コダック 商品寿命を看取り共に逝く

イーストマン・コダック社 経営破綻 
 
銀塩写真 カラーフィルムで世界制覇 
今風に分類すれば「アナログ映像文化」の基盤を造りました 
写真・映画文化が生まれ育ちました 
 
未練か デジタル映像文化への移行展開を怠ったのでしょうか


  
  
昭和の写真フィルム・メーカー 
断トツの コダック  
その他 アグフア・ゲバルト 富士写真フィルム 小西六写真工業
  
  
アグフア・ゲバルト || 写真フィルムから撤退 
富士写真フィルム > 富士フィルム || それなりにフィルム販売継続 
小西六写真工業 > コニカ > コニカミノルタ || 写真フィルムから撤退
  
  
 
印刷写真製版業界 
昭和39年アグファ販売代理店に入社 担当者となる 
大先輩はコダック代理店・技術責任者だった 
コダックの最新技術普及に務め 業界全体から信頼評価を得ていた 
アグファには対抗できる技術資料がなかった 
大先輩から資料をいただき 日本版アグフア資料にミックスした 
大先輩は笑いながら何でも教えてくれた
  
  
  
アグファ販売代理店退社後 
コダック製品拡販のため 
日本市場の特殊性に対応する 機器開発に協力の機会をいただき 
ちょっとだけお礼ができました
 
ポラロイドとの特許係争で日の目を見なかった製品 
24インチ幅の拡散転写・カラープリント・プロセッサー 
大きなカラープリントが僅か数分?だったかで処理OK
 
大昔の就活 裏からお願いして娘を説明会へ行かせた 
のんきな娘が 「私には合わないわ」 と下を向いて帰ってきた 
会場に有名大学の女の子が一杯だったとのこと 
担当者に謝り辞退しました
  
会社の訃報に思いは一入でした
  
  
富士写真フイルム 
1963年 先生に連れられ足柄へ工場見学に行きました 
社史から関わった時代や背景が思い出されました 
機器開発で間接的に自現の補充装置・デザインカメラに関わりました 
聖子ちゃんの化粧品 写真ゼラチンの応用技術?
  
  
 
 
結論はありきたりですが 
やはり技術革新の変化に対応が遅れたためなのでしょう 
ひとつの技術でトップを走り 未練がじゃましたのでしょうか
  
コダックと富士フイルム1  
経営危機に陥っていたコダックが今年1月、破産法を申請し、事実上の経営破たんに追い込まれた。130年の歴史を持ち、写真用フイルムで世界を席巻した優良企業のあっけない最期だった。他方、同じ写真用フイルムで激しく争った富士フイルムの業績が好調である。1998年以降の10数年間でコダックの売上は1.6兆円から8,000億円へと「半分」になり、富士フイルムの売上は1.1兆円から2.2兆円へと「2倍」に増えた。両社の明暗を分けたのはデジタル化への対応と新規事業による多角化である。  
第一の明暗はデジタル化への対応である。デジタルカメラのユーザーは写真のショット数は多いが、写真用フイルムは使わず、写真をラボでプリントする率も低い。写真は主にパソコンで鑑賞する。フイルムと印画紙を中心とする両社は写真フイルム事業の急速な縮小に直面した。デジタルカメラへの取り組みは両社とも同じだったが、ラボの現像機器の開発で差が出た。富士フイルムは、デジタルカメラ専用の現像機器の自社開発を進めたが、コダックは自社の機械を持っていなかった。遅れをとったコダックを尻目に、富士フイルムは自社製品を全世界のラボに入れることに成功した。第二の明暗は将来を見据えた事業の多角化である。富士フイルムは写真フイルム部門のリストラ(人員削減や配置転換等)、デジタル化への対応のあと、約40社に総額6,500億円を投じるM&Aを行い、攻めの経営に転換する。2001年には富士ゼロックスの事務機器事業を取り込み、オフィスを顧客とするドキュメントソリューションとして梃入れをし、2004年にはフイルムに代わる新規事業を加速するため「第二の創業」を宣言した。2005年には液晶パネル用光学フイルムに参入、2006年には社名から「写真」を外し、化粧品、医薬品と次々に新規事業を開発。これらの事業をインフォメーションソリューションとして第三の柱にし、業容をさらに拡大した。創立80周年の2013年度には売上高2兆5,000億円、営業利益1,800億円を最低目標として掲げている。成長の原動力は化粧品、医薬品などの「ライフサイエンス事業」である。他方、同じ10数年間を、コダックはデジタルカメラ、デジタルミニラボ、デジタルプリントなど写真関連事業におけるデジタル化を進めた。しかし写真関連事業だけでは足りず、加速度的に減少する写真関連事業に代わる新たな事業を作り出せないまま、寿命を迎えた。写真に依存したコダック、脱写真で多角化した富士フイルムはリスクをとった新規事業の開発、多角化が対照的な経営成果につながった。 
 
コダックと富士フイルム2  
昨年12月上旬から株価が1ドルを下回る状態が続いていた米イーストマン・コダックは2012年1月19日、米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用をニューヨークの連邦地裁に申請したと発表した。約130年の歴史を誇るかつての名門企業は事実上、経営破綻に追い込まれた。  
かつては全米フィルム市場の90%を握る  
1880年、創業者のジョージ・イーストマン氏が写真用乾板の商業生産を開始したのが同社の始まりだ。1935年に35mmリバーサルフィルム「コダクローム」を発売し、暖色系のやわらかい発色、特殊な現像方法による色あせのしにくさを売りにした。その黄色のパッケージはプロ、アマを問わず多くのカメラマンから絶大な支持を集め、コダックは「フィルムの巨人」と称されたほどだ。コダクロームの生産を終了したのは2009年だった。  
日経ビジネスオンラインに掲載された英エコノミスト誌の翻訳記事によると、「コダックの売り上げは1976年までに、全米フィルム市場の90%、カメラ市場の85%を占めた。1990年代までは常に、世界の優秀ブランドとして5本の指に入った」。  
コダックを語る際に引き合いに出されるのが富士フイルムだ。両社とも事業の柱に同じようなキーワードが並ぶ。「イメージング」「メディカル」「コミュニケーション」……など、銀塩写真フィルム事業で培った技術をベースにしつつ、その周辺分野への展開にはそう大差がないように思われる。なぜ両社に明暗がはっきりと表れたのか。  
カメラのデジタル化は日本を舞台にしていた  
「デジタル化への対応が遅れた」というのが報道でよく見られる一つの理由だ。技術者向け専門サイトのTech-On!でコラムを執筆する東京大学准教授の竹内健氏は、「ではなぜ、デジタル化への決断を富士フイルムはできて、Kodakはできなかったのか」と問いかけ、次のように指摘する。  
竹内氏はかつて東芝でフラッシュ・メモリの開発に携わった経験がある。同メモリは撮影データを記録するメモリカードとしてデジタルカメラには不可欠なものだ。デジタルカメラが立ち上がり始めた1990年代半ばは、「世界のエレクトロニクス業界で、デジタル化の中心は日本」だった。  
「ニコン、キヤノンといった既存勢力は日本企業、デジタル化でカメラ市場に新規参入を狙うのも日本企業、デジタル化のカギとなる電子部品を開発するのも日本企業と、新旧勢力の攻防が日本を舞台に繰り広げられた」  
これに対して、米ニューヨーク州北西部のロチェスターを本拠地とするコダックは、「デジタル化を推し進める企業の攻勢を肌で感じることは難しかったのではないでしょうか」と竹内氏は見る。異なる分野の人々が交流し、その技術開発動向の把握することでイノベーションは起きるものだが、コダックはそのデジタル化の先頭集団には属していなかったという分析である。  
「フィルムからデジタルへの切り替えを急ぐべきではない」  
しかし、コダックがデジタル化に決定的に遅れをとっていたわけではなかった。デジタル関連のコダックの歴史を簡単に振り返っておこう。  
1975年、世界発のデジタルカメラの開発に成功している(商品化はせず)。2002年11月にキヤノンが35mmフルサイズ・デジタル一眼レフ「EOS 1Ds」(1110万画素)を発売すると、コダックは翌03年5月に同「DCS Pro 14n」(1371万画素)を投入する。高画素化の幕開けでもあった。  
2003年には2.5型のフルカラー有機ELパネルを開発している。有機ELパネルは三洋電機との合弁会社が生産し、コダックのデジタルカメラなどに搭載し販売していた。  
また、いま人気のミラーレス一眼を牽引するオリンパスのデジタルカメラが採用している規格「フォーサーズ」(パナソニックも同じ)は、オリンパスとコダックが2002年9月に共同で提唱したものだ。コダックは当初からフォーサーズ規格のCCDセンサーを供給していた。  
こうした先進的な試みを手がけていながら、コダックは新時代への対応を誤った。それを物語る一つのエピソードが、先に挙げたエコノミスト誌に紹介されている。  
1979年にコダック社内で作成された1通の報告書。そこでは「フィルムからデジタルへの移行について、2010年をゴール」とされており、技術の進展を実際より遅く予測していた。さらに、報告書を作成した元幹部は、「1ドル当たり70セントの利益をもたらすフィルムから、せいぜい5セントにしかならないデジタル写真への切り替えを急ぐべきではないと判断した」と語っている。  
知的構造改革で成功した富士フイルム  
一方、富士フイルムはどうだったか。日経ビジネスオンラインは一橋大学の野中郁次郎名誉教授の分析を紹介している。  
「古森さんは、フィルムの需要が激減した時に、1年かけて自社の技術を洗い直し、どういう製品に生かせるのか、じっくり考え抜いた。その結果、事業ドメインを明確に設定できた。重要なのは、知的構造改革を成し遂げたことだ。1万人規模のリストラを断行。構造改革を、単なるコスト効率を追求しただけでなく、知的な構造改革まで踏み込んで実行した」  
銀塩フィルム事業に代わる新たな事業領域がシナジーの関係性を持っていることを高く評価したうえで、新しい事業の芽を育てた古森重隆社長・CEO(最高経営責任者)の手腕を称える。  
コダックは米国企業にありがちな特許を売ってしのごうという守りに入り、最終的には経営破綻に陥った。成長戦略ではなく、防御戦略をとったことがコダックの敗因だったと野中氏は指摘する。  
円高、内需縮小、電力不足など難問が立ちふさがる日本の企業にとって、名門コダックの失敗は学ぶべきことが少なくない。 

 


 
2012/1 
 
 
写真映画文化
 
富士写真フィルムKODAKAgfa-Gevaert小西六写真工業白黒からカラーへの移行国産カラーの時代ニュース映画の誕生天活
   
 
富士写真フィルム
 

 

写真フィルム国産化へのチャレンジ 
第1次世界大戦後、1919年(大正8年)誕生した大日本セルロイド株式会社の森田社長は、セルロイドの新しい需要先として、写真フィルム、映画用フィルムの将来性に着目するとともに、その国産化を社会的責務であると考える。大日本セルロイドは、まず、フィルムベースの研究から着手するが、写真フィルムは、わが国においては全く未開発の分野であり、一時は米国コダック社との提携も考慮する。しかし、コダック社の拒否回答で、自力による開発を決意、1926年(大正15年)「フィルム事業自立計画」を決定する。また、写真乳剤の研究を進めるため、これまで写真用乾板の工業化を進めていた東洋乾板株式会社と提携する。  
はじめに  
富士写真フイルム株式会社は、1934年(昭和9年)1月20日創立したが、当社創立に至るまでの歴史、すなわちその前史を概観し、源流をたどっていくと、さらに15年をさかのぼることになる。  
1919年(大正8年)2月、わが国における写真用乾板の工業化に先べんをつけた東洋乾板株式会社が創立され、さらに、同年9月には、大日本セルロイド株式会社(現ダイセル化学工業株式会社)が創立された。大日本セルロイドは、当時わが国において全くの未開発分野であった、写真フィルムのフィルムベースからの一貫生産を企図し、困難な研究にチャレンジした。そして、長期間にわたって苦しい研究を重ねた結果、その開発に成功し、当社設立の直接の母体となった。  
当社の歴史は、事実上、この年、この両社から始まった。  
なお、この年9月にはオリエンタル写真工業株式会社が創立されており、1919年(大正8年)という年は、日本写真史上忘れることのできない年であったといえよう。  
大日本セルロイドの発足  
わが国に初めてセルロイドがもたらされたのは、1870年代のこととされているが、1900年代になって、セルロイドの利用価値と将来性に着目し、その企業化を目指す動きが現われてきた。  
1908年(明治41年)3月、兵庫県網干町(現姫路市)に日本セルロイド人造絹糸株式会社が、同年7月、大阪府堺市に堺セルロイド株式会社が、それぞれ設立され、セルロイドの製造を始めた。  
その後、1910年代にかけて、セルロイド製造会社が相次いで誕生したが、その背景には、第1次世界大戦のぼっ発に伴うセルロイド需要の急増があった。しかし、1918年(大正7年)11月に、連合国とドイツとの休戦条約が締結され、第1次世界大戦が終結すると、大戦不況の影響もあって、セルロイドの需要は急激に低下し、業界は混乱に陥った。  
この混乱による共倒れを防ぐため、前記2社をはじめとする業界8社の大同団結が実現し、1919年(大正8年)9月8日、資本金1、250万円をもって、当社の母体となった大日本セルロイド株式会社が設立されたのである。  
発足時の役員には、取締役社長森田茂吉/専務取締役嶋村足穂/常務取締役西宗茂二/常務取締役淺野修一がそれぞれ就任し、本社を大阪府堺市に、工場を、堺、網干、兵庫県神崎、東京に置いて、セルロイド製品の製造および販売を始めた。  
大日本セルロイドは、発足後まもなく、わが国最大、世界でも有数のセルロイドメーカーに成長し、その製品は国内需要の大半をまかなうほか、広く海外にも輸出された。  
セルロイドを写真フィルムの支持体に  
当時、セルロイドを使用した主要製品は、文房具、がん具、日用品などであったが、企業としてさらに発展していくためには、これら既存の分野以外の需要先の開拓が強く求められた。  
そして、その最も有力かつ有望な需要先として考えられたのが、写真フィルム、映画用フィルムの事業化であった。  
セルロイドの写真フィルムの支持体(ベース)としての適性に着目し、その開発を進めたのは、米国コダック社の創始者であるジョージ・イーストマン(G.Eastman)であった。彼は、1889年(明治22年)、セルロイドの支持体に写真乳剤を塗布した写真フィルムをつくることに成功した。これによって、写真の普及のための道が開け、乾板用のガラスに代わる、ロールフィルムのベースとして、セルロイドの新しい市場が開拓された。また、映画用フィルムにも応用範囲を広げ、映画の発展を促す要因ともなった。  
さらに、当時X線による診断方法が確立され、X線用フィルムとしての用途も開かれるなど、写真フィルムが多くの分野に広く利用される兆しが生まれたのである。  
写真と映画の歴史  
写真の歴史は、1820年代にさかのぼる。当時、フランス人ニエプス(J.N.Niepce)によって写真術が発明され、次いで1830年代に、フランス人ダゲール(L.J.M.Daguerre)が、ダゲレオタイプという現在の銀塩写真方式に近い方式を発明したことによって、近代写真術の基礎が築かれた。ダゲレオタイプの方式は、フランス科学アカデミーで発表されると、たちまち世界各地に広まり、日本にも、1840年代にはダゲレオタイプのカメラが渡来したといわれている。  
1850年代になって、湿板写真術に発展し、1870年代に乾板が開発されて、今日の銀塩写真方式が登場してきた。わが国でも、1860年代には、写真術が実用化され、専門の写真師が誕生し、写真館(スタジオ)が開業された。  
その後、写真館の数も次第に増加した。写真館での写真撮影が普及し、「写真」が多くの人びとに理解されるようになってきた。  
大日本セルロイドが発足したころは、写真を業とする営業写真館だけでなく、趣味として写真を楽しむ、いわゆるアマチュア写真家も登場しはじめた時代であった。写真用のフィルム、乾板、印画紙の需要も次第に増加してきたが、その供給はすべて輸入に依存していた。  
このような状況のもとで、写真感光材料の企業化の動きもようやく現われてきた。  
すでに1880年代から、何回か、小規模に、乾板、印画紙の製造が試みられてはいたが、その多くは製品の完成をみることなく終わっていた。本格的な企業化の動きが現われたのは1900年代に入ってからで、1902年(明治35年)、写真機材の輸入商であった小西本店(現コニカ株式会社)が、乾板と印画紙の国産化を企図して、六桜社を設立した。また、1910年(明治43年)には、高橋慎二郎によって、東京雑司ヶ谷に、高橋写真化学研究所が設立され、小規模ながら、乾板の研究が行なわれてきた。  
しかし、1919年(大正8年)に入っても、写真フィルムについては、製造はもちろん研究すらも皆無に近い状態であった。  
このようなわが国の市場をねらって、1921年(大正10年)には、コダック社や、ドイツのアグファ社が、日本に代理店を開設し、本格的にわが国への進出を始めた。  
一方、このころ、「活動写真」すなわち映画が、大衆娯楽の王座に上りつつあった。わが国初の常設映画館「電気館」が東京浅草に誕生したのは1903年(明治36年)のことであったが、大正末期のわが国の映画館の数は1、000軒を超えた。当時はまだ無声映画の時代ではあったが、映画は、新しい娯楽として、次第に大衆の間に根をおろしていった。  
写真フィルム国産化を企図  
写真フィルムの国産化という課題は、大日本セルロイドにとって、セルロイドの新規需要の開拓という、事業拡大のための格好のテーマであるとともに、写真フィルムの輸入を防あつするという社会の要請に応えるものであった。  
「其当時国内にては未だフィルムの生産はなく、映画の原板は総て米独よりの輸入に仰ぎ、其額は当時の金額にして八百万円〜一千万円に達したり。其原料、其技術の関係よりして、之を解決するはセルロイド生産業者の責務なりと断じ、セルロイド会社利益の一部を割愛し、フィルムの製造試験に従事したり。」  
これは、大日本セルロイドが、フィルム国産化のための製造実験に着手した意図について、大日本セルロイド森田社長の後年の述懐である。  
大日本セルロイド森田社長は、その原料や技術の関係から考えても、フィルムの国産化は自社が果たさなければならない社会的責務であると考え、こうした使命感からも、フィルム国産化に乗り出す決意をしたのである。森田社長の意図は、単に外国から材料を購入して国内で加工、製品化するというのではなかった。フィルムベースの製造から、感光剤の製造、塗布、そして加工まで、写真フィルムの一貫メーカーへのチャレンジであった。  
フィルムベースの製造実験に着手  
写真用のフィルム、乾板、そしてそれを焼き付ける印画紙を総称して写真感光材料という。写真感光材料は、フィルムベース、ガラス、紙などの各種の支持体に、感光剤を塗布して製造する。光に感ずるという写真の基本的な働きをする感光剤の主体は、ハロゲン化銀である。ゼラチン水溶液の中に、臭化カリウム、よう化カリウム、塩化ナトリウムなどのハロゲン塩類を入れて溶解し、これに暗室で硝酸銀水溶液を加えると、感光性をもつハロゲン化銀ができる。乳濁状を呈しているので、一般に写真乳剤と呼ばれる。感光物質としてハロゲン化銀を使用するので、銀塩写真ともいわれる。  
大日本セルロイドは、まず、写真フィルムの支持体(フィルムベース)の研究から着手した。  
フィルムベースに使用するセルロイドは、がん具などに使われていた既存のセルロイドと異なり、平面性、透明性、柔軟性、耐久性のほか、写真乳剤に対する適性が要求され、その製造には、技術面で克服しなければならない多くの問題があった。  
最初に着手したのは、フィルムベースの流延、すなわちセルロイドをフィルム状に薄く引き延ばす実験である。  
フィルムベースの研究は、大日本セルロイド創立の翌年1920年(大正9年)から、同社技師長樋口修一、技師青木英吉によって始められた。青木技師は、同社堺工場の見本試作室内に、小型フィルム流延装置を設置して実験に着手した。  
翌1921年(大正10年)、青木技師が堺工場長に就任したため、この研究は、技師作間政介(後の当社専務取締役)に引き継がれた。作間技師は、前任者が行なった基礎研究のデータをもとに、ドラム式流延法でフィルムベースをつくる実験に着手した。  
堺工場の実験室は、床から天井までが3.3m。このスペースに可能な限り大きなドラム機を納めようと苦心し、結局、直径2.42mの円筒形のドラムをつくり、これに幅15.24cmの平滑な硬質真ちゅう帯を取り付け、その表面を研磨し、メッキをして、連続流延できるドラム製帯機を完成させた。  
フィルムベースの製造実験は、原料の調合比率、溶剤の組成、はく離条件などについて、根気よく進められた。  
これと並行して、1922年(大正11年)夏からは、写真乳剤の研究にも着手し、必要な器具、装置を整備して、製造実験が進められた。  
コダック社、大日本セルロイドの提携申し入れを拒否  
このように、フィルムベースと写真乳剤の研究はスタートしたが、写真フィルム国産化の早期実現のためには、外国の有力メーカーと技術的に提携するのが早道である、という考えがあった。  
この考えのもと、1924年(大正13年)5月、当時すでに世界最大の写真フィルムメーカーの地位を確立していたコダック社に、技術提携の申し入れを行なった。この申し入れを受けたコダック社は、まもなく技師を日本に派遣し、大日本セルロイドにおける研究の進ちょく状況を調査するとともに、わが国での写真フィルム工場の立地の可能性などについて、広く調査を行なった模様であるが、結局、“日本に適地なし”を理由に、大日本セルロイドの申し入れを拒否した。  
ここに至って、大日本セルロイドは、たとえ日時を要しても、独力で写真フィルムの開発に取り組む以外に道はないとの決意を固め、次のように、写真フィルム事業の方針を決定した。  
1.写真乳剤の製造は、自社で少数の技術者が研究するよりも、既設の写真工業会社の経営に参画して、その会社の技術の開発を強力に推進させる方が早道である。  
2.ベース、フィルム、印画紙の製造の研究は、大日本セルロイド自ら中間製造試験所を設けて、専心これを行なう。  
3.これらの技術が確立したときには、すべてを総合して、ベースから写真フィルムまでの一貫製造工業を興す。  
大日本セルロイドは、1926年(大正15年)12月、上記の方針を基にして、「フィルム事業自立計画」を正式に決定した。ここに、写真フィルムの一貫製造に向けて、その第一歩を大きく踏み出したのであった。  
東洋乾板との提携  
1926年(大正15年)7月、大日本セルロイドは、東洋乾板に10万円を出資、技師作間政介を同社の専務取締役として派遣し、経営の立て直しを図るとともに、両社協定して、写真フィルム製造の試験研究を進めることとした。  
東洋乾板は、1919年(大正8年)2月11日、資本金20万円をもって、東京雑司ヶ谷に設立された。その前年1918年(大正7年)に、愛媛県八幡浜出身の実業家菊池恵次郎・菊池清治兄弟が、高橋慎二郎の国産乾板製造の所信に共鳴し、より大きな資本と整った設備をもって、より優れた乾板を製造することを提案し、話し合いの結果、翌年、発足の運びとなったものである。  
発足当時の主な役員は、取締役社長菊池恵次郎/専務取締役辻広/取締役技師長高橋慎二郎であった。  
同社は、発足後さらに研究を重ね、1921年(大正10年)1月、開発者高橋慎二郎の頭文字から商品名を付けた“ST乾板”を発売するまでになったが、その売れ行きははかばかしくなく、ストックは累積するばかりであった。その上、1923年(大正12年)9月1日、突如として襲った関東大震災によって、乾板工場は大被害を受け、その復旧に手間どって苦境に陥り、その打開策を求めていた。  
ちょうどそのころ、大日本セルロイドが、写真フィルム国産化を企図する中で、写真乳剤の研究の提携先として、東洋乾板に白羽の矢を立てたのであった。  
東洋乾板の整備  
大日本セルロイドが写真乳剤の試験研究をゆだねた東洋乾板は、長年に及ぶ研究ですでに基礎は確立していたとはいえ、その技術はまだ幼稚なものであり、製造設備も家内工業の域を出ないものであった。  
東洋乾板の当時の状況について、作間政介は、後年、次のように回顧している。  
「東洋乾板の製品たるや、スポットも多いし、カブリもあるといった具合いで、材料店や写真館に売り込むのには苦労したものだった。」  
「膜が柔らかく、現像していくうちに、乾板が素ガラスになってしまうのが出たりして、全く閉口した。また下志津(千葉県)の陸軍飛行学校で航空乾板を使って写したら、写したはずの像以外に、花嫁の像がボーッと現われて、すわ幽霊写真?とびっくり!怪談話もどきの事件があったこともある。しかし、これは別に不思議ではないのだ。というのは、当時の乾板は、古いものの写真乳剤を洗い落としては、ガラス板を再生使用するのが一般だった。その洗い落としが不十分なため、前の(結婚写真の)像がそのまま残って、それが幽霊となって現われるというわけだ。」  
このように笑うに笑えない話もあったが、その後、製造設備も復旧、更新され、また、1926年(大正15年)11月、商工省からの工業奨励金1万円の交付によって、研究施設も整備された。また、水野定三郎(後の東洋乾板技師長)や藤澤信(後の当社取締役副社長)などの入社もあって、技術の改善も著しく、1929年(昭和4年)に“東洋トロピカル乾板”を発売したのを皮切りに、“東洋スタジオ乾板”、“東洋パンクロ乾板”など、各種の新製品を発売していった。  
なお、1933年(昭和8年)12月には、乾板の製造に関して、商工省から研究奨励金9、000円の交付を受けた。 
フイルム試験所、写真フィルムの試作に成功  
写真フィルムの事業化を決意した大日本セルロイドは、1928年(昭和3年)、「フイルム試験所」を創設し、写真フィルム工業化のための製造研究に着手する。フィルムベースの製造、写真乳剤の研究など、幾多の問題が山積しているが、悪戦苦闘のうえそれらの問題を一つ一つ解決し、写真フィルム国産化という大目標に一歩一歩近づいていく。そうした折、今度は、コダック社から写真フィルム事業の共同経営の企図が持ち込まれるが、不調に終わり、あくまでも自主開発を目指す。1930年(昭和5年)には、東洋乾板で行なっていた写真乳剤研究もフイルム試験所に移し、本格的研究を開始する。そして、1932年(昭和7年)、映画用ポジフィルムの試作に成功する。 
フイルム試験所の発足  
東洋乾板で写真乳剤の研究を進める一方、大日本セルロイドは、フィルムベース、フィルムおよび印画紙の工業化についての製造研究を推進するため、試験工場を、東京板橋区志村にある大日本セルロイド東京工場の敷地内に建設することとした。この試験工場は、1928年(昭和3年)5月、しゅん工し、これを「フイルム試験所」と名付けた。(当時は、「フヰルム試験所」とも呼称した。)  
しゅん工に先立ち、1927年(昭和2年)7月、大日本セルロイド網干工場から春木榮(後の当社第2代社長・現相談役)が赴任し、フイルム試験所主任に任命され、試験所の建設、機械設備の選定などに当たった。  
フイルム試験所の完成を目前にして、1928年(昭和3年)4月、大日本セルロイドの写真フィルム事業の推進責任者であった専務取締役嶋村足穂が急逝し、その任は、常務取締役淺野修一(後の当社初代社長)に引き継がれた。  
フイルム試験所は、1928年(昭和3年)6月、フィルムベース製帯機の据え付けを完了し、製造試験を開始した。  
しかし、製帯機は輸入品であり、当初は、操作に戸惑いながらの手探り作業であった。たとえば、フィルムベース部門では、薄いゼラチンを銅帯に何回も塗って徐々に乾かす方法をとっていたが、銅帯面へのゼラチン塗布がうまくいかず、しかも乾いた面の継ぎ目が悪いため、き裂が生じやすくて、ドープ(硝化綿に溶剤、しょうのうを混ぜて水あめ状にしたもの)を流すところまではいかないという状態であった。き裂の問題は、その後、濃いゼラチンを1回塗布し、これを冷却させ徐々に乾燥させることによって解決したが、新たに、ゼラチン面からのベースのはく離が困難になるという問題が生じ、その解決にも悩まされた。  
フィルムベース製造試験が始められた翌1929年(昭和4年)10月、ニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌の嵐は、わが国にも襲来し、大日本セルロイドもその余波を受けて不況に陥った。そして、その打開策の一つとして、東京工場を一時的に閉鎖せざるを得ない状態になったが、フイルム試験所における研究だけは継続された。  
フイルム試験所の悪戦苦闘  
フイルム試験所での研究は、その後も悪戦苦闘の連続であった。  
1930年(昭和5年)4月に入社し、フィルムベース担当者となった北島弘蔵(後の当社取締役足柄工場長)は、試験過程で生じるさまざまな問題に取り組み、まず、温湿度調節空気清浄装置を設置して、実験室内の温湿度の調節を図ることにした。これによって、作業室内の防じん効果があがるとともに、一定の温湿度の確保が可能になり、製帯機からのはく離が容易になったが、カーリング(乾燥によってフィルムベースが反り返ること)とシワの発生が新たな問題として生じ、さらに乾燥についての改善研究を進めなければならなかった。  
新たな問題の発生、そしてその解決、といった悪戦苦闘を繰り返しながらも、1933年(昭和8年)に至って、ついに、使用可能なフィルムベースを作ることができるようになった。  
一方、フィルムの写真乳剤の研究は、春木榮が担当し、東洋乾板の研究所に週1〜2回出向いて、まず、映画用ポジフィルムの写真乳剤の研究に当たった。  
映画用フィルムは、大別して、ポジティブフィルム(略してポジフィルムともいう)と、ネガティブフィルム(略してネガフィルムともいう)の2種があり、撮影用にはネガフィルムを用い、それをポジフィルムに焼き付けて映写用とする。写真にたとえれば、ネガは原板であり、ポジは印画紙に相当するものである。ポジフィルムは、万一不都合があった場合でも焼き直しができるが、ネガフィルムに欠陥があった場合は撮影からやり直さなければならない。ネガフィルムの製造には、ポジフィルムに比べて、より高度な技術が必要とされたので、まず、ポジフィルムの研究から手掛けたのであった。  
1929年(昭和4年)4月には、竹内喜三郎(後の当社取締役副社長)が入社し、この研究を引き継ぎ、並行して、ネガフィルム用の写真乳剤の研究も進めることになった。写真乳剤の研究は、当初、フィルムベースをガラス板に貼り、乾板塗布機で乳剤塗布を行なったあと、フィルムをガラス板からはぎ取る方法によっていた。  
1930年(昭和5年)5月、それまで東洋乾板で行なっていた写真乳剤の研究をフイルム試験所に移し、同年11月には、フィルムベース製帯室の隣を暗室に改造して、小型の塗布機を1機設置し、本格的な研究に着手した。そして、同年末には、幅24cm、長さ5〜6m、時には20mものフィルムの塗布乾燥ができるまでになった。  
さらにこの年には、前年入社した淺井権之助(後の当社足柄工場印画紙部長)が担当者となって、印画紙製造の研究にも着手した。  
当時のフイルム試験所の状況について、次のような回顧記が記されている。  
「当時は人数も少なく、一人であれもこれもする万能選手であった。作業の第一の難関は、製帯機銅帯のゼラチンによるツヤ出し工程であった。この仕事は、朝から準備して夜半あるいは翌朝までかかったが、その間、絶対に目を離すことができず、本当の徹夜作業で、休憩も何もあったものではなかった。」  
まさに、不眠不休の努力によって、フィルム国産化の夢は、一歩一歩その実現に近づいていった。  
コダック社の提携申し入れ不調  
フイルム試験所で写真フィルム国産化への努力が続けられていた1920年代末から1930年代の初めは、内外ともに多事多難な年であった。  
1927年(昭和2年)金融恐慌の発生、1929年(昭和4年)世界大恐慌、翌1930年(昭和5年)の浜口首相そ撃事件、続いて1931年(昭和6年)満州(現中国東北部)で起こった日中の軍事衝突、さらに1932年(昭和7年)五・一五事件、1933年(昭和8年)日本の国際連盟脱退など、大きな事件が相次いで発生した。  
こうした激動の時期であったが、この時代はまた、新しい文化が開花した時代でもあった。すでに1925年(大正14年)ラジオ放送が開始されていたが、1929年(昭和4年)蓄音器の国産化、そして1930年代に入って、それまでの無声映画に代わるトーキー映画が出現した。1931年(昭和6年)、国産初の本格的トーキー映画「マダムと女房」が封切られるに及んで、映画人口は急激に増大していった。  
写真感光材料の分野においても、ロールフィルムが登場し、カメラの取り扱いが容易になったことと相まって、アマチュア写真家の数も次第に増えつつあった。  
ロールフィルムは、それまで外国からの輸入に依存していたが、1928年(昭和3年)、旭日写真工業株式会社(その後、企業整備により解散)が“菊フヰルム”を、翌1929年(昭和4年)には、小西六本店が“さくらフヰルム”を、それぞれ発売した。  
こうした折、1929年(昭和4年)、世界最大の写真フィルムメーカー、コダック社から、日本国内での写真フィルム事業共同経営の企図が、大日本セルロイドに持ち込まれた。  
しかし、大日本セルロイドでは、すでに写真フィルム事業の自力による開発の決意を固め、フイルム試験所を設立して、新事業の実現に取り組んでいる最中でもあり、また、コダック社から提示された条件も、とうてい容認しがたいものであったので、結局、このコダック社の申し入れは不調に終わった。  
大日本セルロイドは、コダック社の技術に頼るという安易な道を選ぶより、たとえどんな困難があろうとも、あくまで自主技術によって写真フィルムの国産化を実現するという決意を一層強くしたのであった。  
映画用ポジフィルムの試作  
コダック社の提携申し入れは不調に終わったものの、こうしたコダック社の動きは、大日本セルロイドを驚かせるに十分な出来事であり、大日本セルロイドにとって、写真フィルム国産化の実現が一刻の猶予も許されなくなったことを知らされたのである。  
このころ、大日本セルロイドは、研究の一層の進展を期するために、1931年(昭和6年)4月、映画用ポジフィルム製造に関する研究奨励金を政府に申請した。  
この申請は、翌年1月、映画用フィルムの国産化に大きな関心を寄せていた商工省の承認するところとなり、1931年度(昭和6年度)分として8、000円が交付された。  
1932年(昭和7年)になると、映画用ポジフィルムの製造研究もかなり進んだので、大日本セルロイドは、自社の製品とフイルム試験所での研究の進ちょく状況を紹介し、写真フィルム事業への理解を深める目的で、同年2月、東京日本橋の三井本館において、商品展示説明会を開く計画を立て、説明のためPR映画を作って公開することにした。  
この映画の撮影には、フイルム試験所が試作したポジフィルムを使用したが、製作の楽屋裏は大変な騒ぎであった。  
関係者全員で、枠現像(木枠にフィルムをとめて現像する方法。現像液の中で枠を上下させるとき、チャブチャブという音がするので仲間うちでは“チャブチャブ”と呼ばれていた)を何日も徹夜で行なった。まだ長尺のフィルムは作れず、一本一本が短いうえに、フィルムは傷だらけで、悪い個所は切り捨ててつなぐ、切り貼り作業を繰り返した。それでも、関係者の努力の結果、ようやく映画が完成し、国産ポジフィルムによる初の映画が、三井本館で、三井の首脳や実業界に初めて公開された。  
この映画製作の指揮をとった、竹内喜三郎は述懐する。  
「カーリングはひどいし、映像は暗い。いやはや大変冷汗をかきました。よくまあ、あんな映画をつくったものだと恐ろしいくらいです。」  
しかし、たとえ不完全でも、自社製のポジフィルムで映画を作ったという事実は、それ以後の研究に大きな自信と希望を植えつけたのである。  
その後、同じような展示説明会は、工業倶楽部や小田原在住の三井の長老益田孝氏邸でも催された。  
こうして、1932年(昭和7年)秋には、一応の映画用ポジフィルムが完成し、映画製作会社に実技試験を依頼するまでになった。  
なお、その前年1931年(昭和6年)7月には、ロールフィルムも試作して、“大日本フヰルム”と命名した。  
一方、映画用ネガフィルムの研究についても、研究を促進するため、研究奨励金を申請していたが、1933年(昭和8年)2月に、映画用ネガフィルム製造研究奨励金1万3、000円の交付を受けた。  
“豊富な良質の水”と“きれいな空気” / 箱根山ろく南足柄に大工場を 
映画用フィルムの試作に成功した大日本セルロイドは、1932年(昭和7年)3月、「フィルム・乾板・印画紙事業計画」を決定し、写真感光材料工場の建設に乗り出す。写真感光材料の製造のためには、何よりも“大量の良質の水”と“きれいな空気”とが不可欠で、工場適地を求めて広範囲に踏査し、結局、神奈川県西部箱根外輪山のふもとに位置する南足柄村(現南足柄市)に決定する。南足柄村でも、村の発展のために工場の進出を歓迎、約10万m2の用地買収も順調に進み、直ちに建設工事に着手する。1933年(昭和8年)12月には、フィルムベース工場、フィルム工場、乾板工場、印画紙工場を主とする一大工場群が完成し、相次いで試運転に入り、操業開始に備える。  
工場の適地を求めて  
大日本セルロイドは、1926年(大正15年)に「フィルム事業自立計画」を決定し、その第一段階として、フィルムの製造研究を進めてきたが、研究試作の進展とともに、フィルム工場建設計画の立案作業を開始した。  
そして、1932年(昭和7年)3月22日の重役会において、「フィルム・乾板・印画紙事業計画」が付議され、ここでフィルムの事業化が正式に決定した。  
春木榮は、当時の状況を、後年、次のように語っている。  
「大日本セルロイドの写真フィルム工業化の計画は、研究開発もまだ完成していない段階で、あまりにもリスクが大きく、“暴虎馮河”に等しかった。しかし、海外メーカーのわが国への企業進出の動きもみられ、商工省の助成政策もあり、この機会を外しては写真フィルム工業の設立は到底できないと判断し、事業化に踏み切ることにした。」  
この事業計画の策定と並行して、工場建設のための用地選定作業を進めた。  
当初は、原料供給の関係から、大日本セルロイドの工場の近くを調査したが、適地が見つからず、調査地域は、広く関西、関東一帯に及んだ。  
用地選定に当たって求められていた適地条件は、次のような厳しいものであった。  
夏季に温湿度があまり高くならないこと  
空気が清浄で、冬季に大風がなく、乾燥すること  
鉄分、塩類、有機物質の含有量の少ない水が大量に得られること  
交通が至便なこと  
周囲に人家が密集していないこと  
質朴な気風のある地であること  
これらの条件の中でも、特に“豊富な良質の水”と“きれいな空気”とは、写真感光材料製造上欠かせないものであった。  
作間政介と春木榮は、適地選定のため、かなり広範囲に各地を踏査したが、結局は東京近郊に絞られ、大宮、八王子付近、沼津、三島周辺、御殿場、身延線沿線、東海道沿線などを重点的に踏査した。  
この踏査で、たまたま箱根明神岳のふもと南足柄(神奈川県足柄上郡南足柄村、現在の南足柄市)の地を訪れた作間と春木は、そこで「清左衛門地獄」と呼ばれるゆう水池に出会った。1932年(昭和7年)6月2日のことであった。  
土地の人に尋ねると、すぐ近くにも「浮気(ふけ)ゆう水」というわき水があるという。二人は教えられるまま500mほど歩くと、そこにも、かなりの量の水がわき出ているゆう水池があった。水温を計ると、初夏の陽ざしの下にしては、14.5℃と冷たかった。  
二人は、このわき水について、土地の人の話を聞いてみた。伝えられるところでは、二つのゆう水池はいずれも箱根芦の湖の水が地下を通って海へ流れ出る途中、その一部が地表にわき出るもので、一年中水量がほとんど変わらないし、長い間一度もかれたことがないということであった。  
南足柄村で工場適地としてほぼ理想と思われるわき水に出会った二人は、さっそく会社に帰って調査報告を行なった。  
2週間後の6月19日には、淺野専務が南足柄の現地を視察し、さらに7月2日には、大日本セルロイドの森田会長、西宗専務らが、御殿場と南足柄の両候補地を訪れて、優劣を比較検討した。その結果、南足柄を工場建設の第一候補地とすることで意見が一致し、さっそく現地の水質試験を行なうことになった。  
水質試験は、厳密な化学分析とともに、写真感光材料製造に対する適性も詳しく調べられた。その結果、写真工業用水として理想的な水質であることが判明した。  
工場用地の買収  
フィルム新工場建設予定地を南足柄村に決定した大日本セルロイドは、工場建設の具体的な計画の策定に着手する一方、南足柄村に用地買収の申し入れを行なった。買収候補地は、南足柄村の狩野、中沼両地区にまたがる約10万m2が予定された。  
南足柄村は、明神岳のふもとにあり、狩川と酒匂川の間の丘陵地にひらかれた水田で米をつくり、また、そこに散在する畑で、野菜、みかん、茶などを栽培して生計を立てている純農村であった。当時、すなわち1933年(昭和8年)の南足柄村の人口は約4、500人、戸数は約700戸で、買収候補地となった狩野、中沼両地区は、ともに戸数100戸に満たない小さな村落であった。  
明神岳の中腹には、曹洞宗の名さつ大雄山最乗寺があり、小田原から山ろくの関本まで、参けい者のための鉄道大雄山線が敷かれ、関本駅付近は参けい者でにぎわっていた。しかし、沿線からややはずれた狩野、中沼地区は訪れる人も少なく、静かなたたずまいをみせていた。  
そこへ、突如、フィルム工場建設と、それに伴う用地買収の話が持ち込まれたのである。地元に、土地を手離すことへの抵抗があったことは、想像に難くない。  
1932年(昭和7年)8月7日、大日本セルロイドは、南足柄村の極楽寺において、地元有力者との初会合を持ち、協力を求めた。  
次いで、8月20日、南足柄村長神野作十郎氏をはじめ、石井平吉氏、前村長井上宗環氏など村の有力者を招請し、フィルム工場進出計画の概要を説明し、理解を求めるとともに、用地買収について正式に協力を要請した。  
神野村長らは、村の発展のためにフィルム工場の誘致に協力するとの姿勢を示し、用地あっ旋委員を選任して、村民への協力を求めた。  
その後、村当局の協力と会社側の委曲を尽くした説明によって、漸次村民の理解も深まり、用地買収問題は買収価格を残して合意するに至った。  
買収価格は、当初、用地あっ旋委員から1反歩(約1ha)当たり1、100円が示されたが、数回にわたる話し合いの結果、1反歩当たり950円で合意した。  
このうち、650円は大日本セルロイドが支払い、300円は村が補償することに決定した。ただし、村の補償分は会社が一時立て替えて支払い、その代償として、会社が操業開始後4年間村税を免除することで申し合わせが成立した。  
同年12月3日、極楽寺において、双方の関係者が出席し、売買契約書に調印し、ほぼ4か月にわたる用地買収交渉を終えた。  
この用地買収に示された南足柄村の関係者および村民の協力は、当社創業の歴史のうえで忘れることのできないことである。  
新工場の建設  
用地買収と並行して、工場建設の具体的計画も進められ、1932年(昭和7年)12月、大日本セルロイドは、総予算206万円の建設計画を正式に決定した。  
この事業推進の責任者である淺野専務は、東京紀尾井町の万平ホテルの一室を借りて、写真フィルム事業関係者の指揮に当たっていた。業務が錯そうするに従って、恒常的な事務所の必要性に迫られ、1932年(昭和7年)11月、東京銀座の菊正ビルに事務所を設け、「大日本セルロイド株式会社写真フヰルム部」の看板を掲げた。  
ここでは、新工場建設関係の業務と並行して、東洋乾板製品の販売業務も併せ行なうことにした。  
当時、フィルムは「フヰルム」とも表示されており、事務所の看板にも当初は「フヰルム部」と書かれていたが、その看板をながめていた淺野専務は、“ヰ”より“イ”の方がいいと考え、「フイルム部」と書き改めさせた。以来、商品名もすべて「フィルム」に統一した。  
新工場建設工事の地鎮祭は、1933年(昭和8年)1月10日、地元南足柄村の関係者など200余名を招き、盛大に挙行された。  
地鎮祭終了後、直ちに建設工事が開始され、それまでののどかな田園風景は、一変して騒々しい工事現場と化していった。  
工事は、まず整地から始められた。工場予定地は南が少し傾斜し低くなっているため、水源地に続く丘陵地を買収し、そこを切りくずして地盛用土として低地に運搬した。  
整地と並行して泉川の付け替え工事も行なわれ、さらにフィルムベース工場、乾板工場、フィルム工場、印画紙工場など、各建物の工事も相前後して着工された。  
写真感光材料製造工場にとって、特に留意しなければならないのは、空気調節設備、廃水処理施設および防火設備であった。  
空気調節室を工場群の中央に配置し、太いダクトで各工場を結んだ。  
廃水処理については、汚水を狩川に流さないため沈殿浄化池を設置した。  
防火対策についても、万一災害が起こった場合でも、災害を最小限に防ぐ工夫がなされた。  
こうして、広い敷地内に新しい建物が次々に建てられていった。  
着工以来10か月というスピードで、延べ面積1万1、000m2の足柄工場の建物が完成し、写真フィルム工場にふさわしく、ライトイエローで仕上げられた外壁は、初秋の空に美しく映えた。  
機械の買い入れと設置  
新工場の建設工事着工寸前の1932年(昭和7年)12月、春木榮は、製造機械の購入と欧米におけるフィルム事業の実情調査のため、シベリア鉄道経由で渡欧した。春木は、欧州各地および米国を訪れ、購入機械の選定と買い付けに当たった。  
そのころ、わが国の機械工業の技術水準は欧米と比べてまだ低く、フィルムベース製帯機などは欧米から調達しなければならなかったのである。  
工場建物の完成と相前後して、新たに購入した各種の機械の据え付けが始められた。フイルム試験所の設備も製帯機1機を残して、すべて移設された。  
1933年(昭和8年)1月10日の地鎮祭からほぼ1か年、年末には、足柄工場はすべての工事を完了して、機械の設置を終え、正式の操業許可を待つのみとなった。  
なお、機械調達のため渡欧していた春木には、別の二つの目的があった。その一つは、当時世界有数の写真工業会社であったベルギーのゲバルト社との提携問題である。  
1932年(昭和7年)、大日本セルロイドが新工場建設地を南足柄村に決めた直後、ゲバルト社の代表が大日本セルロイドを訪れ、写真フィルム工業の原材料、半製品の供給ならびに技術提携と出資を申し入れた。  
大日本セルロイドは、すでに原材料からの一貫製造を決意し、その方向で進んでいたとはいえ、まだ技術面で若干の不安があり、ゲバルト社との技術提携、事業の共同経営の申し出には食指を動かさざるを得なかった。そこで、一度は同社との提携の方針を決め、機械購入のため渡欧した春木に、その折衝をゆだねたのである。  
春木は、ゲバルト社と数次にわたる交渉を行なったが、結局、条件が折り合わず、本社からの指示に従って交渉を打ち切った。  
春木渡欧のもう一つの目的は、足柄工場の本格稼働に備え、特に感光色素の合成と写真乳剤製造について、指導を仰ぐための外人技術者の招へいであった。この件では、ドイツ人技師E.G.マウエルホフ博士(Dr.E.G.Mauerhoff)と契約を締結することができた。 
総合写真感光材料メーカー / 富士写真フイルム株式会社の誕生  

