宴会

大好きな 宴会イメージ
紅白扇子を持った人 宴会を盛り上げる

何処からこのイメージを見つけたか  急に 気になる
昔のこと 保存イメージの前後は 黒澤明の映画

イメージは  遺作「まあだだよ」からと知る


 

黒澤明 大好きだった
「酔いどれ天使」以降 ほとんど見ていると思っていた
遺作「まあだだよ」 記憶にない
 
 
 
冥途
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
2016/8

黒澤明監督映画
 

公開年

作品名

主な出演者

上映時間ほか

1943年

姿三四郎

大河内伝次郎、藤田進、轟夕起子、花井蘭子、月形龍之介、志村喬

79分/白黒/スタンダード

1944年

一番美しく

矢口陽子、入江たか子、志村喬、萬代峰子

85分/白黒/スタンダード

1945年

續姿三四郎

藤田進、轟夕起子、月形龍之介、大河内伝次郎、河野秋武、宮口精二、森雅之

82分/白黒/スタンダード

 

虎の尾を踏む男達

大河内伝次郎、榎本健一、藤田進、志村喬、小杉義男、仁科周芳(岩井半四郎)

58分/白黒/スタンダード

1946年

わが青春に悔なし

原節子、藤田進、大河内伝次郎、杉村春子、河野秋武、三好栄子、志村喬

110分/白黒/スタンダード

1947年

素晴らしき日曜日

沼崎勲、中北千枝子、渡辺篤、菅井一郎

108分/白黒/スタンダード

1948年

醉いどれ天使

志村喬、三船敏郎、木暮実千代、山本礼三郎、久我美子、中北千枝子、千石規子、笠置シズ子、飯田蝶子

98分/白黒/スタンダード

1949年

静かなる決闘

三船敏郎、三條美紀、志村喬、千石規子、中北千枝子

95分/白黒/スタンダード

 

野良犬

三船敏郎、志村喬、木村功、淡路恵子、河村黎吉、三好栄子、千秋実

122分/白黒/スタンダード

1950年

醜聞

三船敏郎、山口淑子、志村喬、桂木洋子、日守新一、左卜全、小沢栄

105分/白黒/スタンダード

 

羅生門

三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎、本間文子、加東大介

88分/白黒/スタンダード

1951年

白痴

原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬

166分/白黒/スタンダード

1952年

生きる

志村喬、小田切みき、日守新一、千秋実、田中春男、藤原釜足、左卜全、中村伸郎、金子信雄、伊藤雄之助、菅井きん

143分/白黒/スタンダード

1954年

七人の侍

志村喬、三船敏郎、木村功、稲葉義男、加東大介、千秋実、宮口精二、藤原釜足、津島恵子、島崎雪子、土屋嘉男、左卜全、高堂国典、東野英治郎、山形勲

207分/白黒/スタンダード

1955年

生きものの記録

三船敏郎、志村喬、青山京子、東郷晴子、千秋実、清水将夫、根岸明美、三好栄子

113分/白黒/スタンダード

1957年

蜘蛛巣城

三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明、千秋実、太刀川洋一、浪花千栄子、佐々木孝丸

110分/白黒/スタンダード

 

どん底

三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、中村鴈治郎、千秋実、藤原釜足、三井弘次、東野英治郎、渡辺篤、左卜全、清川虹子

125分/白黒/スタンダード

1958年

隠し砦の三悪人

三船敏郎、上原美佐、千秋実、藤原釜足、藤田進、志村喬

139分/白黒/シネマスコープ

1960年

悪い奴ほどよく眠る

三船敏郎、森雅之、香川京子、三橋達也、志村喬、西村晃、加藤武、藤原釜足、笠智衆

151分/白黒/シネマスコープ

1961年

用心棒

三船敏郎、仲代達矢、司葉子、山田五十鈴、加東大介、山茶花究、河津清三郎、東野英治郎、沢村いき雄、志村喬、藤原釜足、夏木陽介

110分/白黒/シネマスコープ

1962年

椿三十郎

三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、小林桂樹、団令子、志村喬、藤原釜足、清水将夫、伊藤雄之助、入江たか子

96分/白黒/シネマスコープ

1963年

天国と地獄

三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、石山健二郎、木村功、加藤武、志村喬、山崎努

143分/白黒・パートカラー/シネマスコープ

1965年

赤ひげ

三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、香川京子、桑野みゆき、二木てるみ、頭師佳孝、志村喬、笠智衆、田中絹代、内藤洋子、杉村春子、根岸明美

185分/白黒/シネマスコープ

1970年

どですかでん

頭師佳孝、菅井きん、三波伸介、伴淳三郎、芥川比呂志、奈良岡朋子、渡辺篤、藤原釜足、井川比佐志、田中邦衛、楠侑子、松村達雄、三谷昇、根岸明美、塩沢とき

140分/カラー/スタンダード

1975年

デルス・ウザーラ

ユーリー・ソローミン、マキシム・ムンズーク、シュメイクル・チョクモロフ、ウラジミール・クレメナ、スベトラーナ・ダニエルチェンコ

141分/カラー/70ミリ・ワイド

1980年

影武者

仲代達矢、山崎努、隆大介、萩原健一、根津甚八、大滝秀治、油井昌由樹、桃井かおり、倍賞美津子、室田日出男、志村喬

179分/カラー/ビスタ

1985年

仲代達矢、寺尾聰、隆大介、根津甚八、原田美枝子、宮崎美子、野村武司、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、植木等

162分/カラー/ビスタ

1990年

寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、井川比佐志、いかりや長介、笠智衆、頭師佳孝、根岸季衣、マーティン・スコセッシ

120分/カラー/ビスタ

1991年

八月の狂詩曲

村瀬幸子、吉岡秀隆、大寶智子、茅島成美、鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、リチャード・ギア

97分/カラー/ビスタ

1993年

まあだだよ

松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、小林亜星、板東英二、岡本信人

134分/カラー/ビスタ

 

●「姿三四郎」

 
1943年(昭和18年)3月25日公開の日本映画である。東宝映画製作、映画配給社(紅系)配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、97分。黒澤明の監督デビュー作で、富田常雄原作の同名小説の初映画化作品。娯楽の少ない戦時下の大衆に受け入られ、大ヒットした。フィルムは再上映時に一部がカットされ、現在も完全版を観ることはできない。

1882年(明治15年)、会津から柔術家を目指し上京してきた青年、姿三四郎は門馬三郎率いる神明活殺流に入門。ところがこの日、門馬らは修道館柔道の矢野正五郎闇討ちを計画していた。近年めきめきと頭角を現し警視庁の武術指南役の座を争っていた修道館柔道を門馬はいまいましく思っていたのだ。ところが多人数で襲撃したにも関わらず、矢野たった一人に神明活殺流は全滅。その様に驚愕した三四郎はすぐさま矢野に弟子入りを志願した。
やがて月日は流れ、三四郎は修道館門下の中でも最強の柔道家に育っていたが、街に出れば小競り合いからケンカを始めてしまう手の付けられない暴れん坊でもあった。そんな三四郎を師匠の矢野は「人間の道というものを分かっていない」と一喝。反発した三四郎は気概を示そうと庭の池に飛び込み死ぬと豪語するが矢野は取り合わない。兄弟子たちが心配する中意地を張っていた三四郎だが、凍える池の中から見た満月と泥池に咲いた蓮の花の美しさを目の当たりにした時、柔道家として、人間として本当の強さとは何かを悟ったのであった。
ある日蛇のように異様な殺気を帯びた男が道場を訪ねてきた。良移心当流柔術の達人、檜垣源之助は三四郎の兄弟子を一瞬で倒すほどの実力の持ち主。師匠に稽古止めを言いつけられている三四郎がこの時戦うことは適わなかったが、双方いずれ雌雄を決する日が来るであろう予感を抱く。
やがて修道館の矢野の元に新しい柔術道場開きの招待状が届く。その場で他流試合を設けたいという誘いであったが、これは暗に神明活殺流の門馬が裏切りと積年の復讐を果たすために三四郎にあてた挑戦状であった。しかし実力を増してきた門馬も既に三四郎の敵ではなく、三四郎の必殺投げ技「山嵐」が決まった時、門馬は壁に頭をぶつけ死んでしまった。試合とはいえ他人を死なせてしまったこと、その場にいて悲劇を目撃してしまった門馬の娘の悲痛な目が脳裏から離れず、三四郎は柔道を続ける意義を見失ってしまう。
師匠の矢野の猛特訓によりやっと戦う気力を取り戻した三四郎は、神社でひたすらに祈る一人の美しい娘と出会う。この娘こそ良移心当流師範、村井半助の娘の小夜であった。先の死闘を見た村井半助は警視庁武術大会での試合を三四郎に申し込み、小夜は老いた父の勝利を願って祈りを捧げていたのであった。その事を知った三四郎は自分が試合にどう臨めばいいのか自問自答しまたもや袋小路に陥ってしまうが、修道館のある寺の和尚に「その娘の美しい強さに負けない、お前の美しかった時を思い出せ」と蓮の花が咲いていた泥沼の三四郎がしがみついてきた杭を指差されたとき、彼の心は決まった。
大勢の人々が見守る中開催された警視庁武術大会。村井は全力を持って気合で三四郎を圧倒するが、研ぎ澄まされた三四郎の技が決まった時勝負はついた。しかし投げられても投げられても立ち上がってくる村井の凄みに三四郎は憔悴し、皆が祝ってくれても勝利の余韻に浸る余裕など無かったが、全身全霊を捧げた戦いの疲れを癒してくれたのは、道場に招待してくれた村井の温かい言葉と小夜の手料理であった。
唯一面白くないと憤っている檜垣源之助から遂に果たし状が届く。三四郎と戦う場をもらえなかったばかりでなく、恋慕する小夜と三四郎が親しくしているのが気に食わない。右京が原での決闘、風雲急を告げる中、遂に雌雄を決する時が来た……。  

 

●「一番美しく」  
1944年(昭和19年)4月13日公開の日本映画である。東宝製作、映画配給社(紅系)配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、85分。第二次世界大戦中に、軍需工場で働く女子挺身隊員達の姿を描いたヒューマンドラマ。21名の女優を実際にロケ地の日本光学工業に入寮させ工員同様の生活を行わせることで、女子挺身隊の日常をドキュメンタリータッチに描いた。
戦時下に製作された映画は全て、何がしかの形で戦争協力を表現していなければならなかった。登場人物の言動が非協力的に描かれる事は許されず、本作品においても、戦争そのものを間接的にでも否定するような表現は為されてはおらず、プロパガンダとしての役割を帯びていたのは否めない。しかし、本作品の舞台は本当に稼働していた工場であり、俳優達は実際の生産作業の場に組み込まれ、その中において撮影が進められた。また鼓笛隊を組織、実際に朝の往来を演奏行進し、就労時間外にはバレーボールをやり、寮生活まで実際に経験させられた女優達は、各々が本当の女子工員であるが如く働き、喜び・苛立ち・悲しみなどの感情表現を豊かに見せている。リアリティを求める監督の狙いが充分に功を奏している出来映えと評価された作品であった。
登場人物は全員献身的かつ謙譲に努めており、彼等の言動は多分に美化されすぎているように映るが、当時の宣伝映画としてはそれが狙いであり、個人的な苦労や悲哀を強調することのほうが避けられるべきことであった。女子工員の一人が病弱を理由に帰省するのだが、それは本人の口から「帰りたい」と言われるのではなく、本人はむしろ自分を帰さないでくれとまで懇願する。彼女を帰省させるのは寮母及び工場の管理職員である。現代の眼からすれば、彼女達の献身振りは却って奇異でありさえする。戦争という特殊な状況における一種の集団的躁状態と見る向きもあるが、ある意味では、現代日本人が忘れているかもしれない「他を尊重する心」を題字の如く美しく語っている、という見方もある。ラストシーンで、郷里の親の訃報に涙しつつレンズ調整に精を出す渡辺ツルの姿は痛々しくもあるが、他のために我が身を粉にする意味を考えさせる。今作品では、それはあくまで「お国のために」であるが、「何故そこまでして」と問う以前に、謙譲の美・献身の徳を再確認できる作品ともいえる。
女工たちが工場で敵国アメリカと戦う兵器生産のために熱心に働いている場面に敵国アメリカの作曲家スーザの行進曲を使うなど、黒澤らしい反骨精神も垣間見ることができる。この件に関し、黒澤はかつて自分の作品の描写に「米英的でけしからん」と何度もケチを付けた検閲官が、アメリカの行進曲を使ったのにもかかわらず何の文句もいわなかったことを皮肉っぽく 「蝦蟇の油」(自伝)の中で述懐している。

兵器に搭載される光学機器を生産している東亜光学平塚製作所では、戦時非常態勢により生産の倍増を計画発令する。男子工員は通常の2倍、女子工員は1.5倍という目標数値が出されるが、女子組長の渡辺ツルを筆頭とする女子工員達は、男子の半分ではなく2/3を目標にしてくれと懇願、受け入れられる。奮発する女子達だが目標達成は生易しくはなく、一時的に上昇した生産高は疲労や怪我、苛立ちから来る仲違い等により下降する。しかし、女子工員達の寮母や工場の上司達の暖かい協力、そして種々の問題を試行錯誤しながら解決し、更に結束を強めた彼女達の懸命な努力は再び報われ始める。 

 

●「續姿三四郎」  
1945年(昭和20年)5月3日の公開日本映画である。東宝製作、映画配給社(紅系)配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、82分。黒澤監督のデビュー作「姿三四郎 」の続篇であり、兄の復讐のため戦いを挑む檜垣兄弟と姿三四郎の死闘を描いた作品である。前作の大ヒットを受けて製作した娯楽作だが、黒澤は「あまり上出来の映画にならなかった」と述懐している。 
 

 

