石原莞爾将軍の遺書

石原莞爾将軍の遺書石原莞爾
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失敗に学ぶものがあるか

雑学の世界・補考   

新日本の進路 / 石原莞爾将軍の遺書

人類歴史は統制主義の時代にある
フランス革命は專制主義から自由主義えの轉換を決定した典型的自由主義革命であり、日本の明治維新もこの見地からすれば、自由主義革命に属する。自由主義は專制主義よりも遙かに能率高き指導精神であつた。しかるに第一次大戰以後、敗戰國もしくは後進國において、敗戰から立上り、或は先進國に追いつくため、自由主義よりも更に能率高き統制主義が採用された。ソ連の共産黨を含み、あらゆる近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、遲れ馳せながらスペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等はいづれもこれである。依然として自由主義に止つた諸國家も、第二次大戰起り、ドイツのフランス、イギリスにたいする緒戰の壓倒的勝利、さてはドイツの破竹の進撃にたいするソ連の頑強なる抵抗を見るにおよんで、自由主義をもつてしては到底統制主義の高き能率に匹敵し得ざることを認め、急速に方向を轉換するに到つた。自由主義は人類の本能的欲求であり、進歩の原動力である。これにたいし、統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となつている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がずつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲ぐるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來つたのである。專制から自由え、自由から統制えの歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。
日本は統制主義國家として獨立せねばならぬ
アメリカは今日、日本を自由主義國家の範疇において獨立せしめんとしている。しかし嚴密なる意味における自由主義國家は、既に世界に存在しない。そもそも、世界をあげて自由主義から統制主義に移行したのは、統制主義の能率が自由主義に比べて遙かに高かつたからである。イタリア、ドイツ、日本等、いづれも統制主義の高き能率によつて、アメリカやイギリスの自由主義と輸贏を爭わんとしたのである。これがため世界平和を攪亂したことは嚴肅なる反省を要するが、それが廣く國民の心を得た事情には、十分理解すべき面が存するであろう。ただしアメリカが自由主義から堂々と統制主義に前進したに反し、イタリアもドイツも日本も、遺憾ながら逆に專制主義に後退し、一部のものの獨裁に陷つた。眞のデモクラシーを呼號するソ連さえ、自由から統制えの前進をなし得ず、ナチに最も似た形式の獨裁的運營を行い、專制主義に後退した。唯一の例外に近きものは三民主義の中國のみである。かく觀じ來れば、世界は今日、統制主義のアメリカと專制主義に後退せるソ連との二大陣營の對立と見ることもできる。この觀察にはいまだ徹底せざる不十分さがあるかも知れぬが、日本が獨立國家として再出發するに當つては、共産黨を斷然壓倒し得るごときイデオロギー中心の新政黨を結成し、正しき統制主義國家として獨立するのでなければ、國内の安定も世界平和えの寄與も到底望み得ざるものと確信する。もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によつて、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。
東亞的統制主義の確立 / 東亞連盟運動の回顧
世界はその世界性と地方性の協調によつて進まねばならぬ。東亞の文化の進み方には、世界の他の地方と異る一つの型がある。故に統制主義日本を建設するに當つても、そのイデオロギーは東亞的のものとなり、世界平和とよく協調しつつ東亞の地方性を保持して行かねばならぬ。前述のごとく、幾多の統制主義國家が專制主義に後退した。しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蒋氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが見られる。毛澤東氏の新民主主義も、恐らくソ連のごとき專制には墮せず、東洋的風格をもつ優秀なる思想を完成するに相違いない。我等は國共いづれが中國を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亞的指導原理の確立に努力すべきである。この態度はまた、朝鮮新建設の根本精神とも必ず結合し調和し得るであろう。しからば日本はどうであるか。大政翼賛會は完全に失敗したが、私の関係した東亞連盟運動は、三民主義や新民主主義よりも具体案の点において更に一歩進んだ新しさを持つていたのではないかと思う。この運動は終戰後極端なる保守反動思想と誤解され、解散を命ぜられた。それは私の持論たる「最終戰論」の影響を受けていたことが誤解の原因と想像されるが、「最終戰論」は、これを虚心に見るならば、斷じて侵略主義的、帝國主義的見解にあらず、最高の道義にもとづく眞の平和的理想を内包していることが解るであろう。東亞連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのである。東亞連盟の主張は、經濟建設の面においても一の新方式を提示した。
今日世界の經濟方式は、アメリカ式かソ連式かの二つしかない。しかしこれらは共に僅かな人口で、廣大な土地と豊富な資源のあるところでやつて行く方式である。日本は土地狹く資源も貧弱である。しかも人口は多く、古來密集生活を營んで來た文化的性格から部落中心に團結する傾向が強い。こんなところでは、その特殊性を生かした獨自の方式を採用せねばならぬ。アメリカ式やソ連式では、よしトルーマン大統領やスターリン首相がみづから最高のスタツフを率いてその衝に當つても、建設は成功し難いであろう。東亞連盟の建設方式によれば、國民の大部分は、各地方の食糧生産力に應じて全國農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として一村を構成し、食糧を自給しつつ工業其他の國民職分を擔當する。所謂農工一体の体制である。しかして機械工業に例をとれば、農村の小作業場では部品加工を分擔しこれを適當地域において國營もしくは組合經營の親工場が綜合統一する。この種の分散統一の經營方式こそ今後の工業生産の眼目たるべきものである。しかしてかくのごときは、事情の相似た朝鮮や中國にも十分參考となり得るのではあるまいか。また東亞連盟運動は、その實踐においても極めてデモクラチツクであり、よくその統制主義の主張を生かした。組織を見ても、誰もが推服する指導者なき限り、多くの支部は指導者的支部長をおかず、すべて合議制であつた。解散後數年を經た今日、尚解散していないかのごとく非難されているが、これは運動が專制によらず、眞に心からなる理解の上に立つていた實情を物語つている。
今日私は、東亞連盟の主張がすべて正しかつたとは勿論思わない。最終戰爭が東亞と歐米との兩國家群の間に行われるであろうと豫想した見解は、甚しい自惚れであり、事實上明かに誤りであつたことを認める。また人類の一員として、既に世界が最終戰爭時代に入つていることを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈つている。しかし同時に、現實の世界の状勢を見るにつけ、殊に共産黨の攻勢が激化の一途にある今日、眞の平和的理想に導かれた東亞連盟運動の本質と足跡が正確に再檢討せらるべき緊急の必要ありと信ずる。少くもその著想の中に、日本今後の正しき進路が發見せらるべきことを確信するものである。
我が理想
超階級の政治
マルクスの豫言によれば、所謂資本主義時代になると社會の階級構成が單純化されて、はつきりブルジヨアとプロレタリアの二大陣營に分裂し、プロレタリアは遂に暴力革命によつてブルジヨアを打倒するといわれている。しかしこの豫言は、今日では大きく外れて來た。社會の階級構成はむしろ逆に、文明の進んだ國ほど複雜に分化し、ブルジヨアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増加しつつあり、これが社會發展の今日の段階における決定的趨勢である。共産黨はかかる趨勢に對處し、プロレタリアと利害一致せざる階級或は利害相反する階級までも、術策を弄して自己の陣營に抱込み、他方暴力的獨裁的方式をもつて、少數者の獨斷により一擧に事をなさんとしている。しかし右のごとき社會發展の段階においては、國家の政治がかつてのブルジヨアとかプロレタリアのごとき、或階級の獨裁によつて行われることは不當である。我等は今や、超階級の政治の要望せらるべき時代を迎えているのである。今日までの政治は階級利益のための政治であつた。これを日本でいえば、民主自由黨はブルジヨアの利益を守り、共産黨がプロレタリアの利益を代表するがごとくである。しかるに政治が超階級となることは、政治が「或階級の利益のために」ということから「主義によつて」「理想のために」ということに轉換することを意味している。ナチス・ドイツやソ連の政治が共にイデオロギーの政治であり、アメリカのデモクラシーも最近ではイデオロギー的に変化して來たこと前述の通りであるが、これらは現實にかくのごとき世界的歴史的動向を示すものである。かくして政治はますます道義的宗教的色彩を濃厚にし、氣魄ある人々の奉仕によつて行わるべきものとなりつつある。私は日蓮聖人の信者であるが、日蓮聖人が人類救濟のために説かれた「立正安國」の教えは、「主義によつて」「理想のために」行われる政治の最高の理想を示すものである。「立正安國」は今やその時到つて、眞に實現すべき世界の最も重大なる指導原理となり來つたのである。人は超階級の政治の重大意義を、如何に高く評價しても尚足りぬであろう。
經濟の原則
超階級の政治の行わるべき時代には、經濟を單純に、資本主義とか社會主義とか、或は自由經營とか官公營とか、一定してしまうのは適當でない。これらを巧みに按配して綜合運用すべき時代となつているのである。ここにその原則を述ぶれば次のごとくである。
第一。最も國家的性格の強い事業は逐次國營にし、これが運營に當るものは職業勞働者でなく、國家的に組織されたる青年男女の義務的奉仕的勞働たるべきである。我等はブルジヨアの獨裁を許し得ざるごとく、プロレタリア、つまり職業勞働者の獨裁をも許し得ざるものである。
第二。大規模な事業で、國民全体の生活に密接なる関係あり、經營の比較的安定せるものは逐次組合の經營に移す。かくして國家は今後組合國家の形態に發展するであろう。戰爭準備を必要とする國家においては、國家權力による經濟統制が不可欠である。しかし日本は既に戰爭準備の必要から完全に解放された。組合國家こそ、日本にとつて最適の國家体制である。
第三。しかし創意や機略を必要とし、且つ經營的に危險の伴う仕事は、やはり有能なる個人の企業、自由競爭にまかすことが最も合理的である。特に今日の日本の困難なる状勢を突破して新日本の建設を計るには、機敏に活動し、最新の科学を驅使する個人的企業にまつべき分野の極めて多いことを考えねばならぬ。妙な嫉妬心から徒らに高率の税金を課し、活發なる企業心を削減せしめることは嚴に戒しむべきである。
生活革命
我等の組合國家においては、國民の大部分は農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として農工一体の新農村を建設する。各農村は組合組織を紐帶として今日の家族のごとき一個の共同体となり、生産も消費もすべて村中心に行う。これが新時代における國民生活の原則たるべきである。一村の戸數は、その村の採用する事業が何名の勞働力を必要とするかによつて決定される。概ね十數戸乃至數十戸というところであろう。この体制が全國的に完成せらるれば、日本の經濟は一擧に今日の10倍の生産力を獲得することも至難ではないと信ずる。しかし農工一体の實現は、社會制度の革命なしには不可能である。日本の從來の家族は祖父母、父母、子、孫等の縱の系列をすべて抱擁し、これが經濟單位であり、且つ生活單位でもあつた。この家族制度は日本の傳統的美風とされたが、一面非常な不合理をも含んでいた。我等の理想社會は、經濟單位と生活單位とを完全に分離するものである。即ちそこでは、衣食住や育兒等の所謂家事勞働のすべては、部落の完備せる共同施設において、誠心と優秀なる技術によつて行われる。勿論家庭單位で婦人のみで行う場合より遙かに僅少の勞働力をもつて遙かに高い能率を發揮できよう。かくして合理的に節約される勞働力は、男女を問わずすべて村の生産に動員される。しかして各人の仕事は男女の性別によらず、各人の能力と関心によつてのみ決定する。生産の向上、生活の快適は期して待つべく、婦人開放の問題のごときも、かかる社會においてはじめて眞の解決を見るであろう。かくのごとき集團生活にとり、最も重要なる施設は住宅である。私は現在のところ、村人の數だけの旅客を常に宿泊せしめ得る、完備した近代的ホテルのごとき共同建築物が住宅として理想的だと考えている。最高の能率と衞生、各人の自由の尊重、規律ある共同的日常行動等も、この種の住宅ならば極めて好都合に實現し得るのではあるまいか。新農村生活はまた、舊來の家族制度にまつわる、例えば姑と嫁との間におけるごとき、深刻なる精神問題をも根本的に解決する。そこでは老人の扶養は直接若夫婦の任務ではない。また老人夫婦は若夫婦の上に何等の憂も懸念ももつ必要はない。それぞれの夫婦は、完全に隔離された別室をもち、常に自由なる人生を樂しむであろう。そこでは新民法の精神を生かした夫婦が新たなる社會生活の一單位となり、社會生活は東洋の高き個人主義の上に立ち、アメリカ以上の夫婦中心に徹底するのである。親子の間を結ぶ孝行の道は、これによつて却つて純粹且つ素直に遵守されるものと思われる。この間、同族は單に精神的つながりのみを殘すこととなるであろう。眞に爭なき精神生活と、安定せる經濟生活とは、我等が血縁を超えて理想に生き、明日の農村を今日の家族のごとき運命共同体となし得た時、はじめて實現し得るものである。
全體主義に關する混迷を明かにす
「新日本の進路」脱稿後、これに使つた「統制主義」という言葉が「全体主義」と混同され、文章全体の趣旨を誤解せしむる惧れありとの忠告を受けた。ここに若干の説明を加えて誤解なきを期したい。近代社會は專制、自由、統制の三つの段階を經て發展して來た。即ち專制主義の時代から、フランス革命、明治維新等を經て自由主義の時代となり、人類社會はそこに飛躍的發展をとげたのであるが、その自由には限度あり、増加する人口にたいし、土地や資源がこれに伴わない場合、多くの人に眞の自由を與えるため若干のさばきをつける、所謂「統制」を與える必要を生じた。マルクス主義はその最初の頃のものであり、以後世界をあげて統制主義の歴史段階に入つた。ソ連の共産黨はじめ、イギリス、フランス等の近代的社會主義諸政黨、三民主義の中國國民黨、イタリアのフアツシヨ、ドイツのナチ、スペインのフランコ政權、日本の大政翼賛會等がその世界的傾向を示すものであることは本文中に述べた通りである。しかしよく注意せねばならぬ。「統制」はどこまでもフランス革命等によつて獲得された自由を全うするために、お互の我ままをせぬということをその根本精神とするものである。統制主義はかくのごとき社會發展の途上において、自由を更にのばすための必要から生れた、自由主義よりも一歩進んだ指導精神である。しからばこの間、全体主義は如何なる立場に立つものであるか。第二次世界大戰以後、全体主義にたいする憎しみが世界を支配し、その昂奮いまだ覺めやらぬ今日、これにつき種々概念上の混迷を生じたのは無理からぬことであるが、これを明確にせぬ限り、眞に自由なる世界平和確立の努力に不要の摩擦を起す惧れが多分にあり、特に行過ぎた自由主義者や共産黨の陣營において、かつて獨善的日本主義者が自己に反對するものは何でも「赤」と攻撃したごとく、自己に同調せざるものを一口に「フアツシヨ」とか、「全体主義」とか、理性をこえた感情的惡罵に使用する傾向あることは十分の戒心を要するであろう。即ち全体主義に関する我等の見解は次のごとくである。世界は多數の人の自由をますますのばすために統制主義の時代に入つたが、人口多くして土地、資源の貧弱なるイタリア、ドイツ、日本特にドイツのごとき、清新なる氣魄ありしかも立ちおくれた民族は、その惡條件を突破して富裕なる先進國に追つくため、却て多數の人の自由を犧牲にし、瞬間的に能率高き指導精神を採用した。尤もナチのごときでも國民社會主義と稱して居り、決して前時代そのままの個人の專制に逆轉したわけではないが、國民全体のデモクラシーによらず、指導者群に特殊の權力を與えて專制を許す方式をとつたのである。しかるに恐るるものなき指導者群の專制は、個人の專制以上に暴力的となつたことを我等は認める。これを世間で全体主義と呼んでいるのは正しいというべきであろう。かくしてムツソリーニに始められた全体主義は、ヒトラーによつてより巧みに利用され、日本等またこれに從つて國力の飛躍的發展をはかり、遂にデモクラシーによつて順調に進んでいる富裕なる先進國の支配力を破壞して世界制覇を志したのが、今次の大破局をもたらしたのである。
この間すべてを唯物的に取運ばんとするソ連は、今日アメリカと世界的に對抗し、眞のデモクラシーを呼號しつつ、實はナチと大差なき共産黨幹部の專制方式をとり、一般國民には多く實情を知らしめない全体主義に近づいているが、日本共産黨はみづからこの先例に從つて全体主義的行動をとりつつあるにかかわらず、眞の自由、眞のデモクラシーの發展をもたらさんとする正しき統制主義を逆に「全体主義」「フアツシヨ」等と惡罵しているのである。しかし比較的富に余裕あるイギリスのごときを見よ。既に社會主義政府の實現により立派に統制主義の体制に入つても、尚デモクラシーを確保することを妨げないではないか。フランスもまた同樣である。特にアメリカのごときは、ニウ・デイール、マーシヤル・プラン等の示すごとく雄大極まる統制主義の國家となりながら、どこまでもデモクラシーをのばしつつある。アメリカに比較すれば、富の余裕大ならざるイギリスにおいて種々の國營を實施しているのにたいし、最も富裕なるアメリカが、強力なる統制下に尚大いに自由なる活動を許容し得ていることは特に注目されねばならぬ。中國の三民主義は、東洋的先覺孫文によつてうちたてられた統制主義の指導原理である。現在中國の國富は貧弱であるが、國土廣大なるため、統制を行つても或程度自由をのばし得ている。この間の事情を人はよく理解すべきである。今日統制主義の体制をとらねばならぬことはいづれの國も同樣である。ただアメリカのごとき富裕なる國においては、最小の制約を加えることによつて、いよいよ自由をのばし得るが、しからざる國においては制約の程度を強化せざるを得ず、そこに國民全体のデモクラシーを犧牲にし少數の指導者群の專制におちいる危險が包藏されるのである。イタリア、ドイツ、日本等が全体主義に後退し、遂にそのイデオロギーを國家的民族的野心の鬪爭の具に惡用するに到つたのは、ここにその最大の原因が存したのである。全体主義につき從來いろいろの見解があつたが、我等はこれにつき統制主義の時代性を理解せず、指導者群の專制に後退したもの、繰返していうが、その弊害は個人の專制以上に暴力的となつたものと見るのである。しかしそれにもかかはらず、統制主義は今日、眞の自由、眞のデモクラシーを確保するため、絶對に正しく且つ必要なる指導精神であり、既にその先例はアメリカ、イギリス等に示されている。我等は本文に強調したるごとく、東亞の地方性にもとづき、現實に即したる正しき統制主義の指導原理を具体化することによつてのみ、よく世界の平和と進運に寄與し得るであろう。
(昭和24年8月10日)
 
石原莞爾(いしわらかんじ)

 

明治22年1月18日-昭和24年8月15日(1889-1949)昭和の陸軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、戦犯指定を免れた。
軍学校時代
明治35年(1902)仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。明治38年(1905)陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や佐藤鉄太郎に会っている。明治40年(1907)陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。士官学校卒業後は原隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目3時間または3時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(「長岡藩士・河井継之助」)であった。
在外武官時代
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923)国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。
関東軍参謀時代
昭和3年(1928)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧
昭和11年(1936)二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられるものの事なきを得ている。
左遷
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、同年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。
関東軍
1940年に満洲国から贈られた勲記昭和12年9月(1937)に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東條も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
立命館大学講師
現役を退いた石原は昭和16年4月(1941)立命館・中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の「立命館要覧」によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井鎬次中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた「国防政治論」を、昭和17年(1942年)に聖紀書房から出版した。
評論・政治活動
太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われるハルノートとほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、サイパンの要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗した。「世界最終戦論」(後、「最終戦争論」と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。
戦後の活動
1945年頃の石原莞爾東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。
東京裁判での主張
東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した。また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には「石原莞爾宣誓供述書」によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和30年に手記を公表してからである。
 
最終戦争論・戦争史大観
第一部 最終戦争論

 

第一章 戦争史の大観
第一節 決戦戦争と持久戦争
戦争は武力をも直接使用して国家の国策を遂行する行為であります。今アメリカは、ほとんど全艦隊をハワイに集中して日本を脅迫しております。どうも日本は米が足りない、物が足りないと言って弱っているらしい、もうひとおどし、おどせば日支問題も日本側で折れるかも知れぬ、一つ脅迫してやれというのでハワイに大艦隊を集中しているのであります。つまりアメリカは、かれらの対日政策を遂行するために、海軍力を盛んに使っているのでありますが、間接の使用でありますから、まだ戦争ではありません。戦争の特徴は、わかり切ったことでありますが、武力戦にあるのです。しかしその武力の価値が、それ以外の戦争の手段に対してどれだけの位置を占めるかということによって、戦争に二つの傾向が起きて来るのであります。武力の価値が他の手段にくらべて高いほど戦争は男性的で力強く、太く、短くなるのであります。言い換えれば陽性の戦争--これを私は決戦戦争と命名しております。ところが色々の事情によって、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなる--比較的価値が低くなるに従って戦争は細く長く、女性的に、即ち陰性の戦争になるのであります。これを持久戦争と言います。戦争本来の真面目(しんめんぼく)は決戦戦争であるべきですが、持久戦争となる事情については、単一でありません。これがために同じ時代でも、ある場合には決戦戦争が行なわれ、ある場合には持久戦争が行なわれることがあります。しかし両戦争に分かれる最大原因は時代的影響でありまして、軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出して参りました。戦争のこととなりますと、あの喧嘩好きの西洋の方が本場らしいのでございます。殊に西洋では似た力を持つ強国が多数、隣接しており、且つ戦場の広さも手頃でありますから、決戦・持久両戦争の時代的変遷がよく現われております。日本の戦いは「遠からん者は音にも聞け……」とか何とか言って始める。戦争やらスポーツやら分からぬ。それで私は戦争の歴史を、特に戦争の本場の西洋の歴史で考えて見ようと思います。
第二節 古代および中世
古代--ギリシャ、ローマの時代は国民皆兵であります。これは必ずしも西洋だけではありません。日本でも支那でも、原始時代は社会事情が大体に於て人間の理想的形態を取っていることが多いらしいのでありまして、戦争も同じことであります。ギリシャ、ローマ時代の戦術は極めて整然たる戦術であったのであります。多くの兵が密集して方陣を作り、巧みにそれが進退して敵を圧倒する。今日でもギリシャ、ローマ時代の戦術は依然として軍事学に於ける研究の対象たり得るのであります。国民皆兵であり整然たる戦術によって、この時代の戦争は決戦的色彩を帯びておりました。アレキサンダーの戦争、シイザーの戦争などは割合に政治の掣肘(せいちゅう)を受けないで決戦戦争が行なわれました。ところがローマ帝国の全盛時代になりますと、国民皆兵の制度が次第に破れて来て傭兵(ようへい)になった。これが原因で決戦戦争的色彩が持久戦争的なものに変化しつつあったのであります。これは歴史的に考えれば、東洋でも同じことであります。お隣りの支那では漢民族の最も盛んであった唐朝の中頃から、国民皆兵の制度が乱れて傭兵に堕落する。その時から漢民族の国家生活としての力が弛緩しております。今日まで、その状況がずっと継続しましたが、今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものでありますが、この事変を契機としまして何とか昔の漢民族にかえることを私は希望しています。前にかえりますが、こうして兵制が乱れ政治力が弛緩して参りますと、折角ローマが統一した天下をヤソの坊さんに実質的に征服されたのであります。それが中世であります。中世にはギリシャ、ローマ時代に発達した軍事的組織が全部崩壊して、騎士の個人的戦闘になってしまいました。一般文化も中世は見方によって暗黒時代でありますが、軍事的にも同じことであります。
第三節 文芸復興
それが文芸復興の時代に入って来る。文芸復興期には軍事的にも大きな革命がありました。それは鉄砲が使われ始めたことです。先祖代々武勇を誇っていた、いわゆる名門の騎士も、町人の鉄砲一発でやられてしまう。それでお侍(さむらい)の一騎打ちの時代は必然的に崩壊してしまい、再び昔の戦術が生まれ、これが社会的に大きな変化を招来して来るのであります。当時は特に十字軍の影響を受けて地中海方面やライン方面に商業が非常に発達して、いわゆる重商主義の時代でありましたから、金が何より大事で兵制は昔の国民皆兵にかえらないで、ローマ末期の傭兵にかえったのであります。ところが新しく発展して来た国家は皆小さいものですから、常に沢山の兵隊を養ってはいられない。それでスイスなどで兵隊商売、即ち戦争の請負業ができて、国家が戦争をしようとしますと、その請負業者から兵隊を傭って来るようになりました。そんな商売の兵隊では戦争の深刻な本性が発揮できるはずがありません。必然的に持久戦争に堕落したのであります。しかし戦争がありそうだから、あそこから300人傭って来い、あっちからも百人傭って来い、なるたけ値切って傭って来いというような方式では頼りないのでありますから、国家の力が増大するにつれ、だんだん常備傭兵の時代になりました。軍閥時代の支那の軍隊のようなものであります。常備傭兵になりますと戦術が高度に技術化するのです。くろうとの戦いになると巧妙な駆引の戦術が発達して来ます。けれども、やはり金で傭って来るのでありますから、当時の社会統制の原理であった専制が戦術にもそのまま利用されたのです。その形式が今でも日本の軍隊にも残っております。日本の軍隊は西洋流を学んだのですから自然の結果であります。たとえば号令をかけるときに剣を抜いて「気を付け」とやります。「言うことを聞かないと切るぞ」と、おどしをかける。もちろん誰もそんな考えで剣を抜いているのではありませんが、この指揮の形式は西洋の傭兵時代に生まれたものと考えます。刀を抜いて親愛なる部下に号令をかけるというのは日本流ではない。日本では、まあ必要があれば采配を振るのです。敬礼の際「頭右(かしらみぎ)」と号令をかけ指揮官は刀を前に投げ出します。それは武器を投ずる動作です。刀を投げ捨てて「貴方にはかないません」という意味を示した遺風であろうと思われます。また歩調を取って歩くのは専制時代の傭兵に、弾雨の下を臆病心を押えつけて敵に向って前進させるための訓練方法だったのです。金で備われて来る兵士に対しては、どうしても専制的にやって行かねばならぬ。兵の自由を許すことはできない。そういう関係から、鉄砲が発達して来ますと、射撃をし易くするためにも、味方の損害を減ずるためにも、隊形がだんだん横広くなって深さを減ずるようになりましたが、まだ専制時代であったので、横隊戦術から散兵戦術に飛躍することが困難だったのであります。横隊戦術は高度の専門化であり、従って非常に熟練を要するものです。何万という兵隊を横隊に並べる。
われわれも若いときに歩兵中隊の横隊分列をやるのに苦心したものです。何百個中隊、何10個大隊が横隊に並んで、それが敵前で動くことは非常な熟練を要することであります。戦術が煩瑣(はんさ)なものになって専門化したことは恐るべき堕落であります。それで戦闘が思う通りにできないのです。ちょっとした地形の障害でもあれば、それを克服することができない。そんな関係で戦場に於ける決戦は容易に行なわれない。また長年養って商売化した兵隊は非常に高価なものであります。それを濫費することは、君主としては惜しいので、なるべく斬り合いはやりたくない。そういうような考えから持久戦争の傾向が次第に徹底して来るのです。30年戦争や、この時代の末期に出て来た持久戦争の最大名手であるフリードリヒ大王の七年戦争などは、その代表的なものであります。持久戦争では会戦、つまり斬り合いで勝負をつけるか、あるいは会戦をなるべくやらないで機動によって敵の背後に迫り、犠牲を少なくしつつ敵の領土を蚕食する。この二つの手段が主として採用されるのであります。フリードリヒ大王は、最初は当時の風潮に反して会戦を相当に使ったのでありますが、さすがのフリードリヒ大王も、多く血を見る会戦では戦争の運命を決定しかね、遂に機動主義に傾いて来たのであります。フリードリヒ大王を尊敬し、大王の機動演習の見学を許されたこともあったフランスのある有名な軍事学者は、1789年、次の如く言っております。「大戦争は今後起らないだろうし、もはや会戦を見ることはないだろう」。将来は大きな戦争は起きまい。また戦争が起きても会戦などという血なまぐさいことはやらないで主として機動によりなるべく兵の血を流さないで戦争をやるようになるだろうという意味であります。即ち女性的陰性の持久戦争の思想に徹底したのであります.しかし世の中は、あることに徹底したときが革命の時なんです。皮肉にも、この軍事学者がそういう発表をしている1789年はフランス革命勃発の年であります。そういうふうに持久戦争の徹底したときにフランス革命が起りました。
第四節 フランス革命
フランス革命当時はフランスでも戦争には傭い兵を使うのがよいと思われていた。ところが多数の兵を傭うには非常に金がかかる。しかるに残念ながら当時、世界を敵とした貧乏国フランスには、とてもそんな金がありません。何とも仕様がない。国の滅亡に直面して、革命の意気に燃えたフランスは、とうとう民衆の反対があったのを押し切り、徴兵制度を強行したのであります。そのために暴動まで起きたのでありますが、活気あるフランスは、それを弾圧して、とにかく百万と称する大軍--実質はそれだけなかったと言われておりますが--を集めて、四方からフランスに殺到して来る熟練した職業軍人の連合軍に対抗したのであります。その頃の戦術は先に申しました横隊です。横隊が余り窮屈なものですから、横隊より縦隊がよいとの意見も出ていたのでありますが、軍事界では横隊論者が依然として絶対優勢な位置を占めておりました。ところが横隊戦術は熟練の上にも熟練を要するので、急に狩り集めて来た百姓に、そんな高級な戦術が、できっこはないのです。善いも悪いもない。いけないと思いながら縦隊戦術を採ったのです。散兵戦術を採用したのです。縦隊では射撃はできませんから、前に散兵を出して射撃をさせ、その後方に運動の容易な縦隊を運用しました。横隊戦術から散兵戦術へ変化したのであります。決してよいと思ってやったのではありません。やむを得ずやったのです。ところがそれが時代の性格に最も良く合っていたのです。革命の時代は大体そういうものだと思われます。古くからの横隊戦術が、非常に価値あるもの高級なものと常識で信じられていたときに、新しい時代が来ていたのです。それに移るのがよいと思って移ったのではない。これは低級なものだと思いながら、やむを得ず、やらざるを得なくなって、やったのです。それが、地形の束縛に原因する決戦強制の困難を克服しまして、用兵上の非常な自由を獲得したのみならず、散兵戦術は自由にあこがれたフランス国民の性格によく適合しました。これに加えて、傭兵の時代とちがい、ただで兵隊を狩り集めて来るのですから、大将は国王の財政的顧慮などにしばられず、思い切った作戦をなし得ることとなったのであります。こういう関係から、18世紀の持久戦争でなければならなかった理由は、自然に解消してしまいました。ところが、そういうように変っても、敵の大将はむろんのこと新しい軍隊を指揮したフランスの大将も、依然として18世紀の古い戦略をそのまま使っていたのであります。土地を攻防の目標とし、広い正面に兵力を分散し、極めて慎重に戦いをやって行く方式をとっていたのです。このとき、フランス革命によって生じた軍制上、戦術上の変化を達観して、その直感力により新しい戦略を発見し、果敢に運用したのが不世出の軍略家ナポレオンであります。即ちナポレオンは当時の用兵術を無視して、要点に兵力を集めて敵線を突破し、突破が成功すれば逃げる敵をどこまでも追っかけて行って徹底的にやっつける。敵の軍隊を撃滅すれば戦争の目的は達成され、土地を作戦目標とする必要などは、なくなります。
敵の大将は、ナポレオンが一点に兵を集めて、しゃにむに突進して来ると、そんなことは無理じゃないか、乱暴な話だ、彼は兵法を知らぬなどと言っている間に、自分はやられてしまった。だからナポレオンの戦争の勝利は対等のことをやっていたのではありません。在来と全く変った戦略を巧みに活用したのであります。ナポレオンは敵の意表に出て敵軍の精神に一大電撃を加え、遂に戦争の神様になってしまったのです。白い馬に乗って戦場に出て来る。それだけで敵は精神的にやられてしまった。猫ににらまれた鼠のように、立ちすくんでしまいました。それまでは30年戦争、7年戦争など長い戦争が当り前であったのに、数週間か数カ月で大きな戦争の運命を一挙に決定する決戦戦争の時代になったのであります。でありますから、フランス革命がナポレオンを生み、ナポレオンがフランス革命を完成したと言うべきです。特に皆さんに注意していただきたいのは、フランス革命に於ける軍事上の変化の直接原因は兵器の進歩ではなかったことであります。中世暗黒時代から文芸復興へ移るときに軍事上の革命が起ったのは、鉄砲の発明という兵器の関係でありました。けれどもフランス革命で横隊戦術から散兵戦術に、持久戦争から決戦戦争に移った直接の動機は兵器の進歩ではありません。フリードリヒ大王の使った鉄砲とナポレオンの使ったものとは大差がないのです。社会制度の変化が軍事上の革命を来たした直接の原因であります。このあいだ、帝大の教授がたが、このことについて「何か新兵器があったでしょう」と言われますから「新兵器はなかったのです」と言って頑張りますと、「そんなら兵器の製造能力に革命があったのでしょうか」と申されます。「しかし、そんなこともありませんでした」と答えぎるを得ないのです。兵器の進歩によってフランス革命を来たしたことにしなければ、学者には都合が悪いらしいのですが、都合が悪くても現実は致し方ないのであります。ただし兵器の進歩は既に散兵の時代となりつつあったのに、社会制度がフランス革命まで、これを阻止していたと見ることができます。プロイセン軍はフリードリヒ大王の偉業にうぬぼれていたのでしたが、1806年、イエーナでナポレオンに徹底的にやられてから、はじめて夢からさめ、科学的性格を活かしてナポレオンの用兵を研究し、ナポレオンの戦術をまねし出しました。さあそうなると、殊にモスコー敗戦後は、遺憾ながらナポレオンはドイツの兵隊に容易には勝てなくなってしまいました。世の中では末期のナポレオンは淋病で活動が鈍ったとか、用兵の能力が低下したとか、いい加減なことを言いますけれども、ナポレオンの軍事的才能は年とともに発達したのです。しかし相手もナポレオンのやることを覚えてしまったのです。人間はそんなに違うものではありません。皆さんの中にも、秀才と秀才でない人がありましょう。けれども大した違いではありません。ナポレオンの大成功は、大革命の時代に世に率先して新しい時代の用兵術の根本義をとらえた結果であります。
天才ナポレオンも、もう20年後に生まれたなら、コルシカの砲兵隊長ぐらいで死んでしまっただろうと思います。
諸君のように大きな変化の時代に生まれた人は非常に幸福であります。この幸福を感謝せねばなりません。
ヒットラーやナポレオン以上になれる特別な機会に生まれたのです。フリードリヒ大王とナポレオンの用兵術を徹底的に研究したクラウゼウィッツというドイツの軍人が、近代用兵学を組織化しました。それから以後、ドイツが西洋軍事学の主流になります。そうしてモルトケのオーストリアとの戦争(1866年)、フランスとの戦争(1870-71年)など、すばらしい決戦戦争が行なわれました。その後シュリーフェンという参謀総長が長年、ドイツの参謀本部を牛耳っておりまして、ハンニバルのカンネ会戦を模範とし、敵の両翼を包囲し騎兵をその背後に進め敵の主力を包囲殲滅(せんめつ)すべきことを強調し、決戦戦争の思想に徹底して、欧州戦争に向ったのであります。
第五節 第一次欧州大戦
シュリーフェンは1913年、欧州戦争の前に死んでおります。つまり第一次欧州大戦は決戦戦争発達の頂点に於て勃発したのです。誰も彼も戦争は至短期間に解決するのだと思って欧州戦争を迎えたのであります。ぼんくらまで、そう思ったときには、もう世の中は変っているのです。あらゆる人間の予想に反して4年半の持久戦争になりました。しかし今日、静かに研究して見ると、第一次欧州大戦前に、持久戦争に対する予感が潜在し始めていたことがわかります。ドイツでは戦前すでに「経済動員の必要」が論ぜられておりました。またシュリーフェンが参謀総長として立案した最後の対仏作戦計画である1905年12月案には、アルザス・ロートリンゲン地方の兵力を極端に減少してベルダン以西に主力を用い、パリを大兵力をもって攻囲した上、更に7軍団(14師団)の強大な兵団をもってパリ西南方から遠く迂回し、敵主力の背後を攻撃するという真に雄大なものでありました。ところが1906年に参謀総長に就任したモルトケ大将の第一次欧州大戦初頭に於ける対仏作戦は、御承知の通り開戦初期は破竹の勢いを以てベルギー、北フランスを席捲して長駆マルヌ河畔に進出し、一時はドイツの大勝利を思わせたのでありましたが、ドイツ軍配置の重点はシュリーフェン案に比して甚だしく東方に移り、その右翼はパリにも達せず、敵のパリ方面よりする反撃に遇(あ)うともろくも敗れて後退のやむなきに至り、遂に持久戦争となりました。この点についてモルトケ大将は、大いに批難されているのであります。たしかにモルトケ大将の案は、決戦戦争を企図したドイツの作戦計画としては、甚だ不徹底なものと言わねはなりません。シュリーフェン案を決行する鉄石の意志と、これに対する十分な準備があったならば、第一次欧州大戦も決戦戦争となって、ドイツの勝利となる公算が、必ずしも絶無でなかったと思われます。しかし私は、この計画変更にも持久戦争に対する予感が無意識のうちに力強く作用していたことを認めます。即ちシュリーフェン時代にはフランス軍は守勢をとると判断されたのに、その後、フランス軍はドイツの重要産業地帯であるザール地方への攻勢をとるものと判断されるに至ったことが、この方面への兵力増加の原因であります。また大規模な迂回作戦を不徹底ならしめたのは、モルトケ大将が、シュリーフェン元帥の計画では重大条件であったオランダの中立侵犯を断念したことが、最も有力な原因となっているものと私は確信いたします。ザール鉱工業地帯の掩護(えんご)、特にオランダの中立尊重は、戦争持久のための経済的考慮によったのであります。即ち決戦を絶叫しっつあったドイツ参謀本部首脳部の胸の中に、彼らがはっきり自覚しない間に持久戦争的考慮が加わりつつあったことは甚だ興味深いものと思います。4年半は30年戦争や七年戦争に比べて短いようでありますが緊張が違う。昔の戦争は30年戦争などと申しましても中間に長い休みがあります。七年戦争でも、冬になれば傭兵を永く寒い所に置くと皆逃げてしまいますから、お互に休むのです。
ところが第一次欧州戦争には徹底した緊張が4年半も続きました。なぜ持久戦争になったかと申しますと、第一に兵器が非常に進歩しました。殊に自動火器--機関銃は極めて防禦に適当な兵器であります。だからして簡単には正面が抜けない。第二にフランス革命の頃は、国民皆兵でも兵数は大して多くなかったのですが、第一次欧州戦争では、健康な男は全部、戦争に出る。歴史で未だかつてなかったところの大兵力となったのです。それで正面が抜けない。さればと言って敵の背後に迂回しようとすると、戦線は兵力の増加によってスイスから北海までのびているので迂回することもできない。突破もできなければ迂回もできない。それで持久戦争になったのであります。フランス革命のときは社会の革命が戦術に変化を及ばして、戦争の性質が持久戦争から決戦戦争になったのでしたが、第一次欧州大戦では兵器の進歩と兵力の増加によって、決戦戦争から持久戦争に変ったのであります。4年余の持久戦争でしたが、18世紀頃の持久戦争のように会戦を避けることはなく決戦が連続して行なわれ、その間に自然に新兵器による新戦術が生まれました。砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、防者は数段に敵の攻撃を支えることとなり、いわゆる数線陣地となりましたが、それでは結局、敵から各個に撃破される危険があるため、逐次抵抗の数線陣地の思想から自然に面式の縦深防禦の新方式が出てきました。すなわち自動火器を中心とする一分隊ぐらい(戦闘群)の兵力が大間隔に陣地を占め、さらにこれを縦深に配置するのであります(上図参照)。このような兵力の分散により敵の砲兵火力の効力を減殺するのみならず、この縦深に配置された兵力は互に巧妙に助け合うことによって、攻者は単に正面からだけでなく前後左右から不規則に不意の射撃を受ける結果、攻撃を著しく困難にします。こうなると攻撃する方も在来のような線の敵兵では大損害を受けますから、十分縦深に疎開し、やはり面の戦力を発揮することにつとめます。横隊戦術は前に申しましたように専制をその指導精神としたのに対し、散兵戦術は各兵、各部隊に十分な自由を与え、その自主的活動を奨励する自由主義の戦術であります。しかるに面式の防禦をしている敵を攻撃するに各兵、各部隊の自由にまかせて置いては大きな混乱に陥るから、指揮官の明確な統制が必要となりました。面式防禦をするのには、一貫した方針に基づく統制が必要であります。即ち今日の戦術の指導精神は統制であります。しかし横隊戦術のように強権をもって各兵の自由意志を押えて盲従させるものとは根本に於て相違し、各部隊、各兵の自主的、積極的、独断的活動を可能にするために明確な目標を指示し、混雑と重複を避けるに必要な統制を加えるのであります。自由を抑制するための統制ではなく、自由活動を助長するためであると申すべきです。右のような新戦術は第一次欧州大戦中に自然に発生し、戦後は特にソ連の積極的研究が大きな進歩の動機となりました。
欧州大戦の犠牲をまぬがれた日本は一番遅れて新戦術を採用し、今日、熱心にその研究訓練に邁進しております。
また第一次欧州大戦中に、戦争持久の原因は西洋人の精神力の薄弱に基づくもので大和魂をもってせば即戦即決が可能であるという勇ましい議論も盛んでありましたが、真相が明らかになり、数年来は戦争は長期戦争・総力戦で、武力のみでは戦争の決がつかないというのが常識になり、第二次欧州大戦の初期にも誰もが持久戦争になるだろうと考えていましたが、最近はドイツ軍の大成功により大きな疑問を生じて参りました。
第六節 第二次欧州大戦
第二次欧州大戦では、ドイツのいわゆる電撃作戦がポーランド、ノールウェ―のような弱小国に対し迅速に決戦戦争を強行し得たことは、もちろん異とするに足りません。しかし仏英軍との間には恐らくマジノ、ジークフリートの線で相対峙し、お互にその突破が至難で持久戦争になるものと考えたのであります。ドイツがオランダ、ベルギーに侵入することはあっても、それは英国に対する作戦基地を得るためで、連合軍の主力との間に真の大決戦が行なわれるだろうとは考えられませんでした。しかるに5月10日以来のドイツの猛撃は瞬時にオランダ、ベルギーを屈伏せしめ、難攻と信ぜられたマジノ延長線を突破して、ベルギーに進出した仏英の背後に迫り、たちまち、これを撃滅し、更に矛(ほこ)を転じてマジノ線以西の地区からパリに迫ってこれを抜き、オランダ侵入以来わずか5週間で強敵フランスに停戦を乞わしめるに至りました。即ち世界史上未曽有の大戦果を挙げ、フランスに対しても見事な決戦戦争を遂行したのであります。しからば、果してこれが今日の戦争の本質であるかと申せば、私は、あえて「否」と答えます。第一次欧州大戦に於ては、ドイツの武力は連合軍に比し多くの点で極めて優秀でありましたが、兵力は遥かに劣勢であり、戦意は双方相譲らない有様で大体互角の勝負でありました。ところがヒットラーがドイツを支配して以来、ドイツは真に挙国一致、全力を挙げて軍備の大拡充に努力したのに対し、自由主義の仏英は漫然これを見送ったために、空軍は質量共に断然ドイツが優勢であることは世界がひとしく認めていたのであります。今度いよいよ戦争の幕をあけて見ると、ドイツ機械化兵団が極めて精鋭且つ優勢であるのみならず、一般師団の数も仏英側に対しドイツは恐らく1/3以上も優勢を保持しているらしいのです。しかも英雄ヒットラーにより全国力が完全に統一運用されているのに反し、数年前ドイツがライン進駐を決行したとき、フランスが断然ベルサイユ条約に基づきドイツに一撃を加えることを主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと信ぜられます。フランスの戦意はこんな関係で第一次欧州大戦のようではなく、マジノ延長線も計画に止まり、ほとんど構築されていなかったらしいのです。戦力の著しく劣勢なフランスは、国境で守勢をとるべきだったと思われます。恐らく軍当局はこれを欲したのでしょうが、政略に制せられてベルギーに前進し、この有力なベルギー派遣軍がドイツの電撃作戦に遇(あ)って徹底的打撃を受け、英軍は本国へ逃げかえりました。英国が本気でやる気なら、本国などは海軍に一任し全陸軍はフランスで作戦すべきであります。英仏の感情は恐らく極めて不良となったことと考えられます。かくてドイツが南下するや、仏軍は遂に抵抗の実力なく、名将ペタン将軍を首相としてドイツに降伏しました。このように考えますと、今次の戦争は全く互格の勝負ではなく、連合側の物心両面に於ける甚だしい劣勢が必然的にこの結果を招いたのであります。
そもそも持久戦争は大体互格の戦争力を有する相手の間に於てのみ行なわれるものです。第一次欧州大戦では開戦初期の作戦はドイツの全勝を思わせたのでしたが、マルヌで仏軍の反撃に敗れ、また最後の1918年のルーデンドルフの大攻勢では、北フランスに於ける戦場付近で仏英軍に大打撃を与え、一時は全く敵を中断して戦争の運命を決し得るのではないかとさえ見えたのでしたが、遂に失敗に終りました。両軍は大体互格で持久戦争となり、ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏したのであります。フィンランドはソ連に屈伏はしたものの、極めて劣勢の兵力で長時日ソ連の猛撃を支え、今日の兵器に対しても防禦威力の如何に大なるかを示しました。またベルギー戦線でも、まだ詳細は判りませんが、ブリュッセル方面から敵の正面を攻めたドイツ軍は大きな抵抗に遇い、容易には敵線を突破できなかった様子です。現在は第一次欧州大戦に比べると、空軍の大進歩、戦車の進歩などがありますが、十分の戦備と決心を以て戦う敵線の突破は今日も依然として至難で、戦争持久に陥る公算が多く、まだ持久戦争の時代であると観察されます。
第二章 最終戦争

 

われわれは第一次欧州大戦以後、戦術から言えば戦闘群の戦術、戦争から言えば持久戦争の時代に呼吸しています。第二次欧州戦争で所々に決戦戦争が行なわれても、時代の本質はまだ持久戦争の時代であることは前に申した通りでありますが、やがて次の決戦戦争の時代に移ることは、今までお話した歴史的観察によって疑いのないところであります。その決戦戦争がどんな戦争であるだろうか。これを今までのことから推測して考えましょう。まず兵数を見ますと今日では男という男は全部戦争に参加するのでありますが、この次の戦争では男ばかりではなく女も、更に徹底すれば老若男女全部、戦争に参加することになります。戦術の変化を見ますと、密集隊形の方陣から横隊になり散兵になり戦闘群になったのであります。これを幾何学的に観察すれば、方陣は点であり横隊は実線であり散兵は点線であり、戦闘群の戦法は面の戦術であります。点線から面に来たのです。この次の戦争は体(三次元)の戦法であると想像されます。それでは戦闘の指揮単位はどういうふうに変化したかと言うと、必ずしも公式の通りではなかったのでありますが、理屈としては密集隊形の指揮単位は大隊です。今のように拡声器が発達すれば「前へ進め」と3千名の連隊を一斉に動かし得るかも知れませんが、肉声では声のよい人でも大隊が単位です。われわれの若いときに盛んにこの大隊密集教練をやったものであります。横隊になると大隊ではどんな声のよい人でも号令が通りません。指揮単位は中隊です。次の散兵となると中隊長ではとても号令は通らないので、小隊長が号令を掛けねばいけません。それで指揮単位は小隊になったのであります。戦闘群の戦術では明瞭に分隊--通常は軽機一挺(ちょう)と鉄砲10何挺を持っている分隊が単位であります。大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。単位は個人で量は全国民ということは、国民の持っている戦争力を全部最大限に使うことです。そうして、その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。われわれは体以上のもの、即ち四次元の世界は分からないのです。そういうものがあるならは、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。われわれ普通の人間には分からないことです。要するに、この次の決戦戦争は戦争発達の極限に達するのであります。戦争発達の極限に達するこの次の決戦戦争で戦争が無くなるのです。人間の闘争心は無くなりません。闘争心が無くならなくて戦争が無くなるとは、どういうことか。国家の対立が無くなる--即ち世界がこの次の決戦戦争で一つになるのであります。これまでの私の説明は突飛だと思う方があるかも知れませんが、私は理論的に正しいものであることを確信いたします。戦争発達の極限が戦争を不可能にする。例えば戦国時代の終りに日本が統一したのは軍事、主として兵器の進歩の結果であります。
即ち戦国時代の末に信長、秀吉、家康という世界歴史でも最も優れた3人の偉人が一緒に日本に生まれて来ました。3人の協同作業です。信長が、あの天才的な閃(ひらめ)きで、大革新を妨げる堅固な殻を打ち割りました。割った後もあまり天才振りを発揮されると困ります。それで明智光秀が信長を殺した。信長が死んだのは用事が終ったからであります。それで秀吉が荒削りに日本の統一を完成し、朝鮮征伐までやって統一した日本の力を示しました。そこに家康が出て来て、うるさい婆さんのように万事キチンと整頓してしまった。徳川が信長や秀吉の考えたような皇室中心主義を実行しなかったのは遺憾千万ですが、この3人で、ともかく日本を統一したのであります。なぜ統一が可能であったかと言えば、種子島へ鉄砲が来たためです。いくら信長や秀吉が偉くても鉄砲がなくて、槍と弓だけであったならば旨く行きません。信長は時代を達観して尊皇の大義を唱え、日本統一の中心点を明らかにしましたが、彼は更に今の堺(さかい)から鉄砲を大量に買い求めて統一の基礎作業を完成しました。今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。言論では勝負が遅い。必ず腕力を用いることになります。しかし警察はピストルを持っている。兵隊さんは機関銃を持っている。いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。要するに世界の一地方を根拠とする武力が、全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一することとなります。しからばその決戦戦争はどういう形を取るかを想像して見ます。戦争には老若男女全部、参加する。老若男女だけではない。山川草木全部、戦争の渦中に入るのです。しかし女や子供まで全部が満州国やシベリヤ、または南洋に行って戦争をやるのではありません。戦争には二つのことが大事です。一つは敵を撃つこと--損害を与えること。もう一つは損害に対して我慢することです。即ち敵に最大の損害を与え、自分の損害に堪え忍ぶことであります。この見地からすると、次の決戦戦争では敵を撃つものは少数の優れた軍隊でありますが、我慢しなければならないものは全国民となるのです。今日の欧州大戦でも空軍による決戦戦争の自信力がありませんから、無防禦の都市は爆撃しない。軍事施設を爆撃したとか言っておりますけれども、いよいよ真の決戦戦争の場合には、忠君愛国の精神で死を決心している軍隊などは有利な目標でありません。最も弱い人々、最も大事な国家の施設が攻撃目標となります。
工業都市や政治の中心を徹底的にやるのです。でありますから老若男女、山川草木、豚も鶏も同じにやられるのです。かくて空軍による真に徹底した殲滅戦争となります。国民はこの惨状に堪え得る鉄石の意志を鍛錬しなければなりません。また今日の建築は危険極まりないことは周知の事実であります。
国民の徹底した自覚により国家は遅くも20年を目途とし、主要都市の根本的防空対策を断行すべきことを強く提案致します。官憲の大整理、都市に於ける中等学校以上の全廃(教育制度の根本革新)、工業の地方分散等により都市人口の大整理を行ない、必要な部分は市街の大改築を強行せねばなりません。今日のように陸海軍などが存在しているあいだは、最後の決戦戦争にはならないのです。それ動員だ、輸送だなどと間ぬるいことではダメであります。軍艦のように太平洋をのろのろと10日も20日もかかっては問題になりません。それかと言って今の空軍ではとてもダメです。また仮に飛行機の発達により今、ドイツがロンドンを大空襲して空中戦で戦争の決をつけ得るとしても、恐らくドイツとロシヤの間では困難であります。ロシヤと日本の間もまた困難。更に太平洋をへだてたところの日本とアメリカが飛行機で決戦するのはまだまだ遠い先のことであります。一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行なわれる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。それから破壊の兵器も今度の欧州大戦で使っているようなものでは、まだ問題になりません。もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねはなりません。飛行機は無着陸で世界をクルグル廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば今日戦争になって次の朝、夜が明けて見ると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。その代り大阪も、東京も、北京も、上海も、廃墟になっておりましょう。すべてが吹き飛んでしまう……。それぐらいの破壊力のものであろうと思います。そうなると戦争は短期間に終る。それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない。そんななまぬるいのは持久戦争時代のことで、決戦戦争では問題にならない。この次の決戦戦争では降ると見て笠取るひまもなくやっつけてしまうのです。このような決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得る者が最後の優者であります。
第三章 世界の統一

 

西洋歴史を大観すれば、古代は国家の対立からロ―マが統一したのであります。それから中世はそれをキリスト教の坊さんが引受けて、彼らが威力を失いますと、次には新しい国家が発生してまいりました。国家主義がだんだん発展して来て、フランス革命のときは一時、世界主義が唱導されました。ゲーテやナポレオンは本当に世界主義を理想としたのでありますが、結局それは目的を達しないで、国家主義の全盛時代になって第一次欧州戦争を迎えました。欧州戦争の深刻な破壊の体験によって、再び世界主義である国際連盟の実験が行なわれることとなりました。けれども急に理想までは達しかねて、国際連盟は空文になったのです。しかし世界は欧州戦争前の国家主義全盛の時代までは逆転しないで、国家連合の時代になったと私どもは言っているのであります。大体、世界は四つになるようであります。第一はソビエト連邦。これは社会主義国家の連合体であります。マルクス主義に対する世界の魅力は失われましたが、20年来の経験に基づき、特に第二次欧州戦争に乗じ、独特の活躍をなしつつあるソ連の実力は絶対に軽視できません。第二は米州であります。合衆国を中心とし、南北アメリカを一体にしようとしつつあります。中南米の民族的関係もあり、合衆国よりもむしろヨーロッパ方面と経済上の関係が濃厚な南米の諸国に於ては、合衆国を中心とする米州の連合に反対する運動は相当強いのですけれども、しかし大勢は着々として米州の連合に進んでおります。次にヨーロッパです。第一次欧州戦争の結果たるベルサイユ体制は、反動的で非常に無理があったものですから遂に今日の破局を来たしました。今度の戦争が起ると、「われわれは戦争に勝ったならば断じてベルサイユの体制に還すのではない。ナチは打倒しなければならぬ。ああいう独裁者は人類の平和のために打倒して、われわれの方針である自由主義の信条に基づく新しいヨーロッパの連合体制を採ろう」というのが、英国の知識階級の世論だと言われております。ドイツ側はどうでありましたか。たしか去年の秋のことでした。トルコ駐在のドイツ大使フォン・パーペンがドイツに帰る途中、イスタンブールで新聞記者にドイツの戦争目的如何という質問を受けた。ナチでないのでありますから、比較的慎重な態度を採らなけれはならぬパーペンが、言下に「ドイツが勝ったならばヨーロッパ連盟を作るのだ」と申しました。ナチスの世界観である「運命協同体」を指導原理とするヨーロッパ連盟を作るのが、ヒットラーの理想であるだろうと思います。フランスの屈伏後に於けるドイツの態度から見ても、このことは間違いないと信ぜられます。第一次欧州戦争が終りましてから、オーストリアのクーデンホーフが汎ヨーロッパということを唱導しまして、フランスのブリアン、ドイツのストレーゼマンという政治家も、その実現に熱意を見せたのでありますが、とうとうそこまで行かないでウヤムヤになったのです。
今度の大破局に当ってヨーロッパの連合体を作るということが、再びヨーロッパ人の真剣な気持になりつつあるものと思われます。最後に東亜であります。目下、日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を継続しております。しかしこの戦争も結局は日支両国が本当に提携するための悩みなのです。日本はおぼろ気ながら近衛声明以来それを認識しております。近衛声明以来ではありません。開戦当初から聖戦と唱えられたのがそれであります。如何なる犠牲を払っても、われわれは代償を求めるのではない、本当に日支の新しい提携の方針を確立すればそれでよろしいということは、今や日本の信念になりつつあります。明治維新後、民族国家を完成しようとして、他民族を軽視する傾向を強めたことは否定できません。台湾、朝鮮、満州、支那に於て遺憾ながら他民族の心をつかみ得なかった最大原因は、ここにあることを深く反省するのが事変処理、昭和維新、東亜連盟結成の基礎条件であります。中華民国でも三民主義の民族主義は孫文時代のままではなく、今度の事変を契機として新しい世界の趨勢に即応したものに進展することを信ずるものであります。今日の世界的形勢に於て、科学文明に立ち遅れた東亜の諸民族が西洋人と太刀打ちしようとするならば、われわれは精神力、道義力によって提携するのが最も重要な点でありますから、聡明な日本民族も漢民族も、もう間もなく大勢を達観して、心から諒解するようになるだろうと思います。もう一つ大英帝国というブロックが現実にはあるのであります。カナダ、アフリカ、インド、オーストラリア、南洋の広い地域を支配しています。しかし私は、これは問題にならないと見ております。あれは19世紀で終ったのです。強大な実力を有する国家がヨーロッパにしかない時代に、英国は制海権を確保してヨーロッパから植民地に行く道を独占し、更にヨーロッパの強国同士を絶えず喧嘩させて、自分の安全性を高めて世界を支配していたのです。ところが19世紀の末から既に大英帝国の鼎(かなえ)の軽重は問われつつあった。殊にドイツが大海軍の建設をはじめただけでなく、3B政策によって陸路ベルリンからバグダッド、エジプトの方に進んで行こうとするに至って、英国は制海権のみによってはドイツを屈伏させることが怪しくなって来たのです。それが第一次欧州大戦の根本原因であります。幸いにドイツをやっつけました。数百年前、世界政策に乗り出して以来、スペイン、ポルトガル、オランダを破り、次いでナポレオンを中心とするフランスに打ち克って、一世紀の間、世界の覇者となっていた英国は、最後にドイツ民族との決勝戦を迎えたのであります。英国は第一次欧州戦争の勝利により、欧州諸国家の争覇戦に於ける全勝の名誉を獲得しました。しかしこの名誉を得たときが実は、おしまいであったのです。まあ、やれやれと思ったときに東洋の一角では日本が相当なものになってしまった。
それから合衆国が新大陸に威張っている。もう今日は英帝国の領土は日本やアメリカの自己抑制のおかげで保持しているのです。英国自身の実力によって保持しているのではありません。カナダをはじめ南北アメリカの英国の領土は、合衆国の力に対して絶対に保持できません。
シンガポール以東、オーストラリアや南洋は、英国の力をもってしては、日本の威力に対して断じて保持できない。インドでもソビエトか日本の力が英国の力以上であります。本当に英国の、いわゆる無敵海軍をもって確保できるのは、せいぜいアフリカの植民地だけです。大英帝国はもうベルギー、オランダなみに歴史的惰性と外交的駆引によって、自分の領土を保持しているところの老獪極まる古狸でございます。20世紀の前半期は英帝国の崩壊史だろうと私どもも言っておったのですが、今次欧州大戦では、驚異的に復興したドイツのために、その本幹に電撃を与えられ、大英帝国もいよいよ歴史的存在となりつつあります。この国家連合の時代には、英帝国のような分散した状態ではいけないので、どうしても地域的に相接触したものが一つの連合体になることが、世界歴史の運命だと考えます。そして私は第一次欧州大戦以後の国家連合の時代は、この次の最終戦争のための準決勝戦時代だと観察しているのであります。先に話しました四つの集団が第二次欧州大戦以後は恐らく日、独、伊即ち東亜と欧州の連合と米州との対立となり、ソ連は巧みに両者の間に立ちつつも、大体は米州に多く傾くように判断されますが、われわれの常識から見れば結局、二つの代表的勢力となるものと考えられるのであります。どれが準決勝で優勝戦に残るかと言えば、私の想像では東亜と米州だろうと思います。
人類の歴史を、学問的ではありませんが、しろうと考えで考えて見ると、アジアの西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。この二つが最後の決勝戦をやる運命にあるのではないでしょうか。軍事的にも最も決勝戦争の困難なのは太平洋を挟んだ両集団であります。軍事的見地から言っても、恐らくこの二つの集団が準決勝に残るのではないかと私は考えます。そういう見当で想像して見ますと、ソ連は非常に勉強して、自由主義から統制主義に飛躍する時代に、率先して幾多の犠牲を払い幾百万の血を流して、今でも国民に驚くべき大犠牲を強制しつつ、スターリンは全力を尽しておりますけれども、どうもこれは瀬戸物のようではないか。堅いけれども落とすと割れそうだ。スターリンに、もしものことがあるならば、内部から崩壊してしまうのではなかろうか。非常にお気の毒ではありますけれども。それからヨーロッパの組はドイツ、イギリス、それにフランスなど、みな相当なものです。とにかく偉い民族の集まりです。しかし偉くても場所が悪い。確かに偉いけれどもそれが隣り合わせている。いくら運命協同体を作ろう、自由主義連合体を作ろうと言ったところで、考えはよろしいが、どうも喧嘩はヨーロッパが本家本元であります。その本能が何と言っても承知しない、なぐり合いを始める。因業な話で共倒れになるのじゃないか。ヒットラー統率の下に有史以来未曽有の大活躍をしている友邦ドイツに対しては、誠に失礼な言い方と思いますが、何となくこのように考えられます。ヨーロッパ諸民族は特に反省することが肝要と思います。そうなって来ると、どうも、ぐうたらのような東亜のわれわれの組と、それから成金のようでキザだけれども若々しい米州、この二つが大体、決勝に残るのではないか。この両者が太平洋を挟んだ人類の最後の大決戦、極端な大戦争をやります。その戦争は長くは続きません。至短期間でバタバタと片が付く。そうして天皇が世界の天皇で在らせらるべきものか、アメリカの大統領が世界を統制すべきものかという人類の最も重大な運命が決定するであろうと思うのであります。即ち東洋の王道と西洋の覇道の、いずれが世界統一の指導原理たるべきかが決定するのであります。悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります。今日、特に日本人に注意して頂きたいのは、日本の国力が増進するにつれ、国民は特に謙譲の徳を守り、最大の犠牲を甘受して、東亜諸民族が心から天皇の御位置を信仰するに至ることを妨げぬよう心掛けねばならぬことであります。天皇が東亜諸民族から盟主と仰がれる日こそ、即ち東亜連盟が真に完成した日であります。しかし八紘一宇の御精神を拝すれば、天皇が東亜連盟の盟主、世界の天皇と仰がれるに至っても日本国は盟主ではありません。
しからば最終戦争はいつ来るか。これも、まあ占いのようなもので科学的だとは申しませんが、全くの空想でもありません。再三申しました通り、西洋の歴史を見ますと、戦争術の大きな変転の時期が、同時に一般の文化史の重大な変化の時期であります。この見地に立って年数を考えますと、中世は約一千年くらい、それに続いてルネッサンスからフランス革命までは、まあ300年乃至400年。これも見方によって色々の説もありましょうが、大体こういう見当になります。フランス革命から第一次欧州戦争までは明確に125年であります。1000年、300年、125年から推して、第一次欧州戦争の初めから次の最終戦争の時期までどのくらいと考えるべきであるか。1000年、300年、125年の割合から言うと今度はどのくらいの見当だろうか。多くの人に聞いて見ると大体の結論は50年内外だろうということになったのであります。これは余り短いから、なるべく長くしたい気分になり、最初は70年とか言いましたけれども結局、極く長く見て50年内だろうと判断せざるを得なくなったのであります。ところが第一次欧州戦争勃発の1914年から20数年経過しております。今日から20数年、まあ30年内外で次の決戦戦争、即ち最終戦争の時期に入るだろう、ということになります。余りに短いようでありますが、考えてご覧なさい。飛行機が発明されて30何年、本当の飛行機らしくなってから20年内外、しかも飛躍的進歩は、ここ数年であります。文明の急激な進歩は全く未曽有の勢いであり、今日までの常識で将来を推しはかるべきでないことを深く考えなければなりません。今年はアメリカの旅客機が亜成層圏を飛ぶというのであります。成層圏の征服も間もなく実現することと信じます。科学の進歩から、どんな恐ろしい新兵器が出ないとも言えません。この見地から、この30年は最大の緊張をもって挙国一致、いな東亜数億の人々が一団となって最大の能力を発揮しなければなりません。この最終戦争の期間はどのくらい続くだろうか。これはまた更に空想が大きくなるのでありますが、例えば東亜と米州とで決戦をやると仮定すれば、始まったら極めて短期間で片付きます。しかし準決勝で両集団が残ったのでありますが、他にまだ沢山の相当な国々があるのですから、本当に余震が鎮静して戦争がなくなり人類の前史が終るまで、即ち最終戦争の時代は20年見当であろう。言い換えれば今から30年内外で人類の最後の決勝戦の時期に入り、50年以内に世界が一つになるだろう。こういうふうに私は算盤を弾いた次第であります。
第四章 昭和維新

 

フランス革命は持久戦争から決戦戦争、横隊戦術から散兵戦術に変る大きな変革でありました。日本では、ちょうど明治維新時代がそれであります。第一次欧州大戦によって決戦戦争から持久戦争、散兵戦術から戦闘群の戦術に変化し、今日はフランス革命以後最大の革新時代に入り、現に革新が進行中であります。即ち昭和維新であります。第二次欧州大戦で新しい時代が来たように考える人が多いのですが、私は第一次欧州大戦によって展開された自由主義から統制主義への革新、即ち昭和維新の急進展と見るのであります。昭和維新は日本だけの問題ではありません。本当に東亜の諸民族の力を総合的に発揮して、西洋文明の代表者と決勝戦を交える準備を完了するのであります。明治維新の眼目が王政復古にあったが如く、廃藩置県にあった如く、昭和維新の政治的眼目は東亜連盟の結成にある。満州事変によってその原則は発見され、今日ようやく国家の方針となろうとしています。東亜連盟の結成を中心問題とする昭和維新のためには二つのことが大事であります。第一は東洋民族の新しい道徳の創造であります。ちょうど、われわれが明治維新で藩侯に対する忠誠から天皇に対する忠誠に立ち返った如く、東亜連盟を結成するためには民族の闘争、東亜諸国の対立から民族の協和、東亜の諸国家の本当の結合という新しい道徳を生み出して行かなければならないのであります。その中核の問題は満州建国の精神である民族協和の実現にあります。この精神、この気持が最も大切であります。第二に、われわれの相手になるものに劣らぬ物質力を作り上げなければならないのです。この立ち後れた東亜がヨーロッパまたは米州の生産力以上の生産力を持たなければならない。以上の見地からすれば、現代の国策は東亜連盟の結成と生産力大拡充という二つが重要な問題をなしております。科学文明の後進者であるわれわれが、この偉大な生産力の大拡充を強行するためには、普通の通り一遍の方式ではダメです。何とかして西洋人の及ばぬ大きな産業能力を発揮しなければならないのであります。このごろ亀井貫一郎氏の「ナチス国防経済論」という書物を読んで非常に心を打たれました。ドイツは原料が足りない。ドイツがベルサイユ体制でいじめられて、いじめ抜かれたことが、ドイツを本当に奮発させまして、20年この方、特に10年この方、ドイツには第二産業革命が発生していると言うのです。私には、よくは理屈が判りませんが、要するに常温常圧の工業から高温高圧工業に、電気化学工業に変遷をして来る、そうして今までの原料の束縛からまぬがれてあらゆる物が容易に生産されるに至る驚くべき第二産業革命が今、進行しているのであります。それに対する確信があってこそ今度ドイツが大戦争に突進できたのであろうと思います。われわれは非常に科学文明で遅れております。しかし頭は良いのです。
皆さんを見ると、みな秀才のような顔をしております。断然われわれの全知能を総動員してドイツの科学の進歩、産業の発達を追い越して最新の科学、最優秀の産業力を迅速に獲得しなくてはならないのであります。これが、われわれの国策の最重要条件でなけれはなりません。ドイツに先んじて、むろんアメリカに先んじて、われわれの産業大革命を強行するのであります。この産業大革命は二つの方向に作用を及ぼすと思う。一つは破壊的であります。一つは建設的であります。破壊的とは何かと言うと、われわれはもう既に30年後の世界最後の決勝戦に向っているのでありますが、今持っているピーピーの飛行機では問題にならない。自由に成層圏にも行動し得るすばらしい航空機が速やかに造られなけれはなりません。また一挙に敵に殲滅的打撃を与える決戦兵器ができなければなりません。この産業革命によって、ドイツの今度の新兵器なんか比較にならない驚くべき決戦兵器が生産されるべきで、それによって初めて30年後の決勝戦に必勝の態勢を整え得るのであります。ドイツが本当に戦争の準備をして数年にしかなりません。皆さんに20年の時間を与えます。十分でしょう、いや余り過ぎて困るではありませんか。もう一つは建設方面であります。破壊も単純な破壊ではありません。最後の大決勝戦で世界の人口は半分になるかも知れないが、世界は政治的に一つになる。これは大きく見ると建設的であります。同時に産業革命の美しい建設の方面は、原料の束縛から離れて必要資材をどんどん造ることであります。われわれにとって最も大事な水や空気は喧嘩の種になりません。ふんだんにありますから。水喧嘩は時々ありますが、空気喧嘩をしてなぐり合ったということは、まず無いのです。必要なものは何でも、驚くべき産業革命でどしどし造ります。持たざる国と持てる国の区別がなくなり、必要なものは何でもできることになるのです。しかしこの大事業を貫くものは建国の精神、日本国体の精神による信仰の統一であります。政治的に世界が一つになり、思想信仰が統一され、この和やかな正しい精神生活をするための必要な物資を、喧嘩してまで争わなければならないことがなくなります。そこで真の世界の統一、即ち八紘一宇が初めて実現するであろうと考える次第であります。もう病気はなくなります。今の医術はまだ極めて能力が低いのですが、本当の科学の進歩は病気をなくして不老不死の夢を実現するでしょう。それで東亜連盟協会の「昭和維新論」には、昭和維新の目標として、約30年内外に決勝戦が起きる予想の下に、20年を目標にして東亜連盟の生産能力を西洋文明を代表するものに匹敵するものにしなければならないと言って、これを経済建設の目標にしているのであります。その見地から、ある権威者が米州の20年後の生産能力の検討をして見たところによりますと、それは驚くべき数量に達するのであります。
詳しい数は記憶しておりませんが、大体の見当は鋼や油は年額数億トン、石炭に至っては数10億トンを必要とすることとなり、とても今のような地下資源を使ってやるところの文明の方式では、20年後には完全に行き詰まります。この見地からも産業革命は間もなく不可避であり、「人類の前史将に終らんとす」るという観察は極めて合理的であると思われるのであります。
第五章 仏教の予言

 

今度は少し方面を変えまして宗教上から見た見解を一つお話したいと思います。非科学的な予言への、われわれのあこがれが宗教の大きな問題であります。しかし人間は科学的判断、つまり理性のみを以てしては満足安心のできないものがあって、そこに予言や見通しに対する強いあこがれがあるのであります。今の日本国民は、この時局をどういうふうにして解決するか、見通しが欲しいのです。予言が欲しいのです。ヒットラーが天下を取りました。それを可能にしたのはヒットラーの見通しであります。第一次欧州戦争の結果、全く行き詰まってしまったドイツでは、何ぴともあの苦境を脱する着想が考えられなかったときに、彼はベルサイユ条約を打倒して必ず民族の復興を果し得る信念を懐いたのです。大切なのはヒットラーの見通しであります。最初は狂人扱いをされましたが、その見通しが数年の間に、どうも本当でありそうだと国民が考えたときに、ヒットラーに対する信頼が生まれ、今日の状態に持って来たのであります。私は宗教の最も大切なことは予言であると思います。仏教、特に日蓮聖人の宗教が、予言の点から見て最も雄大で精密を極めたものであろうと考えます。空を見ると、たくさんの星があります。仏教から言えは、あれがみんな一つの世界であります。その中には、どれか知れませんが西方極楽浄土というよい世界があります。もっとよいのがあるかも知れません。その世界には必ず仏様が一人おられて、その世界を支配しております。その仏様には支配の年代があるのです。例えば地球では今は、お釈迦様の時代です。しかしお釈迦様は未来永劫この世界を支配するのではありません。次の後継者をちゃんと予定している。弥勒菩薩という御方が出て来るのだそうです。そうして仏様の時代を正法(しょうほう)・像法(ぞうほう)・末法(まっぽう)の三つに分けます。正法と申しますのは仏の教えが最も純粋に行なわれる時代で、像法は大体それに似通った時代です。末法というのは読んで字の通りであります。それで、お釈迦様の年代は、いろいろ異論もあるそうでございますが、多く信ぜられているのは正法千年、像法千年、末法万年、合計一万二千年であります。ところが大集経(だいしっきょう)というお経には更にその最初の2500年の詳細な予言があるのです。仏滅後(お釈迦様が亡くなってから後)の最初の500年が解脱(げだつ)の時代で、仏様の教えを守ると神通力が得られて、霊界の事柄がよくわかるようになる時代であります。人間が純朴で直感力が鋭い、よい時代であります。大乗経典はお釈迦様が書いたものでない。お釈迦様が亡くなられてから最初の500年、即ち解脱の時代にいろいろな人によって書かれたものです。私はそれを不思議に思うのです。長い年月かかって多くの人が書いたお経に大きな矛盾がなく、一つの体系を持っているということは、霊界に於て相通ずるものがあるから可能になったのだろうと思います。
大乗仏教は仏の説でないとて大乗経を軽視する人もありますが、大乗経典が仏説でないことが却(かえ)って仏教の霊妙不可思議を示すものと考えられます。その次の500年は禅定(ぜんじょう)の時代で、解脱の時代ほど人間が素直でなくなりますから、座禅によって悟りを開く時代であります。以上の千年が正法です。正法千年には、仏教が冥想の国インドで普及し、インドの人間を救ったのであります。その次の像法の最初の500年は読誦多聞(どくじゅたもん)の時代であります。教学の時代であります。仏典を研究し仏教の理論を研究して安心を得ようとしたのであります。瞑想の国インドから組織の国、理論の国、支那に来たのはこの像法の初め、教学時代の初めなのです。インドで雑然と説かれた万巻のお経を、支那人の大陸的な根気によって何回も何回も読みこなして、それに一つの体系を与えました。その最高の仕事をしたのが天台大師であります。天台大師はこの教学の時代に生まれた人です。天台大師が立てた仏教の組織は、現在でも多くの宗派の間で余り大きな異存はないのです。その次の像法の後の500年は多造塔寺(たぞうとうじ)の時代、即ちお寺をたくさん造った時代、つまり立派なお寺を建て、すばらしい仏像を本尊とし、名香を薫じ、それに綺麗な声でお経を読む。そういう仏教芸術の力によって満足を得て行こうとした時代であります。この時代になると仏教は実行の国日本に入って来ました。奈良朝・平安朝初期の優れた仏教芸術は、この時に生まれたのであります。次の500年、即ち末法最初の500年は闘諍(とうじょう)時代であります。この時代になると闘争が盛んになって普通の仏教の力はもうなくなってしまうと、お釈迦様が予言しています。末法に入ると、叡山の坊さんは、ねじり鉢巻で山を降りて来て三井寺を焼打ちにし、遂には山王様のお神輿をかついで都に乱入するまでになりました。説教すべき坊さんが拳骨を振るう時代になって来たのであります。予言の通りです。仏教では仏は自分の時代に現われる、あらゆる思想を説き、その教えの広まって行く経過を予言していなければならないのでありますが、一万年のお釈迦様が2500年でゴマ化しているのです。自分の教えは、この2500年でもうダメになってしまうという無責任なことを言って、大集経の予言は終っているのです。ところで、天台大師が仏教の最高経典であると言う法華経では、仏はその闘争の時代に自分の使を出す、節刀将軍を出す、その使者はこれこれのことを履(ふ)み行ない、こうこういう教えを広めて、それが末法の長い時代を指導するのだ、と予言しているのであります。言い換えれば仏滅から数えて2000年前後の末法では世の中がひどく複雑になるので、今から一々言っておいても分からないから、その時になったら自分が節刀将軍を出すから、その命令に服従しろ、と言って、お釈迦様は亡くなっているのです。
末法に入ってから220年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、しかもそれが承久の乱、即ち日本が未曽有の国体の大難に際会したときに、お母さんの胎内に受胎された日蓮聖人が、承久の乱に疑問を懐きまして仏道に入り、ご自分が法華経で予言された本化上行(ほんげじょうぎょう)菩薩であるという自覚に達し、法華経に従ってその行動を律せられ、お経に述べてある予言を全部自分の身に現わされた。
そして内乱と外患があるという、ご自身の予言が日本の内乱と蒙古の襲来によって的中したのであります。それで、その予言が実現するに従って逐次、ご自分の仏教上に於ける位置を明らかにし、予言の的中が全部終った後、みずから末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、日本の大国難である弘安の役の終った翌年に亡くなられました。そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。ここで、仏教教学について素人の身としては甚だ僭越でありますが、私の信ずるところを述べさせていただきたいと存じます。日蓮聖人の教義は本門の題目、本門の本尊、本門の戒壇の三つであります。題目は真っ先に現わされ、本尊は佐渡に流されて現わし、戒壇のことは身延でちょっと言われたが、時がまだ来ていない、時を待つべきであると言って亡くなられました。と申しますのは、戒壇は日本が世界的な地位を占めるときになって初めて必要な問題でありまして、足利時代や徳川時代には、まだ時が来ていなかったのです。それで明治時代になりまして日本の国体が世界的意義を持ちだしたときに、昨年亡くなられた田中智学先生が生まれて来まして、日蓮聖人の宗教の組織を完成し、特に本門戒壇論、即ち日本国体論を明らかにしました。それで日蓮聖人の教え即ち仏教は、明治の御代になって田中智学先生によって初めて全面的に、組織的に明らかにされたのであります。ところが不思議なことには、日蓮聖人の教義が全面的に明らかになったときに大きな問題が起きて来たのです。仏教徒の中に仏滅の年代に対する疑問が出て来たのであります。これは大変なことで、日蓮聖人は末法の初めに生まれて来なければならないのに、最近の歴史的研究では像法に生まれたらしい。そうすると日蓮聖人は予言された人でないということになります。日蓮聖人の宗教が成り立つか否かという大問題が出現したというのに、日蓮聖人の門下は、歴史が曖昧で判らない、どれが本当か判らないと言って、みずから慰めています。そういう信者は結構でしょう。そうでない人は信用しない。一天四海皆帰妙法は夢となります。この重大問題を日蓮聖人の信者は曖昧にして過ごしているのです。観心本尊鈔に「当ニ知ルベシ此ノ四菩薩、折伏(シャクブク)ヲ現ズル時ハ賢王ト成ツテ愚王ヲ誠責(カイシャク)シ、摂受(ショウジュ)ヲ行ズル時ハ僧ト成ツテ正法ヲ弘持(グジ)ス」とあります。この2回の出現は経文の示すところによるも、共に末法の最初の500年であると考えられます。そして摂受を行ずる場合の闘争は主として仏教内の争いと解すべきであります。
明治の時代までは仏教徒全部が、日蓮聖人の生まれた時代は末法の初めの500年だと信じていました。その時代に日蓮聖人が、いまだ像法だと言ったって通用しない。末法の初めとして行動されたのは当然であります。仏教徒が信じていた年代の計算によりますと、末法の最初の500年は大体、叡山の坊さんが乱暴し始めた頃から信長の頃までであります。信長が法華や門徒を虐殺しましたが、あの時代は坊さん連中が暴力を揮った最後ですから、大体、仏の予言が的中したわけであります。折伏を現ずる場合の闘争は、世界の全面的戦争であるべきだと思います。この問題に関連して、今は仏滅後何年であるかを考えて見なけれはなりません。歴史学者の間ではむずかしい議論もあるらしいのですが、まず常識的に信じられている仏滅後2430年見当という見解をとって見ます。そうすると末法の初めは、西洋人がアメリカを発見しインドにやって来たとき、即ち東西両文明の争いが始まりかけたときです。その後、東西両文明の争いがだんだん深刻化して、正にそれが最後の世界的決勝戦になろうとしているのであります。明治の御世、即ち日蓮聖人の教義の全部が現われ了ったときに、初めて年代の疑問が起きて来たことは、仏様の神通力だろうと信じます。末法の最初の500年を巧みに二つに使い分けをされたので、世界の統一は本当の歴史上の仏滅後2500年に終了すべきものであろうと私は信ずるのであります。そうなって参りますと、仏教の考える世界統一までは約6、70年を残されているわけであります。私は戦争の方では今から50年と申しましたが、不思議に大体、似たことになっております。あれだけ予言を重んじた日蓮聖人が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言をしておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現われるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきものだと信ずるのであります。この見解に対して法華の専門家は、それは素人のいい加減なこじつけだと言われるだろうかと存じますが、私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人以後の第一人老である田中智学先生が、大正7年のある講演で「一天四海皆帰妙法は48年間に成就し得るという算盤を弾いていると述べていることです。大正8年から48年くらいで世界が統一されると言っております。どういう算盤を弾かれたか述べてありませんが、天台大師が日蓮聖人の教えを準備された如く、田中先生は時来たって日蓮聖人の教義を全面的に発表した--即ち日蓮聖人の教えを完成したところの予定された人でありますから、この一語は非常な力を持っていると信じます。
また日蓮聖人は、インドから渡来して来た日本の仏法はインドに帰って行き、永く末法の闇を照らすべきものだと予言しています。日本山妙法寺の藤井行勝師がこの予言を実現すべくインドに行って太鼓をたたいているところに支那事変が勃発しました。英国の宣伝が盛んで、日本が苦戦して危いという印象をインド人が受けたのです。そこで藤井行勝師と親交のあったインドの「耶羅陀耶」という坊さんが「日本が負けると大変だ。自分が感得している仏舎利があるから、それを日本に納めて貰いたい」と行勝師に頼みました。
行勝師は一昨年帰って来てそれを陸海軍に納めたのであります。行勝師の話によると、セイロン島の仏教徒は、やはり仏滅後2500年に仏教国の王者によって世界が統一されるという予言を堅く信じているそうで、その年代はセイロンの計算では間もなく来るのであります。
第六章 結び

 

今までお話して来たことを総合的に考えますと、軍事的に見ましても、政治史の大勢から見ましても、また科学、産業の進歩から見ましても、信仰の上から見ましても、人類の前史は将に終ろうとしていることは確実であり、その年代は数10年後に切迫していると見なければならないと思うのであります。今は人類の歴史で空前絶後の重大な時期であります。世の中には、この支那事変を非常時と思って、これが終れは和やかな時代が来ると考えている人が今日もまだ相当にあるようです。そんな小っぽけな変革ではありません。昔は革命と革命との間には相当に長い非非常時、即ち常時があったのです。フランス革命から第一次欧州大戦の間も、一時はかなり世の中が和やかでありました。第一次欧州大戦以後の革命時は、まだ安定しておりません。しかしこの革命が終ると引きつづき次の大変局、即ち人類の最後の大決勝戦が来る。今日の非常時は次の超非常時と隣り合わせであります。今後数10年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります。この事を国民が認識すれば、余りむずかしい方法を用いなくても自然に精神総動員はできると私は考えます。東亜が仮に準決勝に残り得るとして誰と戦うか。私は先に米州じゃないかと想像しました。しかし、よく皆さんに了解して戴きたいことがあるのです。今は国と国との戦争は多く自分の国の利益のために戦うものと思っております。今日、日本とアメリカは睨み合いであります。あるいは戦争になるかも知れません。かれらから見れば蘭印を日本に独占されては困ると考え、日本から言えば何だアメリカは自分勝手のモンロー主義を振り廻しながら東亜の安定に口を入れるとは怪しからぬというわけで、多くは利害関係の戦争でありましょう。私はそんな戦争を、かれこれ言っているのでありません。世界の決勝戦というのは、そんな利害だけの問題ではないのです。世界人類の本当に長い間の共通のあこがれであった世界の統一、永遠の平和を達成するには、なるべく戦争などという乱暴な、残忍なことをしないで、刃(やいば)に※(ちぬ)[血+半]らずして、そういう時代の招来されることを熱望するのであり、それが、われわれの日夜の祈りであります。しかしどうも遺憾ながら人間は、あまりに不完全です。理屈のやり合いや道徳談義だけでは、この大事業は、やれないらしいのです。世界に残された最後の選手権を持つ者が、最も真面目に最も真剣に戦って、その勝負によって初めて世界統一の指導原理が確立されるでしょう。だから数10年後に迎えなければならないと私たちが考えている戦争は、全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲であります。われわれが仮にヨーロッパの組とか、あるいは米州の組と決勝戦をやることになっても、断じて、かれらを憎み、かれらと利害を争うのでありません。
恐るべき惨虐行為が行なわれるのですが、根本の精神は武道大会に両方の選士が出て来て一生懸命にやるのと同じことであります。人類文明の帰着点は、われわれが全能力を発揮して正しく堂々と争うことによって、神の審判を受けるのです。東洋人、特に日本人としては絶えずこの気持を正しく持ち、いやしくも敵を侮辱するとか、敵を憎むとかいうことは絶対にやるべからざることで、敵を十分に尊敬し敬意を持って堂々と戦わなけれはなりません。ある人がこう言うのです。君の言うことは本当らしい、本当らしいから余り言いふらすな、向こうが準備するからコッソリやれと。これでは東亜の男子、日本男子ではない。東方道義ではない。断じて皇道ではありません。よろしい、準備をさせよう、向こうも十分に準備をやれ、こっちも準備をやり、堂々たる戦いをやらなければならぬ。こう思うのであります。しかし断わって置かなければならないのは、こういう時代の大きな意義を一日でも早く達観し得る聡明な民族、聡明な国民が結局、世界の優者たるべき本質を持っているということです。その見地から私は、昭和維新の大目的を達成するために、この大きな時代の精神を一日も速やかに全日本国民と全東亜民族に了解させることが、私たちの最も大事な仕事であると確信するものであります。
 
第二部 「最終戦争論」に関する質疑回答

 

第一問 世界の統一が戦争によってなされるということは人類に対する冒涜であり、人類は戦争によらないで絶対平和の世界を建設し得なければならないと思う。
答 生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、正義に対するあこがれと力に対する依頼は、われらの心の中に併存する。昔の坊さんは宗論に負ければ袈裟をぬいで相手に捧げ、帰伏改宗したものと聞くが、今日の人間には思い及ばぬことである。純学術的問題でさえ、理論闘争で解決し難い場面を時々見聞する。絶大な支配力のない限り、政治経済等に関する現実問題は、単なる道義観や理論のみで争いを決することは通常、至難である。世界統一の如き人類の最大問題の解決は結局、人類に与えられた、あらゆる力を集中した真剣な闘争の結果、神の審判を受ける外に途はない。誠に悲しむべきことではあるが、何とも致し方がない。「鋒刃の威を仮らずして、坐(いなが)ら天下を平げん」と考えられた神武天皇は、遂に度々武力を御用い遊ばされ、「よもの海みなはらから」と仰せられた明治天皇は、遂に日清、日露の大戦を御決行遊ばされたのである。釈尊が、正法を護ることは単なる理論の争いでは不可能であり、身を以て、武器を執って当らねばならぬと説いているのは、人類の本性に徹した教えと言わねばならない。一人二人三人百人千人と次第に唱え伝えて、遂に一天四海皆帰妙法の理想を実現すべく力説した日蓮聖人も、信仰の統一は結局、前代未聞の大闘争によってのみ実現することを予言している。刃(やいば)にちぬらずして世界を統一することは固より、われらの心から熱望するところであるが、悲しい哉、それは恐らく不可能であろう。もし幸い可能であるとすれば、それがためにも最高道義の護持者であらせられる天皇が、絶対最強の武力を御掌握遊ばされねばならぬ。文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならない。最終戦争によって世界は統一される。しかし最終戦争は、どこまでも統一に入るための荒仕事であって、八紘一宇の発展と完成は武力によらず、正しい平和的手段によるべきである。
第二問 今日まで戦争が絶えなかったように、人類の闘争心がなくならない限り、戦争もまた絶対になくならないのではないか。
答 しかり、人類の歴史あって以来、戦争は絶えたことがない。しかし今日以後もまた、しかりと断ずるは過早である。明治維新までは、日本国内に於て戦争がなくなると誰が考えたであろうか。文明、特に交通の急速な発達と兵器の大進歩とによって、今日では日本国内に於ては、戦争の発生は全く問題とならなくなった。文明の進歩により戦争力が増大し、その威力圏の拡大に伴って政治的統一の範囲も広くなって来たのであるが、世界の一地方を根拠とする武力が全世界の至るところに対し迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを迅速に屈伏し得るようになれば、世界は自然に統一されることとなる。更に問題になるのは、たとい未曽有の大戦争があって世界が一度は統一されても、間もなくその支配力に反抗する力が生じて戦争が起り、再び国家の対立を生むのではなかろうかということである。しかしそれは、最終戦争が行なわれ得る文明の超躍的大進歩に考え及ばず今日の文明を基準とした常識判断に過ぎない。瞬間に敵国の中心地を潰滅する如き大威力は、戦争の惨害を極端ならしめて、人類が戦争を回避するに大きな力となるのみならず、かくの如き大威力の文明は一方、世界の交通状態を一変させる。数時間で世界の一周は可能となり、地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代であることを考えるべきである。人類は自然に、心から国家の対立と戦争の愚を悟る。且つ最終戦争により思想、信仰の統一を来たし、文明の進歩は生活資材を充足し、戦争までして物資の取得を争う時代は過ぎ去り人類は、いつの間にやら戦争を考えなくなるであろう。人類の闘争心は、ここ数10年の間はもちろん、人類のある限り恐らくなくならないであろう。闘争心は一面、文明発展の原動力である。しかし最終戦争以後は、その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、他の競争、即ち平和裡に、より高い文明を建設する競争に転換するのである。現にわれわれが子供の時分は、大人の喧嘩を街頭で見ることも決して稀ではなかったが、今日ではほとんど見ることができない。農民は品種の改善や増産に、工業者はすぐれた製品の製作に、学者は新しい発見・発明に等々、各々その職域に応じ今日以上の熱を以て努力し、闘争的本能を満足させるのである。以上はしかし理論的考察で半ば空想に過ぎない。しかし、日本国体を信仰するものには戦争の絶滅は確乎たる信念でなけれはならぬ。八紘一宇とは戦争絶滅の姿である。口に八紘一宇を唱え心に戦争の不滅を信ずるものがあるならば、真に憐むべき矛盾である。日本主義が勃興し、日本国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。
第三問 最終戦争が遠い将来には起るかも知れないが、僅々30年内外に起るとは信じられない。
答 近い将来に最終戦争の来ることは私の確信である。最終戦争が主として東亜と米州との間に行なわれるであろうということは私の想像である。最終戦争が30年内外に起るであろうということは占いに過ぎない。私も常識を以てしては、30年内外に起るとは、なかなか考えられない。しかし最終戦争は実に人類歴史の最大関節であり、このとき、世界に超常識的大変化が起るのである。今日までの戦争は主として地上、水上の戦いであった。障害の多い地上戦争の発達が急速に行かないことは常識で考えられるが、それが空中に飛躍するときは、真に驚天動地の大変化を生ずるであろう。空中への飛躍は人類数千年のあこがれであった。釈尊が法華経で本門の中心問題、即ち超常識の大法門を説こうとしたとき、インド霊鷲山(りょうじゅせん)上の説教場を空中に移したのは、真に驚嘆すべき着想ではないか。通達無碍の空中への飛躍は、地上にあくせくする人々の想像に絶するものがある。地上戦争の常識では、この次の戦争の大変化は容易に判断し難い。戦争術変化の年数が千年→三百年→百二十五年と逐次短縮して来たことから、この次の変化が恐らく50年内外に来るであろうとの推断は、固より甚だ粗雑なものであるが、全くのデタラメとは言えない。常識的には今後30年内外は余りに短いようであるが、次の大変化は、われらの常識に超越するものであることを敬虔な気持で考えるとき、私は「30年内外」を否定することはよろしくないと信ずるものである。もし30年内外に最終戦争が来ないで、50年、70年、百年後に延びることがあっても、国家にとって少しも損害にならないのであるが、仮に30年後には来ないと考えていたのに実際に来たならば、容易ならぬこととなるのである。私は技術・科学の急速な進歩、産業革命の状態、仏教の予言等から、30年後の最終戦争は必ずしも突飛とは言えないことを詳論した。更に、第一次欧州大戦までは世界が数10の政治的単位に分かれていたのがその後、急速に国家連合の時代に突入して、今日では四つの政治的単位になろうとする傾向が顕著であり、見方によっては、世界は既に自由主義と枢軸の二大陣営に対立しようとしている。準決勝の時期がそろそろ終ろうとするこの急テンポを、どう見るか。また統制主義を人類文化の最高方式の如く思う人も少なくないようであるが、私はそれには賛成ができない。元来、統制主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、安全弁を欠く結果となる。ソ連に於ける毎度の粛清工作はもちろん、ドイツに於ける突撃隊長の銃殺、副総統の脱走等の事件も、その傾向を示すものと見るべきである。統制主義の時代は、決して永く継続すべきものではないと確信する。今日の世界の大勢は各国をして、その最高能率を発揮して戦争に備えるために、否が応でも、また安全性を犠牲にしても、統制主義にならざるを得ざらしめるのである。
だから私は、統制主義は武道選手の決勝戦前の合宿のようなものだと思う。合宿生活は能率を挙げる最良の方法であるけれども、年中合宿して緊張したら、うんざりせざるを得ない。決戦直前の短期間にのみ行なわれるべきものである。統制主義は、人類が本能的に最終戦争近しと無意識のうちに直観して、それに対する合宿生活に入るための産物である。最終戦争までの数10年は合宿生活が継続するであろう。この点からも、最終戦争はわれらの眼前近く迫りつつあるものと推断する。
第四問 東洋文明は王道であり、西洋文明は覇道であると言うが、その説明をしてほしい。
答 かくの如き問題はその道の学者に教えを乞うべきで、私如きものが回答するのは僭越極まる次第であるが、私の尊敬する白柳秀湖、清水芳太郎両氏の意見を拝借して、若干の意見を述べる。文明の性格は気候風土の影響を受けることが極めて大きく、東西よりも南北に大きな差異を生ずる。われら北種は東西を通じて、おしなべて朝日を礼拝するのに、炎熱に苦しめられている南種は同じく太陽を神聖視しながらも、夕日に跪伏する。回教徒が夕日を礼拝するように仏教徒は夕日にあこがれ、西方に金色の寂光が降りそそぐ弥陀の浄土があると考えている。日蓮聖人が朝日を拝して立宗したのは、真の日本仏教が成立したことを意味する。熱帯では衣食住に心を労することなく、殊に支配階級は奴隷経済の上に抽象的な形而上の瞑想にふけり、宗教の発達を来たした。いわゆる三大宗教はみな亜熱帯に生まれたのである。半面、南種は安易な生活に慣れて社会制度は全く固定し、インドの如きは今なお4000年前の制度を固持して政治的に無力となり、少数の英人の支配に屈伏せざるを得ない状態となった。北種は元来、住みよい熱帯や亜熱帯から追い出された劣等種であったろうが、逆境と寒冷な風土に鍛錬されて、自然に科学的方面の発達を来たした。また農業に発した強い国家意義と狩猟生活の生んだ寄合評定によって、強大な政治力が養われ今日、世界に雄飛している民族は、すべて北種に属する。南種は専制的で議会の運用を巧みに行ない得ない。社会制度、政治組織の改革は、北種の特徴である。アジアの北種を主体とする日本民族の歴史と、アジアの南種に属する漢民族を主体とする支那の歴史に、相当大きな相違のあるのも当然である。但し漢民族は南種と言っても黄河沿岸はもちろんのこと、揚子江沿岸でも亜熱帯とは言われず、ヒマラヤ以南の南種に比べては、多分に北種に近い性格をもっている。清水氏は「日本真体制論」に次の如く述べている。「寒帯文明が世界を支配はしたけれども、決して寒帯民族そのものも真の幸福が得られなかった。力の強いものが力の弱いものを搾取するという力の科学の上に立った世界は、人類の幸福をもたらさなかった。弱いものばかりでなくて、強いものも同時に不幸であった。本当を言うと、熱帯文明の方が宗教的、芸術的であって、人間の目的生活にそうものである。寒帯文明は結局、人間の経済生活に役立つものであって、これは人間にとって手段生活である。寒帯文明が中心となってでき上がった人間の生活状態というものは、やはり主客転倒したものである。……この二つのものは別々であってよいかと言うに、これは一つにならなければならないものである。インド人や支那人は、実に深遠な精神文化を生み出した民族であるが今日、寒帯民族のもつ機械文明を模倣し成長せしめることに成功していない。
白色人種は、物質文化の行き詰まりを一面に於て唱えながらも、これを刷新せんとする彼らの案は、依然として寒帯文明の範疇を出ることができない。……とにかく、日本民族は明白に、その特色をもっているのである。この熱帯文明と寒帯文明とが、日本民族によって融合統一され、次の新しい人間の生活様式が創造されなければならない。どうも日本民族をおいて、他にこの二大文明の融合によって第三文明を創造しうる能力をもったものが、外にないと思われる。つまり、寒帯文明を手段として、東洋の精神文化を生かしうる社会の創造である。西洋の機械文明が、東洋の精神文明の手段となるときに、初めて西洋物質文化に意味を生じ、東洋精神文化も、初めて真の発達を遂げうるのである。」寒帯文明に徹底した物質文明偏重の西洋文明は、即ち覇道文明である。これに対し熱帯文明が王道文明であるかと言えば、そうではない。王道は中庸を得て、偏してはならぬ。道を守る人生の目的を堅持して、その目的達成のための手段として、物質文明を十分に生かさねばならない。即ち、王道文明は清水氏の第三文明でなければならない。同じ北種でも、アジアの北種とヨーロッパの北種には、その文明に大きな相異を来たしている。日本民族の主体は、もちろん北種である。科学的能力は白人種の最優秀者に優るとも劣らないのみならず、皇祖皇宗によって簡明に力強く宣明せられた建国の大理想は、民族不動の信仰として、われらの血に流れている。しかも適度に円満に南種の血を混じて熱帯文明の美しさも十分に摂取し、その文明を荘厳にしたのである。古代支那の文明は今日の研究では、南種に属する漢人種のものではなく、北種によって創められたものらしいと言われているが、その王道思想は正しく日本国体の説明と言うべきである。この王道思想が漢人種によって唱導されたものでないにせよ、漢民族はよくこの思想を容れ、それを堅持して今日に及んだ。今日の漢民族は多くの北種の血を混じて南北両文明を協調するに適する素質をもち、指導よろしきを得れは、十分に科学文明を活用し得る能力を備えていると信ずる。西洋北種は古代に於て果して、東洋諸民族の如き大理想を明確にもっていたであろうか。仮にあったにせよ、物質文明の力に圧倒され、かれらの信念として今日まで伝えられるだけの力はなかったのである。ヒットラーは古代ゲルマン民族の思想信仰の復活に熱意を有すると聞くが、ヒットラーの力を以てしても、民族の血の中に真生命として再生せしめることは至難であろう。ヨーロッパの北種はフランスを除けば、イギリスの如き地理的関係にあっても南種の混血は比較的少なく、ドイツその他の北欧の諸民族は、ほとんど北種間のみの混血で、現実主義に偏する傾向が顕著である。
殊にヨーロッパでは強力な国家が狭小な地域に密集して永い間、深刻な闘争をくり返し、科学文明の急速な進歩に大なる寄与をなしたけれども、その覇道的弊害もますます増大して今日、社会不安の原因をなし、清水氏の主張の如く、これも根本的に刷新することが不可能である。西洋文明は既に覇道に徹底して、みずから行き詰まりつつある。王道文明は東亜諸民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心として勃興しつつある。人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。
最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。
第五問 最終戦争が数10年後に起るとすれば、その原因は経済の争いで、観念的な王道・覇道の決勝戦とは思われない。
答 戦争の原因は、その時代の人類の最も深い関心を有するものに存する。昔は単純な人種間の戦争や、宗教戦争などが行なわれ、封建時代には土地の争奪が戦争の最大動機であった。土地の争奪は経済問題が最も大きな働きをなしている。近代の進歩した経済は、社会の関心を経済上の利害に集中させた結果、戦争の動機は経済以外に考えられない現状である。自由主義時代は経済が政治を支配するに至ったのであるが、統制主義時代は政治が経済を支配せねばならぬ。世の中には今や大なる変化を生じつつある。しかし僅々30年後にはなお、社会の最大関心事が依然として経済であり、主義が戦争の最大原因となるとは考えられない。けれども最終戦争を可能にする文明の飛躍的進歩は、半面に於て生活資材の充足を来たし、次第に今日のような経済至上の時代が解消するであろう。経済はどこまでも人生の目的ではなく、手段に過ぎない。人類が経済の束縛からまぬがれ得るに従って、その最大関心は再び精神的方面に向けられ、戦争も利害の争いから主義の争いに変化するのは、文明進化の必然的方向であると信ずる。即ち最終戦争時代は、戦争の最大原因が既に主義となる時代に入りつつあるべきはずである。文明の実質が大変化をしても、人類の考えは容易にそれに追随できないために、数10年後の最終戦争に於ける最初の動機は、依然として経済に関する問題であろう。しかし戦争の進行中に必ず急速に戦争目的に大変化を来たして、主義の争いとなり、結局は王覇両文明の雌雄を決することとなるものと信ずる。日蓮聖人が前代未聞の大闘争につき、最初は利益のために戦いつつも争いの深刻化するに従い、遂に頼るべきものは正法のみであることを頓悟して、急速に信仰の統一を来たすべきことを説いているのは、最終戦争の本質をよく示すものである。第一次欧州大戦以来、大国難を突破した国が逐次、自由主義から統制主義への社会的革命を実行した。日本も満州事変を契機として、この革新即ち昭和維新期に入ったのであるが、多くの知識人は依然として内心では自由主義にあこがれ、また口に自由主義を非難する人々も多くは自由主義的に行動していた。しかるに支那事変の進展中に、高度国防国家建設は、たちまち国民の常識となってしまった。冷静に顧みれば、平和時には全く思い及ばぬ驚異的変化が、何の不思議もなく行なわれてしまったのである。最終戦争の時代をおおむね20年内外と空想したが、この期間に人類の思想と生活に起る変化は、全く想像の及ばぬものがある。経済中心の戦争が徹底せる主義の争いに変化するとの判断は、決して突飛なものとは言われない。
第六問 数10年後に起る最終戦争によって世界の政治的統一が一挙に完成するとは考えられない。
答 最終戦争は人類歴史の最大関節であり、それによって世界統一即ち八紘一宇実現の第一歩に入るのである。しかし真に第一歩であって、八紘一宇の完成はそれからの人類の永い精進によらねばならない。この点で質問者の意見と私の意見は大体一致していると信ずるが、それに関する予想を述べて見ることとする。諸民族が長きは数千年の歴史によってその文化を高め、人類は近時急速にその共通のあこがれであった大統一への歩みを進めつつある。明治維新は日本の維新であったが、昭和維新は正しく東亜の維新であり、昭和13年12月26日の第74回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数10年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。明治維新は明治初年に行なわれ、明治10年の戦争によって概成し、その後の数10年の歴史によって真に統一した近代民族国家としての日本が完成したのである。昭和維新の眼目である東亜の新秩序即ち東亜の大同は、満州事変に端を発し支那事変で急進展をなしつつあるが、その完成には更に日本民族はもちろん、東亜諸民族の正しく深い認識と絶大な努力を要する。今日われらは、まず東亜連盟の結成を主張している。東亜連盟は満州建国に端を発したのであり当時、在満日本人には一挙に天皇の下に東亜連邦の成立を希望するものも多かったが、漢民族は未だ時機熟せずとして、日満華の協議、協同による東亜連盟で満足すべしと主張し、遂に東亜新秩序の第一段階として採用されるに至った。東亜の新秩序は、最終戦争に於て必勝を期するため、なるべく強度の統一が希望される。東亜諸民族の疑心暗鬼が除去されたならば、一日も速やかに少なくも東亜連邦に躍進して、東亜の総合的威力の増進を計らねばならぬ。更に各民族間の信頼が徹底したならば、東亜の最大能力を発揮するために諸国家は、みずから進んで国境を撤廃し、その完全な合同を熱望し、東亜大同国家の成立即ち大日本の東亜大拡大が実現せられることは疑いない。特に日本人が「よもの海みなはらから」「西ひがしむつみかわして栄ゆかん」との大御心のままに諸民族に対するならば、東亜連邦などを経由することなく、一挙に東亜大同国家の成立に飛躍するのではなかろうか。われらは、天皇を信仰し心から皇運を扶翼(ふよく)し奉るものは皆われらの同胞であり、全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。東亜連盟の初期に於て、諸国家が未だ天皇をその盟主と仰ぎ奉るに至らない間は、独り日本のみが天皇を戴いているのであるから、日本国は連盟の中核的存在即ち指導国家とならなければならない。
しかしそれは諸国家と平等に提携し、われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、皇道の精神に合しないことを強調する。日本の実力は東亜諸民族の認めるところである。日本が真に大御心を奉じ、謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、東亜の諸国家から指導者と仰がれる日は、案外急速に来ることを疑わない。日露戦争当時、既にアジアの国々は日本を「アジアの盟主」と呼んだではないか。東亜連盟は東亜新秩序の初歩である。しかも指導国家と自称せず、まず全く平等の立場において連盟を結成せんとするわれらの主張は世人から、ややもすれば軟弱と非難される。しかり、確かにいわゆる強硬ではない。しかし八紘一宇の大理想必成を信ずるわれらは絶対の大安心に立って、現実は自然の順序よき発展によるべきことを忘れず、最も着実な実行を期するものである。下手に出れば相手はつけあがるなどと恐れる人々は、八紘一宇を口にする資格がない。最終戦争と言えば、いかにも突飛な荒唐無稽の放談のように考え、また最終戦争論に賛意を表するものには、ややもすればこの戦争によって人類は直ちに黄金世界を造るように考える人々が多いらしい。共に正鵠を得ていない。最終戦争は近く必ず行なわれ、人類歴史の最大関節であるが、しかしそれを体験する人々は案外それほどの激変と思わず、この空前絶後の大変動期を過ごすことは、過去の革命時代と大差ないのではなかろうか。最終戦争によって世界は統一する。もちろん初期には幾多の余震をまぬがれないであろうが、文明の進歩は案外早くその安定を得て、武力をもって国家間に行なわれた闘争心は、人類の新しい総合的大文明建設の原動力に転換せられ、八紘一宇の完成に邁進するであろう。日本の有する天才の一人である清水芳太郎氏は「日本真体制論」の中に、その文明の発展について種々面白い空想を述べている。植物の一枚の葉の作用の秘密をつかめたならば、試験管の中で、われわれの食物がどんどん作られるようになり、一定の土地から今の恐らく1500倍ぐらいの食料が製造できる。また豚や鶏を飼う代りに、繁殖に最も簡単なバクテリヤを養い、牛肉のような味のするバクテリヤや、鶏肉の味のバクテリヤ等を発見して、極めて簡単に蛋白質の食物が得られるようになる。これは決して夢物語ではなく、既に第一次欧州大戦でドイツはバクテリヤを食べたのである。次に動力は貴重な石炭は使わなくとも、地下に放熱物体--ラジウムとかウラニウム--があって、地殻が熱くなっているのであるから、その放熱物体が地下から掘り出されるならば、無限の動力が得られるし、また成層圏の上には非常に多くの空中電気があるから、これを地上にもって来る方法が発見できれば、無限の電気を得ることになる。
なお成層圏の上の方には地上から発散する水素が充満している。その水素に酸素を加えると、これがすばらしい動力資源になる。従って飛行機でそこまで上昇し、その水素を吸い込んでこれを動力とすれば、どこまでも飛べる。そして降りるときには、その水素を吸い込んで来て、次に飛び上がるときにこれを使用する。このようにして世界をぐるぐる飛び廻ることは極めて容易である。この時代になると不老不死の妙法が発見される。なぜ人間が死ぬかと言えば、老廃物がたまって、その中毒によるのである。従ってその老廃物をどしどし排除する方法が採られるならは生命は、ほとんど無限に続く。
現にバクテリヤを枯草の煮汁の中に入れると、極めて元気に猛烈な繁殖をつづける。暫くして自分の排出する老廃物の中毒で次第に繁殖力が衰えてゆくが、また新しい枯草の汁の中に持ってゆくと再び活気づいて来る。かくして次々と煮汁を新しくしてゆけば何時までも生きている。即ち不老不死である。しからば人間が不老不死になると、人口が非常に多くなり世界に充満して困るではないかということを心配する人があるかも知れない。しかしその心配はない。自然の妙は不思議なもので、サンガー夫人をひっぱって来る必要がない。人間は、ちょうどよい工合に一人が千年に一人ぐらい子供を産むことになる。これは接木や挿木をくりかえして来た蜜柑には種子がなくなると同じである。早く死ぬから頻繁に子供を産むが、不老不死になると、人間は淡々として神様に近い生活をするに至るであろう。また時間というものは結局温度である。人を殺さないで温度を変える。物を壊さないで温度を上げることができれば、10年を1年にちぢめることは、たやすいことである。逆に温度を下げて零下273度という絶対温度にすると、万物ことごとく活動は止まってしまう。そうなると浦島太郎も夢ではない。真に自由自在の世界となる。更に進んで突然変異を人工的に起すことによって、すばらしい大飛躍が考えられる。即ち人類は最終戦争後、次第に驚くべき総合的文明に入り、そして遂には、みずから作る突然変異によって、今の人類以上のものが、この世に生まれて来るのである。仏教ではそれを弥勒(みろく)菩薩の時代というのである。清水氏の空想の如き時代となれば、人類がその闘争本能を戦争に求めることは到底考えることができない。要は質問者の言う如く、世界の政治的統一は決して一挙に行なわれるのではなく、人類の文明は、すべて不断の発展を遂げるのである。しかし文明の発展には時に急湍がある。われらは最終戦争が人類歴史上の最大急湍であることを確認し、今からその突破にあらゆる準備を急がねばならぬ。
第七問 戦争の発達を東洋、特に日本戦史によらず、単に西洋戦史によるのは公正でないと思う。
答 「戦争史大観の由来記」に白状してある通り、私の軍事学に関する知識は極めて狭く、専門的にやや研究したのは、フランス革命を中心とする西洋戦史の一部分に過ぎない。これが最終戦争論を西洋戦史によった第一の原因である。有志の方々が東西古今の戦争史により、更に広く総合的に研究されることを切望する。必ず私と同一結論に達することを信ずるものである。過去数百年は白人の世界征服史であり今日、全世界が白人文明の下にひれ伏している。その最大原因は白人の獲得した優れた戦争力である。しかし戦争は断じて人生や国家の目的ではなく、その手段にすぎない。正しい根本的な戦争観は西洋に存せずして、われらが所有する。三種の神器の剣は皇国武力の意義をお示し遊ばされる。国体を擁護し皇運を扶翼(ふよく)し奉るための武力の発動が皇国の戦争である。最も平和的であると信ぜられる仏教に於ても、涅槃(ねはん)経に「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし」「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器仗を執持すべし」と説かれてあり、日蓮聖人は「兵法剣形の大事もこの妙法より出たり」と断じている。右のような考え方が西洋にあるかないかは無学の私は知らないが、よしあったにせよ、今日のかれらに対しては恐らく無力であろう。戦争の本義は、どこまでも王道文明の指南にまつべきである。しかし戦争の実行方法は主として力の問題であり、覇道文明の発達した西洋が本場となったのは当然である。日本の戦争は主として国内の戦争であり、民族戦争の如き深刻さを欠いていた。殊に平和的な民族性が大きな作用をして、敵の食糧難に同情して塩を贈った武将の心事となり、更に戦の間に和歌のやりとりをしたり、あるいは那須の与一の扇の的となった。こうなると戦やらスポーツやら見境いがつかないくらいである。武器がすばらしい芸術品となったことなどにも日本武力の特質が現われている。東亜大陸に於ては漢民族が永く中核的存在を持続し、数次にわたり、いわゆる北方の蕃族に征服されたものの、強国が真剣に相対峙したことは西洋の如くではない。殊に蕃族は軍事的に支那を征服しても、漢民族の文化を尊重したのである。また東亜に於ては西洋の如く民族意識が強烈でなく、今日の研究でも、いかなる民種に属するかさえ不明な民族が、歴史上に存在するのである。しかも東亜大陸は土地広大で戦争の深刻さを緩和する。ヨーロッパは元来アジアの一半島に過ぎない。あの狭い土地に多数の強力な民族が密集して多くの国家を営んでいる。西洋科学文明の発達はその諸民族闘争の所産と言える。
東洋が王道文明の伝統を保ったのに対し、西洋が覇道文明の支配下に入った有力な原因は、この自然的環境の結果と見るべきである。覇道文明のため戦争の本場となり、且つ優れた選手が常時相対しており、戦場も手頃の広さである関係上、戦争の発達は西洋に於て、より系統的に現われたのは当然である。私の知識の不十分から、研究は自然に西洋戦史に偏したのであるが、戦争の形態に関する限り甚だしい不合理とは言えないと信ずる。私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、一般文明が西洋中心であると言うのではないことを特に強調する。
第八問 決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は果して正しいか。
答 ナポレオンはオーストリア、プロイセン等の国々に対しては見事な決戦戦争を強行したのであるが、スペインに対しては実行至難となり、またロシヤに対しては彼の全力を以てしても、ほとんど不可能であった。第二次欧州大戦で新興ナチス・ドイツはポーランド、オランダ、ユーゴー、ギリシャ等の弱小国家のみならず、フランスに対しても極めて強力に決戦戦争を強制した。ソ連に対しては開戦当初の大奇襲によって肝心の緒戦に大成功を収めながら、そう簡単には行かない状況にある。またナポレオンも英国に対しては10年にわたる持久戦争を余儀なくされたが、ヒットラーも英国に決戦戦争を強制することは至難である。右の如く同一時代に於て、ある時には決戦戦争が行なわれ、ある所では持久戦争となったのである。決戦・持久両戦争が時代的に交互するとの見解は十分に検討されなければならない。如何なる時、如何なる所に於ても、両交戦国の戦争力に甚だしい懸隔があるときは持久戦争とはならないのは、もちろんであり、第二次欧州大戦に於けるドイツと弱小国家との間の如き、これである。戦争本来の面目はもちろん決戦戦争にあるが、戦争力がほぼ相匹敵している国家間に持久戦争の行なわれる原因は次の如くである。
軍隊価値の低下
文芸復興以来の傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理があるために、如何に訓練した軍隊でも、徹底的にその武力を運用することは困難であった。これがフランス革命まで持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民的軍隊に帰ったことである。近代人はその愛国の赤誠によってのみ、真に生命を犠牲に供し得るのである。支那に於ては、唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度が破れて以来、その民族性は、極端に武を卑しみ、今日なお「好人不当兵」の思想を清算し得ないで、武力の真価を発揮しにくい状態にある。日本の戦国時代に於ける武士は、日本国民性に基づく武士道によって強烈な戦闘力を発揮したのであるが、それでもなお且つ買収が行なわれ当時の戦争は、いわゆる謀略中心となり、必要の前には父母、兄弟、妻子までも利益のために犠牲としたのである。戦国時代の日本武将の謀略は、中国人も西洋人も三舎を避けるものがあった。日本民族はどの途にかけても相当のものである。今日、謀略を振り廻しても余り成功しないのは、徳川300年の太平の結果である。
防禦威力の強大
戦争に於ける強者は常に敵を攻撃して行き、敵に決戦戦争を強制しようとするのである。ところが、そのときの戦争手段が甚だしく防禦に有利な場合には、敵の防禦陣地を突破することができないで、攻者の武力が敵の中枢部に達し得ず、やむなく持久戦争となる。フランス革命以来、決戦戦争が主として行なわれたのであるが、第一次欧州大戦に於ては防禦威力の強大が戦争を持久せしめるに至った。第二次欧州大戦では戦車の進歩と空軍の大発達が攻撃威力を増加して、敵線突破の可能性を増加し、第一次欧州大戦当時に比し、決戦戦争の方向に傾きつつある。戦国時代の築城は当時の武力をもってしては力攻することが困難で、それが持久戦争の重大原因となった。謀略が戦争の極めて有力な手段となったのは、それがためである。ナポレオンは10年にわたるイギリスとの持久戦争を余儀なくされ、遂に敗れた。イギリスはその貧弱な陸上兵力にかかわらず、ドーバー海峡という恐るべき大水濠の掩護によって、ナポレオンの決戦戦争を阻止したのである。今日のナチス・ドイツに対する頑強な抵抗も、ドーバー海峡に依存している。イギリスのナポレオン及びヒットラーに対する持久戦争は、ドーバー海峡による防禦威力の強大な結果と見るべきである。
国土の広大
攻者の威力が敵の防禦線を突破し得るほど十分であっても、攻者国軍の行動半径が敵国の心臓部に及ばないときは、自然に持久戦争となる。ナポレオンはロシヤの軍隊を簡単に撃破して、長駆モスコーまで侵入したのであるが、これはナポレオン軍隊の堅実な行動半径を越えた作戦であったために、そこに無理があった。従ってナポレオン軍の後方が危険となり、遂にモスコー退却の惨劇を演じて、大ナポレオン覇業の没落を来たしたのである。ロシヤを護った第一の力は、ロシヤの武力ではなく、その広大な国土であった。第二次欧州大戦に於て、ソ連はドイツに対する唯一の強力な全体主義国防国家として、強大な武力をもっていた。統帥よろしきを得たならば、スターリン陣地を堅持して、ドイツと持久戦争を交え得る公算も、絶無ではなかったろうと考えられるが、ドイツの大奇襲にあい、スターリン陣地内に大打撃を受けて作戦不利に陥り、まさにモスコーをも失おうとしつつある。しかしスターリンが決心すれば、その広大な国土によって持久戦争を継続し得るものと想像される。今次事変に於ける蒋介石の日本に対する持久戦争は中国の広大な土地に依存している。右三つの原因の中、3項は時代性と見るべきでなく、国土の広大な地方に於ては両戦争の時代性が明確となり難い。ただし時代の進歩とともに、決戦戦争可能の範囲が逐次拡大することは当然であり、ある武力が全世界の至るところに決戦戦争を強制し得るときは、即ち最終戦争の可能性が生ずるときである。1項は一般文化と不可分であり、2項は主として武器や築城に制約される問題であって、時代性と密接な関係がある。ただし海軍により海を以て完全な障害となし得る敵に対しては、今日までは決戦戦争が不可能であった。空軍が真の決戦軍隊となるとき、初めてその障害が全く力を失うのである。即ち土地の広漠な東洋に於ては、両戦争の時代性が明確であると言い難いが、強国が相隣接し国土も余り広くなく、しかも覇道文明のために戦争の本場である欧州に於ては、両戦争が時代性と密に関連し、従って両戦争が交互に現われる傾向が顕著であった。特に現代の西欧では、軍隊の行動半径に対し土地の広さはますます小さくなり、しかも兵力の増加は敵正面の迂回を不可能にするため、戦争の性質は緊密に兵器の威力に関係し、全く時代の影響下に入ったものと言うべきである。
第九問 攻撃兵器が飛躍的に進歩しても、それに応じて防禦兵器もまた進歩するから、徹底した決戦戦争の出現は望み難いのではないか。
答 武器が攻防いずれに有利であるかが、戦争の性質が持久・決戦いずれになるかを決定する有力な原因である。刀槍は裸体の個人間の闘争には決戦的武器であるが、鎧の進歩によってその威力は制限され、殊に築城に拠る敵を攻撃することは甚だしく困難となる。小銃は攻撃よりも防禦に適する点が多い。殊に機関銃の防禦威力は、すこぶる大きい。これに対し、火砲は小銃に比し攻撃を有利にするが、その威力も築城と防禦方法の進歩により掣肘(せいちゅう)される。即ち近時の機関銃の出現と築城の進歩とは防禦威力を急速に高めたが、大口径火砲の大量使用は一時、敵線の突破を可能ならしめた。しかるに陣地が巧みに分散するに従って、火砲の支援による敵線の突破は再び至難となった。戦車は攻撃的兵器である。第一次欧州大戦に於ける戦車の出現は、戦術界に大衝動を与えたが、その質と量とは未だ持久戦争から決戦戦争への変化を起させるまでには至らなかった。爾来20数年、第二次欧州大戦に於ける戦車の数と質の大進歩は、空軍の威力と相俟って、ドイツ軍が弱小国及びフランスに果敢な決戦戦争を強制し得た原因の一つである。しかし真剣な努力を以てすれば、戦車の整備に対し対戦車砲の整備は却って容易であり、戦車による敵陣地の突破は、十分に準備した敵に対しては今日といえども必ずしも容易とは言えない。しかるに飛行機となると、戦車が地上兵器としては極めて決戦的であるのに対しても、全く比較を絶する決戦的兵器である。地上の戦闘では土地が築城に利用され、場所によってはそのまま強い障害ともなり、防禦に偉大な力となる。水上では土地の如き利用物がなく、防禦戦闘は至難であり、防ぐ唯一の手段は攻めることである。更に空中戦に於ては、防禦は全く成立しない。海上よりの攻撃に対する陸上の防禦は比較的容易である。大艦隊をもってしても、時代遅れの海岸要塞を攻略することの不可能であった歴史が多い。しかも海上から陸上を攻撃し得る範囲は極めて狭い。しかるに空中からの陸上や海上に対する攻撃の威力は極めて大きいのに対し、防空は至難である。対空射撃その他の防空戦闘の方法は進歩しても、成層圏にも行動し速度のますます大となる飛行機に対しては、小さな目標はとにかく、大都市の如き大目標防衛のための地上よりする防禦戦闘は、制空権を失えば、ほとんど不可能に近い。空軍のこの威力に対し、あらゆるものを地下に埋没しようとしても実行は至難であり、仮に可能としても、各種の能力を甚だしく低下させることは、まぬかれ難い。空軍に対する国土の防衛は、ますます困難となるであろう。成層圏を自由自在に駆ける驚異的航空機、それに搭載して敵国の中枢部を破壊する革命的兵器は、あらゆる防禦手段を無効にして、決戦戦争の徹底を来たし、最終戦争を可能ならしめる。
第十問 最終戦争に於ける決戦兵器は航空機でなく、殺人光線や殺人電波等ではなかろうか。
答 小銃や大砲は直接敵を殺傷する兵器ではない。それによって撃ち出される弾丸が、殺傷破壊の威力を発揮するのである。軍艦の艦体即ち「ふね」は敵を撃破する能力はない。これに搭載される火砲や発射管から撃ち出される弾丸や魚雷によって敵艦を打ち沈める。飛行機も軍艦と同様である。飛行機によって敵をいためるのではない。迅速に、遠距離に爆弾等を送り得ることが、飛行磯の兵器としての価値である。もし殺人光線、殺人電波その他の恐るべき新兵器が数千、数万キロメートルの距離に猛威をほしいままにし得るに至ったならば、航空機が兵器としての絶対性を失い、空軍建設の必要がなくなるわけである。しかし最終戦争に用いられる直接敵を撃滅する兵器が、みずからかくの如き遠距離に威力を発揮し得ない限り、将来ますます行動力の飛躍的発展を見るべき航空機によることが必要であり、空軍が決戦軍隊として最終戦争に活用されなければならない。即ち破壊兵器として今日の爆弾に代る恐るべき大威力のものが発明されることと信ずるが、これを遠距離に運んで、敵を潰滅するために航空機が依然として必要であろう。
第十一問 最終戦争に於ける戦闘指揮単位は個人だと言うが、将来の飛行機はますます大型となり指揮単位が個人と言うのは当らないのではないか。
答 指揮単位が個人になるとの判断は、今日までの大勢、即ち大隊→中隊→小隊→分隊と分解して来た過程から推察して次は個人となるだろうというので、考えには無理がないようであるが、次に来たるべき戦闘方法に対する判断がつかないため、私としても質問者と同様、具体的に考えると何となく割り切れないものがある。最終戦争の実体は、われらの常識では想像し難い点が多く、決戦は空軍によると言っても、その空軍は今日の飛行機とは全く異なったものの出現が条件である。ここでは折角の質問に対し、私の常識的想像を述べることとする。決して権威ある回答ではない。戦闘機は燃料の制限を受けて行動半径が小さいのみでなく、飛行機の進歩に伴い、余り小型のものは、いろいろな掣肘を受け、大型機の速度増加に対して在来の如き優位の保持が困難となるし、大型爆撃機の巧妙な編隊行動と武装の向上によって、戦闘機の価値は逐次低下するものと判断されたのである。しかるに支那事変及び第二次欧州大戦の経験によれは、制空権獲得のためには戦闘機の価値は依然として極めて高い。敵に爆弾を投ずる爆撃機の任務は固より重大であるが、将来とも空中戦の主体は依然として戦闘機であるとも考えられる。動力の大革命が行なわれ小型戦闘機の行動半径が大いに飛躍すれば、戦闘機は空中戦の花形として、ますます重要な位置を占める可能性がある。大型機は編隊行動と火力のみでなく、装甲等による防禦をも企図するであろうが、空中では水上のような重量の大きな防禦設備は望み難く、小型機はその攻撃威力を十分に発揮できる。空中戦の優者が戦争の運命を左右し、空中戦の勝負は主として小型戦闘機で決せられるものとせば、指揮単位が個人と言うのが正しいこととなる。
第十二問 最終戦争に於ける戦闘指導精神はどうなると思うか。
答 現時の持久戦争から次の決戦戦争即ち最終戦争への変転は再三強調したように、真に超常識の大飛躍である。地上に於ける発達と異なり、想像に絶するものがある。数学的発達をなす兵数(全男子より全国民)、戦闘隊形の幾何学的解釈(面より体)、戦闘指揮単位(分隊より個人)は別として、運用に関する戦闘隊形が戦闘群の次にどんなものになるかは、戦闘方法が全く想像もつかないのであるから判断ができない。同じく運用に関する戦闘指導精神が統制の次に、いかなるものであるかも、全く判断に苦しむ。それでこの二つは正直に白欄にしてあるのであるが、敢えて大胆に意見を述べることとする。統制には、混雑と力の重複を避けるために必要の強制即ち専制的威力を用いると同時に、各兵、各部隊の自主的独断的活動は更に多くを要求されるのである。専制的強制は自由活動を助長するためである。即ち統制は自由から専制への後退ではなく、自由と専制を巧みに総合、発展させた高次の指導精神でなければならない。専制は封建時代に於ける社会の指導精神であり、封建はすべての優秀民族が一度は経験したところである。文化のある時期には封建を必要とするのである。朝鮮の近世の衰微は、過早に郡県政治が行なわれ、官吏の短い在職期間に、できるだけ多く搾取しようとした官僚政治により、遂に国民の生産的、建設的企図心を根底的に消磨し、生活し得る最小限度の生産が、人民の経済活動の目標となった結果であった。封建君主がその領土、人民を子孫に伝えるため、十分にこれを愛惜する専制政治は、その時代には最もよい制度であったのである。しかし人智の進歩は遂に専制下では十分にその進歩的能力を活用し得ないようになり、フランス革命前後に優秀諸民族の間に自由主義革命が逐次実行され、溌剌たる個人の創意が尊重されて、文明は驚異的進歩を見た。しかし、ものにはすべて限度がある。個人自由の放任は社会の進歩とともに各種の摩擦を激化し、今日では無制限の自由は社会全体の能率を挙げ得ない有様となった。統制はこの弊害を是正し、社会の全能率を発揮させるために自然に発生して来た新時代の指導精神に外ならない。戦闘指導精神が自由から統制に進んだと同一理由である。新しく統制に入るには、自由主義時代に行き過ぎた私益中心を抑えるために、最初は反動的に専制即ち強制を相当強く用いなければならないのは、やむを得ないことである。殊に社会的訓練の経験に乏しいわが国に於て、ややもすれば統制が自由からの進歩ではなく自由から統制への後退であるが如き場面をも生じたのは、自然の勢いと言わねばならぬ。しかし統制によって社会、国家の全能力を遺憾なく発揮するためにも、個人の創意、個人の熱情が依然として最も重要であるから、無益の摩擦、不経済な重複を回避し得る範用内に於て、ますます自由を尊重しなければならない。
元来、理想的統制は心の統一を第一とし、法律的制限は最小限に止めるべきである。官憲統制よりも自治統制の範囲を拡大し得るようになることが望ましい。即ち統制訓練の進むに従って、専制的部面は逐次縮小されるべきである。準決勝戦時代の統制訓練により、最終戦争時代の社会指導精神は、今日の統制より遥かに自由を尊重して、更に積極的に国家の全能力を発揮し得るものに進歩するであろう。「戦争史大観」では、兵役がフランス革命までの傭兵時代に於ては「職業」であったのに、フランス革命以後「義務」となったが、最終戦争時代は更に「義務」から「義勇」に進むものと予断している。英米の傭兵を義勇兵と訳するのは適当でない。ここに言う「義勇」は皇運扶翼のために進んで一身を捧げる真の義勇兵である。フランス革命後、兵力が激増し殊に準決勝時代である今日の持久戦には、全健康男子が戦線に動員される。かくの如き大動員は義務を必要とする。最終戦争では、敵の攻撃を受けて堪え忍ぶ消極的戦争参加は全国民となるが、攻勢的軍隊は少数の精鋭を極めたものとなるであろう。かくの如き軍隊には公平に徴募する義務兵では適当と言えぬ。義務はまだ消極的たるをまぬがれない。人も我も許す真に優れた人々の義勇的参加であることが最も望ましい。ナチスの突撃隊、ファッショの黒シャツ隊等は、この傾向に示唆を与えているのではなかろうか。戦闘指導精神も兵役と同一の方向をとり、最終戦争時代の社会指導精神と同じく、今日の統制よりも更に多くの自由を許すことにより、戦闘能力の積極的発揮に努めることとなるであろう。即ち自由と統制との総合発展ではなかろうか。更に最終戦争終了後、即ち八紘一宇の建設期に入れば、人々の自由は更に高度に尊重され、全人類一致精進の中にも、各人は精錬された自由の精神を以て、自主的に良心的にその全能力を発揮するような社会状態となるであろう。統制主義の今日は、人類歴史中最も緊張した時代であり、少々の無理があっても最短期間に最大効果を挙げようとする合宿時代である。
第十三問 日本が最終戦争に於て必勝を期し得るという客観的条件が十分に説明されていない。単なる信仰では安心できないと思う。
答 われらは30年内外に最終戦争が来るものとして、20年を目標に東亜連盟の生産力をして米州の生産力を追い越させようとするのである。たしかに驚くべき計画であり、空想と笑われても無理はない。われらも決して楽観してはいない。難事中の至難事である。しかし天皇の御為め全人類のために、何としてもこれを実現せねばならぬ。この頃の日本人は口に精神第一を唱えながら、資源獲得にのみ熱狂している。ドイツの今日は資源貧弱の苦境を克服するための努力が科学、技術の進歩をもたらしたのである。ドイツを尊敬する人は、まずこの点を学ぶべきである。特に最終戦争と不可分の関係にある、いわゆる第二産業革命に直面しつつある今日、この点が最も肝要である。資源もある程度は必要である。しかるに日満支だけでも実に莫大な資源を蔵している。世界無比の日本刀を鍛えた砂鉄は80億ton、あるいは100億tonと言われている。これだけでも鉄について日本は世界一の資源を持っていると言える。ただ砂鉄の少ない西洋の製鉄法を模倣して来た日本は、まだ砂鉄精錬に完全な成功を収めなかった。最近は純日本式の卓抜な方法が成功しつつある。楢崎式の如き、それである。満州国の鉄の埋蔵量もすばらしい。石炭は日本内にも相当にあるが、満州国の東半分は、どこを掘っても豊富な石炭が出て来る。更に山西に行けば世界衆知の大資源がある。石油は日本国内にも、まだまだある。熱河から陜西、甘粛、四川、雲南を経てビルマに至るアジアの大油脈があることは確実らしく、蘭印の石油はその末端と言われる。現に熱河には石油が発見され、陜西、甘粛、四川に油の出ることは世人の知るところである。大規模な試掘を強行せねばならぬ。石炭液化も今日まで困難な路を歩んで来たが、そろそろ純日本式の簡単で優秀な世界無比の能率よい方式が成功しつつある。前記の楢崎式の成功は、われらの確信するところである。その他の資源も決して恐れるに足りない。山西、陜西、四川以西の地は、ほとんど未踏査の地方で、いかなる大資源が出るかも計り難い。東亜の最大強味は人的資源である。生産の最大重要要素は今日以後は特に人的資源である。日本海、支那海を湖水として日満支三国に密集生活している五億の優秀な人口は、真に世界最大の宝である。世人は支那の教育不振を心配するが、大したことはない。支那人は驚くべき文化人である。世界の驚異である美術工芸品を造ったあの力を活用し、速やかに高い能力を発揮し得ることを疑わない。ただ問題となるのは、この人的物的資源を僅々20年内に大動員し得るかである。固より困難な大作業である。しかし革命によって根底的に破壊したソ連が、資源は豊富であるにせよ、広大な地域に資源も人も分散している不利を克服し、あの蒙昧な人民を使用して5年、10年の間に成功した生産力の大拡張を思うとき、われらは断じて成功を疑うことができない。
ただし偉大な達見と強力な政治力が必要だ。一億一心も滅私奉公も、明確なこの大目標に力強く集中されて初めて真の意義を発揮する。特に私の強調したいのは、西洋人が物質文明に耽溺しているのに、われらは数千年来の父祖の伝統によって、心から簡素な生活に安んじ得る点である。日本の一万トン巡洋艦が同じアメリカの甲級巡洋艦に比べて、その戦闘力に大きな差異があるのは、主として日本の海軍軍人の剛健な生活のためである。先日、私は秋田県の石川理紀之助翁の遺跡を訪ねて、無限の感にうたれた。翁は10年の長い年月、草木谷という山中の4畳半ぐらいの草屋に単身起居し、その後、後嗣の死に遇い、やむなく家に帰った後も、極めて狭い庵室で一生を送った。この簡素極まる生活の中に数10万首の歌を詠み、香を薫じ、茶をたてつつ、誠に高い精神生活を営み、且つ農事その他に驚くべく進歩した科学的研究、改善を行なったのである。この東洋的日本的精神を生かし、生活を最大級に簡素化し、すべてを最終戦争の準備に捧げることにより、西洋人の全く思い及ばぬ力を発揮し得るのである。日本主義者は空論するよりも率先してこれを実行せねばならぬ。この簡素生活は目下国民の頭を悩ましつつある困難な防空にも、大きな光明を与えるものと信ずる。困難ではあるが、われらは必ず20年以内に米州を凌駕する戦争力を養い得るだろう。ここで注意すべきことは、持久戦争時代の勝敗を決するものは主として量の問題であるが、決戦戦争時代には主として質が問題となることである。しかし、われらが断然新しい決戦兵器を先んじて創作し得たならば、今日までの立遅れを一挙に回復することも敢えて難事ではない。時局が大急転するときは、後進国が先進者を追い越す機会を捉えることが比較的に容易である。科学教育の徹底、技術水準の向上、生産力の大拡充が、われらの奮闘の目標であるが、特に発明の奨励には国家が最大の関心を払い、卓抜果敢な方策を強行せねばならぬ。発明奨励のために国民が第一に心掛けねばならないのは、発明を尊敬することである。日本に於ける天才の一人である大橋為次郎翁は、皇紀2600年記念として、明治神宮の近くに発明神社を建て、東西古今を通じて、卓抜な発明によって人類の生活に大きな幸福を与えてくれた人々を祭りたいと、熱心に運動していた。私は極めて有意義な計画と信ずるが、残念ながら創立できなかった。願わくば全国民が胸の中に発明神社を建てて頂きたい。この重大時期に於て天才はややもすれば社会的重圧の下に葬られつつある。発明奨励の方法は官僚的では絶対にいけない。よろしく成金を動員すべきである。独断で思い切った大金を投げ出し得るものでなければ、発明の奨励はできない。発明がある程度まで成功すれば、その発明家に重賞を与えるとともに、その発明を保護したものに対しては勲章を賜わるようお願いする。
現在では勲章は主として官吏に年功によって授けられる。自由主義時代ならば、国家の統制下にある官吏が特別の恩賞に浴するのは当然であろうが、統制時代には、真に国家に積極的な功績のあったものに、職域等にこだわらず、公正に恩賞を賜わることが肝要である。
発明の価値によっては、その保護者に授爵も奏請すべきである。更に一代の内に儲けた財産に対しては極めて高い相続税を課する等の方法を講じたならば、成金は自分の儲けた全部を発明奨励に出すことになるだろう。自分の力によって儲けた富を最終戦争準備の発明奨励に捧げることは、昭和時代の成金の名誉であり、誇りでなければならぬ。成功の確実な見込がついた発明は、これを国家の研究機関で総合的学術の力によって速やかに工業化する。大研究機関の新設は固より必要であるが、全日本の研究機関を、形式的でなく有機的に統一し、その全能力を自主積極的に発揮させるべきである。最終戦争のためには、どれだけの地域をわが協同範囲としなければならないかは一大問題である。作戦上及び資源関係よりすれば、なるべく広い範囲が希望されるのであるが、同時に戦争と建設とはなかなか両立し難く、大建設のためにはなるべく長い平和が希望される。徒らに範囲拡大のために力を消耗することは、慎重に考えねばならぬ。このことについても持久戦争時代と異なり、決戦戦争に徹底する最終戦争に於ては、必ずしも広い地域を作戦上絶対的に必要とはしないのである。優秀な武力が一挙に決戦を行ない得るからである。以上の如く、われらが最終戦争に勝つための客観的条件は固より楽観すべきではないが、われらの全能力を総合運用すれば、断じて可能である。そしてこの超人的事業を可能にするものは、国民の信仰である。八紘一宇の大理想達成に対する国民不動の信仰が、いかなる困難をも必ず克服する。苦境のどん底に落ちこんでも泰然、敢然と邁進する原動力は、この信仰により常に光明と安心とを与えられるからである。日本国体の霊力が、あらゆる不足を補って、最終戦争に必勝せしめる。
第十四問 最終戦争の必然性を宗教的に説明されているが、科学的に説明されない限り現代人には了解できない。
答 この種の質問を度々受けるのは、私の実は甚だ意外とするところである。私は日蓮聖人の信者として、聖人の予言を確信するものであり、この信仰を全国民に伝えたい熱望をもっている。しかし「最終戦争論」が決して宗教的説明を主とするものでないことは、少しく丁寧に読まれた人々には直ちに理解されることと信ずる。この論は私の軍事科学的考察を基礎とするもので、仏の予言は政治史の大勢、科学・産業の進歩とともに、私の軍事研究を傍証するために挙げた一例に過ぎない。私の軍事科学の説明が甚だ不十分であることは、固より自認するところである。しかしかくの如き総合的社会現象を完全に科学をもって証明することは不可能のことである。科学的とみずから誇るマルクス主義に於てすら、資本主義時代の後に無産者独裁の時代が来るとの判断は結局、一つの推断であって、決して科学的に正確なものとは言えない。この見地に立てば、不完全な私の最終戦争必至の推断も相当に科学的であるとも言い得るではなかろうか。日本の知識人は今日まで軍事科学の研究を等閑にし、殊に自由主義時代には、歴史に於て戦争の研究を、ことさらに軽視していた。戦争は人類の有するあらゆる力を瞬間的に最も強く総合運用するものであるから、その歴史は文明発展の原則を最も端的に示すものと言うべきである。また戦争は多くの社会現象の中で最も科学的に検討し易いものではなかろうか。近時、宗教否定の風潮が強いのに乗じ、「「最終戦争論」に予言を述べているのは穏当を欠く。予言の如きは世界を迷わすものである」と批難する人が多い由を耳にする。人智がいかに進んでも、脳細胞の数と質に制約されて一定の限度があり、科学的検討にも、おのずから限度がある。そしてそれは宇宙の森羅万象に比べては、ほんの局限された一部分に過ぎない。宇宙間には霊妙の力があり、人間もその一部分をうけている。この霊妙な力を正しく働かして、科学的考察の及ばぬ秘密に突入し得るのは、天から人類に与えられた特権である。人もし宇宙の霊妙な力を否定するならば、それは天御中主神の否定であり、日本国体の神聖は、その重大意義を失う結果となる。天照大神、神武天皇、釈尊の如き聖者は、よく数千年の後を予言し得る強い霊力を有したのである。予言を批難しようとする科学万能の現代人は、「天壌無窮」「八紘一宇」の大予言を、いかに拝しているのか。皇祖皇宗のこの大予言は実にわれらが安心の根底である。
第十五問 産業大革命の必然性についての説明が不十分であると思う。
答 全くその通りである。私の知識は軍事以外は皆無に近い。「最終戦争論」は、信仰によって直感している最終戦争を、私の専門とする軍事科学の貧弱ながら良心的な研究により、やや具体的に解釈し得たとの考えから、敢えて世に発表したのである。その際、軍事は一般文明の発展と歩調を同じくするとの原則に基づき、各方面から観察しても同一の結論に達するだろうとの信念の下に、若干の思いつきを述べたに過ぎない。この質疑回答の中にも、私の分を越えた僭越な独断が甚だ多いのは十分承知しており、誠にお恥ずかしい極みである。志ある方々が、思想・社会・経済等あらゆる方面から御検討の上、御教示を賜わらんことを切にお願い申上げる次第である。「東亜連盟」誌上の橘樸氏の発表に対しては、私は心から感激している。
 
