書と文字


篆書隷書行草楷書臨書活字印刷書体梵字京都の出版書と文字 の歴史文字の巨人漢字の成り立ち「六書」漢字書体の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
篆書
 
 
篆書(てんしょ)は中国で最初に生まれた書体で、甲骨文字(こうこつもじ)から殷(いん)・周の金文(きんぶん)、秦(しん)の小篆(しょうてん)までの千年に及ぶ歴史をもつ。一般的には、印鑑の文字でなじみがあるもの。 
篆書体は「篆書」「篆文」ともいう。広義には秦代より前に使用されていた書体全てを指すが、一般的には西周末の金文を起源として、戦国時代に中国西北部に発達し、さらに秦代に整理され公式書体とされた小篆とそれに関係する書体を指す。公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。金文から更に字形の整理が進み、方形を志向しているものが多い。文字の形は天地が長い長方形の辞界に収まるように作られる。点画は水平・垂直の線を基本とし、円弧をなす字画はすみやかに水平線・垂直線と交差するように曲げられる。画の両端は丸められ、線はすべて同じ太さで引かれる。このため金文と違って上下左右の大きさのバランスが整っており、極めて理知的で謹厳な印象を与える文字に進化している。一方曲線を主体とするため有機的な趣きを併せ持ち、独特の雰囲気を持つ書体となっている。後世の漢字のようにへんとつくり、かんむりとあしのように部首分けが容易なのも特徴である。  
 
隷書

 

 
隷書(れいしょ)は甲骨文(こうこつぶん)・金文(きんぶん)・小篆(しょうてん)の篆書(てんしょ)の時代を受けて、篆書に続く第二段階の正式書体となったものだ。ただ、一口に隷書といっても、金文を早書きした秦隷(しんれい ・古隷)から、波磔(はたく)を強調した八分隷(はっぷんれい)までがある。 
隷書体は「八分」「分書」とも呼ばれる。程邈(ていばく・生没年不詳)という下級役人が罪を得て獄中にあった時、隷書を発明しこれを献上することで始皇帝に赦されたという伝承がある。戦国時代頃から日常に通用されていた筆記体が、秦代になって業務効率を上げるために公文書でも用いられるようになったものが、隷書だと考えられる。紀元前3世紀後半の「睡虎地秦簡」などに見られる、篆書を簡略化した過渡的な書風を「秦隷」と呼ぶ。 
前漢前期には篆書から隷書への移行が進み、秦隷と平行して、草書のもととなる早書きの「草隷」・秦隷の要素を残した波磔の小さい「古隷」・波磔を強調した装飾的な「八分」など、多様な書風が展開されていたことが「馬王堆帛書」「銀雀山竹簡」「鳳凰山木牘」などの帛書や簡牘類によって確められる。前漢中後期を中心とする資料「居延漢簡」では、これらの書風がすでに様式として確立されている姿を見ることができる。 
新を経て後漢に入ると、筆記体としての隷書は発展し、草隷より進んだ速写体である「章草」(「武威旱灘坡医牘」)や、現在の行書ないし楷書のもととなる書風の萌芽(「永寿二年三月瓶」)をも見ることができる。そして、隷書が盛んに通行したこの時代、安定した政権のもとで儒教の形式化が進むにつれ、隷書を用いて石に半永続的な記録を刻むことが流行した。それら後漢の刻石資料に見られる書風は、おおむね桓帝または霊帝の前後で二分することができ、その前半期には古隷が多く、後半期には八分が多い。これらはいずれも書道における隷書体の範を示すものとして、後世から最高の評価を与えられている。 
漢王朝の衰退に伴って、書体としての隷書の知識や技法は失われていった。紙の発明と普及が、筆記の方法や形態に何らかの影響を及ぼしたことも考えられる。いずれにせよ、その後隷書が広く用いられることはなく、研究や表現の一形式として試みられるに留まっている。 
左右の払いで波打つような運筆(波磔)をもち、一字一字が横長であるのが主な特徴。 字体が篆書と異なり横長になったのは、記録媒体が柾目の木簡に変化したためで、柾目を横切る横画に大きな負担がかかるためである。木簡・竹簡・帛書に書く場合は少々右上がりの字体も見られるが、石碑に彫る場合には字全体は水平になるよう彫り師が修正する。また書者も篆書のような硬筆を好まず、横画をドーム状に膨らませたり(乙瑛碑など)、楷書で言う「向勢」を取って字を引き締めたり(史晨碑など)、重心を字の左に寄せて長く太い波磔でバランスを取る(曹全碑など)、1字の中で筆跡の強弱を極端に変化させる(礼器碑など)、あえて古式な字体に戻しながらも波磔の妙と折衷させる(張遷碑など)といったように、字の書き方に創意工夫を加えるようになる。なお、波磔は1字につき1回しか認めないルールが確立していた。 
篆書から隷書への変化は字形の違いが大きく、これを「隷変」と呼ぶ。隷書は主に直線と鉤状の折れ線によって成っている。ここに至って初めて筆画と筆勢が生まれた。それに従って、筆記のための省画や「氵」(さんずい)や「亻」(にんべん)などの部首の変形が広く行われるようになり、筆記に適した文字に変化した。その一方、隷書以降の文字は一見して字源を知ることが困難になった。  
 

行草

 

 
一般的に楷書・行書・草書というように、楷書からだんだんに崩されて行書へ、さらに簡略化されて草書へ変遷したと考えられているが、実は草書がもっとも早く、前漢の時代、隷書(れいしょ)とほぼ同じ時期に生まれ た。 
行書体は、漢字の書体の一つ。楷書が一画一画をきちんと書いているのに対し、行書体ではいくらかの続け書きが見られる。しかし、草書のように、楷書と大幅に字形が異なるということはないために、楷書を知っていれば読むことは可能である。  
行書は隷書の走り書きに興る。王羲之などの書が有名。行書は草書と楷書の中間的な存在であるが、明確な線引きは不可能。草書に比べて厳格な書体、楷書に対して砕けた書体という感覚的な違いで大まかに分類される。行書は草書ほどではないが速記向きであり、楷書ほどではないが明快に判読できることから、古代中国では公務文書や祭礼用の文書に用いられた。 
詩歌の巻頭言の草稿として王羲之が著した「蘭亭序」や、北周の詩を清書した褚遂良「枯樹賦」、内乱で惨殺された甥の祭礼に備えて書いた顔真卿「祭姪文稿」などが代表的な書作品である。空海と最澄が交わした行書書簡「風信帖」「久隔帖」はともに国宝である。 
  

楷書

 

 
   
楷書は、点画を略したり続けたりせずに書く書体。 
楷書は、漢字の手書き書体のひとつ。一画一画を続けずに、筆を離して書く。方形に近い字形である。横線は、筆の打ち込み、中間の線、筆の止めがはっきりしていることが多い(三過折)。現在では漢字のもっとも基本的な字形であるといえる。楷書体は比較的新しい時代に生まれた。 なお現代日本で一般的に書道などで楷書を学ぶといった経験が少なくなり、活字印刷を通してしか漢字を目にすることがなくなってきたことから、楷書を活字体(明朝体)の字体(字の骨格)をなぞったものと考える向きがある。しかし、この活字体は康熙字典の書体をもとにしており、初唐に確立した伝統的な楷書体とは異なる。 
現在、印刷書体として使われる楷書体は、清朝初期の木版印刷に使われた軟体楷書体・清朝体などと呼ばれる書体をもとにしている。その書体は明朝体の影響を受けつつ、康熙帝の好んだ明末の董其昌、乾隆帝の好んだ元の趙子昂の書風の影響を受けている。この軟体楷書は、日本の教科書体、弘道軒清朝体、正楷書体、台湾の標準楷書体(標楷体)などに見られる。それ以外にも、宋朝体、明朝体、ゴシック体など多数の書体がある。 
 

臨書

 

 
臨書1 
臨書(りんしょ)は、文字通り手本を左において、それを見て学ぶもの。技法を学ぶ、鑑賞を深める事を主眼とする。一方、自分なりの解釈・見方や好みを表現した作品もあり、学書から一歩進んだものともいえる。こうした臨書は、自らの好みを理解し、創作作品への一里塚となる。 
臨書2 
書の学習の大半は臨書だといっても過言ではない。臨書とは、文字が上手に書けるようになるために、古典を手本にして真似て習うことだと考えられている。初心者のうちは上手な筆遣いができるよう、うまく文字の形を作れるよう、そして上級者の場合には古典の書風を借りて作品作りができるようになるためだ。 
臨書3 
臨書とは手本をそっくり真似て書くことである。手本を手元に置き、可能な限り手本に似せるようにして書くようにする。筆で書く文字は、点と線の組み合わせであるとともに、点と線に形を持つ。臨書は、点線の形、それも起筆と終筆部分を含めて隅々まで形を似せることに意味がある。 九成宮醴泉銘のような書を学ぶ場合は、特に、隅々まで形を似せることを目指す。点と線に意図した形がある。古典と言われる墨跡臨書する場合は、点線の起筆及び終筆の微妙な形から空中における運筆を、そして墨と紙との境界線の微妙な揺らぎあるいは点線のかすれから速度を読みとり、再現する。 
古典の臨書において大事なことは、筆使いを真似ることである。形を楽に真似するには、筆使いを真似る必要がある。点の一つ、線の一つを、適度な速度で、真似をし続けることだ。 息を止めて、まるで精密な塗り絵をしているような気持ちならないよう注意する。頭が勝っている状態では、自然な手の動きが伴わず、頭で体を制御する状態になる。心の平静を得られず、不自然に肉体を使いストレスを受けることになり、書も似つかないものになる。 
古典 
書の歴史は3500年に及ぶ、数えきれない人々が書を書き、その中のほんの一握りの作品が古典として今に残されている。古典には、書法に照らしてうまいとか、書きぶりが素晴らしいとか、気韻生動が感じられるだけでなく、その書きぶりが他の時代とは異 り、その時代独特の雰囲気を最もよく表現しているところに意味があると考えられる。 
九成宮醴泉銘は書の歴史において楷書が書体として成立した時点での規範であり、顔真卿は楷書という書体に強烈な人間臭さを吹き込み、盛唐末から中唐時代にかけての時代にふさわしい楷書の姿を生み出した。龍門造像記は、自由で伸びやかな闊達さが鑿の鋭い切れ味と相俟って北方民族が建てた北魏の息吹きを感じさせる。 
書の歴史は、人間が自分の言葉をどのような形で文字として定着させるべきかの試行錯誤の歴史で、言葉がとりうる姿のあらゆる可能性を追求した足跡である。歴史の中に残された古典は、その時代にその言葉が書かれる上で、その時代の人々の在り方や心情に最もふさわしい書かれ方がされたもので、その時代の雰囲気を最も濃厚に身にまとっているということができる。 
臨書の目的  
古典に学ぶことは、なぜその時代にこの言葉がこの書者により表現されたのかを探ることである。古典の書者がその時代の言葉にふさわしいものとして、なぜそのような姿の書を書いたのか、その方法や考え方を知ることに ある。古典の表現から、現代の言葉をどのように書くべきかを模索する上での手掛かりを得ることができる。 
知る  
そこに何と書かれているのかを知ることが大切である。書者は机の上に紙を延べ、筆先を硯の上で整え、自分が書くべき言葉を心の中で反すうしている。幾度かの逡巡の末、気が充満して書き始める 。書いている最中も書者の意識が言葉から離れることはない。臨書はそうした現場を追体験するものだ。古典は誰がいつどういう状況で何のために書いたものかを知るべきで、何と書かれているのかを理解する必要がある。言葉の意味を離れて文字の形のおもしろさ や、技術的にまねることは、古典の形骸をまねるもので、臨書の目的ではない。  
観察する  
できる限り精密に観察する。書かれた言葉を追いながら、逐一ていねいに個々の点画の筆跡をたどっていく。書は筆順というルールによって、点画が書かれた順序が決まってい て、文字が形作られていくプロセスを追体験できる。筆を持って追体験することにより、言葉を書いた書者の心の動きが、文字通り手にとるように伝わってくる。 
敷き写し  
積極的に敷き写し(模書)をする。手本を脇において習うだけではどうしても細部がおろそかになる。しかも書の古典はもともと小さい文字が多く、それを半紙に四字ないし六字に拡大して習うだけでは、文字の大きさも筆も紙も異なり精密な臨書はできない。模書はこれを補う方法で 、法帖の上に薄い紙を乗せ、ずれないように文鎮で固定し、細筆で一点一画を丁寧になぞる。模書を続けると、古典の書者が書いたとおりを、今、自分が書いているのだという手応えを感じることができる。点画の表情、文字の形、字間の呼吸、行間の間合いなどがだんだんと分かってくる。 
 
活字・印刷書体

 

