説経節

説経節説経と説教説経の枝葉節回し語り歴史系譜
「をぐり」「愛護の若」「しんとく丸」「かるかや」「さんせう太夫」「信太妻と葛の葉」信徳丸と愛護若比較説経祭文と越後替女枕草子の説經師閻魔大王と死者の蘇生小栗判官一代記信太妻信徳丸一代記唱導文学説経節「山椒太夫」森鴎外の「山椒大夫」1「山椒大夫」2「沙石集」説話唱導の範囲日本の説法資料節談説教1節談説教2節談説教と交感の宗教性節談説教と交感の芸能性
 

雑学の世界・補考   

説経節1

漫才(こう書くのはもはや時代遅れで「マンザイ」或いは「お笑い」と書くべきかも知れないが、基本的には「漫才」と称していた芸のあり方の枠をまだ大きく外すものでないであろう)は、昭和初期(昭和8年説と9年説とがある)に今を時めく芸能プロダクションの吉本興行の幹部が、すでに二人で時事のネタのしゃべくりを中心に様々な芸をとりこんでいた「万才」に対し新たに命名したものと伝えられている。横山エンタツ・花菱アチヤコの二人がこの頃の代表者であることはよく知られていよう。洋服姿で立って時事を捉えた話題の会話を行なう今に通じる新しさを持ちこんだ。逆にそれまでの祝福芸の面を失った。「万才」は明治後半に江州音頭という歌をもとにおかしく聞かせていた玉子屋円辰が愛知県の「萬歳」をとり入れ、和服で鼓を持ち太夫・才蔵と呼称し、掛け合いの世間ぱなしのしゃべくりと様々な芸をとりこんだ芸づくしを行なっていた(小島貞二「漫才世相史」毎日新聞社、昭和40年)。更に遡って「萬歳」は正月に祝福芸として祝言を唱えに訪れてくるもので、整ったものとしては御所や公家、幕府、大名邸に伺候し、また門付芸として町家を訪れる太夫才蔵という二人連れの来訪神信仰を元にした芸能で、室町時代頃迄は「千秋萬歳」と称し、「古今著聞集」などの平安時代の文献に迄遡りうるものであった。
すなわち(千秋萬歳から)萬歳、万才を経て漫才へと変化してきた芸能であり、まんざいという発音は変えずに漢字を変えるのみで、一貫してきたものと時代に応じて変化してきた意味あいとを伝えた命名の変遷史でもあった。最も大きな変化は信仰を元にした祝福の芸であった性格が、万才となった明治以後急速に変化し漫才になった時には全く失われてしまったことである。古態を留める萬歳も昭和40年代迄は関東地方に回勤していたが、獅子舞や御師が来なくなったのと同じく殆ど見ることができなくなってしまった。こうして千年以上の歴史があった萬歳は一変したものの=人々を喜ぱせる芸能として二人一組で行なうあり方は強靱に続いている。ともかく大衆芸能はこのように世に連れ人に連れ変化していく。また影響しあっていく。
安寿と厨子王の物語は子供の時、どこかで知る機会のあった方も多いであろう。あの物語が最初に語られたのは説経節という芸能においてであった。いつ頃始められた芸能か定かでないが、室町時代頃と推定されている。この芸能が今日も多摩地方他で伝承されている。漫才の人気のような勢いがないのは残念なことであるが、寺社や宮廷あるいは大名等の庇護を受けることもなく500年にも亘る歴史を持っているのは大衆芸能の一つとして希なこととしかいえない。むろん時とともに変化してきた。そうした歴史を若干ふりかえりながら、今日も伝えられている説経祭文系の説経節と愛知県に伝えられている説教源氏節との関係を詞章の上から寸見し、それらの歴史の一端を垣間見てみたい。
説経節は説経と書いて説教と書かないが、僧侶が説教を説いたように、仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比楡や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。初期のテキストには、例えぱ安寿と厨子王の説経節「天下一説経佐渡七太夫正本 せつきやうさんせう太夫」の冒頭には
たたいまかたり申御物かたり、國を申さは、たんこの國、かなやきぢざうの御本ぢを、あらあらときたてひろめ申に、これも一たひは人げんにておはします(「説経正本集」)
とあり、丹後国(京都府)の金焼地蔵という仏が地蔵仏として祭られるに至った経緯の大体の話を説いていく旨の説明がなされている。末尾には
みねにみね、門にかとをたてならへて、ふつきはんぶくとおさかへあるも、なにゆへなれは、おやかうかう、かなやきぢさうの御ほんちを、かたりおさむる、すゑはんじやうものかたり
とあり祝福の言辞をもって結んでいる。首尾において宗教色信仰色で色どられているが、本文の内容においては説教がなされるでもなく宗教的色彩は薄く、銀難辛苦の物語の果てに厨子王が母に巡り会える筋が描かれるのみである。江戸時代より前においては漂泊の芸能で寺社の境内や門前で語られるものだったので、上例のように若干の宗教色もみられたのであるが、江戸時代になると、人形芝居として今日の文楽のように人形(但し一人で操る一人遣い)と三味線と語りの三つの芸能が合流して京・大坂(江戸時代にはこの字を用いた)・江戸で主に上演されるようになると、上例のような首尾の詞章がさらに簡略化され、ついにはなくなり、物語の部分のみになる。都市の興行に固定し、漂泊性が失われたと同時に宗教色も失われてしまった。
引き換えに固定した都市の観衆が増え、テキストの出版が可能になった。400年近くも前の大衆芸能であるにもかかわらず、今日我々がテキストを読むことができるのは、そのためである。語り手が違う、したがっていくつかのヴァリエーションを比較検証することも可能になるテキストが度々出版された程の観衆がいたことも知れる。寛文・延宝期(1660年代70隼代)迄が最盛期で他の古浄瑠璃と呼ぱれる語り物の人形芝居とともに、近松門左衛門と竹本義太夫による義太夫節人形芝居(今日の文楽)が貞享元年(1684)に始まると淘汰されていった。宝暦10年(1760)には「いたはしや浮世の隅に天満節(天満八太夫が語り出した説経節)」といわれるように衰退した。
ここで絶えてしまっていれぱ森鴎外「山槻太夫」は生まれなかったかもしれない。また我々も安寿と厨子王の悲劇を知ることにならなかったかも知れない。幸いにも三通りの道筋が説経節にはつけられた。一つは佐渡ケ島に伝えられ近年まで語り伝えられていたのである。二つ目は後述する説経祭文として寛政年間(1789-1801)に再興された説経節が多摩地方・都内・埼玉県秩父地方に今も伝。えられている。三つ目は他の芸能に影響を与えていた。
この三つ目の経過と道筋について煩を厭わずに挙げてみると、「小栗判官」という説経節は近松門左衛門「当流小粟判官」・紀海音「鬼鹿毛無佐志鐙」・文耕堂他「小栗判官車街道」等の文楽や歌舞伎に作られ、大坂の正月歌舞伎興行には江戸の曽我狂言のように小栗物が上演されたという。大坂から南下して熊野本宮に向かう熊野街道は、主人公小栗判官が地獄から腐ったような体で甦った後、その体を癒すために土車という一種の車椅子で連れられていく道であったので、別名小栗街道とも呼ぱれるに至った。
「苅萱」は「苅萱桑門筑紫櫟」「苅萱道心行状記」等の文楽に(前者は歌舞伎で今も上演される)作り変えられ、曲亭馬琴は「石堂丸苅萱物語」を書いている。他に合巻・黄表紙等の草草紙にも影響した。今日でも高野山の苅萱堂では絵解き(僧侶が絵を見せながら物語を概説し、教訓を加える)がなされ、絵本や漫画本まで売られている。石童丸の物語として戦前までは国民伝説のような位置を占めるものであった。民謡や盆踊り唄(例えぱ東京の佃島)に採り入れられていることもある。長野市の善光寺の近くに苅萱・石童丸親子が地蔵仏として祭られたと物語にあるので、近くの西光寺・往生寺の二寺がその地として絵解きが今もなされている。
「山淑太夫」は文楽に「山淑太夫恋慕湊」「山淑太夫五人嬢」「由良湊千軒長者」他があり最後の「千軒長考」は歌舞伎で今も上演される。森鴎外「山槻太夫」はいうまでもない。
「信徳丸」は近松門左衛門「弱法師」、菅専助「摂州合邦辻」になり、後者の主人公玉手御前の人形の写真は文楽の本はもとよりよく掲げられる。大阪天王寺にはこの話に因んだ閻魔堂が作られてさえいる。
「信太妻」は竹田出雲「藤屋道満大内鑑」に作り直されて、これが有名になり説経祭文に逆戻りしている。清元申「寸保壮名」は名曲として名高く舞踊でもよく演じられる。このように、古い説経節は衰えたが、江戸の文芸・芸能に多大な影響を及ぼした。説経物は信仰色を失う一方で流転しながら活き続けていたのである。
第2の道は享和の頃(1801-04)もしくは文化の初(1804-)薩摩若太夫が山伏の祭文語りの伝えていた語りを説経祭文として復興させた道である。この初代若太夫から二代目(ないしは三代目まで)江戸の芝居町で説経芝居を上演し、台本も33段51冊あるような正本でも出版され市販されていた。「説経さい文小栗判官・照手姫」は天保から弘化期(1830-1844-1848)にも再々刊行されており、版元を変えて出されたものもあり版元は6種数えられる(森中治兵衛・和泉屋栄吉・吉田屋小吉・松坂屋吉蔵・積玉堂・丸吉)。また天保15年(1844)より弘化4年(1847)の間に当時一流の三代目歌川豊国によって小栗判官が鬼鹿毛という荒馬を乗りこなす錦絵が描かれ、当時の人情本の第一人考の作家松亭金水により賛が加えられるまでにいたっている。江戸後期の説経節である説経祭文の絶頂期であった。
名古屋の芸能について記録された「見世物雑誌」の天保6年閨7月15日(1835)より大須山(観音で有名、現在でも有名な演芸場のある地区)で山門外講釈小屋で「祭門説経」があり、江戸の「秀元」と「きく」が
  小粟判官一代記
  由良湊三座太夫
  かるかや石とう丸
  八百屋於七一代記
  一の谷八しま
  かけ清ろう屋
  あしやとうまん
  法道尼
  二人尼
  轟徳丸
を上演している。これらの外題は誤記や宛て字があるものの対応する作品の正本や台本が関東各地の太夫の元に残されており、説経祭文の演目として誤りはないであろう。これらの演目が天保6年には既に成立していたことが確定できる。
「秀元」「きく」の名はこの書以外(後述)他見なくどういう語り手であったのか、費用・給金等の詳細はもとより諸事情についての記述が全くないので手掛かりもない。同じく天保8年2月14日より若宮境内北之方にて「世津きやう上るり 江戸 春太夫」が公演している。「春太夫」の名は早稲田大学演劇博物館所蔵「説経さい文 三荘太夫物語」第34段「安寿姫対王丸骨対面段」より第36段「太夫親子鋸挽段」までの4段、「説経祭文石童丸苅萱道心」第5段「行違段」・第7段「萱堂段」及び同博物館蔵「説経さい文 出世景清」上ノ切「阿古屋自害」において太夫名の10番目に見出せる。これらの諸本間においては他の10余名の太夫名が一致するので同一人と考えてよいであろう。名古屋の記録の春太夫とも同一人と仮定するならぱ一同時代に10番目に位置づけられる名を別の土地でさえも名乗る他の者がいたとは考えにくく、上位に位置する名ならぱそれを襲う者がいたことも考えねばならないが、天保8年の前後数10年の内に上記3本7巻が版行されていたと推定できる。もう少し狭められるとよいが、目下は江戸から単独で語りにきた太夫がいたことに留意しておきたい。彼の逗留が一時的なものか、江戸を既に離れ地方で活動しはじめたことを意味するのか、この1項目の記事のみでは即断できないが、慶応元年(1865)「門弟連名控」(八王子市郷土資料館蔵)及び明治6年(1873)書写「説経語り渡世弟子名前書上写」にないことも留意しておきたい。「見世物雑誌」には同じく天保8年5月に大須で「せつきやう」があり「開元 秀元 鶴元 龍元」の4名の名が記されている。前述の天保6年の10外題を掲げていた「江戸 秀元」と同名が挙げられている。
この3例は江戸から上ってきた太夫が説経祭文(説経浄瑠璃も同じものをさし、江戸で出版された正本に両方が用いられてある)を名古屋で上演していたわけであるが、これらは江戸の最盛期の余勢を駆ってのためであったろう。
安政2年10月2日(1855)江戸は大地震に見舞われた。その実態は「武江年表」はじめ諸書に記されているので今は触れない。この5年前頃から猿若町(浅草観音裏にあった芝居町)にあった人形操りの薩摩座と結城座は不振で取り壊されていた。薩摩派の説経節においても困窮の度を深めていったことであろう。嘉永4年8月(1851)上演された三世瀬川如皐作r東山桜荘子」は義民佐倉宗五を主人公にしたもので人気を呼び、宗五物の様々な作晶がこれを契機に作られたという。埼玉県所沢市柳瀬民俗資料興蔵の薩摩若太夫正本「桜草語 浅倉当吾内乃段」「同 浅倉川渡場の段」もその主人公名浅倉当吾が「東山桜荘子」のそれと一致するので恐らくその影響下になるものであろう。「説経浄瑠璃」と表紙に刷られているのも三代目若松若太夫(小若太夫改め)氏の推測どおり、比較的新しい版行の正本で、嘉永4年8月以降の刊行とみてよいであろう。しかし困窮を窮めていた薩摩派にとって「東山桜荘子」の時運に乗ることは極めて適切必要な機会だったのではないだろうか。安政大地震を予知してはいなかったであろうが、それより前ならぱ可能であったと臆測を邊しくする。
ところで、大地震に関連してよづ注視してみなけれぱならないことがある。安政2年と3年に三代目薩摩若太夫は数回に亘り秩父入りし三峯神社に参詣し柴原(荒川村日野)の鉱泉宿に逗留し、地元の百姓坂本藤吉を弟子にし、後藤吉は江戸に出て若太夫の下で修業し、薩摩若登太夫と名乗り、帰郷後秩父に説経を弘め、若松佐登太夫他を育てていったという。地震の直後(安政2年の逗留も地震の直後とみるならぱ)三代目若太夫は再三秩父に滞在したわけであり・江戸で立ち行かなくなったためという伝承も裏付けられよう。
早稲田大学演劇博物館に「義経奥州落」と題する4冊改装合綴の1本がある。前に「安宅関之段 上下」2冊、後に「勧進帳之段 上下」2冊となっている。この後の2冊は表紙の右側に刷られた太夫名が他の正本と較べて大きく異なっている。上冊には「若太夫、辰太夫、小磯太夫、滝太夫、米太夫、津簾太夫、若登太夫」(私意に薩摩を全て略した)下冊は「若太夫、若佐太夫、玉太夫、島太夫、今津太夫、八千代太夫、若勢太夫」(同上)と他に類をみない太夫名である。それのみならず「若登太夫」の名が目を魅く。秩父の若登太夫が参加しているのならぱ、安政3年以降の正本ということになる。前の「安宅関之段」には若太夫他浜太夫、君太夫、桝太夫等の正本によく刷られている高足達が刷られているのと大きく異なり、しかも「安宅関之段」の末尾の詞章と「勧進帳之段」の冒頭部の詞章は重複している不自然さがみられる。おそらく別々に出版されたものであろう。そしてこの2本の出版の前後で、太夫が大きく入れ替ることがあったのではなかろうか。(この合綴された巻末に本文と異質の遊紙が一丁附され明治9年の年号と磐城国川辺村の「小針 主」という署名がある。)
この太夫名の一新に関して想起したい伝本がある。国文学研究資料館所蔵「説経祭文」(講求番号ナ7−20)という合綴された刊本集の中に「説経さいもん小栗判官てる手姫清水のだん」がある。この表紙の右3行には「若狭若太夫同浜太夫 同桝太夫 同伊世太夫 同三保太夫 同千賀太夫」と6名の太夫と「三弦 辰治 粂吉」の2名が刷られ上部に「江戸元祖」と周りに配字した丸に隅立て四ツ目の紋が刷られている。既に考察したことがあるようにこの紋は薩摩派の門弟が用いるものである。したがって若太夫を名乗るものの家元の薩摩若太夫でない若太夫が新たに出現したことになる。しかも他の5名及び三弦の2名は先に春太夫について示した正本に共通する太夫名三弦方名である。不可解な伝本であるが、この合綴本の裏表紙見返しに、安政5年(1858)に龍野の某(墨で消してある)が求めた旨の記がある。後述するように大坂で版行された本を合わせ綴じているので兵庫県龍野市に元所有者がいたというのは理解しやすい。安政5年以前に大坂で刊行された説経祭文があったということは、一過性の興行のために出版されたというよりも、一時的であったにせよ、大坂に新天地を求めて主だった太夫が総移住したことを示していないであろうか。それ故、「勧進帳之段」の三代目薩摩若太夫を固める太夫が新しい面々に変っていたのではないだろうか。安政大地震の前後どちらとも推測しかねるが、三代目が秩父に長逗留したこともあると伝えられるのも、このことと関係があるのかもしれない。家元の権限は三代目にあったので、大坂の若太夫は家元の紋を掲げることもできず、また大坂に近い若狭の名を名乗ったのであろう。因みにこの正本は早稲田大学演劇博物館蔵の「説経さい文 小栗判官照手の姫」(請求番号二13−13)の第21段と一二の語句の手直しをしているものの大異はない本文である。
更に国文学研究資料館所蔵「説経祭文」本は「説経さいもん 小栗判官てる手姫清水のだん」に続いて太夫名・三弦方名や紋も刷られていない「新板江戸むかしぱなし小ぐり一代記 説経祭文 よろづやの内」廿段目上の巻及び「新はん 江戸説経祭文 むかしぱなし小ぐり一代記 萬屋内下の巻」という2冊が綴じられている。先の早大本と比較すると、上の巻は前半ほぼ同文であるが後半部が4分の1刻まれていない。照手姫が主人の万屋長右衛門に嘘をついて遊女になることを拒む件であるが、なくても下の巻があれぱ差し障りはない。下の巻は冒頭に繋ぎの文句が2行新たに加えられた他は大異はない。太夫名が一切ないので即断しかねるが「江戸説経祭文」と銘記されていること段数表記も早大本と一致することから、若狭若太夫の正本の可能性が高いと推測する。なぜ太夫名を一切省いたのか不明であるが、大坂は小栗物を正月の狂言として歌舞伎で上演されることの多かった土地であったので、小栗判官一代記を重視しして出版したのであろう。目下のところ大坂における説経祭文の正本として伝わってレデるものはこの3本なので、これ以上の若狭若太夫他の動向は一切不明であるが、若太夫の一向が大坂に齋たらしたものは説経祭文の歴史においては多大なものであったと考えられる。この若太夫に刺激されて新内を語っていた大坂の岡本美根太夫が「説経祭文」を語り始めたのである。
前述国文学研究資料館蔵「説経祭文」は縦14.5p横11pの合綴本で後表紙がつけられた1冊本である。裏表紙見返しには先述のように安政5年龍野で得た旨の記がある。
内容は以下10種15冊59丁である。
「説経祭文 岡本美根太夫章 出世かげ清獄屋破之段」上の巻・中の巻・下の巻
「岡本美根太夫章 江戸説経小栗照手姫再の対面」上・中・下
「岡本美根太失章 江戸説経由良之湊千軒長者内之段 三荘太夫」
「岡本美根太夫章 江戸説経さいもん石どう丸」上
「岡本美根太夫章 石童丸苅萱道心行違段」
「江戸説経高野山 苅萱石堂丸札書ノ段」中
「岡本美咲太夫 江戸説経かうやさん衣掛のだん 石堂丸ものがたり」下ノ畢
次に先述の若狭若太夫正本
「説経さいもん 小栗判官てる手姫 清水のだん」
「新板江戸 むかしぱなし小ぐり一代記 説経祭文 よろづやの内」廿段目上の巻
「新はん 江戸説経祭文 むかしぱなし小ぐり一代記 萬屋内」下の巻
「岡本美根太夫章 江戸説経 ゆらのみなと千げん長者 三荘太夫初編」上下巻
岡本美根太夫の正本が大半であるが、岡本美咲太夫の正本が1冊、若狭若太夫の正本が3冊・上記の順で綴じられてある。この本の所有者、龍野の某氏またはその前の所有者にとって、どれにも江戸説経祭文と刷られているのでどの本も大差はなかったので何の秩序もなく綴じておいたのであろう。そのように外観は似ているが、美根太夫の本文は薩摩派の本文と大いに異なる。また節は新内を規準にしたものであったので江戸の説経祭文とは異なっていたといわれている。なぜ美根太夫が自らの派も江戸説経祭文と称していたか臆測すれば、若狭若太夫のそれが人気を呼んでいたからではなかったろうか。テキストを取りこんだ時、名称のみ残し・内容は換骨奪胎してしまっている。説経祭文の詞を元にしたのであろうが対校するのは困難なまでに詞章を変えている。「小栗判官」に例をとれば、光重こと小栗判官が甦った後、再び万屋長右衛門のところへ向い、餓鬼阿弥車を引いてくれた小萩に礼を述べに訪れる件で、 「岡本美根太夫章 江戸説経 小ぐりてる手 再(にど)のたい面」中巻に
小はぎこそ、かをにゆふひのあかねさし恐れながら申あげ升お殿様、お主の仰かおもきゆへ、おさゝのおしやくにでましたが、せんぞなのりやさんげばなしにいでません、おきにいらずぱさがりましよ、光重公聞召、ぶし一代のあやまり也、人の先祖をとふときは、わがいにしへを物がたり、それより聞のがほうぎなり、
とあるところは、数少なく近いところである。薩摩若太夫正本第32段「対面段 下」
仰セに姫メ君ミ、おもてを上ヶ、是レはしたり、お国主様マの、仰共存ンじませぬ、私シは主めいにまかせまして、御酒のおしやくには出ましたが、我カ身の上ヱのさしきさんげにや、出テませぬ。もはやおいとまたまわれと、すでに御前ンをたゝんとす、判ン官ン、もすそをひかへ、ヤアレまて小はぎ、人トのせんぞをとふときは、我がいにしへをかたれと有ル、そちが名をといしは、判ン官ン光しげ ひとつのあやまり、
ここでもう一本、美根太夫系の太夫岡本松鳶斎の筆写した「実道記貞女鏡 小栗照手対面乃凌」という尾崎久弥氏旧蔵・蓬左文庫所蔵「蓮如上人啄をどし 石井高尾状つかひ 小栗照手対面の段」という合綴本の同じ箇所を掲げる。
ををせに照手はざを改めこうぺをさげ、コレハみようがに余おことバにハござり升れど、わたくしハ、ごぜん様のぎよふいといゝ、しゆう人のことバがおもきゆへ、ぜひのうおしやくにハ出ましたなれど、身のざんげんぱなしをいたしましよふとて、これへいでハいたしませぬ、モウ此ざハ御めんなされて下さりませと、すでにたち上らんとなし給ヘバ、いつてきたんりようのみつしげどの、そバなるせんすを手にとるやいな、う打ちかけのすそ、しつかとおさへ、ヤレまて小萩、へいはんぐわんみつしげが目どをりともはじからず、立さわいでびろうであろう、まてと言バ、まあまて、ハアゝイ、なるほど、人の先ぞをきくときハ、わがいにしへをかたれとやら、
というようにこれでも比較がなしうるところである。三者とも同趣旨であるが異なっている。そして三者の本文の特徴がよく表れているところである。どれも会話の文に詳しく、くどさがあるが、松鳶斎の文章はもっとも長くなっている。美根太夫の文章はこの件には表れていないがお金をお礼に渡そうと幾度もでてくる。三者とも根は繋っているのであろうが親子関係を指摘できる詞章は殆ど見あたらない。このように美根太夫は江戸説経祭文と名乗りながら、若狭若太夫が薩摩の正本をほぼ逐字的に版行していたのに対し・独自の本文を作っていたのである。語りも新内を元にしたものであったから、美根太夫は説経祭文に刺激を受けながら、別の語り物を志向していたのである。それが名古屋に移され、平曲に対抗しス名付けられたという説教源氏節の成立であった・尾崎久弥氏「名古屋芸能史」によれぱ明治初めに「説教源氏節」と称えられたとあるが、内実は別の語り物であったのであるから改称は当然の道程であったであろう・そして先に掲げた岡本松鳶斎は説教源氏節の中興の祖として崇められる語り手であるが、美根太夫の大坂での弟子で名古屋に移り住み名古屋の源氏節の興隆に資したのである一師に習い、独自の詞章を一層すすめた攻めの姿勢が興隆にプラスに作用したであろう。源氏節は明治後期に東京に進出するまでに至り、源氏節女芝居として警視庁から禁止される程であったという。
ところで、尾崎久弥氏は重要な紹介をしている。尾崎氏蔵の小寺玉晃編「嘉永三戎正月ヨリ同六丑歳十一月迄 戯場番附」の嘉永4年9月(1851)の項に
 九月より清寿院境内にて
 説経祭文
 新内ぶし 岡本美根太夫/岡本美喜松/岡本美喜口
と記しているという。先に述べたように岡本美根太夫が若狭若太夫の大坂での活躍に刺激を受けたものならぱ、若太夫の大坂行きは嘉永4年(1851)以前となる。安政5年(1858)以前に正本を刊行していたことも7年以上引き上げねばならなくなるのであろうか。尾崎氏の論考に盟友市橋鐸麿氏が説経祭文の名の32段33冊を所持していられたという。この本や大坂刊行の版本の出現が待たれる。なお、安政4年8月(1857)より10月迄名古屋若宮境内芝居として岡本美矢登太夫他による説経新内の「小栗判官」他が上演され、その番付が早稲田大学演劇博物館にあることも想起しておきたい。ここまで年代的に判明したことを整理しておく。
天保6年(1835)/名古屋で説経祭文公演(秀元)、上述作品(第2章)はこれ以前に成立
天保8年(1836)/名古屋で説経祭文公演(春太夫)、薩摩浜太夫・同桝太夫・同伊世太夫等を記す諸正本は、この前後数十年の成立、これらの太夫の活躍時もこの頃になる。
嘉永4年(1851)/8月以降説経祭文「桜草語」成立、9月名古屋で説経祭文を新内節で公演(岡本美根太夫)、この美根太夫が大坂で説経祭文を仕入れたのならぱ、若狭若太夫・同浜太夫・同桝太夫・同伊世太夫他の移住はこれ以前になるか。
安政2年(1855)/10月安政大地震、三代目薩摩若太夫大地震の影響で秩父へいったか。
安政3年(1856)/三代目薩摩若太夫秩父へ逗留、「勧進帳之段 上下」はこれ以降の出版か。薩摩辰太夫・同小磯太夫・同若狭太夫・同玉太夫・同若登太夫他が辰太夫以外新しい太夫として登場。
安政4年(1857)/名古屋で説経新内公演(岡本美矢登太夫)
安政5年(1858)/これ以前大坂で若狭若太夫が小粟判官を刊行。
名古屋の説教源氏節においても「小栗判官」はよく上演された一松鳶斎は38段13冊の口伝の正本を1日尾崎久弥氏蔵・蓬左文庫本に残しているが、その中に3段小栗物が含まれている。しかし、それらは先に紹介した二度対面の段の前後二種であり、他の章段はない。美根太夫の正本においても同様で現在伝えられている源氏節の正本には他の段が全く見られない点にも留意しておくべきであろう。若狭若太夫は清水の段と万屋の段を遺していたのであるから、これらの段も大坂には伝わっていた。但し全33段はどうであったか定かでない。
現在、もくもく座が源氏節人形芝居を復活させているが、この元になった正本や音源は愛知県海部郡甚目寺町の故六代目岡本美寿松太夫(服部松次氏)所蔵のものである。氏の語られる「小栗判官照手姫 本陣入小萩説話段」は松鳶斎の正本「小栗判官照手姫 萬屋本陣入の段 全」に基づいている。前半分に8丁分の省略があるが、ほぼ逐字的に対校することができる。松鳶斎のくどきを省きすっきりさせている。しかしこの一つをもってしても松鳶斎の影響の程がしれよう。
説経祭文から影響されて説教源氏節が成立したが、それは従属的な影響でなく、当初から独立した別個のものとして成立したといってよい。それ故今日迄命脈を保っているのであろう。
後期説経節である説経祭文はこの他、様々な芸能に影響を与えた。幕末から明治にかけて東京八王子市の車人形、埼玉県横瀬の人形芝居(回り舞台の機構をもつ)、同荒川村白久の串人形が考察され、写し絵(スライド映写機を幾台も同時に使用し、二重に仕掛けたフィルムによるアニメーションの先駆、近年イギリスやイタリア他でも注目され始めた)の地語りになり永続化させるのに資した。近年劇団みんわ座がさらに工夫発展させている。又越後の警女の主な演目である祭文松坂に摂り込まれ漂泊の芸として近年迄楽しまれた。神奈川県の伝説や念仏唄にまで溶け込んだ。また浪曲の源になったともいわれ、多様な芸能を生み影響を及ぼしてきた。前期の説経節が江戸の文学や芸能に大きな影響を与えたように、後期の説経節も地方の芸能に大きな刺激を与えたのである。本家の説経祭文系の説経節も昨今若手の語り手が増え始めて期待を抱かせるが、安住したり保守的になっては先々望めないであろう。芸能は流転していくものであるから。
 
説経節2

「説経」と「説教」
「説経」とはお坊さんが経典の意味を説いて聞かせることで、「宿題を忘れて先生にこってりセッキョウされた」という場合は「説教」ですが、「説教」も「説経」の意味で使われることもあります。辞書によると、「説教師」は神仏の教えを説く人のことで、「説経師」は経文を説き聞かせる人と、説経節(注:初代若松若太夫の時代には、「説經(経)節」と「説ヘ(教)節」の二通りの記述が見られる)を語る人の二通りの意味があります。小学館の「日本国語大辞典」によると、「説経節」は「説経浄瑠璃で語られる曲節。説経浄瑠璃と同じ意にも用いる」とあり、「説経浄瑠璃」は「語り物の一種。仏教の説経が歌謡化し和讃・平曲・謡曲などの影響を受けて、江戸初期に流行した民衆芸能。始めは大道芸で鉦をたたきながら語られたが、次第に簓・胡弓・三味線をとりいれ、操り人形劇とも提携して興行化された」とあります。これらの説明の中には「説教」の字は見えません。
推論ではありますが、初代が敢えて「説ヘ(教)節」としたのは、従来の「説經(経)節」の改良したものを演じるという意味で用いたのではないかと考えらます。もう一点、娯楽のためだけの歌舞音曲ではなく、国民教育に役立つものであるという側面(娯樂の間に正路邪道の紛糾を鑑別し知らす知らすの間に徳器を涵養するに足る國民ヘ育上好適の聲樂)を強調するために「教」の字を使ったのではないかとも考えられます。また、初代が活躍していた当時は一般に、「説経」と「説教」を明確に使い分けていなかったという説もあるようです。いずれにせよ、観客に向かって「お説教」をする意味で使ったのではないはずです。なお、三代目若松若太夫は「説経節」を使っています。
「説経節」の「節」とは何か
では、「説経節」の「節」とは何でしょうか。節足動物、文節、季節、浪花節、鰹節、節目、関節、苦節、節介、節会、節操、節分……と「節」を使った言葉はたくさんあります。それらから「節」の統一的なイメージを導き出すのはちょっと難しいですね。文節や季節、節目、関節などからは境界部分、区切りをさすことがイメージできますし、浪花節ではメロディがイメージできますが、鰹節は節が何を意味するのかちょっと想像できません。鰹節と説経節はほとんど何も関係なさそうなので、その意味を探ることはやめておきましょう。「説経節」の「節」はもちろん、浪花節の「節」と同じで、旋律を意味します。「ちょいとヒトフシ唄っておくれ」などと言うときの「フシ」です。言葉をただ出すだけではなく、抑揚をつけて、リズムに乗せること、それを「節」と言います。
つまり、「説経節」とは、「説経」と「節」、経文を説き聞かせるときに、リズムをつけたもの、と言えるでしょう。しかし、物事はそう単純ではありません。説経節はリズミカルに経文を説き聞かせるものではありません。そのような形態の時代もあったようですが、経文とは少し距離を置いた、例えば仏教説話であったり、社寺縁起であったり、神仏の霊験譚であったりで、仏典をそのまま語り聞かせるものではないのです。
「説経節」の歴史
「説経節」は仏教を広めるため、僧侶が伝説などに脚色を加え、仏教の声楽を基礎として発生した音曲で、「平家物語」で有名な琵琶法師も、ここから生まれてきたものと考えられています。説教節は仏教に帰依させるための芸能という性格から次第に離れて、世界観や思想性などの背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、特に哀切を伝える「物語」こそが前面に押し出されたエンターテイメントとなっていったのです。
説経節は江戸時代の初期、寛永年間に関西で流行し、江戸でもはやっていました。しかし、同じ語り物芸能の義太夫節(竹本義太夫が大成した、物語の筋、せりふに三味線の伴奏を付けた語り物で、操り人形と結びついて発達。竹本座では近松門左衛門を座付きの作家とし、「曽根崎心中」や「国性爺合戦」、「女殺油地獄」などを生み出し、大変流行した。一般に、浄瑠璃というとこの義太夫節をさすことが多い。これに対し、説経節は古浄瑠璃系とも言われる)が爆発的に流行し、説経節はそれに押される形で、特に関西で勢いを失っていきました。
江戸でも説経節は次第に衰微したのですが、18世紀末ごろ、山伏の祭文語りと結びついて復活します。庚申講や念仏講に招かれて説経節を披露していたようです。それと同じころ、江戸の本所で米屋の米千(薩摩若太夫)の説経と、その隣家の按摩さんの三味線が伴奏として結びつき、現在に続く薩摩派の説経節が生まれました。若松若太夫の若松派はこの薩摩派から分かれたものです。
「説経節」の代表作
説経節の代表的な作品には「刈萱」「山荘太夫」「しんとく丸」「小栗判官」などがあります。特に「山荘太夫」は明治の文豪、森鴎外が「山椒太夫」として小説にしており、有名です。内容は「山椒太夫」という長者が没落する話ですが、実質的な主人公は安寿と厨子王で、その姉弟愛がテーマとなっています。無実の罪で流された父に会いに行く途上、佐渡で人買いに騙され、母は佐渡へ売られ、安寿と厨子王は山椒太夫に売られます。山椒太夫は彼らを奴隷のように酷使するので、安寿が厨子王を逃がします。けれど、そのせいで安寿は拷問を受けて死んでしまいます。その後、いろいろな経緯の末に最後に厨子王が山椒太夫を懲らしめて仇を討つ、という話です。説経節はこのような、哀切の物語を節にのせ、三味線と合わせながら語る芸能なのです。
もっと気軽に、手軽に説経節の物語に触れてみたい、という方は、漫画はいかがでしょうか。入手性はあまり高くありませんので、どこの書店にも置いてあるものではありませんが、ちくま文庫に近藤ようこさんが描いた「説経 小栗判官」があります。説経節の小栗判官を忠実に漫画化したもので、小栗判官がどんな物語なのかがよくわかると思います。現在の人気漫画のように過剰な描写はなく、静かで、それでいて情感あふれる作風ですので、どなたでも受け入れやすいのではないでしょうか。
「説ヘ浄瑠璃」
若松若太夫の説ヘ節浄瑠璃は、實に今より一千有餘年前、桓武天皇の御宇、空海上人が佛法弘通の爲めに、聲明律を基として作曲せられたるに始まり、後世の一中節、義太夫、長唄、常磐津、清元の如きを始めとし、あらゆる日本の聲樂を産み出せる、最古の聲樂であつて、始めは主として通俗の經文とも云ふべき、何人にも判り易き因果應報の理を、佛事供養などの席に招かれたる、法師等に依つて唄はれたものである。
宇多天皇の皇子敦實親皇と申せし方は、最も管弦の道を好ませられ、殊にその藝に勝れさせ給ひ、中にも琵琶に御堪能におはしまし、親ら流水啄木の曲と云ふを御作曲なさせられたのであつたが、秘して他に御傳へなさせられなかつたのを、親皇の雑色であつた蝉丸と云へる人は、性来頗る琵琶を好み、何時ともなしにその技を會得し、遂にその妙を得て、後に親皇に請ふて隠者となり、琵琶によつて悲壮にして興味ある、説ヘ物語をなしたとのことである。
後嵯峨天皇の寛元年間、園城寺の僧にして説ヘ節を始めたものがあり、藤原信西の子澄恵は、嵯峨御所御免音曲諸藝の司であつたと云ふ。志保之理に和讃は諸講式から起つて、後世極樂院の叩鉢が説ヘ節に變へて、丹波國金かき地蔵や善光寺刈萱堂の故事縁起などの傳説を説ヘ節にして唄ひ、それ以来戦場の模様又は神佛の霊験などを、盛んに作曲して演奏したと傳へられて居る。
室町時代の末期、琉球から始めて蛇皮線が渡来したので、園城寺の僧が織田信長に召されて、即ち蛇皮線によつて説ヘ節を演奏した。これが抑も三味線を日本の聲樂に合調せしめた濫腸であつて、これに依て澤角検校などの語つた所謂初期の浄瑠璃よりは、遥に興味あるものとなり、説ヘ浄瑠璃師と云ふ専門家も出で、平民的音樂として最もよく行はれるに至つた。その後石村近江守に依て、蛇皮線が改良されて三味線となり、即ち一般浄瑠璃にも三味線を用ふることになつたのである。
慶長、元和の頃には、朝廷の允許を得て、説ヘ節に依て繰人形芝居を興行することが盛んになり、日暮八太夫は京都四條河原に於て、説ヘ與八郎は大阪生玉社境内に於て、何れも天下一なる額を掲げて、芝居を興行して盛大を極め、江戸に於ては天満八太夫座、天満七太夫座、佃島の結城座など軒を並べて繁昌を極めたのであつた。--家元若太夫所蔵の古文書中に日暮八太夫が音曲諸藝の司として名跡相續を許された御墨附がある。
説ヘ節の家元は薩摩浄雲以来、代々薩摩を名乗つて居たのであつたが、朝廷の御允許を得て八太夫が京都四條河原で、人形芝居を興行することになると、洛中洛外の人々が、その美音と興味とに恍惚して、思はず歸るを忘れて日を暮らして終うと云ふ所から、何時とはなしに誰云ふとなく、日暮らし八太夫と稱するに至り、その後代々の家元は薩摩の外に日暮を名乗ることになつたのである。そして八太夫の門下から、日暮小太夫、説教與八郎の如き斯道の名人を輩出した。
當代家元から十餘代前の家元門下の半太夫は、江戸に出て本所四ツ目米仙に「傳へ説ヘ祭文」と云ふ一派を始めて繁昌し、又、五代前若太夫の門人で峯太夫と云ふ者は、仲間の規約に背いたと云ふので破門され、名古屋に遁れて岡本美根太夫と稱し、説ヘ節に新内節を加味した源氏節なるものを起した。明治6-7年頃當代若太夫の師の、日暮龍卜の家に寄宿して居た、浮れ節語りの浪花亭駒吉なる者は、長く龍卜方にあって、カンチガヒ地節と云ふ節を加味して、浪花節を作つた。これが抑も浪花節の鼻祖である。
斯くて平安朝時代より漸次發達して、徳川時代に入つてその全盛を極むるに至つた説ヘ節も、徳川時代の中葉から、江戸浄瑠璃の勃興に壓倒され、年と共に衰退の悲運に入り、當代若太夫の師の日暮龍卜の如きは、東都家元でありながら、江戸に在つては藝を以て衣食することさへ出来ぬまでに窮迫し、地方に出て悲しき流轉の旅を續け、生涯不遇の中に辛ふじて藝道を固守して逝いたのである。
この龍卜は東都家元として、始め薩摩太夫と稱したのであつたが、流轉の旅を續けて奥州白河に至り、一夜の興行をこの地に催した時、恰も戊申(注:戊辰か)戦役直後の事とて、會津藩に近きこの地方の人々が薩摩を憎むこと甚だしく、龍卜が掲げてあつた「薩摩若太夫」の行燈は、薩摩なる文字あるために何人かの爲に斬り破られた。茲に於て餘義なく傳来の薩摩と云ふを廢して、會津の地に親しみあり且つ文字に吉意ある「若松」に改め、又の名を古来よりの日暮を繼いで、日暮龍卜と稱したのである。
 
説経節3 説経とその枝葉

 

最近の子供さんは「お説経」と云っても解らないのではないだろうか。私どもの年代だと恐いものの代表は「地震雷火事親父」と云われ、親父は怖い存在であった。特に、親父の「お説教」は地獄で、長々と正座にて御叱りを被り、姿勢を崩すや間髪を入れず長い竹の物差しで叩かれる苦行であった。嫌なら止めれば良いと解っていながらも、悪さを仕出かし又お説教にあったが、今では懐かしい思い出になっている。このお説教と云う言葉は仏教から来たものだが、以外にもお説教自体を源とする伝統芸能が数多くある。今回から「説教(説経)」を取り上げ、その枝葉とも言える芸能がどのようにして出来上がっていったのかを見て行こうと思う。以前取り上げた「声明」と共に、日本の「歌う芸」「話す芸」「語る芸」の源流と云われ、謡曲・平家琵琶(琵琶唄)」・浄瑠璃・講談・浪曲・様々な門付芸などが発生しており、現在の歌謡曲もその影響下にある芸能と言える。このように説経は日本の芸能史に欠かすことの出来ない存在であるが、又、説経に流れる仏教思想はあらゆる文学作品に多大な影響を与え、日本の文学史上でも無視出来ない存在になっている。本来、説経(説教)と云う言葉は、仏教の経典経義を購読することで、経典を購読する僧侶を「説経師」と呼んでおり、音曲を伴う語りを意味するものではなかった。最初に流行した平安時代の説経は、経典の講釈を中心とする「購説」と、比喩因縁を盛り込んで経典経義を説く「説経」「談義」とに別れていた。この時代には、まだ仏教は一般民衆のものではなく、一握りの貴紳階級を対象としたものであったが、中期頃から庶民層まで広げることを考える僧侶が生じ始めた。末期になると活発化し、教えを説く説経師達は仏教の大衆化を図る為に、無知蒙昧な庶民層に焦点を当て、彼らが仏教を迎え易くする手段として、教儀を判り易く説く為に機知に富んだ通俗的な法談を行うようになった。しかし、教義を噛み砕いて説いても限界があり、比喩因縁と結び付ける様になった。
説経
平安時代中期頃から法華信仰と浄土信仰が隆盛し、ことに法華経の功徳を説く天台宗の僧侶による「法華八講」「十講」「三十講」が宮中始め貴族の館や説経道場・寺院などにて頻繁に行われていたことが、当時の貴族の日記や随筆のその様が多く出て来る。この「法華八講」と云うのは、法華経八巻を一日に朝座・夕座と二回講じ、四日間にて全巻を購読する法会のことである。このように頻繁に行われるようになると、名を成す僧侶の中から説教を専門職とする者たちが出るようになり、彼らはスター的な存在になっていった。説教の行う説教師については、皆様ご存知の源氏物語を始め様々な平安時代の物語や随筆には説経僧・説経と云う言葉で多く出てくるなど、この当時名説経師としてスター的な存在であったのが、奈良興福寺の清範、延暦寺の院源、浄土教の源信(恵心)等であった。個々の説教師に対する聞き手の反応も様々であり、特に宮廷に仕える女房達に持て囃され、好まれる説経師がどのようなものか、女性の目から清少納言は「枕草子」30段「説経師は顔よき」の項にて次の様に記されている。「説経の講師は顔よき。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説く事の尊さも覚ゆれ。外目しつれば、ふと忘るるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。この詞はとどむべし。少し年などのよろしき程こそ、かやうの罪は得がたの詞書き出でけめ。今は罪いとおそろし。」〔説経をする講師は容貌の整った方が良い。何故ならその美貌な顔をじっと見つめているので、精神が集中出来、その説く事が心に染み入り尊いと思う。容貌の醜悪な講師は、聴く方がついよそ目をしてしまうので集中出来ず、その結果つい有難い話も忘れてしまう。故に醜悪な顔の講師は、聴聞者に仏の有難さを理解させられないので仏罰を被るだろう。この様な事を書くと仏罰が当たるので止めます。いま少し年が若い頃には、この様な罰当たりな事を平気で書きもしただろうに、あの世に行くのが近くなった今では仏罰が恐ろしい〕また、この項の中で清少納言は、説教僧が説教を行う説経道場や貴族の館が、貴紳淑女達が華やかな装いにて集う社交の場としての一面も兼ね備えており、其処には説教が主ではなく、その場所に赴き社交に励む者も居た様を次の様に記している。「一、二回聴聞した故に何時も行かなくてはならないと思い、夏の暑い日盛りに、きらびやかな帷子を見せびらかして着て、烏帽子には物忌みの札を付けて、敢えて善根を積むために物忌みで篭っておる日なのに来ていると人に思わせる魂胆なのか来ている。聴聞を聞かず世話役の僧侶と立ち話をしたり、聴聞客の交通整理を買って出たり、久振りに会った人には側に行って座り、数珠を手慰みしながら世間話にうち興じ、彼方此方に視線を動かして説教を聴かず、何時も聴いているので別段耳新しくないとの素振りをしている」清少納言が書いているように彼女が華々しく女房生活をしていた時代は、仏教流布を積極的に行うために説経が盛んに用いられ、人々も宮中や有力公家の館の「講」に招かれ、説経を聴く事が1つの社会的ステータスともなっていた。また、説経師の側としても、有力者の催す「講」の説経を任されることは、説経師としての力量を認められることとして喜ばしいことであった。
説教の内容
平安時代中期までの仏教は一握りの当時の知識階級である貴紳層を対象にして存在していたので、経典解釈を主体とする講説の説教でも、聴聞者の知識能力からして十分対応出来るものであった。説経の主体も「法華八講」で解るように天台宗の根本経典である法華経を主体にしたものが多かった。しかし、天台宗を学んだ僧侶達の中から仏教は一握りの者の為のものではなく、あらゆる階層の者に必要なものとの考えに立ち、仏教の大衆化を図るために様々な試みを行うものが現れるようになった。当初は経典を判り易く噛み砕いて説教しても、一般庶民の聴聞者を引きつけるのには限界があることを知った事になった。そこで当時刊行されていた「日本霊異記」に記載されている説話を題材にして、比喩因縁をもって経典解釈と結び付けて語るようになった。「日本霊異記」は薬師寺の僧景戒によって弘仁14年(823)に完成された仏教説話集で、中国の仏教説話集を基に地名・人名等を日本に替え、また、多くの民間説話も収録されたもので、因果応報説話が多く、仏教的因果応報の理念に立って衆生教化を目的として編纂された説話集で、特に前世の報いの為に地獄に落とされた話しが多く収められている。 また、同じ頃に「浄土信仰」も徐々に広まり始めていた。この浄土信仰は既に奈良ア朝期に伝来していたが広まらず、後に天台座主となった円仁(後に慈覚大師)が五台山にて授けられた「念仏の法」を唐より帰朝し、仁寿元年(851)に延暦寺常行三昧堂にて「引声念仏」として行ってから、三昧堂が法華経主体の天台宗の内にて阿弥陀仏による西方浄土を説く「浄土教」の念仏道場として存在するようになった。この教義は浄土三部経即ち「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を指し、その説くところは「一に深く信ず、自身はこれ罪悪の凡夫にして解脱の縁もなし。二に深く信ず、阿弥陀仏の本願は衆生を摂取す、疑なくかの本願に乗じて必ず救はる」即ち「罪悪に死し仏願力に生きる他力浄土」とする「他力本願」の教義である。そこに流れる思想は、阿弥陀仏による極楽浄土に往生する「極楽往生思想」で、往生の意味することは「この世での生命が終った後、西方の極楽に生まれること」と説いていることである。この浄土信仰をより早く民間の中で実践したのが「空也上人」である。若くして優婆塞(五戒を受け在家のままで戒律を守り仏教に従事する男性を言う)として諸国を回遊し、道路の改修・開発、灌漑の利用を薦め、野晒の死体を回収して火葬にし阿弥陀仏を唱え供養したと云う。まだ念仏行が世間に知られていない天慶年間(938-47)には、京都にて民衆の中に身を置いて阿弥陀仏を唱えること即ち「称名念仏」にて庶民を教化し、人々から市聖・阿弥陀聖と呼ばれる存在であった。「ひとたび南無阿弥陀仏といふ人の 蓮の上にのぼらぬはなし」の和歌が拾遺和歌集に収められている。
恵心僧都と往生要集
天台僧円仁が伝え延暦寺横川の三昧常行堂にて継承されて来た浄土教に傾倒したのが、横川恵心院に住した天台僧源信(後の恵心僧都)で、寛和元年4月(985)「往生要集」を完成させた。この「往生要集」はインドに生まれた仏教が、日本に到達するまでに様々な形に育成発展して来た過程において出来上がった「往生浄土」の思想と信仰を様を、様々な経論の中より選び出し、問答形式にて編纂したもので、「往生の業は念仏を本となす」を主旨として、念仏往生の要を懇切に説き、且つ地獄極楽を説いた仏教書であり、この書が世に出るや浄土教信仰において最重要な仏書として位置付けられる様になった。また様々な知識人にも読まれ、平安時代中期以降の日本文学作品や絵画などの芸術などに及ぼした影響は計り知れず、浄土思想史上における金字塔を成すものであった。この書に盛られた浄土思想を源として後に「浄土宗」「浄土真宗」「時宗」「天台宗眞盛派」などが創設され、また後世になると「往生要集」より六道・地獄・極楽に関する個所を抜き出して絵本が作られ、広く民間に流布され、近世になるとこの絵本を基に「覗きからくり」などの民間芸能が生まれ、また、掛け絵図を基に信者に絵の説明をする「絵解き」が寺院や小屋掛けにて行われるようになった。現在でもお寺にて地獄極楽絵図を掲げ住職が絵解きを行っておられる所もある様ですし、読者の中には縁日やお祭りの時に小屋掛けにて地獄図の説明を聞いた方も居られると思います。この「往生要集」は当時の説経師達にとっては、説経の題材を得るには都合のよい事例が多く載せられており、格好な教本となったし、以後の説経隆盛において欠かすことの出来ない重要な台本でもあった。この書に盛られた「地獄観」は、苦界とも云える現世に生きる者達に取っては身近な存在であり、素直に受け入れ易いものであった。この地獄に相対する「極楽浄土」は阿弥陀如来の居られる西方浄土にて、苦しみや煩悩がない安楽境であるとされ、現世にては求める事の出来なかった「極楽」に行く手段としては、生前ひたすら「南無阿弥陀仏」の称名を唱える事で、死後如何なる人でもこの極楽浄土に生まれ変わる事が出来るとするのが浄土教の教えであった。阿弥陀仏の浄土と来迎(人の臨終の時に仏・菩薩が浄土へと導くために迎えに来る事)が恵心僧都によって特に鼓吹され、且つ誰にも解る様に平易に「極楽往生の道」が説かれたことにて、浄土信仰は急速に普及し、当時社会に広まっていた末法思想と相俟って貴族社会に浸透していった。この末法思想と云いますのは、六世紀に中国にて考え出された史観で、釈迦入滅500年間は仏教が正統に実践される「正法」の時代であり、以後の千年間は仏果(修業を積んだ結果得られる成仏)や仏証を体得した者が皆無となるが、釈迦の教えと行法は存続する「像法」の時代である。それ以後の一万年は仏法が衰え廃る「末法」の時代としている。この思想は当時の我が国の仏教界に根強く定着しており、往生要集が出された平安中期は「像法の時代」の終末期であった。あたかもそれに併せる如く摂関政治にて権勢を振るった藤原道長が萬寿4年(1027)に逝去するや、摂関政治も翳りを見え始め、約140年後の仁安2年(1167)に平清盛が太政大臣となり、天皇の外戚となるや藤原氏支配の摂関政治も終末を迎えた。また治承元年(1185)に平家の滅亡にて武家政権が確立されるや平安時代も終った。
法然と浄土教
源信著「往生要集」に傾倒した天台僧法然は、「いかに罪深い愚かな凡夫でもひたすら阿弥陀仏の本願を信じて念仏称名すれば救われる」とする専修念仏による往生を説き、安元元年3月(1175)天台宗を離脱し京都東山黒谷に庵を建て浄土宗を開立した。それは源信に遅れること約200年であった。それまでの仏教は教義・経典を理解できる貴紳階層を対象にしたものであり、愚痴・無知・蒙昧・罪悪深重の一般庶民を対象にしたものではなかった。この法然の説く専修念仏は難解な教義経典を知らなくても、ひたすら念仏称名すれば極楽往生が出来るとの事にて、今まで仏教に無縁であった一般庶民に受け入れられていった。また法然の教えは貴紳・老若・男女を問わない万民のための念仏であったので、後白河法王・関白九条兼実の帰依を得るようになり、貴紳・宮中の女官・武士・庶民が争って庵に参集した。現在の仏教に疑義を抱く、既存宗派の僧侶達が多数その門を叩き弟子となった。中でも目立つのが保元・平治・平家滅亡と打続く源平の闘争に従軍した有力鎌倉方武士の無常感による念仏門への帰依であった。法然の黒谷の庵にての浄土教の説教は、仏教自体を無縁なものと思っていた庶民層に土に浸み込む水の如く、民衆の絶大なる支持を得て受け入れられていった。その理由として上げられるのが、文盲無知な庶民に浄土教の教義を理解させ宗門を拡大する手段とし取られた口演(説経)による布教に外ならなかった。しかし、他宗派との差別化をするには、興味を抱かせるための庶民性豊かな説経(話芸)であった。そこで考えられたのが、民衆が好む娯楽的要求を受け入れるために、比喩因縁談に重点を置いた説教を用い、語り掛け、身振り手振りを使い、内容に沿った表情や音色に感情表現を加えた話法が作られた。この話法を浄土教の説教に取り入れたのが、天台門より浄土門に転じた当時説経師として著名であった安居院聖覚であった。この聖覚は説教の達人として名高く天台宗の高僧ながら、叡山を離れ安居院に住まいし妻帯し10名の子供を設け、破戒僧として世間から指弾されながらも、説教にて道俗を教化していた澄憲法印(藤原信憲の子息)の子息である。父と同じく比叡山にて天台門を学び、父に劣らない説教者として名を成していた。しかし、法然の説く浄土教に接するや、天台宗を離れ、法然に傾倒し浄土宗に転向し、その高弟となった。この説教の名人の入門は法然にとって念仏門布教には欠かすことの出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、「説教念仏義の祖」として尊敬された。法然と同時代に天台の高僧にて澄憲法印と呼ばれる説教達人がおり、比叡山を降り安居院を住まいにし、僧の身ながら妻帯し十名の子供を儲け、世人から破戒僧として厳しい指弾を受けたが、説教を持って道俗の教化に努め、安居院流唱導の祖と称されている。因みに澄憲は保元の乱の中心人物であった小納言藤原通憲(信西)の子供で僧籍に入った者である。子の聖覚も比叡山にて勉学し父の劣らない説教者として名を成したが、山を降り父と同じく安居院に住した。やがて法然に傾倒し天台宗を離れ浄土宗に帰依し高弟となった。この聖覚の入門は法然にとり念仏門布教に欠く事の出来ない存在となり、様々な説教手法を創設したので、後に「説教念仏義の祖」と尊敬されるようになった。彼の説教手法は従来の表白体の説教を止め、比喩因縁談を中心とした口演体説教に変えたことである。彼の説教手法は法然門下の僧侶に広まり、庶民を対象にして各所にて説教道場が開かれたので、浄土宗は一挙に信者を増やしていった。この浄土宗の盛行に対し天台宗はじめ旧仏教側は脅威を抱き、様々な圧迫を加えて来たが、浄土門では摩擦を避け釈明にこれ努めて来た。しかし、後鳥羽上皇熊野行幸中に御側の女官が無断にて法然の弟子により浄土宗に出家する事件が起り、これを契機として、承元元年(1207)に「念仏停止」の断が下され、法然以下主だった弟子が流罪になった。この事件は浄土教にとっては京都での活動の停止であったが、反面流罪になった者達がその地にて浄土宗を普及させると云う、浄土宗の地方伝播と云う側面を齎した。聖覚は安居院に拠り浄土宗説教手法はを守って来たが、以後安居院流の説教手法は説教道の大きな流派として厳しい修練と口伝より、浄土宗に数多くの説教者を輩出し連綿と継承されるようになった。後に安居院流説教道は節付説教(説談説教)の名にて呼ばれ、本の話芸に多大な影響を与えている。この節談説教の方法は、俗受けのため有効で、声明・和讃・講式などが発展するにつれ、これらを取り入れて改良され、次第に芸能的要素が加わっていった。
浄土宗と絵解き
浄土宗では説教道以外の説教布教の一つの手段として「絵解き」と云う手法が、室町期に導入される様になった。それは奈良県当麻にある浄土宗寺院当麻寺に伝わる「浄土変観経曼荼羅(通称当麻曼荼羅)」と云う、「観無量寿経」によって阿弥陀如来主宰の極楽浄土の図相を現した綴れ織の掛け物であるが、それに纏わる由来を表わした「当麻曼荼羅縁起絵巻」によると、「天平宝字7年(763)横佩大臣の姫が当麻寺に入り、生身の阿弥陀如来に会い、観音が蓮糸で構成したこの浄土図を仰いで往生の素懐を遂げた」とあり、阿弥陀経を宗派の経典とする浄土宗においては、この「当麻曼荼羅」が尊信され、浄土教の普及と共に浄土宗の僧達により多くの注釈書が出版され広く流布された。この注釈書を基に作られたのが「絵解き」で、「当麻曼荼羅図」を掲げて「観無量寿経」の主旨を講説する絵解きは、浄土信仰を普及させる手段としての視聴覚による高度な説教であり、中世末期から近世初頭に掛けて浄土宗では盛んに行われていた。また、この縁起絵巻が発展して作られたのが「中将姫」伝説であり、姫の名を「中将姫」として室町時代になると能「雲雀山」「当麻」、古浄瑠璃「中将姫之御本地」が作られた。近世になり、これらを集大成した五段物人形浄瑠璃「鷓山姫捨松」が並木宗輔により作られ、元文5年二月(1740)豊竹座にて上演され、特に三段目「雪責めの段」が有名であった。やがてこの「中将姫雪責め段」のみを「中将姫古跡の松」として、寛政9年二月(1797)大阪東の芝居にて義太夫歌舞伎狂言として上演され、現在も浄瑠璃・歌舞伎にて上演されています。このように「当麻曼荼羅図絵解」は本来の説教以外に猿楽・浄瑠璃などの後世の芸能に大きな影響を与へています。又、浄土宗の説教者の中からは落語の祖と言われる安楽庵策伝が、江戸時代初頭に現れ、長年に亙る説教の話材を集大成した笑話集「醒睡笑」を元和9年(1623)に完成させている。この本の内容は著者の見聞や古今著聞集などの話を滑稽説教にした小噺集であるが、その特徴は話の最後を落ち(サゲ)にて締め括っていることであり、この手法は現在でも落語に踏襲されている。落語の原点が仏教の説教である話芸である事は、現在演じられている落語には浄土宗以外に日蓮宗・浄土真宗などの説教話に題材を得たものが数多くある事からも明白である。
天台宗系説教道
鎌倉時代初頭の寛元年間(1243-46)に天台宗三井寺に定円と云う説教者が出て、自ら三井寺派を創設し子孫継承してきた。その説経の形態は安居院流と同じく、比喩因縁談を中心とする民間説話に重点が置かれていた。浄土宗の安居院派と共に二大説経道の流を誇って来たが、この三井寺派の説経道は何時しか三井寺を離れ、同寺の別所である近松寺に移ったが、近世になると仏教布教の手段としての三井寺系説経道は廃絶した。その理由として室木弥太郎著「語り物の研究」に拠れば、室町期に逢坂山山麓の関寺の支配下にあった近江の関清水蝉丸宮が放浪芸となった琵琶・説経・祭文・傀儡遊女・放下・辻能などを支配していた。しかし、関寺が廃寺となると蝉丸宮の支配する諸芸は近松寺に移管されるようになった。近世に入ると近松寺の説経道は廃れ、民間芸能である「説教浄瑠璃(説教節)」を含む放浪芸を支配する寺として幕末までその権利を維持してきたと、述べられております。
浄土真宗と説経
庶民階層への普及手段として説教を第一に考え最重要視したのが親鸞であった。浄土真宗の開祖親鸞は、叡山に学んでいたがその宗義に疑義を抱き、吉水に道場を開いた法然を訪れ、その教えに傾倒して弟子となり、やがて高弟となった。法然の門には当事有数の説教者であった安居院聖覚も居り、親鸞は彼の卓越した説教手法を認め敬慕していた。法然と共に「念仏停止の断行」により僧籍を剥奪され越後に流された親鸞は、この地にて念仏門の布教を行い信者を増やしていった。親鸞は聖覚の称えた「阿弥陀如来の音声を正確に聞き取ろう」を説教の本質と捉え「聞法」「聞即信」の精神をモットーとし、布教の手法としては聖覚より取得した説法手法を取り入れ、通俗説教に最も力を入れて実施し、特に重視したのは「和讃」であった。和讃は以前に【声明】の項にて説明しましたが、字の如く和製の「声明」であり、[教化]とも云われ、説法教導して衆生を聖に化せしめる目的で作られた声明であった。親鸞はこの和讃を数多く作り布教の際に唱導した。それは「聞法」即ち説教(教化)の徹底であり、和讃をして聴衆者の心に教えを深く定着させる事と考え、浄土宗の教義を庶民に解り易く解説したものに、声明の持つ節を付け、それを度重ねて唱えさせることにて庶民の心に定着させた。親鸞の作った多くの和讃は浄土真宗の勤行の中枢とされたばかりでなく、後に真宗にての説教の中心とされ説教僧の巧みな節付けにより、演出効果を増し、節談説教または節付説教と呼ばれるようになった。安居院聖覚の説法手法は真宗の中にて開花し、真宗にての説教五段法が作られた。それは・讃題・法説・比喩・因縁・結勧 と云う五段階の構成にて行う説法で、特に比喩と因縁の個所は聴衆を惹き付ける最重要な部分であり、説教者はこの部分に様々な演出を施して講演をした。この手法は後に説教から「民間の語り芸」が発生する上で多大な影響を及ぼしている。三世覚如は宗祖親鸞の事跡を選述して「本願寺親鸞伝絵」二巻を興国4年(1343)に作り、視覚による説教即ち「絵解き」による説教の基本テキストとした。後に絵巻に添えられた詞書を抜き出して「御伝鈔」、絵画のみを抜き出して「御絵伝」が作られ、真宗布教の為の説教に用いられるようになった。このようにして浄土真宗では宗門拡大の対象を庶民階層に置き、通俗説教を布教の最重要手段として連綿と行っている。
鎌倉時代以後の説教
鎌倉時代になると安居院や三井寺にて研鑚した専門の[唱導師]が生れ、次第にこの唱導師達は説経をより大衆に判り易くするために、講演と云うよりも、身振り手振りや音曲的要素を加味した「語り物」を行うようになり、彼等の行った説教の形は定着し、中世の話芸の主流を占めるに居た。 両道場にて修業を成した唱導師(説教師)達が世俗受けを狙う余り、僧侶より脱して芸人化して行く経緯を、僧師錬(虎関禅師)が元亨2年(1322)に著した「元亨釈書」巻29「音芸志」[国史大系所収]では、「諂誦交生、変態百出、揺身首腕音韻。言貴偶儷理主哀賛、毎言檀主。常加仏徳。欲感人心先感自泣。痛哉無上正真之道。流為詐偽俳優之伎。願従-事于此者、三復予言焉」と記している。その意味する事は、「説教者達が演台から体や首や腕を揺り動かしては様々な型を見せて、美声で歌い上げ、人に感動を与える為にか、自らも泣くなど、説教の流れは偽者の役者の技を成していると」述べ嘆いていることである。鎌倉時代末期の後醍醐天皇の頃(1321-38)なると、上記の様に変質を遂げた説教に和讃の曲節や平家琵琶(平曲)の語り口が取り入れられ、より庶民的な説経が形作られるようになった。また、鎌倉時代も末期になると有力寺院や神社においてはその経済的基盤が不安定になって来た。その理由としては幕府が各地の私有荘園に設置した地頭により荘園が侵食され、全国各地に広大な荘園を有して経済基盤として成り立っていた有力貴族及び寺院は衰退の道を辿り始めていた。また、有力貴族の寄進などにより成り立っていた寺社等は自らの経済基盤を確立する為に、庶民層に経済的基盤を依存する道を探り、自己の信仰を広める必要性に迫られた。その為に寺社に建立に纏わる縁起や自己の本尊・祭神等に纏わる霊験譚を作り、布教の手段とし信者獲得を図り信者よりの寄進に拠る経済の安定を考え出した。この為に作られた本地物語(神や仏がかっては人間として生を受け、様々な艱難辛苦を経た後に神や仏に転生した話)や霊験譚は、歩き巫女(伊勢巫女・熊野比丘尼・出雲巫女など)、山伏、高野聖(高野山)、盲僧、御師(伊勢信仰)、廻国聖、絵解法師などの下級宗教家により全国に伝播して行った。彼等によって語られるこれらの神仏の本地談や縁起や霊験譚は、物語性を持つ説経の一つの形態であり、唱導文学であった。しかし、これらの本地物語や霊験譚も各地に伝播するに従い、その信仰がより根強く土地の民衆に受け容れ易くなるよう、その土地固有の信仰や習俗が摂り入れられる様になって行った。鎌倉末期から南北朝にかけては、仏教布教の為に用いられた口誦する説経から逸脱した身体を用いた説経とも云える様々な布教手段が出現して来た時期でもあった。また下級宗教者と散所の結び付きにより次第に宗教から逸脱し芸能化して行く時期でもあった。では散所とは如何なる処であったかと云いますと、律令制度崩壊に伴ない1000年頃になると、律令制度下において各司(政府機関)に隷属し、賎民扱いを受け奈良や京都に居た専門職種の奴婢達が、受け皿もなく大量に解放された。これら解放された人々は、手に有する職も限られ、居住する場所も失ったので、新しく貴族や社寺の保有する荒蕪地(耕作不可能な地)に流入して、定着して「散所」と呼ばれる集落を形成するようになった。この中には遊芸を専門職種とした散楽所などに属した者達も居た。この散所の多くは京都周辺の不毛の荒地の為、年貢(租税)を出さなくてよかったが、その代替として所有者に全面的に隷属して様々な労役に服さなければならなかった。これは取りも直さず官営の奴婢からの解放は、貴族や社寺に隷属する職業と居住地を制限された私有賎民階層への切替に外ならなかった。南北朝から室町時代になり商工業が活発化すると、散所の人々は労役の暇を見つけて専門職種を生かした手工業や商業を行うようになり、散所地の所有者を「本所」として公事銭(上納金)を収め、職業毎に「座」と云う組織を作って生産・販売の独占を図るようになり、次第に商工業者として自立していった。同じ散所でも貴族や社寺の所有地に居住せず、鴨川や桂川の河原や巷所(道路など非課税の公地の空き地)に散所を設けて「河原者」と呼ばれた者達も解放された奴婢であったが、世間からは賎民として扱われていた。彼らの職業の多くは人々から蔑視される殺生物・染織・造園・雑芸など様々な賎業なすものが多かった。彼らも地域別にz「座」を作り、有力貴族や寺社を「本所」としていた。この散所は当初は賎民階層の集落地であったが、次第に様々な階層社会を逸脱した「遁世者」達も居住するようになり、彼らも何時しか賎民扱いを受ける様になった。これは取りも直さず世間から散所居住者は即く賎民と見なされることを意味していた。当時京都市中に存在した散所は、誓願寺・六角堂・空也堂・霊山寺・融通堂・北野天満宮権現堂・七条朱雀権現堂・東山雲居寺などの社寺周辺や北畠・柳原・御霊神社附近などにあった。また、室町期になると素人による様々な芸能への参加が活発化し、専門芸と区別する意味合いから、手(素人の意味)を付けてて猿楽・手曲舞・手田楽などと呼び盛んに行われるようになった。中には専門芸(道の芸)が途絶え素人芸のみが残るものも出て来た。手曲舞が散所の雑芸者に伝わり、道の芸が廃れ、何時しか散所の芸となったのが「曲舞」である。この散所と念仏聖との結び付きも深く様々な名前で呼ばれる下級宗教者が存在し念仏布教に取り組んでいたが、何時しか宗教活動から離れ芸能活動へと転じる者も出るようになった。
放下僧
放下と云う言葉の意味することは、禅宗において物事を放り捨てて無我の境地に入る事を指していた。後に禅宗系の僧侶達が宗教的理由から宗派を離れ僧侶身分を放下して、民衆への布教を一義として念仏布教をしていた半俗半僧の勧進聖を「放下僧」と呼んでいたが、天台宗により次第に弾圧され、散所に身を置き布教活動を行うようになった。特に有名なのが南北朝期に東山雲居寺門前にて説経をして、説経の合間に余興としてササラを摺り、鞨鼓を打って、小歌を歌い、舞(曲舞)を舞っていた「自然居士」で、観阿弥により能「自然居士」「花月」も放下僧を扱ったものである。しかし、この頃の放下僧は飽くまでも宗教者であり、彼らの行った様々な遊芸は庶民へ説経するための人寄せの手段であった。室町時代になると宗教者としての放下僧は次第に消え去り。それに代わって散所芸能者としての「放下(ほうか)の徒」に転化するようになって行った。その芸としては、「看聞御記」応永32年2月4日(1425)条に、「抑放哥一人参、手鞠・リウコ・舞、又品玉、ヒイナヲ舞ス、其有興賜酒」とあり、又、同書嘉吉元年4月8日(1441)条に、「放歌参、手鞠・龍子・品玉等芸其興、細美布一給、りうこ甚上手手也」とあるように、放下僧の説経道具であり、彼等の特徴でもあった「ササラ摺り」の芸は消滅し、輪鼓・手鞠・品玉などの曲芸のほかに放下歌・鞨鼓打ち・曲舞・物語などを主な芸としていた。
高野聖
高野聖も放下僧と同じく念仏布教の宗教者であった。彼等の始まりは僧侶身分や自己の階層身分を脱し、真言宗の本拠地である高野山の萱堂の地に厭世隠遁して念仏修業を成していた念仏聖であったが、次第に数を増し、萱堂以外に西谷・千手平を修業の場として集まっていた。彼らは修業の後に高野聖として、回国遊行して弘法大師信仰と高野山納骨勧誘を主眼に伝導活動を行う事であり、当然念仏僧として弘法大師や高野山に纏わる信仰譚や霊験譚・縁起を唱導説経の形にて語り、一般大衆相手に高野信仰を広めていった。室町時代以降になると笈に布帛や呉服などを入れて布教の傍ら行商を成して、生活費を稼ぎ出す様になり、「売子(まいす)」と呼ばれる「商僧」となっていた。後に仏や仏法を売る僧侶を罵る言葉となった「売僧(まいす)」はここから出ています。
空也聖
平安時代中期に優婆塞として阿弥陀経を信仰し、南無阿弥陀仏を唱える事にて庶民を教化し、また積極的に社会活動に従事したので人々から「阿弥陀聖」と呼ばれた空也が、改めて延暦寺にて天台宗系念仏を学んだが、観念観想を主体とする天台念仏に疑義を抱き、天台宗を去り称名念仏に切替て京市中を庶民層主体に念仏布教を行い、布教の手段として念仏を唱えながら踊る「踊念仏」を考案した。空也が起した称名念仏(空也念仏)は連綿として受け継がれ、やがて六波羅蜜寺や空也堂を中心に盛んになっていった。後に空也堂などの附近にあった散所と密接になり、空也念仏の聖達による散所が形成されるようになった。空也聖の特色は日常「茶筅」や台所用品である「ササラ竹」を念仏布教をしながら京の市中を売り歩いており、寒中や春秋の彼岸には修業の一環として、瓢や鉢を叩いて念仏や和讃を唱えて市中の墓所や斎場を供養に廻り、また市中の家々を廻り念仏を唱え布施を受けて居たので「鉢叩き」と呼ばれる賎民扱いをされる下級宗教者であった。なぜ彼等が賎民扱いをされたかと云いますと、二つの理由があります。一つは散所に住いしたことである。散所は即ち賎民の集落と見なされたこと。二つ目は彼等が扱う竹細工が賎民の扱う業種であったこと。律令時代には上番する隼人より隼人舞と竹笠造作を習得させるために、隼人司に竹細工所が置かれ専従する隷属の雑戸が設けられていた。雑戸解放後竹細工に従事していた奴婢(被差別民)が、何れかの貴族・社寺を本所として隷属し、散所を形成した処が空也堂の附近であり、この散所と結び付いて空也聖の竹細工の製造販売が成立した。江戸中期頃から空也堂の念仏聖の托鉢姿である「鉢叩き」の風俗を真似た大道芸をするものが現れ、鉦を叩き歌うように念仏を唱え門付をしたので、彼等を称して「歌念仏」と呼んでいたが、彼等は下級宗教者ではなく物乞いの徒であった。
唱聞師
鎌倉後期になると「声聞師(しょうもんじ)」と呼ばれる下級宗教者が現れた。彼等は古くは陰陽寮(おんみょうりょう)の雑戸に隷属し警戒や清掃の役も務める特殊職能(賎民)の下級宗教者であった者達で、律令制度崩壊による雑戸解放に伴い庇護を離れ、集団を組んで散所を作り家々の「キヨメ」や陰陽師として生活する下級宗教者となった。彼等は本来の宗教職能として平安時代から「金口打ち」を生業として来た。この金口打ち(金鼓打ち)と言うのは、不吉の前兆を予感した時に、不吉を避ける意味合いから当人が寺々を廻り、金鼓を打ち鳴らす風習が行われていたが、次第に当事者に代わり代参して金鼓打ちをする事を業とするものが現れた。それが陰陽寮雑戸の下級宗教者であった。右大臣小野実頼の日記である「小右記」長和2年8月30日(1012)条に、「夢想紛紜、令打百寺金鼓 以下六僧日中内了」と、不吉な夢を見たので六人の僧侶をして、一日にて百軒の寺を廻らせ金鼓打ちをさせたとの記述がある。しかし、鎌倉末期になると、彼等は生活の手段として従来からの下級宗教活動以外に、散所系統の雑芸を習得し法体にて芸能活動を行うようになり、彼等も興福寺などの大寺を本所として「声聞道」の「座」を形成するに至った。声聞道の職業にどのようなものが含まれて居たかと云うと、室町時代に書かれた「大乗院寺社雑事記」の文明9年5月13日(1477)条に「一切唱聞之沙汰条々、陰陽師・金口・暦星宮・久世舞・盆彼岸経・毘沙門経等芸能」との記載ある。声聞師の散所としては、奈良には興福寺と大乗院門跡に属する五ヵ所・十座があり、興福寺に対するに人夫役を勤めながら、唱聞道を管掌すると共に七道物と呼ばれる雑芸(鉢叩き・猿楽・歩き白拍子・歩き巫女・金叩き・歩き横行・猿飼)の大和での支配権をも有していた。また、唱聞師の散所として京都には桜町・柳原・北畠などがあり、全国各地にも散所が存在していました。室町末期の公家山科言継の日記「言継卿記」に拠れば「桜町、北畠の唱門師が毎年正月に禁中の三毬打(左義長)に囃子役を勤め、正月四・五日にも参内して千秋万歳と称して曲舞を奏した」と記されている。これら下級宗教者と雑芸を兼ね備える唱聞道の者以外に、早くも南北朝時代に散所声聞師とは別に歌舞遊芸をもって渡世とし、門付を業とする俗法師の「唱門師」と呼ばれる輩が出現した。この者達は説経師(声聞師)であったが、何時しか堕落して宗教活動を放棄し、日常の生活の糧を得るための手段として、世俗的な説教を家々の門先に立って唱える門付けをして歩くようになった者で、この者を指して人々は「門説経」とか「歌説経」と呼ぶようになった。しかし、「門説経」と呼ばれてはいるが、其実態は宗門拡大を行う布教の為の説経ではなく、放下師が説経の際に用いた「ササラ」を伴奏楽器として、世俗的な事柄を説経風な節付けにて歌い語る、日々の糧を得るための物乞いの芸に外ならず、人々が蔑視して「ササラ乞食」と呼ぶ仏教から逸脱した賎民芸であった。彼らの社会的身分は最下層の放浪をなす賎民に外ならず、彼らの芸を聞いてくれる聴衆の多くは下層の庶民層の者たちであった。これは同じ頃に現れた「浄瑠璃姫物語」を語る者達が、貴賓の席に呼ばれ語っているのとは趣が異なっていた。その理由は、この「浄瑠璃姫物語」は三河の国の名刹鳳来寺の本尊である薬師瑠璃光如来に纏わる仏教譚であり、三河地方の遊女により語り継がれ、また歩き巫女などにより各地に伝播し、やがて琵琶法師により節付けされ、琵琶を伴奏にして語られる「浄瑠璃」となったものですが、伝播方法が門付芸をなす放浪唱導師の賎民芸でなかった故かと思われます。やがて門付けの物乞い芸であった門説経の中から、説経本来の基盤である比喩因縁・因果応報・結縁の手法にて物語性を持つ語り物が発生し、時を経るに従い「物乞い芸」を脱し、大道芸に転化させる者が現れた。室町末期には大道芸の門説経として確立し、伴奏としてササラ以外に鉦・鞨鼓などを用いて語るようになっていた。やや時代は下がるが元和年間(1615−24)に描かれた「洛中洛外図」の中に「長い筵の上に立ち、長柄の大傘を肩に掛けて翳し、両手にササラを摺りながら語り、足元には筵に投げ込まれた銭を柄杓にて掻き集める付け人が居り、語りを聞いて泣いている見物人」が描かれています。
古説経節の成立
物語性を持つ「説経」が何時誰により作られたかは現在解明されていませんが、室町時代初期頃から寺社が自己の信仰を広める為に、ご本尊の本地や縁起に纏わる物語を作り、寺社の属する歩き巫女や聖達により語らせたことに始まり、これは浄瑠璃姫物語が作られた過程と同じであったと推測されます。唯、浄瑠璃姫物語がその流布の過程に於いて早くから賎民芸より脱し、琵琶法師の芸となって有識者の鑑賞する芸とされ、十二段草子として文字化され広まったのとは異なり、説経節は飽くまでも賎民芸として口伝にて伝承されて来た大道芸であったことです。説経節の構成は室町時代に出来た啓蒙的、通俗的、娯楽的な御伽草子と呼ばれる説話の手法と同じく、説経世俗化の最たるものであり、特に寺社縁起談、本地談、霊験談が多く、これらに世俗的な恋愛談・嫉妬談・継子談・懴悔談・お家騒動談などを付加して出来上がっています。江戸時代初期になり当時普及され始めた三味線を伴奏に用いるようになり、また浄瑠璃と同じく西宮戎神社に属する傀儡(くぐつ)の芸である「えびすかき」「くぐつまわし」と呼ばれる人形廻しの芸と結び付き、説経系人形劇である「説経操り」が出来上がった。この説経操りは大道芸を離れ、大勢の観客を対象とする「操り芝居」として、寛永年間を対象とする「操り芝居」として、寛永年間頃に京都四条河原に小屋掛して興行するよう頃に京都四条河原に小屋掛して興行するようになり、口伝にて語り継がれて来たものが正本化される様になった。現在に伝わる説経浄瑠璃の台本とも言える正本は、江戸時代に入りそれまで口伝にて語り継がれて来たものが説経太夫により文字化したものです。伝承されて来た説経節の代表的なものは、「五説経」と呼ばれる「刈萱」「山椒太夫」「小栗」「俊徳丸」「愛護若」です。これら五説経に共通するものは、主人公達が何れも有力な武将や裕福な長者の子供として生を受けているが、何らかの境遇の変化にて不幸になり、最下層の賎民同様な状態となって諸国を放浪するが、何れもが最後には賎民の身を逃れ、昔の身分階層に戻るという構成にて作られていることです。これは賎民階層として説経節を語っていた者達が、その根底に持っている感情の発露に外ならず、彼らも好き好んで賎民となった訳ではなく、機会があれば現状から脱皮し、人に蔑まれない身分に身を置きたいとの願望を抱いており、この願望を寺社に纏わる霊験談に絡ませて作ったものと考えられます。この様に門説経と呼ばれた大道芸の中から脱皮して「操り説経」として自立する者達とは別に、従来の門付説経を成して喜捨を受ける物乞芸である「門説経」に説経節は二分される様になった。しかし、「操り説経」となっても「門説経」と共に、放浪芸を支配する関清水蝉丸宮(後に近松寺)の支配から脱することは出来ず、幕末までその支配を受けていた。
大道芸としての門説経・歌説経
大道芸としての道を歩んだ「門説経」の中から、万治・寛文年間(1658-72)になると俗謡等で語っていたのを当時流行の説経節の段物に変えて、歌念仏の曲節に乗せて唄う「歌説経」と呼ばれる大道芸が発生した。「歌念仏」については項を改めて詳しく述べますが、鎌倉初期に浄土宗の祖法然上人の弟子空阿弥陀仏が、称名念仏の間に文段を入れた事にて始まり、後にこの念仏の仕方が下級宗教者の業となり、やがて宗教色を一掃して大道芸の者達が俗謡俚歌をこの曲節に乗せて勝手気侭に唄うようになったものです。元禄3年(1690)刊行の「人倫訓蒙図録」七の「門せっきょう」と描かれている絵には、三人連れにて一人はササラ・一人は三味線・一人は胡弓を弾き、編笠を被り、腰には脇差を差し、中の二人は羽織を着ています。門説経の特徴は室町期に放下僧が行なった「ササラ摺」を伴奏楽器として連綿と継承しておることですが、同画の説明に「小弓引、伊勢会山より出る。此所のふし一風あり。小弓はもとは琉球国よりわたすとかや。小弓引編木摺はわきて下品の一属。」とあり、胡弓引・ササラ摺は賎民のなす業で、胡弓は伊勢会山より出ると記しています。この会山と云うのは、伊勢内宮と外宮との間にある「間の山」と呼ばれる山坂の事を指し、この処には伊勢信仰の全国普及が進み、伊勢参宮(お伊勢参り)が盛んに成ると、両宮を参詣する人達を相手に伊勢勧進巫女[伊勢本願慶光院(尼寺)の支配下にて伊勢信仰を奉じて全国を歩く勧進巫女]が歌った「歌念仏」を胡弓やササラを用いて唄い、喜捨を得る賎民芸能者や物乞いをする乞食が多数屯していた。彼らが歌う「歌念仏」をして何時しか「間の山念仏」と呼ぶようになった。この間の念仏が「間の山節」となり、後に川崎音頭や伊勢音頭となったと云われています。また、間の山以外にも参詣客を相手にする様々な物乞いが、伊勢参宮街道に多数屯していたそうです。門説経はササラ摺り以外に三味線の普及と共に伴奏楽器として加え演奏するのが普通であったが、伊勢地方の門説経語り達が更に胡弓を加え、元禄年間には門説経・歌説経の全国的演奏形態として定着していたと思われます。
操り説経の定住化
藤本箕山著「色道大鑑」(延宝六年・1678)に拠れば、「説経の操りは大阪与七郎といふ者より始まる」とあり、現在残る説経浄瑠璃正本や「音曲声纂」の記述よりみると、寛永年間(1624-43)には他の様々な芸能に伍して操り説経座が京都四條河原に小屋掛けして興行をしていました。このように芝居小屋にての上演となると、ストーリーのあるものが必要となり正本(台本)が作られるようになった。それまで口伝えにて語られて来た説経節も時代の要求故に正本化するようになった。説経節の初期の正本としては、寛永8年(1631)に「せっきょうかるかや」、寛永末年(1643)には与七郎本「さんしょうたゆう」、正保5年(1648)に佐渡七太夫本「せっきょうしゅんとく丸」などが作られています。数多くの正本の内、愛護若・信田妻・梅若・山椒太夫・刈萱が五説経(時代により曲目が異なります)と呼ばれていますが、他にも小栗判官・志田三郎・熊谷・法蔵比丘などがあります。これらに共通するのは、唱導説教から発生したものであるため、一般庶民が篤く信仰する神仏を引き合いに出して、その物語が真実であることを信頼させ、聴衆の感動を誘う有効な手段んを取っていることです。大阪には慶安-明暦年間(1648-57)に佐渡七太夫が出て道頓堀に操り座を建てたが、やがて大阪には名代を置き江戸に進出した。寛文元年(1661)には先に江戸に進出した天満八太夫(天満座)と競い、大阪七太夫(佐渡座)と呼ばれ延宝・天和年間(1673-83)頃には両座とも確固たる地歩を固めていた。初代佐渡七太夫の演じる演目は、「しんとく丸」「さんしょう太夫」「おぐり」などの従来からの五説経を中心にした演目であったが、二代目の時代になると江戸にて様々な浄瑠璃が流行し始め、画一的な演目の説経節は次第に飽きられ始め、浄瑠璃系統の演目である「法蔵比丘」「熊谷先陣問答」「ですいでん」「伏見常磐」などを取り入れ、説経節に乗せて演じ、客は離れを回避する手段を成したが享保年間(1716-36)頃を境に世上から消えていった。佐渡七太夫の進出前の江戸操り説経座は、津村淙庵著「譚海」に「江戸浄瑠璃の始めは結城孫三郎と云う説教節太夫葺屋町にて櫓を上げて興行せしが始め也」[日本庶民生活史料集成第八巻所載・三一書房1969刊行]とあるように、江戸初期に江戸孫三郎が当時の芝居小屋などが建ち並ぶ葺屋町に結城座を開設したことにて始まるが、万治年間(1658-60)に天満八太夫(石見掾)が現れ、寛文2年(1662)には禰宜町に操り小屋を建て興行するようになった。彼の作った天満座は、宝暦年間(1751-63)頃まで江戸説経座として人形浄瑠璃が流行する中で孤高を守っていた。元禄年間頃(1688-1703)には江戸の説経座は、堺町に天満八太夫・江戸孫三郎、霊岸島に吾妻新四郎座の三座があって江戸庶民にい流行していた。「青楼雑記」の[説教の事]の項に、「同じ頃、結城一角といへるものありけり、かれは能説教を語りける、殊に三味線を引くに他の人とかわり左三味線なり、その調子妙にして、いかにしてひくやらん、左り勝手にては成にくき事を奇妙にも能く覚え親しまれ、吉原遊廓の座敷にも呼ばれるくらたりけり。結城一角は正徳年中也、式部太夫権之丞も浄るり語り、同時代なり。その頃は説教師はやりけるゆへ、女郎の座敷へも太夫行って、せっきょうを語りける。中にも結城孫三郎、佐渡七太夫、武蔵権太夫、古天満小太夫、其の後の小太夫近頃まで存世せり。」とあり、正徳年間(1711-15)には多くの説経太夫が競演して居ることを記しています。何故説経節が庶民に親しまれたのか、当時の儒者太宰春台は其の著「独語」に説経節の特徴を次のように記しています。「其の声も只悲しき声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流して泣くばかりにて浄瑠璃の如く淫声にあらず。三線ありてよりこのかたは、三線を合するゆえに鉦鼓を打つよりも、少しうきたつようなれども、甚しき淫声にあらず。言はば哀みて傷ると言ふ声なり」しかし、この様に庶民に親しまれた説経操り浄瑠璃も享保年間(1716-35)になると急速に衰退していった。其の理由としては、説経節の演目が少ない故に、江戸浄瑠璃の演目を説経節曲節に替えて演じ、又、寛文年間になると浄瑠璃の序詞と同様な文体で起こし、祝言で結ぶ作品を多く作る事などを試みていたが、次第に飽きられて行った事と、上方にて様々な曲節にて演じられて居た浄瑠璃が、竹本義太夫が語り出した新しい義太夫節と言われる曲節により排除されて、浄瑠璃と言えば義太夫節人形浄瑠璃を指すようになり、近松門左衛門との結合にて元禄年間から多くの世話物人形浄瑠璃を世に送り出し人気を博して居た。享保初期になるとこの義太夫節人形浄瑠璃が江戸に進出し、心中など庶民の身近なものを題材とした豊かな世話物が江戸人に斬新な感じを抱かせた故に流行し始めた事であった。説経節浄瑠璃の衰頽に見切りをつけた武蔵権太夫や江戸孫四郎は歌舞伎に身を投じ、結城孫三郎座は説経節から離れ、義太夫節を用る糸操り人形座に転身していった。「江戸節根元集」によると、「説教節初り年号知らず、延享年中(1744-47)の頃江戸又は田舎祭礼等に折節興業有、太夫に天満万太夫、半太夫、長太夫などとてあり、三絃は盲人竜玄、玄達などいへる者也。人形は裾より手を指込で一人遣ひにて見合は今ののろま人形也。古風なるもの也。隅田川苅萱など段物の操致せしを覚へいると老人の物語り言伝ふ」と、文化年間の伝聞として書かれ、延享年間には江戸には説経節の常設小屋は無くなり、祭礼などに小屋掛けにて興行する程度に廃れて居たことが判ります。又、「嬉遊笑覧」には宝暦10年(1760)刊行の「風俗陀羅尼」より引用して「いたわしや浮世のすみに天満節」の川柳を乗せ、細々と天満系の説経節が命脈を保っている様を記しています。説経節操りとして庶民の娯楽として親しまれ、京大阪江戸にて常設操り芝居座が多く設けられ、歌舞伎や人形浄瑠璃と肩を並べ、寛永年間から元禄年間(1624-1703)に掛けて隆盛を見せていたが、次第に歌舞伎や人形浄瑠璃に圧され衰退し、宝暦13年(1763)頃は消滅した。
説経節より浄瑠璃への転化
先述したように説経節は宝暦年間末に消滅したためにどの様なものかその全貌を知ることは出来ませんが、その曲節は義太夫節や他の浄瑠璃や長唄の中に摂取されておりますので、大体の形を知ることは可能です。又、五説経はじめ多くの説経節の演目は、説経節の衰退と共に人形浄瑠璃に吸収され、浄瑠璃化され上演される様になり、この中には後に歌舞伎化されたものもあります。
説経節「信田妻」
元禄-正徳年間(1688-1715)に地歌「こんかい」[多門庄左衛門作詞・岸野次三郎作曲]が作られています。元禄16年(1703)9月豊竹座。義太夫浄瑠璃「信田森女占」[紀海音作]享保19年(1734)10月竹本座。義太夫浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」[初代竹田出雲作]。この曲は紀海音作「信田森女占」に拠り、信太の森伝説と安倍晴明伝説を結び合わせた作品で、四段目「葛の葉の子別れ」が有名です。同年同月竹本座。義太夫景事物「葛の葉の道行」別名「信田妻道行」。四段目「子別れ」に続く「信田の二人妻」の前半にて、狐葛の葉が夫安倍保名と別れ、信田の森の古巣へ帰って行く部分です。享保20年2月京都中村富十郎座にて前年10月竹本座初演浄瑠璃を歌舞伎化し、同名本名題にて初演。同年11月江戸中村座。一中節「信田妻」本名題「かん菊釣香炉」[二代目都一中作曲]。元文2年3月(1736)江戸中村座初演。原拠は半太夫節「神刀小鍛冶初午参」の五段目道行。安倍保成の妻手がしはが狐である事が露見、信田の森への道行。安永2年閏3月(1773)豊竹座。義太夫浄瑠璃「信田妻今物語」。二段目義太夫景事物「保名狂乱の段」より、後に清元「保名」が作られた。天保2年9月(1831)江戸中村座歌舞伎狂言「信田森鳴響嫁入」大切所作事、四世中村芝翫四変化「四季詠所作の花」の一つとして、常磐津・長唄掛合「葛の葉」[松井幸三作詞、常磐津五世岸沢式佐・長唄杵屋六左衛門作曲]が作られた。「芦屋道満大内鑑」の大詰「信田の森の場」を改作した曲です。
説経節「苅萱」
享保20年8月(1735)豊竹座初演、義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」並木宗輔・大輔合作。この作品は説経浄瑠璃「刈萱」・謡曲「刈萱」・古浄瑠璃「くずは道心」などを原拠にして、これに「女性の髪の毛が嫉妬の蛇と化して食い合う」という説話を取り入れて作られております。特に五段目「高野山」は、石童丸が顔も知らない父を探しに高野山を訪れる段で有名です。 元文元年(1736)大阪中山座に於いて義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」が同名題にて歌舞伎化され上演。 天保8年-文久元年(1838-61)新内節浄瑠璃「石童丸」本名題「刈萱桑門筑紫イシズエ」別名「高野山」。義太夫浄瑠璃「刈萱桑門筑紫イシズエ」の五段目より作曲。初代冨士松魯中作曲。 明治28年-大正8年(1895-1919)筑前琵琶「石童丸」初代橘旭翁作曲。各種先行曲や縁起伝説に拠り作曲。 明治39年-昭和2年(1906-27)錦心流薩摩琵琶「石童丸」初代永田錦心作曲・四竃納治作詞。筑前琵琶「石童丸」と同じ内容である。
説経節「小栗」
元禄11年2月(1698)大阪竹本座にて近松門左衛門作義太夫浄瑠璃「今様小栗判官」初演。 元文3年8月(1738)大阪竹本座にて義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」初演。松田文耕堂・千前軒(竹田出雲)合作。 寛保2年(1742)大阪嵐座にて本名題「小栗判官車街道」にて歌舞伎化され上演。別名「小栗判官照手姫」または「小栗判官」と呼ばれ、現在でも上演されている。義太夫節舞地「小栗曲馬物語」(義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目大切より取って作られている)。 浄瑠璃物地唄「小栗」近松東南作詞作曲。義太夫節浄瑠璃「小栗判官車街道」四段目に拠り、照手姫の熊野本宮湯元への道行を唄っている。
説経節「しゅんとく丸」
安永2年2月(1773)大阪北堀江座にて義太夫浄瑠璃「摂州合邦辻」が初演。菅専助若竹笛躬合作。謡曲「弱法師」と説経節「愛護若」「俊徳丸」を混ぜ込みにた浄瑠璃「莠伶人吾妻雛形」を更に脚色した作品である。 明治18年7月東京桐座にて本名題「摂州合邦辻」にて歌舞伎化され上演。現在は下の巻「合邦庵室の場」のみが上演される。
説経節「さんしょう太夫」
宝永5年10月(1708)豊竹座にて義太夫浄瑠璃「三枡太夫恋慕湊」上演。 享保4年9月(1719)豊竹座いて義太夫浄瑠璃「三枡太夫葭原雀」上演。紀海音作。 享保12年8月(1761)竹本座にて義太夫浄瑠璃「三枡太夫五人嬢」上演。竹田出雲作。 宝暦11年5月(1761Z)竹本座にて義太夫浄瑠璃「由良湊千軒長者」別名「三荘太夫」。二歩軒・半二・北窓俊一・三郎兵衛・松洛合作。 天保8年7月(1837)市村座にて本名題「由良湊千軒長者」として歌舞伎化され上演。中の巻「鶏娘」では、三荘太夫の娘おさんは親の因果が子に報いの譬えの如く盲目であり、雪中に白鶏を追うおさんの凄惨な姿は女形の見せ場と言われています。
説経節「愛護若」
正徳4年10月(1714)豊竹座にて義太夫浄瑠璃「愛護若塒箱」上演。 宝暦3年5月(1753)竹本座にて義太夫浄瑠璃「愛護稚名哥勝鬨」上演。外記・閏介・冠子・松洛・半二合作。
説経節「ごすいでん」
宝永8年正月(1711)豊竹座にて義太夫浄瑠璃「本朝五翠殿」上演。近松門左衛門作。以上縷縷と説経節について述べて来ましたが、大道芸として世に出た説経人形操りは大衆に支持され、一時は歌舞伎芝居に伍した娯楽であった。しかし上演演目の少なさが次第に観客に飽きられ、新しく世に出て来た江戸浄瑠璃や義太夫浄瑠璃の演目を説経化したりして、態勢の立て直しを図ったが、義太夫浄瑠璃の斬新さに観客を奪われ衰退し、演奏者自体も見切りを付け、義太夫節浄瑠璃に転向して行き、やがて消滅した。その曲節や題材は先述した様に義太夫節始め様々な浄瑠璃の中に残っています。
祭文
前回まで説経に纏わる様々な芸能を述べ説経節にまで至りました。同じく宗教より発生した芸能に「祭文」を源にしたものがあります。また、この祭文系統の芸能と説経節とが結び付き新しい芸能が起きておりますので、これから暫くは祭文について述べて見たいと思います。「祭文」と云いますのは、本来は祭事の際に祭主が神仏に対する祈願や祝詞(のりと)として用いた文章の事を指した言葉でした。その基は中国の儒教に於いて、先帝の霊や天神などを慰める祭事に用いられたものですが、中国から儒教伝来以後、我が国では陰陽道・儒教・神道・仏教など様々な宗教にても用いられ、特に平安時代の祭文には陰陽道的色彩が濃厚に表れていると云われています。我が国での祭文で最も古い用例としては、「続日本紀」延暦6年11月5日(787)条にある「祀天神於交野其祭文曰」[交野に於ける天神を祭りし、その祭文に曰く]と云われています。祭文の形式としては、神道を例に取りますと、「謹上再拝謹啓」とか「奉る」で始まり、賛嘆や祈願の主意を述べ、最後に「再拝」や「敬白」の語にて結ぶようになっています。また、巫女が神降ろしの際に唱える呪詞も祭文です。本来祭文は神前にて述べる告文でしたが、祝詞とは異なり面白い節を付けて読み上げられていました。この宗教上用いられる祭文を源に、後に声明、説経節、浄瑠璃などと融合して様々な芸能を生み出しています。今回からは芸能化して行く過程を述べて見たいと思います。
山伏祭文
山伏と云いますのは、平安時代に原始以来日本に存在した山岳信仰に立脚して、特定の山嶽に登拝修行を志して登攀し、山中の窟に宿って祈祷修法の行を群れにて行なう者達が現れ、彼らをして修験者と呼び、その宗教的実践を称して「修験道」と云う様になりました。修験道の本願は、果敢に各地の霊山と呼ばれる山々に登攀し、危険に身を曝すことにて自己の精神や肉体を鍛える霊力を身に付ける「行」をするために、峰入りすることにあった。これらの激しい修行により凡俗の煩悩を断ち切り、成仏の悟りを開くことにて、修行の実践の場として里に下りて、真言密教の呪法を行ない、人々の帰依信心を得る事が出来た。里に下りた修験者は自己の研鑚を開示して帰依する信者を獲得し、それを檀家として加治祈祷に当っていた。山伏と呼ばれる由縁は、修行の過程にて山中修行にて山に臥し、また諸国行脚の際に山野に臥すことから、何時しか「山伏」「山臥」と呼ばれる様になったと云われています。山伏信仰の基盤は真言密教の為、その本尊である金剛蔵王権現や不動明王を念持していたが、檀家の要望によっては他宗の本尊である観音信仰や阿弥陀信仰による読経も行なう融通無碍な対応能力をも持ち合わせる者達であった。中世なると修験道の山伏が修行や勧進のために諸国行脚をする際に、地方の民家に宿り、依頼により加持祈祷を行なう時の願文には祭文が用いられており、彼らの読み上げる祭文をして「山伏祭文」と呼んでいた。しかし、加持祈祷の後の直会(なおらい)と呼ばれる慰労会の場にての余興に彼らが考え出したのが、身に付ける錫杖や法螺貝などを伴奏として用いて、世俗的な内容の語りを祭文の形式の則り作り上げた語り物であった。やがてこの語りを声明等の節付け乗せて語る様になり、これが娯楽性の乏しい山間部や農村部の民衆に喜ばれ、「山伏祭文」とか「もじり祭文」と呼ばれるようになった。また、巫女の呪詞祭文も歩き巫女により、山伏祭文と同じ経過を辿り俗化し歌謡化していった。山伏や願人坊主は、自らが奉じる祭神やその神社仏閣の縁起を説く祭文や「胎内巡り」「賽の河原」などの宗教色の強い唱導祭文を持って諸国を回遊していた。宿先にての余興芸として、祭文に当意即妙な諧謔を加えた「もじり祭文」「若気祭文」などを演じて庶民に喜ばれていたが、あくまでもこれは余興であった故に、これらの祭文は「そもそも勧進降ろし奉る」とか「そもそも祓い清め奉る」などの言葉にて始まり、「請願は成就皆満足せしむ敬って申す」などで終わる祭文本来の形式を踏まえて作られていました。この山伏による山伏祭文は宗教家しての山伏により連綿と継承されて来たが、何時しか「もじり祭文」は山伏の手を離れて一人歩きし、脱落した山伏や大衆芸能者により語られるようになり、その内容も益々俗化し、錫杖や法螺貝などの法具による伴奏が三味線に替わっていった。江戸末期になると宇都宮の在方に三味線に変え、法螺貝のみを伴奏とする「貝祭文」と呼ばれる山伏祭文が現れ、やがて法螺貝を用いず法螺貝の音色を口真似して「でろでんでろれん」と伴奏する「でろでん祭文」が生まれて一世を風靡した。又、この口真似に変えて木魚を伴奏にして祭文を経文めかして語る「阿呆陀羅経」も起こり流行した。
門付祭文
江戸時代に入ると下級宗教者の零落などにより、当初勧進の為の余興として発生した「もじり祭文」は益々俗化して、大衆芸能としての「もじり祭文」となった。中でも願人坊主などによる物乞い芸である門付芸となったのを「門付祭文」と呼んでいた。この願人坊主と呼ばれる者は、そもそもが下級宗教者であり、鞍馬寺文書寛文12年11月17日(1672)付覚書に「鞍馬願人勧進仕候大法ハ、正月鞍馬札配り、年中諸柤那日待月待祈祷、鉦を叩き、諸寺社代参、四月より六月迄住吉代参、同躍(住吉躍)勧進、七月施餓鬼之勧進、仏勧進、たたき鉦ヲ掛ヶ念仏申勧進、何経出共経を読勧進、経一字書之勧進、鉢ひらきの勧進(下略)」と、京鞍馬寺に属する願人坊主の様々な業務内容を記しています。江戸に於いて、特定の社寺には属さず、寺社奉行の管理監督を受けて、日本橋橋本町に願人坊主を管理する宿泊施設が置かれており、仕事は鞍馬寺とさほど変わらず、武家方や町家よりの依頼にての日待月待の代参、様々な社寺の依頼による札配や勧進をしていた。しかし、次第に寺社奉行の管理を嫌い、自由奔放に生きる事に目覚め、長屋などに住み着き、依頼による代参や札配にて生活の糧を得、その傍ら町中の辻々にて住吉踊を披露する大道芸能者となっていった。
歌祭文
寛文・延宝年間(1624-81)になると、伴奏楽器を法螺貝や錫杖などの法具から三味線に変え、「もどき祭文」と呼ばれ庶民の娯楽となっていた「山伏祭文」は、京・大阪・江戸などの都市部に於いては祭文の内容を世俗的なものに変えて遊里にて唄われる様になり、「歌祭文」と呼ばれるようになった。天和・元禄年間(1681-1704)になると、歌祭文の詞章の内容も一変し、天災地異や当時流行始めた駆落ち・心中事件など庶民が興味を持つニュース性の高いものが主体となり、語る口調も「口説」の調子にして三味線に乗せて唄い、三都にて流行した。また、この歌詞を瓦版に仕立て街頭や社寺の境内など群衆の集まる場所にて、唄いながら売りさばいて居たので、現在のワイドショー的な存在で事件を広く報じる役割を担っていた。当時上方にて流行し始めた義太夫節人形浄瑠璃には、これら瓦版にて心中事件を知り、浄瑠璃化し舞台に掛け人気を博したものが数多くあります。特に大阪ではこの歌祭文が人気を得て、生玉神社の境内に歌祭文を常打にした小屋が出来ていたと言われて居ます。世間で持て囃された歌祭文の内で代表的なものは、実録物である「おさん茂兵衛」「お千代半兵衛」「お俊伝兵衛」「お初徳兵衛」「お染久松」「お夏清十郎」「八百屋お七」「小三金五郎」などで、近松門左衛門や紀海音の浄瑠璃作品にも取り上げられ、以後の世話物浄瑠璃に多大な影響を及ぼしております。また、後に様々な三味線音楽に歌祭文の曲節が取り入れられています。一例を上げますと、清元の「道行浮塒鴎(お染)」では、
「ここに東の町の名も 聞いて鬼門の角屋敷、瓦町とや油屋の 一人娘にお染とて年は二八の細眉に 内の子飼いの久松と忍び忍びの寝油を 親達や夢にも白絞り 二人は苔の花盛り しぼりかねたる振りの袖 梅香の露の玉の緒の 末は互いの吉丁字 そこで浮名の種油 意見まじりに興じける」
と、お染のバックグランドと久松との不義密通の状況を歌祭文にて唄っています。このように一世を風靡した歌祭文も、宝暦年間(1751-63)になると京大阪江戸などの大都市では急速に衰退して行き、その残滓は地方の盆踊り歌として残り、また瞽女歌として各地の瞽女により歌い継がれて行きました。尚、筆者が子供の昭和20年代の始め頃、東京でも神社の祭礼時の夜店に「覗きからくり」にて「不如帰」や「八百屋お七」を歌祭の節付きにて聞いた記憶がありますが、現在ではどうなっていますか。皆様ご存じの義太夫浄瑠璃「新版歌祭文(お染久松)」の野崎村の段にて弾かれる連弾(野崎)は歌祭文の曲節を変化させたものと云われています。
説経祭文
文化6年(1809)頃に江戸にて説経節語りの薩摩若太夫が、説経節と歌祭文とを合体させて「説経祭文」と称する一派を創設し、一時は人気を博したが、やがて飽きられ、その後四代目まで細々と命脈を保ってきた。四代目の時に幕府瓦解に遭遇し、それ以後は八王子の郷土芸能である車人形の地方(じかた)として存続して現在に至っている。又、天保7年(1836)頃に名古屋の新内語り岡本美根太夫が、新内節に説経祭文の節を加味して祭文江戸説経節を創設した。明治5年(1872)に弟子の美根松が説経源氏節と改称し、後に源氏節と改めた。又、美根太夫の妻美家古が女性の弟子を多く育て、源氏節を地として芝居を演ずる様になり、名古屋にて評判を得、明治30年(1897)頃には東京に進出し、当時流行の女義太夫を凌ぐ名声を博したが、彼女たちの演技が卑猥なために当局により上演禁止となり、以後衰退の一途を辿った。現在この系統を引く一座が名古屋市の在の甚目寺にあって定期的に公演をしています。
 
