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巻菱湖(まきりょうこ・1777-1843)

 

市河米庵(いちかわべいあん・1779-1858)  

 

貫名菘翁(ぬきなすうおう・1778-1863)

 
   



 
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巻菱湖 (まきりょうこ・1777-1843)
江戸時代後期の日本の書家。越後国巻(後の新潟県西蒲原郡巻町、現在の新潟市)に私生児として生まれ、姓は池田、後に巻を名乗る。名は大任、字は致遠、菱湖は号で、別号に弘斎。通称は右内と称した。
明治政府の官用文字は御家流から菱湖流に改められ、菱湖の門下生は1万人を超えたと伝えられている。市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と並び称された。
幼少の頃から新潟町で育ち、寺の住職に書の手ほどきを受けた。母親が自害した後、19歳で江戸へ行き、書家の亀田鵬斎に師事して書と詩を学んだ。以後、楷書を欧陽詢・褚遂良、行書を李邕・王羲之、草書を「孝経」・「書譜」・「十七帖」、隷書を「曹全碑」に範をとり、晋唐以前の書法に傾倒した。29歳の時、「十体源流」を著し、書塾「蕭遠堂」を開く。53歳の時、近衛家にあった賀知章の「孝経」を見て驚倒したという。漢詩も能くし、酒を好み、天保14年(1843年)67歳で没した。
菱湖流
菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みであることが特徴とされる。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。
現在でも将棋の駒においては、銘駒と呼ばれる書体の1つとして知られ、タイトル戦などで使用される高級な駒などによく用いられており、中原誠などこの書体を好む棋士も多いという。なお、菱湖自身が駒の書体を確立したわけではなく、大正時代頃に将棋の専門棋士で、阪田三吉の弟子だった高濱禎(たかはま てい)が菱湖の書体を駒字に作り替えたものである。  
市河米庵 (いちかわべいあん・1779-1858)
江戸時代後期の日本の書家、漢詩人。名は三亥、字は孔陽、号は米庵のほかに楽斎・百筆斎・亦顛道人・小山林堂・金洞山人・金羽山人・西野子など。通称は小左衛門。
漢詩人の市河寛斎の長子。安永8年(1779年)、己亥九月、亥の日、亥の刻に江戸日本橋桶町に生まれたので三亥と名付けられた。
父 寛斎や林述斎・柴野栗山に師事し、書は長崎に遊学し清国の胡兆新に学ぶ。その後、宋代の書家 米芾や顔真卿らの書を敬慕しその筆法を研鑽する。米庵という号は米芾に因んだ。
隷書・楷書を得意とし、寛政11年(1799年)、20歳の時に書塾 小山林堂を開いた。その後、和泉橋藤堂候西門前に大きな屋敷を構え、門人は延べ5千人に達したという。尾張徳川、津藤堂、徳山毛利、鯖江江間部などの大名にも指南を行った。
書の流派である江戸唐様派の大家。同じく江戸で門戸を張った巻菱湖(1777-1843)、京都の貫名海屋(1778-1863)とともに幕末の三筆に数えられる。 文化8年(1811年)に富山藩に仕えたが、文政4年(1821年)に家禄300石をもって加賀藩前田家に仕え、江戸と金沢を往復し指導に当たった。
余技に篆刻を嗜み、印譜「爽軒試銕」がある。文房清玩に凝り唐晋の書画の蒐蔵と研究で知られる。また煎茶を嗜み、松井釣古の主人であった加賀屋清兵衛に楓川亭と命名している。「米庵墨談」など多数の著述がある。
継子に恵まれずはじめ稲毛屋山の子恭斎(きょうさい、1796 - 1833)を養子に迎えるが夭折してしまい、次いで遂庵(いちかわ すいあん、1804 - 1884)を迎えた。しかし、米庵が60歳のときに長子、万庵(いちかわ まんあん、1838 - 1907)を授かる。1858年歿、享年80。西日暮里本行寺に墓がある。
渡辺崋山が米庵の肖像画「市河米庵像」を描いている。 
貫名菘翁 (ぬきなすうおう・1778-1863)
江戸時代後期の儒学者、書家、文人画家。 姓は吉井(後に家祖の旧姓貫名に復する)。名は苞(しげる)。字は君茂(くんも)、子善。通称は政三郎、のちに省吾とし、さらに泰次郎と改める。号は海仙、海客、海屋、海叟、摘菘人、摘菘翁、菘翁など多数。別に方竹山人、須静主人、三緘主人などと名のっている。海屋、菘翁が一般に知られている。
少年期、西宣行に米元章の書風を学んだ。 高野山では空海の真蹟に強く啓発される。その後も空海の書を敬慕し続けており、58歳のとき四国に渡り萩原寺(現 香川県観音寺市大野原町萩原)に滞在して秘蔵される伝 空海「急就章」(萩原寺蔵・重要文化財)を臨模している。後に墨拓としてこれを刊行しその跋を書いている。この跋には、空海の書は東寺にある有名な「風信帖」とこの「急就章」がもっともよいとし、その源流を奈良時代の魚養に求め、さらに魚養は唐写経に由来すると述べている。
当時の墨帖は粗末なものが多く到底手習いの元とすることはできなかった。菘翁は二王(王羲之・王献之)の正しい伝統を確実に把握することに努めた。このため古典や真蹟を重んじ、それが適わなければ法帖や碑版を蒐集し臨模をして学びとった。唐代の鄭審則の書についても、わざわざ比叡山に登ってこれを臨模している。
書風は当時流行の明清風の唐様に対して唐晋風とされ、楷書は欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿に、行書は王羲之、褚遂良、草書は孫過庭に影響されたとされている。日下部鳴鶴は菘翁が晩年なるほど筆力が強くなっていると驚嘆している。 書画で盛名をほしいままにしたが、特に書は市河米庵・巻菱湖と並んで幕末の三筆に数えられ「近世第一の能書家」と称えられた。
最晩年 85歳の時に中風で倒れるが挫けず、筆を握り続け書画の制作に打ち込む。このときの作品を「中風様」と呼び、傑作とされる。