瞑想

瞑想
頭の中 迷走

息づかいを意識 ちょっとだけ「無」に向き合う


 

残り時間僅か 次々に浮かぶ 心配ごと
頭の中 空っぽにしたい 忘れたい
できれば 蓋をしたい
たとえ いっとき 瞬間でも
 
 
 
 
 
 
瞑想法1

 

瞑想に取り組む意味
人間は無意識に色々なことを考えてしまう生き物だ。たとえば電車に乗ってつり革に揺られている時、あなたは考えるだろう。「お腹が減った」「昨日あんなことがあったな」「今日は何をしよう」「混んでるな」「今日何曜日だっけ?」「疲れたな」「帰ったら仕事を片付けなくちゃ」
問題なのはあなたがこれらのことを「これについて考えよう」と決めて考えたわけではないということだ。これらの思いは自然に、あなたが意図しないところで発生したものだ。これらはあなたが普段ものを考えようとしている意識とは別のところ、潜在意識からやってきた考えたちなのだ。
人は何かに意識を集中しなくても、勝手に物事を思い浮かべてしまう。これは潜在意識の働きで、この働きはあなたが生きている限り常に続く。私たちの頭に浮かぶことは、私たちが完全にコントロールできている事柄だけではない。これが集中力とセルフコントロールを低下させる大きな原因になっているのだ。
あなたが机に向かって書類や教科書と真剣に向かい合っている時に、遠くで騒音が鳴り響くとあなたは「うるさいな」と思うだろう。その「うるさいな」と思っている間、僅かではあるだろうがあなたの集中力は削がれ、机の上の課題処理に対しての能率が落ちることだろう。自分のやろうとしていることは、外部の変化によってたやすく邪魔されてしまう。
つまり、私たちの固い意思は、絶えず外部からの攻撃にさらされているのだ。周囲の環境や雰囲気の変化に、きまぐれな潜在意識はいちいち反応し、思いがけない思考や気分を私たちに生じさせる。何かをやろうと固く誓ったとしても、自分の為すべきことがはっきりしていても、この潜在意識からの横風を24時間受け続ければ、ほとんどの人は進むべき道から外れてしまうだろう。
では、この潜在意識を制御して鋼の意志で行動し、素晴らしい結果を残せるのは強靭な選ばれた人間だけなのだろうか。いや違う。どんな人も瞑想によって潜在意識を制御し、自分の意志や欲求を守り、為すべきことを為すための力を手に入れることができる。
瞑想の効果を簡潔に表すとしたら、「自分の無意識な思考を制御して、意思の働きを高める」という説明が一番だろう。瞑想をすることによって自分の意志や意図を行動に反映させることが容易くなったり、周囲の情報に振り回されず的確な判断を下し、行動することができるようになる。
いったい何故そのようなことが可能になるのか。それは瞑想の方法と密接に関係している。
瞑想のシンプルな方法と姿勢、コツ
瞑想にはさまざまなやり方があり、これが完璧な正解だということはできない。しかしオーソドックスで誰でもシンプルに取り組める方法はある。
「1.まずは静かな場所で楽に座る」ことだ。意識を他のところに向けなければならない空間で瞑想に取り組んではならない。近くに危険なものがある時や騒音がひどいとき、自分の体のバランスをとらなければならないような不安定な場所では、瞑想を覚えるのに不適切だ。部屋の音楽やテレビは一時止めておき、自分の潜在意識を揺さぶるような要因をまずは遠ざけよう。
姿勢にこだわる必要はない。正座や仰向け、座禅のように足を組んだ結跏趺坐がいいとされるが、楽な座り方ができるのならなんでもいい。服装もなるべく圧迫感のないものを選ぼう。横になるうちに眠気に襲われて寝てしまう人もいるので、布団の中で行うのはおすすめしない。
次に「2.目を閉じて意識を呼吸に向ける」ようにしよう。目を閉じなくてもいいとする方法もあるが、余計な視覚情報を入れないほうが、瞑想の感覚を理解しやすい。そして意識を呼吸に向ける。鼻で息を大きく吸い、ゆっくりと吐く。意識は呼吸だけに集中する。他のことは何も考えず、身体も動かさず、とにかく一定の間隔で呼吸だけを繰り返そう。この呼吸は丹田を意識した腹式呼吸で行うとベストだ。自律神経が正常に保たれて、身体が落ち着く。
呼吸に集中しようとしても、あなたの頭のなかに色々な雑念が浮かんでくるはずだ。日常の不安や恐れ、人間関係の怒り、とりとめのない思考が、次から次に湧いてくるだろう。自我が色々とモノを言うだろう。それを無理に消そうとするのではなく、観察してみよう。「3.自分が何を思うかを一歩下がったところから観てみる」のだ。これを内観という。
「あ、いま自分は明日の部活のことを考えた」「おれの潜在意識はいまお腹が減ったと思ったんだな」「退屈って言葉が頭に浮かんだぞ」「足がムズムズする、っていま無意識が訴えてきたな」「自分は今テレビを観たがっているんだな」
潜在意識はあなたの頭に色々なことを浮かばせるが、それにまともに付き合わないことだ。欲求や不安を感じている自分を観察し、「自分の潜在意識はこんな思いを抱かせてくるんだな」と他人ごとのようにいなして、自分は呼吸だけに集中しよう。「4.何も考えないように努力する」のだ。もちろんあなたの潜在意識は多くのことを勝手に語りかけてくるだろう。しかしあなたはその言葉を無視して、自分の呼吸を何も考えずに行なうのだ。
この過程であなたは自分の潜在意識が普段からいかに好き勝手に想像力を支配しており、規則性も自律性も持っていないかを知ることができる。潜在意識は移り気で堪え性がなく、ふとした変化に過敏に反応すると認めることになる。
呼吸に集中する訓練はあなたに潜在意識との付き合い方を学ばせてくれる。潜在意識に思考のすべてを注いでしまうと、「潜在意識=自分の思い」となり、誰もが信念を持たず気まぐれで集中力のない人になってしまう。潜在意識はわがままなお客のようなものなのだ。彼のすべての要求に応えたり、四六時中付き合ってあげる必要はない。彼が要求することと、自分が為すべきことは切り離して考えなくてはならない。
潜在意識を促し、何も考えないで呼吸に意識を傾けていると、ふと呼吸にすら意識を向けなくてもいい瞬間が訪れる。呼吸は意識をせずとも行えるから、呼吸だけに集中した状態から、呼吸への集中を抜けば、そこには潜在意識も意識もない空白が生まれる。瞑想時はこの無心の状態を目指そう。
この無の境地に辿りつくのは非常に難しい。特に初めは潜在意識の扱いに苦労するだろう。「何も考えない」という考えが浮かぶ事自体、すでに考えている証拠なのだから、自分の心を完全に空白にするのは決して簡単ではないのだ。
瞑想とは非常に感覚的なものだ。瞑想に取り組んでも他人が外から「正しくできている」と判断する方法はない。これは個人個人が取り組んでいかなければならない。セルフコントロールとはそういうもので、自分は瞑想が苦手だと思う初心者の人もいるだろう。
しかしこの瞑想にチャレンジして慣れてくると、理想的な瞑想の感覚をつかめてくる。自分の中で瞑想の感覚の研究を行うのだ。そうすれば自分が潜在意識に関わらされているのか、それとも身をかわすことができているのかを明確に感じ取ることができるようになる。
一度につき何時間もやる必要はない。回数に個人差はあるが、一日3分ほどの時間を継続して瞑想の訓練に費やすことで、次第に「空の感覚」を記憶できるようになって来る。こうなればいつでもどこでも頭の掃除を行い、上手くいかない日常生活を瞑想の効果で変化させられるようになる。
瞑想のやり方
1.まずは静かな場所で楽に座る
2.目を閉じて意識を呼吸に向ける
3.自分が何を思うかを一歩下がったところから観てみる
4.何も考えないように努力する
瞑想の効果、メリット
以上のような方法で瞑想を行えば、あなたは潜在意識に振り回されずに自分の意志を守ることができるようになる。やると決めたことに集中し、持続力がなく多くの時間を無駄にしてしまう自分とサヨナラできるのだ。
集中力は瞑想の訓練によって高めることができる。自分が潜在意識を制御する感覚というのは、自分の中で育てることができるものだ。一流のアスリートなどは自分の集中力の高め方や、自分の集中力が高まっているかを感知する方法を経験から知っているが、あなたもその境地に瞑想によって辿りつくことができる。また瞑想のトレーニングの頻度を増やすことによってあなたの集中力は強化されるだけでなく、多くの時間持続することができるようになるだろう。
瞑想によって自分の感情を冷静に観察できるようになるため、人間関係の不安や悲しみなどのストレスとの付き合い方を知り、多くのときを冷静に穏やかに過ごすことができるようになる。苦悩からの解放によって、知らず知らずに乱れてしまった自律神経を安定させることができれば、体調の改善や食欲の増進など、想像以上の恩恵を受けることができる。
すっきりした頭は状況処理能力・計算能力なども高めてくれる。マイケル・ジョーダンも「ゲームの最後の場面で、禅のおかげで観客が静かに感じられた。周囲の動きがゆっくり見え始め、コートがよく見えた」と語るとおり、瞑想は周囲の把握と冷静さ、集中力をもたらしてくれる。失敗への怯えも薄まり、緊張して実力が発揮しきれないことも減る。
トレーニングや仕事などで疲労した身体とメンタルに深いリラックスをもたらすのも瞑想の効能だ。私たちはハードワークと休息を繰り返して成長していく。その折々で瞑想を効果的に実施することで、私たちは目的を達成するために飛躍的に上達、進化していける。
目標へと向かうやる気を湧き立たせてくれる。勝ちたい、上手くなりたいなど、私たちには確固たる欲望があるにも関わらず、精神的なエネルギーの枯渇によってうまく行動力を発揮できない。人生を変えるためには、余計な心労を減らして、自分の為すべきことを為すために、瞑想を行うことが効果的だ。
瞑想を実践している有名人
瞑想は東洋的で非科学的なものとして、時には堅苦しい上に役立たないもののように扱われてしまう。しかしながら、多くの有名人や成功者たちは実際に瞑想を自分の生活の中に上手く取り入れて、その効果によって自分を素晴らしい結果に導いている。
マイケル・ジョーダンが精神を集中させ、試合で結果を残すために禅を行なっていたというのは有名な話だ。禅はインドで生まれた瞑想法であり、ジョーダンの師でありコーチであるフィル・ジャクソンが彼に実践させた。NBAプレーオフ11回の優勝を誇るフィル・ジャクソンは禅マスターと呼ばれるほど瞑想に傾倒しており、選手たちに試合でのパフォーマンスを向上させるために瞑想を奨めたのだ。
瞑想はアップルのスティーブ・ジョブズやマイクロソフトのビルゲイツ、京セラ・KDDIの稲盛和夫など、大企業の多数の経営者も取り入れている。また、近年ではサッカー日本代表の長谷部誠なども瞑想法を日常生活に取り入れているとして話題になった。芸能人ではミランダ・カーなども精神を安定させ、健康と幸福を感じるためのテクニックとして取り入れている。
騙されたと思って試してほしい
瞑想についてまだ懐疑的な人は、一度でいいから試してみてほしい。一回につきたったの3分間でも、長く続けていけば効果を感じることができるようになってくる。1週間だけでも続けてみよう。通勤電車の中や学校での昼休み、風呂に入浴しているときなど、少しの時間が空いたタイミングで実施できる。
本番での緊張や判断ミスへの不安を抱えている人、練習へのやる気が起きず集中できない人。そんな人にとって瞑想はとても役に立つ。慣れてくれば立ったままでもいつでもどこでも目をつぶるだけで、潜在意識を制御して自分のやるべきことに意識を集中させることができるようになる。
セルフコントロールはすべての人にとって永遠の課題だ。この記事があなたの人生を少しでも変え、未来に大きな実りをもたらしてくれると信じている。 
 
瞑想法2   

 