説経節4 節回し

 

説経がどのような節回しを以て語られていたか、説経の伝統を継ぐ者のいない今日においては、詳しく知るすべがない。謡曲や浄瑠璃など、今日においても演者が存在する芸能のうち、説経と接点を有するものを手がかりに、その実態にせまる試みがあってもよさそうであるが、いまのところそのような業績もないようなので、筆者のような門外漢には、はたと判らずじまいなのである。
しかし、今日に伝わる説経の台本の中には、語り方に関する記号を付したものがあって、それを手がかりにして、些細ながら、語り方の一端にせまことができるのではないか。そんなことに思い当たって、しばらく無謀な推論を展開してみようと思った次第である。
正保5年(1648)、佐渡七太夫正本として刊行された「しんとく丸」には、「ことば」や「ふし」といった節付けをあらわすと見られる記号が、比較的丹念に付されている。その種類には、ほかに、「ふしくどき」、「つめ」、「ふしつめ」などがあり、「きり」という記号を付した本も見当たる。
本を眺め渡してみると、おおむね「ことば」と「ふし」とが交互に並び、その間に「くどき」や「つめ」が要所要所を締めるようにして入れられている。「ことば」は話すようにして語られた部分で、「ふし」は文字とおり節をつけて歌うように語られたのだろう。「くどき」は感情の高まりを示すように、くどいように語られ、「つめ」は場面の展開に区切りをつけるために、激越な表現で語られたと思われる。
ことばと節を基調に、時に激越な表現をまじえることにおいては、謡曲の表現様式に近いといえる。しかし、謡曲は笛や鼓、太鼓を伴奏にして、音楽的な要素に富み、節回しも繊細で、表情に富んだものであるが、説経の場合には、あくまで「ことば」で語る部分が中心で、音楽的な要素は弱かったと思われる。そもそも、ささらを唯一の楽器として伴奏していたのであるから、謡曲とは比較すべくもないのかもしれない。
18世紀はじめ頃の説経の語り方について、太宰春台が次のように書いている。
「其の声も只悲しきのみなれば、婦女これを聞きては、そぞろに涙を流して泣くばかりなり、浄瑠璃の如く淫声にはあらず、三線ありてよりこのかたは、三線をあはする故に、鉦鼓を打つよりも、少しうきたつようなれども、甚だしき淫声にはあらず、云はば哀れみて傷るといふ声なり、浄瑠璃に比ぶれば少しまされる方ならん」
哀れみて傷(やぶ)るとは、どんな声をいうのであろうか。想像するのはむつかしいが、おそらく単調な歌い方の中に、力のこもったものがあり、それが聞くものに、静かな、時には激しい感動を呼び起こさせたのであろうか。
徳川時代も中期にさしかかったこの時期、説経も浄瑠璃と同じように三味線を使うようになっていた。それでも春台は、説経の語り方は古体を残し、浄瑠璃のごとき淫声にあらずといっている。淫声とは、人の意表を突くような歌い方をさしていうのであろう。それに比べ、説経は話者も原則として一人であり、音曲に流されることなく、語りとしての伝統を守り続けたのだと思われる。
語りは、日本の芸能の中でももっとも民衆の感性に根ざし、それ故、いつまでも人の心をとらえる力を持っていた。だが、時代が移るにつれ、芸能にも音楽的な要素を始めとして新しい風が吹くようになる。説経は、この動きに対応することなく、何時までも古体にこだわり続けた。そのことによって、ついには、民衆に飽きられるに至ったのであろう。
 
説経節5 語りの芸能

 

今日、我々現代人が説経を聞く機会は、全くといっていいほどなくなってしまった。徳川時代の前半に刊行された版本が数点残っており、それが書物として流通してもいるので、わずかにそれを頼りに雰囲気の一端に触れることができるばかりである。それでも、説経というものが持っていた、怪しい情念の世界が、現代人にも激しい感動を呼び起こす。日本人の意識の底に、澱のようにたまっている情動のかたまりが、時代を超えて反響しあうからであろう。
説経が芸能としてもっとも盛んだったのは、慶長から元禄にかけての頃とされる。徳川時代初期のほぼ17世紀いっぱいに重なる時代である。この時代は、浄瑠璃もまた盛んに行われていて、両者は相互に影響しあい、説経も三味線や操り人形を取り入れて、元禄の頃には、劇場芸能としての体裁を整えていた。
劇場に進出する以前の説経は野外の芸能であった。「洛中洛外図」の一つに、三十三間堂境内で説経を演ずる者達の様子を描いたものがあるが、そこに描かれている説経者は、土の上に敷かれた莚の上に立ち、長い柄の大傘をかざし、両手でささらをすりながら語っている。説経者を取り囲む聴衆の中には、すすり泣いている者が描かれており、説経が演者と聴衆との間の、濃密な空間の中で語られていたことを想像させる。
莚と大傘とは、説経の目印であったようだ。莚を以て舞台となし、大傘を以て非日常の演劇的空間を創出せしめたのであろう。また、ささらは語りの効果を高めるための唯一の楽器であった。ささらは、竹の先を細かに割って、茶筅のような形にし、簓子と呼ばれる細い棒でこすって、「さらさらさら」という音を立てる。楽器というには、あまりにも原始的であるが、その「さらさら」という音が、時には緩く、時には急迫し、語りにムードを添えたのであろう。
ささらは説経の象徴のようなものであったから、説経を語るものを「ささら乞食」といった。中世における説経は、乞食同然の漂泊の者たちによって語られたのである。彼らの前身は、あるいは念仏聖や高野聖のような遊行僧であったかもしれない。これらの遊行僧たちも、各地の寺院を拠りどころにしながら、全国を漂泊して、説教や念仏語りをしていたのである。しかし、中世も後期になると、説経者たちは、逢坂の蝉丸神社を拠点にして、芸能者として職能集団を作り、各地の寺院の広場において、聴衆を相手に語るようになった。
中世の大寺院は、大勢の人が集まる場であり、またアジールとしての役割も果たしていた。非日常的な空間として、芸能者の営為が成立しやすかったのである。
説経の題目は、「かるかや」や「さんせう太夫」など、五説経と呼ばれるものを中心にして、その数はあまり多くはなかったようである。それらの比較的古い形のものを見ると、神の縁起を語る本地物という体裁をとっている。たとえば、「をぐり」の場合には
「そもそもこの物語の由来を、詳しく尋ぬるに、国を申さば美濃の国、安八の郡墨俣、たるいおなことの神体は正八幡なり、荒人神の御本地を、詳しく説きたて広め申すに、これも一年は人間にてやわたらせたまふ、凡夫にての御本地を、詳しく説きたて広め申すに」
とあるとおり、この物語の二人の主人公、小栗判官と照手姫の、神となる以前の姿を語るのだといっている。「をぐり」にせよ、「さんせう太夫」にせよ、説経の中で語られる世界は、きわめて宗教性の強いものであった。しかしそれは整然とした教義を説くようなものではなく、救いや再生といった民衆の願いに直接うったえる、情念的な世界であった。
中世の民衆は、戦乱の中で抑圧され、この世に希望をもてないものが多かったに違いない。そんな彼らに向かって、説経者たちは、抑圧と開放、死と再生、憎しみと愛を語った。語りの一々は、時にはおだやかに、時には荒々しく、人間の情念を飾りなく表現したものであり、当時の民衆の心に直接訴えかける言葉からなっていた。
説経の主人公は、抑圧されたものであり、乞食同然の下層民として描かれている。かれらは、重なる迫害に耐えながらも、自分の強い意志によって行動し、最後には抑圧者に残酷な復讐を成し遂げる。聴衆は、説教のこんなところに、自分の魂の開放を感じ取ったに違いない。
このように、説教というものは、演者と民衆との間の濃密な空間の中で語られることにより、民衆のエネルギー、つまり愛や情念といったものを蓄積していったのであろう。その愛や情念が人間の本源を照らし出す限りにおいて、時代を超えた普遍性へとつながっていったのである。
説経は、元禄時代に劇場芸能として最盛期を迎えた後、浄瑠璃との競争に敗れて、芸能の表舞台から消え去った。浄瑠璃が、近松門左衛門をはじめ、新しい作品を導入して時代の要請に応えたのに対し、説経はあまりにも古体にこだわった結果であった。
衰退期の説経について、儒学者太宰春台が「独語」の中で、次のように書いている。
「昔より法師の説法に、因果物語をする類あり、其物語は俗説に任せて慥ならぬ事も多けれども、詞は昔の詞にて賤しき俗語を交へたる中に、やさしき事も少からず、其の上幸若の舞の詞の如く、昔より定れる数ありて、いつも古きことのみを語りて、今の世の新しきことを作り出さず、其の声も只悲しきのみなれば、婦女これを聞きては、そぞろに涙を流して泣くばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず。」
徳川時代後期、説経は都会から離れ、農村部を舞台にして、乞食同然の者が門付けしながら語るものに成り代わった。維新の後、薩摩太夫という説教師が会津にはいったところ、会津のひとびとが仇敵薩摩を名乗るものだといって、太夫を迫害したため、薩摩太夫から若松太夫へと名を改めた、こんなエピソードもある。
 
説経節の歴史

 

「説経」のはじまり―唱導文学の発生
説経節が楽器入りで語られるというスタイルをとるのは室町時代以降のお話ですが、芸能以前の「説経」は、平安時代頃までさかのぼるといわれています
まず、「説経」とはそもそもどういうことをいうのか、というところからじはじめますと、文字をご覧いただければお分かりいただけると思いますが、「経」、つまり仏典を読み「説」くことに、本質はあります。
お経は、それ単体ではただのテキストで、文学でも芸能でもない、庶民的感覚では「面白くないもの」です。それを一般的な人々に説き聞かせるには、どうしてもひと工夫いります。仏教に関しては先輩の中国では、工夫のひとつとして、経典をより効果的に聴く人に印象付けるため、お経が教えるものを最もよく表す民話や説話を探し出し、お寺や街頭でお経のかわりにそれらを語り、以って経典の布教とすることが行われ、これを「説経」と呼んでました。
仏教が日本に伝えられると、この「説経」という方法も同時に輸入されてきましたが、日本で本格的になったのは平安中期、おおむね西暦1000年ごろといわれています。このころ、末法思想とよばれる世紀末観が日本で広まりましたが、時を同じくして空也上人に代表される「念仏」がはやりだし、次第に仏教は寺院での活動から街頭に出ての布教にスタイルが変わっていきました。そうなると布教の対象も、教養のあった貴族に比べ文字の知識にも乏しい庶民を相手にしなければならず、よりわかりやすい布教の方法として「説経」が広く行われるようになったのです。このころの「説経」の具体的な方法についてははっきりしたところはわかっていませんが、同時代の清少納言が「枕草子」で「説経師なるものは顔の美しいものがよい」という記述があることから、内容よりも視覚的な部分が強調される、一種芸能的な要素が生まれていたものと想像されます。
さて、このころ「説経」の中で語られた物語にはどういうものがあったか。それは同時代に編纂された「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」などの物語集からうかがい知れます。これらは当時巷で語り継がれていた物語を集めたものですが、仏教思想が色濃い内容から察するに、僧侶たちが寺院あるいは街頭で「説経」したものも多く含まれていると思われます。こういう物語のことを「唱導文学」と呼んでいます。ものすごく強引な言い方をすると、これら布教のために生まれた物語を語る人たちはみな、「説経師」と呼んでもさしつかえないかもしれません
五説経の登場ー唱門師から説経師へ
このころはまだ楽器が発達していなかったので、説経師ははじめはみな素語りでした。ただ、何の変化もない素語りではよほど内容がドラマチックでもない限り、だんだん飽きがきてしまうのはお分かりいただけると思います。ですから次第に、人によっては抑揚を入れたり、楽器とはいわぬまでも、何かをたたくか鳴らしてアクセントをつけたり、あるいは自分で舞を舞ったりと、相手により効果的に物語を伝える方法を考え始めました。
鎌倉時代に入り、笛や琵琶のような楽器が成長してくると、語り部は語りとのマッチングをさまざまに試みるのでした。「平家物語」には琵琶を用いた「平曲」、あるいは「平家読み」と呼ばれる独特の読み方がありますが、これはまさにその工夫のひとつです。また物語とは異なりますが、小栗判官ゆかりの神奈川県藤沢市の遊行寺を本拠としていた時宗は、独特のダンスで人目をひきつけて布教する「踊念仏」を行っていました。こうした芸能的な要素を伴った布教を「唱導芸能」と呼びます。
楽器や舞が導入されると、布教とあわせて娯楽性の追及が始まり、やがて娯楽性のほうが重きをなしてきます。布教の徒とは別に、行為そのものを生業とする職業集団も現れます。代表的なところでは観阿弥・世阿弥に代表される申楽=能とのちに称する所の集団ですが、語りをメインとする集団としては唱門師があげられます。
唱門師は下級階層の僧侶とも、いわゆる乞食の集団とも伝えられていますが、巷間を流浪し、竹の一節の先を細かく裂いたものをギザギザを入れた別の竹とすり合わせて音を出す「ささら」や、腹にぶら下げた鼓を撥でたたく「鞨鼓」などの楽器を用いながら、主に仏教思想のひとつである因果応報話を語り歩いていました。元禄5年刊の『諸国遊里好色由来揃』に記載された「説経之出所」によると、そうした集団には、伊勢国(現在の三重県)出身のものが多かったようです。
これが室町時代に入ると、語り継ぐ物語の中に「刈萱」「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「愛護若」のいわゆる五説経があらわれ、内容も洗練されていくと文学的な評価も受けるようになります。慶長年間(1596〜1615)の京・四条河原の情景を描いた『歌舞伎図巻』(徳川美術館所蔵)には、河原にむしろをしき大きな傘を立てて、ささらをすりながら物語を語っている説経師の姿が描かれていますが、現在の資料としてはこの絵の姿が、往時の説経師の風体を偲ぶよすがとなります。この絵に関する注釈とされる、天保14年刊の『イン(竹へんに「均」という字)庭雑考』(喜多村信節著)には、「慶長中の絵、ささら摺説経、人の門戸に立ちて語るを門(かど…雛太夫注)説経といふ」とあります。このころには職業としての「説経」という呼び名が確定していたようです。
三味線・人形の登場ー前期説経節の栄枯盛衰
戦国時代末期から江戸時代にかけて、蛇皮線=三味線が新しい楽器として流行を見せます。当時の多くの音曲が執に三味線を取り入れていく中、説経師も例外ではなく、手に持つものをささらから三味線(胡弓を弾いていたこともあるらしい)に変え、音楽的に変革していきます。
さらに、京・大坂・江戸の三都で、三味線にあわせて語られる物語ー浄瑠璃に乗り、操(く)り人形を使った芝居が興行され始めると、説経節も浄瑠璃のひとつとして舞台に登場するようになりました。その初めは大坂(説経)与七郎という太夫で、寛永初年のことと考えられています。具体的な語り物としては、寛永16年頃刊の天下一説経与七郎正本『さんせう太夫』が伝えられています。与七郎の系統ではのちに説経与八郎という太夫が現れ、ほかに大坂では佐渡七太夫(与七郎の弟子とも考えられている)、京では日暮小太夫、日暮八太夫が現れます。佐渡七太夫は後に江戸に下り、大坂七太夫と名乗って公演を行います。七太夫の語りとしては正保5年(1648)3月刊の天下無双佐渡七太夫『せっきょうしんとく丸』『おぐり』、明暦2年6月刊の天下一説経佐渡七太夫『せっきょうさんせう太夫』が伝わっています。江戸ではもうひとり、天満八太夫という太夫も活躍し、八太夫はのちに受領(宮家から領地を賜ること)し、石見掾藤原重信を名乗りました。
これら前期説経節は、寛文(1661〜73)頃に最も活況を見せ、「他の浄瑠璃のような淫らな声をせず、破れるばかりの声が哀れさを誘う」(太宰春台『独語』より、雛太夫意訳)と高く評価する人もいましたが、時がたつに連れて浄瑠璃が進化を遂げ、義太夫や豊後節(常磐津・清元)などより音曲的に洗練されたものが出始めると、説経節による興行は「古いもの」として数を減らしていきます。ほんとうならばここで説経節も新しい展開を遂げるべきところですが、それができづらい事情が説経節にはありました。説経節が語る五説経などの物語は、発生の時点で因果応報など仏教思想を色濃く引きずっており、それを捨ててしまうと説経節でなくなってしまうという事情がありました。そのため、たとえば新作を生むにしても、説経節=仏教説話が持つ「暗さ」と現代的センス(もちろん、江戸時代前期の都市文化としての)はギャップがありすぎて同一化できない難しさがありました。それが義太夫で言うところの近松門左衛門のような名作者が生まれなかった理由でしょう。内容の固定は音曲の固定にもつながり、三味線の手にしても義太夫ほど高度なものが結局生まれなかったと伝えられます。これらは現在私たちが語り伝えている説経節についてもいえる課題なのです。
新しい展開を見せられなかった説経節は、六代将軍・徳川家宣の時代である正徳期(1704〜1716)にはほとんど絶えてしまいます。このころ活躍した2代目佐渡七太夫豊孝が、おそらく前期説経節の最後の光です。喜多村信節の雑文集『嬉遊笑覧』には、宝暦10年刊の「風俗陀羅尼」からの転載として、
いたはしや浮世のすみに天満節
という一句を載せています。「いたはしや」というのは説経節独特のフレーズで、それが流行の片隅に追いやられているありさまを表現しており、終末期の前期説経節の哀れさを感じさせます。
説経節の潜伏期
芸能としての説経節は衰退しましたが、説経節が伝えてきた物語はなおも語り伝えられていきました。
五説経のひとつの「小栗判官」や「刈萱」は義太夫狂言に取り入れられ、新しい形で伝えられていきましたが、そのほかの物語は山伏などの修験者によって受け継がれました。詳しい経緯は不明ですが、山伏の間には祭文(さいもん)と呼ばれる物語形式が伝わっており、錫杖やほら貝を楽器としてやはり布教を目的とした物語を語り歩いていました。そういう点は当初の説経師のスタイルとよく似ており、山伏のほうでも受け入れやすかったのでしょう。
こうしていったん祭文に組み入れられた説経節は、新たなにない手・薩摩若太夫の出現する寛政年間(1789〜1800)までの100年間、ほそぼそと潜伏期間を送るのでした。
薩摩若太夫の登場ー後期説経節の誕生
寛政年間に、「小松大けう」「みのわ大けう」という、江戸市中で法螺貝と錫杖を用いて祭文をよく語っていた山伏がいました。二人が面白く語るので、やがて聴衆の中から二人のまねをして物語を語る人があらわれ、庚申の夜(言い伝えにより、60日に1日寝てはいけないとされる日)や祭りの日にカラオケならぬカラ説経節をしていました。
その一人に、江戸本所四つ目に米屋を営んでいた、米千こと千代鶴近八という人がいました。米千は並み居るにわか説経師の中でもとりわけうまく語るので、評判は随一でした。また、たまたま米千の家の隣には盲人の三味線弾きがおり、米千の語りに合わせて三味線を入れてみたところ、新しい語り物としてさらに評判を集めました。当初は寄席がなく、お茶屋の2階などで演奏していたそうです。
やがて米千に芝居への参加のオフゼがあります。ところは結城座と並ぶ江戸人形芝居の拠点・堺町の薩摩座。ここで米千は盲人と組み、初めて人形とのセッションを試みました。これにちなみ、米千は小屋の名前にちなみ「薩摩若太夫」と、盲人は「京屋五鶴」と名乗りました。ここに後期説経節、私たちまでつながる薩摩派説経節が誕生したのです。
さて、このころ若太夫が語っていたものは、山伏から受け継いだということもあり、厳密にはまだ説経祭文と呼ばれていました。我々薩摩の太夫が語り継いでいるのはもちろん初代若太夫の編み出した節回しですが、時代を経て多少の変化は生まれているでしょうから、初代若太夫が語っていた「説経祭文」がどういうものであったかは推察の域を出ません。残された資料によれば、若太夫も五鶴も山伏から受け継いだものにいろいろ工夫を加えましたが、その工夫のよりどころはやはり義太夫や新内といった説経節よりあとにできた浄瑠璃のようで、復活に際しそれらの影響を受けなければならなかったところが説経節の背負った運命の皮肉といえるでしょう。
江戸から多摩へー後期説経節の盛衰
初代若太夫と芝居の関係は、実はそんなに長く続きませんでした。工夫を加えたとはいえ、骨格は前時代の説経らしさを維持していましたので、ある程度の注目を得るとすぐに熱は冷めていきました。どうしても説経節は都会の洗練された雰囲気とあわないようです。若太夫は弟子を多く持ちましたが、二代・三代と代を重ねるにしたがって、初代の勢いも次第に失われ、明治の6代目若太夫(古谷平五郎)に至って、ついに江戸を離れ、郊外に拠点を移します。
実は江戸市中で熱が冷めていった時期、逆に郊外の農村地帯には、若太夫の説経節が広く伝わっていったのです。広めたのは主に、地方在住の神楽師や陰陽師たちでした。たとえば5代目若太夫(諏訪仙之助)は板橋の神楽師で、説経節を多摩地域に移した6代目の若太夫は秋川村(現・東京都あきる野市)二宮の神楽師、また現・埼玉県狭山地方に説経節を持っていった初代津賀太夫(石山美濃守)は陰陽師でした。
神楽師や陰陽師が説経節を伝えたのはあるいは偶然かもしれません。しかし、神楽師は陰陽師の職業の一部が独立したもので、いってみれば両者は兄弟関係にあり、そして陰陽師はもともと山伏の仕事でした。そう考えていくと、神楽師や陰陽師が説経節を伝えていったのは、なんとなくわかる気がします。元山伏の血がなせる業ということといえるでしょうか。
現代の説経節ー薩摩派と若松派
東京郊外に出た説経節は、その後さまざまな流れを生みます。
5代目若太夫には弟子が多数いました。秋川の6代目若太夫からは七(沢田春吉)・八(沢田良助)・九代(加藤健次郎)の若太夫が生まれ、戦後に浜中平治が10代若太夫を継ぎますが、この一派は6代以降義太夫の影響を強く受け、曲調も義太夫のそれにかなり近くなり、本来の説経節の曲調から離れていきます。よって浜中平治の10代目は、襲名の経緯でもトラブっていることもあり、のちに本流の座を内田総淑に譲ります。この流れは古柳座最後の座付説経節太夫・11代目若太夫(石川浪之助)から現・9代目津賀太夫(宮田光雄)に受け継がれています。
やはり5代目の弟子の一人薩摩駒木太夫(小室太十郎)は八王子を中心に活躍します。駒木太夫は5代目から受け継いだ説経節の古格を忠実に守り、それは弟子の駒和太夫(松崎常蔵)、さらにその弟子の内田総淑(1893〜1984)に受け継がれます。内田は戦後、研究家たちから「古格の説経節を守る人」と認められ、昭和37年に10代目若太夫を襲名します。10代目は昭和59年に亡くなり、芸脈は一時途絶えますが、その曲風は直弟子の梅田和子や古屋要平(12代目若太夫)を通じて長唄三味線方の杵屋徳波が受け継ぎます。徳波は説経節の48節を楽譜化して演奏可能にし、自ら京屋波と名乗り、数人の弟子たちとともに公演活動を行っています。
また、初代若太夫の弟子の初代薩摩津賀太夫(石山美濃守)のそのまた弟子の山岸柳吉は説経節にあった人形芝居を考えようと、大坂の文楽座で8年間修行したり、やはり人形遣いの2代目西川伊三郎についたりして人形を研究し、やがて文楽風の人形を一人でも操作できる「車人形」を考案しました。柳吉は「西川古柳」を名乗り、多摩地域で説経節とともに公演を続けます。古柳の名跡は3代目以降八王子恩方の瀬沼家に引き継がれ、4代目古柳(瀬沼時雄)は説経節に加え義太夫を取り入れて演目を拡大、現5代目(瀬沼亨)は一時文楽の研修生としても学び、フラメンコなどの洋舞を取り入れ、新しい可能性を開きました。
このほか、3代目若太夫が現在の埼玉県秩父を訪れたときに地元の人に教えた説経節をもとに、横瀬村の若林一族が「ふくさ人形」を興しました。これは片手で使う手のひら大の首人形を説経節にあわせて動かすものですが、珍しい小型の回転舞台とともに若林一族が守り、現在の若松多津太夫に受け継がれています。
さて、5代目若太夫の弟子のひとりの2代目薩摩辰太夫(漆原四郎舎は、6代目の後継争いで敗れた後に実家の埼玉県騎西町に戻り、日暮竜トを名乗って独自に一派を立てます。竜トは辰太夫時代、会津若松で公演した時に「薩摩」という名前が地元の人の感情にさわったので、あわてて「若松」と変えたことがあり、これをふまえて竜ト派は「若松」を苗字にするようになりました。
竜トの弟子のひとりで埼玉県熊谷在の松崎大助は美声で鳴らしましたが、さらに三味線の手を工夫し、竜トよりさらに曲調を発展させます。大助は柔道家の嘉納治五郎の知遇を得て、東京で演奏活動を積極的に行い、レコードも多数出し、昭和初期まで活躍を続けていました。大助の芸名は「若松若太夫」。現若松派の誕生です。
初代若松若太夫は昭和23年に死去し、後は息子の寛が2代目若太夫として継ぎますが、戦後の混乱の中その存在は忘れられ、本人はアル中と失明という不幸に襲われ、板橋区に逼塞しますが、昭和40年代後半にホームヘルパーの青木久子が助力をはじめ、昭和55年に復活公演を行います。その後も盲目の太夫としてマスコミでもよく取り上げられ、公演の機会にも恵まれましたが、平成11年秋に死去。幸い晩年に弟子に恵まれ、埼玉県狭山市在住の小峰孝男が2代目の生前に3代目を継ぎ、現在も積極的に公演中です。
それからもうひとつ忘れてならない流れとして、新潟県の佐渡島に伝わった説経節があります。
佐渡に説経節が伝わったのは享保(1716〜36)のころといわれています。説経節は説経人形・金平人形・のろま人形といった人形、寛文延宝(1661〜81)のころに書かれた台本の写しと一緒に佐渡に渡り、以来現在にいたるまでの約300年間、比較的古体を残したまま公演を続けてきました。享保年間に入ったということは、前期説経節の最後の光だった2代佐渡七太夫の活躍した時代に非常に近いところから、佐渡の説経節は多くの部分で前期説経節を引き継いでいるものと思われ、学問的にも芸能的にも大変貴重なものとなっています。
現在佐渡の説経節は「広栄座」の人々が受け継いでいますが、唯一の太夫だった霍間幸雄さんが平成8年に亡くなり、あとを引き継ぐ太夫が現れていません。 
 
説経節の系譜

 

説経節が近世の芸能、例えば歌舞伎や講談に大きな影響を与えていることは学者の研究を待つまでもなく、その演目やモチーフを見れば一目瞭然であるが、説経節もまた、後続のヒット作である浄瑠璃等の影響を受けて改良されたり、別の流派ができたりと、互いに影響し合って来た。
説経節のルーツ / 声明(しょうみょう)
高野山遍照尊院の朝の勤行が始まっている。護摩に「芸道成就」と書き、真言密教の護摩焚きをじっくり観察する。それにしても、声明というのはどういう声の作り方なのだろうか。低く芯があり、燻されて鈍色に光っている。平安時代からざっと1000年ぐらい磨いた声だなあと感心する。
多分、サンスクリットの音読みなんだろうから、何を言っているのかは、素人にはまったく不明だが、手元のパンフレットの「のうまくさんまんだ ばさらだん せんだん」で真似してみる。
顎を少し引き気味にして、喉を詰めてから、咽頭と鼻腔のあたりを拡張していくとなんとなくそれらしい振動が発生することが分かった。声明の声は、声帯の振動だけでは作れない。どうやら、あの燻し銀のような声は、咽頭全体、はたまた、骨格全体を共振させることで発生させていると感じた。
そんなことをして遊んでいるうちに、私の体もある種の心地よい振動に共鳴してきて、天と地の間にすっぽりと調和するのを感じた。
この頃は、なんたらかんたらはめんどくさいので、声の調整にはもっぱら「真言」オームだけを用いている。これは健康にもいいかもしれない。
しかし、変な宗教と間違われても困るので、密かにやっている。密教だしね。  
古説経の成り立ち
説経節の学術的な研究は専門家の先生方の成果をご参考いただきたい。
とりあえず、荒木繁・山本吉左右両先生によ『説経節』(平凡社東洋文庫243,1973年)を読まないと、説経節について語ることはできない。私にとってもバイブルである。
猿楽・田楽・今様・平曲・能・謡(うたい)・曲舞等々、平安時代から、鎌倉時代の大雑把に500年くらいの間に様々な芸能が出現しており、日本人特有のストーリーやモチーフが作られた。
これらは当然、説経にも、その後のすべての芸能にも影響を与えている。
説経が仏教の懐から発し、唱導文学であることは明白であるが、西暦1400年頃の室町時代に入ると、仏教の大衆化とともに、説経の役割も、純粋に経を説くといったお堅いものではなく、より芸能化するとともに、寺社仏閣の、または芸能集団の座としての営業や宣伝が盛り込まれて行ったと思われる。
後述する五説経のひとつ「小栗判官一代記」に「車引段(くるまびきのだん)」という大変美しくも風光明媚な段がある。
いわゆる、道行きといった風情であるが、実は、内容はもっとグロテスクである。
照手姫が売られ売られて最後に辿り着いたのは、美濃の国は青墓の宿万屋長右衛門の旅籠である。ここから、大津関寺玉屋の門まで、餓鬼阿弥姿で土車に乗せられた小栗判官を自分の夫とは知らずに曳いて行くのが「車引段」である。
この段に記述されている照手の上下五日の行程は、現在の地図上でも克明に辿ることができる。
説経節ほど、場所が明確に示されている物語は外にはあまり無いのではないだろうか。
本来、本地(祭る神仏が人間だった時の話)を語るのが説経の本質であるから、地名は非常に重要である。
例えば、前段に書いた、大津関寺を何故、照手の終着としたのかには理由があるだろう。
「車引段」に出てくる関寺は、逢坂山の関寺であり、ご存知の「是れやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌を詠んだ蝉丸を祖神とする蝉丸宮があった。
蝉丸は盲目の琵琶法師として芸能の神様になっており、約500年程前の室町時代後期には、蝉丸宮の祭礼に各地の説経師が集まっていたらしい。
説経の聖地であった関寺を外すわけにはいかない。この車引段を読みながら、地図を開くと、まるで旅行案内のようであり、関係の寺社仏閣をストーリーに見事に埋め込んでいる。
また、別の段では、小栗が藤沢の清浄光寺(遊行寺)に埋葬され、餓鬼阿弥として戻ってくるという話があるが、ちゃっかり、遊行上人を登場させるところなどは、時宗の宣伝には十分な効果があったのではないだろうか。
説経師が、僧籍を持つ伝道者であったころには、それぞれ特定の宗派の利益のために活動をし、特定の宗派に利益のあるストーリーを創作していた。例えば、古説経には「熊野之御本地」とか「釈迦のご本地」などという外題が見える。
読んだことはないが、いかにもいかにもである。沢山の説経が語られていたことは明らかだが、どうやら説経師たちは、上層階級に気に入られるような柔な人種ではなかったようだ。
説経はアンダーな芸能として、民衆の中で発酵して、流浪の説経師の口を介して各地の説話を吸収しながら、独特のスートリーを形成していく。
したがって、説経には作者がない。室町時代、今から500年程前の民衆の魂が今でもめらめらと蠢いているように感じる。  
五説経への淘汰
年代によって、五説経の中身が異なっているのは、いわば、人気ランキングのようなものだからだろう。
かつて、ベスト5に選ばれた説経節には次のようなものがある。
「小栗判官」「苅萱」「信徳丸」「山椒大夫」「梵天国」「愛護若」「梅若」「信太妻」
室町後期から安土桃山・江戸時代の初めというと400年ほど前である。
歴史は表面的に武家の社会を描こうとするが、この激動期に生きた一般民衆は何を思い、何を願い生きたのだろうか。説経語りは、はっきり言えば乞食の芸能として、最下層である自らに希望と夢を与えるように説経を再構成した。説経は、語られる毎に変化し、民衆のエネルギーを吸収して、それ自体が生き物のように成長したのだと感じる。
そこには、虐げられて行き場のない、民衆の叫びが直接に刻み込まれたのだと思う。
小栗判官が餓鬼病になり、信徳丸が三病になる。そして、熊野で、四天王寺で蘇生をする。
それは癩者の姿に他ならない。熊野古道はそうした者たちの道でもあり、四天王寺はそうした者たちの終焉の地でもあった。決してくじけない。簡単には死なない。
五説経として残ったストリーにはそうしたしたたかな図太さがある。  
後期説経節
しかし、浄瑠璃という新しい芸能によって、説経は急速に人気を失ってしまう。
江戸時代になって、世情も安定し、民衆の意識にも当然変化があっただろう。
ところが、今から200年ほど前、初代若太夫が薩摩座を興して操り人形芝居で説経を演じたところ、これが大ヒットした。いわば中興の祖ということだが、新たに三味線を用いたことは、明らかに義太夫や常磐津、清元といった、当時隆盛の語り物の向こうを張ってのチャレンジであったようだ。
後期説経節は、新たな説経のストーリーを創ることはなかったが、初めて、説経を劇場化したこと、三味線の音曲として説経を節に乗せて説経節にしたことで、大きな質的な転換を図ったと言える。その後、説経節は明治・大正期までは、興業的にも、レッスンプロとしても、十分に食っていけたようであるが、戦後再び衰退してしまう。
現在の薩摩派説経節
薩摩派の説経節は、十代目若太夫(内田総淑)で一度途切れた。200年間続いて来た系譜は、実際には、もう実線で繋ぐことはできない。
私が何故「十三代目」なのかは、「太夫の系譜」で明らかにするが、私は先代さんとはまみえることができなかったので、正式には、誰にも説経を習うことはできなかった。
そうした意味で、直伝の実線で繋がれないのは残念だがしょうがない。
かろうじて、薩摩派説経節は、今、200年の時を経て私の中に生き延びている。  
 
説経「をぐり」(小栗判官1)

 

説経「をぐり」の表向きのテーマは、冒頭と末尾にそれぞれ、正八幡=荒人神の由来を説くことだといっているとおり、正八幡が人間であった時代の行いを述べることにある。説経というものは、もともとは寺社の縁起を語る語り物(唱導文学)として起こったものであり、語りを担った人々は、各地の寺社に隷属した下層の聖たちであった。「をぐり」の場合には、藤沢道場が重要な役割を占めていることから、正八幡の由来を説くとはいいながらも、藤沢の聖たちが中心になって物語を形作ったとも考えられる。
物語は、荒人神の前身たる小栗を介して、秩序への侵犯と其の報いとしての追放、主人公の死と再生、受難と報復などを、また、照手姫の揺るぎない献身を介して、人間の尊い愛について語る。特に、照手姫の存在感は圧倒的なもので、彼女の愛あるがために、物語を人間的で、しかもダイナミックなものにしている。
説経「をぐり」は、日本の中世の物語のなかでも、類希な恋愛物語だともいえるのである。
若年の小栗は「不調の者」として描かれる。不調とは、淫乱とか、秩序を乱す者という意味であろう。親の意に反して妻嫌いをした挙句、深泥池の大蛇と契り、それがもとで、父によって常陸へと流されてしまう。
常陸で流人の身となった小栗は、旅の商人後藤左衛門から照手という美しい姫のことを聞く。武蔵、相模両国の郡代横山の一人娘である。小栗は、親兄弟の了承を得ることなく、照手と手紙のやり取りを交わして、その心をつかむと、「一家一門は知らうと、知るまいと、姫の領掌こそ肝要なれ、はや婿入りせん」と、強引に婿入りをする。
怒った横山一門は、小栗をだまして殺そうとする。まず、鬼鹿毛という人食い馬に小栗を食わせようとして、死人の骨が散らばった馬場へと連れて行くが、小栗は、「やあ、いかに、鬼鹿毛よ、汝も生あるものならば、耳を振りたて、よきに聞け」と、鬼鹿毛を調伏して手なずけてしまう。人食い馬を自由自在に乗り回す小栗の姿は、まさに超人のように描かれていて、聞くものを感心させたに違いない。
小栗の怪力に怖気づいた横山一門は、今度は宴会に招いて毒殺しようと計る。父らのたくらみを予感した照手は、不吉な夢物語をして、小栗に行くことを思いとどまらせようとするが、小栗は10人の従者を引き連れて、横山の館に赴き、ついに殺されてしまうのである。
―さてこの酒を飲むよりも、身にしみじみとしむよさて、九万九千の毛筋穴、四十二双の折骨や、八十双の番の骨までも、離れてゆけとしむよさて・・・なう、いかに横山殿、それ憎い弓取りを、太刀や刀はいらずして、寄せ詰め腹は切らせいで、毒で殺すか横山よ、女業な、な召されそ、出でさせたまへ、刺し違へて果たさんと、抜かん切らん立たん組まんとはなさるれど、心ばかりは高砂の、松の緑と勇めども、次第に毒が身に染めば、五輪五体が離れ果て、さて今生へとゆく息は、屋棟を伝ふ小蜘蛛の、糸引き捨つるが如くなり
殺された小栗は土葬にされ、10人の従者は火葬に付される。また、照手姫は、体裁を考えた父によって、川に沈められようとするが、運良く助けられる。しかし、助けられた先の強欲な姥によって売りとばされ、さらに諸国を転々と売られゆくうちに、美濃の国青墓の遊女宿に売られてくる。青墓は東海道筋の宿場として、中世の頃より、名が通っていたところである。
遊女宿の主から、「流れの姫=遊女」になるように迫られながらも、それをはねのけ、毅然として生きていく照手の姿は、この物語の中でも、もっとも人の心を打つ部分である。
さて、小栗のほうは、地獄へと下る途中に、閻魔大王の采配によって、再び地上へと生き返る。この際、閻魔大王が小栗の身柄を、藤沢の上人に委ねるくだりは、この物語が、藤沢の念仏聖とかかわりあることを、推測させる。また、火葬された10人の従者は、体がないために生き返ることができず、小栗のみは、土葬されて体が残ったために生き返ることができたのには、当時の宗教観が反映されているのであろう。
3年の後に生き返った小栗の姿は、「あらいたはしや小栗殿、髪はははとして、足手は糸より細うして、腹はただ鞠をくくたやうなもの、あなたこなたをはひ回る」というものだった。藤沢の上人は「なりが餓鬼に似たぞとて、餓鬼阿弥陀仏」と名付け、閻魔大王自筆の御判に、この者を熊野本宮湯の峰に連れて行けとあるのを見て、小栗を土車に乗せて、引いていくのである。
この道行きの場面は、物語にとっての、一つの見せ場ともなっている。
―この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養と書き添へをなされ、土車を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、雌綱雄綱を打ってつけ、お上人も車の手綱にすがりつき、「えいさらえい」とお引きある・・・末をいづくと問ひければ、九日峠はこれかとよ、坂はなけれど酒匂の宿よ、をひその森を「えいさらえい」と引き過ぎて、はや小田原に入りぬれば、せはひ小路にけはの橋、湯元の地蔵と伏し拝み、足柄箱根はこれかとよ、山中三里、四つの辻、伊豆の三島や浦島や、三枚橋を「えいさらえい」と引き渡し、流れもやらぬ浮島が原、小鳥さへずる吉原の、富士の裾野をまん上り、はや富士川で垢離をとり、大宮浅間富士浅間、心静かに伏し拝み、者をもいはぬ餓鬼阿弥に、「さらばさらば」と暇乞ひ、藤沢指いて下らるる
「えいさらえい」と繰り返す上人の叫びが、小栗の復活を予言するものとして、聞くものの心をとらえたことであろう。
この後、次々と引かれ続けて青墓の宿にたどり着いた小栗は、そこで、照手との運命的な再会をする。だが、餓鬼阿弥となった小栗には、声を発することもかなわず、照手のいる遊女宿の前に三日の間立ちつくすばかり。
照手も、餓鬼阿弥が小栗であるとは露もしらず、小栗の胸札にあった「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」との言葉に感じ、やっと太夫に許しを乞うて、小栗の土車を引いていくのである。
この場面における照手の姿は、人の愛というものがかもしだす、もっとも美しいものといえるのではないか。
―照手この由聞こしめし、余りのことのうれしさに、徒やはだしで走り出て、車の手縄にすがりつき、一引き引いては千僧供養、夫の小栗の御ためなり、二引き引いては万僧供養、これは10人の殿原たちのおためとて、よきに回向をなされてに、承れば自らは、なりと形がよいと聞くほどに、町屋、宿屋、関々で、あだ名とられてかなはじと、また長殿に駆けもどり、古き烏帽子を申し受け、さんての髪に結びつけ、丈と等せの黒髪をさっと乱いて、面には油煙の墨をお塗りあり、さて召したる小袖をば、すそを肩へと召しないで、笹の葉にしでを付け、心は者に狂はねど、姿を狂気にもてないで、「引けよ引けよ子どもども、物に狂うて見せうぞ」と、姫が涙は垂井の宿
照手は大津の関寺まで土車を引いてきたところで、太夫との約束の期限が迫ったため、青墓に戻ることになるが、土車は引き続き人びとに引かれ、最後には山伏に背負われて熊野本宮湯の峰に至り、そこで劇的な復活をとげるのである。
―なにか、愛洲の湯のことなれば、一七日お入りあれば、両眼が開き、二七日お入りあれば、耳が聞こえ、三七日お入りあれば、はや物をお申しあるが、以上七七日と申すには、六尺二分、豊かなる元の小栗殿とおなりある
復活を果たした小栗が、父親と再会し、帝から領地を賜ったあとに、むかしの仇を返すことは、「さんせう太夫」の厨子王丸と同じである。だが、仇の返し方は、随分と異なっている。照手を売り飛ばした姥だけは、肩まで生き埋めにされたうえ、地上に出た首を竹で引かれる憂き目に会うが、青墓の太夫や横山らほかのものは、寛大な処置を受けたり、かえって褒美までもらったりする。陰惨なイメージとは遠いのである。
以上、物語のあらすじをたどってきたが、この物語が現代人の我々をも魅了するのは、照手の愛に表現されたような、人間の生き様が胸をうつからかもしれない。
説経には、「さんせう太夫」に見られるような、陰惨で目をそむけたくなるような描写が多い。中世を生きた民衆たちの抑圧された情念が反映した結果、そのような陰惨さが、迎えられたのであろう。一方、「をぐり」の場合には、毒殺の場面にしても、照手の受難にしても、陰惨を強調するというよりは、主人公たちの強い意志や、それでもなお屈せざるを得ない運命を強調するところある。
巨大な運命の力に抗しながら、力強く生き抜こうとした主人公の姿が、中世の民衆に救いの感情をもたらし、また、それが現代人にも訴えかけてくるのであろう。
説経「おぐり」全編は、主人公の死と再生、因果応報をテーマにしている。そのなかで、照手の愛は格別の光を放ち、物語に温かな色を添えた。照手の強い生き様は人の胸を打つ。
説教「をぐり」について
京都二条高倉の大納言兼家夫婦には子供が無く、鞍馬山の毘沙門天に子授け祈願をした。まもなく兼家夫婦は男の子を授かり、「有若」と名付けた。後の小栗判官である。小栗は文武に秀で、又、評判の青年に成長する。しかし、小栗は父の勧める縁談を全て断わる。21歳までに72人の妻を帰したとある。小栗が鞍馬参詣の途次、彼の吹く美しい笛の音に誘われるように、深泥池の大蛇が美女となって現われる。小栗は、これぞ理想の女性と喜び、二人は愛を深めた。この事を耳にした父兼家は怒り、小栗を常陸の国に流してしまう。
常陸の国に流された小栗は、その後、武蔵・相模の郡代横山の娘で、日光山の申し子照手姫の美しさを聞き、10人の家来を連れて強引に婿入りする。これに怒った横山は、三男三郎の企みで、小栗を人喰い馬の鬼鹿毛に食わせようとするが、小栗は鬼鹿毛を難なく乗りこなしてみせる。今度は、宴席に招き、毒酒をもって殺してしまう。照手も同罪として相模川に流されるが、照手は守り本尊千手観音の御加護により、ゆきとせが浦の浜辺にたどり着き、村君の太夫に助けられる。しかし、姥にいじめられ、ついには人買に売られてしまう。各地を転々とした照手は美濃の国、青墓の萬屋に買い取られ、常陸小萩という名で水仕女として苦難の日々を送っていた。
さて、地獄におちた小栗は、閻魔大王の計らいで、この世に餓鬼の姿で戻されることになる。「この者を熊野湯の峯の湯に入れれば元の姿に戻る」と書いた閻魔大王自筆の胸札をかけて墓から現れ出る。これを見た藤沢の上人は胸札に「一引きひけば千僧供養、二引きひけば万僧供養、藤沢の上人」と書き添え「餓鬼阿弥」と名付けて土車に乗せ、熊野に向けて旅立たせる。道中、上人様の徳をいただこうと、人々は村から村へ餓鬼阿弥を乗せた土車をひいた。美濃の国、青墓の萬屋の水仕女、常陸小萩も「餓鬼阿弥」が我が夫とも知らず、大津の関寺まで3日車を引いた。
道中、多くの人々の情けを受け、餓鬼阿弥車は相模の国を出て関ヶ原を越え、京都、大阪、そして小栗街道を難渋な旅を続けること444日で熊野湯の峯に着いた。
湯の峯の壺湯に入った小栗は、一・七日(いちしちにち・7日)で両目が開き、二・七日(にしちにち・14日)で耳が癒え、三・七日(さんしちにち・21日)で言葉(ことのは)を話せるようになり、七・七日(なななぬか・49日)には6尺豊かな元の姿に蘇生した。
熊野権現の加護と、湯の峯の薬湯の効あって見事に蘇った小栗は、都にもどり両親と再会して勘当の許しを得る。又、朝廷から美濃の国司に任じられ、青墓の萬屋に常陸小萩を訪ね、照手と再会を喜び合う。その後、二人は常陸の国に戻って幸せな生涯をおくったとある。
小栗は美濃の国墨俣の正八幡に、又、照手は近くの安八町の結明神の縁結びの神として祀られ、人々の信仰を集めている。
物語について
この物語は、諸説さまざまで、その奥行きの深さも抜群である。この物語が史実として伝えられている常陸の国小栗邑(茨城県真壁郡協和町)には、小栗城跡や墳墓などの史跡が残っている。
「鎌倉大草紙」では、応永30年(1423)小栗満重・助重親子は足利持氏と戦い小栗城落城。その後、助重は悲願の小栗家(小栗城)再興を果たすも、康正元年(1455)足利成氏に攻められ再び城を明け渡す。これらの史実をベースに物語は構成されている。
「小栗実記」では、小栗満重が足利持氏との戦いに敗れ落城。その子助重(小栗判官)は、三河の国(愛知県)を目指して落ちのびる途次、相模の国(神奈川県)で郡代・横山一統の謀略で毒酒を盛り殺害されようとするが、これを察知した横山の娘照手の機転により一命を取り留めた。小栗は藤沢へと逃れ遊行上人の助けを受けたが、口に含んだ毒酒の害で、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけず、といった重病人(餓鬼病)の姿となる。一方、照手も家を追われ、流浪の身となり、苦難に満ちた日々を過ごしていたが、家臣らの助けもあり小栗判官との再会が叶う。しかし小栗判官の病は意外にも重く照手の強い思いで、治療のため、歩行もかなわぬ小栗を土車に乗せ、人の情けを頼りに熊野湯の峯を目指しての道行きとなる。
熊野権現の霊験と湯の峯での湯治が奇跡を呼び本復がかない、元の小栗となる。二人はその後、幸せなくらしを取り戻した。
「小栗実記巻之十(「紀伊名所図会」・嘉永4年・1851)」、では小栗判官・照手・一子大六の三人が熊野の山中で熊野権現の霊夢を授かる記述と挿絵がでている。
小栗一族の歴史をいまに伝える協和町(茨城県)、照手の生れ里・相模原市(神奈川県)、遊行上人と深く関る藤沢市(神奈川県)や照手が水仕女として苦難の日々を送った美濃の大垣市周辺(岐阜県)、滋賀県、京都府、大阪府、和歌山県などには小栗判官物語にまつわる史跡や伝承が数多く残されている。相模の国から熊野まで小栗を乗せた車が通ったとされる車道(東海道・中山道・南海道・小栗街道)沿いには地元の人々がこもごも語る説話が生きている。
宗教的意味あいをもつこの物語が説法として説かれ、僧や説経師、又、熊野比丘尼によって語りひろめられ、時を経て説経淨瑠璃や歌舞伎など芸能化し、民衆に愛される物語として定着、江戸期にはずいぶんと盛んに演じられたようである。その筋立ては、小栗判官助重の一代をモデルとして創作された宗教説話「説経をぐり」が一般的である。
小栗判官一代記(小栗判官2)
説経節の代表作。若太夫正本全33段が伝わっている。
小栗判官政清と照手姫との深い愛情を機軸にして、小栗の武勇、照手の可憐が印象的である。
説経節のように語り出しや末尾に神仏の紹介や来歴を持つものを本地物という。
美濃の国、安八郡、墨俣の正八幡に祭られている神は、人間であった頃、小栗判官と呼ばれ、照手もまた、近くの結神社に祭られているという。
このような神社・仏閣の宣伝が、説経節のスタートであり、随所にコマーシャルがはさまれている所から見て、説経の語り手が誰であったのかを窺い知ることができる。感動することは、800年前ぐらいには、すでに語られていたであろう、これらの神社・仏閣が、今でも実際に存在していることである。
現代で言えば、コマーシャルソングでもあったので、観音様や、大権現様が至るところで大活躍する。その中でも、相模の国藤沢の藤沢山清浄光寺(遊行寺)は凄い。
娘照手を取られて激怒した横山将監照元は、様々な奸計を図るが、二枚目スターの判官はおいそれとは死なない。万策尽きて、とうとう照元は判官を毒殺、その屍を遊行寺に埋葬する。
照手は相模湾に沈められるはずだったが、流浪の身となり、美濃の国青墓の宿で、下の水仕として厳しい労働に耐える毎日である。
中世民衆の凄まじいイマジネーションは、判官を地獄から呼び戻し、遊行寺の墓からはいずり出て、餓鬼阿弥(餓鬼病・がきやみ)として娑婆に帰ってくる。土車に乗せられた餓鬼病の判官は、数多の手によって熊野本宮湯の峰まで運ばれるが、現在の夫とは知らずに、餓鬼病を曳く照手の姿が涙を誘う。近年、ブームになった熊野古道を運ばれた小栗は、本宮湯の峰で劇的な本復(再生)を遂げる。
ハッピーエンドの結末は、中世ジャパニーズドリームと言うか、サクセストーリーと言うべきか。どっちにしろ、小栗は中世から近世におけるヒーローの代名詞なのである。
薩摩派で、特に良く演じられているのは、「車引き」「二度対面」「矢取り」の各段である。 
     
説経「愛護の若」

 

愛護の若は、五説経の一つに数えられているが、ほかの四つの古い説経に比べると、体裁や内容に幾分かの相違を認めることができる。まず体裁であるが、現存するもっとも古い正本(寛文年間八太夫刊)でも、浄瑠璃と同じく六段ものになっており、この説経が比較的新しいことを物語っている。
内容については、説経の常道通り、神祇の縁起(ここでは日吉山王権現)という形をとってはいるが、ほかの説経におけるような情念のすさまじさを描くという点では比較的あっさりとしている。折口信夫は、この物語の骨格を、継子いじめの話や、本地物語などといった伝統的な要素からなるとしながらも、恋の遺恨という創造が加わっているところに、従来の説経にはない新しいものがあるとした。
しかし、この説経のもとになった物語自体は、ふるい起源をもつ伝説であったらしい。物語の舞台が江州の蝉丸神社の近辺に設定されていることから、恐らく、蝉丸神社を中心に活動していた説教師達のあいだで、語り継がれていたもののようである。
いづれにしても、すべてが新しい創作になるものではなく、長らく説教師のあいだで語られていたものを、説経浄瑠璃という形に再構成し、徳川時代初期における民衆の好みにあうようにして、語られたのであろう。
この作品は、継母による恋の遺恨と、その結果として迫害される主人公「愛護の若」の漂泊と絶望、そして死の物語である。
継母による迫害、いわゆる継子いじめの話は、「落窪物語」をはじめ鎌倉時代から日本の文学作品の主要なテーマともなっており、室町時代に至って大きな発展をみせたとされる。説経においても、「しんとく丸」の中で、継子虐待が主要なテーマに取り上げられている。本作品の場合には、虐待は、継母による恋の遺恨が理由とされており、その点が新しい趣向といえる。
主人公愛護の若は、嵯峨天皇の御代に、二条の蔵人前の左大臣清平が泊瀬の観音に申し子をして授かった子であった。母親が自らの傲慢によって死んだ後、父親は後妻(雲居の局)を迎えるのであるが、この後妻が、こともあろうに継子の愛護の若に懸想をする。そして、その思いが拒絶されるに及んで、愛護の若を罠に陥れるのである。
「しんとく丸」においては、継母はわが子を跡継ぎにするために、継子を陥れるのだが、ここでは、恋の遺恨が、狂った女に復讐をさせている。「けさまでは、ふきくる風もなつかしくおぼしめさるるこの恋が、今は引き替へ、難儀風とやいふべし」
罠にかけられた愛護の若は、誤解した父によって拷問され、桜の古木に高手小手に縛りあげられる。「いたはしや若君は、かすかなる声をあげ、この屋形には、お乳や乳母はござなきか、愛護がとがなきことを、父御に語りてたまはれと、消え入るやうに泣きたまふ、雲居の局、月小夜は、笑ひこそすれ、縄解く人はなかりける」
愛護の若が寵愛していた手白の猿が、主人を助けようとして縄を解きにかかるが、畜生の浅ましさ、小手の縄は解いたものの、高手の縄は解けずして、いましめはいよいよきつくなるばかり。ここで猿が出てくるのは、いうまでもなく、山王権現と猿との、関係の由来を語ろうとするものであろう。
見かねた母親が、閻魔大王の計らいにより、死者の世界から狐の姿を借りて甦り、若の縄を解く。説経のほかの作品では、困窮した主人公を救うのは、おおかた女性の献身的な愛であるが、ここでは、それは死んだ母親の愛なのである。
これ以後、愛護の若の漂泊が始まる。舞台は比叡山とその周辺である。漂泊する愛護の若の身辺には様々な人が登場するが、それらは鋭い対立に仕分けられて描かれている。
まず、若に同情を寄せる人々は、細工と呼ばれる人々や、田畑の助とよばれる叡山の奴婢たちである。細工とは、原文には明示されていないが、刀の装飾をつくる皮革職人のことであり、賎民とされていた者であった。彼らは、愛護の若を導いて比叡山のふもとまで来るのだが、山に登ることを許されない人々である。
「若君様、あれご覧候へや、一枚は女人禁制、又一枚は三病者禁制、今一枚は我ら一族細工禁制と書きとどむ、これよりお供はかなふまじ、はや御いとま」
一方、愛護の若を排除し、迫害を加えるものは、叡山の僧であり、里に住む姥である。叡山の僧は、母親の兄にあたり、若の伯父であるにもかかわらず、その風体からのみ判断して若を排除し、迫害する。里の姥にいたっては、若は里に侵入した秩序の敵でしかない。
ここで描かれているのは、追放されて漂泊の身になったものがたどる、孤立と絶望である。そのなかで、救いの手を差し伸べるものが、同じように迫害される立場にあったものだけだったというのが、この物語を陰惨なイメージのものへ仕上げるもととなってている。
説経のほかの作品においては、主人公の孤立と絶望は、最後には女性の尊い愛によって救われるのであるが、この作品においては、主人公は救われることなく、絶望したままで死んでいく。しかも、愛護の若が身を投げた池の淵から、蛇と化した継母が、死んだ若の遺体をくわえて、現れるというおまけまでついている。
「不思議や池の水揺り上げ揺り上げ、黒雲北へ下がり、十六丈の大蛇、愛護の死骸をかづき、壇の上にぞ置きにける、ああ恥ずかしや、かりそめの思ひをかけ、つひには一念とげてあり、阿闍利の行力強くして、ただ今死骸を返すなり、我が跡問ひて賜びたまへ」
物語の結末には、父親や細工はじめ108人が池に身を投げたとある。折口信夫は、これを以て、室町時代に芽ざし、徳川時代に発展した殉死が取り上げられているものと解釈しているが、この作品の流れの中では、唐突な印象を与えているといわざるをえない。
やはり、作品の背骨をなすのは、漂泊するものの孤立と絶望にあると見たほうが、自然といえよう。
 
説経「しんとく丸」

 

説経「しんとく丸」は、継母の呪によって宿病に侵された者の、絶望と救済の物語である。宿病のなかでも癩病は、近年までも厳しい差別にさらされてきたのであるが、中世においては、それこそ禁忌の対象として、社会からの追放と孤立を意味した。こうした境遇に陥った主人公が、天王寺を舞台にして、女性の献身的な愛と観音の霊力によって救われるという物語である。
天王子は、清水寺とならんで、中世における観音信仰の一大霊場であった。また、浄土信仰の拠点でもあり、その西門は極楽の東門に通ずるといわれた。このようなことから、庶民の厚い信仰を集めるとともに、社会から脱落した者たちの最後の拠り所ともなった。いわば、差別され迫害を受ける者たちにとっての、アジールとしての機能を果たしていたのである。
天王寺にはまた、ささら乞食やあるき巫女などの、下層の芸能民が集まり、祈りに来た民衆を相手に芸を売っていたとされる。説経「しんとく丸」は、天王寺を拠点に活動していた、このような芸能民が生み出した作品ではないかと思われるのである。
同じような題材を扱った能の作品に、「弱法師」がある。世阿弥の長男元雅の作であるが、ストーリーは単純化され、主人公の孤立や絶望は、説経におけるほど、くどくどしく描かれていない。どちらが先というのではなく、恐らく天王寺の乞食たちの間で語られていた原物語が、能と説経に別々に取り上げられたものと推測される。
説経の物語は、主人公しんとく丸の出生の因縁を語ることから始まる。父母が清水に申し子をした結果、前世の宿業を許されて子を授かるというものである。このような申し子の話は、中世の物語に数多く出てくるが、ここでは観音に申し子をするという点が重要で、全編が観音信仰に彩られているこの作品のポイントとなっている。
しんとく丸の不幸は、実母が自らの傲慢により、観音に罰せられて死ぬことから始まる。後妻となった継母は、自分の子が可愛さに、しんとく丸に呪をかけるのである。それも、しんとく丸に生を与えた観音に、その命を取ってくれと頼む。
「いたはしや、しんとく丸は、母上の御ために、御経読うでましますが、祈るしるしの現れ、その上呪強ければ、百三十六本の釘の打ちどより、人のきらひし違例となり、にはかに両眼つぶれ、病者とおなりある」
父の信吉は、しんとく丸が違例者の姿になったのを知り、「長者の身にて、あれほどの病者が、五人十人あればとて、育みかねべきか、一つ内にいやならば、別に屋形を建てさせ、育み申そう、しんとくを」というが、妻の拒絶にあい、ついには、下人に申し付けて、天王寺に捨てさせる。
「いたはしや若君は、不思議さよとおぼしめし、枕を探り御覧ずれば、不思議の物をこれ探る、金桶、小御器、細杖、円座、蓑、笠、これ探る、さてはたばかり、お捨てあったは治定なり、例へば御捨てあらうとも、捨てるところの多いに、天王寺にお捨てあったよ、曲もなや、蓑と笠とは、雨、露しのげと、これは父御のお情けか、杖は道のしるべなり、円座は、馬場先に出で、花殻請へと、これは仲光が教へかな、この小御器では、天王寺七村をそでごひせよと、これは継母の教へかな、たとひ干死(ひじに)を申せばとて、そでごひとて申すまいと、聖きっておはします」
深い絶望に閉ざされたしんとく丸は、しかし、清水の観音の夢のお告げに従って、蓑、笠を肩にかけ、町屋をそでごひして歩く。痩せ細ってよろめくしんとく丸を見て、人々は、弱法師と異名をつけるのである。
ふたたび夢に現れた観音の教えに従い、しんとく丸は熊野の湯に向かう。熊野の湯は昔から病者を癒すとされていた。亡者となった小栗判官も、熊野の湯で蘇生したのであった。
熊野の湯に向かう途中、しんとく丸は、施行を受けようとして、かげやま長者の館に立ち入り、そこで長者の娘乙姫と運命的な再会をする。
違例者となる前、しんとく丸は天王寺の舞楽の場で乙姫を見初め、恋文を送っていた。乙姫もしんとく丸の気持ちに応えて返し文を認めたまではよかったが、継母の呪によって二人の恋は中断していたのだった。
しんとく丸は、己の目が見えぬために、かつての恋人の前に恥をさらすことになったと、深い絶望に襲われながら、天王寺へと舞い戻っていく。一方、乙姫のほうは、かつての思い人が違例者と成り果ててもなお、愛を失わないまでか、その愛を貫こうとする。その決意の言葉は、凛然とした女性の持つ美しさを感じさせるのである。
「なう、いかに父御さま、承ればしんとく殿、人のきらひし三病者となり、諸国修行と承る、お暇賜れ、夫の行方を尋ねうの、父母いかに」
かくして、乙姫は夫と定めたしんとく丸の行方を追って、「さて自らは、見目がよいと承る、姿を変へて尋ねんと、後に笈摺、前に札、巡礼と姿を変へ、」放浪の旅に出る。この順礼の姿は、観音信仰に身をささげる放浪者の象徴である。中世の世、天王寺に拠り所を求めた制外者たちの多くは、男は聖の衣服をまとい、女は順礼の姿をとっていたのだろうか。いづれにしても、制外者と身を変えることまでして、愛するもののために献身する。女性の純真な心情こそが、この作品に類希な色合いを添えているのである。
女性の献身は、「さんせう太夫」の安寿姫や、「をぐり」の照手姫に見られるように、説経の大きなテーマであった。女性の愛によって、絶望した者が救済されるという構図は、説経にとどまらず、中世文学を貫いている縦糸のようなものである。その女性の愛とは、いいかえれば、観音の慈悲が人間の姿を通じて現れたものなのであろう。少なくとも、中世を生きた人びとには、そう確信されたに違いない。
この作品の最大の聞かせ場は、天王寺における、乙姫としんとく丸の再会の場面である。
天王寺いせん堂に御参りした乙姫が、「鰐口ちゃうど打ち鳴らし、願はくは夫のしんとく丸に、尋ねあはせてたまはれ」と請願すると、うしろ堂より、しんとく丸が弱った声で、「旅の道者か、地下人か、花殻たべ」と物乞いにあらわれる。乙姫はやっと会えたしんとく丸に抱きついて、お名乗りあれと迫る。しんとく丸はうろたえて、「旅の道者か、さのみおなぶりたまひそよ、盲目杖にとがはなし、そこのきたまへ」と、自らの姿を恥じるのみなのを、乙姫は流涕こがれながらも抱きしめるのである。
かように、この場面は、乙姫の姿に体現された観音の慈悲が、哀れなものに救いを差し伸べる象徴的な場面となっている。癩病に身をおかされたしんとく丸を抱きかかえて肩にかけ、町屋をそでごひして歩く乙姫の姿は、観音の化身と見えたであろう。
一曲の最後は、観音の夢の告げにしたがって、乙姫がしんとく丸を再生させる場面である。
「乙姫かっぱと起きたまひ、あらありがたの御夢想やと、御前三度伏し拝み、御下向なさるれば、一のきざはしに、鳥箒のありけるを、たばり下向申し、埴生の小屋に下向あり、しんとく丸をひったて、上から下、下から上へ、善哉なれと、三度なでさせたまへば、百三十五本の釘、はらりと抜け、元のしんとく丸とおなりある。」
蘇生したしんとく丸が、自分を陥れた継母に復讐するのは、説経の常道とおりであるが、この作品においては、復讐は大した意味を持たされていない。
筆者が思うに、作品が訴えかけているのは、乙姫の愛と、それが奇跡としてもたらしたものである。更には、人間が持ちうる尊い感情と、それを見守る観音の深い慈悲である。
 
説経「かるかや」(刈萱1)

 

説経「かるかや」は、遁世者をテーマにした語り物である。遁世者とは、故あって俗界の縁を断ち切り、高野山を始めとした大寺院に身を隠すことによって、別の生を生きようとした者どもをいった。髪を剃って寺に入るといっても、僧侶になる訳ではない。寺院の片隅に身を寄せ、懺悔をすることで、それまでの因業から開放され、聖の末端に連なって、生き返ることをのみ望んだ。
中世には、こうした遁世者が多く存在したと考えられる。高野山は、遁世者のメッカとしてとりわけ名高かったようである。彼らは高野聖と呼ばれて、山中に庵を結んで暮らす者もあり、また諸国を歩いて勧進する者もあった。
遁世の理由はさまざまであったろう。大事なことは、中世には、俗界で躓いた者に、別の生き方を受け入れてくれるアジールがあったということだ。しかし、アジールに逃げ込む者は、別の生に入るに際して、それまでの恩愛を棄てなければならない。
説経「かるかや」は、このような遁世者の、俗界からの逃避と、俗界への恩愛との、葛藤を描いた物語なのである。
この物語を聞く者は、救いのない悲しさに圧倒される。主人公の重氏の遁世を追って、妻と二人の子が辛酸をなめ、すべての者が死ぬことによって幕が下りる。重氏は、何度か恩愛の念に動かされながらも、妻子の愛を拒み続け、最後まで名乗ろうとしない。物語は重氏が遁世するにあたって立てた誓文に根拠を求めているが、何が重氏をしてかくもかたくなにさせているのか、誰しも訝しく思わずにはおれない。
あるいは、説経を語り歩いた者たちの境涯が、そこに反映しているのかもしれない。彼らは、念仏聖や遊行聖として、遁世者としての一面をもっていた。その境涯の厳しさが、この物語に、妥協をゆるさぬ俗界への拒絶をもたらしたとも考えられるのである。
物語は重氏の道心から始まる。重氏は宴席の上で、「いつも寵愛の地主桜と申すが、本の開いた花は散りもせで、末のつぼうだ花が一房散って、この花よそへも散らずして、重氏殿の杯の中に散り入って、ひとせとふたせと、三巡りまで巡った」のに感じて遁世修行を発心する。
一門は無論御台所の願いをも聞き入れず、「いかに御台に申すべし、変わる心がないぞとよ、変わる心のあるにこそ、深き恨みは召さうずれ、この世の縁こそ薄くとも、又こそ弥陀の浄土にて巡り合はう」と書置きを残して家を出てしまう。
いかにも、必然に乏しい道心である。この世の無常を感じたといっても、重氏はわずか二十一歳の青年である。若い妻と三歳の娘があり、妻の胎中には7ヶ月の子が宿っているとしているのだから、いよいよ訳がわからないのであるが、それが物語に不条理を添えて、迫力を増してもいる。遁世にあっては、理由はさして重要ではないのであり、遁世をするというそのこと事態が重大だったのであろう。
比叡山にやってきた重氏は、法然上人に髪を剃ってくれるよう求めるが、法然上人は「遁世者禁制」といって、はじめは相手にしない。安易に遁世を求めるものが多いからだという。歴史的事実としても、そうであったのかもしれない。しかし、重氏は日本中の寺社の名において誓文することで、遁世を認められる。
「それがしがことは申すに及ばず、一家一門、一世の父母にいたるまで、無間三悪道に落とし、国許よりも親が尋ねて参る、妻子が尋ねて参るとも、再び見参申すまじ、ただ得心の者のことなれば、ひらさら髪をそって、出家にないてたまはれと、大誓文をお立てあるは、身の毛もよだつばかりなり」
13年間比叡山で過ごした後、重氏は御台所が子を連れて比叡山を訪ねる夢を見る。恩愛にとらわれることを恐れた重氏は、女人禁制で知られる高野山に移る。そこでなら妻と対面しなくともすむからである。
夢のとおり、御台所は夫を尋ねて旅に出る。その場面も一曲の聞かせどころである。重氏遁世の後に生まれた男の子を、重氏の置文のとおり石童丸と名付けて育ててきたが、その子が父を恋しがるのに感じて、二人連れで旅に出る。
一方、娘の千代鶴も、「父には棄てられ申すとも、母には棄てられ申すまいと、かちやはだしで出でさせたまふ、親子の機縁の深ければ、五町が浜にて追ひつき、母上様の御たもとにすがりつき、たださめざめとぞお泣きある」と訴える。これに対しては、「路次の障りとなるぞかし、それをいかにと申するに、これよりも上方は、人の心が邪険にて、御身のやうなる御目形のよい姫は、押へて取って売ると聞く、売られ買はれてあるならば、二世の思ひであるまいか、御身は館へ帰りつつ、館の留守を申さいの、父だに尋ね会ふならば、今一度父に会はせうぞ、はやはや帰れ」と、返してしまう。そして、それが今生の別れともなるのである。
高野山にやってきた母子は、山へ登ろうとして、女人禁制の由来を聞かされる。弘法大師の母上でも、山に登ることを許されなかったという内容である。この場面は一曲の中でも長い部分を割り当てられている。そこだけで、一つの物語が成立している。おそらく高野聖の間で受け継がれてきた伝説なのであろう。
古来日本の山岳道場のほとんどは、女人禁制の建前をとってきた。それには仏教教義が建前としてきた女人への禁忌もさることながら、これら山岳が、男の遁世者の寄り集まる拠点だったという事情もあるようだ。
母を麓に一人残して山に登った石童丸は、ついに父重氏と会う。だが、息子とさとった重氏は、恩愛の念に悩みながらも、最後まで自分が父であるとあかさない。それのみか、汝の父は死んだと嘘をいって息子を悲しませ、あまつさえ、御台所も息子の戻りを待ちわびて死んでしまう。実に不条理に満ちた展開が、聞くものをやきもきさせる。
母の遺骨を携えて国許に戻った石童丸は、姉の千代鶴までが死んだとの報に接する。物語はますます悲しさに染まっていくのである。
結末は意外な展開となる。石童丸は聖となって高野山に入り、重氏は名をあかさぬままに信濃の善光寺へと移る。そして、最後には父子同じ日に死ぬ。
この一曲は、かくのごとく不条理に満ちたものである。遁世とは何か、遁世する者に課せられた禁忌とは何なのか、人をして問わしめずにはいない。
刈萱2
薩摩派では何故か「苅萱」の台本がほとんど伝わっていない。
少なくとも私の手元には十代目若太夫(内田総淑)の「高野山札所段」(途中で落丁しており不完全)、誰が筆写したか不明の「石童丸すりちがいの段」だけである。
一方、傍系の若松派は、「苅萱」をよく演じていたようである。
これはあくまでも推察であるが、傍系の若松派との間で、ある意味棲み分けをしていたのかもしれない。
若松派の説経節は、道徳的に好ましく青少年の健全育成に役立つという理由で嘉納治五郎の援助を受けた。初代若松若太夫は、明治・大正期にかなり派手な公演活動をしている。
レコードを売り出し、ラジオにも出演しているから、説経師としては異色である。
手元にも若松若太夫の「苅萱」の音源はあるが、薩摩派のものはない。
五説経の中で色恋が出て来ないのは「苅萱」と「三庄大夫」である。
「三庄大夫」は前述のように現代的に言えばR15に該当するかもしれないので、清く正しい若松派の十八番は「苅萱」だったのかもしれない。
ラジオから聞こえてくる若松派の説経を薩摩派の太夫たちも聞いたであろう。
「素晴らしい」と思ったか、「ふん」とうそぶいたかは知れないが、お調子者は、若松派ブームで、慌てて芸名を薩摩から若松に変えた者もいたところを見ると、その影響はかなりのものであったことは確かである。
誰から聞いたわけではないが、台本の伝わり方を見てみると、なんとなく、若松派が得意とした演目を避けて来たような気配を感じる。
私は別にそんなことは関係ないので、不完全な台本から、「苅萱高野山萱の御堂の段」を作ってみることにした。
「本地は、国を申さば信濃の国、善光寺如来堂の左手(ゆんで)の脇に親子地蔵菩薩と斎われておわします」
不完全な台本を補うために、さっそく長野の刈萱山西光寺に出かけることにした。
お世話になったのは、住職夫人の竹澤繁子さん。「苅萱」の絵解きで有名なことは以前から知っていたが、親子地蔵をじっくり観察してから、さっそく、絵解きをしていただく。
せっかくだからと、「地獄めぐり」もしていただき、「わー、それは俺だあ」と騒いで笑われてしまった。
怒られるかも知れないが「地獄めぐり」の方が面白かった。
「絵解き」と「石童丸親子地蔵和讃」から一部の文言を借りる許し受け、長野日帰り行の目的は達した。
その後、無事台本も完成し、「高野山萱の御堂」の公演には、遠路、竹澤繁子さんにも来ていただき、大変うれしかった。

説経「さんせう太夫」(山椒大夫・安寿と厨子王の物語1)

 

説経「さんせう太夫」は、高貴の身分の者が人買いにたぶらかされて長者に売られ、奴隷として辛酸をなめた後に、出世して迫害者に復讐するという物語である。高貴のものが身を落として試練にあうという構成の上からは、一種の貴種流離譚の体裁をとっているが、物語の比重は、迫害を受けるものの悲哀と苦しみに置かれており、故なき差別や暴力への怨念に満ちたこだわりがある。
中世の日本には、支配する者とされる者との間に、厳然とした溝があり、過酷な対立があった。そして、支配される者の底辺には、譜代下人と呼ばれる階層があり、支配者に身分的に隷属して、奴隷のような境涯に甘んじていた。かれらは、人にはなれぬ製外者(にんがいしゃ)として扱われ、支配者による搾取のほか、苛烈な差別を受けていた。
「さんせう太夫」が語る世界は、こうした下人の境遇なのである。説経を語る者たちも、定住の地を持たぬ漂泊の民であり、「ささら乞食」として差別される身であった。その彼らが語ることによって、故なく貶められていた人々の情念が乗り移り、物語に人間の叫びを伴わせた。聞くものをして身を震わせ、今日の我々にも訴えかけてくるものは、この人間の魂の叫びなのである。
森鴎外は、説経「さんせう太夫」を素材にして、小説「山椒大夫」を書いた。鴎外は、説経のあらすじをおおむねにおいて再現しながら、親子や姉弟の骨肉の愛を描いた。すぐれた文学作品として、今でも人の心を打つ。だが、鴎外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置くあまり、原作の説経が持っていた荒々しい情念の部分を切り捨てた。安寿とつし王が蒙る、悲惨な拷問の場面や、つし王が後に復習する際の凄惨な光景などは、余分なものとして切り捨てたのである。しかし、本来説教者がもっとも力を入れて語ったのは、こうした部分だったに違いないのである。
中世に人買いが横行していたかどうかについては、あまり定かなことはわからない。能には、「隅田川」における梅若丸の物語をはじめ、人買いをテーマにしたものがいくつかあるが、現実をどれだけ反映しているものかは、定かではない。しかし、罪を犯したり、経済的に行き詰ったものが、行き着く先として下人の境遇に身を落とすことはあっただろう。中世の人びとにとっては、下人の境遇は他人事とは感じられないほど、身近で、いつ自分もそうなるかわからないものとして、とらえられていたのかもしれない。
こうした背景が、「さんせう太夫」を説教の代表的な演目として、中世の人々から熱狂的に迎えられる素地になったのだと考えられる。以下、鴎外の小説を時折参照しつつ、説経「さんせう太夫」を読み解いていこう。
物語は、岩城の判官正氏の御台所とその子安寿と厨子王が、帝から安堵の令旨を賜るべく、都へと向かう途中、人買いによって親子離れ離れに売られるところから始まる。
「御台この由聞こしめし、やあやあいかにうわたきよ、さて売られたよ、買はれたとよ、さて情けなの太夫殿や、恨めしの船頭殿や、たとへ売るとも買うたりとも、一つに売りてはくれずして、親と子のその仲を、両方へ売り分けたよな、悲しやな」
これは、そのときの母の嘆きの言葉である。母はその後売られた先で、「蝦夷が島の商人は、能がない職がないとて、足手の筋を断ち切って、日に一合を服して、粟の鳥を追うておはします」境遇になる。しかし、鴎外はこのような、凄惨な挿話は切り捨て、人間の感情の普遍的な部分にスポットライトをあてて、物語を展開していく。
一方説経は、転々と売られた挙句たどり着いたさんせう太夫の下で、安寿とつし王の姉弟が蒙る悲惨な運命について、綿々と語る。
「さてもよい譜代下人を、買ひ取ったることのうれしやな、孫子、曾孫の末までも、譜代下人と呼び使はうことのうれしさよ」というさんせう太夫の言葉どおり、安寿とつし王とは、下人の境遇に陥ったことが強調され、下人として、耐え難い扱いを受けることとなる。
鴎外は正面からとりあげていないが、三ノ木戸や松の木湯船に閉じ込められる部分は、作品に異様な迫力をもたらしている。
三ノ木戸には象徴的な意味合いがあって、ここに幽閉されるのは、人間としてこの上もない侮辱であることを、安寿の口からいわせている。
「今年の年の取り所、柴の庵で年を取る、我らが国の習ひには、忌みや忌まるる者をこそ、別屋に置くとは聞いてあれ、忌みも忌まれもせぬものを、これは丹後の習ひかや、寒いかよつし王丸、ひもじなるよつし王丸」
安寿は常に、厨子王の庇護者として描かれている。弟をかばい、励まし、最後には弟を遁走せしめて、さんせう太夫の子三郎によって嬲り殺されてしまう。安寿の死の部分は、説経「さんせう太夫」の最大の泣かせ場である。
「邪険なる三郎が、承り候とて、十二格の登り階に絡みつけ、湯攻め水攻めにて問ふ、それにも更に落ちざれば、三つ目錐を取り出だし、膝の皿を、からりからりと揉うで問ふ」それでも安寿は落ちないので、「邪険なる三郎が、天井よりもからこの炭を取り出だし、大庭にずっぱと移し、大団扇をもってあふぎ立てて、あなたへ引いては、熱くば落ちよ、落ちよ落ちよ、と責めければ、責めては強し、身は弱し、何かはもってこらふべきと、正月十六日日ころ四つの終わりと申すには、十六歳を一期となされ、姉をばそこにて責め殺す」
厨子王が追っ手をのがれて逃げ込んだ国分寺の場面も、象徴的に語られる。寺守は、威厳のある僧とは描かれていないが、追っ手の勢いを煙に巻き、厨子王を窮地から救う。中世の寺院は、弱い人々が迫害を逃れて逃げ込む先であり、アジールとしての機能を持っていた。この場面は、そのような寺院の性格を生き生きと描いている。
鴎外の小説には出てこないが、説経では、皮籠に潜んでいた厨子王は、三郎によって見つけられてしまうのであるが、身に着けていた地蔵菩薩が黄金に光り輝いて、三郎の目をくらまし、なんとか窮地を脱する。このあたりは、神仏の加護により助けられるという、当時の民衆の意識に訴えかけたに違いない。
厨子王の話を聞いた寺守は、自ら厨子王を背負って都まで送り届けることを申し出る。この都行きの場面は、道行の典型に従っていて、おそらく軽妙な調子で語られたのであろう。
「それがし送り届けて参らせんと、元の皮籠へとうど入れ、縦縄横縄むんずと掛けて、ひじりの背中にとうど負ひ、上には古き衣を引き着せて、町屋関屋関々で、聖の背中なはなんぞと、人が問ふ折は、これは丹後の国国分寺の金焼地蔵でござあるが、あまりに古びたまうたにより、都へ上り、仏師に彩色しに上ると言ふならば、さしてとがむる者はあるまいと、丹後の国を立ち出でて、いばら、ほうみはこれとかや、鎌谷、みじりを打ち過ぎて、くない、桑田はこれとかや、くちこぼれにも聞えたる、花に浮木の亀山や、年は寄らぬと思ひの山、沓掛峠を打ち過ぎて、桂の川を打ち渡り、川勝寺、八丁畷を打ち過ぎて、お急ぎあれば程はなし、都の西に聞えたる、西の七条朱雀、権現堂にもお着きある。
権現堂に着いた厨子王は、足が弱って歩くことを得ず、乞食仲間の施しを受けたり、土車に引かれたりしながら、天王寺にやってくる。土車は、いざりや乞食の乗り物として、落ちるに落ちてしまった厨子王丸の、身の上を象徴するものなのである。
天王寺は、中世日本の大寺院として、民衆の心のよりどころでもあり、また虐げられたもののためのアジールとしてあった。ここで、厨子王丸は、底辺から栄華の頂上へと転身する。そこに、民衆は死と再生に似た、蘇りの瞬間を恍惚たる感情をもって、迎え入れたのに違いない。
説経は最後に、厨子王による復讐と報償の話を付け加えている。鴎外が切り捨てた部分であるが、やはり、当時の民衆にとっては、悪に対しての相応の復讐は、生きていくための名文や正義に照らして、なくてはならないものだったのである。
鴎外の小説は、復讐ではなく、親子の感動的な再会を中心に描いている。説経もまた、親子の再会を描いているが、それはみごと甦ったづし王丸の、それまでの苦しみに対する償であるかのような文脈において語られる。その部分は次の通りである。
「いたはしや母上は、明くればつし王恋しやな、暮るれば安寿の姫が恋しやと、明け暮れ嘆かせたまふにより、両眼を泣きつぶしておはします、千丈が畑へござありて、粟の鳥を追うておはします」母の姿をみた厨子王は、お守りの地蔵菩薩を取り出し、その霊験によって母の目を開けさせるのである。
これに対して、鴎外の小説のフィナーレは、次のようになっている。
「安寿恋しや、ほうやれほ
厨子王恋しや、ほうやれほ
鳥も生あるものなれば、
疾う疾う逃げよ、逐はずとも
正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた、、、厨子王という叫が女の口から出た。二人はぴったり抱き合った」
説経と、鴎外の目指したところが、おのずから違っていることがよくわかる部分である。鴎外は、近代人の一人として、人間の普遍的な感情を描こうとした。それに対して、説経は、同時代を生きる民衆たちの、眼前の不条理や故のない苦しみを描くことによって、その精神の浄化作用ともいうべきものを、果たしていたのだと思うのである。
山椒太夫 (説教節)
コトバ ただいま語り申す御物語、国を申さば、丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度は人間にておわします。人間にての御本地を尋ね申すに、国を申さば、奥州、日の本の将軍、岩城の判官、正氏殿にて、諸事のあわれをとどめたり。この正氏殿と申すは、情の強いによって、筑紫安楽寺へ流され給い、憂き思いを召されておわします。
フシ あらいたわしや御台所は、姫と若、伊達の郡、信夫の庄へ、御浪人をなされ、御嘆きはことわりなり。ある日の中のことなるに、いずくとも知らずして、つばめ夫婦舞い下がり、御庭の塵を含み取り、長押の上に巣をかけて、十二のかいごを暖めて、父鳥互いに養育つかまつる。厨子王丸は御覧じて、「のう母御様、あの鳥名をなにと申す」と御問いある。母御このよし聞こしめし、「あれは、常葉の国よりも来たる鳥なれば、つばめとも申すなり。または耆婆とも申すなり。なんぼう優しき鳥ぞかし」。
コトバ 厨子王丸は聞こしめし、「あらふしぎやな今日の日や、あのように、天を翔くるつばめさえ、父母とて、親を二人持つに、姉御やそれがしは、父という字御ざないぞ。不思議さよ」とのたまえば、母御このよし聞こしめし、「御身が父の岩城殿は、ひと年、御門の大番調えさせ給わぬ御罪科に、筑紫安楽寺へ流されて、憂き思いしておわします」。厨子王は聞こしめし、「父はうき世にましまさば、姉御やそれがしに、暇を給わり候え。都へ上り、御門にて、安堵の御判を申しうけ、奥州五十郡の、主となろうよ母御様」。母御このよし聞こしめし、国を三月十七日、事かりそめに立ち出でて、後の後悔とぞ聞こえける。
三十日ばかりの路次の末、越後の国、直井の浦に御着きある。日も陽谷を立ち出で、扶桑を照らし、日も暮端なりぬれば、「宿取り給え」。うわたき承り、直井千軒の所を、一夜一夜と借るほど、九百九十九軒ほど借れど、貸す者さらになし。
フシ あらいたわしやな四人の人人は、とある所に腰を掛け、「さても凡夫世界のこの里や。一夜の宿を貸さざることの悲しさよ」。
コトバ 嘆かせ給ふところに、浜路より戻る女房このよし聞き、「旅の上臈様の御意もっともなり。これは直井の浦と申して、悪い者が一人二人あるにより、越後の国直井の浦こそ、人売りがあるよとの風聞なり。このこと地頭聞こしめし、所詮宿貸す者あらば、隣三軒、罪科に行なうべきとあるにより、貸す者、御ざあるまい。あれに見えたる黒森の下に、おうぎの橋と申して、広い橋の御ざある。これへ御ざありて、一夜明かいて御通りあれ」と申しける。
フシ 御台このよし聞こしめし、これは氏神様の教えさせ給うかと、四人連れにて、おうぎの橋に着きしかば、昔が今に至るまで、親と子の御中にて、諸事のあわれをとどめたり。北風の吹く方は、いずくもつらいと思しめし、風を防ぎ給い、御小袖を取り出だし、御座の筵に参らせて、中には姉弟御状しある。
コトバ これは直井の浦の御物語。ここに山岡の太夫と申して、人を売っての名人なり。「さても昼の上朧たちに、御宿を申し損うて腹立ちや。謀り売りて、春過ぎをしよう」と思い、女人の足のことなれば、よも遠くへは御ざあるまい。浜路を措いて行くつきか、まったおうぎの橋へ行くべきと、草鞋脛巾の緒を縮めて、前後も知らず伏しておわします。ひとおどし威さばやと思い、持ったる鹿杖にて、橋のおもてを、どうどうと突き鳴らし、「これに伏したる旅人は、御存じあっての御休みか、まった御存じ御ざないか。このは(し)と申すは、供養のない橋なれば、山からうわばみが舞い下がり、大蛇が上がりて、夜な夜な逢うて契りをこめ、さて暁がたになりぬれば、逢うて別るるによって、さてこそ橋のぞうみょうを、おうぎの橋と申すなり。七つ下がれば人を取り、行きがたないと風聞する。あらいたわしや」と言い捨てて、さらぬ体にて御戻りある。
フシ 御台このよし聞こしめし、かっぱと起きさせ給いて、月の夜かげよりも、太夫の姿を見給いてあれば、五十あまりの太夫殿。慈悲ありそうなる太夫殿に、宿借り損じてかなわじと、太夫の袂にすがりつき、「のういかに太夫殿、われらばかりのことならば、狐狼変化のものどもに、取らるるとても力なし。あれあれ御覧候えや、これに伏したる童こそ、奥州五十四郡の、主となろうず者なるが、さてふしぎなる論訴に、都へ上り、御門にて、安堵の御判を申しうけ、本知に帰るものならば、やわか太(夫)殿に、せちにせりょうが惜しかるねきか。一夜の宿」と御借りある。
コトバ 太夫このよし聞くよりも、宿借るまいと言うとも、おさえて宿の貸したいに、宿借ろうと申す、うれしやな。さりながら、為らばやと思い、「のういかに上臈様、御宿を参らせとうは御ざあるが、強ければ、思いながらも、御宿をば、え参らすまい」とぞ御申しある。
フシ 御台このよし聞こしめし、「のういかに太夫殿、(こ)れは譬えでなけれども、費長房や丁令威は、鶴の羽交に宿を召す、達磨尊者は芦の葉に召す、旅は心世は情け、さて大船は浦がかり、捨子は村の育みよ、木があれば鳥が棲む、港があれば舟も寄る、ひととおり一時雨一村雨の雨宿り、これも他生の縁と聞く、ひらさら一夜」と御借りある。
コトバ 太夫このよし承り、「御宿を参らすまいと思えども、あまりに御意の近ければ、さらば御宿を参らせん。路次にて人に逢うたりとも、太夫にばかりもの言わせ、御忍びあれ」と申し、太夫が宿へ御供ある。上臈様の運命尽くれば、路次にて人にあいもせず、太夫が宿に御着きある。
太夫は女房近づけて、「いかに姥、昼の上臈様に御宿を申してあるぞ」。女房聞いて、「あの上臈に、御宿を御申しあらば、みずからには飽かぬ暇」と御乞いある。太夫はったと睨んで、「さても和殿は、生道心ぶったることを申すものかな。今年は親の十三年に当たって、慈悲の御宿を申すが、それも惜しいか女房」。姥このよし聞きて、「さて今までは、売ろうがためかと思い申して御ざあはれば、慈悲の御宿とあるなれば、こなたへ」と申し、洗足取って参らせ、中の出居へ入れ申し、もてないて女房は、夜半のころ参り申しけるは、「のういかに上臈様、御物語に参りたよ。さても昼、御宿を参らすまいと申したは、あの太夫と申すは、七つの時よりも、人売り申し、情けなの太夫やな、恨めしの姥やと、御申しあろう悲しさに、さて御宿申すまいと申して御ざある。慈悲の御宿とあるならば、五日も十日も、足を休めて御通りあれ。それとても油断な召されそ。太夫が売るとあるならば、みずから知らせ申そうぞ」。太夫は立ち聞きをつかまつり、「いかに上臈様に申すべし。宿の太(夫で)御ざあるが、御物語に参りたり。もとも京へ御上りか」と問いければ、「今が初め」と御申しある。太夫このよし聞くよりも、今が初めのことならば、舟路を売るとも、陸を売るとも、しすまいたと思い、「舟路を召さりょう、陸を召さりょうか」と問いければ、御台このよし聞こしめし、「舟路なりとも道に難所のなき方を、教え給われ」と仰せける。太夫このよし聞くよりも、ただただ舟路を召され候えや。太夫がよき小船一艘持ってある間、(お)きまで漕ぎ出だし、便船乞うて参らすべし。とこう申す間に、夜が(あ)けそうに御ざある。夜が明け離れば、宿の大事になるほどに、はやはや御忍びあって給われや。上狼様」とぞ謀りける。
フシ あらいたわしやな、四人の人々は、売るとも買うとも知らずして、太夫の家を忍び(い)で、人の軒端を伝うてに、浜路を指いて御下りある。さて浜路にも着きしかば、太夫が夜舟に取って乗せ、纜解く間が遅いとて、腰の刀をするりと抜き、纜ずっと切って、あっぱれ切れ目の商いかなと、心の中うちにうち祝い、「えいやっ」と言うて、櫓拍子踏んで押すほどに、夜の間に三里押し出だす。
コトバ 沖をきっと見てあれば、霞の中に、舟が二ぞう見ゆる。「あれなる舟は、商い舟か、漁舟か」と問いかくる。「一艘は、えどの二郎が舟、一艘は、宮崎の三郎が舟候」と申す。「おことが舟はたが舟ぞ」。「これは山岡の太夫が舟」。「あら珍しの太夫殿や。商い物はあるか」と問いければ、「それこそあれ」と、片手をさし上げ、大指を一つ折ったるは、四人あるとの、合点なり。「四人あるものならば、五貫に買おう」と、はや値さす。宮崎の三郎がこれを見て、「おことが五貫に買うならば、それがしは、先約束にてあるほどに、一貫増いて六貫に買おう」。われ買おうひと買おうと口論する。刀つきにもなりぬれば、太夫は舟にとんで乗り「手な打つそ鳥の立つに、ことにこの鳥若鳥なれば、末の繁盛するように、両方へ売り分けて取らしょうぞ。まずえどの二郎が方へは、上臈二人買うて行け。まった宮崎の三郎が方へは、姉弟二人買うて行け。負けて五貫に取らする」と、またわが舟にとんで乗り、「のういかに旅の上臈様、今の口論は、誰ゆえと思しめす。上臈様ゆえにて御ざあるぞ。二艘の舟の船頭どもは、太夫がためには甥どもなり。伯父の舟に乗ったる旅人を、われ送ろうひと送ろうと口論する。人の気に合うはやすいこと、里も一つ(み)なとも一つのことなれば、舟の足を軽う召され、類船召され候えや。まず上臈二人は、あの舟に召され候え。おこと姉弟は、この舟に召され候え」と、太夫は料足五貫にうち売って、直井の浦に戻らるる。
フシ ことにあわれをとどめたは、二艘の舟にてとどめたり。五町ばかりは、類船するが、十町ばかりも行き過ぎて、北と南へ舟が行く。御台このよし御覧じて、「さてあの舟とこの舟の、間の違いは不思議やな。同じ港に着かぬかよ。舟漕ぎ戻いて、静かに押さいよ、船頭殿」。
コトバ 「なにと申すぞ、今朝朝えびすを祝いそこない、買い負けたるだにも腹の立つに、上臈二人は買うてあるぞ。舟底に乗れ」とばかりなり。
フシ 御台このよし聞こしめし、「やあやあいかにうわたきよ。さて売られたよ買われたとよ。さて情けなの太夫やな。恨めしの船頭殿や。たとえ売るとも買うたりとも、一つに売りてはくれずして、親と子のその中を、両方へ、売り分けたよな悲しや(な)」。(み)やざきの方をうち眺め、「やあやあいかに姉弟よ。さて売られたとよ買われたぞ。命を庇え姉弟よ。またも御世には出ずまいか。姉が膚に掛けたるは、地蔵菩薩でありけるが、自然姉弟が(み)の上に、自然大事があるならば、身替りにも御立ちある、地蔵菩薩でありけるぞ。よきに信じて掛けさいよ。また弟が膚に掛けたるは、信太玉造の系図のもの、死して冥途へ行く折も、閻魔の前の土産にもなるとやれ。それ落とさいな厨子王丸」と、声の届く所では、腰の扇を取り出だし、ひらりひらりと招くに、舟も寄らばこそ、今朝越後の国、直井の浦に立つ白波が、横障の雲と隔てられ、「わが子見ぬかな悲しむ習いあ(り)。のうい(か)に船頭殿、(ふ)ね漕ぎも(ど)いて、今生にての対面を、も一度(させ)て給われの」。
コトバ 船頭は聞くよりも、「なにと申すぞ。一度出いたる(舟)を、あとへは戻さぬが法ぞかし。舟底に乗れ」とばかりなり。(う)わたきの女房、「承って御ざある」と、「賢臣二君に仕えず、てん女両夫に見えず、二張の弓は引くまい」と、舟梁につっ立ち上がり、しゅへんの数珠を取り出だし、西に向って手を合わせ、高声高に念仏と、十遍ばかり御唱えあって、直井の浦へ身を投げて、底の藻屑と御なりある。
フシ 御台このよし御覧じて、さて親とも子とも姉妹とも、頼みに願うだうわたきは、かくなり果てさせ給うなり。さて身はなにとなるべきと、流涕焦がれて御泣きある。こぼるる涙をおしとどめ、ちきり村濃の御小袖取り出だし、「のういかに船頭殿、これは不足に候えど、これは今朝の代物なり。さてみずからにも、暇を給わり候えや。身を投ぎょうよ船頭殿」。
コトバ 船頭このよし聞くよりも、「なにと申すぞ。一人こそは損にはすまい」とて、持ったる櫂にて打ち伏せ、船梁に結いつけて、蝦夷が島へぞ売ったりけり。蝦夷が島の商人は、能がない職がないとて、足手の筋を断ち切って、日に一合を服して粟の鳥を追うておわします。
これは御台の御物語。さておき申し、ことに哀れをとどめたは、さて宮崎の三郎が、姉弟の人々を、二貫五百に買い取って、後よ先よと売るほどに、ここに丹後の国、由良の湊の山椒大夫が、代を積もって十三貫に買うたるは、ただ諸事のあわれと聞こえける。太夫はこのよし御覧じて、「さてもよい譜代下人を、買い取ったることのうれしやな。孫子曾孫の末までも、譜代下人と、呼び使おうことの嬉しさよ」と、喜ぶことはかぎりなし。 
三庄太夫(山椒大夫・安寿と厨子王の物語2)
この物語は、能の婆相天に起源があると言われている。人買いは古くからあった。
安寿と厨子王、母親と乳母が騙されて人買いに拉致されていくことはご存知の通りである。
小栗判官の照手も、何回も売られ買われて幾多の苦難に遭遇する。
人身売買の対象は、主に弱者である女・子どもだった。
それにしても、山庄太夫に描かれている人間の凶暴性は凄まじすぎる。
これほど直接的な身体的暴力を、これでもかこれでもかと描く説経は外にない。
安寿は厨子王を逃げ延びさせるが、焼き殺されてしまう。できれば、演じたくない段である。
森鴎外の「山椒太夫」について、説経節を曲解し、換骨堕胎した駄作と断じていたこともあったが、小説化するにあたって、鴎外がどうしてそうしたか今は分かる気がする。
「丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたてひろめ申すに、これも一度は人間にておわします。」
その金焼き地蔵は、京都府宮津市由良の如意寺に今でも存在する。
暴力に対して安寿がとった態度は、無抵抗であり、耐えることだ。それを地蔵菩薩が身代わりしてくれる。
そして、自身も地蔵菩薩となって、厨子王や母親を守る。
安寿を見ていると、何事にも逆らわずに、過ぎ越させることも生きる知恵であると感じる。
安寿の我慢強さが、最後には勝つのだから。 
話ついでだが、小栗判官の照手は観音菩薩に守られて行動力のある女性として描かれる。
一方、信太妻の狐葛の葉はしたたかな生き方と言えるかもしれない。
信徳丸の乙姫も強い女性だろう。説経に登場する女性は皆、様々な難局を逞しく生きようとする。
 
「信太妻と葛の葉」

 