 

足柄工場の建設と並行して、大日本セルロイドは、写真フイルム国産化事業の困難さを訴え、政府に助成措置を申請する。商工省は、この申請を認め、映画用フィルムの製造奨励金として、総額120万円を交付することを決定する。一方、大日本セルロイドは、足柄工場の操業開始に当たって、写真フィルム事業を独立させ、新会社として運営することを決定する。かくして、1934年(昭和9年)1月20日、新会社の創立総会が開催され、資本金300万円をもって「富士写真フイルム株式会社」が誕生する。同年6月には東洋乾板を統合し、ここに、映画用フィルムなど写真フィルムをフィルムベースから一貫製造するとともに、乾板、印画紙の製造を行なう総合写真感光材料メーカーがスタートする。 
商工省の製造奨励金を受ける  
商工省では、このころ、写真フィルム国産化が国家的に極めて重要であるとして、すでに大日本セルロイドに対して、映画用ポジフィルム、ネガフィルムの研究奨励金を交付していたが、写真フィルム工業を、染料、ソーダ灰に次いで、国の助成産業に指定する方針を明らかにしていた。  
このことはまた、写真フィルム事業の国家的重要性が認識されたことを意味し、映画業界や写真業界から、ひとしく好感と感謝をもって迎えられたが、何よりも大日本セルロイドにとって著しい励みとなった。  
大日本セルロイドは、かねてから、足柄工場の建設計画を進めながらも、その工業化はあまりにもリスクが大きく、単独会社の力をもっては容易に実現しがたい実情を述べていたが、足柄工場の建設工事がピークを迎えていた1933年(昭和8年)6月5日、「映画用生フィルム製造奨励金下附申請書」を商工大臣に提出した。  
この申請書は、映画事業の必要性と映画用フィルム国産化の重要性について次のように述べ、その事業完遂がいかに困難であるか、とりわけ、経済的に自立し得る域に達することの困難さを訴え、国家的見地からの援助、すなわち映画用生フィルム国産化のための奨励金の交付を申請したものであった。  
「時代ノ文化ト大衆生活ニ密接ナ関係ヲ有スル映画事業計画ハ今日既ニ世界的ニ異常ナル発展ヲ遂ゲ来レルガ文運ノ進歩ト科学ノ発達ニ伴ヒ斯業将来ノ飛躍ハ端倪スベカラザルモノアリト曰フベシ  
飜ツテ我国ノ映画事業ヲ見ルニ渡来以来約四十年ヲ経過セルガ最近ノ十余年ニ於テハ特ニ其ノ進歩発展目覚シク娯楽映画ハ既ニ演劇ヲ凌駕シ全国千三百有余ノ常設館ハ日日六十万一ケ年二億ノ観客ヲ収容シ演劇ノ僅カニ三千五百万ナルニ比シ雲泥ノ差アリ。都市ハ素ヨリ農、山、漁村大衆ノ娯楽機関トシテ欠クベカラザルモノトナリタルガ今後軍事教化宣伝方面ヘノ利用拡大ヲ考フル時ハ映画事業ノ重要性ハ益々痛感セラルルモノナリ。  
然ルニ映画用生フィルムハ我国ニテハ未ダ全ク其ノ生産ヲ見ズ全部之ヲ海外ヨリ輸入ニ仰グノ状態ナルヲ以テ価格ハ不廉ニシテ供給ハ円滑ヲ欠ク更ニ一朝有事ノ際ヲ考フル時ハ軍事上ノ需要ヲモ充タシ得ズ寒心ニ堪エザルモノアリ映画用生フィルムノ国内生産ハ実ニ最モ重要ニシテ緊切ナルモノト曰フベシ(後略)」  
この大日本セルロイドの申請に対し、1933年(昭和8年)10月14日、「映画用フィルム製造奨励金交付示達書」が下付された。それによれば、一定の規格を設け、決められた規格に合格した映画用ポジフィルムに対して、1フィート(約30.48cm)当たり1銭7厘1毛の割合で、向こう4年間、総額120万円まで交付するというものである。この金額は、当社創立時の資本金300万円と比較しても、当時としては大きな額であった。  
富士写真フイルム株式会社の誕生  
大日本セルロイドは、足柄工場のしゅん工を間近に控えた1933年(昭和8年)11月、写真フィルム事業を分離し、別に新会社を設立して経営することを決定した。  
当初、写真フィルム事業の運営形態については、これまで十数年間注いできた努力を同社内で実らせたいという考えから、大日本セルロイド内の事業として運営すべきであるとする意見も強かった。しかし、究極的には、セルロイド事業がすでに大成の域に到達しているのに対し、写真フィルム事業は、製造についても、販売についても、セルロイド事業とは全く異なる分野であり、将来写真フィルム事業を大成させるには、製造面でも販売面でも、セルロイド事業とは別の取り組みが必要であるとの考え方に基づいて、新会社の設立を決めたのである。  
そして、足柄工場の完成を待って写真フィルム事業を切り離し、それに東洋乾板を合併し、総合写真感光材料工業会社として運営することとした。  
創立総会は、1934年(昭和9年)1月20日、東京市京橋区銀座の菊正ビルで開催された。ここに「富士写真フイルム株式会社」が誕生したのである。創立当初の株主は、大日本セルロイドほか13名であった。  
資本金300万円、本社および工場を神奈川県足柄上郡南足柄村中沼210番地に置き、営業所を上記菊正ビルに設け、大日本セルロイドの写真フイルム部の事業一切を継承し、総合写真工業会社として発足した。事業目的は、定款第1条に「写真及活動写真用フィルム、印画紙、乾板ノ製造及販売」と「写真及活動写真用諸薬品並ニ機械器具ノ製造及販売」および「右ニ関聯スル事業及投資」を営むことと明記された。  
創立当時の役員には、専務取締役社長淺野修一(大日本セルロイド専務取締役)が選任され、就任した。  
淺野社長は、新社名を決めるに当たって、かねてから、東海道を旅行するたびに車窓から仰ぐ“富士”を新社名に冠したいと考えていた。ところが、“富士”はすでに第三者によって商標登録されており、「譲渡してほしい」と何回も交渉したが、“富士”は日本で最も優れた名称だからとして、なかなか譲渡に応じてもらえなかった。しかし、ねばり強く交渉した結果、8、000円という当時としては大金で、やっと譲り受けることができた。  
また、社名に「フイルム」と入れたのは、フィルム国産化こそ当社の使命であるとの考えを明確にするためであった。  
創立時における当社の従業員は、大日本セルロイドからの移籍者に新規採用者などを加え、総数340名であった。従業員のほとんどは青少年であり、この若い従業員を率いる指導者も、淺野社長47歳、作間常務48歳と若く、足柄工場長春木榮、営業部長心得小林節太郎はともに34歳で、生産現場の責任者はいずれも30歳前後の若者であった。  
なお、足柄工場のほかに、大日本セルロイド東京工場構内に、高純度の写真用硝酸銀製造工場を設け、これを志村工場薬品部と称した。また、創立の翌月2月20日には、大阪出張所を開設した。  
東洋乾板を統合  
創立後間もない6月10日、かねてからの合意に基づき、東洋乾板を吸収合併した。  
東洋乾板は、わが国における写真感光材料開発のパイオニアであり、また、当社の創立にも大きく貢献してきたが、15年にわたるその使命を終えて、当社に統合されたのである。  
統合後は、同社を当社雑司ヶ谷工場と改称し、従業員は全員、当社に移籍した。  
雑司ヶ谷工場では、その後も引き続き乾板の製造を行なっていたが、足柄工場での乾板製造が軌道に乗るとともに、これらの製造を中止し、以後、ロールフィルム加工工場として再出発した。  
販売網の確立  
東洋乾板の統合に伴って、その販売網も引き継いだ。  
写真感光材料業界に販売の足場をもたない当社が新規進出するためには、同業界に実績をもつ、東洋乾板の販売ルートに頼る必要があった。  
したがって、当社の営業活動は、販売担当者も、販売組織も、すべて、東洋乾板から引き継いでスタートした。  
また、当時は、コダック社、アグファ社などの外国製品がわが国市場を席巻し、それら外国製品の販売特約店が流通機構を抑えていたため、新規参入が難しい状態でもあった。  
東洋乾板の製品は、株式会社浅沼商会、小西六本店、株式会社美篶商会(現美スズ産業株式会社)、近江屋写真用品株式会社、株式会社大沢商会、山下商店、上田写真機店など、写真材料の有力卸商を特約店として販売されており、この特約店のメンバーを「弥生会」と称していた。すでに1933年(昭和8年)、足柄工場建設工事中から、このメンバーを工場に案内し、各メンバーは新工場に関する理解を深めてきたが、当社創立とともに、「弥生会」のメンバーを当社の特約店とした。このほか、大阪、名古屋にも新規特約店の設定を計画したが、当時の業界の慣習として、新規特約店の設定には、既存特約店の承諾が必要で、その了解を得るために、多くの時間を要した。  
また、当社の発足に先立って、1933年(昭和8年)11月、輸入フィルムの取扱商社である株式会社長瀬商店(現長瀬産業株式会社)に、当社の映画用フィルム製品の取り扱いを懇請し、翌1934年(昭和9年)6月、特約店契約を締結した。これによって、当社の映画用フィルムは、長瀬商店を通して一手販売する道が通じた。しかし、輸入品が支配している市場に、実際に当社製品が進出していくためには、容易ならぬ苦労が伴うことを覚悟しなければならなかった。 
経営の危機 / 淺野社長の悲そうな決意 
新会社発足直後、外国製品の値下げや映画界の「国産フィルムボイコット声明」によって、当社は大きな打撃を受ける。このような情勢の中で、足柄工場は操業を開始し、1934年(昭和9年)4月、映画用ポジフィルム、乾板、印画紙を初出荷する。しかし、いずれも、品質上の問題から販売は難航する。マウエルホフ博士を招へいして写真乳剤の改良に努める一方、生産を一時ストップして映画用ポジフィルムの改良に当たる。しかし、創立以来4期連続の大幅赤字で、当社は危急存亡の危機に立たされる。この時、淺野社長は、「自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、自分と運命をともにされたい」と悲そうな決意を披れきする。 
足柄工場、稼働を開始  
足柄工場は、創立総会に先立って、1933年(昭和8年)12月から、本格操業に向けて試運転を開始したが、前途には、なお多くの困難が横たわっていた。当社の生産技術は、フイルム試験所を中心とするささやかな設備による実験結果をもとにして得たものであり、こうした大規模設備で、直ちに量産に入るには、経験とデータが不足していた。  
創業時の足柄工場の主要な生産設備は、フィルムベース製帯機4機、フィルム塗布機1機、印画紙塗布機1機、乾板塗布機2機であった。  
まず、フィルムベース製造部門では、1933年(昭和8年)12月に第1号製帯機が稼働を始めたのに続き、翌1934年(昭和9年)2月からは、第2号機、第3号機が相次いで稼働を始めた。  
大幅銅帯によるフィルムベース流延の経験がなかったため、当初は、すべて小幅銅帯によっていたが、新輸入機の操作になれるに従って大幅ベースの製造に入った。  
また、フイルム試験所時代から着手していた不燃性ベースの研究も、創業に伴うさまざまな困難に直面しながらも中断せず、大日本セルロイドのセルロースダイアセテートの研究に協力しながら進められていた。  
フィルムベースに写真乳剤を塗布するフィルム製造部門でも、1933年(昭和8年)12月から、塗布機が試運転に入った。全くの新設備であったが、操作は比較的順調に進んだ。しかし、塗布後の乾燥不十分によるトラブルが発生し、乾燥方法の改善や乾燥室の改造などに、さらに工夫を必要とした。  
映画用ポジフィルムを仕上げる加工工程でも、せん孔(フィルム映写のときの送りの穴あけ)の不正確、接合部の不良などの問題が発生し、その解決に苦労した。  
乾板製造部門も、1933年(昭和8年)12月末から試運転に入った。新設備は、東洋乾板時代に比べて、すべての面で優れており、しかも東洋乾板以来の熟練技術者が多く、足柄工場の中では最も順調なスタートが期待された。しかし、乾板用の写真乳剤の製造は、東洋乾板当時と同じ技術者が同じ処方で仕込んだにもかかわらず、同じ感度のものが作れなかった。やむを得ず、当初は、旧東洋乾板の雑司ヶ谷工場で写真乳剤の仕込みを行ない、それを足柄工場に運搬する方法をとった。だが、その原因が水洗用の水にあることを突きとめ、対策を講じてからは品質は安定し、その後作業は順調に進み、やがて雑司ヶ谷工場での写真乳剤製造を中止した。  
「会社に入っていろいろ苦しんだことはありますが、このときほど苦しんだことはありません。工場が動いていて写真乳剤ができないのだから。人にいえない数々の苦しみを味わってきました。」  
当時、乾板部主任であった藤澤信は、後年、この苦しみについてこう語っていた。  
印画紙製造部門では、1933年(昭和8年)12月から、数回にわたる試運転の後、写真乳剤の塗布作業を始めたが、塗布紙にはん点が発生したり、乾燥方法に不適当な点があったりして、後述のとおり、出荷した製品も、返品の山をなす状態で、その改善には若干の日時が必要であった。  
相次ぐアクシデント  
新会社として発足、本格操業に向けて懸命の努力を続けていた当社に、思いもかけない衝撃的な出来事が待ちかまえていた。  
その一つは、コダック、アグファ両社の製品価格の大幅な値下げであり、もう一つは、大日本活動写真協会の“国産フィルム使用反対”の爆弾声明である。  
外国製品の値下げは、当社としてもある程度予期していたことであったが、当社発足直後の1934年(昭和9年)2月1日のこの両社の値下げ発表は、新たに進出を目指す当社にとって、大きな衝撃であった。  
さらに、その衝撃もさめない同年2月4日、大日本活動写真協会の“国産フィルム使用反対”声明が当社を襲った。  
大日本活動写真協会は、日活、松竹、新興キネマ、大都映画などの大手筋を含む映画会社の全国的統一機関で、同協会の“国産ポジフィルムはいまだ使用できる状態ではない”との反対声明は、映画用フィルムの国産化を目的に発足した当社にとって、まさに衝撃的な出来事であった。  
大日本セルロイド時代から、映画用ポジフィルムの試作品を各映画会社へ提供し、何度もテストを依頼していた。いずれの映画会社も、当時高まりつつあった国産品愛用の気運のもとで、国産映画用フィルムのテストに好意を寄せ、耐久試験をはじめ各種試験を丹念に行なって、当社にとっては良き助言者であった。しかし、各映画会社のテスト結果は、当社の試作品はまだ外国製品に及ばないというものであった。  
映画用ポジフィルムの初出荷  
足柄工場の操業開始とともに、映画用ポジフィルムの生産を軌道に乗せるために全力を集中した。その結果、ようやく厳しい規格に合格する映画用ポジフィルムの製造ができるようになり、商工省係官の第1回規格検査を受け、同年4月、“富士陽画用フィルム”として初出荷した。  
これは、大日本セルロイド時代からの長年に及ぶ研究開発がようやく結実し、自力でフィルムベースから開発した国産初の映画用ポジフィルムであるだけに、関係者の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。  
しかし、大日本活動写真協会のボイコット声明もあり、映画会社からの注文は一向になく、製品の在庫はたまるばかりであった。  
こうした苦境を打開するため、足柄工場で品質の改良に努めるとともに、商工省に対して当社製の映画用フィルムの使用促進のための陳情を行ない、映画会社に対する販売活動も積極的に行なった。映画会社の幹部および現場の技術者と頻繁に接触し、見本品の提供や使用条件の説明など、連日これに努めたのである。  
その結果、1934年(昭和9年)6月、かねてから採用を働きかけていた朝日新聞社から、同社のニュース映画に当社の映画用ポジフィルムを採用するという朗報がもたらされた。  
これは、当社の映画用ポジフィルムに対する初のまとまった注文であり、その後、他のニュース映画にも逐次使用される糸口となった。また、後には、朝日世界ニュース映画をはじめ、他のニュース映画のタイトルに「純国産富士フイルム使用」の文字を挿入することができ、当社のイメージアップに著しい効果があった。  
また、劇映画製作各社への働きかけもようやく実を結び、1934年(昭和9年)10月には、待望の長編劇映画にも初めて当社の映画用ポジフィルムが採用されることになった。入江たか子プロのトーキー映画「雁来紅」である。「雁来紅」は、同年11月22日から帝国劇場で上映され、その後、新興キネマの「貞操門答」にも当社のポジフィルムが使われたが、これらは、いずれも画調がさえず、画面の揺れなどが生じ、決して良い結果とはいえなかった。  
その後も、写真乳剤処方の改善を図り、映画製作各社に使用を働きかけた。その結果、一部作品に使用されて、性能の改善のあとは認められたが、フィルムベースの耐久力不足について痛烈な非難を受けた。  
練馬工場(富士スタジオ)の開設  
良質の映画用フィルムを製造するためには、長尺のフィルムを使用して、実際に映画を製作し、大規模な処理テストをする必要があった。これによって、品質の改良ための方向性を見出すことができるし、また、映画製作会社に対して、当社製映画用フィルムの撮影条件、現像条件など、的確なデータを作成提供して、当社製品の適切な使用法を認識してもらう必要があったが、足柄工場の試験設備だけでは、データ作成のための十分なテストができなかった。  
こうした折、1934年(昭和9年)4月、不二映画製作所の建物の買収問題が持ち込まれた。同製作所は、東京練馬の豊島園の裏手にあり、鈴木伝明氏らの経営によるもので、映画製作に必要な設備を持っており、経営不振のため当社に買収の打診がなされたものである。ここで映画用フィルムの長尺テストを行なう目的で、買収に応じた。  
当時、大日本活動写真協会のボイコット声明直後のことであり、場合によっては、自らフィルムを使用して映画製作を行なうことも検討しなければならない事情もひそんでいたのであった。  
諸設備を整えた後、同年8月、練馬工場として発足したが、社外に対しては「富士スタジオ」の名で披露し、現像、プリント業務と合わせて、貸スタジオとして広く映画関係者の使用に供した。  
乾板および印画紙の発売  
乾板および印画紙も、創立直後の1934年(昭和9年)4月に、映画用ポジフィルムと同時に発売したが、その売れ行きははかばかしくなかった。その理由の一つは、当時の写真感光材料業界が閉鎖的で新規参入者に厳しかったこともあったが、要は、製品の品質が外国製品に劣っていたことであった。  
乾板では、1934年(昭和9年)4月、最初に“富士スタンダード乾板”を発売したが、この製品は性能的に思わしくなかった。同年7月に“富士ポートレート乾板”を発売するに及び、ようやく写真館に使用されはじめた。  
この間、後述するマウエルホフ博士の指導による新写真乳剤の研究開発も進み、その完成を待って、翌1935年(昭和10年)9月に発売したのが“A1(エーワン)乾板”で、当時定評のあった英国のイルフォード社の赤札乾板をしのぐとの評価を得た。  
“A1(エーワン)乾板”の評価によって、当社の乾板部門は一応軌道に乗り、その後、同年10月には“富士ポートレート乾板II型”を、同年12月には“富士ネオクローム乾板”を、それぞれ発売した。  
この間、“富士航空オルソ乾板”など、数種の特殊用途乾板の製造にも成功し、相次いで発売した。  
新製品を開発し発売する苦労は、乾板部門も他の部門と変わるところはなかったが、東洋乾板時代の長い経験に支えられて、創立直後のトラブルを克服した後は、比較的早く作業を安定させることができた。  
印画紙も、フイルム試験所時代からの研究成果を基にして、操業当初から、1934年(昭和9年)4月に人像用密着紙“富士”と一般用密着紙“利根”を、同年8月には一般用引伸紙“富士ブロマイド”を、それぞれ発売した。しかし、いずれも保存性に難点があり、数か月経つと変色するというクレームが相次いで発生し、返品の山となり、発売後間もなく、いったん製造を中止せざるを得なかった。  
その後、“利根”と“富士ブロマイド”は、改良して再び発売したが、“富士”はそのまま製造を中止した。  
営業・普及の活動  
当時の写真感光材料の主力需要先は、営業写真館であった。営業写真館は、婚礼写真など、いわゆる記念写真の撮影とプリントがその主業務であり、失敗の許されない仕事である。したがって、営業写真館の写真感光材料選択には、使い慣れと品質の安定度が重要な基準となる。  
写真感光材料は、事前に中身を見て、品質を確かめて選択することができないため、メーカーに対する信用と実績が大きく作用する。新製品が出たからといって、おいそれと使ってはくれなかったのである。  
こうした厳しい情勢の中で、当社は営業活動を開始し、製品の需要先の開拓と販路の拡張に奔走した。  
創業間もなく、東京の営業写真家に対し、菊正ビルで乾板の実験会を催したのをはじめ、各地で実験会、試写会を開き、当社製品の普及に注力した。また、普及班を編成し、北海道から九州までの全国各地、さらには満州(中国東北部)方面までも、くまなく実験会を開催した。また、この機会をとらえて、各地の営業写真館や写真材料販売店を訪問して、販売・普及に努めた。  
「外出のいでたちは、FujiFilmの印がくっきりと押された大型カバンに、乾板や印画紙のサンプルを詰め、朝に“エーワン、ポートレート”を賛え、夕に“利根”を念じ、ひたすらこれを合言葉として、戸別訪問に明け暮れた……。」  
当時のセールス担当者は、創立直後の営業活動について、こう述懐している。  
写真乳剤の改善とマウエルホフ博士  
各製造部門の中で、乾板部門は比較的早く軌道に乗ったが、そもそも当社創立の意図は、映画用フィルムの国産化であり、乾板の売り上げが過半を占めるという状態は、必ずしも正常なスタートとはいいがたいものであった。したがって、当社としては、外国製品に劣らない映画用フィルムの製造を、一日も早く軌道に乗せる必要があった。  
それまで当社製の映画用ポジフィルムの欠陥として指摘されたのは、  
1.画面が暗く、画質が劣ること  
2.フィルムベースの耐久性が著しく劣ること  
3.画面の揺れや、フィルム切れが多いこと  
の3点であった。  
これらの欠点を取り除くべく、品質の改良に全力を傾注した。  
これら欠陥の中で、画質を改良するためには、写真乳剤の改善が必要であるが、この点に関しては、ドイツ人技師マウエルホフ博士の指導によるところが大きかった。  
マウエルホフ博士は、足柄工場長春木榮が先に機械購入で渡欧した際、技術指導のため契約し招へいした写真乳剤の専門家で、写真工業全般についても広い知識を持っていた。  
博士は、1934年(昭和9年)4月に来日し、足柄工場で、写真乳剤の製造研究を指導するかたわら、感光色素合成も指導した。  
足柄工場の若手技術者も、博士の短い滞在期間中にその知識のすべてを吸収しようと、写真乳剤研究を担当した中村真三以下、必死で頑張った。博士の薫陶を受けた当時の若い技術者は、博士の思い出を次のように語っている。  
「それまでわからなかったことが、目が覚めるようにわかったのです。後から考えれば別に難しいことでも何でもない。つかむべき要点があったのです。それまでは、それがつかめないものですから、まごまごやっていた。そしてやる度に違うものができても“写真乳剤は生きものだ”なんてすましていたのです。」(当時足柄工場フイルム部主任心得竹内喜三郎)  
「博士が来たから、当社はつぶれずにすんだ……。博士が写真乳剤の生産方式を確立した。厳しい人で、人を使うことなど何とも思わない。よく徹夜作業をやりました。われわれとしても、1年契約で招いた先生ですから、その間に博士の知識を全部吸収しようと、必死で頑張りました。」(当時足柄工場検査部村上永治、後のフジカラーサービス株式会社取締役会長)  
「博士は、印画紙乳剤の処方についても参考資料を持っていて、向こうではこういう処方でやっているよ、と教えてくれました。それをもとにして“利根”の乳剤を作り直しました。」(当時足柄工場印画紙部庄野伸雄、後の富士ゼロックス株式会社取締役副会長)  
博士の指導によって、1934年(昭和9年)12月には、新写真乳剤製造仕込み装置が完成、写真乳剤の大量仕込みが可能となるとともに、品質の均一性を高めた。  
博士の滞日中の指導で確立された写真乳剤の処方は、フィルム、乾板および印画紙の数十種に及んだ。また、感光色素の研究も、博士の指導によって著しく進んだ。  
マウエルホフ博士は、足柄工場に10か月滞在し、1935年(昭和10年)2月、多くの功績を残して離日した。  
なお、博士の助手を務めたアメリカ人フランシス・ギロイ(F.Gilroy)は、同年6月まで足柄工場に残り、写真乳剤製造の現場技術を指導した。  
マウエルホフ博士の指導で、写真乳剤の改良はされたものの、もう一方のフィルムベースの耐久力不足の問題は容易に解決できなかった。このため、1935年(昭和10年)には、ついに映画用ポジフィルムの生産を一時中止し、根本的な改善に取り組むこととした。  
経営の危機 / 淺野社長の悲そうな決意  
外国製品の値下げ、販売力の不足、品質問題などの事態が相次ぎ、映画用フィルムも、一般用写真感光材料も、販売は不振をきわめ、創立間もない当社の経営は、危急存亡の危機に直面することになった。  
創立初年度(9か月)は、売り上げ54万7、000円に対し、17万円の赤字を計上したが、2年度に入っても好転の兆しは見られず、印画紙は操業を短縮、映画用ポジフィルムはベース不良のため一時生産をストップ。この間、乾板は、“富士ポートレート乾板”、“A1(エーワン)乾板”が、ともに好調であったが、乾板の売り上げのみでは当社の屋台骨が支えられず、創立当初の2年間で、売上高累計205万円に対し、累積損失は33万円に達し、1935年(昭和10年)10月末には、借入金も224万円の巨額に及んだ。  
こうした情勢の中で、淺野社長は、東京銀座の菊正ビルの営業所を閉鎖して、雑司ヶ谷工場内に事務所を移すことを宣言すると同時に、強く緊縮方針を打ち出した。冗費は一切カットし、それによって浮く費用を、技術の向上と設備の改善に充てようとするものである。  
しかし、こうした一連の措置でもすぐには業績が向上するはずもなく、1935年(昭和10年)末、淺野社長は重大決意を表明した。  
「資本金の40%に及ぶ巨額の助成金交付を約束されて、写真フィルム工業を確立して外国品を駆逐することを自分に課せられた使命と観じ、会社経営に当たってきたが、毎期赤字を続けて、会社は憂慮すべき状態にある。前途有為の諸君を、今後どうなるかわからない会社に縛っておくことは忍びがたい。他のよい会社へ転ずる道があるならば、なんら遠慮することなく、当社を去られたい。いまならば退職手当も若干出せる。ただ自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、会社に残って、自分と運命をともにされたい。」  
会社が想像以上の危機にあることを知った従業員は、大きな衝撃を受けたが、淺野社長の率直かつ悲そうな決意表明は、かえって従業員の団結を促し、あくまで会社と運命をともにする決意のもと、全社あげて技術の向上と販売の拡大に取り組むことになったのである。  
「品質第一主義」を貫く 
企業存亡の瀬戸際に立たされた当社は、その中で“品質がすべてを決定する”、“全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる”という教訓を得る。そして、全社一丸となって製品の品質改良に取り組んだ結果、1936年(昭和11年)、新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成する。さらに、映画用ネガフィルム、ロールフィルム、X−レイフィルムなど、相次いで市場に送り出す。これら新製品の発売によって、業績は一挙に好転し、創立以来7期目の1937年(昭和12年)4月期決算で累積赤字を一掃、初の配当を実施して株主に報いる。さらに、同年5月には資本金を1、000万円とする第1回の増資を決議し、足柄工場の大拡張を実施し、総合写真感光材料メーカーとしての業容を整える。  
映画用ポジフィルムの完成とネガフィルムの発売  
創立以来2年間、満足する製品がなかなかできず、品質改善に多大の苦心を払ってきた当社が、その過程で得た教訓は、“品質がすべてを決定する”、“全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる”の二つであった。  
一時は、会社の存続すら懸念される瀬戸際に立たされた当社であったが、淺野社長はじめ、経営者、従業員一丸となって、品質の向上と需要の開拓にまい進した。  
マウエルホフ博士の指導で写真乳剤の生産方式も確立した。フィルムベースの耐久力不足の問題も、製造条件を改善し、また大日本セルロイドの協力を得て、原料リンターの品質を改善するなど、その解決に全力をあげて努力した。その結果、1936年(昭和11年)初頭には、ようやく新しい写真乳剤と新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成した。  
他方、映画用ネガフィルムの研究については、大日本セルロイド時代から着手していたが、本格的に研究が進展したのは当社発足後のことである。  
まず、1934年(昭和9年)8月、ネガフィルム用写真乳剤の試作研究に着手、1936年(昭和11年)4月、当社として初めての映画用ネガフィルム“富士陰画用フィルム”を発売した。  
“富士陰画用フィルム”の発売によって、それまで輸入に依存していた映画用ネガフィルムの国産化が実現し、これで、ネガフィルム、ポジフィルムともに、映画用フィルムの国産化が達成された。  
その後、1937年(昭和12年)、ネガフィルムのパンクロ化(全可視光域の光に感光するようにすること)を実現し、映画製作各社の注目をひいた。また、同年9月には、映画録画用の“富士サウンドレコーディングフィルム”を発売した。  
一方、16mmフィルムの分野では、教育映画界の要望に応えて、1938年(昭和13年)6月に、16mm“富士ポジティブフィルム”を、1943年(昭和18年)2月には16mm“富士スーパーパンクロマティックネガティブフィルム”を完成し、それぞれ発売した。  
ロールフィルムの発売  
一般写真用のロールフィルムの研究も、すでに、大日本セルロイド時代から着手していたが、本格的な研究に取り組むようになったのは、当社発足後のことである。  
そして、創立の翌年、1935年(昭和10年)夏には、ほぼ製品化の見通しを得るに至った。  
そのころ、映画用フィルムが不評で、会社が苦境に陥っていたので、ロールフィルムを発売して苦境打開の一助にしようという考えもあった。それは、ロールフィルムは、加工に手数がかかり、包装経費も高いが、反面、付加価値も大きく、したがって、収益への寄与も相当なものが予想され、ロールフィルム発売の魅力は捨てがたいものがあった。  
しかし、当社は、もともと、映画用フィルムの国産化を目指して設立された会社であり、まず、映画用フィルムの欠陥を解決するのが当面の課題であり、その解決に全力を傾注し、それが達成された後、初めてロールフィルムの製造を始めるべきであると決意して、ロールフィルム製品化の見通しがついていたにもかかわらず、見送ることにしたのである。  
いたずらに安易な道を選ばず、このように困難な課題に正面から取り組んだ姿勢こそ、当社の事業経営の基本理念であった。  
したがって、映画用フィルムの製造が完全に軌道に乗るのを待って、当社はロールフィルムを発売することとし、1936年(昭和11年)4月、当社初のロールフィルムとして、オルソクローム(紫色から緑色までの光に感ずる)タイプの“富士クロームフィルム”と、さらに感度が高い“富士ネオクロームフィルム”を発売した。その後、1937年(昭和12年)6月には、パンクロタイプの“富士ネオパンクロマティックフィルム”を発売し、ロールフィルムの品種を整備した。  
翌1938年(昭和13年)6月、当社初の一般用35mm判(135サイズ)フィルムとして、かねてから研究を進めていた“富士35mmフィルムSP”を発売し、ライカ、コンタックスなど35mmカメラの愛用者の需要に応えた。1940年(昭和15年)10月には、粒状性を改良した“富士35mmフィルムFP”を発売した。  
この間、1937年(昭和12年)9月、“富士ネオクロームパックフィルム”を発売、翌1938年(昭和13年)7月には、“富士ポートレートカットフィルムオルソ”を一部の地域に向けて発売するなど、品種の整備を図った。  
X−レイフィルムの発売  
写真フィルムの新分野として、X−レイフィルムにも着目し、その写真乳剤の研究を進めていたが、1935年(昭和10年)秋にはほぼ研究を完了し、X−レイフィルムの試作を始めた。  
試作品の実技テストを大学病院などに依頼し、そのテスト結果に基づいてさらに改良を進め、翌1936年(昭和11年)、本格生産を開始した。  
そして同年4月、ロールフィルムと同時に、X−レイフィルムを“富士レントゲンフィルム”の名称で発売した。  
当時、わが国のX−レイフィルム市場は、コダック社、アグファ社の製品によって、そのほとんどが抑えられていて、国産品の進出は極めて困難な情勢にあった。  
これらX−レイフィルムを、従来の写真感光材料特約店の販売ルートのほか、医療機器の販売ルートを経由して出荷したが、大病院には当社から直納した。  
また、セルロースダイアセテートを使用した不燃性(DAC)ベースの試作研究を続け、1940年(昭和15年)、“富士レントゲンフィルム(不燃性)”を製品化した。また、同年末には、不燃性ベースを使用した間接撮影用X−レイフィルムも製品化した。  
製版用フィルムの発売  
創立の年、1934年(昭和9年)10月、しゅん工なった足柄工場の見学に訪れた津田隆治氏(後のプロセス資材株式会社社長)は、グラビア製版用ポジフィルムと映画用ポジフィルムの写真性能がほぼ等しいことを指摘し、その製品化を提案した。  
津田氏の提案を受け入れて、グラビア製版用ポジフィルムの試作を進め、1934年(昭和9年)12月、製品化に成功し、“富士プロセスフィルム”として発売、グラビア製版の分野に進出した。  
1939年(昭和14年)9月には、フジリスフィルムを製品化し、同じころ、フジリス乾板も製品化した。その当時のリスフィルムは、今日のような写真製版用としてではなく、地図の複製用として、また、メーターや計器の文字盤、目盛などの製作用として用いられた。そのころ、満州航空写真処から、広大な満州(中国東北部)各地を航空測量し、急速かつ大量に地図を製作するため、寸度安定性の優れた線画・複製用の超硬調乾板の供給を要望され、フジリス乾板はこの要請に沿って開発したものであった。  
このほか、航空写真用として、各種のフィルム、乾板、印画紙を製造してきたが、後に日中戦争ぼっ発後、戦時体制が強化されるに従って、これらの航空写真用製品は、軍用として、品種も増え、生産数量も増大していった。  
印画紙・乾板の品種を拡大  
一方、印画紙、乾板の分野でも、ようやく販売が軌道に乗ってきた。  
印画紙の分野においては、1937年(昭和12年)9月に引伸し用として“ベロナ”を、同年11月には一般用密着紙“那智”を相次いで発売した。“ベロナ”は、以前から研究を続けてきたクロロブロマイド紙で、好評をもって迎えられた。“那智”は国産バライタ紙を初めて使用した製品であったが、性能上不満な点があり、発売の翌1938年(昭和13年)9月、製造を中止した。  
さらに、1939年(昭和14年)12月に“富士複写用ガスライト”を、翌1940年(昭和15年)2月には、オシログラフ記録用の“富士オシログラフ用印画紙”を発売した。また、同年9月には、5か年の長期にわたって研究を続けてきた人像用密着紙“銀嶺”を発売し、品種を整備した。  
乾板の分野では、1938年(昭和13年)6月、分光スペクトル撮影用として“富士分光分析乾板”を発売し、1940年(昭和15年)10月には、高感度人像用乾板“富士ポートレートパンクロ乾板”を発売した。また、翌1941年(昭和16年)9月には、東京天文台と東京帝国大学からの注文で製造した“富士皆既日食観測用特殊乾板”を納入した。  
普及宣伝活動の活発化  
業績が好転し、販売活動が拡大されるのに伴って、1938年(昭和13年)9月、雑司ヶ谷工場内にあった東京営業所の事務所を3年ぶりに都心に移すことにし、東京銀座西2丁目の中島ビル(現大倉商事ビル)に新事務所を定めた。  
営業活動の一環として、普及宣伝活動も、創業時の乾板の実験会以来、積極的に行なってきたが、1936年(昭和11年)4月、ロールフィルムの発売を機に一層活発化した。  
ロールフィルムの発売に当たっては、フィルムの外装箱と発売宣伝用のポスターの図案を募集したのをはじめ、発売披露会、撮影会、懸賞写真の募集など、各種の普及施策を行なった。  
また、各種の定期刊行物を発行し、製品知識の普及を図った。創立時から、営業写真家を対象とした当社製品の紹介誌「富士ニュース」(後に「写真と技術」と改題)を刊行してきたが、その後、アマチュア写真家を対象とする「富士フォト」(後に「富士アマチュアフォト」と改題)を創刊し、アマチュア写真家の手引書として広く配布した。  
1938年(昭和13年)8月には、「富士映画フィルム時報」を創刊した。これは、映画用フィルムの特性の紹介と、撮影、現像についての資料提供を目的として、映画関係者に広く配布したもので、映画各社が当社の映画用フィルムを全面的に使用開始しようとする時でもあり、すこぶる時宜を得たものとして、映画界から好評をもって迎えられた。  
各種の展覧会などにも積極的に参加した。  
1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて開催された国産品改善展覧会、国防博覧会、国産カメラ写真用品展覧会、化学工業製品展覧会などに参加したが、1938年(昭和13年)10月に開催された光学工業振興展覧会では、当社出品の映画用ポジフィルム、写真フィルム、乾板、フィルターの優秀性に対し、商工大臣から優良賞が授与された。  
さらに、1939年(昭和14年)にニューヨークとサンフランシスコで開かれた万国博覧会にも参加し、雑司ヶ谷工場の特大バットで現像した2.1m×3.6mの特大写真のほか、大型写真を多数作成して展示した。  
また、アマチュア対象のロールフィルムの宣伝のため、“冬の写真に感度の速いネオクローム”、“夏でも安心して使える富士のネオパン・ネオクローム”と、製品の優秀性を訴える新聞広告を掲載した。  
その後、戦時色が濃くなるにつれ、新聞広告も“銃後の春を戦線へ”、“愛児のスナップに戦線の慰問に!富士のフィルム”といった時局を反映したものに変わっていったが、普及宣伝活動自体も次第に縮小せざるを得なくなった。定期刊行物も、統制の強化と紙不足の深刻化によって、発行回数の減少と減ページを余儀なくされた。そして、さらに、戦争がか烈化し、軍用以外の写真フィルムの生産が削減されるに及んで、休刊のやむなきに至った。  
累積赤字を一掃、初配当を実施  
新製品の市場への投入と営業活動の強化によって、写真感光材料メーカーの中で、確固たる地位を築きつつあった。  
1936年(昭和11年)には、営業活動強化のため、既設の東京、大阪両出張所に加え、新たに、名古屋と福岡に出張所を開設した。業績面でも、1935年(昭和10年)10月期を底として、好転に向かい、売り上げは年々増大した。  
この売り上げ増は、主として映画用フィルムと乾板の増加、ならびにロールフィルムの商品化によるもので、1937年(昭和12年)4月期のフィルム全体の売上高は、総売上高の47.3%と、ほぼ半分を占めるまでになった。  
それまでの乾板に頼っていた事業構造から、ようやく写真フィルムメーカー本来の姿に近づいてきたのであった。  
売り上げ増に伴って、利益も好転し、創立5期目の1936年(昭和11年)4月期には、わずかながら初めての期間利益を計上し、赤字経営を脱却した。7期目の1937年(昭和12年)4月期決算では、累積赤字を一掃することができ、初の6%配当を実施して、株主に報いた。  
引き続き、8期目の1937年(昭和12年)10月期も順調に業績をあげ、6%配当を維持できた。ここにおいて、もはや映画用ポジフィルムに対する製造奨励金の交付は受けるべきでないとして、翌1938年(昭和13年)1月、奨励金の交付を辞退する旨申請した。  
なお、当社が、創業時の苦難を乗り越えて、ここまでこられたのは、資金面でも、大日本セルロイドの援助と、三井銀行、三井信託をはじめとする関係金融機関の理解に負うところが大きかった。  
足柄工場の拡張、資本金1、000万円へ増資を決議  
1930年代半ばを迎えて、映画は年を追って隆盛の一途をたどり、映画館の年間延べ観客数は、1936年(昭和11年)に2億5、000万人に、翌1937年(昭和12年)には2億9、000万人に達した。これに伴って、映画用フィルムの使用量も増大、当社製品に対する需要が激増した。  
この需要増は、当社製品の品質の向上が次第に需要者に認識された結果、信頼をかち得たものであったが、一方、国際情勢の変化に伴う国産品の使用奨励の動きも大きな要因であった。  
1937年(昭和12年)2月、こうした状況のもとで、足柄工場の大拡張計画を決定した。  
内外の情勢が流動している中での設備の拡張については、当座の需要に見合う程度にとどめ、しばらく情勢の変化を見守ったほうがよい、という自重論も強かった。しかし、淺野社長は、「映画は現代人のし好に合致し、今後ますます盛んになり、それに伴って当社の映画用フィルムに対する需要も、国際情勢のいかんにかかわらず増大するに違いない。もともと、映画用フィルムの国内完全充足は、当社創立以前からの宿望であり、いまこそ宿望達成のための絶好のチャンスである」として、足柄工場拡張計画を決断したのであった。  
この拡張計画の最重点項目は、フィルムベースの生産能力の向上であったが、フィルム部門、印画紙部門、乾板部門も、同時に拡充を図ることとした。  
フィルムベース部門では、すでに1935年(昭和10年)10月、第1次拡張工事を行ない、次いで1937年(昭和12年)2月に第2次拡張工事を行なったばかりであったが、直ちに第3次拡張工事に着手、翌1938年(昭和13年)1月には、建物工事を完了した。  
3回の拡張工事によって、製帯機も逐次増設し、その数は、1938年(昭和13年)末には、累計23機となり、これに関連する仕込、溶剤回収、蒸留などの諸設備も増強し、フィルムベースの生産能力は大幅に向上した。  
フィルム部門では、すでに1936年(昭和11年)に第2号塗布機を設置し生産能力を高めたが、引き続き、関連設備の能力向上、塗布スピードのアップ、加工設備の増強などを行なった。また、雑司ヶ谷工場でも、ロールフィルム加工作業ができるように改造し、足柄工場と合わせて生産能力を向上させた。  
乾板部門、印画紙部門においても、1938年(昭和13年)1月、乾板第3号塗布機、1939年(昭和14年)12月、印画紙第2号塗布機をそれぞれ増設し、付帯設備も含めて、生産能力を大幅に増強した。  
さらに、空調設備やボイラー設備も増設し、一連の倉庫も新設した。  
これら大増設工事の完了により、足柄工場の生産能力は大幅に向上し、フィルムベースから一貫生産する総合写真感光材料メーカーにふさわしい威容となった。  
足柄工場の拡張計画に併せて、原料薬品工場の建設、研究所の設立など、次代への成長・発展を目指して、総合計画を策定、その実現のため、1937年(昭和12年)5月の定時株主総会において、同年8月2日付で資本金を300万円から1、000万円に増資することを決議した。増資の払込みは、同年8月から1941年(昭和16年)9月まで、4回に分けて行なわれた。 
日中戦争のぼっ発と戦時体制への移行  
1937年(昭和12年)7月、日中戦争がぼっ発し、わが国は戦時体制に移行する。経済統制が実施され、写真感光材料の輸入が大幅に制限される。そのため、国内メーカーの市場が拡大し、当社も需要増に対処する。その後、日中戦争が長引くにしたがい、統制はますます厳しくなり、写真需要は停滞してくる。写真感光材料業界では、1941年(昭和16年)には、日本写真感光材料統制株式会社が設立される。この間、海外市場の開拓に注力し、満州(中国東北部)および中国大陸の市場へ進出する。一方、従業員の増大に伴って、福利厚生、従業員教育の充実を図る。産業報国会を結成し、時局に対応する。 
日中戦争のぼっ発と輸入規制  
1937年(昭和12年)7月7日、中国北京郊外の蘆溝橋で起こった発砲事件がきっかけで、日中両軍が衝突、これが発端となって日中戦争がぼっ発した。  
わが国は戦時体制となり、経済統制が進められていった。同年9月、「輸出入品等臨時措置法」が公布され、カメラ、フィルム、印画紙、乾板などは、軍需用、医療用などを除いて輸入が禁止されることとなった。これによって、わが国に大きな市場を持つ外国メーカーは、わが国からの撤退を余儀なくされ、国内メーカーに市場拡大の好機を提供することになった。その結果、カメラ、フィルムなどの写真用品の1938年(昭和13年)の輸入額は、前年の4分の1に減少した。  
なお、1937年(昭和12年)8月には、北支事件特別税(後の物品税)が課せられることになり、航空機用、X−レイ用を除く写真感光材料には、一律20%の税が課せられることになった。  
映画の統制  
日中戦争のぼっ発に伴い、映画界もまた、興行時間の制限、外国映画の輸入制限など、統制が強化されてきた。  
1939年(昭和14年)10月「映画法」が施行され、映画の製作、配給、興行の全分野にわたっての統制は一段と強化され、脚本の事前検閲、文化映画・ニュース映画の強制上映などの措置がとられるようになった。  
1940年(昭和15年)4月には、朝日、大毎東日、読売、同盟のニュース映画が統合、一元化され、社団法人日本ニュース映画社が設立された。同社は、翌年5月には、社団法人日本映画社と改組された。  
さらに1941年(昭和16年)9月、映画を国策遂行の目的に活用するため、映画用フィルムの民需用の使用が制限された。劇映画会社は、松竹、東宝、大映の3社に統合され、製作本数も一段と制限された。  
また、文化映画の製作各社も統合され、この機会に、当社練馬工場(富士スタジオ)は、1941年(昭和16年)、社団法人日本映画社に吸収され、当社から離れた。  
このように、映画製作に関する統制が強化されてきたが、映画は、当時の唯一の大衆娯楽であり、また、国民の時局に関する認識を深めるものとして、日中戦争開始後も衰微することなく、観客数は増加していった。  
戦時体制下、映画用フィルムの輸入規制が強化され、当社1社によって映画用フィルムを供給することになったので、ますます供給責任が重くなったことを痛感し、生産の増加に努めた。  
一般写真感光材料の統制  
ロールフィルム、印画紙など一般写真感光材料も統制された。  
1939年(昭和14年)10月18日、政府は価格等統制令を公布し、物価・運賃などを同年9月18日現在の価格に凍結した。これによって、写真感光材料の価格も固定された。1940年(昭和15年)6月には、写真感光材料の公定価格が設定された。  
この公定価格の設定を機に、写真感光材料メーカー各社は、1940年(昭和15年)6月、日本写真感光材料製造工業会を結成、資材の調達や業界全体としての生産計画の立案など、業界としての諸問題の解決に当たった。  
1941年(昭和16年)8月、重要産業団体令が公布され、国防上重要とされる産業については、産業別に統制会が結成されることになった。写真感光材料業界は、この指定を受けなかったが、日本写真感光材料製造工業会では、時局がら、統制会を結成すべきであるとの声が強く、また、商工省の要請もあって、同工業会の改組について協議し、1941年(昭和16年)12月、新たに日本写真感光材料統制株式会社が創立された。当社の淺野社長は、同社の取締役に就任した。  
また、カメラおよびその付属品の製造業者も団体結成の準備を進め、1941年(昭和16年)7月に、東京および関西の団体の連絡機関として全国写真機械製造工業連合会が結成された。  
団体結成の動きは、卸売商、写真材料小売商にも及んだが、後に、太平洋戦争ぼっ発後は、統制は一段と強化され、1943年(昭和18年)1月には、日本写真感光材料販売株式会社が発足し、従来の卸機構は廃止された。さらに、翌1944年(昭和19年)3月には、日本写真感光材料販売株式会社は、日本写真感光材料統制株式会社に吸収合併され、生産から配給までの統制が一元化された。  
日中戦争ぼっ発までの営業写真館は、正月写真、卒業写真、婚礼写真などの記念写真でおおむね順調な営業を続け、写真材料販売店も、写真愛好家に支えられて、良好な売れ行きを示していた。しかしながら、戦争ぼっ発に伴い、時局に対する遠慮から、民間行事も次第に自粛され、簡素化されて、営業写真館のスタジオは次第にさびれ、アマチュア写真家もカメラを持ち出す機会も少なくなってきた。  
この写真需要の減退傾向は、その後、一時的に持ち直した。しかし、軍事機密の保持のために、写真撮影の制限も強化され、戦時体制が進むにつれて、写真需要は次第に沈滞していった。  
満州(中国東北部)・中国への輸出  
写真フィルムの国産化を目的に創立されたが、単に国内への供給ばかりではなく、いずれは世界市場へ打って出ることを目指していた。  
そこで、製品が国内市場で受け入れられるようになると、時を同じくして、海外市場の調査を開始し、まず、満州(中国東北部)および中国本土への輸出を計画した。  
海外市場の可能性調査では、1937年(昭和12年)、フィルムベースをイギリスとチェコスロバキアに送り、テストに供したのをはじめ、同年9月には、竹内覚二(後の富士天然色写真株式会社取締役社長)を欧米および東南アジア各国に派遣して市場調査を行なった。  
また、1938年(昭和13年)には、映画用ポジフィルムを米国に送り、その評価を通して情報を得ることに努めた。その結果、米国の有力映画フィルム現像会社からの引き合いを受けるに至ったが、量的に当社の生産能力を上回り、また、価格面でも折合いがつかず、商談は成立しなかった。他方、当時米国に次ぐ大きな映画市場であったインドの映画会社から、映画用ポジフィルムの引き合いを受け、商社経由で若干の輸出を行なった。他の東南アジア地域へのフィルムや印画紙の輸出は、結局、成約をみるに至らなかった。  
一方、満州(中国東北部)および中国本土への輸出は、この地域におけるおう盛な需要や、外国メーカーに比べての決済上の有利性などから急速に増大し、創立間もない当社の経営基盤を固めるために大きく貢献した。  
これらの地域への輸出が伸展するにつれて、販売網の整備も行ない、1937年(昭和12年)4月、大連に出張員を置いた(同年12月大連出張所を開設)のをはじめ、同年11月には京城(現韓国ソウル)に出張員を置き(翌年3月、出張所を開設)、1938年(昭和13年)3月には、新京(現中国長春)に出張員事務所を開設した。  
中国本土には、1939年(昭和14年)9月上海に、1940年(昭和15年)4月天津に、それぞれ出張員を派遣、その後1943年(昭和18年)12月には天津に出張所を開設し、販売活動の充実を図った。  
この間、1938年(昭和13年)5月、大連で全満州写真材料商組合主催の国産カメラ写真用品展覧会が開かれ、当社もこれに積極的に参加し、同地域での市場開拓に当たった。  
これら地域への販売は、ロールフィルム、印画紙、乾板、映画用フィルムなどが順調に伸び、1941年度(昭和16年度)には、全売上高に占める比率も20%近くに達した。  
しかし、その後、太平洋戦争の戦火がわが国の周囲に及ぶに従って、これら各地の出張所も縮小し、やがて終戦を迎えることになった。  
従業員の増大と産業報国会の結成  
創業時に、足柄工場に従業員の社宅を建設したほか、食堂、配給所、クラブハウス、運動場などの施設を設けるなど、発足当初から従業員の福利厚生には特に留意してきた。  
その後、従業員数は年々増加し、1937年(昭和12年)3月には、1、000名を超えたが、日中戦争のぼっ発によって、従業員の就業の面でも影響が出てきた。1938年(昭和13年)4月、国家総動員法が公布され、翌1939年(昭和14年)には、賃金統制令、国民徴用令などが順次施行され、賃金の額や技術者・作業者の配置が、国家統制のもとに置かれるようになった。このような情勢下にもかかわらず、当社の従業員数は、工場の新設もあって、引き続き増加し、1941年(昭和16年)3月には、2、274名と、創立当初の7倍となった。  
国家統制が強化される中で、従業員数の増大に伴って、従業員教育や福利厚生により一層細かい配慮を払った。  
戦時体制措置の一つとして、政府の指導によって、戦時下の産業報国運動が推進され、産業報国会が組織されはじめた。当社においても、1939年(昭和14年)9月、新たに「富士写真フイルム産業報国会」が結成された。  
当社の産業報国会の活動は、応召従業員への慰問品送付、出征軍人遺家族の農事手伝いなどのほか、工場全体または職場単位で、講習会、練成会を催した。体育面でも、産報体操、ラジオ体操などを毎日行なうほか、足柄工場では、箱根明神岳越えの強歩大会などを催した。さらに、特設防護団を編成して空襲被害の防止に努めた。  
また、青年学校での就学が義務づけられたため、1939年(昭和14年)4月、足柄工場内に「私立富士写真フイルム青年学校」を開校し、その後、小田原工場にも、青年学校を設立した。  
1941年(昭和16年)4月には、足柄、小田原両工場に、新たに技能者養成所を設置し、3年制による技能者養成教育を始めた。 
 