最近ではマインドフルネスが有名になり、瞑想を実践している人は多いと思うが、その具体的な方法を公開している人は少ない。瞑想に正解なんてないし、自分に合ったやり方を見つけるしかない。他人のやり方をそのまま真似ればいいというものでもない。ただ、最初の入り口でつまづいてしまう人も多いと思う。そこで、僕が実践している座禅による瞑想方法を、流れに沿って紹介したい。瞑想は科学だと思っているので、できる限り曖昧な表現にならないよう言語化してみたつもりだ。  
1. 自分の外側を整理する(気にすることをやめる)
まずは、瞑想に集中するための環境作りだ。人間は簡単に集中力が途切れ、気が散ってあれこれ考えてしまう。それを避けるために、事前の策を講じておく。
1 / 目に入る範囲を片づける
まずは部屋の掃除だ。散らかった洗濯物や雑然とした布団が目に入る状態で、意識を集中するのは難しい。簡単にでもいいので、見える範囲はきれいにしてしまおう。人によっては、部屋中に雑巾がけをするなど、ここに一番時間をかける場合さえあると思う。
2 / 心が落ち着く音楽を流す
聴覚にすぐれた人は、心落ち着く音楽を流すことで、逆に集中力を高めることができる。瞑想に慣れていない場合も、音楽によって他に気をとられることが少なくなるのでおすすめだ。次第に慣れてくると、逆に音楽が気になって集中できなくなる場合もあるので、そこからは音楽なしで瞑想に取り組んでみよう。
3 / 部屋の扉や窓は閉める
部屋のドアを開けていると、何かがそこを横切るかもしれない。窓を開けていると、騒音や風が入ってくるし、季節によっては暑さや寒さが気になるかもしれない。そういった刺激を減らすために部屋を閉め切る。
4 / / 部屋のあかりを消す
部屋の様子が気にならないように、あかりを消して薄暗くする。完全に真っ暗にしてしまっても、次第に目が慣れてくるので薄暗く見えてくる。心配なら多少見える程度に光を取り入れる。
5 / デジタル製品は目に入らない位置に移動する
スマホやPCなどのデジタル製品は、画面を閉じて、目に入らないようにする。音楽やタイマーでアプリを利用する場合も、目につかないように身体の横に置くこと。
2. 身体の準備をする
身体が緊張していると、なかなか瞑想に集中できない。できるだけリラックスできるような体勢を整えていく。
1 / 鼻の通りをよくしておく
呼吸をしやすいように、鼻の通りをよくしておく。瞑想は必ず鼻呼吸で行うため、鼻が詰まっていると瞑想にならない。鼻の通りをよくしておくことは、日常でも大事なことだ。
2 / ゆったりした服装にする
足を組んだり、呼吸をするのに邪魔にならないよう、できるだけゆったり余裕のある服装にする。
○ 腹式呼吸の邪魔になるため、ジーンズは避け、ベルトもはずす。
○ 足を組みやすいよう、やはりジーンズは避け、靴下も脱ぐ。
○ 身体が緊張しないよう、メガネや腕時計など、身につけているものははずす。
3 / 簡単なストレッチを取り入れる
身体をほぐすために、簡単なストレッチを取り入れてみてもいい。ここでも、身体の緊張を解くことや、足が組みやすいこと、呼吸がしやすいことを意識する。
○ 堅くなりやすい腰回りは、左右に回して稼働域を広げておく。
○ 固定してしまう足は、事前に足の指をグーパーグーパーと広げておく。
○ 呼吸をしやすいよう、お腹を一度前に出し、自然に元に戻す。
○ 緊張しやすい肩は、一度ぐーっと耳まで上げて、吐く息と共に降ろす。
○ 猫背で前かがみになりやすい人は、空を見上げながら胸を開き、呼吸と共に戻す。
○ 最後に一度深呼吸をする。
4 / / 筋弛緩法を取り入れる
身体の緊張をほぐす方法として、「筋弛緩法」がある。無意識に力が入っている箇所の筋肉に、意識してギューっと力を込める。すると、力を抜いて脱力するときに、一緒に緊張も解けるという理屈だ。潜在意識による身体の緊張を、顕在意識によってコントロールすることができる。
5 / 自律訓練法を取り入れる
身体ではなく意識によって緊張を解く方法として、「自律訓練法」がある。これ自体が一種の瞑想みたいなものだが、身体をリラックスさせるのにとても効果がある。手足の重さや温かさ、鼓動や呼吸の動き、お腹と額の温度を感じように言葉を念じていく。
3. 心の準備をする
心の準備といっても大したことはない。瞑想を始めたら途中でやめないことと、毎日続けるということだ。そのために、いくつかの準備をしておく。
1 / 同じ場所、同じ時刻、同じ動作で始める
瞑想は習慣化しないと効果が薄い。そのため、しばらくは続けていくことを心に決める必要がある。その上で、続けるためには、動作をルーティーン化するのがよい。毎日同じ時刻に、同じ場所で、同じ動作から瞑想を始める。
○ 瞑想する時間帯は、朝か夜がおすすめだ。一日の始まりに「どんな一日にしたいか」を感じてもいいし、一日の終わりに「どんな一日だったか」を振り返ってもいい。朝は外出の準備を、夜は寝る準備を終えてからの方が、焦らずじっくり瞑想ができる。
○ また、毎日同じ条件で繰り返すことで、心と身体の変化に気づきやすくもなる。わずかな変化でも、その効果を感じることができれば、続けるためのモチベーションになる。
2 / 短い時間から始める
最初から何十分も瞑想に集中などできない。まずは、中断する必要がない長さから始める。毎日続ける意味でも、短い時間の方がいい。続かなかったとしても、手軽に再開できるような短さがいい。
○ 最初は短く5分から。
○ その後10分までは楽に行けると思う。
○ 15分まで行くにはかなり慣れが必要になってくる。
○ ちなみに、座禅では線香一本分(約40分)が基本となる。
実際には、部屋や身体の準備で余計に時間がかかる。所要時間は+5分と考えておこう。
3 / 瞑想を終えるきっかけを準備しておく
自分の好きなタイミングで瞑想を終えていいことにしてしまうと、いつやめようかと考えてしまう。タイマーをセットするなど、自分の意思が入らない形で瞑想を終えるきっかけを作っておく。座禅では鐘を鳴らすことで、瞑想の始まりと終わりの合図をする。
4 / 通信機器は機内モードにしておく
スマートフォンなどの通信機器は、あらかじめ「機内モード」にしておく。着信や通知に邪魔されないようにするためだ。アプリによっては、「機内モード」にしておかないと、着信や通知でタイマーが止まってしまうことがある。
5 / 瞑想することを家族や同居者に伝える
さあ、最初の難関だ。一人暮らしならいいが、誰かと同居している場合、瞑想することを伝えるかどうか、という問題が生じる。宗教的なものではないかと心配されたり、やったことがない人にはなかなか理解が得られないことが予想される。
6 / 最後に一度深呼吸する
いくら準備をしても、何かやり残したことがないか気になったりする。気になったまま瞑想を始めると、どんどんそれが大きくなって、瞑想に集中できなくなる。
だから、心の準備を終えたら一度ゆっくり深呼吸してみる。ひと呼吸おくことで、確認の時間がとれるし、ひと呼吸の間に何も思いつかなければ、あきらめて次のステップに移りやすい。
4. 姿勢を整える
身体の細かい動作や姿勢を気にしだすと、いつまでたっても瞑想を始められない。細かい点はできるだけ後回しにして、まずは始めてみた方がいい。
<ここからは、常に呼吸の流れを意識しながら進める。>
1 / お尻をひざより高くする
お尻を高くすると自然と姿勢がよくなる。そうすると、お腹の稼働域が広がり、腹式呼吸もしやすい。お尻の後ろ半分だけで座るようにする。尾てい骨だけで座るイメージだ。
○ 座布団があれば、それを二つ折りにしてタテに使う。ヨコにすると座布団が沈んでしまって、尻が高くなりにくい。
○ 座布団がない場合は、枕やクッションを2〜3個重ねて使う。高さが出やすいように、できるだけ堅いものがいいだろう。
○ 足を組むのがきつい人は、椅子に座ってもいい。
○ 座禅用の坐蒲(ざふ)というものもあるが、最初からここまで準備する必要はないだろう。持ってる人がうらやましい。
2 / 動きがちな足を固定する
貧乏ゆすりに代表されるように、足は勝手に動きやすい。そのため、できる限り両足を固定する必要がある。
○ 両足を反対のモモに乗せて座る。これを結跏趺坐(けっかふざ)という。
○ 両足がきつい人は、片足だけ反対のモモに乗せて座る。これを半跏趺坐(はんかふざ)という。
○ 片足もきつい人は、椅子に座り、足の裏をぴったり床につけて離さないようにする。
3 / 手のひらを上に向ける
両手はどのような形であれ、必ず手のひらを上に向けておくようにする。手のひらを下にしてしまうと、足に熱が伝わりやすくなるし、手の力で姿勢を維持してしまいがちだ。
○ 右手の上に左手をのせ、両手の親指を自然に合わせる。親指はお腹の丹田(たんでん)というところの前におく。これを法界定印(ほっかいじょういん)という。
○ もしくは、左右のひざに手のひらを上にして置くだけでもいい。親指と人差し指で円を作る場合もある。
4 / 身体を左右に揺らして重心を探す
お腹で呼吸しやすいように、下半身を左右に揺らしながら重心を探す。肩が緊張しないように、上半身を左右に揺らしながら重心を探す。力を抜いても姿勢が崩れない位置が身体の重心だ。
5 / 筋肉を使わず骨で座る
力を抜いても姿勢が崩れないようにするためには、筋肉ではなく、骨で座る必要がある。お尻は尾てい骨だけで座る。背骨は下から一つずつ積み上げるように乗せていくイメージだ。
6 / 視線は目の前の床におく
あごを引いて斜め45%にし、視線は約1メートルほど先の床を見下ろす。どこを見るというわけではなく、ただ床に視線を下すだけにする。部屋の掃除をしておかないと、気になってそちらを見てしまうので、事前の準備も重要だ。
7 / 半眼にしてインプットを減らす
五感の中で視覚が一番情報量が多い。瞑想の邪魔になるインプットを減らすために、目を閉じる。ただ、完全に目を閉じてしまうと、逆に音や匂いに敏感になってしまう。そのため、はっきりと見えないくらいの半眼にするのがちょうどいい。もちろん、慣れないうちは完全に目を閉じてもいい。
8 / 動きを遅くしてアウトプットを減らす
こちらも難関だ。足を固定して、力を抜いた状態で座っていても、必ずかゆみやしびれが気になったり、眠気や名案が降ってきて、いてもたってもいられなくなることがある。
慣れないうちは、多少の動きは許容してみてもいい。ただし、衝動的な動きはやめて、できる限りスローモーションで動くようにする。ゆっくり動くだけでも自分をコントロールできているということだ。
5. 呼吸へ意識を集める(瞑想を始める)
瞑想の基本は呼吸だ。呼吸へ意識を集めることで、落ち着きと集中力の両方が得られる。呼吸を通して、自律神経を整えることができるからだ。
体温調節や血流などの生命維持活動を司る自律神経は、普通はコントロールできるものではない。だが、呼吸は無意識にでも意識的にでも行うことができる。そんな呼吸に意識を集中することで、潜在意識に働きかけることができるといわれる。
<ここからは、できるだけ深く、できるだけゆっくり呼吸する。>
1 / 口呼吸ではなく鼻呼吸
基本は吸うときも吐くときも鼻呼吸だ。慣れないうちは鼻から吸って口から吐いてもいい。だが、口だと一気に吐いてしまうので、すぼめるか狭めるかして、ゆっくり吐くようにする。運動でもしない限り、吸うのはどんなときも鼻からだ。
2 / 胸式呼吸ではなく腹式呼吸
お腹の動きだけに集中して、胸は自然に動くに任せる。腹一杯に息を吸えば、胸も広がるはずだ。腹式呼吸だからといって、胸がへこむわけではない。腹式呼吸に慣れるには、とにかくお腹の動きを意識することが重要だ。
3 / 腹筋の動きを意識する
試しに、一度息を吐き切ってみてほしい。吐き切ったと思ったら、そこからさらにお腹を腹筋でへこませてみてほしい。どうだろう?もっと息を吐くことができたのではないだろうか。このように、腹式呼吸はお腹を意識して動かすことが重要になる。
4 / 丹田を意識する