薩摩派説経に残っている「信太妻」は葛の葉姫に関わる「初葛」と「二度葛」だけである。
「初葛」は、狐葛の葉が保名と契ってから七年後にその正体がばれて、童子丸を残し泣く泣く信太の森に帰る話である。
そして「二度葛」は、保名と本物の葛の葉姫、そして童子丸が、狐葛の葉を追って、信太の森に尋ね行くが、もう二度と人間に戻ることはできないと、最後の別れをする話である。
薩摩派の台本には「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」の文字が見える。
この台本は浄瑠璃本を説経に焼き直したものであることが明らかである。
この話が、純粋な説経なのかどうか、少しグレーゾーンなのは、様々な筋立てが、錯綜しているためらしい。
『説経節』(平凡社東洋文庫)に収録してある「信太妻」でも浄瑠璃本を使用していると解説してある。
その外題が、「しのたづまつりぎつね 付あべノ清明出生」とあるように、この話は本来、稀代の陰陽師安倍清明の物語である。因縁深き芦屋道満のとの占いくらべで、丁々発止とやりあって、若輩の清明が最後に勝つのが面白いのであって、狐の話は、その清明の妖力の根拠として、人を納得させるためのものにすぎない。
(別れ際に、聞き耳頭巾みたいな玉を貰っており、それが出世の足がかりになる。)
むしろこの物語は、「安倍清明一代記」とか「安倍一族物語」の方がよっぽどいい。
それにしても、こんな面白い話があるのに、何故「狐葛の葉」だけが伝えられたのだろうか。
薩摩派説経節に残っている「葛の葉」は、『説経節』(平凡社東洋文庫)に収録されている浄瑠璃本「信太妻」とはだいぶ話の流れが違う。第一に「信太妻」には姫は登場してこない。
「信太妻」
信太の森に保名が出かけたのは、信太明神への月詣であった。
芦屋道満の弟、石川悪右衛門つね平が信太の森に出かけたのは、その妻の病を平癒させるのに、若き女狐の生き肝が必要と、道満が占ったからであった。
保名の幕内に逃げ込んだ狐をめぐって、争いが始まるのはご存じの通り。
さて「信太妻」では助けられた狐が「二八ばかりの女房」に変化(へんげ)して、傷ついた保名を助け、一緒に暮らし始め、童子丸(後の清明)が誕生する。そこは信太の森もほど近きとある在家の住まいである。
この女房に名前は与えられていない。
呼びかけは「この子が母」である。保名は「さては・・・野干、恩を送らんと、美女と変じ・・・」 
などと言っているから、美人であったことは間違いないだろう。
それにしても、二八はまさか28歳じゃあるまい。二八16歳なら納得である。
この女房は最初の出会いで、自らを「夫とても候わず。埴生の小屋に、ただひとり住む、山賤(やまがつ)にて・・・」と言っている。これは、あきらかに賤民であることを表明している。
「葛の葉」
一方、薩摩派説経「葛の葉」は、助けられた狐が、保名の許嫁「葛の葉姫」に姿を変じ、保名を介抱し添うこと7年。同様に童子をもうける。
「初葛」では、どうして本性が童子に素性が知れたかの説明もなく、いきなり、童子への独白から始まる。
それを、保名が襖の奧で立ち聞きする。
さらに、7年の間保名の行方を探していた本物の葛の葉姫(本葛)、父(庄司)と母親が、ようやく保名の居場所を突き止め、その場に尋ねてくるのである。
現在見ることのできる歌舞伎と同じ筋立てであるところからすると、この「葛の葉」は、かなり新しい歌舞伎をコピーしていることが分かる。
ますます、これを、五説経としていいのか迷って来る。その形からすれば、紛れもなく浄瑠璃物である。
「ほき内伝」
このストーリーの起源は「ほき抄」という説話にあると言われているが、この物語から説経が汲み取ったものは、なんだったのだろうか?
それはおそらく、「狐葛の葉」であり、信太大明神であったにちがいない。
保名も本葛も説経「葛の葉」のモチーフにはあまり貢献しない。
車人形を見れば分かるように、ただうろうろしているだけである。
信太妻に説経が発見したのは、「母性」であったろうと思う。 
この物語が、説経であるという証拠がないにもかかわらず、五説経に名を連ねるのはここに理由があるのだろう。
子別れというのは、日本の古典的モチーフである。
これは、文句なしに泣ける。解説はいらない。生き別れであろうと、死に別れでであろうと、一番の血筋の縁が絶たれることの悲しみは、階層を問わず了解する。
説経的に際だつには、やはり「信太妻」の名を与えられなかった「狐」であり、賤民である「女房」である。
「葛の葉」の奧に見える説経らしい風景はそうした母親たちの群像である。
子別れを深く悲しみながらも、「浅ましいことには畜生」今日の生業は今日の生業である。
そうと尋ねられ、そうと答えられぬ「母」があったに違いない。 
それにしても、「恋しくば 尋ね来て見よ和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」という歌はいったいなんなんだろう。いったいなにを恨んだのか。
この一首が、「狐葛の葉」の由来ではあるが、これを読んだ狐が「葛の葉」だったわけではない。
清明を産んだ母には名前はなかったのである。
葛はどこにでも生える逞しい草である。どこの土手にもその蔓を旺盛に伸ばしている。
その毛むくじゃらの蔓は新天地を求めて地を這いまわる。その根が在る限り、刈っても刈っても伸びて来るのである。恨んだのは地を這うその身であったか。
それとも限りなく繰り返えされる因果応報であったのか。
日の目を見ることのなかった女達の、途切れることのない「母」の思いが、積み重なって行くのが見える。
また、一方で、和泉の信太山の聖神社は、「日知り」であり、暦の神であると言う。ここに陰陽師があって、稀代の陰陽師安倍清明を出汁にして、「母」たる信太の狐葛の葉を説経に語って末社葛の葉社を広めたと考えれば、説経というのも納得が行く。
現在残る薩摩派説経「葛の葉」は明らかに浄瑠璃であるが、説経の心が「葛の葉」にはあると感じてその心を語ることにしよう。

「信徳丸」と「愛護若」 / その類似点と相違点 似て非なる話

 

生い立ち
どちらも、親に子だねがなかった。説経はそれを前世の因縁と説く。両親はそれぞれ願掛けをし、子どもを授かる。
しかし、その成就には付帯条件があった。信徳丸は、東山清水寺の御本尊から
「七歳になるならば、父にか、母にがな、命の恐れあり」と、愛護の若は、初瀬山観音から、「三歳になるならば、夫婦の内に一人、一命をとるべし」と。
これは、どういう意味なのだろうか。この伏線は、どちらも、御台の死に繋がっている。
ただそれだけなのか、あるいは仏にとって、その条件が何か意味のあるものなのであろうか?
はたまた仏の悪口は言うもんじゃないとの教えなのだろうか。
二人の少年が13歳になった年のある日、無事にここまで育ったという気の緩みか、どちらの御台も、「仏さんはああ言ってたが、なんにも起こらないじゃないか。仏様が嘘をつくぐらいだから、我々も嘘をついて良いと言う事だわ。」なんてことを口走ってしまう。
御台の死は仏勅である。病の御前(みさき)が出張して、命を取ってくるというのが面白い。
どこに居ても仏様は見聞きしている。やっぱり、感謝の気持ちで生活しろという強い教えがあるようである。
継母  
信徳丸の継母は、六条乙の姫(となっている。妹の姫の意らしい)18歳。
前世の因縁により子だねのないはずの信吉の子「乙の二郎」をすぐ出産。
自分の子どもを総領にしたいばっかりに、清水寺で信徳丸に呪いをかける。
一方、愛護の若の継母は、雲井の前。年齢不詳。清平とうまくやっていたのに、愛護の若に恋をしてしまう。
激しい求愛を跳ね除けられ、父にばらすと言われて、雲井の前は一転、愛護の若殺害を計画する。
受難  
受難の過程は説経のもっとも重要な部分である。これでもかこれでもかといじめられるのが説経の本質である。
その受難の部分がこの二つの話ではまったく違う。
信徳丸は、異例となる。異例とは癩病患者を指すといってよいだろう。
「小栗判官」では餓鬼病(がきやみ)といわれる。病になるのには説経特有の理由がある。
祀られている神もかつて、自分(民衆)と同じ境遇であったというところを通過しなくてはならない。
そして、その病から、本復しなければならない。本復できるという希望が民衆に必要だったからである。
しかし、愛護の若は、病を得なかった。これはどういうことであろう。
病を得なかった愛護の若の最後は、死であった。当然といえば当然かもしれない。
病でなければ本復の過程は作れない。普通の健康状態の人間が次に迎えるのは死の外にはない。
しかし、登場人物全員の壮絶な死が幕切れというのは、説経では大変異端である。
しかも、大量入水(108名)というのは。
信徳丸の本復
信徳丸は、四天王寺に捨てられる。守り本尊は氏神清水である。その御本尊は、熊野で本復しろという。
しかし、知らず尋ねた乙姫の館で恥辱を受け、本復そのものをあきらめる。
信徳丸は、四天王寺に戻りただの乞食になる。最初は何故、信徳は熊野に行かなかったのかと思ったが、四天王寺の乞食になったことは、重要な要素かもしれない。四天王寺は捨てられる場所として存在している。
助けるのは、あくまで清水の御本尊である。清水の御本尊が乙姫に与えたの鳥箒であった。
信徳丸は清水寺で本復する。
ところで、継母の呪縛は、六寸釘136本という凄まじい丑の刻参りであった。
どうも気になるのは、乙姫が鳥箒で払った釘の数が135本と記述されている点である。
この1本分の齟齬はなにを意味するのであろうか。信徳丸は最後の1本を残して本復したということなのか。
それとも、単に誤記ないしは、伝承上の錯誤なのか。或いは、熊野で本復すれば完全だが、まあ近場の清水じゃあ、少し劣るよということか?よく分からないが、なんとなく気になる1本である。
釘の話ついでに。十代目薩摩若太夫(内田総淑)の「信徳丸一代記:善兵衛住家・信徳丸祈りの段」を読んだところ、 その釘(耳なし釘)を鍛冶屋善兵衛に注文するくだりがあった。
この挿話は『説経節』(平凡社東洋文庫243)の「信徳丸」には出て来ない話である。
ここでは、継母は「おすわ」といい、信徳を祈り殺す相談をして、断る善兵衛の弱みをついて承諾させる。
弱みというのは、以前、善兵衛が「おすわ」に借金をしていて、まだ返済が済んでいない。
釘を作らぬなら、今すぐ金を返せという脅しである。立ち聞していた娘が割って入り、身売りをして金を工面するから、人殺しの道具を作ることはやめてくれと懇願するが、毒婦おすわは、自害の真似をしてさらに脅す。結局負けて、善兵衛は釘打ちを承諾してしまう。
この話の展開は、説経ではなく、完全に浄瑠璃をコピーしたものであることがわかる。
信徳丸
「俊徳丸伝説」(高安長者伝説)で語られる伝承上の人物。河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の『弱法師』、説教節『しんとく丸』、人形浄瑠璃や歌舞伎の『攝州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)などが生まれた。説教節『しんとく丸』では信徳丸(しんとくまる)。おなじ説教節『愛護若』(あいごのわか)との共通点も多い。
俊徳丸伝説
河内国高安の山畑(現在の八尾市山畑地区あたり)にいたとされる信吉長者には長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることでようやく子供をもうける。俊徳丸と名付けられた子は容姿が良く、頭も良い若者で、そのため四天王寺の稚児舞楽を演じることとなった。この舞楽を見た隣村の蔭山長者の娘・乙姫は俊徳丸に魅かれた。二人は恋に落ち、将来、一緒になることを願うようになった。しかし継母は自分の産んだ子を世継ぎにしたいと願ったため、俊徳丸は継母から憎まれ、ついには継母によって失明させられてしまった。さらに癩病にも侵され、家から追い出されてしまい、行きついたのは四天王寺であった。そこで俊徳丸は物乞いしながら何とか食いつなぐというような状態にまでなり果てた。この話を村人から伝え聞いた蔭山長者の娘は四天王寺に出かけ、ついに俊徳丸を見つけ出して再会することとなった。二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気は治り、二人は昔の約束どおり夫婦となって蔭山長者の家を相続して幸福な人生を送ったとされる。それに引き換え、山畑の信吉長者の家は、信吉の死後、家運が急に衰退し、継母は物乞いとなり、最後には蔭山長者の施しを受けなくてはならないような状態になったという。
謡曲『弱法師』
俊徳丸伝説を下敷きにした能。四天王寺を舞台とする。観世元雅作。他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、俊徳丸は祈っても視力が回復せず、回復したような錯覚に陥るだけである。題名は普通「よろぼおし」と読むが、謡曲の本文中では「よろぼし」と読む(金春信高注釈『弱法師』)。謡曲をもとにした翻案に落語の「弱法師」、三島由紀夫の戯曲「弱法師」(『近代能楽集』)がある。
登場人物 / シテ:俊徳丸 / ワキ:高安通俊(俊徳丸の父) / アイ:通俊の供人
あらすじ / 俊徳丸は、人の讒言を信じた父・通俊により家から追放されてしまう。彼は悲しみのあまり盲目となってしまい、乞食坊主として暮らす事を余儀なくされる。盲目故のよろよろとした姿から、周囲からは弱法師と呼ばれていた。陰暦2月彼岸の中日、真西に沈む夕日を拝む為、俊徳丸は四天王寺を訪れた。天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かいあっていると信じられていたので、落日を拝む(日想観(じっそうかん))事で極楽浄土に行けると信じられていたのだ。この日の四天王寺は日想観を行う人で賑わっていた。そこに俊徳丸の父、通俊が現れる。通俊は俊徳丸を追い出した事を後に悔いるようになり、四天王寺で貧しいものに施しをすることで罪滅ぼしをしようとしていたのだ。俊徳丸に気付いた通俊だったが、乞食になり果てたわが子に話しかけるのをはばかり、日が暮れて人目が無くなるのを待つ事にする。俊徳丸が日想観を行うと、祈りが通じたのか、これまで見えなかった目が見えるようになる。気分が高揚した俊徳丸は、あちらこちらへと歩きまわり、周囲の景色を見てまわる。しかし、行き交う人々にぶつかってよろけ、現実に引き戻される。目が見えたと思ったのは、ただの錯覚だったのだ。そんな俊徳丸を見て周囲の人々は嘲笑う。彼は二度とうかれまいと暗々たる気持ちになる。日が暮れ、一人たたずむ彼に父の通俊が話しかける。話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じ、よろよろとしながら、あらぬ方へと逃げてゆく。通俊はそれに追い付き、彼を家へと連れて帰るのだった。
人形浄瑠璃『攝州合邦辻』
『攝州合邦辻』(摂州合邦辻、せっしゅうがっぽうがつじ)は、謡曲や説経節を下敷きにした上下二巻の人形浄瑠璃の作品。高安通俊の後妻玉手御前と俊徳丸の関係を中心に描く。安永2年(1773年)2月初演、菅専助・若竹笛躬合作。歌舞伎にも移され、「合邦庵室」の場は文楽・歌舞伎の人気演目として現在でもよく上演される。
小説「身毒丸」その他
折口信夫は俊徳丸伝説から仏教的・教義的な要素を取り払い、近世芸能の原始的なかたちを再現することを意図して短編小説「身毒丸」を書いた(大正6年発表)。「身毒丸」は「しんとく丸」にこの字を当てはめたもので、主人公は先祖伝来の病を持つ田楽師の息子として描かれている。
寺山修司・岸田理生合作によるアングラ演劇『身毒丸』(1978年初演)は、『しんとく丸』『愛護若』をモチーフとした現代劇で、主人公身毒丸と、「母を売る店」で買われた義理の母親との情愛を描いている。1995年には岸田による改訂版を蜷川幸雄が演出、1997年より藤原竜也が主演し評判を呼んだ。(詳細は身毒丸 (舞台作品)を参照)
近藤ようこの漫画『妖霊星 身毒丸の物語』(1992-1993年)は、説教節『しんとく丸』をもとにした翻案である。この漫画では田楽師の身毒丸が、彼と生き写しの娘・乙姫に懸想され、彼女の呪いによって失明・落魄するが、その後乙姫の祈念によって救われ、彼女の子供として生まれ変わる。またこの作品では救いの祈願をかける仏も、身毒丸がその申し子であるところの清水観音になっている。 
 
説経祭文と越後替女

 

越後の替女は近年まで門付を行なっており、生きている放浪芸としてその生態も、佐久間惇一氏・鈴木昭英氏・故市河信次氏他により詳細に解明されるに至っている。新潟県を中心に庶民に支持され続けてきた門付芸であり、この20年の間に、数度の東京公演、レコード・書籍の出版、ラジオ・TY出演等に表わされるように、消えゆく澄火が最後に光芒を一際明るく放つかのごとく、俄に脚光を浴ぴるようになった。門付芸に必須の祝い唄の明るさや万歳・咄松坂のような滑稽物を一方に持ち合わせながらも、主たる演目は「察文松坂」や「口説」であり、単調なリズムと然程手も複雑でない三味線の間奏にもかかわらず、哀愁を帯びたその唄は木説としてはいるが、現代の我々の胸を打つものであった。
越後替女唄の演目は明らかにされており、採録されている報告書一研究書も枚挙に暇がない。そのレパートリーの多様さ及び伝承数の多さは晴眼者をして一驚せしめるが、やはり中心は「祭文松坂」と「口説」であり、前者の内では、その中核をなすものが、葛の葉・信徳丸・小栗判官・石童丸・山淑太夫等、中世末より江戸初期に語られた説経節の代表作品と共通しているのである。佐久間氏 「替女の民俗」(1983)収載「越後替女習得歌曲一覧表」によれば、過半の替女に説経節物が習得・伝承されている。
したがって、説経節との関連が容易に推測されるものの、江戸初期の説経節のテキストと替女唄の詞章とは、ストーリには大差がなく、義太夫節に採り込まれた説経節物のような複雑な節でもない。しかし関係を認めるには礒躍されるものがあり、出典及び伝播関係等の究明が遅れていたのである。
「日本庶民生活史料集成」(1972/以下「集成」と略)所収の説経の解題において五来重氏は警女唄と江戸後期に復興された説経祭文(以下、江戸初期迄の説経節を仮に古説経と呼称し、こちらの説経節を便宜上、かく呼ぷことにする。)との関係を推測され、杉野三枝子氏は高田替女の 「小栗判官」の詞章と江戸初期の説経正本「おぐり判官」(延宝3年刊)及び説経祭文の薩摩若太夫正本「小栗判官照手姫」を比較され、曹女唄は改変が激しく決定できぬものの、薩摩若太夫正本が手本になったのではないかと指摘された。又、倉田隆延氏は昭和51年度伝承文挙大会において、やはりこの三本を比較しその変容を示された。
初代薩摩若太夫により寛政期に復興された説経節はその正本というべき版本(本文第一丁表の内題下に薩摩若太夫直伝と印行されてある。)によれば、既に用いてきたごとく「説経祭文」と呼称されている。現在も東京都八王子市・奥多摩町・埼玉県秩父市横瀬、都内板橋区等関東地方において「説経」として語り継がれており、その演目は、山淑太夫・石童丸・小栗判官・八百屋お七・佐倉宗五郎・葛の葉・日高川入相王・阿波鳴門・勧進帳等であり、義太夫物も合まれるが、古説経の伝統を継いで中心演目の中に説経節の代表作が含まれている。
したがって、越後腎女唄の中心というべき祭文松坂(「段物」とも替女は呼ぷ。)の中の主要な演目と説経祭文におけるそれとの照応が留意されてしかるべきであった。
一方、近年説経節研究の日卯まりや、東京板橋の説経祭文の盲目の語り手若松若太夫氏の復活に刺激され、この薩摩若太夫系の説経が注目されるに至ったが、その本文研究は遅れている。 「小粟判官照手姫」「八百星お七小−可性吉三」「苅萱遭心石童丸」「信徳丸一代記」が先述「集成」に翻刻されているのみに等しい。そのために越後醤女唄と説経祭文との比較検証が充分なされないままに置かれ、両者の関連を省みることが乏しかったのである。
本稿ではこの両者の関連に些か注目してみることにより、替女唄の出典・伝播関係の空隙を多少なりとも埋め、江戸後期の芸能であった説経祭文が果たした役割の一端を明らかにし、説経の伝統について一考してみたいと老える。前述のごとく、説経祭文のテキストは正本たる版本の全容も明らかでなく、関東各地に伝えられている伝本及び埋もれている伝本も多いことと思われるが、大半が明らかでないままに、検討を企てることは拙速の嫌いもあろうが、敢えて概観を把握せんがために小考をものし、遅れているテキスト研究に一石投ずれぱと考える。
尚、山本吉左右氏が指摘されているように、語り物においては氏のいう口頭構成法による臨機応変の詞句の改編が行なわれるので、三度は同じ演目を聞いてみなけれぱならないとされるが、今は亡き替女も多く、もはや接触する機会も乏しいので、資料的制約は免れないが、御了解を御願いする次第である。
山樹太夫の物語は森鴎外の同名小説によって広く知られているが、元来古説経の中心的演目で五説経の一つとされ、江戸時代初期寛永16年頃の刊本天下一説経与七郎正本が最古本として伝えられ、中世の悲劇的な語り物であり、献身的な女性安寿の行為が胸を打つ国民伝説的な物語であることは言を要しない。
説経祭文の版本は薩摩若太夫正本「説経祭文 三荘太夫」が伝えられている。
替女唄においては父を尋ねる一行が直江の浦で人買い船により安寿・厨子王と母及ぴ姥とが丹後と佐渡ケ島に引き裂かれていく「船別れの段」二段が語られており、越後の曹女に比較的共通して語られている。高田曹女は二段を伝えるもの、四段、五段伝えるものがいた。刈羽(柏崎)替女の伊平タケも伝えていた。阿賀北替女で長岡系曹女でもあった小林ハルは伝承していないが、佐久間氏によると彼女はかつて長岡系響女から習う筈であったという。すなわち代表的な高田・長岡・刈羽の三組の瞥女達に伝承されてきたわけである。但し翻刻があるのは高田系のみで曹女諸組の差異を考えることはできない。
この高田曹女の伝える「船別れの段」一段目・二段目は「三荘太夫」では第五巻「船離段」下冊より第六巻「筐贈の段」第七巻「宇和竹恨之段」に該当する。麓目女唄の冒頭は次のようである。
さればによりては これにまた
いづれにおろかは あらねども
しゆじゆなるりやくを たづぬるに
なにしんさくも なきままに
安寿の姫に つち王丸
船別れの あわれさを
あらあらよみあげ たてまつる
佐渡と丹後の 人買いは
沖のかたへと いそがるる
はや沖なかにも なりぬれぱ
佐渡の二郎は こえをかけ
おおい宮崎 いつまで漕いでも はてしがない
もういいかげんにして 引き分けよう と
宮崎それと きくよりも
なるほど二郎どんのいわれるとをり もういい
かげんにして 引き分けよう と
もやいをすっぱと ひきはなし
うでにまかせて こぎいだす
御台ははつと おどろいて
これの・ついかに 船長どの
あのきょうだいが のる船と
わらわがのりし この船と
ひとつみなとへ つく船は
なぜに双方へ わかれます
あの船これへ この船あれへと
はせられる (「集成」)
冒頭七行は、祭文松坂に共通してみられる定型句・常套句であり、謙遜と唄として詳述できない旨の断りである。「よみあげたてまつる」と祭文の口風で唄いながら、拠り所となった本文のありかを暗示しているかのようである。又、簡潔に巧みに本筋へ誘い込む仕掛けにもなっている。
「三荘太夫」巻五「船離段」上
さればにやこれはまた、ゑん寺の鐘にさそわれて、夜鳴クからすがつげわたる(以下、上冊略)
同書同段下、ニウ一行目より
さどみやさきの船頭も、うてに任せてろを立て、沖の方へこいで行ク、たんごのみやざきこへをかけ、コレさどいつ迄こいだ連はてしがない、なんともうこゝらでやらかそうじやないか、次郎聞イてなるほど、みやざきがいふとふり、いつ迄こいでも同しこと、そんならもうこゝらでやらかそうと、いふよりはやくあい舫とけば、二そうの舟は、右と左へわかれける、みだいはハットおどろいて、さどの次郎に取りすがる、これこれ申、船頭殿、アノ兄弟が乗船もわらはが乗りし此船も、一つ湊へ行くものを、なぜとうざいへこぎわける、あの船これへ、此船あれへとあせらるゝ
冒頭「さればに云々」については後述するが、又「三荘太夫」においては上冊のそれなので離れすぎているが、ともかく新たに語り始める場合の定型句として一致することに留意したい。A・Dにおいて佐渡二郎と宮崎と入れ替っているが語り物においてはしぱしぱ予想される現象であれぱ照応しているとみなせよう。彼等の会話C・Fも改変が容易になしうるところなので、啓女唄においてより明確な表現になっているのは聴き手を考えてのことであろうから、この差違も問題ではない。
警女唄の冒頭の決まり文句を除いてみるならぱ掲出の部分は「三荘太夫」に一致してしまうのである。
人買商人山岡太夫を替女唄が「、こんど」と言い、「ありや人かどわかしの大名人」としているのも、「山岡太夫権藤はアリャ人勾引の大めい人L(「三荘太夫」巻五下三ウ)に対応し、他の山淑太夫物に見馴れぬ名であることも両者の繋りを深くする。
母の願いが許され安寿達と別れを惜しむ件は「三荘太夫」では第六巻「筐贈段」になっており、母が二人に蟹を授ける
---(中略)---
とあり、この件の直前の一節における姉弟へ短慮を戒める母の説教も逆転している。どちらの例にしても書承上の対応ではなく、語り物同志を比較している以上、照応していると見なしてよいであろう。
「三荘太夫」第七巻「宇和竹恨之段」と替女唄「船別れの段」二段目後半も対応する詞章の前後の差異は多いが照応関係を見ることが容易であり、総じて、語り物の差異を考慮すれぱ、高田替女唄「山橡太夫」二段と 「三荘太夫」とは全体的にほ“同文といえよう。章段の名「船別れ」の一致にも留意すべきであろう。
但し、章段の区切り方の相異、替女唄の各段前後の決まり文句及ぴ、曹女唄の中で母の嘆きを「いわんとせしがむねつまり こえより涙がさきにたつ」と表現し、この短い唄の中に三回繰り返される点は 「三荘太夫」にみられない。瞥女特有の巧みに聴衆の哀感を掻き立て畳み込む常套句であろう。これらは響女唄の構成の間魑であるので、目下の検証においては、無視してよいであろう。
同様に両者がよく対応するものに「信徳丸」がある。江戸初期の説経節においても五説経の一つであり、義太夫節「摂州合邦辻」に影響を及ぽした継子物の悲劇で、替女唄においても、多くの替女に伝えられている。
「三荘太夫」
されはにや是はまた (一ウ) (中略)
此守リぷくろのうちには、家だいだいの御守きやらせんだんの地蔵尊、兄弟いづくへゆけばとて、はだみはなさず、あさゆふすいふんしんじんしや兄弟が身の上にしぜんだいじの有時は、御身かわりに立給ふ、まつたきよじさいなんはすくわせ給ぶ地蔵尊、是はあねへのかたみの品、此一くはんコリヤいわきのけいづ、弟へのかたみの品、是がなくては出世はならぬ程に かならず人手にわたしやるな
(三ウより四ウ)
替女唄「船別れの段」 一段目
これなる一巻と申するは
岩城の家の系図なり
これがなけれぱ出世ができぬ
これはそちのかたみぞと
弟の襟にかけさせて
守り袋をとりいだし
これのういかに安寿よ
これなる守りと申するは
岩城代代おん守り
俵羅帝山の地蔵さん
そなたらいづくへゆけぱとも
肌にははなさず朝夕の
信心いたすものならぱ
もしそなたらの身のうえに
しぜん大事あるときは
おん身がわりにたちたもう
悪事災難よけたもう
これはそちのかたみぞと
姉の襟にかけさせて
かならず人手にわたすなと
かえすがえすもいいきかす
両者はよく照応を示すが、僅かなが石も相異し、先に掲げた高田腎女「俊徳丸」との比較の箇所においても説経祭文と小林の唄においては似た傾向を示している。更に、この二つの件を繁ぐ呪いの釘を準備する一節において小林ハルの唄は鍛冶屋に難趨を強引に持ち込む話になっており、説経祭文ではいつのまにか調達して被に向うのと大きく相異する。高田替女のその一節は説経祭文に則しているので、小林ハルの唄の方が増補していると考えられる。三条組にも属していたことのあった小林ハルと兄弟弟子であウた駒沢コイはこの段物を伝えていたが、ハルはそれと別な受け継ぎであったのか彼女の周辺の轡女はあまりやウてなかった圭言い、新しく米沢地方の祭文語りから「聴き覚え、あとで記億をたどって段物に作っていたもの」と伝承の経緯を明らかにしている。その祭文語りは、前掲の,ことく対応する語りを小林が伝えているところから見て、拠り所とする確かな本文を伝えていたのではないだろうか。
高田替女と長岡替女・阿賀北曹女との交流は彼女達の言い伝えとして遡及できる限りなかったとされているので、祭文←小林←高田薔女という伝播ではない。小林が言う「祭文語り」とは山伏やデロレン祭文語りなのか、説経「祭文」語りのような語り手がいたことを暗示するものなのか不明であるが、説経祭文の拡がりを示しているように恩われ、興味深い事実である。
又、彼女が「信徳丸」を響女伸間からでなくこのようにしてまで摂取したことは、彼女(達)が旺盛な知識欲を持ち、弛まぬ努カを行なウていたと知らされるのであるが、師匠(親方)から受け継がなかったものの警女唄のレバートリiとしてあったことを知っていたという意識的な摂取であったにせよ、全くの無意識的な選択であったにせよ、祭文松坂としてのジャンルの概念を持ち合わせていて、それに適合するものとして選びとり吸収したのではなかったろうか。と。するならぱ彼女達が盲目的に伝承してきたのではないことを物語ることになる。

上述二例程には忠実に照応関係を見出すことができないものの、対応詞句を指摘できる例がある。
五説経の一つ「苅萱」は高野山苅萱堂他において絵解きとしても行なわれ、義太夫節「苅萱道心筑紫轄」としても人口に腫灸していた作品である。所謂石童丸が父苅萱を尋ねていく親子の絆を巡る 「発心集」に萌芽を見ることのできる話である。警女唄「祭文松坂 石童丸」と説経祭文「苅萱道心石童丸」とを前章程逐字的に検証するのは難しいため、対応する詞を上げる外はない。
高野の麓学文呂の宿より父を尋ねて高野山に登る石童丸に母が特徴を語る件
1イ、「祭文松坂 石童丸」の段(小林ハル)
父の人相教ゆべし 父は人より背高く 左の眉毛に黒子ある これを証拠に尋ぬべし 言われて石童は涙ぐみ宮参日の日もたたば 父に会うとも会わぬとも 早々御山を下りきて 母に様子を物語れ(「阿賀北」)
1ロ、版本「苅費遣心石童丸」巻三「登山段」
そなたの父ともふするは、人にすぐれて、せいたかく、はなすじとうり、いろしろく、ひだりのまぢりに、ほくろ有、つくしことぱと見たならば(67字省略)二夜三日の日もたゝぱ、父におうとも、あはぬとも・ひとたぴこれへもどりきて・母に様子をものがたり、(「集成」)
父との出会いの場面の父の様子は
2イ、曹女唄(小林ハル)
苅萱道心繁氏は 円空坊と改名し 左手に花か、こたずさえて 右手に数珠をぱつまぐりて 光明墓言唱えつつ 奥の院より帰るとき(「阿賀北」)
2ロ、版本巻五「行違段」
加藤さへ門しげうじ入道かるかやは、其日はいかなる吉日や、数多聖も有中に、大師の御びやう、花たてかいに、当られて、身にすみぞめのあさ衣、同じすみゑの裟をかけ、弓手に花か、こ、馬手に数珠口に大師のおしへなる、光明しん、こん、どくじゆなし、かやの御どうを立出て、おくのゐんさしてのぽらるゝ(「集成」)
と対応し、Dの帰ると登るとの違いがあるが、響女唄は「あらくよみあげ一るものであるから、一度奥の院へ登る詞があるべきところを省いているのであろう。
父と知らず父らしき人をと間う件
3イ、替女唄(小林ハル)
粗相なものの尋ねよう昨日なったも今遣心 おとといなったも今道心
3口、版本巻六「札捨物語段」下冊
余りといへはそLふな者の尋様、高野山にては、きのふきやうそりし計今道心とは申さぬ、去年おとゝし、まった今年今月今日たゝ今そりしも皆おし今遣心と申也、(「集成」)
この他、こうした部分的な同句が散見する。替女唄には、石童丸が父を尋ねる際、別の聖の一団と出会うこと、父の動勢、石童と知った父の遼巡等略されていることが多い。他方版本も賂述されている面があり、曹女唄の方が古い説経に忠実な筋もある。小林ハルの語りは前述のように改められているので、その差がこのように大きくなったのであろうか。
ところで筑前盲僧琵琶は古く九州盲僧琵琶として「平家物語」を語ウた琵琶法師との関連も考えられる流派であったが、「くづれ」と称される余興の語りもの(「段物」と称されることに注意される)の中に「石動丸」を伝えており、先の比較の2にあたる部分を
無明の橋にかゝるとき 苅萱遺心重氏は其の日は大師の花の役 右に花桶左に珠数 光明墓言唱へつゝ 御山を下り給ふとき 石童丸は登り坂(「集成」)
と語る。説経祭文にもやゝ後に「むめうのはしにさしかゝる」とあり、他にも筑前琵琶唄の「石動丸」本文の半分近くが酷似する。両者に極めて深い関連が認められ、説経祭文の拡がり、予想を超える伝承の繋りを想わせる。とともに琵琶唄が曹女唄に近いことにも留意したい。
次に「八百屋お七」について考えたい。冒頭の一節である。
---(中略)---
桑山太市氏「新潟県民俗芸能誌」(1972)に柏崎系替女の「八百星お七」忍ぴの段が翻刻され、Cはないがその他の記号を附した箇所は小林ハルとほぽ同様である。FGの微妙な差異は、替女唄のお七がこれから吉三と契りを交そうとするのに対し、版本においては既に二人の仲が進行しているという状況の違いに由来する。すなわち、版本はこの一節を極めて簡略に片付けているのであり省略しているとの疑いを抱かせる。この件以下両者の相異甚だしく、ことに版本は「馴染段」にもかかわらず、又も会う機会を狙うお七が火事を起こして梯に上る、 「伊達娘恋緋鹿子」(安永2年/1773)以来の場面に移ウてしまうのであるが、瞥女唄は初めて吉三の寝間に忍びよるお七の行動・心理を綿々と綴っていく。筋としてはその方が自然である。
ところで、早稲困大学演劇博物館所蔵に・かかる「説経浄瑠璃/八百屋お七忍の段」という写本がある。書名及びヲロシ・ヤゴイ・ボダイ・力ン・大ヲトシ・色・文弥他の節附が朱で附されるように、この本は説経祭文の語り本である。表紙左下に「しまたか」と外題と同筆で墨書されてあるの,は、島太夫・嶋登太夫・若嶋太夫・小嶋太夫等の名が「説経規定」「門弟連名控」(慶応元年)に散見するので、さして有名ではないかも知れないが太夫の名前ではないだろうか。
この写本は、外題のごとくお七の忍びよる場面が中心で、吉三の堅い心を解こうと口説く件に
サイノゥ仏法弘めし釈尊様も、御子に羅喉羅と有ツたとや、如来と書たるニタ文字は、女へんには口を書き、女来るじゃないかいな あなた連も誰じゃ連、色の道より生るれば、色に離れた人もなひ、情をしらぬ人もなし、御惰かけて下さんせ 詞コレアマ申 吉三さん、私が送りし付文を、封も切らすに枕の下つみとは、情ない 読もいやなる事ならぱ 七が読ます 聞てたべ 我が家は八百屋ゆへ、青物尽して書ましたと 色封しを切て押開き田せりに任せぬきして しめじ松茸よ、たで重さんのはでな大根御頭めを ちそと三ツ葉のなすびより くわいのすいが法蓮草 わらひ心でうどうどと いつか娵(よめ)なになりたひと 宇々根いもとがん首に 思ひの竹の子打明て 筆に任せてつくつくし うりの願ひの山いもと
とあり、先に引用した小林ハルの唄の三の段には
あなたも出家を遂ぐるなら 釈迦のみ弟子でござんしょの ざおらは釈迦の子でないか だらには釈迦の妻じやもの 釈迦にも妻子のあるものに 如来と書いた一文字は 女口にきたりと書くそうな 妙法連の妙の字は 女少しと書くそうだ 浄土真宗を見やしゃんせ 親らん上人始めとし 左手と右手に妻と子を 抱いて寝るではないかいの あなたも出家を遂ぐるなら 袈裟やころものお情けで かわいや娘とつい一度言ってくれたがよいわいなこれのいかに吉三さん 文たまづさを送りしが 見れぱあなたは封も切らず あなたが読むがいやならば わたしが読んで上げまする わたしの家は八百屋ゆえ 青物づくしにこと寄せて 丹誠尽して書いたふみ これにておん聞き下さいと まず一番の筆だてには ひとふきしめじ松茸そうろ あだの姿の大根や しそや三つ葉やせいりょうと たでぬしさんにほうれん草 わらびが心をうどうどと うりな願いの山の芋 が竹の子願いあげ 神々様へれんこんし いつかよめなになりたやな(「阿賀北」)
と唄われている件が対応する。響女唄は「ざおら」の誤り、「宮参日」の例のように誤伝もあるが、真宗の例を引くのは日本海側地方ならではで聴き手に身近に(杉本キクイも「八百星お七」を伝えていたので高困警女が加えたか)、理解されやすく手直していく手法を取っていると看取される一方、物尽くしに意外に対応が見られるのは興味深い。替女唄には万歳柱立て・ざか唄鴨緑江節替え唄他の物尽くしがあり、聴衆に親しまれ易く楽しい所であるから、容易に改編されても不思議ではないのにもかかわらず、順もほぼ同じで(曹女唄の方が通り易い程で写本の本文に間題があるかも知れない)癩応できる。
さらに、お七が自殺しようとまで思い詰めてはじめて吉三が彼女の心を理解し添い遂げることになる一節がこれに続き、詞句は異なるものの筋は同じである。
「八百星お七忍の段」は、この件の前後に「学さん」という吉三と同輩の坊主がお七を邪魔したり、二人の出会いを見届け師僧に告げ口をすることになっており、又、お七が吉三に添い遂げる際、起講文に血判を押す挿話がある。替女唄には該当箇所を見出せないが、版本には前掲の形跡が見られ、版本はこうした一節も省略しているのではなかろうか。一中節 「八百屋お七」には「覚山」の横恋慕や師僧への訴えが唄われ、江戸後期刊「八百屋お七歌祭文」にも血の起請文や「五人女の三の筆」という詞章が見出せる。八百屋お七の物語は人形浄瑠璃・歌舞伎・邦楽に幾多の作品化がなされているが、「五人女の三の筆」とは井原西鶴 「好色五人女」「恋草からげし八百屋物語」のことであろうが、巻四に収められている。したがって巻三とする説経祭文や替女唄は「八百屋お七歌祭文」も考慮に入れねばならないが、先に見た符合から、 「好色五人女」他の八百星由七ものから各々別個に継承したというよりも、両者の密接な関係を考えねぱならないであろう。但し、版本との関係は薄く、「八百屋お七忍の段」の様に語り本や太夫もしくは祭文語り等から、この写本よりもっと整った形で伝承したのではないであろうか。
葛の葉伝説で名高い動物報恩謂の物語も説経節では重要な演目であった。説経祭文においては義太夫節「芦屋遣満大内鑑」をそのまま転用し、外題もそのまま使用している。響女唄 「祭文松坂 葛の葉子別れ」についても武智鉄二氏が既に義太夫「芦屋道満大内鑑」に酷似すると指摘されている。酷似の謂を苅萱や八百星お七における対応のレベルに解するならぱ、指摘の通りであろう。付言すれば高田警女唄よりも小林ハルの語り方が照応を示す点が多い。
替女唄は義太夫から直接採用したとも考えられるが、他に義太夫種を「阿波の徳島十郎兵工」以外伝えておらず、苅萱・山撤太夫等も義太夫節との関係は認め難い上に、佐倉宗五郎・景清・明石騒動など説経祭文と共通の演目を持ち合わせている。これらとの検証は別稿に譲らせて頂くが、もともと説経でないのにもかかわらず、ジャンルの異なるものを共に頻度の高い演目として伝えていることから、葛の葉も説経祭文との関連が考慮されてよい。
小粟判官については既に杉野三枝子氏・倉田隆延氏の発表が前述のようになされているので、検証を省略するが、秩父市横瀬・千葉県袖ケ浦町飯宮の株紗人形(宮尾しげを「諸国の祭と芸能」)に外題を「小栗判官実遣記」とする写本が伝えられ、現在も同名で公演している。「伊平タケ 聞き書越後の瞥女」(1976)には刈羽瞥女であった彼女の唄が収められており、 「祭文松坂 小粟判官」「二度対面の段」の冒頭に、
次はさておき ここにまた ていじ上う(貞女)鏡 実道記 小粟判官 上中下 二十と四段に 分かれども
とあり、照応をみせる。薩摩若太夫の放本には「小粟判官照手之姫」と題されており、巻数も三十二巻で異なっている。この版本にない詞句で説経祭文において今も語られている詞が伊平タケの詞と合う箇所もある。このような現象は、第一章のように版本との関わりのみでなく、説経祭文の語り本や語り手との関係を予想させる。八百星お七の検討においても、又殆ど同文の信徳丸においてさえ祭文語りの影響があり、今早急に結論を出すことは麟蹄されるが、書承関係だけでなく、口承関係において説経祭文と聲女唄との関わりが予想されるのである。
検証が概括的でまた纏々として多妓に亙ったが、以上のように、越後の替女の特定のグループとの個々の関係でなく越後替女唄として説経祭文と符合することには、もはや言を要するまでもなく、密接な関係が認められて祭るべきであろう。従来は漢然と祭文プラス松坂節と説明されてきたが、説経察文プラス松坂節であったのではあるまいか。

祭文松坂は七五調で、大きな特徴になっている。又、既に引用した「山槻太夫」「八百屋お七」「信徳丸」にあるように冒頭の数句には一定の型が見られる。その中でも「されぱにやこれはまた」という出だしは、印象的な語り口で、他の類型句とともに替女唄特有のものと思われていた。しかるに、説経祭文も既に引用を多々重ねてきたように七五調で統一されており、 「三荘太夫」でみたように「さればにやこれはまた」と語り出すのであり、しかも殆どの段がこの句で始められるのである。版本 「苅萱遣心石童丸」「小粟判官照手之姫」においても同様である。
又山本吉左右氏が「口頭構成法」と命名された替女唄の語りの仕掛けに決まり文句が種々ある。それらの一つ
・・・をあとにみて(立ち出てて)
・・・と(さして)急がるる
・・・になりぬれぱ
という進行を示す基本形は決まり文句として、替女がその詞句の入れ換えを自由にし、短縮や創作の裁量の余地を可能にしたと岩瀬博氏も考察されている。実はこうした決まり文句も説経祭文において随所に見出すことができる。例えば薩摩若太夫版本 「信徳丸一代記」には、「されはにやこれはまた」の冒頭が各段ともにみられず類型的でないのにもかかわらず、
わがすむひとまをたちいでゝ、まづひろにわになりぬれぱ、をもて門にとをもひども、(九十二字省略)さらぱかすかにいそがんと、かかるところをあしば やにい、くろもりさしていそかるゝ、ぽとなかすがになりぬれば、一ケのとりゐもはやすぎて、五拾五段の木田はしを登りつめれぱこゝに又、ウガ□の石に太ちよりて、うがいてうつに身をきよめ、しらせのわにく打奮し、しづくみやあかられて 只一しんに手をあはせ(「集成」)
とあり、これらを曹女が巧みに応用したのである。七五調が唄に適していたように、基本形を見出すことにより伸縮自由な方法を獲得し、語りの自在性を得たのであった。この把握により、説経祭文によったにもかかわらず、曹女唄としての独自性を盛り込む余地を得たのである。
ところで、替女唄の外題には表示されないものの、「信徳丸」「八百星お七」の冒頭に「□の一代記」という呼ぴ方がある。他にも「景清様の一代記L(阿賀北系(長岡系)小林ハル「景清」)・「佐倉宗五郎一代記」(刈羽系伊平タケ「佐倉宗五郎一代記」)・「小栗判官一代記」(高田系杉本ハル「小栗判官」)等,グループを問わず使用している。この表現も「信徳丸一代記」(薩摩若太夫版本・八王子系説経)・「三荘太夫一代記」「小栗判官一代記」「日蓮一代記」(若松若太夫氏・八王子市系説経・予葉飯富)・「日向島景清一代記」(八王子市系説経)・「景清一代記」(秩父市横瀬の説経)「出世景清一代記」(飯窟)等外題に使用されていることと関係があったであろう。岩瀬博氏は長岡警女が「最清一代記」と唄う時主題を把握してかく唄うことに注目されている。このように表現の所々においても説経祭文の影響は見逃がしがたい一方で、警女は自家薬籠中のものとしてそれらを巧みに採り入れていたと思われる。
説経節の復興者薩摩若太夫は寛政期より説経祭文を始めたとされるが、人形芝居を興行したのは享和年中で文化8年には没したといわれている。薩摩若太夫正本の版本に刊記がなく、又初代の正本の刊行か判定できないが、先の老察から少なくとも寛政期以降替女唄に影響を及ぽ
したと考えられる。尚、替女唄「新保広大寺」は寛政期に起きた史実に基いた唄であり、杉本キクイが覚えていた「春の日あし」は寛政11年頃直江津で流行ったものという。この時期に旺盛に各種の唄を摂取していたわけでその一連の活動の一つが説経祭文の吸収であろうか。
説経察文の主たる版元吉田小吉は江戸後期の小出版元のためか活動年代(安政頃までは知られる)や状況が定かでない。読売りや口説物や三河万歳等瞥女唄と関わりのあるものを出版しており、こうした版元がセンターの役割をして地方に粉本となる版元を供給していたことも考えられてこよう。読売りや祭文語りから替女が受け継いでいたとの証言は新しい時代のものとはいえ、かつての伝来の仕方を偲ばせるのである。
一方、伊平タケが「小粟判官」の申で「実道記」と唄う点が秩父・飯窟に伝えられる説経祭文の外題と符合し、八百屋お七が語り本と警女唄と照応していたこと、小粟判官や苅萱の本文の特徴等を想起するならぱ、替女唄や説経祭文が各々独自に改変創作の手を加えたと判断する前に、説経察文の語り本や語り手による伝播の可能性も考慮されねばならない。
警女はどこで説経祭文を仕入れたのであろうか。群馬県・栃木県南部に広まっている八木節は、越後瞥女が伝播に貢献した「新保広大寺」が変化したものと考えられるように、警女達は冬期にしばしば関東へ門付の旅をしていた。したがって、関東へでてきた折に習い覚えた可能性も考えられるわけである。そうした憶測を促すものとして警女の式目「高田曹女仲間規約書」(安政2年写)によれぱ「武州忍領より、河越播磨派江伝者也」という寛延年中の奥書があり、忍藩すなわち埼玉県行田市と川越市とにいた替女の式目が更に越後に伝えられていたことになる。同文が記されている替女縁起が八王寺市上川の真言宗円福寺に伝わっており、この奥書によれぱ、埼玉県内の替女に繋りがあったと知れ、東京都江戸川区内 に伝わる写本「替女能妙音講縁起」(弘化5年)にもほぼ同文の記載がある。又、天保の頃、江戸神田豊町に醤女唄がいた。こうした替女組織を通じて式目ないしは縁起のように越後の替女に伝えられたとも考えられる。
更に、佐久間惇一氏が替女の符牒を掲げられており、「タロ」(金)・「カンドウ」(亭主)の二例のみであるが操り人形の言葉があることに留意されている。単なる偶然で入り混じったのではなく、薩摩系の人形芝居から演目とともに伝わった痕跡やも知れず、又、祭文語りも泊まる宿に宿泊したり習ったという替女の証言は、山伏しの語りから習い覚えたという初代薩摩若太夫旗上げの由来や神楽師(五代目薩摩若太夫諏訪仙之輔、八王子へ説経を伝えたと言われる初代都賀太夫、多摩に拡め.た二宮の六代目薩摩若太夫)の語り手が説経祭文に散見することともに一つのイメージを換起させる。全て想像の域を出ない憶測を邊しうしたが、説経祭文と接触しうるいくつかのケースを想定するに留めたい。尚、信州飯田の替女や美濃の暫女が、説経祭文から幕末に分かれた名古屋地方の説経源氏節を語っていたのは、名古星文化圏であったか毛だけでなく、替女が語るものが説経祭文に由来するものであるという意識から、又内容的に近いもので受け入れ易かったためとの考えも成り立ちうることを付記しておきたい。
替女の段物−義太夫でも使われるが、関東の説経でも段物と呼ぶーは祭文松坂と呼ぱれている。この「松坂」の名称については盆踊り唄松坂節の謂であるとされているが、「祭文」に関しては佐久間惇一氏が替女唄は祭文声ではないと言われているように、判然としなかったが、説経祭文の影響下になった段物であるから祭文の名を冠せたものではないであろうか。もっとも「あらあら読み上げたてまつる」「まずはここらでふみおさめ」等の説経祭文にはみられない口吻は歌祭文などの影響であるかも知れないが。
ところで腎女唄祭文松坂が説経祭文の影響を受けていると考えられることは、武智鉄二氏の「説経という説話的語り物の一応の現存の正統を替女の段物に見出すことは許されるだろう」という発言を思い出させる。現在も関東各地で説経祭文系の謝経節が語られ、佐渡において古説経系の説経節の語り手霧間幸雄氏がいらっしゃり、どちらの説経節も温き心を持ってその伝統を継ごうと努カされ、又、助カの手を差し延べている有志がいることからすれば、「正統」の言には異論も出されよう。筆者も俄に首肯しかねるが以下の意味において賛同したい。
一つは、単にストーリーとして、枠組として説経祭文に拠ったぱかりでなく、山栂太夫の船別れ・葛の葉の子別れのように母子の別れの悲しみを唄ったこと、八百屋お七の切ない女心を唄ったこと、信徳丸・景清などの不具者の哀切を唄っていたこと等、社会的弱者の哀しみを重点に唄っていたことは説経節においても同様であったのである。こうした点を眼目とする謡り物は都市では通用しがたく、古説経も説経祭文も消滅していったのであるが、淳朴な心に訴える語り物として農山村の殊に婦女に支持されたのであろう。単に娯楽になれぱという婆勢からではこれまで語り継がれなかったであろゝつ。
このことを裏打ちするかのように、義太夫が盛んであった上州においては口説がむしろ好まれた由であり、湯治客は暇なのでしっかり聞いてくれる人が多かったが女衆でも段物の「明石御前」「赤垣源三」「白井権八」「石井常吉」を好んだというのであり、越後や山形の村々の聞き手と嗜好の違いが際立っている。又、小林ハルが門付に歩いて後妻のいる家を宿にしていた時、他家で「信徳丸」を語ってその宿へ展ってみると、聞き手の中にいたこの後妻が自分に面あてをしたと思い込み、ハルを泊めるのを嫌がったという愉快なエピソードを語っているが、この後 妻や周囲の人々が熱心に聞いていた事実をはからずも物語っているヵ説経物は単純な物語構成の悲劇が多いが、涙なくしては聞かれぬ淳朴な庶民によって支持されてきたことは説経の本質でもあった。「うがち」や「みたて」或いは「ケレン」を求める都市民の志向とは明らかに異なる純粋な庶民が説経の世界を維持してきたと言える。
第二に醤女の門付は、宿泊先の座敷でも唄うものであったが、放浪性を保持していた点である。一定の地区を回遊していた形態で伸間の規制もあったり、定まった宿も多かったようであるが、その都度宿泊を乞い求め、食事を乞う生活は、文化年間に回国修行した修験者野田泉光院の 「日本九峰修行日記」を紹介して、真野俊和氏が「托鉢や祈藤よりもさらに一層の熱意をこめて書き留めているのが宿のことである。(中略)彼もしくはすべての回国行者にとってその日の宿泊がまず第一の関心事だったことを示していよう。」(「旅のなかの宗教」1980)と指摘しているように、困難で苦しみに満ちたものであったろう。
瞥女が朝食を宿泊先と別の家へ乞いにいくこともあった、という話は朝食から探し求めねぱならなかったという韓国の放浪芸の一団である男寺党の生活ともよく似ている。かつての説経がそうであったように自ら体験している旅の銀難辛苦を寵めて対王丸や石童丸やおつるの哀しみを唄ってこそ聴き手に訴えるカを保証できたであろう。又、盲目の身や実母との縁を切らねぱならなかった自らの経験は景清や信徳丸等の不具者を唄う際に主人公の辛酸を内面から語り聴かせられたであろう。
筋が単純であるだけに、徒らな誇張に頼るよりも謹々と又諦々と母の声、子の心を情感をこめ唄い込めたであヶう。簡潔な筋はむしろそのために大いに利したのではないだろうか。熟した文化における複雑な構成の義太夫物よりも、主趨が明確で淡泊な物語の方が唄に向いていただけでなく、聴衆にも感情移入が容易であり、演者の側でも情感を籠められたであろう。こうして聴き手と語り手との共同で作り上げられる空間.時間が語りの世界であり、替女唄や説経の世界であったと思われる。このように考えるならば替女が七五調で類型句の多い簡潔な筋の説経祭文を伝承したことは正解であり、盲目であるもその心眼は慧眼であった。
「あらあら」と述べきたった我々も先が急がれるのであるが「〜へと急がるる」「急がせたまえぱほどもなく」「遣も急げぱ早いもの」等の詞句も類型句が予想させるマンネリ化したものではなく、一句一句が替女達の旅の実感に裏打ちされていたのではないだろうか。一方で、新発田替女の内田シンが「はやりぶしは、おらもっていがねぱ誰ももっていがね。そって、おらがはやらがしたものだ」という自負と使命感も遍歴放浪の徒に共通する感慨であろう。このようにその遍歴や婦女子の涙を誘う語り物の担い手としての意味において、越後の替女は説経の詞章とともに本質と形態を引き継いでいた、と考るのである。かくして説経の伝統は説経祭文、替女唄と継承されたのであり、底辺の庶民の喜怒哀楽を語り広めてきたこれらの伝統が国民伝説・国民文学といえる山栂太夫・石童丸・佐倉宗五郎・小栗判官等を庶民との交流の場の中で形造り維持・伝承・伝播してきたのである。
 
枕草子の説經師 (三〇段)

 

説經師は顏よき、つとまもらへたるこそ、その説く事のたふとさも覺ゆれ。外目しつればふと忘るるに、にくげなるは罪や得らんと覺ゆ。この詞はとどむべし。少し年などのよろしきほどこそ、かやうの罪はえがたの詞かき出でけめ。今は罪いとおそろし。
又たふときこと、道心おほかりとて、説經すといふ所に、最初に行きぬる人こそ、なほこの罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。
藏人おりたる人、昔は、御前などいふこともせず、その年ばかり、内裏あたりには、まして影も見えざりける。今はさしもあらざめる。藏人の五位とて、それをしもぞ忙しうつかへど、なほ名殘つれづれにて、心一つは暇ある心地ぞすべかめれば、さやうの所に急ぎ行くを、一たび二たび聞きそめつれば、常にまうでまほしくなりて、夏などのいとあつきにも、帷子いとあざやかに、薄二藍、青鈍の指貫などふみちらしてゐためり。烏帽子にもの忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳のかたにはさはらずと見えんとにや。
いそぎ來てその事するひじりと物語して、車たつるさへぞ見いれ、ことにつきたるけしきなる。久しく逢はざりける人などの、まうで逢ひたる、めづらしがりて、近くゐより物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇ひろうひろげて、口にあてて笑ひ、裝束したる珠數かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあしほめそしり、なにがしにてその人のせし八講、經供養などいひくらべゐたるほどに、この説經の事もきき入れず。なにかは、常に聞くことなれば、耳馴れて、めづらしう覺えぬにこそはあらめ。
さはあらで講師ゐてしばしあるほどに、さきすこしおはする車とどめておるる人、蝉の羽よりも輕げなる直衣、指貫、すずしのひとへなど著たるも、狩衣姿にても、さやうにては若くほそやかなる三四人ばかり、侍のもの又さばかりして入れば、もとゐたりつる人も、少しうち身じろきくつろぎて、高座のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに珠數おしもみなどして、伏し拜みゐたるを、講師もはえばえしう思ふなるべし、いかで語り傳ふばかりと説き出でたる、
聽問すなど、立ち騒ぎぬかづくほどにもなくて、よきほどにて立ち出づとて、車どものかたなど見おこせて、われどちいふ事も何事ならんと覺ゆ。見知りたる人をば、をかしと思ひ、見知らぬは、誰ならん、それにや彼にやと、目をつけて思ひやらるるこそをかしけれ。
説經しつ、八講しけりなど人いひ傳ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など定りていはれたる、あまりなり。などかは無下にさしのぞかではあらん。あやしき女だに、いみじく聞くめるものをば。さればとて、はじめつかたは徒歩する人はなかりき。たまさかには、つぼ裝束などばかりして、なまめきけさうじてこそありしか。それも物詣をぞせし。説經などは殊に多くも聞かざりき。この頃その折さし出でたる人の、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
説教の講師は顔が良くなくちゃ。講師の顔をじっと見つめていてこそ、その説いてる事の尊さが身にしみて感じられるのよ。よそ見しちゃえばすぐに忘れてしまうもの。不細工な講師は罪でしょうって思う。この事はもう言うのは止めようと思うけど。年若かった頃はこのような罪を得ちゃうような事を書き表しただろうけど、今は罪がとても怖いから。
また、尊きことや、仏様を信じる心が深いからと言って、説教の行われるところならどこでも最初に行くというのも、この罪の心には、そんなにたいしたことじゃないでしょ、と思えるのよね。
蔵人などは、昔は前駆けなどという仕事はせずに、引退したその年くらいは内裏辺りでは姿も見えなかったのに、今はそんなことないみたい。蔵人の五位は、以前は忙しくお勤めしていたけれども、仕事を辞めて、その思い出にしんみりとしちゃって、心だけは暇があるような気がするに違いないのよ。説教の行われるところに、一度、二度と初めて聞きに行けば、いつも行きたくなって、夏のとても暑い時も、とても鮮やかなかたびらに、薄い二藍や青鈍色の指貫なんかを着て、裾を左右に蹴り広げて歩いてたりするらしいの。烏帽子に物忌みの札を付けているのは、物忌みでさわりがある日だけれども、功徳の方にはさわりがないと思っているのかしら。
説教をする聖とおしゃべりし、車を止めていることなども気にとめて見て、とりわけ慣れた様子なの。久しく会っていなかった人が詣でていて会ったので、珍しがって近くに行って、何か言っては頷き、面白かったことなどを話し出す。扇を広く広げて口に当てて笑ったり、きれいに身につけた数珠をもてあそんだり、手遊びしたりするし、またあちらこちらをちらっと見たり、車の良し悪しを誉めたりけなしたり、誰それが行った八講のこと、経供養を行ったこととか、あれこれあったことを言い比べているうちに、この説教の事は聞いてないの。何かね、いつも聞いてることだから、耳慣れて真新しくもないのかしら。
そうではなくて、よ。講師が来て少しすると、前駆けの声をすこしなさった車を止めて降りる人がいるの。その人は、蝉の羽よりも軽そうな直衣、指貫、生絹の単などを着ているのでも、狩衣姿であっても、そんな風に若くてすらりとした人が三,四人ばかりね。それに、お付きの人などがまたそのようにして中に入れば、初めからいた人々も少し身じろきして、隙間を広げて、高座の下に近い柱の元にその人を座らせるの。その人が微かに数珠を押しもみなどしながら説教を聞いているのを、講師も晴れがましく思うのでしょうね。どのように語り伝えようとばかりに説き出したのよ。
説法を聞くのだって騒いで、地に頭が着くほどにお辞儀をするような様子にもならないで、良い頃合いで立ち上がって出ていくときに、こちらの車の方などを見て、仲間同士で言葉を交わすのも、何事かしらって思うの。見知っている人は素敵だなって思うし、見知らぬ人は、どなただろう、あの人かしら、などと思って、じっと見送っちゃうのが素敵なのよ。
「どこそこで説教した、八講した」などと人が言ったのを「誰それはいた?」「どうだった?」などと決まって言うのはあんまりよ。どうして全然そういうのを訪れないのかしら。身分の低い女でさえ、結構聞くみたいなのに。
そうはいっても、初めの頃は、徒歩で行く人はいなかった。時たま、壺装束で若々しく美しく化粧した人はいたようだけど。そういう人も、物詣なんかをしたのよ。説教などには別にたくさん女の人は見られなかったもの。この頃のことは、その時外に出かけていただろう人がもし長生きしていたとしたら、どれほどにそしり、文句をいうでしょうね。  
 
閻魔大王と死者の蘇生(中世人の仏教的死生観)

 

誰しも子どもの頃に、「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」といって、親や兄弟から脅かされた経験があることだろう。人は死ぬと閻魔大王の裁きを受けて、極楽へ行けるか地獄へ落ちるか、振りわけられる。その際に、人の罪状のうちにも、うそというのはもっとも罪が重いもので、たんに地獄へ落ちるにとどまらず、舌まで抜かれてしまうというのである。
日本の民衆に仏教が浸透するのは、鎌倉時代以降のことである。親鸞や日蓮はじめ、新しいタイプの仏教者が民衆の中に入り、念仏や法華経の教えを広めたおかげで、民衆の間に仏や浄土への希求が高まった。また、それに伴って、仏教的な考え方も広がっていったのである。
仏教の教えの中でも、中世の日本人にとって、もっとも判りやすかったのは、輪廻転生、因果応報の観念ではなかったろうか。
日本人には古来、あらゆる生き物には霊魂があり、それは形が滅びても生き続けるという、アニミズム的な心性があった。とくに、人間の霊魂は、肉体が滅び去っても消滅することはなく、生者の周辺を漂いながら、ついには神となって天空に上ると考えられていた。場合によっては、霊魂はほかの姿を借りて生き返ることもあった。とくに子どもの場合には、ほかの子に生まれ変わることが、期待もされ、信じられてもいたのである。
この古代的な観念に、仏教の教えが結びつくことによって、死者の再生や、前世の因縁といった、新しい考え方が生じてきた。それらは、人間の罪業に深くかかわることであったから、民衆の仏教理解の中で、閻魔大王の果たした役割は、非常に大きなものであった。閻魔大王こそは、人間の罪業に最後の裁きを下すものだったからである。
中世に流行した民衆芸能・説経のなかに、閻魔大王の裁きによって、死者が甦るという話が出てくる。
説経「をぐり」は、別名を「餓鬼阿弥蘇生譚」というように、非業の死を遂げたものが生き返って、ついには神となる物語である。生き返りは、閻魔大王の慈悲によって果たされるのである。この場面を、説経は次のように語っている。
10人の従者とともに殺された小栗判官が、閻魔大王の前に引き立てられてくると、閻魔大王は「さてこそ申さぬか、悪人が参りたは、あの小栗と申するは、娑婆にありしその時は、善と申せば遠うなり、悪と申せば近うなる、大悪人の者なれば、あれをば、悪修羅道へ落すべし、十人の殿原たちは、お主に係り、非法の死にのことなれば、あれをば、今一度、娑婆へ戻いてとらせう」と宣言する。
ところが、従者たちが、自分らはともかく、主人の小栗を娑婆に戻して欲しいと懇願するのにほだされて、11人ともども戻してやろうといい、「見る目とうせん御前に召され、日本にからだがあるか見てまいれ」と命ずる。日本を見ると、従者たちは火葬にされて体がないが、小栗は土葬にされたために体があることがわかる。
そこで、閻魔大王は、次のように、小栗一人だけを戻すことに決するのである。「さても末代の洪基に、十一人ながらも戻いてとらせうとは思へども、からだがなければ詮もなし、なにしに十人の殿原たち、悪修羅道へは落すべし、我らが脇立に頼まん・・・さあらば小栗一人戻せ」
また、「愛護の若」という説経の中では、死んだ母親が、自分の子が死にかかっているのを助けようと、閻魔大王に懇願する場面がある。
閻魔大王は、その真心にひかれて、母親を娑婆に戻そうとし、戻すべき体があるかどうか調べさせる。ところが、この場合にも、母親は火葬にされて体が残っていないのだった。そこで、ほかに戻すべき死骸がないかどうか、調べさせると、「今日生まるる者は多けれど、死する者とてござなく候、死して三日になり候いたちの体ばかり」あることがわかる。
「大宮聞こしめし、いたちに生を変へるか、御台きこしめし、我が子に会はんうれしさに、それにても苦しからず、はや御いとま、と申さるる、大宮善哉と打たせたまへば、いたちに生が変り、刹那が間に二条の御所に出で、花園山へぞ参りける」
これらの話に伺われるのは、霊魂がふたたび目に見える形をとって蘇生するということである。蘇生するのは、自分の体としての場合もあれば、いたちのような動物の形を借りる場合もある。火葬されて形が残っていないと、自分自身の姿では、生き返ることができないということも、いわれている。
これらの話の背後には、さまざまに屈折した仏教理解があったのであろう。屈折させる原動力となったものが、日本古来の霊魂観や死生観であったことは、想像に難くない。
 
小栗判官一代記 / 車引きの段

 

都を追われ、常陸の国に流された小栗判官は、後藤介国の手引きで、相模の国横山正監照元の娘、照手姫のもとへ押し入り婿をした。これを恨んだ照元によって判官は毒殺される。照手だけ生かしておくわけにもいかず、相模の川に流される。照手の流転がここから始まる。売られ売られて辿り着いたところは、美濃の国青墓、垂井の宿の萬屋であった。照手はここで下の水仕として苦難をなめる。一方、冥土に落ちた判官は閻魔大王のはからいによって、餓鬼病として現世に立ち戻り、藤沢寺の上人によって土車に乗せられ熊野湯の峰へと送り出される。その餓鬼病車が数多の人々によって運ばれてくるが、照手の居る萬屋の前で、はったりと止まって押せども引けども動かない。そうして三日の間、餓鬼病車の判官は萬屋の前に留まった。
五日間の暇を取り付けた照手が、餓鬼病車の綱を持つと車は嬉々として動き出す。照手は三日の間引き続け、大津関寺玉屋の門に至る。車引きはその三日間の物語である。さても照手の姫君は、夫の菩提のそのために、餓鬼病み車を曳かばやと、父母の菩提と偽りて、主に五日の暇もらい、松の油煙で隈え取り。みどりの髪を振り乱し、御身に烏帽子狩り衣や。胸に真紅の結びさげ、笹の小枝にしめきりさげて、振りかたげ。しめきりさげて、ふりかたげ。その身の部屋を立ち出でて餓鬼病み車のそばにより、女綱、男綱を取り分けて、引けや、引かっしゃれ道者達、そもこの車と申するは、一引き引けば千僧供養。二引き引けば萬僧供養。供養のために自らも、引くや仏の御手の綱。小萩( 照手の仮名) が音頭でひきましょうと、中の引き綱手にふれる、物の不思議は、この車。小法師達の曳くときは、両輪が大地におめり込んで、押せども引けども動かずし、照手の音頭で曳くときは、妹背の縁に引かされて、車の轍が浮き上がり。くるりくるりと回り出す。思いのままに轟けば、やれ嬉や嬉やと、涙は垂井の宿を出で。身の本復を松原や、上下五日の旅の空。心はいとど関ヶ原、大関村を後になし、不破の関屋の板庇。月もれとてやまばらなる。姫は古跡を打ち眺め。「おお、その昔、大中臣の朝臣、道盛卿の御歌に、吹き替えて月こそ漏らぬ板庇とく澄みあらせ不破の関守。」昔に変わる今津の宿。美濃と近江の国境。姫も相模に在りし時、乾の殿の奧の間で、夫上様と諸共に錦のしとね綾の床。交わす枕の睦言も、変わるまいぞや照手姫、なに変わろうぞ夫上と、寝物語は早昔、せめて一夜は柏原、枕に結ぶ夢さえも、早や醒ヶ井の宿を越え。嵐小嵐番場吹けとて袖寒く、摺針峠の細道をエイサラエイと曳くほどに、小野の細道小町が墓、あれ鳥本の鳴く音さえ、空に一声高宮の、愛知川わたれば千鳥立つ。御代もめでたき武佐の宿。鏡山となりぬれば。姫はかしこに立ち止まり。「その昔大友の黒主の御和歌に、鏡山いざ立ち寄りて見てゆかん年経ぬる身は老いやしぬると」姿はさのみ映らねど、鏡山とは懐かしや。雨は降らねど守山の宿をも越えて今は早や、しばし疲れを休むらや。
この餓鬼病みの地車に、露とてさらに浮かばねど、草津の宿になりぬれば、赤前垂れの乳母が茶屋、左手( 弓手) に矢橋の別れ道、頃しも五月の半ばにて、山田沢田を見渡せば、さも美しき早乙女が、紺のはばき( 脛巾) に玉襷、早苗おっとり打ち 連れて田歌をこそは歌うたり。「植え、早乙女、田を植えて、笠をこうて( 被る) たもるならなんせ( 何畝) なりとも植えまんしょう」植え、早乙女田を植えて。かん野( ? ) の鳥や時鳥、山雀こがら四十雀、あの鳥谷をさ渡らば、五月農業盛んなり、小草若草踏み分けて、なおも想い( 重い) の瀬田の橋、シトトンドロンっと引き上げる。橋の半ばに車を留め、姫は欄干に身をもたれ、四方の景色を打ち眺め「ても面白き近江八景。見ぬ唐土はいざ知らず、聞きしに勝るあの景色。遙かに見ゆるはその昔、田原藤太秀郷殿。龍神龍主の願いをとめ。乙矢をもって、射止め給いし百足山。」こなたに高きが石山寺、秋の月とて冴ゆるとも、姫の心はさえやらぬ、堅田に落つる雁音にも、ただ忘れぬ夫のことなろう、ことなら自らも、冥土にまします夫上に、逢いたい見たいと思えども、粟津( 逢わず)に帰るあの舟は、あれが矢橋の帰帆とや、比良の高根にあらねども、心は、暮雪と積もるらん。あれ三井寺の鐘の音や、いとど心は唐崎の、姫は浮き世の一つ松( 待つ)。思えば儚き我が身ぞや。志賀の浦に舟留めて、あの山みさいなこの山を、櫨かいの音に驚いて、沖へかもめが、はあっと立ち。あれ鳥さえもあの様に、つがい離れぬ睦ましく。それになんぞや自らは、夫に遅れてその後は、ねぐら定めぬ寡婦鳥。思えば、思えば、悲しやと、涙ながらに引く車。粟津松本膳所の城。弓手に高きが源氏庵。右手( 馬手) に登れば車坂。すでに三日の黄昏に、登る大津や関寺の玉屋が門まで着きにける。
この段では、旧中山道の名所旧跡が余すところなく語られる。照手は餓鬼病が判官であることを知らない。それでも、判官の供養のためにひたすら車を引くのである。五日目までには垂井の宿萬屋に戻らねばならぬ。三日目の夜、照手は餓鬼病に寄り添い判官の物語をする。しかし、餓鬼病の判官がそれを了解したわけではない。餓鬼病は耳も聞こえなかったからである。翌朝、照手は餓鬼病の胸札に子細を記し、泣く泣く美濃に帰って行く。何故これ程まで、見も知らぬ餓鬼病に惹かれるのかと思いながら。後に熊野湯の峰で本復した判官は、その胸札を読み、照手との再会を果たすのであった。 
 
信太妻 / 葛の葉二度の子別れ(二度葛) [薩摩派説経節]

 

色 ここに哀れをとどめしは
△ 津の国阿倍野に住まいなす。
□ 阿倍の童子の母親は
△ 居るにも居られぬ仕儀となり
○ 愛しい可愛の夫や子を
切り 振り捨て信太へ立ち帰る
□ 後にも残る童子丸
△ 泣き恋がるるも道理なり
□ 一度信太へ尋ねんと
□ 保名諸共葛の葉も
三キメ 童子を抱きいたわりて
○ 昼は人目も繁ければ、
切り 夜半に紛れてようようと 大落大野の仮屋を忍びいで 信太の森へと尋ね行く
○ 保名夫婦の方々は
ヤゴイ 曇りし声を張り上げて
上 童子が母はいずれにぞ
中 どこが狐の住まいぞや
ヤゴイ この子を不憫とおわすなら
上 今一度姿を
サワリ 現して、童子が母よ葛の葉と
○ツメ 声を限りに呼ばわれば
ノリ コンコン快慶喜びの
ノリ 鳴く音は野路の夜嵐と
ノリ こだまばかりが聞こえける
下ノリ かかる向こうの方よりも
ノリ 灯火見ゆる一灯り
○ 葛の葉はそれと見るよりも
ヤゴイ あれ見て給えや保名様
上 せっかくこれまで尋ね来て
中 どうまあ、会わずに帰らりょか
切り しばし引き留め葛の葉が
下ノリ 灯して見ゆる狐火は、
ヤツメ 確かに童子が母親か
上ツメ 尋ねこいとの知らせぞや
中ツメ 誰を力に尋ねんと
ノリ 東西知れぬ真の闇
ノリ 人家離れし信太の森
三キメ 灯りを目当てに尋ね行く
下ノリ 間近くなればさっと消え
ノリ これはと思うそのうちに
ノリ またも向こうへちらちらと
ノリ 見ゆる灯りに幼子が
○ツメ アレアレ向こうにかかさんがと
ヤツメ 指指す方へちらちらと
上ツメ 灯して見ゆる狐火は
中ツメ 子ゆえに迷う親心 大半保名はそれと見るよりも
保名 コレコレ、葛の葉。もう尋ねずと よしにせい。
葛 そりゃまた、何故に
保名 さればさ、例え変化の身なるとも、血筋の縁に引かされて、別るる時の悲しさに、尋ね来いと書いて残したのであろうが、今は、人間の情去って、己が本性現してこの森に立ち帰り、数万の狐と交わる時は、もう人間の情、はったりと忘れたであろう。浅ましい事には、そこが畜生。もう尋ねずと帰りましょう。ささっ、早う行こうと
△ 立ち上がれば
突○ これのう申し保名殿
上 せっかくこれまで尋ね来て
中 どうまあ会わずに帰らりょう 入りしばし引き留め葛の葉が
○ これのう申し童子が母
上 浮き世で狐と申するは
中 神通悟ると聞きつるが
ヤゴイ さまでに物が知れるなら
上 親子三人がこの様に
中 焦がれて慕う心根を
上 不憫と思い
サワリ 給わりて今一度姿を現して
○ツメ この子に乳を飲ませてと
ノリ 恨みつ泣きつ夫婦の者
ノリ いかがはせんと顔見合わせ
三キメ 途方に暮れていたりける
下ノリ 次第にその夜も更け渡り
ノリ 早丑三つの頃なるが
ヲクリ あら不思議な次第なり 三重此方の萱の繁みより 大半現れいでたる童子が母
東 色青ざめ身はやつし 歩く足元ちょこちょこと
△ 保名見かけてそばに寄り
狐 これ申し保名殿。葛の葉さんもようおいで。誠の姿現して、お目にかけるも恥ずかしながら、やっぱり変わらぬ、葛の葉さんの姿を借りての申し訳。お二人ながら、どうぞ聞いて下さんせ。卑しき変化の身をもって、保名殿の色香に迷うたわけでもなし、せめて命のご恩報に、少しなりとも御身のためになったなら、すぐに信太へ
地色戻らんと
色 忘るる日とては無けれども
東 今日か明日かと思ううち  因果の種を身に宿し
突○ 早別るるに別れかね
ヤゴイ この子を生みしその後は
上 信太の里へ戻らんと
中 覚悟は極めていたれども
上 産み落としたる顔見れば
シボリ 可愛さ余る血筋の縁 狐捨てて帰れば保名殿、さぞやお嘆きなさりょうと、そればっかりが案じられ、せめてこの子が笑顔して、父よ母よと知るまでも、育てていこう、戻らんと、思うて暮らしている所へ、今度、信太の庄司様、葛の葉さんを召し連れて、尋ねてござったそれ故に、添うていられぬ仕儀となり  現在産みなす子を捨てて、帰るこの身の切なさを 推量あって、葛の葉様。童子がお世話をくれぐれも
色 一重に頼み上げますと
上 畜生ながらも世の義理に
中 絡められたる詫び涙
切り ことわりせめて哀れなり
△ 聞く葛の葉も憂さ辛さ
葛 これ申し童子が母、何のまあ、その言い訳に及びましょう。お前が見えぬとすぐに私が抱き上げ、なだめすかせどこの幼子、乳を尋ねて泣きいだす。このかかさんはそではないと、慕う可愛さ不憫さに、これまで連れて参りしが、これより屋敷に帰るともよう訳いうてこの後は、私になじんで親しむように
色 得心させて下されと
下 地保名は膝の幼子を
二キメ 童子が母に渡しける
○ 母は我が子をいだき上げ
ヤゴイ 乳房を含め撫でさすり
上 言わんとすれどもせぐりくる
中 涙は声より先立ちて
入り しばし言葉もなかりける
色 ようよう涙の顔を上げ
狐 これ童子や。我はそなたの母なるが、もうはったりと忘れたか。母の言うことようぞ聞きゃ。恋しくば尋ね来てみよと書いて残せし 歌のある。保名殿には申し訳、葛の葉さんへは、お礼申さんそのために、今度現れいで たれど、二度と会われぬ親子の縁。これ、今生の別れぞや。母の乳房の飲み納め。たんと飲んで、別れてたも。世界に子どもは数あれど、そなたほど果報つたない者はない。父は名に負う阿倍野にて、保則公の御門弟。御陽道の名を上げし、阿部の保名と言える人。母はさもしき畜生の腹を借りたる身の因果。豆で成長なせばとて、狐の子じゃと
サワリ 疎まれて 人交わりがならぬなら
突○ 母を恨みん不憫やと
地 言うに
ノリ 言われず悔やみ泣き
大 半童子をひっしと抱きしめ
二キメ 前後正体なかりける
色 ようよう心取り直し
狐 あれ見やしゃんせ保名殿。親の心も知らずして只すやすやと、寝入る童子はいじらしや。今にも目を覚まして、後を慕うて泣くであろ。もそっとここに居たけれど 再び人間に交わりする時は、九万九千の眷属に交わりならぬこの身の上。是非に及ばぬ。もうお別れでござりまする。このまま早う
地色 連れて戻ってくだされ
下地 童子を保名に渡されて
狐 これ申し葛の葉さん 童子がお世話をくれぐれも
色 一重に頼み上げますと
○ 名残惜しげに立ち上がれば
大半 保名は袖を引き留め
保名 アイヤ童子が母。世上の人の口の端に、狐を夫に持ったると、笑う人は笑いもせよ。我は少しも恥ずかしからず。今一度その姿で大野の仮屋へ立ち戻り、せめてその子が七歳まで、是非に養育
地色 頼むぞと
△ 夫の言葉に葛の葉も
○ これのう申しよ童子が母
葛 者を語らば聞き給え。乳が無うてはこの幼子、私になじむ様はなし。お前にあってもいらぬ乳。童子が不憫とおぼしめさば
上 今一度心を
サワリ 取り直し一緒に戻って下さりませ
突○ とは言うお前の心では
上 もしや悋気であろうかと
中 お下げすみもあろうけれども
上 そういう心は露ほども
切り 真実私は無いわいな
□ 互いに帰りて介抱を
ノリ 頼む頼むと葛の葉は
ノリ 保名諸共左右の袖に取り付いて
ノリ 別れを惜しむぞ道理なり
下ノリ 引き留められて母親は
三キメ またも涙に暮れながら 狐はあ、お前方は何故その様な事言わしゃんす。五年六年添うにさえ、本性知らせず暮らせしが、今、畜生と現れて、どうまあ、屋敷へ帰られましょう。あれあれ、あの松陰で最前より、帰れ、
ノリ 戻れと呼び立てられ、
ノリ もう一刻もおられぬと
ノリ 留めるを振り切り行くをやらじと引き留める
ノリ 競り合う内に幼子は
ノリ 早目を覚ましやんちゃ声
ヤツメ かかさまどっこへいかしゃんす
上ツメ わしも一緒に行きたいと
大半 呼び止められて振り返り
狐 ああ、情けなや、情けなや。 畜生の母とは知らずして、後を慕う心根が思いやられていじらしい。 この嘆きを見まいため、私が最前からの願い、もうこうなっては是非もない。 誠の姿現すなら、さぞや愛想も尽きるであろう。 親子夫婦の愛着の、早、疾く縁を
地色 切らさんと
下ノリ 捉える袖を振り放ち
ノリ 萱野の中にちょこちょこ入るかと見えけるが
大半 たちまち白狐と現れて
下ノリ 眼は金の如くなり
ノリ 歯茎揃えて舌を巻き
狐 やあやあ、童子。 母の姿はこの通り。 重ねてあとを慕うまい。 親子の縁は切れたぞよ。
ノリ はったとにらんだ顔色は
ヲクリ あら恐ろしき次第なり
三重 なれども血筋に引かされて
ノリ 名残惜しげに振り返り
ノリ 早萱原へ入りにける
下ノリ 是非なく保名夫婦の者
ノリ 童子を抱いて泣く泣くも 
大切 とある所を一散に  大野を指して戻らるる
   
信徳丸一代記 / 善兵衛住家 信徳丸祈りの段 [薩摩派説経節]

 

△ さも実らしく申しける
□ 信栄それと聞くよりも
信栄 ヲヲ、それは親切かたじけなし。そんならスワすぐさま行ってよからん。身支度はよいか。
をすわ ハイもうこれにて支度を致しました。
信栄 ヲヲそんなら女房。すぐさま参ってよからんと
△ 言いつつ立って信栄は
二キメ 一間の内へ入りにける
上 後にも残る信徳丸
キリ 母の御前へ手をつかえ
信徳丸 これ申し母上様、わらわが為につきまして、今日、清水の観音様へ、御礼参りに行って下さるとは有難う御座います。誠の母も及ばぬ事。有難う御座ります。
上 御礼は口には尽くされぬと
中 祈らるるとも夢しらず
キリ 喜ぶ心ぞあわれなり
△ をすわはそれと聞くよりも
をすわ ヲヲ、そんなら信徳、行ってくるぞよ。
信徳丸 しからばお願い申します。と
色 河内の国は佐原郡
△ 二代長者信栄( 信吉) のせがれ
□ 三代つづきの信徳丸
○ 歳は二歳の稚児盛り
上 誠の母には死に別れ
キリ 後妻をすわの手に懸かり
ハリ 月日に関守あらずして
□ 光陰矢の如くなり
△ それ世の中の例えにも
□ 月に叢雲
上 花に嵐のさわり有り
中 変わりやすきは秋の空
ヤゴイ 移りやすきは人心
△ 俄かに逆心兆してや
□ あの信徳を失えば
△ 可愛いい我が子の信近に
□ 家督を譲るは治定ぞと
△ ある日の事に女房
地 信栄が前に手をつかえ
をすわ 是申し父上様。ちょっとお願いがござります。お聞き届けて下さりましょうか。
信栄 アイヤ、こりゃ女房。改まっての願いというは何事なるぞ。
をすわ さればでござります。あの信徳丸と申す者、十五歳になるまで、虫腹ひとつ病ませてくださるなと、清水大悲観音へ、大願懸けておきましたが、一度、今日結願なれば、御礼参り願ほどき、何卒お暇を願いとうござりますと、
△ 言えば喜び立ちながら
上 おのれ憎っくき信徳め
中 祈り殺してくれんずと
キリ ただみざわりもあらげなく( ? )
大落 信栄館を立ち出で、奈良の国に急ぎ行く
ヤゴイ 後見送りて信徳丸
上 常にかわしあの母様( ? )
中 合点の行かぬ事なるぞ
ヤゴイ あれが誠のことなれば
上 ほんの母にも及ばぬる
中 なにはともあれかくもあれ
上 母様戻りを待つなれば
中 仔細は分かるは治定ぞと
キリ 一間の内に入りにける
入 それはさておきここに又
□ をすわ奈良へ急ぎゆく
△ 夜を日についでよろよろと
□ 奈良の宿になりぬれば
△ 軒場並べし家の数
□ 中に鍛治屋の善兵衛は
△ 長患いの床に伏し
○ 娘おそのと申するは
上 父の病気を治さんと
キリ 薬を煎じて持ち来たり
おその これ、申し父上様。薬を煎じて参りました。サアサアお上がりあそばせ。と
地 差し出すを見るよりも
善兵衛 ヲヲ、娘、そちも母に死に別れ、今また俺は長患い。年端も行かぬそなた迠いかい苦労をさするぞ。堪忍してくれ我が娘。そして又、この薬はどこをどうして求めてきやった
おその はい、とと様、左様なことを申すならご病気にもさわろうかと思いますれど、いつぞや、母様に買うてもろうた櫛甲貝。売り代なしてお薬をようよう求めて参りました。
善兵衛 むう、そりゃあ、あの櫛甲貝を売り代なして・・はあ、かたじけなし。俺も大層力がついた。この様子では、二三日の内には商売もできそうじゃ。娘、喜んでたも。
おすわ ハイ、とと様。そんなら、あの観音様へお百度の一寸参ってきますぞえ。
善兵衛 ヲヲ、そんなら早う参いってこい。
□ はいはいとそこを立ち上がり
二キメ 清水指して急ぎ行く
□ かかる向こうへいそいそと
△ どくふの( ? 毒婦か) をすわが通りける。
色 立ち止まって
をすわ ハイ、御免なさいませ。鍛治屋の善兵衛殿のお宅はこの方で御座りますか。
色 問われて善兵衛
善兵衛 ハイ、手前が善兵衛でござります。どなたぞ、お入りくださりませ。
をすわ しからば御免下されと、
△ ずっと通れば善兵衛は
善兵衛 をを、これはこれは、信栄様の奥方には、何の御用でござります。
色 問われてをすわは、あたりを見回し。
をすわ アイヤこれ、善兵衛殿。お前はたいそう痩せがきたが、お患いでも有ったのか。
善兵衛 ハイハイ、いやもう奥様、私は色々と不幸せ。女房には早や別れ、今またわしは長患い。いやもう、ほとんど難渋しております。
色 聞いて心に打ちうなずき
をすわ 金さえ出せば祈りの釘、すぐさま打つは治定ぞと、
色 懐中よりも五両の金を取りだし紙に包んで膝に置き
をすわ をを、これさ、善兵衛殿、それはさだめし、難儀至極。なにか土産と思ったが、失礼ながら、わずかばかりと、
地 差し出だせば善兵衛見るより
善兵衛 これはこれは奥様にはとんだお気遣いありがとうござります。
△ ゆえば喜びそばにより
をすわ これ善兵衛殿。お前に少々頼みたいことができましたが、何と聞いては下さらぬか。
善兵衛 はいはい、いやもう何なりとも、仰ってくださりませ。
△ ゆえばをすわは声ひそめ。
をすわ 左様なれば善兵衛殿。外には聞く人はござりませぬか。
善兵衛 はいはい、わしと娘ばっかり。外にたれもおりません。娘は只今、観音様へお百度に参りましたれば、私一人でござります。遠慮のう言って下さりませ。
をすわ をを、そんならこれさ善兵衛殿。真に秘密の相談でござりますと
△ 声をひそめて側により
をすわ これさ善兵衛殿。私の宅には、あの先妻の子に信徳丸と申す、家督の定まりし一子あれど、あの子を失わねば、我が子信近の物にならぬ故、どうぞあれを失のう手立て。善兵衛殿には、四十九本の耳なし釘。後先細く中太く。五徳なりの輪をひとつ。又、平はりのげんのう一丁、都合三品を大急ぎ、是非とも打ってもらいたし。如何でござるか、善兵衛殿。
ヤゴイ 聞くよりはっと驚いて
上 こは何事ぞ恐ろしや
中 何の御用と思いしが
ヤゴイ 親代々も伝わりし
上 信栄様、信徳丸様を祈り釘
キリ どうまあこれが打たれましょう。
ヤゴイ 思いもよらぬ頼まれ事
上 くわ、かま、なたは打ちますが
中 人を祈りの道具をば
上 思いもよらぬ頼まれ事
中 其の儀ばかりはお情けに
上 どうぞ許して下されと入り 両手をついて詫び涙
大半 聞いてをすわは目に角立って
をすわ これこれ、善兵衛殿。そりゃ思いもよらぬ破談言。わしに大切なるを語らせて、今更打たぬと詫び涙。そんならそうと言うて、どうまあ、私が帰られましょう。たって打たぬとあるならば、そなたにちょっと話がある。よもや忘れはすまい。何時ぞや京都へ御刀納めのその時に、わしに三百両の金を備えて下されと、あまりほろほろ嘆く故、三百両はさらりと用立て、二百両は返したが、あとの百両はまだ証文になっている。ささ、その釘を打たざれば、あと金の百両、耳を揃えて今ここで、さらりと返してもらいたい。
善兵衛 ささ、その金を今ここで?
をすわ さようでござる。
善兵衛 サア、それは さあ、さあ、
をすわ 釘を打つか百両返すか。さあ、鍛冶屋善兵衛殿。二つにひとつの返答は
大半 何とどうじゃと釘かすがい。
上 問い詰められて善兵衛は
キリ 何と涙も泣くばかり思い定めて
善兵衛 はあ、これ申し奥様。是非に及ばぬ。しからば釘を打ちましょう。
をすわ おお、そんなら打ってくださるか。
善兵衛 はい、いかにも承知いたしました。
上 貧苦のつらさに是非もなく、
キリ お主祈りの耳なし釘
□ 請け負う様子を表にて
ノリ 立ち聞く娘は息せきと
ノリ 障子開くるも間に合わず。
大半 二人の中へ割って入り
おその これ申し父上様。そりゃあんまりでござんしょう。様子は表で立ち聞きした。代々伝わるお出入りの、信栄様の若旦那信徳丸を祈り釘。請け合いなぞとは情けない。そりゃあんまりな、胴欲な。人を祈らば穴ふたつ。そこの道理を汲み分けて、おやめなされて下さりませ。
上 言われて善兵衛なお涙。
キリ 胸も張り裂くばかりなり。
善兵衛 をを娘、でかしゃった。ようゆうたな。そちの申す事、もっともなれど、そこの道理を聞いてたも。俺も? ?( 次前・水前・北前、地名? ) の善兵衛なりや。こんな辛苦はいたさねど、まだ、そなたが幼少の時、京都へ御刀納めのその時に、この奥様に三百両の金を備え受け、二百両返したが、まだ残金の百両。釘を打たねばその残金。只今揃えて返済せよと、たっての催促。長患いのその上にどうまあ、工面が出来ましょう。是非無く打つと受けやった。なんと異変も出来かねる。
ヤゴイ 聞くより娘は驚いて
上 ほんに貧せ( ? ) はつらいもの
ヤゴイ 親代々のお出入り
上 信徳様の祈り釘
中 ここで打つなら主殺し
上 例えわが身を売ってなと
キリ どうぞこの場を逃れんと
色 思い定めて
おすわ 申し父上様。是非に及ばぬこの場の次第。どうぞ私を嶋原へ、御売りなされて、その身代で奥様へ、残金の百両、ご返済申したなら釘を打たずと済みましょう。
地 言えば善兵衛感心なし
善兵衛 持つべき者は子なるぞや。ををそれ娘。よう言うて田もやった。出かしゃった。我が身を沈めてこの場の仕儀、済ましてくれるか。はあ、これ娘。こんな親を持ちし故、いかい苦労をさす ことぞ。
ヤゴイ 不憫なものや可愛やなと
上 これのう申し奥様よ
中 お聞きの通りでござります。
○ 娘が身を売りその金で
善兵衛 あなた様へ残金の百両。御返済申し上げます。どうぞ釘を打つことは、ご勘弁なされて下さりませ。
△ 言われてをすわは是非もなく
□ 金の才覚致されては
△ 無理に討てとも言われずし
□ なれど毒婦の事なれば
△ 脅してみんと心の目算
をすわ おお、これこれ親子の者。そりゃもっともなる諫言立て。親子揃って言うからは、わしのたくみは現れるは治定。是非に及ばぬ。もうこれまでと
下ノリ 隠し持ったる懐剣を
ノリ 抜く手も見せず
ノリ のんどへ押し当て
ノリ 既にこうよとなしければ
○ ツメ 親子はその手に取りすがり
善兵衛 ああ、これ申し奥様。何ゆえ御自害あそばすのじゃ。
をすわ 何故とは知れた事。大切なる信徳丸を程よく殺す耳なし釘。癩病程( てい)に見せんとのたくみ。これを打たざる上からは、すぐさまたくみは現れる。 は治定。自害を止むる上からは、耳なし釘を打ってくれるか。ささ、この手を離すか。さあさあ、釘を打つか。善兵衛殿、返答しや。と
中 問い詰められて情けなや
中 打たねば、奥様自害ぞや
ヤゴイ 打たば世継の信徳丸様
上 殺す道具の耳なし釘入り 思い定めてこれ申し
善兵衛 奥様。是非に及ばぬ。打ちまする。この手を離して下されと
地 無理に刃( やいば) をもぎとれば
をすわ そんなら釘を打てくれるか。それで私も安心致した。そんならすぐさま頼むぞや。
善兵衛 はいはい、男が打つと申したなら、きっと打ちます。ご安心下され。
をすわ おお、そんなら善兵衛殿、この道具が出来上がりますれば、証文金の百両は申すに及ばず、又心づけもいたします。極内々のことなれば、すぐさま私はお暇致さん。そんなら、娘ご、善兵衛殿。一刻も早く頼むぞよ。
善兵衛 いかにも承知致しました。
をすわ しからば、すぐさま又後で
□ 喜びいさんで暇をなし
大切 とある鍛冶屋を立ち出でてあこ屋が茶店へと戻りける。  
 
唱導文学

 