●「虎の尾を踏む男達」  
1945年(昭和20年)製作、1952年(昭和27年)4月24日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、59分。
能の「安宅」を下敷きにした歌舞伎「勧進帳」を題材に、義経・弁慶一行の安宅の関所越えを描いた。本作オリジナルの登場人物・強力役に榎本健一をキャスティングしたことで、大河内傳次郎の重々しい演技が象徴する義経一行の悲壮感の中に滑稽味が加味されている。また、能の地謡にあたる部分を洋楽のコーラス風にアレンジしており、コメディとしてもパロディーとしても十分鑑賞に耐えうる作品となっている。黒澤初の時代劇映画となるが、終戦の前後に製作されたため、検閲によって公開は7年後の1952年(昭和27年)となった。 

 

●「わが青春に悔なし」  
1946年(昭和21年)10月29日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、110分。GHQの奨励した民主主義映画の一つ。滝川事件とゾルゲ事件をモデルに、ファシズムの時代の中で自らの信念に基づいて生きる女性の姿を描いた作品で、「自我の確立」をテーマに据えた。第20回キネマ旬報ベスト・テン第2位。

日本が戦争へと歯車が狂い始めていた1933年(昭和8年)、京大教授の八木原夫妻とその娘・幸枝、父の教え子である糸川と野毛ら7人の前途有望な学生達は、吉田山でピクニックを楽しんでいた。全てに慎重で常識と立場を重んじる糸川と、正しいと信じた事は立場に関係なく主張する野毛の二人は幸枝に好意を持っていた。幸枝も好対照な二人それぞれに惹かれていた。しかし、大学では京大事件が発生し、自由主義者の八木原教授は罷免されてしまう。やがて大学を追われた八木原は弁護士、糸川は検事になり、野毛は左翼運動に身を投じていた。野毛に強く惹かれていた幸枝は上京して自活の道を選び、野毛の後を追った。1941年(昭和16年)、幸枝は野毛と結婚する。だか、野毛は戦争妨害を指揮したとして逮捕され、獄死してしまう。 

 

●「素晴しき日曜日」  
1947年(昭和22年)7月1日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、108分。敗戦直後の東京を舞台に、貧しさに立ち向かう恋人の姿を描いた作品。脚本はD・W・グリフィス監督の無声映画 「素晴らしい哉人生(恋と馬鈴薯)(英語版)」から着想を得ている。東宝争議の影響でスター級の俳優が払底し、主役には新人俳優の沼崎勲と中北千枝子が起用された。作中の終盤では、ヒロインがスクリーン中から観客に向かって拍手を求めるという実験的な演出が行われている。第21回キネマ旬報ベスト・テン第6位。

戦争の傷跡が残る東京。雄造と昌子のカップルは日曜日にデートをするが、手持金は35円(現在の貨幣価値に換算すると、約3,500円)しかない。一緒に住むこともままならなかった2人は住宅展示場を見学するが、10万円の家は高嶺の花である。二人でも借りられそうなアパートを訪ねるも無駄骨だった。子供の野球に飛び入りすると、雄造の打ったボールが饅頭屋に飛び込み、損害賠償を払わされる。次に雄造は戦友が経営するキャバレーを訪ねるが、物乞いと勘違いされ相手にしてもらえない。途中、雨が降るが、昌子の提案で日比谷公会堂に「未完成交響楽」を聴きに行くことにする。しかし、安い切符はダフ屋が買い占め、抗議した雄造は袋叩きにされてしまう。
雄造は昌子を自分の下宿に連れて行き、彼女の体を求める。怖れた昌子は部屋を飛び出すが、やがて観念したように戻ってきて、泣きながらレインコートを脱ぎはじめる。心を打たれた雄造は「ばかだな、いいんだよ」と、昌子をいたわり詫びる。
雨がやみ、再び街に出た2人は喫茶店を開く夢を語り合う。そして日比谷野外音楽堂に足を運び、雄造はオーケストラの指揮の真似をして昌子に「未完成交響楽」を聞かせようとする。しかし、いくらタクトを振っても曲は聞こえない。すると昌子はステージに駆け上がり、客席に向かって叫ぶ。「皆さん、お願いです! どうか拍手をしてやって下さい!」この言葉に励まされた雄造が再びタクトを振ると、 「未完成交響楽」が高らかに鳴り響くのだった。 

 

●「醉いどれ天使」  
1948年(昭和23年)4月27日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎・志村喬。モノクロ、スタンダード、98分。闇市を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。黒澤・三船コンビの最初の作品であると同時に、志村が黒澤作品で初主演した。第22回キネマ旬報ベスト・テン第1位。
本作は、黒澤明と三船敏郎が初めてコンビを組んだ作品である。三船は1947年(昭和22年)の第1期東宝ニューフェイスで補欠採用され、同年公開の「銀嶺の果て 」(黒澤脚本・谷口千吉監督)でデビューした。この作品で見せた野性的な魅力とスピーディーな演技に驚嘆した黒澤は、三船に惚れ込んで本作の準主役・松永役に起用した。この作品の主人公は医師の真田役・志村喬であるが、準主役・三船の強烈な魅力が主役を喰ってしまっている。その志村は黒澤作品としては本作が初主演であった。さらに、作曲家の早坂文雄も黒澤と初めてコンビを組んだのも本作である。
黒澤は「ここでやっと、これが俺だ、というものが出たんだな。「素晴らしき日曜日」ではそれが出かかって出なかったような気がする」と述懐しており、黒澤作品の個性的なテーマや技法を確立した作品といわれている。
闇市のオープンセットは当時としてはかなり大がかりのものであるが、これは元々黒澤の師である山本嘉次郎監督の「新馬鹿時代」の闇市のオープンセットを再利用したものであった。また、黒澤はリアルに見せるために撮影所のオープンにドブ池を作り、メタンガスに見せるためにホースで空気を送り込んだりもした。中北千枝子演じる美代役は折原啓子が演じる予定だったが、病気療養のため変更となった。
当初、脚本の植草圭之助は、松永が苦悩の末に街娼と心中に至る筋書きを提案したが、黒澤はそのようなロマンチシズムではなく「やくざ・暴力否定」の主題を重要視、暴力に訴える人間の末路として松永は抗争の果てに自滅するよう書き改められた。当初は、やくざの親分は岡田だけでなく松永も一緒に葬儀を行い、その場に乗り込んだ真田が暴れてそれをめちゃくちゃにするというものだったのを、労働組合から「暴力否定の作品なのにおかしい」との指摘を受けて脚本は変更された。当時、戦争帰りの若者には社会復帰出来ず自暴自棄的傾向(アプレゲール)に陥る者も多く、黒澤はそれに対して警鐘を鳴らす意味を込めたかったのである。だが三船の野性味あふれる強烈な存在感は半ばそれを吹き飛ばし、黒澤の意図とは逆に暴力とニヒリズムの魅力をスクリーンいっぱいに吐き出し賛美されたのは皮肉である。
また、そのような松永との好対照として、同じ結核に罹りながらも真田の言い付けを守り着実に治癒していく女学生(久我美子)という役を配し、混沌の中に秩序が萌芽するかの如き一面があり、本当に強い人間とは、といった黒澤監督ならではの明確な倫理観が垣間見られる。ラストシーンの真田と女学生との邂逅には、ほのかな人間愛と希望を明日へ繋いでいこうする生き方の提示的な面も見られる。
医師・真田に関しては、当初は若く理知的な、医療を天職としてその使命に燃える理想的人物という設定だった。しかしそのせいでか、脚本の執筆はその初期段階で頓挫し、一向に進まなくなってしまった。黒澤と植草は半ば諦めかけたが、かつて製作前の取材で出会った婦人科医師を思い出しイメージしたことにより、一挙解決へ向かった。その人物は、横浜のスラム街で娼婦相手に無免許の婦人科医をしており、中年でアル中・下品を絵に描いたような人間だったが、会話中に時折見せる人間観察・批判、そして自嘲するような笑い方などに哀愁と存在感があったという。映画中の医師・真田はそんな実在の人物を元に描き出されたキャラクターであるが故に、三船のやくざに対抗しうる反骨・熱血漢に成り得たともいえる、そんなエピソードも残っている。実際、志村の演技には三船に劣らない気迫があり、志村も本作品以降の黒澤映画において大変重要な俳優として活躍を見せ、名実共に志村主演の黒澤作品 「生きる」でその真骨頂を披露することになる。

反骨漢だが一途な貧乏医師・真田は、闇市のやくざ・松永の鉄砲傷を手当てしたことがきっかけで、松永が結核に冒されているのを知り、その治療を必死に試みる。しかし若く血気盛んな松永は素直になれず威勢を張るばかり。更に、出獄して来た兄貴分の岡田との縄張りや情婦を巡る確執の中で急激に命を縮めていく。弱り果て追い詰められていく松永。吐血し真田の診療所に運び込まれ、一旦は養生を試みるが、結局は窮余の殴り込みを仕掛けた末、返り討ちで死ぬ。真田はそんな松永の死を、毒舌の裏で哀れみ悼む。闇市は松永などもとからいなかったように、賑わい活気づいている。真田は結核が治癒したとほほ笑む女学生に再会し、一縷の光を見出した気分で去る。 

 

●「静かなる決闘」  
1949年(昭和24年)3月13日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、スタンダード、95分。原作は菊田一夫の戯曲「堕胎医 」で、梅毒に感染した青年医師の苦悩を描いたヒューマンドラマ。東宝争議の影響で東宝を脱退した黒澤が、初めて他社で製作した作品である。第23回キネマ旬報ベスト・テン第8位。
本作の原作である「堕胎医」は、千秋実が主宰する劇団薔薇座によって、1947年(昭和22年)10月から日劇小劇場で上演されていた。配役は千秋が藤崎役、千秋夫人の佐々木踏繪が峯岸役、高杉妙子が美佐緒役を演じ、演出は千秋の岳父である佐々木孝丸が担当した。黒澤は偶然その舞台を見ており、それに感動したことから本作の企画が行われた。これをきっかけに千秋は後の黒澤映画の常連俳優となった。
当時、黒澤が所属する東宝は第3次東宝争議によって映画撮影が困難になっていた。黒澤は山本嘉次郎、谷口千吉、本木荘二郎らと映画芸術協会を設立して東宝を脱退し、他社での製作を余儀なくされた。その第1作が本作であり、以降 「野良犬」「醜聞」「羅生門」「白痴」を他社で撮っている。

戦時中の野戦病院で軍医として働く青年医師の藤崎恭二は、患者の中田を手術中に、誤って自分の指に怪我をし、患者の梅毒に感染してしまう。復員後、父の産婦人科医院で働くことになったが、梅毒の感染を隠し、婚約者の美佐緒と結婚することが出来ずにいる。美佐緒は藤崎が自分に対して距離を置き、何時までも親しくなれないことに苦悩していた。ある日、藤崎が自分の病気の秘密を父親に告白しているところを、見習い看護師の峰岸るいに立ち聞きされてしまう。峰岸は元ダンサーで暗い過去を持ち、藤崎の日頃の誠実な行動と発言に反感を抱いていた。その後も藤崎は己の病と闘いながら、訪れる患者に対しては黙々と治療を続けていく。一方、秘密を聞いたことで藤崎に対するわだかまりが解けた峰岸は、人間的に少しずつ成長していくのであった。そんな折、藤崎は偶然元患者の中田と再会し、中田が梅毒を放置したまま結婚し、近々子供が生まれることを知る。 

 

●「野良犬」  
1949年(昭和24年)10月17日公開の日本映画である。新東宝・映画芸術協会製作、東宝配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、スタンダード、122分。終戦直後の東京を舞台に、拳銃を盗まれた若い刑事がベテラン刑事と共に犯人を追い求める姿を描いた、黒澤監督初の犯罪サスペンス映画である。東宝争議の影響で東宝を離れていた黒澤が他社で撮った作品の1本である。第23回キネマ旬報ベスト・テン第3位。昭和24年度芸術祭賞。

ある猛暑の日、村上刑事は射撃訓練からの帰途のバス中でコルト式拳銃を掏られ、犯人を追うも見失ってしまう。拳銃の中には7発の銃弾が入っていたため、事件が起きるのではないかと彼は焦り戸惑う。村上は上司の中島警部の進言で、スリ係の市川刑事に相談し、鑑識手口カードを調べるうちに女スリのお銀に目星を付ける。村上はお銀のもとを訪ねるも、彼女はシラを切るばかり。そこで村上は彼女を執拗に追い回し、とうとう観念したお銀は、場末の盛り場で食い詰めた風体でうろついてるとピストル屋が袖を引くというヒントを与える。
ピストルを探すため復員兵姿で闇市を歩く村上は、ピストルの闇取引の現場を突き止め、ピストル屋のヒモの女を確保するが、先に女を捕まえたためピストルを渡しに来た男に逃げられてしまう。そこへ淀橋で強盗傷害事件が発生し、その銃弾を調べると村上のコルトが使われたと分かった。責任を感じた村上は辞表を提出するが、中島警部はそれを引き裂き「君の不運は君のチャンスだ」と叱咤激励する。村上は淀橋署のベテラン刑事佐藤と組み捜査を行うことになった。
村上と佐藤はピストル屋のヒモの女を聴取して、拳銃の闇ブローカー・本多の存在を突き止める。本多が野球好きだと知り、捜査陣は巨人対南海戦が行われる後楽園球場に向かう。アイスキャンディー売りの男が本多を発見し、二人は場内放送で本多を正面玄関に呼び出して逮捕する。本多の口からピストルは遊佐という男の元にあることが判明。二人は早速遊佐の実家の桶屋へ向かって彼の姉に会い、遊佐が復員のときに帰りの汽車で全財産のリュックを盗まれて、それが原因で道を踏み外したことを知る。また、実家の部屋から発見した便箋より、恋人のハルミの存在をつかむ。二人はダンスホールを訪ね、そこで踊子をしているハルミを訪ねるが、多感な年頃の彼女は遊佐との関係には口を割らなかった。しかし村上はハルミに、自分も遊佐と同じく復員の際にリュックを盗まれた体験があると告げる、
ついに村上のコルトで殺人事件が発生、まだピストルには弾が5発残っている。二人はハルミのアパートへ向かい、村上はハルミが遊佐について白状するのを待つ。佐藤は部屋にあった「あづまホテル」のマッチを手掛かりに遊佐の姿を追い、彼が宿泊する弥生ホテルに辿り着く。佐藤はホテルからハルミ宅にいる村上に電話をかけようとするが、捜査の手が伸びてきたことに気付いた遊佐の凶弾に倒れてしまう。ハルミと村上は受話器越しに2発の銃声を聞き、村上は絶叫する。遊佐はそのまま雨が降る中を逃走した。
翌朝、警察病院で佐藤の回復を待つ村上の元にハルミがやって来て、遊佐が午前6時に大原駅(架空の駅)で待っていることを告げる。村上は駅へ駆け出し、待合室の人々の中から泥だらけの靴を履いた男、すなわち遊佐を探し出す。村上と目が合った遊佐は逃亡、それを追いかけ、雑木林の中で格闘を繰り広げる。1発の銃弾が村上の左腕を射抜き、残りの2発は外れ、弾丸はなくなった。力尽きた遊佐に村上は手錠をかける。その側を登校する子供たちが「蝶々」を歌いながら通っていくのだった。
数日後、病室の佐藤を訪れた村上は、遊佐の行状を他人事とは思えないと述懐する。それに対して佐藤は、この町では犯罪は毎日のように起きており、遊佐のことなどいずれ忘れるだろうと諭すのだった。 

