書を知る



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空海(774-835)

 

最澄(767-822)

 
 

嵯峨天皇(786-842)

 
 

橘逸勢(たちばなのはやなり・-842)

 
 

円仁(794-864)

 
慈覚大使
 

藤原有年( - )

 
「草かな」と呼ばれる漢字の草体で書かれ、一字一字が音で表示されている。楷書行書体の万葉仮名から平仮名への移る過渡期の書体で、平仮名への展開を示す貴重な資料。  

円珍(814-891)

 
 
   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。

空海 (774-835) 弘法大師
真言宗の開祖、没後(921)に弘法大使の謚号を醍醐天皇より賜る。804年橘逸勢、最澄と共に遣唐使第一船に便乗した。書技の天性に恵まれ、若年時から王羲之を学び、入唐時には顔真卿などの唐の書法を取り入れ、模倣を超えた独特の優れた書風を形成した。嵯峨天皇、橘逸勢と共に平安の三筆とされる。  
俗名は佐伯眞魚(さえきのまお〈まな〉)。日本天台宗の開祖最澄 とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。
  大師伝説
空海=弘法大師は、説話・伝説の宝庫のような人です。なにしろ北海道を除く日本全国を隈なく旅して、各地で杖を立てて木を生やしたり、岩を叩いて泉を湧き出させたり、悪鬼・悪竜を退治したり、雨を降らせたりしているのですから。その数は432にも及ぶのだそうです。奈良時代の行基に代表される有名無名の私度僧(未公認の僧)達が、長年にわたって全国各地で植樹や灌漑や貧者救済などのボランティア活動を繰り広げ、民衆の記憶に残っていたものが、大師信仰の広まりと共に全て弘法大師の所業と伝えられるようになったものでしょう。
空海が係わったとされる寺院も全国に201あるそうです。空海が具足戒を受けたのは22の年ですから、62歳で没するまでに毎年五つの寺院の開祖や中興の祖になった勘定になります。このうち資料で確認できるものはせいぜい10位のもので、大部分はその盛名にあやかって寺が勝手に縁起を作り上げたものと思われますが、そうではないという証拠もありません。
空海と行基を直接結びつけるこんな話があります。空海がまだ山野にあって修行中だった頃、播磨の国の路辺で出会った老女が鉄鉢を差し出しました。老女は行基菩薩の弟子僧の妻で、弟子僧は、やがて聖がやって来ると予言していて、その時はこの鉄鉢をさしあげるようにと常々言っていました。貴方こそその聖に違いないと思い供養したというのです。このように民衆にとって空海は行基の後継者であり、しかも私度僧達には欠けていた諸々の災厄を積極的に退ける強力な呪術力を持った救済者として期待されていました。
高野山に今も残る「御遺告」(空海が入定の七日前に記したとされる遺言書)によると、空海の母は天竺の聖僧が胎内に入る夢を見て身籠ったので、両親は「この子は昔仏弟子だったに違いない。だから将来は仏弟子にしよう」と思い、空海もいつも泥土で仏像を作り祠に安置して礼拝していたとあります。生まれる前から聖僧になることを運命付けられていたことになります。
空海は仏門に入って既存の経論を研究しましたが満足できません。そこで仏前で一心に祈ると、夢の中に人が現れて「お前が求める経典は大日経と言って、大和の国久米寺の東塔の下にある」と告げました。これは善無畏三蔵が80年ほど前の養老年間に来朝してもたらしたのですが、未だ密教の気運が熟していないと見て将来のために埋めておいたものでした。
同じ「御遺告」の中に「伊豆の国桂谷山寺へ往き、大般若魔事品を虚空の中に書く。六書八体文文点画、筆に随って字と為るを見る」とあります。「高野大師行状図画」になると更に詳細にこう記しています。「伊豆の国桂谷という山寺に行って仏法修行をなさった時のこと、この寺はもともと魔縁の多い所で障難があったので、大師は空中に向かって大般若魔事品をお書きになると、虚空の中に文字が現れ、六書八体の点画は乱れる事が無かった。その後は天魔もここから去り、仏法が広まったので、大師自ら大日如来の像を作って安置された。今の修善寺がこれである。国が治まり、民が豊になったのも偏に大師のご恩徳である。」