この間、作業環境の改善にも注力した。1940年(昭和15年)6月から約1か年にわたり、作業台・照明の改善、作業の標準化、作業者の適正配置、交代制などについて、専門家に調査を依頼して改善案を求め、この提案を参考に、労働条件の改善に努めた。  
また、1942年(昭和17年)2月には、水源地に近い丘の上に、付属診療所を開設した。小田原保健所長堀越敏雄を診療所長として迎え、作業員、家族の疾病治療に当たるほか、工場の衛生管理にも努めた。  
原材料の自給化 / 小田原、川上、今泉工場の設立 
写真感光材料の原材料は、高度の品質のものが要求され、かつ、企業秘密に属する部分が多いため、自家製造するのが理想的である。また、わが国の戦時体制への移行に伴い、原材料の海外からの調達は次第に困難となる。セルロースナイトレート、乾板ガラスなどの主要原料について、国産メーカーから供給を受ける。一方、原料薬品製造のため、1938年(昭和13年)、小田原工場を建設したのを手はじめに、川上工場(ゼラチン工場)、今泉工場(バライタ紙用原紙工場)を建設し、自給化を進める。しかし、日中戦争の長期化に伴い、バライタ紙用原紙の生産はできなくなり、今泉工場は、地図用紙などの製造に当たる。  
原材料の調達  
写真感光材料の原材料は、高度の品質のものが要求され、かつ企業秘密に属する部分が多いため、原則として自家製造するのが理想的であるが、すべてを自家製造することは、資金、設備、技術などの点で困難であった。  
フィルムベースの主原料であるセルロースナイトレート(硝化綿)については、当初、セルロースナイトレート工場をフィルム工場に併設する計画で、フイルム試験所内に実験設備を設置した。しかし、製造の際発生する硝酸ガスによる写真乳剤への悪影響が懸念されたため、別工場で製造する方針に変え、大日本セルロイド網干工場で研究が始められた。数年にわたる研究の結果、フィルムベース用のセルロースナイトレートの製造が可能になり、全面的に大日本セルロイド網干工場から供給を受けることとした。  
乾板用ガラスは、当初は輸入板ガラスを使用した。この間、旭硝子株式会社で試作が進められ、同社との技術連絡を密にし、研究を重ねた末、1936年(昭和11年)以降は、国産ガラスに切り換えた。  
感光物質をつくるのに最も重要な原料は、硝酸銀と臭化カリウムであり、また、各種の感光色素も必要となる。硝酸銀は、高純度のものを多量に要するため、当初から自家製造の方針を決め、東京志村の大日本セルロイド東京工場構内に、当社志村工場薬品部を設けて自家生産を行なった。  
臭化カリウムは、当初、国内の製薬工場から購入していたが、1937年(昭和12年)7月以降は志村工場で自家生産を行なった。  
感光色素は、すべての写真感光材料メーカーが秘密にしており、自社で開発するより方法がなかった。すでに東洋乾板時代から、理化学研究所の尾形輝太郎博士の指導を受けて研究・製造していたが、当社発足後は、足柄工場や雑司ヶ谷工場に研究室を設け、自社内で研究と生産を行なった。  
ともに主要原料であるゼラチン(感光性物質を支持体の上に長期間安定的に保つ物質)とバライタ紙(表面に硫酸バリウム層を塗布した印画紙の支持体)は、当時、国内には製造メーカーがなく、将来自家製造する計画もあったが、創立当初は輸入品を使用した。  
原料薬品の自給化 / 小田原工場の建設  
写真感光材料の生産に対応して、原料薬品の安定供給を確保するためには、足柄工場の近くに原料薬品生産の総合工場を持つ必要があった。  
足柄工場に併設できれば理想的であったが、同工場敷地内には適当なスペースがなく、仮にあったとしても、感光色素の場合、合成過程で発生するガスによる写真感光材料製品への悪影響が懸念され、同一敷地内に置くことには問題があった。  
そこで、足柄工場の近くに原料薬品の総合工場を建設するため、用地を探し求めていた折、小田原駅と酒匂川との中間に土地売り出しの話があった。  
この土地には、かつて小田原紡績株式会社の工場があり、関東大震災で工場が崩壊し、そのまま放置されていたものであった。東海道線の線路沿いで、小田原駅から近く、足柄工場からも約10kmのところにあり、しかも、豊富な工場用水にも恵まれ、工場用地としては格好の条件を備えていた。  
この土地を益田信世氏(後の小田原市長)のあっ旋で買収した。  
そして、1937年(昭和12年)12月、第1期建設工事に着手し、翌1938年(昭和13年)6月、研究室、感光色素製造室などが完成した。これに伴って、感光色素の研究・製造部門が、足柄工場からここに移転した。  
その後も引き続き、臭化カリウム製造室、精密機械製作室などを増築、さらに1939年(昭和14年)4月には、硝酸銀工場などを新築した。  
小田原工場の完成に伴い、1939年(昭和14年)2月、志村工場の臭化カリウム製造設備を移設、翌1940年(昭和15年)8月には、硝酸銀製造設備も移設した。  
なお、臭化カリウムは、約1か年小田原工場で製造を行なった後、1940年(昭和15年)8月に大塚製薬工場(現大塚化学株式会社)に生産を移管し、その場所を利用して写真現像薬品“モノール”、“ハイドロキノン”を製造することにした。  
ゼラチンの自給化 / 川上工場・狩野工場の設立  
写真感光材料の重要原料であるゼラチンは、当社創立当時、国内には写真感光材料に使用できる良質のゼラチンを製造するところがなく、すべて外国からの輸入でまかなわれていた。  
将来ゼラチンを自家製造する構想もあって、創業後間もなく、足柄工場内にゼラチン研究室を設け、ゼラチン製造に関する基礎的研究を行なった。  
日中戦争のぼっ発でゼラチンの輸入が困難になってきたため、国産ゼラチンの開発を急がなければならなくなり、国内のゼラチンメーカーである日本皮革株式会社(現株式会社ニッピ)、新田膠質株式会社(現新田ゼラチン株式会社)との技術協力を積極的に進め、写真用ゼラチンの国産化研究を進める一方、輸入ゼラチンとの混用などについて研究を進めた。その結果、1939年(昭和14年)には、国産ゼラチンを50%混用しても写真性能がほとんど劣らない乾板の製造に成功した。また、同じ年、映画用ポジフィルムでも95%までの混用が可能になり、以降、その他のフィルムでも国産ゼラチンを使用できるようになった。  
一部の特殊ゼラチンについては、輸入ゼラチンのストックに依存していたが、その在庫も年々減少してきた。この特殊ゼラチンの製造研究を目指して、1940年(昭和15年)11月、足柄工場の構内、研究所の西側に、パイロットプラントを建設した。これまでのゼラチン研究室にあった研究用の施設もここに移し、また、製造用装置も設置して、これを狩野工場と称し、研究兼製造工場とした。  
また、一方で、1938年(昭和13年)から、長野県南佐久郡川上村に工場を置く株式会社日本化学工業所に投資して、写真用ゼラチンの製造研究に関し提携してきたが、翌1939年(昭和14年)には、同社に追加出資し、その経営に参画することとした。  
その後、日中戦争が長期化し、また、ヨーロッパで第2次世界大戦がぼっ発したことに伴って、もはや輸入は全く不可能となり、特殊ゼラチンの自給が焦びの急となってきた。このため、かねてから意図していたゼラチン工場新設計画は日時を要することもあって放棄し、日本化学工業所を吸収合併することにし、1941年(昭和16年)11月、同社を合併した。同社の従業員全員を当社に吸収し、翌12月、当社川上工場として新発足させた。  
川上工場は、地理的には足柄工場から離れており、また、生産能力も小さかったが、海抜1、100mの高所にあり、清澄な空気、夏期の低温と豊富な水量は、ゼラチン製造にとって好条件であった。川上工場の設立によって、写真用ゼラチンについて、一応の自給体制を確立した。  
川上工場が発足した1941年(昭和16年)12月、わが国は、太平洋戦争に突入し、翌1942年(昭和17年)5月、企業整備令が公布された。これによって、全国のゼラチンメーカーに対しても統合整備が実施され、当社のゼラチン生産部門は、川上工場のみを残し、狩野工場は閉鎖することになった。  
その際、軍需省のあっ旋で、北海道地区でゼラチンの製造を計画していた北海道化学工業有限会社(後に株式会社に改組)に技術協力し、1945年(昭和20年)3月に狩野工場の操業を停止した後、その設備を同社に移設することとした。  
この移設は、太平洋戦争終戦時の混乱の影響で、1946年(昭和21年)に完了した。北海道地区でのゼラチン事業化の構想も考えて、その後、北海道化学工業へ出資した。しかし、戦後の原料事情の悪化もあって、北海道化学工業の経営も行き詰まり状態となった。  
その後、戦後の復興も徐々に進み、内地におけるゼラチン事情の見通しに明るさが見えてきたこともあり、北海道におけるゼラチン事業を断念することにし、1950年(昭和25年)6月、北海道化学工業から撤収するに至った。  
バライタ紙の研究 / 今泉工場の建設  
三菱製紙株式会社では、かねてから、バライタ紙の国産化の研究を進めており、同社から試作見本が提供されていた。当社としても、輸入に依存していたバライタ紙が国産化されることは、戦時色の濃くなった折から望ましいことであると考え、三菱製紙と技術連絡を進めていた。  
その後、三菱製紙でバライタ紙の製造研究が進み、1937年(昭和12年)秋には、同社の製造品は一応使用に耐え得るようになった。そこで、1938年(昭和13年)初め、同社との間にバライタ紙売買に関する契約を取り交わし、輸入品から国産バライタ紙に切り換える道をひらいた。  
当社でも、いずれはバライタ紙を自給する計画で、大日本セルロイド時代からその研究に着手していたが、創立直後は、バライタ紙の研究に経費をさく余裕がなかった。  
1936年(昭和11年)10月、当社はドイツ人技師エミール・ウィンキン(Mr.E.Winkin)を招き、翌1937年(昭和12年)6月には、大日本セルロイドから片倉健四郎(後の初代今泉工場長)を迎え、バライタ紙の製造研究を進めた。当初は、小田原工場にバライタ塗布設備を設けることも企図したが、結局、1937年(昭和12年)12月、暫定的に足柄工場内に研究用のバライタ塗布設備を設けた。1939年(昭和14年)9月までに、各種バライタ紙の試作研究を完了し、量産体制の準備を整えた。  
そこで当社は、バライタ紙用原紙の製造工場の建設を計画立案したが、戦時下で、工場新設は困難であったため、既存の工場を買収することにした。たまたま、静岡県富士郡今泉村(現富士市吉原)に、北辰製紙株式会社の遊休工場があった。足柄工場からも日帰り圏内にあり、良質の工業用水にも恵まれていたことから、同工場の買収を決め、1939年(昭和14年)4月、土地、建物、機械設備も含めて買収し、同年5月1日、当社今泉工場として発足した。  
買収した北辰製紙の生産設備は、そのままではバライタ紙用原紙の製造には利用できないので、設備の大半を全面的に改造することにした。1941年(昭和16年)10月、長網抄紙機の設置を完了したが、この工事中に情勢が大きく変化した。戦時統制下、今泉工場は、バライタ紙用原紙製造用として稼働することができなくなり、軍用地図用紙製造に転換せざるを得なかった。この結果、1941年(昭和16年)7月、ついにバライタ紙製造計画を打ち切り、以降、バライタ紙は、すでに生産が軌道に乗っている三菱製紙から供給を受けることになった。 
研究所の設立と天然色写真の研究  
写真化学の分野については、世界の有力メーカーは、独自の研究所を設け、研究開発にしのぎを削っている。当社も、長い歴史を持つ海外の先進企業に追いつくために、早くから、独自の研究所の設立の必要性を痛感し、一応の経営の基礎が確立した1939年(昭和14年)、研究所を設立する。研究所は、写真乳剤の研究、天然色写真の研究、フィルムベースの研究、合成薬品の研究などに取り組む。天然色写真の研究では、モザイクスクリーン方式と、多層発色現像方式の研究を進める。そして、バイパック乾板、転染式カラー印画法、二色方式天然色写真フィルムなどを試作、来るべきカラー写真時代の基礎を築く。 
研究所の設立  
写真化学の分野では、世界各国とも、政府、大学には十分な研究機関がなく、海外の先進企業は、いずれも、早くから独自の研究所を設けて研究開発を進め、技術の研さんにしのぎを削っていた。  
当社も、早くからその必要性を痛感してきたが、創立以来、当面の生産施設の充実に追われ、また、業績不振のために、研究所の設立まで手が回らず、感光色素のささやかな研究室と生産現場における試験室で、さしあたり必要な研究を行なっていた。  
生産が軌道に乗り、業績が好転したいま、後発メーカーである当社が、長い歴史を持つ海外の先進企業に一日も早く追いつくためには、当社独自の研究陣と研究施設、すなわち総合研究所の設立が重要な課題となってきた。  
1938年(昭和13年)1月、足柄工場の北側の農地を買収し、翌年3月、ここに木造平屋建の研究所の建物をしゅん工し、1939年(昭和14年)6月1日、研究所を発足させた。研究所長には、藤澤信が就任した。  
研究所には、写真乳剤の研究、天然色写真の研究、フィルムベース研究の三つの部門が置かれたが、従来からあった小田原工場の合成研究室、雑司ヶ谷工場内の研究室も新発足の研究所の所管となり、相互に連携して、研究に当たった。  
また、1940年(昭和15年)2月、マルチン・ビルツ博士(Dr.M.Bilz)を迎え、研究所に光学測定研究室を設けた。  
研究体制の整備と併せて、海外における写真工業の動向視察と技術の吸収を目的に、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)にかけて、技術者を海外に派遣し、より一層の研究の進展を目指した。  
研究所は、発足後、写真乳剤の基礎研究、各種の色素・添加剤の開発などを進めてきたが、その後、太平洋戦争のぼっ発により、研究テーマは、軍用、とりわけ航空関係のテーマに集中することとなった。また、軍需上の要請に基づき、写真感光材料メーカーの技術公開も行なわれた。  
天然色写真の研究始まる  
1939年(昭和14年)6月、研究所の発足と同時に、天然色写真の研究に着手した。  
「カラー写真」という言葉は、戦後のもので、戦前はすべて「天然色写真」と言っていた。  
まず、欧米の先進メーカーの天然色写真について、その方式の検討、材料の分析、製造方法などについて研究を進めた。  
当時、天然色写真には種々の方式があり、1939年(昭和14年)に、モザイクスクリーン方式(赤、緑、青の3色の微細な粒子または格子状のスクリーン上にパンクロ乳剤を塗布し、スクリーン面側から撮影し、現像処理して、透過用の天然色写真とする方式)と、多層発色現像方式(フィルム上に、赤、緑、青の、それぞれの色に感じる三つの写真乳剤を重ねて塗布し、現像によって発色させる方法)の二つの方式を同時並行して研究を進めた。しかし、世界のすう勢から、結局、1940年(昭和15年)からは、多層発色現像方式に絞って研究を行なった。  
当社の当時の多層発色現像方式は、発色剤の入った現像液で、撮影済みのフィルムを現像し、一層ずつ発色させて、シアン、マゼンタ、黄色の三つの画像によって構成される透明陽画にする三色方式の外型方式反転発色現像法であった。  
外型方式の多層発色現像方式によって天然色写真用フィルムを製造するには、三つ以上の層を重ね合わせる多層塗布の技術と、各色層を分離させ発色させる現像処理技術の開発が必要であった。  
しかし、この多層塗布と分離発色現像の技術は難しかったため、比較的容易に製造できるバイパック方式(2枚の乾板の写真乳剤面を合わせて撮影し、それを分離して発色現像し、その後再び合わせて透過光で見る天然色写真方式)の研究も同時に進め、1940年(昭和15年)秋に、まず、バイパック乾板を完成した。  
この技術は、その後、天然色写真の主流となる多層発色現像方式の基礎となった。  
1941年(昭和16年)3月には、四切サイズ(25.2cm×30.3cm)の大型天然色バイパック乾板を製造し、「天然色写真と印刷の展望展」に出品した。当社の天然色写真の先駆ともいうべき、この大型天然色写真は、業界に大きな反響を呼んだ。  
また、別方式として、現在の印刷方式と類似する転染式カラー印画法(オリジナル原画から、分解版3枚を作り、それぞれを三原色の各染料に浸し、それを3回重ねてカラー写真を得る方式)の研究も行ない、1941年(昭和16年)に完成をみた。  
この間、多層塗布技術や分離発色現像技術の研究も進み、1942年(昭和17年)に入ってからは、二色方式(可視光域を二つに分けて記録し、発色現像によって、青緑色と赤橙色の色画像として色再現を行なう方式)の天然色フィルムの現像処理の研究に着手した。  
1943年(昭和18年)2月には、天然色写真研究室1棟を建て、16mmフィルムと35mmフィルムの自動現像機を据え付け、三色方式映画用天然色フィルムの現像処理の研究にも着手した。  
このころ、軍から、戦地で処理できるという条件で、航空用天然色フィルムの研究を命令された。これまでの研究成果をもとに、処理の比較的簡単な外型方式の二色方式でこれに対処することにし、1944年(昭和19年)、フィルムの多層塗布、混色防止の処理技術を確立し、軍の採用するところとなった。しかし、このころから戦局は敗色濃厚となり、航空撮影テストも不可能な状態で終戦を迎えた。  
また、1944年(昭和19年)には、軍用の研究として、内型方式(写真乳剤に発色剤を添加し、各層を同時に現像処理して発色する方式)のカラーネガフィルム、カラーペーパーの研究にも着手した。  
来るべきカラー写真時代の基礎研究がこの時代にスタートしたといえよう。  
光学ガラス、レンズ、光学機器への進出 
写真感光材料メーカーとして出発したが、いずれはカメラの製造をも行ない、総合写真工業会社として発展することを目指していた。そして、写真フィルム分野で基礎をほぼ確立した1940年(昭和15年)3月、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を目指して、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設する。しかし、折からぼっ発した太平洋戦争によって、民生用カメラの製造は不可能となる。しかし、軍用光学機器製造のため光学ガラスの需要が急増、当社は増設に次ぐ増設で需要に対処する一方、既設の光学機器メーカーを傘下に収め、また、富士写真光機株式会社を発足させる。これらは、戦局の激化に伴って、すべて軍用光学機器の生産に充当される。  
光学ガラス工場の建設  
写真感光材料メーカーとして出発したが、関連するカメラ、レンズの分野についても、かねてから調査を進めていた。そして、いずれ将来は、光学機器部門も含めた総合写真工業会社として発展していくことを目指していた。  
写真フィルムの一貫生産体制がほぼ確立した段階で、レンズの素材からカメラ製造に至るまでの一貫生産を企図し、輸入事情が次第に厳しくなる情勢も踏まえて、まず、光学ガラスの生産から始めることとした。  
当時、わが国における光学ガラスの製造は、民間では、わずかに日本光学工業株式会社と小原光学硝子製造所(後に株式会社に改組)の2社のみであり、光学ガラスの需要に対しては、そのほとんどを輸入に依存している状態であった。  
当社にとって、光学ガラスの製造技術は全く未経験の分野であり、開発に当たっては多くの困難が予想されたが、1939年(昭和14年)、発足後間もない小田原工場の構内で、光学ガラス工場およびレンズ工場の建設に着手した。  
光学ガラスの生産開始に当たっては、1939年(昭和14年)2月、まず、三宅源一郎(後の当社小田原工場長)ら4名を、大阪工業試験所に派遣し、光学ガラス製造の全工程について、技術指導を受けた。同試験所長高松亨博士は、わが国光学史上不滅の業績を打ち立てた権威者であり、約1か年にわたって、光学ガラス製造の実地指導の労をとられた。一方、溶融用るつぼの製法については、愛知県立瀬戸工業試験場で実地指導を受けた。  
1940年(昭和15年)3月、建設中の光学ガラス工場が完成し、翌4月には、大阪工業試験所で研究を続けていた技術者が帰任し、溶融作業を始めたが、当初は試験溶融の域を出なかった。それでも、毎月1〜2回高松博士を工場に迎えて、指導を仰ぎながら工程の安定化に努め、同年末までに、十数種の光学ガラスの製造に成功した。  
また、翌1941年(昭和16年)からプレス成形品(ガラスを所定のレンズの形状に型押ししたもの)の製造研究を開始し、1944年(昭和19年)から各種プレス成形品を製造した。  
一方、折からの国際情勢のもとで、わが国における光学兵器の国産体制の確立が強く要望され、また、これに伴って、光学ガラスの需要も増加していた。当初、カメラ用レンズの生産を企図して、光学ガラス部門への進出を計画したにもかかわらず、戦時体制の進展に伴い、実際に光学ガラスの製造化に成功した後は、すべて、双眼鏡用をはじめ軍需用に充てられることとなった。  
そして、軍需用の増産要請に対応するために、光学ガラス工場は、第1期工事終了後直ちに第2期工事に着工し、1942年(昭和17年)1月、溶融工場、るつぼ工場、加工工場などを完成し、順次操業に入った。  
しかし、それでも急増する需要に生産が追いつかず、1943年(昭和18年)10月、さらに、新工場建設に着工した。翌年3月しゅん工したが、機械設備の調達が難航し、設備が整ったのは1945年(昭和20年)7月末であった。  
一方、1941年(昭和16年)6月には、小田原工場内に光学硝子研究部を新設し、光学ガラスの高性能化のための組成研究を行なうとともに、文献調査などの基礎研究と、生産現場に対する生産技術の支援を行なった。  
レンズ部門と精密機械部門  
レンズの製造に当たっても、1940年(昭和15年)4月、淺井幸正(後の富士写真光機専務取締役)ほか2名を大阪工業試験所に派遣し、約1年にわたり、同所の山部敬吉氏らからレンズの設計ならびに製造全般について指導を受けた。これと並行して、1940年(昭和15年)4月、小田原工場内にレンズ工場を完成させ、その受入準備を進めた。レンズの鏡胴への組み込み作業は、すでに設置されていた精密機械製作部門の作業場で行なうこととした。  
そのころ、海軍航空技術廠から航空写真機(射点観測写真機)の製作依頼があり、製作条件は厳しいものであったが、1940年(昭和15年)4月、これを完成し納入した。この写真機は、当社製第1号カメラとなった記念すべき製品である。  
次いで1941年(昭和16年)7月にも、陸軍航空技術研究所の要請で、自動航空写真撮影現像投影装置を製作し、納入した。この装置は、撮影から現像、スライド映写までが60秒以内に行なえる画期的なものであった。  
その後、レンズの生産も軌道に乗り、陸軍や海軍の要請で、各種の航空写真用レンズ、特殊写真機や光学機器を製作し納入した。  
後に、精密機械製作部門が富士写真光機大阪工場へ移転した後は、レンズの鏡胴の生産を自ら行なうこととし、1944年(昭和19年)3月には、設計、研磨、鏡胴、組立の各部門を統合し、鏡玉部を組織した。  
富士写真光機株式会社の設立  
レンズ、航空写真機の、小田原工場での生産が軌道に乗り、陸・海軍からの受注も増大したため、増産の必要に迫られたが、戦時下のことであり、建物や設備の新設はほとんど不可能に近く、また技能者の養成もままならなかったため、既存の光学機械メーカーを系列に入れ、増産に対処する方針を決めた。  
まず、1942年(昭和17年)1月、玉川光機株式会社の事業を継承した。同社は、本社工場を東京世田谷区弦巻に置き、プリズム双眼鏡、対空双眼鏡などの製作を行なっていた。  
続いて、1943年(昭和18年)11月には、東京時計製造株式会社を傘下に収めた。同社は、東京目黒区上目黒に本社工場を置き、置時計、電気時計などを製造していたが、日中戦争開始後は、日本光学工業の協力工場として、照準器の時計部品などの製作を行なっていた。  
両社の系列化によって、レンズ、航空写真機の製造能力は大幅に向上したが、1944年(昭和19年)11月30日、両社の一体経営を図るため両社を合併し、東京時計航機株式会社として新発足させた。  
この合併によって、旧東京時計製造は東京時計航機の大橋工場に、旧玉川光機は玉川工場に、それぞれ改称された。  
それより半年前の1944年(昭和19年)3月には、陸軍造兵廠のすすめによって、株式会社榎本光学精機製作所を傘下に収め、社名を富士写真光機株式会社と改称し、当社専務取締役小林節太郎が同社取締役社長を兼任した。同社は、1934年(昭和9年)11月に創立され、資本金350万円、東京蒲田に本社工場を置き、そのほかに、工場を、東京鵜ノ木、目黒、埼玉県大宮、大阪に設け、主として双眼鏡の製造を行なっていた。  
富士写真光機の発足後、1944年(昭和19年)6月、当社小田原工場の精密機械製作部門を同社の大阪工場に移転し、同年9月には、同社の資本金を700万円に増資し、施設の拡充を図った。  
このように、国家的要請に沿って拡大育成に努めた光学機器部門であったが、その後、戦災によって東京時計航機は解散し、また、戦後、富士写真光機も大宮工場を残して他は売却する結果となった。 
日米開戦 / 太平洋戦争下の対応  
1941年(昭和16年)12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。戦時体制のもと、統制が強化され、当社の民需用の生産は次第に低下するが、一方、軍需が激増し、増産に追われるようになる。このため、1943年(昭和18年)8月、資本金を2、500万円に増資することを決議し、工場拡張工事に着手する。しかし、戦火は、次第にわが国周辺に接近し、資材不足と、度重なる空襲によって、小田原工場はじめ各地の営業所が被災する。軍当局の要請で、生産設備の一部を満州(中国東北部)に移設する計画を立て実行に移すが、1945年(昭和20年)8月、ソ連の参戦により満州移設計画を中止する。そして、8月15日、終戦を迎えて、全工場の操業を停止する。 
太平洋戦争のぼっ発 / 民需から軍需へ  
1941年(昭和16年)12月8日、わが国は、日中戦争が継続している中で、米国、英国両国に対し宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。  
太平洋戦争のぼっ発は、当社にとって大きな衝撃であった。写真工業の前途にも不安を抱かざるを得なかった。  
「日米戦争が始まれば、写真工業は続けられなくなるだろう」――これは、1941年(昭和16年)春、全国写真材料商組合連合会大会の席上で、日米開戦となった場合の写真工業の見通しについてメーカー側の見解をただされた際、当社を代表して取締役営業部長小林節太郎が行なった答弁である。  
米国との戦争になれば、わが国は人も物も一切を戦争に投入して、血みどろの戦いを続けざるを得なくなるに違いない。前線銃後の区別なく、おそらく戦いはもっともせい惨な様相を呈することになるだろう。かくては、写真どころではなく、生産設備は挙げて兵器製造へ転換を余儀なくされるだろう。また、写真フィルム、印画紙の製造は許されるとしても、原材料の品質を特に吟味しなければならない写真感光材料工業にとっては、原材料の確保という面から、経営が困難になるに違いないと考えられたのである。日中戦争ぼっ発以来、極力原材料の自給体制を図ってきたとはいえ、国内だけで原材料を充足することはほとんど不可能と考えられていた。  
太平洋戦争ぼっ発とともに、生産は、軍用、特に航空用を最優先とし、原材料も、重点的にこれに振り向けられた。  
国民生活は、次第に圧迫され、著しく窮屈になってきた。写真を撮って楽しむといったことは、そのこと自体が時局に背を向けることとされ、写真が撮りにくい状況がつくり出されてきた。カメラを持ち歩くこと自体、白眼視される状況であった。写真感光材料は、ぜいたく品扱いされ、物品税率の大幅な引き上げが行なわれた。  
戦時統制の強化と軍需生産優先のための企業整備や人手不足などによって、写真材料販売店の転廃業を余儀なくされるものも多く、販売機構も疲弊した。窮迫する原材料事情の中で、民需品の供給は極度にひっ迫した。映画用フィルム、X−レイフィルムはすべて生産統制された。少量の民需用の製品も、すべて統制会社のルートを通じて配給されたが、その後の戦局の激化によって、一般民需向けの写真感光材料の出荷は、ほとんどできなくなった。  
足柄工場の拡張  
戦局の緊迫につれて、原材料の確保はますます難しくなり、その品質も低下してきた。生産現場の最大の課題は、ますます品質が低下し、数量が不足する資材をいかに活用して、製品の品質を維持し、生産計画を達成するかにあった。  
太平洋戦争の航空戦が激しくなるのに伴って、航空写真用のフィルムの増産要求が強くなった。開戦当初の予想に反し、足柄工場は繁忙を極めた。  
軍用フィルムの増産に加え、さらに新しい需要が加わった。フィルムベースが航空機の風防ガラス用インターレアー(中間膜)として使用されるようになり、その製造を命じられたのである。全力をあげてインターレアーの増産に当たったが、なお、軍の必要量を満たすには至らなかった。また一方で、航空無線通信機用絶縁材料としてのアセチロールの生産も開始したため、開戦時には予想もしなかった設備の拡充が必要となり、インターレアー専門工場を新設するための計画立案を急ぎ行なうことになった。  
その資金調達のため、1943年(昭和18年)8月16日、臨時株主総会を開き、同年11月1日付けで30万株(1、500万円)の増資を行ない、資本金を2、500万円とすることを決議した。増資の払込みは、同年11月から1945年(昭和20年)6月まで、3回に分けて行なわれた。  
資金調達と並行して、インターレアー工場の建設計画も進め、1943年(昭和18年)10月、足柄工場の隣接地を買収し、直ちに建設工事に着手した。建物は完成したものの、戦時下の悪条件のもとで、機械設備の設置が遅れ、1945年(昭和20年)6月に、ようやくその一部が完成したにとどまり、結局、所期の目的を達成するには至らなかった。  
淺野社長引退、新社長に春木榮  
社長淺野修一は、当社の創立準備のころから一貫して、最高責任者として、創業に伴うあらゆる辛酸をなめ、その後いくたびもの危機を克服して、当社の事業の基礎を確立した。また、国産写真フィルムの開発および製造によって、国内の需要を完全に充足する理想をも実現した。さらに、戦時下においても光学分野を開拓し、経営の陣頭指揮に当たってきた。しかし、ここ数年来健康がすぐれず、ついに、1943年(昭和18年)11月、辞意を表明した。周囲は留任を懇望したが、淺野社長の辞意は固く、同年11月の定時株主総会をもって辞任した。  
後任社長には、専務取締役春木榮が選任され、戦時下の難局に対処することとなった。  
軍需会社に指定される  
政府は、重要軍需品の増産に総力を結集するため、1943年(昭和18年)6月、重点産業を指定し、戦力増強企業整備要綱を発表して、企業整備を実施した。  
この企業整備は、あらゆる産業に及ぶ大規模なもので、同年10月、写真感光材料製造部門にも示達され、企業の統廃合が行なわれた。  
光学機器、インターレアー、アセチロール、航空用フィルム、地図用紙など、軍需上の重要製品を生産しており、また、作業能率も高かったために、国家の物資動員計画上欠かせないものとして、狩野工場を除いて、各工場とも、操業工場に指定された。  
戦局の緊迫化した1943年(昭和18年)12月、軍需会社法が施行された。戦力増強に重要と思われる企業を軍需会社に指定し、政府自ら直接統制することにしたもので、翌1944年(昭和19年)4月、軍需会社に指定された。  
1945年(昭和20年)1月には、防ちょうのために、会社名、工場名の使用が禁じられ、すべて番号で表示されることになり、本社は皇国第1014工場、足柄工場は皇国第5009工場と呼ばれるようになった。当社の他の工場にも同様の呼称がつけられた。以降終戦まで、「富士写真フイルム」の名称は使用されなかった。  
工場、事務所の被災  
戦場は、次第にわが国の周辺に近づき、米軍機が本土に来襲するようになった。1945年(昭和20年)3月から5月にかけての空襲によって、東京の大半は焼野原となった。  
足柄、小田原、雑司ヶ谷の各工場をはじめ、東京、大阪、名古屋の営業所も空襲による被害を受けた。  
1945年(昭和20年)4月、雑司ヶ谷工場が空襲を受けて焼失した。さらに同年5月の空襲によって、東京銀座の東京営業所がり災した。  
足柄、小田原の両工場は、東京方面へ向かう米軍機の飛行コースの直下にあったため、米軍機が飛来するたびに空襲警報のサイレンが鳴り響き、従業員は防空ごうに避難した。  
同年8月5日の空襲で、足柄工場の各建物は機銃掃射を受け、フィルムベース工場の溶剤タンクが炎上、男子従業員1名が死亡、2名が負傷し、また8月7日の空襲では、原料倉庫の一部が焼失した。  
小田原工場は、8月3日に米軍機の機銃掃射で被弾したが、次いで8月13日にも機銃掃射と爆撃を受け、待避中の男子従業員2名が死亡した。このときの空襲で、新設の光学ガラス溶融工場が壊滅、研究所の1棟が炎上したほか、全工場の建物はすべて損傷を受けた。なお、8月5日には、通勤途上の女子従業員1名が空襲で死亡した。  
このように、足柄、小田原両工場とも、数次にわたる空襲を受けたが、従業員の懸命の消火作業によって被害を最小限にくい止め、工場施設の主要部分は被災を免れた。  
満州(中国東北部)移設計画  
1945年(昭和20年)になると、原材料資材は、ますます窮迫し、また、日本本土への空襲も激しくなったため、当社は操業を続けることが難しい状況に追い込まれた。そうした折、同年4月、写真感光材料の入手難に陥っていた満州映画協会(満映)では、当社に対し、満州(中国東北部)進出を強く要請した。また、軍需省航空兵器総局でも、重要軍需会社の満州疎開を計画し、当社にも一部設備の移転を要請してきた。  
米軍機の本土空襲が激化し、また、米軍の沖縄上陸により、戦闘がわが国本土の周辺で展開されていた時期であり、機械設備を満州へ移すといっても、非常な困難が予想された。しかし、これは事実上の軍の命令であり、要請に従って満州への移設を決意、1945年(昭和20年)4月、大陸移設計画を軍需省航空兵器総局に提出し、その準備に当たった。  
満州での工場建設に当たっては、満映と当社の共同出資で、「満州化工廠(仮称)」の設立が予定されていた。  
この計画に従い、足柄工場では、移設機械の選定、取り外し、こん包作業が昼夜兼行で進められた。移設する機械・設備は、航空写真用フィルム、アセチロール、インターレアーなど航空用製品の製造設備と、映画用フィルム、X−レイフィルムその他の写真感光材料製造機械、および資材であった。  
これら機械類は、6月18日、横浜港から3隻の輸送船に積み込まれ、満州へと向かった。  
これと並行して、渡満従業員の選定を進め、足柄工場フイルム部長佐藤徹を隊長として、家族を含め総勢62名が決定した。一行は、7月7日貨物船で富山県高岡港を出航、1週間後の7月14日、朝鮮半島の北端に上陸、7月17日に満州遼陽に着いて、現地で機械類の到着を待っていた。  
しかし、横浜港から出航した輸送船は、途中米軍機や軍艦の攻撃を受け、結局、3隻とも目的地に到着しなかった。  
8月6日、広島に原子爆弾が投下され、続いて8月8日、ソ連はわが国に対し宣戦を布告し、国境を越えてソ連の大軍が満州になだれこんできた。  
ことここに至り、満州移設計画は断念のやむなきに至った。渡満した従業員の一行は帰国を決め、8月13日、やむを得ず残留した佐藤徹とその家族を残して、遼陽を出発し、敗戦の悲哀と苦しみをなめつつ、8月22日、足柄工場に帰還した。  
帰還に当たっては、遼陽からの出発も、奉天(現中国瀋陽)から安東への貨物列車も、安東から釜山への列車も、釜山からの貨物船も、すべてが最終便で、一つつまずけば、一行全員の無事帰還は不可能であったろう。  
佐藤徹は、その後、苦しい生活と闘っていたが、1946年(昭和21年)1月、現地で病死し、再び祖国の地を踏むことはできなかった。  
終戦を迎える  
1945年(昭和20年)8月15日、わが国は連合国の降伏勧告、すなわちポツダム宣言を受諾して、長い戦争に終止符を打った。  
足柄、小田原、今泉、川上の各工場は、8月15日をもって操業を停止した。8月いっぱい残務処理を行なった後、9月1日から、会社は臨時休業に入った。  
戦後の再建整備 

 

