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国民休暇村 
  
 
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多賀大社 
 
 
  
 
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多賀大社  
多賀大社が文献にみえるのは、和銅5年(712)撰上の「古事記」で「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とある。社伝に、神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになったと伝わる。奈良・平安時代には公家の信仰篤く、鎌倉-江戸時代には武家からの信仰も集め、その祈願文や寄進の品が多く残されている。 
鎌倉時代から広まった神仏習合は明治初期まで続き、も明応3年天台宗の不動院が建立され、その後、観音院・般若院・成就院の坊人たちの活発な布教により多賀信仰が全国各地に広った。大正3年皇祖天照大御神の御親神にあることや崇敬が全国に及ぶ事から官幣大社に列格された。 
延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集め、豊臣秀吉の厚い信仰もあった。祭神として天照大神の両親の伊邪那岐命と伊邪那美命を祀っている旧官弊大社である。「お多賀さん」の名で親しまれている。 
神社を清流が囲み、太閤橋と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建っている。境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿が立っている。東廻廊の横にある石は、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれている。拝殿は、格天井が美しいといわれている。現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたもの。神社から少し離れた杉坂山に杉坂峠の杉と呼ばれる杉があり、御神木となっている。 
お多賀さんとつり鐘、「お寺とつり鐘」は当然だが「神社とつり鐘」は面白い組み合わせである。明治までは神仏混合で大方の神社境内にはお寺があった。つり鐘は天文24年(1555)に浅井長政や佐々木一族らの手によって鋳造されたものといわれる。明治の神仏分離のとき境内にあった仏像やお寺の門等は町内のお寺に移され、つり鐘だけはあまりの大きさに貰い手がなく残った。