の生活では他人の目を気にしながら行動すると言われています。ですから、たとえ同じ場面で同じようなことをしようとしても、「恥」というものに対する、日本人と外国人の捉え方・感じ方、そして表出の仕方、つまり「こころの文化」が違ってきます。
他の情緒に対する「こころの文化」も同様です。私はこの前2時間のスペシャルドラマを見ましたが、そこでは実の息子を亡くした母親が悲しみで号泣していたのに、急に大声で笑い出してきて、テレビの前の私には、本当にカルチャーショックでどう受け止めればいいか分かりませんでした。きっと悲しみが溢れてきて言葉にできないぐらいどうしようもないのだろうと思いました。私が馴染んでいるタイ文化には、「怒り」から「復讐心」に変わって、それを抑えられなくて笑い出したりすることがあり、たまにはそれを小説やドラマなどで見ることがありますが、こういう「悲嘆」から「笑い」に展開していく事例についてはなかなか経験したことがありません。そういう様々な現象を文化の一つとして、ここで「こころの文化」または「それぞれの国民のこころのあり方」と呼ぶことにしておきます。
人間の感受性と言葉との密接な関係
では、次に皆さんにこの絵をよくご覧になっていただきましょう。どのように見えるのでしょうか?機嫌よさそうな顔に見えた方、機嫌悪そうな顔に見えた方、そのどちらもいるのではないかと思います。そして、次の絵はどうでしょう?どんなふうに見えるでしょうか?こちらの方は、全体として合わせて見る大まかな見方と、部分的に細やかに見る見方がありますね。
この二つの絵は、江戸時代の「遊び絵」と呼ばれるものでよく知られています。最初の絵は、上下逆さまにして、それぞれ違う顔を表わす絵ですから「上下絵」と言いますが、後の絵は、複数の物を寄せ集めて別の物体を表現した絵なので「寄せ絵」と言います。実は、これらの絵は、私が先ほどお話した「こころの文化」、あるいは「こころのあり方」を模擬したものであります。人間という生き物は、ある一つの能力を共有しているのですが、それは世界中のあらゆる物事に接した時に、それらによって様々な感情を生み出そうとする感性豊かな能力です。そういう優れた能力は、国籍を問わずすべての人間にあって、「感受性」における「普遍性」とも呼ばれています。
しかし、そういう人間の「感受性」における「普遍性」は、ある範囲、あるいは、あるフレームによって抑えられています。それはどういうものかというと、これからのお話の主題となる「言葉」という範囲の問題なのです。先ほどお見せした二つの絵のように、同じものを体験していても、左の方から見るのに慣れている方と、右から見るのに慣れている方の両方がいらっしゃると思います。同様に、絵の構成の細やかな部分を把握できるという方もいらっしゃれば、大まかなものしか見えないという方もいらっしゃると思います。普遍的な人間の感情のようなものを「絵」にたとえるとしたら、皆さんの「それぞれの見方」は、それぞれのこころの文化の受け入れ方と同じようなものになります。今回の小さな実験では、少し自分の見方を変えてみれば違ったものがすぐ見えてくるのですが、実際にはその見方、あるいは世界観こそが、それぞれの言葉によって制約されているので、決して簡単には変えることができません。
少し哲学っぽくなってしまいましたが、言語学的に言い換えてみれば、人間は「言葉」という「フィルター」を通して、常にある決まっている方向に導かれ、人間の本来の感受性の能力があるにも関わらず、自分が毎日使っている「言葉」、いわば「文法」なり「単語」なり「表現」なり、それらの「フィルター」を通して、外界を当たり前のように感じ取るのです。
ですから、たとえ同じような物事を体験していても、人間はそれぞれの時代・それぞれの民族によって捉え方も違いますし、かりに同じような捉え方をしていても、その物事に対する表現・表出の仕方も違うものですから、それぞれの時代及び国民性という「フィルター」によって、「こころの文化」あるいは「こころのあり方」も違ってくるわけであります。
High Context Cultureとしての日本文化
Edward T. Hallというアメリカの人類学者は、あらゆる感情を明白に言葉や行動に出すLow Context Cultureの西洋文化に対して、日本文化を始めとして、東洋文化をHigh Context Cultureに分類しています1。なぜならば、後者の文化には「言葉を使いたがらず、状況などの文脈を重視する」という傾向が見られるからです。私自身は日本にはかれこれ10年以上も関係してきましたが、日本人には確かに「言葉」より「雰囲気」の方が好まれているように思います。  
これについては、国語学者の阪倉篤義先生も言っておられます。つまり、物理を抽象的な理屈として理解するよりは、むしろ感覚的にとらえるということの方が日本人に向いているということです2。それを先ほど単純に「雰囲気」と言ってしまいましたが、正確に言えば、その「雰囲気」というのは、「その時のコンテクスト」「その瞬間の状況」ということで、たとえばこういう場面ならある決まった言葉を使う、こういう状況ならある決まった行動を取る、あるいはこういう流れであればある決まった感情を抱くというように、日本文化ではそれぞれのコンテクストによってやるべきことが既にほぼ決まっているのです。そういう「感覚的な捉え方」のやり取りにおいては、特に互いに言葉を交わす必要もなく、日本人同士であれば分かり合えるという日本人の誰もが共有している常識のようなものです。
言葉の面から見ても同じです。たとえば、こういう言葉は、ある決まった場面ではある決まった意味をもつけれども、それと違った場面で使うとまた違った意味になるという、一つの言葉の裏に複雑な意味を含める日本語も実に多いです。私は以前「やさしい」という語源と用法について研究しましたが、それにも日本人のHigh Context文化が表われていて、使う場面によって「思いやりのある人」という褒め言葉の「やさしい」もあれば、どれもこれもイマイチというような人に対しても、「やさしい人ですね」と言って、実は見下しているというような「やさしい」もあります。そういう意味のニュアンスの違いは、ただひたすら日本語を勉強して言葉の意味を暗記するだけでは、なかなか理解しがたいですね。
日本人の感情の表出とタイ人の感情の表出
実は私が生まれた故郷の「タイ」も、日本と同じように「こころ」を非常に大切にする文化を持ち、感性的な面においても大変繊細であるとよく言われています。ただし、長い間日本語を使って日本に住んできたタイ人の私に言わせれば、両国の文化は感情に対して繊細ないし鋭敏でありながらも、日本人とタイ人の間には外界との接し方や物事の感じ取り方、または理解の仕方などについてはずいぶん違っているように思います。
まず、タイ人は日本人のように自分の中に溢れる情緒を堪え、自閉的な態度を取って感情を表に出さないようなことはしません。もちろん、公共の場で西洋人のように率直に意見や感情を何もかもぶつけるという習慣もありませんが、自分の仲間同士であれば、うれしいならうれしいというし、悲しいなら悲しいと言葉にします。怒る場合にはちゃんと相手に伝わるように、率直な表現や行動で表わしてできるだけ自分が感じているものすべてを打ち明けることがタイ人の一般的な態度です。
それゆえに、タイ語の感情表現も非常に数が多いのです。日本人が怒る時に、たとえば「怒る、腹が立つ、頭にくる」など様々な表現が取り上げられるのですが、実際に怒る時には日本人はそれらの言葉を口にするより「沈黙」で表わすことが多いのではないでしょうか。その「沈黙」という表現は、日本文化においてHigh Context Cultureを表わす心のあり方の一つです。邦画のシーンにもよく出てくるように、「怒り」だけではなく、「愛情」や「憎しみ」などの表現としても決して少なくないでしょう。
しかし、タイ人の怒っている時は違います。タイ人はほとんどの場合、感情を堪えたりしないから、タイ語の怒り表現はそういうタイ人の怒りの程度に応じて、怒りの「度合い的」にも(どれぐらい怒っているのか?)「種類的」にも(どういう原因で怒っているのか?」、または「対象的」にも(誰を怒っているのか?)使い分けられているのです。たとえば、親や恋人など大切な人に自分の誕生日を忘れられた場合には、「ゴーン」と言って、機嫌をとってもらうために小さな怒りを自分の大切な人だけにわざと可愛く見せたり、仲のいい友達に仲間はずれにされたような場合には、「ノイジャイ」(心を縮める)と言って、寂しさを伴う少しの怒りを表わしたり、会議などで職場の同僚と議論が少しかみ合わない時には「クウアン」と言って、ちょっと気に障るという意味の感情表現を使ったりします。
このように、「言葉」というものは、感情を表わす「心のあり方」に、密接に絡んでいるということがお分かりになったかと思います。そこで、日本人がどういう世界観を持って物事を理解するかを知りたい時には、日本人を装って日本人らしい「日本語」という「フィルター」をかけて、世界を眺めることしかありません。逆に、自分が育った当たり前のような世界観から、一瞬でも抜け出そうとすれば、普段自分が使っている言葉の「フィルター」を取りはずして、たまにそれと違った「フィルター」をかけて、外国語などを通して世界を眺めることが良いでしょう。
ということで、これからタイムスパンが違った遥かな昔の日本語と、文化的にも思想的にも違ったタイ語という二つの「フィルター」をかけてみて、もしも自分が昔の日本人になったら、もしも自分がタイ人になったらと想像していただきながら、物事に対する新たな「心のあり方」を体験していきましょう。

「心のあり方」を表わすHeart Words
「気」の意味・概念
まず、皆さんに覚えていただきたい用語があります。人間の知的・情意的な精神を表わす言葉、つまり人間の「心のあり方」を表わす言葉を、ここでは「Heart Words」と呼びます。「Heart」または「ハート」というのは、皆さんもご存じの通り、日本語で言うと「気」または「こころ」という言葉に当てはまりますが、細かくみれば日本語における「Heart Words」は「魂」「霊魂」「情」「精神」それから、情意を表わす「感情」「心情」「気持ち」など数多く挙げられます。今回は、「チャイ」というタイ語の「Heart Words」と比較するために、日本語の「Heart Words」の代表として、日本人がもっともよく使う「気」と「こころ」の実体とそれぞれの用法を取り上げていきます。
では、「気」という語彙から見ていきましょう。日本人は「気」を使わずに一日過ごすことができないほど「気」を好んでいるとよく言われています。前林清和先生の「気の比較文化3」という本にはこういう面白い文章が書いてあります。「気」が何回登場したのか、どうぞ皆さんも数えてみてください。
「元気よく家を出たが、満員電車で気分が悪くなり、会社について気を取り直して仕事を始めたが、お客さんに気を使い、上司の気まぐれで怒られ気を落とし、夕方いつも気が合う同僚に飲みに行こうと誘われたが気が乗らず、家に帰れば気が休まる暇もなく、子供の遊び相手、近いうちに気ままな旅にでも出ないと病気になってしまうと気遣う妻と晩酌し、いい雰囲気になって気分転換。」
これほど頻繁に使う人はいないと思いますが、実際に毎日このような表現のどれかを使って日常生活を送っている人もきっと少なくないでしょう。
では、「気」とは一体何ものなのか、まず典型的な言語学の方法で国語辞典の記述を参考にしてみましょう。
「角川古語大辞典」
(名)漢語。森羅万象の生命力発動の源泉となる、目に見えない自然の活力。また、人間その他、有情のものの肉体的、精神的な活動のみなもとをなす、内在的な心の働きをいう。
「日本国語大辞典」(名)
一 変化、流動する自然現象。または、その自然現象を起こす本体。
二 生命、精神、心の動きなどについていう。自然の気と関係があると考えられていた。
三 取引所で、気配(きはい)の事。人気。
辞書の記述をさっと理解しようと思えば、とりあえず、「気」とは、はっきりと表わすことのできない実体不明の何かだというイメージが強いですね。そんな実体不明なモノではありますが、私もここにいらっしゃる皆さんも、きっとそんな目に見えない極めて曖昧な「気」の存在を感じることができるはずです。
以上の国語辞典における「気」の定義をまとめてみれば、「気」そのものの存在する場所によって二つの意味が説かれています。その一つは「自然に漂う気」で、もう一つは「人間の身体内部に生きる気」です。ご存じの通り、日本人は「気」という文字を中国から借り、その文字によって数多くの言葉を作り出しました。浅野裕一は気の原義について次のように述べています。
「気」の原義は、水蒸気を指すと考えられる。このことは、「気」の概念について、様々な示唆を与える。水は温度差に応じ、氷(固体)→水(液体)→水蒸気(気体)と、性質を変化させる。そこで気の概念は、一定の形状に固定されぬ変化の性格を内在させている。すなわち、「気」は、固体にでも液体にでも気体にでも、自在に姿を変えられるのである。また水蒸気は、水面や地面から立ち昇り、雲になったり、雨や雪になったり、さらには河川の水となったり、湖沼の水となったり、地下水や土中の水分になったりと、姿を変えながら、天地の間を往来・循環する。そこで気の概念は、循環の性格をも内在させることになる。
一方、現代日本語においては、心理的作用としての「気」が多く用いられています。「気が重い」「気がする」「気が立つ」「気が多い」「気が置けない」「気になる」などのような慣用的表現をいくつも思い浮かべられますが、たとえば「天気」「気象」「気化」「換気」などのように、「気」が人間の精神的作用以外の、いわば物質的なものを指す語彙はあまり出てこないようです。ただし、「気」がこうした二面性を持つことは、現代日本語に限ってのことではないと竹田健二は分析しています。
次に示すように、古くは「日本書紀」における「気」の中には、周王室の史官や陰陽流兵学が行った「気」の観測を彷彿とさせる形で説かれているものがある。
天に赤き気有り。長さ一丈余。形雉尾に似たり。(推古28年12月)
天の暖なること春の気の如し。(皇極元年11月)
「日本書紀」には、一方で気息を意味する「気」など、人間に関わる「気」もしばしば説かれている。「気」は日本でも古くから、人間の身体に関するいわば精神的なものであると同時に、天地自然の間に存在するいわば物質的なものでもあったのである。
なお、現代日本語においては、精神的なものの「気」が特に多いと見られます。また、そうした「気」の表現は実に多様であるのに対して、「気」がもつ天地自然の間に存在するものとしての面はあまり強く意識されていないのです。竹田は、近世以降の日本語で多様な形で説かれている「気」は、主として精神的なものとしての「気」であると記しています。人間の心の動きという意味に関しては、言うまでもなく、本来の意味を拡大発展させ、独自な意味として定着したものです。確かに、「気」という文字を中国から輸入したとはいえ、日本語としての「気」に加えられていった独自な部分は日本的な用法だと言えるでしょう。さらに、日本語に定着した「気」の大部分が精神を表示する事例で占められる現象は、心情を好む日本人の体質を見事に反映していると思われます。「気の不思議6」では、日本人が使っている「気」の意味とそれぞれの例が次のように取り上げられています。1〜4は一見して中国からの直輸入であることがすぐお分かりになるかと思いますが、7と8はもっと細かく分けることも可能で、日本語の「気」の使われ方の特徴を示しているものです。
万物の根本・・天地正大の気   
1 自然の現象・・天気、気象、気候  
2 物質、ガス体・・空気、水蒸気、気体、気化   
3 生命力・・元気がある、精気あふれる   
4 呼吸・・気息、気がつまる   
5 意識・・気を失う、気が遠くなる  
6 精神・・(1)(全般)気を静める、気がめいる (2)(傾向)気が短い、気が長い   
7 心理・・(1)(全般)気がきく、気が散る (2)(意志)気をいれる、どうする気か (3)(関心)気がある、気を持たせる (4)(心配)気をもむ、気に病む  (5)(感情)気まずい、気を悪くする (6)(注意)気をつける  (7)(心地)生きた気がしない   
8 全体的なムード・・山の気、火の気、その気
9 その物の特徴・・酒気、気のぬけたビール
「こころ」の意味・概念
次に、「こころ」の方を検討していきましょう。「こころ」という語は、先ほど述べてきた「気」と異なって、中国から受容した言葉ではなく、もともと大和言葉であって、後から「心」という漢字に当てられた言葉です。では、先ほどの「気」と同じように、まず国語辞典における「こころ」の意味から見てみましょう。
「角川古語大辞典」
(名)(1)人間の精神活動の根本となる、知・情・意の本体。精神。「身」「体」の対。(2)心の中。表面に現れない考えや気持。その時その時における心的状態。(3)思慮。心構え。分別。(4)なさけ。思いやり。親しみの情。ある個人に対して向けられる感情。(5)内々に心を寄せること。ひそかに情を通ずること。浮気をしたり内通したりする場合にいう。二心(ふたごころ)(6)つもり、下心。行動の基底に潜む意思。(7)性質。生れつき。(8)心底。本心。(9)意味。事のわけ。「なぞ」や「しやれ」の真意。(10)事情。内情。(11)風情。情趣。趣向。(12)物の道理。(13)たしなみ。(14)物の中心。手の中心を「たなごころ」というなど。特に池の中心をいうことが多い。(15)歌学用語。和歌の内容。(16)心臓。胸。胸先。
「日本国語大辞典」【心・情・意】(名)
人間の知的、情意的な精神機能をつかさどる器官、また、その働き。「からだ」や「もの」と対立する概念として用いられ、また、比喩的に、いろいろな事物の、人間の心に相当するものにも用いられる。精神。魂。
一 人間の精神活動を総合していう。
二 人間の精神活動のうち、知・情・意のいずれかの方面を特にとり出していう。
三 人間の行動の特定の分野に関わりの深い精神活動を特にとり出していう。
四 事物について、人間の「心」に相当するものあを比喩的にいう。
五 人体または事物について「心」にかかわりのる部位や「心」に相当する位置をいう。
このように様々な国語辞典を調べてみても、非常に抽象的な性質を持つ「こころ」の実体をなかなかつかむことができません。とはいっても、私たちの解釈の問題だけではないようです。夏目漱石のあの有名な小説、「こころ」というタイトルも、タイ語訳版も含めて、様々な外国語版においては、明確な訳がつけられず、ローマ字で書いた「K-O-K-O-R-O」がそのまま使用されているのです。
「広辞苑」では、「こころ」が動詞の「凝る」、または「ココル」といった語源から来ているのではないかと推定されています。動詞の「凝る」はまた「ココル」ともいうのですが、その「凝る」という意味は、分散しているものが寄り集まってかたまるということです。たとえば、水から凝ったものを「こおり(氷)」というし、魚の煮汁などを冷やして凝固したものを「煮こごり」と呼んだり、さらには、日本の神話では日本のことを「自凝島」と言ったりして、「おのずから凝った島」という意味を表わしています。それに従って、日本の「こころ」も「凝ってかたまったもの」として把握され、人間の「たましい」は、そもそも空気のようにふわふわと浮動していたのですが、それが次第に凝りかたまって、「こころ」の形が作られたのではないかと考えられます。
思想史では、「こころ」を問題にして、「純粋と無私のこころ」・「人の真心」というような様々な「良心論」が取り上げられていますが、その一つの例として、本居宣長(1730-1801)の「物の哀れを知る心」について少し触れておきたいと思います。
本居宣長によれば、「こころ」というのは、「物の哀れを知る」ものとして把握されています。要するに、宣長にとって「こころ」とは、ただ物事の「理性と智恵」を知るだけではなく、全的な認識で、「知ると感ずる」機能を果たしているものだと解釈されています。それこそが、「良くも悪くもただ生まれたままの心」・「自然のあるがままの心」あるいは「人間の生まれながらの真心」でもあると述べられています。
これは確かに現代日本人の「こころ」とは多少のズレがあるかもしれませんが、これから話していくタイ語の「チャイ」というタイ人の「心」に非常に似ている概念なのではないかと思われます。
「チャイ」の意味・概念
「チャイ」という言葉は、日本語の「気」に負けないくらいタイ人に大変好まれています。私もタイ人の一人なので断言できますが、「チャイ」という言葉を使わずに、タイで一日過ごすことは本当に困難であるに違いありません。タイ人に不可欠なその物体は、現代日本語において「質的に」扱われている「気」と「こころ」とはかなりの違いが見られ、頭や胸・手足などという「身体の一部」と同じように「量的に」生き生きと把握できるものです。
「チャイ」が初めて登場したのは、タイ文字ができた13世紀スコータイ時代からですが、その意味は長い間固定されていて、それから700年ぐらい経ちましたけれども、今でもほとんどの意味が変わっていません。タイでは13世紀に「石に彫り付けた碑文」というものがいっぱい残っていますが、その13世紀に刻まれたスコータイ時代の碑文に現れる「チャイ」の意味と、現在インターネットのブログやメール、またはチャットの世界に現れる「チャイ」の意味とは、ほぼ100%同じ意味を持っているのです。
タイの国語辞典を調べたところ、「チャイ」という語には次のような意味が取り上げられています。人間の一部を成し、思ったり、考えたり、認識したりするもの。心臓。呼吸。(動物にも人間にもある)精神的な動き・情緒・感情・気持ちを感じるもの。(転義で)霊魂。または、物事の中心や重要部や心臓部などという意味が説明されています。
要するに、「チャイ」というのは、日本語の「気」と「こころ」と異なって、「気持ち」「感情」「一時的な気分」という意味合いがまったく見受けられず、むしろ「それらの精神的な動きを感じ取るもの」「人間と動物といった生き物の、すべての感情や思考を担う主体」であり、すなわち、宣長の言う「物の哀れを知る心」に近い性質を持っていると思われます。
生き物の身体の中で一番大切に扱われる「心臓」から派生した「チャイ」は、このように、「心臓病」や「深呼吸」という医学の専門用語から、「理解する」「関心を持つ」などという理性的な認識を通って、「悲しむ」や「喜ぶ」などという感情表現まで、知的にも感情的にも幅広く使われています。
さらに、ぴったり相当する訳語が見当たらない日本語の「わび」「さび」と同じように、独特の文化の概念や、社会的な価値観を表わす用語としても用いられています。たとえば、「カムランチャイ」(=チャイの力)と言うと、「意志力」・「精神力」というような意味で、「ナムチャイ」(=チャイの水)と言えば、「人間らしい思いやり・心意気」という意味であったり、さらに、「クレーンチャイ」と言えば、「誰かに対して押し付けるのは気が進まない、または配慮しながら行動する」という意味で、日本語の「遠慮」や「気兼ね」というような意味に近いのです。
要するに、「チャイ」という言葉は、「理性より感情を重視するタイ文化」にとっても、仏教徒のタイ人にとっても、すべての人間に欠かせない要素で、人間の善意・悪意の元や、悟りの元など、一番重要な役割を果たしているものに他なりません。

英語の「Heart」「Mind」との比較
そのついでに、英語のHeart Wordsにも触れておきたいと思います。英語の場合、Heart Wordsと言えば、「Heart」及び「Mind」という二つの言葉が思い浮かんでくると思います。日本語と同じように、精神状態を表わす時に、ほとんどの場合、この二つの言葉が使い分けられているのですが、英語の「Heart」と「Mind」は、日本語と異なって、それぞれの用法はかなりはっきりと区別されているようです。たとえば、「Heart」は、「broken heart」(=失恋する)や「kind-hearted」(=心優しい)などというような感情的で非論理的な意味を表わしているのですが、「Mind」は「make up your mind」(=決断する)、または「keep in mind」(=頭に入れる)という論理や分析的な意味を表現しているのです。こういった欧米人のHeart Wordsの分類は、どうやら17世紀のThe Age of Reasonという「理性の時代」辺りから、左右に分かれる脳の分類とともに続けられてきたそうですが、そういう感情を果たす部分と論理を果たす部分にはっきり分かれる人間の精神的な働きというような思想は、日本人とタイ人の概念にはないようですね。その上、欧米の人々は東洋人である日本人やタイ人ほど、「Heart Words」の表現を幅広く、そしていろんな場面で精神活動を表わすこともあまり見られません。そういったことも、おそらく「感情より理性を重視する欧米社会」の一面を反映していると言えるのでしょう。
後半に入る前に、一旦「気」「こころ」そして、タイ語の「チャイ」という概念について、簡単にまとめておきたいと思います。まずは、単純なタイ語の「チャイ」に対して、日本語には、少なくとも二つの言葉の選択があります。つまり、「ハート」そのものが、日本語的な用法によって「気」と「こころ」に分けられています。ただし、日本語の「気」と「こころ」は、語源的な由来の違いがあるため、ある程度、機能的に分担して働いている英語の「Heart」及び「Mind」と異なり、その二つの語の境界線は非常に漠然としています。
それぞれのHeart Wordsの用法
では、日本人とタイ人の心のあり方をもう少し具体的に把握できるように、次にそれぞれのHeart Wordsの実例を検討していきたいと思います。
まず「気」と「こころ」をめぐる表現ですが、私は、今回古代から使われてきた「こころ」と中世頃に和語化された「気」を対象にして、14世紀「室町時代」から「江戸時代」までの間に、複合語を除いて、「気」と「こころ」を使う表現のデータベースを作りました。その結果、「気」を使う表現は、合計207例、「こころ」を使う表現は合計152例でかなり多数の例が見つかりました。
一方、「こころ」をめぐる表現は、古代・中世から近現代までの間に、あまり意味に変わりはなく、たとえば感情を動かすことや説得して相手の気を変えようとすることを「心を動かす(古代/中世)」と言ったり、心にしっかり覚えておくということを「心に留める(古代)」と言ったり、お互いに心の底まで知り合っている友達を「心の友(近世)」と呼んだりして、現代人の我々にとっても、字義通りに解釈することが可能であって、たいへん分かりやすい用法です。
それに対して、「気」をめぐる表現は、意味の拡大及び意味の変化がかなり激しくて、中世辺りでは、「気を伸ばす」「気を直す」というように、極めて具体的で生き生きとした表現が多かったのですが、近世に入ると、そういう生き生きとした表現が徐々に消えてしまって、「気もそぞろ」「気の毒」「気になる」「気は心」「気が気でない」「気で気が分からない」などという固定性が高い慣用句が増えてきました。なお、本発表では「字義通りだから解釈しやすい」や「具体的で生き生きとした表現」など、言語学用語を時々使っていますが、それはどういう意味なのか、ここで一旦説明したいと思います。
たとえば、「気を伸ばす」という表現ですが、まず皆さんに「伸ばす」という動詞を想像していただきたいと思います。「伸ばす」と言えば、「足を伸ばす」・「手を伸ばす」というように、「足や手をまっすぐにして体を楽にする」という動作を思い浮かべますね。そこで、今ではもう使わなくなりましたが、室町時代によく使われていた「気を伸ばす」という表現の意味を当ててみてください。どういうことを指すのでしょうか。「気を伸ばす」ということは体の一部である「足」や「手」と同じように、「気をまっすぐにして気持ちを楽にする」という意味なのです。こういう意味を理解する過程が、「字義通りだから解釈しやすい」、あるいは「具体的で生き生きとした表現」などということなのです。少しお分かりいただけたでしょうか。
それでは、もう一つの例を挙げてみましょう。中世に使われた「気を直す」というのもまったく同じです。「テレビを直すこと」や「パソコンを直すこと」と同様に、「乱れた状態の気を何とかして、元の望ましい状態にする」という意味を表わします。こういう「気を伸ばす」や「気を直す」という動詞は、残念ながら現在にはもう使われていませんが、それぞれの表現がかなり具体的に感じられるから、現代人の我々にとっても、確かに分かりやすいですね。
しかし、近世から現代になっていくうちに、「気」という表現が少しずつ慣用的になってきてしまいました。たとえば、「気の毒」や「気もそぞろ」など、そして現在でもよく使われる「気になる」「気にする」というように、かなり慣用度が高くて、字義通りに理解しようとしてもなかなかできません。たとえば、「気」にある「毒」がなぜ「かわいそう」という意味になるのか、あるいは「気」というものに「なる」ことでなぜ「心配する」というような意味になるのか、などなど、それぞれの語の意味と、全体的な意味とのつながりがあまりはっきり見られなくなりました。そういう表現は、言語学では、「慣用句」あるいは「イディオム」と呼びます。一方、タイ語の方の「チャイ」というHeart Wordsはどのように使われているのでしょう。13世紀のスコータイ時代からの歴史的な用法をすべて探ってしまうと、これもまたかなり長い話になりますので、その要点だけ述べておきます。
「チャイ」をめぐる表現は、700年前においても、現在においても、たいへん生き生きとしたもので、「質的な」性質を持つ現代日本語の「気」と「こころ」と異なって、その「チャイ」という実体は、「量的な」性質を持ち、かなり具体的に感じられるし、字義通りでも解釈しやすいものです。このような性質は、先ほど述べた古代及び中世の日本語における「気」と「こころ」に非常に似ていますね。
実際に使っている用例を見てみますと、たとえば、「チャイが膨らむ」と言えば「非常にうれしい」という意味であり、反対に「チャイが縮まる」「チャイが枯れる」「チャイが溶ける」というと、「非常に落ち込んでいる」「非常に憂鬱になる」「死にそうになるぐらい悲しい」という意味になります。
また、「チャイを固める」ということで、「むりやりに頑張る」という精神状態ですが、逆に「チャイを和らげる」というと、「やる気をなくす」という精神状態です。「チャイ」とその感温性についても、いくつかの表現が挙げられます。たとえば、「チャイを焼いたり、熱くしたりする」と「心配したり焦ったり」する状態を表わすものが多いのですが、逆に「チャイを涼しくする」と「落ち着く」様子になったり、「チャイを暖める」と「安心する」という状態を表わしたり、「チャイにうるおいを与える」と「心配事から解放されてほっとした」という心理状態を表わします。それに、積極的な動作を表わす「チャイ」もあります。たとえば、「チャイを緩める」とのびのびしたり、「チャイを寝かせる」と安心したりします。さらに、「チャイを洗う」と「辛い過去を忘れてリフレッシュな気分にする」というような意味で、「チャイを立てる」と「意志を立てる」ことになり、「チャイに入る」と「理解する」という知的な動作を表わす表現もあります。
また、「チャイ」という主体に、いろんな人の性質を表わすことも多いのです。たとえば、「壊れたチャイ」と言えば、「悪に染まって、元の良い性格に戻れない人」「硬いチャイ」というと「頑固な人」、さらに、比喩的に、「ダイヤモンドのチャイ」と言うと「意志が強い人」「石のチャイ」というと「思いやりのない人」というように、人の長期的な性質を表わすこともあります。
このように、タイ人に属している「チャイ」は、様々な精神活動によって、時には膨らんだり縮まったり、濁ったり湿ったり震えたり、さらに、対象語として熱くされたり冷たくされたり、和らげられたり固められたり、焼かれたりしているものだとお分かりになりますね。
では、ここでこれまで述べてきた「気」・「こころ」そして、「チャイ」という日本人とタイ人の言語学的な思想をもう一度まとめておきましょう。
中国から受容した「気」は、「こころ」そのものでもなく、体そのものでもありません。「気が合う」・「気が重い」というような「人間のこころの状態」を含めて、「万物の本源」「生命のエネルギー」「感情」「気持ち」「一時的な気分や機嫌」「気質」など、実に多義性にあふれた言葉です。曖昧でありながらも、これほど幅広い意味をカバーできる「気」は、会話や文章において自分が感じることや、考えることなどを表わす時に、できるだけ自分を避けて客観的に表現したいという日本人の国民性には、非常に使いやすくてぴったりとした機能的な言葉なのではないかと思われます。
そういった機能的で使いやすい「気」に対して、もともと和語である「こころ」という言葉は、比較的に固定した意味で使われてきて、ほとんどの場合には「喜怒哀楽などの感情が宿るところ」、あるいは、「人間の道徳心」を表わしています。その固定性の強い性質のせいか、曖昧な表現が大好きな現代日本人にはあまり好まれていないようであり、古代から中世までは「気」より大いに使われましたが、近代になってからあまり表現として使われなくなり、現代日本語においては逆に曖昧に定義された「気」の表現の方がずっと多いようです。そういう傾向は、ある意味では、日本がHigh Context Cultureになっていく、つまり「言葉通りに理解できること」以上に「空気が読めること」も求めている現代社会を反映しているのかもしれません。
一方、タイ語の「チャイ」は、身体の中で一番大切に扱われる「心臓」という語源から派生したため、身体的な表現となって、「気持ち」「感情」「一時的な気分や機嫌」を表わすのではなく、むしろ「その精神的な動きを感じるもの」という意味が昔から明らかになっています。それにしたがって、タイ人が使っている「チャイ」というのは、先ほど取り上げた用例のように、「気」と「こころ」よりも具体的に感じられ、「チャイが疲れる」や「チャイが寂しい」という表現のように、体から別のものとして完全に動いている「内部の生命」あるいは「本当の自分」がそうであることを表わしたり、さらに、人間や動物の生命の元となる「霊魂」という転義まで使用されたりするのです。
おわりに
感情にあふれた日本人とタイ人には、感性的な面においてお互い情緒も豊富であるし、Heart Wordsを使った表現も実に豊かであると見られるにもかかわらず、これまで見てきたようにそれぞれの思考や情緒を表わす時、両言語の「心のあり方」あるいは「こころの文化」によって経験の仕方も表現の仕方も違ってきます。
ただし、皆さんに一つ大切なことを忘れないでいただきたいのです。それは、体験の仕方であれ表現の仕方であれ、そういう外界に接して物事を理解することが違うからと言って、感じていることそのものが違うわけではありません。「表現が違うのだから、感情や気持ちも当然違うのだろう」という考えは大間違いです。「Human nature is the same everywhere」(人情はどこの国も同じ)というように、それぞれの文化によって経験の仕方や表現の仕方が違っているとは言っても、人の感情そのものの根本的な要素、いわゆる人間の「感受性」というのはまったく普遍的なものであります。私は先ほど皆さんにタイ語の「チャイ」という感情表現の用例をたくさんお話しましたが、そういうような表現を今まで使ったことのない日本人の皆さんには、少し変わった表現だなと感じられるかもしれませんが、こういう表現をどういった情緒に使うのか、または用法の説明を聞いたら、そういう表現を使ったことのない会場の皆さんでも「なるほどな〜」とよくうなずいていただけるでしょう。
要するに、タイ語の表現に現れる感情そのものはタイ人だけでもなく、日本人だけでもなく、人間の誰もが感じられるものであって、ただ自分が育てられてきた文化には、別の文化と違ってそういうような感情を言葉にする習慣がないということもあるし、あるいは、そういう感情を違ったような表現で表わすことも考えられるのです。たとえば、先ほど私は「チャイが縮まる」・「チャイが枯れる」という表現を取り上げましたが、日本語には確かに「気が枯れる」や「心が枯れる」などという表現が一般的に使われていないのですね。それはただ表現のことであって、日本人だって落ち込んだりやる気がなかったりするというような気分もあるし、そういう気持ちを表わしたい時だってもちろんありますね。そんな感情を表わすために、日本語では「しょんぼりする」または「気落ちする」と言います。もちろん、その両言語の表現の間には、様々なニュアンスがあったり表現に対する使用頻度や好みの差があったりするのかもしれませんが、同じものを違った角度からどのようにとらえようとするかという問題だけで、最初にお見せした江戸時代の二つの遊び絵と同じようなものです。細かいところまで見えてもあまり関心がないから、わざと大きな絵としかとらえようとしない方もきっといらっしゃるでしょうね。これは、「遠慮する」という言葉が存在しないという欧米社会のようなものです。何でも率直にぶつけることを大事にする西洋文化は、「遠慮しない」から、そういう言葉がないというよりは、むしろ「遠慮する」概念自体に、関心が届いていないから、言葉にする必要もないのでしょう。まったく雪が降らない暑いタイにおいて、「粉雪」や「ボタン雪」それに「吹雪」などといったような細かい言い方を使い分ける必要もないことと同じような現象です。
どの国の言葉も人間の「こころ」によって、お互いの「こころ」がある程度伝わるように作られたものであります。ですから、人間及び動物も含まれる生き物たちは、道具として作られた言葉と言葉で結ばれるというより、それぞれのあるがままの「こころ」と「こころ」で結ばれていると、私は信じています。そのような根本的なつながりによって、人間と人間においても、人間と動物においても、どんなに言葉の壁があっても、お互いの「こころ」に溢れている気持ちや思考は何らかの方法で通じ合えるはずです。
また、人間は確かに「言葉」という抽象的な「フィルター」を利用して、感情や思考を交わしている生き物ではありますが、決して「言葉」ばかりに頼っているわけではありません。もちろん、ある程度決まっている規範でコミュニケーションを取らなければ誰も分かってくれませんが、先ほど述べたように「人情はどこの国も同じ」ということに基づいて、ぞれぞれの心のあり方が文化によって違うけれども、「こころ」そのものは、人間として共通しているものですから、自分の「こころ」から気持ちや思考を積極的に相手に伝えようとする意志さえあれば、「こころ」と「こころ」の文化がどんなに違っていても、きっと相手の「こころ」に伝わると思います。
他者のこころを大事にする「思いやりの文化」、それに自分のこころを大事にする「自尊心の文化」、それこそが経済や政治の発展よりも、「美しい国」に向けて、日本が目指すべき国のあり方なのではないでしょうか。そんな願いを込めて、今日の講演を終わりにしたいと思います。
 
往生 / 日本の来生観と尊厳死の倫理

 

私みたいな者が、日本人に対して、日本の死生観を語ることは誠に恐縮なことである。本来ならば、私が皆様の経験や御目分の来世観について聞かせて頂きたいのであるが、私は来世観を研究してきたし、聞いて下さる方も大勢いらっしゃるので、たどたどしい日本語と不十分な研究でも、あえて発表させて頂く次第である。今日の題は「往生」ということだが、「往生」には二つの色合が絡んでいると思われる。つまり、一つは浄土であろうと天国であろうと、あの世という所に行くこと、それこそ来世観において「あの世とは何なのか」という疑問にも及ぶ。同時にもう一つ、やや動詞的な意味も含まれていると思われる。「往生する」という時には、むしろ「死ぬ」という動詞を考えるのである。従って、その二つの方面について触れさせて頂きたいと思う。「往生」という文字が宗教体系の中で初めて出てくるのは、中国の5世紀あたりであるが、その時代に「観無量寿経」というお経が出来上がる。「観無量寿経」のサンスクリット版はないというので、恐らく中国で出来上がったのではないかと考えられている。ところが同時に、「阿弥陀経」とか「大無量寿経」というよく似た内容を持っているお経が、インドの方から伝わって来るのである。ここでは特に、「観無量寿経」の中の「往生体験」を少し考えてみたいと思う。
「観無量寿経」の往生体験
まず、「死ぬ時に自分の意識が体より離れる」とされている。あの世に生まれる時は、蓮の蕾が開き、その蓮の蕾に坐って生まれるという。そしてこの世とあの世を繋ぐのは、黒いトンネルのような茎なのである。従って自分の死んだ体を離れる時には、この茎の黒いトンネルを通って行くわけである。つまり最初に(1)体より離脱し、次に(2)黒いトンネルに入るのである。続いて(3)花園の中で生まれるとされているが、周りはキラキラする池や音楽を聞かせてくれる森林、彩られた木々に囲まれている。その自然の様子はこの世の自然とは次元が違い、遥かに輝き、遥かに美しい自然だと言われる。そして(4)阿弥陀に出会うというが、この阿弥陀というのは、御存知のように、サンスクリット語のアミターバとアミターユスという二つの言葉から来るもので、アミターバというのは無限の光、アミターユスというのは無限の命、すなわち無量寿である。日本語ではこれら二つの言葉の「アミタ」だけを取って、阿弥陀(アミダ)と呼ぶが、これは人間でも人格神でもなく、むしろ無限なる光と命のようなものなのである。しかし、それは人間の目には大きな神様のような、光で輝くような存在に見え、そこから慈悲なる心や愛に包まれる感じを人間は抱くと記されている。無論あの世のことだから、そこにいるものは死者、既に亡くなった人ばかりで、(5)あの世では、自分より先立った先祖などにも出会えるとされる。更に(6)自分の人生を反省する要因がその過程に含まれるという。
中国における往生思想の始まり
「往生思想」を追って行くと、まずどうしてそれが中国で流行ったかという問題に行き当たる。そこで登場するのがダンルアン、日本語でドンラン(曇鸞)という学者である。彼は中国の西安の近辺に住み、60歳(当時の寿命)を過ぎた時に病気にかかり、一時死にかけた。その病中、どうもあの世の夢を見たようなのである。「大正大蔵経」によれば、夢の用で金色の門が開かれ、そこに輝く世界を一瞬見たという。そして病気が突然冶り、冶った曇鸞は急に巡礼を始める。西安というのは御存知の通り中国の北部にあるが、そこからずっと南の龍山という所まで、千何百キロも歩いて行ったのである。どうして曇鸞が龍山まで行ったかと考えると、龍山は道教の学問の中心であり、いわゆる瞑想法を含めて、永久に生きる方法、すなわち延命術などが教えられていた所だったからであろう。そこで幾つか道教の秘密経を授かって、また西安に戻ろうとしたのである。考えてみると、60歳を過ぎた老爺が中国の厳しい砂漠を横切り、川を渡って一人旅をするということは途轍もないことである。途中で盗賊にも会いかねないし、どういう目に会うかも分からないのである。しかし、彼はどうしても龍山に行きたいという念にかられ、そこでまた長い間念願して、やっとのことでお経を授けられたのである。そしてそれを自分で担いで西安に持って帰ろうとするのであるが、その途中で有名なボディルーチ(菩提留支)という名前のインドの坊さんに出会った。その時どういう会話が交わされたのかはっきりとは分からないが、「大正大蔵経」によれば、菩提留支に会って、曇鸞は折角苦労して頂いた道教のお経を捨て、仏教のお経を二つ三つ手にして、西安に戻ったというのである。そのお経とは何かというと、御存知の「阿弥陀経」「大無量寿経」「観無量寿経」といったお経であった。そこから推測してみると、こういった対話があったのではなかろうか。「巡礼者のようですね。どちらの方に行かれたのですか。」「いや、実は私は西安の者ですが、遠い南の龍山に巡礼に行ってまいりました。」「おじいさんはこれだけ歳を召されて、どうしてそんな巡礼をなさったんですか。」それに対して、曇鸞は自分の夢、自分のあの世の様子を語られたことと思う。あの世の話になったので、菩提留支はインドから持ってきたお経の中に、あの世についてのお経が幾つかあるのを思い出し、曇鸞に示したに違いない。
「あの世の話でしたら、このお経をご覧になったらどうか」と勧められて読んでみると、そこには道教のものよりも更に曇鸞の体験にぴったり合った話が記されていたと思われる。と言うのも、曇鸞大師が西安近辺に戻られた後、それまで北中国では知られていなかった阿弥陀の立像(当時は石で彫ったものがほとんどであった)が、急速に増えたのである。そして彼の弟子や孫弟子、道緯や善導などもそういう伝統を受け継ぐのである。善導は曇鸞とは違って、別に死に至る病気に侵されてあの世を体験したのではなかった。「観無量寿経」によれば、瞑想によった何度もあの世に行って来たという経験が記録されているので、瞑想の名人であった善導はその方法によってあの世を体験したのである。
日本における往生思想の受容
この話からわかることは、あの世(つまり往生)を経験したければ、二通りの方法があるということである。一つは死ぬこと、または死にごく近いところまで行ってこの世に戻ることである。そしてもう一つは瞑想中に、あの世を体験することである。御存知のように、比叡山から慈覚という僧侶が中国に行き、その阿弥陀思想を持って帰り、天台宗の中に導入した。比叡山の様々な行の中には、あの世(浄土)を瞑想の対象にする行があった。空也、一遍、法然、親鸞といった数々の日本の名僧もそこから出発したのである。確かに天台の中には瞑想法が保存されていたが、天台仏教はあまり一般向きではなく、一般の日本人はうまく瞑想が組めなかったようである。動物蛋白質を食べたり、お酒を飲んだり、ましてや性関係を持ったりすると、インドにおけるような瞑想はうまく出来ないことは、やってみればすぐわかることである。従って、そういう瞑想法は日本では流行せず、むしろ死ぬ時の往生が注目されるようになる。平安、鎌倉時代に遡って見ると、日本ではお坊さんは臨床カウンセラーのように、臨終の時に家族を慰めたり、本人を導いたりする教育者でもあった。その役割は室町から徳川にかけて変わってしまうが、例えばお坊さんの手引きであった源信の「往生要集」を読むと、人の死に場所に行く時、「何が見えるかと聞け」とある。もし、死にかける本人が何か見えると言うならば、それを細かく記録せよ、と書かれている。従って、源信の平安時代後期頃から、死ぬ人の最後の言葉を大変重視するようになっていた。例えば源空(法然上人)の恩師である皇円上人は、御存知の「扶桑略記」という本を編集したが、その中でそういった話をたくさん記録している。日本では坊主の死に方だけでなく、一般市民の死に方も詳しく記録されている。そして面白いことには、その死に方の中でよく出てくる例が、先述した「観無量寿経」のそれと非常によく似ているのである。体を離れ、黒いトンネルを通り、キラ牛ラする花園に出て、そこで阿弥陀のような(場合によっては、観音様だの、閣魔大王だの、地蔵様だの、当時の日本人にとって親しみやすかった名前が出てくる)、少なくとも偉大なる神様のようなものに出会い、そこで何らかの形で反省させられ、この世に戻されたという話が数々記録されているのである。
こうした話は「扶桑略記」だけでなく、「元亨釈書」「宇冶拾遺物語」「往生伝」「往生極楽記」などといった古典文学の中にもかなりあるのである。台湾あたりに行くと、今でもそういう往生伝みたいなものが作られ続けていて、その伝統が受け継がれている。日本では徳川時代から臨終の記録はあまり集められなくなったようであるが、この裏には、お寺やお坊さんの役割が著しく変わってしまったという要因が僣んでいる。現代の我々は、「扶桑略記」だの「往生極楽記」といった古典を読むと、昔の人は何と迷信深かったのだろうと思いがちであるが、場合によっては、きちんとした場所、名前、目撃者、日付、細かい周りの話まで記録されていることがある。そこまで細かい記事が書かれているならば、信頼できる話ではないかと考えられるほどであるが、ここでは彼らが本当にあの世を見たのかどうかは別問題としたい。今日の話の題目を来世観としたのは、来る世があるかどうかという断言をしたくないからであるが、少なくとも死にかけた本人たちには、幻想というにしろ、ヴィジョンと呼ぶにしろ、何らかの生きがいのようなものが見えたようなのである。
現代の臨死体験報告
今から15年ほど前、アメリカの病院の中でもこうした話が数多くあるということを、エリザベス・キューブラ=ロスとレイモンド・ムーディ・ジュニアという人が全く別々に研究して同時に出版した。二人が会った時にはお互いに驚き、面白い対話があったらしいが、キューブラ=ロスという人はスイス生まれの医者で、昔の日本のお坊さんみたいに、長年臨床カウンセリングをしていた方である。そして数多くの瀕死の患者と対している時には、医者として自分の役割は本人の気持ちを安らかにするだけだという信念を持ち、様々な信仰を持っている人たち、もしくは無神論者であるドイッ人やアメリカ人を相手にしているので、仏教のお坊さんと違って、説法はできない状況にキューブラ=ロスは置かれていた。そこでキューブラ=ロスは、どんどん相手の話を聞くことにした。そして多くの話を聞いているうちに、何とあの世を見てきたという患者に出会うのである。出会い始めるのは今から40年ぐらい前の話で、その例をコツコツと25年あまり集めた結果、とうとうこれは発表してもいいのではないかと考えたのである。(キューブラ=ロスの本は読売出版から5冊ほど和訳されており、「死ぬ瞬間」川口正吉訳等が有る)
当時大学院にいた私は、「極楽記」とか「扶桑略記」とかいったものを研究していたが、そこに出てくる話とエリザベス・キューブラ=ロスの報告とにあまりにも類似点が多いので、ひょっとしてこの平安・鎌倉・室町の話は単なる幻想や神話ではなく、実際に今でも人間に出来る体験ではないかと考え付いたのである。そこでアメリカで研究されている臨死体験の内容と分析について、少し考えてみたいと思う。まず、誰がこういった臨死体験をするのかということを考えてみよう。つまり、死ぬ前にこのようなヴィジョンを見るには、どういう資格や原因があるのかということである。最初に考えられることは、本人の教育に因るのではないかということである。つまり、本人が死んだら往生するんだと若い時からずっと教えられていたら、当然自分の渇望や期待に因って、死ぬ瞬間にそういう幻想を自分の頭脳で作れるのではないか、ということである。ところが、アメリカで集められた何千という例をみた結果、不思議なくらいにそうした関連性はないのである。また、これは驚くべきことだが、共産主義者、無神論者といった教会には縁のない者でも、しばしばこうした体験をするのである。逆に、毎週毎週たいへん熱心に教会に足を運んだおばあさんでも、誰よりも神様が見たいと願っていながら、なかなかそうはいかない人もいるのである。すなわち、こうしたヴィジョンを見るのは、少なくとも子供の頃からの教育や自分の渇望、期待には因らないというのである。次に、入院中だからいろんな薬も飲んでいるだろうし、麻酔薬などもかけられるわけだから、臨死体験は薬の作る幻覚や高熱が作る現象ではないか、とも考えられよう。そこで、病院の協力を得て本人のカルテと突き合わせることによって、どういう薬を何時飲んだかということや、脈拍や脳波やいろいろな身体的要因を加えて、患者の体験の時期を比較してみたのである。すると不思議なことに、逆比率が表れる。つまり、薬をたくさん飲めば飲むほど、また麻酔薬を強くかけたりするほど往生経験はしなくなり、あるいは高熱を出したりすればするほど、また精神異常になった場合には、逆に往生体験を発言しなくなるのである。すなわち、何の薬も飲んでなく、体温も普通で全く正常な者こそ、こういう体験を後で発言するのである。勿論、薬、麻酔薬、高熱などといった原因も考えられなくはないが、分析の結果からは、それだけでは片付けられないのである。
往生体験と夢・幻覚の違い
では、体を離れ黒いトンネルを通って花園に生まれるという「体験」が確かに本人にとってはあるとしても、その「体験」は一体何なのか。それは単なる夢のようなものではないのか、あるいは一種の幻想・幻覚ではないのかと疑うことが出来る。そこでまず、普通の夢や幻覚と比較してみよう。人間は皆、毎晩実は夢を見る。自分は覚えていないという人があれば、それは夢の日記をとる習慣がないからであって、夢の日記をとるようになれば、少しは自分の夢の内容を覚えられるようになる。法然も親鸞も高弁も、昔の坊さんはみな夢の日記をとっていたのだが、我々も毎晩毎晩夢を見ているのである。夢のことを思い出して頂ければ、まず大した筋のないことが知られよう。たとえ筋があったとしても、突然背景が変わったり、自分がここにいたと思ったら突然あそこいたり、接しているつもりのあるものが突然別のものに化けたりし、要するに夢には一貫性がないのである。ましてや、自分の夢と他人の夢を比べて見ても、一致する夢などほとんどないものである。だから、フロイドやユングのような精神科医は個性を知るために夢を分析することにしたのである。夢はごく個人的なものであり、自分の心の色々な目的や意図の反映はあっても、他者の意図や趣旨を感じることは滅多にない。一般化すれば、夢の中では相手の気持ちを感じることは滅多にない、と夢の研究者は言っている。ところが、往生体験には夢にない一貫性がある。多くの人間が同じような体験を後で発言する。トンネル体験、花園体験、神様や阿弥陀様みたいなものに出会う体験、自分の人生を反省させられる体験。多くの人が言うには、神のような存在の前に立つと、言葉を使わなくても自分の胸の裡、自分の心がそのまま読み取られてしまうと言うのである。そして、その阿弥陀様みたいな存在に対しては、嘘をつこうにもつけないと言う。別に日本語とか英語といった言葉を使っているわけでもないのに、きちんとこちらの思い描くことを感じ取られ、阿弥陀様の慈悲や愛を全身で感じながら、花園たる浄土を案内され、自分はこれからどう歩むべきか、どう反省すべきか、ということを聞かされると言うのである。それも耳で、つまり言葉で聞かされるのではなくて、心から心へ、以心伝心のようなもので伝わると言う。このように比較してみると、一貫性、目的意識、そして相手とのテレパシーのようなコミュニケーションという点で、普通の夢とは根本的に違う体験と言えよう。
さらに次のような点も興味深い比較である。夢の中には目が覚めた時に不思議な心持ちになるものもあるが、夢によって自分の人生を変えようとすることは滅多にないであろう。人生に一、二度あれば多い方で、大抵の人間は「あれは夢だった」と済まし、普通通りに生き続けるものである。ところが、住生体験をした患者たちはこの世に戻ると、不思議なほど、曇鸞のように自分の生き方を変えるのである。オハイオ大学のフリン教授が特にこういう例を集めて分析したのだが、無神論者や大した信者でもなかったアメリカ人が往生体験をしたため、体が冶った後、急に修道院に入ったり、神父や牧師の勉強をし出したりすることがよくあるのである。御存知のように日本の大学とは違って、アメリカでは何歳になっても大学に入学ができ、好きな勉強ができる制度が確立しているので、たとえ50歳、60歳でも、神父になる道が用意されている。また正式に宗教の道に向かわなくても、それまで名誉や富、あるいば世間の評価を得るために努めていた者が、往生体験を経た後、ボランティア活動、例えば恵まれない子供や孤児のために励み出したり、目の見えない人たちのためにブレール点字を勉強し出したりするといったように、往生体験者の多くが困った人を助ける活動に励むようになる。こうしたことからも、往生体験というものは、夢と見なすには余りにも大きなインパクトを持つ体験と言わなければならない。往生体験にはもう一つ普通の夢には見られない現象が僣んでいる。それは、超自然的現象によって超常的知識を得るということである。例を二つ、三つ申し述べよう。ある時、セント・ルイスという街でかなりの金持ちが亡くなったが、遺言が残されていなかったために、子孫が財産に関して争い出したことがあった。
その時、彼の孫が大変な病気にかかり、入院したがもうお手挙げの状態で医者も諦めたのであったが、皆の祈りのお陰か、奇跡的に蘇った。蘇って来た後、あの世でおじいさんに会って来たと、その孫は言うのである。そしておじいさんは、「お前らは聖書を読まないから分かっとらんが、遺言はちゃんと書いて、聖書の中に挟んでおいた」と言ったそうである。それで、親たちが滅多に読まない聖書を引き出して、指摘された箇所を開けて見ると、きれいな薄い紙におじいさんの字で遺言が書いてあった。遺言がそこにあるということを知っていたのはおじいさんだけであり、それまで誰も知らなかった。知っていれば、争いも裁判も避けられたに違いない。そこで謎となるのは、一時的に死んだかと思われた孫がその情報をどうやって得たかということである。普段、その孫には超心理的な体験もなければ、決して霊感っぽい女性でもなく、ごく普通の高校生だったそうである。次にこういう例がある。アメリカのロスで、オートバイに乗った20歳前後の青年がダンプにぶつかり、意識不明の瀕死の状態になったが、すぐに救急車で運ばれて、色々な医療措置を施されたお陰で、彼も奇蹟的に助かって蘇ってきた。そして意識を取り戻した後、あの世でおばあちゃんやおじいちゃんに会い、そしてニューヨークに住んでいる従兄弟のティムにも会ってきたと言ったのである。病院のベッドを囲んでいた親たちは、「確かにおじいちゃんもおばあちゃんも何年か前に亡くなったが、ティム君は今ニューヨークで勤めているはずだし、第一まだ20数歳のはずだが」と不思議がっていると、数時間後、ニューヨークからティムが先に亡くなったという知らせが入った。その時まで、ロスでそういう事実を知っていた者は一人もおらず、青年の話を聞いた者も、ティムは元気でやっているだろうと推測するにとどまっていた。ティムの訃報を誰よりも早く知ったのは、この往生体験者だけであった。なお、この青年も、普段から全然宗教的なことなど信じていなかったし、霊感っぽい人でもなかった。普通の夢や幻覚の中では、こうした情報を得ることはないであろう。また、フランスのある有名な歌手が一時的に亡くなった時に、「お前の死ぬ時期はまだ来ていない」、つまりこの世でまだ仕事をしなければならないと言われ、おまけに、「この女性に出会え。そしてその女性と結婚して、福祉の道を歩まねばならない」と命じられたと言うのである。
ところが本人は普段からたくさんの女性に囲まれてばかりいたので、一人の女性など探したこともなかったし、ましてや自分の得意なことは歌うことだと思っていたので、社会福祉のような道を歩むなどということは、それまで考えたこともなかった。意識が戻っても、「あれは嘘ではなかったのか」という疑いが晴れなかったが、何ヵ月も経たないうちに、なんと教え示された女性とぴったりの人が現れたのである。要するに、このような予知的な、予言的な知識を得るということも、単なる夢や幻覚と大いに異なることである。こういう研究がどうしてアメリカで熱心に研究されているのかとよく聞かれるが、その裏には、20年ぐらい前に非常に流行っていた麻薬の問題がある。今でこそ厳しく取り締まられ、アメリカは麻薬に対して戦っているが、その当時は別に違反でもなんでもなく、ハーバードの教授でさえ、麻薬をよく使ったり勧めたりしていた。その頃の麻薬体験がこの研究の端緒を作ったと言ってもいいのであるが、もう一つのきっかけは、当時のベトナム戦争でかなりの若者たちが戦場で撃たれ、死に近づく者がたくさん出たということも挙げられる。それまでの戦争であったら放っておかれたような重傷人でも、医学が著しく発展したおかげで、戦場からヘリコプターで近くの病院に運ばれたりして、蘇生を経験する者が急に増えたのである。そして、彼らの中からしばしば右のような話が聞かれるようになり、それが研究を促すきっかけになったと考えられる。幸いに戦後の日本では麻薬の問題も戦争の経験もないが、防衛大学の教授が第二次世界大戦の戦場で集めた話の中に、多少類似した話を見つけることが出来る。
往生体験の意味と応用
先述したように、往生には死--ある意味ではこの世の終わり、ある意味ではあの世の入口--という意味と同時に、死ぬ時の行為--自分の胸の裡の動きも相手の胸の裡の動きも含む--動詞的な意味があると私は思う。そして我々にとって大切なことは、この往生体験をどう理解し、そしてどう応用すればよいかということである。最後に、その応用の面をいくつか考えたいと思う。まず最初に理解しておくべきことは、自分の体を離れながら、この世と共にあの世をも体験している患者が大勢いるということである。現在、脳死を判定するには、24時間連続で脳波を計らなければならないことになっており、一時的に脳波が止まっても、脳死とは判定しないのであるが、その脳波のない状態で往生体験をする者がいる。あるいは、脳波がごく遅い、何の反応もなく死に近い状態を示している時にも、視覚、聴覚、場合によっては嗅覚や味覚の体験さえしていたと、後で蘇生した本人が言うことがある。こういうことは、仏教においては別に何の驚くべきことでもないのであるが、今の一般常識から見れば、頭脳と切り離された体験などあり得ないであろう。しかし往生体験の研究から導き出されるところによると、頭脳が働いていなくても、別の意味の意識、それは仏教で言うならば「阿頼耶識」ということになろうし、俗っぽく言えば霊魂ということになろうが、それを何と呼ぶにせよ、何か存続するものがあると考えざるを得ないのである。その存続は、果たして永久的なものなのか、それとも一時的なものなのかといったことは全く分からないが、少なくとも次のようなものの見方が出来るようになるのではなかろうか。すなわち、人間は単なる機械のような物ではなく、体を離れても何らかの意味で生き残り得る存在であるということである。こうしたものの見方は、一つには歴史的な古典を読む視点を変えるであろう。例えば仏教のお経や「扶桑略記」などを読み直す時でも、そこに記されている話がただ単なる作り話や神話ではないと見なすようになるであろう。当時の人間は我々ほど物質的には恵まれていなかった代わりに、あの世を見る眼を持っていたかも知れないのである。次に考えられる応用は、突拍子もないことと思われるかも知れないが、自殺防止ということである。私の勤めている筑波大学は創立15年目になるが、当初は色々な心理的な原因で自殺がきわめて多かった。
幸い今では国立大学での平均より下になったが、そのようになったのも、裏で自殺防止に励んでいる教師が多いからである。実際の自殺防止教育の場面においては、この往生体験の話はたいへん役立つものなのである。それには二つの理由がある。一つには、人はこの世や人間が嫌になり、自分の存在自体も嫌になって、それから逃げたい、無になりたい、という気持ちから自殺を図る。ところがシェイクスピアのハムレットも言うように、もしもこの世が最後でなく、別の形でこの人生が続くのであれば、必ずしも来世がこの世よりも好ましいという保証は何も無いであろう。そう考えるだけでも、今の苦しさに変わりはないのに、自殺を取止める青年が中にはいるのである。自殺に失敗した自殺未遂の人を特に研究しているコネティカット大学のブルース・グレイソンという親友がいる。ブルースの話によると、自殺未遂者に限って、先述した往生体験が異なっている。往生体験が無いと言うよりも、黒いトンネルまでは行くが、それが永久に続くかのようにトンネルの中に閉じ込められてしまうと言うのである。アメリカの自殺未遂者によると、暗い宇宙の中にぶら下がっていて、前に行こうと思えば前に行けるし、上下左石に動こうと思えば動けるが、そこには何も無いと言う。何か気味の悪い物がいるような感じもするけれども・それと連絡することができない。そして、大体自殺する人は寂しがり屋の人が多いようであるが、この世で感じた最悪の寂しさと比べても、比較にならないほどの寂しさを感じたと言う。こういう話をたくさん集めて自殺を考えている学生などに読ませると、かなりの者が考え直してくれるのである。三つ目に考えられることは、往生体験はもともとキューブラ=ロスが臨床の過程で注目するようになったことからも判るように、臨床カウンセリングにかなり役立つということである。
普通の人間であれば、誰でも心の底に死への恐怖を持っているであろう。死になくないという気持ちは、動物的本能としても強くあるはずである。従って、不冶の病気にかかって後は痛みを耐えるだけの存在となった末期患者は、その肉体的痛み以上に、死への恐怖を非常に強く感じるようになる。痛みはどうにか耐えられるけれども、自分が死んでこの世からいなくなってしまうという思いには、とても耐え難いのである。しかし、往生体験をした人の話を末期患者に優しく話すと、多くの場合、ほっとした表情になり、精神的にたいへん安らぐと言う。御存知のように、患者が安らかだと薬もよく効くようになる。医者も看護婦も楽になる。そして本人が冶っていく場合もあれば、たとえ亡くなっても、より安楽的に平安に亡くなれるわけである。だからこういう意味においても、往生体験はより広く応用できると思うのである。もともと仏教のお坊さんも、正にそういう意味でのカウンセリングをしていたのである。
西洋医学とカウンセリング
西洋の病院には、体だけを扱う医者と共に、精神科の医者や宗教家もいる。人間の肉体と精神の二元論は、プラトンが始祖かも知れないが、デカルト以降はっきりと分けられて定着した。デカルトが言うには、動物は勿論そうだが、我々の肉体はあくまでも機械であって、精神は全く別な霊魂みたいなものなのである。従って、西洋の病院には神父や牧師が自由に出入りし、死に至る患者のカウンセリングをする。無神論者だと言えば、精神科の医者と相談できる。最近、日本の新聞でもガンの告知の問題を取り上げ、果たしてガンの患者にガンだと知らせるべきかどうか、という議論が激しくされている。私から見れば、問題の核心はそうした議論には無い。日本の医者は一人の患者に一日平均2分しか会っていないと言われているが、その短い間に、「あなたは難しいところにあるんです」と言うのと、「あなたはガンです」と言うのとでは、大した変わりはないように思う。この問題の核心は、患者の心を安らげるために、いかに優しく納得がいくように話をするか、いかに患者が頑張りたくなるような心を育てるか、ということであるが、日本の医者はそういう教育を受けて来ていないので、急に「そうしろ」と言われても無理であろう。西洋の病院でも医者は大変忙しいので、各患者に対して30分も時間をかけるわけにはいかない。そこで、牧師、あるいは精神科の医者に対して、「この患者はガンなんだけれども、彼の精神に合わせた言い方で伝えてほしい」と頼めるのである。頼まれた牧師や精神科医は、ゆっくり患者の話や悩み事を聞いて患者の精神をよく知った上で、ガンへの心準備ができた頃を見計らい、一人の友人として、優しい言葉で「実はそうなんです。考えておられる通りガンなのですが」、と言えるようになる。これだけの準備があればこそ、ガンの告知をしても患者のショックをかなり和らげることが出来るのである。明治維新以降、日本は全面的に西洋医学を取り入れることにしたが、西洋医学の物質的側面にのみ関心を向けた。そこで病院には、神父や牧師は勿論、精神科医さえ入れなかった。私は決して日本にキリスト教の要素を入れればよかったなどと言っているのではない、ただ患者の精神的な面をもう少し考える必要があったのではないかと思うのである。
日本の歴史上、そうしたことが一度もなかったというのであればまだしも、徳川時代の医者は、物質的なことのみならず、正に精神を相手にする、いわば老賢者のような存在であった。当時の医学はある意味で乏しかっただけに、深く一人一人の患者と接して患者の心身をよく探りながら、薬の調合や治療を進めたのである。時代劇を見ていると、時々そういう医者が出てくるが、大阪大学の前身であった適塾などにも、そういう精神のあったことが伺える。だから私は、西洋の病院を真似しろと言うよりも、むしろ日本にあったもともとの精神をもう少し思い出してはどうか、と言いたいのである。去年、昭和天皇がお亡くなりになった。我々は日夜、陛下の脈柏や呼吸数、輸血の量などを知らされた。そうした扱いがたいへんお気の毒なように見え、ある意味で非人間的なように感じられたのは、私だけであろうか。ところが、今の日本の医学で為し得ることは、そこまでなのである。医学はあくまでも人間を延命させることを使命とし、それ以外のことは育てて来なかった。それ以外のことを医学に頼んでも、無理な願いなのである。そこで往生体験のもう一つの応用として考えられることは、身体の延命だけに価値を見るのではなく、別の意味での人間の価値を見出すことである。「量より質」というものの見方は、日本の伝統でもあったはずである。例えば、平家が壇ノ浦で敵に囲まれ、もう敵に切られるしかないと判った時、彼らは自ら切腹したり、あるいは入水する方を選んだのである。また大坂冬の陣では、徳川軍に囲まれた豊臣秀頼やその母たちは、もう逃れようもないと悟ると、自尊心を持って潔く亡くなる道を選んだ。つまり、彼らにとって死が問題になるのは、それがすべての終わりだからではなく、自分の人生という作品の終わり方として重要だということである。その死に方を通して人間の本質が知られるということは、仏教でも昔のインドのお経でも言っている。
今日の医療環境のもとでは、9割以上の人が消毒液の臭う病室で亡くなる運命にある。多くの人は自分のベッドで、あるいは自分の寝慣れた畳の上で、阿弥陀の来迎でも見ながら死にたいと思っているであろう。御存知のように、昔の末期患者は縁側のすぐ近くに座ったり寝ころんだりして、西方からの阿弥陀様の来迎を待ち受け、往生してあの世に連れて行ってもらえると信じていた。そういう観念は我々にも多少残っていると思うが、阿弥陀様が消毒された病室に来るかとうかは疑問である。何しろ医者は阿弥陀どころか、霊魂の存在さえ認めてない。お坊さんが袈裟を掛けて病院に入ろうとしても、縁起が悪いと言われて拒否されるのが落ちである。こういう状況に対して我々に出来ることは、少なくとも命を時計だけで計ることを止めて、命の質、命の内容、命の意義を考えるようにすることである。日本の尊厳死協会は既にこの方向へ歩もうとしているけれども、まだあまり多くの参加を得ていないようである。
おわりに
最後にもう一つ、往生体験は子供の教育にも応用できると思われる。「えっ、往生体験って死ぬことでしょ。子供に死の話をするんですか」とよく聞かれるが、死を考えることは、要するに生き方を考えることなのである。死が一つの区切りであるならば、たとえそれがお終いであるとしても、それまでに何をするか、何が出来るかということを考える契機となろう。そして、往生体験をした者の話を聞くと、この世にいる間にどれだけ金を稼いだかどうかなどということは、どうでもよく思えて来ると言う。またどれだけ出世したかということも、どうでもよくなる。この間、筑波で半年ほど昏睡伏態に落ちた少年がやっとのことで意識を取り戻し、見事に典型的な臨死体験をしたことがあった。彼の話を聞いてみても、それまで親に言われるままに学校の成績を上げることばかりに努めていたが、臨死体験を通して、どうも人生はこの世だけではないと気付き、兄弟に優しくしたり、周りの者を大切にする心が、子供なりに生まれてきている感じがすると言う。私は日本が大好きだが、その日本が最近、しばしば言われるように、成績や金銭、時間といった、要するに単位で計れるものばかりに束縛されているように思われる。自分の人生は何のためにあるのかということを、もう少し広い視野で考えるならば、もっと豊かで、精神的に誇れる人生を送ってもらえるのではないかと、私は願って止まないのである。
 
直観と芭蕉の俳句

 

蕉門の俳論を繙いてみますと、俳諧の歴史や作り方の方法、古句、芭蕉や同門の句の評釈、そして同門の論争など、広い範囲にわたって記録されていますが、「去来抄」や、特に「三冊子」には俳諧の文芸としての本質に觸れているところが多く見られます。これは作者である向井去来や服部土芳の自説の部分もありますが、「先師曰」などの引用文の場合は、やはり芭蕉の教説と一応看做しても構わないと思います。つまり「師曰」の部分は芭蕉晩年の円熟した俳諧観を書留めたものと理解してもよろしいかと思います。
ところで芭蕉の俳諧用語、 例えば不易・流行とか、さびなどの解釈をめぐって、芭蕉没後の蕉門の論争は激烈なものがあって、当時の芭蕉 直門にも芭蕉は完全に理解されていなかったことは容易に推測されるのであります。芭蕉直筆による体系的な俳論書もなく、また芭蕉が弟子に一貫した理論をもって教えていなかったことにその原因はあると思いますが、それにも拘らず、從来の俳論とは違った、芸術の本質についての芭蕉の思索の跡を、蕉門の俳論書では共通的に感じとることができるのであります。例えば、美的感動の源泉とか、対象の把握の基本的方法、また言葉の本質についての新しい見方などがそれであります。
美の根源や把握の方法、そしてその美意識を形象化させる言葉の 問題などは、現代においても、洋の東西を問わず、芸術の本質についての問いとして考究されているのであり、從って芭蕉の俳論も、日本という一地域の、また17世紀の俳諧という特殊文芸ジャンルの理論を超えて、現代的、世界的意味をもつといえるのであります。
芭蕉俳論の特徴の中から、特に私意を排し物に応ずる美的感動 とその把握の方法を、芸術の認識方法としての直観とのかかわりを通じて解明を試みるのがこの発表の目的であります。

芸術の定義や美の把握の方法については、諸説が勿論あります。芸術はどこまでも、人間の創造活動に属するものであり、自我の情緒や世界観を意識的に表現するものであるという主観的構成論を主張する立場もありますそれとは正反対に、客観や対象を忠実に描写することを芸術の目的とする立場もあります。また、その対立した主張を折衷したような第三の立場もあります。しかしいずれにせよ、もともと芸術は美を体驗し、それを表現す る、即ち作品に再現させるという点においては、大体一致しております。
芸術(Art ・Kunst )は語源的には技術という性格を持っています。即ち、芸術は美的感動をそれと全く同じように形象化させる技術を意味しているのです。この場合、美的感動や、美意識の根據であり、発生原因である「内容(物・自然・思想などを含めて)」が与えられていなければなりません。空疎な内容、即ち無内容についての美意識は成り立たないからであります。故に美とは「物の美」「事象の美」であるといわざるを得ません。
美は観念的想像によって創られるものというよりは、原初的には、そして第一義的には、体驗され、感受されるものであって、故に美の根源は人間の心情にあるものでなく、人間の主観的心情の彼方にあるといえるのであります。
勿論、美的感動や美的快感、表現の技術などは、芸術家の感応の程度や心理的状況、また修業の程度 などによって違うのであり、ここに芸術家の個性の差はありますが、美の根源は芸術家の心象的想像や創意によるものでなく「物」「事象」から觸発されるものであるということを前置きにして考えを進めたいと思います。

芸術とは、芸術家の美的体驗により感動が生まれ、それを作品にもたらすということになりますが、美の体驗とその捉え方、即ち美的認識は從来の伝統的芸術論では、直観という方法をとっているのが一般的傾向であります。
プラトンの美のイデアの直観的認識説以来、カント、シェーリングなどの芸術論において、美の認識は直観によるものでありました。
哲学における思辨性、宗教における絶対信仰などとは違って、芸術は美的体驗と直観 的認識という方法論にその特徴があるともいえるのであります。
直観の機能や限界などについての哲学的詮索 (カントにおける直観の限界、シェーリングの絶対知、ベルグソンの知性の関係など)は主題ではないので、ここでは省略するのでありますが、ただ、直観の辞書的意味と、認識の作用的側面、そして直観により体驗され、認識される「物」「事象」はいかなるものであるかについて、大雑把ではあるが先ず述べることにします。
直観的とは思惟に対立するもので、端的に、瞬時的に「事象」「物」の本質と全体相を把握する認識の一つの方法であり、悟性的認識よりも優越、また多くの場合、最高の認識能力といわれるものであります。プロティノスのヌース、スピノーザの神、デカルトの我の存在などの直観知、シェーリングの絶対自己同一の自覚としての直観、ショーペンハウアの芸術的直観的認識などがそれであります。
直観する(anschauen )とは「即時的に」「端的に」みるということでありますが、「みる」ということと、「思惟に対立する」ということで、ただちに感性的なものであるとはいえません。即ち、事象を感覚的に反映・受容するということではないのです。直観するとは思惟的理性によるものではないといっても感性的認識ではありません。次に直観は主観を排除することであります。主観には推理とか、有用性、志向性などが常に働くもので、存在一般を客観として対象化させたり、意志により対象を構成するもので、主観が介入する限り、美的体驗も、直観的認識も純粋なものではなく、人間の心理や志向意志の制約を受けることになります。直観はこのような構成的主観をすてて、脱自的に物を捉えることであります。勿論、鏡やカメラが、対象の一面を模写するように平面的に捉えることではありません。次に直観は物の無媒介的認識のことであります。推量的思辨や感覚などによるのでなく、端的に瞬間的に把握する先驗的なものであります。間に髪も入れない刹那の認識のことであります。故に芸術家の天才性を要する最高の認識といわれるわけです。
次に直観は事象を単一の孤絶者として捉えるのでなく、その事象をとりまく関連の全体相を把握することであります。即ち、ある事象や物の本相をそのものについてだけでなく、その物とかかわっている秩序の全貌を同時に捉えることであります。知的認識は単一のものでも可能であるが、美的直観は単一と同時に全体のものを捉えるというところに特徴があるといえましょう。美的直観は、色彩とか形態、または均斉性といった個々の現象や、個物と同時に、それを超えて、その物の存在の原理をも瞬時的に全体的に把握することです。例えば爛漫と咲いている桜に美的感動が湧いたとします。または地平線に沈む荘厳な落日に言い知れぬ美しさを感じたとします。この場合、桜の花びらの色や形だけが美しいのでしょうか。また桜の周辺の景色が花に咲き変わったという視覚的感動だけによって美を感じたのでしょうか。むしろ雲とまがう桜を通じて、春暖ののどけさや、やがて散り行く花のはかなさ、そして歳月の流れへの切ない思いなど、桜の本質にかかわる関連の全秩序の相を同時に捉えるからではないでしょうか。
もえるような赤い夕日も、昼間とは違うその形や色だけが美しいのではなく、大地の果しない広漠や、今日も過ぎ、明日となる天地自然の運行の神秘などを全体相の下に関係させて直感するところに、高次の美意識が成り立つのではないでしょうか。
物を固有の本来性と同時に、自然の理と秩序に從い、全貌を瞬時的に把握することによって、美の根源との出会いも可能になるのです。この出会いは、その都度、一回時性のものであります。
西洋的用語である美的直感は、東洋の表現では、必ずしも同一のものではないが、ほぼ「静観」「観照」の意味になりましょう。宋の程明道の「静観万物皆自得」とか、芭蕉の俳文「蓑虫の説・跋」の「静かにみれば物皆自得す」の「静かにみる」ことにあたります。この場合の「物の自得」とは、物が一定の秩序と理法に從って、自己として本性を保ちながら自在していることであります。そして静観とは、物の表面的印象を感覚によって反映させるとか、主観の心情をもって構成や想像をするのではなく、総ての我執を取り去り、物の自得の相に沒入するということです。
物の自得の相、つまり物の本来の真理は、いつも開かれており、常にそこ(Da)にある(Sein)のです。水にとびこむ蛙にも、たなびく霞にも、梅に鳴く鴬にも、物の秩序は開かれています。その秩序連関を直観するのが芸術家の役割といえるのです。
虫の音に秋の深さを、庶民のやつれたしわから人生の苦労と哀歓を、水の流れに悠久な自然の攝理を、端的に、瞬時的に直観することによって芸術の境地が開けるのであります。故に最高の直観知は一種の悟りの境地で可能であるとも言えるのであって、芸術の理想はこのような最高の美的認識とその表現ということになるのです。

以上、芸術の方法としての直観的認識について、辞書的意味でのいくつかの特性と、直観される物の自得の原理について述べたのでありますが、では芭蕉の俳諧が、果たしてこのような意味での芸術の本質的方法論と、どのようにかかわっているのかを考えてみたいと思います。その接近方法として、作品の解釈と鑑賞などによるのも考えられますが、ここでは芸術観を表わしている芭蕉の俳論を根據にすることとします。勿論、芭蕉直筆の俳論が程んどないということは前述のとおりでありまして、門人の俳論の中から、芭蕉の説に間違いないと思われる理論が根據になります。
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と師の詞のありしも、私意をはなれよといふ事なり。この習へといふ所を己がままにとりて、終に習はざるなり。習へといふは、物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句と成る所なり。たとへ、物あらはにいひ出でて も、その物より自然に出づる情にあらざれば、物と我二つになりて、その情誠に至らず。私意のなす作意なり。(三冊子・赤)
芭蕉の俳論の中でも、最も多く引用される右の文章で、俳諧芸術についての芭蕉の基本的姿勢のいくつかの特徴がはっきりと示されております。
先ず、物を捉えるとき、私意をはなれよということです。私意とは主観のことであって、私意(主観)が働くと、物は作られたものになり、その本相はかくれてしまいます。人間の心情により、工夫され、想像される物は自得の物自体ではないのです。「松の事は松に習う」との象徴的な教説の意味は、物から語りかけられた言葉をきくこととも言えましょう。
芭蕉の脱私意についての教説は、土芳の「三冊子」に特に多く見られるのでありますが、その中で、いくつかの例を引き、参考にしたいと思います。
門人巧者にはまりて、ただよき句せんと私意をたて、分別門に口を閉ぢて、案じくたびるるなり。おのが習気をしらず、心の愚かなる所なり。(三冊子・赤)
句作りに、成ると、するとあり。内をつねに勤めて、物に応ずれば、その心の色句と成る。内をつねに勉めざるものは、成らざる故、私意にかけてするなり。(三冊子・赤)
師、句作り示されし時、「腹に戦ふもの、いまだあり」となり。感心の趣なり。是、師の思ふ筋にうとく、私意を作る所なり。元を勤めざれば成るといふ事なく、ただ私意を作るなり。工夫して私意を破る道あるべし。(三冊子・黒)
また、私意の排除については「一字不通の田夫、又は10歳以下の小兒も時によりては好句あり。(去来抄・修業教)」とか、「俳諧は三尺の童にさせよ。初心の句こそたのもしけれ。(三冊子・赤)」など、初心の純粋性に比喩をとった教説もあります。
私意を去ることは「思無邪」のことであり、無心・正念になることです。趣向をめぐらし珍物・新詞を探して、工夫考案する句作は物の本情を窮める芸術精神ではないのです。
私意をはなれるということは、美の所在を心情においているのでなく、物の側においているという意味になります。即ち、私意(主観)の作意によって美が創造されるのでなく、美は物の側に、常に開かれているのであります。勿論、物自体が美しいということではありません。物の自得の相を直観したとき、美的感動が生まれるのです。この場合感動だけは人間の心情性に属しますけれども、感動の起こる原因、源泉は、物の自得の相でありますので、美は、第一義的には物の側にあるといえるのです。
次は認識の問題ですが、私意を捨てることは、物に沒入することにつながります。例文の「物に入りて、その微の顯れて情感ずるや・・・」や「内をつねに勤めて、物に応ずれば・・・」などは、物と我が一体、一如となってはじめて物の微(本相)が顯わになり、物が芸術の世界に入り得るようになることをいっております。つまり、句(芸術)に形象化される美の世界は、先ず、私意を去り、物に応じ沒入して一如になる。すると、物の本相がみえ、それによって芸術家の感動が生まれ、ここに芸術が成り立つという順序になります。その故に、もし芸術家の作品がいくら上手に対象を表現していても、物との一体化から生まれた情感でなければ、その感動は誠の感動ではないのです。芭蕉俳諧における誠の一つの内容的意味として、脱私意は重要な意義をもつものでありますが、ここにもそれが明らかに示されております。
私意(主観)をはなれることは、思辨的知性や感覚を捨てることであり、結局は直観的認識に頼るという意味になります。
芭蕉はまた、美の認識の瞬時性を強調しています。
「三冊子・赤」の次の言葉は、物の端的で瞬間的な把握についての思想をよく表しています。また、
句作りに師の詞あり。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」。また、「趣向を句のふりに振り出だすといふ事あり」。是みなその境に入つて、物のさめざるうちに取りて姿を究むる教なり。
芭蕉によれば、物は私意をもってみるのでなく、物の側からおのれを開示してみせるのです。即ち「見える」のであります。しかも光のように瞬間的なものであります。この一瞬の稻妻のような物の顯われを捉え、感動が湧くと、そのまま即刻に言葉で言い表すのが芭蕉の基本的な句作の態度でありました。その言葉によって、光のように忽ち消えさる物の本相は、芸術作品に長く滯留することができるのであります。「いひとむる」とは命名と同時に、滯在させる意味で、刹那、刹那と変わり行く物の微の顯れを長く保存させることにつながります。また、同じ「三冊子・赤」に
飛花落葉の散りみだるるも、その中にして見とめ聞きとめざれば、をさまると、その活きたる物だに消えて跡なし。
といっているのも、物の、間に髪をも入れない直観的な認識を説いています。飛花落葉という用語は、二条良基や、心敬、宗祇なども使っており、また芭蕉もしばしば使っていたのでありますが、共通の意味は、「物の変化」と理解してよろしいと思います。
さて、常に変化しつつある物の本相は、変化の途上にあるその都度の様相で把握し、感動として残しておかないと(その中にして見とめ聞きとめざれば)、物は次の変化に移り、その都度・都度の真相(その活きたる物)は、跡かたもなく消えてしまうのです。即ち物に応じたとき、物の相を瞬間的に、無媒介的に捉えなければならないということです。
或時は「大木倒すごとし、鍔本に切り込む心得、西瓜切るごとし、梨子喰ふ口つき、36句みな遣句」などと、いろいろに責められ侍るも、みな功者の私意を思ひ破らせんとの詞なり。(三冊子・赤)
右の言葉は、付句の心得についての芭蕉の教えでありますが、句作に臨んでは、歌仙36句が、皆遣句(逃句)と思って、どっと大木を倒すように、相手の鍔本に切り込むように、西瓜を一刀で割るように、がぶっと梨子に喰いつくように、一気に言い終えよということであります。一気に言い終えることは美的情感の瞬間性のことではないでしょうか。
また、同じ「三冊子・赤」に
実に入るに、気を養ふと殺すとあり。気先を殺せば、句、気に乗らず。先師も「俳諧は気に乗せてすべし」とあり。
とあって、物の本相の把握は、いささかの躊躇もなく、一気に行えといっているのであります。
また「去来抄」にある“即興感偶“ということばも、物の端的把握についてのことであり、芭蕉俳諧における直観的認識の方法と姿勢がうかがえるのです。
ところで、芭蕉の美の認識は、物の本相と共に、その物の秩序関連全体を、同時に把握することでありました。
師の曰く「乾坤の変は風雅の種なり」といへり。静かなる物は不変の姿なり。動ける物は変なり。時として留めざれば止まらず。止まるといふは、見とめ聞きとむるなり。(三冊子・赤)
芭蕉によれば、天地万物は常に変化流転するもので、その転変の相こそ俳諧芸術の要素であり、素材ということになります。静としての物は、不変の姿として、自己の本情を保ちながらも、固定されているのではなく、動態として変化の途上においてあるのです。故にその刹那において(時として)本相を捉えなければ、物はまた移り変ってしまいます。物は飛花落葉のように無常迅速、流転の最中にあるものです。
 ところで物は自得の存在原理をもつものであるが、しかしそれは天地の秩序から絶縁され、孤立された個別的なものではなく、自然の一定の理法の中に存在しているものです。支考の「続五論・新古論」に「春の花と咲き、秋の木葉とおつるもののとどむまじき自然の理」という文章がありますが、天地万物は、自然の法則に從って推移を続けるものであり、從って万物の真相は、その物とかかわりのある秩序全体を捉えなければ顯わにならないということになります。つまり物の本相は、個別の領域を超えて、天地の本情につながるのです。春は花と咲き、秋は紅葉、そして落葉するのは、花の自己固有の本性でありますが、これは時の流れや、風雨陰陽などの攝理に深くかかわるもので、この全体相を直観したとき、山是山、川是川、花紅、柳緑として、物は美しく輝くのであります。不変であるべき物の本相は、他との関連において飛花落葉として転変するのですが、この変化する諸相を天地の理法と秩序の下に捉え、俳諧の言葉として滯留させる(見とめ、聞きとめる)のが芭蕉の姿勢といえるのであります。故に芭蕉俳諧で詠まれる物は、観念的に固定されているのでなく、常に変わっている状況と姿をもっているといえるのです。鴬は梅に鳴くものとして、蛙は水になくものとして、伝統的な詩歌には、詠み方が大体決まっていますが、 鴬の餅に糞する様相もあれば、水にとびこむ蛙の姿もあるのです。山路に咲くすみれも、馬に喰われる木槿も、蓑を欲しがる猿の姿も、天地の本情の顯われであり、そのまま俳諧の素材になり得るものであります。「詩、歌、連、俳はともに風雅なり。上三のものには余す所もあり。その余す所まで俳はいたらずといふ所なし。(三冊子・白)」と土芳がいっているように、芭蕉の俳諧は定式化した構図を超えて、物のあらゆる自在の様相を詠むということです。物の自在の様相は既に述べたとおり、存在の全体にかかわっている様相であります。
奥の細道の旅中の芭蕉を、金沢から松岡の天竜寺まで案内して、芭蕉の教えを書留めた北枝の記録「山中問答」にも、物を自然の理法から捉える芭蕉の俳諧観がうかがわれます。
蕉門正風の俳道に志あらん人は、・・・天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。(山中問答)
蕉門の俳諧は、山川草木人倫など万物の本相を認識することであるが、それを飛花落葉の、即ち変化の姿において捉えなければならない。つまり天地の本情である自然の理法とのかかわりの下で俳諧に臨めよということと解釈できるのです。その事が古今の真理であり、不易・流行に叶う誠の俳諧といっているのです。
このように物を絶離された個と同時に、それをこえて、自然の秩序と理法の中の物として観照するのが、所謂「造化に從い、造化にかえる(笈の小文)」意味といえましょう。

芭蕉俳論の特徴として、脱私意的句作について、また、物の瞬時的把握、そして造化の理法に基づく全体相とのかかわりにおいて物を認識することなどを述べてきましたが、このような俳諧観は、思惟を排除し、対象の本質と同時に全体相を端的に認識する直観的方法と非常に接近しているといえます。
勿論、芭蕉は俳人であって、思想家ではなかっただけに、芸術の認識としての直観的方法を自覚していたとはいえません。元禄15年、厚為宛の杉風書簡に、「俳諧は只風雅也。風雅に論は少も無御座候。我と吟じて、我を楽也。是翁の伝にて・・・・」とあるように、俳諧はもともと吟詠するものであって、理論は二義的なものであります。また芭蕉の俳論が芸術の本質に迫っているといっても、彼の作品が全部、理論につながるものとか、佳句であるとはいえないのであります。同時に、芭蕉は日本の詩歌の伝統の影響を受けていて、主情性や、構成的創意性の雰囲気から、完全に抜け出たとはいえません。特に俳諧は、初期の形成過程から、滑稽、諧謔、ユーモアなど主観的意図や想像力、そして言葉の技巧的表現を目標としたもので、俳諧人としての芭蕉も、伝統の制約を受けていたのは間違いありません。天和期までの芭蕉の初期作品は、程んど貞門調か、談林調の枠内にあったのは事実であります。しかし、諧謔本位の從来の俳諧の非芸術性を自覚反省して、誠の俳諧をとなえた後期と晩年の作品は、俗でも卑俗でなく、実に平々淡々としているのは周知のとおりであり、また彼独特の俳諧理論は、日本詩歌史上かつてない深奥なものといえます。
土芳が、「師の俳諧は名は昔の名にして、昔の俳諧にあらず。誠の俳諧なり。(三冊子・白)」といっているように、芭蕉は俳諧の伝統を受け継ぎながらも、一大革新をもたらしたのですが、その最大の特徴は、俳諧を芸術に高めたことであり、そこには芸術の本質への思索と論理が伴っていたといわざるを得ません。そして用語や内容は違っていても、美的感動の認識を直観的方法に頼っていたと思われるのであります。ここに芭蕉俳諧の現代的意義があり、また俳諧の芸術としての世界的普遍性の可能性も根據をもつといえるのではないでしょうか。
 
涙の語り / 平安朝文学

 

今日の私の話の出発点になったものは、12年前に(1981年)試みた「とはずがたり」のブルガリア語訳です。それは日本古典文学の最初の翻訳だったので、様々な読者の注意を引き、評論家達にはかっこうの話題を提供してきました。その時、日本古典文学の「現代的な響き」に驚きを感じた読者達は、新鮮な興味を示し、思いがけない所で面白さを発見することで、私に新しい研究テーマを提供してくださいました。それは、読者達を最もびっくりさせた「袖の涙」のことです。「昔の日本人はどうして絶え間なく涙を流していたのだろうか。色々とお化粧もしているはずなのに。それに、いくら濡れても濡れきれない、あの袖はタオルのような生地だったのだろうか。」というような質問が次々と寄せられてきたので、私の頭の中に疑問の種を植えつけました。専門家の目に当たり前に見える「袖の涙」の表現は、ただの誇張した比喩にすぎないのでしょうか。よく考えると、あまりに目の前にあるものは、最も見えにくいのかも知れません。
以上のような予想も出来なかった意見を聞かせてもらってからも、しばらくの間「涙」の研究を遠慮しました。「涙は人間の弱みの証である」という常識を持っている合理的な現代社会に育てられてきたからでしょう。しかし、私の現実から追い出された「袖の涙」は、今度は私の夢に入り込み、「わが袖の 涙言問へほととぎす かかる思ひの 有明の空」という「とはずがたり」の歌の言葉を借りながら、「わが袖の涙言問へ、わが袖の涙言問へ」と、無意識のレベルから意識のレベルへと浸透してきました。
私達は忙しい現在に生きながら、現在にふさわしい色々な新しい知識を得ましたが、失ってしまったことも少なくはないでしょう。いわゆる近代化に伴う合理的な価値観に基づいて、現代人が古代人よりも頭がよくなってきたと言われていますけれども、それは本当なのでしょうか。人類学者は様々な文化を研究した上で、文化を持つ人間の頭の能力の範囲が時代的にも地域的にもあまり変わらないということを主張してきました。変わるのは、その内容だけです。たとえば、昔の人は自然との密接な関係を持ち、四季と共に変わりゆく自然の彩りに心が引かれて、鳥や虫や草や木等の声を聞くことができたのです。一方、我々現代人は、そのような鋭い感覚を失ってきたのに対して、機械化された現代に生き残るため、様々な「機械的」な知識を獲得しました。日常的な例として、車の運転が挙げられるかも知れません。ハンドルをにぎるドライバーは、周りの自然から目を離さないと、事故にあうに違いないでしょう。これは常識です。現代社会にふさわしい常識です。しかし、現代人の優越感とは関係がないと思います。感覚的な知識と合理的な知識とではどっちが優れているかという質問が、無意味であるからです。それぞれの時代に、また、それぞれの文化パターンに、それぞれのふさわしい知識が必要であると言えます。
以上のようなことは当然に思われるかも知れませんが、必ずしもそうではないと思います。その理由は、いわゆる「近代化」にあるように考えられます。明治維新以来行われてきた「近代化」は、日本の社会における革命的な役割をはたしたのに対して、日本文化の研究を混乱させたと思います。つまり、西洋文化を中心とした「近代的」な価値観は、異なった伝統を持つ文化の面白さを見逃してきたと思います。文明の多様化は、様々な「多様=他様」から織り成されているからです。
文化研究の視点から日本の「近代化」を考えるたびに、古代ギリシャのプロクルステスの伝説を連想的に思い出します。プロクルステスという人物はおそろしい強盗であり、ナイブな旅人を自分の家に誘いこんで、ひどい目に合わせたそうです。客を鉄の寝台に寝かせて、寝台より長い人の余った部分を切ったり、寝台より短い人の体を引き延ばしたりしながら、その寝台に「合わせた」そうです。異なった文化パターンを無理に「合わせる」ことも、どこかで「プロクルステスの寝台」に似ているのではないでしょうか。
一方、島国の日本人の文化が比較もできないほどユニークであるという、全く反対の説も、やはり、「鎖国時代」的な考え方に過ぎないと思います。どの文化もユニークでありながら、それらの差異の中で「普遍的な」要素を見つけることができるからです。
さて、振り子の極点のようにお互いを否定するその二つの研究傾向をどうやって調和できるのでしょうか。私には、研究の対象から出発する以外には方法がないと思えます。そして、現代人として得た様々の知識を研究の前提とするのではなく、異なった文化の面白さを顕示しうるための手段として使用しなければならないと思います。以上のような研究態度を踏まえて、平安文学の中に絶え間なく流れている「涙」のことに少しばかり触れてみたいと思います。しかし、長い年月の寂しさのつれづれに考えてきたことなので、一時間どころか、何時間も何日間も話しても、「涙」の内容が尽くせないと思います。簡単なヒントしか申し上げられませんから、前もって皆さんのご了解をお願いしたいと思います。一方、平安朝文学の中でも、場合によって、直接に語られたことよりも、落とされたことの方が意味を持っていることもあります。それに応じて、今日の私の話の中では、述べたことよりも、述べなかったことの方が興味深いと考えて下されば、大変ありがたく思います。
平安朝文学における「袖の涙」という表現を研究しはじめた時、極めて面白いことを発見しました。というのは、この表現が直接に出てくる例よりも、間接的で、「変身」して登場する例の方が驚くほど多いのです。当時の歌語として認められている様々の表現が「袖の涙」の種類として解釈されているからです。「涙」には、露や時雨や雫や白玉等のような比喩が数多くありますし、「袖」も衣手や袂の類義語によって代表されます。更に付け加えますと、「袖の川」「袖の海」「袖の湊」という言葉に並んで、「袖を濡らす」「袖を絞る」「袖を乾かす」等の表現も、間接的に「袖の涙」を表しています。「涙」は表面に漏れなくても、他の表現の裏に流れています。ところで、「袖の浦」という歌語は、もしかしたら、このような意味を私達に伝えようとしているのではないでしょうか。つまり、「海の浦」と「衣の裏」という掛け詞が、隠されている「袖の涙」という意味の裏をウラギルのではないでしょうか。
さて、第一のステップとして色々な辞典を引いてみましょう。日本では、専門的なものを含めて辞典の数が極めて多いことは、言葉の研究が進んでいる証拠でもありながら、現在行われている文学等の研究にも大いに貢献していると思います。
それにもかかわらず、「袖の涙」そのものが、小学館の「日本国語大辞典」(第12巻)にしか出てきませんし、しかも、「衣の袖をぬらす涙」という部分的で簡単な説明にとどまっています。つまり、「袖の涙」は、一つの固定した表現としては取り扱われていません。ただし、「袖の涙」の派生語として解釈されている表現は、どの辞典でもたくさん出てきます。古い言葉の最も詳しい辞典である角川の古語大辞典の第3巻に載っている例の中から五つばかりの説明を引用しましょう。
「袖の雨」−袖に涙が雨のように降りぬれること。
「袖の海」−涙が多く流れることや、それによってぬれた袖のたとえ。
「袖の時雨」−歌語。袖をぬらす涙の比喩。涙を袖にかかる時雨にたとえたもの。
「袖の露」−歌語。袖にかかる露。袖をぬらす涙の比喩に用いることが多い。
「袖の湊」−歌語。涙があふれ流れて袖に注ぐことを、川水の流れ込む湊にたとえた語。
更に遡ると、このような解釈は最も古い歌語である枕詞のレベルでも表われてきますが、その場合は、「袖」のかわりに、「衣手」という古い言葉の方がよく使われています。その例の一つは、「衣手常陸の国」なのです。明治書院の和歌大辞典によると、「常陸風土記に「筑波岳に黒雲かかり衣手漬(ひたち)の国」という諺があり、ヒタチにヒツ(濡れる意)を類音によって連らねた」そうです。一方、「ころもでの」を真若の浦と名木の川とにかけた場合については、あいまいな解釈しか出てきません。すなわち、「いずれも即興的に衣・袖に縁のある語やそれと同音の地名にいいかけたものか。」ということです。それを読んだ私は、大変刺激されました。「袖に縁のある語」である「涙」の研究を進めると、辞典で不明になっている枕詞の使用さえも説明できるかも知れないと思ったからです。少なくとも、「泣きの川」とでも読まれる「名木の川」の場合は、その関係がはっきりと表れていると言えるでしょう。
「袖」と「涙」との間の縁の証拠を追求しながら、一層専門的な辞典である角川書店の「歌枕歌ことば辞典」に当たってみましたが、「袖」の記述の中では、まるで私の期待に答えてくれるかのように、次の通りの説明がありました。すなわち、「「袖」によって連想されるものは、やはり「涙」である。「つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし」(古今集・三恋・敏行)のように「涙」に「濡れ」「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは」(後拾遺集・恋四・元輔、百人一首)のように「袖をしぼり」「我ながら思ふか物をとばかりに袖にしぐるる庭の松風」(新古今集・雑中・有家)のように「袖」が「時雨」に濡れそぼち、「ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ吾が居る袖に露ぞおきにける」(万葉集・巻7)のように「時雨」や「露」が袖を濡らし、「袖の雫」(伊勢物語・75段)「袖の滝つせ」(新拾遺集・恋一)などにもたとえられたが、いっぽうそのように落ちる涙をとめるものとして「袖」を「しがらみ」として用いたり(拾遺集・恋四)もした。」
さて、以上のように様々の辞典から引き出した情報をまとめてみましょう。「袖の涙」という表現が直接にはほとんど取り扱われていないのにもかかわらず、「袖の涙」のたとえとして解釈された表現は極めて多いし、その大部分が歌語としても認められています。従って、「袖の涙」は、表面的で直接な意味に限らず、他の歌語の意味を支えている表現であると言えるでしょう。もし「袖の露」「袖の湊」「袖を絞る」等々のような数多くの歌語が「袖の涙」のメタファーであるとすれば、「袖の涙」そのものが、詩的言語(poetic language)のもっと深いレベルを象徴する根源的なメタファーであると言えるでしょう。つまり、「袖の涙」は、普通の隠喩とは違って、特定の内容を比喩的に伝えるだけではなく、詩的言語の働き方についての情報さえも伝えているという結論が導き出されると思います。
しかし、ことばの意味と意義を求めるためには、いくら辞典を引いても、やはり不十分であると思います。辞典に出てくる語彙の姿は写真の映像に似ていますが、ことばには、自然や人間と同じように、それ自身の命があります。少なくとも、それは「ことだま」を信じていた平安時代の人々の常識です。従って、ことば−特に詩的言語としてのことば−を理解するには、歌におけるそれらの生き方を研究すべきでしょう。ですから、辞典に次いで第二のステップとして、平安文学の詩的言語の基準を明示した「古今集」と「新古今集」の中で「袖の涙」の跡を辿ってみたいと思います。
この二つの勅撰集に出てくる「袖の涙」の歌を数えてみましたが、「古今集」の全1100首の歌の内に約60の例があり、「新古今集」の全1990首の歌の内に約190の例がありました。数字を比較しながら、「新古今集」は「袖の涙」の歌がよく出てくることがわかりますが、それは私の説をバック・アップしているとも思います。つまり、詩的言語の基準が固定すればするほど、その働き方を象徴している「袖の涙」の表現も盛んに現れていきます。
歌題別から言えば、「袖の涙」は、当然なことに、恋の巻に集中しています。ただし、「涙」はその巻に留まらず、四季の歌や、離別の歌や、羇旅や、哀傷の歌等にもそぼちつつ、歌ことばの研究者にとって最も意義深く思われる「物名」の巻にも、漏れてきます。その例として、「古今集」の424と425の歌を挙げましょう。
波の打つ 瀬見れば玉ぞ 乱れける 拾はば袖に はかなからむや (在原滋春)
袂より はなれて玉を 包まめや これなむそれと うつせ見むかし (壬生忠岑)
この二つの歌の中では、はかない世の中を象徴する「うつせみ」という言葉だけではなく、はかなさを悲しむ涙の玉と、袖=袂との間の「縁」も隠されていると思います。
さて、絶え間なく流れてゆく涙の話をもっとくわしく聞いてみましょう。先ず、「古今集」から・・
早き瀬に 海松布生ひせば わが袖の 涙の川に 植ゑましものを (531、よみ人しらず)
しきたへの 枕の下に 海はあれど 人を海松布は生ひずぞありける (595、紀友則)
この二つの歌は、言うまでもなく、片思いの悲しみを表しているけれども、「海松布」という言葉は、もっと深い意味をもたらしてきます。つまり、海草の名前に「見る目」という意味が重なっているので、「涙の海」に「みるめ」を植えると、心の中に潜んでいる片思いが見えるようになるという解釈ができます。従って、この二つの歌については、「涙」が感情を表すだけではなく、その感情を語って伝えることもできるというような読み方もありえます。「涙」の伝達力に訴える歌が他にも沢山ありますが、もう一つだけを引用しましょう。
限りなく 思ふ涙に そぼちぬる 袖はかはかじ 逢はむ日までに (401、よみ人しらず)
「涙」が感情を語っているからこそ、それを隠そうとしても、黙りはしません。
包めども 袖にたまらぬ 白玉は 人を見ぬ目の 涙なりけり (556、安倍清行)
この歌は、相手に自分の「涙」を見てもらいたい、自分の愛を語っている「涙」を聞いてもらいたいというような意味も持っていると見なすことができます。しかし、いくら聞いてもらいたくても、聞いてもらえない場合もあるのです。そのことも、やはり「涙」が教えてくれるのです。別れや失恋の知らせを届けてくれる「涙」の例として3首ばかりの歌を引用しましょう。
今日別れ 明日は近江(あふみ=逢ふ身) と おもへども 夜や更けぬらむ 袖の露けき (369、紀利貞)
わが袖に まだき時雨の 降りぬるは 君が心に秋(あき=飽き) や来ぬらむ (763、よみ人しらず)
つれづれの ながめにまさる 涙川 袖のみぬれて 逢ふよしもなし (617、藤原敏行)
「伊勢物語」にも出てくる3首目の歌は、極めて面白いと思います。「涙川袖のみぬれて」ということばが、「涙」には「袖」をぬらす以外にも意味があると示しているからです。それは、在原業平が詠んだ返し歌では更に明示されています。
すなわち、浅みこそ 袖はひつらめ 涙川 身さへながると 聞かばたのまむ (古今、618)
付け加えますと、業平の歌は、「浅みこそ袖はひつらめ涙川」という言葉によって「袖の涙」の不変形表現としての基準を破壊しながら、間接的にその基準の存在を強調していると思います。以上のように「涙」が心の思いを相手に語って伝えることができるからこそ、それが形見にもなりうるのです。「形見」としての「涙」の例を挙げましょう。
年を経て 消えぬ思ひは ありながら 夜の袂は なほこほりけり」 (596、紀友則)
飽かずして 別るる袖の 白玉は 君が形見と つつみてぞゆく (400、よみ人しらず)
この歌が示しているように、「袖の涙」は反復力と伝達力を持ち、心のありさまを再表現できるのです。一方、形見として保存された思いが再表現できるからこそ、「涙」は「いつはりの涙」になったり、「おろかなる涙」にもなったりします。
いつはりの 涙なりせば 唐衣 忍びに袖は しぼらざらまし (576、藤原忠房)
おろかなる 涙ぞ袖に 玉はなす 我は堰きあへず たぎつ瀬なれば (557、小野小町)
以上の二つの歌は、「事実と虚構(そらごと)」という日記文学や物語等における中心なる問題にもかかわってきます。「古今集」から「新古今集」へ移りますと、「袖の涙」のはたしている機能が一層明確に顕示されてきます。感情の表徴としての機能だけではなく、詩的言語の働き方を表現する「涙」の機能も見えてきます。
身にそへる 影とこそ見れ 秋の月 袖にうつらぬ をりしなければ (410、相模)
昔思ふ さ夜の寝覚めの 床さえて 涙もこほる 袖の上かな (629、守覚法親王)
この歌は、「涙」の反復力と伝達力を示しながら、昔を思う時、頼りになりうるものは「涙」しかないと強調しているのです。「涙」と「思い出」を合流させる歌は他にもたくさんありますが、2首ばかりを付けて加えましょう。
梅が香に 昔をとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる (45、藤原家鷹)
いとかくや 袖はしをれし 野べに出でて 昔も秋の 花は見しかど (341、藤原俊成)
詩的言語の深層から漏れてくる「涙」は、「問はずに」流れて語りはじめます。
水ごもりの 沼の岩垣 つつめども いかなるひまに ぬるるたもとぞ (1002、藤原高遠)
物思ふと いはぬばかりは 忍ぶとも いかがはすべき袖のしづくを (1092、源顕仲)
忍びあまり おつる涙を せきかへし おさふる袖よ うき名もらすな (1122、よみ人しらず)
以上のように、「涙」が「問はずに」語りはじめるので、いくら抑えようとしても、抑えられません。今までそれを抑えてきた「袖」さえも「うき名をもらす」ようになるからです。一方、絶え間なく流れる「語る涙」をせきとめる「しがらみの袖」もだんだん狭くなっていきます。
払ひかね さこそは露の しげからめ 宿るか月の 袖のせばきに (436、藤原雅経)
藤原雅経等の歌に登場してくる、この「せばき袖」という表現は、大変興味深いと思います。世界の衣服史の上で最も面積の広い平安朝の袖を「狭い」と呼んだことは、不思議に思わざるをえません。その理由は、直接的な意味ではなく、文化的な意味を持っているからに違いはありません。つまり、「袖のせばき」を嘆き悲しむ歌人達の声は、詩的言語における「袖」の機能を示しているように解釈できると思います。
「袖」については、何回も(羽織を着て)発表したこともありますし、様々の論文[ A sleeve is not just a sleeve(in classical Japanese cultur), Semiotica, 97(34),1993、等]も書いたこともあります。いつか「袖」を通じて日本文化史を書いてみたいと思うほど、私は「袖」の重ね重ねに巻きこまれているようです。しかし、今日、皆さんをその重ねに巻き込むつもりはありませんので、ご安心下さい。ただ、「語る涙」を理解するには、「袖」の重ねも少しばかり開かねばならないと思います。
辞典を調べると、「せばき袖」については、「身分を表す」というような「狭い」解釈しか出てきません。身分を表すための袖の機能は、日本だけではなく、西洋文化においても出てきます。その例として、英国のビクトリア女王の肖像画等が挙げられますが、女王の袖よりも何倍も広い、平安朝の「袖」には、他の機能もあったに違いはありません。その機能を簡単にご紹介しましょう。
先ず、平安朝の衣は、言うまでもなく、実用的な機能をはたしていました。絹しか知らなかった当時の貴族にとっては、重ね重ねの衣が冬の寒さに耐えるための唯一の方法であったとともに、家具の少ないつめたい床の上に寝る時の寝具でもありました。「袖枕」という言葉は、以上のような実用的な機能を指摘していると思われます。
一方、寝具として使われた衣には、直接的でエロチックな意義も重なっていたと思われます。「袖を交はす」「袖を継ぐ」「袖を重ねる」等の表現は、男女関係のことも語っています。また、「和泉式部日記」の中では、「手枕の袖」は恋のシンボルになっています。
宮「時雨にも 露にもあてで 寝たる夜を あやしくぬるる 手枕の袖」
女「今朝の間に いまは消ぬらむ 夢ばかり ぬると見えつる 手枕の袖」
平安朝の袖には、エロチックな機能の上には、さらに美的な機能も重なっていました。重ね重ねの袖は、「色合わせ」の美も表現しましたし、「袖の香」という言葉が示しているように、香りのメッセージも伝えることができたのです。あるいは、比喩的に言えば、「袖口」は、人間の口の代わりに、人間についての様々の情報を話していました。
以上のように「情報チャンネル」であった「袖」は、当時の人によって積極的に使われていました。例えば、「鬼と女とは見えぬぞよき」という条件に応じて、風や几帳等の後ろで隠れていた女房達にとっては、「袖」が相手の目を引き寄せるための大事な手段でもありました。「押し出だし」と「出だし車」のような言葉が教えてくれるように、袖専用の「情報プログラム」さえもあったようです。つまり、手が届かない所までも「袖」が届いていたわけです。
ところで、体の続きとしての「袖」の意義は、最も古い「衣手」という言葉によって明示されているように思えます。その言葉には、「衣の手」だけではなく、「衣が手になる」という読みもありうるからです。言葉の面白さから言えば、「袂」にも二重の意味が開かれてきます。つまり、本来的な「手元」を遊ばせてみると、「手が元である」、また「他の元である」というような連想も浮かんでくるのです。
いずれにしても、「袖」は、平安朝文化の価値観の中心である「色好み」と「みやび」を表示しながら、当時の文化情報伝達の重要なチャンネルであったに違いはありません。「袖の広さ」とは、寸法的な広さに限らず、「文化的な広さ」の意義も持っていたからこそ、「せばき袖」ということばは歌に登場しました。そのような「せばき袖」の内容には「言葉でも表せないほど感情に溢れている」というような「広い」解釈もありうると思います。
一方、前にも述べたように、「せばき袖」という表現は、密接的に「涙」と結ばれています。「涙」が絶え間なく流れつつあるからこそ、「袖」は狭くなっていきます。言い換えれば、「袖」が単なる袖の機能を越えて、歌語的な「涙」の「湊」でもあったので、どんなに広くても、詩的言語の発展にともなって、だんだん「狭く」なっていきます。
以上のような関係の例として、「歌の心」の表徴でもある「涙川」の和歌を2首ばかり引用しましょう。
わが袖に ありけるものを 涙川 しばし止まれと 言はぬ契りに (「とはずがたり」、巻4)
涙川 たぎつ心の 早き瀬を しがらみかけて せく袖ぞなき (新古今、1120、巻4)
前の歌は、「涙川と申す河はいづくに侍るぞ」という質問の答えであり、「涙」と「袖」との関係を主張していますが、後の歌は、「たぎつ心」という、「涙川」の源も顕示しています。
「たぎつ心」から湧いてくる「涙」が「人の心を種とした」大和の歌の言葉になったのは、当然のように思えます。一方、「心を種とした」歌の言葉であったからこそ、「涙」は、悲しみや喜びのような具体的な感情を越えて、感覚的な態度そのものを表徴し、日常的な問題にこだわらず、「生」と「死」、または「愛」と「美」等のような実存的な問題についても語ることができたのです。
最後になりますが、もう一つの問題について簡単に述べたいと思います。それは、なぜ「涙」こそが「たぎつ心」の声を表すようになったか、という重要な問題です。その理由は、当時の美意識に根を降ろしているので、無常観、もののあはれ等の価値観のカテゴリーとも結ばれていますが、ここでは一つの言葉だけを考察してみたいと思います。それは、「なく」という言葉です。「なく」とは、様々の意味を持っているので、最もよく使われる掛け詞の一つです。歌の中で美化された時鳥、鶯、蛙、鹿、等のすべての生き物が、やはり「なく」のです。従って、自然との調和を守りながら生きていた当時の人間が自分の声も「なきごえ=泣き声」と呼んだとしても不思議ではないでしょう。少なくとも、歌う声は、「なきごえ」という共通の言葉によって表現されたように思えます。歌が人間に限らず、自然の普遍的な行為であったからです。「古今集」の紀貫之の仮名序では、この思想が次のように明示されています。すなわち、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」人間の「泣き声」が他の生き物の「鳴き声」と合流した歌は数多くありますが、その中の二つばかりを挙げたいと思います。
思ひ出でて 恋しきときは 初雁の なきてわたると 人知るらめや (古今、735、大伴黒主)
鹿の音に またうち添へて 鐘の音の 涙言問ふ 暁の空 (「とはずがたり」、巻4)
以上は、「涙言問へ」から「涙言問ふ」への道の第一歩を歩んでみましたが、絶え間なく流れて、絶え間なく語る「涙」のストーリーは、終わりはしません。平安朝文化を特徴づける「流れ」の構造の表徴である「涙」は、感覚的な思想や詩的言語に限らず、他の文芸の分野にも及んでいると考えることができます。例えば、平安朝の美意識の独特な表れである書道の連綿体も、その一つであると思います。「袖に墨つく」という言葉が示しているように、「袖の涙」は、紙の上に流れる墨れる墨と合流して、執筆過程についてさえも色々と教えてくれることができます。和歌から発生した物語や日記文学等における「袖の涙」の機能を追求しつづけると、思いがけない発見ができるかも知れません。
しかし、平安時代とは違って、我々は「袖の広さ」よりも厳しい制限を意識するようになってきました。それは、時間の制限です。そのため、終わりもしない「涙の語り」をテレビの連続ドラマに例えて、「続く」と言って、今日の話を中断させていただきます。またいつかお逢いできるかも知れない、と期待しています。
 
無常観の東西比較

 