河内国の国主が石川郡で、その地に住む悪龍を追い払って寺を建てました。しかしそのために山内の水源が枯渇し、領民が難渋していたところ、大師が加持祈祷で龍を呼び戻し、再び泉が湧き出るようになりました。そこで名を龍泉寺と改めました。
空海が唐から帰国するに際し、皇帝に謁見しました。宮殿の一室に王羲之が字を書いた壁面があったのですが、破損したため修理して白壁のままになっていました。かねがね空海の能書ぶりを聞いていた皇帝はここに字を書くように勅を下しました。今昔物語によるとこのとき空海は、両手両足に一本ずつ筆を持ち、更に口に一本くわえて、壁面に文字を五行に書き下しました。驚嘆した唐帝は「五筆」という号を賜り、以後彼は五筆和尚と呼ばれるようになったということです。一体どんな姿勢で書いたのですかね。
唐から帰った空海は、やはり能書として名の高い嵯峨天皇の知遇を得ます。あるとき天皇がお手本をあまた取り出されて空海に示されました。中に殊に勝れた一巻があり「これは唐人の手跡でいかにもめでたい重宝であるが、誰が書いた物かわからない」と仰せられました。空海は「これは私が書いたものです」と軸を放って御覧に入れると「某年某日青龍寺に於いて書す 沙門空海」とありました。それでも今の空海の書風と違うと不審気な面持ちの天皇に対して「国によって書き様を変えております。唐は大国なのでこのように書きました」とお答えしました。
弘仁9年(818)勅により宮城の諸門の名称を改め、額を懸けることになりました。古今著聞集によれば、大内裏十二門のうち、南面の美福・朱雀・皇嘉三門は空海、西面三門は小野美材、北面三門は橘逸勢、東面三門は嵯峨天皇が担当しました。いずれも能書の誉れの高い人達ですが、「天子は南面す」と言って南は正門に当たりますから、空海が最上位ということになります。橘逸勢と嵯峨天皇は空海と並んで三筆と言われた人達です。小野美材は小野篁の孫、俊成の子でやはり能書で知られた人ですが、没年が902年なので、百歳まで生きたとしても弘仁9年には未だ16歳にしかなっておらず、時代が違います。員数あわせのために連れてこられた感じがします。
本朝能書伝によると、この時空海は応天門の額も書いております。「また応天門の額を書かせ給いしに、上の円なる点を忘れ給いて門にうちて後、筆を濡らして投げ上げたまいしかばその所につきにき。」空海は書道のみならずダーツの名手でもあったわけです。
「いろは歌」も一般に空海が作ったと言われており、空海と最澄の合作という説もあります。五十音図の作者も新羅の法明尼、吉備真備、空海などの説があります。
このように空海に関する言い伝えには人間離れしたもの、明らかに誤りだと思われるもの、贔屓の引き倒しに近いものなども多く、数多く書かれている伝記にしても神がかっていたり美化されすぎたりした部分が多く見られるのですが、その行跡を仔細にたどると、空海と言う人はこのような超人伝説に頼らずとも充分に超人的な才能の持ち主であったことがよくわかるのです。
略歴
空海は光仁天皇の宝亀5年(774)讃岐国多度郡弘田郷、現在の善通寺付近で生まれました。幼名は真魚、父は佐伯直田公で、多度郡の郡司を勤め、母方の阿刀氏も名門でした。一族の人達は彼を優秀な官僚に育てて貴族の仲間入りをさせたいと願い、空海15歳の時、母の弟の漢学者阿刀大足が都に連れて行きます。都で3年間大足について漢学を学んだ後、延暦10年(791)18歳の時大学に入りますが、大学の講義に飽き足らず中退し、四国に帰って阿波や土佐の自然の中で仏教の修行に励みます。
このころ空海は「聾瞽指帰」という本を書いています。後に「三教指帰」と改題されるのですが、儒教と道教と仏教を比較して仏教が最も優れた教えだと結論付けているもので、空海の仏門への宣誓書と言われています。空海が入唐した際この「聾瞽指帰」を携行し、白楽天に見せた所、題を「三教指帰」と改めるよう勧められたと言う話もありますが、勿論空海と白楽天という二大有名人を登場させて話を面白くした後世の作り話でしょう。 その後も仏教を研究するうちに、密教の経典「大日経」を知り、密教こそ究極の教えと悟って、これをより深く理解するために唐に渡る決心を固めます。