敗戦というかつて経験したことのない事態の中で、1945年(昭和20年)9月、全従業員をいったん解雇する。その後、企業規模を縮小し、事業再開に必要な要員を再採用して、再出発をする。1945年(昭和20年)10月、占領軍当局の映画用フィルム生産再開の指示を受けて、足柄工場で生産を再開、翌年初めまでに、各工場とも生産を再開する。操業再開後、新しい勤務制度を確立し、新たに発足した労働組合と労働協約を締結する。この間、特別経理会社の指定、過度経済力集中会社の指定などを受け、企業の自由な活動に制約を受けるが、映画用フィルム、X−レイフィルムの増産要請の中で、生産活動は順調な回復を示し、企業の再建整備を実現する。  
戦後の再出発  
1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争に敗れ、連合国が日本を占領した。占領開始とともに、連合軍総司令部(GHQ)は、占領政策を遂行するため、やつぎ早に指令を発し、わが国の政治経済体制の変革を迫った。  
大部分の都市は焦土と化し、被災者は廃きょにあふれた。工業生産諸施設もその大半が被災し、生産するための資材も燃料も欠乏していた。物質不足、とりわけ食糧不足は深刻で、インフレは急速に進んでいった。敗戦というかつて経験したことのない事態の中で、国民は、その日その日の食糧を求めて、過酷な生活を続けざるを得なかった。  
このような情勢のもとで、生産を停止したままの当社の将来はどうなるのか。戦時中軍需会社に指定されていた当社に、果たして生産の再開が認められるのかどうか全くわからない状態で、このままいつまでも多くの従業員をとどめておくわけにはいかなかった。  
戦時下の生産遂行のため働き続けた従業員を解雇することは忍びがたいものであったが、他に道がなく、熟慮のすえ、やむを得ず、終戦の翌月、9月半ばに全従業員を一斉に解雇する措置をとった。  
そのころ、商工省当局と日本写真感光材料統制会社の幹部との懇談会が行なわれた。その席上、商工省側から、本来平和産業である写真工業の操業再開については、にわかに楽観できないが、決して悲観材料のみではないとの見解が伝えられた。  
この見解によって、事業再開について、わずかながらも期待がもてるようになったので、全員解雇した従業員の中から、一定の基準により選考のうえ、その4割に当たる1、492名を10月1日付で再採用し、事業再開の準備を進めることとした。なお、再採用予定者の中には復帰を望まない者もおり、実際に再開したときの従業員数は、1、400名余りであった。  
1945年(昭和20名)10月1日、事業再開の日を迎え、春木社長は、次のように再出発にかける決意を述べ、全従業員の協力を求めた。  
「占領下にあって、自由を失い、状勢判断の資料を欠いているわれわれとしては、会社が今後どうなるか、確たる見極めはつかない。しかし、あくまで写真工業を継続したいと念じ、規模を縮小して、操業を再開することにした。先日の商工省との懇談会では、写真感光材料の製造は、楽観はもとより許されないが、悲観のみを要しないということであったから、細々とは続けられると思う。しかし、正式な許可を得ているのではないから、あるいは最悪の事態に陥って、早く会社を去った人のほうが、今日再採用となった人よりも、幸せだったという結果にならないともかぎらない。しかし、原料から写真フィルムを製造して、国内の需要をまかない、外国品を駆逐することは、当社創業の精神であり、使命である。前途まことに困難で、かつ、不安もあるが、どうか、創業時代に傾けたあの情熱と努力を、再びこの事業に注いでいただきたい。」  
事業再開に当たっては、会社全般の業務組織を簡素化し、足柄工場の乾板部門および小田原工場の光学硝子部門は、規模を縮小した。東洋乾板の創業以来の歴史をもつ雑司ヶ谷工場は、戦災による損傷がはなはだしかったため閉鎖することとした。また、営業所は、東京と大阪の両出張所のみとした。翌1946年(昭和21年)7月には、映画用フィルム包装用の缶やロールフィルム用スプール(巻軸)を製作していた足柄工場の板金部門を分離して、株式会社富士板金工房(現富士機器工業株式会社)として発足させた。  
生産の再開と設備の復旧整備  
敗戦直後の苦難の生活の中で、人びとは、わずかに映画とラジオに娯楽を求めていた。  
戦時中の映画の統制は撤廃され、占領開始直後の9月、GHQは、戦後の映画製作方針を指示し、占領目的達成のための有力な手段として映画を活用しようとした。  
10月早々、占領軍当局者は、戦後の民心安定のため、映画の振興を奨励する方針を伝え、当社に対し、映画用フィルムの生産再開を指示し、仮許可書を下付した。いまだ正式許可ではなかったが、操業の再開が認められたのであり、これによって当社を覆っていた前途に対する不安は一掃されたのであった。  
1945年(昭和20年)末から翌年の初めにかけて、足柄・小田原・川上の各工場に対して民需生産再開が許可された。また、戦時中、軍需工場の指定を受けていなかった今泉工場の生産は、1945年(昭和20年)10月の事業再開後、最も早くスタートした。  
足柄工場の生産は、まず、映画用フィルムの製造でスタートし、次いで、X−レイフィルムの製造を再開した。しかし、作業を開始したものの、燃料・原材料・電力いずれも不足しており、しばしば作業の中断を余儀なくされた。  
この事情は、他の工場でもほぼ同様であった。  
そのうえ、各工場の生産設備は、戦時下整備不十分のまま間断のない酷使を続けたことによって損傷個所も多く、荒廃しきっていた。このため、生産再開に当たっては、設備の補修・整備が焦びの問題であった。資材も乏しく、資金も限られていたが、重点的に補修整備を進めることとした。  
勤務制度の改正と労働組合の結成  
再建を図るうえで大きな問題となったのは、食糧不足と、とめどもなく高進するインフレの中で、いかにして従業員の生活を守り、勤労意欲を高めるかということだった。  
1946年(昭和21年)4月、従来の職員と工員との区分を廃止し、従業員の区分を職能別区分に改め、実働時間を8時間とし、さらに給与形態も一本化し、大幅な昇給を実施した。これは、従業員の士気を高め、生産意欲を高揚させるのに、力を発揮したが、インフレはそれにも増して燃えさかり、従業員の生活の不安は続いた。  
戦後、産業報国会は解散された。1946年(昭和21年)3月、労働組合法が施行され、当社でも、各事業場ごとに従業員組合が結成された。同年5月には、富士フイルム従業員組合協議会が発足、同年10月、連合会に発展した。さらに、翌1947年(昭和22年)10月には単一組織に改組、富士フイルム労働組合が生まれた。  
この間、1946年(昭和21年)12月28日、労働組合連合会との間に労働協約を締結した。同協約は、前文に「道義的認識ト相互的理解ニ基ク協力ニヨリ企業ノ発展ト従業員ノ福祉ヲ増進シ相共ニ産業平和ノ確立促進ニ寄与スル目的ヲ以テ本協約ヲ締結ス。」と明記した。  
同協約に基づいて、全社的な労使の協議機関として経営協議会が、事業場と労働組合支部との協議機関として運営協議会が、それぞれ設けられ、具体的な問題の協議に当たることになった。  
激しいインフレのもとで、労働組合は、生活防衛のための給与の引き上げを要求した。当社も、従業員の福祉の増進を図るため、受け入れ可能なものは積極的に受け入れ、数次にわたって、給与の改訂や一時金の支給を行ない、従業員の生活の安定化に努めた。  
同時に、勤務時間の短縮など、労働条件の改善も進めた。実働時間は、1947年(昭和22年)1月からは7時間15分に、1948年(昭和23年)12月には7時間10分に短縮した。また、連続作業場における勤務は、創立以来2交代12時間勤務制であったが、1947年(昭和22年)11月から、3交代勤務制へと改めた。  
なお、相互扶助によって従業員の福利増進を図ることを目的として、1945年(昭和20年)12月には、共済会制度が発足した。  
特別経理会社、過度経済力集中会社の指定  
戦後いち早く生産を再開するという幸運に恵まれたとはいえ、当社の前途には越えねばならない山がいくつかあった。  
対日占領政策の遂行に当たったGHQは、日本を非軍事化し、民主化するという方針のもとに、次々と指令を発し、企業の活動に大きな影響を与えた。  
1945年(昭和20年)11月に発せられた財閥解体の指令に関連して、当社の生みの親である大日本セルロイドは、1946年(昭和21年)4月、企業活動を制限される制限会社に指定された。制限会社の役員は他の会社の役員を兼任することが禁止されたので、同年12月には、創立以来当社役員の任にあった西宗茂二(大日本セルロイド取締役社長)は当社取締役を、伊藤吉次郎(大日本セルロイド取締役副社長)は当社監査役を、それぞれ退任し、また、当社創立以来相談役として当社の成長・発展に尽くしてきた森田茂吉(大日本セルロイド相談役)も、当社相談役を退いた。また、同社が所有していた当社株式も手放すことになった。  
また、戦時補償(戦時中に生じた政府の民間に対する債務の補償)の打ち切りが実施されることになり、1946年(昭和21年)8月、会社経理応急措置法が公布された。これは、戦時補償打ち切りによって著しい影響を受けることが予想される会社を特別経理会社に指定し、今後の事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し、その他の資産を旧勘定として分離することとしたものである。これら特別経理会社は、同年10月に公布された企業再建整備法に基づいて、再建整備計画を立案し、大蔵大臣の認可を受けることになった。  
当社もこの適用を受けて、特別経理会社に指定され、1946年(昭和21年)8月11日午前零時をもって新旧勘定を分離し、戦時補償打ち切りで弱体化した企業経理の再建整備を図ることとした。戦時補償の打ち切りによって当社が受けた損失は約3、000万円にのぼったが、これは、当時の資本金(2、500万円)を上回る額であった。  
次いで、1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法が公布され、翌1948年(昭和23年)2月8日、同法による過度経済力集中会社として再編改組の指定を受けた。同法は、1947年(昭和22年)4月に公布された独占禁止法を補完する目的で制定されたもので、戦時中、企業合同などによって巨大化した企業を該当会社に指定し、その分割を図ろうとしたのである。  
確かに、写真感光材料メーカーの数は限られ、フィルム・乾板・印画紙などの生産に占める当社のシェアも高かった。しかし、原料から最終製品まで多面にわたり、それぞれが高度の技術を必要とする写真工業にあっては、主要原料は自ら製造し、各種製品を並行的に生産するのが当然で、それを行なわないかぎり、品質の安定もコストダウンもありえなかった。したがって、このような事情から、ある種の製品が国内需要の過半をまかなっていることをもって直ちに過度経済力集中というのは不当であると主張して、早期の指定解除を関係各当局に要請した。しかも、特定の財閥との連携はなかったし、また、他社を合併したり買収したりして膨張してきた会社でもなかった。これらの点について、詳細にわたって説明を繰り返し、集中排除法による指定の解除を申し入れた。その結果、1949年(昭和24年)1月21日、指定は解除された。  
再建整備計画の認可  
この間、企業再建整備計画の立案を進めた。再建整備に当たっては、増資を行ない、この払込金によって旧勘定の債務を弁済し、資本構成の是正を図る計画を立てた。この計画に基づいて、1948年(昭和23年)10月1日付で、資本金を3、000万円増額して、新資本金を5、500万円とした。  
企業再建整備計画の認可は、集中排除法の指定との関連で遅れていたが、1949年(昭和24年)1月に集中排除法の指定が解除されたのに伴い、同年3月1日、再建整備計画も正式に認可され、特別経理会社の指定も解除された。これにより、特別損失皆無・株主債権者損失無負担で、新旧勘定の合併を行なった。  
再建整備計画の認可によって、戦後の混乱を乗り切り、その後の発展・飛躍の道を歩み出したのである。  
なお、戦後のインフレで不健全になった財務体質の是正策の一つとして、1950年(昭和25年)に資産再評価法が制定され、同法に基づいて、同年1月1日付で固定資産の再評価を実施した。その後、数次にわたる再評価を実施し、適正な減価償却を行なって、企業経理の健全化を図った。 
“ネオパンSS”の誕生とアマチュア写真需要の拡大  
太平洋戦争で痛手を被った写真業界にも、ようやく回復の兆しが訪れる。国民生活の回復に伴って写真熱が高まりをみせ、カメラブームが訪れる。こうした中で、ロールフィルムの増産に努め、新製品“ネオパンSS”を発売する。また、印画紙、写真薬品でも品種の整備を進め、営業写真分野でも乾板からカットフィルムへの切り換えを実現し、総合写真感光材料メーカーとしての基盤を確固たるものにする。一方、写真需要拡大のため、積極的な普及・宣伝活動を行なう。その後、アマチュア用フィルムの需要は、ロールフィルムから35mm判フィルムに移行するが、品質保証の見地から、暗室装てん用の35mm判フィルムを、明るいところで装てんのできるパトローネ入りに切り換える。 
写真業界の復興  
終戦によって再び平和が訪れはしたものの、人びとは日々の生活に追われ、写真どころではなかった。  
しかし、1945年(昭和20年)12月には、それまで写真感光材料の生産と配給とを一元的に統制してきた日本写真感光材料統制株式会社が解散し、卸業者が再び独立して、自由な営業活動を展開できるようになった。  
これに伴い、1946年(昭和21年)、浅沼商会・近江屋写真用品・美篶商会をはじめ、戦前の写真感光材料特約店と契約を更改し、また、翌1947年(昭和22年)には、新たに、株式会社樫村洋行(現株式会社樫村)・敷島写真要品を特約店として加え、販売体制の再建を図った。  
なお、日本写真感光材料統制株式会社の解散に際し、写真感光材料メーカーは、業界の一致団結を図るため、1945年(昭和20年)12月、写真感光材料協議会を結成した。その後、1948年(昭和23年)4月には、同会は解散し、新たに写真工業懇話会が設立され、後に、1953年(昭和28年)7月、写真感光材料工業会と改称した。  
1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて、まだ食糧不足や社会生活の混乱も続いていたが、その中で、徐々に、営業写真館は戦災で焼失したスタジオの再建に乗り出し、写真材料店も次第に店舗を整備して、営業活動を再開しはじめた。  
当社をはじめ、各メーカーによって写真感光材料の生産が再開されたものの、原材料不足や、X−レイフィルム・映画用フィルムの優先生産によって、ロールフィルムの供給は不足がちであった。そのうえ、1947年(昭和22年)7月、GHQは、突如として、ロールフィルムの生産禁止を指令した。  
この指令は、重点生産を要請されていたX−レイフィルム用の資材がロールフィルムの生産のために流用されているとの疑念に基づいてとられた措置で、翌年3月に解除となったものの、生産量の大半を、占領軍・官庁・新聞社などの需要先に優先して出荷することを必要としたので、市場では、一般向けフィルムは極端な品不足が続いた。  
そのため、終戦後しばらくの間、ヤミ市では、軍から放出された航空用フィルムや間接撮影用X−レイフィルムが巻き直されて、一般撮影用として法外な価格で売買されたほどであった。  
写真感光材料には、終戦時120%という高率の物品税が課せられていたうえ、戦後、原料費の著しい高騰など、インフレの影響を受け、製造コストが大幅に高くなっていた。このため、数次にわたって公定価格の改訂が行なわれ、ロールフィルムブローニー判(6cm×6cmサイズで12枚撮)1本の小売価格は、終戦時2円41銭であったが、1948年(昭和23年)7月末には、物品税率が50%となったものの、138円と高騰した。  
激しく続いたインフレも、1949年(昭和24年)、米国ドッジ公使による超均衡予算政策により、ようやくおさまったが、それに伴って、日本経済は深刻な不況に包まれることになった。  
この間、写真感光材料の生産は、1948年(昭和23年)ごろから徐々に回復に向かい、翌1949年(昭和24年)に入ってからは、一般用ロールフィルムの供給不足も次第に緩和され、同年秋には、一般市場への供給量も増加してきた。  
敗戦後の窮乏の中で食糧の確保に追われていた人びとの生活も、このころからようやく安定を取り戻しつつあり、人びとの間にも写真需要が起こりかけてきた。  
このように、需給状態も緩和されてきた中で、1950年(昭和25年)6月、公定価格制度は廃止されるに至った。  
同じ年、1950年(昭和25年)6月、朝鮮動乱がぼっ発し、情勢は大きく変わった。特需の増大によって、鉱工業生産は増加し、日本経済は不況から抜け出し、戦後の混乱期にようやく終止符を打つことができた。  
ちょうどそのころ、朝鮮動乱の報道でわが国カメラの優秀性が認められたこともあって、アマチュア写真熱は次第に広がっていった。わが国のカメラの生産もようやく軌道に乗り、また、カメラ雑誌などの写真ジャーナリズムも活発化し、いわゆるカメラブーム時代が到来したのであった。写真に対する社会の関心の高まりの中で、業界各方面の意欲も盛り上がりつつあり、1951年(昭和26年)には、6月1日を「写真の日」と定め、以降、毎年この日に、内外に対する写真の認識を深めるための行事が催されるようになった。  
この年、1951年(昭和26年)9月、対日平和条約が米国サンフランシスコで調印され、翌1952年(昭和27年)4月発効した。6年8か月にわたった占領時代が終わり、日本の主権が回復した。  
“ネオパンSS”の発売  
アマチュア写真需要が増大してきた1952年(昭和27年)4月、主力製品たるロールフィルムで、新製品“ネオパンSS”を発売した。  
“ネオパンSS”は、感度ASA100(ASAとは、米国規格協会が定めた写真感度の表示規格)、従来の“ネオパン”の2.5倍の感度で、肉眼の感色性に近いオルソパンクロタイプのフィルムであり、ラチチュード(露光寛容度)の幅が広く、豊かな階調と優れた微粒子特性を兼ね備えていた。特に、従来のフィルムに比較して大幅に感度を高めたことは、早朝や薄暮・室内やスタジオでの人工撮影にも威力を発揮した。また、夜間撮影にも適し、アマチュアカメラマンだけでなく、報道、人物、記録写真などを撮影するプロフェッショナルユーザーにも愛用された。  
翌1953年(昭和28年)3月には、35mm判フィルムでも、従来の“SP”を改良し、“ネオパンSS”を商品化した。  
“ネオパンSS”は、その後も、より高品質のフィルムへと改良を重ね、わが国の黒白フィルムを代表する製品として、今日までロングセラーを続けている。  
“ネオパンSS”の商品化に続いて、ユーザーの多様なニーズに応えるべく、ロールフィルムのシリーズ化を図っていった。粒状性に優れた“ネオパンS”(感度ASA50)、高感度フィルム“ネオパンSSS”(スリーエス)(感度ASA200)、そして、超微粒子フィルム“ネオパンF”(感度ASA32)が、それであり、1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて相次いで発売した。  
35mm判フィルムについても、1953年(昭和28年)から1958年(昭和33年)にかけて、“S”・“SS”・“SSS”・“F”と各品種を整備した。  
“ネオパン”の各シリーズは、各方面で好評を博し、“S”・“SS”・“SSS”が、フィルムの感度を表わす記号として使われるほどになった。  
印画紙、写真薬品の品種整備  
印画紙についても、生産量の回復・拡大を図るとともに、逐次、品種・面種・号数の整備を進め、また、“利根”・“フジブロマイド”をニュータイプ写真乳剤に切り換え、品質の向上を図った。紙厚も中厚手品、面種も絹目品を整備し、調子も超硬調品から軟調品までの各号数をそろえ、顧客のあらゆる要望に応えられるようになった。  
一方、写真薬品については、戦時中から、ひょう量の手間のかからない調合剤を生産し軍用などに納入していたが、戦後は、一般用フィルム・印画紙およびX−レイフィルムの現像・定着用に各種の調合剤を整備してきた。  
アマチュアが、自分で現像・焼付の処理をするのに便利なように、少量包装品も整備し、他方、大量使用先向けの大口包装品も整備した。  
乾板からカットフィルムへ  
営業写真館用には、創業以来、乾板を生産してきたが、戦後の1946年(昭和21年)10月、パンクロタイプの“富士ポートレートカットフィルム”を発売した。  
乾板は、ガラス板に写真感光乳剤を塗布したもので、その性質上、破損事故の懸念や、保管スペース・携帯性など、取り扱い上の問題があった。これをフィルムに切り換えると、ユーザーにとっては、取り扱い上の問題が解消され、また、修整作業もしやすく、現像も容易であり、当社にとっても均一な製品を大量に生産できるメリットがあった。  
戦後間もないころで、乾板用の良質なガラスの入手が困難であったこともあり、当社としては、安定供給の見地からも、乾板をフィルムに切り換えることを計画したのである。  
カットフィルムの商品化に際しては、特に、湿度が高い場合の平面性の保持を配慮した。フィルムベースの厚みを厚くし、フィルムの写真乳剤側の反対側に、カーリング防止層を塗布するなどの対策をとり、また、カットフィルムを装てんする専用シースを同時に発売して、ユーザーの便宜を図った。  
実際の切り換えに当たっては、全国の写真館を個別に訪問し、スタジオで、撮影から現像・焼付までの実験を繰り返すなど、積極的にカットフィルムの品質・取り扱い性などのセールスポイントを訴求していった。また、各地区の営業写真家の研究会にも参加し、サンプル配布・実技写真の展示・処理技術の説明など、あらゆる機会を利用して、普及活動を行なった。  
その結果、ユーザーも、カットフィルムの品質・性能を理解し、乾板からカットフィルムに切り換えるところが次第に増えていった。  
しかし、どうしても使い慣れた乾板でなければというユーザーのために、その後も当分の間、“富士パンクロ乾板”“A1(エーワン)乾板”の生産を継続した。しかし、その後、カットフィルムの性能が向上し、乾板の需要が減少したために、1967年(昭和42年)をもって一般用の乾板の製造を中止した。現在は、宇宙線記録用や学術研究用の特殊な乾板だけを受注生産している。  
乾板からカットフィルムへの切り換えが進んでいった折、1950年(昭和25年)、思いもかけないトラブルが生じた。当社のカットフィルムに減感故障が発生したのである。  
このクレームは、夏ごろから散発的に発生し、秋のシーズンに入って大きな声となって現われた。故障原因の調査・解明に手間どったが、原因が判明した時点で、即刻、市場にある全製品を回収する措置をとった。これは、顧客に対する迷惑を最小限にとどめることを最優先に考えたからである。  
一方、改良品を一刻も早く製造・出荷すべく全力をあげた。そして、全国各地でおわびの会を開催し、席上、故障について率直に陳謝し、当面の対策を説明し、了解を求めた。  
この故障は、当社にとって極めて残念なことであったが、この時の迅速にして適切な処置と、率直にして謙虚な態度は、当社の誠実さを示すものとして、顧客の協力も得られ、以降の当社の信用を高めることとなった。  
その後、1951年(昭和26年)5月に、“富士ポートレートパンクロマチックSSカットフィルム”(感度ASA100)を発売し、1958年(昭和33年)には、フィルムベースを不燃性のTACベースに切り換えた。翌1959年(昭和34年)には、カットフィルムの名称を“シートフィルム”と改め、さらに、翌1960年(昭和35年)5月には、光量不足の際でも安心して写せる高感度製品として、“ネオパンSSSシートフィルム”(感度ASA200)を発売した。  
一方、営業写真館向けの人像用印画紙“銀嶺”は、戦後、生産再開後、品質を改良し、また、微粒面、絹目などの品種を整備した。  
販売体制の整備と普及活動の展開  
1950年代に入ると、メーカー各社の生産体制も整備されて、市場での販売競争が激しくなってきた。  
戦後閉鎖していた福岡出張所を1948年(昭和23年)12月に、名古屋出張所を1949年(昭和24年)11月に、それぞれ再開し、1954年(昭和29年)9月には、新たに、札幌出張所を開設し、販売体制を整備し、営業活動を拡大していった。  
なお、既設の東京出張所についても、1949年(昭和24年)1月と1953年(昭和28年)3月に事務所を増設し、また、大阪では、1953年(昭和28年)5月、富士フイルム大阪出張所ビルを新築開館し、営業活動の拠点を充実した。  
また、写真需要層を拡大するため、積極的な普及宣伝活動を展開した。  
1946年(昭和21年)10月には、戦時中休刊していた機関誌「写真と技術」を復活し、その後、各種の定期刊行物を復刊または創刊した。新聞広告の掲載・展示会への出品・PR映画の製作・ネオン広告塔の設置などによって、写真復興の機運を盛り上げていった。  
写真教室の開催・撮影会など、アマチュア写真需要層を対象とした各種催し物の開催や協力・学生写真連盟や「フジフォト・フレンドサークル」の結成などアマチュアの写真クラブ活動に対するバックアップ、また、写真材料販売店を対象としたDP(写真の現像・焼付)研究会やカメラ店教室の開催など、写真の楽しさを訴求し、正しい写真知識の普及に努めた。  
1950年(昭和25年)1月、当社は賞金総額100万円にのぼる懸賞写真を募集した「富士フォトコンテスト」の開催である。戦後5年目を迎え、人びとは困難な生活の中にも明るいものを求めてやまなかったので、募集にも“あかるく楽しい写真”というキャッチフレーズを用いた。カラー写真・アマチュア写真・プロフェッショナル写真・学生写真の4部門構成としたが、応募者数4、215名・応募点数8、118点と、わが国写真コンテスト史上、空前の応募者数を記録した。  
「富士フォトコンテスト」は、その後、内容を充実しながら、毎年継続して実施し、年々盛んになっていった。1960年(昭和35年)からは、営業写真家を対象とした「富士営業写真コンテスト」を新たに設け、同時に、「富士8ミリシネコンテスト」もスタートした。その後、一時中断したこともあったが、1976年(昭和51年)以降は、プロ・アマチュア対象の富士フォトコンテストと、営業写真コンテスト、8ミリコンテストの3部門に分けて、今日まで継続し、優れた作品が多く権威あるコンテストとして高い評価を得ている。  
1951年(昭和26年)には民間ラジオ放送が、次いで、1953年(昭和28年)にはテレビ放送がスタートした。早速、ラジオやテレビ放送という新しい広告媒体に着目し、これを利用した。  
また、写真雑誌をはじめ、新聞・雑誌を広告媒体として活用してきたが、ロールフィルム“ネオパンSS”発売の翌年、1953年(昭和28年)には、週刊誌やグラフ雑誌を使って“一家に一台カメラを”のキャッチフレーズで、カメラと写真の普及宣伝に努めた。単に自社製品の広告だけではなく、写真需要の拡大を主体としたこの広告は、写真業界からも好感を寄せられた。  
この年6月には、大型宣伝カー「ネオパン号」を誕生させた。“富士フイルム”の文字を側面に大きく入れた「ネオパン号」は、全国各地に出動して、地元の写真材料販売店を一軒一軒回り、その店の宣伝に努めると同時に、全国各地でさかんに催された撮影会などにも活躍した。  
1957年(昭和32年)6月、東京数寄屋橋ショッピングセンターの一角に「富士フォトサロン」を開設し、その運営のために株式会社富士フォトサービスを設立した。「富士フォトサロン」には、製品展示場、映写室を常設し、写真展覧会を催して、写真の普及と当社製品の宣伝を行なうことにし、また、写真についての相談にも応じられる体制を整えた。  
翌1958年(昭和33年)6月には、大阪にも同様のフォトサロンを開設した。  
35mm判フィルムの需要拡大とパトローネ入り製品への切り換え  
戦後、画面サイズが6cm×6cm判のロールフィルムを使用するスプリングカメラ・二眼レフカメラを中心にカメラ需要が伸長し、カメラブームが訪れたが、1950年代に入ると、35mmカメラが徐々に増えはじめた。  
1950年代半ばに至って、カメラメーカー各社は、相次いで廉価な普及型のレンズシャッター付35mmカメラを発売した。このカメラは、小型軽量で、携帯に便利であり、また、このカメラに使用する35mm判フィルムは、1本当たり撮影できる枚数が多いなどの長所が広く一般に認められ、1956年(昭和31年)には、35mmカメラの生産数量は、ロールフィルムを使用する6cm×6cm判のカメラの生産数量を上回った。これに伴い35mm判フィルムの使用量も増加し、フィルムの出荷量でも、1960年(昭和35年)には、35mm判フィルムがロールフィルムをしのぐようになった。  
35mm判黒白フィルムの包装形式は、暗室装てん用とパトローネ入りの2種類がある。  
フィルムに遮光紙をかぶせて缶に入れてある暗室装てん用フィルムは、カメラにフィルムを装てんする場合、暗室で、缶の中のフィルムをパトローネかマガジンに詰め替える作業を必要とする。この暗室装てん用フィルムは、パトローネ入りのフィルムと比較して販売価格が割安で、写真材料販売店では、暗室装てん用フィルムをパトローネに詰め替えて販売するようになり、このことが35mm判フィルムの需要を増加させる一つの要因ともなった。  
このため、35mm判フィルムでは、暗室装てん用フィルムのウェイトが圧倒的に多くなっていた。  
ところが、このパトローネに詰め替える作業は、作業中にフィルムに傷がついたり、思わぬ故障が発生したりして、当社製品の品質に対する信頼度が失われる恐れもあり、当社の信用を守るうえからも、ゆるがせにできない問題であった。  
このような情勢を検討した結果、新聞社やプロ写真家向けなど専門家用の30.5m巻きフィルムを除き、当社製品の品質保証のために、35mm判フィルムをすべてパトローネ入りとすることとし、1961年(昭和36年)9月、新包装に切り換えて、全国一斉に発売した。新包装品の標準販売価格は、従来の暗室装てん用フィルムの価格に近い価格に設定し、実質的に大幅な値下げを断行し、この切り換えを円滑に進めた。  
パッケージの基調色をグリーンに  
1958年(昭和33年)、当社の商品パッケージは、大きくイメージを変えた。それまでは、当社製品のパッケージの色は、必ずしも全社的に統一されることなく、たとえば、ロールフィルムのパッケージはオレンジ・イエローなどの色を基調色としてきたが、ここに全商品の統一イメージとして、“グリーン”を基調色として採用したのである。  
写真フィルムは、中身を開けて見ることのできない商品であり、消費者の信頼を得てはじめて購入してもらうことができる。パッケージは、その信頼を得るための商品の顔であり、他社商品と明確に差別するためにもパッケージの基調色を統一する必要がある。しかも、写真感光材料のパッケージは、黒白とカラーの区別や感度の差異など、製品の種類を識別する要素も持っているため、基調色はどんな識別色とも調和する色を選ぶ必要がある。  
国内市場ではもちろん、これから海外市場に進出を始めるにあたり、企業イメージを高めるため、新しく全商品を統一する独創的な基調色を設定する計画を立て、調査・検討を重ね、次のように判断して、基調色をグリーンと設定した。  
(1)グリーンは、イメージが明るく、若々しく、これから成長しようとする当社のイメージにふさわしい。また、鮮やかなグリーンは、店頭陳列効果も高く、販売促進に高い効果がある。  
(2)色彩調査の結果、グリーンは、好き嫌いが片寄らず、広い範囲に好まれる色であり、世界各国の民俗性の面でも好まれる色である。  
(3)グリーンの基調色は、国際市場においても独創的な商品イメージを発揮できる。  
商品のパッケージデザインの切り換えに当たっては、まず、8mm・16mmカラーフィルムの外装箱にグリーンパッケージを採用して、市場調査を行なった。そして、1958年(昭和33年)秋に発売した一般用カラーネガフィルムを皮切りに、各製品の包装を、逐次、グリーンパッケージに切り換えていった。  
その後、当社とグリーンのイメージのつながりは、年々市場に浸透し、基調色グリーンは、企業イメージを担う代表的な要素として、当社のコーポレートカラーに発展した。  
カラー写真感光材料国産化の実現 
  
  
  