第三部 戦争史大観

 

第一篇 戦争史大観  
第一 緒論
一 戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち、一般文化の進歩を研究して、戦争発達の状態を推断し得べきとともに、戦争進化の大勢を知るときは、人類文化発達の方向を判定するために有力なる根拠を得べし。
二 戦争の絶滅は人類共通の理想なり。しかれども道義的立場のみよりこれを実現するの至難たることは、数千年の歴史の証明するところなり。
戦争術の徹底せる進歩は、絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期は既に切迫しつつあるを思わしむ。
三 戦争の指導、会戦の指揮等は、その有する二傾向の間を交互に動きつつあるに対し、戦闘法及び軍の編成等は整然たる進歩をなす。
即ち、戦闘法等が最後の発達を遂げ、戦争指導等が戦争本来の目的に最もよく合する傾向に徹底するときは、人類争闘力の最大限を発揮するときにして、やがてこれ絶対平和の第一歩たるべし。
第二 戦争指導要領の変化
一 戦争本来の目的は武力を以て徹底的に敵を圧倒するにあり。しかれども種々の事情により武力は、みずからすべてを解決し得ざること多し。前老を決戦戦争とせば後者は持久戦争と称すべし。
二 決戦戦争に在りては武力第一にして、外交・財政は第二義的価値を有するに過ぎざるも、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い、財政・外交等はその地位を高む。即ち、前者に在りては戦略は政略を超越するも後者に在りては逐次政略の地位を高め、遂に将帥は政治の方針によりその作戦を指導するに至ることあり。
三 持久戦争は長期にわたるを通常とし、武力価値の如何により戦争の状態に種々の変化を生ず。即ち、武力行使に於ても、会戦を主とするか小戦を主とするか、あるいは機動を主とするか等各種の場合を生ず。しかして持久戦争となる主なる原因次の如し。
軍隊の価値低きこと。17-18世紀の傭兵、近時支那の軍閥戦争等。
軍隊の運動力に比し戦場の広きこと。ナポレオンの露国役、日露戦争、支那事変等。
攻撃威力が当時の防禦線を突破し得ざること。欧州大戦等。
四 両戦争の消長を観察するに、古代は国民皆兵にして決戦戦争行なわれたり。用兵術もまた暗黒時代となれる中世を経て、ルネッサンスとともに新用兵術生まれしが、重金思想は傭兵を生み、その結果、持久戦争の時代となれり。フリードリヒ大王は、この時代の用兵術発展の頂点をなす。
大王歿後3年にして起れるフランス革命は、傭兵より国民皆兵に変化せしめて戦術上に大変化を来たし、ナポレオンにより殲滅戦略の運用開始せられ、決戦戦争の時代となれり。モルトケ、シュリーフェン等により、ますますその発展を見たるも、防禦威力の増加は、南阿戦争、日露戦争に於て既に殲滅戦略運用の困難なるを示し、欧州大戦は遂に持久戦争に陥り、タンク、毒ガス等の使用により、各交戦国は極力この苦境より脱出せんと努力せるも、目的を達せずして戦争を終れり。
五 長期戦争は現今、戦争の常態なりと一般に信ぜられあるも、歴史は再び決戦戦争の時代を招来すべきを暗示しつつあり。しかして将来戦争は恐らくその作戦目標を敵国民となすべく、敵国の中心に一挙致命的打撃を加うることにより、真に決戦戦争の徹底を来たすべし。
第三 会戦指揮方針の変化
一 会戦指揮の要領は、最初より会戦指導の方針を確立し、その方針の下に一挙に迅速に決戦を行なうと、最初はまずなるべく敵に損害を与えつつ、わが兵力を愛惜し、機を見て決戦を行なうとの二種に分かつを得べし。
二 しかして両者いずれによるべきやは、将帥及び軍隊の特性と当時の武力の強靭性いかんによる。
ギリシャのファランクスは前者に便にして、ローマのレギヨンは後者に便なり。これ主として両国国民性の然らしむるところ。ギリシャ民族に近きドイツと、ローマ民族に近きフランスが、欧州大戦初期に行なえる会戦指導方針と対比し、ここに面白き対照を与う。また、その使用せる武力の性質によりしといえども、ドイツ民族より前者の達人たるフリードリヒ大王を生じ、ラテン民族より後者の名手たるナポレオンを生じたるは、必ずしも偶然とのみ称し難きか。
三 横隊戦術に於ては前者を有利とするに対し、ナポレオン時代の縦隊戦術は兵力の梯次的配置により戦闘力の靭強性を増加し、且つ側面の強度を増せるため自然、後者を有利とすること多し。
爾後、火器の発達により正面堅固の度を増すに従い、戦闘正面の拡大を来たし逐次、横隊戦術に近似するに至れり。欧州大戦初期に於けるドイツ軍のフランス侵入方法は、ロイテン会戦指導原理と相通ずるものあり。欧州大戦に於て敵翼包囲不可能となるや、強固なる正面突破のため深き縦長を以て攻撃を行ない、会戦指揮は、またもや第二線決戦を主とするに至れり。
第四 戦闘方法の進歩
一 古代の密集戦術は「点」の戦法にして単位は大隊なり。横隊戦術は「実線」の戦法にして単位は中隊、散兵戦術は「点線」の戦法にして単位は小隊を自然とす。戦闘の指導精神は横隊戦術に於ては「専制」にして、散兵戦術にありては「自由」なり。
日露戦後、射撃指揮を中隊長に回収せるは苦労性なる日本人の特性を表わす一例なり。もし散兵戦闘を小隊長に委すべからずとせば、その民族は既にこの戦法時代に於ける落伍者と言わざるべからず。
戦闘群戦術は「面」の戦法にして単位は分隊とす。その戦闘指導精神は統制なり。
二 実際に於ける戦闘法の進歩は右の如く単一ならざりしも、この大勢に従いしことは否定すべからず。
三 将来の戦術は「体」の戦法にして、単位は個人なるべし。
第五 戦争参加兵力の増加と国軍の編成
一 職業者よりなる傭兵時代は兵力大なる能わず。国民皆兵の徹底により逐次兵力を増加し、欧州大戦には全健康男子これに加わるに至れり。
二 将来、戦闘員の採用は恐らく義務より義勇に進むべく、戦争に当りては全国民が殺戮の渦中に投入せらるべし。
三 国軍の編制は兵力の増加に従い逐次拡大せり。特に注目に値するは、ナポレオンの1812年役に於て、実質に於て三軍を有しながら、依然一軍としての指揮法をとり、非常なる不便を嘗(な)めたりしが、欧州大戦前のドイツ軍は既に思想的には方面軍を必要としありしも遂に、ここに着意する能わずして、第一・第二・第三軍を第二軍司令官に指揮せしめ、国境会戦にてフランス第五軍を逸する一大原因をなせり。
戦史の研究に熱心なりしドイツ軍にして然り。人智の幼稚なるを痛感せずんばあらず。
第六 将来戦争の予想
一 欧州戦争は欧州諸民族の決勝戦なり。「世界大戦」と称するは当らず。
第一次欧州大戦後、西洋文明の中心は米国に移りつつあり。次いで来るべき決戦戦争は日米を中心とするものにして真の世界大戦なるべし。
二 前述せる戦争の発達により見るときは、この大戦争は空軍を以てする決戦戦争にして、次に示す諸項より見て人類争闘力の最大限を用うるものにして、人類の最後の大戦争なるべし。即ち、この大戦争によりて世界は統一せられ、絶対平和の第一歩に入るべし。
真に徹底せる決戦戦争なり。
吾人は体以上のものを理解する能わず。
全国民は直接戦争に参加し、且つ戦闘員は個人を単位とす。即ち各人の能力を最大限に発揚し、しかも全国民の全力を用う。
三 しからばこの戦争の起る時機いかん。
東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。
米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。
決戦用兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること。
右三条件はほとんど同速度を以て進みあるが如く、決して遠き将来にあらざることを思わしむ。
第七 現在に於ける我が国防
一 天皇を中心と仰ぐ東亜連盟の基礎として、まず日満支協同の完成を現時の国策とす。
二 国防とは国策の防衛なり。即ち、わが現在の国防は持久戦争を予期して次の力を要求す。
ソ国の陸上武力と米国の海上武力に対し東亜を守り得る武力。
目下の協同体たる日満両国を範囲とし自給自足をなし得る経済力。
三 満州国の東亜連盟防衛上に於ける責務真に重大なり。特にソ国の侵攻に対しては、在大陸の日本軍とともに断固これを撃破し得る自信なかるべからず。
第二篇 戦争史大観の序説 (戦争史大観の由来記)

 

私が、やや軍事学の理解がつき始めてから、殊に陸大入校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。もしロシヤが、もう少し頑張って抗戦を持続したなら、日本の勝利は危なかったのではなかろうか。
日本陸軍はドイツ陸軍に、その最も多くを学んだ。そしてドイツのモルトケ将軍は日本陸軍の師表として仰がれるに至った。日本陸軍は未だにドイツ流の直訳を脱し切っていない。例えば兵営生活の一面に於ても、それが顕著に現われている。服装が洋式になったのは、よいとしても、兵営がなお純洋式となっているのは果して適当であろうか。脱靴だけは日本式であるが、田舎出身の兵隊に、慣れない腰掛を強制し、また窮屈な寝台に押し込んでいる。兵の生活様式を急変することは、かれらの度胆を抜き、不慣れの集団生活と絶対服従の規律の前に屈伏させる一手段であるかも知れないが、しかし国民の兵役に対する自覚が次第に立派なものに向上して来た今日では、その生活様式を国民生活に調和させることが必要である。のみならず更にあらゆる点に、積極的考慮が払われるべきではないだろうか。
軍事学については、戦術方面は体験的であるため自然に日本式となりつつあるものの、大戦略即ち戦争指導については、いかに見てもモルトケ直訳である。もちろん今日ではルーデンドルフを経てヒットラー流(?)に移ったが、依然としてドイツ流の直訳を脱してはいない。
日露戦争はモルトケの戦略思想に従い「主作戦を満州に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃攘し、艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し以て極東の制海権を獲得する……」という作戦方針の下に行なわれたのである。武力を以て迅速に敵の屈伏を企図し得るドイツの対仏作戦ならば、かくの如き要領で計画を立てて置けば充分である。元来、作戦計画は第一会戦までしか立たないものである。
しかしながら日本のロシヤに対する立場はドイツのフランスに対するそれとは全く異なっている。日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく、戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか。これが私の青年時代からの大きな疑問であった。
日露戦争時代に日本が対露戦争につき真に深刻にその本質を突き止めていたなら、あるいは却ってあのように蹶起する勇気を出し得なかったかも知れぬ。それ故にモルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える。しかし今日、世界列強が日本を嫉視している時代となっては、正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の大方針を確立せねばならぬ。これは私の絶えざる苦悩であった。
陸大卒業後、半年ばかり教育総監部に勤務した後、漢口の中支那派遣隊司令部付となった。当時、漢口には一個大隊の日本軍が駐屯していたのである。漢口の勤務二個年間、心ひそかに研究したことは右の疑問に対してであった。しかし読書力に乏しい私は、殊に適当と思われる軍事学の書籍が無いため、東亜の現状に即するわが国防を空想し、戦争を決戦的と持続的との二つに分け、日本は当然、後者に遭遇するものとして考察を進めて見た。
ロシヤ帝国の崩壊は日本の在来の対露中心の研究に大変化をもたらした。それは実に日本陸軍に至大の影響を及ぼし、様々に形を変えて今日まで、すこぶる大きな作用を為している。ロシヤは崩壊したが同時に米国の東亜に対する関心は増大した。日米抗争の重苦しい空気は日に月に甚だしくなり、結局は東亜の問題を解決するためには対米戦争の準備が根底を為すべきなりとの判断の下に、この持続的戦争に対する思索に漢口時代の大部分を費やしたのであった。当時、日本の国防論として最高権威と目された佐藤鉄太郎中将の「帝国国防史論」も一読した。この史論は、明治以後に日本人によって書かれた軍事学の中で最も価値あるものと信ぜられるが、日本の国防と英国の国防を余りに同一視し、両国の間に重大な差異のあることを見遁している点は、遺憾ながら承服できなかった。かくて私は当時の思索研究の結論として、ナポレオンの対英戦争が、われらの最も価値ある研究対象であるとの年来の考えを一層深くしたのであった。明治43年頃、韓国守備中に、箕作博士の「西洋史講話」を読んで植え付けられたこの点に関する興味が、不断に私の思索に影響を与えつつあったのである。
ただ、箕作博士の所論もマハン鵜呑みの点がある。後年、箕作博士が陸軍大学教官となって来られた際、一度この点を抗議して博士から少しく傾聴せられ来訪をすすめられたが、遂に訪ねる機会も無くそのままとなったのは、未だに心残りである。
大正12年、ドイツに留学。ある日、安田武雄中将(当時大尉)から、ルーデンドルフ一党とベルリン大学のデルブリュック教授との論争に関する説明をきき、年来の研究に対し光明を与えられしことの大なるを感知して、この方面の図書を少々読んだのであるが、語学力が不充分で、読書力に乏しい私は、あるいは半解に終ったかとも思われるが、ともかくデルブリュック教授の殲滅戦略、消耗戦略の大体を会得し得て盛んにこの言葉を使用し、陸軍大学に於ける私の欧州古戦史の講義には、戦争の二大性質としてこの名称を用いたのであった。
ドイツに赴く途中、シンガポールに上陸の際、国柱会(こくちゅうかい)の人々から歓迎された席上に於て、私はシンガポールの戦略的重要性を強調し、英国はインドの不安を抑え、豪州防衛のために戦略的側面陣地価値ある同地を、近く要塞化すべきを断じたのであったが、この後、間もなく実現したので、当時列席した人から感慨深い挨拶状を受けたことがあった。
ドイツ留学の2年間は、主として欧州大戦が殲滅戦略から消耗戦略に変転するところに興味を持って研究したのであるが、語学力の不充分と怠慢性のため充分に勉強したと言えず、誠にお恥ずかしい次第である。欧州大戦につき少しく研究するとともに、デルブリュックとドイツ参謀本部最初の論争戦であったフリードリヒ大王の研究を必要とし、且つかねての宿望であったナポレオンを研究し、大王の消耗戦略からナポレオンの殲滅戦略への変化は欧州大戦の変化とともに軍事上最も興味深い研究なるべしと信じ、両名将の研究に要する若干の図書を買い集めたのであった。
明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第65連隊は、日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた連隊であった。この連隊は幹部を東北の各連隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。明治42年末、少尉任官とともに山形の歩兵第32連隊から若松に転任した私は、私の一生中で最も愉快な年月を、大正4年の陸軍大学入校まで、この隊で過ごしたのである。いな、陸軍大学卒業までも、休みの日に第4中隊の下士室を根城として兵とともに過ごした日は、極めて幸福なものであった。
私自身は陸大に受験する希望がなかったのであるが、余り私を好かぬ上官たちも、連隊創設以来一名も陸大に入学した者がないので、連隊の名誉のためとて、比較的に士官学枚卒業成績の良かった私を無理に受験させたのである。私の希望通り陸大に入校しなかったならば、私は自信ある部隊長として、真に一介の武人たる私の天職に従い、恐らく今日は屍を馬革に包み得ていたであろう。しかるに私は入学試験に合格した。これには友人たちも驚いて「石原は、いつ勉強したか、どうも不思議だ」とて、多分、他人の寝静まった後にでも勉強したものと思っていたらしい。余り大人気ないので私は、それに対し何も言ったことはなかったが、起床時刻には連隊に出ており、消灯ラッパを通常は将校集会所の入浴場で聞いていた私は、宿に帰れば疲れ切って軍服のまま寝込む日の方が多かったのである。あのころは記憶力も多少よかったらしいが、入学試験の通過はむしろ偶然であったろうと思う。しかしこれは連隊や会津の人々には大きな不思議であったらしい。
山形時代も兵の教育には最大の興味を感じていたのであるが、会津の数年間に於ける猛訓練、殊に銃剣術は今でも思い出の種である。この猛訓練によって養われて来たものは兵に対する敬愛の念であり、心を悩ますものは、この一身を真に君国に捧げている神の如き兵に、いかにしてその精神の原動力たるべき国体に関する信念感激をたたき込むかであった。私どもは幼年学校以来の教育によって、国体に対する信念は断じて動揺することはないと確信し、みずから安心しているものの、兵に、世人に、更に外国人にまで納得させる自信を得るまでは安心できないのである。一時は筧(かけい)博士の「古神道大義」という私にはむずかしい本を熱心に読んだことも記憶にあるが、遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正9年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の「前代未聞の大闘諍(とうじょう)一閻浮提(えんぶだい)に起るべし」は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである。
戦闘法が幾何学的正確さを以て今日まで進歩して来たこと、即ち戦闘隊形が点から線に、更に面になったことは陸軍大学在学当時の着想であった。いな恐らくその前からであったらしい。大正3年夏の「偕行社記事別冊」として発表された恐らく曽田中将の執筆と考えられる「兵力節約案」は、面の戦術への世界的先駆思想であると信ずるが、私がこの案を見て至大の興味を感じたことは今日も記憶に明らかである。教育総監部に勤務した頃、当時わが陸軍では散兵戦術から今日の戦闘群の戦法に進むことに極めて消極的であったのであるが、私が自信を以て積極的意見を持っていたのは、この思想の結果であった。
私の最終戦争に対する考えはかくて、
1 日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争。
2 戦争性質の二傾向が交互作用をなすこと。
3 戦闘隊形は点から線に、更に面に進んだ。次に体となること。
の三つが重要な因子となって進み、ベルリン留学中には全く確信を得たのであった。大正何年か忘れたが、緒方大将一行が兵器視察のため欧州旅行の途中ベルリンに来られたとき、大使館武官の招宴があり、私ども駐在員も末席に連なったのであるが、補佐官坂西少将(当時大尉)が5分間演説を提案し最初に私を指名したので私は立って、「何のため大砲などをかれこれ見て歩かれるのか。余り遠からず戦争は空軍により決せられ世界は統一するのだから、国家の全力を挙げて最優秀の飛行機を製作し得るよう今日から準備することが第一」というようなことを述べたのであるが、これは緒方大将を少々驚かしたらしく数年後、陸軍大臣官邸で同大将にお目にかかったとき、特に御挨拶があった。大正14年秋、シベリヤ経由でドイツから帰国の途中、哈爾賓(ハルビン)で国柱会の同志に無理に公開演説に引出された。席上で「大震災により破壊した東京に10億の大金をかけることは愚の至りである。世界統一のための最終戦争が近いのだから、それまでの数10年はバラックの生活をし戦争終結後、世界の人々の献金により世界の首都を再建すべきだ」といったようなことを言って、あきれられたことも覚えている。
ドイツから帰国後、陸軍大学教官となったが、大正15年初夏、故筒井中将から、来年の2年学生に欧州古戦史を受け持てとの話があり、一時は躊躇したが再三の筒井中将の激励があり、もともと私の最も興味をもっていた問題であったため、遂に勇を鼓してお受けすることになった。
かくて同年夏、会津の川上温泉に立て籠もり日本文の参考資料に熱心に目を通した。もちろん泥縄式の甚だしいものであったが、講義の中心をなす最終戦争を結論とする戦争史観は脳裡に大体まとまっていたので、とりあえず何とか片付け、大正15年暮から15回にわたる講義を試みたのであった。「近世戦争進化景況一覧表」はそのときに作られたのである。
昭和2年の同2年学生に対する講義は35回であったが、今度は少し余裕があったため、ドイツから持ち帰った資料を勉強し、更にドイツにいた原田軍医少将(当時少佐)、オーストリア駐在武官の山下中将をもわずらわして不足の資料を収集した。昭和元年から2年への冬休みは、安房(あわ)の日蓮聖人の聖蹟で整頓した頭を以て、とにかく概略の講義案を作成した。もちろん、根本理論は前年度のものと変化はないのである。当時、陸軍大学幹事坂部少将から熱心な印刷の要望があったが、充分に検討したものでもないので、これに応ずる勇気も無く、現在も私の手元に保存してある次第である。
昭和3年度のためには、前年の講義録を再修正する前に、私の年来最大の関心事であるナポレオンの対英戦争の大陸封鎖の項に当面し、全力を挙げて資料を整理し、昭和2年から3年への年末年始は、これを携えて伊豆の日蓮聖人の聖蹟に至り、構想を整頓して正月中頃から起草を始めようとしたとき、流感にかかり中止。その後、再び着手しようとすると今度は猛烈な中耳炎に冒されて約半歳の間、陸軍軍医学校に入院し、遂に目的を達せずして終ったのであった。その後もこの研究、特に執筆を始めると不思議にも必ず病気にかかるので「アメリカの神様が必死に邪魔をするんだろう」などと冗談を言うような有様であった。
昭和2年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然として輝く霊威をうけて帰来。私の最も尊敬する佐伯中佐にお話したところ余り良い顔をされなかったので、こんなことは他言すべきでないと、誰にも語ったことも無く、そのままに秘して置いたのであるが、当時の厳粛な気持は今日もなお私の脳裏に鞏固(きょうこ)に焼き付いている。
昭和3年10月、関東軍参謀に転補。当時の関東軍参謀は今日考えられるように人々の喜ぶ地位ではなかった。旅順で関東庁と関東軍幹部の集会をやる場合、関東庁側は若い課長連が出るのに軍では高級参謀、高級副官が止まりで、私ども作戦主任参謀などは列席の光栄に浴し得なかった。満鉄の理事などにも同席は不可能なことで、奉天の兵営問題で当時の満鉄の地方課長から散々に油をしぼられた経験は、今日もなお記憶に残っている。
関東軍に転任の際も、今後とも欧州古戦史の研究を必ず続ける意気込みで赴任した。特に万難を排しナポレオンの対英戦争を書き上げる決心であった。しかし中耳炎病後の影響は相当にひどく、何をやっても疲れ勝ちで遂に初志を貫きかねた。漢口駐屯時代に徐州で木炭中毒にかかり、それ以来、脈搏に結滞を見るようになり、一時は相当に激しいこともあり、また漢口から帰国後、マラリヤにかかったなどの関係上、爾後の健康は昔日の如くでなく、且つ中年の中耳炎は根本的に健康を破壊し、殊に満州事変当時は大半、横臥して執務した有様であった。
かような関係で族順では遂に予定の計画を果し得なかったが、しかし陸大教官2個年間の講義は未消化であり、特にデルブリュックの影響強きに失し、戦争指導の両方式即ち戦争の性質の両面を「殲滅戦略」「消耗戦略」と命名していたのは、どうも適当でないとの考えを起し、この頃から戦争の性質を「殲滅戦争」「消耗戦争」の名を用いて、戦略に於ける「殲滅戦略」「消耗戦略」との間の区別を明らかにすることにした。
「殲滅戦争」「消耗戦争」の名称を「決戦戦争」「持久戦争」に改めたのは満州事変以後のことである。
昭和4年5月1日、関東軍司令部で各地の特務機関長らを集め、いわゆる情報会議が行なわれた。当時の軍司令官は村岡中将で、河本大佐はその直前転出し、板垣征四郎大佐が着任したばかりであった。奉天の秦少将、吉林の林大八大佐らがいたように覚えている。この会議はすこぶる重大意義を持つに至った。それは張作霖(ちょうさくりん)爆死以後の状況を見ると、どうも満州問題もこのままでは納まりそうもなく今後、何か一度、事が起ったなら結局、全面的軍事行動となる恐れが充分にあるから、これに対する徹底せる研究が必要だとの結論に達したのであった。その結果、昭和4年7月、板垣大佐を総裁官とし、関東軍独立守備隊、駐箚(ちゅうさつ)師団の参謀らを以て、哈爾賓、斉々哈爾(チチハル)、海拉爾(ハイラル)、満州里(マンチュウリ)方面に参謀演習旅行を行なった。
演習第一日は車中で研究を行ない長春に着いた。車中で研究のため展望車の特別室を借用することについて、満鉄嘱託将校に少なからぬ御迷惑をかけたことなど思い出される。第2日の研究は私の「戦争史大観」であり、その説明のための要旨を心覚えに書いてあったのが「戦争史大観」の第一版である。第3日は吟爾賓に移り研究を続け、夜中に便所に起きたところ北満ホテルの板垣大佐の室に電灯がともっている。入って見ると、板垣大佐は昨日の私の講演の要点の筆記を整理しているのに驚いた。板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためとのみ思っていた私は、この勉強があるのに感激した次第であった。
この頃から満蒙問題はますますむずかしくなり、私も大連で二、三度、私の戦争観を講演し、「今日は必要の場合、日本が正しいと信ずる行動を断行するためには世界の圧迫も断じて恐れる必要がない」旨を強調したのであった。時勢の逼迫(ひっぱく)が私の主張に耳を藉(か)す人も生じさせていたが、事変勃発後、私の「戦争史大観」が謄写刷りにされて若干の人々の手に配られた。こんな事情で満州建国の同志には事変前から知られ、特に事変勃発後は「太平洋決戦」が逐次問題となり、事変前から唱導されていた伊東六十次郎(むそじろう)君の歴史観と一致する点があって、特に人々の興味をひき爾来、満州建国、東亜連盟運動の世界観に若干の影響を与えつつ10年の歳月を経て、遂に今日の東亜連盟協会の宣言にまで進んで来たのである。
昭和7年夏、私は満州国を去り、暮には国際連盟の総会に派遣されてジュネーブに赴いた。ジュネーブでは別にこれという仕事もなかったので、フリードリヒ大王とナポレオンに関する研究資料を集め、昭和8年の正月はベルリンに赴いて坂西武官室の一室を宿にし、石井(正美)補佐官の協力により資料の収集につとめた。帰国後も石井補佐官並びに宮本(忠孝)軍医少佐には、資料収集について非常にお世話になった。固より大したものでないが、前に述べた人々の並々ならぬ御好意に依って、フランス革命を動機とする持久・決戦両戦争の変転を研究するための、即ち稀代の名将フリードリヒ大王並びにナポレオンに関する軍事研究の資料は、日本では私の手許に最も良く集まっている結果となった。私は先輩、友人の御好意に対し必ず研究を続ける決心であったが、その後の健康の不充分と職務の関係上、遂に無為にして今日に及んでいる。資料もまた未整理のままである。今日は既に記憶力が甚だしく衰え且つドイツ語の読書力がほとんどゼロとなって、一生私の義務を果しかねると考えられ、誠に申訳のない次第である。有志の御研究を待望する。
支那事変勃発当時、作戦部長の重職にあった私は、到底その重責に堪えず10月、関東軍に転任することとなった。文官ならこのときに当然辞職するところであるが軍人にはその自由がない。昭和13年、大同学院から国防に関する講演を依託されて「戦争史大観」をテキストとすることとなり若干の修正を加えた。
「将来戦争の予想」については、旧稿は日米戦争としてあったのを、「東亜」と西洋文明の代表たる「米国」たるべきことを明らかにしたが、「現在に於ける我が国防」は根本的に書き換えたのである。昭和4年の分は次の如くであった。
1 欧州大戦に於けるドイツの敗戦を極端ならしめたるは、ドイツ参謀本部が戦争の本質を理解せざりしこと、また有力なる一原因なり。学者中には既に大戦前これに関する意見の一端を発表せるものあり、デルブリュック氏の如きこれなり。
2 日露戦争に於ける日本の戦争計画は「モルトケ」戦略の直訳にて勝利は天運によりしもの多し。
目下われらが考えおる日本の消耗戦争は作戦地域の広大なるために来たるものにして、欧州大戦のそれとは根本を異にし、むしろナポレオンの対英戦争と相似たるものあり。いわゆる国家総動員には重大なる誤断あり。もし百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく、またもし勝利を得たりとするも戦後立つべからざる苦境に陥るべし。
3 露国の崩壊は天与の好機なり。
日本は目下の状態に於ては世界を相手とし東亜の天地に於て持久戦争を行ない、戦争を以て戦争を養う主義により、長年月の戦争により、良く工業の独立を完うし国力を充実して、次いで来るべき殲滅戦争を迎うるを得べし。
昭和4年頃はソ連は未だ混沌たる状態であり、日本の大陸経営を妨げるものは主として米国であった。昭和6年「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」を起案している。固より簡単至極のものであるが当時、未だ「戦争計画」というような文字は使用されず、作戦計画以外の戦争に関する計画としては、いわゆる「総動員計画」なるものが企画せられつつあったが、内容は戦争計画の真の一部分に過ぎず、しかもその計画は第一次欧州大戦の経験による欧州諸国の方針の鵜呑みの傾向であったから、多少戦争の全体につき思索を続けていた私には記念すべき思い出の作品である。
昭和13年には東亜の形勢が全く変化し、ソ連は厖大なその東亜兵備を以て北満を圧しており、米国は未だその鋒鋩(ほうぼう)を充分に現わしてはいなかったが、満州事変以来努力しつつあったその軍備は、いつ態度を強化せしむるかも計り難い。即ち日本は10年前の如く露国の崩壊に乗じ、主として米国を相手とし、戦争を以て戦争を養うような戦争を予期できない状態になっていたのである。
そこで持久戦争となるべきを予期して、米・ソを中心とする総合的圧力に対する武力と経済力の建設を国防の目標とする如く書き改めた。
「若し百万の軍を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく……」というような古い考えは、自由主義の清算とともに一掃されねばならないことは言うまでもない。
昭和10年8月、私は参謀本部課長を拝命した。三宅坂の勤務は私には初めてのことであり、いろいろ予想外の事に驚かされることが多かった。満州事変から僅かに4年、満州事変当初の東亜に於ける日・ソの戦争力は大体平衡がとれていたのに、昭和11年には既に日本の在満兵力はソ連の数分の一に過ぎず、殊に空軍や戦車では比較にならないことが世界の常識となりつつあった。
日本の対ソ兵備は次の二点については何人も異存のないことである。
1 ソ連の東亜に使用し得る兵力に対応する兵備。
2 ソ連の東亜兵備と同等の兵力を大陸に位置せしめる。
私はこの簡単明瞭な見地から在満兵備の大増加を要望した。しかしそのときの考えは余りに消極的であったことが今となれば恥ずかしい極みである。小胆ものだから自然に日本の現状即ち政治的関係に左右されたわけである。しかし世間では石原はド偉い要求を出すとの評判であったらしい。
その頃ちょうど上京中であった星野直樹氏(私は未だ面識が無かった)から、大蔵省の局長達が日本財政の実情につき私に説明したい希望だと伝えられたが、私はその必要はない旨を返答したところ、重ねて日本の国防につき、できるだけのことを承りたいとのことであったので遂に承諾し、山王ホテルの星野氏の室で会見した。先方は星野氏の他に賀屋、石渡、青木の三氏がおられた。賀屋氏が、まず日本財政につき説明された。それは約束と違うと思ったが私も耐えて終るまで待っており、私の国防上の見地を軍機上許す限り私としては赤誠を以て説明した積りである。終ると先方から、「現在の日本の財政では無理である」「無い袖は振られない」というようないろいろの抗議的説明や質問があったが、私は「私ども軍人には明治天皇から「世論に惑わず政治に拘らず只一途に己が本分」を尽すべきお諭(さと)しがある。財政がどうであろうと皆様がお困りであろうと、国防上必要最少限度のことは断々固として要求する」旨お答えして辞去した。
私のこういう態度主張を、世の中には一種の駆引のように考える向きもあったらしいが、断じてそんなことはあり得ない。いやしくも軍人がお勅諭を駆引に用いることがあり得るだろうか。
世はいよいよ国防国家の必要を痛感して来た。国防国家とは軍人の見地から言えば、軍人が作戦以外のことに少しも心配しなくともよい状態であることで、軍としては最も明確に国家に対して軍事上の要求を提示しなければならない。私は世人の誤解に抗議するとともに、私のこの態度だけは、わが同僚並びに後輩の諸君に私のようにせられることを、おすすめするものである。
私は一試案を作ってそれに要する戦費を、その道に明るい一友人に概算して貰った。友人の私に示した案は私の立案の心理状態と同一で、どうやら内輪に計算されているらしい。
私の考えでは軍は政府に軍の要求する兵備を明示する。政府はこの兵備に要する国家の経済力を建設すべきである。しかし当時の自由主義の政府は、われらの軍費を鵜呑みにしてもこれに基づく経済力の建設は到底、企図する見込みがないところから、軍事予算は通過しても戦備はできない。考え抜いた結果、何とかして生産力拡充の一案を得て具体的に政府に迫るべきだと考え、板垣関東軍参謀長と松岡満鉄総裁の了解を得て、満州事変前から満鉄調査局勤務のため関東軍と密接な連絡があり事変後は満鉄経済調査会を設立した宮崎正義氏に、「日満経済財政研究会」を作ってもらい、まず試みに前に述べた私案に基づき日本経済建設の立案をお願いしたのである。誠に無理な要求であり、立案の基礎条件は甚だ曖昧を極めていたにかかわらず、宮崎氏の多年の経験と、そのすぐれた智能により、遂に昭和11年夏には日満産業五個年計画の最初の案ができたのである。真に宮崎氏の超人的活動の賜物である。この案はもちろん宮崎氏の一試案に過ぎないし、その後、軍備の大拡充が行なわれた結果、日本の生産拡充計画も自然大きくなったことと信ずるが、いずれにせよ宮崎氏の努力は永く歴史に止むべきものである。宮崎氏は後に参謀本部嘱託となり幾多の有益な計画を立て、国策の方向決定に偉大な功績を樹てられたことと信ずる。
この宮崎氏の研究の要領を聴き、私も数年前自由主義時代・帝政ロシヤ崩壊時代に、「百万の軍隊を動かさざるべからずとせば日本は破産の外なく」と日本の戦争力を消極的に見ていた見地を心から清算した。即ち日本は断固として統制主義的建設により、東亜防衛のため米・ソの合力に対抗し得る実力を養成することを絶対条件と信じ、国家が真に自覚すればその達成は必ず可能なるを確信するに至ったのである。
経済力が極めて貧弱で、重要産業はほとんど英米依存の現状に在った日本は、至急これを脱却して自給自足経済の基礎を確立することが第一の急務なるを痛感し、外交・内政の総てをこの目的達成に集中すべく、それが国防の根本であることを堅く信じて来たのであるが、満州国は12年から計画経済の第一歩を踏み出したものの、日本は遂にこれに着手するに至らないで支那事変を迎えたのである。国家は戦争・建設同時強行との、えらい意気込みであったが、日本としてこの二大事業の同時遂行は残念ながら至難なことが、戦争の経験によって明らかとなった。しかし、いかなることが起るとも米・ソ両国の実力に対抗し得る力なき限り、国防の安定せざることを明らかにしたのが昭和13年の訂正である。
昭和14年、留守第16師団長中岡中将の命により、京都衛戌講話に「戦争史大観」を試みたが、その後、人々の希望により、昭和15年1月印刷するに当り、既に第二次欧州大戦が勃発したため、若干の小修正を加えたのが現在のものである。
フランス革命から第一次欧州戦争の間が決戦戦争の時代であり、この期間は125年である。その前の持久戦争時代は大体3-400年と見ることができる。もちろんこの時代の区分や、その年数については、簡単に断定することに無理はあるが、大勢は推断することができると信ずる。第一次欧州大戦から次の大変換即ち最終戦争までの持久戦争期間は、この勢いで見れば、すこぶる短いように考えられる。同時に私の信仰から言えば、その決勝戦に信仰の統一が行なわれねばならぬ。僅か数10年の短い年月で一天四海皆帰妙法は可能であろうか。最終戦争までの年数予想は恐ろしくて発表の勇気なく、ただ案外近しとのみ称していた。
昭和13年12月、舞鶴要塞司令官に転任。舞鶴の冬は毎日雪か雨で晴天はほとんどない。しかし旅館清和楼の一室に久し振りに余り来訪者もなく、のどかに読書や空想に時間を過ごし得たのは誠に近頃にない幸福の日であった。
この静かな時間を利用して東洋史の大筋を一度復習して見たい気になり、中学校の教科書程度のものを読んでいる中に突如、一大電撃を食らった。私は大正8年以来、日蓮聖人の信者である。それは日蓮聖人の国体観が私を心から満足せしめた結果であるが、そのためには日蓮聖人が真に人類の思想信仰を統一すべき霊格者であることが絶対的に必要である。仏の予言の適中の妙不可思議が私の日蓮聖人信仰の根底である。難しい法門等は、とうてい私には分かりかねる。しかるに東洋史を読んで知り得たことは、日蓮聖人が末法の最初の500年に生まれられたものとして信じられているのであるが、実は末法以前の像法に生まれられたことが今日の歴史ではどうも正確らしい。私はこれを知ったとき、真に生まれて余り経験のない大衝撃を受けた。この年代の疑問に対する他の日蓮聖人の信者の解釈を見ても、どうも腑に落ちない。そこで私は日蓮聖人を人格者・先哲として尊敬しても、霊格として信仰することは断然止むべきだと考えたのである。
このことに悩んでいる間に私は、本化上行(ほんげじょうぎょう)が二度出現せらるべき中の僧としての出現が、教法上のことであり観念のことであり、賢王としての出現は現実の問題であり、仏は末法の500年を神通力を以て二種に使い分けられたとの見解に到達した。日蓮教学の先輩の御意見はどうもこれを肯定しないらしいが、私の直感、私の信仰からは、これが仏の思召にかなっていると信ずるに至ったのである。そして同時に世界の統一は仏滅後2500年までに完成するものとの推論に達した。そうすると軍事上の判断と甚だ近い結論となるのである。
昭和14年3月10日、病気治療のため上京していた私は、協和会東京事務所で若干の人々の集まりの席上で戦争論をやり、右の見解からする最終戦争の年代につき私の見解を述べた。この講演の要領が人々によって印刷され、誰かが「世界戦争観」と命名している。
昭和15年5月29日の京都義方会に於ける講演筆記(第二次欧州大戦の急進展により同年8月印刷に付する際その部分を少し追補した)の出版されたのが、立命館版「世界最終戦論」である。要するにこれは私の30年ばかりの軍人生活の中に考え続けて来たことの結論と言うべきである。空想は長かったが、前に述べた如く真に私が学問的に戦史を研究したのは、主としてフリードリヒ大王とナポレオンだけであり、しかもその期間も大正15年夏から昭和3年2月までの約1年半に過ぎないのである。研究は大急ぎで素材を整理したくらいのところで、まだまだ消化したものではなく、殊に私の最も関心事であったナポレオンの対英戦争は、その最重要点の研究がまとまらずにいるのである。最終戦争論に論じてあるフリードリヒ大王以前のことは真に常識的なものに過ぎない。
私は常に人様の前で「軍事学については、いささか自信がある」と広言しているが、このように真相を白状すれば誠に恥ずかしい次第である。日本に於ける軍事学の研究がドイツやソ連の軍事研究に比し甚だ振わないことは、遺憾ながら認めざるを得ない。私は、戦友諸君はもちろんのこと、政治・経済等に関心を有する一般の人士も、軍事につき研究されることを切望して止まないのである。
満州問題で国際連盟の総会に出張したときに、ある日ジュネーブで伊藤述史公使が私に、「日本には日本独特の軍事学があるでしょうか」と質問されたが、私は「いや、伊藤さん、どうも遺憾ながら明治以後には、さようなものは未だできていない」と答えると伊藤氏は青くなって、「それは大変だ。一つ東京に帰ったらお互に軍事研究所を作ろうではないか」と提案された。なぜ、さようなことを伊藤氏が言ったかと聞いて見ると、伊藤氏がフランス大使館の書記生の時代に、田中義一大将がフランスに廻って来て盛んに外交官の無能を罵倒したらしい。それで伊藤氏は大いに憤慨したが、軍人はともかく政治・経済の若干を知っているのに、外交官は軍事学を知っていないことに気がつき、フランスの友人から軍事学の先生を探して貰った。それが当時陸軍大学の教官であったフォッシュ少佐で、同少佐から主としてナポレオン戦争の講義を聞いたのである。第一次欧州大戦後、フォッシュ元帥から「フランスを救ったものはフランス独特の軍事学であった。独特の軍事学なき国民は永遠の生命なし」との意見を聞き、伊藤公使の脳裡に深い印象を与えているらしい。フランスが第二次欧州大戦によってこんなふうに打ちのめされた今日、フォッシュ元帥のこの言葉は素人には恐らく大きな魅力を失ったであろうが、この中に含むある真理はわれらも充分に玩味すべきである。伊藤氏はそのときの講義録を私にくれるとてパリの御宅を再三探して下さったが遂に発見できなかった。私はあきらめかねてなおも若し見付かったらと御願いして置いたが、パリを引払われた後も何らの御通知がないから、遂に発見されなかったのであろう。
世人は、軍が軍事上のことを秘密にするから軍事の研究ができないようなことを言うが、それはとんでもないことである。もちろん前述の通り軍人間の軍事学の研究も不振であるから、日本語の軍事学の図書は残念ながら西洋列強諸国に比して余りに貧弱である。しかし公刊の戦史その他の出版物が相当にあるのだから、研究しようとするなら必ずできる。私は少なくも政治・経済の大学には軍事学の講座を設くべしと多年唱導して来た。配属将校は軍事学を講義すべきものではなく、また多くの人はそんな力は持っていない。西洋人の軍事学の常識に比し、日本知識人のそれはあまりに劣っている。ドイツの中産以上の家庭には通常、ヒンデンブルグやルーデンドルフの回想録は所有されており、広く読まれている。これらの図書は立派な戦史書である。一家の主婦すら相当に軍事的知識を持っていることは私の実見せるところである。
第三篇 戦争史大観の説明

 

第一章 緒論
第一節 戦争の絶滅
東西古今、総ての聖賢の共同理想であり、全人類の憧憬である永久の平和は、現実問題としては夢のように考えられて来たのである。しかし時来たって必ず全人類の希望が達成せられるべきを信ずる。固より人類の闘争本能を無くすることは不可能であるから、この希望は世界の統一に依ってのみ達成せらるるであろう。最近文明の急速な進歩はその可能を信ぜしむるに至った。世界統一の条件として考えられるものは大体次の三つである。1 思想信仰の統一。2 全世界を支配し得る政治力。3 全人類を生活せしむるに足る物資の充足。心と物は「人」に於て渾然一体である。その正しき調和を無視して一方に偏重し、いわゆる唯心とか唯物とかいう事はむずかしい理屈の分からぬ私どもにも一方的理屈である事が明らかである。しかし心と物は平等の結合ではなく、どこまでも心が主であり物が従である。思想や信仰の観念的力をもってして人類の戦争を絶滅する事が不可能である事は数千年の歴史の証明するところであるが、戦争の絶滅に思想信仰の統一が絶対に必要であり、しかもそれが最も根本的の問題である事は疑うべからざるところである。ただしこの統一も単なる観念の論議のみでは恐らく至難で、現実の諸問題の進展と理論の進歩の間には微妙なる関連が保たるべきものと信ずる。すなわち思想の統一は自然、人格的中心を要求する。ソ連でさえマルクスだけでなくレーニン、スターリン等を神格化しているではないか。我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。かつ、人類が正しきこの信仰に達するには日本民族、日本国家等の正しき思想、正しき行為だけでは不可能であり、正義を守る実力が伴わねばならぬ。結局文明の進歩により、力の発展により逐次政治的統一の範囲を拡大し、今日は4個の集団に凝結せんとする方向にある人類はやがて二つ、すなわち天皇を信奉するものとしからざるものの二集団に分かれ、真剣な戦いに依って統一の中心点が決定し、永久平和の第一歩に入り戦争の絶滅を見るに至るであろう。人類歴史は政治的統一範囲を逐次拡大して来たのであるが、それは文明の進歩に依り主権の所有する武力が完全にその偉力を発揮し得る範囲をもって政治的統一の限度とする。すなわち将来主権者の所有する武力が必要に際し全世界到るところにある反抗を迅速に潰滅し得るに至った時、世界は初めて政治的に統一するものと信ぜられる。そして世界が統一した後も内乱的戦争は絶滅しないだろうと考えらるるだろう。
それには前に述べた信仰の統一が強い力であることが必要であるが、同時に武力が原始的で、何人も簡単にこれを所有し得た時は内乱は簡単に行なわれたのであるが、武器が高度に進歩する事が内乱を困難にして来た事も明らかに認めねばならない。刀や槍が主兵器であったならば、今日の思想信仰の状態でも世界の文明国と云われる国でさえ内乱の可能性は相当に多いのであるが、今日の武器に対しては軍隊が参加しない内乱は既に不可能である。しかし私は信仰の統一と武力の発達のほか、一般文明の進歩に依り全人類の公正なる生活を保証すべき物資が大体充足せらるる事が必要であると考える。すなわち人類の精神的生活が向上して無益なる浪費を自然に掣肘(せいちゅう)し、かつ科学の進歩が生活物資の生産能率を高むる事が必要であって、物欲のための争いを無限に放置されていた今日までの如き状態は解消せらるべきだと信ずる。これは信仰の統一、武力の発達の間に自然に行なわるる事であろう。
第二節 戦争史の方向
戦争は人類文明の綜合的運用である。戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。武力の発達すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐次拡大して来た。世界の完全なる統一すなわち戦争の絶滅は戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ。この見地よりする戦争の発達史および将来への予見が本研究の眼目である。戦闘は軍事技術の進歩を基礎として変化して来た。また国軍が逐次増加し、それに伴ってその編制も大規模化されて来た。こういうものは一定方向に対し不断の進歩をして来ているのである。しかるにその国軍を戦場で運用する会戦(会戦とは国軍の主力をもってする戦闘を云う)はこれを運用する武将の性格や国民性に依って相当の特性を認めらるるけれども、軍隊発達の段階に依って戦闘に持久性の大小を生じ、自然会戦指揮は或る二つの傾向の間を交互に動いて来た。また武力の戦争に作用し得る力もまた歴史の進展過程に於て消極、積極の二傾向の間を交互し、決戦戦争、持久戦争はどうも時代的傾向を帯びている。以上の見地から戦闘法や軍の編制等が最後的発達を遂げ、会戦指揮や戦争指導が戦争本来の目的に合する武力本来価値の発揮傾向に徹底する時、人類争闘力の最大限を発揮する時であって、これが世界統一の時期となり、永久平和の第一歩となる事と信ぜられる。
第三節 西洋戦史に依る所以
この研究は主として西洋近世戦史に依る。第二篇に於て述べたように私の軍事学の研究範囲は極めて狭く、フリードリヒ大王、ナポレオンを大観しただけと云うべく、それもやっと素材の整理をした程度である。東洋の戦史については真に一般日本人の常識程度を越えていないために、この研究は主として西洋の近世史を中心として進められたのである。誠に不完全な方法であるが、しかし戦争はどうも西洋が本場らしく、私が誠に貧弱なる西洋戦史を基礎として推論する事にも若干言い分があると信ずる。今日文明の王座は西洋人が占めており、世界歴史はすなわち西洋史のように信ぜられている。しかしこれは余りにも一方に偏した観察である。西洋文明は物質中心の文明で、この点に於て最近数世紀の間西洋文明が世界を風靡しつつあるは現実であるが、私どもは人類の綜合的文明はこれから大成せらるべくその中心は必ずしも西洋文明でないと確信する。東洋文明は天意を尊重し、これに恭従である事をもって根本とする。すなわち道が文明の中心である。西洋人も勿論道を尊んでおり、道は全人類の共通のものであり、古今に通じて謬(あやま)らず、中外に施して悖(もと)らざるものである。しかも西洋文明は自然と戦いこれを克服する事に何時しか重点を置く事となり、道より力を重んずる結果となり今日の科学文明発達に大きな成功を来たしたのであって、人類より深く感謝せらるべきである。しかしこの文明の進み方は自然に力を主として道を従とし、道徳は天地の大道に従わん事よりもその社会統制の手段として考えられるようになって来たのでないであろうか。彼らの社会道徳には我らの学ぶべき事が甚だ多い。しかし結局は功利的道徳であり、真に人類文明の中心たらしむるに足るものとは考えられぬ。東洋が王道文明を理想として来たのに自然の環境は西洋をして覇道文明を進歩せしめたのである。覇道文明すなわち力の文明は今日誠に人目を驚かすものがあるが、次に来たるべき人類文明の綜合的大成の時には断じてその中心たらしむべきものではない。戦争についてもその最も重大なる事すなわち「戦」の人生に於ける地位に関して王道文明の示すところは、私の知っている範囲では次のようなものである。1 三種神器に於ける剣。国体を擁護し皇運を扶翼(ふよく)し奉る力、日本の武である。2 「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾槊(きゅうせんぼうさく)を持すべし。」「五戒を受持せん者あらば名づけて大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし。」(涅槃経) 3 「兵法剣形(けんぎょう)の大事もこの妙法より出たり。」(日蓮聖人) このような考え方は西洋にあるか無いかは知らないが、よしんばあっても今日の彼らの文明に対しては恐らく無力であろう。戦争の本義はどこまでも王道文明の指南に俟(ま)つべきである。しかし戦争の実行は主として力の問題であり、覇道文明の発達せる西洋が本場となったのは当然である。近時の日本人は全力を傾注して西洋文明を学び取り摂取し、既にその能力を示した。しかし反面西洋覇道文明の影響甚だしく、今日の日本知識人は西洋人以上に功利主義に趨(はし)り、日本固有の道徳を放棄し、しかも西洋の社会道徳の体得すらも無く道徳的に最も危険なる状態にあるのではないか。世界各国、特に兄弟たるべき東亜の諸民族からも蛇蝎(だかつ)の如く嫌われておるのは必ずしも彼らの誤解のためのみでは無い。これは日本民族の大反省を要すべき問題であり、東亜大同を目標とすべき昭和維新のためよろしくこの混乱を整理して新しき道徳の確立が最も肝要である。しかしこれ程に西洋化した日本人も真底の本性を換える事は出来ない。外交について見れば最もよく示している。覇道文明に徹底せるソ連の外交は正確なる数学的外交である事は極めて明らかであるのに、日本人の一部は日本が南洋進出のため今日の如き対ソ国防不完全のままソ連と握手しようと主張している。誠に滑稽であるが、しかもこれは日本人の本質はお人好しである事を示しているのである。日英同盟廃棄数年後になっても日本人は英国が日英同盟の好誼を忘れた事を批難し、つい最近まで第一次欧州大戦に於ける日本の協力を思い出させようとしているのに対し、あるドイツ人が「日本は離婚した女に未練を持っている有様だ」と冷笑した事があった。これらも日本人は根本に於ては、外交に於ても道義を守るべしとの考えが西洋人に比して遥かに強い事を示している一例とも考えられる。日本の戦争は主として国内の戦争であり、かつまた民族性が大きな力をなして戦の内に和歌のやりとりとなったり、或いは那須与一の扇の的となったりして、戦やらスポーツやら見境いがつかなくなる事さえあった。東亜大陸に於ても民族意識は到底西洋に於ける如く明瞭でなかった。もちろん漢民族は自ら中華をもって誇っておったものの、今日東亜の大陸に歴史上何民族か判明しない種族の多いのを見ても民族間の対立感情が到底西洋の如くでなかったことを示している。かく東洋は王道文明発育の素地が西洋に比し遥かに優れている。これに加うるに東洋に於ては強大民族の常時的対立が無く、かつ土地広大のため戦争の深刻さを緩和する事が出来た。欧州では強大民族が常に対立して相争いかつ地域も東亜の如く広くなく、戦争術の発展が時代文明との関連を表わすに自然に良い有様であった。
覇道文明のため戦争の本場であり、かつ優れたる選手が常時相対峙しており、戦場も手頃である関係上戦争の発達は西洋に於てより系統的に現われたのである。すなわち私の研究が西洋に偏していても「戦争」の問題である限り決して不当でないと信ずる。私の戦争史が西洋を正統的に取扱ったからとて、一般文明が西洋中心であると云うのではない。
第二章 戦争指導要領の変化

 

第一節 戦争の二種類
国家の対立ある間戦争は絶えない。国家の間は相協力を図るとともに不断に相争っている。その争いに国家の有するあらゆる力を用うるは当然である。平時の争いに於ても武力は隠然たる最も有力なる力である。外交は武力を背景として行なわれる。この国家間の争いの徹底が戦争である。戦争の特異さは武力をも直接に使用する事である。すなわち戦争を定義したならば「戦争とは武力をも直接使用する国家間の闘争」というべきである。武力が戦争で最も重要な地位を占むる事は自然であり、武力で端的に勝敗を決するのが戦争の理想的状態である。しかし戦争となっても両国の闘争には武力以外の手段も遺憾なく使用せられる。故に戦争遂行の手段として武力および武力以外のものの二つに大別出来る。この戦争の手段としての武力価値の大小に依り戦争の性質が二つの傾向に分かれる。武力の価値が大でありこれが絶対的である場合は戦争は活発猛烈であり、男性的、陽性であり、通常短期戦争となる。これを決戦戦争と名づける。武力の価値が他の手段に対し絶対的地位を失い、逐次低下するに従い戦争は活気を失い、女性的、陰性となり、通常長期戦争となる。これを持久戦争と命名する。
第二節 両戦争と政戦略の関係
戦争本来の真面目(しんめんぼく)は武力をもって敵を徹底的に圧倒してその意志を屈伏せしむる決戦戦争にある。決戦戦争にあっては武力第一で外交内政等は第二義的価値を有するにすぎないけれども、持久戦争に於ては武力の絶対的位置を低下するに従い外交、内政はその価値を高める。ナポレオンの「戦争は一に金、二にも金、三にも金」といった言葉はますますその意義を深くするのである。即ち決戦戦争では戦略は常に政略を超越するのであるが、持久戦争にあっては逐次政略の地位を高め、遂に政略が作戦を指導するまでにも至るのである。戦争の目的は当然国策に依って決定せらるるのである。この意味に於てクラウゼウィッツのいわゆる「戦争は他の手段をもってする政治の継続に外ならぬ」、しかし戦争の目的達成のため政治、統帥の関係は一にその戦争の性質に依るものである。政治と統帥は通常利害相反する場合が多い。その協調即ち戦争指導の適否が戦争の運命に絶大なる関係を有する。国家の主権者が将帥であり政戦略を完全に一身に抱いているのが理想である。軍事の専門化に伴い近世はかくの如き状態が至難となり、フリードリヒ大王、ナポレオン以来はほとんどこれを見る事が出来なかった。最近に於てはケマル・パシャとか蒋介石、フランコ将軍等は大体それであり、また第二次欧州大戦に於てはヒットラーがそれであるが如くドイツ側から放送されているが、それは将来戦史的に充分検討を要する。政戦両略を一人格に於て占めていない場合は統帥権の問題が起って来る。民主主義国家に於てはもちろん統帥は常に政治の支配下にある。決して最善の方式ではないが止むを得ない。ローマ共和国時代は、戦争の場合独裁者を臨時任命してこの不利を補わんとした事はなかなか興味ある事である。ドイツ、ロシヤ等の君主国に於ては政府の外に統帥府を設け、いわゆる統帥権の独立となっていた時が多かった。この二つの方式は各々利害があるが大体に於て決戦戦争に於ては統帥権の独立が有利であり、持久戦争に於てはその不利が多く現われる。これは統帥が戦争の手段の内に於て占むる地位の関係より生ずる自然の結果である。これを第一次欧州大戦に見るに、戦争初期決戦戦争的色彩の盛んであった時期には、統帥権の独立していたドイツは連合国に比し誠に鮮やかな戦争指導が行なわれ、あのまま戦争の決が着いたならば統帥権独立は最上の方式と称せられたであろうが、持久戦争に陥った後は統帥と政治の関係常に円満を欠き(カイゼルは政治は支配していたけれども統帥は制御する事が出来なかった)。
これに反し、クレマンソー、ロイド・ジョージに依り支配せられその信任の下にフォッシュが統帥を専任せしめられた大戦末期の連合国側の方式が遂に勝を得、かくて大戦後ドイツ軍事界に於ても統帥権の独立を否定する論者が次第に勢いを得たのである。ドイツの統帥権の独立はこの事情を最もよく示している。フリードリヒ大王以後統帥事項は当時に於ける参謀総長に当る者より直接侍従武官を経て上奏していたのであるが、軍務二途に出づる弊害を除去するため陸軍大臣が総ての軍事を統一する事となっていた。大モルトケが参謀総長就任の時(1857年心得、1858年総長)はなお陸軍大臣の隷下に在って勢力極めて微々たるものであった。1859年の事件に依って信用を高めたのであったけれども、1864年デンマーク戦争には未だなかなかその意見が行なわれず、軍に対する命令は直接大臣より送付せられ、時としてモルトケは数日何らの通報を受けない事すらあったが、戦況困難となりモルトケが遂に出征軍の参謀長に栄転し、よく錯綜せる軍事、外交の問題を処理して大功を立てたのでその名望は高まった。国王の信任はますます加わり、1866年普墺戦争勃発するや6月2日「参謀総長は爾後諸命令を直接軍司令官に与え陸軍大臣には唯これを通報すべき」旨が国王より命令せられ、ここに参謀総長は軍令につき初めて陸軍大臣の束縛を離れたのである。しかも陸軍大臣ローン及びビスマークはこれに心よからず、普墺戦争中はもちろん1870-71年の普仏戦争中もビスマーク、モルトケ間は不和を生じ、ウィルヘルム一世の力に依り辛うじて協調を保っていたのである。しかしモルトケ作戦の大成功と決戦戦争に依る武力価値の絶対性向上は遂に統帥権の独立を完成したのであった。それでもこれが成文化されたのは普仏戦争後10年余を経た1883年5月24日であることはこの問題のなかなか容易でなかった事を示している。その後モルトケ元帥の大名望とドイツ参謀本部の能力が国民絶対の信頼を博した結果、統帥権の独立は確固不抜のものとなった。しかもその根底をなすものは、当時決戦戦争すなわち武力に依り最短期間に於ける戦争の決定が常識となっていたことであるのを忘れてはならぬ。第一次欧州大戦勃発当時の如きは外務省は参謀本部よりベルギーの中立侵犯を通報せらるるに止まる有様であり、また当時カイゼルは作戦計画を無視し(1913年まではドイツの作戦計画は東方攻勢と西方攻勢の両場合を策定してあったのであるがその年から単一化せられ西方攻勢のみが計画されたのである)、東方に攻勢を希望したが遂に遂行出来なかったのである。持久戦争となっても統帥権独立はドイツの作戦を有利にした点は充分認めねばならぬが、遂に政戦略の協調を破り徹底的潰滅に導いたのである。すなわち政治関係者は無併合、無賠償の平和を欲したのであるが統帥部は領土権益の獲得を主張し、ついに両者の協調を見る事が出来なかった。我が国に於ては「統帥権の独立」なる文字は穏当を欠く。「天子は文武の大権を掌握」遊ばされておるのである。もとより憲法により政治については臣民に翼賛の道を広め給うておるのであるけれども、統帥、政治は天皇が完全に綜合掌握遊ばさるるのである。これが国体の本義である。
政府および統帥府は政戦両略につき充分連絡協調に努力すべきであり、両者はよく戦争の本質を体得し、決戦戦争に於ては特に統帥に最も大なる活動をなさしむる如くし、持久戦争に於ては武力の価値低下の状況に応じ政治の活動に多くの期待をかくる如くし、その戦争の性質に適応する政戦両略の調和に努力すべき事もちろんである。しかし如何に臣民が協調に努力するも必ず妥協の困難な場面に逢着(ほうちゃく)するものである。それにもかかわらず総て臣民の間に於て解決せんとするが如き事があったならば、これこそ天皇の天職を妨げ奉るものである。政府、統帥府の意見一致し難き時は一刻の躊躇なく聖断を仰がねばならぬ。聖断一度び下らば過去の経緯や凡俗の判断等は超越し、真に心の奥底より聖断に一如し奉るようになるのが我が国体、霊妙の力である。他の国にてフリードリヒ大王、ナポレオン、乃至ヒットラー無くば政戦略の統一に困難を来たすのであるが、我が大日本に於ては国体の霊力に依り何時でもその完全統一を見るところに最もよく我が国体の力を知り得るのである。戦争指導のためにも我が国体は真に万邦無比の存在である。
第三節 持久戦争となる原因
持久戦争は両交戦国の戦争力ほとんど相平均しているところから生ずるものであり、その戦力甚だしく懸隔ある両国の間には勿論容易に決戦戦争となるのは当然である。今ほとんど相平均している国家間に持久戦争の行なわるる場合を考えれば次のようなものである。1、軍隊の価値低きこと後に詳述する事とするがルネッサンスに依り招来せられた傭兵は全く職業軍人である。生命を的とする職業は少々無理あるがために如何に精錬な軍隊であっても、徹底的にその武力の運用が出来かねた事が仏国革命まで、持久戦争となっていた根本原因である。フランス革命の軍事的意義は職業軍人から国民軍隊に帰った事である。実に近代人はその愛国の誠意のみが真に生命を犠牲に為し得るのである。「18世紀までの戦争は国王の戦争であり国民戦争でなかったから真面目な戦争とならなかったが、フランス革命以後は国民戦争となった。国民戦争に於ては中途半端の勝負は不可能である」との信念の下にルーデンドルフは回想録や「戦争指導と政治」の中に「敵国側の目的はドイツの殲滅にあるからドイツは徹底的に戦わねばならぬ」との意味を強調している。すなわちドイツ参謀本部は、戦争を18世紀前のものと以後のものとに区別したが、戦争の性質に対する徹底せる見解を欠いていた。欧州大戦は既にナポレオン、モルトケ時代の戦争と性質を異にするに至った事を認識しなかった事が、第一次欧州大戦に於けるドイツ潰滅の一因と云われねばならない。支那に於ては唐朝の全盛時代に於て国民皆兵の制度破れ、爾来武を卑しみ漢民族国家衰微の原因となった。民国革命後も日本の明治維新の如く国民皆兵に復帰する事が出来ず、依然「好人不当兵」の思想に依る傭兵であり、18世紀欧州の傭兵に比し遥かに低劣なものでその戦争に於ては武力よりも金力がものを言った。戦によって屈するよりも金力によって屈し得る戦に真の決戦戦争はあり得ない。かるが故に革命後の統一戦争が何時果つべしとも見えなかったのは自然である。私どもは元来民国革命に依り支那の復興を衷心より待望し、多くの日本人志士は支那志士に劣らざる熱意を以て民国革命に投じたのであった。しかるに革命後も真の革新行なわれず、軍閥闘争の絶えざるを見て「自ら真の軍隊を造り得ざる処に主権の確立は出来よう筈は無い。支那は遂に救うべからず」との結論に達したのであった。勿論あの国土厖大な支那、しかも歴史は古く、病膏肓に入った漢民族の革命がしかく短日月に行なわれないのは当然であり、私どもの判断も余りに性急であったのであるが、一面の真理はこれを認めねばならない。
劣悪極まる軍隊の結果は個々の戦争を金銭の取引に依り決戦戦争以上の短日月の間に解決せらるる事もあったけれども、それは戦争の絶対性を欠き、その効力は極めて薄弱にして間もなく又戦争が開始せられ、慢性的内乱となったのである。孫文、蒋介石に依り革命軍の建設は軍隊精神に飛躍的進歩を見、国内統一に力強く進んだのは確かに壮観であり我らの見解に修正の傾向を生じつつあったのである。しかも中国の統一はむしろ日本の圧迫がその国民精神を振起せしめた点にある。支那事変に於てはかなり勇敢に戦ったのであるがこの大戦争に於てすらもなお未だ真の国民皆兵にはなり難いのである。数百年来武を卑しんだ国民性の悩みは深刻である。我らは中国がこの際唐朝以前の古(いにしえ)に復(かえ)り正しき国民軍隊を建設せん事を東亜のために念願するのである。日本の戦国時代に於ける武士は日本国民性に基づく武士道に依って強烈な戦闘力を発揮したのであるが、それでもなお且つ買収行なわれ、当時の戦争はいわゆる謀略が中心となり、必要の前には父母兄弟妻子までも利益の犠牲としたのであった。戦国時代の日本武将の謀略は中国人も西洋人も三舎を避くるものがあったのである。日本民族はどの途にかけても相当のものである。今日謀略を振り廻しても成功せず、むしろ愚直の感あるは徳川300年太平の結果である。2、攻撃威力が防禦線を突破し難き事如何に軍隊が精鋭でも装備その他の関係上防禦の威力が大きく、これが突破出来なければ決局決戦戦争を不可能とする。第一次欧州大戦当時は陣地正面の突破がほとんど不可能となり、しかも兵力の増加が迂回をも不可能にした結果持久戦争に陥ったのであった。戦国時代の築城は当時これを力攻する事困難でこれが持久戦争の重大原因となった。そこで前に述べた謀略が戦争の極めて有力な手段となったのである。3、軍隊の運動に比し戦場の広き事決戦戦争の名手ナポレオンもロシヤに対しては遂に決戦戦争を強いる事が出来なかった。露国が偉いのではない。国が広いためである。ナポレオンは決戦戦争の名手で数回の戦争に赫々たる戦果を挙げ全欧州大陸を風靡したが、海を隔てたしかも僅か30里のドーバー海峡のため英国との戦争は10年余の持久戦争となったのである。但しこれはむしろ2項の原因となるべき点が多いが、その何れにしろ、日本はソ連に対しては決戦戦争の可能性が甚だ乏しい。広大なるアジアの諸国間に欧州に於けるように決戦戦争の可能性の少なかった事はアジアの民族性にも相当の影響を与えたものと私は信ずるものである。
以上の原因の中3項は時代性と見るべきでない。ただし時代の進歩とともに決戦戦争可能の範囲が逐次拡大せらるる事は当然であり、前述の如く一根拠地の武力が全世界を制圧し得るまでに文明の進歩せる時、すなわち世界統一の可能性が生ずる時である。1項は一般文化と密に関係があり、2項は主として武器、築城に依って制約せらるる問題であって、歴史的時代性とやはり密な関係がある。以上綜合的に考える時は決戦戦争、持久戦争必ずしも時代性があると云えない点があり、同一時代に於てもある地方には決戦戦争が行なわれある地方には持久戦争が行なわれた事があるが、大観すれば両戦争は時代的に交互に現われて来るものと認むべきである。
殊に強国相隣接し国土の広さも手頃であり、しかも覇道文明のため戦争の本場である欧州に於てはこの関係が最も良く現われている。決戦戦争では戦争目的達成まで殲滅戦略を徹底するのであるが、各種の事情で殲滅戦略の徹底をなし難く、攻勢の終末点に達する時戦争は持久戦争となる。持久戦争でも為し得る限り殲滅戦略で敵に大衝撃を与えて戦争の決を求めんと努力すべきであるが、かならずしも常に左様にばかりあり得ないで、消耗戦略に依り会戦によって敵を打撃する方法の外、或いは機動ないし小戦に依って敵の後方を攪乱し敵を後退せしめて土地を占領する方法を用いるのである。すなわち会戦を主とするか、機動を主とするかの大略二つの方向を取るのであるが、それは一に持久戦争に於ける武力の価値に依って左右せられる。すなわち持久戦争は統帥、政治の協調に微妙な関係がある如く、戦略に於ても特に会戦に重きを置き時に機動を主とする誠に変化多きものとなる。
第四節 欧州近世に放ける両戦争の消長
文明進歩し、ほとんど同一文化の支配下に入った欧州の近世に於ては両戦争の消長と時代の関係が誠に明瞭である。重複をいとわずフランス革命および欧州大戦を中心としてその関係を観察する事とする。古代は国民皆兵であり、決戦戦争の色彩濃厚であったが、ローマの全盛頃から傭兵に堕落し遂に中世の暗黒時代となった。この時代の戦争は騎士戦であり、ギリシャ、ローマ時代の整然たる戦法影を没し一騎打ちの時代となったのであるが、ルネッサンスとともに火器の使用が騎士の没落を来たし、新しく戦術の発展を見た。しかしいにしえの国民皆兵に還らずして傭兵時代となり、戦争は大体持久戦争の傾向を取りフランス革命に及んだのである。この時代の用兵術はフリードリヒ大王に於て発達の頂点に達し、フリードリヒ大王は正しく持久戦争の名手であった。30年戦争(1618-48年)には会戦を見る事が多かったが、ルイ14世初期のオランダ戦争(1672-78年)及びファルツ戦争(1689-97年)に於てはその数甚だ少なかった。スペイン王位継承戦争(1701-14年)には3回だけ大会戦があったけれども戦争の運命に作用する事軽微であった。またこの頃殲滅戦略を愛用したカール12世は作戦的には偉功を奏しつつも、遂にピーター大帝の消耗戦略に敗れたのである。かくてポーランド王位継承戦争(1733-38年)には全く会戦を見ず、しかもその戦争の結果政治的形勢の変化は頗る大なるものがあった。すなわちフリードリヒ大王即位(1740年)当時の用兵は持久戦争中の消耗戦略中、甚だしく機動主義に傾いていたのである。当時かくの如く持久戦争をなすの止むなき状況にあり、しかも消耗戦略の機動主義すなわち戦争の最も陰性的傾向であったのは政治的関係より生じた不健全なる軍制に在ったのであるが、今少しくこれにつき観察して見よう。1、傭兵制度 18世紀の戦争は結局君主が、その所有物である傭兵軍隊を使用して自己の領土権利の争奪を行なった戦争である。しかるに軍隊の建設維持には莫大な経費を要し、兵は賃金のために軍務に服しているが故に逃亡の恐れ甚だしく、しかも横隊戦術は会戦に依る損害極めて多大であった。これらの関係から君主がその高価なる軍隊を愛惜するために会戦を回避せんとするは自然である。また兵力も小さいため、遠大なる距離への侵入作戦は至難であった。2、横隊戦術 横隊戦術は火器の使用により発達したのであるが、依然火器の使用には大なる制限を受けるのみならず運動性を欠くことが甚だしかった。しかしながら、専制的支配を必要とする傭兵であったため、18世紀中には遂にこの横隊戦術から蝉脱(せんだつ)する事が出来なかった。主将は戦役(戦役とは戦争中の一時期で通常1カ年を指す)開始前又は特別な事情の生じた時、「会戦序列」を決定する。この序列は行軍、陣営、会戦等の行動一般を律するものである。会戦のためには、その序列に従い、横広(大王時代通常四列、プロイセンに於ては現に三列)に並列した歩兵大隊を通常二戦列と、両翼に騎兵を配置し、当時効力未だ充分でなかった砲兵はこれを歩兵に分属して後方に控置したのである。盲従的規律を要する傭兵には横隊を捨て難く、しかも指揮機関の不充分はかくの如き形式的決定を必要としたのであるが、行軍よりかくの如き隊形に開進し、会戦準備を整うる事は既に容易の業でなく、またかくの如き長大なる密集隊形の行動に適する戦場は必ずしも多くなく、かつ開進後の整いたる運動は平時の演習に於てすら非常な技術を要する。敵火の下ではたちまち混乱に陥ることは明らかであり、また地形の影響を受くる事は極めて大きい。殊に前進と射撃との関係を律する事は殆んど不可能に近い。すなわち一度停止して射撃を始める時は最早整然と発進せしむる事は云うべくして行ない難い。砲兵の威力は頼むに足らない。以上の諸件は攻撃の威力を甚だしく小ならしむるものである。すなわち一方軍が会戦の意志なく、地形を利用して陣地を占領する時は攻撃の強行は至難であった。又たとい敵を撃退せる場合に於ても軽挙追撃して隊伍を紊(みだ)る時は、敗者のなお所有する集結せる兵力のため反撃せらるる危険甚大で、追撃は通常行なわれず、徹底的な戦捷の効果は求め難かった。3、倉庫給養 30年戦争には徴発に依る事が多かったが、そのため土地を荒し、人民は逃亡したり抵抗したりするに至って作戦に甚だしい妨害をしたのである。それ以来反動として極端に住民を愛護し、馬糧以外は概して倉庫より給養する事となった。傭兵の逃亡を防ぐためにも給養は良くしなければならないし、徴発のため兵を分散する事は危険でもあり、殊に30年戦争頃に比し兵が増加したため、到底貧困な地方の物資のみでは給養が出来なくなった。そこで作戦を行なう前に適当の位置に倉庫を準備し、軍隊がその倉庫を距たること3-4日行程に至る時は更に新倉庫を設備してその充実を待たねばならぬ。敵の奇襲に対し倉庫の掩護(えんご)は容易ならぬ大問題であった。4、道路及び要塞 欧州道路の改善は18世紀の後半期以後急速に行なわれたもので、ナポレオンは相当の良道を利用し得たけれども、フリードリヒ大王当時は幅は広いが(軍隊は広正面にて前進し得た)ほとんど構築せられない道路のみで物資の追送には殊に大なる困難を嘗(な)めた。水路はこれがため極めて大なる価値があり要塞攻撃材料の輸送等は川に依らねばほとんど不可能に近い有様で、エルベ、オーデル両河は大王の作戦に重大関係がある。17世紀ボーバン等の大家が出て築城が発達し、各国が国境附近に設けた要塞は運動性に乏しかった軍の行動を掣肘する事極めて大きかった。以上の諸事情に依って戦争に於ける武力の価値は低く、持久戦争中でも消耗戦略の機動主義に傾くは自然と云うべきである。当時の戦争の景況を簡単に説明する事にしよう。一国の戦争計画は先ず第一に外交に重きを置き、戦役計画の立案も政治上の顧慮を重視して作戦目標および作戦路を決定し、その作戦実施を将軍に命令する。攻勢作戦を行なわんとせば先ず巧みに倉庫を設備する。倉庫は作戦を迅速にするためなるべく敵地に近く設くるを有利とするも、我が企図を暴露せざるためには適当に撤退せしめねばならない。準備成り敵地に侵入した軍は敵軍と遭遇せば、特に有利な場合でなければ決戦を行なう事なく、機動に依り敵を圧迫する事に勉める。会戦を行なうためには政府の指示に依るを通例とする。両軍相対峙するに至れば互に小部隊を支分して小戦に依り敵の背後連絡線を遮断し、また倉庫を奪い、戦わずして敵を退却せしむる事に努力する。敵の要塞に対してはその守備兵を他に牽制し、要すれば正攻法に依りこれを攻略する。作戦路上にある要塞を放置して遠く作戦を為す事はほとんど不可能とせられた。かくして逐次その占領地を拡大して敵の中心に迫り、この間外交その他あらゆる手段に依り敵を屈伏して有利な講和をすることに勉める。両軍、要地に兵力を分散しているのであるから一点に兵力を集中してそこを突破すれば良いように考えられるが、突破しても爾後の突進力を欠き、却(かえ)って背後を敵に脅かされて後退の余儀なきに至り、ややもすればその後退の際大なる危険に陥るのである。1744年第二シュレージエン戦争に於てベーメンに突進したフリードリヒ大王が、敵の巧妙な機動戦略のため1回の会戦をも交える事なく甚大の損害を蒙って本国に退却した如きはその最も良き一例である。1812年ナポレオンのロシヤ遠征はこれと同一原理に基づく失敗であり、この種の戦争では遊撃戦(すなわち小戦)の価値が極めて大きい。
作戦は通常冬期に至れば休止し、軍隊を広地域に宿営せしめて哨兵線をもって警戒し、この期間を利用して補充、教育その他次回戦役の準備をする。時に冬期作戦を行なう事あるもそれは特殊の事情からするもので、冬期作戦に依る損害は通常甚だ大きい。故に一度敵地を占領して要塞、河川、山地等のよき掩護を欠く時は冬期その地方を撤退、安全地帯に冬営するのが通常である。ナポレオン以後の戦争のみを研究した人にはなかなか想像もつかない点が多いのである。しかしこの事情をよく頭に入れて置かねばフランス革命の軍事的意義、ナポレオンの偉大さが判らないのである。
第五節 フリードリヒ大王の戦争
フリードリヒ大王が1740年5月31日、父王の死に依り王位に就いた時は年29で、その領土は東プロイセンからライン河の間に散在し、人口250万に過ぎなかった。当時墺(オーストリア)は1300万、フランス2000万、英国は950万の人口を有していたのである。大王は祖国を欧州強国の列に入れんとする熱烈なる念願のため、軍事的政治的に最も有利なるシュレージエン(当時人口130万)の領有を企図したのである。シュレージエンはあたかも満州事変前の日本に対する満蒙の如きものであった。あたかも良し同年10月20日ドイツ皇帝カール6世が死去したので、これに乗じ些細の口実を以て防備薄弱なりしシュレージエンに侵入した。弱国プロイセンに対する墺国女王マリア・テレジヤの反抗は執拗を極め、大王は前後3回の戦争に依り漸くその領有を確実ならしめたのである。大王終世の事業はシュレージエン問題の解決に在ったと見るも過言ではない。終始一貫せる彼の方針、あらゆる困難を排除して目的を確保した不撓不屈の精神、これが今日のドイツの勃興に与えた力は極めて偉大である。ほとんど全欧州を向うに廻して行なった長年月にわたる持久戦争は戦争研究者のため絶好の手本である。仕事の外見は大きくないが、大王こそ持久戦争指導の最大名手であり、七年戦争は正しく軍神の神技と云うべきである。1、第一シュレージエン戦争(1740-42年)大王は12月16日国境を越えてシュレージエンに侵入し、2-3要塞を除きたちまち全シュレージエンを占領し、1月末国境に監視兵を配置して冬営に入った。バイエルン侯がフランスの援助に依りドイツ皇帝の帝位を争い、墺国と交戦状態に在ったため、大王は墺国は自分に対して充分なる兵力を使用することが出来ないだろうと考えていたのに、1741年4月初め突如墺軍が国境を越えて攻撃し来たり、大王の軍は冬営中を急襲せらるるに至った。普(プロイセン)軍は狼狽して集結を図り、4月10日モルウィッツ附近に於て会戦を交え普軍は辛うじて勝利を得た。墺軍はナイセ要塞に後退し、爾後両軍相対峙する事となった。大王と墺軍の間には複雑怪奇の外交的躯引が行なわれ、墺軍は大王と妥協して10月シュレージエンを捨て巴(バイエルン)・仏軍に向ったが大王は墺軍の誠意なきを見て一部の兵を率いてメーレンに侵入し、ベーメンに進出して来た巴・仏軍と策応したのである。しかるに墺軍は逆にドナウ河に沿うてバイエルンに侵入し、ために連合軍の形勢不利となり墺軍は大王に対して有力なる部隊を差向ける事となったのである。
そこで大王は1742年4月ベーメンに退却し、後図を策する考えであった。墺軍はこれを圧して迫り来たり、大王の戦勢頗る危険であったが、大王は5月17日コツウジッツに於てこれを迎え撃ち、勝利を得たのである。全般の形勢は連合側に不利であったが、英国の斡旋で大王は6月11日墺軍とブレスラウの講和を結び、シュレージエンを獲(え)た。2、第二シュレージエン戦争(1744-45年)大王が戦後の回復に努力しつつある間、墺英両国は仏・巴軍を圧してライン河畔に進出した。大王はいたずらに待つ時は墺国より攻撃せらるるを察知し、再び仏・巴と結び1744年8月一部をもってシュレージエン、主力を以てザクセンよりベーメンに入り、9月18日プラーグを攻略した。プラーグ要塞は当時ほとんど構築せられていなかったのである。大王は同地に止まって敵を待つ事が当時の用兵術としては最も穏健な策であったが(大王自身の反省)、軍事的に自信力を得た大王は更に南方に進み、墺軍の交通線を脅威して墺軍を屈伏せしめんとしたが、仏軍の無為に乗じて墺将カールはライン方面より転進し来たり、ザクセン軍を合して大王に迫って来た。カールの謀将トラウンの用兵術巧妙を極め、巧みに大王の軍を抑留し、その間奇兵を以て大王の背後を脅威する。大王が会戦を求めんとせば適切なる陣地を占めてこれを回避する。大王は食糧欠乏、患者続出、寒気加わり、遂に大なる危険を冒しつつ、シュレージエンに退却の余儀なきに至った。トラウンは巧妙なる機動に依り一戦をも交えないで大王に甚大なる損害を与え、その全占領地を回復したのである。外交状態も大王に利なく1744年遂に大王は戦略的守勢に立つの他なきに至った。そこで大王は兵力をシュワイドニッツ南方地区に集結、敵の山地進出に乗ずる決心をとった。敵が慎重な行動に出たならば大王の計画は容易でなかったと思われるが、大王は巧妙なる反面の策に依り敵を誘致し得て、6月4日ホーヘンフリードベルクの会戦となり大王の大勝となった。この会戦は第一、第二シュレージエン戦争中王自ら進んで企て自ら指揮したほとんど唯一の会戦であり(大王が最も困難な時会戦を求めたのである)、大王が名将たる事を証した重要なるものであるが、全戦争に対する作用はそう大した事は無く、敵はケーニヒグレッツ附近に止まり、王は徐々に追撃してその前面に進出、数カ月の対峙となった。けれども大王は兵力を分散しかつ糧秣欠乏し、遂に北方に退却の止むなきに至った。墺軍はこれに追尾し来たり、9月30日ゾール附近に於て大王の退路近くに現出した。
大王はこれを見て果敢に攻撃を行ない敵に一大打撃を与えたけれども、永くベーメンに留まる事が出来ず、10月中旬シュレージエンに退却冬営に就いた。しかるに墺軍は一部をもってライプチヒ方向よりベルリン方向に迫り、カール親王の主力はラウジッツに進入これに策応した。そこで大王はシュレージエンの軍を進めてカールに迫ったのでカールはベーメンに後退した。大王は外交の力に依ってザクセンを屈せんとしたが目的を達し難いので、ザクセン方向に作戦していたアンハルト公を督励して、12月15日ザクセン軍をケッセルスドルフに攻撃せしめ遂にこれを破った。大王はこの日ドレスデン西北方20Kmのマイセンに止まり、カールはドレスデンに位置して両軍の主力は会戦に参加しなかったのである。
カールは再戦を辞せぬ決心であったが、ザクセン軍は志気阻喪して12月25日遂にドレスデンの講和成立し、ブレスラウ条約を確認せしめた。3、七年戦争(1756-62年)第二シュレージエン戦争後七年戦争までの10年間大王は国力の増進と特に前二戦争の体験に基づき軍隊の強化訓練に全力を尽し、自ら数個の戦術書を起案した。かくて大王はその軍隊を世界最精鋭のものと確信するに至ったのである。この10カ年間の大王の努力は戦争研究者の特に注目すべきところである。イ、1756年 墺国の外交は着々成功し露、スウェーデン、索(ザクセン)、巴等の諸邦をその傘下に糾合し得たるに対し、大王は英国と近接した。また大王は墺国のシュレージエン回復計画の進みつつあるを知り、1756年開戦に決して8月下旬ザクセンに進入、10月中旬頃ザクセン軍主力を降服せしめ、同国の領有を確実にした。ロ、1757年 敵国側の団結は予想以上に鞏固(きょうこ)で1757年のため約40万の兵力を使用し得るに対し、大王はその半数をもってこれに対応することとなった。大王は熟慮の後ベーメン侵入に決し、冬営地より諸軍をプラーグ附近に向い集中前進せしめた。この前進は当時の用兵上より云えば余りに大胆なものであり種々論評せらるるところであるが、大王10年間の研究、訓練に基づく自信力の結果でよく敵の不意に乗じ得たのである。5月6日プラーグ東方地区で墺軍を破り、これをプラーグ城内に圧迫した。プラーグは当時既に相当の要塞になっていたので簡単に攻略する事が出来ず、5月29日より始めた砲撃も弾薬不充分で目的を達しかねた。ところが墺将ダウンが近接し来たり、巧みに大王の攻囲を妨げるので大王は止むなく手兵を率いてこれに迫り、6月18日コリン附近でダウンの陣地を攻撃した。しかしながら大王軍は遂に大敗し、止むなくプラーグの攻囲を解き、一部をもってシュレージエン方向に主力はザクセンに退却した。大王のコリンの失敗はほとんど致命的と云うべき結果であったのに、更に仏・巴軍が西方および西南方より迫り来たったので形勢愈々急である。幸い墺軍の行動活発ならざるに乗じ大王は西方より迫り来たる敵に一撃を与えんとした。敵は巧みにこれを避け大王をして奔命に疲れしむるとともに墺軍主力はシュレージエンの占領を企図したので、大王も弱り抜いて10月下旬遂にシュレージエンに転進するに決した。その時西方の敵再び前進し来たるの報告に接しただちにこれに向い、11月5日22000の兵力をもって6万の敵をロスバハに迎撃、これに甚大の損害を与えた。この一戦はほとんど絶望の涯てに在った普国を再生の思いあらしめた。しかしシュレージエン方面の状況が甚だ切迫して来たのでただちにこれに転進、途中ブレスラウの陥落を耳にしつつ前進、12月5日有名なロイテンの会戦となった。この会戦は35000をもって墺軍の65000に徹底的打撃を与えた、大王の会戦中の最高作品であり、大王のほとんど全会戦を批難したナポレオンさえ百世の模範なりとして極力賞讃したのである。墺軍はシュレージエンに進入した9万中僅かにその1/4を掌握し得、大王は約4万の捕虜を得てシュワイドニッツ要塞以外の全シュレージエンを回復、平和への希望を得て冬営についた。ハ、1758年 マリア・テレジヤの戦意旺盛にして平和の望みは絶え、露軍は昨年東普に侵入退却したが、この年1月22日遂にケーニヒグレッツを占領し、夏にはオーデル河畔に進出を予期せねばならぬ。幸いロスバハ、ロイテンの戦果に依り英の態度積極的となり、仏に対する顧慮は甚だしく減少した。しかし大王の戦力も大いに消耗、もはや大規模な攻勢作戦を許さない。またいたずらに守勢に立つは大王の性格これを許さぬ。ここに於て大王はなるべく遠く墺軍を支え、為し得ればこれに一撃を与え、露軍の近迫に際し動作の余地を有するを目的とし、4月中旬シュワイドニッツ攻略後主力をもってメーレンに侵入、オルミュッツ要塞を攻略するに決心した。あたかも1916年ファルケンハインのいわゆる「制限目的をもってする攻勢」であるベルダン攻撃に似ている。5月22日から攻囲を開始したが、敵将ダウンの消耗戦略巧妙を極めて大王を苦しめ、6月30日4千輛よりなる大王の大縦列を襲撃潰滅せしめた。大王は躊躇する事なく攻城を解き、8月初め主力をもってランデスフートに退却した。露軍は8月中旬オーデル河畔に現われスウェーデン軍また南下し来たったので、大王は主力をもって墺軍に対せしめ、自ら一部をもって露軍に向い、8月25日ズォルンドルフ附近に於て露軍と変化多き激戦を交え、辛うじてこれを撃退した。大王の損害も大きかったが露軍は墺軍の無為を怒り、遠く退却して大王の負担を減じた。墺軍主力はラウジッツ方面よりザクセンに作戦し、西南方より前進して来た帝国軍(神聖ローマ帝国に属する南ドイツ諸小邦の軍隊)と協力してザクセンを狙い、虚に乗じて一部はシュレージエンを攪乱した。大王は寡兵をもって常に積極的にこれに当ったが、ダウンの作戦また頗る巧妙で虚々実々いわゆる機動作戦の妙を発揮した。10月14日大王はホホキルヒで敵に撃破せられたけれども大体に於て能(よ)く敵を圧し、遂にほとんど完全に敵を我が占領地区より駆逐して冬営に移る事が出来た。この戦は両将の作戦巧妙を極めたが、結局会戦に自信のある大王がよく寡兵をもって大勢を制し得たのである。ニ、1759年 辛うじてその占領地を保持し得た大王も、昨年暮以来墺軍の防禦法は大いに進歩し、特に有利なる場合のほか攻撃至難となった旨を述べている。大王の戦力は更に低下して最早攻勢作戦の力無く、止むなく兵力を下シュレージエンに集結、敵の進出を待つ事となった。6月末露軍がオーデル河畔に出て来るとダウンは初めて行動を起し、ラウジッツに出て来たが、行動例に依って巧妙で大王に攻撃の機会を与えない。大王は止むなく墺軍を放置して露軍に向い、8月12日クーネルスドルフの堅固なる陣地を攻撃、一角を奪取したけれども遂に大敗し、さすがの大王もこの夜は万事終れりとし自殺を決心したが、露軍の損害また大きく、殊に墺軍との感情不良で共同動作適切を欠き、大王に英気を回復せしめた。9月4日ドレスデンは陥落した。露軍はシュレージエンに冬営せんとしたが大王の巧妙なる作戦に依り遂に10月下旬遠く東方に退却した。大王はこの頃激烈なるリウマチスに冒されブレスラウに病臥中、カール12世伝を書いて彼の軽挙暴進の作戦を戒め、会戦は敵の不意に乗じ得るかまたは決戦に依り、敵に平和を強制し得る時に限らざるべからずと述べている。病気回復後、大王はザクセンを回復せんと努力したが、11月21日その部将フンクがマキセン附近でダウンに包囲せられて降伏し、墺軍はドレスデンを固守し両軍近く相対して冬営する事となった。ホ、1760年 大王の形勢ますます不良、クラウゼウィッツの言う如く敵の過失を発見してこれに乗ずる以外また策の施すべき術もない有様となった。ダウンは自ら大王をザクセンに抑留し、驍将ラウドンをしてシュレージエンに作戦せしめた。大王は再三シュレージエンの危急を救わんとしたが、ダウンは毎度巧みに大王の行動を妨げてこれをザクセンに抑留した。しかしシュレージエンの形勢ますます悪化するので大王は8月初め断固東進、8月10日リーグニッツ西南方地区に陣地を占めた。ダウンは大王と前後して東進、ラウドンを合して10万となり、3万の大王を攻撃する決心を取って更に露軍をオーデル左岸に誘致するに勉めた。大王は苦境を脱するため種々苦心し色々の機動を試みたが、14日払暁突如ラウドンと衝突、適切機敏なる指揮に依りこれを撃破した。リーグニッツの不期戦は風前の灯火の感あった大王を救った。大王は一部をもって露軍を監視、主力をもってダウンをベーメンに圧迫せんとしたが、露軍と墺軍の一部は10月4日ベルリンを占領したので急遽これが救出に赴いた。露軍の危険は去ったので是非ザクセンを回復せんとして南下したが、ダウンはトルゴウに陣地を占めたので大王は遂に決心してこれを力攻した。大損害を受け辛うじて敵を撃退し得たがダウンは依然ドレスデンを固守して冬営に移った。トルゴウの会戦は1918年のドイツ軍攻勢にも比すべきものである。ともに困難の極に達したドイツ軍が運命打開のため試みた最後的努力である。ただし大王は1918年と異なりなお存在を持続し得たのである。ヘ、1761年 同盟軍はダウンをして大王の軍をザクセンに抑留し、ラウドンおよび露軍をもってシュレージエンおよびポンメルンに侵入せんと企てた。大王は一部をザクセンに止めて自らシュレージエンに赴き、ラウドンと露軍の合一を妨げ、機会あらば一撃を加えんとしたが敵の行動また巧妙で、遂に8月中旬55000の兵をもって15万の敵に対し、シュワイドニッツ附近のブンツェルウッツに陣地を占め、全く戦術的守勢となった。露軍はその後退却したがラウドンは大王の隙に乗じてシュワイドニッツを奪取、墺軍は初めてシュレージエンに冬営する事となり、北方の露軍また遂にコールベルクを陥してポンメルンに冬営するに至った。ト、1762年 ナポレオン曰く「大王の形勢今や極度に不利なり」と。しかし天はこの稀代の英傑を棄てなかった。1762年1月19日すなわち大王悲境のドン底に於て露女王の死を報じて来た。後嗣ペーテル3世は大の大王崇拝者で5月5日平和は成り、2万の援兵まで約束したのである。スウェーデンとの平和も次いで成立した。大王はこの有利なる形勢の急転後、熟慮を重ねてその作戦目標をシュレージエンおよびザクセンに限定した。しかも極力会戦を避け、必要以上にマリア女王の敵愾心の刺戟を避けその屈服を企図したのである。露援軍の来着を待って7月行動を起し、シュワイドニッツ南方にあった墺軍陣地に迫り、これを力攻する事なく、一部をもって敵の側背を攻撃せしめて山中に圧迫、更に10月9日シュワイドニッツを攻略、ザクセンに向い、ドレスデンは依然敵手にあったが他の全ザクセンを回復し、一部の兵を進めて南ドイツの諸小邦を屈服せしめた。英仏間には11月3日仮平和条約なり、さすがのマリア・テレジヤも遂に屈服、1763年2月15日フーベルスブルグの講和成立、大王は初めてシュレージエンの領有を確実にしたのである。クラウゼウィッツは大王の戦争を、1757年を会戦の戦役、1758年を攻囲の戦役、1759-60年を行軍および機動の戦役、1761年を構築陣地の戦役、1762年を威嚇の戦役、と称しているが、戦争力の低下に従って止むなく逐次戦略を変換して来た。そして状況に応ずる如くその戦略を運用し、最悪の場合にも毅然として天才を発揮し、全欧州を敵として良く7年の持久戦争に堪えその戦争目的を達成した。それには大王の優れたる軍事的能力が最も大なる作用を為しているが、しかし良く戦争目的を確保し、有利の場合も悲境の場合も毫も動揺しなかった事が一大原因である事を忘れてはならぬ。持久戦争に於ては特に目前の戦況に眩惑し、縁日商人の如く戦争目的即ち講和条件を変更する事は厳に慎まねばならぬ。第一次欧州大戦ではドイツは遂に定まった戦争目的なく(決戦戦争より戦争に入ったため無理からぬ点が多い)、戦争後になって、戦争目的が論じられている有様であった。そしてこれが政戦略の常に不一致であった根本原因をなしている。
第六節 ナポレオンの戦争
フリードリヒ大王の時代よりナポレオンの時代へ
1持久戦争より決戦戦争へ
18世紀末軍事界の趨勢。七年戦争後のフリードリヒ大王の軍事思想はますます機動主義に傾いて来た。一般軍事界はもちろんである。1771年出版せられたフェッシュの「用兵術の原則および原理」には「将官たる者は決して強制せられて会戦を行なうようなことがあってはならぬ。自ら会戦を行なう決心をした場合はなるべく人命を損せざる事に注意すべし」とあり、1776年のチールケ大尉の著書には「学問に依りて道徳が向上せらるる如くまた学問に依り戦術は発達を遂げ、将軍はその識見と確信を増大して会戦はますますその数を減じ、結局戦争が稀となるであろう」と論じている。仏国の有名な軍事著述家でフリードリヒ大王の殊遇を受け、1773年には機動演習の陪観をも許されたGuibertは1789年の著述に「大戦争は今後起らぬであろう。もはや会戦を見ることはないであろう」と記している。七年戦争につき有名な著述をした英人ロイドは1780年「賢明なる将軍は不確実なる会戦を試みる前に常に地形、陣地、陣営および行軍に関する軍事学をもって自己の処置の基礎とする。この理を解するものは軍事上の企図を幾何学的の厳密をもって着手し、かつ敵を撃破する必要に迫らるる事無く戦争を実行し得るのである」と論じている。機動主義の法則を発見するを目的として地理学研究盛んとなり鎖鑰(さやく)、基線、作戦線等はこの頃に生れた名称であり、軍事学の書籍がある叢書の中の数学の部門に収めらるるに至った。ハインリヒ・フォン・ビューローは「作戦の目的は敵軍に在らずしてその倉庫である。何となれば倉庫は心臓で、これを破れば多数人の集合体である軍隊の破滅を来たすからである」と断定し、戦闘についても歩兵は唯射撃するのみ、射撃が万事を決する、精神上の事は最早大問題でないと称し、「現に子供がよく巨人を射殺することが出来る」と述べている。かくて軍事界は全く形式化し、ある軍事学者は歩兵の歩度を1分間に75歩とすべきや76歩とすべきやを一大事として研究し「高地が大隊を防御するや。大隊が高地を防御するや」は当時重大なる戦術問題として議論せられたのである。
2フランス革命に依る軍事上の変化
「最も暗き時は最も暁(あかつき)に近き時なり」と言ったフリードリヒ大王は1786年この世を去り、後3年1789年フランス革命が勃発したのである。革命は先ず軍隊の性質を変ぜしめ、これに依って戦術の大変化を来たし遂に戦略の革命となって新しき戦争の時代となった。
3新軍の建設
革命後間もなく徴兵の意見が出たが専制的であるとて排斥せられた。しかし列強の攻撃を受け戦況不利になったフランスは1793年徴兵制度を採用する事となった。しかもこれがためには一度は83州中60余州の反抗を受けたのであった。徴兵制度に依って多数の兵員を得たのみでなく、自由平等の理想と愛国の血に燃えた青年に依って質に於ても全く旧国家の思い及ばざる軍隊を編制する事が出来た。
新戦術 / 革命軍隊も最初はもちろん従来の隊形を以て行動しようとしたのであるが、横隊の運動や一斉射撃のため調練不充分で自然に止むなく縦隊となり、これに射撃力を与えるため選抜兵の一部を散兵として前および側方を前進せしむる事とした。即ち散兵と縦隊の併用である。散兵や縦隊は決して新しいものではない。墺国の軽歩兵(忠誠の念篤いウンガルン兵等である)はフリードリヒ大王を非常に苦しめたのであり、また米国独立戦争には独立自由の精神で奮起した米人が巧みにこれを利用した。しかし軍事界は戦闘に於ける精神的躱避(たひ)が大きいため単独射撃は一斉射撃に及ばぬものとしていた。縦隊は運動性に富みかつ衝突力が大きいためこれを利用しようとの考えあり、現に七年戦争でも使用せられた事があり、その後革命まで横隊、縦隊の利害は戦術上の重大問題として盛んに論争せられたが、大体に於て横隊説が優勢であった。1791年仏国の操典(1831年まで改正せられなかった)は依然横隊戦術の精神が在ったが、縦隊も認めらるる事となった。要するに散兵戦術は当時の仏国民を代表する革命軍隊に適するのみならず、運動性に富み地形の交感を受くる事少なくかつ兵力を要点に集結使用するに便利で、殲滅戦略に入るため重要な要素をなしたのである。しかし世人が往々誤解するように横隊戦術に比し戦場に於て必ずしも徹底的に優越なものでなかったし(1815年ワーテルローでナポレオンはウエリントンの横隊戦術に敗れた)、決して仏国が好んで採用したものでもない。自然の要求が不知不識(しらずしらず)の間にここに至らしめたのである。「散兵は単なる応急策に過ぎなかった。余りに広く散開しかつ衝突を行なう際に指揮官の手許に充分の兵力が無くなる危険があったから、秩序が回復するに従い散兵を制限する事を試み、散兵、横隊、縦隊の3者を必要に応じて或いは同時に、或いは交互に使用した。故に新旧戦術の根本的差異は人の想像するようには甚だしく目立たず、その時代の人、なかんずく仏人は自己が親しく目撃する変化をほとんど意識せず、また諸種の例証に徴して新形式を組織的に完成する事にあまり意を用いざりし事実を窺い得る」とデルブリュック教授は論じている。革命、革新の実体は多くかくの如きものであろう。具体案の持ち合わせもないくせに「革新」「革新」と観念的論議のみを事とする日本の革新論者は冷静にかかる事を考うべきであろう。
4給養法の変化
国民軍隊となったことは、地方物資利用に依り給養を簡単ならしむる事になり、軍の行動に非常な自由を得たのである。殊に将校の平民化が将校行李の数を減じ、兵のためにも天幕の携行を廃したので1806年戦争に於て仏・普両軍歩兵行李の比は1対8乃至1対10であった。
5戦略の大変化
仏国革命に依って生まれた国民的軍隊、縦隊戦術、徴発給養の3素材より、新しき戦略を創造するためには大天才の頭脳が必要であった。これに選ばれたのがナポレオンである。国民軍隊となった1794年以後も消耗戦略の旧態は改める事がなかった。1794年仏軍は敵をライン河に圧して両軍ライン河畔で相対峙し、僅か2-30万の軍がアルサスから北海に至る全地域に分散して土地の領有を争うたのであった。ナポレオンはその天才的直観力に依って事物の真相を洞見し、革命に依って生じた軍事上の3要素を綜合してこれを戦略に活用した。兵力を迅速に決勝点に集結して敵の主力に対し一挙に決戦を強い、のち猛烈果敢にその勝利を追求してたちまち敵を屈服せしむる殲滅戦略により、革新的大成功を収め、全欧州を震駭せしめた。かくして決戦戦争の時代が展開された。この殲滅戦略は今日の人々には全く当然の事でなんら異とするに足らないのであるが、前述したフリードリヒ大王の戦争の見地からすれば、真に驚嘆すべき革新である事が明らかとなるであろう。ナポレオン当時の人々は中々この真相を衝き難く、ナポレオンを軍神視する事となり、彼が白馬に乗って戦場に現われると敵味方不思議の力に打たれたのである。ナポレオンの神秘を最初に発見したのは科学的な普国であった。1806年の惨敗によりフリードリヒ大王の直伝たる夢より醒めた普国は、シャルンホルスト、グナイゼナウの力に依り新軍を送り、新戦略を体得し、ナポレオンのロシヤ遠征失敗後はしかるべき強敵となって遂にナポレオンを倒したのである。フリードリヒ大王時代の軍事的教育を受け、ナポレオン戦争に参加したクラウゼウィッツはナポレオンの用兵術を組織化し、1831年彼の名著「戦争論」が出版せられた。
6 1796-97年のイタリア作戦
1805年をもって近世用兵術の発起点とする人が多い。20万の大軍が広大なる正面をもって1000Km近き長距離を迅速に前進し、一挙に敵主力を捕捉殲滅したウルム作戦の壮観は、18世紀の用兵術に対し最も明瞭に殲滅戦略の特徴を発揮したものである。しかしこれは外形上の問題で、新用兵術は既にナポレオン初期の戦争に明瞭に現われている。その意味で1796年のイタリア作戦、特にその初期作戦は最も興味深いものである。クラウゼウィッツが「ボナパルトはアペニエンの地理はあたかも自分の衣嚢のように熟知していた」と云っているが如く、ナポレオンはイタリア軍に属して作戦に従事したこともあり、イタリア軍司令官に任ぜらるる前は公安委員会作戦部に服務してイタリアに於ける作戦計画を立案した事がある。ナポレオンの立案せる計画は、当事者から即ち旧式用兵術の人々からは狂気者の計画と称して実行不可能のものと見られたのである。ナポレオンは1796年3月2日弱冠26歳にしてイタリア軍司令官に任ぜられ、同26日ニースに着任、いよいよ多年の考案に依る作戦を実行することとなった。イタリア軍の野戦に使用し得る兵力は歩兵4師団、騎兵2師団で兵力約4万、主力はサボナからアルベンガ附近、その一師団は西方山地内に在った。縦深約80Kmである。軍前面の敵はサルジニアのコッリーが約一万をもってケバ要塞からモントヴィの間に位置し墺軍の主力はなおポー河左岸に冬営中であった。ナポレオンはかねての計画に基づき、両軍の分離に乗じ速やかに主力をもってサボナからケバ方向に前進し、サルジニア軍の左側を攻撃、これを撃破する決心であった。当時海岸線は車も通れず、騎兵は下馬を要する処もあった。海岸からサルジニアに進入するためにはサボナから西北方アルタールを越える道路(峠の標高約500m)が最良で、少し修理すれば車を通し得る状態であった。ところがナポレオン着任当時のイタリア軍の状態は甚だ不良で、ナポレオンがその天性を発揮して大活躍をしても整理は容易な事でなかった。ナポレオン着任当時、マッセナはゼノバに於ける(ゼノバは当時中立で海岸道不良のため同地は仏軍の補給に重要な位置を占めていた)外交を後援するため、一部をボルトリに出していたのである。ナポレオンは墺軍を刺戟する事を避くるため同地の兵力撤退を命令したが、前任司令官の後任をもって自任していたマッセナは後輩の黄口児、しかも師団長の経験すら無いナポレオンの来任心よからず、命令を実行せず、かえってボルトリの兵力を増加し、表面には調子の良い報告を出していた。
しかるに4月に入って墺軍前進の報を耳にしたナポレオンの決心は変化を来たし、4月2日ニースを発してアルベンガに達し、マッセナに命令するにボルトリを軽々に撤退する事無く、かえって兵力増加を粧うべき事を命令した。蓋(けだ)しナポレオンは墺軍の前進を知り、なるべくこれを東方に牽制してサルジニア軍との中央に突進し、各個撃破を決心したのである。マッセナは敵兵増加の徴(しるし)に不安を抱き、同日は狼狽してこのまま止まるは危険な旨を具申している。主力をポー川左岸に冬営していた墺軍の新司令官老将ボーリューはゼノバ方面に対する仏軍活動開始せらるるを知り南進を起し、3月30日にはゼノバ北方の要点ボヘッタ峠を占領して仏国の突進を防止する決心をとったが、その後仏軍の行動の活発でないのに乗じ、更に4月8日にはボルトリを占領して敵とゼノバの連絡を絶ち、かつボルトリにあった製粉所を奪取する事に決心した。同時に右翼の部隊をもってサボナ北方のモンテノット附近を占領せしめ、サルジニア軍と連絡して要線の占領を確実ならしむる事とした。行動開始前の4月9日に於けるポー川以南にある部隊の位置、右図の如し。即ち約3万の兵力が攻撃前進を前にして縦深60Km、正面約80Kmに分散しており、しかも東西の交通は極めて不便でボルトリから右翼の方面に兵力を転用するためにはアックイを迂回するを要する。ボルトリの攻撃にはビットニー、フカッソウィヒ両部隊のうち、9大隊を使用してボーリュー自らこれに臨み、モンテノットの攻撃はアルゲソトウ部隊に命令した。アルゲントウは後方に主力を止め、攻撃に使用した兵力は5大隊半に過ぎなかった。これが当時の用兵術である。ナポレオンは10日サボナに到着、この日ボルトリは墺軍の攻撃を受け同地の守兵は夜サボナに退却す。ナポレオンは11日更に東方に前進して情況を視察したが、ボルトリを占領した敵は相当の兵力であるが追撃の模様がない。然るにこの日モンテノットも敵の攻撃を受けて占領せられたが、ランポン大佐はモンテノット南方の高地を守備してよく敵を支えている事を知った。ナポレオンはこの形勢に於て先ずモンテノット方面の敵を撃滅するに決心し、僅少なる部隊をサボナに止めてボルトリの敵に対せしめ、主力は夜間ただちに行動を起して敵の側背に迫る如き部署をした。この決心処置は迅速果敢しかも適切敏捷に行なわれナポレオンを嫉視ないし軽視していた諸将を心より敬服せしめるに至った。
ある人は「ナポレオンはこの命令で単に墺軍に対してのみでなく、部下諸将軍連に対しても勝利を得た」と言っている。かくて12日、ナポレオンは約1万人を戦場に集め得て、3-4000の敵を急襲して徹底的打撃を与えた。ナポレオンはこの戦闘の成果を過信して墺軍の主力を撃破したものと考え、予定に基づき主力をもってサルジニア軍に向い前進するに決し、その部署をした。前衛たる部隊は13日コッセリア古城を守備していた墺軍を攻撃、14日辛うじてこれを降伏せしめたが、ナポレオンはこの間敵の部隊北方デゴ附近に在るを知って該方面に前進、14日敵を攻撃してこれを撃破し、再び西方に向う前進を部署した。
しかるにデゴ戦闘後に狂喜した仏兵は、数日の間甚だ不充分なる給養であったため掠奪を始め、全く警戒を怠っていた所を、15日ボルトリ方面より転進して来た墺軍の急襲を受け危険に陥ったが、ナポレオンは迅速に兵力を該方面に転進し遂にこれを撃破した。しかも軍隊は再び掠奪を始め、デゴの寺院すらその禍を蒙る有様であった。ボーリューは12日の敗報を受けてもこれは戦場の一波瀾ぐらいに考え、その後逐次敗報を得るも一拠点を失ったに過ぎないとし、側方より敵の後方に兵を進めてこれを退却せしむる当時の戦術を振りまわして泰然としていたが、16日に至って初めて事の重大さに気付き、心を奪われてアレッサンドリア方面に兵力を集中せんと決心したが、諸隊の混乱甚だしく、精神的打撃甚大で全く積極的行動に出づる気力を失った。ナポレオンは17日主力をもって西進を開始したが、コッリーは退却してタナロ川左岸に陣地を占めた。仏軍はケバ要塞を単にこれを監視するに止めて前進、19日敵陣地を攻撃したが増水のため成功せず、21日攻撃を敢行した時はサルジニア軍は既に退却していたが、これを追撃してモントヴィ附近の戦闘となり遂にコッリー軍を撃破した。サルジニアは震駭して屈伏し28日午前2時休戦条約が成立した。この2週間の間に墺軍に一打撃を与えサルジニア国を全く屈伏した作戦は今日の軍人の眼で見れば余りに当然であると考え、ナポレオンの偉大を発見するに苦しむであろうが、フリードリヒ大王以来の戦争に対比すれば始めてその大変化を発見し得るのである。このナポレオンの殲滅戦略を戦争目的達成に向って続行し得るところに即ち決戦戦争が行わるる事となるのである。サルジニアを屈したナポレオンは再び墺国に向い前進、ポー川左岸に退却せる敵に対しポー川南岸を東進して5月8日ピアツェンツァ附近に於てポー川を渡り、敵をしてロンバルデーを放棄の止むなきに至らしめ、敵を追撃して10日有名なるロジの敵前渡河を強行、15日ミラノに入城した。5月末ミラノを発しガルダ湖畔に進出、ボーリューを遠くチロール山中に撃退した。当時の仏墺戦争は持久戦争でありイタリア作戦はその一支作戦に過ぎない。ナポレオンは新しき殲滅戦略により敵を圧倒したが結局ここに攻勢の終末点に達した。殊にマントア要塞は頗る堅固でナポレオンはこの要塞を攻囲しつつ4回も敵の解囲企図を粉砕、1797年2月2日までにマントアを降伏せしめた。
1916年ファンケルハインが、いわゆる制限目的を有する攻撃としてベルダン攻撃案を採用しカイゼルに上奏せる際「若し仏軍にして極力これを維持せんとせば恐らく最後の一兵をも使用するの止むなきに至るであろう。若し斯くの如くせばこれ我が軍の目的を達成せるものである」と述べている。1916年ドイツのベルダン攻撃はこの目的を達成しかね、ドイツ軍は連合側に劣らざる大損害を受けて戦争の前途にむしろ暗影を投じたのであったが、ナポレオンのマントア攻囲はよくファンケルハインの企図したこの目的を達成したのである。墺軍は4回の解囲とマントアの降伏で少なくとも10万の兵力を失った(仏軍の損失は25000)。マントア攻囲前の墺軍の損失は2万に達するから、1年足らずの間に墺軍はナポレオンのために12万を失ったのである。これは当時の墺国としては大問題で、これがため主戦場から兵を転用し、最後にはウインの衛戌兵までも駆り集めたのである。墺国の国力は消耗し、ナポレオンは1797年3月前進を起し、4月18日レオベンの休戦条約が成立した。
その後の大観 / ナポレオンの天才的頭脳が新戦略を生み出し、その新戦略に依ってナポレオンはたちまち軍神として全欧州を震駭した。かくしてフランスはナポレオンに依って救われた。ナポレオンは対英戦争の第一手段として1798年エジプト遠征を行なったが、留守の間仏国は再びイタリアを失い苦境に立ったのに乗じ、帰来第一統領となって1800年有名なアルプス越えに依って再び名望を高めた。一度英国と和したが1803年再び開戦、遂に10年にわたる持久戦争となった。1804年皇帝の位に即き、英国侵入計画は着々として進捗、その綜合的大計画は真に天下の偉観であった。これは今日ヒットラーの試みと対比して無限の興味を覚える。海軍の無能によってナポレオンの計画は実行一歩手前に於て頓挫し、英国は墺、露を誘引して背後を覘(ねら)わしめた。ナポレオンは1805年8月遂に英国侵入の兵を転じて墺国征伐に決心した。ドーバー海峡に集結訓練を重ねた約20万の精鋭(真に世界歴史に見なかった精鋭である)は堂々東進を開始して南ドイツに侵入、墺、露両軍の間に突進して9月17日墺のほとんど全軍をウルムに包囲降伏せしめた。ナポレオンはドノー川に沿うてウインに迫り、逃ぐる敵を追ってメーレンに侵入したが、攻勢の終末点に達ししかも普国の態度疑わしく、形勢楽観を許さぬ状況となったが、ナポレオンは巧みに墺、露の連合軍を誘致して12月2日アウステルリッツの会戦となり戦争の目的を達成した。1806年普国と戦端が開かれるとナポレオンは南ドイツにあったその軍隊を巧みに集結、16万の大軍三縦隊となりてチュウリンゲンを通過して北進、敵をイエナ、アウエルステートに撃破し、逃ぐるを追って古今未曽有の大追撃を強行、プロイセンのほとんど全軍を潰滅した。しかもポーランドに進出すると冬が来る。物資が少ない。非常に苦しい立場に陥った1807年6月25日漸(ようや)く露国との平和となった。対英戦争の第三法である大陸封鎖強行のため1808年スペインに侵入したところ、作戦思うように行かず、ナポレオン失敗の第一歩をなした。英国の煽動により1809年墺国が再び開戦し、ナポレオンの巧妙なる作戦は良くこれを撃破したが一方スペインを未解決のまま放任せざるを得ない事となり、またアスペルンの渡河攻撃に於ては遂に失敗、名将ナポレオンが初めて黒星をとった。
この大陸封鎖の関係から遂に1812年露国との戦争となり、モスコーの大失敗となった。1813年新兵を駆り集め、エルベ河畔での作戦はナポレオンの天才振りを発揮した面白いものであったが、遂にライプチヒの大敗に終り、1814年は寡兵をもってパリ東方地区に於て大軍に対する内線作戦となった。1796年の作戦に比べて面白い研究問題であり、彼の部将としての最高の能率を発揮したと見るべきである。しかも兵力の差が甚だしく、殊に普軍がナポレオンの新用兵術を体得していたので思うに任せず、連合軍に降伏の止むなきに至った(この作戦は伊奈中佐の「名将ナポレオンの戦略」によく記されている)。1815年のワーテルローは大体見込なき最後の努力であった。対墺、対普の個々の戦争は巧みに決戦戦争を行なったが、スペインに対して地形その他の関係で思うに任せず、対露侵入作戦は大失敗をした。しかも、全体から見てナポレオンはその全力を対英持久戦争に捧げたのである。海と英国国民性の強靭さは天才ナポレオンを遂に倒したのである。ヒットラーは今日ナポレオンの後継者として立っている。
第七節 ナポレオンより第一次欧州大戦へ
持久戦争では作戦目標が多く自然に土地となるが(持久戦争でも殲滅戦略を企図する場合はもちろん軍隊)、決戦戦争の特徴は殲滅戦略の徹底的運用であり、作戦目標は敵の軍隊であり、敵軍の主力である。決戦戦争に於ては主義として戦略は政略より優先すると同じく、戦略と戦術の利害一致しない時は、戦術に重点を置くのを原則とする。我らが中少尉時代は盛んにこの事を鼓吹せられたものである。フランス革命前に於ける用兵思想の克服戦が、決戦戦争の末期まで継続せられていたわけである。感慨深からざるを得ない。決戦戦争の進展は当然殲滅戦略の徹底で基礎をなす。即ち敵軍主力の殲滅に最も重要なる作用をなす会戦が戦争の中心問題であり、その会戦成果の増大に徹底する事が作戦上の最大目標である。会戦成果を大ならしむるためには敵を包囲殲滅する事が理想であり、それがためモルトケ時代からは特に分進合撃が唱導せられた。会戦場に兵力を集結するのである。即ち分進して軍隊の行動を容易にし、会戦場にて兵力を集結し特に敵の包囲に便ならしめる。しかるにナポレオンは通常会戦前に兵力を集結するに勉めた。もちろん常にそうではなかったので、例えば1806年の晩秋戦、1807年アルレンスタインに向う前進、およびフロイシュ、アイロウ附近の会戦、1809年レーゲンスブルグ附近に於けるマッセナの使用、1813年バウツェン会戦に於けるネーの使用等は一部または有力なる部隊を会戦場に於て主力に合する事を計ったのである。しかしその場合もフロイシュ、アイロウでは各個戦闘を惹起して形勢不利となり、またバウツェンでも統一的効果を挙げる事は出来なかった。それはナポレオン当時の軍隊は通信不完全で一々伝騎に依らなければならないし、兵団の独立性も充分でなかった結果、自然会戦前兵力集結主義としなければならなかったのである。モルトケ時代は既に電信採用せられ、鉄道は作戦上最も有利な材料となり、かつまた兵力増加、各兵団の独立作戦能力が大となったのみならず、プロイセンの将校教育の成果挙り、特に1810年創立した陸軍大学の力とモルトケ参謀総長自身の高級将校、幕僚教育に依り戦略戦術の思想が自然に統一せらるるに至った結果、分進合撃すなわち会戦地集結が作戦の要領として賞用せらるるに至った。しかしモルトケも必ずしも勇敢にこれを実行し得なかった事が多い。
モルトケ元帥は1890年議会に於ける演説に於て「将来戦は七年戦争または30年戦争たる事無きにあらず」と述べている。しかし商工業の急激なる進歩は長期戦争は到底不可能と一般に信ぜられ、また軍事の進歩も甚だしく1891年から1906年まで参謀総長であったシュリーフェンは殲滅戦略の徹底に全力を傾注した。シュリーフェンの「カンネ」から若干抜粋して見る。「完全なる殲滅戦争が行なわれた。特に驚嘆に値するは本会戦が総ての理論に反し劣勢をもって勝利を得たる点にある。クラウゼウィッツは「敵に対し集中的効果は劣勢者の望み難きところである」と云っており、ナポレオンは「兵力劣勢なるものは、同時に敵の両翼を包囲すべからず」と云っている。然るにハンニバルは劣勢をもって集中的効果を挙げ、かつ単に敵の両翼のみならず更にその背後に向い迂回した」「カンネの根本形式に依れは横広なる戦線が正面狭小で通常縦深に配備せられた敵に向い前進するのである。張出せる両翼は敵の両側に向い旋回し、先遣せる騎兵は敵の背後に迫る。若し何らかの事情に依り翼が中央から分離する事があってもこれを中央に近接せしめた後、同時に包囲攻撃のため前進せしむる如き事なく、翼に近接最捷路を経て敵の側背に迫らねばならぬ」要するに平凡な捷利に満足することなく、重大な危険を顧みず敵の両側を包囲し絶大な兵力を敵の背後に進めて完全に敵全軍を捕捉殲滅せんとする「殲滅戦」への徹底である。彼はこの思想を全ドイツ軍に徹底するため熱狂的努力を払った。彼の思想は決して堅実とは言われぬ。彼の著述した戦史研究等も全く主観的で歴史的事実に拘泥する事なく、総てを自己の理想の表現のために枉(ま)げておる有様である。危険を伴うものと言わねばならぬが、速戦即決の徹底を要したドイツのため止むに止まれぬ彼の意気は真に壮とせねばならぬ。彼が臨終に於ける囈語(うわごと)は「吾人の右翼を強大ならしめよ!」であった。外国人の私も涙なくして読まれぬ心地がする。タンネンベルグ会戦は彼の理想が高弟ルーデンドルフにより最もよく実行せられたのである。彼が参謀総長として最後の計画であった1905年の対仏作戦計画は彼の理想を最もよく現わしている。ベルダン以東には真に僅少の兵力で満足して主力をオアーズ河以西に進め、ラフェール、パリ間には10個軍団を向け、パリは補充6個軍団で攻囲し、更にその西南方地区より敵主力の背後に7個軍団を迂回して全仏軍を捕捉殲滅せんとするのである。
殲滅戦の徹底と見るべきである。
第八節 第一次欧州大戦
ドイツで殲滅戦が盛んに唱道せられ、決戦戦争への徹底を来たしている時、日露戦争、南阿戦争は持久戦争の傾向を示したものであるが、それらは皆殖民地戦争のためと簡単に片づけられた。もちろん土地の兵力に対する広大と交通の不便が両戦争を持久戦争たらざるを得ざらしむる原因となったのであるが、両戦争を詳細に観察すれば正面突破の至難が観破せられる。これは欧州大戦の持久戦争となる予報であったのだ。ドイツはこの戦争の教訓に依り重砲の増加に努力した。着眼は良かったが、まだまだ時勢の真相を把握するの明がなかった。第一次欧州大戦開始せられると、殖民地戦争の経験に富むキチナー元帥は、戦争は3年以上もかかるように言うたのであるが、一般の人々は誰もが戦争は最短期間に終るものと考え、殊にドイツではクリスマスはベルリンでと信じ、軍隊輸送列車には「パリ行」と兵士どもが落書したのである。しかるに破竹の勢いでパリの前面まで侵入したドイツ軍はマルヌ会戦に破れて後退、戦線はスイスから北海に及んで交綏状態となり、東方戦場また決戦に至らないで、遂に万人の予想に反し4年半の持久戦争となった。1914年のモルトケ大将の作戦は1905年のシュリーフェン案に比べて余りに消極的のものであった。即ちシュリーフェンが一軍団半、後備4旅団半、騎兵6師団しか用いなかったメッツ以東の地区に8軍団、後備5旅団半、騎兵6師団を使用し、ベルダン以西に用いた攻勢翼である第1ないし第4軍の兵力は合計約21軍団に過ぎない。ドイツ軍の右翼がパリにすら達しなかったのは当然である。シュリーフェン引退後、連合国側の軍備はどしどし増加するに反してドイツ側はなかなか思うように行かなかった。第一次欧州大戦前ドイツの政情は満州事変前の日本のそれに非常に似ていたのである。世は自由主義政党の勢力強く、参謀本部の要求はなかなか陸軍省の賛成が得られず(しかも参謀本部の要求も世間の風潮に押されて誠に控え目であった)、更に陸軍省と大蔵省、政府と議会の関係は甚だしく兵備を掣肘する。英国側の宣伝に完全に迷わされていた。日本知識階級は開戦頃の同盟側の軍備は連合側より遥かに優越していたように思っていた人が多いようであるが、実際は同盟側の167師団に対し連合側は234師団の優勢を占めていたのである。同盟側の軍備拡張は露、仏のそれに遥かに及ばなかった。
シュリーフェンの1912年私案は仏国側の兵力増加とその攻勢作戦(1905年頃は仏国が守備に立つものとの判断である)を予想して故に先んじてアントワープ、ナムールの隘路通過は期待し難く、従って最初から敵翼の包囲は困難で一度敵線を突破するを必要と考え、全正面に対し攻撃を加えるを必要(1905年案ロートリンゲン以東は守勢)とした。これがため兵力の大増加を必要とし、全既教育兵を動員し、かつ師団の兵力を減ずるも兵団数を大増加すべしと主張した。もちろん主力は徹底的に右翼に使用する。シュリーフェンは退職後も毎年作戦計画の私案を作り、クリスマスには必ず参謀本部のクール将軍に送り届けたのである。日本軍人もって如何となす。自由主義政治の大勢に押されていたドイツ陸軍もモロッコ事件やバルカン戦争並びに仏露の軍備充実に刺戟せられて1911年以来若干の軍備拡張を行ない、殊に1913年には参謀本部が平時兵力30万の増加を提案して117000の増加が議会を通過した。これらの軍拡が政治の掣肘を受けず果敢に行なわれたならばマルヌ会戦はドイツの勝利であったろうとドイツ参謀本部の人々が常に口惜しがるところである。しかしドイツ軍部もこの頃は国防の根本に対する熱情が充分でなく、ややもすれば行き詰まりの人事行政打開に重点を置いて軍拡を企図した形跡を見遁す事が出来ない。平時兵団の増加は固よりよろしいが、応急のため更に大切なのはシュリーフェンの主張の通り全既教育兵の完全動員に先ず重点を置かるべきであったと信ずる。モルトケ大将の作戦計画はシュリーフェン案を歪曲したものとして甚だしく攻撃せられる。これはたしかに一理がある。若しシュリーフェンが当時まで参謀総長であったならば、ドイツは第一次欧州大戦も決戦戦争を遂行して仏国を属し戦勝を得たかも知れない(仏国撃破後英国を屈し得たか否かは別問題である)。しかしモルトケ案の後退には時代の勢いが作用していた事を見逃してはならない。1906年すなわちシュリーフェン引退の年、換言すれば決戦戦争へ徹底の頂点に在ったとも見るべき年にドイツ参謀本部は経済参謀本部の設立を提議している。無意識の中に持久戦争への予感が兆し始めておったのである。この事は人間社会の事象を考察するに非常な示唆を与えるものと信ずる。特に注意を要するは、作戦計画の当事者が最も早くこれを感知した事である。
言論界、殊に軍事界に於て経済的動員準備の必要が唱道せらるるに至ったのは遅れて1912年頃からである。しかしそれも固より大勢を動かすに至らず、財政的準備以外は何ら見るべきものが無かった。「1914年7月初旬、内務次官フォン・デルブリュックは当時ロッテルダムに多量の穀物が在ったため、急遽ドイツ帝国穀物貯蓄倉庫を創設せんとした。しかしながらこれには5百万マルクを必要とし、大蔵大臣はこれを支出する事を肯(がえ)んじなかった。大蔵大臣はデルブリュックに書簡をもってこの由を申し送った。曰(いわ)く「吾人は決して戦争に至らしめないであろう。若し余が貴下に500万マルクの支出を承諾するならば、穀物を国庫の損失補償の下に売却すると同じである。これは既に困難なる1915年度の予算編成を更に一層困難ならしむるであろう」と。結局資金は支出されず、予算編成は滞りなく済み、75万人のドイツ人は飢餓のため死亡した!」(アントン・チシュカ著「発明家は封鎖を破る」)モルトケ大将はモルトケ元帥の甥で永くその副官を勤め、陸軍大学出身でなく参謀本部の勤務も甚だ短かった。
参謀総長になったのはカイゼルとの個人関係が主であったらしい。シュリーフェンの弟子ではない。これがかえってモルトケをして時代性を参謀本部の人々よりも敏感に感受せしめたらしい。シュリーフェンの計画はベルギーだけでなくオランダの中立をも躊躇する事なく蹂躙するものであった。私がドイツ留学中少し欧州戦史の研究を志し、北野中将(当時大尉)と共同して戦史課のオットー中佐の講義を聴くことにした。同中佐は最初陸大で学生にでも講義する要領で問題等を出して来たが、つまらないのでこちらから研究問題を出して相当に苦しめてやった。ある日シュリーフェンはオランダの中立を犯す決心であったろうと問うたところ、何故かと謂うから色々理由を述べ、特に戦史課長フェルスター中佐の著書等にシュリーフェンがアントワープ、ナムールの隘路を頻りに苦慮するが、それより前にリェージュ、ナムールの大隘路があるではないか、それを問題にしないのはオランダの中立侵犯の証拠であると詰(なじ)り、フェルスター課長に聞いて来るように要求した。ところで次回にオットー中佐は契約書にサインを求めるから読んで見ると「貴官と戦史を研究するがドイツの秘密をあばく事等をしない」と云うような事が書いてあった。オットー中佐はその知人に「日本人は手強い」とこぼしていたそうである。フェルスター中佐の名著「シュリーフェンと世界戦争」の第二版にマース川渡河強行のことを挿入したのはこの結果らしい。今でも愉快な思い出である。フェルスター氏は更にその後アルゲマイネ・ツァイツングに「シュリーフェン伯はオランダも暴力により圧伏せんと欲したりや」という論文を出した。結局オランダを蹂躙するのではなく、オランダと諒解の上と釈明せんとするのである。ところが1922年モルトケ大将の細君がモルトケ大将の「思い出、書簡、公文書」を出版しているのを発見した。それを読んで見ると1914年11月の「観察および思い出」に「……シュリーフェン伯は独軍の右翼をもって南オランダを通過せんとした。私はオランダを敵側に立たしむる事を好まず、むしろ我が軍の右翼をアーヘンとリンブルグ州の南端の間の狭小なる地区を強行通過する技術上の大困難を甘受する事とした。この行動を可能ならしむるためにはリュッチヒ(リエージュ)をなるべく速やかに領有せねばならない。
そこでこの要塞を奇襲により攻略する計画が成立した」と記している。オランダの中立を侵犯しないとせば独軍の主力軍がマース左岸に進出するのにオランダ国境からナムール要塞の約70Kmを通過せねばならず、この間にフイの止阻堡とベルギーの難攻不落と称するリエージュの要塞がある。リエージュは欧州大戦で比較的簡単に(それもこの計画の責任者とも云うべきルーデンドルフが偶然この攻撃に参加した事が有力な原因である)陥落したため、世人は軽く考えているが、モルトケとしては国軍主力のマース左岸への進出に、今日我らの考え及ばぬ大煩悶をしたのを充分察してやらねばならぬ。敵は既にアルザス・ロートリンゲンに対し攻撃を企図している事は大体諜報で正確だと信ぜられて来た。ところがロートリンゲンのザール鉱工業地帯のドイツ産業に対する価値は非常に高まっている。もちろん決戦戦争に徹し得れば、一時これを犠牲とするも忍ばねばならないとの断定をなし得るのであるが、持久戦争への予感のあったモルトケとしてはこれも忍びない。そこでモルトケ大将は、敵の攻撃に対しメッツ要塞を利用し、いわゆるニードの「袋(わな)」に敵を誘致して一撃を与え、主力はマース右翼の敵の背後に迫るような作戦を希望したものらしい。ある年の参謀旅行で、敵がロートリンゲンに突進して来るのに、作戦計画の如く主力をマース左岸に進めんとする専習員の案に対し、モルトケは「その必要はない。マース右岸の地区を敵の側背に迫るべきだ」と講評したとの事である。しかし無力なモルトケが、断然シュリーフェン伝統の大迂回作戦を断念する勇気はあり得ない。参謀本部の空気がそれを許すべくもない。また実際モルトケもそこまで徹底した識見は無かったであろう。永年の伝統に捉われない自由さから、他の人々より持久戦争に対する予感は強かったのだが、さりとて次の時代を明確に把握する事も出来なかったろう。モルトケを特に凡庸の人というのではない。ナポレオンの如く、ヒットラーの如く特に幾億人の一人と云われる優れた人でなければ無理な事である。1914年8月18日頃のモルトケの煩悶はこの辺の事情を見透せば自ら解るではないか。敵は予期した通りロートリンゲンに侵入して来た。しかしその態度が慎重でどうもニードの「袋(わな)」にかかるかどうか。リエージュはその間に陥落する。
集中は予定通り出来る。敵の攻勢を待とうか、待ちたいが集中は終る。大迂回作戦を躊躇する事は全体の空気が許さないと云うような彼の心境であったろう。不徹底なる計画、不徹底なる指揮は遂にマルヌ会戦の結果となった。しかし事ここに至ったのは一人のモルトケを責める事は少々無理である事が判ったであろう。時の勢いと見ねばならぬ。モルトケ大将はマルヌに敗れて失脚し、陸相ファルケンハインが参謀総長を兼ねる事になった。彼は軍団長の経験すらなき新参者で大抜擢である。ファルケンハインは西方に於て頽勢の挽回に努力したが遂に成功しなかった。ルーデンドルフ一党からは1914年、特に1915年ルーデンドルフ等の東方に於ける成功に乗じ、彼らの献策を入れて敢然東方に兵力を転用しなかった事を攻撃せられる。彼らの云う如くせば、露国に一大打撃を与え戦争全般の指導に好結果をもたらしたであろう。しかし広大なる地域を有する露国に決戦戦争を強いる事は、当時恐らく困難であったろうと判断せられる。
ファルケンハインの失脚に依りヒンデンブルク、ルーデンドルフの世の中となった。ドイツの軍事的成功は偉大なものがあったが、経済的困難の増加に伴い全般の形勢は逐次ドイツに不利となりつつあった。ドイツとしては軍事的成功を活用し、米国大統領の無併合、無賠償の主義を基礎として断固和平すべきであった。政略関係は総て和平を欲していたのにルーデンドルフは欧州大戦はクラウゼウィッツの「理念の戦争」であり連合国は同盟国を殲滅せざれば止まないのだから、この戦争に於ける統帥は絶対に政治の掣肘を受くべきにあらずとして政戦略の不一致を増大し、「こうなった以上は最後まで」と頑張って遂にあの惨敗となったのである。ルーデンドルフ一党はデルブリュックの言う如く戦争の本質に対する明確な見解を持たなかったのである。即ちナポレオン以後は決戦戦争が戦争の唯一のものであると断定して、彼らが既に持久戦争を行ないつつある事を悟り得なかったのである。しかしあのドイツの惨敗、あの惨忍極まるベルサイユ条約の強制が、今日ナチス・ドイツの生まれる原動力をなした事を思えば生半可の平和より彼らのいわゆる「英雄的闘争」に徹底した事が正しかったとも云えるのである。天意はなかなか人智をもっては測り難いものである。ルーデンドルフは潜水艇戦術その他彼の諸計画は皆殲滅戦略に基づくものだと主張している。
殲滅戦略、消耗戦略問題でデルブリュック教授と頻りに論争したのであるが、特にルーデンドルフは両戦略の定義につき曖昧である。政治の干渉を排して無制限の潜水艇戦を強行したから殲滅戦略だと言うらしいが、我らの考えならば潜水艦戦は厳格な意味に於て殲滅戦略とは言い難い。露国の崩壊によって1918年西方に大攻勢を試みたルーデンドルフはこれを殲滅戦略の断行と疾呼する。その軍事行為の一節を殲滅戦略と云い得るにせよ、ルーデンドルフにはあの戦略を最後まで徹底して実行し、大陸の敵主力を攻撃し、少なくも仏国に決戦戦争を強制せんとする決意ではなかったのである。即ち、持久戦争中の一節として殲滅戦略を行なったに過ぎない。フリードリヒ大王が持久戦争の末期に困難を打開せんとして断行したトルゴウ会戦と類を同じゅうする。ルーデンドルフが1918年の3月攻勢の攻勢方面につき、クール大将の提案であるフランデルン攻勢とサンカンタン攻勢を比較するに当り、戦略上から云えば前者を有利と認めている。しかるにサンカンタン案をとったのは専ら戦術上の要求に依ると称している。真に仏国に決戦を強いんとするならばサンカンタン附近を突破し、英仏軍を中断して運動戦に導き、敵主力を破る事が戦略上最も有利とする事は云うまでもない。しかるにルーデンドルフは当時の独軍は既にかくの如き運動性を欠くと判断し、英軍を撃破して英仏海峡沿岸を占領するのが敵の抵抗を断念せしむる公算が大きいから、フランデルン攻勢は戦略上有利と主張したのである。ルーデンドルフは現実に決戦戦争は行なえぬものと考えていたのである。3月攻勢の目標は英軍を撃破して英仏海峡に突進するにあった。それで仏軍に対しては攻勢の進展に伴いソンムの線を確保して左側を完全にする考えであった。しかるに攻勢初期は予期以上に好結果を得たので、ルーデンドルフは何時の間にやら最初の目標を変えてソンム南岸に兵を進め、更に大規模な作戦に転じようとしたのである。しかしながらこの攻勢は遂に頓挫してしまった。彼は後に、攻勢頓挫につき「運動戦に到達することが出来なかった」と云うておる。結局彼は英仏海峡にも達し得ず、大規模の運動戦にも転じ得ず、かえって新しき占領地区の左翼方面に不安を来たしたのである。
再度言うが、ドイツ軍事界の戦争の性質に関する見解の固定が、開戦前に予期したと全く異なった戦争状態になってもなおそれらを悟り得なかった事が、1918年攻勢の指導にまで重大な影響を与えたのである。かくてドイツは統帥部の「こうなった以上は徹底的に」と云う主張に引きずられ、軍部も実は自信を失い政治はもちろん信念はなかったに拘らず、遂に行く所まで行ってベルサイユの屈辱となったのである。万人の予期に反して4カ年半の持久戦争となったその第一原因は兵器の進歩である。機関銃の威力は甚だ大きく、特に防禦に有利である。堅固に陣地を占め、決意して防禦する敵を突破する事は至難である。これに加うるに兵力の増大が遂に戦線は海から海におよび迂回を不可能にした。突破も出来なければ迂回も不可能で、遂に持久戦争になったのである。これはフランス革命で持久戦争から決戦戦争になったのとは状態を異にしている。即ちフリードリヒ大王の使った兵器も、ナポレオンの使用したものもほとんど同一であったのであるが、社会革命が軍隊の本質を変化し、在来の消耗戦略を清算し得た事が決戦戦争への変転を来たしたのであった。
第九節 第二次欧州大戦
持久戦争は勢力ほぼ相伯仲する時に行なわれるのである。第二次欧州大戦でドイツのいわゆる電撃作戦が、ポーランドやノルウェーの弱小国に対して迅速に決戦戦争を強行し得た事はもちろん驚くに足らない。英仏軍と独軍はマジノ、ジーグフリードの陣地線の突破はお互にほとんど不可能で、結局持久戦争になるものと常識的に信ぜられていた。しかるに1940年5月10日、独軍が西方に攻勢を開始すると疾風迅雷、僅かに7週間で強敵を屈伏せしめて、世界戦史上未曽有の大戦果を挙げ、仏国に対しても見事な決戦戦争を強行し得たのである。5月10日攻勢を開始すると、先ず和(オランダ)、白(ベルギー)、仏三国の主要飛行場を空襲して大体一両日の中に制空権を得て、主として飛行機と機械化兵団の巧妙な協同作戦に依って神速果敢なる作戦が行なわれた。殊に民族的にも最も近いオランダには内部工作が巧みに行なわれていたらしく、空輸部隊の大胆な使用と相俟って5日間にこれを屈伏せしめる事が出来た。ベルギー方面に侵入した独軍また破竹の勢いでマース川の大障害を突破して西進、特にアルデンヌ地方に前進した部隊は仏軍の意表に出でて5月10日既にセダン附近に於てマースを渡河し、マジノの延長線を突破したのである。シュリーフェン以来独軍の主力は右翼にあるものと定まっていたのに、今日はアルデンヌの錯雑地を経て一挙北部フランスに突入した。奇襲的効果は甚大であった。セダンの破壊口からドイツ軍は有力な機械化兵団を先頭として突入し、1918年3月攻勢にルーデンドルフが考えたようにエーヌ、オアーズ、ソンム等の河や運河を利用して左側背の掩護を確実にしながら主力は一路西進、たちまちアブヴィルに達した。同地では仏軍の一部が悠悠錬兵場で訓練中であったとの事である。いかに独軍の進撃が神速であったかを物語っている。かくてフランデルとアルトアにあった英白軍および仏の有力部隊は瞬く間に包囲せられ、5月22日頃にはその運命が決定した。独軍の包囲圏は刻々縮小せられ、形勢非なるを見てとった英軍は匆々(そうそう)本国への退却を開始した。この情況を見たベルギー皇帝は5月28日無条件で独軍に降伏した。形勢は更に急転、英仏軍は多数の降伏者を生じ、6月4日にはダンケルク陥落、遂にこの方面の作戦を終了した。僅々2週間で和、白両国は降伏。英仏軍の有力なる部隊は撃滅せられその一部が辛うじて本国に逃げ帰った。6月5日には独軍は早くもソンムの強行渡河に成功、仏国の抵抗意志は急速に低下して到るところ敗退、6月14日独軍パリに入城、6月25日休戦成立した。
ドイツの作戦はまるで神業のようで持久戦争の時代は過ぎ去り、再び決戦戦争の時代到来せるやを信ぜしめる。しかしそれについては充分慎重な観察が必要である。先ず第一に戦術上の観察を試みよう。独軍の成功は主として飛行機、戦車の威力であった。第一次欧州大戦当時に比して、この両武器は全く面目を一新しており、殊に飛行機が軍事上の革命を生ぜんとしている事は確実である。しかしこの両武器に対して、しかく簡単に正面は突破せらるべきであろうか。独軍はたちまち制空権を獲得して思う存分仏軍の後方を攻撃した。ために交通は大混乱に陥り、かつ集団して行動する部隊は絶対なる脅威を受けて動作の自由を失った事は当然である。しかし戦闘展開を終り準備を終えている軍隊に対する飛行機の攻撃はさして大なる威力を発揮し得るものではない。戦車は準備なき軍隊、特に狼狽した軍隊に対してはその威力は頗る大きい。けれども地形の制限を受ける事多く、戦場ではほとんど盲唖である。沈着かつよく準備せられた軍隊に対しては左程猛威を逞しゅうし得るものではない。殊に考うべきことは対戦車火器の準備は戦車の準備に比して容易な事である。戦車が敵陣地を突破し得てもその突破口が敵に塞がれ、続行して来る歩兵との連絡を絶たれる時は、戦車は間もなく燃料つきて立往生する。であるから真に近代的に装備せられ、決心して守備する敵陣地の突破はなかなか容易の事ではない。マジノ線を仏国人は難攻不落のものと信じていた。しかるに独軍占領後の研究に依れば、マジノ線の築城編成は第一次欧州大戦の経験を主として専ら火砲の効力に対抗する事だけを考えて、攻者の新兵器に対する考慮が充分払われていなかった。即ち自由主義フランスはドイツの真剣なる準備に対抗する迫力を欠いていたのである。ドイツ軍は空軍と戦車、それに歩工兵の密接なる協力に依って築城の中間地を突破する方式に出て、フランス軍の意表に出たのである。殊に自由主義国フランスの怠慢はマジノ線の北端をベルギー国境に託して自ら安心し、迂回し得る陣地であった事である。いわゆるマジノ延長線は紙上計画に止まり大体有事の日、工事に取りかかる考えであったが、開戦後は労働力の不足等の関係で大して工事を施されていなかった。またマジノ線に連接してベルギーがリエージュを主体としてマジノ線に準じた築城を完成する約束であったが、事実は大して工事が行なわれていなかった。ドイツ軍は実にこの虚をついたわけである。
運動戦となるや独軍の極めて優れた空軍と機械化兵団が連合軍の心胆を奪って大胆無比の作戦をなし遂げ得た。あの極めて劣勢なフィンランドが長時日良く優秀装備のソ軍の猛攻を支えた事は今日でもいかに防禦力の大であるかを示している。今度の作戦でもフランデル方面に於て敵の正面に衝突した独軍の攻撃はなかなか簡単には成功しなかったらしいのである。空軍の大進歩、戦車の発達も充分準備し決心して戦う敵線の突破は至難である事を示している。第一次欧州大戦では仏、白の戦闘意志は英国のそれに劣らぬものであったが、今回は余程事情を異にしていたらしい。
フランスの頽廃的気分、支配階級の「滅公奉私」の卑しむべき行為はアンドレ・モーロアの「フランス敗れたり」を一読する者のただちに痛感するところである。英国の利己的行為は仏、白との精神的結合を破壊していた。数年前ドイツがライン進駐を決行した時、仏国が断然ベルサイユ条約に基づいてドイツに一撃を加うべく主張したのに対し英国は反対し、その後も作戦計画につき事毎に意見の一致を見なかったと伝えられる。真に二国が衷心一致してドイツの進攻に抗する熱意があったならば独、自国境の築城は必ず完成されているべきであったし、今後の作戦についても更に緊密な協同が行なわれたであろう。戦略的に見れば戦力の著しく劣った仏国は国境で守勢をとるべきであり、軍当局はこれを欲したであろう。しかし政略はこれを許さない。止むなく有力な主力軍をベルギーに進め、ドイツの電撃作戦に依って包囲せらるるや、利己主義の英国はたちまち地金を現わして本国へ退却の色を見せる。若し英国が真に戦うならば本国は全く海軍に一任し、あらゆる手段を尽してその陸軍を大陸に止むべきであった。英国の態度はベルギーの降伏となり、フランスの戦意喪失となったのは当然である。かく考えて来る時は無準備でしかも統一と感激なき自由主義国家と、鉄の如き意志に依り完全にしかも深き感激の下に統一せられ、総力を極度に合理的に集中運用せる全体主義国との対立であって、断じて相匹敵する戦争力の争いではない。即ち時代が決戦戦争となったのでなく、両方の力の著しき差があの歴史上無比の輝かしき決戦戦争を遂行せしめたのである。特にこの際我が国民に深き反省を要求するのは、自由主義国家と全体主義国家の戦争準備に対する能力の驚嘆すべき差である。老大富裕国英仏が、戦後の疲れなお医(いや)し切れなかった貧乏国ドイツに対し、ナチス政権確立後僅々数年でかくの如き劣勢に陥ったのである。この事は満州事変後我が国が極東作戦準備につきソ連との間に充分経験した事である。満州事変頃は両国の戦争力相伯仲していたが、僅かに数年のうちに彼我戦力の差に隔りを見た事がその後の東亜不安の根本原因である。速やかに我らは強力なる統制の下に世界無比の急速度をもって我らの戦争力を向上せしめねばならぬ。今日フランスに対しては輝かしき決戦戦争を完遂したドイツも、海を隔てた英国に対しては殲滅戦略の続行が出来なくなり持久戦争になる公算が依然極めて大きい。ドイツが英国に対し殲滅戦略、即ち上陸作戦を強行するためには英仏海峡の制海権が絶対に必要である。
また制海権を得たとしても上陸作戦の困難は極めて大きい。制海権のため海軍力の劣勢なドイツは主として空軍に頼らねばならぬ。我らは常識的に、仏国海岸を占領したなら空軍の優勢なドイツは英近海の海運に大打撃を与え、英国はそれだけでも屈伏するだろうと考えていたが、今日までの結果を見ると飛行機による艦船の爆沈は潜水艦の威力に及ばぬ状態である。英仏海峡は依然英国海軍の支配下にあるらしい。今後果してドイツがこの海峡の制海権を獲得し得るや否やが決戦戦争の能否の第一分岐点である。昨年9月以降のロンドン猛爆の結果より見て、今日の発達した空軍でもなお空軍による決戦戦争は不可能のようである。要するにフランス革命に依って国民的軍隊が生まれ、職業軍時代の病根を断って殲滅戦略が採用せられ、その威力の及ぶ範囲に於て決戦戦争が行なわるる事となった。しかし兵器の進歩は攻防両者に対する利益は交互的に現わるる傾向があるものの、大勢は防者に有利となり逐次正面の突破を困難にした。それでも兵力少ない時代は敵翼を迂回包囲する見込みがあったのである。正面突破の困難増大し、しかも決戦戦争の要ますます切となって来たドイツが、シュリーフェンの「カンネ」思想を生んだのはこの時代的要求の結果である。国民皆兵の徹底が兵力を増大し、人口密度大なる欧州の諸国家では国軍をもって全国境を守備するに足る兵員を得るようになり、遂に迂回を不可能として持久戦争の時代に入ったのである。毒ガス、戦車等第一次欧州戦争の末期既に敵正面突破のため相当の威力を示して持久戦争から脱け出そうとあせったが、大戦後は空軍の進歩甚だしく、これに依って敵軍隊の後方破壊と直接軍隊の攻撃に依って敵陣地を突破せんとする努力と、更に進んで敵政治の中心を攻撃する事に依って敵国を屈伏せんとする二つの考えが生じて来、決戦戦争への示唆を与えつつ第二次欧州大戦となった。ドイツは飛行機、戦車の巧妙なる協同に依り敵陣地突破に成功して大陸諸国に対し決戦戦争を遂行した。しかしこれは結局相手国がドイツに対する真剣な準備を欠いたためで、地上兵力に依る強国間の決戦戦争は依然至難と考えられる。第二の空軍をもって敵国中心の攻撃に依る決戦戦争は、英、独の間に於ける実験により今日なお殆んど不可能である事を実証した。しかし空軍主力の時代が来れば初めて海も持久戦争の原因とはならない。空軍の徹底的発達がこの決戦戦争を予告し、それも地上作戦でなく敵国中心の空中襲撃に依る事は疑いを入れない。
地球の半周の距離にある敵に対し決戦戦争を強制し得る時は、世界最終戦争到来の時である。
第三章 会戦指導方針の変化