延暦23年(804)入唐求法の勅許が下りて、空海は遣唐使の一員として最澄や橘逸勢等と共に唐に渡ります。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、四隻の遣唐船を連ねて唐に向かいますが、途中嵐に遭って二隻は行方不明となり、最澄の乗った船は無事に着くのですが、大使と空海の乗った舟は南に流されて福州に漂着します。大使は福州刺史兼観察使の閻済美に手紙を出しますが信用されず、船は封印されてしまいます。遣唐使を騙る私設の貿易船が横行していたのでしょう。困った大使は空海に代筆を依頼し、空海は名文を送りつけて福州刺史を信用させ、一行は無事都の長安へ向けて出発することが出来ました。しかし薬が効きすぎて、これほどの文章を書く空海を自分の部下に欲しくなった閻済美は、彼にだけは入京許可を与えませんでした。あわてた空海は再度手紙を書きようやく許可をもらいます。
延暦23年の暮れに長安に入った空海は、しばらく梵語を習った後、入唐の目的であった密教の奥羲を伝授してもらうために青龍寺の恵果を訪ねます。長安滞在中に空海の噂はすでに恵果の耳に入っていたと見えて「貴方のくるのを待っていた。自分の持っているものは全て与えよう」と歓迎し、短期間に金剛・胎蔵両部の大法を授け、遍照金剛の号を贈ります。恵果は真言正統第七祖に当たる人で、これで空海は真言第八の師位を継いだ事になります。その後も文献や書蹟、密教の仏画・法具・曼荼羅等を収集し、書と、筆・墨の製法を学ぶなど大車輪の活躍をします。長安に滞在してほぼ一年たった延暦24年の末、師の恵果が没し、入唐の目的は果たしたと判断した空海は、翌年の遣唐使に随って帰国する事を唐朝に願い出て許可されます。当時留学生の滞在期間は20年と定められており、2年で帰国した空海を周囲が非難した時「私は10年分を1年でこなしたのだから、よく見てもらいたい」と胸を張って答えています。空海と一緒に入唐した橘逸勢も帰国を希望し、申請書を空海が代筆していて、その理由は「言葉が不自由で大学にも入れず、持参した資金は尽きて、唐朝から支給されるお金だけでは食べていくのがやっとなので帰りたい」と言う情ないものですが、どうもこちらの理由の方が我々にはしっくりきます。
大同元年(806)帰国した空海は、しかし直ちに朝廷に迎え入れられたわけではありません。「御請来目録」を朝廷へ提出した後しばらくは奈良の大安寺、久米寺、槇尾山寺などで過ごします。空海の唐での業績を最初に評価したのは、空海と一緒に入唐し、一足先に帰国した最澄です。最澄は空海より7歳年長ですが、入唐前すでに内供奉十禅師の一人として桓武帝の信任厚く、帝の仏教対策を支援するために勅命により還学僧(視察員)として遣唐使に加わったもので、滞在期間は1年、通訳や従者を随え、資金も豊富でした。空海や逸勢とは大違いです。入唐後直ちに天台山に赴き、天台法華の法門の伝承をうけ、第八祖の資格を獲得します。帰国の途中に越州に立ち寄り、密教と禅についても学んでいます。密教の重要性は充分認識していたので、空海の提出した「御請来目録」を見て驚き、大同4年(809)朝廷に願い出て都に呼んでもらい、最澄のパトロンだった和気氏の氏寺高雄山寺に住まわせ、空海が請来した密教経論の借用書写を申し入れます。その後最澄は弟子達と共に空海から灌頂を受け、弟子を空海の下に派遣して密教を学ばせ、自らも経論を借覧して密教を学ぼうとしました。しかし「理趣釈経」(理趣経の解説書)の借用を申し入れた時、空海から密教は本を読んだだけで理解できる性質のものではないからと断られ、空海の下に派遣していた泰範という弟子僧が最澄の帰山命令に随わず、断りの手紙を空海が代筆したりした事から、二人の関係は冷え込んで行きます。最澄は泰範を信頼して自分の後継者と考えていた位なので、空海の所へ行ったきり帰ってこなくなったのはショックだったのでしょう。しかしこれはあくまで最澄と泰範との間の問題なので、これに空海が介入するのは一寸やりすぎとの感もします。それに本ぐらい貸してあげたらいいと思うのですがね。
最澄に代わって空海は嵯峨天皇という強力なパトロンに巡り会います。大同4年に即位した嵯峨天皇は空海より12歳若い24歳で、書と詩文の才能に恵まれ、知的好奇心旺盛で、空海が請来した大陸の文物と知識に深い関心を寄せます。空海もこれに応えて唐から持ち帰った文献を進呈したり、書写した物を贈ったり、狸毛の筆を献上してその製法を伝授したり、寺で生った蜜柑に詩を添えて贈ったりとサービスに努め、嵯峨天皇も空海に綿を下賜したりして二人は急速に親密の度を増していきます。これから先の空海は順風満帆で、弘仁七年(八一六)高野山を賜って金剛峰寺を建立し、弘仁14年(823)東寺を真言宗の根本道場として下賜され、天長4年(827)大僧都に任ぜられ、真言宗の基礎を磐石のものとします。