 

●「醜聞」  
1950年(昭和25年)4月26日公開の日本映画である。松竹製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、スタンダード、105分。東宝争議のため東宝での映画製作を断念し、他社で作品を撮っていた黒澤監督の初の松竹作品である。過剰なジャーナリズムによる問題を描いた社会派ドラマ。無責任なマスコミの言論の暴力を不愉快に思っていた黒澤が、電車の雑誌広告のセンセーショナルな見出しをヒントに製作した。第24回キネマ旬報ベスト・テン第6位。

新進画家の青江一郎は、オートバイクを飛ばして伊豆の山々を描きに来ていた。3人の木樵は彼の絵を不思議そうに眺めている。そこに人気声楽家の西條美也子が現れ、宿が同じだと分かると、美也子を後ろに乗せて宿へ向かった。青江は美也子の部屋を訪ね、談笑していたが、そこを雑誌社「アムール」のカメラマンが隠し撮りし、嘘の熱愛記事を書かれてしまう。雑誌は飛ぶように売れ、街頭で大々的に宣伝された。これに憤慨した青江はアムール社へ乗り込んで編集長・堀を殴り倒し、騒ぎは更に大きくなってしまう。青江はついに雑誌社を告訴することにし、そこへ蛭田と名乗る弁護士が売り込みに来る。翌日、素性を確かめるために蛭田の家を訪ねた青江は、結核で寝たきりの娘の姿に感動し、蛭田に弁護を依頼する。しかし、病気の娘を抱えるも金のない蛭田は10万円の小切手で堀に買収されてしまう。裁判が始まるも、買収された蛭田の弁護はしどろもどろで、法曹界の重鎮・片岡博士を弁護人にたてた被告側が圧倒的に有利だった。2回3回と公判が進むも、蛭田は言わねばならない証言でも押し黙り、4回目の公判で木樵が原告側の証人として立つも、勝ち目はなかった。青江は蛭田の不正を疑ったが口にはしなかった。そんな中、父親の不正を察知し心を痛めていた蛭田の娘が青江の勝利を叫びながら亡くなった。最終の公判の日、青江側の敗訴が決定的になる寸前、蛭田は自ら証人台に立ち、10万円の小切手を出して自らと被告人の不正を告白する。これが決め手となって片岡博士は敗訴を認め、原告側の勝利となった。記者団の前で青江は「僕たちは今、お星様が生まれるのを見たんだ」と語った。 

 

●「羅生門」  
1950年(昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬。モノクロ、スタンダード、88分。
芥川龍之介の短編小説 「藪の中」と「羅生門」を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。
自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限に映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。
日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の 「去年マリエンバートで」などがある。

平安時代。打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も乱れて荒れ果てた京の都。雨が降る中で羅生門に下人がやって来る。雨宿りのためであったが、そこに杣売りと旅法師が放心状態で座り込んでいた。下人は退屈しのぎに、二人が関わりを持つことになった事件の顛末を聞くと、二人は3日前に起こった恐ろしくも奇妙な事件を語り始める。
ある日、杣売りが山に薪を取りに行っていると、侍・金沢武弘の死体を発見した。そのそばには、「市女笠」、踏みにじられた「侍烏帽子」、切られた「縄」、そして「赤地織の守袋」が落ちており、またそこにあるはずの金沢の「太刀」と妻の「短刀」がなくなっていた。杣売りは検非違使に届け出た。旅法師が検非違使に呼び出され、殺害された侍が妻・真砂と一緒に旅をしているところを見たと証言した。
やがて、侍を殺した下手人として、盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は女を奪うため、侍を木に縛りつけ、女を手籠めにしたが、その後に女が「自分の恥を二人に見せたのは死ぬより辛いから、どちらか死んでくれ、生き残った方のものとなる」と言ったため、侍と一対一の決闘をして勝った。しかし、その間に女は逃げてしまったと証言した。短刀の行方は知らないという。
しばらくして、生き残っていた武弘の妻・真砂が検非違使に連れて来られた。真砂によると、男に身体を許した後、男は夫を殺さずに逃げたという。だが、眼の前で他の男に抱かれた自分を見る夫の目は軽蔑に染まっており、思わず我を忘れて自分を殺すよう夫に訴えたが、余りの辛さに意識を失い、やがて気がついた時には、夫には短刀が刺さって死んでいた。自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。
そして、夫の証言を得るため、巫女が呼ばれる。巫女を通じて夫・武弘の霊は、妻・真砂は多襄丸に辱められた後、多襄丸に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように彼に言ったのだという。そして、これを聞いた多襄丸は激昂し、女を生かすか殺すか夫のお前が決めていいと言ってきたのだという。しかし、それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害したという。
それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えて、杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件を目撃していたのだ。そして、杣売りが下人に語る事件の当事者たちの姿はあまりにも無様で、浅はかなものであった。 

 

●「白痴」  
ドストエフスキーの小説 「白痴」を原作とした日本映画である。監督は黒澤明で、1951年(昭和26年)に公開された。原作はロシア文学で、1868年に発表され同時代のロシアを舞台としている。本作では舞台が昭和20年代の札幌に置き換えられている。当初4時間25分であった作品であるが、松竹の意向で大幅にカットされ166分となった。

亀田と赤間は北海道へ帰る青函連絡船の中で出会った。亀田は沖縄で戦犯として処刑される直前に人違いと判明して釈放されたが、そのときの後遺症でてんかん性の白痴にかかってしまったのだった。札幌へ帰ってきた亀田は狸小路の写真館のショーウィンドーに飾られていた那須妙子の写真に心奪われる。しかし彼女は愛人として政治家に囲われていた。裕福な大野の娘の綾子と知り合いになった亀田は白痴の症状はあるものの性格の純真さ善人さから、二人に愛され綾子と妙子の間で激しく揺れ動く。3人の異質な恋愛は周りの人物たちを次々と巻き込んでゆくこととなる。 

 

●「生きる」  
1952年(昭和27年)10月9日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は志村喬。モノクロ、スタンダード、143分。東宝創立20周年記念映画。
黒澤作品の中でも、そのヒューマニズムが頂点に達したと評価される名作で、その題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判している。劇中で志村演じる主人公が「ゴンドラの唄」(吉井勇作詞、中山晋平作曲)を口ずさみながらブランコをこぐシーンは、名シーンとしてよく知られている。1950年代の黒澤作品の中では唯一、三船敏郎が出演していない作品でもある。第4回ベルリン国際映画祭でベルリン市政府特別賞を受賞した(日本では銀熊賞を受賞したとされることがあるが誤り)。第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位。昭和27年度芸術祭賞。

市役所で市民課長を務める渡辺勘治は、かつて持っていた仕事への熱情を忘れ去り、毎日書類の山を相手に黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識で縛られ、住民の陳情は市役所や市議会の中でたらい回しにされるなど、形式主義がはびこっていた。
ある日、渡辺は体調不良のため休暇を取り、医師の診察を受ける。医師から軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺は、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップショーなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる。
その翌日、渡辺は市役所を辞めて玩具会社の工場内作業員に転職していようとしていた部下の小田切とよと偶然に行き合う。何度か食事をともにし、一緒に時間を過ごすうちに渡辺は若い彼女の奔放な生き方、その生命力に惹かれる。自分が胃癌であることを渡辺がとよに伝えると、とよは自分が工場で作っている玩具を見せて「あなたも何か作ってみたら」といった。その言葉に心を動かされた渡辺は「まだできることがある」と気づき、次の日市役所に復帰する。
それから5か月が経ち、渡辺は死んだ。渡辺の通夜の席で、同僚たちが、役所に復帰したあとの渡辺の様子を語り始める。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。新公園の周辺に住む住民も焼香に訪れ、渡辺の遺影に泣いて感謝した。いたたまれなくなった助役など幹部たちが退出すると、市役所の同僚たちは実は常日頃から感じていた「お役所仕事」への疑問を吐き出し、口々に渡辺の功績をたたえ、これまでの自分たちが行なってきたやり方の批判を始めた。
通夜の翌日。市役所では、通夜の席で渡辺をたたえていた同僚たちが新しい課長の下、相変わらずの「お役所仕事」を続けている。しかし、渡辺の創った新しい公園は、子供たちの笑い声で溢れていた。  

 

●「七人の侍」  
1954年(昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。白黒、スタンダード、207分。
当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年)を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
黒澤が初めてマルチカム方式(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーンなど迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、シナリオ、綿密な時代考証などにより、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。
黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇映画から影響を受け、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。1960年にはアメリカで「荒野の七人 」としてリメイクされている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。

前半部と後半部の間に5分間の休憩があるインターミッションの上映形式。前半部では主に侍集めと戦の準備が、後半部では野武士との本格的な決戦が描かれるが、「侍集め」、「戦闘の準備(侍と百姓の交流)」、「野武士との戦い」が時間的にほぼ均等で、構成的には三部に分かれるという見方もできる。
前編
戦により行き場を失い盗賊と化した野武士(百姓たちは「野伏せり」と呼ぶ)たちが良民を脅かす戦国時代のある農村。麦が実ると同時に野武士たちが略奪に来る事を決めたことを知り、村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていた。前年も野武士の略奪に合っていたがゆえ、若い百姓の利吉は、野武士を皆突き殺すべきだと主張する。村人は怖気づき反対するが、長老は戦うことを選択し、侍を雇うことを思い立つ。
町に出た利吉、茂助、万造、与平の四人は侍を探すが、ことごとく断られ途方にくれる。そんな中、利吉達は僧に扮して盗人から子供を助け出し、礼も受けずに去ってゆく初老の浪人・勘兵衛の姿を目撃する。同じく騒ぎを見ていた得体の知れない浪人風の男が勘兵衛に絡んだり、若侍の勝四郎が勘兵衛に弟子入り志願したりする中、利吉は勘兵衛に野武士退治を頼みこむ。しかし勘兵衛は飯を食わせるだけでは無理だと一蹴、やるとしても、侍が7人必要だという。しかし、これまで百姓を馬鹿にしていた同宿の人足に、百姓の苦衷を分かっていながら行動しないことをなじられ、勘兵衛は引き受けることとする。勘兵衛の下に、勘兵衛の人柄に惹かれたという五郎兵衛、勘兵衛のかつての相棒七郎次、きさくなふざけ屋の平八、剣術に秀でた久蔵が集う。さらに利吉達の強い願いで、まだ子供だとして数に入ってなかった勝四郎も六人目として迎えられる。七人目をあきらめて村に出立しようとしたところに、例の得体の知れない浪人風の男が泥酔し現れ、盗んだ家系図を手に菊千代と名乗り、翌日村まで勝手について来る。
村に到着した侍たちに村人は怯え、姿を見せようとしないが、菊千代の型破りな行動でその警戒は解かれ、菊千代が7人目と認められる。勘兵衛たちは村の周囲を巡り、村の防御方法を考案する。百姓たちも戦いに加わるために組分けされ、個性的な侍たちの指導により鍛え上げられる。一方勝四郎は山の中で男装させられた万造の娘・志乃と出会い、互いに惹かれてゆく。ある日、この村の百姓が落ち武者狩りをしていたことが判明し、侍たちは憤るが、菊千代がそうさせたのは侍達だと百姓の出であることの分かる激怒を見せると、侍たちは怒りを収める。 そんな中、麦の刈り入れのあとは防衛線の外になってしまう離れ家は引き払ってほしいとの申し出を聞いた茂助は、自分たちの家だけを守ろうと結束を乱す。それに対し勘兵衛は抜刀して追いたて、村人に改めて戦の心構えを説く。
後編
麦の収穫が行われ、しばしの平和な時もつかの間、ついに物見(偵察)の野武士が現れる。物見を捕らえ、本拠のありかを聞き出した侍たちは、利吉の案内で野武士の本拠へと赴き、焼き討ちを行うが、野武士にさらわれた妻を火の中に追いかけんとした利吉を取り押さえようとした平八が野武士の銃弾に倒れる。皆が平八の死を悼む中、菊千代は平八が作り上げた旗を村の中心に高く掲げる。それと同時に野武士が来襲、戦いの幕が切って落とされる。
柵と堀によって野武士の侵入は防がれたものの、離れ家と長老儀作の水車小屋は、野武士に焼かれる。水車小屋から動こうとしない儀作を引き戻そうとした息子夫婦も野武士に殺されるが赤子だけは助かり、菊千代はそれを抱いて「こいつは俺だ」と号泣する。
その日の夜から朝にかけ、勘兵衛の地形を生かした作戦が奏を功し、野武士の頭数が順調に減ってゆく中、種子島(火縄銃)を分捕ってきた久蔵を「本当の侍」と評する勝四郎の言葉を聞いた菊千代は、抜け駆けして手柄を得ようと持ち場を離れる。その隙に戦法を変えて襲来した野武士によって与平を含む多くの村人が戦死し、侍も五郎兵衛を失う。
追い詰められた野武士との決戦前夜、勝四郎は志乃に誘われ初めて体を重ねる。その場を万造に見咎められるが、利吉は野武士にくれてやったのとは訳が違うと万造を一喝する。
翌朝、折からの豪雨の中、残る13騎の野武士をすべて村に入れての泥まみれの決戦が始まる。久蔵が小屋に潜んだ野武士の頭目に撃たれ、続いて菊千代も撃たれるが、頭目を相打ちで葬り、ついに野武士は全滅する。
初夏、田植えが歓喜の中で行われている。しかし、志乃は勝四郎を忘れようと田に入る。勘兵衛は、勝ったのは百姓たちであり自分たちではないとつぶやく。  