試しに、へその下、下っ腹のあたりを手で触りながら、腹式呼吸をしてみてほしい。お腹の中で一番へこみ、一番膨らむ頂点、それが「丹田(たんでん)」だ。この丹田を大きく動かすように意識して呼吸すると、最大限に深く、大きな呼吸ができることになる。
5 / 吸う方より吐く方を長くする(意識する)
試しに、自分の呼吸を観察してみてほしい。吸うことばかり意識していないだろうか。呼吸というと、どうしても酸素を取り入れようとしてしまい、吸う方に意識が向かいやすい。意識して吐く方を長くすると、呼吸全体が深く、ゆっくりしたものとなる。
6 / 吸った後に少し呼吸を止めてみる
試しに、一度息を吸ってから、息を吐く前に、呼吸を止めてみてほしい。ギリギリまで我慢してから呼吸を再開すると、自然と深く、ゆっくりと息を吐けるようになる。多少おおげさな呼吸になるが、呼吸を意識するには、おおげさなくらいがちょうどいい。
7 / 音を立てて呼吸してみる
試しに、音を立てるようにして呼吸してみてほしい。こちらも自然と大きな呼吸になるはずだ。繰り返しになるが、呼吸は多少おおげさなくらいがちょうどいい。慣れてくると、歯を食いしばった口角のあたりから、声にならない声が漏れてきたりする。
8 / 一定のリズムで呼吸を刻む
呼吸法を習得するのは結構な難関だ。多くのことを意識しながら呼吸するには限界がある。そのため、最初はリズムが崩れないことを重視して、呼吸の長さを数えながら「吸って」「吐いて」を繰り返すのがおすすめだ。他のコツは徐々に取り入れていく。
数える数はさまざまで、自分に合ったものを探すしかない。ここでは、とっかかりとしてよくあるリズムを書いておこう。
○ 吸って:止めて:吐いて=3:3:7(長く吐くことを意識したリズム)
○ 吸って:止めて:吐いて=3:7:7(深く吐くことを意識したリズム)
○ 吸って:止めて:吐いて=5:3:7(より自然な呼吸に近いリズム)
数える数は、人それぞれなので、比率や長さは自由に変えてみてほしい。しっくりくる数が決まる頃には、数を数えなくても呼吸に集中できるようになっているはずだ。
6. 自分の内側を整理する(考えることをやめる)
ここが瞑想で一番の難関だろう。「考えない」「自己との対話」「無になる」などと言ったところで、それを実践するのはすごく難しい。姿勢や動きと違って、他人のやり方を見ても、頭の中身まではわからない。ここでは、僕なりの理解を言語化して説明したいと思う。
○ 「考えない」とは、思考の代わりに実感をもつことだ。僕らの頭は勝手に暴走するバカモノだ。
○ 「自己との対話」とは、考えずに観察することだ。無意識に思考するバカモノを、もう一人の自分だと捉える。
○ 「無になる」とは、暴走するバカモノまでおとなしくなることだ。不意に観察対象がいなくなって戸惑う。
処理中のCPUを整理できるはずもないので、まずはメモリーから整理していく。メモリーが整理できると、CPUはやることがなくなってシュンとする。後には、整理されたメモリーの中身と、インターフェースからのインプットだけが残る。
○ CPU=バカモノ
○ インターフェース=五感
○ インプット=外側の世界から得られる実感
○ メモリー=幼少期から続く記憶
メモリーの中には、本当のあなたが眠っている。
<ここで、タイマーをセットする。座禅であれば始まりの鐘が鳴る。>
<ここからは、意識がそれるたびに呼吸へ意識を戻すことを繰り返す。>
1 / 呼吸へ意識を集中する
繰り返しになるが、呼吸へ意識を集中していく。上述の通り、最初は一定のリズムを数えるようにする。呼吸を観察する。呼吸を通して、空気の温度を感じる。気がそれたら、呼吸に意識を戻すことを繰り返す。
2 / 考えないようにしようとしない
「考えないようにしよう」などとは思わないこと。そう思えば思うほど、逆に頭から離れずに考えてしまうからだ。思考そのものを捨てる必要がある。脳(バカモノ)が勝手に思考を始めたら、呼吸に意識を戻すことを繰り返す。
3 / あるがまま、ありのままに受け入れる
考えないようにすると、どんどん考えてしまう。悩みをかき消そうとすると、どんどん悩みにとらわれる。そんなときは、「あるがまま」「ありのまま」に一度受け入れてしまうと楽になる。とはいっても、「あるがまま」「ありのまま」に自分の感情を受け入れるのは結構な難関だ。次に書く通り、取り除こうとせずに、ただただ観察し、嵐が過ぎ去るのを待つ。
4 / 取り除こうとしない
頭(バカモノ)が勝手に考えてしまうからこそ、悩みは悩みとなる。それを取り除こうとすると、脳(バカモノ)はどんどん反抗してくる。怒りや嫉妬、悲しみや後悔などのネガティブな感情が湧いてきたら、呼吸に意識を戻すことを繰り返す。
○ かゆいものはかゆい。
○ 眠いものは眠い。
○ 考えてしまうのは仕方ない。
○ 悩んでいるのは仕方ない。
そして、呼吸に意識を戻す。
5 / ただただ観察する
取り除かないでどうするかというと、ただただ観察するようにする。脳(バカモノ)の思考を観察する。見つめる。唱える。念じる。言語化する。実況中継する。言い方はいろいろある。そして、呼吸に意識を戻すことを繰り返す。
○ 自分はかゆいんだなあ。
○ 自分は眠いんだなあ。
○ 自分は考えているんだなあ。
○ 自分は悩んでいるんだなあ。
そして、呼吸に意識を戻す。
6 / 過ぎ去るのを待つ
ただただ観察していると、いつの間にか脳(バカモノ)もシュンとする。負の感情も、最初の波が過ぎ去ってしまうと、一気に楽になるものだ。感情の第一波に飲み込まれるかどうか、そこが鍵となる。さらに大きな感情が沸きあがったら、歯を食いしばって、丹田に力を込める。そうやって、嵐が過ぎ去るまで、呼吸に意識を戻すことを繰り返す。
○ かゆいのは今だけ。
○ 眠いのは今だけ。
○ 考えてしまうのは今だけ。
○ 悩んでいるのは今だけ。
そして、呼吸に意識を戻す。
7 / 雑念を手放す
感情が過ぎ去るのを待ってやり過ごしても、脳(バカモノ)が勝手に呼び戻してくるだろう。そんなときも、取り除こうとせず、ただただ観察し、過ぎ去るのを待ち、呼吸に意識を戻す。そこは変わらない。だが、何度も繰り返すうちに、悩みや感情がどうでもよくなるタイミングが訪れる。そうすればしめたものだ。雑念を手放すことができれば、脳(バカモノ)が勝手に負の感情を呼び戻すことはできなくなる。ここまでくれば、瞑想の効果を大いに実感できるはずだ。
○ かゆくてもいい。
○ 眠くてもいい。
○ 考えてしまってもいい。
○ 悩んでいてもいい。
そして、雑念は消えていく。
7. 外側の世界を実感する(気づく)
思考が整理されると、一気に視界が開けるタイミングがやって来る。五感が冴えわたり、外の世界を強烈に実感する。ただ、心穏やかで静寂のようにも思える。「なんで、目の前のことをちゃんと見れていなかったのだろう?」そんなことを考えながら、周りをゆっくりと見渡す。
○ 半目でも、身体を動かさなくても、なぜかよく見渡せる。
○ 遠くから雑踏までもクリアに聞き取れる。
○ 舌の上に残るかすかな味までも感じる。
○ 身体と床との接点、上唇と下唇の接点などを感じる。
○ 身体に触れる空気の動きを感じる。
○ 身体が触れている箇所の温度が伝わってくる。
○ 鼓動でかすかに身体が動くのを感じる。
○ 鼓動と共に全身に血流が行き渡るのを感じる。
○ 血流によって手足の先まで駆け巡る温かさの波を感じる。
思考のループに陥っていた感覚が外に向く。実感を通して、過去でもなく、未来でもなく、「今を生きている」ことを強く感じる。
このような感覚は、よく内側の世界と外側の世界がつながる感覚、心と身体の境界がなくなる感覚などと言われる。
8. 内側の世界を実感する(気づく)
外側の世界を実感できるようになると、同じように自分の内側の世界を実感できるようになる。思考を手放すことで、「自分はどうしたいのか」がちゃんとそこにあることに気づく。過去の記憶が整理されて、幼少期から続く自分のコアが見つかる。気づいてしまうと、なんてことないことのように思える。それは初めからそこにあったのに、今まで気づいていなかっただけだ。
<タイマーのアラームが鳴る。座禅であれば終わりの鐘が鳴る。>
<ここからは、呼吸への意識をほどき、自然な呼吸に戻していく。>
9. 呼吸から意識をはなす(瞑想を終える)
最後に一度深呼吸し、呼吸への意識を徐々に解いていく。もちろん、日常の中で呼吸や瞑想を行うことも大変効果があるが、無理に始めずに慣れてからにする。
1 / 気づいたことを声に出す
気づいたことや直感で感じたことを声に出してみてもいい。声に出すことで、改めて自分の本当の気持ちに気づき、行動に移しやすいこともある。
2 / 気づいたことをメモに書く
すぐ忘れる人は、どこかにメモとして書いておいてもいい。後で読み返しやすい場所がいいだろう。僕はToDoを兼ねたカレンダーアプリに毎日記録している。
10. 姿勢を崩す
急に動くのではなく、ゆっくり身体を揺らしたり、ストレッチしたりしながら、徐々に姿勢を崩していく。
瞑想の肉体的効果
よく言われる効果としては、呼吸を通して自律神経が整い、五感が冴えるという点があげられる。食事をおいしく感じ、ぐっすりと眠れ、身体を動かしたくなる。だが、僕が一番感じている瞑想の効果は、「呼吸・姿勢・瞑想」を日常的に実践できるようになるという点だ。猫背、浅い呼吸、繰り返し思考などの問題行動を日常的に意識して改善できるようになる。「呼吸・姿勢・瞑想」は、「食事・運動・睡眠」と同じくらい、健康にとって大事なことだと思う。慣れてくると、座ってるだけでも、歩きながらでも、電車の中でも、オフィスにいても、瞑想できるようになる。姿勢を正し、半目にして、呼吸に集中するだけだ。
瞑想の精神的効果
よく言われる効果としては、リラックスやリフレッシュ、集中力向上やパフォーマンス向上などがあげられる。よく休み、よく働く、そんなことができるようになるというわけだ。イライラや落ち込みなどに対する自己コントロール力の強化も期待できる。結果としてストレス軽減にもつながるし、心の不穏な動きにブレーキをかけることができるようにもなるかもしれない。だが、僕が一番感じている瞑想の効果は、「今、本当にやりたいことに気づく」という点だ。好きなことややりたいこと、本音や直感だ。さあ行動に移そう。
思考のループから抜け出し、具体的な行動につなげる
頭から離れない悩みがあると、いくら考えないように努力しても、頭が勝手に考えてしまう。ただ、五感で自分や周りのことを実感しながら考えると、悩んでいるのは頭(バカモノ)の勝手な「思考」であって、やりたいことは「行動」だったと気づく。「やるべき」「やめるべき」と、「やりたくない」「やめられない」の間を揺れ動くのが繰り返し思考だ。
○ 「仕事に行きたくない」は、「仕事に行かなければならない」の裏返し。
○ 「お酒をやめられない」は、「(本当は)お酒をやめないといけない」の裏返し。
「やりたい」「やりたくない」と、「やる」「やらない」の間を揺れ動くのが行動につながる思考だ。
○ 「仕事に行きたくない」が、本当に「仕事に行かなければならない」のか。そこに気づけば、人に相談したり、今後に向けて準備するなどの行動につながる。
○ 「お酒をやめられない」が、本当に「お酒をやめないといけない」のか。そこに気づけば、お酒の怖さを調べてみたり、断酒してみるなどの行動につながる。
自分が繰り返してしまう思考のクセに気づけば、未来に向かって一歩踏み出すことができる。
おわりに
何度も「呼吸」が出てきたと思うが、とにかく瞑想は「呼吸」がキーワードだ。これでもかというほど、呼吸に意識を戻すことを繰り返していく。実際には順番通りには行かず、行ったり来たりしながら、徐々に瞑想に入っていくことになる。毎回全部できるわけでもない。最初はほとんどうまくいかない。だが、多くの人が効果があると言っているなら、あなたも試してみる価値は十分にあるはずだ。自分でも効果を実感できたなら、自然と続けられるはずだ。ただ、試してみないことには、やり方や瞑想自体があなたに合っているかもわからない。  
 