辞世の句 
[ 左から、勘亭流/古印体/行書体/隷書体/教科書体/明朝体 ] 
勘亭流 
勘亭流は歌舞伎の看板や番付などに使われる独特な書体で、創始は江戸時代中期、日本橋堺町に住む御家流・指南/岡崎屋勘六(1746-1805)が、安永8年(1779)当時同町にあった中村座の九代目中村勘三郎丈の依頼に応じ、御家流に独特な工夫を加えて新春狂言「御贔屓年々曽我(おんひびきねんねんそが)」の看板を書いたのが始まりで、「勘亭」と署名したことから「勘亭流」と呼ばれるようになった。 
勘亭流文字の特色は、歌舞伎の舞を発想し柔らかな姿態。音律、縁起を願う心を踏まえ、御家流に一風加味した書風で(肉太・丸みを帯び・内に入る)時に応じ、また物に応じ書き方もやや異なり、看板や番付の大名題などは横長で平たく、しかも一文字一文字にほとんど白い部分が無いほどに肉太に書く。 
書道とは異なり、姿・形を作るため重ね書き・補筆をして丹念に文字を仕上げる。  
古印体 
古印体は日本のもので、中国にはない。江戸時代の末期、幕府御用印師が、今まであった寺社の印を参考に考え出した。篆書と違い読みやすく、味がある。通常の古印体は隷書古印体で、隷書を基本に古印味(こいんみ)を加えたものである。   
行書体 
中国・南北朝時代には隷書が影を失い、草書・真書・行書が発達した。北魏以降の北朝には石碑が多く楷書が発達しているのに対し、東晋以降の南朝では法帖が多く行書・草書にすぐれ「北碑南帖」といわれている。建康(南京)を都にした三国時代の呉と、南朝の東晋・宋・斉・梁・陳をあわせて六朝ともいう。行書で知られているのが、東晋の王羲之(307-365)が詩集「蘭亭集」に書いた序文「蘭亭叙」である。 
行書活字は久永其頴の版下によるもので、東京・江川活版製造所から継承したものである。南海堂行書活字は湯川梧窓(号南海堂)の版下によるもので、大阪・岡島活版所から継承したものである。中国で行書体は刊本字様としてあらわれたことは多くない。「富多無可思」掲載された文字は個性を重んじた清代の書法にちかく、同時代の日本の能書家も影響を受けたと考えられる。  
欧字書体でいえば、楷書体はロ-マン体に、行書体はイタリック体に相当するだろう。日本語書体では楷書体系統の書体が主流である。明治時代の木版教科書では、一般的な文章は楷書体で書かれ、手紙文などは行書体になっていた。 
隷書体 
中国・漢代(前202-220)には篆書が衰え、実用に便利な隷書が勢力をえた。隷書は秦代には補助的につかわれていたが、漢の公式書体となった。西漢(前202-8)では古隷と八分がともにつかわれたが、東漢(25-220)では八分が発達して全盛期をむかえた。173年(熹平4)に東漢の霊帝が今まで伝えられた経書の標準のテキストを定めたのが「熹平石経」である。「熹平石経」は儒学で主要な「易経・詩経・書経・儀礼・春秋・論語・公羊伝」を46枚の石碑にしるしたものだ。これを洛陽の最高学府「太学」の門外に建立し、正確な儒学経典の内容を広めた。蔡ヨウ伝「碑が始めて立つに及んで、これを観視および模写するもの、車乗、日に千余輌、街陌を填塞した」と書かれている。同じ蔡ヨウ伝に「すなわち、自ら冊に書し、碑に丹し、工をして鐫刻せしめた」とあり、古来、熹平石経の文字は蔡ヨウ(132-192)の書と見なされている。蔡ヨウは、東漢の最高の学者だった。石経は幾多の喪乱にあって完全に破壊されて四散してしまった。その中の「儀礼」の1石が、京都・藤井斉成会有鄰館所蔵の残石である。東京・台東区立書道博物館、中国・西安碑林博物館、台湾・歴史博物館などにも残石や拓本が展示されている。  
石経は八分で書かれているが、八分とは隷書の1種で「八の字」のように左右にのびる特徴をもっている。この装飾な隷書を八分または漢隷といい、それ以前のものを古隷といって区別している。  
「熹平石経」は点画の太細の変化も波法の強調はなく書法としては表情に乏しい書とされるが、正確で読みやすい書風は活字書体のル-ツのひとつである。  
書道で初級は楷書と行書までである。隷書・篆書は中級以上でやっと登場する。活字書体としても日常ほとんど使われることはない。しかしながら隷書風の書写体を見かけることは多い。 
明朝体 
明朝体は、中国の明代(1368-1644)の木版印刷にあらわれた書体。はじめは宋朝体の覆刻(かぶせ彫り)だったが、しだいに印刷書体としての読みやすさが高められた。明朝後期にさらに様式化され今日のような明朝体になった。宋朝体から明朝体への移り変わりは、欧字書体におけるベネチアン・ロ-マンからモダン・ロ-マンへ至る移り変わりに似ている。近代明朝体活字は19世紀前半に上海や香港にあったロンドン伝道会と北米長老会によって製作された。ロンドン伝道会の印刷所である上海・墨海書館と香港・英華書院で使用された活字は、ヨ-ロッパで活字母型が製造されたものである。さらには北米長老会の印刷所であった上海・美華書館において木製種字と電鋳母型という活字製造法が考案された。この種字の彫刻は中国人が行った。  
これらの明朝体活字が長崎の崎陽新塾活字製造所にもたらされたのである。この活字をコピ-して活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、これは東京築地活版製造所や正院印刷局(現在の国立印刷局)などに引き継がれた。 
明朝体の美しさは、楷書の筆法の単純化にある。起筆や終筆など楷書からのいわば歴史的遺産を受け継ぎながら肉筆性を排除し、水平垂直を基本とする抽象性を帯びた幾何学的な線に融合することに成功している。さらに、横画を細くしたことで自己主張しないスタイルになった。明朝体は、他の書体よりも整然としていて読みやすいとよく言われる。本文用書体としての完成度が高く、活字書体の中心である。 
御家流(江戸文字) 
御家流は和様書法の流派のひとつである。尊円親王(1298-1356)は書を世尊寺流の藤原伊房(これふさ)や行尹(ゆきただ)に学び、穏やかさと力強さをあわせ持った書風「青蓮院流」を創始した。尊円親王の書とされるものに古今集写本「能勢切」がある。「青蓮院流」は、調和のとれた実用の書として「御家流」と呼ばれ、広く一般に定着してゆく。御家流の名は、伏見天皇より「伝えて家の流れとせよ」とのお言葉をたまわったのが由来という。徳川幕府は早くから御家流を公用文字とし、高札や制札、公文書の書法として統一をはかった。さらに寺子屋の手本としても多く採用されたことで大衆化し、あっという間に全国に浸透した。  
和様・御家流は、ひろい意味で行書体だが、漢字書体の五体のひとつである行書体とはあきらかに異る。青蓮院流は江戸時代になって御家流と呼ばれるようになったが、その書風は異なっている。御家流の文字は庶民の手に渡ると、それぞれの職域で独自の発展をとげ、江戸町文化を彩る書体となった。その一つが浄瑠璃文字である。浄瑠璃文字はくねくね曲げる筆運びで文字と文字を密着させているのが特徴である。御家流から浄瑠璃文字を経て、歌舞伎の勘亭流へといたる。勘亭流は安永8年(1779)中村座興行の絵看板に、御家流の書家であった岡崎屋勘六(1746-1805)が筆をとったのが最初といわれ、勘六の号「勘亭」から「勘亭流」の名がついたとされる。  
このほか江戸文字といわれる種の書体がある。相撲にも独特の書体があり、相撲番付で書かれている。力量感溢れる文字で、相撲番付専門の版元だった根岸家の兼吉が、19世紀の初めに考案したので根岸流とも言われる。また寄席の書体は紺屋職人の栄次郎が創始したビラ字から発展し、橘右近によって確立された。橘右近が寄席文字の初代家元で橘流とも言われている。また、用途によって半纏文字・提灯文字・千社札文字と称される肉太の書体がある。またその手法(文字の輪郭を書き、塗りつぶす部分に篭目状に斜線を入れた)から篭字とも言われているものである。鬚文字は酒樽に多く使われていた文字で、ハネの勢いを強調したスタイルで、手法から鬚文字と呼ばれている。寿司とかうなぎとか氷とか、食生活に密着した文字である。 
ゴシック体(黒体) 
中国では「黒体」という、日本では一般にゴシック体といっている。ゴシック(gothic)という名称は「活版様式」(1877 活版製造所 平野富二)に欧字書体としてあらわれているのが最初である。ゴシック体とはアメリカのゴシック体にならったもので、フランスではサンセリフ、ドイツではグロテスクといわれている。漢字書体としては「黒体」といったほうが適切と思われる。漢字書体として「ゴシック体」という名称で活字見本帳にはじめて登場したのは、「活版見本帳」(1903/秀英舎鋳造部製文堂)「活版見本」(1903/東京築地活版所)である。ただしゴシック体の用例は「五号明朝活字総数見本全」(1898/東京築地活版製造所)のなかで「ゴチック形」として掲載されたものだ。 真書体系統が宋朝体からはじまって元朝体・明朝体・清朝体へと発展したように、ゴシック体は隷書体を元にデザインされたようである。隷書は、逆の方向から入れて書く蔵鋒となっている。筆を十分開いた方筆で、ゆっくり強く書かれているのだ。真書(楷書)の筆法とは全く異なる。ゴシック体も同様で、転折部は直角に折り返し、鋒を右上に払う波磔は強調せず、鋭く尖らせず筆勢をたくわえている。  
丸ゴシック体(円体) 
中国でいう円体は、わが国では丸ゴシック体もしくはラウンド体といわれる。青山進行堂「富多無可思」(1909)に電話用活字としてラウンドゴチック形が掲載されている。秀英舎の「活版見本帖」(1914)には初號丸形ゴヂックを見ることができる。丸ゴシック体はゴシック体と同じで、縦画、横画ともに、直線、曲線ともに同じ太さの線で構成されているが、起筆と収筆は丸みを持っている。転折部に丸みを持っていることが最大の特徴である。ゴシック体では直角に折り返す転折も、丸ゴシック体では角張らせないで丸みを持たせているのである。「口」の四隅すべてに丸みを持たせているのだ。 
篆書(この場合小篆を指す)の筆法は、隷書と同様に筆の鋒先を逆に入れ画の中央を走る。隷書と違うのは転折の筆法で、円形を描くようにするのだ。丸ゴシック体でも、ゴシック体で直角に折り返す転折も、角張らせないで丸みを持たせている。特徴的なのは左肩の転折である。ウカンムリの場合、篆書では第一画と第二画を連続させて書く。右肩は、筆の方向を転換させて回すように書くのだ。口の左下も連続させて丸みを持たせている。中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていくのである。丸ゴシック体はシンメトリ-を取り入れた構造で、ストロ-クとしては最も素朴だ。丸ゴシック体は篆書から発展してきた書体のようだ。 
宋朝体 
宋朝体は、中国の宋代(960-1279)の木版印刷にあらわれた書体である。唐代に勃興した印刷事業が宋代に最高潮に達し、また唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体となった。初唐の欧陽詢(557-641)書風による浙江地方、中唐の顔真卿(709-785)書風による四川地方、晩唐の柳公権(778-865)書風による福建地方が宋代における印刷事業の三大産地である。近代宋朝体活字は浙江地方の印刷所体の系統で、陳起の陳宅書籍鋪による「臨安書棚本」を源流としている。 
元朝体 
楷書体系統の漢字書体は、中国のそれぞれの王朝の時代をあらわす名称で呼ばれてきた。元朝体は、日本の活字にも、中国の活字にも存在しない。清朝体も、日本固有の書体に冠せられ「せいちょうたい」などと呼ばれていたこととは別に、清王朝の武英殿や揚州詩局の刊本字様(木版印刷の書体)を源とする書体を「清朝体」とすれば理解できる。元朝体も刊本字様として存在する。中国・元代(1271-1368)は漢民族圧迫政策により書物の出版にきびしい制限が加えられたが、福建地方の民間出版社では多くの書物を刊行している。その刊本字様は趙子昂(1254-1322)の書風によるとされる脈絡を少し残した書体で、これを中国では元体とよんでいる。日本の言い方で元朝体である。書誌学などでは「趙子昂体」「松雪体」と呼ばれることが多い。清朝体という呼称も中国でもちいられていない、清王朝も満真族による征服王朝である。 
清朝体 
中国・清代(1616-1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」という。康煕年間(1662-1722)には紫禁城(現在の故宮)の西華門内の武英殿に編纂所が設けられた。武英殿の刊本にあらわれた書写系書写風の字様は、揚州詩局において完成された。揚州詩局「全唐詩」系統に正楷書体がある。正楷書体はもともとは上海の漢文正楷書局で制作された書体で、鄭午昌の筆耕によるものとされている。活字書体としての清朝体は、書写の楷書とは少し違う。清朝体は活字版の適性を加味して造形されたものだ。 
篆書体 
中国・秦代(前221-前207)始皇帝(前259-前210)が字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文・籀文)を基礎として篆書を制定し、公式書体とした。籀文を大篆というのにたいして、始皇帝の制定したものを小篆ということもある。  
篆書は現在では石碑の題字(篆額)や印章(篆刻)などにもちいられている。篆書を読める人は少ないので現在では篆書体はあまり見かけないが、印章業界の丸岡白舟印舗「白舟篆書」伊藤印材店「富篆書」に見られる。  
印章に古印体、印相体がある。古印体は金属活字にあり、「富多無可思」に古典、南海堂古典という書体が掲載されている。 
草書体 
中国・唐代(618-907)において草書・真書・行書の書法はますます発展し、黄金時代をむかえた。真書は多くの能書家を輩出し頂点に達したといわれるが、草書もまた発展し、独草体から連綿体、狂草体を生んでいる。孫過庭(648-703ころ)は王羲之の書法を学び草書にすぐれ、論書家として「書譜」をあらわした。 
ラテン体(拉丁体) 
「参號明朝活字総数見本全」(1928/東京築地活版製造所)には、欧米の活字書体の影響を受けたと思われる「羅篆形」としるされた書体が掲載されている。羅篆形という名称はラテン(latin)からきたものだと考えられる(ラテンの漢字表記は「拉丁」が一般的)。ラテン(latin)とは、ラテン語系の言語を話す諸民族の通称で、おもにヨ-ロッパ南部のフランス人、イタリア人、スペイン人、ポルトガル人などがこれに属する。また古代ロ-マ人がラテン語を表記するのに用いた表音文字をラテン文字(ロ-マ字)といい。その後もヨ-ロッパを中心に多くの国語を表記するのに用いられている。 
オプティマはフィレンツェのサンタロ-テェ聖堂の碑文を基本にしてつくられている。15世紀イタリア・ルネッサンス最盛期の文字であり、セリフをもたないロ-マン体の特徴は、おおくの歴史的な文字にもみることができるの。 
アンチック体(古体) 
欧字書体としてのアンチック(antique)は、すでに「活版様式」(1877/活版製造所平野富二)にあらわれている。スラブ・セリフと呼ばれるカテゴリ-に属する書体である。ここにはゴシック(gothic)という書体も掲載されている。和字・漢字書体のアンチック体は、ゴシック体と同様に欧字書体をヒントにして制作されたのではないかと推測される。漢字書体としては「座右の友」(1895/東京築地活版製造所)および「富多無可思」(1909/青山進行堂)に掲載された「アンチック形」がある。アンチック体とは和字書体のみとされていたが、じつは漢字書体も制作されていた。「アンチック形」は千社札の文字に似たもので、和字も千社札の文字を継承したものかもしれない。寺社に貼られる千社札の文字は肉太で切れ味のよい書体で、文字の輪郭をとりその中を塗りこむ籠字(かごじ)の方法で書かれる。千社札は江戸時代からあるが、今日のような千社札文字は明治末期の太田櫛朝、初代・二代の高橋藤によって完成された。また半纏(はんてん)などにも同じ書体がもちいられている。千社札の文字に似た「アンチック形」は、同じころに定着していったゴシック体と対応させると、より現代的に解釈されて、俗に横太明朝体といわれるものと同一の筆法をとるようになったとも考えられる。アンチック体和字は、しばしば「太仮名」と称する書体と混同されるが、アンチック体と太仮名とはまったく異なる書体だ。 
大博打元も子もなくすってんてん 
甘粕正彦/辞世の句 
 

梵字

 

 
梵字(ぼんじ)はインドで使用されるブラーフミー文字の漢訳名。ブラーフミーは「ブラフマン(梵)の創造した文字」を意味する。単に梵語(サンスクリット)を表記するための文字とも解される。 
日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた「悉曇文字」(しったんもじ)を指す、シッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立したと見られる。日本へは仏教伝来と共に漢訳された経典と共に伝来したが、難解なため文字自体を仏法の神聖な文字として崇めた。天平期には遣唐使や道璿、鑑真らの唐僧が悉曇梵語に堪能で、徐々に広まった。大安寺で唐僧仏哲と天竺僧菩提僊那が悉曇梵語の講義を行うと、日本人僧にも悉曇梵語の読み書きが浸透した。平安時代に入ると、最澄、空海らが悉曇梵語の経典を大量に唐から持ち帰る。彼らにより、真言として梵字は一般の人々の間にも広まった。この経緯から、日本においては、梵字は単なる文字ではなく、それ自体に力がある霊的な神聖文字である、と信じられることになった。 
御朱印 
御朱印は、お納経とも呼ばれる。本来は観音経などを浄写して寺ごとに納め、その証として朱印を受けていた。朱印は徳道上人が閻魔大王から授かった三十三所の宝印が起源といわれる。一般には三つの印で構成され、右上に札所番付の札所印、中央に札所本尊の梵字を刻んだ本尊印、そして左下には札所名の寺院印が押され、本尊名などが墨書きされる。御朱印は札所本尊の分身とされている。 
 

京都の出版

 

慶長勅版 
京都では平安時代より仏教の経典類が印刷されています。東山の知恩院を中心に浄土教関係の出版(浄土教版)が行われ、京都五山の禅僧によってはじめられた五山版では禅籍のみならず詩文集や漢籍も刊行されました。  
戦国末期には、キリスト教宣教師が教書などを刊行するために用いたキリシタン版が出版され、さらに文禄2(1593)年に後陽成天皇勅版の「古文孝経」(こぶんこうきょう)が刊行されるに及んで、日本出版史は一つの画期を迎えます。 
当時の印刷方法は、版木に直接文字や図形を彫刻して印刷した整版と、一字ずつ活字を組んで版を作る活字版がありました。活字版には銅製の活字を使った銅活字版と、慶長勅版などで見られるような木製の活字を使用した木活字版があります。 
古活字版(こかつじばん)  
安土桃山時代末期から江戸初期にかけて出版された活字印本は古活字版と呼ばれており、次のようなものがあります。 
キリシタン版 天正19(1591)年から慶長16(1611)年にかけて刊行され、「平家物語」など現在29種が知られています。京都で出版されたのは、慶長15年4月に原田アントニオが印刷した仮名まじり文の宗教書「こんてむつす・むん地」の一種のみです。 
慶長勅版(けいちょうちょくはん) 
慶長2(1597)年から同8(1603)年にかけて、後陽成天皇の命により、大型の木製活字を用いた勅版が印刷され、「錦繍段」(きんしゅうだん)「日本書紀神代巻」(にほんしょきかみよのまき)「論語」「孟子」などを出版しました。 
伏見版(ふしみばん) 
円光寺版(えんこうじばん)とも呼ばれ、閑室元佶(かんしつげんきつ、1548-1612)が、伏見の円光寺(現左京区一乗寺小谷町)で、慶長4(1599)年に徳川家康が寄附した木活字10万字を使用し、「孔子家語」(こうしけご)「三略」(さんりゃく)「六韜」(りくとう)「貞観政要」(じょうがんせいよう)「周易」(しゅうえき)などの書物を印刷しました。 
嵯峨本(さがぼん) 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ、1558-1637)が角倉素庵(すみのくらそあん、1571-1632)の協力を得て平仮名交りの国書を木活字で出版しました。角倉本・光悦本とも呼ばれたこの書籍は、装丁の美しさが特徴で、表紙・本紙には雲母紙を使っています。慶長13(1608)年刊の「伊勢物語」(10種)をはじめとし、「方丈記」「百人一首」「徒然草」「源氏物語」などを出版しました。 
出版書林の出現  
慶長年間(1596-1615)には、本を出版し店頭で販売する本屋(書林)が現れます。本屋の出現は本の需要を増加させる結果となり、大量生産するために印刷方法も活字版から整版へと変化します。 
元禄年間(1688-1704)に入ると多くの本屋が出揃い、林九兵衛(はやしきゅうべえ、儒書)、村上勘兵衛(むらかみかんべえ、仏書)、風月庄左衛門(ふうげつしょうざえもん、儒書・医書)、秋田屋平左衛門(あきたやへいざえもん、仏書・医書)などが代表的な本屋として挙げられ、この他にも、出雲寺和泉掾(いずもじいずみのじょう、歌書)、永田調兵衛(ながたちょうべえ、仏書)、西村九郎右衛門(にしむらくろうえもん、仏書)、佐々木惣四郎(ささきそうしろう、和学書)などがありました。 
本屋の多い町筋は寺町・二条・五条橋(五条)の各通りで、この分布は当時の需要者と関係があり、二条通近辺には武家や公家が多いため古典や歌書が、寺町通や五条通には寺院が多いため仏教関係の本屋が並びました。 
また、本屋の出現にともなって江戸中期には出版に関連する板木職・板摺工なども書店のまわりに集住しはじめます。 
書林仲間  
寛永年間(1624-44)以降、本屋における出版が活発になりはじめると、売れ行きが良好な本を他の店がまねて印刷するという重版や類版の問題が起き、紛争の種となりました。この紛争を本屋の間で自主的に処理するために、出版業者の組合である京都書林仲間が元禄期に成立し、やがて町奉行によって享保元(1716)年に公認されます。 
書林仲間は出版・販売者の加入が義務づけられていて、仲間中より2名が「行事」という役員に選出されました。行事は、4カ月交替制で正・5・9月に交替し、町奉行所への出版の許可、新刊書の重版・類版の処理、大坂・江戸の書林仲間との連絡などの事務に従事していました。 
草紙屋(そうしや)  
出版書林の成立にともなって、小説や浄瑠璃本・絵本・絵図・啓蒙教訓書、また、諸技芸の教本などの「草紙」と呼ばれる図書の類を取り扱う草紙屋というものも出現しました。 
貞享2(1685)年刊の「京羽二重」(きょうはぶたえ)には「歌書所并絵草紙」の店として、林白水(はやしはくすい、出雲寺)、喜左衛門(きざえもん)、与菱屋(よびしや)の三軒を挙げています。林白水は、二代目出雲寺和泉掾を相承した時元(ときもと)のことで、この出雲寺家は、儒者林羅山(はやしらざん、1583-1657)の遠縁にあたり、禁裏御用や「武鑑」出版など幕府御用もつとめました。 
元禄期では、山本九兵衛(やまもときゅうべえ)、鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)、八文字屋八左衛門(はちもんじやはちざえもん)が知られ、その中でも浄瑠璃本の販売書店として寛永期から幕末まで開業した鶴屋喜右衛門は、近松門左衛門作「心中天の網島」(しんじゅうてんのあみじま)「傾城反魂香」(けいせいはんごうこう)などを出版し、大坂で出版された浄瑠璃本(「曽根崎心中」<そねざきしんじゅう>「鑓の権三重帷子」<やりのごんざかさねかたびら>など)の京都販売元となりました。 
なお、草紙屋も「草紙屋中」という仲間を組織しましたが、京都では仲間として認められず、書林仲間の監督下におかれ、草紙の出版には書林仲間行事の許可が必要でした。 
浮世草子と八文字屋本(はちもんじやぼん)  
元禄時代になると、大坂の町人であった井原西鶴(いはらさいかく、1642-93)の「好色一代男」(こうしょくいちだいおとこ)に代表されるような浮世草子(小説)が需要者の間で流行し、京都でも西村市郎右衛門(にしむらいちろうえもん、嘯松子)や林義端(はやしぎたん)などの戯作者が登場します。 
この頃、京都の浮世草子作家は本屋の主人や雑俳点者などで主として構成されていましたが、西鶴に対抗するだけの力量手腕のある作者は一人としておらず、浮世草子出版に関して、京都の本屋は西鶴著作を出版していた大坂の本屋の後塵を拝する状態でした。 
しかし、元禄期の後半に江島其磧(えじまきせき、1666-1735)が登場すると京坂書林界の趨勢は大きく変動します。 
元禄14(1701)年に其磧著の「傾城色三味線」(けいせいいろじゃみせん)という浮世草子が京都の草紙屋八文字屋八左衛門(はちもんじやはちざえもん)から発刊されると、瞬く間に大ベストセラーとなり、出版に成功した八文字屋から刊行される書籍は八文字屋本と呼ばれ、江戸中期の日本の出版界を風靡しました。 
案内書の刊行  
京都の出版物の中でも特に有名なものに名所案内記(ガイドブック)の類があります。明暦4(1658)年に書林山森六兵衛(やまもりろくべえ)より刊行された「京童」(きょうわらべ)を皮切りに貞享2(1685)年に刊行された「京羽二重」(きょうはぶたえ)などたくさんの案内書が出版されました。中でも京都の商人吉野屋為八(よしのやためはち)が安永9(1780)年に刊行した観光案内書「都名所図会」(みやこめいしょずえ)は空前の売行きを見せ、その後、各地の名所図会が刊行されることとなりました。 
江戸時代の初期には、京都の市街地を克明に描いた京絵図(地図)も盛んに印刷されました。その中でも寛永元(1624)年前後に刊行された「都記」(みやこのき)は、現在知られる最古の京絵図です。 
また、庶民の中で観光が流行しはじめ、種々のガイドブックが発行されると、それにともない名所の手引きや案内を書添えた観光マップが次々と出版されました。その中でも天保2(1831)年に竹原好兵衛(たけはらこうべえ)から刊行された「改正京町御絵図細見大成」(かいせいきょうまちおんえずさいけんたいせい)は、縦(南北)1.8メートルと刊行京絵図の中では最も大きく、細かい通り名から町名まで鮮明に印刷されており、今でもよく見かける京絵図の代表的なものです。 
 

書と文字の歴史

 

