黙っていられない

若いころ 政治への関心は薄かった
仕事柄 政治がらみの話題は 話のつま程度

政治に関心を持つようになったら 
年寄の証明などとも 思っていた

このところの報道
やはり 黙っていられない
毎日が日曜日


 
 

●倶生神 
今となっては手遅れ 諦めが心の養生
善事なし暇な毎日悪事なし 倶生つきあう無事な一生 
どんな人間でも生れ落ちた時その瞬間から、二人の神様がその人の両肩に乗かっているそうだ。神様だから重みを感じない。この神様の名前は「倶生神」で、左の肩には、男の神様が、右の肩には女の神様が乗る。この倶生神が、閻魔大王の命により、その人の善行・悪行の全てを記録している。男の神様は善行を、女の神様は悪行を記録し、35日目の閻魔大王の裁判の時、肩から降りて、閻魔大王に最大漏らさず奏上する。 
 
 

 

●二河白道
一生懸命 走り続けてきました
浄土教における極楽往生を願う信心の比喩。ニ河喩(にがひ)とも。善導が浄土教の信心を喩えたとされる。主に掛け軸に絵を描いて説法を行った。絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩のニ菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれている。 白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれている。 下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれている。下段の岸は現世、上段の岸は浄土のこと。 右の河は貪りや執着の心(欲に流されると表すことから水の河)を表し、左の河は怒りや憎しみ(憎しみは燃え上がると表すことから火の河)をそれぞれ表す。 盗賊や獣の群れも同じく欲を表す。東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすというもの。 
 
 

 

●往生
仏様にお任せします
大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。
1.胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
2.卵生 鳥類のように卵から生まれる事
3.湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
4.化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
本来の意義
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。
必然性
何故仏国土に往生する事が、成仏の方法となるかというと、成仏には、仏の導きと仏による成仏への保証(授記)がなければならないからで、これらのない独自の修行は、阿羅漢(あらかん)や辟支仏(びゃくしぶつ)となる事は出来るが、それらになると二度と仏となる事が出来ない、と大乗仏教では考えられていた。
仏教のさとりは無我の証得である。自己の空無なる事を悟るためには、修行している事に「自らが」という立場があってはならない。自我意識が残る限り成仏は不可能とすれば、自我意識の払拭は自己自らでは不可能となる。ここに、成仏に逢仏、見仏を必要とする理由がある、というのが浄土門の立場である。
一般に「往生する」とは
往生とは極楽往生、浄土往生といわれるように、人間が死んで仏の国に生まれるから、一般的に死後の往生の意味である。しかも、往生する世界は仏の世界であり、そこに生まれる事は成仏する事である。
そこから意味が派生して、往生とは仏になる事と考えられ、往生は現実には死であり、さらに仏になることなので死んだら仏という考え方が一般化したと考えられる。中でも老衰やそれに伴う多臓器不全などの自然死による他界を大往生と呼ぶことが多い。
この往生の意味が、さらに俗化して「身のおきどころがなく、おいつめられた時」を往生するとなったと考えられる。 
 
 

 

●死んで花実が咲くものか
お寺の庭も花ざかり
生きていればこそ良いこともあるだろうが、死んでは再び良いことに巡り会うことも出来ない。 死んだらお終いだ。 
死んでの長者より生きての貧乏  
死んだ後で金持ちになるよりは、貧乏でも生きている方が幸せだ。 
死んでも命がありますように  
どうあっても生き延びたい。死地にあって、生への執着が非常に強い者の願い。 
死んでも死に切れない  
心残りがあって、このままでは死ぬことができない。 
死に花 
死にぎわの名誉。人にたたえられるような立派な死にざま。死に花が咲く / 立派な死に方をして死後に名が残る。 
 
 

 

●三途の川
私は泳げません
人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着。人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、すなわち「葬頭川」(そうずがわ)三瀬川(みつせかわ)「渡り川」がある。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになる 。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことだが、この川の辺に衣領樹(えりょうじゅ)という木がある。木の下には「奪衣婆」(だつえば)という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう)というお爺さんがのっている。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席しているので嘘の申告は出来ないのである。 
 