唱導文学といふ語は、単なる「唱導」の「文学」と言ふ事でなく、多少熟語としての偏傾を持つて居るのである。事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教――仏教――的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざ/\、選んだ字面であつたのである。其れが今日では、既に多少普遍化して来て、又語らざるに、却て仏教的な説経文学の意義に考へられかけて居る。実は、もうさうなつてもよい、と考へてゐる私である。元、漂遊者の文学、巡游伶人の文学などゝ命けて、考察を続けて来た間に、その頃此国の文学史家が、徐ろにとり入れかけたのが、もうるとん氏の文学論及び文学史に関する諸論文であつた。右の先輩の文学に対する態度は、其前から盛んであつた仏蘭西の民俗学的な研究法から、甚しく影響を受けたものであつた。其だけにおなじく、民俗学的態度に拠る事の多い私どもの研究法からは、極めて些細な点までも、差異が見え透いた。あめりか流に常識化したやりくちが、如何にも気易げに感ぜられたのであつた。そのもうるとん氏を立てる方々の間に、漂流文学と言ふ術語が喜ばれ出した時期があつた。で其混乱を避ける為に、わざと唱導文学の字面を採ることにもしたのであつた。だから、宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。
殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、徐々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである。  
文学は旅行する
題目の少し、効果的である事は恥しいが、殆ど宿命的に、唱導文学には、旅行と言ふことがついて廻つて居たのである。まづ発生の第一歩からして、さうであつた。さうして、「非文学」が次第に、文学となつて行つて居る間にも、一方絶えず、旅行が文学となつて居た。其ほど文学は、旅行そのものであつた。私は実際口のすつぱくなるほど、異人の文学と言ふものを説いて来た。常世(トコヨ)と称する異郷から、「まれびと」と言ふべき異人が週期的に、此土(くに)を訪れたのである。さうしてその都度、儀礼と呪詞とを齎らした。儀礼が大体において、祭祀となり、芸術的には、演劇と舞踊と、又若干の奇術とを分化した。呪詞は常に、同一詞章のくり返されてゐる間に、次第に小区分を生じ、種々の口頭伝承を分化した。何故文学が、非文学から生じたかと言ふ事の、第一条件となるものは、さうした来訪者の口唱する呪詞の固定である。だが、其よりも先に大切な事は、その人々は、実は旅行者でなく、ある邑落と不即不離の関係で、生活してゐる者でなければならなかつた。此言ひ方は実は少々、錯乱を含んでゐる。同じ村の生活者の一部が、週期的の来訪時と考へられた時期に、恰も遥かな――譬へば通例、海彼岸(カイヒガン)に在ると考へられた――国土から出発して来向つたもの、と信仰的に考へられて居た。これが多分、最古くからの正しい形で、亦最後世までも俤を存したものと見える。其に対して、或は今一つ前の姿と誤認せられ易いのは、次に言ふものである。其邑落と、平常に何の交渉もない社会生活を続けて居て、単に祭祀の短い期においてのみ、訪問して来る団体の出る、別殊の部落――多くは、訪れを受ける村よりは、小い組織の村と考へられてゐたらしい――があつた。要するに、後代まで山奥或は、岬(ミサキ)・島陰の僻陬に構へた隠れ里から、里の祝福を述べる為に、年暦の新なる機会毎に来訪すると言ふ形の、部落があつたのである。此意味において、古代日本民族の中心となつてゐた邑落に対して、海部(アマ)或は山人(ヤマビト)の住みかと言ふものが、多くは指顧する事の出来る様な近い距離に、構へられる様にもなつた。其為こそ、伝襲的に愈々盛んになつた文学上の題目、海士(アマ)や山賤(ヤマガツ)の生活があつたのである。後に段々、単に文学者の優美に触れるものとしてよりか、扱はれなかつたとしても、言語伝承として、其形骸だけでも久しく存続した訣なのだ。此意味のものも、最古い姿においては存外、邑落自身の民の派出して生じたものと見られるのである。つまり祭祀の時の神として来向ふ若干の神人が、臨時に山中・海島に匿れて物忌みの後、神に扮装(ヤツ)して来ると言ふ風が、半定住の形を採つたのである。即、さうした里離れた地における隔離生活が、段々延長せられて行つて、遂にはある邑落に関聯深い特殊な儀礼奉仕の部落が成立する様になる。とゞのつまり、祭儀の為の奴隷村と言つた形を採つて、村同士の関係が固定したまゝ、永続する様になつて行く。而も更に次に言はうとする形の団体と、部落以外の人からは同一視せられて、邑落との関係が、非常に自由になつて行く。数個の邑落と交渉を生じ、更に幾つとも知れぬ檀那(パトロン)村を生じて、祝福を職業とする乞食者(ホカヒビト)となつて行つたものもある。だから実際は、山部(ヤマベ)・海部(アマベ)の種族と言ふでふ、元日本民族の分岐者(エダモノ)であつたのが、多いのではないかと思ふ。さうして其を逆に、俘虜・新降の徒(トモガラ)、即異神を奉じて、其力を以て、宮廷及び地方的権威者を祝福するものだ、と信じられる様になつたものゝ方が、多かつたのではないかと考へる。
第三は、真の旅行団体、巡游伶人とも言ふべきものである。此こそ今挙げたものと、前後の関係を交錯して居るのである。判然と言ひわける事は、却て不自然で、謬つた結果に陥る訣なのである。先住民或は、後住族が、何時までも国籍を持つことなく、移動をくり返す事、あまりに古代日本中心民族と、生活様式を異にして居た。さうして、その訪問する邑落の範囲は、極めて広く遠く及んでゐた為に、中世武家盛んなる時に及んで、漸く人中に韜晦して了ふものが出来ても、尚その落伍者は、過去千年以前からの流転の形を保つて居た。さうして今も恐らくは、さうした種族の後と思はれる者が、南島の海士の中に、又旧日本の山伝ひをする剽悍な部族として残つてゐるものと考へられて居る。
古代からの素朴な考へ方からすれば、此形式のものばかりを考へてゐたのである。現実に存在するもの、と信じたのである。此は真実もあり、錯誤もあつたに違ひない。だが、かうした種族の存在を考へるに到つた元は、その人々と同じくして、もつと畏しいものとして迎へられた神々の群行であつたのだ。週期的に異神の群行があつて、邑落を訪れ、復来むまでの祝福をして通るものと信じてゐた事にある。此信仰が深まると共に、時として忽然極めて新なる神々の来臨に遭ふ事も、屡しばしばであつた。さうした定期のをも、臨時のをも、等しく漠たる古代からの考へ方で信じてゐたのである。畏しくして、又信頼すべきものとしてゐた。其等の神の持ち来した詞章は勿論、舞踊・演劇の類は、時を経ると共に、此土の芸術として形を著しく固めて行つた次第である。たとひ此等の異人の真の来訪のない時代にも、村々の宿老(トネ)は、新しく小邑落の生活精神としての呪術を継承する新人(ニヒビト)を養成する為に、秘密結社を断やす事なき様に努めて来た。其処で、ある期間の禁欲生活(モノイミ)を経た若者たちは、その解放を意味する儀礼としての祭祀において、神群行の聖劇を行つた。行道或は地霊克服を内容としての演劇であつた。又苛酷な訓練や、使役の反覆、憑霊状態に入る前後の動作、さう謂つたものが次第に固定し、意識化せられて芸能となつて来た。つまり其等の信仰の原体は、「常世の稀人(マレビト)(賓客)」なる妖怪であつた。さうして、合理化しては、邑落の祖先なる考妣(チヽハヽ)二体を中心とする多数の霊魂であるとした。我が国古風の祭祀では、その古義を存するもの程、其多くの群行する賓客を迎へる設備をしたものである。藤原の氏の長者権の移動を示すものとして、考へられてゐた朱器(シユキ)・台盤(ダイバン)の意義を、私は古くから、此賓客を饗応する権力即「あるじ」たる力を獲る事にあるとして居た。近頃、村田正言学士が、此「二種の神器」の外に、蒭量と言ふもののある事を教へてくれた。まだ円満な解釈に達しないが、字から見れば、「くさはかり」又は「ひくさ干草ちぎり」とでも言ふべき、古代の重さを見る計量器――即、恐らくは其容れ物――であつたらしい事は察せられる。さすれば、馬の飼葉(カヒバ)を与へる事を意味してゐるものがありさうに思はれる。
其駒
その駒ぞや われに草乞ふ。草はとり飼(カ)はむ。みづはとり 草はとり飼はむや――其駒
さゝ(ひ)のくま 日前(ヒノクマ)川に駒とめて、しばし飲(ミヅカ)へ。かげをだに(我よそに)見む――古今集 昼目
又、
いづこにか 駒をつながむ。あさひこがさすや 岡べのたま篠のうへに。たま篠のうへに――神楽 昼目
此岡に 草刈る小子(ワクゴ)。然(シカ)な刈りそね。ありつゝも 君が来まさむ御馬草(ミマクサ)にせむ――万葉巻七
類例は、煩はしい程ある。我々は昔から唯の処女が、恋人を待ち兼ねての心いそぎの現れと見て、単にいぢらしいものゝ類型と考へて来た。だが古い思案はちよつと待て、と云ひたくなる。私どもの長く最親しい同伴者西角井正慶君の新著「神楽研究」は劃期的の良書である。此章では、暫らく西角井君と二人分しやべらして頂くつもりである。神楽の「昼目歌」は、勿論其直前の「朝倉」に引き続いての朝歌である。詳しく言へば、吉々利々(キリキリ)で、明星(アカボシ)を仰いで、朝歌は初まるのである。さうして、実はもう朝倉だけで、神楽は夜の物の、「遊び上げ」になつてよいのである。だから、其を延長したものとして、昼目歌が続く訣である。御覧のとほり、昼目・其駒、実質的には変りはない。其他に、本によつて、色んな歌のついて来るのは、「名残り遊び」で、庭浄(ギヨ)めに過ぎない。即、朝倉・昼目・其駒、一つ物の分化したゞけに過ぎないので、神楽は実に、茲きりの物だつたのだらう。此等を通じて見える精神は、「神上げ」であり、「名残惜しみ」に過ぎない。だから、神の乗り物の脚遅からむことを望むことが、同時に神を満足させる事になるのである。神送りはいづれも、さうするのであつた。だから、駒を主題として、「おなごり惜しの。また来て賜れ」の発想を、古今集の神楽(カミアソビ)歌の「さゝのくま」では、名残り惜しみの義に片寄せて用ゐて居たのだ。神楽のは、「つながむ」で其が示されて居るつもりで謡はれたのだらうが、全体としては、神讃めと言つた形に近い。さうして何だか支離滅裂な気分歌である。万葉のは、待つ間のある一日の感懐と言ふやうに見えるが、ほんたうならば、こんな表現はしない筈である。段々類型が偏傾を生じて、かうさせたのである。若しも之を神楽などに利用すれば、今度来る時への誓約(カネゴト)として利いて来る。草苅る事を禁ずる形式の歌は、此型を外にして、まだ幾つかの違つた形を持つて居る。ともかくも、遠旅(トホタビ)を来た賓客(マレビト)に対して、「その駒」に蒭飼(クサカ)ふ事は、歓待の一表出である。「其駒」自体の様に、何処に目的のあるやら、だから、腑の抜けた様な歌が、生彩を放つて来る訣である。
田楽は、恐らく固有の「田遊(タアソビ)」と踏歌(タウカ)・呪師(ジユシ)芸能の色んな形に混合したものと思はれる。だが単に庭或は、座敷芸と考へてはならない。群行即道行きの練り物であり、又「門入り」を主とするものであつた事は訣る。即、練道(レンダウ)の途次、立ち寄つて、芸能の一部を演じて行く家々があつた。水駅・飯駅・蒭駅など呼んだところから見ると、旅人の駅路を来るに擬したものと思つてよい。飯駅は、その家では屯食(トンジキ)にでもありつくのだらう。水駅は、人の上にも解せられるが、主として、馬に飲みづかふ駅舎に見立てたのだらう。蒭駅は勿論、馬に飼ふ干草(ヒクサ)をくれる処との考へである。だから考へると、蒭量を藤氏の氏上相承の宝とした訣もわかつて来る。秣と称して、実は馬に扮した人の纏頭となる物が与へられたのでもあらうか。が古くは、やはり想像にも能はぬ事だが、馬糧の草籠の類が用ゐられたのであらう。「蒭」は、ひくさではあるが、秣・の様に、まくさとは訓まれないのが本道だ。馬糧にも使ふが、用途は外にもあつた。諏訪社には祭礼に廻る木並びに其他の地物があつた。此を「湛(タヽ)ヘ」と称へてゐる。此解釈も区々だが、大体において、神長官の順廻する所なのは、確かだ。其一つに「ひくさ湛」と言ふのゝあるのは、やはり蒭に関したものなのではないかと思ふ。かうして、主たる目的の家に達すると、賓客の外出入り禁断の中門で、最力のこもつた芸能を、演じなければならなかつた。其為こそ、後世ちらばらになつた諸国の田楽でも、凡皆「中門口」と称する曲目は、名だけでも失はず居た。此が田楽の「能」として、俤を残したと思はれるのは、名だけ伝つた「熱田春敲門の能」と称するものである。此中門は、外廓の門を入つて、更に内庭に入らうとする所にあつた。宮殿と後に言ふ「寝殿」へ通る入り口である。群行神なればこそ、中門を入らうとして此口において、芸を奏したのである。万葉巻十六の「乞食者詠(ホカヒビトノエイ)」の「蟹」の歌に、「ひむがしの中の御門ゆ参(マヰ)入り来ては……」とあるのは、祝言職者の歌である為、中門口を言うてゐるのである。後には、中門も、東西に開き、泉殿(イヅミドノ)・釣(ツリ)殿を左右に出す様に、相称形を採る様になつたが、古くはどちらかに一つ、地形によつて造られて居たものと思はれる。だから場合によつては、南が正面にも、北が其になる事も、あつたであらう。又、宮廷の如きは、四方の門を等しく重く見るのが旧儀であつて、其が次第に、南面思想に引かれて行つたものらしい所を見ると、宮廷内郭の玄輝門或は、其正北、外廓に当る朔平門に関して考へねばならぬ。其北の最外郭にあるのは、古くから不開御門(アケズノミカド)と呼ばれた偉鑒門ゐかんもんである。即、正南門の朱雀門に、対当する建て物であつた。彼通称を得た理由としては、花山院御出家に際して、此門から遁れ出られた事の不祥を説いて居るが、此は民俗的な考へ方だけに、史実でない事が思はれる。  
北御門(キタミカド)
普通、社寺或は民家で、「あけずの門」と称する物は、必祭日或は、元旦などに、神を迎へる為に開く為のみの用途を持つて居たもの、と言ふ事は、明らかである。其だけに、此宮門正北の不開門も、昔は時を定めて稀に開く事があつた事と思はれる。北方の諸門は、皇后・中宮その他、後宮の出入所になつて居た。だから従つて偉鑒門も、後宮に関係深かつたものだ、と思はれる。所謂不開門になつてからは、その為事を達智門に譲ることになつた。宮廷に行はれた四種の鎮魂儀礼の中、鎮魂祭は、大倭宮廷の旧儀である。其外、清暑堂の御神楽と、内侍所の御神楽とでは、自ら性質が違つて居り、尚その他にも幾種類同様なものが練り込んだか知れないが、其中俤の察せられるのは、北御門の御神楽なるものゝ存在である。唯、其が独立して居たものやら、この神楽の一部分やら訣らぬ事である。恐らくこの神楽歌の名称には其北方から、宮廷に参入して来た姿を留めて居るのではないか。結局「承徳三年書写古謡集」に並記せられた介比乃(ケヒノ)神楽(気比神楽)と一続きのものであるまいか。宮廷において北御門と正式に呼ぶ事の出来るのは、此門だけである。私は曾て、偉鑒門外で警蹕をかけ、反閇を行うた神楽のあつた事を想像する。たとへば、ある神に属する神楽は、応天門――勿論朱雀門を過ぎて――豊楽院(ブラクヰン)の後房なる清暑堂に入り来つたとも考へられる。此歴史を守つたのが、清暑堂の御神楽となつた。西角井君の「研究」に拠つて物を言へば、明らかに単に、数種の宮廷神楽の一つの名称を言ふ事にとつてよいのだ。清暑堂焼亡の後も、他の殿舎の辺りで、「清暑堂御神楽」と言ふ名で行はれてよい訣なのである。此は、大内裡全体に対して行はれたものと考へる。内侍所の御神楽は、今すこし小規模で、至尊平常起臥の構内に関係したものと思はれる。言ふまでもなく、神楽奉奏の為に、神参入するのでなく、神入り来つた事の条件として、神楽が奉仕せられた訣である。後に本末顛倒して、神楽の為に時を設ける様になつたが、結局神楽は、元宮廷内で発生したものでなく、冬期の祭日に、外から入り来る異人の反閇(ヘンバイ)所作であつた事が考へられる。神楽次第からすると、内侍所の御神楽は、人長(ニンヂヤウ)の警蹕からはじまる。二声「鳴り高し」をくり返すと言ふ。即、群行神の主神が、茲に出現した形である。警蹕の本義から見れば、かうした形は第二次以下のものではあるが、ともかくも風俗歌譜で見ると、一つの歌詞のやうにまでなつて居たのだ。「音なせそや。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」「あなかま。従者(コンドモ)等や。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」。此から見ると、「鳴り高し」の意義が思はれる。宮門においてする警蹕なのである。内侍所御神楽は、伝来を尋ねると、確かに石清水八幡出のものである。だが、此由緒は、清暑堂の御神楽と混淆して居ないとも限らない。「韓神(カラカミ)」の歌、或は枯荻をかざし舞ふ所作などが、重要視せられ、ある種の神楽によると、韓神歌が重複したりしてゐる。其から見ると、平安京城の地主神たる薗・韓神の宮廷祝福の為に、参入した事を暗示してゐるのでないかと思ふ。
どれがどれと言ふ風に、三種の神遊以外に更にあつたと思はれる宮廷神楽を明確に分たうとする事が、不自然であり、現に其目安となつてゐる歌詞さへ、混乱してゐるのだから、出来ない相談でもある。が、北御門の神楽の所属は、ある神楽謂はゞ、中門口の芸であつた所から、詞章が少かつたのか、又全然別殊のものか、今後も、尚問題になる事と思ふ。
椎柴に 幡(ハタ)とりつけて、誰(タ)が世にか 北の御門(ミカド)と いはひ初(ソ)めけむ――北御門の末歌
三島木綿肩にとりかけ、誰が世にか 北の御門と いはひそめけむ――本
八平盤(ヒラデ)を手にとり持ちて、誰が世にか 北の御門と いはひ初めけむ――末
此後の二首は普通は、下の句は「我韓神のからをぎせむや」となつてゐる。どちらかが替へ文句である。全体から見て訣るやうに、韓神の歌の下の句の自由性を模倣し、上句をその儘にしておいたのが「北御門」の伝文の方らしい。即、替へ歌である。韓神の歌を転用して居る点から見ても、――却て近い関係を説く論理もなり立ちさうだが――韓神とは、別の遊行神に属する神楽だと思はれる。
神楽はその奏上次第から見て、正しく宮廷外の神の練道芸能である。つまり一種の野外劇になつて行く傾向を示してゐる。だが、偶然、日本の神事の特色として、大家(オホヤケ)に練り込むと言ふ慣例のあつたのに引かれて、謂はゞ「庭の芸能」と言ふ形を主とする事になつて行つた訣だ。だから此形の外に、ぺいぜんとの形式を採つた部分もあつた事が、辿れるやうになる事と思ふ。さすれば、踏歌や、田楽と極めてよく似て居て、唯、ある差異があつたと言ふ事になる。即、神楽では、謡ひ物としては、短歌形式が主要視せられた事が、其一つである。其二は、古くから「神遊び」と称せられてゐたものに似て居て、同一の見方に這入ることが出来た事、さうして其が其特徴たる「かぐら」の名を発揮して来たこと。だから最初「かぐら神楽(カムアソビ)」など言ふ名で呼ばれて居た事を考へて見る方が、古態を思ひ易くてよい。第三は、其巡行の中心として所謂「かぐら」なるものが行進の列に加つて居た事。さうして其神座(カグラ)に据ゑた神体が、異風なものであつたらしい事。さうして、其神座(カグラ)に居る神の実体は、後の神楽には、閑却せられて了ふ様になつたらしい。だから神楽も、古いものほど、神体を据ゑた神座(カグラ)なるものを中心とした群行だつたに違ひない。神楽では、安曇(ノ)磯良を象つた鬼面幌身(ホロミ)の神楽獅子に近いものだつたのではないか。
才(サイノ)男(ヲ)が、宮廷以外は、多く人形を用ゐたらしい処から見ると、神楽の形も想像が出来ると思ふ。此事は却て逆に神自身が、偶像に近い形のもので、之を持ち出す事によつて、俄かに、威霊が活躍し出すと謂つたものではなかつたかと思ふ。たとへば神楽と最関係深い八幡神布教状態から見ても知れる様に、高良山神――武内宿禰と説く――に象つたと称する人形を先頭に立てゝ歩いたのであつた。その為、高良の大太良男大太良女(オホタラヲオホタラメノ)神が、世間に知られて、大太郎(ダイタラ)法師と言ふものゝ信仰が行はれた訣である。八幡神を直に人形身で示した証拠がなくとも、其最側近なる神を偶像を以て表し、又其を緩慢にでも操(アヤツ)る事によつて、一種の効果を齎したものとすれば、石清水系統に神座(カグラ)のあつた事が考へられる。八幡神の如きも、大いに遊行する神であつて、宇佐から上つて、東大寺の大仏を拝した如きは、聖武天皇の朝の事で、其群行と主神の如何様なるものであつたかゞ、判断出来る訣である。  
巡游伶人
神楽の神が旅をして、而もある種の文学を生みひろげて行く事を語つた。北御門へ来る神楽は、恐らく北方からくる神であつて、或はおなじ八幡に仮託せられる様になつたとしても、気比(ケヒ)の神らしい処が見えるのである。八幡神が、誉田(ホムダ)天皇の御事と定まつて来たのも、単なる紀氏の僧行教(ギヤウケウ)などのさかしらよりも早く、神楽によつて、合理的な説明が試みられてゐたのかも知れない。
「優婆塞が行ふ山の椎が本」など言ふ語は、譬へば後世の所謂法印神楽などに関聯する所が多い様に見える。だが歌などは、何とでも説明出来るが、まあかうした歌を用ゐるやうになつたゞけ、遅い時代の游行神の文学の姿を示したものと、言ふ事が出来る訣である。一体神楽は、かうした旅行異人の齎した文学としては、様式こそ昔ながらなれ、内容は新しくなつてゐるのである。極めて古い物は、呪詞の形を採つてゐたのに、平安朝になると、かうした歌の形を主とするやうになつてゐたのである。而も此後といへども幾回、幾百回、かう言ふ儀礼がくり返されたか知れないのである。さうして、転じては又「今様」を主とする時代さへも、やつて来たのである。其が変じて武家時代の初頭には、「宴曲」などがその意味においての主要なものになり代り、又一転して、説経の伴奏琵琶が勢力を得るやうになつて、説経が永く本流となるやうになり、而も其が分岐して、浄瑠璃を生じる事となつた。かうして盲目の唱導者が、漸く著しくなつて行つた。
私どもは今、顧みて神楽以前、日本文学の発生時代の事を語つてよい時に達した様である。
最初に色々あげた形のうち、遠旅(トホタビ)を来るとしたものが、此論文では主要なものとならなければならぬ。従つて、此咄し初めに、神楽を主題とした訣でもあるのだ。此は単に出て来る本貫の、遥かだと言ふには止らない。旅の途次、種々の国々邑落に立ち寄つて、呪術を行ふ事を重点において考へるのである。神としての為事と言ふ事は勿論、或は神に扮してゐると言ふ事をすら忘却する様になる。すると、人間としての為事即、祝言職だと言ふ意識が明らかに起つて来る。祝福することを、民族の古語では――今も、教養ある人には突如として言つても感受出来る程度に識られてゐる――「ほく」或は「ほかふ」と言つて居た。二つながら濁音化して、「ほぐ」「ほがふ」と言ふ風にも訓(ヨ)まれて来てゐる。その名詞は、「ほき」又は「ほかひ」である。だから祝言職が、人に口貰(クチモラ)ふ事を主にする様になつてからは、語その物が軽侮の意義を含むやうになつて来た。その職人を「ほきひと」「ほかひゞと」と称したのが、略せられて、「ほきと」を経た形は「ほいと」となり、――陪堂の字を宛てるのは、仏者・節用集類のさかしらである。――又単に「ほかひ」と称せられる事になつた。此等の者の職業は、だから一面、極めて畏怖すべきものを持つて居て、其過ぎ行く邑落において、怨み嫉みを受ける事を避けると共に、呪術を以て、よい結果を与へ去つて貰はうとした心持ちが、よく訣る。即、既に神その物でなくなつてゐたとしても、神を負ふ者であり、神を使ふ者である。だから大概は、食物を多く喰はせ、又は持ち還らせる事によつて、其をねぎらひ、あたせられざらむことを期してゐた。だから当然多くの檀那(パトロン)場を廻ることになつたのである。乞食者の字面を「ほかひゞと」に宛てゝ居るのは、必ずしも正確に当つて居ないのである。此方から与へると言つた意味の方が多いのだ。かう言ふ生活法を採つて居るからと言つて、必ずすべてが前述の如き流離の民の末とは言へない。ある呪術ある村人が、其生活法を嫻(ナラ)つてさうした一団を組織した例も多いのである。彼等の間には、勢ひ、食物の貯蔵に関する知識が発達した。かれいひ(かれひ・干飯)や、鮓は、其一例である。又その旅行具が次第に、世間人に利用せられる様になつた。所謂「行器」を訓む所の「ほかひ」である。倭名鈔などには、外居の字を宛てゝ居るが、此頃すでに、は行・わ行両音群の融通が行はれて居たからで、義は自ら別である。何故(ナゼ)なら、「ほかひ」には、脚のないものが沢山あつたのである。外居は、所謂猫足なる脚の外に向つた所から言ふのだとする説は、成り立たないのである。乞食者が携へ又は、荷つて廻つた重要な器具だつたからである。後世に到るまでの、此器の用途を考へると、第一は巡游神伶団の、神器及び恐らくは、本尊の容れ物であつたらしい。本尊容れで、他の用途に使はれたものは、「ほかひ」以前か、又同時にか、尚一つ考へられる。即、櫛笥(クシゲ)である。此笥に関する暗示は、柳田国男先生既に書かれてゐる。恐らく魂の容器だつたものが、神聖な「髪揚(クシア)げ」の品を収める所となつたのだ。同時に櫛以外の物も這入つて居り、而も尚元の用途は忘れられなかつたのであらう。而も行器に収められてゐると信じられてゐた本尊は、後世の印象を分解して行けば、甚幻怪なものであらう。武家時代に入つて、行器は久しく首桶に使はれた。東京芝大神宮の行器(ホカヒ)――ちぎ・ちげ又は、ちぎ櫃ビツと言ふ――は、大久保彦左用ゐる所の首桶だと言ふ。而も食物容れだと言ふ事は、其処でも忘られては居ない。其上、今も祭礼・婚葬の儀礼の食物は、之に盛つて贈る風が、関東・東山の国々には行はれて居て、ほかい・ほけなど称へてゐる。一方又、梓巫女の携へてゐる筥は、行器とは形は違つてゐるが、此中に犬の首が入れてあるのだなどゝ伝へてゐる。巡游神伶の持ち物の中には、本尊と信ぜられた、ある神体の一部が這入つてゐるものだ、と言ふ外部の固い推測が、長く持ち伝へられるだけの、信仰的根柢があつたには違ひないのである。
祝言の乞食者が持ち廻つた神器が、又謂はゞ一種の神座(カグラ)でもある訣であり、同時に食器であり、更に運搬具でもあつたのだ。之を垂下し、又枴(アフゴ)で担ひ、或は頭上に戴いても歩いて居た。時としては、之に腰を卸して祝言を陳べる様な事もあつた。武家時代に残存してゐた桂女(カツラメ)などは、「ほかひ」を携へて「ほかひ」して歩いた「ほかひゞと」の有力な残存者であつた訣である。「ほかひ」に宛てるに行器の字を以てし、又普通人の旅行にも、之が模造品を持ち歩いた処を見ても、如何に神人の游行の著しかつたかゞ察せられる訣だ。而も此「巡伶」の人々が、悉くほかひなる行器を持つて居た訣でもなからうし、同じく「ほかひゞと」と言はれる人々の間にも、別殊の神の容器を持つた者のある事が考へられる。つまり、何種類とも知れぬ、「ほきと」「ほかひゞと」が、古くは国家確立前から、新しくは中世武家の初中期までも、鮮やかな形において、一種唱導の旅を続けて居たのである。さうした団体が、五百年、千年の間に、さしたる変化もあつたらしくないやうに、内容の各方面も、時代の影響は濃厚に受ける部分はありながら、又一方殆罔極の過去の生活を保存して居た事も、思はねばならないのである。  
ことほぎ
神座を持つて廻つて、遂に神楽と言ふ一派の呪術芸能を開いたものでも、亦「ほかひ」である点では一つであつた。唯大倭宮廷に古くあつた鎮魂術(タマフリ)の形式上の制約に入つて、舞踏を主として、反閇の効果を挙げようとしたのが、かぐらであり、「言(イ)ひ立(タ)て」によつて、精霊を屈服させようとする事と、精霊が「言ひ立て」をして、服従を誓ふのと、此二つの形を一つにごつたにして持つものが、「ほかひ」であつたとは言へる。さうして、ほかひの中、所作(フルマヒ)を主としたものが「ことほぎ」であつた。凡、「ほかひ」と謂はれるもの、此部類に入らないものはない。つまり純乎たる命令者もなく、突然な服従と謂つたものもない訣で、両方の要素を持つた精霊の代表者の様な者を、常に考へて居たのである。だから、宮廷、社会の為に、精霊を圧へに来ることは、常世の賓客の様でありながら、実に其地方の地主(ヂシユ)なる神及び、その眷属なる事が多い。私は、神楽・東遊などに条件的に数へられてゐた陪従(ベイジユウ)――加陪従もある――などは、伴神即、眷属の意義だと信じてゐるのだ。此等の地主神――客神(カウジン)・摩陀羅神・羅刹神・伽藍神なども言ふ――は、踏歌節会(セチヱ)の「ことほぎ」と等しい意味の者で、怪奇な異装をして、笑ふに堪へた口状を陳べる。殊に尾籠(ヲコ)な哄笑を目的として、誇張による性欲咄と、滑稽・皮肉を列ね言ふのであつた。だから、詞章から言へば、いはひごと――鎮護詞――と言ふべきものを元として、其を更にくづして唱へたものらしい。「歌」物語以外において、日本文学の滑稽の出発点を求めれば、此点を第一に見ねばなるまい。態度としての滑稽は、「歌」ばかりからは出て来ない訣だからである。歌物語における滑稽は、歌諺類を、すべての人をして、信じ難い方法で以て、而も強ひて巧みに説明する技巧から出て来るのである。だが、其外に確かに、今挙げた別途の笑ひの要素が含まれてゐる。
かうした「いはひ詞」を持つて、諸国の檀那場を廻る様になる。其が、進むと千秋万歳(センジユマンザイ)である。此は、平安朝に早く現れて、而も人の想像する程の変化もなく、近代の万歳芸に連接してゐるのである。
併しさうした笑ひを要素とした祝言職以外に、もつと古風な呪芸者の群れがある。自団の呪術――主として禊祓の起原に関聯した叙事詩を説く事によつて其術の効果の保証せられるものと信じて居た――を持つて廻つた、各所の霊地の神人団が、其だ。此に信仰の宣布と共に、新地の開拓と言ふ根本的目的を持つて居た。つまりある信仰の拡まる事は、其国土の伸びる事となるのだ。
天子の奉為(オンタメ)の神人団としては、其朝(テウ)々に親※[目+丑]申した舎人(トネリ)たちの大舎人部(オホトネリベ)――詳しく言へば、日置(ヒオキノ)大舎人部、又短く換へて言ふと、日置部日祀部(ヒマツリベ)など――の宣教する範囲、天神の御指定以外に天子の地となる。皇后の為にも、同様の意義において、私部(キサイツベ)が段々出来て行つた。かうして次第に、此他の大貴族の為に、飛び/\に認可せられた私有地が出来て来る。さう言つた地には、此に其建て主又は、其邑落に信奉せられてゐる呪法の起原の繋る所の叙事詩の主人公――元来の土地所有者の生涯の断片に関して語り伝へたものである。さうして、同一起原を説く土地の間において、歴史的関係が結ばれて来る訳である。
過去の人及び神を中心として、種々の信仰網とも言ふべきものが、全国に敷かれて居たのである。之を行うたのは、誰か。言ふまでもなく、巡游伶人である。而も、其中最その意味の事業を、無意識の間に深く成就して行つたのは、何れの団体であらう。其は、海部の民たちである。
之を外にしては、大体において、山部と称へてよい種類の、山の聖水によつてする禊ぎを勧める者が多く游行した様に思はれる。
まきもくの 穴師の山の山びとと 人も見るかに、山かづらせよ
穴師(アナシ)神人の漂遊宣教は、播磨風土記によつて知られるが、同時に此詞章が、神楽歌採物(トリモノ)「蘰(カツラ)」のものである事を思ふと、様々な事を考へさせられる。山人が旅をする事の外に、近い里の祭儀に参加したのである。さうして祝福の詞を述べた事が屡あつた。此は、奈良都以前から行はれて居た事で、更に持ち越して、平安朝においてすら、尚大社々々の祭りに、山人の来ること、日吉・松(ノ)尾・大原野の如き、皆其であつた。
海部と言ひ、山人と言ひ、小曲を謡ふやうになつたと言ふ事は、同時に元はじめ長い詞章のあつた事を示してゐるとも言へる。呪詞又は叙事詩に替るに、其一部として発生した短歌が用ゐられることになつたので、之を謡ふことが、長章を唱へるのと同等の効果あるものと考へられたのである。だが同時に、小曲の説明として、長章が諷唱せられる事があるやうになつた。即順序は、正に逆である。かう言ふ場合に、之を呼んで「歌(ウタ)の本(モト)」と称してゐた。歌の本辞ホンジ(もとつごと)言ひ換へれば、歌物語(ウタモノガタリ)の古形であつて、また必しも歌の為のみに有するものと考へられて居なかつた時代の形なのだ。
古く溯る程、歌よりも、その本辞たる叙事詩或は、呪詞の用ゐられることが、原則的に行はれてゐた。歌の行はれる様になると、同時に「諺」が唱へられたらしい。「諺」は、半意識状態に人の心を導く一種の謎の様な表現を古くから持つたもので、同時にある諷諭・口堅めの信仰を含んでゐるものでもあつた。簡単な対句(ツヰク)的な形式の中に、古代人としての深い知識を含んでゐるものでもあつた。だから、諺に対しては、ある解説を要する場合が多く、其解説者としての宿老(トネ)が、何処にも居つたのである。其で諺については、どうしても説話が発達しないでは居なかつた。歌と呪詞・叙事詩との関係を、寧逆にしたのが諺の場合である。所謂歌から生じた後の歌物語なるものは、諺とその説話との関係を見倣つて進んで来たのだと言ふことが出来る。諺の最もつとも諺らしい表現をせられる時は、即「謎(ナゾ)」に近づいて来る。と言ふより、謎は此から出たと言ふのが、正しいであらう。懸け合ひすることを、祭祀の儀礼の重要な部分とするのが、古代の習慣であつた。神及び精霊の間に、互に相手方の唱和を阻止する様な技巧が積まれて来てゐた。即応する事が出来ねば負けとなる訣である。元来は真の頓才(ヰツト)による問答であつたらうが、次第に固定して双方ともにきまつたものをくり返す様になつた事である。唯、僅かづゝの当意即妙式な変化と、順序の飛躍とがあつたに過ぎないであらう。
歌物語においては、如何にも真実らしく感じる所から、自然悲劇的な内容を持つものが多くなつて行くが、諺物語においては、次第に周知の伝承を避け、而も意表に出るを努める所から、嘘話としての効果をねらふ様になり、喜劇的な不安な結末を作る方に傾くのである。
早歌(ハヤウタ)
(いづれぞや。とうどまり。彼崎越えて)
本」何処だい。行き止りは。末」そんなこつちや駄目だ。あの崎越えてまだ/\。
(み山の小黒葛。くれ/\。小黒葛)
本」山のつゞらで言へば、末」もつと繰れ/\。山の小つゞら。
(鷺の頸とろむと。いとはた長ううて)
本」鷺の首をしめようとすると。末」ところが又むやみに長くつて
(あかゞり踏むな。後なる子。我も目はあり。先なる子)
本」踵のあかぎれを踏んでは困る。うしろの人間よ。末」言ふな。おれだつて、目がついてるぞ。先に行く奴め。
(舎人こそう。しりこそう。われもこそう。しりこそう)
本」若い衆来い。ついて来い。末」手前も来い。ついて来い。
(あちの山。せ山。せ山のあちのせ)
本」向うの山だから、其で背山だ。末」背山でさうして、向うのせ山。
(近衛のみかどに、巾子(コジ)おといつ。髪の根のなければ)
本」陽明門の前で、冠の巾子をぽろりと落した。末」為方がないぢやないか。髪のもとゞりがないから。
(をみな子の才(ザエ)は、霜月・師走のかいこぼち)
本」そんなら問はう。婦人の六芸に達したと言ふのは。末」十一、十二月に、少々降る雨雪で、役にも立たぬ。
(あふりどや。ひはりど。ひはりどや、あふり戸)
本」ばた/\開く戸。(其も困るが)つつぱつてあかぬ 末」(此奴も困り者だ)。つつぱり戸に、ばた/″\戸。
(ゆすりあげよ。そゝりあげ。そゝりあげよ。ゆすりあげ)
本」戸ならばゆすつてあげろ。しやくつてあげろ。末」しやくつてあげろ。ゆすつてあげろ。
(谷からいかば、岡からいかむ。岡から行かば、谷から行かむ)
本」お前が谷から行くとすりや、おれは高みから行かう。末」お前が高みから行くとすりや、おれは谷から行かう。
(これからいかば、かれからいかむ。かれからいかば、これからいかむ)
本」お前が此処をば通るなら、おれは向うを通る。末」お前が向うを通るなら、おれは此処を通る。
かうした口訳を作ることは、くどい事だし、尚、当然誤訳もあるだらうし、私自身に別説もある。これは頓作(トンサク)問答だから、早歌と言つたのだが、歌と言ふほどの物でもなからう。その中「近衛御門云々」は即座の応酬だらうし、「女子(ヲミナゴ)の才(ザエ)云々」は諺だつたらう。
神楽の歌詞から、神楽の原義は固より、その過程を引き出さうとする事の無謀であることは、勿論の事である。其だけ替へ歌が、沢山這入つて来てゐる訣だ。だが、早歌を見ると、如何にも山及び遠旅の印象が、明らかに出てゐる。其上に、「近衛御門に巾子落いつ」などになると、踏歌に出る仮装者の高巾子(カウコンジ)や、其に関聯して中門口の行事などが思ひ浮べられる。謡ひ方も勿論早かつたであらうが、其は問答に伴ふ懸け合ひの早さであり、頓作問答としての意義を含んでゐるのである。人長・才男の問答で、其早歌が流行した結果、白拍子歌にまで入りこんで、幾つもの今様を懸け合ひで連ねて行くところから、宴曲の早歌が出て来たものと考へられる。ともかくも、神楽においては、才(サイノ)男(ヲ)は、これで引きこみになる訣で、全体の趣きから見ても、名残惜しみの様子が見えてゐる。
海部の伝承は、記紀・万葉を見ても、其物語歌の性質から見て、或は、その名称から見て察する事の出来るものが多い。更に大きな一群としては、海語部(アマガタリベ)の手を経て宮廷に入つたものと思はれるものがあるのである。此には多少の疑問はあり乍ら、私どもにとつては、既に一応の検査ずみになつて居るのである。現在の処では、山人及び山部に属する人々の伝承は、鎮魂とその舞踊とが名高くなつて、其詞章の長いものは、わりに失はれたものが多い様に見える。今度の試みにおいて、西角井君の為事を記念する意味において、神楽を主題にしたのも、実にこゝに一つの焦点を結ばうとした理由もあるのだ。日本紀には、「山」について、却て大きな伝承群のあつたらう趣きを示してゐる。応神帝崩後、額田(ヌカタノ)大中彦(オホナカツヒコ)、倭(ノ)屯田・屯倉を自由にしようとなされて、是屯田は元来「山守(ノ)地」だから、我が地だと言はれた。大中彦は、大山守尊の同母弟だからと言ふが、実は一つの資格なのだ。大鷦鷯尊、倭(ノ)直(アタヘ)祖麻呂を召し上げて、其正否を問はれた時、「私は存じません。唯、臣の弟吾子籠(アコゴ)、此事を知れり」と奏上した。其で、韓国(カラクニ)に使して居た同人を急に呼び寄せられた。吾子籠の御答へには「倭の屯田は天子の御田です。天子の皇子と申しても掌る事は許されぬ事になつて居ます」と答へたのは、倭(ノ)直氏人の中、神聖な物語を継承する資格即語部(カタリベ)たる選ばれた力が吾子籠にあつたのだ。さうして、倭氏であるだけに、「山」に関係が深かつたのである。山神に仕へる資格を持つた倭国造家の人である。これも単に唯、保証人と謂つた為事だけなら、わざ/″\韓国から、氏人の中、限られた者の呼び寄せられる理由はなかつた筈だ。
かうした「山の伝承」が、山人、山部及びその類の神人の間にあつたのが、早く詞章を短縮した歌殊に短歌の方に趣いたのは、神遊(カムアソビ)詞章の特殊化であつた。私などは、海部が其豊富な海の幸と、広い生活地を占めてゐる為の発展力を、何処までも伸して、神遊びまでも、平安朝に到つて自家のものを推し出して来たが、元は、「山神楽」が重要なものだつたと思ふ。「採物」を見ても、殆ほとんど山及び山人、山の水に関係ある物ではないか。
あまりに物を対比的に見ることは、誤つたしうちに違ひないが、私は後世式にかう言はう。海部(アマ)の浄瑠璃、山部の小唄。即前者は、平安期の末まで、長い叙事詩を持ち歩き、後者は早く奈良朝又は其前にすら短歌を盛んに携行したものと見られるのである。たとへば、山部宿禰赤人、高市連黒人、皆山(ノ)部に関係深い人々である。柿本(ノ)朝臣人麻呂にしてからが、倭の和邇氏の分派であり、其本貫、其同族を参考にしても、山に関係が深いのである。かう言ふ見方は、必しも正確を保する事は出来ない。が、一応は考へに置いて見る必要がある。  
ひと言
私の言ふべき事は、単に緒についたまでゞある。此等の海及び山の流離民(ウカレビト)が、国中を漂遊して、叙事詩、抒情詩を撒布して歩いた形から、其が諸国に諸種の文芸を発生する事を述べるのは、此からである。其上、其中心は、何と謂つても、都の流行である。此芸能者の交迭が、色々な文学・芸能を、宗教的に説経的に生んで行く事を、もつと落ちついて咄す筈であつた。だが、其に入る前に制限は、既に遥かにのり越してゐる。是非なくこゝに筆を擱く。だが、日本の唱導文学は、此後何時までも、江戸の末期までも、形こそ変へたれ、主題は一つ。神――及び仏――の流離転生(テンジヤウ)を説くものゝ、種々な形の変化である。さうして、其が近代ほど貴人となり、又理想的雛男となり易るだけであつた。さうして、江戸期において、ほゞ大きな四つの区分、説経・浄瑠璃・祭文(サイモン)・念仏が目につくが、此が長く続いた叙事詩の末である。其他にも幾多の芸能文学が出没したが、すべて皆奴隷宗教家の口舌の上に転(コロ)がされることによつて維持せられて来た事も、一つの忘るべからざる事実である。  
 
説経節「山椒太夫」

 

厨子王丸は母、姉、乳母と都への旅に出るが...
今から語ります物語。国をいうなら丹後(たんご)の国、金焼(かなやき)地蔵のもともとのお姿をるると語ってお聞かせいたします。
このお地蔵さまも一度は人間でありました。人間だったときのお姿は、国をいうなら奥州の、日の本の将軍、岩城の判官正氏(まさうじ)どの、そしてそこには、さまざまの哀れなお話があるのでございます。
正氏どのは、強情なかたでありました。それでお役目をしくじって筑紫(つくし)の安楽寺へ流されまして、一家はつらい身の上にありました。
いたわしいことに奥方は、姫と若君をつれて、伊達(だて)の郡(こおり)、信夫(しのぶ)の荘(しょう)へ流れていきまして日々を嘆き暮らしておりました。それもまた道理でございます。
ある日のことでありました。どこからともなくツバメのつがいが飛んできて、お庭のちりなどくわえ取り、長押(なげし)の上に巣をつくり、十二の卵をあたためて、父鳥と母鳥が二羽で育てておりました。
厨子王丸はこれを見て、「母さま、あれはなんという鳥」と聞きました。
母はこれを聞いて言いました。
「あれは『かわらぬ国』から来る鳥ですよ。ツバメともギバとも呼んで、とっても優しい鳥なんですよ」
厨子王丸はこれを聞いて言いました。
「今日はなんておかしな日だろ!空を飛ぶ鳥にも父がいて母がいる。ふた親を持っている。それなのに姉さまとわたしには父という字がない。とてもふしぎ」
母はこれを聞いて言いました。
「お父さまの岩城どのは、ある年、御所の警護のお役で失敗して、その罪で筑紫の安楽寺に流されて、つらい思いをしていらっしゃるの」
厨子王丸はこれを聞いて言いました。
「父上はこの世においででないと思ってました。父上が生きておいでなら、母さま、姉さまとわたしにお許しをください。都に上って、みかどより御判(ごはん)を申し受けて、奥州五十四郡の主(ぬし)となりましょう、ねえ、母さま」
母はこれを聞き、「それならわたくしもいっしょに行きましょう」と言いまして、供(とも)は乳母のうわたき一人という、寂しい旅をしのびやかに用意して、三月十七日に国をほんのかりそめに立ち出でました。それをあとあと、どんなに後悔したかしれません。三十日ばかり歩きまして、一行は、越後の国、直井の浦に着きました。
太陽も、陽(ひ)の谷を出て世の中を照らし出し、やがて暮れ方になりました。「宿をさがしてきておくれ」と奥方の言いつけで、うわたきが、直井の家々を千軒ほども、「一夜の宿を、一夜の宿を」と頼んでまわり、九百九十九軒ほどもまわりましたけれども、貸してくれる家はありません。
ああ、いたわしくてなりません。
四人の者は疲れ果てて座り込み、「凡夫(ぼんぷ)だらけのこの世には、宿さえ貸してくれるところがない、ああ悲しい」と嘆いておりました。
浜から戻る女が通りかかって言いました。
「旅の奥方さまのお嘆きはわかりますが、ここは直井の浦、悪い者が一人二人おりますんです。越後の国、直井の浦といえば、人売りがあるってんで有名なんでございます。これを地頭(じとう)が聞きつけまして、宿を貸す者には罰をあたえると言いましたので、だあれも貸したがらないんでございます。あそこにほら、見えますでしょう。黒森の下に逢岐(おうぎ)の橋という大きな橋がかかってございます。あそこへおいでになって夜明かしなさいませ」
奥方はこれを聞き、これはきっと氏神さまが教えてくだすったのだと思いまして、四人で逢岐の橋に行きました。行きましたけど、昔から今にいたるまで、親子の間には、いろいろと切ない話がございます。北から吹く風は、だれもが辛い風ですから、うわたきに防がせました。南から吹く風を奥方が防ぎまして、小袖を取り出し、敷物に敷いて、中に子どもたちを寝かせたのでありました。
ここまでは直井の浦の物語。
ここに山岡の太夫といいまして、人売りの名人がおりました。昼間、旅の貴婦人たちに宿を貸しそこね、収まらぬ気持ちでおりました。だまし売って年越しの金にしようと企んでおりました。女の足だ、遠くへは行くまい、浜づたいに行ったか、逢岐の橋へ行ったかだと考えて、脚絆(きゃはん)を締め直し、鹿杖(かしづえ)をついて逢岐の橋へ急いだのでありました。
逢岐の橋に着いてみると、四人の人々が長旅にくたびれ果てて前後不覚に寝ておりました。一脅(ひとおど)し、脅かしてやろうと思いまして、鹿杖で、橋の表を、どんどんと突き鳴らして言いました。
「ここに寝ている旅人は、知っているのか、知らないのか。この橋は供養をしてない橋だから、山からはうわばみが下りてくる。池からは大蛇が上り来る。夜な夜な出会って契りをこめて、暁になると別れてゆく。逢って別れるから、橋の名前を逢(お)う岐(ぎ)の橋という。七つ(午後四時ごろ)すぎれば人を捕る。人の行方がわからなくなるという噂だ。気の毒なことだのう」
そしてそのまま、何気ないふうを装って戻ろうといたしました。奥方はそれを聞き、かっぱと起き上がり、月影の中で太夫の姿を見ると、五十過ぎの太夫は、慈悲ありそうな太夫に見えました。この人に宿を借りなくてどうするという勢いで、太夫のたもとにすがりついて頼んだのでありました。
「どうかお願いでございます、太夫どの。わたしたちだけなら虎や狼やもののけに捕らえられてもようございます。でもあれをごらん遊ばして。ここに寝ている子どもは奥州五十四郡の主になるはずの子どもでございます。わたくしたちは、お上への申し立てに都へ上ります。みかどにお許しの御判をいただいて、もとの領地に帰れましたら、太夫どのにたっぷりお礼をいたしましょう。どうか一夜の宿を」
太夫はこれを聞き、ふふふ、たとえ宿は借りないと言われても、無理やりにでも宿を貸したい、それを向こうから貸してくれと言ってきた、うれしいじゃないか、だましてやれと思って言いました。
「しかし奥さま、宿をお貸ししたいのはやまやまですが、ご存じのように、お上がうるさいのですよ。貸したくても貸せないのですよ」
奥方はこれを聞いて言いました。
「でも太夫どの、これはたとえじゃございませんけれど、費長房(ひちょうぼう)や丁令威(ていれいい)は鶴の羽交(はが)いに宿を取り、達磨尊者(だるまそんじゃ)は芦の葉に宿を取ったと申します。旅は心、世は情け。大船(たいせん)は浦の中に碇(いかり)をおろし、捨て子は村全体で育てます。木があるから鳥が住む、港があるから舟も寄る。一時雨(ひとしぐれ)、一村雨(ひとむらさめ)のほんのいっときの雨宿り、前世からつづく縁だからとお思いになって、どうかどうか一夜のお宿を」
太夫はこれを聞き、「宿は貸すまいと思いましたが、おっしゃるとおりだ、それならお貸しいたしましょう。でも道すがら人に会っても何も言っちゃいけません。わたしに任せてくださいよ、人目を避けてくださいよ」と言い含めて、太夫の家に連れて行きました。奥方の運命は尽きていました。道すがら、一人の人にも会わなかったのでありました。そうして太夫の家に着きました。
太夫は女房を呼びまして、「婆さん、昼間も見えた奥方にお宿を貸すよ。
食事を出してもてなしておくれ」と。
女房はこれを聞いて言いました。
「いつまでも若いつもりで、何がお宿だ。あの奥方にお宿を貸すっていうのなら、あたしゃもうこれぎりで別れます」
太夫は女房をはったとにらんで言いました。
「まったくおまえは生(なま)な情け心を起こしやがって。今年は親の十三回忌、慈悲心で宿を貸そうと言ってるのだ。それでも貸さないか、この婆(ばばあ)め」
女房はこれを聞き、「そうか、売るために貸すかと思ったが、慈悲で貸そうというのなら話は別だ。さあこちらへ」と言いまして、すすぎの湯を出し、中の座敷へ案内したのでありました。
夜半、女房はそっと中の座敷へやって来て、小さな声で話しはじめました。
「奥さま、お話をしにやって来ました。昼間、お宿は貸さないと申したのはこういうわけでございます。あの太夫というのは、七つのときから人買い舟の櫓(ろ)を押してきた人売りの名人なんでございますよ。売られてしまってから、情けのない太夫だ、姥だと恨まれるのがいやだから、お宿は貸さないと申したんでございますよ。でも太夫が慈悲でお貸しすると言ってましたから、五日でも十日でも、どうぞゆっくり足を休めていってくださいまし。でも油断はなさっちゃいけませんよ。太夫が売るつもりとわかったら、あたしがお知らせしますからね」
ところが、それを太夫が立ち聞きしておりました。女房が何を言おうとも、だまし売って年越しの金にしようと思っておりましたから、寝るに寝られたものじゃありませんでした。やがて、中の座敷に行きまして、
「奥さま、宿の太夫でございます。お話をしにやって来ました。奥さまは、以前にも京へおいでになったことがおありか」と聞きますと、奥方の運命は尽きていました。「初めてです」と答えたのでありました。
太夫はこれを聞きまして、初めてなら船路で売るのも陸路で売るのもうまくいくと思いまして、「奥さま、船路で行かれますか、陸路で行かれますか」と聞きましたら、奥方は、「船路でもようございます。楽な方を教えてくださいませ」と答えました。
太夫はこれを聞きまして、「それならぜひとも船路になさいませ。太夫がいい小舟を一艘(いっそう)持っております。沖までこぎ出して、便船(びんせん)に乗せてさしあげましょう。おお、こんな話をしている間にも夜が明ける。夜が明けたら人目につく。人目につかないように少しでも早く出ていかないと、奥さま」とだまし抜いたのでありました。
「ああ、いたわしい」、きょうだいは山椒太夫に売られていく
ああ、いたわしくてなりません。
四人は売られるとも買われるとも知らずに、太夫の家をしのび出て、人の家の軒端(のきば)をつたって、浜に向かって行きました。
浜に着きますと、太夫は一行を夜舟(よぶね)に乗せまして、もやい綱をほどくのももどかしく、腰の刀をするりと抜いて、ざっくりと綱を切り放ち、やったやった、久しぶりにいい商(あきな)いになると心の中でほくほくしながら、「えいやっ」と声をあげ、櫓拍子(ろびょうし)を踏んで押し、夜の波間に、三里ほどこぎ出していきました。
沖をじっと眺めれば、霞の中に、舟が二艘、見えました。
「そこの舟、商い舟か、漁の舟か」と太夫が問いますと、一艘は「えどの二郎の舟」と答え、一艘は「宮崎の三郎の舟」と答えました。
「おまえの舟はどこの舟だ」と向こうも聞きまして、「これは山岡の太夫の舟だ」と。
「めずらしいな、商い物はあるのか」と聞きますので、山岡太夫が「これだけある」と片手を差し上げて親指を一人折ったのは、四人あるとの合図でありました。
「四人あるなら五貫で買おう」と二郎が早速値をつけました。
「そっちが五貫なら、おれは前々からの取引だ。一貫あげて六貫で買う」と三郎が言いました。
おれが買う、いやおれだと口論になり、けんかになりかけましたので、太夫は向こうの舟に飛び移り、
「音を立てるな、鳥が立つ。こっちの鳥は若鳥だ。末に繁盛するように、両方に分けてやる。まずえどの二郎どのは奥方二人買ってゆけ。また宮崎の三郎どのはきょうだい二人買ってゆけ。五貫に負けよう」
そしてまた自分の舟に飛び移り、
「お聞きください、旅の奥さま。今の口論は誰のためとお思いか。奥さまのためでございますよ。二艘の舟の船頭はおれの甥ども、伯父思いの甥どもが、伯父の舟の客人を自分が送ろう、いや自分が送ろうと口論しております。二人の気の済むようにしてやってくださいませんか。行く先も一つ、港も一つ、舟の足を軽くすると思って二つの舟で行ってください。まず奥さまがたはこちら、あの舟にお乗りなさい。きょうだいはこちらの舟にお乗りなさい」と太夫は四人を五貫にうち売って、直井の浦に戻っていったのでありました。
なによりも哀れでならないのはこの舟二艘。ここに哀れも極まったのでありました。
五町ばかりは並んで行きましたが、十町も行きますと、舟は、北と南へ別れていきました。奥方はそれを見て、「ちょっと船頭どの、舟と舟の間が開きすぎてはいませんか。同じ港へ行くようには見えません。舟をこぎ戻して、そうっと進めてくださいませよ、船頭どの」と言いますと、船頭は「なにをいうか、今朝の商いでもうけそこなって、腹が立ってたまらねえのだ。奥方二人はおれの者だ。舟底に乗れ」と言うばかりでありました。
奥方はこれを聞いて言いました。
「まあなんということ、聞きましたか、うわたき。あたしたちは売られたのよ、買われてしまったのよ。太夫どの、なんて情けない。船頭どの、なんて恨めしい。売るなり買うなりするにしても、親と子を二つに売り分けるなんて、なんて酷(ひど)い。悲しゅうございます」
そして宮崎の三郎の方をうち眺めて言いました。
「子どもたち、きょうだいたち。あなたたちは売られたのよ、買われてしまったのよ。命を大切にするのですよ、きょうだいたち。また世に出ることだってあるかもしれない。姉のはだに掛けたのは地蔵菩薩さま、もし二人の身の上に何か大事が起こったときには、身代わりにも立ってくださる地蔵菩薩さまですよ。よく信心して掛けておきなさいよ。弟のはだに掛けたのは、信太玉造(しだたまつくり)の系図です。死んで冥土に行くときも、閻魔(えんま)さまへのいいみやげになりますからね。落としたらいけませんよ。厨子王丸」と声の届くかぎり呼びかけていたのでありました。
次第に帆影は遠くなりました。声が届かなくなりました。奥方は腰の扇を取り出して、ひらりひらりと招きましたが、舟は近寄るどころか、今朝、越後の国の直井の浦に立つ白波が、妨げる雲のようにさえぎるばかり。
「わが子が見えない、見えない、ああ悲しい。善知鳥(うとう)というあの鳥でさえ、子が取られれば嘆き悲しむという。どうか、おねがいです、船頭どの、舟をこぎ戻して、もう一目、生きているうちにもう一目、わが子に会わせてくださいませ」
船頭はそれを聞いても、「なにをいうか、舟を一度出したらもう戻らない。それが掟だ。船底に乗れ」と言うばかりでありました。
うわたきはそれを聞き、「わかりました」と呟(つぶや)いて、「賢臣は二君に仕えず、貞女は両夫にまみえずと申します。あたくしは、二張(にちょう)の弓は引きません」と言いまして、船梁(ふなばり)に立ち上がり、数珠(じゅず)を取り出し、西に向かって手を合わせ、声たからかに念仏十遍となえ、身を投げて、直井の浦の、浦の底の藻屑(もくず)となりました。
奥方はこれを見て、「親とも子ともきょうだいとも思って頼りにしてきたうわたきがこんなことになってしまった。どうしたらいいの」と身も世もなく泣きじゃくりました。やがてこぼれる涙をおしとどめ、ちきり紋様の村濃(むらごう)染めの小袖を一重ね取り出しまして、
「船頭どの、少ないのですけれど、これは今朝のお代金としてお収めください。わたくしもこれでおいとまして身を投げます、船頭どの」
船頭はこれを聞き、「なにをいうか、一人は損してしまったが、二人めまで損をするものか」と言いまして、手にした櫂(かい)で奥方を打ち伏せて、船梁にしばりつけ、蝦夷の島に売り飛ばしたのでありました。蝦夷の島の人買いは、能がない職がないと言い、奥方の足の筋と手の筋を断ち切りまして、奥方は日に一合の穀物を食べて生きのびながら、粟にたかる鳥どもを追うことになりました。
これは奥方の物語。
それはそれとして、とくに哀れでならないのは、あの宮崎の三郎が、きょうだい二人を二貫五百で買い取った後、二人があちらに売られ、こちらに売られ、とうとう丹後の国、由良の港の山椒太夫に、十三貫に値をつけられて買い取られていったこと。世の中には哀れなことがさまざまありますけれども、これこそ哀れでたまらないことでございました。
太夫は買い取った二人を見て、「これはよい下人(げにん)を買い取った。うれしいぞ。孫や曾孫(ひまご)の代まで、この者どもを、譜代(ふだい)の下人と呼んで使えるとはうれしいことだ」と喜ぶことはかぎりがありませんでした。
ある日のことでありました。太夫はきょうだいを前に呼び、
「うちでは名のない者は使わないのだが、おまえたちの名はなんという」と聞きました。
姉はこれを聞いて言いました。
「はい、わたしたちは奥州の山深くの者ですから、姉は姉、弟は弟と呼ぶばかりで、名を持ちません。よい名をつけてください」
太夫はこれを聞いて言いました。
「よし、そういうことなら、生まれた国はどこだ。国の名で呼ぶ」
姉はこれを聞いて言いました。
「はい、わたしたちは伊達の郡、信夫の荘の者ですが、三月十七日にほんのかりそめに国を出たところ、越後の国、直井の浦から売られ売られて、あんまり辛くて、そっと数えておりましたら、ここの太夫どのまでに七十五回売られました。どこでも商いのしなもの扱いされるだけで、きまった名前もありません。どうかよい名をつけてお使いください、太夫どの」
太夫はこれを聞いて言いました。
「よし、そういうことなら、伊達の郡、信夫の荘から取っておまえを『しのぶ』と名づけよう。忍ぶ草には忘れ草がつきものだ。今までのことは忘れて太夫によく仕えるように、弟を『忘れ草』と名づけよう。明日になったら、姉のしのぶは浜に行って潮を汲め。弟の忘れ草は日に三荷(さんか)の柴を刈れ。太夫のためによく働け」
夜明けになりまして、きょうだいは鎌と天秤棒(てんびんぼう)、桶と柄杓(ひしゃく)を渡されました。
いたわしいことにきょうだいは、鎌と天秤棒、桶と柄杓を受け取って山と浜に出て行きました。いたわしくてなりません。姉上は、浜のとある所で立ちつくし、桶と柄杓をからりと捨てて、山の方をうち眺めて泣いておりました。
「目の前にこんなに潮がある。それなのにあたしにはうまく汲めない。ましてや弟は、鎌なんて持ったこともない。手元が狂って手を切ったりしてないか。山では峰を渡る風が激しくて、さぞ寒かろう。悲しい」
弟の厨子王どのも、岩鼻に腰を掛け、浜の方をうち眺め、
「ここにはこんなに柴があるが、おれにはちっとも刈りとれない。浜に立つ白波には女波男波(めなみおなみ)があるという。男波の潮を打つ間に、女波の潮を汲むという。波のことなんか何にも知らない姉さまは、桶や柄杓を波に取られてないか。浜では浜の風が激しくて、さぞ寒かろう。悲しい」
そのように山と浜とで泣き暮らしておりました。そこに里の山人(やまうど)たちが柴を刈って帰りがけに通りかかりました。
「この童(わっぱ)は山椒太夫のところに来たばかりの童だ。山へ出て柴を刈らずに戻ったら、邪慳(じゃけん)な太夫や三郎がいじめ殺すことは間違いない。人助けは菩薩の行(ぎょう)ではないか。おい、みなの衆、この童のために柴を集めてやらないか」と柴を少しずつ刈りまして三荷分の柴を刈りあつめ、「さあ、荷を作って背負いな」と言いました。
厨子王どのが「刈ったことも背負ったこともありません」と言いますと、それはそうだろうと山人たちも思いまして、それぞれの荷の先にくくりつけ、あすみが小浜まで運んでくれたのでありました。
昔から申します、「重荷に小付け」ということわざは、この時代からこうして言われるようになったんでございます。
なんといたわしい厨子王どの、三荷の柴を運んでいきましたら、三郎が見て、厨子王どのを片手に、柴を片手にひっつかみ、太夫どののところへ引っ立てて行きました。
「はなしがございます、太夫どの。童の刈った柴をごらんください」
太夫はこれを見て言いました。
「おまえは柴を刈ったこともないと言ったが、ほんとに刈れないのなら、根元をそろえることも知らず、束ねたってばらばらになるはず。ところがこれはどうだ。土地の山人がやったようにうまくできておる。こんなにできるのなら、三荷じゃ足りない。七荷増やして十荷刈れ。十荷刈ってこなければ、おまえたちの命はないよ」と厨子王丸を責めたのでありました。
いたわしくてなりません。
厨子王どのは、門の外に出て、姉の帰りを待ちました。
いたわしくてなりません。
姉上は、すそは潮風に、そでは涙にしょぼぬれて、桶をかついで戻ってきました。厨子王どのは姉のたもとにすがりついて言いました。
「ねえ、聞いておくれ、姉さま。おれが今日の柴を刈れずにいたら、山人のおじさんたちが情けで刈ってくれた。そしたらきれいに刈ってあったのを見とがめられて、七荷増やして十荷刈れと言われたよ、姉さま。どうか太夫どのに頼んで、三荷にゆるしてもらって」
姉はこれを聞いて言いました。
「そんなに泣いちゃだめ、厨子王丸。あたしもそう。今日の潮を汲めなくて、波に桶と柄杓を取られていたら、海人(あまびと)が情けで汲んでくれたのよ。今日はこれで助かったけど、明日はどうなるかわからない。ねえ、厨子王丸。なんでも太夫どのの五人ある息子の中で、二番目の二郎さまは慈悲第一の人らしい。三荷にしてくださいとお願いしてみよう。ほら、そんなに泣かないの、厨子王丸。あたしまで悲しくなってくるから」
そして、きょうだい連れ立って戻っていったのでありました。
姉は柴を三荷にしてくれるように頼んでみました。邪慳な三郎がこれを聞きつけまして、
「はなしがございます、太夫どの。昨日の柴は、あの童の刈ったものと思い込んでおりましたが、あれは里の山人たちが気まぐれに助けたんだそうですよ。由良の千軒に触れを出します」
邪慳な三郎が由良の家々千軒に触れを出してまわりました。
「山椒太夫の身内では、来たばかりの姫と童を使っている。山で柴を刈ってやる者、また浜で潮を汲んでやる者、隣三軒と両向かいまで、罪に問われることになる」
こう触れてまわった三郎を鬼と言わない者はありませんでした。
なんといたわしい厨子王どのは、三郎が触れてまわったのも知らずに、また昨日のところへ行き、助けてもらおうと思って佇(たたず)んでおりました。山人たちはこれを見て、「おまえにやる柴が惜しいわけじゃないのだ。邪慳な太夫から触れがあった。だから助けてやりたいと思っても、柴を刈ってやる者はいないだろうよ。こう持ってこう刈るのだよ」と鎌を持って教えて、通りすぎていったのでありました。
いたわしいことに厨子王どのは、泣いてばかりじゃだめだと思い切り、腰の鎌を取り直して、何という木か、木を一本切ったのでありますが、やり方を知らずに根元を持って引きました。引いた木も、茨(いばら)、葎(むぐら)にからみ取られて、どうにも動かなくなったのでありました。
「この身の上では、柴さえ思いどおりにならないのだな」と泣きながら呟くことばも道理でありました。
「人の寿命は、八十、九十、百まで続くという。おれはまだ年若いけど、十三年が一生だったと思えばそれまでだ」
そう言うと、守り刀のひもを解いて自害しようと思いましたが、
「ちょっと待て、わが心。ここでおれが自害したら、浜にいる姉さまが何とする。姉さまにもう一度会いたい」
浜に行って姉に暇乞(いとまご)いをしてからと考えて、守り刀をおさめて、鎌と天秤棒を肩に掛け、浜辺を指して下っていきました。
いたわしくてなりません。
姉上は、すそは潮風に、そでは涙にしょぼぬれて、潮を汲んでおりました。厨子王どのは姉の衣のすそにすがりつき、
「ねえ、聞いておくれ、姉さま。おれは自害しようと思ったけど、姉さまにもう一度会いたくて、ここまで来た。この世からさっさと離れて、自害しよう、姉さま」
姉はこれを聞いて言いました。
「なにをいうの、あんたは年下だけど男だわ。それが自害しようというのね。あたしも身を投げようと思ってたのよ。待って、待つことができて、ほんとによかった。あんたがそのつもりなら、いっしょにおいで。身を投げよう」
そしてたもとに小石を拾い入れ、岩鼻に上って言いました。
「ねえ、厨子王丸。あんたは越後の直井の浦でお別れしたお母さまを拝むと思って、あたしの姿を拝みなさいよ。あたしは筑紫の安楽寺に流されておいでのお父さまを拝むと思って、あんたを拝むわ」
今、まさに身を投げようとしたそのときに、同じところで働く伊勢の小萩が、これを見て言いました。
「ちょっと待ちなさいよ、二人とも。命を捨てるつもりなの。命さえあれば、しあわせにめぐり会えることもある。また世に出ることだってきっとある。あんたたちが命をむだにしないなら、あたしが自分の話をしてあげる。あたしだってあの太夫に代々使われてきた下人じゃない。国をいうなら大和の国、宇陀(うだ)というところから来たの。継母(けいぼ)にいじめられて、とうとう伊勢の国の二見が浦から売られたの。あんまり辛くて、持っていた杖に刻みをつけて数えてみたら、この太夫のところまでに四十二回売られたの。今年で三年になるけど、初めから慣れるものじゃない、でもいつか慣れる。柴を刈れないなら、あたしが刈ってあげる。潮が汲めないなら、あたしが汲んであげる。だから命をむだにしちゃだめ」
姉はこれを聞いて言いました。
「ああ、そうよ。それができなくて命を捨てようとした。それさえできれば、命をむだになんかしたくない」
伊勢の小萩が言いました。
「それなら今日からは、太夫の家の中で、自分には姉がいるんだと思っていてね」
姉と弟が言いました。
「妹と弟がいると思っていてくださいね」
こうして浜辺できょうだいの契りを交わし、きょうだい連れ立って、太夫の家に戻っていったのでありました。  

 

三郎はきょうだいの顔に焼きごてを当てました
時はすぎていきました。昨日今日のことと思っているうちにもう師走の大晦日(おおつごもり)になりました。太夫は三郎を呼び出して言いました。
「おい、三郎よ。あのきょうだいは、奥州の山奥の者だから、正月ということも知らない。ああいつも泣き顔をみせているんじゃ、一年の運もおかしくなるわい。三の木戸の脇に柴がけの小屋を作って、あいつらをそこで年越しをさせろ、三郎、どうだい」
「承知しました」と三郎は言いまして、三の木戸の脇に柴がけの小屋を作り、きょうだいをそこで年越しさせました。
二人は嘆き語りました。それがいたわしくてなりませんでした。
「去年の正月までは浪人の身ではあったけど、伊達の郡の信夫のお屋敷で、身分の高いおとのさまやおひめさまたちの間で、破魔弓(はまゆみ)や羽子板のお相手をして、かわいがってもらったわね。今年の年越しはこのみすぼらしい柴の小屋。あたしたちの国の習わしでは、けがれがある人たちをきらって、こんな別小屋にやるんだそうよ。でも、あたしたちはけがれてなんかない。けがれていると誰に言われるすじあいもない。これは丹後の風習なのかしら。
寒くない?厨子王丸、
おなかすいてない?厨子王丸。
ねえ、厨子王丸。
こんなところで一生こき使われるなんてたまらない。ここでは新年に初めて山に入るのは一月十六日だって聞いたのよ。あんたもそのときそこに行く。そしたら、あたしにお別れなんて言わなくていいから、そのまま山から逃げなさい。逃げて世に出てみせて。そしてあたしを迎えに来て」
厨子王どのはそれを聞いて、姉の口に手を当てて言いました。
「だめだよ、姉さま。岩に耳あり、壁が物言うっていうよ、太夫たちがこのことを聞いたらどうなるか。逃げたいなら姉さまひとりで逃げればいい。おれは逃げない」
姉はこれを聞いて言いました。
「ひとりで逃げるのはかんたんだけど、女のあたしには家柄がないの。あんたは家に伝わった系図の巻物を持ってるんだから、一度は世に出なくちゃいけないのよ」
姉に逃げろ、いや、弟に逃げろ、逃げろ逃げないというやりとりを、心の邪険な三郎が、藪の中で小鳥をねらっておりました。そして立ち聞きしてしまいました。三郎は太夫のところに行って告げ口をいたしました。
「聞いてください、太夫どの。あのきょうだいが、姉に逃げろ、弟に逃げろ、と話しておりますよ。こうするうちにも、逃げたかもしれません」
太夫はこれを聞きまして、「連れて来い」と言いつけました。それで三郎は、三の木戸の脇の柴がけの小屋にやってきたのでありました。
いたわしいことでございます、姉上は言いました。
「ああ、やっぱり。正月三日のお祝いを今、くださるんだ。今は太夫どのに譜代の下人と呼ばれて使われていても、もともとあたしたちが、伊達の郡、信夫の荘で、おとのさまやおひめさまに混じってやっていた年賀のご挨拶や式のやりかたを忘れないようにね」
そうして、きょうだい連れ立って太夫どののところに出て行ったのでありました。太夫は怒りに目をひん剥(む)いて、ふたりをにらみつけて言いました。
「やい、おまえらは、十七貫で買いとられて、まだ十七文相当の働きもないくせに逃げるだなんだと企(たくら)んでおったそうだな。逃げたいと言ったって逃がすものか。どこの浦まで逃げたってすぐ太夫の下人とわかるように、印をつけてやる。おい三郎」と言いました。
心の邪慳な三郎は「どんな印をつけてやろうか」と言いながら、天井から炭を取り出して、土間のまんなかにどんと置き、矢籠(やかご)から丸根の矢じりを取り出して、大うちわであおいで熱したて、それから、いたわしいこと、姉姫さまの、背の丈ほどもある美しい黒髪を手にくるくると巻きつけて、姉姫さまを抱え込んだのでありました。
いたわしいこと、厨子王どのは言いました。
「ああ、どうか、三郎さま。ご本気ですか、おたわむれか。おどしのためか。焼きごてを当てられたら、姉の命はありません。よし命が助かったといたします。そしたらいつか、太夫どのの五人のご子息がたの奥様たちが月見や花見の宴を催されるとき、そのお供として、姉はお役に立つでしょう。そのときに、あんな美しい娘がどうして焼きごてをと、人はいぶかしく思うでしょう。そして、本人の過ちだとはだれも思わず、主人のせいと思うでしょう。姉に当てるその焼きごてを、二つとも私に当ててください。そして姉は、お許しください」
三郎はこれを聞きまして、「なんの、一人一人に当てるから、印になるのだ」と焼きごてを真っ赤に焼きたてまして、姉の額に、十文字に当てました。厨子王丸はその瞬間、いつもはあんなにしっかりした子ではありましたが、姉に当てられた焼きごてを目の前に見て、ちりりちりりと逃げました。三郎はそれを見て、「へっ、口ほどにもない臆病者だ。逃げようとしても逃がさない」と、髪の毛をつかんで引き戻し、膝の下に抱え込みました。
いたわしいことでございます、姉は焦(こ)げた額を手で押さえながら、
「ああどうかどうか、どうか三郎どの。神仏の罰があたります。今お助けくださったら、後生のご利益もございます。弟に逃げろとそそのかしたのはこの姉です。しかし弟は太夫どののためにはよいことを申しておりました。男の顔の傷は買ってでも持てとは言いますが、それも傷によります。これは恥辱の傷でございます。二つでも三つでも、わたしにお当てください。そして弟は許してください」
三郎はこれを聞いて言いました。
「なんの、一人一人に当てるから、印になるのだ」
そして弟の額に、じりりじっと焼きごてを当てました。太夫はこれを見て、「よけいなことを言うから痛い目に遭うのだ」と笑い声をあげて言いました。
「ああいう口のたっしゃなやつらは、命が果てることになったとしても、正直には吐かないものだ。浜に連れていけ。八十五人がかりで持ち上げられるような、松の木の湯船のその下で年越しをさせろ。食事もやるな。ただ干し殺せ、飢え死にさせろ」と申しました。三郎は「承知しました」と言い、きょうだいを浜辺へ連れて行き、松の木の湯船のその下で年越しになりました。
きょうだいが二人で語り合ったその悲しみも苦しみも道理でありました。いたわしいことでございます、姉は厨子王どのにすがりつき、「ねえ、厨子王丸。あたしたちの国の習わしでは、六月の晦日に夏越(なごし)の祓(はら)いの輪に入るそうよ。これは丹後の習わしかしら。食事ももらえず、このまま干し殺されるの。なんて悲しい」と、姉は弟にすがりつき、弟は姉に抱きついて、涙を流し、焦がれるように身をよじり、嘆き悲しんだのでありました。
太夫どのの五人いる息子たちの中でも、二番目の二郎どの、これは慈悲の心にあつい人で、自分の食べ物を少しずつ取り分けて、そっとたもとに入れまして、父、母、兄弟の目をぬすんで、毎晩、浜へ降りてきては、松の木の湯船の底をくり抜いて、だまって二人に差し入れてくれました。この恩はいつかきっと返したいと、二人は心に思ったのでありました。
厨子王丸を逃がして、姉は三郎に責め殺される
昨日今日のことと思っておりましたら、もう正月の十六日になりました。太夫は三郎を呼びつけまして、
「おい、三郎よ。人の命というのは、もろいようでけっこう強いもんだ。浜に追いやったきょうだいの命がまだあるかどうか、見て来い」と言いつけました。
「承知しました」と三郎はさっそく浜へ降りていきまして、松の木の湯船のところに行きまして、その湯船を取りのけてみましたら、あらあらいたわしいことでございます。きょうだいは、生きてはいましたが、すっかり土気(つちけ)色になっておりました。三郎が二人を太夫どのの元へ引っ立てていきますと、太夫は言いました。
「命拾いしたのだな。どの神仏のおかげやら。もうよい、さあ山へ行け。浜へも行け」
姉は、これを聞いて必死で頼みました。
「そのとおりにいたします。でも、どうか、山か浜か、どちらかにいっしょに行かせてください」
太夫はそれを聞いて言いました。
「ふむ、人がおおぜいいれば、一人くらいはもの笑いになるやつがいなくちゃいけないと思っていたのだ。おい、三郎よ、姉が山へ行きたいと言っている。ざんばら髪にして行かせてやれ」
「承知しました」と三郎は答え、あらあらいたわしくてなりません。姉の背丈ほどもある黒髪を、手にくるくると巻きとりまして、結いぎわからばっさりと切り落とし、ざんばら髪に仕立てて、山へ行かせたのでありました。きょうだいの嘆きよう、それは哀れでありました。
あらあらいたわしいことでございます。厨子王どのは姉を先に立て、その後ろ姿をつくづくと眺めながら歩いていきました。
「ねえ、姉さま、人の姿は三十二相と言うでしょう。でも、姉さまの姿はそんなものじゃない、四十二相だ、とても美しい。その四十二相の中でも、その長い髪がなにより大事なものだった。今はその髪がなくなってしまった。おれがこうして後ろから見ても、今までみたいな頼れる力がなくなったのがわかる。おれが感じるくらいだから、姉さまはどんなに頼りなく感じているだろう。悲しいな」
姉はこれを聞いて言いました。
「世が世であれば、髪だって役に立つけど、こういう身の上になっちゃったんだから、髪も何もいらないの。あんたといっしょに山へ行けるっていうだけでうれしいのよ」
二人はけもの道のような小道をのぼっていきました。やがて、雪のまだらに消えかかる岩の洞(ほら)の前で立ち止まり、姉は肌身はなさず持っているお守りの地蔵菩薩を取り出して、岩鼻にそっと掛けました。
「母さまは、あたしたちの身の上に何か大事のあるときは、身代わりにもなってくださる地蔵菩薩さまだとおっしゃったけど、こうなってしまったら、神や仏の力も尽き果てて、だれにも守ってもらえないのね、悲しいわ」
厨子王どのはこれを聞いて、姉の顔を見て、言いました。
「姉さま、姉さま、姉さまの顔に、焼きごての痕がない」
姉はそれを聞いて、弟の顔を見て、
「ほんとだ、あんたの顔にも、焼きごての痕がない」
地蔵菩薩の白毫(びゃくごう)のあたりを見ると、そこに、きょうだいの焼きごてを受け取られたしるしがくっきりと刻まれてありました。身代わりにお立ちになったのでありました。
「焼きごてをお取りになってしまわれたら、邪慳な太夫や三郎が、また当てるにちがいありません。痛くも熱くもないように、どうか元どおりに戻してくださいませ」
そう姉は祈りましたけど、何しろ一度身代わりになってくださったものはもう元に戻りません。
「もしかしたら、これでいいのよ。この折をのがさずに逃げろということなのかもしれない。厨子王丸、逃げなさい。逃げて、世に出て、あとであたしを迎えに来て」
厨子王どのはそれを聞いて言いました。
「一度で懲りない者は二度目は死ぬことになると、姉さまは言ってたじゃないか。逃げたいなら、姉さまが逃げなよ。おれは逃げないよ」
姉はそれを聞いて言いました。
「あの焼きごては、あたしの言ったことのために当てられたと思ってるの。あたしがお逃げと言ったときに、あんたがちゃんと言うことを聞いてたら、こんな焼きごてなんか当てられなかったのよ。あんたがそういう了簡なら、今日からはもう、太夫のところに姉がいるなんて思わないで。あたしも弟がいることは忘れるから」
そして鎌を鎌にちょうちょうと打ち合わせ、それがさむらいの子としての決意でありました、姉はひとりで谷底へ降りていきました。
厨子王どのはあわてて言いました。
「まったく、なんて怒りっぽい姉さまだ。怒らないで。逃げろというなら逃げるから、戻ってきて」
姉はそれを聞いて言いました、
「逃げるというのね、そんならいいわ。そのつもりなら、別れの杯をちゃんと交わしましょう」
でもここに、酒もさかな肴(さかな)も、あるわけがありません。そこで谷の清水を酒ということにして、柏の葉を杯にして、まず一つ姉が飲み、それから弟に杯を差して言いました。
「今日は、お守りの地蔵菩薩もあんたにあげる。逃げるときにも、短気はだめよ。短気はかえって未練になるから。
逃げていったところに里があったら、まずお寺を探して、そこにお行き。そしてお坊さまに頼りなさい。お坊さまならきっと助けてくださる。
さあ、もう行きなさい、早く行きなさいってば。あんたを見てるとあたしの心が乱れるわ。
ねえ、よく聞くのよ、厨子王丸。こんなふうに薄雪が降ってるときは足の草鞋(わらじ)を、後と先とを逆にして、しっかり履くの。右についてる杖を左でつくと、上りの場合でも下りに見える。下りの場合は上りに見える。さあ、行って、早く行って」
それじゃ姉さま、それじゃ厨子王丸と、くり返しくり返す暇(いとま)乞い、ほんのかりそめの別れと思っていましたが、そのまま、永(なが)の別れとなりました。
いたわしいことでございます。姉は「何もかも流れていく、あしたからはだれを弟と思って話をしよう」と、そこでしばらく泣いておりましたけど、やがて、こぼれる涙を押しぬぐって立ち上がり、人の刈り落とした木の枝をたんねんに拾い集め、小さな柴に束ねて、頭の上に乗せまして、太夫のもとへ戻りました。
正月十六日のことでありました。太夫は表の櫓(やぐら)に上がり、遠くを見張っておりましたが、帰ってきた姉の柴を見て言いました。
「おまえは弟よりもいい柴を刈ってきた。どれ、弟は」
姉はこれを聞きまして、涙を流しながら言いました。
「それがわかりません。今朝わたしが、浜へではなく、山へ行くと言いましたら、弟は、髪を切られた愚かな姉といっしょに行くのはいやだと言って、里の山人たちと連れ立って行ってしまいました。もしかしたら道に迷って、まだ戻らないのかもしれません。行って探してまいります」
太夫はこれを聞いて言いました。
「そうさな、涙にもいろんな涙があるものだ。表面だけの面涙(めんるい)、怨みだらけの怨涙(おんるい)、心が動いた感涙(かんるい)に、愁いのこもる愁涙(しゅうるい)。おまえの涙のこぼし方は、弟を山からそのまま逃がしたという、表面だけの喜び泣きに見えるのだがな。おい、三郎、どこにいる。この女を責め上げて問いただせ」
邪慳な三郎は「承知しました」と言いまして、姉を梯子(はしご)にくくりつけ、湯責め水責めに責め上げて問いただしました。それでも姉は言いません。それで今度は三つ目錐(ぎり)を取り出して、姉の膝の皿骨に、からりからりと揉み入れて問いただしました。もう弟を逃がしたと言ってしまおうか、いやだめだ、言ってはいけない、言うものかと姉はもだえておりましたが、とうとう口を開いて、こう言いました。
「どうか、少しものを言わせてください」
それで太夫は言いました。
「ものを言わせるために、こうして責めているのだ。言うというなら言わせてやる」
すると姉は言いました。
「今に弟が山から戻りましたら伝えてください、姉は弟のせいで責め殺されたのだと。そして弟をどうかよろしく、目をかけて使ってやってくださいね」
太夫はこれを聞き、かんかんに怒って言いました。
「聞いたことには答えぬくせに、聞いてもないことをぺらぺらと語る女だ、ものも言えなくなるほど責め上げてやれ、三郎」
邪慳な三郎は、天井から炭を取り出して土間に移し、うちわを振ってあおぎたてました。いたわしいことでございます。姉の髪の結び目をにぎって引きずりまわし、「熱いなら話せ、話せ、話せ」と責め立てました。責め手は強く、身は弱く、耐えられるものではありません。正月十六日のまっぴるま、朝四つ時の終わり頃、十六歳の一生でありました。姉をそこに責め殺したのでありました。
厨子王丸は国分寺のお聖に助けられる
姉が息絶えたのを見るや、太夫は言いました。
「おどしでやっただけなのに、命のもろい女だ。そこに捨てておけ。幼い者のことだから、遠くへは逃げておらぬだろう。追っ手をかけろ」
命令どおりに八十五人の手下が四つに分かれ、追いかけていったのでありました。厨子王どのの方角へは、太夫と息子たちが追いかけていきました。
いたわしいことでございます。厨子王どのは、姉さまは今ごろどうしてるだろう、太夫が姉さまを打つだろうか、叩くだろうか、苛(さいな)むだろうか、いっそ戻ったほうがいいだろうかと思いあぐねて、ありく峠に腰を掛け、来た道の方を見たところ、先頭に立って追いかけてくるのは太夫でありました。後につづくは五人の息子でありました。
諏訪よ、八幡よ、どうかお姿をお示しあれ。今はとうてい逃れられないと思いまして、守り刀のひもを解き、太夫の胸元に突き立ててやる、明日は浮き世の塵(ちり)となるならなれと思い切ったのでありますが、ちょっと待て、落ち着け、自分よ、厨子王よ、姉さまがあんなに言っておられたじゃないか、短気はいけないと。それならば、叶わぬまでも逃げてやろうと思い直し、ちりりちりりと逃げていきますと、ばったりと土地の者に出会いました。
「この先に里はないですか」と尋ねましたら、「あるとも、渡し場の近くに里がある」と答えました。
「お寺はないですか」と尋ねましたら、「あるとも、国分寺がある」と答えました。
「本尊は何ですか」と尋ねましたら、「毘沙門(びしゃもん)」と答えました。
「なんとありがたい。おれが肌身離さず持っているのも地蔵菩薩さまだが、ご神体は毘沙門だ。きっと助けてくださる」と、ちりりちりりと逃げていきまして、その国分寺へ、たどり着きました。
そこではお聖(ひじり)が昼のお勤めをしておられたのでありますが、厨子王どのはそれを見て言いました。
「お聖さま。追われております。逃げられません。姿を隠してくださいませ」
お聖はこれを聞きまして、「おまえのように幼い者が、何をしくじってそんな目に遭っておる。話してごらん、助けてやろう」と言いますと、厨子王どのは言いました。「命があってのお話です。まずは姿を隠してくださいませ」
お聖は「なるほど、おまえはもっともなことを言うなあ」と言いながら、納戸(なんど)から古い皮籠(かわご)を取ってきて、その中に厨子王どのを入れ、縦縄も横縄もしっかり掛けて、棟(むね)の垂木(たるき)につり下げました。そして、そ知らぬ体(てい)で、昼のお勤めにもどって、それをつづけておられました。
正月十六日のことでありました。追っ手は雪道の足跡をたどってとうとう国分寺の寺へやって来ました。太夫は表の楼門(ろうもん)に残ってあたりを見張り、五人の息子たちはお聖のところへやってきて、言いました。
「聞くが、お聖。たった今、ここにわっぱが一人入って来たろう。お出しあれ」
お聖はこれを聞き、耳が遠いふりをして言いました。
「はて今何と?春の夜が退屈で、この坊主におふるまいくださるとおっしゃったかな」
三郎はこれを聞いて怒り出しました。
「このお聖は、川流れの土左衛門が杭にひっかかったように食い意地の張ったお聖だ。おふるまいじゃない、追っ手であるぞ。まずわっぱをお出しあれ」
お聖は「おお、今、やっと聞こえた。なに、この法師に、子どもを出せとな。それがしは、百日間の特別修行を夢中でやっておったのだ。わっぱかすっぱか知らないが、番はしておらぬよ」と言いました。
三郎が「お聖が憎たらしいことを言うものだ。それなら寺中を探すが、いいか」と言いますと、お聖は「ご随意に」と。そこで、身の軽い三郎が、探したのはどことどこか。内陣、長押(なげし)、庫裏(くり)、納戸、仏壇、縁の下、築地(ついじ)の下、天井の裏板をはずして探したけれど、わっぱの姿はありません。
「おかしいじゃないか。裏口にも正門にも出た足跡がないのに、わっぱはいない。絶対におかしい。お聖が隠しているのは間違いない。おい、お聖、わっぱを出せ。わっぱを出さぬのなら、誓文(せいもん)を立てろ。おれがかなわないようなすごいやつだ。そしたら、だまって由良の港へ戻ってやろう」
お聖は言いました。
「わっぱのことは知らないが、誓文を立てろというなら、よし、立ててさし上げよう。そもそもこの法師めはこの国の者ではないのだ。国をいうなら大和の国、宇陀(うだ)の郡(こおり)の生まれだが、七歳で播磨の書写山(しょしゃざん)へのぼり、十歳で髪を剃り、二十歳で高座へあがって説教をし始めた。幼いときから習ってきたお経にかけて、ただ今、ここに誓文を立て申す。
そもそもお経の数々、華厳(けごん)に阿含(あごん)、方等(ほうどう)、般若(はんにゃ)、法華(ほっけ)に涅槃(ねはん)、ならびに五部の大蔵経(だいぞうきょう)、薬師経(やくしきょう)、観音経(かんのんきょう)、地蔵お経、阿弥陀お経に、小さい文(ふみ)に小さいお経は、数え尽くしてみれば、七千巻余り。よろずの罪の滅するお経が、血盆経(けつぼんきょう)、浄土の三部経、倶舎(ぐしゃ)の経が三十巻、天台が六十巻、大般若が六百巻、そして法華経が一部八巻二十八品(ほん)、文字が流れ流れて、六万九千三百八十四箇の文字として記されてある。誓文を破ったら、それがし、これだけの神罰を、厚く深く蒙(こうむ)ることになる。わっぱのことは何も知らぬ」
太夫はこれを聞きまして、
「おいおい、お聖よ。誓文などというものは、日本におられる高い大神(だいじん)、低い小神(しょうじん)のおん眠りを覚ましたてまつり、この場においでいただいて、そのおん前で誓うからこそ誓文だ。今のは、なんてことはない、お聖が子どものときから習ってきた檀家だましの経尽くし。ちゃんとした誓文を立ててもらいたい」と責めました。
いたわしいことでございます。お聖さまは考えました。
「今立てた誓文だって、出家の身としては、どんなにつらいか。それをまた立てろとは情けない。今はあの子を差し出してしまうか。それとも誓文を立てるべきか。今わっぱを出せば、殺生戒(せっしょうかい)を破るのだ。わっぱを出さずに誓いを立てれば、妄語戒(もうごかい)を破るのだ。破るなら破ってやろう、妄語戒。殺生戒だけは破るまい」
そして言いました。
「わかり申した、太夫どの、三郎どの。さらに誓文を立ててもらいたいということならば、立ててさし上げる。ご安心めされよ、太夫どの」
お聖はうがいで身を清め、湯垢離(ゆごり)を七回、水垢離を七回、潮(しお)垢離を七回と、二十一回の垢離をとり、護摩(ごま)を焚(た)く壇を飾りました。そして矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦(せいたか)童子を脇に侍(はべ)らす倶利迦羅(くりから)不動明王の、剣を呑んだ姿絵を真っ逆様に掛けました。納戸から紙を一帖取り出しまして、十二本の御幣(ごへい)を切って護摩の壇に立てたのは、誓文のためというより、太夫を調伏(ちょうぶく)するためでありました。
「敬って申し上げます」
お聖は、独鈷(とっこ)を握って鈴(れい)を振り、苛高(いらたか)の大きな数珠をさらりさらりと押し揉んで、
「謹(つつし)んでたてまつります。お供えをたてまつります。再再拝みたてまつります。
上には、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)。下には、四大天王、閻魔法王(えんまほうおう)、五道(ごどう)の冥官(みょうかん)。大神に、泰山府君(たいさんぼく)。下界の地には、伊勢は神明天照大神(しんめいてんしょうだいじん)。外宮(げくう)が四十末社、内宮(ないくう)が八十末社、両宮合わせて百二十末社のおん神々。ただ今、ここにおいでを願いたく、こうして祈りあげたてまつります。
熊野には新宮(しんぐう)、本宮(ほんぐう)。那智には飛滝権現(ひろうごんげん)。神の倉には十蔵(じゅうぞう)権現。滝本に千手(せんじゅ)観音。長谷(はせ)は十一面観音。吉野に蔵王(ざおう)権現。子守、勝手の大明神。大和に鏡作(かがみづくり)、笛吹の大明神。奈良は七堂大伽藍。春日は四社の大明神。転害牛頭天王(てんがいごずてんのう)。若宮八幡大菩薩。下津鴨(しもつかも)、上津鴨(かみつかも)。たちうち、べつつい、石清水。八幡(やわた)は正八幡(しょうはちまん)。西の岡に向日(むこう)の明神。山崎に宝寺(たからでら)。宇治に神明(しんめい)。伏見に御香(ごこう)の宮。藤の森の大明神。稲荷は五社のおん神。祇園に八大天王。吉田は四社の大明神。御霊(ごりょう)八社。今宮三社のおん神。北野どのは南無天満天神。梅の宮、松の尾七社の大明神。高き御山(おやま)に地蔵権現。麓(ふもと)に三国一の釈迦如来。鞍馬の毘沙門。貴船の明神。賀茂の明神。比叡の山に伝教大師(でんぎょうだいし)。麓に山王二十一社。打下(うちおろし)に白髭(しらひげ)の大明神。海の上に竹生島(ちくぶじま)の弁才天(べんざいてん)。お多賀(たが)八幡大菩薩。美濃の国にながへの天王。尾張に津島と熱田(あつた)の明神。坂東(ばんどう)の国に鹿島、香取、浮洲(うきす)の明神。出羽に羽黒の権現。越中に立山。加賀に白山、敷地(しきぢ)の天神。能登の国に石動(いするぎ)の大明神。信濃の国に戸隠の明神。越前に御霊のおん神。若狭に小浜の八幡。丹後に切戸(きれと)の文殊(もんじゅ)。丹波に大原(おばら)八王子。津の国に降り神の天神。河内の国に恩地(おんじ)。枚岡(ひろうおか)、誉田(こんだ)の八幡。天王寺に聖徳太子。住吉四社の大明神。堺に三村(みつむら)明神。大鳥五社の大明神。高野に弘法大師。根来(ねごろ)に覚鑁(かくばん)上人。淡路島に諭鶴羽(いづりは)の権現。備中(びっちゅう)に吉備(きび)の宮。備前(びぜん)にも吉備の宮。備後(びんご)にも吉備の宮。三が国の守護神を、ただ今、ここにおいでを願いたてまつります。ただ今、驚かしたてまつります。
さて筑紫(つくし)の地に入っては、宇佐、羅漢(らかん)に、英彦(ひこ)、求菩提(くぼて)。鵜戸(うど)、霧島。伊予の国に一宮(いっくう)、五台山、たけの宮の大明神。総じて神の総政所(そうまんどころ)、出雲の大社。神の父は佐陀(さだ)の宮。神の母は田中の御前(ごぜん)。山の神が十五王。岩に梵天、木に木霊(こだま)、屋(や)の内に、地神荒神(じしんこうじん)、三宝(さんぽう)荒神、八大荒神、三十六社の竈(へっつい)、七十二社の宅(やけ)のおん神に至る、すべての神さまがたにかけて、ここに誓文を立て申します。
おそれおおくも、神の数が九万八千七社。仏の数が一万三千仏。それがしが偽りを申しましたら、これだけの神罰を蒙るのであります。この身は言うにおよばず、一家一門、六親眷族(ろくしんけんぞく)に至るまで、堕罪の車に誅(ちゅう)せられ、修羅三悪道へ引き落とされて、未来永劫そのままだ。その覚悟でここにはっきりと申し上げる。
わっぱのことは何も知らぬ」  

 

京へたどり着いた厨子王丸はみかどに名乗り出る
太夫はこれを聞いて言いました。
「よくやった、お聖(ひじり)よ。明日からおまえの寺の檀家になってやる。寄進してやるぞ」
三郎はそれを聞きまして
「父上、お待ちください。あやしいところがございます。あそこに吊ってあるあの皮籠(かわご)、皮籠は古いのに、掛けた縄は新しい。風も吹かぬのに、一揺るぎ二揺るぎ、ゆっすゆっすと動いたが、これがどうもあやしくてなりません。調べずに帰りましたら、一年ずっと、不審の思いが心の中に炎のようにくすぶりつづけておりましょう。父上、お戻りください」
兄の太郎はこれを聞きまして、
「何を言うか、三郎よ。父は老いぼれても、おまえまで老いぼれるな。こういう古寺には、古経(ふるきょう)やら、古仏(ふるぼとけ)やら、破れ反古(ほご)やら、要らなくなったものをああして吊ってあるものよ。昨日吊ることもあろうし、今日吊ることもあるだろう。外には風が吹かなくても、家鳴(やな)りがする。その上に木霊(こだま)が響いて、家の中が風に揺れるのだ。たとえあの皮籠の中のものがわっぱであっても、今、このお聖の誓文を聴いたからには、もういいじゃないか。あのわっぱがいなけりゃ、他にだれも使う者がいないとでも言うのかよ。なあ、今回は、おれに免じてまず戻れ」
三郎はこれを聞きまして、
「兄者(あにじゃ)の意見は、聞くこともあるが、聞かないこともある。何を情け心を起こしているものやら。兄者、そこをどいてくれ」と言いざま、刀の鞘をはずして、吊った縄を切り、降ろす間にも縄の結び目をひっぱって、おお、わっぱがいるぞと喜んで、下へ降ろす間ももどかしく、縦縄横縄をむんずと切って、皮籠のふたを開けてみれば、身につけていたお守りの地蔵菩薩から、金色(こんじき)の光がぱあっと放たれ、三郎の両眼がくらんで、縁(えん)から下へころげ落ちたのでありました。
太郎はこれを見て言いました。
「ほら言ったじゃないか、今、命を取られなかったのは仏のご慈悲だよ、元のように吊っておけ」
そして皮籠に縦縄横縄をむんずと掛けて、元のように吊っておき、三郎は兄弟の肩にかつがれて、由良の港へ戻ったのでありました。面目のないことでございました。
いたわしいことでございます。お聖は、今にも皮籠が降ろされようとしているのを見ておりました。皮籠が降ろされれば、わっぱは連れていかれる、わっぱを連れていくなら、やつらはこの聖にも縄を掛けるだろうと覚悟していましたが、皮籠の中は、ありがたい、神の方便、仏の神通(じんつう)。
お聖は皮籠の下に行って聞きました。
「わっぱはいるか」
厨子王どのは弱々しい声で答えました。
「はい、ここにおります。太夫の一行は行きましたか」
お聖はこれを聞きまして「安心おし」と皮籠を降ろし、ふたを開けてみれば、ああ、ありがたいことでございます。地蔵菩薩が金色の光を放って、そこにおいでになりました。厨子王どのは皮籠の中から飛び出して、お聖にすがりついて言いました。
「ああ、聞いてください、お聖さま。名乗るまいとは思いましたが、今は名乗らずにはいられません。わたしをだれとお思いか。奥州五十四郡の主、岩城の判官政氏(まさうじ)の総領(そうりょう)、厨子王丸でございます。思いがけない訴えがありまして、都に上って、みかどからお許しのご判を受けようとしておりました。途中で、越後の国の直井の浦から売られました。それから、あちらこちらへ売られました。とうとうあの太夫に買い取られ、刈ることなんて習いもしなかったのに柴を刈り、汲むことなんて習いもしなかったのに潮を汲み、苦労をたんといたしました。わたしは逃げ出してきましたが、まだ太夫の家に姉が残っております。もし都への道をご存じならば、教えてください。お聖さま、わたしは都へ逃げていきたいのです」
お聖はこれを聞いて言いました。
「何も知らないのだな、厨子王は。今ごろは太夫が家人をおおぜい、五里も三里も先へ、追っ手に差し向けているだろうよ。そんなに逃げたいのなら、いっそのこと、わしが送りとどけるとしよう」
厨子王どのを元の皮籠へどうと入れ、縦縄横縄むんずと掛けて、お聖の背中にどうと背負って、上には古い衣をひき着せて、
「町屋や関所のそこここで、聖の背中に背負ったものはなんだと人々が聞いてきたら、これは丹後の国、国分寺の金焼(かなやき)地蔵だが、あんまり古びたので、都へ上って仏師に彩色してもらうのだと言えば、とがめる者もあるまいよ」と丹後の国を立ち出でました。
菟原(うばら)、細見(ほそみ)はここですか。鎌谷(かまだに)、井尻をうち過ぎて、船井、桑田はここですか。口郡(くちごおり)にも聞こえたる花に浮き木の亀山や、年は寄らねど老の坂、沓掛峠をうち過ぎて、桂の川をうち渡り、川勝寺(せんしょうじ)、八町畷(なわて)をうち過ぎて、先を急いで行きましたので、ほどもなく、都の西に名の聞こえた、西の七条朱雀(すざく)の権現堂(ごんげんどう)に着きました。
権現堂に着きまして、皮籠を降ろし、ふたを開けて見てみましたら、皮籠の中が狭かったか、凍傷にでもかかったか、厨子王どのの腰が立たなくなっておりました。
お聖はこれを見て言いました。
「わしが都に上って、おゆるしのご判を申し受けてやりたいが、出家の身ではできないことだ。ここで別れよう」
ああ、いたわしいことでございます。厨子王どのは言いました。
「命の親のお聖さまは、丹後の国にお戻りになるのですね。わたしはうらやましゅうございます。つらい思い出があるのも丹後の国。姉がおりますから、恋しいのも丹後の国。命の親のお聖さまに、わたしのことを思い出す何かをさしあげたい。地蔵菩薩がいいでしょうか。守り刀がいいでしょうか」
お聖はこれを聞いて言いました。
「なんだね、おまえさまは、この聖が命を助けたと思っているのかね。肌身離さず持っている地蔵菩薩さまがお助けくださったのだよ。よく信じて掛けておくのだよ。さむらいという者は、守り刀を七歳の頃から差すそうじゃないか。出家には、刃物なんてかみそりの他にはいらないのだ。ほんとに何かくれるつもりなら、おまえさまの鬢(びん)の髪をおくれ。わしからは、衣の片袖をあげよう」
そして、厨子王どのが鬢の髪を一房切り取り、お聖も衣の片袖を切り取りまして、交わしあいますと、お聖は、涙ぐみながら丹後の国に戻っていったのでありました。
ああ、いたわしいことでございます。朱雀の権現堂では、朱雀七村の乞食の子らが集まって、厨子王どのを養ってやろうとしましたが、一日二日は食べ物をめぐんでもらえても、その後はだれもめぐんでくれなくなりました。そんなら土車を作って、そこに乗せて、都のにぎやかなところへ引いていけばどうかと考えて、にぎやかなところへ引いていきました。都は広いとはいえ、五日十日は食べ物をめぐんでもらえても、その後はだれもめぐんでくれなくなりました。それなら、ここより四天王寺の方がいいだろうと、宿から宿へ送り、村から村へ送り、四天王寺へ引いていきました。
ああ、いたわしいことでございます。厨子王どのが、四天王寺の石の鳥居にとりすがり、「えいやっ」と声をかけて立ちましたら、四天王寺を建立なさった聖徳太子のおはからいか、あるいは厨子王どののご果報か、腰がすっくと立ったのでありました。
折も折、四天王寺で聖徳太子さまをお守りする阿闍梨大師(あじゃりだいし)のお通りでありました。阿闍梨大師は、厨子王どのを見て聞きました。
「この若侍は、遁世(とんせい)を望むか、奉公を望むか」
厨子王どのはそれを聞いて答えました。
「奉公が望みでございます」
阿闍梨大師はそれを聞いて言いました。
「わたしのところには、百人の稚児、若衆が住んでおるのだが、おまえも、古袴(ふるばかま)をはいて、お茶の給仕でもするかね」
「はい、いたします」と厨子王どのは言いまして、阿闍梨大師のお供に加わり、稚児たちの古袴を身につけて、茶坊主として働くことになりました。厨子王どの、東国の生まれ育ちで訛(なま)りがありました。そこで、あちらで「声訛りの茶坊主よ」、こちらでも「声訛りの茶坊主よ」と、人々に可愛がられたのでありました。
これは厨子王どのの物語でございます。それはそれといたしまして、花の都におられる三十六人の大臣たちの中に梅津の院という方がおられました。この方は、男にしても女にしても、末の跡取りがなかったので、清水の観音へお参りして申し子をしていましたが、あるとき清水の観音さまが内陣から揺るぎ出でておいでになりまして、枕上にお立ちになりました。「梅津の院の養子の件なら、四天王寺へ参れ」との仰せでありました。
ああ、ありがたいおことばだと、梅津の院は屋敷に帰り、かぎりないお喜びでありました。そして三日後に、四天王寺参りをすることにいたしました。阿闍梨大師はそれを聞き、「都の梅津の院がお参りに来られるそうだ。座敷を飾ってお迎えせよ」と、天井を綾錦金襴(あやにしききんらん)で飾りつけました。柱を豹や虎の皮で包ませました。高麗縁(こうらいべり)の畳を千畳ばかり敷かせました。座敷のご本尊は、その頃、都で流行りの牧谿(もっけい)の、墨絵の観音像、釈迦像、達磨(だるま)像を、三幅一対(さんぷくいっつい)に掛けさせました。花瓶の花は、右の枝で天をさし、左の枝で地をさすという、天上天下唯我独尊の様式に立てさせました。そして、百人の稚児、若衆をも花のように飾り立て、梅津の院のおいでを今か今かと待っておりました。
早くも三日が経ちまして、梅津の院は四天王寺へお参りに来られました。「おお、これはすばらしい花の景色だ」と言いながら座敷に入り、百人の稚児、若衆を上から下へ三遍くり返してじっくりと眺めましたが、養子にするべき稚児はみつかりません。でもさらに見ていきますと、はるか末席におりました厨子王どのの額に、米(よね)という字が三行(くだ)り坐り、両眼には瞳が二体あるのを、梅津の院はたしかに認めて、「あのお茶の給仕をわたくしの養子に迎えよう」と言いました。
百人の稚児、若衆はこれを見て、「なんとまあ、都の梅津の院は目の利かない方なのだな。昨日や今日、土車に乗って乞食をしていた卑しい茶坊主を養子にするなどと」と一斉に笑いました。
梅津の院はこれを聞いて、「わが家の養子をお笑いになるか」と、厨子王どのを湯殿に連れて行かせ、風呂に入れさせ、身を清めさせ、肌には青地の錦を着せ、絞り染めの直垂(ひたたれ)に、刈安(かりやす)色の水干(すいかん)を着せて、玉の冠を被せ、一段高い、梅津の院の左の座敷に坐らせましたところ、百人の稚児だれ一人として、それより美しい稚児はいなかったのでありました。
梅津の院は、自分の屋敷に厨子王どのを連れ帰り、遠くの珍味に近くで穫れたての産物を山と積みあげ、宴をひらいて祝いまして、かぎりないお喜びでありました。そして、ご自分の代理として、みかどの護衛の大役に、厨子王どのを送り出しました。三十六人の大臣たちはこれを見て、「梅津の院の養子だろうとかまわぬ。卑しい者がわれらと同じ座に着くのを許すわけにはいかない」と言いまして、その座敷から追い払おうとしました。
ああ、いたわしいことでございます。厨子王どのは、今は名乗り出ようか、今名乗り出れば、父岩城どのの面目にかかわる、また名乗り出なければ、養親(やしないおや)の面目にかかわる、父の面目はまたいずれ考えよう、まず養親の面目をたてねばと思いまして、肌身離さず持っていた信太玉造(しだたまつくり)の系図の巻物を取り出して、扇の上にのせ、上座へ持って行きました。自分の身は白州(しらす)へ飛んで降り、玉の冠を地にひたとつけて、みかどに向かって、平伏したのでありました。すると二条の大納言が、この巻物を取り上げて、高らかに読みあげました。
「そもそも奥州の国、日の本の将軍、岩城の判官正氏の惣領、厨子王判」
みかどはごらんになりまして、
「今まではどこの者かと思っていたが、岩城の判官正氏の惣領厨子王か。
長々の浪人、苦労であった。奥州五十四郡は元の領地として返してやるぞ。日向(ひゅうが)の国は馬の飼料代につけてやる」
と、みかどのしるしの薄墨の御綸旨(ごりんじ)を下されたのでありました。厨子王どのはこれを聞いて、みかどに向かって申しあげました。
「今申し上げてよいものか、申し上げるのはよすべきか、申し上げずにおこうとは思いましたが、今申しあげずにおりましたら、いつの世に申しあげられるかわかりませんので、ここに申し上げることにいたします。奥州五十四郡も、日向の国も、望みではございません。これには事情がございます。どうか丹後五郡に相換えてくださりますよう」
みかどはこれをお聞きになり、
「なに、大国に小国を換えてくれというか。それなりの事情があるのだろう」とおっしゃいまして、「丹後の国も馬の飼料につけてやる」と重ねてご判を下さったのでありました。
三十六人の大臣はこれを見て、「今まではどこの者かと思っていたが、厨子王どのでありましたか。それならわれらは同じ座にはおられまい」と座敷を下がっていきました。厨子王どのは梅津の院の屋敷に帰り、かぎりないお喜びでありました。
金焼地蔵のお力によるふしぎなお話でございます
ああ、いたわしいこと、厨子王どのの嘆くようすが哀れでなりませんでした。
「おれは、今、鳥になりたい、羽が欲しい、丹後の国へ飛んで行き、潮を汲む姉さまの衣のたもとにすがりついて、世に出たこと、出るまでのことを、すっかり語りたい。
蝦夷の島へも飛んで行き、そして母上さまを尋ねあて、世に出たことを語りたい。筑紫(つくし)安楽寺へも飛んで行き、父の岩城どのを尋ねあて、世に出たことを語りたい」
いつまで待つようなことでもなし、みかどへこの事情を申し上げ、おゆるしのご判を申し受け、筑紫安楽寺へも迎えの輿(こし)を差し向けました。さてその後に、まず丹後の国へお国入りということのお触れが出回りました。三日後の宿は、丹後の国、国分寺ということになりまして、寺の門のまん前に、宿泊予定の宿札(やどふだ)を打たせたのでありました。
お聖(ひじり)はこれを見て、考えました。
「丹後は、ほんのちっぽけな国ではあるが、広い堂だの寺だのは他にもある。こんな古ぼけた寺に、わざわざ都から来る国司が泊まるという。これはきっとこの身があぶない。なに、出家と書いて、家を出ると読むんだわい」
そして、傘を一本かついで、どこともなく逃げていきました。
はや三日がたちました。厨子王どのの一行は、丹後の国分寺に着きました。厨子王どのは里人を呼びまして、「尋ねるが、この寺に堂守(どうもり)どのはおられないのか」と問いますと、里人は答えて言いました。
「おられますとも。この間まで、尊い僧が一人おられました。国司の宿札をお打ちになったのはわが身の危険と思われたようで、どこへともなく逃げていかれました」
「探してこい」との言いつけに、「承知いたしました」と家来の者たちが、丹波の穴太(あなお)より探し出し、高手小手(たかてこて)に縛り上げて、国分寺へと引いてきたのでありました。
厨子王どのはこれを見て言いました。
「命の親のお聖になぜ縄を掛ける。放してさしあげろ」
お聖はこれを聞いて言いました。
「今まで都の国司の命を助けたことはないぞ。そんなふうに出家を嬲(なぶ)るものではない。さあ、さあ、早く命を取りなされ」
厨子王どのはこれを聞いて言いました。
「なるほど道理でございます。わたしをだれとお思いか。皮籠(かわご)の中のわっぱでございます。都の七条朱雀(すざく)まで送ってくださったそのときに、交わした品もございます。これがお聖さまのくださった衣の片袖、お聖さまのお持ちなのは、わたしの鬢(びん)の髪」
お聖はこれを聞いて言いました。
「まだ百日もたたぬ間に世に出られたか、なんとめでたい。さむらいと黄金は朽ちて朽ちせぬと言うけれど、こういうことなのだなあ」とかぎりないお喜びでありました。
厨子王どのは言いました。
「由良の港に残していった姉さまは、この世におられますか」
お聖はこれを聞いて言いました。
「そのことだが......。姉上さまは弟を逃がした咎(とが)を負って、邪慳な三郎に責め殺されてしまわれたのだよ。捨てられた遺骸を引き取って、この僧が火葬にいたした。その死骨と遺髪が、ここに」
そして涙ぐみながら、取り出した骨と髪を、厨子王どのに手渡しました。
「これは夢か、それとも現(うつつ)か。姉さま、こんなことになるなら、おれが世に出た甲斐もない」
厨子王どのは骨と髪とを顔に当て、声をあげ涙を流してむせび泣いたのでありました。
いつまでもこうしてはいられない、山椒太夫を召し寄せて重罪に処してやろうと、由良の港へお使いが立ちました。太夫はこれを聞き、五人の息子を呼んで言いました。
「よく聞けや、息子たち。わしはこの国に長く住んでおるから、国司閣下からは、きっと名所旧跡についてお尋ねがあるんだろう。そしたら、わしが前に出て、一つ一つの名所旧跡について詳しくお話し申そう。そしたらきっと所知(しょち)をいただける。
おい、三郎。所知をいただくときにはな、小国を望むなよ。『太夫は子も孫もたくさんおります、末広がりの者でございますから、大国をくださりませ』と言うのだよ。けっして、けっして、忘れるな」
そして、五人の息子に手を引かれて国分寺へやって来ました。厨子王どのはそれを見て聞きました。
「太夫には、早々と、ようこそお越しになられた。このわたしを見知っておられるか」
「存じております。都の国司とあがめております」
厨子王どのは言いました。
「そなたのところには、よい下女がいると聞いた。その女をわたしの妻にして、そなたはわたしの主筋(しゅうすじ)となって、富貴の家として栄えるのはどうだね」
太夫は三郎の方をにらみつけて、
「伊達(だて)の郡(こおり)、信夫(しのぶ)の荘(しょう)の者とかで、姉にしのぶ、弟に忘れ草というきょうだいがいたが、姉のしのぶは見目も形もよい女だった。こんなことなら、殺さないでおけば、都の国司の妻にして、わしは国司の主筋となって、富貴の家と栄えたものを」と悔やんだのでありました。
厨子王どのはこれを聞き、隠そうとした心をもはや隠せなくなりました。太夫の前に顔をぐいと差し出して言いました。
「やい、おまえたち、姉のしのぶを何の罪咎(つみとが)があって責め殺した?おれをだれと思うか、おまえのところにいた忘れ草とはおれのことだ。姉さまを返せ。太夫よ、三郎よ。死んだ姉を返せと言うのは、無理なことであるか。あのとき、おれが三荷(さんか)の柴を刈れなくて、山人(やまうど)たちが憐れみで刈ってくれた柴を、よく刈れたのが罪だといって、三荷の柴に七荷増やして、十荷刈れと責めたのは、これは無理なことではないのか」
そして調子を変えてこうつづけました。
「いやいや、おれは何をつまらないことを言っておるのだろう。仇を仇で返すのは、燃える火に薪を入れるようなものだ。仇を慈悲で返すのが、み仏のわざだと聞く。どうだ、太夫。大国がほしいか。小国がほしいか。望み次第に取らせるぞ。太夫、望みを言え」
太夫はにっこり笑って、三郎の方をちらと見ますと、三郎が答えて言いました。
「ありがとうございます。太夫は、子や孫も大人数、末広がりの者でございます。小国ではとうてい足りませぬ。どうぞ大国を取らせてくださいませ」
厨子王どのはこれを聞いて言いました。
「抜け目のない答えであった、三郎よ。太夫が小国をほしがっても、おれは無理にでも大国を取らせようと思っていたのだ。それ、太夫には、望みどおりに、広い黄泉(よみ)の国を取らせよ」
「承知いたしました」と家来たちは、太夫を引っ立てて、国分寺の広庭に、五尺の深さに穴を掘り、肩から下を堀り埋めました。そして竹鋸(たけのこぎり)をこしらえました。
「他人に引かせてはいけない。息子に引かせて、つらい目に遭わせるのだ」と厨子王どのが言いますと、「承知いたしました」と家来はうなずいて、まず兄の太郎に、鋸が渡りました。するとそのとき、厨子王どのが言いました。
「太郎には思うところがある。鋸許せ」
次に二郎に鋸が渡りました。二郎は鋸を受け取って、後の方へいきまして、そこでひとり嘆くようすが哀れでなりませんでした。
「昔から今に至るまで、子どもが親の首を引くなんていうことは、聞いたこともない。おれの言うことは間違ってなかった。『大波を超えて遠くから来たような者でも情けをかけて使え』とつねづね言っていたのはこういうことなのだ。それができなかったおれたち一家だ、引かせられるのも当然だ」と言いつつも、涙にむせて引くことができませんでした。するとそのとき、厨子王どのが言いました。
「実は、二郎にも、思うところがある。鋸許せ」
三郎に鋸が渡りました。邪慳な三郎は鋸を奪い取って、
「卑怯ではないか、兄者、国司どの。自分の咎はさておいておれたちの咎だというのか。父上、もういいでしょう。これまで唱えてきた念仏はいつ役に立てるんですか。今ここで用にお立てなさい。死出(しで)三途の大河を、この三郎が負ぶって渡してさしあげます。一引き、引いては、千僧供養。二引き、引いては、万僧供養。えい、さら、えい」と引くうちに、百六回目で、首は前に引き落ちました。
それから、厨子王どのの家来たちは三郎を浜に連れて行きまして、通りかかる山人たちに、七日七夜の間、首を引かせたのでありました。
厨子王どのは、二郎と太郎を呼んで言いました。
「昔から『苦い蔓(つる)には苦い実が成る、甘い蔓には甘い実が成る』という。おまえたち兄弟は、苦い蔓に甘い実が成ったようだ。兄の太郎に鋸を許したのは、ほかでもない、『あのわっぱがいなければ、他にだれも使う者がいないとでも言うのか。おれに免じてまず戻れ』と言ったそのことば一言によって、鋸を許す。また、二郎に鋸を許すのは、ほかでもない。松の木の湯船のその下でみじめに年越しをさせられたあのときに、夜ごとに浜へ降りてきて食べ物を差し入れてくれた。二郎どのへの恩は、湯の底水の底までも、返しがたく感じている。丹後八百八町、四百四町を分けて、兄の太郎にやろう」
太郎は髪を剃り落とし、国分寺に住みついて、姉上の菩提(ぼだい)を弔い、また太夫の菩提も弔うことになりました。
「そして残り四百四町は、二郎どのを、一色(いっしき)に統括する総政所(そうまんどころ)に任じて任せよう」
そこで昔から、丹後の国の地頭を一色どのと呼ぶのであります。
それから、お聖さまを命の親と定め、同じ家で使われていた伊勢の小萩を姉と定め、網代(あじろ)の輿に乗せて、都へ呼びよせました。それから、厨子王どのは蝦夷の島へ渡っていきまして、母上の行方を尋ねたのでございます。
いたわしいことに母上は、明ければ「厨子王恋しやな」、暮れれば「安寿の姫が恋しや」と泣き暮らし、とうとう両眼を泣きつぶしていたのでございます。広い千丈の粟畑へ出ては、鳥を追う日々でありました。鳥威(とりおど)しの鳴子(なるこ)の手縄に取りついて、「厨子王恋しや、ほうやれ。安寿の姫恋しやな。うわたき恋しや。ほうやれ」と言っては、どうと身を投げるのでありました。
厨子王どのはこれを見て言いました。
「なんとふしぎな鳥の追い方をする人だ。もう一度追ってごらんなさい。領地を与えてあげますよ」
母上はこれを聞いて言いました。
「領地なんか何になります。わたしの仕事はこれでございます。また追えとおっしゃるなら追いますよ」
そして鳴子の手縄に取りついて、「厨子王恋しや、ほうやれ。うわたき恋しや、ほうやれ。安寿の姫が恋しや」と言って、どうと身を投げました。
厨子王どのはこれを見て、母にまちがいないと、思わず抱きついて言いました。
「母さま。厨子王丸でございます。世に出て、ここまでやってまいりました」
母は払いのけて言いました。
「たしかにわたしは、姉に安寿の姫、弟に厨子王丸という、二人の子を持っておりましたが、遠くへ売られていって行方もわからなくなったと聞きました。眼の見えぬ者をおからかいになってはいけません。盲人の打つ杖には咎もないと申しますよ」
厨子王どのはこれを聞き、
「たしかにそうだ、でも思い出した、これがあった」と身につけていたお守りの地蔵菩薩を取り出して、母上の両眼に当てて唱えました。
「善哉(ぜんざい)なれや、明らかに。平癒(へいゆう)したまえ、明らかに」
三度撫でますと、つぶれて久しい両眼がはっしと開いて、鈴を張ったようにぱっちりとした眼になりました。母は見て言いました。
「あなたは厨子王丸か。安寿の姫は」
厨子王どのはこれを聞いて言いました。
「聞いてください、母さま。直井の浦から別れ別れに売られていったわたしたちです。あちらこちらと売られた後に、丹後の国の由良の港の山椒太夫に買い取られ、汲むことなんて習いもしなかったのに潮を汲み、刈ることなんて習いもしなかったのに柴を刈り、苦労をたんといたしました。わたしがそこを逃げ出した後、姉さまは責め殺されました。母さま、わたしは世に出て、姉さまの敵(かたき)を取り、そして、ここまで尋ねてきたのです」
母はこれを聞いて言いました。
「あなたは世に出たのね、なんてめでたいこと。でも安寿は死んだのね。わたしは若木を先に立てて残ってしまった老蔓(おいづる)なのね。悲しくてたまりません。ああ、しかたのないことなんでしょう」
そして玉の輿に乗って、国へ帰ることになりました。
さてその後、厨子王どのは、越後の国、直井の浦へ行きまして、最初に売った山岡太夫を、簀巻(すま)きにして海に沈める刑に処しました。助けようとしてくれた女房の行方を尋ねましたが、死んだということでした。しかたがないこととあきらめて、柏崎に渡り、なかの道場という寺を建てて、女房のうわたきの菩提を弔わせたのでありました。
そしてそれから厨子王どのは、母上のお供をしながら、都に上っていきました。梅津の屋敷に帰りつきますと、梅津の院も出て来て、母上に対面し、まことにまことに、すべてうまくいった、めでたい、とてもめでたいと、かぎりないお喜びでありました。
話は変わりまして、岩城どのでございます。
厨子王どのが世に出たことで、みかどのおとがめも許されて、岩城どのも都に上っていきました。お屋敷にやって来ますと、奥方さまも、厨子王どのも出てきまして、思わず抱きつき、これはこれはと言うばかりでありました。嬉しいときも、悲しいときも、先立つものは涙でございます、安寿の姫がもしこの世に生きていたならばどうかしらと、さめざめと泣いたのでありました。
梅津の院も、お聖も、伊勢の小萩も、言いました。
「お嘆きはよくわかります。でも、どんなに嘆いても、しかたのないこともございます。おあきらめなさいませ」
そして蓬萊山のように飾り立てた宴席をしつらえて、喜びの酒盛りは夜昼三日つづいたそうでございます。
杯も納まったころ、厨子王どのは、姉上の菩提のためにと、肌の守りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して一宇(いちう)のお堂を建立しました。それが、今の世に至るまで、金焼地蔵菩薩と呼ばれて、人々に崇め奉られておられます。
それから厨子王どのはお国入りを果たしたのでございます。父上母上を網代の輿に乗せ、命の親のお聖も、伊勢の小萩も、それぞれに輿や牛車に乗せまして、自分は馬にまたがって、十万余騎を引き連れて、奥州を指して下っていきました。その地に着きますと、昔お屋敷のあったその跡に、多くの屋敷を建てまして、昔の郎等(ろうとう)どもが我も我もとふたたび仕えるためにやって来まして、富貴の家と栄えたのでありました。大昔にも、今も、これからも、めったにない、ふしぎなお話でございました。  
 