 
符号の時代  
まず、文字だが、文字がどの様に出来たのか、よく解明されていない。中国の伝説によると、中国太古の皇帝である黄帝の下で記録を司っていた倉頡が、鳥や獣の足跡を模して作ったとされている。倉頡には四つの目が有ったと言う。  
神話伝説上、それ程に観察眼に秀でていたと言いたかったのであろう。最近の北京の蒼頡廟の倉頡像は二つ目の神様になっているらしい。先年訪れた中国南部の客家の里に倉頡を祀った社があったのが印象強く残っている。日本で言う片田舎のさもない鎮守様の様なところだった。それだけ倉頡は人口に膾炙している。しかし、黄帝も、倉頡も神話の世界の話、漢字は単一の人物によって創造されたものではない、が定説だ。それは兎も角、人間は文字を造り書を芸術に極めた。飛び飛びではあるが、その過程を探ってみたい。  
1950年、西安の東方6KMの半坡遺跡から発見された多数の彩陶の陶片(彩陶)に、文字とおぼしき記号、符号の様なものが刻まれていた。紀元前4000年、6000年余り前の遺跡だ。発見された記号は全部で112点、これを分類すると22種類に分けられた。それらの記号は、陶器のほぼ同じ部分に刻まれたり書かれたりしている。同じ記号が刻まれた陶器は極めて近い近辺から発見されて居ることは、これらの記号は装飾ではなく、なんらかの情報、意思伝達を表わすものであったと推察される。即ち、初期段階の文字のではないか、と。  
ほぼ近い年代の遺跡と思われる大(サンズイに文)口遺跡から、表面に、半坡遺跡の記号よりもより絵画的な模様の施された大型の陶器が発見された。この模様は山から太陽が昇る、とされているが、この付近から発見された三つの陶器に同じ模様が認められたことから、何か所属を示す紋章の如き物ではないかと推察されている。  
その他、少し時代が下がって殷代中期の台西遺跡、呉城遺跡からも、やはり、陶器の破片に刻まれた線の構成が発見された。これらはやや字形に近いが未だ文字とは結論付けられていない。  
半坡遺跡、大(サンズイに文)口遺跡での記号、符号、紋章もどき物と、後の甲骨文字との間には文字としての発展を繋ぐには余りに大きな空白がある。現在発見されている甲骨文は紀元前14世紀から12世紀頃の物であるが、其処に書かれている甲骨文字は既に文字としての意味形を整えており、現代の字体までの経過を辿ることが出来る、文法も現代の漢語に近い。1000年、2000年の間に文字としての著しい進化があったのであろう。その間の空白を埋めるには今後の発見、研究に委ねられる。
甲骨文字  
清王朝末期の1899年、北京に住む金石学者の王懿栄は持病のマラリヤに悩まされていた。当時、彼は「竜骨」と呼ばれるマラリヤの特効薬を愛用していた。古来、中国では哺乳動物などの化石骨を「竜骨」と呼び、薬材として珍重していたのだ。  
恐らく、王懿栄の元には多種多様の「竜骨」が有ったと予想される。或る日、王懿栄は彼の弟子で食客として居候をしていた劉鉄雲と、何時ものように「竜骨」を粉にする作業をやり始めた。  
と、その時、「先生、この竜骨の上に何か刻まれていますよ、もしかしたら、文字では無いでしょうか」「どれどれ・・・、うーん、これは古代の文字かも知れんぞ」金石学に覚えのある二人の脳裏に戦慄が走ったに違いない。二人は文字らしきものが刻まれた「竜骨」を更に多く求め集め、眺め回し、これは古代文字に違いないと確信する。  
王懿栄の不慮の死後も劉鶚は更に「竜骨」を蒐集し、5000点を越える中から1,058片を厳選し拓本を取り「鉄雲蔵亀」として発表した。  
こうして甲骨文字が世に示されると、当時の学会の脚光を浴びることになる。有能な研究者も続々と研究に参加し始めた。  
一方、甲骨が世に知れ渡り甲骨収集がブームとなると、甲骨を扱う骨董商は甲骨の値段を吊り上げ始めた。収集者は多く安く甲骨を収集しようと出所を知りたがったが、骨董商はのらりくらりとして出所を明かさず、むしろ、虚偽の場所を示し収集者達を混乱せしめた。骨董商の企業秘密であったのだ。  
もう一方、甲骨の出所地である農村では村中の村民が甲骨堀りに狂い出し、甲骨発掘の権利を巡り地主と農民の間に諍いが頻発するにまでに至ったのである。  
農民達は、従来は「竜骨」の価値を高めるために、表面の文字を削り落としさえしていたのが、文字らしきものが刻まれた「竜骨」が高価で売れると知れ渡ると、何も刻まれてない甲骨に文字を刻んだ偽物までも作らられ始めた。このような偽物が今日でも残っている。  
甲骨学としての基礎を固めたのは、劉鶚の友人羅振玉と羅振玉の娘婿である王国維である。  
羅振玉は、更に幅広く甲骨を収集し、「殷商貞ト文字考」を著す。1910年、彼は、様々な辛苦を経て、甲骨の出所が安陽県の小屯と呼ばれる農寒村と突き止める。これは歴史の残る画期的な快挙であった。「史記」に、「項羽が秦の将軍と?水のほとりの殷墟で会見した」との記述があるが、その小屯は古くから殷墟と呼ばれていた。伝説の殷墟を実在の殷墟に結びつけたのだ。  
羅振玉と王国維は、辛亥革命で清朝が崩壊すると日本に亡命する。羅振玉は収集した甲骨資料を日本に持込み、日本亡命中も研究を積み重ね次々に書物を発表し、甲骨文字解読の基礎を築くのである。  
王国維は甲骨に記されている帝の名前と、「史記」にある殷の帝の系譜がほぼ一致するのを発見した。これは、伝説の殷墟を実在の殷墟と実証するものとして、古代史研究の於ける甲骨文の価値を一層高めたのであった。  
1928年、菫作賓を中心に大規模な殷墟発掘が始められ、日中戦争で中断されるまで十数回の発掘が行われた。  
ここで2万5千にも及ぶ甲骨をはじめ、宮殿跡、銅器・玉器・石器・骨器、更に小屯の郊外から王墓などが発掘され、「史記」に記されていた伝説の殷王朝の実在が余儀ないところとなるである。  
後に菫作賓は膨大な甲骨資料の整理し、「殷暦譜」を完成する。  
2世紀以上にわたる甲骨を、字形、書風、文法、等から、初期の武丁から末期の帝乙・帝紂までの5期に分類区分したのだ。  
甲骨文字に深い造詣を持ち輝かしい成果を上げたもう一人の人物は郭沫若である。彼は独自の歴史観で古代中国を論じたが、その考証に広く甲骨文字を引用した。それまで発見されている甲骨全て網羅分類した「甲骨文合集(第一集)」が出版されたのは1979年、この編集を中心に進めて来た郭沫若はその前年に亡くなっている。  
それまでに発見された甲骨は16万片、甲骨文字の数は約4500、解読されている文字は約2000と言われている。殷人は信心深く、殷朝は典型的な神権政治を執り、重要な意思決定は全て占いに基づいた。  
その占いに用いられたのが、亀の甲羅や牛や鹿の肩胛骨である。  
珍しくは、鹿の角、人間の頭蓋骨の例もある。  
これらの骨・甲羅などの裏側にすり鉢状のくぼみをつけ、そのくぼみに燃え木(熱した青銅製金属棒とも言われる)差し込む。  
表側に生じたひび割れの割れ目の形で占い、判断を甲骨に刻み付けた。  
更に、占いに対しての結果も刻まれた。  
これらの文字が甲骨文である。甲骨文に記された占いの内容は、祭礼、戦争、農作、狩猟、人事、出産、病気、天候、に及ぶ。  
占いばかりでなく、稀には、暦、甲骨の保管等の記述も見られる。  
驚かされるのは、これらは単なる記録に留まらず、文字の配置、構成等の巧みさ美しさには、古代人の美的感覚が垣間見られるのだ。今日、我々はその芸術性の高さに魅せられ驚くのだが、古今を問わず、美しさを追求する精神の様なものが、人間の奥底に秘められているのであろう。  
一寸、脇道にそれるが、ここで、絶世の美女、妲己が登場する。  
殷朝最後の王、紂王は極めて聡明で知力胆力腕力にも秀でていた聖君であった。しかし、何時しか妲己の色欲に溺れ、堕落の一歩を辿る。民に重税を課し、刃向かう者、意に沿わない者を徹底的に弾圧し、油を塗った胴柱に火を付け池の上に渡し、罪人を歩かせて落ちるのを楽しむなど、残忍な刑を科したと言われる。度を過ぎた享楽「酒池肉林」の由来は紂王に有る。彼は、肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、欲しいままにこれらを飲み食いしたと言う。一方で、殷伝統の神を重んずる考え方に反した行動も多かった。そんなことから、諸侯や人民の失望を買い、紀元前1550年頃から紀元前1100年頃まで続いた殷王朝は、太公望と周武王らの殷周革命で、滅び去ってしまうのである。  
ここで美女妲己の為に弁明しておく。妲己悪女説は、何時の世でも同じように殷を滅ぼした周が周朝を正当化すべく、紂王を暴君、妲己を悪女にしたてあげた、というのが専らの通説だ。  
もう一つ余談。殷の正式な国号は「商」であった。周によって滅ぼされた殷民族は宋に追いやられたが、宋は豊かな土地ではなかった。殷の人々は交易に活路を見出す。これが「商業」、「商人」の語源という。  
かくして、殷王朝の存在が歴史上の事実として明らかにされたが、その後の研究で殷王朝の前の王朝、夏王朝の存在も明らかに成りつつある。1990年までに、合計41回の二里頭遺跡が発掘された。二カ所の宮殿址、住居址五十余、青銅器の工房址、大量の青銅器、トルコ石の象嵌を施した青銅製の牌飾などが出土し、夏王朝が二里頭に存在したとする確度が高まった。  
夏王朝の期間は「紀元前2070年から紀元前1600年」とされている。殷王朝に於ける甲骨の如き、夏王朝の存在を実証するものは見付かっていないようだ。更に2004年には、夏王朝の王城と見られる巨大な宮殿址が発見されたと報道されている。しかし、前述の記号・符号・紋章らしきものと甲骨文との断絶は未だ埋まっていない。
金文  
「鼎の軽重を問う」と言う故事がある。鼎は王権の象徴であった。殷代後半からだろうか、王族の厳粛な儀式を執り行うのに欠かせないのが鼎であった。青銅器製法が何処からどのように伝わったのかは明らかではないが、殷を経て周代に世界に類を見ない青銅器文明が花開くのである。青銅器に鋳込んだり彫ったりした文字を総称して金文と言う。  
金文は甲骨文字とほぼ同じ殷時代から発展したものとされているが、決定的に違うのは、甲骨文字が発見されたのがほんの100年ほど前なのに対し、金文は既に漢代から発見記録が残り宋代には本格的な研究が始まっていり。長い間、金文学、金石学として中国文字研究の中核をなしてきているのである。  
金文は、後世になって書かれた書物である史記などとは違い当時の実録実記であり、当時代を研究する上で貴重な資料となっている。しかし、当時の青銅器は古美術品としての価値の高さから、当時の収集家などの個人的な蒐集品として秘蔵され、また、盗掘等によりその出所や出土時期などが不明確なものが多く、一連の研究を妨げていた。  
殷代後半に多くみられる甲骨の使用は周代に入ると急速に衰え、青銅器の使用が盛んにな金文の全盛期を迎える。  
殷代では青銅器は専ら祭祀の場で使われ、銘文の内容は祖先、部族、身分等を表す紋章図象記号の様なもので、銘文も殆ど10字に満たないものが多い。  
周時代になると神聖なものであった青銅器が、鋳造者の功績等を称える記念品の意味が強まり、銘文の内容も、主君からの賜物、君主の命令、家族の記念、裁判の記録、部族間の契約等々多彩となってきた。  
当時の武将盂が庚王より賜った策命を記念した大盂鼎は西周前期の作とされる。当時の筆写体が正確に残されていて貴重この上ないこともさることながら、この銘文である策名は、官職、土地を与える辞令であり、当時の政治思想を示す歴史学上の多くの情報をも与えているのである。  
書の歴史より外れるので詳細は省くが、以後の中国の政治思想の根幹となる「天命」が読み取れるのだ。  
周王が老公に政治を託すという銘文のある毛公鼎は、西周後期(BC827)の頃の作と考えられている。これまで発見された青銅器の中で最も長い銘文である。清末に出土し数々の収集家の手を経て現在は台北故宮に安置されている。  
甲骨文が硬い骨にナイフで刻み付けた直線的な鋭く細い線からなる文字であるのに対し、初期の金文は、青銅器を鋳造する時に文章も鋳込んだものであり、柔軟で曲線が多く装飾的な線からなる柔らい肉太な文字である。  
大盂鼎、毛公鼎は周代前後期を代表する青銅器の双璧といわれる。  
このように、青銅器は子々孫々に伝える宝器として造られたものであり、器形や紋様と同じく銘文の内容・見栄えにも気を配り、それなりの風格を持たせる必要があったのである。  
周王朝は紀元前1121年から前256年まで続く。  
前1121年から前770年までを西周、都を洛陽に移した前770年から前256年(前222年説もある)までを東周と言う。東周時代には周王朝の権力は失墜し、諸侯が覇を争う群雄割拠の時代が到来する。これが春秋戦国時代である。  
地方色が強まると文字表現も、地方ごとに独特な雰囲気の装飾的な文字が出現するようになる。又、西周時代の金文は鋳込んだ鋳款が多かったが、春秋戦国時代になると、刻み込んだ刻款が多くなる。自由奔放で重量感の有った筆勢も繊細になり活き活きとし表現になってくる。  
均整の取れた構成、一本一本の線の美しさ、清清しさ、一字一字もさることながら全体としての淀みない調和、当時の書家の命がけの美の追求が垣間見られる。我々の臨ではとても表現し切れない。  
この時代になると、文字を書き記す素材は、従来の甲骨、青銅器から、石、玉、布等に多様化し、磨崖碑や石碑、絹地に書かれた 帛書(はくしょ)などとして次の時代に展開してゆく。 かくして、神への問い掛けとして作られてきた文字が、人と人との情報伝達の道具としての一般化するのである。
篆書  
便宜上、甲骨文、金文と素材面での分類したが、甲骨文、金文も字体そのものは篆書体である。  
西周の最後の王・幽王は后・褒?(ほうじ)は絶世の美女だったが、彼女は決して笑顔を見せなかった。彼女を溺愛した幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を講じた。或る時、彼女は高級な絹を裂く音を聞いて微かに微笑んだ。幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いたが、次第に微笑が減っていった。と或る時、有事でもないのに手違いで烽火が上がり、諸侯が慌てふためいて王宮に駆け参じた時、その有様を見た褒?(ほうじ)がカラカラと笑った。再び褒?(ほうじ)の笑顔を見たさに幽王は幾度も烽火をあげ諸侯を集めた。後に真の反乱が起きた時、烽火を上げたが誰も馳せ参じる者がなく、あっ気なく西周は滅びるのである。褒?(ほうじ)が滅多に笑わなかったのには訳がある。彼女は褒の国が周に負けたときに、献上品として差し出され幽王の寵妃になったのだ。国を滅ぼされた恨み、恋人と裂かれた辛み、そんな恨み辛みが有ったというが如何。  
西周王朝滅亡が紀元前771年、始皇帝が全国統一したのが紀元前221年、周王朝の支配力が弱まるこの500有余年を春秋戦国時代と呼ぶ。乱立した諸侯が競い合い当初200有余の大小国も次第に淘汰され、七大国が覇を争う戦国時代に突入する。各国は他国を凌いで主導権を勝ち取るべく自国を強化に凌ぎを削る、政治的、社会的に如何に新政策を打ち出すかに心血を注ぐのである。謂わば自由競争の時代であった。各国は優れた学者、思想家を求め合った。所謂、諸子百家であり、後の中国の諸思想の基礎となるのである、その先駆者が孔子であり、墨子、老子、荘子、孟子、荀子、韓非子と、華々しい百家争鳴の幕が開くのだ。それぞれの国家が独自の制度法令を作ると、当然、文字も分化し各国が独自の文字表現をしはじめる。  
この時代になると、文字を書き記す素材は、従来の甲骨、青銅器から、石、玉、布等に多様化し、磨崖碑や石碑、絹地に書かれた 帛書(はくしょ)などとして、次の時代に繋がってゆく。  
当然、諸侯間の同盟、裏切り、内紛は日常茶飯事で有ったであろう。国家間、或いは国内の家臣との間で結ばれた同盟の証となった盟書が残っている。先の尖った石、玉などに筆を用い朱で書かれているものが多い。朱は元来、血であったとも言われる、所謂、血書なのだろう。  
青銅器等への形式的な銘文と違い、当時の日用書に近い文字で書かれているに違いない。 
1965年、越王勾践の銘文の刻まれた剣が発見された。「臥薪嘗胆」の故事で名高い越王勾践だ。「呉越同舟」と言われる程の因縁深い呉と越の争い、越王句践に滅ぼされた呉王闔閭の子,夫差(ふさ)は越王句践を激しく怨み、復讐を誓い,薪の上で寝起きし、恨み忘れぬよう耐え(臥薪)、軍事強化に励み、遂には越軍を打ち破る。敗れた越王句践は夫差の奴隷となる。しかし、句践は肝を嘗め苦さを味わい(嘗胆)、夫差への復讐を誓った。越は密かに国力を蓄え、軍事力を養う一方、呉の国力を弱体化すべく数々の策を講じた。その一つが呉王夫差への美女の献上であった。多くの美女の中から選び抜かれたのが西施である。呉王夫差は西施の美貌、女色に溺れ、遂には越王句践に滅ばされるのである。美観で名高い西湖は西施の名に因んだという。西湖付近は中国でも有数の美人の郷として知られている。  
その西施も眺めたかもしれない勾践の剣だ。当時の技と美の限りを尽くした逸品だ、墓の中で発見された時、鮮やかな光を発していたと言う。銘文は華やかな鳥文で書かれ、当時の絢爛豪華な王宮での暮らし振りが伝わってくる。  
全国統一するより以前の秦の遺物とされる石鼓、石に刻み込まれた文字としては最古とされている。後に流行する石碑の起源である。石鼓は唐代に発見され、当時から古字を刻んだ貴重なものとして評価されていた。唐から秦をかえりみれば約1000年、我々が唐をかえりみるのとそう変わらない。  
戦国時代の秦で作られた珍しい青銅器がある。食器の一つであるが銘文が名高い。内容は秦国臣民の団結を促すものだが、用いられている文字は自由奔放、伸び伸びとしているが何処かに風格を感じる。この食器の文字で画期的なのは、もしかしたら、この文字を描いた方法が印刷の起源かも知れないのだ。書かれた文字の12種の文字は同じ文字が二度使われているが、その文字は大きさから字画から全く同じ文字なのだ。即ち、現代の活字の様なものを用いたと推測されるのだ。紀元前221年、中国を統一した始皇帝は中央集権の実現に向け、郡県制度の施行、文字、車軌の統一、度量衡、貨幣制度の統一等の諸政策を講じた。一方で、思想統一を図るべく強行したのが、460人もの儒者を生き埋めにした「焚書坑儒」である。  
最も重要な政策は文字の統一であった。丞相李斯(りし)に全国の標準となる書体の作成を命じて作らせたのが小篆とよばれ、それ以前に秦で使われていた字を大篆と言い区別する。この大小は大きさでなく旧新、親子ほどの意味だ。  
紀元前219年、諸国を巡視した始皇帝は自分の功績を石に刻ませ、泰山の他全国6ケ所の山に建てさせた。これが石碑の起源と言われる「秦始皇刻石」であり、標準書体の小篆で刻石した。泰山刻石、琅邪台刻石のごく一部が残存している。  
泰山刻石は書者名が李斯と判る最古の文字資料である。  
七大国が覇を争った戦国時代、それぞれの国家が独自の制度法令を作り、当然、文字も分化し独自の文字表現をしており、外交文書の作成などの行政面での不具合もあったのであろう。  
画期的な統一政策は度量衡の統一にもみられる。この政策を推進する為に標準器が作られた。そして、その標準器の表面には自己の業績を称える詔勅を書き、その文字には統一したばかりの標準書体である小篆を用いたのである。  
その政策が余りに性急だったのであろう、僅かの15年足らずで、大帝国秦はあっという間に滅んでしまう。  
小篆への文字統一の最中の秦の滅亡であったが、あたりはには、既に隷書化の波は押し寄せており、甲骨文から小篆まで1000年の篆書の時代が終わりを告げるのである。  
以後、唐代の李陽冰、清代のケ石如、呉譲之、呉昌碩等が好んで篆書を書いた。次代を担った漢帝国は隷書をその正式書体とする。
隷書  
始皇帝稜の頂上から辺りを見廻した事がある。1998年のことだ。東西350m、南北345m、高さ76mのこの帝墓の地下には、金銀を散りばめた広大な地下宮殿が眠っていると言われる。水銀が流され、弓矢の仕掛けが施されているといわれる宮殿、全貌が明らかにされるのは何時の時代だろうか。それ程に大規模で貴重な文化遺産なのだ。始皇帝陵の東1.5km程のところに、陵を守るかのごとく整然と戦闘隊形を組んだ陶製の軍団が発掘された。これが兵馬俑だ。確認しただけでも8000体の兵士像が埋もれてるそうだ。  
天下統一を達成し絶大な権力を手中にした始皇帝は、更に磐石な国家基盤を構築すべく諸政策を打ち出した。その一環が文字の統一である。諸国に分散しつつあった篆書を統一し小篆を正書体としたのだ。しかし、篆書は直線が多く速記性に欠け実用には不向きな書体であり、筆写に便利な曲線を多く用いる新しい書体が急激に普及し始めるのである。  
性急な諸政策、宦官の横行等で斯くも強大な秦朝は急速に弱体化し、項羽が立ち、項羽を打ち負かした劉邦が漢朝を成立させる。  
漢代の前後から、篆書に変わり隷書が、正書体として一般に広く通用するようになってきた。隷書の「隷」とは下級役人の意とされる。王やその一族などに限って扱われてきた書が、下層に行き渡ってきたのであろう。  
当然ながら、篆書から隷書へ一気に移った訳ではない。戦国時代から、既に、木簡や竹簡などに日常的に用いた筆写体に隷書風な筆致が見られるのだ。  
秦代の竹簡「睡虎地秦簡」の文字は若干の篆意の残るものの、明らかに隷書体であり、小篆が正書体であった秦代に於いても、行政文書などの実用書には隷書体が用いられていたことが判る。  
帛書.・戦国縦横家書。2000年前の女性の屍体の発見で世の震撼せしめた「馬王堆」からは、多くの副葬品が発掘されたが、文字の歴史上、極めて貴重なのが帛書と竹簡である。後年、紙が発明されるまで、文書や書簡は、絹に文字を書く帛書や、竹や木を削った札に書く竹簡、木簡が普通であった。  
魯孝王刻石。篆から隷への過渡期にある書であり、まだ、波磔は見られない。「年」字の脚の長さに篆書の面影を残す。古隷の代表する碑と称される。  
莱子侯刻石。古隷から八分に移行する過渡期のものだが、素朴な力強い筆勢の中に奥深い雅かな味合いを見る。この時期の書の中で、私が一番好きな刻石である。この時期の篆書と隷書の中間的な書体を「古隷」とも「草篆」とも呼ぶ。  
開通褒斜道刻。劉邦も孔明も関羽、張飛も通ったであろう石門崖壁に刻されていた摩崖書。これも古隷から八分に移行する過渡期のものだが、波磔は見られない。素朴で自由闊達、現代画に通じる調和を感じる。  
褒斜道は長安から蜀へ抜ける険しい街道の一つで、古来より数々の歴史の舞台に登場する。断崖絶壁の岩に穴をあけ桁を差し込みその上に板を渡して道を造った。これを桟道と言う。  
前漢時代に入ると、実用的な木簡や竹簡に於いては多彩な書風が横行して、ほぼ同時代の石刻や金文の書風とは全く異なった様式を見せ始める。  
かくして、刻石において隷書の全盛期を迎える一足前に、実用書においては隷書の時代に突入したのだ。自由奔放な表現の中に、長く伸ばした縦画の収筆や長い横画の波磔などの装飾的な意図が見られる。美意識の強い誰かの悪戯心から来る一寸した工夫が、巷の評判になり流行を誘ったのではないだろうか。  
隷書に様々な書風が誕生する一方で、隷書の誕生と殆ど時を開けず書の分野において大きな変革が生じる。実用書の分野では隷書から草書、楷書、行書の創造、草行書の筆意の出現である。日常の実用文字をもっと速く書きたいという速度への要求からだったのであろう。  
殷の妲己、周の褒?(ほうじ)、呉の西施と傾国の美女を紹介したが、漢の初代王の劉邦の正室・呂雉は、唐代の則天武后、清代の西太后と並んで中国の三大悪女と言われる。地方の小役人の普通のお嬢さんだった呂雉は、内助の功を発揮して夫・劉邦の建国に尽力したのだが、劉邦の没後、我が子恵帝の皇太后として専横を極める。恵帝の有力なライバルを次々に殺害し、劉邦の側室の戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき声をつぶし、便所に入れ人豚と呼ばせたと言う。  
 