 

●「生きものの記録」  
1955年(昭和30年)11月22日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、スタンダード、113分。米ソの核軍備競争やビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件などで加熱した反核世相に触発されて、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた社会派ドラマ。当時35歳の三船が70歳の老人を演じたことが話題となった。また、作曲家・早坂文雄の最後の映画音楽作となった。第29回キネマ旬報ベスト・テン第4位。
黒澤の盟友である早坂文雄がビキニ環礁での水爆実験のニュースを見て、「こんな時代では、安心して仕事ができない」ともらし、これがきっかけで本作の製作が行われた。しかし、早坂は、本作の撮影中に結核で亡くなったため、名コンビだった黒澤と早坂が組んだ最後の作品となった。黒澤は、早坂の死にひどく悲しみ、撮影が1週間中断された。早坂は、タイトルバックなどのデッサンを残しており、弟子の佐藤勝がその遺志を継いで全体の音楽を完成させた。
「七人の侍」で採用した、複数のカメラで同時に撮影するマルチカム撮影法を本作で本格的に導入しており、3台のカメラを別々の角度から同時に撮影することで、俳優がカメラを意識せず自然な演技を引き出している。主人公の放火によって焼け落ちた工場のセットは、東宝撮影所内にある新築されたばかりの第8スタジオの前で組まれ、新築のスタジオの壁面を焼け跡に見立てて塗装したため、会社から大目玉をくらった。また、都電・大塚駅のセットは都電の先頭車両を含めて、本物そっくりに作られた。
主人公の中島喜一役には、初め志村喬を予定していたが、生活力が旺盛で動物的生命力の強い男というイメージから三船敏郎に決まり、彼が70歳の老人を演じた。志村は代わりに家庭裁判所参事の原田役でもう一人の主人公を演じたが、加齢のため本作を最後に主役級を退き、以後の黒澤作品では脇役及び悪役に転じていくこととなる。
題名についてクレジットには「丸岡明氏の好意による」とあるが、これは先に丸岡の同題の小説があり、丸岡がクレームを付けたためである。もっとも、題名は著作権保護の対象にはならないため、丸岡の抗議に法的根拠はない。また、丸岡の小説と本作とは内容的には何の関連性もなく、タイトルが同じというだけである。

歯科医の原田は、家庭裁判所の調停委員をしている。彼はある日、家族から出された中島喜一への準禁治産者申し立ての裁判を担当することになった。鋳物工場を経営する喜一は、原水爆の恐怖から逃れるためと称してブラジル移住を計画し、そのために全財産を投げ打とうとしていた。家族は、喜一の放射能に対する被害妄想を強く訴え、喜一を準禁治産者にしなければ生活が崩壊すると主張する。しかし、喜一は裁判を無視してブラジル移住を性急に進め、ブラジル移民の老人を連れて来て、家族の前で現地のフィルムを見せて唖然とさせる。
喜一の「死ぬのはやむを得ん、だが殺されるのは嫌だ」という言葉に心を動かされた原田は、彼に理解を示すも、結局は申し立てを認めるしかなかった。準禁治産者となった喜一は財産を自由に使えなくなり、計画は挫折。家族に手をついてブラジル行きを懇願した後に倒れる。夜半に意識を回復した喜一は工場に放火した。精神病院に収容された喜一を原田が見舞いに行くと、喜一は明るい顔をしていた。彼は地球を脱出して別の惑星に来たと思っていたのだった。病室の窓から太陽を見て喜一は、原田に「地球が燃えとる」と叫んだ。 

 

●「蜘蛛巣城」  
1957年(昭和32年)1月15日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、スタンダード、110分。シェイクスピアの戯曲「マクベス 」を日本の戦国時代に置き換えた作品。ラストに主人公の三船が無数の矢を浴びるシーンで知られる。原作の世界観に能の様式美を取り入れ、エキストラ人員とオープンセットは黒澤作品では随一の規模で製作された。第31回キネマ旬報ベスト・テン第4位。
シェイクスピアの四大悲劇の一つとして知られる「マクベス」を翻案した作品であるが、作品の構成、人物の表情・動き、撮影技法には能の様式美を取り入れている。黒澤は撮入前に、役作りの参考として鷲津武時役の三船敏郎に能面の「平太(へいだ)」を見せ、浅芽役の山田五十鈴には「曲見(しゃくみ)」を見せた。三船は謀反の際、山田は発狂の場面でそれぞれ「平太」と「曲見」の表情をしている。撮影も能の形式を生かし、フルショットを多用して全身の動作で感情を表現した。
巻頭の霧の中から城の現れるシーンは、ハリウッド映画「未知との遭遇」(1978年)で、第二次大戦中行方不明となった海軍機が砂嵐の中から姿を現すシーンや、宮崎駿の 「ハウルの動く城」冒頭の、霧の中から現れる「動く城」など、多くの映画のオープニングシーンに影響を与えたといわれる。

北の館(きたのたち)の主・藤巻の謀反を鎮圧した武将、鷲津武時と三木義明は、喜ぶ主君・都築国春に召し呼ばれ、蜘蛛巣城へ馬を走らせていたが、雷鳴の中、慣れているはずの「蜘蛛手の森」で道に迷い、奇妙な老婆と出会う。老婆は、武時はやがて北の館の主、そして蜘蛛巣城の城主になることを、義明は一の砦の大将となり、やがて子が蜘蛛巣城の城主になることを告げる。ふたりは一笑に付すが、主君が与えた褒賞は、武時を北の館の主に、義明を一の砦の大将に任ずるものであった。
武時から一部始終を聞いた妻・浅茅は、老婆の予言を国春が知れば、こちらが危ないと、謀反をそそのかし、武時の心は揺れ動く。折りしも、国春が、藤巻の謀反の黒幕、隣国の乾を討つために北の館へやって来る。その夜、浅茅は見張りの兵士たちを痺れ薬入りの酒で眠らせ、武時は、眠っている国春を殺す。主君殺しの濡れ衣をかけられた臣下・小田倉則安は国春の嫡男・国丸を擁し、蜘蛛巣城に至るが、蜘蛛巣城の留守をあずかっていた義明は開門せず、弓矢で攻撃してきたため、2人は逃亡する。
義明の強い推挙もあって、蜘蛛巣城の城主となった武時だったが、子がないために義明の嫡男・義照を養子に迎えようとする。だが浅茅はこれを拒み、加えて懐妊を告げたため、武時の心は又しても変わる。義明親子が姿を見せないまま養子縁組の宴が始まるが、その中で武時は、死装束に身を包んだ義明の幻を見て、抜刀して錯乱する。浅茅が客を引き上げさせると、ひとりの武者が、義明は殺害したものの、義照は取り逃がしたと報告する。
嵐の夜、浅茅は死産し、国安、則安、義照を擁した乾の軍勢が攻め込んできたという報が入る。無策の家臣たちに苛立った武時は、轟く雷鳴を聞いて森の老婆のことを思い出し、一人蜘蛛手の森へ馬を走らせる。現れた老婆は「蜘蛛手の森が城に寄せて来ぬ限り、お前様は戦に敗れることはない」と予言する。蜘蛛巣城を包囲され動揺する将兵に、武時は老婆の予言を語って聞かせ、士気を高めるが、野鳥の群れが城に飛び込むなど不穏な夜が明けた翌日、浅茅は発狂し、手を「血が取れぬ」と洗い続ける。そして寄せてくる蜘蛛手の森に恐慌をきたす兵士たち。持ち場に戻れと怒鳴る武時めがけて、味方達の中から無数の矢が放たれる。 

 

●「どん底」  
1957年(昭和32年)9月17日公開の日本映画である。製作・配給は東宝。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード、125分。マクシム・ゴーリキーの同名戯曲「どん底 」を翻案し、舞台を日本の江戸時代に置き換えて貧しい長屋に住むさまざまな人間の人生模様を描いた時代劇。黒澤映画の中では、三船敏郎が出演しながら志村喬が出演していない唯一の作品である。第31回キネマ旬報ベスト・テン第10位。昭和32年度芸術祭参加作品。

江戸の場末、崖に囲まれた陽の当たらない所に、傾きかけた棟割長屋がある。長屋には人生のどん底にいる人間たちが暮らしている。遊び人の喜三郎、殿様と呼ばれる御家人の成れの果て、桶屋の辰、飴売りのお滝、アル中の役者、年中叱言を言っている鋳掛屋の留吉、寝たきりのその女房、夢想にふける夜鷹のおせん、喧嘩っ早い泥棒の捨吉が住んでいた。この人たちは外見の惨めさに反して、自堕落で楽天的な雰囲気があった。
ある日、お遍路の嘉平が舞い込んでくる。嘉平は寝たきりの留吉の女房に来世の安らぎを説き、役者にはアル中を治す寺を教え、慈悲深いが暗い過去を持つ嘉平の言動に長屋の雰囲気も変わっていく。一方、捨吉は大家の女房・お杉と妹のかよと関係を結んでいたが、かよにぞっこんだった捨吉は、嘉平からここから逃げるように勧められるも、なかなか決心できずにいた。そんな捨吉の心変わりを知ったお杉は、かよを折檻、それで長屋の住民が駆け付けて騒動となる。逆上した捨吉は大家の六兵衛突き飛ばし、誤って殺してしまう。それを見たかよは、姉と捨吉が共謀して六兵衛を殺したと叫び、捨吉とお杉はお縄となる。その騒ぎの中で嘉平は姿を消した。
長屋はいつものように酒と博奕に明け暮れ、駕籠かきを加えて馬鹿囃子になる。そこへ殿さまが駈け込んでくる。役者が首を吊って死んだという。喜三郎は「せっかくの踊りをぶち壊しやがって」と吐き捨てる。 

 

●「隠し砦の三悪人」  
1958年(昭和33年)12月28日公開の日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎。モノクロ、東宝スコープ、139分。黒澤作品初のシネマスコープ作品。戦国時代を舞台に、敗国の侍大将が姫と軍用金を擁して敵国突破をする姿を描いた娯楽活劇。第32回キネマ旬報ベスト・テン第2位。
黒澤作品の中でも特に娯楽性の強い作品であり、ワイド画面を活かした迫力ある映像と、ふんだんに登場するアクションシーンで、ダイナミックに描かれた娯楽大作となった。作品の構想は、菊島隆三が甲府近くの城址から軍用に使われていた焼米が出てくる話を元にしており、そこから焼米が軍用金だったらどうなるかというアイデアが飛び出した。秋月の隠し砦の撮影は兵庫県西宮市の蓬莱峡で行われ、秋月城のセットは農場オープンと呼ばれた東宝撮影所の敷地内に建てられた。
1958年(昭和33年)5月に撮影が開始され、製作日数100日、製作費9000万円として、8月中の完成を予定していた。しかし、撮影後半では天候不良のため、富士山麓でのロケーション撮影は快晴を待ってロケ隊を3ヶ月も待機させた。それらの理由で撮影日数と予算が超過し、結果、撮影日数は200日かかり、製作費も1億5000万円にまで膨れ上がった。封切り前夜には、製作担当の藤本真澄がこの責任を取って進退伺いを提出するという騒動が起きている。その後、東宝は一連の予算的なリスクを負担してもらうために黒澤側にプロダクションの設立を要求することになる。
ヒロインの雪姫役には全国から4000人もの大勢の応募者が集まったが候補者は見つからず、全国の東宝系社員にも探させて、ようやく社員がスカウトした文化女子短期大学生の上原美佐が抜擢された。上原は素人であったため、撮影前に馬術と剣道を習い、撮影中はそのつど黒澤が演じてみせ、それに従って演じた。
劇中、火祭りの歌の歌詞は本作品の舞台である戦国時代をやや遡る室町時代の成立である「閑吟集」の「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」に由来する。この歌集に先行する類似の文句としては、室町幕府初代将軍足利尊氏の清水寺への請願文の書き出しとして有名な「この世は夢のごとくに候」がある。