うまく死ぬということは、なんと偉大な芸術であろうか!そしてそれは人間が健康なうちに身につけるべき芸術である。1651年版「聖なる死への入門の書」
第一の局面 >
「人間は、死が必然であることを意識する唯一の種である。」
「あの安らかな寝りを誘う夜に、まどろむ内に引き込まれてはいけない。怒りを、光を失うことに対して、怒りを持たなければならない。」
はじめに
ここに引用したアンドレ・マルロー(Andre Malraux)の文は、相対的な価値を持つに過ぎません。 何故なら、まず第一に、人間はおよそ9、10歳頃になって、はじめて死がさけられないことを理解するように なるとされるべきであります。次に、より重要なことですが、この事実を知ることと感情的、個人的な問題として、この事実を意識し受け入れることは、別問題であるからです。
しかし、これには、長い時間を要するでしょうから、時には、人一人の生涯では足りないかもしれません。だからこそ歴史上、様々な文化において、人々に理解させるための、色々な教えが見られるのです。これらの教えは、人間が死と親しくならねばならぬということを予期して生まれたのです。
13世紀末から14世紀初頭に至る中世ヨーロッパでは、死の踊り(DANCE MACABRE)が、文学的・ 芸術的な表現の中で広く提示されました。これらは、萬意的な歌や教会のフレスコ画、偶像という形態をとり、そこには、典型的な死への行進が描かれています。その行進では、あらゆる年齢、あらゆる階層の者が、間に骸骨を挟む形で並んでおり、これらが皆、墓に向って進んでいくのです。この種のフレスコ画の一例が、スロヴェニアのハラストヴリエ(HRASTOVLJE)にある、15世紀にその起源を持つ教会に、良い状態で保存され ています。造形的なものであれ、文学的なものであれ、この種の創作の大部分は、中世後期もしくは、17世紀のフランスやドイツで見られたのです。そしてさらに多くの作品が、特に、戦争や伝染病(ペスト)が流布した時、つまり、人々に世俗的な欲望や悲しみの無常さを思い知らせるのに、最も適した時期に作られたのです。
このような無常の経験は、単なる知識以上のものであるべきです。しかし、世代が移り行くにつれ、人間関係に与える好ましい影響は失われ、消えつつさえあります。
少なくともこのことは西洋世界にはあてはまります。というのも、そこでは、無常というテーマが、2つの主 要な理論的枠組をもったてんびんとして、とらえられているからです。そして、このてんびんの片方には、生の終焉ーあらゆる活動が、それが意味を持たないという疑惑に毒されるのですがーそれに対する恐怖が、のっていきます。もう片方には、無常と言う概念に対する純粋な反抗がのっています。その幻想とは意識の全ての力を持って人類は、文明の発達と共に、世代が進みゆくにつれ、最後には死に至るという欠点を克服できるかもしれないと無理やり思い込むということです。
しかし、死自らが、この天秤の上に置かれる場所はありません。つまり、死に対する西洋的見地からすると、 我々は先に述べたような幻想を抱くことがあるかもしれませんが、それを動かし難い出発点だとは、決めつけていないのです。では、それに続くものとして、西洋的な死に対する科学的アプローチを考察、分類してみましょう。この際、前提としてそのテーマを可能なかぎり限定することにはっきりと意識しておく必要があります。と言うのも、このテーマにおける観点の多様性は、しばしば明確さを欠き、混乱をもたらすからです。これらの様々な観点は、 西洋において得られる雑多な情報源に対する見識を深めるため一次的な手助けとして用いることにします。
死に対する理解と理性的な定義 
人類文明の歴史を遡ってみるとき、人の生命の無常が、最初に意識されたのは、いつ頃でしょうか。人類は無 常を知る唯一の動物であるというMalrauxの考えによると、ギルガメッシュの叙事詩の中で、個人の死はさけられないという心に傷を残す認識が言葉で表わされるはるか以前のことかもしれません。又、心の傷を 柔らげ、その傷を負った個人に、少なくとも、死は絶対的なものではないという微かな希望を残そうとする理性的な考察もこの枠組みの中に入れることもできるでしょう。サビエ・ビシャー(Xavier Bichat:1771〜1802)は、「人生とは死に抵抗するための活動の全体である。」と言います。生物学者のアレクシス・カレル(Alexis Carrel)も又、もし老廃物が取り除かれ、十分な栄養が補われれ ば、体細胞は、死なずともすむと指摘していますし、生物学者オーギュスト・ワイズマン(August Weismann)も、独立した個体として生きている細胞は、本質的には不死であると言っています。それ故、死は、根本的には必然ではないけれど、他人と一緒に生存することをのがれ、より高度な存在に順応する1つの方法だと考えることは十分に可能でしょう。生物学者達は、世代から世代へと受け継がれる性殖細胞似ついて語る時には、不死に関してさらに大胆な発言をしています。これは、もちろん、後述される宗教家や生物学者によって議論されるのとは別のものです。
生物学上の発見を通して、生命の中には、不死のものも存在することを示そうとした立場に反して、そのような推測を全く否定する見解も見られます。生物学の先駆者クロード・ベルナール(Claude Bernard:1813〜1878)の「生は死と等しい」という有名な言葉がありますが、それは、生命の力学は、生成、減少、死滅という轍の中に存在するという意味で言われたもの です。ドイツの生物学者ルドルフ・エレンベルグ(Rudolf Ehrenberg)は、生命体の死が避けられないのは、エ ントロピーの法則と類似している。つまり、生から死へと移行した際にも、エネルギーの一部は使われずに残っ ており、それと共に、このエネルギーを補充する物質も保存されているという見解に立っています。死は、単に 不幸な偶然であるというこの意見に反して、ハンス・ゲプセル(Hans Gebser)は「死は我々の中で成長す るものである。」と述べていますが、この立場は、有名なフロイト派の論である「死の本能」(タナトス)と全 く一致します。タナトスは、それよりさらに有名な「リビドー」「生の本能」と対照されます。
フロイトの第一次世界大戦中の経験と認識から生まれた「死の本能」(TODESTRIEB)という概念は、1920年に 「快感原理の彼岸」という彼の著作の中で初めて示されました。この研究の中で、彼は死の本能について明確に述べています。そして、それは破壊本能と同一視されています。
1.神経症の普通の心理過程において繰り返される脅迫行為が観察される時。
2.戦時中彼が目撃した攻撃性が後に明示されること
3.生あるものは皆、内的原因から死に至り、無機物(INORGANIC)へ戻り、そして、全人生の目的は死であるという事実
「エゴとイド」(1923)の研究に於いて、フロイトは、彼の初期の発見をまとめています。そこで彼は2種類の欲動を区別する必要があると言っています。
第一のグループはエロスを中心とした性欲動です。これは、抑制のない性欲動だけでなく、自己保存欲動も含まれます。第二のグループは、理論的にも、生物学的観察としても認められた、死の欲動です。死の目的は、有機体を無機の状態に戻すことであり、一方で、エロスは、生命体をより複雑な構造物へと作り変えようと努力します。そして、これにより、それ自身の構造も保存するのです。つまり、生命は、二つの欲求の妥協の産物なのです。次に続く考察に於いて、フロイトは原攻撃性とリビドー、エロス、タナトスは、密接に結びついており、 その発達段階においてすら、常に、交互して混ざり合い、交錯しているという結論に達っします。
フロイト自身、この説により、自分がショーペンハウエルに非常に近いことを気付きました。というのも、シ ョーペンハウエルも又、「死は真の継続であり、そのために人生の目的でもある。」という結論に達していたか らです。フロイトは、この考えをさらに発達させ、「我々の人生を愉快な程、矛盾に満ちたものにしているのは、 二つの完全に対立する欲求が、常に交錯している事実である。一つは生という幻想の肉体へ向い、もう一つは死という肉体の分裂へと向う。」と考えました。
医学会からの批評にもかかわらず、フロイトは、精神分析を発展させる段階において、19世紀後半の実証主義科学による束縛を受けていました。そういうわけで、リビドーやエロスやタナトスの生物学的根拠について大いに思い悩んだのでした。これは、“MORTIDO”(ダニエル・カポン Daniel Cappon)や“DESTR UDO”(エドワルド・ワイス Eduardo Weiss)といった言葉を使った、フロイトの後継者には、あまり見られないことでした。
ストア派のセネカは”LIBIDO MORIENDI”について語るとき、死の欲動というものを正確に把握していました。以下はレオナルド・ダ・ビンチの言葉です。
「見よ!自分自身の国の中に帰る希望と欲望を。すなわち、蛾が明りへ向うように、人間が原始の混沌へ戻る 希望と欲望を。人間は永遠の願いを胸に、新しい季節を、年月を、心待ちにしている。自分の待ち望むものが、 なかなかやってこないと考えながら、自分が待ち望むものが、自分自身の破壊であることに気付きもせずに。だ がこの願望が、その真髄において、元素の息吹に他ならない。そしてそれは、自らが人間の肉体に閉じ込められているのに気付いて、常に元いた源へ帰りたがっているのである。
そして、私が諸君に知ってもらいたいのは、これと同じ願望が、その真髄において自然に本来備わっており、 人間はその世界の一例なのであるということだ。」  この方向にそってその考えを一歩進めたものが、ジュリエット・ブートニエ(Juliette Boutonier)の 「魂の奥底では、無への欲望が隠されている。」というものです。この考察とそれが与えた影響については、後述したいと思います。
一般に、この種の考えは、その問題を超越したい、そうすることが適切だと思うからですが、この疑問に影響 を受けずにいたいと努める達観した人の特色であります。
子供たちは、9・10歳になるまでは、死という概念を把握していません。最初に述べたように、身近な者の死と遭遇することは、しばしば、心に傷を残す経験になってしまいます。又、時には若者がこの現象を理解し受け入れるのには、長い年月が必要とされるのです。
回避・逃避・抑圧・無関心への過程
人が、死を理解して成長する、つまり、自分のまわりで、実際に死を経験する時、彼らは、効果的に「重荷を背負わされている」のです。死は彼らに、精神的に深い打撃を与えるのです。
快楽主義哲学者のルクレチウス・カルス(Lucretius Carus)は、この自然の法則に直面した人間の矛盾 した反応を確認しました。つまり、以前に死に対する深い洞察を得ていなければ、深いショックを受け、「死を恐れるあまり、極度の厭世主義に陥ったり、悲しみのあまり、死が苦痛の源であること忘れて、自分自身の死に一条の光を見出したりする」のです。
この死という避けられることの出来ない事実に直面すると、人は、軽度のヒステリックな退行現象から、より複雑な、回避、逃避、理由づけ、抑制に至る様々な防御手段を見出します。
友人や知人と悩みごとについて話す時でさえ自分の病気や悩みについて話すけれど、死に関する話題は避けようとします。「何か別の話をしようよ」と言って。
この場の雰囲気は、レブ・ニコライエヴィッチ・トルストイ(Lev Nikolayevitch Tolstoy)の晩年の品である、「イヴァン・イリッチの死」の中で、非常にうまく描写されています。その中で、彼は、19世紀末のロシアのブルジョア階級の精神的浅簿さを描いています。
この小説の最も重要な点がどこにあるかを決めるのは難しいのですが、私自身は、その時代の彼らの実生活が、いかに実体のないものかという点だと思います。
小説の主人公は、当時の支配的な価値観に従い、ある程度の社会的地位、世間の評判、安定した収入を手に入れるため、自分の将来の経歴を周到に用意して官僚機構の一歯車にしかすぎない仕事につきます。これを中心と して、様々なドラマが展開されます。
配偶者選び、アパートさがし、コネを利用して階級内でより好ましい仕事を見つけることから、社交パーティーの準備に至るまで、すべてのことが、思いつきでなく、それがもたらすであろう効果や、一般的な地位やブルジョア社会における個人的評判が上がることを計算し尽くした上で行なわれるのです。このため、彼の家族や親戚までもが、この練り上げられた計画に従わなければなりません。しかし、あまりに利己的な計画であるため、 家族も親戚も、もはや協力出来なくなります。
そして、信じられない程うまく出世の階段を登っている時、病気が突然彼を襲います。イヴァンにできることは、もはや、死に至るおごそかな道のりを、苦しみながら受け入れることだけなのです。親類縁者だけでなく、仕事仲間からも見はなされ、彼はどんどん孤立していきます。精神的にもぼんやりし、孤独な彼が、死ぬ直前に、 一条の光を見出します。もちろんそれは、彼に無私に仕える召使いのいたことです。その召使いは、彼にとっていつも純粋な存在であり、彼をいつでも自然と触れさせていました。それ故、彼は、人間と関係を持つ能力を失 うことは決してありませんでした。他人の為に私利私欲を捨てさせることは、最後になってイヴァンが、一人で見つけ出した可能性でしたが、それを実行する時間は、彼には残されていませんでした。
ほぼ100年後、いわゆる先進国の中産階級において、欲望や行動という外的基準と、イメージを保つことに支 配されてしまうことは、トルストイの時代よりも、ずっと脅迫的であったに違いありません。物質的渇望や、家庭もしくは社会での人間関係の不誠実さは、様々な自己破壊的行為の原因となるでしょう。避けられないものとしての死は、普通、近代のブルジョア家庭では、話題として取り上げられません。そして神々は、苦悩の時にだけ思い出され、祈りをささげられるのです。その時ですら、それは死の到来を先にのばす願いをかなえてもらう交換条件として行なわれるのです。
歴史を振り帰ってみると、紀元前2000年頃、今日のダマスカスあたりで、旧訳聖書のヨブ記の中にある次のような話が生まれました。「ウツの地にヨブという名の人があった。その人となりは全く、かつ正しく、神を 恐れ、悪に遠ざかった。彼には男の子7人と女の子3人があり、その家畜は羊7000頭、らくだ3000頭、牛500匹、 雌ろば500頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者でした。」
神はヨブを憐に思いましたが、邪悪なサタンは、神を説得して、もう一度ヨブに試練を与えました。サタンは、ヨブが与えられた財産と、人々から得ている良い評判を守るために、正直であったり、正しいことをするのだと考えたのです。神はサタンの示唆に従いました。
災難が再びヨブを襲いました。まずカルディア人達が家畜を全て盗みました。次に、雷が馬丁を皆殺しにしてしまいました。嵐が家を壊し、中で遊んでいた子供たちは、みんな死んでしまいました。しかしながら、これ程の不幸もヨブの神に対する気持を弱めることはありませんでした。
「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った。「わたしは、裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな。」すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向って愚かなことを言わなかった。」
サタンはこの試練の結果にも満足しませんでした。彼は神を説き伏せて、ヨブの肉体にも打撃を与えました。ヨブは体中に癩病をわずらい、家にいられなくなって、ゴミ溜で寝るようになりました。彼の妻ですら、ヨブを嘲笑いました。
「しかしヨブは彼女に言った。「あなたの語ることは愚かな女の語ることと同じだ。われわれは 神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」」この間ヨブは、神を冒涜するような言葉は一言も発っしませんでした。
友人たちがまた、次のようなことを言いました。「ヨブは非常に重い罪を背負っているにちがいない」だから神にこれ程の罰を与えられるのだと。ヨブが自分の罪が何なのか神に教えて下さいと頼んだ時、彼らは、ヨブを叱って言いました。「神を畏怖することは賢明なことであり、そうしておけば、災を免れるだろう」と。しかしヨブは自分が生まれたことを後悔するほどの苦しみを味わいました。
神は、遂にその全貌の姿をヨブの前に現しました。
「主はヨブの終りをはじめよりも多く恵まれた。彼は羊14000頭、らくだ6000頭、牛1000くびき、雌ろば1000頭をもった。 また彼は男の子7人、女の子3人をもった。彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名付け、第三をケレン・ハップクと名付けた。全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは140年生きながらえて、その子とその孫と4代までを見た。ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」
では、ヨブの神が与えてくれる教訓とは、いったい何なのかを考えてみましょう。神とサタンが協力することは、永続的な慣例なのでしょうか。神は全能なのにそれは必要なのでしょうか。神は、その信奉者に、物質的な報酬を与えるべきなのでしょうか。ヨブにっとて、その忠誠の報酬として、何千匹ものらくだ、牛、羊、たくさんの子供、召し使いを得、それらに囲まれて、生死に関する問題を未解決のまま、さらに140年生長らえることが、真の幸福といえるのでしょうか。これは祝福というよりも、むしろある種の罰ではないでしょうか。
この世界の多くの人間が、このように無知で錯覚に満ちた祝福のもとに生きています。
この祝福と同じものとして、生とこの世界に対する愛着をも含めなければなりません。ウイリアム・シャーロック(William Sherlock)が彼の研究「死に関する実用的講義」の中で述べたように「生への愛着は、この世界への傾倒と情熱をひどく刺激し、人間をこの世界から去り難くする。特にその人物が幸福で成功しているなら。」我々と同時代人であるアルベール・カミユ(Albert Camus)も同様のことを言いました。
「私の死に対する恐怖の全ては、実際、生への強烈な嫉妬心に根差している。私は生き続けるもの、肉体と血を持ち、花の 香をかぎ、女性に恋こがれることのできる者に嫉妬する。」
このような立場は、ブロムベルグ(Bromberg)とシルダー(Schilder)の論述の根となるものです。「心理学的に、我々は決して死なない。生への意志が、それに反する実体の経験を無効にし、越えてしまう。死への道をふさぐことは決して出来ないので、我々は心的防御規制を動員します。パスカル(Blaise Pascal)は「パンセ」の章でこう書き記しています。「気をまぎらわすこと。人間は、死と不幸と無知とを癒すことが出来なかったので、幸福になるために、それらの事について考えないことにした。」と書き記していますが、これは、ヤコブスの次の考え方と似ています。「おそらく、近代精神の最も顕著な特徴は、実生活影響を与えるものとして、死を考えることを実際にしなくなってしまっていることである。」
しかしながら、もし人が、外的要因により死を事実として、受け入れなければならない場合、その理由づけは、 子供のそれとかわらぬ程、幼稚で、死は生命の自然な終焉ではなく、むしろ、暴力的なできごとや事故の結果であると主張するのです。死は身を滅ぼすということを考えないほうが少し簡単です。あるいは、むしろ、死は他人によってのみ体感される現象であり、自分には決っしてやって来ないと信じているのです。さらにつけ加えると、現代社会で、人々が死について話さない唯一の理由は、それを意識から追い出したいからであると考えるのは間違っています。黙っているにはたくさんの理由があるのです。ある年齢までは、死について語らないという暗黙の了解は共通してみられるものですが、自分自身もこの自然の法則を免れないと理解し、受け入れられるかどうかは、死の体験がどれほど強烈であったか、ふつうは、死者が本人にどれ程近い存在であったかによります。本人がノイローゼに陥りやすい気質であるなら、この場合、そのことも、死を自然に理解することを妨げます。環境も又、影響力を持っています。田舎の環境のほうが都会のそれよりも、利点を持っているのは、知られています。この理由の一つは、都会で死ぬ人々は、大抵、病院の世話になるからで、病院のもつ専門的雰囲気は、普通は中立的で冷淡でさえあるからです。というのも、大方の意見によると、医学に従事するものが、患者に対して深い感情を持つと、仕事の妨げになると考えられているからです。アメリカの葬儀屋が大もうけしているのは、彼らがアメリカ社会から、死の意識を追い出しているからか、それとも、何か社会の単純な力が、この仕事の影響力を持って押し上げているからなのか、断言はできません。
葬儀屋が死者に施す死化粧は家族のイメージを守るものとして益々必要となり、その技術も進むにつれ、家族にとって大きな出費、即ち、葬儀屋にとっての大きな収入につながっていきます。それは一つの要素が他の要素を支え刺激する輪のようなものかもしれません。ベルガーとリーバン(Berger, Lieban)はこの合衆国での現象を調査して次の様にコメントをしています。「アメリカ人の価値体系は、楽観的で、実用的な上昇思考であり、そこでは、悲劇的なものに対する居場所はもはや残されていない。アメリカ人は、人生の明るい面、昼の側の価値観に従って生きており、夜の側の価値観はほとんど持っていない。」そして、そのような価値体系は、死は意味のない出来事であるという結論にしかたどりつかないと結んでいます。死は最終的な悲劇であり、楽観主義者とその行動には、意味を持ちません。死は、また最終的な孤独であり、高尚で、取り返しのつかない、反社会的な事実なのです。この立場は、死という事実を心理的に否定することを強いるものであり、可能な限り大きなカモフラージュを必要とします。
マックス・ウエバー(Max Weber)もまたこの死(AUSKLAMMERUNG)を現代人の経験から消し去る現象について述べています。「もし死が社会の優勢な価値観と合わない場合、つまり死が社会秩序の安定を保つ考えに挑むものであるなら、社会はこれを破壊分子としてできるかぎり抹殺しなければならないし又、他に手がなければ、カモフラージュしなければならない。」ファーバー(Ferber)はこのプロセスを公の領域からメメンド・モリ、死の記憶をしめだすことであると書いています。それは本質的には、ハイデッガーの下のような発見と同じものです。
「日常生活を支配しているのは、死をかたくなに、かくし、遠ざけることである、それ故、事件としての死は、人々を動揺させるべきでない。人は、他者が死ぬ際、ある種の社会的不便さを、認めることができるだろう。」もし、社会が不謹慎だと思わなければ、死について考えることすら臆病だということになります。
カゼヌーブは、より強い口調で皮肉的に、この社会的立場を描いています。
「この死という事実は、人間 の社会から何か安定したものを作ろうとする試みにおいて、人間の生存法則に対する最悪の脅威となる。もし、我々が、死や恐れのない、不変で安定した秩序のある人生を理想とするならそれは、救い難い、避けられない、失敗である。」
第二の局面 >
列子は答えとなるか
「死が近づいてくるとき、バクタはほほえみながらそれを受け入れるだろう。みなさんが私の所へきてくれて 光栄に思います。みなさんを歓迎します」
「生の敷居をまたいで はじめて この世を訪れたとき、わたしは なにも知らなかった。真夜中の森の一つの蕾のように、わたしを この広大な神秘の懐へと花咲かせてくれたのは どんな力であったのか!
朝になって 光を仰ぎ見たとき、たちまち わたしは気がついたーわたしは よそものとして この世にきた のではないことをー 名もなく形もない不思議なかたが わたしの母の姿となって その腕にわたしを抱き上げてくれたことを。
同じように、死してもまた、同じ未知なるかたが 古いなじみのように わたしの前に姿を現すことだろう。そしてわたしは この生を愛する故に 死をもまた愛するだろうことを知っている。
幼な児は 母に右の乳房から引き離されると、泣き叫ぶが、次の瞬間 ひだりの乳房をふくませてもらって  安らぎを見いだす。」
ヴィヴェカナンダやタゴールのように、西洋人は、悟りをひらいた人々の示唆に富むインスピレーションに惹 かれて、東洋から、死と生と一緒に平穏でいるディレンマを最終的に解いてくれる言葉を、得たいと望んでいます。それは、この、見るからに陰鬱で、密封された袋小路からのぬけ道を示してくれるかもしれません。
列子は、紀元前4世紀に生きていたとされる人物ですが、このように述べています
「孟孫陽が楊先生に向かってたずねた。
「今ここに一人のひとがいて、命を尊び体を大切にして、不死をこいねがうとしたら、それはどんなものでしょ うか。」
すると先生はこたえられた。
「道理として、人間には不死などということは、ありえないのだ。」孟孫陽がい った。「では、いつまでも生きていたいとこいねがうとしたら、どんなものでしょうか。」
先生はこたえられた。
「道理として、いつまでも生きられるということは、ありえないのだ。人間の命は、いくら貴んだからといって、いつまでも生きられるものではなく、この体は、いくら大切にしたからとて、丈夫になれるものではない。それだけではない、いつまでも長生きをして、いったい何をするつもりなのだ。およそ人 間の感情の好ききらいは、、昔も今となんらかわらず、体の安全さ危なさも昔と今となんらかわらない。また浮世の俗事の苦しさ楽しさなど昔も今となんらかわらず、世の中の変化も治乱も昔と今となんらかわりはない。これらはみな今までに、あるいは耳に聞きあるいは目の当たりに見て、実際に経験してきたことなのだ。百年の寿命でさえも、長すぎて飽き飽きしているのに、ましていつまでも生きながらえて苦しむことなど、とてもとても 耐えきれるものではない。」
これを聞いて孟孫陽がいった。
「もしそうだとしますと、いっそのこと早くしんだほうが、いつまでもいきて いるよりもましだということになるでしょう。そうなると、白羽の中に飛びこみ、熱湯や猛火の中に入って自殺すれば、早く目的がかなえられるでしょうよ。」
すると先生はこういってさとされた。
「いや、そうじゃない。すでに生まれたからには、とやかく余計なことをせず、なりゆきに任せ、自分のやりたいことを存分にやりつくして、静かに死のおとずれを待つことだ。いよいよ死がおとずれてきたら、とやかくせずになりゆきに任せ、死に行くさきを見きわめて素直に死んでゆくことだ。全てとやかく余計なことをせず、あくまでも自然の成り行きに任せてゆく。そうすれば、死の訪れがはやいか遅いかの違いなど、全く問題にはならないのだ。」」
実際の処、孟孫陽が師の楊朱から受け取った教えというのは、袋小路にはいり込んでしまった西洋人に、完璧 に当てはまるように思えます。師は、第一に、不死に関するすべての夢を、大変はっきりとした態度で、拭い去っています。不死への願いは、今でも大勢の人々のなかに生きているのです。つまり、今日では、不死の概念は、魂の不死に関してなんら言及しない生物学者によって再生産された、より幼稚な形を取っています。それは、この世俗にまみれた「自我」の一種の延命行為として見られるのです。そしてまた、楊朱自身も、不死を、少なく とも長寿と交換したいと思っているような輩には、決して心を動かされることはなかったのです。しかし、一体誰が孟孫陽を非難できるというのでしょうか。ウパニシャッド哲学を基礎においたショーペンハウアーでさえ、 百才の寿命を夢見たと思われているのですから。師は、老年期の浮世の生活から、どんな新しい楽しみも期 待すべきではないといって、孟の望みを打ち砕きました。もしこの対話が今日なされたとしたら、延命に反対する議論は、医学の分野からでさえ起こったでしょう。というのも、医学が、その最高の治療手段を老人に適用するときには、たいてい、生命の延長というよりは、死のプロセスを引き延ばす、といった結果に陥るからです。最後に、師は、死の不安の解決手段、あるいは死そのものの解決手段としての自殺をも拒絶しています。ルクレチウスのパラドックスについては、第一の局面で既に述べました。
しかしながら、この賢明なる列子の教えには、結末がないまま終わっています。孟孫陽が、このセラピー的な対話に満足したのか、とか、彼の魂が、師の教えを自分のものにするのにふさわしい力を持っていたのか、といったことは、私たちには示されていません。人間は、いったいどうすれば自分の生と死が、「ささいな出来事」 になり、そうして、心を惑わされることなしに、自分の行動と消滅とを観察できるような境地に達することが出来るのでしょうか。そのような境地に達してはじめて、西洋人も、しばしばアウトサイダーや異端者のレッテルが貼られている、ある種の西洋の思想家や神秘家達によって考え出された風変わりな哲学的幻想よりは、東洋の思想によって豊かになるほうが簡単だ、ということを納得するのでしょう。
私たちは、列子や、ヴィヴィカナンダや、タゴールの持っていた、この説得力のある智恵が、東洋において、 人々の日常経験や振る舞いの中にどれ程浸透していたのか、問うて見ることが出来ます。哲学的タオイズム(道家)は、紀元前4、5世紀に出現したものですが、詳しくはのちにのべるとして、まずは、宗教的タオイズム (道教)についてみる必要があります。道教はその基本的な考え方を列子、荘子、老子から得ていますが、紀元前2、3世紀のころから、全く異なった方向に向かい始めました。儀式のささいな側面がますます強調されてい き、老子を、神であり、世界の創造主であるとみることによって、宗教的タオイズムは、その展開の源となった貴重な哲学的エッセンスを、結局は曇らせてしまったのです。道士達は、かなり無分別に信者を大勢集め、新しい宗教的共同体を作り上げました。宗教的タオイズムの方針の中心にあるのは、生命の錬金術を行うための薬(仙薬・金丹)を探し求め、延命のための身心にわたる実践を行い、さらに、できうれば不死に達することでした。道教へ改宗するにあたっては、こういったことはもちろん大変魅力的な誘惑です。古代にあった様々な民間の信仰や実践を、原初の、呪術的な時代から部分的によみがえらせたパンフレットが、それに続く時代には作られていきました。これらの小冊子の数は、最初の刺激を与えた天才達の元々の仕事をはるかに上回りました。
もし、宗教的タオイズムというものが、生と死との意味と目的についての、全く基本的な人間の問いに、何らかの回答を与えてくれるものなのかと検討してみるならば、それは、西洋の科学と文明、さらに、教会の態度に傾いていることがわかるでしょう。彼らの非主流的な活動は、無常の問題に精神的に直面したときに、個人に光を与えてくれるかもしれない、ほんのわずかだが貴重なタオイズムの残りかすにすぎないのです。
警告としての地獄 
もう一度、列子、ヴィヴェカナンダ、タゴールといった人々の言葉を考えてみましょう。そうすれば、彼らが生と死とについて語るとき、その言葉にはどんな価値観も含まれていないことに気がつくでしょう。
人間の実存にたいする、そのような賢明で禁欲主義的な態度は、東洋と、東洋の人々の一般的な性質であるというわけにはおそらくいかないでしょう。
一般的にいって、西洋人が、生命の方に魅力を感じ、死を拒絶すること、そして、彼らの根源的な好みが、その論理的帰結をもたらしたことは事実です。そして私たちには、東洋における、生への執着は、西洋においてほど脅迫的ではなく、過敏な意味を持っていない、という印象があります。
しかし、東洋においてさえ、人間社会には、生への執着によってひきおこされた自己中心的なゆがみに対して釣合を取るためのなにかが必要であると感じられていました。
それらの手段の中でも、とりわけ地獄のイメージが、その役割を果たしています。ヨーロッパでは、仏教の伝統における地獄の概念は、梅原猛教授の議論によって知られています。
私たちは、キリスト教における地獄の観念に関するイメージをダンテの神曲から作ることは出来ません。というのは、ダンテの神曲は、ギリシアーラテンの古典やルネサンス時代から実在の、または伝説上の人物を借りてきて、その作品に登場させているのです。このすばらしい文学作品は、普通の人々を道徳的・倫理的に訓育する ための道具として使われたわけではないのです。西洋の教会にとっては、次のような地獄の定義がいまだに意味を持っています。
「地獄とは空間のない場所であり、そこでは、罪人達は神からの隔たりを経験せねばなならない。罪人達は、 罪にとらわれたために、彼らに残されたものといえば、自分の生命は失われ、無駄になったのであり、後はただ苦痛のみが残されているのだ、という認識を受け入れることだけなのだ。」 この定義は、全く抽象的な言い方ですが、ひとびとの不安を引き起こす力があります。
キリスト教の地獄には、全くの絶望感しかないのにくらべて、仏教の地獄は、完全に閉じこめられて、出口がない、というわけではありません。
メメント・モリ
日本には、西洋における中世のフレスコ画に相当するものや、人間が死すべき存在でしかないということを思い出させる種種の宗教的パンフレットがあります。日本の図像は、西洋とは形式においても、その背後にある観念においても少し異なっています。人間が、死と無常を宣告された存在なのだ、ということが、これらの寺院に ある図像に示されています。それらの図像は、死から、その最後の崩壊に至るまで、人間の肉体が腐敗するすべての過程を示しています。信者達は、これらの絵の引き起こす嫌悪観にたいして、ある形で反応することを期待されるわけです。
其処に描かれた過程とは、こういったものです。土の上に置かれてから1、2日して、その肉体は、大変醜い形 に膨らんでいきます。肉体は、青黒く変色し、出来物が、肌の上に現れて、血と膿が其処からにじみ出します。鳥や獣達が、この体を食べ始め、喰い残した部分は、無数の虫の餌食となります。まもなく、残りかす以外はなにもなくなってしまい、それが最後には土に還っていくのです。
滋賀には、この死の過程を描いた六道絵の中でも、とくに貴重な絵があります。それは小野小町の絵で、 内容をよく表しています。この著名な美人は生前多くの男性を魅了する力を持っていたのですが、その肉体が腐っていく姿を描き出す事によって、女性の魅力にとりつかれた男達にとっての治療、一種の薬といったものになりました。
「空」
再び列子と、孟孫陽の対話へと、話を戻しましょう。孟孫陽は、明確な答えを必死に求めていました。私たちは、人生にもはやなんの見通しもないからといって、自殺という短絡的なやりかたを取ることに、師が、どのように反対したのか、見てみることにしましょう。これこそが、セネカが、100年のちに、弟子達に教えたことなのです。自殺の代わりに、彼は生と死が、大したことではないとする荘子の理解と近いものをもっています。
「その生きているときには、水の流れに浮かぶように運命のままに身をゆだね、死のおとずれを受けたときには、ちょうど休息するのと同じような静かな境地にはいる。思慮することもなく、あらかじめことをはかることもなく、知恵の光がありながらも、これを輝かすことがなく、心に誠実さがありながらも、しいてこれを守ろう とすることもない。
その眠っているときは夢を見ることもなく、そのさめているときは心をわずらわす憂いもない。その精神は執着がないために純粋であり、その心は活動によって疲れることがない。その心境は虚無であり、欲望にわずらわされることがないために、天道自然の徳に合致するのである。」
「人が生きているということは、生命を構成している気が集合しているということである。気が集合すれば生となるが、離散すれば死となる。もしこのように、生と死が一気の集散にすぎず、同類のものであるとするならば、生死について憂える必要が、どこにあるであろうか。」
生と死が、とるにたりないものとなる境地に達して、この両者を落ちついた気持ちで眺めるためには、私たち は「空」なるものに飛び込む必要があるのです。この考えは、他の場所でも見られます。道士たちの言葉や、 仏教においては、「空」は、直接には「無」にかかわる問答とは結びついていませんが、そのかわり、その議論 は、「道」「無」「真理」の探求、生と死の意味の周辺にあるのです。
これら全ての探求の始めには、「私自身」という固定した「自我」の幻影がいつまでもつきまとい、それが障 害物となっているように見えますこの「自我」の幻影のまわりに、現象を分類する体系が組み上げられていき、 人々の物事に対する価値観をステレオタイプなものにします。
この力学に気付いていた先師達は、この袋小路を抜け出ようとするときに、「無」や「空」のイメージに固執 してはならないと警告しています。このテーマを、論理的に不可能なものとしては拒否しなかった東洋においてさえ、この境地に達するのは容易ではないのです。東洋では、「空」の概念が、西洋思想の基本的原理と両立しないからといって軽蔑されることはありません。
東洋においては、類似した洞察を生み出した個人的な経験についての記録はたくさんあります。しかし、西洋では、そういった真理の探究は本流ではなかったため、そのような記録はずっと希です。西洋的な科学及び宗教におけるそういった試みが、現代の日本の哲学者たち、例えば西田幾太郎や武内義範などの人々によって試みられてきたのはおもしろいことです。此の意味では、日本は西欧中世の神秘思想に格別の興味を見いだしていたのです。これらの思想の中でも、彼らはマイスター・エックハルトにもっとも親近感を感じていました。
マイスター・エックハルトの思想は、生前はカトリック教会から大して評価されませんでした。今日では、私たちはエックハルトがさがしていたものは、西田が「純粋経験」として定式化した物だということが理解できます。しかし、時代と環境が、エックハルトの言葉を受け入れることが出来るほどには熟していなかったのです。
西田はこのように述べています。「それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験したとき、未だ主もなく客もない。知識とその対象とが全く合一している。これが経験の芳醇なるものである。」
鈴木はこれについて次ぎのように述べています
「西洋人は、一般的に言って、東洋の考え方を、現実や、存在の問題を取り扱う知的道具としては、十分ではないと見下している。しかしながら、西洋人は、これらの問題を解くのは、知性に限る物ではなく、東洋が、此の問題をつかむ方法を効果的に、満足のいく形で見いだしてきたことを無視している。
西洋の哲学者たちが、純粋経験や、根源的な経験主義や、先験的統覚や、「今・ここ」に対する直観について述べてきたのは本当である。しかし、これらの観念は、知的な分析と抽象の産物にすぎない。東洋では、「無」や「空」や「自己矛盾の同一性」と言った物は、分析や抽象とはなんの関係もない。それは、個人的に、身を持って経験する物なのだ。言い替えれば、西洋は二元論的な世界から知的に出発し、一方東洋のほうでは、「空」の大地にしっかりと足をとどめているのだが、これこそは、具体的な実存主義の世界であり、抽象の論理的な枠組みではないのだ。」
この深刻な違いが、東洋と西洋で見られる無常という問題への全く異なった接近の仕方の基礎なのです。  
 
京の雪能の雪

 

われこの程は信濃の国に候ひしが 余りに雪深くなり候程に まづこの度は鎌倉に上り、
春になり修行に出でばやと思ひ候 それから道行きになります―
信濃なる、浅間の嶽(だけ)に立つ煙、浅間の嶽(だけ)に立つ煙、
遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の、大井山(おおいやま)捨つる
云々、やっと上野(こおずけ)の国の佐野の渡りに着きます。しかし、皮肉なことに、信濃の雪を逃げて来たのに、上野でも酷い雪降りに会ってしまいます。
あら笑止や。また雪の降り来りて候。
この所に宿を借らばやと思ひ候。
宿の主人がちょっと出かけていますから、奥さんがワキに暫く外で待ってもらわなければならないのですが、そのうちにシテの常世が独り言を言い言い戻って来ます。
ああ降ったる雪かな。
いかに世にある人の面白う候らん。
「謡曲大観」 の編集者佐成謙太郎の現代語訳に依りますと、この2行は 「おお、酷い雪だ。世に栄えている人は、この大雪の降るにつけても、どんなにか面白く眺めていることであろう」 と書き直していますが、雪の好きなものとして、ちょっと違う読み方をしたいと思います。「ああ降ったる雪かな」 という言葉はもっと懐かしい気持ちで発せられているのではないでしょうか。自分が若くて、武士として世の中に活躍していて雪が楽しめる余裕のあったころを思い起こして、雪を眺めているとしたいのです。続きの数行を読んでみるとそういう心持ちがこもっていると思います。
それ雪は鵝毛(がもう) (鵞鳥のはね) に似て飛んで散乱し、人は鶴■(かくしょう) (つるのはね) を着て立って徘徊すといヘり。
されば今降る雪も、もと見し雪にかはらねども、われは鶴■(しょう)を着て立って徘徊すべき袂も朽ちて袖せばき。
細布衣(ほそぬのごろも)陸奥(みちのく)の けふの寒さを如何にせん。あら面白からずの雪の日やな。
凌ぎにくい冬ではあるかも知れないですが、見る分には、大変美しいです。どれだけ降っているかは常世にやっと会えたワキの言葉を聞いても分かります―
未(いま)だ日は高く候へども、余りの大雪にて前後を忘(ぼう)じて候程に 一夜のお宿を御(おん)貸し候へ。
佐成の訳注によると、「前後を忘ぼうじて」 は 「どうすればよいか、処置に苦しむ」 という意味ですが、もうちょっと文字通りに読みますと、前と後ろまで忘れるほど降っているとなります。とにかく、雪が沢山降っています。
それにもかかわらず、シテは、能ではほとんど決まっているように、自分の家が余りにもうらぶれているので、ワキを上がらせないで、次の町に行くように言います。「ああつまらない。頼み甲斐のない人を待っていたものだ」 とぶつぶつ言いながら、ワキは雪に姿を消します。
お坊さんを追い出したのが大間違いだったと妻から諭されて、常世は追いかけるつもりで家を出ます。旅僧の後ろ姿が見えた時、常世は―
「なうなう旅人お宿参らせうなう」 と呼びかけます。
しかし、ワキには聞こえないらしい―    
余りの大雪に申す事も聞こえぬげに候。
痛はしの御(おん)有様やな。
もと降る雪に道を忘れ。
今降る雪に行き方(がた)を失ひ一所(ひとところ)に佇みて。
袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ景色。
古歌の心に似たるぞや。
「駒とめて、袖うち払ふかげもなし、佐野のわたりの雪の夕暮。」
これで、能の中の雪のイメージが新古今集の中の雪のイメージと重なって一段と詩的に美しくなっていきます。雪があんまり好きでなくても、こういう、降る雪でいっぱいの謡曲を読むと、頭の中で雪が降らないと、却ておかしい位じゃないでしょうか。外国語の日本語で、それも中世の日本語で読むと、大分暇がかかりますので、私の場合、日本の読者と違って頭の中の雪が非常に長い間降りやまないので、そのイメージの効果が幾らか拡大されてしまうのかも知れませんけれども、とにかく鮮やかなイメージが脳裏に焼きつけられて、忘れられない思い出になってしまっています。今になって、14日に降った謡曲の雪の思い出も25日に降った桂坂の雪の思い出も頭脳の中でほぼおなじ次元の所に宿って、ほぼ同じぐらいの現実性を持っているようです。どちらかと言えば、14日の読んだ雪の方が幾らか鮮やかで、リアルじゃないかとも思います。
結論は二つ考えられます―
一つは、ジェイ・ルービンというアメリカ人は気が狂ってしまったので、成るべく早く入院させた方がいいということです。もう一つは、謡曲というものは大変詩的な力を持っていて、人の意識の中に鮮やかなイメージを作ることが出来るということです。それで、最初の結論が正しいということになりますと、ここは皆さんに直ぐ帰っていただいた方がいいということになります。二つ目の結論が正しければ、謡曲は文学だという意味になってしまいます。謡曲が文学だと言えば家に閉じこもって、和歌や小説みたいに読んでそれで全部が分かると、言っているのでは決してありませんけれども、せめて、謡曲には文学的な要素が十分あるという位の事が言えるでしょう。こういう説を唱えるのは私一人ではありません。謡曲を文学として読む学者はそれほど多く居ませんけれども、居ることは居ます。たとえば、平川祐弘という、当時は東京大学の先生だった方が1975年に「謡曲の詩と西洋の詩」という本を書いて、こういうことを言つています―
夏目漱石の 「行人」 に 「景清」 の謡を聞く場面がある。作中の「自分」はここでは漱石の気持ちを語っているものとおもわれるが、
自分はかねてから此の 「景清」 といふ謡に興味をもってゐた。何だか勇ましいやうな惨ましいやうな一種の気分が、盲目の景清の強い言葉遣から、又遥々父を尋ねに日向迄下だる娘の態度から、涙に化して自分の眼を輝かせた場合が、一、二度あった。
漱石は謡や舞の芸術としての 「景清」 だけでなく、文学としての 「景清」、詩としての 「景清」 にも強く惹かれていた。そのような漱石の関心の持ち方が、世間一般の謡の愛好者たちの関心の持ち方とややずれたものであったことは、作中の次のようなエピソードからも察せられる。そのお客たちの謡が滞りなくすんだとき、
兄が、急に赭顔の客に向かって、「さすがに我も平家なり物語申してとか、始めてとかいふ句がありましたが、あのさすがに我も平家なりといふ言葉が大変面白う御座ゐました」と云った。……けれども不幸にして彼の批評は謡の上手下手でなくって、文章の巧拙に属する話だから、相手には殆んど手応がなかった。
西洋でモーツァルト、ワーグナー、ヴェルディなどのファンがオペラヘ興味を寄せる時もほぼ同じことだが、人々は歌手の歌い方や演技の上手下手、オーケストラの出来映えなどは話題にのせるが、リブレットの詩的な価値、その文章の巧拙を話題にのせることはいたって少ない。そしてリブレットの文章の意味内容よく心得ずに外国語でオペラを歌う歌手が多くいるように、謡本の文学的価値や詩的価値を眼中に入れずに謡をうたっている人の数もまたすこぶる多いのである。それだから、漱石の 「行人」 の作中人物が 「さすがに我も平家なりといふ言葉が大変面白う御座ゐました」 という能楽脚本に対する文芸批評を下だした時に、……謡をうたった側の人は、きょとんとしたのであった。
私の場合、能というものが存在するという事実を始めて知らされたのは大学2年の時、日本文学史入門とかいう授業を受けた時でした。もう35年も前になります。どうしてそういう授業を取ったかといいますと、翌年から英文学を専攻しようと思っていましたので、その前に、何か、西洋と違った、東洋文化に触れたいと思い、何でも良いから、一科目を受けようと思っていたからです。たまたま、日本文学入門がその学期にありましたので、謂わば、軽い気持ちで受けることにしました。テキストは、勿論みんな英訳でした。日本語のにの字も知らない人ばかりがその授業を受けていましたので、先生は英語で読ませるより仕方がありませんでした。ですから、私が始めて読んだ謡曲は英語で読みました。ということは文学として読んだということです。実は、割りとつまらない文学として読んだのです。プロットもほとんどありませんでしたし、人物も影の薄いものばかりで、現実性を全く欠いていましたので、何処が良いのかさっぱり分かりませんでした。それでも、分からないままに、なんとなく、気に入りました。「源氏物語」 や 「伊勢物語」 ほどは、好きでもありませんでしたが、何時か、多分、日本語で読めるようになると、読んでみる価値があるかも知れないと思ったほどには、印象が残りました。どうしてまた、その、「日本語で読めるようになると」という考えがあったかと言いますと、先生はテキストに英訳を使っていても、授業の時、日本語の原文を引き合いにして、色々説明してくださいましたので、謡曲でなくても、日本文学を原文で読んでみたいという好奇心が沸いて来たからです。それで、学年が終わると、日本語の教科書を買って、一人で勉強し始めました。それが日本文学にはまり込んでしまうきっかけになったのです。
日本語の本がまがりなりにも読めるようになったのは、その34年後の大学院生時代でしたが、その頃から謡曲の良さがもう少し分かるように成り始めました。衝突やら対立を中心とする西洋劇と違って、人間一般の心にある、一つの希望又は一つの恐怖を鮮やかなイメージに託して表わすポエムだと思うようになりました。それでも、私にとって能はあくまで文学でした。その頃は生徒達に能の生きた舞台を見せたり、謡の音楽を聞かせたりする手段として、カラービデオどころか白黒のフィルムさえアメリカの大学にはありませんでしたから、あるいは無理もない話だったのかも知れません。
漸く日本に初めて来て、能楽堂に頻繁に通うようになったのは、昭和40年の秋からでした。専門は明治文学でしたが、暇の時、謡曲を読んで、謡の稽古も少しして、能の本舞台を楽しめるようになりました。最初は楽しむというよりは、びっくりしたと言ったほうが正しいでしょう。特に、始めて大鼓の掛け声なんか聞いたときは、ぎょっとするほど不気味でした。なるほど、幽霊が出る演劇に相応しい音楽だなあとも思いました。何十回も演能を見た今でもそう思わないでは居られない時もありますが、それはどうでもいいことです。今日、ここで言いたいのは、能を始めて英訳文学として知って、大学院で日本文学として読ませられた私が能を見に行くと、どうしても能を文学として見ないではいられないということです。そして、そういう風に見るのは全然間違っていないと思います。どちらかというと、能を文学として見ないほうが間違っていると思っているほどです。
例えば、話を 「鉢木」 に戻して見ましょう。読むとき雪があんなに激しく降っていたのに京都観世会館に行くと雪が一片も降っていないじゃありませんか。歌舞伎なら、天井裏からおびただしい位の紙の雪をばらまくに違いないけれども、上品で、貴族的な能ではそんな陳腐なことは絶対にしません。といって、一種の妥協として、前場の中ごろあたり、後見が所謂 「雪綿をつけたる鉢の木の作物を正面先に出」します。でも、その時点では、場面はもうすでに屋外から屋内に移って、主人公の常世が普段自分の盆栽を中に置いているか外に置いているか分からなくなるような逆効果があるかも知れません。とにかく、途中で正面先に置いたひょろひょろとした作り物で、信濃の山奥の雪や、上野で道が分からなくなるほどすごい吹雪を暗示することが出来ないでしょう。役者達も、雪の事をぶつぶつ言いながら、厚いコートを着てもいないし、肩に積もった雪を示すために綿も付けていないし、寒いからとぶるぶるふるえないし、手も擦りません。謡う時も声色を普通の能の謡い方と全く変えません。風の吹く音響効果もないし、空が雲で暗くなっていることを示す照明効果もありません。雪と寒さを感じ取らないと、常世の零落の程度が分かりませんが、常世の零落が分からないと、曲の焦点になる、彼の武士としての真心が通じないでしょう。じゃあ、どうして聴衆の人々に雪が降ってると分かるでしょうか。結局、謡曲の言葉でしか方法はありません。と言いますと、桂坂で読んでいても、観世会館で聞いていても、「鉢木」 に出て来る人物の環境やら、状況やらを理解するのには、作者がもともと書いた言葉を文学として経験しなければ能にならないということです。それは謡曲を読む人にとっては非常に都合のいい話です。わざわざ能楽堂へ出かけて行かなくても能の中心が大分楽しめるからです。その意味で能は西洋のドラマ以上に読んで楽しめるものです。しかし、逆に言えば、日本の能楽ほど、劇場の中でも文学として鑑賞しなければならない芝居はあるいはないのではないでしょうか。
「鉢木」 の後場を見ても同じことが言えると思います。後場になると、盆栽を焼いてまでもてなしたお客さんが実は普通の旅僧じゃなくて、1227年から1263年まで実在した鎌倉執権北条時頼こと最明寺時頼が 「旅僧に身をやつして諸国を巡歴して、不正を正し、仁慈を施そうとする主君」 だったということが分かります。常世の忠義を試すつもりで、時頼は 「諸国の軍勢を呼び集めて、」 常世が雪の晩言った通りに、「鎌倉に御事変があったならば …誰よりも先に鎌倉に」 駆けて来るかどうか見たかっただけです。その日に 「関東八ヵ国の大名小名が、思い思いに粧いを凝らして鎌倉入りをする様は」 ―
さぞ見事にて候らん。
白金物(しらがなもの)打つたる糸毛(いとげ)の具足に。
金銀をのべたる太刀刀(たちかたな)。
飼ひに飼(こ)うたる馬に乗り。
乗替(のりがえ)中間(ちゅうげん)きらびやかに。
などなど、じつにおびただしい数の武士が色さまざまの鎧を付けて、時頼の前に集まつている中に不格好な老武者常世が呼び出される−
上り集まる兵(つわもの) きら星(ほし)の如く並(なみ)み居たり。
さて御前(ごぜん)には諸侍。
その外(ほか)数人(すじん)並み居つつ。
目を引き指をさし笑ひあへるその中に 横縫(よこぬひ)の、ちぎれたる 古腹巻きに錆長刀(さびなぎなた)。
やうやうに横たへ。
わるびれたる気色もなく。
参りて御前に畏る。
能舞台には勿論馬を出さないし、大勢の武士を示す意味でワキ最明寺時頼のそばに金糸(きんし)織りの美しい着物を着て刀を持った二人のワキツレを置くに過ぎません。常世の鎧がちぎれていると言われますが、実際に役者が着ている物を見ると、金糸こそは織り込まれていないにしろ立派な能衣装になっています。千切れているところなど少しもありません。言葉の分からない人が舞台だけ見ていても常世が酷い貧乏だとはとても考えません。くどいようですが、「鉢木」 を舞台で見ても文学として理解しないと能としても理解できないと思います。
ご承知のように、能には5種類の曲があります。つまり、神能、武士の幽霊が出る修羅もの、平安文学と関連 のある幽霊が出がちな三番目もの、生きた人間が主に出る4番目ものと、最後に鬼がよく出て来る5番目もの。「鉢木」は現実的な要素の多い4番目ものの中でも特に現実性のある、西洋のドラマに近いものと言えますが、それでも、西洋の芝居と比べても、日本の歌舞伎と比べても、リアリズムからは大分遠いものです。それは何も馬とか軍勢とか雪の降り方とかいうものに限らずに、舞台装置の問題よりも遥かに根本的な次元についても言え ることです。結論から先に言いますと、能は舞台劇よりも、舞台をたまたま利用する、音楽的な構成を持った語りものの一種です。
ちらっと見ると、能は世界のどの国の芝居と同じように俳優を舞台に上がらせて、脚本に書いてある人物になったかのような振舞いをさせているようですが、本当はずいぶん違います。例えば、先引用した雪の場面をもう一度見てみましょう。旅僧を家から追い出したのが間違いだと気がついて常世は追いかけて行って、大雪の中に立っているワキの後ろ姿を見て、こんなことを言います―
今降る雪に行き方(がた)を失ひ一所(ひとところ)に佇みて。
袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ景色。
古歌の心に似たるぞや。
「駒とめて、袖うち払ふかげもなし、佐野のわたりの雪の夕暮。」
続いて、こんなことを言います
かやうに詠みしは大和路や。
それからシテは謡いだす
三輪が崎なる佐野のわたり
そこでシテは舞台の右側に座っている地謡に言葉を譲ります。役者がちゃんと舞台の真ん中に立っているのに、急に黙ってしまって、歌の続きを、芝居の人物でも何でもない、そこにいても居ない振りをしている八人の男に謡って貰う―
これは東路(あずまじ)の。
佐野のわたりの雪の暮れに迷ひ疲れ給はんより。
見苦しく候へど一夜(ひとよ)は泊り給へや。
佐成謙太郎の現代語訳を見ると、こうなっています― 「尤もあの歌を詠まれたのは、大和の国三輪崎の佐野のあたりであり、これは関東の佐野であるが…(といいながら時頼に追い付き) このひどい雪の夕暮れに道を迷ってお疲れになるよりは、まだましでございましょう。ほんとに見苦しい所ですが、私の所で一晩お泊まりください。」  
  結局、地謡は常世に急になってしまったようなことを言うばかりでなく、常世の声で、ワキの時頼に話し掛けるのです。一見、芝居として不条理としか言えないこの手段は能の音楽的構造から見れば不思議でも何でもないものです。序破急の原理に立つ能では、破の二段の終わりに当たるこの節では、地謡がシテに代わって謡わなければ能としてはおかしい位形が決まっています。しかし、それより面白い例があります。
後場で常世が軍勢の集まっている広間に入ろうとすると、こんな独り言をする―      
「いでいで御前に参らん」
―つまり、「さあ、お前に参ろう。」 けれども、能役者が口にする言棄はそこで終わらない。実はこうなっています―
「いでいで御前に参らんと大床(おほゆか)さして見渡せば」
「大床」 というのは、広間という意味ですが、この言葉は能役者の口から出て来ても、常世という人物の口からは出てこない。つまり、能役者は一音の格助詞である「と」 を発音した瞬間から、常世という人物でなくなって、語り手になってしまったのです。「いでいで御前に参らんと大床(おほゆか)さして見渡せば」 云々。
演劇の人物が自分の動作を三人称で描写する手法は西洋劇から見て、呆れたものです。例えば、シェークスピアを見ても分かると思います。ハムレットはオフェリアに対して 「尼寺へ行け」 と言うに違いないですが、絶対 に 「尼寺へ行けと言った」 とは言いません。オセロが愛妻のデスデモーナを絞め殺さないと 「オセロ」と言う悲劇は成り立たないけれどもオセロになった俳優の唇からは 「デスデモーナを絞め殺す」 と言う言葉が聞こえて来ません。
関ヶ原の戦いの頃活躍していたシェークスピアも現代から見るとそんなに写実派の劇作家でもなくて、自分の書いたセリフに有り余るほどの詩的なレトリックを付けていましたけれども、まるで鉄則が存在していたかのように、絶対にそのセリフの中に、ある人物が自分の動作を語る言葉を入れませんでした。そんなことをすれぱ、俳優がその人物になりきってしまった、折角のイリュージョンが吹っ飛んでしまうのではないでしょうか。しかし、もとからそういうイリュージョンを作ろうとしない能では、全然かまいません。むしろ、当たり前のことで しかありません。それから、シテが 「大床さして見渡せば」という言葉を謡ってから、先みたいに黙ってしまっ て、また地謡に続きを謡ってもらいます。今度は、しかし、地謡は先のように常世のことを一人称で謡わないで、能役者が始めた三人称の語りを続けるのです。合わせて、こうなります―
いでいで御前に参らんと       
大床(おほゆか)さして見渡せば      
今度の早打ちに。
今度の早打ちに。
上り集まる兵(つわもの)。
きら星(ほし)の如く並(な)み居たり。
さて御前(ごぜん)には諸侍。云々  
結局、能役者と地謡の役割はほとんど変わりません。両方とも謡曲の言葉を語るためのチームに属しているのです。役者は勿論、舞も舞って観客の目を開く、所謂「開眼(かいげん)」 の役割をも果たしていますが、耳を開く 「開聞(かいもん)」 の機能のおおよそ80%以上は謡曲の言葉が文学として果たしているのではないかと思います。
いや、これは言い過ぎなのかも知れません。能の音楽を無視しているからです。ここでは、日本の能楽と西洋のオペラを比較した、平川教授の言葉を思い出さなければなりません。「リブレットの文章の意味内容をよく心得ずに外国語でオペラを歌う歌手が多くいるように、謡本の文学的価値や詩的価値を眼中に入れずに謡をうたっている人の数もまたすこぶる多いのである。」こういう似たところがありますから、能役者と演劇俳優よりも能役者とオペラの歌手を比較した方がよかったのかも知れません。能が演劇よりもオペラと比べるべきものだとしても、以上、能役者の役割と演劇俳優の役割の違いについて申し上げたことには変わりはないと思います。オペラの歌手は絶対に自分のことを三人称で語ったり歌ったりすることはないし、舞台の大勢が歌っている場合でも、劇の中心人物の代弁者として一人称で歌うこともありません。
我々聴衆として演劇俳優から要求するのは、何よりも脚本のテキストの意味と知的に取り組むことです。シェークスピアのような古典ものの場合でも、口から出る言葉を今の瞬間考え付いたかのように俳優から述べてもらいたいのです。俳優の新鮮な解釈が古い言葉に新しい意味を与えてもらいたいのです。しかしオペラの場合でも能の場合でもそういうことはありません。オペラの歌手にはメロディをなるべく正しく、なるべく美しく歌ってもらいたいのです。言葉の意味が分からなくても、レオンティン・プライスの声またはルチアーノ・パバロッティの声を聞いて涙を流した人の数は少なくないでしょう。却て分からない方がいいと言う人も居る程です。どうしてかというと、言葉の内容が恥ずかしい位ばかばかしい場合が多いからです。
能の言葉にもプロットの展開にもばかばかしいところが全くない訳でもありませんが、言葉が風景や人物の行為を描写しますので、オペラの言葉よりも、よほど重要な役割を果たします。ですから、役者と地謡の言葉をなるべくはっきりと理解するのが大事です。
オペラの歌手にも、能の役者にもメロディをなるべく正しく、なるべく美しく歌ってもらいたいのですが、特に能役者の場合は、500年以上も伝承されて来たスタイルで話したり、謡ったりしてもらいたいです。そのスタイルは日本の中世の美意識に―つまり、仏教的な美意識に基づいて出来上がったものです。そういう美意識は この世の現実性を否定して、むしろ五感では認識しえないものの現実性を高く評価したのです。例えば目や耳で感じ取ることの出来ない、他界の幽霊か、それともそんな超自然主義的なものでなくても、普通の日常生活では経験できない美しさや男らしさや親心や自然界の凄さや幸福や平和や愛を。
能における現実は理想化された現実で、人間の頭の中でしかつかまえられない現実です。役者が舞台ですることごとは、舞台で展開している動作や事件がすベてリアルでないということを初めから終わりまで我々に知らせ続けます。本当の人間はどうしても能役者のようには話さないのです。室町時代にも今もそうでしょう。現代の日本語を能のスタイルで話すと滑稽なばかりです。西洋の俳優のありようは、「僕は本当の人間ですよ。あなたがいつもしゃべっているように僕はここに立つてしゃべっているんですよ」 と暗に聴衆に呼び続けるのにたいして、能役者のありようは 「僕は本当の人間じゃないですよ。僕が今言った舞姫や涼しい森はここにないんですよ」 と、耳を開いて聞いている我々に呼び続けるのです。
梅若さんは、能の演技には強調というものは絶対禁物だと言いました。私は彼の言おうとしていたことが分かるような気がします。つまり役者が動作や声に強調を加えますと、一種の本当らしさがついてくることになると思います。しかし、能でいけないのはその本当らしさ― 謂わば日常性なのです。日常性を極力抑さえた音声とか面を被った顔とか面を被っていない時の表情を抹殺した、所謂「直面(ひためん)」 はすべて舞台の現実性を否定します。その代わりに、我々の想像するイメージの現実性を肯定するのです。ということは、能は大いに文学の力に頼るということです。
 
能における 「草木成仏」

 

カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州のクテネイ(Kootenay)山脈に、「歌う森」 という原生林があり、その森に入った人がその木が歌うように聞こえたことがあります。木の枝に伝わった風の音が起こした、ただの聴覚的な幻覚だったのかも知れませんが、その地方の原住民のインディアンたちにとって、その森に宿っている神々が本当に歌って下さっていると信じています。また、私の住んでいる西海岸のビクトリアあたりの原住民のセーリッシュ(Salish)族にも、似たような信仰や伝説がたくさんあります。冬の暗い、雨の降る日々になると、山から神々が人間の世界に訪れてくると彼らは信じています。神々に取り付かれる、いわば神懸かりのようなもので、人々が踊ったり歌ったりする祭りがあります。その神を迎えるために山で修行をし、身を清めます。そうすると、自然に山から歌が聞こえてくるのです。その歌は、松か杉が伝えたもの、あるいは動物か昆虫が授けた歌だ かも知れません。その歌をいただいた人が村へ帰り、そこの“BigHouse”(みんなが共同で使っている建物) で 授かった歌を歌い、踊りを見せるのです。ビクトリア市内から空港の方へ行く道がその途中で例のセーリッシュ族の居留地を通ります。私は2年前日本へ来る機会があり、その (居留地) を通ったときに道端で冬祭りのための修行をする少女を見ました。年輩の女の人に手を引かれ、編笠やわらじ・脚絆のような姿でした。私は、日本の芸能の原始的な風景を垣間見た気がしました。

自然現象に魂が宿るという信仰は、ご承知のように、日本で古くからあり、どちらかといえば神道的な考えです。しかし、「草木成仏」 というのは、文字通りに仏教の発想です。これは、我々現代人にとってちょっとピンと来ない観念だと思います。私は仏教の奥が深い思想を論じる余裕もないし、またその知恵と自信もありませんが、ここでは能の話にしぼって、「草木成仏」ということはどういう意味を持つか、を少し考えてみたいと思います。
自然界のあらゆるものに魂が宿り、そのものが救済の対象にもなる、という主題の能がびっくりするほど沢山あります。およそ40曲にのぼると思われますが、私の検討した限りではその中で花や木の精をシテとする能が15曲ぐらいあるようです。鳥や虫が主題あるいはシテとなるのもありますが、四つ足の動物は(狂言を除いて) 能舞台にあまり見られないのは興味深いことだと思います。そして、草木の中でも、能の主題にされるのは、桜、梅、松、藤などに極めて限られています。ちょっとふざけたような問い掛けですが、なぜオットセイやヘチマのような動物や植物が能の主題にならないのでしょうか。動物は、「石橋」という曲がありますが、その典拠 がやはり中国のものです。動物の出る話は日本の演劇にもたくさんありますが、「葛の葉」や 「義経千本桜」 など文楽や歌舞伎の芝居に出て来る狐のようなものは、いわゆる「異類婚姻譚」 のパターンに当てはまり、能では このパターンはあまり主題にされません。能はより象徴的な、しかも抽象的な演劇なので、生々しいものを好まないようです。
また花の方は、勅撰集で詠まれていない花は謡曲の雅の世界にも出て来ないのです。能に描かれている自然は、確かに美しいですが、極めて幅の狭い、洗練された世界です。
それはともかくとして、能のように植物を主題とする演劇は世界的にも類例を見ません。おそらく一般の西洋人に、「高砂」 や 「杜若」 を筋だけ説明したら、お伽話と思われるでしょう。西洋の伝統演劇、そして日本の近代演劇では、社会や人間の葛藤が重要なテーマですが、花や木は先ず話(あるいは、芝居) にはならないのです。そういう意味では、能はいかにも内向的であるいは人間を超越した存在を描く演劇といって良いでしょう。西洋人である私が能を観ていると、或モノの魂を歌う美しい詩に溶け込んだような気がします。そのモノの魂というのは、場合によって一人の人間であり、また「井筒」 や 「松風」 のように、シテがモンタージュのように複数の人間にもなります。また、代表的な夢幻能では、その主人公が疾くに亡くなった人間の霊魂のもあります。そういえば、能では主人公が桜や松の精であるのもそんなに不思議はないでしょう。
ところで、ここで私は 「シテ」 と 「主人公」 という言葉を漠然と使っていますが、やはりその意味の違いに注目する必要があると思います。シテというのは、厳密に言えばただの役割なのですが、主人公というのは人格を表わします。シテの人格がそんなにはっきりしたものではないので、ここで他の演劇とのアイデンティティに対する大きな違いが見られるでしょう。なお、演劇では「主人公」 の代わりに、「登場人物」 という用語がよく使われていますが、この種類の能では (変な言い方ですが)そのシテを 「登場植物」 と名付けたいです。
再び話に戻りますと、草木が主題となる能は大ざっぱに言って、三種類に分けられると思います。
(1) 一つは、花や木がある人間の魂の象徴となる謡曲です。その例は、
    「東北(とうぼく)」(前ジテは梅の精で、後ジテは和泉式部の霊魂)
    「半蔀(はじとみ)」 (花の夕顔が同じ名の、光源氏の恋人となる)
    「女郎花(おみなへし)」 (シテの妻が川に身を投げ、その霊魂が花となる)   
などが知られています。
その他に、「松風」 や 「杜若」 は似たような話があり、場合によって、そのシテが人間か花になり、あるいはシテが草木の精か人間の霊によって取り憑かれることもあります。
(2) また、一つの植物の精が出て来る能の種類があります。それは、ある自然現象が人間ではなく、神か仏の化現、つまり化身であることです。「高砂」の相老の松がその一例で、また 「龍田」 では、龍田姫という秋の神が紅葉でもあります。又、「梅」 という曲のシテもやはり神木です。このカテゴリーは神道的要素が濃いのですが、植物が仏か菩薩の化現とするのは、「花月」では清水寺の柳が実は観音の化身という例もあり、「杜若」では花が象徴となった在原業平が歌舞の菩薩または陰陽の (男女の関係をとりもつ) 神ともなる話があります。
(3) そこで植物の精がシテとなる謡曲の最後のカテゴリーは、草木が成仏する曲です。この中に 「芭蕉」「西行桜」「藤」「遊行柳」 などがあります。その典型的な筋は、ある旅の僧が歌に詠まれた名所を訪れ、その由来を在所の者にたずねる。その在所の者は妙に詳しい人で、自分がその木の精であると明かすと、消えてしまう。夕方になると、その木の精が再び現れ、旅僧の誦経のおかげで舞を舞い、最後に成仏する、というような簡単な筋書です。

では先ず、最も仏教思想が濃い 「芭蕉」 という曲を見てみましょう。これは花のない芭蕉が法華経のおかげで妙なる法の花を咲かせるというのです。舞台が中国でいかにもエキゾチックな曲です。ある僧が世を捨て、日夜法華経を読誦して山で素朴な暮しをしています。そこへある日突然、一人の女が訪れてきて、「この御経を聴聞申せばわれ等如き女人非情草木の類までも頼もしうこそ候へ」 と言って消えてしまいます。その晩僧が読経すると芭蕉の精が再び女の姿で現れ、草木成仏の教えをたたえ、舞を観せます。
この芭蕉はまさに法華経の思想を劇化したと言ってもいいでしょう。このお経に言及したり、あるいはその暗示が数カ所に出てきます。
しかし芸能で説教をするとなると、そこには一種の違和感が現われると思います。法華経の薬草喩品という一章を引用しますが、その意図は、草木の成仏を説くのではなく、人間のための普遍的な救済論なのです。「芭蕉」では芭蕉の精が主人公になるから、草木の救済がフォーカスになってしまいます。
この曲は、芸術を方便として法華経の功徳を説く能ですが、神道の神々をたたえる「梅」 という曲に少し似ている点があります。どちらの曲も宗教の教訓のようなもので、そのため芸術品として少し軽妙さに欠けている気がしてなりません。

そこで、このような主題が効果的な演劇になりうるかという疑問が浮かんできます。
草木を主題とする謡曲は、「高砂」 のような、いわゆる脇能あるいは神能もあり、現在能といわれる、比較的劇的な能が含まれています。しかし、圧倒的に多いのは、「鬘物」あるいは 「三番目物」 といわれる夢幻能で、落ち着いた幽玄のあじわい深い能です。特に草木が主題になると、西洋演劇で見られる人間的な意志の衝突や心の中の葛藤の描写はそれほど表わすことが出来なくなるのです。世界演劇の中で、最も反劇的な演劇は能だと言う人が多いのもうなずけます。そして、能の中でも最も反劇的な曲とは、三番目物だと言ったら間違いないでしょう。特に我々人間の荒れ狂う世を捨てた旅僧と静寂な草木との出会う世界は劇的な可能性が最も希薄でしょう。しかし、劇的な要素が全くないとは言えません。実に面白い話が沢山あります。少々例を上げましょう。
「墨染桜」という曲があります。ここで、仁明天皇の崩御(ほうぎょ)を悼んで出家した峰雄という僧は、天皇がご存命の間寵愛(ちょうあい)した深草の桜を見に行きます。ちょうど花が咲く頃で、この桜もやはり満開ですが、僧が「深草の野辺の桜し心あらばこの春ばかり墨染に咲け」 と詠み、桜の情けなさを咎めます。そうすると、桜の精が現れ、今の歌の 「この春ばかり」を 「この春より」に直してくれたら、桜でありながら自分も出家して峰雄の弟子になると誓います。その晩、桜の精が再び現れると、人が皆花の衣を着るようになったのに、自分だけは墨染の喪服を脱ごうとも思いません。それなのに、その 「苔の袂」 が涙に濡れてしまった、という歌を詠んで霞と雲の中に消えて行きます。
また 「六浦」 という曲は 「墨染桜」 に少し似た話ですが、ここではシテが楓の精です。ある都の旅僧が相模(さがみ)の国六浦の称名寺を訪れると、時は秋で山々の紅葉が盛りですが、この寺の庭の楓だけが紅葉しないのに不思議に思います。そうすると、一人の里女が出て来て、昔、為相(ためすけ)という中納言がこの寺を訪れた時、この1木が山々の木より早く紅葉しているのを見ると、「いかにしてこの一本(ひともと)にしげれけむ、山にさきだつ庭のもみぢ葉」という歌を詠んだ、と説明します。この楓がその歌を聞いて、自分はあつかましいものだと思い、これから身を退くのが天の道だと覚悟して、あれから紅葉しなくなったのです。この話を聞く僧は感嘆して、楓をほめる歌を詠みます。
ここでは 「墨染桜」 のように、ある木が自分が話題になった、人間の歌に反応し、自然の成り行きを背けるようになります。こういう風に桜も楓も 「出家」して、仏法によって教化されるのです。これは文字通りの草木成仏というものの証明になるでしょう。
こういう自然の成り行きを逆転させる奇跡はよく能に現れます。「老松」 の松と梅の精は、主(あるじ)の菅原道真を恋しく思うあまりに、その流された筑紫の安楽寺へ飛んで行きます。又、「高砂」での相老の松も、住む所が遠く離れてもむつまじい夫婦でもあり、時々逢いに行くこともあります。いづれも自然のものですが、自然界の法則には従っていません。そこで、その奇跡により、あるものは仏になり、あるものは神になるのです。いづれの例も草木が人間的な忠実さを現わします。
こんな飛ぶはずもない草木が謡曲のシテになると、「飛んでもない」話が生まれます。しかし他の場合には、草木は自分の自然(じねん)を守り、物事がなるままにしておくこそ、完璧に自分の美しい性格を示し、神か仏にもなれます。季節の移り変わりなどが仏教では無常の譬えになりますが、その自然の成り行きが又違う適切さの印にもなるのです。「高砂」 では、「草木心なしと申せども花実の時たがえず」という条があり、又、「西行桜」 に 「草木国土おのづから見仏聞法の結縁(けちえん)なり」つまり自然における一切のものが仏を見て説法を聞いている、という条(くだり)があります。これもまた、「法華経」からの引用です。
こういう叙述は自然の美をたたえ、自然を神化していますが、これはとにかく自然の詩的な描写に留まり、ストーリーの筋を進める訳に行きません。草木がモティーフとして取り扱われると、どうしてもそれを人格化せざるをえません。というと、能の世界でも非人間的な存在を創造することが出来ないような気がします。人間はどれほど自然との共存が出来ても、非人間的な生命は人格化されないと話にならないのです。人間は自分の環境にある諸現象を外(よそ)からながめ、ある程度その振舞を観察した上で理解することは出来ますが、そのもの(動物であり、植物であり) がもし魂か意識があったとしても、その内なる生命を理解する限界がきっとあります。そういう意味では、能は神道と仏教の自然観が背景にあっても、人間中心論的な立場からさけられない所があります。あるいは、さけようとしたら鬘物に見られる反劇的な、動きたる絵、あるいは美しい叙情詩のような芸術作品が生まれます。そうした理由で、人格化しないと、草や木が出る曲は大分劇的な性格がおとろえます。

しかし、こういう曲は劇的な性格が全くないとは言えないでしょう。劇的な感情やなやみが人間界から伝わってきます。ところがそれだけではありません。草木がシテとなる曲の最も劇的な要素というのは、登場植物の人間性と非人間性との衝突から来ると思います。先に私は鬘物が美しい叙情詩のようなものだと言いましたが、その叙情詩の「情」 (つまり情け) は一体どこから来るでしょうか。こういう曲では、その壮麗な情緒の担い手は人間ではなく、桜や楓なのです。これは案外効果的に−つまり劇的に−活用しています。能によく現れるパターンは、草木のシテが非情であるはずなのに、人間よりもすぐれた、美しい感性を示している。でもそれだけではありません。シテがその感性を人間に認めてもらいたいのです。人間の方は、有情のはずですが、実は草木に情(なさけ)のことをおそわることが沢山あるようです。そういう意味で、桜や楓や松が登場する能は、仏教での通常な知恵を逆転させる要素があります。沢山の謡曲はこのパラドクス−つまり逆説−のピボットで回転しています。
人間は有情のものですが、能の典型的なワキは、この世を捨てた「心なき」 僧侶として表現されています。そういう点で人間のワキが植物のシテに似ています。草木が非情無心であるとは、能の一種のきまり文句になっています。とは言え、このきまり文句が必ず逆説的な活用か言い回しの形で言及されています。例えば
「草木心なしと申せども」 (杜若)  
「花葉様々の姿を心なしと誰かいふ」 (六浦)   
「げにや心なき草木なりと申せども」 (老松)   
「高砂住の江の松は非情のものだにも」 (高砂)
など、いくつも例があるのです。「草木心なし」 と云々しながらも、実はそうではない、「心あり」 と暗示しているのです。草木の能は、人間的な植物と、植物的な人間との体験・対立を描きます。花と人が言葉を交わし、やがてお互いに 「心」 が通うようになると、人間のワキは自分が実に情けないものだと納得するのが (変な言い方ですが) こういう能の落ちなのです。
この非情・有情という分裂は 「情」 ということに潜在する二つの意味を弄(もてあそ)びます。仏教では、「 情」 つまり Sentience というのは意識という意味で使われているが、一般の意味は「情け」、つまり 「感情」 あるいは 「感性」 というのです。正統な仏教では、有情のもの (つまり人間) でないと成仏が出来ないという教え がありますが、成仏するために自分の感情−欲望や妄執−を捨てなければなりません。そういう意味では、修行するものは植物が本来自然に到達した人間を荒れ狂わす感情を浄化して亡くした世界に近づこうとしています。
しかし、能における草木の描写は、それほど純粋なものではありません。先ず、前に説明したように、草木に人間的な感情などを与えないと、物語が演劇として成り立てられないのです。文学では、こういう風に無生物に人間的な感情を与える表現法は、"pathetic fallacy" −つまり感傷的虚偽といいます。草木が出る謡曲も確かにそういう傾向を避けられません。ところが、幸せの松や悲しい桜といったような単純な描写も面白くないのです。能の面白みはやはり、もっと複雑で、先に申し上げたように 「有情非情」 という観念に潜む矛盾あるいは曖昧さから出て来ます。要するに、「情」あるいは 「心」 という言葉は、能では極めて皮肉に使っています。
こういう 「心」 の論争が誠に巧みに取り上げられている曲は、「西行桜」 です。時はちょうど花盛りの頃です。僧で偉大な歌人でもある西行は、一人で静かに京都西山の庵で暮していますが、庭にある桜があまりきれいなので、町からその花を見に客が大勢やって来ます。西行は既にここが花見禁制と伝えるように下男に指図しましたが、花見の連中が折角来たからそれを気の毒だと思う西行は入れさせてやります。それでも西行は困った気分が残り、その恨みをこの迷惑のもと (庭にある桜) に移します。そして 「花見んと群れつつ人の来るのみぞ、あたら桜のとがにありける」 と詠み、「こんなに大勢な人が花を見に来るのはお前のせいだ」 と、この桜を咎めるのです。
そうすると、この老木の中から桜の精が出て来、「埋木(うもれぎ)の人知れぬ身と沈めども心の花は残りけるぞや」 と言って、西行の歌があまり不公平だ、情けない、と答えます。この桜の論理は実に面白いです。先ず自分は西行の歌に心が傷つけられたと言いますが、なぜ西行の歌が不公平かと説明すると、ただの草木だから自分には何も罪がないと言います。(引用) 「非情無心の草木の花に浮世のとがあらじ」。傷つけられる心はありますが、罪を犯す心は決してない、という感性は、まるで子供か少女のようなものです。この精は普通に現れている桜の精と違って、老木だから老体で皺しわ尉の面で現れます。
すなわち、花を愛する西行と西行に愛される花とは、そんなに違いはないようです。つまり、この桜の老木は西行の心理の化身に当たります。この精が「夢中の翁」 と言われています。この浮世をうるさく思う西行は、若者たちのどんちゃん騒ぎをいやがる気むずかしい老人のようですが、それこそ人生や自分の青春に対しての未練が漏れてきます。ところが西行は花を好む歌人で有名なのです。この庭の桜をあまりにも愛しているから、一人占めにしたいのです。花を恨むのではなく、人間の社会をいやがるのです。しかし、この心境は自分の花を喜ぶ人間性を拒否するものです。
こうして花と人との対立で始まった 「西行桜」 では、その対立が人間と自然とのではなく、人間の心の中にある事だと次第に明かされてきます。この花と心との分裂は、実は又の妄想なのでした。
この花と心の真の融合は、並列と対照また修辞法によって暗示されています。西行とその下男は掛け合いで 「 貴賎群集(きぜんぐんじゅ)の色々に心の花も盛んにして」「昔の有様」と謡って、花見の客のにぎわいを季節 の移り変わりと譬えています。ここで 「心の花」 という文節で外(そと)なる自然が内なる人生にたっぷりしみ 込まれています。こうして花見の客は花との一体感が見付かったという速記的な表現で現われています。それに対して、西行はまだ 「心ことなる」 人で、花を楽しみますが、社会とは同調出来ません。「心の花」 という文節 をひっくり返すと、「花の心」 になります。これは桜の精の気持ちの形容で使われています。「埋木の人知れぬ身と沈めども心の花は残りけるぞや」。
能や和歌では似たような表現がよくあります。「西行桜」 が引用した 「山家集」の西行の和歌では 「心を染める 」 色や花の言及がよくあります。同じように「龍田」 のクセの段では、地が自然を称えながら、「然れば代々の歌人も心を染めてもみぢ葉の龍田の山の朝霞」 云々と謡います。この例で見られるように、能のくだりは連歌的な飛躍でイメージの連想が理屈なしで次々とモンタージュのように人間の心境と自然の諸現象との融合を強めます。
「心を染める」 といえば、衣裳との連想があります。「芭蕉」 では木の精が最後に成仏すると、その心と自然との一体感を衣裳のイメージで強調しています。
「氷の衣、霜の袴(はかま)霜の経(たて)露の緯(ぬき)こそ、弱かりし草の袂も、久方の、久方の天つ少女の羽衣なれや」 云々。こういう風に自然を人格化すると同時に、有情というものを自然に与えるのです。
「西行桜」 は花尽しで終りますが、これは京都の花見の名所のただの目録ではないし、客観的な自然描写でもありません。前場では桜の精が 「浮世と見るも唯その人の心にあり」と言って、西行の厭世的な心境を注意します。そして、後場のクリ・サシ・クセの段の花の名所の物尽しでは、その様々の風景が仏典での名所に譬えています。この様に「西行桜」 は言葉を以て聖なる風景を創ります。

能は、他の文学の形式と同じように、言葉で或る虚構の現実を創る芸術です。(勿論、演劇ですからその外に舞や音楽も重要な役割をはたしますが、ここではルービン先生と同じく謡曲のテキストに絞りたいと思います。) 言葉で虚構の現実−あるいは、現実の幻影といった方が正確でしょうか−を創るというのは、無言の自然を呼出し、それを心の動きに答えられるようにする一つの方法です。
この考えは、「高砂」 で、誠に美しく表現されています。(引用) 「有情非情のその声みな歌に漏るる事なし。草木土沙、風声水音まで万物のこもる心あり。春の林の東風(とうふう)に動き秋の虫の北露(ほくろ)に鳴くも皆、和歌の姿ならずや。」又、古今集の仮名序は、あまりよく知られていますので、ここでは長い引用を省略しますが、その冒頭だけを引用しましょう。
「やまとうたは、ひとの心をたねとして、よろづの言の葉とぞなりける。」 ここで私が注目したいのは、その言葉による人間の心と自然との統一です。これは又言語的に様々の方法で表現されています。歌は人間の 「心をたねとして、よろづの言の葉」 になる。人間の心の動きや行動や表現の仕方を自然現象と同じように取り扱われています。又、これは勿論比喩ですが、ただの修辞的な技法とはなかなか思えません。確かにこういう譬えは、下手な歌人、あるいは永年の慣用では、ただのきまり文句のようなものになってしまいます。しかし、日本最初の歌論であった古今集の仮名序や謡曲に見られる同じような表現に直面すると、こういう比喩が一種の信仰か存在論のようなものを暗示している、という気がしてなりません。

一般的に言えば、能には人間の魂か草木の精は呪文か和歌によって成仏するというパターンがあります。しかも、ほとんどの場合では 「西行桜」 のように、一首の和歌がその曲の典拠で、また人間と自然との出会いの触媒のはたらきをします。歌に詠まれていない自然は先ず物語になりません。能で登場する草木もやはり 「名にし負ふ」花や木であり、歌を詠む歌人やお経を唱える僧侶によって、その隠れたる自然が活動するようになる、という気がします。そういう意味で、能における草木は、言葉に極めて敏感です。歌に詠まれていない自然は、未知で無言です。その代わり草木に言葉を与えるのはだれでしょうか。勿論その歌人です。しかし、その草木に歌人に訴えるようなものがなければ、それは先ず歌になりえないのです。
能の研究家であった金井清光(かないきよみつ)氏は、「杜若」 について、どうしてこの曲が在原業平かその妻をシテとしなかったかと問い、「杜若の精をシテとせざるをえなかった強力な制約が存在していた」 と答え、その原形は植物の 「魔術」 を示す民族芸能にあったと推定しています。杜若や菖蒲の葉は細長く、剣のようにとがっているので、5月の端午の節句で魔除けに使われる風習が古くからあったのです。例えば神社に仕える早乙女たちがこの折りになると、家の中に閉じこもってしまいました。そして外部の邪気が入ってこないように、家の軒に菖蒲の花と葉をふきました。その他に菖蒲や杜若を使う5月の魔除の芸能がいくつかあったようです。もし能の幽玄美の絶頂に立つ 「杜若」 の発生が民族芸能にあったなら、「西行桜」 などの背景にも同じような民間 信仰や慣習があったかも知れません。毎年行われている今宮神社の花鎮めも、草木の精が出る能と同じように、一種の鎮魂あるいは供養の儀式なのです。折口信夫によると一人称式に表現されている叙事詩や芸能は、神の託宣にあった。
「神、人に憑って自身の来歴を延べ、種族の歴史、土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡(ふげき) (つまり、巫女) の恍惚時の空想に過ぎない。併し、種族の意向の上に立っての空想である。」  
と述べています。つまり、このような神々とのコミュニケーションは一種の共同幻想なのです。(こういった 宗教的な要素や役割は、ほとんど現在観られる能にはないでしょう。その上、植物の精が現われる能が全部そういう原形をもっていた訳でもありません。数多くの曲が「単なる花や葉の美しさを強調する美辞麗句を並べて作り出され」 た、と金井清光氏が指摘しています。) 
こうして、民間信仰や民族芸能から生まれた能は、すぐれた芸術形式に成長してきました。自然に対する素朴な崇拝は、言葉の色に染められ、芸能品という、独立した生物に生まれ変わったのです。
私はあんまりにも現代人なので、草木が本当に口を利くとは信じられません。しかし、花鳥風月を友として、ある種の精神的な再生を感じることが出来ます。そして、能を観ると、現代演劇や日本の他の古典演劇では経験したことのない感覚、しかし自然の中で感じたような精神的な状態を体験したことがあります。それは、なぜかといえば、謡曲の文学的な優秀とそれを演じる人たちのすぐれた芸によるのでしょうが、もう一つの理由があると思います。能がいくら芸術品になったとしても、その典礼的な役割がまだ働いているような気がします。それは謡曲の筋とその構成に深く刻まれているもので、人間や草木の鎮魂あるいは供養の形で表現されているのです。
能の公演で、私にとって、ある奇跡が起ります。それは、無言の草木に言葉を与え、非情無心のものに心を授けることです。しかし、この奇跡は芸術全般に関係することです。芸術の使命とその妙は、そのそれぞれが使っている素材に、ある種の生命や感情を伝えることです。そのような訳で、能で現われている草木は、生の自然と違って、また別の理想上の存在を得るのです。
要するに、能における草木成仏とは、芸術による自然の教化−つまり、馴致 (飼いならすこと) −を意味します。その成仏が本当の成仏ではない、芸術に立っての成仏なのです。日本文化で、こういった自然の教化が長い伝統があります。
この間の日曜日に、私は日文研のうしろにある山の方へ散歩に出かけました。その山の麓に桂坂野鳥園というバード・サンクチュアリーがあります。そこにあやめが咲いていましたが、私が訪れた日に人が鳥より大勢いました。そこから 「鳥と遊ぶ道」 で山を登りました。道しるべがちゃんとあり、木の幹にその名前が示してある札が掛かっていました。文字通りの 「名にし負ふ」草木でした。
こうして日本の自然は何千年かの人間の居住によって馴致され、言葉の宇宙に取り入れられてきたのです。「 草木成仏」 とは、ただ自然の馴致を意味するとしたら、その自然が人格化されるか、少なくとも人間の道具にされることになります。しかし、「草木成仏」 とは、もっと重要な意味があると思います。それは 「草木の成仏」 ではなくて、「草木による成仏」 というのです。つまり、人間は自然と付き合って初めて自分も同類の生きものだと分かったことこそ、救済されることです。能にはこういう教えがあると思います。
 
化粧

 

今日は「化粧の文化地理」というタイトルでおはなしさせていただくわけですが、私は化粧を専門に研究する者ではなく、また特に化粧とか美容に気をつかっている者でもありません。ただ、最近の研究の副産物として化粧に興味をもちました。
私は、地理学者のはしくれとして、それなりに世界を狭い範囲内でみつめてまいりました。ここ数年来の研究 対象地域は中米です。メキシコ南部からパナマにかけてのこのアメリカ大陸のくびれでは、じつに多くの興味深い歴史的出来事がありました。今日はその詳細について語ることはできませんが、ひとつの事物が今日のテーマ「化粧」への興味をかきたてました。それはラテンアメリカにおけるスペイン植民地時代の大事な交易品のひとつだった「コチニール」という染料です。これは、サボテンに寄生する小さなえんじ虫の体液からつくられた動物性の赤紫色染料です。インディオやスペイン人は、これを衣服、建築、工芸、そして化粧へと広く活用いたしました。いずれにせよ、ここから中世以前の化粧のいろいろに興味をもちました。
ただし今日のフォーラムは、それを系統的にまとめたわけではありません。内容は、古代から中世にかけての化粧風俗史の表面をかじる程度と見なしていただければ、と思います。舞台は日本をふくめた世界です。ただし、日本に関するコメントはきわめて限られたものですので、あとで皆様から色々教えていただけるのを楽しみにしてまいりました。
「化粧」という日本語のことばや、それに匹敵する外国のことばの由来や意味には、いろいろな解釈や視点があるようです。今日は「化粧は、人間がある目的をもって身体の表面にほどこす文化行為」と広く解釈して、はなしを進めたいと思います。
自然環境への対応
化粧は人間の心に、大きな満足と悦びを与えるようです。化粧を通した美的観念の発達、それに結びついた自己満足や自己顕示の欲望は、人間の行動の一原動力でありました。
本来、裸でこの世に生まれてくる人間は、いつ頃から化粧をするようになったのでしょうか。その起源は人類の発生に起し「化粧の歴史」は「人類の歴史」にそって流れてきた、といえそうです。きびしい自然環境から身を守るという目的で、我々の祖先は、氷河期にはすでに化粧をしていたのでしょうか。
現在、私が生活するカナダの北極圏では、冬に気温が零下60℃にも下がります。そこでは、顔や体に油をぬる風習があります。イヌイット(エスキモー)が、あざらしや鯨からとった油をぬる習慣は、肌を保護せねばならない必要性から生まれた生活の知恵です。チベットの寒冷高地に住む女性は、皮膚の保護と美容のため「アダ」とよばれる動物性の油脂をつけます。
ティエラ・デル・フエゴは、南米の南端にあるアルゼンチンの群島です。ここは一年中、霜のおりない日はない程の寒冷地です。かって白人が出会ったこの地の原住民は、簡単な毛皮の着衣をつけるのみで、ほとんど裸に近い状態で生活していました。それが可能だったのは、保温のため、にしんの油と粘土を混ぜたものを体に塗りつけたからだとされます。寒冷地の住人は、環境に見合った寒さに強い肌を発達させると言われます。
一方暑い地方も、それなりの問題があります。南方の住人は、ココナッツ、オリーブ、やしの油で肌を守ります。しかし移住者は、高温乾燥地へのトラブルに遭遇します。オーストラリアに移住した白人の肌は、それなりの化粧をしていても、太陽の紫外線におかされやすく、皮膚ガンの大きな原因となっているようです。
高温乾燥地では、灼熱の太陽から身を守るのは、皮膚に何かを塗る方法では効果がうすく、衣服で体をつつみ、日陰を作らねばなりません。アラブ人の伝統的服装は、その一例です。
ただ顔や頭を覆うベールは、環境への対応というより他に起源があるようです。それは回教の創始者モハメッドの生存中に普及した風習である、といわれます。モハメッドは何人もの妻をめとっていました。彼は妻たちに「人前にでるときは、その美しい顔をおおってくれないか」と言ったのかもしれません。彼女達は、ベールをまとった初期のアラブ人だったそうです。それを他の女性が真似しベール着用の風習が普及した、とされます。ベールの普及にともない、アイシャドウとアイラインからなる目の化粧は、アラブ女性の神秘的な美しさをさらに高めることになりました。
目の化粧
アイシャドウをつけ、アイラインを引くという目の化粧は、今日世界各地でみられます。それは古代エジプトに普及した化粧でした。はじめはお洒落のためではなく、魔除けよけのため、また目を保護するために使われたようです。古代人は、体の穴のあいた部分より悪魔が体内に入ると信じていたため、眼の縁を黒く塗り、悪魔を近づけないようにしたといわれます。耳飾りや鼻飾りも、魔除けの目的で発生したという学者もいます。エジプトの太陽光線は強烈です。そのため眼の病気にかかりやすく、目薬が使われたのでしょうか。エジプトの像に目の縁が青緑色に塗られたものがあります。孔雀石の粉末で、当時最高の目薬と考えられました。こうした実用的風習は、次第に女性のお洒落となります。高価な孔雀石の粉末にかわって、コールが使われるようになりました。コールは、アーモンドの種を黒焼きにした粉や、硫化アンチモンやマンガンが原料です。アイシャドーをつける風習は、エジプトよりギリシャ・ローマ、そしてヨーロッパ各地へ伝わりました。日本に伝わったのは、いつ頃だったのでしょうか。「銀座に、目の縁を青く隈取った女が出る、前代未聞なり」大正13年の雑誌記事にはこうした記録がみられます。エジプトの、目の縁を黒く塗る化粧法は、睫の化粧へと発展しました。エジプト女性は、金、銀、象牙でつくった細い棒にコールを練った化粧料をつけ、睫や眉毛の下の皮膚を、丹念に塗ったようです。この風習は、ギリシャやローマにはなぜか伝わりませんでした。しかし東方へは伝わったようです 。
口化粧
古代エジプト女性が口紅をつけたかどうかは、異なった見解があります。「口紅をつけなかった」と主張する側は、口化粧が男性を引き付けるとは考えなかったこと。またエジプトでは、男女の接吻という風習もなく、口紅を塗って異性を引き付けることもなかったと理由づけます。
「接吻の風習は、古代インドからチベット・中国へ、西はアッシリア、シリア、ギリシャ、ローマに伝わりましたが、何故かエジプトでは受け入れられず、クレオパトラでさえそれを知らなかった」という指摘があります。
実際はどうだったのでしょう。彼女は過去の人ですから、聞くこともできません。クレオパトラは、マーク・アントニーやシーザーという、時の政治家や軍神を相手にした恋愛のベテランでした。ですから接吻を含めた愛の奥技のすべてを知っていた、と私は思います。
GiovanniTiopoloという、18世紀のイタリアの画家が描いた「アントニーとクレオパトラの出会い」という絵があります。アントニーがクレオパトラの手に口づけをしています。クレオパトラが接吻の風習を知らなかったとしても、彼女はアントニーからその手解きを受けたにちがいありません。
爪化粧
エジプト人は目の化粧に加え、爪にも化粧しました。エジプトのミイラのほとんどが、爪を赤く塗っています。この風習は、ギリシャ、ローマへ伝わりました。贅沢でお洒落だった上流階級のローマ人は、女性のみでなく、男性もマニキュアをしていたようです。
いつ頃中国から日本に伝来したかは不明ですが、江戸時代には口紅と共に、爪にも濃い紅を塗りました。それは「端紅」とよばれ、江戸時代の本「女鏡」には「端紅は薄く塗るほうがよい」と記されています。その原料となったのは「紅花」で、当時栽培がさかんになりました。
マニキュアの伝統はインドやペルシャを含め、南アジア・西アジアに広く見られます。その染料は「ヘンナ」 という、西アジア原産の白または淡紅・淡緑色の花の咲くミソハギ科の低木の葉と若い枝を粉にしたものです。それを湯で練って、爪に塗ります。ヘンナは、髪の毛や髭を染めるのに使われました。虱を殺したり、脱毛の防止にも役立ちました。また馬のたてがみを染めました。中近東では、ヘンナで手足に模様を描く風習があります。ヘンナによる化粧は、2・3週間すると消えてしまいます。ですから、そのつど新しく染めねばなりません。
入れ墨
その点、入れ墨や刺し傷は、皮膚に直接加工する装飾のため、消えません。入れ墨は全世界的な分布をもっています。ヨーロッパでは1世紀に、ローマ皇帝カリグラが、入れ墨をほどこしていました。中世には、聖地巡礼の教徒たちに、道中倒れた際キリスト教徒として葬られるよう、顔や腕に十字架の入れ墨をしていた人がおりました。ポリネシヤやメラネシヤでは、装飾や氏族の標識となりました。
日本は入れ墨の技術の中心地です。江戸時代には、犯罪者の左手首に2本の筋を入れたり、額に入れ墨をしたようです。その後、装飾的な目的の入れ墨は関東を中心に発達しました。やくざのみでなく、一般の職人や商人などの間で広まりました。
アイヌの女性は成人に達すると、口の回り、手・腕などに入れ墨をほどこしました。かっては、沖縄でも、特に女性の間で行われていたそうです。これは、死後に往生安楽できるという信仰に結びついていた、といわれます。
日本では、平常体を露出している民族と異なり、故意に着衣を脱いで入れ墨を顕示するところに特色があります。遠山の金さんが、片肌を脱いで、入れ墨をみせる物語のクライマックスは、おなじみのシーンです。
入れ墨に似たものは、刺し傷です。ケロイド状の傷跡を拡大するために、何度も皮膚を傷つけねばなりません。刺し傷は、バンツ族の間で成人儀礼の一つとして行われています。傷跡を誇りとする心理で思い出すのは、かってドイツの学生仲間が決闘による傷跡を大きな名誉と考えた風習です。刺し傷をつける風習が古代にどれほど広く分布していたかは不明です。

マニキュアやヘンナと共に古くから東洋にあった風習の一つは、香をたく習慣です。南国の香木を焚いて部屋や着物に香りをつける風習は、仏教の伝来と共に、日本へも伝わりました。
アラビアのような水のすくない熱帯地では、汗ばんだ体臭を消すために香料をたいて、その煙りのなかに身をおき、体に香りをつける習慣があります。
古代には、香の原料となった樹脂が、東方からバビロニア、アッシリア、エジプト、イエルサレムへと運ばれ ました。その貿易を支えたのは、紀元前1300年頃、飼い慣らされた駱駝です。
旧約聖書のマタイ伝は「東からきた博士たちは、家にはいって母マリアのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬などの贈り物をささげた」としるしています。このイエス生誕のシーンは、クリスマスの子供劇で、よくとりあげられます。博士のささげたプレゼントの乳香と没薬。それは、化粧品の原料ともなった香料でした。
乳香は英語では、frankincenseとよばれます。それは南アラビアの海岸地方や東アフリカのソマリランドに産するカンラン科の木の樹脂です。この木の幹に傷つけて、そこからうずきでる樹脂が、フランケンセンスです。樹脂は乳色をしているので、日本語では「乳香」と命名されたのでしょう。
乳香は、なめるとからい味がして、熱するとバルサムの香りがし、燃やすと明るい煙りを出します。それは寺院を清め、不快な匂いを消し、化粧品や万能薬の原料として使われました。これは今日も、アラビヤ半島の南西部から産出され、ほとんどがエジプトのアレキサンドリアで精製されます。この薫香料は非常に高価なため、警備の厳しい工場で処理され、労働者が工場から持ち出さないよう、退出時には厳しくチェックされるとのことです。
東方からの博士達が持ってきたもうひとつのプレゼントは、没薬でした。英語でmyrrhとよばれるこの香料の原産地もアラビア近辺で、トゲのある低木の樹液です。没薬は、ポルトガル語では「ミルラ」といい、日本には江戸時代に医薬品として伝わりました。
古代エジプト人は、こうした香料を処理する高度な技術をもっていました。それは神殿の一角にある工場で、神官により作られました。エジプト人は香をたいて神をたたえたのです。
香水は、フランス語でparfum、英語ではperfume。これらの語源は、ラテン語のfumare(煙らせる)です。これからも、香水の起源は、香料をもやした古代の風習にあることがわかります。
ギリシャ人のお洒落
ギリシャでは、入浴したり体に香油を塗ったりする習慣がありました。そこに、エジプトから化粧法が伝わりました。化粧をはじめにとり入れたのは「ヘタイラ」とよばれた遊女達だったようです。彼女達は、顔や手のみでなく、乳首も赤く塗ったり、お尻にも化粧をしました。
ギリシャでは、女性の地位が高まり、家庭の女性が外出するようになると、化粧も広く普及します。就寝時に、ビューティーマスクをあてることもなされました。穀物の粗粉を練って顔につけ、翌朝ミルクでそれを洗い落とすという、今日でいうパックのはじまりです。ギリシャの女性は紅を塗り、アイシャドウや眉墨をつけ、マニキュアとペディキュアをつけ、白粉を塗りました。化粧の中心地は、アテネです。
ギリシャの歴史家クレノフォンは、当時の化粧の有様を「夏に外出した女性の頬から汗がしたたり、赤い皺ができ、髪が顔にふれると、白粉で白くなる」と記しました。当時使われた白粉は、鉛白の白粉でした。そのため鉛毒にかかり、さまざまな悲劇がもたらされました。このように化粧品公害は、少なくとも2400年前からありました。
ローマ人の贅沢
ローマは、王制、共和制、帝制の道を歩みます。その間ローマ人は、地中海沿岸の諸地方を征服しました。征服地のひとつに、かってギリシャの植民地であった南イタリアのマグナ・グラエアがありました。ローマ人はギリシャ人から、お洒落や化粧法を学びました。
次第にローマ人の間で、髪を染め、紅をつけ、香料や白粉をつけることが流行となります。哲学者や詩人など のおかたい知識人は、贅沢と浪費をローマの退廃と見なしました。「どら娘たちが、異国から輸入されたアクセサリーや高価な化粧品を買いあさり、どら息子たちは、昼から賭事に興じ、夜は酒宴にうつつをぬかしている」と嘆きました。ユーベナリスというローマの著名な風刺劇作家が、贅沢と浪費、物質欲、上辺のみを飾りたてたローマ市民に「健全なる精神は、健全なる肉体に宿る」とよびかけたのは、この頃でした。
ローマ時代の化粧品の特長は、いろいろなものを混ぜたことです。それは薬としての性格をも、兼ね備なえていました。何を混ぜたのでしょうか。インゲン豆、鉛白、蜂蜜、硝石、大麦の粉、薔薇の葉、茴香ういきょう、 百合や水仙の球根、胡瓜、カボチャに加え、変わったものとしては、鰐の腸や牛の糞などがあります。インドでは牛の糞は、燃料として利用され、その灰は聖なる粉「ティノール」として使われています。
インドには、古代よりヒンズー教と結びついた、色々な化粧風俗がありました。もっともよく知られているのは、額の中央につける印でありましょう。「ティラック」または「ブトゥー」とよばれるこの点化粧の色や形は、本人の属するカーストや、地域により異なるそうです。私はインドで、僧侶よりこの印を額にいただく巡礼者を、沢山みかけました。巡礼者のなかには、顔や衣に神の名を描く人もいます。
インドの化粧は、こうして宗教と深く結びついたものでした。東洋では、ギリシャやローマで化粧がさかんになる前から、色々な化粧風俗が存在しました。
芳香入浴
西暦1世紀頃には、ローマ人は文化生活を営んでおりましたが、ヨーロッパ他地域の人々は「未開の生活」をしていました。現在のイタリヤ北部、フランス、ベルギー、オランダ南部に住んでいたゴール族、そしてイギリスに住んでいた人々は、ローマの侵略を受けました。そしてローマ文化に浴します。
ローマ人は、古くより入浴を楽しみました。浴場に薔薇水を入れ、宴会場に放した鳩にも薔薇水をふりかけて香りを楽しむなど、贅沢をしたようです。ローマ人は占領地に、水道と共同浴場をつくり、入浴の習慣もそれにより伝播していきました。しかし、5世紀になると、ローマ人はイギリスから引きあげ、またフランスでは北方からサクソン族やフランク族がフランスに侵入し、西ローマ帝国は滅亡します。それと同時に文化の波も、潮が引くように消えていきました。
その後フランスには、西暦3世紀以後、イギリスでは8世紀の終わりに、キリスト教が伝わりました。初期のキリスト教指導者は「女性は肉体的誘惑を生み出す罪の源泉である」と見なしたのか、女性が入浴したり化粧したりするのを喜こびませんでした。キリスト教の支配力は強く、化粧をはじめ、お洒落全般が女性の生活から影をひそめます。中世初期の暗黒時代が到来しました。
オリエンタル香水
西欧は文化的暗闇に入りました。しかし東方では、アラビア人がギリシャ・ローマの学問や技術をとり入れ、またインドやペルシャの知識や文化を吸収して、文明社会を確立していきました。アラビア人は蒸留法を考えだします。加えてかれらは、植物性の香料に動物性の香料を加えるという、ユニークな試みをしました。薔薇の花びらを蒸留してエッセンスをつくり、それに、麝香じゃこうと竜涎香りゅうぜんこうの香りを加えます。ここに オリエンタル香水が生まれました。
麝香は、麝香鹿の香嚢から分泌される香料です。竜涎香は、抹香鯨の腸内に分泌する香料です。鯨が吐き出したものをアラビア人は手入し、微量を植物性のエッセンスに加えました。
ペルシャやインドの東には、中国文明がありました。ローマ人は、東方にすばらしい文明や豊富な天然資源があることに、早くから気づいていました。ローマ人の地図に北ではなく、東が上になっているものがあります。彼らにとって東の方位は、聖なる方位でありました。「東」すなわち「オリエント」は、今日「オリエンテーション」の語としても、生きています。
この、オリエント文明の東端に位置していたのが日本です。中国で隋が天下を統一した頃、日本では聖徳太子が集権国家を確立しました。はじめ遣隋使が中国へ遣わされ、追って遣唐使が幾度か大陸へ渡ります。彼らは、 中国の多くの文化事物を都に持ち帰りました。衣服・書籍・家具・薬品・食料に加えて、化粧品もふくまれていたことでしょう。
当時、中国の宮廷で卓越していたのは、白化粧でした。しかし、日本では赤化粧の伝統が強く、祭礼事を除いては、白化粧はなかなか日本人の間に浸透しなかったといわれます。特に奈良時代には、健康的な生き生きとしたものが憧れだったのでしょう。万葉集の歌は明るく、化粧も鮮やかな赤さというものが好まれたようです。当時の宮殿の軒は浅く、外から光が入りくる明るい室内で、生活をエンジョイした万葉人の姿があったはずです。
奈良朝の宮廷女性は、中国の白化粧を広くとり入れませんでした。ただ眉の化粧は、取り入れたようです。その代表的なものは、蛾が眉びという眉形です。正倉院収蔵の屏風絵に「樹の下に立っている女性」の絵があります。ここに、中国の蛾眉の特長がみられます。昆虫の蟻の触覚のように、眉毛の左右両端の眉尻は太く、上へりは整った半月形の曲線をなしています。蛾眉を持ち豊かな頬を持つことが、奈良朝女性の憧れだったのでしょうか。上へりを鮮やかに整えるために毛抜きで毛を抜き、そこに眉墨を塗り下の方をぼかすのが、眉の化粧法です。この化粧法は、平安朝になると、眉を全部取ってしまって、そのあとに眉墨を引く風習に移っていきます。
平安朝に入ると遣唐使は廃止され、中国との国交は直ぐにうすれます。それと前後して、日本の宮殿建築に変化がもたらされました。檜皮拭きの、軒先の深い大きな建物が造くられるようになります。このため、建物内は、 昼間でさえ薄暗くなりました。また、空間を仕切るのに衝立が使われました。そのため室内がさらに暗くなりました。そうした薄暗い場所では、白い顔をした人がひきたちます。ここで日本人は、白を基調とした化粧に興味をもちだしたのでしょうか。
肌の白さというのは相対的なものですが、日本人の自然の地肌ではありません。そこで白粉が使われます。粉末の白粉は直ぐ落ちてしまいます。そのため吸着性と伸びを助長するへちま水で溶いて、顔に塗りました。もっと目立ちたいという人は、幾重にも塗る厚化粧をしたのでしょう。
厚化粧をするために一番邪魔になるのは眉毛です。解決策は眉毛を剃り落とすことです。そうしても毛根は残りますから、白粉がきれいにつきません。そこで眉毛を抜くことになりました。加えて額の生え際も、毛を抜いて揃えました。そうした下ごしらえをして、へちま水で溶いた粉末の白粉を象牙の箆で、顔の下方から上方へと塗りました。貴族が使ったのは「ハラヤ」とよばれる、水銀系の伸びのよい着色白粉です。大衆はそうした高価な者は使えなかったので「ハフニ」という酸化鉛の白粉を使用しました。
白粉を塗った顔の目のずっと上に、引眉を描く風習が生まれました。引眉は、年令や身分によって引き方が違うといわれますが、私は詳細を知りません。ただ今日でもよくお祭りで、引眉の名残りを見かけます。神社のお祭りに参加する子供達のなかに点眉をつけた姿をみかけます。ただし持ち前の眉は剃らず強調し、さらに点眉をその上につけるので、二重眉となっています。
平安朝の口化粧は、顔全体に白粉を塗ったあと、唇のまん中だけを拭き取ったり、口紅を好む形に塗ったりしたようです。こうした化粧法は、今日も芸者さんの口化粧に残っているようです。
白粉は、非常にメッシュの細かいものでしたが、それでも乾燥するとひびが入ったり、剥げ落ちたりしました。そこで平安朝の女性は、なるべく口を開けないように、人前でガツガツ物を食べないように、また大げさに笑ったり泣いたり、哀しみの表情をしないようにするのが嗜みとなったとされます。
この頃、地位の高い婦人達が「あこめおうぎ」という大きな扇で、顔を隠す習慣が生まれました。大げさな表情をすると、白粉がおちる危険があります。ドラマティックな喜怒哀楽に対面しないように掲げるための扇であったとされます。日本人の女性は今日でも、笑うときに手で口を被うという動作をします。これは、白粉が充分な粘着性を持たなかった平安時代から続いてきた、仕種の名残りなのでしょうか。
平安の白化粧は女性のみでなく、男性もこれを真似、男女共通の貴族化粧となりました。それは、京都を定期的に訪づれた地方の役人・国司を介して、地方へと伝播しました。平安朝に続く鎌倉政権は、質実剛健の気風が尊ばれた時代でした。そのため白化粧はひろまりませんでした。しかし足利政権が京都に幕府をもつと、公家から影響を受けた地方武士が、白化粧をして戦場に向かうこともあったようです。戦国乱世には、敵に首をとられた時、みっともなくないよう眉墨を引いたり、白粉を塗った武士もいたようです。その後白化粧は公家社会で続きましたが、秀吉が天下統一したのち形をかえ、女性中心のものとなりました。
桃山時代からはじまったのは、鼻の上を白くして他は紅色の白粉をぬる化粧です。これは後の日本の化粧の主流となります。色を入れた化粧は上方から江戸へ、芸者衆から一般商家や侍の女房へと広がっていきました。明治維新後、西洋から色のついた白粉が入ってきます。その頃には、それを受け入れる、化粧土壌が日本には培われていました。
薔薇水
日本では、このように白粉を主とする化粧が発展しましたが、その間外国からの化粧品も導入されました。その一つは「薔薇水」とよばれる化粧水です。長崎の出島のオランダ人達が、その導入者です。薔薇水は、先にふれましたように、ヨーロッパで古来より使われた化粧水です。
しばらく、お洒落や化粧が影を潜めていた西洋に、変化をもたらした要素は、十字軍です。オスマントルコに占領された聖地イエルサレムをとりかえすため、ヨーロッパ諸国が十字軍を送り出します。11世紀から13世紀にかけてのことでありました。ヨーロッパの騎士達は、文明度の高い東方の国々を遍歴するうちにだんだん垢抜けして、礼儀や素養を身につけるようになりました。そして、祖国の女性を喜ばせるようなダマスカスの織物や、東方の化粧品や香料をもち帰りました。
それらのなかには、キプロス島からのシプルや薔薇水もふくれていました。食後に手を洗うのも、その用途の一つです。今日我々の使うフォークは、15世紀頃はじめてイタリアで使われました。イギリスには17世紀に伝わります。それ以前は、食物を指でつまんで食べていましたから、食前食後に薔薇水で手を洗うことが上流社会の食卓作法であったわけです。
化粧ルネッサンス
教会の束縛がゆるんで女性達が化粧をしだしたのは、ルネッサンス=文芸復興がいちはやく始まった、イタリアでした。その中心地は、中世のフィレンツェやローマ、そして東方諸国との貿易によって富を蓄えたベニスです。
化粧品を使わなければ美しくなれない、という考えが一般化しました。化粧をしない女性は、余程変わり者と考えられました。女性の美しさをたたえた文学・絵画、そして化粧法を説いた本も出版されます。化粧品の普及にともないその需要がたかまると、東方からの輸入だけではまかないきれなくなります。ベニスやゼノアの薬剤師や香料商のなかに、原料を取り寄せ化粧品を製造する者が現れました。
仏・英への伝播
イタリアのこってりとした化粧法は、16世紀になると、フランスやイギリスに伝わります。イタリア風のお洒落をフランスに伝えた貴族の一人は、16世紀にフローレンスの都市貴族メディチ家から、後のアンリ二世の妻として嫁いだ、カトリーヌ・ド・メディチスです。彼女はフランスの宮廷に、香料、化粧品、シャーベット、リキュール、パラソル、ハイヒール、仮装舞踏会といった、ハイカラな事物や風俗を紹介しました。
16世紀になると、イギリスに化粧法が伝わります。お洒落の筆頭は、エリザベス一世です。繁栄したイギリスを統治した彼女の贅沢には、金に糸目がなく、外国の流行品と化粧品をとめどなく取り入れました。女王は厚く白粉を塗っていたので、その感情はくみ取れなかったと伝えられます。
女王の化粧法は、宮廷の他の女性へと浸透しました。こうして念入りに顔をつくるさまは、17世紀のはじめに「メイク・アップ(メイキャップ)」という英語のことばが生まれるきっかけとなりました。
化粧と共に、付け黒子、お面、マフラーなどお洒落の道具立てが拡がりました。16世紀には、プロの美容師が多数生まれました。かれらの仕事は、皮膚に静脈を描いたり、眼をパッチリと引立てたり、髪の毛を染めたり、 頬を赤くしたり、胸を硫黄で白くしたり、歯を白く染めたりすることでした。
化粧水
18・19世紀になり、蒸留法が一般化すると、さまざまな花の精油・オットーが作られるようになります。アーモンド、茴香、西洋松、シトロン、胡瓜、ユーカリ、ホップ、ラベンダー、レモン、はっか、オレンジ、アイリス、薔薇、サルビヤなど、いろいろなオットーが造られました。これらと前後して、今日の化粧水の源ともいわれる「ハンガリー水」が生まれました。これは、アルコールに南欧原産の薬用芳香植物のエッセンスを加えたものです。しかし、それは、18世紀半ばに登場したオーデコロンに王座を奪われます。
オーデコロンの起源は、はっきりしません。一説に、ポール・フェミニというイタリア人により、ドイツの都市ケルンで調合されたのがはじまりと言われます。主成分はイタリヤの柑橘油、橙、レモン、ベルガモットにラベンダーを加えたものです。それはハンガリー水のように単一の香りでなく、いろいろの香りを調合した点で画期的なものでした。
はじめ、この化粧水には「ケルン水」というドイツ名がつけられました。しかしイギリスやフランスのお洒落な連中には受容されず、フランス語で「コロン水」に改名されます。ドイツの町ケルンは、フランス語で「コロン」。「オー」はフランス語で水。従って、「オーデコロン」は「コロンの水」すなわち「ケルンの水」という意味です。
コロン水は、7年戦後でケルンの町に駐在したフランス兵の間で特に評判となり、彼らは母国にそれをひろめます。歴史上に名高いオーデコロンの愛用者は、フランスの皇帝・ナポレオンです。ナポレオンは、オーデコロンを首や肩にふんだんにふりかけ、毎月60本もの瓶を空にした程の愛用者でした。ウオータールの戦いに敗れる少し前、ナポレオンはフランスの香水商の老舗Houbigartchardinに沢山のオーデコロンを注文しました。この会社には、ナポレオンからの注文書と彼が使っていた香水入れと香炉が大切に保管されています。
新大陸の発見、交通の発達、美的観念の向上、経済力の増加など、種々な要因により、化粧は近世になると急速に全世界に普及しました。
化粧行為
我々は美容のためのみでなく、色々な機会に様々な目的で化粧をします。自然環境から身を守るため、宗教的目的のため、快楽のため、個性や地位や身分を顕示するため、敵から身を隠したり敵をおどしたりするため、職業上の理由で、異性の気を引くため、スポーツや芝居やお祭りに際して、自己満足のため、衛生のためと、その理由もいろいろです。人の誕生、結婚、死という人生の通過儀礼にも化粧はかかせません。
化粧の対象となる体の部分や、化粧法もまちまちです。顔・手・足・体・爪・髪に、いろいろな粉・液体・軟膏をふりかけたり、塗ったりする。これは世界に普遍的な人間行為ですが、時と場所によりその内容はまちまちです。
化粧をすること。それは人を単なる「生物としての存在」から、思考し、創作し、美を追求する「人間」としての意識を高めるものといえそうです。化粧は、地理学をたしなむ者にとっても興味ある文化行為です。
むすび
今日は「化粧」というテーマを、人の身体に結びつけておはなしいたしました。
ただ、我々個人の存在は、ちっぽけなものです。ある場所に生まれ、その生活環境のなかで生き方を学び、喜怒哀楽を体験して消えてゆく流れ星でしかありません。ですから、個人の化粧を限られた視野でみなせば、はかない一時的な行為といえるかもしれません。
しかし視点をかえれば「肌を保護する、美しく粧おう」という、化粧のテーマは、環境保護という問題にも結びつきます。熱帯雨林の皆伐、砂漠化の進行、水源地の枯渇、オゾン層の破壊、地表のコンクリート化という現象は、急速に進んでおり「地球の素肌を保る」ということは、人類に課された「化粧行為」といえましょう。
また、ここ京都の住人にとっての身近な問題の一つに、「未来に向かっての京都町づくり」という課題があります。化粧というテーマから、皆様が「京都にふさわしい町化粧」への関心をもさらに深め、この美しい都市を明日にむかって発展させて下さることを祈って、今日の私のつたないはなしに終止符をうちたいと思います。

役者の一生

 

沢村源之助の亡くなったのは昭和十一年の四月であったと思う。それから丁度一年経って木村富子さんの「花影流水」という書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載った源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘(そのまま)載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出している。成程、源之助は写真にうつるのが上手であった。と言うのは彼の姉が―縁のつづき合いは知らぬが、日本の写真商売にとっては、大先輩だった―伊井蓉峰の父親の北庭筑波の門に入って写真を習い、新富町に塙芳野という表徳で、写真屋を営んでいた。そういう関係で源之助は写真のぽうずを自分で、取ることが得意だったのである。
河合武雄が最近亡くなったので、これで河合の芸風も消えるであろうが、この人は源之助の芸の正統を新派畠に打ちこんで継いだ形になる人である。父親は地位は低かったが、源之助とよく一座した大谷馬十である。河合は若い時旧派の役者になろうとして(外の事情は知らぬ)大阪に奔(はし)り、その前後大凡(おおよそ)源之助の影響を受けて了った。河合の動きや、きまり方には、晩年迄源之助の気合いの入れ方が働いていた。ともあれ源之助の格を一番正面から取っていたのは、河合であっただけに、源之助が死に、河合がこの世を去った今日、源之助の芸風の絶えて了うだろうと言うことが、しみじみ感じられる。
源之助の時代は四十年位続いたが、その間悪婆即、一口に言うと―毒婦ものが彼の芸として通った。ああいう芸は模倣し易い訣(わけ)だが、どういう訣か、此きりで無くなり相だ。源之助の名を継いだ五代目はまだ若いし、先代市川松蔦(しょうちょう)よりは融通はきくが、まだその年にも達していない。器量はもっと、あれを悪くした顔で、悪婆ものには、第一条件が、欠けている。悪婆は背が高くなくても、そう見える姿で、顔が美しく、声の調子のよい、まともに行けば、江戸の下町女房を役どころとする風格を持っていなければならぬ。
次に源之助の芸は、どこから来ているのだろう。第一は五代目菊五郎から出ている。菊五郎は立役の方でも、源之助に影響を与えているが、女形の方の影響を殊に多く与えた。芸の固まる時分に一番菊五郎の相手もしたし、芸に触れた為である。処で、菊五郎の方は、女形の芸は誰からとったかというと、それは沢村田之助だろう。田之助の舞台をよく観察していて、それをよく補正した人である。一体尾上家は江戸へ来た始めから、上方の女形として下った家柄である。五代目が田之助或は先輩の岩井半四郎などの芸をよく見ていたのは、尾上家の伝統を正しく襲(つ)ぐ者であった。一つには、九代目団十郎に対抗する為には、団十郎の為難(しにく)い所に出ねばならぬという事情があった。団十郎は、女形にはまず、極度に不向きであったからである。
源之助は生涯自分の持って生れた容貌や才能に頼み過ぎて、血の出る程せっぱつまった苦しい勉強をしなかった替りに、そういう菊五郎の影響が出て来た。彼の身についているものといえば、五代目の型ばかりであった。しかし容貌から言えば、五代目よりも、源之助の方がずっと好かったに相違ない。しかも五代目の忠実な模倣者というよりは、感受した印象を分析してばかりいた人であった。
源之助の出身は、大阪島の内の南西の端で、明治元年には十歳になっていたであろう。木綿橋の近所である。一方、浜側には此時分二三の興行物が出ていた。その近所で、露地(ろうじ)があちこちにあって、芸人の住いがあった。今も宗右衛門町にある、富田屋のお勇が生んだのだ、というのは確かだ相である。島の内船場の大檀那(おおだんな)の生ませた子ということになっているが、源之助の容貌を見ると、大阪の中村宗十郎とどうも似て、下顎(したあご)の少し張った美しい顔をしている。一体に芝居者は、色町で誕生する子同様、親子の関係が薄いのである。私には宗十郎の子らしい気がしてならぬ。宗十郎は九代目に対しては、東京へ来ても同格で、自分から屈しなかった人であるが、この人が源之助を目にかけ、一人前の女形にしようとしたのである。
生れたのは大阪であったが、源之助は小さい時分に東京へ来て、その当時の源之助(三代目)の子になり、沢村家のよい名である源平を名のった。初舞台が明治三年十二歳で、「夕霧伊左衛門」の吉田屋の娘という役で出た。役らしい役をしたのは、十四歳の時の「明烏」のゆかりで、余りにも役が平凡すぎるが―これには声がわりか何か事情があったのだろう。この時、田之助が浦里で出ていた。田之助も、身辺にいたのであるから、源之助の芸は菊五郎の芸ばかりの模倣ということにはならなかったであろうが、事実は田之助には、接触が少かったのである。明治十一年二十歳を越しても、源之助はまだ粒立たぬ役をしていた。団十郎・菊五郎など役者揃いの千本桜の時に、立女形の岩井半四郎の替り役として、木の実の小せん、鮨屋(すしや)のお里をした。これで、始めて出来(でか)したという評判を得た。出来るといっても、容貌が問題になるので、源之助の場合は恐らく容貌や、姿が助けていたろうと思う。その後明治十五年になって、二十四歳で改名して養父の源之助を襲名した。(源之助という名は、中村・三桝(みます)にもあったが、今では皆消えている。)彼は二十四歳から死ぬ迄この源之助で通した。改名するだけの興味を持たなかったと言うより、又する機会もなかったのであろう。大変長い源之助で、丁度大阪の鴈治郎(がんじろう)が若い時の中村鴈治郎から始って、死ぬまで鴈治郎で通したのと同じである。尤(もっとも)、鴈治郎は歌右衛門をつぎ損ったことにもよるのだが…。
明治十二年七月の夏芝居に、五代目菊五郎の弟の坂東家橘―これも働き盛りに死んで、芸は大したことはなかったが、気分のいい役者であったらしい―その家橘が上置きになって、福助(後の歌右衛門)を始め数人の花形が集った。この時、源之助は一番目に妲妃(だっき)のお百という大役をしている。この芝居の殺し場は、女一人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。それを二十を越したばかりの源之助がお百になって出るというのは、容貌や姿を認められてなったものと言われている。芝居道では何といっても家柄が大事で、沢村の中でも源之助はわるい名でないが、何となくりゅうとした印象のない名になっていた。源之助は沢村宗家の印を伝えていたというが、此は後、宗十郎に譲った。源之助は沢村の流れでは重い名であるが、この妲妃のお百をした時が、殊に役の一番いい、幸福を予約せられた時代であった。相手役は家橘であるから、大変出世したものである。
これからだんだん大きな役者の女房役をするようになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた。その因縁で、この間死んだ左団次とも、関係が深かった。菊五郎の女房役をしていた間は、源之助は自分の身体に合ったものを、自由に出して行けた。団十郎になると、女形は大分辛かったらしい。団十郎が活歴物をするようになり、黙阿弥の裏に居た桜痴が表面に出て来た時代が丁度源之助の青年から壮年の頃であったから、生憎(あいにく)なものと言えるだろう。彼は団十郎に跟(つ)いて行かなかった。活歴は演劇史上の邪道ということになっているが、私は世間の人のいうよりは、この活歴に面白いものを感じている。源之助としては、この時に十分研究すべきであった。彼は、舞台も生活も、昔の儘(まま)の役者型で押して行った。明治十七・八年頃から東京を去る二十年頃迄が、源之助の一番盛りの時であった。源之助の競争者といえば後の歌右衛門、当時の福助であるが、彼は上品ではあり、芸もすなおであるが、色気の点では、源之助の敵ではなかった。であるからその儘で行って居れば歌右衛門よりも高い地位にも上ったであろう。
役者というものは、風格が具(そなわ)って来ると、丁度今の羽左衛門のように、気分で見物人を圧して行く。それは容貌に依ってである。役者は五十を過ぎてから、舞台顔が完成して来る。芸に伴って顔の輪廓(りんかく)が、人生の凋落(ちょうらく)の時になって整って来る。普通の人間なら爺顔になりかけの時が、役者では一番油の乗り切った頃である。立役はその期間が割に長い。羽左衛門が今の歳になって、あれだけの舞台顔を持っているのを不思議がるのもよいが、これは不思議ではない。羽左衛門の顔は少し尖(とが)った顔である。あの人は自分の顔にとげのあることを最初から認めていたからよいのである。立役はそんな具合で少し頬骨が出て来てもよいが、女の役はもう堪えられない。従って女形は割合に早く凋落する。三・四十ではまだ舞台顔はよくない。よくなったと思うとすぐに終りである。
源之助は盛りの時に大きな、役者としての生活に誤りをしている。源之助が大阪へ行った理由をあらわに言い立てるのはまずいという遠慮もあったかも知れぬが、伊原青々園の仮名屋小梅(花井お梅)を源之助は自分で演じている。しかもこの事件が、彼の大阪行きの一番の動機であった。「花影流水」には菊五郎について大阪へ行き、鴈治郎に止められてその儘大阪に残ったのだと言っているが、そう言う風に伝えている理由もあるのだろう。大阪へは中村宗十郎を頼って行った。その頃は角の芝居が格が一枚上であった。次が中芝居。彼は其後、道頓堀には五つ櫓(やぐら)が並んでいたが、其処に相応に久しくいた。一座は、中村時蔵(後、歌六)市川鬼丸(後、浅尾工左衛門)などであった。さながら後の宮戸座組である。源之助の朝日座でした中将姫の顔を私は見たのを憶えている。中将姫は田之助の芸であったから、謂(い)われがない訣(わけ)でもない。自分の芸に合わなくても、傾倒している人の芸はしたのである。この時、私は尋常三年の頃であったが、「朝顔日記」の浜松非人小屋の段も見た。これは乳母の浅香が悪者と戦って死ぬ場で、これを源之助がし、非人小屋の前で戦っていたのだけが記憶に残っている。中将姫の時、奉納した額の若顔の彼の中将姫のおし絵を、後、当麻寺で発見して懐しかった。源之助はこの朝日座を中心として五年間程居て、二十九年ほとぼりのさめた頃、東京へ帰って来た。不思議なことには、残菊物語で御存じの菊之助が詫(わ)びがかなって大阪から戻って来たのも、やはり二十九年であった。この間に福助はうんと延び、ずうっと後輩の尾上栄三郎(後の梅幸)も相当の役をする様になっていた。
東京に帰って来てした芝居が我々には面白いが、「続々歌舞伎年代記」を見ると、この頃は壮士芝居が相当に纏(まとま)って来て、山口定雄が「本朝廿四孝」をしていた。源之助はここで腰元濡衣、橋本屋の白糸をした。杉贋阿弥の劇評は元来余り讃(ほ)めぬ方であるが、橋本屋の白糸は絶技と讃(ほめたた)えている。源之助のような出たとこ勝負の役者には時によって、つぼの外れる所があるが、生世話物(きぜわもの)だと成功する率が多い。生活が即舞台となることが出来るから。そしてこの評判が源之助の芸格を狭める結果になった。遥かの後昭和十二年十一月明治座に久し振りで鈴木主水(もんど)の芝居が出た。主水が宗十郎、白糸が時蔵であった。源之助は晩年今にも死ぬか死ぬかと思っていたので得意芸を演(や)らせたらばいいにと思ったが、興行者の見徳とでも言うかどうも変なもので、実現はしなかった。五人廻しというものを鈴木主水の劇の中に取り込んである。源之助は通人の役をした。時蔵に白糸をさせ、自分はこの役で出、これが源之助の名残芝居になったのであるが、明治二十九年に自分が橋本屋の白糸をした時を思えば、その間に四十何年の年月が経って、のんきな役者かたぎにも嘸(さぞ)何とか感じたであろう。
さて源之助が大阪から東京へ帰った頃は、歌舞妓(かぶき)芝居では、既に次の時代に移りかけていた。吉右衛門・又五郎(中村)などの「ちんこ」芝居(子供芝居)が出来たのもその頃だ。明治三十年源之助は団十郎の招きに依って、久々に歌舞伎座へ出て、桜痴作の「侠客春雨傘」に出演した。この芝居は助六と同じことを吉原でする芝居で、葛城は福助、丁山というきゃんな遊女の役を源之助がした。この時のことを伊原青々園が早稲田文学に書いた。当時福助は活歴の影響が満々とあるから品のよい遊女となり、源之助は間違えば宿場女郎というような風に演じた。福助は気位益高く上品になって、世話の遊女は久しくせなくなった。
源之助はその芸格から見れば、いくらでも出世する場合に立ち、彼でなければ出来ぬ役柄も多かったけれども、出発点に禍(わざわい)される所があったと思われる。一体源之助という役者は上方で為込(しこ)んで来た芸を演(や)ると非常によく、また正確である。であるから大阪で源之助がもう少し揉(も)まれて来ればよかったと思う。元来時代物をおろそかにして、その時の出たとこ勝負の世話物に専門(?)になったのが弱点であろう。源之助はもっと、時代物を身を入れてやればよかったと思う。大阪うまれが東京へ来て東京らしくなったというが、大阪へ戻って身につけて来た芸が、ぴったり合っていた。太十の操(みさお)をすると、自由にくだける所があるが、輝虎配膳の老女(越路)などの役は非常に苦しんでいる。彼は顔を見ても悪婆という感じはせず、瞳が黒い上に、上品な顔の輪廓(りんかく)を持っている。田之助亡き後に年少の源之助が妲妃のお百をして評判がよかったというほんの一寸したことから、誤って悪婆役者として一生を過したのだと思う。
源之助に就いては、もう一方に立役の話をせねばならぬ。年をとって女形としては衰えても、立役では綺麗(きれい)であった。源之助が立役をするようになったのは、明治二十九年以後のことで、これも大凡(おおよそ)菊五郎の芸を見ていて、それを模倣している。源之助の立役でよかったのは吉田屋の伊左衛門などで、こういう芝居では古い菊五郎というよりは、年齢では少し先輩であった片岡仁左衛門の影響を何か受けているのではないかと思う。
結局田之助や菊五郎の影響を受けたことが、源之助を運命的に芸質を退転させた。とまれ源之助は、生世話物の調子のよさでは、近頃第一の人であろう。声はわるいが、うらがれ声で芝居道での所謂(いわゆる)よい調子であった。  
切られお富の薩(さった)峠の場の科白(せりふ)に「お家のためなら愛敬捨て、憎まれ口も利かざあなるまい」というのがある。この科白は女形の或特性を表していると思う。
最近私は尾沢良三氏の女形論を読んで、いろいろ得るところが少くなかった。併し私としては、尾沢氏の考えと関係なしに語りたい。女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のような美しい役者は今までなかった、と市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙(つたな)さという事もあろうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かった。岩井半四郎などは美しかったというけれども、どの程度だったかについては、多分に疑問が残ると思う。例えば、最近死んだ坂東秀調は美しい女形であったが、その先代の秀調は団菊の相手役をしたくらいの女役だったが、器量は決してよくなく、青い顔をして、真中にくくれがあった。大阪の実川正調も名女形だったが、でぶでぶ肥って融通の利かぬ女形で、いつも三十代の女房、武家女房しか出来ず、東京の秀調よりはまあましであったが、美しくはなかった。今の市川男女蔵の養父で女寅から門之助になった役者、これは出雲から出て上方芝居に入り、更に団十郎によって相当な地位になったが、これもみっともない役者で、どんな芸をしても美しくは見えなかった。こんな連衆が立女形であったので、鴈治郎附きの老女形で居た市川莚女などは顔の造作に異状はないが、まあ綺麗でない。それに体恰好(からだかっこう)も男性的であった。雀右衛門になって死んだもとの芝雀にしても、顔はよくなかったが、役柄に融通が利き、美しく見える瞬間が多かった。これは本来が娘形であったし、常の心がけから、美しく見えることがあったのである。先代の菊次郎も此仲間である。こんな連衆が昔の女形で、その他一般に女だか化け猫だかわからぬ汚い女形が多かった。
この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑(けいべつ)されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧(むしろ)、恥じてよい美しさである。
昔の美しさから謂(い)えば、生地の美しさの見すかされるのではいけない。今の仁左衛門なども、あの素顔のよさがいけないのだと思う。地と一処にその上に作りの美しさ、其以上に鍛錬によっての美しさが見えなければいけない。つまり芸が美しくなれば、姿も美しく見えるといったようなものである。今の女形は概して美しいが、美しくない女形も立派に存在し得るものであることは、日本の歌舞妓の為に大きく言われてよいと思う。そういうことによって、見る方の見物も、見られる方の役者も、芸の上での張り合いが出来る訣(わけ)だ。
写楽の絵に表れた女形の醜さは、絵に描くときに隠し切れぬ、男の「女」としての醜さである。写楽はそういう女形の醜さに非常な興味をもって、ああした絵をいくつも描いたのだと思う。併しあれは決して誇張ではないので、上方芝居の女形、其に上方の芝居絵は、容貌・体格ともに実に写楽を思わせるものを持っている。
要は、芸によって美しく見えるということが、平凡でも肝腎(かんじん)なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思わせるということに対しては、条件をつけて考えねばならぬと思う。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違った男である。そうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であってはならないのである。それだからこそ、松蔦のような女形では、そぐわないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れていたからよいけれど、あれがもっと前だったら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかったであろう。
東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になった。亡くなった歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになって化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂(い)わば邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があったからでもあるが、それを又人々が喜んだのだった。思えば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのように、素に持っていた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持って居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作ったので、一つは晩年体も次第に利かなくなったことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になった。だから歌右衛門という役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思う。梅幸も美しい女形であって、その唯一つの欠点は下唇の突き出ている事だけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあったのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。こうして美しい東京の女形は、女優にだんだん近いものになってしまった。
だが大阪には今に、きたない女形がいる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といっても今の中村梅玉であろう。
政治郎時代の梅玉が明治三十年に東京で八重垣姫をした頃の美しさなどは、素晴しいものだった。一体に東京の芝居に出入りする連衆は大阪芝居を非常に軽蔑(けいべつ)していて、大阪というと何でもけなしつけるのだが、その自信の強い東京の見物も、是だけは文句なしに参ったのである。尤(もっとも)、最近の娘形は、薹(とう)が立つ以上にすさまじいものになってしまったけれども。
これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落(ちょうらく)時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又歌舞妓(かぶき)芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろに芝居を作ってしまうようなところがある。だから女形の顔の美醜などは、以前は、それ程大した問題にはならなかったと言えると思う。今の映画俳優にも、此は大いに共通の事実がある。東京ではこの源之助のように素顔もよく、舞台顔としては殆完全な女形として、その源之助の前の沢村田之助も有名な美しい女形であり、更に岩井半四郎も眼千両と謂われた役者である。江戸の女形は早くから美しくなった傾向が考えられるのである。源之助の美しかったことに就いては、明治三十五年上演の「小笠原騒動」のお大の方という草刈り女から大名の愛妾(あいしょう)になったという女に扮(ふん)した時の批評に、贋阿弥の「国を傾ける艶色という柄にははまりました」とあることによっても窺(うかが)われる。そしてその美しさは、毒婦型・悪婆型の女形としては極めて適切だった。田之助・半四郎の後にその代りになるには源之助よりほかになかった。
前に言った通り源之助は若い時分から、「妲妃のお百」をやらせて、人々が田之助の幻影を見て喜んだという歴史を持っているのもそのためであった。これは明治六年に書かれた脚本で、元来田之助のために書かれたものなのだが、田之助の後、三津五郎を経て、源之助がさせられたのである。江戸末期に絶えんとした毒婦型・悪婆型を、一時、間に合せに源之助がさせられたのだが、それが源之助の役柄を決定してしまったのであった。こうして源之助は人々の渇望に応えて華々しく世に出たのであるが、それは又一面彼にとって不幸なことでもあった。
昔から歌舞妓芝居は女形の演ずる女を、悪人として扱っていない。立女形や娘役には、昔から悪人が少い。昔の見物は、悪人の女を見ようとしなかったのである。其処に、新しい領域が江戸末期に発見された。舞台の女が悪いことをするということは、つまりそれだけ相手役がいじめられることで、それを見物の方でも自分自分に感じて楽しむという―まあ訣(わか)り易くいえば一種のまぞひずむだが、これが源之助の芸の場合には大切な解釈であったのだ。これは又、女形の領域が広くなったことで、江戸歌舞妓にとっても大事なことであった。
一体女形は人間としては存外善人ではない。例えば敵役も、立敵の役のようなものは立役と並んだ大役であるから、舞台の上では重々しくて、やたらに打ったり叩いたりへらず口をきいたりすることはない。紳士であって立役と択ぶ所はない。ところが端敵になると、それはそれはいろいろな憎むべきことをする。併し舞台以外ではまるで愚人と同様で、例外なしに善人である。それと同じ訣(わけ)で、元来舞台の上では善人である筈の女形が、実生活では存外悪人である。
端敵役の善良さ加減というものは、実に呆れるばかりで、実際どれもこれも例外なしに人が善いのである。これは舞台で始終憎らしい役ばかりするから、その反動で実生活上でそんなになるのか、と私も思ったが、実際はそうでないようである。つまり、彼等が知識的に、殆零に近い点で、まあ一種の愚人なのだろう。そういう愚の善良さだと思う。
女形はまず第一に口うるさいのは例外なしで、喧嘩(けんか)早い者がいる、意地の悪い奴がいる、酒癖の悪いのがいるといったあんばいで、ねちねちした女としての悪さも兼ねている。それと男の悪さも加っているという訣なのだ。ところが舞台では善人ばかりだった。そして却(かえ)って毒婦型・悪婆型の女形である源之助などは善人だったと思う。殊に晩年の源之助は、実にあきらめきった解脱し切ったような、玲瓏(れいろう)な人柄になっていたらしい。
尤、此は女出入りとは引離して考えられなければならない。花井お梅などは源之助のためにどうにもならない羽目に陥れられた女であり、その他にもいろいろそうした女出入りはあるけれども、そういう軽薄さというものは、昔の役者の集団式な性格なのだから、その点で源之助だけが所謂(いわゆる)棘(とげ)を負う、の訣もない。
つまり彼は真女形(まおんながた)でなかったから、善人だったといえよう。
歌舞妓芝居では世界とか時代とかいったものは、大きく分ければ四つになってしまう。王代物(入鹿や鎌足などの極、古い時代のもので、従ってその表すところの生活が宮廷に近いもの)・時代物(よろいかぶとの源平の時代を中心とした、それと同じ服装のもの)・お家物(現代ながら芝居の観客や役者たちの生活とかけ離れた大名などの生活を描いたもので、便宜上多少時代を離してはいる)・世話物(純粋の現代のもので、市井の生活に取材したもの、個々に分離した立場に於ける武士なども出て来るが、主として観客や役者の日常生活に最近い下町生活を描いたもの、稀(まれ)には農村生活もあるが)の四つで、これだけで役者のものの考えというものは出来ていたのである。
元来善人ばかりの女を出している歌舞妓芝居だが、時代物・世話物のうちには、悪の分子を持った女が古くから少しずつは出ている。大名の家庭に於ける継母・後室のような役は安っぽい役者には出来ないので、自ら相当地位のいい役者がするのだが、例えば「※(ひばり)[鹿+鳥]山古跡松」の中将姫をいじめる岩根御前などは普通立女形の役である。又「浅間岳面影双紙」の時鳥という浅間家の妾(めかけ)が、瞿麦(なでしこ)という老女に殺されるのだが、その時鳥を菊五郎がすれば、瞿麦は団十郎が勤めるというようなものである。悪人の女を含まぬ歌舞伎(かぶき)芝居も、ずっと昔からある悪女を改めて善人にして出すということは出来ないことであるし、又そういう妬婦(とふ)のあることによって善人の女が更に引立つのである。お家物になっても、お家騒動の原因は多く女で、例えば後妻が夫の眼をぬすんで男に会うところを継子に見つけられ、それからいろいろの悪いことをするというようなものは昔からある戯曲上の類型であり、説経浄瑠璃(じょうるり)にもあるもので、これは変えられない。それでそういうものが繰り返されているうちに或特別な女の性根が出来る。それがまあ「女武道」になるのである。私は源之助は一番「女武道」にかなった役者であると思う。例えば「ひらがな盛衰記」のお筆のような役は割にしどころの少い役で、十分発揮出来ない憾(うら)みはあったにしても、源之助にうってつけのものだと思う。
「女武道」は正義で、又時としては武芸に達し、容貌もいい中年の女という立女形の役である。女形が勢力を持って来て、芝居の中心になって、主役をしなければならなくなった場合、「女武道」の必要が起って来るのである。又昔の芝居は仮りに午前に時代物をかけたとしたら、午後は世話物をするという風だから、時代物が武道なら、世話物の方でも武道を出したいという要望が起って来る。こうして世話物の「女武道」としての「毒婦・悪婆」というものが出来て来る。
芝居の正義というのは道徳的な本道の正義でなくともよいので、何にしても鬱積(うっせき)した気持ちを打ち払う様な華々しいものが、正義になるのである。今までおとなしい一方のものにきめられていた女というものが、乱暴してみせるということでもよい。又立廻りはしなくても、殺人だとか、男を自在にあやつるとかいうことでもよい。とにかく自分たちの胸が透けばそれでよいので、そういう正義が武道の範囲に入るのである。こういうところから毒婦・悪婆というものも出て来るのである。切られお富の科白(せりふ)「お家のためなら愛敬すて憎まれ口も利かざあなるまい」というのも、女形としてあるべからざることを演じるのも、忠義のためだから為方(しかた)がないという断りをする。ここで毒婦をしても、常に女形本来の性質である善人の反省に還(かえ)っている。
悪婆というと、その文字面は老人のことのようだが、若い女のすることなので、たんかをきったり女白浪(おんなしらなみ)になったり、かたりやつつもたせをしたりする。元来上方の花車方、江戸の婆方にある性質で老人のものには違いないが、それが永い間の習慣で語だけ残っても、若い役になったのである。
これは花車がやりてになるのと同様で、やりてとさえ言えば、廓茶屋(くるわぢゃや)の引手婆を意味するようになったが、もとは若い女房であったのである。これらの変化も併し、そう古くからあった語ではないだろうとは思う。
男の沢山いる中で、それらの男を翻弄(ほんろう)する女が出て来て、これが毒婦・悪婆の訣(わけ)だが、そうは謂(い)っても毒婦・悪婆の範囲は広いのである。例えば、源之助がよく演じた「鬼神のお松」(初演明治二十六年)の様な英雄型の女も毒婦・悪婆だが、又「蟒(うわばみ)およし」の様な少しも悪いところのないのも悪婆で、「女団七」のお梶の様なのも善人なのだが、やはり悪婆の型に入るし、実に多種多様なものである。田之助・源之助などがすれば、今までに型の決っていない役は、毒婦型・悪婆型になってしまうという傾向は非常に顕著である。
源之助は娘役をしたことが少く、その点大阪の魁車と同様であった。魁車は十八くらいから女房役をして、それで評判を取った人である。
でも若い時にはよくしたのであって、明治十七年「手習鑑」の道明寺の場の苅屋姫で評判をとったし、明治二十四年にした「妹背山」のおみわの役などは、饗庭篁村が「源之助のおみわ本役とて座の光をまし舞台も広く思はれたり云々(うんぬん)」と批評している。四十代以後の源之助にはありそうにも思われぬ激賞ぶりで、而も娘役を本役として認めていることは注目さるべきであろう。
今の歌舞妓の本流は竹本劇、つまり浄瑠璃劇にある。これが本道に出来なければ、歌舞妓役者としては本格でないと言われねばなるまい。源之助はその若い時にはこのように本格の竹本劇が出来たのに、次第にそれから遠ざかって生世話物(きぜわもの)に移って行ったのである。役者として己を鍛錬するための本道から遠ざかったことは、源之助一代の痛恨事であったと思う。
歌舞妓芝居もこの頃では、「古典劇」などと書かれているのを見受けるが、どうもぴったり来ない感じで、今の若い人々には歌舞妓芝居のようなものも古典劇に見えるのかも知れないが、歌舞妓芝居を人生ほど見続けて来てもやはり、どうしても歌舞妓芝居が、げすな猥雑(わいざつ)な感じがしてならないのである。本道の歌舞妓芝居がどれ程までに古典化されたかはまだ疑問だと思うのである。  
次に源之助のもっている先輩について、まあ模倣原型論といったようなことを考えてみたい。
源之助の先輩は、女形の先輩も、立役の先輩も彼にとって有難いものではなかったと思う。例の花井お梅の事件で、明治二十年から五年くらい大阪に逃げて行っていた間に覚えた芸が、一番本格的なものであった。例えば「夏祭浪花鑑」の徳兵衛の女房おたつの如きは本格的であった。東京で彼が最、影響を受けたのは、田之助・菊五郎の芸だが、彼の直の先輩としてはこの田之助くらいしかなかった。田之助は同じ沢村家の先輩でもあり、当時最評判の高い女形でもあった。だから源之助が田之助を学ぶのは、極めて当然なことで、その前の岩井半四郎と田之助の娼婦(しょうふ)式な役柄の方面が、彼に力強く保たれたのである。
毒婦が認められるようになったのも半四郎からで、「三人吉三」のお嬢吉三のようなものは、もともと半四郎のために書いたもので、後に菊五郎のものとして盛んに上演された弁天小僧などと同様、半男女物と言うべきだが、まあ傾向から謂えば、悪婆物である。
これらの半四郎、殊に田之助のしたことを、源之助がいくつもしている。田之助は何も毒婦・悪婆ばかりした訣ではなかったが、その毒婦型・悪婆型が世人に残した強い印象というものが、田之助の死後までも世人は繰り返させようとしたのであって、源之助がそれを踏襲してその穴をうめるのは当然の勢いのようになっていた。で「廓怪談敷島物語」だの「妲妃のお百」だのというものは、みな田之助・半四郎系統の女形の芸なのである。
源之助に一番困るのは、五代目菊五郎に接近したために、菊五郎の芸をすべて取り入れなければならなくなったことである。一体先代の菊五郎は実に芸の範囲が狭そうに見えて実は広かった人で、元来立役だが、女形も随分したし、それを源之助がほぼうつしているのである。
今の菊五郎も近頃になって、その家の芸たる女形をして、あの肥った身体でよく一つの面を拓(ひら)いている。踊りの場合は、断篇としては実によい女を表現する。併し、何と言っても真女形(まおんながた)にはなれぬ。先代と比較して今の菊五郎という役者は、役柄の範囲が広い様に見えて、実は狭い役者である。
所作事(しょさごと)は源之助の得意とするところではないので、先代菊五郎が、「茨木」「戻橋」「土蜘蛛」など沢山の所作事(しょさごと)をしているのはうつさなかった。けれども役者である以上、全然踊らぬのではない。踊りを出し物にする役者が、外にあったと言う訣(わけ)なのだ。又その他にも村井長庵だの、加賀鳶の按摩道玄などの、色めいたところの少しもない悪党役は源之助の演じないところであった。つまり気のよい役はしたが、気の悪い役はしなかったので、尤(もっとも)、それには一部分は源之助自身がしようとしても興行師の方がさせなかったというところはあろうけれど、役者として色気があり過ぎたと言えるかも知れない。菊五郎の芸は市川小団次の芸を移しているので、つまり写実的な生世話(きぜわ)な狂言が多いのだが、それを源之助が継承したのである。そして源之助は、自分の柄に合わないものまで随分している。切られの与三郎や清心のようなものを継承するのは、少しも怪しむに足らぬ至極当然なことだが、場合によっては唯菊五郎がしたからするというだけでするような、源之助自身の柄を考えないところの役もずいぶんある。例えば「四千両小判梅葉」の野州無宿の富蔵・「牡丹灯籠」の伴蔵・宇都谷峠の文弥殺しの十兵衛などがそれで、唯菊五郎がやったからやるというだけのことで、もともと源之助の柄にない役である。
源之助が頻(しき)りに立役をしたのは、明治三十六年五代目尾上菊五郎が死んだ年あたりからである。これは田之助の継承を無理にもさせられた時とは対踵的(たいしょうてき)に、自分からすすんでしたものだった。四谷怪談のお岩・播州皿屋敷の侍女お菊・「恋闇鵜飼燎」などの怪談物で、菊五郎のした女形を可なり克明にうつして、それには成功している。一体彼は容貌風采(ふうさい)がいいので、何をしても一通り見られるものになった。
歌舞妓(かぶき)芝居の役者には一体にそういうところがあるので、今の十五代市村羽左衛門が本道に立派な芸を見せて来たのは、最近になってであるし、それまではただその美しい容貌、きゃしゃな風采だけで持ちこたえて来たのである。今の松本幸四郎なども、ひとえにあの立派な容貌と、堂々たる体躯(たいく)に頼っている。最近故人になった市川左団次も同様である。
源之助の演技について考えてみると、いつも彼の芸はその場その場のもので、極端にいえば稽古(けいこ)など一向しないで、舞台でしているうちに、その場その場に美しい型がくり出されて行くといった様な迷信を持っていた様である。つまり役を確実に把持しなかったということ、又自分の芸に対する反省の足りなかったこと―それらは源之助自身が持っていた外的な天分が豊富でありすぎたために、彼自身もそれに頼りすぎて真剣な勉強をしなかったことによるものであって、そこに彼の最大の欠陥があったようである。
晩年の源之助が不遇であったのは、今述べたような彼の欠陥が禍(わざわい)したのだと思う。勿論彼も随分借金に苦しめられたことだから、そのために苦しまぎれに小さな芝居小屋に出ることになったわけだが、もうどうしても大芝居に根をおろさなければならない頃になっても、歌舞伎座に帰れず、浅草あたりにいつまでも流離しなければならなかったのである。源之助は上達して名人になるためには、煩いになるようなものを余りに沢山持ちすぎていたのであった。今日になって源之助という役者を考えてみると、成程源之助は名人にはならなかっただろう。だが、あれだけの印象を我々に残している人であってみれば、唯の人物ではあるまいと思われるのである。結局、源之助のもので一番残って行くものは、吉原その他の色街の太夫・遊女であったろうと思う。だが、其が彼の素質的なものかどうかは断言出来ぬのである。でも源之助の遊女の定評になった頃には、もう彼がすがれた頃だった。
羽左衛門が梅幸を失って、一時源之助を相手にして、直侍三千歳を出した頃には、源之助は如何にもいい芸を見せたが、それが又如何にもすがれていた。だから動きの少い役、例えば佐野次郎左衛門に対する遊女八橋などは実に絶品だった。次郎左衛門の心はよくわかるが、自分では心にきめた恋人があるので、次郎左衛門が如何に口説いても冷然とすましこんでいる遊女八橋の冷淡さなどというものは、あとにも先にもあんな見事な八橋というものはなかった。それから女役者市川九女八のために書かれた「女大觴」や、源之助自身のために書かれた「赤格子血汐舟越」のかしくのお糸などの、女の酔っぱらいの役もよかった。そして源之助の芸の一部は、準弟子たる河合武雄によって継承されたのであった。
誰しも、自分の為事でない側の事をそそのかすあくとうに誘われると、よい気になって、つい浮かれずには居られぬものである。そうした後で、物蔭から、あれがあの男の酢豆腐さと嗤(わら)う。わらわれても為方がない。此程しゃべって見れば、無恥厚顔至極、世間を知らぬ人間だった、という自覚が起らずには居ぬ。まことに、此座談は、私にとって酢豆腐である。
 