四面楚歌を聞いて項羽は敗北し、勝利した劉邦が建国した漢は、幾度もの盛衰を繰り返しながらも、前漢、後漢と四百数十年も継続した。漢民族の漢は漢王朝に由来する。  
霍去病、張騫等をして西域を攻め治め、更に、南方の雲南、ヴェトナム、東方の韓国等へ領土を拡大する。金印として知られる漢委奴国王印、司馬遷の史記、紙を発明?改良?した蔡倫、この時代の産物だ。  
この時代、もう一人忘れられないのが中国の四大美女の一人、王昭君だ。彼女は漢王朝が匈奴を懐柔すべく匈奴王のもとに送りこまれた。政略結婚の犠牲となり蛮国へ嫁ぐ王昭君に対し人々は憐情の涙を流した。匈奴では賢王妃と仰がれ、フフホトの王昭君墓は今でも人が絶えない。四大美女の中で一番人気が高い。強力な漢王朝も幼帝が続き、宦官と外戚との抗争、官僚や学者の弾圧への反抗、地方では農民の反乱、豪族の割拠等で,約半世紀続いた王朝も衰退の一途を辿る。  
書の分野では、後漢に入ると刻石華やかな時代に突入し数々の名碑が誕生する。「古隷」は徐々に波磔を持った「八分」に変化して行く。隷書は速記性に加え芸術性をも追求するようになるのである。古隷には波磔がなく、波磔を持ったものは八分もしくは八分隷と呼ばれる。  
西狭頌 / 西狭の険しい道路を修復した功績を頌えた摩崖書である。素朴で野趣に富み、雄大でおおらか、隙のない均整の取れた構成には品格がある。  
張遷碑 / 八分の形に幾分崩れが見え隠れし、次代への書風の変化が覗える。  
礼器碑 / 乙瑛碑、史晨碑と並び孔廟三碑とされ、八分隷の最高峰と言われている。精妙な用筆、線質は穏やかだが力強い。古来より隷書の手本として最上とされている。  
曹全碑 / 八分隷の典型。古来より礼器碑ととども漢隷の双璧と称される。理知的で均整の取れた構成、女性的とも言われる優美さ、流れるような趣のある線質、波勢、漢隷の究極として未来永劫に語り続けられるのであろう。  
乙瑛碑 / これも古来より八分隷の典型と言われている。書風は整斉にして謹厳な結構を見せており、筆力は雄健で緊張感を漂わせている。  
石門頌 / 開通褒斜道刻石と同じ石門崖壁に刻されていた摩崖書。書体は八分隷であるが、のんびりとしたうねりを持つ自由闊達な運筆は、野趣味を彷彿させる。「命」字に見られる長脚を長く伸ばす筆法は、前漢から後漢にかけての簡牘類と相通じるところがある。
草書・行書・楷書の出現  
漢の弱体化に伴い各地で群雄が割拠する。中でも黄巾の乱は全国的な規模に及んだ。この乱を平定した曹操、蜀を立てた劉備、揚子江か流域で呉を立てた孫権、所謂、三国時代の到来である。  
先年、揚子江を遡って白帝城を訪れた。劉備の終焉の場だ。関羽、張飛、孔明が左右に控えた蝋人形は臨場感があった。関羽は中国の至る所で祀られている、横浜の中華街にもある。後に訪れた成都の住民達からは、劉備よりも孔明への熱い思いが感じられた。中国人の関羽、孔明への思い入れは熱狂的だ。関羽と孔明をたして二で割ったのが現代の周恩来では無いだろうか。中国国民の周恩来に寄せる思いは熱い。  
漢王朝の思想的な礎であった儒教が衰え、自由、自然思想が流行するようになると、書の分野でも大きな変革が生じる。漢代の質実剛健から情緒、幽玄、変化を求める方向に転じ、形に捕われない自由闊達な書体、草行書の筆意が出現する。隷書から章草、章草から草書が、また、 隷書から楷書から行書が生まれた、と言われるがこの数百年で複雑に変化して来たのであろう。 日常の実用文字をもっと速く書きたいという速度への要求もあったのであろう。  
後漢に流行した石碑は殆ど見られなくなる。曹操は石碑の建立を禁止したのだ。石碑に変わって墓碑が見られるようになる。  
草書の創始者とされる張芝は後漢後期の人、池の辺で書の修行に精進し池が墨で真っ黒に染まったと言う。張芝の書は此処に上げた草書帖の他幾つか伝わっているが、信憑性のある物は皆無とされている。ただ、後漢書に張芝に関する記述が有り、歴史書に書人として名の載る最初である。  
臨書してみて改めて感じるのだが、この書が2000年近く前の作品とはとても思えない。全体のバランス、鋭い線質、艶やかささえ感じる運筆、流石、草聖とうたわれる草書の名手の名を恥じない。  
三国時代の書の双璧と言われるのが魏の鍾 (151−230)と呉の皇象だ。  
皇象は、古来より章草の名手と言われ歴史書にも、「呉国はおろか中国内の能書家にも及ぶものは居ない」「一代の絶手である」とされ、後漢に流行した章草の独特な筆法をよく伝え、切れ味の良さを称えられている。しかし、急就章を始め繰り返しの翻刻で殆ど原型を留めていないとも言われる 。 
鍾は魏の要職にあって政治家としてその手腕は高く評価されている。夜布団に入ってから布団に指で字を書き布団に穴をあけるほどだったと言う。古書に「鐘 は天然(天質自然の妙味)において第一である」とあるが、無心に自然体で線を連ねた筆法は含蓄に富みリズムすら感じる。書風は幾分隷意の趣が残る。「その書は絶世の神品」とされ、王羲之の師筋とも伝えられたこともあいまって、後世になると益々その評価が高まった。現代でも、楷書を学ぶなら鍾 とも言われ、鍾風の書を眼にすることが多い。しかし、鐘の書として伝わっている書は全て宋・明代の翻刻である。  
索靖(239-303) 三国から晋時代を代表する書人として名高い。後に楷書の神様と言われた欧陽詢が、或る山中で見つけた索靖の石碑の素晴らしさに惹かれ、三日間もその碑に見入ったという話が残っている。  
陸機(261-303) 呉の名門に生まれ、呉の滅亡と共に晋に仕官する。幼時から秀才と称され、晋の高官に、「呉の領土を手に入れた事よりも陸機を手に入れた事の方が大きい」と言わしめた、とか。その書をみてもその表裏に才気が迸り出ている。陸機は曹植以来の才子とも言われた。その曹植だが、武人としてよりも詩人として後世に名を残した曹植は、曹操の三男として生まれその詩賦の才を曹操に愛された。長男の曹丕との王位継承の争いに破れ、生涯、曹丕の嫉妬と猜疑に追いやられ悲運な生涯を送った。その曹植の書は残っていない、と思う。琴線をくすぐる詩が幾つも残っている。  
「七歩、歩く間に詩を作れ、さもなくば死罪に処する」と兄曹丕に問い詰められた曹植はその場で詩を作った。  
豆を煮てそれで熱いスープを作り  
味噌を精製してスープの中に入れる  
豆がらは釜の下で燃え  
豆は釜の中で熱さに耐えず泣く  
豆も豆がらも元々同じ根から生まれ出た兄弟であるのに  
何をそんなに急いで豆がらを燃やして豆を煮るのだ  
何とも切ない詩だ。  
三国時代で忘れてはならないのが貂蝉、中国の四大美女の一人だが認知度は今一つだ。三国時代の初期、権威を振るった董卓とその義理の息子呂布、二人を色仕掛けで誑かし、呂布をして義父董卓を殺せしめた妖女だ。貂蝉は架空の人物らしい。
王羲之・父子  
書道のことを入木と言うことがある。木板に王羲之が書いた字を削ろうとしたが、文字が板に滲み込んでいて仲々削り取れず、3分削ってやっと取れたという逸話に基ずく。  
三国時代に華々しく孔明と知略を競ったかの仲達(司馬懿)率いる司馬一族が魏国の実権を握り魏を滅ぼし晋国を起こす。  
しかし、骨肉相食む内乱が北方の異民族の侵略反乱を許し、司馬懿の曾曾孫の代で晋が滅びる。 これまでの晋を西晋、東に晋一族が新たに建国した晋を東晋と呼ぶ。西晋は4代52年間、東晋は11代104年間を数える。西晋の滅亡で、北方は争乱の巷と化し、中原から東晋へ避けた高官、豪族は8・9割に達したといわれ、支那文化の中心は期せずして揚子江流域に移るにいたった。五胡と呼ばれる異民族の乱入で中原は大いに乱れた、所謂、五胡十六国の戦乱時代である。一方、揚子江流域が文化の中心となり、華やかな六朝文化が実を結ぶのである。このような時代背景の下に、書の分野に於いても、魏・西晋時代に並行した新旧書体が、東晋の時代に入ると、草書、行書が確立され、楷書の芽生えも出て来た。混乱の際、後に王羲之を生む王一族が、鐘ヨウ、索靖の書を携えて揚子江を渡ったと伝えられる。  
王羲之に入る前に、書の歴史上忘れてはならないのが李柏文書である。  
李柏文書は竜谷探検隊、ヘディン等により1900年代初頭に発掘された大小22片の古文書で、行書、草書、章草、楷書の四つの書体が見られる。行書、草書の完成、楷書の芽生えを示すものとして貴重である。李伯は正史にも記されている人物で、この文書が書かれたのは王羲之22歳から24歳の時期に当たる。  
王羲之。生没年に諸説があるが、東晋の300年代に生没している。政治家であるが政治家としてよりも、書道家として名高い。後世、書聖と言われ、末子の王献之と併せて二王と呼ばれる。近代書道の体系を作り上げ、後世の書道家達に大きな影響を与えた。唐の太宗は王羲之の書をこよなく愛し、これを収集し、蘭亭序をはじめ王羲之の書をすべてを自身と共に陵墓に埋めたと言われている。王羲之の真筆は現存しないと言われており、王羲之と言われる書も全て複写したものか拓本のみであると言われている。王羲之の行書作品は「蘭亭序」「集王聖教序」が名高い。   
「蘭亭序」は古来より王羲之の最高傑作とされ、書道史上最も有名な書作品である。数ある王羲之の書の中で唯一草稿が作品として残っているとされる。真蹟は現存せず、これも複製です。王羲之の人柄を慕う全国の名士を蘭亭に招き、曲水の宴を開き、その時の詩集の序文草稿が蘭亭序である。王羲之は何回も同じ物を書いたが、この草稿以上の清書は出来なかったと言い伝えられている。  
多くの王羲之の書を集めた太宗だが、蘭亭序だけはどうしても手に入らなかった。王羲之の子孫にあたる智永の弟子弁才の手に有ることを知った太宗は、苦心惨憺の末にこれを騙し取り、終には自墓に副葬させたと言う。王羲之の真跡は現存しないが真跡に最も近いのが蘭亭序とされている。太宗が唐代の能筆に臨書、摸刻させた墨跡や模刻は多く伝わっている。  
集王聖教序 / 太宗の命により王羲之の墨跡の中から文字を集めて作った集字碑である。  
草書作品は「十七帖」「喪乱帖」「孔侍中帖」「快雪時晴帖」が名高い。  
十七帖 / 極めて洗練された草書で、古来、草書中最高とされている。唐代に学生の手本用に摸刻されたものが現在に伝わっていると言われる。今日の草書とは異なり、殆ど連綿体は見られず、一字一字が独立している。  
唐太宗の命で王羲之の書を分類整頓編集されたものである。何巻かの巻物にしたう中の手紙の秀作29帖が収められている。  
孔侍中帖 / 奈良時代日本へ伝わり、桓武天皇等を経て昭和の始めに加賀前田家の蔵された。  
快雪時晴帖は、手紙とその他の断簡を綴り合わせたもの。羲之頓首。快い雪が降り、時には晴れ間がでたりしていますが・・・・で始まる内容の通り、如何にも悠々自適な生活振りが覗われ運筆も屈託なく平穏さが滲み出ている。そんな気軽な手紙に中にも王羲之ならではの優美さが随所に見られる。清の乾隆帝はこの書をこよなく愛し、王献之の「中秋帖」、王cの「伯遠帖」と合わせて三希堂に保存した。台北の故宮博物館にはこの三希堂を模した一角がある。  
喪乱帖 / 王羲之の代表作の一つ。356頃書かれたものが、唐太宗時代に複製され、奈良時代に正倉院に、以後、桓武天皇から天皇家、近衛家を経て、明治10年再び天皇家へ、現在は宮内庁・三之丸尚蔵館に蔵される。この複製は双鉤填墨で作られている。双鉤とは文字の上に薄紙を置いて輪郭だけを線で写し取ることで、写した文字の輪郭の内側を墨で塗り同じような文字をつくることを双鉤填墨という。極めて緻密な複製の方法で真蹟に最も近い形を伝えている。  
楷書作品は「楽毅論」「黄庭教」「東方朔画賛」が知られる。  
戦国時代の将軍・楽毅について書かれている、作者は魏の夏侯玄。宮城谷昌光の小説「楽毅」でも知られる。光明皇后の臨書が残っている。  
王献之. ( ) 王羲之の第7子。兄弟の中でも特に書の才能に恵まれ、父とともに「二王」と併称される。彼は行草書に秀で代表作は中秋帖。羲之には無い華やかで自由奔放、優雅な書風は妍媚な趣きがるとさえされた。連綿を多用した書風は後世代の米?、張旭・懐素、傅山、王鐸等に大きな影響を及ぼした。 
 
文字の巨人 橋本和夫

 

