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寂連(1139-1202)  
藤原俊成の甥。俊成の養子となったが、俊成に定家が生まれ、出家。新古今和歌集の選者の一人。  
文覚(1139-1203)  
今昔物語に登場し、横恋慕した袈裟の首を切った俗名遠藤盛遠。  
藤原俊成(1114-1204)     
源頼家(1182-1204)  
 
重源(1121-1206)  
 
九条良経・藤原良経(ふじわらよしつね・1169-1206)  
藤原兼実(-1207)    

 
九条兼実(1149-1207)  


 
熊谷直実(1141-1208)  


 
法然(1133-1212)  
 
栄西(1141-1215)  
 
北条時政(1138-1215)  


 
世尊寺行能(1179-1215/1225)    
 
鴨長明(1153-1216)    

 
源実朝(1192-1219)  


 
後鳥羽天皇(1198-1221)  


 
運慶(-1223)  
鎌倉時代を代表する仏師。天平・平安初期の仏像を範にして、斬新な気迫に満ちた逸品を多く残す。  
北条義時(1162-1224)  


 
北条政子(1157-1225)    

 
明恵(1173-1232)  
華厳宗の高僧。  
藤原定家(1162-1241)  
北条泰時(1183-1242)  


 
道元(1200-1253)  
親鸞(1173-1262)  
 
北条時頼(1227-1263)  


 
後嵯峨天皇(1220-1272)    

 
藤原為家(-1275)    

 
蘭渓道隆(1213〜1278)  
大覚禅師
南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。執権北条時頼の帰依を受ける。北条時頼によって建長寺が創建されると招かれて開山となる。後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号。  
日蓮(1222-1282)  
北条時宗(1251-1284)  


 
無学祖元(1226-1286)  
鎌倉時代に北条時宗の招きに応じ宋から来日。鎌倉の建長寺に住し、円覚寺を開創。  
後宇多天皇(1274-1287)  
 