天長5年(828)我国初めての庶民の為の大学「種芸種智院」を創設します。当時の大学や国学は従五位以上の貴族の子弟の官吏養成所であり、私学は氏族の後継者養成機関でしたから、機会均等を掲げて庶民にも門戸を開いた画期的な試みといえます。
天長9年(832)には高野山に隠棲し、承和2年(835)62歳で没しました。没後23年目の天安元年(857)大僧正位を追贈され、没後87年目の延喜21年(921)弘法大師の諡号を贈られます。
人間空海
空海の母が聖僧を身籠る夢を見たとか幼年期に泥で仏像を作って拝んだとか言う話は、出自を飾るための後世の作り話で、実際は親族のみならず両親も空海自身も官僚として身を立てることを望み、大学をでて出世の糸口を掴もうとして上京したのでありましょう。大目的のために断固として信念を押し通す空海の性格からして、親族から勧められたからと言って、自分の意思に反してわざわざ都に上るとは考えられません。
しかし当時の大学は五位以上の貴族にのみ開放されていて、地方の名家とは言え六位の佐伯氏の子弟ではまともに相手にしてもらえず、3年も待たされた上、聴講生扱いにされ、その屈辱もさることながら洞察力に優れた空海は、このような身分社会の中で大事を成していくには佛教に拠る他はないと判断したものでありましょう。その思いが「三教指帰」を書かせたものと思われます。
仏教を学び、私度僧として修行するうちに、現状の南都佛教では限界があることに気付き、新しい可能性として密教に目をつけたのも素晴らしい時代感覚だったと思います。この着想が、桓武帝をバックに持つ最澄と並んで、平安仏教の二大宗派を創始するきっかけになるのですから。
現在でも海外留学する場合、まず事前の語学研修が必須です。ブロウクンや度胸英語では、現地で生活は出来ても講義にはついていけません。当時でも留学期間二十年のうち、最初の一~二年は、語学研修に当てられていたに違いありません。しかし空海は現地へ着いた途端に福州刺史に手紙を書き、半年で密教を習得しているのですから、彼の語学力は入唐時すでにネイティブ並みだったとみえます。それに事前に多少の素養はあったにしても、入唐して僅か数ヶ月で梵字と梵語をマスターしてしまうのですから、これも驚異です。このような語学の天才が稀にこの世に現れるのでしょう。
短期間にあれだけ大量の経論や詩書や法具や仏画や曼荼羅などを集めたり作らせたりして請来したのも驚きです。随分高価な物だったと思われますが、最澄と違って、資金も豊富ではなく特定のパトロンも付いていなかったようなので、多分日本での布教を期待した恵果や周辺の人達が全面的に協力をしたのでしょう。彼等の絶大な信用をかちえていなければこうはいきません。
空海と最澄が疎遠になるのは、最澄が依頼した「理趣釈経」の借覧を空海が断ったことと、最澄が空海のもとに派遣した泰範が呼び戻しに応じず、空海が断りの手紙を書いた事によるとされていますが、これは表面的な理由で、根本的な原因は両者の密教に対する考え方の相違です。最澄は、当時の仏教界の堕落と混乱を天台法華宗で救済・統一しようと考え、その中には禅も浄土思想も密教も取り込んで、新時代の佛教の集大成としようとしました。そして密教の修行では空海に劣る事を自覚したので教えを請うたのです。一方空海は真言密教を最高の教理と考え、これを日本で布教させる事を目論見ました。随ってこのような事件がなくても空海は、いずれ機会を見つけて最澄と袂を分かつつもりだったに違いありません。
空海は勿論宗教家・思想家であって、詩文や書は余技なのですが、抜群のその才能は自覚していて、目的遂行のため有効に活用しています。遣唐使船が封印された時書いた「大使の為に福州の観察使に与える書」は美文だし文字も見事に書かれていたのでしょうが、なにより中国の官僚を説得するのにまことに適切な議論を展開しています。
まず「徳のある人の下には獣や魚も慕い集まるものであり、日本国主も唐帝の徳を慕って自分たちを派遣しました」と説き起こし、ここへ来るまでの艱難辛苦を縷々説明して、「波上を放浪し水も尽き疲れ果てた時に陸地を見て万死に一生を得たのも聖徳のお陰です」と感謝の念を述べます。また勅書が無いために偽者だと疑われた事に対して、「昔から大唐国は日本を礼儀に厚い君子の国として特別に遇してきました。君子は信用を重んずるから竹符や印書を用いる習慣は無いのです」と弁解しています。船を点検して封印してしまったことも非難したりせず、お役人は法令に随って事を運んだのだから「官吏の道は実にこうあるべきです」とひとまず持ち上げ「しかし以前の遣唐使船は荷物を調べられたりはせず、州のお役人は慇懃に我々を慰労してくれました。今の扱いはそれと違いすぎるので我々愚人は驚いております。どうか恵みを垂れて下さい。そうすれば周辺の諸国は益々集い寄るでしょう」と結んでいます。自尊心の高い官僚が如何にもその気になりそうなロジックだとは思いませんか。