 
その1 タイプフェイスとの出会いと太佐源三先生 
僕とタイプフェイスとの出会いは、大阪に本社のあるモトヤに入社したことに始まります。とくに文字のデザインを志望したのではなく、普通に会社勤めをするつもりで応募したんです。  
その面接のときでした。太佐源三さんという方が出て来られて、『ああ、橋本さんですか。これちょっと帰りまでに書いてください』と手渡されたのが、二インチの原字用紙と筆と墨でした。これで田んぼの田の字を、二ミリの線で『フリーハンドで書いてください』というわけです。白紙に直線を書くのとは違い、グラフ目にそって直線を書くことの辛さは、経験者でないとわからないものでしょう。いまでも右腕から肩にかけての辛さは貴重な体験として印象に残っていますね。  
それから、その翌日だったか翌々日だったか、『それじゃあ橋本さん、原字に行ってもらいます』というわけです。『原字』なんて初めて聞く言葉だから知らないでしょ。『げんじ』といえば源氏と平家ぐらいしか知らないわけですから(笑)。それで原字室に配属になったんですが、そのときはまさか、この仕事が僕のライフワークになるとは夢にも思わなかったですね。  
原字室に行ってみると、明朝やゴシックなどの話が出るし、ベントンやパターンなどの専門用語は聞いたこともない言葉ですからね。最初はとまどいました。それまで活字の実物を見たこともなかったですし、モトヤの職場見学で初めて活字のできるまでを知ったほどでしたから。  
それが昭和三〇年、僕が二〇歳のときでした。 
会社案内に『活字の製造・販売』とあったので、モトヤが活字の会社であることは知らされていましたが、実際、自分がここで文字を作る仕事に就くとは思いもしませんでした。しかし当時は、就職して配属されたところが自分の天職であるといった考え方がありましてね。たまたま営業で配属されれば、いっぱしの営業マンになるまで頑張れと。親からもそのように教育されていましたしね。  
その日から、明朝体、ゴシック体の活字書体のデザインの基礎を教わりました。結局モトヤには四年ほど在職しましたが、最初は、細い明朝体や、あるいは正楷書体などの書体を『これを墨入れしなさい』といわれて、鉛筆のアウトライン書きの文字に、ラインからはみ出さないように忠実に墨入れをします。この作業を通じて文字デザインの細部を習っていきました。  
なにしろ素人ですから、最初の一カ月の間は、一文字を幾度も書いては修正をし、先生に訂正箇所を指摘されてはまた書き直すといった作業の繰り返しでしたね。とにかく覚えようと必死でした。たとえば一週間かかって点ひとつ完成したなどというのは、現在では考えられないようなことですけれども。  
当時は、見よう見まねで師匠の技術を盗めというのが普通のことでした。質問をすると丁寧に教えてはいただけるんですが、じゃあわかったかというと、そこはまた教わる側の資質に依るわけで、全然わかりもしないわけです(笑)。要するに、技能が先で、理論はあとからついてくるという教わり方でしたね。まあ、典型的な師匠と弟子の関係というんでしょうか。 
僕には、タイプフェイスデザインの師匠で、先生と呼ぶ人が二人います。そのうちの一人が、素人の僕に一から手ほどきをしてくださった太佐源三先生です。太佐先生は大阪朝日新聞で活字書体のデザインをされた方と聞いています。現在だったらさしずめ『太佐部長』でしょうが、僕たちは『太佐先生』と呼んでいましたし、今でも同じように呼びます。職場では師弟関係でしたから、一から始まった文字デザインの勉強も身近なもので、難しい中にも気楽に取り組めていたために、案外技能が身についたのかも知れません。これは、太佐先生の人柄にもよるのでしょう。理屈はわからないけれども、とにかくこういうときにはこうすべきなんだとか、こうなるんじゃないかとか、こういうところはこうすれば少しは文字が生きるようになるとかね。文字がよくなる理屈はと問われれば明快な答えはできないけれども、少しずつ、文字のポイントを改善する術を学びましたね。  
太佐先生から僕は、文字の画線をフリーハンドで描くことを教わりました。習いはじめは烏口や溝尺などは使わせてもらえなかったですね。明朝の『永』をフリーハンドで書くことを指示されました。この意味は、画線の力を入れるところや抜くところなどの動きを体得するためです。彫刻の活字は、彫刻刀を自由に動かして文字を彫るのですから、いわゆる生きた線の文字が生まれたのでしょう。手書きの線は、画線の動きを意識するためか、不思議に自然な線質になるものでした。このようにして線質を見分ける能力が開発されました。  必ずしも平行線が一番いいわけじゃなくて、たまたま広がっていくことだってあるわけですよ。意識しないでも広がっていっちゃうことってあるわけです。初めは太くて、だんだん細くなって、また太くなるなんてこともあるしね。初めは細くて、途中は太くなって、細くなるってことだってあるわけですよ。それがダメの線ということは言えないわけで、ある条件のときはその方がいいということもある。そういうことで、フリーハンドで字を書くという訓練はさせられましたね。  
文字の形や筆の動きの基本を学ぶには、中国古典の『欧陽殉・九成宮醴泉銘』の拓本を見なさいと、太佐先生はよくいわれていました。文字デザインを始めると、字形などをデザインするほかに、文字を評価することの能力も必要になってきます。この評価能力が高まらないと、結局、文字がわからないことになります。徐々に古典の筆跡を見る意味が理解できるようになり、文字を知るには書道も無視することはできないと考えて、書道(手習い)を始めたのもこのころでした。書道は趣味としていまだに続いています。  これらの事ごとは、後に仮名や筆書きの文字をデザインすること、文字を監修するうえで、僕にとって大きな習得でしたね。 
ベントン用の文字デザインが始まる以前は、手彫り彫刻の活字が主流だったのです。印鑑を彫るのと同じ要領ですね。それが昭和二〇年代に入ってベントン彫刻機が導入されはじめました。この機械は、二インチ角にデザインした文字を、機械的に九ポイントサイズなど必要とする活字の大きさに小さく彫刻するものです。この機械にかけるのに文字を大きくデザインした原字というものが必要になったわけです。  
当初は、明朝体やゴシック体などの活字書体の文字デザインは、活字彫刻を専業としていた人たちが、紙の上に文字をデザインする世界の元祖になったのだと思います。文字を書くことが上手な人が、文字デザインに適応するかといえば、必ずしもそうではない。決められた四角い枠の中に文字を書くのですから、かなり制約もあって、それらの技術を身につけていることが必要であり、手書き文字が上手だということとは、ちょっと別なんですね。  
活字というのは、『活きた字』といわれるように、一文字の形・太さ・筆法・大きさなどがどの文字と組み合わされても違和感なく、適切な文字でなくてはなりません。書道では、漢字・仮名の形のユニークさを生かして、大きく書いたり、長く書いたりして文字の流れを構成して、一幅の作品を完成させます。ところが活字では、どのように組み合わせても文字を生かせるために、四角の制約があり、その中に文字をデザインするには書道とは別の感覚が必要なわけですね。それらの技術を習得していたのは、元々活字を彫刻していた人のほうですから、取り組みが容易だったということでしょう。  
モトヤでは昭和二五、六年ごろから文字デザインを始めたと聞いていますが、僕が原字室に入ったのは、ちょうどベントン彫刻の最盛期でした。在職した四年ほどの間に、僕は太佐先生から書体デザインの基本的なものを勉強させていただきました。三年、四年と文字のデザインをしてきて、いっぱしのデザイナー気取りだったんじゃないでしょうか、そのころは(笑)。文字の専門家のような自負心も生まれてきたころ、僕はまた新しい出会いを経験することになりました。 
その2 写研と石井茂吉先生 
モトヤで僕がラッキーだったと思うのは、文字デザインの作業をしながら、写真製版の作業も担当したことですね。母型作製のベントン彫刻機では、原字を書いて、それを亜鉛板の凹版にして、その凹版をもとに文字を探って、縮小された文字が彫刻されます。こうしてできたものが母型です(母型は活字鋳造の親になる)。この凹版を作製するのが、写真製版の技術です。  
つまり、紙に書いたものを写真に撮って、それを亜鉛板に焼き付けて、腐食をし凹字にして、そしてベントンで彫刻するというプロセスです。パターンと呼んでいましたが、原字作業をやりながら、僕はその写真製版も担当していたんです。  
写真製版をやるとね、原字のこういうところはもっと太めておかないとダメだとか、こういうところは細めておかないと写真製版で太まってしまうとかいうことが、よくわかってくるんです。要するに、原字をデザインするノウハウというか、文字の仕様に掲げられていない、ひとつの製品になるための工程上の許容誤差など、それらを学びましたね。活字は原字をそのまま再現することが前提だけれども、製造工程上、どうしても忠実に再現できない部分が現実にはあり、実際に活字になるまでのことを考えながら、文字はデザインしなくてはならないことを、僕はそこで習ったような気がします。原字をデザインするということは、周辺技術の認識も必要とされる大変な作業なのだとも再認識しましたね。 
写真製版では、写真の技術的なことがよくわからないので、初めて専門の本を読むようになりましたよ。とあるとき、印刷事典だったのかな、『写真植字』というのがあって、写真の応用で文字組版をする機械で、石井茂吉さんという方が発明されたものだというのを読んで、へえ、こんな偉い人がいるんだと思いましたね。  
この記事の内容から僕が理解したのは、自分がデザインした文字がそのまま再現されるのは写真ではないかということでした。後から考えれば、それはあまりに甘い考えだったんですけれども。  
そのようなことを考えていたときに、たまたま僕の兄の知人が、写研大阪出張所の責任者で来られていたんです。そこで、写植文字をデザインしたいことを伝えて紹介してもらい、東京の写研に入社することになりました。写真撮影が趣味で、コンテストなどにも出したりして、かなり気を入れていましたから、写真に関連する写真植字の将来性は未知数でしたが、まんざら無縁ではないと考えて、上京したんです。それが昭和三四年の五月のことでした。 
写研に入社して、写植用文字デザインの師匠である石井茂吉先生に出会いました。当時は『写真植字機研究所』といい、原字室にはベテランの人と、新入の僕を含めて四人でした。石井茂吉先生は文字の品位を非常に重んじる先生です。石井先生の業績は写真植字機の発明や、石井書体の開発など雲の上の人ですが、その先生から文字を教わるのですから、実に光栄でしたね。  
太佐先生も活字としての生きる文字を追求されましたが、四角い枠の中で、横は直線で、鱗は二等辺三角形でといったふうに、幾何学的な内容の説明でもありました。これは最終的に金属活字になることで、微妙な表現をしても意味がないということから、そういう描き方になったわけですね。  
ところが石井茂吉先生は、デザインした文字が写真の応用でそのまま再現されるのですから、より書道的で、手書きに近い文字の品位を備えた明朝体などの写植文字を追求されていました。石井書体は、文字の形は手足を十分に伸ばし、各エレメントは毛筆が描き出す線質などを表現して、優雅な表情を醸し出した書体です。今までの金属的な、シャープな書体に馴れた感覚には、憧れに似たものがありましたね。 
写植文字でも、四角の枠に文字をデザインすることは活字と同じですが、石井茂吉先生の求められるデザインは、筆書きが根本にあります。僕は幸い書道を習っていたので、概念的には理解ができました。文字のデザインでは、字形・太さ・エレメントなどの仕様を掲げる事項がありますが、石井先生は『文字の味』がなくてはならないと。毛筆書きでは、上品な文字や力強い文字など、書体表現の幅が広いのですが、それらの感覚を明朝体やゴシック体として、力強さや優雅さなど精神的なものに表現するには、その幅はかなり狭くならざるを得ません。だから、文字・書体に経験の少ない僕などは、ちょっと気を抜くと、機械的で味気のない字になってしまうし、柔らかくしようとデザインしても竹を割ったように堅くなることが多いものです。  
石井先生は一本の線を大切に手を入れて、画線の特質を最大限に生かした、味わいのある書体を創り上げられて、広告物の文字に必ず使用される、印刷書体の一分野を画す、石井書体を確立されました。 
僕は写研に入社したわけですが、ここでもラッキーだったのは、石井茂吉先生から直接、文字デザインの個人指導を受けることができたことです。自分の書いた文字の監修を受けるのに先生のところへ持っていくと、『橋本くん、この線はちょっと味気ないよ』と。『はい、そうですか』と答えるんですが、実はどのような味なのかさっぱりわからない(笑)。  
そのころ、石井先生の作業場は自宅の中にありましたから、一〇字ほどできると自宅に持っていくんです。それがまた大変です。監修中は先生の傍らで正座ですからね。先生の監修は微に入り細にわたるので、三時間から五時間はじっと待たされるわけです。  
文字に少し加筆して、『橋本くん、どう?』と先生が言われる。まあ、わかりませんとも言えないので、『はあ』とかなんとか答えるんですがね。今度は、『橋本くん、ここをちょっと、こうやってみたんだけれど』って、差し出される。見ると、ほんとうに起筆部にわずかな点が加筆されているんですが、小さく使ったら効果が出るものではないなあと思いながらも(笑)、反面、なるほど、何かが違ったように思われるわけですよ。  
一事が万事そんなふうでしたから、一画に二分かかったとすると、一〇画で二〇分になるわけでしょ。それが一〇字あれば、結局半日ぐらいはすぐに過ぎるんです。  
でもね、確かに違う。文字が生きている。それはすごいですよ。そういう文字の要所というか、ツボというか、生きる文字のポイントを完全に覚えたわけではありませんが、文字の見方を教わったことは確かですね。きれいに定規や溝尺で線が引けても、自然な流れの画線として見えるのではなく、錯視によって起こる線のゆがみは解消できません。画線の始・送・終筆の力が表現されてこそ、生きた線質になり、それらの画線を組み合わせた文字が、豊かな表情をもつようになるんですね。 
そのようにして、石井茂吉先生の指導・監修を受けながら、写研に入って始めた書体が、石井宋朝体です。途中で石井先生が亡くなられ、悲しい空白もありましたが、この書体の完成までには六、七年かかりましたね。僕が写研で始めたのが二四歳でしたから、終わったときは三〇歳になっていました。  
普通、宋朝体というと、竹筆で書いたシャープな書体が頭に浮かんできますが、石井宋朝は、宋朝体の概念をふまえながら、石井書体の思想が加味されて、それは優雅な宋朝体が生まれました。  
写植文字のデザインを勉強するために上京し、五、六年で大阪へ帰る予定でしたが、結局、僕は停年までの三五年余り、写研に勤めることになりました。 
活字文字のデザインの基礎を太佐源三先生に教わり、今度は写植文字で石井茂吉先生から筆書きを基本にした文字の本質や品性などについて教わったことなどが融合して、僕の文字に対する見方、考え方ができあがっていったと思いますね。  
なにしろ素人の僕がデザインの仕事を白紙で始めたのですから、教わったことは無条件で身体に入っていきました。それらの知識が蓄積されて、タイプフェイスデザインをする土壌ができ、長続きしたんでしょう。  
石井先生の指導を受けて、図形的と思われていたタイプフェイスにも人格の表現が必要なことを、理論ではなく、実体験で覚えましたね。石井書体に出会って、書体の表現にはいろいろな筆記具が表す特徴が要素になることを知り、印刷の文字、書体は読むためだけではなく、タイポグラフィーとしての価値があることも知り得ました。それはどのような書体を見てもその特徴が理解できるということです。書体をデザインすることと同様に、鑑識眼が培われたのだと思います。後年、自分が監修する立場になって、中村征宏さんの『ナール』などの書体や、鈴木勉さんの書体など、人柄からくる書体の特徴が比較的見えるようになりましたね。  
いま考えると、雲の上の存在であった活字デザインの太佐源三先生と、写植文字デザインの石井茂吉先生と、大阪と東京の二人の師匠に、文字についての技術・技能の面で教わったのですから、僕は、タイプフェイスの世界に入ってほんとうに幸せでしたね。 
その3 ナールと本蘭細明朝体 
写研に在職していた間を通じて、僕の中でとくに印象に残っている書体は、やはり中村征宏さんの『ナール』かな。昭和四五年の第一回石井賞創作タイプフェイスコンテストで第一位になった作品です。このコンテストは、新しい書体を開発する先駆けとなる企画でしたが、何しろ経験のない分野なので、応募要項を作るにもずいぶんと頭をひねったことを覚えています。現在では公知の事実でしょうが、当時はデザインのノウハウは社外秘でした。それの要項を作るのですから、内容の表現には苦心しましたね。  
審査の結果、第一位になったのがナールです。この書体は、それまでの印刷書体の概念を破るユニークなもので、第一回の石井賞にふさわしい書体であったと思います。商品化され、昭和四七年に世の中に出た時には、あらゆるメディアにこのナールが使用されて、一世を風靡しました。近年を代表する書体を開発された中村征宏さんとは、その後長いつきあいになりましたが、つねにその才能には敬意を表しています。 
ナールには、その後日談での印象にも強いものがあります。この書体を商品化することになり、中村征宏さん自身が、コンテストに応募した文字以外の約五〇〇〇字を書き加えることになりました。こちらは、中村さんが書き上げた文字を受け入れ監修するのが仕事です。書体を開発したご本人がデザインされているのですから、検査をして、口出しするような問題ではないと思いましたが、職務上のこともありまして(笑)、写植文字盤の製品にするためにも受け入れ検査をする役目になりました。  
中村さんから納められた文字は、さすがに石井賞を受賞した書体で、中村さんの人柄も反映して、私のそれまで培ってきた見識を越えて、現代的な新鮮さは類を見ないものでした。ところが、制作する月日が進み、文字の数が多くなって、改めて納められた文字を見ていると、どうも僕が概念として持っているナール書体のイメージと異なって見えるのです。どの部分がどのようになっているのか、違和感を覚えるようになりました。そこで、少し違う雰囲気になっていますねと指摘すると、中村さんもその違いに気づかれて、書体の原点に戻って文字を書き直されたのです。  
タイプフェイスデザインの基本は、いかにその思想を持ち続けるかにありますね。中村さん自身も書き始めの頃は、見本に則してデザインをされていたのでしょうが、実際に漢字を長い時間をかけて、一字一字デザインしていくと、ナールのように個性の際立った書体でも、文字の形などを良くしようとする判断が、当初の文字から除々に変化して、気がつくと違和感のある文字になっていることがある。その辺が漢字一揃えの書体をまとめることの微妙さであり、難しい要素でもあることをつくづく思い知らされるとともに、後学のために貴重な経験となりました。 
このことについては、僕にも反省する点がありましたね。こちらからの文字資料の出し方に問題があったのではないかと思うんです。書体には関係なく、単に制作する文字のリストと考えていましたから、石井中ゴシック体で打った文字リストを渡したんですね。中村さんはそのリストを見ながら文字をデザインしていったわけです。毎日そのリストの文字を見ているうちに、きっと、徐々に石井中ゴシック体の文字に見馴れて、引き寄せられていったんじゃないかと思います。この経験を通じて、第三者に仕事を依頼するのは容易なことではないことも知りましたね。  
それから僕は、ナールを監修することで、文字の評価について大いに勉強させてもらいました。文字の骨組みなどによる書体の特徴のつかみ方から、タイプフェイスのデザインの本質を理解していったような気がします。『文字を評価して、その内容を相手に説明するには、自分がよほど理解しないと、自分の言葉では説明できない(教えることは、学ぶこと)』ということを実感しましたね。僕自身はナールを見るまでは、楷書風の明朝体・ゴシック体を主体にデザインしてきました。ナールはそれらの常識を覆すような書体で、とくに石井書体とは対照的ですね。それだから逆に利口になりました。字枠いっぱいにデザインされたナールだからこそ、多様な書体の特徴をつかむ要素を理解することができました。  
新しい書体開発の波はタイポスから始まったわけですが、写植の多書体化は、ナールが生まれてから本格化したといっても過言ではありません。このナール書体に関われたことで、僕は多種の書体を理解することを、具体的な事例として習得できました。これは幸せなことでしたね。 
僕自身がデザインにこだわった書体というと、やはり『本蘭細明朝体』ですね。本文用書体として、書体の企画からデザインと、一から創りあげた書体であるのと、写植機の普及とも関連して、最も印象の深い書体です。昭和五〇年に発売され、その後のファミリー化によって、『本蘭明朝L』と呼ばれるようになりました。  
写植機は、広告のタイポグラフィを中心に普及していきました。広告で使用する文字を拡大・縮小することが容易な写植機と優雅な手書き風の石井明朝体を両輪にして、写植システムが普及していったわけです。石井書体は、グラフィックな雑誌・書籍や、広告のコピーなどに多彩に使用されていましたが、写植機の広い分野への普及のためには、出版関係の書籍や文庫などの本文組版用明朝体を開発する必要性を感じていました。  
単行本や文庫本で使われてきた本文用書体には、金属活字で培われた文字の味わいというものがありますね。それを写植書体で追求してみようというわけです。写植書体というのは、一文字の大きさや斜体・長体・平体などの多様な文字スタイルを作り出せるところに特徴がありましたから、それに逆行するようですが、専科的な文字を作ることも、写植機の組版能力を発揮する上で有効なものと考えて、書体の開発を始めたのです。それが昭和四〇年代後半、ちょうど、電算写植が普及するタイミングでもありました。 
僕が本蘭明朝を開発する目標にしたのは、文庫本などの本文用でした。小さい級数で文字を大きく見せる工夫や、つめ組をしなくとも、全角ベタで組んだときでも適切な文字の大きさで読み易く、また紙面が均一な濃度に印刷されることがポイントです。どのような条件で文字媒体による組版、製版、印刷がなされても、文字が崩れないのが文字品質の目標でした。  
これらの目標を立てたとしても、理論が往ったり来たりして概念がつかめないと、結局は行き詰まるか、まとまりのない結果に終わります。作品としてまとめる際には、まあ大体こんなものだろうと全体のイメージを想起させて作品の下書きにとりかかりますが、作品をまとめる要領というか、訓練を自然に培ってくれたのが、書道の作品づくりではないかと考えています。  
書道では、半紙書きにしろ、条幅(かけじ)書きにしろ、文字を揮毫する時点では、躊躇することは許されないので、文字の組み立てから作品の書き上げまでを吟味して、頭の中に入れておく必要があります。とくに条幅作品は紙面が大きいため、全体を見て揮毫することは困難なので、縮小した状態で身体にしっかりと覚えさせておくのです。文字の構成や書くことだけにとどまらず、筆の使い方・墨の濃淡までを表現する訓練を書道でずいぶんしたものです。作品展に出品するには、書き馴れるまで、幾十枚も書きましたね。  
このような経験から、文庫本や単行本などの書籍のイメージをもとに、文字組版の状態を概念としてもちつつ、本文用明朝として外れないように本蘭明朝の書体のイメージを確立していきました。書体のイメージを求めるためには、つねに種々の組版印刷物を見ておくことも必要でしょう。新しい本文用書体を開発するための要件ですね。  
『本蘭』の名付け親は石井裕子社長です。写研開発の書体には『蘭』が付けられています。『本蘭』は、本文用書体という意味の『本』と『蘭』との合成語ですが、書体のイメージを彷佛とさせるネーミングになったと思います。 
本蘭明朝の開発に着手したのには、もう一つの背景があります。写植機が、手動機から電算写植機へと移行していた時期であったことです。ハードの機能が変わり、それに対応するソフト(文字)が求められていました。その一つが、新しい本文用書体だったのです。  
写植文字は、使用級数に汎用性があり、石井書体は優雅でシャープな書体としてどの書体よりも完成度の高い文字との評価を受けていましたが、本文専用の小さい級数で限定すると、文字媒体の誤差で、原字と比較して文字品質が不安定になるなどの問題がありました。横線や細いはね先の部分が飛び気味になるといった再現性の問題や、画線の太さの誤差により紙面間の黒さムラなどが起こるという不安定要因です。これらを解決するには、どのような文字媒体の誤差も吸収する書体にして、八ポイントから一二ポイントぐらいの本文専用の書体を作る必要がありました。  
文字デザインの側面からは、いまにして思えば、横線を太くする必要はなかったのかもしれませんが、文字を再現する工程での作業性も考慮すると、本蘭明朝の場合には、横線やはね先の細い線を太くせざるを得なかったのです。タイプフェイスのデザインで重要なのは、書体の使用する目的を確立することでしょう。ハードやソフトを無視することはできません。デザイナーは、自身のデザインした文字が忠実に再現されることを望みますが、そのために何を考慮するのかが、文字デザインの始まりでもあるんです。つまり、画線の太さや最細部の太さや線間の空白の設定など、文字媒体の条件も文字デザインに加味することが大切なんですね。  
そうした考えから、文字媒体やハードによって起こる誤差を勘案し、未経験な事柄や制約を克服しながら、試行錯誤して開発した書体が本蘭明朝です。金属活字や写植文字の場合には、製造工程上の誤差を最少限に納めるように原字で吸収しようと工夫していくところに、デザイナーの苦心がありました。いまの、デジタルフォントのデザインではどうなんでしょう。きっと、われわれが経験してきた制約や条件からはずいぶんと解放されているんじゃないでしょうか。忠実な再現という、デザイナーの求める理想の環境に近づいているんですから、若いデザイナーの人たちには、デジタルフォントとして完成度の高い書体文字を追求してほしいと思いますね。 
その4 デジタルフォントと本文用書体 
明朝活字のデザインを習い始めたころは、『タイプフェイスは空気か水のようなものだから、どの階層にも受け入れられるようなデザインにしなさい』というふうに、僕は教わったわけですね。空気か水かという意味には二通りあります。一つは、空気や水というのは無色透明で、誰も気にかけない存在だという意味ですね。もう一つは、地球上の生物は空気と水によって生きているわけだから、生命の源として欠かすことのできないとても大切なものだという意味です。そのようなことからいうと、活字を空気か水と理解されるようにデザインしなさいというのは、結果的には誰が見ても抵抗のないように、しかも完成されたものが要求されていたのではないかという気がするのです。空気か水のようだからどうでもいいやというのではなくて、活字は文字文化の要素だから、完成されたものにしなければいけないということでしょうね、それは。  
このような意味で、タイプフェイスは空気か水のようにデザインするべきものだという、当初、太佐先生から教わった言葉を、僕は確信しているんですよ。 
最近は、デジタルフォントの世界がどんどんと拡大していて、コンピュータでデザインを始めた人には写植を知らない人もいるわけでしょ。僕が理解している範囲では、デジタルフォントの当初は、ともかく読めればいいと。それも解像度に関連しますが、まず管面上で読めればいいというところから始まって、それをプリントアウトしていました。  
例えば、文字の設計からいうと、文字の懐が広くて、大きくて、明るい、要するにつぶれない文字ですね。かなも大きく見えるデザインになってきます。しかも横組に適応した文字デザインがほとんどです。活字や写植でいう文字組版とは、また異質というか、特別なデザイン要素を含んでデジタルフォントは始まってきたと、僕は思うんです。  
それが活字や写植に代わって、いわゆる文字組版の領域に入ってきたのが現在の状況ですね。となると、活字や写植の分野で追求されてきた書体デザインのノウハウが受け継がれることが必要だと思いますね。  
そうした継承が行われないと、DTPの組版やデジタル化した文字と、活字や写植で培った文字文化や思想が遊離してしまう。それはどうも、寂しい気がしますね。ここらで、デジタルフォントのデザインに関しても、先ほどの『空気と水のような文字』というのを見極める必要性があるんじゃないでしょうか。  
無理のない縦線の強弱や、自然な曲線を描くはらいなどを表現した文字が出てきて、初めて、デジタルフォントが文字組版の主流になったと確認できる、というのが僕の考えなんです。ということは、いまのデジタルフォントは、水か空気のところまでいっていないということなのでしょうかね。デジタルフォントの書体サンプル帳を見ていると、読み難いとか、太さムラがあるとか、何の要因なのか解らない幼稚さが見えるのです。横組にすれば良いが、縦組にすると文字並びが悪いとか、ね。要するに、狭い範囲の条件でデザインされた文字が多いわけで、もっと広い範囲の条件に適うような文字がほしいですね。  
まあ、そうは言っても、現在のように不景気だと、先行投資になる書体開発に、フォントメーカーもお金をかけていられないですからね(笑)。どうも矛盾した話ですが、書体とか文字というのは、話として語られるときは、文化的で高級な話題なんですね。ところが、それを制作して売るという段階になった途端に、きわめて現実的なコストの話、商業的判断になっちゃうわけです。ほんとうに、理想と現実のギャップがハッキリした仕事だと思います。 
最近、イワタエンジニアリングから発表された書体で、金属活字から写植時代を通じて本文用明朝として多数の文字組版に広く使われている、イワタの明朝オールド体のデジタルフォント化の監修に参加しました。そこで感じたことは、多くの書体は本文専用という考え方ではなくて、ファミリーのうちの細いものとしてデザインされているということです。  
それについては僕、疑問なんです。いまは、コンピュータのプログラムで細いのから太いのまでできちゃうでしょ。一から一〇までの太さの範囲で、細・中・太を作る。その内の細は本文用で、太は見出し用にというコンセプトでデザインされる。でもね、その細を本文用として使ったときに適切かどうかというのは、また別の問題ですよね。太い文字をプログラムで細めただけではダメな場合だってあるわけです。小さいポイントの文字では、もっと懐を広げなければいけないとか。  
ですから、細は細の要素が必要でしょうし、太は太としての機能を加味してデザインすべきじゃないでしょうか。先人の生み出してきた金属活字や写植文字の書体群に、歴史の重さを思いますね。  
やはり、明朝体にしろゴシック体にしろ、写研の本蘭明朝体を開発した経験から考えると、DTPの本文組版に耐えるデジタルフォントを設計する必要はあると思います。活字、写植のアナログ文字媒体と、デジタルフォントのデザインに関わって感じるのは、ここらでもう一度、活字や写植の時代から培われてきた文字の設計思想を理解しておく必要があるのではないかということです。活字のポイント別による文字機能や写植の多書体化の特質を、デジタルフォントは持っているように思います。その土台の上に立って、改めてデジタルフォントのこれからを、タイプフェイスのデザイナーとしても考える時期にきていると、僕は思いますね。 
 