 

 

●極楽浄土
灰になってからのこと
仏教には、本来「極楽」の概念は有りませんでした。
それが北方仏教(大乗仏教)の場合、現在のアフガニスタン周辺を根拠地とした時代に、ゾロアスター教の影響を受け、天国(極楽)や地獄といった世界観が混入します。
そのため北方仏教では、天国や地獄といった概念と、輪廻転生の概念が交じり合い、正統な理論というものが無くなってしまいました。
本来の仏教(輪廻転生を考える仏教)においては、地獄とは、現在生きている世界であり、輪廻転生を繰り返すという事は、何回でも地獄の世界に生まれる事であり、天国に行く事は、輪廻転生の輪から外れる事(解脱)でした。
ゾロアスター教においては、死者は、必ず自身の行動により天国(光の国)か地獄(破壊の国)に行き、光と闇のどちらかの勢力に加わり、戦闘を行うというものです。
キリスト教においての天国には、信仰の度合いにより何階層もあり、どの階層に行けるかは、生前の行いによります。
キリスト教もゾロアスター教でも最後の審判(ハルマゲドン)により、善(光)が勝利し、至福の時代を迎えることになります。
仏教の場合、特に天国(極楽)に特化した宗派を、浄土系(阿弥陀系)仏教と言います。
浄土宗、浄土真宗、日蓮系の宗派がこれに属し、死後極楽に行く事を最終的目的としています。
一方解脱を求める宗派として、曹洞宗や臨済宗などの禅宗系の仏教があります。
仏教には、キリスト教やイスラム教、ゾロアスター教のような、最後の審判のような考え方はありませんが、それに近いものとして、弥勒信仰があります。
どちらも対義語は地獄です。解脱の考え方に立ちますと、解脱の対は、現世になります。  
 
 

 

●六道の辻
生まれ変われるものならば 
六道というのは仏教用語。有情(生あるもの)はこれ全て欲界、色界、無色界の三界に生きている。そして、そこで生き死にを繰り返す、輪廻転生である。とくに欲界にいる生類は業によって、六つの世界を生まれ変わり死に変わることになり、その世界が地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道の六道である。三界から抜け出すのが涅槃の境地である。辻は賑やかな通りや四つ角のことだが、昔から辻は魔界への入り口と称されていた。六道の辻で有名なのは六道珍皇寺で、門前に「六道の辻」の石碑がある。
六道 
地獄界 / 怒りの心 
餓鬼界 / 貪欲な心 
畜生界 / 愚かな心 
修羅界 / 争いの心 
人界 / 穏やかな心 
天上界 / 喜びで満たされている心  
 
 

 

●冥途
焼き加減はベリーウエルダン 風にのって空を飛びたい
人は死後、六道のどの世界へ生まれ変わるかについて十人の王のうち七人から裁判を受け、決定される。その裁判は、五戒について七日ごとに七回ある。これがいわゆる四拾九日であり、死者は冥途の旅をすることになる。この世界を中陰の世界という。
人間は、何時かは死ぬ。死後遺族や近しい人人で追善供養をする。何故供養をするののだろうか。中国に十王信仰(預修十王生七経)と言う道教的信仰がある。「人間は死んだ後、善人は極楽で生まれ変わり、極悪人は地獄に落ちる」との教えである。天国に行くか、地獄に落ちるかは、十王に姿を変えた十人の仏様の裁判で決まる。死後七日目から四十九日目まで、七回の生前の所業(善行悪行の五戒)の審査があり、35日目には、地獄を支配している閻魔大王による、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道の何れに進むかの裁きが下り、49日目に判決が確定する。その後、百日から三十三回忌までは、それぞれの王による再審査が行われる。
五戒
不殺生戒 (みだりに生物の命を奪わない)
不愉盗戒 (盗みをしてはならない)
不邪淫戒 (みだらな淫行をしてはならない)
不妄語戒 (嘘をついてはならない)
不飲酒戒 (酒を呑まない)
 