花菖蒲発達の背景となったアヤメ文化 / 文化の中の花菖蒲

 

梅雨を告げる季節の花・稲作の指標
縄文時代末期に大陸から到来した稲作は、非常な速さで全国に普及しましたが、当時は暦がなく、季節の花が農耕の指標でした。稲作には水が必要で、雨を待つ昔の人たちは、あやめ=ノハナショウブの開花を見て、梅雨の到来を知りました。
私たち日本人は、二千年を超える昔から、桜を見て野に下り、耕して籾を播き、花菖蒲の開花で田植えの時期を知って農作に励むといった、鋭い季節感を養ってきたのです。
現在のように、安定した稲作が出来るようになったのは、科学技術が発達した今世紀に入ってからで、江戸時代中期までは天候不順などで多くの人が飢饉で餓死していましたから、天候不順などの指標となる、季節の花をみつめることの大切さが、生活に深く浸透していたのです。
サトイモ科のショウブの花
奈良時代に制定・端午の節供のあやめ
屋代弘賢の「古今要覧考」(1810)に「続日本記に云う天平十九年(747)五月、太上天皇詔に、むかしは、五月の節、つねにあやめをもってかずらとなす、このごろすでにこの事さだまる、今より後、菖蒲のかづらにあらざるものは宮中に入ることなかれ」とあります。
清少納言の「枕の草紙」(1008年頃成立)には、「その日は菖蒲うち葺き世のつねのありさまだにめでたきものを、殿のありさま、ところどころの御桟敷どもに、菖蒲葺き賜はすれば、拝して腰につけなんどしけんほど、いかなりけむ」と書かれています。
これらから「端午の節供」を菖蒲で飾ることはいったんは衰えて聖武天皇のころに復活したと推測することができます。
ここで言う「菖蒲」はアヤメ科の花菖蒲ではなく、霊験ありとされるサトイモ科の菖蒲のこと、漢名は白菖で「菖蒲」はセキショウの漢名です。当時としてはどちらの「あやめ」と呼ばれたことから、花菖蒲も次第に「霊験ある花」となっていったとされます。しかし、奈良時代に菖蒲が制度として登場する以前から、日本には自生のノハナショウブが「あやめ」と呼ばれており、霊験ある花とされていたと考える方が自然ではないかと思われます。その証左として例えば「万葉集」(八世紀末頃成立)には菖蒲、あやめ、あやめぐさを詠んだ歌が十二首あります。これらはすべて端午の節供を飾った菖蒲の葉姿のみを詠み込んだもので、花は全く登場しません。
多分あやめの花を詠んだ歌は、選者によって除かれたのでしょう。「万葉集」では奈良朝廷の方針に従って、サトイモ科の菖蒲を詠んだ歌だけ拾ったと考えられます。
甲冑に見られる花菖蒲紋
甲冑に見る花菖蒲紋様・霊験ある花
平安時代の終わりころから、武士の甲冑の装飾に花菖蒲紋様が多く見られます。これは花菖蒲に邪悪な敵から身を守る霊験を、期待してのことだというのがわかります。
この花菖蒲紋はすべて白抜きで表されています。霊力を現すには白抜きでなければならなかったのでしょう。兜、鎧、手甲、矢筒の紐にいたるまで、要所々々にずらりと白抜きの花菖蒲紋様が連なっているさまは、まるで古代の土器に縄文がぎっしりと刻まれているかのようで、この隙間なく花菖蒲紋を並べることによって霊力をなるべく大きくしようと考えたのではないかと思います。
ここで注目したいのは、この紋様がサトイモ科の菖蒲ではなく、アヤメ科の花菖蒲であることです。花菖蒲紋様は甲冑の守護として、サトイモ科の菖蒲よりも、霊力があるとされていたということが伺え、生死の境や武運長久を願うときには、土着の花菖蒲の方が、外来の菖蒲を圧倒していたことを表しています。
この考えをもう少し進めると、花菖蒲の霊験には火に対する古代信仰が関係している可能性が浮かんできます。赤紫のノハナショウブの花が、草原に点在するさまは、火を思わせるものがあり、暗い竪穴住居に燃える「神聖な火」として崇められ、それがいつしか信仰(霊験)になり、鎧などの紋様に表現されてくるようになったと考えられます。
いずれがあやめ
「源平衰盛記」(鎌倉時代後期成立)の?(ぬえ)退治で名を馳せた源三位頼政の詠んだ「さみだれに沼の石垣水こえていずれがあやめ引きぞわづらう」が有名で、これはどれも優れていて選択に迷うということを言っていますが、当時菖蒲と花菖蒲の両方ともに「あやめ」と呼ばれていたために、たいへん紛らわしかったことから「いずれがあやめ」という表現が流行していました。
この歌は、その言いまわしをうまく読み込んだもので、頼政が鳥羽院の最愛のあやめの前に懸想し、やがて院はこれを知るところとなり、頼政を試そうと五月五日の夕暮れに、あやめの前と、それに似た女二人を加え、同じ姿をさせて「みごと当てたらあやめの前をそちにとらそう」との難題を出します。困った頼政は、前記の歌を詠み、院は御感のあまり、自らあやめの前の手を取って、頼政に賜ったと記されています。

このように花菖蒲は、「あやめ」という名前で、古くから私たち日本人とかかわってきました。このような文化的土台が、江戸時代に花菖蒲を未曾有に発達させる原動力となっていることは、間違いありません。
 
八つの日本の美意識

 

イントロダクション
皆さん、こんばんは。今回は「八つの日本の美意識」をテーマにお話しさせていただきますが、副題として「日本は西洋的世界観の奴隷だった」と「近代を超える方法として」という2テーマを加えました。特に後者は、今なぜ世界が、あるいは日本企業が日本の美意識をこれほど注目しているのか・・・という問いかけがあります。ビジュアルを170ほど用意いたしましたので、早速話を始めましょう。
まず日本を感じさせるデザインの数々を見てください。無印良品のデザインはヨーロッパでもアメリカで評価をされていまして、日本的だと言われています。続いてアガペというイタリア企業のバスタブですが、素材こそ違え、形はほとんど日本の木のお風呂みたいです。但し底のところがカーブしていています。ジャスパー・モリソンの非常にプレーンな木で作った椅子、ドリアデの壁掛式の花生けシートなどなど、日本人のデザインではないですが、そこはかとなく日本的な空気が漂っており、今世界の、一つの流行になっています。
年をとると日本についての関心を持ち始めるという、良くある現象だとは考えてほしくないんです。20世紀初頭のジャポニズムに代表される近代デザインを開く力になった日本の美意識が、再び21世紀の初頭に影響力を発揮し出している。僕は自分自身を解剖する作業を2年ほど前から始めていますが、この作業を通じて日本の美意識というテーマが生まれてきました。そして僕自身の美意識が昔からの日本の思想や美意識と重なっていることに気づいたのです。自分を掘り下げていくと、日本の美意識が見えてくる。もっと深く掘り下げると、日本人である前に実は1人の人間であることが見えてきます。1人の人間に潜む行動の原理が見えてくるはずですし、さらに行けば生物としての深層があるはずだ・・・と。これは先回の紺野先生がいう「暗黙知」なのかもしれません。デザインの原理を発見するために自分を見つめ、結果的に「日本の美意識」が見えてきたわけです。
そこで本論をお話しする前に、2つのポイントをお話ししようと思います。一つは今まさにお話ししたような思想の探し方。自分を掘り下げて、結局は個人に潜むDNAの問題なんだよという視点。もう一つは美意識という概念。日本の美意識には、美しいとか、気持ちがいいとか、どきっとしたとか、理屈ではない人の心と体を心地よくするものという要件であって、日本人が物事を判断する非常に大きな基準になっているということに気がついたわけです。日本人は信念とか哲学的視野からではなく、身体の心地よさの達成こそが、日本人の美意識なのだと・。
八つの日本の美意識
今回あげる八つは必ずしもきちっと分類、構成されている訳ではありません。漠然とした大きな日本の美意識を「微」「並」「間」「負」「秘」「素」「仮」「破」というふうに、一単語に集約させてみました。しかしこれらは互いにオーバーラップしており、全体としてなんとなく日本の美意識を浮かび上がらせてるのだとお考えください。
「微」 細部に全体性がある
これは「社会の中に個人がいる」のではなくて、「個人の中に社会がある」という考え方です。日本人は都市や社会、宇宙観についてもマクロに鳥瞰的に捉えるのではなく、ミクロから発想していくように思います。例えば、「一期一会」という言葉に象徴されるように、日本人にとっては「ここ」「この瞬間」が大事です。ある瞬間の中に、ある人との関係のすべてが未来までみんな込められているんだと考えるわけです。
あるいは「桂離宮の庭」。実に緻密で微細な造形ではあり、全体性よりも部分の集積が際立っています。数奇屋も空間の内部から放射状に外部の世界を視線の中に捉えていて、インテリアからの視線で世界を見ている。ここでは初めからは全体性が重要視されていず、全体が室内からの視線と言う形で内部に取り込まれているのです。実は日本の建築はほとんど外観からものを見ていません。インテリアから外部を見るという発想です。京都の円通寺は、部屋から書院があって縁側があって庭があって、庭の外があって、また借景の山が見える。外国人は内部空間と外部空間を対立的な概念では見ていますが、日本人は内部と外部と同じだと思っています。内外が連続的なのです。
昔の江戸の地図ですが、すべての通りの上下に位置する家の名字などの名称が家の側から通りの方にむかって書かれています。通りから書いていないということは都市から住宅を見ていないということです。日本人はあくまでも自分の家から道を見、都市を見ているということです。ヨーロッパのように都市構造にそって建物があるのではなく、むしろ1軒1軒の家が連なっているということでしかなのです。
栄久庵憲司さんの「幕の内弁当論」、李御寧さんの「縮み思考の日本人」などにもあるように、僕は以前から、なぜ日本人は小さく、小さくものを見てしまうのだろう、車や機械を小さく小さくしてしまうのだろうと考えていました。しかし日本人は小さい点から世界を見、一定のスケールの中に閉じ込めることによって、世界を再び取り戻そうとうとしているのではないかと思います。例えば、幕の内弁当はある種の箱庭であり、世界を濃縮しているのだと思います。
僕が考えるに、日本人は野性的感覚を大事にしているのではないか。知ではなくて、全身の感覚でものを見るということが重要視されている。僕たちはこの野生の感覚をどんどん失いつつありますが、日本人はそういう感覚を大事にしていたからこそミクロな微小なるもの、身体の肌という細部から世界を見ようとしていたのではないかと思います。「世界を見る座標軸は極微にある」ということです。
「並」 微細なるものの並列的集合
並列的集合とは、だれもかれも対等に集合している状態。街で言うとヨーロッパの都市とは違った集落のようなもの。言い方を換えれば「デモクラシー」であり、階層のあるツリー構造に対してネットワークの構造ということです。日本ではだれかが支配しているのでもない、全く対等に並列的に人も、建築も、物も、存在しているのです。
妹島和世は伊東豊雄の設計したメディアテークのロビーに椅子を並列的に置くロビーの提案をしています。彼女は並列的な空間感覚が非常に強い人ですが、まるでばらまいたように、ぱらぱらと椅子を置くことによって、そこに自由なコミュニティが発生していくと考えたのです。並列性は俵屋宗達の「風神雷神」に代表される日本画にも多く見られます。「風神雷神図」では左右にそれぞれの神が描かれて真ん中は空白です。これは構図が一つの構築的な構造を持つ西洋画の常識では考えられません。ところが良く見るという風神と雷神の目線は余白の部分でぶつかっており、独特な深い意味合いを持っています。
現代的なものでは、脳の細胞やインターネット体系などは、構造的ではないではない並列関係でできています。実は、そういう並列的な関係は実は最も現代的な関係なのではないかと思うのです。会社の組織もどんどんフラットなっていく、このフラットな構造とは並列的な構造を意味しています。現代はこの伝統的な日本的構造である並列関係が最も求められている時代だと思います。
さて、再び妹島和世の金沢市21世紀美術館です。ここでは妹島は再び並列型を使っています。すなわち美術館の展示室がバラバラに並列配置されており、日本的な集落構造に似ています。美術館自体が展示室の集落になっているのです。ですから、展覧会の企画によって、各展示室を自由に結んで構成できるというフレキシビリティが生まれます。僕は30年ほど前にドームの中に大きな家具が置かれているという構造の住宅を設計しました。家具住居というのですが、一つの大きな家具にはベッドとソファーと収納など個室にあるすべてが組み込まれていて、キャスターがついてごろごろ動きせます。そして、その時々の家族の形に合わせてこの巨大家具の単位を自由に動かして家族の関係を創りだすことができるようになっているのです。
実は日本人には並列的な規範といいますか、意識の中に並列的な関係が支配する秩序感が潜んでいます。西洋人の多くは何かを判断するときに「神が見ていますよ、だからこれをしてはいけません」といいます。一方、日本人は神よりもむしろ世間さまに顔向けできないとか、人様に対して恥ずかしいという「恥」の意識が強い。つまり他者への気遣い、恥じらいとか義理とか人情とか、あくまでも人と人との関係がすべてを律しています。日本は今まで神不在の国だと不思議がられていましたが、人への思いや気遣いから秩序を得ようとしているのだから、こんなに素晴らしい社会はないと思うのです。このような日本人の才能は言語にも遺憾なく発揮されています。日本人は漢字と平仮名と片仮名という3種類の文字を一緒に並列使用しています。最初は漢字を輸入して、それを平仮名に崩し、外来語に関しては片仮名まで発明して、それらを同時に平気で並列的に使っている。これも日本人の優れた並列的な美意識なのだ、思想なのだと言ってもいいのではないかと思います。
「間」 細部の気配がつくるどきどきする調和の感覚
「間」については磯崎新さんを初め、多くの人が語っており、日本の文化の非常に重要な要素です。だから僕は「間」という言葉を使いたくなかったのですが、どうしても避けることができないほど重要なキーワードでした。ただ、僕の解釈はちょっと違っており、気配とか気迫とか色香のようなものがつくりあげる空間だと考えています。色香って何だと思いますか?「気配」と言ってもいいかな。あるいはときには「気遣い」「目線」、ときには「テリトリー」といった感覚かもしれません。
以前、建築家の長谷川逸子とパーティで遭遇し、「やあ、久しぶりだね」と、近づいて行ったんです、話していて一寸間が空き過ぎだからと少し近づくと、彼女はその分だけ後に下がる。話しにくいからとまた近づくと彼女はまた下がる。多分、彼女と僕の距離感、テリトリーのスケールが違うのですね。人によっても空間意識は違うのでしょう。このテリトリー、気配のようなものが「間」なのではないかと思います。
僕は建築の原点は洞窟と柱だと考えています。特に重要なのは建築の原点としての柱なのですが、ひとりの旅人が原野を歩いているうちにあたりが薄暗くなってくる、そろそろ寝るところを探さなければいけないが、原野ですから見つからない。でももしも、原野の中に1本の柱が立っていたら・・・、彼は間違いなくそこに寄りかかって、“ああ、ここで寝られる”と思うでしょう。1本の柱は旅人にとって心をつなぎ留め、安心感を与えるものなのです。これが建築の始まりなのではないか。
もしも、旅人が山や丘を見つけて、そこに洞窟を発見したとしたら・・・。入り口でたき火をすれば猛獣も来ないし、雨もかからない、寝るにはこれ以上安心なスペースはありません。このように洞窟と柱とは建築の出発点、原点なのではないかと思っています。洞窟と柱は二つの建築の原風景なのなのですが、その形がそれぞれ、女性器と男性器に似ているのが不思議です。それをまともに見つめ考えてみると、建築の原点は女性型と男性型があるらしいといってもいい。洞窟は母の形であり柱は父の形であり、共に心と体の安心を守ったのだと思います。ちなみに、仏教に慈悲という言葉がありますが、慈は母の愛で楽を与える愛、悲は父の愛で苦を取り除く愛だといいます。洞窟と柱の建築の持つ意味と会わせ考えると興味深い。
僕は女性の体で最も美しい体の部分は曖昧なところだと思っています。乳房そのものよりも乳房と胸との間が一番美しいだろうと。体と腕との間が美しい。すべて曖昧なところ、それこそ間なのです。「間」こそ、怪しくて最も美しい部分なのではないかと思います。
日本の空間にも同じことが言えます。日本の建築は柱と梁で構成されますが、それぞれがある気配を持っていて、柱と梁がぼやっとつくりあげる空間が日本の建築です。すなわち日本の建築は柱と柱、梁と梁など全部がつくりあげる「間」なのです。だから日本では「茶の間」「床の間」というような言い方をする。部屋とはい言いませんでした。日本の伝統的な空間は流動的であり、ほとんど木と竹と紙と土でできた家屋は透け透けです。日本の建築はこのように連続的であり、非常に相対的です。このように日本の思想の中にもう一つある重要な要素は絶対論ではなく相対論だということだと思います。「間」の概念が世界の民族をつなぐ発想に発展するという話も不可能ではありません。
「負」 身を引き、表現を引くと豊かになる
引き算は日本のもう一つの重要な手口です。それは「主張しないで影響を与える」ということではないかと思います。主張という対決的説得ではなく、影響を与えようとする。「君の考えは間違っているよ、」と主張するのではなく、融和的同化を求める。何も言わなくたって気がついたら「おまえの考えがわかったよ」というような説得の仕方。これが「負」の一つのいい説明になるのではないかと思います。
形は主張的な言語です。視覚の力は影響力が大きいからです。でも、触覚や身体感覚は密室的で内向的です。
だからこそ日本人は微細なるものを大事にする。日本人は微細すなわち素材の身体感覚、触覚や素材そのものの風合い、空気との触れ方や光の反射の仕方などの質感を大事にしている。そのことばかりが気にかかるから、形が重視されていないのです。よく、「日本の形はシンプルだ」と言うけれども、シンプルな形が大切なのではなく、結果としてシンプルなのです。シンプルさを求めているのではなくて、素材を大切にするために形は二次的なものだったのではないかと思います。そのことから始まって、シンプルさが意味を持ち始めたというべきでしょう。
例えば、着るもの。外国の洋服は様々な形をしているのに、日本は着物というと基本的に一種類です。ただ柄、織り、綾、素材などミクロな微細なるところで着物を楽しんでいる。実際、僕の仕事にも似た傾向があります。煮色という高岡の銅器の表現の魅力をいかに上手に生かすかをテーマにデザインした容器ですが、素材の持つ美しさを主張させるために敢えて三角錐や球面などの幾何学的な形に制限したのです。あるいは南部鉄器の箱ではキューブが一番美しいと、黒い豆腐ができました。GOMシリーズでは、素材が有機的なゴムだからこそストレートな形にしたわけです。最初僕はゴムのやわらかさを表現しようと生き物とかオーガニックな形にしました。ところが試作ができ上がってみると、なんとなく不潔な感じがするのです。そして四角い知的な形のほうが似合うと判断したわけです。これらはすべて同じように素材との会話から生まれた形です。素材の美しさを引き出すために徹底的に省略していったのです。ここでは思想の主張ではなく、素材への共感が、素材との会話が中心だったのです。対決的説得ではなくて、融和的同化の姿勢が背後にあったのだと思います。
「秘」 隠すことで綺麗にみえる。
世阿弥は「秘すれば花」と書いています。すべてを表現しないことで相手の創造力を駆り立てる。そして創造に参加させるということなのだと思います。外山滋比古という文学者は「小説家がどんなに頑張っても読者は決して意図どおりには読んではくれない。読み手はその生活体験にそって、小説家が描くことと全然違う見方をする。しかしそれを悲しんではいけない。理解されないのではなくて、読者が小説を創作することに参加しているのだから・・・」と言っています。この考え方自体が実は日本の美意識に関係する、日本人的な解釈だと思います。日本人のコミュニケーションは融和的同化ですから、表現者と読者との間はお互いに創造活動をしながらつながっていると理解してしまうあたりが非常に面白いと思います。「言わぬが花」「沈黙は金」なのです。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」という本を書いていますが、「秘」に通じる美意識を表現しています。「陰影」とは逆光があって初めて認識されるものなのではないか。谷崎によれば「日本は気候・風土から深い庇が必要であったから、深い庇ができたので奥のほうが薄暗くなった。薄暗くなったので、陰影の文化がそこで育っていった。金屏風があると薄暗い中で金屏風は遠くの光をとらえてぎとっと光る。その光り方がたまらなくいいし、漆器のお椀でお汁をいただくと、明るいところではなくて暗いところで飲むそのお椀の美しさは例えようのないものだ。ところが、近頃は蛍光灯をぱかぱかつけてしまって、金が下品に見え、漆器も美しさが伝わってこない」などという批判をしています。だから陰影は華麗に見える。陰影は華麗だというのは逆光のせいだと僕は思っています。
僕が設計した島根県の健康センターでは、向こう側を明るくして手前を暗くすることで、向こう側に行くことが面倒だと思わせない。人間は暗い方に向かって行く気がしないですね。「空間」という抽象的な概念ではなく、人の心を「こことあそこ」という微細なもので押さえ、しかも「光が向こうかくる」という設計によって初めて空間を息づかせることができたのです。外への思い、先への思い、期待、夢、それが空間の中にデザインされていくわけです。
華麗さはこうして人の心の中に生まれるのです。その仕組みが「秘すれば花」なのです。
「素」 世界は初めから調和している。
無印良品は実は「素」というキーワードが規範になっています。「素」という思想は何かと言いますと、世界は加工する必要がないほどに最初から調和がとれているという思想。これは日本の美意識の重要な部分で、自然と愛するとか、自然と融和するとかのずっと以前に、自然はすごいのだ、何もする必要はない、ほっぽっておいて大丈夫だ、という巨大な信頼があるのです。その意味では自然崇拝、自然信仰が日本人の深層にあると言っていいのかもしれません。
イッセイ・ミヤケは着物の原理そのままに「1枚の布」という革新的な服装を提案して西洋の服飾界を震撼させました。彼の服は形を拒否した形です。形は要らない、布のままでいいよ、という日本の思想をイッセイはそのまま現代に用い、そのことによって生まれた形なわけです。着ると人の身体によってさらに新しい形が生まれてきます。風呂敷もそうですがその内容が風呂敷と言うバッグに形を与えるのです。プリーツ・プリーズというイッセイ・ミヤケの作品シリーズがありますが、これも折り紙のコンセプトを応用した「折ることで生まれる質感」です。
最近、僕がパリで開催した展覧会に出展した「風」という照明器具は、同じ楕円形のプラスティックの2枚のシートをちょっとずらしてジッパーでつなげばこういう形ができるというものです。これも1枚の布からものをつくるという発想です。
「素」というのはできるだけ手を加えないことであり、材料をそのまま使う、そんな思想につながってきます。安藤忠雄の建築は光と影を非常に大事にしていますが、それは「そのまま」ということです。光をそのままどう引き入れるか、どう影をつくるかということだと思います。ですからまさにイッセイと同じように、日本の美意識を背景にして生まれたのが安藤の仕事だと言ってもいいのではないでしょうか。素材を重視することから形もきわめて単純です。
「仮」 抗わないで流される美
「仮」は8つの中でも特に大切な概念です。抗わないで流される美しさとは自然に身を任すこと。禅の問答の中に「大河の流れに流されるもよし、逆らうもよし」という有名な問答がありますが、自然は手を加える必要のないほど完璧な素晴らしい秩序だという思想が背景にあります。だからこそ朽ちることも、死ぬことも美しいことだと考える。生きることが素晴らしくて、生きることに失敗して死ぬのではなくて、死ぬことも生き方の形として素晴らしいことなのだというのが日本の思想です。そこから必然的に仮の人生、今は仮の姿、生きているときも死んでいるときも、みんなたまたまそうなのであって明日は違うよということを当たり前に認めようとするのです。これは日本人の中に色濃く深層を作っていると思います。桜は満開を見に行くように見えて、実は満開ではなく、散り始めた瞬間を愛でている。日本人は散ることのほうが美しいと思っているのです。これは死の讃美です。
茶室の土壁を補修するのに補修跡を愛でるのが日本人です。自然で壊れてしまって孔があいたから、もう1回塗ったという修理の跡をです。修理の跡さえも自然のプロセスとして美しさを感じる。欠けた茶器の金継を悦ぶのも日本人です。生々流転、輪廻転生ということでしょうか。
お茶室に限らず、日本の家屋は果たして建築なのか。たぶん西洋的概念による建築ではないんですね。日本の家屋の空間は、お膳(ポータブル式テーブル)をおけば食堂、布団を敷けば寝室、座布団を敷けばリビングルームといった風に自在に変わります。つまり機能は仮です。どの空間も何でも変身するようになっています。
現代の人々は数奇屋を木造建築と称しますが、日本には建築というものはなかったし、都市さえもなかったのではないか。日本の家屋は建築ではなくて、お膳や卓袱台や屏風や夜具などは家具ではない。西洋の環境が都市、建築、家具、道具というヒエラルキーを持っているのに対して、日本は内部空間と外部空間の区別さえしていない。西洋でいうと数奇屋はそのまま巨大な家具だといえそうですが、建築と家具の中間のような家屋に家具と道具の中間のような存在のものを置いたり片づけたりしながら、いろんな用途に使いこなす。これは建築ですかと言ったら、絶対に建築ではない。全く異なるものといわざるを得ない。
一方、都市という概念も実にいい加減です。東京はほとんど巨大ビルの集落でしかないと僕は思っている。ですから、広場もできていませんし、西洋の都市のように、都市の街路を形成する建築の連続的な外観がない。東京には都市ではないし、本当の建築も日本にはないし、実は家具さえもないのではないか。内外空間を対立的に捉えることをしない、うつろうことを悦ぶ日本人の、日本の環境のこのあり方を決めているのは自然への信仰に近い姿勢から、生まれた「仮」という美意識なのではないかと思うのです。
「破」 破壊こそ創造である
まだ僕が大学院の学生のころ、彫刻家の流政之さんに会ったときのことです。彼は「どうしても作品の最後の仕上がりがうまく自然とつながらないときは、ハンマーで、目をつぶって石の彫刻をぱーんと割る。すると欠けた部分から大自然とわーっとつながるんだよ、最後の仕上げはそれだよ」と言っていました。僕はそれこそが「破」であり、ある種のカタストロフィーと言ってもいいんですが、その瞬間に生命がばーっと通うのだと思います。そこに偶然もあるわけですし、非計画的ですし、およそ計画の論理も何もないような瞬間に起こるんですね。
日本語で大団円とか破綻と訳しますけれども、その瞬間、要するに最も破壊的な瞬間に最も生命的なことが起こるというのが、カタストロフィーです。日本にも「序破急」あるいは「守破離」という言葉があります。序破急は音楽で使われることが多いのですが、最初はなだらかで、どこかでぱーんと急変するという意味。「守破離」は伝統を守り抜いて、ある瞬間にぱーんとそこから離れて新しい世界に入っていくという、裏千家家元の弟の伊住政和が大好きだったセリフです。彼の祖先でもある千利休が16世紀の半ばに成し遂げたことは価値の逆転でした。当時士農工商の最下位にいた商人階級の千利休が、士という一番トップにいた豊臣秀吉に向かってお茶を教えた。そして秀吉が住んでいた壮大な建築、書院造り、左右対称な壮大な木造建築に向かって、「秀吉さんよ、美というのはもっともっとみじめな小さなものでなければいけない」と、秩序を壊すことばっかり言い続けたわけです。利休は廃屋のイメージを引用して茶室に取り込んで「あばら家こそ美しい」と、当時の美意識を破壊したわけです。それが草庵であり、廃屋のイメージは下地窓として定型化されたのです。
ほかにも様々な例がありますが、アーキグラムは1960年に発表した「動く都市」というとんでもないプロジェクトを発表しました。この破壊的な提案が当時、僕たち若い建築家たちに衝撃を与えました。倉俣史郎の椅子も多分「存在への反抗」、重量、重力の世界への反抗なのかもしれない。アクリルの照明器具はまさに重力への反抗でしょうね。布がたらっと垂れる形で逆に支えようというのですから、力学的には逆ですね。ミスブランチというこの椅子では、なぜ香港フラワーの安っぽいバラの造花を中に入れたか。自然こそ美しい、香港フラワーなんか最低だと知識階級が言っているときに、彼はにこっとわらって造花をアクリルの中に封じ込めました。
自然との合一を求める流政之のような非計画的な破壊、カタストロフィーの瞬間。それから被支配からの逃避、権力の支配からの逃避や重力から支配されるのことからの逃避、習慣や規制概念に支配されることから逃避。日本の美意識の中にはそのような自然に馴染めとか融合しようとかものすごくナチュラルで、自然の川の流れに流されようと言っているにもかかわらず、ちゃんと反抗の仕組みを持っているのです。生命の仕掛の中に死のプログラムがあるのと同じように、こういうプログラムが美意識の中に込められていたと思うと、これまた感動的だと思います。
まとめ
ざっくりですが、今までのお話をまとめてみたいと思います。
日本の美意識は非常に現実主義で刹那主義的である。一点を大事にするのですから、いまを大事しよう。一期一会とは悪く言うと、「いまを大事にすれば、明日のことは考えない」ということです。
野性的感覚が中心となる世界での受け止め方をしている。皮膚感覚、身体感覚です。ここではもう哲学なんか大事にしていません。
美意識に生きる。美とは理屈ではない、一つの快楽ですから、快楽に生きること、気持ちのいいことが正しいことだ、と。
デモクラティックで並列的で、かつ市民型である。罪より恥じを嫌い、人への気遣いがつくるダイナミックな秩序。これは「間」ですね。お互いに気遣いし合うことによって、決定的な関係を固定的には結ばない。動的なんですね。他者には主張よりも影響。対決的説得よりも融和的同化を大切にする。自然は完璧な秩序を持っていると信じている。
初めから自在というものを知っている。日本人は元来、フレキシブルな空間の中に住まい、自在ということを知っていますね。フレキシビリティーなんて日本の空間を説明するのは間違いであって、むしろ自在だと言ったほうがいい。
「間」という形で公共の感覚を持っていた。多分、何一つ西洋から学ぶものがないくらいに、日本人は素晴らしい世界観、仲良く生きるための秩序観を持っていたのです。
初めから楽観的な調和観を持つ。気遣い、間合い、自然への信頼。日本の思想はアナーキズムだなとさえ思いました。要するに全体を統べる政府は要らないということです。
破壊という非計画性がもたらす生命性、反抗という抵抗が持つ創造性を知っている。整理するとこんなことになるかなと思いました。
最後に、アルフレッド・ウェルナー研究所のホームページからやっと探した氷山の図をお見せします。氷山の下にある本当の氷というのは何十倍もの巨大な塊であるそうです。実は、僕がお話をさせていただいた今回のポイントは、水の下に潜む巨大な氷の塊に譬えることができます。それは表には見ることのできない、人間の無意識の中に潜む力なのです。僕はDNAと言いましたけれど、暗黙知と言う人もいます。そういう心の深部に沈んでいる遺伝子情報、DNAとして記録された秩序感、生理、記憶、本能などを発見しそれをデザインの原理に昇華させることによって、日本人ならではの美意識を見出し、具体的なデザインの方法へと発展させることができるのではなか。よく三日月の形をするのが日本的であるとか、形でとらえてしまうことが多いですが、それは間違いになります。これで私の話を終わりにします。
日本の美意識を想う
コンピュータのデスクトップの片隅にこの原稿を見つけた。一寸季節外れだが掲載する。
今年の秋はまだ曖昧に始まって本格的な秋晴れを見せてはくれてはない。ほんの一日深い秋の空だと思ってもすぐ曇りになり雨になる。日本はなんて多様な気候を見せてくれる国なのかと思う、そしてそのことが日本人の多様な美意識を育てたのだなとふっとこの秋らしくない秋にも感謝したくなる。秋らしくない秋に秋を感じ、雨の降る日にもその美しさを愛で、風の強い日にはその風が好きだったと少年の頃を思い出してそれを楽しむ。夏は暑くなくっちゃな、とあきらめではなく本当にそれを楽しむ。そうして、日本人はその自然観を育てながら多様な美意識を培ったのだろう。
つい最近、「八つの日本の美意識」という本を書いたのだが、その概要をジャスパー・モリソンが読んで「どうしてこれほどに多様で深い美の感覚を日本人は持っているのか」と驚いていた。
こうした自然への思いがこの日本人だけの優れた感性を育てたのだろう。
最近、中国へ出かけることが多いのだが、多くの中国人と付き合いを深めていくと一人一人の中国の人々との共感とは裏腹に中国の文化と日本のそれとの大きな隔たりに今更ながら驚いたりする。
日本はアジアの国々、特に中国や韓国を経由して世界の宗教や文化を受け入れて、まるで文化のゴミ箱のようにそれら受け入れ共存させてきたのだが、ごった煮のような単なる共存ではなく、どこにもない独自な文化をつくりあげて来たことが奇跡のように感じられる。それほどに独自なのだ。東洋の美意識と一つにまとめて語ることができないほどに、我々の美意識は東洋の国々のそれとも異なっている。西洋と東洋と単純には対比できないなと思う。
その根源は自分というものの世界との関係の捉え方にあるように思う。秋晴れの紅葉の秋を歓び、雨の降る寒い哀しい秋を愛で、夏の名残をそこに見いだしていとおしみ、枯れ葉となって散り始める秋の終わりに命の美しさを感じる。死をも生の一つの形として受け止めるこの自然観、生命観に根源があるのだろう。滅びることを歓ぶ、この意識なくしては中秋の名月を愛おしむ気持ちは生まれない。そこを出発点として人への想いや美の概念や街の構造や建築の空間が、そして作法や愛し方が生まれ美意識が育っていったのである。
近代の思想の奴隷であったこの明治以後の日本人の意識は今、やっと解放されようとしている。本来の日本人に戻ろうとしている。そして世界の多くの人々さえもそれに気づき始めている。日本の美意識に未来の世界を示唆する秩序感があることを感じ始めている。
 
陶芸・日本的美意識の探求

 

様々なことを感じ、思い、ときに迷い、そのテーマにたどり着くまでの私の道のりをここで少しご紹介いたします。
話は高校時代から始まります。当時、私は美術大学の入試に必須であったギリシャやローマ彫刻のデッサンの修練に明け暮れていました。しかしそのことにより、知らず知らずのうちに「西洋美術の洗礼」を受けていたということに気づいたのは、大学に入ってずいぶん経ってからのことでした。というのも、「光と影」を描写して、いわゆる写真のようにデッサンを描くことが実は西欧的手法であり、東洋にはそれとは異なる描写法があることに、当時の私は気づくことができなかったからです。
そんな私が「日本美」と出会い最初に衝撃を受けたのは、芸大でのある授業でした。それは先日惜しくも亡くなられた稲次敏郎先生の「環境デザイン」の講義だったのです。それまで退屈なものとしか感じていなかった日本の庭園や茶室というものが、実は素晴らしい美意識に支えられているということに衝撃を覚えました。西欧の庭は、木々を整然と幾何学的に並べることで美を表現しているのに対し、日本の庭では、木々は故意に不規則に植えら、そこに「自然の美」を再現している。しかし木々や池、石や砂に至るまでその配置は実は巧妙に計算されているのです。また、茶室の柱や天井や庭窓の配置においても、西欧的バランス感覚ではとても理解しがたいような「不均衡の美」が存在すること・・・。私は一気に日本美のとりこになってしまったのです。
稲次先生の講義を契機に私の興味は日本絵画にも及びました。高校時代の受験デッサンの洗礼により「西欧の立体的で写実的な表現に比べ、平面的で稚拙なもの」と感じていた日本画は、むしろ絵画としての本質を追求した表現であると考えはじめました。20世紀の西欧の絵画における印象派をはじめとした様々な美術運動は、日本の浮世絵が手本であったことなどを遅まきながら知るに至りました。
こうして大学の四年間はあっという間に過ぎたのですが、日本美をより深く追求したい一心で、迷うことなく私は大学院進級を希望しました。まだ社会に出て自らが表現者になることに興味が涌かなかったのかもしれません。その当時、私は旅行に夢中でした。「日本とは何か」との強い追求心がそうさせたのです。異なった文化、つまり日本と異なる美意識が存在しているであろう国に赴くことで、日本美というものが「炙り出される」ように思えたのでした。
大学院は前期の2年間で飽き足らず、私は後期の博士課程へと進級しました。そこでより深く日本美の研究を進め、日本美術を生み出した日本の美意識や世界観、宗教観について考えました。西欧の美術は、ユダヤ教やキリスト教など「一神教における神と人間の関係」の影響があると思います。キリスト教において、人間は「荒れ狂う自然」を統治する役目として神様から任命されています。対して、日本や他の一部のアジアなどにおいては、神といえば八百万(やおよろず)に存在し、人間は自然の一部と考えられ、自然は統治するのではなく尊敬の対象なのです。西欧においては「美」に完全や究極を求める傾向があります。なぜなら人間は神から許された優れた存在であるがゆえ、自然という資源をもとに加工し、より崇高な「文化」にむけて進んでゆくものなのです。対して日本では、もちろん完全な「美」の追求もありますが、しばしば「美」はあるがまま、ときに不完全をもよしとします。自然に倣えば、不完全もまた美しいと感じることができるからです。日本の庭が、西洋のように幾何学的な形をとらず不定形であり、茶道の茶碗が素朴でときに歪みがあったりするのは、このようなことに由来するのです。
博士課程を終え、いよいよ世に出る時がきました。私は、自身の興味の対象である日本美を、まずはデザインの世界で表現することを考えました。西欧の価値や美意識で溢れている世の中の「モノ」をもっと日本的な美に回帰させるような働きかけをしたいという思いからでした。しかし、やがて私のなかの強い日本美に対する傾倒は「デザイン」といういわば間接的な表現手段では遂げられないかもしれない・・・と考えるようになりました。つまり「デザイン」より、個人としての思いをより強く込めることが許される「作品」が作りたいのではないかと。そんな迷いのなか、恩師である大藪雅孝先生からの言葉が私を「はっ」とさせました。「陶芸の仕事は、立体を造るという彫刻的要素、絵付けには絵画、そして「使われる」ことによる工芸の要素もあり、何とも造形作家の表現の手段としては魅力的である」というものでした。「灯台下暗し」と言いましょうか、身近にあった「陶芸」という、父、川尻一寛の仕事がまさに私の求めていた表現手段だったのでした。
以来、私は、「土」という豊かな素材の力と炎の神様の力を借りて、作陶に明け暮れています。私の作品に「日本」という息吹を感じてくだされば幸いです。
 
「花むしろ」「花いかだ」という言葉

 

上野駅で乗り換えの時にちょっと途中下車して上野の山を散歩したところ、見事な「花むしろ」状態だった。 「花むしろ」(花筵)という言葉は知っていたが、「花いかだ」というのは、昨年、車を運転している時に、カーラジオで聞いて初めて知った。 風に舞う「花吹雪」。地面に散り敷かれた花びらが「花むしろ」なら、川面に浮かび連なるのは、「花いかだ」。先人はなんと美しく雅な言葉を残してくれたものだ。 よく男子用のトイレに「急ぐとも決して外に漏らすなよ吉野の花も散れば汚し」という歌が掲げてあったりする。下の句が「吉野桜も散れば見苦し」となるバリエーションもあるが、「急ぐとも心静かに手を添えて外に漏らすな松茸の露」と双璧をなす有名な詠み人知らずである。ちなみに「一歩前へ君のはそんなに長くない」という川柳風は、かなりレベルが下がる。以前は「トイレを綺麗に使ってもらうのに、滑稽ながらも多少の風流を含んだ言い回しができるというのは、ちょっといいかも」なんて思っていたのだが、実は、日本人の美意識にはその上を行くものがあると知ったのである。 よく、虫の音が、西洋人には雑音に聞こえ、日本人には妙なる音色に聞こえるというのが引き合いに出される。これは左脳と右脳の働きの違いによるらしいが、地面や川面に散ってしまった桜の花びらも、左脳オンリーで解釈すれば、ただの「ゴミ」である。近年では「バイオ・マス」という言い方もあるらしいが。 それを「花むしろ」と称し、「花いかだ」と見るのは、単なる「右脳解釈」だけではないような気がする。これは、右脳による感覚的解釈と左脳のロジカル解釈との複合による「ハイブリッド美意識」といえるのではなかろうか。 危うく「単なるゴミ(あるいはバイオマス)」になりかけている「用済みの花びら」を、既存のテーマである「むしろ」や「いかだ」に見立てて「新しい美」に昇華させてしまうというのは、独特の繊細さのなせる技といえる。この「見立て」というのは、日本の美意識のかなり重要な部分を形成すると思うのである。 かなり綿密な「美のデータベース」が、普遍的な共有財産として存在しないと、「見立て」は成立しない。これが成立するというのは、かなりハイブローな文化性の証左と言っていい。 卑近な例で言えば、春の彼岸に食べるモチを牡丹に見立てて「ぼたもち」と称し、同じものでも、秋の彼岸になると萩に見立てて「おはぎ」と称するというのは、そうした共有財産がないと成立しない。 ところが、最近はこの財産の共有性が薄れてきているので、平気で、春でも「おはぎ」秋でも「ぼたもち」といったりする。ちょっと嘆かわしい。 いずれにしても、「見立て」というのは、あまり陳腐な使い方をすると「ベタ」になってしまっていただけないが、要所要所で上手に使うと、心の琴線に触れるものがある。 吉野の花を「散れば汚し」とか「散れば見苦し」とは、甚だ失礼な話なのであった。実は散っても十分にきれいなのである。小便のしずくとは訳が違うのだ。
 
完成されないことの美しさ

 

きのうから都心を含めて荒れ模様の天気。低気圧の影響だろうが、今日も一日荒天が続くらしい。朝早い時間に事務所を出て、昼過ぎには自宅に戻った。当地では天候は小康状態である。西からの崩れはまだ続いているようなので、今後も雨は降るのだと思う。
どうということもない日常である。今週は原稿書きも少なかったので、家で本を読んだりする時間が長かった。その中で読み終えたのが表題の「日本の美意識」(宮元健次・光文社新書)だった。日本の文化や美しさの追求は個人的な課題でもあるので、本当に示唆的で教えられるところが多かった。
簡単に内容をかいつまんで見ると、筆者は日本の美意識の中心をなす「優美」「幽玄」「侘び」「さび」のほか、近代につらなる「きれい」や「かわいい」まで、その成り立ちと意味の詳細について解説を試みている。博覧強記の人なので、その説明はいちいちもっともで腑に落ちるものばかりだった。日本古来の神道から導き出されてくる、人生のはかなさの中に見る「優美」。「幽玄」は仏教に発祥しているが、それを完成させたのは言うまでもなく能の世阿弥である。筆者の見方によれば、幽玄は優美をさらに奥深く感得させるものという。能を演じきらないこと、未完の美しさを追求する美学が能であることを知ると、何となく嬉しくなるような心持もあることが不思議だ(幽玄は幽界への玄関を表すとの説明も納得するところ)。
「侘び」はもちろん、「侘しい」との意味に発する言葉だが、意味する未完成やはかなさから一転、人生への積極的な意味合いを求めようとしたのは、千利休ということになる。お茶の形式美を見ると分かるように、狭さや不具合の中に美を見るという手法は、まさに幽玄につらなるものと言っていいだろう。日本的な“美しさ”である。その後に続いた、芭蕉らの「さび」に至っても精神に変わるところはない。
未完の美、余白の美は何処に消えたの?
日本的な美意識は、やはりなかなか難しいものではあると思う。しかし、この本を書いた宮元氏も指摘するように、それは「人は生を得た瞬間から、死という滅びに向かう存在であり、だからこそ生を尊ぶという考えがその美しさ――美学の根底にある」ことは、間違いのないことなのだろう。だからこそ、私たちも完成されたものの美より、ちょっと足りないもの、完成してはいけない(?)構造物に独特の美しさを見出したりするするのかな、と思う。私は陶磁器のことは良く分からないのだけれど、釉薬がはみ出したりこぼれて形づくった文様に美を感ずるのも日本だろうし、果ては壁に浮き出たシミにまで造形美を求めるというのだから、その形式美は念が入っている。この辺の感性はやはり、外国人にはすぐには理解されないものなのかなとも感じてしまうところです。
本の最後では、有名な「フランダースの犬」のエピソードも語られていたのだが、これも面白かった。私たちの涙を絞ったこの物語は、1975年にテレビアニメ化されて大人気を博した。その後にもリメイク版が作られたり映画化もされたりしたが、教会でネロとパトラッシュが壮絶な死を遂げる例の場面が、話題の焦点となる。日本では圧倒的な感動を呼んだこの場面も、外国では全く受けないというのだ。要は、「子どもをこのような非業な死に追いやることは犯罪だ」ということ。外国人にしてみれば、「そんなことをさせるわけがない」となってしまう。
私自身もかなり前にベルギーを訪れて、アントワープのこの物語の博物館を訪れたとき、現地ではこの物語はほとんど知られていないし、内容的にも受けるものではないと聞いたことがある。原作は英国人の作家・ヴィーダが1870年代に書いたものらしいが、この原作から映画を作った外国人監督も外国では決して評価されることがなかった、と語ったという話も紹介されている。
そんなことを考えていくと、私たちは日本的情の世界の中で、小さなもの、弱いものへの原初的な愛情を持っていることが分かってきたりもする。ただ、この頃は大分変わってきてしまっているような気がしますな。西欧の価値観が大分に、こうした感覚を壊してきたような気もするが、根底にあるのがそうした美意識であることは間違いのないことなのだろう。このアニメーションドラマの話を聞いても、それはそうだろうとうなずけるのである。
人の生と死、とくに死を意識した人生観の再考が求められているときなのではないかと思うこの頃…。
従前より、日本的なるものに関心が強かった。偏狭なナショナリズムに陥ることなく、我が祖国、日本の魅力を海外に発信しようとするとき、伝統文化に見いだされる「日本的な美」は世界に誇れるもののひとつだとボクは思っている。もっとこの日本的な美を大切にし、そのかけがえのないオリジナリティを自覚し、守り育てていくことが必要だ。
著者の宮元健次さんは、ここでいくつかのキーワードをもとに日本の伝統文化に表れている「美」の潮流を俯瞰しようとしている。「優美」「幽玄」「侘び(わび)」「さび」「きれい」・・・と続く美意識は一連のものであり、それぞれ独立した概念ではないことがわかる。時代とともに日本人のなかにこれらの美意識が育まれ、発展してきたのだと言える。
人間はこの世に「生」を得た瞬間から「死」に向かう。だからこそ「生」を尊ぶという考え方が日本人の美意識の基底にあるという。平安末期、この世の無常を嘆き、23歳で出家した西行(さいぎょう)は全国各地を遍歴しながら和歌を詠み、旅の途中で世を去った。その西行を慕って、江戸期には松尾芭蕉(まつお ばしょう)が旅と草庵での生活に明け暮れる。「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」と詠んで、芭蕉は西行と同様に旅の途中で客死した。そして昭和期に入ってもうひとり、旅に出て草庵に暮らし、旅先で死んだ人がいる。ドイツの建築家、ブルーノ・タウトである。芭蕉の「おくのほそ道」はタウトの愛読書のひとつであったという。第二次大戦前のドイツで、親ソ派としてナチスに睨まれたタウトは、職と地位を奪われて日本に亡命する。京都の「桂離宮」に日本的美を見出し絶賛した彼は、約3年半の日本滞在中、高崎市郊外の草庵「洗心亭」に住み、やがてトルコのイスタンブールに職を得て移住し、そこで死去した。
彼ら三人の人生に共通して見出されるのは、旅の途中で命尽きることを理想の死ととらえていることだ。そこには「未完の美」という意識がある。鎌倉期に「徒然草」を著した兼好法師は「もののあはれ」という概念を示した。彼が言わんとした仏教の死生観にもとづく無常観は、時間的に限りある美をいとおしく思う心である。人の一生は有限であり、そのさなかに出会う「美」もまた一瞬のものである。また、能楽の大成者、世阿弥は「せぬ能」あるいは「せぬひま」ということを強調している。完全に演じきってしまうのでなく、身体の動作を七分に控えることによって、そこに「心」を表現できるというのである。世阿弥はこれを「無心」でやれと説く。あえて演じないことによって、そこに漂う情感のことを「余情」あるいは「余韻」という。能がめざしているものはまさに「未完の美」である。 
生ある限り、無心で道を究めようとする(旅を続ける)。そしてその完成形をあえて求めず、そこに表現される「心」を求めよ。ということなのだろうか。日本画における「余白」もこの「余情」と同じことだと筆者はいう。あえて描かないことによって画面に「心」を表現するということか。「未完の美」というものを何となく理解できた気がする。
21世紀に入り、日本のサブカルチャーが海外で高く評価されている。「クール・ジャパン」あるいは「かわいい」が現代日本発の新たな美意識として世界中で受け入れられている。「クール・ジャパン」の「クール」とは「かっこいい」という意味であり、国内では「おたく文化」として蔑まされてきた感のあるキャラクターやアニメが、もはや日本のメインカルチャーを凌ぐほど高い人気を集めているのは皆さんもご存じのことと思う。アメリカでも「kawaii」は英語の単語となり、「格好いい」という意味合いで普通に使用されているようだ。村上 隆さんやポケモンやキティによって日本の美意識が輸出され、世界を席巻していったのだが、それにしても、どこかいびつで不格好なキャラがウケているのは何故だろう。
「かわいい」という美意識もまた、「未完の美」であるといえる。宮元氏によれば、この言葉は本来、未熟なために助けを必要とするか弱いもの、小さくていまにも壊れてしまいそうなもの、純粋無垢ですぐに汚れてしまいそうなものを「守ってあげたい」と感じる愛着を指している。「未完の美」は言い換えれば「滅びの美学」でもある。「かわいい」もまた日本の伝統的な潮流の延長線上に位置する美意識であって、「もののあはれ」に通ずる、はかなく、か弱きものをいとおしいと思う気持ちを表す。これが世界で共感を呼んでいるのだ。昔も今も、日本のこの禅的な心持ち(無常観)が特に欧米人にはエキゾチックに映っているのかもしれない。「クール・ジャパン」や「かわいい」の正体は案外そんなところにありそうだ。
宮崎 駿さんのアニメ映画「崖の上のポニョ」はこのあたりを狙ったものに違いない。これもまた海外でウケそうだ。
 
「私達は何も知らない」

 

2009年8月6日、11年ぶりの日本の夏、私はとわる地方都市にいました。富山県高岡市。これまでもなかなか足を踏み入れなかった地域ですが私にとってはとても興味深いそして大切な機会でした。私がかつて日本にいた時、とてもお世話になった上司であり 現在、富山大学芸術文化学部の教授を務める恩師の依頼で日本帰国後初めての講演会を行いました。タイトルは「あなたはなぜデザイナーなのですか?」アウディ終了時アウディデザイナー達に行ったプレゼンテーションと同じテーマの日本の学生に向けたバージョンです。 私にとってはある地方美大の講演会という事以上にこれから私が何をやっていくかを示す大切な活動の一環のスタートでもありました、ですからとても大切な講演会だったのです。そしてもちろんそんな事は誰も知りません。そして偶然にもこの日の意味がいったいどんなに心深いものなのか、あらためて考えていました。原爆記念日です。
私は11年間、日本を離れドイツという国にいました。そして日本を離れその新しい土地で暮らしを営むうちに、日本のすばらしい事、そしてよくない事がこれまで以上に観えるようになっていきました。かりに見せかけでも人に優しい姿勢、受け入れる事のできるその姿勢、研究熱心で常に新しい技術、ものを開発しようとする姿勢、食に対する情熱などすばらしい事はたくさんあります。しかしそのすばらしさとは反対に多くの問題を抱えている事も確かなのです。 私はこのSWdesign|DESIGN FUTUREでは今後デザインに必要であろうアイテムに対して正直でありたいと考えています。その意味は今のそして将来のデザインにとってものを生み出す事以上に、その社会の体質や考え方、思想をあらためてかえりみる事、そしてどのような新しい考え方が必要であるのかを考えていきたいのです。まずはそのためには、私を含めその感じている問題から目を背けてはならない、今は逃げてはいけない時なのです。
学生達に私は誠意を込めてこう言いました。「固まった重い石のような社会、大人には何もできない、だから自分たち日本の未来はあなた達が考えなくてはいけない、なぜって?あなた達はこれからのクリエーターなのだから。」と、彼らは私のメッセージを真剣に受け止めてくれました。講義中に数人の学生が泣いている事に気づきました、そして彼らの目をみました。そこには本当に美しい嘘のない輝きを感じたのです。私は「彼らならできる」と思いました。私は日本に帰ってくるなり多くの"大人"の方々から、今の若い人たちは何もできない草食系だと。「エッ?」、私ははじめその"草食系"を今の若者は"装飾系"と実は勘違いをしていました、そしてお決まりの言葉は「和田さん、そんな事も知らないの?」、知らないのは大人達だと思いました。
今、一線で仕事をしている、それはクリエーターも一般のビジネスマンの方々にも、たぶん共通に感じている事があると思います。明らかに社会が変わろうとしているターニングポイントに入りかけている状況、金融構造の亀裂がもたらす産業界への影響が1970年代にも体験したパラダイムシフトより大きいものになっている事を、誰もが感じているはずです。そしてこのままやっていてはだめになる予感すら感じている。違うでしょうか?皆さんは会社で学校でそしていろいろな社会の中にあって、よくないと思いながらもその多くを見て見ぬふりをして生きている事に気づかされる事があります。もちろん私も例外ではありません。そうやっていくしかない、むしろ何かを守るためにそうしなければならない状況がこの社会のほとんどを占めているのです。私はその社会に文句を言いたい訳ではありません、そんな事はこの社会に生きていれば当たり前の事なのかもしれません。しかし、「今は違う」と思っているのは私だけでしょうか?というのも先ほどから述べているようにこの社会が環境を含め大きく変わる事を余儀なくさせられている事です。ですから私たちは、今まで抱いていた問題に対して背を向けては行けない、多くの皆さんが感じている問題をこれからの子供達に引き継いでは行けないと思っているのです。
8月9、10、11日、3日間にわたりNHKは何か大きな前進をした事に、ご覧になった方なら誰でも感じ取ったと思います。戦争を語り継ごう「戦争証言プロジェクト」、それはこれまで公開されていなかった第2次世界大戦の隠されていた反省の記録です。400本にものぼるカセットテープには戦後、当時の軍令部のOB達が語った生々しい記録が残されていました。その事実の中にはいったいどんな問題が隠されていたのか?NHKはこの根本的な日本にとって、日本人にとって大切な"何か"に踏み切りました。けして民放にはできなかった事だと思います。そして将来の、未来の日本のためにそして子供達のために語り継がなければいけない。大切な事は今だから言えるという事以上に、今、伝えなければもう伝わらないという事です。海軍の持ちえていた横暴、責任逃れ、間違っていると思っていても誰もが反対できない気配などNHKのキャスターは今の会社、学校、そして至る所にはびこった問題と日本軍隊が持っていた問題が関係がないものだとは思えないと言っていました。 私はクリエーターとして本来自由を基調としたクリエイティブな環境がどのようなものであるべきかを長い間、考えてきました。その所見は一回目のこのコラムのメッセージの中にも記したつもりです。我々デザインの現場でも今回あげている問題が関係ないとは全く思えない事は誰もが理解できる事だと思います。そしてこの消費、お金至上主義の時代にものの中にあったスピリットまでも失いかけている、私たちはいったい何を創っていると言えるのでしょうか?
私は感じています、この問題は、そして 失われた精神は実は戦後の社会風習と人の思いに深く関係している事を 。「私たちは何も知らない。」
キムちゃんが教えてくれた / 今回のコラムはアウディを辞め、これから私が何をしていきたいかの一歩です。
私はドイツ、ミュンヘンに長く住んでいましたが、かつてはナチスの司令塔のある街でした。あのアウシュビッツの惨劇の前段階では、ダッハというミュンヘンから30分も離れていない町で毒ガスによるユダヤ人の虐殺が行われていました。私もかつて訪れた広島同様、このダッハを訪れこのような惨劇が二度と行われてはいけないと感じながらある疑問を抱いていました。
日本とドイツ、共通に持つ敗戦国というレッテル-その意味において日本とドイツはある同じ教訓を持ち得ていなくてはいけないという事です。戦後、両国の「復興そして再生」は、どん底にいる人々の再度生きるというモチベーションをわかせ、類を見ない勢いで近代国家へと成長しました。人が人に危害を加える戦争こそは絶対にやってはいけない、こんな事は子供でも知っている---しかしこの「知っている」を本当に学んだり、教わったり、論議をかわした事がどれだけあるものなのかとても疑問を抱くのです。私は1961年に生まれましたが、戦後15年が経過,日本の近代化のど真ん中で生まれ成長しました。敗戦そして貧困を越え日本はそのエネルギーを本来持ち得ていた「こころ」を封印し、物質的な豊かさへの転換に夢中になっていたかの様にも思えます。祖父祖母そして父母から戦争の話を聞いた事はありません。決して多くは語らなかったように思えます。もちろん理解はできます、辛い過去を子供に話したところで何の役にも立たないと思うでしょうし、実際、話す本人の暗い過去が繰り返され苦しくなるとも感じられます。いい事等何もないと。学校教育はそれ以上だったと思います。受験勉強は大いに勧められても日本の暗い過去を真に語り継ごうとした先生にはあった事はありません。歴史の授業で戦争の事実は知らされても真実を教わった事はありません。国の教育方針でもあったようにも思える曖昧さです。こう実感できるのは決して私だけではないと思います。
私たち日本人は戦後、アメリカの指導のもとでいろいろな教育の弊害を受けた以上に結局のところ日本人自身が核心的な事を封印し、言い伝えて来なかった?私はもの創りを職業に持つただの一デザイナーです。「しかし、何でこんな話をするの?」と思われるかもしれない、私は一クリエーターとしてある本質的な事にデザインの意味を見出しています。ですが、今日の日本の物質社会のあり様そしてその現象社会がもたらす本質的な事から逃げようとする風潮そのものが、人をだめにしている様に思えてならないのです。言い過ぎているなら謝ります。ですが正直に一クリエーターとして確信を持って感じている事なのです。たぶんこの11年間日本を離れドイツにいたからこそより感じられるようになったのだと思います。
ミュンヘンにいる頃、私はあるドイツの友人の家に遊びに行っていました。そして娘のキムちゃんが勢いよく帰ってきた。ドイツのほとんどの子供は学校から戻るとお母さんやお父さんに今日学校であった印象にのこった事を報告します。「今日はNein sagen(ナインザーゲン)の授業があって、、、」後,私は友人にキムがさっき話していたナインザーゲンの授業は何なのか?と聞きました。その授業の発端は元々は戦後の教育方針の一つでナチスが巻き起こしたプロパガンダなど、間違っていると感じていても誰一人その方針に「NO」を言える人間がいなかった当時のドイツの風習を顧みて、いかなる論議の中にあってももし自分が考え感じ間違っていれば「NO」という一種の自制能力を高めるものだそうです。私はその話を聞いたとき正直驚きました。はじめに思ったのは,だからドイツ人は何につけ自分の意見を通そうとするのか?だから少し冷たい人たちと感じるのか?と考える一方、こんな子供の頃から過去の悲劇を再び起こさない事を考え教育の中に積極的に踏み入れている考え方に興味を持ちました。ここドイツではドイツが行った惨劇の悲惨さを教育の中で伝えるだけではなくもう一つ核心的な方向に真理を求めているように感じました。もちろんこの授業にはドイツの中でも賛否両論の時代になっていると聞いていますが、しかしその論議もある意味,核心的な事だと思います。キムちゃんが偶然にも私に教えてくれたものは小さな教育の一面かもしれません、でもとても大きな意味が含まれている事に気づかさせられるのです。
なぜか日本の教育に疑問を持ちました。全くうわべだけで、ものごとを「学ぶ」と言う核心的で本質的な事を避け、現実「受験」と言う現象だけを追う社会(ちなみにドイツにはお受験社会などありません。しかし、例えばGDPは同じようなものなのです)、儲かれば何でもやると言うビジネススタイル、間違っていると思っても社長や部長の前では何も言わない風習、すべて核心的本質的な事から逃げた社会の体質になっている事に気づかされるのです。このままやっていていいと思いますか?自問自答します。
我々日本人は仮においしいモノを食べ、いい洋服を着て、いいモノを持ち、いいクルマに乗っているとしても、またそれ以上の欲を抱いているとしても「こころ」がありません。仮にいくらかっこ良く着飾ったところで所詮経済が衰退してしまえばこころの中は「から」です。「こころ」がなければ本当のものや真理に溢れたことが観てとれないという事です。仮にすばらしいクリエーターが美しいものを創っても真の美しさを感じられないまま「美しい」と言っているだけなのです。現象が巻き起こす真理のない世界なのです。私が日本を離れたこの10年、日本は政治的にも経済的にも大きな打撃を受けています。今回のとても重要な選挙のマニフェストを読んでいても、皆くたくたの内容・・・
少し言い過ぎているかもしれません。辛く感じ取られるかもしれません、しかし今は、日本の未来の正念場だと思います。私が伝えたい事は今いろいろなところ、学校、会社、政治そしてその社会が次の世代の子供達の為に変わらなくては行けないターニングポイントを向かえているという事です。今はこれまでの過ちをまた良い事も含め何かができる時なのです。戦争の話題だけではありません,我々の社会の中にはその真理において何かを伝え,何かをしていかなければいけない事がたくさんあります。できる人から伝えて行きましょう,できる人から考えて行きましょう,できる人から越えて行きましょう。できる人から手を差しのべて行きましょう。今が瀬戸際です、未来の為に誰もが逃げてはいけないのだと思います。私自身、全く例外ではないのです。そして自分をよりよい意味で変えていける一つの大きな機会であると感じています。
それはモノのデザインだけではありません、どなたにも持ちえる「VISION」、生き方です。少なくとも今だから言えるという事ではなく、今伝えなければもう伝わらないという事、歴史においてもビジネスにおいても同じ間違えを次に生きる子供たちの為に、過ちを繰り返さない為に「何か」を伝える事に務めていきたいと感じています。それこそが先にも述べた自分自身の考えるきっかけ、機会なのです。私を含めたすべての人に共通した認識です。そして結局私達は何も知らないという事を知らなければならないのです。
私は今新しい考え方を持って次の100年、日本の100年をイメージしています。(おこがましいですが)私があえてこのメッセージを伝えているのは、すべてドイツの暮らしが教えてくれたのです。あえて言っておきましょう、ドイツ人は厳しいですが「嘘」をつきません、良きも悪きも長くドイツにいる事でしっかり日本が観えてしまったのです。「素晴らしい日本」そして「隠された日本」です。「私達には一体何ができるのでしょうか?」封印されたものを解放されなければ次ぎのVISIONは見つけられないと思います。すべてはこれから来る未来の為に。
 
外から観た日本

 

真逆の国・日本とドイツ
日本の男性に美人とかわいい女性どちらがいいと尋ねれば9割がたかわいい女性と答えるだろう。残念ながらドイツには美人はいてもかわいい女性はほとんどいない。
強引過ぎるかもしれませんがこの事実がドイツと日本の根本的な美意識の違いに繋がっていると思えてならないのです。ドイツの女性は概して独立心が強く、男性に媚びたりしない。男性女性にかかわらず個人の意識がとても高く、ここで女性に優しいデザインです、女性のためのデザインです、なんて言ったらぶっとばされる!?したがってドイツにはかっこいい商品はあってもかわいい商品はまずないのです。媚びたり、あまえたりする商品が許されないのです。ある意味とても厳しい国でが一方、その精神がうそのない本質的な商品を生み出すのだと思います。
これまた強引かもしれませんがドイツにはモノがない。変な話ですが冗談ではありません。デパートやマーケットに行ってもなかなかほしいものは売っていないし、ほしいものを得るには時間がかかることが多いのです。商品の数もけして多くない。そう、まったく便利でない、不便な国なのです。しかしもちろんこんな感覚は私の日本での生活の比較から生じるものです。基本的に企画力に欠け今だサービスという概念が存在しない。店の店員はおかげでまったくやさしくないし、いつも怒っている?人をもてなす概念に欠け、エンターテイメントが苦てで楽しさやおもしろさに欠ける。ここまで言うとお世話になったドイツの方々に申し訳ないですがほとんど当たっていると思います。いったいどんな国なのかと思うかもしれませんが、こんな話の裏にはある意味が隠されているのです。
私はかつてミュンヘンに住んでいましたが、理屈抜きで美しい街、それはとても整然としたものですがそこにエレガンスを感じ取れる大人の街です。街を歩けば買い物をしているのは大人、日本のような子供(若者)の為の商品はあまりない。夜、いかしたカフェやレストランに行っても大人しかいない。街には明らかに生活の為のルール、秩序があり大人と子供のための生活のきっちりとした境界線があるのです。コンサバといわれればコンサバですが、ここは大人の街、子供に媚びることはないのです。そしてなぜかドイツのおやじはかっこいい。たとえば東京は正反対。いろいろなものが混ざり合った街、おもしろくエンターテイメントに富んでいますが、けして大人のエレガントな街ではありません。
ドイツの社会はやさしさに欠けますが"うそがない。無駄がなく人々の生活がシンプルに構成されています。根底から言えばドイツの資本主義はアメリカや日本のそれとはいい意味でも悪い意味でも大きく質が異なっているのです。そしてこの社会環境と人々の生活の意識の差がデザインに大きく関わっています。日本とドイツのデザインを取り巻く環境はまるで正反対、"真逆"なのです。私にとってはもはやこのドイツのデザイン環境が私のスタンダードであり、くらしの基盤と成り得たものなのですが、こんな経験から日本や日本のデザインを観てみると、、、
日本人の特性、良くも悪くもとてもやさしい、そしてやさしいデザインに包まれています。メーカーは人にやさしいデザインと言い、誰にでもつかいやすいとユニバーサルデザインをエコデザインを訴えかけます。もちろん悪いことではありません、しかし言い換えれば誰にでもやさしいがゆえ、主張や緊張感に欠け、もの本来が持ちうる魅力に欠けます。日本にはモノがあり過ぎます、多すぎて消費者はモノの価値に麻痺している、それを知っていても競争社会の原理は悪化するばかり。プロダクトやメディアの感動はどんどん薄れ、デザインは違いを求めてオーバーヒートする、そして崩壊。デザインの質、クオリティーとはその社会そしてその社会の消費の質そのもの。デザインの本質的なねらいとは人の物理的な豊かさではなく、人の精神的な豊かさです。ということは日本にはもはや健全なデザイン環境は存在しないのか?モノがあり過ぎるということはデザインの基本的な目的から逆行しているわけです。"Not doing anything is much better than doing too much" デザインであれ、何であれやり過ぎは今、最もやってはいけない行為と考えています。
付加価値としてのデザイン、全体価値としてのデザイン
かつてドイツでデザイン活動をし、あらためて日本のクルマを見てみるととてもグラフィックな処理が多いいことに気がつきます。その内情も私は経験してきたわけですが、主に、一つは日本の法規や環境から来る理由でボリュームを取りづらい枠の中で、何か違ったものを求めると必然的にグラフィックな処理に走るがちです。また次から次へと新車を排出する日本のマーケットの中で、常に斬新さを求められるわけですからやむを得ない傾向であることは理解できます。しかしながらそれゆえにクルマにボリューム感がなく、どちらかというとタイヤとボディのバランスが悪く、少々過ぎた言い方かもしれませんがそれでいて顔とおしりはこれでもかというぐらいにがんばっている、、、時として、斬新さとは求められる価値であはありますが、概して表層的になりがちで、新しさゆえに深みを出せないのが今の日本車の傾向だと思います。
ヨーロッパのモノの創り方は、デザインだけではなく人の暮らしも共通していますが、問題を表面的にとらえるのではなく、根本から解決しようとする努力が見られます。常に骨格から変える努力がありその証拠に例えばクルマのホイールベースを変えることは日常茶飯事で、またすべてに合格点を出すような手法はとっていないように思われます。すべての項目で合格点を求めると大きな飛躍は求められない。大きな軸を変える事でシンプルで最も大きな飛躍を遂げるのです。デザイン的に付け加えるようなやり方はせず、根本的なデザインの基軸の善し悪しがすべてを決定付けるのです。
実際私のアウディでの仕事の90%はそのプロポーションに時間を取り,後の20%が新しさの為のクリエイティビティに費やされました。日本でのデザインの仕事はその逆なのではないでしょうか。アウディでの仕事の進め方はとても割り切ったターゲットの求め方で、すなわちデザインの解釈が付加価値としてのデザインではなく、全体価値としてのデザイン。ヨーロッパにおけるクルマの創り方はこんなところに基軸があるように感じました。このことはクルマのデザインだけの傾向ではないと考えます。
海のデザイン山のデザイン
ドイツ、ミュンヘンに移り住むようになり4,5年目の時、自分の中の感覚にある変化がある事に気が付きました。ミュンヘンのようにヨーロッパアルプスに近いところに住んでいると、ある種、山それもアルプスの岩山の重さを生活に感じて来たのです。もちろん建物もすべての環境が石でできているといっても過言ではありません。それは基軸のかっこたる強さと重さなのだと理解する様になりました。私はある時、この感覚が大きく私自身のデザインに関与していることに気が付き始めたのです。
日本の文化は海と山とのバランスの中においても、島国としての特徴を常にその文化に影響させてきました。少々強引かもしれませんが日本の文化はある軽さを生活の機軸に持っているような気がします。それは浮くこと、海、水との関わり合いです。それは日本の庭園文化にも顕著に現れています。常に海としての水を意識し、あるときはその水の上に建物を浮かすようにイメージを構築してきました。それは重力を感じない、宇宙的ともいえる世界観を創ってきたのかもしれません。それは今なお日本のモダン建築の考え方の一つです。たとえば柱を細くし建物を軽く見せる、重力をできるだけ感じないようにみせる発想はまぎれもなく日本の文化、デザインの特徴といえます。これは建築に限って言えることではなく、プロダクト、グラフィック、いろいろなデザインの中にもその傾向を見て取れると思います。外から日本のデザインを観るとそのデザインはとても軽く、あたかも浮いている、言い換えればきゃしゃで存在感が少ないとも言えます。
プロダクトデザインにおいてもあたかも2次元的で立体感に乏しい。逆にヨーロッパのものは重みがあり骨格がしっかりしています。重力とその重さに従い、筋肉がしっかりあり、強い存在感があるのです。これはまるで人や社会の質、体型に比例しているようにも思えます。本来、西洋文化におけるもののデザインの魅力とはその存在感の強さに象徴されてきました。しかしこの価値がすべてではないことを、日本のカルチャーが身を持って証明していると思います。しかし世界の欧米主導型の社会構成ではデザインにおいても日本のデザインはある意味欧米のアンチテーゼであり、基本的にいまだ多くのマーケットは強い存在感を好み、それをよしとします。本質的に日本のデザインが認知され、メジャーになるのはそんな発想が逆転する時なのかもしれない。すなわちそう遠くはないのかもしれません。今は皆、苦しいですがチャンスなのです。がんばれジャパンデザイン!
西洋は日本の美意識をどういう風に見ていたのか / Martin TIRALA(カレル大学)
日本研究は誰のものかという質問に対し日本研究は日本人の研究者のものだと答える人が多いだろう。日本人は日本語で書かれた資料を最も正しく読め、そして数百年の日本研究の伝統があり、殆どの専門的な議論は日本において行われている。一方、日本を研究テーマとして扱っている西洋の研究者の業績も無視できない。ヨーロッパとアメリカの研究者は日本を外から見ているので、様々な物事に日本人より気付くと言う人もいる。また、欧米の研究者は中国、韓国などの東アジアの国と違う文化圏の観点で見ているから、まったく異なったパラダイムに絡め考えている。しかしながら、本当にそうなのだろうか。
西洋あるいは欧米の研究者の日本研究はどういう過程を経たのか、どんな枠組みで行っていたのか、と考えた時に、具体的な例を出し検討すると、大体の姿が現れてくるだろう。長い鎖国時代の終わりを告げた明治維新以降、新しく作られた日本帝国の政府は相次いで西洋から新しいアイディアや制度などを導入していた。1880 年代に導入したもの中に美学という新しい学問があるが、このことが導入されたことは不思議である。なぜなら、ヨーロッパやアメリカの大学には美学という独立した学科はまだ存在していなかったからだ。美学が初めて哲学から学問として分類されたのは日本だった。しかしながら、西洋の学問の一つとして扱われたので、日本人の美学の専門家は西洋の美学のみ研究していた。欧米の諸言語の美学専門用語を日本語に翻訳し、西洋の概念をそのまま受け入れ、主にドイツやフランスのディスコースの影響を受け、美学の研究を始め、現在に至る。日本の美学者は基本的にカントやヘゲル等の美学の研究に貢献しているが、明治時代以前の日本の美意識に目を向けていない。
一方、欧米は昔から日本の伝統的な美意識に深く興味を持っている。しかしながら、九鬼周造の「「いき」の構造」以外、日本の現代美学の研究を全て無視し、茶道・日本庭園・俳句等の伝統的な美意識のみに魅せられている。このようなオリエンタリズム的興味は19 世紀後半に生まれた。西洋で行われている日本の美意識の研究は今日までオリエンタリズムの呪文で縛られていると言えるだろう。大正と昭和の日本の文化人もこのステレオタイプ的考えを消し去りたくなかったようだ。1930 年代、鈴木大拙はアメリカに禅の教えともに「わび」と「さび」を紹介し、その後、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で日本の美の概念を述べている。谷崎の独特な美感は、徳川時代に根付いた美感に近いものであり、日本語が読める西洋の研究者に、そして英語に翻訳された70 年代から欧米の美学者に、大きな影響を与えた。
西洋では、日本の美意識と日本の美学イコール「わび・さび」となってしまった。日本人の美学者が和の美意識を無視していたころ、ドナルド・キーンは吉田兼好の「徒然草」などの文学作品を踏まえながら、日本の美の特徴を谷崎より的確に言い表したと思う。しかし、ドナルド・キーンが書き記している日本の美は中世の「わび・さび」の美意識に近い。日本の美意識をこのように一般化し総括する傾向は日本映画の研究の先駆者であるドナルド・リチーの研究にも見られる。日本の美意識が単純化されていると批判している専門家もいるが、キーンとレチーは日本人研究者ができなかったことに成功したと言えるだろう。若しくは、ある時代の美の特徴を見せたと言ってもよいだろう。
日本では日本の美意識を総括する美学者は殆どいない。しかし「あはれ」・「もののあはれ」・「をかし」・「幽玄」等の美的概念を個別に研究する人は少なくもない。しかし美学者ではなく、古典文学を研究する専門家のおかげで、それぞれの美意識の元々の意味が分かるようになっている。西洋でも同じく日本の美意識の基礎研究は文学の研究を専門にした人がしている。そして90 年代から、特にミケーレ (マイケル)・マルラが活躍し、日本の現代美学が知れるようになったため、西洋の研究者は日本の美意識あるいは美学を少しずつ理解しようとしている。しかし現在、英語で出版されている本を見る限り、日本美学に興味のある作者はまだまだ「わび・さび」の呪文から逃れていないようだ。
 
日本の美意識

 

2003年11月5日、三井秀樹(筑波大学教授)により、日本の伝統文化を象徴する装飾美術としての琳派を取り上げ、日本独特の美意識がもたらした欧米文化への影響や、日本独特の美意識と西洋の伝統美との違いなどが紹介されました。三井秀樹は、一般にはあまり知られていないかもしれないが、知る人ぞ知る、フラクタルから日本の美意識を研究しはじめた先駆者で、1999年「美のジャポニズム」、2000年「形の美とは何か」を書いた。
彼がフラクタルにより美の研究をやりはじめたきっかけについて、「1979年にアメリカで行われたSIGGRAPH(シーグラフ)というコンピュータ−グラフィックスの学会に参加した際に、物理学の分野であるフラクタル(複雑系科学)を造形の分野にも応用できるのではないかと考えたんです。フラクタルというのは、今まで定量化することができなかった自然界の造形物、例えば雲、山、稲妻、樹木など非定形のものにも、ある数理性があり関係式で表現できるという理論です。学会では数式を使って表現された雲や山並み、惑星などを見ました。これはすごいと思い、その理論を芸術の世界でも応用できるのではないかと考えたわけです。その研究を早く発表したいと思ったのも本を書くきっかけとなりましたね。フラクタルの研究については同じ年に「フラクタル造形」という本も出しました。」とカラーデザインスクールで話している。
では、「日本の美術」についての話をうかがいます。三井さんは「美のジャポニスム」という本を書かれていますが、日本の美術がヨーロッパに与えた影響についてお話しいただけますか?
「ジャポニスム」というのは、主に幕末から明治にかけての日本の美術がヨーロッパ文化に与えた影響をいいます。最も代表的な対象が浮世絵です。これが西洋人の目に留まり、衝撃を与えました。なぜ衝撃を与えたかというと、西洋の絵画は遠近法や明暗法を用いて、立体のものは立体に見えるように描いていたんです。ところが、遠近法がなかった日本の浮世絵は線画で平面的に描かれ、そのなかを鮮やかな色で塗りつぶしている。そして、斬新な構図。それが、西洋の人にとって新鮮で衝撃的だったんです。その影響を受けたといわれているのが、印象派の画家です。例えば、マネ、モネ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ・・・・と、ほとんどといっていいほど影響を受けていますね。それがジャポニスムによる最初のヨーロッパ文化の変化です。
次に変化を与えたのは「アールヌーヴォー」です。アールヌーヴォーで最もよく知られているのは、ガラス工芸のエミール・ガレですね。草花や昆虫など「自然」の動植物をモチーフにした幻想的な色合いで彩った作品が特徴です。そのガレがモチーフとした「自然」は日本美術から受けた影響なんです。ガレはもともと、日本画に興味を持っていたことから、フランスに留学していた高島北海という森林の研究者に日本画の手ほどきを受けていました。そこから学び、日本的なモチーフをガラス工芸に生かしたわけです。西洋絵画のモチーフとなる「自然」はバラやユリのような美しい花ばかりで、昆虫や野草などはその対象ではなかった。しかし、日本美術はそういった「自然」もモチーフにしたんです。その影響が、ガレの作品には顕著に見えますよね。
このように「アールヌーヴォー」にもジャポニスムは大きく影響をおよぼしました。
ヨーロッパの美術に大きな影響を及ぼした日本ですが、現在は欧米の文化の影響が強いように思われます。どうお考えになりますか?
今の若者は海外ブランドが好きですよね。例えば、ルイ・ヴィトンやエルメス、バカラやティファニー等。しかしそんな海外ブランドのルーツに、実は日本が深くかかわっていたのです。
ルイ・ヴィトンは20世紀初めの旅行ブームをきっかけに四角い鞄を売り出しました。それまでの丸い鞄だと狭い列車内では効率が悪く、四角い鞄だと積み重ねられるということから、その鞄が大ヒットしたんです。そうすると類似品がたくさん出てくるわけです。そこで、ルイ・ヴィトンは他社との差別化を図るために、鞄の表面を今ではおなじみのLVマークやユリの花などの模様にしました。その模様というのは、日本の家紋からヒントを得て作られたんです。そういった文化の現象を「日本映し」と呼びます。「日本風」の「真似」「コピー」ということですね。
そういったことは、ティファニーやマイセン、ロイヤルコペンハーゲン等の陶磁器メーカーにも見られます。特にティファニーはジャポニスムによって大きくなったといっても過言ではないくらいです。ティファニーはもともと文房具店だったんですよ。その後、宝飾品や陶磁器を扱うようになりました。そこから、大きくなっていきました。その当時、ティファニーの作った陶磁器は竹やあやめなど日本の文様そのもので、まさにジャポニスムの影響といえます。だから今、海外ブランドがブームとなっていますが、元をただせば「日本の文化」ともいえるんですよ。
19世紀末-20世紀初頭にかけて起こった「ジャポニスム」のように、今後、日本の文化が欧米の文化に影響力を持つことはできると思われますか?
19世紀末-20世紀初頭にかけて、なぜ「ジャポニスム」という現象が起こったのか。それは、浮世絵をはじめとする日本の美術工芸品に込められた日本人の持っている美意識に欧米の美術家たちが魅了されたからです。だから、もともと日本人の血には素晴らしい美的センスが含まれているんです。例えば、「粋」「侘び」「寂び」「数寄」「風流」などは、日本人特有の美意識の用語ですよね。そういった形に対する研ぎ澄まされた美意識が日本人にはあります。
それゆえ実際に、新しい「ジャポニスム」=「ネオ・ジャポニスム」という現象が最近も起きています。特に高い評価を受けているのが、アニメやゲームです。日本のアニメは映画「マトリックス」にも影響を与えました。映画といえば、「ラスト・サムライ」や「キル・ビル」なども、日本の文化を題材にしたものですしね。
今、アジア諸国での日本文化の影響力といったらすごいですよ。音楽、ファッション、日本のものであればなんでも「かっこいい」と思われていますよね。
このように日本人の美意識は見直されてきています。色彩にしても、形にしても、日本人は他の国の人にはない繊細な感覚を持っています。
古くは中国・朝鮮などの大陸文化を移入し熟成させてきたのが日本の文化です。日本人は、独自の方法で大陸文化を消化し、うまく変容させることで、新しい文化を作る能力を持っています。仏教美術においても、日本の仏像は造形的に一番美しいと思います。
日本人の優れた色彩感覚と高い造形能力、そしていろいろな文化を消化し、変容させる能力により、日本人は今後ともあらゆる美を構築していくと思いますよ。
それでは最後に、カラーリスト、そして目指している人へ、アドバイスとメッセージをお願いします。
日本人は本来、色や形に極めて優れた感性を持ち合わせています。これは、日本人であれば誰しも持っているものなのです。だから、「自分にはセンスがない」と思う必要などはありません。色彩に対する感性の高い低いは、色彩経験やトレーニングによって決まるものです。
いい芸術品に接する環境に育つと、そこから感化されるように美的なセンスや色彩感覚は磨かれます。でも、それだけでは不十分で、やはり「学習」すること、「トレーニング」つまり「訓練」することが大事です。だから、いろいろなセミナーに参加してみたり、学校に通ってみるのもいいですね。また、ショッピングや料理など日常的に形や色と接する場面で、意識的に自分自身の配色を作り、意欲を高めていくのもいい訓練になると思います。
色彩を勉強することは、カラーリストになるためだけのものではなく、一般の人でも日々の生活をより充実したものにするために高い効果があります。より多くの方に色や形の勉強をしてもらえればと願っています。
 
複雑系社会における次世代環境デザイン

 

さて、今日のテーマですが、今日のグローバル化、IT革命、環境問題、少子高齢化、教育問題、政治経済、どれ一つとっても複雑なシステムと言えます。今日はこのことの問題解決策というよりもむしろ次世代の環境デザインとはどうあるべきかと言った問題提起を中心に話を進めて参りたいと思います。 私が常に思うことは、我々大人の責任と義務とはどういった事だろうかということですね。やはり次の世代の子供たちのためにバランスの取れた環境を残すことだと思います。環境、「Ecology」そして「Environment」ですね。「Ecology」というのは生態系、一般的にエコと言われています。「Environment」というのは、周辺の状況、生活環境、美的環境などが考えられます。先人の心を学んで、共感に基づいた心のネットワークを築き、普遍的な環境倫理を作っていく必要があると思います。
私事になりますが、私は長年大学で建築デザインの教育に携わって参りました。多くの学生に接しますと、日本人の美に対する共通した認識や感性のようなものを感じることができました。特に幾何学的パターンや平面構成の実習で時折ハッとするような作品に出会います。
十数年前、アメリカのシカゴの大学で講演の話があった時に学生の実習作品のスライドを紹介しながら私の専門の立場から話したところ、先方の教授や大学院の学生が一様に驚きの表情を見せこう言いました。「日本人の学生は何故こんなにデザインセンスがいいんでしょうか」「あなたは良い作品ばかり厳選してきたんじゃないでしょうか」と言う質問を投げかけられました。私としてはごく一般的なデザイン教育の課題作品を見せたつもりであり、これは意外な反応でした。
この時以来私はある思いをいだくようになりました。一つにはデザイン系学生の作品であったにせよ、その中に日本人本来の美意識と平面構成による造形能力の高さを見ることができたと言うことですよね。そこでこれは強引な論法ですが、私はかつてのジャポニズムの原点は、今なお日本人の血に流れている美意識と造形力にあるのではないかという潜在的な意識をずっと持ち続けて参りました。 今日の日本のアニメーション文化が世界に広がっていったのもうなずけるかと思います。「ピカチュー」だとか「アルプスの少女ハイジ」。例えばピカチューですね。これは、動物なのか怪獣なのか分かりませんけれども、「ピカチュー」と言ってそういう、言葉が通じる、そしてコミュニケーションが出来る。あまり物を言わない日本人という象徴的な見方が考えられます。アルプスの少女ハイジにおいて本家本場のスイスの中で、これを見た子供たちは礼儀正しくなったという、こういった現象が起こっている訳なんですね。日本のアニメーションは色もきれいで画面構成も良いという評判であります。
私は日本人の美意識が非定形と、アシンメトリーの高度な造形原理にあると思います。アシンメトリーというのは、対称がシンメトリーに対して非対称アシンメトリーと言います。その非定形つまり、茶の湯文化の茶室の曲がった柱、形がいびつ、ひび割れたうわぐすりが均一でない陶芸作品など非定形に限りない愛着を持っている日本人の造形原理には理由があるわけですね。それは、フラクタル幾何学という1970年代に提唱された複雑系の理論であります。またフラクタルには、黄金比に深い関係があり、結果として非定形の美にも黄金比が含まれていると言われています。
21世紀になり、日本人がかつて美意識の拠り所にしていた侘び寂び、風流といった、造形的な美しさに加わった感性の重要性が問われています。私は、現代社会において日本人の感性がよみがえる事が美の源泉となり、豊かな文化を育むことができると思います。
かつて日本人が持っていたが、しかし現在は失ってしまったと思われる優れた美意識は現在なお、私達の血に流れているということを知り、少しでも感性豊かな美的生活を送ることが大切だと思います。 このような中、次世代環境デザインとは、この日本の美意識は自然と一体になることが大きな目的であると古来から言われています。つまり、自然の叡知に学ぶことだと思います。これは愛知万博(愛・地球博)のメーンテーマでもあります。
次に複雑系とはということですが、例えば多くの要素がお互いに影響を及ぼしあって形作られているような系(脳など)では、部分の総和以上の動きを系全体として示す、といったようなことが研究の対象にされてきたのです。つまり「複雑」とは単に多くの要素がややこしく絡み合っているだけでなく、その関係からさらに高次の何かを見せてくれるようなことをいっているのです。そしてそのように「複雑」なシステムのことを複雑系といっているのです。
さて、部分の総和以上のことは従来のまずは細かく要素に分けてそこから再構築する考え方では研究できません。つまり科学の仕方に大きな転機が訪れています。この点が「複雑系」がここまで騒がれている要因の一つです。 ともかく数年前から話題になっている「複雑系」ですが、いまだ科学者の世界でも普遍的な定義はありません、そこで私は先ほどの日本人の美意識を切り口に複雑系の中のフラクタル(自己相似性)についてもう少し詳しく話をいたします。
日本人がこれほどまでに自然の造形にこだわった理由はいったい何であっただろうか?豊かな自然の姿や形に美を見いだし、人の手で再び自然を写し取ったり「見立て」や「借景」といった日本人独特の自然に対する接し方を会得しました、やがて日本人独自の美意識を育み、日本文化を支える美学が成立しました。自然を観察する日本人の細やかな情緒性が野辺に咲く山草、雑草や小動物にも目を向け美の対象としました。
絵画や彫刻だけが唯一、芸術の対象となった芸術至上主義のヨーロッパに対し、日本人はこのように自然を日常生活に取り込み、生活空間の中の芸術として絵画や彫刻という枠を取り払い、工芸や染織などの装飾芸術、日常使用する道具や雑器までも生活美学として享受する土壌を作り上げてきました。ところが自然の造形を模したり、見立てる美の造形原理についてはこれまであまり言及されてこなかったわけですね。確かに自然界における星雲の渦巻き、月や太陽の円、放射状に広がる光あるいは動植物に見られる螺旋構造や対称性などの数理的な分析については多くの研究者たちの報告がありますが、自然の景観や複雑な形については一様に自然界の見えざる神の手の一定秩序に基づき作られた形としか説明されてなかったわけです。その見えざる秩序は1975年IBMワシントン研究所の研究員で数学者のベノア・マンデルブロによって提唱されたフラクタル理論であり、カオスと共に今日複雑系といわれる、まったく新しい幾何学です。このフラクタル幾何学は自己相似性という性質を持ち、そのフラクタル次元というパラメーターによって形の複雑さを規定できます。自己相似性とはある形の一部を切り取ってみても全体の印象と違わない性質をいいます。つまり、形の一部と全体が相似であり、どの部分をとってみてもそれだけでは相似性のため、どの倍率で測られたのか全く分からない性質をもっている。実は自然界の様々な形や現象は、この自己相似性という性質を内包したフラクタルの形であふれていることが解明されたのです。雲の形、山並みの稜線、森林の様子、蛇行する川の流れ、樹木の枝分かれ、自然の形はフラクタル次元によって規定されるフラクタル造形であるといえます。フラクタル造形はフラクタル幾何学によって証明されるゆえ、再現性をもった形ということができます。これまで自然界の形は複雑で科学的に説明不可能とされていただけに、180度逆転したこの考え方に対し不信感を持つ方もおられると思いますが、フラクタル次元の膨大なくり返しの演算によって答えを出し、さらにコンピューターグラフィックスを使って視覚化することができます。すると、現実にはないが写真と見分けのつかない山並みや雲の様子が再現できるという事です。
つまり、これまで一定の規定を保たず複雑きわまりなく定量化できない形と思われていた自然景観の造形要素が一定の数式で表すことが出きることが分かったわけです。ということは、フラクタル次元というあるパラメータを与えると、そっくりコンピュータグラフィックスによって映像として再現できるわけですね。それは日本人が従来美を学ぶ師として崇めていた自然の造形に一定の秩序のような摂理が潜んでおり、これがフラクタル造形というべき形であったということです。これまで日本人は無意識に自然に対してあこがれを抱き、本能的に自然の造形を美術や工芸に再現しようと努力してきた。つまりこれが日本文化のエッセンスであるといえます。創造の世界にできるだけ自然の素材やテクスチャ、それにモチーフそのものをそのまま自然から取り込み、芸術的表現に利用していくという、これまでの日本人の美意識には自然界のつくりだした美の原理、フラクタルを上手に利用していこうとする意思が本能的に働いていたかもしれないと思います。今さらながら、日本人の自然主義観と美に対する卓越した先見性に脱帽する次第です。
このように自然界の造形には、実はフラクタルというある数学的な秩序をもった形が沢山あり、このフラクタル造形は古くから人間が美の原理として崇拝していた黄金比(整数比に直すと55:89)ともきわめて近い関係にあったといわれています。フラクタルやカオスなど、いわゆる複雑系の物理学ではいまだ解明できない点が多く、今後の研究成果に期待しなければならないのであるが、その複雑さのため、定量化不可能と烙印を押されていた自然界の造形にも一定の秩序があり、しかも黄金比という、美の原理に近い関係にあるということが解っただけでも、実にすばらしいことだと思います。
私はこうした日本人の自然と共に在る美に対峙する姿勢は、世界の歴史きわめて稀であり、誇るべき日本人の所産であると考えます。
そして日本文化は非定形文化であり、フラクタル文化だったといえます。 このように日本には先祖代々脈々と受け継がれてきた、世界に誇る日本人の美意識の血が流れているわけですから、我々はそのことを自信と誇りに思うべきだと考えます。次世代環境デザインはこの事を先人から受け継ぎ次の世代にバトンタッチすることが大切であると思います。
今までのアーティストはフラクタルといった理論を知ってか知らずか美術・工芸を行ってきたわけですが、今後フラクタルというものをわかる事により、逆にフラクタルを使って新しい形、デザイン、フラクタルをシュミレーションしながら数式の中にパラメーターに当たる部分を様々に変えることにより、いろいろな形が人間の手をえずして出来てくる、このバリエーションをコンピューターによって作り、自分の感性に合ったものをチョイスするといった、これまでになかった美の可能性が出来上がってくると思います。例えばあたかも窯の中に入れた焼き物のごとく、取り出してみると新しい形態や思いもよらない驚きがコンピューターによってできるのではないかと思います。
このように、コンピュータが作る自然といった広がりや選択肢がひろがり。アーティストにとって新しい創形の可能性を秘めたツールになり、この事が次世代の環境デザインの一つの考えと言えるでしょう。
次に、お手元の資料にある環境会議所についてですが、現在、啓蒙・啓発活動を行っています。21世紀のキーワードは環境ですね。そして「循環の世紀」と言われ、環境保全と企業活動が調和したバランスの取れた循環型経済社会システムへの変革が求められています。
複雑系といえる自然界におけるすべての営みは「食物連鎖」によって完璧なリサイクルのプロセスを作り上げています。同様に私たちもリサイクルのプロセスを創ることにより、自然との共生を実現できるのではないかと思います。 かつての日本人の祖先は、自然からの恩恵がなければ、水も米も山の幸も得られないことをよく知っていました。自分たちが自然に生かされていること、人間は自然と共存するような大きな存在ではなく、自然は畏敬する存在であることを肌で感じていました。自然は宇宙そのものであり、人間はその中で生かされている小さな存在でしかないという事ですね。 自然の心の判らない所では人間は生きてゆけなかったため、その心を読むためにセンスを研ぎ澄ましてきました、このことが生活の「節度」を大切にした日本文化を生みだしました。たとえば日本人に一番身近な里山は、人との間に確かな絆があり、炭焼き等の文化が生まれました。そして里山はリサイクル可能な資源として人の生活に豊かさを与えてくれたわけですね。 このように我々の身近にある里山を通じて自然を考えることにより、祖先の心を再認識し、現代人が見失っている自然との絆と日本人の心がよみがえるならば、環境問題は解決するのではないでしょうか。なぜなら環境問題は結局のところ心の問題だと思うからです。
昔、私が幼い頃、田舎ではバチが当たるとか、もったいない、目がつぶれるといった、自然に対する畏敬の念から、人間以上の大きなものに対する「おそれ」があった様に思い出されます。それが親から子へ伝わってきました。私が最初にお話しした通り、私たち大人の責任と義務は、次世代の子供たちのためにバランスのとれた環境を残すことだと思います。
私は環境会議所を設立するに当たり、大きな目的に次世代環境デザインを掲げました。それはバランスの取れた環境デザインといって良いと思います。
この会議所を成功に導くためにはまずは、私たちひとりひとりの意識改革と地域社会との絆の回復にあると思います。環境会議所は組織とか団体の枠を越えた責任ある市民、つまり公共心をもった個人として国家、国民のために先人の心を学ぶことからスタートし、人と人との共感に基づいた心のネットワークを築き、この愛知から国境を越えた普遍的な環境倫理をつくり、発信し、次世代の子供たちのためにそして世界の人々の平和のために運動を推進して参りますので、皆様ご支援の程、よろしくお願いいたします。
キーワードは「環境と平和」です。皆様のご理解とご支援を賜りますと共に、積極的なご参加をお願い申し上げます。
 
「いき」について / 伏怡琳(中国)

 

中学時代に先生から「さくら」という歌を聞かせてもらったことがある。それは桜という花の美しさを表した歌だと先生は言っていた。しかし、中学生の私にとって、その歌はどうしても悲しいように聞こえた。どうして日本の人はこんな悲しいメロディーで花の姿を表さなければならないのか、私はずっと分からなかった。
日本語を勉強してから、桜は日本人が最も好んでいる、最も賛美している花だということを知った。初めて桜の散るのを見た時、何と美しい情景だろうと思ったが、それとともになぜか悲しい感じを味わった。薄いピンク色の花びらが風の流れの中で踊っているように見えた。
その瞬間、急に「さくら」の歌を思い出した。その歌の中の哀愁がなんとなく分かったような気がしてきた。
それは日本人の美意識に対する、私の最初の体験であった。
美しいものに対して、中国の人はたぶんそれを賛美し、単純に楽しむのが普通である。それに対して、ほとんどの日本人はそれを楽しみながら、それが常ではない、長く続かないと思っているのだろう。一言で言えば、日本人の美意識には日本人がいつでも持っている無常観がある。そのため、日本人の目に映る美は、他国の人から見れば常に矛盾があるように見える。
鴨長明が「方丈記」に書いているように、この世のすべてのことは水の流れのように「久しくとどまりたるためしなし」。無常観は元々仏教からのものであるけれども、インドや中国では日本のように、人々の考えの隅々まで深く影響したことはたぶんないと思う。
そのような無常観は吉田兼好にいたっては、ただの無常観ではなくなっている。兼好法師は「徒然草」を通じて、当時の人々に「末世であっても、楽しもうよ」と声をかけたのである。
そのような無常観の文学の中での発展から、日本人の矛盾のある美意識をちょっぴり覗くことができるだろう。日本人は美しいものに対して、楽しみながら悲しみ、悲しみながら楽しんでいるのである。
さらに、日本人が美しく思ったものには必ず矛盾する美が含まれなければならないようだ。たとえば、日本人にとって満月は無論美しく思われているけれども、俳句の中でより多く歌われているのはやはり雲でちょっと覆われた月や、雨の日に想像された月のことである。日本の人には、完璧な美しさよりは、少しだけ残念な気持ちを与える不完全な美しさのほうがより理想的な美なのである。
私は東京に来たばかりのころ、日本人の服装に深い関心を持っていた。国内にいたころ、日本の人が最も自分を美しく飾ることが上手だという印象を持っていたからである。しかし、日本に来て、面白いことを発見した。確かに日本の人々の服装は中国の人のそれより美しく見えると思う。しかし、その美しさは服装の素材にあるのでもなく、様式でもない。それは服装の色と色との組み合わせにある。
日本では黒い服を着ている人が中国よりずっと多いと思う。日本人の服の色は人に落ち着いた感じを与える色がほとんどである。その落ち着いた色の上に必ず何か対照的な鮮明な色を少しだけ組み合わせているのである。もちろん、例外はあるが、ほとんどはそのようである。つまり、あまり目立たないのに美しく見せるのが日本人の日常生活の中の美意識と言えるようだ。
先生が授業で言った「いき」もそのような美的概念なのであろう。単純な美の問題から言えば、「いき」には必ず媚態が必要である。渋くて素朴な服装が女の媚態とちょうどよい、矛盾のある関係を形成しているようである。おそらく、媚態は「いき」の第一の要素であり、媚態がなければ、「いき」も成立し得ないだろう。
 
matohu(マトフ) / 日本の美意識を表現

 

堀畑裕之氏と関口真希子氏のデザイナーデュオによる「matohu(マトフ)」は、グローバルなファッションビジネスの世界で、わたしたち日本人が時間をかけて成熟させてきたローカルな文化や美意識を、現代の衣服という形にして発表してきました。10シーズンに渡り取り組んできたテーマは「慶長の美」。慶長年間(1596-1615)とは、桃山時代後期から江戸初期にかけての約20年間のこと。慶長年間後期、茶器製作・建築・造園などさまざまな分野にわたり、大胆かつ自由な気風を好む「織部好み」といわれる流行がありました。主に美濃地方で生産された陶器「織部焼」は、「織部好み」を象徴するものといえるでしょう。
matohu「慶長の美」2010年春夏コレクションのコンセプトは「織部」ですが、「織部焼」そのものにとらわれず、明るい色づかいとゆがんだシェイプ、グラフィカルな柄などでスポーティーで軽やかな「織部」のエッセンスを表現しています。「織部焼」に見られる奔放な色彩表現やアシンメトリーな造形との共通点に着目しながら、matohu「慶長の美」2010年春夏コレクション「織部2」を見ていきましょう。
柄と素材のコーディネートで魅せる「モノトーン」の表現
「黒織部」「織部黒」など鉄釉による黒の表現は、「織部焼」を代表する色彩の1つ。グラフィカルな柄がモノトーンで表現されています。「matohu」の定番ともいえる長着を重ねたレイヤードスタイルは、“黒”が2つの異なる柄の持ち味を引き出す、セパレーションカラーの役割を果たしています。
ブラックドレスは、アシンメトリーなスカートのシルエットが特徴的。透け感のある素材によって模様を表現するなど、「織部黒」に通じる美意識が感じられます。
アシンメトリーな柄のトップスは、艶感のあるシルキーな素材。陶土のような色彩のボトムは、光沢をおさえたマットな質感となっています。モノトーンのコーディネートは単調になりがちですが、異なるテクスチャーの素材を組み合わせることによって、独特の美意識を表現しているようです。
大胆な柄をシックに彩るドミナントカラー「グリーン」
銅緑釉によるグリーンの色彩表現も、「織部焼」の特徴の1つです。陶器の表面は、釉薬の按配によって濃淡が生まれます。ドミナントカラーとは、ある色相で統一された多色配色のこと。トーン(色調)で変化をつけますが、その色相のイメージが配色全体を支配します。2つの異なるプリント柄の長着のレイヤードスタイルからシックな印象が感じられるのは、グリーン系のグレイッシュなトーンで統一したドミナントカラーの効果です。
丸と角、大と小といった対称的な要素がアシンメトリーにレイアウトされた大胆な柄のドレス。地色の白と、濁りのないクリアなトーンを多用したドミナントカラーの効果によって、斬新さと爽やかさが共存するスタイルとなっています。
格子は縞から発展したともいわれますが、縞の名残りが感じられる格子ですね。子どもっぽくなりがちなシルエットのドレスですが、クリアなトーンとグレイッシュなトーンをバランスよく配色したドミナントカラーの効果で、明るさのなかにも落ち着きが感じられます。
■「土の色・釉の色」を連想させるテキスタイルの組み合わせ
縞の上に複雑な文様を配置したようなテキスタイルのデザイン。鉄釉で描いたモノトーンの文様、銅緑釉を流したようなグリーンの色彩表現が、「織部焼」を彷彿とさせます。イエローは「織部焼」には見られない色彩ですが、モノトーンの表現による穏やかな緊張感の中に、軽やかな遊び心が感じられるのではないでしょうか。
「赤織部」に見られるような陶土の色に、銅緑釉を流したようなブルーの色彩表現。柄のレギンスを組み合わせていますが、ライトグレイッシュなトーンを多用することによって、まとまりのあるコーディネートとなっています。
斜め縞のタンクトップに無地のスカートを組み合わせた、極めてシンプルなコーディネートですが、2枚重なったスカートに、心地よい緊張感と遊び心が感じられますね。
10シーズンに渡り展開したmatohu「慶長の美」コレクションは、400年前の日本の美意識を象徴する「織部」で始まり、「織部」で終わりました。「織部」とは、染織を司る職名のこと。「織部好み」「織部焼」に見られる雄渾豪放な美意識には、交易によってもたらされた諸外国の染織の影響があったのではないかと考えられています。
“Think globally, act locally. Think locally, act globally.”といわれるように、新しい文化や独自の美意識は、時間や場所を自由に行き交う思考や行動から生まれてくるのかもしれません。
 
現代の浮世絵師 / 日本の美意識を遺すために

 

私は「現代の浮世絵師」になりたい
今回のゲストは、「アエラ」の「現代の肖像」シリーズや「婦人画報」、「東京人」などの雑誌で著名人・文化人の撮影を手がける一方、神楽坂・新橋・赤坂・浅草などの花柳界を20年近く撮り続けてきた、写真家のヤマモトヨウコさんです。「日本の美意識」にすっかり魅了されたヤマモトさんに、希少ながらも確実に生き続ける「いき」の世界のこと、そして仕事で出会った作家・住井すゑさんの印象について、じっくりと語っていただきました。
清水寺の屋根のカーブが日本人の美意識に気づかせてくれました。
国際線スチュワーデスから写真家へ転身されたいきさつについて教えてください。
写真を撮り始めたきっかけは兄の影響もありましたが、写真への想いがこれほど強くなったのは、世界各国を自分の足で見てまわったこと、そのおかげで日本の美意識に気づかされたことが大きかったように思います。
もともと私は、世界中をまわって見てみたいというとても単純な動機で国際線のスチュワーデスの仕事を志望しました。たとえば、チュニジアの砂漠では、砂が舞うなかで民族衣装をまとった老婆がぽつんと立っていた――そんな出来すぎのショットが立ち現れると、目が釘付けになってしまうんですよ。もう目シャッター状態ですね(笑)。風景を脳裏に刻み付けておくわけです。そんな経験を重ねていくうちに、海外で本格的に写真を撮ってみたくなり、仕事を続けながら故・田中雅夫先生がいらっしゃった「現代写真研究所」の夜間コースへ入学したんです。
でも、海外に行くと「日本人ってなんだろう?」と考えさせられることが多くなりますよね。外国の方に日本のことを聞かれても、自分は日本のことを何も知らないんじゃないかと思ったりして。そんなことを考えていたある日、バチカン市国でサン・ピエトロ寺院の建築や装飾に囲まれていたら、なんだかいたたまれない気分になってしまったんです。うまく言えないのですが、金づくめのぎっしりと密度の濃い壮麗な空間に、思わずその場から逃げ出したくなってしまって……。
その直後、フライトの間隔が空いたので京都へ行った時、夕景をバックに、シルエットで浮かび上がる清水寺の屋根のカーブを見て「なぜ、こんなに心が落ち着くんだろう? 心がふわっとそぐうんだろう」と、疑問に思いました。そして「どんな国でも、人間は結局同じだと思ってきたけれども、美意識というものは、非常に異なるんじゃないか」と考えるようになりました。それ以来、日本の美意識に興味を持ち、写真で表現してみたいという想いが、どんどん膨らんでいったんです。
その後、日本航空を退社して、テーブルコーディネーターのお仕事を三年ほどやりました。そして仕事のかたわら写真を学び続け、91年にフリーランスのカメラマンとして「アサヒグラフ」で歌舞伎などの取材のお仕事を始めさせていただいたというわけです。
神楽坂の街に惚れ込み、花柳界を撮り始めてから20年近くになるそうですが、これほどのめり込むようになったきっかけはなんだったのですか?
じつは、花柳界をテーマに撮り始めてみたものの、この世界の奥の深さを知れば知るほど、自分の作品になかなか満足できなくなってしまうんですね。だから、「かぐらざか女人日記」も、完成までには20年もかかってしまったんです。
初めて神楽坂を歩いたのは、写真学校の修了展の作品を撮るために訪れた時です。まだスチュワーデスの仕事を続けていたのですが、当時市ヶ谷に住んでいた私が、無理なく行ける場所ということで、写真学校の方が神楽坂を教えてくれたんです。当時は日本家屋がたくさん残っていて、料亭が並ぶ路地裏や石畳、黒塀がモダンだったり、つくばいに揺れる光や陰を見て「なんて美しいんだろう」と思ったりして、撮り始めたんです。
三年ほどたってから、徐々に花柳界にも入って行けるようになったのですが、そこで目にした芸者さんたちの踊り、身だしなみ、礼儀作法……とにかく、どれをとってもきりっと美しい。そんな姿を、間近で見られるようになってから、ここにはたしかに日本の文化が息づいている、と感じるようになりました。と同時に「日本女性の美意識を遺したい」という想いが強くなっていったんです。
さらに私自身、好きで始めたことは、とことん突き詰めないと気がすまない性格なんです。だから、いっそのこと神楽坂に住んじゃおう、と(笑)。住んでみないとわからない雰囲気ってありますし、ご近所さんだからこそ撮れる写真というのも、やっぱりあると思いましたから。
現在でも海外に根強く残る花柳界の女性に対する誤解を少しでもなくしていきたい。
日本特有の「いきの文化」を外国人の方に説明するのは、とても難しいことだとうかがいました。とくに海外では、いまだに芸者さんに対する偏見があるそうですね?
偏見と言うよりも、完全な誤解と言ったほうが近いでしょうね。海外でも芸者さんに対する関心はすごく高いのですが、やっぱりほとんどの外国人の方は、芸者さんのことをすごく誤解しています。そういう方々はとんでもなく失礼な質問をしてくることもありますが、それでも写真を見ていただくと話が早いんですよ。たとえば三味線を弾く手の写真を見れば、これは若い人じゃないってことがすぐにわかりますよね。そこで「もし芸者さんが「色」を売る職業だったら、いま94歳の方が現役で活躍しているのはなぜ?この仕事は死ぬまでできるんですよ」って言うと、ほとんどの方が納得してくれます。「色」じゃなくて「芸」なんです。
そういう私も、明治生まれの芸者さんを撮る機会をいただいてから、初めて「いき」というものを理解できるようになった気がします。彼女たちは、ものすごく人間としての器が大きい。凛としていて、どこかスタイリッシュなんです。それに芸者気質というか、心意気があります。半端ではなく、ひとつのことをやり抜いたことに対する気概を持っていらっしゃる。そういう方々と接することによって、初めて「いき」という言葉を口にすることができました。じつはそれまで、九鬼周造さんの「「いき」の構造」(岩波文庫)をどれほど読み込んでも理解できなかったし、なんとなく口にするのが恥ずかしかったのですが…。
いずれにしても、花柳界というのは江戸期からの風俗や四季の風習などの文化や様式美も遺され、心意気や人情の機微があればこその世界。人情や礼儀も日本の大切な文化だと思うんです。今の時代に形は遺せても、精神的なものは、なかなか遺すのが難しいですから。だからこそ、厳しい修行を積み、接客のプロフェッショナルとなった彼女たちが体現している美意識や文化を、日本だけでなく世界中に正しく伝えていきたいと思っています。
私の目標は、日本の美意識を後世に遺していけるような現代の浮世絵師になること。
ヤマモトさんが今後の活動で撮っていきたいものや、目標としていることなどについて聞かせてください。
作品をご覧になっていただけると、おわかりになると思うのですが、私の写真は、すべて芸者さんの了解をもらってから撮らせていただいたものばかりです。芸者さんに断られた時に撮影したことは、一度もありませんし、今後もそのような写真を撮るつもりはありません。長い間の人間関係の中で自然な瞬間を撮らせていただいたからこそ、作り物ではなく、本当の芸者さんの姿だと言える作品を撮ることができたのです。新橋については10年近く、また、赤坂、浅草も撮らせていただききましたが、そのうえで、限られた世界ゆえに大切に守られてきた日本の文化を、これからも多くの人々に伝えていきたいと思っています。
たしかに現在、神楽坂にも高層ビルができ、街は姿を変えつつあります。芸者さんの数も少なくなってしまいました。それでもここには、自立した女性たちが一生懸命生き続け、伝え、守ってきた日本のよき文化が遺されています。それも現代の日本なのです。そのことを世界中の方々に伝えていけるよう、私はこれからもシャッターを切り続けるつもりです。
そして今後は日本の様式美を一枚の絵で表すような写真にも挑戦していきたいと考えています。それはつまり、現代の浮世絵師になりたいということです―って言ったら、ちょっとカッコつけすぎでしょうか(笑)?
作家・住井すゑ先生はまるで少女のような一面も持ち合わせていたんです。
ヤマモトさんは芸者の世界を撮り続ける一方で、著名人や文化人の方々も撮影されていますが、小説「橋のない川」の著者・住井すゑさんもお撮りになった経験があるそうですね?
住井先生とは、雑誌の取材でお会いしたんです。本当は、お住まいの近くの牛久沼のほとりで撮らせていただきたかったのですが、先生は体調を崩されて、入院していた病院から退院されたばかりだったのでそれはかなわず、代わりにご自宅で撮影することになりました。
お会いした直後は、先生の毅然とした態度に「ちょっと怖い方なのかな?」
という印象を受けてしまいましたが、会話をかわしながら撮影を続けるうちに、まるで少女のように、好奇心旺盛な表情も見せてくれるようになりました。その時、私は「毅然とした社会派作家としての顔だけでなく、生き生きとした少女のような笑顔も撮ってみたい」と思ったのです。それくらい、魅力的な表情でした。
また、二階の部屋では、ライトをつけてお顔のアップを撮らせていただいたのですが、撮影を進めているうちに先生の澄んだ瞳がまるで宇宙のように見えてきたんです。そこで、5センチくらいの距離まで寄った位置から先生の目のアップを撮りました。このように、私がいろいろお願いするたびに、先生が面白がって応じてくださったのです。撮影の最中も先生は「それは何?あれは?」と、私にいろいろとお尋ねになったことを覚えています。本当に好奇心いっぱいの方だったんでしょうね。
あと、これはお話をうかがっているうちにわかったことですが、先生は子どもの頃から勉強が好きで、成績も非常に優秀だったそうなんです。ところが、農家の三女にもかかわらず、男である兄より成績が良かったため、父親にとても嫌がられたという話まで教えてくださいました。おそらく先生は、この経験から「どうして世の中には、生まれながらにして差別が存在するんだろう?」と疑問に思ったに違いありません。そして先生は、子どもの頃に感じた純粋な疑問を持ち続けたことによって、後年「橋のない川」という不朽の名作を完成させることができたのではないでしょうか。世間の常識や因習といったものにとらわれず、ご自分の信じた道を貫いていらっしゃる先生の姿に、私は人間の尊さを強く感じました。
じつは私自身、日本の素晴らしい文化を表現したいという想いで一生懸命に撮影の仕事をしてきたのですが、次第に世の中には、さまざまな偏見があるということを知りました。私も女性の写真家であるということで不当な扱いを受けた経験がないわけではありませんし、留学生活の中で、日本への無理解を感じ、寂しい思いをしたこともあります。そうした経験から、偏見というものは、無知や無理解から生まれるものだと思っています。幸いにも、私は写真を通じて、住井先生をはじめ、ひとつの道を貫かれた各界の方々にお会いすることができましたし、花柳界の方々には、この世界の内側にまで入って撮らせてもらう貴重な経験をさせていただきました。
つまり、私は写真を撮ることによって、多くの大切なことを学ばせてもらったわけです。だからこそ、この日本の文化や、人間の素晴らしさを、一人でも多くの方々に伝えていきたいと思うのです。そのことが、私の感じてきたような、偏見や先入観、誤解といったものも、氷解させてくれることにつながっていくと願っています。
 
秩序のデザイン償いのデザイン

 