瞑想法3

 

1 瞑想との出会い
「瞑想」という言葉にはじめて出合ったのは、たぶん私が高校生の頃だったと思います。それ以前に、一休さんや沢庵和尚さんの話などのなかで「坐禅」という言葉を聞いたことがありましたが、なんのことかはっきりとわからなかったし、話の焦点でもなかったので、せいぜいなにか不思議な知恵をさずける方法というような理解ともいえないようなあやふやなものでした。中学・高校の頃、私はビートルズが好きだったので、よく彼らのヒット曲を聴いたり、ニュースなども雑誌などで読んだり、彼らの写真を切り抜いて部屋中に張りまくったりしていたものでした。あるとき、ビートルズがインドに行ってヨガのマスターに会った、という記事とそこに写真があり、そのあたりから「ヨガ」と「瞑想」という言葉が私の頭のなかに入り込んだみたいです。もっとも実際に「ヨガ」に出会うのはそれから何年も後になり、「瞑想」に出会うのはもっと時間がたってからになりました。
最初に体験した「ヨガ」は長野県に滞在していたインド人の朝のクラスでしたが、これがハタ・ヨガのポース中心のものだったので、私としてはたいへんがっかりした記憶があります。「なんだ、ただの体操じゃないか・・・」というような印象でした。私としては、なにかたいへんな超常体験でもあるのか・・・と期待していたものですから(期待はかならず裏切られるものだと知ったのはずっと後になってからのことです)・・・。その後、しばらくしてから、沖正弘氏の「ヨガ入門」という本を読み、三島にあった沖ヨガの本部道場を訪れ、そこでヨガのアサナや沖導師特有の強化法・浄化法などの修練と共に「瞑想」の時間もありました。でも、当時私は20歳くらいの若者だったので、強化法や浄化法など身体を激しく使う時間は楽しくてしょうがなかったのですが、30分くらい座るだけという瞑想の時間は苦痛と退屈以外のなにものでもなかったのです。それから10年くらいたってから、私はインドに行くようになり、そこで今度は和尚ラジネーシという人の書いた「草はひとりでにはえる」という本に啓発されて、その人のコミューンのあったアメリカに行きました。そこでダイナミック瞑想だとかクンダリーニ瞑想などという激しい運動とそのあとの沈黙の時間が一緒になった瞑想を体験して、そこから瞑想が楽しくてしょうがないというふうに変わっていったのです。
それからもう20年以上たちました。瞑想にたいする私の理解も態度もずいぶんかわりましたが、自分の人生の意味や意義を知るためには、必要不可欠なすばらしいものだという考えには変わらないものがあります。
2 瞑想(メディテーション)とは何か
瞑想とはなんですか? と聞かれると、一瞬「フム」と考えてしまうのですが、それは瞑想のなかにいろいろなアスペクトがあって、その人がどこにいて、どんなものを思い描いているのか、ということから、出てくる答えが変わってこざるをえないからです。「瞑想」という言葉を辞書で調べてみると、「目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと」、「何かに心を集中させること」というようにでていますが、これは東洋と西洋の概念の違いと、翻訳のときに言葉を当てはめるところからくる混乱の結果でしょう。キリスト教のなかで神に心を没入させて、一心に祈ることを、東洋の瞑想と同じものだと思ったので、上記のような間違った訳語が生まれてきたわけです。もともと仏教では、瞑想という言葉は使わず坐禅という言葉を使ってきています。通常、瞑想という言葉は、ひとつにはあらゆる想いがなくなっているという状態をあらわす言葉として用いられます。 何かにたいする考えや想いなどが寂滅している状態、心をわずらわせるようなものが何もない(無の)状態、心配や不安などのネガティブな想いもなく、また、日常のなかで体験するようなうれしさやよろこびといったポジティブな感情などからも解放されている、という状態です。
そういった状態をインドでは「ディアン」(冥想)と表現しました。もう少し的確に表現しようとするなら、そういったあらゆる「動き」や「状態」というものさえも消滅していったところ、そこのところを指さして「ディアン」(想いが冥する)と言ったのです。それ以上、言葉で表そうとすると本質からどんどん離れていってしまうのです。禅の人たちはそれを指し示す最低限の言葉、できるだけマインドの想像をいっさい許さないような言葉として、「これ!」だとか「無」だとか「空」などという言葉を使っていました。そして、古今東西の瞑想の師たちは、インドでも、中国でも、日本でも、みなおしなべて、そこには普遍の静寂、普遍の平安がある、と言っているのです。もうひとつ、普通、人々が「瞑想をやってます」とか「あの瞑想はいいですね」などというようなかんじで、瞑想という言葉を使うときですが、それは実際には「ディアン」(冥想)へ向かうための手段、方法論といった意味あいで使われています。方法論としての瞑想は、一つの区切りとして30分とか一時間とかの時間のなかで、呼吸を見守ったり、マントラを唱えるなど特定の方法にのっとって修練する短いスパンのものと、奉仕や、祈りや、師への服従と学習などといったものを自分への課題として、全人生をひとつのスパンとして修練していくもののふたつがあります。そして、通常は、その両方の手法が人生のなかで微妙に入りまじり、精妙に溶けあって、自分自身を成長させていこうとしていくわけです。
3 瞑想(メディテーション)の目的
瞑想の目的というのは、人々が瞑想をしたいと思うときに何をそのゴールとするのかということです。通常、生きている人には大なり小なり何かしら悩みがあり、その向こうに夢とそれにたいする期待というものがあります。ある人々は生活のなかで悩みや不安があり、瞑想によってその精神的な苦悩から逃れたいと思います。ある人々は人生に不満があり、それを解決するために、なにか霊的なスーパー・パワーのようなものを得たいと思って、この道に入ってきます。そして瞑想の師たちは、ほとんど例外なく、瞑想をとおして普遍の平安とよろこびを獲得することができる、と言います。そして、ジグザグに進む瞑想のプロセスが始まります。私自身は、長い間、自分が何のために瞑想しているのか、はっきりと言葉化することができませんでした。なんとなく、瞑想することは自分自身を向上させ、精神性を豊かにし、人間として優れたものになる、というような想いがただ漠然とあったにすぎません。しかし、実際問題として、瞑想にかぎらずどんなことでもそうですが、何かをやっているときには、自分がいったい何のために、何の目的でやっているのかということを、はっきり知っている(意識化できている)ということはたいへん重要なことです。そして、そうしたときに、人々はおうおうにして否定形を用いて表現しようとします。何かをしたくないとか、何かから逃れたい、というような言い方です。どちらも否定形の一種です。しかし、現実の世界には否定形というものは存在しないので、否定形の望みはいつの間にか、どこかへ忘れ去られてしまうということになります。はっきりと成果がわかるようにするためには、望みはかならず肯定形に置き換えなければなりません。そうすることによって、あなたの心(マインド)がはっきりとその意味とそこへいたる地図を手に入れることができるからです。
それでは、瞑想しようとするときの人々の目的とは、いったいなんでしょうか?ある人が、悩みや不安があってその苦悩から逃れたい、と言うとき、その逃れたさきには何があるのでしょうか。彼(もしくは彼女)はいったい何が欲しいのでしょうか?
その答えには、人それぞれの性質や嗜好の違いによって、異なった言葉が使われます。
心の平安が欲しい、内側の調和を感じたい、永遠のよろこびとひとつになりたい云々ような異なった表現が用いられます。しかし表現する言葉は違いますが、望んでいる本質は実際のところ同じものなのです。使われる言葉の違いは、ひとつの大きなクリスタルの結晶をさまざまな角度から見ると、光の反射角度のちがいによって別々な色に見えることがあるという現象と同じことです。ある人の位置からは光が淡いアメジスト色に反射して見え、別な角度からは薄いピンク色に見える。しかし、見る角度によって異なった色合いに見えたとしても、そのクリスタルは同じひとつのクリスタルです。だから、平安も調和も喜びも同じ一つのものを指し示している言葉にすぎないのです。私はここではとりあえず、「幸福」という言葉を使っておきましょう。瞑想は幸福を得るための不思議な方法論です。瞑想は幸福のレシピなのです。ある人は、うるさい親から自立して、自由になりたいと思います。この場合の自由と幸福という言葉で指し示している本源(クリスタル)は同じものです。「普遍の平安」というのも実は同じものです。それは実際には、言葉では表現しきれないものなのです。逆に言うと、ぎりぎりの範囲で使用可能な表現は、上記のように実はけっこうたくさあるのです。 知性的な人ならだれでも、こんな世界のありかたにいつか疑問を抱くでしょう。そうして、人生のある時期に精神世界の門が開かれます。そのとき、瞑想の目的は真の「幸福」を手に入れることです。そして、この「幸福」を手に入れたいと思う強い精神的な欲求が、あれもしたい、これもしたいという、ほかの小さな欲望をすべて焼き尽くしてしまうまで、瞑想はあなたの最善の友として一緒に旅をすることになります。
4 瞑想の種類
瞑想というと、ふつう日本では坐禅を組むという姿を思いうかべますが、実際にはそれだけが瞑想のやり方ではありません。世界中には、多くの異なった瞑想の技法があります。瞑想は大別すると二つの種類にわけることができます。一つは、身体を動かさず(不動)に瞑想する瞑想法で、英語では「パッシブ・メディテーション」と呼ばれます。坐禅やヨガのトラッタック瞑想(ローソクなどの明かりを見つめる瞑想法)などは、この仲間にはいるといえるでしょう。身体を動かさずにいると、動きたいというエネルギーが内側に向かい、最初は心のなかがより生き生きと活動的になります。それを静かに意識している(観照)していると、いろいろと騒がしい内面の混乱と混沌が少しずつ収まってきて、あるときクリヤーな静寂の世界があらわれてくるのです。たとえば、子供たちが池のなかで遊んでいるとき、水はかきまわされて濁っていますが、子供たちが池から出てしばらくすると、ゴミや泥は池の底に沈んで、水は再びきれいに透きとおってみえます。同じように、瞑想をつづけていると、あちらこちらに散乱した心が、元の澄んだ状態に戻るということが体験されます。もう一つは、身体を動かす瞑想法で、動的瞑想(アクティブ・メディテーション)とも呼ばれています。禅の瞑想のなかには、経行(きんひん)といわれる歩く瞑想法があります。一日の坐禅会とか数日間の坐禅リトリート(摂心、せっしん)など、長い期間瞑想するときには、座ってばかりいることは不可能ですから、このように座る瞑想と歩く瞑想を交互におこなうことになります。坐禅の起源は、今から約2500年前にブッダ自身がおこない、弟子たちにも指導していた瞑想法です。しかし現代人はそのころの人々とくらべると、はるかに複雑な生を生きています。コンピューターを使い、あらゆる電磁波が地球空間に満たされている、ひじょうに忙しく騒々しい毎日です。とくに都会に住んでいればなおさらそうです。ただ静かに座ることは、現代人にとってたいへんむずかしいものになってきているのです。そのせいか、最近はかなり多くの動的(アクティブ)瞑想が増えてきています。バパク・スブドという人が紹介するラティハンという瞑想法や、和尚ラジニーシのダイナミック瞑想、クンダリーニ瞑想などという瞑想法は、新しいタイプの瞑想法といえるでしょう。これらの瞑想のあいだ、瞑想者は身体が激しく動いているにもかかわらず、心のなかが沈黙に満ちているという体験をするのです。その沈黙は、瞑想がもたらす不思議な至福でもあります。伝統的な瞑想法のなかにも、スーフィーの旋回(ワーリンク)瞑想や呼吸法(ズィッキル)などは、この動的(アクティブ)瞑想の仲間です。
5 瞑想の質
瞑想の方法は無数に存在しますが、どんな瞑想でもその核にはかならず「観照」という質が入っています。「気づいている」、「意識している」という質です。どんな瞑想でも――アクティブ瞑想でもパッシブ瞑想でも、伝統的なヨガの瞑想でも、現代的なニューエイジ瞑想でも、激しく動いたり叫んだりする浄化(カタルシス)的な瞑想でも、自分の過去を意識の表面に浮かび上がらせる内観的な瞑想でも――瞑想というものであるならば、そこには例外なく「静かに、あるがままに、起こっていることを、見守る」という手法が、一本の縦糸として組み込まれていることがわかります。瞑想のなかでこの縦糸をたどりつづけているうちに、あなたはある瞬間、自分が瞑想の世界に入っていることに気がつくでしょう。その世界は外側の世界では体験したことがないような、精妙な静けさと至福に満ちています。そしてそのような体験をしたことのある人は、通常、その先にあるより優れたものを求めて瞑想をつづけようとするのです。その過程を、禅ではこう表現しています。