戦後、カラーフィルムの研究を再開し、試作を繰り返して、1948年(昭和23年)4月、外型反転方式のカラーフィルムを発売するに至る。カラーフィルムの国産化については、各方面から期待され、助成措置が行なわれる。1951年(昭和26年)、当社の外型反転カラーフィルムを使用してわが国初めての総天然色映画「カルメン故郷に帰る」が製作され、日本映画史上輝かしい1ページを画す。その後、内型ネガ・ポジ方式カラーの研究を進め、1958年(昭和33年)、映画用の分野でも、一般写真用の分野でも、カラーネガフィルムを発売する。同時に、一般写真用カラーフィルムの現像およびカラープリント製作体制整備のため、富士天然色写真株式会社に東京現像所を開設する。  
外型反転カラーフィルムの試作  
戦後、研究の再開とともに、カラーフィルムの開発を目指して、研究を本格化した。  
当時は、戦後の極度の資材不足、とりわけ合成薬品の欠乏でカラーフィルムの研究は困難を極めたが、1946年(昭和21年)には、二色方式の映画用外型反転カラーフィルムの試作が完成し、同年8月に公開された東宝映画「11人の女学生」のタイトル部分に初めて使用された。  
翌1947年(昭和22年)には、三色方式の外型反転カラーフィルムの試作品が、2月に公開された名古屋帝国大学製作の学術映画「胃がんの手術」に使用され、また、同年6月には、フィルム試験とカラー撮影の研究を兼ねて、大映作品「キャバレーの花籠」に試用された。  
その後、色調の改善やプリント技術の確立を図るなど、三色方式のカラーフィルムの完成を目指して、その研究に全力を傾注した。  
1949年(昭和24年)に入ると、映画の一部分にカラーを使用するパートカラーが使用されはじめた。東横映画作品「新妻会議」では、当社の外型反転カラーフィルムがパートカラーとして使用され、初めて32本プリントされた。  
1950年(昭和25年)1月封切の「日映ニュース」第208号には、パートカラーではあるが、ニュース映画として初めて使用され、40本プリントされた。  
“フジカラーロールフィルム”の発売  
映画用カラーフィルムの研究を進める一方で、一般用のカラーロールフィルムの発売準備を進めていった。  
発売時期を1947年(昭和22年)9月と定めて、現像設備も整備し、試作品を“富士発色フィルム”と名づけて試験的に使用したり、包装材料・宣伝物などの準備を整えた。ところが、1947年(昭和22年)8月17日、天然色写真研究室実験工場に火災が起こり、カラーフィルムに関する研究資料や研究設備・現像設備が灰じんに帰してしまった。  
この火災によって、研究は一時中断した。カラーフィルムの発売も延期して、研究設備・現像設備の復旧、整備を進めた。  
そして、翌1948年(昭和23年)4月、ようやく、外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルムを“富士カラーフィルム”の商品名で発売することができた。  
この外型反転方式のカラーフィルムは、感度ASA10・デーライトタイプで、6cm×6cm判サイズ6枚撮、小売販売価格は現像料込みで1本450円であった。また同時に、ごくわずかではあったが、カットフィルムも発売した。  
当社創立から数えて14年、天然色写真研究室が発足してから9年、戦中・戦後の悪条件を克服して、ようやく一般用カラーフィルムを発売するに至ったのである。  
翌1949年(昭和24年)10月には、カラースライド用として最適の35mm判サイズで、同じくデーライトタイプの外型反転方式カラーフィルム“富士カラーフィルム”を発売した。この35mm判カラーフィルムには、不燃性のセルロースダイアセテート(DAC)ベースを使用し、1本20枚撮で、小売販売価格は現像料込みで680円であった。  
これらのカラーフィルムの現像は、すべて研究所で行なうこととし、遅くとも2週間以内に現像依頼者に届けられる体制をとった。その後、1951年(昭和26年)1月、研究所内に現像部を新設し、各種の設備を整備し、現像体制を増強した。1956年(昭和31年)8月には、現像部を足柄工場に移管した。  
カラーフィルム国産化への期待  
カラーフィルムの国産化は、各方面から期待され、重要視されていた。  
1949年(昭和24年)8月には、「天然色映画」の研究に対して、朝日新聞社から科学奨励金が贈られた。さらに、1950年(昭和25年)2月には、通商産業省から、映画用天然色写真フィルム現像処理の工業化試験補助金として、当社に550万円が交付された。  
カラーフィルムの開発促進は国会でも取り上げられ、同年4月、衆議院で、天然色映画産業の振興に関する決議が採択された。そして、翌1951年(昭和26年)5月には、カラーフィルム育成のために、「天然色写真」は、法人税免除の重要物産に指定された。  
衆議院の決議やこれらの行政措置は、カラーフィルムの国産化への期待の大きさを物語るもので、当社としても、それらの要望に応えるために、カラーフィルムの品質の向上と量産化の実現に総力をあげて取り組んだ。  
また、全日本写真材料商組合連合会は、1950年(昭和25年)10月、会員から拠金を募って、カラーフィルムの研究者に謝意を表明することを決議し、翌年9月、当社および小西六写真工業に感謝状といっしょに贈呈された。  
総天然色映画「カルメン故郷に帰る」完成  
1951年(昭和26年)3月20日、松竹映画「カルメン故郷に帰る」の特別試写会が、各界の関係者2、500名を招き、東京劇場で開催された。国産初の総天然色劇映画が完成したのである。  
この映画は、松竹常務取締役高村潔氏が総指揮に当たり、木下恵介氏監督のもと、当社の外型反転カラーフィルムを使用して製作が進められた。そして、3月21日、ロードショーとして一般公開されてからは、興行的にもヒットして、日本映画史に輝かしい1ページを飾る作品となった。  
しかし、その製作の過程は決して平たんではなかった。すでに短編映画やパートカラーでは試用されてきたとはいえ、反転方式のカラーフィルムを使用する映画の製作は時期尚早との声もあった。当社のカラーフィルムでの長編劇映画製作は初めてのことであり、一応の自信はあったものの、屋外撮影の色の出具合などにいちまつの不安を残していた。このため、撮影条件の設定のために、事前にテスト撮影を繰り返すとともに、万一に備えて黒白フィルムによる撮影も並行して行なわれた。  
加えて、当時の外型反転カラーフィルムは、感度が低いために、黒白映画の撮影の場合よりも約3倍の照明が必要であり、できるだけセット撮影を避け、日光の強い夏を選んで撮影が始められた。  
こうした中で、総力をあげて撮影や現像処理に協力するとともに、撮影期間中には、当社技術者が立ち会い、露光条件の決定・フィルターの使い分け・出演者の化粧や照明方法などに協力し、ラッシュプリントを確認しながら撮影を進めるという苦労が続いた。  
いかに撮影が困難であったか、主演した女優高峰秀子氏は『わたしの渡世日記』の中で次のように述懐している。  
「すべてが第一歩からの出発であり、すべてが暗中模索の連続だった。実際のクランクイン以前の下準備だけで、スタッフはもはやクタクタの状態だった、といっても過言ではないだろう。何を、どう撮れば、どう写るかを、60人のスタッフのだれ一人として分からない、などという奇妙な仕事がこの世にあるだろうか?」  
「ステージの中にはカメラが待機していて、真夏の太陽を幾つも集めたようなライトの光芒が被写体、つまり俳優に向かって集中される。カメラテストが始まったのは、25年のちょうど真夏のまっ盛りであった。当時は冷房などという気のきいたものはなかったから、ただでも蒸し風呂のようなステージの中はライトの熱が加わって40度を越える暑さである。」  
キャストや製作スタッフの苦労も大変だったが、フィルムの製造と現像処理を担当した当社の苦労も大変だった。  
外型反転カラーフィルムの製造には、写真乳剤を一層ずつ、精密に合計5回塗らなければならない。これまでは、パートカラー用として、あるいはスライド写真用として少量製造してきたカラーフィルムを、長編劇映画用として一度に大量に製造することは、至難のわざであった。しかし、足柄工場では、総力をあげてカラーフィルムの製造に努め、必要量を確保していった。  
一方、現像処理を担当した現像部も、昼夜の別のない作業の連続であった。万一、発色の不調があったら撮り直しをしなければならないだけに、現像処理には一刻の猶予も許されなかった。そして、やっとでき上がったオリジナルフィルムからのプリント作業も、試し焼きを重ね、1巻ずつ映写して発色状況を確認し、発色が不調な場合は徹夜で再プリントをするなどして、ようやく11本のプリントを製作して一般公開に間に合わせることができた。  
本映画は、東京映画記者会から日本映画文化賞を受け、本映画の技術スタッフに対し、日本映画技術協会から表彰状が贈られた。  
「夏子の冒険」「花の中の娘たち」  
わが国映画史上にエポックを画した「カルメン故郷に帰る」に次ぐフジカラー使用の第2作として、松竹は、「夏子の冒険」を製作し、1953年(昭和28年)1月に公開した。今回は、第1作で得られた自信から、黒白フィルムでの撮影は行なわず、プリント本数も40本とした。  
続いて、1953年(昭和28年)9月には、外型反転フジカラーフィルムによる長編劇映画第3作として東宝映画「花の中の娘たち」が公開された。この映画の製作に当たっては、カラー映画の撮影に初めてスクリーンプロセス(背景をあらかじめフィルムに撮り、これを映写して、その前で演技、撮影する方法)を採用するなど、種々の新しい技法が試みられ、今後のカラー映画のために、技術・演出・製作などのすべてにわたって貴重なデータが得られた。  
また、これらの作品と相前後して、当社の外型反転カラーフィルムを使用した短編映画も多数製作された。  
内型カラーフィルムの完成―「楢山節考」に使用される  
「カルメン故郷に帰る」などの一連のカラー映画で外型反転カラーフィルムが長編劇映画に使用されたことは、当社の快挙として、大きな注目を集めた。  
しかし、外型反転カラーフィルムのプリント方式は、ポジフィルムからポジフィルムへ焼き付けるポジ・ポジ方式のため、現像処理も複雑で、日数もかかった。このため、多数のプリントを必要とする映画用フィルムとしては、必ずしも適切ではなかった。  
折しも、このころから内型方式、すなわち写真乳剤の中にカプラー(カラー写真の発色剤)を添加し、現像処理によって発色させるネガ・ポジ方式のイーストマンカラーが登場し、カラー映画の製作に使われるようになった。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムに焼き付けるネガ・ポジ方式は、多数のプリントを作成するのに適した方式であり、1953年(昭和28年)から、わが国のカラー映画の製作にも採り入れられてきた。当社でも、外型反転方式のカラーフィルムの完成に引き続き、内型のネガ・ポジ方式の研究を進めていたが、1954年(昭和29年)以降、これまでの映画用外型反転カラーフィルムの製造を中止し、内型カラーネガフィルム・カラーポジフィルムの開発に全力をあげることとした。  
その結果、研究の努力が実って、1955年(昭和30年)には、カラーネガフィルム(タイプ8511)・カラーポジフィルム(タイプ8811)とも試作を完了し、同年10月に発売した。  
当社のカラーポジフィルムが最初に使用されたのは、1955年(昭和30年)秋、松竹映画「絵島生島」と新東宝映画「北海の叛乱」で、それぞれプリントの一部に使用された。その後も品質の改良を続け、1958年(昭和33年)には、改良品“タイプ8814”を発売した。この改良品は、従来よりも品質が大幅に改良されたもので、このころから当社のカラーポジフィルムは広く使われるようになり、販売数量も急速に増加してきた。  
カラーネガフィルムについては、発売に先立って、見本映画「花のおとずれ」を製作し、関係者に発表した。その後、電通映画「桂離宮」をはじめ短編映画の一部に使用されたが、さらに改良研究を続け、1958年(昭和33年)、改良品“タイプ8512”を完成した。そして同年6月封切られた松竹映画「楢山節考」に長編劇映画として初めて使用された。この「楢山節考」によって、当社カラーネガフィルムは、その性能を認められ、以降、各社の映画の製作に使用されはじめた。  
一般用カラーネガフィルム、カラーペーパーの発売  
今日では、カラー写真といえば、印画紙に焼き付けたカラープリントで鑑賞するものが大半であるが、外型反転カラーフィルムで撮影したカラー写真は、通常は、スライド映写機で投影して鑑賞されていた。一方で、黒白写真と同じように印画紙に焼き付けて鑑賞するために、反転カラーフィルムからのカラープリントの作成も行なわれていたが、技術的に複雑であり、プリント価格も著しく割高であった。そのため、カラー写真を、より手軽に、また、割安な価格でプリントしたいというニーズが強かった。このニーズに対応するために、映画用内型カラーネガフィルム・カラーポジフィルムの研究に次いで、一般写真用についても、内型ネガ・ポジ方式のカラーネガフィルムとプリント用のカラーペーパーの研究を進めてきた。そして、1958年(昭和33年)10月、待望の“フジカラーネガティブフィルム”と、プリント用の“フジカラーペーパー”を発売した。外型反転カラーフィルムを商品化してから、10年目の成果であった。  
このカラーネガフィルムは、ブローニー判(6cm×6cmサイズ6枚撮)と35mm判20枚撮の2種類で、35mm判20枚撮の販売価格(標準小売価格)は、現像料込みで1本650円であった。いずれも撮影光源に制限のないユニバーサルタイプであり、国産カラーネガフィルムとしては、当時最高の感度(ASA32)を誇っていた。なお、プリント用カラーペーパーは、当社から富士天然色写真株式会社に販売し、同社でカラープリントの製作にあたることとした。  
このカラーネガフィルムとカラーペーパーの開発によって、来るべきカラー写真の時代の幕が開けられたと言うことができよう。  
富士天然色写真株式会社東京現像所の開設  
カラーネガフィルムは、カラーペーパーにプリントして初めてカラー写真として完成するもので、発売に当たっては、現像およびプリント体制の整備が不可欠の要件であった。そこで、足柄工場現像部とは別に、本格的なカラー現像所を建設することとした。用地の選定に当たっては、現像に使用する用水・排水に支障がなく、フィルムの引き取りや配送に便利なように、都心に近く交通上の便のよいことを条件に、候補地を選び、東京郊外の調布市に決定した。  
また、現像・プリント業務は、写真感光材料の製造とは性質を異にしており、顧客へのサービスを全うするのにふさわしい体制を確立する必要があったので、当社の組織から切り離して、富士天然色写真株式会社を活用し、同社の現像所として経営することとした。  
富士天然色写真株式会社は、外型カラーフィルム発売の2年前、1946年(昭和21年)4月に、カラー写真の利用とその用途開発を図る目的で、当社と株式会社光村原色版印刷所・日本ビクター株式会社の3社が出資して、天然色写真株式会社の社名で設立された会社である。同社は、当社の一般用外型反転カラーフィルムの発売とともに、カラースライドの製作と反転カラーフィルムからの転染式のカラープリント(ダイトランスファー法)の製作業務を行なってきた。その後、1953年(昭和28年)6月には、社名を富士天然色写真株式会社と改め、同年8月には当社の100%子会社となった。  
1958年(昭和33年)11月、調布に建設中の現像所が完成したので、この現像所を同社の東京現像所として発足させ、カラーネガフィルムの現像およびカラープリントの製作業務を開始した。  
東京現像所の完成に伴い、従来、足柄工場現像部で行なっていた35mm判やブローニーサイズの外型反転カラーフィルムの現像の業務も、すべて富士天然色写真株式会社に移管した。  
カラープリントのサイズについては、当初は、Aサイズ(ペーパーサイズ64mm×89mm)・Bサイズ(ペーパーサイズ89mm×89mm)・Cサイズ(ペーパーサイズ69mm×89mm)の3種類の普及判サイズを定め、その後、Dサイズ(ペーパーサイズ89mm×127mm、後にLサイズと改称)を追加した。これらの各サイズはいずれも89mm幅のカラーペーパーロールから自動プリンターでプリント作業する方式を主とし、このほか、手札・カビネ・八切・六切・半切・全紙などのサイズについても、引伸しプリントを受注することとした。 
フィルムベース不燃化へのチャレンジ / TACベースの開発  
セルロースナイトレートを使用する映画用フィルムの可燃性が問題となって、フィルムベースの不燃化が強く求められる。当社では、戦前からセルロースダイアセテートを原料とする不燃性DACベースを開発しているが、戦後間もなくセルローストリアセテートを主原料とするTACベースによって不燃化を計画する。TACベースの量産化の方法を確立し、新工場を建設する。そして、1954年(昭和29年)末に、映画用ポジフィルムのフィルムベースをこの不燃性(TAC)ベースに転換するのを皮切りとして、逐次切り換えを行ない、1958年(昭和33年)5月末までに、すべてのフィルムベースをTACベースに切り換えて、不燃化を完了する。 
TACベースの開発  
映画が国民生活に深く根づいていくにつれて、映画用フィルムの可燃性が大きな問題となった。フィルムに起因する映画館の火災事故が相次ぎ、また、わが国の映画の海外への輸出の際にも、相手国において、燃焼性の大きいフィルムを使用した映画の輸入規制の動きが高まり、フィルムの不燃化は大きな社会的課題となっていた。  
映画用フィルムの支持体(ベース)には、セルロースナイトレートを主原料とするセルロイドが用いられていたので、これが発火しやすく、燃焼の激しいことが最大の難点だった。  
そのために、当社では、戦前からセルロースダイアセテートを原料とする不燃性(DAC)ベースの開発に取り組み、X−レイフィルムやインターレアーなどに使用した。しかし、DACベースは、湿度の変化に対する伸び縮みが大きくて、映写耐久力も十分でなく、映画館で数百回にわたって映写される映画用フィルムのベースとしては、好適とはいえなかった。  
DACベースに代わるものとして登場したのが、TACベースであった。TACベースは、セルローストリアセテートフレークスを主原料とし、溶剤にメチレンクロライド、可塑剤にトリフェニールフォスフェートなどを用いるもので、燃えにくいだけでなく、吸湿性も小さく、映写耐久力も優れていた。  
当社では、フィルムベースの不燃化についての調査・研究を進めてきたが、映画用フィルムの支持体としては、TACベースが最適であるとの結論に達し、早急にその実用化を図ることとした。  
そこで、1949年(昭和24年)5月、大日本セルロイドに、主原料のセルローストリアセテートフレークスの製造研究を依頼した。  
大日本セルロイドでは、当社と緊密な連携をとって研究を進め、研究室での試作に成功し、次いで中間設備による試験製造にも成功した。一方、三井化学工業株式会社(現三井東圧化学株式会社の前身の1社)に依頼していた溶剤メチレンクロライドの製造研究も進ちょくし、試作品ができるようになった。  
この間、不燃性フィルムの工業化を促進するため、次のような助成措置が講じられた。  
(1)1951年(昭和26年)8月、通商産業省は、35mm映画用不燃性フィルム工業化試験補助金850万円を当社に交付した。  
(2)1952年(昭和27年)には、不燃性フィルムベースの設備投資資金として、日本開発銀行の融資が認められた。  
(3)1953年(昭和28年)には、不燃性フィルムの製膜装置が、企業合理化促進法による特別償却設備に指定された。  
これらのことは、フィルムベースの不燃化にチャレンジする当社にとって、大きな支えとなった。研究は一層進展し、1951年(昭和26年)10月には、製帯機2機を改造して、TACベース量産化の研究を開始した。  
量産化のためには、フィルムベースの品質問題のほか、メチレンクロライドによる機械の腐食防止・製品の歩留まり向上のための装置の改良・溶剤回収の装置・流延のスピードアップなどの問題があったが、それらの問題を一つ一つ解決し、1952年(昭和27年)12月、ついに量産化技術を確立するに至った。  
この間、並行して、新しいフィルムベースに合致した写真乳剤と、その塗布乾燥方法の研究やフィルムを所定の製品に仕上げるための裁断(スリット)・せん孔などの加工方法の研究も精力的に推進した。  
TACベース工場の建設  
研究の進ちょくに伴い、TACベース工場を建設する方針を決定した。  
TACベース工場の総投資額は6億円と、当時の資本金を上回る巨額の投資であったが、フィルムベース不燃化切り換えの重要性から決断したのであった。  
TACベース工場の建設計画は、これを2期に分けて実施することとし、1953年(昭和28年)2月に着工した。  
第1期工事では、従来のフィルムベース工場の南側に、工場建屋を建設し、ここに製帯機4機を新設して最も急を要する映画用フィルムの全量を不燃化し、第2期工事で、現在稼働中の製帯機を改造して、X−レイフィルムその他一般用フィルムを逐次不燃性ベースに切り換えることとした。  
この間、大日本セルロイドにおける研究も順調に進み、1953年(昭和28年)7月から、当社向けにセルローストリアセテートフレークスの出荷が開始され、当社の新設備の稼働に合わせて順調に供給された。  
翌1954年(昭和29年)9月までに、新工場に全製帯機の据え付けを完了し、稼働を開始、同年末には、早くもすべての映画用ポジフィルムのベースを不燃性(TAC)ベースに切り換えた。  
その後、さらに第2次計画の実施に踏み切り、X−レイフィルムなどその他のフィルムのベースの製造設備の改造に着手した。改造中もフィルムベースの生産を減少することはできない。このため、生産を続けながら設備の改造を行なったので、約3か年の月日を要した。  
こうして、1958年(昭和33年)5月までに、当社のフィルムベースは、すべて不燃性ベースに切り換えられた。  
新ベースの開発によって、映画用フィルムをはじめ、すべての写真フィルムは危険なものから安全なものへと変わった。それに伴って、フィルムの引火による映画館の火災事故もなくなった。  
これらの成果に対し、1959年(昭和34年)春、日本化学会から、当社取締役北島弘蔵のほか、大日本セルロイドなどの関係技術者に対し、化学技術賞が授与された。  
フィルムの不燃化、すなわちTAC化ということは、社会的責任を果たしたという意味で、当社の歴史上忘れることができない重要な成果であった。  
X−レイフィルムの需要拡大 
医療用X−レイフィルムは、戦後、結核の早期発見のための集団検診の実施と、医療・保健に対する関心の高まりなどによって、需要が急増する。この社会的要請に応えて、X−レイフィルムの生産体制を整備して、急増する需要に応える。また、不燃性ベースへの切り替えを実施するとともに、品質面での改善を図り、高感度品の開発を進める。販売体制を整備するとともに、X−レイフィルムの正しい使い方や現像処理技術の向上に結び付く普及活動に力を入れる。一方、鋼板などの溶接部の内部構造を調べるための非破壊検査用として工業用X−レイフィルムを発売し、また、被ばく線量を測定するためのバッジフィルムを開発する。  
伸長著しいX−レイフィルム  
戦後の食糧不足と社会環境の悪化の中で、公衆衛生問題がクローズアップされ、とりわけ結核対策が重視されてきた。結核対策のためには、X−レイフィルムは必要不可欠であり、その供給の増加を強く要請された。1951年(昭和26年)には、結核予防法が改正され、結核の定期検診が義務づけられたことにより、さらに需要は増加した。  
この社会的要請に応え、急増する需要に対応するために、戦後の生産再開とともに、足柄工場の生産設備を整備し、乾板工場をフィルム工場に転換するなど、X−レイフィルムの生産能力を高め、生産数量の増加を図ってきた。X−レイフィルムの生産数量は、終戦後、1950年(昭和25年)までの5年間で急激に増加したが、その後、1950年代の10年間でも、生産量はほぼ5倍に増加した。  
この間、品質面でも改善を図った。1948年(昭和23年)2月、集団検診用に使用される間接撮影用X−レイフィルムのシャープネスを改良し、1949年(昭和24年)12月には、直接撮影用フィルムについても、その保存性・信頼性を一層向上させるため、包装材料(内装)に金属はくを使用し、さらに1951年(昭和26年)6月には、包装型式を熱着シール密封方式に改めた。  
不燃化と高感度化の追求  
撮影済みのX−レイフィルムは、現像され、診断用に使用された後、患者のカルテとともに、病院施設内で長期保存されており、保管中の災害予防のためにも不燃性ベースへの切り換えが急がれていた。  
すでに戦前からセルロースダイアセテート(DAC)ベースを使用した不燃性X−レイフィルムを出荷していたが、セルローストリアセテート(TAC)ベースの開発に成功するや、映画用フィルムに続いて、X−レイフィルムも不燃性ベース(TACベース)へ切り換えた。1955年(昭和30年)4月から切り換えを開始し、翌年2月に完了した。  
一方、製品の改良については、1950年代に入って本格的に研究に着手し、1952年(昭和27年)4月、ニュータイプ品を発売した。コントラストを改良し、カブリも少なく、性能の均一性を向上させたものであった。  
1954年(昭和29年)には、TACベースを使用した高感度品を製造して、アルゼンチン向けに初めて大量輸出を行なった。この時の経験をもとに、1956年(昭和31年)2月には、TACベースを使用して、コントラストを高くし、かつ感度を60%アップした新製品(略称“TX”)を発売した。“TX”は、黒箱に赤文字のパッケージデザインを採用した。  
続いて1959年(昭和34年)7月、“富士医療用X−レイフィルムPX”を発売した。これは“TX”に比べ感度が20%アップし、現像進行や定着速度・乾燥速度も大幅に改善した製品であった。この“PX”から、略称を正式に製品名に用いるとともに、パッケージデザインを当社のシンボルカラーであるグリーンの地色に白文字を抜いたグリーンボックスを採用した。  
販売体制の整備と普及活動  
X−レイフィルムは、他の一般用写真フィルムと同様に、主として写真感光材料特約卸店を通して出荷していたが、戦後、X−レイフィルムの需要増加に伴い、各地の写真材料販売店や医療機材販売店でX−レイフィルムを取り扱う店が増加した。メーカーの生産体制が整備され、市場での販売競争が激しくなったのに伴い、より一層きめ細かな販売活動が必要となってきた。このような情勢に対応して、新たに、千代田レントゲン株式会社(現千代田メディカル株式会社)・株式会社ワキタ商会などのX−レイフィルム取り扱い専門店をそれぞれ地域別特約店とし、販売組織を整備強化した。  
一方、X−レイフィルムの正しい使い方や現像処理技術の向上に結びつく普及活動にも力を入れた。  
1948年(昭和23年)2月に「富士X−レイ研究」を発刊した。これは、ユーザーの研究発表の場として、また、当社と顧客とのコミュニケーションを目的として発刊したものであり、その後一時「富士X−レイ時報」と改題したが、現在は「富士メディカルフォーラム」として、発行が続けられている。  
また、1954年(昭和29年)9月には、「富士X−レイ写真コンテスト」を開催した。これは、X−レイ写真の撮影および現像処理技術の向上と当社製品の認識を高めるために開催したもので、全国のX線技師の20%にあたる1、643名から2、473点の応募があった。当初はX線写真の審査は困難であるとみられていたが、学会や業界の全面的協力を得て成功させたもので、関係方面から毎年開催してほしいとの強い要望があったため、以後、1963年(昭和38年)まで毎年継続して開催した。  
工業用X−レイフィルムの開発  
X−レイフィルムは、単に医療分野だけでなく、X線が物質を透過する性質を利用して、金属、とりわけ鋳造品や鋼板の溶接部の内部構造を調べる非破壊検査用として、産業用の分野にも使用される。  
日本の船舶の重要部分の接合は、戦前から「びょう接」で行なわれていたが、戦後、船舶建造の大部分は「溶接」に置き換えられてきた。これに伴って、非破壊検査の重要性が認識され、1952年(昭和27年)10月、非破壊検査法研究会(現日本非破壊検査協会)が設立された。  
1950年代後半になると、工業用X線装置・ガンマ線装置の普及につれて、非破壊検査用としての工業用X−レイフィルムの需要が増大した。  
当社が工業用X−レイフィルムの研究を開始したのは戦時中のことで、戦後、研究は中断していたが、1952年(昭和27年)から再開した。  
翌1953年(昭和28年)8月には、通商産業省から応用研究補助金70万円の交付も受けて、研究を促進し、1954年(昭和29年)4月、“富士工業用X−レイフィルムタイプ80”をはじめ、“タイプ200”・“タイプ300”・“タイプ400”と各品種を整備して発売した。  
また、1958年(昭和33年)10月には、“タイプ100”を追加発売した。  
各種感度の製品が整備されたので、被写体の材質・厚さ・使用目的などに応じて、適切なフィルムを選択できるようになった。  
また、“タイプ100”は、超微粒子・ノンスクリーンタイプとして、工業用X−レイフィルム分野の主流を占めるようになった。  
バッジフィルムの開発  
X線写真の普及に伴い、放射線障害の問題がクローズアップされ、多くの医療放射線業務従事者や工業用検査で放射線を取り扱う技術者の健康管理が強く叫ばれてきた。  
放射線業務従事者の放射線障害を防止するために必要な人体に受ける放射線量を測定するバッジフィルムの研究開発を進め、1954年(昭和29年)4月、バッジフィルム(X−レイ用)を発売した。  
一方、1955年(昭和30年)12月には原子力基本法が公布され、翌年6月には日本原子力研究所が発足し、日本でも原子力の平和利用に向けて、実用化の第一歩が踏み出された。  
このような情勢に対応して、ガンマ線や中性子線などの放射線による被ばく線量の測定が必要となってきた。そこで1955年(昭和30年)から1958年(昭和33年)にかけて、通商産業省や科学技術庁からガンマ線や中性子線用のバッジフィルムの試作研究および改良研究についての原子力平和利用研究費補助金を受け、研究を開始した。  
ガンマ線用バッジフィルムは、1956年(昭和31年)3月に試作を完了し、同年9月に発売した。これによって、ガンマ線および高エネルギーのX線による被ばく線量が測定できるようになり、原子力関係業務従事者の健康管理に多大の威力を発揮した。  
中性子線用バッジフィルムについても、1956年(昭和31年)に研究を開始し、1958年(昭和33年)3月、試作を完了、科学技術庁に報告書を提出した。 
写真製版方式の変革への対応 / フジリスフィルムの発売  

 

写真製版方式は、戦後、湿板法から近代的な写真フィルム法へ移行していく。この動向に対応するため、写真フィルム法の中心となるフジリスフィルムを開発する。1956年(昭和31年)には“フジリスオルソフィルムタイプN”を、1959年(昭和34年)には、さらに品質を改良した“フジリスオルソフィルムタイプO”とグラビア製版用として“富士プロセスフィルムソフト”をそれぞれ発売する。その後、プロセスフィルムの名称をグラビアフィルムと改称し、“富士グラビアフィルムウルトラソフト”を発売して、カラー印刷の増加に対応して、品種の整備を行なう。また、コロタイプ印刷分野に対しても、コロタイプ製版用専用フィルムを発売する。 
フジリスフィルムの発売  
戦前から1950年代にかけての写真製版方式の大きな技術変革は、湿板法から写真フィルム法への移行が進んだことである。  
湿板法は、ガラス板上にヨードコロジオン(硝化綿をアルコール・エーテルの混合溶液に溶かしてヨード剤を加えたもの)を塗布し、硝酸銀溶液に浸した感光板を使用するが、乾くと感光性がなくなるため、湿っている間に露光・現像しなければならない。したがって、湿板法は、撮影の都度感光板を作成するため、感度・ムラなどを均一にすることはかなりの熟練を要し、作業性も悪く、工程の安定化は困難であった。  
これに対し、写真フィルム法は、あらかじめ写真乳剤が均一に塗布されているフィルムを使用するもので、これに使われる製版用リスフィルムは、湿板に比べて感度が高く、取り扱いも容易であり、何よりも大きな特長は、均一な写真性にある。写真フィルム法への転換によって作業効率の向上と品質の安定が可能になり、今日の製版技術の進歩がもたらされた。  
湿板法から写真フィルム法への動きは、日本ではまず、地図・図面などの線画製版の分野から始まった。  
戦後、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)にかけて、駐留米軍・警察予備隊(自衛隊の前身)・建設省地理調査所(現在の国土地理院)・海上保安庁水路部などから、地図作成のために、航空写真原版からの複製用フィルムとして、当社に、リスフィルムの試作品提供が要請された。これが契機となって、1952年(昭和27年)、“フジリスフィルムL”(密着用)・“フジリスフィルムM”(撮影用)を発売した。  
そして、プロセス資材株式会社を特約販売店として、他の製版用フィルムとともに、フジリスフィルムの販売ルートを設定した。湿板法から写真フィルム法への動きに対応し、写真製版作業の標準化と品質の安定化をセールスポイントとして、フジリスフィルムの販売促進を図った。  
“タイプN”から“タイプO”へ  
従来のリスフィルムは、通常のMQ(モノール、ハイドロキノン)タイプの現像液で処理されていたが、リスフィルム本来の性能として要求される高濃度・高コントラストを得るために、新たに、専用の写真乳剤を用いて、写真フィルムとしては極限に近い高い濃度・コントラストを得ることのできる伝染現像システムという特殊な現像システムが開発された。当社でも、この伝染現像システムに適合したリスフィルムの研究を進め、1956年(昭和31年)1月、その商品化に成功し、“フジリスオルソフィルムタイプN”として発売した。  
1959年(昭和34年)10月には、さらに品質を改良し、フィルムベースも不燃性のTACベースに切り換えた“フジリスオルソフィルムタイプO”を発売した。この“タイプO”は、解像性や階調などの品質が良化し、また、現像のラチチュードが広がったため、当時としては非常に使いやすいものとなり、国産リスフィルムの標準的なものとの評価を得た。この“タイプO”の商品化によって、リスフィルム市場における飛躍のための基礎を固めることができた。  
グラビア製版用“プロセスフィルム”の品種整備  
印刷業界のカラー化の動きにつれて、グラビア印刷業界でもカラーグラビアが多くなってきた。こうした動きに対処して、1959年(昭和34年)10月、新たに軟調用の“富士プロセスフィルムソフト”を発売した。1960年(昭和35年)2月、“プロセスフィルム”を“グラビアフィルム”と改称した後、1962年(昭和37年)4月には“富士グラビアフィルムウルトラソフト”を発売し、品種の整備を図った。  
その後、1970年代に入ってからは、オフセット印刷技術の進歩によって、多色オフセット印刷が漸次カラーグラビアに近い刷り上がりをするようになり、一般のカラー印刷は、オフセット印刷が主流になってきた。反面、グラビア印刷は、パッケージ関係(特に、ポリエチレン印刷・セロファン印刷)、建材の木目印刷などに活用され、また、製版方式の進歩によって、各種の新しいグラビア製版方式が採用されるようになってきたが、これらの方式は、リスフィルムを多用するため、グラビア製版用ポジフィルムの需要は相対的に減少してきている。  
コロタイプ印刷専用フィルムの開発  
絵葉書や学校の記念写真アルバムなど、少量多品種の写真印刷分野に用いられていたコロタイプ印刷は、他の一般的な印刷法と異なり、写真原板の濃淡をそのまま再現する方法として優れている。  
コロタイプ印刷用の刷版は、写真原板となる撮影済みのネガ乾板の画像膜をはく離して、重クロム酸ゼラチンの感光液が塗布されたガラス板に重ねて焼き付けて作られる。  
戦後、写真館などの撮影用材料が乾板からフィルムに変わり、はく膜が困難となったが、フィルム原板のはく膜処理方法を開発して、ユーザーの便宜を図ってきた。  
その後、アマチュア写真の普及によって、学校アルバムの写真原板は小型ネガが多くなってきたので、反転現像によって直接所定サイズの複製ネガを得ることができるように、1960年(昭和35年)10月、コロタイプ製版特有のはく膜性能を備えたコロタイプ製版用フィルム“富士製版用反転フィルム”を商品化し、この業界に貢献してきた。  
その後、学校アルバムのコロタイプ印刷の大部分は、オフセット印刷に変わっていったが、今日でも、コロタイプ技法は、特殊美術印刷・高級少数部数の印刷などに用いられている。  
フィルム生産体制の増強 
足柄工場は、設備の復旧、整備を進めるとともに、需要増に対処してフィルム塗布機を増設し、当面の生産能力の増強を図る。一方で、将来に備えて高能率の新工場の建設を計画し、足柄工場北側隣接地を買収、1954年(昭和29年)、わが国でのファクトリーオートメーションの先駆をなすものとうたわれる第3フィルム工場を建設する。一方、カラーフィルムについても専用工場の建設を計画し、第1・第2工場を建設、あわせて、小田原工場にカプラーの製造工場を建設し、内型カラーフィルムの量産体制を整える。他方、ゼラチンの研究・製造を行なっていた川上工場は、国内ゼラチンメーカーの成長に伴い、所期の使命を達成したので、閉鎖する。  
フィルム生産体制の復旧整備  
足柄工場は、戦後の生産再開に伴い、戦時中に整備不十分なまま酷使した生産施設の整備・補修に努める一方、フィルムの生産能力の増強に全力をあげた。生産再開時には、稼働し得るフィルム塗布機は1機だけで、これであらゆる品種のフィルムを製造しなければならなかったので、思うように増産できなかった。  
そこで、1947年(昭和22年)7月、新たに第2フイルム部を設置し、乾板工場の大改造を行ない、乾板塗布機は1機のみを残し、ここにフィルム塗布機1機を新設することとした。新設塗布機は、翌1948年(昭和23年)11月から稼働、主としてX−レイフィルムの製造を担当することとした。  
これに伴い、従来のフイルム部を第1フイルム部と改称し、主として映画用フィルムおよびロールフィルムの製造をすることとした。  
さらに、その後の需要増加に対応するため、1952年(昭和27年)3月には、第1フイルム部の建物に塗布機1機を増設し、生産能力の増強を図った。  
第3フィルム工場の建設  
しかし、戦後の復興とともに、映画用フィルム・X−レイフィルムをはじめ各種の写真フィルムの需要量は急増し、生産が需要に追いつかない状況であった。そこで新工場の建設について検討を開始した。  
新工場は、足柄工場のフィルム生産能力を一挙に60%増大させる規模とし、立地条件・機械装置などを調査、検討した。  
建設地については、種々検討の結果、フィルムベースの運搬・既設のボイラー・電気設備の活用など、生産の効率化と原価低減の観点から、足柄工場に隣接して建設することとした。工場の北側隣接地約4万m2を買収することとし、1953年(昭和28年)4月、南足柄町との間で、土地の買収・ゆう水池(弁財寺池)水利権の譲渡・町道の一部閉鎖と付け替えなどの交渉を開始した。幸いに、地元の全面的な協力が得られ、用地買収その他について話し合いがまとまり、同年12月、新鋭フィルム製造工場(第3フィルム工場)の建設に着工した。翌1954年(昭和29年)8月には、早くも建屋のしゅん工式を行ない、新工場に塗布機1機および関連する製造設備を設置した。  
この第3フィルム工場の完成に伴って、同年9月には、足柄工場に第3フイルム部の組織を新設した。その後、試運転を経て、1955年(昭和30年)初頭には、この新鋭塗布機を基幹とするフィルムの高能率製造体制が確立した。  
この新設工場は、創業以来蓄積してきた技術をもとにして、採り入れられる技術はすべて活用し、多くの新しい独創的な設備を施した。中央管制室によるリモートコントロールシステムは、わが国におけるファクトリーオートメーションの先駆をなすものの一つとして、ジャーナリズムの脚光を浴びた。また、その他の諸設備も、品質の良化と得率および作業能率の向上にエポックを画したもので、建設計画の作成当初に計画した以上の精度と能力を示した。  
なお、このとき、水利権が譲渡された弁財寺池ゆう水は、以後、足柄工場の第2水源地として利用されている。  
この第3フィルム工場は、当社が戦後に完成した最初の大規模な設備で、全長230m・幅30mの巨大な工場は、戦時中の日本海軍最大の戦艦「大和」を思わせるものがあり、「戦艦大和」のニックネームで呼称された。  
続いて、さらにX−レイフィルムの生産増強を図るために、第3フィルム工場建物内に塗布機の増設を計画し、この新設第2号塗布機は、1955年(昭和30年)4月に据え付けを完了した。  
第3フィルム工場の2号塗布機の完成に伴い、同年6月、第2フイルム部の組織を廃止し、映画用フィルム・35mm判フィルムとX−レイフィルムの生産を第3フイルム部に集中させ、第2フイルム部の建物と設備は、印画紙の製造に充てることとした。  
LX加工工場の新設  
第3フイルム部の2機の塗布機の本格稼働に伴って、加工設備の増強も求められた。とりわけ、X−レイフィルムの需要の増大は著しく、また、1950年代後半に入ってからは、一般用35mm判フィルムの需要も増大の一途をたどった。  