森鴎外の「山椒大夫」

 

「山椒大夫」(さんせう太夫)は、説経や浄瑠璃の演目として古くから民衆に親しまれてきた物語である。安寿と厨子王の悲しい運命が人びとの涙を誘い、また彼らが過酷な運命の中で見せる情愛に満ちた行動が、人間というものの崇高さについて訴えかけてやまなかった。鴎外はそれを現代風の物語に翻案するに当たって、「夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮かべてみた」と書いているが、けだし物語の持つ稀有の美しさに打たれたのであろう。
物語の原作とも言うべき説経の「さんせう太夫」と鴎外の「山椒大夫」を読み比べてみると、そこには著しい相違のあることがわかる。骨格は無論そう異なってはいないのだが、原作に見られるすさまじいまでの怨念と、それをめぐる残酷な描写が鴎外の小説では省かれているのである。その異同については、別稿「さんせう太夫:安寿と厨子王の物語」の中で展開しておいたので、それを参照していただきたい。
鴎外は「山椒大夫」の物語を書くにあたっては、原作にある余計な部分を切り捨てて、人間のもっとも崇高な部分に焦点を当てた。鴎外はこの作品の中で、献身の愛がそれだといっているのである。
鴎外はその献身の愛を安寿に体現させている。鴎外の筆運びは淡々としているが、安寿の愛を描くときには、きらりと光るような冴えを見せる。
人買いによって母親と離れ離れに売り飛ばされた安寿と厨子王は、山椒大夫の館へと売られてくる。そこで二人は奴小屋と婢小屋に別れて住まわせられそうになるが、山椒大夫の次男二郎の温情によってひとつの小屋にともに住むことを許される。この部分は原作では、兄弟への罰として、忌小屋に軟禁される筋になっているのを、鴎外が作り変えたのである。
山椒大夫の館にいる恐ろしい人間たちの中で、二郎は小萩と並んで、暖かい心を持った人間として描かれているが、これも原作にはないところである。
安寿は日に陰に厨子王をかばうが、やがて厨子王一人を逃がして都に行かせ、そこで運を掴んでもらいたいと願うようになる。そのために自分がどうなろうと、厨子王さえ助けられることができれば、本望なのである。
安寿が厨子王を逃がす場面は感動的だ。周到な計画を練って、厨子王と二人だけで山へ仕事に行くことを許された安寿は、その機会を利用して厨子王を逃がす。二人が山の中に上っていくさまを、鴎外は次のような一文で飾っている。
「丁度岩の面に朝日が一面にさしてゐる。安寿は重なり合った岩の、風化した間に根を卸して、小さい菫の咲いてゐるのを見付けた。そしてそれを指差して厨子王に見せて云った。<御覧。もう春になるのね。>」
春の訪れを弟の旅立ちに重ねた象徴的な言葉である。つづいて安寿は弟を説得して逃亡を進める。弟は姉の身の上を案ずるが、姉の毅然とした態度に圧倒されて、姉のいうようにする。姉は守り本尊の地蔵様を取り出して、それを弟に託す。それを持ってとりあえず近くに塔の見える寺まで行き、そこで追っ手をやり過ごした後で都にいきなさい、寺がお前をかくまってくれるかくれないか、その運は天にまかせなさいと、言い放つのである。
「さあ、それが運試しだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれるでせう。
「さうですね。姉さんのけふ仰ることは、まるで神様か仏様が仰るやうです。わたしは考えを決めました。何でも姉さんの仰る通りにします。」
この後、原作では安寿の拷問されるさまが、身の毛のよだるような有様に描かれる。安寿は山椒大夫の三男三郎の手によって、嬲り殺しにされてしまうのである。
だが鴎外はその部分を切り捨て、厨子王の逃亡の様子を描く。厨子王は寺の坊主の機転と、安寿のくれた地蔵の功徳に助けられて、無事都にたどり着き、そこで運に恵まれ出世した後、佐渡島まで母を求めに赴き、そこで両足の腱を切られ、不自由な体で鳥を追う母親と感動的な再開をする。
原作の説経が残忍な場面を多く含んでいるのは、人間の怨念を強調するためであった。主人公たちが残酷な扱いを受ければ受けるほど、それにたいする聴衆の感情は高まったものになり、結末に訪れる復讐の場面にも、大きな効果を及ぼすからだろう。だが鴎外は安寿の献身を描くに際して、そうした小細工は必要がないと考えたのであろう。安寿の悲惨な運命は読者の想像力にゆだね、その献身の愛そのものに焦点を当てたのだろう。
この小説は鴎外の作品のなかでも、言葉の美しさ、わかりやすさでぬきんでている。鴎外の小説は、古びた言葉遣いや論理の修飾において、漱石などに比べると、現代の読者には読みづらいところがある。だがこの小説ばかりは、今日の若い人たちが読んでも、素直に理解できる。
鴎外はこの作品を、後に児童文学のジャンルの中に入れてみたりしているから、始めからわかりやすい言葉で書こうとする意図があったものと思われる。また説経に見られる残酷な要素を切り捨てたのは、若い人たち向けには、あまり意味がないと考えたからだろう。  
 
鷗外「山椒大夫」 現代の私たちに問いかけるもの

 

一、教科書に掲載されていた「山椒大夫」
現在、高校の「現代文」の教科書に載っている鷗外の作品といえば、「舞姫」が定番のようですが、1990年代頃までは「山椒大夫」という作品が収録されていました。興味深いことにそれ以前の1950年代から1970代頃までは、中学校でも数多くの国語教科書に掲載されていました。実は私は、この作品に中学生の時に接したひとりなのです。中学生だった私は、すでに「安寿と厨子王」の話などは絵本昔話などを通じてなんとなく知っていましたが、教科書で読む鷗外の「山椒大夫」をうまく受け留めることができないでおりました。
二、説経節から近代小説へ
その後歳月が経過し、大学教員になってからこの作品は鷗外の独創ではなく17世紀頃、人々の間で流布していた説経節「さんせう太夫」が基になっている歴史小説であることを知りました。説経節とは町の辻、つまり人々が集まる場所で、あたかも現代のストリート・ミュージシャンのように説経(説教とも)師が声と身ぶりによってその物語世界を再現するものです。「さんせう太夫」とは荘園領主に隷属する「散所」を統括する長者のことで、そこで働く民は過酷な労働を強いられ、来世での解放を夢見ておりました。鷗外はこのような旧い形態をもつ語り物を、その歴史性は残しながらも彼自身の言葉によって再構成し、歴史小説でありながら近代小説でもあるという世界を生み出しました。
三、作品の位置づけ
鷗外がこの作品を発表したのは大正4(1915)年、いわば日本が近代国家としてスタートを切り、西南戦争などの国内の争いや日清・日露戦争などの他国との戦争も起きた激動の明治が終り、ようやく自国の遠い過去を想起する余裕が生じたときでした。鷗外自身の作品史から言っても、「芥川龍之介らに継承される大正期歴史小説の型をさだめた傑作」(三好行雄『山椒大夫・高瀬舟』新潮文庫・旧版解説)と言われていることは今日では案外知られていないかもしれません。
四、映像による変奏
この物語は平安時代の末期、藤原氏による摂関政治は衰退しつつあったものの、まだ武家が台頭するには至らない時代の話です。いまNHKテレビの大河ドラマで「平清盛」が放映されていますが、それよりも少し前の11世紀末の時代です。そんな旧い物語を中学生が理解するのは難しいのかもしれません。しかし、さきほど述べたように「山椒大夫」と説経節の関係を知ってしばらくしてから、今度は溝口健二監督による映画「山椒大夫」を観る機会があり、物語内容が部分的に変更されているものの、リアルな画面のなかに詩情をたたえた叙事詩的なドラマの世界に強い感銘を受けました。
五、物語の生命線
こうして私のなかで小説・説経節・映画という三つのジャンルが合体することで、ようやくこの物語の生命線が見えてきたのです。大きな時間と空間のなかで息づく物語は、父との離別による父探しの旅からはじまり、次には母との離別、やがて姉弟だけで他国で奴婢として生きねばならないこと、その孤立感と苦しみ、考え抜いた挙句の脱出劇と結末の母との再会等々、今日読み返しても飽きない起伏の多い物語内容を持っています。特に弟の厨子王を逃して自死してしまう安寿像は哀切きわまりないものですが、その「死」は「生死」を超えた次元を私たちに暗示しているように思われます。
六、現代へのメッセージ
このように「山椒大夫」は少しも愉しい話ではありません。しかし、日本の古層から連綿とつづく昔話に材を取ったこの物語の安寿と厨子王は、実に果敢に生きたと言えると思います。説経節の「さんせう太夫」では神仏の化身として讃えられる安寿ですが、鷗外は彼女をそのような天上的な存在ではなく、地上の行動する女性として描き、対するに厨子王は彼女の願いを遂行する男性として描きだしました。この物語の深層は困難な時代のなかで家族や個人がどうしたら人らしく生きるか、ということも描きだしているのではないでしょうか。時代の決まりや約束事(掟)が不確かなとき、それらに目をそむけるのではなく敢然と対峙して生きる道筋を模索すること。鷗外の「山椒大夫」には優れて現代的なメッセージが込められていると思われます。  
 
『沙石集』の説話とその社会的背景

 

無住むじゅうの周囲には愚かな俗人も愚かな僧も、無数にいた。というよりも、周囲の人々の愚かさがことさら無住の目には映ったのかもしれない。しかし、その結果、仏教の道理を説く方便として無住が持ち出す例話は、愚かしい人間で溢れることになったとも言えるのである。『沙石集 させきしゅう』は硬質の仏教教学と滑稽な人間模様の不思議な交錯にいろどられた特異な仏教説話集の空間を作り出していると言うことが出来る。硬質の仏教教学とは言っても、それは非常に高度な論理を操作したり、難しい抽象的思考を重ねるという体のものではなく、厄介な仏教語を用いるという点を除けば、そこに展開される理くつは、比較的単純なものであり、慣れればそれほど難かしさに困惑するようなものではない。無住が本書を「愚かなる人」のために書いたと言っているとおりであろう。
他方、本書の中に繰り広げられる愚かな人々の滑稽な振舞い、言動は、生き生きとして目に見えるような鮮やかな語り口で記されている。無住という人が、聞き手の心を魅きつけてやまない語りの達人であることを十分にうかがわせるものである。仏教の理くつを開陳する箇所にはしばらく目をつぶり、話術の冴えにひたってみるのがよさそうである。
滑稽談
巻一開巻まもない第四話に、恵心僧都源信えしんそうずげんしんが吉野に参詣した折りの話がある。僧都の参詣に際して神の御託宣ごたくせんがあったという。巫みこに吉野よしの明神みょうじんが憑依ひょういしたのであるが、その神が天台宗の法門を語るので、僧都は宗義の重要な点についての質問へと次第に立ち入って行くと、神の憑依した巫は、「柱に立ちそひて、足をよりてほけほけと物思ふ質すがたにて、『あまりに和光同塵わくわうどうぢんが久しくなりて、忘れたるぞ』と仰せられ」たという。本地の仏が、神に身をやつして、あまりに長い時間が経過したので、仏教の教義を忘れてしまった、という言い分は、和光同塵の本地ほんじ垂迹すいじゃくの理くつを根底からぶち壊してしまいかねないものであるが、それ以上に、本話の語り口は、「柱に立ちそひて、足をよりてほけほけと物思ふ」様子の具体的な身体描写に圧倒的な存在感がある。この滑稽で、いかにもといった身振りのゆえに、彼(巫)の述べる怪しげな理くつの本質的な問題は棚上げされてしまうのである。
ただし無住は、これにもう一つの類話を付け加えることを忘れていない。東大寺の石上人経住いしひじりきょうじゅうなる人物が、自分は観音の化身だと名乗ったけれども誰も信用しない。そこで誓紙せいしをたくさん書いたが、ある人に、そんなものより神通力じんつうりきを見せなさい、と言われて、「あまりに久しく現げんぜで、神通じんづうも忘れて候さふらふ物を」と言ったという。無住は、「げには知り難がたかるべし」と、本当のところはわからない、本当の化身だったのかも知れないと、感想を付け加えているが、もちろん、真底信じているという様子ではない。そらとぼけていると言ってよいだろう。こうした最後の最後で断定を避けて、そらとぼけるところに、無住の語り手としてのしたたかさがあるように思われる。
巻一の第十話にはこういう滑稽な話も出てくる。ある姫君を養育する乳母が、自分の姫君を讃ほめて人に語ろうとして、私のお育てしている姫君は、目が細くて愛らしい、と言うと、他の人に、目が細いのはあまりよいことではないのにと言われて、あわてて、「いや、片一方の目は大きくていらっしゃるぞ」と、言ってしまう。仏教(ここでは浄土宗であるが)を信じる人たちが、自分の信じる宗派を讃めようとして、これと同じあやまちを犯しているということを言おうとするための例話である。まことにわかりやすい喩たとえ話である。こうした笑い話で教化をしようとした人は、無住以前にもいたのであろうが、それを大部な説話集にまとめあげたのは、無住が初めてであろう。『沙石集』の後を見ても、他にこうした滑稽による仏教説話集というものはほとんど見ることが出来ない。無住という人はおそらく前後に類のない書き手なのである。
同時代話
卑近な話、滑稽な話題が多いゆえに、無住は話の出所の確かさにこだわる。「かの経基つねもとに親しき神官が語りしかば、慥たしかの事にこそ」(巻一ノ二)、「この法印ほういんの事は、孫弟そんていの山僧さんそうの物語なり。慥かの事にこそ」(巻一ノ七)などと確かさへの言及は頻繁に繰り返される。しかし、よくよく注意して読めばすぐにわかることであるが、その確かさとは、無住が誰々から聞いたという伝聞なのであって、無住以前の段階の確かさを保証しうるようなものではない場合が大部分である。結局、無住は自分の語る例話の事実性を主張したかったのだということだけが明らかなのである。
しかしながら、そのような無住の執筆意識のおかげで、他方で、同時代の証言としての真実性を担保しうる話も間違いなく存在し、貴重な時代の証言になっている点も見逃せない。たとえば鎌倉時代中期の御ご家人けにん、地頭じとうたちの一面を語る説話などがそれに当るであろう。
武士社会
暮し向きが悪く、所領を次第に売り払って、息子は何の財産もなくさまよわなくてはならなくなった地頭の家、その売り出された土地を次々に購入して大土地所有者へと飛躍していく地頭と、対照的な地頭の家が登場する巻七の第四話は、鎌倉中期に、貧富に二極分化しつつあった御家人たちの動向がかいま見える。
さらにこの話では、貧しい地頭の一族が、迷い者の息子に屋敷だけでも譲ってやってくれと列参して申し入れる。これは借金を帳消しにして元の所有者に所領を返すという無茶苦茶な理くつとも見える、いわゆる徳政というものの背景をよく示していよう。一方でまた、無償で屋敷を返すことと引換えに、一族の者がこぞって「御恩」を受けたと考えよう、という申し出は、「御恩」と「奉公」という御家人社会のルールの上に、領主と従者の組織化が進み、武士の内部に新たな階層化が起こっていることを示唆していると見ることができるであろう。こうした御家人社会の実情は、北条泰時やすときによる名裁判として語られる幾つかの問注説話でも見ることができる。巻三の第三話では、父が貧しさゆえに売却した所領を嫡男が買い戻して父に与えたが、父は遺産をすべて次男に相続させてしまう。嫡男は貧窮に苦しむが、泰時はこの嫡男を哀れに思い、機会を見て本国に父の所領より大きな所領を与えたというのである。
また、巻十本の第四話の五郎殿の話も、兄弟が分割相続すると、所領が小さくなり、十分な奉公が出来なくなることを心配して、一人にすべてを相続させるという話である。無住はこれを、俗事を捨てて仏門に入った賢明な処世の話として取り挙げているのであるが、御家人の相続の問題として眺めると、先の話と同じ構造的な問題があることが浮かんでくるのである。こうした同時代的な問題は、書き記している無住の意図とは全く関わらないところで、彼の執筆態度がおのずから生み出した事柄だと言えよう。
類例として、幼な児の兄弟が、実父を暗殺しようとしている継父(正しくは母の浮気相手)を先手を打って殺害してしまう話がある(巻七ノ六)。武士の子供はかくあるべし、といった武士の倫理感がくっきりと映し出された話で、のちの武士道に結びついてゆくようなところがある。たとえば前代の武士を多く描き出している『今昔物語集』を見ても、このような親の仇を討つ子供というテーマは見出すことができない。所領の相続と表裏の関係にあるであろう武士のモラルがどのように形成されつつあったのかということがうかがわれるのである。
説経師
『沙石集』の中で頻繁に取り挙げられているテーマの一つに信施しんせの問題がある。即ち、ろくに信仰心もない僧が、いい加減な説経をして信者の布施ふせを得るのは、有所得うしょとくの説法であって堕地獄だじごくの罪に当るという発言がしばしば見られるのである。
 たとえば、北国の漁師たちの法会で、漁夫である檀那だんなにおもねり、皆さんはいつも「網々(アミ、アミ)」と言うと、波が「たぶ、たぶ」と応え、自然に「アミタブ(阿弥陀仏)、アミタブ」と念仏を唱えているから、極楽往生は間違いないと、駄洒落の説経をして、しこたま布施をせしめた説経師などという者がさまざまに登場している。このような民間布教者がどの程度の割合で存在したのかは知るよしもないが、決して少なくはなかったのであろう。巻六はことにこうした説経師たちの説話を多数収めている。
巻六は『沙石集』の諸本の中でも、ことに梵舜本ぼんしゅんぼんが際立った相違を見せている。他の諸本に見られない独自説話が多く、しかもその大部分が右に見たようなインチキくさい説経師たちの失敗談なのである。もともと『沙石集』に収録するつもりだった話であるが、あまりにも僧の愚かさを曝露する話なので削除したと考えるのも一案であるが、梵舜本が本文的には古本系統の諸本よりも流布本系統に近い本文を持っている点から考えると、古本から流布本が成立してくる途中のある段階で、こうした説経説話が多量に増補されたテクストだったと考えることも可能である。筆者としては後者の立場をとりたいと思うのであるが、もしそうだとすれば、無住の説話収集の網に、こうした説経の話はひっかかって来ることが多かったと考えられるのではないかと思う。
無知な僧
愚かな説経師が生み出される背景には、もちろん多量の無知で愚かな僧たちの存在がある。『沙石集』はそのような無知な僧の説話にも事欠かない。字も読めない僧が経を読むことによって引き起こされる滑稽談も、いくつも収録されている。たとえば、師匠から『大般若経だいはんにゃきょう』を譲られた(多分、遺産として相続したのであろう)僧は、『大般若経』が何たるかも知らない。そこへ隣房の僧が来て、自分は『法華経』を持っていないので十巻を分けてくれと言う。自分の『法華経』にするのだと言うのであるが、彼らは経典に何が書かれているかなどということは関知しないわけである。『大般若経』の一部を『法華経』と称して怪しまない、何ともお粗末な連中であるが、そこへまた別の一人が登場する。彼は、他の連中よりは少々ましな知識を持っているらしく、『法華経』は八巻だから、十巻では多過ぎる。余る二巻を自分にくれと言う。『仁王経』は二巻の経典だから、その二巻をもらって自分の『仁王経』にしようと言うのである。彼の知識も、『法華経』は八巻、『仁王経』は二巻というところまでで、文字が読めず、『大般若経』だろうと、『法華経』だろうと内容なんぞに頓着しない、という無知では同じことなのであった。
このような無知蒙昧もうまいな僧たちが俗人を教化するという奇妙な構図は、庶民の中の仏教のある一面の実態を映し出していると言ってよいと思われる。そのような愚昧ぐまいな僧たちと比較すると、無住の教養、知識が際立って素晴しいものに見えてくるのであるが、このような愚昧な人々を教化するのには、結局、現世のことは何事も無常なのだから、欲を持つな、どの宗派がすぐれているかなどと争うのでなく、どれでもよいから有縁の宗を信じて他宗を非難するな、というようなことに尽きるのである。単純な理くつが展開されていると初めに述べたのはそういうことである。
難しそうな仏教用語に恐れを抱く必要はないのである。無住が生き生きとした筆致で描き出した愚かな人間模様を笑って楽しめばよいと割り切っても構わないと思う。興味を感じたら、そこから、中世の思想なり、仏教なりへ歩みを進めればよい。近世に『沙石集』が多く流布し、類似の説教書が作り出されたりしたのも、そういう筋道を通ってのことだったように思われるのである。
 
唱導の範囲 / その理解の多様性をめぐって

 

はじめに
唱導という場合、普通よく、梁の慧欧の撰になる『高僧伝』の、
唱導者。蓋以宣唱法理。開導衆心也。
という記載から、「人々に対して仏教の内容を、説き聞かせるもの」という認識で、理解されていると思う。しかし、唱導の内容が、それのみで理解出来ないこともまた、よく知られているところである。
周知されている、ところではあるが、筑土鈴寛氏は「唱導と本地文学と」(『中世芸文の研究』所収)で、
唱導は説経、談義と同じだ。表白もその中に含まれる。この唱導には二様の方法があったと思う。自分一個では、仮りに表自体の唱導、口頭の唱導とに区別している。
と、述べて、唱導の二種の区別を、提示している。これは、願文・表白等の成文化したもとの、一回性の比喩・因縁等に富むものとを、区別したものであろう。
以前、拙稿(「中古日記にみえる、唱導儀式と、そのうけとり方其一−−『中右記』にみえる、中陰の形−−」別府大学紀要第二六号)で、少しく言及したところであるが、
(『説法明眼論』には)高座にのぼってからの儀式に、ついて、その進行順序と、各―の儀式の内容が、説明されている。所謂、表白体、および、口頭体の唱導は、その一部分として、存在しているのであり、それが、唱導ということの、全てではない。そうぃう意味で、いうならば、儀式全体についてノー昌及した、広義の唱導と、従来から言われている、唱導を、とりあつかった、狭義の唱導とに、区別した方が、むしろより適切では、ないかと思う。
ここでは、広義の唱導・狭義の唱導という事について、「唱導の範囲」として、もう少し具体的に、考察してみようと思う。  
(一)

 

唱導が、先に定義したように、「人々に対して仏教の内容を、説き聞かせるもの」とすると、仏教の歴史は、初転法輪の昔から、唱導の歴史・教化の歴史という事になろう。
(勿論、それは、ひとり仏教のみに、限ったことでは、ないであろう。)唱導の歴史・教化の歴史を、時代を経ながら、積み重ねる事によって、仏教の歴史があり、又今日の仏教があるとも言えよう。
唱導というものを、そのように考えていくと、当然、「誰が、何を、何処で、誰に対して、どのようにして、」という疑問に、到着する。「唱導の範囲」という問題は、これらの事とも、関わってこよう。
普通、唱導というと、法要をしてなされるもの、説教をしてなされるものという認識が、先にたつが、唱導が、最終的に目指しているものは、何であろうか。いうまでもなく、仏教の内容を、説き聞かせる事により、仏教に結縁させ、帰依させる事であろう。
では、人々に対して、どのような慟きかけを、することにより、仏教に興味を、持たせていったのであろうか。唱導はまた、人々の興味の内容と、深く問わっている。人々の関心の無い方法で、いくら説き聞かせようとしても、所詮効果が薄く、無理な事では、ないだろうか。それらの事を、念頭に置きながら、考察を進めてみよう。
唱導者に関わるものとして、
1、話し方(語り方)の問題
2、話の内容
の二つに分けて、論じてみよう。
1、話し方(語り方)の問題
相手に対して、何かを語りかけ、何かを理解させ、又、其鳴させようとする場合、只単に話しただけでは、なかなか良い結果が、得られるものではない。そこには自ら、その為の方法なり、技術なりが、成長してくるものであろう。
古くは、前述した『高僧伝』の「或雑序因縁。或傍引替喩ご「夫唱導所貴其事四焉。謂声弁才博ごなどが、話し方の技巧について、言及したものである。楢、中国の唱導文学については、海田瑞穂氏の「唱導文学の生成」(『仏教と中国文学』所収)に、詳述されている。日本のものについて見ると、先ず、石淵八講で知られる勤操が、目に浮かぶ。
(以前、少し述べた事ではあるが、)『性雲集』には、三千の仏名を礼すること廿一年、ハ座の法花を講ずること三百余会。師吼の雅音聴覚く者腸を断つ、迦陵の哀響見る者愛死す。男女角ひ奔せて心を発し、華野に産を忘れて会を設く。職として悲調の感なり。(引用は、古典文学大系「岩波書店」四三〇頁)
とある。「師吼の雅音・迦陵の哀響」と言っているところから見ると、抑揚を持った、節のある語り口を、連想させる。又、普門院に蔵している、絹本着色の、勤操僧正の絵像を見ると、
像は詠座上将の右向きに坐し、左膝を乗り出した姿勢で、右手を前に出し、掌を上にむけ数珠をかけ、左手は胸前に掌を外にむけ、第一、二、五指をのばし、口を開き、弁舌中の姿をあらわしている。(原色版『国宝』3「毎日新聞社」解説二言頁)
という印象を受ける。静かに経の解説を、しているというよリ、もっと荒々しく、躍動感がある。これは多分、唱導している図であろう。その勤禅が示寂したのが、天長四年(八二七)であった。つまり、平安時代の極く初期から、唱導は身振りを含んで、躍動的に実施されていた模様である。
さて、その躍動感の溢れる姿で、唱導している勤操が、いったい誰を相手にして、唱導しているのであろうかという事は、その姿だけでは、想像するしかあるまい。
しかし、その唱導に聞する極めて基本的な姿勢−相手が興味を持ち、しかもより理解しやすいように説き聞かせるIは、顕著に示されている。
この唱導に関しての基本的な姿勢は、変化なく維持され、更に発展し、詳細になっていくのである。ずっと後世のことであるが、例えば、江戸時代の唱導論告である『説法式要』にの告は江戸時代の唱導論者の嘴矢に位置するもので、広く流布し評価されていた。〜(近世の唱導論告j『説法式要』巻一−後小路薫氏『文藷論叢』第24号参照)を見ると、一から廿六までの祖項を、設けて詳細に実践的な心構えや方法について、説明している。如何に詳細であるかは、
次二扇ヲ取ル、古ヘハ両手ヲ以テ堅起スル事卜、笏ヲ精力如ク、少シ右ノ方二傾フクニ似テ、声ヲ発コト宮ノ調子ヲ取ル、是レ諸調音声ノ本ト也、発端ノ詞ハ時宜二依ヘシ、今日ノ説法ハ、奉開御経ハ、奉訓読御疏ハ、如此言緒多端也、視官説ノ言使ハ連続シテ爽ナルコト、喩へ八五尺ノ菖蒲二水ヲ酒カ如ク、小良小良トシテ渋滞無キヲ以テ善トス、其ノ責二皮テハ懸河ノ弁ヲ施コス、是喩ヘハ瀧水ノ落チ泉源ノ流ルガ如シ、序破急/詞弁能ク分別スペシノ頭ヲ銀扇ヲ拍キ手ヲ揚テ真似スル等ハ、一向其ノ式二非ス、如来ハ手二定印ヲ結ビロニ説法シ玉ヘリ、若シ夫レ扇ヲ以テ拍子ヲ取ルハ自然ノ事也ト可知、
これは、「説法序詞」(前掲論文より引用)の一部分であるが、これを一読しただけでも、明らかである。
これらは、総て唱導の実を、あげようという目的によって、案出されたものである。
又、『沙石集』にある「説経師下風讃タル事」にも、聴聞の若い女房が、下風をしたのを、澄憲が、讃めた話が出でくる。作者無住は、「讃悪キ事ヲモ披讃ケルニヤ。賓ノ辨説ニコソ。」と称讃している。臨機応変に唱導していた、説経師の姿が、浮かんでくる。
このような例でも、知られるように唱導は、常に説縁者と聴間者との関わりによって、成立したものである。それらの事は又、唱導という事の無限の広がりを、示唆している事にもなるであろう。
『法則集』(信承法師撰・天台宗全書所収)を見ても、語り方や述べ方について、子細な工夫が凝らされている。
一。説法一座姿ハ初シミ。中タトク。終哀ナル是其賛トス。
これは、説法の全体の流れと、起伏についての注意である。つまり、唱導する場合に、一本調子でするのでは、なくして全体も把握しながら、起伏を作り、抑揚を持たせて、説き聞かせようと、したものである。
又、表白願文等の文章についても、
一。口情 説経師能可存知事。文章姿也。隔句必二句上下各切目可分間分也。隔句如長句酒乱長句様混同。二句不澄感不動説経反倒。只此等所存知分所致也
とある。文章を作成する場合でも、充分に吟味して、四六文等の技巧を凝らした、装飾性豊かな文章を、作成したのである。
一。口博云。調子アシク不自在時高不可単音。可最略不足披云無難也。聞アカレタルバカリノ説経ナラバ可略也云々
調子の悪い時には、どのようにして、その場を取繕っていくかという、注意である。微に入り細に互って、色々な場合を想定して、準備されているのである。それだけに又、唱導が、盛んで多くの場面に、出会う事が、あったのであろう。
話し方(語り方)の問題は、以上の事から、多くの場合があり、周到に容易されていた事がわかる。
2、話の内容について
話し方同様に、話の内容も又、重要な問題である。これは、何を聴間者に対して、説き間かしめるかという問題である。
勿論、その目的とするところは、前述した造り、「人々に対して仏教の内容を、説き聞かせる勝により、仏教に結縁させ、帰依させる事」を、目指したものである。従って、その目的に添う、色々な話という事になろう。そして又それは、聴聞者の要求にも、応えるものでなくては、なるまい。もう少し具体的に、考察してみたい。
法華ハ講の濫暇といわれる周知の、石淵ハ講(『三宝絵詞』)は、栄好の先批の為に勤操が、実施したものである。(七々日の忌の間は此寺に来て一日に一体をまうけて、一人に一巻を講ぜしむ)勤操は、自分の手落ち(酒を飲み過ぎて、栄好の母に、食事を送るのを、失念してしまい、それが原因で、栄好の母を死亡せしめた事)もあり、「その命已にたえにたり。
なげきてもかひなし。今は後世をみちびかむと思」って、八講を始める。これは、亡き人の追善の為のものである。法華ハ講は、追善供養という事を、目的として、実施されたのである。この事は、その後の仏教と、人々の関わりを、暗示するものであった。またこれは、仏教が、いかに受容されてきたかという事と、関連がある。仏教の、日本に於ける受容は、個人の悟りを、目的としたものとばかりとはノー呂い難い。それは、奈良時代の仏教の在り方を見れば、よく納得できる。つまり、国家を鎮護するものであったり、現世における利益を、求めるものであったりした。又、今述べた、追善供養も、重要な受容の一つであった。このような事を、念頭におきながら、人々は仏教に、結縁しようとしたのである。『枕草子』の小白河の八講の段にも、「そこにて上達部、結縁のハ縁の八講し結ふ」とある。
更に、詳細な例を『澄憲作文集』に見ると、
一、国王  二、院徳  三、関白  四、大臣  五、納言  六、宰相  七、国司  八、前司  九、文者
 十、武者等の、身分に関するもの
三十二、父母  三十四、養父母等の、肉親に関するもの
三十七、生苦  三十八、病苦等の、現実の状態に関するもの
を中心としながら、七十三の細目を列挙して、それぞれに即応した、願文や表白が、製作出来るように、準備されている。
これらの例は、供養会等の状況が、いかに、多岐に互っていたかを、示しているものである。即ち、それだけ多くの、内容の異なる受容が、存在したということであろう。
扨て、そこで、話される話の内容は、以上述べたような目的に、合った内容の話、もしくは、その目的に、誘導しうる話、と言うことになろう。このように、規定することは、出来るものの、しかし、甚だ漠然としていて、どの話も、そうなる可能性を、内含している事も又、事実である。時には、その可能性の幅を逸脱して、施主に何る結果を、将来した場合もあった。『沙石集』(巻六1六「随機施主分ノ事」)にあるような例である。大津の漁師達が、説経師を何回も請じたが、なかなか思うような説教を、聞けなかった。ある説経師が心得て、
各ノ近江湖ノ鱗トリ給フ事ハ、目出度キ功徳也。其故ハ、此湖ハ天台大師ノ御眼ナリ。佛ノ御眼ノチリヲトルハ、ユユシキ功徳トナルペシ(引用は、古典文学大系「岩波書店」による。)
文字通り随機の施士分を、展開する。その結果、布施物が多かったことは、勿論である。これは、相手に迎合し過ぎたものである。この説話は、『百座法談』等に、引用されている、非濁の『三宝感応要略録』を出典とする、阿弥陀魚の譚を、基礎においているものと、思われる。『法則集』の
一、因縁法門等ヲバスル時。大筋ダュタガハザレバ語何替不苦。
とあるのは、このような場合の、柔軟性についての、指示であろう。
以上、唱導者に関するものとして、二点を取り上げて、考察してきたのであるが、それから受ける印象は、次のようである。
1、仏道修業に付随して、唱導があるというのではなくて独立した大系を持っていた。
2、話し方・話の内容の両者共に、詳細に且つ具体的に、準備されている。
3、話し方・話の内容の両者共に、広い許容範囲を持ち、柔軟に対処されていた。
以上、唱導の柔軟性というような事について、言及してきた。その柔軟性の故に、従来、言われている、’口頭体の唱導に、ついての論のような、印象を、受けるやも知れないので、ここで、改めて、願文・表白等について、述べておこう。
願文・表白は、人々に対して、仏教の内容を、説き聞かせて、それによって、聴衆をして、仏教に、帰依せしめるというような働きとは、若干、性質を異にしている。この二つは、いずれも、仏前において、その法会や修法の、目的や趣旨を、奏上するものである。既に唱導され、仏教に帰依している人々がいて、その人々が、ある目的のもとに、法会等を開き、その趣旨を、願文・表白に書いて、仏前に奏上する。というような、大まかな図式が、成立しよう。ところが、『釈氏要覧』には、「表白 憎史略云。亦日唱導也ごとあり、表白と唱導とを、同じ意味に理解している。この理解は、今述べた定義とは、いささか、異なるものである。仏教に関わらせるもの、としてみると、その範躊に、はいるであろう。
扨て、願文・表白は、臨機応変に、聴間者に対して、法を説き聞かせるという、自由さは、少ない。これは、書いたものを、仏前で、拝読するという性質上、どうしても、そうならざるをえない。では、どのようにして、多岐に亘る受容に、応じたのであろうか。その場で、聴聞者の様子や反応に、応じる事の出来ないだけに、その法会や修法に、適合した願文や表白を、作成することから、その受容に応える用意が、始まっている。前もって、想を練り、吟味して文章を、作成する。
今日残っている、所謂唱導書の類は、願文や表白を、作成する為の、参考書であったり、既に作成されている、模範文であったりする。
『唱導抄』には、
犬歳名 十二月付四季名 五畿内国名 左右坊門名 帝王名付君所号
賛 崩
院付名法皇名 居所 東宮名付居所
賛 御悩 崩 賛
の、人物に関するものを、はじめとして、言葉の使い方の例が、示されている。
『類句抄』には、「仏法」「無常言孝養」等の項目を設けて、実際の願文等の中から、要句を、抜出して書きとどめている。『作文言詞集』も又『類句抄』と、同様な性質を、持つものである。『風誦指南集』も、同種である。それらのものを、参照しながら、作成され、実際に使用された例文は、『本朝文粋』等の中にも、集録されているくらいである。
このように、何段階にも、分けるようにして、願文・表白等の製作の作業は、実施されたのである。
それらの、一連の姿は、専門的であり、大系化されているものであると、いわねばなるまい。従って又、その事を、家業とするような家が、出現してくるのも、ある意味では、必然的な事であろう。安居院流は、その最たるものである。  
(二)

 

(一)に於て、「唱導者に関わるもの」として、二点に分けて、言及してきたが、ここでは、視点を変えて、「聴間者に関わるもの」について、考えてみたい。
聴間者に関わるものとして、考えられるのは、どのような動機(目的)で、聴聞するか。又、その聴聞の仕方は、どのようなものか。この二点が、その主たるものであろう。
1、どのような動機(目的)で、聴聞するか。
聴聞するという行為は、言うまでもなく、その場を作って聴く、もしくは、その場に出かけて行って聴く、ということ
である。従って、その場は、どのような目的でノ設定されているかという事と、深く関わってくる。
『大鏡』は、周知のように、雲林院の菩提謝に詣でた話から、始まる。菩提講は、後世の菩提を得る(往生極楽)為に、『法花経』を、講ずる法会である。この謝金には、多くの人が、参詣している。老若男女を取混ぜての、多くの人々である、人々は、その謝会に「いきあひて」聴聞する。あちこちで、同じような講金が、催されているのである。
としごろ こゝかしこのせ経とのゝしれど、なにかはとてまいらず侍。さしこくおもひたちてまいり侍にけるがうれしき事『古典文学大系 岩波書店ぶハ鏡』より引用、傍線は、私に付したものである。以下も同じ)
菩提謝が、雲林院で行われる由を、聞及んで、多くの人が、聴聞に来るのである。
菩提講に出掛けて、説経を聴聞し、仏教に結縁した人々は、そこに何を求めたのかは、明らかである。
『中右記』(承徳二年五月一日―増補史料大成「臨川書店」)には、雲林院の菩提講の様を、次のように記している。
一條尼上弁寝殿御方今参雲林院菩提講結、予為御共参入−講師登高座間、於堂北庇聴聞、講師院範先授三賠十戒、次説経、人々所供養経已及教十部、寝殿御方今供養名字功徳晶、始説法之開城以随喜、巳時許事了、堂中位座老少男女梧南無聾遍満如雷、-
院範講師の説経を、聴聞した人々(堂中位座老少男女)は、「説法之開城以随喜」し、終了すると、「栴南無聾遍満如雷」の様相を呈する。念仏を口称することによって、後世に菩提を、得ようとしたのであろう。生前に善根を修して、それを廻向し、死後、極楽に、往生しようという願望のもとに、菩提講に行き、結縁し、念仏しているのである。
後世の菩提を求めて、講会に結縁するというのは、よくおこなわれている。誰の為の後世の菩提かというと、その講会を実施したり、参加したりする、その人の陽介もあるし、又その人の父母等、その人にゆかりのある人々の、場合もある。
そのように、後世に菩提を求めるというのは、大変大きな理由である。その他、どのような理由が、考えられるのであろうか。『本朝文粋』の巻の十三・十四の「願文上・願文下」を見ると、二十八の願文を、収録しているが、その内の十六が、四十九日等の追善に、関するものである。これも又、亡き人の菩提を、念じてのものである。『本朝続文粋』の場合を見ても、同様の事がいえる。これらの事が、聴聞の大きな動機に、なっている。更に『百座放談』においても、そうである。
さる内親王が、百座の法華の講を行って、(実際には三百座、残っているものは二十日間のものである)亡き両親の追善をする。
此経を先考聖朝、先姚贈后の御ために廻向し〔 〕させ給こそ、尤も可然事とおぼへ候へ。孝養報恩をもて、仏も旨とほめ悦び給ふ事なり。(桜楓社 佐藤亮雄氏校註)
亡き両親を、追善する為の開講が、同時に、内親王御白身の為の、功徳にもなっている。
○此経を一価一句にても、かき、よみたてまつらむ人は、ただちに釈迦牟尼仏のとかせたまうをきき釈迦牟尼如来の霊山にましくしを供養したてまつられたまうにこそさぶらひければ、内親王殿下の御功徳 まうすかぎりなき事也。 (三月廿六日)
○何況や、内親王殿下の名聞のためにもあらず、利益のためにもあらず、心をいたして、一部八巻廿八品をしかしながら受持・読誦し、日々に開講、演説せしめ給ふ。心しても恩ひ、ことばしても申つくすべからぬ御功徳とこそ思え候へ。(六月廿六日)
又、先考、先批の為の追善という事には、触れずに、専らに内親王の功徳について、言及している施主分もある。
○内親王殿下ふかくこの由をしろしめして、人界の栄華栄耀なにクひはせむ、万事みな夢のごときにこそはあれ、とおばしめして、利和の家にむまれおはしまして、この生のだのしみをのみこそ、おぼしめすべけれど、偏に後世菩提を御心にかけおはしまして、日々に講経を開きおはしませる、いさぎよき御功徳は、三宝の境界をのづから知見し給らむ。(閃七月八日)
「偏に後世菩提を御心にかけおはしまして」とあるのは、勿論内親王自身の、後世の菩提についての事である。
前述したように此等は、後世の事を心に懸けて、その為に講を開いているのである。後世に菩提を、得ようという考えと、今は亡き縁者の、追善供養とは、一見すると、相反しているかのように、思われるのであるが、あながちそうとも、言えない一面を、持っている。というのは、両者とも菩提というところで、関連しているのである。生者が、後世に菩提を得るということと、既にこの世に亡い人が、菩提を追善供養に依って あの世(後世)て得ようということである。生者と死者の区別はあるものの、ともに菩提を、次の世で、得ようというのである。(当時、完全な悟りを求めれば、求める程、この現在の世に於て、それを完成する事の困難さが、わかり、自然と、完全な悟りを、肉体的な制約を、離れた死後の世界に、求めるように、なっていったのである。)
このような理解によってみると、大江匡衡作の「為左大臣供養浄妙寺願文」(『本朝文粋』)の末尾にも、
願共諸衆生。上征兜率。西遇禰陀
とある。又、三善道統の作の「為空也上人。供養金字大般若経願文」にも、
細素尊卑。同語伶海之無漫。須保青木之不老。乃至有縁無縁。現界他界。無始以来。所有群類。動五逆四重之率。免三悪ハ難之苦。荒原古今之骨。東岱先後之魂。併闘薫修。咸澄妙覚。
とある。更に又、大江匡衡作の「為仁康上人。修五時講願文」にも、
伶子今願亦復如是。凡鰍痕因起縁。或順或逆。皆以今日之善根。聘為来世之張本。願共諸衆生。往生安楽國。南無鐸迦牟尼佛。
とある。此れ等はそれぞれ、願文の目的は、異なるものの、その結びの文章は、類似している。具体的に何を対象として、その法会が、開講されようとも、その功徳によって、人々の願うところは、後世の菩提である場合が、多い。
2、聴聞の仕方は、どのようなものか。
聴聞の仕方(聴聞の態度)は、前述の動機にも、大いに、関連してくるものである。動機が、確かで、真摯なものであれば、自然とその聴聞の仕方もまた、真面目で、真剣なものになるであろう。
説法を聴聞し、感動した人々の様子は、公家の日記等に、散見されるところである。
説法之間落涙難抑者也(『中右記』)
というような賛辞で、結ばれている。
『雑談集』(三弥井書店刊より引用)には、「知恵才覚無テ、然モ又音声ワルク、ロモキカズシテアル説法者」が、六大の尼に依頼して、「我が説法ノ時、必ズ聴聞ニツラナツテ、ナキテタベ」と、感涙する役目を頼む。説法に感動した者は、感涙するという事であり、即ち、その上うな結果が現れる事が、すばらしい説教の証である、と同時に、聴衆が、いかに熱心に、且つ真面目に、聴聞したかの証拠でも、あった。
唱導者の中には、又、時処諸縁を嫌わずに、でかけて行ったものも、あった。
大和國二説経師アリケリ。何ナル賤家ニモ行テ、唱導シケレバ、請ジ安キマー一、ョロズノ所ニテセサセケル。『沙石集』六1四 岩波古典文学大系より引用)、
又、源大夫の説話(『今昔物語集』巻19・14)の様に、遇然に唱導の場に、行き合わせて、聴聞する場合もあった。この場合は、「『何ナル事ヲ云フゾ』去来行テ聞カムごと、思って聞くのであるが、やがて、講師の語の内容に、同感して出家してしまう。説教の内容を、疑い無く、真面目に受け取ったのである。今迄、無知であっただけに、一度の結縁が、決定的な転機を、音したものであろう。
このようにして、当時の多くの人々は、仏教に縁を、結んでいったものであろう。  
おわりに

 

さて、唱導というものを、「唱導者に関わるもの」・「聴聞者に関わるもの」の二点から、見てきたのであるが、それらの考察の中で、唱導というもののもっている、広がりと大きさを、指摘できたと思う。「説法義」ということも、充分頷ける、規模の大きさである。そして、それらの基礎には、当時の仏数的土壌ともいうべき、仏教に対する共通の理解かおる。その土壌ともいうべき、仏教に対しての共通の理解は、勿論、唱導者と聴間者に、共通のものである事は、論を挨たない。その共通の仏数的土壌の上に立って、唱導活動は、為されたのである。いわば、唱導は、仏教の総介的な作用のようなものでは、ないかと思う。甚だ抽象的な述べ方をすると、唱導というものは、仏教の拡大と発展の基礎であると、言えよう。
そして、唱導は、多くの人々をして、仏教に結縁させていく、具体的な作業の縁を、作った仏数的儀式を含めて、理解さるべきものであろう。その儀式全体をさして、広義の唱導といい、更にその中で、為される願文・表白などの佩誦を、含んだ教化活動をさす、狭義の唱導とに、区別するのが、適当であろうと、思うのである。  
 
日本において編纂された説法資料に関する考察

 

一、「安居院流唱導」の始祖と「説法道」  
『平家物語』諸本の一つに数えられる『源平盛衰記』巻第三には、承安四年(1174)五月に営まれた最勝講をめぐる一話が記されている。
今年ノ春ノ比ヨリ天下旱魃シテ、夏ノ半ニ至リ江河流止リケレバ、土民耕作ノ煩ヲ嘆、国土農業ノ勤ヲ廃ス。井水絶ニケレバ、泉ヲ堀テゾ、人ハ集ケル。清涼殿ニシテ恒例ノ最勝講被二始行一。五月廿四日ハ、開白也。二十五日ハ、第二日也。朝座ノ導師ハ、興福寺権少僧都覚長、夕座ハ山門ノ権少僧都澄憲、々々天下ノ旱魃ヲ嘆、勧農ノ廃退ヲ憂テ、啓白ニ言ヲ尽シ、龍神ニ理ヲ責テ、雨ヲ祈乞給ケリ。
『源平盛衰記』には、右に引用した箇所に続けて、安居院澄憲が啓白(表白)した「説法詞」を記録し、澄憲が祈雨を果たした効験によって勧賞に預かった顛末を記す。本話は、澄憲が権大僧都に勧賞された経緯を史実に基づいて語るもので、九条兼実の日記『玉葉』ほか多くの記録に伝えられている。澄憲が啓白した「説法詞」も、醍醐寺蔵『表白集』に「最勝講第四座啓白詞 但除釈経之詞」と題して収録される(後藤丹治『戦記物語の研究』筑波書店、1936)ほか、少なからざるテクストに確認することができる。ただし『玉葉』は、この勧賞をめぐって次のように伝えている。
或人云、今度勧賞等事、法皇不許之、執柄強之云々
澄憲を権大僧都に勧賞することに、後白河法皇は難色を示したが、関白藤原基房(松殿)が強行したというのである。最勝講は法勝寺御八講・仙洞最勝講とともに「三講」と称せられ、「玉体安穏、宝祚延長」などといった言辞に象徴される、天皇や国家の安泰を祈願するために営まれた公的法会であった。この時期、「三講」の講師に勤仕することは僧綱補任の要件とされており、この講師が勧賞に預かった事例も多かった。また承安四年には、祈雨を果たした効験によって、醍醐寺や東寺の密教僧が勧賞されている。後白河法皇が澄憲を勧賞することに積極的でなかったのは、いかなる所以であったのだろう。『玉葉』には、関白(松殿基房)と余(九条兼実)の言を伝えて、
関白又被語余云、啻非感説法之優美、被尊祈請之効験也、則是炎旱性渉旬、民戸有愁、仍祈以請雨、蓋是御願之趣也、昨日祈申此趣、言泉如涌、聞者莫不動心情、自暁天果以降雨、故有此叡感者也者、余云、有先例哉、関白云、依説法雖有勧賞之例、不被仰勧賞、無御感之例、今度可無勧賞哉者、余云、唯不堪説法之優美、猶有不次之朝恩、何況今已有祈雨之霊験、何無其賞哉者、関白諾
と記されてもいる。松殿基房が、澄憲の説法を「啻に説法のを感ずるのみならず、祈請の効験を尊ばるるなり」と評価したことは注目されよう。真言宗小野流の開祖である仁海が請雨経法をよくして「雨僧正」と称されたことは周知だが、仁海以後も請雨・祈雨を果たすべく、東密を修する僧は孔雀経御読経や請雨経法など行い、その効験は僧綱補任の要件とされていた。が、承安四年の最勝講において、澄憲が祈雨を果たしたのは、竜神を感応せしむる「説法詞」によってである。『法則集』(信承撰、安居院における作法故実を伝える一書)には、説法について「総三段也。表白・正釈・施主段也」と解説している。澄憲が祈雨を果たした「説法詞」が、この三段のうち「施主段」に表白されたものであることは、すでに指摘したことがある(拙稿「安居院澄憲の〈説法〉」『仏教文学』24,2000)。最勝講のような顕教法会では、教学研究の披露としてある「論義」や、説法における三段のうちでも経典解釈を講説する「経釈」に眼目があった。護国経典を講説し論義することによって「玉体安穏、宝祚延長」すなわち天皇や国家の安泰を祈願したわけである。澄憲を勧賞するか否か。それは「経釈」や「論義」でなく、「施主段」における言辞によって祈雨を果たしたと認めるべきであるか否かが決せられることだった。
では、澄憲が「施主段」において表白した「説法詞」とは、いかなる言辞であったろうか。澄憲は最勝講の願旨を通例のごとく
寔是、鎮護国家第一之善事、攘災招福無双之御願也
と述べ、その意図を請雨祈願に読み替えるべく「抑も、厳重御願の筵、天衆影向の場に当たりて、聊か訴へ申すべきの事あり」と表白しており、続いて
伏見我聖朝御願、金光最勝両会、迎春夏無怠、帰仏信法御願、送歳月弥盛、而項年七八箇年、毎歳有旱魃之憂、不知如何
と転じつつ、「旱魃の憂へ」が起こった原因を「恐らくは龍神の嗔を為すこと有らんか」と明している。そして、旱魃を含む天災が「聖代・治世」に生じた例証として、漢朝における「九年の洪水」と「湯七年の炎旱」、本朝における「貞観の旱」「永祚の風」「承平の煙塵」「正暦の疾疫」を列挙し、「朝に善政あり、代に賢臣多けれども、天災の災気は、実に遁るること能はず」と述べつつも、承安四年の旱魃については「而して近年の小旱に至りては、普天に満ち遍つるの災に非ず、紀運然らしむの反に非ず。恐らくは龍神聊か相嫉み、天衆少しく祐けざる事あるか」と切り返す。そして先ず、
我大日本国、本是神国也。天照大神子孫、永為我国主、天児屋根尊子孫、今佐我朝政。以神事為国務、以祭祀為朝政。善神尤可守之国也。龍天輙不可棄之境也
と述べ、またさらに「何況や欽明天皇の代、仏法初めて本朝に渡り、推古天皇より以来、この教盛に行はるるをや」以下、聖武天皇の御宇に大仏が造立され、畿内・七道に寺院が建立されたことや、上宮太子・行基菩薩・弘法大師・伝教大師の寺院建立を列挙して、本朝における仏法興隆の有様を説き、「法弘まりてまた滅ぶる時あり。道盛にして必ず衰ふる国あり」と続けて、天竺における法滅の事例(耆闍崛・毘舎利国など)に「阿育大王正法に帰して後、弗沙密多のために滅ぼされ、梁の武帝正法を崇めし後、唐の武宗のこれを滅すに値へり」と加えて、天竺や震旦に比べても、いかに本朝が「帰仏信法」なる国土であるか、「我が国家一たび仏に帰して永く改むることなく、一たび法を弘めて遂に堕ちざらんには。欽明より当今に至るまで五十二代、いまだ仏法に背くの君を聞かず、推古天皇より以来五百七十余年、いまだ仏法を棄つるの代を見ず」と説き明かして、ようやく祈雨を果たすべく、次のように言い放ったのである。
天人不護我国者、即不護常住三宝、龍神若悪我国者、即奉悪三宝福田。不降雨失地利者、仏界皆施供養、不止災損人民者、出家定滅徒宗歟。護国四王、発誓願於仏前、龍神八部、奉仏勅於在世。忘護法誓於心中歟、誤我国風於眼前歟。天人龍神、過勿憚改。速降甘露雨、忽除災旱憂
澄憲は、本朝が「帰仏信法」の国土であることを執拗に述べるとともに、旱魃が生じたのは、龍神が仏法擁護の誓願を違えたゆえと責め立てたのである。『源平盛衰記』に「啓白に言ヲ尽シ、龍神ニ理ヲ責テ、雨ヲ祈乞給ケリ」と読み解かれていたことを想起させる。『源平盛衰記』には、「理」により責め立てた弁舌に、龍神が感応したことを加えるべく、
龍神道理ニセメラレ、天地感応シテ、陰雲忽ニ引覆、大雨頻ニ下ケリ
と記されてもいる。龍神の感応は、澄憲の「詞」によってもたらされ、その巧みなる弁舌ゆえに得られたのである。降雨に至ったとはいえ、読経や修法と同様に、その効験を認めるべきであるかが躊躇われたとしても首肯される。が、澄憲は勧賞されたのである。この勧賞を経て説法は、読経や修法と同様に効験あるものと公認されたわけである。
安居院澄憲は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した天台僧である。諸記録によって、同時代の人々から「富楼那尊者の再誕」と称され、「説法の上手」の名声を欲しいままにしたことが知られる。しかし、承安四年の最勝講における顛末には、読経や修法と同様に効験を現すものと、説法について認識されていなかった事情を読み解かせる。澄憲以前にも「説法優美」の文言をもって称讃された学侶は数多く存在したし、もちろん平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて「説法の上手」と謳われたのも澄憲だけでなかった。そして、そういった学侶が勧賞に預かる事例も少なくなかったのである。しかし澄憲は自ら得意とし、称讃を博された説法によって、祈雨の効験を認められたのである。龍神を感応せしめた「説法詞」は、後白河法皇に召し上げられることともなる。
最勝講啓白詞、謹以令注進候、一驚叡聞忽蒙異賞、再及叡現、一道之光栄、万代之美談也。骨縦埋龍門之土、名宜留風闕之雲、喜懼之至、啓而有余而也、澄憲恐懼謹言
記録化した「説法詞」に添えられた「注進文」には、澄憲の口吻を伝えて余りある文言が綴られている。説法、さらにいえば説法において表白された「詞」に、読経や修法と同様の効験が公認されたことは、澄憲が説法を一道とするべく「説法道」を提唱し、「説法道」に辿る先哲と、自らが作文した「説法詞」の記録とテクスト化に向かう契機となったと考える。そして「説法詞」を類聚し編纂する作業は、澄憲の真弟子である聖覚へと引き継がれる。後に「安居院流唱導」と称される説法(唱導)の一流は、こうした経緯をもって誕生するのである。そして現在まで連なる、「安居院流唱導」を伝えるテクスト(説法資料)の流伝がはじまるのである。  
二、研究史概観  

 

日本において編纂された説法資料は、仏教史学あるいは仏教教学においてでなく、おもに日本文学の形成を説き明かすべく研究されてきた。「唱導文学」の語を始めて使用したのは折口信夫だが、折口は「唱導文学」(『折口信夫全集4』所収、初出は『日本文学講座2』、1934)に、
唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教ー仏教ー的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざわざ、選んだ字面であつた(中略)宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、除々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである
と述べ、「唱導文芸序説」(前掲書所収、未発表原稿)にも、独自の文学観を盛り込んで次のように定義した。
唱導といふのは、元、寺家の用語である。私の此方面に関心を持ち出したのも、実はさうした側の殊に近代に倚つての、布教者の漂遊を主題としてゐた(中略)唱導文学とは、宗教文学であると共に、宣教の為の方便の文学であり、又単に一地方の為のみではなく、広い教化を目的とするものである。ある宣布を終へた地方から、未教化の土地へ向けて、無終に展べられて行く事を考へてゐる者でなくてはならない。だから当然、旅行的な文学である
そして折口の「唱導文学(文芸)」観は、筑土鈴寛に継承される。筑土は「唱導文学」の範囲を具体化しつつ、民俗学的方法を用いて解読を進める一方、梁慧皎撰『高僧伝』をはじめとする文献資料に依拠した考察を行った。「唱導と本地文学と」(『筑土鈴寛著作集第三巻』所収、初出は『国語と国文学』7・8と9、19,1930)には、その冒頭に、
斎会の後中宵に至って、一座疲労倦怠あるを以て、別に宿徳を請じ、唱名読誦の外に因縁譬喩を交へた話をする。夫が唱導だと宋高僧伝唱導の科に云つてゐる。唱導は説経、談義と同じだ。表白もその中に含まれる。この唱導には二様の方法があつたやうに思ふ。自分一個では、仮に表白体の唱導、口頭の唱導とに区別してゐる。即ち前なるは雑筆体の修辞法によって製作される成文である。綺製彫華、文藻横逸したるものを以て可しとする。勝れた唱導師の持つ詞章は後々襲用され、書留められて、説経模範書と云つたやうなものになる。表白体の唱導とても、全く成文に依つてなしたとも云切れぬであらう。或は機に臨んでは、頓作口辞も必要であつて、表白秀句にも勝つたのが飛出したかも知れぬ
述べるほか、元亨二年(1322)に虎関師錬が編纂した『元亨釈書』巻第二九「志三 音藝志七 唱導」から、唱導が「学修・度受・諸宗・会儀・封職・寺像・音藝・拾遺・黜争・序説」のうち「音藝志」に採り上げられた、その実態を、
説経師は諂譎交々生じ、変態百出、身首を揺し、音韻を腕にし、人心を感ぜしむるに自ら泣き、詐偽俳優の伎をなす実に以て痛むべきことと、師錬をして歎息せしめ
と読み解き、澄憲に始まる「安居院」に加えて「三井寺に寛元の比(13世紀半ば頃)定円があり又一流をなして」、鎌倉時代末期には、唱導の「二家」と認識されていたことを指摘した。筑土は『言泉集』『澄憲作文集』『唱導鈔』など「安居院流唱導」を伝える説法資料を採り上げ、澄憲・聖覚父子の事跡に及ぶなど、他に先駆けて「安居院流唱導」の研究に着手したのである。またさらに、安居院以前の説法を伝える『法華修法一百座聞書抄』を読解して、説法のうちでも経典解釈を講説する段(経釈)の構造を、
説経は元来経の講説がその規範となつてゐるやうだ。先づ経名の解題より始め、経の来歴を講じ、内容に入つの判釈がある。八講とか最勝講とかはこの形式であるが、大安寺百座放談などは此型が骨子となつてゐる説経のよい標本である
と指摘するとともに、本書をはじめ、説法資料に因縁譬喩譚が数多く含まれる意義を、説経に於いて我々が最も興味深く感ずるのは、一座の倦怠を除き、睡魔を払はんため、古往今来、和漢梵に亘る因縁譬喩談を用ゐたことだ。而して此は散怠、覚醒のためのみではない。教説を布衍し、俚耳に入り易からしめ、信仰を誘ふに、恰好の武器であつたのである
と述べた。そして説法資料に包含される因縁譬喩譚と『今昔物語集』などに収録される「説話」を比較しつつ、次のように指摘した。
説話文学と説経とは真に皮一重である。今昔や打聞集の類は、この方面からも考へねばならぬ
『平家物語』研究において、後藤丹治が唱導(説法)の影響を指摘したのも同時期である(前掲書)。筑土の指摘は、日本文学研究を方向付けるとともに、日本文学史の領域を拡大することとなる。山岸徳平が筑土に呼応して「澄憲とその作品」(『山岸徳平著作集T』所収、1972,初出は『日本諸学研究報告』6、1942)を発表するなど、説法資料は日本文学研究の課題と認識されていく。
一方、櫛田良洪は「金沢文庫蔵安居院流の唱導書について」(『日本仏教史学』4,1942)、「唱導と釈門秘鑰」(『印度学仏教学研究』1の1,1952)など発表して、神奈川県立金沢文庫に保管される説法資料から「安居院流唱導」を伝える説法資料を紹介するのみでなく、説法資料を仏教史学や教学研究の立場から考究した。櫛田は唱導の意義を探って、「唱導と釈門秘鑰」(前掲)の冒頭に次のように記している。
唱導とは今日の説経、乃至は説法に比せらるべきもので、中世初頭の社会を飾った仏教の一風潮である。中世の人達は之によつて仏教入信の基因となつて、広く庶民と繋がりを生んだものである。それ丈に社会の人達に深い感銘を与へ、期待を以つて迎へられた。確かに中世に唱導と名づくべき一の新興仏教が生まれ、天台でも、真言でもない一の型態を採つてゐた。その説く所は絶待三学思想、法華超入の思想、諸行往生思想にも依り乍ら、時には一向専修弥陀本願思想をも説いて、真俗一貫、信心為本の道理を説かんとしたものである。旧来の型式を打破し、造寺造塔の功徳を否定したのでなく、却つて之を肯定して転正の因となし諸行は更に深妙であると説いて専ら欣求浄土への往生を期待せしめんとした。即、唱導は観念理観の旧来の仏教にも讃し難く、称名念仏の新思想のみをも説くことなく、時と処と、機根を異にして世俗の文字、放言綺語を以つて讃仏乗の転法輪の縁とせんことを目的とした  
三、現在の研究動向と問題点  

 

ところで「安居院流唱導」に代表されるところの説法さらには説法資料に関する研究を、現在の動向を含めて概観すれば、この領域をめぐる研究が、永井義憲の研究成果と方法論に基づいて進められていることに気付かされる。永井は、筑土による文献資料に依拠した研究を引き継ぎ、『日本仏教文学研究第一集』(1966)を上梓して、中国から日本に及ぶ「唱導史」の提示を試みるとともに、清水宥聖と『安居院唱導集上巻』(角川書店、1972)を上梓することによって、説法資料の公刊も進めた。永井の研究は、文献資料に依拠することを徹底するものであり、必定、研究対象とする説法(唱導)はテクスト化された範囲に限定されることとなった。永井は、折口が提唱した「唱導文学」とは異なった概念で研究を進めることを宣言する(「唱導文学史稿」、前掲『日本仏教文学研究第一集』所収)。日本には文献資料が数多く伝えられているが、その伝存状況など明かであるとは言い難い。永井以後、説法ならびに説法資料に関する研究は、新出資料の発掘を期した文献調査を不可欠なものとして、その紹介と、個々の資料を読解することに終始する。また「唱導文学」あるいは「唱導」の語も、折口が提唱したところを払拭されたまま、弁舌をもって営まれた布教活動全般を含み込む、使い易い語として、研究者ごとに微妙に異なる定義をもって使用されることとなる。近年ようやく、小峯和明が「法会文芸の提唱」(『説話文学研究』39,2004)に、「唱導」という語を濫用することに注意を促す。どういった「場」において表白されたか具体的に表現することは重要である。しかし、小峯の提唱する「法会文藝」とは、テクスト化されることが多い、法会における説法(唱導)を研究対象とする。文献資料に依拠することを徹底した、永井の研究成果に発想された提唱であることを読み取らせるのである。種々の場に営まれた説法・唱導は、様々な階層の人々が集う場でもあった。もちろん時代や土地によって、その実態はさまざまであったと推定される。しかし、テクスト化されることのなかった、そういった説法・唱導をも含む「唱導史」を構築することこそ、ひろく日本文化の形成と、人々の意識を辿るうえに有効なのではないだろうか。
日本文学の形成を辿る課題として説法資料を認識することは、筑土から永井へと引き継がれ、多くの日本文学研究者にも通底するに至る。が、説法資料に因縁譬喩譚を内包する意義を明かした指摘は、日本文学研究さらには仏教教学・仏教史学研究においても、必ずしも筑土が意図したのでない結論を導きつつある。『元亨釈書』に記された「唱導」批判も加わったのだろう。因縁譬喩譚を語ることは「俚耳に入り易からしめ、信仰を誘ふ」、狂言綺語であるかに理解されたのである。説法(唱導)をよくした安居院澄憲が、天台教学の研鑽を積んだ学匠として理解されず、また「説法優美」の言をもって称讃された「説法詞」とは因縁や譬喩を豊富に織り込んだもの、言い換えるとすれば、そういった説法こそが、澄憲の説法すなわち「安居院流唱導」であったと評価されてきたのである。日本文学の研究領域において「安居院流唱導」を伝える説法資料が珍重される所以ではあるが、なにゆえに澄憲が「説法の上手」と称されたか、そして「説法詞」が「優美」と称される一端は、承安四年の最勝講における顛末を採り上げて、前章に指摘したとおりである。説法、さらには説法において表白された「説法詞」の評価は、因縁や譬喩を内包する意義も含めて再考されるべきである。
「安居院流唱導」に代表されてきた唱導(説法)、そして「唱導史」をめぐる問題は、日本文学研究のみならず、仏教教学や仏教史学、文化史的環境や歴史的背景をも踏まえた読解をとおして説き明かされていくだろう。学際的な読解を必要とすることは、研究の進展を遅らせる所以ともなっている。『元亨釈書』に基づいて、鎌倉時代末期に「安居院流」と「三井寺流」の「二家」が「説法・唱導の家」と認識されていたことを指摘したのは筑土だが、いまだにこれが通説とされることを指摘して、筆をおくことにしたい。  
要旨
唱導と称される営為は、宗教を布教する方法として広く用いられてきた。日本仏教においても経典や教義を説き明かすべく、さまざまな「場」に、あらゆる階層の人々を対象として営まれたことが知られる。説法・説経・談義・法談など、同種の営為を表現する語は数多い。が、「唱導」という語は、種々に行われた布教活動の総称として、宗教さえ限定することなく、幅広く用いられている。日本では「富樓那尊者再誕」と称されるほどに「説法の上手」と讃歎された学侶が、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した。安居院澄憲である。澄憲は、国家行事として営まれた法会や、貴族の私邸で営まれた私的な法会など、知識階層を対象として活動した天台僧である。澄憲が法会において表白した「説法詞」は記録され、それを伝えるテクストも現在に至るまで少なからず伝存している。現在、日本仏教における唱導が、澄憲の説法、後に「安居院流唱導」と称される説法を中心課題として研究されているのは、澄憲が「説法の上手」であったからでなく、説法を一道とみなすために「説法道」を提唱し、本来「語られる言葉」であって、記録することを義務付けられていなかった「説法詞」を記録し、テクスト化したことによっている。では、澄憲の説法はなにゆえに「上手」と評価されたのだろうか。これまでの研究史を紐解きながら、伝存する説法資料など読み解きつつ考えることにしたい。  
 
節談説教1

 

節談説教(ふしだんせっきょう)とは、日本の仏教布教手段を指す「説教」のうち、浄土真宗に固有の言葉である。また、一般には仏教全体の「節付説教」を表す言葉としても用いられる。仏教に馴染みのない聴衆に伝わりやすくするために、話す文句(説教)に抑揚(フシ)が付き(多くは七五調である)、人びとの情念に訴えかけるように工夫されたものである。現代の法話とは異なる。説経節のように歌って踊るパフォーマンスはなく、楽器なしの素語りである。賽銭を投げ銭方式でもらうため、実力差も出やすい。その芸能性により、浪曲、講談、落語などそれぞれの話芸の母体となった。これを行う説教師は、昭和期においてなお、寺をめぐり旅をしながら浄土真宗の教えを説いて回った。
ことばに抑揚をつけて行う説教は6世紀の仏教伝来以来古くから行われていたとされ、特に平安時代末期から鎌倉時代にかけてあらわれた安居院流(あぐいりゅう)と寛元年間(1243年-1247年)に園城寺の定円がおこしたといわれる三井寺流が節付説教(唱導)の二大流派として成立した。
安居院流唱導は、天台宗の僧であった澄憲とその子の聖覚により、その基礎が成立し、日本の語り文化に大きな影響をあたえた。鎌倉時代初期、聖覚は法然に帰依して、その高弟となった。また、同じ法然門下の親鸞が聖覚の著作『唯信鈔』を熟読するよう自らの弟子たちに求め、自身も註釈書(『唯信鈔文意』)を著すなど聖覚への尊敬の念が厚かったところから、安居院流唱導は浄土宗経由で浄土真宗に入り、重要な役割をになうようになった。浄土真宗においては、文字の読み書きのできない民衆こそ最大の救済対象であり、易行門として民衆への布教こそ宗門にとって要であると考えられたところから、布教手段として「唱導」(門徒の側からすれば「聞法」)が生命線のごとき枢要な位置を占めたのである。親鸞自身もその説教は、節付けしていたと考えられており、また、親鸞は民衆への布教の技術を聖覚から学んだともいわれている。中世において「節付説教」は、こんにちの楽譜ではあらわしきれない独特で小さな節まわしを用いた。説教の基本的なテキストには、本願寺3世の覚如が撰述した『本願寺聖人親鸞伝絵』(通称『御伝鈔』)がある。
「説経」が、伴奏楽器を鳴らし、あるいは踊りをともなったりして説経節や説経浄瑠璃などとして芸能化していくのに対し、「唱導」の方は必ずしもただちに芸能化せず、説教(法話)のかたちでのこったと考えられる。しかし、この説教と説経節・ちょんがれとが結びついて中世の「節付説教」、さらに近世の「節談説教」へと発展していったのである。
節談説教の流行
節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる。近世に入ると、本願寺教団は東西に分立したが、いっぽうで節談説教は全国的な展開をみせるようになった。ともすれば、近世は「日本仏教が骨抜きにされた時代」と評されることが多いものの、芸能という形態では大きな展開を遂げた時期にもあたっていた。
井原西鶴の浮世草子『世間胸算用』に暦の関係で大晦日と節分が重なった仏教寺院の一日を描いた「平太郎殿」という一篇がある。前掲『御伝鈔』の一部を潤色した平太郎(親鸞の高弟二十四輩のうち第二番真仏)の物語は、節分当夜の真宗寺院(真宗高田派をのぞく)で必ずおこなわれた。『御伝鈔』と同材の物語は、人形浄瑠璃の演目となり、『親鸞記』などの題名でしばしば上演され、また、その正本さえ刊行されたが、その都度本願寺側からの働きかけで、町奉行から禁止の申し渡しがなされている。
江戸時代において、教義研究を説教に生かした有名な説教師に、享保年間(1716年-1735年)から宝暦年間(1751年-1763年)にかけて活躍した浄土真宗本願寺派の菅原智洞師、寛政年間(1789年-1801年)のころまで活躍した真宗大谷派の粟津義圭師がおり、後の説教内容や技術はこの両人の影響によるところが大きい。
節談説教の技術は、優れた師に随行して修行をするか、合宿修行するかなどして、口伝により継承・習得された。その節回しは地域性が濃厚で、各地方ごとに能登節、加賀節、越中節、越後節、安芸節、筑前節、尾張節などが形づくられた。また、合宿による主な流派としては播磨国東保の福専寺(兵庫県揖保郡太子町)の獲麟寮を拠点とする東保流(とうぼりゅう)がある。
説教は昭和中期までその役割を持続し、全国各地の説教所を巡業し、芸人をしのぐ人気の「説教師」もおり、現代の「おっかけ」に相当する熱心な信者もいたという。上述のように、その芸能性から浪曲・落語など話芸に属する諸芸能の母体となった。特に浪曲(浪花節)については、類似の発声法(白声=胴声=ちょんがれ声)を用いることから、節談説教からの強い影響がしばしば指摘される。
明治・大正期の大説教者に、本願寺派の大野義渓師、木村徹量師、大谷派の宮部円成師(1854年-1934年)、服部三智麿師(1870年-1944年)がいる。また昭和期の名人上手に範浄文雄師、亀田千巌師、祖父江省念師などがおり、音源も残されている(そのほとんどは小沢昭一による)。
省念師によれば、円成師・三智麿師はじめ、戦前の東海地方3県(愛知県・岐阜県・三重県)および滋賀県には名だたる説教者がひしめき、あたかも群雄割拠の状況を呈して、互いにしのぎをけずり、当時はどの寺も聴聞の群参であふれかえっていたという。
近年の動向
節談説教は、明治以降、人びとのあいだで人気を博するいっぽう、布教純化・近代化のうえで本山の学僧たちから槍玉にあげられる存在ともなり、昭和の中ごろには、千年近く続いた節付説教がついに内部より壊滅的な状態となった。
しかし1970年(昭和45年)、関山和夫・小沢昭一・永六輔らにより、特に話芸の面から節談説教再評価の動きがあり、以後、主として北陸地方や中部地方などに残存していた説教文化を取り上げたイベントなどが行われた。 
 
大衆芸能の源流は節談説教2

 

私の大学時代の卒業論文は「世間体について」というテーマで、民俗学的手法を使って、真実に迫ることでした。そのため、全国各地のありとあらゆる対象を取材しました。
その1つに報恩講における説教(法話)がありました。報恩講とは、信者(門徒)が浄土真宗の宗祖・親鸞の命日(1月16日)にその報恩に感謝する法要(1月9日〜1月16日)のことです。本堂には入りきらない人々が参集していました。たくさんの門徒を前に、全国を布教して回る説教師(導師)が説教を始めました。45年も前の話ですが、今もその状況や説教の内容をはっきりと記憶しています。
お経は浪曲調であり、物語は講談調であり、笑いは落語調ありました。涙あり、笑いあり、「南無阿弥陀仏」の念仏を必死の唱えありで、現実を忘れるほどの雰囲気でした。参集していた人々に感想を求めると、「わずかな賽銭で1日楽しませてもらって有り難いことです」というのが公約数でした。
話の内容は、説教師がある北陸の報恩講で法話をした時のことです。ある上品な老女が涙ながらに身の不幸を語りました。次の日、招かれて老女の家を訪れました。檜の塀に取り囲まれた豪邸に老女は住んでいました。
まず最初に、仏壇に行きました。灯明も上がっていませんでした。仏前に供える「ご飯さん」もありません。「ご飯さん」は仏前に毎朝お供えする炊きたてのご飯を尖がった山のように一回盛りしたものです。兵庫県西部の方言です。高知県では「おぶっぱん」(お仏飯)、富山・石川県では「おぶくさん」「おぼくさま」(御仏供)といいます。
老女は「子や孫に小づかいをたっぷり上げているのに、寄り付きもしない」と不平不満を述べたてました。それを聞いた説教師は、「どんなに忙しくても、小さい時から、子や孫に、仏さんにに灯明を上げたり、ご飯さんを供えたりする姿を見せる」「小さい子や孫を抱いて、手を合わせ、南無阿弥陀仏の念仏を唱えておれば、自ずから、感謝の気持ちが育つ。大きくなっても、感謝の念を持つようになる」
「そんなこともしてこないで、金だけ与えて、感謝してもらおうという気持ちでは、罰が当たるぞ!!地獄に落ちるぞ!!」と腹の底から、絶叫しました。参詣に来ていた人々は思わず「南無阿弥陀仏!!南無阿弥陀仏!!」と唱和していました。
その後、老女から、毎日仏壇にお参りして、灯明を上げ、ご飯さん(北陸ではおぼくさま)を供え、先祖に感謝の念を以って、「南無阿弥陀仏」を唱えるようにした。その結果、子や孫が訪ねてくるようになったという手紙が来たという話で締めくくりました。
後にこれが節談説教だと分かりました。当時の世相を反映して、「罰があたる、地獄に落ちる」という用語を多用していました。
以下は関山和夫著『説教の歴史/仏教と話芸』などを中心に、節談説教の歴史を紹介したいと思います。
御釈迦さん(紀元前5世紀の人)は、悟りを開いた後、瞑想にふけって衆生済度のための説教の順序を考えたと言われています。そして華厳・阿含・方等・般若から涅槃に至る釈尊一代の説教が「三輪説法」「十二部経」として日本にもたらされました。仏十大弟子の1人・富楼那(フルナ)尊者が弁舌第一と言われています。「三輪説法」の内で口業説法輪は「四弁八音」(「釈迦仏は・・十九の御年出家して勤め行ひ給いしかば三十の御年成道し御坐して・・法を説き給ふ御時は四弁八音の説法は祇園精舎に満ち三智五眼の徳は四海にしけり『主師親御書』)という説教技術をもってその教えを説いたされています。「十二部経」は、経典を叙述の形式や内容から十二種に分類したもので、その中の伽陀(諷頒)、尼陀那(因縁)、阿波陀那(誓喩)が表記されています。『維摩経』では、説教には六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)による感覚的要素が必要であるとされています。
日本における説教は、聖徳太子が初めてとされています。
『日本書紀』によると、推古天皇14(606)年7月、聖徳太子が勝髪経講を行ったとあります。聖徳太子は高座を使い、巧妙な誓喩で説教を行いました。その影響は「諸王公主及臣連公民信受して嘉せざるはなし」とされています(『法隆寺伽藍縁起并資財帳』)。
天武天皇14(686)年、「教化僧宝林」(『金剛場陀羅尼経』)という表現があり、この「教化僧」が説教師とされています。
清少納言は、『枕草子』(996年頃)で次のように描いています。
「説経師は顔よき。つとまもらへたるこそ、その説く事の尊さも覚ゆれ。外目しつればふと忘るるに、憎げなるは罪や得らんと覚ゆ。この詞はとどむべし。また、「尊きこと、道心おほかり」とて、説経すといふ所に、最初に行きぬる人こそ、猶この罪の心地には、さしもあらで見ゆれ」「さやうの所(説教所)に急ぎ行くを、一たび二たび聞き初めつれば、常にまうでまほしくなりて、・・をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束したる数珠かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあし褒めそしり、某にてその人のせし八講、経供養など言ひくらべゐたる」
つまり、説教師は顔がいいこと、語りがたくみで、演技力のある八講(読経)の評判などで、一度聞くと常にまうでまほしく(何度でも行きたく)なるとあります。
『法然上人行状絵図』(1306〜1308年頃)によると、法然が浄土宗を流布するのに大きな影響を与えた人として、安居院の澄憲(藤原信西の子)・聖覚(澄憲の子)が描かれています。
安居院の澄憲については、虎関師錬の『元亨釈書』(1322年)によると、「澄憲のはなしは、まるで泉のように舌の端から湧き出る。ひとたび高座に登れば、大勢の聴衆がいっせいに耳をすまし、しかも澄憲の説教によって耳が清められてしまう」とあります。さらに、洞院公定編の『尊卑分脈』(1377〜1395年)によろうと、「澄憲の説教はまさに天下一であり、すばらしい名人だ。この澄憲の一流こそ正統の説教というべきである」とあります。つまり、安居院の澄憲は当時の説教師のスーパースターだったことが分かります。
真宗の開祖親鸞は、法然から受けた浄土教を広める技術を安居院の聖覚から学んでいます。親鸞は『教行信証』などで、聞法の徹底のため、和讃に力を入れました。つまり、聴聞者の心の中に阿弥陀如来の音声を再現して分かち与えることでした。聖覚は、そのことを正しく理解し、和讃に節を付けて実践しました。こうした経過を経て、真宗の節談説教が大きく発展していきました。
「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」(『浄土和讃』)
本願寺中興の祖・蓮如(1415〜1499年)は、浄土真宗を流布・拡大するために既存のありとあらゆる方法を採用しました。
当然、宗祖・親鸞以来の節談説教も取り入れています。そのために、『教行信証』を表紙が破れるほど精読したといいます。『実悟旧記』(1689年)によると、「堂に於て文を一人なりとも来らん人にもよませてきかせば、有縁の人は信をとるべし、此間おもしろき事を思案し出たる」とあります。関山氏はこの「おもしろき事」を説教における「御文」の効力をいうと解説しています。
以下は、蓮如上人の白骨の御文章です。法事があると、お寺さんが黒塗の文箱から和綴じの本を取り出し、重々しく額に押し頂き、絶妙なる声で読み上げます。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、幻のごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず。遅れ先だつ人は本の雫末の露よりも繁しといへり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来りぬれば、すなはち二つのまなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼みまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
子ども心に印象に残っている個所があります。当時、意味は正しく分かりませんでした。しかし、亡くなった人を偲んで集まっていることは理解できます。さらに、私が直接会話をした祖父の場合は、なんとなく意味が分かります。人間はいずれ死ぬ。火葬場では、竹の箸と木の箸を使って、灰の中から骨を取り出すよう大人から言われ、壺に入れます。皆が見ている中で、緊張しながら、終わると褒められる。そうした体験から、そのことを「白骨の身」ということも分かりました。
単に文章を読み上げただけでは、何の思い出もなかったでしょう。この御文章の節廻しから、日本の大衆芸能の浪曲や演歌に通ずる日本人の心を感じました。蓮如は、聴聞者の心の底に永遠に残る方法を開発したのです。
『円朝全集』によると、三遊亭円朝(1839〜1900年)は、「太閤殿下の御前にて、安楽庵策伝といふ人が、小さい桑の見台の上に、宇治拾遺物語やうなものを載せて、お話を仕たといふ」と書いています。
安楽庵策伝(1554〜1642年)は、安居院流系統の浄土宗の説教師です。笑い話が得意で、オチのある笑いを説教に取り入れていました。京都所司代の板倉重宗から依頼があり、多年にわたって話し続けた説教話材のメモを集大成した『醒睡笑』(1039話)を完成させました(1628年)。こうしたことから、安楽庵策伝は落語家の祖と言われています。
経典の真意を詳しく解釈し、講義することを「講釈」といいます。
『西山上人縁起』(1386年)には、「おほよそ黒谷の門弟其数多Lといヘビも、本疏の講釈に至りては間者はなはだすくなし」とあります。
真宗では「説教」と「講釈」を区別していました。説教とは、演説を中心にした系列であり、講釈とは、経典講釈の系統です。講談の源流は、講釈の系列にあたります。説教は通俗的であり、講釈は宗教的でした。その後、戦記物語を声を出して読み聞かせる方法に講釈が取り入れられました。関山氏は、「『平家物語』は、諸行無常と浄土教信仰を説く末法思想下の説教には最もふさわしいものであった。これも説教文学の一つというべきであろう」と説いています。
元禄10(1697)年頃、赤松青龍軒は、僧形をして『太平記』読みで好評を拍しました。赤松青龍軒は、播磨の赤松一族ち言われ、その祖に播磨国赤穂郡赤松村から出た赤松法印がいます。そのことから赤松法印が講釈師の祖と言われています。赤松からは南北朝時代に活躍した悪党赤松円心則村や、嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺した赤松満祐などで有名です。
「講釈講談ノチガヒハ猶談義卜説法トノ如シ、書生輩へ云聞ルニハ講釈モ宜シ其外ハ皆講談タルへシ」(『芸苑譜』)。学問するものを相手にして行うのが講釈、一般庶民を相手にして行うのが講談ということでしょうか。
浪曲の源流。
私は、節談説教その者に、浪曲のルーツを感じましたが、関山氏は祭文をルーツとしています。
『歌舞妓年代記』によれば、宝暦9(1759)年、市川八百蔵が「女郎願立速口祭文」を演じて大当りをとったとあります。『江戸芝居年代記』には「夫より女郎の願立祭文ちょぼくれの大当り」とあります。「ちょんがれ」・「ちょぼくれ」とは、虚構を交えた面白いものという意味です。
『教訓差出口』(1762年)には、「此一両年はしわがれ声で、ちょぼくれちょぼくれ、ちょんがれちょんがれと、抑何ンの事やら一円しれぬ仇口たゝき」とあります。「しわがれ声」(白声)がちょんがれ節の発声の特色、つまり、うなり節を説明しています。
『嬉遊笑覧』(1830年)には、「チヨボクレと云ふもの・・文句を歌ふことは少く詞のみ多し、芝居咄をするが如し、これを難波ぶしと称するは彼地より始めたるにヤ」とあります。つまり、彼地とは難波(大阪)なので、ちょぼくれを「難波ぶし」(浪花節)と言うのです。
西沢一鳳の『皇都午睡』(1850年)には、仏説阿呆陀羅経を「説教がかりとて今は節にのこりて、ちょぼくれ、ちょんがれに同じ」と述べています。仏説阿呆陀羅経とは、小さな木魚二つを持って打ち叩き、拍子をとりながら、阿弥陀経など経文まがいの文句と節調に、巷談や時事風刺を取り入れたものです。つまり、「歌祭文」・「ちょぼくれ」・「ちょんがれ」・「仏説阿呆陀羅経」などが浪花節の源流となったというのです。
桃中軒雲右衛門は説経祭文の語りの子として生まれました。そうした経過から、桃中軒雲右衛門が浪曲師の祖と言われています。
丹羽文雄著『青麦』
丹羽文雄氏は、明治37(1904)年、三重県四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で住職を務める父・教開の長男として生まれました。大学を卒業後、生家の住職に就きましたが、小説『朗かなある最初』が永井龍男に評価されたのをきっかけに、僧職を捨てて上京し、大学時代の同棲相手の家に移り住みました。破戒僧的な部分もありましたが、『親鸞』『蓮如』などの純文学にも優れた業績をあげました。そういう立場からは、節談説教はどのように映っていたのでしょうか。
『青麦』の一部を紹介します。
本堂では、説教がはじまっていた。勉強室まで、きこえた。声に抑揚をつけ、うたい文句のところでは十分にうたい、高座の説教師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が、聴衆をうっとりとさせた。鈴鹿もたびたび説教なるものをきいていたが、問題をだし、その解き方をしめして、答えまで説教師はだしてみせた。そのかぎりでは、理解にくるしむことはなかった。が、人生問題は数理とはちがっていた。方程式の解き方をいくらしめされても、抽象世界の問題では器用に納得がいかなかった。方程式の解き方は、自分が苦しんで納得しなければならないもののようであった。説教師は、これほど安易なありがたい教えが何故わからないかといった調子で、答えばかりをくりかえし、ありがたい節まわしで押しつけた。ひとのよい善男善女は、ありがたい答えをおしつけられて、自分でもわかったような錯覚におちてしまうのかも知れなかった。わかったような気もちになる。実にありがたがっている情緒で、念仏をとなえた。念仏をとなえずにはいられない雰囲気を、説教師は巧妙につくりだした。説教は、中途で休憩がはいった。説教師は高座を 下りて、奥座敷にかえった。すると、寄席の休憩時問にもの売りが客席をあるくように、世話方が粗末な、四角な盆を、あちらこちらにちらばらして歩いた。うけとった参詣者は、なにがしかの賽銭をいれて、となりのひとに渡した。それが順ぐりにまわされて、最後に世話方が盆をあつめてあるいた。
説教師が、ふたたび登壇した。上手な説教師は自由自在に善男善女の感情、心理をあやつることができた。質問されることはなかった。「聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」というところでは、唯一泣かせどころのように、浪曲かおまけの節まわしでうなった。さんざん翻弄され、いい気もちにされた参詣者ほ、ひとりのこらず仏にたすけられたような気もちになってしまうのである。説教が終ると、説教師は目の前の黒い箱から高田派の御書をとりだした。第一頁をあけて、事務的によみあげる。
「……世間には王法をうやまひ、公方をあがめ、国主地頭の法度をまもり、公役所当つぶさに沙汰をいたし……」
今日ではまったく通用をしなくなった名詞をならべて、おかしな教訓を垂れた。よみ手自身も、時代錯誤はすこしも感じていない風であり、たれも矛盾につまずきもしなかった。勉強室の鈴鹿は、説教師の浪曲調になやまされると、はらがたった。しみじみとした対話調子の方が、参詣者の胸のそこにもとどきやすいのではないか。しかし、大勢を相手のときには、統制する意味からも一つの調子が必要のようであった。それにしても、浪曲のまねはいやだった。
丹羽文雄氏は、お寺に生まれ、大学を卒業し、小説家としても純文学の大家です。文壇の大御所的存在でもあります。1965年日本芸術院会員、1970年仏教伝道文化賞(仏教の普及・伝道に功績あった者に授与される賞)、1974年菊池寛賞、1977年文化勲章などインテリ層の最高の栄誉を担っています。
私には、丹羽氏は、忙しすぎて新聞や書籍も読めない大衆の心理が理解できていないのではないかと推測します。西国33か所札所巡りをしていると、必死で、ロウソクを立て、線香を上げ、合掌・礼拝し、般若心経を読んだりしています。足の悪い人は、足にご利益があるという仏像の足を触っては、自分の足に手を当てる。それを何度も繰り返す。高みで見ている人は、その光景が滑稽に映るかもしれません。
しかし、大衆はそのような信仰を受け入れて来たのです。現代は、科学の時代と言われます。しかし、全てが科学で解明できないことも事実です。科学と宗教の隙間に、大衆の民間信仰が存在しているのです。この大衆の民間信仰が大衆芸能の源流であることを忘れることはできません。  
 
交感の宗教性 / 節談説教について

 