「瞑想をするまえ、山は山であり、川は川であった。瞑想を始めると、山は山でなくなり、川は川でなくなった。瞑想が終わってみると、山はふたたび山であり、川はふたたび川であった」
この言葉の意味がわかるでしょうか?これはただたんに一単位としての瞑想を語っているだけでなく、瞑想の行程のすべてを簡単明瞭に表現しています。あなた自身を見つける旅は、人から聞いて学ぶことはできません。誰もが、自分でその過程(プロセス)を実際に歩かなければなりません。しかし歩きつづけてゆけば、その過程(プロセス)で、あなたは神秘的なすばらしい体験をたくさん積み重ねていくでしょう。そして、いつか必ずこの言葉の意味がわかるときがやってきます。
あるとき、ブッダの教えに興味をもった一人の商人が、どうすればそれを自分のものにすることができるかブッダに尋たそうです。ブッダが彼に言いました。「あなたは商人だから、ここバイシャリの町からベナレスまで行く道をよく知っているでしょう。」「もちろんです。私は年に10回はベナレスとバイシャリの町を行き来しますから、道のすべてをよく知ってます」「それなら、たとえばここに一人の若者がいて、あなたにベナレスに行くにはどう行けばいいか聞くとしましょう。あなたは、彼にその行き方を教えてあげられるますか?」 「細かいところまで、全部教えてあげられます」「あなたが若者にベナレスまでの行き方を教えてあげたとして、それならこの若者はベナレスに行ったことになりますか?」商人は答えました。「いや、自分の足でベナレスまで旅をしないと、彼はベナレスに行ったことにはなりません」ブッダはにっこり微笑みながらこう言ったそうです。「それと同じことです。私は涅槃にたどりつく道を自分で歩き、いまそれを求める人々に道を教えています。しかし、それを聞いたからといって、涅槃を知ったことにはなりません。人は自分の足で、この道を歩かなければならないのです」
自分で実際に歩き出すことが大切です。正しい道かどうか確信がないからといって、立ち止まってはいけません。あなたの歩いている道は正しいのです。たとえ短期的に、この道は間違いだと思ったとしても、最終的にはそれは正しかったことがわかるでしょう。それは、あなたという希有(ユニーク)な存在に用意された希有な道筋なのです。歩き始めること、歩き続けること、旅はあなたの人生でもっとも類いまれな、すばらしい旅になるでしょう。
6 瞑想のやりかた
瞑想を始めたならば、少なくとも一定の期間は継続してやらななければあまり意味がありません。ある程度、瞑想のコツがわかるまでは、「つらい」、「おもしろくない」、だけに終わってしまう可能性もあるからです。それでは、せっかくの決意とやる気がもったいないというものです。なぜなら、ほんとうは、ものすごくおもしろいものだからです。ですから最初は、自分が通えるような瞑想センターや瞑想会などを探して通ってみるとか、あるいは週末などを利用して、数日間の瞑想グループなどに参加してみるのがよいかもしれません。
私がはじめて瞑想したのは沖ヨガの道場でした。ヨガのアサナや強化法・浄化法などのカリキュラムのひとつとして、半結跏趺坐をして30分ほど坐禅をするという時間がありました。しかし当時の私にとって、その30分の長いこと長いこと、といったらありませんでした。10分が一時間のように思われたのです。30分は永遠に来ないのではないか、と絶望的に、瞑想が終わるのを待ってました。それから何年かたつと、今度は45分のヴィパッサナ瞑想の座る時間が、あっという間に感じられるようになってました。でも、それには何年かの時間の経過があったのです。最初からこういう静かに座すという瞑想が好きになるのは、ごく少数の人だと思います。普通は、身体を動かしたり、マントラをとなえたりする瞑想が入りやすいだろうと思います。瞑想をするときには、最初のうちは、一定期間(一週間くらいは)、同じ場所で、同じ時間に、同じ雰囲気の中でするようにしてみてください。通常は、夜から朝にかけての時間、または昼から夜になる端境期の時間が瞑想に適しているといわれます。しかし、自分の生活の中でもっともリラックスしてとれる時間を選んだらよいと思います。そして、できるかぎり毎日、その時間に同じ瞑想をつづけてください。場所のセットアップも重要です。瞑想用の座布団を作り、瞑想のときはそこに座るとか、好みの香をたくとか、自分の尊敬する師の写真などを飾るとか、、、自分の気に入ったスペースをクリエイトしていくと、そこに瞑想の雰囲気が蓄積されていって、一定の磁場が形成されてきます。そうすると、その場所に座っただけで、瞑想の雰囲気が降りてくるのをかんじるようになり、瞑想がなりやすくなるでしょう。瞑想のとき、目をつぶったほうがいいか、少し目を開いてしたほうがしたほうがいいか、それは人によります。目をつぶったほうが深く入ることができるという人もいるし、そうすると気が散漫になってしまうという人もいます。自分でためしてみるとよくわかります。通常、坐禅は半眼で座り、ヴィパッサナは目を閉じて瞑想します。旋回瞑想(ワーリング)は目を開いて回転し、ダイナミック瞑想は目を閉じてジャンプします。基本的には、それぞれの瞑想法のガイドにしたがったらよいと思います。
7 瞑想法の紹介 / ヴィパッサナー瞑想
これから瞑想の技法(テクニック)をいくつか紹介していこうと思いますが、読んでみたなかでなんとなく惹かれる瞑想法が見つかったら、それらを実際に試してみてください。伝統的な瞑想法から、現代的な瞑想法まで、代表的なものをいくつか紹介します。
ヴィパッサナー瞑想
ヴィパッサナー瞑想は、現在世界中でもっとも広く行われている瞑想法だといえます。ヴィパッサナー(vipassana)とはサンスクリット語で、ものごとを・あるがままに・観照する・という意味ですが、通常、ヴィパッサナー瞑想というときには、呼吸の出入りに意識をおいて、同時に周囲で起こっているあらゆる出来事に気づいている、というひとつの瞑想法をさしています。もともとはアナパナ・サティ・ヨグというヨガの呼吸瞑想法でしたが、ブッダ自身が修行中からおこなっていた瞑想法でもあり、後にブッダがたびたび雨期の定住地でこの瞑想法についての講義をおこない、パーリー語の経典には、この技法にたいするくわしいブッダ自身の講義(経典)が残されています。 たいへんわかりやすく、おもしろく、実際的に、くわしく説明されてますから、機会があったぜひ読んでみることをおすすめします。ブッダの死後、仏教が外国へも枝分かれしていく過程で、この瞑想技法に少しずつ細かな違いができてきましたが、おもに呼吸を意識して見守るという基本的な技法は同じです。仏教は皮肉なことに発祥地であるインドでは消滅してしまいましたが、その教えは他のアジアの国々に広範囲に広まっていきました。
南にはスリランカがあり、そこでのヴィッパサナー瞑想は、呼吸とともに動く腹の動き・感覚に焦点をあわせて観照する、という技法になっています。
東のミャンマーでは、はじめに呼吸を鼻の先端で見守り、その空気が鼻に触れるときの感覚(冷たいとか、暖かいとかいう、実際的な、身体的な感覚)、それを身体の細部にいたるまで、緻密に、ひとつひとつ、冷静に、観照するという技法になりました。
タイでは、近年にいたるまで、あまり瞑想の技法というものは修行されませんでしたが、アーチャン・ブッダダーサがスアンモク森林寺院に居をかまえて、パーリ経典にもとずくアナパナ・サティ・ヨグを紹介してから、タイのほかの寺院でも実習されるようになっています。その技法は、呼吸の出入りを気づきをもって見守ること、ブッダは、「アナパナ・サティ・ヨグを実習する僧は、樹下に坐り、静かに瞑目し、呼吸に意識を集中し、・・・熟練したろくろ師がろくろをひくときに、長くひくときは長くひいていることを知り、短くひいているときは短くひいていることを知っているように、長く呼吸しているときは長く呼吸していることを知り、短く呼吸しているときは短く呼吸していることを知っている・・・」というような説明からはじまり、その技法をいくつかの段階にわけて、その進展の過程でおこるさまざまな体験と判断についての注意を喚起しています。
また、ボーディダルマによって中国に伝えられ、老子の教え、タオ(道教)と融合して確立された禅の瞑想法(坐禅)は、数息観と随息観という二つの方法が修行されてきました。数息観は呼吸のたびに「ひとーつ」、「ふたーつ」と内側でとなえながら、十まで数えたら、また一から数えはじめる、そのひとつひとつの数のカウントに意識を集中させ、散漫にならず、しっかりとその焦点に覚醒しているという技法です。随息観は、瞑想中の自然な呼吸の出入りを静かにあるがままに観照するという、いわゆる南方系のヴィパッサナー瞑想法と同じ技法です。坐禅という瞑想法は、臨済禅における「公案」という独自の手法をのぞけば、ヴィパッサナー瞑想と同じ、ブッダの実習したアナパナ・サティ・ヨグから発展した瞑想技法のひとつであるということができます。
このように、ヴィパッサナー瞑想は、仏教系の瞑想としては、読経、チャンティング瞑想とともに広く行われている瞑想法だということができ、とくに新しく瞑想に目覚めた西洋人のあいだでは、もっとも広く知られている瞑想法だということができると思います。
ヴィパッサナー瞑想のやり方
だいたい線香を一本たいている時間、30−45分を一回の座る時間に決めておきます。伝統的には、線香が一本たかれる時間を一座ときめたようですが、実際的には、自分の携帯で40分後に知らせるようにセットしてやるほうが、簡単でわかりやすいかもしれません。この坐っている時間、自分の呼吸の出入りを静かに見守りつづけます。呼吸の出入りに意識しているときは、呼吸の出入りに意識し、身体の各部分に意識しているときには、その部分の身体的な感覚に意識しています。意識がさんまんになって、ほかのことを考えていることに気がついたら、その意識を再び呼吸を出入りに戻します。瞑想のあいだは、心に浮かぶどんな考えも、「よい」考えも「わるい」考えも、同じように「さんまんな意識」として、静かに、元の呼吸の出入りに意識を戻します。瞑想のあいだ、できるだけ身体は動かさないようにしますが、必要なときは、ゆっくりと、意識的に、動かしても結構です。
坐る時間が終了したら、ゆっくりと立ち上がり、次の15−30分間、気づきとともにゆっくり一歩一歩歩く瞑想を始めます。
ヴィパッサナー瞑想では、この歩く瞑想−禅では経 行(きんひん)といいます−は坐る瞑想と一対になっていて、一日中、瞑想をする際に、この坐る時間と歩く時間が交互に実習されるのがふつうです。
8 瞑想の体験
瞑想の体験がある、と誰かが言うときには、ふたつの意味合いが考えられます。 ひとつは、瞑想した体験をもっている、という場合。瞑想したことがある人は、ある意味では、すでにたいへん恵まれています。 なぜなら、瞑想という概念とその実習は、人類の歴史のなかでも、まだたいへん新しいもので、おそらく一万年以上はたっていないでしょう。そして、ざっと見渡してみても、人間以外に瞑想する動物というのはおらず、サルや鯨が坐禅をくんでいる、などという姿は見たことも聞いたこともありません。この地球上には約50億の人間がいるとされていますが、そのなかで瞑想という言葉を知っている人でさえ、ごく少数です。いわんや、瞑想をしたことがある人は、おそらく一万人にひとりくらいなものでしょう。地球上で、全部で50万人・・・、いるかどうか?宇宙はたいへん微妙なバランスの上になりたっているといわれます。ほんの少しの変化でもクシャっとつぶれてしまうと聞いたことがあります。ですから、人類が頭脳の上で発展し、物理や科学が快適な文明生活を創造する一方で、その物質をささえるための精神(非・物質)がこの世に誕生する必要があったわけです。現在、この地球をおおっている狂気のような物質文明をささえるためには、最低でも200人のエンライトした師が必要だといわれるゆえんです。もっとも、私はそれより100万人の瞑想する人のほうが、意義深いと思っていますが・・・、なかなか人は瞑想しないものです。現世の利益と成功を追い求めるのは普通ですが、無心を追い求めて瞑想するという人は、そうそういるものではありませんから。もしあなたがそのひとりなら、<存在>はあなたを祝福している、ということを心にとめておいたらよいでしょう。