 
冥途の旅
冥途の旅は、死出の山を歩き続けることから始まる。険しい道を星の光だけを頼りに、ひとりで七日間歩き続ける。この間は食香といい、香の煙しか食べられない。だから仏壇の線香を絶やしてはならないのである。
初七日 泰広王(不動明王) 書類審査
七日間歩き続けると(初七日)、最初の裁判の法廷に辿り着く。裁判官は、秦広王(不動明王)である。ここでは、生前の行いの善し悪しについて、審査を受ける。この審査結果で、三途の川の渡る場所が決まることになる。
三途の川
第一の法廷を過ぎると、次に冥界をとうとうと流れる大河に辿り着く。これが有名な三途の川である。冥途を旅するものは必ずこの川を渡らなければならない。三途の川の名の由来は、川を渡るために三通りの途があるからである。三途の川は橋(有橋渡)がかかっていて、上流は浅く(山水瀬)、下流ほど深く流れも早い濁流(江深淵)になっている。秦広王の審査結果から、善業者は橋、罪の比較的軽い悪業者は浅いところを、罪が重くなるほど深い濁流を渡らなければならない。極悪なものは、背が立たないばかりでなく、鬼が足を引っ張り、散々苦しめられる。また、渡し舟があり、渡し舟に乗って川を渡ることができる。この渡し賃は、六文である。昔は、一文銭を六枚棺桶に入れたが、現在は、六文銭と書いた紙を入れる。六道輪廻から六文。『地獄の沙汰も金次第』は、ここから生まれたことわざであるらしい。
賽の河原
三途の川を渡れない者がいる。それは、幼くして冥途へやってきた子供たちである。親より先に冥途の旅に出て親に深い悲しみを負わせることは大きな罪であるため、三途の川を渡ることができないのである。そんな子供たちが、三途の川のほとりにある賽の河原で小石を積み上げて塔を作っている。子供たちは、生きていた時間が短く、仏様の教えを聴くことも、他人にお布施をすることもできなかったために慚愧の念にさいなまれて、賽の河原に塔を作っている。しかし、塔が出来上がったとたんに冥途の鬼に恐ろしい形相で怒鳴られ、塔を壊されてしまう。それでも子供たちは泣き叫びながらも、何度も繰り返し塔を立て続けるのである。この子供たちを救うのがお地蔵さんであるという。
衣領樹
三途の川を渡りきると川原に一本の木が立っている。それが衣領樹である。この木の上に爺さんが、木の下に婆さんがいる。爺さんを懸衣翁、婆さんを奪衣婆という。衣領樹は衣服を枝にかけると、罪の重さによって枝のしなり具合が違ってくる。冥途の旅人の衣服を剥ぎ取るのが奪衣婆の役目で、剥ぎ取った衣服を懸衣翁に渡し、懸衣翁が衣服を枝にかけるのである。この結果が、第二の法廷の証拠になる。
ニ七日(14日目) 初江王(釈迦如来) 三途の川のほとりで裁判
二七日(ふたなのか)14日目、第二の法廷の裁判官は、初江王である。ここは三途の川を渡ったところにあり、主に不殺生戒について裁かれる。無益に生き物の生命を奪うことは、最大の罪悪である。初江王のもとには、秦広王からの資料や、衣領樹のしなり具合の結果などが届いている。又、三途の川も監視しており、渡る際にどれだけ努力したかも審査対象である。これらのデータから裁判が行われる。
三七日(21日目)  宋帝王(文殊菩薩) 邪淫の業についての審査
三七日21日目、第三の法廷の裁判官は、宋帝王である。ここでは、宋帝王が、ネコとヘビを使って不邪淫戒について裁く。不邪淫の罪を犯したものが男なら、ネコが男性自身に噛み付き、女なら、ヘビが足元に忍び寄り下半身の部分に入り込む。
四七日(28日目) 五官王(普賢菩薩) 計りで罪の重さを量る
四七日28日目、第四の法廷の裁判官は、五官王である。ここでは、主に不妄語戒について裁かれる。ここには、生前の言動における悪を一瞬にして計る秤があり、この秤に乗せられ裁判が行われる。
五七日(35日目) 閻魔王(地蔵菩薩)
水晶の鏡で生前の業績をつぶさに映し出し、裁きを申し渡す
五七日35日目、第五の法廷の裁判官は、閻魔王である。あの有名な閻魔大王である。ここ閻魔王庁には浄玻璃という水晶でできた鏡がある。この鏡に映し出される生前の悪行全てと、閻魔帳に記載された行状により裁かれる。ごまかしの一切効かない裁判である。閻魔大王は十人の王の中心である。なぜなら、閻魔大王が人類最初の死者であり、極楽浄土の第一発見者であるからである。浄土の王になった閻魔大王は浄土ふさわしくない悪人を収容するために地下に牢獄を作った。それが地獄である。そこで、浄土へ送るか、地獄へ送るかの審判を行うようになったのである。
鉄丸所
第五の法廷から第六の法廷に向かう途中にある。生前悪行の多いものは、大きな石で頭を打たれるなど、苦しめられる。
六七日(42日目) 変成王(弥勒菩薩)
五官王の計りと閻魔王の鏡で、生前の功徳を再審査
六七日42日目、第六の法廷の裁判官は、変成王である。ここでは、過去の裁判の結果をもとに裁かれる。
七七日(49日目) 泰山王(薬師如来) 善因・悪縁を審査、判決の確定
七七日49日目、第七の法廷の裁判官は、泰山王である。ここが最後の裁判であり、六道のどの世界へ生まれ変わるかが決まる。しかし、最終判決を泰山王が言い渡すわけではない。どこの世界に通じているかは全くわからない六つの鳥居があり、どの鳥居に進むかを死者自身が決めるのである。ただ、自分で選んだつもりでも前世の業により結果は決まっている。これも因果応報である。
地獄や餓鬼道に落ちた者の、再審査制度
百日   平等王(観世音菩薩) 百カ日目の再審査
一周忌   都市王(勢至菩薩) 満一年目の再審査
三回忌   五道転輪王(阿弥陀如来) 満三年目の再審査
七回忌   華花王 満七年目の再審査
十三回忌 祇園王 満十三年目の再審査
三十三回忌 法界王 満三十三年目の再審査
遺族は、罪を軽くしてもらう為、故人の為に善行・功徳を積み重ねて、お祈りして、追善供養をする。裁判の日の後では、間に合わないから、供養は、忌日或いは前に行わなければならないと訳である。 又、49日の判決が出されるまでは、人の魂は、家の回りを浮遊していると言われている。しかしやはり、極楽浄土に往生するためには、この世で、善行・功徳を積み重ねておくことが大切である。 
 