 

第一節 会戦の二種類
戦争の性質に陰、陽の二種あるように、会戦も二つの傾向に分ける事が出来る。1 最初から方針を確立し一挙に迅速に決戦を求める。(第一線決戦主義) 2 最初は先ず敵を傷める事に努力し機を見て決戦を行なう。(第二線決戦主義) 両者を比較すれば、第一線決戦主義 一、将帥は決戦の方針を確立して攻撃を行なう。二、第一線の兵力強大、予備は少し。三、最初の衝撃を最も猛烈に行なう。四、偶然に支配せらるる事多く奇効を奏するに便なり。第二線決戦主義 一、将帥は会戦経過を見て決戦の方針を決定す。二、極めて有力なる予備隊を設く。三、最後の衝撃を最も猛烈に行なう。四、堅実にして偶然に支配せらるる事少なく兵力が最も重大なる要素なり。
第二節 二種類に分るる原因
1 武力の靭強性 2 国民性および将帥の性格 攻撃威力が強い、逆に防禦の能力の脆弱な戦闘、換言すれば勝敗の早くつく戦闘では自然第一線決戦主義が採用せらる。例えて言えば騎兵の密集襲撃のようなものである。これに反し防禦が靭強である時は急に勝負がつき難い。妄(みだ)りに猪突するは危険で第二線決戦主義が有利となる。それ故この二種類はその時代の軍隊の性格に依る事が最も多い。特に兵器が進歩して来れば来る程、国民性や将帥の性格の及ばす影響が小さくなるのは当然である。古代、兵器が極めて単純であった時代は、国民性の会戦指導要領に及ばす影響は比較的大であり得た訳である。ギリシャ人は強大な大集団を作りこれをファランクスと名付けた。この大集団に依る偉大な衝力に依り一挙に決勝を企図したのである。これに対しローマ人はレギオンと称し比較的小さな集団を編制した。これは行動の自由を利用して巧みに敵に損害を与え、敵を攪乱し、適時機を見て決戦を行なわんとするのである。すなわちギリシャ人は第一線決戦主義に傾き、ローマ人は第二線決戦主義を好んだのである。第一線決戦主義は理想主義的であり、第二線決戦主義は現実主義的である。蓋(けだ)しギリシャ人は哲学や芸術に秀で、ローマ人は実業に秀でている民族性と会戦方式に相通ずるものが有るを見るであろう。田中寛博士の「日本民族の将来」に依れば、古代ギリシャ人は今日のギリシャ人と異なり北方民族であった。今日段々高度の武装をなし民族性の影響は昔日に比し大となり難いのであるが、第一次欧州大戦初期の両軍作戦を見るに、固より他にも色々の事情はあったであろうが、ローマ民族に近いフランスは第一第二軍をして先ず敵地に侵入せしめ後方に第四軍等を集結し、戦況に応じて主決戦場を決定せんとする態勢を整えているのに対し、ギリシャ人に近いドイツは主決戦場を右翼に決定、強大兵団をこの目的に応じて戦略展開を行ない、一挙に敵軍の左側背に殺到せんとしたのである。今日でもなお民族性が会戦指揮方針のみならず軍事の万般にわたり相当の影響を与えつつある事を見るのである。将帥の性格も同じ意味に於て個性を発揮するものと云うべきである。ナポレオンもアウステルリッツの如く第一線決戦を企図した事はある。また当時の縦隊戦術は後述する如く自然第二線決戦主義を有利とするのであるけれども、第二線決戦はナポレオンの最も得意とするところである。地中海民族から第二線決戦の最大名手を出した事は面白いではないか。
また北方民族から第一線決戦の最大名手フリードリヒ大王を出したことは時代の勢いであったとは言え必ずしも偶然とのみ言えない。用兵上に民族性が作用する事は当然軍事学上にも同じ傾向となって現われる。フォッシュ元帥が伊藤述史氏に言うたように軍事学もまた当然民族の性格の影響を受ける。帰納的であるクラウゼウィッツと演繹的であるジョミニーは独仏両民族の傾向を示すものと云うべきだ。1870-71年独仏戦争に於ける大勝の結果、フランスに於てもモルトケ、クラウゼウィッツの研究が盛んになった。1902年のボンナール「独仏高等兵学の方式について」には「ジョミニーの論述する如き一般原則から敷衍(ふえん)せる戦法の系統は謬妄、危険で絶対に排斥すべきもの」と言っている。しかしフランスでは依然ジョミニー流の思想が相当有力で、殊に第一次欧州大戦の勝利はクラウゼウィッツの排撃派に勢いを与えたようで、1923年発行カモン将軍の「ナポレオンの戦争方式」には「1870年以後は普軍に倣う風盛んで、先ずホーエンローネー、ゴルツ、ブルーメー、シェルフ、メッケル等が研究され、次いでその源泉であるクラウゼウィッツに及んだ。1883-84年にはカルドー少佐が陸軍大学でクラウゼウィッツにつき大講演を行なった。……兎に角1883年以来、クラウゼウィッツの主義は我が陸軍大学で絶えず普及せられ、ナポレオンの戦闘方式の完全なる理解に大なる障害を為した」と論じ、ジョミニーの為した如くナポレオンの方式を発見するに力を払っている。ドイツの有名な軍事学者フライタハ・ローリングホーフェンは「仏人の思想は戦争の現象を分析するクラウゼウィッツ観察法よりも、ジョミニーの演繹(えんえき)法、厳密なる形式的方法を絶対的に好んでいる」と評し、ジョミニー流であるワルテンブルグ(「将帥としてのナポレオン」の著者)の研究が独軍に大なる影響を与えなかった事を喜んでいる。フライタハはクラウゼウィッツ研究の大家である。クラウゼウィッツの思想は全独軍を支配している事言を俟(ま)たない。我ら日本軍人が西洋の軍事学を学ぶについてはよく日本民族の綜合的特性を活用し、高所大所より観察して公正なる判断を下し独自の識見を持たねばならぬ。
第三節 歴史的観察
民族性、将帥の性格が会戦指揮方針に与える作用も前述の如く軽視出来ないが、兵器の進歩に依る当時の武力の性格の影響は更に徹底的であり、大体は時代性に左右せられる。横隊戦術、殊にその末期軍隊の性質に制せられて兵器の進歩と協調も失うに至った後の横隊戦術は技巧の末節に走り、鈍重にして脆弱であり、特にその暴露した側面は甚だしい弱点を成形していた。横隊戦術は第一線決戦主義が最も合理的である。殊に当時猛訓練と軍事学の研究に依って軍隊の精鋭に満腔の自信を持っていたフリードリヒ大王には世人を驚嘆せしむる戦功を立てしめたのである。第一線決戦の特徴として兵力の多寡は第二線決戦のように決定的でない。フリードリヒ大王時代は寡兵をもって衆を破る事が特に尊ばれたのである。大王は13回の会戦中敗北3回で、10回の勝利のうち6回は優勢の敵を破り、一回といえども著しい優勢をもって戦った事はない。有名なロイテンの如きは二倍強、ロスバハは3倍の敵を撃破したのである。しかしかくの如き大勝も既に研究した如く持久戦争の時代に於ては、ナポレオンの平凡なる勝利の程にも戦争の運命に決定的影響を与え得なかったのである。消耗戦略、機動主義の必然がそこに存在したのである。フランス革命に依って散兵--縦隊戦術となると、この隊形は傭兵に馴致(じゅんち)せられた横隊戦術の矛盾を一擲して強靭性を増し、側面に対する感度を緩和した。会戦は自然に第二線決戦式となったのである。戦場に敵に優る強大な兵力を集結する戦術一般の原則が最も物をいう事となった。ナポレオンは30回の会戦中23回は勝利を占め、うち13回は著しい優勢をもって戦い、劣勢をもって勝ったのは僅かに3回でしかも大会戦と認むべきはドレスデンのみである。第一線決戦式に比し第二線決戦式は奇効を奏する事が比較的困難であり、ナポレオンの有名な会戦中マレンゴはあやしい勝利であり、特に代表的であるアウステルリッツ(第一線決戦)、イエナでも技術的に見てフリードリヒ大王のロイテン、ロスバハには及ばない。然しナポレオンの勝利はほとんど常に戦争の運命に決定的作用を及ぼしたのである。モルトケ元帥は幕僚長で将帥ではない。殊にモルトケ時代の普国の戦争には皆卓越せる戦争準備によって敵国を撃破した。当時の会戦は大体第一線兵団を戦場に向う前進に部署するだけで、実行は第一線司令官に委ね、フリードリヒ大王やナポレオンの会戦のように強烈なる最高統帥の指揮を見なかった。
兵器特に撃針銃の採用進歩は散兵の威力を増加して逐次戦闘正面を拡大して再び横広い隊形となった結果、自然会戦指揮は再び第一線決戦主義に傾いて来たが、シュリーフェン全盛時代までは「緒戦、戦闘実行、決戦」と会戦時期を3区分していたように、やはりナポレオン時代の第二線決戦の風も当時残っていたのである。シュリーフェン時代となると戦闘正面はますます拡大せられ、敵の側背を狙う迂回包囲はますます大胆となるべく唱導鼓吹せられ、第一線決戦主義に徹底して来た。会戦の方針は、既に集中決定の時に確立せられ、敵の側背に向い決戦を強行断行するのである。シュリーフェンの「カンネ」の一節に「翼側に於ける勝利を希うためには最後の予備を中央後でなく、最外翼に保持せねばならぬ。将帥の慧眼が広茫数10里に至る波瀾重畳の戦場に於て決戦地点を看破した後、初めて予備隊を移動するが如き事は不可能である。予備隊は既に会戦のための前進に当り、脚下停車場より、更に適切に云えば鉄道輸送の時から該方面に指向せられねばならぬ」と言っており、この大軍の会戦への前進はモルトケ元帥の如く単に方針のみを与えて第一線司令官の自由に委せるのではなく、全軍あたかも大隊教練のように「眼を右、触接左」に前進すべき事を要求している。丁度フリードリヒ大王の横隊戦術を大規模にした観がある。第一次欧州大戦初期は前に述べたようにフランス軍の会戦方針はやや第二線決戦的色彩を帯びていたが(勿論徹底せるものではない)、独軍は第一線決戦主義が極めて明確である。シュリーフェン案の如く徹底したものではなかったが、兎に角独軍のベルギー侵入よりマルヌまでの作戦はあたかもロイテン会戦を大々的に拡大した観を呈している。ところが持久戦争に陥り戦線が逐次縦深を増して来るに従い、会戦指揮の方針は自然第二線決戦主義となって来た。局部的戦闘では奇襲に依り第一線決戦的に指導せらるる事もちろんであるが、それだけでは縦深の敵陣地帯を完全に突破する事は至難で、その後絶大なる予備隊の使用に依って会戦の決定を争う事になる。ドイツが最後の運命を賭した1918年の攻撃は5回にわたって行なわれ、第5回目に敵の攻勢移転にあって脆くも失敗、遂に戦争の決を見るに至った。普通に見れば一回の攻勢が一会戦とも言われるけれども、更に大観すれば3月から8月にわたる全作戦を一大会戦とも見ることが出来る。
即ちドイツ軍は多数師団の大予備隊を準備し、数次にわたって敵の戦術的弱点を攻撃してなるべく多くの敵の予備隊を吸収(即ち個々の攻撃は全軍の見地からすれば一戦闘である)し、敵予備隊の消耗を計って敵が予備の貯え無くなった時、自分の方は未だ保存している強大なる予備隊に依って一挙に敵を突破する方式であったと見ることが出来る。独軍最高司令部は必ずしもそう考えていなかったし、各攻勢の間隔大に過ぎ(準備上短縮は不可能であったろう)て、敵に対応の準備を与え、敵も巧みに予備隊を再建し得て、独軍7月15日の攻勢には既にその勢い衰えつつあったのに乗じ、全軍の指揮を一任せられたフォッシュ将軍の英断と炯眼(けいがん)によって独軍攻勢の側面を衝き、遂に攻守処を異にして連合軍勝利の基を開いたのである。
固より独軍の全敗は国内事情によること最も大であるけれども、作戦方面から見れば仏軍があたかも火力をもって敵をいため、敵の勢力を消耗した好機に乗じ攻勢に転ずるいわゆる「火力主義の攻勢防禦」を大規模にした形で最後の勝利を得たのである。第一線決戦の名手フリードリヒ大王の傑作ロイテンと第二線決戦の名手ナポレオンの傑作リーニーの両会戦につき簡単に述べて参考としよう。一、ロイテン会戦 ロスバハに仏軍を大いに破ったフリードリヒ大王は戦捷の余威を駆って一挙に墺軍をシュレージエンより撃攘せんとしブレスラウに向い転進した。12月5日大王はジュミーデ山よりロイテン附近に陣地を占領せる敵軍を観察し、その左翼を攻撃して一挙に敵を撃破するの決心を固めた。これがため大王は普軍の先頭がベルン村近くに到着せるとき、これを左へ転廻せしめ巧みに凹地及び小丘阜を利用しつつ我が企図を秘匿してロベチンス村に入り、横隊に展開せしめた。午後1時大王は梯隊をもって前進すべきを命じた。墺軍は普軍の斜行前進によりその左翼を急襲せられ、その翼をロイテン東方に下げて普軍に対せんとしたのであるが普軍の猛烈果敢なる攻撃と適切なる砲火の集中により全く対応の処置を失い、たちまちにして潰乱するに到った。本戦闘は午後1時より4時過ぎまで継続せられたがオーストリア軍の死傷は1万、砲131門、軍旗55旒を失い、その捕虜は約12000に達した。本戦闘はフリードリヒ大王が35000の寡兵をもって64000の墺軍を撃破せる大王会戦中の傑作であって、兵力を一翼に集結し一挙に決戦を強要せる好範例である。二、リーニー会戦 1815年6月15日オランダ国境を突破せるナポレオンはネー将軍に一部を授けて英軍に対せしめ、主力(73000)を率いて、ブリュッヘル軍を攻撃すべくリーニーに向い前進した。ブリュッヘルは3軍団の兵力(81000)をもって、リーニー川の線に陣地を占領し、英将ウエリントンの来援を頼んでナポレオンと決戦せんと企図していた。ナポレオンはフルイルース附近を前進中詳細なる偵察の後、一部をもって普軍の左翼を牽制抑留し、右翼中央に対し攻撃を加えて普軍の全力を吸収消耗せしめ、その疲労を待って予備隊をもって一挙に止めを刺さんと計画を立てた。これがため敵の左翼に対してはグローチの騎兵隊をもって牽制せしめ、敵の右翼に対しては第3軍団をもってセント・アルマント村を、中央に対しては第4軍団をもってリーニー村を攻撃せしめ、予備隊として近衛、第4騎兵軍団並びに後続第6軍団をあてた。戦闘は午後2時頃より開始せられた。グローチ元帥は巧妙なる指揮によりプロイセン第3軍団をその正面に抑留するに成功したが、我が左翼方面に於ては第3軍団は、セント・アルマント村の争奪を繰り返し、戦況は極めて惨澹たるものがあった。午後5時頃普将ブリュッヘルは待機中の残余部隊をリーニー、セント・アルマント村に進め仏軍の左翼を包囲せんと企図し猛烈なる攻撃を加えてきた。ナポレオンは一部をもって前線を救援せしめたがなお主力は参加せしめず戦機の熟するを待った。午後7時過ぎ普軍は全くその予備隊を消耗するに至った。あたかもよし、後続第6軍団はこの頃戦場に到着した。ここに於てナポレオンは、砲70門をもって普軍の中央に対し準備砲撃を加え、近衛の一部、騎兵第四軍団、第6軍団を以ってリーニーに向い中央突破を敢行せしめた。普軍は戦力全く消耗して対応の策なく遂に敗退しブリュッヘルは危うく捕虜とならんとして僅かに逃るる事が出来た。本会戦はナポレオン得意の中央突破戦法であって第二線決戦の好範例である。
第四章 戦闘方法の進歩

 

第一節 隊形
古代の戦闘隊形は衝力を利用する密集集団方式であった。中世騎士の時代となって各個戦闘となり、戦術は紊(みだ)れて軍事的にも暗黒時代となった。ルネッサンスは軍事的にも大革命を招来した。火薬の使用は武勇優れた武士も素町人の一撃に打負かさるる事となって歩兵の出現となり、再び戦術の進歩を見るに至ったのである。火薬の効力は自然に古(いにしえ)の集団を横広の隊形に変化せしめて横隊戦術の発達を見た。横隊戦術の不自然な停頓と、フランス革命による散兵戦術への革新については詳しく述べたから省略する。一概に散兵戦術と云うも最初は散兵はむしろ補助で縦隊の突撃力が重点であった。それが火薬の進歩とともに散兵に重点が移って行った。それでもなおモルトケ時代は散兵の火力と密集隊の突撃力との併用が大体戦術の方式であった。それが更に進んで「散兵をもって戦闘を開始し散兵をもって突撃する」時代にすすみ、散兵戦術の発展の最後的段階に達したのがシュリーフェン時代から欧州大戦までの歴史である。第一次欧州大戦で決戦戦争から持久戦争へ変転をしたのであるが、戦術もまた散兵から戦闘群に進歩した。フランス革命当時は、先ず戦術的に横隊戦術から散兵戦術に進歩し、戦争性質変化の動機ともなったのであるが、今度は先ず戦争の性質が変化し、戦術の進歩はむしろそれに遅れて行なわれた。最初戦線の正面は堅固で突破が出来ず、持久戦争への方向をとるに至ったのであるが、その後砲兵力の集中により案外容易に突破が可能となった。しかし戦前逐次間隔を大きくしていた散兵の間隔は損害を避けるため更に大きくなり、これは見方に依っては第一線を突破せらるる一理由ともなるが、その反面第一線兵力の節約となり、また全体としての国軍兵力の増加は、限定せられた正面に対し使用し得る兵力の増大となり、かくて兵力を数線に配置して敵の突破を防ぐ事となった。いわゆる数線陣地である。しかし数線陣地の考えは兵力の逐次使用となって各個撃破を受くる事となるから、自然に今日の面の戦法に進展したのである。欧州大戦に於ける詳しい戦術発展の研究をした事がないから断定をはばかるが、私の気持では真に正しく面の戦法を意識的に大成したのは大戦終了後のソ連邦ではないだろうか。大正3年8月の偕行(かいこう)社記事の附録に「兵力節約案」というものが出ている。
曽田中将の執筆でないか、と想像する。それは主として警戒等の目的である。一個小隊ないし一分隊の兵力を距離間隔600mを間して鱗形に配置し、各独立閉鎖堡とする。火力の相互援助協力に依り防禦力を発揮せんとするもので、面の戦法の精神を遺憾なく発揮しているものであり、これが世界に於ける恐らく最初の意見ではないだろうか。果して然りとせば今日までほとんど独創的意見を見ない我が軍事界のため一つの誇りと言うべきである。古代の密集集団は点と見る事が出来、横隊は実線と見、散兵は点線即ち両戦術は線の戦法であり、今日の戦闘群戦術は面の戦法である。而してこの戦法もまた近く体の戦法に進展するであろう。否、今日既に体の戦法に移りつつある。第二次欧州大戦でも依然決戦は地上で行なわれ、空中戦はなお補助戦法の域を脱し得ないが、体の戦法への進展過程であることは疑いを容れない。線の戦法の時でも砲兵の採用は既に面の戦法への進展である。総ての革新変化は決して突如起るものではない。もちろんある時は大変化が起り「革命」と称せられるけれども、その時でさえよく観察すれば人の意識しない間に底流は常に大きな動きを為しているのである。ソ連邦革命は人類歴史上未曽有の事が多い。特にマルクスの理論が百年近くも多数の学者によって研究発展し、その理論は階級闘争として無数の犠牲を払いながら実験せられ、革命の原理、方法間然するところ無きまでに細部の計画成立した後、第一次欧州大戦を利用してツアー帝国を崩壊せしめ、後に天才レーニンを指導者として実演したのである。第一線決戦主義の真に徹底せる模範と言わねばならぬ。しかし人智は儚(はかない)いものである。あれだけの準備計画があっても、やって見ると容易に思うように行かない。詳しい事は研究した事もないから私には判らないが、列国が放任して置いたらあの革命も不成功に終ったのではなかろうか。少なくもその恐れはあったろうと想像せられる。資本主義諸列強の攻撃がレーニンを救ったとも見る事が出来るのではないか。資本主義国家の圧迫が、レーニンをしていわゆる「国防国家建設」への明確な目標を与え大衆を掌握せしめた。もちろん「無産者独裁」が大衆を動かし得たる事は勿論であるが、大衆生活の改善は簡単にうまく行かず、大なる危機が幾度か襲来した事と思う。
それを乗越え得たのは「祖国の急」に対する大衆の本能的衝動であった。マルクス主義の理論が自由主義の次に来たるべき全体主義の方向に合するものであり、殊に民度の低いロシヤ民族には相当適合している事がソ連革命の一因をなしている事を否定するのではないが、列強の圧迫とあらゆる困難矛盾に対し、臨機応変の処理を断行したレーニン、スターリンの政治的能力が今日のソ連を築き上げた現実の力である。第一線決戦主義で堂々開始せられた革命建設も結局第二線決戦的になったと見るべきである。ナチス革命は明瞭な第二線決戦主義である。ヒットラーの見当は偉い。しかしヒットラーの直感は革命の根本方向を狙っただけで、詳細な計画があったのではない。大目標を睨みながら大建設を強行して行くところに古き矛盾は解消されつつ進展した。もちろん平時的な変革ではない。
たしかにナチス革命であるが大した破壊、犠牲無くして大きな変革が行なわれた。大観すればナチス革命はソ連革命に比し遥かに能率的であったと言える。この点は日本国民は見究めねばならない。第二次欧州大戦特に仏国の屈伏後はやや空気が変ったが、国民が第一線決戦主義に対する憧憬余りに強くソ連の革命的方式を正しいものと信じ、多くの革新論者はナチス革命は反動と称していたではないか。この気持が今日も依然清算し切れず新体制運動を動(やや)もすれば観念的論議に停頓せしめる原因となっている。日米関係の切迫がなくば新体制の進展は困難かも知れない。蓋(けだ)し困難が国民を統一する最良の方法である。今日ルーズベルトが全体主義国の西大陸攻撃(とんでもない事だが)を餌として国民を動員せんとしつつあるもその一例。リンドバーグ大佐がドイツより本土攻撃せられる恐れなしと証言せるは余りに当然の事、これが特に重視せらるるは滑稽である。
第二節 指揮単位
「世界最終戦論」には方陣の指揮単位は大隊、横隊は中隊、散兵は小隊、戦闘群は分隊と記してある。理屈はこの通りであり大勢はその線に沿って進歩して来たが、現実の問題としてそう正確には行っていない。横隊戦術の実際の指揮は恐らく中隊長に重点があったのであろう。横隊では大隊を大隊長の号令で一斉に進退せしむる事はほとんど不可能とも言うべきである。しかし当時の単位は依然として大隊であり、傭兵の性格上極力大隊長の号令下にある動作を要求したのである。散兵戦の射撃はなかなか喧噪なもので、その指揮すなわち前進や射撃の号令は中隊では先ず不可能と言って良い。特に散兵の間隔が増大し部隊の戦闘正面が拡大するにつれてその傾向はますます甚だしくなる。だから散兵戦術の指揮単位は小隊と云うのは正しい。しかしナポレオン時代は散兵よりも戦闘の決は縦隊突撃にあったのだから、実際には未だ指揮単位は大隊であった。横隊戦術よりも正確に大隊の指揮号令が可能である。散兵の価値進むに従い戦闘の重点が散兵に移り、密集部隊も戦闘に加入するものは大隊の密集でなく中隊位となった。モルトケの欄に、散兵の下に「中隊縦隊」と記し、指揮単位を「中隊」としたのはこの辺の事情を現わしたのである。日露戦争当時は既に散兵戦術の最後的段階に入りつつあり、小隊を指揮の単位とした。しかるに戦後の操典には射撃、運動の指揮を中隊長に回収したのであった。その理由は、日露戦争の経験に依れば、1年志願兵の将校では召集直後到底小隊の射撃等を正しく指揮する事困難であると云うのであった。若し真に日本軍が散兵戦闘を小隊長に委せかねるというならば、日本民族はもう散兵戦術の時代には落伍者であると言う事を示すものといわねばならぬ。もちろんそんな事はないのであるから、この改革は日本人の心配性をあらわす一例と見る事が出来る。更に正確にいえば、ドイツ模倣の1年志願兵制度が日本社会の実情に合しない結果であったのである。欧州大戦前のドイツで中学校(ギムナジュウム)に入学するものは右翼または有産者即ち支配階級の子供であり、小学校卒業者は中学校に転校の制度はなかったのである。即ち中学校以上の卒業者は自他ともに特権階級としていたので、悪く言えば高慢、良く言えば剛健、自ら指導者たるべき鍛錬に努力するとともに平民出身の一般兵と同列に取扱わるる事を欲しないのである。
そこに特権制度として1年志願兵制度が発達し、しかもその価値を発揮したのである。しかるに明治維新以後の日本社会は真に四民平等である。また近時自由主義思想は高等教育を受けた人々に力強く作用して軍事を軽視する事甚だしかった。かくの如き状態に於て中学校以上を卒業したとて一般の兵は2年または3年在営するに対し、僅か1年の在営期間で指揮官たるべき力量を得ないのは当然である。本次事変初期に於ても1年志願兵出身の小隊長特に分隊長が指揮掌握に充分なる自信なく、兵の統率にやや欠くる場合ありしを耳にしたのである。これはその人の罪にあらずして制度の罪である。この経験とドイツ丸呑みよりの覚醒が自然今日の幹部候補生の制度となり、面目を一新したのは喜びに堪えない。しかし未だ真に徹底したとは称し難い。学校教練終了を幹部候補生資格の条件とするのは主義として賛同出来ぬ。「文事ある者は必ず武備がある」のは特に日本国民たるの義務である。親の脛をかじりつつ、同年輩の青年が既に職業戦線に活躍しある間、学問を為し得る青年は一旦緩急ある際一般青年に比し遥かに大なる奉公の実を挙ぐるため武道教練に精進すべきは当然であり、国防国家の今日、旧時代の残滓とも見るべきかくの如き特権は速やかに撤廃すべきである。中等学校以上に入らざる青年にも、青年学校の進歩等に依り優れたる指揮能力を有する者が尠(すくな)くない。また軍隊教育は平等教育を一抛し、各兵の天分を充分に発揮せしめ、特に優秀者の能力を最高度に発展せしむる事が必要であり、これによって多数の指揮官を養成せねばならぬ。在営期間も最も有利に活用すべく、幹部候補生の特別教育は極めて合理的であるが、猥(みだ)りに将校に任命するのは同意し難い。除隊当時の能力に応ずる階級を附与すべきである。序(ついで)に現役将校の養成制度について一言する。幼年学校生徒や士官候補生に特別の軍服を着せ、士官候補生を別室に収容して兵と離隔し身の廻りを当番兵に為さしむる等も貴族的教育の模倣の遺風である。速やかに一抛、兵と苦楽をともにせしめねばならぬ。率先垂範の美風は兵と全く同一生活の体験の中から生まれ出るべき筈である。将校を任命する時に将校団の銓衡会議と言うのがある。あれもドイツの制度の直訳である。ドイツでは昔その歴史に基づき将校団員は将校団で自ら補充したのである。
その後時勢の進歩に従い士官候補生を募集試験により採用しなければならないようになったため、動(やや)もすれば将校団員の気に入らない身分の低い者が入隊する恐れがある。それを排斥する自衛的手段として、将校団銓衡会議を採用したものと信ずる。日本では全く空文で唯形式的に行なわるるに過ぎない。私は更に徹底して幹部を総て兵より採用する制度に至らしめたい。かくして現役、在郷を通じて一貫せる制度となるのである。世の中が自由主義であった時代、幼年学校は陸軍として最も意味ある制度であったと言える。しかし今日以後全体主義の時代には、国民教育、青年教育総て陸軍の幼年学校教育と軌を同じゅうするに至るべきである。
即ち陸軍が幼年学校の必要を感じない時代の1日も速やかに到来する事を祈らねばならぬ。それが国防国家完成の時とも言える。そこで軍人を志すものは総て兵役につく。能力により現役幹部志願者は先ず下士官に任命せられる。これがため必要な学校はもちろん排斥しない。下士官中、将校たるべき者を適時選抜、士官学校に入校せしめて将校を任命する。今日「面」の戦闘に於ては指揮単位は分隊である。しかしてこの分隊の戦闘に於ては分隊が同時に単一な行動をなすのではない。ある組は射撃を主とし、ある組はむしろ白兵突撃まで無益の損害を避けるため地形を利用して潜入する等の動作を有利とする。操典は既に分隊を二分するを認めており、「組」が単位となる傾向にある。この趨勢から見て次の「体」の戦法ではいよいよ個人となるものと想像せられる。「体」の戦法とは戦闘法の大飛躍であり、戦闘の中心が地上特に歩兵の戦闘から空中戦への革命であろう。空中戦としては作戦の目標は当然敵の首都、工業地帯等となる。そして爆撃機が戦闘力の中心となるものと判断せられ、飛行機は大きくなる一方であり、その編隊戦法の進歩と速度の増加により戦闘機の将来を疑問視する傾向が一時相当有力であったのである。しかるに支那事変以来の経験によって戦闘機の価値は依然大なる事が判明した。今日の飛行機は莫大の燃料を要し、その持つ量のため戦闘機の行動半径は大制限を受けるのだが、将来動力の大革命に依り、戦闘機の行動半径も大飛躍し、敵目標に潰滅的打撃を与うるものは爆撃機であるが、空中戦の優劣が戦争の運命を左右し、依然戦闘機が空中戦の花として最も重要な位置を占むるのではないだろうか。
第三節 戦闘指導精神
横隊戦術の指導精神は当時の社会統制の原理であった「専制」である。専制君主の傭兵が横隊戦術に停頓せしめたのである。号令をかける時刀を抜き、敬礼する時刀を前方に投出すのはこの時代の遺風と信ずる。精神上から言ってもまた実戦の必要から言っても、号令をかける場合刀を抜く事は速やかに廃止する事を切望する。猥(みだ)りに刀を抜き敵に狙撃せられた例が少なくない。そうすれば指揮刀なるものは自然必要なくなる。日本軍人が指揮刀を腰にするのはどうも私の気に入らない。今日刀を抜いて指揮するため危険予防上指揮刀を必要とするのである。フランス革命により本式に採用せらるるに至った散兵戦術の指導精神は、フランス革命以来社会の指導原理となった「自由」である。横隊の窮屈なのに反し、散兵は自由に行動して各兵の最大能力を発揮する。各兵は大体自分に向った敵に対し自由に戦闘するのである。部隊の指揮単位に於てなるべく各隊長の自由を尊重するのである。大隊戦闘の本旨は「大隊の攻撃目標を示し、第一線中隊をして共同動作」せしむるに在った。そうして大隊長はなるべく干渉を避けるのである。戦闘群の戦術となると形勢は更に変化して来た。敵は散兵の如く大体我に向き合ったものが我に対抗するのではない。広く分散している敵は互に相側防し合うように巧みに火網を構成しているから、とんでもない方から射撃せられる。散兵戦術のように大体我に向い合った敵を自由に攻撃さしたなら大変な混乱に陥る恐れがある。そこで否が応でも「統制」の必要が生じて来た。即ち指揮官ははっきり自分の意志を決定する。その目的に応じて、各隊に明確な任務を与え各隊間共同の基準をも明らかにする。しかも戦況の千変万化に応じ、適時適切にその意図を決定して明確な命令を下さねばならない。自由放任は断じてならぬ。昭和15年改正前の我が歩兵操典に大隊の指揮に対し、大隊長の指揮につき「大隊戦闘の本旨は諸般の戦況に応じ大隊長の的確かつ軽快なる指揮と各隊の適切なる協同とに依り大隊の戦闘力を遺憾なく統合発揮するにあり」と述べ更に「……戦況の推移を洞察して適時各隊に新なる任務を附与し……自己の意図の如く積極的に戦闘を指導す」と指示している。この統制の戦術のためには次の事が必要である。
1、指揮官の優秀、およびそれを補佐する指揮機関の整備。2、命令、報告、通報を迅速的確にする通信連絡機関。3、各部隊、各兵の独断能力。3に示す如く、統制では各隊の独断は自由主義時代より更に必要である。いかに指揮官が優秀でも、千変万化の状況は全く散兵戦術時代とは比較にならぬ結果、いちいち指揮官の指揮を待つ暇なく、また驚くべき有利な機会を捉うる可能性が高い。各兵も散兵に比しては正に数10倍の自由活動の余地があるのである。一兵まで戦術の根本義を解せねばならぬ。今日の訓練は単なる体力気力の鍛錬のみでなく、兵の正しき理解の増進が一大問題である。我らの中少尉時代には戦術は将校の独占であった。第一次欧州大戦後は下士官に戦術の教育を要求せられたが、今日は兵まで戦術を教うべきである。統制は各兵、各部隊に明確なる任務を与え、かつその自由活動を容易かつ可能ならしむるため無益の混乱を避けるため必要最少限の制限を与うる事である。即ち専制と自由を綜合開顕した高度の指導精神であらねばならぬ。近時のいわゆる統制は専制への後退ではないか。何か暴力的に画一的に命令する事が統制と心得ている人も少なくないようである。衆が迷っており、かつ事急で理解を与える余裕のない場合は躊躇なく強制的に命令せねばならない。それ以外の場合は指導者は常に衆心の向うところを察し、大勢を達観して方針を確立して大衆に明確な目標を与え、それを理解感激せしめた上に各自の任務を明確にし、その任務達成のためには広汎な自由裁断が許され、感激して自主的に活動せしめねばならない。恐れ戦き、遅疑、躊躇逡巡し、消極的となり感激を失うならば自由主義に劣る結果となる。社会が全体主義へ革新せらるる秋(とき)、軍隊また大いに反省すべきものがある。軍隊は反自由主義的な存在である。ために自由主義の時代は全く社会と遊離した存在となった。殊に集団生活、社会生活の経験に乏しい日本国民のため、西洋流の兵営生活は驚くべき生活変化である。即ち全く生活様式の変った慣習の裡(うち)に叩き込まれ、兵はその個性を失って軍隊の強烈な統制中の人となったのである。陸軍の先輩は非常にこの点に頭を悩まし、明治41年12月軍隊内務書改正の折、その綱領に「服従は下級者の忠実なる義務心と崇高なる徳義心により、軍紀の必要を覚知したる観念に基づき、上官の正当なる命令、周到なる監督、およびその感化力と相俟って能(よ)くその目的を達し、衷心より出で形体に現われ、遂に弾丸雨飛の間に於て甘んじて身体を上官に致し、一意その指揮に従うものとす」と示したのである。
これ真に達見ではないか。全体主義社会統制の重要道徳たる服従の真義を捉えたのである。しかし軍隊は依然として旧態を脱し切れないで今日に及んでいる。今や社会は超スピードをもって全体主義へ目醒めつつある。青年学校特に青少年義勇軍の生活は軍隊生活に先行せんとしつつある。社会は軍隊と接近しつつある。軍隊はこの時代に於て軍隊生活の意義を正確に把握して「国民生活訓練の道場」たる実を挙げねばならぬ。殊に隊内に私的制裁の行なわれているのは遺憾に堪えない。しかも単に形式的防圧ではならぬ。時代の精神に見覚め全体主義のために如何に弱者をいたわることの重大なるかを痛感する新鮮なる道義心に依らねばならぬ。東亜連盟結成の根本は民族問題にあり。
民族協和は人を尊敬し弱者をいたわる道義心によって成立する。朝鮮、満州国、支那に於ける日本の困難は皆この道義心微(かす)かなる結果である。軍隊が正しき理解の下に私的制裁を消滅せしむる事は日本民族昭和維新の新道徳確立の基礎作業ともなるのである。
第五章 戦争参加兵力の増加と国軍編制(軍制)

 

第一節 兵役
火器の使用に依って新しい戦術が生まれて来た文芸復興の時代は小邦連立の状態であり、平常から軍隊を養う事は困難で有事の場合兵隊を傭って来る有様であったが、国家の力が増大するにつれ自ら常備の傭兵軍を保有する事となった。その兵数も逐次増加して、傭兵時代の末期フリードリヒ大王は人口400万に満たないのに10数万の大軍を常備したのである。そのため財政的負担は甚大であった。フランス革命は更に多くの軍隊を要求し、貧困なるフランスは先ず国民皆兵を断行し、欧州大陸の諸強国は次第にこれに倣う事となった。最初はその人員も多くなかったが、国際情勢の緊迫、軍事の進歩に依って兵力が増加せられ、第一次欧州大戦で既に全健康男子が兵役に服する有様となった。第二次欧州大戦では大陸軍国ソ連が局外に立ち、フランスまた昔日の面目がなくなり、かつ陸上作戦は第一次欧州大戦のように大規模でなかったため第一次欧州大戦だけの大軍は戦っていないが、必要に応じ全健康男子銃を執る準備も列強には常に出来ている。日本は極東の一角に位置を占め、対抗すべき陸軍武力は一本のシベリヤ鉄道により長距離を輸送されるソ連軍に過ぎないために服役を免れる男子が多かった。ソ連極東兵備の大増強、支那事変の進展により、徴集兵数は急速に大増加を来たし、国民皆兵の実を挙げつつある。兵役法はこれに従って相当根本的な改革が行なわれたが、しかも更に徹底的に根本改正を要するものと信ずる。国家総動員は国民の力を最も合理的に綜合的に運用する事が第一の着眼である。教育の根本的革新に依り国民の能力を最高度に発揮し得るようにするとともに、国民はある期間国家に奉仕する制度を確立する。即ち公役に服せしむるのである。兵役は公役中の最高度のものである。公役兵役につかしむるについては、今日の徴兵検査では到底国民の能力を最も合理的に活用する事が出来ない。教育制度と検査制度を統一的に合理化し、知能、体力、特長等を綜合的に調査し、各人の能力を充分に発揮し得るごとく奉仕の方向を決定する。戦時に於ける動員は所要兵力を基礎として、ある年齢の男子を総て召集する。その年齢内で従軍しない者は総て国家の必要なる仕事に従事せしめる。自由企業等はその年齢外の人々で総て負担し得るように適切綿密なる計画を立てて置かねばならない。空軍の発達に依り都市の爆撃が行なわるる事となって損害を受くるのは軍人のみでなくなった。全健康男子総て従軍する事となった今日は既成の観念よりせば国民皆兵制度の徹底であるが、既に世は次の時代である。
全国民野火の禍中に入る端緒に入ったのである。次に来たるべき決戦戦争では作戦目標は軍隊でなく国民となり、敵国の中心即ち首都や大都市、大工業地帯が選ばるる事が既に今次英独戦争で明らかとなっている。すなわち国民皆兵の真の徹底である。老若男女のみならず、山川草木、豚も鶏も総て遠慮なく戦火の洗礼を受けるのである。全国民がこの惨禍に対し毅然として堪え忍ぶ鉄石の精神を必要とする。空中戦を主体とするこの戦争では、地上戦争のように敵を攻撃する軍隊に多くの兵力が必要なくなるであろう。地上作戦の場合は無数の兵員を得るため国民皆兵で誰でも引張り出したのであるが、今後の戦争では特にこれに適した少数の人々が義勇兵として採用せらるるようになるのではなかろうか。イタリアの黒シャツ隊とかヒットラーの突撃隊等はその傾向を示したものと言える。義勇兵と言うのは今日まで用いられていた傭兵の別名ではない。国民が総て統制的に訓練せられ、全部公役に服し、更に奉公の精神に満ち、真に水も洩らさぬ挙国一体の有様となった時武力戦に任ずる軍人は自他共に許す真の適任者であり、義務と言う消極的な考えから義勇と言う更に積極的であり自発的である高度のものとなるべきである。
第二節 国軍の編制
フリードリヒ大王時代は兵力が相当多くても実際作戦に従事するものは案外少なくなり、その作戦は「会戦序列」に依り編成された。それが主将の下に統一して運動し戦闘するのであたかも今日の師団のような有様であった。ナポレオン時代は既に軍隊の単位は師団に編制せられていた。次いで軍団が生まれ、それを軍に編制した。ナポレオン最大の兵力(約45万)を動かした1812年ロシヤ遠征の際の作戦は、なるべく国境近く決戦を強行して不毛の地に侵入する不利を避くる事に根本着眼が置かれた。これは1806-7年のポーランドおよび東普作戦の苦い経験に基づくものであり、当時として及ぶ限りの周到なる準備が為された。一部をワルソー方向に進めてロシヤの垂涎(すいぜん)の地である同地方に露軍を牽制し、東普に集めた主力軍をもってこの敵の側背を衝き、一挙に敵全軍を覆滅して和平を強制する方針であった。主力軍は二個の集団に開進した。ナポレオンは最左翼の大集団を直接掌握し、同時に全軍の指揮官であった。今日の常識よりせばナポレオンは三軍に編制して自らこれを統一指揮するのが当然である。当時の通信連絡方法ではその三軍の統一運用は至難であったろう。けれどもナポレオンといえども当時の慣習からそう一挙に蝉脱出来なかった事も考えられる。何れにせよ事実上三軍にわけながら、その統一運用に不充分であった事がナポレオンが国境地方に於て若干の好機を失った一因となっており、統一運用のためには国軍の編制が合理的でなかったという事は言えるわけである。モルトケ時代は既に国軍は数軍に編制せられ、大本営の統一指揮下にあった。シュリーフェンに依り国軍の大増加と殲滅戦略の大徹底を来たしたのであるが、依然国軍の編制はモルトケ時代を墨守し、欧州大戦勃発初期、国境会戦等であたかも1812年ナポレオンの犯したと同じ不利を嘗めたのは興味深い事である。独第五軍は旋回軸となりベルダンに向い、第四軍はこれに連繋して仏第四軍を衝き、独主力軍の運動翼として第一ないし第三軍が仏第五軍及び英軍を包囲殲滅すべき態勢となった。第一ないし第三軍を一指揮官により統一運用したならばあるいは国境会戦に更に徹底せる勝利となり、仏第五軍、少なくも英軍を捕捉し得たかも知れぬ。そう成ったならマルヌ会戦のため更に有利の形勢で戦わるる事であったろう。しかるに独大本営は自らこの戦場に進出し直接三軍を指揮統一することもなさず、第二軍司令官をして臨時三個軍を指揮せしめた。
しかるに第二軍司令官ビューローは古参者であり皇帝の信任も篤い紳士的将軍であったが機略を欠き、活気ある第一軍との意見合致せず、いたずらに安全第一主義のために三軍を近く接近して作戦せんとし、遂に好機を失し敵を逸したのである。ナポレオンの1812年の軍編制や運営につき深刻な研究をしていた独軍参謀本部は、1914年同じ失敗をしたのである。1812年はナポレオンとしては三軍の編成、その統一司令部の設置はかなり無理と言えるが、1914年は正しく右翼三軍の統一司令部を置くべきであり、万一置いてない時は大本営自ら第一線に進出、最も大切の時期にこの三軍を直接統一指揮すべきであった。戦争の進むにつれて必要に迫られて方面軍の編成となったが、若しドイツが会戦前第一ないし第三軍を一方面軍に編成してあったならば、戦争の運命にも相当の影響を及ぼし得た事であったろう。現状に捉われず、将来を予見した識見はなかなか得られない事を示すとともに、その尊重すべきを深刻に教えるものと言うべきである。
第六章 将来戦争の予想

 

第一節 次の決戦戦争は世界最終戦争
かつて中央幼年学校で解析幾何の初歩を学んだ。数学の嫌いな私にもこれは大変面白く勉強出来た。掛江教官が「二元の世界すなわち平面に住む生物には線を一本書けばその行動を掣肘し得らるるわけだが、三元の世界即ち体に住む我らには線は障害とならないが、面で密封したものの中に入れられる時は全く監禁せられる。しかし四元の世界に住むものには我々の牢屋のようなものでは如何ともなし得ない」等という語を非常に面白く聴いたものである。鎌倉に水泳演習の折、宿は光明寺で我々は本堂に起居していた。十六羅漢の後に5-6歳の少女が独りで寝泊りしていたが、この少女なかなか利発もので生徒を驚かしていた。ある夜の事豪傑連中(もちろん私は参加していない)が消灯後海岸に散歩に出かけ遅く帰って廊下にあった残飯を食べていた。ところが突如音がして光り物が本堂に入って来た。さすがの豪傑連中度胆を抜かれてひれ伏してしまった。この時豪傑中の豪傑、今度の事変で名誉の戦死を遂げた石川登君が恐る恐る頚を上げて見ると女が本堂の奥に進んで行く。石川君の言によると「柱でも蚊帳でも総てすうと通り抜けて行く」のであった。奥に寝ていた少女が泣出す。誰かが行って尋ねて見ると「知らない小母さんが来て抱くから嫌だ……」とて、それからはどうしても一人で本堂に寝ようとはしなかった。この少女は両親を知らず、ただ母は浅草附近にいるとの事であったが、我らは恐らくその母親が死んだのだろうと話しあったのであった。石川君の実感を詳しく聴くと、掛江教官の四元に住むものとして幽霊の事が何だかよく当てはまるような気がする。宗教の霊界物語は同じ事であろう。しかし我ら普通の人間には体以上のものは想像も出来ない。体の戦法は人間戦闘の窮極である。今日の戦法は依然面の戦法と見るべきだが、既に体の戦法に移りつつある。指揮単位は分隊から組に進んでいる。次は個人となるであろう。軍人以外は非戦闘員であると言う昨日までの常識は、都市爆撃により完全に打破されつつある。第一次欧州大戦で全健康男子が軍に従う事となったのであるが、今や全国民が戦争の渦中に投入せらるる事となる。第二次欧州大戦では独仏両強国の間にさえ決戦戦争となったが、これは前述せる如く両国戦争力の甚だしい相違からきたので、今日の状態でも依然持久戦争となる公算が多い。即ち一国の全健康男子を動員すればその国境の全正面を防禦し得べく、敵の迂回を避ける事が出来る。
火砲、戦車、飛行機の綜合威力をもっても、良く装備せられ、決心して戦う敵の正面は突破至難である。次の決戦戦争はどうしても真に空中戦が主体となり、一挙に敵国の中心に致命的打撃を与え得る事となって初めて実現するであろう。体の戦法、全国民が戦火に投入と言う事から見ても次の決戦戦争は正しく空中戦である。しかして体以上の事は我らに不可解であり、単位が個人で全国民参加と云えば国民の全力傾注に徹底する事となる。即ち次の決戦戦争は戦争形態発達の極限に達するのであり、これは戦争の終末を意味している。次の決戦戦争は世界最終戦争であり、真の世界戦争である。過去の欧州大戦を世界大戦と呼ぶのは適当でない。西洋人の独断を無意識にまねている人々は戦争の大勢、世界歴史の大勢をわきまえぬのである。
第二節 歴史の大勢
戦争の終結と云う事は国家対立の解消、即ち世界統一を意味している。最終戦争は世界統一の序曲に他ならない。第一次欧州大戦を契機として軍事上の進歩は驚嘆すべき有様であり、特にドイツおよびソ連の全体主義的国防建設が列強のいわゆる国防国家体制への急進展となりつつある。全体主義は国力の超高速度増強を目標とするのであり、「自由」から「統制」への躍進である。全国力を徹底的に発揮するため極度の緊張が要求せられる。全体主義はあたかも運動選手の合宿鍛錬主義の如きものであり、決勝戦の直前に於て活用せらるべき方式である。一地方に根拠を有する戦力が抵抗を打破し得る範囲により自然に政治的統一を招来する。これがため武力の進歩が群小国家を整理して大国家への発展となった。欧州大戦後、軍事および一般文明の大飛躍は国家の併合を待つの余裕をあたえず、しかも力の急速なる拡大を生存の根本条件とする結果、国家主義の時代から国家連合の時代への進展を見、今日世界は大体四個の大集団となりつつある事は世人の常識となった。昭和16年1月14日閣議決定の発表に「肇国(ちょうこく)の精神に反し、皇国の主権を晦冥(かいめい)ならしむる虞(おそれ)あるが如き国家連合理論等は之を許さず」との文句がある。興亜院当局はこれに対し、国家連合理論を否定するものでなく、肇国の精神に反し皇国の主権を晦冥ならしむる虞あるものを許さぬ意味であると釈明したとの事である。若し国家連合の理論を否定する事があるならばそれはあまりにも人類歴史の大勢に逆行するものであり、皇国は世界の落伍者たる事を免れ難き事明瞭である。興亜院当局の言は当然しかあるべきである。然し閣議決定発表の文がかくの如き重大誤解を起す恐れ大なるは遺憾に堪えない。人類文化の目標である八紘一宇の御理想に基づき、政治的には全世界が天皇を中心とする一国家となる事は疑いを許さぬ。しかしそれに到達するには不断の生々発展がある。国家連合の時代に入りつつある世界は、第二次欧州戦争に依りその速度を増して間もなく明確に数個の集団となるであろう。その集団はなるべく強く統制せらるるものが、良くその力を発揮し得るのだから統制の強化を要望せらるる反面、民族感情や国家間の利害等によりその強化を阻止する作用も依然なかなか強い。結局各集団の状況に応じ落着くべきに落着き、しかも絶えずその統制強化に向って進むものと考えられる。
合理的に無理なくその強化が進展し得るものが優者たる資格を得る事となるであろう。右の如く発展をしながら各集団の間に集散離合が行なわれてその数を減じ、恐らく二個の勢力に分れ、その間の決戦戦争によって世界統一の第一段階に入るものと想像せられる。二個勢力に結成せらるるまでが人類歴史の現段階であり、戦争より見れば第一次欧州戦争以来の持久戦争時代がそれである。持久戦争と言うても局部的には決戦戦争が行なわれて集団結成を促進するのであるが、武力の活動範囲に未だ制限多く自然に数集団となるわけである。今日はこの意味に於て人類の準決勝時代と言うべく、この時代の末期である世界が二個の勢力に結成せられる時、次の決戦戦争の時代に入り最終戦争が行なわれる事となる。ラテン・アメリカの諸国は人種的にも経済的にも概して合衆国よりも欧州大陸と親善の気持を持っているにも拘らず、第一次欧州大戦以後は急速に米州連合体の成立に向いつつある事は即ち歴史の必然性である。ドイツは天才ヒットラーにより戦争の中に於て着々欧州連盟の結成に努力し、恩威併行の適切なる方策により輝かしき成果を挙げている。ソ連は最もよく結合の実を挙げ、今日は名は連邦であるが既に大国家とも見る事が出来る。日本はその実力によって欧米覇道主義の侵略を排除しつつ、一個の集団へ結成せんとしつつあるが、我が東亜は今日最も不完全な状態にある。しかし遠からず支那事変を解決し、必ずや急速に東亜の大同を実現するであろう。現下の事変はその陣痛である。これらの未完成の四集団は既にいわゆる民主主義陣営と枢軸陣営の二大分野に分れ、ソ連は巧みにその中間を動いて漁夫の利を占めんとしつつあるが、果してしからばその将来は如何に成り行くであろうか。今日民主主義、全体主義の二大陣営と言うも必ずしもそれは主義によるのではない。現に民主主義という英、米は全体主義の中国を味方に編入し、殊に全体主義の最先鋒ソ連に秋波を送りつつある。主義よりもむしろ利害関係ないし地理的関係が主である。しかし文明の進展するところ、結局は矢張り主義が中心となって世界が二分するであろうと想像する。この見地から究極に於て、王覇両文明の争いとなるものと信ずる。我ら東洋人は科学文明に遅れ、西洋人に比し誠に生温い生活をして来た。しかし反面常に天意に恭順ならんとする生活を続けたのである。東洋人は太古の宗教的生活を捨て去っていない。
西洋は力を尚ぶが、我らの守る処は道である。政治上に於て我らは徳治を理想とするに対し彼らは法治を重視する。道と力は人生に於ける二大要素であり、これを重んじないものはない。問題はその程位如何にある。何れが主で何れが従であるかに在る。この差は今日の日本人には大したものでないと思わるるかも知れない。しかしこれが大きな問題である。今日の日本人は西洋文明を学び、大体覇道主義となっている。あるいは西洋人以上の覇道主義者である。見給え、平気で「油が入用だから蘭印をとる」と高言しているではないか。西洋人でも今少しは歯に衣(きぬ)をかけた言い方をするであろう。
日本人は一時心も形も全部西洋風となったのであった。近時所謂日本主義が横行して形は日本に還ったが、しかし彼らの大部の心は依然西洋覇道主義者である。八紘一宇と言いながら弱者から権利を強奪せんとし、自ら強権的に指導者と言い張る。この覇道主義が如何に東亜の安定を妨げているかを静かに観察せねばならない。クリステイーの「奉天30年」には日清戦争当時のことについて「若し総ての日本人が軍隊当局者のようであったなら、人々は彼らの去るのを惜しんだであろう。しかし他の部類のものもあった。軍隊の後から人夫、運搬夫等に、そして雑多なる最下級の群が来て、それらは支那人から恐怖の混じた軽蔑をもって見られた。……彼らは兵士の如く厳格なる規律の下に置かれなかった」と述べてある。軍隊は兵卒に至るまで道義的であったらしい。しかるに日露戦争については「この前の戦争の時に於ける日本軍の正義と仁慈が謳歌され、総ての放埒は忘れられていた。戦争者が満州の農民と永久的友誼を結ぶべき一大機会は今であった。度々戦乱に悩まされたこれらの農民達は日本人を兄弟並みに救い主として熱心に歓迎したのである。かくしてこの国土の永久的領有の道は拓けたであろう。而して多くの者がそれを望んだのであった。しかるに日本人の指導者と高官の目指した処は何であるにもせよ、普通の日本兵士並びに満州に来た一般人民はこの地位を認識する能力が無かった。……かくして一般の人心に、日本人に対する不幸なる嫌悪、彼らの動機に対する猜疑(さいぎ)、彼らと事を共にするを好まぬ傾向が増え、かつ燃えた。これらの感情はこれを根絶する事が困難である」と記している。日露戦争では既に兵士のあるものは非道義的に傾いた。今次事変は如何であろうか。悪いのは一般日本人と兵士だけに止まるであろうか。北支の老人は「北清事変当時の日本軍と今日の日本軍は余りに変った」と嘆いているそうである。若し我が軍が少なくとも北清事変当時だけの道義を守っていたならば、今日既に蒋介石は我が戦力に屈伏していたではないだろうか。蒋介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義もここにありと信ずる。北清事変当時の皇軍が如何に道義を守ったかに関して北京の東亜新報の2月6-8日の両三日の紙上に「柴大人の善政、北城に残る語り草」と題し、今なお床しき物語が掲載されている。
それを参考までに大略申述べるとこんな事である。(一)、「千仏寺胡同、この北京の北城の辺こそ、我ら日本人が誇りとしてよい地区なのである。光緒26年、つまり明治33年の7月21日は各国連合軍が北京入城の日であった。日本軍は朝陽門より守備兵の抵抗を排除して先ず入城、順天府署に警務所を設け、当時公使館附武官であった柴五郎大佐が警務長官となった。柴大佐は後の柴大将であるが、大将の恩威並び行なう善政は全く北京人をして感涙にむせばせたものであった。柴長官は先ず安民公署という分署を東西北八胡同と西四牌楼北報子胡同の二個所に設け、布告を発して曰く、「軍人の住民の宅に入りて捜査するを許さず、若し違反する者あらば住民はその面貌 等を記して告発す可し」と。そして清刑部郎中・端華如等をしてその事務を処理させた。当時の北京は各国軍がそれぞれ駐屯区域を定めていたのだが、日本軍駐屯の北城地域が最も平和で住民が安居し、ロシヤ、フランス、イギリス等の駐屯区域では兵隊が乱暴するので縊死するもの、井戸に投じ、焼死するものが続出し、そうした区域からの避難民は争って日本軍駐屯の北城区域へ避難して来た。こうした避難民のため、その当時寂びれていた鼓楼大街の如きは忽ち繁華の街となった程である。善政というものは比較されて見た時にはっきりとその真価が分る。北清事変で各国の軍隊が各警備の縄張りをきめたこの時ほど西欧の軍隊の野獣的なる行為に比べ皇軍の仁愛あふるる軍規と施設の真価が発揮せられた事はあるまい。この時の日本軍敬慕の北京人の感情は、その後の日露戦争に於て清国をして親日一色ならしめた有力な原動力たり得たのである。」(二)、「ここは鼓楼東大街の北である。そして日本軍の善政ゆえに更生した街である。橋川時雄氏の調査によると、当時の柴大人(ツァイターレン)の仁政として今も古老の感謝しているところは、大人が警務長官となるや各米倉を開いてその蓄米を廉売し、いわゆる“糧荒”の虞(おそれ)なからしめた事であるそうである。その他に現存している古老が口伝している柴大将についての挿話には次のような話がある。【古老の話 その一】その頃柴五郎というお方は日本人ではない。満州旗籍の出身だが日本に帰化したのだ。つまり柴大人がこのような仁政を施すのは故郷へ帰ってきて故郷を愛するためだという噂が専らでした。この話は当時その恩に感じた住民達が半分想像まじりで話した噂だろうが、本当の事として宣伝されたわけである。
【古老の話 その二】柴大人が職を去って日本へ帰る日はいやはや大変な事でした。柴公館には、その日朝暗いうちから人がわんさと押しかけて皆餞別の贈り物をしました。その多くは貧民や苦力どもで、皆手に手に乾鶏等を贈ってその行を惜しんだのです。あの時の有様は今でもありありとこの眼に浮かんで来ます。【古老の話 その三】柴大人の威勢というものはその頃は大したもので、流行歌にまで歌われたものです。
つい20年位までは、この北城一帯では子供らがあんまり悪戯をすると母親達は“柴大人来了(ツァイターレンライラ)”(そんなおいたをすると柴大人が来ますよ)と言ってなだめていた程です。この三つの口伝は橋川氏の集めたものであるが、またもって日本軍人柴大人の威徳を偲ぷに充分なるものがあるではないか」、「宝鈔胡同の柴大人の民心把握の偉大な事蹟をたずねた方がこの際特に意味深いであろう。満州人敦厚の“都門紀変三十首絶句”というのは多分拳匪の乱を謳ったものらしいが、その中の第七首“粛府”にこういうのがある 。
  桐葉分封二百余、蒼々陰護九松居、
  無端燬倣渾間事、同病応憐道士徐。
この詩にいう道士徐というのは東海に行った徐福が戦乱に苦しんでいる民衆を慰めているというわけで、柴大人の仁政を謳ったものであると解釈されている。この詩の中には“安民処処巧安排、告示輝煌総姓柴”と云って、柴長官の告示によって人民が安心した事も詠(よ)まれている。“拳匪紀略”には、「日本軍が北城を占領したので、市民は初めて外国兵が北京に入城した事を知ったのは23日である。それに便乗して土匪が数百家を荒し尽したが北城は何の事もなかった。ここは日本兵が占領していたからで、北城の人民達は皆日本兵の庇護を受けた」とあり、また“驢背集”という詩集には、「日本軍の入城に依って宮城が守られ、逃げる隙なく宮中に残った数千人のものは日本軍に依って食を与えられた。宮中には光緒帝も西太后も西巡していて恵妃(同治帝の妃)のみが国璽を守っていたが、柴大人に使を派して謝意を述べ、大人の指示によって宮中の善後措置を講じた」という意味の談がある。誠に当時の日本軍隊の恩威並び行なわれた事蹟は、40年後の今なお古老の口から聴く事が出来、残る文書に読む事が出来る。英、仏の乱暴の跡といみじくも正邪のよい対照をなして居るではないか」以上は東亜新報掲載記事である。明治維新以後薩長が維新の功に驕っていわゆる藩閥横暴となった事が政党政治招来の大原因となり、政党ひとたび力を得るやたちまちその横暴となって間もなく国民の信を失った。今日軍は政治の推進力と称せられている。自粛しなければ国民の怨府となるであろう。日本歴史を見れば日本民族は必ずしも常に道義的でなかった事が明らかである。国体が不明徽となった時代の日本人は西洋人にも優る覇道の実行者ともなった。戦国時代の外交は今日のソ連外交にも劣らざる権謀、謀略の歴史であるとも言える。しかし我が国体の命ずる道は道義治国であり、八紘一宇に依る御理想は道義による世界統一である。アメリカの米州統制もドイツの欧州連盟もソ連の統一も総ては力中心の覇道主義である。悲しい哉、我が日本に於ても東亜の大同につき力の信者、即ち覇道主義が目下圧倒的である。東亜連盟論に対する反対はその現われである。しかし東亜連盟論の急速なる進展は国民が急速に皇道に目を醒しつつある証左である。力をもってする方法は端的であり、即効的である。しかし力は力に敗れる。結局道をもっての結合がむしろ力以上の力である。議論はいらぬ。天皇の思し召しがそれである。
我らは東方道義をもって東亜大同の根抵とせねばならぬ。幾多のいまわしい歴史的事実があるにせよ、王道は東亜諸民族数千年来の共同の憧憬であった。我らは、大御心を奉じ、大御心を信仰して東亜の大同を完成し、西洋覇道主義に対抗してこれを屈伏、八紘一宇を実現せねばならない。結局世界最終戦争が王、覇両文明の決勝戦であり、東亜と西洋の決勝戦である。この見地から最終戦争の中心は太平洋であろうと信ずるものである。もちろん我らは道義を中心とするが、しかも力を軽視するものではない。西洋人も道義を軽視しないが、覇道主義者が道を真に信奉する事は至難であるのに、我らが力を獲得するのは決して困難でない。一方東方道義に速やかに目を醒ますとともに一方西洋科学文明を急速に摂取、最終戦争に必勝の体制を整えねばならぬ。日本に於てさえ道義より力、物を中心としていた時代が多い。覇道は動物的本能であり、王道への欲求、憧憬が人間の万物の霊長たる所以である。今後も人類は本能の暴露を繰返すであろう。しかし大道は人類の王道への躍進である。王道に対する安心定まった時、人類は心から、天皇の御存在に心からの感謝を覚え、不退の信仰に入り、真の平和が来るであろう。而して日本民族の正しき行ない、強き実行力が人類の道義に対する安心を定めしめるのである。
第三節 将来戦争に対する準備
科学文明の急速なる進歩が最近世界を狭くし、遠からず全世界は王道、覇道両文明の二集団に分るる事となるべく、その日は既に目前に迫りつつある。その二集団が世界統一のための最終戦争を行なうためには、これに適した決戦兵器が必要である。静かに大勢を達観すれば、世界二分と決戦兵器の出現は歩調を一にして進んでいる。それは当然である。この二つの間には文化的に最も密接な関係があるのである。即ち、兵器の発達は自然に人類の政治的集団の範囲を拡大し、世界二分の政治的状態成立の時は既に両集団に決戦を可能ならしむる兵器の発明せらるる時である。この最終戦争に対する準備のため、1、世界最優秀決戦兵器の創造 2、防空対策の徹底 この二点が最も肝要である。この徹底せる決戦戦争に於ては武力戦が瞬間的に万事を決定するであろう。今日ドイツが大体制空権を得ているようにみえるが、しかし依然多数の船舶は英国の港に出入している。飛行機による船舶の破壊は潜水艦のそれに及ばぬらしい。あの英仏海峡の制海権もなかなかドイツに入り難い様子である。これ飛行機の滞空時間が長くない事が第一の原因である。またロンドンを日夜爆撃してもなかなかロンドン市民の抵抗意志を屈伏せしむる事が出来ない。今日の爆弾では威力が足りぬのである。僅かに英仏海峡を挟んでの決戦戦争すらほとんど不可能の有様で、太平洋を挟んでの決戦戦争はまるで夢のようであるが、既に驚くべき科学の発明が芽を出しつつあるではないか。原子核破壊による驚異すべきエネルギーの発生が、巧みに人間により活用せらるるようになったならどうであろうか。これにより航空機は長時間すばらしい速度をもって飛ぶ事が出来、世界は全く狭くなる事が出来るであろう。またそのエネルギーを用うる破壊力は瞬間に戦争の決を与える力ともなるであろう。怪力光線であるとか何とか、どんな物が飛び出して来るか知れない。何れにせよ世界二分となった頃には、必ず今日の想像し得ない決戦兵器が出て来る事、断じて疑いを容れない。今日は主として量の時代である。しかし明日は主として質の時代となる。新しき革命的最終戦用決戦兵器を敵に先んじて準備する事が最終戦勝利者たるべき第一条件である。科学文明に遅れて来た東亜が僅かの年月の間に西洋覇道主義者を追越すため、この予想せらるる革命的兵器出現の可能性が我らに一道の光明を与えるのである。国策最重点の一つはこの科学的発明とその大成に指向せられねばならぬ。これがためには発明の奨励と大研究機関の設備を必要とする。発明奨励は断じて官僚的方法では目的を達し難い。若し真に優れた天才的直感力を有する人があり、国家がその人物を中核として、その人物に万事を一任して発明の奨励を行ない得るならは国家的事業とするも可なりである。しかしそれはほとんど不可能に近い。それで私は資産家特に成金の活用を提唱する。国家は先ず国防献金等を停止する。自由主義時代に於て軍費の不足を補うため国防献金を奨励した事は止むを得ない。また自発的の国防献金は国防思想の徹底向上に効果ある事は否定しない。しかし今日は国防の如き最高国家事業は総て税金に依って為すべきである。
今日は既に軍費が問題でなく国家の生産能力が事を決定する。国防献金ももはや問題とならない(但し恤兵(じゅっぺい)事業等は郷党の心からなる寄附金による事が望ましい)。資産家特に成金を寄附金の強制から解放し、彼らの全力を発明家の発見と幇助(ほうじょ)に尽さしめる。国家の機関は発明の価値を判断して発明者には奨励金を与え、その援助者には勲章、位階、授爵等の恩賞をもって表彰する。一体統制主義の今日、国家の恩賞を主として官吏方面に偏重するのは良くない。恩賞は今日の国家の実情に合する如く根本的に改革せねばならぬ。信賞必罰は興隆国家の特徴である。発明は単に日本国内、東亜の範囲に限る事なくなるべく全世界に天才を求めねばならぬ。しかし科学の発達著しい今日、単に発明の奨励だけでは不充分である。国家は全力を尽して世界無比の大規模研究機関を設立し、綜合力を発揮すべきである。発明家の天才と成金の援助で物になったものは適時これをこの研究機関に移して(発明家をそのまま使用するか否かは全くその事情に依る)、多数学者の綜合的力により速やかにこれを大成する。研究機関、大学、大工場の関連は特に力を用いねばならない。今日の如くこれらがばらばらに勝手に造られているのは科学の後進国日本では特に戒心すべきである。全国民の念力と天才の尊重(今日は天才的人物は官僚の権威に押され、つむじを曲げ、天才は葬られつつある)、研究機関の組織化により速やかに世界第一の新兵器、新機械等々を生み出さねばならない。次は防空対策である。何れにせよ最終戦争は空中戦を中心として一挙に敵国の中心を襲うのであるから、すばらしい破壊兵器を整備するとともに防空については充分なる対策が必要である。恐るべき破壊力に対し完全な防空は恐らく不可能であろう。各国は逐次主要部分を地下深く隠匿する等の方法を講ずるのであろうが、恐らく攻撃威力の増加に追いつかぬであろう。また消極的防衛手段が度を過ぎれば、積極的生産力、国力の増進を阻害する。防空対策についても真に達人の達観が切要である。私は最終戦争は今後概ね30年内外に起るであろうと主張して来た。この事はもちろん一つの空想に過ぎない。しかし戦争変化の速度より推論して全く拠り処無いとは言えぬ。そこで私は「世界最終戦論」に於て、20年を目標として防空の根本対策を強行すべしと唱道した。必要最少限の部門はあらゆる努力を払って完全防空をする。どれだけをその範囲とするかが重大問題である。
見透しが必要である。その他はなるべく分散配置をとる。そこで「最終戦論」で提案したのは、第一に官憲の大縮小である。統制国家に於てはもちろん官の強力を必要とする。しかし強力は必ずしも範囲の拡大でない。必要欠くべからざる事を確実迅速に決定して、各機関をして喜び進んで実行せしむる事が肝要である。今日の如くあらゆる場面を総て官憲の力で統制しようとするのは統制の本則に合しないのみならず、我が国民性に適合しない。
民度の低いロシヤ人に適する方法は必ずしも我が国民には適当でない。この見地から今日の官憲は大縮小の可能なるを信ずる。官憲の拡大が人口集中の一因である。第二は教育制度の根本革新である。日本の明治以後の急発展は教育の振興にあったが、今日社会不安、社会固定の最も有力な原因は自由主義教育のためである。教育は子弟の能力によらず父兄の財力に応じて行なわれる。その教育は実生活と遊離して空論の人を造り、その人は柔弱で鍛錬されておらない。勇気がない。勤労を欲しない。しかもこの教育せらるる者の数は国家の必要との調和は全く考えられていない。非常時に於て知識群の失業が多いのは自然である。あらゆる方面から見て合宿主義時代に全国民が綜合能力を最高度に発揮せしむる主旨に合しない。中等学校以上は全廃、今日の青少年義勇軍に準ずる訓練を全国民に加え、そのうち、適性のものに高度な教育を施し、合理的に国民の職業を分配すべく、教育と実務の間に完全なる調和を必要とする。そうすれば自然都市の教育設備は国民学校を除き全部これを外に移転し得る。都市人口の大縮小を来たすであろう。第三には工業の地方分散である。特に重要なる軍事工業は適当に全国に分散する。徹底せる国土計画の下にその分配を定める。大河内正敏氏の農村工業はこの方式に徹底すれば日本工業のためすばらしい意義を持ち、同時に農村の改新に大光明を与える。取敢えず今日より建設する工業には国家が計画的に統制を加うべきである。以上の方法をもってして都市人口の大縮小を行ない、しかも必要なる政治中心、経済中心は徹底せる防空都市に根本改革を断行する。各地方は一旦事ある時、独立して国民の生活を指導し得る如く必要の処置を講ぜねばならない。右の如く大事業を強行するだけでも自然に昭和維新は進展するであろう。本来大革新は境遇の必要に迫られて自然に行なわれる。軍事革命が当時の軍人の自覚なく行なわれたと同一である。そこには自然に大犠牲が払われた。しかるにソ連革命は全く古来の歴史と異なってマルクス以来約百年の研究立案の計画により断行せられた。全人類今日なおこれに魅力を感じている。殊に戦乱の中心から離れていた日本にはそれが甚だしい。自称日本主義者すら心の中にマルクス流のこの理論計画先行の方式にほとんど絶対的の魅力を感じているらしい。ヒットラーのナチス革命は右両者の中庸である。
その天才的直感力に依りて大体の大方針を確立し、その目的達成のために現実の逼迫を巧みに利用して勇猛果敢に建設事業に邁進する。方法は自然にその中に発見せられ、勇敢に訂正、改善して行く。その後を学者連中が理論を立てて行くのである。何ら組織的準備のない日本の昭和維新は断じてマルクス流に依るべきでない。否やりたくとも計画がない。否でも応でもヒットラー流の実行先行の方式に依らなければならない。それには万人を納得せしむる建設の目標が最も大切である。今日、日米戦争の危機が国民に防空の絶対必要を痛感せしめた。右のような1年前に空想に過ぎなかった大計画も、今日は国民に尤(もっと)もと思わしむるに足る昭和維新原動力の有力な一つとなった。  
第七章 現在に於ける我が国防

 

第一節 現時の国策
速やかに東亜諸国家大同の実を挙げ、その力を綜合的に運用して世界最終戦争に対する準備を整うるのが現在の国策であらねばならぬ。明治維新の廃藩置県に当るべき政治目標は「東亜の大同」である。「東亜大同」はなるべく広い範囲が、なるべく強く協同し、成し得れば一体化せらるる事が最も希望せらるるのであるが、それはそう簡単には参らない。範囲は大アジアと書いても一つの空想、希望に過ぎない。我が(我が国および友邦)実力が欧米覇道主義の暴力を制圧し得る範囲に求めねばならぬ。東亜連盟の現実性はそこにある。爾後東亜諸民族により時代精神が充分理解せられ、かつ我が実力の増加に依り範囲は拡大せらるるのである。協同の方式も最初は極めて緩やかなものから逐次強化せられる。即ち国家主義全盛時代にも言われた善隣とか友邦とかから東亜連盟となり、次いで東亜連邦となり、遂には全く一体化して東亜大国家とまで進展する事が予想せられる。近頃、東亜連盟は超国家的思想である。各国家の上に統制機関を設け、その権力をもって連盟各国家を統制指揮するは怪しからぬ等との議論もあるようである。かくの如きは全く時代の大勢を知らない旧式の思想である。一国だけで世界の大勢に伍して進み得る時代は過ぎ去った。如何にして多くの国家、多くの民族を統制してその実力を発揮するかが問題である。それゆえ統制はなるべく強化せられねばならぬ。日満両国間はその歴史的関係によって相当強度の統制が行なわれている。見方によっては両国は連盟の域を脱して、既に連邦的存在、ある点では大国家的存在とも言える。しかし日華両国は現に東亜未曽有の大戦争を交えている。幸い近く平和が成立したところで急速に心からの協同は至難である。無理は禁物である。理解の進むに従って統制を強めて行かねばならない。最初は善隣友好の範囲を遠く出づる事は適当であるまい。覇道主義者は力をもって先ず条約的に権益ないし両国の権利義務を決定しようとするに反し、我らの王道主義者は先ず心からの理解を第一とせねばならない。法的問題は理解の後に続行すべきである。そこで「東亜連盟」論では、今日はほとんど統制機関を設けようとしていないのである。しかしそれは決して理想的状態でない。理解の進むに従い適切に敏活なる協同に要する統制機関を設置すべきである。
「最終戦論」には「天皇が東亜諸民族から盟主と仰がるる日、即ち東亜連盟が真に完成した日であります」と述べている。その頃になれば連盟の統制機関も相当に準備せられているであろう。元来東亜連盟の完成した日は、即ち連邦となる日と言うべきである。あるいは物判りの良い東亜諸民族が、真に王道に依って結ばれ、王道の道統的血統的護持者であらせらるる天皇に対し奉る信仰に到達したならば、連邦等は飛越えて大国家に一挙飛躍するのではないだろうか。そんな風になれば今日までの科学文明の立ち遅れ等は容易に償い得るであろう。満州建国間もなく、民族協和徹底のためには東亜新秩序成立の必要が痛感せられ、東亜連邦、東亜連盟が唱道せられたが、日満間は兎に角、日華間には連邦への飛躍は到底期待し難いので東亜連盟論が自然に採用せられ、昭和8年3月9日協和会の声明となった。私は昭和7年8月満州国を去りこの協和会の声明は知らないでいたが、昭和8年6月某参謀本部部員から「石原は海軍論者なりという上官多し、意見を書いてくれ」と要求せられた。当時私は対米戦争計画の必要を唱えていたからであろう。それで筆を執った「軍事上より見たる皇国の国策並国防計画要綱」なる私見には、 一、皇国とアングロサクソンとの決勝戦は世界文明統一のため、人類最後最大の戦争にしてその時期は必ずしも遠き将来にあらず。 二、右戦争の準備として目下の国策は先ず東亜連盟を完成するに在り。 三、東亜連盟の範囲は軍事経済両方面よりの研究に依り決定するを要す。人口問題等の解決はこれを南洋特に濠州に求むるを要するも、現今の急務は先ず東亜連盟の核心たる日満支三国協同の実を挙ぐるに在り。 と言うている。この文は印刷せられ次長以下各部長等に呈上せられた筈である。恐らく上官が東亜連盟の文字を見られた最初であろう。協和会の公式声明を知らなかった私はその後の満州国、北支の状況上、東亜連盟を公然強調する勇気を失っていたが、昭和13年夏病気のため辞表を提出した際、上官から辞表は大臣に取次ぐから休暇をとって帰国するよう命ぜられたので軽率な私は予備役編入と信じ、9月1日大洗海岸で暴風雨を聴きながら「昭和維新方略」なる短文を草し、満州建国以来同志の主張に基づき東亜連盟の結成を昭和維新の中核問題としたのである。しかるに同年9月15日の満州国承認記念日に、陸相板垣中将がその講演に東亜連盟の名称を用いられた。更に次いで発表せられたいわゆる近衛声明は東亜連盟の思想と内容相通ずるものがある。実は私は板垣中将が関東軍参謀長時代から東亜連盟は断念しているだろうと独断していたのであったから、これには相当驚かされたのであった。爾後板垣中将は宮崎正義氏の「東亜連盟論」や、杉浦晴男氏の「東亜連盟建設綱領」に題字を贈り、かつ近衛声明は東亜連盟の線に沿うたのである事を発表せられた。昭和15年天長の佳辰に発せられた総軍司令部の「派遣軍将兵に告ぐ」には、事変の解決のため満州建国の精神を想起せしめ、道義東亜連盟の結成に在る事を強調せられた。これに誘致せられて中国各地に東亜連盟運動起り、11月24日南京に於ける東亜連盟中国同志会の結成となり、昭和16年2月1日東亜連盟中国総会の発会式となった。日本に於ては昭和14年秋東亜連盟協会なるもの成立、機関紙「東亜連盟」を発行、翌15年春から運動が開始せられた。在来の東亜問題に関する諸団体は大体活発に活動を見ないのにこの協会だけは急速な進展を見、中国東亜連盟運動発展の一動機となったのである。東亜連盟の内容については日華両国の間に未だ完全な一致を見ていないようである。日本が国防の共同というのに中国は軍事同盟、経済一体化に対して経済提携と言うているし、日本が国防の共同、経済の一体化を特に重視しているのに中国は政治独立に特別な関心が見える。しかしこれらは両国の事情上当然の事と言うべきである。将来は逐次具体的に強調して来るであろう。兎に角東亜連盟の両国運動者には既に同志的気持が成立している事は民国革命初期以来数10年ぶりの現象である。感慨深からざるを得ない。
東亜連盟運動が正しく強く生長、東亜大同の堅確なる第一歩に入る事を祈念して止まない。
第二節 我が国防
現時の国策即ち昭和維新の中核問題である東亜連盟の結成には、根本に於て東亜諸民族特に我が皇道即ち王道、東方道義に立返る事が最大の問題である。国家主義の時代から国家連合の時代を迎えた今日、民族問題は世界の大問題であり、日本民族も明治以来朝鮮、台湾、満州国に於て他民族との協同に於て殆んど例外なく失敗して来たった事を深く考え、皇道に基づき正しき道義観を確立せねばならぬ。満州建国の民族協和はこの問題の解決点を示したのである。満州国内に於ける民族協和運動は今日まで遺憾ながらまだ成功してはいない。明治以来の日本人の惰性の然らしむるところ、一度は陥るべきものであろう。しかし一面建国の精神は一部人士により堅持せられ、かつ実践せられつつあるが故に、一度最大方針が国民に理解せられたならばたちまち数10年の弊風を一掃して、東亜諸民族と心からなる協同の大道に驀進するに至るべきを信ずる。この新時代の道義観の下に、世界最終戦争を目標とする東亜大同の諸政策が立案実行せられる。しかしそれがためには我が東亜の地域に加わるべき欧米覇道主義者の暴力を排除し得る事が絶対条件である。即ち東亜(我が)国防全からずして、東亜連盟の結成は一つの夢にすぎない。東亜連盟の結成が我が国防の目的であり、同時に諸政策は最も困難なる国防を全からしむる点に集中せらるる事とならねばならぬ。国策と国防はかくて全く渾然一体となるのである。いわゆる国防国家とはこの意味に外ならない。東亜連盟の結成を妨げる外力は、 1 ソ連の陸上武力。 2 米の海軍力、これには英、ソの海軍が共同すると考えねばならぬ。 であるからこれに対し、 1 ソ連が極東に使用し得る兵力に相当するものを備え、かつ少なくもソ連のバイカル以東に位置するものと同等の兵力を満州、朝鮮に位置せしむ。 2 西太平洋に出現し得べき米、英、ソの海軍力に対し、少なくも同等の海軍力を保持せねばならぬ。 陸軍当局の言うところによれば極東ソ軍は30個師団以上に達し、約3000台の戦車及び飛行機を持っている。それに対する我が在満兵力は甚だしい劣勢ではあるまいか。この不安定が対ソ外交の困難となり、また一面今次事変の有力な動機となった。而して日ソ両国極東兵備の差は僅々数年の間にこんな状態となったのである。全体主義的ソ連の建設と自由主義的日本の建設の能力の差を良く示している。ナチス政権確立以来数年の問に独仏間の軍備の間に生じた差と全く同一種類のものである。我らは一日も速やかに飛躍的兵備増強を断行せねばならぬ。アメリカ最近の海軍大拡張はどうであるか。海相は数は恐るるに足らぬ。独自の兵備によってこれに対抗し、断じて心配ないと言うているし、また一部南進論者は3年後には米国の製艦により彼我海軍力に大きな差を生ずるから今のうちに開戦すべしと論じている。しかし更に根本的の問題は、我らは万難を排してソ連の極東軍備およびアメリカの海軍拡張に対抗せねばならないことになる。ソ連が極東に30師団を持って来れば我が軍も北満に30師団を位置せしむべく、ソ連戦車3000台なら我も3000台、また米国が6万屯の戦艦を造るなら我もまたこれと同等の建艦を断行すべきである。そんな事は無理だと言うであろう。その通り我が国の製鉄能力は今日ソ連の数分の一、米国に比しては更に著しく劣っているのは明らかである。しかし造るべきものは造らねばならぬ。断々乎として造らねばならぬ。この一歩をも譲ることを得ざる国防上の要求が我が経済建設の指標であり昭和維新の原動力である。この気力無き国民は須からく八紘一宇を口にすべからず。3年後には日米海軍の差が甚だしくなるから、今のうちに米国をやっつけると言う者があるが、米国は充分な力がないのにおめおめ我が海軍と決戦を交うると考うるのか。また戦争が3年以内に終ると信ずるのか。日米開戦となったならば極めて長期の戦争を予期せねばならぬ。米国は更に建艦速度を増し、所望の実力が出来上るまでは決戦を避けるであろう。自分に都合よいように理屈をつける事は危険千万である。我が財政の責任者は今次事変の直前まで、年額2-30億の軍費さえ我が国の堪え難き所と信じていた。然るに事変4年の経験はどうであるか。日本が真に八紘一宇の大理想を達成すべき使命を持っているならばソ連の陸軍、米の海軍に対抗する武力を建設し得る力量がある事は天意である。
これを疑うの余地がない。国防当局は断固として国家に要求すべし。この迫力が昭和維新を進展せしむる原動力となる。しかしてかくの如き厖大な兵器の生産は宜しく政治家、経済人に一任すべく、軍部は直接これに干与することは却って迫力を失う事となる。国防国家とは軍は軍事上の要求を国家に明示するが、同時に作戦以外の事に心を労する必要なき状態であらねばならぬ。全国民がその職分に応じ、国防のため全力を尽す如き組織であらねばならぬ。以上陸、海の武力に対する要求の外更に、 3 速やかに世界第一の精鋭なる空軍を建設せねばならない。これは一面、将来の最終戦争に対する準備のため最も大切であるのみならず、現在の国防上からも極めて切要である。ソ連が東亜に侵攻するためにはシベリヤ鉄道の長大な輸送を必要とするし、また米国渡洋作戦の困難性は大である。即ち極東ソ領や、ヒリッピン等はソ、米のため軍事上の弱点を形成し彼らの頭痛の種となるのであるが、その反面、ソ、米は我が国の中心を空襲し我が近海の交通を妨害するに便である。それに対し我が国は有利なる敵の政治、経済的空襲目標もなく、敵国に対し、死命を制する圧迫を加える事はほとんど不可能に近い。即ち彼らは片手を以て我らと持久戦争を交え得るのに対し、我らは常に全力を傾注せねばならぬ事となる。持久戦争に非常な緊張を要する所以である。この見地から空軍の大発達により我が軍も容易にニューヨーク、モスクワを空襲し得るに至るまで、即ちその位の距離は殆んど問題でならなくなるまで、極言すれば最終戦争まではなるべく戦争を回避し得たならば甚だ結構であるのであるが、そうも行かないから空軍だけは常に世界最優秀を目標として持久戦争時代に於ける我らの国防的地位の不利な面を補わねばならない。ドイツ空軍は第二次欧州大戦の花形である。時に海上に出て、時に陸上部隊に、水も洩らさぬ緊密な協同作戦をする。真に羨ましい極みである。我が国の国防的状態はドイツと同一ではなく、ただちにドイツの如くなり得ない点はあるであろうが、極力合理的に空軍の建設を目標として着々事を進むると同時に、航空が陸海軍に分属している間も一層密接なる陸海空軍の協同が要望せられる。この頃そのために各種の努力が払われているらしく誠に慶賀の至りに堪えない。器材方面では既に密接な協力が行なわれているであろうし、また運用についても不断の研究によって長短相補う如くせねばならぬ。例えば、東ソ連の航空基地は満州国境から何れも(西方は別として)余り遠くなく、しかも極東には有利なる空爆目標に乏しいのであるから、対ソ陸軍航空部隊は軽快で特に速度の大なるものが有利と考えられる。海軍は常に長距離に行動せねばならない。かくの如き特長は互に尊重せらるべきだと信ずる。海軍機が支那奥地の爆撃に成功したとて、陸軍機がただちにこれに競争する必要はない。
陸海軍の真の航空全兵力を戦争の状態に応じ一分の隙もなく統一的に運用し、陸海軍に分属していても空軍の占める利益をも充分発揮し得る如く全部の努力が払われねばならない。恐らく今日はそうなっている事と信ずる。防空に関し最終戦争のために20年を目標として根本的対策を強行すべき事を主張したが、今日はそれに関せず応急的手段を速やかに実行せねばならぬ。第一の問題は火災対策である。木材耐火の研究に最大の力を払い、どしどし実行すべきである。現に各種の方法が発見せられつつあるではないか。消防につけても更に画期的進歩が必要である。またどうも高射砲等の防空兵器が不充分ではないか。これには高射砲等の製作の会社を造り急速に生産能力を高めねばならぬ。総て兵器工業は民間事業を特に活用するを要するものと信ずる。各種会社、工場等は自ら高射砲を備えしめては如何。そうして応召の予定外の人にて取扱い者を定めて練習せしめ、時に競技会でも行なえばただちに上達する事請合いである。弾丸だけは官憲で掌握しておれば心配はあるまい。有事の場合必要に応じてその配置の統制も出来る。航空部隊を除く防空はなるべく民間の仕事とした方が良いのではあるまいか。しかし防空全般に関しては今日以上の統制が必要である。防空総司令官を任命(成し得れば宮殿下)し、これに防空に任ずる陸海軍部隊および地方官憲、民間団体等を総て統一指揮せしめる。持久戦争であるから上述の軍需品の他、連盟の諸国家国民の生活安定の物資もともに東亜連盟の範囲内で自給自足し得る事が肝要である。即ち経済建設の目標は軍需、民需を通じて、統一的に計画せられねばならない事は言うまでもない。アメリカでさえ総ての物資は自給自足をなし得ないのである。最少限度の物資獲得の名に於て我らの力の現状を無視していたずらに外国との紛争を招く事は充分警戒を要する。戦争は最大の浪費である。戦争とともに長期建設と言うも、言うは易く実行は至難である。ドイツの今日あるはあの貧弱なる国土、恵まれざる資源に在ったとも言える。即ち被封鎖状態が彼らの科学を進歩せしめた。資源もちろん重要であるが、今日の文明は既に大抵の物は科学の力により生産し得るに至りつつある。資源以上に重要なるものは人の力であり、科学の力である。日、満両国だけでも資源はすばらしく豊富にある。
殊にその地理的配置が宜しい。我らが科学の力を十二分に活用し、全国力を綜合的に運用し得たならば、必ずや近き将来断じて覇道主義に劣らざる力を獲得し得るであろう。鉄資源としては日本は砂鉄は世界無比豊富であり、満州国の鉄はその埋蔵量莫大である。精錬法も熔鉱炉を要しない高周波や上島式の如き世界独特の方法が続々発明せられている。石炭は無尽蔵であり、液化の方法についても福島県下に於て実験中の田崎式は必ず大成功をする事と信ずる。その他幾多の方法が発明の途上にあるであろう。熱河から陜西、四川にわたる地区は世界的油脈であると推定している有力者もあると聞く。断固試掘すべきである。
その他必要な資材は何れも必ず生産し得られる。機械工業についても断じて悲観は無用である。天才人を発見し、天才人を充分に活動せしむべきである。国家が生産目標を秘密にするのは一考を要する。ソ連さえ発表して来た。国民の統制完全であり、戦争目的第一であるドイツは機密としたが、日本の現状はむしろ勇敢に必要の数を公表し、国民に如何に彪大な生産を要望せらるるかを明らかにすべきであると信ずる。国民の緊張、節約等は適切なるこの国家目標の明示により最もよく実現せらるるであろう。今日のやり方は動(やや)もすれば百年の準備ありしマルクス流である。理論や機構が第一の問題とせられる。いたずらにそれらに遠慮してしかも気合のかからぬ根本原因をなしている。どんな事があっても必ず達成しなければならぬ生産目標を明示し、各部門毎に最適任者を発見し、全責任を負わしめて全関係者を精神的に動員して生産増加を強行する。政府は各部門等の関係を勇敢親切に律して行く。そうすれば全日本は火の玉の如く動き出すであろう。資本主義か国家社会主義か、そんな事は知らない。どうでも宜しい、無理に資本主義の打倒を策せずとも、資本主義がこの大生産に堪え得なければ自然に倒れるであろう。時代の要求に合する方式が必ず生まれて来る。昭和維新のため、革新のための昭和維新ではない。最終戦争に必勝の態勢を整うるための昭和維新である。必勝せんとする国民、東亜諸民族の念力が自然裡に昭和維新を実行するのである。この意気、この熱意、この建設は自然に世界無比の決戦兵器をも生み出す。即ち今日持久戦争に対する国防の確立が自然に将来戦争に対する準備となるのである。
第三節 満州国の責務
ソ連が東亜連盟を侵す径路は三つある。第一は満州国であり、第二は外蒙方面より蒙疆地方への侵入、第三は新疆方面である。その中で東亜連盟のため最も弱点をなすものは第三であり、最も重要なるものは第一である。満州国の喪失は東亜連盟のためほとんど致命的と言える。日華両国を分断しかつ両国の中心に迫る事となる。満州国は東亜連盟対ソ国防の根拠地である。東亜連盟が直接新疆を防衛する事は至難であるが、満州国のソ領沿海州に対する有利な位置は在満州国の兵備が充実しておれば間接に新疆方面をも防衛することとなる。この大切な満州国の国防は、日満議定書に依り日満両国軍隊共同これに当るのである。満州軍の建設には人知れざる甚大な努力が払われた。これに従軍した人々の功績は満州建国史上に特筆せらるべきものである。しかるに満州軍に対する不信は今日なお時に耳にするところである。たしかに満州軍は今日も背反者をすら出す事がある。しかし深くその原因を探求すべきである。満州軍の不安は実に満州国の不安を示しているのである。満州国内に於て民族協和の実が漸次現われ、民心比較的安定した支那事変勃発頃の満州軍は、恐らく最良の状態にあったものと思う。その後事変の進むに従い漢民族の心は安定を欠き、一方大量の日系官吏の進出と経済統制による日本人の専断が、民族協和を困惑する形となり、統制経済による不安と相俟って民心が逐次不安となって来た。この影響はただちに治安の上に現われ、満州軍の心理をも左右するのである。満州軍は要は満州国の鏡とも見る事が出来る。支那事変に於ける漢民族の勇敢さを見ても、満州国が真にその建国精神を守り、正しく発展するならば満州軍は最も有力なる我らの友軍である。若し満州軍に不信ならば満州国人の心理に深く注意すべく、自ら満州国の民心を把握していない事を覚らねばならぬ。満州国の民心安定を欠く時は共産党の工作が進展して来る。非常に注意せねばならない。これがため共産党の取締はもちろん大切であるが、更に大切なのは民心の安定である。元来漢民族は共産主義に対し、日本人のように尖鋭な対抗意識を持たない。防共ということはどうもピンと来ぬらしい。彼らは共産主義は恐れていない。故に防共の第一義は民心を安定し、安居楽業を与える事である。多くの漢人に対し共産主義の害毒を日本人に対するように宣伝をしてもどうも余り響かないらしい。
共産主義が西洋覇道の最先端にある事を明らかにし、国内で真に王道を行なえば共産軍は大して心配の必要なく、民心真に安定すればスパイの防止も自然に出来る。民心が離れているのに日系警官や憲兵でスパイや謀略を防がんとしても至難である。満州国防衛の第一主義は民心の把握であり、建国精神、即ち民族協和の実践である事を銘心せねばならぬ。かつて昭和12年秋関東軍参謀副長として着任、皇帝に拝謁の際、皇帝から「日系軍官」の名を無くして貰いたいとの御言葉を賜って深く感激したことがある。これは今日も遺憾ながら実現せられていない。私としては誠に御申訳ないと自責しているのである。複合民族の国家では各民族軍隊を造る事が正しいと信ずる。即ち満州国では日本人は日満議定書に基づき、日本軍隊に入って国防に当るのであるが、それ以外の民族は各別に軍隊を編制すべきである。現に蒙古人は蒙古軍隊を造っているが、朝鮮軍隊も編成すべきである(一部は実行せられているが、大々的に)。回々(イスラム)軍隊も考えられる(これは朝鮮軍隊ほど切実の問題ではない)。軍隊は兵器を持って危険な存在だから、言語や風俗を異にする民族の集合隊は適当と言えぬ。日本人が漢民族の軍隊に入って働くのを反対するものではない。しかしそれは漢人の一員たる気持であらねばならぬ。皇帝が日系軍官の名称を止めよと仰せられた御趣旨もここにあると拝察する。諸民族混住の国に於て官吏は日系、満系、朝鮮系等のあるは自然であるが、軍隊は各民族軍隊を造るのであるから、漢民族の軍隊の中に「日系軍官」なる名称の有せらるるは適当でない。田舎の満州人警察の中に少数の日系警官を入れて指導する考えらしいが、この日系警官が満州国不安の一大原因となっているのは深く反省せねばならぬ。他民族の心理は内地から出稼ぎに来た人々に簡単に理解せられない。警官には他民族の観察はほとんど不可能であり、また満州人警官の取締りも適切を欠く。満州国内匪賊の討伐は実験の結果に依ると、日本軍を用うるは決して適当でない。匪賊と良民の区別が困難であり、各種の誤解を生じ治安を悪化する虞が大きい。満州国の治安は実に満州軍が主として匪賊討伐にあたるようになってから急速に良くなったのである。満州国内の治安は先ず主として満州軍これにあたり、逐次警察に移し、満州軍は国防軍に編制するようにすべきである。
国兵法の採用により画期的進歩を期待したい。有事の日は、日本陸軍の主力は満州国を基地として作戦する事自明であるが、その厖大な作戦資材、特に弾薬、爆薬、燃料等は満州国で補給し得るようにせねばならない。満州国経済建設はこれを目途としている事と信ぜられるが、その急速なる成功を祈念する。糧秣その他作戦軍の給養を良好にするため北満の開発が大切であり、北辺工作はその目的が多分に加味されている事は勿論である。しかし日本軍自体もこの点については更に更に明確な自覚を必要とする。
ソ連が5個師団増加せば我もまた5個師団、10個師団を持って来れば我もまた10個師団を進めねばならない。それには迅速に兵営等の建築が必要だが、今日までの如き立派なものでは到底間に合わない。幸い青少年義勇軍の古賀氏の建築研究は着々進んでいるから、これを採用すれば必ず軍の要求に合し得るものと信ずる。浮世が恋しい人々は現役を去るが宜しい。昭和維新のため、東亜連盟結成のため、満州国国防完成のため、我らは率先古賀氏のような簡易な建築を自らの手で実行し、自ら耕作しつつ訓練し、北満経営の第一線に立たねばならぬ。新体制とか昭和維新とか絶叫しながら、内地式生活から蝉脱出来ない帝国軍人は自ら深く反省せねばならぬ。我ら軍人自ら昭和維新の先駆でなければならぬ。それがために自ら今日の国防に適合する軍隊に維新せねばならぬ。北満無住の地は我らの極楽であり、その極楽建設が昭和の軍人に課せられた任務である。
(昭和16年2月12日)
 
戦争遂行スローガン

 

八紘一宇(はっこういちう)
「世界一家」を意味する語。戦時中の大日本帝国では、「日本を中心(一宇)に、世界(八紘)を統合すること」の意味に便用され、戦争遂行スローガンとなった。
日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した超国家思想をもつ田中智學が1903年(明治36年)、日蓮を中心にして、「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、「日本書紀」巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。
この八紘の由来は、
九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也–[淮南子]地形訓–である。本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。
日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。日本の降伏後にGHQに占領されると、神道指令で、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止された。1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことであると定められた。
八紘一宇の説明として、日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、としている。また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明されている。また、1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永光は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明、1983年(昭和58年)1月衆議院本会議で、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明した。
Tanaka Memorial(田中上奏文)を歴史的真実として東京裁判冒頭から判決を導く裁判を進めていた検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、-1930年に先立つ10年の間- これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、清瀬弁護人は「秘録・東京裁判」のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。また、元高校教諭上杉千年は、仲間内の講演会で「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。また、八紘一宇の思想自体に問題があるのではなく、軍部が都合よく利用したことが問題とする声もある。
国柱会(こくちゅうかい・國柱會)
元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる独自の国粋主義運動で知られる。国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。日蓮を末法の世に現れた本化の上行菩薩であるとし、その宗旨、妙法蓮華経による宗教であることから、本化と妙法をあわせて正式名称を「本化妙宗」と称している。また、智学の造語であり、戦前日本における国家主義のスローガンに多用された「八紘一宇」という言葉を最初に標榜したのは国柱会であった。
智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言する。1885年(明治18年)には修行の正範である「妙行正軌」を定め、仏教史上はじめてとなる結婚式(本化正婚式)を正式に導入した。1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表。1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化宗研究大会を開催し、智学はその中でも神武天皇御陵の前で講演した「皇宗の建国と本化の大教」において「王仏冥合」、祭政一致の思想に開顕したとされる。
1914年(大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改名。「国柱会創始の宣言」が智学より発せられる。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。会員であった作家の宮沢賢治もこの時、法華経による文学、国体による文学の活動に感化された。1923年(大正12年)には政治活動として「立憲養正会」が結成され、国柱会の根本教理である「国立戒壇」建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布と宗教革命を目指した。智学の次男・田中澤二が総裁に就任したが帝国議会の議席獲得には至らなかった。1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。また、宮沢と同じく著名な会員であった帝国陸軍・石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、ひいては石原が関東軍参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、智学も満州に渡っている。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日連系諸教団の中でもエリート主義と目され、有数な著名人が会員であったことが知られている。
昭和期・戦後 / 1928年(昭和3年)に、智学の念願であった法華経の宝塔を彷彿とさせる壮大な「妙宗大霊廟」を東京・一之江に創建し、「私の卒業論文」と言わしめた。同年、日蓮650年遠忌を契機として「祖廟中心・宗門統一」をスローガンのもと「身延登詣団」を結成し、現在でも毎年続けられている。1939年(昭和14年)に智学が示寂し、智学の長男・田中芳谷が次代総裁に就任。1945年(昭和20年)、戦災によって本部講堂を消失、また敗戦に伴い勢力は著しく減退した。現在も「純正日蓮主義」を掲げ、国粋主義を掲揚する団体として独自に活動を行っているものの、戦後、日蓮正宗や創価学会など他の日連系教団に「国立戒壇」などの思想を流用されたり、その独自の右翼思想も時代に埋没してかつての活況を見せていない。
思想・信仰 / 江戸時代に始まった寺檀制度によって形骸化された宗門の一新を目的とした在家教団であり、国柱会はこうした宗門の革新運動を原点とする。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、ひいては法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一のための宗教革命を基本理念とし、皇祖天照大神を法華経に出現する久遠実成の本仏と同一視して崇拝するため、日蓮仏教の中でも特色のある全体主義史観を有している。また、智学の思想に基づき、全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべきという主張も有する。なお、本化妙宗としての個別の信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。日蓮聖人門下連合会加盟団体でもある。
五族共和(ごぞくきょうわ・五族協和)
1912年に中華民国が成立した際に唱道された理念で、中国国内の主な種族である漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の5種族が協同して新共和国の建設に当たることを意味する。孫文ら革命の指導者たちは中華民国成立以前の清朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべて奴隷的地位に圧迫されていたとし、五族が平等の立場にたち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人によって保証しようというスローガンを唱えた。
しかし、清の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベットの実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であることを主張するに至った。
つまり、五族共和の実態とは、漢族を中核にして旧清朝皇帝臣下であった全政治集団治下の民を、新たな中華民国の国民に再組織化するためのスローガンに他ならなかった。この中華民国の国家戦略は中華人民共和国にも引き継がれ、現在は漢族と55の公認された少数民族からなる中華民族が、古代からの中国の分割不能な国民であるとする公式見解へとつながっている。
大東亜共栄圏
欧米諸国(特にイギリス・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、大東亜戦争(太平洋戦争)において日本が掲げた大義名分である。
日本・満洲国・中華民国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。但し、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義など当初必ずしも明確化されてはいなかった。しかし「共栄」とはともにさかえるとよみ、日本人が侵略ではなく「共に栄えたい」という思いが読み取れる。仮に敗戦に至ったのは何故かとすれば、それまでの連合国各国の実情、歴史を理解することができるだけの、教育制度、国同士の外交がとられなかったからだという可能性がある。
用語としては岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、昭和15年(1940年)7月に近衞文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する松岡洋右外務大臣の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては昭和16年(1941年)1月31日の「対仏印・泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて昭和13年(1938年)には「東亜新秩序」の語が近衞文麿によって用いられている。
大東亜共同宣言 / 昭和16年(1941年)に日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告をして大東亜戦争が起こり、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏を対外的な目標に掲げることになった。昭和18年(1943年)には日本が占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択された。
ナチズム(ファシズム)との関係 / 昭和13年3月17日には近衛内閣が提出した国家総動員法案に対する討議中、社会大衆党の西尾末広議員が演説の中で「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、スターリンの如く」勇往邁進すべしと近衛を激励したことが問題となって、23日には同議員が議員を除名されるという事件がおこっている。この事件は政民両党が軍部の強い圧力で結局しぶしぶながら国家総動員法案賛成を表明せねばならぬ場面に追い込まれていたのに対し、社会大衆党は当初から積極的に法案に賛成し、ひとり近衛内閣の与党の如く振舞ったので、政民両党が言葉尻をとらえてその報復を試みたものといってよいであろう。社大党は国家総動員法を「社会主義の模型」ととらえていたのである。
大東亜共栄圏の実態と評価 / 大東亜共栄圏の目的は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放、独立させ、現在の欧州連合のような対等な国家連合を実現させることであった。*上段画像参照 大東亜宣言には直接植民地にしない「相互協力・独立尊重」などの旨が明記されている。(独立尊重とは、民族自決権である)
一方で日本軍占領下で独立を果たした国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国、満州国)の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、いずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権または属国ともいわれている。現在のアメリカが世界に展開してる軍隊の駐留や政権・資本主義経済による文明・文化・宗教の服属化のそれと近い。
このため、ソ連に対する東欧諸国のような民族自決権を認めない事実上の植民地(衛星国)やナチス・ドイツがアメリカやロシアに対抗するために超大国となるべくドイツ帝国を模った領土拡大を目指した生存圏の獲得や、中華人民共和国の行う周辺民族への軍事的弾圧と民族同化主義による領土拡大とは違い現在のアメリカが日本や韓国に対して強いるそれと同様に宗主国たる盟主へのための収奪的経済ブロックと宗教圏の確立を目指したものであるという見方ができる。また、日本政府での大東亜共栄圏諸国に対する外交の管轄は外務省ではなくイギリス植民省をモデルに新設された大東亜省であったというのも万国公法から見える帝国主義的藩属体制の典型的な統治方といえる。
特に、フィリピンとビルマには既に民選による自治政府が存在しており、日本軍の占領下に置かれたことで実質的な独立からはむしろ遠ざかったという見方もある。日本軍占領下にあっては選挙等の民主的手続きは一切行われず、政府首脳には日本側が選任した人物(つまり、親日的、協力的な人物)が就任していた。また、昭和18年(1943年)5月31日に決定された「大東亜政略指導大綱」ではイギリス領マラヤ、オランダ領東インド(蘭印)は日本領に編入することとなっていた(ただし蘭印については、戦争末期の小磯声明で将来的な独立を約束した)。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦(仏印)では、日本軍占領下(仏印進駐)における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの昭和20年(1945年)3月9日まで承認していた。
日本軍は占領地域に対して実質的な独立を与えぬまま敗北し、日本占領下において日本語による皇民化教育や皇居遙拝(ようはい)の強要、人物両面の資源の収奪などが行われたことから、日本もかつての宗主国と同じか、それ以上の侵略者、搾取者に過ぎなかったという見方がある。一方で日本軍が宗主国勢力を排し、現地人からなる軍事力を創設したことが独立に繋がったという評価や、日本軍占領下で様々な施政の改善(学校教育の拡充、現地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限など)が行われたため、特に350年(全域支配されていたわけではないが)も統治しながら現地人の識字率が全人口のわずか4%にとどまっていた蘭印におけるオランダなど旧宗主国に比べれば日本はよりましな統治者であったという見方もあり、その功罪に関しては今なお議論が続いている。現地有力者も、日本を「独立の母」ととらえる見方から、(皇国史観教育や日本語教育などについて)「文化的侵略者」ととらえる見方まで、様々である。大東亜共栄圏そのものには賛成だが、八紘一宇には、日本文明的な思想(神道や皇国史観など)、日本文化的な習慣を押し付けられるという理由から反対だったという声もある。
日本の敗戦 / 大東亜共栄圏は崩壊し、旧宗主国(オランダ)が植民地支配の再開を図ったが太平洋戦争を機会に独立心が芽生えたアジア諸国では独立運動が行われ、インドネシアやインドシナでは武力衝突が発生した。しかし、日本軍政時代はデヴィ婦人で有名なスカルノ元大統領のその後に多大な影響を与えた。
日本軍はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放しオランダのキリスト教主義によって弾圧されていた現地のイスラーム教徒(*インドネシアはイスラム教国)を解放、1908年より自立形成されてきたインドネシア共和国の国家民族の独立を大いに助け戦後、再度植民地に乗り出してきたオランダとも独立戦争を戦う事となり日本軍政時代以前のオランダによる峻烈な植民地搾取の脅威から、インドネシア民族による祖国独立を目指す人々の戦意は高かった。
そのため、現在のインドネシア共和国は祖国が再度外国によってバラバラに支配されないように日本帝国を見習った共和国体を国家形成として参考にしているという。またこの独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族主義者が掲げた理念(独立宣言)に共感し軍籍を離脱した一部の日本人2,000人(軍人と軍属)もインドネシア独立戦争に加わり、その結果およそ1,000人が戦死した。
戦後、日本政府が経済力により強く主導権を発揮したことで、政治的にアジア諸国を纏めようとする背景から国内外から「大東亜共栄圏の復活」と揶揄されることも多くODAを多用した「ばらまき外交」に徹するトラウマの原因になったとの指摘もある。
皇国史観
日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観である。
南北朝時代に、南朝の北畠親房が著した「神皇正統記」が、皇国史観の先駆である。江戸時代には水戸学や国学で皇国史観の基礎が作られ、幕末になると尊王攘夷運動の過程で強化された。
薩摩藩・長州藩などの下級武士を中心とした勢力が、天皇の権威を利用して新政府を確立したのが明治維新である。「文明開化」と「富国強兵」を推進する明治政府は、「神国日本」を掲げる皇国史観を、正統な歴史観として確立していく。近代国家に必要な政教分離、信教の自由、学問の自由を意識はしたが、実際は祭政一致をかかげ国家神道を国教とするのを基本政策としたのである。自由民権運動への対抗もあり、1889年に制定された大日本帝国憲法では万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治することを明記した。翌1890年には教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布され、国民教育の思想的基礎とされた。戦前の国定歴史教科書は、神武建国につながる日本神話から始まり、天皇を中心に出来事を叙述し、歴史上の人物や民衆を天皇に対する順逆で評価し、天皇の気分や天皇の死で変わる元号で時代を区分した。又、戦前の学校では、宮城遥拝や御真影(天皇の写真)への敬礼も行われた。この風潮は、1930年代に強まり、第二次世界大戦で極限に達した。
1880年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし、1891年には帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。
その後、1920年代には大正デモクラシーの高まりを受けて、歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。
世界恐慌を経て軍国主義が台頭すると、1935年には憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が、それまで学界では主流であったにも拘らず問題視されて、美濃部が不敬罪の疑いで取調べを受け、著書は発禁処分となった(天皇機関説事件)。1940年には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり、著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。そして、第二次世界大戦が勃発すると、「世界に一つの神の国」と記載した国定教科書が小学校に配布された。
南北朝正閏論争 / 1911年には、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では、南朝を正統と唱えていた。又、幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論争以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
戦後 / 日本国憲法が施行されて思想・信条の自由が保障され、戦前に弾圧されたマルクス主義の唯物史観が復活して興隆した。これにより、皇国史観ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。又、「古代」「中世」「近代」「現代」といった名称も用いられるようになった。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れが発達する中で、皇国史観は超国家主義の国家政策の一環とし、「周到な国家的スケールのもとに創出されたいわば国定の虚偽観念の体系」(岩波ブックレット、1983年)と批判されて影を潜めた。
しかし近年では社会主義思想の衰退に伴って、唯物史観による発展段階論に基づいた時代区分への批判、戦後民主主義教育に批判的な新しい歴史教科書を作る会の活動(自由主義史観)など、皇国史観への見直す動きが一部にある。
 