はじめに
もし宗教が、これは、佛についての学である、神についての学であると、その教えを「佛のこと」、あるいは、「神のこと」として、余りにも観念化し、形式化するのであれば、そこでは、「人間のこと」(1) としての経験や問題が、離れゆき、希薄化するばかりである。しかし、そうした状況が起ころうとも、人間は、一切の儀礼的なものに対する感性を喪失しない限り、そこに呆然と立ちつくしてはいられない。自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである(2)。それが、この論文における〈儀礼〉である。そこにおいては、象徴的過程を通して、具体的ないしは直接的に、人間の経験と問題が発現し、超越的基準を以て、それらをからめとる力の方向性が生起するのである。それは、単に、共通の価値観や世界観の中で安住の場を見い出すものでも、「驚愕や鋭い知覚を経験している時に人間の精神が語る言葉」(3) を他者と共有するだけのものでもない。その集合的探索と集約の果てに現われる、より個人的な、「究極性への飛躍」のリチュアルなのである。
〈節談説教〉において立ち現われるそれは、〈交感〉である。情念の説教と言われ、苦悩に満ちた人間社会の底辺に生きる人々の心的・情意的エネルギーの発露であり、信仰や祈念を背景とした庶民の感性と情操の結晶とも言うべき〈節談説教〉の、それは、中核をなすものである。語り手(説教師、或いは、伝道者)と聞き手(聴衆)との間に繰り返される宗教的コミュニケーションの呼応の中で、強烈に昂揚した場面を〈交感〉として捉えるのであるが、この両者の思考や言語の周囲に外在する、もっと大きな意味の枠組みから発するものをも含めながら、それを〈交感〉と呼ぶこととする。そして、この論文では、「交感の宗教性」という論構を設定するにあたり、主たる材料に、仏教における〈節談説教〉として、浄土真宗大谷派の祖父江省念師(平成8年1月2日、西帰された)の節談説教を、そして、キリスト教における〈節談説教〉として、バプティスト教会系の福音伝道者(Evangelist)であるバーバラ・ワード=ファーマー(Ward-Farmer, Barbara)氏の伝道を挙げ、そこから掴み出せるあらゆる要素を提示してみることを以て、この二つの〈節談説教〉の対比という観点から、〈交感〉という問題への接近を試みるつもりである。
キリスト教においては「節談説教」という言葉はない。したがって、ゴスペル・ミュージックを用いたバプティスト教会の福音伝道を、いきなりキリスト教における〈節談説教〉とすることについては、大きな問題があり、キリスト者からも批判を受けるであろう。しかし、その歴史的過程においても明らかなように、まず、ゴスペル・ミュージックとは、人間社会の底辺に生きる人々、つまり、アメリカのレッド・ネック、あるいは、ブルー・カラーと呼ばれる知識階級にない貧しい白人や、奴隷制度によって根強い差別を受ける黒人達の、心的・情意的エネルギーの発露(彼等の心の叫び)であり、信仰や祈念を背景とした彼らの感性と情操の結晶であること、次に、キリスト教の伝道活動としては、演技性、歌謡性(音楽性)、そして、人々の感情を重視したものであり、またそれは、アメリカのそうした民衆が自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで磨かれてきた伝道方法であること等をみる時に、私の類概念において、このゴスペル・ミュージックを用いたバプティスト教会の伝道が、もう一つの〈節談説教〉として、はっきりとあるのである。また、〈節談説教〉という類概念をつくるここに述べた内容は、言うまでもなく、宗教と国の違いという尺度の外側で、浄土真宗の節談説教との共通集合となっている。先に私が、浄土真宗の節談説教を指して、それを仏教における〈節談説教〉と述べたのも、同じ類概念に基づいてのことである。
〈節談説教〉におけるその強烈に昂揚した場面は、それを祭りになぞらえ、心的エネルギーの過剰とみれば、当然のことながら、エミール・デュルケム(Durkheim, Emile)氏の言う「集団沸騰」として捉えることが可能である。人々が集まるだけで、彼らを興奮させる一種の電流が放たれ、叫び声が上がり、夜の炬火の光の下で行われる、行列、舞踏、歌謡、そして、模擬的な戦闘は、その興奮を激化させる。このような状態の下では、自分が自分自身ではなくなって、まったく新しい存在になったように思われる(4)。個人の意識は高揚し、個別を超えて全体となり、集合的意識の中に融合されるのである。こうしたオルギー(orgy)的側面が強調され、「祭りを通じて集団や社会の再統合を成し遂げる」というその理論の方向性の中では、しかしながら、省念師の定例会、バーバラ氏のワークショップでの体験及び観察に従って述べようとするならば、そこにおいてみられた他の諸要素が(例えば、互いに照らし合い輝き合う「感応道交」的空間や、究極性と人間との人格的な出会い、そして、念仏者たる、あるいは、キリスト者である「人間のこと」としての主体化に向かう地平等が)、見えなくなってしまうのである。さらに言えば、デュルケムの議論には個人の情動を通じてのアイデンティティの再確認を考慮した発想が含まれているとされるが、〈節談説教〉においては、和解や確認が必ずしも必要ではない(あるいは、最終目的とされない)、もっとラディカルな個人の「アイデンティティの創出」という性格が強いのではないか。つまり、「神話」を自らの表現として解釈する、あるいは、自己の表現として常に新しく作り出す(5) という、主体的な参与が、そこに、係わってくるのではないだろうか。
この論文において私が述べようとすることは、デュルケムの理論を否定するものでは断じてない。先にも述べたように、〈節談説教〉においても、本堂に、あるいは、教会堂に集まった人々を集団として捉えるのであれば、そこでみられることとなる激しい昂揚の場面は、デュルケムの理論を以て、適切に述べられるべきである。この論文は、そうしたエミール・デュルケム氏の視座からずれたところで、個人及びそのニーズに強調点を置きながら、集団の中の説教者(あるいは、伝道者)という存在について、そして、究極性に対する個々の〈人間〉のいとなみと、その一対一の世界というものについて、論考を進めようとするものである。  
I 浄土真宗の節談説教  

 

1.法然から親鸞への系譜
法然(1133ー1212)・親鸞(1173ー1262)の浄土教の布教に従う説教者達は、その教線拡張が意図的となり、顕密諸宗の高度で難解な経典講説を排し、聴衆の興味や関心を引き起こすべく過去の説教にはなかった技術に注目して、信者、聴衆の獲得に力を入れるようになった。「中世新興仏教の説教は、内容は説話を多用して民衆の娯楽的欲求を受けとめ、譬喩因縁談に重点を置き、高座の上から巧みに話しかけ、身振り手振りよく、表情に感情をこめ、声を鍛えて美声に抑揚をつけ、時におかしく、時に悲しく、あらゆる方法で話芸の型を作った。いわゆる『節談説教』の完成である」(6)。
浄土教の庶民性溢れる説教が行われる基を築いたのは安居院の澄憲(1126ー1203)・聖覚(1167ー1235)であり、それが軌道に乗るのは聖覚が法然の浄土門に帰してからであった。その庶民的説教は飛躍的な発展を遂げ、芸能化してゆき、『元亨釈書』において「變態百モゝ出ツ。揺二身首一婉二音韻ヲ一。言貴二偶儷コウリヲ一理主二哀讃一。毎レ言二檀主一。常加二佛徳一。欲レ感二人心一先或自泣。痛哉無上正真之道。流爲二詐僞俳優之伎一」(7) と、説教に携わる者への反省を促される形態となる。しかし、その飛躍的発展と芸能化の大本に、法然と親鸞の説教に対する基本的態度があったことを、忘れてはならないのである。
法然は『選択本願念仏集』において、伽藍仏教を否定する立場を採り、南都北嶺の学僧を、さらに知識階級を否定し、そして、持戒律をも否定してしまった。「もしそれ造像起塔をもて、本願としたまはば、すなわち貧窮困乏の類は、定めて往生の望みを絶たん。然るに富貴の者は少く、貧賤の者は甚だ多し。もし智恵高才をもって本願としたまはば、則ち愚鈍下智の者は、定めて往生の望みを絶たん。然るに智恵ある者は少く、愚癡なる者は甚だ多し。もし多聞多見をもって本願としたまはば、則ち少聞少見の輩は、定めて往生の望みを絶たん。然るに多聞の者は少く、少聞の者は甚だ多し。もし持戒持律をもって本願としたまはば、則ち破戒無戒の人は、定めて往生の望みを絶たん。然るに持戒の者は少く、破戒の者は甚だ多し」(8) と、曾て叡山第一の秀才と謳われた博学で、生涯持戒の人であった法然が、敢えてこう言わなければならなかったのは、乱世に揺れ動く民衆の為に説く仏法が斯くの如くでなければならなかったからである。本来、思想の伝達の場における「対民衆接触」は、思想そのもの、あるいは、思想の創造そのものにとって、第二義的な問題である。飽く迄思想伝達の相手にこだわるならば、或知的宗教思想の受容層が下層庶民であるということは、その思想の論理が庶民の感性そのものであるか、あるいは、その思想が庶民の感性によって変容されて受容されたものであるかの、何れかとなろう(9)。しかしながら、法然は危険を承知の上で、ここに説教の基本的態度を明示したのであった。法然入定後の浄土教系の説教は、総てこの法然の発言を基にして発展して来たのである。
「民衆の歎きや訴えを心に受けとめ、自らそれに妥協して平易軽妙な形で底辺の人々と結びつくのが説教の極意である。〔中略〕ただ無智文盲の人々の心の友となり、その心の中に自ら入りこもうとした。法然が念仏を唱導するについては、この説教の奥義を示すことがきわめて重要である。ただ唱えるというだけでは外形のみにとどまることになり、普及させるのには微弱な力しか出せない。苦しみ、悩み、悶える民衆の心に思想を形成する基本的条件を置く説教に法然が力を注いだことは特に注意すべきだ」(10) と、関山和夫氏は述べている。
このような法然と聖覚が結びついたことに因って、説教の日常化は作され、その時点から庶民性豊かな話芸の性格を強く帯び始める。そして、芸能性を持つ説教、いわゆる節談説教を、聖覚が完成したとされるのである。仏教の高邁で難解な教義をいきなり説いても、民衆にはとても解るものではない。そこで民衆の有りの儘の感覚に直接的に訴えるべく、身振り手振りや顔の表情等の演技性を重んじ、また、声明のように説教にも節やリズムを付けるという歌謡性を加味したのである(11)。
このような説教のかたちが齎されたのは、いかなる人間も念仏によって「平等往生」し得る教えこそが、易行道たる淨土門であるとする、徹底した法然の思想内容と、もう一方にある、説教を聴聞する対象の類型との、双方向からの、説教というものへの接触と影響の下に突き動かされゆく、必然性が存在したからである。
「タトヒ法然聖人ニスカサレマヒラセテ、念仏シテ地獄ニオチタリトモ、サラニ後悔スベカラズサフラウ」(『歎異抄』(12))と信心決定の縁を法然に依って結ぶ親鸞は、「キクトイフハ、本願ヲキゝテウタガフコゝロナキヲ、聞トイフナリ。マタキクトイフハ、信心ヲアラワス御ノリナリ」(『一念多念文意』(13))、「親鸞ニオキテハ、タゞ念仏シテ弥陀ニタスケラレマヒラスベシト、ヨキヒトノオホセヲカフリテ信ズルホカニ、別ノ子細ナキナリ」(『歎異抄』)と述べている。仏教は「如是我聞」に極まるとも言えるが、如来の招喚の声との呼応の中に、「聞法」・「聞即信」こそ、親鸞の全化導の根底に流れる態度であった。当然のことながら、経典が編まれた後に、「聞」というものの内容は拡大したであろう。目で見る「聞」もあったであろう。しかし、「聞く」ということは、厳然たる一つの流れとしてあったのである。ヨキヒトと己が信ずるその人の口から直に語られる言葉を、自らの耳を以て聞くことが、直ちに信に結びつくのである。したがって、聞法・聞即信は浄土真宗の説教の根本となり、他宗の比ではない程にその説教が激しく行われたのは当然のことであろう。浄土真宗の説教においては、阿弥陀如来と親鸞の代弁者である(あるいは、〈代わり身〉である)という自覚が、説教者の必須条件でなければならぬのである。「一文不通のともがらの」、「具縛の凡夫、屠沽の下類」たる人々にとって、絶対視し得る、そして、信じ得る、具体的な人格をそなえた生き身の説教者の存在が、如何に聞信を可能ならしめるように思われたことであろうか。平易な、直接的な肯定を以て、説教者は、民衆の霊的探求の旅に、一つの答えを与えたのである(By simple, direct affirmations they gave an answer to the spiritual quest of the common man)(14)。
聖覚は『唯信鈔』において、聞と信とが限り限りの処で相揃う「聞即信」の謂れを夙に説いていたのであった(15)。親鸞の教忍御坊に宛てた返書(建長三年〔1251〕、親鸞七十七歳の消息)に、三度に渡って「『唯信鈔』をよくよく御覧さふらふべし」とあるように、親鸞は常にこの『唯信鈔』を勧めたとされる。そして、自らもこれを筆写し、さらには注釈して『唯信鈔文意』(16) を撰述している。また、親鸞が聖覚の説教に感佩していたことも十分に考え得る(17) だけではなく、親鸞は聖覚を大いに尊び、民衆の間に布教する技術を、この聖覚から学んだとさえ言われている(18) のである。
親鸞の化導を知る為に重要なもう一つのことは、和讃の詠出である(19)。
彌陀大悲の誓願を
ふかく信ぜむひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿彌陀佛をとなふべし
五濁惡時惡世界
濁惡邪見の衆生には
彌陀の名號あたへてぞ
恆沙の諸佛すゝめたる
この様な形式は全く前例がなく、諷誦を目的とする立場から言えば、実際的な便宜上において革新的な意味を持つのである。言葉の中に含まれる響きや語感、いわば言葉のもつパトスを聞きとることにおいて、親鸞が非常に優れていたであろうことは、吉川正二氏も指摘する処であるが(20)、実に、親鸞の和讃は、言葉を一語一語置いて書かれ、その選定には厳しさがあり、リズムに迫力を持つ。しかし、七五調の四句と定められた形式に、節付けは容易であり、誰にでも馴染み易い。親鸞は、和讃を、「石・瓦・礫の如くなる」民衆のものとしたのであった。関山和夫氏は「雑芸、今様歌の効果を親鸞は熟知し、庶民感情に訴える形式を考えたのであろう」(21) と述べ、多屋頼俊氏は「聖人〔親鸞〕は和讃を作られる時に、あるフシをつけて自身で口ずさみながら書きつけておられたのではないか」(22) と述べている。
こうした和讃の詠出においてばかりではなく、親鸞が経文や先師の言葉に接しまたそれらを選択筆写しながら、静かに声を発して朗誦したであろうとするのは、亀井勝一郎氏である。「誦するときは言葉のもつ調べや陰翳やつまり言葉のいのちをはっきりと聞きわけて、心のうちに吸いこむことだ。誦するときの自分の声は、自分の声にして自分の声ではない。如来の声がのりうつっている。我ならぬ声を我において聞くことだ。写すときはかく吸いこんだ言葉のいのちを再び形としてあらわすことだ。経文先師の言葉への味到と肉体化はこうして行われるのであろう。親鸞は口ずさみながら写したに相違ないと思う」(23)。さらに、豊田国夫氏においては、「親鸞は言葉を全人格的なものと解釈」していたのであり、「実に、聞くということは親鸞にとって、ただ理をきくということよりも、もっと徹して言葉の霊を聞くことであったのである」とされる(24)。
果たして、親鸞の「聞法」に、言霊信仰の領域へと繋がるものがあったのか否か、ここでは言及し得ないのであるが(25)、明らかなことは、親鸞が、民衆の生き方を自己の思想の原点に据えて、民衆の救済を常に考えながら、如何に浄土門の教えを大衆化するかということに、様々な角度からアプローチしたということである。『一念多念文意』において「ヰナカノヒトゞゝノ文字ノコゝロモシラズ、アサマシキ愚癡キワマリナキユヘニ、ヤスクコゝロエサセムトテ、オナジコトヲトリカエシトリカエシカキツケタリ。コゝロアラムヒトハ、オカシクオモフベシ、アザケリヲナスベシ。シカレドモ、ヒトノソシリヲカヘリミズ、ヒトスヂニオロカナルヒトビトヲ、コゝロヘヤスカラムトテシルセルナリ」と親鸞が後記していることは、民衆教化の奥義を示すものと考えられる。つまり「同じことを繰り返し繰り返し」述べることが、極めて重要な事項となるのである。
柳宗悦氏は『南無阿弥陀仏』において、民芸〔品〕の美と浄土門の教えとを密接に係わるものとして捉え、次のように述べている。「凡夫たる工人たちからどうして成仏している品物が生れてくるのか。仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があることがわかる。有難いことにこの繰り返しは才能の差違を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰り返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ不思議を生む。なぜならこれで自己を離れ自己を超える。或いは自己が、働きそのものに乗り移ると言ってもよい。自分であって自分でなくなる。〔中略〕『我』を去らしむものは、多念であり反復である」(26)。
仏教が皇室や貴族のものであった時代は既に過ぎた。民衆の自覚は促され、文化は庶民の文化として熟してゆく。続く戦乱やこの世の栄枯盛衰等を目の当たりにした民衆の心に訴えるべく、あるいは、理智よりも情操に豊かな民衆に訴えるべく、浄土教は「悲」の面に仏教を輝かせたと言えるであろう(27)。その大役を担ったのが、フィーリングを見事に利かせ、高座の上から巧みに語りかけながら、身振り手振りや鍛えた美声の抑揚とリズムを以て、念仏往生の教えを、そして、阿弥陀如来の音声を現わす節談説教であったのである。しかし、そこには、民衆を救わねばならぬ、そして、民衆と共に救われようとする、法然・親鸞の念仏往生を自らの切実なる肉声として説く思想こそが、節談説教を突き動かすものとして、あるいは、節談説教の生命として、その根底に在ったことを、決して忘れてはならないのである。  
2.安居院流の生成過程とその影響
法然・親鸞の出現と共に、皇族や貴族を対象として行われることが多かった上代、中古の顕密諸宗の説教の方法は、大きな変貌を遂げることとなる。その技術上、著しい進展の直接の担い手となったのが、平安末期から鎌倉時代にかけて現われた説教の巨匠澄憲(28) とその子聖覚(29) であった。澄憲と聖覚が京都で立てた安居院流は、日本の説教史に一大エポックを画したばかりではなく、後世の説教に絶大な影響を及ぼし、正統の節談説教として、その系統が現在に迄繋がるのである。
天台の学を修めた澄憲(1126ー1203)は、早くからその辯才を知られ、承安四年(1174)五月の最勝講の論議に列した際には、弁論縦横にしてその右に出る者がなかったとされる。また、この時清涼殿において、表白文のうちに雨を祈って験があり [龍神道理に責められ、天地感応して、陰雲忽ちに引き覆ひ、大雨頗りに下りけり]、権大僧都に任ぜられた話 [権少僧都澄憲が説法の効験掲焉きなり。仍て権大僧都に上げ給ふ](『源平盛衰記』)は有名である。後年、大僧都となり、安元三年(1177)には法印に叙せられ世に澄憲法印と尊称されるが、程なくして京都・一条小路大宮通りの安居院に退去し、法体にありながら自ら妻を娶った。この法印の妻帯は道俗を驚かせ、非難を集めたが(30)、澄憲は、その驚きと非難の衆目の中で、独自の信念を披瀝し、得意の弁舌を駆使した説教を以て道俗の教化に尽力するという、説教一筋の生活を始めたとされるのである。おそらくこれは、「説教する」ということが、僧侶の生き方の一つの類型、ないしは、僧侶の修行の一つの型となっていくという、その制度化の先駆的一端を窺わせるものであろう。そして、破戒の法印であるにも拘わらず、そのずば抜けた説教技術の力(31) により、澄憲は、熱烈な支持を受けたのであるという。
澄憲の閲歴とその卓越した説教については、『元亨釈書』の他、『尊卑文脈』、『業資王記』、『玉葉』等の諸本に拠り(32)、かなり詳しく知ることが出来る。その「説法神也、又妙也」(玉葉)と評された澄憲の説教の見事さは、それらの諸書に頻出するが、中でも「四海大唱導一天名人也。此一流能説正統也」(尊卑文脈)とする激賞は注目すべきものであろう。また、養和元年四月三十日の条の「説法之中多吐二世上不可一云々」(玉葉)により、時事問題に触れながらの説教であったこと、そして、寿永元年十二月二十八日の条の「説法優美衆人拭涙」(玉葉)や建久二年閏十二月三日の条の「今日説法万人拭レ涙」(玉葉)により、「満座動心情」(玉葉)という程に情感溢れる説教であったことが、容易に想像されるのである。さらに、女人不浄を切り札とする僧徒の中にあって、一切女人は三世諸仏真実の母であり、女は男に勝る、と説教して聴衆の耳を驚かし、「珍事有二興言一」と評されたこと(33) や、平清盛・重盛を不快にさせたその当意即妙の皮肉と機知(34) についての話がみられ、澄憲の人物をも窺わせている。
「澄憲の説教は、頗る機知に富んだ興趣横溢の高座を展開し、しかも豊かな学識と教養に裏うちされたものであり、まさに近世以後に盛行する日本話芸(35) の源流に君臨した」(36) のである。そして、その優れた辯才と卓越した説教技術は、第三子の聖覚に継承された。
比叡山竹林房の静厳に師事して正統の学を修めた聖覚(1167ー1235)は、文筆にも長じたが、特に、その説教においては絶妙なるものがあったとされる。「説教こそ浄土への道」であるとし、父澄憲と同じく安居院に住して、父子共に安居院の法印と称せられたという。法然の浄土門に帰してからの聖覚は、説教を以て自らの業とし、また、説教を通じて教学の面でも一家を成している。浄土宗では、聖覚を「説教念仏義の祖」あるいは「説法義の祖」(『浄土三国仏祖伝集』)と呼び、敬ったのである。
聖覚については、『玉葉』、『明月記』、『法然上人行状画図』、『浄土伝燈録』等の諸本に拠って知り得る他に、後世の説教(『親鸞聖人御一代記』(37) 等)や、浄土宗・浄土真宗の説教師達の間に継承されている多数の伝説に拠り(38)、その姿、そして、如何に彼が説教の名人であったかということが、容易に想像されるのである。「天下大導師名人也、能説名人」(尊卑文脈)と註される聖覚の説教については、建久二年閏十二月二十二日の条に「説法優美」、建暦二年二月十八日の条に「説法優美可感」(玉葉)と評され、元久三年四月十六日の条に「次予佛事、御導師前權少僧都聖學、説法如富楼那、萬人落涙」、建永元年九月六日の条に「涙湿襟」(三長記)と記されているが、その他に、高野山に請ぜられて「耳目を驚かす説法」をしたことや、元久二年八月に法然の病を説教で治療したこと [瘧病療治祈祷で、聖覚は、善導の御影を前に説法したと伝わる(『法然上人伝記』、『法然上人伝絵詞』、『行状絵図』)] (I) 等が伝えられている。また、聖覚は、『四十八願釈』五巻、『十六門記』(『黒谷源空上人伝』)、『唯信鈔』、『大原談義聞書鈔』等の著作を残している。これらの書は皆、浄土宗・浄土真宗の説教に直接繋がるものである(39)。
澄憲・聖覚の「安居院の法印」の名声が高まり、その説教の流儀は「安居院流」と呼ばれ、さらに、聖覚から隆承 − 憲実 − 憲基と真弟相承した為に、安居院流の説教は、後世に影響する処が甚だしかった(40)。この安居院流の系譜を芸能史的立場から見ると、いわゆる説教者の家元である。そして、中世から近世を経て明治に至る迄、その説教の型は、主として浄土宗・浄土真宗(特に浄土真宗)に伝承されたのである。
安居院流唱導の特色を述べた櫛田良洪氏の説(41) と、それに対する関山和夫氏の異論(42) においては、両氏が指摘するそれぞれの事項について注意が必要である。両氏の説をも併せ考えた上での、安居院流の生成過程は、以下に述べるようなものとなるであろう。
貴族仏教から庶民仏教への過渡的時代にあたって、澄憲を中心とした安居院流初期の説教は、修辞を主とした表白体のものであった。それは、あくまでも台密古来の法華と弥陀思想に讃同する浄土信仰に依りながら(43)、造寺造塔の功徳を肯定し、さらに諸行往生を説く一方で、一向専修、弥陀本願思想をも説くというものであった。安居院流の唱導は、「説教の聴聞と供養はそのまま浄土への道につながる」という独特の持論に立つのであるが、おそらく、澄憲においては、阿弥陀信仰を強調し、易行道として弥陀浄土への往生を説きながらも、その思想が未だ法然のそれとは異なっていたのであり、当時の天台浄土教の儀式・形式主義的な世俗化の限界を打破し得なかったということであろう。また、それは、旧来の貴族的色彩が濃く、庶民性に乏しいものではあったが、表白文の巧拙、音声の清濁抑揚を以て、適切にして具体的な名文が響く時、満座の感涙を誘い、「本尊を始め、諸仏の冥鑑もまたこれに応じて、歴然たるものありと」(44)、聴衆は皆表白の霊験を信じたのである。しかし、時代の推移と共に、この表白体説教では聴衆が満足しなくなった(45) のである。源平争乱の巷に追われ、さらには地震、火災、飢饉等の悲惨な現実に直面しながらもそこに生きようとする人々にとって、称名念仏の新思想のみを説くことなく、伝統的権威の下に形式化され、人にも時代にもそぐわない放言や綺語を以ての旧い「唱導」は、享受出来ないものとなったのである。
しかし、聖覚は、その時代の推移を鋭敏に捉えていたのである。安居院流の説教は、末法の世という「具象」に応え、専修念仏への傾向を深めてゆき、一握りの貴族ではなく大衆の側を大きく抱きとめようと、その表白体も漸次形式を柔らげ、中世庶民説教へと傾斜していくのであった。そして、口演(演説体)第一とする方法を採った安居院流の説教は、譬喩因縁談を中心とする民間説話に重点を置き、文芸的要素を濃厚にしていったのである。「澄憲と聖覚と風情はなはだ替りたれども」(『井蛙抄』巻六)と記されているが、これはおそらく、唱導の技術としての語り口の違いのみを指すものではないであろう。さらに、「聖覚法印わが心をしれり」(『法然上人行状画図』[『勅修御伝』])という法然の言葉は、聖覚と法然の思想的立場の同一性を端的に示すもの(46) であり、したがって、聖覚が中心となった安居院流の説教は、最早先に述べたような過渡的なものではなく、完全なる専修念仏を広める、民衆の為の庶民説教の樹立であった。そして、それは同時に、軈て日本仏教史上最も激しく行われることとなる、浄土真宗の節談説教の基盤の確立でもあったのである。
澄憲に始まる唱導説教の独特な展開は聖覚によって大成され、ここに安居院流は「上代、中古に行われた説教(顕密諸宗の経典講説)とは全く違った、完全な庶民対象の日本浄土教の思想を背景にした新しい説教の理論と方法を創造し、確立した」(47) のであった。
聖覚の弟子信承法印の撰になる『法則集』(48) には、導師の上堂、着座にはじまり、香炉の持ち方、磬の打ち方、そして、その法会の種類に応じた語句の用い方、発声の方法等が述べられ、また、その儀式の進行に従いながら、神分、表白、願文、発願、四弘誓願、風誦文、教化(歌謡)の次に説法となり、続いての別願、廻向、総廻向、降座、終わりに布教等という具合に、唱導説教のルールが、「口伝云」(秘伝口授)という形で、安居院流独特の発音法からあらゆる進退作法の細かな点に迄及び、さらには、その精神的な心構えにも及んで、実によく説かれている。安居院流の説教が、当時の法会に参加したあらゆる人々、すなわち、貴人から庶民に至る各層の聴衆に如何に大きな影響を与えたかということは、当時の、庶民の中にはいなかった記録者による、日記や後の物語から想像するばかりであるが、人々を感涙に噎せばせたはずのその説教の背後に、周到緻密な説教者の用意が、言い換えれば、宗教儀礼としての制度化という一面が存在していたことを、この『法則集』は語っているのである。
安居院流の澄憲・聖覚の説教が、後の戦記文学や説話文学に与えた影響は、非常に大きいものであった。一般に、説教が日本文学史上で最も大きな影響を与えるのは、中世の語りものの文芸においてであるが、安居院流の唱導は、中世語りもの文芸を育てた母胎とも言うべきものであった。
壮人老少不定なりとも皆別れぬ。
老ゆけば生者も必ず滅して残らず。
諸行無常。是生滅法。
祇園頗梨の鐘、耳に盈てり。
『平家物語』冒頭の文章かと思われるこの文句は、『澄憲表白集』の中の一節である。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という美辞麗句で始まる『平家物語』の名文が、安居院流説教の名調子に発したものであることは、略間違いがないとされている(49)。語りものにおいては、このような哀調を帯びた歯切れの良い美文に続き、登場人物の対話や行動が生きいきと描写されていく。それは、説教において、感銘的な表白文が読み上げられた後に、説教師が、譬喩因縁談を中心とする説話内容を具体的な描写で巧みに語り出してゆく構成と、まったく同じものである。優れた話術や身振り手振りの効用も然る事ながら、如何に聴衆を感じせしめる文章(説教台本)を著わすか、そして、その為にはどのような文体を確立すべきかということについても、説教師達は力を尽くしていったのである。説教の家元とされる安居院流が、厖大な説教唱導集を作成し、周到緻密な文献を整えていた(50) ことからも、その力の入れようは明らかであろう。
無常の観念は、日本の文芸の全てを通して強く流れる詠嘆の思いである。この「無常」が、一つの思潮となって、世俗化され流布され、遂には民衆の中へと滲み込んでいく背景には、いわば観念と現実との結びつきとなる、人々の実生活の中での体験と共に、説教における(説教師による)意識的な強調という操作が強く働いていたと思われる。また、譬喩因縁談において、この世に生起する様々な出来事を因果応報の観点でみようとすることは、さらに進めれば、定められたものからは決して逃れることが出来ないという、暗い宿命観となるであろう。安居院流をはじめとする当時の唱導文芸が持つ「悲」(51) と「暗」のイメージは、人々に新たな世界を教え、新しい思想形成の芽生えを示唆するものとなったのである。しかし、民衆は、その「無常」や「因果応報」を感じとった時、それらを素直に受け入れると同時に、その重暗いイメージを転化するエネルギー、あるいは、バイタリティーを自らの中に発見してゆくのであった。それが、人々の念仏の声であり、また、唱導文芸における笑話や滑稽談であり、そして、説教浄瑠璃『さんせい太夫』のような、民衆感情(民衆の苦悩、怨み、希求等)の吐露とも思われる文芸作品へと繋がっていったのである。これらは、歴史の上に書かれざる庶民の文化史であり、民衆の表現し得る自分達の心の現われとしての〈儀礼〉なのである。  
3.祖父江省念師の節談説教
「あらゆる辛酸をなめながらの説教一筋の生活」、「日本仏教伝統の節談説教を現代に継承する正統説教者、独特の美声によるすぐれた表出力は、現在日本一の評判が高い」(52) とされながら、この一月に、「生涯をかけての使命を全うされ、淨土に笑いを含んで帰られる」(53) という「大往生」(54) を遂げた祖父江省念師は、歴とした浄土真宗大谷派の布教師であり、優れた宗教家である。省念師は、断じて芸能者ではない。しかし、師が日本の芸能(落語、講談、浪曲等)の源流である節談説教を現代に的確に伝えていること、そして、師の名説教には伝統的な説教者の条件が整い、それが「法芸一如」の真の姿の現出であることは、文化史的な高い価値と芸能史における大きな意味を持つのである。
省念師は、明治41年9月18日、岐阜県安八郡大薮町四郷に生まれた。父は祖父江安太郎、母はのうといい、貧しい小作人であったという。働いても働いても貧しさに追われ、小作人というのは実に惨めなものであったらしい。地主に対して頭を地面に擦りつけ、涙を流して懇願せねばならぬ父親の姿を見たことから、省念師は、出家して僧侶になる決心を固めたという。
私は、あの八歳の時に初めて説教した。八歳の時たなぁ信心も安心もないって、ただ書き放題。便箋四枚に説教書いてもらって、それを寝ても覚めても丸覚えに覚えて、それでま、説教を初めてやった。それはえー、十二月の二十七日、それはその、昔は全部お通夜ってこと、そいで私は二十七日の晩、お通夜の晩に説教をやった。昔は皆こういう高座ですから、高座へ上って、その説教やろうと思ったら、こう御堂は縁側迄いっぺい。だからあんまり仰山その人が出る、ぼーうとなっちゃって、全部忘れちゃった。ほしたら高座の前にあの、一年生の、えー二年生か、友達がおって、ほいで口々に「忘れたな、ありゃ」、「何もよう言えせんじゃね」、そ言うもんで「やかましいわ、おみゃーらは」、叱っとったら、ぽっと思いでぇた。だから怒ることもたまたまええもんじゃ、思って讃題をやって、ほいでその時、まだ私は覚えとるが、御開山が叡山からえーそのまま、その当時は、六角堂へ通わっしゃったことがあった。で、その時の話が、「〔節づけで〕寒風凜凜と吹き来たりはなようと進む時は、八寒地獄の苦しみは如何がであろうぞとそれを思し召しての御苦労じゃ」、こういう話を作ってあった、幾つかな。おじいさんからおばぁさん泣いちゃってさ、ほいで、高座から下りたら、「お前は偉い」、で、まぁ、飴玉くれるやらお賽銭くれるやら、説教ぐれぇええものはねぇなぁと思って、そいでやみつきになっちゃって・・・。
この時の説教内容は、『親鸞聖人御一代記』からの「六角堂参詣」の段を引くものであり、その節づけについては、五線譜で表記すれば、別頁の「Fushidansekkyo Material 1-b」に記すようなものであった。
こうして八歳から説教を始めたとはいえ、実際に省念師が、「単なる僧侶で終わるのではなく、立派な説教師になろう」という思いを抱くに至ったのは、師の北海道時代(55) のことであるという。その思いは強く、優れた布教師(説教師)となる為に、本格的・実践的な勉強に取り組もうとする省念師は、十五歳から足掛け六年居た北海道を後にして、内地へ戻ることとするのであった。
当時、東海三県には、説教師として活躍している名僧が、郡雄割拠という状態で存在していたとされる。それらの名説教者や説教所の賑わいについては関山和夫氏が詳しく述べている(『説教の歴史的研究』他)が、省念師によれば、服部三智麿(1870ー1944)、宮部円成(1854ー1934)の両雄に、滋賀県の竹村治、森智寿、北陸からは川上晃英、岐阜県には里雄晃曜、長島純信、三重県には古池秀賢、藤岡大謙、藤井静本というように、名立たる説教者達が人気を競い合いながら説法し、どの寺も聴聞の群参でいっぱいであったという。省念師は、その中で、華やかではないがまじめな宗学の話をし、「今釈迦」と呼ばれる程に説法に優れたという名僧、古池秀賢師に師事することとなるのである。
古池師の、「何席しゃべっても、一日中話し続けても、まず枯れない声にしなければ説教師としてはやっていけない。昔から"一声二節三男"(56) といって、本格的な布教師になるには、声が一番大事だ」という指摘を受けて、省念師は、声の訓練を敢行した。
ということは、今はねマイクがあるんです。だからどんな声でもマイクを通ずれば、大抵は皆に聞こえるような説教がやれますが、昔はマイクがないんです。だから、大本堂の別院とか、本山で、話をやったら、一席で声が潰れっちゃう。だから、「本当の、本格的の説教者になるというならば、声を潰さなあかん。俗に声を破れ」と……。
私の住んどった寺は、その養老町と言いまして、養老の滝があった。そこ迄自転車で行くと大体四十分で行く。〔中略〕時間が遅なると、人が大勢来ますから、人がおらん四時頃から、二時間位その滝のどつぼ落ちる音とま、競争してそこで、やっとる内に、本当に三日経ったら、もう、全然、うんともすんとも声が出ん。ほいでもやっとったら、五日目位から喉から血が出て、ぽんぽんに喉腫れちゃって、もう流動物も通らん。それでも我慢してやっとりましたら、一週間位経ったら徐々に出てきた声が、今の声……。
新しい声が出るようになり、省念師の「随行」(57) 時代が本式に始まった。当時の説教は、昼から始めて、その夜、翌日の午前中で「一昼夜」と言い、説教師は昼、夜、朝に二席ずつ、そして、随行は一席ずつ、行うのが東海地方では常套であった。したがって、二昼夜といえば、随行は六席分の説教を考えてゆかねばならず、事前に、自分自身で話材を探し、台本を構成し、その中で抑揚(節)をつける箇所には創意と工夫を凝らして、それらの全てを覚えていくのである。師匠である説教師は、随行のそれを聞いて注意を与えるのであるが、古池師は、随行を滅多に褒めず、小言ばかりで、特に宗学については厳しく、それぞれの話の根拠、つまり出典に関して迄を一々問い質す人であったという。
当時言われていた説教上達法のコツとは、「読み、書き、語り、人に聞かせて、クセ直せ」というものであった。本を読んでも話に使えるのは一冊の中で二つか三つの話材であるから、たくさん読んで説教の材料を探し、台本を構成して確りと書き、それを口に乗り易いように何度も語り、人に聞いてもらって悪いクセを直せというものである。「当り前のことでも、それしかない。これを繰り返すことによって話芸も磨かれてくるわけです」と省念師は述べている。
随行は、説法のことに専心するばかりではなく、師匠である説教師の荷物運びから身の回りの世話迄をこなし、忙しく動かなければならなかった。しかし、そうした中にも学ぶことは非常に多かったとされるのである。古池師の話すことは、例えば、酒を飲みながら、風呂に入りながらも、宗学に係わる話ばかりであり、省念師にとってはそのどれもが勉強になるものであったという。また、招かれた先の寺の住職と宗学を巡って大激論に及ぶ等、古池師の、確固たる考えと揺るぎない信念を持ち、命がけで法の真理を追求しようとする真摯な姿は、省念師の記憶に鮮やかに残るものであるという。こうした点からみれば、随行制度とは、単に技能や形の伝承・習得をなすのみならず、弟子にとっては、師匠たる説教者の生活への接近によって、その精神(心)というものの習得において、〈師匠の世界〉への「潜入」(58) を容易にするものであると言えよう。
二年の随行時代を過ごし、昭和5年、二十二歳で省念師は独立する。その一席が、聞即信の一念で人々を救うか救われぬかの瀬戸際であることも然る事ながら、当時は布教師を目指す者が多く、ライバル同士の激しい競合や、一回の説教で、直ちにはっきりする次の仕事の有無という現実からも、一席一席が説教師にとって真剣勝負であったという。そして、省念師の説教一筋の生活は六十余年にも及び、一席一席が真剣勝負であることは常に変わらず同じであった。省念師は言う、「親鸞聖人が見てござる」。
さて、説教にはユーモアが必要である。省念師は、一つの哲理や教えが浮かんでくるのが本当の「笑い」(III) であると言う。例えば、「爆笑の連続で、しかも人間のあさましさを教えられる」、あるいは、「笑いながら考え、涙を流させられる。泣きながらまた笑う」というような笑いのことである。言い換えれば、そうした笑いは、聴衆の心を惹きつけ一喜一憂させながら、笑話として止まるのではなく、法に合わせて語られるのである。省念師は、様々にある笑いというものを研究し、自己の説教にどんどん取り入れるべく工夫を凝らしていったのである。小沢昭一氏も述べるように(59)、省念師の説教は、まず人間生活の機微をうがって聴衆を笑わせるのである。
儂の近くにな、まー、ころっと死にてぇーでっちゅうて、〔ポックリ寺へ〕三遍まぁった奴が今中気で寝とるがや、……平生が大事だで、そういう嫁を、あんな者にはめんどう見てもらわんでもいい、俺ぁポックリ死ぬでっちゅうてやっとるが、中気になって今寝とる婆さ毎日泣いとるわ、なんでやったら、おしめ換えるたんびにやな、今の嫁さん利口じゃで、昔の嫁さんならパンパン尻叩くで、音がしるえ、隣近所が評判になるわ、今の嫁はそんなことやらんの、おしめ換えるたんびに平生の憎しみが、この時とばかりに、キリー、キリー、ええわ婆さま言語障害だで物もよう言えせん声も出ん、アウッアウッアウッアウッアウッアウッ、ほいで娘が来て「この尻の黒いのはなんでやも?」「そりゃ寝だこでしょ」って、平生が大事やで……。
省念師は、人々にとってごく身近な興味深い事実を材料とし、それを具体的に、ユーモアを交えながら、聴衆に向かい滔々と話しかけていく。それに対して聴衆は、一々頷いたり、あるいは、驚いたりしながらも、大笑いを繰り返していく。夫婦、姑と嫁、病気、金の問題等、次から次へと話は別々のものへ移っていくかのように聞こえるが、実は、同じことを語っているのであり、それらから導かれる先の焦点は一つである。そして、聖人伝や説話から引く話が語られ始め、その譬喩因縁談が佳境に入るにつれ、聴衆は目頭に涙を浮かべてゆくのである。
いただきました御真影を源右衛門は、「アア御真影様お返り下さいましたか、お供をいたしましょう」と、背中に御真影をしょう、可愛い倅源兵衛の生首を風呂敷包みにいたし、前に掛けながらヨロヨロヨロヨロと、後眺めては「ご恩尊や、お慈悲嬉しや南無阿弥陀仏」、前に掛けたる倅の首眺めては、恩愛の情遣る方なく「せがれかわいやなぁー、俺ばかりが恩愛の情に泣くのじゃない、御開山様でものう御和讃の中に、『一切菩薩ののたまはく我ら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて萬善諸行を修せしかど、恩愛甚だ絶ち難く、生死甚だ尽き難し、念仏三昧行じてぞ、罪障を滅し度脱せし』」、どんな苦行よりも、どんな難行よりも、恩愛の情を断ち切る苦しみは耐えられなんだのお知らせじゃが、まして凡夫の源右衛門、せがれかわいてかわいて、泣かずにおれんわやと後眺めては御恩を喜び、前を眺めては恩愛の情の涙を流しヨロヨロヨロヨロと歩いて帰ってくる……。
省念師の美声は益々冴え、話の高潮に随って韻律を帯び、軈て節づけとなる。日本語の特質を生かし、七五調(60) のリズムを基調とする聞かせどころである。これについては、別頁の「Fushidansekkyo Material 1-b」において、その表記の限界、つまり、オタマジャクシにのせると違ってくる、あるいは、こぼれ落ちるものが在るという不完全さを多分に含んだままではあるが、五線譜に記してみた。このような、語り手の口を通した快いリズムによる、耳から心への理解が大きいことにも、留意をすべきであろう。きちんと踏まえられた宗義、巧みに導入された和讃や法語を以て、省念師は、その美声による絶妙な節まわしで、聴衆の心の中へずっと入り込んでゆく。人々は、その見事な節に自らも乗り、陶然と酔いながら、感動し感謝し、その宗教的情熱の中、感極まって念仏が口を吐いて出るのである。この「受け念仏」が湧き起こる頃には、省念師と聴衆とが一体となって輝き合うかのような観となり(61)、両者の見事な呼応の中で、話は否応なしに高潮し、一層の迫力をもって展開されるのである。
こうした省念師の説教は、典型的な五段法を執るものである。まず、讃題には、経論・祖釈の一節がこれから説こうとする一席のテーマとして、節づけで感銘深く読み上げられ、次に、その讃題の法義を今少し平易に解説して、法説となる。そして、譬喩は、それをより一層解り易くする為に、聴衆にとって出来るだけ興味深い、実生活に密着した数々の話題を用いて説くものである。梁の慧皎(?ー592)が「庶民には具体的な事実を示して見聞せる事によせて法を説く」(『高僧伝』)という対機説法の心得を述べているが、これはそのまま日本の説教の場合にも適合する叙述であろう。さらに、因縁では、讃題・法説を証明する事例を挙げるのであるが、ここでは、『親鸞聖人御一代記』や『蓮如上人御一代記』等が中心となり、また、『教行信証』、『歎異抄』、『御文』等を引く話や、妙好人を扱う話が本筋となる。そして、結びとして、結勧で、聴衆に「安心」を与え、今席の話の要諦を述べるという型である。聴衆は、譬喩談で爆笑を繰り返し、因縁談では、涙を零し、その一席が終わる頃には、「サア親が迎えに来たぞー」(62) と、阿弥陀仏に救われたような気持ちに、おそらくなってしまうのである。
「アー御伝鈔はありがたい、御伝鈔はありがたい」と〔聴聞者が〕こう言いますから、私が「御伝鈔のどこがありがたい」、こう訊いてやると、「あの節がなんとも言えませな」なんて節ありがたがってる奴がおる……。
省念師の絶妙な節まわしは、人々の心を揺さぶる。師の説教は、単に言葉を伝えるだけのものではなく、聴衆の耳について離れぬような、美しい音声の表出である。一般に説教に際して緩急抑揚は、話材の内容と相まって或切迫感さえ感ぜしむという、大きな役割を持つのであるが、それは、説く者からのものであると同時に、受けとめる側のものによるところも大きいのである。したがって、余りに感覚的情緒的に受容してしまうということも起こり得るが、それは、先に述べた親鸞の和讃のように、人々において、繰り返したたみ込むようにしていつ迄も唱い続け語り続ける、或生命の表現の〈音〉となってゆくのではないだろうか。その時、音というものは、波動や撓みとしてではなく、精神の姿そのものの具現として感じとられるのである(63)。「私が説教に最も魅かれた部分は、やはりフシでありました」(64) と、小沢昭一氏も述べている。

聴衆にとっての省念師の存在が何であるかは、一席の説教が終わった時点の光景によっても、明らかであろう。人々は、高座の省念師に手を合わせ、南無阿弥陀仏の名号を唱え続ける。ここで注目したいのは、説教者がちょうど本尊を背にするような位置に、高座が置かれているということである。聴衆は、阿弥陀如来、あるいは、親鸞の〈代わり身〉としての省念師に手を合わせ、如来が往生の手立てを廻らし差し向けていることを知り、感謝する為に、名号を唱えるのである。また聴衆は、省念師という具体的な人格をそなえた生き身の説教者の存在を通して、今この時に、彼らの存在もまた、弥陀の働き、その誓願力の廻向に担われていることを、親しく体験する悦びの故に、名号を唱えるのである。
柳宗悦氏をはじめ関山和夫氏等諸氏が、浄土真宗の信者のすばらしい受けとり方、つまり、聴き上手ということを認めている。これは、浄土真宗の聞法・聞即信という全化導の根本的態度に、まず起因するのであろうが、やはり、節談説教の歴史に大きく係わるものであると思われる。すなわち、民衆は自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで節談説教が磨かれてきたという歴史である。その伝統的とも言える呼応の仕組みは、実際の説教の場における、説教師と聴衆との共同作業、あるいは、両者の合作となる、見事な〈節談説教〉へと繋がってゆくのである。さて、省念師は、「囃す」という言葉を使っている。
儂の檀家にね、加藤はるという婆さがおる、〔中略〕うちの報恩講という行事にね、「まぁーりたいけど先生、まぁーれんで悲しい」って電話かけてくる、「なんでまぁーれん」って言ったら、「神経痛でもうどうにも動けんで」、「お前のような丈夫ぃ人が、ちょっとも病気したことない人が、あーそんな病気になったか、まぁええわ。仕方がなぁでな、エー午前十時、午後は一時、お勤めが始まるで、そっからよう囃しとれよ」……。
囃すということは、民謡の「囃し」[掛け声による言葉の「囃子」] やその他の民俗芸能における「囃し方」を想起させるものである。「はやす」という言葉は語源的には霊魂の分割・増殖を意味し、ハヤスことによって霊威が全体に行き渡るとされるが(65)、一方、柳田国男氏は民謡の「囃子」について、「これの起った始めは、歌としての言葉よりも、さらに一段と適切に内の欲求の現われであったと思う」(66) と述べている。いずれにせよ、聴衆のナムマンダブナムマンダブというあの受け念仏が、同様に担っている役割は、節談説教において、さらに重要なものであろう。このことについては、改めて考えてゆきたいと思う。

同信の者相集まって声をそろえた時に生ずる連帯感や、お互いの信仰を確かめ合い、同じ一つの信仰に繋がる者としての共に在るという力強さに対する自覚は、教学に基づいた信仰とはまた異なった、体験的な信仰である。しかし、そうした集団となるが故のものばかりではなく、もっと直接に体験的な信仰、つまり、教えから出発しながら、〈人間〉を教えに閉じ込めることのない、そして、単なる観念的・意識的把握ではない、個としての感性的・情意的な体験とでも呼ぶべきものが、節談説教において存在するように思われるのである。そこにみられるものが感性であれ感受性であれ、〈感じる〉ということは、これを自分で止めることができないのである。それが、「神話」を自らの表現として解釈することであり、また、それは、遡れば親鸞の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)という独語によって、肯定されるべきものであろう。省念師の説教を聴きに集まった人々は、「ありがたい、ありがたい」と幸福そうに言う。この「ありがたい、ありがたい」の内実を捉えることが、〈交感〉というものの或側面について、探りゆく糸口となるのではないだろうか。
省念師の説教の録音(カセットテープに)を、世話役の人に頼む参詣者は多い。「夜眠れなかったのが、先生〔省念師〕のお話を聞きながらだと眠れるようになった」と言って、大事そうにテープをしまう老女。「ともかく気持ちがスッとする」と言う中年の女性。「イライラしても、テープを聞けば気持ちが治まるから」と、既に何本もテープを持っている老人達。彼らは、月二回の有隣寺(昭和12年、省念師が寺号を取得)の定例会が待ち遠しい人々、テープでもよいから、省念師の説教を毎日聴かずにはおれない人々である(67)。このような人々にとって、その節談説教は、大きな楽しみであると共に、信仰や祈念を背景とした、感性と情操の結晶とも言うべきものなのである。言い換えれば、芸能化されたとして一段低く見られたこの布教活動こそ、人間生活の直中にあって、人々を救い、その心を癒すものである。またそれは、芸能の原点が本来持つ、素朴な力を見せつけることでもあろう。
[日本の藝能は、もとは藝能としての形を有していなかったものが、繰り返して行われてゆくうちに「行動伝承」となり、藝能化して、藝能となってきたものだと考えられる。例えば、「舞」(「踊り」とは異なる)の藝能化の過程のように、無意識的な行動である憑霊状態に入る前後の動作(信仰上の現象として)等が、次第に固定し、意識化されて、藝能を形づくるようになったということである。尚、藝能から更に芸術となっていったものもあるが、芸術となってしまうと、藝能(あるいは民俗芸術)とは言えない。藝能(あるいは民俗芸術)は我々の「生活」に即しているが、芸術は我々の実際の「生活」から遊離しているからである。参考:『折口信夫全集 21 日本芸能史六講(芸能史1)』(中央公論社、1996年)、折口博士記念古代研究所編『折口信夫全集 國文學篇6』第十二巻(中公文庫、1976年)、『折口信夫全集 民俗學篇1』第十五巻(中公文庫、1976年)および『柳田國男全集 13 先祖の話 日本の祭り 神道と民俗学ほか』(ちくま文庫、1990年)。]
しかし、そうした多くの人々の求心にも拘らず、宗門内部における批判や蔑視等、節談説教に対する否定的方針は立って久しく、それに伴う伝承者の激減、あるいは、後継者の有無の問題は非常に大きい。
あのだいたいー昭和八九年頃に、学者方が、節をつけて説教をやるっちゅうことは、どうもその、エー尊い教えを芸人紛いのような話をする、けしからん、こういうことを言いでぇた。ところが、節がいかんというならね、お経様でも節つけずに読んだらどやろ、え、なむあみだぶなむあみだぶ。それがあの節つけて読むと有り難いでしょ。やっぱりね、「山があってね」という言い方、「高あーい山がぁありまぁして」という方が徹底するんじゃねえの。相撲でもね、「ひがし」、「あけぼの」、そんなこと言うたっておもしろないでしょ。水泳でも、「いちのぉコォース、誰々」、そういうのが、やっぱり節というもいかんけど、これはね抑揚、クライマックスになると自然にこう節が出てくる・・・。みんな ほいでまぁ、えー、よう、私のまぁ、随行二十人位おるけれども、こりゃ皆途中でぼおらけぇて、楽なお経読んでぇた方がお礼もよけ貰えるし……。
このように、祖父江省念師の意気は誠に軒昂であった。  
II バプティスト教会の福音伝道  

 

1.バプティスト教会
プロテスタントの一セクトとしてのバプティスト派は、英国の宗教改革の大きなうねりの中から、十七世紀の宗教史に躍り出た信仰集団である。英国国教会内に積極的に留まって、カルヴィン主義の方向性において教会に対する宗教改革の徹底を試みたピューリタンの運動に限界を認め、国教会の外に出て、聖書の理念を実現しようと願った集団が、分離派(あるいは、独立派)であるが、さらに、その中から、「教会のあるべき姿」を巡って、教会の改革をその制度(教会政治)と礼典において徹底しようとしたのが、バプティスト派である(68)。したがって、彼らの教会運営における「会衆主義」と「自覚的信仰告白」に基づくバプテスマの理念においてこそ、バプティスト派の特徴が最も明らかに示されるのである。
このバプティスト派の流れの中には、アルミニウス主義神学に立つジェネラル・バプティスト(the General Baptists)とカルヴィン主義神学に立つパティキュラー・バプティスト(the Particular Baptists)という、二つの異なった形態(69) がみられ、イエスの贖罪の理念におけるその対象については明らかな相違がある。しかしながら、斎藤剛毅氏も述べるように(70)、それらの教理的相違は、彼らにとって共存をはばむ決定的な要因ではなく、彼らは合同することができたのである。つまり、聖書には、選ばれた特定の者に対する救済の教えもあり、且つ、信じる者すべてに対する救済(万人救済)の教えもあるのである。そして、両者とも同じく、自覚的信仰告白に基づく「真のバプテスマ」(「ローマ人への手紙」第六章及び第十章)によってのみ形成される、自覚的信仰共同体としての「キリストの体なる教会」(corpus christi)の実現を強く望みながら、神の前での「信仰と実践の個人の自由」を守ろうとする、自由教会闘争の道を歩んで来た者達である。また、彼らは、教派創立者としての偉大な神学者をもたなかった。その為に、福音的宣教共同体として、キリストにあっては一つである共存的複数の中で、他教派神学にも心を開き、そして、対話をするという、自由性がバプティスト派の信仰の底流にあるのである。けれども、その故にこそ、バプティスト主義(非国教主義、浸礼による信仰者のバプテスマ、反聖職者主義)を中心としたバプティスト派諸教会の教理の純粋性だけは、常に固く守られるべき必要があったのである。
バプティスト派において、「信仰告白」(71) が、個人における回心、聖霊による新生を内的に体験した者の告白であるのは当然のことであるが、それと同時に、信仰の自由を求める彼らの闘いの主要なテーマと彼らの依り所とするものとが、そこにそうした告白という形で表現されているのであれば、彼らの生き方を最もよく示し得るものは、その信仰告白であろう。パティキュラー・バプティストにおけるそれをみてみると、バプテスマは、「信仰を告白した者のみ」(1644年の『ロンドン告白』(72) 第三十九条)に施される。そして、「バプテスマの様式は全身が水の中に沈められる浸礼」(同第四十a条)であるが、これは、信徒が自己における「死」(古い不信の自分の死)と「埋葬」(古い自己中心の自我の葬り)と「復活」(新しい信仰と愛と希望に生きる自分の新生)という内的事実を、目に見えるしるしとして表現するものであるとされる。また、そうした信徒間に身分的上下関係はありえず、「キリストの委託は、弟子たるものすべてに与えられ」ており、会衆が決議すれば、いかなる「宣教する弟子」による礼典の執行も可能であるのである(同第三十六条から第四十一条、及び、第四十五条)。同様に、ジェネラル・バプティストにおけるそれには、自覚的な信仰告白を以てなすところのバプテスマは、「罪のゆるし、死と新生の外的しるしである」(1610年の『信仰概要』(73) 第十条)とされ、さらには、「それは幼児には属さない」(同第十条)と幼児洗礼の否定が明らかに示されている。また、『警告』(Helwys, An Advertisement, 1611)においてみられるように、その会衆主義の徹底性は明らかなものとなっている。つまり、誰でも二人または三人がキリストの名において集うならば、キリストは彼らのただ中にいる(「マタイによる福音書」18・20)のであり、「それゆえに、彼らは神の民、キリストの教会であり、彼らはキリストとキリストのすべての礼典に対して権利をもっている」のである(74)。
イギリスにおける初期バプティスト派諸教会の担い手達は、社会の底辺に生きる人々であった。当時の英国社会の中においては、どのような側面から見ても、彼らが実に「小さい貧しい者の群れ」であったことは疑いのない事実であるとされるが、その経済的理由からも、正式な神学教育を受けた専任の聖職者を招聘することはならず、ただ、彼らの純粋な感性を以て、聖書のみに従い、そして、自分達の中から牧師を選んだのである。それ故、「俗人説教師」、「桶説教師」(75) と嘲笑されたのであるが、「彼らの職業は、牛飼い、ボタン製造師、靴の修繕屋、なめし皮商人、帽子製造師、競馬馬のマッサージ師と、まことに種々様々であった。彼らは当時の言い方によれば《トレイズマン》と呼ばれる人達であった。まさに使徒パウロの如くテントメーカーとしての宣教者であったのである」(76)。
M・トルミー(Tolmie, Murray)氏は、こうした信徒による伝道活動の具体的な状況を、1640年代の「イングランド南部全体の大規模な福音伝道運動の拠点」であった、ジェネラル・バプティスト派の信徒伝道者トマス・ラム(Lambe, Thomas)の教会に触れて述べている。それによれば、トマス・ラムの教会ほど「ロンドンの中で目立つ存在」はなく、特に青年男女を引き寄せることにおいては、「劇場と競い合う」程であり、また、「聖日には、他のセクト及び地区から多くの者達が目新らしいことを求めて、このトマス・ラムの教会へ集まってきた」のである(77)。また、E・ダーガン(Dargan, Edwin C.)氏によれば、バプティストの信徒伝道者で後にベドフォードのバプティスト教会牧師となったジョン・バンヤン(Bunyan, John〔1628−1688〕)の説教は、大会衆を集めて深い感動を与えたものであるが、その主要な優れた点は、彼の霊的な力の活気と熱情、そして、現実性にあったとされている。そうした彼の説教については、バンヤン自身の言葉に次のようなものがあるという。「わたしはわたしが感じたこと、わたしが苦しんで感じたこと、わたしの貧しい魂がその下でうめき、驚き震えていたそのことを説教したのです」(78)。
アメリカにおける最初のバプティストの教会は、イギリスから移民したロジャー・ウィリアムズ(Williams, Roger)らによって、1639年に、当時の「あらゆる種類の下層庶民の吹き溜まり」(79) とも形容された、ロード・アイランドに建てられたものであるとされる(80)。H・リチャード・ニーバー(Niebuhr, Helmut Richard)氏によれば、「バプテスト派諸教会は、必ずしもヨーロッパ的伝統を引くものだったわけではなく、しばしばフロンティアの宗教運動の生粋の申し子であった。彼らは、移民としてニュー・イングランドのフロンティアであったロード・アイランドに教会を設立し、そこで新世界ですでに確立されていた社会からも旧世界の既成社会からも孤立して、そのセクト的原理を培った」(81) のである。そして、バプティスト教会は、当然のことながら、個人の新生を強調するジョナサン・エドワーズ(Edwards, Jonathan〔1703−1758〕)らの「大覚醒」の時代に、つまり、意志と感情を重視し、回心のしるしとして内的な恩寵の経験の明確な表現を要求するリバイバル(revival)の運動によって、「アメリカ教会」、「フロンティア教会」としての大きな成功を手にして、その数年間に教会が増大していったのである。その後19世紀にも、リバイバル運動はバプティスト教会に継承された。バプティスト派は、西南部のフロンティア世界に伸びて開拓民の宗教的ニーズに応えるばかりではなく、その間には、既成の会衆主義の体制教会との関係を保つことにおいて、困難を感じている人々の受け入れ場所ともなった為に、このバプティストの信仰へと回心する個人は夥しい数にのぼったとされる(82)。なお、その黒人信徒について特に述べるならば、例えば、解放奴隷の圧倒的多数がバプティスト信徒になったのであるが、それは、黒人民衆が、バプティスト派の実行する水による浸礼の儀式とバプティスト的礼拝様式に、強く心を引きつけられたことによるものであるとされる。「なぜなら、彼らは彼らのアフリカ的遺産とバプテスト的慣習との間に、連結点を見い出すことができたからである」(83)。
バプティスト派は、このようにして、英国で生まれその後アメリカに渡ると飛躍的な成長を遂げ、パティキュラー・バプティストがその主流をなしながら、今やプロテスタント諸教派の中では、アメリカ最大の教派となるに至っている。パティキュラー・バプティストは、レギュラー・バプティスト(the Regular Baptists)、そして、アメリカにおける分離バプティスト(the Separate Baptists)との合併後に、ユナイテッド・バプティスト(the United Baptists)と呼ばれるようになり、今日の全世界のバプティストの殆どをその内に包含するとされている。一方、ジェネラル・バプティストは、イギリスにおいてパティキュラー・バプティストに吸収、合併されており、また、アメリカにおいて自由意志バプティスト(the Free Will Baptist)派として存在はするものの、その力を充分に発揮することなく現在に至っているとされる。  
2.黒人の霊歌とゴスペル・サウンドの流れ(84)
奴隷としてアメリカに入国したアフリカの黒人達は、その新大陸で、祖国の伝統と文化の一切を捨てるよう強制された。彼らには合法的な婚姻も認められず、父子関係も許されず、家族的愛情から引き離されて、ただ奴隷労働が強いられたのである。彼らに唯一与えられたものは、「聖書」であった。「古い宗教を捨て、彼らは聖書について教えられ、キリストの教えを知り天国にあこがれた。そしてそれを新しい歌にした。黒人霊歌である」(85)。[W・T・ウォーカー氏によれば、霊歌が初めて登場したと予想されるのは、1760年である。 "The best estimate of the earliest appearances of the Spiritual, as we know it, is 1760." Wyatt Tee Walker, "Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change (Valley Forge: Judson Press, 2000), p. 40.]
一般に、黒人の霊歌(Spiritual, Spirituals)とは、「奴隷制時代の黒人達の宗教的体験をうたいあげた歌」、あるいは、「信仰のことば」と定義され、霊歌の「スピリチュアル」は、「世俗的なもの」、「不敬なもの」と対立する、「神を敬うもの」を表わすとされている。ベンジャミン・メイズ(Mays, Benjamin E.)氏は、その神学的分析において、霊歌の意味の「他界的」側面と「報償的」側面を強調する(86) が、ハワード・サーマン(Thurman, Howard)氏は、奴隷達の存在論的衝動に強調を置き、霊歌の最大の宗教的意味は、奴隷制によって絶えず否定されていた彼らの「存在」の肯定に対する(向かう)、奴隷達の探究と主張にあるのだとする(87)。また、J・H・コーン(Cone, James H.)氏においては、「私の意見は、奴隷歌の根底には今まで分析されたことのない、複雑な〈思想〉の世界があるということである。この思想とそれが暗示する根本的世界観を発掘するためには、一層の神学的分析が必要である」(88) と、述べられている。
黒人霊歌とそれが所属する音楽群は、疑いもなく民俗音楽であるが、その構造的起源については、十九世紀末頃から学者の間で激しい論争が行われてきた。まず、ドイツ系の音楽研究家であるリチャード・ウォラシェクが、1893年に発表した『原始音楽』(Primitive Music [Primitive music: An inquiry into the origin and development of music, songs, instruments, dances, and pantomimes of savage races])において、黒人霊歌はヨーロッパ音楽の模倣であると論じたのであるが、これに対して、ハリー・エドワード・クレービエルは、1913年 [その出版は1914年] の『アフロ・アメリカ民謡』(Afro-American Folk songs [Afro-American Folksongs: A Study in Racial and National Music])の中で、黒人霊歌の独創性を強く主張し、これにジョンソンをはじめとする多くの共鳴者が続いたのである。しかし、1928年に、ニューマン・ホワイトが『アメリカ黒人民謡』(American Negro Folk Songs)を、1934年に、ジョージ・パレン・ジャクソンが『南部高地地方の白人霊歌』(White Spirituals of the Southern Uplands [White Spirituals in the Southern Uplands: The Story of the Fasola Folk, Their Songs, Singings, and 'Buckwheat Notes'])をそれぞれに発表し、白人霊歌(89) と黒人霊歌の類似点を挙げた上で、共に、前者が後者に与えた影響を説いたのである。この二人の学説は、多くの支持を得て主流をいくものとなるが、それによって黒人霊歌独創説がまったく息をひそめたわけではなく、両派の論争は現在に迄至っているようである。
山の頂きに身を隠そうと
神さまから身を隠そうと(白人版)。
顔を隠そうと岩山へいった
岩山はさけんだ、 隠れる場所はない、と(黒人版)。
To hide yourself in the mountaintop
To hide yourself from God. (White Spiritual)
Went down to the rocks to hide my face,
The rocks cried out no hiding place. (Negro Spiritual)
これは、よく両者の比較の引き合いに出される、最後の審判の恐怖を語る「隠れる場所はない」(No Hiding Place)であるが、皆河宗一氏は、「黒人霊歌が白人霊歌から影響を受けており、それらの借用であることは、ある程度認めなくてはならぬだろうが、〔中略〕両者を比較してみると黒人版のほうが白人版のそれよりも、力強く、また想像力に富んでいるといえよう」(90) と述べている。
祖国アフリカにあって本来的・文化的に歌を自然なものとした黒人達が、新大陸で奴隷の境遇におかれながら、その苦しみや悲しみの吐け口を歌に求めていくというのは、きわめて自然なことであったであろう。初めは、おそらくフィールド・ソングとして「労働」の歌であったであろうものが、ある時間をかけて、彼らと共にアフリカから齎された宗教心とイエスに対する信仰に必要な適応が熟成した後に、「信仰」の歌となってゆくのである。「新世界のアフリカ人が奴隷主の宗教に適応し、かつアフリカニズムを保持した結果生み出されたものが、今日に至るまで存続している南北戦争前の奴隷のイエス信仰(Jesus-faith)である。黒人霊歌の形で子孫にのこされたこのイエスの信仰が、南北戦争前の奴隷を集団自殺の誘惑から救ったのである。そして、真正の黒人宗教経験の基礎となっているのは、南部の奴隷小屋の中で作られたこの黒人霊歌なのである」(91) と、W・T・ウォーカー(Walker, Wyatt Tee)氏は述べている。
農場主(奴隷所有者)達は、黒人が歌を歌うことを、或場合にははっきりとした要求を以て、大いに奨励したとされる。一つには、話は仕事の手を休めさせるが、歌は仕事の能率を高めるという労働の生産性の向上、それと同時に、奴隷のいる場所についての掌握・確認の為であるが、もう一つには、その歌に表わされる、現世ではなく来世における喜びを説くキリスト教の世界が、奴隷達をして反逆、自殺、逃亡等の行為から防ぐという、或種の安全弁として機能したからである。例えば、「主はひと言もものをいわれなかった」(He Never Said A Mumbling Word)は、
主はピラトの裁きを受けられた
ひと言も ひと言も ひと言もいわれなかった。
They led Him to Pilate's bar
Not a word, not a word, not a word, not a word
They led Him to Pilate's bar
Not a word, not a word, not a word, not a word
They led Him to Pilate's bar
But He never said a mumblin' word
Not a word, not a word, not a word, not a word
と唱うが、それは、ひと言の抗弁もせずに従容として十字架にかけられたイエスの態度から、黒人達に忍苦の精神を学ぶことを教え、それを肯定するものである。黒人霊歌が白人にとってまたとない安全弁となった理由は、こうした霊歌の、奴隷としての実存に心理的な調整を与える手段となる点にあるとされるのである。しかし、ここで注意しなければならないことは、奴隷に対する宗教教育における、「薄められた福音」(92) という、奴隷所有者の側による操作の存在である。多くの場合、奴隷は主人の教会に出席することを許されており、その点からは、白人と黒人のキリスト教徒は同じ礼拝に参加し、同じ教派の教会員であったと言うことも可能である。しかし、その宗教教育については、「奴隷を悪魔から救うには十分であるが、彼らが奴隷状態から救われることを欲するようになるほどのものであってはならなかった。そのため奴隷に読み書きを教えるのを禁じることだけでなく、彼らの宗教体験を注意深く監督することも必要であると考えられた。こうしたことが最もうまくできるのは、彼らを主人の教会に出席させることであった」(93) のである。C・E・リンカーン(Lincoln, C. Eric)氏の論文(94) によれば、あの著名なコトン・メーザー(Mather, Cotton〔1663ー1728〕、会衆派牧師、著作家)でさえも、奴隷の宗教教育については配慮しながら、その教育が労働スケジュールと衝突を起こさないように、また、いかなる反乱や逃亡の計画をも防ぐに十分な人員 [「イングランド系の賢明で善良な者」] を常に配置するようにと、慎重を期していた。そして、多くの場合においてその伝道内容は、奴隷主から見て [「奴隷達を模範的な召し使いとするために」] 健全な聖書的教理、すなわち「奴隷維持」の教理のみを提供するように 、注意が払われていたのである。
しかしそれでもなお、ガードナー・C・テイラー氏が述べるように、「そこには奴隷主たちが聖書の教えとして提示したことが一つあり、同時に奴隷たちが聖書の教えについて聞いた全く違うことがもう一つあるのである。奴隷主たちは奴隷制を『神の定めたもの』として語った。だが奴隷たちは、『私は奴隷になる前に墓に葬られよう』と聞いたのである」(95)。当然のことながら、奴隷達の最大の関心事は、解放と自由(肉体的かつ精神的に)であった。霊歌に一貫して共通するテーマは、「あの世はこんな風ではない」(De udder worl’ is not like dis [The other world is not like this])ということであるが、苦難の共同体の中で、奴隷達は、あの世において、そして望むらくはこの世において解放されることを、つまり、神の超自然的手段によって信仰者が不可能な状況から救い出されるという、聖書的基盤の上の超時間的メッセージを媒介として、その人生を耐え得るものとしたのである。彼らは、霊歌を通して、その信仰を伝達し、救出への希望を語り、異郷の地で喜びをもってイエスの歌を唱ったのである。
こうした黒人霊歌の大きな特徴は、まず、反復、繰り返しが多いことである。つまり、そこでは同じ文句が何度も繰り返されていく。例えば、「キャルヴァリで」(On Calvary)という十六行の歌では、「キャルヴァリで」が十四回、「まこと主は死にたまえり」が二回繰り返されており [「キャルヴァリで」の歌詞について、修士論文の作成時には、皆河宗一氏の 『アメリカ・フォークソングの世界』、民俗民芸双書、(岩崎美術社、1971年)を参照させて頂いた。しかしながら、今日、Hymnal: A Worship Book, Pew Edition (Elgin, Illinois: Brethren Press; Newton, Kansas: Faith and Life Press; Scottdale, Pennsylvania: Mennonite Publishing House, 1992) を参照すると、その頻度は、註のページ上に引用するが、十四回ではなかった。] (II)、また、「主は全世界をその手に入れている」(He's Got the Whole World In His Hand)という四行九連の歌においては、第一連に題名と同じ「主は全世界をその手に入れている」という文句が四回繰り返された(ただし、一箇所に「広い」という形容詞がつく)上で、さらに第四、第八、第九連も、この第一連の繰り返しとなっている。これは、文字の読めない黒人達が、聖書を歌で覚えようとした為であるとされている。つまり、彼らは、聖書の中の記述の要点や核心だけを掴み、簡素な歌詞にして何度も何度も繰り返すことによって、それを脳裏に刻み込もうとしたのである。また、この記憶する作業としての反復や繰り返しが、そのまま歌詞として定着してしまった場合もあると考えられる。次に、黒人霊歌の大きな特徴として挙げられるのは、その交唱的及び答唱的性格である。応答様式は、非常に多くの霊歌に見い出され、霊歌が本来独唱の為に作られたものではないという点を、すなわち、コミュニケーションの存在を、記録するものである。例えば、「わたしは主のみことばの説教を聞いた」(I heard de [the] Preachin' of de [the] Word o'God)は、
雨はどのくらい長く降ったのか、だれか分かるだろうか、
神のみことばを説教した、
40日の間昼も夜も降ったのだ、
神のみことばを説教した。
ヨナはどのくらい長く大魚の腹の中にいたか、
神のみことばを説教した、
3日の間昼も夜も彼は航行したのだ、
神のみことばを説教した。
Lead: How long did it rain? Can any one tell?
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: For forty days an' nights it fell,
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: How long was Jonah in de belly of de whale?
Chorus: Preachin' de word o' God,
Lead: 'Twas three whole days an' nights he sailed,
Chorus: Preachin' de word o' God.
と唱われ、その応答的特性が明白に現われている一例である。
さて、南北戦争以前のアメリカ南部は、黒人奴隷の労働力を基盤とする大プランテーション、いわゆる綿花の王国を築き上げ、独自の伝統と文化を誇っていた。南北戦争に破れ、経済的にも崩壊した後の南部は、曾ての「楽園」ではありえなかったが、旧来の伝統と文化に対する誇りを精神的支柱として復興に励む「南部人」にとっては、やはり彼らの「花咲き、鳥うたう地」であったという。一方、労働力の提供者であった黒人奴隷達は、自由民として解放されたとはいえ、自活能力のないのが大多数の者であり、戦後の混乱の中でお仕着せの自由に却って戸惑い、路頭に迷う者が続出した。1865年3月に創設された解放黒人局による食糧供給等の措置や、北部のキリスト教会を中心とする民間団体による救済が行われはしたが、黒人の生活は、戦前のそれよりも別の意味において悲惨なものとなった。また、その社会的ならびに人格的意義にも拘わらず、彼らが得たのは名ばかりの自由であり、その自由にも白人達は徐々に束縛を加え、不当なる差別は依然として存続した。この後に展開されてゆくアメリカにおける「黒人の闘いの歴史」については、この論文では言及をする力も余裕もないのであるが、黒人教会の存在理由を言わんとする時、その背景には常に「差別」、あるいは、「抑圧」の歴史というものがあることに、留意しなければならないであろう。綿花の畑に響いた霊歌の時代から今日の教会に属するゴスペル・ソングに至る迄ずっと、そうした黒人の宗教的言語が感情喚起的であることは明白であるが、彼らの貧しく抑圧された生活と深い苦悩、そして、愛を求め、来世への憧れの中から迸り出るその表現には、彼らの心の叫びが、今なおはっきりと在るのである。
1863年の「奴隷解放宣言」(96) の後、元奴隷達は、神が自分達を「エジプトの国」から救いたもうたという(97)、単純ではあるが実に深い信仰をもって、自分達の社会機構や制度の、これは黒人教会に集中するものであるが、構築に乗り出していく。「かくして、竹薮や叢林の中の礼拝で満足しなければならなかった巨大な宗教的エネルギーは、『見えざる教会』(98) を『見える教会』に変容する方向へと解放されたのである。黒人の宗教経験は今や建造物を建て、また獲得することへと転換したのである」(99)。
霊歌の創作は奴隷解放宣言後まもなく終結したにも拘わらず、その影響力は生き続け、その発展も解放令と共に終わったわけではない。しかし、黒人教会の機構的・制度的確立に伴い、元奴隷達の拡大していく宗教意識と変化した社会的状況が反映する(100)、彼らの宗教的・礼拝的ニーズに合わせ、また、黒人の識字率の高まりに伴い、使用が可能となり導入が促され、欧米的なワッツ博士(Dr. Watts, I.〔1674−1748〕)とウェスリー兄弟(Wesley, John〔1703ー1791〕とその弟 Charles〔1707−1788〕)及びその他の讃美歌(101) が、黒人教会において用いられるようになるのである。黒人メソジストと黒人バプティストの両者が共にワッツ等の讃美歌を受け入れたのであるが、W・T・ウォーカー氏によれば(102)、これらの讃美歌テキストが黒人礼拝において広範に用いられたのは、確認できる得る限りにおいて、1875年がその絶頂期であり、そうした讃美歌集による礼拝が、黒人教会生活の不可欠な部分となってゆくのである。このことは、しかしながら、彼らにとってその心的基底においては、霊歌的ものの放棄ではなく、また、決して白人的ユーロ・アメリカン化(あるいは、白人教会化)でもなく、元奴隷であった礼拝者達は、ただ、「自分たちと分かち合えるものは何でも利用したのである。それは剽窃といったものではない。むしろ、神に最善のものを献げようとする彼らの誠意であった」(103) はずなのである。しかしそれでも、こうした礼拝様式という外殻的変化が、つまり、それは同時に彼らの〈儀礼〉の変容となるのであるが、その草創期には自然であった〈霊と熱情〉を失いつつ、結果的に、福音の内的・質的変容をも齎し始め、J・H・コーン等諸氏によって、黒人教会は、非常に僅かな事例を除いて、もはやその同伴者である白人教会以上に「キリスト教的ではない」と、痛烈な批判をされるものとなっていったのである。
真正の「黒人教会」の礼拝を支える三大要素は、音楽と説教と祈りである。黒人教会に共通する一つの格言として、「音楽なくして黒人を結集することはできない」というものがあるが、その音楽とは、礼拝様式における決定的な役割を演ずるものであり、最大限の集中と効果とが説教に取り込まれる為に、聴衆の期待(あるいは、雰囲気)を最高頂にまで高める手段とされている。また、「説教壇での強調」に取って代わるものはないとされるその説教は、伝統的に「文字的」であるよりも「聴覚的」である。すなわち、それは、精神(マインド)へのルートとしての視覚(目)に訴えるよりも、第一義的に、心(ハート)へのルートとしての聴覚(耳)に訴えることを目指すものであるとされる。したがって、黒人説教の聴覚的性格はおのずから音楽的資質を纏うものであり、そこには、様々な速度や強調が、さらには、明らかに或「調」になっていると思われる程の抑揚が、はっきりと認められるのである。これは、説教者において、「音楽のリズムの力がメッセージを担っている」という認識がある為であろうとされるが、そこでは、意識するとしないとに拘わらず、説教行為に対して或種の転換が起こっていることとなるのである(104) 。また、説教とは、会衆とのコミュニケーションであり、その場での双方向の意思疎通が試みられる機会であるということも、黒人教会の要素として重要なものである。C・V・ハミルトン(Hamilton, Charles V.)氏は、「黒人の宗教伝統においては、成功する牧師とは老練な雄弁家である。しかし、彼の任務は、それ以上のことを含んでいる。会衆との関係が相互的なのだ。つまり彼が会衆に語りかけ、会衆は語り返すのだ。これは予期されていることだ。多くの教会の集会では、説教の間でのこの語り返しが説教の感銘度を測る確固とした尺度となる。会衆が参加するのである」(105)〔強調は、原文どおり〕と述べているが、説教というものが人々とのコミュニケーション作業であるということは、明らかであろう。したがって、極言すれば、説教とは、説教者と聴衆との共同作業において、人々の臨場するその場で、宗教思想が形成されていくことなのである。そして、黒人教会は、そうした説教の場で実現する牧師と会衆とのコミュニケーション、すなわち、その思想形成を、「聖霊の働き」と呼んでいるのである。さらに、この「聖霊の働き」によって、牧師と会衆は共に、説教において、音楽において、祈りにおいて、「自由」の福音を、そして、その「自由」の世界に存在する〈真の自己〉を直接に体験しながら、神と語るのである。
「ゴスペル音楽の父」とされるトマス・A・ドーシー(Dorsey, Thomas A.〔1899ー1993〕)は、ジョージア州のヴィラ・リカに、バプティスト教会説教師 [Thomas Madison Dorsey] の息子として生まれた。1920年代の初期に、当時、教会における信仰歌が福音伝道の歌と呼ばれていた中で、「ゴスペル・ソング」という言葉を造り出したのも、ドーシー自身である(106)。彼は、[彼の二回目の] 神経衰弱とそれに続く1928年の回心体験(IV) の後に、ゴスペル [ゴスペルブルース] を書き始めている。ゴスペル音楽は、ドーシーの中において、ジョージア・トムという芸名の下に彼が経験したブルース=ジャズという世俗的なものを、遡って彼の少年期における宗教生活と、そして、C・A・ティンドレー(Tindley, C. A.、ペンシルヴァニア州フィラデルフィアのティンドレー聖堂の牧師で、合同メソジスト教会説教者であった)の歌の宗教性とに結びつけたところから生み出された、貧しき人々に語りかける「よき知らせ」(福音)である。そしてそれは同時に、「神についての自己の最も内的な感情を表現し、かつこの表現の一部を成している感情的参与を言い表わすことのできる自分自身の音楽」(107) であった。しかし、この音楽は、その発展の初期にしばしば「罪深い音楽」であるとされ、或種の敵意や拒絶に出会っている。ドーシーは忍耐をした。そして、自分を受け入れてくれる教会ならば何処へでも行き、また全国バプティスト連盟の総会には必ず出席をして、粘り強くその音楽を紹介し続けた結果、遂に「新しい音楽」は受け入れられるに至ったのである。こうしたドーシーの歌は、黒人に限らず、南部の白人キリスト者の心までを奪っていくこととなるのである。
メンフィスのイースト・トリッグ・バプティスト教会のW・ハーバート・ブルースター牧師(Brewster, W. Herbert 〔1897ー1973〕)は、神学博士として優れた学者であるが、同時に、ゴスペル・サウンドのパイオニアの一人として著名であり、A・ヘイルバット(Heilbut, Anthony)の『ゴスペル・サウンド』(THE GOSPEL SOUND: Good News and Bad Times)(108) においても、特に取り上げられている人物である。以下を同書に拠るが、「ゴスペル・ソングは、曲のついた説教だ(A gospel song is a sermon set to music)。そこには、感情と教え、そして、表現の美と輝きがなくてはならない」と、ブルースター牧師は述べている。このゴスペルの説教者は、テネシー州サマーヴィルの小さな農業の町で、1897年に生まれた。当時、その町には、「ワン・ドゥードルをする説教師(wang-doodling preachers)と呼ばれていた人たちが」おり、彼らは「もの悲しい調子で説教をしたが、その説教のことばは、そのままで詩」であったという。そうした古風な片田舎の説教の影響をも窺わせながら、説教壇でのブルースター牧師の語り口は、「十九世紀末期のうねるような(rolling)、弁舌さわやかな名調子」であったとされる。彼は、キリスト教の教えを人々に詳しく説き、また、よりよく理解させる為に、少年期における自らの経験に基づく民俗的な感情を駆使する方法で、ゴスペルを作り、それを広く流布させた。そして、その「教えと感情」(doctrine and sentiment)が見事に結びついたブルースターのゴスペルに対しては、マーカス・ガーヴェイからマーティン・ルーサー・キング博士やマルコムXに至る、偉大な黒人指導者と呼ばれた者達が皆、敬意を表したとされるのである。
ブルースターのゴスペルは、彼自身においては、「証し」そのものであった。そして、「彼ほどはっきりと『わたしは〔神に導かれて〕山の険しい側を登っている』という福音の証人の認識を表現したゴスペルの作者は、他にはいない」(109) とされるのである。そうした宗教的認識の自己表現は、人々の中で、例えば、彼のゴスペルにある「わたしは主を頼り、すべてをおまかせしている」(I'm leaning and depending on the Lord)というフレーズが、南部での日常的慣用句の一つとなった程に、浸透していったのである。また、彼の作曲に負うところの、ブルースの反復楽節にのせて言葉を繰り返す(ブルースと語句の反復との組み合わせ)という強力な手法は、新しく誕生したハード・ゴスペル・スタイルの特徴として定型化されることとなるが、これは、聴衆の目には、あたかも歌い手が感極まって言葉を繰り返しているように見えるものであったという。
わたしは とてもたくさんのことで イエスに感謝しなければならない、
兵士としてこの聖戦に出陣してから、
わたしが受けた祝福をひとつひとつ数える、
神がしてくださったことを知って、
「イエス様 感謝します」という ほんとうにそういう。
〔コーラス〕主よ、感謝します、主よ、感謝します、イエス様、感謝します、主よ、感謝します、主よ、感謝します、あなたはわたしに、とてもよくしてくださった ...... 。
I have so much to thank my Jesus for,
Since I've been a soldier out in this holy war,
I count my blessings one by one,
I just see what God has done,
And then I say I thank you Jesus, oh yes I do.
Chorus: I thank you Lord, I thank you Lord, I thank you Jesus, I thank you Lord, I thank you Lord, you've been so good to me...
しかし、そうした技術的発展の面ばかりではなく、こうしたゴスペルおいて、反復繰り返しというものが、先に述べた霊歌にみられるそれとは異なり、率直な感情表現の中で、よりはっきりと「事実」と「経験」の強調になっていることをもみるべきであろう。それは、ブルースター牧師における事実であり、経験なのである。
このような、「証し」、「事実」、「経験」であるというところに、ゴスペルの特徴の一つであるとされる「人格指向性」の源が存在するのだと言えよう。A・ヘイルバット氏は、「ゴスペルとは歌い手であって、歌ではない」(it's the singer, not the song)と述べているが、ゴスペルの世界は、キリストの教えが、表現者自身の偽りのない真実の経験や問題と直接に結び合わさったところに、発現し得るものである。したがって、ゴスペルは、それぞれの表現者において、〈真の自分〉の姿であり、且つ、私的な証し、すなわち、神の導きや信仰についての体験であることの故に、それぞれに異なったものとなっていく。リロイ・ジョーンズ(Jones, Le Roi)氏は、「音楽は思想の結果である。それは、最も経験的次元で、すなわち心構え、姿勢として完成された思想の結果なのだ」(110) と述べているが、ゴスペルはまた、知識、概念、思想、心的態度、世界観という、表現者の精神の姿そのものを伝達する「語り」である。つまり、音楽は、ゴスペルのスタイルの一部分にすぎないのである。
こうして、ゴスペル・サウンドは、大不況時代(1925ー1940)というアメリカ史上最悪の経済的危機のただ中で生まれた。国家における危機は、まず、貧しき者を打ち砕いた。それは、大多数の黒人とレッド・ネック、あるいは、ブルー・カラーと呼ばれる白人達である。その暗夜の中でつくり出されたゴスペルの形式は、〈聖なる音楽〉に、いわゆる世俗世界からブルース=ジャズの様式化された節まわしを取り入れ、この当時迄には、白人のエヴァンジェリズム(evangelism)的体裁との合体によって、その宗教的・礼拝的表層において殆ど忘れ去られたかのようにみえる、昔の黒人的・宗教的ルーツに再結合したものと言えるであろう。言い換えれば、ユーロ・アメリカ起源のものに、自己の消しがたい刻印をしるす、つまり、黒人の、自己自身であろうとする意識的欲求の始まりであり、それは、ルーツへの、そして、〈霊と熱情〉への回帰の信号であったのである。このようなゴスペル・サウンドの登場は、〈霊と熱情〉への回帰ということにおいて、貧しき白人の中では、曾てのジョナサン・エドワーズ(Edwards, Jonathan〔1703−1758〕)の下での大覚醒運動と19世紀初頭の第二次リバイバル(revival)のフロンティア宗教のような、ピューリタン的〈霊と熱情〉に対する郷愁となったであろう。ゴスペルは、「黒人霊歌の持ち味と、現代社会の注釈、韻律音楽様式の諸要素、それに必要な場合にはユーロ・アメリカン賛美歌の歌詞を抱えこんでいる。このような合成的結合の結果が、圧倒的な荒廃した社会状況に直面しつつなお信仰者の希望を繋ぎとめている信仰歌である、都市霊歌の形式」(111) なのである。  
3.バーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道
平成8年6月3日から同月8日の六日間にわたり、「神への賛美において一つとなった声」("One Voice United in Praise!")というテーマを掲げ、バプティスト教会系の福音伝道者(Evangelist)であるバーバラ・ワード=ファーマー(Ward‐Farmer, Barbara)氏の下で、ゴスペル・ミュージック・ワークショップ(112) が開催された。このワークショップは、在日米軍横田空軍基地の招聘で米国の著名な福音伝道者であるバーバラ氏が来日し、同基地内のウエスト・チャペルが解放されて連日に行われたもので、それは、あくまでも、在日するアメリカ人バプティストの全員(軍関係者、民間人を問わず)と、日本人バプティストの全員をその参加の対象とするものであるとされた。しかしながら、私が参加した五日間においては何れの日にも、アメリカ人バプティスト会衆の中では、おそらく九割が黒人バプティストによって占められる、という状況であった。また、参加した日本人会衆について述べれば、三鷹バプティスト教会や日本バプティスト連盟調布南キリスト教会等を主たる窓口として、日本人バプティスト、そして、「クリスチャンではない」日本人達も含まれるものであった。全体としての会衆の比率は、アメリカ人対日本人としてみる場合、日本人参加者は、160名から200名を超える会衆数(113) の約三割を占める程度であったと思われる。
バーバラ・ワード=ファーマー氏は、エドワード・ワード・シニア(Ward, Edward Sr.)夫妻の子供として、1950年に、テンプル大学病院で生まれた。ワード氏は、米国ペンシルバニア州フィラデルフィアにおける「監督」(Bishop)であり、「長老」(Elder)である。また、母リリアン・ワード(Ward, Lillian)氏は、「信仰の幕屋」(Faith Tabernacle)の前・「宗教的指導者」(pastor)であり、その創設者でもある。現在は、その「生ける神の信仰の幕屋教会」(the Faith Tabernacle Church of the Living God)のパスター(pastor)を、バーバラ氏が務めているという。彼女は、二人の兄弟と三人の姉妹を持つが、弟のバイロン・ワード(Ward, Byron)牧師(minister)が、音楽特派使節として、この時彼女と共に来日している。また、彼女は、その夫兼ビジネス・マネージャーであるローレンス・フォーマー(Farmer, Lawrence)氏の良き妻であり、彼らの四人の子供の良き母親であるという。
ワークショップの第一日目は、参加者間の空気をなごませ、互いによく親しむということをその目的とした、あり合わせの食べ物を持ち寄っての、会食が行われた(114)。食事を始める前には、まず、全員で手をたたくことが求められ、これは暫くの間続けられた。やがてその日の先導者が語り出し、また、数人のバプティストによる「祈り」が神に捧げられたが、この間、人々からは、「アーメン」、「ハレルヤ」、「その通りです、我が主よ」、あるいは、言葉ではない感嘆の音声が、しばしば投げかけられていた。次に、先導者による「主の力を感じましょう」(Feeling the power of the Lord)という呼びかけによって、全員が、手を空中に、或者は両手をまた或者は片手だけを、かざしながら動かし続けた。この所作は、先導者の「感じる」(I'm feeling...)、あるいは、「霊にみちる」(I feel full of the Spirit)という発言がある迄続けられていった。そして、そのことを感謝しながら、最後に、讃美歌を神に向かって歌い、神に語りかけ(Talking to the Lord)た後に、参加者は、共に食卓についたのである。
礼拝は、各日のスケジュールの間に、約三十分かけて行われるが、これは常に、実際のゴスペルの歌唱練習の直前になされ、はっきりとした終了時点がないままに、歌へと移行した。日程に沿って述べれば、二日目、三日目は、主として指揮や歌唱等の技術面についてのセミナーが、そして、四日目には、キリスト教的歴史的事実に基づいたセミナーが開かれた。これらのセミナーにおいてバーバラ氏が述べたことの中で、特に強調された事項を挙げるならば、一つには、歌唱を人的技術ないしは人的所産として捉えるという大きな誤りに対する警告であり、歌の「神への帰属性」ということである。つまり、「歌うこと」は、我々のアジェンダ(agenda)では毛頭なくて、神のアジェンダであるということ、同時に、その歌う行為は、神をほめまつることであり、さらには、自己自身を表現することであり、この故に、神と人との正式なコミュニケーション(formal communication)の一形態となるのである。「歌うこと」が為される時に、神の栄光は現われ(the glory of God comes down)、そして、聖霊が我々をして歌わしむのである(the Holy Spirit even dictates how to sing)。したがって、「歌うこと」は、分かつ(share)ことであり、奉仕の務めの一部である。なぜならば、それは説教と等しく、聖霊が宿り、福音を宣べ伝えることであるからなのである(新約聖書「ルカによる福音書」第四章十八節)。もう一つには、「歌うこと」の中に、或「力」が存在するということである。例えばそれは、獄中のパウロが歌をうたい始めると、にわかに地震が起こり、戸を開き鎖を解いて、パウロ達を自由にしたように(新約「使徒行伝」第十六章二十五節)、奇蹟を齎すものなのである。

第五日目は、翌日に控えた福生市公会堂におけるコンサートに向けて、最も〈霊と熱情〉のあるワークショップが展開されていった。アメリカ人バプティスト及び日本人バプティスト数名による信仰告白もこの日に初めて為され、ゴスペル音楽のワークショップというよりも、そこで行われたすべてのことが、彼らの〈儀礼〉であったように思われる四時間半であった。また、この日には、通常の会衆全体に対するそればかりではなく、特別に、二つの異なった対象に集中した、二つの大きな伝道が展開されていった。その一つは、クリスチャンではない者達をも含む「迷える」人々に対する、救済を目的する伝道であり、もう一つは、牧師や伝道師を含むバプティストとしての先導となる人々に対する、「霊」ないしは「力」の賦与を目的とする伝道である。その内容については、以下においても、この日の展開に順じてそのごく一部を述べるが、私の乏しい能力による日本語訳の稚拙さを補う為に、またそれ故、述べられたことそのものを正確に記すことが必要であると思われるので、「資料」として、後の頁に、可能な限りにおいて筆録をする。
六時から開始されたこの五日目のスケジュールが、その半ばに差しかかる頃、この日二度目の大きな「祈り」に続いて、会衆の中にいるであろう、心弱くなっている人々、苦悩の内に答えとなる何かを求めている人々、そして、「クリスチャンではない」日本の人々に対しての、特別な〈祈りと語りかけ〉が行われ始めた(115)。おだやかなゴスペル音楽の演奏と、会衆の時々に発する信仰表白の声の中で、人々は、祭壇に集められ、また、集まっていく。バーバラ氏は、前田重雄牧師(調布南キリスト教会)と共に、礼拝堂前方にそれらの人々を招きながら、彼らの為に祈り、語りかけてゆくのである。
〔バーバラ氏〕 あなた達がやって来る間に、主が私に教えてくれたのは、私達の中の或者は少し、あるいは、全く英語を話さない、けれども、神に対しては、二ヶ国語併用で、再びその身を投げ出せる (but can make a bilingual recommitment to God)ということ。あなた達は「みことば」(the Word〔福音〕)を知っているでしょう、「みことば」を聞いてきたでしょう。もし、ここに、歌うことが大好きなのに、背教者(a backslider)のままで、道を間違えている誰かがいるのなら、主は、あなたに手を伸ばして、そして、もう一度あなたに抱きしめてもらいたいの、なぜなら、主は、あなたを愛しているから。 あなたにも、この祭壇に来て欲しい。誰があなたのことを知ろうと知るまいと、構わないで、なぜなら、今日、私はあなたを助けようとしているのだから。主は言われる、主は、あなたが背教者であることをご存じでも、あなたを愛していると。……ここに来て欲しいの、さあ、そうしてちょうだい、ええ、そうよ、ええ、そうよ、ええ、それでいいの、しゃんとして。誰があなたを見ていようとも、構わないで、あなたこそが、神のみ前に立とうとする人、あなたこそが、神のみ前に立つこととなる人なのよ。ええ、そうよ、ええ、そうよ、それでいいの、……。
礼拝堂の中では、既に数名の者が席を立って、バーバラ氏のいる前方の祭壇へと向かっている。そして、進み来ようとする者一人一人に対して、「それでいいの、それでいいの」と励ましつつ、バーバラ氏は、静かに語りかけていく。祭壇では、それぞれの「迷える者」に対して二名の日米バプティストがぴったりと寄り添い、バーバラ氏と前田牧師を助けながら、そうした人々への励ましと祈りを強めている。人々は、ゴスペル・ソングを口づさむ。会衆の中から声があがる、「ハレルヤ!」、「神よ、感謝します!」。
〔バーバラ氏〕……ハレルヤ。まだまだ遅くない。ハレルヤ、遅すぎることなんてない。イエスのところに帰っていらっしゃい。まだまだ遅くない。遅すぎることなんてない。
会衆の発する喜びの音声の中で、バーバラ氏は、進んで来た者達を抱きかかえんばかりに迎えながら、祈り、そして、語りかけている。
〔バーバラ氏〕……まあ!目を見張るばかり(Hey, look at you)。……〔会衆に向かい〕イエスの「み名」において、誰かを抱きしめて(Somebody give somebody a hug in the Name of Jesus)。 イエスのみ名において、誰かを抱きしめて。イエスのみ名において、誰かを抱きしめて。
〔バーバラ氏〕……これで、いい。ハレルヤ。ハレルヤ。・・私達を祝福してください。イエスさま、私達を祝福してください。私達を祝福してください。
バーバラ氏のその言葉に従い、会衆は抱き合い、あちらこちらから、「ああ、イエスさま、そうです、イエスさま」(Oh, Jesus. yes, Jesus)というような声が上がっている。
〔バーバラ氏〕……これで、いい。ハレルヤ。ハレルヤ。……私達を祝福してください。イエスさま、私達を祝福してください。私達を祝福してください。
バーバラ氏は、依然として「迷える者」達の間を動き回りながら、その一人一人の為に祈り、しかし、今や力強く語っている。そして、会衆にも向かうのである。
〔バーバラ氏〕…ハレルヤ。主が、今夜あなたの為に「何か」をして下さったのだということを信ずるならば、その手を上げて、その信仰をみせて。ねえ、主が〔ここに〕お立ち寄りになったってこと、嬉しくない? 主がお立ち寄りになられたこと、嬉しくない?主がお立ち寄りになられたこと、嬉しくて幸せじゃない?〔会衆の中からは、「アーメン」、「主よ」というような声が、そして、拍手が湧く〕......
〔バーバラ氏〕……「霊」の内にありなさい(Stay in the Spirit)。「霊」の内にありなさい。そのまま、同じ「霊」の内にありなさい。
バーバラ氏は、この時迄に祭壇に進み来た人々に対する、個別の祈りをほぼ済ませ、再び会衆に向かっていく。
〔バーバラ氏〕…イエスさま、感謝いたします。……本当にやりがいのあることでした。正にやりがいのあることだった、そうでしょう?もし、私達の他には、もう来る人が誰もいないのであれば…〔拍手が湧く〕…私は、今すぐにでも、飛行機に乗って、フィラデルフィアに帰れるわ。それが、たった今私の感じていること。どうしてだか解る?なぜなら、私達の伝道(mission)が成し遂げられたから。 ああ、神さま。 私は、私達の伝道が成し遂げられたのだ、と言ったのよ。〔拍手が湧く〕……あなた達は、イエスのみ名の力とその強さを感じてしまっている。だから、私達は、迷っていたこれらの人々を救ったの。おお!そうです。〔拍手が湧く〕……〔祭壇に集まっていた者達の中の、一人の白人女性を指して〕 この女性は、ここに来て、そして、イエスを彼女の救い主として受け入れた。そこに誰か、イエスとはどなたであるのかを知っている人がいるはずよ。そして、そんな人達にとっては、ああ、神さま、あなた達には、 一人の親友〔イエスを指す〕がいる。ねえ、こっちにいらっしゃい……。
その女性がバーバラ氏の横に支えられて泣きながら立つと、礼拝堂のあちらこちらで、歓喜の叫びが起こり、やがて、或者は泣き出し、また或者は呻き声を立ててゆく。〔また、これから暫く後に、祭壇では、バーバラ氏が、私を含む「クリスチャンではない」日本人に対しても一人づつ、その額に彼女の手をあてながら、祈ってゆく。しかし、その祈りの内容については、彼女の声が低くつぶやくようであった為に、リズムと音声としてのみ、伝わるだけであった。〕
〔バーバラ氏〕……イエスさま、感謝します。イエスさま、感謝します。イエスさま、感謝します。切り放して(Cut it loose)。切り放して。切り放して。私は自由だ。……私を自由に。〔拍手と叫び〕……私を自由に。私を自由に。そうよ、解放して(Loose)。解放して、完全に。切り放して。切り放して。切り放して。…〔拍手と叫び〕…私は自由だ。……イエスさま、感謝します。イエスと共に、あなたの魂を解き放ちなさい(Set your soul free with Jesus)。あなたの魂を放ちなさい、放ちなさい(Set it loose)。そう、そうやって、魂を放ちなさい。切り放して(Cut it loose)。ハレルヤ! 私は自由だ。私は自由だ。……あなた達、感じられた?私はそれを感じられたわ。私は自由を感じる(I feel loose)。……ハレルヤ!私は、解き放たれた。私は自由だ。主は、私を自由にして下さった。主がおいでになられ、私を自由にした、彼が、私を解き放って下さった。〔拍手と叫び〕…ハレルヤ!ハレルヤ!
バーバラ氏の語調は、非常に鋭く強くなり、そして、そのリズムは変化し、速度を増していく。会衆の中からは、拍手や足踏み、その他のありとあらゆる意味不明の、しかしながら、明らかに彼らの「至福」を表わすと思われる音声が、湧き上がっている。そして、この礼拝堂に盈ちゆくこうした新たな雰囲気の中で、横田空軍基地のサンダース従軍牧師(Chaplain Sanders)が、祭壇の前に飛び出し、語り始める。
〔サンダース牧師〕……〔拍手と叫びが続く〕もし、神が、今夜ここに、いらっしゃるのだと信ずるならば、彼をほめたたえよ。私は、彼をほめたたえよ、と言ったのです。彼を、あなた方の心(heart)の中へ。ほめたたえよ。
この間にはずっと、会衆の手拍子と呼応の声が続いている。演奏される音楽も、一変してその調子を速め、曲ではなくむしろリズム音となっていた。
……それで、もしも、あなたが救われていなければ、私は今この時に、あなたを主へと導くつもりだ。主は、まさに、いらっしゃろうとし、あなたを高くしようとしている(He's going to come and lift you up)。さあ、主をほめたたえよ。私が三つ数えたら、主をほめたたえよ、いち! にい! さん!〔会衆の「ハレルヤ」の声、歓呼の声〕我々は、彼のみ名をたたえようとしている。我々は、主をたたえようとしている。我々は、彼をほめたたえる為にここにいるのだ。神をたたえよ……。
会衆からは、大きな拍手と共に、さまざまな歓呼の声が湧き起こっている。人々は、漸次、激しい昂揚の状態へと進んでいくようである。そして、私から二列程後の女性は、抑えきれずに泣き声を出したかとおもうと、礼拝堂の左壁際の床に突っ伏してしまい、意味のない「声」もしくは「音」を低く発している。それに気づいた二人のアメリカ人女性が、彼女のところへ急ぎ、背中に手を置いた。彼女達に限らず、このような人々のさまざまな動きが、礼拝堂の至るところで始まっていた。
……解き放て!切り放て!解き放て!解き放て!解き放て!ハレルヤ!イエスの「み名」  において、切り放て!切り放て!ハレルヤ!解き放て!ハレルヤ!アーメン!ハレルヤ!アーメン!ハレルヤ!解き放て!切り放て!ハレルヤ!
サンダース従軍牧師の言葉がマイクを通して礼拝堂に響く中で、床に伏せたままの女性に対して発せられる女達の声が、サンダース牧師のそれと混じり合いながら、繰り返される。
……ハレルヤ!感謝します!感謝します!感謝します!感謝します!ハレルヤ!感謝しま  す!感謝します!感謝します!ハレルヤ!感謝します!感謝します!ハレルヤ!イエスさま、感謝します!イエスさま、感謝します!イエスさま、感謝します!
〔サンダース牧師〕〔ここで注意が必要であるのは、通訳の女性が、 例えば、「神の力を必要としている人は、ここへ来てください」と、つま り、サンダース牧師の述べる内容とは明らかに違うことを、しばしば伝えていることである。したがって、日本人会衆は、異なった「説教」をしばしば聴いていることとなるのである。〕・・・神の力を、あなたは、感じることさえできる。今すぐに、あなたはここへ、私のところへ来なければいけない。私にはわかっている、今、あなたがその力を持っていることが。すべての人々に宿る聖霊について、私は告げなければならない。誰かが神の力を得たのだ。誰かが、そのように、神の力を手にした。……あなたは、何と言われたのか、何が為されたのか、その全てを理解できなくてもよい。ただ、神に身を任せなさい(just surrender to Him)。主にその身を投げ  出しなさい。そこに、立ちなさい。主がまさに「我を信じよ」とおっしゃっているところです。……もしそこに、今この時にも、あなたの人生に、イエスを完全に受け入れられない誰かがいるのなら、あなたも、この祭壇にどうぞ来なさい、そして、今、イエスを受け入れるのです。恥ずかしがらないで。〔会衆の拍手と「ハレルヤ」の声〕……私は、あなた達を、神のところへ連れていく。今から私は、あなた方全員〔イエスを完全に受け入れられないでいる 人々〕に、この祭壇へ来るようにお願いする。まだそこに立っているあなた方、今、祭壇に来ようとするこれらの人達の為にどうか祈ってください。我々は、これらのイエス・キリストと光を捜し求めている人達の為に、ここへ来て、通訳(interpret)をする人を必要とします。神の力を感じている人も、ここへ来て欲しい。今この時に、我々と共に在る力を感じている人達にです。そのあなた達に、今すぐに、彼ら〔イエス・キリストと光を捜し求める人達〕の上にその手を按いて、そして、祈って欲しいのです。彼らの為に祈り、彼らに神の力を感じさせるのです……
バーバラ氏とサンダース牧師は、祭壇に再び集まった人々の間を動きまわりながら、語りかけ、そして、その一人一人に手を置いて祈り続ける。神の力を感じているバプティスト達が、そうした二人を助けている。音楽は、もとのおだやかな調子のものへと既に戻り、会衆は、自分達の「祈り」の表われとして、それぞれ思い思いに、歌い、立ち上がり、手を叩き、身体を揺らし、「ハレルヤ、イエスさま」と唱え、「感謝します、主よ」と叫ぶ。
このようにして、心弱くなっている人々、苦悩の内に答えとなる何かを求めている人々、そして、「クリスチャンではない」日本の人々に対しての、特別な救済が終わりになると、次には、会衆の中の霊的リーダー(116) に対する、特別な〈祈りと語りかけ〉が開始された。バーバラ氏は、そうしたリーダー達に、礼拝堂中央の通路に一列になって立つように求める。そして、彼女は、祭壇から中央通路に行き、そこで列になった彼らのすぐ傍を歩きながら、語り続けていくのである。
〔バーバラ氏〕 ……主は、私に教えてくれた、なぜこんなとをなさっているのか。それは、なぜなら、「癒し」が随分と不十分になるだろうから(It's because the healing would be too bad)。ほらね、あなた達だって、少し前に、そして、昨日も、もう「癒し」は済んだのだと考えてしまったでしょう。主は、大変に怒っていらっしゃる。人が悔い改め(one repents)ても、天は喜ぶ。けれども、もし、悪くなったとしても、主は、わたし達をお赦しになる。〔「その通り」という声〕見てごらんなさい、何人の人が、今夜ここで、神に引き渡されたか。見てごらんなさい、どれだけの人が、解き放たれたか。見てごらんなさい、どれだけか、それで、よく聞いて、主は、圧迫と試練が始まっていることを、私達に知らせていらっしゃる。「彼」〔これは、サタン[Satan]を指す〕は、この先もそうだけれど、もう既に、リーダー達を攻撃し始めた。なぜならば、もしも「彼」が、指導者集団を捕まえ、攻撃し、そして、滅ぼすことが出来るならば、覚えているでしょう、神は、その民(the people)に奉仕(minister)させる為に、人々を使われる。もしも、あなた達が危険にさらされて、もしも、あなた達が、散々に殴りつけられて、今にも倒れそうであるならば、他の誰がどうやって神の言葉を聞けるというの?勝つだけの価値がある一つの「霊の戦い」(a spiritual war)が存在する、そして、それをあなた達は知っている。私達は勝たなければならない。「霊の戦い」は、続いている。けれども、神は、力を持ち、全ての力を持ち、その力をあなた達に与えるつもりです。そして、神が与えてくれたその力は、あなた達の中へと放たれる、もし、「惡」(evil)がやって来ても、あなた達が立つことが出来るように。神は、あなた達にもう少し成長してもらいたいだけ。彼は、あなた達をより強くしようとしている、なぜなら、あなた達の為の、数々の奉仕(ministries)があるからです。彼は、あなた達の職能を通して、雨と水(117) から実に最良のもの(118) を得ようとしている(He's going to get real fat off of rain and water through your office)。……彼は、あなた達を最前線に置きたい。彼はあなた達に、新たに油を注ぎたい(He wants to give you a fresh anointing)、前であっても、なぜならば、ハレルヤ、今宵が終わってしまう前でさえも、あなた達が、まさに彼と話をすることとなるから。〔「ハレルヤ」という声〕あなた達は「手を按く」(119) ことができないかもしれない、けれども、神は、あなた達に「みことば」を語る賜物を授けるおつもりです(God is going to endow you to speak the Word)。ああ、そうです。神は、私達を助けて下さるはず。「みことば」を述べよ。あなた達、これらの解放された(delivered)人々の全員が、見えるでしょ?神は、あなた達に、これらの人々の「霊的交渉のパートナー」(their prayer partners)となってもらわなければならない。神は、あなた達に、〔「彼」に〕立ち向かってもらわなければならない。神は、あなた達をお使いになる、ハレルヤ!〔人々を〕按手するのに。
バーバラ氏は、歩き回り、霊的リーダーの列にある一 人一人に対しながら、彼女に触れることを求めていく。この時、彼女の人間的身体をその媒介として、神が、物理的接触を試みるのであろうか。
神は、ただ、私に触れる(touch)よう求められている、ただそれだけ。ちょっと手を伸ばして、私の手に触れてごらんなさい。私と共に祈って。祈って。ただ、触れるだけ(Just a touch)ハレルヤ!なぜならば、彼こそが、「肉」(the flesh)〔バーバラ氏のことを指す〕を通して触れようとしている、その人なのだから。それらの手と手〔これは、バーバラ氏の手と直接に触れ合ったリーダー達全員の手を指す〕を以て、私達を打ち開きましょう。私達が「癒しの霊的交渉」(the prayer of healing)を祈る時に、あなた達に来て欲しい。私達は按手をします。私達は、イエスのみ名によって、祈るのです。私達は、あなた達が私達を癒してくれることを(that you will heal us)、固く信じます、私達が祈る時はいつでも。というのは、それは、私達自身の力によるものでもなく、また、呪術(magic)によるものでもなくて、私達が、私達の存在の中に動いているのを感ずる、その「聖霊」(thy Spirit that we feel it moving through our being)によるものなのです。
こうして、会衆の中の霊的リーダーに対する特別な祈りと賜物の賦与がなされると、バーバラ氏は、再び全会衆に向けて語り始める。もし神が、私達と共に在るのなら、誰が私達に対抗し得るであろうか。私達は、イエスのみ名において、大丈夫なのである。そして、彼女は、一つの曲を歌うことを求める。その曲は、「もし神が共にいてくだされば」(If God Be For Us!)である。  
III 交感の宗教性  

