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聖徳太子(574-622)

 
日本最古の肉筆。

法隆寺釈迦像光背銘(621)

 
聖徳太子を悼んで造像された三尊佛光背の刻銘、三尊佛は止利仏師の作。

宇治橋断碑(646)

 
日本最古の碑石。

船王後墓碑(668)

 
日本最古の墓誌、六朝銘文形式だが正式な漢文ではなく、和風朝の漢文。

金剛場陀羅尼経(686)

 
我が国最古の写経で、縦長で締まった背勢に欧陽詢の筆法が覗える。
   

王羲之(303-361)



   



 
出典不明 / 引用を含む文責はすべて当HPにあります。

聖徳太子 (574-622)
敏達天皇3年(574)-推古天皇30年(622)(日本書紀/同29年)。飛鳥時代の皇族、用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。上宮聖徳法王帝説などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。 本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。母親の穴穂部間人皇女が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父にあたる蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力。別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、古事記では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。日本書紀では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。 日本書紀より敏達天皇3年(574)橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。 用明天皇元年(585)敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。 用明天皇2年(587)用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592)馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594)仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595)高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。 推古天皇8年(600)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。 推古天皇9年(601)斑鳩宮を造営した。 聖徳太子立像(飛鳥寺)推古天皇10年(602)再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。 推古天皇11年(603)12月5日いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。 推古天皇12年(604)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(日本書紀)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。 推古天皇13年(605)斑鳩宮へ移り住んだ。 推古天皇15年(607)小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。 日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。 厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615)までに三経義疏を著した。 推古天皇28年(620)厩戸皇子は馬子と議して「国記」「天皇記」などを選んだ。 推古天皇30年(622)斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。 厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、「国記」「天皇記」の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。  
王羲之 (303-361)
(おうぎし・303-361) 中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。子孫に王髞V(徽之の子)、智永らがいる。
王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」と形容されている。
他の作品には、『楽毅論』『十七帖』『集王聖教序』『黄庭経』『喪乱帖』『孔侍中帖』『興福寺断碑』などが見られる。
略歴
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。
衛恒(衛瓘の子)の族弟である衛展の娘で、汝陰の太守李矩の妻となった衛夫人から、後漢の蔡邕、魏の鍾繇の書法を伝授され、その法を枕中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。
真筆
唐の太宗(李世民)は王羲之の書を愛し、真行290紙・草書2000紙を収集した。崩じた時に『蘭亭序』を一緒に昭陵に埋めさせたと言われている。その後戦乱を経て王羲之の真筆は全て失われたと考えられている。現在、王羲之の書とされているものも、唐代以降に複写したものと、石版や木板に模刻して制作した拓本のみであるとされている。『快雪時晴帖』は、古くは唯一の真筆と考えられており、清の乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「神」と記した。しかし、『喪乱帖』などと同様に精密な双鉤填墨等の手法による模写本であり、外見上は真筆とまったく区別できない。拡大鏡によって初めてそれが複製であると分かる。
後世への影響
書聖と称されただけあり、後世の書道界への影響は絶大であった。後の時代の書家はほぼ全員が王羲之を手本として、何らかの影響を受けたと言われている。そのため、「書道を習う者はまず王羲之を学んでから他を学べ」とさえ言われた。科挙においても王羲之の技法で書かなければ答えが合っていても合格にならなかったと言われている。文字通り「王羲之の文字でなければ文字にあらず」とさえ言われたのである。
逸話
王羲之には次のような逸話がある。
王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食ってしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。それから数日後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、道士に「一羽でもいいから譲って欲しい」と頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったという。
王羲之は興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性があった。ある日のこと、酒屋で酒を買って帰る時に、店の主人が酒代を請求すると、羲之は酒代の代わりに壁に文字を書いたという。主人がその文字を見ると「金」という文字であった。主人がその文字を薄く削って売ったところ、莫大な値になり、その主人はおかげで裕福になったという。
またある日のこと、嘗て門人の家に行き、机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書いたのだが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまい、後でこれに気付いた門人は、何日もふさぎ込んでいたという。
またある日のこと、羲之が町の中を歩いていると、一人の老婆が扇を売っており、彼は売っている扇の何本かに五文字ずつ字を書いたところ、老婆は「どうしてくれる」と色をなして詰った。すると彼は「『これは王羲之という人が書いたものです』と言って売れば、少し高くいっても、きっと買ってくれます」と言ってその場を立ち去っていった。数日後、同じ場所を通ると、先日の老婆が彼を見つけて、「今日はこの扇に全部書いてください」と頼んだのだが、彼はただ微笑んだだけで、そのまま立ち去っていったという。 
  双鉤塡墨
(そうこうてんぼく) 中国で行われた書の複製を作る技術の一つ。六朝時代から唐代にかけて広く行われたが、模刻の発達とともに衰退した。双鉤塡墨は紙に書かれた書蹟を複写するための方法で、書の上に薄紙を置き、極細の筆で文字の輪郭を写しとり(籠字・籠写)、その中に裏から墨を塗って複製を作るものである。この方法による模写を「搨模」(とうも)と称する。このような方法が開発された背景には、書道が「文字の形」そのものを大切にする芸術であるということがある。単純に内容を写すだけなら誰でも出来るが、文字の形を写さなければならないということになれば、その原本を書いた人間と同等の技術が求められ、誰でも出来るというわけにはいかない。その点、双鉤塡墨による搨模は特別な技術を要せず、やり方さえ覚えれば出来てしまう。さらに輪郭をあらかじめ写し取るので、熟練すれば真筆と見まごうほどのものを作ることすら可能になる。これらの点が双鉤塡墨の広まった要因であった。