石原莞爾批判

 

石原莞爾は軍人であって、まずそのとった軍事的手段について検討される必要がある。満州事変で夜盗・追剥のような手法で、広大な不動産を確保したといったところで、軍人または作戦家としての評価には値しない。
石原についてまず非難すべき点は、支那事変勃発時における判断の誤りである。全面戦争に訴える(ファルケンハウゼン)という蒋介石の意図を見誤り、陽動作戦にひっかかり当初部隊配置を誤ったことである。
支那事変勃発時、1937年7月18日、次のように語っている(田中新一陸軍省軍事課長談。石原が杉山陸相に述べたもの)。
「本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面にあてられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。この結果は、あたかもスペイン戦争のナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊を一挙に山海関までさげる。そして近衛首相自ら南京に飛び膝づめで日支の根本問題を解決すべきである」
これは程度の低い議論である。まず、本年度の動員計画とは参本が予算獲得のため年次計画をつくるもので、平時の机上計画である。戦争となれば、敵や作戦の情況によって新たな動員計画をつくるのは当然である。
石原は支那との全面戦争できないと断言するが、1937年の支那事変は全面戦争そのものであって、日本軍は勝利した。事実をもって石原の言は成立しない。
次にナポレオンの比喩はゲリラ戦についてであるが、1937年においてゲリラ戦のようなものは発生しなかった。近代軍にたいしてゲリラ戦で対抗するためには良好な補給網をもつ必要がある。華南の交通はクリークを利用した舟運であり、ゲリラ戦ができるところではない。この段階では石原は、蒋介石の上海包囲作戦をまったく見通すことができなかった。
山海関までの撤退とは天津軍をさげることである。天津軍は北清事変の講和条約によって、北京公使館地区の護衛のため駐屯が認められたものである。このときでも仏軍や伊軍は駐屯を継続していた。日本だけ責任を免れる(ただし居留民を犠牲にして)ことが得策だろうか?
最後の首脳同士の話し合いというのは論外である。ヤクザのトップ会談の決着のように外交は進まない。このとき日中間には満州国問題があった。さらにいえば、日本は中国全土を占める独裁政権樹立阻止を外交目的としていた。
懸案事項が解決されてトップは親密になれるのであって、ただ話をしても意味がない。
1937年8月18日16時すぎ、軍令部長、続いて参謀総長参内のとき天皇は次のように下問した。
「戦局漸次拡大し上海の事態も重大となれるか青島も不穏の形勢にある由 かくの如きにして諸方に兵を用ふとも戦局は長引くのみなり 重点に兵を集め大打撃を加へたる上にて我の公明なる態度をもって和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや 即ち支那をして反省せしむるの方途なきや」
これに対して石原莞爾は、参謀総長に次のような意見を述べた。
陸軍兵力の一部を上海に、又要すれは青島に派遣して居留民の現地保護に任せしむ
北支に対しては更に若干師団を動員増加(要すれは南満に控置す)し北部河北省及察哈爾省の主要地を占拠し敵か北上攻撃し来るあらは之を迎撃す
前二項の態勢において戦争持久の場合に対処することとし何等かの関係によりて生ずる講和の機を待つ
戦争の結末を求むる為に海軍の強力なる対南京空爆の成果に期待す
日本の陸軍参謀本部作戦部長の天皇の希望に対する発言がこれである。河北省は察哈爾省には軍閥軍しかおらず、ここに陸軍を置いて、「何等かの関係」で講和の機運が生じるだろうか?講和とは戦局の変化によって生じるのであって、迎撃するために待機するとは、戦略的にまったく意味がない。
石原莞爾は蒋介石がイニシアチブをとり先制攻撃してきた事実をなんとしても直視したくないようにみえる。この当時の参謀本部若手にとり石原莞爾は出世した英雄であったためか、部内ではあまり論難されていないが、そのそも石原のソ連脅威論は実効のあるものだろうか。そのあと中国には総計40個師団内外を派兵したが、このときを除いてソ連配備の関係から中国への派兵量が論じられることはなかった。
海軍航空に期待する議論は当時の軍事界の流行ではるが、結果としては謬論である。当時の爆撃機は地上砲火に脆弱であった。96式陸攻は大きな被害を受けた。海軍をためにする議論としか思えないのだが。
8月31日、石原莞爾は近藤信竹軍令部第1部長を訪ね、次のように申し入れている。
上海方面には兵力をつぎ込んでも戦況の打開は困難である。(せいぜい呉淞-江湾-閘北の線くらいであろう)北支においても作戦は思うように進捗せず、このようでは、われの希望しない長期戦になろうとしている。
陸軍統帥都としては、何かのきっかけがあれば、なるべく速やかに平和に進みたく、ついては平和条件を公明正大な領土的野心のないものに決めておきたい。陸軍大臣は誰に吹き込まれたのか、穏和な平和条件には満足しないようである。
両統帥部で条件決定を促進したい。参謀総長は自ら陸軍大臣に話してもよいと言われている。陸海軍両次長の懇談により大綱を決めたい。国民は戦時体制になっているのに軍部は平時のままになっているので、大本営設置に進みたい。
事実は上海方面に兵力をつぎ込むことにより、戦局は日本軍有利に転換した、石原の観測は軍人とも思えぬ誤ったものである。
この時点で杉山陸相に固執すべき講和案があったとは思えない。講和とは戦局が決定的にならねば機運が生じないのは自明である。蒋介石から攻められたことがまだわからない石原莞爾は日本が「寛大な」講和条件を示せば、戦争が止み、講和できると考える平和ボケした男であった。
9月27日、石原莞爾は関東軍副長に更迭された。石原を嫌う東條英機が参謀長にいたため制御できると考えられたのであろう。そのあと第16師団長に板垣陸相が「強訴」したので親補されたが、直後予備役編入となり、軍人としての生命を終えた。これらの発言は支那事変初動に関するものであるが、国家が侵略をうけたとき、何をせねばならないかという点で危機管理の悪例を残した。
関東軍参謀に左遷され、その後、板垣陸相によって第16師団長に栄転した石原は、そこで竹田宮から支那事変初期の処置について質問を受けそれに答えている(『現代史資料9日中戦争2』「石原莞爾中将回想録」みすゞ書房)。

一般ノ空気ハ北支丈ケデ解決シ得ルダラウトノ判断ノ様デシタガ然ツ私ハ上海二飛火スル事ハ必ズ不可避デアルト思ヒ平常カラソウ言ツテ居ツタノデアリマシタ
抑々上海二飛火ヲスル可能性ハ海軍ガ揚子江二艦隊ヲ持ツテ居ル為デアリマス 何トナレバ此ノ艦隊ハ音支那ガ弱イ時ノモノデ現今ノ如ク軍事的二発展シタ時ニハ居留民ノ保護パ到底出来ズ一旦緩急アレバ揚子江二浮ソデハ居レナイノデアリマス
然ルニ軍令部ハ事変ガアル前二之ヲ引揚ゲルコトガ出来ナカツタ為事変後軍艦ヲ下航セシムル際漢ロノ居留民ヲ引揚ゲシムルコトトナリマシタ大体漢ロノ居留民引揚ハ有史以来無イコトデアリ若ツ揚子江沿岸ガ無事二終ツタナラバ海軍ノ面子ガナイコトニナリマス
即チ今次ノ上海出兵ハ海軍ガ陸軍ヲ引摺ツテ行ツタモノト云ツテモ差支ヘナイト思フノデアリマス
ソレカラ私ハ上海二絶対二出兵シタクナカツタガ実ハ前二海軍ト出兵スル協定ガアルノデアリマス其記録ニハ何トアツタカハ記憶シテ居リマセソガドウシテモ夫レハ修正出来ナイノデ私ハ止ムヲ得ズ次長閣下ノ御賛同ヲ願ツテ次ノ様ナ約束ヲシタノデアリマス
夫レハ海軍ガ呉淞鎮ト江湾鎮ノ線ヲ確保スル約束ノ下二必要ナルニ至レバ速カニ陸軍ガ約一ケ師団ヲ以テ同線ヲ占領スルコトトシタノデアリマス
更二参謀本部デハ要スレバ青島二当テテアツタ一ケ師団ダケハ持ツテ行ク裕リヲトツテ置ク考ヘデアリマシタ

これは虚言の塊である。この当時、英米仏も揚子江に砲艦を派遣していた。『和泉』が上海飛び火の原因というのは言うに事欠く虚言と言わざるを得ない。「飛び火」とは軍事用語ではない。軍人は「飛び火」したならば、誰が飛び火させたのか考えねばならない。
攻撃された自国軍(海軍)があって、その原因は、自国軍が砲艦を遊弋させていたからだという珍説は、単なる大アジア主義者の謬見ではなく、石原には日蓮宗≒儒教が根底にあり、中華主義(=中国は全部正しい)から離れることができなかったからであろう。 
石原莞爾は、自ら自分を批判することは簡単だといい、次の点をあげる。
西洋=覇道、東洋=王道という分類、これほど単純か。
最終戦争論 戦争で絶対平和(世界の政治的統一)が達成される。なぜ戦争か。
持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)が交互に発生する。実証的でない。
最終戦が日蓮宗により説明されているがおかしい。
以上のことは1941年の段階で疑問点として照会され石原が自ら回答を書いている。つまり戦争の敗者は普通、戦後の秩序を前提に批判さるが石原の論はすでに太平洋戦争勃発の直前に概ね周辺の人々により疑問視されていた。今日の目からみて当時の疑問はいずれも正当だろう。
つまり石原の論はその時代でかつ特定地域しか受け入れられない議論の範疇にも入らないのだ。つまりその時でも陸軍の一部にしか通用しない議論だった。
歴史上有名人の行った議論の普遍性欠如の原因はかなり定型的である。一つは人種・民族・特定グループ(職業または階級・性別・信心・収入・疾病など)差別または攻撃を伴うことである。また、自然科学で未解明のことを予言的に議論することである。これは仮説をたてることだから、科学者は普通のことだが基礎的教育のない政治家や軍人・官僚また僧侶が叫ぶと独断に陥る。この二点が、概ね失敗の原因だ。
石原はアジア北部人種が世界で最も優秀な民族集団とみなしていた。とくに中国人をそのようにみていたようだ。そしてロシア人は無知蒙昧な種族だとする。アジア北部人種とは日本、朝鮮、中国、モンゴル、満州をさしいわゆる五族協和の五族である。このあたりは満州国設立の張本人だからそう主張したのかもしれない。
満州の帰属が当然中国(国民)に属するという見解を石原はとらなかった。これは理由のあることだ。忘れられた大義であるが、満州の東半部は朝鮮族の故地だった。高句麗の4世紀ごろまでの首都丸都は満州にあった。そして高句麗の遺民が建国したと推定される渤海国は満州を基盤としている。その後も女真族による支配まで再三朝鮮族は満州を支配下に置いている。
満州を中国の現政権の指図に従属し東北と呼んで恥じない人々はこの点をどう考えるのだろうか。ともあれ満州は1948年まで漢民族の全面支配に入ったことはない。地名について言えば中国(共産)政府が満州をあたかも以前から漢民族の支配する地域の一部のように東北と呼び、満州族の定めた地名奉天を明時代のあまり使われなかった地名審陽に戻したりすることに納得できない。(国民党政府は東三省と称す)これは先住民の地名は残すべきで権利を尊重すべきと思うからだ。英語はマンチュリアで満州からの地名を維持している。固有名詞について、対象となる国におもねる必要はない。
そのうえ辛亥革命(第1革命)時、アメリカを除き各国とも中国(袁世凱)が大清帝国の継承国家と認めていなかった。中国(袁世凱)は清国旧債や既条約について継承を拒否していた。満州が漢民族に当然属するという見解は万里の長城が存在する以上歴史上難しい。石原は北満無住者地帯論を唱えるが、そこに無理があるとは思わない。
ところが第2革命の時、日本政府は満州が中国に帰属することをを含み(決定的表現ではない)袁世凱政府を承認した。つまり石原らによる満州傀儡政権樹立は日本の承認した行為と矛盾した。また背後に隠れる問題は日中外交は近代外交のルールに乗らず、当事者主義に則るべきだ、という安易な東洋的逃げ道である。中世的中華秩序や王道による外交とは何だろうか?リットン調査団で真実を暴かれ、逆上して国際連盟脱退という方法を選ぶ前に正々堂々と国際ルールに依拠するやり方があったのではないか。これからも噴出する子供っぽい軍人の謀略と言えばそれきりだが。
ただ石原の上司板垣征四郎の発言、「満州人といったって人口の数パーセントに過ぎず、溥儀をたてるのは時代遅れだ」というのは現実の認識としては正しいのだろう。ただ、この考え、すなわち多数派の人口で領土を決めることを単純に認めるわけにはいかない。例えば漢族の流入は満州だけに止まらなかった。尼港事件のニコライエフスク(樺太の間宮海峡を隔てた対岸)の漢族人口はその事件が発生したとき日本人人口の数十倍ありロシア語を喋るロシア人を上回った。そしてこのシベリア居住の中国人は1939年までにスターリンによりほぼ絶滅させられた。この事件は中国国内の生活苦による流民の発生も一因だ。流民によって領土の帰属が決まるとすれば難民を暖かく迎える国はなくなってしまう。
石原の基調をなす点は北部アジア人種が、ヨーロッパ人種にたいし優越するので現状打破の点から最終戦争に導かれ、最終的に世界は日本の指導下に置かれるとする。これにより大アジア主義が根本として人種差別意識に基づいていることがわかる。
そして、以降の統治の基本をなすのは農本主義とする。これは人口を農村に集めすべての人間に耕作を義務つけ、副業として工業をやらせるというポルポト張りの施策だった。これは緑の革命という農業革命が起きたことがわからず、労働生産性の向上、肥料、種子の改善を石原は理解できないことによる。現在でも耕地面積の縮小が収穫の減少ととらえる人は多いが。残念ながら現場にいるよりは大学の農学部に行ったほうが良い。これは社会科学でなく自然科学だ。現在先進国で専業農家の総所帯に占める比率はどこも5%以下だ。
社会科学たとえば歴史学、経済学や軍事学はナポレオンが言うように素人にチャンスは十分ある。しかし自然科学では基礎の教育が無ければ、発言権はない。ところが例えば毛沢東もこの単純なことがわかっていなかった。雀撲滅運動や土法鉱炉という自然科学軽視は軍人的人物の方が陥りやすい。日本の戦時生産をみればわかる。日本以外は第2次大戦で戦闘機の生産は全て文民が責任者だった。もちろん、科学的知識によって得られた物の使用方法やその優先順位は、科学者とは直接関係しない。
以上はよく知られた石原の謬点だ。ところが軍事論も無視できない誤りがありかつ興味を引く点だ。
石原は戦争を持久戦(長期戦)と決戦戦(短期戦)に分類する。
そして決戦戦は殲滅戦であるとする。そして第1次大戦のシュリーフェンプランは、小モルトケが右翼の比重を落としたことで失敗したという。そうだろうか。
まず石原はドイツ右翼を第1軍(クルック)から第4軍(アルブレヒト、ウユルテンベルグ公)までとする。通説は第1軍から第3軍までを右翼とする。それは定義の問題で重要ではない。そしてマルヌ戦前の実際のドイツ軍右翼の総兵力を約21個軍団だと言う。
これは実際は16個軍団だった。第1次大戦で日本の観戦武官はフランス側だったから戦中にドイツ軍右翼の編成を知ることはできなかった。石原の数字は1921年から2年ドイツ国防軍に留学した際得た数字だろう。そして石原は偽りの数字をつかんで来たのだ。ただ作戦重点の軍でも1個軍が5個軍団以上保有することはまずないから、石原は疑問に思ったに違いない。それが約という言葉に表れたのだろう。
別に、シュリーフェンの原案ではオランダの中立をも侵犯する計画だったと石原は見抜いたことを自慢している。だが最近のシュリーフェンプランの研究では案自体は大きいもので6回見直され、全てのバリエーションを入れれば64通り存在した。すなわち共通国境通過、アルデンヌ通過も含めあらゆる可能性が検討されていたのだ。ロシアだけと交戦する計画は忘れられていたが、これだけの大掛かりな計画でバリエーションを研究するのは当然だろう。この委細についてもドイツ側は石原に教えていなかったのだ。
そして、フランス軍の作戦重点がロレーヌにあったという。しかしこれも量から言えばアルデンヌだろう。つまりロレーヌにもフランス軍は攻めたがそちらは陽動だった可能性が強い。ところがフランス軍はロレーヌを主攻としなければシュリーフェンの思惑通りになったとは言えない。このためドイツ人はシュリーフェンの無謬性を主張したいがためにロレーヌ主攻説をとる。ここでも石原はドイツ参謀軍人に乗せられている。
このような偽りのドイツ側証言にたって第1次大戦持久戦論を展開している。すなわちシュリーフェンプランがシュリーフェンの言うと通り行われなかったから持久戦になったと。実際はシュリーフェンの言うようにするとフランス軍が緒戦でドイツ軍右翼を殲滅したかもしれない。第1次大戦で機関銃を始め防御兵器が向上し長期戦となったのは事実だ。しかし長期戦、短期戦が交互に来るとか、短期戦が死滅したというのは一般化できない。戦争結果が必然というのはまずない。いわんや様相が必然というのはとてつもない誤りだ。石原は中隊長程度で政治的陰謀をめぐらすのは得意だが1軍を率いさせてはいけないことがわかる。
もっとも酷評かもしれないが東條は中隊長も危ない。吉田茂が日露戦争のときの日本の将軍と比較して第2次大戦の陸軍軍人との懸隔の激しさを指摘している。それでも硫黄島の栗林中将のような名将もいた。とにかく人事の名人が参謀総長になってはいけないのだろう。
それでも石原はこの時の日本の参謀将校の例にはずれて連合国の最終攻勢については攻勢防御と攻勢移転について正しい判断を加えている。これは陸軍の公式文書ではまずみられない。
一般的に第1次大戦の旧軍の記録でドイツ側の証言にたったものは史実に反するものが多い。つまりゼークト参謀本部は日本軍人など騙しにかかっていたのだ。この時ドイツ参謀本部は蒋介石と密接だったから当然だろう。反面、英仏側の証言は極めて正確である。同盟というのはそういうものだ。ところが東條、永田ら幼年学校=陸大組みを筆頭にドイツに傾斜して行く。
石原は最終攻勢についてフォシュの功績としている。ドイツ留学の関係からフランスについては情報が入りにくくペタンが落ちているのはやむを得まい。ただいわゆるフランスのエラン(鋭気)については正しく理解しているのだろうか。石原は日米の重巡同士では精神力にまさる日本が強いという。これは水兵の砲術能力などが上回るという意味だと思うが、フォシュの言う敵に優る精神力はこのような意味ではない。例をあげれば戦争の勝敗はどちらかの司令官が敗北を認識したら決まるというのがある。
唯物論者はこれをとんでもない観念論だと一蹴するが、果たしてそうだろうか。第1次大戦のドイツの敗戦はルーデンドルフの敗北認識または停戦を利用した謀略が最大の原因だったのではないか。これには異論があるかもしれない。しかしユトランド海戦で逃げたドイツ外洋艦隊はやはり被害を多く与えても負けではないのか。すなわち負けるという認識は戦況が不利なことで生じる。しかし決戦場面では彼我ともに膨大な被害を受けている。最後どちらかが継戦が無理だと感じるのはやはり将領の頭脳にある。1914年のマルヌでジョフルはフロンティアの戦いであれほどの損害をうけながらあくまでフランス軍とフランスに自信をもっていた。1918年のルーデンドルフは、連合国の最終攻勢でドイツ軍とドイツに自信をもっていただろうか。銃後の反乱とか初年兵がノロマだとかあげくのはては同盟国が信頼できないなどジョフルは決して言わなかった。
ジョフルはBEFのフレンチが海峡を渡って帰ろうとしても、イギリス人は自ら名誉を毀損することはしないことまた友好関係は決して崩れないことを信じていた。それでも戦術家・参謀としてはルーデンドルフはジョフルより優秀かもしれない。だがそういう問題ではない。
つまりエランの発揮されるのは兵や参謀ではなくて将領の方なのだ。日本の陸軍は日本の兵卒の精神力が優れていることを主張する。しかし必要なのは将領の精神の涵養だ。そしてエランの本質は将領が目的を一つに絞り込むことだ。
そして陸士16期以降は石原のようにドイツに留学させられる。そこで学ぶのが偏頗な知識に基づく軍事学と唯物論=社会主義だった。このときドイツは戦争の敗北を将領にではなく兵卒と銃後に求めていた。そしてこれは唯物論に十分な根拠を与えた。そしてフランスへの観戦武官の多くは宇垣軍縮とともに陸軍を去っていった。
石原は王道楽土を満州に求めた。そこを問題にしてはならないだろう。満州が先住民のものか、多数派の流民のものか、軍事的優越者のものか、地球上の全ての土地のようにわからない。ただ、差別をすれば満州国民は生まれない。そして差別が無くなれば、満州国は成立しない。解決方法はあるかと問われればあるだろう。民族浄化と強制移住だ。もちろんこれはできない。日本の君主制はそれを許さない。しかし中国(共産)がチベットで現在これを実行中である。
張作霖爆殺事件に始まるテロ、陰謀そして長期にわたる目的のない政治工作・戦争のうち、たしかに石原の進めた満州事変だけは勲章や栄達、要するに人事抗争とは無縁で目的も明確だった。しかし、この状態で非道を繰り返す北部アジア人種がどうして王道種族なのか。そして王道が武力によらず友好関係による調整だとすれば、満州事変によるヨーロッパにある友好国との関係破壊は無視できないだろう。
自分達またはそのグループが何らかの点で優れていると思うことは自然だ。しかし日本は明治から軍事でも経済でもそのことを常にデモンストレートしているではないか。日本の現代史はそのことの究明にあるといってよい。このうえ、世界に冠たる必要があるのだろうか。石原はあると考えた。それが魅力かもしれない。
また石原の大アジア主義の根幹をなす東亜連盟(日満支同盟)という外交政策について言えば、その実現性にたいする当然の批判はともかく従来の外交政策について変更する必要を認めたのは確実だろう。当時(満州事変前)日本の外交政策はドイツ人に「棄てられた女房(イギリス)に未練を残す男やもめ。」と揶揄されたという。
このとき外交政策としては3通り考えられた。
英・米を基調とするゆるやかな協調方針
ドイツまたはソ連との同盟
非同盟で東アジアに割拠
1番は幣原が追及した方針。2番は広田が追及した方針。3番は石原が主張する内容だ。石原は宗教的またはイデオロギー的考えから自由主義の英米と共産主義のソ連とは同盟できないとした。
そして前提だが、戦間期一貫して同盟者としてアメリカを追及したのはイギリスだけだということだ。現在までに公開されたイギリスの外交文書によればほとんど毎年のようにイギリスはアメリカの戦時におけるコッミトメントを求めている。これに孤立政策からアメリカは一切の言質を与えていない。日本はイギリスのようにドイツという脅威がない。石原はスターリンの5ヵ年計画の成功による工業力強化と極東軍事配置増加に警鐘を鳴らしている。そしてそれは的中した現状把握だった。
歴史では日本は防共協定締結(1936年)のときにドイツとの同盟を選択した。ドイツの言う通り日本は満州事変勃発(1931年)からおそらく5年間考える時間=男やもめの期間があった。石原は日本を盟主とする東アジア同盟でまず力を蓄え、アメリカとの最終戦争に臨もうとした。石原を嘲るのは簡単だ。しかし、不承認・不干渉・無約束主義を貫いている隣国アメリカとどうつきあえばよいのか。また経済ではアメリカは日本に興味があった。そしてイギリスは日本に経済的興味はない。
この前提で孤立した日本が、外交方針を決定することの困難さは同時代人でなければわからないのかもしれない。
外交官からみれば石原の大アジア主義は一部支那通を除けば、現実味のないものだった。満支両国が目先の紛争に何個師団送れるのか。そして政府は国内には大東亜共栄圏を言い自存自衛が国策だとした。しかし背後の裏付けはドイツの軍事力だった。
現在非同盟中立主義とか東アジア同盟を唱える人はなお存在する。それは戦前の外交官の失敗と同じではないのか。そもそも同盟というのはできてすぐ機能するものではない。第1次大戦のイタリーをみればわかる。それは場合によれば戦争で肩を組み、文化・経済で網の目のように交流し始めて機能する。英仏協商はもうすぐ100年を迎える。日米が安政の和親条約以来対立したのはこの150年間のうち僅か15年にすぎない。この枠組みを無視して新思考外交を展開するのは無理がある。また不幸なことにドイツは第2次大戦までソ連は現在も同盟が短期的相互利益を目的として成り立つと考えている。これはチンメルマンノート的誤りだ。同盟とは世界全体または大地域の安定に寄与するという側面を無視してはならない。またそれでなければ長続きしない。
満州事変は当時国民に人気のある戦争だった。恐らく小さい武力行使で地図上広大な地域を得たという頭が働いたのだろう。欧米諸国はおろか革命に忙しい中国(国民)やソ連も武力による干渉または経済制裁はできなかった。この事態はおそらく石原の予想を裏切るものだっただろう。だが当時の国民を納得させてかつ成功する外交政策は存在したのだろうか。 
ときどき石原の外交策が実行されたときを考えることがある。満州国を保護国とする大日本二重帝国が成立する。そして非同盟、対華不干渉を実行する。おそらく欧米の植民地は生き残り大陸では混乱が続くだろう。日本は大陸の大混乱を座視できないアメリカをあやそうとする。満州国では隠然たる不満が残り反乱が絶えない。日本経済は成長に失敗し統制経済に移行しようとしますます傷口を広げる。ソ連またはドイツの脅威は増大し国内の政争は収まるところをしらない。現在とどちらがよいのだろうか。
ここでは批判が中心なので石原の正しい論点についてはあまり触れなかった。しかし石原がルーデンドルフの問題点を昭和軍人のなかでは最も適切に指摘していることは特筆したい。
石原の論の根本はソ連警戒であり、また軍事的には上海で塹壕戦として膠着することを恐れたものである。この見解は当時の軍事認識として一級のものだと認めざるをえない。
第1次大戦を参考にして欲しい。塹壕戦としてすでに膠着したにもかかわらず、機動戦が展開できるとルーデンドルフですら1918年だが予期したのだ。
ただ現実に戻れば石原と昭和天皇は1937年7月蒋介石が設定した上海決戦をめぐり対立のピークに達した。石原はこのとき満州事変開始の帰結がこれだったと気づき動転した。攻撃されたにもかかわらず反撃する策を立案できず、また得意の謀略=私的外交、船津工作に走った。軍人にもかかわらず、この子供のような弱気を愛するべき否かは人によって異なるのかもしれない。しかし国家は攻撃されたならば反撃し、友軍が孤立したならば救援せねばならない。
昭和天皇は石原の無能を見抜き、すぐさま上海決戦に応じる処置を要求した。攻撃をしようとしている人間に交渉を行い取りやめを頼んでも意味がない。国家と個人は異なる。石原は得意の長期戦不可避論を展開し煙に巻こうとしたようである。昭和天皇は自然科学者であり石原のようなロマンチストではない。1937年9月27日、石原は作戦部長の地位をおわれ、二度と重要な役職につくことはなかった。

昭和天皇による石原莞爾批判
〜『文藝春秋』2007・4月特別号「小倉庫次侍従日記」解説半藤一利
昭和14年7月5日「后3・30より5・40位約2時間半に亘り、板垣陸軍大臣、拝謁上奏す。直後、陸軍人事を持ち御前に出でたる所。「跡始末は何【ど】うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁、御前を退下す。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心止【とどめ】らせらざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願ひ、他は明日遊ばされ度き旨言上、御前を下る。今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加へさせられたるが如き御気色を未だ嘗て拝したることなし(この点広幡大夫にのみ伝ふ)。
板垣征四郎は、東京裁判で刑死するまで石原信者であった。板垣がもちだした陸軍人事とは石原莞爾の第16師団(京都)長補任に係るものであった。「御独語」と書くが、じっさいには板垣にやめるよう面罵したのであろう。そして板垣は、いっさい喋らず、天皇が黙ったところで退出する。残された天皇は立憲君主として裁可せざるをえなかった。陸軍人事とは陸軍省が所轄する「軍政事項」であり、統帥権とは関係がない。このときすでに、日本の(軍)官僚は「省内お手盛り人事」に明け暮れていたのである。
昭和17年12月11日「閑院さんの参謀総長で今井が次長であり、石原莞爾が作戦部長であったが、石原はソヴィエト怖るるに足らずと云ふ意見であったが、支那事変が始まると、急にソヴィエト怖るべしと云ふ意見に変った」
昭和天皇は蒋介石が上海陸戦隊を攻撃してきたとき、見捨てるのではなく反撃すべきだと石原に訴えたが、石原は臆病風に吹かれ拒絶した。石原にとってのソ連は口実でしかなく、内心ではスターリンに感心していたのである。 
 
先輩東條英機を侮辱した石原莞爾の受けた報復  
満州事変を起こし、満州国を作った発案者が石原莞爾で、実行したのが板垣征四郎。関東軍は、昭和6年(1931年)23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の軍を率いて、日本本土の3倍もの面積を持つ満州を占領。
満州国を作ったという歴史的な事実について、その善悪を言う前に、まず、日本という国が過去に何をしたか、私たちが知らないと、話にならない。ということで、近代日本に何が起きたか、何をしたか、それを知ろう!ということで、石原 莞爾を取り上げる。
石原 莞爾の生い立ち。
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として誕生。莞爾=にっこりと笑うさま。ほほえむさま。意味は(にこやかな様子)であるが、キレもの過ぎて、笑っている印象は少ない。長男、次男が亡くなり、莞爾が事実上の長男。四男は1940年6月に航空機事故で殉職。 五男は一歳で亡くなり、六男は昭和51年まで西山農場で暮らす。
幼年期は乱暴な性格。しかし利発な一面もあり、校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績で、また三年生の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また小児時代は病弱で、麻疹ハシカ、種痘を何度か受ける。近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は「陸軍大将になる」と言っていた。
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に合格し、ここでは総員51名の中で一番の成績。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などは不得意。
三年後、明治38年(1905年)には、陸軍中央幼年学校に入学。(陸軍幼年学校は、旧制中学1年から旧制中学2年修了程度に受験資格を与えた。)石原は、図書館に通って戦史や哲学、社会科学などの書物をよく読んだ。「国柱会」設立した田中智学の法華経に関する本を読み始めた。(「国柱会」=純正日蓮主義を奉じる宗教右派)また東京に在住していたため、晩年の乃木希典や大隈重信の私邸を訪問、教えをこうている。明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学。勉強は教室と自習室で済ませ、学科成績は350名中で3位、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は原隊復帰し見習士官の教官として厳しい教育訓練を行った。軍事学以外、広く哲学や歴史の勉学にも励んだ。南次郎(昭和9年、第8代朝鮮総督。内鮮一体化を唱え、1民族語の復活 2朝鮮語教育の推進 3創氏改名など進めた)からアジア主義の薫陶を受けた。
連隊長命令で、陸軍大学校を受験。陸軍大学校の受験科目:初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史など、各科目三時間または三時間半で解答する。石原は受験に対して、どうせ受からないと試験前は全く勉強しなかった。普段の部隊勤務をこなし、試験会場に一切の参考書を持って来なかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学。
今まで図書館で独学していた石原には、陸軍大学の宿題も楽にこなした。残った時間は、思想や宗教の勉強に充てた。石原の戦術知識は高く、討論でも教官を言い負かすことがあった。大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。(北越戦争=戊辰ボシン戦争:薩摩藩・長州藩の新政府軍と、奥羽越列藩同盟(旧幕府勢力)が戦った日本の内戦)
石原莞爾「卒業論文」ポイントは、長岡藩兵は継之助の巧みな用兵により、新政府軍の大軍と互角に戦ったが、長岡城を奪われた後、逆襲に転じ、夕刻、敵官軍の意表をついて八丁沖渡沼作戦を実施し、長岡城を奪還。これは軍事史に残る快挙“河井継之助”の小を以って大に勝つ作戦である。
昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領。アイディアは石原莞爾、実行統率が板垣征四郎と考えられる。
二人の関係を表すエピソードがある。
参謀部の北満演習旅行があったとき、 このとき石原莞爾は「戦争史大観」の講演を行い、板垣大佐をはじめとする関東軍参謀の面々が聞いていた。その日の夜、石原がホテルの寝床でふと目を覚まし、トイレにたったとき、板垣大佐の部屋の窓には明かりが灯っており、戸が半開きになっていた。明かりに誘い込まれるように板垣大佐の部屋に入ると、大佐は一心腐乱に何やら書き物をしている。
板垣「おお、君か。どうしたのだ。こんな夜更けに」
石原「板垣大佐、何を書いておられたのですか」
板垣「君が昼間の講演で語った戦略理論が、あまりにもすばらしい内容で深い感銘を受けたのでそれを忘れないようにと思って、要点を思い出しながら整理し、まとめているところなのだ」 
まったく先輩、後輩の垣根のない、板垣の純粋な心、素直な姿勢が見て取れる。
石原はこのとき「板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためのみと思っていた私は、この勉強があるのに感激した」と後に出版した「戦争史大観」に書いている。
満州国の建国スローガンは「王道楽土」「五族協和」。それが石原 莞爾の中で、満蒙独立論へ転向していく。日本人は、国籍を離脱して満州人になり、日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。冷静に考えてみれば、日本人が“欲”を出して独占を考えないで、五族の協力が可能なら「東洋のアメリカ」は理想の実現である。その実、裏では、石原独自の最終戦争、日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための「民族協和」であったと指摘する研究者もいる。
その後、満州国は日本の敗戦と共に、崩壊する砂上の楼閣であったように言われるが、「理想国家」を夢想した、人類の実験であった・・・という面も持っていた。
二・二六事件、昭和11年(1936年)の際、石原莞爾は、参謀本部作戦課長であり、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にあった。この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて、参謀本部へ登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため、登庁することができた。安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入り口で阻止したが、「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。
満州事変以降、関東軍は内地中央の方針を無視する態度が目立つようになった。1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう、石原莞爾は説得に出かけた。現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。
武藤章:(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。
盧溝橋事件=支那事変(日中戦争)開始時、1937年(昭和12年)7月には、ここでも参謀本部作戦課長の武藤などは、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは、反対に対中国強硬政策を主張。
石原は「早期和平方針を達成できない」と判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。
石原は、“戦線が泥沼化する”と予見して不拡大方針を唱え、在華ドイツ大使トラウトマンを介して中華民国政府との和平工作を行ったが、この石原莞爾の方針は当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢は反対し、参謀本部から関東軍の参謀副長として左遷された。これ以後、東條英機との確執は激しくなった。
石原莞爾は、昭和12年(1937年)9月に関東軍に戻り、参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。1940年(昭和15年)に満洲国から勲一位柱国章(勲一等瑞宝章に準ず)が贈られた。
翌年の春から、東條英機が関東軍参謀長に着任。東條参謀長と石原参謀副長は、満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。
東條 英機(明治17年(1884年)7月30日〜昭和23年(1948年)12月23日):日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将。明治38年(1905年)陸軍士官学校を卒業。大正元年(1912年)〜大正4年(1915年)陸大を卒業。
石原 莞爾(明治22年(1889年)1月18日〜昭和24年(1949年)8月15日): 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学 大正4年(1915年)〜大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。
石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。
気性の激しい石原莞爾は、東條の5歳年下であったが、以後、東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒、事ある毎に東條を無能呼ばわりした。一方東條の側も、石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原を「許すべからざるもの」と思っていた。東條の根回しにより、昭和13年(1938年)に石原は関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に左遷され、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長にされた。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。
以後、大学で講義したりの生活をしていたが、東條の指示で憲兵がスパイのように付きまとっていた。そのいちいち報告が東條へ伝わっていた。石原は、A級戦犯になるべき身であったが、体が病魔に冒され、免れた。A級戦犯の処刑昭和23年12月より長く生きたとはいえない昭和24年8月15日に病没した。
東條は、敵対するライバル、あるいは東條の意向に逆らう人材を徹底的に消していく話はいくつか聞く。その代わり、自分の意向に従う飼い犬同様な人材を重用した。東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称される。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄
田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、評判のよくない、且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因と思ふ」と名指しされた。田中隆吉(兵務局長)は、東條の腰巾着と揶揄され、戦後は一転、連合軍側の証人として、東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。富永は、東條の陸軍大学校教え子で、東條陸軍大臣時、仏印進駐の責任問題で、二人の将官が予備役編入処分される中、人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永は(戦況悪化で)フィリピンで特攻攻撃を命令、自らも特攻すると訓示したが、富永自身は病気(胃潰瘍)を理由に戦場離脱、台湾で温泉保養する。評判悪い男。帝国陸軍最低の将官との評価である。 
 
東條英機の遺書

 

遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは昭和20年(1945年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。
家族に宛てたもの
以下は長男英隆に宛てたものである。これは昭和20年9月3日。すなわち日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。

昭和二十年九月三日予め認む
一、父は茲に大義のため自決す、
二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし
逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)
以下は昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされるものである。この遺書は昭和27年(1952年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。

英米諸国人に告げる
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
日本同胞国民諸君
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
日本青年諸君に告げる。日本青年諸君各位
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
処刑前
昭和23年11月12日の死刑判決の6日後の11月18日、花山信勝師と面談時の遺書。

花山師と面晤(めんご)の機あるに依り左件を  東條
一、裁判も終わり一応の責任を果たし、ほっと一安心し、心安さを覚える。刑は余(よ)に関する限り当然のこと、唯(ただ)責を一身に負い得ず、僚友に多数重罪者を出したること心苦しく思う。本裁判上、陛下に累(るい)を及ぼすなかりしはせめてもなり。
二、裁判判決其(そ)のものについては、此(こ)の際言を避く、何(いず)れ冷静なる世界識者の批判に依り日本の真意を了解せらるる時代もあらん。唯(ただ)、捕虜虐待等(など)、人道上の犯罪に就(つ)いては、如何にしても残念、古来より有(あり)之(これ)日本国民、陛下の仁慈(じんじ)及び仁徳(じんとく)を徹底せしめ得ざりし、一(いつ)に自分の責任と痛感す。
然(しか)して之(これ)は単に一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民及(および)軍全般の思想なりと誤解なきを世界人士(じんし)に願う。
三、第二次大戦も終わりて、僅か二・三年、依然として現況を見て、日本国の未来に就中(なかんずく)懸念なき能(あた)わざるも、三千年の培われたる日本精神は、一朝にしてか喪失するものにあらずと確信するが故に、終局に於いては、国民の努力に依(よ)り、立派に立ち直るものと信ず。東亜に生くる吾(われ)は、東亜の民族の将来に就いても此(こ)の大戦を通じ世界識者の正しき認識の下にその将来の栄冠あるべきを信ず。
四、戦死戦病死並びに戦災者の遺家族に就(つ)いては元より連合国側に於(お)いても同情ある救済処置を願いたきものなり。之(これ)も亦(また)誠(まこと)国に殉ずるものにして罪ありとせば、吾吾(われわれ)指導者の責にして彼らの罪にあらず。而(しか)して吾吾は処断せられたり。彼等を悲運に泣かしむるなかれ。然(しか)も彼等を現況に放置するは遂に国を挙(あげ)て赤化に追込むに等し、又現在巣鴨にある戦犯者の家族に就いても既に本人各罪(つみ)に服しあるものなるに於(おい)て、其(そ)の同情ある処置を与えられたきものなり。ソ連に抑留せられしものは一日も速やかに内地帰還を願いて止まぬ。
敗戦及(および)戦禍に泣く同胞を思うとき、刑死するとも其(そ)の責の償い得ざるを。
処刑前
以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。書かれた時期は判決を受けた昭和23年(1948年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰(なぐさ)められておるが、国内的の自らの責任は死を以(もっ)て贖(あがな)えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈(じんじ)の御志(おんこころざし)に依(よ)り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。此度(このたび)の戦争に従事してたおれた人及び此等(これら)の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨(のぞ)まなければならないのではないか。此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位(おんちい)は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。空気や地面の如(ごと)く大きな恩(めぐみ)は忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相(あい)協力すべきものである。東亜民族も亦(また)他の民族と同様に天地に生きる権利を有(も)つべきものであって、その有色たるを寧(むし)ろ神の恵みとして居る。印度(インド)の判事(パール判事の事)には尊敬の念を禁じ得ない。これを以(もっ)て東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因(よ)りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。
現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。
今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢(たいせい)がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯(か)くの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。
今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為(ため)なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依(よ)って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因(いん)たらしめた。米英の指導者は之(これ)を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。
日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄(ほうき)した。これは賢明であったと思う。しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然(しか)らざれば、盗人が跋扈(ばっこ)する形となる。(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)
私は戦争を根絶するためには慾心(よくしん)を人間から取り去らねばと思う。現に世界各国、何(いず)れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄(ほうき)しておらぬ証拠である)。国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此(こ)の通りである。それ故(ゆえ)、第三次世界大戦は避けることが出来ない。
第三次世界大戦に於(お)いて主(おも)なる立場にたつものは米国およびソ連である。第二次世界大戦に於いて日本と独乙(ドイツ)というものが取り去られてしまった。それが為(ため)、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。
第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。此(こ)の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等(なんら)かの考えがなければならぬ。米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。凡(およ)そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如(ごと)きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速(すみ)やかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。近事(きんじ)、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少(すくな)くない。この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。
今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者(りさいしゃ)の一大追悼慰霊祭を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等(これら)については衷心(ちゅうしん)謝罪する。
然(しか)しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫(れんびん)して悔悟(かいご)あるべきである。
最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確(たしか)に間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇(ようこ)兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。
学校教育は従前の質実剛健(しつじつごうけん)のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。俘虜(ふりょ)のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
辞世
我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき

大東亜戦争とは、白人による世界征服の阻止、有色人種解放のために日本が戦い、負けざるを得なかった戦いだと自分は考えている。開戦した直接的な理由は自衛戦争のためだが、ABCD包囲網で石油などの重要資源の輸入を白人に止められ、戦わざるを得なかったわけである。資源に乏しい日本が、近代国家の血液である石油を止められれば失血死する以外に道はない。失血死するくらいならたとえ少ない勝機であっても戦おうというのが開戦時の日本人の考え方であり、ハワイ諸島のように戦わずにアメリカに併合されるくらいなら、負けるのを覚悟で戦った方がまだマシだったのである。
大東亜戦争の世界史的な意義は非常に重大で、あのタイミングで大東亜戦争が起こらなければ、現在のような国際社会の実現は不可能だったように思われる。大東亜戦争が起こらずに核兵器の開発が成功し、世界各地に植民地を持つ欧米の列強国が核兵器で武装していれば、永遠にアジア・アフリカの植民地が解放されることはなかっただろうと思われるからである。大東亜戦争を戦わないことで日本一国は生き延びられたかもしれないが、日本がもし戦わなければ、アジア・アフリカ諸民族は核兵器の力を背景に半神半人と化した白人に半永久的に支配される悪夢のような世界が展開されていた可能性は非常に強い。
大東亜戦争が無ければ、植民地の独立勢力に対して原爆が使用された可能性も考えられ、そんな蛮行を許せば、誰も白人の支配に対抗しようなどとは思わなくなるだろう。いわば植民地が解放可能なギリギリのタイミングで大東亜戦争が起こり、日本は有色人種の未来を背負って戦い、白人の業を背負って敗れたのである。
日本の戦争責任をやかましく唱える反日左翼勢力は国内にたくさん存在するが、もし日本が戦わなかったならば、という状況を考える人間は一人もいない。彼らは単に戦勝国の価値観を代弁しているに過ぎず、戦勝国や敗戦利得者である朝鮮人の手先以上の存在ではないからである。その最たるものが日本のマスコミであり、マスコミの世論操作や洗脳によって、日本人は正しい歴史観や大和魂を失い、現在の堕落した日本人が生まれたのはご承知の通りである。
東條英機の残した遺書を読むと、決して彼がヒトラーのような独裁者や狂った軍国主義者などではなく、非常に識見や教養が高い、道徳的にも極めてまともな日本人だったということが良く理解出来る。そのまともな人間を持ってしても「開戦やむなし」という考えに至らしめたのが当時の日本を取り囲む状況であり、世界情勢だったのである。小学生の頃、わけも分からず東京裁判の映画を見せられた記憶があるが、何だか一方的な内容だった印象がある。現在のように日本がアメリカや中国、韓国の属国のような立場ならば、東條英機の扱いが変わることはないかもしれないが、せめて彼が靖国神社に祀られていることを良しとするしかないようである。
国内的な責任を痛感し、戦勝国による処刑をむしろ積極的に受け入れる東條の心情は胸を打つが、彼が無罪を主張した理由が国際法的な日本の立場を考えてのものであり、決して自分の命惜しさに主張したものではないことを 多くの日本人に知ってもらいたいものである。少なくとも同じ日本人が日本人に対し、日本の戦争責任という戦勝国の価値観を主張するべきではないと思うが、朝日新聞のように道徳的に破綻した存在になりたくなければ、日本人は先人の魂に対して襟を正す必要があるように思える。東京裁判で戦犯と呼ばれた人達は戦勝国側が一方的に非合法的に裁いたのであって、日本人が裁いて処刑したわけではない。そのことは常に忘れないようにしたいものである。 
 
「興津弥五右衛門の遺書」 / 乃木希典の殉死 1

 

某(それがし)儀明日年来の宿望相達候て、妙解院殿御墓前に於いて首尾よく切腹いたし候事と相成候。然れば子孫のため事の顛末書き残し置き度、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
某祖父は興津右兵衛景通と申し候。永正十七年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。永禄三年五月二十日今川殿陣亡遊ばされ候時、景通も御供いたし候。年齢四十一歳に候。法名は千山宗及居士と申し候。
父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙(ちち)を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一と名のり、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたし居り候。さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代となり、同国渭津に住居いたし、慶長の初めまで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介と共に丹後国田辺の城を攻められ候。当時田辺の城には松向寺殿三斎忠興公御立籠遊ばされ居り候ところ、神君上杉景勝を討たせ給うにより、三斎公も随従遊ばされ、跡には泰勝院殿幽斎藤孝公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿邸にありし時、烏丸光広卿と相識に相成り居り候。これは光広卿が幽斎公和歌の御弟子にて、嫡子光賢卿に松向寺殿の御息女万姫君を妻(めあわ)せ居られ候故に候。さて景一光広卿を介して御当家御父子とも御心安く相成り居り候。田辺攻めの時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を使いに田辺へ差し立てられ候。森は田辺に着いたし、景一に面会して御旨を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣り候。森は首尾よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この年赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国に参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。元和五年御当代光尚公御誕生遊ばされ、御幼名六丸君と申し候。景一は六丸君御付と相成り候。元和七年三斎公御致仕遊ばされ候時、景一も剃髪いたし、宗也と名のり候。寛永九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公肥後へ御入国遊ばされ候時、景一も御供いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去遊ばされ、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年八十四歳に候。
兄九郎兵衛一友は景一が嫡子にして、父に付きて豊前へ参り、慶長十七年三斎公に召し出され、御次勤仰せ付けられ、のち病気により外様勤と相成り候。妙解院殿の御代に至り、寛永十四年冬島原攻めの御供いたし、翌十五年二月二十七日兼田弥一右衛門と共に、御当家攻め口の一番乗りと名のり、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義心英立居士と申し候。
某は文禄三年景一が次男に生まれ、幼名才助と申し候。七歳の時父に付きて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召し出され候。元和七年三斎公致仕遊ばされ候時、父も剃髪いたし候えば、某二十八歳に弥五右衛門景吉と名のり、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。
寛永元年五月安南船長崎に到着候時、三斎公は御薙髪遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事に御用いなされ候珍しき品買い求め候よう仰せ含められ、相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸いなる事には異なる伽羅の大木渡来いたし居り候。然るところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差し下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望みを掛け互いにせり合い、次第に値段を付け上げ候。
その時横田申し候は、たとい主命なりとも、香木は無用の翫物に之れあり、過分の大金を擲ち候事は然るべからず、所詮本木を伊達家に譲り、末木を買い求めたき由申し候。某申し候は、某はさようには存じ申さず、主君の申し付けられ候は、珍しき品を買い求め参れとの事なるに、このたび渡来候品の中にて、第一の珍物はかの伽羅に之れあり、その木に本末あれば、本木の方が尤物中の尤物たること勿論なり、それを手に入れてこそ主命を果たすに当たるべけれ、伊達家の伊達を増長いたさせ、本木を譲り候ては、細川家の流れを[涜]す事と相成り申すべくと申し候。横田嘲笑いて、それは力こぶの入れ所が相違せり、一国一城を取るかやるかと申す場合ならば、あくまで伊達家に楯をつくがよろしからん、たかが四畳半の炉にくべらるる木の切れならずや、それに大金を捨てんこと存じも寄らず、主君御自身にてせり合われ候わば、臣下として諫め止め申すべき儀なり、たとい主君が強いて本木を手に入れたく思召されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛便佞の所為なるべしと申し候。当時三十一歳の某、このことばを聞きて立腹いたし候えども、なお忍んで申し候は、それはいかにも賢人らしき申し条なり、さりながら某はただ主命と申す物が大切なるにて、主君あの城を落とせと仰せられ候わば、鉄壁なりとも乗り取り申すべく、あの首を取れと仰せられ候わば、鬼神なりとも討ち果たし申すべくと同じく、珍しき品を求め参れと仰せられ候えば、この上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖(もと)り候事は格別、その事柄に立ち入り候批判がましき儀は無用なりと申し候。
横田いよいよ嘲笑いて、お手前とてもその通り道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代うとも惜しからじ、香木に不相応なる価を出さんとせらるるは若輩の心得違いなりと申し候。某申し候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得おる、泰勝院殿の御代に、蒲生殿申され候は、細川家には結構なる御道具許多(あまた)之れ有る由なれば拝見に罷り出づべしとの事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓槍の類を陳ねてお見せなされ、蒲生殿意外に思されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見いたしたく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先には道具と仰せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば、それも少々持ち合わせ候とて、始めて御取り出しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心がけ深くおわしまし、旁(かたがた)歌道茶事までも堪能にわたらせらるるが、天下に比類なきところならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀もすべて虚礼なるべし、我れらこのたび仰せを受けたるは茶事に御用に立つべき珍しき品を求むるほか他事なし、これが主命ならば、身命にかけても果たさでは相成らず、貴殿が香木に大金を出す事不相応なりと思され候は、その道のお心得なき故、一徹にさよう思わるるならんと申し候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差を抜きて投げつけ候。某は身をかわして避け、刀は違棚の下なる刀掛けに掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合わせ、ただ一打ちに横田を討ち果たし候。
かくて某は即時に伽羅の本木を買い取り、仲津へ持ち帰り候。伊達家の役人はぜひなく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申し候は、主命大切と心得候ためとは申しながら、御役に立つべき侍一人討ち果たし候段、恐れ入り候えば、切腹仰せ付けられたくと申し候。三斎公聞召され、某に仰せられ候は其方が申し条一々尤至極せり、たとい香木は貴からずとも、此方が求め参れと申し付けたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、すべて功利の念をもって物を見候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてや其方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞くたびに珍しければ郭公(ほととぎす)いつも初音のここちこそすれ」と申す古歌にもとづき、銘を初音とつけたり、かほどの品を求め帰り候事あっぱれなり、但し討たれ候横田清兵衛が子孫遺恨を含み居ては相成らずと仰せられ候。かくて直ちに清兵衛が嫡子を召され、御前において杯を申し付けられ、某は彼者と互いに意趣を存ずまじき旨誓言いたし候。然るに横田家の者どもとかく異志を存する由相聞こえ、ついに筑前国へ罷越し候。某へは三斎公御名忠興の興の字を賜わり、沖津を興津と相改め候よう御沙汰之れあり候。
これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ御幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望之れあり即ち之れを献ぜらる、主上叡感有りて「たぐひありとたれかはいはむ末ににほふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名づけさせ給う由承り候。某が買い求め候香木、畏くも至尊の御褒美を被り、御当家の誉れと相成り候事、存じ寄らざる儀と存じ、落涙候事に候。
その後某は御先代妙解院殿よりも出格の御引き立てを蒙り、寛永九年御国替のみぎりには、三斎公の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召し具せられ候。然るところ寛永一四年島原征伐の事之れあり候。某をば妙解院殿御弟君中務少輔殿立孝公の御旗下に加えられ御幟を御預けなされ候。十五年二月二十二日御当家御攻め口にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股にあたり、ようよう引き取り候。その時某四十五歳に候。手傷平癒候て後、某は十六年に江戸詰め仰せ付けられ候。
寛永十八年妙解院殿存じ寄らざる御病気にて、御父上に先き立ち、御卒去遊ばされ、当代肥後守殿光尚公の御代と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城において御薨去なされ候。かの末木の香は「世の中のうきを身に積む柴舟やたかぬ先よりこがれ行くらん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。
某つらつら先考御当家に仕え奉り候てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引き立てを蒙りしは言うもさらなり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され、この再造の大恩ある主君御卒去遊ばされ候に、某いかでか存命いたさるべきと決心いたし候。
先年妙解院殿御卒去のみぎりには、十九人の者ども殉死いたし、また一昨年松向寺殿御卒去のみぎりにも、簑田平七正元、小野伝兵衛友次、久野与右衛門宗直、宝泉院勝延行者の四人直ちに殉死いたし候。簑田は曾祖父和泉と申す者相良遠江守殿の家老にて、主と共に陣亡し、祖父若狭、父牛之助流浪せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓磯部長五郎介錯いたし候。小野は丹後国にて祖父今安太郎左衛門の代に召し出されしものなるが、父田中甚左衛門御旨に忤(さか)い、江戸御邸より逐電したる時、御近習を勤め居たる伝兵衛に、父を尋ね出して参れ、もし尋ね出さずして帰り候わば、父の代わりに処刑いたすべしと仰せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻り合わざる趣にて罷り帰り候。三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せらせ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思い候て、切腹いたし候。介錯は磯田十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城の時功ありて、新知百五十石賜わり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹の山伏にて、筒井順慶の弟石井備後守吉村が子に候。介錯は入魂の山伏の由に候。
某はこれらの事を見聞き候につけ、いかにもうらやましく技癢に堪えず候えども、江戸詰め御留守居の御用残り居り、他人には始末相成りがたく、むなしく月日の立つに任せ候。然るところ松向寺殿御遺骸は八代なる泰勝院にて荼[毘]せられしに、御遺言により、去年正月十一日泰勝院専誉御遺骨を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則、加来作左衛門家次、山田三右衛門、佐方源左衛門秀信、吉田兼庵相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺中高桐院に御納骨いたし候。御生前において同寺清巌和尚に御約束之れあり候趣に候。
さて今年御用相片付き候えば、御当代に宿望言上いたし候に、已みがたき某が志を御聞き届け遊ばされ候。十月二十九日朝御暇乞に参り、御振舞に預かり、御手づから御茶を下され、引出物として九曜の紋赤裏の小袖二襲を賜わり候。退出候のち、林外記殿、藤崎作左衛門殿を御使いとして遣され後々の事心配いたすまじき旨仰せられ、御歌を下され、また京都に参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行なえと懇(ねんごろ)に仰せられ候。そのほか堀田加賀守殿、稲葉能登守殿も御歌を下され候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使いとして田中左兵衛殿品川まで見送られ候。
当地に着候てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成り候。ついては某相果て候のち、短刀を記念に遣し候。
餞別として詩歌を贈られ候人々は烏丸大納言資慶卿、裏松宰相資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老たちに候。
明日切腹候場所は、古橋殿取り計らいにて、船岡山の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋まで十八町の間、藁筵三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆い之れあり候由に候。いかにも晴れがましく候て、心苦しく候えども、これまた主命なれば是非無く候。立ち会いは御当代の御名代谷内蔵之允殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場せられ候。倅(せがれ)才右衛門も参るべく候。介錯はかねて乃美市郎兵衛勝嘉殿に頼みおき候。
某法名は孤峰不白と自選いたし候。身不肖ながら見苦しき最期もいたすまじく存じ居り候。
この遺書は倅才右衛門あてにいたしおき候えば、子々孫々相伝え、某が志を継ぎ、御当家に対し奉り、忠誠を擢(ぬき)んずべく候。
正保四年丁亥十二月朔日
興津弥五右衛門景吉華押  
     興津才右衛門殿
正保四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣でて、船岡山のふもとに建てられた仮屋に入った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。後ろに立っている乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声をかけた。白無垢の上から腹を三文字に切った。乃美は項(うなじ)を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛を刺されい」と言った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。 仮屋の周囲には京都の老若男女が堵のごとくに集まって見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井にあげおきつやごゑを掛けて追腹を切る」というのがあった。
興津家の系図は大略左のとおりである。
○右兵衛景通→弥五右衛門景一→
  |→九郎兵衛一友
  |→○弥五右衛門景吉→才右衛門一貞→弥五右衛門→弥忠太→(2)
  |        →(2)九郎次→九郎兵衛→栄喜→才右衛門→弥五右衛門
  |→作太夫景行→弥五太夫
  |→四郎右衛門景時→四郎兵衛→作右衛門→登→四郎右衛門→(3)
  |        →(3)宇平太→順次→熊喜→登
  |→八助、後宗春
  |→又次郎→市郎左衛門
弥五右衛門景吉の嫡子才右衛門一貞は知行二百石を給わって、鉄砲三十挺頭まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵衛景通から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文四年に病死した。六世弥忠太は番方を勤め、宝暦六年に致仕した。七世九郎次は番方を勤め、安永五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世栄喜は養子で、番方を勤め、文政九年に病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、のち才右衛門と改名し、番方を勤め、万延元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、のち宗也と改名し、犬追物がじょうずであった。明治三年に番士にせられていた。
弥五右衛門景吉の父景一には男子が六人あって、長男が九郎兵衛一友で、二男が景吉であった。三男半三郎はのち作太夫景行と名のっていたが、慶安五年に病死した。その子弥五太夫が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太はのち四郎右衛門景時と名のった。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると言って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に行って、本多下総守俊次に仕えた。次いで坂下、関、亀山三か所の奉行にせられた。寛永十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利と黒田右衛門佐光之とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三か所の人馬を買い締めて、山の中に隠しておいた。さて綱利の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利は土山水口の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、のちに江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持二十石を給わって、中小姓組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子登は越中守宣紀に任用せられ、役料とも七百石を給わって、越中守宗孝の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎右衛門は物奉行を勤めているうちに、寛延三年に旨に忤(さか)って知行宅地を没収せられた。その子右平太は始め越中守重賢の給仕を勤め、後に中務太夫治年の近習になって、擬作高百五十石を給わった。次いで物頭列にせられて紀姫付になった。文化二年に致仕した。右平太の嫡子順次は軍学、射術に長じていたが、文化五年に病死した。順次の養子熊喜は実は山野勘左衛門の三男で、合力米二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎はのち四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷つけて、行歩不自由になった。宗春と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国の佐野官十郎の孫一郎左衛門を養子にした。  
「興津弥五右衛門の遺書」
森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。
大正元年九月十三日、晴、轜車に扈随して宮城より青山に至る、午後八時宮城を発し、十一時青山に至る、翌日午後二時青山を出でて帰る、途上乃木希典夫妻の死を説くものあり、予半信半疑す
十五日、雨、午後乃木の納棺式に臨む
十八日、午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る、興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す
鴎外は明治天皇の棺を載せた車に従って青山の斎場に行き、深夜家に帰る途上、乃木希典殉死の噂を聞いて半信半疑になった。しかしそのうわさが真実であったことがわかり、愕然としたのだった。乃木の納棺式に臨んだ上、十八日には告別式に参列し、そしてその告別式の催された当の日に、「興津弥五右衛門の遺書」を中央公論史上に寄せているのである。
鴎外が五日という短い間に、乃木の殉死をテーマにした文を草したのは、どういう事情によってなのか、さまざまな臆説がなされている。単に中央公論社から感想を求められたのに対して応えたのだという、割り切った見方もある。
だが鴎外には、乃木希典の殉死が、当時の日本人に忘れかけられていた、ある尊い感情を思い起こさせたのではなかったか。当時の一般の論調は、乃木に同情するものもあったが、否定的な見方をするものが、大新聞をはじめ多かった。中には、乃木は発狂したのだとか、別の事情があって自殺したのだといった解釈まで横行した。鴎外はそうした論調を眼にするたびに、忘れられつつある古来の美徳が、改めて足蹴にされるのを見るようで、腹立たしくなったのではないか。
この作品は、熊本藩で起きた古い殉死事件について、本人の遺書という形をとって、その経緯や意味するところを、鴎外なりに再構成したものであるが、それは鴎外が乃木にかわって、殉死の真理を弁蔬したものといえるのである。
今日鴎外の全集類に載っているものは、殆どが後になって手を加えた再稿版であるが、初版の文は、この弁蔬という色彩が非常に強いものであった。
この文は、まず死後の名聞のために遺書をしたためておくのだという言葉から始まり、主君忠興の13回忌に当たって忠孝を尽くすために死ぬのであること、その忠孝は生前に忠興から賜った恩義からすれば当然の義なのであり、自分はこれまで延引して果たせなかった主君への殉死をこうして晴れやかになすのだと、宣言することで終っている。
興津弥五右衛門自身の弁蔬という形をとった文であるから、そこには鴎外自身の意見はあからさまには出ていないが、この文が鴎外の乃木の殉死に対する弁蔬となっていることは明らかである。つまり乃木は世間で言われているように、自分の事情によって死んだのではなく、明治天皇への忠孝のあかしとして殉死したのであると、鴎外はいっているのである。
鴎外はこのように、乃木の殉死を美化することによって、封建道徳の水準に己を立たせたのだろうか。
鴎外はこの文を、京都町奉行所与力神沢貞観の著「翁草」によって書いた。翁草は忠興と弥五右衛門との主従関係について触れた後に、弥五右衛門が忠興の三回忌にあたって、船岡山の西麓で潔く殉死したということを簡単に書いているに過ぎない。鴎外はこれを遺書の形に書き換えるに際し、弥五右衛門の忠孝とその結果としての殉死の必然性を強調したのであった。
だが何故殉死が弥五右衛門にとって必然となり、それが人倫に照らして賞賛すべきものとなるのか、その辺の事情については、遺書という形式の制約上必ずしも明らかにはなっていない。鴎外はただ、この文を通じて、乃木の殉死の持つ意味を、世間に投げかけてみたといえるのかもしれない。
この作品を書いたことで鴎外は殉死というものについて、改めて考察を加え、その結果を「阿部一族」という作品に投入した。阿部一族については稿を改めて述べたいが、鴎外はそこで、殉死にはただに忠孝という側面のみではなく、打算的な部分もあるのだということに気づいた。そこから殉死をめぐって複雑な議論を展開するようにもなる。
鴎外は、阿部一族を書き上げた後で、「興津弥五右衛門の遺書」をほぼ全面的に書き換えた。初版をいろどっていた弁蔬の色彩はやや後退し、殉死に向きあう弥五右衛門の思いを、淡々と述べさせている。鴎外自身の言葉をそこに介在させ、物語に脚色を加えることもしていない。弥五右衛門の子孫たちのその後について、簡単に触れているのみである。
こうした執筆の経緯をたどってみると、殉死という問題について、鴎外がいかに複雑な感情をもっていたか、伺われよう。
ともあれ、この作品が、殉死という古い封建的な行為に改めて光を当てたことは間違いない。しかし、鴎外がそこでとまっていたとしたら、大した文学的な意味は持ち得なかっただろう。鴎外は殉死を突き詰めて考えていくうち、そこに単なる義理や忠孝を超えた、もっと大事な人間の感情が介在しているのではないかと考えるようになった。
「阿部一族」以降に現れる一連の歴史小説は、こうした人間の普遍的感情とは何か、それに答えていくための、営為であったともいえる。  
「阿部一族」
簡浄を努めなければならない、という。晩年の鴎外が自身に戒めた文体のことである。
鴎外が「簡浄の文」を書くようになったのは、乃木大将が夫人とともに自害してからのことだった。50歳になっていた。それまでの鴎外も加飾を好む人ではなかったが、明治天皇を追って乃木希典が殉死を決行してから突然に書きはじめた歴史小説あるいは史伝の連打では、まるであらかじめこの時を待っていたかのように、簡浄要訣な文体が敢然として選ばれ、結露した。
最初は「興津弥五右衛門の遺書」である。明治45年の9月に乃木夫妻が殉死して、翌月に発表した。「午後乃木希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津弥五右衛門を草して中央公論に寄す」と日記にある。
作品はまさに遺書になっている。「それがし儀、明日年来の宿望相達し候て、妙解院殿御墓前において首尾よく切腹いたし候ことと相成り候」というふうに始まる。明日切腹をする者が後世の者のために、一筆経緯を認(したた)めた。
その経緯というのが変わっていて、主君の細川三斎忠興に「名物を入手して参れ」と言われて、家来の弥五右衛門が同輩の横田某と長崎に赴き、そこで伽羅の大木に出会った。ところがこれを求めようとする者に伊達政宗の家来がいた。伊達家は本木のほうを所望していて、そうなると細川家は末木(うらき)になってしまう。
そこで弥五右衛門はなんとか本木を入手しようとするのだが、横田はそんなことは阿諛便佞(あゆべんねい)であると言う。しかも国家の大事ではない。たかが茶事のことではないか。自分は一徹なる武辺者で、そういうことは理解できない。お前がそれほど本木を買いたいというなら表芸(武芸)を見せろと言って、脇差を投げ付けた。弥五右衛門はこれをサッとかわして、違い棚に掛けてあった刀をもって横田を斬り倒してしまった。
「老耄したるか、乱心したるか」と、のちに鴎外が何度も採りあげることになる場面のひとつである。
弥五右衛門は、あの城を落とせと言われれば鉄壁であろうと乗っ取りにかかり、あの首を取れと言われればそれが鬼神であろうとも討ち果たし、珍しき品を求め参れと言われれば、この上なきものの入手に身命をかけるのは、それが主君の命令ならば当然という考え方なのである。
しかし相役(あいやく)を切り捨てた以上は、その責任は免れない。そこで弥五右衛門は主君忠興に切腹を申し出るのだが、許可がない。むしろお前の行為の意味の「あっぱれ」を通して家門に伝えよと言われる。こうして伽羅の本木は「初音」の銘を付けられ、弥五右衛門は主君に重用され、横田との遺族との遺恨も残さぬように申し付けられる。
やがて忠興の三男忠利が卒去すると家来19人が殉死した。ついで忠興の卒去のみぎりにも殉死者が相次いだ。しかし弥五右衛門は殉死はできない。いったい殉死できた者が「あっぱれ」なのか、残った者が「あっぱれ」なのか。
主君の十三回忌がやってきた。弥五右衛門はついにこの日が来たと決意して、身辺を整え、明日は船岡山の下に仮屋を設け、畳一枚に白布を覆ってそこで果てようと覚悟した。介錯は乃美市郎兵衛に頼んだ。あとは明日を待つばかり。そういう遺書である。
鴎外はこの遺書の紹介のあとに、弥五右衛門が当日になって「頼む」と声をかけ、白無垢の上から腹を三文字に切ったこと、乃美の介錯は頂(うなじ)を一刀裂いたものの深さが足りず、弥五右衛門は一声「喉笛を刺されい」と放ったが、そのまま絶命したこと、仮屋には京童の老若男女が見守って、そのなかの落首に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごえを掛けて追腹を切る」の一首があったことだけを、書き加えている。
これらをただ事実を紹介するように、淡々と書く。しかし鴎外こそは、これでみごとに転身を果たしたのである。はっきりいうなら過去の鴎外を切腹させたのだ。
鴎外の作品は、なんといっても晩年である。とくに「遺書」から始まった史伝もの、「阿部一族」「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」が群を抜いている。
ぼくは最初に「阿部一族」を読んだのだが、これが鴎外だったのかというほどの衝撃をうけた。頭(こうべ)が垂れたというより、頭(こうべ)が落ちた。
歴史小説といっても、鴎外は史伝や稗史を書いたのではない。人間を克明に記録していけばそこにいったい何が出現してくるのか、その問いを書いた。ただし問の文句は決して書かなかった。
鴎外はそもそもが軍人であって医者なのである。22歳で軍医学調査のためにドイツに入り、26歳では陸軍大学校の教官となり、日清戦争直前の31歳のときには軍医学校長になっている。医学論文の量は夥しく、クラウゼヴィッツの「戦争論」を講義すれば右に出る者などいなかった。
その精緻な観察力と分析力をもって、それを「文章」という処方に徹すれば、それが歴史に埋もれた一介の人物のことであればあるほどに、そこに人間の歴史的症状の本質が次々に“斑紋”のごとく浮かび出てくるはずだった。なんといっても医学は一介の名もない患者からこそ、後世に寄与する症例とその処置とその意味を出現させてきたものだ。鴎外にはいつもこのような“医事の眼”のようなものが付き纏う。
その鴎外が木下杢太郎や吉井勇たちが「昴」(スバル)を創刊した明治42年のときは、一方では文学博士の学位をうけ、他方では「ヰタ・セクスアリス」を書いた。47歳であった。
これは作品というよりも、作品の体裁を借りた鴎外自身のための処方箋である。切腹しきれない鴎外が解毒剤を呑んだか浣腸をしたかのようなところがある。何を書いたかというと、鴎外の分身とおぼしい金井滋(しずか)君のことを書いた。
金井君は哲学を職業としているものの、まだ何も書いていない学徒である。大学を出るときはブッダ以前の六師外道とソクラテス以前の哲学との比較をしていたが、その後は哲学書よりも小説など書いてみたいと思っている。
そこへ夏目金之助君が小説を発表し、田山花袋君らの自然主義文学が興ってきた。読めば必ず性欲的描写が出てくる。ゾラやスタンダールもそういう場面を描いていた。しかし金井君はそれらに較べて自身の性欲があまりに冷澹でフリジディタス(性的不感症)なのではないかと疑う。
あるときオーストリアの審美学の本を読んでいたら、あらゆる芸術はリーブスヴェルブング(求愛)の所産であって、サディズムもマソヒズムもその変形にすぎないと書いてある。医学書を読むと、性教育の必要が問うてある。それが欠ければ人間性に偏向がおこるという勢いだ。金井君はそれならばと発起して、むしろ哲学や研究をするより自身の性的なるものを振り返って記述するべきではないかと思った。 
このように「ヰタ・セクスアリス」は始まって、以下が金井君のカミングアウト、すなわち鴎外自身の告白になった。いま読めばとても春情を催す手のものではないが、「昴」に発表されたときはすぐに発禁になっている。
ともかく鴎外はそこまで自身に踏み込み、自分を曝してみたわけだったのだが、しかしこれほどの下剤的告白をもっても、乃木夫妻の殉死の「寡黙な一撃」の前ではすべてが色褪せた。
ここにおいて鴎外はついに愕然として悟ったのである。大転換を遂げることにしたのだ。「興津弥五右衛門の遺書」は、それまでの鴎外への決別だったというべきなのである。
かくして鴎外は、「遺書」の翌年に「阿部一族」を書く。またまた殉死を扱ったばかりでなく、「遺書」に登場した三代藩主細川忠利の死と四代光尚の代替わりの“あいだ”を凝視した。
当時の殉死は「亡君許可制」であるにもかかわらず、許可なく追腹を切った者も、結果としては武家社会の誉れとして同格に扱われた。この「制度」と「生き方」が組み合っておこす矛盾や溝を原因に、さまざまな悲劇がおこる。鴎外はそこに着目する。
たとえば、主君に願い出て殉死を許された者はよいが、主君の許可が出ず、やむなく日々のことに従事している者には、「おめおめと生きながらえている」「命を惜しんでいる」という評が立った。鴎外自身も自分の「おめおめ」が一番嫌いだったのだが、「阿部一族」の阿部弥一右衛門も、この「命を惜しんでいる者」とみなされた一族の長だった。しかし、どうすれば弥一右衛門は「あっぱれ」に組み入ることができるのか。
出来事は二段、三段、四段に深まっている。鴎外がそのような段取りを作ったのではなく、事実、そういう出来事が続いた。そこを鴎外が「簡浄の文」をもって抜いてみせた。ざっとは、次のような出来事が連続しておこったのである。
主君の忠利が卒去した。その日から殉死者が十余人出た。荼毘に付された日には忠利が飼っていた二羽の鷹が空を舞っていたが、人々が見守るなか、その鷹が二羽とも桜の下の井戸にあっというまに飛び込んだ。
中陰がすぎても殉死はぽつぽつあった。17歳の内藤長十郎はかねて主君の夜のお供として病いに罹った主君の足など揉んでいたのだが、あるとき死期の近づく主君に、そのときは殉死する覚悟なのでお許し願いたい旨をおそるおそる申し出た。許可はなかったので長十郎は家来のいる折、主君の足を揉むままにその足を額に当て、再度の追腹の許可を願った。主君は軽く二度頷いた。
長十郎は嫁をもらったばかりであったが、母に殉死の覚悟を伝えると、少しも驚かず嫁に支度をさせなさいとだけ言った。長十郎は菩提所東光院にて腹を切った。
結局、この長十郎を加えて18人の殉死者が出た。しかし弥一右衛門はそれまで主君を諌める言動をしていたせいか、忠利にはその存在が煙たく、「どうか光尚に奉公してくれい」と言うばかり、いっこうに殉死の許可をもらえない。煙たいから死んでよいというのではない。煙たい奴には武士の本懐の死などを下賜できないということなのだ。
18人の殉死者が出てしばらくして、「阿部はお許しがないのをさいわいに、おめおめ生きるつもりであるらしい。瓢箪に油を塗って切りでもすればいい」という噂が立った。
憤然とした弥一右衛門は家の門を集めて、自分はこれから瓢箪に油を塗って切るから見届けられたいと言うと、子供たちの前で腹を切り、さらに自分で首筋を左から右に貫いて絶命した。子供たちは悲しくはあったが、これで重荷を下ろしたような気がした。
ところが、である。城内では誰も弥一右衛門の覚悟の死を褒めないばかりか、残された遺族への沙汰には「仕打ち」のようなものがあった。
寛永19年3月、先代の一周忌がやってきた。父の死が報われていないことを知った子の権兵衛は、焼香の順番がきて先代の位牌の前に進み出たときに、脇差の小柄を抜いて自身の髻(もととり)を押し切って仏前に供えた。家来が慌てて駆け寄り、権兵衛を取り押さえて別室に連れていくと、権兵衛は「父は乱心したのではない、このままでは阿部の面目が立たない、もはや武士を捨てるつもりだ、お咎めはいくらでも受ける」と言った。
新しい藩主光尚はこれをまたまた不快におもい、権兵衛を押籠めにした。一族は協議のうえ、法事に下向していた大徳寺の天祐に頼んで処置を頼むのだが、権兵衛は死罪との御沙汰、ではせめて武士らしく切腹をと願い出るのだが、これも聞き入れられず、白昼の縛首となって果てた。
こうして阿部一族が立て籠もることになった。藩内では討手が組まれ、表門は竹内数馬が指揮をする。
阿部一族のほうでは討手の襲撃を知って、次男の弥五兵衛を中心に邸内をくまなく掃除し、見苦しいものはことごとく焼き捨て、全員で密かに酒宴を開いたのち、老人や女たちはみずから自害し、幼いものたちは手ん手に刺しあった。残ったのは屈強の武士たちばかりとなった。
阿部一族が立て籠もった山崎の屋敷の隣に、柄本又七郎という人物がいた。弥五兵衛とは槍を習い嗜(たし)みあう仲だった。又七郎は弥五兵衛一族の「否運」に心痛していた。そこで女房を遣わせて陣中見舞をさせた。一族はこれを忝けなくおもい、「情」(なさけ)を感じる。しかし又七郎は、「情」と「義」とは異なることも知っていた。ここは「義」を採って討手に加わるべきだと決意する。そのために阿部屋敷の竹垣の結縄を切ることにした。
一方、討手の竹内数馬はこの討伐をもって討死するつもりであった。それまで近習として何の功績をあげていないのを、ここで主君の御恩を果たしきるつもりだったのである。そこで前夜、数馬は行水をつかい月代(さかやき)を剃り、髪には先代を偲んで「初音」を焚きしめた。白無垢白襷白鉢巻をして、肩に合印の角取紙を、腰に二尺四寸五分の正盛を差し、草鞋の緒を男結びにすると、余った緒を小刀で切って捨て、すべての準備を整えた。
卯の花が真っ白く咲く払暁である。怒涛のような戦闘が始まった。弥五兵衛は早々に又七郎と槍を交えたのだが、ちょっと待ていと言って奥に下がって、切腹した。
切腹できたのは弥五兵衛一人、そのほかの者はことごとく討死であった。数馬も討死である。
かくて阿部一族は消滅した。又七郎は傷が癒えたのち光尚に拝謁し、鉄砲十挺と屋敷地を下賜され、その裏の薮山もどうかと言われたが、これを断った。
阿部一族の死骸はすべて引き出されて吟味にかけられた。又七郎の槍に胸板を貫かれた弥五兵衛の傷は、誰の傷よりも立派だったので、又七郎はいよいよ面目を施した。
以上が鴎外の記した顛末である。いくら「お家大事」の江戸初期寛永の世の中とはいえ、異常きわまりない話である。いったいどこに「価値」の基準があるかはまったくわからない。
たしかに「建前」はいくらもあるが、それとともに人間として家臣としての「本音」もあって、それがしかも「建前」の中で徹底されていく。「情」と「義」も、つぶさに点検してみると、どこかで激突し、矛盾しあっている。どこに「あっぱれ」があるかもわからない。鴎外は「遺書」や「阿部一族」をまとめて「意地」という作品集に入れるのであるが、その「意地」とは、いつ発揮されるかによってまったく印象の異なるものだった。
しかし鴎外はそのような史実の連鎖にのみまさに目を注いだのである。もし意地や面目というものがあったとしたら、それは乃木大将のごとく最後の最後になって何かを表明すべきものもあったのである。
鴎外も「鴎外最後の謎」とよばれるものを作った。自分の墓には森鴎外という文字を入れてはならない、ただ森林太郎と残してほしいと遺言したことである。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と。
こうした決意を鴎外がどこでしたのかは明確になっていないけれど、ぼくはあきらかに明治が瓦解していったときのこと、すなわち「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」のあたりだったと思っている。
鴎外は、このあとにも「大塩平八郎」「堺事件」「栗山大膳」「高瀬舟」「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」と書き継いで、いずれも非の打ち所がないほどに「無欠」の作品を発表できた。
これらの作品には、鴎外が付け加えるべき感情の表現など、ほとんど施されてはいない。これはすでに森鴎外が森鴎外を欲する必要がなくなっていたことを意味していたにちがいない。実際にも「北条霞亭」を書いたまま、鴎外は大正11年に60歳で“森林太郎”として死んでいった。  
 
殉死 2

 

乃木希典は土地にくわしいとの推測で旅順の任についた
なにぷん、在来の作戦計画には旅順要塞の攻撃という要素が入っていないため、参謀たちのこの点の知識は白紙に近く、その要塞内容に関する諜報も入っていない。それに秘密主義の徹底したロシア軍は旅順については厳重に緘口してきており、外国武官もそれについての知識がなく、日本の在欧駐在武官をしてそれを間接的に聞きこませるという手もなかった。
それに日本陸軍は近代要塞を攻撃したという経験がなく、知識にもとぼしい。その知識は、在来不要であった。ロシアが南満州を占領するまでは、日本は支却を仮想敵国として作戦計画をたてておればそれで済んだからである。事実、日活戦争のときには、日本陸軍は旅順の存在には触れた。この港は清帝国の北洋艦隊の根拠地であり、その港の周囲には清国は清国なりに多少の支那式砲台を築いていた。この要塞ともいいがたい防衛陣地を、当時の第一師団は一日で陥してしまっている。そのときの土佐藩出身山地元治中将指揮下の旅団長が、少将時代の乃木希典であった。
「乃木は旅順を知っている。乃木がよかろう」という人選の発想はそういうところにある。乃木中将は旅順という土地の案内にくわしい、ということであり、この近代戦のなかで最も困難な課目とされている要塞攻略の権威であるということではない。このような評価で人選されたことも、乃木にとって不幸であった。
現実の旅順要塞は築城を長技とするロシア陸軍が八年の歳月とセメント二十万棒をつかってつくりあげた永久要塞で、すべてベトン(コンクリート)をもって練り固め、地下に無数の客室をもち、砲台、弾薬庫、兵営すべて地下にうずめ、それら室と室とを地下道をもって連結している。たとえ野戦砲兵をもってこれを砲撃しても山の土砂をむなしく吹きあげるのみですこしの効果もない。
これについて参謀本部はどの程度知っていたか、いまとなってはわからない。
すこしも知らなかったということが定説になっているが、そうであろうか。日清戦争後、日本の参謀本部の仮想敵国はロシアになっており、ロシア研究については貧困であったとは思えない。たとえ旅順関係の情報を一片も持っていなくても、ロシア陸軍の規模、予算、思考癖、行動僻というのは十分わかっているであろう。ロシアの極東における帝国主義が旅順港をもっとも重視していることも明白であり、彼がこの旅順を得てから八年になるのである。右の基礎条件から考え、旅順がいまどういう現状になっているかということぐらいは、想像力さえあれば素人でも想像できるであろう。その程度の想像力も参謀本部になかったということは、どうにも考えられない。
が、現実の参謀本部にあっては、開戦早々のころ、田中義一、大庭二郎などの少佐参謀他がこの問題について意見書を出したとき、「旅順の兵備はなお薄弱である」という文章を書いており、この点からみると、かれらは事実無智なようでもある。 
乃木の最初の不運は旅順軽視論者を参謀長と副参謀長にしたこと
伊地知は参謀本部の第一部長であったりして、対露作戦計画の事実上の担当者の一人であった。これほどの重職者を、大本営がみずからの不便を忍んで乃木のもとにつけたというのは、好意といえば好意であり、−伊地知なら大丈夫。
という大本営の安堵もそこから出たのであろう。しかし伊地知がそれほどの謀将であるのかどうか、よくわからない。
旅順要塞の攻略を海軍が要請した、ということは、さきに述べた。この大本営会議で海軍側が、「海軍重砲隊を協力せしめましょう」と、提議した。海軍砲は口径も大きく、その貫徹能力も大きいため、当然陸軍としてはこの申し出を受けるのが得策であろう。これについては砲兵科の出身であり、かつて参謀本部の第一部長でもあった伊地知幸介が答えねばならない。
「その必要もなかろう」と、伊地知は−かれだけでなく、参謀本部の課長たちも−はねつけている。海軍の応援をうけたということでは陸軍の沽券にもかかわる。それに旅順要塞は「日活戦争のときであの程度であったが、いまは当時と多少違うにしても陸軍の手だけで十分である」といった。伊地知はその参謀副長として自分の参謀本部時代の旧部下であった大庭二郎中佐をひきぬいて同行することにしたが、この大庭は少佐参謀のころに「旅順の敵配備は手薄である」という旨の説をたてた人物であり、これはさきに述べた。
要するに乃木の最初の不運は、名だたる旅順軽視論者をその参謀長と副参謀長にしたことであろう。
ちなみに、日本陸軍の慣習は、司令官の能力を棚上げにするところにある。作戦のほとんどは参謀長が立案し、推進してゆき、司令官は統制の象徴であるという役割のほか、作戦の最終責任をとる存在であるにすぎない。 
国内線の慣習である降伏の勧告したことがロシアの士気と団結を高めた
参謀長伊地知幸介は、この総攻撃開始までのあいだに、いまひとつ劇的な手を打った。敵の旅順要塞司令官アナトーリィ・ミハイーロウィッチ・ステッセルに対し、戦わざる前に降伏を勧告したことであった。この突如の勧告に、ステッセルはおどろいたことであろう。
由来、日本人の慣例として−おもに戦国時代の−敵城の包囲を完了したとき、なんらかの方法で降伏を勧告する。日本戦史は単一民族のあいだにおこなわれた国内戦であり、それだけに敵味方とも何等かの縁故で結ばれていることが多く、降伏勧告もその点で無意味ではなかった。第一、城(要塞)とは防衛上の殺人機関であり、これに正面から攻めかかるのは人命を必要以上に損耗するため、できるだけ外交と謀略をもっておとすほうがいい。その意味で伝承されつづけてきた国内戦の城攻め慣習−非戦降伏の勧告−を、他国家の、異教徒の要塞に用いるというのはどういうことであろう。西洋の場合は敵が傷つき、ついに戦力の大半をつかいはたしたとき、とどめを刺す以前に降伏を勧告するのが通例であり、ステッセルもロシア人である以上、その常識しか知らない。
第三軍司令部から派遣された降伏勧告使は陸軍砲兵少佐山岡熊治であった。しかしながらステッセルはこれをきびしくはねつけた。だけでなく、この勧降は旅順要塞における四万四千のロシア将兵の戦意を沸騰させ、逆にかれらの士気と団結を高めしめる結果になった。 
全権が児玉に移ることで旅順攻撃が一変する
その夜、児玉と乃木とは、右の穴のなかにもぐりこんで語り合った。広さは畳二帖ほどしかなく、そこにアンベラと毛布を敷きつめ、小さな机を置き、頭上からカンテラを垂らした。この装置に児玉は満足し、「これでやっと水入らずだ」と、乃木にいった。乃木の生涯と日本の運命にとってもっとも重要な、もっとも言いづらいことを児玉はこの装置のなかでいわねばならない。
−このおれに、第三軍指揮の全権をまかせよ。
ということであった。もし乃木がことわるならば、児玉は大山巌の密書をとりだし即座に乃木を馘首して自分が第三軍の司令官代理にならねばならなかった。児玉はその癖で栗鼠のように小首をかしげ、何度も乃木の顔をのぞきみつつ、「どうだろう」といったであろう。その情景は推測するほかなく、ついに両人とも墓場へゆくまでこれについてはロを閉ざした。ただ明白なことは児玉が多くの言葉を費やすまでに乃木が児玉の提案を受け入れたことであった。この瞬間以後、旅順攻略の指揮権は陸軍大将男爵児玉源太郎に移り、乃木はそのおもてむきの表徴となり、伊地知参謀長以下はその作戦機能を停止させられたことになる。
この児玉と乃木の穴居会談はよほど内外記者団を刺激し、かれらは早暁から起きてこの穴のまわりにあつまり、児玉と乃木が起きてくるのを待った。
やがて児玉が小動物のように這いだしてきて穴の前に立ち、いかにも愉快げに嘲笑し、「なんの、重要な話なんぞは出なかった。昔語りをしていたのさ」と笑いながら帽子を頭にのせた。しかし記者団はそれだけではおさまらず、さらに質問すると、「乃木の寝屁は格別の臭味じゃったよ。わが輩の苦戦は二〇三高地にまさるものがあったな」と、頭を激しくふりながら笑ったため、記者団はそれ以上に追求しなかった。が、旅順攻略の様相はこの児玉が穴から遣い出てきたとき以来一変したといっていいであろう。 
児玉の指揮でロシアは旅順艦隊を五日間で失った
とにかく児玉の指揮に入って以来、一昼夜の歩兵戦闘のあげく、ついにこの山を奪った。児玉はすぐ有線電話をもって山頂の将校をよびだし、「旅順港は見おろせるか」ときいた。その返答ほど児玉にとって感動的なものはなかったであろう。「見おろせます」と、その受話器が叫んだ。「すべての軍艦が見おろせます、みな錨をおろして動く気色もありません」と、ひきつづき叫んだ。児玉は送受話器をおろし、かたわらの田中国重少佐と海軍の連絡将校を等分に見つつ、「すぐ観測隊をして山頂へ進出せしめるように」と命じた。これが児玉のこの旅順攻囲軍における最後の命令になった。
山頂占領後一時間経ってから山頂観測隊が活動しはじめ、礪盤溝から射ち出す二十八珊榴弾砲の射撃を誘導しはじめた。ほとんど二階から石臼をおとすほどの容易さでその射撃は進行し、港内の戦艦ポルターワ、レトウィザン、ベレスウエートなどの諸艦はつぎつぎに撃沈され、その総計約十万トンの各種軍艦のうち戦艦セ・ハストポールだけはわずかに港外へのがれたが、包囲中の東郷艦隊の水雷攻撃のために撃沈され、ロシア側はその旅順艦隊のことごとくを五日間のうちにうしなった。東郷艦隊はこれに安堵し、やがて到来するであろうバルチック艦隊への迎撃準備のために燕順港外の包囲戦務から解放され、全艦を補修すべく佐世保へ去った。
ロシア側の旅順要塞司令官ステッセルにとっても、この結末は、その戦務からの解放を意味したであろう。なぜならば軍港における陸上要塞は港内の艦隊を抱きまもるためにあるのだが、その守る艦隊が港内の海底に沈んだ以上、これ以上の流血防衛はその第一義的な目的をうしなったことになる。それに二〇三高地の喪失以来、旅順の市街地にも日本人の砲弾がたえまなく落下兵員も市民も逃げ場をうしなった。そのあと二十数日を経てステッセルは降伏開城を乃木のもとに申し入れた。
この時期には児玉はすでにこの第三軍から姿を消していた。かれは二〇三高地陥落後四日目に当地を去り、満州における総参謀長としての本務にもどった。かれがやらねばならないのは、旅順などよりも北方戦線におけるグロバトキンとの決戦であった。 
乃木日本武士の典型として世界を駆けめぐった
乃木の名は世界を駆けめぐり、一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。もし児玉が乃木の位置にいたならばこれほどの詩的情景の役者たりえなかったであろう。乃木は独逸留学以来、軍事技術よりもむしろ自分をもって軍人美の彫塑をつくりあげるべく、文字どおりわが骨を錬むがような求道の生活をつづけてきた。乃木のその詩的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。
この評判は、あるいはかれとかれの参謀たちを救ったことになるかもしれなかった。大本営内部や満州軍の高級幕僚のあいだでは、この旅順攻囲戦が終結ししだい、乃木とその幕僚は更迭されてしまうだろうという観測が圧倒的であった。が、乃木はその軍人としての最大の恥辱からまぬがれた。それをまぬがれしめた理由のひとつは明治帝の乃木に対する愛情であり、ひとつには陸相寺内、参謀総長山県の長州人としての友情であり、いまひとつはもし乃木を旅順攻略後に罷免するとすれば旅順における日本軍の戦闘が、最後は勝利をおさめたとはいえ、その途上において記録的な敗戦をつづけたということを世界に喧伝する結果になり、外国における起債にひびくことはあきらかであった。このため、乃木と伊地知以下の人事は国際信用のためにもさわることはできなかった。 
寝ているときでさえ軍用のズボンを脱がない極端な自律生活に入った
結婚後も、希典は毎夜泥酔して帰ってきた。三年のあいだに勝典と保典がうまれたが、このことはおさまらなかった。姑はその罪を静子にあるとし、はげしくあたった。このため静子は心労し、一時期、希典の諒解のもとに両児をつれて本郷湯島に別居をした。静子が二十九歳のとき希典は欧州差遣を命ぜられ、彼女が三十歳のとき希典は帰朝した。この帰朝後、乃木希典は豹変し、別な男になった。このことについては前稿でのべた。希典は茶屋酒をやめただけでなく、帰宅後非軍人的な和服に着かえることもやめた。独逸軍人がそうであるように寝るまで軍衣軍袴をぬがず、寝てからも軍用の補絆、袴下をぬがず、さらにこの習性が昂じてくるとかれは寝ているときでさえ軍用のズボンである軍袴をうがっていた。かれはそれを自分だけの規律でなく陸軍の全将校の規律たらしめるよう陸軍省に上申したが、かれが考えている軍人の様式美についての意識は狭く強烈でありすぎ、宗教的ですらあったため陸軍部内で理解されず、不幸にも黙殺された。それ以後、かれはその規律を自分だけの閉鎖されたなかだけに通用するものとし、副官にすらすすめなかった。かれの相貌がどこか行者のそれに似はじめてきたのも、かれが極端な自律生活に入ったこの前後からであったかもしれない。 
希典は明治帝にとって誠実の提供者
この皇孫ほど明治帝の期待の大きかったひとはないであろう。帝はこの皇孫が初等科に入学するにあたって、乃木希典をして学習院院長たらしめようとした。希典をして、かつての帝における山岡鉄舟、元田永字たらしめようとされたのであろう。希典も帝の期待に応えようとした。かれは他の児童、生徒に対しては院長という立場で臨んだが、この皇孫に対してだけはひとりの老いた郎党という姿勢をとった。自然、皇孫は他の者のように希典を恐れず、恐れる必要もなく、無心にかれに親しみ、親しんだればこそ、学校における他の者とはちがい、希典の美質を幼童ながらも感じとることができた。希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであ。
帝は、それら、希典の教育ぶりに満足されているようであった。他のふたりの皇孫についても希典の訓化を要求された。浮宮(秩父官)と光官(耗松官)であったが、この両宮はまだ幼すぎたせいか、希典にはなつかなかった。希典も帝位継承者である皇孫穀下ほどには思いを入れずこの両宮に対してほのかに疎略であった。
−きょうは乃木は来ないのか。と老帝がときどき左右にきかれるほど、希典が宮中に姿をみせることが多くなった。このことは、帝にとって楽しみであったようだが、かといってどれほどの談話があるというわけでもない。
帝にとってこの忠良な老郎党のたたずまいは、一種の愛嬌とおかしみを帯びていた。愛嬌とおかしみがあればこそ帝にとって郎党なのであろう。山県有朋や伊藤博文、西園寺公望、桂太郎などにはそういうところがなかった。かれらは帝にとって能力の提供者であり、希典は帝にとって誠実の提供者であり、誠実はときとして滑稽感をともなう。 
夫人・静子に自殺を迫り、すぐに遂げてしまった
かれは先々月、先帝の死とともに死を決意したあとも静子のことが気がかりであった。二児を非業に喪い、さらに夫を非業に喪うというほどの打撃をこの静子にあたえたくなかったし、その老後の寂蓼をおもうと、むしろ死を選ばせたほうがいいともおもっていた。このことは希典の論理であり、希典の論理はつねにそうであった。この論理が希典において正しい以上、かれはいま一歩を進めることができた。
「それならばいっそ、いまわしと共に死ねばどうか」希典の脳裏にはすでに順が浮かんだ。自分よりもむしろ静子こそさきに死ぬほうがいい。なぜならば静子が女である以上、自害の仕損じがあるかもしれず、その場合は自分がその完結へ介添えしてやることができる。一さらに静子のいうように後日死ぬ、というのはよくない。それこそ自殺を仕ぞこねて恥をのこすかもしれず、さらにひとびとの制止や、ひとびとの監視をうけて思わぬ苦しみをあじわわねばならぬかもしれない。
が、このことには静子は驚いた。あとわずか十五分で死ねということであった。
「整理が」と静子はいったであろう。−家財の整理など、他の者がする。と、希典はいったであろう。しかし家財の整理はそうであっても、婦人のことであり、身のまわりにはさまざまなことがある。たとえば家のなかの鍵のかくし場所などもひとびとに言い遺しておかねばならず、身辺のもの物品書類なども焼くべきものは焼かねばならぬであろう。さらにたとえば辞世の歌などもそうであり、いまから十五分のあいだにそれをつくれといわれても作れるものではない。しかしこの辞世の歌については、結局は静子はみごとなものを遺した。「いでまして帰ります日のなしと聞く今日のみゆきにあふぞ悲しき」というものであった。いかにも希典の調べの帝に似ている。希典がいくつかの辞世の草稿をもっていたとすれば、それを静子のために譲ったかとおもわれるが、しかしあるいはそうでなく、静子が即座につくったかもしれなかった。それがいずれであるにせよ、そのことは死のための項末な形式にすぎないであろう。
ただ、静子は当惑した。当惑のあまり叫んだ声が、階下にまできこえた。
−今夜だけは。という静子のみじかい叫びが階上からふってきて、階下にいた彼女の次姉馬場サタ子らの息を詰めさせた。そのあとすぐ癇の籠った声が二三きこえたが意味はききとれず、すぐ静かになった。
そのあと数分経過した。階下のひとびとは沈黙をつづけた。階上でふたたび気配がきこえた。重い石を畳の上におとしたような、そういう響きであった。馬場サダ子は、人の死を直感した。サダ子と下婦ひとりが階段をのぼった。鍵穴からサダ子が叫び、希典の名をよび、静子に罪があるなら自分が幾重にも詫びます、と泣きつついった。血のにおいが廊下にまで流れていた。 
 
「殉死」に見る惨劇 3

 

 1
以前にも触れたように乃木大将に対する評価は、明治世代と大正世代の間で鋭く対立している。明治世代は彼を軍神と仰ぎ、その遺徳をたたえるために東京赤坂の乃木神社を含め全国に四つもの乃木神社を作っている。
明治世代で注目すべきは、世間一般の民衆だけでなく、当時最高の知性だった森鴎外・夏目漱石すらも乃木に敬意を払っていたことだろう。鴎外は、乃木殉死の報を聞いて即座に、「興津弥五右衛門の遺書」という作品を書いているし、漱石は乃木の遺書「明治十年の役において軍旗を失い、その後死所を得たく心がけ候もその機を得ず」を読んで感動し、作品「心」に「先生」の言葉として、こう書いている。
「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日迄生きていたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。・・・ 西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります(「心」)」
明治の教養人は、乃木大将の古武士的性格やストイックな生き方を高く評価していたのだ。彼らの中から、「乃木式」といわれる簡素な生活法を実践する者が続出したのも不思議ではない。鴎外も又、乃木式生活の実践者の一人と見られていた。その頃、これら実践者たちは「精神家」と呼ばれた。乃木は「精神家」の輝ける開祖だったのである。
大正世代が反発したのも、この精神家に対してだった。大正世代はヒューマニズムの洗礼を受けていたから、ナショナリズムと結びついた精神主義など容認するはずがなかった。新時代の若者たちの目には、彼ら精神家はむしろ精神屋というべき存在であり、精神主義の名のもとに習俗に媚びているように見えたのだ。乃木大将は日露戦争後に明治天皇のお声掛かりで学習院の院長になったが、武者小路実篤・志賀直哉など学習院に学ぶ学生たちにとって軍神乃木希典など単なる道化役者に過ぎなかった。
大杉栄の父親は職業軍人で、新発田連隊の内部では「精神家」と呼ばれていた。この父親の下から、アナーキスト大杉栄が生まれたのである。乃木大将に対する評価は、世代対立ということを抜きにしても賛否両論に分かれ、「殉死」という小説で乃木を描いた司馬遼太郎も、乃木を半ば否定するような書き方をしている。
司馬遼太郎はこれまで乃木について書くに当たって主人公のプラス面を7割、マイナス面を3割の割合で書いているように思われる。だが「殉死」では、乃木のマイナス面を7割、プラス面を3割の比率で書き、彼の作品としては珍しく辛口の仕上りになっている。そのため、彼は発表に際して読者から反発されるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。
彼はこの作品で、「毎日芸術賞」を授与されたのである。私も世評の高さに惹かれて「殉死」を読み、私の知っている司馬作品の中では一番の出来ではないかと感じている。
では、司馬遼太郎は殉死の原因となっている軍旗を奪われる場面をどう書いているのだろうか。
乃木は、問題の西南戦争に熊本鎮台歩兵台十四連隊の連隊長心得として出陣している。連隊長といっても、彼にはまだ実戦を指揮した経験が一度もなかった。彼はもともと軍人には不向きの人間だった。少年の頃から神経質で脅えやすく臆病だった。長州藩士の子供は、試し切りのために日頃、野良犬や猫を切ったといわれるが、乃木は恐怖が先だって試し切りすることが出来なかった。それでも十代の頃、彼は六ヶ月ほど洋式軍事訓練を受けている。
これだけの経験しかなかったのに、薩摩藩の黒田清隆が口をきいてくれたおかげで、乃木は23才のとき東京に呼び出されて陸軍少佐に任命されている。そして、その4年後に連隊長心得になって小倉に赴いたのだ。
乃木少佐にとって最初の戦闘は、彼の率いる部隊が熊本城を包囲していた西郷軍の一部と接触したことによって起きた。乃木隊は400余名、西郷軍もほぼ同数で、昼間の間は、敵味方一進一退で戦っていたが、夜になって薩摩の抜刀隊が夜襲を仕掛けてくると、乃木隊は算を乱して退却し始めた。
動転した乃木は離れた地点にいた配下の一個大隊を呼び寄せるために、自ら伝令になって走り出したのである。連隊長ともあろうものが部隊を捨てて伝令に飛び出すようなことは、どこの国の戦史にも例がない。
乃木連隊長と共に最前線にいた連隊旗手の河原林少尉以下の10名は、取り残された状況下で敵の襲撃を受け、河原林少尉は戦死し、軍旗を奪われることになった。翌日、敵は奪った軍旗を前線に持ち出し、官軍に見せびらかした。帰隊した乃木は軍旗を取り戻すために必死になって戦ったものの、六日目に左足を負傷して野戦病院に送られる。指揮官を失った乃木連隊は他の部隊に組み込まれて雲散霧消してしまう。乃木にとってこれ以上の恥辱はなかった。
司馬遼太郎は、「殉死」のなかにこう書いている。
「乃木の敗戦についての自責がすさまじく、久留米の野戦病院から脱走してふたたび戦線に加わったという、そういう悲痛な狂操ぶりも軍首脳に好感をもたせた。薩軍が熊本からひきあげたあと、熊本城に入った乃木にはひどく思いつめた様子があり、だれの目にも自殺の危惧があったために、同郷の少佐児玉源 太郎がしきりに説諭し、監視し、ついには監視しやすいように児玉が上申して鎮台司令部付の参謀にした。(「殉死」)」
乃木の自責はそれだけで終わらなかった。参謀の身でありながら、熊本城内から彼は不意に姿を消してしまったのだ。兵士たちは手分けをして乃木を捜し、行方不明三日後に山王山の奥で餓死しようとしている乃木を発見した。西南戦争以後、乃木の人柄はがらっと変わったように見えた。それ以前の乃木は、ダンディーな洒落者だったと陸軍大将田中義一は語っている。
「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬のそろいで、角帯を締め、ゾロリとした風をして、あれでも軍人か、といわれたものだ」
遊び人風だった乃木が、軍旗事件以後、表情に陰鬱の色が加わり、大酒を飲むようになった。そして、酒を飲めば必ず荒れるのである。しかし、乃木の変化にはまだ先があった。ドイツ留学後にもう一度彼の人柄は、がらりと変わるのである。 
 2
西南戦争終了後、乃木は中佐に昇進し、東京に呼び戻されて歩兵第一連隊長に任命されている。西南戦争ではポカばかりしていた乃木が順調に昇進をしていったのは、彼の閲歴の中に陸軍の大ボス山県有朋の副官をしていたという事実があったからだ。乃木の出世はその後も続き、明治18年には37才で少将になり、熊本の旅団長になっている。そして、その翌年には、ドイツに留学しているのである。
この頃、陸軍では、不思議なことが行われていた。
軍制をフランス式からドイツ式に切り替えたという事情もあったろうが、少将や中将が次々にドイツ留学を命じられているのだ。森鴎外のようなドイツ語に精通していた若い尉官が留学を命じられるのなら理解できる。だが、乃木希典などの将官はドイツ語の素養がほとんどなく(フランス語をマスターしている者なら相当数いた。乃木もフランス語を解したといわれる)、年齢も中年に達していたのである。それが相継いでドイツに留学しているのだ。
ドイツに着いた乃木は、ドイツ軍大尉を教官にして作戦全般について学び始める。講義を聞いた後で、教官が出す練習問題に答案を書き、採点してもらうのである。乃木と同時に留学し、同じ教官から講義を受けた川上操六の進歩は目覚ましかったが、乃木は作戦よりもドイツ軍の服装や容儀に関心を抱いていた。
一年間の課程を終えて帰国した乃木は、時の陸軍大臣大山巌に留学報告書ともいうべき「意見具申書」を提出している。内容は二つあって、一つは「操典」の必要性を論じたもので、もう一つは軍人の服装・容儀に関するものだった。乃木の献策が陸軍によって採用された気配はない。しかし「意見具申書」を提出してからは、彼の生き方は急変する。司馬遼太郎はその変化をこう述べている。
「乃木少将(の態度)だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも──乃木式といわれ、死にいたるまでひとを驚嘆せしめたことだが──寝巻を用いず、軍服のままで寝た。・・・・独逸人ならば洋式家屋で起居(あたりまえだが)しているために洋服生活は自然であったが、畳の上で生活をする乃木希典にとってはこの行態は傍目にはいかにも窮屈であり、違和感があり、それがために傍目には悲痛にさえみえた(「殉死」)」
乃木は西南戦争で大失敗を演じたのだから、近代的な戦闘技術や作戦について本格的に勉強すべきだったのだ。だが、彼はドイツ留学の便宜をはかってもらいながら、指揮官としての基本を学ぶ代わりに、精神主義の方向に逸脱して行ったのである。
司馬遼太郎は、「精神主義は無能な者の隠れ簑であることが多い」と記したあとで、「乃木希典のばあいにはそういう作為はない」と保証している。だが、これは読者サービスのための断言であって、乃木の精神主義には自己を隠蔽しようとする偽装の面がかなり強いのである。
精神家乃木希典のモノマニアックな行動で、最も大きな被害を受けたのは彼の家族だった。乃木は30歳の時、10才年下の静子と結婚し、勝典、保典の二人の子供をもうけている。結婚生活は順調とはいえなかった。静子が二児をつれて別居したのは、乃木自身の乱酔癖のためでもあったが、乃木家に「口やかましい母と心の曲がった妹がいた」ためだったらしい。
彼は結婚式の当日、照れ隠しのためか予定の時刻より5時間も遅れて帰宅している。そして酒宴になると、同僚や部下と深酒をして杯盤の散乱する中に倒れ込んで起きあがることが出来なかった。彼は後述するように「そとづら」が極めて良く、多くの知友に愛されていたが、身内に対しては常に無理無体を押し通していたのである。
二人の息子は長じると、軍人になることを嫌がった。母親の静子も、子供を陸軍に入れることに反対だったが、乃木は委細構わず二人を陸軍に押し込んでいる。そのため、長男は陸軍士官学校に入学したものの、休日に帰宅すると、そのまま学校に戻ろうとしなかった。母の静子は勝典に同情して、これを機に士官学校を退学させたいと思ったけれども、それには夫の許可が必要だった。
この時乃木は、第十一師団師団長になって、四国の善通寺に単身赴任していた。思いあまった静子は夫と相談するため、四国に出かけた。静子が東京から四国まで汽車や船を乗り継いでやっと夫の間借りしていた金倉寺に辿り着いたのに、乃木は頑として妻に会おうとしなかった。当日は大晦日だったから、乃木は寺院内の自室に閑居して本を読んでいたのである。普通なら、一家の家長は帰省して年末年始を家族と共に過ごすところだが、彼はそうしないで任地から動かなかったのだ。
寺の住職があまりのことに立腹して乃木をなじったが、彼は平然としている。住職が静子を憐れんで、寺の別室に泊めてやろうとすると、乃木はそれも拒んだ。静子はやむを得ず多度津まで引き返して、そこで宿を取らなければならなかった。乃木が妻に会うことを拒否した理由は、バカバカしいの一語に尽きる。静子が事前に来訪する許可を得ていなかったからだというのだ。妻が切羽づまって手順を踏んでいる余裕がなかったと察していながら、乃木は妻に会うことを拒否し続けたのである。
更に愚かしいのは、これを美談として世人が寺の境内に石碑を建てたことだ。題して、「乃木将軍妻返しの松」というのである。日露戦争が始まり、休職中の乃木希典は呼び出されて第三軍の司令官になった。第三軍の任務はロシア軍の築いた旅順要塞を落とすことだったから、司令官には日清戦争で旅順攻撃を担当した乃木がよかろうということになったのである。乃木を任命した参謀本部も、任命された乃木も、前回の旅順戦が簡単にケリがついたので、旅順攻略を最初から楽観していた。大本営の方針は、「強襲ヲモッテ、一挙旅順城ヲ屠ル」というものであった。
第三軍参謀長として乃木に与えられたのは伊地知幸介で、少尉任官後にフランス陸軍に留学し、中尉になると今度はドイツ陸軍に入学したエリート参謀だった。彼は、「ロシア側の旅順配備は手薄」と予測して肉弾攻撃を計画していた。その後この予測を裏切るような事実が出てきても、乃木も伊地知も最初の作戦を変えようとしなかった。司馬遼太郎は、乃木司令部の作戦についてこう言っている。
「ともあれ、旅順の山なみを遠望しっつ乃木の軍司令部がたてた攻略計画ほど愚劣なものはなかったであろう。その作戦とは、要塞群の間隙を縫い、歩兵による中央突破を断行して一挙に旅順本要塞の郭内に入る、というものであった。この計画では敵の砲兵は眠っているにすぎず、敵の監視硝は盲人であるということを前提としているのであろう。ほとんど、童話といっていい。しかし、乃木も伊地知も正気であった(「殉死」)」
乃木と伊地知は、大本営や海軍から203高地が手薄だから直ぐ攻撃するようにと指示されても聞き流し、もっと強力な大砲が必要ではないかと問われても必要なしと答え、ひたすら無謀な肉弾攻撃を繰り返した。すべての助言に耳をふさぎ、連日夥しい戦死者を累積させて行く乃木司令部のやり方は、専門家の目から見れば、無能というより狂人の振る舞いに近いと思われた。この旅順攻撃戦で乃木は勝典、保典を戦死させている。
乃木が苦しんでいなかったわけではない。苦しみ悶えたあげく、彼のしたことは、昔と同じであった。
「 乃木は、戦場での死を求めるようになり、しばしば戦線視察に出ようとし、出れば不必要なまでに進出し、わざと敵の飛弾を浴びょうとした。その乃木の挙動に副官たちは異常さを感じ、現場で制止したり、監視したりした(「殉死」)」 
 3
乃木司令部による絶望的な旅順攻略戦を打ち切らせ、瞬く間に旅順を陥落させたのは児玉源太郎だった。満州軍総参謀長だった児玉は、現地に乗り込んで乃木司令部の指揮権を奪い、自ら陣頭指揮して旅順要塞を落としたのだ。児玉源太郎の経歴を見ると、彼は何度となく乃木が失策した後をカバーする仕事をしている。最初は西南戦争で軍旗を敵に奪われて動揺した乃木を落ち着かせる仕事だった。次は、日清戦争後に台湾総督になった乃木が台湾統治失敗の責任を取って辞職したとき、その後を引き継いで台湾総督になり、島の治安を回復することに成功している。そして、今度は旅順攻略の作戦を転換させ乃木の失敗の尻ぬぐいをする仕事だったのである。
児玉は乃木希典の無能を誰よりも知りながら、乃木の美点も承知していた。乃木には軍人の才能が全くなかった。乃木は旅順戦の後、奉天会戦に参加したが、ここでも大きな失敗をしている。だが、軍人としての才能がゼロに近い乃木ほど、軍人らしい男はいなかったのも事実だった。乃木は戦場では惨憺たる結果しか残せなかった。けれども、旅順戦の後に敵将ステッセルに示した態度などは誰にも真似の出来ないものだった。
司馬は、乃木がスッテセルと水師営で会見した場面を次のように書いている。
「乃木は降将ステッセル以下に帯剣をゆるし、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木はその副官をして慇懃に断わらしめた。敵将にとってあとあとまで恥が残るような写真をとらせることは日本の武士道がゆるさない、というものであり、このことばは外国特派員のすべてを感動させた(「殉死」)」
また、「日本の百年(筑摩書房)」の著者は、乃木がアメリカからやってきた老写真師をいたわって相手の宿舎に果物の篭を届けた挿話を記したあとで、乃木の性格をこう説明している。
「乃木のなかにある悲劇的なストイシズムは、激情的な人情愛と結びついて、一種の謎めいた印象を与えることがあった。冷血と素朴な人情との不思議な結合がその人がらであった」
戦争が終わって凱旋した乃木は、第三軍司令官として明治天皇に拝謁して報告を行った。
「このあと、自分の戦闘経過を記述した復命書にも、『旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天附近ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因り退路遮断ノ任務ヲ全クスルニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我左側背ニ行動スルニ当り、コレヲ撃推スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ』と書いている。自分の屈辱をこのように明文して奏上する勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないであろう。この復命書を児玉が私(ひそか)に読んだとき、『これが乃木だ』と、その畏敬する友人のために讃美した。児玉にとって乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあまりな無能さのゆえに殺したいはどに腹だたしかったが、しかし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のようなまねはできない自分を知っていた(「殉死」)」
乃木には確かに人間としての美点が少なくなかった。司馬遼太郎は、乃木が自分を常に悲壮美の世界に置き、自らに酔う精神の演技者だったといっている。だが、彼が見え透いた自己劇化を繰り返したのは、その性格の中に根深い劣等感と女性的なナルシシズムが絡み合う形で混在していたからではないかと思われる。
司馬は、乃木が殉死する前に近所の写真師を呼んで写真を撮らせていることを弁護するためか、彼は昔から写真を撮らせることが好きだったと強調している。が、彼が新聞記者に写真を撮らせるだけでなく、自分でも写真師を呼んで写真をとらせていたのは、自己愛の欲求と無関係ではなかった。
大体、日清・日露の戦争に参加した将軍のうちで、乃木だけが生前から聖将だの軍神だのと喧伝されること自体がおかしいのである。姉崎嘲風も、「御大葬の当日に自殺するがごとき、何等か芝居気染みたり」と指摘しているという。古武士的だったといわれる乃木の行動には、ウケ狙いのスタンドプレーと思われるものが多い。「御馳走する」と予告して客を呼んでおいて、出されたものは蕎麦だけだったというような話が目につきすぎるのである。
劇的なことの好きなナルシストが演じる最後にして最大の演技は、自殺にほかならない。三島由紀夫は、空襲警報が鳴ると真っ先に防空壕に逃げ込むほど臆病だったが、切腹自殺をしている。彼が敢えて切腹という壮絶な死に方を選んだのは、生来の臆病を上回るほどナルシシズムが強かったからだ。生命よりも「名を惜しむ」気持ちの方が勝っていたのである。
三島の場合と違って、乃木には死を望む切実な理由があった。明治世代の人々は乃木殉死の必然性を理解し、その点に共感したから彼の死に対して惜しみない敬意を払った。が、大正世代の若者は乃木の自殺をウケ狙いのスタンドプレーとしか解しなかった。そして乃木希典の妻静子も、大正世代に近い目で殉死を見ていたと思われるのである。
乃木が殉死する少し前、乃木邸に家人や親類の者が集まって雑談していたことがある。妻の静子は、皆の集まっていることに勇気を得て前々から気にしていた問題を持ち出した。夫と二人だけの時には切り出せなかった話題である。
「跡目のことですけど、天子様さえ御定命のことはどうにもなりません。あなたにもしものことが、私が難渋します」
「べつに、こまりはすまい」と乃木はいった、「もし困ると思うなら、お前もわしと一緒に死ねばよかろう」
「いやでございます」と静子はハッキリといった、「わたくしはこれからせいぜい長生きをして、芝居を見たり、おいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」
静子がこれだけのことを言ってのけたのは、前述のように親戚の者たちが同席していたからだった。結婚生活34年の間、彼女には楽しいことが何一つなかった。頼りにしていた二人の息子にも死なれて、最早、先のよろこびもない。夫と死別したら、まず人生を楽しみたいというのが彼女の正直な気持ちだったのである。
──いよいよ、御大葬の日がやってきた。
乃木は前夜に予約しておいた近所の写真師がくると、「今日の写真は自然な格好がいいだろう」といって新聞を読むポーズをとった。しかし服は陸軍大将の礼装で、胸にはありったけの勲章を並べた。
静子はまだ夫の決意を知らなかったから、乃木が御大葬に参列するものと思っていた。その点を確かめると、夫は、「行かぬ」という。夕刻になって彼女が二階の乃木の部屋の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。乃木が室内から、書生や女中を御大葬の拝観に出かけさせるように命じた。
書生と女中を外に出して静子が二階に戻ると、鍵がはずしてある。乃木は軍服姿で端座していた。かたわらに軍刀が置いてある。窓の下の小机に、「遺言状」と墨書した封筒が乗っている。
「察しての通りだ」と乃木はいった、「午後八時に御霊柩が宮城を出る。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」
午後八時までには15分しかなかった。乃木が葡萄酒を求めたので、静子は階下の台所に行って、そこに来ていた姉の馬場サダ子と姉の孫英子と言葉を交わし、二階に戻った。乃木は葡萄酒を静子に注いでやって別れの盃を交わした。──分かっているのはこのへんまでである。
乃木と静子は話しているうちに、静子も死ぬことになったらしかった。それまでは、乃木も妻を道ずれにするつもりはなかったから、遺言状の宛名に静子の名前もあり、妻に言い残す言葉もちゃんと添えられていたのである。
階下にいた姉の耳に、不意に静子の叫ぶ声が聞こえてきた。
「今夜だけは」
姉は緊張して息を詰めた。そのあと、意味の聞き取れない疳のこもった声が二、三続いた。少しの間があり、二階から重い石を畳に落としたような音が聞こえてきた。姉は階段を駆け上り、鍵穴から乃木の名を呼んで必死に叫んだ。彼女は妹が乃木に折檻されていると思ったのである。
「静子に罪があるなら、私が幾重にもお詫びします」
室内から、乃木の返事が聞こえてきたが、何と言っているのか意味は聞き取れなかった。静子は恐らく夫と一緒に死ぬ積もりになったものの、女の身で色々始末しておきたいものがあったに違いない。それで今夜だけはと頼んだのだが、乃木が叱りつけて即座に自死を決行させたのだろう。静子は短刀で三度自ら胸を刺したけれども、死にきれなかった。次は司馬の推測である。
「(刺し傷は)浅かった。希典が手伝わざるをえなかっ たであろう。状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコブシをもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切先が欠けていた(「殉死」)」。
この状況を想像すれば、静子は無理心中で殺されたような印象を受ける。まさに惨劇だったのである。 
 
「粛軍に関する質問演説」 (斎藤隆夫遺稿)

 