 

1.〈節談説教〉のことば(一)(120)
「法座」とは、サンスクリット語のダルマアーサナ(dharmaーasana)の訳で、文字通りに「法」の座という意味であるが、直接的には仏陀が法を説く座席、すなわち、師子座と同義であり、さらに「法筵」とも言われるように、仏法が説かれる場、信仰を語り合う場を指すものであるとされる。仏教における最初の法座は、言うまでもなく、釋尊の初転法輪(121) である。そこに注目すべきことは、この初転法輪が、「梵天勧請の説話」としてよく知られるように、釋尊のためらいの後の決断であったということである。釋尊のこのためらいは、藤井正雄先生によれば、「悟りが本来内なるものであり、全身全霊のものであることを物語るもの」(122) なのである。
このように、仏陀ですら一度は不可能であると断念した言語による伝達を、果たして人間が可能ならしめる方法があるのであろうか。日常生活における単なる意思の疎通に際してさえ、時には、如何なる明瞭な言語をもってしても真意を相手に伝達し得ずに終わり、言葉や文字によるそれが、必ずしも十全でないことが明らかとなる。そしてこのことは、内的な感覚や情意というもののように、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実の伝達においては、より一層に明らかなことなのである。ましてや、人間の日常に体験し得ない究極的価値の内容を、言葉や文字によって表現し、そして、それを他の人間に伝達することには、明らかな限界があるはずである。こうした問いかけがあってこそ、言葉や文字による伝達だけでは充分でないとする人々のいとなみとして、「儀礼の言語」というものの意義が生まれるのである。このもう一つの言語によって、自己における主観性の直接的表現の意味内容をも、すなわち、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実をも、伝達することが可能となっていくのである。
人間がその意思を他の人間に伝達する場合には、それでもなお、言葉や文字という言語によってなされることが普通であり、その伝達は高度に完成され得るし、それにしばしば効果的でさえある。特に言葉は、人間社会の中で最も大切な記号体系であり、また、こうした言葉の基礎は、言うまでもなく、人間身体に固有の、音声による意思表出を可能とするその能力にある [言語は、記号体系である。そして、その基本的構成単位は記号である。例えば、言語を、人間社会の中で最も重要な記号体系である音声記号の体系として、定義することも可能である]。人間の日常生活において対象となる共通の事物が、言語による意味づけによって維持されている限りは、言葉を通じての客観化は、日常生活のあらゆる事物や経験を誰の前にも「現前化」し得る力をもつものである。つまりは、P・L・バーガー、T・ルックマンの両氏によって、「ことばを通じての客観化によって、世界の全体はいついかなる瞬間においてもわたしの目の前にあらわれうるのである」(123) と述べられたことなのである。しかしながら、言語の性格ということを問題とする時に、一般的な言語と儀礼の言語との相違は、隔絶たるものとなる。なぜならば、一般的な言語が、たとえそれが複合的意味をもち象徴と連関しているとしても、受け取る者によって理解が異なることを許容する性格を有する、つまり、確定した意味をもつ答えや固定された解釈をもたぬのに対して、儀礼の言語は、絶対的決定的「意味づけ」の下になされ、また、そうした伝達には或種の権威ないしは力が附随しつつ、その伝達の完全性が期待されるという点において、多義的な日常的それとは性格を異にしていると言えるからである。さらに言えば、ウィリアム・E・ペイドン(Paden, William E.)氏が述べるように(124)、儀礼の言語は、「その他のいかなる媒介を経ても、それほど効果的に言うことのできないことを『言う』」のであり、また、「儀礼は、その要点を、感覚の世界に、直接に表現する。儀礼は、触ることができ、見ることができ、聞くことができ、肉体的である。何にもまして、それは、体現される。儀礼の言語は、行為そのものである。儀礼は、言葉だけではできないことを行う」ものなのである。
つまり、儀礼の言語においては、部分的、一面的なものではなく全きものの伝達が望まれているのである。言い換えれば、儀礼とは、究極的価値についての全きものの伝達を望む人間の真摯な姿勢とも言えるもので、そこでは、ただ頭で教えを「読む」のではなく、五感(視・聴・味・嗅・触)を活用することによって、教えを「聞く」ことがなされるのである。そして、この世のものを捨て、すべてを捨て去る時に、人間の感覚はさらに鋭くなってゆく(125)。儀礼とは、そうした果ての最も研ぎ澄まされた感覚としての人間の感性が、〈自分が何者であるのか〉を知り、そして、その〈真の自分〉の姿となることを可能ならしめるものなのである。
人間の音声の問題としては、感情や情緒の表現記号となる音楽的な音身振り(126) があるが、人間の声は、また、音楽のもつ別種の表現方法をも使用している。高低、緩急、強弱のコントラストや、音階を上下に動く変化等がそれであるが、E・B・タイラー(Tylor, Edward B.)氏は、「これらの手段を駆使すれば、話し手は、聴く者の心をして、淡い倦怠感や驚愕、歓喜にたかまってゆく活き活きした陽気な気持ちの動きや、次第に静まってゆく激怒のほとばしりにいたる気分の全域を体験させることも可能となってくる」(127) と述べている。また、養老孟司氏が指摘するように、「音」は人間が耽溺しやすい感覚の一つであり、そして、「めまい」というものも、耳で感じる感覚である(128)。
このようなところに、説教者によるその人為的技術をも含めた、〈節談説教〉における音楽性と「音」の重要性がはっきりと窺えるのである。音というものは宗教体験にとって非常に重要な要素だと考えられるのであるが、音が何か固有の力をもって、人間の無意識や、脳の報酬系の神経と生理学的次元に対して(129)、直接的効果を及ぼすことについての解明は、しかしながら、将来の問題に属しているのである。
〈節談説教〉においては、記号体系の中の言語のみならず、音の響きやリズム、そして、「節」ないしは「調」が重視されているということは、第一章及び第二章でみてきた通りであるが、その結果として、〈節談説教〉における音声言語は多層性を有するものとなっているのである。鎌田東二氏は、言語のもつ多次元性を、1 言語の物質的次元、2 言語の生命的次元、3 言語の社会的次元、4 言語の霊的次元の四つに区分しているが(130)、そこから発展して、〈節談説教〉における説教者の言語というものについて考察する場合には、次のような六つの点が挙げられるのではないだろうか。つまり、説教者の言語とは、1 言語の意味作用が未だないところで、音を身体に響かせ、意識や精神の覚醒あるいは変容を促していく層、2 言語が発声される時に深く相関する呼吸作用によって、生活体的生命のリズムとゆらぎ(fluctuation)ともなり得る層(131)、3 意識の共同主観性の中で意味伝達がなされる層、4 意味の中に欲動的〈情念〉を通じさせる層、さらにそれらの上に、5 もっと大きな意味の枠組みから発する光、すなわち、宗教的生命と力とを与える何かが現われる層、そして、6 言語の意味作用が既にない、つまり、言語の意味作用を突き抜け、象徴機能へと転位せず、それらを超出して作用するというような、リミナル(liminal)な言語が言語そのものとして生きる層(132) によって、多層構造をなしていると考えられるのである。言い換えれば、このような層が複数のまま一挙に顕在化する言語が、〈節談説教〉のことばであると言うことも可能であろう。先に述べた〈節談説教〉における音楽性と「音」の重視ということは、日常的言語を以てなされる説教において、このような多層性の言語空間を構築することによって、説教者が、より正確な思想表現を以てその伝達の完全性を目指す故の、一つの試みであるとも言えるのである。また、彼の演技性、あるいは、身体言語についても、〈節談説教〉をすなわち儀礼であるとする視座からは、宗教的真理の伝達を全きものに近づける為の一要素となるのである。
浄土真宗の節談説教において、説教を聴聞すること、聴聞者の反応、節に陶然と酔うこと、そして、「受け念仏」が湧き起こる昂揚状態等は、儀礼の時間の諸形態である。さらに、祖父江省念師において、人為的技術を忘れ「自然に節が出てくる」状態や、譬喩因縁談を語る中で、聖人や妙好人になりきること等も、儀礼の時間の中に在るからである。バプティスト教会においても、同様に、説教を聞くこと、ゴスペルを歌うこと、会衆の反応、そして、「聖霊の内にある」もしくは「神の力を感じている」昂揚状態等は、やはり儀礼の時間の諸形態である。さらに、バーバラ・ワード=ファーマー氏において、突然踊り出すこと、手に触れること等も、同様に儀礼の時間の中に在るからである。
さて、聖書の宗教は、「ことばの宗教」である。旧約聖書の「創世記」の初めには、「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と記され、また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」の初めには、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と記されている。浅野順一氏によれば(133)、旧約において、ことばを意味する原語に「ダーバール」(dabar)があり、この語の意味は、一つには、「背後にある」ということ、そして、もう一つには、その背後にあるものが前に出ていく、という意味であるという。つまり、「ことば」とは「具体化すること」を表わし、聖書のことばが事実として実現しないのであれば、それは「ことば」とは言えないのである。言い換えれば、理念の具体化である。「ことばは背後にある意味が前に出てきて、ただ口や筆による表現というよりも、むしろ事実、行為による表現」となり、したがって、「ことばにそれ自身がみずからを実現していく力がある」(134) のである。
ここに、日本の言霊信仰と通底するものを、見い出すことは可能であろうか。第一章で述べたようにこの論文においては、それについて私は言及し得ないのである。ただ、こうした、一面では「言語の呪力」にも繋がるであろう「ことば」の在り方が、〈儀礼〉というものの行為の発現や表出の過程と、ごく接近したものであることをみるばかりである。第二章でみてきたように、バーバラ氏は、その伝道において、何度「イエスのみ名によって」と繰り返し言ったことであろう。しかして、このような「ことば」は、何処から来るものなのであろうか。神学者であるR・ボーレン(Bohhren, Rudolf)氏は、聖霊を「言葉を与える者」と呼び、また、説教の行為において霊と言葉との統一へと至るのであれば、説教の行為そのものが、奇蹟の高調の時となると述べている(135)。これは、例えば、説教において「罪の赦し」ないしは「癒し」が現実化するならば、それは「悪魔ばらい」を行うのであって、説教は、奇蹟の出来事となり、しるしとなるということである。説教の行為そのものが奇蹟の高調の時となるという点では、第一章で触れたように、澄憲が雨を降らせ、聖覚が病を治したという両者の説教の霊験が伝えられているが、これらの叙述は説教そのものが多面体であることを、すなわち、「儀礼複合」であることを示すものである。説教が、宗教的真理を言葉をもって「伝達する行為」としての、それだけでは決してないということなのである。
折口信夫氏は、神の来訪、マレビトの訪れとは、文字通りに「音連れ」であるのだと説いた。そして、鎌田東二氏は、声音の力について、次のように述べる。「たとえば、祝詞を唱え、真言や念仏を誦する声が、精神や身体を柔らかくほぐし、マッサージし、気息の流れを浄化し、活性化することをわたしたちはしばしば体験する」、「われわれが音楽に陶酔し、魂が浄化されるような気分に誘われることがままあるのは、そもそも声や音が、身体意識の領域と状態を微妙に、また確実に変容させる力を宿しているからである。それだから、声音には治療力がある」、「歌も、音楽も、説教も、聖句の詠唱も、それが浄霊の業に通じることがあるのは、声音が心身を浄める力を持っているからである」(136)。
「癒し」という言葉には、日常的用法において、実に広い行動学的な意味合いがあるとさる。具体的には、触り(touching)、抱きかかえ(holding)、語りかけ(talking)、見つめ、観察し(watching)、食事を与え(feeding)、世話をし(care)、支援し助け(support and help)、甦らせる(rehabilitation)というような、一連の再社会化の為の援助システムにおける諸行為となるが、この内に行われる、言葉の介在する「聞きとり、語りかける」ということは、人間が固有する高度な精神機能の業である(137)。例えば、人間の精神の病においては、実際に言葉は発病の原因ともなるし、治療の道具ともなっている。しかし、今日のコミュニケーション理論によって知られるように、同じ内容の言葉(文章)で説得しても、言葉を発する説得者によってその効果には著しい違いがあるという。精神医学の高橋紳吾氏は、「ことばに『感染力』があるとすれば、発せれたことばが真実かどうかということよりも、発した人がいかに信念の人であり、受け手がその人を信用したかという点に本質的な問題の所在がある」(138) と述べている。
このことを説教に置きかえれば、説教者における「自信教人信」(『往生礼讃』)という心得や、説教者というその人格に対する聴衆の信頼が、説教に際して必要不可欠であることが示される。中野隆元氏は、「宗教の弁論は、単なる言語、単なる音声の伝道ではない、生命の伝達である。此の生命の伝達は、他の介在者を除去したる人格と人格との接触により生ずるもの」であり、「布教の根本は、布教者其の人の人格であって、此の力が教壇の上で活躍してこそ始めて大衆に感化を及ぼす」〔原文は共に、旧・正字を使用〕と述べ(139)、また、R・ボーレン氏は、「説教を聞くということには、〔中略〕説教者と会衆との人格的関係が重要である。説教者の模範としての生き方や、信頼が重要なのである」と述べている(140)。これらのことは、ひいては人々の側からする、説教者の人格に依存するカリスマ化、あるいは、説教者に対する生き神信仰的もしくは偶像崇拝的な心情を、齎すかも知れぬ要素を、その内に含むものである。
しかし、淨土真宗においては、例えば、「法座」に対しても「聞法の場」という意味づけがなされ、あくまで「法」を戴く立場が貫かれることによって、さらに、そこで「生き死にの解決が計られる」ことによっても、藤井正雄先生が指摘されている(141)、「『座』があらかじめあってその座から『法』を志向する」という方向性の中に、「集団的カタルシス・コミュニケーションの場」となった新宗教におけるそれとは、明らかな一線を画するものであろう。また、省念氏が「私の後ろには仏さまがついておいでる」、「儂から仏さまをとってまったら何も残らん」と言いながら感謝するのも、バーバラ氏が「私に歌うのではなく、神さまに向かって歌って!」、「神さまに対して」と注意を発しながら神に栄光を帰するのも、人々の心情に芽生えるかも知れない、説教者個人の生き神化ないしは偶像化に対する明確な否定であると考えられるのである。この明確な否定の下にこそ、説教者という個人に由来する支配的中心を安定させるべく、表敬活動がなされるのではなく、〈節談説教〉という儀礼の言語を以て、あくまでも「説く者と聴聞する者とが法の前に一味となった、まさに〈同入和合海〉を説教の場に現出」(142) すべく、説教者と聴衆との共同作業がなされてゆくのである。  
2.〈節談説教〉のことば(二)(143)
説教者とは、本来、巡回性をもつ存在である。このことは、その歴史的事実によるばかりでなく、祖父江省念師、バーバラ・ワード=ファーマー氏という、今日の説教者の言説や実際の布教活動にも示されている(144)。したがって、寺院や教会のように固定された施設(145) があるとしても、〈節談説教〉という儀礼は、説教者の訪れがあってはじめて開始され得るものなのである。人々は、まず敷居によって、つまり、それらの聖なる場所に入ることにより、日常の空間から移動し、説教者が現われるのを待つ。或種の合図がなされる迄は、人々はただ待たなければならないのである。しかし、この待つことの間に、聴衆において、これから聞くこととなる説教者の〈語りかけ〉に対する期待が増幅されていくのである。世話役の手で拍子木が打ち合わされて鳴り(省念師)、あるいは、「祈り」への呼びかけがなされ(バーバラ氏)、もしくは、楽団の演奏が響く(バーバラ氏)。このような説教者の訪れを齎す合図と共に、人々はその儀礼の開始を知り、通常の時間が消失するのである。
このような合図が何らかの音声によってなされるという点においては、説教者が聖なるものを体現している者であると、もし人々の側から見做されていればなおさらのこと、前節で触れた折口信夫氏の「音連れ」に近いものがある。また、説教者の巡回性という点からは、説教者とはマレビトであり異人であるとも言えよう。それは、リミナリティに属する存在である。
合図によって始まる〈節談説教〉の時間であるが、それは同時に、段階を有しながら広がりゆく、儀礼の空間の出現である。そして、一度儀礼の場となり外に在る日常性を遮断すると、「内なる儀礼の世界は、それ自身の生命、それ自身の重要性、それ自身の聖なるもの、永遠なるものの感覚と共振するようになる」(146) のである。聴衆は、説教者の話に応じて適切なところで頷き、笑い、泣き、狂喜する。この適切さは、あたかも先に控えた〈呼応の時〉の為に、両者の呼吸を前もって合わせいく準備かと思われる程、しだいに相応の度合を増すものである。そして、聴衆は同時に、説教者の〈語りかけ〉によって(147) 漸次強化されていく集中を以て、親さま(阿弥陀仏)に全てをまかせる、あるいは、主(神・イエス)に全てをゆだねるという方向性の中で、その焦点を合わせてより一層に「聞く」ことをなすのである。「聞はきくといふ、信心をあらはす御のりなり」(唯信鈔文意)とされ、また、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来る」(ローマ人への手紙)とされているからである。
説教者は、「神話」(「救済の物語り」)を人々に語る。これはしかし、或側面においては、説教者が人々の為になす弁護的な言語のあり方であり、言い換えれば、説教者が聴衆となって語るということである。つまり、人々が言い表わすことができずにいる、悩みや問題と共に今在るところの諸状態についてを、説教者が彼らに代わって言葉で表現することによって、それらが人々の意識の層で明らかとなり、理解されるようになるのである。そこでは、説教者自身の意識と聴衆の意識とが直接的関係をうち立てていると言えよう。そして、もしこの時に「解消」もしくは「解決」が生ずるのであれば、このことは、「阿弥陀仏」→「凡夫」、あるいは、「神」→「人間」という方向における「救済」(148) に対する、説教者と聴衆による二重経験として捉えられるのである。例えば、省念師が聴聞者に「安心」を与えることは、その一例となるであろう。このような説教者による弁護的な言語表出は、さらに、説教者自身の経験、或特定の信者の経験、聴衆の経験という、三重の経験においてなされる場合もあるのである。省念師が「儂の檀家に......」と、特定の信者について言う場合もそうであろうが、さらに顕著な一例としては、バーバラ氏が「この女性は......」と、その場にある特定の人物を指しながら会衆に示して話す場合である。バーバラ氏自身においては、神の力ないしはイエスのみ名によって、その人を救ったという事実の経験であり、当該者においては救われた、あるいは、癒された状態の経験であり、そして、それを見守り、且つ、共に祈る会衆においては、「救い」の出来事に対する参与の経験である。このように「救済」が成し遂げられる限りにおいて、これらは言うまでもなく、「神話」の現在化となって、儀礼の場に立ち現われたものとなるのである。そこにおける説教者は、「神話」を語る者として、預言者であり、さらに、超越的存在の代行者として、人々を「救う」、あるいは、「癒す」者なのである。
「聞く」ということは、或人々にとっては、知性的もしくは情報的な段階での説教の聴取であるかもしれないが、他の人々にとっては、彼らに対する「阿弥陀仏の呼びかけてやまない声を聞く」、あるいは、彼らの為に「臨み来たる聖霊の言葉を聞く」という、高度に感性的な段階における体験となり得るのである。究極的実在との直接的触れ合いないしは霊的交わりの機会の到来であり、その場に超越的人格の存在が感じられ、確信されながら、強烈な昂揚状態に突入することによって活性化されゆく、聖なる時間の中の聖なる時間である。これが、〈節談説教〉における真正の時間であり、真正の空間である。それは、究極性からの〈語りかけ〉を聞く為の時空であるが、「神と人の対面する両者には、上下または対立する形での一種の隔たりが意識され、その交流は緊張した定型の上のみに成立する」(149) という「祭儀」とは全く異なった、いわば「開け放たれた真の厳粛性」とも呼ぶべき、究極性に近づく〈彼らの方法〉によって齎されるものである。
そこでは、聴衆がもし何かを感受し、それを表現したいと衝動的に欲するならば、ハーヴィー・コックス(Cox, Harvey G.)氏の言う「傍観者ー執行者体系」(150) の中に、ただじっと黙していなければならぬということは決してないのである。あらゆる意識、無意識の音声言語によっても、あらゆる随意、不随意の身体言語(151) によっても、彼らのコミュニケーションは成り立つのである。彼らは、如何なる言語表象的合法性にも、つまりは、発話(152) の構造のルールにも従う必要がないのである。この外的自由性は、人々の内的世界へと結びつきながら、思想や言葉の限界ぎりぎりのところに在る自由と率直さを、彼らのものとすることを可能ならしめ、且つ、正当化するような一つの条件であり形式である。公的社会的な世界観の支配から意識を解放し、そこで支配的な如何なる構造や枠組みにも納まらない、自己の新しい世界像を明らかにすること、それは、〈民衆の思想と言葉〉の形成なのである。いつわりの厳粛さや公的社会的意識は、新しい世界に対する認識をくもらせるだけのものである。〈節談説教〉においては、聴衆が感受するままにその世界を表現しても、決して罰せられることはない。彼らには、表現することが許され、あるいは、彼らの表現が求められて、〈節談説教〉に参与するのである。この点においては、〈節談説教〉は、まさしく「カーニバル」であり、「祝祭」である。
ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン、Бахтин, Михаил Михаилович)氏は、カーニバルについて、次のように述べている。「カーニバルでは一切が平等とみなされた。人々は、通常の生活、つまりカーニバル外の生活では、階級、財産、職務、家族、年令の状況のさからい難い障壁によって分け離たれているのだが、このカーニバルの広場では、その人々の間に特別の、自由な打ち解けた触れ合いの形が支配したのであった。〔中略〕すべての人々のこの自由な打ち解けた触れ合いは、とても鋭敏に感得され、カーニバルの一般的な世界感覚の本質的要素を形作った。人間はいわば新しい、純粋に人間的関係を求めて生れ変ったのである。疎外は一時的に消滅するのだった。人間は自分自身に立ちもどり、人々の中で人間である自分を感得するのだった。それにこの真に人間的な関係は、想像や抽象的思考の対象にすぎないのではなくて、生き生きとした実質的・人間的触れ合いの中で真に実現され体験されたのである」(153)。そこでは、人は真の意味で〈人間〉となり、あらゆるコミュニケーションが全人格的な実存的交流に転化する。すなわち、V・W・ターナー(Turner, Victer W.)氏の言うコムニタス(communitas)である。
そこにみられる高度に感性的な段階、つまり、〈節談説教〉の真正の時空においては、「法悦」ないしは「至福」による〈霊と熱情〉の諸状態が人々の上に現われてゆく。存在(existence)することは「局外に立つ」ことであり、すなわち、恍惚状態(ecstacy)にあることであるとは、V・W・ターナー氏の語源論(154) であるが、その意味において、人々は実存的コムニタスを経験している。そうした彼らの間には、激しい呼応が続いていくのである(155)。或瞬間において、説教者と聴衆は、究極性に向い或和音を奏でる如くに一体となるのであるが、次の瞬間には、聴衆が表現者となって、説教者がそれを「聞く」、そしてまた、説教者が表現者となって、聴衆がそれを「聞く」という繰り返しがなされていくのである。説教者は、時に「凡夫」となり、あるいは、「罪人」となって、聴衆の称える究極的実在についての「名」を聞いて、そして、それを信ずるのである。聴衆のそうした表出行為が担う役割については、第一章の第三節で「はやす」こととの類型化において触れているが、ここで改めて述べるならば、それは、説教者自身をより一層の昂揚状態に投入させる機能をも有するものである。この時点においては、その〈節談説教〉を説教者がリードしているのか、聴衆がリードしているのか、はっきりとわからぬ程である。
説教者と聴衆が「聞く」究極性から発せられる〈語りかけ〉は、儀礼の場に顕現した他者によることばなのであり、それ故に、全てを彼らの心の中の働きに還元してしまうことは誤りとなるであろう。それは個人における、阿弥陀仏、あるいは、神との一対一の世界である。遡れば、親鸞においては、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)という弥陀の本願であり、パウロにおいては、「私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子」(ガラテヤ人への手紙)の贖罪であったのである。
他者の語りかけを聞くということは、他者の声が自分の中心に届くことである。「それに応答するとき、『私の』行動は他者の声を含んで成り立っている。応答し行動する『私』は、他者の語りかけを含んで成り立っている。それを他者との『出会い』といってもよい。他者に『出会って』いるとは、私がその他者を含んで私だ、ということ」(156) なのである。八木誠一氏は、仏教における「縁起」と「空」のキリスト教における対応に触れながら、そこに、イエスの場合における、自他の「一」の事実が「語りかけと応答」に即して把握されるとしている。言い換えれば、自己と他者というこの二つは、「二」であって「一」ではないにも拘わらず、しかしその限り限りの在り方において「一」であるのであって、ミハイル・バフチン風に言えば「一つの両体一体」のイメージの中で合するのである。これは、自己が自分のそれ迄の枠組みを既に超えて出て行かんとする状態であり、それ故に、ここにおいてもまた、もう一つのリミナルな言語が生まれ出るのである。この時、人々は、「神話」を自らの表現として解釈し、あるいは、自己の表現として新しく作り出すのである。この「神話」は、決して既成の、完成されたものではない。それは、常に生成され、創造されつつあるものなのである。そして、〈節談説教〉において、この「神話」の出来事が起こるのは、常に自己と他者との境界の上であり、この二つの存在の接触点である。この境界の上でいとなまれるあらゆる行為が、いずれの場合でも「二」が「二」であって「一」であるように、生命の初めと終わりも、互いに切り離ち難く絡み合っているのである。
人々は、あらゆる階層秩序の中におけるそれ迄の位置を捨てて、生成され創造されつつある「神話」の世界の、単一の水平線的地平を目指し、その地平の上に自分の新しい位置を求め、新しい関係を結び、さらに、自他の「一」という新しい隣接関係を生み出してゆく。人々は、「いと高きものを低きものと統一させ、遠きものと近きものを合一させ」(157) るのである。そして、「階層づけの『外』から突然やってくる言葉、あるいはその階層自体を逆転する無限の空間」(158) であるリミナルな言語は、生まれ出たそのままでそこに存在し得るのである。  
3.交感の中心とその周縁
これ迄にみてきたように、〈交感〉が生起する時に、リミナルな言語は生まれ出る。しかし、リミナルな言語というものの在り方に従えば、それは、〈交感〉の中心に在るものではなく、周縁のものであることが明らかとなる。なぜならば、そこには、リミナルな言語に先立つ「語りえぬもの」の顕現が、まずなければならないからである。〈節談説教〉は儀礼の言語であり、また、言語表象記号としての言葉が、その構成要素の一つとして、かなりの重きをなしていることも事実である。さらに、〈節談説教〉に立ち現われる〈交感〉が、人々の「究極性への飛躍」のリチュアルとしての、表現ないしは表出行為という外的言語を有することも事実である。しかしそれにも拘わらず、その〈交感〉の真の中心とは、如何なる言語も存在することのない「沈黙」の空間なのである。言い換えれば、〈節談説教〉のあらゆる言語の真理性を支えているのは、「沈黙」であるということである。したがって、〈節談説教〉の用いる言語は、その中核部において、絶えず「沈黙」の中へと回帰すべきものなのである。
ここにおいて、リミナルな言語は、「沈黙」から逃れながら、自己と他者との境界の上で儀礼の世界を維持しようとする、人々に与えられた道具となるのである。人々は、「沈黙」を恐れるのではなく、〈節談説教〉という儀礼の世界が消失することを恐れるのである。それは、究極的実在との直接的な触れ合い、そこで聞くこととなる〈語りかけ〉や自分達の応答、そして、全人格的な実存的交流等が起こる世界に対して、彼ら自身がそれをリアルに感じ、且つ、彼ら自身がそれを所有することを、人々が必要としているからなのである。さらに言えば、そうした体験から、彼らが「神話」を自らの表現として解釈する、あるいは、自己の表現として常に新しく作り出すことが可能となるのであり、その結果として、自分の〈本当の名前〉や〈自分が何者であるのか〉を知ること、すなわち、アイデンティティの創出がなされることを、人々が必要としているからなのである。つまりは、人々におけるアイデンティティの創出への希求が、〈交感〉のもつ宗教性の一つとなっているのである。
アイデンティティの創出ということは、井門富二夫先生をはじめとする諸研究者が説明するように、ここで演劇になぞらえてみるならば、さながら役者の〈試み〉である。彼は、例えばシラーの劇において、ドン・カルロスを演ずるだけでなく、ドン・カルロスであり、そして、一人の〈人間〉であることを望むであろう。舞台の上では名優が、特定の「筋書」の世界の中に、さらには、その筋書に基づいて決定された幕と場という人間模様の中にあるにも拘わらず、そのストーリーの主だった枠組みを超えながら、しかも、定められた筋書の中の自分の「役割」におけるあらゆる可能性を探っている。言い換えれば、役割とは切り離された〈自分〉という意識を持ち続けることによって、その役割は、彼がそれとして理解している〈本当の自分〉に係わるものとなるのである。それだからこそ、演じられるのは、他の俳優とは一味も二味も違うポーサ侯爵でありマリア・シュトゥアルトであり、そうした劇中人物の思考や台詞の周囲には、もっと大きな意味の枠組みから発する光が瞬くのである。
しかしながら、現代社会という舞台の変容、すなわち、拡散してゆくばかりの「筋書」や曖昧で流動的に設定される幕と場の複雑な人間模様の中で、俳優は、環境への適応に追われることも然る事ながら、まずストーリーを読み取ること自体において、それ故、自分の役割をはっきりと把握することにおいても、困惑の内に大変な努力と自らの冒険的な〈試み〉を必要とするようになった。既に一幕ものの劇から大河劇に移行がなされ、舞台規則に従ったモリエール的劇は廃れ、状況劇場が登場する中で、彼は、アド・リブ俳優とならざるをえないのである。シュッツ(Schutz, Alfred)氏は、「われわれは役割においてさえ選択の自由をもっている。〔中略〕この自由には、われわれが仮面を外し、役割を離れ、社会的世界におけるわれわれの定位をやり直す可能性が含まれている」(159) と述べているが、個々の役者において、どう筋書を読み取り、また、自分の役割を明確にしていくのかについての責任が、そこでは、極めて個人的レベルで迫ってくるのである。
これ迄のあらゆる舞台(社会)の背後には、「神話」があった。これは、ギリシャ悲劇が豊かで明瞭な神話に依存し、シェイクスピア劇が古代的世界観とキリスト教的世界観との緊密でいて且つ自由な結び付きによって成り立ち、ブレヒト劇がその関係は屈折したものであれマルクス主義という神話を背景としていたのと同じである。しかも、ジョージ・スタイナー(Steiner, George)氏が述べるように、「西洋文明における想像力の動き方や働き方の中心にあった神話、人々の精神のあり方を規定してきた神話は、個々の天才が産んだものではなかった」のであり、「神話とは長い時間にわたって蓄えられた沈殿物を結晶化したもの」で、「ある民族の原初の記憶や歴史的体験を集めて、なじみあるかたちにまとめ上げる。驚愕や鋭い知覚を経験している時に人間の精神が語る言葉が神話」(160) なのである。ところが今や、自らの冒険的な〈試み〉として、自分の「神話」を、自分の「宇宙」を、新たに構築しなければならないのである。 昔日の、どっしりと揺るぎない「目に見える」宇宙観の中に、安心して身をゆだねさえすればよかった時代には、もう二度と戻ることが許されない。それでも何処かに存在するであろう現行の「筋書」は、あまりにも拡散しきっていて、正しく読み取れるものであろうか。こうした現代社会のあり方に起因する不安や疑いに盈ちた個人的な混乱は、時に「拠りどころの無さ」、あるいは、「故郷の喪失」という感情となって、人間を悩ますであろう。「もし、われわれの多くが『淋しい群衆』の中で生きているとしたら、われわれは『再確信のためのカルト』を見つけることを期待するであろう」(161) とは、J・M・インガー(Yinger, J. Milton)氏も述べるところであるが、現代社会では、一時の安定や確かさを相互に求め、筋書を同様に読み取る者が集まってくるのである。しかし、それがあまりにも教義的もしくは客観的な信仰基準にのみ忠実な「チャーチ的」宗教である場合には、或人々にとっては、単に共通の価値観の中に安住する場を見い出すことでしかないであろう。また、そこにおいて、自分達の〈名前〉を成立させる為に「神話」を作ることが可能であるとしても(162)、そのアイデンティティの集合的探索の果てに、それが必ずしも、自分の〈本当の名前〉を知り得たことにはならないのである。それ故に、より超越的な基準に向かい、自らの手で、たとえそれが無謀な〈試み〉であったとしても、〈自分自身〉でありたい、あるいは、〈本当の自分〉でありたいとアイデンティティの創出を求めながら、個々の人間が表現する「超理性的象徴行為」や「信念表出行為」(consummatory action)が、アド・リブ俳優の自由さにおいて、実に多様な形で展開されてゆくのである。
そうした、究極性に向かう人間の関心によって引き起こされる、個人の冒険的な〈試み〉においては、当然のことながら、その行為者の自由と率直さを以て表現を可能ならしめ、且つ、当の行為者を正当化し得る条件と形式を備えた、或種の「アイデンティティのためのリチュアル」が必要とされるのである。具象的宇宙観を失った現代社会において、極言すれば、〈節談説教〉の真正の時空こそが、それに応えるものであり、また同時にそれは、〈交感〉を媒介とする儀礼の意義を我々に示すものなのである。なぜならば、〈感じる〉ということは、第一章で述べた「これを自分で止めることができない」という経験としてあるばかりではなく、金児暁嗣氏が述べるように(163)、信念体系のなかで基底的位置を占め、疑う余地のない「0次の信念」に繋がる感覚経験であるからである。儀礼における〈感じる〉ということの重要性は、このような現代社会でこそ、再認識されるべきものではないだろうか。
とはいえ、〈節談説教〉に立ち現われる〈交感〉について述べる場合でも、例えば、霊験や奇蹟とはいったいどういう事態なのか、究極性の〈語りかけ〉は実際に「聞く」ことができるのか、阿弥陀仏の光に照らされる、あるいは、聖霊が臨むとはいったいどういう状態なのか、そして、そうしたことは現在でも本当に起こり得るのかどうかという、これらの問いかけに対する明確な答えはない。しかし、〈節談説教〉においては、既に述べたように、「神話」の現出ないしは現在化が起こり、人々の「救済」がなされるのである。そして、人々が「聞いた」、そして、「感じた」というあらゆることが、〈節談説教〉においては、人々の上に実際に起こった出来事であり、揺るがぬ事実となり得るのである。繰り返しとなるが、その儀礼的意義において、〈感じる〉ということの重要性は、明らかに示されているのである。それ故に、〈交感〉を欠いた儀礼という問題についてが、八木誠一氏においては、次のように述べられることとなる。「結局、『神の言葉の体験』ともいうべきものが失われていることが神信仰、ひいてはキリスト教ばなれが欧米においても進行している理由なのである」(164)。
ボコック(Bocock, Robert)氏が提示する、現代儀礼の機能的分類における第四の「個人の審美的儀礼」(Aesthetic Ritual)とは、ダンス、絵画をはじめとする「個人の究極的関心を個人的に表現する象徴的行動」の群であるが、さらにそこには、若者の集団的ロック・ダンス、ハレ・クリシュナの音楽行進、そして、宗教的幻想を求める若者のLSD体験等が、共にとり込まれたものとなっている。井門富二夫先生は、この分類に触れて、これを先生のいう「個人宗教」の極端な例示の一つであるとしながら、次のように述べている。「ボコックの言わんとするところは、拡散した価値の時代にあって、自分なりにリフトンのいう個人的境界(究極的アイデンティティ)を求める若者たちが、伝統にはとらわれずむしろ伝統の統合的権威づけに抵抗して、アド・リブ俳優的に自由に、自己の読みとる究極的宇宙観をいきなり欲求レベルの適応追求意欲にぶつけ、(換言すれば、拡散している既成の文化や社会の規範・規制を無視して、変容する環境に正しく適応しようという欲求を、いきなり自分なりに読みとった宇宙観にぶつけてみる試みであろう)、そこにとびちる瞬間の火花に身を焼きつくす喜びから生れた儀礼ということであろう」(165)。
ここに、〈節談説教〉において立ち現われる〈交感〉と漸近する、何かがみられるように思われたのであるが、この論文においては、明らかにすることができなかった。
さて、筋書があまりにも拡散しすぎて捉え処のないものになってしまった大河劇・状況劇場においては、「演出」をもってしても、また、それぞれの幕なり場なりを「集合的」に収めたとしても、そもそも筋書を支えられない舞台の上に立つ俳優は、その役割も人格も成立しないままに、混乱するばかりである。彼が取り得る手段は、1. 以前に演じられた様々な劇のストーリー(あらゆる階層秩序の中におけるそれ迄の権威や規範、あるいは、それ迄の自分の位置)を思い起こし、それらに沿っていくことか、それとも、2. 個人としての俳優が急にアド・リブを言い出すように、自己の認識を状況にぶつけ、その状況に生ずる周囲の他者の反応をみながら、筋書を読み取っていくことか、あるいは、3. 冒険ではあるが、筋書に対する自己の解釈を信じ、自らの〈感じる〉ままにその世界像を表現し形成していくことの何れかとなるであろう。いずれにせよ、人間である以上、舞台の上で呆然と立ちつくしてはいられないのである。自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである。
この表現せずにはいられないという〈人間〉的欲求によって、「語りえぬもの」の空間である「沈黙」へと回帰する限り限りの境界状態の中で、最後に大きな声を上げゆくものがリミナルな言語である。そして、境界の上で「神話」の出来事が起こり、あるいは、〈交感〉が起きる時に、人々から生まれ出るリミナルな言語は、その数が多ければ多い程に、それ自体の空間を無限に広げていくことができるのである。〈節談説教〉における強烈に昂揚した場面とは、一方において、究極的価値についての全きものを手に入れることを求めながら、他方では、中心であり、真理の源である「沈黙」への到達を引き伸ばそうとする、言い換えれば、真なるものを得るよりも、むしろ彼らの儀礼の世界を保持しようとする、〈人間〉のアンビバレント(ambivalent)な矛盾をも、その内に含むものとなっているのである。しかしながら、それが、現代社会において何時の間にか多元的になってしまったアイデンティティを、個人のより新しくより究極的な、ただ一つのアイデンティティへと、再生ないしは再統合する〈試み〉を行う、〈人間〉のいとなみであることには、少しもかわりがないのである。  
おわりに  

 