デザインの役割はその目的そしてその時代のニーズによって大きく変わります。しかしいつの時代においてもその本質的なものはその解釈の違いをもっても継承されるべきであると考えます。例えばデザインのクリエイティビティが開花し、デザインが自由の代名詞のように取り扱われる時代にはその役割が現代資本主義と密接したかたちで進化するかもしれません。その反対に行き過ぎた資本主義の体制で社会が病気状態のときにはデザインの中の秩序が求められる事もあるでしょう。それがまさしく今だと思います。今時代はまさしく新たな局面を迎えています、地球環境の問題、資本主義--金融構造の問題、様々な問題が乱立しています。そしてこれらの要素が合わさるかたちで第3世界のもたらす様々な問題(これまでの先進国とこれから第一マーケットになりうるかつての第3世界の関係)が取り上げられます。
しかし実はこのような問題はかつてのオイルショックの時代、それは先進国家が第2次世界大戦後の高度近代化がもたらした1970年代の問題と全く同じ傾向を持っているのです。このような示唆は例えば、E.F.シューマッハの「スモール•イズ•ビューティフル」やプィリチョフ•カプラの「ターニングポイント」など様々な著書にも列記されています。しかしながら我々のもたらしたその問題は現代に至っても更なる加速で問題を悪化させています。我々は過去のメッセージに対して何も答えられていないのです。
多くの生産者、金融業者はこれまで持つ問題をかつての、そして現代の第1マーケットとなりうる、第3世界諸国(中国、インド、アフリカなど)にもたらしています。これ以上事が進めば地球は致命的な問題を抱えることを知っていてです。しかしそれにもかかわらず誰にも止められない構造、状態に陥っているのです。人は、社会は同じ間違いを繰り返しています。少なくとも我々の今必要な行為とは謙虚さであり、攻撃的なこれまでの競争体制のビジネス、そしてそこに関わる傲慢なデザイン姿勢はその態度を改める状況です。ここがクリエーターである私の言いたいところの「謙虚なデザイン」、「償いのデザイン」の提唱の意味です。
このことは地球環境の問題、そして様々な社会問題と共にモノとは何か、デザインとは何かという課題そのものなのです。
私は一クリエーターの立場において何かを主張しなければならないという意思を持ち始めています。金融政策における儲かれば何でもやると言ったような姿勢のデザインはもうすべきではないですし、現状の問題を把握しないような姿勢におけるデザイン活動というものも少なくとも今はさけるように考えなければならないでしょう。
日本のビジネスは多かれ少なかれそして良きも悪きもそのスタイルはその欧米ビジネススタイルに比べてとても「謙虚」で「女性的」だと思います。すなわち攻撃的ではないビジネススタイルを持っていると言うことです。これはよく言えば(言い換えれば)共に生きようとする姿勢です。日本のビジネスは例えば欧米型のものより多くのことを受け入れることができます、これは概して日本人の持つ謙虚でやさしい体質が大きく関係していると感じます。
例えば欧米型の一つドイツでは謙虚さとは受け身の意味であり、譲るということは負けを意味するのです。西欧型のビジネスにおけるトップダウンシステムはその一つの典型とも言え、良い意味においても悪い意味においても独断的なのです。
概して近代化とは欧米型の民主主義、資本主義を指すものであり、そのスタイルはとても攻撃的で、会社の買収は決定的なその会社の維持のための正当手段であり、その現代例は1990年代中盤から後半に多く見られたことは記憶に新しいものでしょう。2000年台に至っては例えば欧米型のファンド、ヘッジファンドやデリバティブの活用においては日本メーカーはよいかもでした。仕組みは常に攻撃的に仕組まれるのです。言い方は悪いようですが合法的にです。
私達はもちろんこの資本主義の育みの中で生きている以上、どうすることもできない事実ですが、このような姿勢がこれからの社会、第3世界に同じようにもたらしたなら、この欧米型の金融システムは崩壊する可能性があると考えます。というのもその競争社会は人口の多い第3世界では自然に異常加速させる可能性があるからです。先ほど述べたように先進諸国がもたらしたこの近代消費構造をこれからの世界にそのまま持たらすことは地球レベルで大問題なのです。
私は日本人の謙虚な感覚が、もし新しい解釈、創造を持たせられるならば新しい時代のビジネススタイルを創る事ができるのではないか等と考えています。
「欲望に捕われているなら現象しか見る事ができない」
私にはこのターニングポイントにおいて一体何ができるでしょうか?
昔、ドイツに渡らず日本でデザイン活動をしていたならたぶんこのような思いにはならなかったかもしれません。ドイツに行って私はデザインだけではなくいろいろなことを学びました。そして今も尚学んでいます。それは人と人との関係、自然、そしてその社会、どれ一つとっても日本とは違います。もちろんどちらが良く,どちらが悪いかなど比べられるものではありませんが、私はその狭間の中で比較的時間に余裕のあるドイツの社会の中で何か「本質」的なものや暮らしに触れていたのかもしれません。ドイツはとても厳しい社会ですが嘘の少ない社会です。そして日本人とは逆に何かを受け入れる事に時間のかかる国です。しかしそんな背景にはかたくなにドイツの何かを守る為に自分達に厳しい姿勢を持っているのだと思います。
その厳しさが何か「本質」的なものを創り出すのだと考えるようになりました。
人が本来持ち得た"もの創り"のプロセスを現象化させることは自然に本質的なことを失っていくものだと感じています。私がなぜ今,この社会で巻き起こっている例えば製造業のファイナンス支配状況を問題視するのはこのような人とモノの関係は金融という現象の中に成立し、その本質的なもの、言い換えれば人間の思いやこころのあり方とは真逆の立ち位置にあることに大きな問題を感じるのです。資本主義を否定的に見ているのではなくその社会においてどの様にその"こころ持ち"をものやことに抱かせるかということです。
私の日本とドイツの経験から言える事は、会社はさほど大きくなくものやことが創れるような環境が成立すればその思いはより可能であるということ。手で創る感覚がある、いわゆる職人業がいまだ成立できるような製造体制が確保できること。製造業とファイナンスとの利益がほぼ均等に経営されることなど、金融と製造のバランス、クラフトとハイテクのバランスが大切であるように感じています。今の時代、大企業がつくるものが本質的なものだと誰が言えるのでしょうか。
現状、クリエーターのスタンスとして「現象」を追い求める行為は自粛し、「本質」的な行為、 ものの普及が求められると感じます。またデザインのグローバル化を極力さけ、地場産業(ローカリゼーション)のその地域の特徴を生かしたデザイン開発が再度求められる、デザインやブランドのグローバル化というものはまさしく金融政策の一つの目玉であり、現象そのもののデザインとなるからです。またデザインのグローバル化はまたそのデザインの特徴をなくし、似たり寄ったりのデザインをもたらした事はもう誰にも把握できることでしょう。 人は欲なしです、その限界を超えたとき会社は壊れ、そして社会は壊れてしまいます。それは誰もが知っている人間の歴史なのです。
今に至ってはその経営体制というものはけして攻撃的であってはならないですし、例えば日本の持つ受け入れ型のビジネスは第3世界においてその欧米型スタイルに変わって大きな役割を果たせるようになると感じます。それは日本の技術においても全く同じことが言えるでしょう。ハイテクノロジーだけでは人を幸せにはできない、技術の先進性だけで将来をとらえないこと、個人的な見解ですが日本の技術にはそのような「受け入れる事のできる技術」の進展ができる感覚を伴っているように思います。
近い将来日本はアジアの新しいマーケットの中に巻き込まれるでしょうが、ここで日本の一リーダーとしての役割を果たせる様にも感じます。例えば日本と中国は過去において未だ抱えている"こころの問題"があります。我々日本はそのような困難を越えて行く上でもよりその市場に対して貢献できる時期が来ると思います。けして第3世界に欧米型の競争、攻撃的なビジネスを展開してはいけない、(もはやその競争は始まってしまっていますが)今こそ日本の持つ特質である受け入れる事ができ、女性的で、攻撃的でないビジネススタイルを創造的に運用すべきであると考えます。
クリエーターに至っては例えば以下のような役割が考えられます。--「おもしろい」より「うつくしい」もの、ことを創る姿勢/それは現象を追わず、本質を追う姿勢という事です。 --目に見えない誰かのためにデザインするのではなく、目に見える人たちにデザインする姿勢 --目を引く事なら何でもやるメディアの質,姿勢の改善/メディアデザインの役割 --デザイン教育における日本のクリエイターの役割 --クリエイターの経営参画(経営の中にデザインの文化性を入れ込む指導者)
このような様々なビジョン、問題はビジネスの一線で活動をしているクリエーター、経営者であれば誰もがわかっていることです。しかしその実践には大きなリスクを伴うためなかなか核心に留まりません。秩序が求められる時代に至っても、人の欲望や流れは止めることは困難ですが、皆が何かを考えられる状況と思えます。かつて荘子は「欲望に捕われているなら現象しか見る事ができない」と言っていますが、クリエーターにとって本質を追うことの意味を考え直す良い機会と感じるのです。
私は哲学者でも金融業界のプロでもありません、ただの一デザイナーです。ですから例えば「ものをデザインできることの喜び,こころに響く本質的なデザイン」をいかに伝え創造していくか,そんな課題には取り組まなければならないはずです。
私は長らく近代産業のお年子とも言える自動車産業に身を置いて来ましたが、「私にはいったい何ができるのでしょうか?」という「スモール•イズ•ビューティフル」の最後のセンテンスに対して私は一クリエーターとして前向きにこれからのデザイン活動を考えたいと思っています。 願わくはこんなメッセージをいかに受け止めていただけるか、多くのクリエーターの皆様にも考えてもらう機会となることを祈っています。それは私にはできない何かを誰かはできるものだとも信じているからです。
 
重層化する日本の美意識

 

日本という文化圏が存在するという前提のもとに考察した日本文化における美意識の特色についての試論(私論)です。日本の文化は、明瞭な地層(レイヤー)を成していて、かつ、その古いレイヤを現在まで連綿と良く残していると特徴づけています。
日本文化の成層性
岡倉天心は日本文化を海の波打ち際に喩えましたが、一般的に文化は、いずれの文化でも必ずといって良いほど、その歴史において他の文化との交流・融合あるいは衝突を経ながら、変遷を遂げてきているといえます。特に日本文化は、例えば中国文化など海外文化と積極的に交流した時代と、逆に交流を断ち国風文化を成熟させた時代(鎖国ということもこの中に含まれます。)の、大きく2つを両端として、その間を振り子のように振れながら、変遷を辿ってきたものと特徴づけることができると考えられます。
そして、そうした「振れ」(注)の中で、日本文化は、他の文化に比べて明瞭な地層=レイヤーを形成してきたといえます。これはあたかも日本の変化に富んだ四季によって、樹木の年輪が形成されることにも酷似しています。なお、もちろん、この文化の地層は、下層レイヤーほど時代が遡るわけですが、下層レイヤーほど、周囲の文化の影響を受けにくく、また、時間的にも変化しにくいレイヤーであることは容易に想像されます。
(注)ちなみに、「振れ」という大きな繰り返しの中に、相似的(フラクタル図形的)に「ゆらぎ」という小さな繰り返しが存在すると私は考えています。
また、この日本の文化のレイヤーは、古層が無くなったり、崩れたりせずに極めてくっきりとレイヤーになって残っており、かつ、あたかも崖の切り通しのように、いわば断層が表面にむき出しになって鮮やかに表れていると比喩できます。これに対し、欧米の地層は、古層の多くの部分が土壌流出してしまい、その上に新しいレイヤーだけが堆積している、または、古い地層が見えにくいという構造になっているというふうに対比することができると思います。なお、同様な趣旨の記述が以下の著作の中にありますので列挙してみました。
○ 小泉文夫氏著「歌謡曲の構造」/「日本人というのはアパートみたいにいくつもの層になって住んでいますけれども、第一階の人というか、いちばん古い層はポリネシアにいちばん近いですね。・・・そこへ後から騎馬民族だのなんだのといってユーラシアの連中が飛び込んでくる。・・・さらにその上に上海とか中国のどまん中から来た勢力が乗っています。そういうふうに、日本人の音楽文化だけ調べても、いちばん古いところは南方、その次は北方アジア、その次は中国、朝鮮の系統というようにいくつもの層が考えられるわけです。」
○ 佐藤良明氏著「J−POP進化論」では、「うた」のボディにおける「頭、胸、腹、腰」というアナロジーを用いてこのことを表象しています。
○ 司馬遼太郎氏は、「この国のかたち」(文春文庫)等においては、日本という国は古い文化を捨てずにそのまま残していることが多い、記録好きであるという趣旨のことを述べています。
○ 井沢元彦氏が「逆説の日本史」などの中で唱えている言説ですが、日本には「言霊」、「怨霊」や「けがれ」という考えが今も連綿と残っているというもので、このオカルティックとも思える観念によって日本の歴史は動かされてきたというもの。こういった観念も、原始社会に見られる古いタイプの信仰、迷信であって、日本には古い層がそのまま連綿として生き残っている証左の一例だと私は考えています。
○ 高階秀爾「日本美術を見る眼:東と西の出会い」/わが国においては、「革新」はつねに外部からやって来る。それは当然、異質な化学物質の接触のように、激しいエネルギーの燃焼と混乱をもたらすが、その動揺が収まって見れば、新しいものがひとつ「外から」加えられたという結果に終わる。もちろん、それによって「古いもの」が影響を受けないわけではない。しかし、蛹が蝶に変貌するように、古いものが新しいものに変貌したわけではない。古いものはやはり生き続けているのである。西欧においては、美術の歴史は様式の「発展史」として捉えることができるのに対し、日本においては、さまざまの型の「併列史」にならざるを得ないのは、おそらくそのためである。いささか乱暴な議論をすれば、ゴシック様式はロマネスク様式のなかから「発展」して生まれて来たものであるがゆえに、西欧世界がこぞってゴシック様式の大聖堂を建てていた時代には、すでにロマネスク様式は存在していない。しかし日本に唐様建築が「はいって」来た時、それは和様建築を亡ぼしてしまったわけではない。同様に、明治期になって「洋画」や「洋楽」がもたらされた時――一時的な混乱期は別として――日本画や邦楽が否定されたわけではない。むしろ、「洋画」の輸入によって「日本画」はその存在をいっそうはっきりさせたと言うべきであろう。そして現在でもなお、「洋画」と「日本画」、あるいは、「洋楽」と「邦楽」という「併列」が認められることは、改めて指摘するまでもない。
潜在古層の美意識の顕在化
さて、ここで、この地層に喩えた考え方を精神分析学の分野にアナロジックに敷衍・照射してみますと、C・G・ユングの集合的無意識理論と通底しているといえます。この理論によりますと、ある個人の精神の深層意識部分の地層は、最古層に生物としてのレイヤー、そのひとつ上に人類という種としてのレイヤー、更にその上に民族としてのレイヤー、その又上に郷土・地域としてのレイヤー、その上に家系としてのレイヤー、その上に幼児期のレイヤーというように層を形成しているとしているとしています。−−−なお、最古層のレイヤーの下に前世のレイヤーや人類の祖先のレイヤーが存在するというややオカルティックな亜説もあるようです。
ところで、精神分析学によれば、これら無意識のレイヤーが、ときどき意識レイヤーを攪乱することによって、神経症などが発症するのであるとしています。これをこんどはもう一度逆に文化の議論にアナロジカルに敷衍化してみますと、――特に岸田秀理論によれば――これら文化の古いレイヤーがときどき新しい文化レイヤーに対し反乱を起こし、国家という集団が神経症を発症するということに相似しているといえます。日本の歴史における外圧による開国と鎖国の繰り返しや、米国に対する極端な憎悪と媚びへつらいが交互に現れる分裂病理がこれで、欧州における典型例は、ヒトラーという古層の出現であるいえましょう。
また、精神分析学では、この無意識の反逆、つまり、神経症は、基本的には無意識の意識化によってしか克服できないとされていますので、これを文化の問題に照射すれば、我々は如何に自身の文化の古いレイヤーを意識化するか、言い替えれば、意識下に潜み無意識化している美意識を如何に意識化していくかということが最重要な課題なのではないかといえるわけです。
日本文化の古層の例(音楽)
さて次に、今日に至るまで連綿と脈々と引き継がれている日本文化の美意識の古層の具体例について、論考を進めてみます。
まず、音楽の分野で事例をあげれば、日本の場合、「さわり」のように濁った音を意識的に発生させて、それも楽音として用いたりします。これは、言ってみれば、漢方薬です。西洋医学系の薬剤においては、どの成分がどの病気・症状に有効なのかを論理的・実証的に分析・検証し、その結果として有効成分とされたものを純粋に抽出(又は化学的に合成)して処方することを特徴としています。
これに対し、漢方薬では、分子レベルまで有効成分を純粋化することはせず、ある薬草なりを基本的にはまるごと(厳密には煎じることによって抽出することが多い。)処方します。その中には様々な成分が含まれていますが、そのいちいちを有効かどうかまでは選別することはしないことと対比できます。ちなみに、これは未知なものは未知として留保しておくという不可知論的な仏教思想にも通底しているとも考えられます。
つまり、純粋化(さらには論理化)された音を楽音とする西洋音楽に対し、さわりに典型的にあるように雑音も含めた音に美意識を持つ東洋音楽とに対比できるわけです。このことは、秋の虫の音に情感を受ける日本人の美意識とも通底しているといえます。欧米人が鈴虫などの虫の音を聞いてもただの雑音としか聞こえないそうですが、これは、日本人と欧米人の右脳と左脳の使い分けの相違に由来しているとの説が大脳生理学の見解だと聞いています。日本人がさわりによる雑音的な音に美を感ずるのは、このことも深く関わっていると考えられ、また、佐野清彦氏が、「音の文化誌−東西比較文化考−」(平成3年7月、雄山閣出版)の中で触れていますが、食事のマナーにおいて、洋食が音を立てることが厳禁であるのに対し、日本食の場合、例えば、そば、お茶、せんべいの場合などのように、音をわざわざ立てたりすることもあることは、このことに関係していると考えられます。
なお、「はじめての音楽史」では、このような雑音を含む楽音に対する美意識は中国、韓国、インドまで広く東洋に見られ、特に虫の音に感興するのは南太平洋の諸島国民の感性にもみられるとしており、日本人の感性の雑種性及び南洋諸島文化との近似性を示唆しており、更に興味深いと思います。
日本文化の古層の例(美術など)
次に美術の分野に目を転じてみれば、陶芸においては、無釉焼締、灰釉、自然釉系(信楽、丹波、備前など)の陶器に美を感ずる美意識にも通底しているとも考えられます。自然釉の様々なオートマティズム的「景色」は欧米人にとって汚れ=雑音としか感じないと想像できます。欧米人や中国人が好むのは、きれいな模様が画かれている磁器系(伊万里、九谷など)です。なお、中国ではこの手の磁器系の出現により陶器系は完全に駆逐されてしまっています。
絵画の分野においても同様に、日本においては、いわゆる油絵に対して、日本画(ただし、単に技法として残っているきらいはありますが)が駆逐されずに連綿としてその伝統を残しています。これに対し、その源流である中国においては、既に漢画の技法は消滅してしまったということだそうです。
以上のように、焼き物における磁器から陶器、無釉焼締への変化を出川直樹氏は「やきもの鑑賞入門」(とんぼの本、新潮社)の中で、「驚くべき進化の逆行」と言っています。また、佐野清彦氏は、前述の著作の中で、さわりという機構を開発した三味線や、わざと雑音を増やすために太く進化した尺八をこの逆進化の事例として挙げています。私は、この逆進化=退行について、C・G・ユングの「創造的退行」という概念との通底性を考えずにはおれません。
更に、芸術以外の分野にも敷衍化してみると、仏教(密教)、社会体制(天皇制)についても同様のことがいえます。このように見てくると、文化という地層の重層化は、日本の文化の構造に通底している現象であると考えられるのです。
ちなみに、ここで、天心の比喩をもう一度引いて、日本列島を海外からの文化という波に洗われる波打ち際とするならば、その一番陸地側の際は青森県であると考えられます。そして、私は、その結実として、土方巽(正確には秋田県生まれ)、寺山修司、棟方志功、そして津軽三味線をあげたいと思います。彼らは、日本文化の最古層から直接出現したとも思えてならないのです。
 
「モノ」だらけの日本で「もの」を創る

 

日本に帰ると、よく聞かされる言葉があります。
「日本の若者はもうあまりクルマに興味がない」
日本の現象社会の現状を考えると、間違ってはいないのでしょう。 
「つくって」、「つくって」という大量生産を続けてきた日本は、クルマだけではなく「モノ」だらけです。地震を怖がるより、つくった「モノ」の重さで地盤沈下しないかとヒヤヒヤしてしまいます。
もちろん、本当の「もの」とはそういうものではないと思います。人の思いや精神などが「もの」のなかに宿り、それが生きていくうえでの大きなメッセージとして人の心に伝わっていくのです。それが真の「もの」です。世に出すときから、すでに次のことを考えられているような「モノ」は単なるゴミです。もう、皆さんがわかっていることと思います。
これから「もの」を創りだすクリエーターには、大きな責任があります。現代の資本主義に基づいた消費社会は、もう限界にきています。創る以上、心に伝える本当の「もの」を創りましょう。今回のコラムは、2006年に「Audi Magazine Japan」に連載した記事をベースにしています。「アウディが「もの」を創る、そして「文化」を創る」といわれる理由に触れた内容です。
夢は受け継がれる -Audi「R8」に秘められた思い-
ヨーロッパでは、大人も子供も、誰もがクルマが大好きである。そして、みんなスポーツカーが大好きだ。このカルチャーを支えている背景には、どんな時代においても受け継がれてきた多くの名車、名レース、そんな輝くヘリテージがある。それは、いまだ揺るぎないもののように感じる。
日本では、若者のクルマ離れの話をよく聞くが、それは本当のことなのか。その背景には、いまだ自身のクルマカルチャーに自信をもてない、日本のクルマ業界の言い逃れも多分に含んでいるように感じる。
では、なぜ、ヨーロッパの人は、スポーツカーが好きなのか? 私は「Audi Sport Japan Team Goh」から、ルマン24時間耐久レースに招待されたことがある。驚くことに駐車場は、まるでモーターショー顔負けの名車が並んでいた。サーキットに一歩足を踏み入れれば、人で溢(あふ)れていた。ピットのなかは、焼けたオイルのにおいが充満し、心の高まりにも似たエンジン音が響き渡る。そのなかで、スタッフが勝利という目標に向かって、ありったけのアドレナリンをぶちまけながら、おのおのの作業に没頭している。観客席からは決してわからないが、極限に置かれた人間たちのドラマを見るような感じである。思えば、モータースポーツをダイレクトに体感した初めての日であった。クルマの持つ本質的なスポーツ性は、サーキットに行かなければ決してわかるものではない。本来、モータースポーツにはさほど興味をもたない私でも、ピットのなかでは強烈にその本質を感じ取ることができた。
日が暮れるころ、私はミュルサンヌコーナーにいた。ユーノディエールと呼ばれる6kmのストレートコースの、次のコーナーだ。そこでは、マシンがフルスピードから一気にシフトダウンする。ブレーキディスクが真っ赤に染まり、生き物のように残像を描く。私は時間が止まったかのような、その光景に魅入られた。その瞬間、私の周りの音は消え、すべてが静寂のなかだった。走り抜けるそのクルマの名は、Audi「R8」。ルマン史上、絶対的な強さを見せたアウディが創りだした壮絶なマシン。このクルマに出会ったとき、いまでも覚えているが、多くの人間のスピリットとともに1台のクルマが一つの生き物になっていくのだと感じた。レースは鬼気迫る環境下ではぐくまれ、常識の範囲を超えたなかに道をみる。あのレースで、「R8」は静寂すら伴う、異様な世界のなかにいた。
2003年9月、アウディは、ルマン3連覇の偉業を成すべく、フランクフルトモーターショーに1台のショーカーを出品した。その名も「ルマン・クワトロ」。レースカーである「R8」直系のテクノロジーを備え、かつ、アウディの過去の名車「AVUS(アヴス)」にも似たミッドシップ・クワトロのフォルムを持っていた。アウディは「ルマン・クワトロ」を通じて、理想を現実化し始めたのである。2006年9月、パリモーターショーに出品された「ルマン・クワトロ」は、ルマンレースカーから名を譲り受け「R8」となってベールを脱いだ。「R8」の誕生により、アウディはついに本当のスポーツ・プレミアム・ブレンドとなったわけである。これは、アウディ・ブランドの夢であったに違いない。「R8」は、アウディがルマンのレースで培った冷酷なまでのテスト、極限までのエンジニアリング、そしてそんな壮絶な側面を全く感じさせないエレガントなフォルムを持つ、まさにピュアスポーツカーと呼べるクルマである。その圧倒的な性能パフォーマンスとクオリティに、会場に詰めかけた大勢の観客は、ただ、息をのむばかりであった。アウディがレースのすさまじい環境で培った精神は、「R8」のほんの小さなパーツにまで宿っている。冷徹なまでに、徹底的に創りあげる。いま、これができるのは、世界でも唯一、アウディだけであろう。アウディは、この究極のピュアスポーツカーを創り出すために、長い歳月をかけて準備したともいえよう。
「R8」は、当時、社長だったDr.ウィンターコーン(現VW会長)の夢であった。そして、また、前会長のDr.ピエヒの夢であり、ひいてはアウディそのものの夢であったように思える。夢は親から子へ、世代を超えて受け継がれてきた。この夢の継承こそが、カルチャーである。世に出たばかりの「R8」だが、いま創られたわけではない。私には、ずっと昔、4つのシルバーリングが結びついてアウディが誕生したときからの、多くのアウディマンの思いであったように感じる。アウディのその魂は、これからも受け継がれていくであろう。ヨーロッパにおいて、クルマが好きであるとはこういうことなのである。
 
宣長における「物のあはれ」と「雅」

 

人は見るもの、聞くもの、触れることについて、物の心を感じ、事の心をわきまえる時は、自然と心にこめがたく、表現を求めてやまない。この物の心を感じ、事の心をわきまえ知ることを「物のあはれ」を知るという。「物のあはれ」の「物」は対象を表し、「あはれ」とは対象に触発されて起こる感動を意味する。「物のあはれ」は「物」と「あはれ」の複合語だから、それは物の心、事の心をわきまえ知るという知性的働きと、あはれという感歎・感動が総合統一されたものであり、知性と感性が調和され、知ることが同時に感じることであるような一境である。
人は「物のあはれ」に堪えぬ時は、言うまいとしても言わずにおれず、それはやむにやまれぬ人情の自然というもので、歌・物語とはそのような人の心の本然に基づいて詠み出され、語り出されたものである。「物のあはれ」を知ることが源氏の本意であり文芸の本質である。
宣長にとっては和歌あっての物語だった。彼が源氏を研究したのは俊成がこれを歌人必読の書としたからであり、「源氏物語」的世界は「新古今歌人の意識のなかに濃く流れこ」んでいたからである(「宣長に於ける文学と倫理」「国語と国文学」一九の三)。
歌・和歌の本質は「物のあはれ」にあり、とする論は契沖の説を受けたものである。しかし宣長によれば、契沖は歌風の本体を考えて「近世ノ妄説ヲヤブ」ることにのみ力を用い、「歌ノヨミカタ、風体(ふうてい)ナドノ事」には論じ及ばなかった。宣長は詠歌の風姿、古今の変化を考えて、「風体」の説をなした。これは歌人たる宣長の体験を通して発明したもので、専ら「訓古(くんこ)ニノミ力ヲツクシ」て詠歌に不得意であった契沖の及ばぬところであった。(以上、この段落の引用は「排蘆小船」より)。
「歌の本分」は「物のあはれ」にあることは昔も今も将来も変わらないが、何をあはれと感じ何を心ありと思い知るかは、時代により人によって変わり、また貴賤上下の別によって相違がある。時代についての相違に触れれば、上古は上古の体、中古は中古の体、後世は後世の体があり、その差は明瞭である。
では、宣長の理想とする風体・風姿は何か。それが「雅」である。人は「心ことばのうるはしく雅(ミヤビヤカ)なるにめでて、あはれと思う」(「石上私淑言」)のだから、人をあはれと思わせることを本意とする歌は、心も詞も雅びを宗としなければならない。しかし後の世は心もいやしく詞もきたないので、「歌はただ心におもふ筋をいひのぶる物ぞ」とて、今の世の人の心を、今のままなる詞でありのままに詠み出すとすれば、いやしくきたないものに堕ち、たとい実情から詠み出したとしても、「よも神も人もあはれとはきかじ」ということになる(同上)。「いかに物の心しらぬ山がつも、ききしらぬながら猶みやびやかなる方をば、めでたしとはきくべし」。
このような意味で雅をきわめたものは「新古今和歌集」であり、物語では「源氏物語」である。雅とは「中古のみやび」であり、古典的形式の一つである。今の歌人も中古の中以上の人たちの人情・風儀をよく心得、今の心と相違しても、ただ古えの歌にならって古人の情のごとく詠むのが、今の歌の詠み方である(「紫文要領」)。というのも「今の世の人はいかにみやびたる心にても、むかしの歌又は物語などのやうには深からず」(同上)だからである。だから今の世で雅を身に着けるには、「源氏物語」「伊勢物語」などに親しみ、「古今和歌集」「新古今和歌集」などの歌を手本にしていれば、自ずから心もえんに優しくなって古人の心となり、雅を身に着けることができる。「古へのをまねぶは、はじめは偽事(イツハリゴト)に似」ているが、「つゐにまことになり」、また「詞を文(アヤ)なす道の心にもかなふ」(いずれも「石上私淑言」)のである。  
 
本居宣長

 

物とは
禊祓(みそぎはらい)というのは、身体の汚垢(けがれ)を清めることであって、心を祓い清めるというのは、外国(とつくに)の意(こころ)に外ならず、わが国の古代では、そのようなことは決してない。(中略)とにかくも、何事でも心の観点のみによって、理非善悪を裁定することは、私事(わたくしごと)に属することである。
物(モノ) / 形があって手に触れることのできる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知・認識しうるものすべて。コトが時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、モノは推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間をモノと表現するのは、対象となる人間をヒト(人)以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。
事(コト) / 古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、また、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、言の意か事の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以降に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事、事件などをいう。時間的に不変の存在をモノという。後世コトとモノとは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた。  
事(こと)とは
そもそも意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、皆互いにぴったりと合う物で、上代(古代)は、意も事も言も上代、後の代は、意も事も言も後の代、漢国(からくに=中国)は、意も事も言も漢国である。(中略)
この古事記は、いささかもさかしら(漢意)を加へずに、古代より言い伝えられたままに記されているので、その意(こころ)と事(こと)と言(ことば)も、互いにぴったりと合う物で、皆上代の実(まこと)そのものである。  
漢意(からごころ)とは
漢意(からごころ)とは、中国風の生き方を好み、中国思想を崇敬する心のみをいうのではない。世間の人が、あらゆる物事の善悪や是非を論じ、物の道理(事象の背後にある、我々に理解可能な、概念化された原理・原則)を論定していうことなどの類は、皆漢意(からごころ)であるのをいうのである。そんなことを言うのは、何も中国の本を読んだ人ばかりではない。本などというものを、一冊たりとも読んだことのない人でさえ、そうなのだ。

儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうへに又太極無極といふものをとけり。然れどもその太極無極は、いかなることわりいかなる故(ゆえ)にて、太極無極なるぞといはむに、 こたふべきよしなきが故に、かの両部神道には、仏の道の密教の義(こころ)によりて、今一(ひと)きは上(うえ)を説て、これを阿字真如海変動自在の所作などいひて、もろもろの道に勝(すぐ)れたるごとく、ほこれども、その阿字真如は、又いかなる理いかなる因縁にて、変動自在なるぞといはむには、いかがこたへむとする。
すべて物の理は、つぎつぎにその本をおしきはめもてゆくときは、いかなる故とも、いかなる理とも、しるべきにあらず。つひに皆あやしきにおつる也。
然(しか)れば陰陽も太極無極も、阿字真如も、みなかり(仮)のさへづりぐさにして、まことには其(その)理あることなく、えうなきいたづらごと也(なり)かし。
又(また)真如の無明を生(しょう)ずるといふも、いといと心得ず。
真如ならんには、無明は生(しょう)ずまじき事なるに、いかにして生ずるにか、そのことわりこそきかまほしけれ。
不覚によるが故に、忽然と無明を生ずといふなれど、然らばその不覚は、又(また)何の因縁、いかなる理にて、不覚なるぞといはばいかに。
又(また)不覚ならんからに、生ずべき因縁ことわりなくては、無明の生ずべきよしなし、その因縁ことわりはいかにいかに。

また両部神道なる者のいはく、真如の変動に依(より)て、無量の自在万像を生じ、物に体(たい)してのこさざれども、言語道断にして、視(み)るにも見えず、きけども聞えずといへり。さてかくいひながら又、世界に不思議といふ物一事もなしと、つねにいふはいかにぞや。
言語道断といへる、それすなはち不思議にあらずや。  
物の性質情状(あるかたち)
この陰陽の理ということは、極めて古い時代から、世人の心底に深く染着(しみつ)いていることで、誰もがこれは天地自然の道理であって、一切の事物が、この理(ことわり)を離れることがないと思うであろうが、それはやはり漢籍の説に迷わされた心である。漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地はただ天地、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性情はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)なるものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。
漢意(からごころ)を清く洗い去って、よく考えれば、天地はただ天地、男女(めお)はただ男女(めお)、水火(ひみず)はただ水火(ひみず)であって、それぞれその性情はあるけれども、それは皆、神の御所為(みしわざ)であって、それがそれとして存在する理(ことわり)は、とても不可思議で妙(たえ)なるものであるから、全く人の測り知り得べき範囲を超えている。  
奇異(くすしあやし)さ
神代の事が霊妙で不可思議であるのを、人の代の事と同じでないという理由から、怪しみ疑うであろうが、実は人の代の事も種類こそ異なれど、皆霊妙で不可思議であるのに、それは今現実に見慣れ聞き慣れて、常にその中にいるから、霊妙で不可思議であると思わないのである。

もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首(かしら)といふ所有て、その左り右に、耳といふもの有て、もろもろの声をよくきき、おもて(面)の上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ、その下に、鼻といふものも有て、物のかをかぎ、又(また)下に、口と云ふ物ありて、おく(奥)より声の出るを、くちびるをうごかし、舌をはたらかすままに、その声さまざまにかはりて、詞となりて、万(よろづ)の事をいひわけ、又首(かしら)の下の左り右に、手といふもの有て、末に岐(また)ありて、指(および)といふ。
此およびをはたらかして、万(よろづ)のわざをなし、万(よろづ)の物を造り出せり。
又(また)下つかたに、足といふ物、これも二つ有て、うご(動)かしはこ(運)べば、百重(ももえ)の山をものぼりこえて、いづこまでもあり(歩)きゆきつ。
かくて又(また)胸の内に隠れて、心(こころ)といふ物の有つる。
こはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件(くだり)耳の声をきき、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける。
さるに此(この)人といひし物、ある時いたくなやみて、やうやうに重(おも)りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いささかうごくこともせずなりてやみにき。と記したらむ書を、じゆしや(儒者)の見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理(ことわり)もなく、つたなき寓言(よせごと)にこそはあれ、とぞいはむかし。  
真心(まごころ)とは
真心(まごころ)とは、産巣日(むすび)の神の御霊(みたま)によって、備え持って生(うま)れたままの心をいう。さてこの真心には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり、さまざまであって、天下の人は、ことごとく同じものではないので、神代の神たちも、善事にもあれ悪事にもあれ、おのおのその真心によって行いなさったのである。(中略)すべて善にもあれ悪にもあれ、生まれついて持っている心を変(かえ)て移るのは、皆真心を失うのである。  
真心(まごころ)の型
まず、すべて人というものは、産霊大神の産霊の御霊(みたま)によって、人が生きていくために行はねばならないような範囲の能力は、もとより具足して生れているので、各々が生きていくために必ず行はねばならないような事は、教えを受けなくても、充分に務め行うものなのである。君によく仕え、父母を大切にし、先祖を祭り、妻子やしもべをあはれみ、人ともよく交わりするなどの類い、また各々の家業を務めることなど、全て人の必ず行わなければならないことであるので、皆々生きている限りは、異国の教えなどを借りなくても、もともと誰でもよく弁え知って、充分に務め行うことなのである。  
もののあはれ
世中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事の心を自分の心でありのままに知る。これが事の心を知るということである。物の心を知るをいうことである。物の哀(あわれ)を知るということである。そしてさらに詳しく分析していえば、ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。

まず、「あはれ」という言葉は、宣長によれば、「深く心に感ずる辞(ことば)」であり、後の世に、ただ悲しいことをのみ云って、「哀」という字を当てているが、「哀」はただ「あはれ」の中の一つであって、「あはれ」は「哀」の意味には限らない、としています。そして、「あはれ」は、元は、うれしい時、悲しい時、面白い時、腹立たしい時、恐ろしい時、憎い時、恋しい時、いとしい時など、そのほか何事であっても、深く心に感じるあまり、思わず「ああー」と、言葉にもならず、発せられる「嘆息の辞」であるとしています。
つまり簡単にいえば、「もののあはれを知る」とは、「様々な事または物に触れて、そのうれしく悲しき事の心(性質情状=あるかたち)を、我が身にわきまえ知ること」ということが出来ます。 また宣長は、「紫文要領」の別のところで、「もののあはれ」について、以下のようにも述べています。
「世の中にあらゆる事に、みなそれぞれに物の哀れはあるもの也。」
「物の哀(あはれ)という事は、万事にわたりて、何事にも其事(そのこと)其事につきて有物(あるもの)也。」
これによれば、「もののあはれ」は、我々が想像するような、人間の感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その先天的(アプリオリ)な存在様式として、あらかじめ遍在しているものなのです。つまり、「もののあはれ」は、人間の情感に先行して存在しているのです。
そして上記本文に、「ありのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(あるかたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである。」とあるように、「物の心、事の心」をありのままに知るのは我が「心」であり、それは心が能動的に知るのではありません。あくまで物・事の有り様に即して、その物・事を通して具現されている物・事の心を、我が心に受動的に知るのです。このとき心は、何か実質の詰まった実体ではなく、「空の容器」として、物・事のありのままの受容体として機能することになります。
ところで、この刹那、心の中に瞬時に形成されるのが、宣長のいう「情」であり、それは、「あはれ」という「嘆息の辞」として結実するのです。この「嘆息の辞」は言葉になりません。第六回でも述べたように、自らの眼前に、物が物として、事が事として、ただただ存在しているという「奇異(くすしあやし)さ」に対する根源的驚きが、この「あはれ」という「嘆息の辞」に結実しているのです。対象と心は一体となりながら、存在の「奇異(くすしあやし)さ」に、はっきり気づき覚醒しているので、俗に言う茫然自失の状態とは少し違うようです。「もののあはれ」を知るとはこういうことです。
「もののあはれ」は、深く論じれば尽きることはありません。
「もののあはれ」を知るとは、物の持っている「性質情状(あるかたち)」を、ありのままに知ることである。そして、「物のあるかたち」は人間の認識を超えた「奇異(くすしあやし)き」ものであるから、「もののあはれを知る」とは「ものの奇異(くすしあやし)さ」を知るということ。
この時、「知る」とは、知的認識や観念・概念理解ではなく、その「奇異(くすしあやし)さ」をそのまま受容し、ただ「あはれ」という「嘆息の辞」を発するのみ。これがそのまま「情」として結実する。
この「もののあはれ」を知るプロセスを繰り返すことにより、我々人間が、心の奥底に根強く持っている「世の中の全てのことは、ある合理的な理屈によって、最終的に理解し納得できるはず」「世の中の全てのことは、我々人間の理性で納得できる次元で、何らかの意味および根拠があるに違いない」という、二つの漢意(からごころ)を祓い清めることが出来る。  

「かみ」とは古典などにある天地の神々をはじめ、それを祭る社(やしろ)にある御霊(みたま)をもいい、人はもとより、鳥、獣、木草の類、海、山など、その外何でも、世の常ならずすぐれたところのあり、可畏(かしこ)きものを「かみ」という。「かみ」はこのように種々あり、貴(とうと)きも、賎(あや)しきも、強きも弱きもある。善きも悪しきもあり、心も行いもその様々に従い、とりどりにある。まして、善きも悪しきも、たいへん尊くすぐれた神々の身の上は、とてもとても妙(たえ)にして、あやしく奇すしい。人の小さい認識で、その理(ことわり)など、智恵の一片も測りしることはできない。その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みているべきである。  
神の御所為(みしわざ)
さて世の中のあらゆる大小の様々の事は、天地の間に自然とあることも、人の境遇のことも、行う行動も、みなことごとく神の御霊(みたま)による御計らいであるのであるが、総じて神には、尊卑善悪邪正さまざまあるため、世の中の事も、吉事(きちじ)善事(ぜんじ)ばかりではなく、悪事(あくじ)凶事(きょうじ)も混じって、国の乱なども時々は起り、世のため人のために良くない事なども行われ、また人の禍福(かふく)などが、きっちりと道理に合っていないことも多い。これらは、みな悪神のしわざである。(玉くしげ)

古事記に登場する、様々な禍(わざわい)を起こすとされる禍津日神(まがつびのかみ)を例にとって、「神の誕生」を説明しましょう。この神について、「直毘霊」に以下のように説明しています。
「この世間に物を破壊したりなど、すベて何事も正しい道理のままにはあり得ないで、正しくないことも多いのは、みなこの禍津日の神の心によるもので、ひどくお荒れになる時は、天照大御神や高木の大神の御力をもってしても制することができない時もあるのだから、まして人力ではなんともしょうがない。あの善人も不幸な目にあい、悪人も幸福に栄えるという類の、尋常の理に反したことの多いのも、みなこの神のしわざであるが、外国には神代の正しい伝説がなくて、このわけを知ることができないために、ただ天命の説を立てて、何事でもみな当然の理でもって定めようとするのは、非常に愚かしいことである。」  
神の道
自然の道は、かの老荘が尊むところの自然であって、本当はこの自然の道というものは、存在しないものである。しかしながら、人の作ったものではなくて、神代から自然にある道がある。これは皆(みな)神様のお始めになったものであって、実は自然ではないのであるが、人為に比べれば、やはり自然のようである。そういうことでは、あの中国の陰陽五行などの説の類は、みな神様のお始めになった道によらないで、聖人達が、自分の私智でもって、万事を考え測って、作り設けたものである。そして、その智は限りがあり、及ばないところも多いので、神様のお始めになった道と合致しない事が多いと知るべきである。

まず老子の云う自然というのは、真の自然ではない。実は儒教よりも甚しくこじつけたものである。もし、真に自然を尊むのであれば、世の中がたとえどの様になっていこうとも、成り行きのままに任せていくはずであろう。儒教の行なわれるのも、古えの自然が害われていくのも、皆天地自然のことであるのに、それを正しくないとして、古えの自然を強要するのは、却って自然に背く強いごとである。この故に、その流れを汲む者は、荘周などを始めとして、自然を尊むといって、その言うこと為すことは、悉く自然ではなく、作り事であって、ただ世間と違って異様であるのを悦び、人の耳目を驚かせるのみである。
我が国の神道は、大いにそれとは異なり、まず自然を尊ぶということはない。世の中は、何事も皆、神のしわざなのである。これこそが実は第一の安心なのである。もしこの安心が決定(けつじょう)せず、神のしわざということを、かりそめのことのように思ってしまえば、本当に老子にも感化されてしまうだろう。
そうして何事も皆、神のしわざであるのならば、儒教・仏教・老子の教えなどという道の出現したのも神のしわざ、天下の人心がそれに迷ってしまったのも神のしわざなのである。そうであれば、善悪邪正の異なりこそあれ、儒教も仏教も老子の教えも、皆広くいえば、その時々の神道なのである。神には善なるものもあり、悪なるものもある故に、その道も時々に善悪があって、それが世に行なわれるのである。
そうであれば、後世、国・天下を治めるにも、まずはその時の世に害なきことには、古(いにしえ)のやり方を用いて、出来るだけ善神の御心にかなうようにあるベきで、また儒教を用いて治めなければ治まりがたきことがあれば、儒教を用いて治めるのがよい。仏教でなければうまくいかない事があれば、仏教を用いて治めるのがよい。これらの教えも皆、その時の神道であるからだ。
そうであるのに、ただ上古のやり方でもって、後世までも治めるベきもののように思うのは、人の力を以って、神のカに勝とうとするものであって、不可能なだけでなく、却ってその時の神道にそむくものである。
これ故に、神道の行ないといって、別に一つのことがあるわけではないというのも、このことをいうのである。
しかしながら、善悪邪正をわきまえ論じる時は、上古の世は悪神が荒びることなく、人心もよかった故に国が治まりやすく、数多のことが善神の道のままにあったのである。後の世は悪神が荒びて、上古のままでは治まり難くなったのである。
このように、時に悪神が荒びてしまえば、善神の御力でもかなわないことがあるのは、神代の記録にも明らかである。であれば、人のカにはいよいよかなわぬ事であるので、如何ともし難く、その時のよろしきに従うべきものである。
これが、どうして老子の自然を強いるのと同類であるといえようか。
 
日本的なるもの・雑感

 

「花は盛りに・・・」
川田さんは、徒然草に「花は盛りに、つきはくまなきをのみ見るものかはとかいへるは、いかにぞや。」と引用した上で、兼好法師が徒然草で、「花は盛りの時のみ、月は曇りなく輝ている時のみを見るものであろうか。そうではない。」と続けておられます。
しかし、実は「徒然草」第137段原文は「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ」となっており、「とかいへるは、いかにぞや」という言葉はありません。川田さんが引用したように続くのは、江戸時代の国学者・文献学者、本居宣長の随筆集「玉勝間」4の巻にある「兼好法師が詞のあげつらひ」(第231段)です。「けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや」と続きます。川田さんの紹介する「見るものであろうか。そうではない」という意味は、徒然草原文の「見るものかは。」で尽くされているのです。
その後に続く「とかいへるは、いかにぞや」というのは「とか言っているのは、いかがなものであろうか」というほどの意味で、本居宣長の「玉勝間」231段は徒然草で、「花は盛りの時のみ、月は曇りなく輝いている時のみを見るものであろうか。そうではない。」とか言っているのは、いかがなものであろうかと異議を唱えているのです。そして、それに続けて吉田兼好の「みやび」を全面批判します。
「いにしへの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとひ、あるはまちをしむ心づくしをよめるぞ多くて、こゝろ深きも、ことにさる歌におほかるは、みな花はさかりをのどかに見まほしく、月はくまなからむことをおもふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風をまち、月に雲をねがひたるはあらん」と宣長は言います。
つまり「昔の歌の中に、桜の花の下では風が吹いて散らすのをうらめしく思い、月の夜は雲で隠れることを嫌い、あるいは満開や満月を待ち望み、その時期が過ぎるのを惜しむ気持ちを詠んだ情趣の深い歌が多いのも、みな、花は花盛りをゆっくりと見たいと思い、月は曇りなく美しいことを望む気持ちが強いからこそ、そのようにできないことを嘆いている歌が多いのだ」というわけです。
そして「さるをかのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流(ミヤビ)にして、まことのみやびごゝろにはあらず」と結論づけています。宣長は「だから、あの法師が言ったようなことは、人の心に逆らった、後世の利口ぶっている心によるいつわりの風流であって、真の風雅な心ではない」と批判するのです。さらには、「すべてなべての人の願ふ心にたがへるを雅とするは、つくりごとぞ多かりける。」(総じて、世間一般の人が願う気持ちとは違うことを風雅であるとするのは、いつわりのものが多い)とまで言い切っています。
吉田兼好「徒然草」と本居宣長「玉勝間」の、この二つの「花は盛りに・・・」は、よく対比して論じられます。川田さんは意識して「月は欠けているぐらいのほうが趣き深い」という兼好ではなく「そういう人の心に逆らった風流はいつわりだ」と指摘した宣長から引用した上で、「今宵はかけていく満月を堪能しますか」と書いたかどうかはわかりませんが、これもまた感慨深いものがあります。  
浄土教
哲学の道から東へ少しきつめの坂を登ると、鹿ヶ谷とよばらる一帯に出る。鹿ヶ谷の森は静かに、そして鬱蒼と繁り、法然院の静寂を演出している。その法然院の参道に沿って歩くと墓地に入る。この墓地には名士とされる人々の墓が多く、京都をこよなく愛した作家、谷崎潤一郎の墓もここにある。谷崎ファンの墓参が今も絶えない。
その谷崎の墓のそばに瀟洒で格調のある墓が建っている。「九鬼周造之墓」墓碑名には西田幾多朗によって書かれたもので、その側面にも西田によって訳されたゲーテに詩が一句彫られている。
「見はるかす山の頂梢には風も動かず鳥も鳴かずまてしばし汝も休はん」
何の衒いもなくたたずむその墓は、参る者に不思議な透明感を与える。
九鬼周造。「「いき」の構造」や「偶然性の問題」などで知られる異色の哲学者である。大正から昭和初期にかけてヨーロッパを遊学し、ヨーロッパで最先端の方法論を高い水準で理解し、「日本的なるもの」を考え続けた人。後は近代日本をその身をもって生きたのである。
そんな九鬼の哲学は二元世界といわれる。東洋と西洋。江戸とパリ。東京と京都。偶然と必然。禁欲と享楽。そして、男と女。彼はその間にすべり込み、軽やかに自らの哲学を展開した。観念論であろうとマルクス主義であろうと弁証法が哲学の中心であった当時の日本にあって、そのスタイルがかなり異色であることは肯首できよう。
その九鬼が法然院に葬られている。これは彼自身の遺言によるものである。ここに九鬼自身の精神史におけるスリリングな展開が想像できる。
彼は若き日から死に至るまで、ヨーロッパの詩歌における「押韻」と同様、日本の現代詩歌における「押韻」について考え続けた。しかし、その試みは日本語にどこまでも違和感を残し、結局現代詩に押韻を基礎づけることに失敗してしまった。その彼が死に際して浄土教に身をゆだねたのである。
鈴木大拙に従えば、外国からの輸入物ではじめて日本的霊性を表現しえたのは禅と浄土教である。本来、浄土教は此岸にありながら念仏を唱えることで彼岸を想う密教的営みをさす。しかし、法然が浄土の冥想から念仏者の主体へ問題を転換した時、浄土教は日本的となったのである。
ところが、中沢新一の説くところによれば、禅と浄土教以後、「日本的なるもの」を表現しうる思想的輸入物がみあたらない。マルクス主義もアメリカニズムも日本的となりえず、そのままマルクスやヤンキーであり続けたのである。九鬼はその「日本的なるもの」の課題に挑み、挫折し、そして日本人として再び浄土教に出会ったのだ。日本的なるものの可能性はついえたか否か、九鬼の墓はそう問いかける。
九鬼周造と浄土教。不思議な取り合わせだが、重要な意味を持っている。  
風狂
日本人が示す美意識を探っていくと、その時代でいろいろな相貌を見せてくれて、非常に楽しいものがある。そして、それ以上に楽しいのは、美意識が日本人の思想を鍛え上げる瞬間が垣間見られるときである。例えば、茶の道を通して「生き方」を示した千利休などはその良い例であろう。しかし、今回は文芸の領域から越境していった二人、本居宣長と松尾芭蕉をダシにそのことを示してみたい。
本居宣長が中国の思想というものをひどく嫌っていたことは広く知られているところである。彼には中国の思想家は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」で、人の情をいつわってまでも大げさで仰々しい概念を作りだし、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」をふりまわす人として映っていた。つまり、中国の思想はあまりに概念的、抽象的思惟でありすぎて、事物にじかに触れる、生々しい思想ではないと宣長は判断しているのである。
では、それに対して事物にじかに触れる認識方法を宣長はどう説くか。世に有名な「もののあはれ」がそれである。「もののあはれ」を知るとは、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」ことをいう。生きた事物を自然で素朴な実存的感動を通じて深く心に感じるのである。そして、「たとえば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。(中略)されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるという也」要するに「物の心をしる」のである。しかし、事物に接し、「ああ、はれ」と情(こころ)が感(うご)くことを絶対視したこの認識論は、事物を何の媒介もなく一挙に直接把握する方法を示し得た点では評価できようが、事物それ自体は永遠不変であることが大前提になっているところに疑問が生ずる。あくまで感くのは情であって、事物は事物そのものでしかない。つまり、美とよばれるものは伝統的に決まっており、その形は永遠不変だというのである。
しかし、そんなことがありえるのだろうか。実際、我々の感覚から言えば、美には流行(モード)があり、その時代、その風潮によって大きく左右されているように感じられる。そして、その感覚からくる疑問は拭い難いもののように思われるのである。
夏草や兵どもが夢の跡
こう詠むことができた松尾芭蕉は現前する事物が永遠不変でないことを自覚していた。芭蕉の場合、「をのれが心をせめて、物の実しる事」と一見宣長に似た主張をするのだが、きりかえして次のようにもいう。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」そして「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならないのである。美はその姿を不変に示し続けるのではなくて、たった一瞬の、ひらめく存在開示なのである。そこでは、いつ美が輝くか、どれが美であるか、微に入り注視する必要があり、その一瞬の輝きを表現する詩的言語の訓練が必要になってくる。そして、芭蕉はその方法論として旅に暮らし続けることを選んだのである。時間をかけ、自ら移動し、スケッチするように言葉を紡いでいくその方法論は、美の多様性に素早く反応することができ、さまざな表現を示すことができる。そのフットワークのよさは注目に値する。
ときに日本的なるものということは、沈潜する思考をイメージされることが多い。禅者がもつイメージが横滑りしているのだろう。しかし、日本の思想的可能性は芭蕉のようなフットワークの軽さを示すこともある。もちろん、役行者や空海といった山岳修験者のフットワークのよさは気づかれているが、彼ら山岳修験者もやっと仏教学や宗教学という狭い枠から抜け出たところで、まだまだこれから新しい研究が待たれるものである。そして、「日本的なるもの」のフットワークのよさが「風狂」という芸術的な姿として芭蕉に現れたことにももっと注目していってもよいのではないだろうか。  
構造主義
「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人あるのである。」
こう言われて困惑を覚えずにいられるだろうか。西田幾多郎の著作を読む者は、この種の困惑を常に経験していかざるをえない。なぜなら、常識と考えられる思考はおろか、日本語の文法が破壊されているからである。経験があって個人があるだって!?冗談じゃない!気が狂ってしまいそうだ!
一般に西田の難解さには定評がある。有名な「善の研究」などはまだましな方である。膨大な量の論文集などは、何頁にも渡って何が書いてあるのか分からないことは屡々であり、時には論文で扱われているはずの主題がまったく出てこないまま、混乱に叩き落とされることもある。いったい何がここまで混乱せしめるのだろう。
和辻哲郎が語ったように、日本語で哲学することは非常に難しい。これは西洋哲学を専門とする者が遅かれ早かれ実感することである。そこで和辻や九鬼周造などは、己の詩的才能を導入することで、その問題の解決を試みた。つまり、あきらめた、のである。したがって、彼らの著作は読みやすく、一種文学的風雅が漂っている。
しかし、西田は違った。彼の思い詰める性格も手伝って、何がなんでも日本語で哲学しようとしたのだ。それも、大胆な造語を行なったのである。いや、造語をするのはまだいい。西田の場合、カント哲学を下敷に造語がなされたところに悲劇がある。カントの著作をドイツ語で、いや、翻訳でいい、読まれたことのある方にはお分かりいただけるかと思うが、その専門用語のオンパレードには少々辟易とさせられる。又、カントの書く一文がとにかく長いことも有名である。しかし、カントは思考されたものは一旦整理して書く性格であったので、じっくり読めば分からないものではない。
明治の終わり頃、新カント派の哲学がアカデミズムを席巻しはじめたことも手伝って、西田もカント哲学の枠組みで思索することになったのだが、彼の場合、その枠組みの乗り越えが主題とされたのである。したがって、その道ゆきは、日本人には少々難解な専門用語の中で、ものの見方の変更を迫っていくこととなる。
カント哲学では、我々人間の主観がどのように物自体を認識するかが問題となっており、結果、物自体は認識しえず、主観が物自体の諸現象を構成するのみとされる。いわば、人間の認識能力を限定づけると同時に、人間の自我の働きを基礎づけた。しかし、認識能力の限定がなされているものの、その自我の働きが持っている独断性は否定されえない。そして、認識以前の物自体はいったいどうなるのか疑問の残るところである。
これに対して西田はこう言う。
「既に知識は或る立場からの構成であるとすれば、与えられた或物がなければならぬ。是において物自体とは知識の原因という如きものではなくして、概念的知識以前に与えられた直接経験という如きものとならねばならぬ。」
この経験を西田は「純粋経験」と呼び、冒頭の言葉につながっていくのである。
カントの場合、精神(主観)と物体(客観)とは互いに全く違う法則性をもつものとされている(物心二元論)が、西田の場合、主客未分の直接的な経験の立場から、精神と物体は同じもので、その見方によって精神や物体となって立ち現われるとされる。この西田の立場は、論理的にいけば何をいっているかさっぱり分からないが、日本人の普段の生活を考えると、時折感じる何かを言い当てようとしてとしているように観じられないだろうか。例えば、松を見たときの何か、川の流れに眼を奪われたときの何か、鼓の一打を聴いたときの何か。その何かの直観が西田にはあったのではないだろうか。(もちろん、西田自身の参禅も見逃せないだろう。)
西田はこの直観を文学的表現で言い表わすのでなく、ヨーロッパの思想によって鍛えた日本語の文法をもって表わそうとしたのである。しかし、その試みが西田の文章を難解にしている。
「物来たって我を照らす。」
「生きると云うことは、客観的制作にあるのである。我々の生命が身体的と考へられる所以である。」
「相対が絶対に対するという時、そこには死がなければならない。我々の自己は、ただ、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである。」
こうした文章は、やはり難解と言わざるをえない。
しかし、読み手が自らの問題を持って読むとき、これら難渋な文章が輝きを持って立ち現われるのである。構造主義のパッションをうけて、今、西田が世界で読まれはじめている。この世界性が「日本的なるもの」の思想的可能性の一表現である。三木清は「西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生まれてくることができないように思われます。」と言う。その言葉を励みとしつつ、一方で脅迫感じながら、西田の論文集を眼の前にして、私は腕組みをしたまま動けないである。はたして読み続けるべきか否か・・・  
近代の超克
関西大震災では、結局五千人を超える死者が出た。冥福を祈ると共に、被災地の一早い復興を願ってやまない。
その震災の大騒動にまぎれて、先日、神奈川県逗子市で一人の哲学者が亡くなった。西田幾多郎の最後の高弟、下村寅太郎である。享年92歳。老衰による死であったとのこと。世の中の大騒動をよそに、静かな大往生である。
下村寅太郎にはいくつかの顔がある。まず一つは、数理哲学者としての顔。元来、彼は数学者で哲学者であるライプニッツの研究が専門である。日本のライプニッツ研究は彼から始まり、彼を越える仕事を残した者はいない。現在刊行中のライプニッツ全集の監修を務めていたはずであるが・・・
その次に、西田幾多郎の弟子としての顔。岩波文庫に収められている「善の研究」の解説は下村によるものである。彼は西田哲学に、西洋哲学の焼き直しではない、唯一、日本独自の哲学の姿を見てとっていた。西田の死後、西田哲学は西谷啓治によって宗教学の方向を強めていったが、私には数理的な立場に踏みとどまっている下村の方が健全であるように思われて仕方がない。
次に、優れたヨーロッパ研究家としての顔。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」「アッシジの聖フランシス」「ルネッサンス的人間像」など、一般読書界にも広く知られる著書を残している。私自身、彼の著書がなければ、アッシジの小さき花に出会うことがなかった。彼はヨーロッパを普遍的な確固たるものとしてとらえるのではなく、時代的な特殊性としてとらえていた。したがって、膨大な資料を駆使しながら、時代を生き抜く人々を描き出すその筆致は、さながら歴史家のようである。特にルネサンス前後にその興味を注いでいたのは、その仕事を見ればよくわかる。彼はヨーロッパ近代が抱える重要な問題の分水嶺がルネサンスにあることを読み取っていたのである。
そして最後に、シンポジウム「近代の超克」出席者としての顔。昭和17年、雑誌「文学界」の呼びかけにより、「文学界」グループ、日本浪漫派、京都学派の三派から13人の知識人たちが集い、大東亜戦争の思想的意義をめぐって討論された。
下村も京都学派として、西谷啓治や鈴木成高などと共に、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎等との討論に参加したのである。よく知られるように、このシンポジウムは伝説的に悪名高いものであり、戦後、何度も大東亜共栄の理論づけをしたとしてヤリ玉にあげられてきた。70年代以降、その内包する問題意識の批判的継承が唱えられ始め、一概に否定しきれないが、戦中、戦時イデオロギーとして利用されてきた事実は覆い隠せない。しかし、そのシンポジウムにおける議論たるや、何か確固たる指針を示すことなく、ヨーロッパ近代を日本原理によって乗り越えねばならない、と繰り返すのみであり、散漫で発展的とは言い難いものである。
こうしたシンポジウムの中で、唯一、ヨーロッパ近代が抱える科学の問題をとらえることで「近代の超克」の本質を把握していたのが、下村であった。彼は、言語や論議による論証性を旨とする古代ギリシアの科学と区別して、近代科学が実験的方法による実証性を旨とすることを指摘する。そして、その実験的方法がいわゆる魔術の精神と同一のものであることをえぐり出して見せたのだ。「自然を拷問して口を割らせる。」下村は近代科学を特徴づけてこう言ってのけたのである。こうした実験的方法を生み出す近代精神を問題にせねばならぬ、これが彼の主張であった。
ところが、彼の主張はたちまち横に置かれ、シンポジウムは空論を極め、その後、二度と近代科学の問題は真正面に考えられることなく戦後を迎えてしまった。むろん、戦後も科学の問題は据え置きのままであった。このことは日本思想の近代的弱点であろう。近年、ようやく日本でも近代科学の問題が議論されるようになってきたのだが。
こうしてみてくると、彼はヨーロッパを根本から理解しようとした人であることがわかる。そして、それは日本が明治以降、その内部に抱えることになった「近代性」をどう処理していくか、というところにつながっている。今の我々には非常に刺激的なことではないか。また一つ、大きな先達を失ってしまったようだ・・・  
隠居
今年に入ってからというもの、仕事や雑事に追い回されていたせいか、このところ「隠居」というものに憧れを抱いている。お昼近くに目を覚まし、日にあたりながら縁側で庭をながめ、たまに庭をいじる。夜は夜で、適当な肴で酒をなめ、三味をチリトテチン。夜の淵に酩酊の末、入滅。この生産性のなさがなんともいえない。
「隠居」といっても、この社会の通念上では、年を喰えば誰でもいやがおうにも隠居とみなされる。隠居=じじ・ばばなのである。しかし、私がここで考えているのは「若隠居」。30にも満たないガキが何をいうか、と思われるだろうが、私自身、今すぐにでも隠居したいのである。隠居に年齢は関係ないのだ。
そこで、若隠居三年目を迎えた杉浦日向子女史が推薦する若隠居のお手本、「花暦八笑人」をひもといてみた。これに出てくる若隠居の名は佐次郎という。彼は名のある大店の長男として生まれたのだが、「生まれついての呑太郎、年中続く夕部け(二日酔いのこと)に、うくる家業もうるさしと、弟右之助に相続させ、おのれは隠居の身となりて、心のままに不忍の、池のほとりに寓居」といったあんばいである。そして、その佐次郎のもとに集まる7人の呑助どもと季節ごとの茶番を繰り広げる。特に、春の花見での茶番は「花見の仇討」という落語としても有名である。
とにかく、彼らは世の益にならない、本当にくだらない茶番に命を賭ける。「花見の仇討」では、花見の場で仇討の茶番を仕掛けるつもりが、勘違いして助太刀をかって出た武士に切り殺されかけたほどである。そこには殺されかけた恐怖よりも無意味な茶番のスラップスティック性が前面に出されている。ここに太平の世、刺激の少なかった江戸の余裕やおおらかさがある。
このおおらかさの象徴のような佐次郎は、いわば江戸という都市に住む有閑人。加えて、作者の滝亭鯉丈も江戸中期の旗本の婿養子、立派な有閑人である。つまり、どうしてもやらねばならぬ公務もなく、その日の暇を物臭に、億劫がってくらしていたのだ。
私は以前より、この物臭、ぐうたらが日本を特徴づけるものの一つに数えられるのではないかと考えていた。もちろん、世界的にみれば、樽の中で気ままに暮らしたディオゲネスや、自らの庭園で仲間と共に静かな悦楽を求めたエピクロスがいる。東洋にも仏教思想や老荘思想のようなある種の「ぐうたら哲学」がある。日本的ぐうたらもこの東洋的ぐうたら思想の影響を多少なりとも受けているだろう。しかし、そうした思想的影響を受け入れる基盤として、日本人の生活環境が考慮されねばなるまい。それは都市の円熟ということと深く関係しているのである。
「八笑人」が書かれた文政年間は、江戸という都市が経済的に整備され、情報の中心として機能し、都市として完成を極めていた。そうした都市では居・食・住が苦もなく身の回りから手に入り、今まで生きるために費やされていた生産の時間が余ってくる。都市で生活している限り、多少ゴロゴロとぐうたらをしていても、まず死ぬことがないのである。だからこそ、佐次郎は思い切った茶番をうてたのだろうし、落語に出てくるような留さん、熊さんなども物臭に暮らせたのだろう。
これは江戸時代に限ったことではない。室町期に「物臭太郎」というお伽草紙があるが、これも室町期に京都という都市が円熟を迎えていたことと深く関係している。谷崎潤一郎が推察するように、当時の零落した公卿が自分のぐうたらな生活を暇つぶしに書いたと考えられる。
今、日本は全国総都市化している。日本という国の隅々までが都市化しようとしているのだ。バブル崩壊後の地方を基盤とした経済活性、マルチメディアの整備による情報流通。江戸だ、京だ、大坂だ、という区別なく、日本人はどこにいても都市生活者である。この日本という都市の円熟がある意味楽しみである。なぜなら、その円熟と共に私も「隠居」したいからだ。しかし、その前に私自身の先立つものが・・・  
日本
日本という国は何故「日本」という国なのだろう。「日本的なるもの」と題しておきながら、今までこの「日本」ということを明かにしておかなかったようである。日本の社会や文化を考えていくにあたって、そのことを示しえないのでは、論考自体に意味がない。今回その反省をもって、改めて「日本」ということについてまとめなおそうと考えた。しかし、あまりに問題が多岐に渡り、てんやわんやしてしまった。多少バタバタするが、その辺もあわせて示してみたい。
現在、我々の常識において日本の国を規定する場合、次の三点が主に主張される。
1、日本は四方を海に囲まれた、孤立した島国である。
2、日本は稲作によって支えられた国である。
3、日本は世界でも稀にみる単一民族の国である。
これらの主張は、しかし、ちょっと考えてみれば大変矛盾した考え方であることが分かる。
まず1では、海による孤立を主張することで日本文化の独自的発展が考えられている。そして、この考えをつきつめる形で3の主張へとつながっていく。しかし、考古学、民俗学等の成果により、有史以前から列島の各地域で大陸との交流が盛んに行なわれていたことが知られるようになった。
環日本海沿岸の生活圏をはじめ、瀬戸内海の島じまと朝鮮半島との交流、琉球を中継点とした東シナ海文化圏など、世界の生活圏の中で日本列島は存在していたのである。つまり、1の主張のように海は大きな障壁ではなく、重要な交通路であったといえる。日本列島ではその諸生活圏の中でそれぞれの文化が発達し、互いに流通していたのである。
次に2。去年の米不足のおり、日本人の米に対するこだわりが非常に深いことが確認されたわけだが、その感受性=日本人となるのだろうか。一般に稲作一元論が主張される場合、「日本人の魂は稲を通じて大地の力をもらっている」といった類のことがいわれる。つまり、稲をして日本の宗教の核心を説明し、天皇家がおこなう新嘗祭が日本人にどれだけ重要かを説くのである。聖なる天皇を立てることで稲作=日本人を公式化しようとしているといえよう。
しかし、天皇をかつぎだすならば、供御人の存在が忘れられてはならない。供御人とは、海の幸や山の幸を直接天皇に貢献する集団のことである。網野善彦や黒田日出男などの研究で示されるように、天皇がおこなう儀式において、米が権力の分かりやすい象徴であるのに対して、海や山の初物が天皇権力の暗いマジカルな部分を受け持っていたとされる。又、そうした海民、山民の非農業集団が中世紀まで天皇家の直属軍事力として編成されていたことも注目に値する。建武の新政のとき、後醍醐天皇が悪党とよばれる非農業集団と結びついたのも、このマジカルな力を取りもどそうとしたといえる。さらに、天皇との関係を離れた後でも、この海民、山民は独自の流通経路を通じて楽市を組織するようになる。日本の都市性は彼ら抜きで語ることができない。
以上のように1、2をあわせて考えてみれば、3はおのずと否定されよう。事実、日本列島には、アイヌや琉球の民族が存在し、東北人を一つの民族と見る向きもある。この列島に住んでいるのが人間である以上、生活レベルで考えれば、日本は単一民族と簡単にいうことはできない。日本が単一民族であるとしてきたのは、畿内に発生した権力であり、その主張は皇国史観を構成するのにどうしても必要だったのだ。中曾根元首相の日本単一民族発言は単なる皇国史観の焼直しにすぎない。日本という国は民族によって建つ国ではない。
しかし、現在、我々日本人は日本列島に住むあらゆる人々にある種の均質性を感じている。この事実はぬぐい去れないものであろう。いったい、この均質性はどこからくるのだろう。
網野が指摘するように、それは律令制が列島の隅々まで行き渡ったことに原因する。律令制において、何よりも効力をもつものは書類であり、その書類がことあるごとに列島中に撒き散らかされるのである。
畿内の言葉が列島の権力空間における共通語となったことは想像に難くない。しかし、書類の文章は中国からの漢語を用いられることが多く、それだけでは役人だけの言葉で終わってしまうはずである。そこで網野は「ひらがな」の存在に注目している。
平安期にはいり、列島の権力空間がひとまずの安定がみられるようになると、女性の中から「ひらがな」が起こり、生活レベルでの共通言語として機能するようになったのである。「日本語」という均質性が生まれたわけだ。
確かに、言語を空間としてとらえることで日本の均質性を見いだすことができる。しかし、私はその「ひらがな」さえも受け入れた人々の感受性に注目したい。
元来、女性性という他者的なるものであるはずの「ひらがな」を受け入れることで日本という均質性を開いてしまう感受性。そう、私が「日本的なるもの」と呼ぶものは、まさにこれである。  
獅子舞
幼い頃のこと。毎年正月になると、近所の庭先に獅子舞が訪れていた。母はよく私を見に連れていってくれた。獅子舞にかまれるとその一年の厄除けになるといって、母は私の手をカチカチと音をたてる歯にかませていた。他の子供たちより泣き虫だった私は、かならずといっていいほど大泣きをしていた。
さて、獅子に手をかまれてもさほど泣かなくなった頃、獅子に扮している人が親しくしている近所のおっちゃんであることに気づいた。はじめてそのことに気づいた年は、酒屋のおっちゃんと裏に住むご隠居さんだった。役回りは毎年当番制だったようで、駄菓子屋のおっちゃんやそろばん塾の先生、友達の父親などが、正月ごとに獅子に扮していた。
私が不思議に思ったのは、獅子舞のあった日、その日一日中、その獅子当番のおっちゃんたちに、何か強い存在感が感じられたことである。これは私に限ったことではないと思われる。獅子舞は、その一日をかけて、町内あちこちの庭先で行われるが、行く先々で、子供たちが遠巻きで畏敬の視線をおっちゃんたちに投げかけている光景がよく見られた。しかし、翌日になると、普段と変わらない気さくなおっちゃんたちに戻っていたのである。いったい、あの異なるオーラは何だったのだろう。
そうした印象は、実のところ年を経ていくうちに薄れていったのだが、大学時代、バリのバロンダンスを見た瞬間、それらのことが意識の表舞台によみがえってきた。
バロンとはバリ島における善の精霊のことをさす。その姿はギョロっとした目玉に大きく開く口、するどい牙と威嚇する角。小刻みに震えるその体はまるで内からわきたつ力を押さえ切れないかのようである。その与えるインパクトは南国特有の刺激でむせかえるようだが、根本にあるものは日本の獅子舞に似ているな、と感じていた。
後日、バロンダンスと獅子舞の関連性について書かれた文章を見つけたとき、すくなからず、我が意を得たりと感じた。その内容をごく簡単に言えば、人間の生活世界に善をもたらそうとする強力な力がバロンという姿になり、その姿が東南アジアから黒潮に乗り、東シナ海沿岸のアジア諸国に広まった。伝播した地域でもその姿は、人間の幸せを求める力と結びつき、日本でも正月などの節目に祝いの舞として獅子舞が行われるようになった、ということである。
その後、バロンダンスと獅子舞に関する資料をいくつか見たが、それらを総合してみると、バロンも獅子舞の獅子も、生活世界におけるケガレを浄化するカミとして考えられていることに間違いはないらしい。そう、獅子舞はカミによる浄化と祝福なのである(ことわっておくが、ここでいうカミは一神教的な神ではなく、古来より人間が自然の力に対して持つ畏敬の念が生み出したアニミズム的なカミである)。そのカミの仮面をもっておっちゃんたちは演じていたのである。
そこで注目したいのは、仮面のもつ威力である。おっちゃんたちは、ただカミの仮面をかぶるだけで、私を畏れさせた。つまり、仮面をかぶることで、おっちゃんたちはカミのように現実より強い存在となったのである。獅子舞をするおっちゃんの、あの何ともいえない存在感、どうも近づき難いオーラは、獅子舞の仮面が元来もつカミ的な力によるものだったのだ。翌日、普段通りのおっちゃんたちに戻ったのも、この仮面をはずしたことに原因するといえる。
しかし、人間の存在というものは、なんとも多様で脆いものか。カミの仮面をかぶることで超地上的なカミの領域へと開示されたり、会社である役目を与えられれば一端の社会的な人間になったりする。日本というアイデンティティを与えてやれば誰でも日本人なのである。(日本人とは仮面のことなのだ。)
話を戻そう。現在、獅子舞を見ようと思うと、少々苦労して探さねばならない。生活世界の構造が変化したため、当番制で獅子舞を行うことが少なくなり、ましてや獅子舞を生業とする芸人もほとんどいなくなった。つまり、ケガレを浄化するメカニズムが今の日本の共同体には失われているといえる。昨今の新・新興宗教がさらけ出してくれた歪みも、そのことと通底している。その歪みから学ぶものは多い。第二・第三のオウムを生み出すなかれ・・・  
自愛
ドイツの哲学者カール・レーヴィットが来日したのは昭和11年だった。ナチスがドイツの政権を握り、ヨーロッパを破滅に導こうとしていた頃である。レーヴィットはユダヤ人だったため、ドイツに留まることが不可能になった。
そこで、東北帝国大学の招聘を受けて、わざわざ東の果てのこの国までやってきたのである。その後、彼は昭和16年まで滞在し、太平洋戦争の開始とともにアメリカに渡ってしまった。
そうした事情で、多少なりとも日本を知るレーヴィットに「日本の読者に与える跋」という文章がある。「ヨーロッパのニヒリズム」という著書の日本版あとがきに寄せられたものである。
「ヨーロッパのニヒリズム」はレーヴィットが生涯のテーマとした、人間の自己確信が崩壊する道行を哲学史に位置づけるものである。自己意識を全体的な意識にまで拡張し、その巨視的な視点からすべてを説き明かしたと信じるヘーゲルから、「神は死んだ」と叫ぶことですべての価値判断を無効にしたニーチェまで、ヨーロッパのアイデンティティが失われる姿をレーヴィットは描き出した。彼はその自らの行為を「ヨーロッパ的自己批判」と呼び、ヨーロッパにおける、それまでとは違った人間の在り方を模索したのである。
しかし、その返す刀で彼は日本を批判する。日本の何を?つまり「日本的自愛」を!
「前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの '進歩'を嘆賞すべき努力と熱っぽさをもって受け取ったときは、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し、全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰退していたのである。(中略)その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。」
日本はヨーロッパから産業と技術だけを学びとった。つまり、日本のものの考え方、風習、ものの評価というものはそのままに、外面的にヨーロッパの技術を身に纏ったのである。そして、ヨーロッパ的外面の矛盾に気づくやいなや、簡単に打ち捨てようとする、あるいは自らの内面の働きでよりよき「日本とヨーロッパの統合」を作り上げようとする。しかし、ヨーロッパ的外面はそれを着ることで内面までその矛盾が蝕んでくる代物だったのである。今なお続く宗教上、道徳上、社会上の矛盾をみれば、その浸透性に気づかされる。
したがって、日本はヨーロッパのニヒリズムに真っ向から向き合わねばならないはずである。しかし、それにはヨーロッパの書籍を研究し、知性の面のみで理解するだけではいけない。レーヴィットは当時の日本の学者を指してこういう。
「彼らはヨーロッパ的な概念--たとえば'意志'とか'自由'とか'精神'とか--を、自分達自身の生活、思惟、言語にあってそれらと対応し、ないしはそれらと食い違うものと、区別もしないし比較もしない。」
日本の学者は他なるものの中から自らを問題にすることがないというのである。彼らはものごとを日本的に感じたり考えたりしているのに、外面的にはヨーロッパの概念をふりまわす。そこには自らの体験への自己省祭なり、自己批判がない。この点をレーヴィットは「日本的自愛」と呼んだのである。
ヨーロッパにおけるゲーテやニーチェ、ボードレールのように、自己および自己の国民を問題にする日本人が果たしてあるのだろうか、彼はそう問いかける。
そうした批判は実際のところ、今でも有効性を失っていないと思われる。
戦後50年間、ドイツでは自らの内に抱え込んだナチズムという問題を徹底的に考えてきた。戦犯に対しては執拗な追及がなされ、被害者に対しては可能な限り保障を行ってきた。解決つかない問題は山ほど残っている。しかし、民族に宿るナチスの火を克服しようと全力を尽くしてきたのである。
しかし、日本では近年の従軍慰安婦問題をはじめ、近隣諸国への謝罪・保障、靖国問題等、ほとんど無視の状態が続いている。ようやく国会セレモニーとしての「戦後50年国会決議」なるものが表面化したが、結果は周知の通り、ていたらくなものである。
日本は「民主」を、「平和」を、「共生」を、そして「戦後」をいかに学び、いかに考えてきたか。いや、いかに学ばず、いかに考えてこなかったか・・・  
ことば
ふだん、我々はことばというものについてどのように考え、それをどのように使っているのだろうか。
現代のような情報過多の社会に生きていると、ことばは情報を表現する手段としてのみしか扱われていないのではないだろうか。この場合、情報の内容が大切なのであって、ことばそのものは手段としての役割以上に考えられていないといえる。
情報の収集と公開の速効性が問われる現代において、それは一面の妥当性をもっており、新しい表現知として今後の成果が楽しみな領域ではある。
しかし、ときとしてことばは表現手段としての役割とは違った姿を見せてくれる。たとえば、折口信夫の「死者の書」に触れるとき。
物の音。---つた、つたと来て、ふうと佇ち止るけはい。耳をすますと、元の寂かな夜に、---激ち降る谷のとよみ。 つたつたつた。 また、ひたと止む。 この狭い庵の中を、いつまで歩く、足音だろう。 つた。 死者の足音が読む者をぎくりとさせる。 つたつたつた。滋賀津彦が死の淵からよみがえり、藤原南家の郎女にせまりくる足音。なんとも不意をついたことばである。
しかし、なぜこうもぎくりとさせられるのであろう。普通の足音であれば、誰かが歩いているのだろうとだけ感じる。ところが、この場合、死者がせまってきている、と確信させられるのだ。つたつたつた、という足音が、死者の到来を確信させるに足ることばとしてそこに存在しているのである。しかも、それは死者の到来を単純に描写しているというレベルを超えてそこに存在している。
「つたつた」というようなことばは、擬声語とよばれる品詞に属する。たとえば「ざあざあ」や「わんわん」「さらさら」など。擬声語とは物の音響、音声などをまねて作る語である。しかし、注意すべきは、擬声語はあくまで音をまねて作る語であることだ。つまり「ざあざあ」といっても、雨そのものの正確な描写ではなく、みんなも知っているはずのあの音、という了解のもとに作られているのである。いわば、「雨の音」という意味がたちあらわれるための基体として「ざあざあ」がある。擬声語はことばそのものの物質性を極めて純粋に示してくれる。
したがって、「つたつた」も、その物質性をもって我々に、郎女にせまってくる。読む者は、死者が庵の中を歩き回っているからぎくりとするのではなく、まず、その物質性に不意をつかれるのだ。
では、「つたつた」という物質的なことばからどういった意味がたちあらわれるのか。
死者がこの世によみがえるとき、死と生の間、つまり自然と人間存在の間に何かしらの橋渡しがおこなわれなければならない。折口はその介在する文化システムとして擬声語を使用したのではないだろうか。いや、「つたつた」という足音を発見したといった方がいいか。とにかく、死者はことばを伝って、ことばを踏みしめて近づいてきたのである。(そんなことを考えていると、先日出版された松浦寿輝の「折口信夫論」の中で同じようなことをいっていた。私の考えもそれほど突飛なことではなさそうだ)折口はその指先にもつ筆でことばという物質の上に死者を歩かせたのだ。そう、擬声語が死者の到来を確信させる。
郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦きが出て来た。
ことばの物質性に不意をつかれ、次いで、死者の到来を確信して戦きを覚える。わじわじと。もう折口の張ったディスクールから逃れられない。郎女も読む者も、そして折口自身も逃れられない。郎女の戦きは私の戦きか?
なも、阿弥陀ほとけ
戦きの中で郎女の唇から洩れた念仏。再び不意をつかれる。そう、ことばを伝って阿弥陀仏が救いにやってくる。郎女も読む者も折口も、そして滋賀津彦も・・・  
霊場めぐり
四国に生まれ育った者は、少なからず一度は八十八カ所の霊場めぐりをしたことがあるはずである。もちろん、八十八カ所すべてをまわったというのではなく、近所のお寺を参ると自然と霊場の幾つかをまわったことになるのだが。
四国高松に育った私も例に漏れず、香川から徳島、高知にかけての霊場にお参りをしたことがある。両親につれられて、車で日帰りできる範囲内のお寺をよくまわったものだ。
そんなあるとき、私は小学校低学年であったとおもうが、徳島のとあるお寺でのこと。朝から幾つかのお寺をまわり、少々疲れていた私がむずがったのだろう、両親は私を参内にある休憩所にあずけて、お参りにいってしまった。その休憩所ではお遍路姿の人たいが幾人か休んでおり、そのお遍路さんをもてなすお寺の人たちが忙しく働いていた。私はその風景の珍しさから最初ははしゃいでいたが、しかし、しばらくすると両親のいない不安から半べそをかいてしまった。
木製の長椅子に腰かけ、足をぶらぶらさせて、地面をみつめながら鼻をすする、そんな私をみて、一人のお遍路姿のおばさんが声をかけてきた。
「どうしたん?さみしいんか。さっきまで笑ろうとったのにのう。大丈夫やけにぃ、とうちゃんもかあちゃんもすぐ帰ってくるて。」
と言って、手にもっていたお札を私に渡しながら、
「ほれ、弘法大師さんもそばにいてくださってや、なんちゃじゃないで。」
えっ、弘法大師がそばにいる?私がそのおばさんの顔を見上げると、ニコニコ笑っていた。妙に心休まる思いがして、なんとなく弘法大師がそばにいてくれていることを素直に受け入れることができた。
四国八十八カ所巡りがいまだに続けられている根底には、人々の弘法大師信仰が深く根づいている。お遍路さんはいつも弘法大師と共にあることを意識しながら歩く。どんなに険しい山道であろうと、どんなにさみしい夜道であろうと、いつも弘法大師がついていてくれる、だから安心して次のお寺まで歩いていける。
お遍路道沿いに住む人々はそんなお遍路さんに対して敬意をはらう。少しずつではあるが訪れた人には施しをし、疲れていれば休憩の場を提供する。彼らはお遍路さんに敬意をしめすことで、弘法大師に対して敬意をしめしているのである。
なぜ、四国の人々はそうまでして弘法大師を敬うのであろうか。
四国の人々、特に讃岐平野の人々が伝える弘法大師伝説は、空海という人の多様な姿を今に伝えてくれる。彼はまず宗教家として、八十八カ所の霊場を開くことで、形いまだくらげなす土着の民間信仰を仏教的にソフィスケートした。つまり、土着の宗教に明確な仏教的形態を与えることで、それをよりわかりやすいものにして、救済の空間を切り開いていったのだ。わかりやすいから誰もが入っていける、そこに大きなポイントがある。
しかし、彼はやみくもに霊場を開いたわけではない。空海は鉱物学者として、霊場そのものが地下資源の宝庫であることをつきとめてもいた。事実、四国山地に開かれた霊場の多くには、鉱脈が走っており、周辺地域の大切な産業になった。
さらに空海は土木建築の技術者としても伝えられている。讃岐平野は元来雨が少なく、土地が広々と余っているわりに稲が育ちにくい環境であった。特に平野中西部は水もちが悪く、何度耕作しても思うように収穫できなかたらしい。そこで日本一大きい溜池、満濃池と用水路が整備されたわけだが、その工事を指導したのが空海だとされている。
ここに宗教的、精神的指導者としての空海だけではなく、人々の普段の生活をありのままにとらえ、その根源からすべてを救おうとする空海の姿がある。だから、弘法大師信仰を口にする人々には、空海がお寺のえらいお坊さんだから尊敬するという意識はない。今あるありのままをそのまま救ってくれる、生活する中で救いを示してくれる、そんな親しみある尊敬の念をもっている。あの時のおばさんの笑顔がそのことを物語っていた。
あの日以来、私のそばには弘法大師がいてくれている。しかし、そのことが本来意味すること、弘法大師信仰がもつ救済の意味に気づいたのは、この京都に来て、親鸞の思想に触れてからではあるが・・・  
まねゑもん
浮世之介は好き者である。自他とも認める好き者である。その浮世之介がある日思い立って、この際色道一切の奥儀を極めてみたいと考えた。そこで彼は誓願成就するよう笠森稲荷に祈願に出掛けた。
笠森山をようやくのぼりつめ、稲荷に祈願すると、仙女二人が現われて、浮世之介に仙薬を与えた。その仙薬飲み干せば、体みるみるうちに縮みゆき、浮世之介は豆男になってしまった。浮世之介これ幸い、その体で世の艶場をのぞいて色道修行にはげむことにした。
鈴木春信の春画本「風流艶色真似ゑもん」はこうしてはじまる。
春信は甘く上品な作風の美人画で知られており、私も知人に私信を送る際、その作風にあやかって彼の美人画の絵はがきを使用すること度々である。春信の甘く上品なイメージは、はじめてその春画を見たときにもかわらなかった。彼の春画は、他の春画作家に比べて誇張された性器やアクロバティックな体位が少なく、すっきりとした性表現がなされているように見える。最初のうち私は春信を淡白で技術屋的な絵師とイメージしていたのだ。
しかし、彼の春画の中に先の浮世之介こと「まねゑもん」の存在を見出したとき、そのイメージは大きくくつがえされてしまった。春画を見る者の覗き見の欲望をくすぐるような存在。それを具体化してしまう春信の想像力。甘く上品な中に倒錯した性表現がなにげなく介在する。浮世絵師は一筋縄ではいかない。
さて、当のまねゑもんであるが、これがなんとも愛らしく、すこぶるゆかいである。たとえば、床の上で男女がくんずほずれず盛り上がっているすぐそばで、おちょこをチャンチキチャンチキ鳴らして囃し立ててみたり。習字の師匠が弟子の子娘に手を出しているところを覗いては、なんて無惨な処女喪失なんだろうと嘆いてみたり。心中を誓った男女が最後のいとなみに精を出すところを見て、さかりの花を散らすがいたわしや、と二人の持ってきた脇差を隠してみたり。あらゆるシチュエーションで男女がフンフンフウフウハアハアスウスウアンアンモウモウソレソレセッセセッセズイズイズガズガヌルヌルチウチウジブジブハレハレヒイヒイ(おっとっと、やりすぎた)あれやこれやでからむそのそばで、チョコマカチョコマカ。屈託のない表情や素直な独り言に思わずふきだしてしまう。と同時に、こちらもまねゑもんの覗き見に参加してしまっている。その共犯意識が一層まねゑもんを身近なものにしてくれるのだ。
まねゑもん本人の姿に目を移してみよう。まず髷は軽くすっきりと本多髷。黄枯色あるいは鼠色で縦縞の着物に黒羽織をはおっている。腰には脇差や銀ギセル。うむ、この着こなしはかなりの通人であると見た。好き者を自称し遊びまわるだけのことはある。まねゑもんは春信本人がモデルであるとのことであるから、春信自身も相当の遊び人だったのではなかろうか。
江戸期、特に中期以降、医学の発達と共に性に関する知性と実践が格段に進んだといわれる。春画本などはその革新性を随時伝えるメディアであったし、その伸びやかな性表現は進歩のすさまじさを示すものだろう。その進歩を背後から支えた大衆文化のもつ視点というものを、実はこの「まねゑもん」がもっているのではと私は考える。まねゑもんの行動や言動をながめていると、どんなに醜い濡れ場であっても、どんなにまねゑもん自身がそのことを嘆いていようとも、なぜかそこには性そのものについての自虐やうしろめたさというものを感じることがない。どこかあっけらかんとしているのだ。恋愛であろうと強姦であろうと近親相姦であろうと政治的かけひきであろうと、そんなことは関係ない。性の実践あるのみ。すがすがしいほどの解放感を感じる。
江戸期の道徳として私たちはすぐさま儒教や道学を思い浮かべるが、実際はその影響は武士階級だけのもので、庶民にはほとんどおよばなかったという。徳川二百五十年の間、争乱らしい争乱がなく、武力の脅威を感じることなく暮らすことができた庶民の間で武士の倫理など重要な意味を持つわけがない。江戸庶民は性に明るさを求め、快楽を享有するだけの遊びや余裕を常に持ち続けていたのだ。そうした遊び心が春信の想像力を通してまねゑもんを生み出したといっても過言ではなかろう。
明治以降、庶民が日本国民になり、厳格な皇国道徳を植え付けられると、性に関する解放感は急速に失われていった。大正から現在にいたる性表現はどこまでいってもうしろめたさをともなっている。そう考えると、まねゑもんがチャンチキ笑っているところをうらやましく見ている自分がうらめしく思われてくるのである・・・  
銭湯
暖簾を片手ではらい、草履を下駄箱に放りこむ。21。木片でできた下駄箱の鍵に刻まれた数字。擦りガラスの入った木戸を開け番台に小銭をあずけて「こんちは」。重ねてある籐カゴを一つ取り、それを裏返して床に二度ほどがんがんとたたく。身につけているものはすべて取払い、カゴの中に重ねてロッカーに放りこむ。鍵についた輪ゴムを腕にくくって、いざ湯殿へ。
持ってきた洗面器の中には石鹸、シャンプー、リンス、歯磨きセット。髭剃りはもちろん番台で売っている百円のもの。タオルはできれば腰にまわして端と端のとどくものが良い。銀行、温泉などでもらったものならばなお良い。
足で腰掛けを引き寄せ、備え付けのシャワーで軽く洗ってから座る。ひとまず打ち湯。肩からかけて、背中、腰、脚に今から入るゾ、という信号を送る。さて湯槽へ。まず手で温度を確認しておいて、静かにかつ一気に肩まで湯につかる。
おおおおおうううう、ふううう。
手で顔を拭いながら、ぶるぶるぶる、ふうううう、あうう。ごくらくごくらくとオ。
背中を壁にもたれかけさせて、お湯を味わいに入る。少し熱めのお湯がシャキッと肌を刺激するが、まろやかな温かさがからだ全体を包み込む。毛穴という毛穴からお湯がしみ入るかのよう。時間と共に体液とお湯が対流しはじめたか。そうなるとどこまでが自分の身体かどこからがお湯か、もう判別つかない、いや、つけたくなくなる。ぐっと伸びをして、はっと弛緩する。身体が湯槽の中で完全に解放される瞬間。
ひるがえって壁に描かれた絵を味わう。やはり富士が良い。ときおり奥入瀬かどこかの渓流や、天の橋立などが描かれていることもあり、それはそれで趣きがあって良い。しかし、富士が描かれているのを見ると、やはりこれに優るものなし、と確認させられる。日本に住む多くの人々がその意識の中に共通して映し出す富士は、おそらく銭湯の壁絵をその原型としているのではないだろうか。
お湯からあがり、身体を洗う。東京下町あたりの銭湯では背中の流し合いをする習慣が今でも続いているとのことだが、こちら関西にはない。黙々と身体の隅々まで洗うのみ。湯殿での会話も少なく、ひたすら我身を昇華し解放することに精を出す。
頭のてっぺんから足の先まで洗い上げると、再び湯槽へ。今度は湯槽の縁に腰掛け、足だけをお湯につける。深呼吸して周りをながめる。水蒸気がたちこめて意識を朦朧とさせる。壁絵の富士やケロリンの黄色い洗面器の概形があいまいになり、消尽点があやふや。薄明の中に意識は崩れゆく。ぶっとんだわけではない。意識の輪郭がなくなったといおうか、なんといおうか。
カポーン。
洗面器の音に目覚め、今一度、湯槽に埋没。喉の乾きと共に身体を新たに取り戻す。瑞々しい身体感覚に意識も新たな立上りをみせる。首すじから目の裏側にかけて熱いものがこみ上げる。もう少しがまんがまん。
近所のじっちゃんが入ってきたのであいさつする。身体を洗う後ろ姿に遣い慣れた業物の風格が漂う。自分にあれだけの風格を出すことができるだろうか。
のぼせてしまう前にお湯からあがる。軽くタオルで身体の水気を取って脱衣場へ出る。ここちよい冷気にほっとする。大きな扇風機の風にあたりながら身体を拭く。しばらくパンツ一枚で呆けて立ちつくす。このときなぜか手は腰にある。
ひと心地ついたところで喉の乾きをうるおす。スポーツ飲料やウーロン茶、ビールなども良いが、ここは一つ牛乳でいこう。片手は腰に、一気に飲み干すのが基本。ぎんぎんぎんぎん。立ちくらみをこらえる。
身体の隅々までほかほかするのを味わうように椅子に腰掛ける。テレビをながめて時間をつぶした後、籐カゴを元の場所に重ねて「おおきに」。暖簾をくぐって返り道も幸せ幸せ。
銭湯は日本の庶民が生み育んだ最高の快楽装置である。人間の欲望を満たしてくれるものが溢れる最近においても、快楽装置としての魅力に一点の曇りもない。暖簾のむこうに日本人が追い求めた快楽の粋がある・・・  
風流
たとえば、ふらりと旅に出たくなるとしよう。忙しく息詰まる毎日に突然そう欲するのだ。
で、どこか名も知らぬ谷間の町に途中下車する。そして、桃山時代の城跡なんかが残る山頂に登って、こう吟じてみたりする。
ー旅に病で夢は枯野をかけめぐるー
「いやはや風流ですな」。そんな声が聞こえてきそうである。
風流。そう聞くと誰もが旅に病んだ芭蕉のような心持ちになるだろう。芭蕉ほど風流をおのれの生きざまに体現したものはないだろう。まさに風流はそうした芭蕉のような心を意味する。
けれども、実際に「風流とはなんぞや」と問われれば、どう答えよう。九鬼周造は「風流に関する一考察」で次のように述べている。
「・・・(前略)風流とは自然美を基調とする耽美的体験を「風」と「流」の社会形態との関連において積極的に生きる人間実存にほかならぬ(後略)」
堅苦しい言い回しであるが、風流をこれほどすっきりと概念化したものはない。この内容を開いてやると次のようになる。
風流とは、まず世俗因習、名利からの離脱をしめす。つまり風の流れのごとく何ら束縛がない様をいう。九鬼はそこに日常性の否定を読み取る。
しかし、風流はそうしたアンチテーゼの側面だけではない。
日常性の脱したところに美的な充実がある。ヘタな俳句でもひねってみたくなるのもこのせいである。耽美的体験の根本は世俗のしがらみを越えたところに存するのである。
そこで重要な意味をもってくるのが自然ということである。
九鬼は風流ということの根本に自然というものが離俗と耽美的体験を総合するように横たわっていることをみてとっている。
自然の美に触れたときの素直な心の動きなしには風流とはいえない。「風流のまことを鳴くや時鳥」なのだ。俗世をはなれ、自然の美に「ああ、はれ」と心が動くとき、その裏で芸術は胎動している。
又、「ああ、はれ」と心の動くその様を自覚したとき、風流はすでに人生の美を体験内容として包蔵している。「色ふかき君がこころの花ちりて身にしむ風の流れとぞみし」。自然と人生が織り込まれた短歌は風流を十二分に表現してくれる。
ところが、ここで問題となるのが、「風」と「流」へと積極的に関わって生きるということの意味である。非常に難しいが、九鬼はこう考えているといえる。
世俗を離れ、美の充実に精進するのは良いが、ただそれは時間とともに習慣化・形式化していく。たとえば新しい芸能・芸術が次第に談林風、蕉風、千家流などなどと呼ばれていくことが良い例である。九鬼はどんなに高尚で自由な発想でも、時間が経てば形骸化する現実をしっかりと見据えているのである。
とすれば、そうした習慣化、形式化したものと積極的に関わっていくことは、結局世俗化を意味することと変わらないのではないだろうか。
「風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって「風の流れ」の高邁不羈を性格としている。ただしその破壊性は内面的破壊性を意味しているのであって、社会的勤労組織との外面的形式断絶を意味するのではない。かえって社会的勤労組織そのものの中に自然的自在人を実践することこそ現代的には真の風流であるといえよう」
都市生活を全うせよ、自由に生きよ。G・ドウルーズが70年代、都市的ノマドの生き方を提唱するのに先駆けること30年。九鬼ははるかに現代的な提言をしていたのである。
いや、九鬼よりももっと以前に同じようなことを考えた男がいる。風来山人・平賀源内。あの「えれきてる」の発明者である。芭蕉以後の庶民文化を花開かせた源内には、遊行の伝統は流れこんでいない。だからこう言ってのけてしまう。
「すみやかに世を逃がるべし。ただ山林に隠るばかりを隠るとはいふべからず。大隠は市中にあり」
江戸という都市が爛熟を迎えようとしている時代、村共同体とは違う生き方が自分たちには可能であるという強烈な自覚がうかがえる。矛盾ともいえそうな茶目っけは都市生活者の特徴である。
九鬼もそうした源内の言葉を引いて、身体を吹抜ける風の流れに言及している。
「上に在つては呼吸、下に在つては屁と名づく、是れ体中気の出るなり」
人前で屁をひねるもこれまた風流、というお話・・・  
うどん
さぬき生まれの者が京に上ってびっくりした。
日本全国麺どころといわれるところがある。蕎麦は江戸に信濃。山陰あたりも隠された蕎麦どころ。そして、うどんはさぬきに上方。
今回は「うどん」の話である。
しかし、うどんはうどんでも、さぬきと上方、特に京風とではかなり違う。
さて、京に上ってはじめてその京風うどんを食べたとき、私は軽いカルチャーショックを受けた。まず見た目にうどんが細い。だしの色も濃い様子。香りは濃密に自己主張している。
箸ですくう。一回すくうごとに数本そのまま切れてしまう。ちゅるちゅるとすすると口中の感触がかなりやわらかい。すぐに粉々になる。しかし細いわりにしっかりとだしの味がまとわりついている。ためしにだしを一口すすると色同様、甘くて濃い。
京風のうどんはそうたくさん欲しいと思わない。少しでよい。一食うどんですませるといったものではなく、昼下がりあるいは夜更けに小腹のすいたとき、一口の味覚を楽しむ類のものである。
幼少よりさぬきに育った者にとって、そうした感覚のうどんがあることに驚きを覚えた。なんともひかえめな食べ物よ。千年の都市は舌にのる小さな味覚に垢抜けた楽しみを見いだしたのだ。
しかし、私は身体の欲動に直接訴えかけるさぬきうどんの方に多大なるエロスを感じてしまう。
さぬきのかけうどん。麺は太く、だしの色は極薄い。香りもさらりとさわやかである。箸ですくうと、うどんのねじれが重力に反発する。コシの強さがうかがえる。なるべくたくさんのうどんをすくって、一気に口内に。ずごおおおおお。口の中はうどんの弾力でだよんだよんになっている。そのままほとんどかまずに、喉ごしを楽しみながら飲みこむ。食道から胃袋へとうどんの形をあまり損なうことなく落ちていくのがわかる。身体を内側からなでられている感覚。
それは空っぽの胃袋にうどんが落ちていくたびに得られる、うどんと私とのエロティックな合一。うどんが私の中で欲望に火をつける。だからもっとほしい・・・
さぬきではうどんで一食すませてしまおうとするため、うどん玉も二玉、三玉と一度にたくさん食べる。したがってだしは薄味で極力甘みを抑えてある。後味さっぱり。主役はあくまでうどん玉なのだ。
うどん屋に入ってからの身体的所作も京風とさぬきでは大きな差異がある。京風を静とすればさぬきは動。京都でうどん屋に入ると、身体の一連の動きは次のようになろう。
籐か竹で編んだ椅子に座ると、まずお品書きに目を通す。ここでお茶が出てくるまでに注文を決めておく。注文をすませれば後はお茶をすすって新聞かなにかを読む。うどんが出されると、好みに応じて七味か一味を入れて、いただきます。食べ終わると、またお茶をすすって少し時間をつぶす。そして、おもむろに勘定を払って店を出る。
ここまでの所作が非常に静かにおこなわれる。つまり客は席について注文すれば事足りる。静かに少ない所作で濃密な味覚を感じることができるのだ。しかし、それでは普通の飲食店と変わらんじゃないかと思われるかもしれない。そう、京都のうどん屋では、一般の丼物定食屋同様、注文のあとは己の味覚をとぎすましていればよいのである。
それに比べ、さぬきのうどん屋、特に観光用のうどん屋ではなく、生活者用のそれは非常にダイナミズムに溢れている。
店に入るとまず入口横でどんぶりをもらう。うどん玉を欲しい分だけ取ると、金ざるに入れて自分で湯通し。一分強でよい。うどんをどんぶりにあげたら、だしをかける。あとはお好みで油揚げ、てんぷら、山菜、たまごなどなどをのせてねぎをぱらぱら振って、できあがり。それをもって支払を。で、いただきます。
いわばほとんどセルフサービスなのだ。おそらく店の人件費にもかかわるシステムなのだろう。おおよそ一杯二百円で食べられる。
しかし、そうしたシステムがさぬきうどんにまつわる身体的所作をよりダイナミックにする。店に入ってから出てくるまで、さぬきうどんは身体全体で食べるのである。
さて、江戸では蕎麦で一杯やるのが通。陽の傾いた時分になると街の通たちが蕎麦屋にやってきて、蕎麦をたぐりながら徳利を二〜三本開けるのだそうだ。いきだねえ。
うどん屋にそれは似合わない。さぬきのうどん屋にはほとんど酒が置かれていない。杉浦日向子女史のいうところでは、香川県は全国一の下戸県。酒の消費量が極端に少ないそうである。
少し考えればその理由もわからぬでもない。ダイナミックな身体的所作をともなうさぬきうどんは、相当官能的なものだ。うどんを食べるだけで酔うことが可能なのである。その白い快楽装置があれば酒を飲む必然性はない。だからなのだろうか、さぬきのうどん屋は日没頃には閉まってしまう。
宝花千万種にして弥く池と流と泉を覆ふ
微風、花葉を動かすに交錯して光乱れ転く
宮殿のもろもろの楼閣は十万を観るにさわりなく雑樹には異る光色あり(往生要集)
陽の光に白い酩酊。白昼夢はうどん粉の風の中。我、快楽を求むること尽きなし・・・  
川の流れ
公事に忙殺される毎日、ある日、一日だけぽっかりと何もない日ができた。空は春霞にもやり、ふわふわした陽射しがそこかしこをくすぐる。
春眠暁ヲ覚エズ、とはいうものの、何とはなくもったいないここちもする。朝食もそこそこに家を出た。
鞍馬口通をまっすぐ歩き、加茂川に出る。ベンチに腰掛けて、未だはっきりと目覚めぬ心と身体を覚醒させるのにつとめる。
川の流れはゆるやかで行儀よい。何度となく河川工事を施しているとはいえ、目の前の川はおそらくいにしえより同じように流れているのだろう。見上げると大文字が川を見下ろしている。
ふいに川面を渡る風が意識を刺激し、その瞬間考えがまとまった。よし、宇治川まで出よう。
出町柳で京阪電車に乗り中書島へ。宇治線に乗り換えてすぐ一つ目の観月橋で降りる。目の前に宇治川の河川敷が広がる。
現在、国道24号線を渡す観月橋は上下に分かれる大きな鉄橋である。普段の交通量を考えればその無粋な姿はいたしかたがないのかもしれないが、見るたびにいつも味気なさに心くもる思いがする。
橋の上から川をのぞく。水量が多く、流れも速い。加茂川と違ってかなり行儀が悪い。あちこちで渦を巻き、一本の川の中に幾種類もの流れが無秩序に編みこまれている。それは一定の形をとることなく、荒ぶる川の力がそのまま脈打つよう。
与謝蕪村はその様子を「澱河歌」の中に詠む。
春水梅花ヲ浮カベ
南流シテ菟ハ澱ニ合ス
錦纜君解クコト勿レ
急瀬舟電ノ如シ
春ぬるむ川の水に梅の花を浮かべ、宇治川は南に下りそのまま淀川へと合流していく。そこでは舟のともづなをしっかり結わえておかなくてはならない。
なぜなら舟はいなずまのごとく急流に流されてしまうから。
蕪村は宇治川の荒ぶる流れをいなずまのごとくととらえた。
少なくとも宇治川の流れも江戸中期から現在までそう変わらないのだろう。今見る川の流れに蕪村の視線を遠く想う。
しかし、なぜ舟なのだろう。
菟水澱水ニ合シ
交流一身ノ如シ
舟中願ハクハ寝ヲ同ニシ
長ク浪花ノ人ト為ラン
伏見あたりの妓楼の女が浪花へ帰る男を見送っているのだろうか。宇治川の河川敷に降りて下流の方をながめやると、その情景を想像するのに易い。辺りに切り立つような山谷がなく、長くのびた堤も低くなだらかだ。
昔は今よりももっと見晴らしがきいただろうから、かなり遠くまで舟の行方を追えたのではないか。
いなずまのごとく流れる水流ではあっという間に舟は女のもとから離れていくにちがいない。
しかも遠くにいつまでも舟の姿を見ることができる。自分も同じ舟に乗り、浪花にあなたと一緒にいきたい。その思いはつのる。
河川敷のグランドで草野球をしているのをながめながら、地べたに座りこむ。川を渡る風は少し強いが、よくこなれていてあたたかくやさしい。
君は水上の梅のごとし
花水に浮で去こと急カ也
妾は江頭の柳のごとし
影水に沈で
したがふことあたはず
水上をすべっていく梅花と水面に映る柳。対句には蕪村の諦念にも似た画家としてのまなざしを感じる。そして、どこか慎みさえ覚える。なぜか。
蕪村は「澱河歌」の中で宇治川が淀川へと合流していくさまを二度繰り返して詠む。安東次男氏の指摘によると、そのさまを蕪村はかなりエロティックなさまとしてとらえていたという。
荒ぶる宇治川を男とすると、たおやかに流れる淀川は女である。すると大山崎、橋本あたりが女性の陰部にあたろうか。
若竹や
橋本の遊女ありやなし
とにかく、蕪村は川の流れを男女の情が幾重にも織りなす流れとして見ている。だから下手をすると乱流に飲みこまれ、いなずまのごとく流されてしまう。
情に流されてはいけない。舟のともづなを結わえるように慎みをもたねばならない。蕪村はそういっているのではなかろうか。
「澱河歌」は蕪村六十才を越えてからの作といわれる。老境に立ってなお恋の熱情を慎む歌を詠むとは、蕪村という人はかなりの色好きな爺さんだったといえる。事実、晩年小糸という小妓といい関係にあったとか。蕪村的文人趣味は色も含んでいなければならぬ。
うつらうつらと河川敷で春の陽を浴びながらそんなことを考えていると、ふいに恋をしたくなった。そういえばここ数年情の結ばれることなく過ごしてきた。うん、ここは一つ・・・  
日本の曖昧力
著者は「スカートの風」シリーズで一躍日本で有名になったが、その反動として母国韓国では、国賊扱いという理不尽な仕打ちを受け、日本国籍を取得したことで肉親の葬式に帰国できたというエピソードを持つ。希代の親日派・知日派である。
現在拓殖大学の教授をしているが、本書は同大学国際学部で、(留学生保含む)学生に「日本の歴史と文化」という講座を理解して貰いたいという希望で開いた講演集を「歴史街道」(PHP研究所)に大幅加筆して連載したものである。
聴講者は、初年度か予想の50名を遙かに超え、つには300名にも達し、翌年には500名にたというのだから、いかに学生が、こうした当然知るべき知識に飢えていたかがよくわかる。
本来は日本人の教師が行なって然るべきだが、なにしろ女史は、それまでの著書を通じて、ネイティヴな日本人以上に日本を理解していることで定評がある。
かえって身贔屓を排した外からの視点からの洞察が、聴講する学生たち、特に留学生にとって大きなインパクトを与えたことは疑いの余地なく大きく評価すべきだろう。特に韓・中留学生にとっては、女史の貴重な体験からのアドヴァイスほど有益なものはないであろう。
いずれも反日的な偏向教育を受けて来日し、最初は実際に親切な日本人と接してカルチャーショックを受けるが、しばらくするとどこか他人行儀でよそよそしい感じを受けた時点で、帰国するため、かえって反日感情が強くなるケースが多いという。
女史はもう少し日本を、そして日本人と付き合ってみて、真の日本人をよく認識することを提唱し、その助となるテーマをを本講座の中心に置いている。
女史は「日本の歴史と文化」は、「日本文化の起源は縄文時代にあった!?」として、そこに「神と大地と人間でもって構成され、他には絶対に見られぬアニミズム的な世界観の継続を指摘し、そこにこそ「世界が見習うべき日本文化の未来性」があるのだと明言していることがなによりもうれしい。
また日本神話から、北方系の天より「垂直的降臨」と、海から生まれて海に死に、且つ再生を続けるという、南方由来の「水平的降臨」の存在を指摘、双方民族の複合体が日本人の構成だと指摘していることも大いに参考になった。
今後私の「縄文×弥生=ハイブリッド日本人説」を補完し、強固にするものとして、ちゃっかり援用させて貰うつもりである。
各章での詳細は避けるが、最終章「天皇はいかにして日本社会に平等をもたらしたのか」が圧巻である。その中でも「「工」と「商」は天皇の領域だった」という説は私にとっても初めての知識で、説得力を持つ。
外国の皇帝と違って日本の天皇には、古来政治的な統治でなく、農業神を含めあらゆる神々の祭祀を司さどると言うという精神艇根幹であったことことから、農耕民のみの頭領であった武家からの敬愛され続けてきたことを強調している。 
 
武士道

 

日本において共生した神道・仏教・儒教の三宗教は、武士道の中で合体を果たした。
武士道とは何か。
「日本に武士道あり」と世界に広く示した新渡戸稲造によれば、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華、それが武士道である。日本史の本棚の中に収められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない。それは今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きた対象である。それは手にふれる姿や形は持たないが、道徳的雰囲気の薫りを放ち、今も私たちを引きつけてやまない存在なのだ。
新渡戸稲造は、言うまでもなく名著『武士道』の著者である。明治三二年(一八九九年)に刊行された英文『武士道』が、その直後の日本のめざましい歴史的活躍を通して、いかに見事にその卓見を実証していったか、今では想像もできないほどのものだった。ことに、義和団の乱、日清戦争、日露戦争における正々堂々たる戦いぶりと、敗者への慈悲を通して。そして、自らの潔い死があった。
こうしたふるまいは、すべて、極東の未知の小国における、他のどこにもない「ブシドー」という生き方の極みのフォルムによるものであると知って、世界は熱狂したのである。
武士道とは封建制度の所産であるが、その母である封建制度よりも永く生き延びて、「人の道」をありようを照らし続けた。『資本論』を書いたカール・マルクスは、生きた封建制の社会的、政治的諸制度は当時の日本においてのみ見ることができるとして、読者にその研究の利点を呼びかけた。これにならって、新渡戸は、西洋の歴史および倫理の研究者が日本における武士道の研究にもっと意を払うことをすすめている。
日本に武士道があるように、ヨーロッパには騎士道がある。新渡戸が大まかに「武士道(シバルリー)」と表現した日本語は、その語源において「騎士道(ホースマンシップ)」よりももっと多くの意味合いを持っている。ブ・シ・ドウとは、その文字を見れば、武・士・道である。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味しているのである。新渡戸は、武士道とは一言でいえば「騎士道の規律」、武士階級の「高い身分に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)」であると、海外の人々に説明している。
新渡戸の『武士道』は、今日に至るまで多くの日本人に影響を与え、かつ世界中の人々に「武士道」のイメージを植え付けた。日露戦争後にポーツマス条約の仲介をしたアメリカ第二六代大統領セオドア・ルーズベルトは、この本に大きな感銘を受け、三〇冊も取り寄せたことで知られる。彼は、五人のわが子に一冊ずつ渡したという。さらに残りの二五冊は大臣や上下両院の議員などに分配し、「これを読め。日本武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである」と言ったという。
しかし、一方で新渡戸『武士道』こそが、武士道概念を混乱させてきたという見方もある。新渡戸の語る武士道精神なるものが、武士の思想とは本質的に何の関係もないというのである。そういった批判は、『武士道』の日本版が刊行された直後に、すでに歴史学者の津田左右吉によってなされている。専門に研究する人々の間では、新渡戸の論が文献的にも歴史的にも武士の実態に根ざしていないというのが定説になっているという。
倫理学者の菅野覚明氏は、著書『武士道の逆襲』でこう述べている。
「新渡戸武士道は、明治国家体制を根拠として生まれた、近代思想である。それは、大日本帝国臣民を近代文明の担い手たらしめるために作為された、国民道徳思想の一つである」
そもそも、「武士道」という言葉が一般に広く知られるようになったのは、明治も半ばを過ぎた頃からであるという。特に、日清・日露という対外戦争と相前後して、軍人や言論界の中から、盛んに「武士道」の復興を叫ぶ議論が登場してくる。武士はすでになく、自らも武士でないにもかかわらず、自分たちの思想は武士道であると主張する者たちが、ひきも切らずに現れてくるのだ。いわゆる「明治武士道」である。
徳川幕府を倒して権力を握った明治政府の指導者たちは、自分たちの倒幕を正当化するため、意図的に江戸時代を「暗黒時代」と見る歴史教育を行った。そこでは、幕府の支配のもと、刀を指した武士だけが威張って暮らし、農民や町民は武力で脅され、抑圧されて暮らしてきたとされた。また、武士たちは「武士道」という時代錯誤の意地によって、些細なことで怒って刀を抜き、斬り合いをしたり、庶民を無礼射ちにした。さらに、切腹や仇討ちといった血なまぐさいことを、武士たちは日常的にやっていた。ところが明治維新によって、事態は一変した。士農工商の身分制度は廃止され、みな平等になった。また、武士から刀を取り上げ、切腹や仇討ちも禁止することによって、日本は大きく進歩したのである。
以上のようなイデオローグを明治政府は国民に与えたのである。しかし、真実は違う。徳川幕府は庶民を第一に考えた政治を行い、勝手に刀を抜いて刃傷沙汰を起こした武士は重い罰を受けたのだ。武士道が最も重んじる「義」にために吉良上野介を討ち、その名も「義士」と庶民から讃えられた四七人の赤穂浪士が切腹を命じられたのが好例である。
しかしその後、明治政府は一転して、武士道の復興を必要としたのである。明治六年(一八七三年)、徴兵令が布告され、国民が兵士となって日本の武力を担うことになった。
明治七年に佐賀の乱、明治一〇年に西南戦争が起こり、旧武士による反乱軍は「百姓兵」と嘲(あざけ)られた国家の軍隊に完敗した。戦闘のプロフェッナルとしての武士は名実ともに滅び去り、「軍人精神」と呼ばれるものが「武士道」に代わって登場し、新たに近代における戦闘者の思想を形づくることになるのである。その思想の基本を確立したのが、明治一五年に発布された「軍人勅諭」である。
だが明治の「軍人精神」には不安があった。
新政府の軍隊とは、つまるところ諸藩の連合軍である。連合であるからには一時的な雑軍にすぎず、情勢によって離合集散もありうるという不安があったのだ。事実、戊辰戦争の官軍は、西南戦争では二つに分裂して敵対したわけである。菅野氏は述べる。
「国家の軍隊を一つのものとみなす発想がないということは、それがいつ分裂しても不思議ではないという観念が行きわたっていることでもある。実際、肝心の新政府軍の軍人たち自身が、軍隊の分裂はありうることと考え、神経を尖らせていたのである。そうした不安が衝撃的な形で現実となったのが、明治十一年に起こった近衛砲兵隊の反乱事件(竹橋事件)である」
そして、国家の軍隊は、「天朝さまに御味方する」諸藩の連合軍すなわち「官軍」であってはならないという発想が生まれた。それは、天皇自身が「大元帥」として統率する帝国軍隊すなわち「皇軍」でなければならないのだ。国家の軍隊としての統制原理を一個の人格たる天皇に置いた瞬間、わが国初の近代的軍隊、「皇軍」が成立したのである。
新しい国家の軍隊の統制を支えるために、西周や山県有朋らはその精神原理として、かつての武士が持っていた「忠」に目をつけ、それを欲しがった。武士にとっての「忠」は、命に代えても貫くほどの強烈さを持っている。
城山に立てこもった西郷軍には、死をともにする「士心合一」があったが、それも武士ならではの「忠」の精神に支えられていた。しかし、武士の「忠」は私的主従関係としての御家意識と切り離せず、国家の軍隊のような一種の「メカニズム」の中では発動できない。
天皇に対する忠誠心を真実のものとするために、西周は「日本人」「民族」そして「大和心」というコンセプトを打ち出した。徳川や島津といった武士団、さらには武士という「階級」は、「日本人」という「民族」の中に含まれた一部であるとされる。武士の精神とみなされていた「武士道」もまた、民族全体の精神である「大和心」の一部とみなされるわけである。
もともと西は、「哲学」や「宗教」をはじめ数多くの海外概念を翻訳したコンセプトの天才であった。その彼が、武士道の「忠」に代わる、大和心の「忠」を示したとき、軍人精神の原理である『軍人勅諭』の基本的な枠組みはほぼ完成したと菅野氏は述べている。それはまた、武士の武士道に代わる、民族の武士道、すなわち「明治武士道」の誕生した瞬間でもあったのである。
それは、菅野氏によれば、戦闘することによって「私」が実現され、主君や共同体との結びつき、道徳も戦闘の中から生まれるという、武士という存在の根幹にかかわる部分を排除したものだ。いわば武士道の断片であり、残滓(ざんし)であるにすぎないが、明治以来今日に至るまで、人々が武士道の名で親しんできたのは、他でもないこの「明治武士道」だったのである。
典型的な明治武士道には、新渡戸稲造、内村鑑三、植村正久などのキリスト教徒によるものと、井上哲次郎のような国家主義者によるものがあるとされる。数の上では国家主義的なものが圧倒的に多い。この流れは昭和に至るまでの武士道思想を形づくってきたが、敗戦とともに忘れ去られた。逆に、少数派であった新渡戸『武士道』のみが今日まで生き残っているのである。
多くの研究者たちが指摘するように、欧米列強に伍する近代国家を創る目的を持った明治武士道の産物である新渡戸『武士道』が、武士の本当の実態を記していないとしても、やはり思想としての「武士道」を考察した名著であることに変わりはない。特に、武士道の起源に関する新渡戸の視点は鋭い。
平安時代中頃から鎌倉時代初頭に武士という新興階級が起こり、封建制が形成されていった。このような時代に、武士道もつくられていった。もともと「兵(つわもの)の道」「弓矢の道」「弓馬の道」などと呼ばれており、「武士道」という言葉が使われ始めるのは江戸時代の初頭である。それは、初めは戦闘の場における心がけを中心とする掟であったが、次第に神道、仏教、儒教と深く関わる形でつくられていったという。
ヨーロッパの騎士道がキリスト教から生まれたことと同じように、武士道も宗教によって育まれたのである。しかし、それは単一の宗教ではなく、神道、仏教、儒教の三宗教によるものであると新渡戸は言うのだ。この、武士道の中に神仏儒の三宗教が入り込んでいることを指敵したことこそ、新渡戸『武士道』の最大の功績ではないだろうか。かつて森鴎外はヨーロッパの地で「日本人の信仰する宗教は何か」と尋ねられたとき、「それは武士道である」と返答したという。鴎外もまた、武士道の正体が神仏儒の混淆宗教であることを見抜いていたのだ。
『武士道』の第二章では、日本の宗教と武士道との関わり合いが述べられている。まず仏教からである。新渡戸は述べる。
「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした(奈良本辰也訳)」
仏教の中でも、武士は特に禅を学んだ。禅は、鎌倉時代の末期に栄西が宋から日本に伝えたものである。以来、室町、戦国、江戸、明治維新と、禅は武家社会に大きな影響を与えてきた。そして特定の禅僧と武士の間に師弟関係なるものができて、武士の軍略や治世、生き方を決定づけることになったのである。
代表的な例としては、源実朝と栄西、北条泰時と明恵、北条時頼と普寧・道元・聖一、北条時宗と無学祖元、楠正成と明極楚俊、足利尊氏と夢窓疎石、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と益翁宗謙、伊達政宗と東嶽、前田利家と大透などが挙げられる。江戸時代になると宮本武蔵や柳生但馬守と沢庵の関係が有名だが、武家社会は盤珪、鈴木正三、白隠、東嶺などにも多大な尊敬の念を示し、武士がこれらの禅僧を慕って教えを乞うた。さらに幕末から明治維新にかけては、西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟など回天の役割を果たした武士も禅を究めたとされる。
武士は禅僧から何を学んだのか。人には、「いったい何のために生きているのか」と、ふと感じるときがある。禅は、言葉でそれに答えることないが、内なる「智恵」を導き出してくれる。
現代の禅僧を代表する玄侑宗久氏は著書『禅的生活』で、たった今、私たちが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間であると述べている。日常の中でこそ「お悟り」で得られた「絶対的一者」が活かされなくてはならない。過去の自分はすべて今という瞬間に展かれている。そして未来に何の貸しもない。そのことを心底胎にすえて生きれば、いつどこで死んでもいいという覚悟になる。「人間、到る処青山あり」の青山とは「死んでもいいと思える場所」のことなのである。鎌倉以降、武士たちの心をとらえた禅の魅力は、おそらくこの辺りにあると玄侑氏は推測する。
仏教の次は、神道である。新渡戸は述べる。
「仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。他のいかなる信条によっても教わることのなかった主君に対する忠誠、先祖の崇敬、さらに孝心などが神道の教義によって教えられた。そのため、サムライの傲岸な性格に忍耐心がつけ加えられたのである(奈良本辰也訳)」
しかし、本書を読んできた読者ならば、神道に教義にないことはよく知っているだろう。主君への忠誠、先祖への崇敬、そして孝心などは、むしろ儒教である。中世以来、神道は教義らしきものの多くを儒教から借りたことを、図らずも新渡戸は明らかにしているのだ。
新渡戸はさらに神道について述べる。ギリシャ人は礼拝のとき、目を天に向ける。そのとき彼らの祈りは凝視することによって成り立つ。ローマ人はその祈りが内省的であるために頭をヴェールで覆う。そして日本人の内省は、ローマ人の宗教に対する考え方のように、本質的に個人の道徳意識よりも、むしろ民族的な意識を表すこととなった。
神道の自然崇拝は、国土というものを私たちにとって心の奥底から愛おしく思われるような存在にした。また神道の祖先崇拝は、次から次へと系譜をたどることによって、ついには天皇家を民族全体の源としたのである。
新渡戸は述べる。
「私たちにとって国土とは金を採掘したり、穀物を収穫したりする土壌以上のものである。そこは神々、すなわち私たちの祖先の霊の神聖なすみかである。私たちにとって天皇とは、単に夜警国家の長、あるいは文化国家のパトロン以上の存在である。天皇は、その身に天の力と慈悲を帯びるとともに、地上における肉体をもった、天上の神の代理人なのである(奈良本辰也訳)」
ここに明治武士道の精神を見事に見ることができるだろう。天上の神の代理人としての天皇をいただいた日本は、急速に近代国家を
つくり、日清・日露の対外戦争を勝ち抜いていったのである。
そして新渡戸は、神道が日本人の感情生活を支配している二つの特徴をあわせ持っていると述べる。すなわち、愛国心と忠誠心である。ヘブライ文学においては作者の述べていることが、神のことか、国家のことか、天国のことか、エルサレムのことか、はたまたメシアか、その民族そのものか、それらのいずれを語っているのか、しばしば判断に困ることがある。これとよく似た混乱がわが国民の信仰を「神道」と名づけたことに起きていると新渡戸は言う。神道はその用語のあいまいさゆえに、論理的な思考を持った人から見れば、混乱していると考えられるに違いないというのだ。その上に、民族的本能や種族の感情の枠組としては、神道が必ずしも体系的な哲学や合理的な教学を必要としていないことを指摘する。
神道は武士道に対して、主君への忠誠心と愛国心を徹底的に吹きこんだ。これらのものは教義というより、その推進力として作用した。というのは、中世のキリスト教の教会とは異なり、神道はその信者にほとんど何も信仰上の約束事を規定しなかったからである。その代わりに行為の基準となる形式を、儒教によって与えたのだ。新渡戸は述べる。
「厳密にいうと、道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった。孔子が述べた五つの倫理的な関係、すなわち、君臣(治める者と治められる者)、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係は、彼の書物が中国からもたらされるはるか以前から、日本人の本能が認知していたことの確認にすぎない。冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳の格言の数々は、支配階級であった武士にとって特にふさわしいものであった。孔子の貴族的かつ保守的な語調は、これらの武人統治者に不可欠のものとして適合した(奈良本辰也訳)」  
孔子に次いで孟子が武士道に大きな影響を与えた。孟子の力のこもった、ときにははなはだしく人民主権的な理論は、思いやりのある人々にはことのほか好まれたのである。そのため、彼の理論は既存の社会秩序にとっては破壊的で危険とされ、『孟子』は永く禁書とされていたのである。それにもかかわらず、孟子の言葉は武士の心の中に永遠のすみかを見出していった。
正確には、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えて、武士道は行動哲学となったのである。
そして、これらの道徳律の集大成として、「誠」の徳が最高の位置にすえられた。現在では「誠実」という意味にとられる「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。武州・三多摩の農民あがりの新撰組(しんせんぐみ)は、「誠をつらぬく者」としての真の武士とならんがために「誠」をその旗印に掲げたのである。
このように武士道とは儒教のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。
三浦梅園は、実際に役立つまでは何度も煮る必要のある臭いの強い野菜に学問を例えている。また梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。
知性そのものは道徳的感情に従うものと考えられたのである武士道は知識のための知識を軽視した知識は本来、目的ではなく、智恵を得る手段であるとした。したがってこの目的に到達することをやめた者は、求めに応じて詩歌や格言を生み出す便利な機械以上のものではないとされた。知的専門家は機械同然だったのである。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。新渡戸稲造によれば、神道の単純な教説に言い表されているように、日本人の心は王陽明の教えを受け入れるために、特に開かれていたという。
陽明が、人間性の根本に「良知」というものを考えたことは、単なる学説としてみれば
一つの理論にすぎない。しかし、この理論は「知行合一でなければならない」という信念に支えられている。そして、その信念が時代の要求に応じて武士の生き方を規定していったのである。
新渡戸『武士道』を英文から翻訳した歴史学者の奈良本辰也によれば、近世封建社会は、それが朱子学を採用したことによって、著しく無宗教的になっていたという。わが国の思想や宗教のあり方を永く規定してきたのは、言うまでもなく仏教であった。人々は仏の教えに導かれて生き、そしてその安心を得て死んだのである。その生活が厳しければ厳しいほど、彼らは仏の教えに従った。
しかし、朱子学はこの仏教に対して激しい敵意を抱き、人倫を乱すものとして攻撃した。つまり仏教が、現世を仮の世と説くことによって、現実の社会関係や道徳観念を相対化するというのである。林羅山によれば、仏教は「山河大地を以て仮となし、人倫を幻妄(げんもう)となす」ゆえに不可であり、拒否さるべきなのである。
仏教をより深いところから考えた中江藤樹でさえ、「仏教は無欲無為清浄の位を悟りの位にしているが、これは本体と現象の関係を理解しないで、現象面からのみ、人間の行動を規制していっているから十分でない」と述べている。ここでも、仏教というものは大きな意味を与えられておらず、代って儒教が精神的権威とならなければならないのである。奈良本辰也は、著書『武士道の系譜』に次のように書いている。
「だが、儒教という現実的な道徳学は、人間の心をその内面的な絶対の位置においてとらえることができるであろうか。ということは、そのために死に、そのために生きる絶対的なものを、人間の心のなかに定着することができたであろうか。朱子学的な合理主義では、それは困難であったと言うよりほかはない。なぜならば、その合理主義は生の側面においては一貫したものを持つことができようが、死という問題については人々を安心させる説明を持ち得なかったのである。簡単に言うならば、死は非常理なのだ。合理的説明ではとらえることのできない非合理性をもっている」
陽明学が、きわめて精神的なものを持つ理由もそこにあった。もともと武士道なるものは、その人間の生死の関わるところに生まれてきたのである。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だが、大道寺友山(だいどうじゆうざん)の『武道初心集』の冒頭にも、「武士たらむものは正月元日の朝、雑煮の餅を祝ふとて箸を取初るより其年の大晦日の夕べに至るまで、日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」とある。
いま、その死が後背に退いたといっても、自分を律する規範がそこで霞むようなことがあってはならない。宗教的な信念によるものでなければ、自分の心による絶対的な判断力なのだ。陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。生死をかけて武士の道を教える方法が、時代とともに古くなるにつれて、それに代るものとしての陽明学は精神至上主義を強めていったのである。
明治維新のキーマンとなった吉田松陰は陽明学を学び、高杉晋作や久坂玄端といった弟子に授けた。維新のスイッチャーとなった西郷隆盛も陽明学の徒であった。近年、「ラスト・サムライ」なるハリウッド映画が大ヒットし、武士道ブームが起こったことは記憶に新しいが、最後のサムライ・勝元のモデルは西郷隆盛であるという。最後まで、武士道は陽明学とともにあったのだ。  
 