そこで、X−レイフィルムおよび35mm判フィルムの加工能力を増加するために、第3フィルム工場の隣接地に加工工場を新設することとした。この新加工工場は、1957年(昭和32年)10月から稼働を開始したが、35mm判フィルムの一般呼称であるライカフィルムのLとX−レイフィルムのXをとって、LX加工工場と名づけた。  
従来からの第1フイルム部の生産設備に加えて、第3フイルム部の2機の塗布機とLX加工工場の完成によって、各種製造設備がそれぞれ品種別に専用化されることになり、作業効率の向上とコストダウンなどの生産合理化を積極的に促進できる体制が確立した。  
第1カラー工場の建設  
戦後、カラーフィルムの製造を開始した当初は、第1フイルム部の塗布機で、カラーフィルムの塗布乾燥を行なっていた。カラーフィルムは、多くの写真乳剤層を塗布しなければならないが、当時は、多層同時塗布技術は開発されておらず、何層もの写真乳剤層を一層ごとに塗布していた。したがって、1本のカラーフィルムをつくるためには、時間も多くかかるうえ、品質の維持が難しく、得率も低いなど、多くの問題を抱えていた。しかも、黒白フィルムの製造の合い間をぬってカラーフィルムの塗布を行なわなければならない状況で、映画用フィルムやX−レイフィルムなどの黒白フィルムの増産要請の中で、カラーフィルムの量産化を実現するのは困難であった。  
そこで当社は、カラーフィルムの量産化のため、専用工場の建設を計画した。  
カラーフィルム専用工場は、終戦直前にインターレアーの製造工場として建設した建物の一部を改造して使用し、1952年(昭和27年)5月、ここにカラーフィルム塗布機1機を据え付けた。この工場(第1カラー工場)は、しゅん工後しばらくは、カラーフィルム製造の試験研究設備として利用したあと、1953年(昭和28年)製造工場に転換して、ブローニー判や35mm判の一般用カラーフィルムの量産化を図った。  
また、カラーフィルムの量産化のためには、カプラーの生産体制を整えることが必要であり、1952年(昭和27年)2月、小田原工場にカプラー製造工場を建設した。なお、1951年(昭和26年)1月には、研究所内に現像部を新設しており、これら一連の製造設備および現像処理設備の整備によって、カラーフィルムの製造および現像処理体制が整備されたのであった。  
第2カラー工場の建設  
外型カラーフィルムに続いて、内型方式のカラーネガ・カラーポジ両フィルムの開発にも成功した当社は、内型カラーフィルムの量産化のため、本格的なカラー工場、すなわち第2カラー工場の建設に着手した。  
内型カラーフィルムは、写真乳剤の中にカプラーを添加し、現像処理によって発色させる方式なので、現像液の中にカプラーを溶け込ませ発色させる外型カラーフィルムと比べると、量産化ははるかに難しかった。とりわけ、最大のポイントは、写真乳剤の中にカプラーを均等に分散させることと何層にも及ぶ写真乳剤層を均一に塗布する塗布乾燥工程であった。  
そのため、第1カラー工場での経験をもとに、写真乳剤製造工程や塗布・乾燥工程の改良研究を進め、また、各装置の自動化を図り、中央コントロールセンターで集中制御できるシステムを完成した。建設工事は、1956年(昭和31年)5月に着工し、翌年3月に建屋を完成、塗布機(A号機)など所要の設備を整え、試運転のあと6月から本格操業に入った。これによって、内型カラーフィルムの量産体制が整った。  
しかし、その後、映画用カラーポジフィルムの需要が急激に増大したうえ、映画用カラーネガフィルムや一般写真用カラーネガフィルムを発売したこともあり、カラーフィルムの需要は予想を上回るスピードで増大した。そこで1958年(昭和33年)10月には、さらに塗布機1機(B号機)を増設し、増産体制を整えた。  
第2カラー工場の新設と並行して、カプラーの生産能力も増強することとし、1957年(昭和32年)6月、内型カラーフィルムのカプラー専用工場を小田原工場内に建設した。同工場では、従来の小単位の生産方式を改め、仕込み単位をスケールアップして、バッチ間に生ずるばらつきを防ぎ、かつ、収量の増大と生産コストの低減を図った。  
川上工場の閉鎖  
川上工場は、1941年(昭和16年)にゼラチンの研究と製造を目的に設置して以来、戦中・戦後のゼラチンの不足時期に、写真感光材料の生産を維持するために、重要な役割を果たしてきた。しかし、足柄工場と遠く離れていて地理的に不便なうえ、生産規模も小さく、当社の需要量をまかなうにはほど遠かった。  
そのため、川上工場では、主として特殊のゼラチンの生産を行ない、ゼラチンの量産化については、国内のゼラチンメーカーに技術協力をして、そこからゼラチンの供給を受けてきたが、今や、国内ゼラチンメーカーは、質・量ともに当社が希望する写真用ゼラチンを製造しうるようになってきた。  
そこで、経営全般の効率化の観点から、1954年(昭和29年)7月をもって川上工場を閉鎖することとした。65名の従業員は、少数の退職者を除き、すべて足柄工場に配置転換した。川上工場は、ゼラチンの国産化・自給化という使命を達成し、12年半の歴史に幕を閉じた。 
写真感光材料研究体制の整備  
戦後、生産の再開とともに、研究活動も再開する。戦時中閉ざされていた海外の技術情報も再び入手できるようになり、商品化研究や生産技術の研究は、大きく前進していく。商品化研究では、高感度フィルムの開発と、カラーフィルムの商品化に大きな成果をあげる。戦時中から続けてきたカラーフィルムの研究については、1950年代後半にかけて、映画用内型カラーフィルムを商品化し、次いで、一般用カラーネガフィルム、カラーペーパーを商品化する。写真感光材料の研究体制を強化するため、研究所の陣容・施設を拡充する。生産技術の面でも、塗布技術、写真乳剤製造技術、加工技術のそれぞれの分野で、大きく進歩向上する。 
研究の再開  
終戦とともに、研究活動も一時中断したが、事業の再開に伴って、研究活動を再開した。  
研究所は、主として写真感光材料の基礎的研究を任務とし、写真乳剤基礎研究部門・カラー写真研究部門・高分子研究部門のほか、写真物理研究・応用写真研究などの研究部門を有しており、戦後は、小田原分室から有機合成研究部門も統合した。  
一方、写真感光材料の商品化の研究と生産技術研究は、足柄工場が担当してきた。  
戦後のスタートに当たっては、まず戦時中のブランクを取り戻し、海外のトップメーカーの技術水準にいかに追いつくかということが最も大きな課題であった。  
そのためにまず、各種の海外技術情報の入手に努めてきたが、ドイツのアグファ社の技術が連合軍の占領調査報告たる「PBレポート」として公開され、当社の戦後の研究の再出発に大きな影響を与えた。  
その後、各種の研究の進展に伴い、研究所の陣容を強化するとともに、1957年(昭和32年)1月、新たに鉄筋コンクリート造5階建の研究所新館(2号館)を建設し、研究施設を整備拡充した。  
1950年代の商品化研究  
1950年代における写真感光材料商品の開発面における大きな成果は、高感度フィルムの開発とカラーフィルムの商品化である。  
高感度フィルムの開発については、金増感(金の化合物を用いて、写真乳剤の感度を増加させる技術)の有効性を認識し、研究を進めてきたが、ようやく安定した増感方法を確立し、1952年(昭和27年)4月に発売した感度ASA100の“ネオパンSS”において、実用化することができた。  
カラーフィルムについては、戦時中から研究を続けてきたが、戦後、外型カラーフィルムを完成し、次いで内型カラーフィルムの開発に取り組んだ。内型カラーフィルムには、カプラーが水溶性でそのまま乳剤に添加できる型(アグファ型ともいわれる)と、カプラーを油に溶解し、そのカプラー含有の油を細い油滴として安定した型にして乳剤に添加する型、すなわちオイルプロテクト型(コダック型ともいわれる)とがあった。オイルプロテクト型は、カプラーと写真乳剤中のハロゲン化銀粒子が直接に接触することがないので、生フィルムのもちがよいといわれていた。  
しかし、当初からオイルプロテクト型の開発に取り組むのは困難であった。それに対し、水溶性カプラーを使用する方式は、「PBレポート」でその内容がほぼ明らかにされていたので、まず、水溶性カプラーを採用する方針で研究を開始した。  
そして、この水溶性カプラーを使用して、1950年代後半にかけて、映画用内型カラーフィルムの最初の製品を商品化し、次いで1958年(昭和33年)10月には、一般用カラーネガフィルム・カラーペーパーも商品化することができた。  
なお、これらの写真感光材料の研究と並行して、1950年代の研究所では、次の時代の多角化への種となるべき、磁気記録材料・電子写真・感圧紙などの基礎研究も、小規模ではあるが、スタートした。  
生産技術研究の進展  
商品化研究を進めるとともに、生産技術の研究にも積極的に取り組んだ。この面でも「PBレポート」をはじめとして海外の技術資料から多くの示唆を得ることができた。  
写真感光材料生産技術面における成果は、まず、写真乳剤の塗布技術に現われた。すなわち、新しい界面活性剤の活用によって、フィルムベースに乳剤層と保護膜層を同時に塗布する技術も安定化し、従来では考えられないような高速連続塗布の技術を確立した。これによって、すべての高感度フィルムの写真乳剤層に保護膜が安定してつけられるようになり、すり傷や静電気の発生による製造工程中の故障を著しく減少させることができた。  
塗布方式の面では、従来のディップコート方式(フィルムベースまたはバライタ紙を写真乳剤液に軽く浸して塗布する方法、スキムコート方式ともいう)に代わる新しい塗布方式として、エアーナイフコート方式(塗布された余分な乳剤に空気を吹き付けてかき落としてしまう方式)の研究に取り組み、実用化に成功した。  
写真乳剤の製造技術面では、フィルムの高解像力を実現するために、乳剤の高銀化(ハロゲン化銀量に対してゼラチン量を少なくすること)が要求されたが、そのため、写真乳剤から水分をできるだけ取り除く脱水法の研究を進め、その新技術を実用化した。  
1950年代以降、これらの新技術を第3フィルム工場の新設などに際して採用し、大きな成果を生んでいった。  
また、最新の計装技術も採り入れた。それまでは、工程状況を知るためには、暗室の作業現場に測定器を持ち込まないとデータが取れなかったものが、離れたところで、また、明るいところでデータが取れるようになった。これによって、工程の状況を把握することが格段に進歩して、先手管理ができるようになり、工程の安定化に大きく貢献した。  
加工技術の進歩  
写真フィルムの加工技術でも大きな進歩をみた。  
フィルムの生産には、広幅で塗布した後、所要の大きさのサイズに裁断(スリット)したり、切断(カット)することが必要である。ロールフィルムの場合には、これを遮光紙とともにスプールに巻き込み、巻き込まれたフィルムを包装紙に包み、商品名を印刷した小箱に入れて封をする。これらの工程の大半は、暗室内の作業であり、総称して加工工程と称した。  
この加工工程の技術で、当社が、戦前から最も苦心したのは、映画用フィルムであった。フィルムを裁断する裁断機(スリッター)やせん孔機(パーフォレーター)の精度不良によって画面に揺れが出たり、裁断時に発生するゴミの除去が不十分なために故障が発生したりして、対策に苦心した。戦後、フィルムベースを不燃化する際にも、フィルムベースの組成変更に伴い、裁断機やせん孔機の切れ味不良という問題に直面した。これらは、当時開発された新種合金材料を使用することによって無事乗り切り、映画用フィルム不燃化の大事業を完了することができた。  
一方、ロールフィルムの分野では、戦前、海外に輸出した際、フィルムと遮光紙との接着故障に悩まされ、国内でも遮光紙不良による故障に悩まされたことがあった。これは、夏期の高温多湿に起因するもので、防湿対策に苦心した。  
戦後、高分子化学の進歩によって防湿包装技術が格段に進歩したが、この技術進歩を包装技術の改善に有効に活用した。そのため、1950年代に入ると遮光紙の技術進歩が著しく、東南アジア方面のような高温多湿地帯に輸出しても、また“ネオパンSS”・“ネオパンSSS”のような高感度フィルムを商品化しても、遮光紙の防湿不良による接着故障は全く発生せず、当社の信頼性を高めることができた。  
また、この時代、アマチュア用ロールフィルムの需要が急激に増加し、従来の作業方法では限界があることが明らかになり、加工工程の機械化を推進していった。フィルムの巻き込み作業は、それまでは手作業で行なっていたが、大日本セルロイド専務取締役渡壁全一氏の指導のもとで、半自動巻込機を完成して実用化した。  
カメラ・光学機器事業基盤の確立 
戦後、いったん光学ガラス部門を縮小するが、新たに各種レンズの商品化と、カメラ部門への進出を企図する。希元素を原料とする新種光学ガラスの開発に挑み、それに成功、世界に誇る明るいレンズ“フジノン”を開発、カメラ用をはじめ各種用途のレンズを逐次商品化する。この間、1948年(昭和23年)には、6cm×6cm判のスプリングカメラ“フジカシックス”を発売、念願のカメラ市場に進出する。以後、高級二眼レフ“フジカフレックスオートマット”・入門機“フジペット”・35mmカメラ“フジカ35”などを次々と発売、カメラメーカーとしての地位を不動のものとする。この間、引伸機、双眼鏡、スライド映写機などの関連商品も発売し、光学機器分野でも事業基盤を確立する。  
光学ガラス部門の再出発  
終戦を迎えて、軍需用の光学ガラスの受注は皆無となり、加えて、市場には軍放出の光学ガラスがあふれた。小田原工場の光学ガラス部門は、今後の見通しが全く立たないまま、設備・人員を縮小し、光学硝子研究部も吸収、光学ガラス以外の商品化も考えて、窯業部と改称して再出発を図った。  
しかし、1948年(昭和23年)に入ると、わが国の双眼鏡やカメラの輸出もようやく活発になり、市場の軍放出のガラスも使い尽くされ、以降の需要見通しも明るくなってきた。  
この間、カメラレンズ用として必要な重バリウムクラウン系(SKタイプ)・バリウムフリント系(BaFタイプ)など、当時としては高屈折率ガラスの試験溶融を行ないつつ、工程の改善、品質の改良を進めた。  
また、レンズやプリズムの素材にプレス成形品の使用が一般化してきたので、いち早くプレス成形品の量産化を行ない、自社で使用する以外に各カメラメーカーやレンズメーカーに販売した。  
新種光学ガラスの開発  
カメラが輸出品として脚光を浴びるにつれて、より優れた高性能レンズを製作するために、より屈折率の高いものや特殊の屈折率をもった新種光学ガラスの開発が要望されはじめた。しかし、これらの新種光学ガラスには、原料として酸化ランタン・酸化トリウムなど高価な希土類元素やふっ素化合物なども使用され、溶融中にるつぼを浸食するとともに、わずかな温度差でもガラスの粘性が水状からあめ状にと極端に変化したり、また、原料が急激に揮発してガラスが均質化しにくいなど製造化には多くの困難を伴っていた。  
1951年(昭和26年)初頭から少容量のるつぼでランタン系硝種の新種光学ガラスの試験溶融に成功していたが、量産化までには間があった。  
高価な希土類元素を原料とし、しかも製造し難い新種光学ガラスの工業化試験は、一企業だけで容易に行なえることではないので、1951年(昭和26年)、通商産業省から工業化試験補助金の交付を受けて、日本光学工業・小原光学硝子製造所・千代田光学精工(現ミノルタカメラ株式会社)・小西六写真工業と当社の5社が共同で、工業化試験を開始した。  
小田原工場において、1952年(昭和27年)2月に、ふっ素系の特殊フリントガラス(F16)の溶融を担当し、同年7月には高屈折率の重バリウムフリントガラス(BaSF8)を溶融、いずれも成功した。  
この試験溶融は、関係官庁・関係各社立会いのもとで行なわれ、各社の技術者が夜を徹して溶融作業の推移を見守り、議論をたたかわせ、来るべき新種光学ガラス時代のために協力し合い、ついにその工業化に成功したのであった。  
後に、1954年(昭和29年)1月、当社を含む5社は、この開発に対して通商産業大臣賞を受賞した。  
その後も引き続き新種光学ガラスの開発を進め、1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、大型白金るつぼによるランタン系ガラスの量産化やそのプレス成形化に成功した。  
これらの新種光学ガラスの開発によって、従来、光学ガラスによる制限を受けていたレンズの設計と製作が極めて自由になり、優秀なレンズの製作が可能となった。わが国光学産業の発展に大きく貢献した一大成果であったといえよう。  
当社初のカメラ“フジカシックス”の誕生  
戦後、かねて宿願としていたカメラ部門への進出を企図し、小田原工場鏡玉部において、レンズの生産と並行してカメラ生産の計画を進めた。  
レンズの設計・試作は順調に進んだが、外注に依存したシャッターとボディーの製作は遅れがちであった。  
一方、富士写真光機は、戦後、双眼鏡の生産を再開し、次いで引伸機の生産を進めていたが、小田原工場でのカメラの生産が遅れている現状から、富士写真光機でもカメラの生産を開始、両社で並行生産をすることとした。そして、1948年(昭和23年)4月、ブローニー判ロールフィルムを使用する画面サイズ6cm×6cmのスプリングカメラ“フジカシックスIA”を発売した。戦時期に航空写真機などを製作した実績はあったものの光学機器事業へ進出を決意してから10年目にして、待望のカメラの誕生で、感慨深いものがあった。  
この“フジカシックスIA”は、レクターF4.575mmのレンズを装備していたが、その後、1956年(昭和31年)までの間に、レンズの改良(F3.575mmレンズを装備)・シャッターの改良・シンクロ接点の付加・セミ判兼用品や距離計連動品の発売など、フジカシックスの各種の機種を整備し、当社カメラ事業創業の歴史を飾った。  
これらのカメラの生産とレンズの開発を効率的に進めるため、1950年(昭和25年)3月、カメラの生産を富士写真光機に集約し、小田原工場鏡玉部はレンズの研究と試作生産に専念する体制に改めた。  
世界に誇るレンズ“フジノン”の開発  
レンズの製作については、戦時中の航空写真用レンズの設計・試作の経験から自信があり、必要な光学ガラスを自ら溶融できる強みもあったので、戦後の生産再開とともに直ちに各種レンズの商品化を企図した。  
そして、フジカシックス用レンズの開発に引き続き、1949年(昭和24年)5月、35mmカメラ用レンズ(クリスターF250mm)を発売したのを最初として、翌1950年(昭和25年)には、映画館の映写用レンズ(レクターP)・引伸し用レンズ(レクターE)・映画撮影用レンズ(シネクリスター)、そして、1951年(昭和26年)には、営業写真館の写場用レンズ(レクター)など、次々と各分野のレンズを発売した。  
1954年(昭和29年)11月には、当社が量産化したランタン系の新種光学ガラスを活用し、ライカマウントの標準レンズ“フジノンF1.250mm”を発売した。当時の一般用フィルムは、現在と比べると感度が低かったので、手振れの少ないよい写真を撮るために、光量の多い明るいレンズの開発が要望されていた。“フジノンF1.250mm”は、この要望に応えて商品化したもので、新種光学ガラスを含む8枚の単体レンズで構成されている。周辺光量を多くするため、前玉は52mmの大口径としたもので、撮られた画像はピントがシャープで、収差によるフレアーが極めて少なく、国内のみならず海外からも絶賛を博した。米国の写真雑誌「モダンフォトグラフィ」誌1955年(昭和30年)5月号には、「35mmカメラ用レンズとして、かつてない最高速のレンズ」(Fujinon was one of the besthigh-speed lenses for 35mm work they had ever seen)として称賛された。  
次いで、1954年(昭和29年)12月に画角が63度の広角レンズ(フジノンF235mm)を、1956年(昭和31年)10月に大口径望遠レンズ(フジノンF2100mm)をそれぞれ発売したのをはじめ、各種レンズを試作・発表した。また、同年には、非球面レンズ(レンズの球面を一部変形させ、焦点外バックの部分の描写を引き締まるようにしたもの)を発表した。これらの各種のレンズの開発は、当社のレンズ設計水準の高さを示すものとして内外から高い評価を得た。  
その後、光学機器製品ならびにレンズ群の整備が進むにつれ、より優秀なカメラや光学機器を製作するには、レンズ部門の生産もカメラの生産部門に統合すべきであると考え、1957年(昭和32年)3月、小田原工場鏡玉部は、設備一切とその技術を富士写真光機に移設した。これによって、当社における17年間のレンズの研究・生産の歴史はその幕を閉じた。その際、従業員は、一部富士写真光機に移籍し、残りは、他部門に配置転換した。  
国産第1号電子計算機“FUJIC”の完成  
カメラのレンズには、明るく、シャープな画像を得るために、屈折率の異なる何枚かの単体のレンズが組み合わせて用いられる。これらの組み合わせを決め、最適のレンズを設計するためには、複雑な計算を必要とし、高級レンズの設計には専門家でもその計算に数か月を要するほどであった。この計算を迅速かつ正確に行なうために、電子計算機を活用することを計画し、1949年(昭和24年)、その設計に着手した。試行錯誤を繰り返しながら開発を進め、1953年(昭和28年)、組み立てを開始した。長さ4m・高さ2mのパネルの中に、計算装置・記憶装置・制御装置が1、700本の真空管と5、000mの配線でつながれ、使用部品は実に2万個を数えた。1956年(昭和31年)7月に完成し、“FUJIC”と命名した。  
“FUJIC”は、当社のレンズ計算に貢献するとともに、気象庁や各大学からの計算依頼にも応え、国産電子計算機の第1号として注目を浴びた。  
しかし、“FUJIC”は真空管式なので、その寿命の点で実用上問題を残していた。このため1957年(昭和32年)、レンズ部門を富士写真光機に移設した際、“FUJIC”を研究用として早稲田大学に寄贈した。現在は、わが国科学史上の重要な記念として東京上野の科学博物館に展示され、同所でコンピューターのその後の発展を静かに見守っている。  
高級二眼レフ“フジカフレックスオートマット”の発売  
当社が、カメラの生産を富士写真光機に集約した1950年(昭和25年)ごろから、カメラ市場では二眼レフカメラの需要が増加してきた。当社は国産最高級機を目指して、二眼レフカメラの開発を進め、1954年(昭和29年)5月、“フジカフレックスオートマット”を発売した。  
“フジカフレックスオートマット”の撮影用レンズには、明るくて解像力の優れたフジナーF2.883mmを装備した。撮影用レンズとファインダー用レンズを前玉同時繰り出し式にして、70cmまでの近接撮影ができるようにした。また、焦点調節とフィルム巻き上げを兼用ノブにして迅速撮影化を図るなど各種のアイデアを盛り込んだ。“フジカフレックスオートマット”は、当時のわが国カメラの最高技術を発揮したものと評価され、当社カメラのブランドイメージを高めた。  
写真の入門機“フジペット”シリーズの誕生  
“フジカシックス”の商品化で、カメラ市場に参入したが、写真感光材料とカメラを生産する総合メーカーとして、カメラの開発上の最も大きな課題は、写真需要の拡大ということである。この目的に立って、これまでカメラに触れたことのない人でも、手に入れたその時から気軽に写真撮影を楽しめるカメラの開発を計画した。設計は株式会社甲南カメラ研究所に、デザインは東京芸術大学田中芳郎氏に、それぞれ協力を依頼した。そして、写真の入門機ともいえる6cm×6cm判カメラ“フジペット”を開発し、1957年(昭和32年)9月、発売した。  
“フジペット”の標準小売価格は1、950円、ボディーの色は、黒のほかに、赤・青・黄・緑・グレーの各色をそろえ、6cm×6cm判のカメラでありながら、スタイルは、当時流行の兆しをみせはじめた35mmカメラ風のプラスチック製で、左右のレバーを1、2の順に押すだけで手軽に撮影することができた。  
この“フジペット”は、写真の入門機として、期待どおり、小学校高学年を中心とする年少者層、さらに初めてカメラを手にした女性と、幅広い各層に使用され、爆発的な人気を呼んだ。  
その後、1959年(昭和34年)6月には、フジペットシリーズとして、35mmカメラ“フジペット35”を、1961年(昭和36年)4月には、6cm×6cm判で自動露出調節機構を付けた“フジペットEE”を発売した。  
フジペットシリーズは、1957年(昭和32年)の発売開始から1963年(昭和38年)の製造打ち切りまでの7年間に、実に100万台近くを販売し、当時のカメラ販売記録を更新する一大快挙を達成したのである。  
35mmカメラ“フジカ35M”の発売  
1950年代の半ばから、35mmカメラ、とりわけレンズシャッター式カメラの需要が大きく伸びてきた。35mmカメラは、小型軽量で携帯に便利であり、レンズやフィルムの性能が向上した結果、6cm×6cm判カメラにそん色のない写真が得られるようになり、プロ写真家やアマチュア層だけでなく、広く一般アマチュアの間でも愛用者が増えつつあった。  
“フジペット”の開発と並行して、35mmカメラの開発を進めてきたが、1957年(昭和32年)5月、日本国際見本市に、当社初のレンズシャッター式35mmカメラとして“フジカ35M”を出品し、同年9月から発売した。  
フジノンF2.845mmレンズ付きで、距離系連動の機構を備え、左手でカメラを保持し、他の操作はすべて右手で行なうという操作の簡易さとスマートなデザインは、手ごろな価格と相まって、好評を博した。  
翌1958年(昭和33年)12月には、絞りとシャッタースピードの組み合わせが自動的にセットされるライトバリューシステムの“フジカ35ML”を発売、さらに翌年1959年(昭和34年)3月、米国フィラデルフィアで開催されたカメラ見本市フィラデルフィアショーでは、当社初の露出計連動カメラ“フジカ35SE”を発表して話題を呼んだ。“フジカ35SE”は、レンズシャッター式カメラとしては世界で初めて1、000分の1秒付きシャッターを採用した。同年7月、まず輸出用に発売し、その年12月から国内市場へも出荷した。  
引伸機、双眼鏡、スライド映写機の発売  
当社はまた、カメラのほか、引伸機・双眼鏡・スライド映写機など各種光学機器製品を相次いで発売した。  
当社が写真業界に対して発表した最初の光学機器製品は、戦後、ようやく写真需要が回復しはじめた1948年(昭和23年)2月に発売した“富士自動引伸機A型”であった。この引伸機は、操作性の優れた自動焦点機構が好評であり、当社の光学機器の技術を業界に認識させた。  
その後、カメラの普及に伴い、アマチュア写真家の中にも引伸機による自家処理をする層が増えてきた。こうした要望に応えて、1951年(昭和26年)1月には、“富士引伸機B型”を発売した。この引伸機は、使いやすさと堅ろう性に加え、シンプルなデザインで、価格も値ごろであったため、営業写真家からアマチュアまで各方面に広く愛用された。この“B型”タイプの引伸機は、その後さらに性能の改善を図り、今日まで実に30数年にわたりロングセラーを続けている。  
双眼鏡は、戦後、富士写真光機で生産を再開したが、1949年(昭和24年)1月から輸出を開始した。倍率は、6倍から12倍まで、焦点距離は32mmから50mmまでの各品種をそろえた。  
双眼鏡は、そのほとんどを米国に輸出したが、国内市場に対しても出荷し、一時、当社が販売業務を担当したこともあったが、その後、双眼鏡の販売は、国内・輸出とも富士写真光機が自ら行なうこととした。  
また、スライド映写機の分野にも進出した。  
戦後発売した外型反転方式の35mm判カラーフィルムは、主としてスライド映写機で拡大投影して鑑賞するものであり、この関連商品としてスライド映写機の商品化を図った。  
1951年(昭和26年)1月、スマートで軽量なスライド映写機“バーディー1型”を発売した。防熱ガラスでフィルムのカールを防ぎ、色収差の少ない“レクターP”レンズを装着した。  
その後、1955年(昭和30年)4月、コンパクトな携帯用のスクリーン内蔵機“バーディーキット”を、さらに1958年(昭和33年)12月には、操作用のハンドルを動かすだけで20枚のスライドが順次自動的に映写できる“バーディースーパー”をそれぞれ発売した。 
海外市場の開拓  
戦後、民間貿易の再開とともに輸出業務を開始する。1949年(昭和24年)、1ドル360円の単一為替レートが設定される。双眼鏡やカメラなど光学製品の輸出を開始し、双眼鏡は、当社初の本格的対米輸出品となる。一方、写真感光材料については、まず、東南アジアへの輸出からスタートし、次第に仕向け国も拡大していく。1956年(昭和31年)には輸出部を設置して、海外市場の開拓を積極的に進める。そして、南米市場に進出するため、1955年(昭和30年)ブラジルに駐在員を赴任させ、引き続き、1958年(昭和33年)現地販売会社を設立する。また、1958年(昭和33年)、ニューヨークにも駐在員事務所を設置する。 
輸出業務の再開  
戦後、民間貿易の再開が制限付きではあるが許可されたのは1947年(昭和22年)8月であった。当社も、輸出業務を開始したが、当時は輸出とはいってもまだ商品ごとに為替が異なる複数為替レートであったし、買い付けに来日した外国人バイヤー相手に、印画紙など小口の輸出商談を細々とまとめていくにすぎなかった。  
1949年(昭和24年)には、インド向けに映画用フィルムの輸出を開始した。これは戦後のまとまった写真感光材料輸出の第1号であった。しかし、間もなくインド側の輸入制度の変更があったため、この取り引きもストップのやむなきに至った。また、政府ベース取り引きで香港への映画用フィルムの輸出も行なったが、それもわずかの期間で、間もなく停止した。  
コンスタントな輸出へ  
1949年(昭和24年)4月、1ドル360円の単一為替レートが設定されたことは、それまで複数為替レートによって採算を維持していたわが国商品の国際競争力を弱め、輸出全般に大きな影響を与えた。当社でも、写真感光材料の競争力が影響を受けた。  
一方、光学製品では、1949年(昭和24年)から双眼鏡の“メイボー”の輸出を開始した。当初の双眼鏡は、米国内では、主として“ブッシュネル”(Bushnell)の商品名で販売され、性能の優秀さが評価されて、輸出台数も急増していった。双眼鏡は、当社製品の初めての本格的な対米輸出商品となったが、その後、台湾・スウェーデンなどへも輸出された。  
また、この年には、当社のカメラ輸出の第1号として、スプリングカメラ“フジカシックス”を東南アジア各国へ輸出した。  
単一為替レートの設定で打撃を受けた写真感光材料の輸出については、まず印画紙から、海外市場の開拓を進め、東南アジア各国に輸出を開始した。その後、輸出製品は、X−レイフィルム・アマチュア用ロールフィルム・映画用フィルムと広がり、仕向け国も、東南アジア諸国だけでなく、ブラジルやアルゼンチンと南米にまで及んだ。しかし、当時は生産能力にも限度があり、また、それらの諸国では外貨の不足や輸入制限などの問題もあって、輸出量全体の伸びは期待されたほどではなかった。  
1950年(昭和25年)4月、戦後初めて、専務取締役小林節太郎が米国の写真業界、特にカラー関係の視察を目的に渡米し、当時の写真需要構造・業界の実態・流通機構などを調査、当社の今後の方針決定に多くの示唆を得た。  
その後も引き続き、役員や幹部従業員を各国へ出張させ、市場調査や輸出促進あるいは技術事情調査に努めた。当社が戦後の比較的早い機会に海外諸国のマーケティングと技術開発の方向を的確に見定めたことは、その後の当社の発展に貢献するところが少なくなかった。  
当社のこうした輸出促進努力は、1954年(昭和29年)アルゼンチンへのX−レイフィルムの大量輸出やインドなどへの一般用写真感光材料の輸出となって現われ、その後の東南アジア各国や南米向け写真感光材料の輸出増大へと結びつくとともに、米国や欧州向けの双眼鏡・カメラなど光学製品の輸出の増加にもつながっていった。  
1954年(昭和29年)のアルゼンチン向けX−レイフィルムの輸出開始の当初、現地での現像処理の段階で、軟膜・カブリなどの品質クレームが多発した。技術者を急いで派遣して原因の調査をしたが、その結果は、現地でのフィルムの取り扱いや現像処理条件が、国内で考えていたことと全く異なっていたうえに、フィルム自体の品質にも問題があることが判明した。この情報をもとに、急きょ、対策品を完成させて当該クレーム品と取り換え、納入した。  
このことは、海外への輸出に対して貴重な教訓を残した。すなわち、写真感光材料を輸出する場合、事前の徹底した市場調査の重要性と輸送面や荷役面など幅広い調査と対策が必要であることを教えてくれたのである。  
輸出部の発足と海外拠点の設置  
輸出の本格化に伴い、1956年(昭和31年)6月、輸出部を設置した。輸出部の発足によって、海外市場の開拓はさらに活発化し、1957年(昭和32年)から翌年にかけて、シンガポール・タイへの輸出を開始し、インド・韓国への映画用フィルム、あるいは、南アフリカ・フィリピンへのX−レイフィルム、香港・ベネズエラ・メキシコへのアマチュア用ロールフィルムやカメラの輸出も始まった。これらの輸出に当たっては、現地の有力な輸入業者あるいは卸業者を当社の代理店とし、原則として一国一代理店主義で海外市場の開拓を進めていった。  
1950年代後半に入り、欧米先進諸国の市場開拓を積極的に目指すこととし、まず、米国およびカナダへの展開を図った。輸出増大のためには、どうしても、すでに各種光学製品や写真感光材料の大きな市場として活況を呈しているこれらの市場へ参入することが不可欠であったからである。  
1958年(昭和33年)4月、専務取締役小林節太郎は、業界の視察と販路の拡大のため米国・カナダに出張し、両国に販売網をもつ有力な卸業者とカメラなど光学製品および工業用感光材料の輸出契約を取り交わした。特に光学製品に関しては、全米に販売網をもつ有力代理店が新たに当社製品を専門的に取り扱う販売会社を設立し、これによって当社光学製品の対米輸出は飛躍的に増加した。  
これに伴って、同1958年(昭和33年)11月、ニューヨークに待望の駐在員事務所を設置し、よりきめの細かな市場調査やセールスプロモーション活動を開始した。  
また、有力な輸出市場として、早くから中南米市場を認識していた。同地には、すでに1955年(昭和30年)から駐在員を赴任させていたが、将来性の豊かなブラジルに強固な地盤を築いてゆくためには、単なる駐在員事務所ではなく、現地に販売会社を設立し、強力な営業活動を展開していくことが望まれた。そこで1958年(昭和33年)8月、資本金955万クルゼイロ、うち当社出資950万クルゼイロ(約10万米ドル相当)をもって、現地法人FujiPhotoFilmdoBrasilLtda.を設立した。同社は、サンパウロ市に本拠を置き、当社製品の直接輸入販売を開始した。当初はロールフィルムと印画紙が主な商品であったが、なじみのないブランドをいかに市場に浸透させるか、また、為替手当の難しさなど、数々の困難を乗り越えなければならなかった。  
20数年を経た今日、当社はブラジル市場に、写真感光材料の加工工場・カラー現像所網を有する確固たる地位を築き、進出の当時に期待された大きな発展を実現しつつある。  
品質管理の推進と維持管理の近代化 
戦後いち早く、生産工程の改善・効率化を進め、品質管理の徹底と、事務改革や経営管理の合理化を積極的に推進していく。まず、生産面では、生産効率向上のため、能率調査や職務分析を実施し、標準化を推進し、品質管理の導入を図る。品質管理の徹底を図るために全社的な運動を展開し、1956年(昭和31年)には、その成果を認められ、デミング賞実施賞を受賞する。また、1960年(昭和35年)には、足柄工場は、工業標準化実施優良工場として、通商産業大臣賞を受賞する。他方、事務改革を推進、PCS(パンチカードシステム)を導入し、事務作業の機械化を行なうとともに、原価計算制度を整備するなど、内部管理の合理化を図り、近代的な経営管理体制の確立を目指す。  
品質管理の導入  
戦後いち早く生産を再開し、生産設備を整備するとともに、作業の効率化を図ってきた。  
足柄工場では、1948年(昭和23年)3月、日本能率協会の指導を受けて、数次にわたって各工程の分析や作業分析を行なった。そして、工場内にも専門家を養成して、生産工程の改善と生産効率の向上を図った。  
この能率調査、工程改善の動きと並行し、品質管理についても積極的に導入を図った。  
映画用フィルムをはじめ写真感光材料は、顧客が撮影を行ない、現像処理をしてはじめて、映画あるいは写真としてその良し悪しがわかるもので、使用前に手にとって調べることは不可能である。したがって、いつでも安心して使うことができるというメーカーの信用が最大のポイントである。創業以来、品質がすべてを決定するという一貫した考え方に立ってきたが、そのためにも、品質管理の考え方とその手法を導入することが重要な問題であった。  
1948年(昭和23年)から、その手法としての統計的方法について研究を始め、次いで、工場内でその統計的方法の具体的適用を図った。さらには、作業標準などの標準化・製造現場での管理図の導入を進めていった。  
デミング賞実施賞を受賞  
足柄工場における品質管理の進展に伴い、1953年(昭和28年)、当社はデミング賞実施賞に立候補した。デミング賞実施賞は、日本における品質管理の祖ともいうべきW.E.デミング博士(Dr.W.E.Deming)の名を冠して、品質管理の優秀な企業に対して与えられる賞である。しかし、このときの審査では、当社の品質管理が統計的手法に重点が置かれていて、管理図の採用・標準化の徹底など製造現場への浸透がまだ十分でないこと、また、足柄工場が中心で、本社や他の工場での取り組みが不十分であることなどの理由で受賞するには至らなかった。  
このことを反省して、全社的に品質管理の考え方の普及・徹底を図るとともに、より一層標準化を推進し、製造現場への適用を進めていった。  
1955年(昭和30年)10月には、品質管理委員会を設置し、「品質管理3か年計画」を策定した。1956年(昭和31年)6月には、本社に新設した管理部に全社的な品質管理の推進センターを設け、また、各事業場にも品質管理委員会を設けて、全社的な品質管理の展開を図った。  
各工場では、得率(歩留り)の上昇・設備稼働率の上昇・生産効率の向上など、具体的な成果を着実に積み重ねていった。  
かくして、1956年(昭和31年)、デミング賞実施賞に再度挑戦し、今度は、みごと受賞の栄に浴することができた。  
当社の受賞について、デミング賞委員会は次のように述べている。  
「富士写真フイルム株式会社の品質管理の導入は比較的早期でありましたが、局部的に止っており、十分の効果をあげるに至りませんでしたところ、社長以下幹部が、率先して品質管理3か年計画によって、全社的に品質管理思想の普及と統計的手法の導入を積極的に推進することに努められました。  
このように上下一致して熱心に努力を続けられた結果、多大の効果を収められ、ここにめでたく実施賞を受ける栄誉を担われることになりました。」  
デミング賞実施賞受賞後も、引き続き標準化の推進と品質管理教育を中心として、品質管理の徹底のために地道な努力を積み重ねていった。デミング賞実施賞受賞当時は、一部でややもすると形式を整えることに走りすぎた面もあったが、その後の地道な活動の積み重ねによって、品質管理は着実に根をおろしていった。  
他方、1958年(昭和33年)10月に、黒白ロールフィルム・黒白35mm判フィルム・黒白カットフィルムなどに日本工業規格(JIS)が制定されたが、翌1959年(昭和34年)8月、足柄工場はJISマーク表示許可工場として認可され、該当商品にJISマークを付けることが許可された。  
さらに、1960年(昭和35年)9月には、足柄工場は、工業標準化実施優良工場として通商産業大臣賞を受賞した。  
事務改革と経営管理の合理化  
品質管理の徹底を図る一方で、事務改革と経営管理の合理化を推進していった。  
戦後の業容の拡大に伴って、社内各部門の事務処理や会計事務の量も膨大化し、内部管理の合理化が強く求められた。そこで、1952年(昭和27年)に、経理規程を制定し、会計処理手続きを整備・明確化するとともに、予算管理の考え方を導入した。また、各工場の原価計算制度も逐次整備し、1955年(昭和30年)には、標準原価計算制度を採用した。  
この間、1952年(昭和27年)1月には、公認会計士太田哲三氏(後に、監査法人太田哲三事務所)と監査契約を締結し、証券取引法に基づく監査を受けることになった。  
また、事務の効率化についても意を用い、1953年(昭和28年)5月には、全社の事務を見直し、その統一化・簡素化を図るために、事務改革委員会を発足させた。そして、同委員会での検討の結論に基づき、経営管理資料の迅速な作成と事務における作業的要素の機械化を期して、翌1954年(昭和29年)5月、IBM社のPCS(パンチカードシステム)1セットを足柄工場に導入した。さらに、1957年(昭和32年)6月には、東京本社にもPCSを設置した。これによって、販売集計業務を機械化したのを手はじめに、原材料計算・賃金計算・物品税計算などの事務の機械化を実施した。  
また、この間、1956年(昭和31年)6月には、組織改正を実施して、常務会制度を採り入れ、トップマネジメントの強化を図るとともに、本社に管理部を設け、長期計画の立案などの企画業務を強化した。同時に、従来の事務分掌規程を廃して、新たに職務規程を制定し、職務の責任権限の明確化を図った。職務規程の制定に伴い、それに沿って各種の業務手続も明確化し、1957年(昭和32年)には、りん議制度も改善し、近代的な経営管理体制の確立を目指した。 
総合写真感光材料メーカーとして国内トップに  