空海は、趣味・嗜好を等しくする嵯峨天皇の懐に入り、その多才さと俗物性とで成功をおさめたと評する史家も居ます。確かにそういえるかもしれませんが、もし空海が詩文や書の才能を有効に活用することをせず、嵯峨天皇の知遇を得られなかったとしたら、当時の力関係からして真言宗を独立させる事は出来ず、天台宗の中の一宗派に終わっていた事と思われます。空海には地上の星で甘んずるつもりは毛頭無かったのです。大きな目的を果たすために自分の利用できるあらゆる資源を有効に活用するのはむしろ雄雄しい事で、俗物性と非難するにはあたらないと思います。
空海は非常に運に恵まれていたと言えます。もし船が漂着しなかったら、文才を発揮する機会はなく、長安でもあまり評判にならずに、恵果が短期間で真言の正統を伝える気にならなかったかもしれません。恵果入定の一年前に長安入りしたのも絶妙のタイミングでしたし、帰国して3年目に嵯峨天皇が即位したのも空海にとっては非常な幸運でした。勿論運を百パーセント活用出来たのは空海の才能あっての事ですが。
文才と豊な語学力、時代を見通す先見性、周辺の人達から寄せられた絶大な信用、才能を最も有効に活用する技術、大きな目的を実現するための強固な意志。もし空海が現代に生きていたら、文学者としても、書家としても、教育者としても、或いは政治家としても成功していて、頂点を極めていたことでしょうが、私の想像するところ、ビル・ゲイツも真っ青の大事業家が最も相応しいような気がするのですが、如何なものでしょう。
空海と書
空海は入唐以前から書を能くしたと考えられます。書の師は朝野宿禰魚養と伝えられており、本朝能書伝によると「魚養は吉備真備が入唐したとき向こうで生ませた子で、帰国後真備が便りをしなかったため、女は恨みに思って子供を海に投げ入れた。しかし彼は魚に助けられて日本にたどりつき、このため魚養と名付けられた。南都七大寺の額を全て書いた能書家」とありますが、詳細は判りません。 唐では、顔真卿の流れを汲む韓方明について書を学んだとありますが、一年の滞在期間の大部分は本業のほうに費やされたでしょうから、学書に費やされた時間は多くはなかったでしょう。 
空海が唐を去るとき、懇意の文人たちが訣別の詩を詠んで贈りましたがその中に「梵書を善くし八体に巧みなり」とあります。空海の書はその多彩な才能にふさわしく変化と独創性に富んでおり、飛白や雑体書、梵字まで書いております。しかし唐から請来した書蹟の多くは、唐代に広く行われていた伝統的なものです。
空海のもたらした王羲之風の行書はやがて和様書風へと発展して行き、空海の書いた唐風の草書は、仮名文字の原型となります。随って平安後期から鎌倉時代にかけて確立されていった入木道の源流は空海であり、空海は日本の書道の元祖とみなされているのです。尤も、空海の書いた雑体書或いは雑体風の筆遣いが和風書体に進化していったと論じている人も居りますが。 
空海はまた在唐中に製筆法についても研究し、日本に伝えています。「弘法は筆を選ばず」と言われますが、空海自身は「能書は好筆を用ふ」「臨池家に従って筆を変ず」などと言っており、至って筆を選んでおりました。
奈良の古梅園には空海から伝わった製墨法が残っているそうです。
現在空海の真蹟と考えられているものは「風信帖」「高雄山潅頂記」「七祖画像賛」「三十帖策子」の四点で、この他に「御請来目録」「聾瞽指帰」「種芸種智院式」「補陀洛山碑跋語」「崔子玉座右銘」「益田池碑銘」なども伝えられていますが、真蹟かどうか疑問がもたれています。
「風信帖」