「化粧」 なぜ人は粧うのか

 

はじめに
なぜ、人間だけがこんな風に化粧をするようになったのか。
そして、化粧を学問的に見てみたら、どうなるのか。
そんな次々わき起こる小さな疑問をスタート地点に、化粧というものについて少し調べてみると、実に興味深いことがいくつも見えてきた。
化粧には、各社会にそれを支え、受け入れる美意識、文化があり、そして化粧によって発生するさまざまな効用があるようだ。
やはり、化粧はおもしろい。
このようにいくつもの角度から、光を当てて化粧を見てみると、いったいその先には何が見えてくるのだろうか。
いままで何気なしにしていた化粧が、もっと違った風に見えてくるのではないか。
私が化粧を研究テーマに選んだのは、化粧は薄く見えるその外見とは裏腹に、実に多くの角度から切り込みを入れられる文化であると思うからだ。
そして、テーマ選択のきっかけでもあった「化粧による変身の楽しみ」の部分にスポットを当てたかった。
そのため、第一章・第二章ともに、化粧への批判的な要素はあまり混ぜずに、できるだけ化粧の深み、面白みを伝えられるような論文にした。
化粧における良い面ばかりを挙げた、決してバランスが良いとは言えない論文であるが、その点はこの動機に免じて目をつぶっていただきたい。
この論文で化粧を研究することで、普段女性なら誰もがしている化粧という行為の裾に広がる、大きな力・背景について、自分なりの回答を出していきたいと思う。 
序章 「派手なオス、目立たないメス」という図式

 

1.オスはなぜ、美しい?
たとえば、クジャクには、美しく大きな飾り羽がある。小鳥たちは、きれいな色の羽を震わせ、あるいは美しい歌声を高らかに奏でる。ライオンにはたてがみがあり、シカには大きく立派な角があり、カブトムシにも同様に美しく大きな角がある。
しかし、このように美しく派手な特徴をもつのは一般にはみなオスで、メスは地味で目立たない。クジャクやカブトムシのメスにそのような美しい特徴は無く、カエルやコオロギ、シジュウカラなどのうち、鳴くのはオスのみである。
長谷川眞理子によれば、このような例はほかにいくらでもあるという。
南米に住むハチドリの一種、オナガラケットハチドリという鳥では、尾の先が長く伸びて、曽於先端にうちわのようなものがついています。繁殖期には雄たちがこのうちわをばたばたと打ち鳴らして求愛するのだそうですが、雌の尾にはこのようなものはついていません。(中略)
まだまだほかにも、例はたくさんあります。アフリカの森林に住んでいるマンドリルというヒヒは、歌舞伎役者のくまどりのように、顔に赤、青、黄色の縞模様をつけています。なにも知らない旅人が森の中でこんな動物に出会ったら、どんなにびっくりしたことでしょう。しかしこれも雄だけのこと。雌は地味な茶色い顔をしています。カエルが鳴くのもコオロギが鳴くのもシジュウカラが鳴くのも、あんな小さなからだであんな大きな声で鳴くのですから、それはたいしたエネルギーを費やしているわけです。しかし、これもみんな雄だけがやっていることです。 
2.「自然淘汰」と「性淘汰」
「自然淘汰」とは?
当初、進化論を唱えた生物学者チャールズ・ダーウィンは、自ら提唱した「自然淘汰」に反する、この同種内の性差の事例について、ひどく頭を悩ませていたという。
前述の長谷川によれば、ダーウィンは、クジャクの雌雄間の見た目の差を目の当たりにし、自身の「自然淘汰」の理論では説明の効かないものがあることに苦悩し、「クジャクの尾羽の光景を見るたびに、気分が悪くなる」、という内容の手紙を、1860年の4月3日、ハーヴァード大学の生物学者エイサ・グレイに送っている。
たしかに、ダーウィンの唱えた「自然淘汰」では、このオスとメスの違いは説明できない。
ここでいま一度、ダーウィンの唱えた「自然淘汰」についてみてみるとする。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「自然淘汰」は「自然選択説」の項として、以下のように説明がある。
自然選択説
自然選択説(しぜんせんたくせつ、natural selection)とは、生物進化を説明するうえでの根幹をなす過程を指摘した考えであり、1859年にチャールズ・ダーウィンによってはじめて体系化された。自然淘汰説(しぜんとうたせつ)ともいう。
自然選択説の要約は以下の通り:
生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。
1、生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
2、変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)
3、そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
上記のメカニズムにより、生存と繁殖に有利な性質をもつ個体が増えていくことで生物進化が起こるとした。
淘汰が起きる原因は、生物が本来備える繁殖力が概して環境の収容力を超えるために、生まれた子ども同士、または他の生物との間で生存競争が起きるためだとした。
これによれば、生物は自身の種の生存・繁殖において有利になるように同種内で淘汰・発展を繰り返し、進化をとげるものだということになるが、これのみでは、同種内の雌雄間差異については、説明がつけられないように見える。
しかし実は、この『ウィキペディア(Wikipedia)』の説明には続きがあり、続けて以下のように記述がある。
なおダーウィンは、生物進化に寄与する別の重要なメカニズムとして、性選択も提唱している。
この「性選択」すなわち「性淘汰」こそが、今日、冒頭で触れたクジャクの雌雄観の差異を説明する重要な考え方として、考えられているものである。
ダーウィンは、『種の起源』を発表した後、自身の唱えた「自然淘汰」と別に、全く違う原理の淘汰である、「性淘汰」が生物には働いていると考え、それを一八七一年に、『人間の進化と性淘汰』の中で発表し、話題を呼んだ。
「性淘汰」とは?
では、この「性淘汰」とは、何なのか。同様に『ウィキペディア(Wikipedia)』に詳しい内容の説明があるので、見ていきたい。
性淘汰
性淘汰(せいとうた)は、異性をめぐる闘いを通じてある形質が進化して行く現象である。クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにチャールズ・ダーウィンが提唱した。
一つの種に於いて、ある性(殆どの場合は雌)の個体数や交尾の機会はもう一方の性よりも少ない。それゆえ、交尾をめぐる個体間の争いが進化をもたらす。
性淘汰は、自然淘汰(生態系に於けるニッチ獲得をめぐる争い)とは異なる。自然淘汰は性別・年齢を問わず、個体の全体的な状態によってもたらされるからであり、また性淘汰によって進化した形質の多くは装飾的であまり実用的な物ではない。ただし、性淘汰を自然淘汰に含める事もある。
配偶者の選択の理由については、ランナウェイ説やハンディキャップ説などの理論モデルがある。
すなわち、「性淘汰」とは、「環境からの圧力に対抗して生存していく能力に関わる淘汰ではなく、生物にとってもう一つの重要な関心事である繁殖のチャンスに関わる淘汰」であり、「どうやって生き残るかということとはまったく別に、オスの間では、どうやって配偶者を獲得するのかという激しい競争」があるということである。
そして「性淘汰」は、大きく二つにわけられ、それをダーウィンは、「雄間競争」と「雌による選り好み」(female choice)と名づけている。
人間とその他の生物の違いをより明確にするために、以下でこの二つの違いを説明しながら、もう少し深く「性淘汰」の内容に触れてみたい。
「雄間競争」と「雌による選り好み」(female choice)
先ほどの『ウィキペディア(Wikipedia)』の「性淘汰」の項目の続きを見ていきたい。以下では、「雄間競争」と「雌による選り好み」(female choice)がそれぞれ、「同性間淘汰」と「異性間淘汰」の名称で説明されている。
同性間淘汰と異性間淘汰
性淘汰には、
1、同性の間で、異性を巡る競争を行うため、より優れた武器(角や牙など)をもつ方が勝って交尾をし、子孫を残すことによってその武器が進化するような同性間淘汰(雄−雄闘争)
2、配偶者が異性を選ぶ際に選択が起き、配偶者(主として雌)がより顕著な形質を持つ交尾相手(雄)を選択することによって進化する異性間淘汰(配偶者選択)
とがある。
同性間淘汰は多くの場合、雄の間で起きる。個体間の闘争以外にも、混ざり合った精子の競争が含まれる。
しかし多くの場合、性淘汰と言うときには後者の「雌による選択」を指す。ロナルド・フィッシャーは、「雌の嗜好は遺伝的に決まっており、それ以前の代で好まれた形質がより顕在化した個体を後の代の雌はさらに好む」と考えた。
これについて、ダーウィンのこの説を踏まえた上での、長谷川の説明をたどってみる。
長谷川によれば、カブトムシのオスや、シカのオスは、繁殖期に角を突き合わせて闘い、この闘いに勝ったオスは、メスとの配偶の権利を獲得できる。とすればすなわち、これはそのまま配偶のチャンスをめぐる闘いに、置き換えられる。
草食動物であるシカなどには、肉食動物であるライオンやトラと違って、大きな角を持っている生存上の必要性は特に見受けられない。また、カブトムシも樹の樹液を食料としているのだから、やはり同様に、大きな角をもっている必要性は無い。
したがって、シカの角、イノシシの牙、カブトムシの角は、ほとんど配偶者獲得の闘いのためにのみ使われる武器として、オスの間で発達したと考えられる。これが、「雄間競争」である。
それに対して、オスとメスの違いの中には、武器とは全く関係なさそうなものもある。その最たる例がクジャクの飾り羽をはじめとする、鳥のオスに見られる美しい羽であるが、これらは、主としてメスに対する求愛用に用いられている。
メスは、オス同士の闘いの勝者を受け身に受け入れるばかりでなく、メスの側からどのオスがよいか選り好みをしているのである。これが、「雌による選り好み」(female choice)である。
学会の反応と今日の見解
この説は、当時の学会では、メスが選り好みをしているという確たる証拠が無かったのと、「強いオス、従順なメス」という社会的な通念のせいで、非常に不人気であった。
しかし、1982年になって、長い尾羽を持ったコクホウジャクという鳥を使っての、「メスが選り好みをしている」ということを示した研究が、アンデルソンという学者から発表されたことで、社会的な一致見解を見た。
ただし、これについては後になって、クジャクの尾羽の目玉の数や尾羽の大きさと、メスの選り好みの因果関係の有無に関する内容について、学会で大いに議論がなされており、まだ「選り好み」の確証については報告されていない。
しかし、クジャクの尾羽が使われるのは繁殖期のみで、その後抜け落ちてしまうこと、そして、オスクジャクの尾羽を使ったダンスを見た上で、メスクジャクが配偶者をなんらかの基準で決めていることなどから、クジャクのオスの飾り羽が、メスの配偶者選びにおいて、なにがしかの因果関係を持っている、という点において、今日共通して認識されている。
さまざまな選り好み
一方、同書で長谷川は、「雌による選り好み」には、「賢い選り好み」および、「『美的センス』による選り好み」の、二つが存在するとして、現在確実に報告されているメスによる配偶相手の選り好みの事例を紹介し、分類・考察している。
これらはそれぞれ、名前の通り、メスが自分の繁殖行動に有利になるようにオスを選ぶ選り好みと、メスの繁殖行動の有利さとは因果関係は一見無いように見えるが、メスが自分のセンスによってオスのある部分を判定する選り好みのことである。
「賢い選り好み」
「賢い選り好み」では、メスが繁殖に際して有利になるようにオスを選んでいる事例がひかれている。
たとえば、オーストラリアに住むカエル(Uperoleia laevigata)は、メスはオスの鳴く声の周波数に従い、自分の体重の70%のオス、すなわち、繁殖の際に大きすぎも小さすぎもしない相手を好んで選ぶ。
これらは主として、繁殖行為や子育てにおいてオスに求められてくる要素を、メスが、雄の鳴き声などを使って査定しているケースである。
「『美的センス』による選り好み」
これとは別の選り好みなのが、「『美的センス』による選り好み」である。
たとえば、観賞用としても人気なグッピーのメスは、オスの身体のオレンジ色の部分の面積がより多い雄を選ぶことが多いという報告がされている。
また、ソードテイルという尾びれが長く伸びている魚についても、より尾びれの長いオスが好まれる傾向にあるという。
これらの事例について、オレンジ色の身体を持つオスや、長い尾びれを持つオスが好かれる理由は、残念ながらまだわかっていない。
しかしいずれにしても、前述のクジャク同様、やはり、メスの配偶者選びにおいて、こうした装飾がなんらかの因果関係を持っている、という認識はなされている。
潜在的繁殖速度と競争の強さ
少し話がそれたが、「雄間競争」と「雌による選り好み」(female choice)、この二つの過程から働く淘汰が「性淘汰」であるのだが、繁殖のチャンスを得るために自ら闘うか、または、メスに選んでもらうことによって繁殖のチャンスを得るか、という二通りの過程はあるものの、いずれにしても、繁殖のチャンスをめぐる、オスの間での激しい競争の末、こうした角や牙、あるいは飾り羽や尻尾は進化をとげてきた。
繁殖行動においては、メスは数の上で少数派であり、性淘汰での勝ち抜きを強いられなかった。
「いわば繁殖相手選びは雌にとっての『買い手市場』であり、こうして性淘汰の主体は雄よりも雌」となっており、したがってメスは、美しくあるということが少なかったのである。
ここに、配偶者獲得競争と「潜在的繁殖速度」を示す、面白い図表がある。
ここで言う「潜在的繁殖速度」とは、繁殖のサイクルの速さ、すなわち、繁殖行動のすべてがうまく終わるまでに必要な、潜在的な最短時間のことである。
その時間は、
1 精子や卵などの配偶子を準備するのに要する時間
2 配偶に要する時間
3 子育てに要する時間
の三つから成っており、図表は次のようになっている。
長谷川は繁殖行為を、上記三つの項目からなる繁殖に必要な時間と、子育ての形態に従って分類している。
そしてこの図を示すことで、自然界においては、全体として雄間競争のほうか雌間競争よりも強くなる傾向にあると結論付けている。
確かに、この図に見ても、動物界においては、ほとんどの配偶相手の獲得をめぐる競争で、確かにオス同士の競争のほうが激しくなると言えそうである。 
3.人間におけるその逆転
ここまで人間以外の生き物の配偶行動を見てきたが、しかしここで視点を人間に移してみると、この様子は、人間においては、一見逆転して見える。
無論、人間においても、オスのほうが数の上で多いことに変わりはないため、子孫を残す上ではオスに対して、より寡頭的な競争が強いられていることに変わりはない。
しかし、人間については、オスとメスに肉体的な差異はあるものの、明らかにメスのほうが自身を飾り立てている。
特に現代先進国の人間については、エサの獲得の失敗、あるいは他の生物により捕食されることが原因で死ぬことがほぼ無いため、進化に対する性淘汰の効果・影響度がより大きくなっている、という指摘もある。
また、同性同士による物理的な戦闘などによる同性の個体の物理的な排除がほぼ無くなったこと、および社会制度の変化、法制度の整備などの効果で、一方的に個体が異性の個体を選択できるような状況は少なくなり、相互の意思の確認が必要とされることになった分、同性間選択と比べ、異性選択の影響度が以前よりも増している、という見方もある。 
4.「性淘汰」と化粧
そうした指摘の内容の判断はさておくとしても、事実として、人間のメスは、自らを実に多岐に渡る方法で飾り立てる。
化粧、香水、服装をはじめ、アクセサリーなどの装飾品等々、数え上げればきりがない。
また、人間のメスの「美」は、先天的に備わっていたもの以上に、後天的に装飾されたものによる力が大きいという点において、根本的に動物たちの装飾議論と非常に異なっている。
すなわち、人間のメスの行う装飾は、子孫を残すために必要なオスの「派手さ」とはまったく異なる、生物的な必要性の特にない装飾だと言えるのである。
しかし、にもかかわらず、そうした特に必要の無い装飾は、非常に一般的に行われている。
女性は自分自身を飾ることを楽しみ、中には、毎日化粧に二時間を費やしたり、服飾品に収入のほとんどをかけたりする女性もいると聞く。
一方、社会や文化の側も、過度な装飾をこそ嫌うものの、適切な範囲でそうした装飾をする女性のほうが、装飾気の無い女性よりも社会に適合的であると見なし、ある年齢以上になっていながら装飾をしない者については、時に異端視することさえある。
そして、ここで私が特に注目したいのは、女性が自分自身を飾る大きな要因が、社会的に女性たちにその行為が望まれているということ以上に、男性への「セックス・アピール」にあるということである。
この「セックス・アピール」と化粧の関係については、第二章で詳述するが、数の上で少数派なメスが、性的な意味合いも込めて、自身を飾る。これは、生物の原理からすれば、極めて異端な現象である。
というのも、より数の少ないはずのメスが、自身を飾れば、それに引き寄せられるのは数の多いオスということになる。これでは、先ほどまで見てきた生物の進化と「性淘汰」の原理に言う、「多くの中から、より生物的に優秀な配偶者を選ぶ」ということが、叶わなくなる。
むしろ、ただでさえ数の少ないメスの中から、より性的に魅力のあるメスにオスが集中してしまうことで、配偶効率は下がるようにも思える。
やはり、「性淘汰」の原理では、人間の行うこの装飾は、根本的に説明が利かない。
では、人間のメス、すなわち女性は、なぜ自分自身を飾るのだろうか?
こうした、生物的な必要範囲を超え、かつ生物的な「性淘汰」の原理から見ても明らかに異端な装飾は、動物たちの行うそれとはまったく違う、人間独自の意味づけのもとに行われているに違いない。
その意味付けを、私はこの論文で探ってゆきたいと考える。
そして、この問いに対して私は、装飾の中でも、特に一般的であり、女性に独特であると考えられがちな「化粧」を切り口にして、さらには、特に題材を日本のみに絞って、次章以降、検証していこうと思う。
検証の切り口は、「社会」および「心理」とする。
そしてその二つを切り口にし、論文の構成をこのようにしたい。
まず、第一章では、「化粧」という文化を外側から支え、受け入れている「社会」について見てゆく。
ここでは、化粧の歴史的な変遷をたどり、どのような過程で現在の化粧文化が築き上げられていったのかを探ろうと思う。そして、その根底に流れる日本人の美意識を探り、化粧文化を国際的に比較して、日本における化粧文化について、より考察を深めたい。
続く第二章では、「化粧」する側の、いわば内側から「化粧」を支えている「心理」について、考察していきたいと思う。
ここでは、人が人を見る際の評価・判断基準という視点や、化粧の心理的効能について触れ、「化粧」というものが個人に対して、心理的にどのような影響を与え、ゆえにどのような可能性を秘めているのかについて、見ていきたいと思う。
この論文が、なぜ人間のメスは「性淘汰」原理を超えて飾るのか、という問いの、解決の糸口になれば、幸いである。 
第一章 化粧することを望む「社会」

 

1.化粧とは?
化粧について考察していくにあたって、まず、「化粧」というものの定義を見てみたい。
村澤博人は、広義の「化粧」を、以下の三つに分類している。
1 身体変工:髪を切る、抜く、縮らす(パーマ)、ヘアスタイルを整える、歯を抜く、削る、指を切る、爪を切る、頭部を変形させる、腰を細くする、足を変形させる(纏足)など
2 色調生成:入墨・文身・タトゥーイング(皮膚に色素を入れる)、創痕、瘢痕(皮膚を傷つける)など
3 塗彩:皮膚に色や艶を添える、ボディペインティング、メイクアップ、ネイルメイクなど
これらは、人類学的な分類を参考にした、非常に広い意味の「化粧」であるが、これによれば、整形外科・美容整形・口腔外科の施術、あるいは髪の毛の一部を変更することも、「化粧」に含有されることになる。
一方、広辞苑に「化粧」を引いてみると、次のように出ている。
け‐しょう【化粧・仮粧】
1 紅・白粉(おしろい)などをつけて顔をよそおい飾ること。美しく見えるよう、表面を磨いたり飾ったりすること。おつくり。けそう。
2 (名詞に冠して)美しく飾った、体裁をつくろった、形式的な、などの意を表す語。(以下略)
おそらく、この広辞苑の1にあるような、顔を美しく見せようと飾ること、というのが、化粧の狭義であり、一般的な社会的認識であると言えよう。
本章及び次章で言及するところの「化粧」は、この狭義の「化粧」についてであるとする。
前述の村澤は、化粧とは、基本的に「ある集団=社会がもつ美意識に基づいて顔やからだに意図的に手を加えて、外見的にも内面的にもそれまでの自分とは異なる自分になろうとするための行為」だと定義している。
化粧には、それよって、視覚的に顔やからだのもつメッセージ性を変更、あるいは強調し、それを社会の構成員としての相手に伝える作用があるというのである。
こうした化粧の作用は、しばしば実感をともなって化粧をしている私たちには感じられる。
たとえば、その時代の流行の化粧をすることで、自分は時代の作り出す流行に敏感であり、かつ、各時代・各社会が化粧する女性に対して抱いている「理想」に近づく用意がある、という信号を発している気持ちになったり、社会の側からも、自分は「流行に敏感な女性」として見られているのだと、実感する。
この章では、個人にこのような感情を抱かせるほどに化粧を認容し、あるいは求めてきた「社会」について考察する。
それにあたって、まず次の節では、日本における化粧の歴史を見てゆきたい。 
2.日本の化粧の変遷
以下では、前述の村澤博人による、『顔の文化誌』を主な参考に、古代化粧の発祥から、1990年代までの日本における化粧の歴史について、概観していきたい。
1 古代
化粧の文化は、文字資料の無い縄文・弥生時代においても、埋葬された人骨を資料に化粧を紐解くと、見て取ることができる。
まず、当時は、抜歯や削歯をすることが一般的で、それによって所属する部族の違いや成人か否かの区別をしていた。
そして、人骨に付着した朱や、埴輪の顔面に塗られた赤などから、顔料を顔に塗布=彩色をしていたこともわかっている。顔料を塗布した理由としては、鎮魂や魔除けのため、あるいは種族の表示を意味するため、などと推測される。
その他にも、土偶や埴輪に描かれた線や色などから、この時代にはすでに、顔に入墨が施されていたことも分かっている。
文献として化粧が記述されるのは、漢字が使用されるようになって以降のことで、『日本書紀』の上代にはすでに、顔に赤土を塗る風習があったことが記されている。しかしこれは、しばしばステージメイクアップのはじまりとして引用されるだけあって、後の日常的な口紅とは完全に内容を異にしたものであった。
そして、以後遣唐使が廃止されて国風文化が誕生する平安半ばまで、中国大陸、すなわち当時の隋や唐の影響を受けた美意識が、日本国内に発達してゆく。
その中でも最も多い記述が、眉に関する記述である。眉引きや、三日月眉、柳眉などについては有名な歌の中にも詠まれており、いずれも、弧を描くような細い眉が美しいとされていた。
ここから見ても、眉の形を整える美意識が、大陸文化の影響を受けて根づいてきたことがわかる。
また、白い肌を好む美意識も、『日本書紀』の中に、白粉に関する記述があるなど、大陸文化の影響を受けて、この頃から発達し始めたとされる。しかし、本格的な白粉の登場は、次の時代になってからになる。
2 古代末〜中世
平安中期以降になると日本では、それまでの唐の影響を脱した、優美な和様が主流になり、いわゆる「国風文化」が発達してくる。
化粧においても、白粉や頬紅、お歯黒、眉化粧が貴族階級で発達し、日本の伝統的な化粧の、第一段階がこの時期に築かれた。特に、お歯黒と眉化粧は、前時代には見られなかったものであった。
眉化粧とは、古代に行われていた眉の形を整えることではなく、本来の眉を消去して、額の上部に描き眉をするという風俗を指し、成人した際にその証として施された。
同様に、歯を黒く染めるお歯黒も、貴族社会で女性が成人になったしるしとして始まった。
このお歯黒は、後に貴族男性も行うようになり、公家の男性の化粧文化として、以後明治になるまで継続された。
そして、肌については、透き通るような美しい白い肌が好まれた。『源氏物語』の中にも、紫の上の描写の一部に、透き通るような肌を絶賛する様子が描かれている。
そして、この時代の特徴として挙げられるのが、「中高」という美の基準と、「顔隠しの文化」の存在であると、村瀬は指摘する。
前者は、正面から見て真ん中、すなわち鼻が高いという意味で、当時はそうした特徴を持つ者が、美人とされた。
後者は、文字通り顔を隠すことを良しとする文化のことで、垂髪の額髪を耳に挟むことははしたないとされ、人前でやたら顔をあらわにするものでない、という美意識の発達を促した。それゆえ、外出時も被り物(被衣や市女笠・虫の垂れ衣などにはじまり、江戸時代の防止や頭巾類を指す)をして、顔を見せないようにするのが、常識であった。
この「顔隠しの文化」については、次節の日本人の美意識の考察の部分で、もう少し詳しく触れたいと思う。
3 近世
近世に入り、男髷の真似から発生したとされる女性の日本髪が、化粧文化を加速させる。
髪を結い上げたところに露出した額の形を良く見せるために、生え際の化粧が発達し、その際の化粧が、近世後期には衿足をすっきり見せるための衿化粧へと発展し、日本的な化粧美を作り上げていった。
そして、古代末から始まったとされる「顔隠し」の文化が、化粧を通じてさらに普及していった。
たとえば、武家階級の女性は、嫁いだ先の親や夫の前でさえ素顔を見せてはならないとされ、必ず白粉を塗って化粧をすることを、たしなみとして躾られた。
しかし一方で、武家社会は質素を旨としており、化粧はたしなみではあるが、濃い化粧は嫌われ、口紅もほんのり桜色につけるのが良いとされていた。
こうした時代背景に加え、この時代、商工業の発達が加速要因となり、化粧品の製造と消費が増大していった。当時の白粉の三大消費地は、歌舞伎と遊郭と大奥の世界といわれ、歌舞伎役者にちなんだ商品名のものまで登場した。
続いて紅についてであるが、紅は紅花から採ったものがもっぱら口紅として使用された。
しかし、「紅一匁、金一匁」と言われるほど紅は高価で、唇が玉虫色に光るほど濃く塗るのは贅沢だとされ、殊に武家社会では嫌われた。
江戸後期には、墨を下に塗ってから少量の紅を塗ると、紅をたくさん塗ったときと同じ効果が出ることから、笹色紅と呼ばれる化粧法が流行した。
お歯黒も、江戸時代には一般女性にも広まっていった。結婚と同時に婚姻と貞操(黒は他の色に交わらない、貞女は二人の夫に仕えない)というメッセージの表示として行われるようになり、既婚者のしるしとされた。
それまで上流階級の女性の間で行われていた眉を剃り落とす慣習も、この時代には一般女性にまで普及し、結婚して子供ができると眉を剃り落とすようになっていった。
4 近代
明治に入ると、内面的には武士道という純日本的なものを求めながら、外見は少しずつ欧米化していく。
それまでは当たり前だったお歯黒と眉化粧が野蛮とされ、まず公卿や華族に対して明治初年に「太政官布告」で「歯ヲ染メ眉ヲ掃」ことを止めるように、とする禁止令が出されたことで、西欧の美意識が日本の文化に浸透し始める。
さらには、明治四年に、「散髪…脱刀共勝手たるべし」という、いわゆる断髪令が出され、月代を剃って髷を結うという元来の風習が否定され、散髪が奨励された。
明治六年に、天皇自らが散髪したことで、散髪は急速に広まり、次第に文明開化の象徴になってゆく。
この象徴という意味では、すでに幕末の頃、維新の志士たち、土佐藩の坂本龍馬や長州藩の高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛など、早くから断髪を時代思想として受け入れた者がいたことも、記しておかねばならない。
一方、髪型に比べて顔や化粧などの意識の変化には、時間を要した。
明治の末期から、日本人の目の形が欧米人の目の形よりも劣っているとする記述が見られるようになり、大正から昭和にかけて、目の美の基準が、切れ長の目から二重でぱっちりとした大きな目へと移っていく。
これには、写真、さらには映画などのメディアの普及が大きく影響している。
そして、大正末期には欧米のアイメイクの流行が日本に伝わり、一部の階層の女性に取り入れられるようになるが、まだ当時はそうした欧米のアイメイクは社会に許容されておらず、大衆化されるには到底至っていない。
白粉は、大正時代に入ると、従来使用されていた文字通りの白い粉ではなく、欧米由来の肌色の粉を塗布する習慣となり、自分の肌色に合った粉を顔に塗るようになる。
しかも、江戸時代からずっと使われてきた鉛白粉は、明治二十年代になるとその毒性が社会問題化したため、徐々に使用されることが無くなり、昭和十年には鉛白粉の使用と販売は全面禁止になる。
口紅には、練り紅や水紅が用いられ、頬紅も大正時代に健康美を表す化粧法として使用され始めた。
現在のような棒状の口紅、いわゆるリップスティックが日本にもたらされたのもこの時期、明治末であるといわれ、国産品が発売されたのは大正七年であった。
当時はまだ口紅は点すもので、塗るという意識は無く、この「塗る」という意識が定着するのは、第二次世界大戦後しばらくしてからになる。
日本の化粧品メーカーが急速な成長を遂げたのも、この時代であった。
廣澤榮によれば、明治の初年には薬局と歯磨きを販売するだけのごく小さな企業にすぎなかった資生堂は、明治になり、にわかに有力な化粧品メーカーに成長し、さらに昭和になると、いよいよ勢力を拡大していった。
しかし、とは言ってもこの時代の基本的な化粧やマナーに対する美意識は、まだまだ前の時代に武家社会が持っていた価値観を受け継いでおり、それが大衆化していったことが、特徴的な時代であった。
そして、化粧そのものの大衆化は、次の時代を待ってのこととなる。
5 現代
続いて、現代の化粧に入る。
現代日本における化粧文化の発展は、化粧の歴史的にも非常に特殊なほど化粧が浸透した時代であり、かつ、その内容についても、変化が著しい。
その様子は、次頁の「戦後の化粧品統計」を見てみても、明らかである。
そのため、現代については、年代を10年ごとに区切って詳しく見てゆこうと思う。
【1940年代】
ここで一度、戦前のメイクアップを総括してみる。戦前一般的だったものとして、村瀬は以下のように記述している。
戦前のメークアップは、一般には、ヴァニシングクリームを化粧下に使い、その上に粉白粉や水白粉をつけ、口紅を差して眉を引く程度であった。一九四〇年に発行された美容書『整容』(小旗恵津子著)にも「最も一般的な粉化粧」として、「これは化粧水と無脂肪性クリーム(バニシングクリーム)を基礎にしてそのうえに粉白粉をはいて仕上げるお化粧の仕方で、最も広く一般に行われています」と、まず最初に記している。したがって、仕上がりは今の尺度で見ると、日本独特の艶の少ないものであった。
そして、戦後の化粧史は、村澤によれば、「従来の日本の美意識からの脱却、および社会的な枠組み(身分や未既婚、職業)としての化粧からの解法」であり、化粧の大衆化、そして若年化していく歴史であったという。
その傾向は、最近では1990年代の茶髪や「ガングロ」の流行などに象徴される。これは、「赤・白・黒」の三色に彩られてきた日本の化粧の歴史から見ても、特殊と言える現象であった。
黒髪は若者の中で「古臭い」「ださい」といったイメージと結びつき、敬遠され、次第に選択肢の一つでしかなくなっていった。
そして「ガングロ」とは、「日焼けサロンなどで黒く焼いた顔、若しくは黒系のファンデーションの上に厚塗りの化粧を施したギャルファッションの一つ」であり、「ガンガン黒い」の略称、あるいは「顔黒」を語源とする、と言われる。これは、皮膚下のメラニン色素が多い地黒の人間は該当せず、意識して自分の肌の色を黒くする化粧法である。これは、一種の「白肌絶対視」へのアンチテーゼであり、白肌からの解法であった。
話がそれたので、終戦直後からの化粧風俗をたどると、まず、戦後日本における化粧文化は、アメリカの進駐軍と直接に接していた女性たちから始まった、いわばアメリカ文化の模倣であったとされる。
具体的には、ベースメイクとして下地に油性のコールドクリークを使い、その上に黄色い粉白粉をたたいて艶を出し、ポイントメイクには、フレームレッドの真紅の口紅と、黒や茶のアイシャドウを使うという特徴のもので、これに、長い髪、ロングスカート、ショルダーバッグ、ネッカチーフ、といった服飾品が加わる。
このベースメイクは、従来の日本にはなかった艶に重点を置いた方法であり、「光る化粧」と呼ばれて、進んで受け入れられていった。
ポイントメイクに関して言えば、特に口紅に重点が置かれており、食事後などに口紅を塗りなおすことはエチケットとされ、そうした内容の雑誌の記事も『主婦之友』など、多くの雑誌に見られたという。
そして、アメリカの模倣として始まったこの化粧法は、やがて一般の女性たちの間にも、流行していった。
【1950年代】
続く1950年代は、1940年代から続くアメリカンスタイルの全盛に始まり、次第にヨーロッパ指向へと移っていく時代であった。
何よりも、映画が時の流行を作った時代であり、その代表的な例として、ヘップバーンカットと呼ばれるショートボブが大流行し、さらには、「ピンク化粧」と呼ばれるベースメイクが隆盛を誇った。
日本で「ヘップバーンカット」と呼ばれたこの髪型は、欧米では「イタリアンボーイ」と呼ばれ、短くてボーイッシュな髪型として認識されていた。
それが、映画『ローマの休日』の中で、オードリー・ヘップバーンの演じる主人公の王女が、美容院で長い髪をばっさり切ることで、王女の立場から解法され、一日のみの休日を味わい、楽しんだというシーンで注目され、話題を呼んだものである。
このスタイルの流行は、戦後の女性の解放期と重なったことも、それに拍車をかけたようである。さらに、当時はもはやロングヘアーのパーマネントは一般化してしまっており、新しいものを求める女性たちの中で、このヘップバーンの軽やかなショートカットは、彼女の魅力的な個性ともあいまって、爆発的に流行していった。
そして、同じく戦後まもなく映画により流行したもう一つの象徴的な化粧風俗が、「ピンク化粧」である。
これは、カラー映画の普及により、ピンク色を基調とするファンデーションが広まったというものであるが、それまで日本では、日本人女性の肌色としてよく見られる、黄の色味が強い「オークル」という色のファンデーションが一般的であった。
しかし、当時のフィルムの関係上、出演する女優の肌の色がピンクがかって見えることから、スクリーンに登場する彼女たちと同じ色にしたいとする要望が高まり、ピンク系のファンデーションが流行を見たのだという。
また、同じ頃蛍光灯が普及したことも、この流行に拍車をかけた。蛍光灯のもとでは、顔色が不健康な土色に見えてしまう。ピンク化粧はそれを補正する働きも有していた。
こうして、白粉、ファンデーションのピンク系の流行が1960年代後半まで続く。このピンク化粧は、健康な血色が表に出ているように見えるため、同じような効果を狙う頬紅は、まだ一般的になってはいなかった。
アイメイクの方法がだんだんと浸透し始めたのも、この頃であった。村澤は以下のように記述している。
その内容は、『若い女性』(一九五七年三月号)によれば、「卒業して初めてお化粧する方のお化粧のA,B,C」として、「第一に大きく見せるためにアイ・ラインを入れます。これは黒の眉鉛筆の先をとがらせ……線を入れ……。次に睫毛の薄い人はマスカラ(睫毛墨)をつけ、アイラッシュカーラー(睫毛上げ器)で上向きにカールさせておきます。なお、上瞼のはれぼったい人は褐色のアイシャドーを淡くぼかして下さい」というようなものが一般的であった。
これによれば、まだこの時代は現在のようにアイシャドウに重点は置かれておらず、あくまでも目の欠点をカバーする目的でのみ、アイシャドウは使われていたようである。
1950年代後半になると、太陽族、ロカビリーなどと若者文化が台頭し始め、音楽が時代を引っ張るようになっていった。
この当時一世を風靡したメイク方法に、カリプソ・メイクというものがある。これは、1957年に歌手浜村三智子の影響を受けて登場したメイク方法で、肌の色を熱帯の女性風にブラウンにし、濃いマスカラと濃く派手な色味のアイシャドウに、アイラインを太く引くことで、目の周辺を強く強調した、とても個性的なものであった。
このメイクは一部の若者の間で、非常に流行を見ており、メイクがさらに一般かする1960年代には、日焼け色の肌が流行し始め、日焼け用化粧品のポスターが盗まれるほどであった。
【1960年代】
前述の流れから、ファンデーションの色は1960年代初めの頃までは、オークル系とピンク系の二系統しかなかった。
しかし、1965年ごろになり、ベージュ系と呼ばれる色味が登場してくる。これは、1963年の貿易の自由化で、外資系の化粧品メーカーが日本に進出してきた際、今までに無い、彩度が低く、明度の高い色調が導入されてから広まったと言われている。このファンデーションは、それまでのカバー力のあるマット・タイプとは異なり、透明感のあるトランスルーセント・タイプであった。
このことは、単に色幅が広がったということのみならず、それまでと違うベースメイクのメイクアップ方法、すなわち、メイクアップの質的な拡大が起こったことを示している。
そして、1960年代後半に入ると、この時代の流行はなんといってもミニスカートであったが、化粧についても、西洋的な顔立ちになるアイテムとして、アイメイクが注目され、一般化し、目の周りを彩る商品が流行してゆく。
これは、現在もなお続く「アイメイク重視」の先駆けであり、大変重要な転機であるといえよう。
具体的には、アイシャドウや、マスカラ、つけまつげ、目の下にまつげのように描きこみを入れる「描きまつげ」なども登場し、とにかく立体感のある、装飾的なメイクが流行した。
しかし、当時のこうしたアイメイクは、アイシャドウを濃く塗った上に、さらに上下にマスカラをたくさん塗り、挙句それが時間が経つと落ちてしまうので、まるでパンダのように目の周辺だけが黒くなってしまいがちだったようで、しばしば「パンダ化粧」などと呼ばれ、批判されていた。
しかし、そうした批判はあるものの、この頃になると化粧というものに対する従来の考え方が、次第に変化していく。
今までであれば、化粧が少しでも濃かったり、多少でも目に化粧を施せば、「水商売の女のよう」だと非難されたり、あるいは社会への反抗の一種と採られることもあったようであるが、1960年代も終わりごろになると、そうした非難が表立って聞かれることは、ほとんど無くなった。
村瀬はこの1960年代をこのように評している。
メークアップが一般に普及しはじめたのはいつごろですかとよく聞かれるが、日本ではこの一九六〇年代後半と考えている。この理由は単に化粧人口が増大したという量的変化のみならず、積極的な化粧への質的変化が生じた点にある。この積極的な化粧とは、女性の化粧が、それまでの消極的な身だしなみレベルから一歩前に出て、より自分を美しくみせるための化粧に変わったことを指している。たとえば、社会からかなり自由なはずの(義務的には化粧する必要がない)女子大生が、このころから目だって化粧するようになったこともそのことを示す。
【1970年代】
1970年代に入る頃になると、ウーマンリブ運動や女性解放運動の影響を受けて、伝統的な化粧観、すなわち、人前では素顔を見せないという江戸時代の武家社会以来の化粧観が、目に見えて崩れ始める。
それまでは、女性が人前に出る時は、たとえ近所にゴミだしに行くときでも、白粉をはたき、紅をさして、素顔をなるべく見せないようにという意識が当然であった。
しかし、この頃になると、そうした化粧観は女性を束縛するだけであり、かつ、男性への不必要な媚にもつながり、体制順応型であるとして、「なぜ、女性だけが化粧をしなくてはならないのか」という批判が発生してきた。
その結果、素顔(ノーメイク)で公の場に出る女性が登場し始め、「素顔も顔」であるという主張がなされ始める。
この「素顔も顔」という考え方の登場によって、若い女性たちの化粧観が、それまでの社会性の強い化粧から、個人的な化粧、あるいは個性的な化粧へと、変わり始めた。
エチケットだからしなくてはならない、というような、社会から強制されているものとしての「化粧」という意識から、本人の意思に任された、自己表現の一手段としての「化粧」へと、化粧が新しく認識し直されていったのである。
それゆえ、「目立つ」だとか「派手」といった狭い意味ではなく、他人とは異なるその人の個人的な特性、という意味で「個性」という単語が化粧において使われ出したのはこの頃からであった。
そしてこの頃の化粧方法のもう一つの特徴として、1960年代の過度に装飾的な化粧ではなく、化粧しているかどうか分からないようなナチュラルなメイクアップ、すなわち「ナチュラルメイク」と呼ばれるような化粧を良しとする風潮が生まれ、ナチュラルメイクが流行する。
これの背景について村瀬は、大気汚染をはじめとする公害が社会問題となって、自然志向が高まっていったことを挙げるが、これについては、私は異論を唱えたい。
おそらく、このナチュラルメイク流行の背景は、そのような社会情勢ではなくて、化粧文化がある一定以上の期間に渡り、社会的定着を見たことが何よりの要因であると思う。
社会的に化粧が認知されていないうちは、化粧する側も化粧に十分馴染んでおらず、試行錯誤を要される。
さらには、ある程度化粧が濃くなくては、目立たないのではないか、あるいは、化粧しているかしていないか、見るものに分からないのではないか、といった類の憂いもあるだろう。
化粧方法が当初アメリカやヨーロッパからもたらされたものであったために、日本人の顔かたちに合うように改良されるのに時間がかかったことも、忘れてはならない。
その結果、化粧は長い熟成期間を経て、日本人の感性に合うように改良を加えられ、さらには、この期間に、化粧に不慣れだった日本社会の中でも、「化粧済みの女性の顔」がある程度認識されるようになり、一見薄いように見える化粧でも、見ている側にはそれが化粧済みの顔だと伝わるようになったのであろう。
こうしたことがある一定期間以上化粧の文化が馴染んだおかげで、女性たちの間で了解されてきて、それにともなって、日本人に合う自然な化粧としての、ナチュラルメイクが登場したのではないか、と私は考える。
ともあれ、この時代には、化粧がある幅・厚みを持って社会に受け入られていったようである。
1970年代は、化粧が、社会の強制ではなくなり、より自由に、本人の意思に基づいて、自分を表現する一つの有効な手段として捉えられていき、顔の表現の幅が、素顔から個性追求の化粧にまで、広がっていった時代であった。
【1980年代】
1980年代になっても、前述のように、化粧が社会的ではなく個人的なものになり、個性追求が行われるようになった流れがそのまま受け継がれた形になっており、全体として流行が不鮮明に終わっている。
また、高齢化社会の到来や化粧の若年化の進行とともに、化粧というものが、一口に言い表せないほど、多様なものになってゆく。
たとえば、世代によって求める化粧後の顔の様子が全く異なってくるし、同じ女性においても、仕事中とアフターファイブでは化粧方法が異なるなど、TPOに応じて化粧方法を変えるようになっていった。
それゆえに、化粧の幅・バリエーションを持つことが、化粧の文化においては最もおしゃれだとされた時代であった。
それだけ、化粧がかつてのような「よそゆき」的な側面を失い、社会に対する自己表現の一種として、さらに一般的にも深く認知されていった、と言えるであろう。
日本の化粧文化におけるこの流れは、いわゆる「フォーディズム」から「ポストフォーディズム」へと以降する流れに、非常にうまく合致する。
化粧品業界においてもまた、1970年代中ごろまでは大量生産・大量消費に支えられた、比較的画一的な商品が好まれ、とにかく「化粧をする」という行為が先に立ち、その内容まで問われることは少なかった。
こうした流れの中で、化粧品は大いに普及・流通し、その影響で化粧行動は十分文化になじんでいった。
しかし、しばらくすると、そうした少品種の化粧品では市場のニーズをまかないきれなくなり、その結果、1980年代ごろから、少量多品種型の化粧品マーケットが出来上がったと考えられる。
唯一、経済界の「フォーディズム」と違うように見受けられるのは、化粧品の世界での「ポスト・フォーディズム」への移行は、経済界の場合のような、「不況」という動機によるものではなかったという点である。
というのも、化粧品の需要はこの時期格段に伸びており、むしろ好況であった。
つまり、化粧品においては、少量多品種への以降は決して不況から来るものではなかったが、そうした経済の動向が大いに影響したことは事実であり、かつ、それに当時の女性たちの化粧品へのニーズの多様化が拍車をかけ、この時期に、バリエーションに富んだ化粧品文化が形成されたことになる。
これ以外の点で1980年代に特徴があるとすれば、それは女性のみならず、男性にも化粧が広まっていったということである。
男性の化粧の歴史については、本来この論文の趣旨ではないが、時代背景をより正確に押さえ、女性の化粧の歴史の補完とするべく、ここに述べていきたいと思う。
男性が化粧をするということは、化粧の文化的歴史的に見ても珍しいことではないが、しかし、ここでおきた変化は、従来とは違う要素を含んでいた。
1980年代に入り、音楽の世界で男性の化粧が流行する。
たとえば、YMOの坂本龍一、ジュリーこと沢田研二、郷ひろみなどであるが、彼らの行った、アイシャドウを塗り、口紅まで塗る化粧は、男性性を否定し、やや女性的な要素を強調する、というものであった。
これらは、男性も女性に見られるような化粧をするものだ、という文化として社会にアピールされ、1984年の秋に、ついに男性用のメイクアップ用品が発売される。
その内容は日焼け色のファンデーションに、眉を太めに描き、「凛々しい男らしさ」を強調しようとしたものであり、当時はマスコミなどもこぞってこの話題を取り上げるなどして、大変話題になったものの、結局はこういった化粧品はそれほどの定着を見ないままに終わってしまった。
今でも、男性用化粧品といえば、こうした装飾を意図したものではなく、パック剤や洗顔、化粧水などの基礎化粧品に重点が置かれている。
では、なぜ男性用のこうした化粧品は流行しなかったのだろうか。
村澤はこう分析する。
当時は、男女雇用機会均等法の施行などの影響もあり、眉毛が太くて胸毛が濃いといった従来の男性像が崩壊していった時代であった。
進歩的な女性からは、いまさら何故古い時代の男性像を化粧で表現しなければならないのか、といった非難を浴び、あるいは、保守的な男性からは、男が化粧することは女々しいことだ、などといった非難を浴びた。
当時のアンケートなどを見ても、ヒゲや体毛の濃い、汗臭い男性像は、若い女性にはもはや支持されなくなっていたことが分かる。
こうした視点で現在の男性用化粧品の動向を見ると、依然として、素肌の手入れに重点を置いた、清潔感重視の様子が見て取れる。
つまり、今なお男性用化粧品としてのニーズは何より、清潔感を主眼とした脱臭、脱毛などであるために、女性の行う「化粧」ほどには、男性の化粧品は定着を見ていないと言えるのだろう。
【1990年代以降】
1990年代に入ると、テレビに出演する若いアーティストの影響を受けて、若い女性の間で、眉を細くする化粧法と、そして「茶髪」が流行り出す。
茶髪に関しては、茶髪が一般的になるにしたがって、女性のみならず男性も染髪を行うようになり、さらには年齢も、下は高校生から上は従来白髪染めで黒く染めていた中高年の女性にまで、幅広く受け入れられてゆく。
『おしゃれ白書2000』によれば、高校生を対象とする調査で、1991年には5%の染髪率だったのが、2000年では41%にまで増加している。
20歳代でも、7割前後の人が自分の髪の毛を染める時代となり、伝統的な「日本人は黒い髪に、黒い瞳」という価値観は完全に崩壊し、黒い髪は一つの選択肢に過ぎないものなり、茶髪は社会に受容されていった。
この頃、前述の「ガングロ」の隆盛もあり、髪の毛においても肌の色においても、ともにボーダーレスになってゆく。
そして最近では、幅広い選択肢の中から、毎日の化粧を、TPOのみならず、気分などに応じても作り変えるようになってきた。
米澤泉はそれを「顔を着替える感覚」と表現するが、まさにその表現がしっくりくる。
1990年代以降は、女性たちの化粧の幅が格段に広がり、それに伴って、社会の求めるものや流行を追うのではなく、各自が自分の顔にもっとも似合う、そんな化粧方法を模索し、追及する、そんな時代になってきたと言えるだろう。 
3.化粧文化を支える日本人の美意識
前章までに述べてきた日本の歴史を踏まえた上で、現代日本人にも通ずる、日本人の深層に根づく特有の美意識を探ると、平安時代に発達した貴族社会の中に、そのルーツを見出せる、と村澤は言う。
そして、この美意識のことを、「顔隠しの文化」と呼ぶ。
これについては、前節の「古代末〜中世」の部分で少し触れたが、以下でもう少し詳細に、「顔隠しの文化」について探っていきたい。
平安時代の貴族社会においては、男女でお互いが顔を知り合っているということは、特別な関係であるということを示唆した。
また、外出時には被衣や虫の垂れ衣などで子を被うのが当たり前であるとされた。
こうした社会では、顔をむやみに見せないことが美とされ、たとえば「耳挟み」と呼ばれる、垂髪野女性が動作しやすいように、顔の前髪を耳に挟んで後方に掻きやる動作でさえ、貴族の子女にとってはたしなみに欠けるとして敬遠されていた。
これが、近世に入って髪を結い上げるようになると、顔が露出するようになり、その結果、武家の女性は人前では化粧をして素顔を見せない=「隠す」ことが美とされるようになっていった。
ほかにも、平安時代に貴族の女性の成女式から始まったといわれる眉を落とす化粧は、江戸時代には一般女性が結婚して子供ができると剃る風習へと変化はするが、感情によって動かされる眉の存在の否定、すなわち、感情表出を隠すのに役立ったとも言い換えられる。
また、歯を黒く染めるお歯黒も、白い歯を目立たなくすることで、口元を隠す風習にも通じる行為と解釈できる。
さらに、「顔隠し」が感情表出の否定と言える典型例を、新渡戸稲造の『武士道』から拾うことができる。それが「武士は3年に片頬」という言葉である。
これは、武士が感情を表に出すのは男らしくないという考えから、せいぜい3年に1度、それも片方の頬を動かすくらいでよい、とされたもので、「喜怒色に現わさず」という、偉大な人物を評する際に用いられる表現にも、通じるものを見て取れる。
このような、素顔を見せない、あるいは内面の感情を表に出すのは良くないとした武家の規範的な美意識が、明治以降、政府によって国民文化の中心に位置付けられたことで、国民一般のものとなっていった。
こうした美意識が、後述する化粧文化の日本的な特徴と言える、「隠す」化粧と「見せる」化粧を生んだと考えられる。 
4.化粧文化の国際比較
ここでは、前述までの日本における化粧の歴史的変遷、美意識の考察を踏まえて、化粧を国際比較してみようと思う。
それによって、日本の化粧についての考察を、より深めていきたい。
この節でも、引き続き村澤と大坊の考察を中心軸に見ていこうと思う。
1 化粧批判の国際比較
化粧文化・化粧観を概観する上で、非常に参考になるのが、「化粧批判」である。
化粧は、歴史的に「身分や階級、あるいは未既婚などの社会性を表現したり、その社会性に対して個人の美意識や嗜好を表現する」こともあった。
そのような化粧に対しては、やはり保守的な立場から数多くの批判が行われてきた。そうした化粧への批判を読み解くことで、化粧というものへの、各文化の捉え方を探ることができる。
以下に、日本と西欧の化粧批判における違いを探ってみたい。
日本における化粧批判
日本において非常に特徴的だといえるのは、化粧行為そのものを全面的に否定するということが、あまりされてこなかったという点である。
全面否定とも取れる記述を探ると、古くは平安時代の『堤中納言物語』の中でのものがある。
この中で、有名な「蟲めづる姫君」が、「人はすべてつくろふところあるはわろし」として「眉さらに抜き給はず、歯ぐろめさらに、うるさし、きたなし、とてつけ給はず」と、白い歯を見せて微笑む場面がある。
当時の貴族の女性は、普通は白粉を塗り、お歯黒をして、眉を抜き、その上に描き眉をし、髪をきちんと梳いていたのだから、この姫君が異様に見えるのも無理からぬことであったろう。
しかし、作者は、姫君はけっして醜くは無く、むしろ個性的な美しさを感じるとして、化粧の否定を暗示する記述をしている。
江戸時代に入ると、女性の往来物や教科書のみならず、随筆や文学作品にまで化粧に関する記載は増えてゆくが、その中で書かれている内容は、化粧法や塗り方に関する記述が主であり、化粧行為それ自体への言及は少ない。
それゆえ、化粧についての批判も、化粧法や塗り方に関しての批判が多く、化粧を強く否定したような記述は徳川光圀による『西山公随筆』に例外的に見られるくらいである。
批判の例をいくつか見ると、たとえば、1650年刊行の女性としてのたしなみを細かく記した『女鏡秘伝書』には、白粉は「ぬりて共おしろいすこしものこり侍れば見ぐるしき物なり。能々のごひとりてよし」とあり、むらにならないように、余分な白粉はぬぐい去るよう教えている。
また、その11年後に出た仮名草子『女郎花物語』には、「よく拭はさる顔に、厚くおしろい志たる、口紅のてりかがける(ほど濃くさす)」ことは、見苦しいと述べられている。
1692年に刊行された女性の教科書『女重宝記』にも、白粉については『女鏡秘伝書』と同様の内容を述べつつ、紅についても「頬さき、口びる、爪さきにぬる事うすうすとあるべし。こくあかきは、いやしく茶屋のかかにたとへたり」と薄化粧を奨励していたという。
そして、以後の化粧本などでは数え切れないくらいに薄化粧を奨励する記述が見られるが、無論、江戸時代に厚化粧が無かったわけではなく、宮中や役者、そして遊女の白粉の消費は非常に多く、江戸よりも京大阪が濃化粧・厚化粧だとされていた。
薄化粧が武家社会で奨励された理由を探ると、当時、化粧品が高価であったということが第一に挙げられるという。
質素を旨として節約令・倹約令などを出している立場からすれば、「紅一匁、金一匁」とまで言われたほど高価な紅を濃く塗ることは、ひと目で浪費しているように見えてしまうため、紅などを濃く塗ることは、戒めざるを得なかったといえる。
髪型に関しても、武家の女性は自分の髪は自分で結い上げるのが基本であるとされ、女髪結などを使うことは許されておらず、そうした背景からも、質素であるということは、高価な化粧品を使用しない、薄化粧であるべきだ、という発想だったようである。
したがって、浮世絵に出てくるような赤く輝くような唇は、もっぱら遊女たちのシンボルであった。
この当時は、化粧品を消費できるような身分は、すなわち経済的に裕福であるということを表現していたのである。
西欧における化粧批判
一方、西欧においては、前述の日本とは違い、化粧行為の全面的な批判という記述が目に付く。以下にその事例を見てみることにする。
西欧における化粧批判のルーツは、古代ギリシア時代にすでにあったという。
たとえば、クセノフォンは『家政論』のなかで「化粧をして私を偽ろうとしているのは、私が自分の財産をおまえに偽ることと同じだ」と妻の化粧を非難している。
スパルタの立法者リュクルゴスは、健全な精神に有害であるとして化粧品を追放し、その使用を禁止した。というのも、白色顔料として鉛白粉が、紅には植物性以外に水銀化合物である辰砂が使用されていたためである。
古代ローマ時代にも、風刺詩人マルティアリスなどが、顔に塗った白亜土が落ちぬよう雨を恐れる女や、鉛白粉が黒くならないように太陽の光を必要以上に避ける女などのことを、皮肉っぽく批判している。
中世以降も、化粧による人口的な美しさは常に批判され、攻撃されてきた。
ただし、そうした批判は主に、作り物である化粧顔ではなく、生まれながらの美しさを賞賛する、といった趣旨であった。
たとえば、修道士であり著述家でもあるイタリアのフィレンツオーラは、他の聖職者と同じく、理想の美をもたらすのは神であるから、化粧による人工的な修正は神に対する冒涜であり、忌まわしい行為であると考えていた。
この種の警告は、たとえばシェイクスピアの劇中でも登場する。
たとえば『ハムレット』の中には、ハムレットが白粉を塗ったオフィーリアに対して「神がつくり給うた顔を、おまえたち女は化粧して別の顔にしてしまう」と責める場面がある。
こうした化粧への批判は挙げればきりが無いが、しかし、多くの化粧批判にもかかわらず、化粧が廃れることは無かった。
むしろ、時代とともに化粧文化は彩り豊かになり、白粉に、頬紅、口紅、アイシャドウなどが加わり、さまざまな形のつけぼくろなども流行した。
こうして18世紀になると、高度な化粧技術が発達してゆくが、19世紀に入ると、青白い肌がもてはやされるようになり、化粧法も全体として薄化粧を良しとする風潮に傾いていった。
同時に、化粧に対する批判も、かつてのようなヒステリックな性格ではなく、ゆるやかなものへと変化してゆく。
そして、20世紀になり、化粧批判論の勢いは非常に弱いものになり、一方では化粧をはじめとする美容関連産業の発展などもあり、古代エジプト以来おそらく初めて、化粧品の自由な使用が、社会的にも道徳的にも認められるようになり、今日に至っている。
日本における薄化粧の奨励
以上の化粧批判に対する違いを見てみると、日本においては、化粧は全面的には否定されることがほとんど無く、反対に西欧においては化粧の全面的な否定が半ば当然と考えられていた。
なぜ、日本では化粧行為そのものに対する批判が弱かったのであろうか。
村澤は以下のように分析する。
当時の儒教的な女性観を見ると、家のため、夫のために身を飾り、化粧をするということはいわば、女性の義務とされており、1692年刊行の『女重宝記』などにも、81日間に渡って化粧をしなかった女性は、女性ではない、という内容の記述があるという。
伝統的な武家の化粧観では、化粧をしなければ親や夫の前に出るべきではないとまで記されているように、化粧をすることが大きな前提であった。
したがって、化粧の全面的な否定がほとんど無く、しかし一方で、武家社会では質素・倹約が何より推奨されていたので、化粧品にお金をかけられず、薄化粧が良しとされたのだという。
これについて、私の見解は多少村澤の説とは異なる。
私は、西欧と日本では、基軸となる精神的なよりどころが違うのではないか、と考えた。
まず、西欧における化粧批判に多く見られる文言を見ると、「神の与えた顔を人工的にいじって化粧をしている」ということに対する批判になっている。
この点を見れば分かるように、当時の西欧では、キリスト教が非常な隆盛を誇っていたために「神」の存在が絶対であり、精神的に帰依するよりどころを、なにより「神」に置いていた。
とすれば、神の創造したものを壊し、顔を強調・修正している女性には非難の眼差しが向くのは、当然であろう。
一方の日本では、知っての通り、宗教信仰はさして盛んではなく、その代わりに、精神的なよりどころを、「社会」あるいは「世間」に置いていたのだと考えられる。
それゆえ、日本人は自分を外側から見つめる「世間」の眼差しに非常に敏感であった。
外側を意識する、ということは、内と外に明確な線を引くということである。
すると、当然、内である「自分」に見せる顔と、外である「世間」に見せる顔は全く異なってきて、最終的には、「世間」に対して「世間」で望まれているような顔を見せる、という文化が発達したのではないか。
とすれば、内で見せるような顔を世間で見せる行為、すなわち、化粧をしないで人前に出るという行為は許されないものであり、恥ずべき行為である。
しかし同時に、質素を旨とする「世間」の望まないような、高価な化粧品で過度な化粧を施すことも、許されないことであったのだろうと推測できる。
そのため、「化粧はしなければならないものであるが、しかし、薄化粧でなければならない」という文化は、この当時は、「世間」という外側のファクターから、女性たちに対して一方的に望まれてできたのだと考えられる。
2 美意識の国際比較
続いて、美意識の違いについての文化的な違いを、社会的脈絡の中で国際比較しながら見ていきたいと思う。
【村澤による日韓中比較】
以下の表は、大坊、村澤らが1991年に「日本と韓国の美意識比較研究」として実施した調査結果で、それに後に中国や英国をも比較対象として加えたものであるが、当該表では、日韓中のみの比較としてまとめられている。
刺激人物の選定は、日本と韓国の女子大生の顔を人類学におけるマーチン法に基づいて、左横、左斜、正面から撮影し、その3ポーズのモノクロ写真を1枚のスライド写真に合成して、これを呈示刺激としたものである。
予備調査を経て、最終的には「美しさ」の尺度で偏りがないように配慮して、日韓それぞれに選定した魅力水準(高・中・低)に各3人、計36人(=3人×3(魅力水準)×2(刺激人物の国別)×2(選定者の国別))の選定をしている。
本調査は、この予備調査で選出した36人の顔写真を投影し、集団的に調査項目にしたがって回答を求めている。
調査項目の構成は、対人魅力度やパーソナリティの印象を問う11項目(「感じの良い−感じの悪い」「好きな−嫌いな」「親しみやすい−親しみにくい」「上品な−下品な」「つめたい−あたたかい」「美しい−醜い」「派手な−地味な」「内向的な−外交的な」「かわいい−にくらしい」「セクシーな−清楚な」「女性的−男性的」)と、自国人らしさ(日本人被験者には「日本人らしさ」、韓国人被験者には「韓国人らしさ」)を5段階で評価すること、そして、印象の強いポーズは左横、左斜、正面のいずれであるか、の選択を求める項目の、合計13項目であった。
そして被験者は、日本人大学生(男性247名、女性232名)、韓国人大学生(男性173名、女性238名)、中国人大学生(男性163名、女性170名)であった。
比較結果を、見ていきたい。
a.評定結果と魅力水準、および国籍差
評価項目の代表例として、「好きな−嫌いな」を選び、被験者別に魅力水準の差、国籍の違いを見てみる。
このような結果を含む評定結果と魅力水準、および国籍差の全体を概観して、各評定が魅力水準と関係あるのか、あるいは日韓の国籍との関連はどうかを評定者の国別にまとめたものが、次の表になる。
表中の○印は危険率5%以下で有意であること、△印は危険率10%で有意であること、そして、無印は有意差が無いことを表している。
女性の評定結果
日本人女性の評定結果を見ると、魅力水準では「つめたい」を除いて有意であり、刺激人物の国籍では「内向的」「セクシーな」を除いて有意、という結果であった。
概ね、日本人は高魅力度の人に高い評価をし、国籍による違いがそれぞれの評価に表れている。特に「好き」を見ると、刺激人物の国籍では、日本人は日本人のほうをより好む傾向にあると分かった。
続いて、韓国人女性の評定結果を見ると、日本人ほど有意な差を示す項目はあまリ無く、特に国籍差は明確に表れていない。
つまりこれは、韓国人女性においては、魅力水準とそれぞれの評価が必ずしも一致しないということであり、国籍の違いはさらに関係しないということを意味する。
そして、中国人女性についても、ほぼ同様の結果が得られている。
男性の評定結果
次に、男性の評定結果に移る。
男性についても、ほぼ女性と同じ傾向であるが、日本人男性は日本人女性とほぼ一致するのに対して、韓国人男性は韓国人女性よりも全体にやや有意な傾向を示すという違いが見られた。
日本人男性は刺激人物の魅力水準において有意な評定が多く、直線的に影響された評定を行っている。
国籍差については、日本人は刺激人物の国籍により評定が異なり、日本人の刺激人物を、より高く評価している。
しかし、自国人らしさの評定については、刺激人物の国籍差になんら識別的ではなく、無意識に日本人に親和性を置いているものと思われる。
韓国人男性は、刺激人物の国籍の違いが、ほとんど影響しておらず、「自国人らしさ」が明確に捉えられていた。
特に、高魅力において、韓国人刺激人物との差が大きいことは、重要なポイントであるといえよう。
しかしこれは、刺激人物の魅力水準には影響しない。
中国人男女の評定結果
中国人(男性・女性)における刺激人物の国籍主効果は、12の評定尺度中、「地味」「外交的」の2つを除いて有意であった。
刺激人物の魅力度主効果は「あたたかい」を除いて有意であり、国籍×魅力度では、「上品な」のみで有意であった。
中国人学生の刺激人物の魅力水準が有意な評定が多い傾向は、中国人らしさにおいても同様であった。これは、韓国人回答者よりも、日本人回答者に近いもの(日本人>中国人>韓国人)であり、中国人らしさにおいても、日本人刺激人物を「中国人らしい」とする傾向にあった。
b.印象の強い顔のポーズの比較
続いて、印象の強い顔のポーズの比較を、国別・男女別に見てみる。
日本人女性の場合は、「正面」が58%と一番高く、次に「斜め」の38%、最後に「横顔」の4%となっており、男性についても、58%、37%、5%でほぼ同じ数値であった。
韓国人の場合は、順位は日本人と同じであるが、「正面」「斜め」「横顔」の順に、女性で49%、40%、11%、男性で48%、42%、10%であった。
この傾向は、高中魅力では日本人刺激人物に対して強く、高中魅力の韓国人刺激人物に対しては、「斜め横」に注目する傾向が強かった。
中国人は、日本人よりも立体的な見方をする傾向(韓国人と同程度とされる)があり、この傾向は男女間での差はあまり大きくないが、男性の刺激人物でより強いものであった。
刺激人物の魅力度との関係では、魅力度の低い人ほど、正面>半側面>側面と判断されていた。
以上を簡単にまとめれば、日本人は「横顔」をよく見ないのに対して、韓国人・中国人は「横顔」をよりよく見ているということになる。
すなわち、日本人に比べて韓国人・中国人のほうが「横」や「斜め横」への注目度が高く、韓国人・中国人は顔を立体的に見ているのに対し、日本人は正面から平面的に見る傾向にあるといえるのである。
この立体的な認知傾向は、男女を越えた民族的な違いである。
このことから、顔の印象の強さの違いは、男女差よりも、生まれ育った国の違いによる影響の方が強いと言える。
【大坊による日韓比較】
続いて、このいま述べてきたこの実験調査の結果を踏まえた、大坊の考察を見てみることにする。
大坊によれば、「美人」とされる顔は、民族を超えて必ずしも同じではなく、日本においては、「丸みのある顔で、目が大きく、唇の小さな、鼻の小さな顔」という豊頬が、一般的に魅力的とされるという。
しかし、各部位の配置関係を含めるならば、この基準は文化や時代によって変化しており、最近では、大きな口が受け入れられ、いっそうコミュニケーション力の重視が反映されているのではないかと推測されている。
これを踏まえて、以下に日本と韓国を取り出して、文化的違いを見てみたい。
自国人の魅力
地理的、歴史的に密接な関係をもつ朝鮮半島と日本とは歴史的に多くの共通点がありながら違いも多くあり、その文化と行動様式について比較することの意義は少なくない。
特に、両者の美意識については、対照的だとして取り上げられることがある。
それは、日本では「顔よりこころ」とされるのに対して、韓国では「こころのきれいな人は顔も美しい」といわれることに象徴されるように、「形の美=内面美」という図式があるかないか、ということに強く関連する。
すなわち、韓国では、美を明確に形や外見に表すことを是とし、ひいては形を変えることを厭わないストレートな文化があるが、一方の日本にはそうした美意識は無く、好対照をなしているとされている。
たとえば、その分かりやすい例をひけば、韓国においては、ミス・コンテストへの応募は盛況であるし、しかも、整形手術が日本に比べて遥かにポピュラーであるなどといったことが、よく知られている。
ここで、前述の調査の「自国人らしさ」についてのみの表を見てみたい。
これと前述の議論を踏まえ、結果をここにもう一度まとめると、高魅力の人物は日韓両国ともに一致していて、「美しい」「派手」と認知されるが、韓国人にくらべて日本人のほうが呈示した人物の美的水準に、より鋭敏に反応した回答結果を示している。
また、韓国人被験者は韓国人人物を明確に自国人らしいと識別できているが、日本人被験者はできていない。
しかし、被験者には呈示人物の国籍や魅力水準を伝えていないにも関わらず、日本人は日本人のモデルをより肯定的に認知しており、このような違いが示されている点が興味深い。
これについて大坊は、「日本人は暗黙のうちに民族的な違いに反応し、より身近な特徴をもつ者への親近感をもっていながら、そのことを意識していない」のだと述べている。
また、日本人では美的であれば「好き」「かわいい」というように、認知する意味の重複が大きいのに対して、韓国人では評価次元の意味の独立性が日本人より高いものであった。
このことから見ると、韓国人は多面的な見方ができるのに対して、日本人の見方はより単純といわざるを得ない。
さらに、日本人は正面顔への注目度が高く、それに対して韓国人は顔の奥行きに注目しており、顔の細部に敏感に反応している点について、韓国人は日本人にくらべて、立体的で外顕的な美意識を持っていると、大坊もまた村澤と同様の分析をしている。
そしてこれについて、「韓国が大陸の半島部に位置し、多くの文化と接し、幾度もの民族分断という長い歴史における感情の起伏や文化のヘテロ性に、なんらかの手がかりを求めることができるのではとも考えられ」るとも、述べている。
また、日本人では、大きな目、韓国人では広い顎、中国人では広い額、英国人ではやや上がり目で広い顎の特徴を手がかりに認知していることが知られており、そして、中国人、英国人では男女差はなく、判断枠の一般性の高いこともわかっている。
女性顔の魅力
大坊によれば、女性の顔を呈示して顔の美意識についての調査からは、以下の2つの基準がほぼ共通に用いられていたという。それが、
1 一般的な親しみやすさ
2 積極性・活動性
である。
ただし、日本人の場合には、積極性・活動性には、外交的という意味あいが主であり、セクシーさの判断はきわめて希薄であること、そして、一般的魅力も他の国にくらべると「感じのよさ」という漠然とした意味あいの強いものであったという。
これに対して、他の国(韓国、中国、英国)では、2の規準では「セクシーさ」の意味が強く、外向性は評定の積極的な手がかりにはなっていない。
特に、ほかの国に比べて英国では、「セクシーさ」への注目度が最も高く、この要素が美意識の中心的な意味をもっていることが示されている。
【この調査からの考察】
この調査結果を見て、私が考察した日本人の美意識の特徴を以下に述べて、この章のまとめとしたい。
まず第一点目として、日本人は韓国人、中国人に比べて、社会的に魅力的だと認知されている顔をより魅力的であると感じ、反対に、社会的に魅力的で無いと認知されている顔には、あまり魅力を感じていないという点に注目したい。
すなわちこれは、日本人は魅力を感じる基準が、社会全体としてある程度の総意を持ってまとまっているということではないか。
ということは、ある人物について、日本人の評価がばらばらになることは少なく、韓国人や中国人に比べて、個人に対する日本人の意見は一致を見やすいと言える。
このことからも、やはり前節に述べてきたように、日本における美意識は、個人の内部でではなく、社会の側から規定されることが多いと言えそうだ。
江戸時代に見たような「世間」による規定は現在ではもはや廃れたものの、日本人は、現在もなお、無意識にその社会の示す美の基準に従った、比較的ふり幅の少ない価値基準を持っているのである。
第二点目として、日本人は顔を平面的に捉えることが多いのに対して、韓国人や中国人が顔を立体的に捉えているということに注目したい。
これは、日本人は顔を多方面から詳細に至るまで観察するということをせず、初見での感覚を大事にしている、ということではないか。
日本は、歴史的にも、「顔隠しの文化」と称されるような、顔をできるだけ隠すことを美とする意識の中にいた。
そのため、顔の造りを細部まで観察する機会に乏しく、細部まで観察することを嫌う文化ができたのだと思う。
こうした意識のために日本人は、顔を細かに観察した上での判断ではなく、最初に顔を見たときの第一印象を、判断における一番の基準としているのだろう。
第三点目として、大坊の指摘にあった、日本人の重視する、積極性はあくまで「感じのよさ」であり、「セクシーさ」の要素をあまり含まないというところに注目したい。
ここにいう、「感じのよさ」と「セクシーさ」の違いは何であろうか。
これについて私は、「セクシーさ」は、自分に性的な魅力や社交性があるということを積極的にアピールしているのに対して、「感じのよさ」は、自分には社会的に交友関係を上手く築くのに足りないものは特に無いということを表しているのだと分析した。
すなわち、「セクシーさ」はポジティブ・リスト的に、自分に備わっているものを挙げてアピールしており、反対に、「感じのよさ」はネガティブ・リスト的に、自分には特に欠けたところが無い、ということを表現している。
日本と韓国・中国の歴史的・文化的な違いにも一致し、日本では積極的に自分の魅力を人にアピールするのではなく、自分には十分な社会性が備わっているということを、慎ましく薄化粧でアピールしてきた、という解釈ができる。
また、「セクシーさ」には性的な意味あいが含まれるのに対して、「感じのよさ」にはそれが無いように見えることも重要である。
これは、日本における社交性のアピールには、元来性的な意味あいは無く、化粧においても性的な意味は無かった。
そのため、歴史的に自由な化粧が許容されるようになってきた最近ようやく、化粧による性的なアピールが行われるようになったものの、依然として美意識の次元では、他国に比べ、化粧行動にあまり性的な意味あいを求めていないと言えるのであろう。
以上に見てきたように、化粧行動は、各文化によって異なる美意識を下敷きにして、社会的・文化的に望まれて発達してきたものであった。
そして現代に入り、技術的にも進歩を遂げ、価値観の多様化などの影響で、その受け取られ方も様変わりした化粧には、多くの心理的効果の存在が指摘されている。
次章では、そんな化粧の心理的な効果について考察し、化粧の持つ可能性を探ってゆきたい。 
第二章 化粧することを望む「心理」

 

1.人は人の顔のどこを見るのか?
本章では、化粧は人間の心理はどのように影響、作用するのか。
そして、化粧にはどのような可能性があるのかについて見ていきたい。
それにあたって、まず本節では、化粧に限らず、人が人の顔を見る際に、どこをどのように見て魅力を感じるのか、という点について、軽く触れてみたいと思う。
カニンガムの分析
大坊は、女性の多数の容貌部位特徴と魅力の相関関係について調べたカニンガム(Cunningham、1986)の調査を、以下の3つに分類し、まとめている。
1 乳幼児的な特徴
(大きな目、小さな鼻、小さな顎、目の間の感覚など)
2 性的成熟さの特徴(突き出した頬骨、せまい頬など)
3 表現力を示す特徴
(眉毛の位置の高さ、微笑んだときの唇間の距離、大きな瞳など)
つまり、1のような「幼さ」の特徴は保護の対象として、一方、2のような「大人」の特徴は、成熟した異性選択の手がかりとして認知されているというのである。
これらの魅力のうちのどれをより重要視するかについては、前章までに見てきたような、時代、文化、社会、美意識などの脈絡の中で考えなくてはならないが、近年になって注目されてきたのが、顔のダイナミックな側面である。
ダイナミックな側面の源泉部位は、コミュニケーションの主要な担い手でもある、口唇の大きさ(発話)と目の大きさ(視線)のことであるが、これらは感情表出の主な担い手であり、その人の持つ形態等の特徴がもたらす影響を増幅ないし緩和するものになる。
たとえば、神経質とみなされやすい顔の構造の人でも、口を大きく開けて笑ったりすれば親しみがわいたりするように、目と口は、そのコミュニケーション上のはたらきの大きさからとりわけ注目されやすい。
こうした議論を踏まえて、次節以降では、本格的に化粧の内容について見ていきたい。 
2.化粧品から見る化粧
本節では、視点を化粧品に当ててみたいと思う。
人が化粧をする際、化粧品はその根幹を担うファクターである。
化粧の内容を考察するに当たって、化粧品を通して見てみることで、得られるものは多いはずである。
では、現在、日本で化粧品に積極的な興味を持っているのはどういった層で、化粧品にはどのような種類があり、それらに対して人々はどのような効能を求めているのだろうか。
その考察にあたって私は、「@cosme」という口コミサイトを、現代の化粧について読み解くための大きな手がかりとして、以下に見ていきたい。
@cosmeとは?
「@cosme」とは、株式会社アイスタイルの運営する化粧品の口コミサイトで、ユーザーが自分の使用している化粧品について、★0〜★7までの8段階での評価を投稿し、その平均評価のランキングと口コミ内容などが、常に更新され、掲載されている。
このホームページサイトは、若い女性たちの間での認知度が非常に高く、2007年01月15日現在の口コミの総投稿数は、4,436,641件にも上る。
サイト内で話題になった商品は売り上げが格段に上がるため、化粧品メーカー側も「@cosme」に積極的に情報を載せたり、「@cosme」とのコラボレーションで商品開発をしたり、最近では、化粧品売り場に「@cosmeで人気!」などというポップをしばしば見かけるほどである。
毎年、その年度の口コミを総合して『本当に良かったコスメ』というシリーズで、本も出版されている。
サイトデータ
それでは、「@cosme」公式ページによる、サイトプロファイルを次の頁に見てみたい。
「@cosme会員」とは、実際に会員登録して自ら口コミを行っている人数であるが、「@cosme」には、口コミを行うことはせずにサイトの閲覧のみする女性もとても多い。
そのため、ユニークユーザーの数や、月刊のページビュー数などが非常に多くなっている。
そのデータ推移も、以下に掲載する。
続いて、ユーザーの情報を見てみる。
これを見ると、ユーザーは20代から30代が圧倒的であり、この年代の女性の化粧品への関心の高さがうかがえる。
現在日本では、高校生の化粧はまだまだ一般的に認められていないため、女性が公的に化粧を始めるのは、たいていの場合18歳からになる。
18歳になり、大学や仕事場、あるいはアルバイト先などといった、高校までと違い、化粧するのが当たり前という環境、年齢に置かれると、化粧品への関心がこの年から格段に上がると考えられる。
とすれば、こうした分布図になるのは当然といえる。
化粧品の種類
現在、「化粧品」と一口に言っても、実に多様な種類がある。
化粧品の概要について、前述の「@cosme」の口コミの分類方法を参考にして、以下に種類別に列挙していきたい。
但し、口コミ件数は2007年01月15日現在のものとする。
1 クレンジング・洗顔
固形石けん(99799件)
洗顔フォーム(85139件)
洗顔パウダー(27541件)
その他洗顔料(47068件)
クレンジングオイル(82228件)
ミルククレンジング(39931件)
クレンジングジェル(34243件)
その他クレンジング(39904件)
ポイントメイク落とし(22064件)
2 デイリーケア
化粧水(325626件)
ジェル・美容液(227764件)
乳液(105180件)
クリーム(102126件)
オイル(27961件)
3 スペシャルケア
パック(88457件)
マッサージ(22075件)
ゴマージュ・ピーリング(25249件)
アイケア(29678件)
リップケア(101370件)
4 ベースメイク
化粧下地(164652件)
パウダーファンデ(93168件)
リキッドファンデ(69189件)
クリームファンデ(35256件)
スティック・その他ファンデ(15524件)
コンシーラー(43658件)
ルースパウダー(52876件)
プレストパウダー(39155件)
5 メイクアップ
アイブロウペンシル(26797件)
アイブロウパウダー・その他(24955件)
ペンシルアイライナー(35803件)
リキッドアイライナー(48817件)
マスカラ(166966件)
マスカラ下地・まつげ美容液(31999件)
アイシャドウ(152830件)
口紅(106983件)
リップグロス(136976件)
リップライナー(12796件)
チーク(81445件)
ネイルカラー(69459件)
ネイルケア・ネイルグッズ(18958件)
リムーバー(10127件)
6 フレグランス
レディスフレグランス(127065件)
メンズフレグランス(17080件)
その他フレグランス(4950件)
7 ヘアケア
シャンプー・リンス(115667件)
ヘアスタイリング(63003件)
ホームカラー・パーマ(15957件)
その他ヘアケア(79195件)
8 ボディーケア
石けん・ボディ洗浄料(54067件)
入浴剤・バスグッズ(43409件)
ボディケア(106853件)
フットケア(12904件)
ハンドケア(45713件)
9 サンケア
日焼け止め(92774件)
10 メイク小物
ビューラー(20092件)
コットン(22061件)
あぶらとり紙(22846件)
その他のメイク小物(58749件)
11 キット・セット
キット・セット(39248件)
12 美容サプリメント
美肌サプリメント(24180件)
ボディシェープサプリメント(8020件)
その他サプリメント(20189件)
13 美容器具
美容器具/フェイス(18898件)
美容器具/ヘア(10106件)
美容器具/ボディ(5861件)
美容器具/その他(1553件)
14 その他
その他(107646件)
「スキンケア」と「メイクアップ」
以上のように、さまざまなジャンルに分けられる化粧品であるが、一般的に、顔における化粧行動は「スキンケア」と「メイクアップ」の二つに分けられ、上記の口コミの件数を見ても、特にこれら二つの項目に興味・関心が集中しているのが分かる。
「スキンケア」は、「基礎化粧」とも呼ばれ、素肌を整える目的のもので、素肌の汚れを落として清潔にしたり、肌に何かトラブルがある場合には、それを解決したりするために行うものである。
上の分類の1、2、3が該当する。
「メイクアップ」とは、顔の線や面、色や形をデザインして美しく容貌を変える目的のもので、大きく「パーツメイク」と「ベースメイク」に分けられる。
「パーツメイク」とは、上記の5が該当し、素肌以外の部分、すなわち眉や目、唇などについて行うもので、個人の特性を補正、強調しながら、こうありたい、こうなりたいと願う顔に近づくものである。
口コミ件数を見てみると、「パーツメイク」の中では特に、まつげ、まぶた、唇への関心が高いことが分かる。
各部位での口コミ件数をまとめてみると、このようになる。
まつげ(マスカラ+マスカラ下地・まつげ美容液)…198965件
まぶた(アイシャドウ)…152830件
唇(口紅+リップグロス+リップライナー)…256755件
一方、「ベースメイク」と呼ばれるものが、上記の4にあたるもので、ファンデーションなどで肌の色むらを整えたり、ツヤを出したりして、素肌を美しく見せるために行うものである。
考察その1 〜まつげ
では、特に関心の高い部位について、各項ごとに、もう少し深く各化粧品について考察を加えていき、化粧品の考察から、女性が化粧に望んでいる効果について、探っていきたい。
「@cosme」には、各人が商品に口コミをする際、各アイテムごとに、感じられた「効果・機能」を複数選択式に選ぶ、という項目がある。
それはすなわち、多くの女性がその商品に対して求めている機能であるといえる。
以下に、「マスカラ」の「効果・機能」の部分を抜粋する。
そもそもマスカラとは、上下のまつげに塗布することで、まつげの印象を強め、上下に目を大きく見せる効果がある。語源はイタリア語の「maschera」で、英語の「mask」と同義の、「覆う」という意味の単語である。
「美容コスメ用語健康辞典」には、このように記載されている。
マスカラとはまつげに塗布してまつげを濃く長くみせ、目の印象を強める目的で用いられるアイメイクアップ化粧品のことをいいます。
液状で、繊維の入ったものや、透明タイプ、カラフルなものなどさまざまなものがあります。
マスカラをつける前に、アイラッシュカーラーを使って、まつげをカールさせると、きれいに仕上がります。アイラッシュカーラーがうまく使えない場合は、透明タイプやカール効果の高いマスカラで、まつげを上げるように使うだけでも、目もとの印象はかなりちがってきます。
口コミの意見を見ていても、マスカラに対してはとにかく、濃く長いまつげを作り、そしてしっかりカールをキープし続けること、そして、雨や涙などで濡れた際に汚く落ちたりしないことなどが求められている。
このことから考察するに、現在の目の化粧においては、「ぱっちり大きな目であること」が、大変関心を持って望まれているようである。
さらに、最近の雑誌はしばしば「目力」という単語を使い、目の印象が強くなるようなメイク方法をこぞって掲載している。
このぱっちりした大きな目というのは、前節で述べたカニンガムの分類によれば、「乳幼児的な特徴」にあたり、保護の対象としての「幼さ」を強調するものである。
さらに、私はこれに加えて、目は人と人とのコミュニケーションで最も印象に残りやすい顔の部位であることから、目の大きさを強調することによって、「自分は社交的・積極的な人間である」ということを最も手軽に表現できるのだと考える。
この、目の印象の強調を望む声は、アイシャドウにおいても同様に聞かれる。
考察その2 〜まぶた
先ほどと同様に、「@cosme」の「アイシャドウ」の「効果・機能」を見てみる。
アイシャドウとは、別名をアイカラーともいい、目元に陰影を付けることで目を立体的に、大きく見せたり、あるいは、目元にツヤやラメ、色味を乗せることによって、目元の強調を図る目的のものである。
口コミの「効果・機能」の項目や、実際の口コミの意見を見ると、まぶたは非常に動きが激しいため、よれて取れてしまわないことを、多くの人が望んでいる。
それ以外の点については、各人がアイシャドウに何を求めるかによって変わってきており、色味の濃淡や、ツヤ、ラメの加減など、重視する項目は実に様々である。
しかし、どの意見についても共通しているのは、目元を美しく強調し、目元の印象を強くしたい、というものである。
やはり現在、マスカラ同様、目元を強調しようとする美意識・化粧意識が強いと言えそうだ。
考察その3 〜唇
さらに、口紅とリップグロスについても「@cosme」の「効果・機能」を見てみると、以下のように、アイシャドウと同じラインナップになっている。
実際の口コミを見てみると、まず、機能面で「潤い」と「持ち」を重要視している声が目立つ。
唇は非常にデリケートな部位であるため、カサカサにならない化粧品であるということが、非常に重要であるようだ。
さらには、発話や食事を行う部位でもあるため、どうしても取れやすくなってしまいがちであり、しっかりフィットして取れないものであるということも、重視されている。
その他の嗜好については、しばしば見かける表現が「ぷっくり」や「つやつや」といった言葉であるが、これでよって、目元同様、口元も強調しようとする傾向が強いことが分かる。
口元は、第一印象では目元のインパクトにかなわないが、会話の際には目以上にその存在が目立つ。
そして、カニンガムの分類例には入っていなかったものの、口元の強調は、「幼さ」というよりは「成熟さ」の強調である。
たとえば、唇はキスを連想させるし、また、妖艶な女性の映像や絵などで、その女性が手を口元に持っていっている図も、しばしば見うけられるなど、唇は性的なメッセージのアピールと受け取られやすいものなのである。
ということは、女性はアイシャドウとマスカラで大きな目を強調して「幼さ」をアピールし、一方で口元を強調することで「成熟さ」をアピールしていることになる。
この表現においてはもっぱら男性を対象としているように見えるが、目元と口元の強調は、前述のように、コミュニケーション能力が自分に備わっていることの強調にもなるため、同時に、社交性の主張になっているとも言える。
考察その4 〜肌
続いて肌であるが、ファンデーションにおける「効果・機能」は以下のようになっている。
ベースメイクの基本は何よりも、「肌をきれいに見せる」ということにある。
それゆえ、肌のムラを隠すカバー力は必須であるし、時間が経っても汚く崩れたりせず、そして、カサカサに乾いたりしないファンデーションが望まれる。
それ以外の点は、やはり各人のニーズによって変わってきており、マットな肌を好むか、ツヤ肌を好むか、あるいは美白やアクネケア(ニキビケア)の効用のあるものを選ぶか、といった好み別に、使うファンデーションが変わってくる。
ここで、他のアイテムとは違うベースメイクアイテムの特性として、上の項目で言う「ナチュラル」が挙げられる。
以前は「色白は七難隠す」といわれ、とにかく白い粉を塗る化粧法が良しとされたが、現在は自分の肌の色になるべく合ったものを使用し、肌に関しては、化粧しているという印象を持たれないようにすることが望ましいとされている。
一方、目元や口元については、そうした「ナチュラル」さでアイテムが選ばれることはほとんど無く、「@cosme」の「効果・機能」にも「ナチュラル」の項目は無い。
この理由は明確には分かっていないが、私はこのように分析する。
肌がナチュラルでなく厚く化粧されている様子は、歴史的に日本で行われてきた白粉での化粧を想起させ、非常に古臭いイメージを与えると考えられる。
そして、アイメイクは少し濃くても「化粧が上手」であるというメッセージになりうるが、分厚いベースメイクは、素肌が汚いということの信号になってしまい、ひいては肌の手入れも行き届いていない、「化粧が下手」な女だということになりうる。
これは、日本人のスキンケアへの関心の高さとも通じている。
考察のまとめ
以上を総括すると、日本人は目元と口元は、多少派手でもいいので強調して化粧して、「幼さ」と「成熟さ」をアピールしている。
この目元と口元は、同時に、コミュニケーションの際に最も目立つ部位であることから、社交性アピールの役割も果たしていると考えられる。
反対に、肌に関しては、なるべく厚化粧に見えないように作りこむことで、素肌そのもののきれいさを表現していると考えられる。
次節では、そうした化粧の効能について、述べていこうと思う。 
3.化粧の心理的効用
本節では、前節までで見てきた化粧品を使った化粧には、どのような心理的効用があるのかについて見ていきたい。
「隠す」と「見せる」
村澤によれば、化粧は「隠す」と「見せる」という2つの要素から成っている。
「隠す」とは、欠点や弱点をカムフラージュすることであり、「見せる」とは、「隠す」よりも積極的な行為で、新たな自己を表現するということである。
しかし、たとえば「隠す」は、なにもシミやそばかす、ニキビなどを専用のコンシーラーでカバーするというような、単に物理的視覚的に現状のマイナス点を消すことだけを意味するのではない。
前章で述べてきたように、日本にはもともと人前では素顔を隠す、という「顔隠しの文化」が根づいているため、たとえ口紅1本さしただけでも、心理的には、素顔を隠して化粧をしているという意識がある。
一方、「見せる」は、自分の特徴を強調して示すことであり、「見せる」ことで、自分の意図するイメージを他者に方向づけ、自分で自分に期待されるイメージを掲げることでもある。
たとえば、頬紅で血色の良く健康に見せたり、アイシャドウやマスカラで目元を美しく強調することなどが当てはまる。
化粧には、このような「隠す」「見せる」という働きの違いはあるものの、視覚的に両者を厳密に区別するのは難しい。
いずれにせよ、化粧は素顔そのものが伝える情報を人工的に「隠し見せる」試みである。
そして、このようにして自分の魅力を相手にアピールすることは、個人が期待する対人関係を築く場合にも、大変に有効な手段となる。
化粧することによって、自己の満足感を高めて自己回復を促進し、対人的積極性を増し、対人関係を円滑にすることができるのである。
すなわち、化粧は自分のアイデンティティの確認を演出し、そして、対人コミュニケーションを円滑にするための方法であるのだ。
なにを求め、化粧するのか?
では、そもそも女性たちは何を求めて化粧をしているのだろうか。
松井豊らは、都内の美容室に来た673名の女性客に対して質問調査を行い、より化粧に対する意識の高い女性が、意識の低い女性に比べて、化粧にどのような効用を期待しているのか、ということについて検討している。
それによれば、化粧に対する意識の高い女性たちに特徴的な、3つの効用感が指摘できる。
まず第一の効用感は、「化粧行為自体が持つ満足感」である。
これは、化粧による自己愛撫の快感や創造の楽しみ、変身願望の充足など、一人で鏡に向かっている時の自己満足感である。
続いて第二の効用感は「対人的効用」である。
これは、化粧により欠点を隠したり、あるいは美しさを強調して優越感や自己顕示欲求を満足させたり、自己の社会的役割や場の規範に同調したイメージを創ることなどを指し、主として対人場面での効用である。
第三の効用感は「心の健康」である。
化粧は、それによって個人の自信や積極性を高めることができるため、社会的適応や心理的な安定感を得ることができるというものである。
こうした効用は、現代女性の化粧行動に対する大きな動機である。
では以下で、化粧のもたらす具体的な効用を考察してみようと思う。
さまざまな研究を見てみると、化粧にはいくつかの特徴的な効用が見られる。
それらを大きく5つの効用に分けてみたい。
1 対人積極性の増大
2 アイデンティティ形成への寄与
3 自己実現の可能性
4 私的空間の構築と充実
5 セックス・アピールの効果
次に、この5つの効用について、詳細を説明する。
6 化粧と対人積極性
ここでは、松井の研究結果のまとめを参照していきたい。
「銀座」実験
まず、1983年9月の日曜日に、銀座4丁目の歩行者天国の路上で行われた実験を示す。
実験に参加した被験者は女子大生約100人で、「メーキャップ化粧品のキャンペーン」の名目で募集された。ただし、有効被験者は31名である。実験会場の見取り図は以下のようである。
被験者は銀座の実験会場に集合し、「キャンペーンの手伝いとアンケートの手伝い」という偽りの目的を教示された。
次に普段の薄い化粧のまま銀座4丁目の街頭に出て、通行人を対象として「アンケート」をとった。
するとその途中、見知らぬ人から道を尋ねられたり、「あなたの写真を撮らせてください」と依頼されたりする。
これらの依頼をする人は被験者と面識の無い実験協力者であり、街頭のあちこちには、被験者の行動を観察して評価を行う観察者が隠れていた。
「アンケート」が終わると被験者は会場に戻り、質問紙に回答して、パーソナルスペースを測定された。
パーソナルスペース(personal space)とは、個人が自分の身体の周囲に有している、他者の進入を不快に感じる心理空間である。
パーソナルスペースの大きさを測定する場合には、被験者に対して見知らぬ他者を近づけるか、見知らぬ他者に対して被験者が近づいて、「これ以上近づくと気障りだ」と感じるところで接近をやめ、この位置における相手との距離を測る。
見知らぬ人が被験者に近づく条件は被接近条件、被験者が近づく条件は接近条件と、それぞれ呼ばれる。
いずれの条件で測定しても、人に対して積極的で外向性の高い人ほど、この距離が短いことが知られている。
続いて被験者は、プロのメイクアップアーティストによって、彼女たちに「もっとも似合う」メイクアップを施してもらい、化粧後に質問紙に回答した。
回答後その化粧のまま、再び街頭に出て「アンケート」をとり、実験協力者からの依頼を受けた。
ただし、依頼の内容や依頼場所は実験前半とは変えてある。
会場に戻ると、また質問紙に回答し、パーソナルスペースを測定された。
さらに後日電話を通して、実験日の実験後の行動についての調査が行われた。
内向的な人が積極的に
この研究では、化粧の前後について、街頭で観察された被験者の行動、質問紙への回答、パーソナルスペースの大きさ、電話調査の回答結果などが比較されている。
街頭における被験者の行動の観察結果を、実験の前半(化粧前の顔)と、後半(化粧後の顔)で見てみると、いくつかの行動について統計的に有意な評価の差が認められた。
「アンケート」を実施している時の行動は、前半に比べて後半は「自信がありそう」で「エレガント」に振舞っていると評価された。
道を尋ねられた時の反応は、前半よりも後半の方が「自信がありそう」「エレガント」「楽しそう」「積極的」という印象を観察者に与えていた。
「行動が不自然」や「無愛想」という印象は、後半になると逆に減少していた。
次に、被験者全体について、パーソナルスペースの大きさを前半と後半で比べてみると、明確な差は得られなかった。
そこで、被験者の向性に着目して、外交的な人と内向的な人に分け、両者のパーソナルスペースの変化を比較した。
その結果をまとめた表が、次頁である。
図から分かるように、外交的な人は前半から後半にかけて距離を長くしているが、この差は統計的に有意ではなかった。
一方、内向的な人は前半から後半にかけて距離を短くしており、接近条件では有意な差の傾向を示していた。
先に示したように、パーソナルスペースの大きさは、対人的な積極性と関連する。
したがって、上記の図の結果は、化粧が内向的な人の対人的な積極性を増す効果を持っていることを示している。
さらに、被験者が施された化粧にどのくらい満足したかによって、被験者を分け、パーソナルスペースを比較してみると、化粧に満足した人はパーソナルスペースを有意に縮められているということも明らかになった。
電話調査によると、満足した人はパーソナルスペースだけでなく、「自信を持ち」「人目を避け」ない傾向も示された。
この実験では化粧を施さない統制郡を設定していないため、これのみで前半から後半にかけての変化がすべて化粧によるものだとは断定できないが、しかし、向性別の分析や化粧後の満足度の分析結果から見ると、前半から後半にかけての変化の多くは、化粧による効果だろうと推測される。
化粧は、少なくとも内向的な人については、女性としての自信を高め、他者に対する積極性、すなわち対人積極性を増す心理的な効果を持っているのである。
化粧に関する意識調査
この銀座実験とは別に、松井らは1984年に、首都圏に住む18〜44歳の女性500名を対象とする、化粧に関する意識調査を行っている。
この実験で松井らは、使っている化粧品の数が多いなど、より化粧に対して積極的な郡から順番にH郡、M郡、L郡として「化粧度」を分け、それぞれの郡について、化粧意識をまとめている。
それが次頁の表である。
この実験においても、基礎化粧、メイクアップを問わず、化粧度の高い人ほど、化粧後に自分の対人的な積極性が増すことを実感している。
そして、この効用が、女性たちのさらなる化粧行動をかき立てていると推測できる。
そして松井は、この結果から、化粧の心理的な効用を、気分転換や緊張感などのように、化粧すること事態が生み出す満足感の側面と、同姓や異性の目を気にし、周囲の人に合わせて生じる対人的な効用の側面に分けている。
これらを総合し、まとめたものが、先に触れた「化粧行為自体が持つ満足感」や「対人的効用」、そして「心の健康」といった効用感である。
化粧行動は、対人積極性をはじめとするさまざまな効用を女性にもたらし、化粧を通じて現代女性はより生活に充実感を感じ、より生活を楽しんでいる。
つまり、現代女性にとっての化粧は、アイデンティティ形成にも深く関わってくる、そうした存在なのではないか。
以下では、化粧とアイデンティティの関係性について、述べてゆきたい。
7 化粧とアイデンティティ
菅原健介は、化粧が対人行動に影響する過程について、2種類の相互に関連したフィードバックグループによって、説明している。
まず、個人は化粧による外見的変化を鏡を通して自ら観察し、他者が自己に対して抱くであろう印象や役割期待を確認する。
つまり、「いまから私は有能な秘書としてふるまうのだ」とか、「周囲から上品な女性として見られるだろう」といった、自己の社会的アイデンティティについての自覚を得る。
「人に会いたくなる」「外に出たくなる」といった積極性の高揚や、「がんばろう」といった緊張感は単なる自己完結的な満足ではなく、自己への社会的期待に応えようとする動機的な高まりと見なすことができるのである。
一方で、化粧による外見の変化は「自分の目」だけではなく、「他者の目」を通しても確認することができる。
外見の変化は他者に与える印象を変化させ、それまでとは違った新たな反応を引き出す。
イブニングドレスとパーティ用の化粧で装った姿に、多くの人々は感嘆の声を上げ、日常と異なった丁重な態度を示すかもしれない。
その反応を受け取って、個人は自分がそうした立場や役割が期待されているとますます強く認識する。
そして、この認識が自己の外見や立ち振る舞いをますますそれらしく変えてゆくことになる。
つまり、一種の「自己成就的予言」の過程であると言えるのである。
「自分の目」と「他人の目」を介した心の循環が成立する時、化粧は女性たちの社会性や積極性を高め、その場面や状況における適応的な行動パターンを作り出すように思われる。
あるいは、もう一歩進んで考えてみると、女性たちは化粧することによってこうした心のプロセスを自己の中に意図的に作り出し、利用しようとしているのかもしれない。
もしそうならば、化粧とは単なる外見的な取り繕いや自己満足の道具ではなく、女性が自己の役柄をつかみ、その世界に入り込んでゆくための「自己暗示的儀式」と見なすことができる。
すなわち化粧は、アイデンティティ形成の根幹にも、関わりうるものなのである。
8 化粧と自己実現
続いて、化粧による自己実現の効果について、見てみたい。
これについて、高野ルリ子は先行研究の事例をひいてこのように述べている。
メーキャップの心理的効用には、意識を外側に向けることで起こる効用と、意識を内側に向けることで起こる効用との2側面が指摘されています。
阿部と日比野(1997)はこれらの効用を、意識を内側に向けさせ、気持ちを鎮静化させる「いやし」の効果と、意識を外側に向け、気持ちを高揚させる「はげみ」の効果として整理しました。さらに、化粧において「いやし」と「はげみ」は分けることのできないものであり、相互に影響し合い、良循環を生むことも指摘しています。
個々の効用をみていくと、意識の外向による効用には、化粧をすることで積極性の向上や気分の高揚といった情動の変化や(宇野ら、1990)、パーソナルスペースが縮小し対人的積極性が増した(松井、1993)といった事例が指摘されています。また、精神病患者にメーキャップを施すことで、抑鬱的感情を活性化させ、積極的行動が増した、と言う事例もあります(浜ら、1991)。
意識の内向による効果には、リラクゼーションや安心といった感情の変化が指摘されています(宇山ら、1990)。
また、こうした化粧の効用の仕組みに対する解釈として、余語真夫は表情フィードバックに基づいた解釈を取り、このように説明している。
表情フィードバックとは、表情筋の動きが脳にフィードバックされることによって主観的感情が認知される、すなわち、表情が感情の源泉である、とする考え方である。
化粧の過程では、鏡を介して自分の顔を見つめる、自分の顔に触れる、化粧途中や終了後にすまし顔や笑顔を作る、といった動作が生じてくる。
そのため、「鏡を介した自己知覚」「皮膚接触」「表情変化」という3種類のフィードバックが起こることになる。
すると、「鏡を介した自己知覚」と「表情変化」による表情筋の情報や、「皮膚接触」による皮膚感覚が脳にフィードバックされ、感情状態に影響を及ぼし、こうした自己の内面に向かって起こるフィードバックが化粧の効用を生む源になっているというのである。
高野は、別の実験結果から、理想の顔と理想の性格には相関関係が見られるという調査結果を得ている。
そして、この結果と余語の指摘する表情フィードバックによる作用とを考え合わせ、化粧による自己実現の可能性を示唆している。
化粧によって理想の自己イメージを顔に表現する。
すると、そのイメージ情報がフィードバックされることによって、その人の精神なども理想に近づく、という仮説が成り立つのである。
9 化粧と私的空間
以上で見てきたように、化粧することが自己の社会的役割意識の自覚を促すのであれば、化粧を落とすことは、反対にそういった社会的規約を忘れさせてくれる作用を持つのであろうか。
ここでは、化粧と私的空間との関係について考えたい。
通常われわれは、評価の目にさらされ、社会的な役割期待にこたえようとする公的な空間と、そうした役割から解放され、他者の目を気にせず自由にふるまえる私的な空間とを往復する生活を送っている。
この公的空間に対する私的空間は、単なる身体的な休憩のためだけではなく、個人の心理的ストレスや抑うつ感を払拭する働きを有している。
これまでの研究から、化粧を落とすことは、公的な空間から私的な空間へと自分を解放する効果を果たしていることが分かっている。
そして、化粧を落とすことに強い開放感を感じる人ほど、化粧したときには気持ちが引き締まり、女性としての自分を意識し、ウキウキして外に出たくなるが、一方で、はりきりすぎてストレスを感じているということ、が分かっている。
こうした女性の性格的な特徴としては、公的自意識が高く、かつ、賞賛されたい欲求が強いことも分かっている。
つまり、化粧を落とすことで開放感を感じている人は、もともと化粧が嫌いであったり無駄だと感じているわけではなく、むしろ化粧によって自己の社会的役割を自覚しやすく、期待に応えようと懸命に取り組む人々なのである。
化粧は、公的空間と私的空間の区別を明確化するので、両空間を往来する上での心理的なスイッチングの作用を担う。
すると、公的空間では化粧によってアイデンティティを形成して、より闊達な社会との接触をし、反対に化粧を落とすことで、社会のしがらみを離れ、より充実した私的空間を、リラックスして楽しめるようになるのである。
I 化粧とセックス・アピール
最後に、化粧の効用として忘れてはならないのが、化粧することによる異性への自己顕示、すなわちセックス・アピールの存在である。
これについては、前述の「@cosme」独特の文化である、「恋コスメ」を題材として考察してゆきたい。
「恋コスメ」とは?
「恋コスメ」には厳格な定義は無く、さらには、査定基準なども無いのだが、「@cosme」上で「男性に誉められた」「これをつけていると男性にモテた」などの口コミが増えて話題を呼ぶと、その化粧品が「恋コスメ」になる、というものである。
「恋コスメ」について触れている、「恋コスメ データベース」という個人ブログにその詳細を見てみたい。
以下はその引用である。
【恋コスメとは?】
恋コスメは、クチコミサイト@COSMEが発祥元です。
「これを使うようになったら告白された」「彼氏に褒められた」等々、これのお陰でモテ度アップしました!
と称えられたコスメ製品が「恋を呼ぶコスメ!」と話題に。
いつの間にやら、それらの商品達が「恋コスメ」と呼ばれるようになったようです。
【恋コスメの特徴】
上記の恋コスメムーブメント、学生世代を中心に始まった故でしょう。
恋コスメに認定された商品は、2000円以下の価格帯が大多数。
エテュセ・クレージュなど、若い世代に特に人気のあるブランドが多いのもポイント。(中略)
【恋コスメの支持層】
学生世代が中心ですが、他の層(主婦・会社員等)にも結構支持されているようです。(中略)
【恋コスメの始まりは?】
恋コスメがでてきたのは4年前の2002年頃?でしょうか?(中略)
【恋コスメの現況】
改廃の激しい化粧品業界故、残念ながら現在では幾つかの製品は既に廃盤に。
でも、新しいコスメも毎日の様に誕生していることですし、この先、新恋コスメが誕生することも間違いなくあることでしょう。(中略)
異性への意識
この「恋コスメ」に象徴されるのが、化粧における「セックス・アピール」の役割であると、私は考える。
前述の「幼さ」と「成熟さ」も、現在しばしば「モテ」という概念と一緒に、雑誌などで「モテメイク」として紹介されるが、この「モテ」こそが「セックス・アピール」であり、現代の化粧においては、化粧に「セックス・アピール」を期待する声が少なくない。
たとえば、口コミで「恋コスメ」だと言われると、その直後その商品は完売し、店頭から姿を消してしまう。
しばらくすると、「@cosmeで高評価!恋に効くアイライナー!」などのポップ付きで、その商品のみが店頭で大きく紹介される。
こうした現象や雑誌での「モテメイク」の特集などから見ても、現代女性が、化粧において異性の評価を意識していることがよく分かる。
口コミにその声をたどると、その化粧品で化粧をすると、自分がかわいくなったと実感した、異性からの視線を感じた、あるいは異性の前に出ても気後れしたりせずに自信を持って笑っていられた、などという声が多い。
これは、女性たちが、自分の化粧後の顔に対する異性からの評価、すなわち、自分がしている化粧が異性にどのように評価・判断されているのかということを、多かれ少なかれ気にしているということである。
この異性への意識は、若年層ほど高くなっているが、30代の女性が読む雑誌にも「モテメイク」が登場していることから見ても、30代、40代においても、その意識が皆無ではないことが分かる。
そんな中で、多くの女性の口から「異性から肯定的な評価を得た」と言われている「恋コスメ」を使えば、自分の化粧に自信を持つことができる。
「恋コスメ」はその実効性が目に見えにくいものであるため、一種の願掛けやまじないのようなものであるが、使う化粧品によって、化粧後の心理が大きく変わりうるということの、証明と言えるのではないか。
いずれにしても、前節まで見てきたような「社会的」な化粧の意味あいも今なお継続して指摘されているが、異性を意識した化粧というものも、いまや化粧への大きなモチベーションになっているということが分かる。
考察のまとめ
このように、化粧には、実にさまざまな効用があった。
対人積極性が増したり、アイデンティティや自己実現に関わったり、あるいは、異性へのセックス・アピール効果があるなど、内容は多岐に渡るが、それらは多くの場合、身体的なものに留まらず、精神の安定にも関わる、いわば人間の精神の根幹を形成する材料にもなりうるものであった。
では、これらの効用を踏まえると、化粧にはどのような可能性があるのだろうか。
本節の中でもさわり程度に述べたが、次節では、そんな化粧の可能性、パワーについて、深くその内容を見てゆきたい。 
4.化粧の可能性
前節までの流れを総括すると、化粧とは、単に化粧品で自身を飾るというだけの行為ではなく、社会的にも、心理的にも、非常に大きな意味のあるものである。
最後に、こうした心理的効用をもたらす化粧を利用した新たな可能性について、高齢者の化粧をはじめとする、いくつかの事例を探ってみたい。
現在、化粧にはどのような力があると考えられているのだろうか。
可能性その1 〜高齢女性と化粧
まず、高齢化に伴ってその有用性が着目されている、高齢女性の化粧について、見てゆきたい。
近年、急速に女性の平均寿命は伸び、厚生労働省によれば、2004年の統計で、日本人女性の平均寿命は85.59歳、日本人男性の平均寿命は78.64歳である。
参考までに、次頁に平均寿命推移のグラフを載せる。
高齢女性は化粧をしない?
この平均寿命の延長より、社会的引退後の後半生の充実は、より一層声高に叫ばれるようになった。
しかし、こうした平均寿命延長の前例が無い上に、高齢者は華美に走らず、ごくつつましく暮らすべきだという、社会からのゆるやかな外圧、あるいは、高齢者はあまり化粧をしないものだという社会の認識などのために、これまで、高齢者と化粧が結びつくことは少なかった。
化粧は、これまで述べてきたように、決して華美に自らを装飾したり、自己主張するというだけのものではない。
肌の衛生や健康維持の作用と同時に、対人積極性を増したり、また、アイデンティティの構築など、心的な安定を図る上で非常に重要な働きをする作用も包含したものなのである。
高齢女性は実際のところ、化粧をどのようなものとして捉えているのだろうか。
過去の化粧習慣とニーズ
伊波和恵は、老人保健施設で高齢女性に対してアンケート調査を行い、彼女たちの過去・現在の化粧習慣やニーズについて考察している。
次頁がその結果をまとめたものである。
これによれば、「過去の化粧経験」があると回答した人は93%、そのうち「過去の化粧習慣」がある人は78%であるのに、「現在の化粧習慣」がある人は、57%にまで落ち込む。
そして、その内容についても、現在は洗顔後の基礎化粧のみであるとする人が多い。
しかし一方で化粧への関心についての項目では、自ら化粧をしたいと望む「積極的な関心」がある人が全体の35 %、そして、人にしてもらうのならば化粧してみたいという、「消極的な関心」がある人は全体の23%となっており、実に半数以上の女性が、高齢になった現在もなお、化粧に対する関心を抱いているという結果になった。
同時に、伊波は高齢女性を入所者とデイケア利用者にわけた分析も行っている。
それによれば、入所者については、入所中と在宅時では、有意な差ではないものの、入所時よりも在宅時に、より化粧することが多く、反対に、デイケア利用者においては、入所時により化粧することが多い。
これは、入所者においては、施設内で目立つまいとする意識によって、化粧行動がおのずと制限されるのに比べ、デイケア利用者にとっては、施設に通うことはすなわちよそへ行くことに他ならないので、装いへの気配りがなされた結果であるという。
入所者とデイケア利用者の間では、「内」と「外」の捉え方が違うのである。
しかしいずれの場合も、化粧は高齢女性に自立性と社会性をもたらしうるものであり、化粧によって身体的魅力を増大させることで、美しくなった自分を見て喜びを感じたり、いまの自分に相応しい新たなあり方を模索、発見したり、あるいは社会と自分の間につながりを感じることできる、と言えそうだ。
そうした効用は、高齢女性の後半生を彩る大きな道具となりえるため、現在高齢女性の化粧についての関心は、一層高まってきている。
高まる関心
高齢女性への化粧については、近年多くの新聞などでもその取り組みや効用が紹介されている。
その一例として、少し長いが、2006年8月23日の日経ネット関西版の記事を全文引用する。
お年寄り、化粧で生き生き──自信回復、気も若く(8月23日)
化粧品会社の人からフェースケアやメークを学ぶ参加者(大阪府大阪狭山市のファヴォーレ)
老人ホームなどで高齢者を対象にした化粧やマッサージが人気を集めている。誰しも老いていく自分の姿からは目をそらしがち。「面倒くさい」「誰も見てくれない」といった理由で年とともに身だしなみに気を配ることも減っていく。だが、化粧には失われた自信を取り戻し、気分を明るくするなどの効果がある。衣食住に比べて後回しにされがちな化粧だが、そこには豊かな老後を過ごす手掛かりがありそうだ。
「もう1度お嫁に行けそうやわ」「このままお見合い写真撮らなあかんな」「それにしてもあんた、15歳は若く見える」「そしたら今は86だから……60歳やな!」
大阪狭山市にある特別養護老人ホーム、ファヴォーレ。資生堂が開いた高齢者向けの無料美容講座は、まるで漫才のような冗談が飛び交い、活気に満ちあふれていた。
集まったのは入居者や近隣に住むお年寄りなど25人。講師を務める同社近畿支社大阪南支店の美容部員、東野かをりさん(45)がファンデーションの塗り方を説明すると、お年寄りたちが見よう見まねで顔に色を重ねていく。
「こんな派手にしたら笑われるかも…」。最初は尻込みする人も、ファンデーション、アイシャドーと進むうち表情がやわらぐ。参加した大阪狭山市の岡愛子さん(84)も「一緒に住んでいる息子と嫁に見せたいわ」と満足げ。完成後は鏡で自分の顔を眺めたり、互いに褒め合ったりとにぎやかだ。
資生堂が1975年から始めた高齢者向け美容講座では、同社の現役美容部員やOBらが老人ホームや病院などに出向き、化粧やマッサージの方法などを教える。内容や時間は参加者によって変わるが、およそ2時間程度。手足のまひなどで自分で化粧できない場合は、施設の職員やボランティアらが付き添う。2005年には全国で年間約2000回開催し、3万人以上が参加。今年は大阪南支店だけで月7―8件の引き合いがある。
化粧には失われた自信を取り戻すほか、ストレスを軽減するなどの効果もある。大阪モード学園や大阪医専で化粧を使った心理療法、「セラピー・メーク」の講師を務める平川真知子さん(50)は「高齢者にとってのメークは欠点を隠すためのものではなく、若いころの自分や社会とのかかわりを思い出すための道具になる」と説明する。
平川さん自身も年5回程度、モード学園や大阪医専の生徒を連れて老人ホームなどに足を運ぶ。生徒は10代後半―20代の若者が中心。当初はお年寄りと意思疎通がうまく図れなかったり、期待通りの反応を得られずに落ち込んだりする人もいるが、お年寄りが笑顔を見せると同時に生徒たちも笑顔になる。卒業後も、介護福祉士や理学療法士として、介護や医療の現場で化粧を取り入れる人も増えているという。
化粧やマッサージを手掛けるボランティア活動のすそ野も着実に広がりつつある。1999年から化粧やマッサージのボランティアを続ける大阪府ビューティーケア赤十字奉仕団「麗人会」が今年7月に開催した基礎講習会には約30人のボランティア志願者が参加。顔や手のマッサージ法やお年寄りの肌にファンデーションをなじませる工夫などを経験者から学んだ。
参加者の1人、池葉子さん(57)は高槻市で美容院を営む現役の美容師。地元の常連客が年を取り、自宅まで出張を頼まれる機会が増えたのがきっかけで化粧ボランティアに興味を持った。
講習会への参加直後、全身まひの高齢者の自宅へヘアカットと化粧に出掛けた。作業は3人がかりでお年寄りの体を支えながらの力仕事。「酸素吸入装置や点滴のチューブを踏んだりしないかひやひやものだった」と苦笑するが、数時間かけて無事終了。会話こそできなかったが、目の動きをコンピューターで読み取って文字化する機械で反応があった。「あ・り・が・と・う/き・に・い・っ・た」
麗人会の発起人で副委員長を務める田中啓子さん(58)は「周囲から注目されたり励まされたりしたいというのは、年齢に関係なく人間が持つ根源的な欲求」と説く。老人ホームや自宅にこもりきりの生活はストレスも多く、憂うつな気分になりがち。「化粧を通して孤独感から脱してくれれば」と田中さんは話す。
高齢化の進展で、シニアを対象としたサービスも増えつつあるが、心から満足を得られるものとなると、なかなか見つからないのが現状だ。一方、化粧や美容は手軽に楽しめるだけでなく、高齢者に自信を与え社会とのかかわりを深めるきっかけにもなる。きれいに化粧をした若々しい高齢者が増えれば、社会の活力向上に一役買うことは間違いない。
このほかにも、2007年1月12日の中日新聞には「化粧で美しく 高齢者いきいき」として、富山県黒部市で行われた高齢女性を対象とした化粧教室の様子が掲載されたり、2006年11月25日の神戸新聞にも「化粧でボランティア 高齢者ら華やぐ 三田の男性3人」として、兵庫県三田市でのメイク・ボランティアの様子が紹介されている。
また、2006年12月22日の岩手日報にも「高齢者に化粧奉仕 盛岡の専門学校生」との記事があり、NHK盛岡放送局では、2005年11月2日に「いつまでも輝いて!〜化粧ボランティア〜」として、化粧ボランティアの団体を設立した大学生を紹介する放送をしているなど、関心の高まりがうかがえる。
可能性その2 〜老人性痴呆者と化粧
これまで述べてきた事例は主に健常な高齢女性においてであったが、老人性痴呆の高齢女性においても同様に、化粧による効用が確認されている。
これについて、浜治世、浅井泉らの行った研究事例を見てみよう。
浜、浅井らは化粧を手がかりとした情動活性化に着目し、老人性痴呆者、精神分裂病者、欝病者などに化粧を施すことによる情動の活性化について実験を行っている。
浜らによれば、多弁で落ち着きが無かった被験者の一人は、化粧が仕上がってゆくにつれて口数が減って落ち着き出し、実験回数が進むうち、そうしたおだやかさが定着し、感情のコントロールがきくようになった。
また、気分の変化が激しく、不機嫌になりやすい被験者で、徘徊の癖があるために5分も一箇所に留まっていられなかった女性の事例では、彼女が化粧の最中一度も席を立たず、積極的な協力の姿勢を見せたことに、主治医も非常に驚いたという。
さらにこの被験者は、回数を重ねるごとに我慢強さが増し、実験の最中のみならず、診察中やリハビリの最中にも部屋から出てゆくことがほとんど無くなった。
そして、化粧終了後に「きれいになったね」などと近所の人から声をかけてもらう機会が増えて非常に喜んでいたという。
化粧後に自分が綺麗になったことを実感し、しかもそれを周囲にも誉められたことで、もともと不機嫌になりやすかった性格がおだやかになり、化粧を介して対人関係がとてもスムーズになっていった。
さらに別の被験者は、言葉が上手く話せないことで引き込もりがちであった。
しかも、自分の老いてゆく姿を見るのを嫌がり、家では鏡を見ることも避けていたくらいであった。
しかし、実験の最中、化粧が仕上がるにつれてだんだんと鏡を見るようになり、化粧が終了した時には、非常に関心を持って鏡を覗き込むようになっていた。
その後の実験では鏡に対する抵抗は全く無くなり、置いてある鏡を丹念に見るまでになった。
言葉もスムーズに出てこないまでも、積極的に話そうと身振り手振りでコミュニケーションを図ろうとするようになり、積極的に外出したがるようにもなった。
化粧することで老人性痴呆症そのものを治すことはできないが、化粧が高齢者の感情や意欲の面で非常にプラスに働き、積極的な行動を生んだり、感情のコントロールを可能にするという効果は、確実に期待できそうだ。
これは、これからの高齢者福祉への、非常に大きな貢献になりえる。
可能性その3 〜鬱病者・精神分裂病者と化粧
続いて、化粧は鬱病や精神分裂病を患う女性にも、効果を発揮している。
先ほどと同じく浜らは、鬱病、精神分裂病の女性を対象に化粧を行い、化粧前後の声を録音し、周波数を調べる実験を行っている。
それによれば、どちらの病気の女性も、化粧後は音声のピッチが上がり、情動が活性化、かつ安定するようになっている。同時に、日による情動のばらつきも軽減した。
こうした鬱病、精神分裂病の場合は、自分と社会との間に感じる隔たりを減らし、そして対人積極性の増加が自信にもつながるため、退院後に社会復帰する際にも、化粧が非常に生きてくる。
こうしたケースでは特に、化粧の効能は、長期にわたって継続してのものであるようだ。
可能性その4 〜やけど患者と化粧
化粧の効用はこれだけに留まらない。
化粧は、やけどやアザなどの身体的な疾患においても、それをカバーすることで、リハビリにつながる効果を発揮する。
手島正行は、あるアメリカ人やけど患者の事例を引いて説明する。
その女性は車の追突事故による炎上で上半身に重度のやけどを負い、10週間に及ぶ治療の末、退院した。
しかし、本当の意味での治療は退院後に始まったと彼女は語る。
やけどによる身体的な痛みはもちろん激しいが、それよりも容貌が変化してしまったことに対する精神的、心理的な痛みは、一般人の想像を絶するものがあった。
彼女は最終的に、そうした苦しみを化粧によって軽減させることに成功し、現在、顔にdisfigurement(醜形)を有するようになった患者を相手に、社会復帰を容易にするための化粧品の使用方法などの指導を行っている。
重症のやけどの治療には、皮膚移植をする場合が多いが、手術後数年を経過しても、植皮部位が変色していたり、色調が周囲と異なっていたり、あるいは引きつれが残ったりして、完全な形に再建することが難しい場合も少なくない。
そこで、植皮後の治療にエステティックを取り入れて、傷跡を目立たなくする試みがいくつかの病院で行われている。
これは傷の治療だけでなく、外見上の美しさを回復させて、患者の精神的負担を減らすことを目的とした形成リハビリテーションであり、医療機器として認定を受けた機械を使用し、マッサージやパックを行うもので、移植皮膚の色や縮み、感覚の回復に大きな効果が得られるというものである。
日本でも、現在このようなdisfigurementへの対処法は大きな問題になっている。
たとえば、やけどに起因する瘢痕のために社会生活の制限を余儀なくされている患者に対しては、化粧で傷跡を目立たなくし、容貌を改善する研究が行われており、1991年11月に名古屋に設立されたやけど患者支援組織「熱傷フェニックスの会」では、やけど患者への化粧講習会の開催も行われた。
手島は別に、住宅火災で重度のやけどを負った日本人女性への、化粧の効果の研究を行い、化粧の必要性の研究をまとめている。
それによれば、被験者はやけどの跡を克服する手術を積極的に何度も受け、強い精神力でやけどを克服し、社会的にもやけど患者支援の活動などを行っている人であったが、そうした精神的なダメージの比較的少なそうに見える女性においても、化粧後は非常に気持ちが明るくなったのが実感できたという。
人に化粧してもらうことは想像以上に気持ちが良く、ていねいに優しく触れられると、自分の人間性が尊重されているような心地よさがあり、気持ちまで化粧されているようだったと、女性は語る。
このように、患者の傷は決して外見的なものばかりではない。
化粧は患者の傷を目立たなくすることで、精神の傷を癒し、社会復帰を促進する作用があるのである。
リハビリメイク
それに関連して、医療的に化粧が用いられている事例として、最後に「リハビリメイク」というものを紹介しようと思う。
「リハビリメイク」とは、有名なメイクアップアーティストであるかづきれいこの提唱したもので、その内容をかづきは自身のホームページで以下のように説明する。
リハビリメイクは、QOL(Quality of life;生活の質)を高めるためのメイクです。
リハビリメイクという名称は,身体機能に損傷を負った人が社会に戻る前にリハビリテーションを行うのと同様、外観に損傷を負った人が社会に踏み出すために習得する技術という意味があります。(1)隠すことに主眼を置かず、(2)メイクアップを通して最終的に患者さんが自分の外観を受容し、(3)社会に復帰すること、またQOL(Quality of Life)を高めることを目標としています。
外観を整えることで心が元気になり豊かになるのは、顔に悩みのある人もない人も同じこと。メイクアップは自分の中から元気を引き出す最善の手段だと、スタッフ一同考えております。
かづきは、東京女子医大付属・女性生涯健康センターの「リハビリメイク外来」を2004年4月に開設し、毎週、かづき本人か、有限会社かづきれいこの専属講師が来院し、実際に患者にメイクアップを行っている。
2005年6月14日の読売新聞の「リハビリメイク」特集記事によれば、このようにある。
「リハビリメイク」を開発、普及に努力
「おしゃれのための化粧法は、世の中にあふれている。でも、本当に化粧を必要としているのは、傷やアザなど顔のトラブルに悩み、気力を失っている人たちです」
顔も心もメークで救う
「傷のことが頭から離れなくて、人に会うのも苦痛なんです」
「じゃあ、楽になる方法を覚えましょう」
東京女子医大付属・女性生涯健康センターの「リハビリメイク外来」。鼻の脇に腫瘍(しゅよう)摘出の傷あとが残る30代の女性に、手早く化粧をしていく。傷の部分には鮮やかな黄色のファンデーション。厚塗りせずに隠す技だ。まゆを整え、アイラインで目元を強調。鏡の前に立った女性は、「あ、傷に目が行かない」と、笑顔を見せた。
やけど、事故や手術の傷あと、アザなど、顔にトラブルを持つ人のための化粧を「リハビリメイク」と名付け、独自に技術を開発し、普及に努めてきた。この20年間で1万人以上に実施し、指導した。
「リハビリメイクの目的は、傷やアザを隠すことではありません。『隠せる』という自信を持つことで、自分の顔を受け入れ、堂々と元気に生きていく力をつけること。いわば、社会復帰の支援なんです」
生まれつきの心臓病で、寒い季節は極端に血流が悪くなり、顔が真っ赤に腫れ上がった。目が大きかったため、子供のころのあだ名は「赤デメキン」。いじめにもあった。春から夏にかけての顔が白い季節は、活発で成績も上がる。ところが、冬になると、暗く、ひがみっぽくなり、成績も下降。体調まで悪くなる。
「周囲に『顔より心』と言われても、ちっとも楽にならない。顔と心と体はつながっている。そう気づきました」
短大に入り、化粧に救いを求めたが、普通に塗っても赤みは隠せない。雑誌のメーク特集も、化粧品売り場の販売員も、助けにはならなかった。お面のような厚塗りで、始終、化粧直しをする毎日。煩わしく、友人たちには笑われたが、初めて冬に顔を上げて歩けるようになった。
専業主婦だった30歳のとき、心臓手術を受け、赤い顔から解放された。心も体も軽くなった。「新しいことに挑戦したい」。美容学校に入学して、メークを学び始めた。
「それまでの私にとって、化粧は救いであると同時に、最大の負担でした。顔にトラブルを持つ人たちの多くが同様に感じているはず。その負担感を取り除くため、トラブルをしっかりカバーしながら、厚塗りにならず、短時間でできる技術を覚え、発信したいと考えました」
学校ではファッションとしてのメークしか学べなかったため、独自に研究を重ね、トラブルの状態に合わせた色や塗り方などを考案。それは、老化によるシミやシワなどにも応用できた。カルチャーセンターに自ら売り込んで講座を持つと、顔に悩みを持つ人たちが続々と訪れた。その後、メーク教室運営などを行う会社を設立。老人ホームなどでメークのボランティア活動も始めた。
「30歳を超えれば何かしら顔に悩みができる。傷やアザも大差ないことです。誰でも、自分の顔に納得できれば元気になる。だから『顔は大事』なんです」
数年前から、医療機関との連携に力を入れている。治療段階から傷などを隠す方法を知れば、退院後の生活への不安も和らぐ。メークで解消できない心の傷には、精神科医の手助けも必要だ。さらに、2002年、「顔と心」についての理解を一般に広めるためのNPO法人を設立した。
「顔にトラブルがあると就職が困難だったり、日本には外見による差別が根強くある。メークが持つ力を皆に知ってもらい、そんな差別をなくすのが目標です」(以下略)
こうしたリハビリメイクのように、現在化粧は、国内外において、その効用を医療的にも認められてきている。
化粧によって、自己評価が上がって精神的な健康を保ち、対人積極性を増すことによる効用は、やはり決して少なくないものがある。
そして、このような事例では、前節で触れた以上に、化粧による効用がアイデンティティや生きがいにも大きく作用しうるものなのである。
こうした化粧の効用がより社会的にも広く認知され、さまざまな背景のさまざまな人々の人生に対し、より上質のものを提供してくれるようになるのを、願ってやまない。
終章
化粧はどこへ向かうのか?
化粧から何が見えたか?
ここまで、化粧について、「社会」および「心理」というふたつの側面から考察をしてきた。
「社会」の側からは、化粧の歴史をたどり、その背後に見える日本社会の美意識を考察し、それを国際比較した。
「心理」の側からは、現在指摘される化粧のさまざまな効用を紐解き、それに見る、化粧の可能性を探った。
化粧は、人によってさまざまな顔を持つだろう。
綺麗になりたいから、みんなが化粧をしてるから、コンプレックスをカバーしたいから、異性に注目されたいから…そうした人それぞれ違う動機で、化粧は始められ、続けられている。
化粧文化が一般化するにつれて、女性たちの化粧に対する認識は、どんどん多様になっている。
無論、そうなるうち、化粧の良い面ばかりでなく、化粧の悪い面も指摘されることが多くなるだろう。
不適切な場所、場面での化粧への批判や、ある年齢以上の女性は化粧していなければならないとする社会的イデオロギーの出現など、今後、化粧が注目されればされるほど、女性たちにはさまざまなものが求められ、同時に、女性たちに課される制約も、間違いなく多くなる。
しかしそれでも、化粧の文化は廃れることがないだろう。
これは、本論文で考察してきたように、化粧がさまざまな要素に支えられた文化であり、しかも、なにより当の女性たちに進んで受け入れられている性質のものだからである。
女性が化粧し続ける限り、化粧文化は今後もますます彩り豊かになってゆくに違いない。
化粧のあした
最後に、今までの考察を踏まえ、化粧が今後どのように発展してゆくのか、私なりに化粧の未来について可能性を論じて、本論文のまとめとしたい。
化粧は、現在のように多くの日常が機械化される中で、どうしても自分の手でしかなしえない表現の分野であり、今後もそれは変わらないであろう。
とすれば、どんどん画一化・記号化され、管理されてゆく自らの周辺に対抗して、今後は「自己表現」としての意味合いをより拡大させてゆくだろう。
現在のようなナチュラルメイク志向は、おそらく美意識の部分で需要されているので今後も根強い人気を誇るだろうが、それとは別に、より個性的な化粧方法や化粧品が求められ、発展してゆく。
するとたとえば、今までにはありえなかったような色彩の化粧品や、暗闇でも目立つ原料の化粧品、一日の間に何度も色が変わる化粧品などが出現するかもしれない。
また、この「個」を強調する流れを受けて、より個人のニーズや肌質、顔の造形に合った化粧品開発も行われるだろう。
すると、医療技術をはじめとした各種技術の進歩の風を受けて、各人の情報が個別にデータベース化され、各化粧品メーカー製造による、オーダーメイドの化粧品なども実現するかもしれない。
そうなれば、専門家お墨付きの「自分にもっともに合う」化粧が分かるため、より女性たちの心の充実が図られるだろう。
個人の情報に、各時代の流行を加味して化粧品を変えてゆけば、飽きなどもなく受け入れられそうだ。
あるいは、グローバル化が進むとともに、より「日本人的」に見えるような化粧が流行し、近世までに一般的であったような、日本独特の化粧方法が、今後改めて注目され、流行するかもしれない。
さらに、今後は女性の社会進出が今よりはるかに進むと考えられる。
それに伴い、化粧が女性的な面の強調ばかりではなく、男性的な面を押し出すようなものになるかもしれない。
依然として、日本社会においては「仕事のできる人=男性」という図式が根強いため、あえて男性的に見える化粧をすることで、自分を女性として見てくれるな、というシグナルを発し、仕事のできる自分というものをアピールするのである。
シグナル、という点から言えば、より化粧文化が社会的浸透を見れば、化粧によってある情報を伝えるということができるようになるかもしれない。
たとえば、現在、既婚の女性のみならず未婚の女性でも、交際相手がいるというしるしに左手の薬指に指輪をすることがある。
これは、自分に結婚相手や交際相手がいるということをアピールしたいという女性の心理であるが、こうした心理表現が、化粧にも応用されうるのではないか。
あるメッセージを含む化粧をしている女性には交際相手がいて、その化粧をしていない女性には、交際相手がいない、あるいは、その事実を特にアピールしたいとは思っていない、などと判断できる、シグナルとしての化粧が現れるかもしれない。
これは無論、そのシグナルを受け取る側にもそれを読み解くだけの知識が要されるため、化粧文化のよりいっそうの浸透があって初めて成り立つものであるが、その浸透を見るのは、そう遠い未来のことでもなさそうだ。
とすれば、この文化がさらに発達すれば、次第に女性の化粧済みの顔を見ただけで、その人物の発するいくつかのメッセージを受信でき、ある程度その人物の内情を知るということも、できるようになるかもしれない。
そして何よりも、現在化粧についてもっともその効用が期待されているのが、化粧によるQOLの向上である。
化粧をすることで、高齢者をはじめとするたくさんの人が、心的な安定を得ているという事実が、今以上により社会に深く認知されれば、今のように「綺麗になりたい」という動機ではなく、「化粧による心理的効果を得たい」ということを主な目的として、化粧をしはじめる、そうした女性の姿を見かけるようになるのではないか。
今後、日本社会が抱える「高ストレス」状態には、ますます加速度が付いてくるであろう。
そうした中で、この化粧の効用で、少しでも美しく、幸せに生涯送ろうとする、そんな風にみなが考える時代が来ても、おかしくない。
なぜ、人は粧うのか?
何度も強調するが、化粧には、実にさまざまな効用がある。
第二章などで見たそうした効用は、化粧という行為が、自分で自分を装飾する行為、自分と直に向き合う行為であるからこそ生まれるものであると思う。
時間に追われ、自らとなかなか対面することのない現代女性が、化粧を機会に自己と向き合い、そこで自分の魅力を再発見し、より違う自己を表現し、生活の質を向上させる。
化粧の本当の魅力は、やはり社会の多くのファクターに支えられて成り立つ、この心理的効果であるように思う。
少なくとも、私にとっては、そうであった。
つまり、第一章で見たような社会が土台として化粧文化を支え、女性たちに化粧することを望む。
そして第二章で見たように、女性たちの側は、化粧を通して自己を社会に対してアピールし、化粧を通して心的な安定を得、そして、化粧によって生活の質を向上させることができる。
だからこそ、人は「粧う」のである。
化粧によるこの心理的効果が、今後ますます注目され、化粧行為そのものの重要性や意味合いが、さらに日本社会の中で高まってゆくことを大いに期待して、この論文を終わりたい。
最後に、大好きな谷川俊太郎さんの詩のひとつで、後書きを結びたい。
『海』
そこで地球は終わっていた
上下の青い無限……
僕はぎらりと再武装した
更にきびしい生を感じて 
参考文献
チャールズ・ダーウィン『人間の進化と性淘汰T、U』長谷川眞理子訳 文一総合出版 1999
チャールズ・ダーウィン『種の起源』八杉龍一訳、岩波文庫 1990
長谷川眞理子『クジャクの雄はなぜ美しい?<増補改訂版>』紀伊国屋書店 2005
鈴木由加里『女は見た目が10割 ――誰のために化粧をするのか』平凡社新書 2006
大坊郁夫編『化粧行動の社会心理学』北大路書房 2001
資生堂ビューティサイエンス研究所『化粧心理学』フレグランスジャーナル社 1993
ポーラ文化研究所編『モダン化粧史』ポーラ文化研究所 1986
村澤博人『顔の文化誌』東京書籍 1992
廣澤榮『黒髪と化粧の昭和史』岩波書店 1993
高橋雅夫『化粧ものがたり 赤・白・黒の世界』雄山閣出版 1997
米澤泉『電車の中で化粧する女たち――コスメフリークという「オタク」』KKベストセラーズ 2005
ポーラ文化研究所編『おしゃれ白書2000』ポーラ文化研究所 2000
新渡戸稲造『武士道』奈良本辰也訳・解説 三笠書房 1997
松井豊・山本真理子・岩男寿美子 1983 化粧の心理的効用 マーケッテングリサーチ 21 30-41 
 