もうひとつは、瞑想のなかで常ならぬ状態を体験したことがある、という場合です。 通常、それはたいへんポジティブな意味合いで語られ、瞑想する人はだれもが、いつかは、なんらかの瞑想体験を得たいと思っています。本来は、一回瞑想すれば、一回分の瞑想体験を得ているわけですが、そのような体験は「気分がすっきりした」とか、「静かな気持ちになった」というようなリラックスの体験として語られ、いわゆる大きな瞑想の体験とはわけられて語られるようです。私がはじめてこのような常ならぬ瞑想の体験をしたのは、はじめて9日間の「ヴィパッサナー瞑想リトリート」に参加したときのことでした。朝からづっと坐ったり歩いたりしつづけるため、最初の3,4日は体中が、とくに背中がギシギシして痛くてたまらず、それにつづく5−7日目は頭のなかが猛烈にいそがしく、考えることを止めようとしてもますます勢いを盛んにしていって、自分でもいやになるほどでした。思考の中身はというと、もうそれは狂っているとしかいうことのできないようなものばかりで、なんのために瞑想しているのか、・・・ますます変になりそうだ、というかんじでした。が、8日目の朝、決められた私の場所に坐ると、何かがまったく変わっていました。私は静寂の深淵のなかに何の抵抗感もなくゆっくりと降りていくようなかんじで、身体はすっと背筋がとおって、痛みもかんじず、なにか外からも中からも見えない鋳型のようなものでサポートされているようでした。坐る時間の最後には、いつもチベッタン・ベルの音がなって、坐る時間の終了をつげます。そのとき、その音が、私の体の中心線で鳴って、その音がひとしく放射線状にひろがっていきました。ちょうど池に石をなげると、落ちたところから波が放射線状に広がっていくようなかんじでした。その瞬間から、私は自分のまわりにエナジー的なコクーンをかんじ、どこへいっても守られているようでした。そして、私はなつかしい自分のなかのスペースにあって、おだやかな、はっきりとした至福とともにあり、はじめて心の底からやすらぎ、幸福というものをしっかりとかんじていました。 この状態が最後の2日間続き、このリトリートが終わったときには、私はもう社会には戻れない、こんな精妙な平和な「状態」を知ってしまったからには、もうがさつな世界では生きられない、と思ったものです。私はそのときこのリトリートをリードしていた女性に、私の状態と気持ちを話しましたが、その道では経験豊かな彼女は、ほほえみながら、「だいじょうぶよ。あなたはちゃんとやっていけるから、心配ないわ」と言って、なぐさめてくれました。実際、終わってみると、私は問題なく友人たちとお互いのミニ悟りの体験を話し合ったり、当時の恋人とアイスクリームを食べに行ったして、元の生活に戻っていきました。ただひとつちがうことは、リトリート中に体験した「至福」というものが、実際に、たしかに、体験できたという満足感が生まれたという点でしょうか。もっとも、よいことばかりではありません。というのも、この充実感とともに、「もっとこれを味わいたい」という欲望と期待がわいてきたからです。このあと、私はヴィパッサナー・ジャンキーという異名をとるほど、ヴィパッサナー瞑想にのめりこんでいき、ゴエンカ師のイガトプリ、和尚ラジニーシのプーナ・アシュラム、ラダックのチベット寺院などを訪れて、ヴィパッサナー瞑想リトリートに参加しつづけました。それは、すばらしい体験の旅であると同時に、苦しい辛い旅でもありました。なぜなら、欲しいものが何かを知っていて、それを得たいと努力しているのに、その探しているものはいつも手にはいるというものでもなく、同じ質と量をもたらしてくれるわけでもなく、ある意味ではその味を知ってしまったがゆえに、かえって同じ「よろこび」が得られないという苦しみに、のたうちまわるようなものだったからです。
これは誰もが通る瞑想の旅のプロセスです。すばらしい体験はいくつも体験するでしょう。しかし、それらはあるときに現れて、ある時間とどまり、あるときに過ぎていくものです。体験というものは、それがどんな体験であろうが、すべて強弱があり、濃淡があり、一過性のものであるという性質を有しています。そして、一過性のものは最終的には本物ではないということができます。より大きく強烈な体験を追い求める旅のどこかで、あるとき、質的変換(これを量子的飛躍ともいいます)が起こるまで、人は旅をつづけないといけません。やめようと思っても、やめることはできないでしょう。なぜなら、その探求はあなた個人だけのものでなく、<存在>そのものの意思でもあるからです。地球のよろこびでもあるからです。だから、<存在>は、その間たえまなく、あなたに不可視の花を降りそそぎつづけるでしょう。見えますか?
9 ワーリング瞑想
どの宗教のなかにも、ちょっとメイン・ストリームからはずれた鬼っ子的な宗派があります。仏教には禅という特異な流れがあり、ユダヤ教にはハシディズムという変わり者たちがおり、それぞれの主流派たちからすれば頭の痛い問題児たちのように扱われてきました。しかし、現代になって、このような「真摯に自己の本質を追究する」技法をもった鬼っ子たちが、むしろ見直されているように思います。イスラム教にもこのような鬼っ子集団がいて、彼らはスーフィー(Sufi)と呼ばれました。宇宙船アポロ号のアームストロング船長が、月世界での神秘体験をえて、その後スーフィーに改宗したので一時有名になりましたが、スーフィーという宗派はイスラム教の予言者モハメッドが生きていたころからすでに存在し、イスラム教のなかに取り込まれながらも独自の手法と霊的体験を、師と弟子という東洋的な伝達法によって伝えてきた人たちです。「壁に向かって語れ。そうすれば、扉が開くであろう」
彼らが用いる瞑想技法はおもにふたつあります。ひとつは「ズイッキル」という呼吸法で、瞑想のリーダーに導かれながら、さまざまな異なった呼吸のリズム、強弱を変化させながら、大きなエネルギーの渦巻きのなかに自分を放り込んで、表面的な自己が消え去り、その下から現れてくる神性を体現する、という技法です。もうひとつは、ここで紹介する「ワーリング(旋回)」と呼ばれる瞑想法で、一方の足を軸足にして、グルグル自分の身体全体を回転させるものです。瞑想法としては、通常30ー60分に決められているようですが、スーフィーにおいては何時間もまわりつづけることも稀でなく、有名なスーフィーの師ジェラルディン・ルミは、一説によると38時間旋回しつづけてエンライトした人であるともいわれています。スーフィーにおいてこのような精神的修行をし、その教えを広める人は、ダーヴィッシュと呼ばれます。
私もこの瞑想を何度か体験したことがありますが、たいへん強烈な瞑想法です。ヴィパッサナ―瞑想が「静」の瞑想法なら、このワーリングは「動」の瞑想法だと言えましょう。私がはじめてこのワーリング瞑想をしたときは、最初、目がまわるようなかんじで、頭がくらくらし、それから少し吐き気をかんじて不安になり、それから倒れたりしないかという思考があれこれとやってきて、なかなかワーリンク自体に集中できませんでしたが、ある瞬間からふっと静かに見守っている自己が現れ、台風のなかの中心にある青空と静けさの体験することができました。そうすると、旋回しつづける身体と心は旋回がもたらす強烈なエクスタシーのなかにとどまり、そのエクスタシーとはまったく異質の観照者とのコントラストが、ひとつ独特の味わいを作りだしているようでした。映画などでときどきこのスーフィーのワーリングが紹介されたりしますが、黒い長い帽子をかぶり、まっ白なローブを着たダーヴィッシュたちが、旋回するにつれ、スカートのようなローブの端がうつくしい曲線を描くのは神秘的であると同時にたいへん魅惑的でもあります。
ワーリング瞑想のやり方
一方の足を軸足にして、片方の手を上にあげ、あげたほうの手のひらを見ながら、旋回しはじめます。 回る方向は右でも左でもかまいません。そのまま、目は開けたまま、30ー60分、回りつづけます。瞑想のおわりのベルが鳴ったら、腹を下にして、うつぶせに横たわって、少し休みます。
10 トラタック(トラタカ)瞑想
トラタック瞑想は、サンスクリット語のトラタカ(Trataka)、「凝視する」という言葉に由来しています。定められた一点を、まばたきせずに凝視しつづけるという技法です。まばたきせずにある一点を凝視していると、目が熱くなり、痛くかんじて、涙がでてきます。涙がでているのを、そのまま放っておいて凝視しつづけると、通常の「見る」という空間から、「観照する}という別次元の空間が浮かびあがってきて、別種類の見るという行為が起こっていることが体験できます。
これはパタンジャリの昔から、ヨガを修行する人(ヨギ)たちによって実習されてきた伝統的なヨガの瞑想法です。現実面では目の集中力をたかめ、霊性においては「第三の目」と呼ばれるアジナ・チャクラを活性化させます。一点を凝視するという強烈な技法で集中力をやしない、表面的な次元を貫きとおして、その奥の本質と出会うために創造され、発達してきた瞑想法であるといえます。
トラタック瞑想にはふたつの側面があります。ひとつは、外側の対象を「見る」という行為によって貫通することです。それは「見る」という矢を、対象にむかって射るようなものです。ちがうところは、実際の矢は射れば的にあたって、それでめでたしめでたしということで終わりますが、「見る」という矢は、射る本人から的にあたるまでの距離を、継続的に、とぎれることなく、見続けなければならないというところです。それは常にオンゴーイングのプロセスになります。
その対象は、凝視できるものなら基本的にはなんでもよく、通常、紙に黒い点を描いて壁に貼ったり、オームなどのシンボルであったり、シバやブッダなどの神像であったりもします。ローソクの炎を見つめる方法も広く取り入れられ、多くの人々に実習されていますし、また、夕日を見つめたり、鏡にうつる自分自身の顔や坐像を見つめる方法は、より強烈なものだとも言われています。
もうひとつは、内側の対象を「見る」という行為をとおして、「観照する」という次元に移行することです。技法的には、凝視した外側の対象物が、目を閉じたときに残像として残るものを、「見る」対象とします。黒い点でも、オームのシンボルでも、シバの像でも、それが目を閉じたときの残像として、第三の目にできるだけ長くとどまるように、見続けていきます。外側の対象を見続けたのと同じ強烈さをもって、この内側の対象を見ることができるようになると、その強烈さの報酬として、またはそのコントラストとして、それらをまったく超越した「超然たる目」が超然とあらゆるできごとを観照していることが体験できます。
トラタック瞑想技法のひとつとして、自分の鼻の先端を見つめるというやりかたもあります。ある時期、私はひとりのヨギのもとで、この技法を実習したことがあります。この技法は、鼻の先端を見るものですが、それがひとつの全体像として見えなければなりません。あなたも、ちょっとためしにやってみてください。なかなか、むずかしいでしょう?ところがやっているうち、あるとき、ある瞬間、ぽっとそれができるポイントがわかるのです。それはちょっと技法が伝えるところとは、まるっと異なって起こります。そして、起こってみると、なるほど起こってみなければけっしてわからないこともある、ということがわかります。あらゆる瞑想法は、トリックのようなものなのです。ですから、たとえば、呼吸を見る瞑想法をやっていて、ずっと呼吸を見ていられたからといって、実際問題は喜ぶべきことでもないのです。なぜなら、もしあなたがその技法に忠実に従うことができたということは、その技法をとおして移行すべき次元にはいたらなかった、ということを宣言しているようなものだからです。技法はすべて、それを捨てるときが来るまでつづくだけであって、捨てるのがある段階での必須事項であるとも言えるからなのです。不思議な世界ですね。
トラタック(トラタカ)瞑想のやり方
身体をリラックスさせたまま、まっすぐ坐り、1−1,5メートル離れた、目とほぼ同じ高さのところに、燃えているローソクをおいて、ローソクの炎を凝視します。対象物はローソクでなくても、上に述べたようなもので行っても結構です。最初のうちは、無理をせず、目が痛くなったら、目を閉じて、残像に瞑想します。慣れてきたら、目が痛くなって、涙がでてきても、そのままローソクを凝視しつづけます。十分に意識し、油断なく覚めて一つのものを凝視しつづけます。それにも慣れてくると、今度は、目に涙がたまっても、それは流れでずに、そのままたまった状態のまま、対象物を見ていることができるようになります。瞑想時間は、30分から45分くらいの範囲で、自分がもっとも適当だと思う長さを決めて実習してください。それから、15分から30分くらい、目を閉じて静かに覚醒しています。この瞑想法は、あなたに「強烈に見る!」という実際的な能力を与えてくれます。そしてまた、瞑想の終わりには、「常に見ているものがある!」という霊的な体験と理解を、あなたにもたらせてくれるでしょう。
11 瞑想の起源と歴史
瞑想とは、けっして消えることのない喜び(至福)を自己のうちに見出だすための手段として、ヨガやアーユルヴェーダ、またその宗教的な基盤であるヒンズー教・仏教などで修練されてきた「幸福のレシピ」、のようなものです。いつのころからこんなことがおこなわれるようになったのだろうと思って調べてみると、歴史的な資料としてもっとも古いのが、モヘンジョダロの遺跡から発見された印章のなかにあります。この印章は、モヘンジョダロの商人たちが取引の証拠として、日本の印鑑のようなかんじで使っていたもので、いろいろな図柄があるのですが、そのなかに人が坐って瞑想しているような図柄が見つかっています。そして、これがいまのところもっとも古い瞑想の起源をしめす資料だといわれています。