六朝時代=魏晋南北朝時代の初期は紙が一般に浸透する頃であり、多くの書が紙にしたためられるようになり始めていた。その複製が求められるようになったのは、東晋の書家である王羲之・王献之の登場が大きい。彼らは当時まだ荒削りの状態であった走り書きの行書やそれを整えた楷書を芸術的に洗練させ、歴史に残る名書蹟を次々と生み出したのである。「書聖」とまで祭り上げられた彼らの書やその流儀を受け継ぐ人々の書を、後代の書家たちは学書材料として欲した。この需要を満たすには元の書蹟から複製を作るより他なかったのである。当初は模写が試みられたが、上述の通り「文字の形」を眼で見て写し取れるだけの才能が必要になるためはかばかしくなく、新たな方法が求められた。それが双鉤塡墨による搨模だった。細い筆と時間さえあれば出来る双鉤塡墨は初学者にも可能な技術であり、またたく間に書道界に広まって行くことになった。

しかし模写よりは手間が少ないといっても双鉤塡墨も手書きには変わりなく、次第にもっと効率的な方法が求められるようになった。その中で双鉤塡墨に代わる方法が、唐時代後半には普及した。それが石や木に書蹟を模写し彫りつけ、拓本を採るという模刻の手法である。五代十国の中でも有数の文化王朝・南唐では『昇元帖』という法帖を作ったといわれている。 書道全集出版といえる法帖は南唐を征服した北宋に受け継がれた。淳化3(992)年には『淳化閣帖』という模刻による十巻の大規模な法帖が勅撰により制作されるに至った。このような模刻の繁栄により、双鉤塡墨による搨模は表舞台から姿を消すことになる。現在では双鉤塡墨は一部で学書法として用いられているにすぎない。 
     
   
   
 

      

  4世紀中国の「書聖」王羲之の書国内で写し発見 2013/1/8
「書聖」と呼ばれる四世紀の中国・東晋(とうしん)時代の書家、王羲之(おうぎし)の書の精巧な写しが八日までに見つかった。東京都台東区の東京国立博物館が鑑定した。筆遣いや文面などから七〜八世紀の唐代に宮中で制作されたものの一部とみられる。王羲之の真筆は発見されていないため、その書風の解明に役立つ貴重な資料となりそうだ。
王羲之の字姿を伝える精巧な写しの発見は「妹至帖(まいしじょう)」以来、四十年ぶり。縦25.7cm、横10.1cmの紙に、三行にわたり二十四文字で書かれ、手紙の一部とみられる。国内で個人が所蔵していることが分かり、昨秋から中国書道史が専門の富田淳・同館列品管理課長が鑑定していた。冒頭の文字を取り、富田課長らが「大報帖(たいほうじょう)」と命名した。
王羲之の写しと判断した根拠は
(1)写した文字の輪郭の内側を墨でうめる「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」という高度な手法で書かれている。
(2)王羲之の息子「期」らの名前や、よく用いた表現「日弊」がある。
(3)「妹至帖」などに字姿がよく似ている−としている。
内容は「(便)大報期転呈也 知/不快 当由情感如佳 吾/日弊 為爾解日耳」と読み取れる。これは「大(親類の名)に関する知らせは期が連絡してきました。ご不快のご様子。心の赴くまま情感に従うのがよろしいかと存じます。私は日々疲れております。あなたのために日々を過ごしているだけです」と解釈できる。
紙は、縦に線のある縦簾紙(じゅうれんし)。幕末から明治にかけての古筆鑑定の権威、古筆了仲(こひつりょうちゅう)が「小野道風朝臣(おののみちかぜあそん)」筆と鑑定した紙が付されていた。同館によると、遣唐使らがもたらしたとみられるという。
22日から同館で開かれる特別展「書聖・王羲之」で初公開される。
王羲之(303-361 諸説あり) / 中国・東晋の書家。楷書、行書、草書を芸術的な書体へと完成させ、古今第一の書家として「書聖」と称された。優雅で力強い書風は、唐の太宗皇帝など歴代皇帝が愛好。三五三年に揮毫(きごう)した詩集の序文「蘭亭序」が最高傑作とされる。作品の多くは宮中に収集された後、戦乱などで失われ、真跡は残っていない。貴族出身で地方長官なども務めた。子の献之も書家で父と並び「二王」と呼ばれた。日本には奈良時代に伝わり、和様の書風に影響を与えた。
鑑定した富田淳・東京国立博物館列品管理課長(中国書道史)の話 / 王羲之の極めて精巧な模本は数が少なく、世界でも十前後しかない。今回の写しはその中に入るもので、模本としてのレベルが高い。字姿は本物に近いだろう。