百姓の太平と又七は、褒賞を夢見て山名と秋月の戦いに参加したが、何も出来ないまま、秋月の城は落ち、山名の捕虜になって焼け落ちた秋月城で埋蔵金探しの苦役をさせられる。夜、捕虜たちが暴動を起こし、それに紛れて二人は脱走する。2人は谷で、薪の中から秋月の紋章が刻まれた金の延べ棒を発見する。そこに屈強な男が現れる。
男は秋月家の侍大将・真壁六郎太で、落城後、大量の金を薪に仕込んで泉に隠し、秋月家の生き残り・雪姫、重臣らとともに、山中の隠し砦に身を潜めていた。秋月家再興のため、同盟国の早川領へ逃げ延びる方法を思案していた六郎太であったが、秋月領と早川領の国境は山名に固められている。しかし太平と又七が口にした、1度敵の山名領に入ってから早川領へ抜けるという脱出法を聞いてこれを実行に移すことと決める。六郎太について隠し砦に行った2人は、そこで女に出会う。六郎太はその女を「俺のものだ」と言うが、その女が雪姫だった。彼女の落とした櫛から姫だと目星をつけた又七は、恩賞欲しさに町へ出かけるが、姫は打ち首になったと聞く。しかし、それは雪姫の身代わりとなった妹の小冬だった。
六郎太は、気性の激しい雪姫の正体を百姓2人にも隠し通すために唖(おし)に仕立て、太平と又七を連れて早川領を目指す。最初の関所でさっそく一行は怪しまれるが、六郎太は隠している金を逆に見せて、番卒に突き出す。そして「褒美をくれ」と駄々をこねるうちに、関所を通される。夜、山名の城下町にある木賃宿に泊まり、人買いに売られた百姓娘を見た雪姫は、彼女を買い戻させ仲間に入れる。
道中、六郎太一行を怪しんだ騎馬武者に発見される。六郎太は武者を斬り捨てるうちに、かつての盟友にして宿敵である山名の侍大将・田所兵衛の陣に駆け込んでしまう。2人は槍で果たし合いをし、六郎太は兵衛を打ち負かす。又七と太平は、姫へ手を出そうとするが、姫と見抜いて恩義を感じている百姓娘に阻まれる。
一行は火祭りの準備のために薪を運んでいる群集にこれ幸いと紛れ込む。しかし不審な素振りの者がいればすぐに捕えろと監視の兵が配されていた。又七と太平は祭りの火に薪をくべることを拒むが、六郎太は「燃やせ燃やせ!、踊れ踊れ!」と燃やしてしまい、楽しそうに踊る姫に反して、二人は情けない顔で踊る。翌朝、灰の中から拾い上げた金を背負って一行は進むが、追手が迫り、又七と太平は逃亡してしまう。そして、早川領まであと一歩ということころで姫と六郎太と娘は山名に捕えられてしまう。峠の関所で捕らわれの身となった3人の前に兵衛が現れる。果たし合いの件で大殿に罵られ、弓杖で顔を打たれていた兵衛は六郎太を恨む。雪姫は「姫は楽しかった。潔く死にたい」と腹をくくり、六郎太も男泣きする。それに心動かされた兵衛は、処刑の日、「裏切り御免!」と姫と六郎太を解放し、自らも馬に乗って逃げる。
又七と太平は早川の城に呼び出され、殿中姿の姫と六郎太に再会。素性を明かされ、褒美として大判一枚を受け取り、2人は大判を譲り合って、仲良く家路につく。 

 

●「悪い奴ほどよく眠る」  
1960年(昭和35年)に公開された日本映画である。監督は黒澤明。父を殺した現代社会の機構の悪にいどむ男の物語。
黒澤が東宝より独立して創始した黒澤プロの初作品。東宝との共同制作だが、次回作「用心棒」以降は菊島隆三が黒澤プロ側のプロデューサー(東宝側は一貫して田中友幸が担当)として固定されるので、本作は黒澤の数少ない製作・監督兼任作品(他には 「どですかでん」「影武者」がある)となった。それだけに興業上の成功だけを狙った安易な作品ではなく、あえて難題を扱うという意志から、公団とゼネコンの汚職という題材を選んだと黒澤は語っている。また、次回作以降、黒澤は二人(以上)カメラマン分担体制を確立するので、単独カメラマンがクレジットされる映画はこれが最後である。岡本喜八作品などで知られ、これが唯一の黒澤作品となる逢沢譲が担当している。
冒頭、状況説明を登場人物の語りで行うのは(本作では結婚式の場に取材に来たベテラン新聞記者が他の記者たちに語る)、ギリシア悲劇のコーラス隊のコーラスを踏襲したもので、黒澤映画の常套手法であるが、それを結婚披露宴で行うのは、後に映画 「ゴッドファーザー」でも採用されている。
タイトルは、本当に悪い奴は表に自分が浮かび上がるようなことはしない。人の目の届かぬ所で、のうのうと枕を高くして寝ているとの意味であり、冒頭のみならず、ラストシーンでもタイトルが大きく出る。

土地開発公団の副総裁、岩淵の娘・佳子と、岩淵の秘書・西の結婚式が盛大に始まる。公団の課長補佐が汚職関与の疑惑で逮捕されたばかりで雰囲気はものものしい。のみならず運ばれてきた入刀用ケーキに場がざわめく。公団のビルをかたどったケーキの7階に赤いバラの花が刺さっている。それは5年前、公団の課長補佐・古谷が飛び降り自殺した窓だったからだ。
警察に拘引されていた公団の課長補佐・和田は、刑事の尋問に黙秘を通したのち、自殺しようと火山の火口に向かうが、それを阻止したのは西であった。西は和田を車に乗せ、和田自身の葬儀の様子を見せながら、テープレコーダーで隠し取った、和田の上司の守山と白井の会話を聞かせる。守山と白井は和田の自殺に安堵し嘲笑っている。西は彼らに復讐を企んでいることを語り、和田を仲間に引き入れる。
ある日、白井が金庫をあけると、現金の代わりに公団のビルの写真がはいっている。のみならず白井は深夜憔悴しての帰宅途中、暗がりに和田の姿を見る。白井は守山に和田が生きていると訴えるが相手にしてもらえない。白井は、客先にまで和田の件を喋り始めたため、殺し屋に狙われるはめになる。
その殺し屋から白井を救ったのは西であったが、西は白井を深夜の公団ビルの7階に連れて行き、5年前にここから飛び降りて自殺した古谷が自分の父親だと明かし、白井を殺そうとする。恐怖のため白井は発狂する。
さらに西は仲間の板倉と戦禍の廃墟に守山を拉致する。しかしその頃、西の正体が岩淵に露呈していた。西は、父を自殺に追い込んだ岩淵の懐に飛び込むため、板倉と戸籍の交換をし、その娘、佳子と結婚したのだ。しかし佳子を愛していた。同情する和田により、廃墟に連れて来られた佳子は、西から父親の犯罪を知らされる。佳子の体には触れていなかった西だが、その日初めて佳子を抱擁する。
しかし佳子が兄の辰夫と廃墟へ再び来て見ると、板倉がひとり嗚咽している。西が車の事故に見せかけて殺されたのだった。岩淵に西の所在を尋ねられた佳子はこの場所を岩淵に教えてしまったのだ。ショックで自失した佳子を抱いて、辰夫は、岩淵に親子の縁を切ると告げ、家を去る。しかし謎の人物から電話で、一時外遊をして、ほとぼりが冷めるのを待てと指示された岩淵は、安堵し、そんな時間ではないのに「お休みなさいませ」と返事をする。 

 

●「用心棒」  
1961年(昭和36年)に公開された、日本のアクション時代劇映画である。監督は黒澤明。続編といわれる作品として、「椿三十郎」(1962年公開)がある。
「この映画(続編的存在の椿三十郎も)の最大の魅力は殺陣のシーンではなく、主人公の三十郎の特異なキャラクター設定にある」と黒澤本人は主張している。
それまでの時代劇の殺陣は、東映作品に象徴されるような従来の舞台殺陣の延長にあった。いわゆる「チャンバラ映画」である。黒澤は、そうした現実の格闘ではあり得ない舞踊的表現を排除したリアルな殺陣の表現を探っていた(「羅生門」、「七人の侍」、脚本を書いた「荒木又右ヱ門 決闘鍵屋の辻」)。それは 「用心棒」でひとつの完成形を見せ、当時の人々を驚かせた。本作の殺陣の特徴は、桑畑三十郎は相手を斬る際、必ず1人につき2度斬っていることである。「1度斬ったぐらいでは、すぐには死なないだろう」という黒澤と三船の考えにより完成した殺陣であるとのこと。一方で、仲代達矢演じる新田の卯之助に、スコットランド製のスカーフを巻かせるなど、時代考証よりも登場人物の造形を優先させた演出も見受けられる。なお卯之助の持つ回転拳銃はスミス&ウェッソン モデルNo.1で、1857年から製造されたことから、幕末であれば時代が合う。劇中では空砲を装填した実銃が用いられた。
本作では「七人の侍」以来多用していた望遠レンズの効果が遺憾なく発揮され、殺陣をより効果的に見せており、油の乗り切った時期の黒澤の表現技法が見事に結実していると言える。なお、撮影については無論、宮川一夫の存在が大きいが、マルチカム方式(複数のキャメラによる同時撮影)で撮影されている本作品ではクレジットされていないものの、斉藤孝雄の貢献も無視できない(完成作品には、斉藤の撮影分の方が多く使用されている)。
本作が、ダシール・ハメットのハードボイルド・アクション小説の影響が大きいことは黒澤本人が「用心棒は「血の収穫」(赤い収穫)ですよね?」という問いに「血の収穫だけじゃなくて、本当はクレジットにきちんと名前を出さないといけないぐらいハメット(のアイデア)を使っている」と認めていることからも確かである。
なお、「ある町にふらりと現れた主人公が、そこで対立する2つの組織に近づいて双方を欺き、最後には全滅させて去っていく」という、本作のようなアウトラインは、多少の違いはあるものの他の東宝映画にも見受けられる。例としては本作の前年に公開されたギャング・アクション映画「暗黒街の対決」(1960年 岡本喜八監督)や、本作の9年後に公開された任侠パロディ映画「日本一のヤクザ男」(1970年 古澤憲吾監督)などが挙げられる。
今ではよく見られる演出だが、侍同士の対決シーンで、すれ違いざま刀を振り下ろし、いったん静止して片方が倒れて死ぬという描写や、効果音として刀の斬殺音を使用したのは、本作が最初である。ただ、本作では最初の試みということもあって、音量は「椿三十郎」よりは控えめである。
劇中の斬り落とされた手首は、俳優としても出演している大橋史典が造形した。あまりのリアルさに、黒澤はそばに寄ろうともしなかったという。うしおそうじによれば、大橋は本作の撮影風景を8mmフィルムに収めており、見せてもらったことがあるという。
劇中のつむじ風は、電動の風洞で起こす大がかりなものだった。宿場町の野外セットは、撮影所そばの広大な畑をつぶして建てたもの。ちょうど農閑期だったので、春の種付けまで借りられたのである。続編 「椿三十郎」でも、再びこの畑を借りて野外セットを組んでいる。

空っ風の吹くある宿場町に、ひとりの風来坊の浪人が現れる。郊外の養蚕農家は困窮し、町の通りには人影がなく、犬が人間の手首をくわえて通り過ぎる。誰か出てきたかと思うとならず者の集団で、浪人はからまれるが相手にせず、閉め切られた一杯飯屋の戸を叩き、一食を乞う。金を持たない浪人はこの町でひと暴れして借りを返すというが、飯屋の権爺は驚きあわて、この町は清兵衛と、かつて清兵衛の一の子分だった丑寅の二人の親分が対立抗争しており、町の産業である絹の売買もままならず、儲かっているのは隣の棺桶屋だけなのだと浪人に告げる。すぐ町を出るように諭された浪人は逆に腰を据えると言い出し、先ほどのならず者(丑寅の子分)を三人瞬時に斬ってみせ、清兵衛に自分を用心棒として売り込む。清兵衛は、庭の外の桑畑を見やりながら桑畑三十郎と名乗ったその凄腕の浪人を擁して、即座に丑寅へ殴りこみをかけようとする。しかし、ことが終われば自分を斬って報酬も取り戻すという清兵衛親子の企みを盗み聞きしていた三十郎は金を投げ返し、用心棒を喧嘩寸前で降りてしまう。引っ込みがつかなくなった清兵衛と丑寅の子分たちは衝突寸前となるが、八洲廻りの役人が来るとの知らせが届き、喧嘩は中止。両勢力をぶつけあって一掃しようとした三十郎の最初の目論見ははずれ、町の家々は役人が滞在する間、何事もなかったかのように装うのだった。
やがて清兵衛と丑寅のあいだで、権爺の飯屋に居座る三十郎の奪い合いが始まる。そんな折、丑寅の末弟で切れ者の卯之助が舶来の連発拳銃を懐に帰郷し、清兵衛の息子を人質に取るが、清兵衛の方は丑寅の後見人である酒問屋の徳右衛門の情婦を人質に取る。人質の交換が行われた際、その女が実は小平という百姓の女房で、徳右衛門が強引に奪ったものだと知った三十郎は、自ら進んで丑寅の用心棒となった。三十郎は女の監禁先へ加勢に行くとの口実で、単身乗り込むと見張りたちを斬り殺し、彼女を小平とその息子ともども逃がしてやり、駆け付けた丑寅には清兵衛たちの犯行だろうと告げる。しかし卯之助に三十郎の仕業ではないかと疑われ、小平から届いた礼状が見付かってしまい、監禁された三十郎は半殺しの目にあう。なんとか命からがら脱出した三十郎は権爺と棺桶屋に助けられ、町のはずれのお堂にかくまわれる。その間に丑寅は清兵衛一派に火攻めをかけて皆殺しにし、ついに抗争に勝利する。その後、権爺は三十郎に食事と薬を持っていこうとするところを丑寅たちに見つかり、縛り上げられる。それを知った三十郎は、出刃包丁を懐に、丑寅一派に殴り込みをかけんと、ひとり風の渦巻く町の通りに戻って来る。 
 

 