モヘンジョダロはハラッパーとともにインダス文明の中心都市であり、いまから約5000年前、紀元前3000から2500年にかけて繁栄した街です。まだ解明されていないことがたくさんあって、いろいろと謎の多い文明ですが、あるとき高度な知識をもって忽然とあらわれ、あるときまた忽然とどこかへ消えてしまった文明だともいわれています。それにしても、瞑想はいまから約5000年前にもうおこなわれていたわけです。
約3500年前にいまのトルキメスタンのあたりからインドに移動してきたアーリア人たちは、このようなインダス文明の果実を継承しながら、サンスクリット文字を創造し、ヒンズー文化を創りあげていったのでしょう。いまから約2500年前(紀元前500年)にブッダは、アナパナサティというヨガの瞑想法を実習して光明を得たといわれてます。そのころには、すでに多くの修行者たちと多くの宗派が存在していました。ブッダはそのなかのひとりであり、ヒンズー教の人たちにとっては、ブッダは仏教の始祖というより、ヒンズー教の偉大な聖者たちのひとりだと認識されているようです。ブッダという言葉は「叡智を得た人、悟りを得た人」という意味で、これは名前ではありません。彼の名前はシッダルタです。ブッダのころには、すでにいくつかのウパニシャッドが書かれていますから、瞑想の技法は多々あれ、ヒンズー教という宗教体系が大きなうねりとしてできあがりつつあったことがわかります。また、このころにはジャイナ教の始祖であるマハビーラも存在していますが、ふたりが実際に出会ったという記録は残されていないようです。そして、いまから約1500年前に、パタンジャリが出てきてヨガ・スートラを編纂して、ヨガの基本的な体系ができあがりました。
ブッダの教えは多くの弟子たちによって継承され、アジアの国々に広まっていきましたが、そのなかでもマハカッシャパによって継承された「教外別伝、不立文字」といわれる教えが禅の起源で、ブッダから数えて第28祖であるボーディダルマ(達磨)がインドから中国へ伝え、老子の教え(道教)と深く融合して中国禅となりました。日本には、鎌倉時代に栄西や道元たちによって中国(宋)をとおして、禅(瞑想)が伝わりました。道元は「ただ眼横鼻直(目は横に鼻は縦についている)を知っただけである」と言って、お経もなにも持たず、身一つで中国から帰ってきたそうです。これが日本の禅のはじまりです。
12 瞑想とヨガ
瞑想は紀元前2500年ごろのインダス文明に、その遠い起源をもつことが指摘されています。モヘンジョ・ダロの都市遺跡から発掘された印章のなかに、坐を組んで瞑想する人のデザインが刻まれているのが発見されたからです(「瞑想の起源と歴史」の写真を見てください)。ということは、もちろん、それ以前から瞑想という実習がおこなわれていたことを物語っています。
ヨガの起源を調べてみると、やはり同じインダス文明の瞑想する人の印章に、ルーツを見出しているようです。ということは、瞑想とヨガとは同じところに起源をもつ・・・、単純に言い切ってしまえば、瞑想が始まったときにヨガが始まった、とさえ言うことができるのです。ヨガの根本的な基盤には、瞑想が横たわっているのです。 最近世界中で流行している体操やフィットネスダンスのようなモダン・ヨガは、ダイエットや病気直しにはいいでしょうが、本来はヨガとは言えないかもしれません。瞑想の欠如したヨガは、本来、ヨガではありえないのです。
ヨガという言葉は サンスクリット語のユジに由来し、「つなぐ」という意味です。もともとこの言葉は馬をつなぐときに使われていた言葉なので、ヨガという言葉によって「感官を制御し、瞑想をおさめることによって、おおいなる存在とひとつになる」というヨガの目的も言葉のなかに含まれるのです。
ヨガの起源はインダス文明の瞑想する人の印章に見出されていますが、ヨガという言葉が歴史のなかで現れてくるのは、紀元前800年から500年の「古ウパニシャッド初期」に成立した「タイッティリーヤ・ウパニシャッド」においてです。しかし、紀元前500年ごろに、ブッダはヨガの瞑想法、アナパナサティ・ヨグを実習したと記録されているので、そのことにはヨガの技法が広く修行者たちによって実習されていたことがわかります。また紀元前350年から300年頃に成立したとされる「カタ・ウパニシャッド」には、「感官の確かな制御がヨガである」というヨガの定義が始めて出現します。そして、2−4世紀にかけて、サーンキヤ学派の形而上学を理論的な基盤として、パタンジャリがその実践方法を「ヨガ・スートラ」としてまとめ、ここにおいてヨガの理論的な基盤が確立されたのです。
「ヨガ・スートラ」の第一章にはこう書かれています。
「ヨガとは心の寂滅である。」この言葉だけで、第一章はおわりです。そして、この章はヨガの本質を、簡潔に、ストレートに説いています。もし修行者がこれを成就したなら、そのあとの章は必要でないとさえ説く師(グル)たちもいるほどです。
心の寂滅とは、禅の言葉でいえば無心です。 無心とは、瞑想のなかで心の動きが止まっている禅定(ディアーナ)の状態を、別な言葉で表現しているだけのことです。そうすると、瞑想とヨガは深いところでは、同じコインの裏表であると言うことができます。表がなければ裏は存在せず、また裏がなければ表も存在できません。したがって、瞑想とヨガは、その核においては同意義語であるということができかもしれませんね。
13 クンダリーニ瞑想
伝統的な瞑想法を3つ紹介してきたので、これから少し現代的な瞑想法を紹介していきましょう。クンダリーニ瞑想といわれる瞑想法はいくつかの種類がありますが、いまここで紹介するクンダリーニ瞑想法は、和尚(ラジニーシ)によって考案された瞑想法です。この瞑想は、前半は音楽とともに気持ちよく身体を動かすアクティブ瞑想、後半は座ったり横になったりしながら、瞬間瞬間に気づきをもたらす、いわゆる通常の静かな瞑想のふたつの側面を、ひとつの技法のなかにとりこんだ新しい種類の瞑想法です。身体をシェイクしたり、自由に動かしたり、踊ったりすることができるので、前半の30分で身体が気持ちよく疲れはて、後半の30分の静かに気づいている静的瞑想の時間に、すっと「無心のとき」を体験することができるという組み立てをもった現代的、モダン・タイムの瞑想技法だといえるでしょう。
現代人はブッダが教えを解いていた2500年前の人々とちがって、マインドのなかがたいへんいそがしく複雑になっています。ですから、最初からただ静かに座って瞑想するのは、たいへんむずかしいことです。瞑想の時間になって座布団の上に坐ったからといって、実際問題、身体は止まっても、頭のなかは簡単には止まらないのです。現代に生きて、仕事をし、友人と交際し、コンピューターを使い、家族を持っているような普通の人たちには、最初から静かに瞑想することなど、ほとんど不可能に近いといっても過言ではないでしょう。そういう意味では、この瞑想はシェイクという強烈な浄化と、ダンスという楽しい遊びをなかにふくみながら、心の表層にうごめく混沌(カオス)を一掃し、その深層にある「静かに観ている」という自己の本性を、わりと簡単に味わわせてくれます。
このクンダリーニ瞑想は、もうひとつの瞑想法である「ダイナミック瞑想」とひとつの対をなしていて、ダイナミック瞑想は早朝に、クンダリーニ瞑想は夕方にするようにいわれてますが、夕方はいがしいからできないというより、朝でも、夜でも、できる時間におこなったらよいと思います。最初は和尚瞑想センターや瞑想会などでやり方をならい、そして自分の場所で日常的につづけてみてください。クンダリーニ瞑想音楽のCDは、ニューエイジの店や大きな本屋などでも買えると思います。
OSHO クンダリーニ瞑想のやり方
第1ステージ(15分)
ゆったりと立ち、エネルギーが足元から上昇して来るのを感じながら、全身を振動(シェイク)させましょう。身体のあらゆる部分が、手放し状態で開放される(レット・ゴー)のを許し、振動(シェイク)そのものになります。目は閉じても、開けていてもかまいません。
「振動(シェイク)が起こるままに、まかせなさい。それをやってはいけない。静かに立ち、振動(シェイク)がやって来るのを感じなさい。そして体が少し震え出したら、それを助けるのはいいが、あなたがやってはならない。それを楽しみ、その至福を感じ、それを許し、受け取り、歓迎しなさい。でも意図してはならない。 もし震動(シェイク)を強いたら、それは一種の運動、体操のようなものになってしまう。その時、震え(シェイク)はあっても、それはただ表面的なものだ。それはあなたに深く浸透してゆかない。あなたは内側では、石や岩のように硬いままだ。あなたは操作する者、行為者のままで、身体はただそれに従っているだけだ。身体が問題ではなく、あなたが問題なのだ。「震えなさい」(シェイク)と私が言う時、あなたの固さ、岩のような存在がまさにその根底から震え(シェイク)、それが流動体に、液体になり、溶けて流れるようになるべきだと言っている。そして、岩のような存在が流動体になる時、あなたの身体はそれに従うだろう。その時、あなたが震わせる(シェイク)必要はなく、震動(シェイク)だけがある。誰もそれをしてはいない。震え(シェイク)はただ起こっている。それをしている者はいない。」 OSHO
第2ステージ(15分)
感じるままに踊りましょう。身体全体を、それが動きたいように動かしましょう。ここでも、目は閉じても開いたままでもかまいません。
第3ステージ(15分)
座るか立ったままで、目を閉じて静止します。あなたの内なるところ、そして、外がわでおこっていること、すべてを黙って目撃し、静かに観照したままでいます。
第4ステージ(15分)
目を閉じたまま横たわり、静止しています。静かな観照だけがあるでしょう。
14 ヨガとタントラの起源
瞑想の起源は、インダス文明が起こった紀元前2500年ごろにもとめられます。ヨガの起源も同じころに始まったとされていますが、それはヨガと瞑想を同じものとしてみているためで、実際にヨガという言葉が使われだすのは、紀元前500年ごろまで待たなければなりません。おそらく、この2000年の間は、瞑想とともにヨガの源流となるさまざまなエクササイズや考え方などが、明確な定義をされないまま、渾然一体となっておこなわれていたのでしょう。
インダス文明を起こしたのは古代ドラヴィダ人といわれる人たちで、紀元前1500年ごろに侵入してきたアーリア人とは異なった人種です。いわゆるヴェーダという古代経典とサンスクリット文字は、アーリア人たちがもたらしたものですが、それからヨガという定義がされるまでの1000年くらいの間には、土着のドラヴィダ人と征服者としてのアーリア人とのあいだで、人種的・文化的な融合がなされ、さまざまな形態の宗教的な祈祷や儀式などが入りまじりながら、発展していったものとみなされます。
では、タントラの起源はいつなのでしょうか?どの文献も、はっきりとしたタントラの起源は明確に規定できないとしています。だいたいのところでは、「カーマ・スートラ」が書かれたとされる4−5世紀のころに、タントラの起源をもとめているようです。8−9世紀には、カジュラホのタントラ神殿が創られまていますから、、このころまでに、タントラはかなり大きな力と影響力を持っていたことがうかがわれます。
私の推測では、もともとヨガとかタントラとかの区別もされずに修行されてきたものが、ヴェーダを機軸としてその教えと実践に即したものを「ヨガ」として規定したところから、この規定からはずれたり、または明確に対立するその他の人たちのあいだから、「ヨガ」にたいする「タントラ」という定義を作りだされていったのではないかと思います。「熱い」という概念ができてはじめて、「冷たい」という概念ができてきます。「長い」という概念がなければ、「短い」という概念も存在することはありません。この世界は相対的なものです。もともとはヨガやタントラなどという区別をせずに、神を敬い、自己のうちに神を顕現するためのあらゆる霊的修行が、パタンジャリのヨガ・スートラをきっかけとして、2−4世紀にヨガの定義が確立されていく過程で、その反動として、ヨガの教条に対立する学派や流派などが、タントラという新しい概念のもとに結集されていったのでしょう。そのせいか、ヨガはパタンジャリの教義にそくして整理整頓されていったため、ひとつの整然とした形態を保持していますが、タントラのほうは反主流派として結集したといういきさつゆえか、かなり渾然とした中身をかかえつつ、それでもひとつの大きな霊的潮流として現在までつながってきています。  
 