化粧の比較文化史 (紅筆からリップスティックまで)

 

はじめに
私は、小さい頃から化粧品やメイクについて強い関心がある。小学生の時には、毎日鏡台に向かって化粧をする母の姿を見て羨ましいと思っていた。中学生頃から基礎化粧品で肌のお手入れを始めて、高校生になると休日にメイクをするのが楽しみになった。大学生になると、ますますエスカレートして、美容雑誌を読みあさったり、新製品が出ると必ず試したり、週に1 度はデパートの化粧品コーナーに足を運び、大学の3年間で25 0 人以上の美容部員さんと話をしたりした。私は、メイクをするとすごく楽しくて明るく前向きな気持ちになることができて、化粧が大好きで素晴らしいものだと思っている。化粧品カウンターの美容部員さんも私と同じように化粧品が大好きな人たちばかりで、そんな多くの美容部員さんたちと接するうちに、私の化粧に対する熱い思いはどんどん強くなっていった。それと同時に、大学で比較文化宗教学を専攻するようになって、化粧というものを学問の立場からとらえることができるのではないかと考えるようになった。 
先行研究
化粧に関する本は数多く出版されている。具体的には化粧の歴史について書かれているものが一般的であるが、その他にも化粧の心理についてのものや、化粧品の害について書かれているものなどがある。
19 72 年に出版され、19 82 年に翻訳されたCo rson Ri char d の『メークアップの歴史― 西洋化粧文化の流れ』は、主に古代から19 70 年代までの西洋の化粧の歴史について書かれている。この本は、男性や女性がどのようにして化粧をしてきたのかということについて、写真や芸術作品などの図版を数多く使うことで、読者に化粧の歴史の重要性を伝えることを目的に書かれている。欧米諸国の人々がどのような化粧をしてきたのか、その化粧に対して、人々がどのような思いを抱いてきたのかということについて細かく記されている。また、各時代の化粧法や化粧品の紹介だけでなく、容貌に対する美意識や、化粧という行為に対する是非論についても述べられている。そして、Co rson は、人々が長い歴史の中で道徳的風潮によって、化粧が社会に認められなかった時や戦時中でも化粧をやめることはなく、いつの時代も化粧をしてきたということを主張している。
また、次に19 99 年に出版された石井美樹子の『美女の歴史』でも、世界の美女といわれたマリリン・モンローやダイアナ妃を例に挙げながら、西洋の化粧の歴史について述べられている。そして、真の美しさとは何なのかということを読者に問いかけている。
そして、20 00 年に出版された石田かおりの『化粧せずには生きられない人間の歴史』では、日本と西洋の化粧に関する歴史的エピソードを比較することで、人は化粧せずには生きられないのだと主張している。
Co rson も石井も石田も共通して、化粧はかつて社会的な意味で存在していたものが、歴史とともに変遷して、現代のように個性的な美意識や好みが優先されるようになったと主張している。このように、化粧についての文献を読み進めるうちに、現代社会において化粧はどのような意味をもっているのかという疑問が生まれた。そこで私は世界と日本の化粧の歴史を学ぶとともに、口紅の変遷も追うことで、日本の現代社会における化粧の意味や機能について考えていきたい。また、本章で口紅を取り上げたのは以下の理由による。口紅は人々の暮らしの中で次第にコンパクトなものになっていき、かつて紅皿を使用していた本紅からリップスティックといわれる現在の口紅に変化し、携帯することが容易になり口紅を塗るという行為が女性の中で日常化してきた。口紅は、こうした日常化という流れの中で女性にとって最も身近な存在になったからである。第二に、口紅の機能性に関して近年技術的に進歩してきているため、時代による変化が見えやすいと考えたからである。第三に、口紅は古くからあり、女性自身を象徴するものであると考えられるからである。古くから私たちは、口紅の紅というと赤を連想するであろう。トイレを例にとってみても男性は青で女性は赤というイメージである。このように考えると、口紅は女性を象徴するものであり、女性とは切っても切れないものであると考えられるのである。
この論文は全4 章で構成されている。この論文の展開を簡単に説明していきたい。まず、第1 章では世界の化粧と口紅の歴史について触れることで、世界の化粧品や化粧の技術がどのようにして日本に影響を与えたのかということについて考察していきたい。次に、第2 章では日本の化粧と口紅の歴史について触れ、女性はなぜ化粧をするのかということについて考えていきたい。古代から現代までの日本の化粧の歴史について学ぶことで、日本の化粧のもつ意味がどのように変化してきたのかを理解することが目的である。特に日本は文化というものについて、明治時代以降、世界の影響を多大に受けていることは知られているが、それが化粧というものにおいてどの程度当てはまるのか、日本独自の伝統を守り続けていた化粧文化に世界の化粧文化がどのように融合してきたのだろうか。その変化について歴史をふまえながら検証し、考察していきたいと考えている。そして、第3 章では日本と西洋の口紅の過去10 年分の宣伝広告を分析することにした。口紅の宣伝広告を利用して、現代の女性と口紅の関わりを分析することで、日本の現代社会における化粧のもつ意味が見出せるのではないかと考えたからである。口紅の宣伝広告は、女性誌に多く掲載されており、現代の女性と密接に関わりをもっているため、現代の女性像についてとらえやすいのではないかと考えたからである。宣伝広告のデザインや、広告に登場するモデルの表情や仕種などに注目して分析することで、現代の女性と口紅の関わりについて考えていくことにする。最後に第4 章を結論として、第1 章から第3 章の成果をふまえた考察を行うことにする。 
第1章 世界の化粧の歴史と口紅の変遷
世界の化粧の歴史について触れて、世界の化粧法はどのようにして生み出されたものなのか、また、その化粧法がどのように日本に影響を与えたのかということについて考える。ここでは、古代、中世、17 世紀、18 世紀、19 世紀、20 世紀という区切りで特に20 世紀以降に焦点をあてて考察したい。また、それと同時に口紅の変遷も追うことにする。
考察
西洋の化粧は3 段階のプロセスを踏んで、今日に至っているということになる。少なくとも紀元前30 00 年頃から、古代エジプトやローマなどで呪術的な意味合いをもって行われるようになり、1 世紀頃まで呪術的な意味での化粧が続いていた。また、紀元前30 00 年頃から装飾的な意味合いも併せもって化粧が行われていた。しかし、完全に装飾的な意味合いで化粧が行われるようになったのは、13 世紀頃から19 世紀までである。そして、20 世紀になると化粧が日常化して、化粧品業界が産業化されて、現在に至ると考えられる。
口紅に関しても古代には顔に紅を塗るという呪術的な意味で使われていたものが、中世に入ると様々な色の紅が登場するようになり、多くの人たちが口紅を使うようになる。そして近代になり、携帯に便利なリップスティックが登場して、口紅の塗り方や色に関しても流行が生まれるようになる。さらに19 70 年代から女性誌などに口紅の宣伝広告が掲載されるようになり、消費者に影響を与えるようになり、今日に至っている。 
第2章 日本の化粧の歴史と口紅の変遷
この章では、日本人が化粧とどのように関わってきたのかということについて、古代から現代まで幅広く歴史の流れとともにみていいく。それと同時に、口紅の変遷についても追うことにする。          
考察
古代から現代にいたるまでの化粧の歴史の変遷から、化粧のもつ意味がその時代ごとに変化していることがわかった。古代の化粧は現代のような装飾的な意味あいよりも、宗教上の儀礼的、呪術的な意味合いをもって行われた。そして、平安時代から江戸時代後半まで身分を表すものとして機能するようになる。そして、明治時代になると、西洋の影響を受け、装飾的なものへと変化して今日にいたる。
口紅も時代とともに、本紅からリップスティックへと変化したことで女性たちも手軽に口紅を塗ることができるようになった。その結果、口紅が次第に一般化して使いやすくなり化粧の中で最も日常生活に近い部分になった。 
第3章 口紅の宣伝広告の分析
第2 章でみてきたように、口紅と女性との間には強い結びつきがあることがわかった。そこで、本章では女性の生活とあり方が口紅を通じて知ることができるのではないかと考え、過去10 年分の口紅広告の分析をすることにした。日本の口紅広告に関しては、過去10 年分の『J J 』や『no n-no 』などの女性ファッション誌に掲載されている大手国産化粧品メーカーの広告を集め、ブランドごとにまとめてその変遷を追う。西洋についても日本同様の手段で行いたかったが、日本のブランドに比べ、資料の収集が難しかったため、出来る限り触れていくことにした。
考察
日本と西洋の口紅の広告を比較すると一つ大きな違いがあることに気付く。日本の化粧品会社は全てメーカーであるのに対して、西洋の化粧品会社はブランドとメーカーという2 つのスタイルに分かれている。ここで、メーカーとブランドの違いについて述べておきたい。メーカーとは製造業者のことで、より多くの人たちに購入されることを目的とされているものである。それに対して、ブランドとは銘柄のことで統一的な商品イメージを象徴することである。
過去10 年分の口紅の宣伝広告を見ると、口紅の特徴として重視されている要素は4 つあるということがわかる。
一つ目としては落ちない口紅であるということである。落ちない口紅が求められた93 年頃、女性は社会進出にある程度成功していることがうかがえる。女性の社会進出が進むと、接客中に口紅が落ちないかどうか、常に気にしなくてはならず、また化粧をした直後も歯に口紅が付いていないか気にするといった具合である。これは化粧が好きな女性にとっては苦にならないことであるが、そうではない女性にとっては常に完璧な化粧を保つようプレッシャーが与えられていることを意味する。したがって、落ちない口紅は、そのプレッシャーを軽減することになるため、落ちない口紅が支持されたのだと考えられる。
二つ目としては、うるおいを与えることができる口紅であるということである。うるおいを与えることができる口紅が支持された理由は、次のように考えることができる。うるおいというのは、自然というイメージがあり、自分の体への配慮やいたわりにつながるものである。19 90年代から現在にかけては、バブル経済の崩壊による慢性的な不況が続いている。そのため、会社で働く女性にとっては仕事量も増えて、そのことによってストレスも増える。このような社会の影響でも受けて、19 90年代には「癒し」という言葉が流行して、癒しを求める人たちが急増した。そのため、多くの女性たちは、自然というイメージがあり、自分の身体をいたわることができるうるおう口紅を支持するようになった。いわば、仕事を頑張っている女性たちにとって、自分へのご褒美である。
これまでの落ちない口紅というのは自分の身体と一体化することができるけれど、どこか人工的であったため、自然というイメージのうるおう口紅が支持されたのである。そして、口紅が女性の身体と一体化して、しだいに女性性を象徴するようになってきたと考えられる。
三つ目としては、自分らしさを表現できる口紅であるということである。自分らしさを表現できる口紅が支持されるということは、次のような理由が考えられる。ストレス社会を生きる女性は、自分を見失いがちになってしまう。そうした社会の動きの中で自分探しの時代が始まったと考えられる。その結果、女性たちは口紅に多様性を求めるようになり、自分らしいファッションや、自分らしいメイクをしたいという気持ちが強くなっていった。その結果、口紅にも自分らしさを表現できるという機能が加わり、女性たちからも支持されるようになった。
四つ目として、性的アピールをすることができる口紅であるということである。最後に性的アピールをすることができる口紅が支持されるようになったのは次のような理由が考えられる。19 90 年代前半までは女性が、性的な魅力をアピールするという行為は、男性へ媚を売る行為であるとか、いやらしい行為であるという見方をされていた。つまり、当時は、セクシャル過ぎる女性は同性から嫌われていた。しかし、時代が進むに連れて、女性たちもキャリアを意識した社会の中で生活しながら、少しずつ性的な魅力をアピールすることを認めるようになってきているのである。つまりキャリア志向というタテマエと理想の男性を捕まえるというホンネとの間で揺れ動くようになってきた。そうした中で、性的な魅力をアピールする1 つの手段として、口紅が支持されるようになったのである。なぜなら、唇は女性の身体・輝き・膨らみ・キスなどを連想することができ、女性にとって性的な魅力を発揮できる武器になるからである。
このようなことから、90 年代の女性を取り巻く環境が極めて困難な状況であるということがいえる。 
第4章 結論
私はこの研究を行うまでは、女性というものはみな、装飾的な意味で化粧を捉えており、お洒落として化粧をしているのだと思い込んでいた。
しかし、実際はそれだけではないということがわかった。今回、第3 章で口紅広告の分析をしたことで、現代の化粧には美的表現としての化粧と社会的義務としての化粧という2 つのパターンがあることがわかった。
美的表現としての化粧とは、化粧を装飾的なものととらえて、女性が積極的に行う化粧のことである。また、美的表現としての化粧には、自己表現と自己隠蔽という2 種類の機能があると思われる。いつもとは違う本当の自分になろうとして化粧をする行為を自己表現といい、自分の欠点を人に隠すために化粧をする行為を自己隠蔽という。日本においては、平安時代から現在まで行われている白粉化粧で肌の色を明るく見せるといった行為が行われたり、現在では目を大きく見せるためや顔を小さく見せるために自己表現として化粧が行われる場合が多いのではないだろうか。しかし、ここで注意しておきたい点がある。それは、自己表現の機能は、言い換えると自己隠蔽とも表現できると考えられる。つまり、化粧には自己表現と自己隠蔽という二面性があるということになる。
次に、社会的義務としての化粧について考えてみよう。社会的義務としての化粧とは、社会人の身だしなみとして、しなくてはならないという社会からの圧力によって、女性が仕方なく消極的に行う化粧のことである。
第3 章で分析をした19 90 年代の落ちない口紅は、社会的義務としての化粧にあたる。会社の接待で、口紅が落ちないように落ちにくい口紅をつけて、常に自分の唇に気を配っていなければならないからである。
このようなプレッシャーを軽減するために仕方なく化粧をしたり、そのプレッシャーに腹を立てている女性も多いということを忘れてはならない。19 90 年代後半に登場した自分らしさを表現する口紅や20 00 年代に登場した性的魅力を表現する口紅は美的表現としての化粧であると考えられる。つまり、19 90 年代前半は、社会的義務として行われている傾向が強かったと考えられるが、19 90 年代後半からは、美的表現として行われるように、変化してきたのだと考えることができる。現代の女性たちは、この社会的義務としての化粧と美的表現としての化粧の間で揺れ動いているのである。このようにして、キャリアと変遷と女性のストーリーを分析できたことになる。
口紅は女性の象徴
では次に、日本に古くからある白粉と口紅を比較してみたい。すると白粉は古くから色の白いは七難隠すなどといわれるように、隠す機能が強いものであることがわかる。一方で、口紅は隠すためのものではなく、何かを表現しようとするためのものであると読み取ることができないだろうか。このように考えると、口紅から3 つの重要なことを読み取ることができる。1 つ目としては、第1 章から第3 章でも触れたように、口紅は古くから存在しているということである。2 つ目として口紅は、化粧の最低限の要素であるととらえられている点である。よく「せめて口紅ぐらいはつけなさい」という言葉を耳にするのもそのためである。
そして、3 つ目として、口紅は女性自身の象徴であるという点である。
古くから、私たちは、口紅の紅というと赤を連想するであろう。トイレを例にとってみても男性は青で女性は赤というイメージである。このように口紅は女性を象徴するものであり、女性とは切っても切れないものなのである。
口紅は、紅筆から始まり、最初は呪術的な意味をもっていたものが、やがて装飾的な意味をもったものになっていくという歴史的な流れをみてきた。こうして、口紅は女性の生活に密着することになった。次に、第3 章でみた広告分析で、女性が託すイメージをみたことで、女性が置かれている社会的な状況を読み取ることができた。 
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化粧の起源
化粧の起源には4つの説がある。1自然界からの防御、2共同体の規則、3身分の象徴、4呪術の4つである。
例えば、古代エジプトの女性たちのアイメイクは、タール(強い日差しの反射をやわらげ、また虫除けにもなる)や孔雀石(目薬となるもの)などを使い自然界から目を防御して使用していたものである。
しかし、古代エジプトの女性たちのアイメイクは、女性たちの髪や服、肌、全てにおいてバランスがよく美しいという一石二鳥なものであったことや、権力のある者がメイキャップやボディペインティングや特別な髪型をしたり、成人式を迎えると、お歯黒をしたり、入れ墨をしたり、歯を抜いたり削ったりという行為が受け継がれることがあった。
また、日本では、赤色は強大なパワーがあると考えられていたため、開口部に赤色を塗る化粧をしていた。これは、口や目などの開口部から邪悪な霊や魔力が入り、そこから病気になってしまうという呪術の考え方からなっている。
化粧の起源には以上のような説がある。
歴史
歴史というのは、政治・経済史や文化・文学史などによって時代区分が異なることがある。化粧の歴史でもそれが言える。
[1]化粧の起源―[2]縄文時代〜古墳時代―[3]奈良時代〜平安時代初期。この先、平安時代中期〜戦国時代の間は女性と男性の時代区分が変わってくる。
女性は、[4]平安時代中期〜平安時代後期―[5]鎌倉時代〜戦国時代。
男性は、[4]平安時代中期―[5]平安時代後期〜鎌倉時代―[6]南北朝時代〜戦国時代。
ここから、もう一度、男性と女性の時代区分が同じになる。
[7]桃山時代〜江戸時代初期―[8]江戸時代中期―[9]江戸時代後期〜幕末―[10]明治時代―[11]大正時代〜太平洋戦争前の昭和―[12]太平洋戦争中―[13]太平洋戦争後。
この13の時代区分に分けることができる。
[2] の時代では、上記で例に出した口や目などの開口部を赤く塗る化粧が行われていた。また、男女ともに長い髪を結い上げ櫛などの髪飾りで止めたり、顔や身体に入れ墨やボディペインティングで模様を描いたりなどの化粧をしていた。
[3] の奈良時代からは、赤化粧ではなく白粉が普及し始めた。しかし、白粉を塗ったあとに紅粉を顔全体にたっぷりと塗っていたので実際は赤い顔であった。また、この時代では蛾眉という眉尻がとても太く尻上がりの眉が流行っていた。もうひとつの違いは、現代では細い女性が美しいとされているが、当時はふくよかな女性が美女とされ、顔は下膨れであごは二重三重であった。
[4] この時代は菅原道真によって遣唐使が廃止され中国からの文化の流れがストップする。そして、日本独自の文化「国風文化」が熟成する。服装は十二単となり、ヘアスタイルは長い髪を下ろして髪飾りもないスタイル(垂髪)になった。化粧は白化粧になり、剃ったり、抜いたりした眉の代わりに円または楕円の眉を墨で書くような化粧であった。ほかにも、お歯黒をしたり、口に少量の紅をさしたりしていた。男性は、この時代衣冠束帯という平安貴族スタイルになり、平安後期には、貴族の男性も女性と同じような化粧をするようになった。また、当時は舎人まで、白粉を使うようにまでなっていたという。
[7] この時代では戦乱が激しく続いていたにもかかわらず、いつ死んでしまうかわからないという状況のなかで、命ある時間を楽しむという享楽的な生活文化が盛んとなった。垂髪であった髪が遊女から結い上げるスタイルが流行した。髪を結うことで、髪飾りをつけることができ、この時代では櫛や簪、元結などの髪飾りが発達した。また、戦のときに大名などの身分の高い武士は死に顔が美しいようにと化粧をして兜に香を焚き染めたという。
[8] 江戸時代中期になり、「元禄時代」になると、化粧も大衆化した。江戸などの都会の人々は化粧品を買ったり、化粧道具を手に入れたりするようになり、スキンケアまで含まれた化粧のガイドブックなどが発行われるようになる。江戸時代の流行の発信地は、遊郭や芝居小屋、大奥であった。
[10]、この時代以降からは欧米からの文化が流行になることがあった。例えば、ショートカットである。それまでは、女性は長い髪を美しいとしていました。しかし、「ボブ」という髪型が第二次世界大戦中のパリで流行し、日本では、この髪型にし、流行最先端の服装をしている女性たちのことを「モダンガール(略してモガ)」と呼ばれるようになる。
そして、現代のような化粧品が日本の世の中に流出するようになった最大のきっかけは、アメリカの映画のスクリーンに登場する女優たちであった。現代でももちろん有名なハリウッドは、パウダーファンデーションやリキッドファンデーション、黒や青のアイシャドー、アイライナー、マスカラ、口紅など現在、私たちが普段使っているような化粧品はハリウッドから生まれた製品であった。ハリウッドの女優に憧れ、アメリカの生活文化や化粧法が世界中に普及していった。現代では、このハリウッドから生まれた製品がとても普及し、少し前であるとヤマンバメイクなど肌を黒く焼いたり、黒いファンデーションを塗ったり(ガングロ)して目の周りが白い10代の若い女の子がする化粧が流行ったり、鈴木その子といった「美しさには白い肌が絶対不可欠」という信念を持った女性がテレビや雑誌に登場し、そしてガングロから美白へと流行が少しずつ変化していった。また、現代はナチュラルメイクというすっぴん(化粧をしていない顔)のように見える化粧法まで出ている。  
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ヨーロッパの化粧文化
私は今回ヨーロッパにおける化粧文化の歴史、そして現在(日本も含む)における化粧の役割について調べました。“化粧”という言葉で想像することは、ファンデーションであったり、口紅であったりすると思います。しかし、ここでは狭義ではなく広い意味で捉えたいと思います。
化粧の歴史
化粧の起源
現代の人類に近い骨格を持っていると言われえているクロマニヨン人のいたおよそ4〜5万年前までにさかのぼると言われ、大変に長い歴史を持っています。この時代は遺品から生活道具や武器が発見され、歴史上初めて動物やその他の家畜・生活様式を壁画に残したといわれています。また、一説には約20万年前のネアンデルタール人の時代までさかのぼるとも言われています。この時代の化粧とは、狩猟の儀式の際に体にペインティングしたものという説があり、*赤の粘土・赤い顔料を体に塗ったものを言います。また、紀元前3000年ごろの遺跡で化粧瓶・化粧パレット・手鏡・コール壺が発見されました。これが、はっきりとした化粧行為の確認といえるそうです。
赤色 / 昔の化粧で一番使われていたのが“赤色”であり、世界中で赤は化粧を代表する色とされているそうです。日本では、縄文時代・弥生時代・古墳時代まで肌に赤い色を塗ることが化粧とされていました。赤色のイメージとしては、照りつける太陽や血液・燃えさかる炎など熱や生命力を感じさせる色であり強いパワーを持っている。その強いパワーを持つ赤色を昔の人は「魔よけの色」として使っていました。
古代エジプト
西洋の化粧文化流れの出発点とされています。この頃には樹脂や練り香水が作り出され、エジプト人は香りのよい水で水浴するという習慣もありました。また、特徴としては目を強調するためのアイメークがよく見られたようです。当時の女性は今でいうアイライン・アイシャドーみたいなもので目の周りを真っ黒に塗っていました。この化粧は目をパッチリ大きく見せるために目を縁取っていたのかもしれません。しかし、これには他の意味があったと言われています。それは太陽の光を和らげるためや信仰のための二つです。今では美しさのためにとする化粧ですが、化粧の始まりは宗教に関連していたようです。
古代ギリシア・ローマ
この時代の化粧はエジプトのものが伝わったと言われています。ローマでは色白が美しさの基準であったため入浴が盛んに行われていました。現代で言うパックのようなものも盛んに行われ、鉛白や白亜(チョーク)などが使われていたそうです。また、スプレニアも流行しました。この時代の付けぼくろはオシャレが目的と言うよりは、吹き出物などを隠す役割を果たしていました。そして、贅沢を好むローマ人は香料を大量に使用していたようです。特に貴族たちは髪に付ける香油を浴室に持ち込み、一日に三度もすりこんでいました。
中世
この時代はキリスト教の影響で化粧はあまり進歩せず、むしろ回教(イスラム教)の世界で大きく進歩しました。
16〜17世紀
ルネサンス期を迎えるころ、イタリア・スペインを中心に香水が流行しました。これは、入浴して体を清潔に保つといった心遣いがなくなり、衛生に気を配るよりも香水のにおいでごまかすことをしていたということです。その後、香水は欧州全域にも拡大しました。香水は官能を刺激するものとしてだけではなく、いろいろな伝染病(特にペスト)に対して有効な予防薬として考えられていました。また、この時代にもつけぼくろ(パッチ)が流行しました。これは古代ギリシア・ローマ時代のものとも異なり、肌の白さを引き立たせるためのものでした。素材もベルベットやサテンでつくられており、この流行は次の世紀まで続きました。
18世紀
この頃から化粧の様子が少しずつ変化していきました。具体的には頬の上に紅を丸く塗ったり、唇いっぱいに紅を塗ったりなどです。これはルイ14世の愛妾モンテスパン夫人の影響があるといい、彼女が出入りする以前の宮廷では紅はあまり使われていなかったようです。また、市民階級は地味な色、上流階級の貴婦人たちは鮮やかな色など紅の色合いで女性の階級などを区別していました。化粧品はすべて匂いが強かったが香料水を使うことも流行し、匂いが強ければ強いほど珍重されました。さらに、エチケットとして毎日香水を変えることも要求され、この香水の流行が貴族階級から市民階級へと広まりました。この時代も16〜17世紀同様に肌の白さは重要視され、引き立たせるために皮膚の上にうすく青色で1〜2本の血管を書いたりもしました。
19〜20世紀
時代とともに濃厚な化粧はすたれ、控えめな化粧や香り、そして再び白い肌が好まれるようになりました。第一次世界大戦後は日焼けした小麦色の肌が健康美としてもてはやされたが、1930年ごろまでにはまた日焼けを嫌う傾向へと変化していきました。そして、1955年ごろにファンデーションが発売され、世界共通の化粧方法が生まれはじめたそうです。その後、各国の化粧品メーカーが科学技術品としての化粧品に腕を競うようになり現在に至っています。
香水
化粧の中でも香水または香料は古くから存在していました。似たような役割を果たすものは古代エジプトの時代からあり、その後ヨーロッパにおいて大きく発展したといわれています。17世紀にフランスの植物学者メルキュウティオ・フランギパレが香粉をアルコールに溶かし、香水として売り出したものが、現在の香水の始まりであるとされています。香水を含む“香り”は美容的な価値の面と治療的機能の面があり、それらがヨーロッパとくにフランスの宮廷文化とともに発展し、市民階級へも深く浸透していきました。その治療的機能の面としては、ペストなどの伝染病が流行したとき芳香性の植物を燻蒸する方法がよくとられていたようです。19世紀のパリ・ロンドンでは王室御用達の香水商も出現しました。また、オートクチュールが確立するとファッションデザイナーも化粧業界に参入するようになり、シャネル・ランバン・ディオールなどが数々の有名香水を発表するようになりました。現在においては、香水だけではなくアロマテラピーという形で香りが注目されるようにもなりました。
化粧の力
現在、化粧はおしゃれという面だけではなく病気の治療にも活用されています。その中で私が注目したのは介護現場での化粧の活用です。「お化粧大研究」(PHP研究所)の中である病院で66歳〜93歳の老人性痴呆の女性40名を対象にした調査結果が載っていました。
内容は毎週月曜に大広間に集まり、マッサージをしたりメークをしたりするというものです。それまで寝たきりでトイレもオムツに頼っていた女性がリハビリに積極的に取り組んで自分でトイレに行くことができるようになりました。この他にも表情の変化やみだしなみ・オムツがとれる・トイレ・リハビリなど様々な面でよい結果が得られたそうです。日本は先進国の中でも特に速いスピードで高齢化が進んでいるそうです。治療のための医療はある程度はすでに進歩しつくしています。そのような中で化粧療法を使うことが精神面からの治療の補助になるのではないかと思います。
まとめ
秋学期は化粧の歴史を中心に調べてきました。今まで、化粧について詳しく調べたことがなかったので知らないことなど発見が多くあったと思います。その発見したことや新たに得た知識をもとに、今回の研究でもふれた“香水文化”についてより深く調べてみたいと思います。さらにヨーロッパの香水文化を広める中で大きな役割を果たしたファッションデザイナーたちについても注目してみようと思っています。また、現在は化粧=女性というイメージがありますが、昔は男性も化粧をしていたことが分かりました。なぜ化粧が女性中心のものとなったのか?そして、化粧のおしゃれ以外の用途などについても、今後調べていきたいと考えています。  
 
日本の化粧の歴史1

 

古代 (古墳時代/3〜7世紀)
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていることから、顔に赤土を塗ることが当時の風習であり日本の化粧の始まりで、魔除けのために顔に紅殻(ベンガラ:酸化鉄)を塗る“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていました。 
飛鳥・奈良時代 (6世紀末〜8世紀)
6世紀初頭に始まった遣隋使(3回派遣)、遣唐使(894年によって持たされた第18次遣唐使の大使に任命された菅原道真が遣唐使の廃止を建言で廃止までに通算15回派遣)、や中国や朝鮮からの渡来人などにより文字を筆頭に種々の文化、文物の伝来と共に、身だしなみ、化粧品、化粧法なども伝えられ、魔除けから日本の伝統化粧の始まりとなりました。
伝来したけしょうは“化粧・仮粧”と書き“けわい・けそう・おつくり”などといい、化粧・髪型・服装・態度などを含めた身だしなみ、と云う広い意味に使われていました。
この時代の美的感覚は正倉院の“鳥下立女屏風”や薬師寺の“吉祥天女蔵”に見られるように当時の先進国、中国での流行を意識したものが主流で、唇を濃い赤で染めあげ額と口元には鮮緑色の花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)を付ける様式が宮廷を中心にして流行しました。
その後の変化は高松塚古墳の壁画に描かれた美人画のように本来の眉毛を抜いて細長く眉墨で描いた眉が当時の流行を表しています。
それまで輸入に頼っていた白粉は692年に沙門勧成が国産初の鉛で出来た鉛白(ハフニ:塩基性炭酸鉛 2PbCO3・Pb(OH)2)を完成し、続いて713年には水銀で出来た軽粉(ハラヤ:塩化第一水銀Hg2Cl2)も国産化します。
お歯黒は、聖徳太子がしていたと云われており、虫歯予防に行われていたようです。
753年に渡日した鑑真和尚が、鉄漿水(かねみづ:酢酸第一鉄:液体)の換わりに緑バン(硫酸第一鉄:粉末)を使う方法を伝え、悪臭がなく、付きもよいものだったが高価であったがので、あまり普及しなっかたようです。
また、騰脂(えんじ:紅花のこと)も渡来し、これで明治初期までの基礎的な化粧品が揃いました。
参考
お歯黒の材料はは、鉄奨水(かねみず:酢酸第一鉄)と五倍子紛(ふしこ:タンニン酸)からなっていて、化学反応によってタンニン酸第二鉄が出来、それが歯のエナメル質に滲み込んで歯を黒く染める。
鉄奨水の作り方は、お茶五合を沸騰させ、そこに焼いた古釘20〜30本を入れ、更に飴を五匁、麹を五勺、砂糖を一勺と少々の酒を入れて2〜3ヶ月密封して冷暗所に保存します。
飴・砂糖・麹が発酵して酢(酢酸)が出来、古釘の鉄との化学反応により酢酸第一鉄(鉄奨水)が出来上がります。
また強烈な一種独特の悪臭があるそうで、姑から嫁への伝授で少しづつ作り方が違っていたようです。
五倍子はウルシ科ヌルデの若芽や葉にヌルデノミミフシアブラムシが寄生し、その刺激によって組織が膨れ上がり虫こぶが形成されたヌルデミミフシが充分に成長する10月頃に採取し、火で焙って70度位で中のアブラムシを殺し乾燥させたもので、多量のタンニンを含んでいます。 
平安時代 (9〜12世紀)
遣唐使の廃止と前後して中国の真似ではなく衣冠束帯や十二単といった日本独自の習慣や風習が芽生えます。
源氏物語絵巻に描かれているように長髪をそのまま下ろし白く白粉を塗った顔に、眉毛を全部抜いて眉墨で描いた眉(引き方は男女、年齢、身分、階級によって描き方が多数あった)と、下唇だけにちょこっと唇に紅を差す化粧と変化し、鳳仙花を使って“爪紅(マニキュア)”もするようになります。
髪が長ぃので手入れが大変で、米のとぎ汁で丹念にブラツシング、洗髪は年に1回、臭い対策として香枕を使い白檀などの香りを髪にしみこませた。これらが香りの文化も生み出し、男も女性と同じような化粧をするようになり、お歯黒(鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を混ぜて作った)文化も復活しています。
平安時代後期となると、武士団が台頭しますが、宮廷文化に憧れ、白塗りの顔に置き眉、口紅を塗りお歯黒もするといった貴族の習慣を取り入れた平家が繁栄した時期になります。
その頃、流行した白拍子達に依って化粧が広められてゆきました。 
鎌倉時代 (13〜14世紀初頭)
源氏は、平家に対する反動からか質実剛健を旨とし、平安貴族風の化粧は女性だけのものに戻りました。
また、赤化粧が復活して、地肌の色を強調しあまり白粉を塗らない化粧法へと変化しますが、眉化粧が貴族中心から一般的な化粧法となり、新しい化粧法のほお紅の使用が始まります。 
戦国時代 (14〜16世紀)
女性の化粧は、あまり変化せずに、戦に臨む武士達が化粧をする風潮が生まれ、敵に首を取られても醜くないように、眉墨を引き、白粉を塗った。
中には口紅やお歯黒をつける者もいたと云われています。
戦国武将であった今川義元は、宮廷の生活用式を好み桶狭間の戦いで討たれたとき、お歯黒をしていたことは、有名な話です。
“バサラ”と呼ばれ、若い男が、派手派手な着物を身にまとい、時には傍若無人な行動を取ったり、奇抜な化粧をしたりすることが流行りました。
織田信長、前田慶次、伊達正宗などは有名です。
戦国時代の後半となると眉墨で描いた眉から自分の眉に戻り、白粉に紅色を混ぜた“小西白粉(紅色白粉)”が作られ、後に千姫、淀君も愛用したと云われ、ここに白一辺倒でない白粉が生まれました。 
江戸時代 (17〜19世紀)
最も古い女性の教養書の一つである“女鏡秘伝書(1650年)”によると、江戸初期の化粧の仕方、特に白粉の塗り方について“おしろいをぬりて、そのおしろい、すこしものこり侍れは、見くるしきものなり、よくよくのごひとりてよし”と薄化粧をすすめている。
また、“女重宝記(1692年)”でも“紅などもうすうすとあるべし”と書かれており、濃くぬるのは卑しいこととさとしている。
江戸の中盤以降になると町人文化の繁栄が化粧をする層の裾野が広げ発達させますが、その流行を主導していたのが歌舞伎役者や遊女達でした。
延宝(1673〜1681年)ころの歌舞伎俳優上村吉弥は、吉弥結びという帯結びや吉弥帽子、吉弥笠などの流行を生んだ、引退後に京都四条通りに白粉店を開き吉弥白粉を発売して大いに繁盛したとの事です。
その他、中村数馬や二代目瀬川菊之丞など数多くの俳優が新しい化粧法や化粧品の開発・宣伝に大きな役割をはたしました。
化粧(けわい)に関しての総合的な知識をまとめた、“女子愛敬都風俗化粧傅(みやこふうぞくけわいでん:1813年)”があり、その後、大正時代に廃刊になるまでのロングセラーとなって日本の伝統的化粧の指導書の役割を担った。
実際に化粧を視覚的に伝えたのは浮世絵版画であり、実際に伝えたのは、幕末の江戸市中1400余人いたという女髪結達であった。
しかし当時流行の化粧はいわゆる白塗りであって、それが日本の伝統化粧であったとは云えないようで江戸末期の“守貞漫稿(1853年)”によると、一般に京都・大坂の化粧は濃く、江戸は薄く、素顔も多かった。
中でも京都の官女は濃く、遊女・芸著なども上方は濃いが江戸は薄化粧か素顔もあった。
一般の庶民は普段は素顔で、晴れの日には薄化粧をした程度だったようで、薄化粧もしくは素顔でいられたのは、ぬか袋や生薬類を使った肌の手入れ法が普及していたからだと云われています。
その化粧法も、薄青色を混ぜた白粉を鼻すじの両側や上瞼に塗つてシャドーを作って鼻を高く見せたり、また、当時の紅花は最高級の口紅用材料として珍重されて、非常に高価にも関らず、紅を濃く塗って黒に近い暗緑赤色にする“笹紅”が流行したり、下唇に墨を塗った後に紅を塗って、笹紅と同じ効果出す化粧法も考え出されたりした。
また、ペディキュアなども行われていたようです。
白粉はまだまだ鉛や水銀製だったのですが、反復使用するうちに慢性毒が体内に蓄積され一種の職業病(鉛中毒、水銀中毒)として幾多の悲劇が生まれています。
日本固有の化粧として伝えられてきたお歯黒は古代から男女ともに成年式などの通過儀礼として行われてきたが、結婚と同時に歯を染めるようになり、また出産と同時に眉を剃るようになり既婚者の証とする風習も生まれた。 
明治時代以降 (19世紀中期以降)
1870年(明治3)のお歯黒は旧習であるとして、禁止令の太政官布告を契機として、次第に白歯が増えて、お歯黒をする者は減ったが、明治初期に即席のお歯黒ができるようになり再び増えたが、日露戦争の大勝以後、女性風俗も近代化の途をたどり、お歯黒人口も再び減少した。
同時に無鉛白粉の開発と舶来化粧品の輸入増、それに新聞・雑誌などによる広告・宣伝の活発化によって、化粧は一般化し、化粧品産業も基礎が固まった。
大正時代には化粧水・化粧液・乳液などの基礎化粧品を始め、香水・石鹸・歯磨など洋風化粧品がその種類を増し、大衆化した。
昭和に入るとクリームやルージュが種類をまし、更に第二次世界大戦後は、メーキャップファウンデーション・アイメーキャップ類・フレグランス(芳香製品)類・男性化粧品と、化粧品も化粧法もまったく世界共通のものとなりました。 
薄紅化粧
京都の舞子や若い芸者は、耳たぶに紅を薄く塗る。すると、初々しく見えるのだという。実はこの耳紅化粧、人類の「化粧」の起源ともいえる「赤化粧」の伝承の中で、耳化粧として文明社会に現存する唯一のものらしい。人類の化粧行動の最も原初的な目的は、魔除けといった宗教的呪術的なものと考えられ、赤道付近の熱帯圏を中心に太陽信仰と共に広く分布した「赤化粧」は、炎や血の色にも通じ熱や生命力を象徴する赤色のパワーへの信仰から、赤塗料を身体とくに悪霊が侵入すると考えられた口目耳鼻臍などの穴に塗附したもので、口紅はまさに赤化粧の世界発展系だ。日本でも古墳時代まではこの赤化粧であり、その後東ローマから中国を経てもたらされた白粉化粧が貴族階級で流行した平安朝を除けば、明治に西洋白人種の白化粧が再来するまで、結局は日本人の赤色系地肌色を強調し健康的に見せる薄紅化粧が日本の化粧文化の基底にあり続けた。化粧は文化であり、その選択は教養と品性を表わすものである。  
 
口紅

 

(lipstick) 人がメイクアップをする際、唇を彩るために使われる化粧品の一種。多くは、スティック状である。
一般的に、ベニバナやコチニールなどの天然色素を原料とした顔料や、主にタール色素などの合成着色料である色素(着色料)をワックスなどの油分に溶き、型に入れ固めて作られる。しかし製品としての口紅にはこれらの他にも界面活性剤、酸化防止剤、香料など多数の成分が含まれる。なお、口紅の訳語としてしばしば使われる「ルージュ(rouge)」とは、フランス語で赤という意味である。しかし、1990年代後半以降、赤色でない口紅も存在するようになり、オレンジ系・ピンク系・ベージュ系など様々な色味に大別される。唇に艶やかさといった質感のみを加える半透明、または透明なグロスと呼ばれる物もある。形状はスティック状の物が一般的で、フタを取って1cmほど繰り出し、直接あるいはリップブラシに取って唇に塗布する。また最近はリキッド状(液状)の口紅も発売されており、口紅の発色と、グロスのようなみずみずしいツヤ感を同時に楽しめる。この場合、直に唇に塗布することは不可能なので、別にリップブラシに取るか、内蔵のチップなどで塗布する。
なお、英語では「リップスティック(lipstick)」と言い、略して「リップ」と呼ぶことがある。しかし、日本ではそのように略すと口紅より、主に唇の乾燥を防ぐために用いられるリップクリームを連想させる。業界では、両方扱っているメーカーが多いために、この2つは使い分ける傾向にある。
約7万年前に、悪魔などが口や耳などの穴から進入してこないよう、赤色の物を塗る習慣があったのが始まりと言われている。これは、出土した当時の人骨の口などに赤色が付着している痕跡があったため判明した。別の説では、紀元前3000年頃のエジプト人が使用したと思われる口紅が発見され、紀元前1200年頃のエジプトで、人々が目や唇に化粧している絵画も発見されている。 
効果
現代において、化粧のうちでも重要な要素とされ、色、質感などが重要である。光沢も重要であり、光彩を放つパールやラメが混入されていることがある。保湿機能などが付加され、冬期の乾燥した環境下でも使用できる製品が開発されている。夏期には紫外線防止効果のあるものも選ばれる。 
口紅指数
2001年秋のアメリカ不況時、他の高級品の売り上げが低下する中、口紅の売り上げは反対に11%増加した。この現象はエスティローダーの会長レナード・ローダーによって、「口紅指数」(lipstick index) と命名された。同様に、不景気時には化粧品産業において求人が増える傾向があり、「口紅効果」とも言われる。不景気時には服飾品等への出費が抑えられ、比較的安価で必需品でもある化粧品が購入されるためといわれている。ただし、口紅の販売数に関する統計資料は少なく、景気と「口紅指数」の相関ははっきりとしない。 
エピソード
男性が女性に口紅を贈る場合に、「少しずつ取り戻したい」などという気障な言葉が添えられることがある。ちなみに、江戸時代に京都で作られた上質の紅は「京紅」と呼ばれており、同じ重さの金に匹敵する価値を持つ高級品であったため、男性が意中の人の好意を得る決定打として贈り物に重宝された。
時に意図せずに男性のワイシャツなどに付着した口紅は、その配偶者や恋人などに浮気をした証拠だと疑われる場合もあるが、満員電車などの特殊な状況による不可抗力のために付着する場合も多い。
食器・衣服などに付着すると、口紅の主成分が油分と色素であること、加えて近年の口紅の色持ちを良くさせる成分のために非常に落ちにくい汚れとなる。そのため最近では食器などに付着しにくい性質を謳う製品も多い。フォーマルな食事の席などで口紅を差した唇でワイングラスなどを口にする場合、直前に下唇を目立たぬよう軽くひと舐めすることも、グラスに口紅が付着するのを防ぐことに効果的であると、元インドネシア大統領スカルノ氏の妻であるデヴィ夫人がテレビ番組で話していた。
口紅を塗る動作そのものを「紅を引く(べにをひく)」と表現することがある。古くは薬指のことを「紅差し指」とも呼んだ。
かつて春先の化粧品のキャンペーンや、プロモーション活動の中心商品といえば口紅であった。しかし最近では口紅だけではなく、アイカラー、チークカラーなどをあわせて商品開発をし、トータルイメージを提案をする方法に変わってきた。 
危険性
規制が甘いタール色素
最近では漬物やキャンディにタール色素は不使用になったというのに、口紅に入っていれば、食べているのと同じ影響が出るでしょう。欧米ではタール色素について規制があるのに日本では厚生省令で許可されたほとんどの色素が、くちびるであろうが粘膜に近い目のまわりであろうが、どれだけ使っても許されています。赤色OOO号、黄色OOO号、青色OOO号などのタール色素は、自然界にはまったく存在しない化合物です。食品添加物には12種しか許可されていないのに、化粧品には83種も許可されています。これは、美しいくちびるに憧れる女性のために、厚生省と化粧品メーカーが「安全性より美しさを」と特別に配慮?しているからです。タール色素の多くは、発ガン性や変異原性が報告されてきました。しかも口紅には、色素の分散をよくするための合成界面活性剤や染料の溶解剤がまぜられています。合成界面活性剤が含まれていると、より体に吸収されやすく、毒性は強くなると考えるべきでしょう。
赤色202号の被害が多い
埼玉県の主婦Bさんは50歳。小さいころからアトピー性皮膚炎と診断され、手荒れ、くちびるの炎症などが続いていました。2年ほど前からは、くちびるや両頬の皮膚炎が悪化し、なかなかよくなりません。くちびる全体が赤く、水泡や色素沈着があり、皮がポロポロむけて痛がゆい状態でした。いつも飲んでる健康飲料、ハミガキ剤、化粧品などのパッチテストを皮膚科で行った結果、口紅が原因であることがわかりました。Bさんは、慢性の湿疹が長年にわたって続いていたため、化粧かぶれだと思わずにいたそうです。さらに、口紅の成分のうちタール色素の赤色202号が原因であることを突き止めました。ところが、他のメーカーの口紅に使われた赤色202号や、赤色202号の精製品には陰性です。そこで、原因色素を洗浄分離するなどして、赤色202号に含まれている不純物、2つの副色素によるアレルギーだったことがはっきりしました。かって、裁判にまでなった黒皮症の原因は、赤色219号・黄色204号の不純物によるものです。現在では、化粧品メーカーの自主規制によりこうした色素沈着型の被害は激減したものの、赤色202号が使われる口紅が増え、口唇炎の報告が相次いでいます。赤色202号は、56年に使用が許可された色素です。水、アルコール、油脂に溶けない性質があり、主として口紅、ファンデーション、アイシャドー、マニキュア、石けんに使われてきました。口紅の場合、約70%に使われ、1%程度の濃度で配合されています。お手持ちの口紅の箱をお確かめください。たぶん、あなたが使っている口紅にも入っているでしょう。この赤色202号の純度は、製品によっては60%程度と不純物が多いものもあり、そのまま精製されずに化粧品の原料になります。化粧品業界は、原料の品質管理ではなく、「落ちにくい口紅」の宣伝にしのぎを削っていますが、かぶれの被害が増えるのではないかと心配です。
落ちにくい口紅
化粧品売り場には、落ちにくい口紅がずいぶん増えました。でも、「落ちにくいなんて気持ちが悪い」と使わない人はともかく、「ありがたい、待ってました」と喜んで使っている人がいたら、ちょっとご用心ください。落ちにくい口紅を最初にヒットさせ、200万本以上売ったのは、カOボOです。これは、くちびるの表面を皮膜でパックしてしまう技術を開発したことによります。口紅を塗ると、分子量15万から20万の超高分子アルギン酸塩がくちびるの水分に作用し、表面に皮膜を形成するのです。一方、口紅に配合されている水溶性の色素に不溶性のレーキ化顔料が混入されているため、皮膜に移行した色が残ります。従来の口紅は、オイルベースにくるまれた色素が、ただくちびるにのっているだけ。これに対して、落ちにくい口紅は、皮膜の上にオイルベースにくるまれた色素がのっているので、色素がとれても着色した皮膜が残るわけです。しかし、たとえばOO製品にはジプチルヒドロキシトルエンやタール色素が、OOO製品にはタール色素が含まれています。こうした発ガン性や変異原性が指摘されている多種類のタール色素や酸化防止剤、不純物でアレルギーを起こす赤色202号などがいつまでもくちびるにくっついて落ちなかったら、危険です。 
 
口紅の歴史

 

西洋では、古くから頬や口に紅を塗る「赤い化粧」がおこなわれていましたが、それを言いあらわす「化粧」という語はありませんでした。このためシェークスピアは、戯曲の中で「化粧する」ことを「ペインティング」と書いています。
メーキャップという言葉は、17世紀の初めに使われたのが最初でした。口紅はメーキャップ製品の中で最も重要なものであり、「ルージュ」と言われてきましたが、ルージュはフランス語の「赤」という意味です。ルージュは、ごく近い時代まで頬と唇の両方に塗る化粧品のことでしたが、今日ではもっぱら口紅だけの意味になっています。今日では口紅といえばリップスティックのことですが、これは1880年頃にアメリカでつくられた言葉で、唇を黒く塗るのに使っていたコルクを焦がした棒の名前でした。これが棒口紅の意味になったのは、第1次世界大戦直後のことです。
最初に顔に化粧料を用いたのは何か、いつの頃かについては明かではありませんが、紀元前1万年頃のものと思われるエジプトの目の化粧用パレットが発掘されていることから、このころにはすでにメーキャップ化粧が施されていたことがわかります。多くの発掘された遺物から推測すると、古代エジプト人は現在までに生み出された化粧品のほとんどすべてをなんらかのかたちで使っており、男性も女性も日課のひとつとして化粧をおこない、最後には来世のためにきれいに化粧して安息所へ向かったと考えられています。紀元前3000年ごろの口紅が発見されたり、紀元前1200年頃のエジプトの絵画で唇に化粧している様子が描かれていることから、口紅も広く使用されていたと思われます。一説によると、古代エジプトでは男女の接吻という風習がなく、口が男性を魅惑するとは思っていなかったため、唇に赤い色を塗ったかどうか疑わしいと言われています。
ギリシャではヘタイラ(遊女)という特殊な階級の女性の間で目と口の化粧がおこなわれていました。ベニの原料として、初期には海藻、桑の実、コケ、紫貝が、後には辰砂(硫化水銀)が使われました。女性のおしゃれが盛んになって流行化したのは、帝政ローマ時代(紀元前一世紀)からで、この時代にはベニが盛んに用いられました。男性を引きつける手段として化粧を利用するのも、この時代にはじまったと言われています。バロック・オペラの最高傑作であるモンテベルデイの「ポッペアの戴冠」に描かれているように、その頃のオシャレナンバーワンであったポッペアは、化粧を最大限利用してネロを誘惑し、ネロ皇帝の妻の座を射止めたのかもしれません。
初期のキリスト教では、女性を罪悪の源泉と見なしていたので、中世においては化粧やおしゃれが女性の生活から影をひそめていました。14〜16世紀にかけてルネッサンスの本場イタリアで女性のおしゃれが復活し、唇の化粧が文章に現れるようになりました。このころヴェニスで書かれた本には、細く、赤く塗った唇が美女の条件であると述べられています。17世紀頃のヨ−ロッパでは獣脂と石膏の粉を塗り、着色して鉛筆状にしたものがつくられていました。
一方、中国では始皇帝(紀元前259〜210)の宮廷において、すべての女人が「紅粧翠眉」を施したとつたえられています。顔はベニで赤く、眉は緑に塗っていたというものです。楊貴妃が薄紅色の汗を出したとつたえられるのも、紅を塗っていたことをあらわしています。中国では、古来、ベニバナを原料としていました。殷の紂王の時代(紀元前11世紀)に、燕国の紅花をもってベニをつくったので、ベニのことを臙脂(えんじ)とよぶようになりました
日本人がいつ頃から口紅を使うようになったかははっきりしませんが、古代に中国からつたわったとされており、口紅の原料である紅花に関しては、推古18年(610年)(604年17条憲法制定、607年小野妹子を遣隋使として派遣)に憎雲徴が種子を高麗からつたえたとされています。正倉院の「鳥毛立屏風」には鮮やかな紅で唇を濃く染め、額と口元には鮮緑色の花鈿よう鈿をつけた美女が描かれており、源氏物語にも尾上の君が唇に紅を濃くつけている様子がかかれています。戦国時代には、敵に首を取られても醜くないようにと、眉墨をひき、おしろいをぬり、口紅やお歯黒までつけて出陣する武士もいたようです。しかし、近世になるまで口紅の使用についての明確な資料は見あたりません。一般に口紅が使われるようになったのは、18世紀後半のことです。 
 
美容のルーツ

 

江戸時代のベストコスメ
今から約400年前、日本は江戸時代を迎えていました。とくに、江戸中期から後期にかけて、飲食店や小売店といった商売が繁盛して、毎日を楽しむ庶民文化が発達していきました。
なかでも「メイク」は、さまざまな身分の人に浸透し、身分の高い人たちだけではなく、庶民も楽しむようになっていきます。当時、庶民にこれだけメイクが浸透していたことは、同じ時代の西洋の国々から見ると大変めずらしいことだったんですよ。日本人の美容に対する意識の高さは、ここから始まったのかもしれませんね。
江戸時代後期に発売された『都風俗化粧伝』という書物があるのですが、この中では、顔のタイプ別に口紅の塗り方があったり、ヘアスタイルの見本も今の雑誌に負けないくらいたくさん掲載されています。そのクオリティーの高さから、江戸時代後期に発行してから大正時代まで何版も増刷された大変人気の高い読み物でした。
当時の女性はこうした書物を見ながら、より美しくなれるよう積極的に研究していたんですね。

現代と同じように、江戸時代にもコスメが販売されていました。化粧水については、特に人気の高いベストコスメがあったことが分かっています。「花の露」という化粧水は、ロングセラー商品! なんと江戸前期から明治時代まで販売されていたんですよ。その人気は、江戸後期の美容雑誌に、類似品の作り方が紹介されるほど。美しくなるためには、手間を惜しまない江戸の女性像が想像できませんか?
それから、多くの人がこの化粧水を使うきっかけとなったのが、風呂屋など、人の集まるところに張り出される絵がありました。今でいうとポスターといったところ。美人が描かれているもので、その絵の中に商品を描き入れて、宣伝していたんです。
他には、滑稽本『浮世風呂』で有名な式亭三馬が販売していた、ガラス瓶入り「江戸の水」や、今でもお馴染みのヘチマの水で作られた化粧水「美人水(びじんすい)」などが人気がありました。
ここで気になるのは、メディアの数が少ない時代にベストコスメがあったその理由。当時の美容雑誌のひとつ、『都風俗化粧伝』を見てみると、その中で「花の露」の使用感を「顔の腫物(できもの)が癒やされて、白粉(おしろい)のノリがキレイ」と紹介。今でいうクチコミが残っているんですよ。「きれいになりたい」と願う美容意識の高い江戸時代の女性たちが、美容雑誌や広告のコスメ情報をチェックして、ベストコスメが誕生したんですね。

江戸時代にも、今でいえば「ミスコン」のような、選ばれし美人女性の存在がありました。それが、江戸後期に発行された『江戸名所百人美女』に描かれている女性たちです。枚数が100枚にも及ぶ、いわゆる美人画集で、もともとは当時の旅行ブームや風景画の流行をきっかけに作られたものと考えられています。 描かれている女性は、吉原のおいらんや、水茶屋(喫茶店)の娘など、江戸で美人と評判のさまざまな階級の女性たち100人。面長な顔立ちで艶やかに描かれた姿が印象的ですが、家柄によってメイクや髪型、着物の着こなしが異なるのも面白く、男性のみならず同性の女性からも高い人気を受けていました。江戸の女性たちは、彼女たちをいわばファッションモデルのように見立ててその装いや髪型、メイクの流行を勉強していたようです。 
江戸時代流の修正メイクでセレブ美人
一般的な江戸時代の美人のイメージは、瓜実顔+切れ長の目+小さい口といったところでしょうか。当時のいろんな文献を紐解くと「色の白きを第一にする」ともあります。つまり、“色白”が美人の絶対条件だったんですね。色が白いと若く見られ、いつでも娘の肌のようでいられたと思われていたようです。白肌は美人の絶対条件だったけれども、それ以外のパーツに関しては、輪郭や個性を活かしてメイクしましょう、と文化10年(1813)に出された『都風俗化粧伝』にはうたわれています。今でこそ個性を生かしたメイクは当たり前ですが、実は当時から「その人の顔に合わせるべし」と必ず本に書かれてあるほど、パーソナルなメイク法が主流だったようです。
また、当時は身分・階級や既婚・未婚によってメイクの決めごとがありました。庶民はお正月や結婚式といったハレの日にだけちゃんとお化粧して、普段はあまりしなかったようですね。一方で遊女は仕事柄、毎日昼間から身仕度してお化粧します。そして江戸の吉原では、人気の高い遊女になると「お歯黒」をする習慣がありました。「お歯黒」は既婚女性の印。 つまり一人前の大人の女性であるという証明みたいなもの。人気の高い遊女も一人前の女性として扱われていたんですね。
一般庶民は、婚約すると「お歯黒」にし、子どもが生まれたら眉を剃ったりしましたが、婚期を逃した女性はある程度の年齢になると「お歯黒」したり眉を剃ったりすることで、周りの目も気になる当時の救済策になっていたようですよ。

メイクの決めごとがあった江戸時代ですが、特に江戸時代後期、女性たちは少しでも“美人の条件”に近づくために、バランスに見合った修正メイクを施していたようです。
人気遊女のおちょぼ口がブームだった時は、口の大きい女性は白粉を塗って唇の内側七分目に少し濃く紅を塗って修正していたと書かれています。目の小さい人は大きく見せるために瞼の上の白粉を薄めにし、薄い紅をさすなど工夫していました。また、眉を濃くして、鼻を顔よりさらに白く塗り鼻を高く見せることで、平面顔を立体的に見せるシェーディング法もなされていたようですよ。
また、唇に紅を何度も重ね、玉虫色の光沢を出す「笹色紅」というリップメイクが流行しました。でも当時の紅はとても高価で、贅沢に使えるのは上流階級か、裕福な商人か遊女だけでした。一般庶民はなかなか手が出なかったので、うすい磨り墨を下地に塗ってその上に紅を塗ると、笹色紅と同じように見えるということを発見したんです。
江戸時代でさえ、どんな状況の中でも女性はキレイになるためにこうした工夫や努力をしていました。そうした女性の“ココロのもちよう”は今の私たちにも十分通じているものがありますよね。
現代は、時代と技術が進んで、悩みの解決方法も魅力的に見せるコスメもどんどん増えてきました。個性を生かしてメイクするのは、江戸時代も現代も一緒。悩みを個性ととらえれば、メイクはもっと楽しくなるはずです。今は、一人ひとりの個性を生かしてもっともっとメイクを楽しめる時代なんだと思います。

江戸時代の遊女や芸者は、お茶やお花、香道(お香)など多彩な芸事と、大名が来ても対等に話のできる教養を身につけていました。また、トレンドを発信するファッションモデル的存在でもありました。『吉原細見』という今でいうところの吉原遊郭ガイドブックを見ると、店ごとに遊女の名前が閲覧できる人気番付が載っています。人気の高い遊女には「合印」という山形マークがつけられていて、遊興費の目安になっていたとか。
例えば、文化9年の番付でトップクラスの人気を誇っていたのが花魁(吉原遊郭の中で位の高い遊女の呼称)、「大淀」。べっ甲の髪飾りをいくつもつけた豪華なヘアスタイルに贅沢な着物と帯、そして菊模様のど派手な鏡台というゴージャスっぷりから、相当なセレブだったことがうかがえます。当時1000人はいたと言われる遊女のNo.1は、江戸の人々の憧れ的存在。町の女性たちがこぞって彼女たちのメイクやファッションを真似ていたというのもうなずけますね。 
「白肌」はセレブのしるし、美白のルーツ
「色白は七難隠す」という言葉があるように、日本では白い肌というのは美人の条件だったんです。現在では、シミを薄くしたり肌の色を白く見せるケアを美白と言いますが、実は古来からその概念は存在していたんですよ。その手段として、白粉(おしろい)を使って白く見せる手法がポピュラーでした。
では、白粉の由来はいつ? と言うと、ニッポンの女帝・持統天皇の頃ではないかと思われる記述が日本書紀にあるんですね。何でも、お坊さんの観成(かんじょう)という人が、中国の書物を見て鉛白(なまりおしろい)を作って献上したというんです。好奇心旺盛だったのでしょう、持統天皇は「あら、素敵! 」と大喜びし、そのお坊さんにたくさんのご褒美をあげたとか(笑)。無理もないでしょうね。当時中国というのはヨーロッパの玄関。ヨーロッパの流行が中国に渡り、遠路はるばるこのニッポンの自分の手元に届いたのだから、持統天皇の感激も相当なものだったに違いありません。まさに、ここから日本の「美白(白粉)」がスタートしたんですね。
中国西安の壁画などを見ると、女性の顔は白く描かれています。当時、日本の特権階級にとって中国は憧れの的。このような絵や書物を見たり聞いたりして、“白い肌がトレンドで高貴”という意識が上流階級の中で広まっていったのでしょう。室町時代の絵巻物を見ても公家や武家の顔は白く、庶民との身分の差がはっきり分かります。
白粉は、上流階級だけで使われていて、顔だけではなく、手や首や襟足にも塗り、女性たちは全身の肌が白いことをアピールしていたんですよ。

支配階級に憧れて、美白(主に白粉を顔に塗るメイク法)が庶民に広がったのは、室町時代の頃でしょう。この頃、神社仏閣の縁起物にも白粉(おしろい)をしている女性が描かれるようになったんです。ここから除々に一般に広まっていったのではないでしょうか。本格的に白粉メイクが広まったのは江戸時代で、お芝居の影響も強かったかもしれません。女性の役を演じる歌舞伎役者は白塗りしていたので、町の人々はそれを見て憧れたんでしょうね。お芝居を見に行くこと自体、当時は一大イベントで、皆、夜が明ける前からおしゃれして見に行ったと言いますから。
江戸時代前期、流行の中心は上方(京都・大阪)だったのですが、江戸中期は江戸に移り、一気に江戸文化が花開きます。ここで、カラー刷りの浮世絵が出てきたり、川柳などが多く詠われて、庶民にもファッションが身近になりました。その中で当時の女性もだんだんと白粉を塗るようになったのです。
では、実際庶民はどこで白粉を買って使っていたのかと言うと、江戸にできたお店などで買っていたようですね。白粉の種類は主に、軽粉、鉛白の2種類。軽粉は水銀、鉛白は鉛白粉。鉛白粉は、ツキがよくて伸びもよい。水銀白粉は、キラキラして透明感が出ると言われ、薬としても重宝されていたようです。
また、日焼け対策として、とうの土(鉛白粉)を塗って一晩寝たり、漢方を塗ってシミを薄くしたり、いろんなモノを使って色を白くする工夫をしていました。卵の白身をといて顔に刷り込み、その後、糠(ぬか)で洗う、なんていう今でいうW洗顔も行われていたんですよ。つまり、今とまったく同じで、女性はパックをしてキレイに肌を整え、なるべく白く見せる努力をしていたんです。美白という概念はバッチリこの頃からあったんですね!

ヨーロッパでは「色の白さ」は支配階級のステイタスを表すもので、若さ・健康の印でもありました。日本と違う点は、流行の発信が、歌舞伎役者や遊女たちでしたが、ヨーロッパでは、宮廷の女性たちが中心でした。その女性たちは、日本と同じように鉛白粉(なまりおしろい)を使って色を白く見せていたといいます。また、さらに! 肌の透明感をUPさせるために、血を抜いて少し貧血気味にしたり、青鉛筆でこめかみに静脈を描いて顔をより白く見せたりといった、それこそ命がけに近い努力もされていました。今聞くとえ〜っ? と驚くほど、ヨーロッパでの美白は、かなり激しかったんですね。
また、ホクロ(“パッチ”ともいいました)があると白さが目立つというので、スペードやハートや月や星・・・いろんな形のホクロをつけていました。今見るとギョッとするような顔なのですが、当時はそれが最新流行、ア・ラ・モードだったワケです。 
色白は七難隠す、日焼け対策の今昔
江戸時代の中期以降、江戸の町でも文化が花開き、レジャーも盛んでした。レジャーと言っても、お花見をしたり、鎌倉や江の島へ出かけて行ったり。潮干狩りや、隅田川で花火見物などもしていたようです。今と違ってTVもない時代ですから、それらが一大イベントだったんです。
最高位の遊女・花魁(おいらん)や、武家や公家といった上流階級の女性たちは、屋外でのレジャーを楽しむ時に、「日に焼けては大変!」とばかりに日傘をさしていました。そのあたりの女心は今と一緒。当時の女性たちも日焼けを気にしていたんですね。その証拠に『都風俗化粧伝』には、10種以上の美白方法が記載してありました。
また、この時代には神社巡りも流行ったようです。願掛けに行くんですね。「美人になりますように! 」などお願いしていたのではないでしょうか。今で言う“パワースポット巡り”です。春には桜や藤の花を見に行ったり、あそこの○○煎餅がおいしいとか、こちらの○○餅がおいしいと名物を食べたり。それこそ、お土産に白粉などのコスメを買ったりもしていたようです。そんなとき、参考にしていたのが『江戸買物獨(ひとり)案内』という本。これは、いわゆるショッピングガイドみたいなもので、当時はこのような本を買っていろいろ調べていたんですね。
パワースポットを巡って、美味しい物を食べて、お土産を買って帰って・・・なんて、現代の女性と同じようなことをして生活を楽しんでいたことがうかがえますよね!

明治時代になると「日焼け対策」が本などでも紹介されるようになってきました。江戸時代にも日焼け対策という概念はあったのですが、きちんと言葉としてみんなが認識しはじめたのは明治時代になってからなんです。
明治時代の絵を見ると、日傘をさした女性が描かれている作品が数多くあります。また、当時出版された『美顔法』という本では、「美肌の敵=日焼け」として、日焼け対策やアフターケアの方法などが紹介されています。例えば、新鮮なきゅうりをひたした牛乳で洗顔する、氷砂糖を溶かしたぬるま湯で洗顔するなど。いろんな工夫をしていたようです。
そしてついに、日焼け対策コスメや今でいう“美白モノ”コスメも発売され始めました。『ホーカー液』という商品もその一つ。この商品のキャッチコピーは「日傘ひとつで日焦げ(=日焼け)は防げません」。その他にも『水晶白粉』や『大学白粉』など、いかにも肌が白くなりそうなネーミングのものばかりで、面白いでしょう?
こうして明治時代から大正時代にかけて、一気に日焼け対策コスメや美白コスメが広まったわけです!
今の女性と同じで「日焼け対策とアフターケア」を当時の女性も大事にしていた、ということがわかりますね。
今回のコラムでは、美肌の大敵・紫外線について解説しているので、要チェックです!

紫外線は、光の波長の長さによってUV-A、UV-B、UV-Cの3つに分類されます。
UV-Aは、コラーゲン線維構造にダメージをひき起こし、肌の弾力低下やシワ・シミ・くすみの原因となるもの。また、皮膚が赤くなりヒリヒリ痛む現象を起こすのは、UV-Bです。そしてUV-Cは、今はまだ地表に届いていませんが、オゾン層の破壊によって今後、地表に届く可能性がある紫外線で、生態系に悪影響を与えると言われています。
紫外線は晴れの日だけでなく、曇りの日も雨の日も降り注ぎますし、強度の差はありますが、夏だけでなく一年中降り注いでいます。ですから美肌を目指すなら、天気や季節、地域を問わず、年中日焼け止めを塗る(こまめに塗り直すことを心がけてください)ことが重要です。また日焼け止めにプラスして、外出時には日傘をさす、下地やファンデーションなども紫外線防止効果のあるものを選ぶように気をつけるなど、しっかり対策していきましょう。 
美肌を磨いた人気スポット
江戸時代、風呂屋は皆の社交場でした。今もそうですけれど、ヘアサロンに行くといろんな世間話をするでしょう?
それがまた人に伝わっていく・・・。それと同じで、風呂場は情報交換の場だったのではないでしょうか。当時は、お金持ちか武家階級でなければ、家に風呂がありませんでした。一般的には、行水や乾布摩擦をしていたぐらい。だから皆こぞって風呂屋に行き、世間話を楽しみながら日々の汗と疲れをとるという風呂文化が発展していったのでしょうね。まさに“裸のつきあい”が展開されていたのです。
その風呂屋の発祥は、蒸し風呂だったようです。今のサウナみたいな感じでしょうか。それが気持ち良くて、冬にはあったかい湯を入れた風呂に発展していったと思われます。もともと風呂屋は江戸中期まで男女混浴でした。風俗的に良くないという理由で江戸末期に男・女別に分かれ、今の銭湯に近い形になりました。
また、江戸時代の風呂屋は、壁一面に広告が貼られていたのが特徴的です。芝居や寄席もあれば、すずめ香、長寿油など風呂屋で売っている商品の広告もありました。さらに、風呂屋では糠(ぬか)や髪油などを売っており、庶民はその糠で身体を洗っていたようです。
また、2階では、お茶を飲んで休憩する広間も設けられていました。
このように風呂屋は、庶民からこよなく愛され、憩いの場になっていたんですね。
さらに、ユニークな特色としてあげられるのが、江戸前期に登場した湯女(ゆな)と三助の存在でしょう。湯女とは、江戸・大阪の風呂屋にいた遊女のこと。男性の背中を流したり、接待もしていました。三助は、湯を沸かしたり、お客の背中などを洗う男性のことです。
この湯女で有名だったのが、遊女「勝山」。もともと武家出身で教養を身につけていた女性。戦乱で湯女になったけれど、お茶・お華・碁・将棋・書道など、なんでもできるインテリ遊女でした。彼女は「勝山曲」という有名なヘアスタイルを編み出した人でもあるんですよ。

江戸後期、江戸では薄化粧だった女性のメイクがだんだん濃くなっていったようです。風呂屋では、「上方(京・大阪)では濃い化粧が流行っているらしいわよ」と、もっぱらメイクの話で盛り上がったりしていたようですね。
では、白粉(おしろい)を濃く塗った顔を当時の女性たちはどのように落としていたのでしょうか?それには、風呂屋で売られていた“糠(ぬか)”や“洗い粉”が一役買っていました。
女性たちは家から、木綿の布を縫い合わせた袋を持参し、風呂屋で買った糠を入れ、それをお湯に浸して顔や身体を洗っていたのです。今で言うクレンジングに相当するものでしょうね。
糠は、次に使うまで放っておくと腐ってしまうので1回切りの使い捨て。
風呂屋から帰る時は、使用済みの糠を捨てて帰っていました。できるだけ新鮮な糠がよく落ちると言われていたようです。当時の川柳に、「ぬか袋 明けずにおきやと 母の声」という面白いものがあります。娘が先に風呂に入って糠袋使い、その後、同じ糠袋を母親が使うという情景です。母親は古い糠でもOKだけれど、娘はこれから嫁がせなきゃならないから新しい糠を使えと・・・なんとも微笑ましい親子の光景が目に浮かびますね。
糠は、当時の女性たちのメイクをキレイに落とし、肌をしっとりツルツルにする効果がありました。クレンジングするだけではなく、皮膚のための天然クリームの役割も果たしていたんですね。
また“洗い粉”というのは、小豆(あずき)や滑石(かっせき)が入っているもので、髪を洗うものと身体を洗うもの2種類があったようです。よく汚れや垢を落としたそうですよ。
このように当時の女性たちは、自宅から袋を持参して、風呂屋に行き、糠や洗い粉などを買い求め、使い分けていたんですね。当時も今と変わらず“メイク落とし”、つまりは、“クレンジング”がきちんと行われていたということが分かります。

市販の糠(ぬか)を購入。熱めのお湯を用意し、手の甲にはファンデーションと口紅をしっかり塗りました。あらかじめ用意しておいた糠袋に、買ってきた糠を半分くらい入れてしっかり口を閉じます。その後、お湯の中に糠袋を入れ、少し揉んで馴染ませます。この時の手触りは、とても柔らかく、ビーズクッションみたい。気持ちいい!
そして、手の甲を流していくと、驚くことにファンデーション、口紅がよく馴染み、スルスルと落ちていきます。糠の成分で、洗った後はお肌がしっとりツルツル♪
もう一方の手と見比べると透明感もUPしたみたい。糠で現代のファンデーション、口紅も十分落ちると判明。
江戸時代の女性は、こうして糠を使ってクレンジングしていたのですね。米糠は、肌のつっぱり感がなく、美肌効果もバッチリ!?
恐るべし先人の知恵&糠パワー! いつの時代も“しっとり感”は、大事にされていたんですね。 
ニキビ対策の歴史
現代人の肌悩みの一つ、「ニキビ」。人々はいつ頃から悩んでいたか知っていますか? 昭和? それとも大正や明治から・・・?
文献を探っていくと、なんと平安時代の漢和辞典『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にすでに「邇岐美(にきみ)」という記載があるんです!
ずいぶん昔から女性たちはニキビに悩んでいたのだということがわかりますね。
江戸時代の美容のバイブル、『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』にはニキビ対策の紹介が多く載っています。例えば、「すべりひゆ 馬歯莧(ばしけん)を水にてせんじ、あらいてよし」とあります。これは馬歯莧という雑草を煎じた水で洗顔するという方法。この草の成分が角質を柔らかくし、清浄する作用があったようですね。
また、小豆が使われていたことも書かれています。小豆と滑石(鉱物の一種)と白檀を細かく砕いたものを絹でこし、洗顔する時に顔にすりこんだというのです。おそらく小豆に含まれる成分、サポニンによってすっきりした効果が得られたのでしょう。そういえば、小豆は現代でもニキビ対策のコスメに使われていますね。
明治時代には「美人水」という、ニキビ対策のコスメが発売されました。

「錦嚢智術全書(きんのうちじゅつぜんしょ)』という江戸時代の生活の知恵を集めた本には、「面胞(にきび)を治する伝」として、「密陀僧(みつだそう)を粉にし、女の乳汁にてとき、寝さまに面にぬり、明くる日洗い落とすべし」とあります。一酸化鉛の一種、密陀僧という顔料の粉末を母乳でとかし、寝るときに顔にぬっておく、そう、今でいう「パック」をしていたんですね!
また、『捨玉智慧海(しゅうぎょくちえのうみ)』という本の中では、“金化粧”という治療法も。唐の土に酒と水を混ぜ一夜寝かせてから顔に塗るというもので、こちらも「パック」。お酒を使っていた点がポイントで、現代は日本酒をお風呂に入れて入る人もいるほどお酒は肌の保湿に良いと言われていますし、アルコールだから殺菌効果もあったのでしょうね。
このように昔の人々もニキビに悩み、洗顔やパックをしてケアしていました。しかも小豆や日本酒といった、現代でもコスメとして目にする素材をうまく活かしていたんですね。改めて、先人の知恵と美への探究心には驚かされます。
とはいっても、数百年も昔の治療法ですので、みなさんはくれぐれも真似しないでくださいね!

最近では、太い眉がリバイバルの兆し。眉は時代時代でいろいろ変化してきました。例えば、江戸時代は子どもが産まれると眉をそり落とす習慣がありましたが、明治時代になると眉そりが禁止となり、太くて自然な眉が流行しはじめたのです。明治時代の写真を見ると、みんなアメリカの女優ブルック・シールズのような太眉をしています。
実際、どんなもので眉を描いていたのかというと、市販の眉墨のほかに、なんと桐の焼いたものやマッチの軸を眉墨として使っていたとか。そこで、編集部が実際にマッチの軸を眉墨として使用してみたら・・・。時間がかかる上にキレイに描けず、炭がポロポロと顔に落ちてくる始末。現代のアイブロウがいかに素晴らしいかを思い知った結果となってしまいました。
その後、村田先生にこれを報告すると「使い方が違いますよ」とのこと。どうやらマッチの軸は眉尻を少し描き足す程度に使用したということが判明。バッチリ描くのは無理だったんですね! 
本当の美しさを考える
江戸時代の女性の美しさを代表するのは、土屋アンナさんが出演して映画になった『花魁』ではなかったかと思われます。
花魁と言えば遊女3,000人もいたと言われる中で、わずか数人だけがなれるという当時のトップアイドル。ヘアスタイルや着物はゴージャスで、その磨き上げられた美しさや華やかさは最高級。
しかし、彼女たちはただキレイなだけではなく、高い教養を身につけていたと言います。和歌、お香、お茶、お華、三味線、お琴、書道などは当たり前。地方から大名が来ても十分相手ができるインテリジェンスとホスピタリティがあったのです。
とくに、江戸時代前期は、多くが武家出身のお嬢様だったからだとも言われています。父親が戦いで敗れて、生活が成り立たなくなってしまったから仕方なく身売りされたのですね。いくら遊女になったとは言え、良家の娘ですから、そこはかとなく教養がにじみでてくるわけです。
有名なところでは、仙台候に身請けされた「高尾」という遊女。身請けの時、自分の体重だけ千両箱を積まれたというすごいエピソードが残っているんですよ!
花魁たちの磨かれた教養と、化粧することで美しさをさらにアップさせた彼女たちの存在は、当時の女性の憧れの的となっていたのかもしれないですね。

江戸中期以降は日本女性が最も成熟した時代だったとも言えます。歌麿が浮世絵に描いた女性たちは、豪華でしゃれた着物やヘアスタイルで自分の美しさを、思い切りアピールしています。
時代が変わり、明治の末になると、深窓の令嬢を撮り集めた写真集「日本美人帖」が出ました。華族やお金持ちのお嬢様が、いかにもぎこちなく映っています。それは今まで写真や絵葉書などを飾っていた芸者たちの「女性美」とは、まったく違うものでした。
この写真集は、ある意味一般の女性たちの意識を変えたと思いますね。世の女性たちにとって「これが優雅さ、上品さなんだわ!」と目で見て、認識した最初だったのではないでしょうか。
江戸から明治へ、着物から洋装へと時代によって女性美も変化していきます。江戸の浮世絵や川柳や化粧本など、実はすべて男性によって創られたもの。つまり、男性の目から見た「女性美」を書いたり、描いたりしていたわけですね。
ところが明治になると、女性が社会に出始めてきます。
この時期、遠藤波津子という女性が日本で初めて美顔術(エステティック)を始めました。美顔術を日本の一般女性を対象に営業した最初の女性です。
ここで初めて女性たちは化粧の近代化と、自分の肌の色を自覚したと思います。そういった意味で、彼女の登場は、それまで男性が作った封建的な社会の視点を大きく変えるきっかけになったと思いますね。
エレガンスの認識もそれまでの内に秘めたような、隠したり控え目なものから、もっと外見を積極的に磨いたり、キレイになるというポジティブな姿勢に変わっていきました。
それは、まさしく『現代エレガンス』の始まりと言ってもいいかもしれません。 
肌色をキレイに魅せる「口紅」
口紅に使われる紅花は、エジプト原産と言われています。紅花の花びらの先は黄色だけれど、根元は赤く、いくつもの工程を経て赤い色素だけが残るのです。日本の紅は、この紅花から作られたものがほとんどだったんですよ。そのほかにも、「臙脂虫(えんじむし)」(コチニール)をつぶして使ったり、「紅殻(べんがら)」という酸化鉄のようなものも使っていたと言います。驚きでしょう?
中国の唐の時代の壁画を見ても、女性たちは頬っぺたも唇も厚くて赤い化粧をしていましたし、ヨーロッパでは貴族の女性たちがチークを真っ赤に塗っていました。東西問わず、“赤”って昔からメイクの定番カラーだったんですね。赤は、血の色であり、太陽を示す色。赤を身につけることは、呪術的な意味もあったのかもしれませんが、きっと「生命力」や「華やかさ」などの象徴として人を惹きつけたのでしょうね。
エジプトから中近東やインドに渡り、中国を経て朝鮮半島に伝わり、口紅が日本へやって来たのが6世紀頃でしょうか。平安時代には高貴な女性はお約束のように白い肌に赤い紅をしていました。当時、夜はロウソクの灯で生活していたので、ほのかな灯に浮かぶ白い肌、その美白肌を引き立てる赤い唇、そして黒髪とお歯黒という色のコントラストは色っぽく、キレイに映えたんじゃないかしら。実はとっても計算された美だったのかもしれませんね。
一般女性たちが口紅をつけるようになったのは江戸の後期からでしょう。町の紅屋には売り子(今で言うBAさん)も現れました。
昔の女性たちは、ちょっとしたお出かけにも、肌色をキレイに見せてくれる口紅は欠かさなかったんですよ。それは、人に対する礼儀、みだしなみの基本だったから。これは現在にも息づいているマナーのひとつですよね。

そんなエレガントな口紅の歴史も、平成に入るとリップグロスの登場で大きく変わってきます。今は若い女性を中心に、うるおい感たっぷりの「ふっくらツヤツヤ唇」に見せることが主流ですよね。この“ふっくらツヤのある唇”というのは、明治以降に現れたキーワードだと思われます。と言っても、当時はツヤを出すというより、カサカサにならないように下にクリームを塗るという乾燥対策から生まれたものでした。大正時代には紅に氷砂糖を塗ってツヤを出していた、という文献も残っています。
今のコスメは、口紅もリップグロスもうるおい感やツヤ感を謳ったものが数多く見られますね。唇だけでなく、アイシャドウやチークにもツヤ感の出るモノがたくさん。ここまでうるおい感やツヤ感が支持されるようになった背景には、若くキュートに見せたいっていう女性の願望もあるんじゃないかしら。
けれど、いくらうるおい感・ツヤ感のあるリップグロスがいいと言っても、例えば平安時代の化粧にグロスは似合いません。あのスタイルは、ヘアもボリュームある黒髪で、肌も白くあってこその口元に赤のポイントを置いたメイク。全体のバランスがとれているんです。結局、いつの時代も“トータルビューティ”が大切だということではないでしょうか。
そろそろ秋の新色が楽しみな時期ですね。昔の女性は美肌・美白効果のために白粉を塗って口紅で引き立てていましたが、現代の皆さんは、スキンケアを楽しみながら、ポイントメイクを引き立てるお肌を目指してください!

「大正時代の女性たちは氷砂糖を唇に塗ってツヤを出していた」という村田先生のお話をさっそく実践してみました。
まず、取り寄せた紅花からとった紅を見て、編集部一同ビックリ!「紅」なのに、玉虫色に光っています! 笹色紅など、絵では見ていましたが、いざ実物を見ると、「これが紅なの? 」「これが赤い色になるの? 」という驚きが。
そこで、水でぬらした筆で玉虫色の紅をなでると、色が真赤に変化。それを唇の上にのせると、キレイな赤色に! 疲れが見えがちな編集部員の肌も、何もつけていない時よりキレイに見えます。その上から、しめらせた氷砂糖をぬると、けっこうなツヤ。実は「氷砂糖でツヤは出ないのでは・・・? 」と半信半疑だったので、失敗時に備えてハチミツも用意していたのですが、必要ナシでした。
ただ、甘くてベタベタし、色ムラも出るのでデイリーユースには向かないかも。それを考えるとやっぱりグロスや口紅の進化ってスゴイですよね! 
ファンデーションの進化
そもそも「ファンデーション」という名称が一般化したのって昭和の戦後なんですよ。江戸時代は、ご存じのように“真っ白”一辺倒のおしろい文化。明治の末にやっと「色おしろい」という黄色や肉色(にくいろ=肌色のこと)など、肌色に近いものが登場してきました。ちょうどこの頃はファッションが着物から洋装に変わっていった時期。それまでの顔だけ真っ白塗りの和風メイクは、もう洋装とはマッチしなくなったのですね。上流階級やお金持ち、女優など流行に敏感な女性たちはすでにドレスなど洋装を着始めていました。それに加え化粧品メーカーもこぞって色つきのおしろいを開発してきましたから、女性たちは“自分の肌色を考える”という意識を持ちはじめたのです。
大正時代になると、和服の場合は昔通りに水おしろいや練おしろいを使うメイク法を続けていましたが、洋装の場合は簡易化粧に変化していきました。バスガイドやデパートの店員など、女性たちが外で働く機会も増えてきましたから、朝ゆっくりメイクする時間がないこともあったのでしょう。クリームを塗ってその上に粉おしろい(肉色や黄や紫など自分の肌色に近いものを選んで)をはたくというシンプルな方法に変わっていきました。
こうして色つきのおしろいを使ったりしながら徐々に一般の女性に“洋装に合ったメイク”、“自分の肌色に合ったメイク”が浸透していったようです。

昭和23年頃には、日本発の「油性ファンデ」が登場しました。今と比べればカラーバリエーションは少なかったけれど、肌に最も近い「オークル系」が初めて作られた、画期的な出来事だったんですよ!
昭和26年、国産初の「総天然色(カラー)映画」として話題になった映画『カルメン故郷に帰る』も、ファンデーションの歴史を語る上で外せないかもしれません。主役の高峰秀子を観た女性たちは、「あのキレイな肌には何を使っているのかしら?」と大騒ぎ。スクリーンに映る彼女の肌はピンクっぽくて、とても美しかったんですね。ここから肌をピンクっぽくみせる“ピンク化粧”の流行が始まったんです。当時は映画からメイクの流行が生まれることもよくありました。
昭和32年頃には太いアイラインを入れた“カリプソメイク”が、昭和52年頃にはファンデで作る“小麦肌”などがブームに。それ以降で私が最も印象的だったのは、女優ブルック・シールズの太い眉の流行でしょうか。女性が自分を主張してきたんだな、こういうタイプの女性も化粧品会社のイメージガールになる時代なんだと衝撃を受けましたね。
こうして見ると、女性の本格的な社会進出によって、化粧品やメイク法はずいぶん進化してきました。ファンデーションは、その時々の女性の“見せ肌”への欲求を叶えてきました。現代では、若い女性は素肌感を大事にし、大人の女性は年齢にとらわれず自分の好きなメイクを積極的に楽しむために化粧品を選んだり、肌をキレイにケアするためのアイテムを選んだり・・・。
メイクをとおして装うことを心から楽しめる、そして装い方で自分プロデュースも楽しめる、素敵な時代ではないでしょうか。

現在のファンデは優れモノが目白押し! そんな中で未来のファンデはどんな進化を遂げていくかをポーラ研究所の研究員、ファンデーションの研究開発に携わる黒田さんにお話していただきました。
「センサー機能を持つファンデーションなんてあったらいいでしょうね。顔に無色のパウダーを塗ったら、デジタル画像化された鏡のようなものの前に立ち、したいメイクをインプット。あとはセンサーライトが顔にあたり、ライトがあたった部分から無色のパウダーがインプット内容に合わせて変化し、メイクが完了。雑誌掲載のプロのメイクを取りこんでアウトプットさせたりできる。
これは夢ですが、少しでも理想のファンデに近づけるよう、これからも女性達の“思いを叶える”ファンデーションの研究開発をしていきたいと思います。」
夢のファンデーションが実現したら、メイクはもっともっと楽しくなりそう! 黒田さん、ありがとうございました。 
「装う」楽しみ
江戸時代の象徴的な化粧道具と言えば、“おしろい三段重”があります。これは、一番下の最も深い器に水を入れ、おしろいを溶いて使っていたんですよ。
江戸時代の女性は、“どうやって白く見せるか”が美の秘訣だったので、おしろいを首や襟足にまで塗って、少しでも色白くて若く見せようと努力していたんです。
そして、当時のメイクの中でアクセントと言ったら紅でした。携帯用の象牙製の紅入れを着物の帯の中に入れておいて、外出した時にササッと薬指でつけたりしていたんですよ。その他には、化粧道具キットがあり、刷毛やおしろいや筆などがセットされています。今見ても、おしゃれですよね! このような化粧道具を見ても、当時の女性たちの“装う楽しみ”が伝わってくるようです。
江戸時代の女性は、結婚すると鉄漿(おはぐろ)にしたり、子どもを産むと眉を剃ったりという習慣がありました。それが一人前の女性になった印でもあったのです。
髪型は、時代や地域、身分、職業によってスタイルが違いました。江戸前期の未婚の女性は島田髷(まげ)、既婚の女性は丸髷、島原の遊女などはボリュームのある派手な横兵庫髷、同じ髷でも、江戸の吉原はシンプル、そして御殿女中は髱(たぼ)が、ぺったんこの髪型だったんですよ。
また、鳥かごや、小さな蝶で装飾された“びらびらかんざし”、高級なべっ甲製の髪飾りなどをつけてヘアスタイルも思いきり楽しんでいました。なんと京都の島原では、髪飾りだけで6kgの重さがあった、というおしゃれな遊女もいたそうです。
そして、当時の女性たちは“若々しく”、黒髪をより美しく見せるために、びん付け油を使って“ツヤ”を出し、すき毛を入れて髪を結って“ハリ”を出していたんですよ。
今の感覚とはちょっと違いますが、当時の女性って、ツヤのある黒髪、鉄漿をした黒い歯、紅の赤のコントラストが、ろうそくの灯りに照らされると、とても美しく幻想的な感じで見えていたのだと思います。そのためには、もともとの肌をキレイにしなきゃという意識もあったようです。
このようにメイク法や髪型でよりキレイに、より若く見せるためにいろんな工夫をしていたのだということが分かります。

江戸時代の紅は、大変貴重で“紅ちょこ”という容器に、塗って売られていました。
紅の原料、紅花は、もともとはエジプトから来たものです。日本では、この紅花を臼(うす)でついて、水にさらし、赤い色素だけを残し、これをお餅のように固めて京都へ出荷していました。
それが口紅になったり、着物の紅染めなどに使われていたんです。
紅は、花の部分から約0.3%くらいしかとれないとても高価なもの。紅花から作った口紅は、発色がよくて、しっかりつくのが特長で、何度も重ね塗りしていると光輝く玉虫色になるんですよ。口紅が買えない人は、使う量を少なくするために、習字の墨を薄めて下地のように塗り、その上に紅をうすく塗って、同じ玉虫色にしたといいます。
また、江戸後期の浮世絵などを見ると、下唇に紅をさした女性たちがたくさん出てきます。当時の流行のメイクや装いがとてもよく分かります。

これまでこの連載で、日本女性のメイクの歴史をいろいろな角度から紐解いてきました。
昔の女性は、階級や年齢などいろいろな制限があったにもかかわらず、「装う」という楽しみをどこかで見出していたように感じます。
現在は誰もが自由に好きなメイクを楽しめる時代。だからこそ、何歳になってもその楽しみを続けたいと思いますね。自分を美しくすることって女性の天分。ちょっとメイクするだけで随分気分も変わるでしょう?
どこへ出かけるにもメイクを楽しむという気持ちを忘れないでほしいな、と思います。
江戸時代の女性と同じで、少しでも美しく装いたいという気持ち、そういった気持ちは、女性が長く美しくいられる秘訣じゃないかしら。
たとえ最悪の気分の時でも、口紅ひとつで気分は変わるもの。そんな気持ちを常に忘れないでほしいと思いますね。
それが、これから生きていく楽しみのひとつになるのではないでしょうか。 
 
日本の化粧歴史2

 

前近代
古代から大正時代に至るまで、日本ではお歯黒と呼ばれる歯を黒く塗る化粧が行われていました。平安時代の頃には男性もお歯黒をすることがあったそうですが、江戸時代にはお歯黒は既婚女性の習慣となりました。口紅は紅花を原料にしたものが使われていましたが、極めて高価な品とされていました。また、江戸時代にはメタリックグリーンのツヤを持った口紅「笹色紅」が江戸や京都などの都会の女性に大流行しました。日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいましたた。そのため、長期的に使用した者には「鉛中毒」によばれる肌の変色(白粉焼け)が多くみられたといわれています。
男性も古代より幕末まで、公家が白粉などで化粧をする習慣が存在し続いたようです。武家もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていましたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れました。ただし、公家と応対することが多かった高家の人達は、公家と同じ様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったそうです。
江戸時代に入り、上流階級だけではなく一般庶民も化粧をするようになり、このとき世界で初めて庶民向けの化粧品店が開かれたとされています。江戸時代の女性の化粧は、肌に塗るのは白粉のみで、これを濃淡をつけて塗ることで、質感の違いや顔の微妙な立体感を生み出したそうです。水白粉や粉白粉を刷毛で肌に伸ばし、丹念に丸い刷毛ではたき込み、さらに余分の白粉は別の刷毛で拭って落とすという非常に手間のかかるものであったようです。口紅は唇の中心につけるだけで、おちょぼ口に見得るようにメイクされていました。こうした化粧の伝統は、大正時代に至るまで根強く残りました。結納のすんだ女性にはお歯黒、子が生まれた女性には引眉が行われる風習がありました。また、和服はうなじが広く出るので、襟元に白粉を塗ることも重視されていました。
近代
1870年(明治3年)、政府は皇族・華族に対しお歯黒・引眉禁止令を出しました。しかし、当初はなかなか徹底されず、3年後皇后が率先して模範を示すことで、ようやく華族の女性たちもお歯黒・引眉をやめることになりました。これが庶民にも徐々に波及し、引眉の風習は明治初期には廃れました。しかし、お歯黒の習慣は大正時代まで根強く残ったそうです。高齢の女性の中には、昭和に至るまでお歯黒を守り続けた人もいたとされています。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売されました。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けました。
大正時代には、和風の化粧をベースに、西洋の頬紅を使ったり耳元に紅を入れるなどの和洋折衷の化粧が流行りました。白だけだった白粉も、ベージュや赤みを帯びたものも使われるようになったとされています。
本格的に西洋風の化粧が行われたのは、関東大震災後のことでした。モダンガール(モガ)と言われた一部の女性たちの間に、アイシャドウや唇全体に塗った口紅といった化粧が行われ、断髪や足の出るスカートといった恰好とともに、保守的な人々の非難の的となりました。
50〜80年代
1950年代には、明るく血色が良く見える肌色が重視され、ピンク系のファンデーション、真っ赤な口紅などが流行しました。アイシャドーやマスカラなどのアイメイクが導入されたのもこのころであると言われています。
1960年代から1970年代には、健康的で溌剌としたイメージを演出するため、オレンジ・イエロー系のファンデーション、ピンクベージュ系の口紅が好んで使われました。細く眉尻の上がった眉が流行したそうです。明るい色のチーク、マスカラやアイシャドウで目元を強調する化粧が大流行しました。
1970年代後半から1980年代には、「ナチュラルメイク」が市民権を得、個人の個性を生かして自然な顔に見せる化粧が広まっていきました。天候やTPOに合わせた化粧の使い分けが定着したのもこのころであると言われています。日本人らしい顔立ちが見直され、アイメイクは以前に比べ控えられるようになり、太い眉毛(太眉)が大流行したそうです。
90年代〜
1990年前後のバブル期には、紫外線の害が広く知られるようになりました。そのことから美白化粧品が売り出され、美白が意識されました。濃くはっきりした色の口紅を塗り、白系のファンデーションをしっかり施す化粧が流行したのもこの頃です。
1990年代中盤に入ると「癒し系」メイクが流行しました。具体的には、きちんと化粧を施しつつも、素肌の質感を残すようなナチュラルメイクが主流になりました。従来の真っ赤な口紅は人気がなくなり、ベージュ系のナチュラルな口紅が好まれるようになりました。1970年代ブームから、細い釣り眉やマスカラが復活しました。
1990年代後半から2000年代には、ファッションの多様化が進みました。前述の美白指向の定着により、ナチュラルな白肌メイクが多数派になっていましたが、濃い色のチークやファンデーションも好んで使われ、一時は「ガングロ」と言われる黒い肌の女性も現れました。また、茶髪が一般人に広まり、マニキュア・ネイルアート・ピアスも多様なデザインのものが現れています。 
白肌へのあこがれ
私たち日本人は、いつの時代も「透き通るような肌」を追い求めている。
白粉化粧の始まり
『日本書記』には、692年に元興寺の僧観成が中国の文献などをもとに日本で初めて「鉛白粉」を作り、当時の女帝・持統天皇より褒美を得たと記録されています。
白肌の美意識
白い肌を美とする意識が明確になり始めたのは平安時代です。笑うと白粉がぽろぽろ落ちるので扇で隠したとよく言われますが、『源氏物語』や『紫式部日記』などを見ると、けして白粉をぶ厚く塗りたくってはおらず、むしろ透き通る白さが尊ばれていました。
白肌の優位性
鎌倉時代に入ると、化粧は身分・階級など社会的地位を明確に表すようになりました。絵巻物を見ると、貴族やその周辺の男女の顔が白く描かれ、一般の武士や庶民は肌色で描かれています。つまり化粧は、身分の高さを象徴するものでした。当時、白粉はそれほど貴重なものだったのです。
日本の化粧文化の確立
『日本書紀』に始まった「白粉化粧」が文化として集大成の時を迎え、現在に続く日本の化粧文化の伝統的土台として確立したのは、江戸時代に入ってからです。江戸の化粧文化は、それまでと同様に個人の身分・階級(加えて、年齢および既婚・未婚別にお歯黒や眉化粧、髪形など)を表していましたが貴族階級の特権ではなく、「女性向けの礼儀作法」として一般の人々にも広まりました。また上流階級でも、化粧は単に「身分の高さ」ではなく「儀礼」として重視されるようになりました。
化粧が一般に浸透し始めると、技法にも流行や地域差が生まれます。京都や大阪では白粉を濃く塗る方法が、江戸ではあっさりと薄く化粧する方法が好まれていたようです。
いずれにしても、白肌を美とする「白肌の美意識」が広く日本に芽ばえ、白粉を使って化粧をする「日本の白粉化粧文化」が確立したのは、江戸時代であったと言えます。
白粉屋の登場
江戸時代の「白粉屋」は、当時の「白粉化粧文化」を象徴する存在であり、「白粉屋の看板」には「白肌の美意識」が表現されていました。白粉師の前方(図1下部)に位置る表彰台のようなものが、白粉屋の看板です。この看板には、白粉の「白」の象徴として「白鷺」が描かれており、白鷺のように白くなることを意味しています。また看板の形は、鼻筋の通っ良い顔立ちを意味して、真ん中が高くなっています(※「中高の美」)。つまり、この広告看板は、この白粉屋の白粉で化粧すると、白鷺のように白く、鼻筋の通った美人になると宣伝しているのです。
白粉の種類
その原料から白粉を見ると、・米粉などの穀物から造られる「植物性の白粉」と・鉛を酢で蒸し水にさらして固めた鉛系のハフニ(鉛白)や水銀系のハラヤ(軽粉)といったの白粉」の二種類に大きく分けられます。
明治の鉛白粉
江戸時代の庶民に使われていた「鉛白粉」は、水銀白粉(軽粉)より、のび・つきが良く、安価だったので広く一般に愛用されました。しかし明治の初期に、鉛白粉による乳幼児の中毒問題や、歌舞伎役者(中村福助)の左足が舞台で突然震えだし止まらなくなるなどの事件が起こり、社会問題へと発展しました。これを機に、明治30年頃から「無鉛白粉」が発売され、同じ頃、西欧からは「肉食白粉」「肌色白粉」が輸入され、当時の日本の「白粉化粧文化」における画期的な出来事となりました。
「中高の美」/ 江戸時代に指示された「中高の美」の始まりは、古く平安時代にさかのぼります。「中高の美」とは、欧米人のように立体的な鼻ではなく、鼻筋が通っている美を意味しました。その一方「ぐるり高」「中びく」「中ひく」などの言葉は、まわりが高いこと。つまり真ん中(鼻)が低いことを「醜い」とする当時の美意識を表していました。
参考 / (中高)という誉め言葉は、平安時代から使用されていましたが、顔の目鼻立ちや身体(プロポーション)の良さを表す具体的な言葉は、当時の文献を探ってもほとんど見い出すことができません。しかし、例えば「鼻うち仰ぎいららぎて、穴の大きなることは、左右にたて神殿も造りべく・・・」(左右の鼻の穴が神殿ができるほど幅が広くて大きい・・・『落窪物語』)というように、「醜い」ことを表す具体的な記述は当時の文献に多く残されています。 
紅の変遷
華やかな「紅」は、古来より女性達の心を魅了してやまない。
『紅化粧の歴史』
日本の伝統化粧の色は赤・白・黒の三色でした。この中でも紅化粧は華やかさを演出する大切な要素でした。
紅化粧の始まり
紅化粧には古来、口紅のようにポイントに紅を入れるものと、頬紅のように顔に塗るものがありました。古墳時代の人物埴輪の顔面には朱(水銀の化合物)を施したものがあります。死者の霊を鎮めたり、蘇生を期待したり、魔除けを意味したのではないかと考えられています。大陸との交流が盛んになると、日本の紅化粧は隋や唐の影響を受けることになり、正倉院の「鳥毛立女屏風(とりげりゅうじょびょうぶ)」には、赤い唇に赤い頬、額と口元には、つけぼくろの一種である鮮緑色の花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)をつけた美女が描かれます。遣唐使の廃止などにより、中国との交流が途絶え、国風文化が発達していきますと、垂髪が流行していきます。その結果、貴族階級の間で顔をあらわに見せるのは良くないとする顔隠しの風習が広まっていきます。口紅文化の空白の時代が始まります。再び紅化粧が明確に史料に出てくるのは、江戸時代になり、髪を結い上げて顔が露出しはじめてからです。
江戸時代に花咲く紅化粧
江戸時代になると、当時の美意識や紅化粧の仕方について上手下手をとく文献も見られるようになりました。井原西鶴は「好色一代男」(1682)の中で、紅化粧はあまり濃く描くことを汚らしく下品であると非難しており、またこの頃の、女性用図入り百科事典とも言える「女用訓蒙図集」(1687)では、頬紅・口紅・爪紅を花にたとえて薄いのが良いとしています。ここで紹介されている爪紅(つまべに)とは爪に紅をつける化粧のことで、今でいうネイルエナメルです。その他に、目のあたりにつける紅化粧も紹介されています。江戸後期(19世紀初頭)になると、このようにさまざまな方法のある紅化粧の中で、口紅が中心になります。特に下唇に濃い玉虫色をつける化粧が盛んになります。これを笹色紅と言い、一世を風靡しました。
『紅化粧道具』
紅化粧の道具は、基本的には紅を入れる容器と紅筆です。容器は時代が下がるにつれ、美術工芸品のような凝ったものが作られました。
古代・中世の紅皿、紅板
紅の容器が文献に見られるようになるのは平安時代に入ってからです。平安時代後期の公家の調度などを解説した「類聚雑要抄」の中には、手箱一合の中に「へに盤六花前」として、銀の花形の紅皿が図示されています。室町時代の資料としては、枚聞神社の「松梅蒔絵手箱」には、大永3年の文書があり、内容品のひとつとして「御へにさら一」とあります。残念ながら該当する道具は見あたりませんが、当時、公家や武家、神社など限られた層にせよ、紅皿が用いられていたことが察せられます。
江戸の紅皿・紅猪口(べにちょく)
江戸時代になると、紅化粧の多様化と共に容器も広がりを見せ、紅猪口や紅皿をはじめとするさまざまな容器が市販されました。
江戸の紅箱と紅板
紅箱は泥状の紅を入れた長方形の木箱で深さは4センチほどです。これは、紅屋が小売店に売るときに入れて渡したといわれています。表面にも内側にも漆を塗ったのは、空気の流れを遮断して紅を新鮮に保つためと、全部無駄なく紅を取り出せるためです。紅板の種類は大きく分けて、二つ折りの板状と薄い箱型があります。二つ折りは、主として厚紙木や金属の板に漆を塗ってその上に紅を塗りました。これは、板紅・屏風紅などと呼ばれていました。薄い箱型は、金属・木・象牙などに透かし彫りや珊瑚などを象嵌した豪華なものがつくられました。これらの紅板は携帯用で、手の込んだ器では、白粉と紅筆、白粉刷毛などが一緒になったコンパクトのようなものもありました。形もさまざまで、円形、小判型、六角形、きせる形、刀のつば形、扇形などがあり、それぞれの容器の表面には花鳥風月など四季折々の景色や茶道具などの用具がそれは美しく描かれていました。実用を越えて装飾性を備えた紅板をながめると、いかに昔の人が紅に心を惹かれていたかが理解できます。
「紅をさす」/ 浮世絵の美人画を見ても全体的なバランスからいうと異様なほど口は小さく描かれているものが多く見られます。これは当時の「紅をさす」という言葉の表現にも反映されています。「さす」とは「点す」が当てられるように、小さな面積を彩るという意味であり、女性は常に目立たず、主張せず、控えめであることが美徳とされていた当時の美意識が窺われます。 
お歯黒の文化
お歯黒の黒が、どんな色を混ぜても他の色に染まらないところから貞女や忠心のシンボルとされていました。歯を黒く染めるという事は、「生まれつきの歯(先天的身体性)」の否定であり、「白」の否定でもあったのです。
お歯黒化粧
お歯黒はいつの頃から、どのような目的で行われるようになったのでしょうか。その起源はわかりませんが、平安時代の「源氏物語」には、当時の女性がある程度の年齢に達するとお歯黒をしていたのがわかります。そして平安時代も末期になると、公家の男性もお歯黒をつけるようになりました。このようにお歯黒は、貴族社会ではまず女性が成人になったしるしとして始まり、後に一般の女性の既婚を意味するようになり、この習慣は明治に入るまで千年近く続きました。特に江戸時代の化粧の中でお歯黒は最も特徴的なものとされ、これによって当時は既婚、未婚を見分けたと言われています。初めてお歯黒をつける時は、鉄漿付(かねつけ)という儀式を行いました。
お歯黒の成分
お歯黒の成分は、私たちが今使っている万年筆の黒インクと同じ物です。お歯黒の美学は、漆のように艶があって、真っ黒が美しいとされ、歯の表面を被覆して歯を保護したり、虫歯予防に効果があったとされていますが、女性達は黒く染めるために大変な苦労をしていました。科学的には、米のとぎ汁や酒などを腐らせてできた酢酸に鉄を溶かし、その水溶液にタンニンを混ぜて水に溶けない、黒い化合物にして、歯に塗るのです。これだけでもすごい吐き気をもよおすような臭気を放っているため、当時の女性は夫や子供が起きる前に手早くお歯黒をすませなければならなかったのです。お歯黒は個人によって、染まりやすい人と染まりにくい人がいて、毎朝お歯黒をつけなければならない人や、二〜三日に一回で良い人など個人差があったようです。
お歯黒化粧道具
お歯黒のための道具は、十二世紀の文献にお歯黒をするときには、液のしたたりを受けるのに使う皿(歯黒女盤)と、鉄漿水(かねみず)を入れておく壺、そして筆があると記載されていますので、古くから存在したことがわかります。江戸時代前期にはすでにお歯黒道具一式として用いられる程になりました。お歯黒壺、五倍子箱(ふしのて)、かね沸し、鉄漿杯、歯黒筆、渡し金、耳盤、うがい茶碗があったと思われます。女性の通過儀礼に重要な役割を持っていたお歯黒道具は、上流階級の人には、漆塗りに金蒔絵のついたもの、一般庶民にはもっとシンプルなものを使っていました。
うがい茶碗
お歯黒をつけた後はたいへん口の中が渋かったと言われています。その理由は、五倍子粉(ふしのこ)がタンニンを含んでおり、つけた後は必ずうがい茶碗でうがいをしました。これらは普通の茶碗よりもやや薄く、大きめに作られていました。内側に模様があり、外側は無地の場合が多く、特徴としては、底の真ん中が少し尖っていました。
お歯黒壺
お歯黒の原料のひとつであるお歯黒水を作るための壺は、大小さまざまで備前焼や信楽焼きのものが多く見られます。形としては耳付きで口が広く、注ぎやすくかきまわしやすい形になっています。使われた当時では考えられなかったでしょうが、現在では一輪挿しとして使われるなど、本来の目的以外での用途として長く生き続けているお歯黒壺です。
お歯黒に関する川柳 / 歯を初めて染める女性の気持ちを川柳はさまざまに表現しています。特にお歯黒に関しては213句もあり、化粧関連の句の約10%を占める程でした。
良き娘おしいことには歯は黒し
これは、いい娘なのに残念ながら人妻なのだろう、という句です。このように、当時のお歯黒に対する人々の気持ちの一端を知ることができます。 
 
日本の化粧歴史3

 