漢字の成り立ち「六書」(六種類の分類)

 

 
「書」   
悪者の侵入防ぐために書く  
パソコン、携帯(けいたい)電話の時代。字は「書く」より「打つ」が多いかもしれません。「書く」にしても筆記具はボールペンかシャープペンが多いかな。その前は万年筆や鉛筆(えんぴつ)。さらに前は筆でした。  
今回は、その「書く」の「書」と筆記具の「筆」の関係の紹介(しょうかい)です。そういえば「書」と「筆」、どこか似(に)てますね。  
この「書」は「聿(いつ)」という字と「者」を合わせた字です。「聿」は筆を手で持つ形です。筆の多くは竹製(たけせい)なので「竹」を加えて「筆」の字ができました。つまり「聿」は「筆」の元の字です。  
次に「者」について紹介しましょう。古代中国では、悪者の侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐために、自分たちが暮(く)らす土地の周囲に土の垣根(かきね)を造(つく)って守りました。  
さらに神への祈(いの)りの言葉を書き、それを「口」(サイ)という器に入れて土の垣根に埋(う)めました。それを表している文字が「者」です。「者」の「曰(えつ)」は「口」と「一」を合わせた字。横棒(よこぼう)の「一」は神への祈りの言葉を書いた字が「口」に入っている形です。その神への祈りの言葉を書くのが「書」の字なのです。  
悪者が侵入しないように防ぐ呪(まじな)いとして書いたものが「書」の元の意味でした。「聿」と「者」を合わせた字が「書」であることは、古代文字だとよくわかります。  
この「聿」は「建築(けんちく)」の「建」にもあります。「建」は「廴(いん)」に「聿」を加えた字です。「廴」は儀式(ぎしき)を行う中庭の周囲の壁(かべ)の形です。その中庭に「聿」(筆)を立て、方位や地層(ちそう)を占(うらな)い都の位置を定めました。  
そうやって建造物(けんぞうぶつ)を造ることは都をつくり、建国をすることでした。その後に建物などを建設(けんせつ)する「たてる」意味に「建」はなっていきました。  
「建」は方位、地層など多様な観点から建築が考えられているので外部から乱(みだ)されず、すこやかに守られています。それを人の体のことに及(およ)ぼして「健」の字ができました。意味は「すこやか、たけし」です。 
「画」   
盾の模様をえがく  
文字は「書く」、絵画は「描(か)く」。そう使い分けていますが、「書画」という言葉もあるように、「書」と「画」は対になる字です。用法だけでなく、その成り立ちも近い文字です。「画」の旧字(きゅうじ)は「畫」。「書」に似(に)ていますね。  
古代中国では自分たちが住む所に悪者が侵入(しんにゅう)してこないように、周囲に土の垣根(かきね)をつくって守りました。神への祈(いの)りの言葉を書き、「口」(サイ)という器に入れて土の垣根に埋(う)めたのです。それが「者」の字です。この「者」と筆の元の字「聿(いつ)」を合わせたのが「書」。そんな呪(まじな)いとして書いたのが「書」でした。  
「画」の旧字「畫」は「聿」と「田」を合わせた形なのです。この「田」は田畑ではなく「周」という字の元の形です。  
「周」は古代文字を見ると、四角い盾(たて)を十字形に区分した形。「聿」は「ふで」です。つまり「画」(畫)とは盾の模様(もよう)を「えがく」ことです。  
この盾を使用して周王朝を建てたのが周族。国名が盾ですから、戦争好きな民族でした。「周」の字の「口」も神への祈りの言葉を入れる「口」(サイ)を盾に添(そ)えて戦勝を祈願(きがん)した名残です。  
つまり「書画」は今は芸術(げいじゅつ)的なことですが、元は「書」も「画」も呪い的なことだったのです。  
この「周」をふくむ字に「彫(ちょう)」があります。「彡(さん)」は色や形の美しいことを表す記号的な字。つまり「彫」は盾の模様の美しさをいう字ですが、そこからその模様を「ほる」意味になりました。  
そして四角い形の盾の全面に飾(かざ)りの彫(ほ)りをほどこすのが「週」です。ぐるっと飾りの彫りを盾にほどこすので「めぐる」の意味になりました。今は「週刊(しゅうかん)」など7日1週の意味に使っています。  
もう一つは「調」です。この「周」も盾全体に模様を美しく整えて彫刻(ちょうこく)したものです。そこから互(たが)いにほどよくつりあう「調和」の意味となりました。「ととのう」のほかに「しらべる」意味もあります。 
「図」   
穀物倉庫がある農園の地図  
文字や絵をかく「書」や「画」という字について説明してきました。でも小学生には「書画」より、「図画」という言葉のほうがなじみ深いと思います。今回はその「図」についての紹介(しょうかい)です。  
この「図」は旧字「圖」でないとわかりません。「圖」は「ひ(ひ)」を「囗(い)」で囲った形。天性(てんせい)の質(しつ)、才能(さいのう)を天稟(てんぴん)と言いますが、この「稟(ひん)」の上部と同じ形が「ひ」の下部にあるのがわかりますか。  
その字形は穀物(こくもつ)倉庫のことです。「ひ」の穀物倉庫の上の「囗」は地域(ちいき)を表しています。つまり「ひ」は穀物倉庫がある地域のことです。  
さらにそれを全体の範囲(はんい)を表す「囗」で囲ったのが「図」の旧字「圖」で、「圖」は穀物倉庫の所在(しょざい)地を記入した農園の「地図」のことです。  
「ひ」をふくむ字を一つ紹介すると「都鄙(とひ)」の「鄙」です。「都鄙」とは「都と田舎(いなか)」のこと。  
この「都」の「者」は土の垣根(かきね)に囲われた集落のことです。「おおざと(おおざと)」は「邑(ゆう)」と同じで、囲いの中に人がいる「まち」や「むら」のこと。つまり「都」は外が囲まれた大集落、みやこの意味です。  
その「都」の周辺にある農地が「鄙」です。この「ひ」は穀物倉庫のある地域。「コザト(コザト)」は「まち」や「むら」の意味。ですから「鄙」とは地域内に穀物倉庫がある農耕(のうこう)地のことで、「いなか」の意味となったのです。  
「天稟」の「稟」も説明しておきましょう。「稟」の上は穀物倉庫。下の「禾(か)」は穀物のことです。この「稟」の元の意味は王様から、祭りのための給料としてさずかった穀物のことです。王様・天子からたまわったものなので、天からたまわった才能や性質「天稟」の意味があるのです。  
「圖」や「鄙」「稟」は少し難(むずか)しいので、穀物倉庫関係の字であるのを理解(りかい)すれば十分です。でも田舎のことを「ひなびた」所と言いますが、漢字で記せば「鄙びた」です。天稟もいつか使う言葉です。覚えておくといいですよ。 
「本」   
丸い点で木の下部を示す  
漢字の成り立ちには六種類の分類があって、それを「六書(りくしょ)」と言います。漢字はものの形を書いた象形文字が始まりです。でも象形文字だけでは形のないものは表せないので、いろいろな字のつくり方があるのです。  
その中に「指事(しじ)」というものがあります。事物の関係や数字など、抽象(ちゅうしょう)的なものを文字にする方法です。日ごろよく使う漢字にも指事の文字があるので紹介(しょうかい)しましょう。  
まず「上」と「下」です。「上」「下」に共通する横線の「─」は手のひらの形です。「上」の古代文字を見ると手のひらの上に点があります。  
その点をつけて、手のひらの「上」の意味を示(しめ)しています。「下」は手のひらを伏(ふ)せ、その下に点をつけて手のひらの「下」の意味です。後に「上」「下」の手のひらの点が縦線(たてせん)となって「」「」の形となり、さらにわきに点を加えて「上」「下」となりました。  
他の指事の例には「本」があります。これは木の下の部分に丸い点を加え、木の下部を示した字で「根本」の意味です。そう言われてみれば、その通りの字ですね。そこから「もと」や「はじめ」の意味となりました。  
「本」と対応(たいおう)する指事の漢字は「末」です。「末」は木の上部に丸い点を加え、木の上部を表し、木の末端(まったん)である「こずえ」を意味する字です。  
根本の「本」とこずえの「末」を合わせて「本末」と言います。「初めと終わり」のことです。  
「末」と似(に)た字に「未」があります。でも「未」は指事の字でなく、象形文字です。これは枝(えだ)が茂(しげ)っている木の形です。  
「いまだ」の意味に使うのは、字の音だけを借りて、別な意味を表す「仮借(かしゃ)」という用法です。仮借も六書の一つです。  
ついでに「未」の関連文字である「味」を紹介しておきましょう。木の枝の新芽のようなところの味がすぐれているのでできた文字です。六書で言うと、これは「未」を音の符号(ふごう)とする「形声(けいせい)」の文字です。 
「芸」   
苗木を両手で土に植える  
日本人は草木を愛する民族で、園芸は大好きです。熱心な園芸愛好家たちのための店が各地にありますし、「園芸」や「農芸」の名がついた学校も全国にたくさんあります。草木が 勢 (いきお) いよく成長していく 姿 (すがた) には、 誰 (だれ) でも力を 与 (あた) えられますね。  
さて「園芸」の「芸」、「熱心」の「熱」、さらに「勢い」の「 勢 (せい) 」は 非常 (ひじょう) に関係の深い字です。そういう目で「熱」と「勢」を見てみれば、字の上部が同じ形ですね。「芸」もその 旧字 (きゅうじ) 「藝」を見れば、その 関係性 (かんけいせい) が分かると思います。  
まず、それら「藝」「熱」「勢」に共通する「 (勢の力を取る) (げい) 」の文字から 紹介 (しょうかい) しましょう。  
「(勢の力を取る) 」のもともとの形は左の「 (陸のツクリ) (りく) 」の部分が「木」の下に「土」を書いた字形でした。そして右の「丸」の部分は「 (迅のシンニュウを取り、十が牛のノを取る) (けき) 」という字形でした。「(迅のシンニュウを取り、十が牛のノを取る) 」は両手にものを持つ形です。つまり「(勢の力を取る) 」は 苗木 (なえぎ) を両手で土に植える意味の文字です。  
そのことは「藝」(芸)の古代文字を見ると、非常によく分かります。古代文字は苗木を土に手で植えることを、そのまま字形にしています。  
「(勢の力を取る) 」だけで、その意味を表す字でしたが、草木に関することであるので、「草かんむり」がつき、後に「 云 (うん) 」の字形が加えられたようです。  
「勢」の「力」は農具の 鋤 (すき) の形です。「(勢の力を取る) 」は両手で苗木を土に植えこむ形ですから、「勢」は鋤で 耕 (たがや) して 植樹 (しょくじゅ) することを表している文字です。  
深く耕して植えこむことで、木が成長の勢いを得ることを「勢」といい、「いきおい、ちから」などの意味となりました。  
「熱」は「(勢の力を取る) 」に「 (烈の列を取る(レッカ)) (れんが) 」を加えた文字です。「(烈の列を取る(レッカ)) 」は「火」のことです。木を植えるのに、なぜ「火」を加えたのでしょうか。  
苗木を植えて、育てるには、温熱(あたたかいこと)の時がよいということから、「火」も加えたのだろうと、白川静さんは考えておりました。 
「練」   
糸を熱して柔らかく加工  
「東」という字のもともとの形は 袋 (ふくろ) です。または中に物が入った袋の形です。古代文字を見てみると「袋」の形であることが、よく分かります。  
ですから古代文字では「東」をふくむ「量」「 糧 (りょう) 」「重」「種」などは、袋の意味でつながっています。そのことを「量」の回に紹介しました。  
では 現在 (げんざい) の文字で、この「東」の字形をふくむ字は、袋の意味と関係があるのでしょうか。もちろん関係があるのです。それを紹介しましょう。  
まず「 凍 (とう) 」です。「東」は上下を 括 (くく) った袋の中に、物が 詰 (つ) めこまれている形です。「 冫 (にすい) 」は、水が 凍結 (とうけつ) (こおりつくこと)することの意味です。「東」の袋の中に物が詰めこまれている形が、凍結したものの形に 似 (に) ているので、「凍」に「東」があるのです。「凍」の意味は「こおる」です。  
物を「 陳列 (ちんれつ) 」する「陳」にも「東」があります。「 (こざとへん) 」は神様が天と地を 昇 (のぼ) り 降 (お) りする 階段 (かいだん) (または 梯子 (はしご) )です。  
その神が降りてくる階段の前に、物を入れた袋を多く陳列して祭る文字が「陳」です。ですから「陳」の意味は「つらねる」です。「 陳述 (ちんじゅつ) 」など、理由を 述 (の) べる意味もあります。  
小学校で学ぶ漢字で「東」をふくむものは「練習」の「練」です。「練」の 旧字 (きゅうじ) 「」の右は「 鍛錬 (たんれん) 」の「錬」の旧字「」の右にある形と同じです。それは袋の中に物のある形で、物を加工することを表しています。  
それに「糸」を加えた「練」は、糸を熱して 柔 (やわ) らかくすることを表しています。糸を柔らかく「ねる」ことが、もともとの意味です。  
「鍛錬」の「錬」は 金属 (きんぞく) を熱して、その中の 不純 (ふじゅん) 物を取り去って、 精製 (せいせい) することで、これは金属を「ねる」意味です。  
以下は 理解 (りかい) するだけでいいと思いますが、火を使って物を「ねる」文字に「 煉 (れん) 」という字がありますし、水を使って物を「ねる」文字には「(れん) 」があります。 
「遊」   
神様が自由に行動する  
家族で行く旅。一人旅。出張(しゅっちょう)の旅。たくさんの旅がありますが、子ども時代の旅は、いろいろな所で遊ぶことができるので楽しいですよね。  
この「旅」という字と「遊ぶ」の「遊」の字、パッと見て、何となく似(に)ていませんか? これは「遊」から「斿(道の首を取る) (しんにゅう)」と「子」を除(のぞ)いた形が「旅」にもあるからです。同じ形は「旗」や「族」にもあります。その紹介です。  
これらに共通する字形は、吹(ふ)き流しをつけた旗竿(はたざお)のことです。それに「子」を加えた形が「斿(ゆう)」です。この場合の「子」は人の意味で、「斿」は吹き流しのついた旗竿を持つ人のことです。  
この旗には、一族の霊(れい)が宿っていると考えられていました。その旗をおしたてて行くことが「斿」です。この「斿」が「遊」の元の字です。  
その旗に宿る神様の霊が行くこと、気ままに行動することから「あそぶ」の意味となったのです。それに行くことの意味の「斿」を加えて「遊」という字になりました。  
漢字学者の白川静さんが一番好きな文字が、この「遊」でした。その「遊」は神様が自由に行動するという意味でしたが、後に人間が心のおもむくままに行動して楽しむ意味となったのです。  
「旅」の吹き流しのついた旗竿を除いた部分は「从(じゅう)」の字形です。「从」は「人」の複数(ふくすう)形で「従(じゅう)」の旧字(きゅうじ)「從」などにもあります。「旅」の場合は多くの人の意味。つまり「旅」は先祖(せんぞ)の霊が宿る旗を掲(かか)げて、多くの人が出て行くことです。  
でもこれは今の旅行のことではありません。今でも軍の単位に「旅団(りょだん)」がありますが、この「旅」も軍隊・軍旅のことです。戦争で旗を掲げて遠くに行くので「たび」の意味となりました。  
「旗」は吹き流しに四角い旗をつけた「軍旗」です。そういう先祖の霊を共有する一族を氏族といいます。その氏族たちが「旗」の下で「矢」を折るしぐさをして、氏族の一員として誓(ちか)う文字が「族」です。  
 