本展にかかわる作品調査で、王羲之の字姿を伝える貴重な唐時代の摸本であることが新たに判明した「王羲之尺牘 大報帖(おうぎしせきとく たいほうじょう)」を世界初公開いたします。
王羲之尺牘 大報帖(おうぎしせきとく たいほうじょう)
原跡 / 王羲之筆 唐時代・7〜8世紀摸
1枚 紙本搨摸(しほんとうも)
縦25.7cm 横10.1cm
本作品は、本展覧会に関わる作品調査によって、王羲之の字姿を伝える新資料であることが判明しました。「妹至帖」以来、40年ぶりに発見された王羲之の新資料が世界初公開されます。これまで作品に付された極札(きわめふだ)から小野道風の書と考えられてきましたが、東京国立博物館の富田淳・列品管理課長らが行った調査で、文章の内容・書風・搨摸(とうも)の技法・料紙などの状況から、極めて精緻なこの摸本は、唐の宮中で作られ、遣唐使らによって日本に舶載された 王羲之尺牘(手紙)の一つと考えられることが明らかになりました。
付属の極札から、手鑑に残されていたことが明らかで、現在は24文字が3行に書かれています。最初から2文字目の「大」は、王羲之の書簡にたびたび登場する人物で、王羲之の祖父の兄の子、王導の子・王(おうしょう)を指すと考えられ、2文字あとの「期」も王羲之の書簡にしばしば見える人物で、王羲之の息子の一人、王延期と考えられます。ほかにも「日弊」(日々疲れる)、「解日」(日を過ごす)など、王羲之が書簡で用いる常套句が見えます。また、料紙も、「喪乱帖」「孔侍中帖」「妹至帖」と同様の、いわゆる縦簾紙(じゅうれんし)を用いています。
今回の発見は、王羲之書跡の研究において、重要な意義をもちます。
書聖として知られる王羲之は、しばしば大学入試にも出題されるほど著名な人物ですが、残念ながら真跡は1点も残されていません。王羲之の没後、王羲之の書は歴代の皇帝に愛好され、宮中に集められました。
唐の太宗皇帝は、宮中に専門の職人を雇い、王羲之の摸本を作らせました。この複製事業は、国家的な規模で行われただけに、墨のニジミや筆のカスレ、虫食いの箇所まで忠実に再現された、極めて精巧な出来ばえでした。このような摸本のうち、現存するのは、世界でも十指に満たないほどです。
書聖・王羲之の写しが日本で発見 / 中国「東方網」
NHKの報道によると、「書聖」と呼ばれる4世紀の中国・東晋時代の書家、王羲之の書の精巧な写しが日本で発見され、東京国立博物館で特別展「書聖王羲之」にて公開されるという。NHKはこれを「世紀の新発見」と伝えている。写しは昨年10月、日本のある所蔵家が東京国立博物館に鑑定を依頼したことで明らかになった。今回の特別展が初公開で、書道会をはじめとする各界からの大きな反響が予想される。中国の書道史上、影響力で王羲之の右に出るものはいない。後世に「書聖」と称されるようになった王羲之の書は、数千年間にわたり皇帝や貴族、詩人、文学者にとって憧れの存在となってきた。
現在、世界の各博物館が所蔵する「王羲之」の書はいずれも、唐・宋を中心とした古代に制作された精巧な写しだ。王羲之の「真筆」または古代に制作された精巧な写しは歴史的に見ても非常に貴重で、値をさらに吊り上げるため切断されていることが多い。現時点で博物館に所蔵されている王羲之の書も文字数が多くなく、ほとんどが数行ほど。統計では、唐代に制作された王羲之の書の写しで現存するものは20法帖(ほうじょう)にも満たないという。うち日本に伝わったものの中に「喪乱帖」「二謝帖」「得示帖」「三帖合装」「孔待中帖」「游目帖」などがある。今回、初公開される写しにはまだ正式な名称はつけられていないが、「世紀の新発見」であることは間違いない。
*法帖(ほうじょう)/書道において紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存・鑑賞・学書用に供するために仕立てられたもののこと。