一大革新の国家的要求
我国の歴史に拭うことの出来ない一大汚点を添えたる彼の叛乱事件の後を承けて広田内閣が成立し、身を挺して国政一致の衝に当らるることは、吾々の最も歓迎する所であり、同時に国家の為に衷心より其成功を祈るものであります。
広田首相は曩に大命を拝せられ、組閣に入るに先立って天下に向って一の声明書を発表して、将来に対する決意を明にせられたのでありまするが、其声明書を見ますると云うと、旧来の積弊を芟除し、庶政を一新し、確乎不抜の国策を樹立して、以て其実現を期す、昨日此所に於ての御演説に於きましても、此趣旨を敷衍せられて居るのでありまして、洵に我意を得たるものであるのであります。御説の如くに今日我国内外の情勢を見ますれば、最早旧来陋習を追うて優柔不断の政治は許されない、速に此陋習を打破して一大革新を為すべき国家的、国民的、要求は澎湃として吾々の眼前に押寄せて来て居るのである。(拍手)
それ故に今日何人が政治の局に立つと雖も、此決心と此覚悟を以て当らねばならぬことは当然の次第であります。何より是迄歴代の政府に於きましても其考がなかったのではありますまい。其証拠には何れの内閣も成立直後に於きましては、或は施政の方針を声明する、或は政綱政策を発表して、国民の前には政治の革新を誓いまするけれども、それ等の方針、それ等の政綱政策が全部は愚か、其幾分たりとも実行の跡を残さずして一両年経てば内閣は崩壊してしまうのであります。是は何故であるかと言へば、畢竟するに総理大臣を初めとして、閣僚全体が真に今日我国内外の情勢を認識して、国政改革を断行するだけの熱意もなけれは気魄もない、勇気もなければ真剣味もない、唯目前に現わるる所の国務を弥縫して以て一日の安きを貪る、斯の如き弛緩せる政治状態が過去幾年かの間継続致しました結果、遂に今日の現状を惹起したのであります。
此秋に方りまして広田首相が組閣の大命を拝せられ、敢然して国政改革の断行を誓わるるに当りましては、天下何人と雖も之を歓迎しない者はないのであります。併ながら翻って考えて見ますると云うと、国政の改革、国策の樹立、之を唱えることは極めて易いのでありまするが、之を行うことは中々困難であります。固より是等の題目は今日初めて現われたのではない、又現内閣の新発明でも何でもない、従来政府之を唱え、政党之を唱え又有ゆる政治家が之を唱えて国民に向っては何かの期待を抱かせて居たのでありまするけれども、之を具体化して以て其の実行に着手したる者は殆ど見出すことが出来ないのである。申す迄もなく政治は宣言ではなくして事実である。百の宣言ありと雖も、一の実行なき所に於て政治の存在を認めることは出来ないのであります。(拍手)
それ故に今日は斯る政治上の題目を繰返して、之に陶酔して居る秋ではない。速に之を具体化して以て其実行に取掛るべき秋であります、故に私は此見地に立って是より現内閣施設の大要に付て御尋をするのでありまするから、其御積りを以て御聴取を願いたいのであります。 
政治革新論の検討
先ず第一は革新政治の内容に関することでありまするが、−体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。革新を唱えない者は経世家ではない、思想家ではない、愛国者でもなけれは憂国者でもないように思われて居るのでありまするが、然らば進んで何を革新せんとするのであるか、どう云う革新を行わんとするのであるかと云えば、殆ど茫漠として捕捉することは出来ない、言論を以て革新を叫ぶ者あり、文章によって革新を鼓吹する者あり、甚しきに至っては暴力に依って革新を断行せんとする者もありまするが、彼等の中に於て、真に世界の大勢を達観し、国家内外の実情を認識して、仮令一つたりとも理論あり、根底あり、実効性ある所の革新案を提供したる者あるかと云うと、私は今日に至る迄之を見出すことが出来ないのである。
国家改造を唱えるが如何に国家を改造せんとするのであるか、昭和維新などと云うことを唱えるが、如何にして維新の大業を果さんとするのであるか、国家改造を唱えて国家改造の何たるかを知らない、昭和維新を唱えて、昭和維持の何たるかを解しない、畢竟するに生存競争の落伍者、政界の失意者乃至一知半解の学者等の唱える所の改造論に耳を傾ける何ものもないのであります。(拍手)
而も此種類の無責任にして矯激なる言論が、動もすれば思慮浅薄なる一部の人々を刺戟して、此処にも彼処にも不穏の計画を醸成し、不逞の兇漢を出すに至っては、実に文明国民の恥辱であり、且つ醜体であるのであります(拍手)
併し私は今日此処に於て斯くの如き革新論を批判せんとする者ではない。此壇上は斯の如き種顆の議論を試みる処ではないと云うことは十分に承知して居ります。私の目指す所は広田首相が抱懐せられて居る所の革新政治、其の内容を聴かんとする者であります。便宜の為に政治革新の方法を二つの方面より御伺致します。第一は政治機関の改革である。即ち立法、行政、司法此三機関の構成に関する所の改革であります。第二は是等の機関に依って運用せらるる所の実際政治に対する所の改革であります。
先ず第一の政治機関の改革、其中の立法機関の改革に付て広田首相は何かの意見を持って居られるのでありますか、近頃貴族院改革と云う議論が現われて居りますが、是は主として貴族院議員の間に唱えられて居るのでありまして、政府の意見として現われたるものは聞かない、又衆議院の改革に付ても議論がございまするが、是亦政府の意見として現われたものはない、要するに広田首相は是等立法機関の改革に付て、何か手を著けられる御積りであるか、又手を著けられると云うならば、何か之に付いて相当の腹案があるかないか、之を一つ伺いたいのであります。
次は行政機関の改革であります、吾々は随分長い間行政刷新、即ち行政機構の改革と云うことを聞かされて居る、例えば省の廃合であるとか、或は無任所大臣を新設する、其他中央地方の行政組織を根本的に改革して、之に依って行政を簡易化する、行政を刷新する、行政費を節約する、繁文褥礼の積弊を芟除する、斯う云う議論は随分長い間聞かされて居る、政府も之を唱えるし、政党も亦之を唱えるけれども、今日までそれが実行せられた例はないのであります。
昨日総理大臣は此処に於て行政機構の改革をすると云うことを明言して居らるるが、本当に腰を入れて真剣にやる積りであるかないか、若しやるとするならば、何かそこに一つの腹案がなければならないのであるが、相当の腹案を握って居られるのであるかないか、司法機関の改革に付きましては、今日別に問題になって居りませぬ、後に運用に付て一言触れることがあるかも知れませぬ、詰り革新政治の第一義でありまする所の政治機関の構成に関する改革、之に付てどう云う御考を持って居られるのであるか、先ず之を承りたいのでありまするが念の為に一言注意をして置きます。私は決して政府が改革をすると云う所の決意を聴かんとするのではないのであります。
私の聴かんと欲する所のものは、改革の決意ではなくして、改革の方法であり、又改革の内容であるのであります。改革をしたい考は持って居るけれども、まだ何等の腹案はない、是から調査をする。例に依って委員でも設けて慎重審議して、それから後に改革をするかしないかを決める、そう云う御意見であるならば、別に御答は要らぬのであります。私等は随分長い間そう云う答弁を聞かされて来たのであります。此上同じような答弁を聴く所の忍耐力は持って居らない、既に改革をやると云う以上は其前に於て相当の輪廊が出来て居らなければならぬ。内容は備って居らぬけれども改革をやると云う決意だけでは、吾々は承服することは出来ない。 
制度よりは人の問題
此際一言致して置きますが、私の観る所に依りますと云うと、今日我国の政治機関、立法、行政、司法を通じて是等機関の根本に付て、甚しき改革を加える点は考えて居らないのであります。御承知でもございましょうが、我国の政治組織は、明治維新以来欧米先進国の長を採り短を捨て、之に我国の歴史と国情を加味して作られたものでありまして、其後時代の進運に応じて度々改正を加えて、今日に至って居るのであります。それ故に制度としては相当に完備して居りまして、之を何れの文明国の制度に比べても決して遜色はないのであります。故に問題は制度の改革と云うよりか、寧ろ此制度を運用する人である(拍手)
人が役に立たねば如何に制度の改革をした所が、決して其実績は挙がるものではないのであります。(拍手)
例えば近頃無任所大臣を新設すると云う議論があるようでありまするが、是等のことも畢竟するに是までの大臣が役に立たぬからであります。内閣大臣たるものは一方に於ては行政長官として、他の一方に於ては国務大臣として、大所高所より国家の現状を眺めて、国政燮理の任に当って居りましたならば、現行制度の下に於ては、国務の統一が取れない、予算分捕の弊に堪えない、斯う云う理由を以て新に無任所大臣を置くなどと云う議静が出て来る訳はない。御覧なさい、今日の制度に於きましても、総理大臣は内閣の首班して国務を統一するに足るべき権限を完全に握って居るのであります。
試に内閣官制を見ますると云うと、其第二条に於きまして、内閣総理大臣は各省大臣の首班として、行政各部の統一を保持す。又第三条に於きましては、内閣総理大臣は須要と認むるときは、行政各部の処分又は命令を中止せしむることを得、内閣総理大臣は現内閣官制に於て、是だけの権限を授けられて居るのであります。それで国務の統一が取れないと云うならば、それは制度の罪ではなくして、全く総理大臣其人の罪である。(拍手)
或は予算分補の弊に堪えない、予算の争奪戦をやる、何んたる事であるか、毎年予算編成の時期になりますると云うと、斯の如き醜態を暴露するのは何が故であるか、畢竟するに政府の政策が決まらない、政治止の大方針が決まらないからである、若し政治上の大方針が決まって居りまするならば、各省大臣が勝手気儘に予算の要求を為すべき訳はない。是等の弊害は現行制度の運用に依って、如何様にも芟除することが出来るのであります。況や立憲政治は何処迄も責任政治でなくてはならぬ、内閣が政治の中心となって、全責任を負うて国政燮理の任に当る、若し力が足らないならば、其職を去るのみであります。
然るに此道理を弁えずしては動もすれば自己の無能無力を補うが為に種々の工作をやる、畢竟するに弱体内閣の慣用手段でござりまして(笑声)
憲政の本義を紊り、人の為に官職を設け、国政を玩弄するの甚しきものでありまするからして(拍手)
大いに戒めねばならぬのであります。御断りを致して置きまするが、私は決して制度の改革に反対をする者ではない、改革すべき必要があるならば、速に改革をしなくてはならぬのでありまするが、唯近頃の改革熱に浮かされて、何か改革をしなくては面目が立たない、改革の名を得るが為に、強いて不自然なる改革をすることに付ては、私共は断乎として反対をするのであります。(拍手) 
実際政治改革の経論如何
次は実際政治の改革に関することでございまするが、是は極めて広汎に亙って重大なる問題でございまするが、此実際政治の改革に付て広田首相はどう云う経論を持って居られるのであるか、広田首相の声明を見ますると、旧来の積弊を芟除し、秕政を一新すると云うことでありまするが、若し旧来の政治に積弊があり、又秕政がありとするならば、前両内閣に歴任せられた所の広田首相の如きも、亦確に其責任の一端を負わねばならぬのでありまするが、私はそう云う責任論は決して致さないのであります。
唯広田首相が認めて以て積弊と称し、又秕政と称するものは、主にどう云う点を指して居らるるのであるか(「そうそう」と呼ぶ者あり、拍手)
何処を目標とし何処を狙って居るのであるか、是が明にならねば、如何に自ら苦心焦慮せられた所が、如何に駄馬に鞭打たれた所が、到底改革の実績を挙ぐることが出来るものではないのであります。(拍手)
今日政治問題として最も重きを置かれて居る所のものは、言う迄もなく国防と財政でございまするが、国の内外を見渡しますると云うと、政府が改革の大斧鉞を揮わねばならぬ所のものは、中央地方を通じて、大小共に算えることの出来ない程沢山あるのであります。例えば学制改革、昔々は随分と長い間学制改革を聞かされて居りまするが、今以て実行が出来て居らぬ、文部大臣は是まで口に学制改革を宣伝する。或は其実行に手を著けたことがありますけれども、悉く失敗に帰して居る。
御承知でもござりましょうが、学制改革は今日世界文明国に於て最も重大なる問題となって居るのであります、それは何処から来て居るかと云うと、詰り欧羅巴戦争から来て居る、欧羅巴戦争は十九世紀の文明、即ち旧文明、旧文化を根低から破壊し去って、其の欠陥と其弊害が遺憾なく暴露せられて居る、如何にして之を立直すことが出来るかと各国の識者、政治家が研究努力致した結果、其根本問題として一決致したる所のものは即ち教育方針の改革であるのであります。文化の立直しは教育の立直しであると云うことに一決して、其中独逸の如きは三年を出でざる中に学制改革を断行した、殊に近時「ナチス」の政治の時代に至りましてから、一層青年教育にカを尽して、御承知の通りに青年の労働奉仕団と云うが如き特色を発揮して居ることは、世界周知の事実であるのであります。
是は独逸ばかりではない、其外英吉利でも、仏蘭西でも、伊太利でも、欧羅巴の諸国は悉く―其国情に依って教育の精神と内容は違いますけれども、何れも独逸と相前後して学制改革を断行して、青年の教育に向って最も力を注いで居ることは御承知の通りである。然るに我国の教育は如何なるものであるかと云うと、相変らず旧式教育を追うて居って、所謂過度の詰込主義に偏して、精神主義、人格主義を殆ど無視して居る、是が為に甚しきに至っては青年の教育までも害して中途に倒れる者がどれだけあるか分らぬ、斯う云う無理解なる、斯う云う時代遅れの教育を施して居りながら、是等の青年に向って将来の日本を背負って立てよ、所謂躍進日本の運命を担えと迫った所で、是が出来ることか出来ないことか、考える迄もないことである。
昨日文部大臣は此処に於て従来の学問偏重の教育を廃して、人格主義の教育を施すと言われた、是は私も同感でありまするが、斯う云うことは、歴代の文部大臣からして度々聴いて居るのでありまするが、是が実行出来ぬ、学制改革と云うような大問題は、微々たる一大臣の力を以て出来るものではない(笑声)
内閣全体政府全体の圧力を以て、之に向はなければ(「謹聴」と呼ぶ者あり)
何時迄経っても是は解決することが出来ないと思うがどうであるか。
或は裁判権の運用、是は、前の議会に於きましても一言述べたことでありますが、それは何であるかと云うと、我が日本の裁判が非常に遅れることであります。凡そ世界文明国に於て我国の裁判程甚しく遅延する処はない、欧羅巴諸国の裁判がどう云う工合になって居るかと云うことは、時々現われる所の外国電報に依っても分るのであります。前年亜米利加の大統領が狙撃せられた、幸に傷は負わなかった、或は墺太利の総理大臣が暗殺せられた、又近くは亜米利加の社会を聳動せしめた所の彼の「リンデー」の小児殺害事件、斯う云う事件でも犯人が発覚するや否や、一二週間を出でずして死刑の宣告をして、直ちに執行してしまうのであります。
然るに我国の裁判はどうであるかと云うと、例えば天下知名の士が或処に於て殺害せられた、犯人は其場に於て捕えられた、犯罪の証拠は極めて歴然たるものがあるに拘らず、二年も三年もしないと云うと、一審の裁判すら済まないのである。或る政治家の涜職事件の如きは八年懸って居るがまだ済まない。斎藤内閣辞職の原因となりました所の彼の帝人事件の如きも、其後二年有余になりますけれども、まだ一審裁判所の事実審理すら済まない。聞く所に依れば是まで百回以上の事実審理をやって、是からまだ二百回以上の事実審理、前後合せて三百回以上事実審理をやるにあらざれば、一審の判決を下すことが出来ないと云うが如き、吾々の常識を以てしては想像することが出来ないのであります。
斯う云う裁判のやり方をして居って、どうして時代の要求に応ずることが出来るか(拍手)
どうして此大切なる所の人権自由を保護することが出来るか、若し裁判の手続が複雑でありますならば、是は速に改めて簡易にするが宜しい、裁判官の数が足りない、金が無いと云うならば、金を要求し、又政府は金を出せば宜しいのであります。或方面に於てはどしどし金を出すが、国民の大切なる所の人権自由を保護する此裁判所に於て、金が出せない訳はないのである。(拍手)
或は又近頃各地に於て人権蹂躙の問題が起って居りますが、其事実を聞きますと、実に驚くべきものがある、所謂粛正選挙、選挙取締を励行することは極めて宜い事でありますが故らに……(「内務大臣どうした」「大臣の出席を求めます」と呼ぶ者あり)
犯罪を製造するが為に法規を濫用して、濫りに人民の自由を拘束する、人民の自由を拘束するばかりではない、強いて虚偽の自白を求むるが為に之を虐待し、之を拷問し、或は人身に傷を負わせ甚しきに至っては拷問の結果、良民を死に至らしめたものがある(拍手)
何たる野蛮の行為でありましょう(「政務官は居りますか」と呼ぶ者あり)
苟も立憲政治の下に於きまして、殊に昭和の聖代に於てはあり得べからざる事であります、何れ此事は他の機会に於て吾々の同僚より、証拠を示して論争せられることと思いますから、私は此以上は申しませぬが、是等のことに付きましても、政府当局は真剣に其の事実を調査して、従来の弊害を一掃することに努める大責任を担って居るのであります。
是は唯一二の例を示したのに過ぎないのでありますが、今日司法及び行政の行われます所の実際の有様を見ますと、斯の如き事例は天下到る処に累々として横わって居るのである、此の積弊を根抵より洗去ってしまうと云うのが、即ち政治革新の要諦であるのであります、時代の要求に応じて革新政治を標榜して起たれたる所の広田首相に於かれましては、無論今日の政治状態に付ては十分なる御理解があるには相違ありませぬが、此実際政治の改革に付て、どう云う考を持って居られるのであるか、細かしいことは必要ありませぬが、大体の抱負経論だけを伺って置けば宜しいのであります。 
不動の国策を樹立せよ
次に国策の樹立に対して御尋ねを致したいと思う、広田首相の声明の中には、確乎不抜の国策を樹立して以て之を実現する、近頃国策と云う言葉が流行って居りまするが、一方に政策と云う言葉がある。国策と政策とはどう違うのであるか、甚だ曖抹に用いられて居りまするが、私は今日言葉の詮議立ては致さない、併し国策と云う以上は、少くとも日本国家の進むべき大方針であるに相違ない、日本国家の進むべき大方針が、今日に於ても未だ決って居らぬ、是から研究して決めるなどと云うことは、私に取っては甚だ受取れない。
私の観る所に依りますると云うと、国家の進むべき大方針は既に、明に決って居る、遠く遡って見まするならば、明治維新の皇謨に現われて居る所の開国進取、是が即ち日本国家の進むべき大方針でありまして、是が時代の進運に応じて拡張せられたる所のものが、即ち世界の平和と我が民族の発展であるのであります。所が世界の平和と云うことが真に得らるべきものであるかないか、欧羅巴戦争が生み出しました所の国際連盟、世界平和を目的として居る所の国際連明も、国家競争の前には何等の威力も発揮することが出来ない。如何なる条約も力の前には蹂躙せられてしまうことは、昔も今も変りない。
今日国際関係を支配する所のものは、正義の掛声でもなければ、道義の観念でもない、昨日の世界を支配したるものが力であるが如く、今日の世界、明日の世界を支配するものも亦力である。軍縮会議は見事に失敗に帰した。各国は軍備の競争をやって、軍国主義を追うて進んで居る、其の結果どうなるかは推して知るべきのみであります、私は昨年此処に於て欧羅巴の空には微かに戦雲の閃が見えると申しましたが、今日は戦雲の閃どころではない、既に欧羅巴の一角に於ては戦争が勃発して、今や将に終結を告げんとして居る、戦争が始まれば、所謂弱肉強食、正義や人道の声は露程の効目もない、来年の此頃にはどう云う事が起って居るか分らぬ、故に私共は世界の平和などと云うようなことは、中々未だ期待して居らないのであります。
吾々の望む所のものは広き世界の平和ではなくして其の一部でありまする所の此東亜の平和である、東亜の平和を維持することは、我が日本帝国の大方針であり、又大使命であり、又責任であるのであります。歴代の政府も此処に於て屡々其趣意を述べて居る、広田首相も外務大臣として度々此壇上に於て力説せられて居るのであります。所が東亜の平和が真に得らるべきものであるかないか、東亜の平和を維持する所の根拠が今日大磐石に確立して居るのであるか否や、之を私は疑うのである。
吾々は近頃満蒙の国境或は其他の処に於て時々起りまする所の、彼の局部的の、又断片的の事件、斯う云うものに重きを置くものではない。斯の如き事件は其場限り、如何様にも解決することが出来るでありましょうが、之を大局の上から見まして、東亜の平和を保持する所の外交上の大工作が行われて居るのであるか否や、之を私は聴きたいのであります。広田首相は自主的、積極的外交と云うことを云って居られまするが、我国の外交が自主的でなくてはならぬことは当然であります。積極的であると云う所に、相当の期待が掛けられて居るのであります。
然るに今日吾々が東亜の天を眺めますると云うと、東亜の天は極めて静かであって、且つ明朗であると云う感じが起らない、現に広田首相も昨日此処に於て東亜の天は明朗を欠くと云うことを言うて居られるのであります。広田首相が斯く申さるるのでありますから是は疑いない、何れにするも今日は逡巡躊躇して居るべき秋ではない。所謂曠日弥久、日を曠しくして久しきに弥るべき秋ではない、大悟一番百年平和の基礎に向って積極的に外交上の大工作を施すべき秋ではないか。
而して外交上の工作は必ずや事実の上に現われて来なくてはならぬ。外交上の工作が事実の上に現れると云うことはどう云うことであるかと云うと、詰り国防計画の変更であるのであります。一方に於ては軍備の競争をなして居りながら、他の一方に於て外交上の工作成功せりと言うものは悉く偽りである(ヒヤヒヤ)
吾々はそう云う虚偽の外交を望まない、そう云う姑息的な、そう云う弥縫的な外交を望まない。吾々の望む所のものは真実の外交である、精神的なる徹底せる外交であって、其の外交の結果が事実の上に於て現われて来なけれはならぬ、是以外に昔々の望む所の外交の何物もないのであります。
然るに一方に於て軍備の競争をやる、彼が軍備を拡張すれば我も亦拡張する、我が拡張すれば彼も亦拡張する、彼が或る地点に防備を整えれば我も亦之に対抗する、斯う云う勢を以て進んで居りましたならば末はどうなるものであるか、其結果は推して知るべきのみである、国策の樹立を声明して、是が実現を期すると言われた所の広田首相に於きましては、此刻下の重大問題に付て、更に一歩を踏み出さるべきでないか、之を私は伺って置きたいのであります。
尚お民族の発展及び国民生活等のことに付きまして御尋を致したい事でございますが、他の問題に付て御尋をする必要から、総理大臣に対する質疑は之を以て一時中止を致しまして、是より軍部大臣に向って御尋をして見たいことがあるのであります。 
軍人の政治関与は不可
二月二十六日帝都に起りました所の、彼の叛乱事件の経過に付きましては、昨日公開及秘密会を通じて、陸軍大臣より詳細の御説明があり、又之に対して吾々の同僚より質疑がございまして私は謹んで之を拝聴して居ったのであります。然る所私白身の立場から申しますと、平素考えて居りますることに付て、どうしても少し聴かねばならぬことがある。此の機会を逸すると更に他の機会を掴むことは甚だ困難でありまするから、今少しく時間を拝借致しまして、極めて大要に亙って此関係に於て質問することを許されたいのであります。
御断りして置きまするが、私は今回の事件の為に、苟且にも軍に対して反感を懐く者ではない。又軍部大臣を指弾せんとする者でもない。殊に寺内陸軍大臣は此事件の跡始末をするが為に、又斯る事件を未来永久根絶するが為に、苦心努力して居られることは、十分知って居るのであります。又或る一部の人々が妄想する如く、吾々は之に依って苟且にも反軍思想を鼓吹するとか、或は軍民離間を策するとか云うような、そう云う邪念は一切持って居らないのであります。唯国家の将来に対して聊か憂うるの余り、敢て質問を致すのでありますから此点は誤解なからんことを予め御断りして置きます。
凡そ何事に拘らず此の世に現われます所の事件の原因を質して見ますると、遠きものもあれば近きものもある。所謂近因もあれば遠因もあるのでありまして、之を遡って究めますると、全く際限のないことでござりまするが、今回の事件の如きもそれと同様でござりまして、此事件が由って起りました所の原因を調べて見ますれは、現在の政治上、社会上、経済上、其外諸般の事情が伏在して居るに相違ござりませぬが、私は今回是れ等の事情を吟味するだけの時は持たないのでありますから、此事件の比較的直接の原因として認むべき二三の事実を指摘して、之に対して陸軍大臣の御答を求めて見たいと思うのである。
其の第一は何であるかと云うと、軍人の政治運動に関することであります(拍手)
満洲事件は国の内外に亘って非常な影響を及ばして居ることは、今更申す迄もないことでありまするが、其中に置きまして、青年軍人の思想上に於きましても或変化を与えたものと見えまして、其後軍部の一角、殊に青年軍人の一部に於きましては、国家改造論の如きものが台頭致しまして、現役軍人でありながら、政治を論じ政治運動に加わる者が出て来たことは、争うことのできない事実である。
此傾向に対して是まで軍部当局はどう云う態度を取って居られるのであるか、之を私は聴かんと欲するのであります。申す迄もなく軍人の政治運動は上御一人の聖旨に反し、国憲、国法の厳禁する所であります。彼の有名なる明治十五年一月四日、明治大帝が軍人に賜りました所の御勅諭を拝しましても、軍人たる者は世論に惑わず、政治に拘らず只々一途に己が本分たる忠節を守れと仰出だされて居る。聖旨のある所は一見明瞭、何等の疑を容るべき余地はないのであります。
或は帝国憲法の起草者でありまする所の故伊藤公は、其憲法義解に於てどう云うことを載せて居られるかと云うと
「軍人は軍旗の下に在て軍法軍令を恪守し専ら服従を以て第一義務とす故に本章に掲くる権利の条規にして軍法軍令と相抵触する者は軍人に通行せず、即チ現役軍人は集会結社して軍制又は政治を論ずることを得ず。政事上の言論著述印行及請願の自由を有せざるの類是なり」
又陸軍刑法、海軍刑法に於きましても、軍人の政治運動は絶対に之を禁じて、犯したる者に付ては三年以下の禁錮を以て臨んで居る。又衆議院議員の選挙法、貴族院多額納税議員互選規則を見ましても、現役軍人に対しては、大切なる所の選挙権も被選挙権も与えて居らないのであります。
斯の如く軍人の政治運動は上は聖旨に背き国憲国法が之を厳禁し、両院議員の選挙被選挙権までも之を与えて居らない、是は何故であるかと言へば、詰り陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ、それ故に軍人の教育訓練は専ら此方面に集中せられて、政治・外交、財政、経済等の如きは寧ろ軍人の知識経験の外にあるのであります。加之若し軍人が政治運動に加わることを許すと云うことになりますると云うと、政争の末遂には武力に愬えて自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢でありまして、事茲に至れば立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありますからして、軍人の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります(拍手) 
純真なれど単純なる思想
殊に青年軍人の思想は極めて純真ではございまするが又単純である、それ故に是等の人々が政治に干渉すると云うことは、極めて危険性を持って居るものであります。私は前年彼の五・一五事件の公判筆記を読み、又自ら公判を傍聴致しまして、痛切に其感を深くした者であるのであります。有体に申しますると云うと、法廷に於ける被告人等の態度は、極めて堂々たるものであったのであります。犯罪の動機、犯罪の事実を何等包み隠さずして陳述する所は、流石青年軍人の面目実に躍如たるものがあったのであります。
是は固より彼等の為したる事が決して破廉恥的の性質を有するものではなく、一に国家社会を思う所の熱情より迸りたる、所謂憂国慨世の国士的の行動でありまするからして、内に顧みて自ら疚しき所はないのみならず、難に臨んで卑怯千万の振舞をしてはならない軍人精神の発露としては当然のことであるのであります。併しながら惜しむべきことは、如何にも其思想が単純でありまして、複雑せる国家社会を認識する所の眼界が如何にも狭隘であることである。それは其筈でありましょう。彼等は何れも二十二、三から三十才に足りない所の青年でございまして、軍事に関しては一応の修養を積んで居るには相違ありませぬが、政治、外交、経済等に付きましては、無論基礎的学問を為したることはなく、況や何等の経験も持って居らないのである。
然るに是等の青年軍人が平素無責任にして誇張的でありまする所の言論機関の記事論説を読み、或は怪文書の如きものを手にする、或は一部の不平家、一部の陰謀家の言論に耳を傾け、或は処士横議の士と交わり、或は世の流言蜚語を信じて、如何なる考を起したかと云うと、今日の政党、財閥、支配階級は悉く腐敗堕落して居る、之を此儘に放任して置いたならば国家は滅亡してしまう、之を救うには彼の大化の革新に倣うて、日本国家の大改造をやるより外に途はない。従来の外交は軟弱である、倫敦条約は屈辱である、天皇親政、皇室中心の政治を行わねばならぬ、是が為には軍人内閣を捧へ拵ねばならぬ、直接行動に愬えねばならぬ。犯罪の動機は何であるかと問わるると、権藤某の自治典範を読んで感動した、北某の日本改造法案を読んで感激した、朝日某の斬好状を読んで刺戟された、其思想の単純であることは思い知らるるのであります。
それでありまするから公判廷に於ける彼等の陳述を聴いて居りますると、悉く不徹底なことばかりであって、要点に達しているものは何等認めることは出来ない。例えば倫敦条約は統帥権の干犯であると云うことを言うて居りますが、憲法上から見て何処が統帥権の干犯になるかと云うことは少しも究めて居らぬ、天皇親政、皇室中心の政治と云うようなことを言うが、一体どう云う政治を行わんとするのであるかと云うと、さっぱり分って居らぬ。
唯或者が今日の政党、財閥、支配階級は腐って居ると言うと、一図に之を信ずる、倫敦条約は統帥権の干犯であると云うと、一図に之を信ずる、国家の危機目前に迫る、直接行動の外なしと言えば、一図に之を信ずる、斯の如くにして、軍人教育を受けて忠君愛国の念に凝り固まって居りまする所の直情径行の青年が、一部の不平家、一部の陰謀家等の言論を其儘鵜呑みにして、複雑せる国家社会に対する認識を誤りたることが、此事件を惹起すに至りたる所の大原因であったのであります(拍手)
それ故に青年軍人の思想は極めて純真ではありまするが又同時に危険であります。禍の本は総て此処から胚胎して居るのでありますから、此の思想を一洗するにあらざれば、将来の禍根を芟除することは到底申来ないと思って居りますが(拍手)
陸軍大臣は此点に付てどう云う考を持って居られるのであるか、之を一つ承って置きたいのであります。 
事件と軍部当局の処置
それから次は是等の青年軍人の思想が或は陰謀となり、或は直接行動となって世に現われた其行動に対する軍部当局の態度であります。第一は昭和六年に現われた所の所謂三月事件、第二は同年に現われました所の十月事件、此事件の内容は申しませぬが、事件の性質其ものは、其後に現われた所の五、一五事件及び今回の叛乱事件と同一のものでありまして同一の系統に属するものであるのであります。然るに此両事件に対し、軍部当局は如何なる処置を執られたかと云うと、之れを闇から闇に葬ってしまって、少しも徹底した処置を執って居られないのであります。(拍手)
凡そ禍は之を初に断切ることは極めて容易であります。容易であると同時に、将来の禍を防ぐ唯一の途であるに拘らず、之を曖昧の裡に葬り去って、将来の禍根を一掃することが出来ると思う者があるならば、それは非常なる誤であるのであります。昔の諺にも寸にして断たざれは尺の憾あり、尺にして断たざれば丈の憾あり、仮令一本と雖も之を双葉のときに伐取ることは極めて容易でありますが、其根が深く地中に蟠居するに至っては、之を倒すことは中々容易なことではない。
彼の頼山陽が、中古政権が武門に帰したる其原因を論じて、歴代朝廷が源平二氏に対する所の姑息倫安優柔不断の態度を指摘して、異日搏噬壊奪の禍此に基くを知らずと喝破して居るが、事柄は違いますけれども、道理は同じであります。若し彼の三月事件に付て、軍部当局が其原因を芟除して、所謂抜本塞源の徹底的の処分をせられたならば必らずや十月事件は起らなかっに相違ない(拍手)
又遅れたりと雖も、十月事件に付て同様の処置をせられたならば、後の五・一五事件は必ず起らなかったに相違ない(拍手)
此の両事件に対する軍部の態度が延いて五・一五事件を惹起するに至った大なる原因の一つであると私は考えて居る。
更に進んで、五・一五事件に対する態度であります、苛も軍人たる者が党を結んで白昼公然総理大臣の官邸に乱入し天皇陛下の親任せらるる所の一国の総理大臣を銃殺する、国を護るが為に授けられたる所の兵器を以て、国政燮理の大任に当って居ります所の、国家最高の重臣を暗殺する、其罪の重大であることは固より申す迄もないことであります。(拍手)
然るに此重大事件に対して、国家の裁判権は遺憾なく発揮せられて居るのであるか。
当時海軍軍法会議に於きまして、山本検察官は畢生の力を揮うて堂々数万言の大論告を為した、即ち事件の重大性と、直接行動の許すべからざることを痛論して、動機の如何に拘らず国法を破ることは出来ない、軍紀は乱すことは出来ない、軍紀を紊り国法を破りたる者に対しては、法の命ずる制裁を加うることは国家の存立上万已むを得ないと論じて、其首魁と目せらるる三名に対して死刑の要求を為したのであります。(「ヒヤヒヤ」拍手)
海軍刑法に依りますと、叛乱罪の首魁は死刑に処す、死刑一途でありまして選択刑は許されて居らないのであります。
然るに此論告に対して如何なる事態が現われたかと云うと、或る一部に於きましては猛烈なる反対運動が起った。監督の上司は之を抑制する所の力がない、山本検察官の身上には刻一刻と危険が迫る、多数の憲兵を以って検察官の住宅を取巻いて之を保護する、家族一同は遠方に避難する、斯う云う事態の下に於て、裁判の独立、裁判の神聖がどうして維持することが出来るか(拍手)
果せる哉裁判の結果を見ますると、死刑の要求が十三年と十五年の禁錮と相成って居ります。軽きは一年二年の懲役に処せられて而も執行猶予の宣告が附いて居るのであります。
然るに同じ事件に関係して居ります所の民間側の被告に対してどう云う裁判が下されて居るかと見ますると、彼等は固より犬養首相の殺害の手を下したるものではない、唯或る発電所に爆弾を投じたけれども、是は未発に終って何等の結果を惹起して居らない、それにも拘らず、其首魁は無期懲役に処せられて居るのであります(拍手)
同じ事件に連累して其為したる役目は違うと雖も、或者は一国の総理大臣を殺害したるにも拘らず、其人が軍人であり、且つ軍事裁判所に管轄せらるるが為に、比較的軽い刑に処せられ、或者は僅に発電所に未発の爆弾を投じただけであるにも拘らず、其人が普通人であり、普通裁判所の管轄に属する者であるが故に、重き刑罰に処せられた。
申す迄もなく司法権は、天皇の御名に依って行われるのであります。天皇の御名に依って行われる裁判は徹頭徹尾独立であり、神聖であり、至公至平でなければならないのであります。然るに人と場所に依って裁判宣告に斯の如き差等を生ずる、是で国家裁判権が遺憾なく発揮せられたりと言うことが出来るか、是で刑罰の目的であります所の犯罪予防の効果を完全に収めることが出来るか、軍務当局者は真剣に考えなければならぬ所の重大問題であるのであります(拍手)
要するに斯の如き次第でありまして、三月事件に対する軍部の態度が十月事件を喚び出し、十月事件に対する軍部の態度が五・一五事件を喚び出し、五・一五事件に対する軍部の態度が実に今回の一大不祥事件を惹起したのであると、斯様に私は観察を下して居るのでありますが、若し此観察に過ちがあれば正して戴きたいのであります。(拍手) 
青年将校の背後を衝く
更に今回の事件に対しましては、色々御尋したいことがございますけれども、大体昨日の本会及び秘密会に於ける質問応答に依って分りましたから、唯一点だけ伺って置きたいことがあります。
それは何であるかと云うと、此の事件に関係致しました所の青年将校は二十名であるのであります。公表せられる所の文書に依ると二十名である、所が此以外により以上の軍部首脳者にして此事件に関係して居る者は一人も居ないのであらうか。(拍手)
固より事件に直接関係はして居らぬでありましょう、併しながら平素是等の青年将校に向って或る一種の思想を吹込むとか、彼等が斯る事件を起すに当って、精神上の動機を与えるとか、或は斯る事件の起ることを暗に予知して居る、或は俗に謂う所の裏面に於て糸を引いて居る、斯う云う者は一人もなかったのであるか。私の観る所に依りますると云うと、世間は確に之を疑って居るのであります。
陸軍大臣は過般の地方官会議に於きまして、左様なことを宣伝する者は反軍思想を鼓吹する者である。非国民の軍民離間的態度であると云うて一蹴せられて居りまするが、斯様なことを故ら宣伝する者があるかないか、それは知りませぬ、併しながらそう云う疑を持って居る者は確にあるのであります。而して其疑が無理であるかと云うと、そうでもないのである。
例えば先程引用致しました所の山本検察官の論告に於て、斯う云うことがある
「凡そ事の成るは成るの日に成るに非ず、由って来る所があるのであります、本件も亦其由って来る所久しく、一朝一夕に起ったものではないのであります。被告人古賀清志の当公廷に於ける陳述に依りますれば、古賀は某事件に参加したる経験に依りまして、今回被告人等の企図しましたる、戒厳にして宣告せらるるの情況に立至れる時は、当然、之を収拾して呉れる相当の大勢力の有するものであることを知り云々」
或は
「尚お此機会に於て一言して置きたいことは、部下指導に関する上司の態度に付てであります。此点に関し、本件発生当時某官憲が上司に提出したる意見書中に所見があります、日く、上司中往々彼等の所見に対し、極めて曖昧模糊たる態度を執り、彼等をして上司は其行動を認容し居りたるものの如く誤信せしめたるやの形跡なきに非ず」
「上司たる者、下給者を指導するに際し、明に是は是とし、非はこれを非として、其方向を誤まらざらしむる如く努むることが極めて必要である」
山本検察官が神聖なる法廷に立って、斯の如きことを明言して居る、即ち古賀清志等が彼の五・一五事件を起して、彼等の計画する戒厳を宣告せしめたならば、何れの所よりか大勢力が現われ来て、之を収拾して呉れる、斯う云う確信を以て彼等は旗挙げをしたのである。或は上司たる者は、部下の者に対しては事の是非曲直を明にして、彼等を迷はしめないようにしなくてはならぬに拘らず、言語及び態度の曖昧にして、何となく上司が彼等の行動を容認して居るかの如く誤解せしめて居ると云う事実を、四五年前の五・一五事件の公判に於て山本検察官が既に論じて居るのであります。
故に斯の如き疑を起すと云う者は、唯非国民であるとか、或は軍民離間を策する者であるとか言うて一蹴しただけでは国民の疑は霄れるものではない。(拍手)
若しそう云うことがあったならば、是は極めて重大事件であります。故に事件の跡始末をするに付ては、先以て此方面からして洗い去るにあらざれば、事件の根本的清掃というものは断じて出来るものではないと思うのであります。(「ヒヤヒヤ」拍手) 
立憲君主制こそ国民の進むべき道
以上私が申述べました所のことを約言致しますると云うと、事件の原因は大体二つあります、即ち一つは青年軍人の思想問題である、又一つは事前監督及び事後に対する軍部当局の態度であります、近来青年軍人の一部、極めてそれは一小部分でございましょうが、一小部分の青年軍人の思想が、一種の反動思想に傾いて居ると云うことは事実であります。時々起りまする所の事件の原因及び国民不安の原因は実に茲にあるのである。
元来我国民には動もすれは外国思想の影響を受け易い分子があるのであります、欧羅巴戦争の後に放て「デモクラシー」の思想が旺盛になりますると云うと、我も我もと「デモクラシー」に趨る、其後欧州の一角に於て赤化思想が起りますると云うと、又之に趨る者がある、或は「ナチス」「ファッショ」の如き思想が起ると云うと、又之に趨る者がある、思想上に於て国民的自主独立の見識のないことはお互に戒めねばならぬことであります。(拍手)
今日極端なる所の左傾思想が有害であると同じく、極端なる所の右傾思想も亦有害であるのであります、左傾と云い右傾と称しまするが、進み行く道は違いまするけれども、帰する所は今日の国家組織、政治組織を破壊せんとするものである、唯二つは愛国の名に依って之を行い、他の一つは無産大衆の名に依って之を行わんとして居るのでありまして其危険なることは同じことであるのであります。我が日本の国家組織は建国以来三千年牢固として動くものではない、終始一貫して何等変りはない。又政治組織は明治大帝の偉業に依って建設せられたる所の立憲君主制、是れより外に吾々国民として進むべき道は絶対にないのであります。(拍手) 
軍首脳部の指導方針
故に軍首脳部が宜く此精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間に於て怪しむべき不穏の思想が起る訳は断じてないのである。若し夫れ軍部以外の政治家にして、或は軍の一部と結託通謀して政治上の野心を行わんとするが如き者が若しあるならば、是は実に看過すべからざるものであります。(拍手)
苛も立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治止の争を為すべきである。裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立憲政治家として許すべからざることである。況や政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、是は政治家の恥辱であり堕落であり、(拍手)
又実に卑怯千万の振舞であるのである。此点に付きましては軍部当局者に於きましても相当に注意をせらるる必要があるのではないかと思われる。
其外事前の監督、事後の処置に対しては、私共現寺内陸軍大臣を絶対に信頼して居りまするからして、是等に付て質問をする所の必要はござりませぬが、要するに一刀両断の処置を為さねばならぬ(拍手)
御承知でもござりましょうが、支那の兵法の六韜、三略の中にも
「怒るべくして怒らざれば奸臣起る、殺すべくして殺さざれは大賊現わる」
私は全国民に、私は全国民に代って軍部当局者の一大英断を要望する者であります(拍手) 
二・二六事件に対する国民的感情
尚最後に一言致して置きたいことは、此事件に対する国民の感情であります。此事は各方面の報告に依って、固より軍部当局者は十分に御承知のことでござりましょうが、私の見る所に依りますると云うと、今回の事件に対しては、中央と云わず、地方と云わず、上下有ゆる階級を通じて衷心非常に憤慨をして居ります(拍手)
非常に残念に思って居るのであります。殊に国民的尊敬の的となって居られた所の高橋蔵相、斎藤内府、渡辺総監の如き、誰が見た所が温厚篤実、身を以て国に尽す所の陸下の重臣が、国を護るがため授けられたる軍人の銃剣に依って虐殺せらるるに至っては(拍手)
軍を信頼する所の国民に取っては実に耐え難き苦痛であるのであります。(拍手)
それにも拘らず彼等は今日の時勢、言論の自由が拘束せられて居ります所の今日の時代に於て、公然之を口にすることは出来ない。僅に私語の間に之を洩し、或は目を以て之を告ぐる等、専制武断の封建時代と何の変る所があるか。(拍手)
啻にそればかりでない、例えば今回叛乱後の内閣組閣に当りましても、事件に付て重大なる所の責任を担うて居られる所の軍部当局は、相当に自重せられることが国民的要望であるにも拘らず、或は其々省内には政党人入るべからず、其々は軍部の思想と相容れないからして之を排斥する。最も公平なる所の粛正選挙に依って国民の総意は明かに表明せられ(拍手)
之を基礎として政治を行うのが明治大帝の降し賜いし立憲政治の大精神であるに拘らず(拍手)
一部の単独意志に依って国民の総意が蹂躙せらるるが如き形勢が見ゆるのは、甚だ遺憾千万の至りに堪えないのであります。(拍手)
それでも国民は沈黙し、政党も沈黙して居るのである。併ながら考えて見れば、此の状態が何時まで続くか、人間は感情的の動物である、国民の忍耐力には限りがあります。私は異日国民の忍耐力の尽き果つる時の来らないことを衷心より希望するのであります。(拍手)
満洲事件以来、国の内外に非常な変化が起りまして、世は非常時であると唱えられて居るのであります。此非常時を乗切る物は如何なる力であるか、場合に依っては軍隊の力に依頻せねばならぬ。併しながら軍隊のみの力ではない、又場合に依っては銃剣の力に保たねばならぬ、併し銃剣のみの力ではない、上下総ゆる階級を通じて一致和合したる全国民の精神的団結力(拍手「ヒヤヒヤ」)
是より外に此難局を征服する所の何物もないのであります。(拍手)
因より軍部当局は是位なことは百も千も御承知のことでござりましょうが、近頃の世相を見ますると云うと、何となく或る威力に依って国民の自由が弾圧せられるが如き傾向を見るのは、国家の将来にとって何に憂うべきことでありますからして(拍手)
敢て此一言を残して置くのであります。
重ねて申しまするが吾々が、軍を論じ軍政を論ずるのは即ち国政を論ずるのであります、決して是が為に軍に対して反感を懐くのではない、軍民離間を策する者でもなければ、反軍思想を鼓吹する者でありませぬからして、此誤解は一切除去せられて、時々起る所の――時々軍部の一角から起る所の反軍思想であるとか或は軍民離間であるとか云うような言辞に付ては、将来一層の御注意ありたい(拍手)
私の質問は大体是位でございまするが、忌憚なく詳細に御答弁あらんことを希望致します。(拍手) 
 
淮南子「墬形訓」 (地形訓)

 

(えなんじ) 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(BC179-BC122)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
巻四墬形訓(地形訓) / 八紘一宇の由来。『日本書紀』神武天皇のことば「掩八紘而爲宇」に「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」が引用された。 
墬形之所載,六合之間,四極之內,照之以日月,經之以星辰,紀之以四時,要之以太歲,天地之間,九州八極,土有九山,山有九塞,澤有九藪,風有八等,水有六品。 
何謂九州?東南神州曰農土,正南次州曰沃土,西南戎州曰滔土,正西弇州曰並土,正中冀州曰中土,西北台州曰肥土,正北泲州曰成土,東北薄州曰隱土,正東陽州曰申土。 
何謂九山?會稽、泰山、王屋、首山、太華、岐山、太行、羊腸、孟門。何謂九塞?曰太汾、澠厄、荊阮、方城、肴阪、井陘、令疵、句注、居庸。何謂九藪?曰越之具區,楚之雲夢澤,秦之陽紆,晉之大陸,鄭之圃田,宋之孟諸,齊之海隅,趙之钜鹿,燕之昭餘。 
何謂八風?東北曰炎風,東方曰條風,東南曰景風,南方曰巨風,西南曰涼風,西方曰飂風,西北曰麗風,北方曰寒風。 
何謂六水?曰河水、赤水、遼水、K水、江水、淮水。 
闔四海之內,東西二萬八千里,南北二萬六千里,水道八千里,通穀其名川六百,陸徑三千里。禹乃使太章步自東極,至於西極,二億三萬三千五百里七十五步。使豎亥步自北極,至於南極,二億三萬三千五百里七十五步。凡鴻水淵藪,自三百仞以上,二億三萬三千五百五十裏,有九淵。禹乃以息土填洪水以為名山,掘昆侖虛以下地,中有搶驪繽d,其高萬一千里百一十四步二尺六寸。上有木禾,其修五尋,珠樹、玉樹、琁樹、不死樹在其西,沙棠、琅玕在其東,絳樹在其南,碧樹、瑤樹在其北。旁有四百四十門,門間四裏,里間九純,純丈五尺。旁有九井玉,維其西北之隅,北門開以內不周之風,傾宮、旋室、縣圃、涼風、樊桐在昆侖閶闔之中,是其疏圃。疏圃之池,浸之黃水,黃水三周複其原,是謂丹水,飲之不死。河水出昆侖東北陬,貫渤海,入禹所導積石山,赤水出其東南陬,西南注南海丹澤之東。赤水之東,弱水出自窮石,至於合黎,餘波入於流沙,絕流沙南至南海。洋水出其西北陬,入於南海羽民之南。凡四水者,帝之神泉,以和百藥,以潤萬物。 
昆侖之丘,或上倍之,是謂涼風之山,登之而不死。或上倍之,是謂懸圃,登之乃靈,能使風雨。或上倍之,乃維上天,登之乃神,是謂太帝之居。扶木在陽州,日之所曊。建木在都廣,眾帝所自上下,日中無景,呼而無響,蓋天地之中也。若木在建木西,末有十日,其華照下地。 
九州之大,純方千里,九州之外,乃有八殥,亦方千里。自東北方曰大澤,曰無通;東方曰大渚,曰少海;東南方曰具區,曰元澤;南方曰大夢,曰浩澤;西南方曰渚資,曰丹澤;西方曰九區,曰泉澤;西北方曰大夏,曰海澤;北方曰大冥,曰寒澤。凡八殥八澤之雲,是雨九州。 
八殥之外,而有八紘,亦方千里,自東北方曰和丘,曰荒土;東方曰棘林,曰桑野;東南方曰大窮,曰眾女;南方曰都廣,曰反戶;西南方曰焦僥,曰炎土;西方曰金丘,曰沃野;西北方曰一目,曰沙所;北方曰積冰,曰委羽。凡八紘之氣,是出寒暑,以合八正,必以風雨。 
八紘之外,乃有八極,自東北方曰方土之山,曰蒼門;東方曰東極之山,曰開明之門;東南方曰波母之山,曰陽門;南方曰南極之山,曰暑門;西南方曰編駒之山,曰白門;西方曰西極之山,曰閶闔之門;西北方曰不周之山,曰幽都之門;北方曰北極之山,曰寒門。凡八極之雲,是雨天下;八門之風,是節寒暑。八紘、八殥、八澤之雲,以雨九州而和中土。 
東方之美者,有醫毋閭之c玗h焉;東南方之美者,有會稽之竹箭焉;南方之美者,有梁山之犀象焉;西南方之美者,有華山之金石焉。西方之美者,有霍山之珠玉焉;西北方之美者,有昆侖之球琳、琅玕焉。北方之美者,有幽都之筋角焉;東北方之美者,有斥山之文皮焉;中央之美者,有岱嶽以生五穀桑麻,魚鹽出焉。 
凡地形,東西為緯,南北為經,山為積コ,川為積刑,高者為生,下者為死,丘陵為牡,溪穀為牝。水圓折者有珠,方折者有玉。清水有黃金,龍淵有玉英。土地各以其類生,是故山氣多男,澤氣多女,障氣多喑,風氣多聾,林氣多癃,木氣多傴,岸下氣多腫,石氣多力,險阻氣多癭,暑氣多夭,寒氣多壽,穀氣多痹,丘氣多狂,衍氣多仁,陵氣多貪。輕土多利,重土多遲,清水音小,濁水音大,湍水人輕,遲水人重,中土多聖人。皆象其氣,皆應其類。故南方有不死之草,北方有不釋之冰,東方有君子之國,西方有形殘之屍。寢居直夢,人死為鬼,磁石上飛,雲母來水,土龍致雨,燕雁代飛。蛤蟹珠龜,與月盛衰,是故堅土人剛,弱土人肥,壚土人大,沙土人細,息土人美,毛土人醜。食水者善遊能寒,食土者無心而慧,食木者多力而𡚤,食草者善走而愚,食葉者有絲而蛾,食肉者勇敢而悍,食氣者神明而壽,食穀者知慧而夭。不食者不死而神。 
凡人民禽獸萬物貞蟲,各有以生,或奇或偶,或飛或走,莫知其情,唯知通道者,能原本之。天一地二人三,三三而九,九九八十一。一主日,日數十,日主人,人故十月而生。八九七十二,二主偶,偶以承奇,奇主辰,辰主月,月主馬,馬故十二月而生。七九六十三,三主鬥,鬥主犬,犬故三月而生。六九五十四,四主時,時主彘,彘故四月而生。五九四十五,五主音,音主猿,猿故五月而生。四九三十六,六主律,律主麋鹿,麋鹿故六月而生。三九二十七,七主星,星主虎,虎故七月而生。二九十八,八主風,風主蟲,蟲故八月而化。鳥魚皆生於陰,陰屬於陽,故鳥魚皆卵生。魚游于水,鳥飛於雲,故立冬燕雀入海,化為蛤。 
萬物之生而各異類,蠶食而不飲,蟬飲而不食,蜉蝣不飲不食,介鱗者夏食而冬蟄,齧吞者八竅而卵生,嚼咽者九竅而胎生,四足者無羽翼,戴角者無上齒,無角者膏而無前,有角者指而無後,晝生者類父,夜生者似母,至陰生牝,至陽生牡。夫熊羆蟄藏,飛鳥時移。是故白水宜玉,K水宜砥,青水宜碧,赤水宜丹,黃水宜金,清水宜龜,汾水蒙濁而宜麻,泲水通和而宜麥,河水中濁而宜菽,雒水輕利而宜禾,渭水多力而宜黍,漢水重安而宜竹,江水肥仁而宜稻。平土之人,慧而宜五穀。東方川穀之所注,日月之所出,其人兌形小頭,隆鼻大口,鳶肩企行,竅通於目,筋氣屬焉,蒼色主肝,長大早知而不壽;其地宜麥,多虎豹。南方,陽氣之所積,暑濕居之,其人修形兌上,大口決𦚚,竅通於耳,血脈屬焉,赤色主心,早壯而夭;其地宜稻,多兕象。西方高土,川穀出焉,日月入焉,其人面末僂,修頸卬行,竅通於鼻,皮革屬焉,白色主肺,勇敢不仁;其地宜黍,多旄犀。北方幽晦不明,天之所閉也,寒水之所積也,蟄蟲之所伏也,其人翕形短頸,大肩下尻,竅通于陰,骨幹屬焉,K色主腎,其人蠢愚,禽獸而壽;其地宜菽,多犬馬。中央四達,風氣之所通,雨露之所會也,其人大面短頤,美須惡肥,竅通於口,膚肉屬焉,黃色主胃,慧聖而好治;其地宜禾,多牛羊及六畜。木勝土,土勝水,水勝火,火勝金,金勝木,故禾春生秋死,菽夏生冬死,麥秋生夏死,薺冬生中夏死。木壯,水老火生金囚土死;火壯,木老土生水囚金死;土壯,火老金生木囚水死;金壯,土老水生火囚木死。音有五聲,宮其主也;色有五章,黃其主也;味有五變,甘其主也;位有五材,土其主也。是故煉土生木,煉木生火,煉火生雲,煉雲生水,煉水反土。煉甘生酸,煉酸生辛,煉辛生苦,煉苦生鹹,煉咸反甘。變宮生征,變征生商,變商生羽,變羽生角,變角生宮。是故以水和土,以土和火,以火化金,以金治木,木得反土。五行相治,所以成器用。 
凡海外三十五國,自西北至西南方,有修股民、天民、肅慎民、白民、沃民、女子民、丈夫民、奇股民、一臂民、三身民;自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、裸國民、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;自東南至東北方,有大人國、君子國、K齒民、玄股民、毛民、勞民;自東北至西北方,有跂踵民、句嬰民、深目民、無腸民、柔利民、一目民、無繼民。雒棠、武人在西北陬,蛖龍魚在其南,有神二人連臂為帝候夜,在其西南方,三珠樹在其東北方,有玉樹在赤水之上。昆侖、華丘在其東南方,爰有遺玉,青馬、視肉、楊桃、甘樝、甘華,百果所生。和丘在其東北陬,三桑、無枝在其西,誇父、耽耳在其北方。誇父棄其策,是為ケ林。昆吾丘在南方,軒轅丘在西方,巫鹹在其北方,立登保之山,暘谷、榑桑在東方,有娀在不周之北,長女簡翟,少女建疵。西王母在流沙之瀕,樂民、拏閭,在昆侖弱水之洲。三危在樂民西,宵明、燭光在河洲,所照方千里。龍門在河淵,湍池在昆侖,玄耀、不周、申池在海隅。孟諸在沛。少室、太室在冀州。燭龍在雁門北,蔽於委羽之山,不見日,其神人面龍身而無足。後稷壟在建木西,其人死復蘇,其半魚,在其間。流黃、沃民在其北方三百里,狗國在其東。雷澤有神,龍身人頭,鼓其腹而熙。江出岷山,東流絕漢入海,左還北流,至於開母之北,右還東流,至於東極。河出積石。睢出荊山。淮出桐柏山。睢出羽山。清漳出楬戾,濁漳出發包。濟出王屋。時、泗、沂、出臺、台、術。洛出獵山,汶出弗其,西流合於濟。漢出嶓塚。出薄落之山。渭出鳥鼠同穴。伊出上魏。雒出熊耳。浚出華竅。維出覆舟。汾出燕京。衽出濆熊。淄出目飴。丹水出高褚。股出嶕焦山。鎬出鮮於。涼出茅廬、石樑,汝出猛山。淇出大號。晉出龍山結結,合出封羊。遼出砥石,釜出景,岐出石橋,呼沱出魯平,泥塗淵出樠山,維濕北流出于燕。 
諸稽、攝提,條風之所生也;通視,明庶風之所生也;赤奮若,清明風之所生也;共工,景風之所生也;諸比,涼風之所生也;皋稽,閶闔風之所生也;隅強,不周風之所生也;窮奇,廣莫風之所生也。厃生海人,海人生若菌,若菌生聖人,聖人生庶人。凡厃者生於庶人。羽嘉生飛龍,飛龍生鳳皇,鳳皇生鸞鳥,鸞鳥生庶鳥,凡羽者生於庶鳥。毛犢生應龍,應龍生建馬,建馬生麒鹿麟,麒麟生庶獸,凡毛者,生於庶獸。介鱗生蛟龍,蛟龍生鯤鯁,錕鯁生建邪,建邪生庶魚,凡鱗者生於庶魚。介潭生先龍,先龍生玄黿,玄黿生靈龜,靈龜生庶龜,凡介者生於庶龜。暖濕生容,暖濕生於毛風,毛風生於濕玄,濕玄生於羽風,羽風生嬤介,嬤介生鱗薄,鱗薄生暖介。五類雜種興乎外,肖形而蕃。日馮生陽閼,陽閼生喬如,喬如生幹木,幹木生庶木,凡根拔木者生於庶木。根拔生程若,程若生玄玉,玄玉生醴泉,醴泉生皇辜,皇辜生庶草,凡根茇草者生於庶草。海閭生屈龍,屈龍生容華,容華生蔈,蔈生萍藻,萍藻生浮草,凡浮生不根茇者生於萍藻。 
正土之氣也,禦乎埃天,埃天五百歲生缺,缺五百歲生黃埃,黃埃五百歲生黃澒,黃澒五百歲生黃金,黃金千歲生黃龍,黃龍入藏生黃泉,黃泉之埃上為黃雲,陰陽相搏為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于黃海。 
偏土之氣,禦乎清天,清天八百歲生青曾,青曾八百歲生青澒,青澒八百歲生青金,青金八百歲生青龍,青龍入藏生青泉,青泉之埃上為青雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于青海。 
壯士之氣,禦於赤天,赤天七百歲生赤丹,赤丹七百歲生赤澒,赤澒七百歲生赤金,赤金千歲生赤龍,赤龍入藏生赤泉,赤泉之埃上為赤雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合於赤海。 
弱土之氣,禦于白天,白天九百歲生白礜,白礜九百歲生白澒,白澒九百歲生白金,白金千歲生白龍,白龍入藏生白泉,白泉之埃上為白雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于白海。 
牝土之氣,禦于玄天,玄天六百歲生玄砥,玄砥六百歲生玄澒,玄澒六百歲生玄金,玄金千歲生玄龍,玄龍入藏生玄泉,玄泉之埃上為玄雲,陰陽相薄為雷,激揚為電,上者就下,流水就通,而合于玄海。 
准南子地形訓の基礎的研究

 

はじめに
漏友蘭氏はかつて中国の哲学史を大きく二つの時代に分け、経註という中国哲学史上の大きな存在がまだ権威を備えていない時代を子学時代と呼んだ。この子学時代の終りごろには戦国末一秦一漢という政治的騒々しさの申で知的興奮がおこり、さまざまな問題に対する活発な思想活動がみられたのだが、その中には自然そのものを考察の対象とするものもあった。例えば天空・天体への高い関心と深い理解がみられるわけだが、夫と並称される「地」への興味のたかまりと知識の蓄積も進行していった。「史記」貨殖列伝の司馬遷の観点や近年馬王堆三号墓出土の二枚の地図などは、当時の地理的知識の豊かさと合理性とを示すものであるが、また同時に島伝などの思索による宇宙論的世界像の構築も考えられていた。こういつた思想状況の申で、出代初露霜王劉安の命によって作られたという「准南子」には、地理・地形に関する知識・学説を豊富に盛り込んだ地形訓と思う文がある。
地形訓の内容を「准南子」要略訓によってうかがうと次の通りである。
所以窮南北之脩、極東西之広、経山陵之形、区川谷之居、明万物之主、知生類之衆、列国淵廟堂、規遠近聴路。
地の大きさから地形、地上のさまざまの生き物などを記したものとあり、具体的な内容は陰陽・五行の説や海外の異国・神山星斗山の描写などとまことに多彩である。この地理・地形論編集の目的は、先の要略によれば「人をして通廻周備して、動くに物を以ってすべからず、驚くに怪を以てすべからざらしむ」というように「地」に関する知識を提供することであり、それは「終始を言ひて天地四時に明ならざれば、則ち避緯する所を知らず」となるからだという。これはいわば「史記」に収められている「呂氏春秋」の標語「天地万物古今の事を備えたり」をもじれば「地のことを備えたり」というものである。
しかし、従来地理思想・地形論の変遷を解明する資料として珍重されてきた地形訓であるが、これ自体を研究の対象としたものは稀であるように思ケ。これは「准南子」全体にを共通する傾向だが、収められている考えの雑多さや前後の内容のつじつまがあわないことなどが原因となっているのであろう。しかし、ここに収められている知識・学説が地形訓の中でどのような意味・役割ゆを持たされているのかを考えてみると、雑然としバラバラであるようにみえる地形訓にも編集の意図・方法といったようなものがうかがわれるし、また内容的にみていくつかのグループに分けることも可能である。そこで今回は地形訓の文に検討を加えそこにみられる編集の傾向性を考え、あわせて検討の中で気がついた地形訓、ひいては「准南子」の著述の仕方の性格について触れてみたいと思う。
※本文の検討に入る前に、論証の便を図る為に地形訓を十三の節に分けておく。これは、内容的に同じと考えられるものを一グループとしたものだが、便宜的に分けたもので小論の中においてのみのものとする。各節の冒頭部分を挙げる。
地形之所載、六合之間……
中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺……
九州之大、純方千里……
東方之美者、有轡母聞三三牙瑛焉……
凡地形東西為緯、南北為経……
東方 川谷之所注、日月之所出……
雄勝土、土勝水、・三:
凡海外三十六国。自西北至西南……
維粟武人、在西北阪。硯魚在三三……
江出口山、東流絶漢…… 

では地形訓の本文の検討に入るが、まず第一節から順番に、特に第四節までをやや詳しくみてゆく。
第一節
地形之所載、六合之間、四極之内、昭之以日月、経甘貝星辰、紀之以四時、要之以太歳。
天地之間、九州八極。三三九山、山有心塞、県有九薮、県有八等、水有六品。
何謂九州、東南神州日農土、正南次州日沃土……正東甲州日曜土。
何回九山、会稽、泰山、王屋……孟門。
何謂九塞、日大沿、浬陀、……居庸。
何回九三、日越三具区、楚三雲夢……燕之三余。
何回八風、東北日四三、東方日條風……北方日寒風。
何謂三水、日河水、赤水……三水。
闘四海之内、東西二万八千里、南北二万六千里、水道八千里、通谷六(旧作其牛王下塵改)、名川六百、陸径三千里。
禺夏干太章耳当三極三千二極、二億三万三千五百里七十五歩、早苗亥歩出北極三襟南極、二億三万三千五里七十五歩。
凡節水淵薮自三百侭以上、二億三万三千五百五十里。有九淵。七番以息土、墳洪水、以為名山。、加里三月、以下地。
終りの方は禺の治水伝説を仲立ちとして第二節とつながってしまっているが、だいたい右の部分まででひとまとまりといえよう。
まずはじめの一行は、「地形の位する所」と「地形」という語ではじまり、地と天体・季節などとの関連の深さをのべたもので馬いわば「地とは何か」を書いた地形訓の序文的な部分である。
次に天地の間、大地の上には九つの州・山・塞・沢・八つの風、六つの州があるとして、各々の名称をあげている。
これは地理目録とでもいうべきものだが、この目録は単に山や川の名をあげたというだけではなく、中国の地上の名噛山・名川を収めたということにより地上のことを網羅したとする目録なのである。例として山をみていくと、山としてここに会稽山・泰山などの九つの山があげられているのだが、このことは同時に九つの山をあげることによって山のことは総て書いた、述べきったというものである。つまり、この九山は申国の山の代表なのであり、それ故、「九山」即「中国の全山」なのである。そしてこの九つの山名は実在のものか、空想上のものかに関係なく、おそらく当時山−名山として広く認められていたものを九つあげたものであろう。「九」という数字が先にあって山名を九つ選択したものか、名山と呼ぶにふさわしいものがたまたま九つあったのかということはここではあまり問題ではない。
ともかく地形訓では「山は九山」とされているのである。
このような目録的記述の性格をより明確にするために次の資料をあげておく。
○東方之美者、有雷母間之殉牙赤墨。東南方之美麗、有会稽之竹箭焉。……(第四節)
○崖脊三三其東南方、愛有遺玉……和丘在其東北阪……昆吾在南方……(第九節)
第五節は醤母間山以下岱(泰)山まで九つの山をあげているのだが、その山名で先の「土の九山」と一致しているのは会稽・華山・岱山の三つのみである。詳しくは後で述べることにするが、第五節の九つの山はそれぞれある方角に結びつけられているものであり、方角の象徴としての九山なのである。九といケ数は方角からきたものにすぎず、またここに山のことが書いてあるからといってそれによって「全山」を網羅したというものでもない。また第九節は地誌的に有名な山の名前を列挙したもので、その山の記事がここに収められているというところに意味がある。それ故ある特定の数にこだわる必要ばなく、収録している山の数を増減したところで文全体が成りたたなくなるというものではない。
右の二つの資料と比較すれば「九山」という目録の意味することは明らかであろうが、実は「九山」の持つ目録的、意味というものは「地のこと」全体にも及ぼしうるものである。それは第一節では地のこととして、州・山・塞・沢・風・水の六項目が挙げられているわけだが、このこ乏は同時に、州・山などの六項目が「地のこと」を代表しており、「地のこと」全てを意味しているというものである。つまり、州・山らを収録している地形訓第一節は「地」のことを網羅しているのである。こういつた目録的意味は他の文献の目録的文にもみえるが、次に二つ例をあげておく。
○天有九野、地有九州、土有九山、山田薬量、沢有九薮、風有八等、水嚢六川。
何謂九野、申央日回天、其三角充氏。東方旧蒼天……。
何謂九州、河漢之間為豫州、周也。両河之間為翼州、晋也……。
何謂九山、会稽、太山……。
……(以下、九塞、九三、八風、六水の記述あ.り)……(「呂氏春秋」有理覧)
○両河間日翼州、河南日豫州……三日営州。九州。
魯有大野、晋有大陸(……固有焦諜。十三。,
東陵院、南三三慎、……八陵。(「爾雅」釈地」)
「雨雅」は字書であるが、山のような固有名詞に関しては地名目録的な性格を持つ。釈地篇で・は九州・玉食・幕電といったタイトルのもとに具体的な地名をあげているが、これは州・薮・陵を網羅したものでまた「地のこと」を網羅したというものである。「呂氏春秋」隠逸覧は、地のことについては九州を除く九山・九二・九沢・八風・西水が項目のみならず個々の名称まで一致しており璽、その目録の持つ意味が「准南子」と同じく「網羅」にあろうことは間違いない。ただ有感覧では「天に九野あり」と天上のことも一緒に収められているが、これは「呂氏春秋」では天地のことをひとまとめに有糠雨に書き、「准南子」・では天のことは天文訓に、地のことは地形訓にと分けて書いたものだといえよう。尚、類似する「九州」については後に述べ.る。
では第一節の検討にもどるが、右の地理目録に続いて、四海の大きさ困水道や陸径の総長をあげ、また禺が太章・三三という者に測らせたとして四極の大きさをのべるの爵にまつわる説話的要素を取b除くと£、この部分は中国・大地の大きさ・河川の総長などを記したもので、「いろいろな地の大きさ」をのべようとした為のといえよう。
以上の検討をまとめると、第一節は、
・地の天・四時との関係
・地の物の目録
・地の大きさ
という三点を記述したものであり、どれも地を概括的に述べたものということができよう。
第二節
(毘喬虚)中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺六寸。
上有大禾、其脩五罪。珠樹玉樹旋樹不死樹在其身、沙業痕耳糞其東、葺草在遡求、碧樹瑠樹在其北。
労有四百四十門。門間四里、門(旧作里間、依三二改)九純、二丈五尺。
労有九三、玉横維其西北阪。北門開、以内不周之風。傾宮阜室。
三三・涼風・奨桐在毘喬間閨直中、是其三半。疏圃異事、浸之黄水。黄水三周。復中原。是銀水、飲之不死。
河水出営喬東北阪、貫渤海、入当所導積石山。赤水出其東南阪、西南注南海丹沢之東。赤水之東、盛事。出自窮石、
至皇祖黎。余波入墨流沙、,絶流沙、南至南海。洋水出其西北阪、入子南海羽民之南。凡細水者、帝之神泉、以和金薬、以潤万物。
毘嵜之丘、或上下之、是謂涼風之山、登之而不死。或一倍之、是心懸圃、登之乃霊、国使風雨。或上下之、笹葉上天、登之乃神、是謂太帝之居。
抹木在陽州、日之所噴。
建木三都広、衆帝所自上下、日中無景、呼三無響、蓋天地之中也。
若木在建木西、末有十日、其華照下地。
第二節は、毘喬虚という不思議な山と、太陽と関孫のある三本の神樹についての記事である。この両者の持つ意味は同じものであると考えられるが、とりみえず三木の樹木のうちの建立についてみてみる。
まず建木のある位置をみると、「日中無景」つまり南中時に太陽が頭上にくるところにあるわけで、こういつた地点は大地の真中といいかえてもよかろう。またそこでは「呼而無智」と音が吸いこまれてしまっている。つまり音という自然界の物理がそこで調和しているのである。更に建木は「衆帝自所上下」とあるように天上と地上とを結ぶものなのであり、天と地の接点なのである。そしてこれらの性質から胴木は「蓋し天地の中」なのだという。
地形訓の第二節は箆喬山の描写としてかなりまとまったものといえるが、終りの方で、堺田i涼風之山−懸圃一上天という四層構造をのべ、「之を登れば乃ち神たロ。是れ太平の居なり」とこの隣層を上昇していけば天上に行きつけるとしている。これは、昆黒山が天と地の接点−入口であるということを示すものである。毘群山のこの天への入,口という性格は他の文献にもみえる。
○朝三三於蒼梧骨 夕余至縣圃 欲少留此霊鑑号 日忽忽其将暮(「楚辞」雷撃)
○黄帝遊乎赤水之北、登乎三三之丘、而四望還帰。(「荘子」天地篇)
○支離三三旧離旧観於冥伯之丘・毘喬之虚、黄帝之所休。(「荘子」至楽篇)
離騒の主人公が天上遊覧の途中に立ちよった縣圃は毘下山の上にあるもので、これは毘喬山一縣圃が地上から天上への道程に存していることを意味しよう。また「荘子」にも黄帝が毘喬へ来たことがあるというのも、昇天する帝黄帝と箆野山との関わりの深さを示しているといえる。また昇天と毘喬山との関わりは、准南王劉安の昇仙伝説を批判した三三の言葉にもみえ(←、かなり一般的な考えであったことがわかる。
さて右の天への連絡ロー入口という性格も含め、この下川山とは大地の申央に位置するものだという見解がある。直接の文献資料としては「地の週央を昆需と日ふ」「昆喬なる者は地の中なり」という河図括地象(いずれも初学楽句に引。安居香山・中村璋八両氏編「緯書集成」による)などがあるが、神話学の立場からMHエリアーデ氏の考えをもとに毘三山とは大地の中心のシンボルなのであるというものがあ妖・最近では小南一郎氏がまとめておられるE。氏の使われる文献資料は右の緯書の他、「准南子」よりもやや後のものと思われる「毘喬嘘は西北に在り、嵩高を去ること五へ万里、地の中なり。其の高さ万一千里、河水其の東北阪より出づ」 という,「水経」の文である。「准南子」の文には直接、「事忌山は地の中なり」という記述はないが、その高さが万一千里であることや黄河の水源であるという記述が、「水連」と地形訓は一致しているし、また天と地とを結ぶという性格が「天地の中」なる建木と同じであることなどから考えると、地形訓においても昆喬山は地の中心として意識されていたものとみてよかろう。
以上より言えることは毘仁山も連木もともに天と地の接点であり、大地の中心なのであることである。つまり第二節は地の中心について述べたものといえよう。
先に地形訓と「本意春秋」政始覧にも地の大きさを記した後に次のような地形訓第二節に類似する文を収めている。
○極星与天上遊、而天下不移。冬至運行遠道、周行四極、命為玄明。夏至日行近道、乃参干上。当枢之下、無昼夜。
白民之南、建木之下、日中無影、呼而無響、蓋天地之中也。
先に述べたごとく有始覧は天と地の両方のことを述べている風なので、ここには天と地の二本の柱1天枢と建木がみえる。この簡略な記述ではこの二本の柱についての詳しい性格はわからないが、“「天枢移らず」「枢の下に当たりては昼夜無し」とあり、天分とは天体の軸即ち天の中心なのである。建玉は地形訓とほぼ同じ描写であり、地の中心だといえる。幽この「呂氏春秋」有機覧と「准南子」地形訓という二つの文献の先後関係についてはあえて触れないこととするが、今地形訓の立場に立ってこの二つの資料を比較してみる。そうすると、有五弦に天と地の二つの中心の記事があるのに対し、地形訓ではそもそも問題が地に限定されている。そこで地形訓では天に関する記事は削り、かわりに丸木・若木の記述を加え、更に地の中心の性格を持つ毘喬山の記事を追加したのだということになる。いずれにせよ、目録的記述−地の大きさの記事に続いてなんらかの「中心」の記事がぎていることでは、両者は一致する。
第三節
九州之大、純方千理。九州之外、乃有八演。直方千里。港北東方日大沢日無二……(略)……。
凡八殖八沢之雲、是雨九州。八殖聖目、刻目八紘。亦方千里。自東北方日和二日荒土……(略)……。
三八紘之気、是出寒暑、目合八正、必以風雨。八紘之外、乃有八極。自東北方日方土之山日蒼門……(略)
凡八極之雲、是雨天下。八門之風、是節寒暑。八紘八二八沢通雲、以雨九州融和中土。
略した部分はきわめて図式的なので次に図示する。(図1)
この第三節に述べてあるのは一種の同心円的世界像である。中央の一州とその八方にある八州とからなる九州を中心とし、その外側に九州と同じ方一千里という広さを持つ領域が、黄身一八紘−八極と重なっていくという四層の同心円的世界像となっている。この世界嫁に似たものは「尚書」園山の「五百里旬服、百里賦納総、二百里納蛭、三百里納結、服、四百里粟、五百里米。五百里候服……。五百里綾服……。五百里要服……。五百里調書……」といった五服の制や、.「灘南」の王制などにみられる。これら  や王制の服制は天子のいる都を頂点としており、その外側に広がる地域は都から遠ければ遠いほど政治的・文化的に低位にあるというもので、いわば天子を中心とする社会的な同心円である。それに対し地形訓の同心円は自然地理的なものであるといえる。以下検討する。
一番外側の八極をみると「東北方は磁土の山と日い、自門と日ふ」とあるように、山と門からなっている。ここでそれぞれの持つ意味を考えてみると、山とは行きどまり、即ち地の果てを象徴していると考えられ、また門は、先ほどの第二節に「北門開き以て不周の風を内る」とあり、ここでも「八二の風」といっているように、風の入るところを意味しているものと思われる。つまり世界の八方の果てには門があってその各々から中央に向って風が吹き込んでいるというのである。これは第六節の「中央は四達、風気の通ずる所、雨露の会する所なり」という記述ともつながるものであろう。また九州の外側の八面には、例えば南方でいえば浩沢といったように各々に大きな湖があり、そこから雲がたち昇り「是れ九州に雨ふらす」とある。八演の外側の八紘からもそれぞれ気がたち昇っており「是れ寒暑を出す」とある。これは八演・八紘から各々の地域に特有の雲や気がたち昇り、それらが八極から吹く風によって中央に運ばれ九州や備前に寒暑や雨をもたらすというこの世界像の構造を示していよう。このように第三節の世界像は自然現象を合理的に解釈しようとした自然地理的な同心円的世界像だといえよう心尚この八風と寒暑・降雨との関係を時間的に並べ時令説としたものが天文訓にみえる→)。
次の節の検討に入る前に第一節で残してお・いた九州説についてのべておく。この第三節では中心部分の中国人の居住する地域を九州としその外側に同じ広さの地域が四方八方に広がるという整然とした構造になっている。ここで仮に九州を有始覧のように現実の地理知識に基づいたものとすると、その各州の位置関係はいびつなものとなってしまい、外側の整然としたひろがりと異質なものとなってしまう。それ故、ここでは九州とは中央一八方というきちんとした位置関係のものでなければならなかったわけで、がとられているのであろう。
この九州説にひつばられて第一節においても同心円的な九州説
第四節
東方之美者、三三旧聞三二牙瑛焉。東南方書美者、
以下中央まで九つあるのだがこれも図示する。(図2)
この部分は同じものが「爾雅」勝地に九府というタイトルを附して収められているが、四方八方と中央の特産物をあげたもので、いわば博物誌である。ところで一般に博物誌というものは多くはある地方・地域の特産品を記したもので、またそういった知・識の豊富さを誇るものである。
東方、川谷之所動、日月之所出、……其道宜麦、多虎豹。南方、陽気重言積、……其地宜稲、多三洋……。(第六節)
右は東方や南方といった地域の特産物をのべたものであり、禺貢も州という一つの地域ごとに産物をあげているし、「史記」貨殖列伝なども旧戦国諸侯国を一つの領域とレて各々の特色・産物をのべる。これらに対し地形訓のこの博物誌は、特産物を特定の山と方角という「点と線」に結びつけて記述している。このことの持つ意味を以下考えてみる。
中央の記事をみると、特産物として五穀桑麻魚塩をあげている。ところが「史記」貨殖列伝によれば「夫れ山西は材竹穀……に饒に、山東は魚塩漆練声色多し。江南は……」とあり、特産物という場合、魚塩は山東、即ち全中国の東側のものとなっている。」それなのに地形訓ではこれが中央の産物とされているというのは、つまり地形訓のいう中央とは斉などの山東北方を含んだ一般的な中国全域を指していることになろう。東方の産物をいう際、珂耳鼻なるおそらくは宝石であろう物をあげているのも、東方という時に斉などの山東方面はとびこえていることを示す。ところが「西南方の美なる者は、華山の金石有り」という西南方の山、華山は、苗代の弘農華陰の華山であり、もし山東あたりを申央に含めるのならばこの華山周辺も中央に属するものとされてよいものである。また「東南の美なる者は、会稽の竹箭」という会稽山は、第一節では中国を代表する九山のうちに入れられており、中央に属するとしてもよい。このことから考えると、ここにいう華山や会稽はその山のある弘農とか越とかいった場所・地域を代表しているのではなく、西南方とか東南方とか中央からみてその山のある方角を代表しているものであろうど考えられる。つまりここにある九つの山はそれぞれある方角の象徴として使われているのである。だから泰山は申央の象徴としてここにあげられているのであって,、実際に泰山付近で塩がとれなくて込かまわないのであり、華山は西南方を連想させるものとしてあげられているわけで、現実にはそこで五穀がとれても「西南方の華山」というのである。
第四節の性格は亡羊の位置の中央からの距離からも考えられる。会稽・華山といった山を地図の上においてみた場合、中央−泰山からの距離がまちまちになってしまうが、これは先の第三節のような同心円的発想と違いこの部分は距離に関心が薄いということを意味しよう。また、会稽のような実際の地理知識に裏づけられた実在の山も、幽都・毘命といったおそらくは空想上の山もここでは同じ扱いを受けているが、ある山の名をあげればすぐ特定の方向を連想させるという点では同じなのである。このことはこの部分の考え方においては距離感が欠落していることを示していよう。
更にこの九つの産物をみると、些些の産物は先ほど述べたように中国人の生活必需品であり、南北・東南・北・南の四方の特産物は異国的なものとしてそれぞれの方角にふさわしいものがあげられている。東・西などの残る四方はいずれも宝石・玉石らしいものを特産物としているが、これは「山←石」という連想を手助けとして、中央一八方のバランスをとるために採用されたものではないかと思われ、この部分が方位の整合性をとろうとしているということを示していよう。
以上のことから第四節をふり返ると、この部分は博物誌の型をとりながら、中央−八方という方角を印象づけようとしているものといえよう。
以上第一〜第四節に検討を加えてきたが、ここまでをみると、九州説・九二山説話から風による気候の説明・博物誌など内容は多彩でまとまりのないもののようにみえる。しかしとりあえずそれぞれの節のいわんとすることをあげてみると次のようになる。
第一節・地と天・四時との関係 噛・地上の物の目録・地の大きさ
第二節・地の中心
第三節・地の同心円的構造
第四節・地上の方角と地誌
これちをみると確かに内容的には様々なものだが、地・大地というものを巨視的に見、地全体をトータルなものとして携えるという態度が共通しているといえよう。つまりこの第一〜四節は「地の全体像」というテーマのもとに様々な学説・考えを集めたものなのであり、言いかえると、大きさや中心、構造といったいくつかの異なった面から大地を描こうとしたものなのである。
ただ、右で様々なものを集めたといったが、その際に、ある一つの学説を中心としてまとめてあるということはなさそうである3。例えば、岡惚説話と建木説話とが中心弔いう第二節にともに収められているし、同じく東方・東南方といった八方位を言いながらも領域の広がりをいう第三節と方角を強調する第四節とでは違いがある。しかし、これらのいずれか一方が他方より劣位にあるとか、学説間のくいちがいの合理化−折衷が図られているということはなさそうで、もとの考えがかなり生のままで並べられているようである。こういつた問題は各々の学説・考えの背景やそれら相互のつながりの意味の今少しの検討を待って考えることとし(今は、さまざまなものがさまざまなままに収録されているという点に注目しておく。
さて、地形訓の第一−第四節があ6テーマを共有するグループとみなしうるということを指摘したがハ第五節以降をみるとそこには更に二つのテ.ーマと二つのグループがみられる。馬丁ではその二つのテーマの検討に入る。 

第二のグループは第五−七節にあたり、地形・地上のものの差異・変化を記し、あわせてそれをもたらす要因・原理を述べたものである。
第五節は「凡そ地形は東西を緯とし馬南北を経とす」と、緯−経という一つの「対」を最初にあげ、「山は積徳有り、川は墨刑有り。高き者は生為り、下き者は死為り……」以下丘陵と難谷口川の二折と方骨など地形の特徴を「対」をなすものととらえ、この対によってそこに産するものの差異を説明するものからはじまり、「土地は各々其の類を以て生ず」「是の故に山気は男多く、沢気は女多し」といった、気・土・水などをそこに産する物との関係を説いたり、「堅土の人は剛、宇土の人は肥」「土を食む者は心安くして慧なり、木を食む者は力多くして……」と土質とそこに住む人間の体格や、食物とそれを食用としている動物との関係を説くといった、同類相応説の土地版といったものがみられる。また「凡そ人民禽獣万物貞虫は各々以て生ずる有り」「天一地二人三、三三にして九。九九にして八十。一は日を主とし、日の数は十。日は人を主とす。人故に十月目して生ず」というようにその動物に因縁の深い数から在胎月数を割りだすといった「数のマジック」的なもの、「鳥魚は皆陰に属す、陰は陽に属す。故に毒魚は皆卵生なり。魚は水に遊び、鳥は雲に飛ぶ。故に立冬に鷲雀海.に入り、化して蛤となる」という陰陽説によって動物の性質・変態を説明しようという月令文に似た文などが全体の脈絡をあまり感じさせずに続いている。これらは多彩でばらばらの記述のようにみえるが、つまり陰陽説・対の組み合わせ・数のマジック・土質などに地上の万物の差異・変化の原因をもとめ、そういった原理・学説を沢山収録したものといえる。そうしてこれらには何か一つの申心的・統一的学説があるわけではなく、個々の学説相互に矛盾しないような調整が施されているわけでもない。つまり第五節は地形・地理に関するさまぎまな原理をあげたものといえる。
続く第六節は地域の特徴を記した一種の地誌であるが、地域の特徴を五方位に帰そうとしており、右の第五節でみた原理のうち五行説などをとり入れて中央と四方との地域差を説明しようというものである。内容をみると、或る程度は経験的知識による記事もあろうが、単に事柄を記すのみでなく、方位などの性格によってその地域の特徴を述べようという傾向が強い。例えば「東方は川谷の注ぐ所、日月の且つる所なり。其の人は分形小頭、隆鼻大口、鳶肩企行す。霰は目に通じ、筋気焉に属す、蒼色は肝を漏り、長大早知にして寿ならず。其の地は麦に開く、虎豹多し」とあるが、目・蒼・肝・麦などは五行説などを裏づけとしているものと思われる。つまりこの第六節は説明的な地誌であるといえる。
また第七節にはさまざまの五行説が収められている。「木は土に勝ち、土は水に勝ち……」という五行相理説から、「木型にして、水は老、火は王、金は囚、土は死たり。火窪にして……」という王相野、「音に五声有り、宮は其の主なり。色に五章あり、黄は其の主なり」といった五音・五章などの説がある。これは五行説に関するまとまった学説がいくつか集められているものであって、ここでもこれらの五行説のうちいずれかが主導的であるかということよりも、五行に関する学説がたくさん集めてあるという点に注目しておく。
以上の第五−七節の第ニグループをまとめると次のようになる。第五節においてはさまざまの地上の「自然原理」を列挙し、第六節では右の諸原理のうち「五」に関する原理によって説明された地誌が書かれ、第七節は自然界の原理のうちの五行説について詳しく述べたものとなっている。つまりこの塁上グループは、地形・地上のものの多様さをそれをも尤らすいろいろな原理とあわせて述べ、そのことにまって「地のことを備えたり」としたものである。 
第三のグループは第八−第十節であるが、ここに収められているものは皆知識の量を誇る地誌的なものである。
まず第八節は異域志・異国誌とでもいうべきものである。「凡そ海外三十六国有り。西北より西南方に至るまで、脩股民.天民.粛慎民……有り。酒南より東南方に至るまで、替民.羽民.…、」以下百東南至東北L.百東北至西北」とあり、海外の東西南北方に三十六の国或いは民族があるとする。この三十六国はそれらと同じとみなしうるものが「山海経」海外経にほぼみえ伺書との関係の深さをうかがわせるが、注目したいのはこの三十六国の配置である。その分布をみると、西方−十国、南方一十三国、東方−六国、北方−七癖と方位によって国の数にバラつきがある。せっかく三十六という三・四の倍数になっているのに、第一節や第三節でみた整然とした図形をなしておらず、第五節にあった「対」のバランスもとれていない。これはこの異国志が海外にある異国を記すことそのものを目的としており、「そのことを知っている」という知識の量をほこるものであって、そこに何がしかの世界像や原理を含んではいないことを示している。
第九節は山・沢・丘などとそこ、に産する動植物や神・人間を記したもので一種の博物誌といえる。しかしその書き方をみると、「雛巣・武人 其の東北阪に在り」と指事語「其」の指すものがよくわからない文から始まり、「神二人有り。腎を連ね帝の為に夜に候す。其の西南阪に有り」といった短文が羅列的に続いているのみであって、何かまとまりに欠けるものである。ただ、この書き方をみると「山海経」に似たものがある。例えば「男乗丘は西方に在り、巫威は其の北に在り」・「流黄・三民は其の北方三百里に在り、軍国は其の東に在り」というように、ある一つの事物をのべ、次にそれからみたある方角し距離にある別の事物を順だにのべていくという書き方、「委羽の山に蔽はれて日を見ず、其の神は人面馬身にして足無し」・「后稜瀧は野木の西に在り、其の人は死して復た蘇す。其の半ばは魚となりて其の盟に在り」というように地名をあげ次に「其の神は」「其の人は」と書くやり方などである。
○南山在其東南……比翼鳥在其東っ(「山海経」海外南経)
○凡雛山之首、自招心界山、以賢母尾之山、凡十山、二千九百五十里。其神・皆皆車身而静瞥。(「同」南山経)
「山海経」との直接の園係は不明だが、当時の地誌の書き方の一型式であるのかもしれない。ただ、「山海経」と同様、地の全体像といったものとは無縁であり、また何かの統一、まとまりを持たせようという意図も感じられないものである。これも前節同様、地理的知識の豊富さを眼目としているものである。
最後の第十節は河川に関するもので、河川誌とでもよびうる地理的記録である。「江は黒山より出で、東流して漢を絶え海に入る。左還北流して開母の北に至り、奉還東流して東極に至る。河は積石より出で、睡は荊山より出づ……」。江についてやや詳しく川筋を述べ以下、河・唯・准・漢など三十七の河川の河源をのべたものである。第二節には「赤水は其の東北阪より出で、西南して南海に注ぐ」といった四つの川の流れを記したものがあったが、第二節の赤水などがいずれも箆籍山の四隅を河源とするという図形的なもので、いわば毘喬山の高さ・聖性を示すものであったのに対し、この第十節の河源と川筋にはそういった役割りはみられず、知識としてのみでここに収録されている。
つまりこの部分も詳しさ・豊富さを生命とする地誌だといえる。
以上第三のグループをまとめると、これは異域誌・博物誌・河川誌であり、地理上の知識の詳しさ・豊富さを固有名詞をたくさん挙げることによって示した地誌なのである。そしてこの知識の豊富さによって「地のことを備えたり」というのである。 

以上、地形訓に含まれるいろいろな地理・地形に関する学説・考えを、各々の持つ意味・役割りに着目して検討してきたが、それによりみられた地形訓の構成・編集の仕方は次のごとくである。
「准南子」地形訓は
@当時存したさまざまな地理・地形に関する論文・伝承を集めたものだが、これらはバラバラに並んでいるのではなく、
A「全体豫」・「地上の諸原理」・「地理的知識」という三つのテーマに従って配されており、この三方面から「地のこと」を照らし出そうとしたものである。そして
Bこの三つのテーマ、またその各テーマのいずれかが支配的・中心的であるということはなく、同じレベルのものである。また、これらは、
C「地のこと」という大テーマ又はAでみた三つの小テーマの名において結びつけられているものであり、各学説・考えの間にみられるくいちがい・矛盾点などはあまり問題としていない、というものである。
ところで地形訓の右の編集の仕方を今少し一般的に言うと、ある一つの問題に対し多方面からアプローチするということであり、答えをいくつも用意するということである。
ところが地形訓をみるとこの方法と表裏一体と思われる次のようなものがある。それは同一のものである思想・事柄を別々のテーマのところに分けて書くことにより、その思想・事柄自身の内包する矛盾点・問題点を表面化させないですむというものである。例えば毘喬山という神山でいえば、これのもつ「大地の中心」という意味と「中国からみて西北方にある」という伝承との落ち着きの悪さは、「中心性」に関する記述は第二節の北の申心を述べた部分に、「西北方」にあるという記述は方角を述べた第四節にと分けて書くことにより、一応解消されている。また、思索と知識の蓄積による地誌の混乱−例えば、五行説によれば東方の地は青色に関わる地方なのだが、「大人国・聴器」などという異民族がいるとか、「轡母聞」という山があるとか、大廟・少海という沢があるなどの知識の蓄積があったりするなど、これらをまとめようとするのは至難のワザである。そこで五行説による東方の属性は地の原理をのべる第六節に、異民族の知識は異国誌の第八節にといったようにテーマに分けて書き、お互いあまり干渉しあわないことによって混乱を避けようというのである。
右のような「分けて書く」という方法は、前にみた「八風」が天文訓では時令説と結びついてのべられ、地形訓では方位と結びついてのべられていることや、そもそも「呂氏春秋」では有恩覧にまとめられていた天地のことを「准南子」では天文訓に天のことを、地形訓に地のことをと分けて書いてあるように、地形訓のみにとどまらず、「潅南子」の他の篇にもわたっている。この記述の方法が、「准南子」全体を通貫するものであるか、また、「准南子」の特色乏みなしうるかは、他の篇の検討を待たねばならないが、この方法で「地」に関すること以外を論じているものもみられる。次に一章を設けて紹介しておく。 

「分けて書く」という方法で論じているのは時鳥訓の時令の処理である。そもそも時令説のもつ五行の五と十ニケ月の十二(或いは四季の四)という数字は公約数を持たない為、この数の問題の解決が時令説の展開上大きな問題となってじた。この五と十二とのくいちがいを時則訓では二つに分けて書くことによってやわらげようとする。まず十二に基づく事柄については一年を十ニケ月に分ける月令として書く。「孟春忌月、招揺指差」に始まる時則訓前半を占める月令文がこれで、ここでの各月と五行の関係を図示すると次のようになる。
これは土の記事を「中央土」として季夏紀の末尾につけた「呂氏春秋」十ゴ紀に比べると、一ケ月ながら土が現実の月を持っているという点で五を生かした月令説であるといえる。しかし〜その為五行の持つ月数はまちまちとなり、やはり落ち着きが悪い。ところが時則訓にはこの丹令文に続いて「五位」というものがある。地上を中央と四方という五つの地域に分け、「東方の極、端石穿り朝鮮を過ぎ……」と地理的知識によって各地域のリアリティを出し、「太息・句芒の司さどる所の者なり、万二千里。其の令に曰はく、群禁を挺し……」という時令説の如き文が収められている。ところが実はこの司さどる所の神・人や「令に日はく」の政令文は五にもとずいた時令文からとったものなのである。つまり五と十二という割り切れ起い数の要素を持った時令説を、五の部分は方位にからめて平面上に配し、十二の部「分は一年十二ヶ月にからめて従来通りの時間の周期の上に配したもので、このように分けて書くことにより五つある政令も十二ある政令もそれが実行される場を得るのである。 
おわりに
以上の検討により、従来雑多なよせあつめとされた「准南子」地形訓にも何らかの編集の立場があることを明らかにした。今後は、この編集方法自体の意味するものを考えること、地形訓にみられたいろいろな地理・地形学説についてはそれらの背景となる思想・精神を考えることが課題となろう。それには、「准南子」の他の管巻や、地理・地形に関する他の文献との比較検討が必要であろう。また、地形訓と親近性のあるとみられる「山海経」、比較的政治思想の要素が強いと思われる緯書の地理説などに対し、本論のような検討を加え、その意図するところをさぐることが必要となろう。 
淮南子「精神訓」

 

古未有天地之時,惟像無形,窈窈冥冥,芒芠漠閔,澒濛鴻洞,莫知其門。有二神混生,經天營地,孔乎莫知其所終極,滔乎莫知其所止息,於是乃別為陰陽,離為八極,剛柔相成,萬物乃形,煩氣為蟲,精氣為人。是故精神,天之有也;而骨骸者,地之有也。精神入其門,而骨骸反其根,我尚何存?是故聖人法天順情,不拘於俗,不誘於人,以天為父,以地為母,陰陽為綱,四時為紀。天靜以清,地定以寧,萬物失之者死,法之者生。夫靜漠者,神明之定也;虛無者,道之所居也。是故或求之於外者,失之於內;有守之於內者,失之於外。譬猶本與末也,從本引之,千枝萬葉,莫不隨也。 
夫精神者,所受於天也;而形體者,所稟於地也。故曰:一生二,二生三,三生萬物。萬物背陰而抱陽,沖氣以為和。故曰:一月而膏,二月而胅,三月而胎,四月而肌,五月而筋,六月而骨,七月而成,八月而動,九月而躁,十月而生。形體以成,五臟乃形。是故肺主目,腎主鼻,膽主口,肝主耳,外為表而內為裡,開閉張歙,各有經紀。故頭之圓也象天,足之方也象地。天有四時、五行、九解、三百六十六日,人亦有四支、五藏、九竅、三百六十六節。天有風雨寒暑,人亦有取與喜怒。故膽為雲,肺為氣,肝為風,腎為雨,脾為雷,以與天地相參也,而心為之主。是故耳目者,日月也;血氣者,風雨也。日中有踆烏,而月中有蟾蜍。日月失其行,薄蝕無光;風雨非其時,毀折生災;五星失其行,州國受殃。夫天地之道,至紘以大,尚猶節其章光,愛其神明,人之耳目曷能久熏勞而不息乎?精神何能久馳騁而不既乎?是故血氣者,人之華也,而五藏者,人之精也。夫血氣能專于五藏而不外越,則胸腹充而嗜欲省矣;胸腹充而嗜欲省,則耳目清、聽視達矣。耳目清,聽視達,謂之明。五藏能屬於心而乖,則孛攵志勝而行不僻矣;孛攵志勝而行之不僻,則精神盛而氣不散矣。精神盛而氣不散則理,理則均,均則通,通則神,神則以視無不見,以聽無不聞也,以為無不成也。是故憂患不能入也,而邪氣不能襲。故事有求之于四海之外而不能遇,或守之於形骸之內而不見也。故所求多者所得少,所見大者所知小。夫孔竅者,精神之戶牖也,而氣志者,五藏之使候也。耳目淫于聲色之樂,則五藏搖動而不定矣;五藏搖動而不不定,則血氣滔蕩而不休矣;血氣滔蕩而不休,則精神馳騁於外而不守矣;精神馳騁於外而不守,則禍福之至,雖如丘山,無由識之矣。使耳目精明玄達而無誘慕,氣志虛靜恬愉而省嗜欲,五藏定寧充盈而不泄,精神內守形骸而不外越,則望於往世之前,而視於來事之後,猶未足為也,豈直禍福之間哉?故曰:其出彌遠者,其知彌少。以言乎精神之不可使外淫也。是故五色亂目,使目不明;五聲嘩耳,使耳不聰;五味亂口,使口爽傷;趣舍滑心,使行飛揚。此四者,天下之所養性也,然皆人累也。故曰:嗜欲者,使人之氣越;而好憎者,使人之心勞;弗疾去,則志氣日耗。 
夫人之所以不能終其壽命,而中道夭于刑戮者,何也?以其生生之厚。夫惟能無以生為者,則所以修得生也。夫天地運而相通,萬物總而為一。能知一,則無一之不知也;不能知一,則無一之能知也。譬吾處於天下也,亦為一物矣,不識天下之以我備其物與?且惟無我而物無不備者乎?然則我亦物也,物亦物也,物之與物也,又何以相物也?雖然,其生我也,將以何益?其殺我也,將以何損?夫造化者既以我為坯矣,將無所違之矣。吾安知夫刺灸而欲生者之非惑也?又安知夫絞經而求死者之非福也?或者生乃徭役也?而死乃休息也?天下茫茫,孰知之哉?其生我也不強求已,其殺我也不強求止。欲生而不事,憎死而不辭,賤之而弗憎,貴之而弗喜,隨其天資而安之不極。吾生也有七尺之形,吾死也有一棺之土。吾生之比於有形之類,猶吾死之淪於無形之中也。然則吾生也物不以益眾,吾死也土不以加厚,吾又安知所喜憎利害其間者乎?夫造化者之攫援物也,譬猶陶人之埏埴也,其取之地而已為盆盎也,與其未離於地也無以異,其已成器而破碎漫瀾而複歸其故也,與其為盆盎亦無以異矣。夫臨江之鄉,居人汲水以浸其園,江水弗憎也;苦洿之家,決洿而注之江,洿水弗樂也。是故其在江也,無以異其浸園也;其在洿也,亦無以異其在江也。是故聖人因時以安其位,當世而樂其業。 
夫悲樂者,コ之邪也;而喜怒者,道之過也;好憎者,心之暴也。故曰:其生也,天行;其死也,物化。靜則與陰俱閉,動則與陽俱開。精神澹然無極,不與物散,而天下自服。故心者,形之主也;而神者,心之寶也。形勞而不休則蹶,精用而不已則竭。是故聖人貴而尊之,不敢越也。夫有夏後氏之璜者,匣匱而藏之,寶之至也。夫精神之可寶也,非直夏後氏之璜也。是故聖人以無應有,必究其理;以虛受實,必窮其節;恬愉虛靜,以終其命。是故無所甚疏,而無所甚親。抱コ煬和,以順於天。與道為際,與コ為鄰,不為福始,不為禍先,魂魄處其宅,而精神守其根,死生無變於己,故曰至神。所謂真人者也,性合於道也。故有而若無,實而若虛;處其一不知其二,治其內不識其外。明白太素,無為複樸,體本抱神,以游于天地之樊。芒然仿佯於塵垢之外,而消搖於無事之業。浩浩蕩蕩乎,機械之巧弗載於心。是故死生亦大矣,而不為變。雖天地覆育,亦不與之摟抱矣。審乎無瑕,而不與物糅;見事之亂,而能守其宗。若然者,正肝膽,遺耳目,心志專于內,通達耦于一,居不知所為,行不知所之,渾然而往,逯然而來,形若槁木,心若死灰。忘其五藏,損其形骸。不學而知,不視而見,不為而成,不治而辯,感而應,迫而動,不得已而往,如光之耀,如景之放,以道為紃,有待而然。抱其太清之本,而無所容與,而物無能營。廓惝而虛,清靖而無思慮。大澤焚而不能熱,河、漢涸而不能寒也。大雷毀山而不能驚也,大風晦日而不能傷也。是故視珍寶珠玉,猶石礫也;視至尊窮寵,猶行客也;視毛嬙、西施,猶<其頁>醜也。以死生為一化,以萬物為一方,同精於太清之本,而游于忽區之旁。有精而不使,有神而不行,契大渾之樸,而立至清之中。是故其寢不夢,其智不萌,其魄不抑,其魂不騰。反覆終始,不知其端緒,甘暝太宵之宅,而覺視於昭昭之宇,休息於無委曲之隅,而游敖於無形埒之野。居而無容,處而無所,其動無形,其靜無體,存而若亡,生而若死,出入無間,役使鬼神。淪于不測,入於無間,以不同形相嬗也,終始若環,莫得其倫。此精神之所以能登假於道也。是故真人之所游。若吹呴呼吸,吐故內新,熊經鳥伸,鳧浴蝯躩,鴟視虎顧,是養形之人也,不以滑心。使神滔蕩而不失其充,日夜無傷而與物為春,則是合而生時於心也。 
且人有戒形而無損於心,有綴宅而無耗精。夫癩者趨不變,狂者形不虧,神將有所遠徙,孰暇知其所為!故形有摩而神未嘗化者,以不化應化,千變萬化,而未始有極。化者,複歸於無形也;不化者,與天地俱生也。夫木之死也,青青去之也。夫使木生者豈木也?猶充形者之非形也。故生生者未嘗死也,其所生則死矣;化物者未嘗化也,其所化則化矣。輕天下,則神無累矣;細萬物,則心不惑矣;齊死生,則志不懾矣;同變化,則明不眩矣。眾人以為虛言,吾將舉類而實之。 
人之所以樂為人主者,以其窮耳目之欲,而適躬體之便也。今高臺層榭,人之所麗也;而堯樸桷不斫,素題不枅。珍怪奇異,人之所美也;而堯糲粢之飯,藜藿之羹。文繡狐白,人之所好也;而堯布衣掩形,鹿裘禦寒。養性之具不加厚,而摧V以任重之憂。故舉天下而傳之於舜,若解重負然。非直辭讓,誠無以為也。此輕天下之具也。禹南省方,濟于江,黃龍負舟,舟中之人五色無主,禹乃熙笑而稱曰:“我受命於天,竭力而勞萬民,生寄也,死歸也,何足以滑和?”視龍猶蝘蜓,顏色不變,龍乃弭耳掉尾而逃。禹之視物亦細矣。鄭之神巫相壺子林,見其徵,告列子。列子行泣報壺子。壺子持以天壤,名實不入,機發於踵。壺子之視死生亦齊矣。子求行年五十有四,而病傴僂,脊管高於頂,<月曷>下迫頤,兩脾在上,燭營指天。匍匐自窺于井,曰:“偉哉!造化者其以我為此拘拘邪?”此其視變化亦同矣。故睹堯之道,乃知天下之輕也;觀禹之志,乃知天下之細也;原壺子之論,乃知死生之齊也;見子求之行,乃知變化之同也。 
夫至人倚不拔之柱,行不關之塗,稟不竭之府,學不死之師。無往而不遂,無至而不通。生不足以掛志,死不足以幽神,屈伸俯仰,抱命而婉轉。禍福利害,千變萬化,孰足以患心!若此人者,抱素守精,蟬蛻蛇解,游於太清,輕舉獨往,忽然入冥。鳳凰不能與之儷,而況斥鷃乎!勢位爵祿,何足以概志也!晏子與崔杼盟,臨死地而不易其義。殖、華將戰而死,莒君厚賂而止之,不改其行。故晏子可迫以仁,而不可劫以兵;殖、華可止以義,而不可縣以利。君子義死,而不可以富貴留也;義為,而不可以死亡恐也。彼則直為義耳,而尚猶不拘於物,又況無為者矣。 
堯不以有天下為貴,故授舜。公子劄不以有國為尊,故讓位。子罕不以玉為富,故不受寶。務光不以生害義,故自投於淵。由此觀之,至貴不待爵,至富不待財。天下至大矣,而以與佗人;身至親矣,而棄之淵;外此,其餘無足利矣。此之謂無累之人,無累之人,不以天下為貴矣!上觀至人之論,深原道コ之意,以下考世俗之行,乃足羞也。故通許由之意,《金滕》、《豹韜》廢矣;延陵季子不受吳國,而訟間田者慚矣;子罕不利寶玉,而爭券契者愧矣;務光不汙於世,而貪利偷生者悶矣。故不觀大義者,不知生之不足貪也;不聞大言者,不知天下之不足利也。 
今夫窮鄙之社也,叩盆拊瓴,相和而歌,自以為樂矣。嘗試為之擊建鼓,撞巨鐘,乃性仍仍然,知其盆瓴之足羞也。藏《詩》、《書》,修文學,而不知至論之旨,則拊盆叩瓴之徒也。夫以天下為者,學之建鼓矣。尊勢厚利,人之所貪也;使之左據天下圖,而右手刎其喉,愚夫不為。由此觀之,生尊於天下也。聖人食足以接氣,衣足以蓋形,適情不求餘,無天下不虧其性,有天下不羨其和。有天下,無天下,一實也。今贛人敖倉,予人河水,饑而餐之,渴而飲之,其入腹者不過簞食瓢漿,則身飽而敖倉不為之減也。腹滿而河水不為之竭也。有之不加飽,無之不為之饑,與守其篅{屯}、有其井,一實也。人大怒破陰,大喜墜陽,大憂內崩,大怖生狂。除穢去累,莫若未始出其宗,乃為大通。清目而不以視,靜耳而不以聽,鉗口而不以言,委心而不以慮。棄聰明而反太素,休精神而棄知故,覺而若昧,以生而若死,終則反本未生之時,而與化為一體。死之與生,一體也。 
今夫繇者揭臿,負籠土,鹽汗交流,喘息薄喉。當此之時,得茠越下,則脫然而喜矣。岩穴之間,非直越下之休也。病疵瘕者,捧心抑腹,膝上叩頭,踡跼而諦,通夕不寐。當此之時,噲然得臥,則親戚兄弟歡然而喜,夫修夜之寧,非直一噲之樂也。故知宇宙之大,則不可劫以死生;知養生之和,則不可縣以天下;知未生之樂,則不可畏以死;知許由之貴於舜,則不貪物。牆之立,不若其偃也,又況不為牆乎!冰之凝,不若其釋也,又況不為冰乎!自無蹠有,自有蹠無,終始無端,莫知其所萌,非通於外內,孰能無好憎?無外之外,至大也;無內之內,至貴也;能知大貴,何往而不遂!衰世湊學,不知原心反本,直雕琢其性,矯拂其情,以與世交。故目雖欲之,禁之以度;心雖樂之,節之以禮。趨翔周旋,詘節卑拜,肉凝而不食,酒澄而不飲,外束其形,內總其コ,鉗陰陽之和,而迫性命之情,故終身為悲人。達至道者則不然,理情性,治心術,養以和,持以適,樂道而忘賤,安コ而忘貧。性有不欲,無欲而不得;心有不樂,無樂而不為。無益情者不以累コ,而便性者不以滑和。故縱體肆意,而度制可以為天下儀。 
今夫儒者不本其所以欲,而禁其所欲;不原其所以樂,而閉其所樂。是猶決江河之源,而障之以手也。夫牧民者,猶畜禽獸也,不塞其囿垣,使有野心,系絆其足,以禁其動,而欲修生壽終,豈可得乎!夫顏回、季路、子夏、冉伯牛,孔子之通學也,然顏淵夭死,季路菹于衛,子夏失明,冉伯牛為氏B此皆迫性拂情,而不得其和也。故子夏見曾子,一臞一肥。曾子問其故,曰:“出見富貴之樂而欲之,入見先王之道又說之。兩者心戰,故臞;先王之道勝,故肥。”推其志,非能貪富貴之位,不便侈靡之樂,直宜迫性閉欲,以義自防也。雖情心鬱殪,形性屈竭,猶不得已自強也。故莫能終其天年。 
若夫至人,量腹而食,度形而衣,容身而遊,適情而行,餘天下而不貪,委萬物而不利,處大廓之宇,遊無極之野,登太皇,馮太一,玩天地於掌握之中。夫豈為貧富肥臞哉!故儒者非能使人弗欲,而能止之;非能使人勿樂,而能禁之。夫使天下畏刑而不敢盜,豈若能使無有盜心哉!越人得髯蛇,以為上肴,中國得之而棄之無用。故知其無所用,貪者能辭之;不知其無所用,廉者不能讓也。夫人主之所以殘亡其國家,損棄其社稷,身死於人手,為天下笑,未嘗非為非欲也。夫仇由貪大鐘之賂而亡其國,虞君利垂棘之璧而禽其身,獻公豔驪姬之美而亂四世,桓公甘易牙之和而不以時葬,胡王淫女樂之娛而亡上地。使此五君者適情辭餘,以己為度,不隨物而動,豈有此大患哉! 
故射者非矢不中也,學射者不治矢也;禦者非轡不行,學禦者不為轡也。知冬日之箑、夏日之裘無用於己,則萬物之變為塵埃矣。故以湯止沸,沸乃不止,誠知其本,則去火而已矣。 
 
東條英機

 

 
東條英機  
(明治17年-昭和23年 1884-1948) 日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。新字体で東条英機とも表記される。陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。日本の対米英開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴され、1948年11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。 
生涯 

 

生い立ちと経歴
東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は桓武平氏繁盛流大掾氏分流多気氏の末裔で江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考え、この反長州閥の考えは英機にも色濃く受け継がれたという。
番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校入学、陸軍士官学校卒業(17期生)。 
陸軍入隊
1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。
1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東条のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。
1912年(大正元年)に陸大に入学。1913年(大正2年)に父の英教が死去。1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。
1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。
1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。
1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。 
関東軍時代
1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。
1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する。
日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハル及び綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。 
陸軍次官
1938年(昭和13年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局額田課長に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣大臣の下、多田参謀次長、中島総務部長、飯沼人事局長と対立し、板垣大臣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果多田次長は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。 
陸軍大臣
1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。
1941年(昭和16年)10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えたという。これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。 
首相就任
近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦を推す声が強かった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。ところが木戸幸一内大臣は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だというふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。
木戸はのちに「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢をただちにあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、いったん帝国国策遂行要領を白紙に戻す。さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の二つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。
東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求をがんとしてはねつけており、陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」とまで述べていた。しかし内閣組閣後のこの東條の態度・行動は、陸相時の見解とは全く違ったものの表れであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく伺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信ありげだったという。
しかし日本側の提案はアメリカ側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。11月末、アメリカ側はハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも認めないという最強硬な見解を通告してきた。ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷外相でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるをえなかった。これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するにいたる。対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから幾度も上奏中に涙声になったといわれ、また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。
なお現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号『東條首相施政演説』がそれである。東條は同盟国であるドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。東條が多用した「今や……であります」という言い回しは、当時の青少年たちにも真似された。 
太平洋戦争(大東亜戦争) 

 

開戦
1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。その後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアメリカ本土、オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。 この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった米英大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である。」「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね。」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。 
海軍による真珠湾攻撃と東條
連合国は東京裁判でハワイへの攻撃は東條の指示だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條が、日本時間1941年12月8日の真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、参謀総長を兼任して以降である。
小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、昭和16年8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には永野海軍軍令部総長と杉山陸軍参謀総長が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。
しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾奇襲や外務省による開戦通知の遅れは東條の責任に帰することはできないものであった。 
戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下
緒戦の日本の快進撃もミッドウェイ海戦の敗北により行き詰まりを見せ始める。参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等が考案され、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたるガ島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦などでは日本側は米軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側も損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前に殆どが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画する。参謀本部は民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求するが東條はそれを拒否する。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であった。過去に投入した輸送船団は全滅状態で輸送作戦の成功の可能性は少なく、また参謀本部の要求を通すと国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためである。
東條の反対に怒った参謀本部の田中新一作戦部長は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する佐藤賢了陸軍軍務局長と討論の末とうとう殴り合いになった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いて激論を展開、東條ら政府側にむかって「馬鹿野郎!」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねばならぬ。」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。
しかしガダルカナル作戦はさらに行き詰まり、1943年2月にはガ島撤退が確定する。その後もニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが殆どが撃沈され、南方方面の日本軍は各地で補給不足に陥ることになった。またアメリカは軍事生産力の大拡充計画をスタートさせ、日米の軍事力に相当の開きがあらわれはじめる。1943年と1944年を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6800万トン、航空機生産182216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。また技術面でもそれまで優位を誇っていた日本側の零戦を凌駕するF6FやP51などの新戦闘機がアメリカ側に登場、レーダー、ソナー、VT信管などの開発においてもアメリカが格段に優位をみせていく。
この頃から東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなりはじめ、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動をおさえつけた。 
大東亜会議主催
戦局が不利に展開する中、東條は戦争の大義名分を確保するため、1943年11月大東亜会議を東京で開催し、日本の手で形式的に独立させたアジア各国の政府首脳を召集、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言を採択し、有色人種による政治的連合を謳いあげた。インドネシア代表の不参加などの不手際もあったが会議は概ね成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者深田祐介はかかる肯定的な評価をあげる一方、念には念を入れる東條を「準備魔」と表現している。
東條は戦後「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、1942年(昭和17年)9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。 
三職の兼任
1943年11月、タラワ島が陥落、1944年1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。またこの頃になると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ機動艦隊が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった。戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などから来る様々な弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。
1944年(昭和19年)2月17日、18日にアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲、またたくまに太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、木戸内大臣に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山総長の勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山元は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした。海軍軍令部の永野総長も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、嶋田海相が総長を兼任することになった。
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携しはじめる。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。 
退陣
1944年に入りアメリカ軍は長距離重爆撃機B29の量産を開始、マリアナ諸島をアメリカ軍に奪われた場合、日本本土が大規模空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。
しかし1944年6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で海軍は大敗、アメリカ艦隊にほとんど何の損害も与えられないまま後退した。連合艦隊は使用可能な全航空戦力498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも1944年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導をおこなっていた南雲忠一中部太平洋方面艦隊司令長官は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸つぶれになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。サイパンにつづいてグアム、テニアンも次々に陥落する。
マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、そのあとに訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊の戦力が健全でありさえすれば、サイパン島その他が奪われたとしても奪回はいくらでも可能であるのに、それが以後まったく無理になったことを意味するからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、ニ・ニ六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱をみせはじめ、6月30日の海軍大将全員を集めた戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田海相が、幹部や退役海軍大将の今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)
東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうとはかり内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸内大臣は、1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、2.嶋田繁太郎海軍大臣の更迭、3.重臣の入閣を要求。実は木戸は東條を見限ってすでに反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸へ東條が泣きつくと予期していた岡田や近衛たち反東條派の策略であった。
木戸の要求を受け入れて東條はまず国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介に辞任を要求する。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の敗退によって戦局の絶望を感じ、講和を提言して東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでほしい」と連絡、岸もこれに同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)
東條は岸の辞任を強要するため、四方諒二東京憲兵隊長を岸のもとに派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ!」と岸に辞任を迫ったが岸は「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ!」と整然と言い返し、脅しに屈しなかった。同時に佐藤賢了を通じておこなった重臣の米内光政の入閣交渉も、すでに東條倒閣を狙っていた米内の拒否により失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられて帰ってくるというありさまであった。
追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、梅津美治郎参謀総長の反対でこれは実現せず、結局杉山を出す事となったとされる。赤松秘書官は回想録で、周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまったとしている。
広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の無念さがうかがわれる。 
東條英機暗殺計画
戦局が困難を極める1944年には複数の東條英機暗殺が計画された。
1944年9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた(「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊也)。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった。
また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。 
重臣
辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが抗戦を徹底して主張し重臣の中で孤立していた。 
終戦工作への態度
1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と楽観的予想を述べたが、この予想は完全にはずれることになった。
終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正大尉に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。
しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたかというわけではない。戦争初期、1942年8月20日にアメリカ抑留から帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが近年判明している。 
敗戦と自殺未遂 

 

1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦ミズーリにおいて対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。 東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑がかからないようにしている。その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」。「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する。」と複雑な心中を吐露しており、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。 
GHQによる救命措置
銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」、「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、日本人の豹変振りに東條は大きく落胆したという。 
未遂に終わったことについて
これまでにも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。
拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の朝日・読売・毎日の各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。
なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのかとして、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。
東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。 

東條英機と言えば強硬に日米開戦を主張し、戦争に導いていった首相・・・と思っている人が多いでしょう。私も自分で歴史を調べてみるまでそう思っていました。また、戦後、東京裁判のとき自殺を図ったものの失敗したのもみっともない、と考えている人もいるかもしれません。東條英機は昭和20年9月10日、逮捕前日に時の陸軍大臣下村定氏に次のように話をしています。
「自分は皇室および国民に対して最も重大な責任がある。このおわびは死をもってするしかない。国際裁判のためには詳細な供述書を作り、目下清書中であるから、自ら法廷に立つ必要はない」
すでに東條英機は向かいに住んでい鈴木医学博士に相談して心臓のところに墨で印をつけてもらっていました。そして娘婿ですでに自決した古賀少佐のピストルを使って自決を敢行したのです。頭を撃たなかったのは連合軍がみにくい姿を世間に示すだろうと思ったからでした。
9月11日、東條逮捕にGHQの憲兵が向かいました。戦犯容疑者は本来は日本政府を通じて書面で呼び出すことになっていました。その急なためか、東條は利き腕が左腕であり、左で心臓を撃ちにくかったのか、結果、心臓をかすって弾は貫通し、一命をとりとめました。
このときの東條英機の評判は非常に悪いものでした。
笹川良一という人をご存知の方は多いと思います。日本船舶振興協会の「世界は一家、人類は兄弟」というCMを覚えている方も多いでしょう。この人は国会議員でしたが、連合国非難をして戦犯指定になりました。東條英機とは犬猿の仲だったのですが、法廷闘争の経験があり、国難にあたって東條英機に法廷闘争の極意を伝授したといいます。
「東條さん、あなたには大変お気の毒なことだが、あなたはおそらく死刑を免れることはできないだろう。近衛公(近衛文麿元首相のこと)が自殺した今となっては、開戦時の最高責任者はあなたしかいないからだ。あなたが死刑になるということを前提にした上で、あなたにお願いがある。まず第一に、このたびの戦争は日本の侵略戦争ではなかったということ、自衛のためにやむを得ず立ち上がった戦争だということを、最後までとことん主張していただきたい。第二に開戦の決定はあなた自身の責任によって行ったのだということ、開戦の責任は天皇の責任ではなかったということを、表明していただきたい」
この笹川良一の伝授を受け、東條英機は検察側の主席検事であるキーナン検事と法廷で対決し、見事な主張を展開しました。GHQによって言論統制された国民は溜飲を下げたことでしょう。オランダの判事レーリンクはこう回想しています。
「実際、東條は裁判に対する態度によって日本人の尊敬を再び勝ち得ました。すべての被告人には自分自身で弁明する権利がありました。東條は非常に長い、非常に印象的なスピーチをして、その中で、彼は、自分の動機や日本政府の政治的到達点について説明しました。東條は自分の責任を否定しませんでしたが、『アジア人のためのアジア』という概念、日本が敵対勢力に包囲されるようになっていた事実、そして石油の供給削減のため日本の命運に関わる利権が危機に晒されたことを強調しました。あのスピーチは2日間続きましたが、日本の人々の視線の中に東條の威厳を取り戻しましたね」
東條英機としては自殺未遂は不本意だったでしょうが、笹川良一の登場によって思わぬ展開となり、歴史的に見ても「日本の立場」をはっきりと刻むことができたのです。  
米軍MPによる銃撃説
なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、イキナリ拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている。 歴史家ロバート・ビュートも保阪正康も銃撃説を明確に否定している。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。 
戦陣訓
下村陸相は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた。
重光葵は「敵」である米軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を計ったのである」と東條は語っていたという。 
東京裁判 

 

東京裁判は、戦勝国が検事と裁判官をかねて敗戦国の「開戦責任」と「経過責任」を断罪する「勝者の裁き」であったが、同時に文明的な裁判方式を取った「文明の裁き」として、日米弁護人の弁護を受けつつ、敗戦直後の占領下の日本において戦勝国を恐れず対等な主張が可能な唯一の場ともなった。 
スケープゴートを引き受けた東條
東條は東京裁判をとおして自己弁護は行わず、この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しないと「国家弁護」を貫いたが、「敗戦の責任」は負うと宣誓口述書で明言している東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した。
東條の国家弁護は理路整然としており、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料にもとづいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと巧みに主張するなどしてキーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであった。また開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけであると明確に証言し、この証言が天皇の免訴を最終的に確定することになった。検察側は弁護人を通じて東條に、天皇免訴のためにスケープゴートとなることを要請しており、東條の証言はそれを受け入れてのものであった。
日暮吉延によれば、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。 
判決と処刑
東條は1948年(昭和23年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。
東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった。 
辞世の句は、
「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」
「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」
「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」 
仏教への信仰
晩年は浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で浄土真宗に深く信心した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰える様に頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでから更に15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。
さらには、自分をA級戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、1948年12月23日午前零時1分、絞首台に勇んで立っていったと言われる。
処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。
「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」 「明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」 「日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく」 
遺骨
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
東條英機はみずからが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡したものに限るという通達を出していたが、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判のA級戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定された。靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀している。
なお靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。 
軍官僚としての実力 

 

渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたという。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。
1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。 
 
東條に仮託される批判 

 

政治的敵対者を陰謀をもって死においやるという手法を利用したという批判が東條にはつきまとう。
竹槍事件では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとした。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と批判的な記事を書いたためであったとされる。
また、逓信省工務局長松前重義を勅任官待遇だったにもかかわらず42歳(徴召集の年限上限は45歳)で二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、40代の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ。
旧加賀藩主前田本家当主で陸軍軍人であった前田利為侯爵は、東條を「頭が悪く先の見えない男」として批評していた。しかし、東條が台頭すると前田は予備役に編入された。1942年(昭和17年)4月に召集された前田は、9月5日ボルネオ守備軍司令としてクチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から遺品と遺骨の一部が収集された。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも寺内総司令官が弔辞で戦死とした。11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條は馬奈木ボルネオ守備軍参謀長に対して「今回は戦死と認定することはできない」とし、東條の命を受けた富永人事局長によって「戦死」ではなく「戦地ニ於ケル公務死」とされた。これにより前田家には相続税に向けた全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた。但し、その後同じく飛行機で消息を絶った古賀峯一大将は戦地での公務死であるにもかかわらず戦死とはならなかった。
尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友に対して、東條が懲罰召集したとする主張がある。
東條の不興をかって前線送りになった将校は多々おり、例えば陸軍省整備課の塚本清彦少佐は戦局に関して東條に直言し、即日サイパン送りとなった。塚本は1944年(昭和19年)6月13日、第31軍の守備参謀として送り出され、1ヵ月後グアムで玉砕している。
第17師団の師団長だった平林盛人中将は、太平洋戦争初期に進駐していた徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しかった。しかし、平林は東條と馬が合わなかったといわれる。彼もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。
特高、憲兵の利用
特高警察と東京憲兵隊を重用し、民間人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題があると秦郁彦は批判している。1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している。また秦郁彦は、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音夫検事に対して、その報復として召集令状が届いたとしている。 
民政に対する態度  

 

「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。
ゴミ箱あさり
また、区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという。これに関連して、1943年(昭和18年)に西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「そんな事は、朝早く起きて、街の塵箱をあさっとる奴にでも聞け」と答えた。塵箱あさりとは東條首相のことである。東條は烈火の如く怒り、西尾を予備役とした。
言論統制に関して
中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度がうかがえたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している。 
評価 

 

批判的な評価
政治姿勢に対する批判
自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)。
「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。 戦時中の言論統制下でも石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。 東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年年末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして会談は空振りに終わった。
その他、国内での批判など
秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている。
福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理大臣の採点表』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下へのやさしい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。 
好意的な評価
昭和天皇からの信任
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれがうかがえる。
昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、参謀本部の反対を押し切って正当な軍事裁判を行ったこと、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。また内閣退陣のときの東條の態度に関しても、いさぎよく立派なものであったと述べている。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と同情的に回想し、内閣の末期には田中隆吉、富永恭次などのいかがわしい部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察しており、東條という人間は思慮周密で仕事熱心、話せばよくわかるすぐれた人物であったと高く評価している。「私は東條に同情している」という発言さえみえる。
『昭和天皇独白録』は昭和前期の政治家・軍人の多くに対し、きわめて厳しい昭和天皇の評価がいわれているが(たとえば石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたがわかる。
国内の好意的な評価
重光葵の評
重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている。
徳富蘇峰の評[日露戦争指導層との対比
徳富蘇峰は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物欠乏」を挙げて「舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「咀嚼ができないほどの、大物」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事」と断じている。
井上寿一の評
井上寿一は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。 国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している。
来栖三郎の評[大東亜主義に対する姿勢]
来栖三郎は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている。
山田風太郎の評
山田風太郎は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「東條英機自殺未遂事件#反応」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。
外国からの好意的な評価
バー・モウの評
ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。
レーリンクの評
東京裁判の判事の1人でオランダのベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です。」と東京裁判のあり様を批判している。
トケイヤーの評
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、1937年(昭和12年)にハルビンで開催されたドイツの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し、当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている。 
諸評価1
東條英機の人物像は極めてつかみ辛い。彼を単純に「悪人」と評するのは非常に簡単だろう。「人事権の濫用で政敵を懲罰的に召集した」「憲兵を使って国民生活を監視し、言論弾圧を行った」「戦争指導力があるとはお世辞にも言えず、大局的ななビジョンも無く目先の戦局を打開する事しか頭にない無能」など、数え上げたらキリが無い。それに加え、東京裁判において「昭和3年から一貫して行われた共同謀議の頭目」などという大物(実際に彼が政治に携わることになったのは昭和15年からのはず(記憶違いなら申し訳ない))に仕立てられた事も関係しているのか、戦後の日本社会において悪評が更に高まった感がある。例えば彼が陸相時代に発布した「戦陣訓」の一節である「死して虜囚の辱めを受けず」が日本軍の玉砕や、軍人だけでなく住民にまで及んだ自決の元凶となったという話を良く聞くが、自決する意思の無い人間が、上記文章を読んだだけで自ら死を選ぶような境地に至るという解釈には少々違和感が残る。北ビルマ作戦における捕虜と戦死者の比率はなんと1対120との事で、確かに日本兵の心情に「捕虜になる事を恥」という概念が強くあった事は疑うべくも無いが、その心情が戦陣訓の一節から生み出されたものであるという意見には流石に賛同しかねる。推測であるが、結局の所これは東條叩きの手段でしか無いのではないだろうか?
東京裁判で戦犯指名された中で死刑判決を言い渡されたのは7名であるが、その中でも知名度が最も高い(というより別格)のが東條英機だろう。誰もが「東條だけは絶対に死刑だ」と考えていたようで、当の本人もそれは確信していた。検事団すら死刑判を意外に感じ、減刑を求める署名運動まで起こった広田弘毅とは対照的だと言える。
東條が東京裁判の証言台に立って答弁した際に、彼自身の口述により作成された供述書を弁護人が朗読した。その内容をかいつまんで言えば、「対外的に日本に戦争責任は無いが、国内における責任(いわゆる敗戦の責任)は全て自分にある」と、一切自己弁護の類をしていない。その姿勢だけなら「男らしい」と少しは好感が持てるような気もするのだが、実際には内外から非難の嵐だったそうである。敗戦、自殺未遂と言った事柄が全て東條の悪評に繋がっており、もはや彼の成すこと全てに負のイメージがつきまとっていた事は疑いない。
いつもの事ながら無知な私が語っても余り意味は無いだが、断片的な情報を元に個人的に抱いた東條英機像というのは、とにかく面倒臭い人間では無かったかという事である。恐ろしく几帳面で細かく神経質、規律にやかましく物凄く些細な事にまで神経を尖らせる。プライドも自意識過剰なまでに高く、少しでも気に障る事を言えば懲罰を受ける。仕事内容については、事務職にはとことん向いておりその能力は高く評価されているものの、管理職としては長期的なビジョンも持たず、具体性の無い精神論ばかり語っているなど、上司として付き合うのは御免被りたいタイプの人間であるように思う。実際に彼の下で働いた人間の多くが「七面倒臭い親父」という印象を抱いていたのでは無いだろうか?何というか、側にいると非常に疲れる人物のような印象が強いのだ。
私が知る限りにおいて、東條を脚色無く最も的確に評価した人物は、同じくA級戦犯として起訴された重光葵では無いだろうか?
「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅博である。彼は勉強家である。頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と行動力と決断とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もしも彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は将来しなかったであろう。」
タイトルに書いてある通り、東條に対する戦後日本の評価のされ方と、戦前の日本に対する評価のされ方が似ているような気がしているのだ。「日本が悪」という前提の下、国家の行為とは定義されない事柄を「国家の犯罪」として扱うなど、戦前日本の悪い面だけを執拗なまでに強調する姿勢は特にだ。繰り返しになるが、東條を悪人と見なす事自体は極めて容易なのである。彼の経歴からネガティブなものだけ抜き出せば、それこそヒトラーと同等の独裁者などと言ってのける事も可能だ。こういう手合いに対し、東條を肯定的に捉える意見や彼の言動を弁護するような意見を紹介しても無意味だろう。戦前の日本と同じで、東條英機を悪く思おうと思えば、それはいくらでも可能なのである。 
諸評価2
太平洋戦争開始時の首相、そしてA級戦犯の代表格ということで有名な東條英機ですが、彼の評価については現代において色々あって分かれており、あくまで私感で述べると昭和の時代までは時局もあったのか否定的な評価が支配的でしたが近年は逆評価のような肯定的な評価のされ方が増えて来ているように思います。そんな東條に対する私の評価をどんなものかというと、先に書いてしまうとこの人は首相、軍人である以前に人としてもどうかと思うほどどうしようもない人物だったと見ています。
まず東條への批判として最も多いのは勝算の見込みが全くないにもかかわらず太平洋戦争を開戦した(参謀本部はシミュレーションだと全部日本の敗戦だったのに、「勝負はやってみるまで分からないよ」と言い切ったらしい)という点が挙がってくるでしょうが、これについては私はあまり気にしていません。何故なら東條一人が旗を振ったから当時にあの戦争に突入したわけでなくそれ以前からの長年の積み重ねと、これは近年になってようやく主張できるようになりましたが軍部だけでなく当時は国民の大半も中国、アメリカとの戦争を望んでいました。それゆえ東條がたとえ存在しなくとも戦争に突入したであろうと私は考え、開戦の責任まで東條に負わせるのは真相を解き明かす上で致命的な躓きになりかねないと考えています。
ではそんな東條のどこが嫌いなのかといえば、我ながら結構細かいですが一つ一つのエピソードがどれも気違いじみているところに激しい嫌悪感を覚えます。そんな気違いじみたエピソードの代表格は、バーデン=バーデンの密約で、これは大学受験レベルの日本史ではまず出てこないのですが是非とも後世に伝えるために指導するべきだと私一人で主張している史実です。これは1921年に東條を含む欧州に滞在していた陸軍若手官僚同士がドイツのバーデン=バーデンに集まり、陸軍の近代化や後に国家総動員法として後に実施される案をお互い一致団結して目指すということを誓ったという会合で、この時集まったメンバーらは後の統制派、皇道派という戦前陸軍の二大派閥の指導者となっていきます。
仮にこれだけの内容であればさして気にするほどでもないのですが、この時に示し合わされた議題の一つに当時の陸軍で権勢を振るっていた長州閥の排除も含まれていました。東條自身も自分の父英教が陸大一期を首席で卒業したにもかかわらず大将にまで昇進しなかったのは長州閥でなかったせいだと信じ込んでいた節があり(事実かどうかは不明)、長州閥への憎悪は強かったようです。
そんなことを誓い合った東條達はどんな方法で長州閥の追い出しにかかったのかというと、なんと自分たちが陸大の入学選抜に関わって長州出身者を徹底的に排除するというやり方を取りました。具体的にどんな方法かウィキペディアの記事によると、入学選抜の口頭試験において長州出身者のみに対し、「貴官は校門から、試験会場まで、何歩で到着した?」、「陸軍大学のトイレに便器はいくつあるのか?」などという全然選抜する上で関係のなく、答えられるはずのない質問をして落としていったそうです。その甲斐あってある年を境に長州出身の陸大入学者は、陸大が廃止されるまで10年以上に渡って現れることがありませんでした。
このエピソードだけでも十分神経というかいろいろ疑うのですがこれ以外にもこういった人間の小ささをアピールするかのようなエピソードが東條には多く、陸軍内部で人事権を握るや能力如何にかかわらず自分と馬が合うかどうかで人事を決めていき、戦時中もノモンハン事件の辻正信やインパール作戦の牟田口廉也など軍人として致命的なまでに能力が欠けていて実際に大失敗をやらかした人物らに対し、「名誉挽回のチャンスを与えねば」と、どんどんと中央に上げていって戦争指揮を任せています。その一方で陸軍内部で良識派と呼ばれ実際に多大な戦果を挙げた今村均や山下奉文については「仲間」だと判断しなかったせいか、中央に呼び寄せることなく延々と現地司令官のままに据え置きました。石原莞爾に至ってはお互いに犬猿の仲だったこともあり、左遷から予備役にまで追い込んでます。
このほかにも戦時中に、「竹槍で勝てるものか」と批判記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者(当時37歳)を報復のために硫黄島へ送ろうとしたり、東條内閣退陣を促そうとした逓信省工務局長の松前重義(当時42歳)を二等兵として招集し、こちらは実際に南方に送っています。しかも40代という明らかに徴兵年齢としては高齢過ぎる松前を目立たせないよう、松前に近い年齢の老兵を合わせて数百人も招集するほどの手の入れようだったそうです。
極めつけが終戦直後で、戦時中に「敵の捕虜になるくらいなら自決しろ!」と言っていたにもかかわらず本人は阿南大将と違ってなかなか自決せず、GHQが逮捕に来た段階に至ってようやく拳銃自殺を図り、案の定未遂に終わっています。この時に東條は腹部を撃っていますが、いろいろ意見が言われているものの普通自決するなら頭を撃つのが自然じゃないかと思いますし、そもそももっと早くに自決してればよかったのではという気がしてなりません。公家出身の近衛文麿ですら当時既に自決してたのに。
その後は知っての通りに東条は極東国際軍事裁判で裁かれるわけですが、この裁判において東條は戦争責任が昭和天皇に及ばないように自身がスケープゴートになろうと努めたと巷間言われておりますが、私はこの説に対して率直に疑っております。東條自身がスケープゴートたらんという意識を持っていたということに対しては否定しませんが、東條がそう務めたからと言って何かが変わったのかといえば何も変わりはしなかったと思います。こう思う根拠としてアメリカは日本のポツダム宣言受諾以前から対日占領政策を研究しており、その研究の中で天皇制を維持することは占領政策にかなうとはっきりと結論を出しており、天皇への戦争責任は初めから見逃されることが決まっていたからです。
そのためこういうと実も蓋もないですが、東條=スケープゴート説というのは彼を無理矢理にでも肯定的に評価しようとする人たちに作られた説、もしくは東条とその支援者らが自己満足するために作られた話ではないかと見ています。第一、スケープゴートになろうってんなら初めから自決未遂なんかしてるんじゃないよと言いたいし。少なくとも、東條がいてもいなくても昭和天皇は戦争責任から外されていたであろうことを考えると取り上げる価値もありません。
最後に東條の靖国合祀について一言を添えると、「死ねと命令した人間」と「死ねと命令された人間」が同じ場所に合祀されるのはやはりおかしな気がします。それもまともな戦争指揮ならともかくインパール作戦をはじめとしたかなり偏った、異常な価値観で決められた戦争だとするとなおさらです。 
腹心の部下 

 

鈴木貞一 陸軍中将。
加藤泊治郎 陸軍中将。憲兵司令部本部長など。
四方諒二 陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。東京憲兵隊長。
木村兵太郎 陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。
佐藤賢了 陸軍中将。陸軍省軍務局長など。
真田穣一郎 陸軍少将。参謀本部第一部長など。
浜本正勝 陸軍少佐。総理秘書官付内閣嘱託。総理専属通訳。元・ゼネラルモーターズ満州国・極東地区支配人。
赤松貞雄 陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東条秘書官機密日誌』を残している。
田中隆吉 陸軍少将。
富永恭次 陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官など。
評価
東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄
田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた。 田中は兵務局長として、東條の腰巾着と揶揄されるほどだったが、戦後は一転連合軍側の証人として東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で他の二人の将官が予備役編入される中、半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は胃潰瘍を理由に台湾島へ移動して温泉で英気を養うなど評判最悪の男で、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている男である。 
パーソナリティ、エピソード

 

学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった。
非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。また、メモに記録し、兵士の名前を覚えた。総理在任中は官邸のスタッフを自宅に招いて食事をしたり運動会や宝探しなどを行った。
タバコは吸うものの、酒はほとんど嗜まず、たまに疲れたとき晩酌するほどであり、決して深酒するようなことはなかった。飲み方も一合瓶で予め飲む量を目算して、それ以上は決して飲まないという強い自制心があった。
女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても徹底した。次妹の息子山田玉哉(陸軍中佐)が末妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を官邸に呼びつけ殴打した。東條の目には涙が浮かんでいたという。
1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた。
日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた。
部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた。
精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例をあげれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている。 
遺言 

 

東條の遺書といわれるものは複数存在する。ひとつは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。
家族に宛てたもの
日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族にあてたものが複数存在する。
処刑を前にした時のもの
処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として世紀の遺書に収録されている。
逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり)
1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、1952年(昭和27年)の中央公論5月号にUP通信のE・ホーブライト記者記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐二人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている。
 
大東亜会議

 

大東亜会議を開いたことは日本の財産である
太平洋戦争当時、アジアの国々は日本とタイを除いては欧米列強から植民地支配を受けていました。そんな中、東條英機内閣が、アジア初のサミットとも呼べる会議を開いたのが大東亜会議です。現在はAPECがあります。アジア太平洋経済協力(Asia-Pacific Economic Cooperation)はアジアだけでの経済圏を作らせないためにアメリカが介入していますが、大東亜会議は正真正銘のアジア人によるアジア人のための初の会議だったのです。
戦後教育の中では全く評価されていないこの会議ですが、ここからアジアの独立運動がスタートし、戦後はすべて各国が独立していった事実を見るとこの会議の意義は大きい。とくにインド、インドネシアでは東條英機に対する評価は絶大である。
東條内閣が開催した「大東亜会議」の意義
植民地だったアジア各国の首脳を集めたアジアで初めての国際会議。それが大東亜会議であり、この会議をもとに各国が独立を誓い、戦後勝ち取っていった。現在の歴史教育ではあまり取り上げられないのですが、ここで紹介します。
「大束亜会議」が開催されたのは1943(昭和18)年11月5日で、ドイツの敗色はすでに濃くなっており、日本の劣勢も明らかになってきていた。
参加者: 日本首相東条英機 / 中華民国政府主席江兆銘 / 満洲国国務総理張景恵 / ビルマ(現ミャンマー)政府主席バー・モウ / フィリピン大統領ラウレル / タイ国首相ピブン名代ワンワイタヤコン殿下
陪席者: 自由インド仮政府主席チャンドラ・ボース
日本はアジアから欧米の支配者を追い出し自分たちが新しい支配者になった、という批判がある。しかし、日本の勝利の見込みがなくなっていた時期に、日本の敗戦後の危険を知りつつも集まってきたアジアの民族独立指導者たちの思いとは何であったのか。日本と共にアジアで列強の植民地にならなかったタイも、ピブン首相こそ会議に参加しなかったが、その代わりワンワイタヤコン殿下を送ってきた。
確かに日本の中には、日本がアジアの盟主?たらんとする考えもあったし、軍事的に自治やアジア諸国の独立に消極的であった面はある。日本も純粋な正義感だけでアジア諸国の独立支援をしたわけではない。しかし日本は、戦争協力を得るという国益を優先させながらも、アジアの独立を支援しようという考えや動きがあったことも事実である。フィリピンやビルマは戦時中に独立を確定した。
日本に味方し、日本が敗れた場合は、民族独立運動そのものがつぶされるかもしれない、また個人的には抹殺されるかもしれないという危険があった。そうならないためには日本を批判しておいた方がよい、日本に抵抗しておいた方がよい、と考えるのは当然である。ビルマ(現ミャンマー)・インドネシアは最終的にはそのように振舞うが、それはお互いの立場を理解し合ってのことであった。日本の中にも、せっかく獲i得したものを手放して独立させるのは損だという気持ちもあったであろうが、やはり独立を助けるのが正しい、という思いもあったはずである。そうでなければ、敗戦後約2000人もの多くの日本人が現地に残り、インドネシア独立のため、再び植民地支配に戻ってきたオランダ軍と戦い400人が命を落とした説明がつかないではないか。
日本が資源確保のため独立を直ぐに認めようとせず、独立指導者を失望させたことはあった。鈴木敬司大佐はビルマの独立指導者アウンサンに「ビルマ人が独立のために反乱を起こしても何の不思議もない。当然のことだ。……。おれが日本軍に銃口を向けると国家への反逆になるからそれはできない。おれがお前たちの祖国独立に邪魔だというなら、さあ、この軍刀でまずおれを殺せ。それから独立の戦いをやれ……」と言って反乱を思いとどまらせた(『重光・東郷とその時代』岡崎久彦)。このアウンサンとは、アウンサン・スーチー氏の父君である。少なくともアウンサンには、日本の独立支援が単なる口先だけのプロパガンダか、本気なのか理解できたのであろう。
1957(昭利32)年来Elしたインドネシアのプン・トモ情報・宣伝相は日本の政府要人に「ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。……日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。……独立は近いと思った。そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった。それなのに日本だけに担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった」と述べた(『新歴史の真実』前野徹)。インドネシアやビルマの親日感情はこうしたところから生まれたのである。
そして終戦後、日本に戦い方を教わった彼らが中心となって、次々と欧米の植民地から独立を勝ち取っていったことは厳然たる事実なのである。