瞑想法4

 

「世の成功者の多くは、瞑想をしている」こんな話を聞いたことはありませんか?瞑想という静かな時間を持つことで、静かな時間の中で自分自身を振り返ることができます。また精神統一の練習をすることで、集中力を高めることもできるのです。これをお読みのあなたは、すでに瞑想を始められているかもしれません。あるいは、「気にはなっているんだけど、正しいやり方が良く分からなくて…」と悩まれているのかもしれません。ちまたには、たくさんの瞑想法が並んでいます。ネットでちょっと検索するだけでも、たくさんの瞑想法が出てきますよね。どれが正しくて、どれが間違っているのかというのは、簡単に判断ができないものです。そこで今日は、正しい瞑想のやり方で、上手に精神を統一する7つの方法をお伝えします。
正しい瞑想のやり方で、上手に精神を統一する7つの方法
1 瞑想で得たいことを明確にする
あなたはいったい瞑想で何を得たいのでしょう?最初にも書いた通り、世の中にはたくさんの瞑想があります。その中のいくつかを取り上げてみましょう。
・ 若返るための瞑想
・ 肌をきれいにするための瞑想
・ 健康を取り戻すための瞑想
・ ハイヤーセルフからメッセージを得るための瞑想
・ 静かに自分を振り返るための瞑想
・ 自分をリラックスさせ、余分な緊張を取り除くための瞑想
などなど…。
あなたが瞑想をすることで得たい効果は、上記の中にありましたか?それとも、また違うものだったでしょうか。目的に応じて、瞑想の正しいやり方は異なります。ですが、一番最後の「自分をリラックスさせ、余分な緊張を取り除くための瞑想」こそが、すべてのベースとなります。なぜなら、身体に余分な力が入っていると、瞑想はうまくいかないものなのです。瞑想に慣れた方なら不要な手順ですが、まずは心身ともにリラックスすること。これこそ、瞑想の効果を最大限に得るコツなのです。ですので、まずは「自分をリラックスさせ、余分な緊張を取り除くための瞑想」の正しいやり方をマスターしていきましょう。出来るようになったら、新しい目的を作り、トライしてみてください。
2 瞑想は快適な環境で行う
瞑想を行う環境は、非常に重要です。理想は、温度・湿度ともに快適で、静かなところ。ご自宅でしたら、エアコンと扇風機を上手に使いましょう。暑すぎても、涼しすぎてもいけません。じっと座っている状態で、ちょうど良いと思う状態にしてください。可能なら、空気を入れ替えるために、すこーしだけ窓をあけておくと良いですね。難しければ、瞑想を行う前にしっかり換気しておきましょう。瞑想は、新鮮な空気の場所で行う方が良いのです。
3 瞑想を行うための「音」を準備する
瞑想を行うのであれば、森の中が良いですね。鳥の鳴き声や、風が木々を揺らす音、小川のせせらぎなんかが聞こえて来る環境なんて、最高です。瞑想を行うためでなくとも、そのような場所は自然とリラックスできませんか?しかし、なかなかそのような環境があるところに出かけるのは大変なもの。そして都会では、外の喧騒を完全に消すことも難しいですよね。ですので、もっと手軽な方法をご紹介します。それは、瞑想用の音楽を準備すること。瞑想用のCDを使っても良いですし、鳥の鳴き声などの入ったCDを使われるのも良いでしょう。何度か試してみて「これだ!」と思う、自分好みの音楽を見つけてください。それが、あなたに必要な瞑想の「音」です。また、宅配便や郵便物にも注意しましょう。なるべく、インターホンが鳴らない時間を選ぶのも大切です。
4 リラックスできる姿勢と場所で行う
これは、とても重要です。自分がリラックスできる姿勢と場所はどんなものでしょう?よく、つま先を膝に乗せて…なんていうのを見かけますが、辛かったらやらなくて大丈夫です。いっそ、寝転がって大の字で瞑想しても構いませんよ。ただし、猫背になるのはオススメできません。壁にもたれたり、椅子に座ったりして、なるべく背筋を伸ばした状態で行いましょう。リラックスできる姿勢が決まったら、落ち着ける場所を見つけましょう。壁際ですか?ベッドの上ですか?それとも、部屋の真ん中?ものが散らかっていて気にあるのであれば、ある程度整理しましょう。瞑想中に、「うっかり手足に何かがあたって気が散った…」なんてことがないようにしてください。
5 瞑想を行う服装を整える
ここまでで散々説明してきましたが、瞑想において、リラックスできる状態を作り上げることは非常に重要です。ですので、自分が最もリラックスしやすい服装を選びましょう。具体的には、身体をしめつけない、ゆったりしたものが良いですね。ジーパンよりも、ゆったりとしたルームパンツ。ピッタリしたTシャツよりも、ゆるめの長そでTシャツか、トレーナー。靴下をはかず、裸足で行うのも良いでしょう。ただし、寒くて手足が冷えるのであれば、しっかり防寒を。ご自分の部屋で瞑想をされるのでしたら、いっそパジャマでも良いくらいです。しかし、瞑想のためだけに服を調達するのはやめましょう。新しい着慣れない服よりも、いつも着ている服の方がリラックスしやすいからです。もしあながた、「ぜひ、瞑想用の服を準備したい!」と思われるのでしたら、いつも着ているのと同じタイプにするか、暫く身体に馴染ませてから使うのが良いでしょう。
6 瞑想のための呼吸をマスターする
瞑想で行う呼吸は腹式呼吸です。そして、口ではなく鼻で呼吸をしましょう。女性の方で、腹式呼吸が良く分からないという方は横になってみてください。そして、ゆっくりと呼吸してみるのです。横になっているときは、自然と腹式呼吸になります。もし胸式になっているのであれば、意識しすぎるあまり、緊張している可能性があります。その場合は、胸式・腹式は気にせず、ちょっと休憩するくらいのつもりでゆったりしてください。気づくと腹式呼吸になっているはずです。
次に、呼吸のやり方です。次の順番で行ってください。
1) ゆっくりと息を吐ききる
2) 鼻から3秒かけて息を吸う
3) 6秒間息を止める
4) 6秒かけてゆっくり息を鼻から吐ききる
5) (2)〜(4)を繰り返す
秒数は1:2:2であれば、何秒にして頂いても構いません。4:8:8でも5:10:10でも良いのです。自分が一番やりやすい長さにしましょう。
7 じっくりと瞑想という時間を味わってみる
さぁ、ここまで実践されたあなたは、すでに瞑想を行うための準備が整っています。まずは、じっくり瞑想という時間を味わってみてください。最初は、うまく精神統一できなくても構いません。外の音が気になったり、気が散ってしまったり、雑念が浮かんできても、良いのです。じっくり、じっくりとその時間を味わうこと。自分が瞑想に慣れることから始めましょう。ゆっくり、じっくり…。可能なら、自分自身というものも味わってみてください。そして、注意したいことは、現実に戻ってくるとき。瞑想から現実に戻ってくるときも、ゆっくりと戻ってきましょう。まず、ゆっくりと深呼吸を3回ほど。続いて、手を開いたり握ったりして、身体の間隔を確かめてください。そして、ようやく目をあけるのです。これを繰り返すことで、徐々に精神が統一しやすくなっていきます。結果として集中力が高まっていることも、感じられるはずです。
まとめ
正しい瞑想のやり方で、上手に精神を統一する7つの方法は如何でしたか?「簡単なことばかりでつまらない!」と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、瞑想は準備が大切。初心者が環境を整えずに瞑想を始めても、なかなか精神を統一しにくいものなのです。慣れてくるとぱぱっと準備ができ、すぐに精神を統一することができるようになります。最初は「これは瞑想のための儀式なんだ」とでも考え、楽しみながら行ってください。ふと気づけば、たいした手間もなく、ささっと瞑想を行える自分がそこにいるはずです。
正しい瞑想のやり方で、上手に精神を統一する7つの方法
・ 瞑想で得たいことを明確にする
・ 瞑想は快適な環境で行う
・ じっくり瞑想するための、音を準備する
・ リラックスできるよう、場所を整える
・ 瞑想を行う服装を整える
・ 瞑想のための呼吸をマスターする
・ じっくりと瞑想という時間を味わってみる  
 
瞑想法5

 

何も考えずに、ゆっくりと呼吸するだけ。
辛いことや、大変な経験をしてしまうと、こころにわだかまりが溜まってしまいます。
不安やストレス、恐れなどのマイナスの固定観念ばかりにとらわれてしまうと、こころに自由がなくなり、からだにも影響が出てきます。
何とかしようと、気持ちばかり焦ってしまうと、頭の混乱は増すばかり。一旦頭の中をクリアーにして、充満したネガティブな考えをなくすことが、1つの方法です。
気持ちに余裕がでると、考え方や物事の見え方にも良い変化がでます。
こころとからだは、いつも繋がっていますから、精神が浄化されると、ホルモンバランスや血行も良くなって、からだにも良い影響を与えます。
いつでもできる瞑想法です。難しく考えず、まずはゆっくりと深呼吸をしてみましょう。おだやかな毎日に毎日を、お役立てください。
とっても簡単な基本の瞑想法。呼吸で心の浄化をします。
まずは、どこでもできるこころの浄化法。不安なとき、悩みが頭から離れないときに、活用してみてください。
呼吸に集中するだけでも、浄化することができます。ちょっとした気分転換にも使えておすすめです。
[やり方]
いつも無意識でやっている呼吸を、意識的にやります。立っても座ってもOK。できるる人は腹式呼吸、難しい場合は、胸でいっぱいに呼吸してください。
鼻からいっぱい息を吸って、鼻からゆっくり出します。深くゆっくり呼吸しながら、自分の呼吸を感じてください。何回か繰り返すうちに、何も考えない状態に近づくことができます。
これを20〜30回 続けると、リラックスができて落ち着くことができると思います。
少しだけ本格的な10分間瞑想法。
もう一つは、少しだけ本格的な瞑想法です。自分のことを観察する時間としても使えます。
1 静かな部屋でリラックスして座る。
照明を少し落とした、音のない出来るだけ静かな部屋にします。椅子に、背筋を伸ばしてリラックスして座り、こころを落ち着けます。瞑想用の着座が出来る方は、それでも大丈夫です。「これから瞑想をするんだ」としっかり思ってください。
2 目を閉じて何も考えない。
外部からの情報が入らないほうがよいので、目を軽く閉じてこころの平静を保ちます。出来るだけ、何も考えない状態にしてください。
3 ゆっくり腹式呼吸。
ゆっくりと腹式呼吸をします。鼻からおなかの中までいっぱい息を吸って、鼻からゆっくり出します。
精神統一が出来ない場合は、自分の呼吸をこころの中で数えてみてください。50くらいまで数えると、だんだん雑念が消えてクリアーな状態になると思います。
ゆったり滑らかな呼吸になると、より瞑想の効果がアップします。
4 雑念は後から片付け。
雑念が浮かんできたら、考えてはいけないと思うと余計に考えてしまいます。
なので、その考えがあることを認めてから、それは後から片付けようと思ってみてください。すると、だんだん雑念は小さくなっていきます。
5 10分後はこころ晴れやかに。
10分くらい経ったかなと思ったら、瞑想を止めて意識が戻ってくるまで待ちます。
目を閉じたまま、3回くらい静かに深呼吸をして、両手で頭から足先までをなでて、瞑想状態をときます。
普通の状態に戻ったら、ゆっくりと目を開いて終了です。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雑念 気をちらせるいろいろな思い。種々雑多な考え。ぞうねん。
邪念 倫理的に正しくない考え。また、みだらな情念。
      目的に外れた乱れた考え。
悪念 悪事を働こうとたくらんでいる心。悪い考え。悪心。
怨念 うらみに思う気持。うらみの思い。
失念 うっかりして忘れること。もの忘れ。度忘れ。
無念 想念をはなれた無我の境地にはいって何事も思わないこと。正念。無想。
      囚われを去った思い。執着のない正しい思い。心の動揺をしずめて行う念仏。
      くやしいこと。口惜しいこと。残念。
残念 思いの後に残ること。すんでしまった物事やそれまでの状態に対して、満足が
      いかなくて物足りない感じがするさま。心のこり。
      対人関係で圧倒されたり、勝負事に負けたりして、くやしく思うさま。無念。
正念 八正道の一つ。よこしまな心を離れ、真理を求める心をつねに忘れないこと。
      心の乱れを去った安らかな心。雑念を払った心の安定した状態。
      一心に仏を念ずること。またはその乱れることのない信心。
      平常の心。正常で乱れのないしっかりした心。正気(しょうき)。  
不念・無念(ぶねん) 気づかないで残念なこと。考えが足りないこと。
      不注意。落度。過失。

 


 
2016/10