   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。
 
寂連 (1139-1202)
藤原俊成の甥。俊成の養子となったが、俊成に定家が生まれ、出家。新古今和歌集の選者の一人。  
文覚 (1139-1203)
(もんがく・保延5年(1139)-建仁3年7月21日(1203))平安時代から鎌倉時代初期にかけての真言宗の僧。弟子には上覚、明恵らがいる。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)で、元は摂津源氏傘下の摂津国渡辺党の武士であり、鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた北面の武士だった。従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことから出家したという。(この事件を元にして明治期に長唄「鳥羽の恋塚」が作られた。)荒廃しきっていた神護寺を再興するため後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁の摂津源氏の源頼政の知行国であった伊豆国に配流された。そこで同じく配流の身だった源頼朝に平家打倒の挙兵を促す。その後、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて各地の寺院を修復したが、頼朝が死去すると後鳥羽上皇に疎まれて佐渡国へ流罪となり客死した。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した「地獄門」(監督・衣笠貞之助)は、長谷川一夫が遠藤盛遠に扮し、渡辺渡(山形勲)の妻の袈裟御前(京マチ子)に横恋慕し、出家にいたるドラマを描いている。 
藤原俊成 (1114-1204)   
源頼家 (1182-1204)
修善寺物語などで語られるひ弱な二代将軍ではなく、才気豊かな青年だった。  
重源 (1121-1206)
東大寺大仏の再建者。  
九条良経
   =藤原良経
(ふじわらよしつね・1169-1206)
治承3年(1179)元服し従五位上に叙せられる。元暦2年(1185)従三位、文治4年(1188)同母兄の九条良通が早世したため、兼実の嫡男となった。その後も権中納言、正二位、権大納言と出世し、建久6年(1195)内大臣となった。しかし建久7年(1196)11月反兼実派の丹後局と源通親らの反撃を受け父とともに朝廷から追放され、蟄居する(建久七年の政変)。正治元年(1199)左大臣として復帰し、その後、内覧となる。そして建仁2年(1202)12月土御門天皇の摂政となり、建仁4年(1204)従一位、太政大臣となった。しかし元久3年(1206)3月7日深夜、良経は寝所で何者かによって殺害された。享年38。犯人は菅原為長とも、良経の鎌倉幕府との関係を苦々しく思った反九条派の仕業とも言われているが定かではない。
鎌倉前期の歌人。忠通の孫で、九条兼実の子。従一位摂政太政大臣に至り、後京極摂政、中御門殿と称された。藤原俊成・定家を後援し、新古今調樹立の基礎を築く「花月百首」「六百番歌合」など多くの歌合を主催して、歌壇の育成に貢献した。「新古今和歌集」の仮名序を執筆し、巻頭歌の作者ともなった。家集に「秋篠月清集」がある。他に漢詩集「詩十体」、漢文日記「殿記」などの記録、「作庭記」「新十二月往来」「除目大成抄」などがあり、書道にもすぐれてその書法は後京極様といわれた。 
藤原兼実 (-1207)  
九条兼実 (1149-1207)
藤原忠通の第三子。  
熊谷直実 (1141-1208)
一の谷で平敦盛を討った逸話で知られる。後に出家、頼朝に嘱望されるが辞して草庵を営む。  
法然 (1133-1212)
浄土宗の開祖。鎌倉新仏教の先駆者。庶民、武士、貴族のあらゆる階層からの帰依を受け、重源、親鸞などの優れた弟子が輩出し教えを広めた。  
栄西 (1141-1215)
日本臨済宗の開祖。28歳と47歳時に二度入宋。鎌倉幕府の厚い帰依を受け、北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたり、源頼家の外護により京都に建仁寺を建立したりしている。以後、幕府や朝廷の権力に取り入り禅宗の振興に努めた。 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。  
北条時政 (1138-1215)
鎌倉幕府の初代執権。配流中の頼朝を助け、鎌倉幕府の設立に中心人物として寄与した。頼朝死後、将軍職を継いだ外孫頼家の岳父である比企能員と対立し、これを排除して実朝を擁立し幕府の実権を握る。後に、後妻牧の方と計り娘婿を将軍にと企んだが失敗し、政子、義時により伊豆に隠居させられ、伊豆にて没する。  
世尊寺行能 (1179-1215/1225)  
鴨長明 (1153-1216)  
源実朝 (1192-1219)
頼朝の次男。兄頼家が出家させられ12歳で征夷大将軍に付くが、実権は北条氏が掌握し名のみの将軍であった。  
後鳥羽天皇 (1198-1221)
土御門、順徳、仲恭と3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。  
運慶 (-1223)
鎌倉時代を代表する仏師。天平・平安初期の仏像を範にして、斬新な気迫に満ちた逸品を多く残す。  
北条義時 (1162-1224)
時政の次男、幼名は江間の小四郎。知略に富み度量にも優れ頼朝の厚い信任を得る。頼朝没後、父時政を追放し第二代執権となる。実朝を公暁に殺さしめ源氏の血統を絶つ。承久の乱で勝利し後鳥羽上皇以下を配流し、幕府の威力を確固たるものにした。  
北条政子 (1157-1225)
保元2年(1157)-嘉禄元年7月11日(1225)平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡姫。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局など。伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。なお、「政子」の名は建保6年(1218)に朝廷から従三位に叙された際に、父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何という名であったかは不明。  