弘仁3年頃、空海が最澄に送った手紙で、もと5葉あり3葉が現存しています。原本は東寺にあります。3葉共に王羲之風の典雅な行書体ですが、それぞれ書風に若干の差があります。書き出しの文言「風信雲書」からこう呼びますが、3葉を区別する時は「風信帖」「忽披帖」「忽恵帖」といいます。空海の書蹟の中では最高の傑作と言われていますが中でも第1葉の「風信帖」が最も優れているとされています。最澄からの手紙と贈物に感謝し、比叡山に行きたいが願があって行けないので、高雄山寺に来てもらえないか。室生寺の住職と3人で仏法の大事因縁を推し量ろうといった内容です。比較的穂先の短い腰の強い筆で力強く書いています。文字の大小、太細、潤滑がはっきりしていて見応えがあります。ライバルの最澄に送ったものなので気合を入れて書いたのでしょう。「忽恵帖」は穂先の比較的長い筆で書いており、字の大きさ太さも揃ってきます。力強いと言うよりもむしろ流麗な感じが出てきます。肩の力が抜けてきたと言った所です。「忽披帖」は両者の中間の書風ですが、どちらかと言えば「風信帖」に似ています。空海は色々な書体を時と場合によって使い分けていますが、やはり最も重視した書体は王羲之風であった事が推察出来ます。
「高雄山潅頂記」
弘仁三年と四年に空海が高雄山寺で灌頂を授けた者の名を記したものです。弘仁三年の分は風信帖と似た書体ですが、メモ書きですから気楽に書いていて、風信帖のような風格はありません。弘仁四年の分は顔真卿を学んだ重厚で力強い書風として高く評価する声と、構えないで書いた卒意の書で平素の筆癖が出ており、偶々顔真卿に似ているが名品とするには当たらないとする説とがあります。
顔法を意識して書いたかどうかはわかりませんが、肉太にぐいぐい書き進んでいく所や、燕尾とみえる波法、一字の起筆など、顔真卿の3稿(祭姪文稿、祭伯文稿、争座位稿)とよく似た雰囲気をもっています。まったく偶然にこれだけ似ることは考えられないので、空海が顔法を見て興味を持ち、その書法を学んでいた事は間違いないでしょう。因みに空海が入唐したのは顔真卿の没後20年、顔真卿の書法を継いだ柳公権が26歳の時でした。
「七祖画賛像」
真言七祖の画像に大字で祖師名、中字で行状文を書いています。梵僧の名は梵号と漢字の飛白体で、唐僧の名は行書体で書いていますが、一部は後人の書ではないかといわれています。雑体書的な装飾も随所に見られます。
「三十帖策子」
空海が在唐中に書写した経論、真言、儀軌、梵文などの小冊子。策子は冊子。但し大部分は経生に書かせたもので、空海が書写したのは一部です。第二十帖には珍しく楷書で書かれた部分があります。
「座右銘」
漢の崔子玉の「座右銘」を草書の大字で1行に2字ずつ書いています。これも一点一画に特殊な技法を用い、筆勢にあふれていること及ぶものがないと高い評価を与える人と、お世辞にも良い書とは言えず、得体の知れない奇妙な書だと一刀両断に切り捨ててしまう人といて、評価が分かれます。しかし好き嫌いは別にして、当時としては珍しい大字の草書である上に、打ち込みの方向を故意に変えたり、線を長く伸ばしたり、バイブレーションをかけたりと、見る人の目を意識して色々技巧を凝らし文字を装飾しており、今日の展覧会用作品の元祖を見るような気がして面白いと思います。  
最澄 (767-822) 伝教大師
平安時代の僧で、日本の天台宗を開く。近江国(滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。 19歳のときに東大寺で正式の僧となったが、当時の仏教のあり方に不満をいだき、故郷に帰って比叡山寺(のちの延暦寺)をたてて12年の間、1人で修行した。さらに深く仏教を学ぶため、804年に遣唐使にしたがって唐にわたり、天台宗の教えを受けて、翌年帰国。桓武天皇(かんむてんのう)の保護を受けて、新しい宗派をおこした。死後、朝廷から伝教大師(でんぎょうだいし)とおくり名された。最澄は、学問と修行によって天台宗の発展をはかったが、比叡山に戒壇(正式の僧になるためのきまりをさずける特別の壇)をつくることは、奈良仏教の反対で生前にはみとめられなかった。  
嵯峨天皇 (786-842)
薬子の変、高岳親王の事件等、皇位継承を巡る宮廷内部の紛争の関与し、朝廷内で絶大な権力を振るい後に承和の変の遠因を作るなど様々な火種を残した。
第52代天皇(在位809-823)。桓武天皇の第2皇子(一説に第6皇子)、母は皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)。諱(いみな)は「賀美能(神野・かみの)」。漢詩文に長け、勅撰詩集の編纂を命じたり、国政の整備にも努め、蔵人所(くらうどどころ)を設置したり、死刑を廃止したりもしている。三筆の一人で、能書家・名君として名高い。
「日本霊異記(にほんりょういき)」に嵯峨天皇は寂仙(じゃくせん)という名僧の生まれ変わりだという。寂仙が入滅の時「自分が死んで、28年後に、神野という、国王の子が生まれる。それによって私が生まれ変わったと知るであろう」と言い、その通り、28年後に生まれたのが嵯峨天皇と伝えている。嵯峨天皇が空海・最澄の二人を厚遇し、真言・天台の新興仏教の流布に貢献したのはよく知られるが、そういう天皇の態度を裏付ける逸話といえる。
