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湯殿山 
 
 
出羽三山の奥の院と呼ばれる湯殿山神社は、羽黒山神社や月山神社と異なり古来から全く手を加えられていない神域で、本殿や拝殿などの社殿はなく、黄褐色の巨石と石の下から熱湯が湧き出す温泉が御神体だ。 
「語られぬ 湯殿をぬらす 袂かな」と芭蕉が詠んだ湯殿山神社には、この場所の様子や出来事を「言うなかれ、語るなかれ」と戒められた厳しい掟があった。入り口で履き物を脱ぐ、素足になって人々は熱い湯が流れる岩肌を歩き、御神体に祈る。 
湯殿山 
伊勢・熊野と並ぶ日本三大霊場のひとつで昔から「云わず語らずの山」と言われ、湯殿山の御神体のことについては人に話しては悪い、語らば聞くな、聞かば語るなという厳しい戒律があった。大日坊は大同2年弘法大師の開基であり、正しい寺名は湯殿山瀧水寺金剛院と号したが、追々寺勢が盛んになるとともに僧坊、湯殿山流戒律の修業道場、執事本坊、そして多数信者を導く講堂も兼ねた建物、即ち大日坊と云う本坊が出来た。 慶長19年間口四十二間、巾十二間の大伽藍の建立と発展した大師の開基された金剛院瀧水寺は、奥の院大日閣としてまつられ、本坊の大日坊は大日如来を安置し本堂としていよいよ隆盛を極めた。又湯殿山は往時女人禁制の秘境であったので大師は女人の心をあわれみこの地を選び清め、湯殿山大権現をお招きし、又お沢八万八千仏をまつり女の湯殿山としてお建てになったのがこの寺の起こりです。明治の廃仏棄釈、つづいて火災、昭和11年この地辷災害と打続く悲運に見舞われたが法燈を守りつづけ約一千九百九十数年、住職は95世を数えている。  
即身仏 
代受苦菩薩真如海上人は朝日村越中山に生まれ、純真な性格の持主として育ち、幼少の頃より仏教の教えに心をひかれ 青年時代より仏門に帰依出家し、一生を捧げて弱肉強食の不平等社会を仏国 楽土たらしめ、衆生を救うことを誓願され、湯殿山大権現を信仰し、本寺大日坊を拠点として各方面の教化につとめた。寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、徳望一世に高く、生き仏として多くの人々より尊ばれた。二十代より即身仏を志し、木食の行に入り、天明3年96才で生身のまま土中に入定するまで七十余年の長い間 この難業苦業を積み重ね即身仏となられた。今日まで約二百年以上もなるが、生きながら入定そのままの尊い姿である。即身仏とは、湯殿山行者の行う難業苦業の最たる木食の行を積み重ね、生きながらにして土中に入定し三年三ヶ月後に弟子や信者の手により掘り出し、即身仏になった。 
   
 
羽黒山 
 
出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)では、奈良時代後期より月山神を奉じ、平安から鎌倉にかけて盛んとなった神を仏の仮の姿とする本地垂迹思想により神仏習合の修験道(教団)が成立した。全国の修験道は徳川幕府により、京都聖護院本山派、京都醍醐寺三宝院当山派の二派に統括されたが、古来よりの出羽国羽黒山と九州英彦山は特別に別派として公認された。開山は蘇我馬子に滅ぼされた崇峻天皇(592没)の子、蜂子皇子、又は役小角(役行者)あるいは真言宗開祖空海との伝承があるが定かではない。明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により多くの堂舎が破壊されたが、この五重塔は破壊を免れた。現在は出羽三山神社が奉戴し仏塔であるが祭神を祀っている。 
開山は約1,400年前、第32代崇峻天皇の皇子である峰子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を獲得、山頂に祠を創建したのが始まりとされている。皇子はさらに月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となった。 
 
三神合祭殿 
 
 
霊祭殿 
鏡池 
五重塔 
 
 
祓川神橋 
  
室町時代前期・応安年間(1368〜1375)の再建と考えられている。創建は平安中期・承平年間(931〜938)平将門の建立と伝えられるが定かではない。東北最古、高さ約29m、国宝。羽黒山参道にあり周辺は樹齢1000以上という爺杉をはじめ樹齢200年を超える杉が生い茂る。 
 
 
玉川寺 
 
東北最古の曹洞宗のお寺で別名「花の寺」、国指定名勝で庭園が美しい。 
 
 
 
湯野浜温泉 游水亭いさごや 
 
  
夕日は見れませんでしたが、久しぶりに日本海の趣を感じました 
 
 
月山