 

戦後、いち早く企業の再建整備をなし遂げた当社は、1950年代に入って、大きく成長・発展を遂げていく。1960年度(昭和35年度)には、売上高180億円を達成、次代の発展の基礎を固める。活発な設備投資を行ない、その資金調達のために数次にわたる増資と社債の発行を実施、1956年(昭和31年)には、資本金は25億円となる。業容の拡大に伴い、従業員数も増大する。当社では、労働条件の向上や従業員の福利厚生の充実を図り、提案制度の導入、社内報の発行、永年勤続者表彰制度の実施などを進める。この間、労使関係は次第に厳しさを増す。他方で、次の時代に備えて、事業の多角化を図るための調査・研究を進める。 
資本金25億円、売上高180億円に  
戦後再出発してから1950年代を通して、当社はめざましい成長を遂げた。占領下での映画用フィルムとX−レイフィルムの生産再開に始まって、“ネオパンSS”やカラーフィルムの開発・カメラ事業への進出など、数多くの展開をなし遂げ、1960年(昭和35年)を迎える時点では、総合写真感光材料メーカーとして、わが国市場で圧倒的な地位を占めるまでに至った。  
当社の再建整備計画が認可され、企業経営が正常な状態に復した後の1950年度(昭和25年度)から1960年度(昭和35年度)まで10年間で、売上高は7.8倍になり、1960年度(昭和35年度)の売上高は181億円に達した。  
売上高の増加に伴って、利益額も増加してきた。しかし、市場での販売競争が激しくなった1950年代後半に入ると、販売諸経費の著しい増加や販売価格の引き下げによって、利益率の低下を余儀なくされた。  
同期間における生産数量も、10年間で、フィルムは約5倍、印画紙は約3.8倍といずれも大きく伸長した。  
このような事業の伸長を遂げるために、多くの設備投資を行ない、それによって生産能力の拡大と技術の向上・コストの低減を図った。これらの設備投資資金を調達するために、数次にわたって増資を実施した。戦後、1940年代後半から1950年代にかけての増資をまとめると、下表のようになる。  
しかし、膨大な設備投資資金を増資だけでまかなうことは到底不可能であった。そこで、1951年(昭和26年)7月、第1回物上担保付い号社債、額面総額5、000万円を発行したのを最初として、ほぼ毎年のように社債を発行し、長期設備資金に充当した。社債の発行は、1960年度(昭和35年度)末まで合計10回、総額12億8、000万円にのぼった。  
この間、金融機関からの借入額も増加し、1950年度(昭和25年度)末に2億円であったものが、1960年度(昭和35年度)末には、借入金残高は、社債発行残高を含めて30億円近くに達した。  
従業員数の増大と従業員福祉の向上  
生産数量を急速に増大するためには、膨大な設備投資と同時に大量の人員採用を不可欠とした。1945年(昭和20年)10月、約1、400名余の従業員で再出発をした当社は、1953年(昭和28年)3月には、従業員総数は2、991名と、7年半の期間で倍増した。そして、その3年後の1956年(昭和31年)3月には、足柄工場地区だけでも3、700名近く、全社では4、700名を数えるに至った。これは、足柄工場で、第3フィルム工場やLX加工工場が稼働を開始し、この3年間に毎年500人前後の増員が必要であったためである。  
これらの従業員の急増に対処するため、社宅や社員アパート・独身寮の建設を進める一方、1950年(昭和25年)7月からは住宅融資制度を開始し、福利厚生の充実を図った。  
また、1952年(昭和27年)には、足柄工場で提案制度を導入した。作業方法の改善などについて、従業員からアイデアを募集し、優れた提案を表彰するもので、生産効率をあげるとともに、製造現場において、作業者に作業対象に対する積極的な関心を増大させ、職場士気の高揚に貢献した。  
その後、この制度は、1954年(昭和29年)に今泉工場に、1956年(昭和31年)には小田原工場に、それぞれ導入された。そして、1958年(昭和33年)からは、全社的な制度とした。  
一方、人員の増加に伴い、社内のコミュニケーションが重要な問題となってきた。そこで、社内のコミュニケーションの良化を目指し、1953年(昭和28年)9月、社内報「富士フイルム」を発刊した。社内報の発行に際して、春木社長は次のように述べている。  
「今回、このような社内報を発刊し、お互いの生活基盤である富士の現状をともどもに眺め、工場の方は今まであまり御存じなかったかと思われる厳しい販売競争に新たな認識を持ち、営業所の方は“良い富士の製品”が出来上がるまでの工場の苦労に思いをいたして、ある時には喜びを分ち合い、またある時には励まし合いたいと思います。」  
社内報「富士フイルム」は、その後、次第に内容を充実し、原則として毎月1回発行し、社内のコミュニケーションに大きな役割を果たした。  
また、1956年(昭和31年)9月からは、実働時間を1日につき10分間短縮して、1日7時間、1週42時間を原則とした。  
労使紛争の解決  
戦後、労働組合の誕生以来、労働条件の改善要求や給与の引き上げ、あるいは夏季・冬季の一時金要求に対し誠意をもって応えてきた。給与体系も逐次整備し、1949年(昭和24年)6月以降は、賞与の支給も定期的に行なうようにするなど、従業員の待遇改善に努めてきた。このような努力は、労働組合からも認められ、給与の改定や賞与の支給交渉についても、円満に妥結をしてきた。  
ところが、1953年(昭和28年)6月の夏季賞与の交渉と1955年(昭和30年)2月の昇給をめぐる交渉は難航し、神奈川県地方労働委員会のあっ旋によって解決をみるに至った。  
1955年(昭和30年)10月、労働組合は、合成化学産業労働組合連合(合化労連)に加盟した。同年12月には労働協約が改訂され、それまで経営協議会で決定していた給与を団体交渉で決定することとした。同時に、従業員に対する給与は、労働協約上「賃金」と書き改められた。  
このころから労使の交渉は次第に複雑さを増し、交渉が行き詰まることも多くなった。しかし、労使双方のねばり強い交渉によって一致点を見出し、円満な妥結を図ってきた。  
しかし、1957年(昭和32年)11月、年末賞与をめぐる労使交渉が決裂し、労働組合は、結成以来初めてストライキに突入した。翌1958年(昭和33年)の夏季賞与の交渉でも交渉が決裂し、足柄工場の時限ストライキなどが実施された。その後、1959年(昭和34年)末まで、数次にわたって合理化反対闘争が繰り広げられた。  
労使の対立は、1960年(昭和35年)の賃金改訂交渉において頂点に達し、1か月におよぶ長期ストライキに発展した。  
一方では三井三池の労使紛争、もう一方では日米安全保障条約の改定反対闘争という中で迎えたこの年の賃金改訂交渉は、3月25日、交渉が決裂、労働組合はストライキに突入した。その後、労働組合は、全面ストから部分ストに戦術を変更したが、中枢部分のストを継続したために、全面ストと変わらない状態が続いた。このため、会社は、4月18日、ロックアウトを宣告し、紛争はいつ解決がつくのかわからない状況になった。  
紛争の長期化に伴い、映画用フィルムの在庫が払底し、供給責任を果たせない恐れがでてきた。このため、長瀬産業の協力を得て、当社が航空運賃を負担して、海外メーカーの映画用カラーポジフィルムを緊急輸入し、この事態を切り抜けた。当社がこのようにしてまでも供給責任を果たしたことは、関係各界から好感をもって迎えられた。  
一時は泥沼化するかに見えた争議も、その後、労使双方の歩み寄りによって解決へと動き出し、4月27日8時10分、ストライキは終結し、正常化した。  
この1か月に及んだ長期ストが労使双方に与えたダメージは少なくなかった。しかし、労使の対立関係は、依然として強まりこそすれ、弱まることはなかった。  
創立20周年を迎える  
当社初代社長淺野修一は、1943年(昭和18年)11月、社長を辞任し、その後、静養に努めていたが、1950年(昭和25年)5月4日、帰らぬ人となった。享年63歳であった。同月15日、聖イグナチオ教会で社葬を執り行ない、この偉大な先達の不滅の功績を回顧し、その遺徳をしのんだ。  
1954年(昭和29年)1月20日、創立20周年を迎え、足柄工場において、記念式典を催した。式典には、当社創立の恩人である森田茂吉元相談役(元大日本セルロイド取締役会長)も列席し、創立当時の思い出を語るとともに、大きく成長を遂げた当社に祝福の辞を述べた。また、この創立20周年を機に、永年勤続従業員の表彰制度を設けた。  
1959年(昭和34年)11月には、社長春木榮は、国産技術の確立に寄与した功績で藍綬褒章を受章した。  
1960年(昭和35年)には、創立以来25年間の歴史をまとめた社史「創業25年の歩み」を刊行した。  
多角化への布石  
戦後の生産再開から1960年(昭和35年)にかけて、幾多の曲折を経ながらも、当社は総合写真感光材料メーカーとして大きく成長、新たに進出した光学機器部門でも確固たる基盤を築くなど、次代への発展の基礎を固めてきた。その一方で、より大きく成長・発展を図るために、新しい分野についての調査・研究を進め、事業多角化の布石を打っていった。  
多角化といっても、全く異質な事業に進出するということではなく、蓄積された技術を活用し、既存の事業の隣接分野に進出するということである。  
その第一は、写真関連分野での用途の開発・拡大である。印刷用写真製版をはじめ、マイクロ写真・事務用複写などの分野がそれであり、これらの分野では、1950年代から進出を開始し、次代の基礎を築いていった。  
第二は、非銀塩写真の分野である。すなわち、従来からのハロゲン化銀を主体とする銀塩感光材料に代わる新しい写真法についての調査・研究である。そして、その一環として、電子写真の研究に取り組んでいった。この研究は、のちにゼロックス事業として結実していくことになる。  
第三は、写真以外の新規分野である。磁気記録材料・ノーカーボン紙(感圧紙)およびオフセット印刷材料(PS版)の三つの分野である。これらの三つの分野は、いずれも情報を記録するという観点から、既存事業と密接な関連性を有するもので、これらの研究は、次の年代に入って大きく結実し、それぞれ当社経営を支える大きな柱として成長、発展を遂げていく。  
1960年代を迎えて / 貿易自由化の進展 
1960年(昭和35年)6月、政府は「貿易為替自由化計画」を決定し、わが国は開放経済体制へ向けて大きく歩み出す。時を同じくして、当社は会長制を採用し、春木栄が会長に、小林節太郎が社長に就任する。写真感光材料の輸入は、1960年(昭和35年)4月、映画用35mm黒白フィルムを皮切りに次々と自由化され、1971年(昭和46年)1月、カラーロールフィルムを最終として、全面自由化される。また、この間、輸入品の関税率も、まず黒白製品から税率引き下げの動きが具体化する。当社では、国際競争に耐え得るように全社一丸となって品質の向上とコストの低減に取り組み、また、新規事業を積極的に推進していく。  
日本経済の国際化  
1956年(昭和31年)7月に発表された「経済白書」で、「もはや戦後ではない」と記されたとおり、1950年代後半に入って、日本経済は新たな展開を開始した。1956年(昭和31年)には“神武景気”、1958年(昭和33年)には“岩戸景気”と称された景気上昇局面が訪れた。この間、1955年(昭和30年)9月には、日本はGATT(関税貿易一般協定)に加入し、翌1956年(昭和31年)12月には国際連合に加盟し、国際社会に復帰したが、それと同時に国際経済社会の一員として従来の保護貿易体制を改め、貿易の自由化を実現していくことが要請されるに至った。  
戦後、日本は厳しい外国為替管理のもとに輸入外貨割当制を実施し、輸入を厳しく制限してきた。それは、一つには絶対的な外貨不足によるものであったが、もう一つは、まだぜい弱なわが国の産業を厳しい国際競争から守り、国内産業の育成を図るための措置でもあった。しかし、日本からの輸出が増大するにつれて、貿易の自由化を求める声は次第に高まってきた。  
こうした要請に応えて、1960年(昭和35年)6月、政府は「貿易為替自由化計画」を決定した。これは、貿易および為替取引の自由化の基本方針を定めたもので、商品別に自由化のスケジュールを定め、わが国の自由化率を3年以内に80%とする目標を掲げていた。  
当時、わが国の産業の国際競争力はまだ弱く、貿易の自由化は“第2の黒船”の来航にたとえられたほどであった。しかし、日本の企業が国際的に活動し、日本経済が一層の発展を遂げていくためには、それは避けて通れないハードルであった。日本の企業としては、技術力を磨き、国際水準の良質の製品を一日も早くつくり出すことと、国際的な価格競争に耐えうるだけのコストの低減を図ること以外に道はなかった。  
その後、わが国は1964年(昭和39年)4月に、国際通貨基金(IMF)8条国に移行し、国際収支を理由とする為替制限ができないことになり、また同じ月に経済協力開発機構(OECD)に加盟した。日本は国際経済の舞台に登場し、貿易の自由化は急ピッチで展開されていった。  
会長に春木榮、社長に小林節太郎就任  
「貿易為替自由化計画」の決定と時を同じくして、1960年(昭和35年)6月29日の定時株主総会で会長制の採用を決定し、同日の取締役会で社長春木榮を会長に、副社長小林節太郎を社長に、それぞれ選任した。  
会長に就任した春木榮は、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)に社長に就任して以来17年間、経営の最高責任者として、戦中・戦後の苦難期を乗り越え、当社をわが国写真感光材料のトップメーカーとして育て上げてきた。また、社団法人日本写真協会会長、日本特許協会会長をはじめ、社外の要職に就き、写真界をはじめ、わが国産業界の発展に貢献してきた。その後、1971年(昭和46年)6月には取締役相談役に就任し、翌1972年(昭和47年)6月には取締役を退任し、相談役に就任した。  
新社長に就任した小林節太郎は、かつて株式会社岩井商店(現日商岩井株式会社の前身の1社)に勤務していたが、当社の創立に当たって、請われて入社して営業部長に就任し、創立直後の苦難期に営業の全責任を負い、顧客の開拓と販路の拡大に当たってきた。1937年(昭和12年)5月に取締役に選任され、その後、常務取締役・専務取締役を歴任し、1958年(昭和33年)6月には副社長に就任した。経済の国際化という新しい時代を迎え、社長に就任し、当社経営の重責を担うことになったのである。  
小林社長は就任に当たって、全従業員に次のように訴えた。  
「当社は現在、重大な段階に立っております。それは、当社の立っている環境、基盤に一大変化が起こりつつあるということであり、具体的には、貿易の自由化が行われつつあるということであります。  
貿易の自由化は、交易の規模を拡大して日本経済ひいては個々の産業のより大きな発展を期待するものでありますが、その裏付けとなるものは、日本の産業の国際競争力であることは申すまでもありません。  
特に、これを当社の場合にとってみますに、創業以来今日まで、政府の産業助成、輸入制限など種々の保護のもとに、外国品の入ってこない日本の市場で、国内の数社を競争相手として、極めて恵まれた状態のもとに成長発展してきたとも言えると思うのであります。  
もちろん、私共はこの間にあって、当然きたるべき外国品との競争に備え、かつ輸出市場への発展を期し、製品の国際競争力の増強に不断の努力を続けているのでありますが、事実問題として貿易の自由化を考えますとき、なお、今だその対策の不備を痛感せざるをえないのであります。(中略)  
国内市場の維持強化のためにも、また、当社のより大いなる発展のための輸出増進のためにも、私共は製品の国際水準化を目標に、今後さらに一段の努力をしなければならないのであります。  
当社におきまして、今日ほど会社の総力を結集する必要の大なるときはないと思います。経営者と言わず従業員と言わず、問題の解決と目的達成のため真に一体となって社業のより大いなる将来の発展に備えたいと思うのであります。」  
貿易の自由化と日本経済の国際化時代を迎え、断固たる決意を表明したのである。  
写真感光材料の輸入自由化と関税率  
日本経済の開放体制への移行の中で、写真感光材料の輸入自由化も進み、資本自由化も日程にのぼってきた。  
写真感光材料は、1937年(昭和12年)日中戦争のぼっ発以来、外国品の輸入が厳しく制限されてきた。戦後になっても、輸入外貨割当制のもと、わが国全体の輸入が規制される中で、写真感光材料の輸入も厳しく制限されてきた。  
しかし、主として映画用フィルムの輸入については、1954年(昭和29年)ごろから外貨予算割当が増加し、輸入は年々増大しつつあった。  
写真感光材料の輸入自由化は、1960年(昭和35年)から始まった。この年4月、映画用35mm黒白フィルム、マイクロフィルムなどの黒白フィルムに輸入自動承認制(AA制)が適用され、輸入が自由化された。これを皮切りに、以降11年間にわたって、品目別に段階的に自由化されていった。  
1961年(昭和36年)12月にはX−レイフィルムが、1962年(昭和37年)4月には一般用の黒白フィルムが、そして同年10月には黒白印画紙が、それぞれ輸入自由化された。しかし、この時点では、カラーフィルムおよびカラー印画紙は国産化されて日が浅く、まだ国際競争力が十分でなかったので、自由化が繰り延べられていた。  
この間、当社をはじめ、国内の写真感光材料メーカーは、カラーフィルム・カラー印画紙の品質と性能の向上に全力を投入した。その結果、ようやく国産品も外国製品に対抗しうる性能に到達したものとして、1964年(昭和39年)10月にカラー印画紙とカラーシートフィルム、1969年(昭和44年)4月に映画用35mmカラーフィルム、1970年(昭和45年)4月に映画用16mmカラーフィルムが、それぞれ輸入自由化され、1971年(昭和46年)1月には一般用カラーロールフィルムも自由化された。ここに、写真感光材料は全品種が自由化されたのである。  
一方、わが国の資本自由化については、1967年(昭和42年)7月に第1次自由化が実施され、次いで1969年(昭和44年)3月に第2次、1970年(昭和45年)9月に第3次と実施されたが、このときまでは、写真感光材料製造業の資本自由化は見送られてきた。しかし、その後の1971年(昭和46年)8月に行なわれた第4次資本自由化のときに、写真感光材料製造業についても、外資の割合が50%を超えない合弁会社方式のものが自由化され、次いで、1973年(昭和48年)5月、最終の第5次資本自由化で、3年後の1976年(昭和51年)5月に完全に自由化されることになった。  
輸入自由化・資本自由化と並行して、写真感光材料の関税率も段階的に引き下げられた。  
写真感光材料の関税率は、戦前は従量税率(輸入量を基準として一定の関税を課す)が適用されていた。しかし、戦後、1952年(昭和27年)にわが国の関税率が全面的に改正された際、従価税率(輸入価格を基準として一定の関税を課す)に改められ、印画紙25%、X−レイフィルム10%、その他のフィルム30%の関税率が定められた。  
その後、1961年(昭和36年)4月、関税率が全面的に改定され、その際、X−レイフィルムの関税率が10%から20%に引き上げられ、さらに1964年(昭和39年)4月には、一般用カラーロールフィルム、8mm・16mm反転カラーフィルムおよびカラー印画紙の関税率が、国産品の保護、助成のために、40%に引き上げられた。  
その後、世界経済の自由化の動きに伴い、また、国内メーカーの競争力も強まるにつれて、関税率は段階的に引き下げられていった。  
1963年(昭和38年)5月から1967年(昭和42年)5月にかけて、GATT関税一括引き下げ交渉(いわゆるケネディ・ラウンド)が行なわれ、5年間で一律50%関税率を引き下げることで合意をみた。これに基づき、日本は、1968年(昭和43年)7月から1971年(昭和46年)4月まで、段階的に関税率の引き下げを実施した。その結果、映画用黒白フィルム・一般用黒白フィルムは30%から15%へ、黒白印画紙は25%から12.5%へ、それぞれ関税率が半分に引き下げられた。ただし、ケネディ・ラウンドでは、関税率引き下げによる被害の大きい品目については例外品目とすることが認められ、カラーフィルム・カラー印画紙については1971年(昭和46年)3月まで、X−レイフィルムについては1972年(昭和47年)3月まで、それぞれ関税率が据え置かれた。  
国際化への当社の対応  
写真感光材料の輸入の全面自由化に備えて、抜本的な対策、すなわち国際競争に耐えうる商品の開発と、生産の合理化によるコストの引き下げに全力を投入していった。  
黒白の映画用フィルムや一般用フィルムから輸入自由化が始まったことでもわかるように、黒白フィルムの分野ではプロ写真関係の一部の製品を除いた大部分の製品については、当時すでに外国製品に品質上ほぼ対等に対抗しうるようになっていた。当時、最も重要な課題は、コダック社の製品に対抗できるカラーフィルムの開発と、コダック社に対抗しうる企業力を確立することであった。そして、単に国内市場を守るという消極的対応にとどまることなく、当社自らが世界の市場に積極的に打って出て、世界企業として成長しうる基盤をつくりあげることであった。  
このような方針のもとに、カラー製品の研究・開発に、より一層注力するとともに、新規事業分野への積極的な進出を図り、写真感光材料メーカーから、より幅広く総合映像情報機材メーカーへと発展を目指して、多角化を推進し、企業体質の強化を図っていった。 
アマチュア用カラーネガフィルムの進展  
1960年代の日本経済の高度成長の中で、アマチュア写真需要も大きく拡大していく。カラーフィルムの高感度化・高画質化を目指して、次々と新製品を発表する。1961年(昭和36年)発売の感度ASA50の“フジカラーN50”に次いで、1963年(昭和38年)には、カラードカプラーを採用し、色再現性を向上した“フジカラーN64”を発売、国内アマチュア写真市場における当社の地位を固める。1965年(昭和40年)には感度ASA100の“フジカラーN100”を発売し、1971年(昭和46年)にはニュータイプ“N100”を発売する。ニュータイプ“N100”は、オイルプロテクト型カプラーを使用し、海外のカラーラボの処理ラインに乗る製品であり、世界各国に輸出できるようになる。 
オレンジ色がカラーを変えた  
1958年(昭和33年)に発売したフジカラーネガフィルムは、カラー時代を開拓した製品として、その販売量も徐々に増加していった。発売当初、35mm判フィルムは、20枚撮1種類だけであったが、1960年(昭和35年)4月には、新たに12枚撮を発売した。しかし、その感度はASA32と、黒白フィルムの標準とされた“ネオパンSS”(ASA100)に比べてはるかに低く、感度の向上を求める声が強かった。  
そこでカラーネガフィルムの感度向上を目指して研究を進め、1961年(昭和36年)10月、“フジカラーN50”を発売した。  
2年後の1963年(昭和38年)10月、新たに、わが国で初めて、色補正を自動的に行なう機能をもった“フジカラーN64”35mm判フィルム(12枚撮および20枚撮)を発売し、12月には、ブローニー判フィルム(6cm×6cm6枚撮)も発売した。従来のカラーネガフィルムと異なり、“フジカラーN64”の現像済みフィルムは、オレンジ色をしているマスク付きフィルムである。このオレンジ色のマスクは、新たに開発したカラードカプラー(あらかじめ着色した発色剤)を用いたことによるもので、カラードカプラーは、現像後、プリントの過程で、カラーネガフィルムに含まれているマゼンタ色素とシアン色素の色の濁りを補正する役割を果たすものである。この結果、“N64”からプリントした場合、濁りのない鮮やかなカラープリントが得られるようになった。  
また、“フジカラーN64”の新発売に合わせ、“フジカラーぺーパー”もニュータイプに切り換え、色再現性や保存性の向上を図った。  
“N64”の発売により、当社カラーフィルムの評価は一段と高くなり、これまで市場で苦戦を強いられていたのを一気にばん回するとともに、これ以降、国内市場における当社カラーフィルムの販売は急速に拡大していった。  
“フジカラーN100”の誕生  
1965年(昭和40年)8月、当社は“フジカラーN100”35mm判フィルムを全国一斉に発売し、同年12月には“フジカラーN100”ブローニー判フィルムも発売した。  
“フジカラーN100”は、“フジカラーN64”で開発したカラードカプラーを採用し、感度は“ネオパンSS”と同じASA100で、ユーザーに非常に使いやすくなり、また、粒状性を細かくして、人の肌・洋服の生地などを自然に描写できるように改善した。同時に、カラーペーパーもニュータイプに切り換え、品質の向上を図った。  
このころになると、当社のカラーフィルムを現像するフジカラー現像所(現像所のことを略して「ラボ」という)も順次増加し、全国的なカラーラボ網が整備されてきたので、どこでもカラーネガフィルムの現像と、カラープリントの製作ができる体制が整ってきた。そこで、“N100”の発売を機に、ユーザーがカラーフィルムを購入しやすくするために、カラーフィルムの販売価格をフィルム価格と現像料とに分け、今後は、現像料は各現像所ごとに定めて、利用者が現像する際に支払うこととした。現像料を分離した後の“N100”の標準小売価格は、35mm判12枚撮290円、同20枚撮420円、ブローニー判(6cm×6cm6枚撮)330円に設定した。  
前年に開催された東京オリンピックを機に、アマチュア写真家の間にカラー写真への関心が高まりつつあった時に発売した“フジカラーN100”は、アマチュア写真家層に好評をもって迎えられた。1960年代の半ばに至って、35mm判フィルムの全販売量に占めるカラーフィルムの割合は、約10%前後にまで達した。そして、1960年代後半に入ってからは、カラーフィルムの使用比率は急速に増加していったのである。  
なお、1966年(昭和41年)4月には、新たに36枚撮を発売し、旅行者などのニーズに応えた。  
オイルプロテクト型カプラーの採用  
当時、世界各国のカラーフィルム市場でコダック社の製品が圧倒的に高いシェアを占め、各国の現像所でもコダック製品の現像処方で現像作業が行なわれている実情のもとで、当社が世界市場へ参入するためには、カラーフィルムでも、カラーぺーパーでも、コダック社の製品と同一現像処理ラインに乗る製品を開発することが不可欠の課題であった。  
コダック社のカラー感光材料には、オイルプロテクト型のカプラーが使用されていたが、当社の内型カラー感光材料に使用していたカプラーは、水溶性のカプラー(いわゆるアグファ型カプラー)であった。オイルプロテクト型カプラーを使用したカラーフィルムと水溶性カプラーを使用したカラーフィルムとは、現像処理方式も全く異なり、また、オイルプロテクト型カプラーを使用したカラーフィルムは、画像の耐久性なども優れていた。  
このため、当社では、1950年代後半からオイルプロテクト型カプラーの研究に着手していたが、1966年(昭和41年)4月に発売したカラー反転フィルム“ニュータイプフジカラーR100”で、オイルプロテクト型カプラーの使用を開始した。その後引き続き、1969年(昭和44年)3月にカラーぺーパー、1971年(昭和46年)4月にはカラーネガフィルム“ニュータイプフジカラーN100”と、オイルプロテクト型カプラーを使用した新製品を順次市場に導入していった。  
このオイルプロテクト型カプラーを用いた“ニュータイプフジカラーN100”は、色再現性・粒状性などの画質の向上を図り、また、ラチチュードを広くするなど、あらゆる面で品質改善を行ない、国際商品の名に恥じないカラーネガフィルムであった。現像処理が従来の製品と全く異なるので、事前に各地のフジカラーラボに技術指導し、従来の“N100”の処理系列とニュータイプ品の処理系列の2系列の現像処理体制を整備して発売に備えた。従来の“N100”と区分しやすくするために、外箱・パトローネなどパッケージのデザインも一新した。  
このオイルプロテクト型カプラーの使用により、“フジカラーN100”および“カラーぺーパー”はワールドタイプとなり、世界各国への輸出の道が開かれた。  
カラー市場創出のキャンペーン / 東京オリンピックと万国博 
カラーフィルムの新製品の開発を進める一方、写真需要拡大のための施策を積極的に推進する。1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックでは、国内における企業イメージの高揚と海外市場へのブランドの浸透を目的にキャンペーンを展開する。報道用写真の現像処理などで協力するとともに、大型カラープリントによる写真速報など、各種の活動を実施する。次いで、1968年(昭和43年)からは、ママさん市場の写真需要拡大を目標に、“ファミリーフォトキャンペーン”を開始し、女性層に対して写真の普及を図る。そして、1970年(昭和45年)に大阪で開かれた万国博覧会では、映画の製作や写真の展示に協力するとともに、企業イメージアップと販売促進施策を展開し、成果をあげる。  
東京オリンピックで大キャンペーン  
1964年(昭和39年)10月、アジア地域で初めてのオリンピックが東京で開催された。日本は経済の高度成長の中で、同年4月、IMF8条国へ移行し、OECDに加盟して、経済の国際化に加速度がついた時であった。  
日本の有力企業は、この機をとらえて内外に向けて積極的な広告宣伝活動を展開した。  
写真感光材料の輸入自由化が段階的に実施され、完全自由化が日程にのぼってきた状況下にある当社も、国内における企業イメージの高揚と、海外市場へのブランドの浸透とを目標に、施策を展開した。  
東京日比谷の繁華街にネオンサインを設置し、昼間はその壁面を利用して、5m×5mの大型カラープリントを用いてオリンピック写真速報を行なった。  
報道の媒体としても当社の各種製品が活躍した。オリンピックを目標に迅速現像処理ができる“クイックインダストリアルペーパー”を開発したが、これが写真速報用として採用され大活躍した。外国の報道関係者のために、本社社屋建設予定地である東京西麻布の地に臨時の現像所を設け、特別現像処理サービスを実施した。このほか、ビデオテープや写真判定用フィルムなど各種製品が、オリンピックの記録と報道に大きな役割を果たした。  
また、ギリシャのオリンピアで採火の主役をつとめたアレカ・カッツェリ夫人(Mrs.A.Katseli)を招待し、オリンピック大会に花をそえた。  
オリンピック期間中のフィルムの売れ行きは好調であった。国立競技場内では、弁当販売店の一角にもフィルム販売コーナーを特設したが、弁当を買う人が入り込めないぐらいフィルムを買い求める顧客が殺到した。  
ファミリーフォトキャンペーンの展開  
日本経済の高度成長に伴って、一般消費者の生活は質的にも豊かさを加えていった。余暇時間も増加し、レジャーの多様化が顕著となった。  
こうした中で、変化する消費者の要求をとらえ、消費者の目をより多く写真に向けさせるためには、積極的なマーケティング活動が必要であった。  
カラーフィルムの新製品開発を進める一方で、需要拡大のための広告宣伝活動やキャンペーンを積極的に展開した。1968年(昭和43年)1月、写真需要掘り起こしの第一のターゲットとして、女性、特に主婦層に的を絞り「ママの記録は世界一」、「ママ、写して」を合言葉に「ファミリーフォトキャンペーン」をスタートさせた。  
女性がもっと気軽にカメラを手にするようになれば、フィルムの需要を大幅に伸ばすことができる。加えて、写真の被写体は子供が最も多いが、母親の目でとらえれば、子供の成長の記録は、より豊富に、より充実したものになり、そのアルバムは親が子に残す貴い財産となる。  
こうした考えのもとに、キャンペーンは、まず、若いママにシャッターを押してもらうことに焦点を置いて、次のような三段構えの内容で展開した。  
(1)第1弾として、1968年(昭和43年)1月〜3月のキャンペーン期間中に生まれる赤ちゃん全員に、カラーフィルムをプレゼントする“フジカラーお誕生プレゼント”を実施した。母親にとって最も感動的な時期をとらえて、写真撮影への動機づけを行なった。  
(2)第2弾として、3月から5月にかけて新聞・雑誌などで「ママだから写せたかわいい一瞬です」と、愛児の記録の重要性をシリーズ広告で訴求した。  
(3)第3弾として「ママの写したパパと愛児の写真募集」や「ママと子供の撮影会」などのイベントを行なって、シャッターチャンスの増大を図った。  
当社の呼びかけに呼応して、専門店としての店づくりと顧客の拡大に意欲的な写真材料販売店も、それぞれ工夫をこらして独自の活動を行なった。  
折しも、カメラのEE化が進み、フィルムの品質も向上し、写真が写しやすくなってきたこともあり、このファミリーフォトキャンペーンは女性層に対して写真の普及を図るのに大きな成果を収めることができた。  
このキャンペーン期間終了後も、婦人雑誌の広告で「愛児の記録を……」と呼びかけるなど、ファミリーフォトの拡大を写真需要拡大の基本戦略の一つとして息長く続けていった。  
EXPO'70―万国博キャンペーン  
1970年(昭和45年)3月から半年間、万国博覧会「EXPO'70」が「人類の進歩と調和」を基本テーマとして、大阪千里丘陵で開催された。  
EXPO'70は当社にとって、当社の技術力を示し、企業のイメージアップを図るとともに写真需要の拡大と販売増を図る絶好の機会であった。そこで当社は早くからその準備にかかり、前年の1969年(昭和44年)夏には万国博準備室を設置して具体的施策の推進に当たった。  
EXPO'70の展示の中心となるパビリオンでは、当社は三井グループのパビリオン“創造の楽園”に参加した。三井グループ館では、3面の11m×26mの大スクリーンと1、700個あまりのスピーカーを使って三次元の世界を体験するスペースレビュー「宇宙と創造の旅」が上映された。また、日本政府館をはじめ各パビリオンで上映される映画の製作や写真の展示にタイアップして協力した。  
万博記録映画の製作にも、“フジカラーネガフィルム”や“フジカラーポジフィルム”が使用された。  
また、「タイムカプセルEXPO'70」にも協力した。これは松下電器産業株式会社と毎日新聞社が企画したもので、現代の科学文明が到達した最高水準の品物を、内径1m、容量500lの球体に収納して5、000年後の人類への贈り物としたのである。この中に、当社のミニコピーフィルムによる文献複写と16mm映画用ポジフィルムによる短編映画が選ばれ、当社はその製作に協力した。  
会期中、会場内は各パビリオンとも、映像と音響の洪水のごとくカラフルな写真の被写体も多く、連日訪れる大勢の見学者によって多くの写真が撮られた。会場内外をフジカラー一色で埋め尽くす計画を立て、大阪空港前にネオン塔を設置するとともに、会場周辺の写真材料販売店の店頭の飾り付けや広告に工夫をこらした。また、特約卸店や写真材料販売店の協力を得て、会場各所にフィルムの売店を設置し、どこでもフィルムを買えるようにした。  
会場内では、営業写真師によって団体見学者の記念写真の撮影が行なわれたが、それには、開発間もないプロ用中判カメラ“フジカG690”が活躍した。その現像・プリント処理のために、会場周辺のフジカラーラボ網を強化して、サービスの徹底を図った。  
特約卸店・カラーラボ・写真材料販売店の協力によって、会場内外はグリーン一色に塗りつぶされ、フィルムの販売でも当社は圧倒的なシェアを占めることができた。万国博覧会は、9月13日その幕を閉じたが、この万国博覧会を契機として、カラーフィルムの販売量が黒白フィルムのそれを上回り、本格的なカラー写真の時代が訪れた。  
ベルマーク運動に協賛  
全国の幼稚園や小・中・高等学校など学校教育設備の充実を目的とした「ベルマーク運動」は、財団法人教育設備助成会によって、1960年(昭和35年)10月にスタートした。ベルマーク運動は、協賛する会社が指定の商品に何点かずつの証票(ベルマーク)を付け、学校単位で集められたベルマークの点数に見合う金額を、その学校の教育設備購入のための協賛費として、協賛会社が負担するという運動である。  
教育設備助成会の呼びかけに応え、当初から協賛会社の一員として参加し、アマチュア用フィルムの包装箱にベルマークを付けてこの運動に積極的に協力してきた。  
この運動は、当社にとってもフジカラー製品のブランドイメージの向上と、ベルマークを集めているファミリー層の当社製品の指名率の増加が見込めた。その後、今日まで24年余り経過したが、1984年(昭和59年)3月現在で、当社の協賛費は累計で9億5、400万円に達し、学校教育設備の充実に幾分なりとも貢献することができた。 
カラーラボの整備とラボ機器の開発  
カラー写真の現像・プリント処理体制を確立するために、全国主要都市に、富士天然色写真株式会社(現株式会社フジカラーサービス)の現像所を設置するとともに、各地にフジカラーラボ網を形成して、全国的なカラー現像・プリント体制を整備していく。1965年(昭和40年)には、フジカラー販売株式会社を分離し、カラーペーパーなどの販売を通じて、当社系カラーラボの育成と強化を図る。一方、カラーラボの現像・プリント処理機器については、当初、米国パコ社の機器の輸入販売を行なうが、1966年(昭和41年)には機器部を設置して、従来からの黒白用処理機器の経験を基に、カラーラボ用機器の開発を本格的に推進し、また、富士機器工業株式会社に生産体制を整備していく。 
黒白写真DP処理機器の開発  
黒白写真の時代には、写真感光材料メーカーは、フィルム・印画紙・現像定着用の写真薬品を供給し、撮影したフィルムの現像や印画紙へのプリントは撮影者自身が行なうか、あるいは写真撮影者がDP店(写真材料販売店)に依頼し、DP店がこのサービスを販売する方式がとられていた。  
その後、写真需要の増大に伴う現像・プリント処理量の増加、現像・プリント作業の迅速化の要請とプリント価格の低下、若年労働力不足などの要因によって、現像・プリント作業の合理化のニーズが強くなり、業界における現像・プリント処理機器への関心が強くなってきた。  
DP店は、自店で効率よく現像・プリント作業ができる機器の設置を望み、また、DP店の委託を受けて、現像・プリント作業を集中して自動現像機やプリンターにより処理するラボ(現像所)も誕生した。  
当時、欧米有力メーカーの機器が輸入され始めたが、わが国では欧米と比べて、比較的小規模なラボが多く、それに適した機種がそろっていなかったのが実情であった。  
ちょうどそのころ、X−レイフィルムや印刷製版用リスフィルムについても、従来手作業で行なわれていた現像処理を機械化する動きが出てきていた。  
このような情勢に対応し、また当社の写真感光材料の性能を最高度に発揮させるためにも、当社の黒白フィルム・黒白印画紙に最もよく適合できる現像・プリント機器を商品化することが必要と考え、その開発を進めることとした。  
当社が販売した最初の写真用処理機器は、1961年(昭和36年)5月に発売した一般黒白写真用プリンター“富士DPマスターS”である。これは自動露光装置付きで、1枚ずつのシート状の印画紙にプリントする、初心者でも簡単に操作できるプリンターであった。  
1963年(昭和38年)2月には、シート印画紙用自動現像機“富士オートプロセサーPS”を発売した。同年4月には、自動現像機専用印画紙として、76mm幅、120m巻のロール状のフジブロマイド紙を商品化し、同時に、このロール状の印画紙を使用する“富士DPマスターR35”、自動現像機“富士オートプロセサーPR”、“富士オートドライヤーPR”など、一連の処理機器を発売した。  
これら一連の処理機器の開発によって、各種機器の組み合わせにより、ロール状の印画紙を用いる大規模ラボ用と、シート印画紙を用いる中規模以下のラボ用と、それぞれの自動現像・プリントシステムが整備され、これらを総合して“富士DPオートライン”と称した。  
その後、1965年(昭和40年)10月には“富士オートプリンター”、1966年(昭和41年)3月には“富士デラックスプリンター”、1969年(昭和44年)8月には“富士ロールプリンター3B350S”と同“3B350R”、1972年(昭和47年)5月には“富士ロールプリンター3B352S”と、次々と発売し、プリンターの品種を整備していった。  
これらのDP処理機器の開発は、DP店や黒白写真ラボの作業の効率化に大きく寄与するとともに、当社の黒白印画紙の販売拡大にも結びついた。  
黒白写真のDP処理機器の開発・販売、そして設置後のアフターサービスと、それぞれの段階で産みの苦労を重ねたが、その努力が、当社がその後カラー写真の処理機器の分野で業界のリーダーとなる基盤を築いたのであった。  
カラーラボ網の整備  
カラー写真は黒白写真と比較して、現像・プリント作業が複雑で、現像薬品や現像条件についても厳密な管理が要求された。このため、戦後のカラーフィルムの発売当初、現像処理は、メーカーまたは特定の現像所に集中して行なわれたが、このことは現像・プリントされた最終的な仕上がり結果での品質を維持するためにも必要なことであった。  
戦後間もなく一般用カラーフィルムを発売したときから、当社で現像する体制をとってきたが、カラーネガフィルムを発売したときに、富士天然色写真株式会社に東京現像所を設置して、現像およびプリント製作を行なってきた。その後、1960年代に入ってカラー写真の需要拡大に対応するために、1960年(昭和35年)4月に、第2番目のカラーラボとして富士天然色写真株式会社に大阪現像所を設置し、その後、名古屋・福岡・仙台・広島・札幌・山形・豊橋・京都・北九州の各都市に、順次、同社の現像所を設置した。  
しかし、今後のカラー写真の普及のテンポを見通し、また、カラーフィルム・カラーぺーパーの輸入の自由化を目前に控えて、カラー製品市場での当社シェアを確保するためにも、フジカラーラボ網を全国的に整備することが焦びの課題となってきた。それには、拠点都市にある富士天然色写真株式会社の直営現像所だけではなく、各府県の主要都市にまでカラーラボを設置しなければならなかった。  
このころ、将来のカラー写真の普及を見越して、自らカラーラボを業とする人びとも現われ、また、各地の写真材料販売店の間でカラーラボの経営を目指す人も少なくなかった。そこでこれらの人びとの協力を得て全国的なラボ網の整備に着手し、1960年代半ばごろまでに、ほぼ全国各地にわたる当社カラーラボ網の体制づくりを完成した。  
フジカラーサービス、フジカラー販売の設立  
各地に設立されたカラーラボに対するカラーぺーパーの販売は、富士天然色写真株式会社が行なった。これは、カラーペーパーが他の写真感光材料と異なって、全く新しいユーザー(カラーラボ)を対象とするものであり、ユーザーに対して直接技術指導を必要とする商品であるので、従来の一般用写真感光材料の販売ルートと異なる販売ルートを採ったからである。すなわち、富士天然色写真株式会社は、自社でカラーフィルムの現像およびプリント業務を行なう一方、全国各地に設立されたフジカラーラボ網に対して、当社の販売代理店としてカラーペーパーおよび処理薬品を販売するとともに、その経営指導・技術指導に当たってきた。  
1964年(昭和39年)10月、カラーペーパーの輸入自由化に伴い、国内外メーカーの販売攻勢も積極化し、翌1965年(昭和40年)には、新たに三菱製紙もカラーペーパー市場に参入し、販売競争はますます激しくなってきた。また、各地で、各社のカラーラボが設立されるにつれて、カラーラボ相互間の競争も激化してきた。  
このような情勢のもと、当社はカラーペーパーの販売体制を強化するため、1965年(昭和40年)4月、これらの販売業務を富士天然色写真株式会社から分離して、新たに、フジカラー販売株式会社を設立した。同時に、富士天然色写真株式会社は、株式会社フジカラーサービスと改称し、当社直系の中核ラボとして、フジカラーの現像・プリント業務を専業とする会社となった。  
この結果、フジカラー販売株式会社が当社の販売代理店として、カラーペーパー・処理薬品をはじめ、カラーラボで使用する現像・プリント機器などカラー関連製品を各地のカラーラボヘ販売することになった。同社は、これらのラボに対して経営指導や技術指導を行なうとともに、ラボの新増設に際しての指導・助言、代表者懇談会や経営者セミナーの開催、機関誌の発行などを行ない、各地のフジカラーラボの経営の向上と、フジカラープリントの品質向上を目指し、あわせて、当社とラボ間、あるいはラボ相互間のコミュニケーションの緊密化を図った。  
カラー写真の普及当初は、写真感光材料メーカーの系列ごとにカラープリントの呼称とサイズが異なっていた。このため、ユーザーからのカラープリントの注文を受け付ける写真材料販売店での取り扱いが煩雑になり、その対策のために、また、ラボ業務の合理化のためにも、その統一が要望された。  
1960年代になると、新たにFサイズ(ペーパーサイズ76mm×106mm)が市場に登場したが、その後、フジカラー販売は、76mm幅(Fサイズ)と89mm幅(Aサイズ)の中間の82.5mm幅のEサイズ(ペーパーサイズ82.5mm×117mm)を提唱、積極的にその導入を進めた。その結果、1970年ごろには、Eサイズが普及判サイズの主力サイズとなった。また、同じころ、より大きなプリントをユーザーに提供するため、2Lサイズ(ペーパーサイズ127mm×178mm)も登場した。  
カラーラボ用機器の開発  
カラーラボの体制整備には、それぞれのラボに適した処理機器を整備することが不可欠であり、現像処理機器やプリンターの開発が重要な課題となってきた。  
当社が、カラープリント関連機器を最初に出荷したのは、1956年(昭和31年)のことであった。全国都道府県警察が、当社が発売を予定していたカラーネガフィルム・カラーペーパーを採用することになり、それに使用するカラープリント装置を開発し、納入したことに始まる。  
このときの経験と、黒白用DP処理機器の開発以来のノウハウの蓄積などによって、1964年(昭和39年)10月、カラーペーパーの処理機器として、まず、シートサイズ用自動現像機“富士カラーオートプロセサーPSC”を、翌1965年(昭和40年)9月には、ハーフ判(18mm×24mm)から6cm×6cm判までのカラーネガフィルムから引伸しプリントができる“富士カラーエンラージャー66”を発売した。  
カラーペーパーのロールサイズの処理機器としては、1967年(昭和42年)8月に、カラーペーパー用自動現像機“富士カラーロールプロセサー2”と、マガジンにカラーペーパーを挿入する以外すべて明室で操作できるカラープリンター“富士カラーデラックスプリンターA1”を開発し、発売した。  
このデラックスプリンター“A1”は、主として小規模のラボを対象としたものであったが、引き続き、よりプリント能力の高い明室用プリンターの開発を企図した。ユーザーがカラープリントの注文をするときには、35mm判カラーネガフィルムの現像と同時に普及判サイズのプリントも依頼する、いわゆる同時プリントの注文が大半を占めていた。したがって、この同時プリント作業の効率化が、ラボにとって大きなニーズとなっていたので、35mm判カラーネガフィルムからの同時プリント専用プリンターを企画することにした。  
そして、1970年(昭和45年)5月、小さな作業スペースで明室で操作できるコンパクトで高能率のカラープリンターの開発に成功し、“富士カラーロールプリンター3C350”の商品名で発売した。  
なお、同年7月には、6cm×9cm判のカラーネガフィルムから引伸しプリントができるカラー引伸機“富士カラーエンラージャー69”を発売した。  
パコ社との提携  
自動現像処理機の導入は、単に人手を機械に置き換えるだけではない。品質の均一化・処理スピードの迅速化と作業能率の向上といった観点からも、自動現像機やプリンターの導入の動きは、予想以上に速いテンポで進んでいった。  
この動向に対して、現像処理機やプリンターをはじめ一連の機器の開発体制の整備を進める一方で、各分野のニーズに対してタイムリーに対応を図るために、海外の機器メーカーと提携してその製品の輸入販売を企図し、1964年(昭和39年)3月、米国パコ社と輸入販売契約を締結した。  
パコ社は、米国ミネソタ州ミネアポリスに本拠を置く写真自動処理機器のメーカーであり、同社との契約により、黒白用やカラー用現像・プリント機器だけでなく、X−レイフィルム用現像機“パコロールXM”、リスフィルム用自動現像機“パコロールG”をも取り扱うこととした。  
なお、パコ社製品の輸入販売は、その後、当社の機器開発体制の整備に伴い、次第に縮小され、1980年代に入ってその歴史的役割を終了した。  
機器開発体制の整備  
1966年(昭和41年)7月、現像・プリント用機器開発のための研究開発部門として、機器部が発足した。写真感光材料の品質との適合性および写真感光材料の新製品の開発との連携を密にするために、足柄工場の構内に設置した。  
機器部では、カラーフィルム・カラーペーパー・X−レイフィルム・製版用フィルム・PS版などの現像処理機器について、基礎研究から実用化研究までを進めるとともに、営業部門や製作部門と密接な連携を保ち、当社機器製品の商品化を推進する役割を果たしてきた。1973年(昭和48年)12月には、機器部を機器開発部と改め、開発体制を一層充実した。  
また、機器製品の製作体制についても充実強化を図った。これまでは、主として富士写真光機が、カメラの生産に並行して現像・プリント機器の生産を担当していたが、新たに、富士板金工房でも機器を製作することとした。これに伴って、同社は、1967年(昭和42年)、社名を富士機器工業株式会社と変更し、当社足柄工場近く、南足柄町(現南足柄市)竹松地区に新工場を建設し、1968年(昭和43年)から機器の生産を開始した。  
スチルカメラで独自の分野を / カメラの自動露光化とコンパクト化 
1960年代に入って、各社で、35mmレンズシャッターカメラの露光の自動化(EE化)が進む。その中で1962年(昭和37年)、シャッター速度を自動補正する機構を加えた複式プログラムシャッター式AE機“フジカ35オートM”を開発し、内外の市場で好評を博す。さらに、1963年(昭和38年)、市場ニーズに合わせて、ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”を発売する。1967年(昭和42年)には、小型軽量カメラ“フジカコンパクト35”を発売し、コンパクトカメラの先べんをつける。アフターサービス体制も整備していく。他方、1968年(昭和43年)には中判カメラ“フジカG690”を発売し、プロ写真の市場にも進出する。  
35mmAEカメラ“フジカ35オートM”の開発  
カメラに露出計が組み込まれるようになったのは1950年代後半からであるが、1960年代になると、さらにシャッター速度や絞りと連動して、シャッターを押すだけで自動的に適正露光が得られるカメラの出現が望まれるようになった。この自動露光機能をもったカメラをElectric-Eyeの頭文字をとってEEカメラといい、各社とも競って開発を進めた。当社も、1961年(昭和36年)9月に“フジカ35SE”を改良して、シャッター速度優先のEEカメラ“フジカ35EE”を発売し、同年11月には、廉価で使いやすい“フジカ35オートマジック”を発売、ユーザーニーズに応えた。  
次いで、1962年(昭和37年)3月、これまでのEEカメラの壁を破った世界最初の複式プログラムシャッターを装備した“フジカ35オートM”を開発し、国内と海外同時に発売した。  
これまでのEEカメラは、シャッター速度をセットしてシャッターを切れば自動的に絞りが決定される方式か、被写体の明るさに対応してあらかじめプログラムされた一組の絞りとシャッター速度が自動的にセットされるプログラムシャッター式の機構であった。  
しかし“フジカオートM”の複式プログラムシャッター機構は、シャッター速度がどこにセットされていても、まず絞りが調節され、絞りだけで調節しきれなくなるとシャッター速度が自動的に調節されて適正露光が得られるもので、EEカメラでありながら5種類の異なったプログラムを自由に選ぶことができる。AE(AutomaticExposure)カメラとも呼ばれ、国内市場はもちろん、海外市場でも好評を博した。  
その後、1964年(昭和39年)9月には、露出計の受光感度をより高くするため、受光素子をセレン(Se)から硫化カドミウム(CdS)に換えた露出計組み込みの“フジカV2”を発売した。  
ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”の発売  
35mm判フィルムの画面サイズは、縦24mm・横36mmである。このサイズを2つに切って、縦24mm・横18mmの画面サイズのカメラが普及したのは、1959年(昭和34年)のことで、ハーフサイズカメラあるいはペンサイズカメラと呼ばれるようになった。  
ハーフサイズカメラは、カメラが比較的小型で携帯にも便利で、フルサイズカメラに比べ2倍の撮影枚数が得られることから、新たな需要を開拓し、また、サブカメラとして愛用者を増加していった。このため、カメラメーカーは相次いでハーフサイズカメラ市場に参入し、1963年(昭和38年)から、わが国のハーフサイズカメラの生産は急増した。1964年(昭和39年)には、ハーフサイズカメラの生産台数は35mmフルサイズのレンズシャッターカメラを上回るに至った。  
当社も、これらユーザーのニーズに対応するため、1963年(昭和38年)11月、ハーフサイズカメラ“フジカハーフ”を発売した。続いて、翌年6月に“フジカドライブ”を、9月にはポケットや女性のハンドバックに入る世界最小のハーフサイズカメラ“フジカミニ”を発売、製品ラインの充実を図った。  
“フジカハーフ”は、丸味のあるスマートなデザインで、レンズはF2.828mm、プログラムシャッター式EE機構を組み込み、また、ハーフサイズカメラとしては初めてセルフタイマーを装着した。  
“フジカドライブ”は、カメラ底部にスプリング巻き上げ方式を採用し、シャッターボタン操作で連続18コマの巻き上げができる、今日のモータードライブのはしりともいえるカメラで、ストックホルム警察のパトロールカーに取り付けられるなど、ユニークな地歩を築いた。  
しかし、ハーフサイズカメラでは、引伸しプリントをした場合シャープな画像が得にくく、また、20枚撮フィルム1本から一度に40枚のカラープリントをすることは、ユーザーにとってむしろ多すぎる場合もあった。折から、インスタマチックカメラがわが国にも導入され、また、35mmフルサイズカメラもコンパクト化されてきたことによって、ハーフサイズカメラは、その挟撃に合った形となり、1966年(昭和41年)ごろから需要が急激に減少し、当社も生産を中止した。35mmカメラの主体はコンパクトカメラヘと移っていった。  
ラピッドシステムの開発  
35mm判フィルムをパトローネ入りに切り換えたことによって、フィルム装てんは容易にはなったが、それでも撮影後にフィルムを巻き戻さなければならないという不便もつきまとっていた。写真の需要をさらに拡大するためには、フィルム装てんと巻き戻しの簡易化を進めていくことが大きな課題であった。  
1963年(昭和38年)のフォトキナで、コダック社は、インスタマチック方式という新システムを発表し、この課題にひとつの解答を出した。これは、コダパック・カートリッジフィルムとインスタマチックカメラからなるシステムで、フィルムをカートリッジ化することによって、フィルム装てんを簡易化するとともに、巻き戻しを不要にしたものであった。画面サイズは26mm×26mmの正方形で、126サイズと呼ばれ、誰でも簡単にフィルムを装てんでき、初心者でも気軽に写真を撮影することができるカメラとして、発表以来、話題を呼んだ。  
このインスタマチック方式に対抗して、翌1964年(昭和39年)、アグファ・ゲバルト社(西ドイツのアグファ社とベルギーのゲバルト社が同年7月合併して発足)は、35mm幅のロールフィルムを使用した簡易装てん方式“ラピッドシステム”を発表、世界のメーカーと協力して全世界に普及させようと呼びかけた。  
ラピッドシステムは、フィルムは巻き取り軸のないカートリッジに入っていて、これをカメラに装てんして撮影すると、撮影済みフィルムが巻き取り側の同形の収納カートリッジに巻き込まれる方式である。撮影後巻き戻す必要はなく、空いたカートリッジは、再びフィルム収納用として使用するという簡易装てん方式をとっていた。  
当時、甲南カメラ研究所の協力を得て、フィルム簡易装てんシステムを独自に研究中であったため、早速アグファ・ゲバルト社の呼びかけを検討するとともに、当社を含む代表的な国内カメラメーカー間で検討し合った結果、写真需要の拡大に役立つとして、その採用に踏み切ることになった。  
そこで、当社を含めた国内カメラメーカー14社は、アグファ・ゲバルト社と技術提携を結び、日本ラピッド会を結成し、ラピッドカメラの開発を進めることになった。ヨーロッパでも十数社がこのシステムに参加した。当社も、ラピッドシステムの開発に積極的に取り組み、1965年(昭和40年)6月に、カメラ2機種(固定焦点レンズ付きの“フジカラピッドS”、露出計内蔵の“フジカラピッドS2”)と、カラー(ネガフィルムおよびリバーサルフィルム)・黒白(SSフィルムおよびSSSフィルム)合わせて4種類のフィルムを発売した。さらに、同年11月、ドライブ機構付きカメラを、翌年4月にフラッシュ機構付きカメラを、追加発売した。  
しかし、ラピッドシステムが発売された1965年(昭和40年)は、オリンピックの翌年、いわゆる“40年不況”の年で、カメラ業界は不況カルテルを結成するほどで、在庫品の消化に忙殺され、この新規システムの広告などにも十分手が回らなかった。そのうえ、カメラ自体も、デザインや構造のうえからもう一つ魅力に欠けていたことも否めず、また、カメラ内部のフィルムの平面性にも問題があって、実際に発売してからの売れ行きは当初の予測をはるかに下回った。  
海外市場でも同様で、アグファ・ゲバルト社の製品も伸び悩み状態であった。結局、このラピッドシステムはユーザーに普及するに至らず、間もなく当社はカメラの生産を中止したが、フィルムの供給は、ラピッドカメラ購入者のため、その後も少量ながら継続した。  
コンパクトカメラ時代の幕開け  
1966年(昭和41年)10月開催されたフォトキナ'66で、西ドイツのローライ社が、ハーフサイズカメラに匹敵する小型なフルサイズの35mmレンズシャッターカメラ“ローライ35”を発表し、35mmカメラ中級機の将来に一つの発展方向を示唆した。当社もこの小型化に注目して、これまで“フジカハーフ”や“フジカラピッド”などの開発で培ってきた要素技術を活用して、1967年(昭和42年)10月、“フジカコンパクト35”を発売した。  
この“フジカコンパクト35”は、フルサイズの35mmカメラでありながら、440gと軽量で、レンズはF2.838mm、プログラムシャッター式EE機構を組み込み、国産カメラのコンパクト化への先駆となった。  
その後、“フジカコンパクトD”(F1.845mmレンズ装着)、“フジカコンパクトS”(セルフタイマー付き)などを発売し、コンパクトシリーズの充実を図っていった。  
次いで、1970年(昭和45年)6月から、ボディーをプラスチック化して、このクラスでは最軽量の400gをきり、デザインを一新した“フジカライトコンパクト35”を発売し、コンパクトカメラの普及に努めた。  
カメラの販売・サービス体制の整備  
“フジカコンパクト35”の発売を機に、カメラ販売体制の強化を図った。これまで、当社カメラは、写真感光材料特約卸店がカメラの特約卸店を兼ね、この特約卸店を通じてカメラ小売販売店へ出荷していた。コンパクトカメラの発売に当たっては、新たに、地域ごとに取り扱い卸店(コンパクトカメラ地区代理店)を設定した。そして、当社のコンパクトカメラを重点的に販売するカメラ店(フジカコンパクト店)がメンバーとなって、各地にグループ(フジカコンパクト会)が結成された。このグループに参加するカメラ店は、その後次第に増加し、当社コンパクト製品の販売拡大に大きく貢献した。  