1 化粧のはじまり
化粧の起源 〜悪いものから身を守る、呪術としての化粧〜
日本人の化粧のはじまりはいつだったのでしょう。
現在確認されているのは、3世紀後半頃の古墳時代。
身分の高い豪族のお墓の副葬品である「埴輪(はにわ)」に、赤い顔料で顔や身体に化粧を施したものが残されているのです。
赤い色は悪いものから身を守るという呪術的な意味があると推測され、それは血の色や太陽に通じているからだと考えられています。現代の私たちの“おしゃれ感覚”のメークとは、全く異なるものでした。
現代に通じるメークが登場した飛鳥時代
それでは現代のような“おしゃれ”を意識したメークは、いつごろから始まったのでしょうか。
最も古く確認できるのは飛鳥時代、6世紀後半のこと。仏教が伝来し、聖徳太子が誕生した頃になります。大陸では隋が中国を統一し、日本からは遣隋使(けんずいし)が派遣されていました。
そんな中、大陸から紅や白粉(おしろい)、香といった化粧品が輸入され、日本におけるメークが始まったとみられています。
当時の白粉は鉛を酢で蒸して作られていたといいます。
この時期、日本でも初めて鉛を使った白粉(鉛白粉)が作られ、女帝である持統天皇が献上された鉛白粉を大変喜んだと『日本書紀』に記されています。
宮廷女性のメークは、唐の国がお手本
その当時、宮廷の女官は顔に白粉を塗り、紅を使ったポイントメークをしていたと見られます。正倉院に伝わる奈良時代中期、日本で描かれた「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」の女性像を見ると、宮廷女性のメークの片鱗を感じることができます。この屏風には、唐風の女性が樹の下に立っている姿が描かれています。
女性は顔に白粉を塗り、太く眉を描き、紅を使ってふっくらとした唇を描いています。額中央には“花鈿”(かでん)、口元には“よう鈿”(ようでん)と呼ばれる、カラフルな色で花や星を描く化粧が施されているのが特徴的です。同じ絵柄が中国の敦煌(とんこう)の壁画にもあることからも唐のメーク法が日本にも伝わっていたことがわかります。
当時の宮廷の生活様式は、唐の様式を取り入れており、女性が追い求めた「美」も海外の文化を手本にしたものであったといえます。大陸の影響からスタートした日本の化粧文化。日本独自の化粧が花開いたのは、平安時代に入ってからのことでした。 
2 日本独自の化粧文化へ / 宮廷女性
平安時代、9世紀末に遣唐使が廃止されたことから、それまで唐の影響を強く受けていた日本文化に、変化のきざしが現れます。紀貫之が『古今和歌集』を編纂し、また、『土佐日記』を記したりするなど、特権階級である貴族の宮廷生活において、日本独自の文化が育まれていくのです。ファッションや髪型、メークといったよそおいも例外ではなく、華やかな唐風のものから、優美な日本独自のものへと変化していきます。
宮廷の女性が生活する大きな屋敷の中は、昼間も薄暗く、夜は月明かりとロウソクといった現代と比べるとほとんど真っ暗といってもいいほどの環境で生活をしていました。さらに、外出するときには常に顔を覆い隠すなど、他人に顔を見せないことが好ましいとされていたのです。このような環境と美意識が宮廷での特徴的なよそおいの文化を形作っていきました。
何枚もの美しい衣を重ねた十二単に長く伸ばした黒髪、これが宮廷女性にとってこの上ない「美」の象徴でした。こうしたボリュームのあるよそおいに映えるのが顔を白く塗って強調するメークです。顔には白粉、眉は生来の眉を抜いて額の上部に描き、唇はより小さく見えるように描きます。平安時代を代表する文学作品『源氏物語』を絵巻にした『源氏物語絵巻』には、このような優美な女性像が描かれています。
化粧は年齢や身分をあらわす“約束事” おしゃれの楽しみは「香り」で
しかし、平安時代の宮廷のよそおいは、特定の環境や美意識だけから作られたのではありません。例えば『源氏物語』の主人公、光源氏の娘となる若紫は、10歳で成人の証として眉化粧やお歯黒をしています。当時は年齢や身分、階級による約束事として、よそおいや化粧法が決められており、現代のように自分らしさや個性を表現するおしゃれのあり方とは全く意識が異なるものだったのです。
現代とは異なり、ファッションや髪型、メークで個性を表現することができなかった当時の女性たちにとって、唯一自由に楽しめたおしゃれが「香り」です。自分のお気に入りの香を焚き染めた衣や、香りのついた和歌(手紙)のやり取りを通してアピールすることが、もしかしたら彼女たちの大切な自己表現だったのかもしれません。
平安時代の髪のお手入れ
平安時代、宮廷では華やかな貴族文化が花開いていた頃のこと。王朝の女性たちが長〜く髪を伸ばしていたワケは、髪が美人を左右する決め手だったから。とにかく長く、まっすぐなこと、そして黒く光沢があることが美人の条件でした。平安時代の随筆『枕草子』には、筋がとおってない髪は下品だとバッサリ! 女性たちは互いに髪の美しさを競い合っていたのでしょう。しかも髪が身長よりも長いってことは、お手入れは今よりもずっと手間ひまがかかりました。“ゆする”と呼ばれるお米のとぎ汁を使って髪を洗っていましたが、朝、髪を洗いはじめて乾くまでには日もとっぷり。眠るときも、くせのない髪をキープするため、長い髪を箱に入れたり、枕元に巻いておくなど、とても気を使っていたんだとか。髪に対する強い思い入れを感じますよね。
平安時代の美肌洗顔
肌を美しくするために洗顔をする。今では当然の意識がめばえる背景には、大事な立役者が。そう、洗顔に欠かせない洗顔料です。はじまりは古く、平安時代には既に使われていたとも。
平安時代の女性と聞いてどんな姿を思いうかべますか? 長い黒髪に真っ白な肌、色鮮やかな十二単・・・。といったところですよね。こうした優美な化粧や髪型、ファッションは、9世紀末に遣唐使の終わりとともに、日本独自の美意識が育まれて形づくられていきました。
美しさに細心の気を配っていた上流階級の女性たち。では彼女たちのお肌のお手入れ、“洗顔”はどうだったのでしょう? 当時、口や手をすすぐ、髪を洗うということはありましたが、実は、顔を洗っていたという明確な記録はありません。
ただ、平安時代中期に編纂された『延喜式』には、「小豆三升。澡豆料」と。この澡豆(そうず)とは小豆を粉末にしたもので、古くから洗浄料として使われ、上流階級の女性たちは、既にこれを洗顔料として使っていたと考えられています。
小豆などの豆類には泡が立つ成分、サポニンが含まれ、肌の汚れがよく落ちます。こうした経験があってこそ、“肌を美しくするための洗顔”という意識がめばえたのです。
その後“洗顔”が習慣となっていくのは鎌倉時代以降、さらに洗顔料が一般化するのは江戸時代のこと。ちなみに、豆の流れを汲んだ洗顔料は、江戸時代、多くの女性たちに愛用されました。
毎日当たり前のように使っている洗顔料、振り返れば長い歴史の中で、私たちの洗顔意識を変える重要な存在だったんですね! 
3 動乱の時代に継承された化粧文化
貴族社会から武家社会へ
12世紀頃、日本ではそれまで権力を握っていた貴族だけでなく、武力を備えた地方の豪族、いわゆる武士が台頭してきます。源氏や平氏が勢力を広げ繁栄したのもこの時代になります。貴族社会から武家社会への転換期、女性のよそおいにも変化が訪れます。衣服の簡略化が進み、長い髪は後ろに緩く束ね、化粧も顔の白粉は薄くなり、眉化粧、紅、お歯黒を施す。衣服も髪型も化粧も軽く、活動的によそおった武家の女性が登場しました。女性たちのよそおいは、社会の動向と結びついて変化し、一般庶民にまでその影響が及んだ室町時代へと受け継がれていきます。
北條政子の化粧箱
「梅蒔絵手箱」は、源平の戦いに勝ち、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の妻、北条政子のものとされている化粧箱です。ここには鏡、鏡箱、白粉箱、歯黒箱、薫物(たきもの)箱、螺鈿(らでん)櫛、紅筆、鋏(はさみ)などの化粧道具が約30点あまりが収められています。
北条政子といえば頼朝の死後、政治的権力を握り、強くたくましい女性として伝えられています。現代に肖像画は残されていませんが、化粧箱からは彼女が白粉や紅、眉化粧といった化粧をし、髪を整え、身だしなみに気をつかっていたことが想像できます。
一般庶民にも伝えられた化粧
このころ、一般庶民の女性たちにも徐々に化粧が伝わっていったとされていますが、どのような化粧をしていたかは、はっきりとした記述が残っていません。
しかし、室町時代の働く一般庶民を描いたとされる絵巻物、職人歌合にその一端を垣間見ることができます。紅を売る女性の姿もあり、時代を経るごとに一般庶民の間にも確実に化粧が伝えられていったことがわかります。
鎌倉時代から南北朝、室町、安土桃山時代と武士による権力争いが続き、社会も人々の生活も不安定でした。
しかしそんな時代にあっても白粉や紅、眉化粧といった化粧は途絶えることなく行われていました。そしてそれは、一般庶民の間で化粧文化が爆発的に花開く江戸時代まで、脈々と受け継がれていたのです。 
4 もっとも古い日本の伝統化粧 / お歯黒
お歯黒ってどんなお化粧?
わたしたち現代人にとって、「真っ白に輝く歯」は美の象徴ですが、実は明治時代はじめの頃までの日本では、 歯を真っ黒に染める化粧、「お歯黒」が美しいとされていました。
お歯黒は、鉄漿(かね)とも表されましたが、その理由は鉄漿水と五倍子粉(ふしのこ)を歯に交互につけることで歯を黒く染めたからです。鉄漿水とは、酢の中に酒、米のとぎ汁、折れた釘などの鉄を溶かして作った茶褐色の液体で、たいへん悪臭がしたといいます。一方、五倍子粉は、ヌルデ(ウルシ科の落葉小高木)にできる虫瘤(むしこぶ)を採取し、乾燥させて粉にしたものでタンニンを多く含んでいます。
鉄漿水の酢酸第一鉄と、五倍子粉のタンニン酸が結合することで黒く染まる仕組みでした。
ちなみにお歯黒には、歯を強くし、虫歯や歯周病の予防にもなるといった実用的な効果もありました。
お歯黒のはじまり
では、お歯黒はいつ頃から、何のために行われるようになったのでしょうか。
はっきりとしたことはわかっていませんが、縄文時代の古墳から発掘された人骨や埴輪にお歯黒の形跡を見ることができます。
また、3世紀末に記された中国の『魏書』(通称:魏志倭人伝)に「黒歯国東海中に有り」と記載されており、当時すでにお歯黒が行われていたことが伺えます。
このように古代から行われていたお歯黒ですが、日本で人々の習慣になったのは、平安時代に入ってからと考えられています。
平安女性にとってのお歯黒
平安時代の『源氏物語絵巻』などをみると、黒髪と白い肌のコントラストの美しさと、ふっくらとした顔に細い目、小さな口元が美しいとされていたことがわかります。
歯を黒く染めることで歯の存在を消すお歯黒は、小さな口元を強調するために行われていた化粧なのです。
また、この時代のお歯黒は、成人への通過儀礼でもありました。
さらに室町時代になるとお歯黒は一般にも広がり、戦国時代には政略結婚を背景として、10歳前後の武将の息女に成人の印としてお歯黒が行われました。こうしたことから、お歯黒は時代とともに既婚女性の象徴になっていったと考えられます。
お歯黒は権威の証
その一方で、女性だけでなく男性もお歯黒を行っていました。平安時代末期の貴族男性や、武士でありながら貴族文化に傾倒した平氏の武将たちも、白粉や紅とともにお歯黒を施すことで権威を示していたのです。
室町時代、戦国時代の一部の武士は、戦場で破れ首を打たれた場合を想定し、敵に対して自分の身分を示し、見苦しくないようにと白粉や紅、お歯黒といった化粧を行っていたといいます。 
5 黒い歯から白い歯へ / 江戸から明治期のお歯黒事情
江戸女性にとってのお歯黒
長く続いた戦乱が終わり、平和が訪れた江戸時代。武士がお歯黒をすることはなくなり、男性では一部、貴族階級にだけにその習慣が残りました。そしてお歯黒は女性だけがする化粧となったのです。
江戸時代の風習に、結婚すると「半元服」と称してお歯黒をし、子供が生まれると「本元服」として眉を剃るという、ひとつの通過儀礼がありました。お歯黒の黒は、他の色に染まらないという意味から、“貞女二夫にまみえず”の証として、既婚女性の象徴とされたのです。
初めてお歯黒をつけるときは「鉄漿付の式」というものを行いました。鉄漿親(かねおや)といって親類縁者の中でも福徳な女性が選ばれ、お歯黒の道具一式をもらってお歯黒をつけます。また、初めてお歯黒をつけることを初鉄漿(はつかね)といい、七ヶ所から鉄漿水をもらうという慣わしがありました。このように、お歯黒は江戸の女性たちにとって、とても大切な意味をもっていました。
また、お歯黒を施し、眉を剃った顔は何とも色っぽく見えるとされ、美しさの表現となっていきます。
一般女性のほか、京都、大阪では遊女や芸者が、また江戸では遊女がお歯黒をしていました。お歯黒で年齢、職業、未婚・既婚といった、いわばその女性のプロフィールまでも判別することができたのです。
黒い歯から白い歯へ
白粉、紅、お歯黒、眉作り・・・こうした日本の伝統化粧は、江戸時代に完成されたといえます。しかし江戸時代が終わりを迎え、明治に入ると、政府によって推し進められた近代化の波が女性の髪形や服装、化粧にも大きな影響を及ぼすことになります。
とりわけ日本女性の伝統化粧であるお歯黒は、来日した外国人たちの目には奇異なものと捉えられ、この意見に反応した政府により、明治3年、華族のお歯黒と眉掃(眉を剃ること)が禁止されました。
さらに、明治6年には、昭憲皇太后が率先してやめたことにより、一般の女性たちも禁止となりました。それまで培ってきた美意識、親しんだ化粧をすぐにはやめられない女性もいましたが、西洋化の勢いとともに、生まれつきの眉と白い健康的な歯の美しさが認められるようになっていきます。
こうしてお歯黒は明治から大正にかけて、少しずつ姿を消していき、それは都市から地方へと広がっていきました。
現在、テレビで放映されている時代劇を見ても、“お歯黒”をしているお姫様や腰元、奥方などが登場することはないようです。お歯黒を施すことが日常であり、美しいと感じていた文化をあなたは想像できるでしょうか。 
6 豊かな庶民文化とともに開花した装い / 江戸前期
武士階級から町人の時代へ
江戸時代には商工業が飛躍的に発達し、大阪や京都、江戸といった都市部の人々の生活が向上しました。豪商とよばれる大商人が富を築いていき、同時に文化を担う主役もそれまで権力を握っていた武士階級から町人へと移り変わっていきました。
花見や相撲、歌舞伎見物といった文化が生まれ、やがて江戸町人の文化として定着していきました。ハレの日に精一杯のおしゃれをして、そうした場所に繰り出すのが当時の人々の一番の楽しみだったのでしょう。
女性たちのよそおい
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた「歌舞伎図屏風」から、当時の歌舞伎役者の衣装や見物にきている女性のよそおい、髪型を見てみましょう。
この頃は華麗な文様を描いた友禅染の手法が生み出された時代でもあり、衣装の華やかさが伝わってきます。
一方髪型も、長い黒髪をダイナミックに結い上げています。日本髪は江戸時代にもっともオリジナリティ溢れる発展を遂げた、よそおいの文化のひとつです。安土桃山時代頃から、それまで後ろに長く垂らしていた髪をだんだんと結い上げるようになり、やがて技巧的なアップスタイルへと“進化”していきました。
こうした衣装や髪型などのおしゃれを牽引していたのは、当時のファッションリーダーである歌舞伎役者や遊女たち。彼らが生み出した一見奇抜なよそおいをお手本にしながら、一般の女性たちはおしゃれを自分なりに楽しんでいたのです。
ところで、そんな華やかな衣装や髪型に似合う化粧は、どんなものだったのでしょうか。
唐輪髷(からわまげ)/天正
16世紀末期のころ結われた髪型。中国女性の髷を真似たところからその名がついた。この時代以降発展する日本髪の原型となる髪型のひとつ。
元禄島田髷(げんろくしまだまげ)/江戸時代前期、元禄年間
江戸時代初期の男性の髪型を遊女が真似て結ったことがはじまりだといわれています。唐輪髷(からわまげ)と比べると、時代を経ることに「びん」や「たぼ」といった技巧的アレンジが登場していることがわかります。
化粧に目覚めた女性たち
平和が訪れたこの時代、化粧は一般庶民にも爆発的に広がっていきました。元禄時代には、豪華な髪型と衣装とのバランスから、濃い目の化粧が流行していたようです。
それを象徴するのが白粉化粧です。白粉は水で溶き、顔だけではなく、首や襟足、肩、胸元の辺りまで刷毛を使って丹念に塗るのが常識とされていました。これを何度も塗り重ねていると、濃い化粧が完成します。
しかし、当時の女性の身だしなみについて指南している文献『女用訓蒙図彙』/元禄7年(1694年)には「生地黒きに化粧の濃は軽粉肌に沈まぬゆへに、底厳なく、やがてのうちにはげおつるなり。かやうの顔は底から拭ひたてて、なる程細なるおしろいを、うすうすとあるべし」(黒い肌に、化粧を濃くすることは、白粉が肌になじまず、つやもなくなり、時間がたつと、はげてくるのでよくない。こういう肌には、白粉を薄くつけるのがよい)と書かれています。
また、『西鶴織留』/元禄7年(1694年)にも「素顔でさえ白きに、御所白粉を寒の水でとき、二百へんも摺りつけ・・・」(素肌でさえも白いのに、水で溶いた白粉を二百回もすりつけ・・・)という記述があります。濃い化粧は下品だと考えられ、薄化粧が好ましいとされていたことがわかります。
この時期、京都や大阪を中心によそおいの文化が栄え、髪型からファッション、化粧まで何より華やかさを重視したものが流行しました。白粉をしっかりと塗り、紅や眉化粧を施すメークが定着していたのでしょう。 
7 江戸時代・おしゃれ文化の最盛期 / 江戸中期〜後期
江戸を中心に栄えた町人文化
江戸時代の中頃になると、街道や港といったインフラが整い、交通網が発達します。人や物、お金が行き来することにより、城下町や宿場町が栄え、都市へと発展していきました。特に江戸は、中期には人口が100万人を超える大都市へと変貌を遂げていました。そして、経済的に豊かになった町人たちによる新しい文化が誕生しました。
次第に華やかさを極めていく町人階級の消費に対し、徳川幕府からは、たびたび贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が発令されます。そうした中、江戸後期に入ると幕府の抑圧に対する反発から、粋で円熟した文化が育まれていきます。それは単に華やかさや贅沢さを追求するだけではない、こだわりを持った工夫を凝らした文化でした。
文学では、世相を皮肉った狂歌や川柳、人情を描いた読本、独特の笑いをもたらす滑稽本など、さまざまなジャンルが登場。よそおいにもその気風は現れ、ただ豪華であるおしゃれから、すっきりと垢抜けたおしゃれが支持されるようになります。それは財力のある町人だけではなく、さまざまな階級の人々に広がっていきました。
また当時、流行の発信地として独特な文化を育んでいたのが「遊郭」です。遊郭に通う人もまた粋な町人たちでしたが、人々の注目は「花魁」と呼ばれる最高位の遊女たちに集まります。ファッションセンスや教養の高さから一般庶民にとっての憧れの的、いわば、現代でいうところのセレブな存在でもありました。
女性たちの憧れ、遊女のよそおい
ではそんな遊女たちのよそおいはどのようなものだったのでしょうか?
図の浮世絵で目をひくのは文様が施された重厚な着物と帯、大振りで立体的に結われた髪型です。櫛が2枚に簪が8本という、現代では考えられないほどのたくさんの髪飾りが印象的ですね。
こうした髪型は、とうてい一人では結うことができず、「髪結(かみゆい)」と呼ばれる専属の美容師がついていました。化粧はというと、白粉をたっぷりと塗り、眉墨をひき、濃い目の紅と髪型や衣装に負けないぐらいはっきりとした厚化粧をしていました。
こうしたおしゃれの極みに庶民の女性たちが憧れ、真似をすることで生まれた流行を次のページでご紹介します。
透ける髪型に緑色に光るリップ…一世を風靡したおしゃれ
そのひとつが江戸時代中期、安永〜寛政(1772〜1801年)頃に大流行した「燈籠鬢(とうろうびん)」という髪型です。これは、顔の両サイドの生え際の髪を薄く取り、その毛を鬢挿し(髪を立体的に固定する梁、鯨の髭などで作られていた)に掛け、ふんわりと半円状に膨らませた髪型で、燈籠の笠のように見えることからその名がついたといわれています。
膨らませた部分から向こう側が透けて見えるのがなんとも涼しげで、当時の女性たちの心を捉え、大流行しました。浮世絵を見ると遊女たちも多く結っていることがわかります。
一方、化粧はベースメークに白粉を塗り、眉墨で眉を書き、唇には紅をつけるという基本は変わりませんが、時代によって特徴あるスタイルが流行しました。図版は、江戸時代後期に遊女の化粧から流行した笹色紅という化粧法です。紅を何度も重ねづけすることにより、唇を緑色に光らせます。とはいえ、当時、紅は大変高価なもの。一般の女性たちは、摺った墨を唇に下地として塗った上に紅をつけるという裏技で笹色紅と同じ効果を出していました。
流行は「錦絵」でゲット!
では、ファッション誌やテレビといったメディアがない時代、女性たちの間でどのように流行がキャッチされ、伝わっていたのでしょうか。
大きな役割を果たしたのが江戸時代中期に登場した「錦絵」と呼ばれる多色刷りの版画です。
錦絵は、葛飾北斎が描いた日本の名所などの風景画が有名ですが、当時人気を博した歌舞伎役者や遊女、美人で評判の町娘などが題材となることも多く、ファッションカタログの役割も果たしていました。女性たちは、ひいきの役者や人気の美人が描かれた錦絵を買い求め、流行をキャッチしていたのです。手段は違っても、流行を取り入れて着飾りたいという、現代と変わらない女心を垣間見ることができます。 
8 現代につながる装いの第一歩 / 幕末〜明治時代
1868年、新しい国づくりを目指す人々のもと、明治時代が幕を開けました。新しい政府では、欧米に習って国の近代化が推し進められました。街には髷を切った男性や洋装の人々が登場するなど、文明開化の掛け声とともに西洋文化が次々と推奨されていきました。生活環境が大きく変わることによって、女性たちのよそおいにもさまざまな変化が訪れることになるのです。
美意識の大改革 〜お歯黒と眉剃りの禁止〜
変化はまず、化粧において始まりました。政府は手始めに公家や華族といった上流階級の人々に対し、伝統的な化粧の眉剃りやお歯黒の廃止を求めました。そして、明治4年には、眉剃りとお歯黒をやめ、白い歯にしようという声がさらに高まっていきます。理由は来日した外国人の目にその伝統が奇異に映ったからでした。
眉剃りやお歯黒は、女性は結婚すると歯を黒く染め、子供が生まれると眉を剃り落とすという通過儀礼から行われるようになった化粧法です。眉剃りとお歯黒を止めるということは、それまでの慣習、さらには女性観や美意識を180度ひっくり返す大きな転換だったのです。
ですから、一般の女性たちがそれまでの意識を変え、お歯黒をすぐにやめることはできなかったようです。明治6年、率先して昭憲皇后が止めたことから、一般の女性たちにも白い歯が浸透しはじめました。これを契機として、現代の価値観に近い自分の顔に似合った眉化粧や自然な白い歯が美しいとされるようになったのです。
和服にも似合う最新ヘアスタイル登場!
明治時代に入って西洋化が推し進められても、一般女性のほとんどは和服を着ていました。そのため、ヘアスタイルも島田髷や丸髷といった江戸時代から続く日本髪が一般的でした。
しかし明治18年、日本髪は手入れが大変なうえに、不潔不経済ということから日本髪を廃止し、新しい髪型にしようという婦人束髪会が設立されます。
そこで提案された束髪(そくはつ)という髪型は、三つ編みなどをベースに、垂らしたり丸めて髷を作るなど、それまでの日本髪と比べて軽く、簡単に結えるのが特徴でした。
中でも三つ編みをベースにリボンを飾った「マガレイト」やすっきりとしたアップスタイル「あげ巻」といった髪型は、人気の髪型となりました。また、これらの新しい髪型は、なんといっても和服にも似合うということから、たちまち女性たちの間で流行しました。
ところが明治27年頃から、日清戦争による国粋主義の影響で、一時、洋風文化である束髪が影をひそめ、日本髪が再び支持されるようになります。
そして明治35年頃には、前髪を庇のように極端に張り出した「庇髪(ひさしがみ)」と呼ばれる新しい髪型が登場します。
明治時代は新しい髪型である束髪が登場しつつも、日本髪も結われていたという過渡期の時代といえます。 
9 欧米文化に刺激され変わる装い / 明治時代中後期
明治時代中期から後期、日本政府は欧米諸国に追いつこうと日清戦争、日露戦争を引き起こし、一方文化面では欧米のトレンドがほぼ同時期に日本に入ってきていました。このころ女性の教育も盛んになり、女性が少しずつ社会に出始めた時代でもありました。
『女学世界』『婦人世界』『婦人画報』といった女性向け雑誌も続々と創刊され、女性をとりまく環境もめまぐるしい変化を遂げていました。そんな時代、女性たちはどんな美人像を描き、おしゃれを楽しんでいたのでしょうか。
憧れ美人は芸妓とハイカラ女学生
上流階級の女性たちの間では、すでに洋装が取り入れられていましたが、それは晴れの場でのこと。日常生活においては上流階級の女性も一般女性もまだまだ和装が中心でした。
そんな中、美しい和服姿で人気を博したのは、芸妓たちです。当時、彼女たちは、知性と教養を兼ね備えた美人として憧れの存在でした。芸妓たちの美人写真コンクールが開催されたり、化粧品のポスターに登場したり、またモデルとなった絵葉書は飛ぶように売れたといいます。
また、女性の教育が盛んになったこの時代、女学校に通うことが一種のステータスであり、女学生もまた、庶民の憧れの存在になっていきます。彼女たちのファッションといえば和洋折衷スタイル。袴に洋靴、束髪を結い大きなリボンをつけたスタイルが定番でした。当時リボンはこの女学生のよそおいから流行し、一般に広がっていきました。
明治の中頃になると、化粧品の広告が新聞紙面に目立ち始めます。化粧水が大流行したり、輸入品の化粧品もさることながら国産品も出回るようになります。欧米からクリームが輸入されるようになると、その使用法にも大きな変化が現れます。明治時代末期〜大正時代にかけてクリームはスキンケアとしてだけではなく、化粧下地としても普及していきました。
当時の最新メーク法は、クリームを下地としてつけ、粉白粉をはたき薄化粧のベースをつくり、眉は自然な太眉に。紅は唇いっぱいではなく、中央におちょぼ口に書くメークでした。
さらに白粉も粉白粉、水白粉、練白粉となりたい仕上がりに合わせさまざまなタイプが登場。そしてなんといっても、それまで白粉といえば白一色だった白粉に肉色、黄色といった色つきの白粉が登場します。これは当時の日本女性にとって自分の肌の色を自覚する画期的なできごとだったのです。
エステティックサロン登場
もうひとつ明治時代に欧米からもたらされた新しい美容法として、現代でいうところのエステがあげられます。
一般の日本女性向けにエステティックサロンがはじめて登場したのは、明治40年、遠藤波津子が京橋に開業したのがはじまりともいわれています。当時エステは「美顔術」と呼ばれ、主にクリームを使って肌の汚れをとるというものでした。一回の施術料は高額だったものの、当時女性の雑誌記者が体験取材に訪れるほど、女性たちの関心は高かったといいます。
明治時代中期から後期、日本が欧米に追いつこうと技術や文化の吸収に努めていた時代、そうした社会情勢が女性たちのよそおいにも大きく影響を与えていたのでしょう。
上流階級の女性たちは洋装をはじめ輸入物の石鹸や香水といったものにいち早く触れ、一般女性の間でも新しい化粧品や美容情報に触れることで、より一層美しさやおしゃれに関心が高まっていった時代といえるでしょう。 
10 活動的な女性たちが求めた装い / 大正時代
近代化に拍車をかけるように、大正3年(1914年)、日本も欧米の国々と肩を並べようと、第一次世界大戦に参戦。軍需品の輸出で好景気となり、人々の消費や生活が向上していきました。こうした中、欧米と同じく女性の社会進出も進み、女性たちのよそおいは大きく変化していきました。
社会進出によって変わっていく化粧意識
女性たちが化粧をする意識や目的は、時代や社会状況によって絶えず変化してきました。明治時代の文明開化には、それ以前の伝統的な化粧ではなく、西洋文化の影響を強く受けたものに変化しました。明治時代には外見による身分や年齢、未既婚を示す制約が薄れていったのです。
そして、大正時代に入ると、化粧意識は再び大きく変化します。明治時代の中ごろから日本でも社会に出て働く女性が登場しはじめましたが、大正時代にはさらに増加し、百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手など、女性たちはさまざまな職業に就いていきました。それは、女性たちにとって外出する機会を増やし、多くの人とコミュニケーションをとることが求められることとなりました。
人と接する機会が増えた女性たちにとっての化粧は、コミュニケーションの上で、相手に不快な印象を与えないマナーでもあることを強く意識させるようになりました。つまり、大正時代は、美しくあるための化粧と、社会にうまく適応するマナーとしての化粧、両方を兼ね備えた、現代の女性たちと同様の意識を持ちはじめた時代といえます。では、そんな時代のスキンケアやメークアップはどのようなものだったのでしょうか。
大正時代のスキンケア
〜石鹸洗顔、化粧水、クリームの普及〜
素肌の美しさを保つために洗顔が重要視されているのは今も昔も同じこと。洗顔料は糠[※1]や洗い粉[※2]、また石鹸を使って洗顔をしていました。ただ、石鹸は輸入品とともに明治時代には製造もされていましたが、とても高価で庶民の手には届かないものでした。しかし大正時代になって、安価で品質もよいものが作られるようになり、石鹸を使うことが少しずつ一般に浸透していきました。
洗顔をした後は、肌を整え白粉のノリを良くするために、化粧水やクリームを使いました。化粧水は【美顔水】や【ヘチマコロン】と呼ばれたベーシックなものから、「日焼けを防ぎ、色を白くする」など美白効果を謳った【ホーカー液】や【レートフード】といった商品が大流行しました。当時、旅行や海水浴など、レジャーやスポーツを楽しむ女性たちも増え、自然に日焼けに対処する化粧品に注目が集まりました。より白い肌を求める気持ちは現代の女性たちと変わらなかったのです。
また、クリームも肌を整える化粧下地として明治末期から大正時代にかけて需要が高まっていきました。当時、健康的で自然な美しさが求められていたことから、油性のクリームよりもさっぱりとした薄化粧に仕上がる無脂肪性のクリーム、バニシングクリームに人気がありました。また、バニシングクリームは化粧くずれしにくく、長時間美しさを保てるものとして、昭和まで長く愛用されていきました。
大正時代のメークアップ
〜便利さを求めてコンパクト、頬紅、リップスティック登場〜
一方、女性たちのメークアップはどのようなものだったのでしょうか。基本は無鉛白粉でベースメークを仕上げた後、ポイントメークとして眉墨で眉を書き、唇には紅を付けるのが基本でした。紅はそれまでの紅猪口に代わって、携帯しやすいスティック状のものが欧米から輸入されるようになります。現代では普通に使っているスティック状の紅ですが、大正7年にようやく国産品が発売されてから、だんだんと一般女性へと広まっていきました。
また、このころ白粉をつけた肌の血色を良くし、健康的で表情を豊かにするものとして、頬紅も注目されるようになりました。さらに、現代には欠かせない化粧道具、外出先でも手軽に化粧直しができるコンパクトが使用されるようになったのもこのころのことです。特に欧米からの輸入コンパクトは、機能性とアクセサリーのような美しさから、一般女性たちにとって憧れの化粧道具でした
学校や仕事へと、社会に出ること、スポーツやレジャーを楽しむこと、女性たちのライフスタイルがより活動的に変化した大正時代。女性たちのよそおいは、おしゃれであることはもちろん、社会的マナーとしての化粧が意識されるようになり、化粧品や化粧道具には、より短時間でできる手軽さや、機能性が求められるようになりはじめた時代でした。
※1 糠:米糠を小さな袋に入れた糠袋をお湯につけ、ぎゅっとしぼって顔や身体を洗った。適度な油分とビタミンが含まれていることから、肌をしっとりと洗い上げ、肌荒れ予防にもなった。
※2 洗い粉:古代中国から伝来した「澡豆(そうず)」が起源で、大豆や小豆の粉、からす瓜の根など数種類の生薬の粉を混ぜたもの。小豆に含まれるサポニンは泡立ちを良くし、皮脂や汚れを落とす効果があった。 
11 自由なヘアスタイルの始まり1 / 大正時代
大正時代、社会に出て働くことなど、女性たちのライフスタイルは変化し、化粧意識も大きく変わりました。欧米からもたらされた新しい化粧法が次々と取り入れられ、同時に髪型も新しいおしゃれ志向に合わせた髪型が求められるようになっていきました。では、当時どのような意識の変化が起こり、どんな髪型が女性たちの心を捉えていったのでしょうか。
大きな「日本髪」から小さな「束髪」アレンジへ
明治時代から新しい時代に合わせ、それまでの伝統的な日本髪から束髪という、日本髪よりも簡単に結うことができる髪型が推し進められてきましたが、まだまだ日本髪も多く結われていました。しかし、明治時代も末期のころから大正時代にかけて、社会に進出した女性のニーズにも合って、日本髪より軽く、簡単に結うことができる束髪を結う女性たちが増え、日本髪を結う女性がだんだんと減っていきました。
明治時代末期から大正時代にかけて、多くの日本女性が結った束髪は「庇髪(ひさしがみ)」といい、すき毛やアンコ[※]といったつめ物を入れて前髪を大きく膨らませた髪型でした。この「庇髪」は大正時代に入っても後頭部の髷部分の結い方の違いで「大正巻」「改元巻」「九重巻」など、さまざまなアレンジを生みながら、女性たちにとって定番の髪型となっていきました。
ヘアスタイルに対する意識を変えた髪型
大正時代に登場した束髪のひとつに「女優髷」という髪型があります。女性の新しい職業として登場した帝劇の女優たちがしていたのが「女優髷」で、そ れまでの束髪には欠かせなかったボリュームを出すためのつめ物を入れず、鬢付け油も使わないスッキリとした髪型でした。見た目の華やかさはありま せんでしたが、つめ物を取ったことで一段と軽く、手入れの簡単な機能的スタイルとして紹介されました。人気の髪型とまではなりませんでしたが、当時、 決まった髪型ではなく、自分のライフスタイルに合った髪型にするという、新しい志向を女性たちに投げかけた髪型でした。
現代でこそあたりまえのようになっている、自分の意思で似合う髪型にすることが、大正時代に入ってやっと一般の女性たちの間で行われはじ めたのです。
このような意識の変化から、新しいライフスタイルに合わせた、より小さくて軽い活動的な髪型が求められていきました。その結果、大正時代中 ごろから終りにかけて、前髪を膨らましていたつめ物がだんだんと取れ、さらに小さくコンパクトな束髪にすることが主流となっていきました。 
12 自由なヘアスタイルの始まり2 / 大正時代
またたく間にトレンドとなったウェーブヘア
大正3年に始まった第一次世界大戦による軍需景気の中にあった日本。生活も向上し、化粧やファッション、髪型といったよそおいの面でも欧米からの流行が次々と上陸していました。
そんな西洋志向の流れのなかで、大正10年頃に“洋髪”がはじまりました。「洋髪」とは当時ウェーブをつけた髪で結った髪型をさして「洋髪」や「欧風結髪」と呼んでいました。中でも、髪にウェーブをつけ、額から両サイドの髪に流し、両耳を覆い、毛先を後頭部にまとめた髪型を「耳かくし」と呼びました。この「耳かくし」を広めたのは銀座の美容院が当時のパリジェンヌのトップ・モードをその技術とともに紹介したのがはじまりといわれ、それまでの日本女性の髪型とはまるで違う斬新さで女性たちの心を捉えていきました。
「耳かくし」は、和服にも洋服にも似合い、同じアップスタイルでも髪にウェーブをつけたことで、それまで見たことのないモダンな仕上がりだったことから、当時、まだまだ新しいことに消極的な一般の女性たちには、はじめは躊躇されたようですが、すぐに多くの女性たちの心をつかみ、大流行となりました。
大正末期の髪型といえば、すぐに「耳かくし」といわれるほどで、さらに「耳かくし」はウェーブをつけた前髪を七三に分けたり、片耳側だけを覆ったりと、さまざまなアレンジを生みながら、大正末期から昭和初期の頃まで流行が続きました。
ショートボブは流行の最先端
「耳かくし」から、さらに一歩進んだ髪型が、現代でいうところのボブスタイルで、当時「断髪」と呼ばれました。女性の断髪は、明治時代、文明開化の頃にも見られましたがすぐに禁じられ、再び注目されはじめたのは大正時代の終りのころからです。
とはいえ、長い髪を短く切ることは、多くの日本女性にとってはじめてのことで、今では想像もつかないくらい勇気のいることでした。当時、髪を切ったことで親から縁を切ると言われたり、泣かれたといった話もあるほどです。
大正時代末期、断髪は当時としては、丈の短いスカートとセットのよそおいであったことから、そのスタイルはモダン・ガール(モガ)と呼ばれ、トレンドの最先端をゆく一部の女性たちから取り入れられ、昭和にかけてだんだんと一般へと広まっていきました。
また、女性たちを活動的なよそおいへと変化をもたらすきっかけとなったのが、大正12年に起きた関東大震災です。これを契機に和服から、動きやすく機能的な洋服を着る女性たちが増えたといいます。こうしたファッションの変化も、より活動的な髪型へと影響を与えていったといえるでしょう。
欧米文化の流入、社会の近代化、震災といったさまざまな時代背景がライフスタイルに変化をもたらし、それに伴い髪型も、決められたものではなく、自分のスタイルに合った髪型へと意識の変化をもたらしました。
日本髪から束髪、洋髪、断髪へと明治から大正にかけての髪型の変化は、現代の女性たちのおしゃれ意識に近づき、今ではあたりまえのことのように思える、自分に似合うヘアスタイルを模索しはじめた時代だったのです。 
13 私らしいおしゃれの時代到来 / 昭和初期1
大正時代の第一次世界大戦、関東大震災を契機に日本は近代化し、昭和初期には女性たちも社会に出て活躍する場が着実に根付きはじめ、新しいライフスタイルを切り開いていきました。また、そうした中で、おしゃれや文化も自分たちがよいと思うもの、また意見を発信するという新しい時代に入っていきました。ではそんな時代の女性たちとは、どんな女性だったのでしょう。
よそおいで自己主張“モダンガール”登場!
まず代表的なのが、昭和のはじめごろ都市部に登場した「モダンガール」と呼ばれる女性たちです。当時の一般的な女性たちは、ウェーブをつけた長い髪を切らずにまとめた髪型に和服姿が多く、ワンピースなどの洋服を着た女性はまだまだ少数派でした。しかし、モダンガールと呼ばれた女性たちは、髪は短く切ったショートボブが特徴的で、ファッションは大胆な柄物を着こなしたり、ロングスカート、ハンドバッグといった最新のスタイルで街を歩きました。彼女たちは、常に自由な発想で新しいスタイルを追求する先進的な女性として一躍注目の的となりました。
現代のビジネスウーマン“職業婦人”のおしゃれ感
大正時代後期から昭和にかけて、経済の発展とともに働く女性たちが増えていったことは、第10回で詳しく紹介しています。そして、特にこの時代になると都市部では、企業や官公庁の事務員、現代でいうところのファッションモデルであるマネキン、ダンサーなどといったさまざまな新しい職業に就く女性たちが登場し「職業婦人」と呼ばれました。彼女たちは、その職業にふさわしい礼儀や身だしなみも大切にしていましたが、そこに自分なりの個性を活かすおしゃれを楽しんでいました。
こうした「モダンガール」や「職業婦人」のおしゃれに代表されるように、同じおしゃれをするにしても、大正時代以前の礼儀を重視したよそおいから、単純にきれいになりたいという思いでおしゃれをし、自分を表現する女性たちが増えていきました。では、そんな女性たちに支持された最新の化粧とはどのようなものだったのでしょうか。まずは当時の女性たちのメークからみてみましょう。
現代に繋がるメークのきざし
化粧下地の上に白粉を塗り、眉墨で眉を書き、口紅、チークといった基本的なメーク法は大正時代から変わりませんが、この時代、それぞれの化粧品にさまざまな色、タイプが登場してきます。つまり、ライフスタイルや個人の好みに合わせ、だんだんと化粧法や化粧品が多様化しはじめた時代だったのです。ではどのような化粧法、化粧品が登場したのでしょうか。
ベースメークは仕上がりの好みに合わせて
昭和初期、ベースメークに使う白粉はそれぞれの好みに合わせ、水白粉、練り白粉、粉白粉の3種類のタイプが使われていました。中でも粉白粉を使ったベースメークは手軽さから多くの女性たちに支持され、大流行しました。その方法はまず、下地には、大正時代末期から普及し始めたバニシングクリームを使って顔や首筋に塗り、そしてその上にパフで粉白粉をはたくという手順。仕上げに余分な白粉を刷毛でささっとはらって完成です。
また、白粉の色も自分の肌に合った自然な肌色や小麦色に仕上がるよう、定番の白、肌色はもとより、桃色、黄色、緑色、紫色といったさまざまな色が使われるようになりました。日本でも1890年代には、既に色付きの白粉が出始めていましたが、多くの女性たちに普及していったのは、個人の好みに合わせたメークをするようになっていったこの時代に入ってからのことです。
リップスティックと新しい口紅の塗り方
日本では、1910年代、大正時代に「棒口紅」と呼ばれるリップスティックが作られるようになりましたが、現代のように多くの女性が気軽に使うといった状況にはなっていませんでした。しかし、昭和に入ると棒口紅は、一般の女性たちに浸透していきます。昭和3年には平尾賛平商店、昭和6年にはウテナ、また昭和10年には、オペラから当時としては画期的な繰り出し式の棒口紅が登場しました。
棒口紅は、筆などを使わず直接塗れる簡単さも手伝って、少しずつ広がっていきました。また、口紅の塗り方も大正時代以前の女性たちに見られる白粉で唇を隠し、おちょぼ口に書くのではなく、本来の唇に沿って書き、ひとりひとりの唇の特徴に合わせて書くことが美しいとされるようになっていきます。
目ヂカラメークのはじまり?
日本でアイシャドーが登場した大正時代、当時はまだアイシャドーを使うことへの抵抗感や一般女性はあまり使わないといった偏見もありました。しかし、昭和7年以降の洋服の普及とともに、和服ではなく洋服に似合う化粧法として少しずつ認知されるようになっていきました。色も緑、茶、ダークブルーなどが日本人に合うとされました。また、アイシャドーだけではなく、つけまつげやアイペンシルでラインを書くなど、目を強調するメークが登場しはじめました。
こうしてみてみると、ベースメークが多様化したり、リップスティック、アイシャドーの登場など、現代の女性たちの化粧方法、化粧品に近いものが登場してきたと思いませんか?昭和初期は現代に通じる、おしゃれのきざしが見え始めた時代だったのです。 
14 健康美を求め始めた時代 / 昭和初期2
昭和初期、女性のライフスタイルの変化とともに、仕上がりに合わせてメーク法、メーク化粧品が多様化していったお話を第13回でご紹介しました。では、スキンケアは、当時どのようなことが行われていたのでしょうか。
美しい素肌を保つための洗顔
昭和初期の女性たちにとっても、健康的な素肌を保つために、洗顔は重要なポイントでした。洗顔料には、古くから使われている糠や洗粉も愛用されていましたが、この頃になると石鹸で洗顔するということが普及し、さらに一部では、洗顔クリームが登場してきます。
昭和2年の女性誌「婦女世界」では、美容家によるさまざまなアドバイスや、美容法の解説などを掲載した美容特集号を出しています。それだけ、当時の女性たちが美容に高い関心を寄せていたのでしょう。
その中に洗顔の仕方や注意事項が書かれています。蒸したタオルで毛穴を開いた後、石鹸を使って顔を洗い、ぬるま湯でよく拭うとか、タオルなどに石鹸をつけて、肌をこすっているが、これは表皮を破壊し、肌を疲れさせるのでよくない。また、石鹸ならば良く泡立てて軽く摩擦して使い、洗顔クリームならば手にとってお湯か水に溶かして洗顔する、といったように、当時一般に普及しはじめた化粧石鹸、また、目新しい洗顔料であった洗顔クリームに対するアドバイスが数多く紹介されています。
洗顔後は化粧水とクリームのお手入れが基本に
洗顔後はやはり、洗いっぱなしにせずに、化粧水やクリームを塗って肌を整えていました。
この頃になると化粧水も多くのメーカーからグリセリン性、植物性、油性などさまざまなタイプが発売されていました。例えば、水分を吸収しやすいグリセリン性の化粧水は、外気中の水分をとって肌にうるおいを与え荒れを防ぐとされ、淡化粧下に用いられました。当時の女性たちも、それぞれ肌性や効果、季節によって自分に合うものを選んで使っていました。また、化粧水として昭和初期に流行した商品に、アストリンゼントがあげられます。アストリンゼントは、初めに桃谷順天館から発売されましたが、洗顔後に肌につけると、肌をひきしめ白粉のノリがよくなるとして、夏用の化粧水として人気を博し、さまざまなメーカーから同一商品名で発売されました。
クリームは、明治時代には輸入物が入ってきていましたが、国産のものが出回り、普及しはじめたのは大正時代のこと、またさらに昭和に入ってからは本格的に国内でクリームの製造が行われるようになり、一般に広く使われるようになっていました。
クリームは主に2種類あって、ひとつはコールドクリーム。寝る前に白粉を落とした後、コールドクリームを塗って顔をマッサージしてふき取る。もうひとつは、バニシングクリームで、化粧下地として使い、日中肌を保護する役割をしていました。
美しくなるには、身体の内側からのケアも
昭和初期、東京や大阪にアイススケート場が相次いでオープンしたり、昭和11年には、オリンピックで女性水泳選手が金メダルを取るなど、女性にとっても身体を動かすことやスポーツへの関心が高まり、水泳、テニス、スケートなどのスポーツ、海水浴や登山などのレジャーが広がっていきました。
しかし、スポーツによっては、当時はまだ誰でも簡単にできるといったものではありませんでした。そこで、美容と健康のために、道具や設備にとらわれず、室内で簡単にできる美容体操と呼ばれる運動が盛んに行われたといいます。
早見君子著『見違へる程美しくなる美容法と結髪』/昭和2年によると、美容体操は、欧米から輸入された体育法として、前屈などの簡単なストレッチ法が紹介され、寝る前や起床時に寝床の上でするとよいとしています。また、美容体操だけではなく、肌を美しく保つためには、バランスの良い食事を心がけること、十分な睡眠、心の健康といった、現代にも通じる美肌を保つための、身体の内側からのケアを唱えています。
こうしてみてみると、化粧品を使った外部からのスキンケアもさることながら、適度な運動や食事のとり方といったことが美しさに繋がるとされ、美しさはスキンケアやメークで作られた顔の美しさだけではなく、身体の内側の健康が伴ってこそ、といった健康美を目指す考え方が伝えられはじめた時代でした。 
15 自粛させられたおしゃれ / 戦中
昭和10年代、にわかに戦時色を帯びていく日本。そんな中、日本女性のよそおいはどのように変化したのでしょうか。今回は戦中の女性たちのファッション、化粧、髪型をみてみましょう。
ブラウスとスカートから防空頭巾ともんぺに
昭和10年代頃までは欧米から入ってくるファッション文化を取り入れ、華やかなよそおいを楽しんでいた女性たち。それが昭和12年、日中戦争が始まり、戦時色が強くなってくると着物の柄に軍国調のものが現れたりと、その様子はだんだんと変化していきました。そして昭和15年には、奢侈品製造販売規則が発令、昭和17年には購入できる衣服の量が年齢によって制限されるようになったのです。
当時、丈夫で質の良い繊維の多くは軍需用に消費されていました。そのため、婦人雑誌では、家庭にある布や着物、学生時代の制服をリフォームして、シンプルで活動しやすさに重点を置いた洋服を手作りすることが紹介されるようになります。また戦局が悪化していく頃には、多くの女性たちは、非常時に備え、もんぺと防空頭巾が日常着になっていきました。
華やかに化粧をすることよりも、慎ましい化粧へ
質素倹約で切り詰めた生活がよぎなくされる中で、女性の化粧も厳しい規制を受けるようになります。昭和12年には、輸入化粧品は贅沢品として規制され、昭和14年には驚いたことに文部省が口紅や白粉、頬紅の禁止を通達しました。こうした中で、白粉や紅、クリームといった化粧品はだんだんと手に入りにくくなっていきました。
婦人向け雑誌にもその影響は色濃く、昭和10年代後半には、それまで掲載していたメークや肌のお手入れのしかたといった美容に関する記事が少なくなっていきます。戦前のような最新のファッションや髪型に合わせた化粧といったおしゃれに対して、自粛が呼びかけられるようになったのです。化粧品の広告をみても時代を反映した「健康な肌」や「肌荒れ防止」「手軽」「節約」「簡素な化粧」といった内容になっていったことがわかります。
華やかなウェーブヘア全盛から一転、質素な戦中スタイルへ
大正時代末期から鏝を使ったウェーブヘアが流行していましたが、昭和初期には日本にも電気でウェーブをつけるパーマネントウエーブが入ってきていました。パーマネントウェーブは鏝を使ったウェーブとは違い、美容院での施術時間も長く、料金も従来のものより高価だったにもかかわらず、大流行していました。
しかし、昭和13年には警視庁によって業者の新設や移設が禁止。また、翌14年には「パーマネントはやめましょう」との追放運動が起こり、パーマネントウェーブは次第に自粛されるようになっていきました。
かわって登場してくる髪型は、黒髪の美しさをそのまま表現したもので、その割には手間もかからないものでした。例えば、銃後髷と呼ばれる髪型は、鏝も電気も使わず、3分で結える髪型として紹介されました。
戦前まで欧米の文化を積極的に取り入れ、女性たちも新しいよそおい、化粧に目覚め美容の近代化が進みました。
しかし、戦時中は一転して、おしゃれどころではない空白期間となります。それでも、戦中におさえつけられていたおしゃれ心が、昭和20年に終戦を迎えてから、ゆっくりと取り戻されていくことになります。 
16 おしゃれ心を取り戻した女性 / 昭和20年代
昭和20年に終戦を迎えた日本。アメリカ軍の統治下に置かれ、アメリカ文化の流入が、少なからず女性たちのよそおいに影響を与えていきました。では終戦後、当時の女性たちがどのようにおしゃれを取り戻していったのかみてみましょう。
おしゃれに関心はあっても物不足
敗戦後まもない昭和20年〜21年頃、物は不足し、女性たちはおしゃれどころではなく、安定した平和な暮らしを取り戻すことに追われていた時代でした。当時の婦人雑誌をみても、“和服裁縫月百円”、“進駐軍用のソックス編み”といった家庭でできる内職の紹介、ファッションの紹介も既製服はなくリフォームや手作りが中心でした。
その後、昭和20年代中ごろまでには、婦人雑誌の中に化粧法などを紹介した美容記事が再び登場しはじめます。さらに、20年代後半になってカラーの化粧品広告も増え、ようやくおしゃれの明るいきざしがみえてきました。では昭和20年代、女性たちはどのような化粧をしていたのでしょうか。
昭和20年代の化粧
下地いらずのベースメーク、ファンデーション登場
戦前のベースメークは、無脂肪性のクリームであるバニシングクリームを化粧下地として使い、その上に粉白粉または水白粉をつけるのがごく一般的でした。
しかし戦後になると、ベースメークでは化粧下地にバニシングクリームはほとんど使われなくなり、粉白粉や水白粉の下に油性のコールドクリームか乳液を使うのが一般化しました。
また、粉白粉や水白粉のほかにもコールドクリーム+パンケーキ、コールドクリーム+ドーラン、また新しい化粧品として現在でいうところのファンデーションが登場したのもこのころのこと。当時はティンティッドクリームとかパウダーペイスト、パンスティックなどと呼ばれ、油性クリームと白粉をまぜたもので、現代ほどではありませんが、自分の肌色に合わせて選ぶことができました。
ポイントメークは真っ赤な口紅がポイントに
ポイントメークでは、このころはまさに口紅がポイントでした。口紅の広告は戦後まもなく登場し、昭和20年代から30年代にかけて増え、色は真っ赤な口紅が主流でした。また、付け方も自分の唇の形に沿ってはっきりと書くということが一般的になっていきました。
当時の化粧品広告をみても、真っ赤な口紅をつけて健康的に微笑む女性の姿が多く描かれています。
アメリカ志向や映画スターの化粧が最先端
昭和20年代中ごろ、婦人雑誌にも娯楽記事が掲載されはじめます。当時公開されたハリウッド映画の内容やスターの紹介が少しずつ増えていきます。こうしたことに影響されてか、日本メーカーの化粧品広告の中にも “アメリカ式にお肌を深部美容する”“アメリカのスターがみんな使っています”“アメリカの美容料3種配合”といったコピーが登場。アメリカのものはおしゃれで最先端といった意識が広がっていたのでしょう。
そんな影響で登場した化粧法に光る化粧というメークがあります。これは昭和25年に発行された『美容と作法』によれば、“生き生きと素肌が輝いたようにお顔を光らせるお化粧法”とあります。主にベースメークの方法で、肌に少量のコールドクリームもしくは植物油を塗り、その上に軽く粉をはたく。そうすると粉が下地の油分にほどよく馴染み、肌が輝いてくるというものでした。
終戦後すぐにアメリカ文化の影響を受けつつ変化していった日本女性の化粧。その後、昭和30年代後半から高度経済成長の時代をむかえ、このころから化粧もさまざまな流行が生まれては消えていきました。 
17 豊かさに変わる化粧 / 昭和30-50年代
高度経済成長期の日本。憧れの住まいとして団地が登場。カラーテレビや冷蔵庫などの家電製品や車など、人々の生活が便利に豊かになっていった時代でした。では当時、女性たちの化粧はどのように変化していったのでしょうか。
ベースメークはピンク肌からナチュラル肌へ
百貨店で化粧品や洋服の買い物を楽しんだり、おしゃれに時間とお金をかける余裕がでてきた昭和30年代。ベースメークは、20年代後半に登場していた下地のいらないファンデーションの広告がさらに目立つようになります。その多くはリキッドタイプとスティック状のもので、肌にのせて伸ばせば完成というもの。『婦人画報』や『主婦の友』といった婦人雑誌は、「指一本でスピード化粧」「指先で簡単に化粧ができる」といったコピーで、忙しく働く女性でも時間をかけずに化粧ができることをアピールしていました。
またベースメークの色では、肌色をほんのりピンク色に見せるピンク化粧が流行。ポーラの化粧品で見てみると、昭和30年代のポーラ美容新聞には「化粧はピンクに」「化粧は少々ピンクの肌色にして」「ここ2、3年ピンク調で白めのファンデが主流・・・」とあり、ピンク系ベースメークが主流だったことがわかります。この流行は昭和30年代の終り頃まで続きました。
昭和40年代になると、ベースメークの色はそれまでのピンク系とオークル系に加えてベージュ系が登場。ファンデーションの色と濃淡を使って顔を自然に立体的に見せるベースメークが主流となっていきます。そして、昭和50年代以降、よりナチュラルな肌色を求める傾向へと繋がっていきました。
ポイントはアイメークに移行
一方ポイントメークでは、それまでのリップメークにプラスして、アイメークが重視されるようになっていきました。こちらもポーラの化粧品でみてみると、昭和36年のポーラ美容新聞には、「昔はアイシャドーなどといいますと、ごく一部の特殊な職業の人だけが使うもののように思われていましたが、最近では、一般にも使われるようになって、メーキャップに新しい魅力をそえることができるようになりました」とあります。今では想像もつかない、それまでのアイメーク=「夜の化粧」「舞台化粧」といったイメージが大きく変わっていったことがわかります。また、当時はアイメークが一般化しはじめたばかりの時期だったため、アイシャドーやアイライナーの使い方、場所や時間に合わせた色のアドバイスが初心者にもわかりやすく掲載されていました。
つけまつ毛ブーム到来
まつ毛を長く見せる化粧品としては、マスカラは戦前に、つけまつ毛は昭和20年代には既に登場していました。ただ、当時のつけまつ毛はより美しく見せるメークとしてではなく、まつ毛が短い、少ないといった人に修正メークとして使うことが薦められていました。それが、昭和30年代に入るとおしゃれとして使うことが少しずつ浸透しはじめ、さらに昭和42年に、イギリスの女優ツィッギーの来日で、彼女のメークを真似たアイライン、アイシャドー、マスカラにつけまつ毛とアイメーク化粧品をフル活用して目もとを強調するメークが一挙に大流行しました。それは昭和45年、これまでにないファッション誌として創刊された『anan』でも、長いまつ毛とアイメークで目を強調したファッションモデルが登場。つけまつ毛やアイメーク品の広告からも当時のブームの様子が伺えます。その後しばらく続いたつけまつ毛ブームも昭和50年代のナチュラルな目元への流れとともに終息していきました。
昭和30〜50年代は敗戦を乗り越え、豊かになった生活とともに、おしゃれの世界でも女性たちが新しいビューティー観を思い切って取り入れ、新しいメークにみんながチャレンジしていった時代でした。次回は昭和60〜平成までの化粧をみてみましょう。 
18 ナチュラルメーク / 昭和60年代から平成へ
好景気真っただ中からバブル崩壊へ。物質的な豊かさを謳歌していた時代から一転、社会状況も人々の価値観も大きく変化した時代でした。では、女性たちの化粧の変化を見てみましょう。
昭和60年代の化粧〜厚塗りNG、ナチュラルメーク全盛へ
昭和50年代後半から60年代、ベースメークは、立体感だけではなく、厚塗りをせず、いかに素肌っぽい質感に見せるかがポイントになっていきました。当時の女性誌を見ると「もしかして素顔!?と思わせるような薄化粧はメークの理想」「ベース作りに重点を置いた素肌美メーク」といったタイトルで特集を組み、素肌っぽい仕上げのテクニックをこぞって記載していました。
ベースメーク化粧品は当時もクリーム、ケーキ、リキッドとさまざまなタイプがありましたが、「ナチュラルな素肌作りはリキッドファンデが決め手」など、少量で伸びがよく厚塗りにならないという理由でリキッドタイプを推奨する記事が多数登場。化粧下地の上にリキッドファンデーションを薄くのばし、仕上げにパウダーを軽くはたくという手順がナチュラルなベースメーク作りにはかかせなかったようです。
ポイントメークは、ナチュラルだけど知的で大人っぽく
一方ポイントメークでは、それまでと大きく変化しているのが眉メークです。昭和40年代後半から昭和50年代前半にかけてアーチ型で細めの眉が定番でしたが、写真のように、昭和50年代後半から60年代には自然な太眉へと変化していきました。カットは最小限に、あるがままの眉ラインをいかした主張のある直線的な眉で、ペンシルタイプでべったりとラインを書くよりも、パウダータイプのアイブロー化粧品で仕上げるのが定番でした。
そしてナチュラルな肌、眉に合わせ、リップやアイメークも変わっていきます。リップは落ち着いたベージュ系が注目され、目からはつけまつ毛が取れマスカラのみに。アイシャドーも肌色になじむブラウン系が主役になります。ブラウン系の濃淡で自然な立体感を出し、当時流行していたピンクやパープルといった色物は、華やかさをプラスしたり、グレー系のアイシャドーと合わせ、知的感や大人っぽさの演出に使われていました。
平成の化粧〜メークのキーワードは「小顔」
平成に入っても女性誌には「好感度1はやっぱり薄化粧風」「色をおさえたナチュラルメーク全盛の今」といったコピーが並び、ベースメークはなお、素肌っぽいナチュラル志向が続いていました。
一方ポイントメークは、眉メークはそれまでの直線的な眉から、再び眉山をとり眉尻にかけて細くなる山型に変化。アイシャドーは光やパール感を感じるものも流行。リップははっきりして落ち着いた色味が再び登場してきます。こうしたポイントメークの変化は小顔がキーワードになっていました。
小顔をつくるテクニックあれこれ
女性誌の特集を見ても「日本人顔を小さく見せる30の方法」「顔を小さくすっきりみせるヘア&メーク」といったメーク特集を組み、さまざまなテクニックを紹介。目と口の印象を強めて顔を小さく見せるため、下まつ毛の内側に白いラインを入れて白目を大きく見せる、目の周りにハイライトを入れる、濃い目のリップをくっきりと付けるなどのメークが流行。眉、目、唇のどこを強調するか、バランスをとりながら小顔を演出していました。
ギャル系メークの登場
今回、昭和60年代から平成までの一般的なメークの流れをみてきました。一方、こうした大きなメークトレンドとは別に10代から20代前半の一部の女性に特有のファッションやメークが登場したのもこの時代です。
昭和40〜50年代には、細い眉に目元を強調したメーク、小麦色の肌とホットパンツや編み上げサンダル、またサーファースタイルといったギャル系の元祖的ファッションやメークの流行。雑誌「anan」「non-no」から生まれたファッションやメークが若い女性の最先端となりました。その後「JJ」などの創刊とともに、おしゃれの担い手は女子大生に変化。さらに平成に入るとトレンドを生み出すのは女子大生から女子高生に移行しました。
そこでミニスカートにルーズソックス、厚底靴といったファッションのコギャルが登場。茶髪に日焼けした肌、メークは極細眉に目元を強調したアイメーク、白っぽいピンクのリップが特徴に。また、極端に肌を焼いたガングロに白い髪、隈取のようなアイメークに真っ白なリップメークのヤマンバギャルが登場したのもこの頃のことでした。
その後、小麦色の肌に細い眉の安室奈美恵メークを経て、目元を強調した歌手の浜崎あゆみメーク、そして肌の色は小麦色から美白ブームの白い肌へと移り変わっていきました。さらに、近年では雑誌「CamCan」モデルのえびちゃん、もえちゃん、関西のお嬢様スタイルによくみられたロングの巻き毛ブーム。そこから茶髪の巻き毛をアップスタイルに結い、高く重ねた盛りヘアとアイラインやつけまつ毛でとにかく目を強調したメークが特徴のアゲ嬢スタイルやメークが特徴的な流行となっています。  
古代から平成まで日本女性のよそおいを“化粧”を軸に振り返ってきました。こうしてみると、それぞれの時代で化粧をする意味や目的は異なりながらも、どんな状況下にあっても「美しくありたい」という女性たちの思いは、変わることなく続いてきたことがわかります。
 
小泉八雲の見た日本「JAPAN, AN ATTEMPT AT INTERPRETATION」

 

The reader scarcely needs to be reminded that a civilization less evolved than our own, and intellectually remote from us, is not on that account to be regarded as necessarily inferior in all respects. Hellenic civilization at its best represented an early stage of sociological evolution; yet the arts which it developed still furnish our supreme and unapproachable ideals of beauty. So, too, this much more archaic civilization of Old Japan attained an average of aesthetic and moral culture well worthy of our wonder and praise. Only a shallow mind—a very shallow mind—will pronounce the best of that culture inferior. But Japanese civilization is peculiar to a degree for which there is perhaps no Western parallel, since it offers us the spectacle of many successive layers of alien culture superimposed above the simple indigenous basis, and forming a very bewilderment of complexity. Most of this alien culture is Chinese, and bears but an indirect relation to the real subject of these studies. The peculiar and surprising fact is that, in spite of all superimposition, the original character of the people and of their society should still remain recognizable. The wonder of Japan is not to be sought in the countless borrowings with which she has clothed herself,—much as a princess of the olden time would don twelve ceremonial robes, of divers colours and qualities, folded one upon the other so as to show their many-tinted edges at throat and sleeves and skirt;—no, the real wonder is the Wearer. For the interest of the costume is much less in its beauty of form and tint than in its significance as idea,—as representing something of the mind that devised or adopted it. And the supreme interest of the old—Japanese civilization lies in what it expresses of the race-character,—that character which yet remains essentially unchanged by all the changes of Meiji.

[日本、解明に向けての一試論]  明治37年(1904)
読者は次のことにほとんど注意する必要はありません。それは、私たちの文明よりも発達が未熟な、かつ、知的にも離れている文明が、あらゆる観点で劣っているとは限らないということ、です。ギリシア文明も、その最盛期でさえ、社会学的進化の初期段階にあったことを意味します。なお、そこで発展した芸術群はとても崇高で、近づき難い美の理想を齎しています。
また、それと同様に、古い日本の、さらにもっと古代の文明も、美的かつ道徳的文化の水準において、私たちの驚きと賞賛に値するレベル、達していました。ただ浅薄な者たち―大変浅薄な者たち―だけが、この古代文化の最良のものを劣ったものと断言してしまうに過ぎません。しかし、日本の文化は特殊で、多分、西欧にありえないほどなのです。それというのも、単純な固有の基盤の上に諸々の外来文化が次から次と積み重なった、奇観を呈しつつ、複雑な非常に紛糾を極めた形をなしているからなのです。そして、この研究の本来のテーマには、間接的にしか関係しませんが、これら外来文化の最たるものは中国からのものです。また、特殊かつ驚くべきこととして、このような多くの付加物にも関わらず、人々や社会の本来の性格が残っていて、未だに認められることです。日本の不思議は、日本が着込んでいる数えきれない借り着―古代の姫君が諸々の色と生地からなる十二単衣を重ね着して各々の色合いの生地を襟元及び袖口並びに裾にのぞかせているような―の中には探しても見つかりません。否、本当の不思議は着ている人の方にあります。
この着物への興味関心は形や色合いの美しさにではなく、むしろ、着物に関わる発想の意義―つまり、趣向やそれを選んだ心根にあるからです。そして、古代への極上の興味関心は―日本文明は民族の特性の表れにあり―、その特性は明治期のあらゆる変革にも耐え、未だ本質的に変化せずに残っています。 
日本民族の特性
Suggests" were perhaps a better word than "expresses," for this race-character is rather to be divined than recognized. Our comprehension of it might be helped by some definite knowledge of origins; but such knowledge we do not yet possess. Ethnologists are agreed that the Japanese race has been formed by a mingling of peoples, and that the dominant element is Mongolian; but this dominant element is represented in two very different types,—one slender and almost feminine of aspect; the other, squat and powerful. Chinese and Korean elements are known to exist in the populations of certain districts; and, there appears to have been a large infusion of Aino blood. Whether there be [19] any Malay or Polynesian element also has not been decided. Thus much only can be safely affirmed,—that the race, like all good races, is a mixed one; and that the peoples who originally united to form it have been so blended together as to develop, under long social discipline, a tolerably uniform type of character. This character, though immediately recognizable in some of Its aspects, presents us with many enigmas that are very difficult to explain.
Nevertheless, to understand it better has become a matter of importance. Japan has entered into the world's competitive struggle; and the worth of any people in that struggle depends upon character quite as much as upon force. We can learn something about Japanese character if we are able to ascertain the nature of the conditions which shaped it,—the great general facts of the moral experience of the race. And these facts we should find expressed or suggested in the history of the national beliefs, and in the history of those social institutions derived from and developed by religion.

この民族の特性については、認識されるようなものではなく、むしろ直観されるものなので、そのための表現も、「表明」するというよりも「暗示」するといった方が相応しいでしょう。その上でこの特性に関しては、この民族の起源についての正確な知識がありさえすれば、理解の助けともなりましょうが、私たちは未だそのような知識を持ち合わせておりません。なお、民族学者の全員一致の見解としては日本民族は何種類かの民族が集合して出来上がったものであり、その主要素はモンゴリアンであるといわれていますが、この主要素は、次の相反する二つのタイプによって代表されています。一つは、ほっそりした女のような、(いわば弥生人)タイプ、もう一つはずんぐりした苦力のような、(いわば縄文人)タイプです。そして、中国朝鮮の要素もある地方の人のうちにも見受けられます。また、アイヌの血も混じっているようです。ただし、マレーあるいはポリネシアの要素のあるなしは、今のところ、未定です。さらに、これだけは確かです。つまり、良い民族については、そのすべてにいえるのですが、この民族も混血のそれですし、古来一緒になってこの民族を作り上げた数多くの民族は、互いに混じり合って長い社会的訓練のもとに、相当に統一されたタイプの性格を磨き上げたということです。こ特性はその外見のある点については、認識は容易でしょうが、簡単には説明し難い数多い謎を私たちに残しているのです。
そういうものの、もっとよりよくこの民族を理解するということは重要性を増してきています。日本は世界の競争場裡に入ってきたのですが、その争いにおける一国民の価値は、その武力によると同様に、その特性によるのです。私たちは日本民族を形成した四囲の状況の性質を明らかにし得るならば、その特性についても多少とも理解し得るのです。つまり、この民族の道徳上の練磨についての重大かつ一般的な数多くの事実を明らかにし得るならば、その特性を少なからず理解し得ると言えるのです。このような事実は、国民の信仰史の内に、ないしは宗教にその根源を置き、宗教によって進化を遂げてきた社会の種々の制度史の内に、あるいは表明され、あるいは暗示されていることを、私たちは認めるのです。 
日本の神とは
It is to be remembered, of course, that the Japanese word for gods, Kami, does not imply, any more than did the old Latin term, dii-manes, ideas like those which have become associated with the modern notion of divinity. The Japanese term might be more closely rendered by some such expression as "the Superiors," "the Higher Ones"; and it was formerly applied to living rulers as well as to deities and ghosts. But it implies considerably more than the idea of a disembodied spirit; for, according to old Shinto teaching the dead became world-rulers. They were the cause of all natural events,—of winds, rains, and tides, of buddings and ripenings, of growth and decay, of everything desirable or dreadful. They formed a kind of subtler element,—an ancestral aether,—universally extending and [47] unceasingly operating. Their powers, when united for any purpose, were resistless; and in time of national peril they were invoked en masse for aid against the foe …. Thus, to the eyes of faith, behind each family ghost there extended the measureless shadowy power of countless Kami; and the sense of duty to the ancestor was deepened by dim awe of the forces controlling the world,—the whole invisible Vast. To primitive Shinto conception the universe was filled with ghosts;—to later Shinto conception the ghostly condition was not limited by place or time, even in the case of individual spirits. "Although," wrote Hirata, "the home of the spirits is in the Spirit-house, they are equally present wherever they are worshipped,—being gods, and therefore ubiquitous."

日本語の神[かみ]という言葉には、もちろん、ディ・マンスというラテン語の古い言葉と同じく、一切、神性すなわちdivinityという近代的概念と一致するような観念は含まれていませんことは、是非とも記憶しておくべきでしょう。日本の神という文字は上長とか高貴な人々といったような言葉であらわした方がより相応しいかもしれません。事実、この文字は神や御霊と同様に、実際の統治者についても以前は使われていたものです。しかし、肉体から離脱した霊魂という観念よりもっと大きなものを含んでいます。それというのも、古い神道の教えによると、死者は世界の統治者となったからです。彼ら死者はすべて自然界の事象の原因でした。―風、雨、潮流、発芽、成熟、発育、衰滅、および望ましいこと、恐るべきこと、その他一切の原因でした。彼ら死者は精妙なる一種の要素―先祖より伝わった精気―を成し、宇宙に偏在し、絶え間なく活動を続けています。彼ら死者の力はある目的の下に一体化すると、一切逆らえないものとなります。そして、国家の危機に際して、彼ら死者の助けを求めて敵に対抗し、彼ら死者を一体化して、彼ら死者に祈願するのです。このようなわけで、信仰の観点からみれば、それぞれの家族の御霊の背後には、数えきれない神の量りべからざる影の力が蟠っているのです。そのために、先祖への義務感は、世界を左右している力―目に見えざる広大無辺の力に対する畏敬の念によって、さらに深く持たされることになるのです。原初の神道の思想によると、宇宙は御霊によって充たされているのです―後世の神道の思想によると、御霊の存在はそれぞれの霊の場合でも、場所や時間によって制約されていません。平田篤胤[安永五(1776)年〜天保十四(1843)年]の著述によれば、『霊のいるところはその御霊屋の内にありますが、同時に霊はその祭られているところにはどこにでもいます―神であるが故に、いつでも、どこでもおらざることはありません』と。 
先祖礼拝の意義
To apprehend the full meaning of ancestor-worship as a family religion, a living faith, is now difficult for the Western mind. We are able to imagine only in the vaguest way how our Aryan forefathers felt and thought about their dead. But in the living beliefs of Japan we find much to suggest the nature of the old Greek piety. Each member of the family supposes himself, or herself, under perpetual ghostly surveillance. Spirit-eyes are watching every act; spirit-ears are listening to every word. Thoughts too, not less than deeds, are visible to the gaze of the dead: the heart must be pure, the mind must be under control, within the presence of the spirits. Probably the influence of such beliefs, uninterruptedly exerted upon conduct during thousands of years, did much to form the charming side of Japanese character. Yet there is nothing stern or solemn in this home-religion to-day,—nothing of that rigid and unvarying discipline supposed by Fustel de Coulanges to have especially characterized the Roman cult. It is a religion rather of gratitude and tenderness; the dead being served by the household as if they were actually present in the body …. I fancy that if we were able to enter for a moment into the vanished life of some old Greek city, we should find the domestic religion there not less cheerful than the Japanese home-cult remains to-day. I imagine that Greek children, three thousand years ago, must have watched, like the Japanese children of to-day, for a chance to steal some of the good things offered to the ghosts of the ancestors; and I fancy that Greek parents must have chidden quite as gently as Japanese parents chide in this era of Meiji,—mingling reproof with instruction, and hinting of weird possibilities.*[*Food presented to the dead may afterwards be eaten by the elders of the household, or given to pilgrims; but it is said that if children eat of it, they will grow with feeble memories, and incapable of becoming scholars.]

一家の宗教、生きたる信仰としての、先祖礼拝の十分なる意義を理解することは、今や西洋の人達にとって難しいことです。確かに、我々は我がアーリア民族の先祖が、彼らの死者に対してどの様に感じ、また考えたかを、只々、漠然と想像し得るだけなのです。しかしながら、日本の生きたる信仰の内に、我々は古いギリシアの敬神の念が、どの様なものであったかを暗示する多くのものを認識するのです。男にしても、女にしても、一家の成員は、常に霊の監視の下にあると考えています。霊の眼は成員の一つひとつの行為を注視し、霊の耳は彼らの言葉を聴いています。行為と同じく、思想も死者の凝視の前に見えてきます。従って、霊のいるところでは心は至純でなければなりませんでしたし、精神も抑制されてなければなりません。多分、このような信仰による感化は、絶え間なく何十年間、人々の行為の上に与えられ、その結果、日本人の性格の美しい面が造り上げられたことと思います。しかし、この家庭の宗教には今日何等厳しいところもなく、いかめしいところもありませんーフュステル・ド・クーランジュ[天保元<1830>年―明治二十二<1889>年]が特にローマの祭祀の特徴であったと考えたような激しく、かつ変わることのない厳しさのようなものは少しもありません。むしろ、それは感謝と温情の宗教ですし、死者は実際身体を有して家族一同とともにあるかのように家族によって奉仕されているのです。もし、我々がすでになくなってしまったどこかの<古代のギリシアのポリスの>家庭生活の内に、少しの間でも入り込め得たならば、我々はその家族の宗教が、今日の日本の家族の祭祀と同じく、快活なものであることを認識するだろうと、私は思っています。また、三千年前のギリシアの子どもは、今日の日本の子どものように、先祖の霊に供えられた何か甘いものをかすみ取ろうと機会を窺っていたに違いないと、私は想像しています。そして、ギリシアの両親は、日本の親御さんたちが、明治の御代において、子どもをたしなめるように、ー小言に交えるのに次のような教訓をもってし、そんなはしたないことをしでかすと、不吉なことがあることを仄めかして、やはりやさしく、その子をたしなめたに相違ありません。それは、死者に供えられた供物は、後で、家の年長者が頂くか、巡礼に施与されたのです。しかし、もし、子どもがそれを食すると、その子は成長して記録力が鈍くなり、学者となり得なくなるというのです。 
父親の役割
Alike in the early European and in the old Japanese civilization it was believed that the prosperity of the family depended upon the exact fulfilment of the duties of the ancestral cult; and, to a considerable degree, this belief rules the life of the Japanese family to-day. It is still thought that the good fortune of the household depends on the observance of its cult, and that the greatest possible calamity is to die without leaving a male heir to perform the rites and to make the offerings. The paramount duty of filial piety among the early Greeks and Romans was to provide for the perpetuation of the family cult; and celibacy was therefore generally forbidden,—the obligation to marry being enforced by opinion where not enforced by legislation. Among the free classes of Old Japan, marriage was also, as a general rule, obligatory in the case of a male heir: otherwise, where celibacy was not condemned by law, it was condemned by custom. To die without offspring was, in the case of a younger son, chiefly a personal misfortune; to die without leaving a male heir, in the case of an elder son and successor, was a crime against the ancestors,—the cult being thereby threatened with extinction. No excuse existed for remaining childless: the family law in Japan, precisely as in ancient Europe, having amply provided against such a contingency. In case that a wife proved barren, she might be divorced. In case that there were reasons for not divorcing her, a concubine might be taken for the purpose of obtaining an heir. Furthermore, every family representative was privileged to adopt an heir. An unworthy son, again, might be disinherited, and another young man adopted in his place. Finally, in case that a man had daughters but no son, the succession and the continuance of the cult could be assured by adopting a husband for the eldest daughter.
But, as in the antique European family, daughters could not inherit: descent being in the male line, it was necessary to have a male heir. In old Japanese belief, as in old Greek and Roman belief, the father, not the mother, was the life-giver; the creative principle was masculine; the duty of maintaining the cult rested with the man, not with the woman.*
[*Wherever, among ancestor-worshipping races, descent is in the male line, the cult follows the male line. But the reader is doubtless aware that a still more primitive form of society than the patriarchal—the matriarchal—is supposed to have had its ancestor-worship. Mr. Spencer observes: "What has happened when descent in the female line obtains, is not clear. I have met with no statement showing that, in societies characterized by this usage, the duty of administering to the double of the dead man devolved on one of his children rather than on others."]

初期の欧州や古の日本の文化においても、一家の繁栄は先祖の祭祀の務めを厳格に全うすることにあると信じられていました。そして、今日、この信仰がいかに日本の家族の生活を支配しているかには、極めて甚だしいものが考えられます。また、一家の幸福は先祖の礼拝を行うことにありますし、最大の不幸はその式を行い、供物を供すべき男子の跡継ぎを残さずして身罷ることであると、今なお固く信じられています。古代のギリシア人やイタリア人の間における、孝道の最高の務めは、家族の祭祀の永続を全うするにありました。よって、独身生活は一般に禁じられていました―結婚の義務は法律によって励行されなければ、世論によって励行されたのです。古の日本の自由な振る舞いが許されている身分の人たちにあっても、婚姻を結ぶことは当たり前の規則として長子にとっては義務とされていました。独身生活は法律をもって有罪とされない場合には、慣習によって非難されました。
次男以下の場合は、子なしで亡くなるというのは、その人一人の不幸でしたが、長子の場合は、男子の跡継ぎを残さずして死ぬというのは、先祖に対する最大の罪でした―それによって先祖の祭祀が絶えてしまうという恐れがあるからです。いかなる口実があろうとも、子なしのままでいるということは許されません。日本における家族の法律は、昔の欧州におけると同じく、このように子なしの場合には、十分な用意ができていました。つまり、妻に子ができなかった場合には、妻は離縁されることもありました。また、離縁すべき理由のない場合には跡継ぎを得るために妾を持ち得たのです。なお、さらに家長は跡継ぎを養子にすることもできたのです。その上、不出来な子息は廃嫡され、その後釜に他の青年を養子にすることもありました。最終的に子が女子ばかりで、男子がいなかった場合は、祭祀を司らせるために長女に婿養子を迎えもしたのです。
しかしながら、古代の欧州の家族におけると同じく、女子は家を相続できませんでした。相続の血統は男系のみに限られるので、嫡子たる男子が必要だったのです。古の日本の信仰によれば、古代のギリシア、ローマの信仰におけると同様、母親でなく、実は、父親が生命を与える人でした。生命創造の本源は、男性にあって、祭祀を司るのは、女子でなく、男子の務めだったのです。<なお、先祖を礼拝する民族間にあって、その継承が男系にある場合は、祭祀も男系でした。しかし、族長社会よりさらに古い原始的社会すなわち女子家長社会においても先祖の礼拝は行われていたと想像し得ると、皆さんも気づいていられるに違いありません。ハーバード・スペンサー(文政三[1820]年〜明治三十六[1903]年) は次のように言っています。『女系が継承された時代には、いかなることが行われたかは不明です。このような慣習が行われた社会において、死者の霊に仕える義務が、その子供の一人のみに属し、他の者に課せられなかったということを示す記録は未だ発見されていないのです』>) 
知られぬ日本の面影〜日本人の微笑
Glimpses Of Unfamiliar Japan〜The Japanese Smile
The smile of the people signifies the same conception as the smile of the Bosatsu, −the happiness that is born of self-control and self-suppression.She will learn to regret the forgotten capacity for simple pleasures, the lost sense of the pure joy of life, the old loving divine intimacy with nature, the marvelous dead art which reflected it.She will remember how much more luminous and beautiful the world then seemed. She will mourn for many things, −the old-fashioned patience and self-sacrifice, the ancient courtesy, the deep human poetry of the ancient faith. She will wonder at many things; but she will regret.Perhaps she will wonder most of all at the faces of the ancient gods, because their smile was once the likeness of her own.

日本民族の微笑の意味は菩薩の微笑の観念と同じである。それは自己を抑え、自己を殺すことによって生まれる幸福なのである。
その時日本人は昔の人が単純素朴な喜びに満足できたことを羨ましく思いもするだろう。その時はもう失われているに相違ない純粋な生きる喜びの感覚、自然と親しく、神の子のようにまじわった昔と、その自然との睦まじさををそのまま映したありし日の驚くべき芸術−−そうした感覚や芸術の喪失を将来の日本人は残念な遺憾なことに思うだろう。
その時になって日本人は昔の世界がどれほど光輝いて美しいものであったか、あらためて思い返すに相違ない。その時になって彼等は歎くにちがいない。いまは消え失せてしまった古風な忍耐や自己犠牲、古風な礼儀、昔からの信仰にひそんだ深い人間的な詩情...日本人はその時多くの事物を思い返して驚きまた歎くに相違ない。
とくに古代の神々の顔を見、表情を見なおして驚くに相違ない。なぜならその神々の微笑はかつては日本人自身の似顔絵であり、その日本人自身の微笑でもあったのだから。 
赦されざる者
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは「怪談」の作者として有名である。だが、同時に彼は日本社会の鋭敏な観察者でもあった。
「停車場にて」は、『心』のなかに収められている、明治26年6月7日の日付をもつエッセイである(小泉八雲「停車場にて」(『小泉八雲集』、上田和夫訳、新潮文庫))。強盗の罪で捕まった男が、護送中に巡査を殺して逃亡し、再逮捕されて、福岡から熊本に護送されてきたときの光景を綴った短い文章であるが、ここには「赦し」(pardon)ということをめぐって鮮烈な光景が描き出されており、忘れることのできない作品になっている。
当初、小泉八雲は、犯人にたいするものものしい警備や、民衆の憤慨や暴力的な反応を予想しながら、熊本駅の改札に様子を見に出かける。ところが、予想に反してそのような事態は起こらない。いっぽう護送役の巡査は、犯人に夫を殺害された妻――八雲は彼女の名前を書きとめており、「杉原おきび」というのがその寡婦の名である――とその息子をあらかじめ駅に呼んでおいたらしい。警官は、彼女たちを犯人と対面させるのである。
警官は寡婦におぶわれた幼子に、つぎのような意味のことを告げる。すなわち、いまおまえの目の前にいる男が四年前におまえの父親を殺したのであり、おまえはまだ生まれていなかったのだが、いま、おまえを可愛がってくれる父親が不在なのはこの男のせいなのだ。そして、警官はこの男をよくごらんと言って、少年の前で犯人の顔を上げさせる。「いやだろうが、これもぼうやの務めだ。こいつを、ごらん!」
おそらく一般的に四歳の子供には、最後までこの事態は理解できていなかったと思われる。しかし犯人は痛恨の情にかられて、地面に身を投げ出して子供に赦しを請うのである。「坊ちゃんに、言いようのないひどい罪を犯しました。でも、自分の罪のためにこれから死ぬのです。わしは死にたい。よろこんで死にます。だから、坊ちゃん、憐れんでください。わしを赦してください!」。
子供は黙って泣いていたと八雲は記している。実際のところ、四歳の子供には、一般的に、このような事態を全的に把握することは最後まで不可能かもしれない。しかし、犯人が連行されていくとき、群集も警察官さえも涙していたという。「ここには罪の最も単純な結果を哀切に示すことによって罪を思い知らせるという、容赦のない、しかし、思いやりある正しい裁きがあった」というのが八雲のコメントである。そこには犯罪者に対する憤慨ではなく、「人生の困難と人間性の弱さとをすなおに深く経験しているがゆえに」生まれてきた、「ただ罪に対する大きな悲しみ」だけがあったのである。
こうした「裁き」の構造において、八雲が最も東洋的な特徴として最後にとりあげているのが、「罪人も子供の父であるという意識――どの日本人の魂にも大部分を占めている、子供に対する潜在的な愛情に訴えることによって、悔恨をうながしたこと」である。それは司法の次元におけるロジック、つまり死をもって死に報いるという「同害復讐」の原理ではなく、共感という感情の次元による改悛の原理である。ここでは、遺族の子供は加害者に赦しを与えることはできない。だがそれは、さきにのべたように、父親の顔すら知らない純粋無垢な存在としての子供が、事態の真の意味を理解しかねるからだけではない。
なぜなら犯行の主体に真の意味で赦免を与える立場にあるのは、世界にただ一つの位置、つまり、被害者の位置にいる人間存在だけだからである。たとえその実の息子であろうと妻であろうと、ある人の生命を奪った犯人を、その死者に代わって赦すなどということは不可能である。その意味でも、犯人はここでは原理的な赦免の不可能性に対して赦免を懇願していたことになる。この不可能な赦免に向けてなされた必死の希求行為の純粋さが、第三者の群集や警官たちにも共感可能性への道を開いたのである。
60回目の終戦記念日を迎えて、われわれはいま一度、謙虚にこのエッセイにおけるような「赦し」の不可能性の意味を内外に向けて考えてみなければならないだろう。 
日本人の自然(神霊)観
踏む土も流るヽ水も神の国 神の姿と先ずおろがめよ    
行く雲も流るヽ水も出る月も 神の姿になきものはなし
小泉八雲の見た日本は、一昔前までは大地を耕す御百姓さんもまた、若い船頭さんも船の舳先に立って手を合わせ、昇る朝日を無心に拝んでいた。あなたはそんな神々しい姿を見たことはあるだろうか。彼が出会った当時の日本の人々は誰も礼儀正しく正直で勤勉で清潔好きで、また子供たちを大切にし、みな生き生きと日々を感謝して暮らしている…と述べている。
また、日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、昔初めて来日して京都の町を見た時、そのあまりの美しさに「私は今までこれほど美しい町を見たことがない。まるで夢をみているかのようだ」と本国の友人に書き送っている。西洋化を突き進んだ日本は、大切な何かをスッポリと落としてしまったのであり、未だにそれに気付いてはいないようだ。
西欧近代自我・科学合理主義は自然というものを動物と二項対立させ区別し、それと切り離されてしまった自然はもはや単に法則的に把握される物質世界としてしか認識されず、人間にとっては克服されるべき、また実験観察の対象物でしかない。ところが西欧と違って東洋、それも日本人にとって自然は山川草本であれ、大八島国であれ、人間と同じく神の生みの子として認識され、従って両者は一つのものであって、人と自然はこれまで長の歳月、共に助け合い生きてきたとも言える。
ところが現代の人々に「昔は草木がことごとく物言うことがあった」のだと言えば、きっと仰天するであろう。「草木も眠る丑三つの…」と言う言葉があるように、草木も寝たり起きたりしているのだ。つまり、私たち人間と同じように、草木も国土も魂を有し、生命を有する生きものなのである。
例えば「佛性論」、すなわち「佛」になれる可能性(すべての人がなれるのか、特定の人にしかなれないのか)に関する問題は仏教の大テーマである。
六朝時代の「如来蔵論」によれば「一切衆生 悉有仏性」(『涅槃経』)とあって、「衆生」つまり意識を持った存在(生物・動物のみ)が如来になれる素質・可能性があるのであって、無機物(石)などは佛にはなれないとする。これに対して道教では「道無所不在 在梯稗 在瓦甓」(道はあらざるところなし。梯(てい)稗(はい)にあり 瓦甓(がへき)にあり)とあり、即ち梯稗とは植物であり、瓦甓とは瓦・土石などの無機物のことであり、これらにも道は宿っているのだという。この二つの論を取り入れて荊渓湛然が『金錍論』を書き、「草木国土 悉皆成仏」(有機物も無機物もすべて彿になるのだ)とし、又これを明代の王陽陽明が取り入れて「草木土石 悉有良知」とした(「善人 不善人之師 不善人 善人之資」これは親鸞の悪人正機」の元になったといわれている)。翻って日本の古典には、先にも述べたように、磐石も草も樹木も土も山も海も国土も、すべて自然のありとあらゆるものは神から生まれた生命あるもの、即ち神の子であり、われわれ人間もまたその自然の一部であると記している。一例を挙げれば、『日本書紀』巻第二、神代下に「彼の地に、多に螢火の光(かがや)く神、及び繩聲(さばへな)す邪しき神有り。復(また)草木(ことごと)咸(く)に能く言語(ものいうこと)有(あり)り。」とあるように、草や木にさえもそれぞれ霊が宿り、生命を有しているばかりか、物を言い、人間をおびやかす存在でもあったというのである。
私たちは常々「平和」とか「幸福」とか「共生」とか口にはするけれども、それは人間だけのエゴであってはならない。この地球上には人間だけが単独で生きているのではなく、自然の一部にしかすぎないのである。地球も一大生命体なら、その地球上のありとあらゆるものも全て生命を有しているのである。
こうして見てくると一木一草といえども霊なるものであり、従って生命を持ち、物言う存在であったし、成仏もするということなのである。私たち日本人にとっては、自然は只単に生命を有するというだけでなく霊的存在でもあり、神でもあったということが分かるのである。たとえば『万葉集』には富士山について次のように詠んだ歌がある。
日の本の大和の国の鎮めとも います神かも 宝ともなれる山かも 駿河なる 不霊の高峰は 見れど 飽かずかも (長歌・三一九)
私たち日本人は今日のように、自然を「吾れと汝」というように切り離して客体化し、実験観察の対象として見たことは決してなかったのである。山や海、大地の神々に収穫を願い、収穫を感謝して長の年月を共に生きてきた訳である。神の存在を疑ってみたこともなく、「神と倶にある」という信念と信仰は至極当然のこととして、それを特に考えた事もなく、且つ何の不思議でもなかった。だから、天上に照り輝く太陽も、行く雲も、流るヽ水も、出る月もそれらは皆、神そのものであり、神の姿なのであった。  
 
日本人的なる表情 / 萩原朔太郎

 

「世紀の凱旋」や「民族の祭典」などの映画を見た人は、だれも気の付いてることと思ふが、画面にヒットラーの姿が出て来ると、見物が皆クスクス笑ふ。何が可笑しくて笑ふのだらうかと、自分はその理由を考へて見た。勿論、軽蔑の意味で笑ふのではない。道化が可笑しくて笑ふのでもない。反対に人々は、ヒットラーに非常な好意と愛敬とを感じて居るのだ。では何故に笑ふだらうか。そこに考ふべき問題があると思ふ。
「世紀の凱旋」は、仏蘭西を屈服させたヒットラーが、全国民の熱狂的な歓呼の声に迎へられて、ベルリンに凱旋した時の記録写真であるが、群衆の歓声に取り巻かれたヒツトラーが、自動車の上に立上つて挨拶したり、総裁官邸の露台に立つて、幕僚と何事かを私語しながら、群衆に向つて手を振つたりする様子が、いかにも子供らしく嬉しさうで、真に得意満面。男子一代の光栄を自覚してゐる悦ばしさが、押へきれない微笑となつて、自然的にその表情に現はれてる。さうした天真爛漫な表情が、あまりに自然的に無邪気であり、いかにも子供らしく感じられるので、日本人の観衆は無意識に可笑しくなり、好感的にクスクス笑ふのである。
「民族の祭典」に出て来るヒツトラーは、独逸の選手がリレー競争でバトンを落し、折角の勝利を惜しくも失したやうな場合に、座席から乗り出して手を揉んだり、いかにも口惜しさうな顔をしたり、座にも耐へないやうにハラハラしたり、反対にまた独逸側が勝つた時は、満面崩れるばかりにニコニコして、いかにも無邪気に嬉しさうな表情をする。それがまた真に自然的であつて、子供のやうな天真爛漫に感じられる。
ところで日本人には、一般にさうした表情の自然表現がない。特に大臣とか首相とかいふ偉い人々になると、どんな場面にも渋面作つて威厳を保ち、夢にも喜怒哀楽を色に出さないのを常としてゐる。然るにヒットラーともあるべき人が、あまりに子供らしく無邪気であり、天真爛漫の表情を見せるので、自分等の日本人は、何とも知らずに可笑しくなり、ついクスクスと笑つてしまふのである。
だがヒツトラーに限らず、一体に西洋人といふものは、日本人や支那人に比して、どこか子供らしく天真爛漫のところがある。世界中で、最も子供らしい子供は白人の子で、最も老人らしい子供は支那人の子だと言はれてゐるが、一体に西洋人といふものは、大人からして妙に子供臭いのである。趣味でも、娯楽でも、食物でも、藝術でも、すべて西洋人の嗜好するものは、本質に於て何となく子供臭く、実際にまた、子供の好きなものと原形に於て共通して居る。だから僕等の日本人でも、子供の時はすべてに於て(食物でも、スポーツでも、娯楽物でも、観覧物でも、音楽でも、文学でも)本然に西洋的なものが好きであり、反対に日本的なるものは、何となく老人臭くて子供心に合はないのである。
西洋人が子供らしいといふことは、つまり彼等の民族的年齢が若いからであつて、支那人や印度人やの、古く長い歴史をもつた国民が、生れながらにして老人らしいのと、同じ一つの理由にもとづいて居る。だがそればかりではなく、一には白人の宗教道徳が、東洋人と異つてゐることにも関係してゐる。
支那人や日本人の倫理観は、多く仏教と儒教のモラルによつて教化されてる。さうした宗教道徳の教理は、人間の自然性や本能性を悪(社会生活に有害なもの)と認め、それを矯めることを強制する。したがつて我々は、日常の行為や表情にも、西洋人の如く天真爛漫であり得ない。人々はよく、西洋人が表情に巧みであることを羨望する。しかし彼等の白人は、それを技術で学んでゐるのではない。彼等の習慣や倫理観が、自然にさうした行為表情を教へるのである。
ヒツトラーの映画を見て思ひ出すのは、かつて日露戦争の時、東郷大将や乃木将軍が、帝都に凱旋した時の記憶である。新聞の伝へたところによれば、乃木将軍は馬車の中に顔をうなだれ、愁然として眉をあげ得なかつたといふ。そしてまた東郷大将は、処女の如く羞而として、いかにも極りが悪さうに見えたといふ。
思ふに乃木将軍は、旅順に多くの部下を失つたことの過失を、深く心中に傷み悲み、国民に謝罪してゐたのであらう。そしてまた東郷大将は、日本海に於ける偶然の勝利を、自己の功名として歓迎されることを、心に恥ぢて照れ臭く思つたのであつたらう。これをヒツトラーの「世紀の凱旋」と比較する時、そのあまりに著るしいコントラストに驚くのである。
西洋人的なる表情に対して、もし「日本人的なる表情」といふ言葉があるとすれば、さうした乃木大将や東郷大将の表情こそ、正に日本人的なる表情の典型である。人間道徳心の根本は、羞恥の情にあると孟子がいつてるが、自己の功名を誇る前に、自己の不徳を恥ぢる日本人の心理こそは、実に類なくすぐれて優しいモラルである。それ故に我々の表情は、喜怒哀楽の情を色に出さず、いつ息の中に思ひをひそめ、女のやうに恥かしがり、内気に照れ臭さうにして居るのである。ヒツトラーの天真爛漫は愛らしく、何人にも朗らかな好感を印象させる。だが乃木将軍等の凱旋は、もつと日本的に意味が深く、涙ぐましい印象を残すのである。しか外国人には、決してかかる「表情」の意味が理解できない。(彼等はそれを、日本人の薄気味悪さと考へてる。これをよく理解し得るのは、「物のあはれ」のぺ−ソスと和歌の伝統を知つてるところの、僕等の悲しい日本人ばかりである。
支那事変の最初の時、上海で苦戦した海軍陸戦隊の一隊が、銀座通りを凱旋するところを見た。軍楽隊を先頭にした水兵の一隊が、銃を肩にして粛々と行軍する街路には、群衆が黒山のやうにたかつて居た。しかもそれらの群衆は、無言に墓のやうに沈黙して、静粛に列を見守つてゐるばかりであつた。たれ一人として、万歳を叫ぶものも無く、歓呼の声を発するものもなかつた。
もし事情を知らない外国人が居て、この光景を見て居たとしたら、おそらく何かの葬式行進と思ひちがへたかもしれない。だが僕等の日本人には、直感的に群衆の心理がわかるのである。彼等の群衆は、多数の敵に取り巻かれて孤軍奮闘し、辛苦を尽して善戦した此等の勇士を、心からなる謝恩の涙で迎へてるのだ。かうした場合に、軽々しく万歳を叫んだり、歓呼の声をあげたりすることは、日本人の心理に於て自然的でなく、却つて非礼にさへも当るのである。群衆は何一つ声を出さない。そしてしかも心の中では、だれも皆手を合せて拝んで居るのだ。否、拝んで居るのではない。真に泣いて居るのである。
日本人といふ国民は、嬉しかるべき時に泣顔をし、怒るべき時に微笑をする、と多くの外国人が不思議さうに書いて居るが、僕等の心理を理解し得ない人から見れば、凱旋兵を迎へて涙を流す我等の姿は、まことに不思議以上であるかも知れない。しかもその不思議の中に、我等の大和心がひそんで居るのだ。そして大和心の本質こそは、実に「物のあはれ」の悲哀を知る、ぺ−ソスの詩情に外ならない。これをヒツトラーの凱旋と比較せよ。花輪と花束に埋められた街の中を、得々として勇ましく行進する独逸兵。それを囲んでハイルを叫び、祝祭のやうに躍り狂ふ独逸の群衆!
第一次欧州大戦の時、聯合軍の兵士が唄つた軍歌は、チツぺラリイやダブリンべ−の歌であつた。それは何れもユーモラスで、漫才的ナンセンスの興味に富んだ歌であつた。戦場の第一線に立つ兵士は、常に恐ろしい死を目前にして、半ば精神錯乱の状態に居る。彼等が他愛のないナンセンスを悦ぶのは、心理的に全く自然のことであつた。然るに日露戦争の時、日本の兵士が常に好んで唄つた軍歌は、あの悲傷哀調を極めた「戦友」の歌であつた。西洋人の目から見れば、かうした日本兵の心理は不可解である。だが日本人の大和心は、かうした歌によつてリリカルに使簇されるところの、物のあはれの哀傷感にのみ、戦苦を忘れることができるのである。そしてこれが即ち、「日本人的な表情」の本源となつてゐるのだ。 
 
「菊と刀」ルース・ベネディクト

 

このあまりにも有名な著作を、私は若い時期には読まなかった。もちろん、その存在は早い時期から知っていたが、当時は既に本書に対する諸種の批判が出ており、それを耳学問で聞きかじった私は、読むまでもなく分かっているし、その限界も露わだという先入観をいだいてしまったのである。にもかかわらず、「あれほど長い期間批判され続けつつ、それでも一種の古典としての地位を占めているのは何かあるのかもしれない」という気のすることも時折あった。そんなわけで、私の中で文化人類学への関心が高まったときに、とりあえず一応読んでみようという気を起こしたわけである。 

先ず何よりも強い印象を受けたのは、第一章で述べられている方法論が私の先入観とは相当違うものだったという点である。本書を読む前にいだいていた先入観をいうと、西欧にとっての異文化としての日本文化への内在的理解を欠き、日本文化と西欧文化を「恥の文化」と「罪の文化」という単純きわまりない二分法であっさりと割り切る図式主義、というものだった。しかし、実際に読んでみると、少なくとも第一章における方法論は、そのような図式主義ではないし、自文化中心主義を免れるべく最大限努力し、異文化を内在的に理解しようという姿勢で貫かれている。
ルース・ベネディクトはもともと日本専門家ではなく、一度も日本に来たことがなかった。そういう人が、一九四四年六月に米国戦時情報局から日本研究の仕事を委嘱され、それからわずか二年後にこの本を刊行した――こうした外面的事実だけから想像すると、当時アメリカの敵国だった日本をごく皮相に観察し、「罪の文化」という劣等文化をもつ国として見下した作品ではないかという気がするのも自然である。少なくとも、私の先入観はそうだった。ところが、彼女は本書の初めの方で、先ずこう宣言する。「戦争中には敵を徹頭徹尾こきおろすことはたやすいが、敵が人生をどんなふうに見ているかということを、敵自身の眼を通して見ることははるかにむずかしい仕事である」。
日本社会の中に住み、現地調査(フィールド・ワーク)をすることができないという事情が非常に大きな不利を意味するということを、文化人類学者である彼女はよく知っていた。その困難を乗り越えるため、彼女はいくつかの工夫をしている。その一つは、アメリカにいる日本人との面接調査を系統的に行なうということである。これは、いわば現地調査の代替物といえる。それが本物の現地調査とは異なることはいうまでもないが、後者が不可能だという現実の中で、その限界をわきまえつつ、代替手段を最大限探るという態度は、決して安易なものではない。
また、文献資料を読むときには、書かれていることをただ読むというのではなく、「日本のことについて書く日本人は、本当に重要な事柄を、それらが彼にとって、彼が呼吸する空気と同じように慣れきった事柄であり、眼につかない事柄であるために、見のがしてしまう。アメリカ人がアメリカについて書く場合も同じである」ということを常に念頭におき、「この絵はどこが変なのか」という問いを発しながら読むよう努めた。当事者にとってあまりにも自明であるために意識化されず、それゆえ正面切っては取り上げられないことを読みとるには、書かれていることの背後に前提されていることを探るという読み方が必要とされるというわけである。
彼女はこうして面接調査をしたり、文献資料を注意深く読んだ他、日本映画をたくさん見た。それは宣伝映画、歴史映画、東京や農村の現代生活を描いた映画など、多岐にわたる。そして、同じ映画を見た日本人が彼女とはどのように違う見方をしたかを調べ、自分の見方とつきあわせる作業を行なった。小説についても同様である。
このようにして手がかりを収集する一方、彼女は文化人類学者としての経験を最大限に活用した。それはただ単に、多くの文化を知っているというだけのことではなく、自分自身の文化と他の文化との差異という事実に慣れているということである。特に重要なのは、「人びとが自分自身の生活様式を防衛することにきゅうきゅうとしていて、生活様式といえば、これが世界で唯一の解決法である、と信じている時には、〔文化の比較研究は〕とうてい栄えることはできない」という認識である。それは、アメリカ人が「われわれにお気に入りの信条を、世界中の国民が採用することを強要する」ような態度への批判を意味する。つまり、彼女の態度は決して、アメリカ的生活様式を人類普遍のものとして押しつけようとする自文化中心主義(エスノセントリズム)ではなく、むしろそれへの批判が根底にある。「寛容」ということの重要性が強調されているのもそれと関係する。
このような文章を読んで私がベネディクトに同情したくなるのは、かつてのソ連研究との間にある種の類似性があるからかもしれない。現地調査がほぼ不可能だったとか、「西側陣営」にとっての「敵」という関係が前提されていたため、内在的な理解が困難だったというような事情がすぐ思い浮かぶ。そうした困難を克服するため、ソ連研究者は、種々の工夫を重ねてきたが、その工夫とベネディクトの努力との間には一定の共通性がある。
例えば、現地調査の欠如を埋め合わせる手段としての移住者調査がある。第二次大戦の直後に、戦時・戦後の混乱の中で欧米に移住した元ソ連人を対象とする大規模な社会学調査が行なわれたことがあるが、これはアメリカのソ連研究の出発点となった。この社会学調査には文化人類学者も協力しており、ベネディクトとの共通性は偶然ではないだろう。もちろん、当時の調査と分析は比較的浅いものにとどまっていたが、それを更に深める努力も継続的に払われた。一九七〇年代のアメリカで、「第三の波」と呼ばれた亡命ソ連人の社会学調査が改めて行なわれたのはその代表例である(1)。
文献資料の背後にある暗黙の前提を読みとる――いわば「行間を読む」――という手法もまた、共通する点である。ソ連専門家の間では常識だが、非専門家の間ではあまり知られていないこととして、かつてのソ連で公刊された資料類は、量的にはきわめて多く、その意味では、「資料の欠如」を嘆くことはできない。それらが強い政治的・イデオロギー的統制下にあったのは当然だが、そのすべてが無内容なプロパガンダとばかりは限らず、それなりに興味深い情報を盛った文献もかなりの量にのぼった。ただ、その社会的文脈や表現法が独自であるため、その読解には独自の技法を要した。特に重要なのは、「何が書かれているか」だけでなく、「どのように書かれているか」「何が書かれていないか」「何が暗に前提されているか」などにも注目する必要があるという点である。
話がやや飛躍するが、二〇世紀後半の哲学・思想界における大きな新動向として「言説」という概念が注目され、資料を「テキスト」として読むなどといったことが歴史学においても盛んに論じられたりしている。私自身はこうした動向にあまり通じていないし、また多くのソ連研究者もそれを意識してはいなかっただろうが、言説を事実の(一定の歪みをもった)反映として読むというのではなく、むしろ「いかに語られているか」に着目するという限りでは、「言説」の重要性という問題に無意識のうちに気づいていた面があるのではないかという気がする。容易に解読できない材料を扱わざるを得なかったからこそ、ソ連研究者は、その方法意識を研ぎすまさざるを得なかったのである。
文学作品や映画を、その国の社会を理解するための素材として活用するという点も、共通の事情である。もっとも、異文化理解のために文学や映画が役立つというだけであれば、どの国についても同様であり、特にソ連研究の場合に限るわけではない。ただ、ややもすれば、「ソ連の文学作品は――特に、当局の許可を得て公刊されたものは――くだらないものしかなく、深い洞察を与えてくれるものではない」と思われがちだったため、この方法を採ることの意義が他の国についてのように自明ではなかったという点に特異性がある。確かに、ソ連の文学作品はいわゆる「自由主義」諸国におけるのとは異なった環境のもとで生み出され、その文脈に特殊な配慮が必要だが、注意深い読み方をすれば、決して無意味・無価値なものばかりだったわけではない。たとえ芸術的には二級とされるような作品であっても、また政治的プロパガンダの色彩を帯びたものであっても、その中に、異文化理解の素材たりうるものが潜んでいたのだが、そのことは、かなり意識的に努めてなくては明らかにされなかったのである。私が何人かの友人とともに翻訳したM・シートン=ワトソン「文学作品にみるソヴェト人の息吹」(2)という作品は、一見ありふれた「公認の」ソ連文学を通じてさえも、ソヴェト体制下に生きる人々の生活感覚を感じ取ることが可能だということを見事に示している。映画についても事情は同様である。かつてのソ連映画というと、一部の「映画通」が着目するような芸術性の高いもの――タルコフスキーとかパラジャーノフらの作品のような――だけが突出し、それ以外のものは無価値なものと決めつけられがちだったが、実は、むしろ通俗作品の中に「ソ連的庶民」の生活感覚が――もちろん、独自のバイアスを含んでであるが――表出されていたりしたのである。
こうして、確かに非常に不便な制約はあったが、そうした条件の中で、苦労を重ねて深い洞察に達した研究もいくつかあった。現地調査(フィールド・ワーク)が――あるいは歴史研究の場合では、公文書館(アルヒーフ)における原資料調査が――できないなら本格的な研究は不可能だ、と思われがちだが、実際にはそう単純な関係があるわけではないのである。一般に、制約というものは、「それをどうやって乗り越えるか」を考えさせることで、人を鍛えるものでもあるという真実が思い起こされる。
このことは、ソ連解体後に、いわば逆の面からも確証されることになった。ソ連崩壊は外部の研究者による現地調査を可能にしたが、それは直ちに社会科学的研究の深化をもたらすわけではなかった。この点でもベネディクトの叙述は示唆的である。彼女は、社会学者や心理学者が行なう調査と統計的研究について、次のように述べる。即ち、「アメリカ人はアメリカにおける生活の営み方を知っており、それを当然のこととして仮定している」からこそ、そうした研究が可能なのだが、これに対し、「他国を理解しようとするに当たっては、その国の人たちの習慣や仮定に関する質的研究を組織的に行なった後にはじめて、数量的調査を有効に利用できるのである」。この指摘は、異文化研究に当たって、その社会的文脈を十分踏まえないままに、自国で開発された研究技法を安易に当てはめようとする傾向への鋭い批判である。
彼女の批判は、ソ連解体直後のロシア研究への警告としても読むことができる。実際、「その国の人たちの習慣や仮定に関する質的研究」をなおざりにしたままで、欧米社会における「生活の営み方」を「当然のこととして仮定」した調査が行なわれる――しかも、「ソ連時代には不可能だった、はじめての本格的社会科学的研究」という触れ込みのもとで――という傾向がある。これは外観的には、本格的研究の隆盛化を意味するかのようにみえるが、実際には、「砂上の楼閣」の増大となりかねない。 

こうして、第一章の方法論には共鳴するところが多いのだが、にもかかわらず、第二章以下の本論に入ると、種々の違和感を免れない。ここで描かれている「日本人」なるものの特性を、今日の私は、あまりリアルなものと感じることができない。ところによっては、滑稽な感じをいだかされることもある。やはり、読む前にもっていた先入観が当たっていたのだろうか。
本論の叙述に違和感をもつ理由としては、いくつかのものが考えられる。
一つは、彼女の分析が自らの方法論を裏切っているという可能性である。ダグラス・ラミスが批判するように、戦争の中で「アメリカ社会およびアメリカ権力との和解」が生じ、いわば、アメリカ人としての愛国心が発露されて、それまでにもっていた優れた方法論を適用し損ねたという解釈である(3)。実際、いくつかの個所では、自文化中心主義(エスノセントリズム)批判の視角が徹底されていないようにも見える。もっとも、ラミスは、「「菊と刀」においては文化の相対性という自己批判精神が完全に消え失せ、その代わりに自信に満ちた征服者の態度つまり寛容が表面に出てきた」というが、これはやや言いすぎのような気がする。本書には、アメリカ流の原則を日本人に押しつけるのは、「民族的自己中心主義の誤謬を犯すものである」と述べた個所もあるからである。ただ、そこにおける異文化への寛容の主張には、「高い者が低い者に対してとってやる」姿勢という恩着せがましさの臭いがないでもない。その点ではラミスの批判もある程度当たっているだろう。
あるいはまた、文化の「型」という発想自体に問題があるのかもしれない。世界中には多数の「型」があるが、一つの社会には一つの「型」が対応する、という想定がベネディクトの方法の基礎にあるような気がする。その結果、ある国の人々の多様性を軽視して、一つの国に住んでいる以上、時代や社会層を超えて共通の「型」をもっているはずだと暗に想定し、過度の単純化をおかしがちであるのかもしれない(4)。
だが、それだけではないのではないか、という気がしてならない。本書の叙述は、確かに、ところによってはあまりにも図式的だが、しかし、ごく大きな捉え方としては、その当時の日本人の精神構造をかなりよくとらえているようにみえる。ついでにいえば、有名な「恥の文化」と「罪の文化」という図式はただ一個所(第十章の終わりの方)で出てくるだけであり、決してこの単純なキーワードで全編を割り切っているわけではない。本書が長きにわたって読みつがれてきたのは、かなりの程度、当時の日本人の実態をよくとらえているからこそではないか。だとすれば、今日のわれわれ(私)が本書に違和感をもつのは、本書が日本文化をとらえ損なっているせいではなく、著者の研究対象である戦前・戦中の日本人が今日の日本人と相当隔たっているという事情によるのではないか、という気がする。
私自身は戦後生まれなので、本書で描かれている当時の日本と日本人を直接には知らない。しかし、子供時代から青年時代にかけて年長者から聞いてきた「世の中とは、日本人とは、こういうものだ」という話を思い起こしてみると、本書の叙述とかなりの程度合致するところがある。ひょっとしたら、その後の日本における精神構造の変化があまりにも大きくて、今では「日本人とはこういう風な人間だ」というイメージがこれとかけ離れているということではないだろうか。
漠然たる印象だが、戦前期と戦後初期とはかなりの程度メンタリティーの面で連続しているのに対し、高度経済成長の間に、相当大きな地滑り的変動があったのではないかというような気がしてならない。私自身は、まさに高度経済成長の中で育ったので、子供時代の日本と大人になってからの日本との間に、巨大な変化があったというのがいつわらざる実感である。
一般に、文化というものは、あまり短期間には変動しないものだが、それでも全く変化しないわけではなく、長期的には漸次的変化をこうむるものだろう。文化を固定的・宿命的にとらえるのではなく、ゆっくりとではあるが変わりうるものとしてとらえ、その変化を社会構造の変化と関連づけてとらえるという課題に私は強く引きつけられるが、高度経済成長期の日本はまさにそうした変化をまざまざと見せつけるもののように思われる。
ここでまたしても私自身の専門に引きつけていうと、ソ連解体後のロシア(5)はどこまでその文化を変化させたのだろうか、今日のロシア人はかつての「ソ連人」とどの程度連続し、どこまで断絶しているのだろうか、という問題が私の頭に浮かぶ。
この問題を考える上で前提的に押さえておかなくてはならないのは、かつての「ソ連人」イメージは、どこまで統制に伴ううわべのものであり、どこまで生地のものだったのかという問題である。もし、かつての「ソ連人」イメージが、権力的統制を恐れるが故の外見的行動様式によって形成されたものであるとするならば、今日のロシア人がそれと異なった行動様式をとっているのは、「文化」そのものの変化というよりは、元来の生地が表に出てきたということになるだろう。現代のロシア人を論じる人の中には、そのように考える人が多いように思われる。
確かに、ソ連時代の人々の行動は、種々の外的制約によって枠づけられており、その背後にある生活者の実感のようなものをとらえるのは、非常に困難だった。しかし、そうした生活感覚を深く観察した人々が皆無だったわけではない。思いつくままに列挙しても、袴田茂樹、M・シートン=ワトソン、L・フィッシャー=ルーゲ、ヘドリック・スミスなどが挙げられる。ソ連時代に内部に生活したこれらの論者の観察は、今から振り返ってみても、きめ細かいものであり、公式宣伝に惑わされず、鋭く実態を衝いていた。だから、それらを単純に虚像と決めつけるわけにはいかない。それはちょうど、「菊と刀」が大きな制約のもとで書かれたからといって、そこにみられる観察が完全に的外れではないのと同様である。
しかし、「菊と刀」の日本人イメージが現代日本人からは遠く隔たったものにみえるように、かつての「ソ連人」のイメージとソ連解体後の今日の一部にみられる「新ロシア人」の行動様式は、かなり隔たっている。例えば、かつてロシア人は権威に表立って反抗せず、面従腹背の態度をとるとか、個性を主張するよりも集団に同調しがちだという性格をもつといわれ、その点で、「西欧的人間類型」よりもむしろある程度日本人に近いというようなことがいわれた。そうした「国民性」の故に、帝政時代には専制政治を受けいれ、社会主義時代には共産党の独裁を受容してきたのだという風に論じる人も少なくなかった。ところが、現代の「新ロシア人」は、普通の日本人には真似のできないほど強烈な個性を自己主張することがあり、むしろ「ヨーロッパ人」だと感じさせるようなところがある。
この変化は、実質的な変化なのか、それとも、かつての観察が皮相だったために、あたかも変化があるかのようにみえるだけなのだろうか。先に、かつてのソ連研究が全く的外れだったわけではないことを述べたが、それでもやはり観察が十分深くなかった面もあるだろうから、これは二者択一というよりは、双方の側面があるといった方がよいかもしれない。
仮に「ソ連人」の「新ロシア人」への変化があったとして、その変化は何によるものと考えるべきだろうか。外的条件の変化が大きいことはもちろんだが、それが一挙に心性にまで及ぶ変化をもたらしたということになるかどうかは即断できることではない。確かに、心性といえども永久不変のものではなく、ある程度までは外的条件の変化に対応して心性が実際に変化したという面もあるだろう。ただ、それは短時間で一挙に起きるものではないはずである。だとするならば、一つの説明としては、ソ連時代末期に秘かな変化が徐々に進行し、それがソ連解体後に表面化したという風にも考えられる。日本の場合と重ね合わせてみるなら、ソ連時代の末期(ブレジネフ期からペレストロイカ期にかけて)に、ちょうど日本の高度成長期と同様の漸次的変化が徐々に積み重なっていたのではないか。その変化は、当時(特にブレジネフ期)にはあまり目につかなかったが、着実に進行し、それが新しい条件下で表に出てきたとも考えられる。この辺はもっと立ち入って検討すべき問題だが、「菊と刀」から触発された随想としてはそこまで深入りするわけにもいかない。いずれにせよ、こうした問題を考えさせるというだけでも、本書は今なおそれなりの問題提起的な役割を失っていないということになるのように思われる。 
(1)「第三の波」とは、ロシア革命直後、第二次大戦中・戦争直後に次ぐ、第三の出国の波(主にユダヤ人がイスラエルやアメリカへ)が一九七〇年代に起きたことを指す。
(2)朝日新聞社、一九八八年(原題は、Mary Seton-Watson, Scenes from Soviet Life: Soviet Life through official Literature, 1986)。
(3)C・ダグラス・ラミス「内なる外国――「菊と刀」再考」ちくま学芸文庫版、一九九七年、一九四‐一九五頁。
(4)本書の副題は、「日本文化の型」という言葉を複数形で使っているが、実際には、「型」の複数性は叙述に反映されておらず、むしろ単一の「型」の存在を暗に想定しているように思われる。
(5)「ソ連」はロシアだけからなっていたわけではなく、それ以外の地域・民族の存在を忘れてはならないというのが私の持論であるが、ここで問題とする「文化」については、「ソ連」全体を一括するのではなく個別の民族ごとに考察する必要があり、そうなると、私の知識の範囲内で論じられるのはロシアだけになるので、あえて「ロシア」という書き方をする。 
 
日本人とは

 