 

 

●祟り
失礼なことはしません
神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。
類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。
日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。
現在では一般的に、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。何か災厄が起きたときに、卜占や託宣などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占って初めて人々に認識され、罪を償いその神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。神仏習合の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、仏教本来の考え方においては、祟りや仏罰を与えることはない。
怨霊による祟り
後に御霊信仰の成立により人の死霊や生霊も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち怨霊である。有名なものとしては非業の死を遂げた菅原道真(天神)の祟りがあり、清涼殿への落雷や醍醐帝の死去などが祟りによるものと強く信じられるに至った。時の公卿は恐懼して道真の神霊を北野天神として篤く祀り上げることで、祟り神を学問の守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考えられ、それ以前の最も原始的な日本人の宗教観は「触らぬ神に祟りなし」のことわざどおり、御室の深奥でひっそりと鎮座する神霊を、機嫌を損ねて廟域から出ないように、ただ畏れて封印するものだったのかもしれない。
一方、怨霊として道真と並んで有名な平将門の将門塚周辺では天変地異が頻繁に起こったといい、これは将門の祟りと恐れられた。時宗の遊行僧・真教によって神と祭られて、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。また、東京都千代田区大手町にある将門の首塚は移転などの計画があると事故が起こるという話もある。  
 
 
 
 

 



2018/8
 
十王

 

不動明王釈迦如来文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩
弥勒菩薩薬師如来観世音菩薩勢至菩薩阿弥陀如来
不動明王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釈迦如来

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文殊菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
普賢菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地蔵菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弥勒菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薬師如来

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

観世音菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勢至菩薩

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿弥陀如来