明恵 (1173-1232)
華厳宗の高僧。  
藤原定家 (1162-1241)
父は藤原俊成、母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
やまとうた
北条泰時 (1183-1242)
三代鎌倉幕府執権。11人の評定衆に拠る合議制、関東御成敗式目51か条制定など幕府の基本法を制定、鎌倉幕府の基盤を確固なるものとした。  
道元 (1200-1253)
曹洞宗の開祖。公卿の家に生まれたが、早くに両親を失い出家する。27歳にして宋へ渡り、帰国後、「普勧坐禅儀」を著し、人々に座禅を薦めた。比叡山との軋轢を避け越前に赴き、永平寺を創建した。
親鸞 (1173-1262)
浄土真宗の始祖。29歳にして法然に師事する。「建永の法難」にて、師の法然に連座したとされ、越後に配流、還俗される。  
北条時頼 (1227-1263)
鎌倉幕府第五代執権。  
後嵯峨天皇 (1220-1272)  
藤原為家 (-1275)  
蘭渓道隆 (1213-1278) 大覚禅師
南宋から渡来した禅僧・大覚派の祖。執権北条時頼の帰依を受ける。北条時頼によって建長寺が創建されると招かれて開山となる。後世におくり名された大覚禅師の号は、わが国で最初の禅師号。  
日蓮 (1222-1282) 日蓮大菩薩・立正大師
日蓮宗の開祖。安房の国、小湊の漁師の子として生まれた。12歳で近くの清澄寺に入り16歳で出家、諸寺諸宗を遊歴して清澄寺に戻り、「南無妙法蓮華経」を唱え、他宗を不成仏の法として批判攻撃した。時の地頭に追放された日蓮は鎌倉の小道で辻説法を行い他宗を更に攻撃した。この時期、諸国に地震・洪水・飢饉・疫病などの災害が多く、日蓮は、この原因は民衆や幕府が念仏・禅・真言・律などを信仰することにあるとし「立正安国論」を建白した。この為、他宗派からは度重なる迫害を受け、また、幕府を批判したかどで、伊豆、佐渡へ流される。晩年は身延山に隠棲し著述、門下育成に努めた。死後に、皇室から日蓮大菩薩と立正大師の諡号を追贈されている。
北条時宗 (1251-1284)
文永の役、弘安の役と二度にわたる元及びその属国高麗による日本侵略に対し、執権として敢然と立ち向かい、暴風雨の到来等の幸運も有って元軍を撤退せしめた。  
無学祖元 (1226-1286)
鎌倉時代に北条時宗の招きに応じ宋から来日。鎌倉の建長寺に住し、円覚寺を開創。  
後宇多天皇 (1274-1287)
後嵯峨上皇の孫、父は亀山天皇。治世中に元寇、文永・弘安の役が発生した。
藤原行能 (1179-?)
ふじわらのゆきよし 治承三-没年不詳 法名:寂能
義孝・行成の裔で、世尊寺流の能筆、太皇太后宮亮伊経の一男。母は法橋増宗の娘。建礼門院右京大夫の甥にあたる。子の経朝も書家として名を成した。
建仁元年(1201)正月、叙爵。源家長に百首歌を見せたことがきっかけとなり、後鳥羽院によって北面に召され、元久元年(1204)十月、宮内権少輔に任ぜられる。承久二年(1220)四月、従四位上に叙され、同年十月、修理(権)大夫。文暦二年(1235)九月、左京大夫。嘉禎二年(1236)六月、従三位。仁治元年(1240)十一月、出家した。没年は建長二年(1250)以後。
元久元年(1204)の「春日社歌合」、同二年の「元久詩歌合」など後鳥羽院歌壇で活動後、建暦三年(1213)閏九月の内裏歌合、建保三年(1215)の「内裏名所百首」、同四年閏六月および承久元年(1219)七月の「内裏百番歌合」など順徳天皇の内裏歌壇でも活躍した。ほかに「道助法親王家五十首」、寛喜四年(1232)の「石清水若宮歌合」、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(道家)家歌合」「名所月歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」などに出詠。新古今集初出。勅撰入集計四十九首。「続歌仙落書」「新時代不同歌合」に歌仙として選入している。
書家としては、寛喜元年(1229)に「女御入内御屏風和歌」、文暦元年(1234)に「新勅撰集」を清書したことなどが知られる(明月記)。
暮山花といへる心をよみ侍りける
あすも来む風しづかなるみ吉野の山の桜はけふ暮れぬとも(新勅撰95)
【通釈】明日も見に来よう、風が静かに吹く吉野山の桜を。今日はもう日が暮れてしまうとしても、桜はまだ風に散らされることはあるまい。
【補記】寛喜四年(1232)三月二十五日、石清水若宮歌合、二十四番左勝。定家の判は「風しづかなるみよし野のとおきて、山の桜はけふくれぬともと侍る、殊催感歎之思。(中略)左得秀歌之体、為勝」。
五月雨
さみだれも月の行くへはしられけり一むら白き山の端の雲(洞院摂政家百首)
【通釈】梅雨の夜でも、月の行方は知られることだ、一群の山の端の雲が白く映えていることによって。
【語釈】◇一むら白き 一群の雲が月の光を透かしてほの明るく見えることを言う。◇山の端の雲 山と空との境界面をふさぐように山にかかっている雲。気象用語で言えば、層積雲。
【補記】寛喜二年(1230)六月、洞院摂政藤原教実によって企画された百首歌。
よみて侍りける百首歌を、源家長がもとに見せにつかはしける奥に、かきつけて侍りける
かきながすことのはをだにしづむなよ身こそかくても山河の水(新古1777)
【通釈】我が身は山川の水に沈む木の葉のようにこのまま落ちぶれて終わるとしても、せめて書き流した言の葉――これらの歌だけは、沈めないで下さいよ。
【語釈】◇源家長 後鳥羽院の和歌所の開闔(次官)として、新古今集の編纂実務に携わった。◇かきながす 筆で書く。山河の縁で「ながす」と言っている。◇ことのは 和歌のこと。◇しづむなよ 婉曲に「歌を採用してほしい」と願望を述べる。◇山河の水 「(かくて)やまむ」を掛ける。
【補記】ながす・葉・沈む、いずれも「山河の水」と縁のある語。なお「源家長日記」によれば、家長はこの歌を後鳥羽院に奏聞し、その結果行能は北面に採用されたという。