●「椿三十郎」  
1962年(昭和37年)1月1日に東宝が封切り公開した日本映画(時代劇)である。監督は黒澤明。白黒、東宝スコープ、96分。前年に公開された映画 「用心棒」の続編的作品とされる。
東宝の正月映画だが、完成が遅れ元日の封切りとなっている(通常正月興行は年末から)。この作品は元々、かつて黒澤組のチーフ助監督であった堀川弘通の監督作品として黒澤が執筆した、山本周五郎原作の 「日日平安」の脚本がベースになっている。「日日平安」は原作に比較的忠実に、気弱で腕もない主人公による殺陣のない時代劇としてシナリオ化されたが、東宝側が難色を示したため、この企画は実現しなかった。その後、 「用心棒」の興行的成功から、「「用心棒」の続編製作を」と東宝から依頼された黒澤は、陽の目を見ずに眠っていた「日日平安」のシナリオを大幅に改変し、主役を腕の立つ三十郎に置き換えて 「椿三十郎」としてシナリオ化した(共同執筆は小国英雄と菊島隆三)。なお、黒澤は「日日平安」の主役には小林桂樹かフランキー堺を想定しており、「椿三十郎」で小林が演じた侍の人物像には 「日日平安」の主人公のイメージが残っている。
ラストの三船と仲代の決闘シーンで、ポンプを使う手法で斬られた仲代の身体から血が噴き出すという特殊効果が用いられた。この手法自体はすでに「用心棒」で使われていたが、夜間シーンで画面が暗いことと出血の量が少なかったために 「用心棒」では目立たなかった。今回ピーカンで撮った「椿三十郎」での印象があまりにも強かったため、殺陣において最初にこの手法を採用した映画は「椿三十郎」だと一般に誤解されるきっかけとなった。とはいえ、血飛沫が噴き出す表現が、この映画以降の殺陣やアクションシーン等で盛んに模倣されるようになったのは事実である。他にも三十郎が、わずか40秒で30人を叩き斬るシーンなど殺陣の見所が多い。
本作はキネマ旬報ベスト・テン第5位にランクインされた。また、1999年にキネマ旬報社が発表した「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編」では82位にランクインされた(同じ順位に黒澤の 「影武者」・「酔いどれ天使」、「お葬式」など)。1995年にイギリスのBBCが発表した「21世紀に残したい映画100本」には「西鶴一代女」(溝口健二監督、1952年)、 「東京物語」(小津安二郎監督、1953年)、「乱」(黒澤監督、1985年)、「ソナチネ」(北野武監督、1993年)とともに選出された。
エピソード
黒澤明監督は、本作に登場する九人の若侍たちを時代劇ではなく現代の若者そのままで演らせたがり、本読みの段階でも本番さながらにカツラを着けメイクをし、衣装を着させてこれを行わせた。撮影に際しては、抜刀の場面がほとんどないにも拘らず真剣を帯びさせたため、撮影中に刀で自分の手を切った者もいた。
また、本読み後はそのままの姿で撮影所内をジョギングさせ、最後に小道具係の作った藁人形に向かって抜刀して走り、これを斬り倒させ、これを連日繰り返させた。この光景を見た他の組の連中からは「九人の馬鹿侍」などとひやかされたという。
オープンセットで若侍四人が敵の捕虜になる場面では、後ろ手に縛られたまま忘れられて長時間放置され、騒いでやっと縄を解いてもらった。土屋嘉男が「こりゃあ監督のおごりでチャーシュウメンの一杯も食わせてもらわにゃなあ」とぼやくと、しばらくして本当にチャーシュウメンの出前が来た。空腹を抱えた他の俳優全員、中でも「チャーシュウメンが大好きで、年がら年中昼飯がチャーシュウメン」という三船敏郎が凝視する中、四人は居直ってこれをたいらげた。翌日、黒澤監督は土屋に「昨日三船に怒られちゃったよ、若侍を甘やかしすぎですって」と告げたという。
また、一方で切られ役の二十数名が、2月の寒い中血糊をかぶったまま横たわっているのを知りながら、夜食にラーメンを食べていた加山雄三や田中邦衛ら若手侍役を、次の撮影の殴るシーンのときに本気で殴ったという。自分たちだけが暖かい思いをするなということで叱っている。
撮影が終わると、黒澤監督はお気に入りの役者だけを集めて夕食を採ったが、食後はいつも必ず「聖者の行進」と「かっこうワルツ」を合唱させられるので、全員これに飽きてしまった。ある晩、監督が便所に立った隙に大方が逃げてしまい、土屋と田中邦衛と新人三人だけが捕まって、部屋で別れの芝居の練習を命じられた。三人は部屋で練習するうち監督の物真似大会となってしまい、これを監督本人に見られて怒らせてしまった。翌日のロケでも黒澤監督は不機嫌なままで、黒澤映画初出演の田中は「これでもうこれっきりになっちゃった」と落ち込んでいたという。
ラストの三十郎と半兵衛の決闘では、斬られた半兵衛がポンプ仕掛けで血飛沫を飛ばすが、最初のカットでは「血の噴水」が遅れてNGとなり、一同大爆笑となった。二度目のテイクでOKとなったが、この血飛沫は公開後、「はたしてあそこまで血が噴出するものか」と、観客の間で医者まで巻き込む大論争となった。土屋もこの場面については、「ちょっと、血が出過ぎたみたい……」と感想を述べている。
本作では三十郎が30人の相手を次々と斬り倒す場面があるが、これは前作「用心棒」の「7人」よりさらに殺陣をエスカレートさせたもので、この「瞬時に、何秒間に何人」という指示は黒澤監督から直接、殺陣担当の久世竜に出たものだった。久世は「そうでないと話がこわれてしまうから、という命令なんです」とこのときの様子を語っている。望遠レンズで撮るため、実際には30人のところを40人斬らなければリアルさが出ず、久世の苦労は並大抵のものではなかった。
黒澤明監督は昭和29年の「七人の侍」を皮切りに時代劇にリアルさを求めていた。前年の「用心棒」、そして本作ではリアル志向がさらに強まり、立ち廻りの場面で、刀がぶつかり肉が斬れる激しい効果音、飛び散る血飛沫が描かれた。こういったリアルな描写は、敗戦までは日本当局によって、そして戦後はGHQによって禁止され、検閲でカットされてきたものであり(→日本における検閲)、黒澤がこれを描いて以後、黒澤の手法を真似たチャンバラ映画が続出することとなった。
ところが、「椿三十郎」以降の日本の時代劇映画で黒澤の手法を用いた描写が流行してしまったため、一時は欧州の新聞が映画祭のルポで、「日本の時代劇のヘモグロビンの噴射は、もうたくさんだ!」などとして悪口を書きたて、この種の時代劇作品が「ヘモグロビン噴射剤」などと皮肉を込めて呼ばれることとなってしまった。これに黒澤監督は強い罪悪感を抱き、「人を斬る音と、血の噴出を日本の時代劇で流行させてしまった本家本元は、自分だ」と言って、本作 「椿三十郎」の後、黒澤監督は派手な殺陣をみせる豪快なチャンバラ映画を作らなくなってしまった。「赤ひげ」での乱闘は武道を使った素手によるもので、これは黒澤の反省の表れだった。
作品の象徴である「赤いツバキ」はスタッフがモノクロの画面の中で、どんな色にしたら本当に赤であるように見えるか、と研究した結果、赤いものより黒く塗ったもののほうがモノクロの映像では赤であるかのように見えたため、撮影現場で黒く塗ったものである。また、モノクロの中で赤い椿だけカラーで写す構想があったが、技術的問題で実現しなかった。しかし、翌年の 「天国と地獄」で煙突から桃色の煙が出るシーンでその念願を叶えた。

真夜中の森の中。古びた社殿の格子窓の中明かりが灯り、中では一団の若侍たちが人目を避けて密談をしている。リーダー格の若者が「次席家老の汚職を城代家老の睦田に告げたが、意見書を破られ、相手にされなかった」と報告し、失望の色を浮かべる仲間たち。だが「大目付の菊井様に話してみると、 「共に立とう」と答えてくれた」と続けると、一転して場は喜びに沸く。この脳天気に気勢を上げる若者たちの前に、奥の部屋からアクビをしながら流れ者の浪人(三船敏郎)が現れる。謀議を聞かれたと緊張する一同に、この男は「岡目八目、菊井の方こそ危ない」と言い放つ。彼の判断通り、実は悪家老の仲間だった菊井の手勢が社殿が取り囲むが、この浪人の機転で、若者たちは虎口を脱する。自分たちの甘さを後悔する一同だが、あくまで信念を曲げず、命がけで巨悪にたち向かおうとする。
愚直な若侍たちに、一旦は匙を投げた浪人だが「死ぬも生きるも我々九人」の悲壮な声を聞くと、思わず「十人だっ。お前たちのやることは危なくて見ちゃいられねえ」と怒鳴りつけ、一緒に城下へ乗り込む。しかし一枚上手の悪党たちは、すでに藩政を掌握し世論を味方につけてしまっていた。悪党一派の手から救出した城代家老の奥方と娘によると、ご本尊の城代は、敵の人質になっているという。浪人と若者たちに助けてもらった睦田夫人は、お礼を述べた上で、容赦なく人を斬るこの風来坊の心に、人間同士が作る社会への希望が無いことをたしなめ、希望を持てば必ずよい結果になると優しく語りかける。眩しそうに目を逸らしていた男だが、改めて夫人から名前を聞かれると困った様子になり、「私の名前ですか。…つばき、椿三十郎。いや、もうそろそろ四十郎ですが」と冗談とも本気ともつかない返事で外の空を見上げている。つられて奥方、娘、若者たちも彼の視線をたどると、塀越しに隣の黒藤屋敷の庭で真っ赤な椿が咲いていた。
その後、城代が隣の黒藤屋敷に捕らわれていると判明。三十郎は、城代救出の決起の合図を「椿の花」と打ち合わせ、菊井側についたと見せかけて菊井の手勢を町外れへ陽動する。そして待ち構える若侍の眼前の庭の引き水に、ついに隣の黒藤邸で三十郎が泉に投げ込んだ椿の花が流れてきた。これを見て、一気呵成に城代家老救出へ向かう若侍たち。こうして、三十郎の手助けを受けながら、若侍たちは家老の陰謀を見事転覆させるのだった。
一件落着の後、三十郎は誰にも告げずに去ってしまう。後を追った若侍たちは郊外で彼を見付けるが、そこへ菊井の懐刀だった室戸が現れるのだった。 

 

●「天国と地獄」  
1963年(昭和38年)に公開された日本映画である。監督は黒澤明。毎日映画コンクール・日本映画賞などを受賞した。
1961年に「用心棒」、「椿三十郎」と娯楽時代劇を世に送り、次回作には現代劇を構想していた黒澤が、たまたま読んだというエド・マクベインの小説「キングの身代金 」(1959年、「87分署シリーズ」の1つ)に触発され、映画化した作品である。映画化の動機は2点あり、「徹底的に細部にこだわった推理映画を作ってみよう」ということと「当時の誘拐罪に対する刑の軽さ」(未成年者略取誘拐罪で3ヶ月以上5年以下の懲役〈刑法第224条〉、営利略取誘拐罪で1年以上10年以下の懲役〈刑法第225条〉)に対する憤り」(劇場公開時のパンフレットでも誘拐行為を批判している)だという。
映画は興行的には成功を収めたものの、公開の翌4月には都内を中心に誘拐事件が多発した。映画の公開は中止されなかったが、国会でも問題として取り上げられ、1964年の刑法一部改正(「身代金目的の略取(無期または3年以上の懲役)」を追加)のきっかけになったという。

ある日、製靴会社「ナショナル・シューズ」社の常務・権藤金吾の元に、「子供を攫った」という男からの電話が入る。そこに息子の純が現れ、いたずらと思っていると住み込み運転手である青木の息子・進一がいない。誘拐犯は子供を間違えたのだが、そのまま身代金3000万円を権藤に要求する。
デパートの配送員に扮した刑事たちが到着する。妻や青木は身代金の支払いを権藤に懇願するが、権藤にはそれができない事情があった。権藤は密かに自社株を買占め、近く開かれる株主総会で経営の実権を手に入れようと計画を進めていた。翌日までに大阪へ5000万円送金しなければ必要としている株が揃わず、地位も財産も、すべて失うことになる。権藤は誘拐犯の要求を無視しようとするが、その逡巡を見透かした秘書に裏切られたため、一転、身代金を払うことを決意する。
権藤は3000万円を入れた鞄を持って、犯人が指定した特急こだまに乗り込む。が、同乗した刑事が見たところ車内に子供はいない。すると電話がかかり、犯人から「酒匂川の鉄橋が過ぎたところで、身代金が入ったカバンを窓から投げ落とせ」と指示される。特急の窓は開かないと刑事が驚くも、洗面所の窓が、犯人の指定した鞄の厚み7センチだけ開くのだった。権藤は指示に従い、その後進一は無事に解放されたものの、身代金は奪われ犯人も逃走してしまう。
戸倉警部率いる捜査陣は、進一の証言や目撃情報、電話の録音などを頼りに捜査を進め、進一が捕らわれていた犯人のアジトを見つけ出すが、そこにいた共犯と思しき男女はすでにヘロイン中毒で死亡していた。これを主犯による口封じと推理した戸倉は、新聞記者に協力を頼み共犯者の死を伏せ、身代金として番号を控えていた札が市場で見つかったという嘘の情報を流す。新聞記事を見た主犯は身代金受渡し用のかばんを焼却処分するが、カバンは燃やすと牡丹色の煙が発する仕掛けが施されており、捜査陣はそこから主犯が権藤邸の近所の下宿に住むインターンの竹内銀次郎という男であることを突き止める。
竹内の犯罪に憤る戸倉は、確実に死刑にするためにあえて竹内を泳がせる。竹内は横浜の麻薬中毒者の巣窟で、純度の高い麻薬使用によるショック死の効果を実験したのち、生きていると思った共犯者を殺しに来たところを逮捕される。
後日、竹内の死刑が確定。権藤は竹内の希望により面会する。最初こそ不敵な笑みを浮かべながら語る竹内だったが、権藤邸が天国、自分が地獄にいたという嫉妬を語ったのち、突然金網に掴みかかり、絶叫する。竹内は刑務官に取り押さえられ、2人の間にシャッターが下ろされる。 