大東亜会議、11月6日に採択された大東亜共同宣言の全文を紹介します。
抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス
一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ増進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス
自由インド仮政府主席 チャンドラ・ボースと大東亜会議
大東亜会議二日目のこの日、ボースは、「自由にして繁栄に充ちたる新東亜の建設」 にあたり、日本が指導的立場に立たねばならないのは、歴史の必然であるとして、一九〇四年、明治三十七年、日本がロシアに対して 「蹶起(けっき)( STOOD UP TO RESIST )して以来、日本にはこうした指導的使命が生じたのだ、と説く。
日露戟争の当時、戦争の行方に、ボースおよび幾億の老幼インド人が歓喜し、熱情を注いだことか、そしてこれはインド人、インドの児童のみならず、全アジア人の経験したところなのである。
西洋の圧迫は、インドにとっては大英帝国という形を取るのだが、ボースほ断言する。
「印度にとりましては、英帝国主義に対する徹底的抗戦以外に途はないのであります。対英妥協は奴隷化との妥協を意味するものである。奴隷化との妥協は決して之(これ)を行わざる決意を有するものであります」
チャンドラ・ボースの出身地たるベンガルに関連した事件に限っても、英国の圧制たるや筆舌に尽し難いものがある。
一八五七年のベンガル軍の傭兵(セポイ)が口火を切った「セポイの反乱」において、英軍は史上稀に見る大量虐殺を行ない、一八五七年九月のデリー侵攻後は破壊、虐殺、掠奪の限りを尽した。
ほとんど同時期、紡績機械を発明した英国は、機械制大工業によって生産した安い綿布をインド市場に大量に輸出、インドの手工業による綿布生産を破滅、崩壊させた。それまで繁栄していた綿工業の町ダッカは貧困の極に達し、インド総督は「この窮乏たるや商業史上にほとんど類例を見ない。木綿布工たちの骨はインドの平原を白くしている」と発言するのである。
さらにはこの昭和十八年の秋、おなじベンガルで未曾有の飢饉が生じ、百万単位の餓死者が路頭に倒れているのだ。かくも惨憺(さんたん)たる結果をもたらしたのは、先にも触れたごとく米英軍および重慶軍の無茶な食糧調達と英国当局の無為無策のためといって過言ではない。
こうした事実に照らせば、ボースの「奴隷化」の言葉は、重い現実感を伴って迫ってくる。
この大東亜会議の席に坐っていても、やがてこの有史以来の宿敵と、インドの国境あるいは平原において戦わねばならぬ数々の戦闘の情景が浮かんでくる、とボースは述べ、「今、われわれは、日本という無敵の友と各代表の支援を得て、解放の日近きことを確信して、戦場に赴(おもむ)かん、とするものであります」と語る。
すさまじいのは、ここでボースが、「個人の生死は関係ない、生き延びてインドの解放を目撃できるか否かなどは私の意に介するところではない、唯一の関心事はインドが英米から解放されるという事実である」とまでいいきったことである。
さらにボースは「大東亜共栄圏の建設は全アジア民族、全人類の重大関心事」であり、世界聯盟(れんめい)への途、「強奪者の聯盟に非ずして真の国家共同体への道を拓(ひら)くものである」ことを強調する。
ボースは、岡倉覚三(天心)および孫逸仙(孫文)の理想が実現されることを祈り、本日午後、採択せられた「大東亜共同宣言」が「全世界の被抑圧国民(サブレスト・ピープル)の憲章たらんことを祈る」とスピーチを盛りあげていった。
ボースの英語は明快で美しく、名調子で全議場を魅了した。
「出席者各位は、新日本、新アジアの建設者(メーカー)としてのみでなく、新世界の建設者(メーカー)として永く其の名を歴史に止められるであろうことを、私は確信するものであります」
ビルマ(現ミャンマー)政府主席 バー・モウと大東亜会議
「策士」バー・モウの、内なる理想主義は、この十盲吉の夕刻、あらゆる現実を超えて炎のように燃えさかる。
大東亜会議に最も酔ったのは、バー・モウだといわれるゆえんである。
演壇に立ったバー・モウは熱弁をふるった。
「私の胸に浮んで参りますのは、過去に於て政治情勢の然らしむる所に依り、西洋に於て出席を余儀なくせられたる諸会議の想出であります。しかしながら私は常に他処(よそ)者が、他処者の中に在る感じを免れることが出来ず、恰(あたか)も古代羅馬(ローマ)に於ける希臘(ギリシャ)奴隷の如き感を懐くのが常であったのであります」
「本日此の会議に於ける空気は全く別個のものであります。此の会議から生れ出る感情は之をいかように言い表わしても、誇張し過ぎることはあり得ないのであります。多年ビルマにおいて、私は亜細亜(アジア)の夢を見続けて参りました。私の亜細亜人としての血は、常に他の亜細亜人に呼び掛けて来たのであります。昼となく夜となく、私は自分の夢の中で、亜細亜が其の子供に呼び掛ける声を聞くのを常としましたが、今日此の席に於て私は、初めて夢に非(あら)ざる亜細亜の呼声を現実に聞いた次第であります。我々亜細亜人は、此の呼声、我々の母の声に応えて茲(ここ)に相集うて来たのであります」
「これをしも私は、我等の亜細亜の血の呼声と称するのであります。今や我々は心を以て考うる時期ではなく、将(まさ)に血を以て考うべき時であり、私がはるばるビルマより日本へ参りましたのも、此の血を以て考える考えの致す所なのであります」 
 
第二次大戦を総括

 

はじめまして。東條英機の孫にあたります、東條由布子です。
日本が昔、アメリカと戦争をしたことをご存じない世代も出てきているそうですが、私は、その、アメリカと開戦したときの首相である、東條英機を祖父に持っています。
今、私は日本だけでなくさまざまな国々で活動しています。これは、単に、A級戦犯である祖父の汚名返上名誉挽回のためではなく、日本の将来のために必要だから行っているのです。
また、のちにも述べますが、A級戦犯、という言葉も私は適当でない、と考えています。後ほど詳しく述べたいと思いますが、よろしくお願いいたします。
まずは東京裁判について
まず、いわゆるA・B・C級戦犯と呼ばれるものは、俗に言う東京裁判で決められました。
ということは、この東京裁判について知らなければ、AもBもCも、そもそも戦犯という言葉の意味からして違ってきてしまいます。どこかで誤解されている方もいらっしゃるでしょうから、未来に向けたメッセージとして、ここでまずは東京裁判について語りたいと思います。
東京裁判は、実は戦争中に行われました。皆さんご存知ですか?講和条約を結んでいない以上、戦争状態が続いています。当時の日本が受諾したのはポツダム宣言です。ポツダム宣言を受諾、ということですが、これは休戦協定というべきものです。ポツダム宣言に述べられている条件を守ってくれるなら、日本もとりあえず武装解除しますよ。というものです。当然ですが、条約として、国際的に効力のあるものですが、ポツダム宣言に書かれた、いわゆる連合国側自らが謳った条件をやぶり、違法・脱法・無法的に行われた裁判でした。
ちなみに、私の祖父である東條英機は、今上天皇ご生誕日である12月23日に処刑されています。これは、連合国側の嫌がらせであることは言うまでもありません。祖父は、陛下の忠臣であることを至上としておりました。また、陛下も、祖父に対しては大きな信頼を寄せていただいておりました。こういうことを知っていた上での嫌がらせです。
マッカーサー証言
さて、そんな違法裁判を行っていた連合国軍のトップであるマッカーサーは、のちに、アメリカ議会できちんと宣誓をしてから、次のような証言をしています。要旨のみお伝えします。
Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
これを日本語に訳すと
したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。
となります。
祖父は、敗軍の将として、国内的には責任を取る、というつもりでしたが対外的には、あの戦争は自衛戦争だった、と繰り返し述べています。日本を守るために行ったと。
ちなみに、マッカーサーは、昭和26年5月3日にアメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会でこのような証言をしています。
祖父が処刑されて半年も経たないうちに。
これで、お分かりでしょう。東京裁判とは、白人社会が世界を動かしていた近代における、最後の強権発動だったのです。彼らがこれまで行ってきた国際政治の手法から、振り上げたこぶしは必ず振りぬかねばならず、また、それをもって他国に対してのけん制とするわけです。そういった、彼らの論理のために、日本の自衛戦争が侵略戦争に捻じ曲げられ、かつ、その流れの中で戦犯が生まれました。
この事実ひとつで、東京裁判がいかに恣意的だったかお分かりいただけるでしょう。
戦犯と言われるものものも、いかに根拠が薄く、また、恣意的なものかがお分かりいただけるかと思います。
くれぐれも誤解していただきたくないのは、これは、すべて、祖父の名誉のために行っているわけではなく、こういうことをはっきりさせなければ、過去と向き合わなければ日本にとって不利益だ、と思うからです。
日本の未来にとって必要なこと。それは、連続した歴史をしっかりと噛み締めて生かしていくことです。
そのために、このようなお話をしていることをご理解下さい。
さて、続いては、いわゆる戦犯というものが、戦後どのように扱われ現在に至るのかについてのお話です。
戦犯について
いわゆる『戦犯』というものについては別項目でお話しするとして、戦後、日本国民が『戦犯』をどのように考え、扱ってきたのか、についてお話します。
まず、意外に思われるかもしれませんが、戦後すぐ、戦犯釈放を願う署名運動を、なんと社会党がはじめました。
そして、当時の日本の人口は7000万人ですが、あっという間に4000万人もの署名が集まったのです。これを受け、日本国内的には戦犯という汚名は完全に返上されました。国際的にも、東京裁判が違法だった、とは言えない連合国側の面子の問題もあり、ふれないようにされていますが、一部の国を除き、もはや戦犯と取り上げることはほとんどありません。
祖父は、敗軍の将は、敗戦の責任を取らねばならない、と言っておりました。そういった意味で、国内的に誰かが責任を取らねばならないとしたら、開戦当時の首相である自分だ、と自ら自覚しておりました。しかし、戦犯という、不名誉な汚名は、いまやすでに、社会党からすら認めない、という結論が出ているのです。
安倍首相は保守的な方として信頼に足る人物だと思います。今後にも非常に期待したいと思います。その安倍首相は、村山談話を、閣議決定というプロセスを経たものとして、尊重すると発言しています。それならば、4000万人もの署名を集め、戦争犯罪人というわけのわからない汚名を返上した日本国民の決定も、ぜひ引き継いでもらいたいものです。
繰り返しますが、かつて、東京裁判という恣意的な舞台で決められた戦犯というものは、戦後すぐになくなっているのです。 
 
いまだ戦争は終わらず

 

世界中の人々が希望に燃えて迎えた新しい千年紀の幕開けから二年が過ぎた今、世界情勢は騒々しくなってきた。アメリカを直撃した航空機テロ、アフガニスタンに潜むテロヘの徹底反撃、イスラエルとパレステナの戦いも激しさを増してきた。世界中の人々が心を一つにした平穏なあの日はもう一戻らないのだろうか―
戦火の中を逃げ惑う幼い子供たち、その頬を伝う涙を見るたびに平和な咽本に生きていることの有り難さを思う。しかし、戦争が無いことイコール平和ではない。最近の乱れ放題の社会風潮、どん底の経済不況、続発する政界の不祥事、気付かぬ内に勢力を延ばす反日思想、戦う相手の顔が見えないだけに、日本の将来に危機感を募らせる人は多い。
戦後の徹底した占領政策が功を奏し伝統的な日本人の価値観が大きく揺らいだことも原因の一つであろう。『国を守る』『日本人としての誇りを持つ』『先人に感謝する』『先輩を敬う』『他人を思いやる』ことなど国家の一員として当然でも、国家という言葉さえ理解できずに育つ子供たちが親になり、教師になり政治家になり、裁判官になる時代になった。自由、平等、人権などが先行する民主主義教育が半世紀をかけて浸透した結果が現代の風潮であれば、それを是正するには長い歳月を要することは言うまでもない。悠久の歴史の中で培われた日本民族の伝統的な精神もその価値観を失ってしまったのだろうか?
半世紀前、国家存亡の危機に立たされた日本は、国の威信にかけて戦争という苦汁の選択をした。
若者たちがペンを銃に代え学び舎を離れ、愛しい人々への思いも断ち切って戦場に散った。青春を謳歌することもなく、妻を娶ることもなく、父母の暖かい懐を離れ国家の危急に立上がった彼等の心情を思うと、やり切れない哀しさが込み上げる。記念館に掲げられている出撃前の僅かなひとときを子大と戯れる愛くるしい面影を残す若き荒鷲たちの真の思いは知るよしもないが、出撃を前にした彼等の表情の何と凛々しく爽やかなことであろう。訪れる学生たちが感動で目を潤ませているが、事の善し悪しは別にして己の命をかけて国や愛しい人を守った先輩たちの生き方は、彼等が生きてゆく上で、何らかの指針になるかも知れない。

海軍少佐/西日高光命/神風特別攻撃隊、爆装零戦に搭乗し南西諸島洋上にて戦死(二十二歳)
学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです…。おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに……。
出撃二日前に従軍記者に語った心境だが、彼は戦後の国際社会で苦境に立つであろう日本の立場まで推察し、その講和条約における日本の条件が少しでも有利に展開するなら己の命は……。
個を以て国や同胞を救う民族愛の強さに感動する。彼らが戦場に飛び立つ際に書き残した遺書の行間に祖国を思い肉親の平穏を祈る至純な思いがあふれている。彼等のこうした思いを礎に平和な日本が築かれていることも教えない現代の風潮は、国家を乱す大きな要因であるといつても過言ではない。
毎年、八月十五日になるど繰り返される靖国神社を取り巻くあの時一騒を英霊がたは天上でどんな思いで眺めていることだろう。日本のために命を捧げた日本人を祀る聖地に、外圧によって日本の総理が参拝できないという理不尽な風潮は皆で真剣に考え直す時である。
現在の国の在り方を象徴するように、異国の戦場の洞窟には、いまだ鉄兜を被リロイドメガネをかけ軍靴を履き胸には手櫂弾を抱えた日本の将兵の遺骨が放置されたままである。現代の日本政府が過去の戦争責任を問われるならば、国策として多くの将兵を戦場に送った国家責任はどうなのか? 膨大な赤字債券を抱えてまで利権絡みの膨大な金額のODA支援をする前に、国の責務として異国に放置したままの百二十万柱の同胞の遺骨を帰還させるべきではなかろうか。
いまだ南浜の果に、凍上の荒野に、孤島の洞窟には120万柱の将兵の亡骸が放置されているという事実を知る人は少ない。先人がたへの感謝の心も教えず、ひたすら過去の日本を非難する教育をする国家がどうして栄えよう。
若い兵士たちが散華する際に書いた遺書を教科書に載せれば当然、先輩を尊敬する気持が湧いてくる。国会を喧騒の場にしている国会議員たちが先人の遺書を座右の書にすれば、国民のための良策が出てくるかも知れない。

平成十一年九月、私たちは米軍からの″日本の将兵の遺骨を収集しよう―″という有り難い呼びかけに応じて『日米合同遺骨収集団』を結成しパラオ・ペリリュウー島に渡島した。日本側からは中学生、高校生、大学生、神官、主婦、元軍人などを含め三十一名の隊員が参加してくれた。この島の陸、海に関するあらゅる詳しい情報を持つ米軍の元軍人たちの先導でジャングルを登り山陰に掘られた沢山の洞窟に入った。米軍人たちの適格な道案内と隊員たちの命懸けの努力のお陰で三十二柱の御遺骨が収集できたが、厚生省職員が同道しないと焼骨できないと言われ、残念ながらペリリュー神社の納骨堂に安置してきた。
帰国後、南洋諸島の遺骨収集はすでに終了としたとする厚生省に、南洋諸島にはいまだ数多の遺骨が放置されている現状を詳細に報告した。
それから二年五か月の歳月が流れ厚生省もやっと重い腰を上げ、十四年ぶりにパラオ・ペリリュー島に遺骨引取りと遺骨収集に行くことになった旧厚生省から二名の職員と諸費用が全額負担になった指定三団体から七名が参加し、当方、遺骨収集を目的に設立したNPO法人「環境保全機構」からは神官「仏教の修行僧、元軍人、経済人、報道関係の人を含めて十三名が参加した。平成十一年に『日米合同遺骨収集団』が収集しペリリュー神社に納骨してきた三十二柱の御遺骨と、戦友会、遺族会が収集した十八柱を焼骨し日本にお帰り頂くことが今回の主な目的のようだった。今回、新たな遺骨も収集でき百十柱を焼骨した。
厚生省とNPO法人関係者が良い関係で協力し合えたのは、団長、副団長の誠実な人柄のゆえかも知れない。しかし、この企画書を作成した援護局外事課の書類には、同じく日本から出発するにも関わらずNPO法人『環境保全機構』の隊員を『現地協力者』と書く厚生省の差別意識には怒りを覚えた。また、指定三団体以外には一切の費用は出さない慣例を敷く厚生省の在り方に大きな矛盾を感じ不満を持った。

鬱蒼と茂るジャングルの樹々の枝をかき分け、足に絡み付くガジュマルの蔦に足元をすくわれ、転げ落ちそうになりがら急峻な崖をよじ登る。ガジュマルは地面深く根を張り断崖の表面のいたる所に縦横無尽に大い枝を延ばしている。足を滑らせれば後ろの人も巻き添えにする危険があることを意識しながら木に掴まる手にも力が入る。米軍の火炎放射器で麓から頂上まで焼き尽くされていた山々も、半世紀の歳月の間に樹木は過しく成長し南国特有のガジュマルが遅しく生い茂り行く手を阻む。掴まった本が根元からポキリと折れることも何度かあった。上を登る隊員の激しい息づかいが聞こえてくる、言葉を交わす余裕もないほど体力が消耗するが命懸けで黙々と登る。体が直立するほど急勾配な断崖もある中で、重い取材のカメラを担いでいる登る隊員の体力と気力は並大抵ではない。限られた日数の中で一柱でも多くの英霊の遺骨を日本に連れ帰りたい!そんな切実な思いで隊員たちは南国の過酷な自然と向き合いながら洞窟を探す。切り立った断崖の途中の見えない所に沢山の洞窟が掘られていた。枯れ葉に埋もれて洞窟の入り回は見えにくいが泥を掻きわけて中に滑り込む。奥に入れば背が立つほどに広い所もあれば、二、三人がようやく座れる程度の所もあり、幾つかの洞窟が奥でつながっているのもあった。まだ足を踏み入れた痕跡の無い大きな洞窟に入った。隊道が左右に分かれ、大きなドラムカンが幾つも転がり、その下に大いガジュマルの枝が執拗に絡み付いている。若い隊員が鋸で枝を落としながらドラム缶をどかすと沢山の遺骨が埋まっていた。悲しい話だが、カジュマルの茂る洞窟には必ずと言って良いほど遺骨があり、私の数少ない経験から洞窟の壁近くの方が遺骨は沢山埋まっている。体力の消耗を防ぐために壁に寄り掛かって過ごす時間が長かったことは容易に察することができる。昼間でも真っ暗な洞窟の中を僅かに照らすヘツドランプの明りを頼りに瓦礫の混じった土を掘る。ヘッドランプを装着した工事現場用のヘルメットが重みで何度も作業する手元にドスンと落ちる。明りが欲しい!滴り落ちる汗をジャンパーの袖で拭う。時折カメラマンが照らしてくれる明るい照明に元気づいてまた掘り進む。蒸し暑い洞窟に長いこと座って掘っていると下着までびっしょり濡れてくる。眼鏡のレンズにしたたり落ちた汗が溜まる。兵隊さんたちはこんなに寂しくて暗いコウモリが飛び交う洞窟の中に昼間はひそみ、夜間攻撃をかけていたのかと思うと涙が込み上げてくる。劣悪な自然環境の戦地で重い銃器を担ぎ、体力を使う岩盤掘りをやりながら戦つていたことを思えば"熱い""疲れた″などと言っては罰が当たる。気を入れて鉄の熊手で懸命に掘る。手相弾が散乱する洞窟には鉄製の道具は禁物だが燐鉱石の岩盤は固いものでないと掘れないのも事実だ。小さな小指の一片でも見逃さないように丹念に瓦礫の混じる泥をかきわけて探す。広げた白い布にみるみる内に骨の山ができる。"外の空気を吸って一息いれませんか?"と声がかかる。時間も忘れて掘っているが洞窟の奥の酸素が薄くなっているようだ。暗い隊道を這うようにして、岩のデコボコに何度も頭や肩や腰をぶつけながら、入り回の明りを使りに洞窟の外に出てくると、爽やかな風が吹いている。若い隊員が背負って来てくれた水をゴクゴクと飲むと疲れが吹き飛ぶ。水が感動するほど美味しい。平和な日本の生活からは想像もできない別世界で、互いの泥まみれの顔も服も頼もしくさえ見えるのが不思議だ。
パラオ共和国は広島県から真南に南下すること三千キロ、南方洋上に数百の島々を擁して浮かぶ、一万六千人の小さな独立国である。第一次世界大戦後、ドイツから委譲され、日本が二十数年間統治し南洋諸島の中心地として日本はこの島を大切にした。島の中で今も最も栄えているのがコロール島だが、日本統治時代は淵洒な洋風の南洋庁舎があり、美しい並木にモダンな街並が続いていたようだ。市中には官幣大社である南洋神社が偉容を誇っていた。中でも日本が最も重要視し、敵の標的になったのがペリリュー島に敷設された大きな二本の滑走路だった。日本軍は一万三千人の将兵を投入しても死守したかった島であり、米軍も破壊するために七千余人の戦死者を出しながら熾烈な戦いを繰り広げた。かつて、この島は、昭和天皇が十一回も激励電報を打たれたゆえか「天皇の島」と呼ばれていた。昭和十九年十一月、ペリリュー島で一万三百名、アンガウル島で、千八百余名の将兵が玉砕したおり、最後の突撃をかける決意をした現地の司令官は、本国の軍司令部に「ただ今より通信機を破壊し最後の突撃をかけます」という電報を打って突撃し全員玉砕した。その電報を持って宮中を訪れた杉山陸軍大臣に昭和天皇は「激励の返電を打つように」と言われたという。「通信機は破壊され現地には届きませんが」と恐る恐る進言する杉山大臣に陛下は「それでも打て」と命じられたという。電報を受け取る将兵の居ないペリリュー島に敢えて激励電報を打てと命じられた天皇陛下の悲壮な胸中を察した杉山大臣は、副官として宮中に同行した伊藤忠商事の特別顧間である瀬島元参謀が間う「陛下は何と言われましたでしょうか」という言葉に返答せず車の窓から皇居をじっと見つめておられたという。それほど昭和天皇は悲劇の島「ペリリュー島」に深い思いを寄せられていた。
ペリリュー神社の境内に、日本と激烈な戦いをした米大平洋艦隊司令長官、C・W・ニミッツ提督が作られた次のような詩が刻まれた碑が建っている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
太平洋艦隊司令長官 C・W・ニミッツ
ペリリュー島に慰霊にくる人々はこの詩に大変感動する。ペリリュー島は燐鉱石の島だが、六百とも八百とも言われる大小様々な洞窟が掘られたと言う。昼間は洞窟に籠り夜間に紛れて攻撃してくる日本兵たちは恐怖だったと当時日本軍と熾烈な戦いをした米軍の元海兵隊員たちが語ってくれた。玉砕してもなお洞窟の奥深く籠り攻撃をしかけてくるような恐怖を覚え、米軍は引き上げる時に洞窟にパーム弾を投げ込み、火炎放射器で焼き、入り口をコンクリートで封印して引き上げたようだ。焼き尽くされた頃の山々の洞窟の入り回は、麓からもはつきりと見えたそうで、断崖の上の方の洞窟の入り口にはコンクリートで封印された跡が残っていた。米軍の海兵隊員が上陸時に戦死し海が朱に染まったというオレンジビーチの近くに、二千人の日本兵士の屍をブルドーザーで埋めてコンクリートで塞いだという巨大な地下墓地があると州の高官や村人から聞いた。米軍の戦勝記念塔がその上に建っている。遺骨収集をする時にいつも話題になるが、それを開く時期である。それが事実なら一日も早く官・民・自衛隊も協力してこのコンクリートを開けて遺骨を収集したい。厚生省は平成二年から平成十四年三月まで、ペリリュー島での遺骨収集を行っていないが、その間、民間のグループや戦友会などが自費でコツコツと遺骨収集を続けてきたが、まだ洞窟の三分の一ほどしか開けられていないという。ペリリュー島が戦場になる直前、日本の現地司令部はパラオ国民を戦争に巻き込まないために、全ての住民を本島に移した。現地の人々は今でも日本の兵隊さんたちのお陰で命が助かったと言い、真摯に慰霊を続けてくれている。しかし、そんな中でも日本兵とともに銃をとり勇ましく戦ったパラオの若者たちもいた。戦死した十数名の名前を刻んだ慰霊碑が南洋神社の境内に清流社により建立された。
清流社は国学院大学の学生が二十数年前からサイパン島、テニアン島、ペリリュー島、アンガウル島での遺骨収集を熱心につづけ、神社を再建した青年神官のグループである。毎年、春・秋の彼岸、盆には神社の掃除と参拝のために島を訪れる。英霊を崇敬し慰霊を続けている彼等の深い思いは強い。主宰者はすでに頭に白いものが混じるが、国学院大学の学生だった当時のパラオ諸島にはワニが上がってきたという。それを捌いて肉を食べ、雨水を溜めて飲み水にしたという。棒に結ばれたワニを皆で担いでいる写真があった。屋外のテントに野宿しながら遺骨収集をしていた頃からすでに三十年近くの歳月が流れる。今なお慰霊事業を続けている彼等の精神には敬服するばかりである。
今回、焼骨した御遺骨は平成十一年九月、ペリリュー島で収集した。日米の戦いが日本軍の玉砕で終結して五十五年の歳月が流れ、米軍が上陸した九月十五日に日米両国の戦没者合同慰霊祭が行われた。米国からは二百五十余名が参列し軍楽隊も参加した。軍楽隊が奏でる葬送のマーチに合わせて若い兵士が隊列を組み行進し星条旗を揚げる光景を目の当たりにした時、戦死者を弔う国家の在り方の余りの違いに愕然とし、同じく国家のために戦い散華した日本将兵の御霊に、相済まなさが込み上げてきた。日本側で行った慰霊祭には、神官たちが現地の葉で即席に作った榊の枝を見よう見真似で神殿に捧げて手を合わせる姿に笑も漏れ皆は胸を熱くした。
ハワイのパールハーバーにあるアリゾナ戦争記念館に真珠湾を攻撃し戦死した九名の日本将兵の勇ましさを称えた写真入りの大きなポスターが張られ売店でも売られている。米国は敵味方を問わず、国家に忠節を尽くした人間を価値ある人として称えるという。
かつての日本はそうであった。日露戦争で勝利した乃木将軍は露軍の将兵を悼み称える大きな慰霊碑を建立し、一年後に日本将兵を癒す小さな慰霊碑を建てた。それが二千数百年、営々と築かれてきた伝統的日本精神の神髄なのであろう。
慰霊祭で私は日米両国の英霊に心からの祭文を読んだ。この日、夫を父上を祖父をこのペリリュー島で亡くされた親子、孫三代のご家族が参加されていた。お祖母さまは二十数年前、厚生省にペリリュー島に余りに多くの遺骨があるので収集して欲しいという願いを出されたが、もうこの島の収集は終わったと言われ悲憤にくれたという。彼女は自分で収集することを決心し中古車もこの島に置かれ、三か月ごとにペリリュー島を往復されコツコツと家族だけで遺骨収集をつづけてこられて来たそうだ。ある時、収集した遺骨を引取りに来た厚生省の職員から「貴女は四百数十柱の遺骨を収集しました」という約五倍の数の証明書が渡されて愕然としたと言う。
「私は百柱ちょっとしか収集していません、どんな数え方をしたのですか―」その時、厚生省職員が頭蓋骨が一柱、腕が二本で二柱、足が二本で二柱で、合計五柱という数え方をしているのを知って、もう収集が終わったという厚生省のやり方を知り、その余りにも英霊に対する愛情の無さに涙がこぼれたという。私も渡島する前にその数え方を知らされ、まさかと思っていたが彼女の話を聞いて改めて変な納得をした。厚生省の援護局、外事室長は、それは昔の数え方で今は違うと否定されたが、今年の二月二十六日の沖縄の遺骨収集の要領にも、今回も同じような数え方の方法が書かれていた。ますます厚生省への不信感が募った。だからこそまだ百二十万柱の同胞の遺骨が放置されているにも関わらず、南洋諸島は終わったとする厚生省の態度が理解できた。本来国家が収集するのが義務であるにも関わらず、民間が自費でやっている理由も分かってきた。
平成十三年の春、桐生市で「キトープリント」という印刷会社を経営されている菊池貴子さんという方にお目にかかったことがある。職業軍人だったお父上は、生前よく南洋諸島の旧戦場に戦友の遺骨収集に行かれていたという。
昭和天皇が崩御されたその日、それまでお元気だった父上なのに縁側の揺り椅子に揺られたままの姿で、あたかも殉死するかのように安らかな御顔で人知れず黄泉の国に旅立たれていたという。そのお父上が遺骨収集された時の思いを詩文にして残されたものをカレンダーに印刷され頂戴した。その詩を読んだ時、あたかもお父上が私の心の中に入って、私の思いをそのまま詩に託されたような錯覚にとらわれた。
御遺骨が山野に放置されている状況を、これほど正確に情景描写される才能に感動したのは無論だが、戦友を思う父上の思いの深さに感動して読みながら涙が止まらなかった。南洋の孤島、ペリリュー島で目の当たりにした光景そのままだったからである。

軍歌「戦友」の詩に読み替えて作られたという。
一、比処は、お国幾千里 遥かに遠き南海の 鳥も通わぬ島かげに 倒れし戦友よ今何処
二、戦に敗れ国亡び 戦友が勲は無となり 戦友がむくろはすておかれ 草木と朽ちて苔むしぬ
三、幾度月日はめぐるらん 弔ふ身よりの一人なく 額づく友の影もなく 訪なふものは雨と風
四、やがて輝く日の御旗 戦友がいまわの戦場に はらから集い来て見れば のどけき島のたたづまい
五、一度入りてジャングルの 奥みに戦友を求むれば 無残なるかや遠近に 野晒ならぬシャレコウベ
六、戦友が遺骨の傍に 淋しき年月まもりしは 穴のあきたるてつかぶと まだ朽ちやらぬ軍靴
七、雨と降りくる砲爆に 戦友の多くは倒れゆき 返す力の術もなく リーフに砕く波しぶき
八、かはきをいやす水もなく 飢をしのぐ食もなく ましてや弾丸もつきはてぬ ただひたすらに國のため
九、捧げし生命はおしまねど かかる運命にあはんとは 戦友が無念が身にしみて 頭をたれて只なみだ
十、いざや帰らんもろとも 四季うるはしき父母の國 蓋す誠に差はあれど 心安けくねむれかし 心安けくねむれかし
軍歌の詩にあるように弾丸飛び交う中で傷ついた戦友を気遣いながら戦い戦友を背負って戦場を駆ける将兵でなくては、こんな素晴らしい詩は浮かんでこない。お父上が戦死した戦友に寄せられる深い思いと、死を悼む悲しみが胸を打つ。
真っ白く美しく揃った歯が残された頭蓋骨を胸に抱いて涙を流したあの日の悲しみが込み上げてきた。
"凛々しい顔だちの青年だったに違いない"と生前の面影を偲びながら思わず落とした涙がシャレコウベに滲んで広がっていった。殆ど欠けていない頭蓋骨を洞窟の奥からそっと持って這い上がり、五十数年ぶりに外の新鮮な空気を吸わせてさしあげた。
昼間でも暗いジャングルの生い茂った樹葉を通して天空から一筋の光が射し込みシャレコウベを照らした。神秘的な情景に息を呑んで見つめる若い隊員たちの表情が忘れられない。異国の戦場に戦ったままの姿で放置されている将兵にとり戦争はまだ終わってはいない。
日本をすっぽりと覆った霧が晴れるのはいつの日か!世界のいかなる国にもない悠久の輝やかしい歴史を持つ日本に誇りを持ち、聖徳太子が諸外国に示されたあの『日本は陽出づる国』であるという堂々たる自信を政治家が取り戻した暁には、国のために戦った御霊が眠る靖国神社に総理大臣が背を向けるような恥かしいことはさせまい。
靖国神社はかって日本の軍人であった台湾の人も、韓国の人も、沖縄から本州に疎開中に撃沈された対馬丸に乗っていた九百余名の小学生も、従軍看護婦さんも、樺太で殉死された九名の電話交換手も、また世界中の戦場で亡くなった異国の人々も祭られているのを、マスコミ自身も知らない。報道の姿勢次第では国民の意識は変わる。靖国神社に遺骨が埋葬されていると信じている人が沢山いることは嘆かわしい。
神社に祀られた御霊は分祀することは出来ないという事実さえ知らぬマスコミ人は多い。靖国神社は独立した宗教法人である。仮りに日本政府が、いわゆるA級戦犯七人を「分祀すべし」という決定を下し法制化したとしても、宗教法人に政治が介入することは出来ない。政教分離を声高に主張するマスコミが一番良く知っている筈である。靖国神社や千鳥ガ淵墓苑がありながら、近隣国の要請で膨大な税金を使い国立墓苑の建設が自民党中枢の要人により進められているという新聞記事を読んだが、かりそめにも税金を使いそんな愚かな無駄をしないで欲しい。国立墓苑建設の推進派の日本遺族会々長の女性会長から、靖国神社参拝推進派の自民党の政治家が変わったが、就任早々に中国に表敬訪問し従来とは違う発言を堂々としているのを聞き、政治家の身代わりの早さに驚くばかりである。 
 
東條英機宣誓供述書

 

わが經歴

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、何等公の職務に就いては居りませぬ。即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであります。

以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、且參考となると思はれる事實を供述します。ここ[玆]に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項があります。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことであります。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の作戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」作戰準備の見地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『南京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『南京政權に一撃を加へ』となつて居るのであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。
當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件(一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。
この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたことに依ても知られます。 
第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前より陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。乃ち近衞公は我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解しました。

その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。
當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち(一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、(二)軍の統帥を一層確立すること、(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。

ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大なる變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になつて來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從つて帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。
對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになつて來て居りました。 
二大重要國策

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。その一つは一九四〇年(昭和十五年)七月二十六日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。その二は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三一〇號英文記録一一七九四頁)であります。私は陸軍大臣として共に之に關與しました。此等の國策の要點は要するに二つであります。即ちその一つは東亞安定のため速に支那事變を解決するといふこと、その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。
新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、その第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することでありました。此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。
私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、私の明白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。私が豫め侵略思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。

七月二十六日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内政策の基準と爲したのであります。之には三つの要點があります。その一つは國内體制の刷新であります。その二は支那事變の解決の促進であります。その三は國防の充實であります。第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。
第二の支那事變の解決については總て一致であつて國家の總ての力を之に集中すべきこと、又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。
第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。大東亞の新秩序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。三國同盟そのものについては此時は餘り議論はありませんでした。唯、現下の國際情勢に對處し、從來の經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致を見たと記憶します。

「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。これは七月二十七日に連絡會議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その一は支那事變解決の方途であります。その二は南方問題解決の方策であります。此の要綱の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。
(A)獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事變を通じて米英のとりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持つて行かずたゞ之との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。又對「ソ」關係を飛躍的に調整すべしとの論もあつたのであります。
(B)日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りました。近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、此點については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。たゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。松岡氏の主張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねばならぬといつて居ります。それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案については外相に信頼するといふことになりました。
(C)對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにありました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に因るからであるとの見解からであります。從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に必要であるとせられたのであります。
(D)南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課題でありますが之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であります。右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の自存に重大なる影響があります。從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關心が持たれて居りました。之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事變の進行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。 
三國同盟
一〇
以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中(A)として述べた通りであります。
この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。
それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」
一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認めました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。
其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。
其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。
三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。
四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。
右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。
一一
此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました。星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。
此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。これは統帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。
一二
右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。
三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。 
北部佛印進駐
一三
一九四〇年(昭和十五年)九月末に行はれたる日本軍隊の北部佛印進駐については私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干與しました。日本の南方政策は引つゞき行はれたる米英側の經濟壓迫に依り餘儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」(法廷證一三一〇號)に定められてあります。この南方政策は二つの性格を有して居ります。その一は支那事變解決のため米英と重慶との提携を分斷すること、その二は日本の自給自足の經濟體制を確立することであります。ともに日本の自存と自衞の最高措置として發展したものであつて、而もこれは外交に依り平和的に處理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の對日壓迫に依り豫期せざる實際問題に轉化して行つたのであります。
一四
私は以下に日本軍の少數の部隊を北部佛印に派遣したことにつき佛印側に便宜供與を求めたことを陳述致します。元來この派兵は專ら對支作戰上の必要より發し統帥部の切なる要望に基くのであります。
前内閣時代である一九四〇年(昭和十五年)六月下旬に佛印當局は自發的に援蒋物資の佛印通過を禁絶することを約し、其の實行を監視する爲日本より監視機關を派遣することになつたのであります。(法廷證六一八)當時「ビルマ」に於ても同樣の措置が取られました。然し實際にやつてみると少數の監視機關では援蒋物資禁絶の實施の完璧を期することの出來ぬことが判明しました。加之、佛印國境閉鎖以來重慶側は實力を以て佛印ルート再開を呼號し兵力を逐次佛印國境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情勢上北部佛印防衞の必要を感じました。なほ統帥部では支那事變を急速に解決するため支那奧地作戰を實行したいとの希望を抱き、それがため北部佛印に根據を持ちたいとの考を有しました。七月下旬連絡會議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつたのであります。此の要求の要點は北佛自體に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して居ります。右に關する外交交渉は八月一日以來、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」佛蘭西大使との間に行はれ、同年八月三十日公文を交換し話合は妥結したのであります。(法廷證六二〇の附屬書第十ノ一、及二)。即ち日本側に於ては佛領印度支那に對する「フランス」の領土保全及主權を尊重しフランス側では日本兵の駐在に關し軍事上の特殊の便宜を供與することを約し、又此の便宜供與は軍事占領の性質を有せざることを保證して居ります。
一五
右八月三十日の松岡「アンリー」協定に於ては右の原則を定め現地に於ては日本國の要望に滿足を與ふることを目的とする交渉が遲滯なく開始せられ、速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を發せらるべきものとしたのであります。そこで前に監視機關の委員長として現地に出張して居つた西原少將は大本營の指導の下に右日佛兩國政府の協定に基き直ちに佛印政廳との間に交渉を開始し、九月四日には既に基礎的事項の妥結を見るに至りました。(法廷證六二〇號の附屬書第十一號)引續いて九月六日には便宜供與の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日たる九月五日に佛印と支那との國境に居つた日本の或る大隊が國境不明のために越境したといふ事件が起りました。(其後軍法會議での調査の結果、越境に非ざることが判明しましたが)無論これは國境偵察の爲でありましたから一彈も發射した譯ではありませんが、佛印側は之を口實として細目協定に調印を拒んだのであります。當時佛印當局の態度は表面は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内實はその眞僞疑はしきものと觀察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法で進行したしとの念を棄てず、これがため參謀本部より態々第一部長を佛印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。その派遣に際しても參謀總長よりも、陸軍大臣たる私よりも、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月十八、九日頃に大本營より西原機關に對し同月二十二日正午(東京時間)を期して先方の囘答を求めよといふことを申してやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、現地の作爲で遲延するのであるから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。從つて居留民等の引上げもその前に行ひました。
佛印側との交渉は二十二日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方も最後に若干の讓歩を爲し、それより二時間程過ぎた午後二時過に細目協定の成立を見るに至つたのであります。(それは證六二〇號の附屬書十二號であります)然るに翌二十三日零時三十分頃に佛印と支那との國境で日佛間に戰鬪が起りました。それは當時佛印國境近くに在つた第一線兵團は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で二十二日午後二時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、「フランス」側に於ても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。海防方面の西村兵團は「フランス」海軍の案内に依つて海防港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で爭の起つたのに鑑み海防港には入らず、南方の海濱に何等のことなく上陸しました。なほその後同月二十六日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信號の誤りから海防郊外に爆彈を落した事件が起りました。これは全くの過失に基くもので且一些事であります。
一六
要するに我國が一九四〇年(昭和十五年)九月末に佛印に派兵したことは中國との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたのであります。又實際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遙か以内なる四千位であつたと記憶します。一九四一年(昭和十六年)十二月八日、米國「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷證一二四五號J)中に
陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を北部佛印に入れ、それより以北に於て中國に對し作戰中の日本軍を保護する許可を得た
と述べて居ることに依ても當時の事情を米國政府が正當に解釋して居つたことを知り得ます。
以上説明しましたやうな次第で不幸にして不慮の出來事が起りましたが、之に對しては私は陸軍大臣として軍紀の振肅を目的として嚴重なる手段を取りました。即ち聯隊長以下を軍法會議にかけ、現地指揮官、大本營幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に關することでありまして、之は固より日本が佛印側に對し國際法上の責任があることを意味したものではありません。 
日華基本條約と日滿華共同宣言
一七
第二次近衞内閣に於て一九四〇年(昭和十五年)十一月卅日、日華基本條約を締結し日滿華共同宣言を發するに至りました事實を述べ、これが檢察側の主張するような對支侵略行爲でなかつた事を證明致します。これは一九四〇年(昭和十五年)十一月十三日の御前會議で決定せられた「支那事變處理要綱」に基くのであります。(辯護側證第二八一三號)何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたのかと申しますに、これより先、從前の政府も統帥部も支那事變の解決に全力を盡して居りました。一九四〇年(昭和十五年)三月には南京に新國民政府の還都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出發し、南京に滯在して居りましたが、南京との基本條約を締結する前に今一度重慶を含んだ全面和平の手を打つて見るを適當と認めました。また當時既に支那事變も三年に亘り國防力の消耗が甚だしからんとし、また米英の經濟壓迫が益々強くなつて來て居るから我國は國力の彈撥性を囘復する必要が痛感せられました。この支那事變處理要綱の骨子は
(一)一九四〇年(昭和十五年)十一月末を目途として重慶政府に對する和平工作を促進する
(二)右不成立の場合に於ては長期持久の態勢に轉移し帝國國防の彈撥性を恢復す
といふのでありました。
一八
右要綱(一)の對重慶和平工作は從來各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纒めて遂行したのでありましたが、この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります(證四六四、英文記録五三一八頁)。この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出來たものであつて彼の一九三八年(昭和十三年)十二月二十二日の近衞聲明(證九七二、英文記録九五二七頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。又同日日滿華共同宣言(證四六四號英文記録五三二二頁)に依つて日滿華の關係を明かにしました。なほ基本條約及右宣言の外に附屬の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換せられて居ります。(證四六五號英文記録五三二七以下)
一九
右の一九四〇年(昭和十五年)十一月三十日の日華基本條約並に日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の關心を持つた點が三つあります。一は條約等の實行と支那に於ける事實上の戰爭状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題であります。
第一の條約の完全なる實行は政府も統帥部も亦出先の軍も總て同感で一日も早く條約の實行を爲すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の眞摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戰鬪を續行し事實上の戰爭行爲が進行しつゝありました。占據地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自體の發展のためにも、條約の實行と共にこの事實上の戰爭状態を確認し、交戰の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。これが基本條約附屬議定書中第一に現在戰鬪行爲が繼續する時代に於ては作戰に伴ふ特殊の状態の成立すること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認せられた所以であります。(法廷證四六四號英文寫四頁)第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事變が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなかつたのであります。我國の國防力の囘復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戰爭が終了するといふことであります。その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を實行するのには技術上約二年はかゝるのでありまして、後方の治安が惡くては撤兵實行が不能になります。これが附屬議定書第三條に中國政府は此期間治安の確立を保證すべき旨の規定を必要とした所以であります。(法廷證四六四、英文寫四頁)
第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事變の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壞行爲に對し日支兩國が協同して、之を防衞せんとするものでありまして、事變中共産黨の勢力が擴大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法廷證四六四、四六五)そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤兵するのであります。
以上は私が陸軍大臣として此條約に關係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は從前の國際間の戰爭終結の場合に見るような領土の併合とか戰費の賠償とかいふことはありません。これは特に御留意を乞ひたき點であります。たゞ附屬議定書第四條には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の關係に置き支那側の作戰に依つて日本在留民が蒙つた損害は中國側で賠償し中國側の難民は日本側で救助するといふ條項がある許りであります。(法廷證四六四、英文四頁)中國の主權及領土保全を尊重し、從前我國の持つて居つた治外法權を抛棄し租界は之を返還するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷證四六四)
而して治外法權の抛棄及租界の返還等中國の國權の完備の爲に我國が約束した事柄は一九四三年(昭和十八年)春迄の間に逐次實行せられました。なほ一九四三年(昭和十八年)の日華同盟條約法廷證四六六に於て右基本條約に於て日本が權利として留保した駐兵其他の權利は全部抛棄してしまひました。 
日「ソ」中立條約竝に松岡外相の渡歐
二〇
次に日「ソ」中立條約に關し陸軍大臣として私の關係したことを申上ます。一九四一年(昭和十六年)春、松岡外相渡歐といふ問題が起りました。一九四一年(昭和十六年)二月三日の連絡會議で『對獨伊「ソ」交渉案要綱』(辯護側證第二八一一號)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡歐直前に提案したものでありまして、言はば外相渡歐の腹案であつて正式の訓令ではありません。
此の「ソ」聯との交渉は「ソ」聯をして三國同盟側に同調せしめこれによって對「ソ」靜謐を保持し又、我國の國際的地位を高めることが重點であります。かくすることによつて(イ)對米國交調整にも資し(ロ)ソ聯の援蒋行爲を停止せしめ、支那事變を解決するといふ二つの目的を達せんとしたのであります。
二一
右要綱の審議に當つて問題となつた主たる點は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」聯をして三國側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此點については既に獨「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り豫て内容の提示してあつた「リツペントロツプ」腹案(此本文は法廷證第二七三五號中に在り)なるものにも獨逸も「ソ」聯を三國條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第もあり、「ソ」聯をして三國に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。
その二は我國の「ソ」聯との同調に對し獨逸はどんな肚をもつて居るであらうかといふことでありました。此點については獨逸自身既に「對」ソ不可侵條約を結んで居る。
加之、現に獨逸は對英作戰をやつて居る。それ故當時の我國の判斷としては獨逸は我國が「ソ」聯と友好關係を結ぶことを希望して居るであろうと思いました。かくて「ソ」聯をして日獨に同調せしめ、進んで對英作戰に參加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。
その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我國はある程度の犧牲を拂つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として拂ふことあるべき犧牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犧牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の權利並に北樺太の油田に關する權利を還付するといふ肚を決めたのであります。尤も對獨伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を爲すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大なる關係がありますから無論その意見を取り入れたのであります。
その四は外相の性格上もし統帥に關する事項で我國の責任又は負擔となるようなことを言はれては非常な手違となりますから、參謀總長、軍令部總長はこの點を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を拂ひ、要綱中の五の註にも特に「我國の歐洲戰參加に關する企圖行動並に武力行使につき帝國の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。
二二
此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を爲したり、或は制覇を爲すといふ意味ではありません。唯、國際的に隣保互助の精神で自給自足を爲すの範圍を豫定するといふの意味に外なりません。
二三
當時日本側で外相渡歐の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、當法廷で檢察側より獨逸から押收した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷證五六七乃至五六九)並に「ヒトラー」總統及「リツペントロツプ」外相松岡外相との會談録(證五七七乃五八三)に記載してあることは右腹案に甚しく相違して居ります。
松岡外相歸朝後の連絡會議並に内閣への報告内容も之とは絶對に背馳して居ります。
二四
松岡外相が渡歐したときは當時日本として考へて居つたこととは異なり獨逸と「ソ」聯との間は非常に緊張して居り「ソ」聯を三國同盟に同調せしめるといふことは不可能となりました。又、獨逸は日本と「ソ」聯とが中立條約を結ぶことを歡迎せぬ状態となつたのであります。從つてその斡旋はありません。即ち此點については我國の考へと獨逸のそれとは背馳するに至りました。結局四月十三日松岡外相の歸途「ソ」聯との間に中立條約は締結いたしましたが(證第四五號)その外に此の松岡外相渡歐より生じた實質的の外交上の利益はなにもなかつたのであります。詳しく言へば(1)松岡外相の渡歐は獨伊に對しては全く儀禮的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の單獨不媾和といふことは話にも出て居りません。(2)統帥に關することは初めより松岡に禁じたことでもあり、また「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。(3)又、檢察官のいふ如き一九四一年(昭和十六年)二月上旬日獨の間に軍事的協議をしたといふことも事實ではありません。
二五
日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我國の國策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の關係もありません。此の中立條約があるがため我國の「ソ」聯に備へた北方の兵備を輕くする効果もありませんでした。乍然、我國は終始此の中立條約の條項は嚴重に遵守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の現地を與へ獨逸側の要求がありましても「ソ」聯に對し事を構へることは一度も致しませんでした。たゞ「ソ」聯側に於ては中立條約有効期間中我國の領土を獲得する條件を以て對日戰に參加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。 
第二次近衞内閣に於ける日米交渉
二六
所謂日米諒解案(證第一〇五九號と同文)なるものを日本政府が受取つたのは一九四一年四月十八日であります。
此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に關與しました。但し私は職務上軍に關係ある事項につき特に關心を有して居りまして、其他のことは首相及外相が取扱はれたのであります。
斯る案が成立しましたまでのことについて私の了解するところでは、これは近衞首相が三國同盟の締結に伴ひその日米國交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に一九四〇年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米國に於て、話合が續けられて來て居つた如くでありました。米國に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米國側では大統領國務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官からの報道を受けて居りました。
右諒解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も國務長官も之を承知し特に國務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に對する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉が開始されたものと認めたのであります。
二七
此案を受取つた政府は直ちに連絡會議を開きました。連絡會議の空氣は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め或る氣輕さを感じました。何故かと言へば我國は當時支那事變の長期化に惱まされて居りました。他方米英よりの引續く經濟壓迫に苦んで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開いたと思つたからであります。米國側も我國との國交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出來ますからこれには相當熱意をもつものと見て居りました。米國側に於て當初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶豫を稼ぐために交渉に當るなどといふことは日本では夢想だもして居らなかつたのであります。連絡會議は爾來數囘開會して最後に四月二十一日に態度の決定を見ました。當時は松岡外相は歐洲よりの歸途大連迄着いて居つてその翌日には着京する豫定でありました。一九四一年(昭和十六年)四月二十一日の態度決定の要旨は
一、此の案の成立は三國同盟關係には幾分冷却の感を與へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥結を圖ること
二、我國の立場としては次の基準で進むこと即ち
(イ)支那事變の迅速解決を圖ること
(ロ)日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
(ハ)三國同盟關係には多少の冷却感を與ふる事は可なるも明かに信義に反することは之を避けること
といふのであります。我方では原則論に重きを置かず具體的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事變解決と自存自給體制の確立といふ問題があるからでありました。
三國同盟條約との關係の解釋に依つて此の諒解案の趣旨と調和を圖り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を獨逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました以上の趣旨で連絡會議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大體異存なき旨を直ちに野村大使に電報しようといふことになりましたが、此點については外務大臣も異存はない、たゞ松岡外務大臣が明日着京するから華盛頓への打電は其時迄留保するといふ申出を爲し會議は之を承認して閉會したのでありました。
二八
しかし翌四月二十二日(一九四一年昭和十六年)松岡外相が歸つてから此の問題の進行が澁滯するに至つたのであります。松岡外相の歸京の日である四月二十二日の午後直ちに連絡會議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡歐の報告のみをして右案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。之が進行の澁滯を來した第一原因であります。外相は又、此の諒解案の内容を過早に獨逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の澁滯と混亂の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は(A)囘訓に先だち歐洲戰爭に對する「ステーメント」を出すことを主張し(B)又日米中立條約案を提案せんとしました。此等のことのため此の問題に更に混亂を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思はれます。松岡氏は初めは此の諒解案は豫て同外相がやつて居つた下工作が發展して此のようになつて來たものであらうと判斷して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より發生したものではなく、又一般の外交機關により生れて來たものでもないといふことを覺知するに至りました。それが爲松岡氏は此の交渉に不滿を懷くようになつて來ました。又松岡外相は獨伊に行き、その主腦者に接し三國同盟の義務履行については緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より觀取することが出來ました。なほ松岡外相の持論である、米國に對し嚴然たる態度によつてのみ戰爭の危險が避けられるといふ信念がその後の米國の態度に依り益々固くなつたものであると私は觀察しました。
二九
斯くて我國よりは漸く一九四一年(昭和十六年)五月十二日に我修正案を提出することが出來ました。(法廷證一〇七〇號)「アメリカ」側は之を我國よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では四月十八日のものを最初の案とし之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨についてその主なる點を説明すれば
(一)その一つは三國同盟條約の適用と自衞權の解釋問題であります。四月十八日案では米國が自衞上歐洲戰爭に參加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米國の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに五月十二日の該修正案では三國同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。――三國同盟の目的の一つは「アメリカ」の歐洲戰爭參加の防止と及歐洲戰爭が東亞に波及することを防止するためでありました。米國は此の條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出來ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釋により處理しようといふ考へでありました。即ち我方は實質に於て讓歩し協調的態度をとつたのであります。
(二)二は支那事變關係のことであります。四月十八日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政權に對し日支交渉を爲す勸告をしよう、而して蒋政權が、之に應ぜざれば米國の之に對する援助を中止するといふ事になつて居ります。我方五月十二日案では米國は近衞聲明、日華基本條約及日滿華の三國共同宣言(法廷證九七二ノH四六四)の趣旨を米國政府が了承して之に基き重慶に和平勸告を爲し、もし之に應ぜざれば米國より蒋政權に對する援助を中止することになつております。尤も此の制約は別約でもよし、又米國高官の保證でもよいとなつております。乃ち米國は元來支那問題の解決は日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。
元來支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重點があります。その一つには支那事變自體の解決であります。その二は新秩序の承認であります、我方の五月十二日案では近衞聲明、日華基本條約及日滿華共同宣言を基本とするのでありますから、當然東亞に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。撤兵の問題は四月十八日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基づくといふことになつて居ります。五月十二日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸開放のことも四月十八日案と五月十二日案とは相違しないのであります。四月十八日案には支那領土内への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、五月十二日案は之には觸れて居りません。
三〇
五月十二日以後の日米交渉の經過につき私の知る所を陳述いたします。五月十二日以後右の日本案を中心として交渉を繼續しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三點に於て米側と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中國に於ける日本の駐兵問題、その二は中國に於ける通商無差別問題、その三は米國の自衞權行使に依る參戰と三國條約との關聯問題であります。五月三十日に米國からの中間提案(法廷證一〇七八)が提出されなど致しましたが、此の間の經緯は今、省略いたします。結局六月二十一日の米國對案の提出といふことに歸着いたしました。
三一
六月二十一日と言へば獨「ソ」開戰の前日であります。此頃には獨「ソ」戰の開始は蓋然性より進んで可能性のある事實として世界に認められて居りました。我々は此の事實に因り米國の態度が一變したものと認定したのであります。この六月二十一日の案は證第一〇九二號の通りでありますが、我方は之につき次の四點に注意致しました。
その一つは米國の六月二十一日案は獨り我方の五月十二日修正案に對し相當かけ離れて居るのみならず、四月十八日案に比するも米國側の互讓の態度は認められません。米國は米國の立場を固守し非友誼的であるといふことが觀取せられます。その二つは三國條約の解釋については米國が對獨戰爭に參加した場合の三國同盟條約上の我方の對獨援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して來ました。(證一〇七八號中に在り)その三は從前の案で南西太平洋地域に關して規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋地域の全體に適用することを求めて來たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。四月十八日案にも五月十二日案にも米國並に南西太平洋地域に對する日本移民は他國民と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が與へられるであらうとの條項がありました。六月二十一日の米案はこの重要なる條項を削除して來ました。六月二十一日の米提案には口頭の覺書(オーラル・ステートメント)といふものが附いて居ります。(證一〇九一號)その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ獨逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信認を表現する辭句がありました。之は日本の關係者には内政干渉にあらざるやとの印象を與へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乘り上げたのであります。
三二
しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。
一、六月二十二日獨ソ戰爭が開始したこと
二、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部佛印への進駐を原因として米國の態度が變化したこと
三、七月二十五日及二十六日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る經濟封鎖
四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衞内閣の總辭職
以上の内一及二の原因により米國の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は佛印問題を中心として行はるゝようになりました。四の内閣變更の措置は我方は如何にしても日米交渉を繼續したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では國の死活に關する問題として此の交渉の成立に對する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を續けたのであります。 
對佛印泰施策要綱
三三
以上述べました日米交渉よりは日時に於ては少し遡りますが、ここに佛印及泰との關係を説明いたします。
一九四一年(昭和十六年)一月三十日の大本營及政府連絡會議に於て「對佛印泰施策要綱」といふものを決定しました。(辯護側證第二八一二號本文書記入の日附は上奏の月日を記入せるものであります。法廷證一一〇三、及一三〇三參照)これは後日我國が爲した對佛印間の居中調停、佛印との保障及政治的了解及經濟協定の基礎を爲すものであります。右要綱の内には軍事的緊張關係の事も書いてありますが、此部分は情勢の緩和のため實行するに至らなかつたのであります。
一九四一年(昭和十六年)七月下旬の南部佛印進駐は同年六月廿五日の決定に因るものでありまして、今ここに陳述する一月卅日の施策要綱に依るのではありませぬ。從て南部佛印進駐の事は今ここには陳べませぬ。
三四
右對佛印泰施策要綱は統帥部の提案であります。
自分は無論陸軍大臣として之に參與しました。其の内容は本文に在る通りであります。而して其の目的とする所は、帝國の自存自衞のため佛印及泰に對し軍事政治、經濟の緊密不離の關係を設定するにありました。本件に關する外交交渉は專ら外相に依り取り運ばれましたので詳細は承知して居りませんが此の當時の事情は概ね次の如くであつたと承知して居ります。
(一)日本は一九四〇年(昭和十五年)六月十二日、日泰間の友好和親條約を締結し(證五一三)日泰間の緊密化に努力して來ましたが、泰國内には英國の勢力の強きものが存在しております。
(二)日本と佛印の間には松岡「アンリー」協定の結果表面は親善の關係に在り、なほ日佛印の交渉も逐次具體化したのであります。しかし、佛印の内部には種々錯綜した事情がありました。第一佛印内には「ヴイシー」政權の勢力と「ドゴール」派の勢力とが入亂れて居り「フランス」本國の降伏後「フランス」の勢力が弱くなるにつれ米、英の示唆により動くような事情も生じましたため、佛印政廳は我國に對し不即不離の態度をとるのみでなく、時には反日の傾向をさへ示したのであります。
(三)一九四〇年(昭和十五年)十一月以來泰國が佛印に對し失地囘復の要求を爲したるに端を發し、泰、佛印間の國境紛爭は一九四一年(昭和十六年)に至り逐次擴大し第三國の調停を要する状態となりました。「イギリス」は此の調停を爲すべく暗躍を始めましたが當時は「イギリス」と「フランス」本國とは國交斷絶の状態でありましたから是亦適當の資格者ではありません。
(四)東亞安定のため支那事變遂行中の日本はその自存自衞のためにも一刻も早く泰、佛印の平和を希望せざるを得ません。以上の如き各種の事情が此の要綱を必要とした所以であります。
三五
此の要綱の狙いは二つあります。その一つは泰、佛印間の居中調停を爲すといふことであります。その二は此の兩國に對し第三國との間に我國に對する一切の非友誼的協定を爲さしめないといふことであります。
居中調停は一九四一年(昭和十六年)一月中旬にその申出を爲し、兩國は之を受諾し、同年二月七日より東京に於て調停の會合を開き三月十一日に圓滿に調停の成立を見、之に基いて五月九日には泰佛印間の平和條約成立し(法廷證四七)、引續き現地に於て新なる國境確定が行はれました。泰は當初は「カンボヂヤ」を含む廣大な地區の要求を致しましたが我國は之を調停し彼條約通りの協定に落着かせたのであります。
第二の我國に對する非友誼的な協約を爲さずとの目的に關しては右と同時に松岡外相の手で行はれ五月九日の日佛印間及日泰間の保障及諒解の議定書となつたのであります。(證六四七中に在り)此の間の外交交渉については自分は關與致して居りません。 
南部佛印進駐問題
三六
一九四〇年(昭和十五年)九月我國は佛國との間に自由なる立場に於ける交渉を遂げ北部佛印に駐兵したことは前に述べた通りであります。爾來北部佛印に於ては暫く平靜を保ちましたが、一九四一年(昭和十六年)に入り南方の情勢は次第に急迫を告げ、我國は佛國との間に共同防衞の議を進め、一九四一年(昭和十六年)七月二十一日にはその合意が成立しました。之に基き現地に於て細則の交渉を爲し此の交渉も同月二十三日には成立し、之に基いて一部の軍隊は二十八日に、主力は二十九日に進駐を開始したのであります。尤も議定書は同月二十九日に批准せられました。以上はその經過の大略であります。
三七
右の日、佛印共同防衞議定書の締結に至る迄の事情に關し陳述いたします。之は一九四一年(昭和十六年)六月二十五日の南方施策促進に關する件といふ連絡會議決定に基くものであります。此の決定は源を同年一月三十日の連絡會議決定である、前記「對佛印泰施策要綱」に發して居るのであります。その當時は佛印特定地點に航空及船舶基地の設定及之が維持のため所要機關の派遣を企圖したのでありましたが情勢が緩和致しましたから、之を差控へることにしました。然るにその後又情勢が變化し、わけても蘭印との通商交渉は六月十日頃には決裂状態にあることが判明しました。そこで同年六月十三日の連絡會議の決定で「南方施策促進に關する件」を議定しましたが松岡外相の要望で一時之を延期し之を同月二十五日に持越したのであります。(證一三〇六號)斯樣な次第でありますから南部佛印進駐のことは六月二十二日の獨「ソ」開戰よりも十日以前に決心せられたもので決して獨「ソ」の開戰を契機として考へられたものではありません。此の「南方施策促進に關する件」は統帥部の切なる要望に基いたもので私は陸軍大臣として之に關與致しました。此の決定の實行に關する外交は松岡外相が事に當り又七月十八日第三次近衞内閣となつてからは、豐田外相がその局に當つたものであります。
本交渉に當り近衞内閣總理大臣より佛國元首「ペタン」氏に對し特に書翰を以て佛國印度支那に對する佛國の主權及領土の尊重を確約すべき意向を表明致して居ります(辯護側文書二八一四号)。此の書簡中の保障は更に兩國交換文中に繰り返されて居ります。
三八
南方施策促進に關する件の内容は本文自身が之を物語るでありませう。その要點は凡そ三つあります。(一)東亞の安定並に領土の防衞を目的とする日佛印間軍事結合關係の設定(二)その實行は外交交渉を以て目的の達成を圖ること(三)佛印側が之に應ぜざる時は武力をもつてその貫徹を圖る。從つて之がためには軍隊派遣の準備に着手するといふことであります。然しその實行に當つては後段に述ぶる如くに極めて圓滑に進行致し武力は行使せずにすみました。
三九
右に基いて我國と佛印の間に決定しましたのが日佛印共同防衞議定書であります。(法廷證六五一號)此議定書の要點は四つあります。(一)は佛印の安全が脅威せらるゝ場合には日本國が東亞に於ける一般的靜謐及日本の安全が危機に曝されたりと認めること、(二)佛印の權利利益特に佛印の領土保全及之に對する佛蘭西の主權の尊重を約すること、(三)「フランス」は佛印に關し第三國との間に我國に非友誼的な約束を爲さざること、(四)日佛印間に佛印の共同防衞のための軍事的協力を爲すこと。但し此の軍事上の協力の約束は之を必要とする理由の存續する間に限るといふことであります。
四〇
然らば何故に斯る措置を爲す必要があつたかと申しますに、それには凡そ五つの理由があります。その一つは支那事變を急速に解決するの必要から重慶と米、英、蘭の提携を南方に於て分斷すること、その二は米英蘭の南方地域に於ける戰備の擴大、對日包圍圏の結成、米國内に於ける戰爭諸準備並に軍備の擴張、米首腦者の各種の機會に於ける對日壓迫的の言動、三つは前二項に關聯して對日経済壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の入手妨害、四つは米英側の佛印、泰に對する對日離反の策動、佛印、泰の動向に敵性を認めらるること、五は蘭印との通商會談の決裂並に蘭印外相の挑戰的言動等であります。
以上の理由、特に對日包圍陣構成上、佛印は重要な地域であるから何時米英側から同地域進駐が行はれないとは言へないのであつて日本としては之に對し自衞上の措置を講ずる必要を感じたのであります。
四一
右、日佛印共同防衞を必要とした事情は此の事件につき重大な關係を有する點と考へますから、右の五種の事由につき一々、事實に基いて簡單なる説明を加へたいと存じます。
本材料は當時私が、大本營、陸海軍省、外務省其他より受けたる情報又は當時の新聞電報、外国放送等に依り承知しありしものを記憶を喚起し蒐録せるものであります。(辯護側證第二九二三)
先づ第一の米英側の重慶に對する支援の強化につき私の當時得て居つた数種の報道を擧げますれば(1)一九四〇年(昭和十五年)七月にはハル國務長官は英國の「ビルマルート」經由援蒋物資禁止方につき反対の意見を表明して居ります。(2)一九四〇年(昭和十五年)十月には「ルーズヴエルト」大統領は「デイトン」に於て國防のため英國及重慶政權を援助する旨の演説を致しました。(3)一九四〇年(昭和十五年)十一月には米國は重慶政權に一億弗の借款を供與する旨發表いたしました。(4)一九四〇年(昭和十五年)十二月二十九日には「ルーズヴエルト」大統領は三國同盟の排撃並に民主主義國家のため米國を兵器廠と化する旨の爐邊談話を放送しました。(5)一九四〇年(昭和十五年)十二月三十日には「モーゲンソー」財務長官は重慶及「ギリシヤ」に武器貸與の用意ある旨を演説して居ります。一九四一年(昭和十六年)に入り此種の發表は其數を加へ又益々露骨となつて來ました。(6)一九四一年(昭和十六年)五月「クラケツト」准將一行は蒋軍援助のため重慶に到着しました。(7)一九四一年(昭和十六年)二月には「ノツクス」海軍長官は重慶政府は米國飛行機二百臺購入の手續を了したる旨を発表しました。(8)同海軍長官は一九四一年(昭和十六年)五月には中立法に反對の旨を表明致して居ります。(9)その翌日には「スチムソン」陸軍長官も同様の聲明を致しました。斯る情勢に於ては支那事變の迅速解決を望んで居つた我國としては蒋政權に對し直接壓迫を加ふるのみならず佛印及泰よりする援助を遮斷し兩者の關係を分斷する必要がありました。
四二
第二の米、英、蘭の南方に於ける戰備強化については當時私は次の報道を得て居りました。
(1)米國は一九四〇年(昭和十五年)七月より一九四一年(昭和十六年)五月迄の間には三百三十億弗以上の巨額の軍備の擴張を爲したるものと觀察せられました。(2)此當時米英側の一般戰備並にその南方諸地域に於ける聯携は益々緊密を加へ活氣を呈するに至りました。即ち一九四〇年(昭和十五年)八月には「ノツクス」海軍長官は「アラスカ」第十三海軍區に新根據地を建設する旨公表したとの情報が入りました。(3)同年九月には太平洋に於ける米國属領の軍事施設工事費八百萬弗の内譯が公表せられました。(4)同年十二月には米國は五十一ケ所の新飛行場建設及改善費四千萬弗の支出を「スチムソン」「ノツクス」及「ジヨオンズ」の陸、海、財各長官が決定したと傳へられました。此等は米國側が日本を目標とした戰爭諸準備並に軍備擴張でありました。
一九四〇年(昭和十五年)九月には日佛印關係につき國務省首腦部は協議し同方面の現状維持を主張する旨の聲明が發せられました。同年七月八日には「ヤーネル」提督はUP通信社を通じ對日強硬論を發表して居ります。同年十月には「ノツクス」海軍長官は「ワシントン」に於て三國同盟の挑發に應ずる用意ありと演説しました。又同年九月には米海軍省は一九四〇年(昭和十五年)度の米海軍の根本政策は兩洋艦隊建設と航空強化の二點にありと強調致しました。一九四〇年(昭和十五年)十一月「ラモント」氏は對日壓迫強化の場合財界は之に協力し支持するであらうと演説致して居ります。同年同月十一日休戰紀念日に於ては「ノツクス」海軍長官は行動を以て全體主義に答へんと強調したりとの報を得て居ります。同年同月英國の「イーデン」外相は下院に於て對日非協力の演説を致しました。更に一九四一年(昭和十六年)に入り五月二十七日に「ルーズヴエルト」大統領は無制限非常時状態を宣言いたしました。
これより先一九四〇年(昭和十五年)十月八日には米國政府は東亞在住の婦女子の引上げを勸告して居ります。上海在住の米國婦女子百四十名は同月中上海を發し本國に向かひました。米本國では國務省は米人の極東向け旅券發給を停止したのであります。同じ一九四〇年(昭和十五年)十月十九日に日本名古屋市にある米國領事館は閉鎖しました。
以上は當時陸軍大臣たる私に報告せられたる事實の一端であります。
四三
第三の經濟壓迫の加重、日本の生存上必要なる物資の獲得の妨害につき當時發生したことを陳べます。一九三九年(昭和十四年)七月二十六日「アメリカ」の我國との通商航海條約廢棄通告以來米國の我國に對する經濟壓迫は日々に甚だしきを加へて居ります。その事實中、僅かばかりを記憶に依り陳述致しますれば、一九四〇年(昭和十五年)七月には「ルーズヴエルト」大統領は屑鐵、石油等を禁輸品目に追加する旨を發表致しました。米國政府は同年七月末日に翌八月一日より飛行機用「ガソリン」の西半球外への輸出禁止を行ふ旨發表いたして居ります。同年十月初旬には「ルーズヴエルト」臺帳料は屑鐵の輸出制限令を發しました。以上のうち殊に屑鐵の我國への輸出制限は當時の鐵材不足の状態と我國に行はれた製鐵方法に鑑み我朝野に重大な衝動を與へたのであります。
四四
第四の米英側の佛印及泰に對する對日離反の策動及佛印泰に敵性動向ありと認めた事由の二、三を申上げますれば、泰、佛印の要人は一九四〇年(昭和十五年)以來「シンガポール」に在る英國勢力と聯絡しつつあるとの情報が頻々として入りました。その結果日本の生存に必要なる米及「ゴム」を此等の地區に於て買取ることの防碍が行はれたのであります。日本の食糧事情としては當時(一九四一年即昭和十六年頃にあつては)毎年約百五十萬噸(日本の量目にて九百萬石)の米を佛印及泰より輸入する必要がありました。此等の事情のため日佛印の間に一九四一年(昭和十六年)五月六日に經濟協定を結んで七十萬噸の米の入手を契約したのでありましたが佛印は契約成立後一ケ月を經過せざる六月に協定に基く同月分契約量十萬噸を五萬噸に半減方申出て來ました。日本としては止むなく之を承諾しましたところ七、八月分に付ても亦契約量の半減を申出るといふ始末であります。泰に於ては英國は一九四〇年(昭和十五年)末に泰「ライス」會社に對して「シンガポール」向け泰米六十萬噸といふ大量の發註を爲し日本が泰に於ける米の取得を妨碍致しました。「ゴム」に付ては佛印の「ゴム」の年産は約六萬噸であります。その中日本は僅かに一萬五千噸を米弗拂で入手して居たのでありますが、一九四一年(昭和十六年)六月中旬米國は佛印の「ハノイ」領事に對し佛印生産ゴムの最大量の買付を命じ日本の「ゴム」取得を妨碍し又、英國はその屬領に對し一九四一年(昭和十六年)五月中旬日本及圓ブロツク向け「ゴム」の全面的禁止を行ひました。
四五
第五の蘭印との經濟會談の決裂の事由は次の通りであります。一九四〇年(昭和十五年)九月以來我國は蘭印との交渉に全力を盡くしました。當時石油が米英より輸入を制限せられたため我國としては之を蘭印より輸入することを唯一の方法と考へ其の成立を望んだのであります。然るに蘭印の方も敵性を帶び來り六月十日頃には事實上決裂の状態に陷り六月十七日にはその聲明を爲すに至つたのであります。「オランダ」外相は五月上旬「バタビヤ」に於て蘭印は挑戰に對しては何時にても應戰の用意ありと挑撥的言辭を弄して居ります。
以上のような譯で當時日本は重大なる時期に際會しました。日本の自存は脅威せられ且以上のような情勢の下で統帥部の切なる要望に基き六月廿五日に右南方施策促進に關する件(證第一三〇六號)が決定せられ之に基く措置をとるに至つたのであります。
四六
日本政府と「フランス」政府との間には七月廿一日正午(「フランス」時間)共同防衞の諒解が成立し、七月二十二日午前中に交換公文(法廷證六四七號ノA)が交換せられ、兩國政府より之を現地に通報し現地に於てはその翌二十三日細目の協定が成立し、海南島三亞に集結して居つた部隊にはその日進駐の命令が發せられ、二十五日三亞を出發しました。廿六日には之を公表しました。三亞を出發した部隊の一部は二十八日に「ナトラン」に、二十九日主力は「サンヂヤツク」に極めて平穩裡に上陸を開始したのであります。日本政府と「ヴイシー」政府との間の議定書は日佛印共同防衞議定書(證六五一)は二十九日調印を見て居ります。
四七
「フランス」政府との交渉につき我方が「ドイツ」政府に斡旋を求めたことは事實でありますが、「ドイツ」外相は此の斡旋を拒絶して來ました。從つて起訴状にある如く「ドイツ」側を經て「フランス」を壓迫したといふ事實はありません。又起訴状は「ヴイシー」政府を強制して不法武力を行使したと申しますが、しかし、日本軍が進駐の準備として三亞に集結する以前に既に「フランス」政府と日本政府との交渉は成立して居りました。又、前に述べます如く、此の措置は「ドイツ」の對「ソ」攻撃と策應したといふ事實もないのであります。日本が南方に進出したのは止むを得ざる防衞的措置であつて断じて米、英、蘭に對する侵略的基地を準備したのではありません。
一九四一年(昭和十六年)十二月七日の米國大統領よりの親電(法廷證一二四五號J)に依れば
「更に本年春及夏「ヴイシー」政府は佛印の共同防衞のため更に日本軍を南部佛印に入れることを許可した。但し印度支那に對して何等攻撃を加へられなかつたこと並にその計畫もなかつたことは確實であると信ずる」
と述べられて居ります。乃ち佛印に對しては攻撃を行つた事もなく攻撃を計畫した事もなかつたと断言し得ると信じます。
當時日本の統帥部も政府も米國が全面的經濟斷交を爲すものとは考へて居りませんでした。即ち日米交渉は依然繼續し交渉に依り更に打開の道あるものと思つたのであります。何故なれば全面的經濟斷交といふものは近代に於ては經濟的戰爭と同義のものであるからであります。又檢察側は南部佛印進駐を以て米英への侵略的基地を設けるものであると斷定致して居ります。之は誣告であります。南部佛印に設けた航空基地が南を向いて居ることはその通りでありますが、南方を向いて居るといふことが南方に對する攻撃を意味するものではありません。之は南方に向かつての防禦のための航空基地であります。そのことは大本營が四月上旬決定した對南方施策に關する基本方針(證一三〇五)に依つても明かであります。
これには我國の南進が佛印及泰を限度として居ります。然も平和的手段に依り目的を達せんとしたものであります。 
 
東條英機の歴史的評価

 

誤解を恐れずに、などと言う弁解をせずに言う。小生は、昭和史の人物で東條英機を昭和天皇陛下の次のNo.2にあげる者の一人である。東京裁判でのキーナン判事に対する弁論を高く評価する人物ですら、大抵は有能な秀才官僚に過ぎないという評価を与える人が多い。事実を閲して見ればそうではないことが分かる。
その前に大東亜戦争開戦が日露戦争に比べて無謀だったという説に反論しておこう。伊藤総理にしても児玉源太郎にしても、開戦するにあたって講和の見通しを立てていたのに、大東亜戦争の指導者はそのような手筈を全くしていなかったという批判が司馬遼太郎を筆頭とする多くの識者によりなされている。しかし単純に考えて欲しい。日露戦争当時は世界で戦争をしているのは日本とロシアだけであった。だから講和を斡旋する第三国の存在の可能性はあった。ところが第二次大戦に参戦していない欧米の大国と言えばアメリカだけである。そのアメリカは日本の戦争相手なのである。大東亜戦争の指導者を批判する人は、どこの国を講和の斡旋国と想定しているのだろう。どういう終戦を想定することが可能だったというのだろう。これでは批判のための批判である。
昭和18年の大東亜会議は、多くのアジア諸国の独立を果たした画期的な会議である。発想したのは東條自身ではないのにしても東條の指導力により実現したのには間違いはない。日本人が大東亜会議を大西洋憲章と比較して低く評価しているのは、東京裁判と言論統制によるアメリカの洗脳によるものである。そもそも民族自決をうたったとされる大西洋憲章もチャーチルは、ヨーロッパにしか適用されないと明言しているし、ルーズベルトも有色人種には適用されない、としている。こんな民族自決に何の意味があるというのであろうか。何の事はない。ドイツに占領されたヨーロッパを開放せよ、と言っているだけで、アジアの植民地の解放とは関係ない。アフリカなどは脳裏の隅にもなかった。これに比べ実際に民族自決を実現した大東亜会議の方が余程重要である。
意外と思われるのはインパール作戦であった。インパール作戦はインド国民軍INAの指導者のチャンドラボースのインド独立戦争の情熱にほだされて東條が実行を決定したものであった。作戦で倒れた多くの兵士には哀悼の意を捧げるしかないが、その作戦目的はインド独立と言う壮大なものであった。インパール作戦に日本の勝機があったことは英軍の幹部が証言している。最大の問題は作戦発動の時期が遅かったことであった。しかしインド独立の始まりはそのINA幹部を処刑しようとした英国に対して全国で暴動が起きた事である。インパー作戦は実際にインド独立の契機となったのである。
大東亜会議にしてもインパール作戦にしても、秀才官僚の発想ではないことは明白である。開戦の御前会議の夜、昭和天皇の意に反して開戦の決定をしたことを悔いて、一晩泣き明かしたことも知られている。自らの行為について、これほどの責任感を持つ政治家が戦後の日本にいるであろうか。ぐず元と呼ばれた杉山元陸相ですら、夫妻で自決した。優柔不断と揶揄される近衛文麿も自決した。当時の日本人の責任感に優る現代日本人はいないのである。
評価を落としたのは自決に失敗した事である。死なないようにわざと小型拳銃を使用したと批判する御仁がいる。これはとんでもない間違いで、東條が使用したのは女婿が自決したときに使用した大型拳銃であった。心臓の位置を記していたのは律儀さの故である。米軍は東條を裁判で晒しものにするために大量の輸血で助けた。そのような治療が無ければ確実に死んだのであって、助かったこと自体が奇蹟に等しい。おかげで東條はインチキ裁判でキーナン検事を圧倒したのであり、我々は東條の宣誓供述書を今読むことができる。今は解説書まで出ているので一読して欲しい。東條の歴史観は確固としたものであり、マクロな思想もある。昨今の平和主義者のような薄っぺらなものではないことが分かるだろう。
付言するが、東條の自決と戦陣訓と結び付けるのはいくつもの意味で間違っている。東條は自ら言うとおり、正規の手続きを踏まずに米軍がやってきて捕縛しようとしたら自決するつもりであったのであって、令状なりがきたら出頭するつもりだったのである。まさに米軍は東條家に突如押し入ったのである。戦陣訓の生きて虜囚となるなかれ、と言うのは、支那の軍隊の捕虜に対する極めて残酷な処刑をされるなら自決の方が楽だという意味で、当時の軍隊では明言しなくても常識であった。米軍ですら、日本兵が投降しなくなったのは米軍の残虐な扱いの結果だと、大西洋横断飛行で有名な、かのリンドバーグらのアメリカ人自身が書いている。そもそも東條は大東亜戦争当時から戦闘員であった事はなく政治家であった。捕虜と言うのは敵に捕縛され武装解除された戦闘員である。捕虜でもないのに戦陣訓は適用されない。そのことは先にあげた東條の自決の理由とも合致する。
東條の処刑の時の態度も尊敬に足るものである。何よりも精神の修養ができていた証拠であり、付け焼刃で出来るものではない。東條の大和民族に対する最大の貢献は、皇室を守ったことである。国体を護持したことである。東京裁判で東條は、天皇は平和を愛する旨と日本臣民たるものは天皇の命令に従わないことは考えられない、と証言した。このことは天皇の開戦における責任に言及したと受け取られかねない。それに気付いた者たちのアドバイスもあって、次回の証言では、それは感情問題であって、開戦には陛下は反対であったが、輔弼の進言にしぶしぶ同意されたのである、と答えて見事に開戦責任問題を解決した。
この点では米国は既に天皇については追及しないことにしていたとは言うものの、中ソは執拗に天皇の訴追や処刑を画策していたから対応を間違えれば大変なことになりかねないのであった。それに天皇の意思に反して開戦したというダブルスタンダードは東條自身の苦悩の元でもあった。そして天皇を免責することによって自身が後世にまで犯罪者の汚名を着る覚悟がなければできないことであった。当時の恥を知る日本人には死よりも大きな苦痛であった。事実東條はその覚悟を「一切語るなかれ」として弁解を禁じている。現在でも東條に感謝すべき日本人自身が「A級戦犯の靖国神社合祀反対」などと言っているではないか。さすがに当時の日本は東條が皇室を守ったことを知っていて、先の証言によって東條の評価は回復したのであった。東條は身を捨てて国体を護持したのである。皇室のない日本は日本ではない。その日本を後世に残したのである。保身に陥りやすい官僚の発想ではないことは言うまでもない。
余談だが、東條の次男の輝雄氏は父に軍人より技術者になるように勧められ、航空技術者になっている。東條の父、英教は会津閥なので出世できなかったため、東條は軍人になって仕返しをした、などと言うのはこのことからも下衆の勘繰りであることが分かろう。また、東條輝夫氏は三菱自動車の社長会長まで勤めている。出世レースにおいて「A旧戦犯」の息子であるというのは大きなハンディキャップであったろう。輝雄氏はそれを乗越えるような人格者であったのであろう。これも父英機の薫陶も大きかったのだと信じる。
残念ながら小生は山本五十六を評価できない。真珠湾攻撃でもミッドウェー作戦でも作戦目的が不徹底であって失敗している。真珠湾の海軍工廠と燃料タンクを破壊しなかったのはその後の米軍の反攻を容易にした。軍艦の航続距離からも真珠湾が軍港として使えなければ、太平洋の波濤を超えての反攻作戦はできないのである。破壊を実施するよう上申する部下に山本が、南雲はやらんよ、と言ったという説があるが、事実なら無責任であり確実に実施するよう指示すべきである。おそらくは山本は破壊の重要性を知っていたと弁護する作り話であろうと推定する。なぜなら工廠などの破壊をすべきと考えていたのなら、当初から作戦計画に織り込んでいたはずであるから。
連合艦隊が作戦実施中に愛人と同室していたことがある、と言う説がある。小生は当時の風潮として愛人がいたことを批判するものではない。しかし作戦中は陣頭指揮ではなくても刻々入ってくる情報を基に指揮を執るのが連合艦隊司令長官である。最悪なのはガダルカナル方面でだらだらと陸攻と零戦による攻撃作戦を行って、膨大な搭乗員を消耗してしまうのを放置し無策だった事である。石原莞爾と気が合ったであろうと考える向きもあるが、石原は海軍の攻勢終末点を超えた作戦行動を批判していたのであり、それを強引に実行したのは真珠湾攻撃の大戦果で批判することができるものがいなくなった山本自身であった。
以上閲するに、小生には東條を超える人物は昭和天皇以外に見当たらないのである。石原莞爾は戦略の天才であった。石原の戦略に従って日本陸軍が行動していれば、日本にも勝機はあったと小生は考えるものである。海軍は、補給路遮断や上陸支援などによって陸軍の作戦を支援するものであって勝利は陸戦、最後の勝利は歩兵によって得るものである。日本海海戦が生起したのは、大陸と日本との補給路遮断しようとウラジオストックに向かうバルチック艦隊を、そうはさせじと日本艦隊が入港を阻止しようとするために発生したものである。その後日本海軍が艦隊決戦を戦略目標においたのは本末転倒である。残念ながら石原には組織を動かす行動力に欠け、戦史に貢献することが無かった、と言わざるを得ない。 
 
東條英機氏の自決未遂は狂言だったのか

 

何故東條英機氏一人が批判され悪く言われ嫌われ憎まれるのか
東條英機氏を大東亜戦争遂行の最大責任者とし、東條氏一人を悪者にして、靖國神社にお祀りすることすらこれを否定する人が外國のみならず日本國内にもいる。大東亜戦争の意義を認める人の中にも「東條だけは許せない」とか「戦犯は靖國神社に祭るべきではない」と主張する人もいる。
大東亜戦争という有史以来未曾有の大戦争が、東条英機氏一人の力で開始できたわけがない。にもかかわらず満州事変以来終戦までのわが國の國家指導者は数多くいるのに、何故東條氏一人が批判され悪く言われ更には嫌われ憎まれるのであるか。仮に万一、東条氏が内閣総理大臣在職中のみならず様々な公職にあった時に、日本國にとって不利益になることをし、日本國民に対して罪を犯したのならば、日本國民自身が正当な法的手続きを経て東條氏を裁き、有罪の判決を下すべきだったのである。
日本人は、誰か一人を生贄(スケープゴート)にしてその人を責め苛めば、世の中の矛盾や不満を解消できるかのように思う癖がある。戦争直後は、東條英機氏がその対象であったし、暫く経つと、「吉田を倒せ」の大合唱、そして「岸を倒せ」「佐藤を倒せ」「田中を倒せ」と続いた。それはそれで理由や原因があった事なのだろうが、一人の人に責任の総べてをかぶせて、それで良しとするのは日本人の悪い癖のように思える。
石原慎太郎氏と佐々淳行氏の東條氏自決未遂事件についての発言
東條英機氏について、最近、石原慎太郎東京都知事は、『産経新聞』九月五日号掲載の『日本よ』という論文で、次のように論じた。
「私は毎年何度か靖國に参拝しているがその度、念頭から私なりに何人か、あの戦争の明らかな責任者を外して合掌している。」「A級戦犯の象徴的存在、かつ開戦時の首相東条英機は、戦犯として収容にきたMPに隠れて拳銃で自殺を図ったが果たさずに法廷にさらされた。彼を運び出したアメリカ兵は、彼が手にしていた拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径なのを見て失笑したそうな。そうした対比の中で、ならばなぜ大西中将や阿南陸相は合祀されないのか、私にはわからない」「あの裁判の非正当性にかまけて我々があの戦争の真の責任者について確かめることなしに過ぎてしまうなら、他國からいわれるまでもなく、われわれはあの戦争という大きな体験を将来にかけてどう生かすことも出来はしまい。」「南京大虐殺なるものも…靖國に祭られる者の資格云々と共に我々自身の手で検証されるべきと思うのだが。」
また、石原氏及び佐々淳行氏は、『諸君』九月号掲載の「陛下、ご参拝を…!」という対談記事で、

佐々氏「東条陸相は昭和十六年、『戦陣訓』を布達し…その第八条が…『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ』です。東条の勇壮な演説に送られた学徒の多くが生きて帰らなかった。…それに対して、東条大将はピストルで自殺に失敗し、『生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケ』た。軍人にあるまじき失態です。」
石原氏「ピストルで自決を試みたというけれど、『二十二口径で胸を撃つなんて』とMPが笑っていたそうだ。」
佐々氏「鉄砲のことをわかっている人にはお笑い種ですね。あれは空気銃みたいなもので、パワー不足で頭にあてても死ねないかもしれない。」
石原氏「手でポンと払っても防げるような代物ですよ。」
佐々氏「だから、私は東条さんは靖國に祀るべきではないと思う。」 と語った。

この文章及び対談を読むと、石原氏は、「東條英機元総理自決未遂は、はじめから死ぬ意志のない行動であった」と判断しているとしか受け取れない。石原氏はその根拠を「二二口径のピストルを用いた」という点に置いている。しかし石原氏は、「最小の22口径なのを見て失笑したそうな」「『二十二口径で胸を撃つなんて』とMPが笑っていたそうだ。」と推測でものを述べ、断定しれてはいない。
東條氏の自決未遂は死を覚悟したものであり使用した拳銃は三二口径であった
小生は、東條英機元総理の自決未遂は、死を覚悟したものであり、死ぬ気はなかったなどという事はあり得ないと考える。また、使用された拳銃は二二口径ではなく、三二口径であると考える。
その根拠は次の通りである。
東條英機氏は、昭和二十年九月十一日の自決未遂以前に、長男の東條英隆氏宛に
「英隆への遺言 昭和二十年九月三日予め認む 一、父は茲に大義のため自決す、(以下略)」
との遺言をのこしている。
この遺書について保阪正康氏は次のように論じている。
「東條は『九月三日』の段階ですでに自決することを密かに自らに課していたのだ。」
「九月二日に、東京湾上に停泊するミズーリ号上で降伏文書への調印が行なわれた。これによって、ポツダム宣言に明記されていた『一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし』という一項を、日本もまた公式に承認することになったのである。東條には、連合國側がいう『戦争犯罪人』のリストの最初に自らが名を列ねていることは充分に予測できた。九月三日に遺書を認めたのは、自らが國際法上から見ても死を予定される部隊に引き出されることへの反撥からであったと見るべきである。」
「重光のルートで、戦犯逮捕があるかもしれない、そのリストの最初にあるのは貴下の名であるので諒承しておくようにとの伝言も東條には伝わってきた。東條は隣家の医師のもとに行って、心臓はどの位置にあるかを確認し、そこに墨で〇印をつけた。風呂からあがるたびに、新たに〇印をつけたともいう。」
「東條には天皇への戦争責任が及ぶことはなんとしても避けなければならないと思いつつ、しかし自らの責任にも決着をつけなければならないという迷いがあったというのがこれまでの一般的な解釈であったが、この遺書はそうした推測を否定する内容を持つ。つまり東條は確固とした自決の意思をもっていて、(以下略)」
「東條はこの時代の軍人のすべてと同じように、天皇に対する忠誠精神は強い。天皇に責任が及ぶような事態は避けたい。しかし、法廷に立つ屈辱には耐えられない。遺書にいう『大義ノタメ』というのは、具体的には明確ではないが、臣下の者として敗戦の責任を負って自決するという考えだったように思われる。」(『諸君』平成六年七月号所載・「東条英機の遺書を読んで」)  
東條氏自決未遂事件及び使用した拳銃についての証言
また、自決未遂事件及び使用した拳銃については、次のような証言がある。
「秘書官赤松貞雄氏の手記・東京裁判について」(『東京裁判と東條英機』所収)
「(東條氏は)『戦争責任者としてなら自分は一身に引受けて國家のために最後の御奉公をしたいが、戦争犯罪者というなら承服出来ない。なお自分の一身の処置については米國の出様如何に応じて考慮する。』と言っておられた。そこで九月十一日、米軍憲兵が用賀に逮捕にやって来た時自決しようとしたのである。これが失敗に終った事について、巷間悪評がいい伝えられていたが、後日、花山博士の質問に対して次のように答えられた。即ち『自分には不意に日本政府を通さないで直接に憲兵が逮捕に来た。私を俘虜にするつもりだと思った。自分は戦陣訓の中で、生きて虜囚の辱めを受くる勿れと申しておりながらおめおめ逮捕されては相済まぬと思って決行した』と申されました。…護身用に何時も持っていたのは米國製の小型拳銃であったが、当時は女婿古賀氏が使用した制式(拳銃)大型を用いて自決を決行した為、若干手許が狂った点はあったかも知れない。然し憲兵達は直に病院に収容し、心臓部の穴を血液を粉にした血漿で塞ぎ、絶望と思われていたのが救われ再生出来たのである。即ち直に適切な処置が出来たからであり、米國の医術が日本の医術よりはるかに進歩していたからなのである。この点に就いては大森拘禁所で東條さん自ら私の親友榊原大佐に申されておるのである。一度再生された以上は『あくまでも健康を保って最高責任者として十分弁明しお上には累を及ぼさぬ様にしたい』と決心し、昔はバタ、チーズなどは一切口にしなかったものを我慢して摂取して東京裁判に出られたのである。」
片倉衷氏の証言(二〇二師団長)(『東京裁判と東條英機』所収)
「(昭和二十年八月二十二日)…東條邸を訪ね…東條は私に次のように語った。『俺は裁判にでも何でも行って堂々と所信を述べるつもりである。天皇陛下には絶対ご迷惑をかけたくない。戦争に対する全責任は自分がとるためにも敢えてこの道を選んだ。しかし、連合軍がなすべき道を履まず、不当な処置(例えば捕虜の取扱いをするが如き)をとる時は俺は自ら処するの覚悟である』と。沈痛な表情の中にも毅然たるものがあった。」
佐藤早苗著『東条英機「わが無念」』
「(東條が)出頭すべき時は内務省から前もって正式に連絡があるという約束になっていた」「九月十一日午後四時、東條家はMPや米兵たちに突然包囲され、マッカーサー元帥の命令を持った憲兵は『トージョー、お前を逮捕する』と乗り込んできたのだ。これは明らかに約束違反であった。東條に思考する時間はなかった。とっさに日頃の信念に従った。それは妻かつ子にも言っていたことである。『自分は、生きて虜囚の辱を受けず、という戦陣訓をつくった本人だ、米軍が礼を守って自分を迎えるなら、戦争責任者として堂々と法廷に立ち、自分の立場を主張する。しかし、罪人扱いをするようなら自決するつもりだ』であった。」
「戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で連行するという取り決めになっていたのである。」
「東條は失神したまま、応急措置を受け米陸軍の野戦病院に運ばれた。…そこで急遽米兵の一軍曹が提供したB型の血液を輸血され、命をとりとめたのである。このときマッカーサー元帥は“東條を生かして裁判で正当な報いを受けさせたい。このまま安らかに死なせては、手ぬるすぎる。私がフィリッピンで過ごしたあの屈辱の日々のお返しをしてやりたい”と言い、東條はマッカーサーの絶対命令で生かされたのであった。…失敗の理由はいくつもあげられた。米軍の陸軍病院で手術に立ち会った軍医の証言によると、東條の心臓は人と異なるところに位置していたというのであった。そして、東條は左ききであったことも失敗の理由にあげられる。そしてさらに東條が使ったピストルが、娘婿・古賀秀正が自決に使った大型の重いもので、発射のショックが大きいこと等があげられる。しかし、いずれにしても当時の日本の医学ではとうてい命をとりとめることができない傷であり、出血であった。それをマッカーサーの強い意志と、アメリカの進んだ医学が、東條を再び生かしたのである。」
佐藤早苗氏著『東条勝子の生涯』
「東條は逮捕に来た米兵たちを玄関の外に待たせておいて、応接間でピストル自殺を図った。使用したピストルは、八月十五日古賀秀正が割腹した時、とどめに口中を撃ったもの(アメリカ製コルト、三二口径)であった。」
佐藤早苗氏著『東条英機・封印された真実』
「重光葵外相とGHQの間では、戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者氏名を通告し、日本官憲の手で連行する、という取り決めになっていたのである。ところが東條家は突然包囲されて『トージョー、お前を逮捕する』と詰め寄られたのだ。東條はその無礼なやり方に対し、かねてからそういうときの行動として考えていたように、即座に自決をはかったのである。…東條は自決した場合、生命をとりとめるなどとは考えてもいなかった。当然であろう。日本には覚悟の自決をするとき、解釈をして自決の手助けをすることはあっても、病院に担ぎ込んで強引に生き返らせるなどという文化はなかった。ところが、東条はマッカーサーの絶対命令によって、アメリカの最新の医学で蘇生させられてしまった。」
東條由布子氏著「祖父東条英機『一切語るなかれ』」
「(進駐軍が身柄拘束に来た事を知ると)応接間にこもった祖父は、すでに書いておいた遺言状をテーブルの上に置き、二挺の拳銃と短刀を並べた。…正式な逮捕状ではないことを確認した祖父は、以前から用意していた古賀の叔父が自決した時のピストルの銃口を、かねてから隣の鈴木医師に印をつけてもらっていた心臓の部分に当てて引き金を引いた。祖父が普段、護身用として身につけていたブローニング社製の小型のピストルとは違い、古賀の叔父のピストルはアメリカ製のコルト三二口径の大きなものだった。左ききの祖父が射ったピストルの弾はわずかに急所を外れ、自決は未遂に終わり、生涯、無念の思いを残す結果になった。」「祖父が巣鴨拘置所でつけていた昭和二十年十二月十七日の日記…『聞く処に依れば近衛公、昨十六日自殺逝去せりと。余としては其の心中了解し得、寧ろ死を全うせしこと羨望に不堪』近衛文麿公の自決を『羨望に不堪』と日記につける軍人としての祖父の心を思うと切ない。」
塩田道夫氏著『天皇と東条英機の苦悩』
「東條は終戦と同時に、戦争犯罪人として米軍に逮捕される事を察していた。しかし、日本の将来のために生きて責任をとりたいが、米軍が直接逮捕するようなことがあれば、その時は『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓を作った責任者だったため、自ら捕えられることは『屈辱』だと思っていたのである。」
「午後四時過ぎ、クラウス中佐の指揮する二個分隊のMPが到着した。…しかもこの逮捕は日本政府を通じる正式ルートの逮捕ではなく、GHQからやって来たMPの手による逮捕なのだ。これは東条がもっとも嫌っていた状態となった。いかに敗戦國とはいえ、これは一國の元首相であり、陸軍大臣だった東条の立場を無視した行為であった。」
「東条は部屋の中央に置かれた椅子で横たわり、左胸をピストルで射ったのか、白い開襟シャツは鮮血で汚れていた。東条は意識があり、クラウス中佐が近づくとピストルを床におとしたが、使用したピストルは米國製のコルト式三二口径であった。このピストルは、八月十五日に割腹した二女満喜枝の夫・古賀秀正が終戦に反対し近衛師団のクーデターに失敗して自殺する時のとどめに撃ったものだった。」
「東条の多量な出血は手早く応急処置がとられた。東条邸を警備する警官が近所を走り回り、日本人の医者を呼んでくると東条の傷の治療が行なわれた。…止血の処置をしたため、東条の一命がとりとめられると、午後六時二十五分に米軍の軍医が到着した。軍医はモルヒネを注射して応急処置をした。東条英機の自決は未遂に終わったのである。…午後七寺、東条の身柄は、横浜市中区本牧一丁目の大島國民学校にある米軍の『第九十八野戦病院』に収容された。ここで東条の手術は直ちに行なわれた。左肺を貫通していたピストルの弾丸の摘出がなされた。この結果、東条勝子がすでに亡くなったと思っていた夫・英機の生命は甦ろうとしていた。」
美山要蔵氏(元陸軍省高級副官)の発言(『対談・大東亜戦争と終戦秘話』・「創」昭和四十九年八月号)
「(東條の自決未遂について・註)新聞などでは、日本の新聞でも、アメリカでもですが、東條のおもちゃのピストルでやったと。そうなんじゃない。あれは、東條さんの娘婿が終戦の時のゴタゴタの責任をとって自殺をされた拳銃なんです。」
「東條さんは毎日お風呂に入って、心臓の部分に墨で印をつけ、絶対間違えないように気をつけておった。ところが、それでもおそらく急がれて、右手でパッと……。そこで、心臓の左上にそれたわけですな。直角に持って撃てば失敗はなかったわけです。そういうわけで拳銃は難しい。そういう例はたくさんありますね。東條さんは狂言自殺と見られる結果になりましたけど、ぼくが今までお話したことからも、自決をする気持は強かったんじゃないかと思います。」  
逮捕に出向いたアメリカ軍憲兵に、東條氏は次のような遺言をしている。「一発で死にたかった。時間を要したことを遺憾に思ふ、大東亜戦争は正しき戦ひであった。……法廷に立ち戦勝者の前で裁判を受けるのは希望ではない、寧ろ歴史の正当な批判に俟つ……。切腹は考へたが兎もすれば、間違ひがある、一思ひに死にたかった、あとから手を尽して生かへるやうなことをしないでくれ……責任者としてとるべきことは多々あると思ふが勝者の裁判にかゝりたくない、勝者の勝手な裁判を受けて國民の処置を誤つたなら國辱だ……」(昭和二十年九月十二日付『朝日新聞』)。
東條氏が蘇生させられたのは「生きて虜囚の辱を受け」させようとするアメリカの意志による  
以上、東條英機氏の自決未遂事件についての様々な証言や記録により、小生は次のように考える。
東條氏は、戦争犯罪人としてアメリカ軍によって直接捕えられる事は、東條氏が『戦陣訓』で日本将兵に対し「第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」と示達した本人である以上、「生きて虜囚の辱を受け」る事を潔しとせず自決せんとしたのである。東條氏が子息東條英隆氏宛の遺言で、「父は茲に大義のため自決す」と書いた「大義」とはこの事であったと考える。
東條氏が蘇生させられたのは、東條氏に文字通り「生きて虜囚の辱を受け」させようとするアメリカの意志によるのであって、東條氏の意志ではない。
二二口径を使用したなどという事は誰も証言していない。思うに、「二二口径使用説」は、「日本國の戦争指導者であった東条が、いかにずるくて卑小な人間だったか」と印象づけるために、アメリカ側によって流布された意図的な、歪曲プロパガンダだったと思われる。また、至近距離ではピストルの致死性は口径とは関係ないといわれている。
石原・佐々両氏には、いかなる文献・資料・証言に基づいて、東條氏が自決未遂の際に用いた拳銃が「二二口径だった」と推測するのか、その根拠を明示する責任がある。
東條氏には、多くの批判がある。憲兵や特高警察を使った東條批判派弾圧は小生も許し難いと思っている。特に、東條氏を批判した人を前線に送るといういわゆる「懲罰召集」は、大東亜戦争そして前線で戦い戦死していった多くの英霊に対する冒瀆である。前線で戦うことが何ゆえ「懲罰」なのか。もっとも「懲罰召集」などいう言葉を東條氏自身が使ったとは思われない。憲兵隊か当時の報道機関が用いたのであろう。
しかし、東條氏が覚悟の自決をしようとしたことは事実である。これを否定することはできない。また、東京國際軍事裁判における東條氏は立派だった。
『極東國際軍事裁判』は國際法を無視した復讐劇にすぎなかったのだから無効である
東條氏をはじめとする「戦争犯罪人」といわれる人々は、平和条約締結以前に行なわれ戦争状態の継続であり戦争行為の一部である『極東國際軍事裁判』という名の戦場で戦い、絞首刑を言い渡され、敵軍によって殺された方々であって、立派な戦死者であり殉難者である。「英霊」「戦死者」として靖國神社に祀られるべき方々である。石原氏が東條氏の御霊に手を合わす合わさないは石原氏の自由であるかもしれないが、戦死者の御霊を祀る靖國神社に東條氏が祀られるのは当然である。
また、総理大臣の靖國神社参拝について、「『サンフランシスコ講和条約』という、一國が最も守らなければならない条約を、日本が守るかどうかという問題だから、参拝すべきではない」という意見がある。
日本文の『サンフランシスコ平和条約』第十一条には、「日本國は、極東國際軍事裁判所並びに日本國内及び國外の連合國戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とある。この日本文の条文は、「判決」という意味の「judgments」を「裁判」と訳した誤訳であり、正しくは「判決を受諾し」である。その意味は、判決で禁固刑を言い渡された人で刑期を終わっていない人の刑をそのまま執行する義務を日本政府が約束したに過ぎない。だからこそ、昭和二十七年十二月九日の國会において、『戦争犯罪による受刑者の釈放などに関する決議』が左右社会党を含む圧倒的多数で可決された。二十八年八月には、社会党を含む全会一致で『戦傷病者戦没者遺族など援護法』が部分改正されいわゆる「戦犯遺族」に対しての遺族年金と弔慰金が支給されるようになった。同時に『戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議』が再度可決された。
わが國政府は、「極東國際軍事裁判を受け入れた」という全く誤れる判断を速やかに撤回すべきである。『極東國際軍事裁判』そのものが國際法を無視した復讐劇にすぎなかったのだから無効である。そのようなものにわが國が拘束される必要はない。『A級戦犯』といわれる方々こそ、英霊であり殉國の御霊なのである。
「極東國際軍事裁判」は「裁判」などと呼称しているが、戦勝國による敗戦國への復讐にすぎない。「平和と人道に対する罪」を裁くなどとしていたが、わが國に原爆を二発も投下し、全國の都市に焼夷弾による絨緞爆撃を行い、無辜の日本國民を殺戮したアメリカ、わが國が決定的に不利になった時期に『日ソ中立条約』を一方的に踏みにじって参戦し、満州・樺太・千島に侵攻し、無辜のわが國國民を殺戮し強姦し抑留した旧ソ連こそ、「平和と人道に対する罪」を犯した國である。そのような國が裁判官となり検事となってわが國の「平和と人道に対する罪」なるものを告発し裁く資格は毛筋の横幅ほどもありはしなかった。
東條英機氏は、アメリカ軍が理不尽なやり方で身柄を拘束しようとした時、内閣総理大臣としての戦争責任(戦争犯罪ではない)を負うと共に、名誉、武人としての名誉を護るために自決を図ったが果たせなかった。しかし、「裁判」という名の復讐の場において、わが國體と昭和天皇を命懸けでお護りし、臣下のとしての使命を果たして、死地に赴いたのである。

東條氏の遺詠を記す。
「たとへ身は 千々に裂くとも 及ばじな 栄えし御世を 堕せし罪は」
「続くものを 信じて散りし 男の子らに 何と答へん 言の葉もなし」
「さらばなり 苔の下にて われ待たむ 大和島根に 花薫るとき」
かくの如き切実な反省をし、且つ、覚悟の自決をしようとし、ついに敵國によって処刑された人を貶めることはできないと思う。 
 
今も「平和な東條英機」は無数にいる 例え話1

 

指導力不足、無責任体質のトップでは勝ち残れない
東條英機らA級戦犯7人が処刑された日に隠されていた「暗号」を、僕は『ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』(文藝春秋)で解き明かした。一方で、東條英機という存在は、いまの日本人にとっても他人事ではない。現在の閉塞感につながる歴史の重荷がそこにはある。
世に名高い「バーデンバーデンの密約」
NHKのスペシャルドラマになった『坂の上の雲』(原作・司馬遼太郎)を見てもわかるように、明治維新当初というのは、社会システムができあがっていなかったから、いろいろなチャンスが転がっていた。明治維新で徳川幕府を倒したのは、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)だった。藩閥政府と呼ばれた。出世には藩閥のコネがものを言った。ただしコネのある人がエリートコースを歩んでいく一方で、コネのない人々も、今でいう“ノンキャリア”からはじめて、抜擢されてはい上がることが可能だった。
東條英機の父・英教(ひでのり)も、“ノンキャリア”からはじめて陸軍少将にまでなった。だが、東條英教の時代は、藩閥が幅を利かせていた。父親が少将で退役させられた事実を息子の東条英機は不公平な人事だと思っていた。
東條英機はコネ社会を打倒するために、世に名高い「バーデンバーデンの密約」を1921年10月に結んだ。

「岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりヨーロッパ出張でスイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の3人は同期生の縁でドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに3つの目標を定めていた。その密約に、ベルリンにいる東條も加えさせようというのが彼らの肚づもりだった。
『どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか』
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
『長州閥を解消し人事を刷新するのが第1点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第3点だ』
いずれも東條には共鳴できる目標だった」(『東條英機と天皇の時代』より)
ペーパーテスト秀才によって陸軍は指導力不足になった
藩閥のコネではなく、人事は公平な基準で行われるべきだと話し合ったのである。
その後、藩閥の力が相対的に低下していくなかで、陸軍の人事システムは大きく変わっていった。それまでのコネや抜擢は消え、かわりに「成績至上主義」が基準になった。「30歳前後の2年間の成績が、あらゆる力量のバロメーターとなる不思議な集団になってしまった」(同)のである。
東條英機は、この「成績至上主義」のなかでトップにのぼりつめた軍人だった。動乱の時代が過ぎ、学校での席順がその後の人生を決める世の中になった。
幼少から暗記が得意な優等生だった東條英機は、そういう時代に合っていた。のちに首相になったとき、「幼年学校時代に、いちど習ったところを徹底的に暗記してみた。すると成績はあがった。努力とはそういうものだと思った」(同)と語っている。
このとき、日本人は価値観の評価を捨て、試験で1点や2点の差がすべてという客観指標に逃げたといえる。ペーパーテスト秀才によって陸軍は指導力不足になり、無責任体質が昭和の混迷をもたらし、敗戦という悲劇を生んだ。
東條英機のような秀才には、一度動き出した事態を変えることができなかった。それは彼個人だけではなく、リスクをとって事態を止める人材が出てこないようなシステムに問題があった。
戦後日本は、ふたたびカオスの時代になった。弱肉強食の世界では、客観指標ではなく、価値観の評価による抜擢やリスクテイクが活発になる。そこから、ソニーやホンダのような日本を代表する会社が誕生した。
しかし、高度成長期をむかえ、1960〜70年代になると、人材を囲い込むために年功で賃金が上がっていく年功序列システムが完成した。退職金カーブも定年間近になって急上昇するようになっており、最後まで会社にいなければ損をする構造になった。
労働者の側も、会社に最後までいたいと望み、年功序列・終身雇用をあてにするようになった。安定志向の学生が増え、優秀な学生はリスクをとらず、大手銀行や大手電機メーカーなどに殺到した。
旧陸軍と同じシステムがいまだに日本の中心に残っている
日本社会の賃金体系が公務員型になっているために、人々はローリスク・ミドルリターンを狙うようになった。安定した雇用が確保された有名な会社に入るために、できるだけ有名な大学に入る。有名な大学を目指して、有名な高校、中学、小学校に入るという人生設計が広まった。学校での成績こそが、その人の市場価値になったのである。
しかし、グローバルな世界を眺めれば、一番優秀な学生はハイリスク・ハイリターンを志向する。優秀な人が新しい発想で新しいビジネスを起こすことで、グーグルのような会社が誕生する。
日本はいつしか、若いときから公務員型になれていて、守りに入る社会になってしまった。旧陸軍と同じ失敗を繰り返そうとしている。これでは、社会が硬直化するから、新しいものが生まれてこない。
人々が年功序列システムを謳歌していた1970年代から、じつは綻びは見えていた。僕の同級生の友人たちは、1969年に就職試験を受けている。しかし、そのときは全共闘運動の時代で、大学はバリケードだった。僕はバリケードの内側から、就職試験を受けに行くのは潔くないと思って受けなかった。卒業してから受ければよいと考えていたら、それは甘かった。日本の年功序列システムでは、新卒時に就職しないと、二度と入口に立つことができない。僕は「非正規第1号」だったのである。
それでも、日本の大企業はバブル崩壊までは新卒を一定数採用し続けることができたので、システムが破綻することはなかった。しかし、バブル崩壊後の日本経済はパイが増えなくなり、会社は新卒採用を減らして人員調整をした。
長い目で考えれば、景気によって新卒採用数を極端に増減させることは好ましくない。景気に関係なく、毎年同じくらいの新卒を採用した方が社員教育という観点からもいいに決まっている。
しかし、会社は少し景気が良くなると新卒採用を増やすが、景気が悪くなると極端に採用数を絞る。転退職という出口ではなく、新卒採用という入口での調整が行われた結果、就職氷河期に正社員からあぶれて、非正規雇用になる20代、30代の人たちが急増した。
いちど非正規になっても、横断的な労働市場があれば、景気が良くなったときに正社員としてやり直すことができる。しかし、日本にはそのような市場がない。雇用の流動性が極端に低いために、非正規になった人はそこから再チャレンジすることが難しくなっている。
問題は若い人だけではない。雇用の流動性が担保されていない状況では、中高年がリストラされると行き詰まり感しかない。だから、海外に比べて日本では絶望感から自殺する人も多くなる。流動性がない労働市場が最大のネックなのである。
いまこそ明治維新や終戦のような「チェンジ」を
「東條英機はなぜ出世したか」という問いと同じジレンマに、いまの日本も陥っている。東條英機は真面目な人物だったが、リーダーシップが欠如していた。無数の「東條英機」を抱える日本軍が、アメリカに勝てるはずもなかった。いまも無数の「平和な東條英機」が日本社会の要所要職を占めている。
最近の20代を見ても、情報感度が低すぎる。それは、新卒で会社に入ることがゴールだから、その後は必死にアンテナを立てる必要がないのだ。社会人になってからも自分の市場価値がつねに試される世の中なら、おのずと感度は高くなる。
いまこそ明治維新や終戦のような「チェンジ」が起こらなくてはいけない。しかし、期待の民主党も「チェンジ」をするようでしていない。このままでは、グローバル化する世界から日本がどんどん取り残されていく。 
 
小泉純一郎と東條英機 例え話2

 

小泉純一郎と言えば、現在の自由民主党総裁であり、且つ日本国総理大臣です。いずれも、一応民主的手続きに則って選任されています。一方、東條英機はかつての陸軍大臣兼総理大臣兼参謀総長。役職だけで見れば、平清盛以来の独裁者で且つA級戦犯です。一方は、戦後民主主義の申し子、片一方は軍国主義の代表です。両者に共通点などあるはずがないというのが、大方の見方でしょう。ところが、両者は様々な点で似通っているのです。
1 異常な高支持率
第一次小泉内閣の85%に及ぶ内閣支持率は驚異的ですが、東條内閣も発足時支持率75%近くもありました。この数字も驚異的です。何故、このような高支持率が得られたのでしょうか。小泉の場合は、国民が従来の自民党派閥政治に飽き飽きし、小泉ならこういう古い政治体質に風穴を空けてくれるだろう、と期待したからです。何故、期待されたかというと、小泉はかつての権力派閥、即ち橋本派と無縁で、橋本派による政治支配を断ち切れると考えたからです。東條の場合も同様で、国民は軍による政治の壟断、その軍部も幾つかの派閥に分かれ、互いに争う状態に飽き飽きしていたのです。東條は東京の出身、薩摩・長州という権力藩閥とは無縁。中央省庁の勤務は満州事変当時の参謀本部動員課長、その後の陸軍省軍事課長ぐらいで、その後は地方の旅団長や関東軍勤務が主になる。5.15から2.26に繋がる動乱の時期に、東京の政治家や財閥との繋がりが薄かった。これらの点から、これまでの藩閥出身者や政治将軍が出来なかったことを、東條なら出来ると期待されたのです。
両者が国民に人気があったもう一つの理由に、見せかけだけだが筋を通すということがあります。小泉の場合、内政的には構造改革、外交では日米同盟重視を一貫として主張し、内閣や党執行部人事も派閥バランスは考慮していない。これは筋を通している様に見えます。ただし、ただ単なる頑固な天の邪鬼という見方も出来ます。甘やかされて育った駄々っ子によく見られるパターン。
東條の場合はどうだったでしょう。当時の日本の最大課題は対中問題の解決にあります。歴代の政府は様々なルートで対中交渉を試みました。政府だけではなく、軍部の一部にも対中解決工作をする動きがありました。例えば、石原完爾による近衛工作、支邦派遣軍による桐工作などです。いずれも日本側の大幅譲歩を前提としています。又、これらの工作は一部の人間による秘密工作です。現代でいうところの、国民の目に見えない密室協議なのです。一般国民からは批判対象になります。こういう工作を通じて何とか対中交渉を始めようとすると、軍部強硬派や右翼政治家、それに悪のりするマスコミが、筋論を展開して工作を批判し、結果として世論を対中強硬論に誘導していったのです。そして、批判勢力の代表が、軍部では関東軍総参謀長東條英機中将(後、陸軍大臣大将)、政治家では鳩山一郎、平沼麒一郎、マスコミでは朝日新聞らだったのです。かれらの主張は、当に日本人にとって筋論であり、正論でした。しかし、東條大将は中国に対する筋を通すことに熱心であったばかりに、対中問題を解決不可能なレベルに押し上げたのです。現代の安部他、見せかけタカ派と似ていませんか。
2 派閥、軍閥との関係
小泉純一郎は一見、派閥と無関係の様に見えます。本人もその様に振る舞う。しかし、彼がそもそも大蔵族議員で、且つ旧福田派のチャキチャキであることを忘れてはいけません。彼の売りである郵政民営化、道路公団改革も、狙いは橋本派の壊滅にあることは顕かです。特殊法人改革にしても、狙われているのは、敵対派閥に連なる組織で、旧大蔵省関連法人が一向に槍玉に挙がらないのは何故か。我々の感覚では、最もたちの悪い特殊法人は財務省のそれなのだが。客観的に見れば、彼は旧派閥を壊滅させ、自前派閥を作ることを目的としているとしか見えません。ではどういう派閥でしょうか。小泉内閣の構成を見ると極めて特徴的な現象があります。それは慶応が異常に多いことです。竹中は一橋ですが、入閣前は慶応教授ですから、これも慶応と見なすと、第一次も第二次も7人前後が慶応出身です。内閣の、おおよそ半数を一大学出身者が占めるというのは、極めて異常なことです。小泉は慶応による日本支配を狙っているのでしょうか。
東條も無派閥どころか、統制派のチャキチャキ。永田鉄山の子分を自認し、永田斬殺後は永田敵対派の弾圧に容赦はしなかった。彼が陸相就任後、陸軍の方針が南進論に傾くのは、東條が永田の遺志を継いだまでです。しかし、これによりアメリカと直接対立することになってしまいました。その永田は信州出身で非薩長。陸相になってからは古い軍人や、彼が敵対的と見なした軍人・・・その代表が石原完爾・・・の首を次々に斬って、知らないうちに東條派と言うべき派閥を作ってしまいました。梅津、杉山、寺内、牟田口・・・これらの尻にくっついていたのが辻、服部ら・・・らです。この中で薩長閥に属するのは寺内だけ。彼らは統制派の中でも更に強硬な、改革派と云われる連中です。そういえば東條は満州で、革新官僚と云われる岸信介、新財閥の代表鮎川義介らと親交を重ねました。彼らは改革派を自認し、世間もそう呼んでいたのです。小泉も東條も派閥・軍閥とは無関係ではない。それどころか大変濃密な関係を持っていたのです
3 生まれと育ち
小泉は三世議員。父親は国務大臣をやったらしいが、どの内閣のどの職務だったかはよく知られていない。権力派閥に属していなかったため、党内序列はあまり高く無く、マスコミの注目度も低かったのかもしれません。これが逆に彼の権力派閥に対する敵愾心とも云える反発心を作ったとも考えられるのです。
東條大将の家系も徳川以来の御家人。二代続いた軍人家系で、父は戦術の権威といわれた東條秀教中将。日露戦争の前に待命予備役編入。大将になれなかったのは、賊軍の出身だから薩長閥に疎まれたという説があります。東條大将がこの説を信じない筈がありません。東條が古い軍閥を憎んだのは当然なのです。
このように両者とも、その世界では名門に生まれていながら、父親が必ずしも世間・・・というより時の権力者に受け入れられなかった点が共通しているのです。この手の人間は、しばしば異常に向上心が強かったり、既製権力階層に敵愾心を燃やすのです。従って、この原体験がその後の人格形成に無関係であったとはいえないでしょう。
4 性格
両者の性格上の共通点として、正直で涙もろいことがまず挙げられます。つまり、性格は本質的に感動型で、特に自分に近い者に対する情愛が、他より深い傾向になります。これを裏返すと、激情型で敵に対して執念深く、自分との距離が遠いものには関心が薄く冷淡にもなるのです。以下、両者について検討してみましょう。
(小泉純一郎)
就任直後、靖国参拝戦争記念館で特攻隊の写真を見た時に涙を流したり、負傷した貴乃花の優勝旗授与に感激したり、更に国会答弁で髪の毛振り乱しての絶叫など、彼が激情型である証拠は十分にあります。又、今回の内閣改造でも、あれほど与・野党から評判の悪い竹中金融相、川口外相、山崎幹事長、飯島秘書官らを留任又は昇任させています。自分に近い人間には甘いのだ。一方で、彼は自分の興味が無いテーマについては極めて冷淡です。首相就任直後、明石で歩道橋事故が生じた。数100人の死傷者が出る大事故です。台湾や韓国なら、政府首脳の談話があってもおかしくないレベルです。しかし、かれは箱根で静養中で、前後は息子とキャッチボールをしていました。また、あるテーマについて官僚が説明しても、興味が無ければ質問もせず、黙って資料を突き返したりすると云われます。つまり、極めて感情の起伏が大きく、外的刺激に対する反応が極端で、周辺社会との調和性に欠けるのです。このタイプは、神戸のA.S或いは長崎の少年に見られる性格と共通しています。現代の精神病理学では環境不適応症と診断されます。
(東條英機)
東條大将の特徴は冷徹で合理的である、と云われます。常にメモを欠かさず、あらゆる点について数字を根拠に説明する。その態度が、科学者である昭和天皇にいたく気に入られた所以と云われます。しかし、大将の性格はこれだけでは割り切れません。昭和12年、シナ事変が発生すると、東條中将は関東軍を指揮して北支に侵攻します。参謀長が軍隊を指揮する、という帝国陸軍にあってはならない事態です。それはそうとして、中将は野戦病院を見舞って負傷兵を見ると、思わず落涙したり、兵士の家族の窮状を聞くと、俸給袋を投げ出すなど、結構涙もろく、感激家タイプなのです。太平洋戦争の戦況が逼迫すると、東條内閣に対する世間の眼も厳しくなります。特に評判が悪かったのは、海軍から「東條の男妾」などと蔑称された海軍大臣島田繁太郎大将です。しかし、大将は最後まで島田大将を庇い続けました。又、現地軍からも、参謀本部からも、陸軍省からも無謀とされたインパール作戦を、子分の牟田口に泣きつかれると、認可してしまいました。自分に近い者には甘いのです。しかし大戦中、大将が前線を視察して兵士を励ましたという記録は殆どありません。自分から距離の遠い者に対しては冷淡なのです。敵のチャーチルやローズヴェルトは、機会を見て前線視察を繰り返していたにも拘わらずです。これではやっぱり戦争に負けるでしょう。
二人の性格上の共通点は正直で、律儀で頑固だということです。根は善良なのです。ブッシュも本質的にはこれです。正直で善良であることは、日本ではそれだけで全て良い人になります。しかし、この徳目は平和な時代にのみ有効なのです。東條大将も平和な時代であれば、実直な官僚軍人として着実に出世の階段を登り、但し想像力に乏しい傾向があるので大臣・総長は無理だから、教育総監あたりで待命予備役編入、一件落着になったと思う。時代が彼のような凡庸な人間を権力者に押し上げたのでしょう。小泉にしても、周りが勝手に墜ちていったから浮き上がっただけです。そして、歴史では指導者が正直で善人である国家ほど、国民が不幸になるケースが多いのです。
5 女性問題
女性問題「といっても、色恋沙汰ではありません。両方とも、この種の問題には恬淡としていたようです。ここで云う女性問題とは、政策決定に関し特定の女性により、影響を受けていた疑いがあるのです。小泉総理については、よく週刊誌で取りざたされる二人の姉の存在です。東條大将の場合は、婦人で国防婦人会会長だった勝子です。田中隆吉手記によれば、大将の恐妻家ぶりは有名で、細部に至るまで婦人と相談して決定し、婦人は将官人事まで干渉していたと云われます。
小泉氏の姉が何処まで干渉しているかは不明ですが、彼自身幼少期に母を亡くし、更に離婚経験者である点を考えると、小泉氏と姉との関係は通常のものでは無いだろう、というのは容易に想像出来ます。
6 敵に対する報復
両者の更に共通点として、私敵に対して権力を使って執念深く報復することが挙げられます。まず、東條から述べて行きましょう。先に述べたように、東條は統制派で永田鉄山の子分を自認していました。相沢事件当時は関東軍憲兵司令官。事件が起こると、関東軍内の皇道派将校に目星をつけ、2.26事件が発生すると一斉に検挙しました。事件との関わりあるなしに拘わらずです。永田の報復以外の何者でもありません。昭和13年、石原完爾が関東軍参謀副長として満州に着任します(東條は総参謀長)。同じ統制派でも、東條と石原では肌が合うはずがありません。石原は東條の頭の悪さにあきれて、おおっぴらに東條軍曹と呼び、更に東條上等兵までエスカレートして、とうとう勝手に日本に帰ってしまいました。石原は、その後、舞鶴要塞司令官、京都第16師団長になりますが、その時東條が陸軍次官として、中央に帰ってきます。東條は憲兵を使って石原の身辺を調査し、難癖を付けて予備役に編入してしまいます。石原は立命館大学総長末川博の招きで、立命館大学教授に就任しますが、東條は更に憲兵を使って立命館にも圧力を加えたため、とうとう石原は立命館も辞職して、郷里の鶴岡に帰ることになったのです。

一昨日の(10/19)インターネットで、小泉首相が中央線の開かずの踏切対策を、国土交通省に指示したことが報じられました。しかもタイからです。たかが1鉄道の交通対策など、総理大臣の口出しすることですか!。問題区間は民主党代表管直人氏の選挙地盤です。選挙目当てであることは顕かで、かつて東條がゴミ箱の中身を調べて国民の人気とりを計ったのと同じ発想です。更に、小泉はこれまで管氏に国会で何度も恥をかかされてきました。小泉の頭の中に、管への復讐の念があってもおかしくないのです。個人的な復讐を国家権力を使って果たす。まさに東條にそっくりです。 
 
朝日新聞の主張する「東條英機の論理」 例え話3

 

きょうは8月15日である。この日に、いつも日本人が自問するのは「日本はなぜあんな勝てない戦争に突っ込んだのだろうか」という問いだろう。これにはいろいろな答があるが、一つは東條英機を初めとする陸軍が日本の戦力を過大評価したことである。陸海軍の総力戦研究所が「補給能力は2年程度しかもたない」と報告したのに対して、東條陸相は「日露戦争は勝てると思わなかったが勝った。机上の空論では戦争はわからん」とこれを一蹴した。
こういう客観情勢を無視して「大和魂」さえあれば何とかなると考える主観主義は、日本の伝統らしい。朝日新聞の大野博人氏(オピニオン編集長)は8月7日の記事でこう書いている:
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。原発をやめる場合、再生可能エネルギーには取って代わる力があるか。コストは抑えられるか。 [・・・]これらの問いへの答えが「否」であれば、「やめることはできないから、やめるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし、3月11日以後もそれは現実的だろうか。 脱原発について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで3月11日の事故が起きなかったかのようではないか。冒頭の二つの問いに戻るなら、まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

私はこの記事を読んだとき、東條を思い出した。ここで「脱原発」を「日米開戦」に置き換えれば、こうなる。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。
多くの場合、議論はまず(2)に答えることから始まる。戦争をする場合、米国に勝てる戦力・補給力があるか・・・これらの問いへの答えが「否」であれば、「勝つことはできないから、戦争はやるべきではない」と論を運ぶ。
できるかどうかをまず考えるのは確かに現実的に見える。しかし戦争について、できるかどうかから検討するというのでは、まるで鬼畜米英を放置すべきだということではないか。まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。大東亜戦争は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。

朝日新聞は、おそらくこれと似たような社説を70年前の12月8日の前にも書いたのだろう。それがどういう結果になったかは、いうまでもない。河野太郎氏も、私の「再生可能エネルギー100%というのは技術的に無理ですよ」という質問に対して「できるかどうかだけ考えていたら何もできない。まず目標を掲げれば、不可能も可能になるんです」と語っていた。
この「東條の論理」には、二つの欠陥がある。まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始めるということだ。これは当然、どこかで「やっぱりだめだ」という判断と撤退を必要とする。その判断ができないと、かつての戦争のような取り返しのつかないことになるが、撤退は誰が判断するのか。また失敗による損害に朝日新聞は責任を負うのか。
もう一つの欠陥は、実現可能なオプションを考えないということだ。最初からできるかどうか考えないで「悪い」原発を征伐するという発想だから、その代案は「正しい」再生可能エネルギーという二者択一しかなく、天然ガスのほうが現実的ではないかといった選択肢は眼中にない。
朝日新聞は、かつて対米開戦の「空気」を作り出した「A級戦犯」ともいうべきメディアである。「軍部の検閲で自由な言論が抑圧された」などというのは嘘で、勇ましいことを書かないと新聞が売れないから戦争をあおったのだ。今回も世論に迎合し、脱原発ができるかどうか考えないで勇ましい旗を振るその姿は、日本のジャーナリズムが70年たっても何も進歩していないことを物語っている。 
「東條英機の論理」について反論
脱原発を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)原発をやめるべきかどうか。
(2)原発をやめることができるかどうか。
・・・まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む。福島の事故は、考え方もそんな風に「一変」させるよう迫っている。なぜ、これが東條英機的なのかというと、問題の設定の仕方は以下の論理とパラレルだからだという。
日米開戦を考えるとき、私たちは同時に二つの問いに向き合っている。
(1)戦争をやるべきかどうか。
(2)戦争に勝つことができるかどうか。
ようするに、「まず、技術的・経済的に不可能な目標を掲げることは、最初から失敗するつもりで始める」敗北主義が東條英機的だということらしい。
この論説を読んで、その手品的手法に感動した。
問題は「原発をやめるべきかどうか?」とちゃいますか?
素直に考えれば、問題の立て方を大東亜戦争の継続についての議論に適用するのなら、二番目の問いは「戦争に勝つことができるかどうか」ではなく「戦争をやめることができるかどうか」となるはずだ。ところが、サラリと「戦争に勝つことができるかどうか」という問いにすり替えている。別に朝日新聞の擁護をする気はないが、あまりにひどい藁人形攻撃なので、可笑しくて可笑しくて、ここで取り上げることにした。
「はじめに原発ありき」の理論
さて、もしも問題設定の仕方を、原発の継続論議に関して行うとどうなるか?答えは(1)「原発を続けるべきかどうか」 (2)「原発を成功させることができるかどうか」ということになるだろう。かかる問題設定をした上で、「まず(1)について覚悟を決め、(2)が突きつける課題に挑む」という立場をとると・・・?つまり、「まず原発は続けるべきである」と覚悟を決めて、その上で「原発を成功させることが出来るかどうか」という課題に挑む・・・おお!!まさしく、原発村の論理になるではないか。 3.11以降、「原発はやめるべきではない」という、「初めに原発ありき」の立場をとり続けている。そのうえで、しかしながら、大衆が無知でアホで非合理的で放射線恐怖症であんなに安全な原発を怖がっているから、日本で原発を成功させるのは難しいというようなことを論じている。なんのことはない。「鬼畜米英打倒」に突き進んだ東條英機のような覚悟もない、上から目線の原発擁護論でしかない。
ハルノートを突きつけられる前に・・
ところで、日本の原発を大東亜戦争になぞらえて考えてみると、3.11の事故は支那事変あたりに該当するのだろうか。「事故」を「事象」と呼ぶあたり、「戦争」を「事変」と呼んでいた当時の日本に似ているし・・・、それとも、ノモンハン事件かな。どちらでもいいが、中国という手出し無用の魔境に深入りしていった当時の日本と、原発地獄にのたうつ今の日本が重なって見えるのは私だけだろうか。ハルノートを突きつけられる前に撤退の道筋をつけたほうがよいように思う。
核武装オプションのための原発は必要!
とはいえ、私は再生可能エネルギーなんかに期待をもっていない。そもそも、脱原発なんて、核廃絶とか戦争放棄とかと同じで一国だけでやっても大した意味はない。それでも原発の縮小をするべきだと思うのは、日本のようなとんでもない地震国で頻繁にゴジラが出るような国に多くの原発を設置するのは危機管理上好ましくないということと、財政赤字と類似の「未来へのつけ回し」がいやだということと、日本の政治経済制度では東電のような地域独占を制御できないという理由からだ。とくに三番目の理由が重要だ。それは、安全性が確かめられない限り原発をやるべきではないというような「安全性の考え方」より、巨大技術に伴う悪質な地域独占の登場を阻み、競争が機能するような制度的枠組みが作れないのなら原発はやるべきではないという発想からだ。
その一方で、原発を完全になくしてしまうのには反対だ。それは石破茂も言っているように、核武装オプションを放棄するべきではないからだ。いや、いますぐ核武装をすればいいと思う。まず、核武装をするべきとの覚悟を決め、その上で核武装が可能かどうかという課題に挑むべきだろう。 
 