第一章及び第二章の歴史的考察において、浄土真宗の節談説教とバプティスト教会の福音伝道が、その歴史的過程を通して、常に民衆と共にあり、共に歩み、そしてそこには、民衆のニーズの吸い上げないしは応接があったことが、明らかに示されたと思う。実際の布教活動の現場では、おそらく説教者にとって第一義的な問題とは、人々をその場において「救う」ことであり、それには、何よりもまず、人々が教えを真に信ずるということが起こらねばならず、その為に効果的であろう事柄を庶民の言語と表現の世界からかなり自由に取り入れて、人々を感性的覚醒による宗教体験に導く手法が編み出されたのではないだろうか。また、第一章及び第二章の各章第三節では、浄土真宗大谷派の説教師である祖父江省念師と、バプティスト教会系の福音伝道者であるバーバラ・ワード=ファーマー氏による、それぞれの説教の場(あるいは、伝道の場)で、説教者と聴衆の共同作業における宗教思想の形成的強化と多方向のコミュニケーションが起こっていること、そして、そこに〈交感〉という人々の宗教体験が実際に生じること等を、私の参与的観察記録を以て、例証的にみてきたのである。
第三章においては、浄土真宗とバプティスト教会という〈全く別のもの〉から来る、二つの〈節談説教〉について、統括的に論じることを試みた。浄土真宗の節談説教とバプティスト教会の福音伝道は、〈全く別のもの〉から来た儀礼ではあるが、人々の信仰を深める、あるいは、人々の信仰をよりリアルなものとする、〈交感〉の重要性についてのそれぞれの例証であり、例示であるのである。ここでは、両者の類概念的共通集合の中に、「リミナルな言語」というものを新たに加えることによって、〈節談説教〉の言語のあり方を、さらには、そこにおける宗教体験の中核となる〈交感〉のあり方を、より鮮明なかたちで提示しようと試みたのである。
この論文を通して私が述べようとしたことは、まず第一に、宗教経験における〈感じる〉ということの重要性である。この論文では、主として、自己と他者との間に生じる〈交感〉というかたちでのそれを指しているのであるが、この〈感じる〉ということが、如何に重要であり、如何に大きな儀礼的意義を有しているかということである。第二に、〈節談説教〉とは、集団の中で、活気に盈ちた宗教的確信と表現の個人的現象が生きているかたちであるということである。言い換えれば、〈節談説教〉とは、〈人間〉のより新しくより究極的なアイデンティティを創出しようとする人々の非妥協的な態度と共に、時代を超えて常に我々の身近にある問題として、「アイデンティティのためのリチュアル」の必要性を表明するものではないかということなのである。したがって、この論文においては、そのあり方を、教育水準が低く、経済的にも恵まれない階級の宗教としての側面だけで、例えば、H・リチャード・ニーバー氏の言う「廃嫡者の宗教」のように、捉えることは敢えてしなかった。たしかに、〈節談説教〉にみられる強烈に昂揚した場面は、情緒的用語を用いて自己表現する「廃嫡者の宗教」に共通する特徴の一つである。けれども、その根本に厳然として在る、究極的価値に対する人間の極めて真摯な直接する姿勢や、開け放たれてはいるものの真に厳粛であるその姿の中に、人間の階層的集団的に区分された特性をみることよりも、むしろ〈人間〉とその人間のいとなみとしての〈儀礼〉における問題や意義をみるということの方が、我々が今あるところの現代社会との係わりにおいて、必要ではないかと考えたからである。
「はじめに」で述べた通りに、私はこの論文において、「交感の宗教性」という論構の下に、仏教における〈節談説教〉として、祖父江省念師の節談説教を、そして、キリスト教における〈節談説教〉として、バーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道を挙げ、そこから掴み出せるあらゆる要素を提示してみることを以て、この二つの〈節談説教〉の対比という観点から、〈交感〉という問題への接近を試み続けてきた。しかしながら、私の論考及びその提示の作業はずさんなものとなり、この論文において解明したかった〈交感〉の包含する様々な問題についてが、解明できずに終わり、その多くは、そのままの状態で残ってしまっているのである。まず、それらの問題の一つ一つを明らかにしていかなければならない。それが、私の当面の大きな課題である。例えば、〈節談説教〉において立ち現われる〈交感〉というものは、人間の〈感じる〉ことの領域に生起する事実であるが、人間の感性とは、おそらく整合性を以て記述できないものなのである。しかし、〈感じる〉ということが、儀礼において、非常に重要な要素である以上、宗教学における感性の学とも呼ぶべき何かが、つまりは、適切で効果的なアプローチの方法が必ずあるはずである。今後の私の勉強における課題の一つとして、〈交感〉に対する具体的でよりよいアプローチの方法を、探究しなければならないと思うのである。  
註  
(1) 藤本浄彦、「二 救済と解脱 宗教経験としての"生成・摂化"への試論」(『現代哲学選書・11 宗教の哲学』、北樹出版、1989年)。
(2) 人間は、未開の社会から今日の社会に至る迄ずっと、日常の言語のカテゴリーにはない超越的基準、すなわち、日常において、我々の体験にない、そして、体験し得ない究極的価値を持ち続けてきた。そうした究極性に向かう人間の関心は、この世界における自ら「位置づけ」をなさんが為のものであり、「意味を求める動物」の性向として、決して飽くことなくより絶対的な尺度を求め、そして、与えられた有意性や妥当性の下に、また、そこから提供される秩序や齎される統合の中で、一時の しかしながら確実な安定を得るのである。ただ、当然のことながら、このような究極性へ向かう関心は、日常的関心を超えるものであり、また、その尺度も現実を超えるものである故に、「象徴的過程」を通して表象されるのである。その表象のあり方が如何なるものにせよ、人間は、一つの意味ある世界の中で、自分の〈本当の名前〉を、あるいは、〈自分が何者であるのか〉を知り、生きいきと動き出すのであるが、ハンス・モル(Mol, Hans)氏は、「宗教とは、アイデンティティの聖化の過程である」(Religion is the sacralization of identity.)と述べ、また、P・L・バーガー(Berger)、T・ルックマン(Luckmann)の両氏は、「アイデンティティは、究極的にはそれを象徴的世界の文脈のなかに位置づけることによって正当化される」と述べている(a)。
(a) Mol, Hans, Identity and the Sacred:A Sketch for a New Socialscientific Theory of Religion, Oxford:Blackwell, 1976, p.1.
P・L・バーガー=T・ルックマン/山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社、1977年)170頁。
(3) ジョージ・スタイナー/喜志哲雄・蜂谷昭雄訳『悲劇の死』(筑摩叢書256、1979年)241頁。
(4) デュルケム/古野清人訳『宗教生活の原初形態(上)』(岩波文庫、1941年)。
(5) 八木誠一、「親鸞における『信の根拠』をめぐって」(『仏教 特集=親鸞』別冊1、法藏館、1988年)。  
(6) 関山和夫『説教の歴史的研究』(法藏館、昭和48年)59〜60頁。
(7) 『第三十一巻 日本高僧傅要文抄・元亨釋書』[げんこうしゃくしょ](吉川弘文館、昭和46年)434頁、濟北門師錬撰『元亨釈書第二十九』(「音藝志七」)。中世の説教等について、この「音藝志」は興味深い一資料になると思われるので、「唱導」と「念仏」に関する全文を以下に挙げる。    
唱道者。演説也。昔満滋子鳴二于應真之間一焉。自從吾法東傅。諸師皆切於二諭導一矣。而廬山遠公□擅二其美一。及二大法瓜ノ如ニ裂一。斯道亦分。故梁傅立爲レ科矣。吾國向方之初尚若レ彼カ。又無剖判焉。故カ慶意受二先泣之譽一。縁賀有二後讃之議一。而未レ有閥閲ハツエツ矣。治承養和之間。澄憲法師挟二給事之家學一。據二智者之宗綱一。台芒射二儒林一而花鮮カニ。性具出二舌端一而泉ノ如ニ湧。一昇二高座一四衆清レ耳。晩年不レ愼二戒法一。屡生二數子一。長嗣聖覚克二家業一課ヲフス唱演ニ。自レ此數世系嗣□テツ□タリ。覺生二隆承一。承生二憲實一。實生二憲基一。朝廷□ヨミソ二其諭導一緩二于閨房一。以レ故氏族益繁。寛元之間。有定圓ト云者。園城之徒也。善二唱説一。又立二一家一。猶如二憲カ苗種一。方今天下言二唱演一者。皆効二二家一。夫諭揚至理啓迪ナゝス庶品ヲ一。鼓二千百之衆一。布二聞思之道一。其利愽如也。演説之益。何術カ如焉レニ。爭奈何イカンカセン。利路纔闢。真源即塞。數ヲ二它ノ死期一寄二我活業一。諂譎交生ナテ。變態百モゝ出ツ。揺二身首一婉二音韻ヲ一。言貴二偶儷コウリヲ一理主二哀讃一。毎レ言二檀主一。常加二佛徳一。欲レ感二人心一先或自泣。痛哉無上正真之道。流爲二詐僞俳優之伎一。願從事于此者。三復二予言一焉。
念仏者。持誦之一支也。修多羅中持二于佛佛一。此方局カゝル二彌陀一焉。或釋迦焉。其始与二淨土一同出。巳于上矣。元暦文治之間。源空法師建二專念之宗一。遺□末流或資二于曲調一。抑揚頓挫。流暢哀婉。感二人性一喜二人一。士女樂聞雜踏駢□ヘムテムス。可レ爲シツ二愚化之一端一矣。然流俗益甚。動衒二伎戯一。交二燕宴之末席一受二盃觴之餘瀝一。与二瞽史倡妓一促ツゝメテレ膝互唱。痛哉。真佛祕号。蕩爲二鄭衛之末韻一。或又撃鐃磬打二跳躍ヲ一。不レ別二婦女ヲ一。喧噪街巷。其弊不レ足レ言矣。
(8) 関山、前掲『説教の歴史的研究』73頁、及び、大橋俊雄『法然全集 第二巻』(春秋社、1989年)198頁。
(9) 薄井候「法然における民衆との接点」(『親鸞教学』29 [1976年]、大谷大学真宗学会)。この薄井氏の論文は、思想が根源的に民衆と関わるということはどういうことであるのかを、法然の思想形成を通して考察するものであるが、その中で、「思想にとっての民衆とは受容の問題ではない」としながら、氏は次のように述べている(66頁)。
ここから我々がいえることは、思想と民衆との接点を受容の問題として把える限りは、思想と民衆の接点というのは、
1 思想の論理が民衆の感性そのものであるか
あるいは、
2 思想が民衆の感性によって変容したか
を問題とする、ということになる。
2 は状況的にはどうであれ、"思想の本質"〔薄井氏原文は傍点を使用〕にとっては偶然的なものである。そこでは、個人の観念という意味における思想が、状況によってどのように共同の観念に変容したか、という歴史性の問題として現れる。
1 は民衆の土俗的な共同観念が、如何に思想化されたか、ということである。このような思想は、民衆にしつこく残る部分においては民衆の本質を突いた思想である、とはいえる。しかし、その部分は、民衆の "負の部分"〔薄井氏原文は傍点を使用〕ともいうべきもので、民衆のトータルな本質ではない。現実の認識を隠蔽する形で現れざるを得ぬ民衆の感性のある領域の、盲目的肯定がその思想の本質である。
思想と民衆の接点を受容という面から把えるなら、以上のふたつの問題を採りあげることに帰着する。
(10) 関山、前掲『説教の歴史的研究』74頁。
(11) ここでは、技術または手段としての芸能性を強調して述べた。しかし、そうした面をみるばかりではなく、語り手の感覚的情緒的行動として自然に発せられた表現であったであろう場合のことも、つまり、そこに〈儀礼〉的な要素がある場合をも、考えなければならないであろう。なぜならば、自然に発せられた表現があることは、省念師が(その抑揚について)「クライマックスになると自然にこう、節が出てくる」と言い、また、バーバラ氏が(その突然踊り出したことについて)「頭がおかしいのだ(crazy)と思わないで。こういう時には、どうしても踊り出してしまう」と言ったことによっても、明らかだと思うからである。
(12) 石田瑞麿『親鸞全集 別巻』(春秋社、1987年)、『歎異抄』[たんにしょう] 3 〜39頁。
「歎異抄」は、弟子の唯円が、師親鸞の口伝による化導を慎重に筆録した、親鸞の語録である。親鸞の死後、唯円が撰したものであり、「歎異抄」とは、正しい信心の在り方が誤解されていることを歎いて作られた書という意味である。
(13) 石田瑞麿『親鸞全集 第四巻』(春秋社、1986年)、『一念多念文意』287〜313頁。
「一念多念文意」は、親鸞が関東の門弟に写し与えた、隆寛の『一念多念分別事』に引用された経論等の文章を、抜粋して注釈したものである。この「一念多念文意」において、親鸞は、一念多念の何れにも片寄ってはならないことを明らかにしている。
(14) Bunce, William K., Religions in Japan Buddhism, Shinto, Christianity (Rutland, Vermont, Tokyo, the Charles E. Tuttle Company, 1955).
(15) 細川行信『真宗教学史の研究 歎異抄・唯信抄』(法蔵館、1981年)、安居院法印聖覺御作『唯信抄』[ゆいしんしょう] 343〜374頁。
信心トイフハ フカク人ノコトハヲタノミテウタカハサルナリ タトヘハ ワカタメニイカニモ ハラクロカルマシク フカクタノミタル人ノ マノアタリヨクヨクミタラムトコロヲオシエムニ ソノトコロニハ ヤマアリ カシコニハ カワアリトイヒタラムヲ フカクタノミテ ソノコトハヲ信シテムノチ [マタ人アリテ ソレハヒカコトナリ ヤマナシカワナシトイフモ イカニモソラコトスマシキ人ノイヒテシコトナレハ ノチニ百千人ノイハムコトオハモチヰス モトキゝシコトヲフカクタノム コレヲ信心トイフナリ]
と、聖覚は説いている。
(16) 石田、前掲『親鸞全集 第四巻』、『唯信抄文意』[ゆいしんしょうもんい] 259〜285頁。
(17) 関山、前掲『説教の歴史的研究』127頁。
(18) 野間宏・沖浦和光『日本の聖と賤 中世篇』(人文書院、1985年)253頁。
(19) ここに挙げた和讃は、名畑應順校注『親鸞和讃集』(岩波文庫、1976年)60頁、及び、178頁からのものである。
親鸞の和讃は、四句を単位としてこれを一首と為し、数首ないし数十首を以て一つの大きな内容を詠っている。また、第一句が上げて書かれているのは、調声の句であるからである。親鸞の和讃は、後世、七五調のリズムを活用して見事なフィーリングを利かせる浄土真宗独特の節談説教に、多大な影響を与えている。親鸞の和讃の諷誦は早くから行われていたと思われるが、その普及は、文明五年(1473)に蓮如が『三帖和讃』に『正信偈』を加えた四帖を開版してからのことであり、近世に入って盛んに節談説教に採られていったものである。その『正信偈和讃』(上記の四帖を合わせて一部としたもの)には「フシハカセ(節譜)」が付けられ、それに依って唱いつつ読んでゆくのであるが、節を付けて、丁寧に唱読する時に「浄土真宗伝承音」が現れてくる。それについては、福永静哉『浄土真宗伝承音の研究 室町時代音韻資料として』(風間書房、昭和38年)が、非常に詳しい。
(20) 吉川正二「親鸞の教化的姿勢」(『甲南女子大学研究紀要』創立十周年記念号)。吉川氏は、親鸞の宗教を形成した根本的要素と思われる「聞」を中心としてその考察を進めながら、次のように述べている(462〜463頁)。
また親鸞の聞は言葉の中に含まれるひびきを聞きとる聞であったといえる。彼は聖教を読みとる場合、その聖教の言葉の中に含まれるひびきとか語感を鋭く聞きとったのである。いわば言葉のもつパトスを聞きとることにおいて、非常にすぐれたものをもっていたようであるが、またそれを聞きとるために苦心もしている。従って彼の聞は知的理解でなく、自分の身に引きあてて、自分の胸にひびく言葉を聞きとっていったのである。いわばその語感を感じとる聞き方であり、本願や聖教の言葉の中に含まれる言葉のひびきを聞きとったのである。この聞き方読み方は時には無理な読み方と考えられることがあるが、親鸞にとってはそのように読まざるを得ないものを感じとった結果であったと思われる。そしてこのような読み方が親鸞の宗教の中核を形成するまでにいたっている。
(21) 関山、前掲『説教の歴史的研究』129頁。
(22) 多屋頼俊『和讃の研究』(法藏館、平成4年)38頁。
(23) 亀井勝一郎『親鸞』[創元社、1950年]。
(24) 豊田国夫『日本人の言霊思想』(講談社学術文庫、1980年)170〜172頁。
(25) 親鸞の「聞法」ないし「聞」を巡っては、立場を異にした諸説が混在している。
大門照忍氏は、空海の『声字実相義』を意識した上での、親鸞の「声字観」(親鸞の音声に対する考え)というものについて、その諸相を考察した結果、「至徳の尊号を敬信するの一事に究竟する。名号本尊こそ声字観の極致といえる」と結んでいるが(「親鸞の声字観」〔『大谷大學研究年報』No.35、大谷学会〕)、その中で、次のように述べている(148〜149頁)。
経の宗体、六字釈、三心釈の字訓、転釈などに示される声字への関心と、鋭い感覚、そして聖教の読誦における音韻の厳正、これらは名号を通して、釈迦・弥陀二尊の直説を「如是我聞」する姿を明らかにしている。
宗祖〔親鸞〕が、読誦について「八幡大菩薩納受之声」に相応せんとし、聞思において「竊以」、「仏意難レ測、雖レ然竊推二斯心一」と願心に相応せんとした声字観を仰がねばならない。
小田良弼氏は、日本の文芸現象において詩的世界をなぞらうとする処に、「宗教の極致を行くことは詩の極致を行くことであるといふ」印象の中で、念仏を媒介として宗教と詩との連関を辿っているが(「念仏と文芸 原本的文芸の問題(二)」〔『國語國文』第45巻第3号、499号、京都大学文学部 国語国文学研究室〕)、その中で、次のように述べている(5頁、上段)。
……仏陀は呼びかけてやまない。その罪、惡の自覚そのものが仏陀に呼びかけられ、その呼びかけの声を聞くことにおいて成立するものであった。その意味において聞法といふことが言われるわけである。聞法において、罪、惡の自覚がもたらされ、そこに成立する念仏は、だから、仏陀の呼びかけに対して応ずる人間の声乃至は言葉であったのである。念仏は仏陀と人間との呼応の関係に成立する人間の声乃至は言葉であったのである。人間が自らの依つて立つ根拠の自覚をその出発点とするものである故に、親鸞の言ふやうに「信為本」が、その前提条件となるわけである。
(26) 柳宗悦『保存版柳宗悦宗教選集第三巻 南無阿弥陀仏・一遍上人』(春秋社、1990年)23頁。
(27) この事項については、節談説教と文芸の関係において、最も明らかに示すことが出来ると思われるので、改めて述べたい。
また、J・M・キタガワ(Kitagawa, Joseph M.)氏は、その著書 On Understanding Japanese Religion (New Jersey, Princeton University Press, 1987), p. 268 の中で、次のように、指摘をする。
Japanese Buddhism has a propensity for understanding the meaning of life and the world aesthetically rather than ethically or metaphysically. This understanding was undoubtedly grounded in the pre-Buddhist Japanese emphasis on the artistic and poetic, but it was furthered by the importance that cultural expression of Buddhism held from the time of the introduction of Buddhism to Japan. The aesthetic tendency was reiterated by Kukai and subsequent Buddhist leaders.
生と世界の意味を、倫理的もしくは形而上学的にでは なく、むしろ美的に理解する日本仏教の傾向である。この傾向は、疑いもなく、美的なもの及び詩的なものを重視する仏教時代以前の日本の傾向に基づいている。[しかしそれは、日本に仏教が導入されたときからすでに重要な傾向であった。仏教の文化的表現によって促進され、この美的な傾向は、空海やそれに続く仏教の指導者たちによって繰り返し説かれたものである。](J・M・キタガワ/荒木美智雄・宮本要太郎訳「変容と相続 日本バプティズムの考察(二)」、季刊『仏教』no.2、170-171頁。)  
(28)及び(29) 安居院流唱導と呼ばれる源流をなす澄憲、ならびに流派の大成者であるその子聖覚については、唱導説教に触れる諸研究書において必ず述べられるところであるが、未だにその綿密な経歴を辿り得るものはないとされる。 澄憲の父は、保元・平治の乱で重要な役割を演じた、陰陽家であり、また、信西入道の名で知られる、少納言藤原通憲である。澄憲は、その第七子にあたり、はじめは家学である儒学を学んでいたが、出家して比叡山に登り天台の学を修めた。竹林院が澄憲の寺である。しかし、日頃は里坊の安居院に住していた為、安居院の法印と称せられたという。澄憲の著作としては、『源氏表白文』、『法滅の記』、『唱導鈔』、『澄憲作文集』、『澄憲作文大体』、『言泉集』等が伝えられている。聖覚は、澄憲の第三子であり、能説父に劣らぬ優れた説教者であったという。以下に、摘記による略系図を挙げる。
▼通憲の子:俊憲 [参議・従三位]、貞憲 [飛騨・摂津守・小納言・従四位下]、成範 [権中納言・正二位]、修範 [参議・兵衛佐・正三位]、静賢 [山・法勝寺執行]、澄憲、寛敏 [仁・法橋]、憲曜 [仁]、覚憲 [興・別当、権僧正]、明遍 [東大・権大僧都、高野遁世、空阿弥陀仏]、勝賢 [醍・座主、東大寺別当]、行憲 [寺]、憲慶 [寺]。
▽澄憲の子:真雲、海恵、聖覚、覚位。
この系図は、永井義憲『日本佛教文學研究 第二集』(豊島書房、昭和42年)からのもので、澄憲の子四人が摘記されているが、澄憲は、真雲、海恵、聖覚、覚位、宗雲、理覚、恵聖、恵敏、覚真及び一女の十人の子供を設けたとされる。[系図省略]
(30) 「晩年不レ慎二戒法一。屡生二数子一」とは、『元亨釈書』にみられる澄憲に対する悪評である。関山和夫氏は、これに触れながら、「歴史を通じて説教者が実力や教団への貢献度を認められながらも侮蔑される要因をなしている。後世の説教者も行状には共通点があり、様々な毀誉褒貶を浴びることになる」(前掲、関山『説教の歴史的研究』52頁)と述べている。
(31) 伝教大師は、「能く行ない能く言うものは国宝、能く言いて行なう能わざるものは国師、能く行ないて言う能わざるものは国用」(山家学生式)と述べたというが、そこでは、表現能力が、僧侶としての行いと同じ重みで語られている。多賀宗隼氏は、「自行に終始することを陋として化他を以て仏道の完成とするいわゆる大乗的態度にたつとき、僧侶にとって、表現能力は必須不可欠であった。表現手段は身口の二業にわたる。〔中略〕もっとも普通の場合にあって口弁と文筆とをあぐべきであることはいうまでもない。/かく考えるとき、口弁、弁舌は僧侶の活動にとって、もっとも重要な、本質的な行儀の一であるとせねばならぬ」と述べているが、同様の観点からの、「説教技術の力」である。『元亨釈書』(Iー1.の註に原文を挙げた)に、朝廷が唱導における安居院の才能と業績を高く評価して、この一族だけに対しては、女性関係についてきわめて寛大な扱いをしたと書かれてあるが、それもやはり、そうした観点による表現能力の重視と考えてよいと思う。
しかし、その「支持」されたことについては、別の見方も、諸研究者によって述べられている。つまり、一族出身の有力な僧が諸寺に在ったことが、その説教の広く重んぜられる至った一因ではないかということである。
(32) 吉記 [きつき] 治承五年六月六日「説法之妙不□富楼歟」、吉記元暦二年五月十二日「説法不異富楼那」、玉葉 [ぎょくよう] 養和二年正月二十二日「説法殊優美」、玉葉文治三年閏十二月五日「説法珍重、実是当時の逸物、緇素之才芸未レ加二此師之説法一」等、澄憲の説教の卓越さを物語る記事の枚挙に遑がない。なお、本文にも幾つかの例を挙げたが、補足すれば、寿永元年十二月二十八日の条については、九条兼実の家での皇嘉門院の為の仏事の説法であり、この時の説教内容が、女が男に勝るという趣旨のものである。また、建久二年閏十二月三日は、法皇御悩逆修の説教であり、「今日説法、萬人拭レ涙、法皇萬歳之後、天下之人有様、人民愁歎等、悉演説云々」と記され[単に感傷の涙を誘うだけのものではなく世上の有り様や人々の悲歎にも及んだことが知られ] ている。
(33) 「一切女人三世諸仏真実之母也。一切男子非二諸仏真実之人一。故何者。仏出生之時。必仮宿二胎内一。縦為二権化胎生一之乗無論。於二父君一無二陰陽和合之義一。身体髪膚不レ受二其父一。仍無二父子之道理一之故也。依レ之言レ之女者勝男者歟」と澄憲が説教したことに、九条兼実が、「尤此事可二珍事一、有二興言一」と述べたもの。兼実は、激しい感動を覚えたとみえ、その説教を日記に書きとめ、「僧俗を通じて才芸澄憲に及ぶ者を未だ知らない」と迄述べている。
(34) 国立公文書館底本所蔵『源平盛衰記』[げんぺいじょうすいき] 第一冊(巻第一〜巻第八)、全六冊、(勉誠社、昭和52年)184〜185頁。
此僧カ高座ヨリ下リン時各ハヤセ何ナル風情才覺ヲカ申振ル舞フト仰アリ院ノ依テ二御氣色二一若キ殿上人四五人心ヲ合チ拍子ヲ打テアマクタリ□□ト拍〔中略〕澄憲三百人□□ト云音ヲ出ス殿上人猶アマクタリ□□拍ス澄憲三百人ノ其内ニ女御百人稗裨販公卿百人伊勢平氏驗者百人皆乱行三百人□□ト云テ扇ヲヒロケテ殿上ヲサゝト扇散メ皆人ハ母ガ腹ヨリ生ルゝニ澄憲ノミソアマクタリナルト申天走リ入ニケリ
澄憲は、その出生の秘密として、信西入道と或尼との間に生まれた子であるとされる。ここでの「あまくだり」は、尼の腹から生まれたという意味と、高座から下りるということを言いかけたものである。
(35) 高座は真剣勝負だと言う説教師は、説教者魂とも言うべきプライドと強い信念を持って、一語一句を大切にした。その一語一句が救済の役割を演ずるからである。決して変わることのない宗教的真理の核心を確りと掴みながら、民衆の為に語る。それは、説教師の個性、更にそこから発する話法の相違によっても、種々様々な表現を取り得る。しかし、どの様な表現が民衆の心に最もぴったりといくのであろうか。それぞれの時代に即することは勿論、人々が望む条件の全てを満たすべく、説教師達は様々な創意工夫を試み続けた。そして、苦悩に満ちた人間社会の底辺に生きる庶民のエネルギ−の発露となる、多くの枝葉を生じさせるに至ったのである。
中世の浄土教興隆後、説教の芸能化の流れの中から、説教の変形とみられる芸能と説教師の変形である芸能者(或いは音芸者)とが生まれてきた。前者には平曲、修羅物語、説教浄瑠璃(説教節)等があり、後者は琵琶法師、絵解き法師、物語僧、熊野比丘尼等である。民衆は大いに喜んでこれらを迎え、大道芸や民間演芸として盛んな流行をみせてゆく。説教浄瑠璃その他仏教に発した芸能と寺院、法席で行われる説教とは、正に紙一重のものが実に多い。しかし、高座では、節談説教が主導権を握り、絶大なる人気を博したのである。つまり、日本人に最も適した話し方をあらゆる角度から研究し、その方法を樹立して来た説教が、日本の話芸の伝統において厳然たる主流であったのである。
日本の大衆芸能と言われるものの中で、殊に浄瑠璃、講談、落語、浪曲は、その発生や発達史において、節談説教と極めて強い絆で結ばれている。説教に端を発した浄瑠璃の流行や、説教の改作とも言える親鸞に関する浄瑠璃の上演と多数の浄瑠璃本の刊行(『しんらんき』六段[1624-1644])等は、それを窺い知る為のほんの一事である。
節談説教から派生して遂に特異な芸態を確立した民間芸能が、平曲、説教浄瑠璃(説教節)等である様に、浄瑠璃、浪花節から現代の演歌に至る日本人の節の素が、節談説教の中にあるのである。節談説教系の流れが、一つのはっきりとした色分けとして、浪花節の中に残っていると言えるだけではなく、事実、節談説教の節まわしと全く同一の箇所が、浄瑠璃、浪曲において随所にみられる(a)。遡ればそれは声明、読経の名調子(節)となり、また、浪曲師木村松太郎氏が、「浪花節は、あくまで自分がお客様からお金をいただいて、お客に聞いてもらう、生きた演芸として成長発達して来ましたものですら、[中略]あっちもこっちもととりっこしたり、いつのまにかうまく結び合ったりしながら生きております」(b) と述べているように、仏教に発した芸能を考える上で、節談説教だけをその源として事足りるのではない。しかし、「声明、お経の節を説教に加味し、地の部分がいつしか節になり、節の部分がいつしか地になって、見事なフィ−リングを効かせながら聴衆の感情に強く訴えていく節談説教の手法」(c) こそが、浄瑠璃、浪曲といった日本の音曲語りに極めて大きな影響を与えたのである。そして、幾多の説教師達の創意工夫と長い歴史の中で培われたその節まわしには、日本人の心に訴える言い知れぬ力が秘められているのである。昭和四十二年に没した浪花節の吉田大和丞(奈良丸)氏は、生前によく、「儂らの先祖は澄憲さん[安居院流]や」と語っていたという。
講談、落語は、近世に入り急激な発展をみせ、寄席芸能として繁栄したが、節談説教の方法から生まれた、あるいは、説教師がそれらの芸と形を創したと言える民間芸能である。寄席で上演するに当たり、高座に端坐し、講釈師は張り扇を、噺家は扇子を用いながら、様々な所作と身振り手振りで話して聴かせる形は、正に説教師が高座で中啓を用いて話した説教形式を踏襲するものである。前座修業の方法も、説教師の随行制度による修業と同じものである。また、講談の祖とされる赤松法印の先祖に、明秀光雲(1403-1487)という浄土教の優れた説教者があり、落語の祖とされる安楽庵策伝が浄土宗の僧であり、安居院の聖覚に発する「説教念仏義」系の説教師であったことも、大変に興味深い。
講釈師田辺南洲氏は、「講談で一番大事なことは、語るとはいわず読む、と申します。語るというと、意味が違ってまいりまして、『語ってはいけない、読め』といわれます。つまり、本を前におきまして、文章を皆さんに、聞いてもらったわけです。読んで、解説をして、正に講釈をしたわけです。そういう伝統を引いていますから、決して語るとは言いません。読みます」(d) と述べている。このことからみれば、講談は、主として純粋な経典講釈の流れの中から生まれたように思われる。しかし、「六道説教」、「六趣説教」と古くから呼ばれたものの中で、修羅場説教、すなわち、「逼り弁」と称して節談説教者の得意とする表現法の一つであったこの激しい口調の説教が、講談最大の売り物「修羅場読み」として、今日も講談に残っているのである。太平記読みから講談への話芸として洗練されてゆく過程において、節談説教が強い影響を与えたであろうことは、容易に考えられる。また、僧侶(説教師)から講釈師へ還俗して名を馳せた者達の存在や、『親鸞聖人御一代記』など、説教と同じ話材を扱った講談は、説教と講談の関連を考える上で無視出来ないことである。延いては説教と話芸の密接な繋がりとなるが、この傾向は現代にも続き、講釈師悟道軒円玉氏は、浄土真宗大谷派の説教師祖父江省念師に師事して節談説教を学び、自己の講談に導入し、法然や親鸞の伝記を講演していたという。
安楽庵策伝(1554-1642)は「落とし噺」を説教の高座で実演し(e)、その数々の話 材を集録した『醒睡笑』八巻を後世に残した。この本に収められた咄は、策伝の説教師としての生活から生まれたものであり、あくまで説教の話材であるが、当時の庶民層の生活意識を反映し、笑話で充満している。この『醒睡笑』から取材した咄は、「平林」、「無筆の犬」、「てれすこ」等を代表として、現代落語にも数多く継承されており、説教から落語への系譜の一端を確認することが出来るであろう。また、今日に残る古典落語の中から仏教を取り除けば、あとは寥々たるものとなる様に、明らかに説教に取材したもの、あるいは、説教そのものが落語になったと思われるものの枚挙にいとまがない。特に上方落語には浄土教系のものが目立っている。「人情噺」は、節談説教で行われてきた感動的な話法から生まれた「長ばなし」であり、「怪談噺」は、正に譬喩因縁談の変形と言えるものである。節談説教は、日本の話芸の成立に極めて強い影響を与えたのであるが、殊に落語に及ぼしたその影響には著しいものがあった。
節談説教は、その長い歴史と伝統の中で幾多の説教師達が、厳しい修業と共に、その一語一句を繰り返し繰り返して練り上げてきたものである。そこに優れた話芸が生み出された要因がある。しかし、如何に話術としてすばらしくとも、民衆の心がついてこなければ、軈て消え去るものとなる。中世から近世を経て明治・大正・昭和初期に至る迄、節談説教が日本の話芸の主流を占めてきたということは、説教師達が、民衆の為に語るという姿勢を守り続け、その鋭敏な感覚を以て、それぞれの時代における庶民の感性と情操、そして、生活意識に直結した説教を展開してきたからである。説教師の卓絶した話術も然る事ながら、ここに、説教者と聴衆が自ずから一体となってゆく一つの素因がある。節談説教は完全に民衆のものであった。また、説教師達は、庶民の娯楽的要求にも最大限応えるべく努めてきた。しかし、それは全くの大衆への迎合ではなく、厳然たる伝統の上に立ち、揺るぎない説教者魂を固持し、決して説教の本質を崩しはしなかったのである。これらの事項は、先に述べた日本の大衆芸能にとっても、第一義的な課題であろう。
(a) 関山和夫『説教と話芸』(青蛙房、昭和39頁)262頁。
(b) 伝統芸術の会編『話芸 その系譜と展開』(三一書房、1977年)。
(c) 関山、前掲『説教の歴史的研究』8頁。
(d) 伝統芸術の会、前掲『話芸 その系譜と展開』114頁。
(e) 関山和夫『庶民文化と仏教』(大蔵出版、1988年)203頁、及び、関山、『落語風俗帳』(白水社、1985年)18頁。
(36) 関山、前掲『説教の歴史的研究』53頁。
(37) 「祖師聖人御一代記」5〜51頁、(藝能史研究会編『日本庶民文化史料集成 第八巻 寄席・見世物』〔三一書房、1976年〕)。『親鸞聖人御一代記』(「祖師聖人御一代記」の別名)の「信行両座事」は、親鸞の発案で、信を重んずる者と行を重んずる者とを両別しようと信不退、行不退の二座を設ける段である。     
時ニ一番カ法印大和尚聖覚、第二番釈ノ信空上人法蓮信不退ノ御座ヘ着クベシト云云、〔中略〕祖師上人〔親鸞〕人々ノ出言ヲ相待チ玉ヘモ何レモミナ無言ナレハ、ハヤ是レギリト思召シテ御自身ノ御名ヲ書キノセ玉フヤ、暫クアリテ大師上人オホセラレテノ玉ク、源空〔法然〕モ信不退ノ御座ニツラナリ待ベルベシト〔後略〕。
「ただ一向に念仏すべし」(『一枚起請文』)とする法然が行を否定した史実はないが、この段に、浄土真宗における法然、親鸞、聖覚の係合、そして、不退の安心を民衆に届ける浄土真宗の立場が窺えて興味深い。
(38) 本文に挙げた例については、建久二年閏十二月二十二日の条が後白河院御逆修に召されて説法した時のもので、建暦二年二月十八日は春花門院の百ヶ日の仏事、元久三年四月十六日は宜秋門院の仏事において、建永元年九月六日は慈円の甥良通の供養に請じられた時のものである。また、聖覚が文暦二年に六十九歳で入寂した時のことが『明月記』にみられるが、藤原定家は、嘉禎元年二月二十一日の条で、「濁世富楼那、遂為還化之期者、実是道之滅亡歟、非有餘、今年六十九云々、先師七十八由被陳、碩學能説於今断絶歟」と [重病の聖覚について] 述べ、その死去をいたく悲しんでいる [聖覚の死去は嘉禎元年(文暦二年)三月五日とされている]。説話や伝説としては、本文に挙げたものの他に、承久三年に但馬宮雅成親王が浄土の教義に不審を立てた時、聖覚が見事な解答 [「御念佛之間御用意者、一切功徳善根之中、念佛最上候、雖十悪五逆罪shou全不爲其shou、雖一稱十念之力、決定可令往生由、真實堅固御信受可候也、聊猶豫之儀努力々々不可候、或shou身懈怠不浄、或恐心散乱妄念、於往生極樂成不定之思、極僻事候、可背佛意也 [中略] 十二月十九日法印聖覺」(親鸞平仮名本『唯信抄』)] を示したこと、嘉禄二年に後鳥羽上皇が隠岐より詔書を承円(西林院)に下して念仏往生の義を問うた時、広く観・称の難易を説いて、持名の益が巨大であることを記し、それを表進したこと、建保二年正月二十五日の法然上人三回忌に報恩の為、洛東真如堂に道俗を集めた七日間の念仏会の説教を行ったこと等が、伝えられている。
(I) 瘧病療治祈祷について。
或時、上人有二瘧病コト一ノ療治ニ一切不レ叶、于レ時月輪禪定殿下大ニ歎レ之云、我圖二絵善導御影ヲ一於二上人ノ前ニ一供二養之一、此由被三仰二安居(院ヲ脱ス)僧都許ニ一御返事云ク、聖覺モ同日同時ニ瘧病仕事候、雖レ然爲二御師匠報恩一可參二勤仕一、但早旦可レ被レ始二御佛事ヲ一云々、自二辰時一始二説法ヲ一未時ニ説法畢ス、導師併ニ上人共ニ瘧病落畢ス。又其ノ説法大旨者、大師釋尊モ同ル二衆生ニ一時者恒ニ受ケ二病悩ヲ一給キ、況ヤ凡夫血肉身、云何无二其憂一、雖レ然淺智愚衆生者不レ顧二此道理一、定懐二不信之思ヲ一歟、上人化導已ニ稱チ二佛意ニ一面リ遂二往生一者千萬々々、然者諸佛菩薩諸天龍神、争カ不レ歎二衆生ノ不信一四天大王可レ守二佛法ヲ一者、必可下癒二我カ大師上人ノ病悩ヲ一給上也。善導ノ御影前香薫云々、僧都云、故法印ハ下レ雨擧レ名、聖覺カ身ハ此事尤奇特云々、世間ノ人大驚テ生二不思議ヲ一云々。(醍醐本『法然上人伝記』の「一期物語」)
(39) これらの著作と浄土宗・浄土真宗の説教との繋がりを、以下に簡単に述べる。
「四十八願」は、法然浄土教の骨子を成す重要なものである。『唯信鈔』は、聖道・浄土の二門を叙し、特に念仏往生は専修を以て肝要とすべきことを釈している。臨終と尋常の念仏、弥陀願力と前世の罪業、五逆と宿善、信心と称名について通釈したことは、後世の説教において、貴重なテキストとして長く尊重された。近世から近代に入っても、浄土真宗の説教台本を見れば、『唯信鈔』の釈文に従っていることが明らかである。『十六門記』においては、法然の回心の感動を述べた「歓喜の余に聞く人なかりしかども、予が如き下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをやと、高声に唱えて感悦髄に徹り、落涙干行なりき」という箇所が、法然の『小消息』の結びの部分である「天にあふぎ地にふしてよろこぶべし、このたび弥陀の本願にあへる事を。〔中略〕たのみてもなをたのむべきは乃至十念の詞、信じてもなを信ずべきは必得往生の文なり」と直接に関連し、浄土門徒が深い感銘を受ける処であるという。そして、「大原問答」は、後世の浄土宗や浄土真宗の説教の高座に常にかけられ、聴聞者に良く親しまれた大切な説教演目となっている。
(40) 当然のことながら、それだけではなく、永井義憲氏が述べるように、「その説草の類聚、整理と、〔中略〕山、寺などとは異なった特異な解釈、さらに一つの伝書としてそれらが権威をもって門流に伝えられて行ったことなどがその原因」(前掲『日本佛教文學研究 第二集』441頁)と考えられる。
(41) 櫛田良洪「唱導と釈門秘鑰」(『印度學佛教學研究』第一巻第一号)。また、永井義憲、前掲『日本佛教文學研究 第二集』、及び、関山、前掲『説教の歴史的研究』においても、取り上げられ、論じられている。
(42) 関山、前掲『説教の歴史的研究』56〜57頁。
(43) 櫛田良洪氏は、「その説く所は絶待三学思想、法華超八の思想、諸行往生思想にも依りながら、時には一向専修、弥陀本願思想をも説いて、真俗一貫、信心為本の道理を説かんとしたものである」(前掲「唱導と釈門秘鑰」)と述べている。また、山口光円氏は、安居院の学風が、論義と法談と法式の三方面を通じたもので、教学の面から言えば、法華による浄土信仰であることを述べている(「新出草案集と安居院流学派」〔『仏教文化研究』第七集、昭和37年三月〕[『佛教文化研究』第5号、昭和31年11月])。
(44) 永井、前掲『日本佛教文學研究 第二集』432頁。
(45) 良希撰『普通唱導集』の序文にみられる、旧来の表白体説教に対する批判を以下に挙げる。
况復表白章句ノ、非二言泉之弁舌一、懇丹ノ釈段背ク二学山之名目一、至ハレ于レ加彼語拙而少二其理一、聞喧而滞二其事一、万人反レ唇ルヲ、皆解キ二嘲弄之頤一、一会成レ吹無レ催二感情之涙一、既而疲ル二長居一者ハ起テレ座且退出シ、適残リ留ム輩ハ、倚テレ墻ニ而頻ニ睡眠ス。
(46) 『法然上人行状画図』には、「安居院の法印聖覚は、〔中略〕深く上人の化導に帰して、浄土往生の口決をうく。大和前司親盛入道、御往生の後は疑をたれの人にか決すべきと、上人にとひたてまつりけるに、聖覚法印わが心をしれりとの給へり。浄土の法門にをきて所存をのこされざる事しりぬべし」[(一七)] とある。さらに、聖覚と法然の思想的立場の同一性を裏付けるものとして、親鸞書写の平仮名本である専修寺蔵の『唯信抄』(『唯信鈔』)末尾における [末尾に記録されている]、聖覚の表白文 [の存在] が知られている。
法然上人之御前ニシテ而隆信右京大夫入道法名戒心親盛大和入道法名見佛爲上人之御報恩謝徳修御佛事御導師法印聖覺表白詞日夫レ根ニ有レ二利鈍一者ハ教ニ有リ二漸頓一機ニ有レ二奢促一者ハ行ニ有リ二難易一當ニ(二)知ル一聖道ノ諸門ハ漸教也又難行也淨土ノ一宗者ハ頓教也又易行也所(二)謂一眞言止觀之行猿猴エンコウノ情難ク學ヒ三論法相之教牛羊ノ眼易シ二迷一然ニ至テ二我宗ニ一者ハ彌陀ノ本願定メ三行因ヲ於二十念一善導ノ料簡決ス器量ヲ於二三心一雖モ三非ト二利智精進ニ一專念實ニ易シ二勤メ一雖三非二多聞廣學ニ一信力何ソ不ラム二備ハラ一況ヤ論スレハ二滅罪之功力ヲ一消シ二五逆ヲ於上稱名之十聲ニ一談スレハ二生善之徳用ヲ極ム一十地ヲ於二順次之一生一依(二)之一濁世之凡夫横ニ載リ二五趣之昏衢ヲ一末代之愚士堅ニ極ム二九品之階級ヲ一然ニ我カ大師聖人爲シテ二釋尊之使者者ト一弘メ二念佛之一門ヲ一爲シテ二善導再誕ト一勸メタマヘリ二稱名之一行ヲ一專修念之行自二此レ一漸ク弘マリ無間無餘之勤メ在テ二今ニ一始テ知ヌ然レハ則チ破戒罪根之輩ラキシリテ加二肩ヲ一入リ二往生之道ニ一下智淺才之類ヒ振二□クテタゝムキヲ一赴ク二淨土之門ニ一誠ニ知ヌ无明長夜之大ナル燈炬也何ソ悲マム二智眼ノ闇キコトヲ一生死大海之大ナル船筏也豈ニ煩ハムヤ業□ノ重コトヲ爰ニ法主幸ニ依テ二上人ノ化導ニ一大ニ信セシメリ二彼ノ佛ノ本願ヲ一淨土ノ往生敢テス不三殘サ二疑ヲ一彌陀ノ来迎只專ラ憑ノムヘキ者ノ歟カ豈ニ圖ハカリキヤ悠悠タル生死以テ二今生ヲ一爲シ二最後ト一漫漫タル流轉以テ二此ノ身ヲ一爲セムトイフコトヲ二際限ト一倩ツラツラ[原文は約物]思ヘハ二教授ノ恩徳ヲ一實二等シキ二彌陀ノ悲願ニ一者ノ歟カ粉コニソテ二骨ヲ一可シ三報ス二之ヲ一摧テ二身ヲ一可シ三謝ス二之一依テ(二)之一報恩ノ齋曾修シ三於二眼前一値遇ノ願念萠キサス三於二心中一願ハ彌陀来善導和尚尚鑒カゝミテ二信心ヲ一垂レ二哀愍ヲ一大師上人同學等侶照シテ二懇志ヲ一致シタマヘリ隨喜ヲ自他同シク往二生シ極樂界ニ一師弟共二奉二仕セム彌陀佛ニ一蓮華初開之時先ツ悟リ二今日之縁ヲ一引接結縁之夕ヘ必ス導カムト二今日之衆ヲ一
(47) 関山、前掲『説教の歴史的研究』56頁。
(48) 「法則集 上下二帖合之」(永井、前掲『日本佛教文學研究 第二集』所収、444〜462頁)。
(49) 関山和夫氏、永井義憲氏、本田安次氏等諸研究者が、その文体や調子等について認めている。
(50) 安居院流の唱導集については、菊地良一氏、櫛田良洪氏、清水宥聖氏、永井義憲氏等の諸研究者によって、既に詳しい研究報告が為されている(菊地良一『中世の唱導文芸』〔塙選書 63〕、櫛田良洪「金沢文庫蔵安居院流の唱導書について」〔『日本仏教史学』4、日本仏教史学会〕、清水宥聖「安居院流の唱導書について」〔『仏教文学研究』10 [1-10]、仏教文学研究会〕、永井義憲・清水宥聖編『安居院唱導集』〔貴重古典籍叢刊6〕、等々)。
現存する称名寺蔵・金沢文庫保管の安居院流唱導書についてその文献名の一部を挙げる。
『安居院僧都問答条々』(英禅手沢本、一冊)。観応二年(1351)、称名寺における英禅の書写。聖覚の孫大納言僧都覚守が関東に招かれ下向した際(徳治二年〔1307〕六月)、安居院流の秘訣を鎌倉の僧に伝えた書で、説教の次第、作法等の問に応えたものであるとされる。「式法則用意条々」の奥書によれば、嘉元三年(1305)、安居院において、僧忍宗の写したものを、高恵 - 湛睿 - 英禅と相承したとある。
『言泉集』[ごんせんしゅう](釼阿手沢本、残本二十二帖四十冊)。安居院流の唱導集として最も著名なものである。澄憲の文章を主として集めた、聖覚の編述によるものとされている。
『釈門秘鑰』[しゃくもんひやく](残本三十五冊)。仁平(1151)から正治(1199)に至る澄憲の作で、聖覚の編述であろうとされる。
『転法輪抄』(釼阿手沢本、残本十五冊)。現存の表白文願文等に附せられた年時や注記に従い、永暦二年(1161)から建仁二年(1203)に至る澄憲の作品を主とし、聖覚の編述であるとされる。目録によると『言泉集』もこの中に含まれており、全てが現存すれば八箱七十九結七百六十帖をさらに超える厖大なものになるという。
『鳳光抄』(残本五本)。金沢文庫現蔵のものは法花経講讃時のもののみであるが、本来は広範囲に亙る唱導文集であったらしい。その成立事情ならびに全貌を辿り得る注記はないが、明らかに澄憲・聖覚の作品であるとされている。
(51) 柳田国男氏は、次のように述べている(「不幸なる芸術」〔『柳田国男全集 9』ちくま文庫〕)。
カナシという国語の古代の用法、また現存多くの地方の方言の用例に、少しく注意してみれば判ることであるが、カナシ、カナシムはもと単に感動の最も切なる場合を表わす言葉で、必ずしも悲や哀のような不幸な刺戟には限らなかったので、ただ人生のカナシミには、不幸にしてそんなものがやや多かっただけである。〔中略〕元は一般に身に沁み透るような強い感覚がカナシイで、その中から悲哀のカナシイだけを取り分けて、標準語の内容としたのは中世以後、この悲という漢字を最も多く需要した仏教の文学や説教がもとかと思われる。  
(52) 祖父江省念『節談説教七十年』(晩聲社、1985年)、189頁。
(53) 朝日新聞、1996年1月22日。
(54) 祖父江省念師の孫娘である佳乃さんからの手紙より。
(55) 省念師は、弘誓山浄雲寺で修業を続けていたが、「どうしても勉強したい」という思いが募るばかりであった。そこへ、札幌の教務所長の安田力師からの誘いがあり、教務所の住み込み書記として、昼は事務の仕事をしながら、夜は近くの私立中学へ通うという、北海道での生活が始まった。また、この間に省念師は、教務所で開かれる大谷高等学校普通会(夏の間の三ケ月の講習)を三年続けて受講し、検定試験に合格して、十八歳で「教師」(住職の資格)を取得している。
次いで省念師は、旭川別院に列座として就職することとなった。この旭川別院には多くの直檀があり、省念師は、毎日あちらこちらへお経を上げに通い、人々と語り合ったという。その中には、あいまい屋(飲食店と女郎屋を兼ねた店)やたこ部屋もあり、そうした酷い境遇の下で生活せねばならない人々の悩みや辛い体験に、省念師は共に涙を流したのである。こうした社会の底辺に生きようとする人々との交流の中で、この旭川時代に、「単なる僧侶で終わるのではなく、立派な説教師になろう」という考えが頭を擡げてきたと、省念師は述べている。また、旭川別院へは内地から様々な説教師が訪れて、連日のように説教が行われていたことも、省念師の「立派な説教師になろう」という考えに、一層の拍車をかけるものとなったという。
(56) 「一声、二節、三男」とは、声がよく、節まわしが巧みで、男ぶり(人品)が良いことをもって上等の説教者としたことをいう。これに対して、梁の慧皎の『高僧伝』では、「声、弁、才、博」の四つが、名手としての必須の資格となっている。つまり、声は美しく豊かであって、時に応じて弁説さわやかに、その場にかなった適切な語句を自由に駆使する才能を備え、且つ経典や故事・説話を博く引用することが、その心得であるとされる。また、『仏教法話大事典』(名著出版、昭和58年)によれば、「説法儀式品」(『仏本行集経』巻四九)においては、説法者の資格とその選択に関して、「(1) 諸根闇鈍及び欠漏し戒の不具なる者を請じて、其の法を説くを得ざれ、...... 勝行成就せる妙行具足の人を請ずべし。(2) 応当に弁才知法にして、次第に旧くより阿含経等を解するを簡択し、請じて説法せしむべし。(3) 復修多羅を解し、及び摩登伽を解する者をも応に是の人を請じて説法せむべし」と、規定されているとある。
(57) 随行制度は、関山和夫氏によれば、ずっと古くから行われていたことであるが、特に浄土真宗においては、江戸時代に盛んに行われたと推察され、そして、明治時代には大説教者で「和上」と呼ばれる人は必ず随行を二人連れて歩いたことを、今でも記憶している者がかなり生存しており、さらに大正時代には随行を三人も連れて巡廻した説教者があった程であるという。節談説教は、師弟相承であるから、師匠に弟子入りして随行し、師匠の袴たたみ、袈裟たたみからはじめるのであるが、殊に中啓の扱い方には十分気を配らなければならなかったとされる。本文でもみてきたように、説教には頗る芸能的要素が濃く、登高座に際して、中啓を高座に落とす作法にも種々の意味づけがあり、随行者は高座で中啓を持つことが許されなかった程であるという。随行は、師匠である説教者の登高座の前に、高座に登って一席を語り、これを、「御前座」と呼んだのである。この随行修行は、期間を定めて行われるものではなく、説教の技術を習得すると同時に、心を伝承することが第一であるとされ、したがって、それが十年にも及んだ者もあれば、僅か数年で独立した者もあるという。
(58) 福島真人編『身体の構築学 社会的学習過程としての身体技法』(ひつじ書房、1995年)。同書において(424頁)は、以下のような文脈で使われている。      
さらに、この独特な教授法及び習得法、それからその目指すべき型なんですが、それらを効果あるものとしている重要な要素が、世界への潜入という条件であると考えます。わざの世界で重要なことは、その世界に足を踏み入れることなしにはわざは習得できない、型は習得できないということです。したがって、ビデオ学習は、形の学習、形の習得という意味では、可能だと思うんですが、型となってくると、当該の世界に足を踏み入れることなしには不可能である。この究極の形が内弟子制度、徒弟制度というようなことになるわけです。世界への潜入が、つまり、わざを生み出している存在である師匠の生活への接近が、単なる形の模倣におわらせずにはいないということ。それがまた、型の習得へ導いていくということなんですね。
(III) ピーター・バーガー (Peter L. Berger) 氏は「超越のしるしとしての滑稽」について(ピーター・バーガー/森下伸也訳『癒しとしての笑い』、新曜社、1999年、370頁)、次のように述べている。
ここで言いたかったのは、滑稽の経験はそうした超越のしるしのひとつ、しかも重要なひとつだということであった。キリスト教の言葉で言えばこれは、滑稽なものは秘跡的な宇宙 ―聖公会祈祷書をもじって言えば、目に見えざる恩寵の目に見えるしるしを包摂する宇宙― のひとつの顕現だということを意味している。(中略)滑稽の経験はこの世界の苦しみと悪を奇跡によって取りのぞくのでもなければ、神が世界のうちに生きて動いているとか、神が世界を救おうとしていることをしめす一目瞭然たる証拠をもたらすわけでもない。だが滑稽なものは、それが信仰のうちに感じとられならば、大いなる慰めとなり、いまだ来らぬ救いの証人となる。
(59) 祖父江、前掲『節談説教七十年』、カバー裏表紙の推薦文。
(60) 七五調というものについては、寿岳章子氏の研究があるが、同氏の著書『日本語の裏方』(創拓社、1990年)においては、以下のように述べられいる。      
しかし、今の私はいわば嫌悪すべきメロメロ七五調のも一つの下に横たわる日本人の七五の必然性を感ぜずにはおれなくなってきた(9頁)。
おそらくそれは深甚な仏教の真理にひかれているのではなく、七五調のリズムに酔うという面もあるのではないか。それは心を和め、辛いこの世のさまざまのわずらいから、一時、心を解放してくれる。何よりの心の癒し薬である(17頁)。
なぜそうなったか。詠歌の影響、坊さんの説教の影響、彼女の生きた時代の影響、それらはすべて七五の世界に彼女を導いた。七・五・七・五と続く単調なことばのうねりの中に、彼女は安心を感じていた。仏の世界は七五調によって顕現しているのであった(20頁)。
まこと七五調は話芸の大切な形式であった。日本の民衆の心に残り、人の胸に火をつけてゆく大事なパターンであった。その限りにおいては、七五は永遠の律であろう。[寿岳氏原文改行] 欝勃たるエネルギーのそれしかないような鋳型となるとき、七五調は輝く(22〜23頁)。
リアルな手法で描けば千万言も費やして書くことのできる内容を、万感の思いをおさえねばならぬという至上命令のもとに、噴出するエネルギーの処理のように選ばれるたった一つの文体……(24頁)。
また、山折哲雄氏は、親鸞との係わりにおいて、七五調に触れている(「帰りなんざ親鸞のたたずむ風景」、前掲雑誌『仏教 特集=親鸞』、53頁)。
親鸞は、和歌の形式をあきらかにきらっていたと思う。和歌の叙情を好まなかった、とわたしは勝手に想像している。かれが一首の和歌ものこさなかった唯一の原因は、おそらくそこにしかない。
親鸞が、その最晩年に情熱をかたむけて制作したのは、周知のように「和讃」である。「和讃」は一見和歌に似ていて、その実それとはまったく非なるものである。形式的にいえば、和歌の五七調三十一音にたいして、和讃は七五調四十八音からなりたっている。しかしそこに盛られた内容という点からみるとき、両者の相違は決定的である。七五調四十八音の形式は、その内容をするどく規定している。〔中略〕ここには、信仰告白の力強い表明がある。叙情をふり切って、単純にして明晰な信仰の論理がほとばしっているだけだ。
(61) これは、不十分な述べ方である。如何に記述したらよいのか迷った結果、このように述べた。実際の観察においての率直なところを述べるとするならば、先ず、私はその中に入れなかったということ、さらに言えば、私は〈はじき出された〉ようであったということである。第三章においての論考にあたっては、それがどのようなものであったのか、もっと解り易く適切な表現をとりたいと思っている。
(62) 阿弥陀如来と衆生との関係を親と子との愛情関係にたとえるいうことは、優れた説教の方法である。
(63) 佐野清彦『音の文化誌 東西比較文化考』(雄山閣、平成3年)。
(64) 関山、前掲『庶民文化と仏教』、84頁。
(65) 仲井幸二郎・西角井正大・三隅治雄編『民俗芸能辞典』(東京堂出版、昭和56年)。
(66) 柳田国男「民謡の今と昔」(『柳田国男全集18』ちくま文庫、1990年)、374頁。
(67) こうした人々は実に多く、定例会における聴衆も確かに満堂の人である。ここで補記しておきたいことは、しかしながら、高齢者が大半を占め、若者の姿を殆ど見ることが出来なかったことである。  
(68) バプティスト派の源流を探ろうとする場合には、現在、「バプティスト継承説」、「精神的アナバプティスト同族説」、「英国分離派源流説」という、三つの異なった立場における考え方が存在している。
第一に、「バプティスト継承説」(Baptist Successionism)は、その源流をイエスの時代並びにエルサレムの初代教会に求める立場に立つ、つまり、その起源を原始教会に迄遡って求め、一世紀以来バプティスト教会は、歴史的に連続して存在してきたのだとする考え方である。第二に、「精神的アナバプティスト同族説」(Anabaptist Spiritual Kinship)とは、「バプティスト継承説」の立場を修正したものであり、使徒時代から近代のバプティスト教会成立迄の間に存在してきた多くの信仰集団の相互間においては、必ずしも組織的・史実的な結びつきが明確でないものの、しかしながら、精神的には密接な関連を有し、思想の継承の跡が十分にみられるとする考え方である。第三に、「英国分離派源流説」(English Separatist Descent) は、バプティスト教会とは、プロテスタンティズム(宗教改革運動)の中から発展してきたものであり、それは、特に、イングランド宗教改革運動の中で英国国教会から順次分離してきた会衆派(English Congregationalists)そして、その会衆派からさらに自分達を分離してきた集団である、と主張する立場である。
本文において明らかなように、この第一節では、「英国分離派源流説」の立場に基づいた考え方を述べている。
(69) 本文において省略した、アルミニウス主義神学に立つジェネラル・バプティストと、カルヴィン主義神学に立つパティキュラー・バプティストについて、両教会の誕生への概略を以下に述べる。主たる参考文献は、斎藤剛毅『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』(ヨルダン社、1996年)、森島牧人『バプテスト派形成の歴史神学的意味』(燦葉出版社、1995年)である。
ジェネラル・バプティスト設立に深く係わることとなるイングランド非国教主義分離派の集団は、1606年頃に、イングランド中部トレント川沿いのゲインズバラ(Gainsborough on Trent) に現われたとされる。そして、1607年にこの集団は二つに分かれ、一つのグループは、スクルービー(Scrooby)の領主の邸宅における同様の集会へと接触を求めていったが、もう一つのグループは、ゲインズバラに残り留まっていた。とはいえ、このスクルービーの集会とゲインズバラの集会との関係は、いわば姉妹教会とも言うべきものであったという。
その後、イングランドで非国教主義分離派に対する宗教的弾圧と迫害が起こった為に、リチャード・クリフトン(Richard Clyfton)を牧師とするスクルービーの分離派グループは、オランダのアムステルダムに移住をした。彼らは、1609年には、アムステルダムからオランダ西部のライデン(Leyden)に移り、さらに、そこから一部の者達が、1620年に、ピグリム・ファーザーズとして新大陸へ渡っていくこととなる。
一方、ジョン・スマイス(John Smyth〔1570?-1612〕)を牧師とするゲインズバラの分離派グループも、イングランドでの宗教的弾圧と迫害から逃れる為に、1608年、オランダのアムステルダムに移住していった。アムステルダムにおいて、ジョン・スマイスらは、彼ら独自の聖書研究とウォーターランド派(オランダ・メノナイトの進歩的セクトを意味する)メノナイト(アナバプティスト、大陸の非国教主義分離派)との接触により(a)、自己の受けた幼児洗礼というバプテスマの非聖書性に気づいて、幼児洗礼否定の見解に至り、真のバプテスマを求めた結果、1608年の暮れもしくは1609年の初めに、「信仰者のバプテスマの教理」(Believer's Baptism)を以て、スマイスが、まず自己洗礼をなし、次いでグループの者達に、「灌水礼による再洗礼」(b) を施すに至ったのである。つまり、彼らはここに、「信仰者のバプテスマ」の意味を知り、その分離派教会を解散し、「自覚的信仰者のみからなる教会」を生み出したのである。また、彼らは、当時のオランダ国内を沸かしていた、カルヴィン主義神学者ゴマルス(Francis Gomarus)とカルヴィン主義修正神学者J・アルミニウス(Jacobus Arminius)の論争を知っており、アルミニウスの説く万人救済説を取り入れていったのである。
(a)スマイスらに対するウォーターランド派メノナイトの影響については、その有無からその程度の問題まで、実に諸説分かれている。例えば、森島牧人氏は、「ウォーターランド派メノナイトの助けを借り」、スマイスらが信仰者のバプテスマの意味を知ったという捉え方をするが、斎藤剛毅氏は、スマイスがメノナイト教会にバプテスマの依頼をしなかったという点からも、自己再洗礼の当 時においては、メノナイトの神学思想がスマイスに何ら大きな影響を与えてはいなかったとする。つまり、スマイスらが信仰者のバプテスマに至ったのは、彼らの独自の聖書研究の結果の神学的確信であるとするのである。
(b)ジェネラル・バプティスト派は「灌水礼」を行っていたが、1651年のジェネラル・バプティスト派の信仰告白(『初代の型にならって集会する三十教会の信仰と実践』)の中で、「バプテスマの方法と様式は水の中に沈められる浸礼である」(四十八条)と明記されるに及んでいる。[The Faith and Practice of Thirty Congregations Gathered According to the Primitive Pattern, 1651: "That the way and manner of baptising, both before the death of Christ, and since his resurrection and ascension, was to go into the water, and to be baptised; Math. 3. 6. Math, 1. 5. and 8. 9" (Article 48)]
このようにしてスマイスのグループは、1609年にアムステルダムにおいて、信仰者洗礼を以て新しい教会を形成した。しかし、その後まもなくしてスマイス自身が、自己バプテスマという行為に及んだことを強く後悔し始めるとともに、やがて、それを正統化する為にも、ウォーターランド派メノナイトとの合同を望むようになったのである。このことが、スマイスの教会内に分裂を引き起こす原因となり、同時に、一部の者達をしてメノナイトの信仰と自分達の信仰との明確な区別を意識せしむという結果を齎したのであった。
反対派の指導者は、このスマイスの教会の重鎮であるトーマス・ヘルウィス(Thomas Helwys〔1550?-1616〕)であった。スマイスに反対してヘルウィスと共に立つのは教会内の少数派であったが、彼らは、1. メノナイトのみが真のバプテスマを執行でき、且つ、その長老群のみが長老を叙任でき得るというような、その「継承」の理念は福音の自由に反すること [That there is no succession nor privilege to persons in the holy things]、2. ウォーターランド派メノナイト特有の教理である「キリストの人性の否定」や「キリストの神聖なる体である教会の内部には、一点の染みも汚れも見過ごすことはできない」等の律法主義的考え方は、イングランド宗教改革運動の担い手達の改革理念にとって全く無縁なものであることを主張し、3. また、同様の根拠に基づき、「剣を携えている故に、統治者は私人としても教会に所属することは出来ない」等の、メノナイトの考え方をも否定した。そして、これらの理由を以て、1610年頃、トーマス・ヘルウィスは少数派の支持により、メノナイトとの合同を申し出た、スマイス及び教会の多数派を破門したのである。こうしてヘルウィスの下に少数の者は、曾ての恩師であるジョン・スマイス等と袂を分かつこととなった。しかしながら彼らは、スマイスから受けた彼らの信仰者洗礼に関しては、それが聖書的に正しいことを確信し、この「信仰者のバプテスマの教理」の実現を強く待ち望んでいくのであった。
そして、遂にトーマス・ヘルウィスは、キリスト者が迫害にあって亡命することの誤りを覚え、その小集団を率いてイングランドに帰国し、1612年、ロンドン郊外のスピタルフィールドに、イギリスにおける最初のジェネラル・バプティスト教会を創設したのである。そしてまた、彼らは、イエスの贖罪の普遍性を説き、「イエスの贖罪はただ選ばれた者だけではなく、人類すべてを救うのに十分である」と主張するという、アルミニウス主義、すなわち「普遍贖罪説」に立つが故に、人々から普遍(ジェネラル)バプティストと呼ばれたのである。
パティキュラー・バプティスト派が生まれる母胎となった教会は、この教会形成に大きな役割を果たした三人の牧師、ジェイコブ(Henry Jacob)、ラスロップ(John Lathrop)、ジェシー(Henry Jessey)のイニシャルから、JLJ教会と呼ばれている。
初代の牧師ヘンリー・ジェイコブ(1563−1624)は、国教会の牧師であったが、分離派の牧師フランシス・ジョンソンと出会い、その影響を受けた。その時点では、ジェイコブは分離派の厳しい国教会批判に賛成できずに、より寛容な立場を主張していたが、やがて、国教会の改革を訴えるピューリタンの「千人嘆願」[Millenary Petition] に積極的に係わり、その執筆活動 [Reasons Taken out of Gods Word and Best Humane Testimonies Proving a Neccessitie of Reforming our Churches in England] により投獄された。彼は、釈放後、信教の自由を求めて、1605年にオランダのミッデルビュルヒ(Middelburg)へ移住をするが、1610年にライデンに居を移してから、その地で、真実の教会についての論考を深めながら、非国教主義分離派の牧師であるジョン・ロビンソン(John Robinson〔1575−1625〕)と六年間にも及ぶ交流を続け、分離派神学の影響を受けていくこととなるのである。なお、このジョン・ロビンソンとは、先に述べたスクルービーのグループにおいて、リチャード・クリフトンの助手としての働きをしていた人物である。
ジェイコブは、1616年にイングランドに戻ると、ロンドン市内のサウスワークに非合法の秘密集会を開始し、そこに会衆主義教会(c) を組織していった。ただ、彼の寛容な立場は依然として変わらず、この教会は、なおも国教会の牧師や信徒達との交わりを保ち続けた。しかし、激しい弾圧と迫害の為に、彼は、アメリカへの移住を決意し、信者の一部の者達と共に、1620年代の初め頃ヴァージニアへと渡航をして行った。
(c)このジェイコブの教会の性格については、諸説分かれている。この教会が、非分離派のピューリタン教会あるいは非分離派の会衆主義教会であったのか、それとも会衆主義的独立派教会あるいは準分離派教会なのか、それとも穏健な分離派教会であったのかは、研究者達の意見が分かれるところとなっている。例えば、S・A・ヤーボロー氏は、ジェイコブが、主流であった厳格な分離派よりも穏健な(moderate)分離思想を持ってイングランドに戻り、準分離派でも独立派でもなく、分離派の教会を設立する決意を固めていたとする (Yarborough, Slayden A., “The Ecclesiastical Development in Theory and Practice of John Robinson and Henry Jacob," Perspective in Religious Studies, V [Fall, 1988], 196−210)。
ヘンリー・ジェイコブがアメリカへ渡った後に、イングランドに残った信徒を牧したのは、ジョン・ラスロップであり、さらに、ヘンリー・ジェシーへとその教会は引き継がれていった。二代目のラスロップ牧師も三代目のジェシー牧師も、初代の牧師ジェイコブの寛容路線を慎重に踏襲しつつ、その教会を守っていったのであるが、しかしその寛容性の故に、言い換えれば、この教会の半(準)分離派的な曖昧な姿勢の故に、そのバプテスマ理解のあり方を中心として、教会内の問題が生ずることとなったのである。
ラスロップの在職中に、つまり、その1624年の牧師叙任から1634年の獄中での牧師辞任迄の間には、教会内で二度の枝分かれが生じている。まず1630年に、幼児洗礼に対する教会の曖昧な態度に強く抗議し、十数名が教会を離脱し、次に1633年には、国教会に対する教会の寛容な立場を批判し、より厳しい分離派の立場への移行の為に、やはり信徒の教会離脱が起こったのである。1633年の離脱者の中には、後にオランダのリンズバーグに赴き、浸礼の方法を学んで帰国し、パティキュラー・バプティスト教会の創立に大切な役割を果たしたリチャード・ブラント [Richard Blunt] がいたのであった。1637年に招聘を受けて教会の牧師となったジェシーは、1663年に死去する迄この教会の牧師であったが、その在職中にも、やはり枝分かれが生じている。まず1638年に、1633年の離脱者達と同じく、より厳しい分離派の立場に転向することを願って六名が教会を離脱し、次に1640年には、教会は相互の同意に基づき大きく二つに、つまり、ジェシーと共に集会を守っていたグループと幼児洗礼を擁護する立場に立つグループとに分かれていくのであった。
このJLJ教会がパティキュラー・バプティスト派にとって、決定的に重要な意義をもつのは、上述の1633年と1638年に離脱したグループが、彼らの独自の聖書研究に基づき、「信仰告白をした者へのバプテスマを浸礼の様式で施すのが正しい」["it ought to be by dipping in ye Body into Ye Water, resembling Burial and riseing again"] という見解に至り、1642年一月に浸礼を実践し、そして、この浸礼式によって、あるいは、彼らが1644年に公表した『ロンドン告白』["The way and manner of the dispensing of this Ordinance the Scripture holds out to be dipping or plunging the whole body under the water"] によって、イギリスにおける最初のパティキュラー・バプティスト教会が設立されたからである(d)。
(d) パティキュラー・バプティスト教会の起源としての時点を定めることにおいては、「バプティスト派の起源」の問題を包含しながら、諸説分かれている。例えば、それを1642年の彼らの「浸礼の実践」の年と規定した場合には、「灌水礼」を行っていたジェネラル・バプティスト派は、1651年〔註(b)を参照〕迄、バプティスト派とは認められないこととなるからである。
彼らは、JLJ教会から、国教会とピューリタンへの寛容性を否定して離脱し、厳格な分離派への接近をはかったのではあるが、結局のところ、既成の分離派教会に合流したのでもなく、また、自らの分離派教会を形成したのでもなかった。つまり、彼らが達した結論は、分離派教会を解散し、信仰者洗礼を以て新しい教会を形成した、ジェネラル・バプティスト派における先駆的人物であるジョン・スマイスの達した結論と同じである。そのように「信仰者のバプテスマ」の正しさを確信し、分離派の許容する幼児洗礼に対する否定を明確に打ち出してゆく、JLJ 教会からの離脱者グループが、受け入れられて、ジョン・スピルスバリーの牧する教会に合流したのであった。しかし、この離脱者グループがスピルスバリー教会に合流し、幼児洗礼反対と信仰者洗礼の正当性を主張した時、彼らはイングランドの土壌にあって、アルミニウス主義神学には影響を受けぬまま、教会論を除く基本的教理はカルヴィン主義神学に立っていた為に、ジェネラル・バプティスト派とは異なるパティキュラー・バプティスト派を形成していったのである。また、彼らが礼典論において徹底することを願ったのが、バプテスマの様式であった。そして、彼らは、浸礼こそが原始教会の実践であり、且つ、新約聖書の教説であるという確信の下に、「浸礼による再洗礼」を施すに至ったのである。
(70) 斎藤剛毅『信仰の自由を求めた人々バプテスト教会の起源と問題』(ヨルダン社、1996年)、424〜426頁。
(71) バプティスト派の「信仰告白」というものについては、森島牧人氏が述べる次のことに(『バプテスト派形成の歴史神学的意味』〔燦葉出版社、1995年〕、195頁。)、留意すべきであろう。
しかし彼らは、他の教派のようにそれらの信仰告白をそのグループの恒久的な信条とすることはなかった。なぜならば彼らにとって重要であったことは、神の言と彼らのおかれている現実との間に、一瞬神の側から下された閃光により示されるその出来事にのみ、忠実に従い続けることだったからである。つまり神の支配したもうその歴史の一瞬一瞬を、「その時にかなった仕方」で生きることであった。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植たものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、〔中略〕神のなされることは皆その時にかなって美しい。(伝道の書、第3章1節から11節)
(72) 1642年一月に浸礼によるバプテスマを実践した五十三名のパティキュラー・バプティスト達は、1644年にはロンドン市内に七つの教会を有するようになる。そして、同年、その七教会からの代表達が集い、各教会二名ずつの署名を以て、七教会共通の信仰告白となる、この五十三箇条の『ロンドン告白』を作成し、それを公表した。なお、『ロンドン告白』は、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』、あるいは、森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』において、資料として引用されている、原文(第一次資料)からの翻訳によるものを使用した。
(73) トーマス・ヘルウィス及びそのグループは、1610年の初めに、メノナイト派のアムステルダム教会に対して、自分達と、メノナイト教会との合同を目指すジョン・スマイスのグループとの混同を避ける為に、この『信仰概要』をラテン語で書き送った。なお、『信仰概要』は、(72)と同じく、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』、あるいは、森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』において、資料として引用されている、原文(第一次資料)からの翻訳によるものを使用した [『信仰概要』の英訳は斎藤剛毅氏によって為され、氏の博士論文において発表されている]。
(74) ヘルウィスがオランダで書き、1612年にイギリスで出版した『ロー・カウントリーズのニュー・フライラーズと人々が呼ぶ会衆への警告あるいは通告』(An Advertisement or Admonition unto the Congregations which Men Call Freyelers in the Lowe Countries)の中で述べられたものである。本文においては、その著作名の略記を用いて、『警告』(An Advertisement )とした。なお、Helwys, An Advertisement (Microfilemd), p. 35 からの、斎藤、前掲『信仰の自由を求めた人々 バプテスト教会の起源と問題』における引用文を使用した。
That wheresoever two, or three, are gathered together into Christs name, there Christ hath promis-sed to be in the midst of them Mat. 18. 20. and there-fore they are the people of god and Church of Christ, having right to Christ, and all his ordinances, and need not seeke to men to be admitted to the holie thin-ges, but may freely walke together in the waies of god, and enjoy all the holie thinges.
(75) 彼らは、ワインの大きな桶を組み立て式の即席の説教台として、礼拝を守ったとされている。
(76) 森島、前掲『バプテスト派形成の歴史神学的意味』、217頁。
(77) M・トルミー/大西春樹、浜林正夫訳『ピューリタン革命の担い手達』(ヨルダン社、1983年)。
(78) E・ダーガン/関田寛雄、中嶋正昭訳『世界説教史 IIII 17−18世紀』(教文館、1996年)、188〜189頁。
(79) Ecclesiastical Records of the State of New York, vol. I, pp. 399 f.
(80) 『キリスト教大事典 改訂新版』(教文館、第11版、1995年)。
(81) H・リチャード・ニーバー/柴田史子訳『アメリカ型キリスト教の社会的起源』(ヨルダン社、1984年)、156頁。
(82) ニーバー、前掲『アメリカ型キリスト教の社会的起源』。
(83) Wheeler, Edward L., "Beyond One Man:A General Survey of Black Baptist Church History," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), p. 311.
エドワード・L・ウィーラー氏は、メルヴィル・ハースコヴィッツ氏 (Melville Herskovits) の『The Myth of the Negro Past』における主張に言及し、E・フランクリン・フレイジャー氏 (E. Franklin Frazier) の説と対立するそのハースコヴィッツ説に、アメリカで見られる黒人教会はハースコヴィッツ氏の言う「アフリカニズム」によって特徴づけられるという点において、賛同している。  
(84) この論文の第二章は、バプティスト教会の福音伝道について述べることを、主たる目的とするのものである。しかし、次の第三節で記述することとなるバーバラ・ワード=ファーマー氏の伝道に対する前提的考察としての必要を感じ、この第二節では、特に、「黒人教会」について述べることとなった。バーバラ・ワード=ファーマー氏のワークショップは、在日米軍横田基地の招聘で福音伝道師であるバーバラ氏が来日し、それは、あくまで、在日するアメリカ人バプティストの全員(軍関係者、民間人を問わず)と、日本人バプティストの全員を参加の対象とするものであったのであるが、私が参加した五日間において何れの日も、アメリカ人バプティスト会衆の中では、おそらく九割が黒人によって占められるという状況であった。したがって、教会堂内の雰囲気や会衆の反応等をよりよく観察するということにおいて、「黒人教会」というものの輪郭を得ることなくしては、的確な記述が不可能に思われたのである。しかしながら、私には決して、アメリカ人バプティストにおいて、白人と黒人とを分離する意図がないことを、ここに明記しておきたい。彼らは、バプティストというキリスト者として、全く同一の人格である。
(85) 皆河宗一、『アメリカ・フォークソングの世界』(民俗民芸双書、岩崎美術社、1971年)、6頁。
(86) Benjamin E. Mays, The Negor's God : As Reflected in His Literature (New York: Russell & Russell, A Division of Atheneum House, Inc., 1968), pp. 23-24.
それらは、黒人達に苦難を耐え忍び、痛みに耐え、不適応状態に持ちこたえることを可能にさせる観念であるので、報償的パターンに従っているが、必ずしも黒人達に苦難を強いている不義の源を取り除こうという意欲を起こさせるものではない。このことは、この件で調査した122の黒人霊歌に見られる観念についても言える。それらの殆どが他界的であるのである。すなわち、この世を無効なものとし、仮のすみかとして捉え、この世では表わすことが許されないニーズと願望の完全なる実現を天国に期待するように、人を導くものである。(Mays, Ibid., pp. 23-24.)
(87) ワイヤット・T・ウォーカー/梶原寿訳、『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』(新教出版社、1991年)、65〜66頁。
[Wyatt Tee Walker, "Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change (Valley Forge: Judson Press, 2000), p. 50.]
Howard Thurman, "The Meaning of Spirituals," in Lindsay Patterson comp. and ed., International Library of Negro Life and History: The Negro In Music And Art (The Association for the Study of Negro Life and History, 1967), pp. 3-8.
南北戦争前の黒人説教師は、奴隷達の共同体の霊的運命を決定する最も大きなファクターであった。奴隷達にとっての紛れもない「希望の扉」となった或視座を多くの同胞に与えた者、それが彼である。〔中略〕それ故に、彼の一つのメッセージは、広範な多様性を以てさまざまな言い回しで繰り返された、此れであった。「あなたたちは神にかたどって創造された。あなたたちは奴隷ではない。『黒んぼ』でもない。あなたたちは神の子供なのだ」。 (Thurman, "The Meaning of Spirituals," Ibid., p. 3.)
(88) James H. Cone, The Spirituals and the Blues:An Interpretation (New York:The Seabury Press, Inc., 1972), 1 Interpretations of the Black Spirituals.
(89) 1620年のピューリタン移民と共に移入された歌集を、一層ヘブル語原文に忠実な詩篇歌集として、新たに訳し直したという Bay Psalm Book [The Whole Booke of Psalms Faithfully Translated into English Metre] や Watts、Wesley の讃美歌集等が、一般に、正統的アメリカ讃美歌とされるが、その他に、アメリカ南部植民地の白人移民の間では、キャンプ・ミーティング・ソング、あるいは、白人霊歌(White Spiritual)と呼ばれる、単純素朴な民謡的讃美歌が盛んにうたわれていた。キャンプ・ミーティング・ソングや白人霊歌は、19世紀中期以降に西部開拓の進行と共にアメリカを風靡した大リバイバルの集会と密接な関係を持ち、そうした場で使用する為に大量に作られる福音唱歌、いわゆるゴスペル・ソングの源流となったと一説には言われている(本文では触れたが、黒人霊歌との連関においては、問題がある)。この種の讃美歌は、きわめて主観的且つ通俗的であるが、率直に個人の救いをうたい、また、回心や伝道への呼びかけをうたうものである。
(90) 皆河宗一、前掲『アメリカ・フォークソングの世界』、247〜248頁。
(91) ワイヤット・T・ウォーカー/梶原寿訳、『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』(新教出版社、1991年)、22〜23頁。
(92) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』。
柳生望氏が、その著『アメリカ・ピューリタン研究』(日本基督教団出版局、1981年)において、ベンジャミン・パルマー(Benjamin M. Palmer, 1818-1902)の1861年の説教を挙げて述べているが、そこでも明らかなように、南部の説教おいて顕著である教えは、奴隷制が神に定められた制度であるということである。そして、その妥当性については、旧約「創世記」の第九章を引いて説かれる。すなわち、ノアの子供が黒、黄、白人種の特性を有し、ハムに対する呪いが黒人にふりかかったのであり、したがって、黒人は永遠に奴隷たるべき宿命にあるというものである。
箱船から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、
「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」
また言った、
「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。」
(93) H・リチャード・ニーバー/柴田史子訳『アメリカ型キリスト教の社会的起源』(ヨルダン社、1984年)、227頁。
H. Richard Niebuhr, "The Social Sources of Denominationalism (New York: Henry Holt And Company Inc., 1929), pp. 251-252.
Under the persuasion of such srguments and of their own conscience masters might yield a point and allow the slave to receive so much Christian instruction as would suffice for his salvation from Satan but not so much as might lead him to desire redemption from servitude.
(94) C. Eric Lincoln, “The Development of Black Religion in America," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), pp. 305-306.
(95) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、序文。
ほとんどの黒人霊歌は、抗議の歌ではなく、本質的に「他界的」であり「報償的」なものである。しかしながら、 あるものは、「抗議的」な性格のものであり、「反逆的」な性格のもの、すなわち、ベンジャミン・メイズ氏が述べる (Mays, op. cit., pp. 28-29.) ように、天国における救済や平安を探求することなしに、現世の状況に反抗する霊歌の存在を例証するものである。よく例として挙げられるのは、奴隷達が自分達の奴隷状態をイスラエル民族のエジプトの捕囚になぞらえて歌ったとされる「Go Down, Moses」であるが、J・H・コーン氏によれば、もっと「戦闘的」な黒人霊歌が、「私は奴隷になる前に墓に葬られよう」と歌う、「Oh, Freedom!」である。
おお、自由よ!おお、自由よ!
おお、われに自由を!
奴隷にするなら、その前に、
私を私の墓に埋めてくれ、
わが主の家に帰し、自由にしてくれ。
Lyrics from James H. Cone, The Spirituals and the Blues, Twelfth Printing (Maryknoll, New York: Orbis Books, 2005), p. 41.
(II) 「キャルヴァリで」
ただし、ゾラ・ニール・ハーストン氏が述べているように(Zora Neale Hurston, "Spirituals and Neo-Spirituals," Lindsay Patterson comp. and ed., op. cit., p. 15.)、黒人霊歌の歌詞は、たとえ活字化されたものであっても、集会から集会へあるいは教会から教会へと伝わり会衆によって歌われていく間に変形が繰り返されて、その原形はあってなきに等しいものである場合が多いということに、留意されたし。
Every time I think about Jesus, (3x)
surely he died on Calvary......
Refrain: Calvary, Calvary,
Calvary, Calvary,
Calvary, Calvary,
surely he died on Calvary.
Don't you hear the hammer ringing? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Don't you hear him calling his Father? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Don't you hear him say "It is finished"? (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Jesus furnished my salvation. (3x)
surely he died on Calvary...... (refrain)
Sinner, do you love my Jesus? (3x)
surely he died on Calvary...... (end with refrain)
#249 in Hymnal: A Worship Book, Pew Edition (Elgin, Illinois: Brethren Press; Newton, Kansas: Faith and Life Press; Scottdale, Pennsylvania: Mennonite Publishing House, 1992) 註(96) 伝統的に「解放宣言」と呼ばれている、エブラハム・リンカンの大統領行政命令によって齎された動産奴隷制 [the chattel slavery] の法的終焉を指す。1863年に、同大統領が署名した。
(97)註 これは、黒人達が自分達に起こった解放の現実を、聖書の「出エジプト記」における奴隷状態からのイスラエルの民族の解放の物語りになぞらえた、「主はわが叫びを聞きたまえり」という揺るぎない信念である。霊歌の神は、彼らを「エジプト」の奴隷状態から救い出してくれたのである。   
主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている......(「出エジプト記」第三章)。
(98) 物理的な礼拝場所が確立する以前において、南部プランテーションで、イエス信仰の下に、非合法的に奴隷達の間で守られた礼拝のことであるが、自己の文化と言語を奪い取られた奴隷達に結合力と共同性を与え、彼らの宗教的生活と活動が最も集中していたのが、この「見えざる教会」(invisible church)である(研究者によっては、「不可視的な制度」[invisible institution] と呼ぶ場合もある)。このような彼らの集会は、しばしば奴隷主から喜ばれなかった為に、固定した集会場所を持つことがなかった。それゆえに、「見えざる教会」という用語が用いられている。或研究者においては、この「見えざる教会」は、奴隷制に反対する彼らの主たる抵抗運動であったとし、また、黒人霊歌においても、それを「二重意味歌」[double meaning song] として、つまり、霊歌の奴隷制からの脱出と係わる「暗号歌」[code song] としての可能性、蓋然性ないしは予測性を認めようとする傾向がある。しかし、私は、「黒人の闘いの歴史」に対して言及をする力も余裕も私にはないという理由から、ここでは、黒人霊歌を信仰歌或いは「信仰のことば」としてのみ捉えることとしている。
(99) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、114頁。
(100) さらに、この頃に起こった二つの人口移動の帰結、すなわち、北部と南部における都市中心部の黒人人口の急増という「都市化」の影響をも、みなければならないであろう。二つの人口移動とは、一つは、経済的環境に誘発されて、黒人が南部の農村から南部の都市へと移動したことであり、もう一つは、第一次世界大戦の人的資源の緊急なる必要性に誘発されて、主要人口が南部の農村及び都市から北部の都市へと移動したことである。これらの両者の人口移動の帰結として、北部と南部における都市中心部の黒人人口の急増が起こったのである。こうしたアメリカ都市地域における黒人民衆の存在は、黒人教会の生活と様式を著しく変容することとなるのである。この時期以前には農村的、あるいは、半農村的性格を温めていた彼らの宗教的生活と機構や制度は、「都市化」され、その性格を変え、そして、その変化はまず教会に反映された。例えば、或種の断続的集会(限定された輸送手段や指導者という関係から、多くとも月に一回か二回の日曜礼拝で精一杯であったとされる)による農村的礼拝の単純なニーズとは対照的に、都市における黒人の教会生活は、多様なニーズを抱え始めながら、毎週の事柄となり、また、都市的教会環境の発展を促した。さらに、本文でも触れるが、黒人の識字能力の増大は、既成の白人的ユーロ・アメリカン文化を享受することであり、必然的に、白人共同体の諸教会で行われている宗教的いとなみから、影響を受けずにはいられなかったのである。
(101) 一般に、ユーロ・アメリカン讃美歌は普遍的・超時間的メッセージを含んだ美しい詩であるが、中でも特にワッツ博士の讃美歌は、時代をも人種をも超えて人々に愛され続けているものであり、黒人は、「ワッツ博士」の曲に特別な嗜好を示してきたとされる。それは一説に、ワッツの讃美歌に表わされている神への信頼感、そして、そのテーマが必ず、絶望的状況に直面しつつも、屈することなき信仰を讃美しているからであるとされる。
1.わが弱き魂を支えてくれるのは信仰、
深き悩みの時の信仰である。
嵐が起こり、大波が押しよせる時、
大いなる神よ、わたしはあなたのみ恵に頼ります。
2.あなたの強きみ腕は今もわたしを支えています、
どんな悲しみが襲おうとも、わたしを支えます。
あなたはわたしの命、わたしの歓び、わたしの希望、
あなたはわたのすべてのすべてです。
3. 友はおらず、適に囲まれ、
あらゆる危険に見舞われようとも、
わたしはあなたにすべての恐れを打ち明けます、
わが助けはあなたにこそあるのですから。
4. あらゆる物に不足し、あらゆる事に困窮する時、
わたしはあなたのみもとに飛んで行きます、
他の慰め主がすべて立ち去る時も、
あなただけはとこしえに身近にいたまいます。
1. 'Tis faith supports my feeble soul
In times of deep distress;
When storms arise and billows roll,
Great God, I trust thy grace.
2. Thy powerful arm still bears me up,
Whatever grief befall;
Thou art my life, my joy, my hope,
And thou my all in all.
3. Bereft of friends, beset with foes,
With dangers all my fears disclose;
To thee I all my fears disclose;
In thee my help is found.
4. In every want, in every strait,
To thee alone I fly;
When other comforters depart,
Thou art forever nigh.
ワッツ博士は、1707年に新大陸の植民地全体に熱烈に受け入れられた宗教詩集『讃美歌と霊歌』を出版した。熱情をこめた大覚醒運動は、生き生きとした音楽を求めたのであり、新鮮さと活力にみちたワッツ風の讃美歌はその要求に答えたのであるとされている。したがって、南北戦争前の黒人達にも、ワッツ博士のそれは、当然、なじみ深いものであったはずである。
こうした点への注目から、ワイヤット・T・ウォーカー氏は、奴隷制時代と南北戦争後の南部再建期にまたがる時代区分を設定し、〈黒人霊歌の時代〉と〈黒人のユーロ・アメリカン讃美歌の使用の時代〉との間に在るべき、「黒人韻律音楽の時代」[Black meter music] の存在を強調している。氏によれば、その発展と全盛の一般的時期は、1807年から1900年にかけての時代であるとされる。つまり、支配社会の人々の韻律形式による歌唱を聞き、その歌詞に興味を抱いたことに始まる、「ワッツ博士」の讃美歌の、その韻律記号とリズムを捨てた(実質的に)「黒人的使用」に対応するものであり、それは、黒人のユーロ・アメリカン讃美歌の使用、つまり、識字能力を以て既成の歌詞、音楽的記譜法にただひたすらに従うというかたち(その導入初期における)とは、明らかに異なった仕方による黒人宗教歌としての韻律音楽を指すものである。
本文において、私は、この「黒人韻律音楽の時代」に全く触れていない。それは、まず、ワイヤット・T・ウォーカー氏が述べている通り、「どこにも、韻律歌唱における『ワッツ博士の』讃美歌の黒人的使用について実質的に述べている真剣な論議に接することはできなかった。〔中略〕霊歌を去った後には、研究に関する限り、アメリカにおける黒人大衆教会を席巻していた、独特の宗教音楽についての記録が全くないのである」(前掲『だれかが私の名を呼んでいる黒人宗教音楽の社会史』、118頁)ということと、次に、私には音楽学の知識がなく、この修士論文が音楽学的分析と考察を目指すものではないことの為である。したがって、この第二節では黒人の信仰歌についても実に大まかな輪郭のみを述べることしかできないが、ワイヤット・T・ウォーカー氏の時代区分に基づく「黒人韻律音楽の時代」の存在は、黒人宗教音楽の歴史において、非常に意味があり且つ重要であると思われる。
But nowhere in serious discussion has this writer been able to find anything of substance on the Black use of "Dr. Watts" hymns, and others, in meter singing. (...) After one leaves the Spirituals, as far as research is concerned there is very little record of the unique brand of sacred music that prevails in large measure in the Black folk churches in America.
(Wyatt Tee Walker, Somebody's Calling My Name": Black Sacred Music and Social Change [Valley Forge: Judson Press, 1979], p. 88.)
(102) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』。
(103) Wendel Phillps Whalum, "Black Hymnody," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), p. 349.
(104) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、26〜27頁。
(105) Charles V. Hamilton, The Black Preacher in America (New York: William Morrow & Company, Inc., 1972), p. 28.
(106) 本文において、「ゴスペル・ソング」という言葉を造り出したのは、ドーシーであると述べたが、注意が必要であると思われるので、ここに補記する。まず、ドーシー自身が述べた言葉の筆録として、A・ヘイルバット(Anthony Heilbut)氏の The Gospel Sound:Good News and Bad Times (New York:Limelight Edition, 1992) において(p. 27)、以下のように記述されているのであるが、   
In the early 1920s I coined the words 'gospel songs' after listening to a group of five people one Sunday morning on the far south side of Chicago. This was the first I heard of a gospel choir. There were no gospel songs then, we called them evangelistic songs.
M・W・ハリス(Michael W. Harris)氏の The Rise of Gospel Blues: The Music of Thomas Andrew Dorsey in the Urban Church(New York, Oxfod:Oxford University Press, 1992)においては(p. 151)、ドーシー自身が述べた言葉の筆録は、以下のようなものである。
Now, I didn't originate the word gospel, I want you to know. I didn't originate that word. Gospel, the word "gospel" has been used down through the ages. But I took the word, took a group of singers, or one singer, as far as that's concerned, and I embellished [gospel], made it beautiful, more noticeable, more susceptible with runs and trills and moans in it. That's really one of the reasons my folk called it gospel music.
実際に、「ゴスペル・ミュージック」というフレーズは、19世紀の終わり頃迄には、広範に用いられていたようである。M・W・ハリス氏によれば、19世紀末の最大の福音伝道者の一人とされるムーディー(Dwight Lyman Moody)の下に、そのリバイバル(revival)運動での音学ディレクター(music director)を 務 めた音楽伝道者アイラ・サンキ氏(Ira David Sankey〔1840−1908〕)は、1873年に、イギリスのサンダーランド(Sunderland)において、「ゴスペルを歌うこと」("to sing the gospel" )という言葉づかいの発祥に立ち会ったと主張している(Interview, Jan. 22, 1977, p. 16;Sankey, Ira D., My life and the Story of the Gospel Hymns and of Sacred Songs and Solos [Philadelphia: Sunday School Times, 1907], p. 50)。
(IV) M・W・ハリス氏によれば、ドーシーは、如何にしてハーレー主教 (Bishop H. H. Haley) がドーシーの喉から一匹の "live serpent" を引っぱり出したかということ、そして、その瞬間から、彼の苦しみは "no more" となり、ずっと順調 ("going ever since") であり、神に仕えること ("Lord, I am ready to do your work") を誓約したのだと述べている。(M・W・ハリス、前掲 The Rise of Gospel Blues: The Music of Thomas Andrew Dorsey in the Urban Church, p. 96)。
(107) Pearl Williams-Jones, quoted in Wendel Phillps Whalum, "Black Hymnody," Review and Expositor: a Baptist Theological Journal: the Black Experience and the Church, Vol. LXX, No. 3 (Summer, 1973), pp. 353-354.
(108) Anthony Heilbut, The Gospel Sound:Good News and Bad Times (New York:Limelight Edition, 1992).
(109) Heilbut, Ibid., p. 99.
(110) Le Roi Jones, Blues People (New York, 1963), p. 152.
(111) ワイヤット・T・ウォーカー、前掲『だれかが私の名を呼んでいる 黒人宗教音楽の社会史』、172頁。  
(112) バーバラ氏による個別の指導も行われていたようであるが、このワークショップの一般に対する公式の日程のみを、以下に挙げる。
1996年6月3日/午後6:30 親睦会(於ウエスト・チャペルのフェローシップ・ホール) / 1996年6月4日/午後4 セミナー:「指揮」/午後5 セミナー:「声楽演出/声楽技術」/午後6 賛美および礼拝/午後6:30 ワークショップ・リハーサル / 1996年6月5日/午後1 演奏リハーサル/午後4 オーディション/セミナー:「教会音楽家の為の、ABC」/午後5 セミナー:「奉仕の務めとしての歌唱/コーラスの作法(心得)/午後6 賛美および礼拝/午後6:30 ワークショップ・リハーサル / 1996年6月6日/午後1 演奏リハーサル/午後4 オーディション/午後5 セミナー:「ゴスペル音楽の歴史」/午後6 賛美および礼拝/午後6:30 ワークショップ・リハーサル / 1996年6月7日/午後6 賛美および礼拝/午後6:30 ワークショップ・リハーサル / 1996年6月8日/午後2:30 ウエスト・チャペルから福生市公会堂へ出発/午後3ー5 音響試験(福生市公会堂)/午後6:30 コンサート(福生市公会堂)
(113) 参加者の数は、各セミナーにおいては、大幅に異なっていた。ここで述べた「会衆数とは、礼拝堂における、賛美および礼拝とそれに引き続くワークショップ・リハーサルでの、参加者の数である。「160名から200名を超える会衆数」という述べ方をしたのは、先ず、正確な数が計量できなかったことと、次に、その数が時間的経過によって増加した為である。つまり、二日目に礼拝堂の席列数等によって目算した時点では150人前後であったそれが、五日目には200名を超える会衆数に増加していたのである。また、一日の計量においても、数の増減はみられた。例えば、軍事基地の中に礼拝堂があるという地理的条件から、一般の人々(特に、日本人)に対しては、ウエスト・チャペルと福生駅との送迎がバスによって行われていたのであるが、これの到着、あるいは、出発によって、まとまった数が動いていた。
(114) この時の食事はすべて、基地在住のバプティストの婦人達の手で作られ、持ち寄られたものである。また、休憩なしで夜の十時頃迄ワークショップ・リハーサルが続く為、日本人等に対しては、帰る際に持ち帰れるように、連日、同婦人達から簡単な弁当が配られていた。
(115) 六時より開始された五日目の礼拝とワークショップであるが、二回目の大きな「祈り」の後(八時前後)で、日本バプティスト連盟調布南教会の前田重雄牧師が、日本人会衆に対して特に語り始めた。そして、その牧師の話の中で、「クリスチャンではない」日本人達に対して挙手が求められたのであるが、この時挙手することにより「クリスチャンでない」ことを認めた者達は、次いで、礼拝堂前方の祭壇に出て来るように招かれ、そこで、日本人バプティストの捧げる熱心な祈りの中に迎えられていった。(私の場合について述べれば、両側に各一名のバプティストが寄り添い、私の為に、神に向かって声高くずっと祈りを捧げてくれていた。その主な内容は、私の目を開かせて、イエスのことをはっきりと見られるようにしてくれ、というものであった。)祭壇では、前田牧師の下で、日本人バプティストによる実に多くの祈りが為された。そして、集まった「クリスチャンではない」日本人の一人一人が、バプティストの抱擁を受けながら席に戻されていったのであるが、しばらくすると、再び祭壇に招かれて、バーバラ氏の祈りと祝福を受けることとなっていった。また、この間には、アメリカ人会衆に対しても同様な語りかけが行われており、この時に、心弱くなっていた、あるいは、迷いの内にあるアメリカ人達が、祭壇へと招き集められて、バーバラ氏を中心とするアメリカ人バプティストの熱心な祈りの中に入っていったのである。
「クリスチャンではない」日本人達は、前田牧師と日本人バプティストに促されて、バーバラ氏の祈りと祝福を受ける為に、再び前方に出ていった。バーバラ氏は、それらの日本人一人一人の額に手を当てながら、深く静かな声で何かを唱えてゆく。この中の一人であった私は、最後に、「イエスは本当に信じられるのか」と尋ねてみた。バーバラ氏は、会衆に向かい、私のその質問に対する答えを求めた後に、私の耳もとで「私は自分の亭主は信用しない、だけど、彼〔イエス〕は絶対に信じられるのよ」と囁いた。
(116) バーバラ氏の説明によれば、地上的世俗的な指導・指導能力ではなく、牧師、伝道師等の、霊的に語ること、そして、奉仕することにおける、霊的リーダーシップである。
(117) 一説に、ライフ(life)の比喩ではないかとされるが、不明である。また、「水」という言葉の用法として、アレスデア・ヘロン(Alasdair Heron)氏によれば、水はまた生命の保持のシンボルでもあるが、しかしそれ以上に、水は洗浄と清めをあらわし、再生や復興、過去の汚れの払拭といった意味を伝えるのに、よく適合するとされている(A・ヘロン/関川泰寛訳『聖霊 旧約聖書から現代神学まで』、ヨルダン社、1991年)。
(118) 私は、旧約「創世記」第四十五章十八節の 'fat' の用法に基づいて訳したが、これは、単に、神が「太る」という表現であるかもしれない。
(119) 岸本羊一・北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977年)によれば、「手を按く」按手の行為には、時の経過とともにその関連領域を広げつつ、特別な意義が賦与されてきている。元来聖書において、「手」は、身体の一部として言及されることとは別に、隠喩的用法で受け取られているのであるが、その最も多い用例は「力」である(詩篇78・42、ヘブル10・31等)とされる。また、本来「手」と記されているのが、「働き」、「所有」、さらに、人格的存在の隠喩として人称代名詞に代わるように訳出されることもあるという。このようなことからも、「手を按く」按手の行為には特別な意義が賦与されるのである。旧約において燔祭や罪祭の犠牲に手をおくこと(出エジプト記29・10レビ記1・4等)は、犠牲の聖別と、それに対する献げる人の同一化(Identification)であったとされる。また、祝福の伝達、賦与の意義をになうものも多く(創世記48・14、マタイ19・15、マルコ10・13、16)、さらに、霊的健全さと身体的活力の賦与の事例も多くみられる(使徒9・12、17、28・8、マルコ5・23)。そして、祝福や聖霊の伝達、賦与は(使徒8・18ー19、19・6)、権威的な賦与ではなく、むしろそれに共にあずかり、その職務を委任する意味が根源的であることを知るものであるという。牧会書簡においては、以上のような、按手による叙任と霊の賜物の賦与とが結びつけられているが(第一テモテ4・14、第二 テモテ1・6)、しかし同時に、その按手の行為が、悔悛者の和解と関連づけられていることに(第一テモテ5・22)、注意が必要となるのである。こうして、時が経つと共に、按手の行為は、バプテスマ、堅信、叙任、癒し、悔悛者の和解と、多様な関連を有すようになっていった。また、人だけではなく、物に対する祝福にも関連づけられてきたのであるという。  
(120) 説教においては、説教者の発する言葉が、主たる媒介の記号となって宗教思想の伝達がなされるのであるから、まず人間の音声や言葉というものについて、そして、その日常的言語や伝達方法についても考察しながら、さらには、非日常的言語や非言語的言語(non-verbal language)をも含む「〈節談説教〉のことば」というものについて、論考を進めてゆきたいと思う。
なお、ここで明記すべきであると思われるのは、私が、「〈節談説教〉のことば」とはすなわち「儀礼の言語」の一形態であるとする視座に立っていることである。
(121) 初転法輪については、藤井正雄先生の論文から、以下に引用して述べる(藤井正雄「新宗教の法座」、『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会、141頁(上段)〜142頁(上段))。
初転法輪とは、釋尊が六年の苦行を終えてブダガヤの菩提樹下に金剛不動の座を構え、四九日の後に成道を果されて、かつて六年間苦行を共にしてきた仲間の五人の比丘たちに自ら開いた法門を最初に伝えた事蹟である。初転法輪の地がブダガヤを去ること二五◯キロのサルナート(鹿野苑)であり、また、成道から初転法輪まで数週間をへているという事実は、釋尊が勇躍して直ちに五比丘に法を説いたのではなく、ためらいの後の決断であったことに注目したい。
釋尊の初転法輪が示すものは、法座は敬って仏を迎え、即席の座をしつらえて法を聞く、いうならば「法」があってこそ、はじめて「座」が存在することである。
(122) 藤井正雄「新宗教の法座」(『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会)、142頁。
(123) P・L・バーガー=T・ルックマン/山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社、1977年)68頁。
(124) ウィリアム・E・ペイドン/阿部美哉訳『比較宗教学』(東大出版会、1993年)、173頁、及び、140頁。
(125) 門脇佳吉「創作能『イエズスの洗礼』によるミサ」(『日本学』No. 9〔1987年6月〕、名著刊行会)、49頁。
(126) 音身振りとは、人間が感じている情緒を表わす音声記号であり、人間の声調と顔の表情とが完全に一致しているものを指す。例えば、笑いや叫び等、さらに、間投詞の大部分がこれにあたるとされる。
(127) E・B・タイラー/大社・塩田・星野訳『文化人類学入門』(太陽社、平成3年)、46頁。
(128) 養老孟司「宗教体験と脳」(『仏教 特集=宗教体験を見直す』no. 3、法藏館)。
(129) 「音」の力やその効果の問題は、人間身体の神経・生理学的レベルにおいても、諸研究者によって、予測され、示唆され、指摘されながら、様々なアプローチが試みられている。幾つかの例を挙げれば、1. 養老孟司氏は、脳の報酬系との係わりを予測し(養老、前掲「宗教体験と脳」)、2. 山本光璋氏は、クラシック音楽において見い出されるような、人間の快感もしくは快適感覚を齎すという生命現象における「1/f ゆらぎ」という変動が、脳の神経細胞や心拍からも発見されたことを、その科学的データに基づいて、論じ(「生命のリズムとゆらぎ」〔『言語 特集・リズム』Vol. 22・No.11、大修館書店〕)、3. 柳澤桂子氏は、人間の心の「安らぎ」について、脳内麻薬物質(エンケファリンやエンドルフィン等)の放出との相関性を解こうとしている(「こころの『安らぎ』と生命科学」〔『仏教 特集=癒し』no.31、法藏館〕)。また、このような「音」の力やその効果に対する自然科学的アプローチの方法は、一つの傾向として、日本音響学会の平成7年度秋季研究発表会における研究発表にも、しばしばみられていた。代表的であると思われるのは、土井淳也・徳弘一路「楽曲におけるスペクトル情報と情動の関係」(『日本音響学会 平成7年度秋季研究発表会 講演論文集』、日本音響学会)や、仁科エミ・不破本義孝・河合徳枝・八木玲子・増田正造・他 "On High-frequency Components of Sounds Produced by Musical Instruments of Various Cultures"(前掲講演論文集、日本音響学会)である。さらに、研究者によっては、日常に聞かれる音だけではなく、人間には聞いていることが意識されないまま、しかし、実際は聞いている音という、これは測定によって音が存在することが証明されているのであるが、特殊な音の人間に対するその効果や影響にまで及ぶものであった。
(130) 鎌田東二『記号と言霊』(青弓社、1990年)、51頁。
(131) この層については、註 (129) に挙げた諸氏の仮説や研究成果等に拠って、私が推論したものであり、論考としては甚だ曖昧なものであることを認める。
また、この論文の作成にあたっては、ここに述べたような人間の音声の層について、自分自身で確かめ、そして、少しでも解明を試みたく、その為に、当初、宇都宮大学粕谷英樹教授の研究室の協力を仰ぐことを計画したのである。しかしながら、私の音響学に対する勉強不足、力不足と時間的制約の問題が重なり、実に残念であるが、今回は、この論文において音声についての自説を述べることを断念せざるをえなかった。
(132) 言語とは、常に流動しながら、生成している弾力のある記号である。なぜならば、通常、言語とは聞き手に向けられたものであり、したがってその場合には、一人の個人が発話行為をいとなむのではなく、可視、不可視を問わず、常に聞き手である他者との関係性の中からつくられゆく、生成物としてあるからである。このような「対話」においては、言語行為は、主体の所在が明らかな(a) 社会的な相互作用となる。このような聞き手が何らかの形で存在する対話には、さらに、音声による言語表現行為である外的発話と、未だ音声として発話されてはいないが、心理的な内面で展開されている言語活動である内的発話とがある。そして、後者である内的それであっても、多くの場合に、社会的規範や共通意識等の基盤の上に生成され、日常のコミュニケーションへと、つまり、外的発話的に解消されていく志向をもつのであるとされる(b)。しかしそれと同時に、その内的発話の中には、時として、主体とその経験のみで生成されるものが現われる。それは、社会的な規範や共通意識の基盤の上にはっきりと生成されたものではなく、純粋な自己の内なるものとしての心的体験等である。この場合、その内なるものが、言語の社会性から、特に共通の情意や共同主観性からも、かけ離れたものであればある程に、自己の社会的な意識から抑圧されて、外的発話として外在化することが困難になるのである。
このような自己の内なるものが、或特定の状況において、社会的な外的発話の構造がもつルールから解放されて、外在化へ、すなわち、外的発話の中へと入りゆく瞬間の言語を、「リミナルな言語」と、本文において述べたのである。なお、この「リミナル」とは、V・W・ターナー(Victer W. Turner)氏の言う「リミナリティ」(liminality)からの転用である。また、この転用については、ミハイル・バフチン(ミハイール・バフチーン )氏が、「その抑圧された内的発話が、ある特定の状況のもとで、それらの外的発話の階層関係と禁止から解放するものとして、カーニバルに逢着する。その特定の状況をカーニバル、その時の言語をカーニバル言語と呼んでいる」ことによるのもので、さらには、永田靖氏が、手品師、曲芸師、梅毒患者等の「バフチンのカーニバルの個々の形象」について、「『リミナリティ』に属する人々である」と述べていることからのものである(c)。
さて、リミナルな言語は、上述の如く、本来的に社会的規範や共通意識等の基盤の上に存在する、外的発話ではあり得ない、言い換えれば、言語表象的合法性から外れた「異質なもの」であるが、或特定の状況、つまりは、非日常的状況にあって、外在化され得るのである。しかしそれでもなお、リミナルな言語の本性として、例えば、他の言葉に置き換えることも、他の表現を以て表わされることも、さらには、日常的な意味世界の中に翻訳してその事柄を捉えることも、おそらく不可能であり、その言葉そのもので在る以外には外在しようがない、その言葉そのものなのである。「リミナルな言語が言語そのものとして生きる」と本文において述べたのは、こうした言語の在り方を指してのことである。
(a)ただし、そうした中においても、例えば、他の人間の言葉を引用して何かを述べる時、そして、それが明確な引用ではなく、引用であることを隠してる引用、意識せずに行っている引用、故意に、あるいは、意識せずに、歪曲した引用、原意を変えた引用等が為される場合には、他人と自分の言葉や言説が、入り組み、曖昧にされ、歪められながら、動いて、発話はされているのであるが、主体の所在は、確定することができないものとなる。
(b) 永田靖「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。浜口稔「意識と言語幻想 新言語起源論経向けて」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。ジュリア・クリステヴァ「『詩的言語』の主体」(『現代思想 総特集=フッサール 現象学運動の展開」、vol. 6−13、青土社)。ジュリア・クリステヴァ「音と意味のリズム マラルメにおける詩的言語の革命」(『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)。
(C) ミハイール・バフチーン/川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』(せりか書房、 1974年)。永田、前掲「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」、171頁(下段)〜172頁(上段)。番場俊「声の出来事 ミハイル・バフチン再読2」(『現代思想 特集・宗教の行方』vol. 23−10〔1995.10〕、青土社)。
(133) 浅野順一『旧約聖書を語る』(NHKブックス、昭和54年)、及び、浅野順一『モーセ』(岩波新書、1977年)。
(134) 浅野、前掲『旧約聖書を語る』、20頁、及び、136頁。
(135) R・ボーレン/加藤常昭訳『説教学I』、(日本基督教出版局、1977年)、「第四章 聖霊」及び「第十九章 説教としるし」。
(136) 鎌田、前掲『記号と言霊』、22頁。
(137) 高橋紳吾「ことばの感染力、ことばの治療力」(『仏教 特集=癒し』no. 31、法藏館)。
(138) 高橋、前掲「ことばの感染力、ことばの治療力」、176頁。
(139) 中野隆元『説教講演の方法』(佛教年鑑社、昭和8年)、18〜19頁、及び、37頁。
(140) R・ボーレン/加藤常昭訳『説教学II』、(日本基督教出版局、1978年)、308頁。
(141) 藤井先生、前掲「新宗教の法座」。
(142) 藤井先生、前掲「新宗教の法座」、145頁(上段)。  
(143) 前節においては、主に、音声言語としての記号体系や発話の社会的な構造の中での、「〈節談説教〉のことば」をみてきた。この第二節では、主として、儀礼の時間・空間における段階的な「〈節談説教〉のことば」の在り方を、みてゆきたいと思う。
(144) 本文を通して、祖父江省念師の定例会についてのみを述べている為に、省念師の説教者としての巡回性がはっきり示される箇所が、「省念師の説教の資料」における師の言説だけとなってしまっている。そこで、その巡回性を示す一例として、古いものではあるが、1992年の8月、9月の省念師の節談説教による布教活動の主なものを、以下に挙げる。
八月二日 有隣寺(定例)/八月三日 カニ工新田 山田せん八氏宅/八月四日 中区新栄 同心会館/八月七日 一色町 三八屋/八月十二日 名古屋東別院/八月十六日 有隣寺(定例)/八月二十三日 飛鳥町 誓願寺/八月二十四日 一宮市千秋 最恩寺/八月三十日 佐屋町 随行寺/九月二日 岩倉市大地新町 正起寺/九月三日 中島詰所/九月四日 中区新栄 同心会館/九月六日 有隣寺(定例)/九月七日 一色町 三八屋/九月二十日 有隣寺(定例)
なお、バーバラ・ワード=ファーマー氏の巡回性については、彼女が来日していることも含めて、バプティスト教会系の伝道師の奉仕の在り方、あるいは、制度として、巡回することが自明のことであると思われるので、ここで述べることをしない。
(145) 儀礼とは、通常、行為ばかりでなく、事物や施設を含むものである。この論文では触れないが、その施設について、つまり、寺院や教会の建築様式等にも、民衆との係わりにおける意味が見い出されるであろう。
例えば、鎌倉時代の建築物である、兵庫淨土寺淨土堂は、在来の仏教建築では、内陣と外陣との間に天井の構成の差異があったのであるが、ここではその差がなく、天井が貼られずに屋根裏が屋頂迄見えているという。つまり、この空間構成が意味することは、仏と人間の間に差を設けない、ということなのである。また、その外陣の広さは、民衆に対する信仰の場の開放を目的とするものでもあったとされている(山根有三監修『日本美術史』、美術出版社、1977年)。
(146) ペイドン、前掲『比較宗教学』、140頁。
(147) ここでは、第一章及び第二章で述べてきた、「同じことを何度も繰り返す」という反復の手法が、説教者の〈語りかけ〉において、重要な一要素となっている。
(148)  藤本浄彦、「二 救済と解脱 宗教経験としての"生成・摂化"への試論」(『現代哲学 選書・11 宗教の哲学』、北樹出版、1989年)。
藤本浄彦氏は、一方のキリスト教においては、「神と人間という関係の構造の内で『神』→『人間』という方向において成立する在り方に対して、"救済"という概念を与えることができる」と、そして、他方の淨土教においては、「阿弥陀仏と凡夫という構造の内で、阿弥陀仏→凡夫という方向を考えるところに"救済"という概念を与えることができる」と論じている。
(149) 薗田稔『祭りの現象学』(弘文堂、平成2年)、61頁。
(150) ハーヴィー・コックス『民衆宗教の時代 キリスト教神学の今日的展開』(新教出版社、1978年)、222頁。
Harvey Cox, The Seduction Of The Spirit: The Use and Misuse of People's Religion (New York: A Touchstone Books, Simon and Schuster, Inc., 1973), p. 158.
Most people have always secretly longed for a chance to sing the "Hallelujah" chorus, booming out the bass or soprano with full fortissimo. But in our spectator-performer style churches they have mostly had to bite their lips and listen.
(151) 不随意の身体言語とは、発汗、発熱、呼吸、脈拍、排泄、めまい等の、それぞれに独自の情報内容を持つ一種の表現言語のことである。浜口稔氏によれば、以下のように説明される(浜口稔「意識と言語幻想 新言語起源へ向けて」〔『ユリイカ 特集・言語革命』6〔1985〕、青土社〕)。
不随意の身体言語は、多義性もなく、代替表現も持たず、手の込んだパラドックスを孕むこともなく、不随意であるがゆえに、当の生活体に予期せぬ苦痛を与えたり、不意に不快にしたり、唐突に愉悦感に浸らせたり、ときには卒倒させたりする。つまりは、生活体を躊躇なく各々の症状に特有の行動に駆り立てる一種の一義的命令言語であり、個々に独自のアクセントを有して環境処理を行い、首尾よく適応へと直結する、脳の神経生理的メタファーである。
(152) 発話については、前節の註(132)で述べた。
(153) ミハイール・バフチーン/川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』(せりか書房、1974年)、16頁。
(154) V・W・ターナー/富倉光雄訳『儀礼の過程』(新思索社、1976年)、192頁。
(155) この呼応は、実に多方向に向かうものである。↔ [双方向矢印の記号] という矢印を呼応関係が成立していることを示すものとして、この論文で扱う二つの〈節談説教〉について、大まかに共通する組み合わせを表記すると、超越的人格 ↔ 説教者、超越的人格 ↔ 聴衆、超越的人格 ↔ 説教者と聴衆、説教者 ↔ 聴衆、聴衆 ↔ 聴衆という、五通りが少なくともある。なお、バーバラ氏の伝道においては、サンダース従軍牧師や、さらに、楽団もリード・シンガーも存在するので、当然のことながら、その時々で組み合わせが替わり、一層多くの方向性がみられる。
(156) 八木誠一「神を知るということ」(『仏教 特集=宗教体験を見直す』no. 3〔1988.4〕、法藏館)、80頁。
(157) バフチーン前掲『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』、320頁。
(158) 永田靖「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」(『ユリイカ  特集・言語革命』6〔1985〕、青土社)、166頁。  
(159) フイリップ・ペティット/浜日出夫訳「生活世界と役割理論」(『現代思想』臨時増刊号〔第六巻第十三号〕、1978年)127頁における引用文。
(160) ジョージ・スタイナー/喜志哲雄・蜂谷昭雄訳『悲劇の死』(筑摩叢書256、1979年)、241頁。
(161) J.M.インガー/金井新二訳『宗教社会学 宗教と個人』(ヨルダン社、1994年)、72頁。
(162) ニクラス・ルーマンは、「新しい神話というものは、せいぜい一つの目的の案出であり、場合によっては流行品であり、グループを形成し、コンタクトを見出し、独立化を突き破る一つの手段であろう。あるいは権利と義務、地位と裕福さ、政治的影響力と経済能力に関する、あらゆる既成の機能的分化に対する、一つの新しい分化であろう」と、述べている(ニクラス・ルーマン/土方昭・土方透訳『宗教論 現代社会における宗教の可能性』〔叢書・ウニベルシタス470、法政大学、1994年〕77頁)。
(163) 信念には、様々なレベルがある。金児暁嗣氏によれば(大村英昭・金児暁嗣・佐々木正典『ポスト・モダンの親鸞 真宗信仰と民俗信仰のあいだ』、同朋舎、1990年)、個人の信念体系を構成している信念の数は、人によってまちまちであるが、それぞれの信念の重要性を決定する場合に、基底信念というものがあり、それは、D・J・ベム(D. J. Bem)氏が「0次の信念」と呼び、また、M・ロキーチ(M. Rokeach)氏が「原信念」と呼ぶものであるという。それについて、金児暁嗣氏は、以下のように述べている。
このように問い重ねていくと、あらゆる信念の信憑性の置き所は、個々人の内的な感覚経験かある外的権威のどちらか、あるいはその双方にあることを見い出すにちがいない。逆に言えば、多くの信念は、こうした基底信念から派生してくるものとみなせる。〔中略〕われわれの感覚経験の妥当性を信じることが最も重要な基底信念であって、この種の信念が「0次の信念」とよばれる所以である。それは、他の信念が形成される意識下の公理といって差し支えなかろう。われわれの感覚の信頼性に関してわれわれは0次の信念を有しているがゆえに、直接経験から派生する信念は正当性をもちうるのである。
(164) 八木、前掲「神を知るということ」、76頁。
(165) 井門富二夫編著「第一章 現代社会と宗教」(『講座宗教学 第三巻』、東大出版会)73頁。  
 
交感の芸能性 / 節談説教をめぐって

 

はじめに
名号は、如来願心の開顕であり、阿彌陀佛を信ずる機、衆生を救う法である。また名号は、如来招喚の勅命であり、勅命の聞き開かれた信心のすがたである。「如来は我なり。されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救い給う」。坂東性純氏は、この法語を、名号による救済の究極を道破したものであるとする(1)。しかしながら、節談説教の場に「名」を見るということは、純粋教義の教学の下に絶対化された「南無阿彌陀佛」から微妙にずれたところで、人々の決して一様ではない「なむあみだぶつ」の姿と心とを見ることとなるのである。
その一つが「受け念仏」である。情念の説教と言われ、苦悩に満ちた人間社会の底辺に生きる人々の心的・情意的エネルギーの発露であり、信仰や祈念を背景とした庶民の感性と情操の結晶とも言うべき節談説教の、それは、生命の情動のしるしである。  
一、祖父江省念師の節談説教
「あらゆる辛酸をなめながらの説教一筋の生活」「日本仏教伝統の節談説教を現代に継承する正統説教者、独特の美声によるすぐれた表出力は、現在日本一の評判が高い」(2) とされながら、平成八年一月に、その使命を全うしての往生を遂げた祖父江省念師は、歴とした浄土真宗大谷派の布教師であり、優れた宗教家である。省念師は、断じて芸能者ではない。しかし、師が日本の話芸(落語、講談、浪曲等)の源流である節談説教を現代に的確に伝えていること、そして、師の名説教には伝統的な説教者の条件が整い、それが「法芸一如の真の姿」(3) の現出であることは、文化史的な高い価値と芸能史における大きな意味を持つのである。
省念師の説教(4) は、人間生活の機微を穿って聴衆を笑わせる。この笑いは、聴衆の心を惹きつけ一喜一憂させながら、笑話として止まるのではなく、「法」に合わせて語られるのである。
儂の近くにな、まー、ころっと死にてぇーでっちゅうて、〔ポックリ寺へ〕三遍まぁった奴が今中気で寝とるがや、……平生が大事だで、そういう嫁を、あんな者にはめんどう見てもらわんでもいい、俺ぁポックリ死ぬでっちゅうてやっとるが、中気になって今寝とる婆さ毎日泣いとるわ、なんでやったら、おしめ換えるたんびにやな、今の嫁さん利口じゃで、昔の嫁さんならパンパン尻叩くで、音がしるえ、隣近所が評判になるわ、今の嫁はそんなことやらんの、おしめ換えるたんびに平生の憎しみが、この時とばかりに、キリー、キリー、ええわ婆さま言語障害だで物もよう言えせん声も出ん、アウッアウッアウッアウッアウッアウッ、ほいで娘が来て「この尻の黒いのはなんでやも?」「そりゃ寝だこでしょ」って、平生が大事やで……。
省念師は、人々にとってごく身近な興味深い事柄を材料とし、それを具体的に、ユーモアを交えながら、聴衆に向かい滔々と話しかけていく。それに対して聴衆は、一々頷いたり、或いは、驚いたりしながらも、大笑いを繰り返していく。夫婦、姑と嫁、病気、金の問題等、次から次へと話は別々のものへ移っていくかのように聞こえるが、実は、同じことを語っているのであり、それらから導かれる先の焦点は一つである。そして、聖人伝や説話から引く話が語られ始め、その譬喩因縁談が佳境に入るにつれ、聴衆は目頭に涙を浮かべてゆくのである。
いただきました御真影を源右衛門は、「アア御真影様お返り下さいましたか、お供をいたしましょう」と、背中に御真影をしょう、可愛い倅源兵衛の生首を風呂敷包みにいたし、前に掛けながらヨロヨロヨロヨロと、後眺めては「ご恩尊や、お慈悲嬉しや南無阿弥陀仏」、前に掛けたる倅の首眺めては、恩愛の情遣る方なく「せがれかわいやなぁー、俺ばかりが恩愛の情に泣くのじゃない、御開山様でものう御和讃の中に、『一切菩薩ののたまはく我ら因地にありしとき、無量劫をへめぐりて萬善諸行を修せしかど、恩愛甚だ絶ち難く、生死甚だ尽き難し、念仏三昧行じてぞ、罪障を滅し度脱せし』」、どんな苦行よりも、どんな難行よりも、恩愛の情を断ち切る苦しみは耐えられなんだのお知らせじゃが、まして凡夫の源右衛門、せがれかわいてかわいて、泣かずにおれんわやと後眺めては御恩を喜び、前を眺めては恩愛の情の涙を流しヨロヨロヨロヨロと歩いて帰ってくる……。
歌うが如く語るが如く、省念師の美声は益々冴え、話の高潮に随って韻律を帯び、いつしか話が節となる。日本語の特質を生かし、七五調のリズムを基調とする聞かせどころである。きちんと踏まえられた宗義、巧みに導入された法語や和讃を以て、省念師は、その美声による絶妙な節まわしで、聴衆の心の中へずっと入り込んでゆく。人々は、その見事な節に自らも乗り、陶然と酔いながら、感動し感謝し、その宗教的情熱の中、感極まって念仏が口を吐いて出るのである。この「受け念仏」が湧き起こる頃には、省念師と聴衆とが一体となって輝き合う感応道交の世界となり、両者の見事な懸け合いの呼応の中で、話は否応なしに高潮し、一層の迫力をもって展開されるのである。
「アー御伝鈔はありがたい、御伝鈔はありがたい」と〔聴聞者が〕こう言いますから、私が「御伝鈔のどこがありがたい」、こう訊いてやると、「あの節がなんとも言えませな」なんて節ありがたがってる奴がおる……。
省念師の絶妙な節まわしは、人々の心を揺さぶる。師の説教は、単に言葉を伝えるだけのものではなく、聴衆の耳について離れぬような美しい音声の表出である。一般に説教に際して緩急抑揚は、話材の内容と相まって或切迫感さえ感ぜしむという大きな役割を持つのであるが、それは、説く者からのものであると同時に、受けとめる側のものによるところも大きいのである。
発話の質の交代もしくは話す主体の交代への明示については、既に柳宗悦氏によって言葉の「模様化(韻律化)」(5)、ミハイル・バフチン氏によって「他者の発話を分離する抑揚」(6) として、指摘されているところである。このことは、祖父江省念師「口伝の蓮如」において明らかなように、省念師の説教の節づけにおいても認められる。つまり、話が節となれば、そこに人々が聞く声は、もはや説教者のものではなく、佛のものとなるのである。
如来の「代わり身」は聴衆をして、今この時に、彼らの存在もまた、彌陀の働き、その誓願力の廻向に担われていることを親しく体験する悦びに酔わしめる。その大役を説教者と共に担ったのが、或いは彌陀の誓願を、或いは如来の音声をそこに現わす節談説教の「節」であったのである。
浄土真宗の信者について「聴き(聞き)上手」ということが認められている。これは、浄土真宗の「聞法」「聞即信」という全化導の根本的態度にまず起因するのであろうが、やはり、節談説教の歴史に大きく係わるものであると思われる。すなわち、民衆は自分達に届く言葉や表現を求め、それに応えるかたちで節談説教が磨かれてきたという歴史である。その伝統的とも言える呼応の仕組みは、実際の説教の場における、説教師と聴衆との共同作業、或いは、両者の合作となる、見事な節談説教へと繋がってゆくのである。
さて、省念師は、「囃す」という言葉を使っている。
儂の檀家にね、加藤はるという婆さがおる、〔中略〕うちの報恩講という行事にね、「まぁーりたいけど先生、まぁーれんで悲しい」って電話かけてくる、「なんでまぁーれん」って言ったら、「神経痛でもうどうにも動けんで」、「お前のような丈夫ぃ人が、ちょっとも病気したことない人が、あーそんな病気になったか、まぁええわ。仕方がなぁでな、エー午前十時、午後は一時、お勤めが始まるで、そっからよう囃しとれよ」……。
囃すということは、民謡のお囃し [掛け声による言葉の「囃子」] やその他の民俗芸能における囃し方を想起させるものである。「はやす」という言葉は語源的には霊魂の分割・増殖を意味し、ハヤスことによって霊威が全体に行き渡るとされる(7)。また、関山和夫氏は「あどを打つ」ことの効果を挙げているが(8)、いずれにせよ、聴衆のナムマンダブナムマンダブというあの「受け念仏」が、同様に担っている役割は、さらに重要であろう。 補足「受け念仏」の例  
二、交感と〈リミナルな言語〉
阿彌陀佛が曾て法蔵菩薩であった時、一切衆生の救済の為、四十八の願を発し、その願の成就なしには「正覚を取らじ」と誓い、五劫という永い間思惟した。遂にその願が成就して、一切衆生残らず往生しうる極楽浄土ができ上がり、法蔵が自ら佛と成ったのは十劫の昔である。「大無量寿経」に語られたこの物語から、佛の救いの真実が汲みとられてきたのである。
節談説教は、「神話」(「阿彌陀佛の救済の物語り」)を語ることばである。説教の場において、説教の行為そのものが奇蹟の高調の時(9) ともなりながら、「神話」の現出ないしは現在化が起こり、人々の「救済」がなされるのである。したがって、この「神話」は、決して完結し完了されたものではない。語り手と聞き手とが共に属する「今ここに」[「いま」「ここ」に]、開かれた未完のものとなるのである。
節談説教の場では、五感を活用することによって「神話」を聞くことがなされるのであるが、聴衆がもし何かを感受し、それを表現したいと欲するならば、「傍観者ー執行者体系」(I) の中に、ただじっと黙していなければならぬということはない。あらゆる音声言語によっても、あらゆる身体言語によっても、彼らのコミュニケーションは成り立つのである。彼らは、言語表象的合法性にも、つまりは、発話(10) の構造のルールにも従う必要がないのである。この外的自由さは、人々の内的世界へと結びつきながら、思想や言葉の限界ぎりぎりのところに在る自由と率直さを、彼らのものとすることを可能ならしめる。現行の公的日常の支配から意識を解放し、そこで支配的な如何なる構造や枠組みにも納まらない自己の新しい世界像を明らかにすること、それは、「民衆の思想と言葉」の形成なのである。聴衆は、感受するままにその世界を表現することを許され、或いは、彼らの率直なる表現が求められて、節談説教に参与するのである。この点において、節談説教は人々の「祝祭」である。
とはいえそこには、「聞法の場」という意味づけがなされ、あくまで「法」を戴く立場が貫かれることによって、説く者と聞く者とが「法」の前に一味となった「同入和合海」を説教の場に現出すべく、正しき「神話」の遡及と秩序とが頑固に保守されていかねばならぬのである。
同信の者相集まって声を揃えた時に生ずる連帯感や、お互いの信仰を確かめ合い、同じ一つの信仰に繋がる者として共に在るという力強さに対する自覚は、教学に基づいた信仰とはまた異なった体験的な信仰である。さらに、そうした門徒集団となるが故のものばかりではなく、教えから出発しながら人間を教えに閉じ込めることのない、超越的他者との「出会い」の直接経験、つまり、感応的な信仰の現象としての交感が、節談説教において立ち現われるのである。
それは、究極性との直接の触れ合いないしは霊的交わりの機会の到来であり、その場に超越的人格の存在が感じられ、確信されながら、強烈な昂揚状態に突入することによって活性化されゆく、人々の聖なる時間である。そこで人々が聞く究極性から発せられる語りかけは、個人における阿彌陀佛との一対一の世界であり、遡れば、親鸞において「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄)という彌陀の本願である。しかしそれは、神と人の対面する両者には、上下または対立する形での一種の隔たりが意識され、その交流は緊張した定型の上のみに成立する「祭儀」とは異なった、いわば「開け放たれた厳粛性」とも呼ぶべき、究極性に近づく〈民衆の方法〉によって齎されるものである。
説教者と聴衆は、或瞬間において、和音を奏でる如くに一体となり、また或瞬間には、佛恩と報謝、懺悔と讚嘆とが交わりながら、究極性に向い饗応し協奏する。次の瞬間には、逆に聴衆が表現者となって説教者がそれを聞く、そしてまた、説教者が表現者となって聴衆がそれを聞くという、呼応が繰り返されていくのである。この懸け合いは、説教者をより一層の昂揚状態に投入させる機能をも有するものであり、聴衆は説教者からさらなる「節」を引き出してゆく。説教者は、聴衆の唱える「名」を聞き、それを感受するのである。
こうした「受け念仏」にみられるようなことばのあり方に、言霊信仰と通底するものを、見い出すことは可能であろうか。豊田国夫氏は、念仏について、人々がその繰り返しの中に遠い祖先から受け継いできた言霊の信仰を満足したのだとする(11) が、私はそれについて言及し得ないのである。ただ、こうした一面では「言語の呪力」にも繋がるであろうことばのあり方が、それが究極的ものの現臨を表わすと同時にそれを現実化せしめるものであるという点で、「儀礼」というものの行為の発現や表出の過程と、ごく接近したものであることをみるばかりである。それは、〈リミナルな言語〉(12) である。しかして、このようなことばは、何処から来るのであろうか。
その場に顕現した他者の語りかけに応答する時、自己と他者というこの二つは、交感の働きにおいて自己が成ると同時に、交感の働きにおいて他者が達する、すなわち、感じるものと感じられるものは、異なった二であって一ではないにも拘わらず、しかしそのぎりぎりの在り方において一なのである。これは、自己が自分のそれまでの枠組みを今まさに超えて出て行かんとする境界状態であり、それ故に、ここにおいて、一つの〈リミナルな言語〉が生まれ出るのである。この時、人々は、「神話」を自らの表現として解釈し、或いは、自己の表現として新しく作り出すのである。この「神話」の出来事が起こるのは、常に自己と他者との境界の上であり、この二つの存在の接触点である。
人々は、「神話」の世界の、単一の水平の地平を目指し、その地平の上に自らの新しい位置を求め、新しい集合関係を結び、さらに、自他の一という新しい隣接関係を生み出してゆく。阿彌陀如来は「付き添いづめ御護りづめの親さま」となり、浄土は「御待ちもうけのお膝下」となる。人々は、いと高きものを低きものと統一させ、遠きものと近きものを合一させるのである。そして、「階層づけの『外』から突然やってくる言葉、あるいはその階層自体を逆転する無限の空間」(13) である〈リミナルな言語〉は、生まれ出たそのままでそこに存在しうるのである。  
三、交感の中心と周縁
交感が生起する時に、〈リミナルな言語〉は生まれ出る。しかし、〈リミナルな言語〉というもののあり方に従えば、それは、交感の時空の中心に在るものではなく、周縁のものであることが明らかとなる。なぜならば、そこには、〈リミナルな言語〉に先立つ、「思議」すること能わざる彌陀の「法」(真理、真如)という「語りえぬもの」の顕現が、まずなければならないからである。
「梵天勧請の説話」としてよく知られるように、釋尊の初転法輪は、「如来は法を説くことを欲しない」と沈黙を守ろうとした仏陀のためらいの後の決断であったという。また、仏陀は、死するに臨み「四十九年、我れ一字をも説かず」といわれたとされる(14)。「法」は「語りえぬもの」なのである。
丹生谷貴志氏は、宗教による言語の否認について、言語が本質において「世界」と「真理」の不完全な所有だからであるとし、「そこに『真理』、絶対的所有としての『沈黙』が要請される」(15)(丹生谷原文は、二重かぎ『』ではなく、強調の傍点を使用)のだとする。
当然の事ながら、節談説教の場では、言葉、リズム、音の響き、そして、節や調べという外的言語が漸次交感を誘引し、そして、その場に立ち現われた交感が人々の表現ないしは表出行為というさらなる外的言語を喚起することとなる。しかしそれにも拘わらず、その交感の時空の真の中心とは、唯一彌陀の真実の「法」である「語りえぬもの」、すなわち、「コヽロモオヨバレズ、コトバモタヘタリ」(唯信抄文意)という、如何なる言語も存在することのない空間なのである。言い換えれば、節談説教のあらゆる言語の真理性を支えているのは「沈黙」であり、したがって、節談説教の用いることばは、絶えずその「沈黙」の中へと回帰すべきものなのである。
こここにおいて、〈リミナルな言語〉は、「沈黙」から逃れながら、自己と他者との境界の上で、彼らのことばの世界を維持しようとする、人々に与えられた手段ないしは道具となるのである。人々は、「語りえぬもの」を畏れながらも、節談説教という彼らのことばの世界が消失することを思い切れないのである。
浄土を憧れ彼国へ往きたいと望む心を決断せしめ、臨終に来迎して浄土へ連れ行くことを約束するものが十九願であり、名号を聞いて往生を願う一心の称名念仏によって浄土をうることを約束するものが二十願である。しかし、伝統教学にいう親鸞の「三願転入」は、十九願・二十願を真ではなく仮であると廃し、それらにとどまることを誤りであるとする。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(末燈鈔)、「方便トマフスハ、カタチヲアラワシ、御ナヲシメシテ、衆生ニシラシメタマフヲマフスナリ。スナワチ阿彌陀佛ナリ」(一念多念文意)ともいわれ、十九願、二十願は方便とされるのである。
透徹した自己否定を以て、「神話」の揺るぎない宇宙観の中で安心して身をまかせ、ただ黙して一つの大いなる声に聴き従う。この「聞く」という受け身であったいとなみが、たとえば、一言口をはさみたい、ここで言うべき何かがあると、自己を強く駆り立ていくものの内なる発生により、受動であると同時に能動であるいとなみへと転ずる。言い表わし得ぬものを言い表わしたい。それは、人格的一佛との直接的な出会い、自分達の人間的な応答、全人格的な実存的交流が起こる世界に対して、或いは、浄土を思い彌陀の来迎を期する世界、そして少なくとも、阿彌陀佛の自己顕現の究極的形があり名がある世界に対して、彼ら自身がそれをリアルに感じ、かつ、彼ら自身がそれを所有することを、人々が必要としているからなのである。さらに言えば、そうした体験から、彼らが「神話」を自らの表現として解釈する、或いは、自己の表現として新しく作り出すことが可能となるのであり、その結果として、自己の情念や心情というものが落ち着くところで、アイデンティティの創出がなされることを、人々が必要としているからなのである。
同時にそれは、交感の意義と力を我々に示すものである。なぜならば、そこにみられるものが感性であれ感受性であれ、「感じる」ということは、これを自分で止めることができないのである。またそれは、金児暁嗣氏が述べるように(16)、信念体系のなかで基底的位置を占め、疑う余地のない「0次の信念」に繋がる感覚経験であるからである。
もし宗教が、これは佛についての学である、神についての学であると、その教えを「佛のこと」「神のこと」として、余りにも観念化し体系化するのであれば、そこでは、「人間のこと」としての経験や問題が離れゆき希薄化するばかりである。しかし、そうした状況が起ころうとも、人間は、一切の儀礼的なものに対する感性を喪失しない限り、そこに呆然と立ちつくしてはいられない。自分の本当の名前を、或いは、自分が何者であるのかを求めながら、究極性へ向かう人間の関心が、我々をして表現せしむのである(17)。それ故に、より超越的な基準に向かい、自らの手で、自己の存在の根源を求めながら、個々の人間が表現する超理性的象徴行為や信念表出行為が、実に多様な形で展開されてゆくのである。
この表現せずにはいられないという人間的欲求によって、「語りえぬもの」の空間である「沈黙」へと回帰するぎりぎりの境界状態の中で、最後に大きな声を上げゆくものが〈リミナルな言語〉である。そして、境界の上で交感が生起し、「神話」の出来事が起こる時に、人々から生まれ出る〈リミナルな言語〉は、その数が多ければ多いほどに、それ自体の空間を無限に拡げていくことができるのである。「沈黙」に対して人々が示す抵抗の強かな姿が映るここに、私は、交感の芸能性を見るのである。
説教の場と雖も、そこに表わされるものは、本来、突き動かされて自ずから出るものであっただけに、それは必ずしも一つの言葉や形をとるとは限らず、おそらく様々な姿をもって現われたはずである。しかし、それらを宗教の言語とする為には、当の行為者を正当化しうる条件と様式を備えた一つの型を示し、伝統の下に純化する必要があったのではないか。「受け念仏」とは、個別でありながら普遍であることばの表象の類似体験として、反復されるものである。その際に反復されるものは、「祝詞」[もっと厳密に言えば、「咒詞」あるいは「壽詞 (よごと)」] (II) であり、「かけまくもかしこき」(18) 位相であり、その後に続く人々のいとなみが模範とすることとなる、或心の原風景から来るものであろう。その心象風景とは、アニミズムに由来する生命のイメージ(19) であり生の情動性であるのである。
そうであるならば、人々における自己の存在の根源に対する冀求こそが、交感の宗教的かつ芸能的生命となっているのである。もしこの交感の現われと働きがないならば、節談説教は、単なる過去の教化方法として形骸化し、人々の生活の場へも及ぶその生命力と活力を失ってしまうはずである。  
おわりに
節談説教における強烈に昂揚した場面とは、一方において、究極的価値についての全きものを手に入れることを求めながら、他方では、中心であり真理の源である「沈黙」への到達を引き伸ばそうとする、言い換えれば、「語りえぬもの」を得るよりも、むしろ彼らのことばの世界を保持しようと抵抗する、人間のアンビバレントな矛盾をも、その内に含むものとなっているのである。したがって、交感の芸能性と仏教とは、節談説教という場で相互に最も接近しながらも、「沈黙」という問題において、遂に一つにはなれないのである。
しかしながら、その中心と周縁の関係において、周縁を否定・排除することなく、聖と俗とのどちらへ傾くかという未分性の境界に生き続けてきたものが、「受け念仏」である。それは、無限なるものと有限なるもの、彌陀一佛の世界と諸佛諸神の世界、「お念仏」(宗教としての念仏)の領域と「祓う呪符であった念仏」(20)(民俗宗教的心情の念仏)の領域とを往き交う、人々の姿と心なのである。  
〔註〕
(1) 『み名を称える キリスト教と仏教の称名』(ノンブル、一九八八年)一三一頁。
(2) 関山和夫「節談説教と祖父江省念師」(祖父江省念『節談説教七十年』、晩聲社、一九八五年)一九一頁。一八九頁。
(3) 関山和夫「節談説教と祖父江省念師」(前掲『節談説教七十年』)一九一頁。
(4) 省念師の説教は、典型的な五段法を執るものである。まず、讃題には、経論・祖釈の一節がこれから説こうとする一席のテーマとして、節づけで感銘深く読み上げられ、次に、その讃題の法義を今少し平易に解説して、法説となる。そして、譬喩は、それをより一層解り易くする為に、聴衆にとって出来るだけ興味深い、実生活に密着した数々の話題を用いて説くものである。さらに、因縁では、讃題・法説を証明する事例を挙げるのであるが、ここでは、『親鸞聖人御一代記』や『蓮如上人御一代記』等が中心となり、また、『教行信証』、『歎異抄』、『御文』等を引く話や、妙好人を扱う話が本筋となる。そして、結びとして、結勧で、聴衆に「安心」を与え、今席の話の要諦を述べるという型である。聴衆は、譬喩談で爆笑を繰り返し、因縁談では、涙を零し、その一席が終わる頃には、「サア親が迎えに来たぞー」と、阿弥陀仏に救われたような気持ちに、おそらくなってしまうのである。
聴衆にとっての省念師の存在が何であるかは、一席の説教が終わった時点の光景によっても、明らかであろう。人々は、高座の省念師に手を合わせ、南無阿彌陀佛の名号を唱え続ける。聴衆は、阿彌陀如来、あるいは、親鸞の「代わり身」としての省念師に手を合わせ、如来が往生の手立てを廻らし差し向けていることを知り、感謝する為に、名号を称えるのである。
省念師の説教の録音(カセットテープに)を、世話役の人に頼む参詣者は多い。「夜眠れなかったのが、先生〔省念師〕のお話を聞きながらだと眠れるようになった」と言って、大事そうにテープをしまう老女。「ともかく気持ちがスッとする」と言う中年の女性。「イライラしても、テープを聞けば気持ちが治まるから」と、既に何本もテープを持っている老人達。彼らは、月二回の有隣寺(昭和十二年、省念師が寺号を取得)の定例会が待ち遠しい人々、テープでもよいから、省念師の説教を毎日聴かずにはおれない人々である。このような人々にとって、その節談説教は、大きな楽しみであると共に、信仰や祈念を背景とした、感性と情操の結晶とも言うべきものなのである。言い換えれば、芸能化されたとして一段低く見られたこの布教活動こそ、人間生活の直中にあって、人々を救い、その心を癒すものである。またそれは、芸能の原点が本来持つ、素朴な力を見せつけることでもあろう。[日本の藝能は、もとは藝能としての形を有していなかったものが、繰り返して行われてゆくうちに「行動伝承」となり、藝能化して、藝能となってきたものだと考えられる。例えば、「舞」(「踊り」とは異なる)の藝能化の過程のように、無意識的な行動である憑霊状態に入る前後の動作(信仰上の現象として)等が、次第に固定し、意識化されて、藝能を形づくるようになったということである。尚、藝能から更に芸術となっていったものもあるが、芸術となってしまうと、藝能(あるいは民俗芸術)とは言えない。藝能(あるいは民俗芸術)は我々の「生活」に即しているが、芸術は我々の実際の「生活」から遊離しているからである。参考:『折口信夫全集 21 日本芸能史六講(芸能史1)』(中央公論社、1996年)、折口博士記念古代研究所編『折口信夫全集 國文學篇6』第十二巻(中公文庫、1976年)、『折口信夫全集 民俗學篇1』第十五巻(中公文庫、1976年)および『柳田國男全集 13 先祖の話 日本の祭り 神道と民俗学ほか』(ちくま文庫、1990年)。]
しかし、そうした多くの人々の求心にも拘らず、宗門内部における批判や蔑視等、節談説教に対する否定的方針は立って久しく、それに伴う伝承者の激減、あるいは、後継者の有無の問題は非常に大きい。
(5) 柳宗悦「真宗素描」、「真宗の説教」(『柳宗悦 妙好人論集』、岩波、一九九一年)五十頁、八十三頁。
近頃の学僧たちは、こういう節附をとかく蔑むが、しかし、ここに発展したのは、由って来る充分な理由があると思われる。信徒たちは有難い仏の教えを聞きにくるので、説く人の主観に接するよりも、それを超えた客観的な仏の声に接したいのである。(50頁)
考えると、ものが個人的でなく公のものになる時、かかる節附が必然的に招かれてくるのである。つまり様式化され、客観化される場合、個人的な語り方でなく、非個人的な表現を帯びてくる。吾々はこれを言葉の「模様化」と呼んでいるが、韻律の世界はかかる模様化の要請によるのである。(83頁)
(6) 北岡誠司『現代思想の冒険者たち第十巻 バフチン 対話とカーニバル』(講談社、一九九八年)二一二頁。
[他者の発話を分離する抑揚(書き言葉では引用符で表記される)は、特殊な現象である。まるで「話す主体の交代」(上記引用文のように、バフチン原文は、かぎ「」ではなく、イタリック体を使用)を、我がものとし、内在化させたかのようだ。この交代がつくりだす「境界」(バフチン原文は、イタリック体を使用)は、ここでは弱まり、特殊なものとなる。つまり、話し手の表現が、この境界を突き抜けて侵入し、他者の発話の中にまで広がるからであるが、それというのも、他者の発話を、皮肉、憤慨、共感、畏敬の念などに満ちた調子で伝えるからである(この表現は、感情表出的抑揚によって —書き言葉においては、我々は、まさに他者の発話を枠に入れる文脈のゆえに其れを察知するが、あるいは然るべき表現を示唆する言語情報外の情況によって、伝えられる)。]
(7) 「翁の發生」(『折口信夫全集 第二巻』、中公文庫、一九七五年)、「口譯萬葉集」(『折口信夫全集 第二十九巻』、中公文庫、一九七六年)、仲井幸二郎・西角井正大・三隅治雄編『民俗芸能辞典』(東京堂出版、昭和五十六年)。
(8) 関山和夫『説教の歴史的研究』(法藏館、昭和四十八年)三八二〜三八三頁。氏は、『延喜式』の冒頭における記録等を事例とし、説教においてこの「あどを打つ」のと全く同じような効果をもつものに「受け念仏」があるとしている。
説教においてこの「あどを打つ」のと全く同じような効果をもつものに「受け念仏」(「あげ念仏」ともいう)がある。説教の要所々々に入る聴衆の感極まっての「受け念仏」は、説教者の話を高潮させるのに大いに役立つものであった。巧みな説教は、巧みな「受け念仏」によって迫力を増すものであり、そこでも聞き手は極めて重要な役割を演じているのである。(382〜383頁)
(9) 説教の行為そのものが奇蹟の高調の時となるということについては、安居院の澄憲(1126-1203)が承安四年五月の最勝講に列した際、清涼殿において表白文のうちに雨を祈って験があり、権大僧都に任ぜられ(源平盛衰記)、聖覚(1167-1235)が元久二年八月に法然の病を説教で治療したという両者の説教の霊験が伝えられている。これらの叙述は説教そのものが多面体であることを、すなわち、「儀礼複合」であることを示すものである。説教が、宗教的真理を言葉を以て「伝達する行為」としての、それだけでは決してないということなのである。
(I) ハーヴィー・コックス(Cox, Harvey)/野村耕作他訳『民衆宗教の時代 キリスト教神学の今日的展開』(新教出版社、1978年)。
(10) 言語とは、常に流動しながら、生成している弾力のある記号である [言語は、記号体系である。そして、その基本的構成単位は記号である。例えば、言語を、人間社会の中で最も重要な記号体系である音声記号の体系として、定義することも可能である]。なぜならば、通常、言語とは聞き手に向けられたものであり、したがってその場合には、一人の個人が発話行為をいとなむのではなく、可視、不可視を問わず、常に聞き手である他者との関係性の中からつくられゆく生成物としてあるからである。このような「対話」においては、言語行為は主体の所在が明らかな社会的な相互作用となる。このような聞き手が何らかの形で存在する対話には、さらに、音声による言語表現行為である外的発話と、未だ音声として発話されてはいないが、心理的な内面で展開されている言語活動である内的発話とがある。そして、後者である内的それであっても、多くの場合に、社会的規範や共通意識等の基盤の上に生成され、日常のコミュニケーションへと、つまり、外的発話的に解消されていく志向をもつのであるとされる。しかしそれと同時に、その内的発話の中には、時として、主体とその経験のみで生成されるものが現われる。それは、社会的な規範や共通意識の基盤の上にはっきりと生成されたものではなく、純粋な自己の内なるものとしての心的体験等である。この場合、その内なるものが、言語の社会性から、特に共通の情意や共同主観性からも、かけ離れたものであればあるほどに、自己の社会的な意識から抑圧されて、外的発話として外在化することが困難になるのである。
このような自己の内なるものが、或特定の状況において、社会的な外的発話の構造がもつルールから解放されて、外在化へ、すなわち、外的発話の中へと入りゆく瞬間の言語を、〈リミナルな言語〉と、本文において述べたのである。なお、この「リミナル」とは、V・W・ターナー氏の言う「リミナリティ」からの転用である。また、この転用については、ミハイル・バフチン氏が、「その抑圧された内的発話が、ある特定の状況のもとで、それらの外的発話の階層関係と禁止から解放するものとして、カーニバルに逢着する。その特定の状況をカーニバル、その時の言語をカーニバル言語と呼んでいる」ことによるのもので、さらには、永田靖氏が、手品師、曲芸師、梅毒患者等の「バフチンのカーニバルの個々の形象」について、「『リミナリティ』に属する人々である」と述べていることからのものである。
さて、〈リミナルな言語〉は、上述の如く、本来的に、社会的規範や共通意識等の基盤の上に存在する外的発話ではあり得ない、言い換えれば、言語表象的合法性から外れた「異質なもの」であるが、或特定の状況、つまりは、非日常的状況にあって、外在化されうるのである。しかしそれでもなお、〈リミナルな言語〉の本性として、たとえば、他の言葉に置き換えることも、他の表現を以て表わされることも、さらには、日常的な意味世界の中に翻訳してその事柄を捉えることも、おそらく不可能であり、その言葉そのもので在る以外には外在しようがない、その言葉そのものなのである。「〈リミナルな言語〉は、生まれ出たそのままでそこに存在しうる」と述べたのは、〈リミナルな言語〉が言語そのものとして生きる、こうした言語の在り方を指してのことである。
1) ただし、そうした中においても、たとえば、他の人間の言葉を引用して何かを述べる時、そして、それが明確な引用ではなく、引用であることを隠してる引用、意識せずに行っている引用、故意に、あるいは、意識せずに、歪曲した引用、原意を変えた引用等が為される場合には、他人と自分という両者の言葉や言説が、入り組み、曖昧にされ、歪められながら動いて、発話はされているのであるが、主体の所在は、確定することができないものとなる。
2) 永田靖「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」、『ユリイカ 特集・言語革命』6(1985.6)、青土社、浜口稔「意識と言語幻想 新言語起源へ向けて」、『ユリイカ 特集・言語革命』6(1985.6)、青土社、J・クリステヴァ/小松英輔訳「『詩的言語』の主体」、『現代思想 総特集=フッサール現象学運動の展開』臨時増刊号(第六巻第十三号)、青土社、J・クリステヴァ/西川直子訳「音と意味のリズム マラルメにおける詩的言語の革命」、『ユリイカ 特集・言語革命』6(1985.6)、青土社。
3) ミハイール・バフチーン/川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』、せりか書房、1973年、永田前掲「嘔吐するバフチン ゆるやかな言語の逆襲」、番場俊「声の出来事 ミハイル・バフチン再読2」、『現代思想 特集・宗教の行方』vol. 23−10(1995.10)、青土社。
(11) 『日本人の言霊信仰』(講談社学術文庫、一九八〇年)一七八頁。
(12) 註10において述べている。
(13) 永田前掲論文、一六六頁(上段)。
(14) 柳宗悦「真宗の説教」(前掲『柳宗悦 妙好人論集』)七十四頁。
(15) 丹生谷貴志「投げ捨てる土」(前掲『ユリイカ 特集・言語革命』6)一九七頁。
(16) 大村英昭・金児暁嗣・佐々木正典『ポスト・モダンの親鸞 真宗信仰と民俗信仰のあいだ』(同朋舎、一九九〇年)。
信念には、様々なレベルがある。金児暁嗣氏によれば(大村英昭・金児暁嗣・佐々木正典『ポスト・モダンの親鸞 真宗信仰と民俗信仰のあいだ』、同朋舎、一九九〇年)、個人の信念体系を構成している信念の数は、人によってまちまちであるが、それぞれの信念の重要性を決定する場合に、基底信念というものがあり、それは、D・J・ベム氏が「0次の信念」と呼び、また、M・ロキーチ氏が「原信念」と呼ぶものであるという。それについて、金児暁嗣氏は、以下のように述べている。
このように問い重ねていくと、あらゆる信念の信憑性の置き所は、個々人の『内的な感覚経験』(金児原文は、二重かぎ『』ではなく、強調の傍点を使用)かある『外的権威』(金児原文は、強調の傍点を使用)のどちらか、あるいはその双方にあることを見い出すにちがいない。逆に言えば、多くの信念は、こうした基底信念から派生してくるものとみなせる。〔中略〕われわれの感覚経験の妥当性を信じることが最も重要な基底信念であって、この種の信念が「0次の信念」とよばれる所以である。それは、他の信念が形成される意識下の公理といって差し支えなかろう。われわれの感覚の信頼性に関してわれわれは0次の信念を有しているがゆえに、直接経験から派生する信念は正当性をもちうるのである。(260頁)
(17) 拙稿「節談説教に見る蓮如」(『国文学 解釈と鑑賞』第六十三巻十号、至文堂)。
(II) 折口信夫「大和時代の文學」(『折口信夫全集 第八巻』、中公文庫、一九七六年)。
咒詞の中には、かうして見ると、後来祝詞に這入るべきもの、宣命に這入るべきもの、と言ふ大区劃の外に、尚祝詞と鎮護詞との分化の、代宣の上に現れたものが見える。更に咒詞を蒙った時、これに対して答える詞が出来て来た。此が、整備した形を「よごと」と言ふ。(98頁)
「よごと」は、奏壽の詞として発達し、後その実存して、名亡びる様になった。奏詞の根本信仰は、おのが守護の霊魂を、長上に献ずることである。さうすることによって、服従・忠誠を誓い、更めて又、庇護思頼 (みたまのふゆ)を蒙らうとするのだ。(99頁)
(折口原文は各語に旧漢字を使用)
柴田實「古代の寿詞」(『日本庶民信仰史 神道篇』、法蔵館、一九八四年)。
上に挙げた古代の寿詞 [出雲国造神賀詞 (『延喜式』巻八) と中臣寿詞 (『台記』別記) を柴田氏は指している] はそのいずれについてみても、西洋のキリスト教などの場合のように、神の加護や恩寵が対者の上に加えられることを祈念するのではなしに、むしろ当事者の意志や願望が、その寿詞を述べることによって直接に実現され、成就することを期待し信じているように解せられる。それはいわば寿詞そのものの働き、その力に対する信仰であって、すでに古くから人びとによって指摘されている言霊信仰なるものがこれに当たるであろう。(79頁)
(18) 「古代に於ける言語傳承の推移」(『折口信夫全集 第三巻』、中公文庫、一九七五年)四四四頁。
(19) たとえば、樵夫が木を切る毎に、木霊に祈り、森の精霊に詫びるというような、自然の恵みに直接依存した山民、農民、漁民たちの生活感覚であった「おかげさま」の心情にみる、森羅万象のことごとくに内在する生命のイメージである。
(20) 大村英昭・金児暁嗣・佐々木正典前掲書。  
 

 

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