漢字書体の歴史  

 

■ 文と字と 六書の形成  
漢字誕生  
甲骨文  
甲骨文は、亀の甲や牛の骨に刻んだ文字です。商時代の人々は、日常の全ての行為と現象に対してまず占いをおこなったのです。そこにあらわれた「ひび割れの形」で神の返答を判断したそうです。その甲や骨には「いつ誰がどのようなことを占ったのか」を文字で刻みました。さらに王がそのひびを見て判断した吉凶の予測、結果として起こった出来事などを記したようです。東京・書道博物館所蔵の『甲骨大版』(商時代)は、日本国内で所蔵されている甲骨の中では最大のものだそうです。このように原形をとどめている大きなものは、たいへん少数だそうです。刀で掘った文字なので、筆画が直線的になっています。  
金文  
金文は、銅器に鋳こまれた銘文のことです。その銅器を製作した氏族の名や祖先神の名を表した簡単な銘文から、その銅器のいわれを述べた長文のものまであります。文字は、粘っこい曲線になっています。京都・藤井有鄰館所蔵の『小克鼎』(西周時代)があります。『小克鼎』は器の内側に8行72文字からなる銘文が鋳こまれています。「克という人が、応という人の命令によって成周(今の洛陽)に行き、八軍団の閲兵を行った記念として、祖父を祭ったこの鼎を作った」ということが述べられているということです。  
石鼓文  
唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑(戦国時代)は石鼓せっことよばれる太鼓のような形の石で、そこに刻まれた文字を「石鼓文」といいます。現在は北京・故宮博物院に所蔵されています。この「石鼓文」は、現存する中国の石刻文字資料としては最古のものだそうです。狩猟を描写した詩が刻まれており、当時の狩猟をはじめとする王の暮らしがわかる文献だということです。また、始皇帝の文字統一以前に用いられた「大篆」のひとつであり、周王室の史官、史籀しちゅうの書いた文字として「籀文ちゅうぶん」ともよばれています。  
六書  
六書とは、漢字の成り立ちと使い方の基本的な原則で、象形・指事・会意・形声・転注・仮借という六種類があります。このうち、転注・仮借は、漢字の使い方に関する原則です。  
象形  
象形とは物の形を写して図形化することで、物の形をかたどった漢字の作り方です。「象形」には、日、月や、車などがあります。これらは、甲骨文字の字形が如実に表している。「日」は太陽を、「月」は半月を、そのものずばり絵画的に描いたものです。また、「車」は古代の戦車をかたどったものです。ほかに「木」「日」「月」「鳥」「魚」などがあります。  
指事  
指事は点画の組み合わせなどによって位置・数量などの抽象的な意味を直接に表しているものである。一・二・三・上・下・凸・凹などがあります。「一」などの数字は、具体的な事物はなく単なる線で表現しています。「上」と「下」は、ある基準線の上または下に何かものがあるということを示したものです。  
会意  
会意は二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするものです。例えば「日」と「月」を合わせて「明」、「人」と「言」を合わせて「信」、「木」を三つ合わせて「森」を作るように、その意味を合成して独立した文字とする方法です。  
形声  
形声は音声を表す文字と意味を表す文字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字を作る方法です。「輪」や「銅」「草」を例にすれば、「侖」「同」「早」は本来持っている意味を機能させていなくて、単に発音を示すものとして使われているだけです。このように、音声を表す要素と意味を表す要素を組み合わせて新しい意味をあらわす漢字を作る方法です。  
漢字そのものの構成には階層化が行きわたっています。最も下位の階層として点画があり、点画の結合体が部品です。その一例として部首〈偏・旁・冠・脚・垂・構・繞〉があります。この会意・形声が、現在使われている漢字の大多数を占めています。すなわち、部首はもちろん、非部首においても要素として共通の部分が多いのです。  
転注  
転注は、ある漢字を原義に類似した他の意味に転用することです。この場合、音の変わることが多いようです。例えば、「音楽」の意の「楽(ガク)」の字を「ラク」と発音して「たのしい」の意に転用することです。  
仮借  
仮借とは、音はあるが当てるべき漢字のない語に対して、同音の既成の漢字を意味に関係なく転用するものです。食物を盛る高い脚の付いた器の意の「豆」の字を、穀物の「まめ」の意に用いるというようなことです。  
文と字と  
膨大な字数の漢字ですが、大きく分けると「文」と「字」になります。「文」は、これ以上分解できない単体の文字、「字」は、「文」を組み合わせて作られた複体のものをさしています。最初に「文」が作られて、それを基にして「字」が作られたとされています。全部合わせて「文字」になります。ちなみに「名」は文字のふるい言いかたです。  
文(もん)とは  
「文」とは着物をかさねて胸元で襟がきれいにそろった象形で、「あや」すなわち、模様、飾りをあらわしています。単体の漢字「文」にあたるのが、象形と指事です。「象形」とは実際に目に見えるものの形を具体的に描いて、その事物を表現する漢字とする方法です。また「指事」は目には見えない抽象的な概念を暗示的に表現する漢字とする方法です。  
字とは  
「字」とは家の中で子供を養い育てる意味をあらわす形声で、生む、増えるということをあらわすようになりました。複体の漢字「字」にあたるのが、会意と形声です。これが活字書体設計における「作字合成法」のベースとなる考え方です。「会意」と「形声」の違いは、構成する要素が「会意」ではすべて意味を表すのに対し、「形声」ではどれかひとつが発音を示しているという点です。 
■ 五体の成立から活字書体へ  
篆書体  
中国・秦代(前二二一―前二〇七)には、始皇帝(前二五九―前二一〇)が字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文)を基礎として篆書を制定し、これを公式書体としました。この書体を小篆と呼び、それ以前の古体を大篆と呼んで区別しています。篆書(小篆)は隷書と同様に筆の鋒先を逆に入れて画の中央を走りますが、隷書と違うのは円形を描くようにする転折の筆法です。特徴的なのは左肩の転折で、宀の場合、篆書では第一画と第二画を連続させて書く。右肩は筆の方向を転換させて回すように書きます。中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていきます。泰山刻石(前二一九年)とは現存する始皇七刻石のひとつです。現在、原石は泰安博物館において厳重に保存されています。拓本としては十字本、二十九字本、五十三字本、百六十五字本の四種類が伝わっています。  
隷書体  
中国・漢代(前202―220)には篆書が衰え、実用に便利な隷書が勢力をえました。隷書は秦代には補助的につかわれていましたが、漢の公式書体となりました。西漢(前202―8)では古隷と八分がともにつかわれましたが、東漢(25―220)では八分が発達して全盛期をむかえました。173年(熹平4)に東漢の霊帝が今まで伝えられた経書の標準のテキストを定めたのが「熹平石経」です。その書風は点画の太細の変化も波法の強調はなく書法芸術としては表情に乏しい書とされるかもしれませんが、正確で読みやすい書風は活字書体のル―ツのひとつであると思われます。「熹平石経」は幾多の争乱にあって破壊され四散しました。その中の「儀礼」の一石がわが国の藤井斉成会有鄰館所蔵の残石です。藤井斉成会有鄰館は、紡績業で財をなした藤井家の所蔵品を公開する場として設立されました。創立者の藤井善助(1873―1941)は、中国の美術骨董品のコレクターとしても知られています。  
行書体  
集王聖教序は、672年に碑刻され、長安(現在の西安)の弘福寺内に置かれました。いまは西安碑林にあります。三蔵法師玄奘の翻訳完成を記念して、僧・懐仁が当時伝わっていた王羲之の行書筆跡から一文字一文字集めて文をつくり、あたかも王羲之が書いたように配列したものです。字を集めてあるので、文字の大きさはばらつきがあり、やや気脈が通らないように見えますが、王羲之の行書の典範として中国書法史において至宝と言われます。太宗・李世民の序、高宗・李治による記、ならびに玄奘の翻訳になる般若心経から構成されています。  
草書体  
『説文解字』の序文には、文字の歴史を説いて「漢興りて草書あり」としるされています。この言葉を裏づけたのが木簡の「陽朔三年」(前四五年)で、全体が草書で書かれています。楷書、行書よりもはやくに、草書が広く一般化したことを裏付けています。晋朝においても簡書や帛書が多くもちいられており、紙がひろく一般にも使われるようになったのは南北朝以降のことでした。晋時代の簡書や帛書に書かれたのは、隷書から草書に変わっていきました。中国・唐代(六一八―九〇七)においても草書はますます発展しており、独草体から連綿体、狂草体を生んでいます。懐素(生没年不詳)は中国・唐代の書道家・僧で、「草聖」ともいわれています。帛に書かれた『草書千字文』は懐素の最晩年のものです。一字には一金の価値があるということから「千金帖」ともいわれます。  
真書体  
西安碑林博物館の第一展示室には高さ2mの『開成石経』の石碑が114基あります。開成石経は唐の文宗皇帝・李昴が命じ、830年(大和4)から837年(開成2)までに艾居晦ら写字生によって真書で刻まれたものです。開成年間に完成したので開成石経と名付けられました。石経とは、十三種の儒教経典、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。当時この石経は長安城務本坊の中に置かれ、国子監の学生と科挙の受験者の勉強にもちいられました。  
銘石体  
中国・晋代の墓誌にもちいられた隷書体をとくに「銘石体」といいます。銘石体の典型的な例が『王興之墓誌』(341)です。ここにあらわれた形象は、おそらくは刻による表現がすこし加えられているのかもしれませんが、現在のゴシック体にきわめて近い書風です。『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之は王羲之の従兄弟にあたります。この墓誌銘の裏面には、王興之の妻であった宋和之そうわしの墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348)が刻まれています。この他にも、王氏一族の王〓之、王丹虎のふたりの墓誌が出土しており、いずれも『王興之墓誌』と同じ書風です。 〓=門がまえのなかに虫  
魏碑体  
魏晋南北朝とよばれる時代は、中国に仏教が広く伝播した時代でした。北魏でも漢民族の信仰している仏教を国教として採用しました。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり、多数の寺院や仏像が造営されることになりました。この動きに連動して生まれたのが、崖地に洞窟をうがって磨崖仏を彫り、石窟寺院を造営することでした。その場所として選ばれたのが洛陽の南にある龍門の崖地で、龍門石窟を造り上げることになったのです。磨崖仏には彫った動機や故人の冥福を祈る供養文、願い事を記した願文、そして年月や刻者の名前が文章として刻まれることがありました。これが「造像記」である。北魏真書体は、方筆の剛毅かつ雄渾な真書によるものですが、それぞれに特有の個性があり、その書風は千変万化です。書法芸術では、なぜか「六朝楷書」と呼んでいます。  
経典体  
中国の印刷の初期において、仏教経典・儒教経典で用いられたのは荘厳で権威的なイメージのある肉太の真書体字様でした。とくに仏教経典の印刷は唐代から行われており、時代と地域を越えて、経典の形態、字様、版式に大きな変化はみられませんでした。わが国の「春日版」なども同様の字様であり、中国の仏教経典から覆刻を繰り返したものと思われます。 
■ 宋朝体  
宋朝体は、中国の宋代(960―1279)の木版印刷にあらわれた書体です。唐代に勃興した印刷事業が宋代に最高潮に達し、また唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結びました。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだしました。  
浙江刊本  
浙江地方の刊本は、初唐の欧陽詢(557―641)書風による字様です。欧陽詢は、中国の唐代初期の書家です。潭州臨湘(湖南省)の人。字は信本。王羲之の書法を学び、楷書の規範をつくりました。初唐三大家のひとりで、高祖の勅命によって類書『芸文類聚げいもんるいじゆう』100巻を編集しました。楷書にもっともすぐれ、碑刻に『九成宮醴泉銘』などがあります。『姓解』は伝本の稀な北宋刊本の中の一つで、中国にも所在を見ない孤本です。中国古来の姓氏2568氏を、字体によって170部門に分けて配列し、姓の起源・著名人・掲載書をあげ、発音をしるす字書となっています。この『姓解』は宋から高麗王府を経て、わが国に舶載されたものとされます。後陽成天皇の侍医であった曲直瀬正琳まなせしょうりん(1565―1611)の旧蔵で、昌平黌に学び全権公使としてパリに駐在した向山黄村むこうやまこうそん(1826―1897)の手を経て国立国会図書館に寄贈されました。  
四川刊本  
四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709―785)書風による字様です。顔真卿は、中国の唐代の政治家で、書家としても知られています。長安(西安)の人。字は清臣。安史の乱で大功をたてました。のち反乱を起こした李希烈り・きれつの説得に派遣され、捕縛され殺されました。書は剛直な性格があふれる新風を拓き、『多宝塔碑』が代表作とされます。『周礼しゆらい』は中国の儒教教典のひとつですが、蜀(現在の四川省)の刊本は蜀大字本として名高いものです。孝宗(1162―88)のころの刊行と思われます。わずか二巻の残本ですが、同種の本はほかに知られていません。『周礼』は中国の儒教教典のひとつですが、蜀(現在の四川省)の刊本は蜀大字本として名高いものです。孝宗(1162―88)のころの刊行と思われます。わずか二巻の残本ですが、同種の本はほかに知られていません。清末の四大蔵書家のひとりとして知られている陸心源(1834―94)の遺書で、1907年(明治40)5月に静嘉堂文庫長だった重野安繹(1827―1910)が子息の陸樹藩と折衝して購入することになったなかの一冊です。  
福建刊本  
福建地方の刊本は、晩唐の柳公権(778―865)書風による字様です。柳公権は、中国の唐代の書家です。京兆華原の人。字は誠懸。柳公綽の弟にあたります。元和年間に進士に及第しました。碑刻の『玄秘塔碑』は柳公権六四歳時の楷書の代表作で、書法初学者の入門に最適の範本とされています。柳公権は王羲之を学んだ後に顔真卿を学んでおり、顔書の多くの筆法は柳書の中に見えますが、顔真卿以外に初唐書家の書風を吸収して骨のような力強さを増した自らの書体を形成したことから「顔筋柳骨」と称されています。『音註河上公老子道経』もそのひとつで、世界四大美術館のひとつと言われている台湾・国立故宮博物院が所蔵しています。  
臨安書棚本  
南宋の時代(1127―1279)にはいると、臨安(現在の杭州)に都がおかれ、ますます書物の復興や印刷の隆盛をみました。とりわけ唐から北宋にかけての名家による詩文集や文学書の刊行が中心になっていきました。首都であった臨安城中の棚北大街には多くの書坊が建ち並んでいたといわれますが、そのなかでも陳起(生没年不詳)による陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあび、「臨安書棚本」とは狭義にはこれを指すことになりました。陳宅書籍鋪では整然として硬質な字様を完成させましたが、この字様によって書写から独立した「工芸の文字」が誕生することになったのです。  
近代の宋朝体活字  
1916年に、丁善之(三在)と丁輔之が聚珍倣宋版活字を制作し、丁輔之によって聚珍倣宋印書局が設立されました。聚珍倣宋印書局は一九二一年に中華書局に吸収合併され、そのさいに聚珍倣宋版活字の権利も中華書局に譲渡されました。『唐確慎公集』の前付けには「陸費逵 総勘」「高時顯 輯校」とならんで「丁輔之 監造」とあります。すなわち中華書局においてもなお活字製造もしくは印刷の監督として丁輔之の名前がしるされています。中華書局とは現代中国の代表的な出版社で、1912年に陸費逵(伯鴻)によって上海で設立された。聚珍倣宋版活字は臨安書棚本にみられる字様から発展したといわれています。聚珍倣宋版活字においては、臨安書棚本に比べると直線化がすすんでいますが、当時すでに普及していた近代明朝体活字の影響を受けたということかもしれません。  
近代の宋朝体活字は浙江地方の印刷書体の系統で、陳起の陳宅書籍鋪による「臨安書棚本」を源流としています。上海・中華書局の聚珍倣宋版は、わが国では名古屋・津田三省堂らが導入して「宋朝体」とよばれました。ほかに上海・華豊制模鋳字所の真宋を大阪・森川龍文堂が導入した「龍宋体」などがあります。津田三省堂の宋朝体には縦横同じ幅の方宋体と縦に細長い長宋体がありましたが、長宋体の方が目新しい感じがあって、一般には喜ばれていたようです。 
■ 元朝体  
明朝体や宋朝体は知られていますが、元朝体はあまりなじみのない名称です。楷書体系統の漢字書体は中国のそれぞれの王朝の時代をあらわす名称で呼ばれてきましたが、このうち元朝体は、わが国の活字はもちろんのこと、中国の活字にも存在していません。もちろん元朝体も刊本字様として存在します。中国・元代(1271―1368)は漢民族圧迫政策により書物の出版にはきびしい制限が加えられたが、それでも福建地方の民間出版社では多くの書物を刊行しています。その刊本字様は趙子昂(1254―1322)の書風によるとされる脈絡を残した書体で、これを中国では元体とよんでいます。わが国の言い方では元朝体です。ところが書誌学などでは「趙子昂体」「松雪体」と呼ばれることが多いそうです。  
元代の福建刊本  
宋代の福建地方の出版社では余仁仲の万巻堂が知られていますが、元代になると余志安の勤有書堂が有名になりました。この勤有書堂の刊本字様こそが典型的な元朝体です。『分類補註李太白詩』は趙子昂の書風である「松雪体」でかかれ、元時代の建安刊本の特徴がよくあらわれています。『分類補註李太白詩』の各巻頭にある「米沢蔵書」の印記は、米沢藩主上杉景勝の重臣で文武兼備の名将として知られる直江兼続かねつぐ(1560―1619)のものです。直江兼続は1607(慶長12)に『文選もんぜん』六一巻を木活字によって刊行しましたが、これは直江版として著名なものです。 
■ 明朝体   
明朝体とは中国の明代(1368―1644)の木版印刷にあらわれた書体です。はじめは臨安書棚本の覆刻において筆画の直線化がすすみ表情のかたい書体があらわれました。1553年(嘉靖32)に刊刻された『墨子』においては、すでに明朝体の基礎が形成されていました。明朝後期の万暦年間(1573―1619)から刊本の数量が急速に増加し、製作の分業化が促進されました。  
南京国子監刊本  
国子監とは、中国・隋代以降の最高学府で、各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられました。唐代には国子監に長官の祭酒、次官の司業以下の官がありました。明代には南京と北京の二都に設けられました。南京国子監跡地は、現在は東南大学となっています。また北京国子監は現在、北京市東城区の国子監街にあり、その建築物は現在に至るまで残されています。 国子監で出版したもののうち、南京国子監が出版した刊本を南監本と呼びます。南監本の『南斉書』は、中国の二十一史のうちの南斉の正史で、現存するのは全59巻です。  
楞厳寺刊本  
大蔵経とは、仏教の聖典を総集したものです。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を中心に、それらの注釈書を加えたものとされます。略して蔵経とも一切経ともいわれます。『大蔵経』は仏教の聖典を網羅する一大叢書であり、宋代以後国家的事業としてたびたび開版されました。明代の開版は、太祖の時に南京の南蔵、成祖の時に北京の北蔵、ついで武林蔵、嘉興蔵と四回なされましたが、このうち1589年(万暦17)から刊刻された嘉興蔵が一般に明版大蔵経といわれ、方冊型で見易いところから広く用いられました。宇治・黄檗宗萬福寺の『鉄眼版一切経』(1678)もこれを底本としています。  
鄭藩刊本  