東條英機の戦局見通し

 

東條英機は大戦が終末に近づいた1945年2月26日、宮中にて昭和天皇に現下の戦局見通しについて上奏した。形式は一方的講話の形をとり、昭和天皇は一つだけ質問し終了した。以下は侍従長藤田尚徳(海軍大将)の証言である。

東條英機の戦局見通しについての説明
去る二月七日より行われたるクリミヤにおける、三巨頭会談が、今後の政戦両略の基礎たるべし。その一応表面に露れたる所は、もっぱら対独処理に存するごとく見ゆるも、その裏面において太平洋問題が大きく扱われ、大体基礎的了解をとげられたものと思考す。その理由としては日ソ中立條約の廃棄を決する最後の日、四月二十五日を選び、桑港において会議を開き、これに重慶、ソ連の参加を発表すると時を同じゅうして、この対独案件に対して非公式なれど、太平洋調査会の決議を発表ありしが、その後諸情報により調査考究して逐次この両者の関係を明らかにするを得たり。すなわちクリミャにて表面議題として伝えられざる対日間題は、事前に米国首脳者がソ連に赴きて談合せられありたるものなり。
さて今後、太平洋問題は如何に展開し来るべきや。比島戦をみるに、我はマニラを捨て主として山地に陣地を結集しあるをみて、相当の抵抗を持続し得るの算ありと判断すべく、四月二十五日より前に我軍潰滅というが如きことはあり得ず。敵軍十二個師団に対し、我また相当の兵力あり。比島戦遂行の現下、米国が今後、後詰として用い得る兵力は十個師団なりという。これを米国として何処に用いんとするか、クリミヤ会談前にては比島の増強、南支の新作戦等のことも考えられたるが、会談の結果より考えるに、これはやらぬと思う。敵は四月二十五日を目標として、それ迄に対日政戦両略のあらゆる手を打ちて、日本を立つこと能わざらしむるの状態を造りあげる。ドイツはソ連、米、英にて、それまでに片付け終り置く。
そこで四月二十五日に各国を集めて、日本が手も足も出せぬという状態をみせるという広い手をうつ。これが敵の狙う所なり。故に今において比島や南支には新行動を起すことなしと思う。(以下略)
聖上にも御回想下されることと拝察致す所であるが、大東亜開戦の御決定において、十七年度にはソ連は立つことあるべしとせられしが然らず。外交的には成功を得たりというべし。敵側三個の企図のうち、その二点まではこれを打破りたり。
只今深刻に太平洋上に起りつつある進展に対しては全体に観察して、成功不成功相半ばすとすらみる所以なり。(中略)
次に申上ぐることは、今日不幸なことながら我国に思想的、精神的に二つの懸念すべき点あり。御前にて言い過ぐる如きも申上ぐ。戦局の不利、爆撃の激化は人心に不安を招来し、これに加うる敵の宣伝によりて敗戦思想を植えつける。然しながら今日、太平洋戦局をみるに、硫黄島に敵は上陸し来りたるに至れるも、従来敵の占領に委せたるは外域にして、而も占領地または委任統治により新付のものにして純粋の領土にあらず。真の日本の皇土に敵をみるは今回が最初のことなり。敵は開戦前四週間にして日本を屈服せしめ得と豪語せるが、四年後の今日漸く硫黄島にとりつき得たりともいい得。
空爆の程度もドイツに比すれぼ序の口なり。新聞報によるもドイツに対しては四千機と伝う。我にありてはB29は二千数百キロの遠方より五日または七日に一回、百機内外のものが来るに過ぎず。機動部隊よりする戦爆連合も最近始まりたるも、これも長続きするものでなし。かく見来れば、今回の我本土空襲も、近代戦の観点よりすれば序の口に過ぎず。この位のことにて日本国民がへこたれるならば、大東亜戦完遂と大きなことはいえず。
なお近代戦における宣伝の効力については、一般に認識不足なることより敗戦思想に冒さるるものなるが、下層民または青年につきては大した心配は要せずと思考す。
生活問題に対する懸念、配給の現状、生活困難につきては、とかくの論議はあれど、最近フィンランドより帰朝せる者の談を聞くに、日本の現状は、フィンランドやドイツに比して苦しからず。日本に帰りて冬に野菜を食するを得たるが、これは数年来、かの地にて経験せざるところなり。配給量も少なしと思わずとのことなり。配給に対する苦情も、従前の飲食に対する考えより起る。陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず。
然らば如何にすべきや。第一に肝要なことは政戦両略ともに陛下御親政、御親裁の下にあることを明瞭に顕現することなり。東條在職中にも申せしが如く、このことは形の上に直ちにわかるようにするを要す。却ち大本営を真に陛下の御膝元にあることをはっきりさせることなり。大本営陸軍都、大本営海軍部と分在しあることは国民の異様に感ずるところたり。次に閣議も総理大臣の住宅である官邸で行うことをやめ、宮中において催すべきものと思う。在職当時、これを実行喧しも今は旧に返りたり。次に枢密院、元帥府が眠っていてはならぬ。陸海軍もまた渾然一体なるべし。
四月二十五日に至ってソ連は日ソ中立条約の廃棄を通告し来るやも知れず。かくなりても我は正義の上に立つ戦なり。皇国不減を信じて立っならば悲観に及ばず。その後起り来る欧州の情勢の変転を注視し平和をつかみ得べし。一度へこたれんには、爾後の日本は度外視せらるべし。かくなりては万事終焉なり。実に四月二十五日の前後は重大なる時期なりと思う。
東條大将の自発的な奏上は以上で終った。陛下はただ一言、ぽつりと御下問になる。
陛下 「ソ連が武力的に立ち上ることはないと思うか」。
東條 「その点につきましては一月ほど前にフィンラソドより帰朝した者と、二週間ほど前にシベリヤ経由で帰朝した者の観測がちがっています。前者はソ連の人民には戦意はないとみています。その論拠は、彼が同車した退役陸軍少佐の飛行機搭乗員が、公然とこの戦いはお互にやめたいと言っていたことで、ソ連は今日最大限に兵力を用いているので、四月二十五日以前にドイツが崩壊すれば、その時に兵力の余裕が生じますが、そうでなければ兵力の源泉は枯渇いたします。故にドイツが毅然として戦争を継続する間は欧州より兵力を抜いてシベリヤに送り得ませぬ。また仮りにドイツが崩壊しても、米英ソの間には深刻な争いがあって、有力な兵力を欧州に止めおかなければならず、大兵力を、シベリヤに抜くことは不可能でございます。事実、今日疲労していて立て直しの必要兵力を、シベリヤに転用することは困難で、これが前者のソ連立たたずとする観測でございます。それに対して後者は、日本を攻撃する大きなチャンスさえあれぼ、大兵力を引き抜くことも、ソ連は辞さないと観測していますが、いずれとも判断は難しいが、今日関東軍と勢力が平衝状態にあるソ連軍は、ドイツの様子如何によって、増強されることは考えられます。従って対日参戦は五分と五分と思考いたします。目下硫黄島に四個師団、我軍は一個師団と海軍六、七千人で戦い、敵は苦戦しております。補給途絶は時間の問題でございましようが、四月二十五日までに陥落することはございませぬ。台湾、琉球に対しても心配はありますが、防備は充分なので容易に敵手に委ねることがあるとは思えませぬ。ただし、海軍力が十分でないので、補給には困難がございます。この情勢にてソ連が、直ちに中立を放棄することは考えられませぬ。しかし硫黄島を失い、台湾、琉球、支那大陸を敵に委ねるならぼ、敵は日本も問題なしに今一押し押せばよいと考え来るでありましょう。従って今のところ五分五分と思考いたします」。

第二次大戦の軍事指導者の発言としては、もっとも愚かなものであろう。こういった指導者を擁いて開戦したことは、日本の長い歴史の中でも大失敗というしかない。同時代の藤田尚徳もこの愚かさに気づき、次のように批判している。
昭和二十年二月末であるのに、東條大将のこの戦局判断の強気は、陛下を驚かせるものがあったようだ。連合国側のクリミヤ、テヘラン会談の情勢判断、連合国の作戦日程に対しての見通しはともかくとして、米国の戦力の認定の甘さは誤りも甚だしいものではなかったか。また日本の戦争遂行能力についても余力があると断言しているが、生産力の低下を前首相である東條大将が、この程度にしか承知していないとすれぱ事は重大である。陛下の御表情にも、ありありと御不満の模様がみられた。しかし、東條大将は委細構わず、立て板に水を流すような雄弁を続げる。しかも、それは極めて重要な点であった。彼は和平工作を痛烈に批判しはじめたのである。
東條大将の国民生活に対する大きな錯誤は、いまさら指摘するまでもあるまい。国民の真の姿を把握していない。生活の苦しみについても、一方的な認識しかもっていなかったようだ。塗炭の苦しみを味わっていた国氏が、これを聞けばどう感じたであろうか。私も、いささか情ない思いで東條大将の言葉を聞いていた。また米軍の空襲についても、甘い判断しかもっていなかった。、事実は旬日の後に東京の半ばは灰燼に帰し、米機動部隊は終戦まで半年間、縦横に日本近海を遊弋していたのだから、東條大将の軍事的判断の不正確さは歴史の批判を受げるまでもない。一方的な詭弁であったといってよかろう。
遠慮のない発言には好意をもったけれど、私の聞いた感じでは、自分が内閣首班で行ってきた施策を、現内閣が改変して、逆に国民の戦意を衰えさせているといったふうの独善が感じられた。和平に対しては真向から敗戦主義であると罵倒したが、その戦局判断の甘さとともに、これも後世史家の批判を受ける点であろう。東條大将は、一陛下の御心が何を求めておられたかを着取していなかったのではないか。
陛下自らお考えになり召致された重臣の意見は、以上のように種々と分かれていた。誰が陛下の心に近く、誰が隔りがあったか。陛下は判然と識別になったに違いない。天皇は、国の政治へ直接の発言はなさらない。しかし陛下に心中深く、戦争終結の御決心がついたのも、この頃であったと拝察する。私は侍従長としての職分を守り、毫も陛下のこの件について言上することはしなかったが、君臣の問に一脈の流れを感じとることができた。
このとき、東條英機は上奏のため陸軍省から十分軍事情報をうけとれる立場にあった。にもかかわらず、空襲と硫黄島戦の見通しについて完全に失敗している。硫黄島戦の将、栗林忠道は「一人一殺を試みるので、和平に遺漏なきを帰せ」と打電しているにもかかわらず、和平そのものに反対しているのである。
さらに、太平洋戦争(問題)はドイツ勝利を前提として、内南洋に不敗の体制をとることが日本の大戦略であった。戦争に勝つためには「敵の芝生を踏む」「敵野戦軍を殲滅する」「敵指導部を無力化する」の三つの方法しかない。このいずれの方策もたたず日本は開戦したのである。この戦略的失敗を脇においても、太平洋問題とは海軍同士の戦いである。陸兵が孤島で補給の断たれた戦いをすれば敗北は必至である。補給を維持できるかできないかは空母と潜水艦によっており、それに敗北したことはこのとき東條においても認識されていた。すなわち、戦略の破綻を外政(和平工作)や軍事でいかに乗り切るかが諮問されていたのである。
東條英機にとり、内政、すなわち国民の士気を維持すること、具体的には閣議や大本営の各種会議の場所を変更することが唯一の方針なのである。
藤田のいうように昭和天皇は明らかにご不興であったろう。開戦時点では東條を信認するしかなかったにせよ、この時点では完全に喪失していた。昭和天皇の東條にたいする見方は劇的に変わったとみてよい。 
 
東條英機の統帥権についての述懐

 

重光葵と東條英機は、巣鴨に同じA級「戦犯」として収監されていて、太平洋戦争の敗因についてしばしば語り合った。そのうちの統帥権についての議論である。

東條大将は、巣鴨で記者に対して、敗戦の原因を論じたことがあった。彼は、
「根本は不統制が原因である。一國の運命を預るべき総理大臣が、軍の統帥に関与する権限のないやうな國柄で、戦争に勝つわけがない。
その統帥がまた、陸軍と海軍とに判然と分れて、協力の困難な別々のものとなつてゐた。自分がミッドウェーの敗戦を知らされたのは、一ケ月以上後のことであつて、その詳細に至つては遂に知らされなかった。
かくの如くして、最後まで作戦上の完全な統一は實現されなかつた」と述懐した。
沈黙を厳守してゐた彼が、この最後的の述懐をしたのは、余程のことであったと思はれる。東條大将は、最初に陸軍大臣であり、次いで首相兼陸相として、戦争を指導し、最後には参謀総長を自ら兼ねて、政治と統帥とを統制せんとして、その権力を一身に集めた人である。死を前にした彼の言説は、少なからず価値のあるものと思はれた(重光葵『昭和の動乱』下 中央公論社 1952)。

東條は不統制によって敗戦した、と説明している。これの当否は別にして、「総理大臣が軍の統帥に関与できなかった」ことが、その具体的内容なのである。これは支那事変以来、近衛文麿が説いていたことでもあった。近衛は、総理大臣が統帥に関与できなければ、外交が失敗する、すなわち講和または休戦できないことを主張した。これは、戦場で勝っていた支那事変にはあてはまるが、太平洋戦争にはあてはまらない。
さらに外交についていえば、戦場の勝敗は、いったん戦争が始まれば、新たな同盟国の獲得または主敵からの離反を誘うことでしか影響しない。また、そういった同盟の離反などは戦局に左右されるのが普通である。しこうして戦局を左右するものは「統帥権の有無」ではなくて、「統帥権の分裂」なのである。
首相であり陸軍の事実上の最高権力者が、もっとも戦局を左右する戦闘の詳細を知らされることなくて、陸軍の作戦計画をたてることは不可能である。
ただ、東條英機の統帥権の理解は、ゴーストップ事件を統帥権独立問題として扱う皇道派首領荒木貞夫などよりは、的確であったといえるだろう。ただし、東條の軍人としての戦略眼は凡庸の域を出ず、法律または官僚の手続論において俗流統帥論に屈していた。
東條の下僚であった服部卓四郎は戦後、次のように書いている。

旧憲法下における日本は、天皇がこれを統治せられた。然し天皇は無当責の地位に在られ、国務即ち国の行政は、国務大臣の輔弼により施行せられ、その責任は輔弼の任に当る国務大臣が負うものであった。
〔統帥権独立−国務との併立〕
而して統帥即ち作戦用兵は、旧憲法第11条に基づき、天皇の大権事項として行政の圏外に置かれ、陸海軍の統帥は、国務大臣の輔弼によらずに、陸軍にあっては参謀総長、海軍にあっては軍令部総長による如く定められていた。即ち明治41年改定の参謀本部条例によれば、「参謀本部は国防及用兵を掌る所とし、参謀総長は天皇に直隷し、帷幄の軍務に参画し国防及用兵に関する計画を掌る」旨規定されている。従って統帥に関しては、参謀総長又は軍令部総長が、直接天皇に上奏し、内閣または内閣総理大臣を経由しないのであった。かかる状態を統帥権独立といい、日本特異の制度であった。
天皇無当責の法理は、統帥に関してももとより同様であって、統帥上の最高の責任はその補翼機関の長たる参謀総長又は軍令部総長が、これを負うべきであった。
従つて統帥組織上天皇直隷の最高司令官といえども、参謀総長又は軍令部総長に意見を具申するに止まり、これらを経由せずして、直接天皇に意見を上奏することはなかつた。
かかる制度は、大体プロシャの制度を斟酌して定められたもので、陸海軍は、統帥の決断性、一貫性、機密性等を重視して、この統帥権確立の制度を尊重確守して来た。
〔帷幄上奏−軍部大臣の特殊地位〕
以上の如き国務と統帥との併立関係を諒解することは、必ずしも困難ではないが、ここに問題となることは、国務と統帥との中間的性質を帯びる事項が存在することである。これを混成事項又は広義統帥事項と称していたが、その基礎は旧憲法第十二条の陸海軍の編制及び常備兵額の決定に関する所謂編成大権であつて、伊藤博文の憲法義解によれぱ、若十二条に関し次の如く述べていることによつて明かである。
本条は陸海軍の編制及常傭兵額も亦天皇の親裁する所なることを示す此れ固より責任大臣の輔翼に依ると難亦帷幄の軍令と均く至尊の大権に属すべくして而して議会の干渉を須たざるべきたり所謂編制の大権は之を細言すれぼ軍隊、艦隊の編制及管区方面より兵器の傭用、給与、軍人の教育、検閲、紀律、礼式、服制、衛戊、城塞及海防、守港並に出師準備の類皆其の中に在るたり常備兵額を定むると謂ふときは毎年の徴員を定むること亦其の中に在るなり
右混成事項も、陸軍においてはその内容に応じ、陸軍大臣、参謀総長、教育総監稀に陸軍航空総監が、単独又は他の輔翼機関との連帯の下にその制定の責に任じた。但しこれが施行の責任は常に陸軍大臣であつた。
海軍においても同様であつた。即ち混成事項も一般国務大臣の行う行政の圏外に置かれ、当該輔翼機関の長が直接天皇に上秦していた。
陸海軍大臣が以上の外、一般国務に関する軍事行政事項を主管していたことは勿論である。却ち陸海軍大臣は国務大臣として国務全般につき内閣に参賛するとともに、軍事行政の主管大臣として、一般国務に属する軍事行政事項を主管し、且つ前記混成事項に関する天皇補翼の責任を負っていたのである。

服部卓四郎はここで、統帥権と帷幄上奏について述べている。このうち、帷幄上奏に関連する「軍部大臣の特殊地位」については、法律の曲解である。憲法12条によって、混成事項が定められたとするが、憲法が業際的なことについて触れることはない。
伊藤博文の『憲法義解』の一部を流用しているが、そこでは、軍部大臣や内閣が「陸海軍の編制」を決定するといっており、軍令参謀本部長が決定するとはいっていない。従って、軍令参謀本部長が、「陸海軍の編制」について帷幄上奏することはできない。できるのは「統帥事項」なのである。
ただし服部は、統帥事項については「決断性」「一貫性」「継続性」をあげているが、それが戦時の統帥および戦前の戦争計画の策定に絞ることを意味するのであれば正しい。ただ、これの延長線上に統帥の2元化(陸海軍の統帥の分裂)はでてこない。海軍がミッドウェーの敗北について軍令部長限りとして参謀本部長が知らないとなれば、元来一人の天皇が行なう統帥事項について、有責の人間がどこにもいなくなってしまう。これの論理的帰結は戦争の敗北であろう。

東條英機の東京裁判宣誓供述書 (昭和22年12月26日提出)
起訴状に於ては一九二八年(昭和三年)より一九四五年(昭和二十年)に至る間日本の内外政策は「犯罪的軍閥」に依り支配せられ且つ指導せられたりと主張されて居ります。然し乍ら日本に於ては「犯罪的軍閥」は勿論所謂「軍閥」なるものは遠い過去は別として起訴状に示されたる期間中には存在して居った事実はありません。
尤も明治時代の初期に於て封建制度の延長として「藩閥」なるものが実際政治を支配した時代に於ては此等藩閥は同時に又軍閥でもあったのであります。当時此等の者は「閥」即ち徒党的素質をもって居ったとも言えます。
然るに政党政治の発達に伴い斯る軍閥は藩閥と共に日本の政界より姿を消したのであります。その時期は起訴状に言及した時期よりは以前のことであります。その後帝国陸海軍は国家の組織的機関として制度的に確立し自由思想の発生するに及び最早、事実的に斯の如き徒党的存在は許されざるに至りました。
その後政党勢力の凋落に伴い軍部が政治面に擾頭した事はあります。しかし、それは過去の軍閥が再起したものではありません。仮りに検察側が之を指して居るのであったならば軍閥という言葉は当りません。それは軍そのものであり徒党的存在ではないからであります。而してそれは日本の内外より受くる政治情勢の所産であります。
彼の「ナチ」または「ファッショ」のような一部政治家により先ず徒党を組織し、構成して、国政を襲断せるものとは全然その本質及政治的意義を異にして居ります。軍が政治面に撞頭せることについては次の如き政治情勢が重大なる関係をもって居ります。
(一)満洲事変前後に於ける日本の国民生活の窮乏と、赤化の危険に対応する革新機運の擾頭と、陸海軍の之に対する同情
(二)支那事変の長期化に伴い目本の国家体制が次第に総動員体制に移り、太平洋戦争勃発以後は完全なる戦時体制に移り、軍部の発言権の増大せること
(三)右と関連し日本独特の制度たる統帥権の独立が発言権を政治面に増大せること
右の中(一)の事柄、即ち満洲事変前後のことについては私自身の責任時代のことではありませんが、我国の運命に関する事柄の観察として之を述べる事が出来ます。第一次世界大戦後の生産過剰と列強の極端なる利己的保護政策とに依り自由貿易は破綻を来したのであります。
此の自由貿易の破綻は惹いては自由主義を基礎とせる資本主義の行詰りという一大変革期に日本は当面したのであります。斯くて目本の国民経済に大打撃を与え国民生活は極度の窮乏に陥りました。而も当時世界的不安の風潮は日本にも滔々として流れ込んだのであります。斯くて日本は一種の革命期に突入しました。
此の革命期には日本には大別して二種の運動が起りました。其の一つは急進的な暴力革命の運動であります。他の一つは漸進的で資本主義を是正せんとする所謂革新運動であります。
急進的暴力革命派は軍人若くは軍隊を利用せんとし、青年将校等を煽動し且つ捲込まんとしました。その現われが五・一五事件(一九三二年即ち昭和七年)二・二六事件(一九三六年即ち昭和十一年)等でありました。
蓋し、農山漁村困窮の実状が農山漁村の子弟たる兵士を通じて軍に反映して青年将校等が之に同情したことに端を発したのであります。而して軍は二・二六事件の如き暴力行為は軍紀を破壊し国憲を紊乱しその余弊の恐るべきものあるに鑑み、廣田内閣時代寺内陸相に依り粛軍を断行し之を処断すると共に、軍人個々の政治干与を厳禁しました。
他面陸軍大臣は国務大臣たる資格と責任に於て政治的に社会不安(即ち国民生活の窮乏と思想の混乱)を除去する政策の実行を政府に要求致しました。検事側の間題とする陸海軍現役制の復活も此の必要と粛軍の要求とより出たものであります。
斯の如き関係より軍が政治的発言をなすに至ったのであります。検察側の考うるが如く暴力的処置に依り軍が政治を支配せんとしたものではないのであって、以上の如き政治情勢が自ら然らしむるに至ったのであります。
次に(二)の理由即ち支那事変の長期化に伴い総動員体制に移行したとき、又太平洋戦争勃発以後の戦時体制と共に軍の発言権の増大につきては私は関係者の一人としてここに説明を加えます。以上の事変並に戦争のため国家の運営が戦争の指導を中心とするに至りました。そして、それは当然に軍事中心となりました。殊に一九三七年一昭和十二年)十一月大本営の設置せられたる以来、次に述べる第三の理由とも関連して政治上に影響を持つに至りました。
この傾向は太平洋戦争勃発後に於て戦争の目的を達するため国家の総カを挙げて完勝の一点に集中せしむる必要より発した当然の帰結であります。軍が政治面に強く台頭したのは斯くの如き自然的政治情勢の然らしめたところであります。
之を以て軍の横暴というならぱそれは情報の欠如に基く見解の相違であります。之を犯罪的軍閥が日本の政治を支配したということは事実を了知せる私としては到底承服し得ざるところであります。
第三の点、即ち統帥部の独立について陳述いたします。旧憲法に於ては国防用兵即ち統帥のことは憲法上の国務の内には包含せらるることなく、国務の範囲外に独立して存在し、国務の干渉を排撃することを通念として居りました。このことは現在では他国にその例を見ざる日本独特の制度であります。
従って軍事、統帥行為に関するものに対しては政府としては之を抑制し又は指導する力は持たなかったのであります。唯、単に連絡会議、御前会議等の手段に依り之との調整を図るに過ぎませんでした。而も其の調整たるや戦争の指導の本体たる作戦用兵には触れることは許されなかったのであります。
その結果一度作戦の開始せらるるや、作戦の進行は往々統帥機関の一方的意思に依って遂行せられ、之に関係を有する国務としてはその要求を充足し又は之に追随して進む外なき状態を呈したことも少しと致しません。
然るに近代戦争に於ては此の制度の制定当時とは異なり国家は総力戦体制をもって運営せらるるを要するに至りたる関係上斯る統帥行為は直接間接に重要なる関係を国務に及ぼすに至りました。
又統帥行為が微妙なる影響を国政上に及ぼすに至りたるに拘らず、而も日本に於ける以上の制度の存在は統帥が国家を戦争に指向する軍を抑制する機関を欠き、殊に之に対し政治的抑制を加え之を自由に駆使する機関とてはなしという関係に置かれました。これが歴代内閣が国務と統帥の調整に常に苦心した所以であります。
又私が一九四四年一昭和十九年一二月、総理大臣たる自分の外に参謀総長を拝命するの措置に出たのも此の苦悩より脱するための一方法として考えたものであって、唯、その遅かりしは寧ろ遺憾とする所でありました。然も此の処置に於ても海軍統帥には一手をも染め得ぬのでありました。
斯の如き関係より軍部殊に大本営として事実的には政治上に影響力を持つに至ったのであります。此の事は戦争指導の仕事の中に於ける作戦の持つ重要さの所産であって戦争の本質上已むを得ざる所であると共に制度上の問題であります。軍閥が対外、対内政策を支配し指導せりという如き皮相的観察とは大に異なって居ります。

近衛は東條を筆頭とする統制派を共産主義者団体と認定したが、東條の現状分析は確かにスターリン=コミンテルンのものと酷似している。資本主義の全般的危機と資本主義国家の腐朽といった点である。
論証の中心は連合国検事による「共謀」団体=軍閥は存在せず、「軍」が政治団体化したというもので、「閥」を軍隊内派閥あるいは「藩閥」=陸軍内長州派などなかったということであろう。これ自体は検事の論を認めているようなものでなんら反駁になっていない。
官庁系弁護団がいかに英米法に無知であったかがわかる。またこの論から東條は、軍の平時における政治関与、軍の戦時における統帥の独立及び陸海分裂に批判的であったことがわかる。 
 
統帥権の独立

 

二重政府は成立するか
吉野作造は、1922年(大正11年)2月、『東京朝日新聞』に「帷幄上奏論」を発表した。
「国民は多年帷幄上奏をもって、いわゆる二重政府なる日本独特の政治的疾患の根源となし、これによって専横を恣にする軍閥の跋扈を憎んでいた。―中略―
陸海軍大臣は一種特別の地位を保ち、参謀本部海軍軍令部と相連なって軍事に関する専門機関を形づくり、全く内閣の牽制の外にある。国防用兵のことは国務大臣としての陸海軍大臣の輔弼を経たといえればそれで憲法上の要件を具備したわけだが、輔弼は各大臣の連帯責任とし、一般政府の権限に包含せねばならぬという政治的要求からすれば即ち軍事はいわゆる政府各大臣の輔弼の外にあるといってもいい訳になる。
換言すれば輔弼によらざるものがあるゆえに、人民が制度の上で凡ての政治的行動に与ることができない訳になる。政府の輔弼以外に、別個の国権発動の源泉を認めることになるから、いわゆる二重政府の非難も起こる。
この論文は、大岡育造(衆議院議長、明治前期でもっとも新聞社会面を賑わせた花井お梅事件[待合を営む「毒婦」花井お梅が明治20年、雇い人峯吉を殺害した事件]の弁護を引きうけ、人権派弁護士であった)の「明治憲法下では帷幄上奏なるものがあり、総理大臣もこれに関与できず、随意に国庫負担を増加させることができるとすれば、列強は日本の平和主義を疑うであろう」という議会における質問に触発されたとされる。
統帥権をめぐる議論は吉野作造が「二重政府」批判、すなわち参謀本部と文民政府の二つが日本にあると論難したことから始まる。吉野の批判は明治憲法の法理を理解せず、単なるジャーナリスト的批判を与えただけである。
ただし、この誤った議論が軍人に「二重政府」が本当に存在すると思わせた。昭和軍人の暴走=政治干与はこのマスコミの無責任な言論から生じたともいえるのである。
そもそも軍隊とは、政府の保持がなければ存在できない。国軍とは国法によって規制され国費によって賄われ、国民が信頼する国民軍である。元来、国軍は行政府の一部であって、政府と分離すれば、立ち行かなくなる。
陸海軍が国政3権に介入したり、支配しようとすれば、じっさいに実行した軍人が「政治家」になるだけであって、他の行政・司法・議会について責任をもつしかなくなる。
昭和軍人が統帥権の独立=二重政府を叫ぶことが、究極的に外交や議会を支配することにつながったことは、この結果であった。手段はクーデターによるか「サーベルをがちゃつかせる」(永田鉄山)によるしかなかった。つまり、平時における統帥権の独立は明治憲法の法理からの逸脱であった。

明治憲法下の統帥権独立は、法理上、戦時に限られた
帝国憲法(明治憲法)
第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」
以上が戦前猛威を振るったとされる「統帥権」について憲法条項の全てである。ただし、後述の通り、第12条は統帥権について述べたものではない。これではいわゆる統帥部(参謀本部・軍令部)がどのように天皇を補佐するのかは明文化されていない。これは国務各大臣が天皇を輔弼することが明文で示されているのに比べ憲法上の扱いが低い感は免れない。

この憲法11条の解釈は「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦上のこと)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」と美濃部達吉は西園寺の求めに応じ回答している。
つまり平時における編制・常備兵額を軍令部・参謀本部が決定に参画できる権能を有することはない。そして、憲法11条と12条は直接関係がない。
憲法第12条はあくまでも内閣が議会と離れて、編制および常備兵額を定めることができるとしたものだ。これは当然のことでもし軍令部・参謀本部が常備兵額(艦隊の構成)などを決定することができれば予算についても自ら決めることができ議会の権能は失われてしまう。つまり憲法を停止すると同義である。このような乱暴な議論はドイツ・オーストリアなど立憲君主制を標榜する国家でも生じることはなかった。憲法12条がなぜ明治憲法に入ったかと言えば、予算が否決されたさいに天皇の個人財産により支出することで兵力を一時的にせよ維持するという考えがあったようだ。この項目は他国の憲法にはあまりないと思われる。
ロンドン軍縮会議に伴う統帥権干犯問題は、直接には法務官僚の平沼騏一郎が権力欲から海軍に迎合し表に出たものだが、理論的には北一輝ら社会主義者と官僚・軍官僚がこの当然の法理をネジ負げた。驚くべきことに議会でも政友会総裁の鈴木喜三郎が義弟の鳩山一郎と組んで、平沼や軍令部に迎合した。鳩山という人物は金銭にも汚く、育ちがよい家庭を作れたとは思えない。

それでは各種政令等ではどうだろうか。
軍令参謀本部条例では第2条が関係する。
「参謀総長ハ陸軍大将若シクハ陸軍中将ヲ以テ親補シ帷幄ノ軍務ニ参画シ国防及用兵ニ関スル計画ヲ掌リ参謀本部ヲ統轄ス」
これによれば天皇に意見を表明しまたその命令を受けることができるのは参謀総長に限定される。参謀総長はこの権能を通して実際の統帥を実行するのが普通である。ドイツ(第二帝政)では参謀総長は参謀本部と野戦軍すべての人事を総覧し、作戦計画も参謀総長の名前で命令される。ところが日本では人事は陸軍省(大臣・教育総監)が掌握し、戦時の作戦計画とりわけ戦闘序列の発令は天皇の命令(勅令)によるものとされた。
これでは参謀総長の権限は著しく限定されたものとなる(参謀総長の統帥上の命令も天皇から了解を得た動員・開進計画の範囲を越えると奉勅命令「勅命にもとづいた参謀総長の命令」が必要だった。ただ作戦計画は野戦軍司令官が命令するのが建前である。そして動員・開進計画は陸軍予備経費を越えると臨時予算となり議会の承認も必要である。すなわち戦前の軍事行動は参謀総長が独走したものではなく、必ず議会の承認があったことを忘れてはならない。実際参謀総長や参謀本部次長が好戦的であった形跡はあまりない。そして衆議院は男子のみに限定された普通選挙が昭和以降の選挙では実施されていた)。
更に内閣官制では第7条が関係する。
「事の軍機軍令ニ係ワリ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニヨリ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」
悪文で何をいいたいのかよくわからない。意図的にそうしたのだろう。これの解釈は戦時における作戦は参謀総長が天皇に直接報告することがあるが、それ以外は陸軍大臣を通して首相に直ちに報告し、また戦時の作戦についても天皇への報告後直ちに首相に報告する意味だとされる。
この解釈を条文から推定できるのは相当に役所言葉に精通するか、またはこの条項を利用して何か企むものしかいないだろう。ただこの規定に先立つ太政官達内閣職権からはこのようにしか解釈できない。
すなわち参謀総長は陸軍大臣を通じて戦時でも作戦を首相に報告せねばならないのだ。ところが参謀本部は自分の職掌のみを考え作戦遂行に不利のなる意見を首相から言われるのを避け、また首相は陸相や外相すら指導できない状態に陥っていた。すなわち首相が内閣官制にもとづき断乎として陸相に作戦を知らせるよう要求すれば可能だった。つまり戦時の統帥権の独立すら日本には完全には存在していなかった。
ロンドン条約に端を発した統帥権干犯問題は北一輝の造語自体の強さから出たものである。加藤寛治、末次信正の主張は常備兵額(=艦隊)は内閣と独立して軍令部長が決定すべきものだ、というもので、当時の法理全般の解釈とは異なり、当時の言論界でも受け入れられなかった。
そして、陸軍大学の教科書である『統帥参考』や『統帥綱領』の中の統帥権独立は軍令で決められた解釈を越えるものであって、これ自体も異常の説である。そもそも、この二つは軍事機密とされ陸大卒業生や受験生にしか読まれない性格のもので、周知を目的とする法令とは異なる。また素直に『統帥参考』、『統帥綱領』を信じれば天皇の命令にすら従う必要がなくなる。
全体として統帥権の解釈については、軍令や内閣官制の漢字から来る異様な響き(統帥・軍機・軍令・帷幄など)と曖昧さが、単純な混乱を招いたにすぎず、内閣が断乎として法制上の連続性を維持すれば回避できたと思われる。 
俗流統帥論
統帥権は戦時における作戦の秘匿から生じた法理であるにもかかわらず、統帥部強いては軍参謀部、師団参謀部が内閣または上級司令部と独立して軍事作戦を計画・実行できると俗流軍人が思い始めたのは満州事変がきっかけである。
それまでは、政治が統帥に屈することはまずなかった。1928年4月、第二次山東出兵が発動されたが、田中義一首相は第一次山東出兵が空振りに終わったため及び腰であり、4月19日、天津軍のうち3個中隊(小泉大隊)だけ派遣した。ところが済南情勢はにわかに悪化し、第6師団全部を派遣しても追いつかない形勢となった。この急変をうけて、陸軍内で会議がもたれた(出席者:陸相白川義則、次官畑英太郎、参謀総長鈴木荘六、参謀次長南次郎、作戦部長荒木貞夫)。
この会議での出兵強硬論者は荒木貞夫であった。だが、畑は荒木に向かって「君は二言目には統帥、統帥というが、だいたい政治の前には統帥もヘチマもないではないか」と政治の優位を説いた。これは当然であろう。これにたいし荒木は「あなたも軍人ではないか。すでに軍事参議官も集まって、軍としての出兵を決定したのに、政府の反対で、これが蹂躙されてよいのか、こんなことをしていると、憲法の軽視となり、その波及するところ、ついに不測の事態をおこすであろう」と畑に食って掛かった。
このとき、統帥部はこのように内閣に弱かったのである。
だが、張作霖爆殺事件、満州事変(1931年)と進むと、独断専行も統帥権と関係があるように論じられた。いわば緊急避難行為をもって、クーデターが合理化されるようになったのである。そして、大阪ではゴーストップ事件(1933年6月)というような軍刑法(軍律)に関連する事件までもが、統帥権と関係づけられて論じられた。
軍事問題について陸軍に全てを任せる首相、有事法制に熱心さを欠いた議会がむしろ問題で、憲法の条項や陸軍の体質より、軍事問題から逃げ回ろうとする社会そのものが問われるべきだろう。簡単にいえば、軍事作戦では法制と離れて司令官が独断専行せざるを得ない。
事前作戦計画でその任務を与えられていないとしても、友軍や自国の民間人が攻撃され全滅の危機にあるのをみて野戦軍司令官が放置することはいかなる角度からも許されない。つまり、時には事前の計画に反する行動を野戦軍司令官はとる必要がある。原始的には統帥権独立とは軍事作戦でしばしば起こるこういった緊急避難措置に対する免責規定にすぎず、そこから軍事作戦を内閣に報告しなくてよい、とする法理は出てこない。
内閣法制局は、この俗流統帥論を否定することができず、太平洋戦争勃発のさいは、「戦争開始」について軍令参謀本部長が提案した。東條英機や近衛文麿が俗流統帥論を信じていたうえ、下僚も法体系を認識しながら、満州事変に染まり万能感にとりつかれた年代を説得できなかった。東條英機は、俗流統帥論によって発生した「統帥二元」にかえって苦しめられることになった。
俗流統帥権は、「軍事作戦を秘匿する」という本来の「統帥権独立」からの逸脱であった。この見解は吉野作造を淵源とするが、さらに発展させると美濃部達吉の論にいきつく。
元老の西園寺公望から解説を求められ、美濃部はこの明治憲法第十一条について次のように説明した。
「軍令部・参謀本部は帷幄の中(有事における軍事作戦中)にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部・参謀本部の意見を政府はただ参考として重要視すればいいのであって、何らの決定権はない」
戦後になるとこの解説をもって統帥権独立論は成立しないかのようにとられることが多い。天皇機関説はともかくとして、美濃部の「大権=参考にすればよい説」は誤りではないだろうか?
美濃部の大権説に従うと無数の大権ができてしまう。曰く「統帥権」「軍政権」「教育権」「外交権」「財政権」であり、政府の各省・各局ごとにできてしまう。統帥権について憲法で一条を設けていることは、やはり他の「大権」とは違う意味があるのではないか。これが「作戦の秘匿」であろう。
官僚の任務分掌とは、自らの「組織」(局・課)の受け持ち範囲について決めるにすぎないにもかかわらず、「大権」論によって、組織のトップが自身の進退も含めて決定できるかのような錯覚を与えたのである。
荒木貞夫による「真崎教育総監辞任拒否論」や外務官僚による「外交大権論」はその誤りの直接の反映である。 
俗流統帥権独立論の帰結
明治憲法の法体系では、統帥権の独立は存在しない。ところが、陸軍省部軍人は、統制派も皇道派も統帥権独立は存在し、二重政府論、すなわち平時においても内閣の決定に従わない軍令参謀本部の存在を標榜した。
そのうちでも陸軍大学を卒業した参謀将校(天保銭組)は、「専門家集団のみが国家の運命を左右する軍事を指導できる」と理由付け、参謀本部のみが難しい軍事に関与すべきと結論づけた。当然、参謀本部は内閣や司法、議会の干渉を受けない。
昭和5年、陸軍省の山脇正隆大佐は『統帥権について』という論文を書き「統帥の問題は戦争を基礎に考えねばならない。戦争は元来勝利の獲得をもって、先決唯一の目的とするものであって、統帥の良否は直ちに国家の興亡を決定する」と論じた。
これにたいして、2・26青年将校に代表される無天軍人は、軍人勅諭から敷衍される「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」から来る現場の日本人的な「マトマリ意識」、すなわち部下に突撃を命令するさいの「命をオレに預けてくれ」の心情を重視した。「部隊をまとめる指揮官が優秀である」との「体育会的結合」がなにより重要であると発想する。
上官の命令そのものが神聖であり、その命令は部下の心情(例えば、農村の青年の辛苦)を慮らねばならず、さらにその上の「天皇陛下の命令」や「参謀本部の命令」「天保銭組の命令」は、自分と部下の心情に沿わねば無効と考える。
天保銭組=参謀将校の「専門家集団は干渉を受けない」論にしても、現実の戦争ではなく、将来の戦争に備えなければならないとすれば、平時における軍部独裁を合理化することになる。
統制派も皇道派も俗流統帥権独立論では一致しており、陸軍は内閣に従わないか、あるいはクーデターのよって陸軍独裁に突き進むことになった。 
 
戦争の昭和史

 

この章では主題たるべく「太平洋・大東亜戦争とは何であったのか」を述べてみたい。とは言ってもテーマはあまりにも広大で難解である。日本は60数年前になにゆえ世界を相手に戦ったのかは、この章の最後に譲るとして、どのような戦争をして現実に戦った軍人とは、軍部とはどのような存在だったのかに焦点を当ててみたいと思う。それが開戦にも敗戦にも大いに関係してくるものと思う。だからと言って先の戦争をいささかも擁護するものではない。現在の日本は平和そのものだが「平和憲法」を守っていて昔のような軍隊がないから「平和なのだ」といった多分に底の浅い平和論議や「自虐史観」なる大東亜戦争見直し論にも断然与したくない。当時の大国アメリカによって戦争に引きずり込まれたのは事実にしても、軍人や政治家の擁護にはならない。私の父親を含めた310万人の戦死者・戦病死者は抗する術は何もないのである。
私の言いたいのは単純である。「平和」の反対は「戦争」である。平和というものをあくまで願うのなら「戦争」の実態から目を逸らすのは正しくないと思う。私と同じ昭和19年生まれのキャスター・久米宏はそう遠くない以前に「ニュースステーション」なる番組で「僕はなるべく戦争からは遠ざかりたいと思います」という発言をしたことがあった。正論のようにも思えるが、その実、戦争の何たるかは知りたくないという平凡な、歴史から現実から目をつぶること以外なにものでもないように思う。高校生の「日本史」の教育が選択制になっていることにも原因の何割かはあるが、日本全体が老若男女誰しもが、過去の戦争は学者・評論家など専門家に任せておいてなるべく触れたくない、面倒臭いという認識・態度と言って差し支えないだろう。この国では、こと「戦争」のことになると悲惨な状況と、その戦争責任問題になる。戦争の悲惨さを強調してのみただ戦争に反対というのは、戦争に至る過程や原因の究明・分析に踏み込むことに躊躇いや惑いがあるからのように思う。次項で明らかにしたいと思うが、日本人は戦前も戦後も現実に対応し切れないことには忌避する性格があるのではないか。そうした「国民性」は今も昔も変わりがないのではないか。戦争とは国家間の冷徹な政治の世界の原因と結果だと思う。日本人は基本的には「稲作農耕」民族である。稲作農耕の世界には共同システムが必要で無益な戦いは要らない。この地理的風土と気候的風土に育まれたからこそ叙情的・非論理の世界に終始し、その原因や分析は国民的な苦手意識に覆われているように個人的には思う。だがその風潮を非難するのではなく逆に私は、近代史の負の財産として捉えるべきと思うのである。戦後も含む「昭和」の歴史は、貧困・軍閥・戦争・侵略・暗殺・テロ・占領・経済成長と正と負の財産があると言って差し支えない。昭和は決して懐古趣味的なものでなく、昭和の前半は国民的作家・司馬遼太郎の言う「魔法使いがポンと杖を叩いた」かのように「統帥権」を弄んだ結果としての悲惨な歴史であった。2000年の長い歴史の中の20年を狂わせた張本人は、どう弁明しても司馬が晩年まで追求した「統帥権」を持つ大日本帝国の軍人だったのは間違いない。
戦後60年以上を経過して太平洋・大東亜戦争を批判するのは容易い。日本全国民が一路邁進したのは戦前の「軍国主義」が悪かったというのは最もポピュラーな評価である。しからば軍国主義とは、どういう主義で誰がその主義を行使して悲惨な結末に至ったかとなると、大抵は「極東国際軍事裁判」で断罪され、絞首刑になったA級戦犯7人という結論になる。「軍国主義」とは少し詳しく言えば、軍事主導国家主義ということになる。日本はほんとうに軍事主導国家だったのか。天の邪鬼な私は本当に日本が「軍事主導国家」だったのならアメリカという当時の大国と戦争などしなかったのではないかと思う。それでは軍事国家の誰が戦争を始めたのだろうか。アメリカと戦って勝てると思ったのか。戦争を始めたのは勅語を出した昭和天皇だろうか、総理大臣だろうか、よく言うところの大本営の陸・海軍の軍人だろうか。当時の政治を壟断していたのは、あきらかに軍部である。しからば軍部とは何を指すのか、簡単に軍国主義とか軍部とか言っても、3章で述べたように軍の権限は、例えば当時の総理大臣・東條英機に集中していたわけでは決してない。開戦当時、東條英機は陸軍大臣を兼ねていたが、海軍のことには一切口を出せず、戦争を遂行するのは大本営作戦部だった。行政の長に祀り上げられた東條は軍部の陸軍の代弁者に過ぎなかったのではないか。
『「軍部」というのは、参謀本部、軍令部などの作戦部、あるいは陸軍省、海軍省の軍務局など、軍の政策や戦略を司る中枢部のことをいう。そうした中枢部が発する命令、彼らの時代認識から来る戦略がどういうものだったか、それを指して定義するものである』(「あの戦争とは何だったのか」P19)つまり軍部とは言っても、陸軍省・海軍省は行政機関であって、主に軍事に関する戦略・準備、戦争の実際の遂行は大本営だった。大本営陸軍は「参謀本部」、大本営海軍は「軍令部」と称された。今風の言葉で言えば行政側はあくまでハードという装備・準備、そのハードを動かすソフトつまり戦争の命令・遂行は主権者「天皇」の輔翼である統帥権を持つ大本営の軍人だった。従って「軍部」と簡単に言っても組織としては4つの構造から成っていた。当時の内閣総理大臣が「開戦」を決意したにしても戦争を計画したのは大本営、始めたのは陸海軍のエリート軍人だった。因みに昭和16年の開戦時の軍部の責任者は次の通り。
◇参謀本部(大本営陸軍) 参謀本部総長 杉山元(陸軍士官学校12期)
◇軍令部(大本営海軍)   軍令部総長  永野修身(海軍兵学校 28期)
◇東條英機内閣陸軍省  陸軍大臣    東條英機(陸軍士官学校17期・首相)
◇東條英機内閣海軍省  海軍大臣    嶋田繁太郎(海軍兵学校 32期)
この四者が太平洋・大東亜戦争の開戦・遂行・終戦にどう関わったのか、ほんとうにA級戦犯として極東国際軍事裁判で絞首刑を下された東條英機に一切の戦争責任があったのか。「真珠湾攻撃」を指揮して昭和18年4月に戦死した山本五十六なのか。あるいは戦争を許可した昭和天皇なのか、単に「太平洋戦争の戦争責任」と言っても即座に断定できるものではない。しからば「戦争責任」とは何なのか。戦争責任と言えば簡単ではないが、この場合国民に塗炭の苦しみを味わわせたと言った場合、それが軍部だけなのか、政治家は、メディアは、当時の国民には一切の責任はないのか。簡単に現在の平和感覚を以てして過去の戦争に関わる全てを否定することは、反戦にも平和にも決して貢献することにはならない。だが前記4人に関しては、太平洋・大東亜戦争にどう関わったのか。やはり日米開戦には最も責任があると考えて差し支えない。この章の別項で追求してみたい。
平和の反対が戦争と考えるなら、悲惨な結末と惨状のみ強調しがちなテレビ番組的感覚は避けたい。少なくとも次の4点くらいはその触りだけでも考える意欲を持ちたい。
1 戦争はなぜ起きるのか
2 戦争はどうしたら防げるのか
3 戦争に巻き込まれたらどうするのか
4 日本はなぜ戦争を起こしたのか
せめて最低限、このくらいのことは理解しておくべきではないのか。だがこの章では4点全てに詳細な論を展開しようとは思わない。そのスペースもない。それは国家の中の為政者やメディアが率先して追求すべきものであろう。素人ながら付け加えれば未来永劫、イスラム教・キリスト教が存在し、その宗教の教義を克服しない限り戦争の火種は消えないとだけ言いたい。また専門家にしろ個人にしろイデオロギーにおいても様々な「戦争と平和」の意見・主張がある。しかしこの章の最後で「日本はなぜ負ける戦争を始めたのか」で4の理由だけは自分なりに著してみたい。「私の戦争論」の原点はここにある。戦争に突入しなかったら私の父親は戦病死などしなかったのである。この章では大きな理由として、今も昔も世界の大国アメリカとなぜ負けるべくして始めたと言えば、日本とアメリカは国力が1桁違うで国と国であったからと言えば説明がつく。小学生でも簡単に答えられるやさしい問題である。ここでは分かり切ったこと、戦争は悲惨だからという感情論を廃し、日本の戦争の典型的な作戦の原因と結果を論じてみたい。そこに見えてくるものは論理的・合理的計算は殆ど為されていないのである。
『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』(中公文庫)という優れた文庫の書がある。この書は「なぜ戦争に負けたのか」「なぜ負ける戦争に訴えたのか」でなく、個別的作戦における共通の失敗の組織論的研究である。6つの作戦とは次の通りだが、太平洋・大東亜戦争の分岐点とも言うべき作戦であり、また日本の軍人に多数の死者を出したからこその研究でもあろう。これは悲惨な結末とか、残酷な結果とを象徴している訳ではない。日本の軍隊の典型的な失敗を抽出しているのである。日米開戦前の無謀な作戦も含まれる。1ノモンハン事件(昭和14年)2ミッドウェイ海戦(昭和17年)3ガダルカナル作戦(昭和17年)4インパール作戦(昭和19年)5レイテ海戦(昭和19年)6沖縄戦(昭和20年)に分別されている。
ここですべての作戦の詳細と解釈は、専門家ではない私でさえ膨大なページを必要とする。この章では『インパール作戦』についてのみ述べてみたい。そこには一人の功を焦る陸軍中将の思惑から博奕のような出鱈目な作戦の実態が浮かび上がる。その陸軍軍人とその上官は大量の戦死者を出した悲惨な結末の責任を問われることなく、戦後20年も生き仰せたのである。つまり自国の多数の無惨な兵士の死は、アメリカへの開戦・遂行責任ではないのだからという理由で犯罪にはならなかったのである。陸軍士官学校22期卒業、陸軍中将・牟田口廉也(むたぐちれんや)という軍人に、私は大日本帝国の矛盾が最も凝縮されているように思うからである。この作戦は前掲の『失敗の本質』に限らず太平洋・大東亜戦争のどの本にも必ず触れられている作戦である。因みに結論から述べて置けば、8〜10万人の兵員が導入された「インパール作戦」は戦死者が7万人におよび、生存率は10パーセントに満たなかった。しかもその大半が戦闘行為でなく病死・餓死だったのである。
大本営陸軍部、すなわち参謀本部は、昭和18年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を許可した。だがどの昭和史の書でもその作戦計画は極めて杜撰と指摘されている。川幅の広いチンドウィン川を渡り、更に標高2000m級の山の連なる剣呑なアラカン山脈のジャングル内に分け入り、かなりの長距離を進撃しなければならなかった。日本で言えば東京と岐阜の距離を、箱根を越え、南アルプスを越え木曾川を渡るようなものだった。川の両岸は日本の河川敷のようなものはなく断崖に近いものであったという。むろん高速道路があるわけはなく、道とは言え杣道である。雨季になればどろんこ道だった。その距離を3週間で歩くのである。さらに言えば補給が全く軽視されたと言うより無視されたのである。それでイギリス軍に勝てると思ったのか、いわゆる援蒋ルート(中華民国・蒋介石を援助する連合国の補給ルート)を断ち切れると思ったのだろうか。作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘された。当初はこの15軍の上の「ビルマ方面軍」「南方軍」「大本営」までも上級司令部がその実施に難色を示していたのは当然である。
平成4年12月から6回に渡ってNHKで「ドキュメント太平洋戦争」という番組があった。6回とも綿密に取材された番組だった。平成7年には文庫化され「太平洋戦争 日本の敗因」という本になった。4回目は「責任なき戦場インパール」である。VTRでも文庫でもその拙劣で無茶な作戦が余すところなく語られている。とくに映像には臨場感があり訴えるものがある。第15軍の参謀長・小畑信良陸軍少将(陸士30期)は、20年を経験する輜重(しちょう)隊のベテランだった。輜重とは兵站(へいたん・戦争物資の補給)部隊のことである。小畑は兵站の推進能力を計算し、この作戦はできないと断定した。参謀とはスタッフであって指揮官ではない。強気で傲慢な牟田口が参謀の言うことなど聞く耳は持たなかった。小畑はこの無謀な作戦をむろん兵站の立場から、いわば取り付く島のない牟田口でなく15軍の中でも18師団の師団長、田中新一中将に大本営からの補給はあるのかと訊く。子細は省くとして第15軍司令官を無視して一師団長に上級の意向を確認したのが徒になった。ことの是非・内容ではなく統帥の秩序を乱したというのである。私は小畑は大阪出身らしくきわめて現実的で正しいと思う。詳しくは触れないが、大本営にも南方軍も当初はこの作戦は否定的だった。だが反対者は小畑も上級の将校も結局は罷免される。すでにここに「戦争に勝つ」という単純な動機の具体的準備は考慮されず、多分に忌避され命令系統を乱したという極めて日本的な組織の論理がまかり通るということである。
牟田口の言い分は、
「わたしは盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は更に拡大してしまった。遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としても、まさにこのうえなきことである」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P57)というもの。
今から思えば止せばいいのに、と思うばかりである。何が「男子の本懐」だと言うのか。ここに当時の軍人の傲岸不遜ぶりが解ろうというものである。だが昭和19年初頭、最終的に認可されたのは、敗北続きの戦局を一気に打開したいという陸軍上層部の思惑が強く働いていたのである。この頃、東條英機首相は陸軍大臣も参謀本部総長も兼ねた独裁者だった。東條とすれば戦局打開と大東亜共栄圏死守のために昭和18年11月、東南アジアの指導者とともにインドのチャンドラ・ボースを招集、大東亜会議を開き、内外へのプロパガンダを狙った。ここは放送にも文庫にも収録されているが、翌年昭和19年の2月の作戦会議では「ビルマ方面軍の中永太郎参謀長(陸士26期・少将)ら反対意見の正論を言う者たちを、牟田口司令官が強引に押さえ込むという様相で進んだ。当初から後方補給が問題点だったが、計画案はそれを無視し、各部隊が三週間分の食糧、弾薬を持って一か月以内にインパールを攻略するということが骨子に変わりはなかった。補給は初めから諦めて、所持していくことにしたわけである」(「前掲書」P94)
ここで叙述は少し横道にそれる。この補給や情報無視の作戦は様々な「昭和史」の本で指摘されるところである。戦争の個々の細かい失敗に詳しい『日本軍小失敗の研究』という文庫がある。ここにもインパール作戦が触れられている「司令官の牟田口は過敏な神経の持ち主で、日頃から持ち歩いている鞭で自分の幕僚さえ叩くような男であった。そのためもあって、部下は意見を述べることを控えていたと言われる。したがって、補給手段の強化といった進言も、一人として言い出す者がいなかった。そしてそれが、数万人という餓死者につながったのである」「陸軍の場合、常に「兵隊がいて、小銃と弾さえあれば戦争はできる」と考えていたようである。そしてまた、歩兵の突撃によってすべての敵を圧倒できると信じていた。この考え方は、太平洋戦争でもまったく変わっていなかった。日清、日露戦争の勝利さえ、冷静に分析すればそのすべてが薄氷の上を歩くようなものでった事実が理解できたはずである。倣り高ぶった陸軍首脳は、それに気づかず前線の兵士に無用な犠牲を強いていた」(「日本軍小失敗の研究」P32)つまり第一線の現場では極めて日本的な「触らぬ神にたたりなし」ということである。
著者の三野氏の日本の軍隊が日露戦争以来の「白兵突撃主義」だったという指摘は理解できるが、私に言わせれば「エリート軍人が、それに気づかなかった」というのは少し違うと思う。「知っていて改善することをしなかった」というのが正しいと思う。軍を維持するのに懸命な軍人が「戦争に勝つ装備」には関心がなかったのだと思う。軍人は兵隊を人間として扱うのでなく、いくらでも補充できるモノとしての存在であったのではないか。このことは次項で軍隊の編成と共に「大日本帝国軍人の人間関係」として著したい。ここでは一人の兵隊が背負い、携帯する装備に触れて置きたい。
「費用の問題も当然あるにはあったのだろうが、日本陸軍には、強力な戦車、装甲車を揃えての機甲戦術、あるいは自動貨車(トラック)を大量に使用した機動戦術を採用しようとした努力も、また本格的に研究しようとした痕跡も見られなかった」「日中戦争に駆り出された歩兵は、40ないし60キログラムの荷物を肩に、連日行軍しなくてはならない。これは召集されたばかりの二等兵も同じであった。昭和10年頃の日本の成人男性の体格の平均は、身長160センチ、体重55キロといったところであろうか。本当にこれだけの重量の装備を持ち歩いたのかという疑問も生ずる。
◇三八式歩兵銃3.9キロ
◇銃弾120発、銃剣1挺、手榴弾2発、擲弾筒(てきだんとう・小型の迫撃砲)の砲弾5発、合計約10K
◇鉄帽(鉄かぶと)、皮製の剣のさや、銃弾入れ2個、兵器の手入れ用具一式、小型シャベル、ガスマ スク、合計約10キロ
◇食糧、米7日分6キロ、乾パン、缶詰、味噌、醤油、合計約8キロ
◇衣類の予備、地下たび、水筒、飯食、携帯テント、洗面具、筆記用具、これを入れる雑嚢(リュックサック)合計8キロ。これだけで約40キロである。夏ならこの程度ですみそうだが、冬ともなれば、毛布2枚、厚手のコート、携行燃料なども持っていかなくてはならない。加えて二等兵は、銑弾の予備(約60発)、擲弾筒の砲弾の予備(5発、1発の重さは800グラム)を持たせられたのである」(「日本軍小失敗の研究U」P29)これが平地での基本である。インパール作戦の司令部では、インパールまでを平地でしか計算しなかったらしい。これでは戦争に行くのではなく自殺する準備と思われても仕方ない。私は日本軍が局地的にそれまで勝利したのは装備が手薄な中国大陸でのことだと思う。
このインパール作戦が発令されるビルマ方面の当時のヒエラルキー(組織の主従関係)は、次の通り。(祭・烈・弓の名は師団の通称である)
◇大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山元元帥(陸軍士官学校12期)
◇南方軍総司令官             寺内寿一元帥(陸軍士官学校11期)
◇ビルマ方面軍司令官          河辺正三中将(陸軍士官学校19期)
◇第十五軍司令官             牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)
 第十五師団(祭)師団長           山内正文少将(陸軍士官学校25期)
 第三一師団(烈)師団長           佐藤幸徳少将(陸軍士官学校25期)
 第三三師団(弓)師団長           柳田元三少将(陸軍士官学校26期)
この時点でも大本営にもまだ良識ある軍人も居た。大本営作戦部第1部長、真田穣一郎(陸士31期・少将)は「作戦は無理なので思い留まってもらいたい」と南方軍綾部橘樹(きつじゅ)副長(陸士27期・最終階級は中将)に言うが、大本営杉山参謀総長の「寺内さんのたっての要望であり、できる範囲で希望通りやらせてよいではないか」の発言で作戦は決定した。(「前掲書」P97)杉山は陸士で寺内より1期後輩でありながら、上官の立場で先輩に華を持たせようとでも思ったのか。この杉山元(はじめ)参謀総長は、昭和天皇にはひどく評判の悪い軍人だった。この章の最終項で少し触れたい。ビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍では、インパール作戦実施を強硬に反対した総参謀副長稲田正純(いなだまさずみ・陸士29期)少将が東條英機首相によって昭和18年10月に更迭され、第15軍内部でも作戦に反対した軍人は牟田口自身によって直接罷免された。次第に無謀な戦いの空気は醸成されて行くことになる。
ここでインパール作戦開始後の師団長の解任(昭和19年5〜7月)まで、罷免された軍人を整理して置きたい。
◇南方軍                     稲田正純少将(陸士29期)昭和18年10月解任
◇ビルマ方面軍                中永太郎少将(陸士26期)年月理由不明
◇第十五軍参謀長             小畑信良少将(陸士30期)昭和18年05月解任
◇第十五軍第十五師団(祭)師団長 山内正文少将(陸士25期)昭和19年06月解任
◇        第三一師団(烈)師団長 佐藤幸徳少将(陸士25期)昭和19年07月解任
◇        第三三師団(弓)師団長 柳田元三少将(陸士26期)昭和19年05月更迭
これまでに私は、インパール作戦に関する軍人の陸軍士官学校および将官位を記述したが、後述するが上官の命令は絶対であったがゆえと言いたいのである。上記の小畑以下の4人の軍人は調べれば調べるほど理性的・理知的軍人であったようだ。ここがインパール作戦の最大の悲劇なのは、司令官の牟田口廉也がひたすら猪突猛進型の軍人なのに対し、三人の師団長は揃って全く逆に理性的・合理主義的発想の欧米型の軍人だったことにある。「第33師団の柳田元三師団長は陸軍大学在学当時から合理主義的発想を好むタイプとして知られ、空虚な精神論を侮蔑していた。第15師団長の山内正文は、昭和初年代にアメリカの陸大に留学を命じられ、そこを最優秀の成績で卒業しているし、昭和10年代にはアメリカで駐在武官をつとめ、アメリカ軍の事情にも精通していた。山内も牟田口のようなタイプを軽侮していた。さらに第30師団長の佐藤幸徳は、インパール作戦そのものに不信感をもち、補給も十分でない状態で兵士を戦線に送りだすことはできないと主張していた。兵士思いの師団長として下僚に慕われていた。
牟田口は三人の師団長がよほど煙たかったのか、一月に各師団に作戦計画を示達するときに、三人の師団長を第十五軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下した。三人の師団長はとくべつに打ち合わせをしていたわけではなかったが、ともに牟田口に対して反感をなおのこと強くもつにいたった。これが作戦開始後に抗命、罷免、更迭といった事態を生むことになった。三人の師団長と牟田口の対立は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立という側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースともいえたのだ」(「昭和陸軍の研究・下」P197)
私はもとより近代史の専門家ではないが、それにしても「ある作戦」の起案はどういう目的で誰が作成してどういう経路を辿り、あるいは報告されて認可されるのか、よく解らない。全ての作戦の決定権は大本営にあることは解る。「インパール作戦」が牟田口の多分に昇進狙いの冒険であり、思いつきであるのが解らないではない。昭和18年4月、真珠湾の攻撃で名高い山本五十六の戦死、「ガダルカナル戦」では無残な敗退を余儀なくされた。敗色の影が忍び寄る「帝国陸海軍」が、牟田口の思うようにインド東部が攻略出来れば、東條英機も日本国民も喜ぶであろう。だが牟田口はビルマ方面軍の第15軍の司令官にすぎない。一人で大軍を動かすことは不可能である。昭和18年6月、ラングーンで第15軍は「兵棋研究」を行った。(「前掲書」P79)「兵棋演習」とは机上での想定作戦である。この研究はビルマ方面軍司令官以下、第15軍の司令官、参謀も全員参加した。更に上級の南方軍、大本営からも参謀が参加した。結果は「ノー」であった。私はここに「インパール作戦」の重要なポイントがあるように思う。「日米開戦」と一つの作戦の開始の動機があまりにも似ているからである。第一線を経験してきた理知的軍人の判断、大阪出身の具体的な兵站のベテランの反対があったにもかかわらず、作戦は決定される。「インパール作戦」は一旦は沙汰止みになったかに思われた。兵棋研究の後の半年間の「大本営の本意」は謎であるらしい。記録が無いからである。ここで想起されるのが前述の通り昭和16年春からの「日米開戦」までの経緯と相似していることである。猪瀬直樹氏の「空気と戦争」は昭和16年春の若手官僚の模擬内閣が出した結果を詳述している。すなわち「日本は緒戦の勝利を見込んでも物量において日本の勝機はない。戦争は長期となり、ソ連参戦すら招く」とまで完璧な結論だった。東條英機は青ざめ、こめかみが震えていたという。計算と現実は違うと口外厳禁を命じた。しかし今、思えば当事の若手官僚の緻密な計算予測はあまりにも正確だった。
元朝日新聞のインパール作戦従軍記者の丸山静雄は「準備命令というのはね、これは一種の責任逃れですね。何も大本営は、やれといっているんじゃないんだと。やる場合に備えて準備せよといっているだけなんだと。でもこれはエクスキューズ(注・「弁解」より「言い訳」が相応しい)でしょう。確かに準備命令というのは、その作戦をやれとかやるなということにいっさい言及していないですね。要するに『作戦の準備をせよ』ということだけをいうんですよ。そうすると、どうにでもエクスキューズができるんですね、大本営としては──しかし、それを受け取る側の立場について考えると、これはもうインパールの場合に限らず、準備命令というのは、やれということを前提としての命令だ、というふうに、みんな解釈するんですね。というのは、やらなければいいけれども、もしやることになった場合、準備というのは簡単にすぐできるもんではないですからね。かなり時間がかかるし、いろんな費用もかかるでしょう。だから、そういう命令が出た以上は、準備する。準備というのは、やる場合を前提としての準備ですからね。そうすると、支那事変でも日中戦争でもそうですけど、だいたい準備ができてくると、やっぱりみんなそれに自信を持ってきて、やりたくなるし、準備命令が出た場合には、結局、実行してますね。要するに、指導部はいつもそうした無責任な指示を出すんですね」(「前掲書」P88)前述のキャスター久米宏は「人間、武器を持ったら使ってみたくなるもんです」という発言もあった。この場合久米の指摘は当たっているのかも知れない。久米がこの「準備命令」や海軍の「出師(すいし)命令」に詳しいとはとても思えないのだが…。
半年後にまたも、今度はメイミョウで兵棋研究が行われる。だがその直前、南方軍の稲田正純、ビルマ方面軍の中永太郎も解任されていた。この誰が見ても無謀な計画が、会議で議論された。出席した南方軍の今岡豊後方担当参謀(陸士37期・大佐)は次のように証言する。「私はちょっと心配だったものですから、研究の時に、ほんとうに一か月似内にインパールを落とせるのなら何とかなるでしょうが、もし作戦が頓挫してひっかかったらどうしますかと聞いたんです。そうしたら作戦主任の木下さんが真っ赤な顔をして「絶対にそんなことはありません!」と言うもんですから…、牟田口さんも、その通りだということでね、私もああそうですか、と言って聞いとったんですが…。私は現地を充分見てないし、詳しい資料もなかったし、だいたい作戦関係のやつらが誰も何も言わないんですよ。(中略)その間題はそこで終わってしまったんですよ」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P94)もうここに「空気」は醸成されていたと言っていい。
第31師団の師団長、佐藤幸徳は陸士25期、当時は少将、牟田口は22期で中将、この3年の違いがインパール作戦の悲劇とも言える。佐藤は豪放磊落で上司にもずけずけものを言う軍人だったらしい。太平洋・大東亜戦争の書に接すれば接するほど、科学的・合理的な物理的正論を言う軍人は、牟田口のような傲慢不遜で軍人精神一辺倒の将校には極めて日本的な情実で外されたらしい。典型的な例が東條英機と満州事変を起こした石原莞爾の関係である。この指摘は次項にする。
昭和40年代『日本人とユダヤ人』の名著で知られる山本七平も、九死に一生を得た体験を『一下級将校の見た帝国陸軍』でジャングルでの行進と戦いを微に入り細に入り語っている。山本は九死に一生どころではない。「九百九十九に一生」を得たとも形容できる将校体験をしている。「いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである」(「一下級将校の見た帝国陸軍」P303)山本の指摘は正鵠を得ている。上官の命令は「天皇の命令で絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのである。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。  
 
太平洋・大東亜戦争とは何だったのか [戦争の昭和史]

 

「昭和19年1月7日に「インパール作戦」が正式に発令されたのち、第15軍下の3個師団は急ぎその準備を進めていた。いちばん険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動道路の開設と、物資の集積に懸命だった。それともう一つ、五千頭もの牛の訓練に追われていた。牟田口司令官は、現地の農民から一万頭以上の牛や羊を調達せよという命令を出していた。それらの動物に物資を運搬させ、目的地に着いたのちは食糧にしようという計画で「ジンギスカン作戦」と自画自賛した。だが、この牛の群が、逆にイギス軍に作戦を察知される要因にもなった」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P143)これは今だから言えるのかも知れないがこんな準備で連合国へ立ち向かうことができると思ったのか。事実は違うらしい。私には圧倒的なアメリカの物力で敗色濃い太平洋戦線から目を逸らし、当初は非力だったイギリス軍に勝利したことが終始念頭にあったのではないか。前述の陸軍大学の教育を簡単に言えば、歩兵・砲兵を主力とする指揮官の育成が主流で重用され、情報・兵站という地味な部門は軽視されたことにある。ここでも各師団の具体的な一人の兵が所持する荷物が記述されている。つまりは補給なしの三週間分の食糧・弾薬を携行して、一気にインパールを攻略するという日本軍の相変わらずの理知的計算・情報無しの短期決戦計画だった。それが一人の持ち運べる量から計算した三週間の根拠だったらしい。第31師団58連隊第二大隊の副官だった亀山正作中尉の話では、
『当時の兵隊の定食は、一食2合、一日6合だった。それの3週間分というと、だいたい重さ18キロぐらい。それに調味料や副食もありました。それから小銃弾240発、手榴弾6発、着替え、鉄帽、穴を掘るための円匙(シャベル?)、天幕、雑嚢(布製カバン)、雨外套、防毒面、水筒など全部で40キロになりますよ。とくに軽機関銃のような弾をたくさん発射する火器を持った者は、弾丸をよけい持たなければなりませんから、50キロぐらい背負ったでしょう。そうするとね、休憩になると、兵隊は全部、上を向いて引っくり返るんですよ。自分一人では起き上がれなくなってしまうんです。前で手を引っ張ってもらわないと。これで2000メートルからの山を、いくつも登ったり降りたりして戦争しに行ったんですからね」「では、作戦が頓挫したときは、食糧はどうするのか。軍では、ジャングルに生えている野草を食べる研究を、大真面目で行なっていた。牟田口司令官は、兵士たちに次のように訓示した。「日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのは、ありえないことだ」』(「前掲書P147)この牟田口の考えは、後世の我々はどう理解すべきなのか。後述する「馬鹿の4乗」の一角を占めるとすれば簡単だが作戦展開を科学的・物理的に考慮したとは全く思えない。牟田口が「ムチャグチ」と言われる所以でもある。
物資の不足から補給・増援が約束されないのに、3月8日、第15軍3個師団を主力とする日本軍は(8〜10万人とされる)予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は3方向よりインパールを目指すことになった。だが作戦が順調であったのはごく初期のみだった。牟田口が自画自賛した「ジンギスカン作戦」は、すぐ頓挫する。家畜の牛は映像で見ても痩せている。チンドウィン川という大河では、大半が流されて水死、さらにジャングルや急峻な杣道では兵士が食べる前に脱落・破綻した。またこの多数の家畜の移動がイギリス軍の格好の標的にもなった。爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸したと言う。さらに急峻な地形は重砲などの運搬を困難にした。映像ではトラックを解体して、兵員が分散して担いで行軍するという驚いた行為である。これでは戦う前に移動そのものが兵力の消耗と言って過言でない。各師団とも前線に展開したころには戦闘力を既に消耗していた。1000キロになんなんとする山河を一人の兵隊が40〜50キロの荷物を背負って越えて行くのである。「牛の連行は著しく行動を妨害した。牛鞍に積んである荷物は下り斜面には牛の首の根元まで下がって、この可憐なる動物は全く動けなくなるのである。また上り斜面にかかると、この荷物は牛の尻の方からするすると抜けてしまう。目的は急進である。一瞬といえども停滞を許さない。食糧がなくなる。後方からの補給は空挺隊のために全然見込みがない。予は断固として、部隊ごとに放牧に適する箇所に放牧するよう命令した」「それでも第31師団は、4月5日にはインパールの北方の要衝コヒマまで到達した。途中数か所で敵と激しい戦闘を交じえ、多数の死傷者を出しながらも、目標地点まで目標の日数でたどりついたのである。しかし、持っていった食糧は、ほとんど食べ尽くしていた。問題はここからだった。連合軍はコヒマ方面に兵力を増強し、反撃に転じた。コヒマの南西、インパール方向への道路が山腹をぬって走る丘陵地帯、いわゆる三叉路高地をめぐって、両軍の激しい戦闘が繰り返された」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P151)
物資が欠乏した各師団は事実上ここまでが戦争の態をなしていたと言っていい。各部隊が補給が来るのを信用したのは当然だろう。だが事実上補給は無いに等しいものであったろう。戦争行為は3週間と決めてあったからである。「4月に入ると、食糧は輸送部隊のところにさえ来なくなった。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えていった。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになった。大砲の重い弾を一人2発を背負って、山道を前線まで歩いていくのである。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。山道での担送はつらい仕事だった。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった」(「前掲書」P174)余談だが私ならいくら鍛錬しても50キロを背負ったなら1キロと持たないであろう。冗談ではなく東京・岐阜の距離なら私なら多摩川を越せないで、心臓麻痺でも起こしているに相違ない。
4月に入って雨季が始まり、いわゆる補給線が伸びきった中で、アメリカの物資の支援を受けた空路からのイギリス軍の強力な反攻が始まった。前線では補給を断たれて飢える兵が続出、死者・餓死者が大量に発生する事態となったのは当然である。飢えや戦傷で衰弱した日本兵はマラリアに感染する者が続出し、戦争どころではなくなった。もともと長距離を基本的には徒歩で移動する物理性を無視したこの「インパール作戦」が科学的・医学的に考慮などされていないのは当然である。飛行機・車など決定的に脆弱な日本軍は、雨季のしかも山岳地帯での戦闘行動は無理そのものである。しかし牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわった。この日付にこだわったのは解らない。3月8日から3週間の予定では3月末ということになる。糧秣も弾薬も途切れているのが解らなかったのか。「作戦決定過程でも、方面軍や南方軍の指揮官たちに、天長節までには必ずインパールを落として見せます、というのが口癖のようになっていた」(「前掲書」P176)。それが事実ならこの作戦は最初から出鱈目である。なぜなら作戦開始以前から3週間の物量なのに3月末から4月末までの1カ月間の物量はどう考えたのかである。小学生でも解る算術である。
むろん天長節になってもインパール作戦が成功するわけはなかった。平成5年の映像ではかなり若く見えるが70歳前後であろうか、第31師団への補給部隊、独立輜重兵第2連隊の本田孝太郎少尉の部隊では「五月に入っていよいよ食糧が底をつきはじめていた。小隊一〇〇人の一日分が、手の平一杯ほどの米になっていた。それをジャングルの野草といっしょに煮て食べた。タケノコや野イチゴはもちろん、ヘビ、カエル、カタツムリ、食べられる物は何でも食べた」(「前掲書」P177)。映像では、かなりあっけらかんとその時を回想している。だが事実は凄まじいものであったらしい。栄養失調と霖雨で兵士はマラリア、アメーバ赤痢、デング熱で倒れる者が続出したという。
私には医学的知識はないが、人が死んで遺体が白骨化するにはある程度時間がかかるだろうと思う。しかし亜熱帯のビルマ(現ミャンマー)でのハエとウジ虫の実態はすさまじいとしか言いようがない。映像でも文庫でも第15軍司令部・中井梧四郎中尉が赤裸々に語っている。ジャングルの中での遺体は3日で白骨化したという。その様子はここには詳細には記述しない。
「前線から後方へ退がってくる兵隊たちは、日増しに多くなっていった。栄養失調でガリガリに痩せ、血便をたれ流しながらボロボロの軍服で歩いてくる。服を着ている兵隊は、まだよかった。ふんどしもなく、バナナの大きな葉を腰に巻いたり、ほとんど素っ裸の者もいた。すさまじい雨と泥のせいで、着ている物がボロボロになっていくのである。30センチもの泥の中に両足を突っ込み、立ったまま死んでいる者もいた」(「前掲書」P182)弾も食糧も尽きた日本軍将兵の状況は、いよいよ限界に近づいていた。第31師団の佐藤幸徳師団長は、5月25日、第15軍司令部に電報を打った。「師団は今や糧絶え山砲及び歩兵重火器弾薬も悉く消耗するに至れるを以て、遅くも6月1日迄には『コヒマ』を撤退し補給を受け得る地点迄移動せんとす」(原文は漢字カタカ文)驚いた軍司令部では、対策を協議したが、とにかく佐藤師団長の翻意を促すことにして、返電した。「貴師団が補給の困難を理由に『コヒマ』を放棄せんとするは諒解に苦しむところなり。尚10日間現態勢を確保されたし。然らば軍は『インパール』を攻略し軍主力を以て貴兵団に増援し、今日迄の貴師団の戦功に酬いる所存なり。断じて行えば鬼神も避く」(「前掲書」P183)
司令部はビルマの軽井沢というメイミョウにあり、牟田口は戦線の実情を知ってか知らずか督促の電報しか出さなかったようである。6月1日朝、佐藤師団長は独断命令を下達し、第31師団をコヒマから撤退させた。上官の命令を逆らうのは決して大仰ではなく、師団長と言う陸軍の要職にある者が、上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件である。6月1日に兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却させた。だがウクルルにも弾薬・食糧が無いところから更に独断で更にフミネまで後退した。陸軍刑法に反することは佐藤は覚悟した。「師団長は親補職と呼ばれ、天皇自らが直々に任命する要職である。その師団長が軍の統帥を無視することは、日本陸軍という組織を根本から揺さぶる大事件だったのである」(「前掲書」P184)だが佐藤には軍人としてより人間的心情があったようである。しかしこうした果敢な決断でも撤退は悲惨な状況に追い込まれる。どの太平洋・大東亜戦争の書にも紹介される「白骨街道」はこの撤退が更に追い討ちを掛ける。
ここから先は「昭和陸軍の研究・下」(P209〜219)に紹介される件である。
インパール作戦に従軍した第15軍のなかの三個師団は、第15師団が京都・滋賀の連隊、第33師団は水戸・宇都宮・高崎、第31師団は高田・福岡・奈良の連隊を中心に編成されていた。15師団の主として第60連隊に組み込まれ、インパール作戦に従軍した生存兵士は少なからず京都周辺に住んでいる。平成2年頃の戦友会の機関紙に掲載された詩である。
ジャングルを行く、
目指すはインパール/知らされたのはその一言/唯一の指針は/複写された英軍の/二十五万分の一の地図/二十日間の糧株/携行兵器、手相弾/任務だけが肩に重い
夜半の敵前渡河/たよる地図にも/谷の深さは未知数/山路の上り下り幾度か/突如地図の道路は消えた/あとは遮二無二進む/ジャングルの迷路
無気味な敵機の飛来/轟く砲声が烈しさを増す/若さと責任と体力と/不屈の精神が/灼熱の暑さをふっとばし/汗にまみれ泥にまみれ/死を想い生を省みる暇もなく/朝に夕に一向(ひたすら)進む
これが戦争なのか/明日の生命もわからぬまま/漆黒のジャングルを/ただ進む
末期の水
やっと見付けた 小さな流れ
先着の二人の兵がいる
「おーい水はきれいか」
返事が反ってこない
どこで傷ついたか 病を得たのか
座ったままの後姿
軍服の主は 既に 白骨化した君
髑髏(しゃれこうべ)は無言でいつまでも
水を飲み続けている
「インパール作戦では、いちばん南の第33師団は、カレワからティディムを通って、インパールを真南から攻略する計画だった。途中トンザン、シンゲルで激戦を繰り広げ、連合軍は北へ逃走したが、この時の師団長指揮が第15軍司令部で問題になった。せっかく敵を包囲殲滅するチャンスがあったのにみすみす逃がした、これは作戦が消極的すぎる、いわゆる「統制前進」ではないか、というのである。柳田元三師団長は、臆病風に吹かれているといわれた。牟田口司令官は、この時の柳田師団長の指揮を激しく非難、5月になって師団長を更迭した。また、ヌンガ、サレイコンなど西方からインパール平野に迫ろうとしていた第15師団では、山内正文師団長が病いに倒れた。病気を理由に、山内師団長も6月に解任された。そして、第31師団の佐藤師団長は、7月に、独断撤退を責められて解任される。作戦中に、当該師団の師団長が全員解任されるというのは、たいへんな異常事態である。もはや第15軍は、組織としての体を成さなくなっていた」(「太平洋戦争 日本の敗因4」P201」だが日本の軍部の上層部とは何とでたらめなのだろうか。4月末、大本営の秦彦三郎参謀次長(陸士24期・中将)がビルマを訪れた。むろん秦が実情を知る由もない。帰京後、東條英機参謀長に報告した。
東條参謀総長は「戦は最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と怒鳴ったという。東條は5月16日に、天皇に次のように上奏した。「インパール方面の作戦は昨今精々停滞が御座いまして前途必ずしも楽観を許さないので御座いまするが、幸い北緬(北ビルマ)方面の戦況は前に申し上げました如く一応大なる不安がない状況で御座いますので、現下に於ける作戦指導と致しましては、剛毅不屈、万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」(「前掲書」P204)
私には意味不明の状況報告にしか思えない。昭和天皇はこんな上奏の東條をよく信用したものである。だが「サイパン島陥落」も相俟って昭和19年7月18日に辞任に追い込まれる。私には遅きに失したと思う。更に言えば東條内閣崩壊を以て戦争は終結すべきだった。
私のこの章ではここでやっと顔を出すことになるが、第15軍を統括したのはビルマ方面軍である。指揮するのは河辺正三(かわべまさかず・陸士19期)中将である。むろん恩賜の軍刀組でエリートである。陸軍大学同期に東條英機、本間雅晴、今村均(ひとし)などがいた。東條は陸士では2期上だから東條は2年の浪人ということになる。河辺は5月末前線に赴いて戦場を視察する。『日記』には「小部隊ヲ見テ憐憫ノ情ニ堪エズ。嗚呼是誰ノ責カ」と書いた。
戦後書いた『日記抄』には、6月6日の項に註として次のような記載がある。「(註)牟田口司令官の面上にはなお言わんと欲して言い得ざる何物かの存する印象ありしも、予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る。この感想は遂に当年の日記にも誌しあらずといえども、情景は今なお彷彿す」
これに対し牟田口司令官は、戦後の『回想録』で、この時の会談について次のように書いている。「私は河辺将軍の真の腹は、作戦継続に関する私の考えを察知すべく脈をとりに来られた事は充分に察知した。私は最早、作戦断念の時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても将軍にこれを吐露する事は出来なかった。私はただ私の風貌によって察知して貰いたかったが、河辺将軍は後日当時を述懐されて、牟田口の顔貌ではこれを察知することが出来なかったと申して居られる。当時私の意気なお軒昂たるものがあったかも知れぬが、一にはまた河辺将軍自らが断念したくないとの御考えであったが故に脈がとれなかったかも知れない」(「前掲書」P207)
大本営にも日本軍のインド進攻の戦略があったにせよ、あれほど「男子の本懐」とせがんだ!牟田口の強硬な作戦であったはず。なぜか自信もあると言った。私の顔色で判断して貰いたかったとは、何という言い草であろうか。これでは責任のなすり合いをしているとしか思えない。この会談はビルマ南部の司令部インタンギーで行われたらしいが、日本の戦争の決断の常として的確な判断を下すことなく顔色をみただけで「作戦中止」とはならなかった。前述した『失敗の本質』に共通する過去の経験に学ばない合理性よりも極めて日本的な優柔不断な心情に終始したことになる。こうしている間にも第一戦の兵士たちは、さらに悲惨な戦いを強いられたのである。ここでの会談は6月5日である。正式な作戦中止は6月22日である。もしインタンギーの司令部で両司令官が作戦中止を決定していたなら、戦死者の数は間違いなく、減っていたと思われる。私が唖然とするのは作戦中止の決定の仕方である。幕僚が上級のビルマ方面軍へ「作戦中止命令」を出して欲しい旨をほのめかす電報を打つのを牟田口は黙って決裁したのだと言う。「男子の本懐」には「潔さ」は入らないのか。失敗を認めることは入らないのか……。
陸軍大学を出て、言ってみれば常に最前線に追いやられた軍人の典型的な例がここにある。前掲書の件である。『6月6日のインタンギーの両司令官会談から間もなく、第15軍司令部は、クンタンに進出した。そこには司令官宿舎の横に小高い丘があった。牟田口司令官は丘にいたる道に白木の鳥居を建て、頂上をならして白砂を敷き詰めた。そして毎朝、鳥居をくぐって頂上に土下座し、八百万の神に祈った。彼特有の透き通った高い大きな声で、毎日夜明けに祈った。第15軍司令部付情報将校だった中井悟四郎中尉は、その光景をよく覚えていた。「私たちはアメーバ赤痢にかかって便所通いしているもんですから、夜も寝てないし、腹に何も入っていない。その声が体にこたえましてねえ。最初は、どこのばか野郎だ、こんな朝早くから呪文みたいなもの唱えやがってと話していたら、軍司令官だというではありませんか。そんな神頼みをはじめたというので、こりゃ、この作戦はいよいよダメだと思いました」牟田口司令官は、ある朝、どしゃ降りの雨の中、将校たちを丘の上に集合させた。皆体力がなくなっており、丘に登るのもやっとだった。牟田口司令官は長々と訓示した。「31師団の佐藤の野郎は、食うものがない、撃つ弾がない、これでは戦争ができないというような電報をよこす。日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。それを泣き事言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ…」長広舌を聞くうちに、将校たちはフラフラになり、バタバタとその場に倒れたという』(「前掲書」P209)
私は別項で「天佑神助論」なるものを記述したが、やはりここでも最後は神頼みなのか。天佑神助で有名なのは、斎藤隆夫の「粛軍演説」(昭和11年)、「反軍演説」(昭和15年)はあまりにも有名である。権力を持つ者の「神頼み」を日米開戦前にすでに論文を著して批判していた。むろん戦争反対の主張だったので当時は完璧な「非国民」だった。牟田口の「神頼み」は、最初から物量・糧秣を無視した「戦争精神論」の成れの果てと言えよう。他に後世の私達には何もコメントすることはない。
「2週間、作戦中止の命令がない中、事実上撤退を余儀なくされた前線の兵士は悲惨を極めた。自ら命を絶つ者が続出した。小銃を持っている者は、口の中へ銃口を入れ、足で引き金を引いた。銃を持っていない者は手榴弾を抱き、うつぶせになって爆発させた。手榴弾を持っていない者は、通りかかる兵隊たちに手榴弾をねだった。そうした自殺は夕方に多かった。日が暮れる頃、あちこちでパーン、バーンと小銃や手樽弾の音が聞こえ、それが山々にこだました。本田少尉の部隊は、最初120名いたが、最終的には48名になっていた。72名の死のうち戦闘で死亡した者は、わずかに4名だった。あとは皆、病死、餓死である。本田少尉は「ほんとうに惨めな野たれ死、犬死ですよ」と、吐き捨てるようにいって涙を流した」(「前掲書」P215)
「以後の敗走は悲惨をきわめた。「靖国街道」と呼ばれた道端に息もたえだえに横たわる負傷兵の眼や鼻や口にはウジ虫がうごめいていた。のびた髪の毛に集まった裏白なウジ虫で白髪のようになった兵士が、木の枝に妻子の写真をかけて、それをおがむように息絶えていた。水を飲もうと沼地に首をつっこんだ兵士がずらりと行列のまま白骨となり、頭髪だけが水草のように泥水にただよっている光景や、ばっくりあいた腿の傷に指をいれてウジをほじくりだして食う兵士、泥に埋まったまま「兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん」と呼びかける兵士の姿がそこにみられた。(「日本の歴史25」 P353)私は戦争の悲惨さを強調して「平和」を語ることは避けたい、と思いながらも昭和40年代発行の「日本の歴史」という決して分厚い歴史書でないのに26巻の中の一冊の書のなかに、かように紹介されているのは見過ごせない。
この「帝国陸海軍は何をしたのか」は「インパール作戦」という史上稀に見る悲惨な経緯を辿ってきたが、ここでいちばん重要な記述をしておきたい。平成5年のNHKの「ドキュメント太平洋戦争」6本と、角川文庫の「太平洋戦争 日本の敗因」6巻は映像と文章の違いがあるが、綿密に取材されている。だが映像のナレーションと文庫の文章ではその量が違う。文章では更に綿密になる。文庫には多くの資料が引用されていた。私が不思議に思うのはいちばん先に撤退を決めた第31師団の佐藤幸徳中将の件である。私はこれまで3年間200冊にのぼる昭和史や太平洋戦争の本を読んできた。月刊誌「文藝春秋」などの特集も含めてであるが、どの本なのか肝心なことをメモして置かなかったのが致命的であった。太平洋戦争の為政者を「馬鹿の4乗」と喝破した指摘があったのである。私はそれを昭和15年9月の「日独伊三国同盟」について会談した4人だと思っていた。すなわち近衛文麿の荻外荘(てきがいそう)に集まった面々である。近衛首相、外務大臣・松岡洋右、陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・吉田善吾である。その指摘が誰の「言」だか解らないのはいささか消化不良であり、苛立ちでもあった。200冊を全部点検したわけではないが、はっきり太平洋・大東亜戦争時代の指導者を「馬鹿」としかも「馬鹿の4乗」とまで言ったのは誰なのか、それがやっと判明したのである。NHKの放送「ドキュメント太平洋戦争4」の映像のナレーションであった。しかも文庫では、その部分が割愛されていた。これでは言い訳になるが、2年余も解らなかったわけである。佐藤幸徳中将は戦後の叙述で『大本営・総軍(南方軍)・ビルマ方面軍・第15軍の「馬鹿の4乗」がインパールの悲劇をもたらした』と言った。7万人の戦死者、それも大半が病死、餓死、自殺となれば佐藤の言うことが正しいと思う。だが文庫では、最悪のコンビ河辺・牟田口の遺族の了承を得て両者の「日記」が引用されている。日記は防衛庁戦史室に収められていてなかなか閲覧できぬものらしい。これでは河辺・牟田口両家の悪口は言えなかったであろう。だが映像にはないが、文庫には記述されている場面もある。これはこれですごい指摘なので引用する。
『7月9日、撤退の途中で、第31師団の佐藤師団長は、師団長解任の電報を受けた。佐藤中将は、12日になって第15軍司令部が置かれているクンタンに到着した。雨の降りしきる夜中だった。司令部の小屋は、街道から少し離れた所にあった。そこへいたる小道の入口には、木下高級参謀以下幕僚が出迎えていた。佐藤中将は、すぐに司令部へ向かおうとした。「牟田口はいるんだろうな」木下高級参謀が小道の入口を塞ぐようにして答えた。「いえ、今、司令官は第一線の戦闘指導に行っておられて留守です」「ウソを言うな!いるはずだ。会わせろ」「いや、どうしてもいらっしゃいません。小屋に上がって点検していただいても結構ですが、いらっしゃらないものはいらっしゃいません。木下はウソを言いません」「参謀長はいるだろう」「参謀長閣下は病気で寝ています」「貴様、たたっ切るぞ」佐藤中将が軍刀を抜いた。木下高級参謀(この軍人は調査不足)は両膝をついて、首を前に出しこう言った。「どうぞ私を切って気が済むのでしたら、私を切って下さい」「貴様みたいな者を切ってもどうにもならん。おれは牟田口を叩き殺すんだ!牟田口に会わせろ!」第15軍司令部付の中井中尉は、その場に居合わせた。「いやもう震え上がりました。真っ暗闇ですから松明(たいまつ)を掲げていましたが、その火に照らされた佐藤さんの顔は、雷神かと思うような恐さでした。雨が沛然と降っていましてね。もう鬼神の如く思われましたよ。恐かったですね。今思い出しても恐いですね」結局、押し問答の末、佐藤中将はあきらめ、それまでの軍司令部の無責任な態度を詰るだけ詰って、その場を離れた』(「太平洋戦争 日本の敗因4」P219)
私はこの時、牟田口が居たら本当に佐藤は凶行に及んだと思う。多くの部下を失った佐藤は彼らに成り代わって遺恨を果たしたに違いない。牟田口は、佐藤中将が独断撤退を始めた時、軍法会議にかけるべきだと強く主張したらしい。佐藤は「抗命罪」を覚悟し、むしろ軍法会議の法廷で軍の責任を糾弾するつもりでいた。ところが、河辺方面軍司令官は、佐藤中将を軍法会議にかけることによって、インパール作戦失敗の責任を、自分をはじめとする軍の上級指揮官たちが問われることになりかねないと考えた。
「師団長は、天皇が直々に復命する親補職でもあり、責任の追及が軍の中枢、さらには天皇にまで及ぶことを恐れた。そこで、佐藤中将を軍法会議にかけることを避け、心身喪失という診断を下して、責任の所在を曖昧にしようとしたのである。軍医の診察は3日間に及び、佐藤中将の脊髄から液をとる検査も行なわれた。診察が終わると方面軍の法務部長坂口大佐が、事情聴取をはじめとする調査を始めた。佐藤中将は軟禁状態におかれた」(「前掲書」P221)。佐藤は牟田口によって解任されたのだが、現場の司令官が親補職たる師団長を解任する権限はなかった。戦後、一部にインパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら三人の師団長が共謀して招いたものとされて非難を浴びたが、むしろ佐藤らは将兵の生命を第一に考え、自分の判断が正しいことを強く確信していた。インパール作戦での撤退によって命を救われた部下は、多くが四国出身者だった。佐藤に感謝する元兵士らによって、香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立されたも言う。
「インパール作戦に関わった陸軍の指導者たちは、ほとんどその責任を問われることはなかった。作戦決定当時の参謀総長杉山元元帥は、小磯内閣で陸軍大臣となった。南方軍総司令官の寺内寿一元帥は、終戦までその職に留まり、南方地区の全ての作戦を指揮した。太平洋戦争では、各地区の作戦の失敗について、大本営や軍の指揮官、参謀が責任をとらされることは、まずなかった。むしろ、現地へ赴いて苦労すれは、彼らを慰労しようという空気の方が強くなった。作戦失敗の犠牲は、全て前線の将兵たちに集中したのである。インパール作戦は、そうした日本陸軍の組織としての欠陥が、如実に現われた作戦だった。失敗すべくして失敗した、典型的な作戦だった」(「前掲書」P226)放送でも文庫でもNHK・山本肇キャスターは「この根本的欠陥は、50年後(平成5年)の今も様々な組織の中に棲んでいる」と総括した。言われなくても「雪印」「三菱ふそう」など隠蔽体質は戦後も変わらないのは、十分承知するところであろう。
「インパール作戦は、昭和19年3月8日にはじまり、7月4日に作戦中止命令がだされた。むろんこれは大本営の命令が発動された日ということであり、実際に牟田口が撤退命令をだしたのは7月15日のことである。兵士たちは英印軍の追撃を受けながら退却しつづけていたが、その結末はきわめてあいまいで、その後の英印軍との新たな戦いに投入された者も少なくない。したがってインパール作戦での日本軍の将兵の戦死者、戦病者も不明なのだが、公式には戦死者30502人、戦傷者41970人とされている。しかし、戦傷者のなかからものちに多くの戦死者がでている。結局、7万5千人近くの将兵が死亡したとの推計もある。もう一つ別な数字をみると、インパール作戦の終結時の各師団の将兵は、戦争開始時から、
 第31師団(烈)約5500人 8.5%
 第15師団(祭)約3000人 9.0%
 第33師団(弓)約3300人 9.0%
にまで減っていた。この作戦は約13万人余の将兵が投入されて90%の将兵が戦死ないし戦傷を受けた計算になる。太平洋戦争の戦闘のなかでもっとも大きな被害を受けた戦闘であったが、大本営発表は8月12日15時30分にインパール作戦については短い発表を行っただけで、その被害の大きさについては国民は戦後になるまでまったく知らなかった」(「昭和陸軍の研究・下」P206)この作戦のあとのフィリピン戦線にこれが教訓とされる筈もなかった。フィリピンではさらに50万人もの日本人兵士が病死・餓死した。これでは戦争の体を成していない。「玉砕」とはつまらない言葉である。「玉砕」は「特攻」とともに実質的には自殺・棄民であり、それも軍部の強要だった。
インパール作戦は牟田口廉也ひとりの責任ではないが責任は重い。だが結論だけ言えば自国の兵隊を何人死に至らしめても、極東国際軍事裁判ではアメリカに逆らったわけではないので無罪だったのである。作家半藤一利氏は、戦後何度もあって取材したと言う。「牟田口廉也には、私は何べんも会いました。彼は小岩に住んでいましたが、訪ねていってもどういうわけか、うちへ入れてくれないんですね。「君、外で話そう」とか言ってスタスタ歩いていってしまう。江戸川の堤までいって土手に座って話しました。―─話していくとこの人はかならず最後には激昂するんです。戦後しばらくしてイギリスからインパール作戦に関する本が出たのですが、その本に日本軍の作戦構想をほめている部分があったのです。牟田口はその論旨を力説しまして、なぜ俺がこんなに悪者にされなくてはならんのか、ちゃんと見ている人は見ているのだ。君たちはわかってない!と、何べんも何べんも怒られましたよ―─自己顕示欲の強い変わった人でしたね。インパール作戦の当時、ビルマでだれがつくったのか知りませんが「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性の意)、三に新聞ジャーナリスト」という冷やかしの歌が流行ったのだそうです。牟田口の功名心の強さは当時もそうとう目立っていた」(「日本の名将と愚将」P200)
昭和史に詳しい保阪正康氏との対談が前掲の新書だが、保阪氏はインパール作戦に参加して生き残った元兵士に何人もインタビューしている。「彼らには共通する言動がありまして、大体は数珠を握りしめながら話すのです。そして牟田口軍司令官の名前を出すと、元兵士のだれもが必ずと言っていいほどブルブル身を震わせて怒った。「インパール作戦での日本軍兵士の第一の敵は軍司令官(むろん牟田口のこと)、第二は雨期とマラリアの蚊、第三は飢餓、そして英印軍はやっと四番目だと戦場で話し合った」と言う生存兵士もいました。牟田口が前線から離れた「ビルマの軽井沢」と呼ばれた地域で栄華をきわめた生活をしているといううわさは矢のように前線の兵士に伝わっていたようですし、実際に牟田口はそこからひたすら「前進あるのみ」と命令をだしていた―─インドからビルマヘ、仲間たちの死体で埋め尽くされた「白骨街道」を引き上げてきた無念の思いは生涯消えることばなかったと思いますね」(「前掲書」P201)
昭和の帝国陸軍軍人でこの「牟田口廉也」と「辻政信」を弁護する人は皆無といってよい。牟田口は昭和12年の「盧溝橋事件」と「インパール作戦」、辻は昭和14年の「ノモンハン事件」、日米開戦後の「ガダルカナルの戦い」で悲惨な結末となる。
牟田口廉也という軍人を無謀な勝ち目のない作戦に掻きたてたものは何か。私の今日までの知識では、ひとつには地方出身ということ。ひとつには陸軍大学で恩賜の軍刀組でなかったこと。更には省部(陸軍省・参謀本部)を歩むことがなかった「皇道派」だったからであると思う。それが勲功を欲しての中央へ凱旋するための闘争心ではなかったのか。陸大での成績は「中の上」と昭和史の書に紹介されている。「軍刀組」とは陸軍大学で1期50人程度卒業の上位一割の5人くらいが天皇より軍刀を賜る軍人で、いわばエリートであった。同じ中将でも陸士3期上の河辺正三は軍刀組だった。河辺は痩せて小柄、性格的に静かで用心深く僧侶のような軍人らしからぬ、牟田口の前では強くモノを言えぬ秀才のお坊ちゃんタイプではなかったのか。細面に似つかわしくない八の字ヒゲである。牟田口は精神的にも肉体的にも対照的に野心的で情熱家。盧溝橋事件以来のコンビだったが、牟田口には何でこの軍人が自分の上官なのか、といったひそかな不満と自負がない交ぜになっていたのではないか。どういう経緯か判然としないが、陸軍内に対立する「統制派」「皇道派」のうち二・二六事件を引き起こした皇道派に属していたという。(「指揮官と参謀─コンビの研究」P67)このことは「二・二六事件」前の昭和一桁の陸軍人事にまで遡ることにある。ともあれ事件後の人事刷新で牟田口は「支那駐屯軍」に転出される。実質上、今で言えば左遷であろう。これが響いて最後まで中央に戻れなかった。河辺は終戦間際、作戦敗退の事実とは関係なく序列人事で昭和20年3月「大将」に昇進するのである。河辺は「インパール作戦」の責任は牟田口と共に問われなかったことになる。それらは陸軍内のことで一般にはおろか、天皇・重臣にまで報告されることはなかった。それでは肝心の牟田口廉也のその後はどうなったのか。さすがに作戦の失敗は拭い難く予備役(今でいえば自宅待機)に退いたが、間もなく予科仕官学校の校長に就任する。陸軍においては、それは軍部全体にいえることなのだが、どんな出鱈目な作戦の失敗であっても罪は問えなかった。牟田口を問うことは軍部全体を問うことになるからである。戦後、連合軍に逮捕・拘束されるが逆にイギリス軍の作戦遂行を容易にしただけなので不起訴処分となったのである。7万人の日本人兵士に謝罪したかどうかは知らない。
ここに私は主に「映像」と「文庫」によって「インパール作戦」とは何であったのかを自分なりに叙述してきた。特に映像に見る、乾いた土ぼこりのもうもうたる山岳地帯の行進は驚くべきリアリズムがある。そして雨季の兵隊の折り重なる死体は見るに耐えない。私は冒頭に戦争とは残酷で悲惨だから「戦争反対」というのは、戦争そのものを考えていないと述べた。今もその考えに誤りはない。しかし結果として悲惨な結末の叙述のみに終始したと言えなくもない。
前述の山本七平は「帝国陸軍では、本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。というのは、その決定が「命令」という形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、わからないからである。そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。(中略)一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上官が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。戦後、帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。このことは日本軍の「命令」なるものの実体がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである」(「一下級将校の見た帝国陸軍」P319)
ここで私がハタと思うのは今で言う「丸投げ」ではないのか。「帝国陸海軍が何をしたのか」は、エリート軍人が現代で言うなら「この予算の範囲」で「製品を作れ」という大企業の下請け・孫請けへの丸投げとよく似ているように思う。成功したら自分の手柄、失敗したら「知らぬ存ぜぬ」である。インパール作戦は昭和19年6月22日、牟田口をしてようやく決意され、7月1日大本営は許可した。サイパン島には6月15日、米軍が上陸、7月9日陥落した。主婦と思われる女性が玉砕を余儀なくされて崖の上から海へ飛び込み、浮かぶシーンはテレビのドキュメント映像でよく見る。東條英機内閣が崩壊したのは7月18日だった。
河辺正三と牟田口廉也が「顔色で察して貰いたかった」という6月5日の会談から作戦中止まで2週間強、決定がさらに10日後である。第一線の兵士は結果として7万人が死んだ。作戦中止の決意が早かったなら生き延びた兵士は少なからず居た筈である。無惨な死を余儀なくされた兵士と入れ替わりのように昭和19年6月17日早朝、私はこの世に生を享けた。二人の将校が作戦の後始末に陣頭指揮をしたという話は聞かない。6月5日からの1ヶ月間、このコンビは何をしていたのか解らない。だが第一線の撤退の非情さは知っていた筈である。言ってみれば不作為は、「敵前逃亡」と同様にしか思えない。私の父親は中国・広東省での戦病死である。だが、私が「インパール作戦」にこだわるのは、彼ら白骨化した若い兵士の二人分の人生を、そして父親の二倍の人生を今、享受しているからである。
この牟田口廉也を輩出した日本陸軍とはいったい何かを別項で著したい。ひとことで言えば帝国陸軍とは、私には、極東の小さな島国において昭和の前半、日本国民の半数以上を占める貧民の有力な受け皿であったのではないのかと思う。 
 
東條英機の人間関係 [戦争の昭和史]

 

石原莞爾 明治22年(1889)─昭和24年(1949年)陸軍士官学校第21期卒。
東條英機を語るとき最も対照となるのが、石原莞爾である。昭和3年、関東軍作戦主任参謀として満蒙領有計画を立案。昭和6年、板垣征四郎らと僅かの関東軍で、占領を実現。これがきっかけとなり満州国が建国される。石原は「王道楽土」「五族協和」をスローガンとし、満蒙独立論へ導く。石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国だった。この二人の相克を秀才が天才を嫉妬したと見るのが東大教授の山内氏。東條英機が総理大臣にまで昇りつめたのは優秀な行政官だったのは大方の認めるところ。石原は『最終戦争論』などを著した戦略家。軍人は誰でも作戦計画はできるが、国家権力の戦争という観点に立てば、東條は戦術家であっても一国を率いるには凡庸だった。石原は原爆の出現、水爆の出現も予見「東條上等兵」と呼んで馬鹿にし、東條も石原の無遠慮な見解に不快感を持っていた。昭和16年に予備役へ編入される。この対立によって東京裁判で戦犯の指名から外れた。
板垣征四郎 明治18年(1885年)―昭和23年(1948年)陸軍士官学校第16期卒。
板垣の場合、A級戦犯として刑死した7人の中の一人だが、満州事変の立役者として石原莞爾とセットで語られることが多い。満州事変の内実は、東京裁判で明らかにされ多くの国民が驚いた。なぜならそれまでリベラルな報道のメディアが満州事変で大いに日本の権益を大上段に据えたからである。国民もそれを信じた。板垣は昭和4年に関東軍の高級参謀。昭和7年建国の満州国執政顧問。軍政部最高顧問、関東軍参謀副長、駐満大使館付武官、関東軍参謀長。二・二六事件後の第一次近衛内閣では陸軍大臣になる。日中和平交渉に際しては強硬論を譲らず、交渉不成立の原因を招く。近衛文麿の「以後国民政府を相手にせず」という有名な声明で日中戦争は泥沼化する。この頃、陸軍次官になったのが東條英機である。実際、満州国を運営したのは星野直樹や松岡洋右だが、結局最後は事変の責任者として断罪される。板垣は一流の軍歴を誇るが酒豪で「頭に祭り上げられる型の軍人」とも評された。
永田鉄山 明治17年(1884年)―昭和10年(1935年)陸軍士官学校第16期卒。
永田鉄山といっても昭和史に興味が無ければ殆ど未知の軍人である。だが昭和11年2月、雪の日のクーデター二・二六事件は近代史に鮮明に刻まれている。永田はその前年、陸軍中佐・相沢三郎に暗殺された。満州事変以来、軍部が政治に台頭してくる頃の陸軍内の象徴的な事件だった。永田暗殺によっていわゆる「統制派」と「皇道派」の派閥抗争は一層激化し、翌年、皇道派の青年将校が二・二六事件を起こす。その後、永田が筆頭であった統制派は東條英機が継承して行く。これが不幸の始まりである。日米開戦当時の企画院総裁だった鈴木貞一は戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と言った。当時「高度国防国家」という観点から軍部を改革しようとした永田は、誰しもが納得する陸軍創設以来の逸材だった。軍務官僚の本流を歩み「将来の陸軍大臣」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とも言われた。
梅津美治郎 明治15年(1882年)―和24年(1949年)陸軍士官学校第15期卒。
陸士、陸大共に首席で卒業した秀才。一般には昭和20年9月、ミズーリ号甲板での降伏文書調印式に重光葵と共に全権となった事で知られる。それ程の秀才なら東條英機より2期先輩なのだからもっと目立っていい筈だが政治の表舞台に出ることを避け続けた。梅津の生涯で最も歴史に残る事件は支那駐屯軍司令官時代に日中間で結ばれた昭和10年の「梅津・何応欽協定」。昭和11年、二・二六事件の後、寺内寿一陸軍大臣の下に次官に就任。皇道派を壊滅に追い込む粛軍人事を断行、陸軍省に軍務課を新設、軍人の政治介入を顕著にする。広田内閣での「軍部大臣現役武官制」など陸軍組織の利益を守るのに優秀であったのは確か。終戦時の御前会議で、阿南陸軍大臣と参謀本部総長の梅津は本土決戦を主張。実際は陸軍中枢部の謀反を押さえたと阿南・梅津の大分コンビは戦犯ではないと擁護する人もいる。第一次近衛内閣で無名の東條英機を陸軍次官に据えたのは梅津その人で、これだけで罪は深い。
鈴木貞一 明治31年(1888)―平成元年(1989)陸軍士官学校第22期卒。
いわゆるA級戦犯としては、唯一平成元年百歳まで生きた。晩年を取材した保阪正康氏によれば頭は冴えていたが、ベッドに寝たきりで耳も遠かったと言う。筆者が理解する鈴木貞一は企画院総裁である。企画院と言えば軍国主義が台頭して来た昭和10年に設立された国策調査機関。日米開戦時の昭和16年春に30代の若手が今で言うシミュレーションを実施、模擬内閣で国力調査を纏めた。結果は「開戦後の勝利は見込めるが、長期戦には日本は耐えられない、戦争末期にはソ連の参戦もある」というもの。模擬内閣の窪田角一首相の指摘は的を射ていた。これをもたらした「総力戦研究所」は日本必敗の結論。結果は日米開戦ありきである。鈴木は対米戦争は困難という分析結果を認識しながら東條英機内閣の成立と同時に「海軍の責任で損耗率を抑えるから大丈夫だ」と主張変更。「モノが無いから仕方なく戦争に訴えた」とは話にならない。東條英機側近の「三奸四愚」一人と言われても仕方がない。
佐藤賢了 明治28年(1895)―昭和50年(1975年)陸軍士官学校第29期卒。
佐藤賢了と言えば必ず「黙れ!事件」が語られる。昭和13年3月、衆議院の「国家総動員法」を審議する特別委員会において、政府委員でもないのに陸軍省の説明員として出席していた軍務局課員の佐藤が、法案の精神・信念などを長時間の演説をした。これに対し他の委員から「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛び、佐藤が「黙れ!」と一喝した。陸軍の一中佐が並み居る衆議院の代議士に「黙れ」と怒鳴ったのである。政党が軍部に屈服した象徴とされる所以である。陸軍大臣・杉山元が陳謝したが佐藤には何の処分もなかった。この事件の後、なぜか大佐に進級して陸軍省の新聞班長兼務で大本営報道部長になる。この時の直属上司が次官の東條英機だった。昭和5年から2年間アメリカ駐在武官を経験、部内では知米派の扱いだった。だがその対米観は、貧弱なもので科学的・論理的でなく多分に感情論だったようだ。A級戦犯では最も若く昭和31年に釈放。戦後も米国嫌いで通した。
武藤章 明治25年(1892)―昭和23年(1948)陸軍士官学校第25期卒
東京裁判ではA級戦犯として死刑。東條英機は判決後、武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と告白。武藤の軍歴を見ると昭和12年、参謀本部作戦課長となり、昭和12年「盧溝橋事件」のあと石原莞爾の中国戦線不拡大の考えに抵抗したとある。だが実際の拡大派は当時関東軍参謀長の東條英機や輩下の富永恭次だった。昭和14年には陸軍省軍務局長就任。軍務局とは他の省庁との政治折衝や国策の打ち合わせなど激務である。武藤を評価する人の理由は、昭和16年春から秋まで「日米交渉」を精力的に取り組んだことにある。前年秋に来日したアメリカ人神父二人はむしろ日米戦争に導くためのスパイだったことが判明している。この時期の立場が対米開戦の責任となる。東京裁判で兵務局長だった田中隆吉元陸軍少将が武藤を名指し「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と証言したことが死刑の決め手になる。事実は陸軍省での勢力争いで私怨だった。
田中新一 明治26年(1893)―昭和51年(1976)陸軍士官学校第25期卒。
田中は「盧溝橋事件」では戦争拡大派の中心となり、出兵論を主張、太平洋戦争には参謀本部第一部長として強硬に開戦を主張した。東條英機を語る上で最も有名なエピソードが「東條首相罵倒事件」である。昭和17年暮、ガダルカナル島をめぐる船舶問題で「黙れ事件」の佐藤賢了とガダルカナルへの船舶増強問題で殴り合いの喧嘩になった。その場は収まったが、翌日政府・統帥部の間で妥協案を模索。今度は東條首相が「閣議決定どおり」として事態は紛糾。東條首相は船を出さないことで「ガダルカナル作戦「を諦めさせようとした思惑があった。首相の部屋には木村陸軍次官・殴り合った佐藤軍務局長・富永人事局長が同席していた。激論の果て「この馬鹿野郎」と怒鳴った。田中は結局辞任したが、自ら身を引く切掛けにしたいうのが真相。戦争遂行は参謀本部の作戦課、用兵・装備は陸軍省という当時の軍部を象徴する事件だと思う。その間、ガダルカナルでは多くの日本兵が病死餓死した。
服部卓四郎 明治34年(1901)―昭和35年(1960)陸軍士官学校第34期卒。
同期に秩父宮雍仁親王、赤松貞雄がいる。赤松は東條英機の秘書で戦後、東條の代弁者となった。服部は陸大42期卒業で辻政信は43期。ノモンハン事件で関東軍は、中央の意向を無視し独断専行で作戦の拡大を実行。無残な結果を招く。だがこの服部・辻は軽い処分で済んだ。思えばこの陸軍の組織原理が更に悲惨な戦いを招く。知謀の服部、実行の辻は、後年ノモンハン事件を取材した司馬遼太郎をあきれさせた。日米開戦へと突き進んだ時の上司は大本営作戦部長の田中新一。太平洋戦争開始時の陸軍の作戦は多くが、この田中―服部―辻のラインで形成されたと断言できる。ノモンハンの記憶が「南部仏印進駐」に駆り立てて日米対立が決定的となる。開戦後は東條英機陸相秘書官。実際に戦争指導したのは参謀本部という大本営。開戦時には服部も辻も参謀というスタッフだったので戦犯を免れた。終戦後GHQの元で日本の再軍備に関係。警察予備隊の幕僚長の予定は、吉田茂首相に反対された。
辻政信 明治35年(190)―1961年?)陸軍士官学校第36期卒。
辻政信は、ノモンハン事件・シンガポール華僑虐殺事件・バターン死の行進・ガダルカナルの戦いと常に問題とされた作戦に関わった。陸大をトップで卒業後、昭和6年第一次上海事変で中隊長を皮切りとして強硬で専断な軍人人生が始まる。陸軍士官学校事件での謀略は結果、統制派と皇道派の対立に激化、相沢事件、二・二六事件へと至る。昭和14年のノモンハン事件ではソ連軍優位に進み、8月に日本軍は撤退。無謀拙劣な作戦で死傷率は32%に達した。辻と共に関東軍を取り仕切った参謀・服部卓四郎と共に一旦左遷されるが昭和15年にあっさり参謀本部部員に返り咲く。16年6月に服部は作戦課長、部長は田中新一。日米開戦時の陸軍の作戦は多くが、辻―服部―田中のラインで形成された。辻は戦後、東南アジアに潜伏。戦後は参議院議員に当選。日米開戦へ誘導、捕虜大量虐殺の罪は余りにも大きい。それを可能にしたのが陸軍の派閥人事。軍の暗部は辻政信に象徴されるとして過言でない。
石井秋穂 明治33年(1900)―平成8年(1996)陸軍士官学校第34期卒
昭和14年8月、陸軍省軍務局高級課員に就任。開戦直前には日米交渉の陸軍省側主務者として武藤章軍務局長の下、早期開戦を唱える参謀本部を牽制しつつ交渉妥結に尽力。石井は陸軍側の担当者として多くの国策の起案。避戦を望むが交渉は失敗、戦争政策を進める羽目になる。昭和16年7月の国策要綱で「日米開戦ヲ辞セス」という文言を入れたことを悔いていた。戦後は山口県で晴耕雨読の生活を送る。平成4年・NHK『御前会議』ではその当時を真摯に語っている。「わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ」良識的陸軍軍人と保阪正康氏は評価。手紙の交換は二百通を越えたと云う。
嶋田繁太郎 明治16年(1883年)―昭和51年(1976年)海軍兵学校第32期卒。
海軍兵学校の同期に山本五十六がいる。嶋田と山本を比較するのが海軍を語るのに一番手っ取り早いかも知れない。主に軍令部という大本営に在籍したが、昭和16年10月発足の東條英機内閣で海軍大臣になったばかりに危うく東京裁判で死刑になるところだった。当初は日米不戦論だったが、当時の軍令部総長・伏見宮博恭王の「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」という勧告を拒否出来なかった。海軍の石川信吾など少壮軍人の言いなりだったことにも依る。「海相一人が戦争に反対したため戦機を逸しては申し訳ない」と対米開戦を容認。戦機を判断しても勝機は考えていなかったのは明らかである。陸軍に対して当時唯一ものが言える存在だった海軍は政治への不干渉・沈黙を暗黙の了解としていた。戦局が悪化すると「東條首相の男メカケ」とまで酷評された。戦後は海軍の関係者達とは一切の縁を切り、回想録の執筆も断り続けたが、遺族には数千枚の原稿用紙に及ぶメモが遺されているらしい。
富永恭次 明治25年(1892)―昭和35年(1960年) 陸軍士官学校第25期卒。
富永恭次を語るとき、避けて通れないのが「神風特攻隊出撃命令」「敵前逃亡」。陸大卒業後、順当に昇進し昭和14年、参謀本部第一部長に就任。16年陸軍省人事局長。「東條英機の腰巾着」と言われた。東條内閣はイエスマンばかりで固めた。この時、参謀本部は強気一点張りの田中新一、作戦課長は服部卓四郎、班長が辻政信で最悪である。東條内閣総辞職と共に昭和19年、第4航空軍司令官に転出。実戦経験の無い軍人が絶望的な南方の司令官となった。フィリピン決戦に於て陸軍初の航空特別攻撃隊の出撃命令を出す。出撃前の訓示で「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言う一方で帰還した隊員は容赦なく罵倒、約四百機の特攻を再命令し全員戦死させた。昭和20年1月、司令官・参謀等高級将校は残り少ない戦闘機を駆り出し護衛させ、台湾台北へと続々と逃亡。富永に見捨てられた兵士達は地上部隊に編成替えさせられ、脆弱な歩兵部隊となりその殆どが戦死した。
田中隆吉 明治26年(1893)―昭和47年(1972)陸軍士官学校第26期卒。
昭和21年に始まった極東国際軍事裁判では、初めて国民に知らされることが多く国民は戦慄さえ覚えた。怨嗟・罵倒は東條英機へと向けられた。南京大虐殺などは、その東條さえ知らなかったのではないか。田中隆吉は日米開戦時に陸軍省兵務局長という要職にあったがGHQ検事側の証人として出廷、被告も国民も唖然とした。名指しで東條英機・橋本欣五郎・板垣征四郎・土肥原賢二・梅津美治郎などの責任を証言した。特に武藤章には「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言で死刑が確定したのは明らか。だが武藤は逆に日米開戦には慎重であったことが判明していて逆恨みであろう。田中は日本軍の数々の謀略に直接関与し、日本軍の闇の部分に通じた人物。殊に中国清朝の末裔だった日本名・川島芳子と男女の関係になった。川島の語学・明晰な頭脳・行動力を利用し謀略工作の世界に引き込んだ。裁判後、武藤の幽霊が現れると言う精神錯乱に陥った。鬱病とも言われている。
杉山元 明治13年(1880年)―昭和20年(1945年) 陸軍士官学校12期卒。
杉山は太平洋戦争開戦時の参謀総長。満州事変勃発時には陸軍次官。二・二六事件では反乱軍鎮圧を切っ掛けに出世コースに乗る。昭和11年教育総監、昭和12年、陸軍大臣に就任。つまり陸軍の要職をすべて経験した軍人。これは海軍の永野修身と同じで経歴から言えば昭和における最高の軍人であることになる。だが識者によれば、これが最悪のコンビで日本の不幸であったと言われる。つまり粛軍人事などで優秀な人材が枯渇した偶然の産物と言えよう。盧溝橋事件では強硬論を主張、拡大派を支持。昭和15年から参謀総長に就任、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。だがその殆どは中堅幕僚の言いなりだった。対米開戦をめぐる昭和天皇とのやりとりは昭和史のどの書にも出てくる。帝国国策遂行要領決定時に対米戦争の成算を問われ杉山の楽観的な回答に天皇は厳しく問い詰めた。この時、天皇は41歳、杉山は61歳。東條英機よりはるかに先輩である。敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。
永野修身 明治13年(1880)―昭和22年(1947)海軍兵学校28期卒。
大正2年、米国駐在武官としてハーバード大学に留学。大正9年のワシントン・昭和5年のロンドン海軍軍縮会議に出席、だが満州事変を切っ掛けとして条約を脱退。昭和11年、広田弘毅内閣では海軍大臣。この時に山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢。海軍の歴史上、一人で海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長全てを経験したのは永野だけ。昭和16年9月の御前会議で『帝国国策遂行要領』は採択されたが、昭和天皇は輔翼の最高責任者である両総長杉山・永野の上奏に立腹。その際、永野は例え話を交えて天皇を説得。天皇が「絶対に勝てるか?」との問いに「絶対とは申し兼ねます」などとくどくど説明。8月の米国の対日石油禁輸は、永野自身がゴーサイン出した「南部仏印進駐」が原因。海軍首脳は「米国と戦争しても勝てない」と認識していた。永野は陸軍と喧嘩覚悟で避戦するよりは海軍の利益の為に開戦をOK。軍人全体に言えるが「戦争をしない」選択肢はなかった。
徳富蘇峰 文久3年(1863)―昭和32年(1957年) 歴史家、評論家。
徳富蘇峰は言論界の巨人と称された。筆者が中学生時代の昭和32年、死去の新聞記事は記憶している。御用新聞と目された國民新聞社は明治38年の日比谷焼打事件、大正2年第一次護憲運動では暴徒の襲撃を受けた。貴族院議員にもなるが言論・評論家として名高い。昭和16年太平洋戦争開戦の詔書を添削だった。東條英機のあの甲高い精神論の演説は全て蘇峰の添削。昭和天皇は後に『独白録』の冒頭に大東亜戦争の遠因に「加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させる」と発言したが、蘇峰の主張は排日移民法が利害の問題ではなく日本人の面目の問題であると強調した。日露戦争以来、満州蒙古の権益は日本人が血であがなったという意識は政府以上に国民に根強く存在していた。満州事変が支持されたのも欧米のアングロサクソンに対する感情論が底流にあった。今では戦争政策を煽った言論人の重鎮と定着している。60年の言論活動と三百冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現している。
Richard Sorge 1895年10月―1944年11月 ドイツ人でソ連軍のスパイ。
日本の近代を語る時、昭和16年(1941)全体が負の遺産だが重要のように思う。忘れがちだがドイツ人スパイ・ゾルゲを割り引くことはできない。昭和8年、ドイツの新聞社特派員として来日。上海時代に知り合った近衛内閣のブレーン尾崎秀実・西園寺公一等と親しくなる。ナチスの党員でもあったゾルゲは駐日ドイツ大使館にも信頼される。ゾルゲの最大の成果は、日本軍の矛先が対ソ参戦に向かうのか、南方へ向かうのかを正確にキャッチ、10月初頭、ソ連本国へ打電した。9月6日の「御前会議」の内容は筒抜けだった。結局日本の「南部仏印進駐」は致命的なミスとなり日米開戦へ至る。参謀本部の田中新一らのいわゆる「関特演」は単なる恣意行為であることも正確に見抜いていた。ソ連は日本軍の攻撃に対処するため国境に配備していた精鋭部隊を移動、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返し、1945年5月独ソ戦に勝利。ソ連の勝利はゾルゲの情報がもたらしたと言って過言ではない。
新名丈夫 明治39年(1906)―昭和56年(1981)評論家・元毎日新聞記者。
東條英機の懲罰招集を語るとき最も引合いに出されるのが、新名丈夫と後述する松前重義。もはや英米に勝てないのではないかと誰もが感じ始めた頃、昭和19年2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に「勝利か滅亡か、戦局はここまできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事が載る。新名の記事は「海空軍力を速やかに増強し洋上で戦え」という趣旨で陸軍の本土決戦構想に反対する海軍の主張そのもの。新名は海軍記者クラブの記者だった。ここへきても陸・海軍は英米と戦争する以前から身内で戦っていた事になる。東條は自分に批判的なものは総て「お上に楯突く」事だと考えて憚らなかった。新名を二等兵として召集し、硫黄島へ送ろうとした。自分に逆らう人間を激戦地へ送るという行為が、殊に南方が酷いことを東條が認識して証左であろう。辻褄を合わせで招集された丸亀連隊の(第11師団歩兵第12連隊)二百五十人は、硫黄島で全員が玉砕・戦死した。
松前重義 明治34年(1901年)―平成3年(1991年) 政治家・科学者・教育者
拙宅のある平塚市北部に東海大学がある。この創立者が松前重義。昭和30年代、一社会党代議士だったように記憶する。科学的にどんなものか解らないが、当時の満州・奉天から東京までの通信技術に画期的な発明を成した。昭和16年、逓信省工務局長に就任。日米開戦後は、電波科学専門学校(東海大学の前身)を創設。昭和18年「東條内閣の政策は非科学的で、軍需生産計画もでたらめ」と批判した。これが東條を刺激した。天皇の勅任官で42歳という年齢であるのに二等兵として中国の戦地に送られた。松前を直接的に抹殺できないため、病気に見せた暗殺工作だったとする説もある。この報復は辻褄合わせで招集された同年齢の老兵数百人が戦地に着くことなく海没した。高級官僚だった松前がなぜマンモス大学に仕上げたのか、なぜ対ソ民間交流が可能だったか、様々な伝説がある。だが松前の思想は欧米に対抗できる科学技術が根底にあった。精神主義に陥った東條英機と合わないわけである。
木戸幸一 明治22年(1889)―昭和52年(1977)政治家・最後の内大臣
昭和5年、近衛文麿の推薦で内大臣秘書官長、昭和12年文部大臣、昭和15年に内大臣。西園寺公望や牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与。この間、東條英機は第一次近衛内閣で陸軍次官、第二次では陸軍大臣となる。昭和16年10月、近衛文麿が内閣を投げ出したあと木戸が東條英機を次期首相に推薦した。陸軍に精通する東條自身に中枢部を押さえようとしたとされるが、日米開戦必至と敗戦さえ見越して東條に首相を押し付けたと二通りの見方がある。私は後者のように思う。戦争中は東條内閣を支えたが和平を早く考えたとも言われる。だが「聖断」工作を決意したのは昭和20年6月である。東京裁判では自らの日記『木戸日記』を提出して如何に自分が軍国主義者と戦い、非力であったかを述べて判事にも被告の軍人をも呆れさせた。英国の検事から「親英米派であった天皇の意向に何故沿わなかったか」を問われた。荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並び5対6で死刑を免れた。
近衞文麿 明治24年(1891)―昭和20年(1945)第34、38、39代内閣総理大臣
昭和12年、各界の期待を一身に集め第一次近衛内閣を組織。昭和13年に「爾後國民政府を對手とせず」の声明で講和の機会を閉ざす。昭和16年9月6日の御前会議後、日米首脳会談の実現を強く訴えた。アメリカ国務省は無論拒否。10月12日、荻外荘会談で東條英機と対立。後継首相は東久邇宮稔彦王を推すことで一致。だが皇族に累が及ぶことを懸念する昭和天皇によって拒否される。だが拒否されるのは木戸幸一には計算ずくだった。もう誰も陸軍を押さえ切れなくなっていたのが実情。毒を以て毒を制すると考えたのか東條が次期首相となる。近衛は日米開戦後吉田茂と接近、吉田はスイスで英米との交渉を行う案を提案。だが木戸に握り潰された。昭和19年7月のサイパン島陥落に伴い東條内閣は退陣。終戦後、東久邇宮内閣で近衞は国務大臣に復帰。新憲法制定等に携わるが、昭和20年12月16日未明、服毒自殺。同窓生木戸幸一の裏切りで戦犯指定にされたのではないかという説が工藤氏の指摘。
高松宮宣仁親王 明治38年(1905)―昭和62年(1987) 大正天皇の第三皇子。
昭和天皇に戦争の詳しい実態が届いていないことを憂えた近衛文麿秘書、細川護貞の高松宮への情報収集が「情報天皇に達せず」となり、後に『細川日記』となる。ここには近衛が憲兵に常にマークされていたことなど赤裸々に書かれている。高松宮は戦争中は開戦当初から和平を主張して、海軍の実力者米内光政、外交官・吉田茂等の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した感がある。一時は信任する米内光政の部下、高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して嶋田海相の更迭や東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていた。昭和天皇は高松宮を「周囲の者や出入りの者の意見に左右される」「開戦後は悲観論で陸軍に反感が強かった」と手厳しい。だがどれもこれも高松宮や近衛を嫌っていた木戸幸一の存在がある。木戸は軍部にも天皇にも面従腹背であったことが今日では判明している。後に高松宮が肺癌に倒れたときは、昭和天皇は三度にわたって自ら高松宮のもとへ足を運び見舞っている。
昭和天皇 明治34年(1901)―昭和64年(1989) 第124代天皇。
戦後のいわゆる東京裁判で昭和天皇に戦争責任が及ぶのか、及ばないのか連合国GHQも日本側も考えざるを得なかった。そもそも「戦争責任」という概念自体に問題があるがここでは触れない。『昭和天皇独白録』は外交官だった寺崎英成の記録だが、独白は昭和21年初頭とある。明らかに東京裁判を意識したものには違いないが、独白録を吉田裕氏は天皇の単なる回顧録などではなく天皇が一個の政治的主体だったとする。だがそれにしては日米開戦を問われるであろう東條英機を「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」等と弁護するような部分もあるのは何故か。責任逃れではないと思ってもいいのではないか。二・二六事件の際、昭和天皇は鎮圧を指示した。戦争終結時の「御聖断」も共に「君臨すれども統治せず」に反する行為でもある。東條を肯定的に捉えたのは後述する大本営の杉山元と永野修身の上奏が信用ならなかったからではないのか。 
 
帝国陸海軍とは何だったのか [戦争の昭和史]

 