「拾遺往生伝(しゅういおうじょうでん)」に最澄の死に際し、六韻の詩を作り、勅により寺額を「延暦寺」と号せさせ、法印大和尚位を贈った。
「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」に弘仁9年の疫病流行の際、自ら般若心経を写経し、空海に供養させたという。
ある時嵯峨天皇が空海に、中国伝来という手本を見せ「誰が書いたもの定かではないが、すばらしい」と賞賛すると、空海は「これは自分が唐に留学している時に書いたものです」と言った。書風があまりに違い、天皇が信用しようとしなかったので「唐は大国、日本は小国であるから、書風をそれにふさわしく、場所をわきまえて変えているのです」と答え、天皇は感服した。軸に隠れた部分に空海が唐の青龍寺(せいりゅうじ)で記した旨が書いてあったという(「古今著聞集」)。この他にも「江談抄」「古今著聞集」に書に関する逸話がみられる。
文化人との交わりといえば、「江談抄」「宇治拾遺物語」「十訓抄(じっきんしょう)」「類歌古今集」「世継物語」「東斎随筆」等にある、小野篁との問答が有名である。ある時「無善悪」という落書きを、博学の篁に尋ねると「さがなくばよし(さがなくてよからん)」と読み解いた。誰も読めなかったものを読んだのだが、これは嵯峨天皇がいなければよいという天皇を呪った内容であったので、落書きの犯人にされそうになった。そこで、身の潔白を示すために、天皇から出された文字を読み解いて難を逃れたという話である。この時、篁が読まされたものは「一伏三仰不来侍、書暗降雨恋筒寝(月夜には来ぬ君またるかきくもり雨も降らなむ恋つつも寝む)」と「子子子子子子、子子子子子子(ねこのここねこ、ししのここじし)」というふたつだ。
  第52代に数えられる平安初期の天皇。在位809‐823年。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれ、名を神野(かみの)(賀美能)という。同母兄平城天皇の病気による譲位をうけて即位。平城上皇が寵妃藤原薬子(くすこ)らとともに、多数の官人をひきいて平城旧京に移り、〈二所朝廷〉の観を呈したので、坂上田村麻呂以下の兵を発して上皇方を征圧した。これを〈薬子の変〉という。以後、弘仁の14年間(810‐824)、異母弟淳和天皇の天長の10年間(824‐834)、皇后橘嘉智子(かちこ)との間に生まれた仁明天皇の承和9年に没するまでの計30余年は、皇室家父長としての嵯峨天(上)皇の権威のもとに、古代史にまれな政治的安定が出現し、弘仁文化と呼ばれる宮廷中心の文化が開花した。その特徴は、政治的には、基本法たる律令を補足・修正するための法令集《弘仁式》《弘仁格(きやく)》を制定・施行し、朝廷の儀式を整備して《内裏式》をまとめたこと、文化的には、内宴、朝覲(ちようきん)行幸などの優雅な年中行事を発達させ、《凌雲集》《文華秀麗集》等の詩集の勅斤を中心に文章道を興隆させたことなどが挙げられる。嵯峨天皇はみずからも詩文や書道にすぐれ、また唐の文化への強い憧憬をもち、その周囲には空海、小野岑守(みねもり)、菅原清公など才能ある人々が集まった。大内裏の諸施設の建設や平安京の都市的整備も、この間に大いに進んだと思われ、それは宮殿・諸門の名がみな唐風に改められたことや、冷然院(れいぜいいん)、朱雀院などの大きな離宮が造られたことから推察される。後宮も盛大をきわめ、皇子・皇女は約50人も生まれ、これをすべて親王とすることは財政上不可能だったので、生母が卑姓である子に〈源〉の姓を与えて臣下とし、官人として活躍させることにした。これが嵯峨源氏であり、以後歴代の源氏賜姓の先例が開かれた。また薬子の変の際、藤原冬嗣らを蔵人頭(くろうどのとう)に補したことにはじまる蔵人所は、その後巨大な組織となって宮廷の運営を担当した。こうした点を総合すれば、嵯峨天皇は王朝文化の祖と見ることができよう。