 

●「赤ひげ」  
1965年(昭和40年)4月3日に東宝が封切り公開した日本映画である。監督は黒澤明。「姿三四郎」以来24本目の作品。185分、白黒、東宝スコープ作品。
原作は山本周五郎「赤ひげ診療譚」(新潮社ほか)。前半はほぼ原作通りであるが、後半はドストエフスキーの「虐げられた人びと」を取り入れて構築されている。江戸時代後期の享保の改革で徳川幕府が設立した小石川養生所を舞台に、文政年間の頃にそこに集まった貧しく病む者とそこで懸命に治療する医者との交流を描く。決して社会に対する怒りを忘れない老医師の赤ひげと、長崎帰りの蘭学医である若い医師との師弟の物語を通して、成長していく若い医師と貧しい暮らしの中で生きる人々の温かい人間愛を謳いあげた映画である。
黒澤明監督は「日本映画の危機が叫ばれているが、それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にはない。私は、この「赤ひげ」という作品の中にスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」という熱意で、当時のどの日本映画よりも長い2年の歳月をかけて映画化した。完成した作品を観た山本周五郎をして「原作よりいい」と言わしめ、興行も大ヒットを収めた。
黒澤ヒューマニズム映画の頂点ともいえる名作とされ、国内のみならず、海外でもヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞などを受賞した。主演の三船敏郎も同映画祭で最優秀男優賞を受賞したが、同時にこれが黒澤映画における最後の「白黒映画作品」「三船出演作品」「泥臭いヒューマニズム作品」となった。翌1966年(昭和41年)、黒澤は東宝との専属契約を解除し、海外の製作資本へと目を向けることになる。
題名は「赤ひげ」であり、三船が主演であるが、ストーリーは加山雄三が演じる保本登を中心に進行していて、三船の台詞は少ない。物語の最初が小石川養生所に入る保本の後姿であり、ラストも赤ひげに随って小石川養生所に入って行く保本の後姿である。

主人公の青年、保本登(加山雄三)が小石川養生所へ続く坂を上り、養生所の門をくぐっていく後姿の場面から映画が始まる。
登は3年間の長崎への留学を終えて、幕府の御番医になる希望に燃えて江戸に戻って来た。オランダ医学を修め、戻れば父の友人である天野源伯が推薦し、幕府の医療機関への出仕と源伯の娘で許嫁のちぐさ(藤山陽子)と結婚するはずであった。しかし、ちぐさは登の遊学中に他の男と恋仲になり、子供まで生んでいた。そして幕府の医療機関として配置されたのは小石川の施療所であった。自分の知らない間に養生所の医師として働くように段取りがつけられていた。納得できない登だが、幕府からの辞令であるため何も出来ず、小石川養生所の所長で通称・赤ひげと呼ばれている新出去定(にいできょじょう:三船敏郎)に会うために養生所を訪れた。江戸に帰れば御目見医の席が与えられるはずであると思っていたが、しかしその門の前に来た時に、まさかこんな処へ自分が押し込められるはずがないと彼は思った。初めて会った時に、赤ひげは鋭い眼つきでじっと見つめ、決めつけるように登に言った。「お前は今日から見習いとしてここに詰める」。この日から医員見習いとして養生所に住み込んだ。登は全く不服で、酒を飲み、御仕着も着ず、出世を閉ざされた怒りをぶちまけて赤ひげの手を焼かせるのであった。
登は養生所内の薬草園の中の座敷牢に隔離されている美しく若い女(香川京子)を見た。店子を三人も刺し殺したというがぞっとするほど美しい女であった。赤ひげが不在中の夜に、この女が登の部屋に忍び込んでくる。何人もの男を殺した娘と知りながら、喩えようもない美しさに惑わされ隙を見せた時に、知らない間にこの女が袖を回して気がつくと着物の袖で羽交い絞めにされて殺されかけたところを間一髪で赤ひげに救われる。怪我を負った登を赤ひげは叱らず「恥じることはないが、懲りるだけは懲りろ」と治療に専念する。そして女人の手術に立ち会い、まだ麻酔が無い時代での開腹手術で手足を固定されて、泣き叫び、血が飛び、腸が出てくる余りの凄まじさに失神した。
危篤状態の蒔絵師の六助(藤原釜足)の病状を診て、病歴から胃癌であると登が言うとオランダ医学の専門用語「大機里爾」という言葉を使って赤ひげは「違うぞ。この用語はお前の筆記にもちゃんと使っているぞ」と言われて、登はぐうの音も言えず、自分の不甲斐なさを知る。そして医術といってもあらゆる病気を治すことは出来ず、その医術の不足を補うのは貧困と無知に対する闘いであると赤ひげは諭し、そして「病気の影には、いつも人間の恐ろしい不幸が隠れている」と語る。六助が死んで、娘おくに(根岸明美)から六助の不幸な過去を聞いて登は、改めてその死に顔を見ながら不幸を黙々と耐え抜いた人間の尊さを知り、醜いと感じた自分を恥じた。むじな長屋で死んだ車大工の佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)の悲しい恋の物語を佐八の死の床で聴いて胸に迫るものを感じていた。
登は、御仕着を着るようになり、そして赤ひげの往診に同行するようになった。やがて松平壱岐守(千葉信男)から五十両、両替屋の和泉屋徳兵衛(志村喬)から三十両と実力者から法外な治療代を受け取る赤ひげに驚くが、裏長屋にすむ最下層の人間たちの治療費に充てる赤ひげは、社会が貧困や無知といった矛盾を生み、人間の命や幸福を奪っていく現実に怒り、貧困と無知さえ何とか出来れば病気の大半は起こらずにすむと語った。そして岡場所で用心棒を赤ひげが撃退して12歳のおとよ(二木てるみ)を救い出した。赤ひげは、この娘は身も心も病んでいるからお前の最初の患者として癒してみろ、と彼女を登に預ける。恐ろしく疑い深く、また変に高慢で他人を寄せ付けない娘であった。
許嫁のちぐさに裏切られるなど心の傷を負っていた登だが、人を憎むことしか出来ず、すねてばかりいるおとよの中に、かつてのいじけた自分を見るような気がしていた。登はおとよを自室で昼夜もいとわず看病を続けた。やがておとよは次第に心を開いていき、登が高熱で倒れた時には枕元で看病するのであった。その後おとよは、あるきっかけから長次(頭師佳孝)という男の子と知り合う。貧しくその日の食う物にも事欠く長次のために、自分の食事を減らしてまで分け与えるまでに心は優しくなっていった。だがある日養生所に長次の一家が鼠取りを食べて担ぎ込まれてきた。貧しいゆえの所業であったが助かる見込みは無かった。おとよは、この地に伝わる井戸の中にその人の名を呼べば呼び戻せる言い伝えを信じて、必死で井戸の中に向かって長次の名を呼ぶのであった。
登はもはやかつての不平不満ばかりを並べる人間ではなかった。今は裏切ったちぐさを快く許せるまでに成長していた。そしてちぐさの妹であるまさえ(内藤洋子)と夫婦になることとなり、その内祝言の席で、天野源白の推薦で幕府のお目見得医に決まっていたが、小石川養生所で勤務を続けたいとまさえに言い、彼女の気持ちを確かめる。
登は赤ひげと小石川養生所へ続く坂を上りながら、自身の決意を伝える。赤ひげは自分が決して尊敬されるべき人物でなく、無力な医師でしかないと語り、登の養生所に掛ける情熱に対して反対するが諦めないので、最後に赤ひげは登に「お前は必ず後悔する」と忠告する。登は「試してみましょう」と答える。赤ひげは登に背を向けて小石川養生所の門をくぐっていく。登はその後を追っかけて行く。その上の大きな門はちょうど、二人の人間がしっかりと手をつないでいるかのようにも見えて未来を暗示している。最初に来た時はこんな処へ押し込められるのかと思った登には、この時には素晴らしい門だと思った。 

 

●「どですかでん」  
1970年(昭和45年)10月31日公開の日本映画である。四騎の会・東宝製作、東宝配給。監督は黒澤明。カラー、スタンダード、126分。
山本周五郎の小説「季節のない街」を原作とし、貧しくも精一杯生きる小市民の日常を明るいタッチで描いている。黒澤映画初のカラー作品で、黒澤が木下惠介・市川崑・小林正樹と結成した四騎の会の第1作である。第44回キネマ旬報ベスト・テン第3位。昭和45年度芸術祭優秀賞。

とある郊外の街の貧しい地域。六ちゃんと呼ばれる少年は、学校にも行かず毎日近所の空き地に出かけては、他人には見えない電車を運転し、その電車の音を「どてすかでん」という擬音で表現している。当人は自分が運転手だと本気で信じ込んでいるようで、それを母親は、息子が精神に異常をきたしたと思い嘆くが、六ちゃんは母親の頭のほうがおかしいと考えている。
内職職人の良太郎は、妻が浮気性なため子供をたくさん背負っているが、自分をほんとうの父ちゃんだと子供たちが思えばそれでよいと考えている。日雇い労働者の河口と増田は夫婦交換をして、翌日には何食わぬ顔をして元の家に戻っている。陰気な平さんの所にはある女が訪ねて来るが、この女と平さんとは過去に何かがあった様子。女は平さんの家事手伝いをするが、彼は終始無視していた。廃車に住む乞食の親子は邸宅を建てる夢想話をしているが、子供はしめ鯖にあたって急死する。穏やかな性格で顔面神経症の島さんには無愛想な妻がいるが、妻を愛しており、同僚に妻の文句を言われると激怒する。彫金師のたんばさんは人生の達人といえる人物で、日本刀を振り回す男を鎮めたり、家に押し入った泥棒に金を恵んだりする。アル中の京太は家事手伝いの姪を犯して妊娠させ、姪はショックで恋人の酒屋の店員を刺してしまう。
ここに暮らす人たちは、変わった人ばかりである。六ちゃんはその中で電車を走らせ、日は暮れてゆく。 

 

●「デルス・ウザーラ」  
1975年公開の黒澤明監督によるソ連・日本の合作映画である。
この映画は1902年から10年のシベリア沿海地方シホテ・アリン地方を舞台にしており、1923年に同タイトル「デルス・ウザラ」で出版されたロシア人探検家ウラディミール・アルセーニエフによる探検記録に基づいている。
「原始的であるはず」のデルス・ウザーラの生き方は、結果的に「文明化された」ロシア人に、人生の意味などの興味深いことを数多く、シンプルかつ的確に示唆した。

ロシア人探検家(作者)のアルセーニエフは、当時ロシアにとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図製作の命を政府から受け、探検隊を率いることとなった。先住民ゴリド(現ロシア名:ナナイ)族の猟師デルス・ウザーラが、ガイドとして彼らに同行することになる。シベリアの広大な風景を背景に、2人の交流を描く。 

 

●「影武者」  
1980年(昭和55年)に公開された日本映画。監督は黒澤明。カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。
黒澤作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編で、戦国時代に小泥棒が戦国武将・武田信玄の影武者として生きる運命を背負わされた悲喜劇を描く。
製作は黒澤以外に名プロデューサー・田中友幸が務め、外国版プロデューサーには、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスらが名を連ねた。また、黒澤とは助監督時代からの盟友である本多猪四郎が、監督部チーフとして製作に加わっている。当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録し、1983年に蔵原惟繕監督の 「南極物語」に抜かれるまで破られなかった。

天正元年、その勇猛を恐れられる武田信玄とその軍勢は、東三河で野田城を攻め落とそうとしていたが、ある夜、信玄は城内から狙撃され、上洛の野望叶わずして死す。自己の死は秘匿し、幼い嫡孫(竹丸)が成長するまで3年は動かずに領地を固めてほしい、との遺言を託された信玄の弟武田信廉と重臣らは、信玄の死を内部にも明かさず、死刑寸前のところを信廉が拾ってきた、信玄に瓜二つの盗人を、信玄の影武者として立てることとする。盗人は盗み癖を見せて逃げようとしたため一度は解任されるものの、信玄が死んだこと、かつその死が織田信長や徳川家康の間者にばれたところを目撃すると、以前対面した折に受けた信玄の威厳や、助命の恩義を思い出し、自ら影武者になることを重臣たちに土下座して願い出る。
信玄として屋敷へ戻った影武者は、嫡孫竹丸や側室たちとの対面を危ないところを見せながらも果たし、やがては評定の場においても信玄らしく振舞って収めるなど、予想以上の働きを見せていく。しかし信玄の存命を疑う織田信長や徳川家康は、陽動作戦を展開しだす。それに対し諏訪勝頼は独断で出陣し、武田家内には不協和音がもたらされる。勝頼は側室の子ゆえ嫡男とはみなされず、自身の子、竹丸の後見人とされており、かつ、芝居とはいえ下賤の身である影武者にかしずいて見せねばならぬなど憤懣やる方なかったのだ。
しかしある日、影武者は信玄の愛馬から振り落とされ、側室に、川中島で上杉謙信につけられた傷がないことを見られてしまい、ついにお役御免となる。重臣らはやむを得ず、勝頼を武田家の総領とすることを決定するが、功にはやる勝頼は重臣たちの制止を振りきり、長篠で、織田・徳川の連合軍と相対する。三段構えの敵鉄砲隊の前に武田騎馬軍の屍が広がる中、影武者だった男は、槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進していく。 

 