この項を書き始め、およそ完成したのが平成20年の暮である。昭和23年12月、極東国際軍事裁判(以下・東京裁判)に於いてA級戦犯に判決が下り、7人に刑が執行されて60年目だった。月刊の総合雑誌『文藝春秋』『中央公論』『歴史読本』、平成21年1月号で廃刊となった「現代」等でそれぞれ太平洋・大東亜戦争の特集があった。TVでは、この種の番組では珍しく民放・TBSで「あの戦争とは何だったのか・日米開戦と東條英機」が放映された。人気タレント「ビートたけし」が東條を演じたが、いささかミスキャストでもあった。坊主頭にロイドメガネ、チョビヒゲで甲高い声の俳優なら大体演じられるというのも特別秀でた人物ではないとの意味で示唆的でもある。私にはNHKのドキュメンタリー番組「A級戦犯は何を語ったのか」で演じた新劇俳優の「外山高士」の方が相応しいと思った。いわゆるA級戦犯は28人、松岡洋右・永野修身は病死、大川周明は精神障害で除外、25人に判決が下った。このうち15人が陸軍関係者だった。更に元外交官で首相だった廣田弘毅以外は、6人の陸軍軍人に絞首刑が言い渡され直ちに執行された。なかでもA級戦犯の代名詞ともなり、日米開戦の責任を負わされたのが東條英機である。この項では軍人のまま第40代・総理大臣に就任し、2年9カ月もの間、戦争指導をした人物を改めて一市民の視点で取り上げてみたい。日本を「軍国主義に陥れた悪い奴」と切って捨てるほど簡単なことはない。だからと云って東條英機なる軍人総理を擁護するなどということではない。またそんな必要も無いし、決して殉教者などではない。私は顧みるのも汚らわしく、ただ忌避するだけというのは甚だ近代史に不誠実であると思う。この軍人総理の誕生と崩壊を辿るだけで「帝国陸・海軍とは何だったのか」の正体を知ることにも繋がることと断言できる。
この項の結論を先に言ってしまえば実に簡単である。帝国陸・海軍とは、その内実は東條英機に代表される個人的な人間の好き嫌いが優先して情実人事で動いた組織だった。大国アメリカに「戦争をして勝つ」ということが本当に可能かどうかという極めて素朴な計算が成されたとも思えない。私には軍部とは、日本の国力を知らない、高度な政治的判断のできない、国際的慣習を知らない甚だ自己本位の希望的観測に満ち満ちたものだったと思う。小さな村の自治会をそのまま大きくしただけの組織だったかのようでもある。とは言ってもこの「帝国陸・海軍」という日本の歴史史上最大の組織と機構を語るのは容易ではない。
インターネットでは自由に語ることが可能で、悲惨で貴重な内容の兵士の戦争体験論、真摯な平和探求論、あるいは学術的なものかは解らないが「戦争を語り継ぐ会」などたくさんのホームページがある。「太平洋戦争悲劇論」「大東亜戦争肯定論」とそれぞれの立場で様々な主義主張があって、それこそ百花繚乱である。この項の目的は自分の父親がなにゆえ戦病死しなければならなかったのかということに尽きる。一町工場の一工員を日本の危機的状況の戦場に駆り出し、巷間言うところの「犬死に」「無駄死に」を強いたのは何故なのか。遺骨なのか小石なのか、ひとかけらが小さな木箱に入れられて帰還した結末は特段珍しいことではないのだろう。それが何故なのかを探るのは単なる興味ではなく、遺児として自分自身に課された義務だと思う。だが通り一遍の義憤だけでなく、では何故そうなったかを問いたい。二等兵で招集され、戦病死して「上等兵」に二階級特進した父親の死に様は少しも名誉ではない。その所属した帝国陸海軍とは何であったのか。当時のメディアの言うように聖戦を遂行する組織だったのか。
ここはA級戦犯で刑死したから悪い人として取り上げられるこのとの多い東條英機は、最初から誤った戦争指導者というレッテルを貼ることはせず、できるだけ史実より解っている事実の抽出を試みたい。最初から極悪人だったなら総理大臣などになれるわけが無いからである。ある作家は、昭和史の書を叙述するとき中心となる人物の相関図を作成することから始まると言う。私が刑死した軍人総理を中心にして叙述しても、それは二番煎じだが「太平洋・大東亜戦争とは何だったのか」「帝国陸・海軍とは何だったのか」その組織とは、日本の歴史の中でどういう位置を占めるのか、という命題に少しでも近づくことが出来るかも知れない。昭和天皇も含めて東條英機に関わりのある人物24人をこの項の前半に簡単に著して、その繋がりを理解したい。それだけでも「帝国陸・海軍とは何だったのか」のある断面に迫れると思う次第だ。この章では父親が守備兵として徴用された陸軍に焦点を当てる。
限りなく乱読と言えようが、ハードカバーから文庫・新聞まで手を広げると、つまらないことだが、面白いことに気が付く。「東條英機」「東条英機」という「條」「条」の字の正字・略字の表記である。半藤一利氏の大著『昭和史』を除けば、概ね岩波新書『アジア・太平洋戦争』の吉田裕氏などは「東条」と表記、『東條英機と天皇の時代』の保阪正康氏、『現代史の争点』の秦郁彦氏などは「東條」。若い学者・牛村圭氏、「フリー百科事典・ウィキペディア」などもきちんと正字である。文字通り昭和の終わりに発行された『昭和の歴史』8巻(小学館)は、多分にマルクス主義史観の学者の著述であろう。内容は詳細を極め十分「昭和史」に相応しいが、申し合わせたように「東条」である。どんなに悪い人でも苗字・名前くらいは正字にしても良いのではないか。前述の吉田氏は同じ岩波新書で、日米開戦のときの海軍大臣は嶋田繁太郎は「島田」としていないのはどういうわけか。新字体だからというわけでもなさそうに思える。意図的でないことを願うばかりだ。私にはそこに個人名の表記から面倒であるという感情論が支配しているようにも思う。中には産経新聞の「東京裁判」特集に「東條英機氏」と敬称付きというのもいささか面妖でもある。因みに一級史料の『細川日記』では書き易いからか、東条、島田と表記している。
私には一次史料というものは『木戸日記』『細川日記』『高松宮日記』くらいしか持ち合わせはない。いきおい昭和史に詳しい作家・学者の書からの孫引きになるのは止むを得ないが、この項では、できるだけたくさんの書から東條英機という軍人の出世歴、関わりのある軍人、政治家、人柄、性格、私生活などのエピソードを抽出してその人間関係に迫ってみたい。東條英機をその生まれから刑死するまで丹念に追ったのが前述の保阪正康氏の昭和55年発行『東條英機と天皇の時代』という大部の書である。その全貌を知るにはこれを読破するに限る。文庫2冊分の七百ページに及ぶ。私は再読、三読した。

前述の如く東京裁判のA級戦犯28人のうち15人が陸軍軍人だが、東條英機は陸軍士官学校の序列では8番目に過ぎない。「上官の命令は天皇の命令で絶対である」とたたき込まれた陸軍士官学校と陸軍大学の序列意識は、現代の官僚組織にも脈々として引き継がれているのだが、その序列を飛び越えて現役軍人のまま総理大臣になったのは、それなりの理由があったのだと言えるだろう。参謀本部という戦争遂行の組織の中核を成したのは「恩賜の軍刀組」と云われる陸軍大学卒業の各年度の少数者で、東條はその数少ないエリートからは程遠いのである。因みに東條の先輩の戦犯は次の通り。
南   次郎  06期 陸軍大将 昭和04年 朝鮮軍司令官 昭和06年 陸軍大臣
荒木 貞夫  09期 陸軍大将 昭和06年 陸軍大臣 昭和13年 文部大臣
松井 石根  09期 陸軍大将 昭和08年 台湾軍司令官 昭和12年上海派遣軍司令官
土肥原賢二 16期 陸軍大将 昭和06年 奉天特務機関長 昭和20年 教育総監
畑  俊六   12期 陸軍元帥 昭和11年 台湾軍司令官 昭和14年 陸軍大臣
板垣征四郎 16期 陸軍大将 昭和04年 関東軍参謀長 昭和13年 陸軍大臣
小磯 国昭  12期 陸軍大将 昭和14年 拓務相 昭和19年 総理大臣
梅津美治郎 15期 陸軍大将 昭和11年 陸軍次官 昭和19年 参謀総長
東條 英機  17期 陸軍大将 昭和15年 陸軍大臣 昭和16年 総理大臣
5期先輩の小磯国昭は東條のあと、総理大臣に就任したが、戦争を収拾する力は無かった。むしろ副総理格の海軍大臣・米内光政が首相に相応しく、陸軍との妥協の産物で首相は小磯になったに過ぎない。それぞれの軍人に考察を加える必要はないが、東條英機は何しろ総理に就任のあと2年9カ月もその地位に留まっていた。昭和19年7月、総辞職する頃は大本営・参謀本部総長も兼ねていた。このことから東條英機を日独伊三国同盟という枠組みにおいて、ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニと並んで独裁者だったと思われがちである。しかしそれは正しくない。東條は陸軍士官学校・陸軍大学の卒業年次に基づいて多分に年齢序列的に役職を得たのである。(『歴史読本・論点検証大東亜戦争』平成20年09月号P131)東條が強権を用いたり、クーデターなどで総理大臣に昇りつめたのではないということである。ここはA級戦犯に限ったが東條より先輩の7人は陸軍内の派閥抗争及び官吏としての差であるのかも知れない。経歴からなら2期先輩の梅津美治郎の方がはるかに総理大臣に相応しい。梅津は陸軍士官学校・陸軍大学をトップで卒業したいわゆる「恩賜の軍刀組」といわれるエリート中のエリートである。昭和20年09月、東京湾ミズーリ号甲板での敗戦の調印式に出ることを最期まで嫌がったことでも解るように表に立つことを終始避けたと云われる。それでいて昭和11年の二・二六事件の後の粛軍人事、そのあとの廣田広毅内閣では「軍部大臣現役武官制」復活などに深く関わっているのである。その「軍部大臣現役武官制」こそが、軍人が日本国家を壟断することになるのである。このことからも梅津美次郎は戦争責任が重いという識者も多い。こういう軍人に限って証拠となるような史料を残していないらしい。廣田は「軍部を押さえ切れなかった」ことの不作為で、また法廷で一切弁明しなかったことでA級戦犯として絞首刑になった
東條の人となりは秘書官だった赤松貞雄大佐が美点を列挙している。(『現代史の争点』P240)「真面目で責任感が強い。金銭欲が薄い。努力家で人情家。実行力があり用意周到。天皇に忠誠心が強い」などいいことづくめで一国の総理大臣としては申し分ない。だが東條に近い知人は「最大の欠点は感情的で偏狭、愛憎の念が強い」との指摘は今、思えばその通りであろう。その偏狭さ、愛憎の念が政権末期に自分に逆らった人間への数々の報復行為となって表れる。日米開戦当時のアメリカのコーデル・ハル国務長官は「彼は典型的な日本の軍人で、小さい、単純な、一本気の男だった。彼は片意地で我意がつよく、バカで勤勉で馬力があった」 (『ハル回顧録』P176)と手厳しい。日本に来たことのないハル国務長官がこれだけ冷静に人物評価をしているのは、後年書かれた回顧録というだけの理由ではないのだろう。駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーの観察もあろうが、何よりも昭和16年頃の日本の外務省の連絡などはすべてマジックという暗号解読で東條はおろか、重要な日米開戦の起点となる昭和16年9月の「御前会議」の内容すら解っていたのである。序でに言えばリヒャルト・ゾルゲにも筒抜けだった。ここで判ることは、組織の長として能吏だったが、個人的な性格から好き嫌いの極めて日本的な素朴な人物が戦争を指導したことが顕著だということである。
自ら進んで東京裁判の証拠として提出、太平洋戦争の一級史料とも言えるのが『木戸幸一日記』である。記録としては昭和5年から20年に及ぶ。A5版2冊の大部の書である。内容は日記であり、殊に昭和15年から昭和天皇の側近・内大臣としての記録は貴重と云えよう。巻末には人名索引がある。圧倒的に多い登場人物は原田熊雄、近衛文麿、松平康昌である。原田・近衛・木戸は京都大学の同窓生であって頻繁に記述されているのは当然かも知れない。東條英機の名は、近衛文麿の半分に満たない。木戸日記に登場するのは昭和13年、近衛内閣の陸軍大臣を補佐する次官に推されたのが最初である。(『木戸日記・下巻』P645・木戸日記のノンブルは2冊に跨がっている)
少々くどくなるが東條英機の登場は最小限理解しておきたい。第一次近衛文麿内閣は昭和12年06月に発足。翌月07月には「盧溝橋事件」が発端となって日中戦争が起きる。「支那事変」という呼称は対外的な詭弁である。昭和06年以来の「満州国」の安定に関東軍と事実上満州を牛耳る日本人官僚が、日本の内閣・議会に対して大いに不満に思っていたようである。とりわけ近衛文麿首相の優柔不断は面白くなかった。今、思えば他国に傀儡政権を作ったのである。それはそれで問題だが、昭和初期の日本全体の貧しさに「満州国」は、国民にはこぞって歓迎された。このことは次項で中心にして言及したいが、昭和に入ってからの日本は帝国などと言えるような国際情勢・経済状況などではなく、全体の7割を占めたのが第一次産業で殊に農民はその半数以上が小作人だった。このことが「太平洋・大東亜戦争」の或いは最も重要な背景となっているのだと私は思う。
第一次近衛内閣は翌年瓦解するが、根本は日中戦争が解決しないからだった。無論、近衛は日中戦争不拡大の方針である。近衛文麿と中国国民政府・蒋介石との間に停戦協定が結ばれようとしていた。その密使の宮崎龍介(労働運動家)は陸軍憲兵隊に逮捕され、停戦協定は頓挫する。近衛は自分が思ったほどの力が発揮できず辞任したいが、近衛を推した西園寺公望などに止められる。辞意を翻す代わりに内閣改造をする。近衛は陸軍大臣には、その宮崎の逮捕に毅然とした態度を示さなかった当時の杉山元(はじめ)陸軍大臣と次官の梅津美治郎を推すつもりは無かった。支那事変と称される日中戦争を解決したい近衛は、杉山と梅津に我慢がならなかったに相違ない。序でに云えば杉山・梅津は終戦まで省と部の陸軍に居続けることになる。今から思えば戦争をすることしか能のない軍人の典型がこの二人である。終戦後、杉山はピストル自決。梅津は終身刑で病死する。近衛改造内閣で陸軍大臣になったのが「満州事変」の一方の立役者、板垣征四郎である。ここで陸軍次官に抜擢されたのが東條英機で表舞台に立つことになる。近衛は「東條とは何者か」と尋ねた事実がある。まだここで日本という国の不幸などと言うつもりはないが、次官としての東條は「カミソリ東條」と言われ、テキパキと仕事をこなしたらしい。その仕事ぶりが重用されて木戸幸一や昭和天皇の目に止まるのだろうか。この時の参謀本部総長は閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王。皇室の血脈につらなる軍人なので、事実上の総長は次長の多田駿(ただはやお)だった。当時の参謀本部は石原莞爾、多田駿が主流で日中戦争不拡大論である。満州は独立国で日本の植民地ではないとする立場である。陸軍次官にならない前の東條英機は、関東軍参謀長に任命され満州で、満州国運営に力を発揮した。ここでは取り上げないが参謀本部の参謀にすぎない東條が指揮して満州国では、かなり残酷な作戦を遂行、中国人に多大な犠牲者を出している。(昭和12年・内蒙古チャハル作戦)天才型の軍人とも言われた石原莞爾の理論は理論として今でももてはやされている。だが、満州国に於いて能吏としての東條は、石原莞爾という軍人の性格と合わなかった。又その満州事変の司令官でもあった板垣ともしっくり行かなかった。陸軍大臣・板垣と参謀本部次長・多田は「オレ・オマエ」の間柄で、陸軍次官を頭越しにする疎通は、政治の機構上、東條には我慢ならなかった。(『東條英機と天皇の時代』P191)こんな処に東條の人となりを知ることができる。組織の機構と秩序を重んじることが何をもたらすのか、まだ此の時点では悲惨な日米戦争の結果を誰も知らない。
ここでもう一度、省部を確認しておきたい。同じ陸軍でも「陸軍省」は内閣の一部、統帥部と言われる「参謀本部」は直接、天皇主権に直結する部署である。戦争を指揮する参謀本部には内閣総理大臣は口出しができないのである。作戦・用兵は参謀本部の専権事項だった。陸軍省は今で云う行政府の一員で作戦の背景となる政策や予算が持ち場だった。参謀本部の「作戦部」は陸軍大学を優秀な成績で卒業した者にしか入室さえ許されなかった。陸軍省の中核を成すのは「軍務局」だった。東條英機は省・部ともに経験している。昭和16年の日米開戦時に限って言えば、参謀本部のトップ、参謀総長は昭和天皇には全く評判のよくない杉山元だった。作戦部長は田中新一、作戦課長は服部卓四郎、作戦班長は辻政信、それぞれの軍人はこの項の後半に寸評を入れるが、戦争をしたくて堪らないとも云うべき最悪のトリオだった。(『文藝春秋平成19年6月号』P117)陸軍省と云えば、前述の保阪正康氏が良心的軍人と評価するのが当時の軍務課高級課員の石井秋穂大佐である。高級課員とは現在で言えば各省庁の課長補佐と言うべきか。多くの政策の起案書を作成した少壮の軍人だった。日米開戦時は首相兼務の陸軍大臣は東條英機。軍務局長は武藤章、軍務課長は佐藤賢了、軍事課長は後に東條には嫌われる岩畔豪雄(いわくろひでお)・真田穣一郎である。日米開戦は、軍務局の武藤と参謀本部の田中新一が喧嘩腰のやりとりが屡々あった。(『陸軍良識派の研究』P57・189)だが東京裁判で絞首刑になったのは開戦に否定的な武藤章だった。昭和天皇の戦争責任に直結する「参謀本部」の軍人は実際は戦争に積極的だったのに罪を免れる。戦後GHQはこの統帥部と陸軍省の権力の相違が理解できなかったと言った方が正しいようだ。戦後巧みに責任を免れて再軍備を画策したのが服部卓四郎である。辻政信に至っては僧侶に化けて東南アジアに隠れていた。しかも辻は戦後、国会議員になった事実は何を物語るのか。戦争の作戦遂行は統帥部と云う「参謀本部」で予算と装備は「陸軍省」の管轄と云うのは今でもなかなか理解し難い。
第二次近衛内閣に陸軍大臣として入閣したのが東條英機である。何故推されたかが問題だが中国大陸が膠着状態でダレきった陸軍の事務的要請だったのは衆目の一致するところ。「カミソリ東條」と言われてきぱきと事務を処理する能力に長けていた。それまでは寺内寿一・杉山元・板垣征四郎・畑俊六と居るだけの陸相だったらしい。近衛文麿が昭和16年10月、第三次内閣を投げ出したあと、内大臣・木戸幸一は東條英機を総理大臣に指名した。昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と言ったことで有名である。中国大陸から撤兵すると決して言わない陸軍の態度を変えさせるのは、陸軍の利益大優先の東條をおいてほかに適当な人物が居なかったからと云われる。「元来東條という人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことと又憲兵を余りに使ひ過ぎた。それに、田中隆吉(十七年九月まで兵務局長)とか富永次官(恭次・兼人事局長)とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」(『昭和天皇独白録』P103)昭和天皇が東條を評価したというより参謀本部・軍令部総長の杉山や永野のいい加減さに我慢がならなかったのが正解だと思う。これは後述する。
文藝春秋編『完本・太平洋戦争』(文庫判では4冊)の解説者、秦郁彦氏は、第二次大戦時におけるルーズベルト・チャーチル・スターリン、蒋介石などとくらべて東條英機は貫禄と風格に欠けるのは当時から指摘されていたと述べている。(『完本・太平洋戦争3』P11)その主たる理由が極めて日本的な人の好き嫌いに因るものである。対米戦争にアメリカをよく知る軍人を排除、意図的にアメリカを軽視する軍人を重用した。その代表的人物が佐藤賢了である。佐藤は昭和13年の議会で「国家総動員法」の質疑で野党の「辞めさせろ」の言葉に「黙れ」と一喝したことで有名である。佐藤の「アメリカ人は軟弱」とういう教唆が東條のアメリカ感を冗長したに相違ない。東條が自分に対するイエスマンで固めたことは前述の通り。陸軍の軍務を律義にこなす東條英機を首相に指名したのは昭和天皇との歴史が定着しているが、私には内大臣の木戸幸一が巧みに誘導したものと思っている。
東條を取り巻く連中は、「三肝四愚」の名が高かったと云う。(『完本・太平洋戦争』VP19)「三肝」は鈴木貞一(企画院総裁)、加藤泊治郎(憲兵司令官)、星野直樹(内閣書記官長)または四方諒二(東京憲兵隊長)を指す。三肝のうち二人が憲兵である。「四愚」は、木村兵太郎(陸軍次官)、佐藤賢了(軍務局)、真田穣一郎(参謀本部部長)、赤松貞雄(秘書)の四人だというが、秦郁彦氏は富永恭次(人事局長、陸軍次官)をぜひ加えたいと言い、インパール作戦の司令官・牟田口廉也も加えたいと言う。このような「三肝四愚」のレッテルが当時の現場の評価か、海軍が発信源か、戦後の評価かはよく解らない。ただそれが今では正しいと思うと呆れると云うより悲しいと言った方が適切か。特に佐藤・富永・牟田口は悪しき軍人の代表として太平洋・大東亜戦争の書では必ず言及されている。こういう軍人が政策決定、作戦決定に深く関与しているのに東京裁判では重い罪を免れて戦後のうのうと生き仰せたのである。
政府と統帥部の戦争遂行の権力調整が「政府・大本営連絡会議」、それを承認したのが「御前会議」だった。平成3年放送の『御前会議』の冒頭には東京裁判の尋問シーンがあった。証言者・木戸幸一は「御前会議」は「がん」であったと証言している。判事が「がん」とは何か聞き返すシーンが印象的でさえある。木戸の「癌」などという唐突な釈明は自分が出席しなかった御前会議に責任のウェートを乗せる意図も見え隠れする。だが天皇に責任を及ぼさないためには不治の病に譬えたのか。昭和天皇が昭和16年10月に入って東條を指名せざるを得ぬように画策したのは木戸自身であったことはすでに述べた。その御前会議だが、当時国民に知らされることはなく事実上の国策決定機関だったのは間違いがない。。御前会議は、天皇臨席のもとに重要な国策はすべて決定された。会議は、昭和開幕から太平洋戦争開戦までに八回開催されている。とくに昭和16年は4回を数える。対米戦争へ大きく傾いたのは7月2日の御前会議以後である。その出席者一覧は次の通り。
第五回(昭和16年07月02日)
近衛 文麿  総理大臣
平沼騏一郎 内務大臣
松岡 洋右  外務大臣
東條 英機  陸軍大臣
及川古志郎 海軍大臣
河田  烈   大蔵大臣
鈴木 貞一  企画院総裁
杉山  元   参謀本部総長
永野 修身  軍令部総長
塚田  收   参謀本部次長
近藤 軍竹  軍令部次長
原  嘉道   枢密院議長
武藤  章   陸軍省軍務局長
岡  敬純   海軍省軍務局長
富田 健治  書記官長
第六回(昭和16年09月06日)
近衛、田辺内相、豊田貞次郎外相、東條、及川、小倉蔵相、鈴木総裁、杉山、永野、塚田、伊藤軍令部次長、原、武藤、岡、富田
とくに御前会議はセレモニーの様相を呈する。むろんそれ以前に大本営の上奏があるからである。16年09月06日、御前会議の前の上奏は天皇には大いに不満があった。参謀本部総長は杉山元、軍令部総長は永野修身である。昭和天皇が近衛文麿辞任のあと東條英機を指名したのは、私はこの両総長のいい加減な上奏に起因すると思う。同席した近衛文麿の『失はれし政治』に書かれている有名なくだりがある。(『ドキュメント太平洋戦争への道』P292〜295)私もこの上奏は作戦を遂行する大本営の矛盾が凝縮されていると思っている。孫引きだが少々長い。
近衛はルーズヴェルトとの日米頂上会談に固執しているうちに09月03日「帝国国策遂行要領」が決まる。その決議案を見せられて、天皇は「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じをうける」と納得しなかった。このあと、急遽、杉山参謀総長、永野修身軍令部総長が呼び出される。
天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。
杉山 南洋方面だけは三カ月で片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいにて片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。
杉山 支那は奥地がひらけており、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって三カ月と申すのか。
杉山は答えられず永野がそばから助け船をだした。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない。……統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、思いきって手術をしなければならんと存じます……」
二人の統帥部の長の不満足な、矛盾した説明に対して、天皇は大いに不満だった。そこで天皇は訊ねた。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」両総長は「そのとおりであります」
天皇は納得しなかったが、それ以上は追及しなかった。できなかったのが正解か。それが9月6日の御前会議で、これもかなり有名件だが明治天皇の御製を読み上げることになる。
「四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」
昭和天皇が直接命令できない軍部に対する最大にして最後の警告だった。識者にはここで昭和天皇が明確に戦争に「ノー」を突き付けるべきだったという指摘もある。天皇自身は『昭和天皇独白録』に日米開戦をあくまで貫いたら「自分は幽閉されたかも知れない」と述べている。
東條英機なる軍人総理を俎上に乗せるとき、それを最もよく知る歴史的事実は、昭和16年09月06日の「御前会議」から東條首相誕生の10月17日までの推移であろう。事務的決定事項を重んじる東條には、甚だ曖昧な態度の及川古志郎海軍大臣や日米首脳の頂上会談にこだわる近衛文麿首相には大いなる疑問を持った。ことの内容よりは事務的手続きが形骸化されることに東條の性格が許さなかった。臨席した天皇へ背くこととして捉えたのは、その頃の政治体制としては正解なのか。「近衛の暖味な態度はその場かぎりの辻褄合わせに思えたようだ。もともと東條も、海軍が戦争に勝算がないといえば再度検討しなければと考えているのに、及川からはその言がきかれないのに苛立っていた。ただひたすら09月06日の決定をくつがえすことに逃げこむ近衛や豊田、及川の態度に、憎悪に近い感情をもつようになった」(『東條英機と天皇の時代』P283)
<十月十日のことである。東條のもとに、軍事調査部長三国直福が情報をもちこんだ。
「木戸を中心とする宮中、近衛首相、外務省、海軍の連合軍で陸軍を包囲し、アメリカの提案を呑ませるべく圧力をかける」というものだった。三国はこれを陸軍省詰めの新聞記者から聞かされたといい、それが事実か否かは不明とつけ加えた。
「こんどはおれの番か。おれを辞めさせようったって簡単じゃないぞ。おれは松岡ではない。松岡の二の舞になどなるものか」>(『前述書』P283)
この東條の告白は完全に面子とともに事態の推移にさえ憎しみを持っていたようだ。御前会議とその前日行われた政府・大本営の決定が金科玉条なのであろう。戦争に勝つ、戦争を処理する、戦争に目途をつけるなどの最も重要な政治・軍事目的はなく、陸軍という組織の中の自分の位置、一旦決着した事務的形式の遵守という地点から一歩も踏み出せないでいるのである。東條は近衛文麿が「日米開戦」に終始反対であるのを知っていた筈である。だからこそその懸念の元凶が陸軍であるとの近衛の態度を徹底的に否定せざるを得なかったと云えるだろう。
あらゆる昭和史の書でも拙論でも何度でも繰り返すことになるのが「統帥権」である。どこの国でも軍部ではそれぞれ何らかの対立があるに違いないし抗争もあるだろう。だが結局は民主主義の国であれ、独裁者の国なら当然だが政治上の最高指導者が国策にしろ戦争にしろ決断をする。ところが日本の戦争指導は甚だ曖昧だった。統帥権を総攬するのは天皇だった。主権は天皇にあった。政治は政治家が補弼、軍事は統帥部が輔翼したが、政治家も軍人も政治を軍事を任されている自覚があまりにも希薄だった。いい加減と言っても差し支えない。そのいい加減の最も顕著な事態が昭和16年の秋である。10月17日東條英機内閣が出現する。繰り返すが近衛文麿は終始英米との戦争には否定的だったのは間違いない。昭和16年9月6日の「御前会議」以降、近衛文麿首相と東條英機陸相の対立は頂点に達する。責任の所在がはっきりしないし最高指導は天皇に預けたままゆえに、それぞれの指導者は自分の位置するセクトからの視点でのみ、組織としてものごとを判断する。これが諸悪の根源と言ってしまえば事は簡単である。日米開戦において最も責任の重いのは「陸軍」であるのが定説だが、結論としてどこに責任の所在があるかは断定できない謗りもある。陸・海軍とも軍人とて今日で言うほど馬鹿ではない。海軍は非公式ながら「アメリカには勝てない、だから戦争回避のためにはアメリカの要求に従って中国からの撤退も考慮するべきである」と伝えて来ていたと言うのである。陸軍は陸軍で陸軍省軍務局武藤章が内閣書記官長富田健治に「日本海軍はアメリカ海軍に勝てない」と公式に表明してもらいたいと伝言を頼んだ。(『「大日本帝国」が好くわかる本』P177)東京裁判で一人の絞首刑を出さなかった海軍はここがずるいところである。「正式には言えない開戦の決定は総理大臣の判断」として公式には陸軍の期待には応えなかった。総理大臣・近衛文麿は陸軍に中国大陸からの陸軍撤退を迫ったのである。陸軍大臣・東條英機は百万人を越す組織の長である。到底自分から撤退を明言できる筈もない。撤兵は降伏と同義語だった。この開戦責任のトライアングルで東條は9月6日の御前会議の決定、つまり「外交交渉が不首尾なら日米開戦止むなし」の国策決定の手続きにこだわったのである。近衛文麿の首相辞任は無責任・軟弱ということになっているが、陸軍を押さえる力は無かったし、あくまで日米避戦を貫いたらテロ・暗殺に晒されたに相違ない。その暴力を最も恐れたのが内大臣木戸幸一である。後継は陸軍大臣・東條英機だった。東條が予備役として世田谷区用賀の自宅に蟄居する覚悟だったのは少々疑わしいが、思いもよらぬことだったのは正直かも知れない。「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」の昭和天皇の発言は、やはり統帥部に対する不信の証明であろう。

東條英機内閣が誕生した三日前10月15日、ソ連のスパイ・ゾルゲが逮捕された。そして陸軍省兵務局長だった田中隆吉の手記には東條腹心の憲兵司令部長が「東條を総理にしろ」と木戸幸一を脅迫したエピソードもある。田中は、膠着状態の中国大陸での謀略は夙に知られ、悪名高いが東京裁判では、免責と引き換えに陸軍内部を告発する側に回り「日本のユダ」とも称された。だがとにかく首相になった東條英機は天皇の意に添い「御前会議白紙還元」を試みることになる。東條英機は「日米開戦止むなし」の立場に変わりはないが、首相に就任してからは避戦を試みたと言えなくもない。これも何度も指摘することになるが、10月23日からの「陸海軍項目別再検討会議」である。これが1週間も続いたが平和を模索などということには無論なる筈もなかった。11月に入ると政府大本営連絡会議が開かれ日米開戦への流れとなってゆく。ここに至っても海軍大臣・嶋田繁太郎には昭和天皇から「一、航空燃料不足の為に作戦に支障を生ずることなきや、二、蘭印油は航空燃料に適せざるにあらずや」の御下問があった。「日米開戦は避けよ」ということだろう。しかしそれから5日後の昭和16年11月05日「御前会議」で日米開戦は事実上決定する。「原枢府議長より質問及び意見陳述ありて、可決。三時二十分、御裁可遊さる。未曾有の重大時局に当り、御勇断真に恐懼に堪えざると共に、御英明畏き極みなり」(『完本・太平洋戦争 T』P18)とすでに引き返せない事態に陥ったとして差し支えない。第三章で述べたことだが、このころはもう完全に「マジック」によって日本の上層部の意志はアメリカ政府には筒抜けだった。アメリカが日米開戦を確信したのは想像に難く無い。統帥部は戦争をすることしか頭にないからどうしようもないが、政府は天皇の意を受けていまだ外交による手段を捨ててはなかった。だが決定的なのは外交をしながら戦争の準備と着々と進める事態にアメリカが理解する筈もなかった。日本外交が信用されないのも仕方ないと云えば言える。外務大臣がいつアメリカを急襲するのかを全く知らなかったことでも解ることである。11月初旬の東京朝日新聞は「見よ米反日の数々/帝国に確信あり/今ぞ一億国民団結せよ」と反米親独一辺倒だった。首相官邸には手紙の類が殺到した。「何をしてるか」「米英撃滅」「対日包囲陣撃滅」(『東條英機と天皇の時代』P328)と弱腰の総理大臣を戦争へ煽るものが圧倒的だった。その間にも第七十七臨時帝国議会もあったが議会も日米開戦は必至だった。官邸には総数三千通もの手紙が殺到した。いわゆる「ハルノート」の最後通告があって日米開戦を避けきれない東條英機は天皇の外交重視、戦争回避の心情を知りながら殆んど打つ手は無かった。真珠湾攻撃の前日12月06日の深夜、東條は首相官邸の家族用の部屋で皇居に向かって号泣したのである。号泣は慟哭だった。(『前述書』P349)自分で解決できないだらしなさが陸軍大将・総理大臣をして泣くのである。後世の大局が解っている私であっても泣いてことが解決するなら長閑なものだと思う。
2年9カ月もの間の戦争の実態はここでは省く。前項でも触れたし、この章4項でも触れたい。ただ東條英機という軍人総理を語るのにふさわしい事実があって、これは触れて置かなければなるまい。日本が敗戦への道を転げ出したのは昭和17年06月03日の「ミッドウェイ海戦」だが、この無様な敗戦は海軍がひた隠しに隠したからだが、東條は総理大臣にあっても海軍のこと、戦争そのものを遂行する大本営に関しては口出しができなかったのである。だが若くして大本営作戦部に重用されて6年間も在籍した瀬島龍三はその事実を知っていて東條には知らせなかったというのである。知ったにしても東條はその「負け戦」を自分の責任で認めたくないから「戦陣訓」が示すように精神論に逃げ込み、現場の最前線の惨状から目を背けたのだと思う。私はここに東條英機の最大の誤りがあり、責任があり、軍人としても政治家としても限界があったように思う。終戦後、東京裁判で明らかになるのだが、東條は世界情勢や国際法など嘘のように無頓着で尋問する連合国検察が呆れたという結果もある。戦局の打開に東條ができることは、機構を弄り、市民の生活の一部を覗いたりすることに終始したことにも見られる。東條英機とは、市民として父親としては金銭に潔白、家族思いで真面目だが、為政者としてはひたすら先人の通過してきた「富国強兵」のレールの上を走っているだけで立ち止まって「これでいいのか」と反省した形跡もなく、ひたすら軍部を維持するのに精一杯だった。そのために都合のいい人物・軍人を配しただけだった。
この項の結論はすでに出たも同然だが、東條英機という政治家の拙劣さを象徴するのがいわゆる懲罰人事である。これも「三肝四愚」と共にあらゆる昭和史の本でも言及されているので2点挙げて置く。
昭和19年02月23日『毎日』第一面の真ん中に、新名丈夫記者の記事が掲載された。
「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」。
「太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐつて戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻して来るにおいては最早万事休すである。……敵が飛行機で攻めて来るのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である。帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないのか」
「然らばこのわれに不利の戦局はいつまでも続くのか、どこまで進むのか。われ等は敵の跳梁を食い止める途はただ飛行機と鉄量を、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るに西太平洋と中央太平洋における戦局は右の要求を一向に満たされないことを示す。一体それはどういうわけであるか、必勝の信念だけで戦争には勝たれない」(『太平洋戦争と新聞』P404)
この記事には全国から賛辞が寄せられたらしい。「勝った勝った」の戦争が嘘であるらしいことに国民は、この時点で感じとっていた。この記事を書いたのは「黒潮会」の毎日新聞記者・新名(しんみょう)丈夫だった。黒潮会とは海軍の記者クラブである。新名の記事は東條批判というより陸軍への批判だった。今から思えば正解と思えても陸海軍の対立は最後まで解消しなかった。「日本との戦争に勝つ」というアメリカ軍の政略・戦略に軍部の対立は聴いたことはない。この記事への懲罰は毎日新聞だけにとどまらず新名個人へも執拗に続けられることになる。事件は新名記者をめぐる陸海軍の対立へとエスカレートする。新名は極度の近視ですでに兵役免除になっていたが37歳の新聞記者への召集でだった。これだけでもはや異常である。海軍省は猛然と抗議した結果、陸軍は新名と同じく大正生まれの兵役免除者250人を突然召集して、つじつまを合わせたのである。新名のとばっちりをくって再召集された丸亀連隊の中年二等兵たち250人は、硫黄島に送られ全員玉砕させられた。何ともコメントできない結末でよくこんなことがまかり通ったものである。こういう事実は理解し難く愚かであるにしても正確に歴史に刻むべきである。
東海大学の創立者松前重義への懲罰召集も知られるところである。松前は昭和16年、逓信省工務局長に就任。昭和17年には、航空科学専門学校、電波科学専門学校(後に東海科学専門学校として合併)を創設。教育界に進出する。この官僚時代に無装荷ケーブルというの国宝級という発明をなし、当時の日本の通信技術に大きく貢献した。だが科学者の立場から東條内閣の方針に強硬に反対した。当時42歳でかつ少将相当の天皇の勅任官であるにもかかわらず二等兵として中国大陸の戦地に送られることになる。反東條派の東久邇宮稔彦王・中野正剛と共に働きかけを行なった松前を直接的に抹殺できないため、陸軍首脳の暗殺工作であったとする説もある。のちに召集解除・復員が叶い、松前は生還したが、気の毒なのは松前を日立たせぬためお相伴の召集を食った同年配の老兵たち数百人で、ほとんどが船もろとも海没してしまった。(『現代史の争点』P243)これら二つの懲罰人事は狂気の沙汰である。かような内容の軍部であったればこそ軍国主義・ファシズムと片づけられ、戦後でさえ軍事・防衛さえ忌避される要素となっているものと思う。今、現在の保守・革新の区別なく、これらは細部にまで検証されるべき軍人総理の側面である。太平洋・大東亜戦争は決して特攻と玉砕だけが悲劇ではない。

お上の御威光を体現している自分に逆らうことは、お上に楯突くことと信じて疑わない東條の死生観とはどんなものだったのか。懲罰人事で戦死することの可能性が高い戦争の最前線へ追いやることは、いかに最前線が酷いものかは知っていたことの重要な証明である。太平洋・大東亜戦争の特徴は、210万人をかぞえる戦死者の大半が、敵の弾丸以外の原因で倒れた点にある。実数や内訳は正確に計算できるものではないが、「ガダルカナルの戦い」「インパール作戦」に象徴されるが餓死と戦柄死は七割を越えると推定されている。
<これだけのスケールになると、国力の格差とか、明治憲法体制の欠陥とか、国民性などを並べたてても、遺族は納得してくれない。「日本兵はコメを食わせないと戦えない。そのコメ俵を運ぶ途中で輸送船もろとも沈んだから仕方がなかった」式の説では言い訳になるまい。世界戦史に例のない大量餓死をもたらした責任が明らかにさないと、死んだ兵士たちは浮かばれないだろう>
<昭和20年02月、天皇が重臣(首相経験者)を別々に呼んで、戦局に関する意見を聞たことがあった。東條との問答は侍立した藤田尚徳侍従長が『侍従長の回想』(中公文庫)に記録している。それによると、東條は全般戦局について「成功不成功相半ば」と強気一方の見通しを開陳したあと、「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」と断言した。これを聞いて「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」だったというが、どうやらこの軍人宰相の頭のなかでは、餓死も病死も「名誉の戦死」で一括されていたのではなかろうか>(『現代史の争点』P229)
日米開戦の原因は、それぞれの立場で諸説ある。政治・軍事・外交・メディアごとに検証すれば、それだけで分厚い政治史・軍事史・外交史・メディア史となる。だが敗戦の責任は省・部に関係なく軍部の分析・現状把握・決断のなさがいちばん責任を負うべきだろう。
昭和19年に至ると新名丈夫毎日新聞社記事に見られるように戦局は好転するはずもなかった。大日本帝国憲法下において総理大臣東條英機にできることは後述する機構いじりだったのかも知れない。陸軍・海軍・統帥部・重臣・宮中らの詳細なニュアンスは知るべくもないが木戸日記にはその痕跡は残っている。<二月十八日夜。官邸に陸軍省の富永恭次陸軍次官(人事局長も兼任)、佐藤賢了軍務局長が呼ばれる。ここで東條から参謀総長兼任の意思が告げられ、関係者に根回しを行うよう命じられる。「憲法公布以来の重大事である。だがこの事態はこれでしか乗りきれない。自分の人格を国務と統帥とに分けて乗りきりたい」東條の言に富永も佐藤もうなずく。二人は東條の腹心の部下であった。この二人は午後九時すぎに官邸をでて根回しのために動き始める。教育総監部本部長の山田乙三を説得にいったと思われる。というのは、陸相、参謀総長、教育総監本部長の改造人事については現職の三人が合意のうえで後任者を指名するのが慣例だったからである。午後十時、東條は内大臣の木戸幸一を私邸に訪ねている>(『昭和陸軍の研究・下』P162)。

一、統帥一元強化
陸海軍統制を更に強化一元化する為め、
(イ)杉山総長の辞任を求め、東條首相陸軍大将の資格に於て兼任せむとす─負担の増大については御許を得ば次長を二人(作戦、後方兵粘)とし、一人を大将級を以てする大次長とす。軍令部総長の問題には直には触れず、海軍大臣に其の意図を予め話すに止む。但し交迭は寧ろ歓迎するところなり。海軍側にて豊田[副式〕大将をと云ふことなれば是も一向差支なし。
(ロ)元帥府の強化活発化、出来得れば常時宮中に在りて陛下を 輔佐し奉る。
(ハ)大本営両総長は宮中に於て執務す。
一、内閣改造
賀屋大蔵、岩村司法、山崎農商、八田運通の四大臣の辞任を求め、石渡を大蔵、高橋三吉大将を司法、内田信也を農商、五島慶大を運通に奏請したし。
一、天皇御親政の実を示す為め、大本営の宮中設置と共に、閣議も宮中に於て開き、時に応じ親臨を仰ぐこととし度し。(『木戸幸一日記』下P1089)
東條の考えるには、自分は完全に天皇に信任されている。宮中で統帥や国務の会議、さらに天皇のすぐ近くで執務を行えば、戦争遂行はスムーズに行くだろう。自分が独裁者になりたいのではなく飽くまで、今までより戦局が改善するくらいに考えたのではないか。「君臨すれど統治せず」という立場の天皇であるのに積極的な戦争関与を願ったのであろうか。このことによってそろそろ木戸幸一には東條英機に疑問を感じたものと思われる。だがもうこの頃、陸軍の主流派から外れていた「皇道派」や総理大臣経験者の重臣からは日本の敗戦は必死とみられ、戦争を止めるには先ず東條英機を首相の座から下ろすことに重点が置かれたと思う。重臣に強引に引き下ろす力はむろん無く、何より東條がまだ天皇に信任されていた。昭和天皇に正確な戦争の実態が知らされていないのは常時輔弼(ほひつ)の木戸幸一に向けられ、総理大臣辞任以来、上奏の適わなかった近衛文麿が秘書の細川護貞に対して天皇の弟宮・高松宮へ情報提供を指示した。それが『細川日記』として結実している。
<昭和19年07月11日「余帰りの車中にてしみじみ思ふに、今日の事態がかく混乱し居るは、要するに木戸内府に私心あればなり。木戸侯は東条と同一に見らるゝを恐れ、何とか彼と別物なることを示さんとあせりつゝあり、故に東条と全く傾向の異りたる者が現るれば、自然東条の責任を追及することとなり、ひいては木戸侯の責任問題となるを以て東条の次に寺内等を持ち来り、責任を多少なりともボカし、次いで和平内閣に持ち行かんとの下心なるべし。余も侯には御世話になりたる身なれども、此の大戦争をなしたる東条を推薦し、ひいて戦争指導を誤れる東条を弁護したる責任は、決して軽からず。その結果幾十万の青年は死に、家族は悲嘆に暮れ、銃後国民生活は逼迫し、数億の国帑(こくど)を費し、加ふるにぬぐふ可からざる敗戦の汚点を国史に印せんとする、此の有様は一に掛つて内府常時輔弼の責ならざるはなし。而も此期に及んで「唯々一身の打算によりて行動せんとするは、断じてゆるす可からず>(『細川日記』P264)
細川の妻が近衛文麿の娘で近衛の女婿であっても、細川には閉塞感ただよう当時の状況はその矛先が木戸幸一に向けられている。
<昭和19年07月11日「余は更に思ふ、木戸内府は私心ありて決意せず、公は亦優柔不断濫りに口舌を弄んで決起の勇なくんば、遂に日本は亡国に到るべし。よつて最後の手段として、東条を刺殺し、高松宮殿下の令旨を奉じ、御殿に於て木戸内府を圧迫して後継首相に殿下を推戴し、陸軍小畑、海軍米内、外務吉田等の顔触れを以て、所信を断行するは一つの考へなり。余は車中瞑目して実行の細部に到る迄検討す。余の一身につきては思ひ惑ふ所なし。唯事の成否殊に最後の成否に到りては、一に聖慮に掛る。若し軽々に事を発し、事志と異ふのことあらんか、国家として重大なる結果を招来すべし。然れども此の点を研究して備へざるべからず>(『前述書』P266)
現実味のある「東條暗殺計画」は、首相にもなった米内光政海軍大臣の軍務局主務官として仕えた高木惣吉海軍少将(当時は海軍中佐)の手になるものだった。
「結局、米国のギャングなどがよくやる自動車事故の方法が、実行も簡単だし確実性が大きい。自動車を衝突させ、ストップしたところヘピストルを打ち込むのが一番良かろうということになった。ただ、相手方の先駆車、随行車に邪魔されることも予想されるので、襲撃側としても二台、できれば三台の車が欲しい。そして、土壇場で妨害されたり、実行後追跡されたら拳銃で撃ちまくる─という大筋のプランができあがった。そのころ東條首相は、魚市場を見回ったり、火の見やぐらに上ったり、あるいは軍需工場の門前に立って工員の出勤ぶりを監視するなど、かなり神経症的な行動が目立っていた。したがって、機会はいくらでもあったが、一発で決めないと警戒が厳しくなり、二度とチャンスは巡ってこない心配があった。要撃の場所は交差点で、それも四差路以上の地点が襲撃にも逃走にも便利だ。だが、事前に自動車の隠し場所がある地勢でないとまずい」(『東條暗殺計画』P33)
結局はここでも近衛文麿やその周辺および重臣には決断力が鈍く勇気もなかったことにある。東條英機の憲兵を使った露骨な監視や取締りだけではない、戦争を終わらせる確固とした信念がなかったことに尽きる。何よりも怖かったのはテロ・暗殺だった。このことは昭和前半の歴史に特筆されるべきことで「暗殺・テロ」それ自体で「太平洋・大東亜戦争」のかなりのウェートを占めるものとして成り立つ。昭和19年前半の重臣たちは暗殺が怖いから暗殺で対抗しようとしたようにも思う。その中核をなす岡田啓介は二・二六事件で辛うじて襲撃を免れていたし、ルーズヴェルトとの会談を望んだ近衛文麿にも当てはまるし、昭和20年に入ると経験豊かで欧米に精通する外交官・吉田茂も終戦工作を嗅ぎつけられ逮捕された。日米開戦前に米内光政内閣も廣田弘毅内閣も陸軍の圧力で潰されていた。だがそれら重臣に出来そうにもない計画に関係なく絶対国防圏という物理的崩落によってようやく東條英機内閣は落城した。

そろそろ此の項の核心に迫りたい。戦前の特に昭和10年代の軍部とは、司馬遼太郎の指摘を待つまでもなく、アメリカと戦争をして勝つという組織では到底なく、上に立つ軍人の好悪、面子、派閥、出身地など極めて日本的な情緒に左右された結果が、多くの庶民を死に至らしめたのではないかと思うのである。この後も再三指摘することになるが戦争とは運命ではなく科学、精神を云う前に物理的な兵器と兵器がぶつかる物量の多寡なのではないかと云いたいのである。太平洋・大東亜戦争の敗戦責任を、簡単に言ってしまえば大日本帝国陸・海軍は、世界を相手に戦争する論理的・科学的・物理的な思考と仕組みの組織ではなかったのだと思う。あるのは論理ではなく情緒、科学ではなく運命、物理ではなく精神だということである。つまりエリート軍人こそが「戦争に勝つ」という単純且つ明快な目的から程遠いのではなかったのか。彼らの人間関係をみると「大国アメリカに戦争を仕掛けて勝つ」という目的に、この日本の国民に何を強いるのかと考えた形跡は多分に伺えないでいる。軍の組織を維持し、そこに身を置く軍人の終始、児戯にも等しい日本人的好き嫌いが、軍部をひいては日本を動かしていたように思う。悲しいかな、その最も象徴的人物が東條英機なのであろう。
生き残った軍人はなべて「九死に一生」、東南アジアの劣悪な最前線では生きながらえた軍人は神様が助けてくれたような紙一重の偶然、奇跡といっていい。平成14年に亡くなったが、昭和45年『プレオー8の夜明け』で芥川賞を受賞した作家・古山高麗雄氏はビルマ・サイゴンでの戦争体験を小説に昇華した。戦争をするために生まれてきたという大正9年・1920年生まれである。<「なんで日本はあんな愚かな戦争をしたのですかね」と作家保阪正康氏のインタビューにこう答えた。「それは簡単ですよ。軍人はバカだからです。勉強はできますよ。紙の上の戦争は研究していますよ。だけど人間によっぽど欠陥があったんですよ」それは今の官僚たちだって同じこと、企業人にだって言えるし「日本人って、そう急に良くなるもんじゃない」と口にした。>(『昭和の空白を読み解く・昭和史忘れえぬ証言者たち2』P93)
古山高麗雄の発言に誰もがコメントすることはないだろう。この発言がこの項のすべてを物語っている。ただしこうした軍部を支持せざるを得なかった国民心理は次項に譲る。

自分のホームページに「無明庵」と称して「私の戦争論」なるものを起ち上げた一つの動機と言えるものが「私の太平洋戦争―昭和万葉集」「日米開戦不可ナリ─ストックホルム―小野寺大佐発至急電」の番組視聴だった。その後は平成3・4年頃録画した「太平洋戦争─日本の敗因1─6」「御前会議」「東京裁判」などである。平成20年夏には24本もの太平洋戦争関連の再放送があった。すべて録画したのは言うまでもない。また昨年春、実父の実家の未亡人とクリニックで再会し、数々の父親の戦病死の史料をもらいうけて、第二章の推敲となっている。
昭和史に詳しい作家・半藤一利氏は、現在の墨田区向島に昭和05年に生まれ「東京大空襲」は15歳で九死に一生を得た。それが数々の著書として結実した動機となっているように思う。かように軍国少年、軍国少女を余儀なくされた私より一回り上の世代は「終戦の日」を境に正反対の価値観を押し付けられた。それがトラウマになっていると言っていいのかも知れない。したがってその頃の政治家、軍人、言論人、メディアに大いなる不信感があるのは頷ける。私はと言うと前述の録画番組における数々の太平洋戦争のシーンに少なからず影響されている。その最たるものが日米戦争勃発の「真珠湾攻撃」を報道する映像と声である。昭和16年12月8日朝の『大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』この甲高い声は鳥肌が立つほどのおぞましさを覚える。このとき国民は日本列島隅々まで昂揚したのが、この上ずった声と誇らし気な映像に象徴されている。もう一点は昭和18年10月、学徒出陣のときの東條英機総理大臣の万歳三唱の映像と甲高い声である。「天皇陛下万歳」と叫び、ワンテンポ遅れて白い手袋を嵌めた両手をV字型に手を挙げる。東條英機の先祖は岩手南部藩の能役者であるらしい。その血筋かDNAか見事なまでのパフォーマンスである。「天皇陛下万歳」を叫んで戦争に勝てると本当に思っていたのだろうか。学徒出陣は敗戦濃い拙劣な戦争の最前線へ若者を送り出すということである。私の父親も昭和18年秋に召集された。むろん日本本土へ帰還することはできなかった。
大日本帝国陸・海軍は日本全体を兵舎にして恥じない日本の歴史の中で最も愚かな組織であったと私は思う。エリート中のエリートである少数の軍人は、今では中学生でも判るようなことが判らず、判ろうとせず、三百十万人もの日本人を死に追いやった。当時のエリート軍人の頭脳には「敗戦」あるいは「降伏」の二文字がなかった。
これがこの項の結論である。 
 
栗林忠道の総括電報

 

膽(第109師団のコードネーム)参電第351号(三・七・二三〇〇)
参謀次長宛膽部隊長(栗林忠道)蓮沼侍従武官長ニ伝ヘラレ度感状速ニ上聞ニ達セラレ将兵愈々感奮興起セリ 御懇情謹ンテ御礼申上ク硫黄島ノ防備就中戦闘指導ハ陸大以来閣下ノ御教導ノ精神ニ基クモノ多シ小官ノ所見何卒御批判ヲ乞フ
現代艦砲ノ威力二対シテハ「パイプ」山(摺鉢山)地区ハ最初ヨリ之ヲ棄テ水際陣地施設設備モ最小限トシ又主陣地ハ飛行場ノ掩護二拘泥スルゴトナク更二後退シテ選定スルヲ可トス(本件因ツテ来ル所海軍側ノ希望二聴従セシ嫌アリ)
主陣地ノ拠点的施設ハ尚徹底的ナラシムルヲ要ス其ノ然ルヲ得サリシハ前項水際陣地ニ多大ノ資材、兵力、日子ヲ徒ニ徒費シタルカ為ナリ
主陣地二於テ陣前撃滅ノ企図ハ不可ナリ数線ノ面的陣地二夫々固有部隊ヲ配置スル縦深的抵抗地区ヲ要ス
本格的防備二着手セシハ昨年六月以降ナリシモ資材ノ入手困難、土質工事不適当、空襲ノ連続等二依リエ事ノ進捗予期ノ如クナラサリシ実情ナリ又兵力逐次増加セラレシ為兵カ部署ハ彌縫的トナリシ怨ミアリ
海軍ノ兵員ハ陸軍ノ過半数ナリシモ其ノ陸上戦闘能力ハ全く信頼ニ足ラサリシヲ以テ陸戦隊如キハ解隊ノ上陸軍兵力ニ振リ向クルヲ可トス
尚本島ニ対シ海軍の投入セシ物量ハ陸軍ヨリ遥カニ多量ナリシモ之カ戦力化ハ極メテ不充分ナリスノミナラス戦闘上有害の施設(*1)スラ実施スル傾向アリシニ鑑ミ陸軍ニ於テ之カ干渉指導の要アリ之カ陸海軍ノ縄張的主義ヲ一掃シ両者ヲ一元的ナラシムルヲ根本問題トス
絶対制海、制空権下ニ於ケル上陸阻止ハ不可能ナルヲ以テ敵ノ上陸ニハ深ク介意セス専ラ地上防禦ニ重キヲ置キ配備スルヲ要ス
敵ノ南海岸上陸直後並二北飛行場二突破楔入時攻勢転移ノ機会アリシヤニ観ラルルモ当時海空ヨリノ砲撃、銃撃極メテ熾烈ニシテ自滅ヲ覚悟セサル限リ不可能ナリシカ実情ナリ
防備上最モ困難ナリシハ全島殆ト平坦ニシテ地形上ノ拠点ナク且飛行場ノ位置設備カ敵ノ前進楔入ヲ容易ナラシメタルコトナリ
殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラス敵ノ上陸企図濃厚トナリシ時機二至リ中央海軍側ノ指令ニヨリ第一、第二飛行場の拡張ノ為兵カヲ此ノ作業二吸引セラレシノミナラス陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ
防備上更二致命的ナリシハ彼我物量ノ差余リニモ懸絶シアリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
特二数十隻ヨリノ間断ナキ艦砲射撃並ニ一日延一六〇〇機ニモ達セシコトアル敵機ノ銃爆撃二依リ我カ方ノ損害続出セシハ痛恨ノ至リナリ
以上多少申訳的ノ所モアルモ小官ノ率直ナル所見ナリ何卒御笑覧下サレ度
終リニ臨ミ年釆ノ御懇情ヲ深謝スルト共二閣下ノ御武運長久ヲ祈リ奉ル
(細木重辰『栗林騎兵大尉の絵手紙ほか』)

*1 南地区隊陣地の左翼、海岸近くにあった魚雷庫。2月17日、海軍重砲陣地は掃海艇にたいし砲撃、位置を暴露したため、大口径艦砲による反撃を招き壊滅した。その夜、魚雷庫は大爆発を起し、近くに駐留した1個中隊を全滅させてしまった。この事故により南地区陣地に穴があき、2月20日上陸翌日に米軍に占領される結果となった。

本件電報は1945年3月7日に参謀本部に打電されたものである。米軍の硫黄島上陸は2月19日であり、すでに日本軍は3割程度の兵員が残るのみで、弾薬は尽きていた。栗林忠道は3月26日に戦死したと推定されている。栗林は参本宛ではあるが、同じ騎兵畑である蓮沼侍従武官長(そのあと終戦クーデターを阻止する側にたった)にも披瀝されることを希望している。おそらくこれが硫黄島戦についての司令官による総括的文書である(なお防衛研究所『硫黄島戦史』や陸戦史研究普及会『硫黄島作戦』陸戦史集15(第二次世界大戦)原書房1970、では第5項がなぜか省略されている。編集者が自衛隊関係者であるだけに理解に苦しむ。栗林が決死の気持ちで陸海二元統帥の誤りを説いた箇所を故意に欠落させており、戦史に学ぶ気概がないとも評することができる)。
栗林の工夫は敵の上陸予定地点(幅3キロの砂浜)に対し、縦に数線からなる縦深的抵抗地区をつくり、そこに兵員を貼り付けることだった。これは、フランスのペタンの戦略的縦深陣地を応用して、第1線陣地に戦術的縦深性を施したものといえる。栗林が陸大教官であった蓮沼蕃から陸大在学中の1923年(大正12年)ごろ教授されたものであろう。
縦深陣地戦術を成功させるためには準備がもっとも大切である。制空権を失った地上軍はいっさい、「目標」をつくってはならない。水際にトーチカ網や重砲陣地をつくることは無駄なのである。さらに飛行機がない飛行場は破壊の対象ではあれ防禦上意味をもたない。結局、島嶼に基地航空をおき、相互に連絡することによって持久が可能だとする「内南洋絶対国防圏」は、海上における決戦に敗れれば、島嶼においた陸軍部隊を徒に斃死させる策であった。この戦略で戦争を開始した海軍首脳部と陸軍東條一派は、軍事学に疎いという意味で、万死に値する。栗林は1923年に縦深防禦について研究し、当然戦略的縦深も教授されていたのである。島嶼防衛網がいかに陸戦常識にはずれたものだったのか、政治干渉を好む陸軍省部将校は理解できなかったのである。 
 
戦争責任論

 

はじめに
日本の敗戦まで、天皇は陸海軍の大元帥であり、その統帥権はなんびとも侵犯できなかった。その天皇の命令で、日中戦争も太平洋戦争も戦われ、多くの軍人、軍属、民間人が死亡し、家や家族を失った。天皇の戦争責任は、東條英機よりも近衛文麿よりも重い。昭和天皇はなんら詫びることなく死に、皇族で戦犯となったのは梨本宮ただ一人とはいえ、昭和天皇こそ、超A級戦犯に他ならない。その戦争責任は、今後とも追及されねばならない。そうでなければ、「上官の命令は天皇の命令」と命令一つで命を落とした兵が浮かばれぬ。以下、天皇および皇族、宮中人脈の戦争責任について述べる。

梨本宮守正王 / (明治7年-昭和26年 1874-1951) 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年(明治7年)に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。陸軍士官学校卒業後、1903年(明治36年)にフランス留学。これに先立つ、1900年(明治33年)に鍋島直大侯爵の二女伊都子と結婚。方子女王、規子女王(広橋真光夫人)の2女をもうける。日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第三軍付き武官として出征した。戦後、再度フランスへ留学。フランス陸軍大学を卒業。陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任。1943年(昭和18年)、伊勢神宮祭主に就任した。伊勢神宮祭主で国家神道の代表人物であったことから、その戦争責任を連合軍に追求され、皇族としてただ1人A級戦争犯罪人として逮捕される。巣鴨プリズンに拘置されるも、「証拠不十分」として半年後に釈放される。明らかな戦争犯罪人であると国民の目にもうつっていたにも関わらず、その間の経緯、いかなる政治的意図があって、梨本宮を釈放したのか不明。1945年(昭和20年)、皇典講究所第6代総裁就任。1951年(昭和26年)78歳で逝去。 
東久邇宮稔彦王の「一億総懺悔論」
1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争の終戦で、鈴木貫太郎内閣が総辞職した直後の8月17日から、日本の降伏文書への調印や、陸海軍の武装解除・元軍人の復員帰郷など、敗戦処理を専ら行った東久邇宮稔彦王という皇族首相が同年10月5日までのごく短期間であるが、内閣を組閣していた。その後東久邇宮稔彦王は皇籍を離脱、名前も東久邇稔彦として、様々な事業に手を出しては失敗するものの、百歳以上の長命を保って、1990年(平成2年)になくなっている。
その波瀾に富んだ生涯には、別の興味も湧くが、問題はこの東久邇稔彦が首相だったときに、日本の戦争指導部が行ってきたことにたいして、正しい清算を考えなかったことである。自らが陸軍大将で、第四師団長や航空本部長などを歴任してきた人物であるから、戦争指導部の責任を追及できる立場ではなかったかもしれないが、真摯な反省をするべきだった。
その東久邇宮首相の論たるや、有名な「一億総懺悔論」である。これは、1945年(昭和20年)9月5日の国会施政方針演説のなかで語られた。以下が、そのポイントである。

敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります。

これは、戦争を指導した側や協力した側にたっていたか、協力した側といっても自発的・積極的に協力したのか、状況から妥協したのか、あるいは戦争に協力しなかったのかといった国民のそれぞれの立場を無視して、「国民悉く」総懺悔といっており、責任の所在を明らかにするどころか、まったく逆行している。もしくは、戦争責任を免罪するかのようである。
そもそも、太平洋戦争はいかにして始められたのか。それは、日本がアジア、とりわけ中国大陸に侵略の矛先を向け、解決できなかった日中戦争の泥沼を脱却すべく、今度はインドネシアなどの南方の資源と権益に目をむけ、これを奪取すべく始めたのである。「南進論」というと聞こえはよいが、実態は東南アジアに攻め込んで、豊富な石油などの資源を獲得し、アメリカなどの包囲網に対抗しようとしたのに過ぎない。日中戦争が泥沼化し、膨大な戦費を消費していた日本は、蒋介石を援助していた米国と対抗することを主眼として、米英とそれに連なる勢力に対し、1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟を締結した。
その戦争指導部とは、言うまでもなく、天皇を大元帥とする軍部であり、宮中や元老なども大きな戦争責任を有していた。それを「一億総懺悔論」ではわざとぼかし、全ての国民に戦争責任があるとしたのである。 
杉山参謀総長らに念押しして「帝国国策遂行要領」を承認した天皇
よく昭和天皇は、太平洋戦争の開戦には消極的で、軍部に押し切られて開戦を決め、終戦は天皇が「聖断」によって決定したという論議がある。つまり、陸海軍の大元帥といっても、開戦時と戦争遂行時にはさほどの指導力がなく、いわばお飾りだったのが、なぜか終戦の時だけ尋常ならざる指導力を発揮したという奇妙な考え方である。これが、いかに眉唾であるかは、すべて戦争行動は奉勅命令により行われ、開戦にあたっても御前会議で議論を行い天皇が裁可していることをもってしても、明らかである。
太平洋戦争の開戦に向けて大きくかじをきろうとした帝国国策遂行要領は、1941年(昭和16年)9月3日の大本営政府連絡会議で若干の修文をもって事実上決定し、その内容について近衛文麿首相が9月5日に内奏すると、昭和天皇は統帥上の問題について懸念を示した、では陸海軍の両総長をお召しになっては近衛が奏上すると、昭和天皇は「それでは直ぐ両総長を呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」と命じ、杉山元陸軍参謀総長、永野修身海軍軍令部総長が近衛立会のもとで、御前会議の前日の「御下問」「奉答」を行うことになった。
天皇は、外交と戦争準備は外交を先行してやるように指示したが、戦争の場合の見通しについても詳細疑念のあるところを質した。杉山参謀総長が残した「杉山メモ」によれば、杉山参謀総長は、英米を相手に「勝てるか」と昭和天皇に聞かれ、「南洋方面だけは3ヶ月くらいで片づけます」と比較的短期間でことが済むような答えをした。昭和天皇は間髪いれず、「予定通り出来ると思うか、お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると言うたが未だやれぬではないか」と問いつめた。答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございますので」と言い訳すると、昭和天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」と一喝したという。
さらに、昭和天皇は大声で「絶対に勝てるか」と質問し、「絶対とは申し兼ねます、しかし勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申上げ兼ねます」という杉山の答えに、天皇は大声で「ああ、わかった」といったのである。
また、杉山参謀総長への叱責の後をうけて、永野軍令部総長が奉答にあたった際に、「永野より、『・・・戦の要素には確実ならざるもの多く、その成功は天佑によらざるべからざる場合もございます。ただ成功の算と申すものはございます。例えばここに盲腸炎にかかれる子供あり。・・・手術するも七十パーセントまでは見込みなきも、三十パーセント助かる算あることあり。親として、断乎手術するのほかなき場合がございます』と申し上げしところ、御気色和らぎたり。永野は『原案の一項(対米英戦決意)と二項(外交交渉の継続)との順序を変更いたし申しべきや、否や』と奉聞せしが、御上は『それでは原案の順序でよし』とおおせられたり」とやり取りがあったことを終戦直後、永野は回想のなかで述べている。これは当初、外交を重視しべしとの姿勢だった天皇が、日独伊三国同盟や南進政策を変更する気はなく、対米英戦への決意に傾斜したことを示している。
結局、天皇はこの帝国国策遂行要領の内奏を「わかった。承認しよう」といって承認した。
このように、太平洋戦争開戦に際して、昭和天皇は何度も「勝てるか」「勝てるか」と、念押ししたのである。その翌日の9月6日に開かれた午前会議にて帝国国策遂行要領は決定した。だから、昭和天皇は太平洋戦争の開戦に消極的だったどころか、事実はまったく逆である。
なお、英米に対する開戦を意識しつつ、期限を10月とさだめた対米外交交渉と南方権益確保などの方針を規定した帝国国策遂行要領は以下の通りである。その後、対米交渉が進展せず、先に御前会議で定めた10月上旬の期限は到来ということとなった。
その対米交渉の経過については、特命全権大使であった来栖三郎が、以下のように書いている(「日米交渉の経緯」東京日日新聞社(1942)より引用)。
「太平洋の平和保持に真剣なる考慮を払いつつあった帝国政府は、昨年の春以来引続き華府におきまして極力日米妥結の達成に努力を尽し来りつつありったのでありますが、米国側が交渉半ばにして前述の如き資産凍結令、石油禁輸等の如き挑戦的圧迫を加えて参りましたのみならず、前後十ヶ月を通じて何ら互譲の精神を示さず、終始一貫全然東亜の現実を無視した独善的抽象論を繰返すに過ぎないに拘らず、なおあくまで戦禍の太平洋地域波及を防止するために最後の瞬間まで局面打開を試みんとしたのでありまして、まったくこの趣旨に出たのであります。然るに米国側におきましては、われ等の妥協達成の熱意に対して遺憾ながら初めから共鳴応酬の態度を示さず、交渉は常に同一の概念論、原則論を中心として無限に回転するのみでありましたので、われわれは当時殆んど刻々に緊迫しつつありました危局を転換し、息詰る如き雰囲気を出来る限り緩和せんとする極めて実際的考慮から昨年十一月廿日附をもって一種の暫定案を提出いたしました。その内容は既に公表せられました通りでありまして、要するに資産凍結令、その他により著しく事態が悪化した以前の状態に一応引戻そうという趣旨でありますが、米国側はこれに対し十一月廿六日附をもって、三国条約よりの実質上の離脱、支那並に仏印よりの全面的徹兵、南京政府の否認、多辺的不可侵条約による華府会議体制の再建等、わが国の受諾到底不可能なること最初より明瞭なる諸点を含みましたノートを突きつけて参りましたので、交渉はここに最後の重大なる難関に逢着するにいたったのであります。」
これはもちろん、一方の当事者の記録で、しかも戦時中に出版されてあるから割り引いて考えねばならないが、いずれにせよ対米交渉は当初の10月上旬では見込みが立たなかった。ちなみに、来栖の書いているノートとは、ハルノートのことであるが、その内容については以下に原文がある。

開戦決意か交渉継続かという閣内意見不統一によって、10月16日に近衛内閣は総辞職、開戦を決意すべきとした陸軍大臣である東條英機が天皇によって次期首班に任命された。これは昭和天皇自身が開戦の決意をもっていなければ、近衛の後継者に東條を据えることなどありえず、その意思が明瞭にあらわれている。当時の内大臣である木戸幸一が、「『万一戦争になる場合でも戦争のできる内閣』を考えた」と敗戦直後に語ったように、東條内閣の誕生は昭和天皇および宮中グループが対米開戦の道を選択したことを示している。
そうした事態の推移によって、11月5日の御前会議決定となっている。
この御前会議は、「武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す」と具体的な戦争準備の日限を決めた。
昭和十六年九月六日御前会議決定された帝国国策遂行要領
帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾撥性に鑑み「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に依り遂行す
帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
帝国は右に平行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む
別紙
対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度
第一 対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項
米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
帝国の日支基本条約及日満支三国共同宣言に準拠し事変を解決せんとする企図を妨害せざること
ビルマ公路を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をなさざること
米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること
日仏間の約定に基く日仏印間特殊関係を容認すること
泰、蘭印、支那及極東ソ領内に軍事的権益を設定せざること
極東に於ける兵備を現状以上に増強せざること
米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
帝国との通商を恢復し且南西太平洋に於ける両国領土より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること
帝国と泰及蘭印との間の経済提携に付友好的に協力すること
第二 帝国の約諾し得る限度
第一に示す帝国の要求の応諾せらるるに於ては
帝国は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること
帝国は公正なる極東平和確立後仏領印度支那より撤兵する用意あること
帝国は比島の中立を保証する用意あること
昭和十六年十一月五日御前会議決定
帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し大東亜の新秩序を建設する為比の際対米英蘭戦争を決意し左記処置を採る
武力発動の時期を十二月初旬と定め陸海軍は作戦準備を完整す
対米交渉は別紙(甲案、乙案)に依り之を行う
独伊との提携強化を図る
武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す
対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す
別紙 甲案
九月二十五日我方提案を左の通り緩和す
1.通商無差別問題
九月二十五日案にて到底妥結の見込みなき際は「日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」と修正す
2.三国条約の解釈及履行問題
我方に於て自衛権の解釈を濫りに拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に三国条約の解釈及履行に関しては従来?々説明せる如く帝国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
3.撤兵問題
本件は左記の通り緩和す
A.支那に於ける駐兵及撤兵
支那事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は北支及蒙疆の一定地域及び海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従い撤去を開始治安確立と共に二年以内に之を完了すべし
(註)所要時間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途ろするものなる旨を以て応酬するものす
B.仏印に於ける駐兵及撤兵
日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし、尚四原則に付ては之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明なるとを問わず)中に包含せしむることは極力回避するものとす
乙案
日米両国政府は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行わざることを確約す
日米両国政府は蘭領印度に於て其必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力するものとす
日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰すべし 米国政府は所要の石油の対日供給を約す
米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
備考
必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし
必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する既定を追加挿入するものとす

東條英機に総理大臣の大命を降下した昭和天皇であったが、その際首班奉請のための重臣会議で、開戦論の東條に責任を持たせて陸軍の強硬派を抑えるのがよいうという木戸内大臣の意見が通り、臨席した昭和天皇も「虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね」と同意した。また、11月5日の御前会議で、「御上は説明に対し一々頷かれ何等御不安の御様子を拝せず」(杉山メモ)というように、昭和天皇は開戦の決意をさらに固めたのである。
このように、1941年(昭和16年)9月5日の段階で「勝てるか」と陸海軍の両総長に確認し、さらに翌10月に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と開戦論の東條英機を首班に任命したという行為は、昭和天皇自体が次第に開戦論に傾いていったことを証明するものであって、それは御前会議という「儀式」を経て国の方針として開戦が決意され、最終的には12月1日の御前会議にて米英蘭への開戦が決定されたのである。 
「聖戦完遂」の美名により国民に犠牲を強いた戦時統制経済
日本軍が蘆溝橋事件を契機として日中戦争を開始した1937年(昭和12年)7月以降、戦線の拡大は、同年12月の南京占領までに陸軍が戦時編成の16個師団を送り、対ソ戦の準備も並行して行われた。
日中戦争を進める一方、対ソ、対米英の戦争に備えて、軍備を拡張させるために軍事予算は一挙に膨張、北支事件費、臨時軍事費として1941年(昭和16年)末までに支出された戦費は223億円にのぼった。この軍需をまかなうために、国家総動員の経済統制が進められた。それを法制化したのが、国家総動員法である。国家総動員法は、1938年(昭和13年)4月1日第1次近衛文麿内閣の下で、国家総動員法が公布され、5月5日施行された。国家総動員法は、国家総動員を、事変を含む戦時に際し「国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」ことであると定義し、国家総動員上必要と認められる事柄について、政府が広範な統制を行えるよう定めた。
「銃後」をまもる国民にとっても、日中戦争、太平洋戦争の戦時統制経済は、大きな負担、犠牲を強いることになった。
その負担、犠牲は、学業半ばでの勤労動員、産業の民需から軍需方面への強制転換、中小企業の強制的な整理統合、「勤労報国」の実践など、枚挙にいとまがない。それを巨視的にとらえると、以下の表のようになり、年次を経ると国民総生産が上昇しているが、その内容は軍需中心となり、1944年には国民総生産の半分を超えることになった。
国民総生産の推移(単位:十億円、 1940年価格)
なお、太平洋戦争当時の国民総生産は、米国の約十の一。いかに、無謀な開戦であり、その経済力のなかで、大幅に軍需を拡大させていったことが異常なことであったことがよくわかる。そうした軍需中心の経済政策は、現実に企画院などで立案、実行されていった。
日米航空機の生産量も、1941年:日本5,088機、米国19,433機、1942年:日本8,861機、米国49,445機、1943年:日本16,698機、米国92,196機、1944年:日本28,180機、米国100,725機と、年次を経るごとに両国とも増加するが、日本を1として、米国は4ないし5と、格差は変わらず推移している。
こうした状況にも拘らず、開戦を決定し、しかも早くに終戦を決意できずに、戦争を継続した戦争指導層の罪は深い。 
戦後うやむやにされた天皇の戦争責任
昭和天皇は、太平洋戦争のみならず、日中戦争を含めた十五年戦争において、一貫して戦争遂行の最高責任者であり、陸海軍を統帥する高度に訓練された戦争指導者であった。
天皇は陸海軍を統帥する大元帥として、直接作戦に介入し、戦争指導を行ってきた。十五年戦争の期間において、参謀総長は5人交代し、軍令部総長は6人が交代したが、昭和天皇のみが大元帥であり続け、すべての情報が集中する最高の地位に座り続けたのである。
そもそも日本の軍隊は、軍人勅諭に、
「歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定めぬ夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ其の大綱は朕親(みずから)之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし」云々とあるように、天皇が兵権をもつ、天皇親率の軍隊であった。例え、大将、元帥といえども、大元帥たる天皇の命には逆らえず、戦争遂行もまた天皇の指導によって行われたのである。
さて、開戦論に傾いた天皇や取り巻きの宮中グループ、そもそも開戦論であった東條英機に代表される軍部によって、太平洋戦争の開戦が決定され、真珠湾攻撃や仏領インドシナへの電撃攻撃が行われて以降、緒戦の勝利に天皇も含め、殆どの日本国民が酔いしれてた。それも束の間、1942年(昭和17年)6月5日〜7日のミッドウエー海戦の敗北に象徴される大きな戦闘での敗北、南太平洋からの撤退などが重なった。戦争経済も、そのころから行き詰まり、サイパン陥落をきっかけに支配層での東條英機への不信感が高まると、重臣である岡田啓介が東條内閣の倒閣を画策、さらに木戸らの宮中グループも加わって、1944年(昭和19年)7月18日に、ついに東條内閣は総辞職した。これは戦争終結の好機でもあったが、天皇を含めた戦争指導部はそうはしなかった。後をうけた小磯国昭を首班とする内閣でも、ただ戦争を継続することが至上命題とされた。
太平洋戦争開戦論の中心人物の東條が、総理大臣をおろされても、国民には真相が伝えられず、また国民の側もそのころから大本営発表や政府声明が眉唾だと見抜くようになっていた。
戦局がいよいよ不利になり、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸したのに対し、日本軍は決戦を挑んだが、敗退。1944年(昭和19年)10月23日から25日にかけてのレイテ戦の敗北で日本軍の太平洋の戦線はまったく崩壊した。そのころには、特攻隊の出撃や、絶望的な斬り込みなどが繰り返され、多くの犠牲者が出ている。本来ならば、一刻も早く終戦の交渉を行い、戦争を終結させるべきであったが、戦争指導者たちは惰性のごとく戦争を継続させていた。しかし、1945年(昭和20年)に入り、ドイツの壊滅が時間の問題となり、沖縄に米軍が迫ると、ようやく戦争終結のひそかな気運が高まる。しかし、それは天皇制を維持する、すなわち「国体護持」のためであって、戦線の敗退と戦禍によって塗炭の苦しみをなめていた日本国民の苦衷を思ってのことではない。
それは、1945年(昭和20年)2月14日の以下に掲げる近衛文麿の上奏文によって、象徴されるが、驚いたことに「敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」を恐れたのである。

昭和20年2月14日 近衛文麿の上奏文
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下この前提の下に申し述べ候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までの所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしど存候。
国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
つらつら思うに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。
即ち国外に於てはソ聯の異常なる進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。
ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ聯は欧州に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。
瑞西(スイス)がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
米英占領下の仏蘭西、白耳義(ベルギー)、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而して是等武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。
独乙に対しては波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。
ソ聯は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯の此の意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。
職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
抑も満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満州事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。
此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。
かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。
以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。
戦局の前途に付き、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志此の一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、其の本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存候。
尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼等としても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。

そして、1945年(昭和20年)8月、天皇の地位の保障のみを条件とすべきという東郷茂徳外相の意見と、自主的な武装解除などの条件をくわえるべきとする軍の主張が対立し、終戦の決定ができないでいるうちに、8月6日に広島、8月9日に長崎には原子爆弾が投下され、またその間も特攻機は飛び立っていき、無益な血が流れて行った。
天皇は東郷茂徳外相の意見を採用して、終戦後の天皇の地位のみを条件として、降伏することとしたが、連合軍はあくまで無条件降伏を日本につきつけた。かくして日本は、ついにポツダム宣言を受諾して無条件降伏することになり、8月15日に昭和天皇のいわゆる「玉音放送」が行われ、軍人、民間人に同時に終戦が布告されることとなった。マッカーサー元帥が厚木に降り立ったのは、その2週間後。9月2日には米戦艦ミズーリの艦上において、重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らの日本全権団は降伏文書に調印した。
その後、天皇の人間宣言などや各種民主改革が行われたが、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも結局天皇を戦争犯罪人とすることはなかった。
それは日本を占領した連合軍が米軍を中心としていたため、アメリカの対アジア戦略が大いに占領施策に影響したのだが、そのアメリカが天皇の政治的、文化的影響力を温存し、それを対日政策に利用しようとしていたためである。連合国のイギリス、オーストラリア、ソビエト連邦、中華民国は天皇の戦争責任を追及、、とりわけオースラリアは天皇の戦争責任を厳しく追及しようとしたが、そうした連合国のなかにあって強い影響力をもったアメリカの指導層の意向により、戦争を指導した昭和天皇を訴追しなかったこと、さらには終戦直後には退位の意思もあった昭和天皇をその地位に止めたことは、東久邇宮内閣のときから天皇の戦犯訴追だけは避けたかった日本の支配層にとっては僥倖以外の何者でもなかった。それは、天皇を新憲法体制に組み込み、独特の日本型民主主義体制を作って戦後の日本と世界を支配したいというアメリカの対アジア戦略に基づいている。そこで、アメリカは、天皇は平和主義者で戦争遂行に関しては形式的な役割しか果たさなかったという「物語」作りのキャンペーンを大々的に展開し、これに反する議論は強力な検閲で禁止した。
こうして、戦争の最高責任者である天皇の責任を法的にも道義的にも不問に付したことは、終戦前からの日本支配層の戦争指導、遂行における無責任なありようとあわせ、日本人の戦争責任の意識を希薄にした。つまり、戦争犯罪(なかには戦後の軍物資隠匿・横領もあろう)も裁かれなければやり得、黙っていれば良いという考え方にもつながった。実際、公職追放となった政治家たちも、やがて続々と追放解除で復帰し、戦犯であった岸信介は総理大臣の任につくにいたった。また、戦争責任は、戦争指導部の中でも東條ら軍部の一部に限られ、戦時経済を推進していた軍需産業の財界人、官僚等の責任は殆ど不問にふされた。さらに、2000万人ともいわれるアジア民衆に対する戦争犯罪の責任追及が軽視され、それは判事団のうち3名しかアジア人がいなかったことにもあらわれるなど、極東国際軍事裁判は、アメリカ主導の政治的意図をもって進められ、日本人の手で戦犯を裁きたいという声は封殺されて、結果として裁かれない戦争犯罪人が多数存在することになった。
戦争責任に関する意識の希薄さは、南京事件など、アジア民衆への戦争責任、あるいは慰安婦や沖縄での「集団自決」などのもろもろの問題について、非人道的な言辞をもって、悪行を擁護する輩が、いまだに存在することにもあらわれている。 
戦争責任追及のドイツとの違い / 結びにかえて
第二次世界大戦で敗北した同じ枢軸国であるドイツと日本とは、ドイツについては、旧東ドイツの領域をソ連が、旧西ドイツの領域を米英およびフランスの西側諸国が占領したため、国自体が東西に分割されたのに対し、日本は樺太や千島などを除いて、ほぼ全国土がそのままとなったなど、大きく戦後の出発点が異なるが、戦争責任追及の在り方もかなり異なっている。
ドイツでは、敗戦によって、ドイツの国家体制もナチス党も崩壊し、旧ナチス党員であったものは、徹底的に追及された。同時に、ドイツの官僚制も、それまでの75%もの官僚が解雇され、補充を再雇用でまかなうことが行われ、ナチス政権を支え、協力してきた土台が替えられた。ナチスが行ってきた悪行が、ドイツ国民の手で明らかにされ、ナチス的なものは徹底して排除された。それは新生ドイツとして、生まれ変わるためであり、国歌さえメロディーは同じでも歌詞は書き換えられたのである。
かたや日本はといえば、米国を中心とした連合国の占領下に、新憲法の制定を中心とした民主化改革を進めたが、新憲法自体、大日本帝国憲法を改正したものであり、「象徴」の名のもとに天皇制の存続を認め、天皇の国事行為さえ定めるというものであった。さらに、軍隊は一応解体したものの、官僚組織はそのままでとされた。日本の戦争指導者、支配層が、終戦の際に、もっとも拘ったのは天皇制の維持であり、ポツダム宣言を日本政府が受諾したときの条件は「国体の護待」に他ならなかった。
そして、戦争責任を日本政府自ら明らかにし、これを追及しようという熱意は、殆どなく、東久邇宮首相の「一億総懺悔論」に代表されるように、責任の所在を明確化せず、あいまいなままにしておくことが横行したのである。これは一般大衆においても、「勝てば官軍、負ければ賊軍」といったように捉えるむきもあり、米国の占領施策や支配層の意向ばかりとはいえないものがある。
しかしながら、戦争責任を明確化し、二度と戦禍を繰返さないことは、日本国民の将来を保障するだけでなく、アジア、とりわけ近隣諸国との友好関係を保ち、国際貢献していくうえでも重要である。具体的には、国の政策、施策として、以下のようなことが追及されるべきであろう。
学校教育における反動化を廃し、日本の侵略戦争が引き起こした惨禍について事実に基づいて正しく教育する。
戦争遺跡の保存、戦時体験の伝承について、現在の法律の改正も視野にいれ積極的な支援をおこなう。
地方自治体とも協力して、戦争の悲惨さ、戦時の困難な生活などをリアルに伝えるイベントを定期的に開催、もしくは常設の戦争資料館をつくり、展示や解説をおこなう。
南京事件やシンガポール華僑虐殺事件などへの視察を学校や青少年団体に推奨する。
その他、啓蒙活動を積極的におこなう。 
 
大東亜共栄圏と西田幾多郎

 

大東亜共栄圏が日本の太平洋戦争の大義だった。そして日華事変でこの大義は叫ばれなかった。理由は明白だろう。日華事変と太平洋戦争は陸軍が考えるように連続していない。そしておそらくこの大義や東亜新秩序によって太平洋戦争が開始されたわけではないのだろう。近衛文麿がこの標語の主唱者であり、東條英機がそれを継承した。
これの思想的基盤はすなわち世界がブロック化されるのが必然的な流れであり、日本を盟主とする東亜ブロックはその流れの一つである。そして世界が数ブロックに分かれた後、恒久平和の世界連邦が形成されるとする。
これはただの迷信であるが、現在でもEC(かつてのコメコン諸国なども)などをみて同様の主張がなされる。これは広域帝国の主張にすぎず、スターリンやブレジネフが夢想した東ヨーロッパ帝国もその一種である。ECは自由貿易圏の中途半端なものに過ぎず、かつてのドイツ関税同盟とかわる所はない。そして連邦や帝国の第一歩では決してない。そこには戦争という名の暴力が介在するからだ。そして近世の歴史とあらゆる人々の苦悩を巻き込んで成立した自由や平等とブロック国家の出現は矛盾し、連邦がその名前を越え政治権力をもてば、官僚組織による圧政に陥る。
そして実現してもスターリンの帝国で典型的にみられたように、それは暴力と退歩の世界となる。歴史について必然を主張する人々の背後には暴力を必要悪として認める思想が隠されている。つまり必然だからその実現に関しては暴力の行使が許されるという見方である。
この論理はしかし日本的で、おそらく儒教的な中華思想、すなわち中華民族による天下統一という理念が頭にあるのだろう。近衛は元来中華趣味をもっており、京都大学で西田幾多郎(哲学)や河上肇(経済学)の影響を受けていた。
下の文章は西田幾多郎の大東亜戦争賛歌である。ただし全集からは消去されている。 
世界新秩序の原理
要旨
真の世界平和は全人類に及ぶものでなければならない。しかるにかかる平和は、世界史的な使命を自覚せる諸国家、諸民族が、先ず地縁及び伝統に従って一つの特殊的世界即ち共栄圏を形成し、更に共栄圏が相協力して真の世界即ち世界的世界を実現することによってしか到達されない、そしてかかる共栄圏の確立及び各共栄圏の協力による世界的世界の実現こそは、現代の担っている世界史的課題である。
大東亜戦争は、東亜諸民族がかかる世界史的使命を遂行せんとする聖戦である。歴史が炳として(明らかに)示す如く、飽くなき米英の帝国主義は東亜諸民族を永く足下に蹂躙してその繁栄を阻止し来った(して来た)。この米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を東亜諸民族の手に回復する道は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国主義の撃滅、根絶を期して結束する以外にない。すなわち大東亜戦争を完遂して東亜を保全し、東亜共栄圏を確立して共栄の楽を偕にすることが、現代東亜諸民族の第一の歴史的課題である。
今や志しを同じうする独、伊、その他の諸国は欧州の天地に新秩序を建設すべく勇敢に闘っている。亜欧両州におけるこの二大事業の完成する秋、真の世界平和を招来すべき世界的世界は実現するであろう。東亜共栄圏を通じて世界的世界の実現に努力すること、これが東亜諸民族の第二の歴史的課題である。
解説
世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、歴史的必然を以って推移する。
今ヨーロッパの最近世について見るに、一八世紀は個人的自覚の時代、いわゆる個人主義、自由主義の時代であった。一八世紀に於いては未だ一つの世界的空間に於いての国家と国家の対立というまでに到らなかった。大局から云えば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。しかるに一九世紀の世界的空間に於いて、ドイツがフランスとが対立し、更に進んで植民地を含む一層大いなる世界的空間に於いてドイツとイギリスとの一大勢力が対立するに到った、これが前世界大戦の原因である。一九世紀は国家的自覚の時代、即ち国民主義の時代であった。しかしながらこの国家主義には、未だ国家の世界史的使命の自覚がなかった。従って一九世紀の国家主義は帝国主義となって発展した。即ち、各国民が、何処までも他を従えることによって自己自身を強大にすることが、歴史的使命と考えられたのである。
しかるに、国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つ限り、資本主義的傾向を採らざるを得ないのであり、従ってまた階級闘争の出現を免れない。一九世紀以来の世界が、帝国主義の時代たると共に階級闘争の時代でもあった所以である。しかしながら、階級闘争を主張する共産主義は一面に於いて全体主義ではあるが、その原理は、一八世紀の個人的自覚による抽象的世界理念の思想に基づくものである。思想としては、一八世紀思想の一九世紀的思想に対する反抗と見ることもできる。故に共産主義は今日に於いては、帝国主義と共に過去に属するものであり、従って新たなる世界史を形成する指導原理たる資格を喪ったものである。全体主義はかかる指導性を喪った帝国主義及び共産主義に対する反撃であって、一方帝国主義の侵略に抗すると共に他方共産主義による内部攪乱に備えんとしたものである。全体主義が国民の全体性を強く主張したのはその為である。
今日の世界は、世界的自覚の時代である、各国民が、各自世界史的使命を自覚することによって、一つの全く新しき時代、換言すれば、世界史的世界即ち世界的世界を構成しなければならない時代である。前世界大戦の終了と同時に世界は現にこの段階に入ったのである。今次の世界大戦はその発展たるに過ぎない。
過去の世界に於いては、各国家各民族は、地理的制約の為に十分連絡づけられていなかった。しかるに科学の進歩は交通の発達を促がし、その結果今日に於いては、近接する諸国家諸民族が一つの世界的空間に於いて緊密なる関係の置かるるに到った。かかる世界的空間に於いて強大なる国家と国家が対立する場合、世界は当然激烈なる闘争に陥らざるを得ない。そしてこれを解決する途は、各国家が世界史的使命を自覚し。各自自己に即しつつ自己を越えて一つの世界的世界を構成する以外ない。現状を以って国家民族の世界的自覚の時代という所以である。
注=特に民族と云うは、蒙古、仏印、ビルマ、フィリッピン、印度及び南方諸民族を考慮せるためである。
しかしながら各国各民族が自己に即しつつ自己を越えて一つの世界を構成すると云うことはウィルソンの主張せる国際連盟に於いての如く、各民族の現実的能力を考慮せずして、何れの民族に対しても一律平等に独立を与えんとすることではない。凡ての民族に対し無差別平等に独立を与えることは、却って民族の為に考えざるものである。如何にして弱小民族を育成するかが問題である。かかる民族主義の考える世界は十八世紀的な抽象的世界理念に過ぎない。かかる思想によって現実的課題の解決の不可能なることは、今次の世界大戦が証明するところである。
事実に於いて、凡ての国家凡ての民族は、いづれも固有の歴史的地盤に成立したものであり、従ってそれぞれ固有の世界史的使命を有するものでなければならない。そこに各国家各民族が各自の歴史的使命を有するのである。故に各国家各民族が一つの世界的世界を構成するということは、国家及び民族が各自に即しつつ自己を越えて、それぞれの地域、伝統に従って先ず一つの特殊的世界即ち共栄圏を形成し、斯くて歴史的地盤から構成された特殊的世界が相結束して、更に一つの世界的(世界全人類を含む世界)を構成することである。かかる世界的世界に於いては、各国各民族が各自の個性的生命に生きると共に、自己の構成する特殊的世界(共栄圏)を通じて、一つの世界に結合するのである。これが今次の世界大戦によって要求される世界新秩序の原理でなければならない。
今次世界大戦の課題が斯くの如きものであり、世界新秩序が斯くの如きものであるならば、東亜共栄圏の原理も自ら此から出てこなければならない。従来東亜諸民族は米英の帝国主義の為に蹂躙せられ、各自の世界的使命を奪われていた。今や大東亜戦争と共に、東亜諸民族は何れもその世界史的使命を自覚し、各自自己に即しつつ自己を越えて一つの特殊的世界、即ち東亜共栄圏を構成し、以って真の平和を招来すべき世界的世界を実現しなければならない。日本民族は、世界的使命の自覚における先進であり、大東亜戦争はこの世界史的使命遂行の烽火である。日本民族が、一億一心如何なる犠牲をも恐れず、国運を賭して戦争遂行に直進しつつあるのは、東亜共栄圏の確立が、アジアを救うと共に、全人類に光明を与うるものであることを確信するからである。然しながらこの確信は単に我等日本人だけではない。我等の声に応じて、欣然大東亜戦争に参加した東亜諸民族に於いて共通である。
更にまたドイツ、イタリアを始め枢軸側諸国は、ヨーロッパ新秩序を建設する為に勇敢に戦いつつある。ヨーロッパ新秩序の完成と共に、世界新秩序の完成に寄与するものであることは疑いを容れないのである。
重ねていう、大東亜戦争に伴う東亜共栄圏の確立は、一つの新しき世界、換言すれば世界史的世界の形成に到る第一過程である。皇道を表明する八紘為宇の理念は、かくて世界的世界形成即ち世界史的世界形成の原理として理解されるのである。世界史的世界形成主義即ち新世界主義こそは、米英帝国主義を克服する使命を担うものである。 
西田の悪文
この文章を最後まで読んだ方は相当に忍耐強い。西田の文章の冗長さと繰り返しは常態だが、この文章はとりわけ悪文である。解説のなかだけで「世界」という文字が55回出てくる。
ところがこの傾向は実は西田に限られていない。ヒトラー、ローゼンバーグ、ゴットフリート・フェーダーなどドイツ国家社会主義党(NSDAP)の論者にも共通する。ヒトラーは「摂理」を繰り返す。すなわちユダヤ人差別などを肯定する際に、それは摂理だと強調するわけである。
西田にとり現在の「世界」は必然的にある未来の「世界」に向かうとする。つまり地球がブロック化し世界連邦となり永遠の平和が達成される。この流れは必然であり諸民族が参加せねばならないとする。それを阻むものは(ユダヤ人やソ連共産主義でなく)米英帝国主義だとする。英はともかくフィリッピンに独立を約束した米が帝国主義だというのは珍しい論旨だが当時の(現在も極右・極左の多くの)日本人はそう思い込んでいた。 
世界連邦
西田はいわば恒久平和の世界連邦実現の1ステップとして、現下の世界大戦完遂を訴えた。
これもよくある論理で現在でもブロック経済は必然だとか、国境をとりはらった国家連合=共栄圏を作ろうと、まともな教育をうけた人間が臆面もなく主張する。歴史が必然だと主張する人々の論理は西田に限らず武力行使を肯定する、即ち暴力を容認する。ところが国境は歴史によって裏打ちされており、歴史が必然的に動くなどという論理よりは重い。近世の人間は金銭や食糧よりも理念で動かされる。しかし各国の歴史も覆すことができない事実を背負っている以上、単なる頭の中の未来よりも重い。そして民主主義や現在の繁栄はあくまでも一国の中で成立しているに過ぎない。
世界連邦は共和制をやるのか、誰が指導者となるのか、それとも民主主義は無視するのかという簡単な疑問により覆される。もし地域主義が出てくれば、その単位での民主主義は成立しない。これは現在の国連への疑問と同一である。
戦間期や終戦後しばらくこの世界連邦という空想は日本人に非常にによく受け入れらた。あまり論理的に説明されたものはないが、世界共通語とか世界宗教などの奇妙な概念が流行した。西田のいうように国家や国民は歴史を背負って現在生きている。それだからといって歴史に逆らって悪いことはない。例えば朝鮮民族が日本にその本貫の地を植民地とされたからといって、その歴史に逆らって独立運動を展開することは悪いことではない。そして現在の朝鮮人が日本人に植民地化したことは悪いことだと非難しても、日本の歴史が悪いことにはならない。すなわち歴史とは現在の人々との対話でなく過去の人々との対話でなされるべきで、そしてそこに善悪があったとしても人々の心の中を支配するだけである。つまり過去隣国に虐待されたとしてもそれについて忘れないのは自由だが損害賠償を要求したり復仇戦争を開始することは違う話で現代の政治=外交に属することだ。同様に現在異民族のいる地域を支配しているからといって、それを不可分の領土として永遠のものとして固定することなど許されない。
世界連邦とは心の中の話であり、それの実現のために国政を動かしたり武力行使するのはインテリの妄想である。心の中のことをを公的なことに出さないのが啓蒙主義であり西田の嫌う十八世紀の個人主義である。 
マルクス主義者亜流としての西田
この必然論はマルクス主義の影響をうけている。つまりマルクスは階級闘争が歴史の原動力だとするが、西田はそれを一旦肯定し、それを国家間(=国民間)の戦争に止揚せねばならないという。このような雑駁な論理に反論は不要だろう。
そしてマルクスの最大の主張、唯物論を肯定する。唯物論は日本マルクス主義者に言わせれば奥が深く常人には理解しがたいものらしいが、ここでは簡単に理解する。つまり人間が戦争(革命・内乱)に駆り立てられるとすれば、それは明日の食事や職、賃金によってに違いないと即断することである。これはインテリの労働者蔑視から来ている。つまり労働者は左様に動くが自分達はその行動をつかみ指導するのだという思い上がりである。
西田はインテリとしてマルクスに同意した。 
西田の呼びかけは表面に出ることがなかった
聖戦完遂を訴える西田の呼びかけはしかし表面に出ることがなかった。つまりこの文章は陸軍省の求めに応じたものだが、陸軍省はボツにした。これはなぜだろうか。西田の呼びかけはマルクス主義的な歴史必然論に軌範が置かれているだけで力がないからだ。つまり侵略戦争=敵に第1弾を撃つ、の呼びかけは簡単なものではない。ヒトラーは独立ポーランドを崩壊させることにより第二次大戦を開始した。この時ヒトラーは謀略を使いポーランドが先に侵攻したのだと外観を取り繕った。そしてソ連と戦端を開始した時は、スラブ人よりドイツ人の方がより文明的であると差別を拠り所とした。
真珠湾を攻撃についてこの種の言辞を弄することは難しい。戦争開始のさい国民に奮起を呼びかける言葉は「今、敵がこの美しい国土を蹂躙しようとしています。愛する祖国と愛する家族を敵の手から守るため諸君がその義務を果たすことを期待します。」というものが一般的だ。明日の賃金を守れとか、明日君が耕すことができる土地がそこにあるとかの呼びかけに力はない。つまり国民は敵に侵略されない限り容易に銃をとることはない。そして多くの軍人は誤解するが歴史上侵略される事態に立ち至るとそれまで最も頑強に反戦を主張していた人々が最も徹底的に戦おうとする。多くの侵略者はこれを事前に予見できず失敗する。
東條は大東亜共栄圏と自存自衛を開戦の理由として選んだ。自存と自衛は一致しないがともかく防衛戦争だと主張することが得策だと思ったのだろう。 
それでも西田は弾圧された
ところが西田は陸軍東京憲兵本部とそこに巣食う文化人に付け狙われた。
弾圧の中軸をなしたのは役所の30代の若手の課長補佐と呼ばれる階層の人々だった。手始めに西田門下生の三木清を投獄し拷問にかけ殺害した。これにたいした理由はない。あるとすれば東條への忠誠心争いのようなもので個人の栄達を狙ったものである。これらに手をくだした人々は戦後責任を問われることもなく、一部は革新陣営に走った。教科書問題を始めに問題にした人物もこれに該当する。また社会党の代議士となった人物もいる。これは本当に恐ろしいことである。
彼らは自分で犯した犯罪を反省するどころか、その後も他人に攻撃的であり続けた。誰でも高校生の世界歴史の教科書をみればすぐにわかる。そこには第一次大戦は帝国主義の戦争であり市場を求める大会社がひき起こしたと書かれている。大会社(営利会社)がひき起こす戦争などこの世に存在しない。
もちろん彼らが太平洋戦争を引き起こしたのではない。むしろ近衛や東條の大東亜共栄圏の思想が一定の影響を与えたというべきだろう。また彼らは教育界などの狭いサークルを除けば現在全く影響力はない。しかしこういった事実が存在したことは歴史の一部であり忘れられることはないだろう。
最後に奇妙な事実がある。西田の逮捕手続きは実際になされたが、それを止めたのは東條の一の子分佐藤賢了だった。
現在でも満州事変(日華事変?)からまたは真珠湾からの戦争を大東亜戦争と呼ぶべきだと主張する人々は絶えることがない。歴史的呼称であり当時の政府がそう呼ぶと主張したことは事実である。しかしその呼称の背後にこのような主張がなされたことを承知しているのだろうか? 
西田幾多郎 
京都の銀閣寺近くの疏水沿いに「哲学の道」という小径がある。西田幾多郎が思索に耽りながらこの道を散策したと言われている。「人は何のために生き、何のために死ぬのか」という問いに取り組みながら、散策したのであろう。西田は「人生」と格闘し、その問いを考え続けた学者である。
四高を退学
西田幾多郎は、「西田哲学」と呼ばれる独創的哲学を打ち立てた哲学者である。また京大教授として、中村元、和辻哲郎など優れた学者を育成したことでも知られている。こうした外面的には華やかに彩られた彼の人生ではあったが、家庭的には不遇の連続で、深い苦悩に打ちのめされていた。偉大な彼の哲学は悲哀の中から、生まれたのである。
1870年5月19日に石川県河北郡宇ノ気村(現在のかほく市)に、代々の大庄屋(農民を治める代官)であった父得登と母寅三の長男として生まれた幾多郎の人生のつまずきは、第四高等中学校(四高)の時に訪れた。もともと校風は質実剛健ではあったが、師弟の間は親しみに溢れ、全体が一つの家族のような温かみのある学校であった。そこに薩摩出身の校長が派遣され校風は一変した。たちまち規則ずくめの武断的学校に変わってしまったのである。
西田は、規則ずくめで息苦しい学校に耐え難くなった。興味をひく講義もない。その上、彼が師と仰ぐ北条時敬も一高に転任し、尊敬すべき教師もいなくなった。すっかり嫌気がさしてしまった彼は、四高を退学してしまう。そこに眼病が重なり、読書することもできない悶々とする日々が続いた。初めて味わう人生の挫折であった。
東大選科へ
絶望のどん底にうち沈む西田を励まし、背中を押してくれたのが母の寅三であった。当時、夫が破産して土地を売却したお金から西田の学費を捻出し、学問のために上京を促してくれたのである。21歳の西田は、東京帝国大学文科大学哲学科選科を受験した。
晴れて入学を果たしたものの、選科生というものは実に惨めなものであった。本科生との差は歴然としていた。図書室の閲覧室で読書することもままならず、図書の検索も許されなかった。卒業しても、卒業資格もなく、学士号も賦与されるわけでもない。当然、就職も厳しい。今で言う聴講生に似た立場である。その上、四高にいた同窓生が本科生として入学していた。彼らから下に見られる屈辱に耐えなければならなかった。しかし、四高を中退した西田が学問を志すには、選科生なる他に選択肢はなかったのである。
彼は「なんだか人生の落伍者となったように感じた」と述べているが、元来が負けず嫌いの西田である。その屈辱をバネにして3年間、必死に勉強した。幸いであったのは、選科生は何事にもとらわれることなく、自由に勉強できることであった。後の大哲学者は、選科生であったからこそ、生まれた可能性がある。
恩師と禅
運良く新設の石川県立尋常中学校七尾分校の主任として採用された西田は、倫理、英語、歴史を担当した。翌年には四高のドイツ語担当の嘱託として採用された。しかし、四高内部の腐敗問題が雑誌で暴露されたことで、学内は大きく揺れ動いた。新たに着任した校長は、改革に取り組む様子はなく、それどころか改革派と目された西田らを解任してしまった。西田は2年前に寿美と結婚しており、すでに長女弥生が誕生していた。経済的なゆとりのない彼は、27歳にして絶体絶命の危機に直面した。
その危機を救ったのは、恩師北条時敬である。山口高校の校長であった北条は、窮地の教え子を救うべく西田を山口高校に招聘したのである。その後、北条が四高の校長に転出したのを機に、西田も北条の招きで四高の教授に就任した。こうして、敬愛する北条のもとにあって信頼も厚く、西田は大きな試練を克服した。心の動揺や不安は解消され、落ち着いて学問に取り組む心構えができたし、自己の内面を見つめ、深く自己を内省する人間に成長した。まさに北条は西田にとって人生の師であり、大恩人であった。
また元来が我執の強い西田を救ったのは、坐禅であった。友人鈴木大拙(禅僧)の影響もあったであろう、自己の内に去来する妄念との葛藤に苦しんだ彼は、心の統一を激しく求め、坐禅に打ち込んだ。そして、「無」の境地を目指してきたのである。その「無」を哲学することに、西田自身の人生があったと言っても過言ではない。
苦悩と悲哀
西田の代表作『善の研究』が刊行されたのは1911年2月、40歳の時である。この著作は最初の精魂込めた苦闘の研究成果であり、「明治以後、邦人の手になる最初のまた唯一の哲学書」との評価を得た。京都帝国大学の助教授(倫理学担当)として招かれた直後のことであり、それも語学ではなく哲学を講じたいという願望が叶った招聘であった。西田の前途は洋々として開かれているように思われた。
しかしながら、過酷な試練が次々に西田を襲ったのは、この京大時代の半ばからであった。44歳で京大哲学科の主任教授となり、押しも押されもせぬ哲学科の中心的存在となって4年目、京都に移って8年目のことである。平安な時代が終わりを告げ、暗澹たる悲哀と苦悩の日々が突然、西田一家に襲いかかった。まずは母寅三の死である。元来が家族愛の強い西田である。特に最大の心の支えであった母の死は、思い出すことすら耐え難い苦痛となった。しかし、この不幸は、彼の苦悩と悲哀の人生のほんの序章に過ぎなかった。
亡き母の一周忌を執り行った直後、突然妻の寿美が西田の名を呼びながら、そのまま人事不省に陥ってしまった。脳溢血である。妻は1925年の死までの6年間、病床の人となった。西田家の生活は、たちまち暗い不幸のどん底に突き落とされてしまう。育ち盛りの男の子2人をはじめ、まだ手のかかる女の子4人(他2人は夭折)をかかえ、西田は途方に暮れた。日記に「当惑かぎりなし」と書き、ただおろおろするばかりであった。妻が病床に伏した西田家の様子を次男が書き記している。「襖は破れ、戸障子は自由に開かず、畳は汚れる有様であった」と。惨憺たる実生活がうかがい知ることができる。
妻が倒れた翌年、さらなる不幸が襲う。長男の謙が腹膜炎を患い、心臓内膜炎を誘発してしまい、22歳の若さで命を失った。謙は当時、三高在学中で西田は格別な期待を長男に寄せていた。彼の落胆ぶりは計り知れない。西田は日記に書いた。「天はなぜにかく貧弱なる一老学究を苦しめるのか」。
長男を失った翌年(1921年)のことである。三女の静子が母の看病疲れのせいか、結核を発病。長く安静が必要となる。その翌年には、四女の友子と六女の梅子が、苺を食べて倒れ込んでしまった。友子は一時絶望的状態になったが、何とか危機を脱したものの、高熱に冒されたために脳に障害を残すことになった。まるで呪われているかのように、次々と不幸が襲う。西田の憂苦は尽きることがなかった。その頃、飼っていた猫が死んだ。西田は書いた。「猫も死んでしまった」と。辛く悲しい心の内が伺える。
「西田哲学」
西田はこの苦境を耐え抜いた。崩れ落ちるわけにはいかなかったのだ。学問上の完成を目指していたし、何よりも家族を守らなければならなかった。その頃、西田は「何もかも忘れて学問に逃避するのだ」と語っている。何かに没頭しなければ、悲嘆の中で押し潰されていたことだろう。
後に「西田哲学」と称される学説は、多難な家庭の苦境を通して生み出されたものであった。悶絶の苦しみの中で、西田の心はひたすら内に向かい、彼の思索は独自の境地を切り開いていった。彼は、「人生の不幸ほど、人生を深くするものはありません。真の宗教も哲学もここからと思います」と語り、「哲学の動機は驚きではなく、深い人生の悲哀から始まる」とまで言い切るのである。「悲哀の哲学者」と言われたゆえんである。
西田はしばしば故郷の能登などの海辺に出かけ、じっと沖を見つめながら物思いに耽っていたという。波の音さえかき消すような深い静寂。そんな時、人間を超えた大いなる存在の懐の中に生かされていると感じることができた。苦悩の底から垣間見られる一時の安らぎ。悲哀は個々の思いを超えて、天の運命にまで通じていると実感する瞬間であった。
西田哲学の中心思想である「絶対無」や「絶対矛盾的自己同一」とは、すなわち彼自身の宗教体験を言葉にした概念に他ならない。自己の内に自己を超えた永遠なるものがあり、自分とそれは別々のようであって、実は一つである。西田は坐禅を通して、こうした境地を学んでいた。悲哀と苦悩の体験の中でそれを体感するに至るのである。
西田は、理論理性の限界を突き詰めながら、その限界の向こうに「意志」(神的なもの)を認めようとする。彼の哲学が批判されたゆえんであった。しかし、それは彼の苦悩と悲哀の人生から生まれた実感がもとになっていたのである。西田は言う。「偉大なる信念の根底には、常に偉大なる見神(神を感知すること)あることを」。
1945年6月7日、終戦の直前、西田幾多郎は75歳の生涯を終えた。彼の子ら8人の内、父よりも長く生きたのは、わずか3人に過ぎなかった。次男外彦は「人の死に対する父の思いは、著作の一編に現れている。今の自分はこれを読むに堪えない」と語っている。苦悩に満ちた人生と哀れなまでに格闘していた父の姿が、脳裏に焼き付いて離れないからであろう。しかし、西田が繰り返し物事の「深さ」を求めるとき、それはきまって耐え難い困難に直面しているときであった。日本を代表する偉大な哲学は、悲哀と苦悩の人生の中から生まれたのである。 
 
近衛文麿と東條英機の対決

 

近衛公手記『平和への努力』(一)日中戦争に就いて、(二)三国同盟に就て、(三)日米交渉に就いて、(四)覚書、の四偏に補遺として、(一)平沼内閣総辞職より阿部内閣成立まで、(二)阿部内閣総辞職より米内内閣成立前後、の二篇を付加したものである。日本新生の根基となるものは、開戦の経緯並に敗戦の原因を徹底的に究明し、これに基いて深刻な目己反省をすることにある。近衛公は或る意味で近代日本の気品と理性の象徴であった。公に日中戦争以来、軍部と政界が激成しつつあった日本の不幸を冷静に観察し、これを回避しようと絶えず努力したと思わわる。しかも公の人柄は、敢然身を挺して彼等を清掃する戦を、克く成し遂げ得なかった。そこに公の脆弱性があり、更に公の悲劇と日本の悲劇が胚胎したことが悲痛に回想される。そしてそれだけに、激動のさ中に立って独り苦悶する公の手記は、この間の事情を語り尽くして余りない。
近衛文麿
明治24年10月12日〜昭和20年12月16日 (1891〜1945) 東京生まれ。政治家。五摂家筆頭の家柄で、父は公爵近衛篤麿。京都帝国大学で河上肇に学ぶ。大正5年(1916)貴族院公爵議員。西園寺公望の随員としてパリ講和会議に出席。昭和6年(1931)貴族院副議長、8年(1933)に同議長に就任。12年(1937)第1次近衛内閣を組閣。同年7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入したが、新体制運動の中心人物として以後3次にわたり首相をつとめた。15年(1940)大政翼賛会設立、日独伊三国同盟締結。戦後、A級戦犯の容疑者として、逮捕直前に自殺。
東条英機
明治17年12月30日〜昭和23年12月23日 (1884〜1948) 東京生まれ。陸軍軍人、政治家。父は陸軍軍人東条英教。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。昭和12年(1937)関東軍参謀長、翌年陸軍次官となり、能吏ぶりを発揮して「かみそり東条」といわれる。航空総監兼航空本部長を経て、15年(1940)第2次、第3次近衛内閣の陸相。16年(1941)近衛文麿に代わって首相に就任し、陸相、内相を兼任した。対米英戦での初期の作戦成功を背景に、17年(1942)立候補者推薦制度による翼賛選挙を行う。それにより議会は形骸化し、独裁的な戦時体制が強化された。19年(1944)2月参謀総長を兼務したが、戦局の悪化に伴い重臣内部の批判が高まり、7月には内閣総辞職となった。敗戦後、自殺を図ったが失敗。極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった。  
日米交渉に就いて(昭和十九年四月談話筆記)
諸言
近衛内閣に於ける日米交渉は、昭和十六年四月より十月迄半年の長きに亘り継続された。
交渉は最初より極秘に進められたが、漸次外部に洩れると共に種々の勝手な臆測が行はれ、之を基礎として凡ゆる批難攻撃が政府に集中した。
然も余は最後まで交渉成立の望を捨てず、専心之に向って努力を傾注した。
それは日米の衝突を極力回避せねばならない理由があったからである。
第一はドイツとソ連の戦争勃発である。
第二は我海軍首脳部の意向である。
第三は物資関係である。
第一に三国同盟は日独伊三国の連携を前提として締結されたのである。
然るに独ソ開戦によってこの前提が覆り、ソ連は英米の陣営に入り、我国は米ソ両国を敵とすることになる最悪の事態に直面するに至ったのである。
尚この事に就いては別稿三国同盟を参照されたい。
第二は海軍の意向である。
三国條約締時に付いては、余は海軍が容易に賛成しないと思って居たのである。
これは平沼内閣当時からの海軍の態度から見て当然予想されることである。
吉田海相が組閣当初に於て三国枢軸強化ということには同意した。
然しながら進んで軍事上の援助を含む三国同盟となっては海軍として大問題である。
果して吉田海相は大いに煩悶したらしい。そして心臓病が昂じ俄かに辞職した。
然るに及川大将が海相となるや直に海軍は三国同盟に賛成したのである。
余は海軍の余りにあっさりした賛成振りに不審を抱き、恩田海軍次官を招いてその事情を尋ねた。
次官曰く「海軍としては実は腹の中では三国條約に反対である。然しながら海軍がこれ以上反対することは、最早国内の政治事情が許さない。故に止むを得ず賛成する。海軍が賛成するのは政治上の理由からであって、軍事上の立場から見れば未だ米国を向うに廻して戦う丈の確信はない」
余曰く「これは誠に意外な事を承る。国内政治のことは我々政治家の考えるべきことで、海軍が御心配にならんでもよいことである。海軍としては純軍事上の立場からのみ検討されて、もし確信なしというならば飽く迄反対されるが国家に忠なる所以ではないか」
次官曰く「今日となっては海軍の立場も御了承願いたい。只この上は出来るだけ三国條約に於ける軍事上の援助義務が発生しないよう、外交上の手段によって之を防止する外に道がない」
その後暫くして連合艦隊司令長官、山本五十六大将が上京したので会見した。
同大将は最強硬なる同盟反対論者で、平沼内閣当時、米内海相が頑強に三国條約に反対したのも当時の次官だった山本大将の補佐が与って力があったと思われる。
余は大将に、豊田次官よりかくかくの話があると述べると、大将は「今の海軍本省は余りに政治的に考え過ぎる」と言って痛く不満の様子であった。
余は日米戦争の場合大将の見込如何を問うた処、同大将曰く
「それは是非やれと言われれば、初めの半年か一年の間は随分暴れて御賢に入れる。然ながら二年三年となれば全く確信は持てない。三国條約が出来たのは致方ないが、かくなる上は日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい」とのことであった。
これで海軍首脳部の肚は解ったのである。
海軍の吐がかくの如しとすれぱ、三国條約の実際の活用は余程慎重にやらねばならない。
たとえソ連が同盟側に付くとしても海軍の考がこうである以上、日米衝突は極力回避せねばならない。
日米交渉の始るや、最初は陸海軍共熱心にその成立を希望した。
しかし八月頃になると陸軍の熱意は次第に少くなった。
かかる節にも海軍首脳部の意向は依然として変らなかった。
海軍中堅以下には漸次に硬論が台頭して来たことを耳にしたが、之を首脳部に質すと首脳部は何時も事も無げに「かかる盲動は之を鎮圧する」と言った。
連絡会議に於て軍令部総長は「米国と丈なら何とか戦う自信はある。しかしソ連が加わり、北にも南にも作戦するということになると確信はない」と明言した。
十月に入り、内閣総辞職の直前にも海軍首脳部の肚は依然交渉継続論であった。
只陸軍との関係、部内の関係から表面には之を口にせず、首相一任という形を採ったに過ぎないのである。
第三には物資関係である。
物資、殊に軍需の英米依存は我が一大弱点であって、之を脱却することの可能性に就ては、第一次近衛内閣当時からしばしば企画院に命じて調査研究させたのであるが、その結果は何時も”不可能”であった。
日米交渉の一項目である日米通商関係の正常化、及び南西太平洋に於ける経済活動ということも、その主たる目的はこれ等物資の獲得にあったといい得るのである。
然るに交渉進行途上に於て資産凍結令の発動あり、これ等物資の獲得補給が全然不可能となったので、問題は更に切実さを加えたのである。
この侭に推移すれば我が貯蔵物資は漸減し、所謂ジリ貧状態となる。
即ち”対米開戦は一日一刻も早いのが可とする”とは、主戦論者の主張の根本的な理由であった。
この軍需物資のジリ貧状態に陥ることを防ぐ為には、日米交渉の成立によって物資獲得を自由ならしめるか、国内生産を増強して少くとも軍需を充足させる外ないのであって、政府が日米交渉の成立のために熱意を傾注した理由の主なる一つはここにもあったのである。
日米交渉が逼迫した際、更に企書院総裁に命じて調査させた所、その報告は、
「問題は石油だけでその他の物資は何とかなること、石油にしても人造石油事業に二十億円を投じて拡張すれば、昭和十八年末には五十万トン、昭和十九年中には四百万トンは生産できる見込あること。一方武力を以て蘭印(インドネシア)を攻略しても、敵は石油施設を破壊すること必定で、又輸送の関係もあり、第一年に於て三十万トン、第二年に於て百五十万トン位より期待出来ず、五百万トンに達するには五六年を要するものと思わなけれぱならない」とのことであった。
即ち武力を行使しても、早急には我所有量の石油を獲得出来ず、却て人造石油事業の拡張増産により軍需物資のジリ貧状態に陥ることを防ぐという目的が、略々達しられるということが明らかにされたのであった。
九月六日の御前会議決定は、日米交渉が十月上旬頃になっても尚、我要求を貫撒する目途なき場合”直に対米(英蘭)開戦を決意する”とあるのだから、交渉成立の”目途あり”として開戦の決意をなさないことも差し支えなく、又開戦の決意はしても、”開戦する”とはならないのであるから、もし日米交渉が不成立に終ったとしても、経済断交の侭、戦争なしで行くことも出来るのである。
事実政府に於ては己むをえない場合は、そうして徐々に第二段の方策を講じようとの考もあったのである。
然るに開戦論者は飽く迄も軍需物資ジリ貧論を振り回して譲らなかったので、鈴木企画院総裁に対し、
「国内生産の増強によって石油その他軍需物資のジリ貧を防ぎ得るものならば、たとえ何十億の資金でも投じて国内生産設備の増強を図るべきである。その物資の為の対米英戦争と言うが如き大犠牲を払うことは如何にも馬鹿々々しいではないか」
と言うと、鈴木総裁の答は
「それはその通りだが、開戦は国内政治てすから」と言うことであった。
間もなく内閣の総辞職となり、総ては終ったのである。
是は後日のことであるが、東條内閣がとうとう太平洋戦争に突進する直前、十一月廿九日に催された重臣会議に於て、自分が
「国内生産の増強に依って軍需物資のジリ貧状態に陥るを防ぐことも可能ではないか、果して然らば必ずしも対米英蘭戦争を開始する必要もないではないか、経済断交の侭、戦争なしにて進み、後で図を策してはどうか」
と質問したのに対し、東條首相は
「内閣成立以来今日に至る迄その点に集中して検討したのであるが、経済断交のまま戦争なしで行ったのでは、結局ジリ貧状態に陥るを免れずという結論に達したので、とうとう開戦に決定した次第である」と答弁したのであった。
東條首相は「ジリ貧は免れず」といい、鈴木総裁は「ジリ貧を防ぎ得る」というのであるから、何れか一方が嘘を言ったことになる。
鈴木総裁の「開戦は国内政治である」の一言、なかなか含蓄があると言わなければならない。
以上述べた三つの理由により余は半年の間、隠忍に隠忍を重ね、且世の非難攻撃をも顧みず執拗に日米交渉を継続したのである。
以下、四月以来の交渉経過の概要を述べよう。 ( 一〜十九 省略 ) 
二十
所が野村、ルーズ−ベルト会談の行はれた九月三日には、東京では、一個の対米申入案が、連絡会議の議題に上っていた。
その案は外務省の起案にかかるものであって、従来の野村、ハル非公式会談で付議されていた了解案とは別の建前の下に之を簡略化した案であった。
その案は次の如し。
一、仏印(現ベトナム)以上に進駐しない。
二、三国條約に対する日本の解釈を自立的に行う。
三、日中協定に従い中国より撒兵する。
四、中国に於ける米国の経済活動は公正なる基礎に於て行われる限り之を制限しない。
五、南西太平洋に於て通商上の無差別待遇の原則を樹てる。
六、日米の正常なる通商間係の恢復に必要なる措置を構ずる。
以上の事項を約諾し、米国も之にreciprocate(交換)するというのである。
外務省は非常な期待をこの案に懸けて、九月四日、豊田外相からグルー大使へ、野村大使からハル長官へと二重伝達の形をとったのである。
この案は別に新たな提案ではなく、従来日本としては言うべきことは言いつくしたことであり、且四月以来交渉の基礎となる了解案中、根本的原則的主張に付き議論を上下する時は、何時果てるとも思われず、かくては目前の危局に処することが出来ないから、先づ当面緊急の具体的問題だけ抽出し、之を首脳者会談の基礎としようという趣旨であったのである。
然るに米国では、日本は全面的了解案が成立困難なる為に之を避けて、新たなる方針の下に新たなる提案をしたものと解した。
かくて外務省側の非常な期待に反し、九月四日案なるものは徒らに誤解と混乱とを招いたに過ぎなかった。
米国がこのように誤解したのは無理もなかった。
というのは、米国としては六月に十一日案なるものを米国の最後案として日本側に提示して居る。
之に対する日本の回答は前述の如く七月十五日発せられたが、政変その他の理由から野村大使は之を米国側に伝えて居らない。
即ち米国側としては六月二十一日案に対する日本の対案を受取らない間に、この九月四日案が来たのである。 これが米国側に誤解を起させた重大の原因であったと思う。
このような複雑で然も果てしない外交折衝が東京とワシントンの間に行われている時、東京では特筆大言すべき問題が政府内に起っていた。
それは米国と何処までも交渉を続けるべきか、それともいい加減に見切をつけるべきか、そればかりでなく見切を付けて米国と戦うべきかという重大問題であった。
元々この日米了解の外交交渉は政府、陸海軍、統帥部何れも極く上層の首脳部の間だけで始められたものであり、下の方には絶対極秘で進められていたのである。
そして首脳部の間では、唯一人松岡外相を除いては、何れも交渉成立を希望し、又その為にこそ反対を恐れて秘密裡に之を行っていたのである。
所が漸次漏れ始め、殊に松岡外相の独伊への内報等を契機として、おぽろげ乍ら交渉の全貌が判って来るにつれ、下の方から反対の気勢が起って来た。
殊に陸軍に反対が強くなって来た。
恰もその時、ドイツ−ソ連開戦の衝撃があり、政府首脳部は対ソ即時開戦の硬論論は押へたが、一種の代償として仏印進駐の廟議を一決せざるを得ないことになり、同時に第一の場合に備へて対英米戦の準備を本格的に進める勢となってしまった。
戦争準備と戦争そのものとの区別は、最も厳格に守らねばならないものであると同時に、その困難なことも否定できない。準備が進むにつれ、日米交渉反対の声が高まって来た。
然も、仏印進駐の効果は、即時且、強烈であった。
この米国の強烈な反発は、当然日本の反米陣営を又それだけ反発させた。
日米交渉に対する反対は、今や公然たる事実となり、その為に生れて来たような内閣の行く手は、難論を極めたのであった。
遂に余として自ら米国大統領に会見を申込む決意をさせたのであるが、その所謂”近衛メツセージ”が野村、大統領の会談から洩れ、内容の判らない侭に徒らな臆測が横行して、交渉は益々困難の度を加えた。
八月頃から参謀本部関係は、首脳部まで概して交渉無用、日米戦争論にたっていたと見られるのである。
その対策に腐心する余と陸海外相との懇談、連絡会議の度数が八月後半から目立って多くなった。
或る程度で交渉を打切り対米英戦に突入すべしという”国策”が議題に上っていたのである。
こうして九月六日、御前会議を以て「帝国国策遂行要綱」が決定されるに至った。
その要項次の如し。

帝国国策遂行要綱(御前会議議題)
帝国は現下の急迫せる情勢特に米、英、蘭等各国の執れる対日攻勢ソ連の情勢、及び今回国力の弾発性等に鑑み、”情勢の推移に件う帝国国策要綱”中、南方(東南アジア)に対する施策を下記に依り遂行する。
一、帝国は自存自衛を全うする為、対米(英・蘭)戦争を辞さない決意の下に、概ね十月下旬を目途として戦争準備を完整する。
二、帝国はこれに並行して米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努める。対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項、並に之に関し帝国の約諾し得る限度は別紙のとおり(別紙は省略する)
三、前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも、尚我要求を貫徹しうる目途がない場合に於ては、直に対米(英蘭)開戦を決意する。
対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い、直に米ソの対日連合戦線を結成させないように勉める。 

この第三項中「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹しうる目途がない場合」とあるが、これは最初統帥部提出の原案には「貫徹できない場合」とあったのを政府側が交渉して目途がない場合と訂正したのである。
御前会議前日、余は参内して議題帝国国策遂行要綱を内奏した処、陛下には
「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受けた。この点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思うが……」
と仰せられた。余は之に対し奉り、
「一二の順序は必ずしも軽重を示すものではない。政府としては飽くまで外交交渉を行い、交渉がどうしても纏らぬ場合に戦争の準備に取かかるという趣旨なり」
と申上げ、尚
「この点につき統帥部に御質問の思召ならば、御前会議にては場所柄如何かと考えられますから、今直に両総長を御召になりましては如何でしょう」
と奏上すると
「直に呼べ、尚総理大臣も陪席せよ」との御言葉であった。
両総長は直に参内拝謁し、余も陪席した。陛下は両総長に対し、余に対する御下問と同様の御下問あり、両総長は余と同じ奉答をした。
続いて陛下は杉山参謀総長に対し、
「日米で事が起れば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信があるのか」
と仰せられ、総長は
「南洋方面だけは三ヵ月位にて片付けるつもりであります」
と奉答した。陛下は更に総長に向わせられ、
「汝は日中戦争勃発当時の陸相である。この時陸相として、『戦争は一ヶ月位にて片付く』と申したことを記憶している。然るに四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」
と仰せられ総長は恐惶して、中国は奥地が開けており予定通り作戦できない事情をくどくどと弁明申上げた処、陛下は励声一番、総長に対して
「中国の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信があって三月と申すか」
と仰せられ、総長は唯、頭を垂れて答えられず、この時軍令部総長が助け船を出し
「統帥部として大局より申上げます。今日、日米の関係を病人に例へれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来て居ります。手術をしないでこの侭にしておけば、段々衰弱してしまう処があります。手術をすれば非常な危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思い切って手術をするかどうかという段階であるかと考えられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術をしなければならないと存じます。この意味でこの議案に賛成致して居るのであります」
と申上げた処、陛下は重ねて、
「統帥部は今日の所、外交に重点をおく主旨と解するが、その通りか」
と念を押させられ、両総長共その通りなる旨奉答した。
翌九月六日午前十時、御前会議が開かれた。席上原枢密院議長より
「この案を見るに、外交より寧ろ戦争に重点がおかれている感がある。政府統帥部の趣旨を明瞭に承りたい」
との質問があった。
政府を代表して海軍大臣が答弁したが、統帥部からは誰も発言したかった。
然るに、陛下は突然御発言あらせられ、
「只今の原枢相の質問は誠に尤もと思う。之に対して統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」
として御懐中より明治天皇の御製
――四方の海 みな同胞と思う世に などあだ波の 立ちさわぐらむ――
を記したる紙片を御取出しになって之を御読み上げになり
「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めて居るものである」
と仰せられた。満座粛然、暫くは一言も発する者がない。
応て永野軍令部総長立ち、曰く
「統師部に対する御咎(おとが)めは恐縮に堪えません。実は先程海軍大臣が答弁致しましたのは、政府、統師部双方を代表したものと存じ、沈黙して居りました次第であります。統帥部としては勿論海軍大臣のお答え致したる通り外交を主とし、万已むを得ざる場合戦争に訴えるという主旨に変りはございません」
と答えた。かくて御前会議は未曾有の緊張裡に散会した。 
二十一
日米了解の交渉が進みそうで進まず、又首脳者会見の提案が大統領の心境をかなり動かしながら、今一歩の所で容易に実現しそうもないのは、一には東京ワシントン間の電報訓令に基く野村大使の努力だけでは、先方に充分日本の真意が伝っていないからでもあった。
そこで余は自らグルー大使に会って話をする決意をした。
九月六日、ここに述ぺた”国策要綱”が決定された日、陸海外三相の了解の下に、余は極秘裡に大使と通訳のドユーマン参事官と会食懇談した。
余は現内閣が陸海軍も一致して交渉の成立を希望していること、この内閣を措いて外に機会ありとも覚えずと強調し、又
「今この機会を逸すれば、我々の生涯の間には遂にその機会が来ないであらう」
と、最も含蓄ある言明をなした。
陸海外共その代表の人選まで大体済んでいる事実も語り、この際一日も早く大統領と会見し、根本問題に就いて意見を交換する必要を力説した。
グルー大使は、ハルの四原則に対する余の意見を質し、余は
「原則的には結構であるが、実際適用の段となると種々問題が生じ、その問題を解決する為にこそ会見が必要になるのだ」と説いた。
一時間半にわたる懇談の後、グルー大使は直接大統領宛のメッセージとして、今日の会議内容を報告することを約し
「この報告は自分が外交官生活を始めて以来、最も重要な電報になるであらう」
と感慨をこめて述べたのである。 
二十二
四月以来の日米交渉も、日本側からは余と大統領の直接会談を申込むという大きな手を打ち、又余は大統領にメッセージを送り、グルー大使にも意中を打明ける等、殆んど尽くすべきは尽くして来たのであるが、一方、九月六日の御前会議で決定された重大な国策に依って、交渉は日本としては謂わば期限付となったのである。
ついに最後の段階に押し詰められたという感じが強くなって来た。
この頃では交渉の難点も大胆判り、米国の肚もほぼ見当がついてきた。
即ち原則的には”四原則”であり、具体的には中国問題中の駐兵問題、経済機会均等原則の問題、三国条約問題であった。
”四原則”は米国側も日本に異議ないものと一応解釈して居り、又余も”主義上は結構である”とグルー大使へ言明したのであるから問題は無さそうな筈でありながら、陸軍及び外務の一部には主義上の同意にも反対する強諭が消えなかった。
(米国が八月二十八日の日本の申入をこのように解釈したのは、野村大使の誤解に基くものであるから、その取消を申入れよ、とか、大使を召還せよとかの議論まで出たのである。)
然しながらこの四原則をすら今更否定するのでは、日米交渉は全く不可能となることは明白であるから、余はその取扱方に少からす苦慮したのである。
経済原則の問題では、日本は既に中国に於ける機会均等を認める肚であり、唯中国との地理的特殊関係は米国でも分らない筈がないとの楽観があり、又三国条約問題に関しては文言として表すことこそ出来ないが、余と大統領の会見さへ実現すれば、米国側との話合がつかないことはないてあらうという見込であった。
唯駐兵問題は陸軍側に於て、或時は名義や形式はどうでもよいとの穏健論があるかと思うと、翌日には絶対不動という硬論が伝えられ、日本政府部内でも問題は何としてもこの一点だという感が強かった。 
二十三
政府は一方に於いては日米交渉の運行と、他方に於ては九月六日御前会議で決定した国策要領の運用とのかね合いの為、急に深刻な悩みを続けた。
余が官邸日本間に寝泊りする日が多くなった。
九月二十四、二十五両日にわたって余は陸海外相及び企画院総裁と長時間の会談を続けた。
二十七日から十月一日までは鎌倉に休養を取ったが、その間、及川海相を招き、都内の空気を具(つぶ)さに聴取した。
同四日には余は参内拝謁、後、局長連を退けて閣僚と統帥首脳とだけで連絡会議を催し、五日夕には荻窪に陸相の