嵯峨天皇は空海、橘逸勢とともに三筆の一人とされる。書の確実な遺品としては823年(弘仁14)、最澄の高弟光定が延暦寺一乗止観院で大乗菩醍戒を受けたときに下付された《光定戒牒(こうじようかいちよう)》(国宝、延暦寺)が残されるのみで、光定みずから《伝述一心戒文》にこのことを記している。しかし天皇が書に関心が深かったことは、空海から唐の書跡の名品、徳宗、欧陽詢、張誼、王羲之の書や、八分、行草、飛白などの体の書を献ぜられたり、空海みずからに揮毫を命じていることからもわかる。また814年天皇から100屯の綿とともに七言詩1首を賜った空海は〈纔(わずか)に天書を披(ひら)いて、字勢竜のごとくわだかまり〉とたたえ、《日本紀略》大同4年(809)即位前紀にも〈草隷に妙にして神気岳立す〉とある。また826年(天長3)桓武天皇のための法華経供養が行われた際の経は嵯峨天皇の手跡で、〈一点一画に躰あり勢あり。珠連なり星列び。爛然として目に満つ。観る人称して書の聖と曰う。鍾席(しようよう)、逸少(王逸少=王羲之)も猶足らざるがごとし〉と《日本紀略》に記されるように、能書家として名高かった。今わずかに残された《光定戒牒》によれば、欧陽詢風の峻厳な前半部と、後半の婉美な部分とから成り、後半部にはとくに空海の影響が大きいといえる。天皇と空海の関係は文学の面でも密接なものがあったから、書の面でもその影響が見られるのは当然であろう。    
橘逸勢 (たちばなのはやなり・-842)
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。延暦23年(804)最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。唐の文人達から「橘秀才」と賞賛される程、書画に優れた偉才と伝えられる。晩年に皇位継承問題と藤原氏との権力闘争(承和の変)に関わり流罪となり配流の途上、遠江にて没す。
承和9年( 842)嵯峨上皇が没した2日後、皇太子恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てた疑いで、伴健岑とともに逮捕された。拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。 仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、健岑は隠岐に、逸勢は伊豆へ配流。恒貞親王は皇太子を廃された(承和の変)。逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没。このとき、逸勢の後を追った娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。死後、逸勢は罪を許され、853年には従四位下の位を贈られた。その際に娘の孝行の話が都に伝わり賞賛された(「日本文徳天皇実録」)。逸勢は、菅原道真・文屋宮田麻呂・早良親王・伊豫親王など不慮の死を遂げた人物と共に「八所御霊」として京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られている。
  平安初期の能書家。嵯峨天皇、空海と並んで平安の三筆と呼ばれる。遣唐使に随行して、空海とともに唐に留学。その碩学ぶりは、唐の人をして橘秀才(きつしゅうさい)と称賛されるほどであったという。逸勢の真蹟と確証されるものは数少ないが、この「伊都内親王願文」は美しく伸びやかな筆致がさえ渡る逸勢の遺墨。自由奔放でけれん味のない筆づかいが魅力だ。桓武天皇の第七皇女で阿保親王(あぼしんのう)の妃だった伊都内親王に宛てた願文で、奈良・興福寺へ荘園や畑などの一部を寄付する旨が記されている。その後、逸勢は、この阿保親王に讒訴されて伊豆に配流、その途中病死した。 
円仁 (794-864) 慈覚大使
延暦寺第三世の座主。晩年の空海に師事し、慈覚大使と謚号される。遣唐使として唐に留学。  
藤原有年 (ふじわら の ありとし、生没年不詳)
平安時代前期の官人。藤原南家乙麻呂流。藤原乙麻呂より5世の孫。曽祖父は大納言藤原雄友。祖父は伊賀守藤原弟河。父は陸奥守藤原高扶。母は従五位上坂上関守女。子に藤原正樹・藤原正茂(母は建部氏)がいた。斉衡3年(856)備後守になり、天安2年(858)従五位下近江介になり、以後、大宰少弐・讃岐介・播磨守を歴任した。讃岐介在任時に殺人事件の責任を問われて笞刑50、贖銅5斤を科せられた。また同じく讃岐介在任時の貞観9年(867)に草仮名の最も古い例としての自筆文「藤原有年申文」が国宝として現存する。  
円珍 (814-891) 智証大師
空海の甥。853年に入唐し多くの経典を持ち帰ったとされる。没後、智証大師を謚号される。