T.人間の社会と行動規範 
1.人間の社会
(1)人間社会の拡大
人類は他の生物と比べて子育ての期間が長く、初期の保育に著しく手がかかる。また、特に武器となる爪牙そうがを持たないため、外敵から身を守るにも、食料を手に入れるため大動物を狩猟するにも、集団行動が好都合であったであろう。
したがって、人類はその誕生の初めから、各個体単独の生活ではなく、現在の類人猿に見られるように、家族や親族単位に集団を作って生活していたと推定されている。
群れ社会である。社会とは、相互に影響しあう複数の人間で構成される比較的規模の大きい集団や共同体と定義される。
初期の人類は農耕を知らず、食料の獲得に採取・狩猟の生活を送っていたため、常に移動し続けなければならなかったであろう。採取・狩猟に頼り、移動し続ける間は群れ社会が一定以上の規模に拡大することは難しかったに違いない。もっとも、縄文時代の日本にあっては、5,500〜4,000年前にわたる長期・大規模な定住生活を示す三内丸山遺跡が存在するけれども、これはやはり例外であろう。
群れの人口が一定規模以上になると、既往の採取・狩猟の縄張り内では食料が不足する。群れは分割して、新たな群れは別の土地に縄張りを求めることとなる。かくして、人類は地球上に拡散して行ったのであろう。
ところがその後の農耕や牧畜の開始によって、
1安定した食料確保
2採取・狩猟による移動生活から定住生活への移行
ただし、牧畜では過放牧を防ぐ多少の移動が必要で、完全定住は難しかった。
3農業用水の確保など大規模共同作業の必要
などの現象が発生したと考えられる。
これらの現象によって、人口が増加するとともに、移動生活中には難しかった群れ社会間の交流が生じたことであろう。
こうして時がたつと、経済的・文化的な交流のある群れ社会同士の間に一体感が生まれ、群れ社会から集落単位の社会へと、社会の範囲が拡大して行ったと考えられる。
その後、さらなる交流範囲の広域化に伴なって、部族単位の交流へ、さらに民族単位の交流へと、順次、より交流範囲が拡大した人間社会が出現して行ったであろう。
人間および人間社会にとって望ましい事柄・行為・価値観は善と呼ばれる。また、望ましくない事柄・行為・価値観は悪と呼ばれる。そして、ほとんど全ての人間が安全・公正・衛生的・効率的で快適な人間生活すなわち文明を望ましいものであると考えている。したがって、人間社会は文明の保全・進展およびそれに寄与する事柄・行為・価値観を善として推奨し、文明の保全・進展を阻害する事柄・行為・価値観を悪として抑制して来た。そのため、人間の歴史は文明進展の歴史である。
人間社会の拡大もまた、文明の進展に寄与するものであるため、人間の歴史において必然的に発生する現象である。 
(2)国の誕生
これらの主として経済的・文化的な交流による交流範囲の拡大と並行して、固有の法律・制度が及ぶ全体的な社会範囲として国が誕生する。
国も当初の集落単位の国から、部族単位の国、民族単位の国と全体的である社会範囲が順次拡大して行ったであろう。ただし、新たな国が出現したからと言って、それ以前の国であった社会が消滅するわけではない。範囲が拡大した新たな全体社会である新たな国のなかに、かつての国の痕跡が部分社会である地方自治体として重層的に存続し、それぞれ固有の条例が及ぶ範囲を領域とするようになった。
現代では、単一民族国家、多民族国家が存在するとともに、一民族が複数の国家に分かれて所属する場合がある。今のところ全世界が一つの国となるまでには至っていないけれども、地球全体での人間社会が意識される時代に入りつつあり、EUなど国家統合の動きも見受けられる。 
(3)経済的諸集団の誕生
時代が進むにつれて農耕技術等に向上が見られるようになると、それまでの食料の自給自足にいくぶんかの余裕が生じるようになって来る。その一方で、日常のいろいろな業務について、特別に勝れた技能を発揮する個人が存在することに人類は気付く。
そうすると、それまではそれぞれが自分で処理して来た業務をその特定個人に委ねるようになって来る。こうして、その特定個人は依頼者から提供される食料で生活することができ、食料の自給自足から離れて、新たな業務に専念することになる。社会的分業の発生であり、各分野の専門家の発生である。
まもなく、各分野の専門家は共通の利害を有する同業者集団として、業種別団体を形成するようになる。ギルドの発生である。フリー・メーソンも当初は建築家の同業組合として誕生している。
さらに時代が進み社会全体の経済規模が拡大してくると、それまでの個人での営業のほかに、複数人が集まって業務を行なうようになって来る。企業体等の誕生である。
企業体等はそのなかに複数の職種の専門家たちを抱えることになる。そうすると、それぞれ異なる企業体等にではあるものの、企業体等に所属する同職種の専門家という共通の利害が意識されるようになって来る。すると、業種別団体とよく似てはいるけれども、若干立場を異にする専門家集団が、各企業体等の枠を越えて形成されるようになる。企業横断的な職種別・職能別団体である。
こうして、全体社会である国のなかに、主として地域的な交流圏に基づく地域社会と主として経済活動に基づく経済的諸集団が、それぞれ部分社会として重層的に存在することとなって行った。 
2.人間の行動規範
(1)行動規範の形成
初期の群れ社会にあっても、集団を維持して行くための生活習慣(たとえばニホンザル集団についてみれば、相互の親愛を表わすグルーミング、集団内での序列を確認するマウンティングなど)が自然に形成されていたと考えられる。
その後の社会範囲の拡大に応じて、その都度、新たな社会に適応する生活習慣が形成されて行った。そのため、社会が重層的に存在するのと同様に、生活習慣もまた重層的に存在するようになって行ったと考えられる。
そうすると、部分社会の中の構成員同志の関係、部分社会同志の関係、部分社会とより高位の部分社会との関係など、複雑な関係が同時に存在することとなる。それらの複雑な関係を調整するため、単純な生活習慣を脱して、構成員に共通する行動規範である慣習やタブーなどが自然に形成されて行ったと考えられる。
さらに社会の範囲が拡大し複雑化すると、慣習あるいはタブーと言った程度の行動規範では間に合わなくなって来る。そこで、社会の構成員間に明確な申し合わせがなされて、不文律ながら法律・制度が生まれる。
その一方で、文字が発明されると、申し合わせなどの行動規範は文書として書き記るされるようになる。成文法の誕生である。たとえば中国では、鄭ていの宰相子産が中国最初の成文法を制定している。ちなみに、このとき子産は、各方面から「王者の徳をもって治めるべきところを法律で縛れば、民は条文をよりどころに法の抜け穴を探すだろう。」と批判されたという。
それでも、時代が成文法を必要としていたに違いない。成文法は理論付けされ体系化されて、法体系や道徳として発展して行った。 
(2)宗教の誕生
これらの動きと並行して、人間は数々の自然現象に対する畏敬の念から、万物に霊が宿るとするアニミズムを生み出した。また、死や死後の生活に対する不安、死者への恐れ、父祖への敬愛などから、霊との交信を信じるシャーマニズムを生み出した。さらに、自らの生活を成り立たせている人間社会そのものに対する信頼と愛着からパトリオティズムを生み出した。
この時代の人々は、宇宙の全ての自然環境およびそこに成立する人間社会の全体について、超自然的な存在であるとして崇あがめていたと考えられる。そしてアニミズム・シャーマニズムには、人間生活における多くの不安を解消し、安心立命あんじんりゅうみょうの境地を得させる効果があったと考えられる。またパトリオティズムには、それぞれが所属する地域社会に対する信頼と各種の貢献を通じて、その安定と発展に寄与する効果があったと考えられる。
ところが時間がたつにつれて、多くの民族において、アニミズム・シャーマニズムによる超自然的な存在であった自然現象や霊たちが形象化されて、神に置き換えられて行ったと考えられる。宗教の誕生である。
宗教は一般に次ぎの諸要素から構成される。
1 超自然的存在である神の存在の確信と帰依きえによる信仰
2 自己の選民性の主張と他宗教の信仰者等への非寛容
3 教義およびそれらを明記した教典
4 神の代理人および信仰者らの集合からなる教団組織
5 信仰の証明となる祭祀さいし・勤行ごんぎょうの実行と戒律の遵守
6 他宗教の信仰者等に対する布教活動
7 信仰に対する神の恩寵と不信仰や破戒に対する神や神の代理人による制裁
これらのうち祭祀・勤行は早くから行なわれたであろうけれども、戒律はいくぶん遅れて導入されたのではなかろうか。そう考える理由は、神への帰依の証として自らの行動を慎むことは、祭祀・勤行の実行と比べるといくぶん高度の発想を要するように見受けられるからである。
たとえば神道では、祭祀・勤行は実行されて来たけれども、戒律が具体的な形で存在したようには見受けられない。多分、神道はさほど宗教的に高度化しないうちに、儒教・仏教の伝来を迎えたのであろう。
宗教に戒律が導入されるに当たっては、その内容としてそれまでの慣習的な行動規範がそのまま借用されたと考えられる。かくして、人間社会の行動規範として、社会常識による慣習、道徳、法律・制度、宗教上の戒律が並び行なわれることとなった。
農耕技術の進歩によって生産力が増大し、人口が増えて、社会が拡大すると、土地や水利権、生産物の所有など他社会との利害が対立して、抗争が始まる。抗争に際して、民族独自の神は自社会に固有の存在として、パトリオティズムと結びついて異民族との差別化を際立たせることとなり、民族の結集を図る役割を果たすこととなる。宗教には、単なる人間生活の不安解消と安心立命以外の効果が求められることとなる。己こそが、自民族こそが、神の特別の愛寵を受ける選民である。選民意識の誕生である。
一部の民族では、ある時期から宗教が社会的に強力な権威を持つ。その多くは異民族との抗争を契機とするものであったと考えられる。たとえば、ユダヤ教徒においては、イスラエル王国の滅亡と国民のアッシリア強制移住のさなかに、イェホバが民族神から他民族の軍隊をも動かす世界神へと高められた。預言者イザヤは「万軍ばんぐんの主」と呼んでいる。また、バビロン捕囚中にはモーセの五書が編集されている。近年の世界各地におけるイスラム教徒のジハードなどもその例であろう。
神の権威の高まりに伴なって、宗教上の戒律もまた行動規範として絶対的な権威を持つこととなって行ったと考えられる。
ところで、砂漠で興った宗教に一神教が多く、豊穣ほうじょうの地で興った宗教に多神教が多いと言われる。たとえば、エジプト第18王朝のアケンアテン王はアメン神の神官団との抗争に当たり、唯一神としてアテン神を生み出している。
砂漠のような生活環境の厳しさが抗争を生みやすいのであろうか。また、より求心力の強い存在として、アテン神、イェホバなどの唯一神が作り出されるのであろうか。民族は自らの個性に合わせて神を作るのであろうか。
異民族との抗争は、民族独自の存在である宗教や神を際立たせ、民族の結集を図ることとなりがちである。離島に居住する日本人は、他の多くの民族と比較すれば、異民族との抗争の機会が少なかった。特別の選民意識を育てる必要が少なかった。そのため他の民族のように、自然環境や人間社会の全体を具体的に形象化して神に置き換えることをしなかった。つまり、自然環境と人間社会の全体を抽象的な超自然的存在のまま置き続け、アニミズム・シャーマニズム・パトリオティズムの古俗信仰を残し続けた民族であると言えよう。一向一揆、島原の乱などの一部の例外を除けば、信仰に人間生活の不安解消と安心立命以上の効果を求めることのなかった民族であると言えよう。
宗教の存在意義は、人類の心の平安を保ち、人間社会の安定を保つことであろう。しかしながら、人類の歴史を振り返って見るとき、宗教は専ら人類の心の平安を乱し、人間社会の安定を失わせることに貢献して来たように見受けられる。なぜそうなってしまったのであろうか。
多分、民族独自の神は自社会に固有の存在として、自らの正義と神の恩寵を強調して異民族との差別化を際立たせるとともに、民族の結集を図る役割を果たすこととなったためであろう。そのような役割を持った宗教は当然に独善化し、排他的、非寛容的性格を強めてしまった。「あが仏尊し。」と、自己や自己の宗教を絶対化し、他者や他宗教の価値を認めないこととなってしまった。独善・排他・非寛容こそが宗教の本質である。
また、宗教に関する論議の大部分には、実証性・客観性を求めることができないということもある。したがって、常に主観と主観とのぶつかり合いに終始せざるを得ない。そのため、「宗論しゅうろんはどちら負けても釈迦の恥」などと、茶化されることになる。
さらに、必ずしも意図的に悪意をもってとは言えないけれども、神の代理人たちが自分たちの利益を図る方向に誘導し続けたということもある。一部の例外を除いて、全ての宗教が人間社会全体や一般の民衆のためよりも、神の代理人たちのためのものであったように見受けられる。
本来、人間社会を成り立たせている根源的な行動規範は社会的慣習や道徳である。宗教的戒律や法令・規則はそれらの不完全な代役に過ぎない。ところが、それにもかかわらず、独善的偏向の危険を有する宗教的戒律をもって根源的な行動規範の代理人とし、しかも単なる代理人に至上の権限を持たせることがあった。
科学においては、理論が必ず実体との結び付きを持つ。それに対して、これまでのところ、人類は実体との結び付きを持つた宗教理論を発見していない。将来、「昔は宗教という名の迷信が存在した。」と回顧される時代が来るのであろうか。それとも人類滅亡までそのような時代は訪れないのであろうか。
ところで、共産主義も一つの宗教であったと言えるのではなかろうか。そこには、
1 理想の共産社会という神の存在の確信と帰依による信仰
2 自己の選民性の主張と共産主義を信奉しない者への非寛容
3 マルクス・レーニン学説という教義およびそれらを明記した教典
4 共産党という神の代理人および信仰者らの集合からなる教団組織
5 党活動という信仰の証明となる祭祀・勤行の実行と党指令という戒律の遵守
6 共産主義を信奉しない者に対する教宣活動
7 信仰に対する神の恩寵と不信仰や破戒に対する神や神の代理人による制裁
が存在した。そして、宗教に固有の特性である独善性・排他性・非寛容性・非人間性において、他の全ての宗教を圧倒的に上回っていたように見受けられる。 
(3)各行動規範の特徴
同じ行動規範といっても、法律の条文や宗教の戒律は明確で、体系的・固定的・絶対的である。そのため、社会情勢の変化によって、それまでの条文や戒律に行動規範として問題点が生じた場合などに、簡単には対応できない。新たな社会情勢に適応させて行こうとすれば、法律改正とか、教義の変更とか、明確で議論を巻き起こしがちな修正行為を必要とする。
しかし、それらの修正は容易なことではなく、しばしば重大な結果を発生させて来ている。たとえば、昭和初期に統帥権干犯とうすいけんかんぱん問題や軍部大臣現役武官制を解決できなかったことがわが国のその後の運命にいかに深刻な影響を与えたかは、言うまでもない。
宗教の場合もカトリックとプロテスタントの争いとか、天動説・地動説論争とか、歴史上の諸事件に数多く見られるところである。現代にあっても、種の起源教育を巡る天地創造説や知的設計論、避妊についてのローマ法王庁の見解など、科学的事案や社会問題に宗教が絡んだため解決が困難となった見本であろう。
またその一方で、法律や宗教は体系的・絶対的であるだけに、新たに発生した矛盾をそのまま放置することができない。この点は宗教において特に顕著であり、非寛容ゆえに異端として排斥し、その結果、新たな宗派を生み出すことになる。
それに対して、社会常識による慣習である「世の習い」は単に社会的な合意に達しているということからのみなっている。しかも、その合意は時にはそれほどの理由もなく、ただ何となくであることさえあり得る。宗教や法律のように明確・固定的ではないため、変化する社会情勢に応じて、最適とは言わないまでもそれなりの合理性を保った修正を、時々刻々自然に獲得してしまうところがある。
つまり、常にその社会の実情を反映するから、それらを規範とする人間行動もまた社会実態から遊離することが少なく、現実に即した行動たり得る。また体系的でないだけに、数々の矛盾を孕はらんだままで、何となくやって行けてしまうところがある。
ただし「世の習い」は不文律であるから、内容はいささか曖昧あいまいで、その範囲も定かでない。またその一方で、世相に流されやすく、付和雷同による偏向を生じる恐れが多分にある。
行動規範の違いは、革命のあり方にも影響する。法律・制度はその固定的・硬直的な性格ゆえに、激烈な行動によらずに変革を達成することが比較的困難である。そのため、革命を招きやすい。宗教も同様であり、宗教改革に長年にわたる激しい闘争が伴なったことは歴史上明らかである。
他方、流動的で柔軟性のある「世の習い」に従がう社会の場合は、あまり激烈な革命を伴なうことなく、実質的な変革を達成してしまう可能性が残されている。たとえば、3.(1)明治維新も戊辰戦争や士族たちの反乱などを伴なったけれども、他の多くの民族の場合と比べると、やはりあまり革命的ではなかったと評されている。 
(4)善と悪
行動規範とは言ってみれば、人間や人間社会にとって何が望ましい行動であり、何が望ましくない行動であるかを明らかにするものである。そして、望ましい行動を推奨し、望ましくない行動を抑制することを目的とするものである。そこで、人間や人間社会にとって望ましい事柄・行動・価値観が「善」と呼ばれ、望ましくない事柄・行動・価値観が「悪」と呼ばれるようになった。
それでは、人間や人間社会にとって望ましい事柄・行動・価値観とは一体どのようなものであろうか。ほぼ全ての人間が安全・公正・衛生的・効率的で快適な人間生活を志向している。言い換えれば文明的な人間生活を志向している。したがって、人間や人間社会にとって望ましい事柄・行動・価値観とは、すなわち善とは、文明的な人間生活を実現し、それらを乱すことのない事柄・行動・価値観である。
善と悪について、このような抽象的な定義においては、それほど異論はないと考えられる。ところが、善悪の具体的基準はとなると、意見が分かれる。それは誰にとっての善であるか、誰にとっての悪であるかによって、異なる善悪が存在するためである。
チャールズ・チャップリン主演の映画「殺人狂時代」で、死刑を宣告された主人公のヴェルドゥ氏は「一人を殺せば殺人者。百万人を殺せば英雄。」と言い放った。この台詞せりふは、善悪の具体的基準が多様であること、個人、社会、社会範囲の大きさによって異なる善悪が存在することを端的に述べている。
つまり、個人にとっての善悪と社会全体にとっての善悪が存在するのである。しかも、人間社会は拡大を続けている。より拡大した新しい社会の出現に伴なって、拡大した社会にとっての善悪問題が生じる。新たな社会には新たな秩序というわけである。この点については、次ぎの項目で詳述する。 
(5)私と公
善悪の具体的基準を考えるとき、その行動の対象者が誰であるか、すなわち、誰に対しての善であり、誰に対しての悪であるかが問題となる。その意味で、「私」と「公」の関係は重要である。
最初の人類たちの群れ社会のなかでも、個人の利害と群れ全体の利害とが衝突する場合が生じたことであろう。そのとき人類は
1 個人にとっての善悪と群れ社会全体にとっての善悪とがあり得ること
2 両者が一致するとは限らないこと
に気付いた。
その一方で人間は、群れ社会全体の利害が群れの中の各個人の利害に繋がっていることにも気付いた。そして、群れ社会を安定的に維持して行くことがやはり大切と考えたに違いない。そこで、個人にとっての善悪である「私」よりも群れ社会全体にとっての善悪である「公」を優先させる考え方が生まれたと考えられる。「私よりも公」の誕生である。
そして、さらに社会範囲の拡大により、重層化した部分社会が出現するようになって来ると、それぞれの部分社会における多種類の「公」が発生する。たとえば、「家族への公」「所属企業への公」「郷土への公」「国への公」「人類への公」である。
そこで、同じ公であっても、より小さな部分社会の「より低い公」よりも、より大きな部分社会ないし全体社会の「より高い公」を優先させる考え方が生まれて来る。つまり、そうすることによって、社会全体の安定が、引いては各個人の安全が保たれやすいことに気付いたのである。
そして、この基本原則に基づいて、行動規範のなかに具体的な善悪の基準が作られて行ったと考えられる。 
(6)全体主義と個人主義
上に述べたように、「私よりも公」というのは社会の安定を図って行くための一般原則である。したがって、人間の社会はその安定を願う限り、本質的に全体主義社会でなければならない。
ところが、全体主義社会というと、いかにも悪の権化ごんげのように聞こえてしまう。それは従来の全体主義社会に、しばしば行き過ぎがあったためである。そして、全体主義社会の弊害に対する反省から、個人主義が生まれた。
すなわち、全体主義社会では、公の利害を重視するあまり、時に個人の利害を極端に犠牲にする事例が発生する。そのため、ある程度公の利害を犠牲にしても、最低限度の個人の利害は守って行こうとする考え方が生まれて来る。こうして、個人主義が発生し、基本的人権の観念が生まれる。
基本的人権はしばしば、人が生まれながらに所有する基本的な諸権利と表現される。しかし、生まれながらの権利などあるわけではない。そうではなくて、基本的人権とは何と何とであると、その社会が決めるのである。そしてその範囲については「公」は立ち入らないと言明しているのである。
全体主義社会の行き過ぎは、次のようにして発生する。すなわち、社会全体の利害の過度の重視がその社会集団の権力を増大させ、必然的に社会集団の指導者である一部上層階級の権力を過度に増大させることとなる。そして、ジョン・アクトンはこう述べている、「権力は腐敗しがちである。絶対的な権力は徹底して腐敗する。権力を持つ人々はほとんどが悪人である。」。そのため、それらの腐敗を指摘し、是正を要求する個人の主張に対して、権力者達は自分たちへの攻撃を社会全体への攻撃であるかのようにすり替えて、「社会全体の利益に反する主張」との口実を適用し初める。かくして社会全体の利益という全体主義の基本は、専ら、構成員個人の利害や言論の自由を不当に圧迫し、一部上層階級の権力を維持・拡大するために利用されることとなる。
このように、全体主義社会の弊害として、全体の利害の名のもとに、その社会の一部上層部の利害を専らにする事例が発生しやすい。これらの事柄への対処として、ジャーナリズムが生まれて来る。ジャーナリズムが必要とされる理由は種々あろうけれども、その最も重要な部分は、
1 個人の基本的な利害を守ること。
2 一部の構成員(上層部とは限らない)だけの利害を図る行動を阻止すること。
であろう。
ジャーナリズムとは、新井直之によれば「今伝えなければならないことを、今、伝える。今言わなければならないことを、今、言う。」であるという。そのため、全体主義色の強い社会の上層部らはしばしばジャーナリズムを目の仇にする。
以上が人間の社会およびその行動規範に関する一般的な発展過程の概要であると考えられる。ところが、日本人社会の場合はいささか異なる面が見受けられた。次ぎの項目では、そのことについて取り上げる。 
U.日本人の社会と行動規範 
1.日本人の社会
(1)僻地育ち
日本列島はユーラシア大陸の東端からさらに海を隔てた僻地である。そのため、歴史時代に入ってからは昭和20年以降の数年間を除き、日本列島の住民は異民族の支配を受けることがなかった。また他の民族との交流も比較的少なかった。そのことが日本人の基本的性格を形作ったと考えられる。
しかし、有史前に遡さかのぼると、1万数千年前までの日本列島は大陸と地続きであった。そのころは、継続して北と南から雑多な民族が移り住んで来たことであろう。
ところが、その後の地殻変動および海水面の上昇で日本列島は大陸から切り離されてしまった。そのため、その後の移住は、間歇的に北の大陸や南の海上から、原住地では所を得られなかった小グループが吹き寄せられて来るに止とどまることとなったと考えられる。
もっとも、弥生時代初期の福岡県糸島地方には、韓半島からのまとまった渡来人の痕跡が見られ、それらの影響は瀬戸内海に沿って大阪湾に達するという。また、弥生時代後期の170〜180年ごろには倭国に大乱があったと「後漢書」に記されている。さらに、4世紀には江上波夫による騎馬民族説などもあるから、新たな移住者による先住民の征服はある程度発生したのかも知れない。
それでも、離島である地理条件から、新たな移住者が圧倒的な兵力をもって先住民を席巻せっけんするような事態は少なかったであろう。実際、有史以後、寛仁の刀伊といの入寇、元寇、応永の外寇、文久の対馬占領を除くと、異民族による侵攻の危険は生じなかった。元寇自体が大陸から日本列島を攻めることの難しさを物語っている。
母親から子供に受け継がれるミトコンドリアDNAおよび男系の特徴を残すY遺伝子に関するクラスター(群)分類は、家系を追跡するための研究に利用される。これで見ると、現代日本人には他の民族に見られない希少なクラスターが、比較的多種類残されているという。そのことからも、あまり激しい抗争を伴うことなく、移住が行なわれたのではないかと推定することができるという。
したがって、多数の小勢力グループが割拠する形ができ上がったと考えられる。他界と交流の少ない島国の中で、互いに割拠しながらも交流することとなって行ったであろう。
こうして、世代を重ねるうちに平均化し、同質化して、単一民族化して行ったと考えられる。また、いくぶんかの自然選択効果も生じて、遺伝的に社会の安定を保ちやすい民族構成となって行った可能性があるかも知れない。 
(2)気心社会
このように同質化し、単一民族化して行った日本列島の住民は、その後の千年以上も、僻地である島国の中で、似た者同士で付き合って来た。その間に、互いに「気心が知れている。」との感情が生まれて行ったのであろう。そして、気心の知れた相手は信頼できるとする心情が形成されて行ったと考えられる。言わば気心社会である。
また、それと並行して、相手の気持ちを察する文化、思いやりの文化も成立して行ったと考えられる。要するに、日本人の社会は基本的に相互理解の上に成り立つ社会であり続けたと言えよう。 
(3)集団への帰属
人間は全体社会である国家に所属するほか、部分社会である次ぎのような各種の社会集団にも重複所属している。
1 家族
2 親族などからなる血縁集団
3 各種の交友関係からなる友人ネットワーク
4 地縁関係者からなる地域社会
5 経済的利害関係者からなる企業体等
6 同職種者からなる職種別団体
7 同業者からなる業種別団体
8 信仰者からなる宗教団体
これらの各種の社会集団に対する帰属意識が、藤原正彦氏の言う家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛であろう。これらのうちでは、家族と国家が重視されるほか、生活の基盤を左右する点で、経済的利害関係にある企業体等が重視される。この傾向はいずれの民族にあってもほぼ同様であって、中国での父系の同族集団である宗族制度や現代韓国の地域主義などはやや例外的存在であろう。
大部分の現代日本人の場合は、企業体等を取り立てて重視している。そのことは、現在の多くの日本の企業体等が終身雇用制度を採用していることと関係があろう。
終身雇用制度の企業体等に所属する従業員の多くが企業体等を運命共同体と考え、企業体等の利害を何よりも優先する傾向が見られる。そのため場合によっては、「より高い公」の一般原則からは当然優先すべき、社会全体の利害をも無視する危険性が高い。またそれと同時に、「私」である個人の利害を不当に犠牲にする傾向もしばしば見受けられる。
もちろん、同様の事柄は他の多くの民族にあっても発生するけれども、日本人ほど強い傾向を示すようには見受けられない。また、他の多くの民族に見られる企業体等横断的な職種別・職能別団体の必要性をあまり感じないという特徴も見られる。 
(4)ネオテニー
日本人は一般に他の多くの民族と比較して、若く見られることが多いようである。終戦直後、ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官は「日本人は12歳である。」と発言した。これは発言の内容からすると、必ずしも日本人を貶おとしめて評したものではないようであるけれども、やはり、それだけ幼さを感じる面が見受けられたのであろう。
日本人も含まれるモンゴロイドの特性として、「大人になっても幼い。」点が見られるとする仮説がある。そしてそれはネオテニーによるというのである。
ネオテニーとは幼形成熟と訳され、生物が幼時の特徴を持ったまま成熟することを指している。ネオテニーだと、それぞれの器官が成長してもあまり特殊化しないため、環境の変化などに対する適応性が高くなるという。
人類のネオテニーは、専ら寒冷環境に対する適応であったとされている。アフリカのネグロイド(黒人)に始まった人類が、ヨーロッパでネオテニー化してコーカソイド(白人)が生まれ、アジア大陸でさらにネオテニー化してモンゴロイドが生まれたというのである。
ネオテニー化されることによって、幼いとの印象が付きまとう反面、好奇心旺盛で、変化を受け入れやすく柔軟な脳を持ち、精神・肉体ともに若さが保たれやすくなるという。
固定した原理原則にはあまりとらわれず、現実的に対処しようとする日本人社会の特性は、あるいはネオテニーに影響されるところがあるのであろうか。 
(5)セロトニン遺伝子
人間の神経伝達物質の一つにセロトニンがあり、セロトニンの働きが悪くなると「うつ病」になる危険性が高いとされている。そしてセロトニンの働きが悪くなる理由としては、セロトニンが通常より少なくなる、セロトニンを受け取る機能がうまく働かない、脳細胞が減っている、遺伝因子が作用しているなどの諸仮説がある。
間中信也氏によれば、アメリカのクラウス-ピーター・レッシュ氏らは、セロトニン遺伝子の違いによって人間の性格に違いが生じると報じているという。
すなわち、セロトニン再取り込みに関係する「5‐HTT遺伝子」には、情報の文字数が長い「l遺伝子」と、文字数が短い「s遺伝子」の二つのタイプがあり、「s遺伝子」を持つ人間は持たない人間よりも神経質である傾向が強くなるという。そして、「s遺伝子」を持つ人間の比率が日本人98.3%、アメリカ人67.7%であったという。
したがって、多くの日本人は慎重、臆病に生まれついている可能性があるという。社会環境からの自然選択効果が生じているのであろうか。
また、竹内久美子氏の「小さな悪魔の背中の窪み」によれば、レイモンド・キャッテルが人間の血液型と性格との相関に関する研究で、血液型P2型の人間が心配性であるとの結果を危険率0.1%以下で得ているという。血液型のP1型とP2型との比は、日本人では3:7、白人では8:2、黒人では9:1なのであるという。 
2.日本人の行動規範
(1)世の習い
千年以上も気心の知れた同士で付き合って来て、気心社会全体を信用できると考えた日本人は、その社会全体に通用する社会常識による慣習を必然的に重要視するようになって行った。
そのため、他の多くの民族では、行動規範が社会常識による慣習から新たに発生した宗教や法律や道徳に置き換えられて行ったのに対して、日本人の場合は置き換えられること少なく、主たる行動規範として残り続けたと考えられる。異民族による圧迫の機会が少なく、宗教の求心力や法律の強制力に頼る必要の少なかったことが影響したのであろうか。
この社会常識による慣習は、時代によってさまざまな呼び方をされて来ている。たとえば、「神あやしき理」「是非の理ことわり」「世の例ためし」「誠の道」「ことわり」「道理」「天下ばやり」「条理」「世の定め」「世の倣ならい」「世の習い」などである。
神道は罪・穢けがれを祓はらい清めるべきことのみを規定した。罪・穢れとは社会秩序を乱す犯罪行為や自然災害などの平和な人間生活を脅おびやかす事柄全てを含み、何が罪・穢れであるかの具体的判断は「世の習い」に委ねたと思われる。
当時に考えられていた具体的な罪・穢れは、古事記の神功じんぐう皇后の御事跡に例示されており、農耕に関する犯罪、婚姻上の不倫などが主であったようである。
こうして、「世の習い」は日本人の主たる行動規範として、いくつかの民族における神の戒律の役割を果たし続けることとなった。日本人は常に「世の習い」に照らして、それに倣ならうか否かをも含め、美しい行動と言えるか否かを行動の基準として来ている。
その後、海外から仏教・儒教・キリスト教がもたらされたけれども、行動規範の面で、それらの宗教や思想が「世の習い」にとって代わることはなかった。それらは「世の習い」の妥当性を再確認する役割を果たしたり、部分的に「世の習い」に取り入れられたりはしたけれども、日本人全体にとっての主たる行動規範とされることはなく、一部個人の行動規範として採用されるに止とどまった。
そのため大部分の現代日本人にとって、神社は祭礼や観光の場として、仏寺は葬祭・美術鑑賞・観光の場として、儒教は教養として、キリスト教会は結婚式場として存在する。宗教的色彩を保ってはいるものの、主として社会的慣習の一部として機能している。
他の多くの民族の文化が宗教的戒律、法律などに拠る、言わば「成文律の文化」であるのに対して、日本人の文化は社会的慣習に過ぎない「世の習い」に拠る「不文律の文化」である。日本人は行動規範として古俗を残す民族であると言えよう。 
(2)価値観の同質、行動の同質
一般に日本人は他の多くの民族と比べると、著しく同質的であると考えられている。ところが、奈良大学助教授の間淵領吾氏は国際共同世論調査の回答について検証した結果、「二次分析による日本人同質論の検証」でこれに異論を唱えている。
すなわち、各回答項目について標準偏差を算出したところ、日本人の回答が他国民と比べて極度に同質的な項目は1.3%、同程度のバラツキを示す項目が89.2%、極度のバラツキを示す項目が9.4%であったという。そして、家族・ジェンダー、政府の役割、職業に対する意識については、むしろ同質性が低いとしている。
この結果から言えることは、次ぎのようなことではなかろうか。すなわち、日本人もやはり十人十色なのである。その価値観の幅は他の多くの民族と比べて特に狭いというわけではなく、そのことが国際共同世論調査での回答に表われていると考えられる。
ただ、多くの日本人が「世の習い」という共通の行動規範に従って行動する。そのため表面に表われる行動の同質性が高く、結果的に日本人は全人的に同質的であると見られるのではなかろうか。
つまり、日本人は異なる価値観の持ち主であっても、行動としては似たり寄ったりのことをする民族であるというのが、その最大の特徴であるのかも知れない。 
(3)隣り百姓
それでは、異なる価値観の持ち主であっても、行動としては似たり寄ったりのことをする日本人とは、なぜそのような行動を取るのであろうか。
隣り百姓という言葉がある。種を播くのも、収穫するのも、お隣りのやる時期に合わせてお隣りのやるとおりに実行する農業のことである。それでもそこそこの成果が得られる経験を積めば、信頼性は高まる。
先にも記したように、「世の習い」は社会そのものと連動して動くため、社会実態と遊離することが少なく、現実的である。多くの日本人は、経験的に気心社会とその社会における行動規範である「世の習い」に信頼を置いているのであろう。
しばしば、日本人は他人の判断を基準にして行動の指針を定めると見られたりする。隣り百姓として似たり寄ったりのことをするため、そう思われるのであろうけれども、それは少し違う。
多くの日本人は親兄弟や周囲の人々の行動を通じて、世間の常識である「世の習い」を把握しようとしているのである。自己の行動に対する世評にも気を配る。子供のしつけに当たっても、「そんなことをしては人に笑われますよ。」と、世間の人から見て恥ずかしくない行動をしつける。ほとんど無意識のうちにも、世間の常識に配慮し、世間並みであるかどうかを考えていると言えよう。
そして、それらの世間の常識に倣ならうかどうかが重要な判断となる。多くの場合、あくまで我意を通すという態度を取らず、隣り百姓らしく、従がえる限りは従がって行こうとする。そのため、社会全体としての安定性は高まる。
このように、世間の常識に倣うかどうか、全く無批判にそうするのではないのだけれども、やはり一方では大勢順応、付和雷同と言った問題点も生じがちなことは確かであろう。 
(4)先例重視
多くの日本人は他の多くの民族と比較して、先例を重視する。その理由は先例が最も手近な「世の習い」の手本であるからである。その手本は一度は成功を収めているのであるから、なぜ無視することができよう。
平安時代の公家たちの日記は実に有職故実ゆうそくこじつの記録で埋まっている。それらを家の財産として子孫に書き残す必要があったのである。また、後醍醐天皇は「朕が新儀は後世の先例たり。」と仰せられている。さすがの後醍醐天皇も周囲の先例重視に手を焼かれている様子を髣髴ほうふつとさせる。
そればかりではいけないとの意識は常にあったわけで、五箇条の御誓文でも「一、旧来ノ陋習ろうしゅうヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ。」などとされているけれども、今日なお、日本人は先例を重視する。 
(5)遵法じゅんぽう精神
昭和20年代には、食糧管理法などでほとんど全ての食品が配給によることとなっていた。
しかし、定められた配給量が少ないうえ、遅配・欠配続きでまともな配給はされなかった。したがって、ヤミは禁じられていたけれども、ヤミをなさらなかったために栄養失調死された亀尾栄四郎教授と山口良忠判事を除いて、ほぼ全ての日本人がヤミに頼って生活していた。
多くの日本人はそれなりに法律・制度を尊重するけれども、絶対のものとは考えていないのである。守り切れないか、または守らなくてもさして重大な結果を招くことはないと判断すれば、「世の習い」に従って世間並みであることの方を優先する場合が多い。
「赤信号みんなで渡れば恐くない。」。運転教習所では、必ずしも制限速度での運転を勧めず、むしろ車の流れに乗った運転を推奨する。
大部分の人間がこのような性向を持つため、たとえ法律・制度に問題点がある場合でも何となく納まってしまっていて、問題のある法律・制度を強いて改めようとはしないというところがあるように見受けられる。
また、法律・制度であっても、守り切れないと判断すれば、状況対応で超法規的な行動をとることを、日本人はかなり頻繁に実行している。たとえば、1970年(昭和45年)よど号ハイジャック事件では赤軍派幹部の北朝鮮亡命を認めている。1975年(昭和50年)のマレーシアのアメリカ大使館とスウェーデン大使館の占拠、1977年(昭和52年)の日航ハイジャック(ダッカ事件)では、三菱重工ビル爆破事件の犯人たちを釈放している。 
(6)なぜ、人を殺してはいけない
近ごろでは、「なぜ、人を殺してはいけないんだ。」などと言い出す若者がいる。もちろん、判っていて、単に反抗的に口にしているだけのことであるから、特に問題にすることではないのだけれども、言われた多くの大人はぎょっとして、絶句する。
これがユダヤ教徒やキリスト教徒ならば、「十戒に背く。」で済むのであろうけれども、宗教の戒律のような明確さを持たない「世の習い」を行動規範とする日本人は、答えに窮する。
「法律で禁じられているから。」あるいは藤原正彦氏が「国家の品格」で引用している会津藩の什じゅうの掟おきてのように「ならぬことはならぬものです。」と答えるかも知れない。
日本人らしい答えは、やはり「世の習いに反する。」であろうけれども、多分、そんな答えでは言い出した若者が納得しないに違いない。「世の習い」が日本人の実際の生活を規定していながら、ほとんど意識されることのない証拠であろう。
それでは「なぜ、人を殺してはいけない。」のであろう。藤原正彦氏の言うように、論理では説明できないのであろうか。そんなことはない。
「人を殺してはいけない。」のは、そのことが殺される当人にとって、一般的に望ましくない行為、すなわち「個人にとっての悪」であるからである。そして、この場合の「個人にとっての悪」は、その個人が所属する社会全体における「私よりも公」「より高い公」の観点からしても、優先せざるを得ない事柄であると考えられるからである。 
(7)武士道
武士道とは武家社会における「世の習い」である。したがって、その時代の武家社会の様相によって大きく異なっていた。特に戦乱の時代と太平の時代とでは極端な違いがあった。
武士の発生から中世期までの主従はまさに契約関係であって、奉公は御恩の対価であった。たとえば、三浦義明は源頼朝の旗揚げに応じて衣笠城で討ち死するが、「老命を武衛に投じ、子孫の勲功を募らんと欲す。」と言い置いている。
軍記物語などでは、主君への忠誠、一族のための犠牲などが賞賛されていたけれども、戦国時代以前の実態として、「主君と生死をともにする。」「裏切りは卑怯。」と言った考えは主流ではなかったように見受けられる。精神主義的な道徳観とはあまりかかわりのない、生死を懸けた極限状況での現実主義であったと言えよう。
元和偃武げんなえんぶの後の太平の御世になってからは、儒教的な倫理「仁義礼智信」により理想化された武士道がもてはやされるようになる。山本常朝の「葉隠」はそれらを「上方風の打上がりたる武道」と批判し、儒教的な知性よりも、中世や戦国時代の一味同心であった君臣の情や実を主張している。
他方、旗本奴・町奴など名誉のため命をも軽んじる価値観は天下の混乱を招くとして幕府による取り締まりの対象となって行った。
さらに、明治時代に入った後に回顧された武士道は、近世の武士の倫理観・美意識を再編・再解釈したもので、実際の戦闘とはあまり関係なく、ほとんど一般道徳と化していたと言えよう。
たとえば、新渡戸稲造が武士道の最高の美徳とした惻隠の情は、まさに思いやりの心である。武士道だけに見られたものではなく、日本民族全体の「世の習い」に基づいている。つまり、武士道は日本民族全体の「世の習い」から独立して存在したわけではなく、その一部であり、武士という特殊な職業集団からなる部分社会における「世の習い」であったに過ぎない。
しかしながら、単に民族全体の「世の習い」の反映に過ぎないにしても、それらを生死の境において実現させた場合があった点については、武士道の賞揚さるべき美点であろう。 
V.日本人の行動原理  
1.状況対応
(1)非原理原則
他の多くの民族は、論理を極端にまで突き詰めた明確、固定的、絶対的な原理原則を持っている。すなわち、宗教の戒律、法律、契約書、職務基準書、スポーツのルールブックなどが判断基準として絶対的な権威を持っている。多分、多くの異なる民族、価値観や行動規範を異にする人々からなる社会にあって、その安定を図っていくためには、その種の原理原則が不可欠なのであろう。
たとえば、1985年(昭和60年)先進5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議によるプラザ合意の後の1年間に、ドル―円の為替レートは1ドル235円から120円にまで急騰した。当時も日本プロ野球界にはかなりの外人選手が在籍しており、ドル建てで契約していたけれども、誰一人として契約見直しを求めるものはいなかったという。
それに対して多くの日本人は、価値判断の基準が非イデオロギー的で、無原則、相対的、曖昧あいまい、直感的、感覚的、非思索的、具体的、現実的と言った特徴を帯びる。つまり、状況対応のため流動的であって、固定的な原理原則をさほど重視しない。主たる行動規範として「世の習い」によるけれども、それとて絶対的な存在としてではない。あくまで参考としてである。
相対的であるから、何が善で、何が悪なのか、「こうあらねばならない」と考えるよりも、「こうした方が良かろう」と考える。したがって、当然に柔軟で漸進ぜんしん的改良が得意となる。実利的・実際的なのである。言わば、日常的にフィードバックを繰り返していることになる。泥臭いけれども、この方が生物行動の本質により近いのではなかろうか。
また、法律、契約書、職務基準書、スポーツのルールブックなどだけでは判断しないし、それらに抵触さえしなければ、何をやってもいいとは考えない。要するに、多くの日本人は、人間とは感情の動物であって、かなりいい加減であり、理屈だけで片がつくものではないということを、他の多くの民族よりも強く意識するもののようである。
原理原則や建て前を重視した意見は、日本人の間では「書生っぽ論議」だとされることが多い。対して現実の状況や本音に即した意見は「大人の議論」だとされる。
しかし、国際場裏に出た場合に、「大人の議論」は他の民族から原理原則を持たないご都合主義、無思想で、主義主張に節操がないと見られる危険性を孕はらんでいる。また、座標軸が欠如しているなどとも指摘される。 
(2)建て前と本音
どの民族にも建て前と本音とがあって、その使い分けをしているように思われる。ただ異なる点は、建て前に問題点があったり、本音との乖離かいりが著しくなったりして、矛盾を生じた場合の対処であろう。
多くの民族の常識では、いったん原理原則を建て前として打ち出した以上、たとえそこに問題があったとしても、あくまで建て前を崩さない。たとえ形かたちだけのことであるにせよ、建て前を貫いたという形式を取る。一方、そのような場合、日本人は建て前の問題点を認めてしまうところがある。気心の知れた相手と付き合って来た経験から、内兜うちかぶとを見透かされるやましさを特に強く意識するのであろうか。
たとえば、どんな戦争であっても双方に何がしかの言い分はある。そのため、全ての国が交戦相手国を侵略者として非難するとともに、「自国の戦争は全て侵略戦争などではなく、自衛戦争である。」と主張し続けている。ところが日本は、総理大臣自身が自国の戦争を侵略戦争であったと言明した世界で唯一の国である。それも、交戦相手国の総司令官が後になって、あれは自衛戦争であったと評しているにもかかわらずである。
信州松代藩の家老恩田木工もくが藩の財政改革に取り組んだ記録「日暮硯ひぐらしすずり」は、建て前と本音の使い分けの一つの例であろう。
恩田木工は百姓の代表者たちを集めて、次ぎのように言い渡す。「御年貢おねんぐを未進(滞納)の者は来ていようか。時節を違たがえずきちんと耕作していれば、御年貢未進などということにはならないはずである。それを未進するとは家業を疎おろそかにし、人並みに耕作せぬゆえで、不届き千万である。役人もまた、なぜこの者どもに未進にさせておいたのか。けしからぬことである。」。木工の形相ぎょうそうは二目と見られぬ恐ろしいありさまで、一座の者は誰も顔を挙げられなかったという。
ここで、木工は語調を一転させる。「こう言うのは理屈というものである。先々納(再来年分の年貢の先納)までする者もあるなかで、未進するとはよくよく困ってのことであろう。その方どもも人並みに上納しようと思うのであろうけれども、不幸せに遭うか、長患いするか、不慮の災難に遭ったりして耕作も十分にできないため、収入が少ないのであろう。役人もまた、その事情をよく知って未進を見逃していたものであり、仁政であると言える。」。
そして、木工は言葉を継ぐ。「このうえ、未進分を差し出せと言ったところで無いものは無いであろう。そこで、これまでの未進分は殿様のご損、その方どもの得にして、上納の必要はないことにする。その代わり、今後の御年貢は一切未進することは相ならぬぞ。」。これに対して、一同は「かしこまりました。」と同意する。
さらに、木工は言葉を継ぐ。「先納・先先納した者どもへは是非とも返済したいところであるけれども、皆も承知のとおり藩の財政に余裕なく、そのうえ未進分はただ今呉れてしまったから、いよいよ返済はできない。そこで皆への無心であるが、これまでの先納分は、殿様の取り得、その方どもの出し損にしてくれないか。」。
これに対して、一同は「かしこまりました。今後は先納を申し付けないと先刻仰せ付けられたことでもあり、これまでの先納分は一切頂戴致しません。」と答える。
先納・先先納・未進分のほか藩士に対する未支給の家禄まで全て御破算にして、藩財政改革に成功するのであるが、建て前的には全くおかしな処理である。しかし、現実的で有効な処理であったようである。
日本人は原理原則はとりあえず建て前として置いておいて、場合に応じて現実的な本音で処理して行こうとする。したがって、建て前を崩すのも時に止むを得ないとすることが多い。無理のある建て前で突っ張り合うこともあるまいと考える。
しかしながら、このやり方は気心の知れた同士であればこそ通用する方式であろう。国際的にはダブル・スタンダードと受け取られる危険性が高かろう。 
(3)嘘
日本人は、建て前として嘘をつくのは絶対に良くないとする一方で、「嘘も方便。」という諺も持っている。
これはもともとは、仏教で「衆生しゅじょうを導くのに用いる便宜的な方法。」を指していた。つまり、仏法を説くのに最初から高水準の教えでは、衆生が理解できない。そのため、まず仮の教えで理解させ、その後徐々に理解の水準を上げることを言ったものである。
そこから転じて現在の意味になったものであるが、本音として場合によっては嘘をつかざるを得ないこともあると考える。正直なもの言いで人を傷付けてしまうのと、嘘も方便で人を傷付けないのと、どちらが良かろうかと、多くの日本人は考える。
しかしながら、この考え方は他の多くの民族から非常な不信感をもって見られているように思われる。 
(4)外圧頼み
行動原理として状況対応を重視する日本人は、ときに口実となる状況変化を期待し、場合によっては演出する場合すらある。
たとえば、米国のマイケル・アマコスト氏は、駐日大使在任中に湾岸戦争への自衛隊派遣、日米構造協議での大規模公共投資や各種規制緩和を求め、「ミスター外圧」の名を得た。その氏が、外圧を掛けてくれれば要求が通りやすいと、日本側から「外圧要求」があったと記しているという。
このようないわゆる外圧頼みの性向は、他の多くの民族にはあまり見られないのではなかろうか。多分そのような方法で主張が認められることには、ならないのであろう。この性向は国際的にも注目を引いているように見受けられる。一部では「Gaiatsu」で通じるのだという。 
(5)なあなあ
なあなあが馴れ合いや妥協の意味で用いられるようになった由来は、歌舞伎にある。
歌舞伎の演技では、内緒話で耳元に口を寄せて話すとき、役者は口だけを動かして話す振りをする。そしてその場面が終わると立ち別れて、一方が「なあ」と呼びかけ、もう一方が「なあ」と応じるのが約束事やくそくごとになっている。この一連の演技をなあなあと呼び、次いで、その様子を「約束事だからと、馴れ合いで適当にやっている。」ととらえ、馴れ合いを意味する言葉となって行ったのだという。
原理原則よりも状況対応を重視する日本人は、やはり他の多くの民族よりも、なあなあを多用しているのではなかろうか。「足して2で割る」ことが得意である。やはり状況に対応して、原理原則にこだわらなければこその解決法であろう。 
(6)あるがまま
夏目漱石は「我輩は猫である」で、次ぎのように記している。
西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作つた文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのぢゃない。西洋と大おおいに違ふところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云ふ一大仮定の下に発達しているのだ。(中略)
山があつて隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考かんがえを起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ。
現状を否定的にとらえ、一挙の革命によって不都合な社会環境を変革しようなどとはあまり考えない。現状を一旦肯定し、そのなかでの最善を求めようとしている。
日本人のこの価値観を育てたものは、やはり社会そのものに対する基本的な信頼感であろう。「この世は憂き世ながら、何もかも覆くつがえしてしまわなければならないほどのものじゃない。」。 
(7)漸進ぜんしん的改良主義
夏目漱石はまた「草枕」で、次ぎのように記している。
人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯ただの人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶なお住みにくかろう。越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
多くの日本人は現状を一旦肯定したうえで、もし問題点があれば日々の努力によって徐々に改良して行こうとする。原理原則からすればこうあるべきであるとは考えないで、状況からすればこの方が良かろうと考えるのである。漸進的改良主義なのである。
そして、唐津一氏は「技術大国に孤立なし」で、次のように記している。
日本でカラーテレビの放送が本格化したのは、昭和三十九年つまり東京オリンピックの年だった。その頃のスタジオ用カメラは一台で一八〇〇万円もした。しかも形が大きくて、重く、とても家庭に入れるなど考えてもいなかった。ところがいまブームとなっているテレビカメラは、一〇万円台である。値段が一〇〇分の一だ。それでいながら、色は遥かに良くなっているし、感度もよい。ローソクの光で写る。このことをアメリカの技術者にいうとビックリする。ローソクの光で写る必要はないだろう。ところが日本では結婚式でキャンドルサービスというのを考え出した人がいる。これでハッキリ写らなくては、このカメラはダメだとくる。そこでどのメーカーも、ローソクでも撮影ができることを目標に、改良を重ねていって、ついに、今のような高性能なものができ上がった。
ところが、この間に一発ホームランのような革新があったかと調べてみると、大したものはない。とにかく少しずつ改良に改良を重ねていっただけである。 
(8)一隅を照らす
伝教大師最澄の「山家学生式さんげがくしょうしき」に「照干一隅此則国宝。」とある。一般には「一隅を照らすはこれすなわち国の宝。」と読まれる。ところが、史記などにある「照千里・守一隅。」を引用したものであるとして、「一隅を守り、千里を照らすはこれすなわち国の宝。」との解釈もあるという。
いずれにしても、「社会の片隅にあっても、必要とされる人物となれ。」とか「縁の下の力持ちになれ。」という意味である。今、自分が置かれている場所や立場で、最善を尽くせということであろう。
この考え方は、現状を否定的にとらえてあるべき姿を追求する革命思想とは異なって、現状を肯定的にとらえており、非革命的である。また、小事をも貶おとしめないため、漸進的改良主義にも通じている。さらに、縁の下の力持ちという考え方は職業に対する貴賎観をも防いでいるように見受けられる。
多くの日本人が必ずしもこの言葉を承知しているわけではないけれども、根底にはこの考え方が存在するように見受けられる。多分、「世の習い」に含まれているのであろう。 
2.情緒的思考
(1)非論理思考
多くの日本人は論理をぎりぎりに詰めるやり方をあまり好まない。江戸時代の薩摩藩などでは「議を言うな。」と露骨に禁じる風潮が見られた。このようになる理由は、やはり行動規範のいかんにかかるところが大きいと考えられる。
他の多くの民族にあっては、宗教など確固たるイデオロギーに基づく行動規範によるため、判断の基準が明確で確定的である。論理的に詰めて行けば、明確で確定的な答えが得られるのであろう。
ところが、「世の習い」による場合はそうは行かない。曖昧あいまいで流動的であるだけに、論理的に詰めて行っても答えが得られるとは限らない。たとえ得られたとしても、はなはだ曖昧で他を説得することの困難な答えとなる危険性もある。
どうせそうであるならば、元来が相互理解の上に立って、何となく合意に達している「世の習い」である。その適用に当たっても、何となくであって何がいけなかろう。かくして、多くの日本人は論理的にではなく、専ら情緒的にものを考えることになる。これもまた、他の多くの民族には理解されにくい方式であろう。 
(2)言うにゃ及ばぬ
日本人は察し合う文化に育っているため、互いの人間関係や心情を重視し、突き詰めた論理に頼るよりも感性を重視するところがある。
気心の知れている日本人同士ならば、いちいち細かい点まで口に出さなくても、理解し合えるところがある。「言うにゃ及ばぬ。」黙っていても相手の気持ちを思いやる。相手を傷付ける事柄、表現をできるだけ避ける、あるいは遠まわしに言う。相手は敏感に察して、それで通じていた。
日本人の文化が「思いやり、察し合う文化」であるのに対して、他の多くの民族の文化は「言わねば判らぬ文化」である。他の民族に対してまで「思いやり、察し合う文化」で行動すると、意思疎通ができず、予想外の問題を惹き起こす恐れがあろう。 
(3)思いやり
孔子は「仁」を最も重視し、「論語」のなかでもさまざまに解説していながら、ついにその定義を付していない。このことは、「仁」が孔子の時代にあっては、一般的な意味ではともかく、学術用語としてあまり意識されることのない新たな概念であった証拠のように考えられる。
したがって、孔子の考えを推定するしかないのであるけれども、孔子の考えた「仁」とは、「人徳」つまり、全ての社会的に見て望ましい人間行動・価値観を指しているように見受けられる。そして、それらのなかでも、人間愛、特に相手への思いやりを重視したのではなかろうか。
日本人は、細かいことによく気が付くと言われる。察する文化を持つうえ、人間関係に気を使い、相手のことを思いやっているためであろう。相手の立場や考え方を斟酌しんしゃくし、思いやる傾向を持った民族であると言えよう。
他の多くの民族にあっても相手の立場を考えないわけではない。けれども、それによって行動を変えたりすることは少ないように見受けられる。一部の民族にあっては、むしろ自分に有利な材料として利用しようとする傾向が強いようにも見受けられる。 
(4)人情
われわれはあまり気付いていないけれども、人情という言葉を二通りに使っている。一つは人間として当然の感情という意味で使い、今一つは相手に対する思いやりの心の意味で使っている。
たとえば、義理と人情の相克と言った表現は、履行に気の進まない義務を果たさなければならないとする理性と、そのような義務の履行を欲しない人間的感情との相克を意味する。一方、人情長屋と言った表現は、互いに相手を思いやる心を持った住人が住む長屋を意味する。
この人情という言葉が二通りの意味を持つことは、日本人が人間として当然の感情のなかでも、相手への思いやりを取り分け重要視している証拠ではなかろうか。その点、孔子が「仁」を最高の徳と考えたことと通じるところがあるようにも感じられる。 
(5)甘え
土居健郎は「甘えの構造」で、甘えとは、人間が他人との一体化を求める受身的な愛情欲求であり、人間関係において相手の愛情や好意ある計らいをあてにする振舞いであると解釈した。そして、相手がこちらの意図を理解し、それを受け容れてくれることが必要であるとした。
また、甘えが日本人に特に発達した理由について、依存的な人間関係が社会的規範に取り入れられているためであり、他の民族にあっては甘えに相当する便利な言葉がなかったためであるとしている。
しかし、甘えとは、相手の愛情や好意ある計らいをあてにする振舞いだけではなく、相手に自分を理解して貰いたいとする欲求およびそのため相手の思いやりに訴える行為をも含んでいると、解釈できないであろうか。もちろん、理解は愛情や好意に繋がることが多いから、土居健郎の解釈と同じとしてもいいのであるけれども、それでは、日本人において、甘えが特に顕著に見受けられ、他の民族の持たない言葉として存在する理由を理解しにくくなる。
日本人は時に、「特に何かをして貰わなくてもいい、判って貰うだけでいい、否、聞いて貰うだけでいい。」と発言する。もっとも、聞いて貰うだけでいいわけはないので、やはり判って貰いたいのであろうけれども、とにかく「判って貰いさえすれば、特に何かをして貰わなくてもいい。」と発言したりする。「他人から理解されたい。」、これが甘えの本質であろう。
いくら日本人同士だからと言って、また依存的な人間関係が存在するからと言って、常に相手の愛情や好意をあてにできるとは限らない。この点については、他の多くの民族と比較して、特に異なるところはないと考えられる。しかし、察する文化に育っているだけに、相手の立場や考え方に対して思いやる心は、他の多くの民族と比較すればいくぶんか持ち合わせているように見受けられる。したがって、自分の立場や考え方を理解して貰うことにかけては、常にある程度、相手の思いやりに期待することができるのであろう。
こうして、多くの民族にあってはごく近しい近親間などの特殊な人間関係にしか存在しない甘えが、日本人社会では一般的な人間関係にあってもある程度期待できるのではなかろうか。つまり、相手の思いやりに期待をかけることのできる民族性が甘えという言葉を成立させているのではなかろうか。
また、甘えが母子関係ないし恋愛関係において特に顕著に見られることは、多くの先人が指摘されているところである。このことは、やはり相手に対して思いやる心の関与を傍証するものであるように考えられる。
ところで、李い御寧おりょん氏は「「縮み」志向の日本人」で、甘えに相当する言葉は韓国語にもいくつかあって子育ての場面で使われており、日本人独特の語彙であるとは言えないと記している。
韓国語を私が判らないため、単に同書の記述から判断しての疑問に過ぎないのであるけれども、韓国語におけるそれらの言葉は、先に記した甘え、すなわち一般的な人間関係において、自分の立場や考え方を相手に理解して貰いたいとする欲求およびそのため相手の思いやりに訴える行為という意味の言葉なのであろうか。
また、韓半島人も察する文化に育っており、相手の立場や考え方に対して思いやる心を、他の多くの民族と比較してより多く持ち合わせているのであろうか。そして、自分の立場や考え方を理解して貰うことにかけては、常にある程度、相手の思いやりに期待することができるのであろうか。 
(6)弱みを見せる
先に9.(4)感情の露呈で記したように、多くの日本人は、他人に不快感を与えるような、感情をあからさまに表わす行動を控えることを「世の習い」としている。
ところが、そのような日本人がかなり度々涙を見せることがある。たとえば、山一證券解散時の記者会見で、当時の社長が涙を流しながら「社員は悪くありません。全て我々経営陣が悪いのです。」と訴えたことがあった。
他の多くの民族にあっては、人前で涙を見せる(特に男が)ことは自分の弱みをさらけ出すことであって、絶対にしてはならないこととされるようである。それに対して、また感情の露呈を避ける一般原則に反して、なぜ日本人は人前で涙を見せるのであろうか。
涙を真摯しんしな反省の証しと受け取る民族性が存在するのではなかろうか。涙を見せ、弱みを見せることは、相手の思いやりに訴える行為であって、やはり一種の甘えであると言えよう。 
3.集団志向
(1)全体と個
「私よりも公」というのは、「私」と「公」との利害が対立した場合に社会の安定を図って行くための一般原則ではあるけれども、時に行き過ぎを生じて、公のために個人の利害が著しく犠牲に供される事例が見受けられた。
そのため、他の多くの民族にあっては、ある程度公の利害が失なわれても個人の基本的な利害を守ろうとする個人主義を標榜ひょうぼうする例が多い。
それに対して、多くの日本人は「私よりも公」の原則に比較的忠実である。その理由は、やはり社会全体を信じるところがいくぶんなりとも強いのであろう。社会的な合意、調和、統合を重視する。そのため、社会全体の結合が堅固で、安定度が高くなる。
人間関係では相手の立場や態度を尊重して、相手をたてる傾向が強い。それが集団内では構成員同士の対立や摩擦を避ける効果を生む。話し合い、曖昧あいまいな表現、妥協、付和雷同、玉虫色の解決などの手法が用いられる。 
(2)戦後における公の軽視
「私よりも公」「より低い公よりも、より高い公」と、社会全体の利害に重きを置くことは、各時代を通じて全ての民族における社会安定のための一般原則である。
ところが太平洋戦争が終結した後、日本人の一部にこの一般原則に異議を唱え続ける人々があって、戦後思想史の大きな部分を占めて来た。
そのことが、戦前の日本人の「最高の公」をあまりにも強調し過ぎ、同時に「私」の権利をあまりにも蔑ないがしろにし過ぎた行き過ぎに対する反省に、端を発していることは認められる。しかしながら、何から何まで「私」の権利の主張を良しとし、「より高い公」の観点からする抑制を悪と決め付ける考え方は、いかがなものであろうか。
一部の他の民族にあっては、「公」は自分たちみんなのものとの感覚が比較的強いように見受けられる。自分たちで作り上げるものとの感覚であろうか。それに対して多くの日本人には、「公」は自分たち以外の存在との感覚が潜んでいるように思われる。「世間」が作り上げるもの、その「世間」から与えられるものと感じるように見受けられる。そのため、上記のような考え方が生まれて来るし、たとえ「公」を尊重するとしても、親近感に差が生じるのであろう。
幸いなことに、この「公」を軽視する考え方は多くの日本人の心をとらえたにもかかわらず、行動となって表われることは比較的少なかったように見受けられる。U.2.(2)価値観の同質、行動の同質で記したように、日本人は「世の習い」を主たる行動規範とするため、異なる価値観の持ち主であっても、行動としては似たり寄ったりのことをする民族である。そのため、一部に同調する動きがあったとしても、全体の動きとまでは至らなかったのであろう。 
(3)和の重視
いずれの民族社会にあっても社会の安定は至高の目標であり、そのため社会全体の和を保とうとするのは、当然の行為であるけれども、日本人社会は取り分けて協同、調和、統合を重んじて来たように見受けられる。
たとえば、井沢元彦氏によれば、日本人が中国人から「倭わ」と呼ばれていたものを「和」に改めたのは、やはり「和」を重んじていたからであろうという。
また、聖徳太子制定と伝えられる604年(推古天皇12年)の十七条憲法では、その最初に「一に曰く和やはらぎを以て貴しと為す。忤さかふること無きを宗むねとせよ。」と記されている。社会の安定のための和が至上のものと考えられている。
また、神が民族統合の象徴となり得る一方で、反体制の旗印ともなり得ることは、一向一揆や、島原の乱を見ても明らかである。この点でも、宗教を行動規範として来ることの少なかった日本人社会は比較的安定を保ちやすかったと言えよう。
もっとも、源平の争乱、南北朝、戦国時代など数々の内乱を経験してはいる。しかし、それらの内乱もそれなりに気心の知れた者同士の争いではあった。降参した敗軍の兵士たちは、指揮官層を除いて釈放されるのが通例であり、そのまま寝返って相手方に属してしまう場合も少なくなかった。将棋の取り駒と同じように見える。
したがって、織田信長による比叡山焼き討ち、越前の一向宗門徒攻め、伊勢長島門徒攻めや島原の乱などのように、攻撃を受けた側が簡単には降参せず、攻撃側にも強い信仰に対する嫌悪感・恐怖感があって、気心の知れぬ相手と思ったのではないかと考えられる場合を除くと、中国における戦国時代の長平の戦いのように降兵を悉ことごとく生き埋めにするような事態はあまり発生しなかったように見受けられる。 
(4)協調性
このような和を重視する文化のなかでは、協調性が大切であり、和を乱すようなことは許されない。そのことは各社会集団の結束に不可欠であり、多くの日本人はこの点で、他の多くの民族と比較して優れているように見受けられる。したがって他民族から、日本人は個人的にはさほど優れていないけれども、集団となれば力を発揮すると見られることが多い。
しかしながら、一面では、紛争を避けるために、個人の特色が強すぎる事柄、改革的な事柄が敬遠されがちで、「出る杭は打たれる。」「長いものには巻かれろ。」などの性向が発生する危険性もある。 
(5)人並み・世間並み
誰しも、他人よりも抜きん出たいとの思いはあり、その点日本人も他の多くの民族と変わるところはない。しかしながら、多くの日本人にあっては、何が何でも抜きん出たいとまでは考えないように見受けられる。
つまり、そこそこであれば良しとするところがある。その理由には次ぎの二つの条件が作用していると考えられる。
すなわち一つには、社会条件として特に社会的・経済的地位が高くなくても、さして気恥ずかしさを感じないで済む社会であることであろう。それには労働をもって神からの苦役とは考えない労働観、どんな仕事をも賎業視することのない職業観、不労所得を願望しながらも一方では潔しとしない金銭観などが背景にあろう。
そして今一つは、個人的心情として「世の習い」に馴染んでいて、世間並みであればそれで良いのだとする価値観が作られていることであろう。必ずしも他より飛び抜けて有利な位置に立とうとは考えない。たとえ不満足であっても、「世間並みなら。」「横並びなら。」まあ仕方ないやと納得を示すところがある。つまり、自然環境に対しても、人間社会に対しても、過大な要求をするところがなく、いわば身の程を知るという価値観を共有していると言い換えても良かろう
まるで「神の御意志ならば。」「インシアラー」と言っているようである。多くの日本人における世間とは、他の多くの民族における神の位置をも占めているのであろう。
多くの民族に「選民意識」が見られる。たとえば、ユダヤ人、欧米系白人キリスト教徒、中国人、韓半島人、イスラム教徒などがそうであろう。ところが日本人は、日露戦争後から太平洋戦争終了までの一時期を除くと、「選民意識」をあまり持たなかった。この時期には、次ぎのような国民学校唱歌も見られる。「ニッポンヨイクニキヨイクニセカイデヒトツノカミノクニ」
この「選民意識」をあまり持たなかったのも、人並み・世間並みで充分との考え方に基づくものであろう。したがって、あまり人種差別をしないし、他の民族の文化を比較的抵抗なく受け入れる。 
(6)他人の迷惑
ベネッセ教育研究センターが3〜6歳の幼児の保護者を対象に実施した「幼児の生活調査」がある。そのなかの「子どもに将来どんな人になってほしいか。」の設問に対して、「他人に迷惑かけない人」という答えが、東京71.0%、ソウル24.7%、北京4.9%、上海4.6%、台北25.1%であったという。
社会全体の安定を目指す「世の習い」にあって、「他人に迷惑をかけないこと」は重要である。そこには、他人を殺さないこと、傷付けないこと、他人から盗まないこと、他人を欺かないこと等々が含まれている。いわば、人間行動の規範の基本原則である。多くの日本人は子供の時から、「人様の迷惑になることだけはするな。」と教えられて育っている。
しかしながら、他の多くの民族のなかには、互いに迷惑をかけ合うことこそ親しさの証拠であるとし、相手からの迷惑を受け止め得ることは、実力を示すステータス・シンボルであるとする民族も見受けられる。
そのような民族からは、日本人は他人に迷惑をかけず、また他人からも迷惑をかけられず、自分のことだけしか考えていない民族なのではないかと見られることがあるようである。 
(7)減点主義
あるサッカー・チームの対外戦をテレビで見たことがある。中盤で日本側がボールを持った場合、バック・パスが圧倒的に多かった。ボールを持てば、否応なしに相手選手は絡んで来る。そこで何とかして相手をかわして前へ出ようとする選手は、全くいなかった。
ボール・コントロールの技量に差がある以上、多少そのような傾向が生じるのも止むを得ないこととは思う。しかし、自分がボールを持っている間に相手に取られないようにする、それだけが目的のプレーと見受けられた。
多分、相手をかわして前へ出る積極性を評価しないで、ボールを取られることを責める。つまり、周囲に迷惑をかけないことを重視する日本人の特性を最もよく反映する風景なのであろう。向こう傷を咎めないとはしないのである。
この傾向は教育面においても反映されているように思われる。専ら、叱り、注意することが教育の中心となっているのではなかろうか。褒めて子供の達成感を満たし、やる気を引き出す教育は比較的少ないように見受けられる。
その点、いろいろと批判はあるようであるけれども、公文くもん式や百ます計算は、子供たちの実力に応じた教育とやる気を引き出すという点で効果を挙げているように見受けられる。なお、この二つの事柄は、江戸時代の寺子屋教育と共通している。 
(8)付和雷同
隣り百姓という言葉がある。種を播くのも、収穫するのも、お隣りのやる時期に合わせてお隣りのやるとおりに実行する農業のことである。それでもそこそこの成果が得られる経験を積めば、信頼性は高まる。
「世の習い」を行動規範とする日本人は、「世の習い」の手本となる他人の行動を気にし、それに倣ならうことが多くなる。もちろん、他人の行動に倣うかどうかはその人自身の判断によるわけで、全く無批判にそうするのではないのだけれども、やはり付和雷同しやすい傾向は否めない。
たとえば、日露戦争後のポーツマス講和条約締結時には、かろうじて勝った戦争ながら、連戦連勝と信じていた国民は賠償金を取れないことに不満を爆発させ、日比谷焼き討ち事件を起こした。また、1918年(大正7年)の米価の値上がりで起こった米騒動では、全国的な米問屋の打ちこわし、鈴木商店焼き討ち事件などが見られる。
これらは新聞の煽動によるところが大きかったけれども、やはり付和雷同しやすい国民性が反映されている。 
4.自己主張と自省
(1)日本人の自我
日本人は行動に主体性を欠き、個人としての自己主張がないとよく言われる。そして、そのことは近代的自我の形成が弱く、独立した個が確立していないためであるとも評される。
確かに、個人としてそのような傾向を持つ事例は見受けられる。けれども、民族としての日本人が他の多くの民族と比較して、特に行動に主体性を欠き、自己主張能力に欠けていると考えるべき理由はない。
多くの日本人は、「世の習い」を重視するとともに、その場の背景・雰囲気などの状況を考慮しながら行動を取ることが多い。社会的常識や状況とは無関係に、個人としての原理原則や主義主張のみに忠実にとは考えないのである。最近では、「KY、空気が読めない。」などという表現も見受けられる。
自己主張に関しても、ただ単に自己をアピールせんがためだけの主張を潔しとしない。つまり、その主張が真に問題解決に貢献するか否かを考えながら主張するところがある。また、相手の立場や考え方を斟酌しんしゃくしながら主張し、または主張しない。さらに、相手が既に十分理解(了解はともかくとして)していると考えられる事柄について云々うんぬんすることは相手の理解力を不当に軽んじることとなり、失礼に当たると考える。
これらの傾向は、多分、他の多くの民族にあっても当然存在する。けれども、それらと比較して日本人の場合は特に強いように見受けられる。
また、自己の利害しか考えない利己的主張は「世の習い」に背くと考える。さらに、自我を剥き出しにするような主張や感情の表出を慎む性癖を持つ者は多い。相手に不快感を与えることを避けるのである。
精神医学者の木村敏氏は「人と人との間ー精神病理学的日本論」に次のように記している。
自己と相手、私と汝がまず確固たる主体として存立していて、その後に両者の間に「人間関係」や「出会い」や「交通」が開かれるのではない。人と人との間、自と他の間ということがまずあって、具体的には自己と相手との間で話題となる事柄がまず最初にあって、自己および相手の人格性は、ことさらに表面に出ないが、仮に出たとしても、つねにこの間から、この事柄自体から析出せきしゅつしてきたものとして、したがってつねに相手との間柄を映したものとして、規定されてくる。
他の多くの民族と比較すると、日本人は行動に当たり常に、この「人と人との間」に配慮しているように見受けられる。そのため、他の多くの民族ほどは自己主張が強く現れることがない。つまり、日本人は民族として行動に主体性を欠き、個人としての自己主張がないわけでもなく、自我が確立していないわけでもない。そのように見られるのである。
人間は自分に欠けている事柄を相手に見ることが、不得手であるようである。 
(2)沈黙は金
「雄弁は銀。沈黙は金。」との諺ことわざがある。けれども、実体としては、相手の控えめさをその実力や主張の力不足を表わしていると考える民族が世界の主流を占めているように見受けられる。主要国首脳会議で、日本国出席者の席はサイレント・コーナーと呼ばれているという。
日本人は突き詰めた論理に頼ることが少ないだけに、自己を主張する場合にあっても、あまり気乗りがしない。また、ディベィトとして声高に自己を主張する教育をほとんど受けていない。学校などで弁論大会が開かれることはあるけれども、日常的に訓練されることはない。
このことはやはり、お互い気心の知れた同士で「言うにゃ及ばぬ。」付き合いを重ねて来た結果、特に声高こわだかに主張しなくても相手に判って貰える経験を経ているためであろう。 
(3)皆様のお蔭
日本人は、何事につけても自分の力で達成したと誇ることは少なく、「皆様のお蔭。」を口にする。もちろんそう言った発言の方が世間や周囲に受け入れられやすいからであり、他民族の中には偽善的であると感じる向きもあろう。
しかしながら、日本人の場合、いくぶんかは世間や周囲の人々のお蔭で生活して行けると実感しているところがある。それは他の多くの民族が、人は神のみ恵みにより生かされていると考えるのと変わりない。
もっとも、太平洋戦争のさなかには「皇恩万民ばんみんに遍あまねく。」とされたものであった。けれども、多くの日本人にとってそれはあくまで建て前に過ぎなかった。やはり、「皆様のお蔭。」「世間のお蔭。」と考えていたようである。
最近、画期的な発明を活用した商品からの収益配分を巡って、裁判が行われた。係争点は、その商品からの収益のうち、発明者への配分をどの程度にすべきかであった。
確かに、その発明がなかったならば、その収益は得られなかったであろう。しかしそれと同時に、その発明のための研究を命じて実行させた上司、研究開発を支援した同僚、研究成果を商品化した人々、商品を製造し、販売した人々、さらにそれらの人々の活動をいろいろな局面で支援した人々、それらの人々の貢献なくしては、やはりその収益は得られなかったに違いない。さらには、その製品の信用性の支えとなったに違いないブランド力を築いて来た人々がいる。それらの皆様のお蔭を無視することはできなかろう。 
(4)自省能力
他人を批判する批判能力と自己を省みる自省能力とには、当然ながら個人差がある。ところが、批判能力と自省能力の和を取ってみると、ほぼ一定となって個人差がなくなるように見受けられる。つまり、平たく言えば、他人についてとやかく批判する人間ほど、自分のことは反省しないように見受けられる。
なぜそうなるのであろう。ほどほどの自省能力のある人間ならば、他人の欠点を批判するに当たって、それらといくぶんかは似たところのある自分自身の欠点について、考えないわけには行くまい。つまり、他を強く批判するためには、自分自身の欠点に鈍感であるか、それらを強いて無視する強さを必要とする。
批判能力と自省能力とのいずれについてより優れているかの判断基準の一つとして、恥についての感じ方の違いがあるように思われる。つまり同一の事柄でも、自省能力が高ければ「恥をかいた。」と感じ、批判能力が高ければ「恥をかかされた。」と感じるように思われる。
日本人は他の多くの民族と比較して、自省能力が高いように見受けられる。 
W.日本人の行動 
1.日本人の一般行動
(1)自然との共生
人間の文明には、自然環境を人間生活に適合するよう改変する面がある。しかしながら、そのなかでもあるがままの自然をできるだけ残しておこうとするのが明治以前の日本人であったと思われる。
そのような習性を獲得した理由は、やはり日本列島の自然環境そのものにあったと考えられる。つまり、温帯の海洋性気候の地帯に位置して、気温・降水量ともに中庸を得ている。そのため、徹底的な自然改変を試みずとも、多少の環境改善でそこそこの成果を期待できたのであろう。そこで、あるがままの自然を重視しつつ、それらに若干の手を加える姿勢が生まれたと考えられる。ここにも漸進ぜんしん的改良主義が見られる。
古来、多くの文明が森林を失なって滅亡している。その点、日本人は早くから森林の重要性に気が付いていた。日本列島は雨量に恵まれており、森林の天然更新が比較的容易ではある。けれども、伐採規制や造林などの森林保護政策を他国に先駆けて早くから実行して来たのも事実である。現在、日本の全森林中の人工林率は実に40%を超える。
世界には、内村鑑三が「デンマルク国の話」で紹介したデンマークの工兵士官ダルガスがユトランドの荒野に植林して、沃野に変えた事例やフィクションながら「木を植えた男」という絵本もある。それらと比較しても、日本人は人の手でもって木を植えることに、強い関心を持つ民族であると言えよう。
毎年、各都道府県回り持ちで全国植樹祭が開催されていて、天皇・皇后両陛下がご出席になる。植樹祭ほど有名ではないけれども、全国育樹祭も開催されていて、皇太子殿下ご夫妻がご出席になる。そう言う国柄である。
呉お善花そんふぁ氏の「続スカートの風」は、道端の野草の花に語りかける老婆の姿を記して、極めて日本的な心象風景の一こまであると評している。
また、北原隆氏は「人間とは何か」に「すべての被造物は人間のために造られ、人間はそれらを用いることによって、よりよく神につかえ、永遠の生命にたっする、というのがキリスト教の伝統的な考え方である。」とし、「動植物(もっと広い意味での自然と言ってもいいが)の、神の救いの計画において占める役割というものを発見するということは、日本文化が、神学やキリスト教的霊性のためになしうる主要な貢献の一つであるかもしれないであろう。」と記している。
あるいは、日本人は古代のアニミズムを今日なお持ち続けているのであろうか。日本語にオノマトペが多いのは、そのことを反映しているのであろうか。
過去には動植物に頼らざるを得なかった衣・住の多くの物資が、現代では非生物材料から製造されている。さらに時代が進むと、生物作用の助けなしに無機物から有機物を合成して、食品を非生物的に生産できるようになるかも知れない。
またその一方で、動植物との意志疎通が可能となるかも知れない。クリーブ・バクスター氏の実験によれば、ドラセナにセットしたポリグラフに、実験者が「葉を焼いてみよう」と考えただけで反応が現れたという。氏は、実験結果から、植物が知覚能力と記憶力を持っていると判断している。
もし、食品の非生物的生産と動植物との意志疎通が可能となるようなことがあれば、全体社会は単なる人間社会に止とどまらないことになる。人間社会は動物社会へ、さらに生物社会へと拡大することであろう。
もしそうなれば、基本的動物権、基本的植物権などが発生して、動植物たちから「21世紀の人間は野蛮で残酷だったんだねえ。生命を持つ動物や植物を食べていたなんて。」と回顧されるに違いない。「21世紀には、鳩やかたつむりは食べてもいいけれど、犬を食べるのは野蛮だって言った人間の女優がいたんだってさ。」などとも回顧されるに違いない。 
(2)機を見るに敏
他の多くの民族にあっては、価値判断や行動の決定に当たって、周囲の状況もさることながら、原理原則である自分の主義主張を重視する傾向にあるようである。そしてその場合、準拠する原理原則は軽々しく変更すべきではないと考えるように見受けられる。実際、原理原則自体が大きく変化する可能性はやはり低かろう。
ところが、多くの日本人は、原理原則である主義主張もさることながら、周囲の環境条件や状況を無視することはできないと考える。したがって、社会的常識である「世の習い」を主たる行動規範として重視する。それに察する文化を共有する日本人は、時代の空気に敏感で、よく時代の変化、世の習いの変化に追随することができる。
黒船来航に際しては、江戸幕府が諸大名に対して開国に関する意見を諮問したことを契機に、それまでご禁制であった公事くじ批判が「世の習い」となった。掛け声は「尊王・攘夷」であった。
明治維新にあっては、「ご一新」の掛け声のもと、文明開化が「世の習い」となった。「散切ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。丁髷ちょんまげ頭を叩いてみれば、因循姑息いんじゅんこそくの音がする。」なのである。
そして、太平洋戦争終結の後は、「平和国家ニッポン」が掛け声となり、主権在民・民主主義が「世の習い」となった。
このように日本人は「世の習い」に従がって、時に他の民族があっけに取られるような方針転換を示す可能性を持っている。原理原則にこだわらないだけに、現実を直視して過去を反省することがある程度可能である。真に環境条件や状況が変化したと実感したときには、新たな状況に柔軟に対応して、最善を求めることができる。「過ちを知りては、革あらたむるに如しかず。」を文字どおり実行しているだけのつもりなのだけれども、外国人からは「機を見、変に応ず」と見られる。彼らには、暴力的な革命をもってすることなく、漸進ぜんしん的改良をもって社会を変えて行く日本人の文化を理解することができず、不信の念を抱いだくのである。 
(3)熱しやすく、冷めやすい
日本人は、とかく流行に流されやすい一方、飽きが来るのも早い民族だと思われているようである。熱しやすく冷めやすいと言われる。
グレゴリー・クラーク氏は「日本人は極度にエモーショナルかつ敏感であり、ムードに流されやすい移り気な性格をもっている。おそらく世界広しといえども、降ってわいたようなブームや、騒ぎに流されやすい国民は、日本人ぐらいなものである。」と記しているという。
もちろん、個人的に流行に乗りやすい日本人は数多く見られる。しかしながら、民族全体を平均的に見て、他の多くの民族よりも流行に乗りやすいと言えるのであろうか。たとえば、日本人が他の多くの民族であれば熱狂しそうもない事柄に熱狂した事例は、どの程度見られたであろうか。
ただ、日本人は「世の習い」を主たる行動規範とし、隣り百姓でお隣りのやるとおりに行動する癖がついている。いったん「世の習い」に従がって動き出したら、一斉にその方向へ動くのではなかろうか。そして、興味が薄れて汐が引き出したら、これもまた一斉に引いて行ってしまうのではなかろうか。じりじりと長期間かけて普及して行って、やがてブームになる場合もないではないが、比較的少ないのであろう。
江戸時代に何度か繰り返されたお蔭参りや幕末のええじゃないかの熱狂、戦後のフラフープ、抱っこちゃん、たまごっちの流行などを見ると、やはり短期間での急速な盛り上がりと急速な終息を示している。 
(4)話し合い合意
他の多くの民族にあって、会議とは大いに論理に基づく意見を戦わせて、そのなかから最善と考えられる結論を選択することであろう。もちろん日本人にあっても、そのような会議の意義は充分認めてはいる。
しかし、それだけとは考えない。衆知を集めるとともに、合意の念押しであるとする面が強い。参加者全員がとにかく納得し、その合意のもとに各員が協力することを目的とする。たとえば、成田国際空港の建設に伴なう紛争についても、当初の関係者間の話し合いのいかんによっては、あそこまで紛糾することはなかったのではないかと評されている。
話し合いは、ときにそのこと自体が誠意を示すためのものとされ、実質的な討議の場ではないとされたりする。必ずしも論理的に正しい結論でなくても、みんなが納得する結論を得ようとするところがある。このあたりも他の多くの民族には理解されにくいところであろう。 
(5)日本人は内気
日本人は民族として田舎者であるだけに、内気で、控えめである。したがって、攻撃性も高いとは見受けられない。スポーツの応援では「勝て勝て。」とか「やっつけろ。」だけではなく、「負けるな。」と応援する。他の多くの民族から見ると異常に見えるようである。
国歌もそうである。多くの国歌が「敵の砲火に立ち向かい、前進せよ!」であったり、「行進せよ、行進せよ!不潔な血が私たちの溝を潤さんことを。」であったりするのに対して、「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまで。」である。
また、あからさまな感情や相手に不快感を与える感情の表出を慎む傾向を持っていて、互いにそのような経験をする機会が少ないため、相手の攻撃や露骨な感情の表出に対する対応に慣れていない。
多くの日本人は、察する文化や思いやりの文化のなかで育っているため、そのような条件を欠く環境にはなじみにくい。
一方で、周辺のいくつかの民族からは、武を重んじる民族であると見られる傾向がある。この間の矛盾の理由については、しばしば言われている「日本人は集団としては力を発揮するけれども、各個人としては弱い存在である。」との評価に求めることができよう。
つまり、日本人は本質的には非攻撃的で平和的な民族であるけれども、所属する集団や社会への帰属意識が高く、また隣り百姓として「世の習い」に従がうため、一致した行動を取りやすく、集団としての力を発揮することになるのではなかろうか。 
(6)会話中の視線
多くの動物にとって目と目を見つめ合うことは、攻撃を意味するという。人間でも「ガンを付けた」と喧嘩になったりもする。内気な日本人は会話中に露骨に相手の目を見つめることを、あまりしない。特に相手が目上であれば、伏し目がちに応対するのが謙虚さの表われともされる。
ところが、他の多くの民族にあっては、相手の目を見て話すのがエティケットである。自己主張を重視する社会では、強い視線こそ主張に自信のある証し、相手に対する信頼の証しと考えられるようである。
そのような強い視線を受けた日本人は、困ったように目を逸そらし、まるで独り言を言っているかのように、あらぬ方を見て話すことが多い。そのことは不誠実、不真面目と見られ、あるいは後ろめたさや気の弱さの表われと解釈される恐れがある。 
(7)水に流す
日本人はさほど執念深くなく、執着心が薄い。時には潔く負けることを良しとするところがある。過去のいきさつに拘こだわることなく、きれいさっぱり水に流すことも多い。
歴史時代に入ってから日本人は他民族による抑圧を経験しなかった。したがって、子々孫々恨み続けると言った深刻な怨念を持つことが少なかったのではなかろうか。そのため、いつまでも執念深く恨み続けることは潔くないとされたに違いない。そして神道における払い・清めや禊みそぎの教義と関連して、「水に流す。」という言葉が生まれたのであろう。
他方、日本人は数々の仇討ちを語り伝えている。なぜであろうか。ひょっとすると、日本人は恨みと報復の物語を語り伝えるというよりも、恨みを報じるべきであるとする「世の習い」に従がった行動を賞賛し、語り伝えているのではなかろうか。
中国の春秋公羊伝しゅんじゅうくようでんでは、「九世なお復讎ふくしゅうすべきか?」との問いに答えて、「百世といえども可なり。」としている。この論理からすれば、日本は過去の中国に恥辱を与えた相手である。先祖の恥辱は己おのれの恥辱、未来永劫、報復を加えるべき相手なのであろう。
しかしながら、われわれは人類としての何十万世代もの間の生存競争の中で生き残った人々の末裔まつえいである。そして、全ての生物種の中で、人類のみが同じ種同士の殺し合いを恒常的に実行する。あるいは、殺人者である英雄を先祖に持たない人間は、現在の地球上に一人も存在しないのではなかろうか。それでもなおかつ、先祖の罪は己おのが罪と主張し切れるものであろうか。
易姓革命思想の書であるという認識からか、または基本的に日本人の体質に合わなかったからなのか、日本での漢文学において春秋公羊伝が表舞台に現われることはなかった。多くの日本人は、死者を鞭打つことを避けるし、父祖の罪をもって子孫を裁くようなことはしない。 
(8)過ちは犯しません
広島の原爆の碑には、「二度と過ちは犯しません。」とある。もっとも、設立当時、この文面に対しては、過ちは原子爆弾を投下したことであるはずなのにおかしいとの批判があった。
「原子爆弾を落とされたからと言って、復讐をしようとか、恨み続けるとかとはしないで、二度とそのようなことが起こらないように念願し、行動する。」それが日本人的な行動であろう。
テレビ放映されたところでは、原爆開発に携わった米科学者が広島を訪れた際に、原爆製造について謝罪しないと言明した。そして「私たちにはリメンバー・パール・ハーバーという言葉がある。」と答えている。
もっとも、この米科学者は不意打ちで被爆者に引き合わされたようにも見受けられた。それだけに、とっさの自己防御本能が働いたとも考えられる。過ちを認めてはいけない。認めれば、相手はかさにかかって償いを求めて来る。そういう教育を生まれながらに受けて来た人々なのであろう。
ひょっとすると、「一言謝って貰えば、それでいい。」というのは、日本人だけに特有の感情なのであろうか。 
(9)裏切り
状況対応の民族性ゆえであろうか、数々の合戦で裏切りが見受けられる。甲斐武田家滅亡に際しての御家門をも含むなだれを打っての裏切り、賎ヶ岳しずがたけ合戦での前田利家、関ヶ原合戦での小早川秀秋、吉川広家などはその代表的事例である。
他民族との戦いではなかった。お互い気心の知れた同士、時には親族同士が、たまたま巡り合わせで敵味方に分かれて戦ったのである。敵となり味方となるにつけても、専ら利害得失や面目や行き掛かりに左右され、宗教やイデオロギーなどの確固たる理由のある場合は少なかったように見受けられる。そのため、裏切りが行なわれやすかったのではなかろうか。
また、江戸時代に入る以前の武士社会にあっては、「裏切りは卑怯。」と言った考えは主流ではなかったように見受けられる。 
(10)武士は食わねど高楊枝
他の多くの民族における貴族や騎士たちは、身分的にばかりではなく、経済的にも庶民たちを抜きん出る存在であったように見受けられる。ところが、日本の武士たちは必ずしもそうではなく、諸外国の研究者たちから不思議がられるという。
「武士は食わねど高楊枝。」は清貧を重んじたものと解釈されることが多い。もちろん、後の時代になると、そのような考え方が主流を占め、ノブレス・オブリージュの象徴ともされるようになるけれども、もともとは違っていたのではなかろうか。年貢米に対して武士の数が多過ぎたのではなかろうか。
江戸時代初期、長い戦国時代を経験して、全国の武士の数は極限に達していた。総人口のおよそ6%が武士であったという。元来は自営農場主であった武士たちも戦国の兵農分離で、完全に非生産階層化してしまっていた。
江戸幕府は古今東西を通じて珍しい官職のダブル・キャスト制をとっている。すなわち、一つの官職に一人を任命するのではなく、複数の人間を配置して、交代勤務させている。たとえば江戸町奉行所の場合の北町奉行所、南町奉行所は、管轄区域が北と南に分かれていたわけではない。全く同じ管轄区域を月替わりで担当していたのであって、北町奉行所、南町奉行所は、単に所在地でそう呼んでいたに過ぎない。
もっとも、一つの官職に複数の人間を置く例は、他の民族でもローマ帝国などに見られるけれども、それらは相互牽制の意図からであろう。
江戸幕府の場合は、官職のダブル・キャスト制でも追いつかず、寄合、小普請支配、小普請組などの無役の旗本・御家人を多数作っている。無役の場合も家禄は支給されたけれども、役料がつかなかった。
一方で、初期の江戸幕府は諸大名の取り潰しに遠慮会釈がなかった。そのなかには一族の松平忠輝(家康六男)家なども含まれている。ところが、諸大名家の廃絶で浪人が急増して、社会不安の種となって行った。たとえば、未然に防ぎ得たとは言え、1651年(慶安4年)の由井正雪らによる慶安の変なども発生している。幕府はそれに懲りたとみえて、末期まつご養子の禁をゆるめ、以後は諸大名の取り潰しも控え目にして、浪人の増加を防止している。
諸大名家にあっても事情は同じで、たとえば土佐藩山内家の場合は深刻であった。関ヶ原戦後の論功行賞で山内家は掛川6万石から土佐20万石に加増されていたから、当然家臣を増やす必要があった。ところが、山内家では土佐入国に先立ち、関西地方で家臣を大量に召抱え、土佐での採用をほとんどしなかった。
土佐には特殊な事情があった。ここでは前領主の長ちょう曽我部そかべ元親が一領具足という皆兵制度をしいていたのである。そのため、戦には強かったけれども、武士の数が半端ではなかった。多分、山内家では多数の一領具足たちを抱え切れないと見て、帰農させようと考えたのであろう。 
(11)ウチとソト
所属する組織や集団の内部に対する場合と外部に対する場合とで、つまりウチとソトとで態度が異なることは、多くの民族にも共通して見られる事柄であり、別に日本人に限ったことではなかろう。しかし、日本人ではその傾向が特に強いように見受けられる。
本音ではウチを重視する。たとえば、国際的な事故などが発生した場合、まず第一報は日本人が関与しているか否かである。そして関与がないと知れば急速に関心を失ってしまう。このようなウチの重視は、日本人が気心を重んじていて、気心の知れた相手と知れない相手とを区別して考えるためではなかろうか。
その一方、建て前ではウチを卑下して、ソトを重んじて見せる。たとえば、他の民族のなかには「わが社の社長様はただいま外出中でいらっしゃいます。」が適切な表現とされる民族もあるという。それに対して日本人は、「弊社の社長はただいま外出中でございます。」と発言する。このようなウチの卑下とソトの尊重は、ウチは「私」ないし「より低い公」であり、ソトは「より高い公」であると考えるためではなかろうか。 
 
日本人を動かす原理「日本的革命の哲学」 / 山本七平

 

要旨
御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。
ところで、泰時は明恵の思想に大きな影響を受けたことはつとに知られている。明恵と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいることはいる。しかし、明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
さて、西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。
この場合、それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。
明恵のユニークさというのは、国家の秩序の基本の把え方にある。明恵は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ているのである。明恵に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに、現代人は明恵の世界を共有することはむずかしい。しかし、明恵が真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
さて、流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいかと思われるが、これはまさに明恵の発想方法・「あるべきようは」そのものではないかと思う。日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いていると考えているが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち「国の乱れて穏かならず治り難きは、何の侵す故ぞと、先づ根源を能く知り給ふべし」という明恵の発想方法に今こそ立ち戻らなければならない。
わが国は、古くは中国、近年は欧米から・・・やむなくいろんな法律をまねしてわが国の法律としてきた。諸外国の法律をまねしたものを「継受法」という。やむなく「継受法」を採用しなければならないのは、もちろん国としての力関係による。幕末・明治(黒船)にも、大化・大宝(白村江)にも、さまざまな外圧が否応なく法と体制の継受を強制したことも否定できない。簡単にいえば、相手と対抗するには相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っとり早い方法だからである。大和朝廷は562年の任那(みまな)の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされつづけ、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何ものでもなかった。そしてその結末は、663年の白村江の決定的大敗であった。これらがさまざまに国内に作用するとともに、当時の大和朝廷はすでに、全国的政府としてこれを統治しうる経済的・政治的基盤を確立していたことも、大宝律令を断行し得た理由であろう。大陸の文化を「継受しようという意志」は歴史的にほぼ一貫して持ちつづけられて、701年やっとそれが大宝律令として公布されるのである。そのことが間違っていたのではない。そうではなくて、それが「名存実亡」となったとき、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」という根源に立ち、どう逆転(裏返し)できるかである。
天皇は「名」であり武士は「実」である。律令は「名」であり式目は「実」である。「名」を捨てて「実」に従わなければならない。「名」より「実」をとるべきである。それが二元論の常識であろう。「名」より「実」をとるという逆転、裏返しといってもいいが、それが西欧型革命であろう。しかし、明恵の「裏返し革命」は違う。単なる逆転、裏返しではなくて、もういっぺん「否定の否定」をやるのである。「名」ではなくて「実」である。しかし、なおかつ、「実」でなくて「名」である。「名」であると同時に「実」である。「名」でもないし「実」でもない。要は、流動的知性が重要なのである。
そのような明恵の教えを、実に生まじめに実行した最初の俗人が、泰時なのである。そしてそれは確かに、日本の進路を決定して重要な一分岐点であった。
もしこのとき、明恵上人でなく、別のだれかに泰時が心服し、「日本はあくまで天皇中心の律令国家として立てなおさねばならぬ」と信じてその通り実行したらどうなったであろう。また、「日本は中国を模範としてその通りにすべきである」という者がいて、泰時がそれを実行したらどうなっていたであろう。日本は李朝下の韓国のような体制になっていたかもしれない。
完全に新しい成文法を制定する、これは鎌倉幕府にとってはじめての経験なら、日本人にとってもはじめての経験であった。
律令や明治憲法、また新憲法のような継受法は「ものまね法」であるから、極端にいえば「翻訳・翻案」すればよいわけで、何ら創造性も思考能力も必要とせず、厳密にいえば「完全に新しい」とはいえない。さらに継受法はその法の背後にどのような思想・宗教・伝統・社会構造があるかも問題にしないのである。われわれが新憲法の背後にある宗教思想を問題とせず「憲法絶対」といっているように、「律令」もまた、その法の背後にある中国思想を問題とせずこれを絶対化していた。これは継受法乃至は継受法的体制の宿命であろう。
思想・宗教・社会構造が違えば、輸入された制度は、その輸出元と全く違った形で機能してしまう。新憲法にもこれがあるが、律令にもこれがあった。
中国では「天」と「皇帝」の間が無媒介的につながっているのではなく、革命を媒介としてつながっている。絶対なのは最終的には天であって皇帝ではない。ところが日本ではこの二つが奇妙な形で連続している。それをそのままにして中国の影響を圧倒的に受けたということは、日本の歴史にある種の特殊性を形成したであろう。その現われがまさに泰時である。
いわば「天」が自然的秩序(ナチュラル・オーダー)の象徴ではなく、天皇を日本的自然的秩序の象徴にしてしまったのである。これは「棚あげ」よりも「天あげ」で、九重の雲の上において、一切の「人間的意志と人為的行為」を実質的に禁止してしまった。簡単にいえば「天意は自動的に人心に表われる」という孟子の考え方は「天皇の意志は自動的に人心に表われる」となるから、天皇個人は意志をもってはならないことになる。これはまさに象徴天皇制であって、この泰時的伝統は今もつづいており、それが天皇制の重要な機能であることは、ヘブル大学の日本学者ベン・アミ・シロニイが『天皇陛下の経済学』の中でも指摘している。 
第一章 日本に革命思想はなかったか
[日本では、革新という言葉は良く使うが、革命という言葉はほとんど使わない。戦後、共産党によって日本の革命が意図されたが、結局は成功しなかった。なぜ成功しなかったかかは、もちろん学問的にきっちり分析されなければならないが、私は、わが国の「歴史と伝統・文化」にその原因を見い出すべきだと考えている。わが国は革命になじまない姿(かたち)をしているのではないか。フランス革命思想に見られるように西欧では革命思想が優勢であったし、中国でも、孟子の思想に見られるように「人民主権的革命思想」があった。山本七平はそれを次のように紹介している。]
孟先生がいわれた。
「暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは、人民を失ったからである。人民を失ったとは、人民の心を失ったことを意味する。天下を手に入れるには一っの方法がある。人民を手に入れることであり、そうすればすぐに天下を手に入れることができる。人民を手に入れるには一つの方法がある。人民の心を手に入れることであり、そうすれば人民を手に入れることができる。人民の心を手に入れるには一つの方法がある。人民の希望するものを彼らのために集めてやり、人民のいやがるものをおしつけない、ただそれだけでよろしい。人民の仁徳にひかれるのは、まるで水が低いほうに流れ、獣がひろい原野に走り去るようなものだ。淵に魚を追いたてるのが、獺(かわうそ)である。茂みに雀(すずめ)を追いたてるのが、鳶(とび)である。殷の湯王、周の武王のほうに人民を追いたてたのが、夏の桀王と殷の紂王とである。現在、天下の君主のなかで仁政を好むものがあれば、諸侯はみなその君主のほうに人民を追いたてるにちがいない。いくら天下の王となるまいとしても、不可能であろう。現在の王となろうと希望する者は、七年間の持病をなおすため、三年間かわかした艾(もぐさ)をさがしているようなものだ。もし平常からたくわえておかなかったら、死ぬまで古い艾(もぐさ)を手に入れることはできまい。もしも仁政を心掛けなければ、死ぬまで恥を受けることにびくびくして、ついに死亡してしまうだろう。<詩経>に、
そのふるまいのどこによいところかあろうか
ともどもに溺れ死ぬばかりだ
とよんでいるのは、このさまをいったのだ」・・・と。
[しかし、山本七平もいうように、人民主権的とか民主主義的といっても、中国人には「選挙制度」という考えが全くなく、「王政をやめて共和制にしよう」という発想は全くなかったのである。したがって、中国の影響しか受けなかった日本に、西欧のような革命思想が出てくる筈がない。では、日本に西欧的な革命がなかったのか。そこが問題の核心である。先に述べたように、保元(ほうげん)の乱は武家社会を語る上でも天皇制を語る上でも欠かすことのできない重要な歴史的事件であるが、私はとりわけ崇徳(すとく)天皇が言ったといわれる・・・天皇自身の言葉(天皇制否定の心情)に注目している。大岩岩雄の「天狗と天皇」(1997年、白水社)には次のように書かれている。]
天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という
崇徳の逆転宣言は、
痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。
[すなわち、崇徳(すとく)天皇は革命的な思いを抱いたのではあるが、それはそのとき限りのもであって、天皇制打倒の動きなどまったく出てくる由(よ)しもなかった。保元の乱は、平治の乱に繋がり、やがて承久(じょうきゅう)の乱へと繋がっていくのだが、北条泰時(ほうじょうやすとき)は、後鳥羽上皇を配流にするけれど、天皇制そのものは維持している。崇徳(すとく)天皇の天皇制打倒宣言を根拠に天皇制を廃止することもできたのにそれをしなかった。天皇自らが天皇制打倒宣言をしているのに北条泰時はなぜ天皇制を廃止しなかったのか、そこが問題の核心部分である。] 
第二章 聖書型革命と孟子型革命
孟子の革命論
前章で記した「革命」の基本的定義をもう一度要約してみよう。
それは現体制の外に何らかの絶対者を置き、その絶対者の意志に基づいて現体制を打倒して新体制を樹立する、ということであろう。
孟子にとって絶対者は「天」であり、その「天」の意志は自動的に「民心」に表われるから、その「民心」の動向に基づいて新しい王朝を樹てることが「絶対者の意志」に従うことであった。
そして以上の「革命」を、西欧の「革命論」の基礎となった「旧約聖書」と対比してみると、両者の違いは明確に出てくる。聖書の場合も、体制の外に絶対者すなわち「神」を置いている。この点まではある意味では両者に変りはない。しかし、前章で記したように聖書には孟子のような「天意=民心論」すなわち、絶対者と民心とが自動的につながっているという思想はない。そういう自動的なものではなく、神と人をつなぐものが「契約(ベリート)」なのである。孟子の革命論と聖書の革命論との決定的な違いは「契約」という考え方の有無にあると言ってよい。
人類最初の西欧型革命
この違いがなぜ出てきたかの「発生論的探究」は今回は除き、それは創造神話の時代からの、基本的な違いであると指摘するにとどめよう。これらに関心のある方は拙書『聖書の常識』を参照していただきたい。この点、孟子における「天意」の表われ方はきわめて自動的だが、聖書における「神の意思」の表われ方はまことに「作為的」であって、「神」が契約を更改すれば社会は基本から変わってしまうわけである。
ではここで欧米人を一人つかまえて次のような質問をしてみよう。「ここにAという国があったとしよう。その国のある階級を代表するBなる者が服従しないので、A国皇帝がその代表の討伐を命ずる勅命を出し、実際に戦端が開かれた。ところがこのBなる者は一挙に首都に進撃し、皇帝一族を追放し、皇帝を退位させて自分の望む者を帝位につけ、討伐を企画した者どもを処刑した上で、自分が擁立した皇帝をも無視し、その形式的な認証も署名もない基本法を勝手に発布し、この法は過去において皇帝が発布した法規とは全く無関係と宣言したら、これは革命と言えるか、言えないか」。今まで私が質問した限りでは、すべての欧米人は「もちろん革命ですよ」と言った。
承久の乱は日本史最大の事件
まず注目すべきは、承久の乱という事件が、武士団が朝廷と正面衝突をして勝利を得た最初の戦争だということである。朝廷への個々の小叛乱、否、相当に大きな叛乱もそれまでにあったが、すべては失敗に終わっている。また武士団が勝手に三上皇を配流に処し、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したのも、このときがはじめてである。
天皇に刃向うことは当時は強烈なタブーであり、武士団の中に、強い恐怖と非倫理的悪行という考え方と、伝統否定という心理的抵抗があって当然だった。当時の武士は、事を起すにあたって必ず「院宣」とか「令旨」とかを受け、名目的には天皇家の一員の「命令」によって行動している。この点では頼朝とても例外でなく、彼の行き方は常に何らかの「大義名分」を保持し、院政を利用して幕府を育てあげるという政策をとっている。ところが承久の乱はこれと全く違って、義時追討の「院宣」が下っているのに、これをはねかえして軍を起したのであり、彼には「大義名分」といえるものは全くない。
さらに「身分」が大きく心理的に作用するこの時代に、頼朝と義時とを比べれば、両者の違いは余りに大きい。頼朝は「源氏の嫡流」「武家の棟領」で、すでに何代にもわたって朝廷と関係をもつ名門である。一方北条氏といえば伊豆の豪族にすぎず、それも、三浦、千葉、小山のように強大な同族的武士団を擁して数郡から一国にわたって勢力を振った大豪族でない。下級かせいぜい中級の豪族、ごく平凡な在地武士、伊豆国の在所官人であった。その伊豆さえもちろん彼の支配下にあったわけでなく、狩野、仁田、宇佐美、伊東等の豪族がいた。
当時の東国の武士団は、京都に対して強い「文化的劣等感」をもっていた。これが朝廷側の「官打ち」を可能にしたし、「官位」「恩賞」でさそえば、義時を討とうという人間が鎌倉の中から出て来て少しも不思議でない。御家人にとっては彼はあくまでも「同輩」か「下輩」にすぎず、勅を受けてこれを討つことに罪悪感を感じる者がいるはずがない。
三浦一族の意識では義時は「伊豆の小豪族、自分以下の北条氏」にすぎず、これを、「一天ノ君ノ思召」で討つことに、何ら良心のとがめを感じなくて不思議ではない。後鳥羽上皇が、「成上り」として御家人からさえ反感をもたれている義時などは、諸国に院宣を下せば簡単に討滅できると考えて不思議ではなかった。
そしてこの予測は、必ずしもあたらなかったわけではない。その証拠に上皇挙兵のとき、多くの鎌倉御家人が京都側に立っている。
限定的西欧型革命
『吾妻鏡』には尼将軍政子の訓示として次の言葉がある。「皆、心を一にして奉(うけたまわ)るべし。是れ最後の詞(ことば)也。故右大将軍朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」と。
これは有名な<名訓示>だから知っている人も多いであろう。政子が果してこの通りに言ったかどうかはわからないが、これはあくまでも心情に訴える「女性の論理」だから、大筋はこの通りであろう。彼女はまず「恩」をとき、「名を惜しむの族」はこの「恩」を忘れた「裏切り者の御家人」秀廉・胤義を討ち取るべきだと主張する。敵は決して天皇家でなく、幕府への「逆臣」であり、「非義の綸旨」が下ったのは、その「讒」によるのだから、この「逆臣」を討伐するのだという論理である。これは確かに、御家人の感情に訴える点では効力があったであろう。
しかし、たとえ「非義の綸旨」であろうと、勅命が下った以上、これに抵抗すれば抵抗した者が「逆臣」である。そうならないためには、まず降伏し、それが「逆臣の讒」であることを朝廷へ陳情して撤回してもらうことが「筋を通す道」であろう。この議論を展開するのが泰時である。ところがそれに対して義時は次のように言ったと『明恵上人伝記』にある。
「尤(もっと)も此の事さる事にてあれども、それは君主の政ただしく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁(うれい)を抱かずといふことなし。然るに関東進退の分国ばかり、聊か此の横難に及ばずして、万民安楽のおもひをなせり。若し御一統あらば、禍(わざわい)四海にみち、わずらひ一天に普(あまね)くして安きことなく、人民大に愁(うれう)べし。これ私を存じて随(したがい)申さざるにあらず。天下の人の歎(なげき)にかはりて、たとへば身の冥加(みょうが)つき、命を落とすといふとも、痛む可きにあらず。是れ先蹤なきにあらず、周武王・漢高祖、既に此の義に及ぶ歟(か)。それは猶自ら天下を取りて王位に居(おわ)せり。これは関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君をあやまり奉るべきにあらず、申勧(すす)むる近臣どもの悪行を罰するにてこそあれ」
これは、義時がこのように言ったと泰時が明恵上人に言っているわけで、この考えが義時のものなのか泰時のものなのか明らかでない。というのは、明恵上人の「義時泰時批判」に対する泰時の弁護だからである。またこの伝記自体がどれだけ史料的価値があるかも問題であろう。泰時と明恵上人との関係は後に記すが、しかしいずれにせよ、ここに記されている論理は孟子の「湯武放伐論」であり、この著者が孟子によって義時・泰時を正当化していることは明らかである。
「桀紂の天下を失えるは、その民を失えばなり……」にはじまる孟子の言葉の「桀紂」を「上皇」にすれば、ここで義時が言っているのはまさに孟子の言葉であり、「是れ先蹤なきにあらず……」なのである。上皇はまさに、人民を幕府の方へ迫いやってしまう。「獺(だつ)なり」「せん(亶に鳥)なり」であり、それによって否応なく民心が集まってきた幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」になった。ただ義時・泰時の場合は、天皇家を滅ぼしてかわって北条天皇になり、前の体制を浄化するだけで、そのままその体制をつづけていったわけではない。この点では「限定的中国型革命」ともいうべきものだが、この限定は孟子にとっての「天」が彼にとっては「天照大神・正八幡宮」という自己の伝統にあった点にあるであろう。だが「式目」の発布という点から見れば、これは中国の革命思想を越えており、「限定的西欧型革命」とも言えるのである。 
第三章 北条泰時の論理
衆の「棄つる所」と「推す所」
水戸彰考館の前総裁・安積澹泊(あさかたんぱく)は、『大日本史論讃』に次のように記している。
「兄弟牆(かき)にせめ(門のなかに児)ぎ、骨肉相賊(そこな)うは、蓋(けだ)し人倫の大変なり。保元の事、亦惨ならずや。崇徳上皇の戎(いくさ)を興せるは、固より名義無し。帝、已むを得ずして之に応ずるは、之を猶(ゆる)して可なり。拘(とら)えて之を流せるは己甚(はなは)だしからずや。……此(こ)れ、彝倫(いりん)(人倫)のやぶ(澤のつくりと敗のつくり)るる所なり。藤原信頼を嬖寵(男色の相手として寵愛)して、立ちどころに兵革を招き、平清盛に委任して、反って呑噬(どんぜい)に遭い、源義仲・源義経に逼られて、源頼朝を討つの誥を下すに至りては、則ち朝令夕改、天下、適従(主として従う)するを知るなし、大権、関東に潜移して、其の狙詐の術に堕つを知らず。……摂政兼実、清原頼業の語を記して曰く、『嘗(かつ)てこれを通憲法師に聞く。帝の闇主たる、古今にその比少し……』」と記し、政権が関東に移ったのは、「闇主」後白河帝の失徳が原因としている。
では、義時・泰時に配流された後鳥羽上皇その人、さらにこれを行なった当事者である泰時には、どのような評価が下されているのであろうか。確かに今までのような例があるとはいえ、これはあくまでも朝廷内のこと、たとえ幕府ができても、それが名目的には朝廷内の一機関ならともかく、「天皇制政府」以外に「幕府制政府」とも言うべきものを樹立し、陪臣でありながら三上皇を配流に付して天皇を退位させ、勝手に法律を発布するなどと言うことは、「皇国史観」の源流とされる水戸学では到底許すべからざることではないのか?
後白河帝への批判
安債澹泊(あさかたんぱく)は後鳥羽天皇の即位の異常さにまず言及する。「人君、位に即くには、必ずその始めを正しくす。その始めを正すは、その終りを正す所以なり。古より、未だ神器なくして極に登るの君あらず。元暦の践祚は、一時の権に出で、万世の法となすべからず。藤原兼実これを当時に議し、藤原冬良これを後に論ず。異邦の人すらなお白板天子(玉璽なき自称天子、白板は告命なき白い板)を議す。国朝、赫々たる神明の裔、豈(あに)、その礼を重んぜざるべけんや。これ祖宗の法を蔑(なみ)して、その始めを正さざるなり……」と。
この事件は、平宗盛が安徳天皇と神器をもって西に走ったので、後白河法皇が高倉天皇の第四子尊成親王を立てて天皇とし、神器なしで、ただ参議の藤原修範を伊勢に派遣して大神宮に新しく天皇を立てたと報告した事件を言う。これがいわば「白板天皇」の後鳥羽帝で、藤原兼実はこれを「殆為二嘲弄之基一」と記し、冬良は「先帝(安徳)筑紫へ率ておわしければ、こたみ初て三の神宝なくて、めずらしき例に成ぬべし」と記している。これは、当時の人にはショッキングな大事件であったらしく、『源平盛衰記』等でも盛んに論じられている。従って義時・泰時も、口にはしなくても当然にこのことを知っており、その心底のどこかに「後鳥羽上皇は白板天皇にすぎない」という意識はあったであろう。それを可能にしたのは、後白河法皇である。
さらに、仲恭天皇(九条廃帝)から後堀河天皇への譲位の強制・新帝擁立も、全く前例がなかったことではない、とも言い得たし、白板系を廃して正統にもどしたとも主張し得たであろう。というのは、後堀河天皇の父の後高倉院は後鳥羽天皇の兄だからである。同時に、この「白板天皇」にすぎず、「「殆為二嘲弄之基一」という状態は後鳥羽上皇にも作用して、少々異常な高姿勢を幕府に対してとらせたとも見られる。
[御承知のように、保元(ほうげん)の乱は、大雑把にいえば、鳥羽法皇と崇徳(すとく)天皇との勢力争いであり、平家も源氏もそれぞれふた派に分れて戦った。平清盛は、鳥羽法皇の側についてのし上がるきっかけをつかんだ。そのあとの平治の乱は、藤原氏と源氏が結託して起こした反乱であり、平清盛はこれを討って、権力の座を手中にした。なお、源頼朝の挙兵は、源氏と平家の戦いであり、「乱」とは言わない。源頼朝が鎌倉幕府を開いたのちも後白河法皇と後鳥羽天皇の態勢はそのまま続いたのである。その後、後白河法皇はなくなり、後鳥羽天皇がそのあとを継いで後鳥羽法皇となりすべての実権を握った。その後鳥羽法皇を、武士の頭領でもない北条一族が処分したのである。
これは大変なことで、天皇を敬う立場からは、北条一族はケシカランということになる筈である。そこをどう理解するかということがポイントであり、問題の核心部分である。
さて、山本七平は、以上のように、「皇国史観」の源流とされる水戸学において、義時・泰時のとった行動を是認しているさまを紹介しているのだが、やはり・・・後鳥羽・土御門・順徳の配流ほど驚愕すべき事件はわが国の歴史上他に例を見ない。宝字の変(皇太后孝謙が天皇淳仁を廃す)は、皇太后が天皇を幽した事件であるし、保元の乱は天皇である後白河が上皇(崇徳)を配流した事件である。
ここで水戸学は、すべての原因が「その始めを正さざる」にあったとして、批判は専ら後白河法皇に向けている。
後高倉院について説明しておこう。行助(こうじょ)親王が、後鳥羽天皇の兄である。後鳥羽上皇が何故兄の行助親王をさしおいて天皇になったかはよく判らない。多分、そうしたのは後白河法皇であろう。行助(こうじょ)親王が後高倉院となる。つまり行助親王は、天皇の位につかないでいきなり法皇の位についたのである。
なお、仲恭天皇は、順徳天皇の子であるが、天皇の位についたのかそうでないのかよく判らない人である。順徳天皇から位を譲られたにもかかわらず即位式が行なわれていない。だから、順徳天皇がそのまま天皇をつづけていたとも言い得るであろう。仲恭天皇は明治初年に天皇に認定されたが、後堀川天皇の即位とともに廃帝された・・・という扱いになっている。行助親王の子、茂仁王が後堀川天皇になって一件落着となった。
ちなみに、安徳天皇は、よく知られているように、源平の戦いで海に身を投ぜせしめられ、海の藻くずと消え去った。鳥取に落ちのびたとも言われている。]
80 / 高倉天皇――81 / 安徳天皇
  後高倉院→86 / 後堀川天皇
    82 / 後鳥羽天皇――83 / 土御門天皇
      84 / 順徳天皇―→九城廃帝(85 / 仲恭天皇)
なぜ泰時だけがべタホメか
さらに泰時は、京都に進撃した総司令官であり、そのうえ朝廷から立法権を奪って勝手に『関東御成敗式目』という法律を発布した。
こう見てくると、天皇のみ正統でこれが絶対なら、泰時は日本史上最大の叛逆者であり、どのような罵詈讒謗が加えられても不思議でないはずである。
ところがまことに不思議なことだが、泰時への非難はまさにゼロに等しい。「皇国史観」の源流とされる水戸学でも、当然、泰時への批判は実に峻烈になりそうなものだが、奇妙なことに「ベタホメ」なのである。
そうした考え方はまさに孟子の革命論――天意=人心論――であろう。「白板天子」後鳥羽上皇への「嘲弄」と、その失徳と失政は、結果として孟子のいう「獺(だつ)(かわうそ)なり、せん(亶に鳥)(とび)なり」となって人民を幕府の方へ追いやってしまったので、幕府は「王たることなからんと欲すといえども、得べからざるのみ」という形になった。それなのに義時は終生「位、四品を踰えず」で自らが王になろうとする野心なく、専ら仁政を施したのは立派で、「天下に功無しと請うべからず」なのである。義時でさえこうであれば泰時が「ベタホメ」になって不思議ではない。
『貞永式目』は徳川時代にも「標準」であり、広く民間に浸透し、明治五年までは寺子屋の教科書で、明治二十二年の憲法、二十三年の民法公布まで日本人の「民の法」の基本となっていた。だが『貞永式目』という法の公布には、天皇は一切タッチしていない。日本人は長いあいだ幕府の執権が定めた法の下にいたわけで、この時以降を「幕府法の時代」と規定してよいであろう。
その意味では確かに「ベタホメ」は当然なのだが、これを「人神共に憤る」という後鳥羽上皇の項の批判と対照すると、日本人の政治意識とは全く不思議なものだと思わざるを得ない。というのは天皇からの奪権者への「ベタホメ」は、天皇制の否定のはずだからである。
だがさらに澹泊(たんぱく)は、承久の乱における泰時の態度には、ただ「弁護のみ」で、次のように記している。「承久の変に、義時を諫争し、言、切なりといえども聴かれず。その、兵を将(ひき)いて王師に抗するや、遂に乗輿を指斥する(仲恭天皇を退位させたこと)に至れるは、その本心に非ず、誠に已むことを得ざればなり。四条帝崩ずるに至りて、則ち籤(くじ)を探りて策を決し、土御門の皇胤を翊戴(よくたい)す。乃心(たいしん)王室(心、王室にあり)、亦従(よ)りて知るべきなり。源親房謂う『承久の事は、その曲、上に在り。泰時は義時の成績を承け、志を治安に励み、毫も私する所無し』と。これ、以て定論となすべし」と。
日本人の心底にある理想像
『神皇正統記』の著者の北畠親房・・・この南朝正統論の「生みの親」こそ、最も徹底した泰時批判論者であって不思議ではない。それがやはり、「後鳥羽上皇がよろしくない」であり、「泰時は立派だ」としている。
まことに不思議なのだが、その立場からして当然に泰時に徹底的な批判を加えて然るべき人間が、すべて「泰時だけは別」としている。
一体この不思議はどこから出たのであろう――それを探究するのが本稿の目的の一つである。というのは、その国の歴史において、彼のような位置にありながら「ベタホメ」にされるということは、日本人の心底にある、ある種の「理想像」を彼が具現していたと思われ、その理想像を形成した「思想」と彼の制定した「法律」こそ、以後の基準になっていると思われるからである。
「将軍なき幕府」の自壊を待つ
後鳥羽上皇が期待していたのは「幕府の自壊」であった。事実、後鳥羽上皇が泰時に等しい「徳」と「政治力」をもっていたらこれは可能だったかも知れない。というのは幕府の中心たるべき源実朝には子供がなく、その「象徴的中心」は失われようとしていた。義時は政子を京都に派遣し、実朝の後継者として皇族将軍を東下させることを院の当局者と密約していた。いわば義時自身、自分と朝廷との間に立ちうる「仲介的人間」を欲していたわけである。だが実朝が死ぬと院はこの件をうやむやにし、中心を失わせて御家人相互を争わせ、その間に、個々に朝廷側に寝返らせて、北条政権を崩壊させようとした。
そこで実朝弔問と同時に摂津の国長江・倉橋両荘の地頭改補を幕府に命じた。同荘の領家は、院の寵愛する伊賀局亀菊のものであったが、地頭が亀菊の命に従わなかったというのがその理由である。ところがこれは幕府にとって重要な問題であり、もしこれが前例になれば、地頭への任免権は実質的に朝廷に奪われる。従って、勲功の賞によって与えられた地頭職を罪科なく免ずることはできず、義時は、弟の時房に一千騎をさずけて上洛させ、院に拒否を回答させた。一種の力の誇示による圧力であろう。こうなると半ば決裂状態であり、院による皇族将軍の東下などは期待できない。そこで頼朝の外孫の左大臣九条道家の幼児三寅を将軍に迎えることにした。
無条件降伏論者の泰時
後鳥羽院は、北面の武士を中心に、寺社の僧兵や神人をも誘い、さらに承久三年四月に順徳天皇が仲恭天皇に譲位してこれを助けるという体勢をとった。その上で、在京中の御家人を味方に誘い、幕府と親しかった西園寺公経(きんつね)を幽閉し、同年五月十五日、諸国に義時追討の院宣・宣旨が下され、ここに承久の乱は勃発した。いわば仕掛けたのはあくまでも朝廷側である。
こうなると、鎌倉側も早速に対応策を考えねばならない。しかし泰時はこのときまず「無条件降伏論」を展開したという。
果して事実か否かはわからない。泰時と明恵上人が非常に親しく、共に尊敬し合う間柄であったことは、両者が交換した和歌が残っているから事実であろうが、『明恵上人伝記』の中に記されていることが、ことごとく事実ではないかも知れぬ。しかし、この泰時の態度は、他の資料と対比して矛盾がないことも事実なのである。彼はあらゆる点で「消極論」であり、もし上皇が討伐軍を東下させるなら、箱根・足柄を防御線としてこれを防ごうと提案している。
そしてこの点から見れば、泰時の「無条件降伏論」なるものも、後に足利尊氏がとった方策と変らないのではないか、とかんぐることも可能なのである。いわば、これほど恭順の意を表しているのに、なお朝廷が高圧的に出れば、御家人は「明日はわが身か……」と思って逆に団結する。その団結したところで、長途の遠征で疲れた敵を箱根の山岳地帯で迎撃すれば必ず勝つ。勝った上で院宣・宣旨の撤回を求めれば、天皇と戦場で直接的に対決することは避けられる。もしこれが真相なら、泰時は相当な策士ということになるであろう。
賽は投げられた
いずれにせよ軍議では、無条件降伏論も迎撃論も斥けられ、出撃論が採択された。しかしこれは必ずしも多数意見でなく大江広元が強く主張し、尼将軍政子がこれに同調したためと思われる。
政子の名演説の「名を惜しむの族(やから)は、早く秀康・胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」
評議の結果は泰時・時房を大将軍とし、武蔵の軍勢が集まりしだい出撃ときまり、ついで遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の諸国に飛脚をとばして御家人の参向を求めることになった。これがいわゆる東国だが、当時の幕府の直接的な支配圏はわずかこれだけである。
この場合は、朝廷の切り崩しが成功するか、幕府側がこれをはねのけて団結するかが勝敗の分れ目であり、その点から見れば、武士団を「戦争へと踏み切らせる」ことが第一のはずである。大江広元はこの点をよく理解していた。彼は義時に向って即時出撃を強く主張し、その結果、泰時は軍勢の到着を待たず、二十二日払暁京都に向って進撃することになった。藤沢を出たとき、従うものは子息時氏以下十八騎にすぎなかったという。まさに「賽(さい)は投げられた」であったろう。
このようにして泰時は出発した。しかし彼は途中で引返してきて、上皇が自ら出陣したときに取るべき態度を義時にたずねた。これは彼にとっても、武士団にとっても大きな問題であったろう。義時は次のように答えたという。
「かしこくも問えるおのこかな。その事なり、まさに君の御輿に向いて弓を弓くことはいかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ、弓のつるをきりて、ひとえにかしこまり申して、身を任せたてまつるべし。さはあらで、君は都におわしましながら、軍兵をたまわせば、命をすてて千人が一人になるまで戦うべし」と。
おそらく、このことを武士団が知ったら士気の低下を招くであろう。というのは「こういう事態になったら無条件で降伏である」という前提で戦争ははじめられるものではない。それを知れば、戦う気力は失せてしまう。さらにこのことが裏切者を通じて敵にもれれば、敵ははじめからそれを作戦として用いるであろう。それを避けるためにこのような方法をとったとすれば、泰時は決して、単純なる「忠誠の人」とはいえず、この点では「尊氏の出家」以上の政治力をもった人間かも知れないのである。 
第四章 「承久の乱」の戦後処理
6月16日、泰時は、六波羅の屋敷に入って占領行政を開始した。泰時が18騎とともに鎌倉を進発してから21日目のことである。さっそく上皇は泰時に勅使を派遣し、この討幕の挙は謀臣の計画で自分の意思でなく、すべては幕府の申請のまま宣下すると申入れた。
終戦処理の最高方針を決定したのは義時であったが、義時は、実に巧妙なやり方で終戦処理を行なった。詳しくは省略するが、まず後鳥羽上皇に部下を処分させた。まず「上下」を分断してから「上」の処分にかかった。この辺は確かに辛辣きわまりない。彼の意図は、幕府の要求がそのまま通る朝廷へと改組することであった。
そして、7月9日、新天皇(後堀川)が決るやいなや、三上皇の配流が決った。7月13日のことである。土御門は早く世を去ったが、その後、二上皇の還京運動が起っている。だが泰時は頑としてこれを拒否している。
なお、幕府は、朝廷側に味方した公家・武士の所領を調査して没収した。3000余ケ所にのぼったとういう。
しかし、泰時は、厳しいばかりではなかったようだ。大体において処罰の嫌いな人間であったようで、のちに義時の後妻の伊賀氏が、義時の死後、泰時を廃して自分の子政村を執権にしようとした陰謀のときでも、処刑者なし、首謀者三人への幽閉と遠流のみで、他は一切処罰なしで事をおさめている。承久の変で処刑者が少なかったのもおそらく彼の建議で、また彼は、敵方の人間を助けようとさまざまに努力している。
明恵上人との出会い
そういう彼であっても、敗残兵の小部隊で所々に蟠踞して盗賊化すれば治安上放置するわけにはいかない。ところが栂尾の山中に多くの軍兵が隠れているという風説があり、そこで安達景盛が山狩りを行ない、どうも意識的に軍兵をかくまっているらしい僧侶を見つけて逮捕し、これを泰時の面前に引きすえた。これが高山寺の明恵(みょうえ)上人であった。泰時は驚いて明恵上人を上座にすえ、この非礼にどうしてよいかわからぬ体であった。上人は静かに口を切ると次のように言った(くわしくは後に全文を引用するが、まずここではその要旨を記しておこう)。
「高山寺が多くの落人を隠して置いたという風説があるそうだが、いかにもその通りであろう。大体私は、貴賤で人を差別しようという心を起すことさえ、沙門にあるまじきことと考え、そういう心をきざしても、それを打消すことにしている。また人から何かの縁で祈祷を頼まれても、もし祈って助けることができるなら、何よりも先に一切衆生が三途に沈んで苦しむのを助けるべきで、夢のような浮世のしばしの願などを祈ることは、大事の前の小事だから受けつけたことはない。このようにして歳月をすごして来たから、私に祈ってもらったなどという人はこの世にはいないであろう。しかしこの山は、三宝寄進の所で殺生禁断の地である。鷹に追われる鳥も、猟師に追われる獣も、みなここに隠れて助かる。では、敵に追われた軍兵が、かろうじて命を助かり、木や岩の間に隠れているのを、わが身への後の咎を恐れ、情容赦なく追い出し、敵に捕えられ命を奪われても平然としておられようか。私の本師釈迦如来の昔は、鳩に代って全身を鷹の餌とし、また飢えた虎に身を投げたという話もある。それほどの大慈悲には及ばないが、少しばかりのこともしないで、よいであろうか。隠し得るならば、袖の中にも袈裟の下にも隠してやりたいと思う。この後も助けよう。もしこれが政治のために困ると言うなら致し方ない。即座に私の首をはねられたらよかろう」
泰時は深く感動し、武士の狼籍を詫び、輿を用意して高山寺に送りとどけた。この話はどこまで事実かわからない。しかし明恵上人と泰時との運命的な出会いが、彼が六波羅に居たときのことであったのは事実、また泰時が心の底から尊敬したのは明恵上人であり、同時に、泰時に決定的な感動を与えたのも明恵上人であったであろう。これは二人が交わした歌にも表われている。天皇も上皇も泰時には絶対でなかった。そして絶対だったのは、おそらく明恵上人なのである。 
第五章 明恵上人の役割
明恵上人に感動して
明恵上人と泰時の邂逅は、余りに<劇的>で話がうまく出来すぎているので、これをフィクションとする人もいる。しかし明恵上人が何らかの形で幕府側から尋問されたことは、きわめてあり得る事件である。
というのは、いずれの時代も無思想的短絡人間の把握の仕方は「二分法」しかない。現代ではそれが保守と革新、進歩と反動、タ力とハト、右傾と左傾、戦争勢力と平和勢力という形になっているが、二分法的把握は承久の変の時代でも同じであった。まして戦闘となれば敵と味方に分けるしかない。その把握を戦闘後まで押し進めれば、朝廷側と幕府側という二分法しかなくなる。そしてそういう把握の仕方をすれば明恵上人は明らかに朝廷側の人間であった。否、少なくともそう見られて当然の社会的地位と経歴をもっていた。その人間に不審な点があれば、三上皇を島流しにし、天皇を強制的に退位させた戦勝に驕る武士たちが、明恵上人を泰時の前に引きすえたとて不思議ではない。さらに彼に、叡山や南都の大寺のような、配慮すべき政治的・武力的背景がないことも、これを容易にしたであろう。
ところがこの明恵上人に感動して泰時がその弟子となった。このことはフィクションではない。
明恵上人の泰時への影響は実に大きく、明恵の弟子喜海が著わしたといわれる『栂尾明恵上人伝記』によると後の泰時の行動原理はすべて明恵上人から出たもので、彼の時代に天下がよく治まったのも、彼自身が生存中も死後も前述のように「ベタホメ」であるのも、すべて明恵の教えに従ったためだと言うことになる。こうなると『貞永式目』にも明恵上人の思想が深く反映していることになるが、これが果して事実であろうか。
事実とすれば、どのような思想に基づく「法」が、徳川時代にも安積澹泊(あたかたんぱく)の言うように民の標準であり、明治の民法典論争から民法の制定まで、現実に日本人を規制していたのであろうか。これはわれわれの社会に最も長く存続した法であり、また生活規範であったから、現実には今なおわれわれの「本音の規範」の基となっているがゆえに大きな問題と思われる
明恵上人が生れたのは承安三年(一一七三年)、親鸞も同じ年に生れているから二人は同年である。いわばこの対蹠的とも言える二人は同じ激動の時代を生きていた。それは宗教的にも政治的にも新しい日本が新しい規範と秩序のもとに生れ変わる「生みの苦しみ」の時代であり、この二人の思想家が共にその後の日本に決定的に影響を与えた。
栂尾(とがのお)の高山寺の経蔵に伝わるおびただしい数の古典籍は、800年の時間に耐えて来た中世の総合図書館の相貌を今に示している。その中心はいうまでもなく明恵とその弟子たちが形成したものであるが、それらは決して栂尾の地に自然に集積したものではない。一冊、一巻に明恵の遍歴の生涯のあとがしるされ、弟子たちの随従のあとがしのばれる。そうした典籍の森の中に立つと、鎌倉時代の初頭に成立して行った一つの信仰集団の緊張と豊饒がひしひしと伝わって来る。その核といった明恵は、いわば硬質の存在としての仏教者である」・・・・と。事実、その蔵書目録の中の明恵上人による書写と著作の量もまた驚くべきものであり、著書だけで七〇巻に及ぶという。
政治的変革の誘発者
『古今著聞集』や『沙石集』にある説話は当時多くの人が知っていた明恵上人の面影であろうが、それらはまことに「この世離れ」のした話であって、世人にこのように映じた人から直接的な政治的影響を受けるなどとは、まず、考えられないからである。
では一体こういう人が、大きな政治的・社会的影響力を持ち得るのであろうか。それはありそうもないことに思われるが、最も非政治的な人間こそ、大きな政治的変革を誘発し得るのである。
西欧型革命の祖型は、体制の外に絶対者(神)を置き、この絶対者との契約が更改されるという形ですべてを一新してしまう「申命記型革命」である。
この場合それは、現実の利害関係を一切無視し、歴史を中断して別の秩序に切り替えるという形で行なわれるから、体制の中の何かに絶対性を置いたら行ない得ない。従って革命はイデオロギーを絶対化し、これのみを唯一の基準として社会を転回させるという形でしか行ない得ないわけである。
体制の内部に絶対性を置けば、それは、天皇を絶対としようと幕府を絶対としようと、新しい秩序の樹立は不可能である。
[体制の内部に絶対性を置きながら新しい秩序を樹立することはできない。しかし、新しい秩序を確立しなければならない。古い秩序の継続と新しい秩序の創造、この矛盾をどう解決するか。そこで明恵の思想・「あるべきようは」が光り輝いて来るのである。] 
第七章 明惠の「裏返し革命思想」
自然的秩序への絶対的信頼
政権を維持するにはどうしたらよいか
「国会で多数を維持すればよい」
「では、多数を維持するにはどうすればよいか」
「国民の支持を得ればよい」
では、以上のすべての支持を得るにはどうすればよいか。すべての人がこうあってほしいという期待に答えればよい、それだけになる。ではどうすればそれが可能なのか。
そこに出てくるのが『明恵上人伝記』の中の、覚智伝承ともいうべき部分である。
秋田城介入道大蓮房覚知(あきたじょうのすけにゅうどうだいれんぼうかくち)語(かた)りて云(い)はく、
「泰時(やすとき)朝臣(あそん)常(つね)に人(ひと)に逢(あ)ひて語(かた)り給(たま)ひしは、我(われ)不肖(ふしょう)蒙昧(もうまい)の身(み)たりながら辞(じ)する理(り)なく、政(まつりごと)を務(つかさど)りて天下(てんか)を治(をさ)めたる事(こと)は、一筋(ひとすぢ)に明恵上人(みょうえしょうにん)の御恩(ごおん)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は承久大乱(じょうきゅうのたいらん)の已(い)後(ご)在京(さいきょう)の時(とき)、常(つね)に拝謁(はいえつ)す。或時(あるとき)、法談(ほうだん)の次(ついで)に、『如何(いか)なる方便(ほうべん)を以(もつ)てか天下(てんか)を治(をさ)むる術(じゅつ)候(さうら)ふべき』と尋(たづ)ね申(まう)したりしかば、上人(しょうにん)仰(おほ)せられて云(い)はく、『如何(いか)に苦痛(くつう)転倒(てんどう)して、一身(いっしん)穏(おだや)かならず病(や)める病者(びょうじゃ)をも、良医(りょうい)是(これ)を見(み)て、是(こ)れは寒(かん)より発(おこ)りたり、是(こ)れは熱(ねつ)に犯(をか)されたりと、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)って、薬(くすり)を与(あた)へ灸(きゅう)を加(くは)ふれば、則(すなは)ち冷熱(れいねつ)さり病(やまひ)癒(いゆ)るが如(ごと)く、国(くに)の乱(みだ)れて穏(おだや)かならず治(をさま)り難(がた)きは、何(なん)の侵(をか)す故(ゆゑ)ぞと、先(ま)づ根源(こんげん)を能(よ)く知(し)り給(たま)ふべし。さもなくて打(う)ち向(むか)ふままに賞罰(しょうばつ)を行(おこな)ひ給(たま)はば、弥ゝ(いよいよ)人(ひと)の心(こころ)かたましく(ねじけて)わわく(みだりがましく)にのみ成(な)りて、恥(はぢ)をも知(し)らず、前(まへ)を治(をさ)むれば後(うしろ)より乱(みだ)れ、内(うち)を宥(なだ)むれば外(そと)より恨(うら)む。されば世(よ)の治(をさ)まると云(い)ふ事(こと)なし。是(こ)れ妄医(もうい)の寒熱(かんねつ)を弁(わきま)へずして、一旦(いったん)苦痛(くつう)のある所を灸(きゅう)し、先(ま)づ彼(かれ)が願(ねが)ひに随(したが)ひて、妄(みだ)りに薬(くすり)を与(あた)ふるが如(ごと)し。忠(ちゅう)を尽(つ)くして療(りょう)を加(くは)ふれども、病(やまひ)の発(おこ)りたる根源(こんげん)を知(し)らざるが故(ゆゑ)に、ますます病悩(びょうのう)重(かさな)りていえざるが如(ごと)し。されば世(よ)の乱(みだ)るる根源(こんげん)は、何(なに)より起(おこ)るぞと云(い)へば、只欲(ただよく)を本(もと)とせり、此(こ)の欲心(よくしん)一切(いっさい)に遍(あまねく)して万般(ばんぱん)の禍(わざはひ)と成(な)るなり、是(こ)れ天下(てんか)の大病(たいびょう)に非(あら)ずや。是(こ)を療(りょう)せんと思(おも)ひ給はば、先(ま)づ此(こ)の欲心(よくしん)を失(うしな)ひ給(たま)はば、天下(てんか)自(おのづか)ら令(れい)せずして治(をさま)るべし』と云々(うんぬん)」
この言葉は、「明恵上人はこのように語った」と泰時が語っているわけで、明恵上人の言葉を聞いたままに記したものではない。その上、さらにそれを大蓮房覚智がだれかに語り、それが覚智伝承となって世に伝わってこの『伝記』に収録されたのだから、泰時の受取り方、さらに覚智の解釈その他が当然に入っているであろう。そのため大変に「通俗的訓話」のようになってはいるが、その基本までもどってみると明恵上人の考え方は、実にユニークだといわねばならない。だが両者の考え方が混淆していると見て、これを一応、明恵―泰時政治思想としておこう。
ユニークというのは、国家の秩序の基本の把え方で、明恵上人は「人体内の秩序」のように、一種、自然的秩序と見ている点である。明恵上人に本当にこういう発想があったのであろうか。この記述は史料的には相当に問題があると思われるが、以上の発想は、明恵上人その人の発想と見てよいと思う。というのは、「島へのラブレター」がそれを例証しており、このラブレターの史料的価値は否定できないからである。
「その後、お変りございませんか。お別れしまして後はよい便(べん)も得られないままに、ご挨拶(あいさつ)もいたさずにおります。いったい島そのものを考えますならば、これは欲界(よくかい)に繋属(けいぞく)する法であり、姿を顕(あらわ)し形を持つという二色(にしき)を具(そな)え、六根(ろっこん)の一つである眼根(げんこん)、六識(ろくしき)の一つである眼識(がんしき)のゆかりがあり、八事倶生(ぐしょう)の姿であります。五感によって認識されるとは智(ち)の働きでありますから悟らない事柄(ことがらが働くとは理すなわち平等であって、一方に片よるということはありません。理すなわち平等であることこそ実相ということで、実相とは宇宙の法理(ほうり)そのものであり、差別の無い理、平等の実体が衆生(しゅじょう)の世界というのと何らの相違はありません。それ故に木や石と同じように感情を持たないからといって一切(いっさい)の生物と区別して考えてはなりません。ましてや国土とは実は『華厳経(けごんきょう)』に説(と)く仏の十身中最も大切な国土身に当っており、毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)のお体の一部であります。六相まったく一つとなって障(さわ)りなき法門を語りますならば、島そのものが国土身で、別相門からいえば衆生身(しゅじょうしん)・業報身(ごうほうしん)・声聞身(しょうもんしん)・菩薩身(ぼさつしん)・如来身(にょらいしん)・法身(ほつしん)・智身(ちしん)・虚空身(こくうしん)であります。島そのものが仏の十身の体(てい)でありますから、十身相互にめぐるが故に、融通無碍(ゆうずうむげ)で帝釈天(たいしゃくてん)にある宝網(ほうもう)一杯(いっぱい)となり、はかり得ないものがありまして、我々の知識の程度を越えております。それ故に『華厳経』の十仏の悟りによって島の理(ことわり)ということを考えますならば、毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)といいましても、すなわち島そのものの外にどうして求められましょう。このように申しますだけでも涙がでて、昔お目にかかりました折からはずいぶんと年月も経過しておりますので、海辺で遊び、島と遊んだことを思い出しては忘れることもできず、ただただ恋い慕(した)っておりながらも、お目にかかる時がないままに過ぎて残念でございます」
確かに現代人は、明恵上人の世界を共有することはむずかしい。しかし明恵上人が、真に「島を人格ある対象」と見ていたことはこれで明らかであろう。同様に日本国そのものも「国土身」という人格ある対象であるから、まずこれに「人格のある対象」として「医者の如く」に対しなければならぬというのが、その政治哲学の基礎となっている。
これを政治哲学と考えた場合、それは「汎神論的思想に基づく自然的予定調和説」とでも名づくべき哲学であろう。というのは、国家を一人体のように見れば、健康ならそれは自然に調和が予定されており、何もする必要はないからである。前に私は、これを「幕府的政治思想の基本」としてハーバードのアブラハム・ザレツニック教授に説明したとき、「一種の自然法(ナチュラル・ロー)的思想」だと言ったところ、同教授は「法(ロー)であるまい、秩序(オーダー)であろう」と言われたが、確かに「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」への絶対的信頼が基本にある思想といわねばなるまい。これは非常に不思議な思想、「裏返し革命思想」ともいうべき思想である。
なぜこれが「裏返し革命思想」といえるのか
固有法と継受法
革命は「西欧型革命」と「中国型革命」に大別できるが、義時、泰時の行動は現象的にはむしろ「限定的西欧型革命」というべきだ。
天皇から権力を奪取してこれを虚位に置き、『貞永式目』などという法律を武蔵守にすぎない泰時が天皇の裁可も経ずに一方的に公布・施行してしまうなどという革命は、中国型革命にはない行き方だからである。では西欧型革命なのであろうか。現象的・限定的にはそう見えるが、決してそうは言えないのは「明恵―泰時政治思想」が、西欧型革命の基本とは全く違うからである。
西欧型革命の基本型ともいうべきヨシヤ王の申命記革命について言えば、それはいわば神殿から出てきた「神との契約書」の通りに社会を基本から変えていこうという革命である。この行き方は、その契約書に記されている「言葉(デバリーム)」が絶対なのであり、現に存在する「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」が絶対なのではない。『申命記』はへブライ語聖書の書名では「言葉(デバリーム)」であるが、「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」はこの「言葉(デバリーム)」で示されている通りに再構成すべき対象で、この「言葉」の方が絶対で、現存する秩序は絶対ではないのである。この基本的な考え方の違いは今も欧米と日本との間にある。
では「自然的秩序(ナチュラル・オーダー)」を絶対化し、「言葉」によって構成された世界を逆に否定するという明恵の「裏返し革命」が、どうして「限定的西欧型革命」のような形になったのであろうか。
幕末の国学系の歴史家伊達千広は、その署『大勢三転考』において、日本の歴史を三期に区分し、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名の代」とした。面白いことに彼もまた明恵上人と同じように紀州の出身であり、明治の政治家陸奥宗光の実父である。
この区分は、政権の交替でなく、政治形態という客観的な制度の変革による本格的な歴史区分であり、それをそのまま歴史的事実として承認しているからである。この見方は、天皇親政を日本のあり方と規定し、幕府制を歴史の誤りとする皇国史観的見方とは基本的に相容れない。
彼の三大区分のそれぞれを簡単に記せば「骨(かばね)の代」とは、古代の日本の固有法文化に基づくもので、その基本は、国造・県主・君・臣のように居地と職務が結合した血族集団を基礎とする体制で、これを身体にたとえれ