●「乱」  
1985年(昭和60年)に公開された、日本とフランスの合作映画である。監督は黒澤明。
架空の戦国武将・一文字秀虎を主人公にその晩年と3人の息子との確執、兄弟同士の擾乱を描く。物語の骨格はウィリアム・シェイクスピアの悲劇「リア王」であり、毛利元就の「三本の矢」の逸話(三子教訓状)なども取り入れられている。
黒澤による監督作品としては第27作目であり、黒澤が製作した最後の時代劇となった。黒澤はこの作品を、自分の「ライフワーク」と位置づけ、また「人類への遺言」でもあるとしていた。

戦国時代、齢70の武将、一文字秀虎は、隣国の領主2人を招いた巻狩りの場にて、うたた寝の中で見た悪夢のため、突然隠居することを表明する。秀虎は「1本の矢はすぐ折れるが、3本束ねると折れぬ」と3人の息子たちの団結の要を説くが、三男の三郎は示された3本の矢を力ずくでへし折り、父親の弱気と兄弟衝突の懸念を訴える。秀虎は激怒し、三郎とそれを庇う重臣の平山丹後をその場で追放する。しかし隣国の領主、藤巻は三郎を気に入り、婿に迎え入れる。
家督を継いだ太郎だが、正室の楓の方に馬印がないのでは、形ばかりの家督譲渡に過ぎぬと言われ、馬印を父から取り戻そうとする。そこで家来同士の小競り合いが起こり、秀虎は太郎の家来をひとり弓矢で射殺す。太郎は父を呼び出し、今後一切のことは領主である自分に従うようにと迫る。立腹した秀虎は家来を連れて、次郎の城に赴くが、太郎から事の次第を知らされていた次郎もまた「家来抜きであれば父上を迎え入れる」と秀虎を袖にする。秀虎は失意とともに、主を失って無人となった三郎の城に入るしかなかった。
そこに太郎・次郎の大軍勢が来襲する。城は燃え、秀虎の家来や女たちは皆殺しにされる。さらにどさくさにまぎれ、太郎は次郎の家臣に射殺される。秀虎はひとり発狂した姿で、次郎の前をいずことも知れず去る。
夫を失った楓の方は今度は次郎を篭絡し、次郎の正室である末の方を殺して自分を正室にしろと迫る。そんな時、父秀虎を引き取らんと、三郎率いる軍勢が国境の川を越えて現れる。続いて藤巻の軍勢も出現したため、次郎も出陣。さらに三郎、次郎の両軍がにらみ合う場を見下ろすようにもうひとつの隣国綾部の軍勢も現れる。三郎は秀虎を引き取るのに、夜を待とうとするが、秀虎の従者狂阿弥から秀虎を見失ったと聞き、やむを得ず即座に動き出す。次郎はそれを追って三郎を討ち取れと鉄砲隊に命じる。次郎の側近たちは今は戦う時ではないと諌めるものの、楓の方に焚きつけられた次郎は耳を貸さず、さらにその場に残った三郎軍に向っての突撃命令を下す。その時、綾部の大軍が一文字領に侵入したとの報が入る。目の前の綾部軍が囮であったことに気づく次郎。一方、三郎は、正気を取り戻した秀虎と和解を果たすが、次郎の手下に射殺され、それを見た秀虎もすべての力を失し死す。燃え落ちんとしている城に戻った次郎に、楓の方は自分の一族を滅ぼした一文字家が滅ぶのをこの目で見たかったのだと言う。 

 

●「夢」 (英題:Dreams)  
1990年に公開された、黒澤明監督による日本とアメリカの合作映画である。
「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。黒澤明自身が見た夢を元にしている。各エピソードの前に、「こんな夢を見た」という文字が表示されるが、これは夏目漱石の 「夢十夜」における各挿話の書き出しと同じである。
本作は現在入手可能なDVDでは、オープニングおよびクロージングのクレジットタイトルは英文字表記となっているが、日本の劇場公開時は日本語表記であった。なお、日本語版にはスティーヴン・スピルバーグ提供とクレジットされているが、英語版にはない。
アメリカのワーナー・ブラザーズが配給権を有しているため、現在国内で上映可能なプリントは東京国立近代美術館フィルムセンターに保存されている1本のみである。そのため黒澤映画の中では 「デルス・ウザーラ」同様、日本でのフィルム上映の機会はあまり実現していない。
日照り雨
江戸時代を思わせる屋敷の門前で、幼い私は突然の日照り雨にあう。畑仕事帰りの母から冗談交じりに「外へ出ていってはいけない。こんな日には狐の嫁入りがある。見たりすると怖いことになる」と言われるが、誘われるように林へ行くと道の向こうから花嫁行列がやってくる。しかし、木陰で見とれている私の存在を次第次第に意識するそぶりを見せつけてくる行列に、居たたまれなくなって自宅に逃げ帰ってしまう。帰り着いた屋敷は一転して冷たく閉ざされ、門前に立つ母は武家の女然として短刀を渡し、自ら始末を付けるよう告げ、引っ込んでしまう。閉め出された私はさまよう内に、丘の上から雨上がりの空を見上げるのだった。
桃畑
屋敷の広間で姉の雛祭りが行われている。遊びに来た姉の友人たちにお団子を運ぶが、5人来たはずなのに4人しかいない。姉におまえの勘違いだと笑われ、華やかな笑い声に戸惑って台所に逃げ出すと、裏口に同じ年頃の少女が立っている。逃げる少女を追って裏山の桃畑跡に辿りつくと、そこには大勢の男女がひな壇のように居並んでいた。彼らは木霊で、桃の木を切ってしまったお前の家にはもう居られないと告げ、責める。しかし、桃の花を見られなくなったのが哀しいと告げる私に態度を和らげ、最後の舞を披露してどこかへ去って行く。後には桃の若木が一本だけ、花を咲かせていた。
雪あらし
大学生の私は、吹雪の雪山で遭難しかけていた。3人の山仲間と共に3日間歩き続けたあげく、疲労困憊して崩れ込んだまま幻覚に襲われる。朦朧とした意識の中、美しい雪女が現れ、誘うように問いかけてくる。「雪は暖かい、氷は熱い」と囁かれ、薄衣を被せるように深い眠りへと沈められそうになるが、危ういところで正気に返り、仲間達と山荘を目指し歩き始める。
トンネル
敗戦後、ひとり復員した陸軍将校が部下達の遺族を訪ねるべく、人気のない山道を歩いてトンネルに差し掛かると、中から奇妙な犬が走り出てきて威嚇してきた。追われるように駆け込んだトンネルの暗闇で私は、戦死させてしまった小隊の亡霊と向き合うことになる。自らの覚悟を語り、彷徨うことの詮無さを説いて部下達を見送った私はトンネルを出るが、またあの犬が現れ、吠えかかってきた。私はただ、戸惑うしか無かった。

中年になった私がゴッホのアルルの跳ね橋を見ていると、いつしか絵の中に入っていた。彼はどこにいるのか。彼は「カラスのいる麦畑」にいた。苦悩するゴッホが自作の中を渡り歩く後を、私はついて行く…。この章では、ショパンの「雨だれの前奏曲」が使用されている。また、台詞は英語とフランス語(日本語は字幕のみ)で演じられている。
赤冨士
大音響と紅蓮に染まった空の下、大勢の人々が逃げ惑っている。私は何があったのかわからない。足下では、疲れ切った女性と子供が座り込んで泣いている。見上げると富士山が炎に包まれ、灼熱し赤く染まっている。原子力発電所の6基の原子炉が爆発したという。居合わせたスーツの男は、懺悔の言葉を残すと海に身を投げた。やがて新技術で着色された、致死性の放射性物質が押し寄せる。私は赤い霧を必死に素手で払いのけ続けた…。
鬼哭
霧が立ち込める溶岩荒野を歩いている私を、後ろから誰かがついてくる。見ると、1本角の鬼である。世界は放射能汚染で荒野と化し、かつての動植物や人間は、おどろおどろしい姿に変わり果てていた。鬼の男もかつては人間で農業を営んでいたが、価格調整のため収穫物を捨てた事を悔やんでいた。変わり果てた世界で何処へ行けばいいのか惑う私は、苦しみながら死ぬこともできない鬼に 「オニニ、ナリタイノカ?」と問われ、ただ逃げ出すことしか出来なかった。
水車のある村
私は旅先で、静かな川が流れる水車の村に着く。壊れた水車を直している老人に出会い、この村人たちが近代技術を拒み自然を大切にしていると説かれ、興味を惹かれる。話を聞いている内に、今日は葬儀があるという。しかしそれは、華やかな祝祭としてとり行われると告げられる。戸惑う私の耳に、賑やかな音色と謡が聞こえてくる。村人は嘆き悲しむ代わりに、良い人生を最後まで送ったことを喜び祝い、棺を取り囲んで笑顔で行進するのであった。 

 

●「八月の狂詩曲」  
1991年(平成3年)5月25日公開の日本映画である。黒澤プロダクション・フィーチャーフィルムエンタープライズ製作、松竹配給。監督・脚本は黒澤明。カラー、ビスタビジョン、98分。
村田喜代子の芥川賞受賞小説 「鍋の中」が原作で、原爆体験をした長崎の祖母と4人の孫たちのひと夏の交流を描く映画。キャッチ・コピーは「なんだかおかしな夏でした…。」。第65回キネマ旬報ベスト・テン第3位。

ある夏休み。長崎市街から少し離れた山村に住む老女・鉦のもとに1通のエアメールが届く。ハワイで農園を営む鉦の兄・錫二郎が不治の病にかかり、死ぬ前に鉦に会いたいという内容で、鉦の代わりに息子の忠雄と娘の良江がハワイへ飛んだ。そのため4人の孫が鉦のもとにやって来た。ハワイから忠雄の手紙が届き、錫二郎が妹に会いたがっているため、孫と一緒にハワイに来てほしいと伝えてくるが、鉦は錫二郎が思い出せないとハワイ行きを拒む。都会の生活に慣れた孫たちは田舎の生活に退屈を覚えていたが、原爆ゆかりの場所を見て回ったり、祖母の原爆体験の話を聞くうちに、原爆で祖父を亡くした鉦の気持ちを次第に理解していった。
やがてハワイ行きの決断を促す手紙が届き、鉦は原爆忌が終わってから行くことを決意し電報を出す。それとすれ違いに忠雄と良江が帰ってくる。手紙に原爆のことが書かれていたのを知った2人は、アメリカ人に原爆の話をしたらまずいと落胆する。そこへ錫二郎の息子のクラークが来日する。空港に出迎えた忠雄も孫たちもその意図を理解できず、孫たちは心配からか空港を逃げ出す。しかしクラークは「ワタシタチ、オジサンノコトシッテ、ミンナナキマシタ」と語り、おじさんが亡くなったところへ行きたいと頼む。その夜、庭の縁台でクラークは鉦に、おじさんのことを知らなくて「スミマセンデシタ」と謝る。鉦は「よかとですよ」と答え、2人は固い握手を交わす。
8月9日、鉦は念仏堂で近所の老人たちと読経をあげていた。クラークは父の死去を伝える電報を受け取り、急遽帰国する。鉦はやっと錫二郎を思い出し、その死を悲しんだ。それから鉦の様子がおかしくなり、忠雄を錫二郎と間違えたり、雷雨の夜に突然「ピカが来た」と叫ぶ。翌日、キノコ雲のような雷雲が空に広がり、鉦は長崎の方へ駆け出して行く。豪雨となり、孫たちや息子たちは祖母を追いかける。そこにシューベルトの「野ばら」の合唱が流れる。 

 

●「まあだだよ」  
黒澤明監督による1993年公開の日本映画。大映が製作し、東宝の配給により公開された。内田百閧フ随筆を原案に、戦前から戦後にかけての百閧フ日常と、彼の教師時代の教え子との交流を描いている。黒澤作品の前・中期に見られる戦闘・アクションシーン等は皆無で、終始穏やかなトーンで話が進行する。
キャッチ・コピーは「今、忘れられているとても大切なものがここにある。」。
黒澤明の監督生活50周年・通算30作目の記念作品として大きな期待を集めたが、同時期に公開された「ロボコップ3」や「許されざる者」などのヒット作に押され、興行的には失敗となった。
この作品の公開後、次回作の脚本を書いている矢先、骨折。闘病後1998年9月6日に黒澤は脳卒中により逝去し、本作が半世紀以上の監督生活を全うした黒澤の遺作となった。

法政大学のドイツ語教師・百關謳カは随筆家としての活動に専念するため学校を去ることになり、学生たちは「仰げば尊し」を歌って先生を送る。職を辞したのちも、先生の家には彼を慕う門下生たちが集まり、鍋を囲み酒を酌み交わす。先生には穏やかな文士生活が訪れるはずであった。しかし時代は戦争の只中、先生も空襲で家を失ってしまう。妻と2人、先生は貧しい小屋で年月を過ごすことを余儀なくされるが、戦後門下生たちの取り計らいで新居を構えることを得る。
昭和21年、彼らは先生の健康長寿の祝いのために「摩阿陀会」なる催しを開く。なかなか死にそうにない先生に「まあだかい?」と訊ね、先生が「まあだだよ!」と応える会である。月日は経ち、17回目の「摩阿陀会」は先生の喜寿のお祝いも兼ねて盛大に開かれる。門下生たちの頭にも白いものが交り、彼らの孫も参加したこの会で、先生は突然体調を崩してしまう。大事をとって帰ることになるが、かつての教え子たちは昔と同じように 「仰げば尊し」を歌って会場を後にする先生を送るのだった。
その夜、付き添った門下生たちが控える部屋の奥で、先生はおだやかに眠る。夢の中、かくれんぼをしている少年は、友達に何度も「まあだだよ!」と叫ぶ。少年が見上げた夕焼けの空が、やがて深く彩られ、夜になっていくところで映画は終わる。