明代には、中央機関のほかに地方での官刻も盛んに行われた。皇子の身分で領地を分け与えられた各地の藩王は、政治的、軍事的に抑制された反面、豊かな経済条件を与えられていました。教育を重視したり、学問の追求を愛好する藩王は、刊刻事業に積極的でした。豊かな経済力と地方政府の権威によって優秀な文人や刊刻職人が招聘されたので、藩王府の刊行した書物は、原稿、校正、彫版、印刷などの品質が高かったようです。なかでも鄭藩世子朱載〓(しゅさいいく 1536―?)が刊行した音楽の著作『楽律全書』は、藩刻本の代表作のひとつだということができます。 〓=土+育   
毛晋汲古閣刊本  
明末清初の代表的蔵書家であり刻書家であった毛晋(1599―1659)は、さまざまな版式と明朝体で書物をつくりました。ある時期には長体の明朝体を使用していましたが、もっとも世に知られているのは独特な書写の風格のある扁平な明朝体です。その明朝体の代表例が毛晋汲古閣『宋名家詞』です。この明朝体は、多くの蔵書家や刻書家に愛好されました。そしてこの扁平なデザインの明朝体を基本として、縦と横の筆画の対比がいっそう大きくなっていきました。こんにちの明朝体の原型があらわれることになったのです。 
■ 清朝体  
中国・清代(1616―1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」といいます。その字様は、文徴明(1470―1559)をはじめとする明代中期の書に影響された傾向があります。  
武英殿刊本  
中国・清代(1616―1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」といいます。康煕年間(1662―1722)には紫禁城(現在の故宮)の西華門内の武英殿に編纂所が設けられました。初期の武英殿刊本においては、康煕帝の書のままを忠実に彫らせていたようです。その代表例が『御製文集』です。  
武英殿刊本をしのぐ品質とされる地方官庁による官刻本がありました。曹寅(1658―1712)が主管した揚州詩局で刊行されたもので、代表的なものが康煕帝の命により編纂された唐詩全集である『全唐詩』(1707年)です。その書風は明代中期の文徴明(1470―1559)の影響がうかがえます。  
揚州詩局刊本  
嘉慶帝(在位1795―1821)の敕命により、董誥らが編纂した唐・五代散文の総集である『欽定全唐文』が、1814年(嘉慶19)に揚州詩局から刊行されています。この『全唐文』の字様は、運筆が形式化されて活気がないと批評されましたが、むしろ均一に統一された表情は刊本字様としての機能をもっています。したがって『欽定全唐文』は清朝の官刻本としてのたかい品格に加えて、過渡期明朝体の基盤の上に発展された均一な書風、統一された表情の字様によって刊行され、機能性にすぐれるとともに、書写の運筆の視覚性も具備しているという特性があります。  
近代の清朝体活字  (※わが国独自の清朝体活字とはことなります。)  
漢文正楷印書局は、中華書局の美術部主任だった鄭昶(1894―1952)が友人たちと1929年から準備し1932年に設立した会社です。もともとは漢文正楷字模活字を中華書局社長の陸費逵(伯鴻)に提案していましたが、婉曲に断られたといわれます。鄭昶は字を午昌、号を弱龕といいます。中華書局の美術部主任をつとめたのち、漢文正楷印書局の社長となり、漢文正楷字模の制作を主導しました。漢文正楷字模活字の版下を描いたのは、中華書局で鄭昶と同僚であった高雲〓(勝の力が土)である。高雲〓は中華書局で出す教科書の版下を描いていた人でした。彫刻は朱雲寿、許唐生、陸品生、鄭化生などが担当しました。また、この活字の鋳造は張漢雲の漢雲活字鋳造所が担当したそうです。漢文正楷字模活字の使用例として『高級小学校論語』(1935年 満州国文教部)があげられます。  
揚州詩局で刊行された『全唐詩』の清朝体字様は、鄭昶らが設立した上海の漢文正楷印書局で制作された漢文正楷字模活字に引き継がれました。名古屋・津田三省堂で輸入した正楷書体は、もともとこの上海の漢文正楷印書局で制作された書体です。このように正楷書体は、漢文正楷印書局という社名からとられたものです。 
■ 過渡期明朝体  
清朝の康煕帝から乾隆帝の時代の銅活字本、木活字本にあらわれた明朝体を「過渡期明朝体」ということにします。すなわち明朝以降の木版と清朝後期の鋳造活字の中間に位置し、ちょうど過渡期と思われる形象となっています。  
武英殿銅活字版  
清朝の雍正ようせい帝(1678―1735)の在位期間には、康煕帝の時代から編纂されていた『古今図書集成』(1726)が銅活字で刊行されました。もともとは康煕帝の時代の1719年に完成していましたが、皇位継承の紛争もあって刊行が遅れたようです。この『古今図書集成』にもちいられた銅活字については手彫りであったと思われますが、整然とした明朝体で、現代の明朝体にきわめてちかいものです。この活字は乾隆帝によって1744年に鋳つぶされたために、結局は『古今図書集成』でしか使われていません。  
武英殿聚珍版  
清朝におけるもっとも盛大な編纂計画は乾隆帝(在位1735―95)の時代に完成した写本の『四庫全書』です。さらに乾隆帝は『四庫全書』のなかから重要な書物を選んで、木活字で大量に印刷させました。刊行責任者の金簡が木活字による刊行を提案し、乾隆帝によって採用されたものです。武英殿の木活字で刊行された双書は『武英殿聚珍版双書』と称され、宮廷用の五部と一般販売用の三百部が刊行されました。金簡は、この木活字の製作と印刷作業の過程と経験をまとめて、詳細な文章と明瞭な挿し絵で『武英殿聚珍版程式』(1776)という印刷専門書を著しました。  
萃文書屋活字本  
清代における木活字は『武英殿聚珍版双書』の影響で各地に浸透しました。そのひとつが1776年(乾隆56)に程偉元(?―1818)の萃文書屋によって刊行された『紅楼夢』です。『紅楼夢』は清代初期に成立した口語体長編小説で、原題を『石頭記』といいます。萃文書屋活字本の全120回のうち前80回は曹雪芹(1715―1762?)作、後40回は高鶚(1746?―1815)の作です。萃文書屋活字本には、1791年発行のいわゆる程甲本のほかに1792年発行のいわゆる程乙本がありますが、「引言」が加わったほか、大きな改訂が施されています。 
■ 清朝の刊刻書写体  
ヨーロッパから写真石版印刷が書物の印刷に導入された清の光緒こうしよ帝(1871―1908)の時代には、からは、かならずしも彫刻しやすい明朝体でなくてもよくなり、本文に篆書体が使用された書物までもが登場しました。そのひとつに同文書局によって石版印刷で刊行された『篆文六経四書』のなかの『周易』があります。また、序文などには草書体もあらわれています。  
真書体  
書写を忠実に彫る写刻は宋朝の時代からありましたが、彫刻の困難さや可読性への配慮から、序文だけに限られてきました。したがって、この序文は熟練した彫工が担当していました。清朝の康煕帝は董其昌(1555―1636)の書を愛好していたために、民間出版においても、序文だけではなくて刊本全体にも書写系の字様が使用されるようになったと思われます。清代の私刻本の多くは手書きの文字が忠実に彫られた写刻本で、印刷もよく校正も厳密でした。とりわけ林佶によって刊行された『漁洋山人精華録』は精刻本とよばれて、その典雅な字様と細密な刊刻は、当時の蔵書家に愛好されました。  
行書体  
清朝の康煕帝(在位1661―1722)は明朝後期の書家・董其昌(1555―1636)の書を、乾隆帝(在位1735―95)は元朝初期の書家・趙子昂(1254―1322)を愛好したために、それまでは序文に限られていた書写系の字様が、刊本全体にも使用されるようになりました。その傾向は民間の出版においても大きな影響を与えました。とくに北京の春暉堂が刊行した『菊譜』(1758)、春草堂が発行した『人参譜』(1758)には、流麗な行書がつかわれています。これらの書物にあらわれているのは刊本字様の行書であり、精密な運筆と厳密な筆画で構成されています。  
隷書体  
牌記とは、古代書籍の扉あるいは巻末にある枠の付いている題識文字をさします。宋代以降の書籍刻印に広範に使われており、その字数は、数文字から百文字以上のものまであります。牌記の内容は、その書籍の刊刻年代、刊刻人、刊刻地、版本の伝承、底本の由来などが記述されています。集大成的な清代牌記資料集である『清代版刻牌記図録』には、清代の二千余種の古籍から精選された四千余幅にのぼる清代の牌記関係の図像が原寸大で影印収録されています。中国・同治年間(1862―74)に設立された官書局によって刊行された刊本は、おもに考証学と碑学の研究者によって主導されたので、文章の考証も厳格におこなわれたようです。その牌記には、碑文などに印された篆書や隷書が使用されています。『清代版刻牌記図録』所収の『河岳英霊集』には端正な隷書体が使われています。  
日本独自の書写体・御家流  
和様体とは中国から伝来した真書・行書・草書とはことなった日本固有の書体です。平安中期の藤原行成の子孫によって継承された書法の流派を「世尊寺流」といい、平安後期には藤原忠通を祖とする「法性寺流」、鎌倉末期からは尊円法親王の「青蓮院流」が広まりました。江戸時代になると青蓮院流は御家流と呼ばれて、調和のとれた実用の書として広く一般大衆に定着していきました。徳川幕府ははやくからこの御家流を幕府制定の公用書体とし、高札や制札、公文書にもちいるように定めました。さらに寺子屋の手本としても多く採用されたことで大衆化しました。御家流臨泉堂書による『御家千字文』(1814年 江戸書林)という書物がある。御家流のもっとも大きな特徴は、Sを横に寝かせたようなうねりをもっていることです。御家流から派生したのが、歌舞伎でもちいられる「勘亭流」です。 
■ 近代明朝体  
近代明朝体活字は19世紀前半に上海や香港にあったロンドン伝道会と北米長老会によって製作されました。ロンドン伝道会の印刷所である上海・墨海書館と香港・英華書院で使用された活字は、ヨーロッパで活字母型が製造されたものだそうです。  
美華書館  
北米長老会の印刷所であった上海・美華書館びかしょかんにおいて木製種字と電鋳母型という活字製造法が考案されました。上海・美華書館の明朝体活字が長崎・崎陽新塾活字製造所にもたらされたのです。この活字をもとに活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、現在まで引き継がれているのです。  
近代の明朝体活字  
商務印書館(Commercial Press)は1897年(光緒23)2月11日に、上海捷報館(China Gazette)の植字工だった夏瑞芳と鮑咸恩、上海美華書館ではたらいていた鮑咸昌と高鳳池が、北米長老会の牧師で当時の美華書館の責任者のジョージ・F・フィッチ(費啓鴻)の援助で設立した出版社です。1900年には日本人が経営していた修文書館の設備と技術を吸収し、1903年、日本の四大教科書会社のひとつ金港堂社長・原亮三郎が投資して日中合資となり、商務印書館の経営基盤は盤石なものになりました。日中合資後、商務印書館の編纂出版した小・中学校教科書では、日本側の意見が参考にされたといわれます。日中合資は1914年まで11年間続いた。中国の古典の編纂は商務印書館の重要な事業のひとつで、日本にしか存在していない資料をふくめて、叢書として刊行しました。  
上海・美華書館の明朝体活字が長崎の崎陽新塾活字製造所にもたらされました。この活字をコピーして活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、これは東京築地活版製造所や正院印刷局(現在の国立印刷局)などに引き継がれました。のちに東京築地活版製造所では理想的な本文用明朝体を求めて、上海の中国人種字彫刻師に依頼しています。すなわち東京築地活版製造所の明朝体活字は中国で制作された種字によって築かれたものです。わが国の明朝体活字は、すべてが東京築地活版製造所のものを源としているといってよいでしょう。 
■ 欧字書体に影響されて日本で制作された漢字書体  
呉竹体 / 五號ゴチック形  
19世紀のドイツでは「ステイン・クリフト(石の文字)」と呼んでいたことから、サン・セリフ体の起源を古代ギリシアの石碑文とする意見もあります。サン・セリフ体が本格的に印刷用活字書体として使用されるのは1830年代で、キャズロン活字鋳造所では古代ギリシアを意味する「ドーリック(DORIC)」と呼んでいましたが、ヴィンセント・フィギンス(1766―1844)が1832年に「サン・セリフ(SANS-SERIF)」と名づけました。ウイリアム・ソローグッド(?―1877)は「グロテスク」と名づけ、アメリカでは1837年にボストン活字鋳造所が「ゴシック」といいました。『BOOK OF SPECIMENS』(1877年 平野活版製造所)には 、欧字書体として 「GOTHIC」が掲載されており、『 座右之友』(1895年、東京築地活版製造所)には漢字書体として「五號ゴチック形文字」があります。  
安智体 / 五號アンチック形  
19世紀の産業革命以降に、商業目的のディスプレイ用の活字書体として「スラブ・セリフ体」が登場しました。まずヴィンセント・フィギンス(1766―1844)の「アンティーク(ANTIQUE)」が1815年に制作されました。ロバート・ソーン(1754―1820)によって準備されていた書体は「エジプシャン(EGYPTIAN)」と名づけられて、1820年に売りだされました。ロバート・ベズリによる「クラレンドン(CLARENDON)」は、1845年にイギリスのファン・ストリート活字鋳造所でうまれました。 『BOOK OF SPECIMENS』(1877年 平野活版製造所)には 、欧字書体として 「ANTIQUE」が掲載されています。それと同じ名称の漢字書体として、『 座右之友』(1895年、東京築地活版製造所)には「五號アンチック形文字」が掲載されています。  
装飾系漢字書体3種  
参號フワンテル形 
『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、その名のとおり3号サイズの明朝活字の総数が掲載されていますが、「フワンテル形」の見本も掲載されています。漢字は25字のみの掲載で、その字種から年賀用活字としてつくられたもののようです。これが初出ではなく、それ以前の見本帳でも見つけることができます。欧字書体の FANTAIL をヒントに制作されたといわれます。フワンテル[fantail]とは 扇形の尾のことです。「フワンテル形」は「ゴシック形」の縦画を細めたスタイルです。装飾的な脚色はありますが、基本は「ゴシック形」からのヴァリエーションだと思われます。欧字書体においては装飾用の書体とされており、漢字書体もおそらくは装飾用として用いられるものと思われます。「フワンテル形」の完成された書体として、地図の標題用の書体として開発された「石井ファンテール」(1937年、株式会社写研)があげられます。  
参號羅篆形 
『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、その名のとおり3号サイズの明朝活字の総数が掲載されていますが、「羅篆形」の見本も掲載されています。羅篆とはラテン(Latin)のことだと思われます。「羅篆形」は「ゴシック形」の横画を細めたスタイルです。装飾的な脚色はありますが、基本は「ゴシック形」からのヴァリエーションだと思われます。欧字書体のLATIN ANTIQUE をヒントに制作されたと思われます。「羅篆形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。「羅篆形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。vB「羅ワ箙ス形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。  
五號丸ゴチック 
青山進行堂では、1916年(大正5年)3月に「篆書ゴシック体」を発表して注目を集めました。篆書体とゴシック体との出会いがあったのです。『活版総覧』(1933年、森川龍文堂活版製造所)には装飾用漢字書体として「篆書体」とともに「丸ゴチック体」が掲載されています。丸ゴシック体とは、欧字書体の ROUND GOTHIC をヒントにしたかどうかはわかりませんが、篆書体とゴシック体との出会いによって成立した書体だと思われます。丸ゴシック体はゴシック体と同じで、縦画、横画ともに、直線、曲線ともに同じ太さの線で構成されていますが、起筆と収筆は丸みを持っています。たんにゴシック体の角を丸くしたものではなく、転折部に丸みを持っていることが最大の特徴です。ゴシック体では直角に折り返す転折も、丸ゴシック体では角張らせないで丸みを持たせています。「口」の四隅すべてに丸みを持たせているので、ゴシック体とは筆順が大きく異なります。 
■ 呉竹体(黒体/ゴシック体)  
呉竹体(黒体)は、わが国から中国へ逆輸入された数少ない書体のひとつです。中国でも呉竹体(黒体)は本文では使われていませんでした。せいぜい見出しに使われることがある程度だったようです。  
中国での黒体  
北京で印刷された『瞿秋白文集』は縦組み繁体字の書物で、見出しに呉竹体(黒体)が用いられています。瞿秋白(1899―1935)は中国の政治家・文学者です。江蘇省常州市の生まれで、現在その旧居が瞿秋白記念館になっています。1919年の五・四運動に参加しました。モスクワに新聞記者として滞在し、帰国後、中国共産党中央委員などを歴任しました。ロシア文学の翻訳や文芸評論で活躍しましたが、国民党軍に逮捕され銃殺されました。人民文学出版社は1951年3月に創業されて以来、8000種あまりの書物を出版しています。当代の文学作品のみならず、中国古典文学、世界の重要作家の作品を出版して、中国の読者に豊富で多彩な文学を紹介し、新しい文学の発展に寄与しています。 
■ 新時代の漢字書体の展望  
日本発──ゴナの時代  
1970年代から1980年の間に、「ゴナ」(写研)、「ナウG」(リョービイマジクス)、「ロダン」(フォントワークス)、「新ゴ」(モリサワ)など、当時は新感覚とされた書体があいついで制作され、大きなトレンドとなりました。そのトレンドの先鞭をつけたのが「ゴナ」でした。ゴナは1975年に中村征宏氏によって制作されたゴナUがリリースされたことがはじまりでした。つづいて1979年にはゴナEも中村征宏氏により設計され、さらにはインターポレーション機能によって、1985年にファミリーとしての完成を見ました。杉村津留子著『天皇さま、御異常不奉拝』(小学館 1986)には、本文にゴナMがもちいられています。ちょうどゴナMが最高に華やかだった時代で、とうとう本文にもゴシック体が登場してきたのです。  
活字書体としての痩金体  
わが国では各メーカーがそれぞれの近代明朝体とゴシック体の開発に費やしている1990年代に、台湾では個性的な筆跡に着目した活字書体がうまれていました。「痩金体」です。活字書体の「痩金体」は、台湾の華康科技(ダイナラブ DynaLab)によって1996年に発売されました。もともとは北宋の徽宗(1082―1135)の個性的な楷書の書風の一つでしたが、これをベースに活字書体として再生したものです。徽宗は、中国・北宋第8代の皇帝(在位1100―25)ですが、政治力はなく国政は乱れたといわれます。反面、書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励しました。その筆跡は、力強くしなやかな線でかかれたことから痩金体といわれ、徽宗自身も「痩金」と号しました。金の章宗(1168―1208)もこの書体に憧れ、模倣に努めたといわれます。また、「痩金体」に調和する和字書体を鈴木勉(1949―1998)が、欧字書体をマシュー・カーター(Matthew Carter 1937―)が担当したことでも注目を集めました。  
徐明と陸隷  
1970―1980年代の「ゴナ」に始まる日本発のコンテンポラリーな漢字書体と、1990年代の台湾発の書写をベースにした漢字書体。21世紀の漢字書体とは、どこへ向かうのでしょうか。その一例として、株式会社モリサワから発売されている「徐明」と「陸隷」を挙げておきます。徐学成氏の設計による「徐明」は、宋朝体・明朝体系統のオリジナル書体です。鋭く清冽な表情と、柔らかく明るく上品な雰囲気とを兼ね備えています。また、陸華平氏の設計による「陸隷」は、隷書体系統のオリジナル書体です。伝統の様式を基礎としながら、筆法・結法を整え、現代にふさわしい明るく端正な表情があります。 
 

 


  
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