一方、並行して、当社光学機器製品のアフターサービス体制も整備していった。戦後、カメラの発売当初は、各地の出張所において、現地の修理専門店に修理を委託していたが、1950年代後半に入って、35mmカメラの発売を契機に富士写真光機の応援を得て、東京・大阪両出張所に、それぞれリペアマンを配置し、ユーザーへの対応を図った。  
1960年代に入り、フジカ製品の機種の増加・機能の高級化が進む一方、販売数量も増加するに及んで、アフターサービスの重要性を考えて、各出張所内にサービスステーションを設置した。そして、株式会社富士サービス、株式会社フジカサービスなどのアフターサービス専門会社の要員をそこに配置し、修理サービス業務を委託した。  
その後、1973年(昭和48年)3月、富士サービスに全額出資して同社を当社の子会社とし、アフターサービス体制の一層の強化を図った。  
営業写真用レンズの整備と中判カメラの発売  
戦後間もない1950年代当初に、スタジオ撮影用の大判カメラ用レンズとして“レクター”(後に“フジナー”と改称)を発売して以来、営業写真の市場では、当社のレンズ類は高い信頼を得ていた。  
1960年代後半に入り、スタジオでのカラー写真の撮影やコマーシャル写真が増加したのに伴い、カラー撮影に適合した高解像力の写場用レンズのニーズが増加してきた。このニーズに応えて新しいレンズの開発を進め、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて、14種類のプロフェッショナル用“フジノンレンズ”を新発売した。  
この分野では、各種のサイズのフィルムが使用されているが、フィルムのサイズ、レンズの包括角度(レンズが鮮明な像を結ぶ範囲)、焦点距離の組み合わせを体系化して、少ない種類で広範囲な撮影が可能なようにシリーズ化を図った。広角レンズ(“フジノンW”)・超広角レンズ(“フジノンSW”)、3つの波長の色収差補正ができるアポクロマートレンズ(“フジノンA”)など、各種のタイプを整備した。いずれも、色再現性も抜群で、濁りのない美しいカラーイメージが得られるものであった。  
また、写真で記録することが日常化してきたことに伴って、営業写真館では、各種の行事・会合、学校の入学式や卒業式、観光地での記念写真などの集合写真の撮影のため、出張撮影する機会も多くなってきた。しかし、これらの撮影に、従来の大判カメラは、持ち運びや機動性・速写性の点から不便で、それに代わるカメラの開発が望まれていた。  
このようなニーズに対応するため、35mmカメラスタイルの中判カメラ“フジカG690”を開発し、1968年(昭和43年)3月、第9回カメラショーに出品した。ボディーは35mmカメラよりひと回り大きく、ブローニー判フィルムを使用し、画面サイズは6cm×9cm、レンズ交換が可能な、距離計連動のレンズシャッター式カメラであった。標準レンズフジノンF3.5100mmのほか、交換レンズとして、広角レンズ(フジノンF865mm)・望遠レンズ(フジノンF5.6150mm、同180mm)を用意し、同年12月に発売した。  
この中判カメラは、営業写真家、プロ作家や報道写真家に愛用され、国内外で好評を得ていった。 
“フジカシングル-8”の開発  
8mm市場を拡大するために、全く新しいマガジン方式の8mmシステムの開発にチャレンジする。開発途上で計画の大幅な変更を余儀なくされるが、1965年(昭和40年)5月、PHOTOEXPOにおいて、新しい8mmシステム“シングル-8”システムを発表する。フィルムをマガジン化し、だれでも手軽に8mm映画を楽しめるようにした“シングル-8”システムは、画期的ホームムービーシステムとして絶賛を博し、“FUJIFILM”の名を高らしめる。発売に当たっては、“マガジン・ポン、私にも写せます”をキャッチフレーズに、8mm映画の楽しさを訴え、需要の開拓を図っていく。また、海外供給体制やラボ網を整備し、海外市場にも出荷を開始する。 
“シングル−8”PHOTOEXPOでデビュー  
1965年(昭和40年)5月1日、ニューヨークコロシアムでPHOTOEXPO(InternationalPhotographicExposition)が開幕された。ここに、社運をかけて開発した新しい8mmシステム“フジカシングル−8”システムを展示して世界の注目を集めた。なかでも、コンパクトなカメラ“フジカシングル−8P1”と、8mm映写機“フジカスコープM1”、同“M2”、画期的なアイデアのマガジン方式“シングル−8フィルム”は、同時に展示されたコダック社の新製品“スーパー8”と対比されて、多くの参観者の関心の的となった。そして、「ニューヨークタイムズ」をはじめ、「ニューズウィーク」「ポピュラーフォトグラフィー」などの新聞雑誌は、こぞって“シングル−8”を取りあげ、そのアイデアに拍手を惜しまなかった。  
8mm小型映画市場への進出  
“シングル−8”システムが生まれるまでには、小型映画の長い前史と、当社の長期にわたる開発努力があった。  
小型映画の歴史は、1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間、さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも、17.5mm、16mm、9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして、1932年(昭和7年)、コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び、8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は、その後のダブル8システムのはしりで、幅16mm、長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い、片側を撮影後、スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し、現像終了後、中央で裁断、両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし、それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ、アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し、また、ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も、各社がカメラを開発し、フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが、結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。  
わが国でも、戦前からの8mm映画愛好家は、戦争による中断の後、1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ、また、アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて、新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。  
こうした状況に対応して、1953年(昭和28年)1月、ダブル8システム用“ネオパン反転8mmフィルム”(感度ASA40)を発売、1957年(昭和32年)3月には“フジカラー8mmフィルム”(外型反転方式、感度ASA10)を発売した。さらに、同年8月にはダブル8用8mm映写機“フジスコープM−1”を、翌1958年(昭和33年)10月には磁気録音再生方式の映写機“フジスコープサウンド”を、それぞれ発売し、その後も映写機の機種を整備し、性能の向上を図っていった。  
しかし、8mm市場へ本格的に参入するためには、8mmカメラの開発が不可欠である。そこで、1960年(昭和35年)11月、ターレット方式の“フジカ8T3”を、続いて翌1961年(昭和36年)には被写体の明るさに応じて絞り値を自動的に決める“フジカ8EE”と4倍ズームの“フジカ8Z4”を、1964年(昭和39年)には4倍ズームの高級機“フジカ8ズームデラックス”を、それぞれ発売して製品ラインの充実を図っていった。  
“シングル−8”開発の構想  
ダブル8システムのスプール巻き方式は、カメラヘのフィルム装てんや途中の掛け換えが煩雑で、時にはスプールからフィルムが外れて、せっかくのシャッターチャンスを逃がす場合もあり、フィルムの裏撮影・片側撮影・二重撮影などの失敗が避けがたかった。このため、8mmフィルムの需要層は一部に限られ、8mmカメラの普及率は、1960年(昭和35年)ごろで、都市部でもわずか2%前後にとどまっていた。  
したがって、8mm映画市場の需要を開拓するには、フィルムの装てんや取り外しの操作を簡易化することが最も重要な課題であり、そのためには、初めから8mm幅のフィルムを使うシステムを開発することが最も望ましいと考えた。そして、この考え方に立って、新しいシステムを研究開発することとし、1959年(昭和34年)には、研究グループを組織して検討を開始した。  
研究開発上の最初のテーマは、マガジン方式をどうするかであった。  
研究グループには、かねてからカメラの技術開発に関して提携していた甲南カメラ研究所にも参加を要請した。同社は、研究討議の過程で、8mmマガジンの新方式に関するアイデアを提案した。  
この提案を参考として、再三にわたる試作・検討を重ねた結果、1963年(昭和38年)7月、フィルム走行上無理のない、二軸による直列に巻き込むマガジン方式を採用することとした。  
フィルムベースは、当初はTACべースを用いて研究を進めていたが、カメラをコンパクト化するために、フィルムベースの厚みを従来より薄くする必要があり、また、フィルムベースを薄くすることによる現像時や映写時の強度低下の不安をなくすため、計画の途中でPETベースを使用することに変更した。  
これらの研究を進めていく過程で、研究開発体制も強化していった。社内の関連部門はもちろんのこと、富士写真光機、富士天然色写真、富士板金工房の各社も含めた、富士フイルムグループの総力を結集した開発体制がとられた。  
1964年(昭和39年)7月までには、黒白フィルム・カラーフィルムの品質規格を決定し、デザイン、加工・包装、現像、マグネオストライプなどの準備を順次進め、並行して耐寒テストその他各種の信頼性テストを実施して、商品化に向けて万全を期した。  
こうして、新システムの構想は次第に固まっていったが、これを実現し、新しい8mmシステムを国際商品に育てるためには、新システムの規格を広く国内外のカメラメーカーやフィルムメーカーと共通のものとしていく必要があった。そこでまず、1962年(昭和37年)、キヤノン、ヤシカ、小西六写真工業の3社に協力を求めた。次いで、翌1963年(昭和38年)5月、コダック、アグファ、ベル&ハウエルの3社にも呼びかけを行なった。  
これに対して、コダック社からは、目下その計画はなく、関心は持たないから独自に進められたいという趣旨の回答が寄せられた。一方、アグファ社からは同社でも独自のマガジン開発を進めているが、富士フイルムのものが良ければ、それを採用したいとの回答が寄せられた。  
この結果、1964年(昭和39年)3月、国内メーカーに対し当社の新8mmシステムを採用して商品化を進める場合は、当社が中心となって共同開発を進めること、および、当社の所有する新8mmシステムに関するすべての特許の実施権を無償でカメラメーカーに提供することを発表した。そして、同年3月から10月にかけて、国内カメラメーカー13社およびアグファ社と、共同開発に関する基本契約を締結した。  
この年5月、当社はこの新システムの名称を“ラピッド−8”とすることに内定し、同年10月に開催予定の東京オリンピック大会を目標に発売すべく、生産を開始した。  
カメラの生産も軌道に乗り、フィルムも量産化に入ろうとしたとき、突如、計画を根底からくつがえす情報がもたらされた。これまで沈黙を守ってきたコダック社が、新8mm方式“スーパー8”を発表したのである。  
“スーパー8”は、世界の8mm市場をほぼ独占してきたコダック社が、満を持したように発表に踏み切ったシステムだった。フィルムをマガジン化するという考え方は当社と同じであったが、マガジンの形式は全く異なっていた。その上、1コマの面積は、従来の8mmフィルムや当社の“ラピッド−8”のほぼ50%増しだった。  
これまでのダブル8システムを使用していた8mmユーザーの便宜のために、既存の映写機でも映写できるようにという考え方に立って、“ラピッド−8”の画面サイズを従来のダブル8と同じく4.37mm×3.28mmとしていたのに対し、“スーパー8”では5.36mm×4.01mmと大型化を図っていたのである。  
発売予定日を目前に控えてこの報に接し、当社の内では、計画どおり“ラピッド−8”の発売に踏み切るか、あるいは“スーパー8”に追随すべきか、意見が分かれた。しかし、“スーパー8”が一度世に出れば、世界市場におけるコダック社の位置からしても、近い将来、“スーパー8”の画面サイズが国際標準になるであろうことは想像に難くなかった。また、提携メーカーとの協調関係にも配慮する必要がある。最終的に、同年8月、“ラピッド−8”計画を中止して、フィルムサイズをコダック社の“スーパー8”に合わせて新システムの開発を進めるという決断を下した。これによって、東京オリンピックという8mm市場を開拓するうえでの千載一遇の機会を目前に、当社は“ラピッド−8”の発売を中止するとともに、発売のために準備した全製品の廃棄に踏み切ったのである。  
“シングル−8”の誕生  
“ラピッド−8”計画を中止した当社は、新システムの開発を目指して再出発した。再出発に際しては、カメラおよびフィルムの機構および品質を、現在予測し得る最高の商品とすべきことを目標とした。カメラ機構は、当社がこれまで“ラピッド−8”として開発してきた新マガジン方式を基本とし、画面サイズにコダック社の規格を採用し、これによって、“スーパー8”を上回る新システムとした。  
フィルムについては、画面サイズを拡大すると同時に、品質のレベルアップ、とりわけ映像のシャープネスを向上するために、写真乳剤の改良にも取り組んだ。工場の製造設備の改造も急いだ。あらゆる部門をあげて新計画の実現を急いだ。  
ところが、同年10月になって、当初共同で“ラピッド−8”システムを採用することにしていたアグファ・ゲバルト社から、ヨーロッパの有力8mmメーカーはいずれもコダック社の“スーパー8”システムを支持しており、当社の新システムのライセンスを得ることに興味を持たないこと、したがって、当社の新システムに“ラピッド−8”の名称を使用することに欧州各メーカーから合意を得ることが不可能な旨の連絡がもたらされた。  
そこでこの新システムの名称について種々検討を行ない、“シングル−8”と呼ぶことを決定するとともに、“ラピッド−8”共同開発契約を結んだ国内グループ13社にその旨を連絡し、あわせて欧州事情を説明した。そして、“シングル−8”システムを一日も早く完成し、国際市場に積極的に乗り出すことを改めて決意したのである。  
かくして、関連会社を含む富士フイルムグループの総力をあげた努力が続いた結果、“シングル−8”は1965年(昭和40年)4月、発売の運びとなった。  
発売時に整備された製品は、固定焦点レンズ付き8mmカメラ“フジカシングル−8P1”1機種、映写機2機種(サイレント方式の“フジカスコープM1”と、録音テープと同調する方式の“フジカスコープM2”)のほか、フィルムは、カラー反転フィルム(デーライトタイプ、感度ASA25)および黒白フィルム2種類(感度ASA50およびASA200)であった。フィルムは、いずれも1巻15.25m巻き、現像は、当社の指定現像所で行なうこととし、フィルムの販売価格は現像料込みで設定された。  
“シングル−8”システムの開発は、世界の写真市場に当社の名をクローズアップさせるうえで大きな意味があっただけでなく、世界の小型映画の歴史にとっても意義深かった。この開発に対し、1965年(昭和40年)5月、世界最大の写真雑誌「ポピュラーフォトグラフィー」誌は、世界の写真業界の進歩に貢献した人たちの功績をたたえるべく設定した「ポピュラーフォトグラフィー賞」の受賞者に、当社社長小林節太郎を選定した。  
また、1969年(昭和44年)6月開催されたPHOTOEXPO'69で、米国の写真業界有数の業界誌「フォトグラフィック・トレイド・ニュース」を刊行しているPTN社から、シングル−8システムをたたえる賞はいを受けた。  
市場開発の推進と国内外販売体制の強化  
“シングル−8”は、まず、国内市場で発売した。発売に際して、幅広く新規需要層を開発してホームムービー時代を現出することをねらいとし、あわせて、教育用・業務用の利用分野も積極的に開発することを目標に、組織的に宣伝活動を進めた。ホームムービーの訴求対象は、家族ぐるみであるが、特に主婦層に重点を置いたマスコミ広告を打ち出した。  
テレビの画面で、誰にも容易に撮影できることを強調して「マガジンポン!わたしにも写せますゥ」と語りかける、商品機能をひと口で言い当てた言葉は、一つの流行語となって「フジカシングルエイ卜」の軽快なメロディとともに家庭の茶の間に急速に浸透していった。  
一方、発売と同時に、全国のカメラ販売店の中から、“シングル−8”の販売を重点的に推進する販売店を「フジカシングル−8店」として設定して、ここを拠点に、店頭宣伝・8mm講習会などを開催し、販売促進を図った。  
また、1966年(昭和41年)12月には、シングル−8の愛用者を対象とした「シングル−8友の会」を設け、機関誌の刊行や、タイトル・編集サービス、映画作りのアドバイス、あるいは講習会の開催など地道な普及活動を展開し、ユーザーの組織化と需要の拡大を図っていった。以来、今日まで、この「シングル−8友の会」の活動は、8mmフォトコンテストと並んで、ユーザーと当社とを結び付ける大きな役割を果たしてきた。  
“シングル−8”の販売促進活動の一例として、「フジカフェア」がある。これは、1970年(昭和45年)ごろから、当社が、特約卸店・カメラ販売店と一体となって各地で開催したもので、来場客に8mmムービーの理解を深めてもらい、新しい顧客をつくり出すユニークな販売促進施策として成果をあげた。  
一方、国内向け発売と並行して、“シングル−8”システムを海外市場にも導入する準備を進めていった。  
1965年(昭和40年)5月にニューヨークで開かれたPHOTOEXPOで好評を博したとはいえ、海外市場に導入するためには商品の円滑な供給体制を確立し、また、現像処理体制やカメラのアフターサービス体制を整備しなければならなかった。  
“シングル−8”の現像処理は、“スーパー8”とは異なるシステムのため、独自の処方で現像しなければならない。米国市場ではニューヨーク州ロチェスターの、ヨーロッパ市場は西独デュッセルドルフの、それぞれ特定ラボに“シングル−8”専用の現像処理ラインを設置して、現地現像処理体制の整備を進めていった。  
こうして、海外市場への導入準備もようやく整い、国内発売のほぼ1年後、1966年(昭和41年)3月、当社は“シングル−8”の海外向け出荷を開始した。  
その前後、1966年(昭和41年)3月、クリーブランドで開催された第42回MPDFAショー、同年4月、ニューヨークで開催されたインターナショナル・フォトグラフィー・フェア、同年10月のフォトキナ'66などで、積極的に“シングル−8”をPRした。  
発売後、“シングル−8”は、そのコンパクトさと品質の良さが認められ、米国およびヨーロッパのアマチュア写真市場で着実に販売を伸ばしていった。そして、“FUJIFILM”を世界のブランドとして認識させるとともに、当社が海外のアマチュア写真市場へ本格的に進出するための突破口として、貴重な役割を果たした。  
“シングル−8”のズーム化と高機能化  
発売後の“シングル−8”システムは、順調に伸びていった。発売当初は、カメラは、固定焦点レンズで、撮影コマ数も毎秒18コマだけの“フジカシングル−8P1”1機種で、映写機、フィルムとも最小限の品種をそろえただけであったが、より高度な映画づくりを楽しみたいというユーザーの要望に応え、また、8mm映画の用途を拡大するために、逐次、カメラ・映写機・フィルムの品種整備を図っていった。  
カメラについては、発売した年の10月に、3倍ズームレンズ付きの“フジカシングル−8Z1”を追加し、また、このシステムの基本となったPタイプにも、1967年(昭和42年)7月に、3倍ズームレンズ付き“P300”を発売した。また、高級型のZタイプについても、その後、高倍率化・ズーミングの電動化・露光の自動制御化、あるいはスローモーション撮影機能を付加するなど、機能の向上を図っていった。1966年(昭和41年)10月には、4倍ズーム付き“Z2”を、1968年(昭和43年)11月には、TTL式(ThrouththeLensの略、レンズを通過した光をカメラ内部の受光体で測光する方式)EE機構で6倍ズームレンズ付き電動機“Z600”を、そして、1970年(昭和45年)4月には、スローモーション機構を付加した4倍ズームレンズ付き“Z450”を、それぞれ発売した。  
一方、映写機については、撮影した8mmフィルムの映写を音付きで楽しむために、1965年(昭和40年)12月、磁気録音式サウンド映写機“フジカスコープSM1”、同“SM2”を発売した。また、富士天然色写真株式会社で、現像済みの“シングル−8”フィルムにマグネオストライプ用磁性体の塗布の受注を開始した。  
次いで、サイレント機・サウンド機とも、フィルム装てんの自動化、映写速度の自動変更など、操作機能の改良を重ね、また、サウンド機については録音方式の改良を図った。そして、1969年(昭和44年)12月には、テープの走行速度でモーター速度を調節する、いわゆるFTS(FilmTapeSynchronization)方式を採用した“フジカスコープMG90”を発売した。同機は、F1.025mmの明るい大口径レンズ付きで、1、300ルクスのハロゲンランプを採用して大映写も可能としたほか、スローモーション映写や動作分析用として、1コマ送りが順転・逆転の両方向に使える機能を有した高級サウンド映写機であった。  
フィルムの面では、1967年(昭和42年)6月、“フジカラーRT50”(タングステンタイプ、感度ASA50)を発売し、1970年(昭和45年)3月には、35mm判カラーフィルムと同様に、8mmカラーフィルムもフィルム価格から現像料を分離し、フィルムを購入しやすくした。(8mm黒白フィルムについては、その前々年に分離した。)  
“シングル−8”システムの優れた特長は、当社の販売普及対策と相まって、これまで8mm映画に無関心であった人びとにも興味を呼び起こし、シングル−8カメラの販売は着実に増加していった。  
プロ用カラー市場への進出 
アマチュア用カラー製品の開発と並行して、プロ用カラー製品を開発し、営業写真館やプロ作家の高度な要求に応えていく。営業写真館用には、“フジカラーN50シートフィルム”・“フジカラーN64シートフィルム”に次いで、1965年(昭和40年)に、“ニュータイプフジカラーネガティブフィルム”(後に“タイプS”と呼称)を、1966年(昭和41年)には、“フジカラーネガティブフィルムタイプL”を、それぞれ発売する。カラーリバーサルフィルムでは、1961年(昭和36年)、内型反転方式の“フジカラーR100”を、1969年(昭和44年)には、“フジカラーリバーサルプロフェッショナルフィルム”を発売する。また、透過方式による大型カラープリント“Gカラープリント”を開発する。  
営業写真市場の開拓  
フジカラーの営業写真市場への進出は、1963年(昭和38年)6月、“フジカラーN50シートフィルム”を発売したことに始まる。同年12月には、一般写真用で“N64”を発売したのと同時に、“フジカラーN64シートフィルム”を発売した。  
ちょうど、婚礼写真でもカラー写真が撮られ始めてきたころであったので、この分野の商品開発に力を注ぎ、1965年(昭和40年)12月には、感度ASA80、デーライトタイプの“ニュータイプフジカラーネガティブフィルム”を発売した。また商品化の要望の強かったタングステン適性をもったカラーネガフィルムを開発、1966年(昭和41年)9月、感度ASA32の“フジカラーネガティブフィルムタイプL”(“L”はLongExposure、長時間露光の略)として発売した。同時に、従来のデーライトタイプ品を“タイプS”(“S”はShortExposure、短時間露光の略)と改称し、包装デザインも改めた。  
この両タイプの発売により、撮影条件に従って“タイプS”・“タイプL”を使い分けすることによって、カラーバランスの合った高品質のカラー写真が得られるようになった。また、フィルムベースも従来のTACべースからPETべースに改め、カーリングの減少を図った。  
なお、カラーぺーパーについても、ポートレート写真用に階調を軟調にしたカラーぺーパーを開発し、1966年(昭和41年)9月、“フジカラーネガティブフィルムタイプL”の発売と同時に、営業写真用カラーぺーパーとして発売した。  
これらの営業写真館で撮影されたカラーフィルムの現像については、それぞれの営業写真館との結びつきが強いカラーラボ(いわゆるプロラボ)で処理されていた。営業写真館でのカラー写真の増加や、プロ写真家のカラーフィルムの使用が増加するにつれて、この分野での当社品の需要を確保するために、フジカラー系列のプロラボを整備する必要性が高まってきた。既存のプロラボにフジカラーぺーパーの使用を働きかけてフジカラー系のプロラボを逐次整備するとともに、1969年(昭和44年)4月、フジカラーサービスに、プロ部門として五反田現像所を開設し、この分野の一層の充実を図った。  
一方、黒白写真の分野では、一部の営業写真館から要望された高級人像用印画紙の商品化を目指して、鋭意研究に努めた。その結果、厚手原紙にクロロブロマイド乳剤を塗布した印画紙を開発し、これを“鳳凰”と名付け、1962年(昭和37年)に発売した。高級人像紙にふさわしく、優雅な色調と豊富な階調をもち、引伸し用にも使用されたが、反面、他の人像用印画紙に比べ高価格で、また感度が高いために、プリンターの明るさを調節しなければならないなど煩雑さを伴ったので、需要は限られた。  
そのころ、営業写真館では、逐次中判カメラの併用も増え、引伸し用印画紙の需要が増加してきた。そこで、より広範な需要層に適合する引伸し用の人像用印画紙として、“鳳凰”に代えて、1969年(昭和44年)10月、新たに“白銀”を商品化した。“白銀”は、写場でのスナップ写真や、証明書、学校、観光などの営業写真用のうち、引伸し営業分野に広く活用された。  
なお、1963年(昭和38年)2月には、人像用印画紙“銀嶺”も、新写真乳剤に切り換え、その性能を向上させた。  
“フジカラーR100”の発売  
一般写真用の反転方式のカラーフィルムは、1948年(昭和23年)の発売以来、外型反転方式を採用してきた。しかし、フィルムの高感度化、将来の現像処理体制の整備・拡大のため、内型方式の研究を進め、1961年(昭和36年)7月、内型方式の“フジカラーR100”35mm判(20枚撮)およびブローニー判(6cm×6cm6枚撮)を発売した。それまでの外型反転カラーフィルムの感度がASA10であったのに比べ、新製品はデーライトタイプASA100で、世界的に見てもそん色のない感度を実現したのである。これによって、“ネオパンSS”およびその後発売した“フジカラーN100”と合わせて、黒白フィルム・カラーフィルムとも、ASA100という感度がそろい、これが標準タイプの感度となっていった。  
その後、1966年(昭和41年)4月には、オイルプロテクト型カプラーに切り換え、“ニュータイプフジカラーR100”(35mm判)を発売した。  
これは、コダック社の製品と同一の現像処理ラインに入るという輸出戦略に基づいて、当社のカラー感光材料の中で最初に転換した製品で、これによって輸出への道が開かれた。  
1969年(昭和44年)12月、コマーシャルフォト用シートフィルムとして、感度ASA50の“フジカラーリバーサルプロフェッショナルフィルムデーライトタイプ”を、翌年3月には、このフィルムのタングステンタイプ(感度ASA32)を、それぞれ発売した。これら両タイプの発売は、これまで輸入品を使用していたプロ作家に、当社品が使用される足がかりとなった。  
Gカラープリントの完成  
カラーフィルムの開発に当たって、常にカラー写真の利用範囲を広げることに意を注いできた。その一環として、室内の装飾や広告媒体として適切な、透過方式による大型カラープリントの開発を推進した。  
大型カラープリントを作成するためには、画質のよいプリント専用カラーフィルムと、超大型の引伸し処理技術を開発することが必要であった。  
プリント用カラーフィルムは展示を目的とするので、平面性の良さ、耐湿性、そして照明用の蛍光灯に対する耐光性などの厳しい品質特性が求められ、また、大サイズを均一に塗布するための高度な生産技術が必要とされた。  
この専用フィルムの研究を進めるとともに、フジカラーサービスと協力して、大型サイズのフィルムの現像処理技術・プリント接合技術や透過光による展示方式を開発し、透過方式によるカラープリント作成技術を完成した。  
かくて、1966年(昭和41年)10月、名称を“フジGカラープリント”と名付けて、フジカラーサービスで受注を開始した。  
その後、1968年(昭和43年)12月にはフィルム品質を改良し、Gカラープリントの品質も一段と向上させた。  
Gカラープリントは、その素晴らしさが認識されて、東京羽田空港(後に成田空港にも)のメインロビーの展示をはじめ、オフィスやデパート、地下街、展示会などのディスプレイとして広く採用されている。 
映画用フィルム、テレビ用フィルムの整備  
戦後、映画需要は増加の一途をたどる。映画産業の隆盛は、1958年(昭和33年)にピークを迎える。その後、テレビの影響などによって、観客動員数は下降に転じ、映画会社は、ワイドスクリーン化、カラー化の方向を目指す。ワイドスクリーン用の微粒子フィルムを開発するとともに、カラーフィルムの改良に全力を挙げる。まずカラーポジフィルムを、次いでカラーネガフィルムの品質改良を達成、16mmフィルムも開発する。さらに、1968年(昭和43年)から翌年にかけて、輸出適性を持つ映画用カラーポジフィルム・カラーネガフィルムを開発し、世界市場への供給を開始する。この間、テレビ用の各種フィルムを開発し、NHKをはじめ民放各局に納入する。 
映画用黒白フィルムの整備  
戦後の当社復興の原動力となった映画用フィルムは、映画産業の興隆に伴って需要が増大、その供給責任を果たしてきた。  
映画館数は、1950年(昭和25年)には、ほぼ戦前の水準を回復し、その後も増加を続け、1958年(昭和33年)には7、000館を超えるに至った。この年、1958年(昭和33年)には、映画製作本数も500本を数え、年間映画観客数も11億2、700万人とピークに達した。これは、国民1人当たり毎月ほぼ1回の割合で映画を見ていた計算になる。  
この映画の隆盛の中で、1956年(昭和31年)には、この年がわが国で初めて輸入映画が上映されてから60年目に当たることを記念して、映画業界では、12月1日を「映画の日」と定めた。以後、毎年、この日に映画の振興のための各種の催しが行なわれるようになった。  
しかし、1958年(昭和33年)をピークとして映画観客数は下降に転じ、1960年代に入るとその傾向が加速、1963年(昭和38年)にはピーク時のほぼ半分にまで減少した。これは、経済の高度成長に伴って、レジャーが多様化してきたことと、テレビの出現とその急速な普及によって、家庭で気軽に映像を楽しめるようになったことに起因するといわれている。  
日本でテレビ本放送が開始されたのは、1953年(昭和28年)のことであった。その後、民間テレビ局の開局、テレビ受像機の量産化と価格低下などによって、テレビは急速に普及した。テレビ受像機の普及台数は、1960年(昭和35年)には600万台、そして2年後の1962年(昭和37年)には1、200万台を突破し、翌1963年(昭和38年)には、1、500万台を超えた。  
このようなテレビの急速な普及に対抗し、映画会社では、観客の減少を抑えるために、テレビでは望めない迫力ある映像の展開をねらって映写画面の拡大、すなわちワイドスクリーン方式の採用や、カラー作品の増加を進めていった。また、従来の量産主義から大作主義への転換、製作本数の削減、製作部門の分離、人員の削減など、各種の合理化施策も進められ、多くの映画館が姿を消すなど、映画産業は非常に厳しい状態におかれるに至った。  
35mm劇映画分野のワイドスクリーン化は、1953年(昭和28年)、わが国に初めてシネマスコープ方式の映画作品が輸入公開されたことに始まる。スクリーンの縦横幅比を従来の2倍近くに拡大した大画面による迫力で、観客の話題を呼んだ。それ以降、各種方式のワイドスクリーン映画が輸入され、1957年(昭和32年)には、邦画のワイドスクリーンによる製作も始まり、1960年代に入ると、映画館で上映される劇映画のほとんどがワイドスクリーン映画となった。そのために、映画用フィルムには、より一層画質の向上と音質のレベルアップが求められてきた。  
こうした時代の要請に応えて、磁気録音方式のサウンドレコーディングフィルムの開発を進める一方、1958年(昭和33年)6月には、微粒子ポジフィルムを発売した。翌1959年(昭和34年)3月には、音質向上のため、面積型(写真濃度を黒と白との二段階に限定して、それらの面積比率を変えて音を記録する方式)サウンドフィルムも微粒子化した。この間、撮影用の黒白ネガフィルムの分野でも品種の整備・改良に努め、また、35mmデュープネガフィルム・35mmデュープポジフィルムでも、各種微粒子フィルムを整備した。  
映画用カラーフィルムの品質改良  
1951年(昭和26年)、「カルメン故郷に帰る」で、わが国劇映画のカラー作品製作がスタートしたものの、1950年代半ばまでは、わが国劇映画の製作はほとんど黒白作品で占められていた。その後、内型ネガ・ポジ方式のカラーフィルムの登場によって、1950代後半からカラー作品の製作が増加しはじめ、1962年(昭和37年)からは、カラー作品の数が黒白作品を上回った。  
カラー作品のプリント用として、1955年(昭和30年)に内型方式の映画用カラーポジフィルムを商品化してからも、引き続きシャープネスの向上を図るために品質の改良を重ねてきた。この改良の成果が認められて、当社の35mm映画用カラーポジフィルムの販売量も次第に増加し、1960年代に入ると国内市場の大半を確保するに至った。  
しかし、カラーネガフィルム市場では、事情は全く異なっていた。1958年(昭和33年)に発売した“タイプ8512”(露光指数25)が映画製作会社に使用され始めたころ、コダック社は、ニュータイプ品(露光指数50)を開発して日本市場を席巻した。このため、当社は再び出直しを余儀なくされたのである。  
このコダック社の製品に対抗し得る映画用カラーネガフィルムの開発を最重点の課題として懸命に研究を進めた。その結果、1965年(昭和40年)1月に至って、ようやく改良品(タイプ8513)を発売することができた。このタイプは、感度を露光指数50にアップするとともに、前々年に発売した一般用カラーネガフィルム“フジカラーN64”に採用したカラードカプラーを採用し、濁りのない忠実な色再現が期待できるマスク付きフィルムであった。このフィルムを使った第1回作品が松竹映画「雪国」である。  
この“タイプ8513”の完成に満足せず、さらに同年10月、階調や色再現性を改良した“タイプ8514”を完成した。“タイプ8514”に至って、当社品も十分実用しうるものとの評価を得られ、大映作品「ザ・ガードマン東京用心棒」に使用されたのをはじめ、その後、多くの作品に使用されるようになった。  
一方、16mmフィルムの分野でも、カラーネガフィルム・カラーポジフィルムの開発を進めた。  
まず、1961年(昭和36年)9月、カラーポジフィルム(タイプ8827)を商品化し、次いで1966年(昭和41年)9月には、感度を上げ、画質向上を図った改良品“タイプ8828”を発売し、本格的に映画用16mmカラーフィルム市場に進出していった。  
16mmカラーネガフィルムの発売は、さらに5年遅れ、1971年(昭和46年)4月、長年にわたって待ち望んだ16mmカラーネガフィルム(タイプ8516)が完成した。これは、タングステンタイプで、感度は露光指数100、色再現性、シャープネス、階調など、品質上でも輸入品にそん色なく、この商品化の成功によって、これまで外国製品の独占市場であった映画用16mmカラーネガフィルムの分野に進出することができた。  
映画用カラーフィルムの輸出適性化  
映画用カラーフィルムの品質改良を達成した当社は、次の目標、すなわち世界市場への進出を目指して研究開発を進めていった。  
世界市場へ参入するために求められる輸出適性とは何か。それは他のアマチュア用カラーフィルムの場合と同様に、世界中どこでもフィルムの現像処理が可能なこと、つまり、コダック社の製品と同一現像処理ができる製品であることを必要とした。  
映画用カラーフィルムの輸出適性を最初に実現したのは、カラーポジフィルムであった。1968年(昭和43年)3月、16mmカラーポジフィルム(タイプ8829)を、同年9月には35mmカラーポジフィルム(タイプ8819)を発売した。これらの製品は、感度も高く、階調・色再現性・退色性も改良したもので、このタイプの商品化によって映画用35mmカラーポジフィルムの輸出は急速に増加した。  
映画用35mmカラーネガフィルムの輸出適性品(タイプ8515)は、翌1969年(昭和44年)11月に完成した。これは、感度が露光指数100で、セット撮影や夜間撮影も容易になり、粒状性や色再現性も向上した。映画関係者から高く評価され、国内市場で大映作品「眠狂四郎卍斬り」をはじめ多数の作品に使用されたが、海外市場に対する輸出もこのタイプから開始された。  
引き続いて、1972年(昭和47年)2月には、35mmカラーネガフィルム改良品(タイプ8516)を発売した。この改良品によって当社の映画用カラーネガフィルムは世界水準の品質を達成した。そして、従来から使用されている劇映画の分野をはじめ、新たに、PR映画や教育文化映画にも広く使用されるようになった。  
テレビ用フィルムの開発  
1953年(昭和28年)に初めてテレビ放送が開始されたころは、すべて黒白テレビで、ニュースやドキュメンタリーの製作には、映画用16mm黒白フィルムが多く使用されていた。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムにプリントするネガ・ポジ方式であったが、テレビニュースは取材から放送まで一刻を争うために、迅速な現像処理が要求されていた。  
そこで当社は、現像時間の短縮をテーマにしたフィルムの開発を進め、1959年(昭和34年)7月、テレビニュース撮影用として16mmネガフィルム“RP”を完成した。これは、昼光で露光指数80、タングステン光で露光指数64の感度をもち、NHKをはじめ民間放送各局で広く採用された。  
また、1964年(昭和39年)7月には、同時録音用として、16mmのネガフィルムやポジフィルムに、撮影と同時に音を収録するマグネオストライプ付きフィルムを発売した。  
一方、1960年(昭和35年)9月からカラーテレビ放送も始まり、1960年代後半に入ると、カラーテレビはめざましく普及していった。  
カラーテレビの普及に伴い、ニュースの放映もカラー画像で行なわれるようになり、カラーテレビニュース用として、16mm“フジカラーリバーサルTVフィルムRT100”(タイプ8424)を開発し、1968年(昭和43年)5月に発売した。露光指数100の感度をもち、タングステンタイプで、カラーテレビに適合したカラーバランスをもたせた製品であった。翌1969年(昭和44年)6月には、この16mmフィルムにマグネオストライプを付けたカラーリバーサルフィルムを発売するなど、テレビ用の各種フィルムの整備を進めていった。  
X−レイフィルムの高感度化と迅速処理化 
結核撲滅に大きく貢献したX−レイフィルムは、1960年代に入って、消化器系の疾患など成人病予防対策に広く利用されるようになる。それに伴って、被ばく線量軽減のための高感度化と処理のスピードアップのための現像処理の迅速化が求められる。こうした要請に応えて、高感度品“AX”・改良品“KX”・間接撮影用の“FX”を発売、また、1966年(昭和41年)以降、順次PETベース品への切り替えを行ない、1968年(昭和43年)には、90秒処理用“RX”を商品化する。この間、自動現像機の輸入販売を開始、次いで自動現像機の自社開発を進める。そして、1967年(昭和42年)には、富士エックスレイ株式会社(現富士メディカルシステム株式会社)を発足させ、販売体制の強化を図る。  
医療環境の変化とX−レイフィルムの高感度化  
1960年代に入ると、医療をめぐる環境とX−レイフィルムの需要構造は大きく変わってきた。戦後の復興期も終わり、国民の生活水準の上昇につれ、健康に関する意識も年々高まってきた。国民の平均寿命も伸び、病院・診療所などの医療機関も増えてきた。医療保険の適用対象者は、1950年代後半から年々増加してきたが、1961年(昭和36年)4月には、国民皆保険制度が実施された。これらの要因が総合されて、国民が医療を受ける機会も増加し、わが国総医療費の額は年々増大していった。  
一方、疾病の状況も大きく変わった。戦後、わが国の死亡順位や患者数で首位を占めてきた結核も、定期健康診断の普及による早期発見と、長年にわたる予防・治療対策が功を奏し、漸次、減少の一途をたどった。これに代わって、消化器系統の疾患など成人病が増加し、その予防対策として早期発見が重視され、胃の予防検診が各地で実施されるようになった。また、造影剤の進歩による血管造影撮影や、断層撮影診断法も発達し、健康保険の対象に繰り入れられた。診療機関におけるX線診断装置も普及してきた。国民体位の向上を反映し、X−レイフィルムのサイズも大型化した。  
これらの諸要因が総合されて、X−レイフィルムの需要は年々増加していった。  
一方、新しい撮影技術や診断技術の登場によって、新たな問題も生じてきた。胃部撮影などの場合には、1回の診断に多くの枚数の撮影が行なわれることも多く、患者に対する放射線の被ばく線量をいかに軽減するかが大きな課題となった。この対策の一つとして、X−レイフィルムの高感度化の要請が強くなってきた。  
こうした社会的ニーズに合わせて、高感度X−レイフィルムの開発を図り、1963年(昭和38年)12月、“富士医療用X−レイフィルムAX”を発売した。  
“AX”は、感度を標準品の“PX”よりも70%アップさせたものである。したがって、露光時間を短縮することが可能となり、小児など動きやすい患者の撮影をはじめ、胸部・胃部撮影にも大きな威力を発揮した。  
“AX”の発売に次いで、標準感度品の“PX”についても感度アップを図り、1964年(昭和39年)4月、“富士医療用X−レイフィルムKX”を発売した。“KX”は、“PX”よりも感度を20%高くして被ばく線量を軽減し、カブリも少なく、階調も豊富で使いやすくなった。また、定着乾燥速度、硬膜性を改良し、自動現像機適性にも改良を加えた。  
このように、“KX”は品質上優れた特長を有し、国内市場における当社のトップシェアの確立に大きく貢献した。同時に、国際水準の製品として、輸出拡大の糸口を開いた商品であった。  
一方、間接撮影用X−レイフィルムも高感度化を図った。1964年(昭和39年)9月には、従来品よりも感度を60%アップした改良品を発売した。1969年(昭和44年)2月には、オルソタイプの間接撮影用“富士医療用X−レイフィルムFX”を発売した。従来の間接撮影用X−レイフィルムがパンクロタイプであったのに対し、オルソタイプの高感度乳剤を開発することによって、赤色のセーフライトが使用でき、暗室内での作業性を向上させることができた。  
また、“FX”は、コントラストを改良し、シャープネスを向上させ、さらに現像処理の迅速化を図り、自動現像機を用いれば3分30秒で現像処理できるようになった。  
このように、被ばく線量軽減の方向に向けて、品質改良と新製品の整備を図っていった。  
自動現像機の発売とPETべース品への切り換え  
X−レイフィルムの高感度化と並行して、自動現像機の普及とそれによる現像処理の迅速化が進んでいった。  
戦前から戦後にかけて、X−レイフィルムの現像処理は皿現像やタンク現像などの手作業に頼っていた。処理時間が長いうえに、人手を要し、夏期における湿度の高い暗室作業は健康のうえからも問題であった。現像処理を自動化し、処理時間を短縮できれば、X線写真診断の迅速化が可能であるばかりでなく、写真の仕上がりの均一化や省力化の効果も期待できる。  
こうした事情から、米国では、すでに1950年代から自動現像機が利用されていたが、当社でも自動現像機の開発に着手し、まず、1962年(昭和37年)3月、“富士ハンガー型自動現像機XP−1”を発売した。さらに、1964年(昭和39年)4月、“XP−1”を小型化した“富士ハンガー型自動現像機XP−H2”を発売した。  
このハンガー型自動現像機は、フィルムをステンレス製の枠にクリップして機械に送り込むもので、処理後、フィルムをハンガーから取り外す煩雑さがあった。これに対し、同じころ、他社ではローラータイプの自動現像機が開発されていた。  
ローラータイプの自動現像機は、撮影済みのフィルムを1枚ずつ挿入するだけで自動的に現像処理できる装置で、手間も少なく、設置面積も小さく、優れた特性を備えていた。  
このローラータイプの自動現像機の開発に着手するとともに、米国パコ社と提携し、1964年(昭和39年)6月に“パコロールXM”、翌1965年(昭和40年)6月に“パコロールXF”の輸入販売を開始した。前者は大病院向けの大量処理機、後者は中規模病院以下を対象とした小型機であった。  
また、この間には、自動現像機の通過性の向上と、フィルム通過時のローラーのいたみを防ぎ、フィルム同士を傷つけないためにX−レイフィルムのラウンドコーナー(フィルムの四隅を丸くカットすること)の検討を開始した。ラウンドコーナーは、1964年(昭和39年)9月から一部製品で実施し、1965年(昭和40年)8月から全面実施した。  
一方、自動現像機の普及に伴ってフィルムベースのポリエステル(PET)化が始まった。TACべースに比べ、PETべースは腰が強く、平面性、機械強度、乾燥性に優れていた。これら諸特長が自動現像機に適しているために、外国品も次々とPETべースヘ切り換えられていたが、当社でも、1966年(昭和41年)11月、“KX(PET)”を出荷してPETべース品への切り換えを行なった。以降、逐次、品種ごとにPET品に切り換えていき、1969年(昭和44年)12月には全製品のPET化を完了した。  
さらに、1971年(昭和46年)1月には、X−レイフィルム100枚入ノンインターリーフ(挟み紙のない内装方式)の新包装を商品化し、まず輸出向けから出荷を開始し、その後、順次、国内の大口使用先にも出荷を始めた。  
現像処理の迅速化  
ローラー型自動現像機によるX−レイフィルムの現像処理時間は、当初、7分が一般的であった。しかし、1966年(昭和41年)、デュポン社は3分30秒で現像処理ができるX−レイフィルムを発売。続いて翌1967年(昭和42年)には、コダック社が現像処理時間を90秒に短縮したX−レイフィルムを発売した。この結果、90秒処理時代に突入した。  
この動きに対応して、1967年(昭和42年)5月、まず“KX”のTACべース品を、次いで9月にPETべース品を、それぞれ3分30秒処理に切り換えた。さらに、1968年(昭和43年)1月には、90秒処理用“富士医療用X−レイフィルムRX”を発売した。“RX”は、RapidProcess(迅速処理)のRをとって名付けたもので、自動現像機による90秒処理から、皿現像やタンク現像までできるユニバーサルタイプの標準品であり、その後、90秒処理品をRXシリーズとして品種を整備した。  
一方、自動現像機についても、1967年(昭和42年)1月に、3分30秒処理用の自動現像機“パコロールXR”の輸入販売を開始し、同年8月には、待望の自社開発のローラータイプ自動現像機、3分30秒処理用の“富士X−レイプロセサーR”を発売した。  
1968年(昭和43年)12月には、90秒処理用“パコロールXU”を輸入販売した。  
このような動きの中で、自動現像機の普及はめざましく、従来、皿現像やタンク現像に頼ってきた小規模の病院や医院にも自動現像機の設置の気運が高まってきた。このニーズに対応して、簡便に使える処理機器の開発を進め、1970年(昭和45年)6月、現像から定着までを自動処理化した簡易型自動処理機“RE”を商品化した。この発売に当たっては、全国の医院に対して一大キャンペーンを展開し、X−レイフィルムの拡販とあわせて積極的な販売活動を行なった。  
販売体制の強化  
1961年(昭和36年)12月、X−レイフィルムの輸入が自由化され、輸入品の進出が活発化してきた。そこで当社は、販売ルートを強化することとし、まず第一に、戦前から取引契約を続けてきた写真感光材料特約店および直販店の取引ルートの見直しを行なった。そして、X−レイフィルム専門特約店として、従来からの千代田レントゲン、ワキタ商会に加えて、新たに西本レントゲン株式会社(現西本産業株式会社)、株式会社コセキ商店、株式会社北村商会(現株式会社キタムラ)、常光産業株式会社(現株式会社常光)と契約を結び、販売網を強化した。  
1967年(昭和42年)10月には、医療用X−レイフィルムの販売部門を当社から分離して、富士エックスレイ株式会社に移管した。富士エックスレイ株式会社は、1965年(昭和40年)1月、富士機器販売株式会社として“パコロールXM”などパコ社製品の販売を目的として設立した会社であったが、X−レイ関係製品は、フィルム、機器、処理薬品をシステムとして販売する方が効率的であるところから、1967年(昭和42年)5月に社名を改め、次いで、この度、当社のX−レイフィルム販売部門と一体化したのであった。  
富士エックスレイ株式会社の発足によって、同社を医療用X−レイ関係製品の国内総販売代理店とし、従来のX−レイフィルム販売特約店はいずれも富士エックスレイ株式会社と取引契約を締結した。  
同社は、その後、営業活動を積極的に展開した。直販店も増設し、販売ルートは一層強化され、海外有力メーカーの対日進出に対抗しうる体制を整えていった。  
なお、この時期の普及関係で特筆すべきことは『X線撮影法体系』の編さんである。これは、富士X−レイ写真コンテストに代わって企画されたもので、1967年(昭和42年)から毎年1巻ずつ、合計3巻発刊した。同書は医療放射線撮影法を部位別に解説したもので、撮影技術に関する専門書として医師や放射線技師だけでなく、各界に大きな影響を与えた。 
コピーマーケットヘの進出  
写真感光材料を利用する複写法に早くから関心を持ち、創立の翌年にはフォトスタット機の複写用ブロマイド紙を発売し、戦後は、1955年(昭和30年)拡散転写方式の純黒調複写紙“ネオコピー”を発売する。さらに、フランスのボーシェ社と技術提携した技術を基礎として、1961年(昭和36年)には、明るい場所で、簡単な操作で、1枚の原稿から何枚でもコピーが得られる画期的な複写システム“クイックシステム”を完成、商品化する。その後、インダストリアルペーパーなど用途に応じた複写紙を整備し、クイックシステムの用途拡大を図る。また、販売ルートの整備を行ない、当社の複写市場への地盤を確立する。 
“ネオコピー”の商品化  
印刷が大量に複製する方式であるのに対し、主として事務所などで少部数の複製を作成する方法として登場したのが複写法(コピー)である。  
写真感光材料を利用する複写法に早くから強い関心をもち、戦前、創立の翌年1935年(昭和10年)8月には、銀塩写真の方式によるフォトスタット複写用として“複写用ブロマイド紙”を商品化していた。しかし、フォトスタット機による複写は、原稿を撮影して直接印画紙に写しとるため、原稿の白地の部分が黒く、文字の部分が白く写し出され、黒地に白ぬきの複製ができる。そのため、原稿の字が読みづらい欠点があった。また、現像処理に一般の写真用印画紙と同じ時間がかかるうえ、フォトスタット機が大型で高価であったために使用先が限られていた。  
これに対して、新しい複写方法として拡散転写方式が登場した。拡散転写方式は、原稿をネガ用印画紙に密着焼付けし、さらに、それをポジ用印画紙に密着転写する方式で、アグファ社が最初に商品化した。この複写機と複写紙はわが国でも輸入されていたが、色調が茶褐色のため市場では純黒調のものが求められていた。当社では、独自に研究を進め、1955年(昭和30年)3月、純黒調の拡散転写用複写紙とその専用処理剤の開発に成功し、“ネオコピーN”(ネガ紙)、“ネオコピーP”(ポジ紙)および“ネオコピー処理剤”の商品名で発売した。  
ネオコピーは、画像も鮮明で、文字も原稿どおりに再現されるため広く採用され、複写市場における当社の地盤の確立の足がかりとなった。  
しかし、拡散転写方式では、1回の複写ごとにネガ紙とポジ紙の2枚の複写紙が必要であり、複写コストが高く、手間もかかるので、より安価で簡便な複写方式が求められた。  
“クイックシステム”の開発  
そのような折、フランスの写真感光材料メーカー・ボーシェ社が新方式の複写システムを開発したとの報がもたらされた。このシステムは、明るい場所で、操作も簡単、短い時間で1枚の原稿から何枚でもコピーが得られる画期的な複写システムであった。  
事務用複写紙分野での事業の拡大を企図し、ネオコピーに続いて、より簡便で安価な複写方式を研究していたが、この新しい複写システムに注目、この商品化を急ぐため、ボーシェ社の技術を導入することとした。1959年(昭和34年)12月、同社との間に、このシステムの「写真乳剤製造および現像処理方式」についての技術導入契約を締結した。そして、この技術を基礎に商品化を進め、1961年(昭和36年)7月、“クイックシステム”として発売した。  
“クイックシステム”は、プリンター(複写装置)、プロセサー(現像処理装置)、コピーぺーパー(“クイックコピーコンタクトペーパーC”)および処理液で構成され、現像処理法は、安定化法と呼ばれるもので、現像液と安定化液との二浴法処理である。  
コピーぺーパーは、その後、ファイリングに便利な極薄手紙(“クイックコピーコンタクトペーパーE”)、写真入り書類のコピー用としての軟調紙(“クイックコピーコンタクトペーパーCS”)、引伸用紙(“クイックコピープロジェクションペーパー”)など、用途別に多くの品種を整備し、また、プリンター、プロセサーなども用途に応じて機種を整備していった。  
また“クイックコピーオートポジペーパー”、“クイックインダストリアルペーパー”も整備し、前者は第2原図用として設計図面の複写に、後者は電送写真の受信、テレビのテロップ用、デザイン版下用、速報写真用など、産業界の各分野の用途に使用された。  
このように、“クイックシステム”は多方面で使用され、当社の事務用複写市場への進出という目的を十分に達成した。しかし、その後、電子写真による複写、とりわけ迅速に乾式コピーが得られるゼロックス複写機の普及につれて、通常の文書の複写の分野では、次第に、ゼロックス方式が主流となった。  
今日では、“クイックシステム”は、その特長を生かした分野で、テレビのテロップ写真、デザイン版下作成、マイクロフィルムからの引伸などの用途に引き続き活用されている。  
販売ルートの整備  
ネオコピー方式、クイックコピー方式による新しい複写法を開発したことによって、複写市場への参入と用途拡大を目指して販売ルートを強化することにし、1959年(昭和34年)4月、武蔵商会(現武蔵株式会社)をネオコピーの特約代理店とした。なお、同社は、このとき同時に、当社マイクロシステム製品についても取り扱いを開始した。  
さらに、1961年(昭和36年)7月、“クイックシステム”の発売に伴い、クイックシステム製品についても、同社を特約代理店にして販売体制を整備した。  
マイクロ写真の普及 
マイクロ写真は、戦後、日本にもたらされ、図書館や大学、新聞社、あるいは銀行、証券会社などで急速に普及していく。いち早く、1951年(昭和26年)、“ミニコピーフィルム”を開発する。一方、マイクロ写真関係機器の開発を進めるため、東京マイクロ写真株式会社(現富士マイクログラフィックス株式会社)に資本参加し、撮影用カメラや復元用リーダープリンターを商品化し、機器および材料の総合供給体制を整える。その後、マイクロフィルムの品種の整備を図り、海外への出荷も開始する。また、マイクロ写真を活用するシステムの開発を進め、焼失戸籍の副本再製、官公庁文書のマイクロ化、納税申告事務への採用、図面検索システムなど、活用範囲を広げていく。  
マイクロ写真の胎動とマイクロフィルムの開発  
マイクロ写真とは、書籍・文書などに記録されている情報をマイクロフィルムに縮小複写し、その像を見るときには、なんらかの光学的拡大装置を用いて、スクリーンに拡大させて使用するもので、さらにその像を紙などに複写する手段としても使われる。マイクロ写真が本格的に実用化されたのは、1920年代の終わりごろ、アメリカの銀行で小切手をマイクロフィルムに縮小複写して、証拠用に記録保存されたことに始まる。  
わが国でマイクロ写真が取り上げられたのは戦後のことで、学術関係者によって、海外の学術文献を活用するためにマイクロ写真化とその利用に関する研究が行なわれたことに始まった。  
当初は、米国議会図書館からマイクロ写真撮影用カメラを借用して、文献のマイクロ写真化が行なわれていた。その後、国立国会図書館にマイクロ写真委員会が設置され、あるいは、国産のマイクロリーダーやマイクロカメラの試作が進められるなど、わが国のマイクロ写真は徐々にその歩みを始めた。  
このように、マイクロ写真の活用の動きが始まったことに対応して、マイクロフィルムの国産化を企図し、1951年(昭和26年)10月、超微粒子で解像力の優れた国産初のマイクロ写真専用フィルムを開発、“ミニコピーフィルム”の商品名で発売した。わが国初のマイクロ写真専用のフィルムの開発は、その後のわが国のマイクロ写真の発展に大きく貢献したという意味で、日本のマイクロ写真史上、特筆すべきことであった。  
翌1952年(昭和27年)、米国のロックフェラー財団は、国立国会図書館にマイクロ写真の設備一式を寄贈することとなった。米国の議会図書館におけるマイクロ写真の利用状況を調査し、国立国会図書館においてマイクロ写真を活用するシステムを確立することに協力した。  
ちょうどそのころ、国立国会図書館で計画していた「PBレポート」のマイクロ写真の輸入問題が話題となったが、このことは、マイクロ写真に対する世の中の認識を深めることに大いに役立った。  
1951年(昭和26年)から翌年にかけて、読売新聞社では、創刊号からの新聞をマイクロ写真化し、保管スペースの縮小と保存の安全を図った。これが、新聞のマイクロ写真化のはしりとなり、その後、国立国会図書館や他の新聞社でも新聞のマイクロ写真化が進んでいった。  
1953年(昭和28年)、法務省当局によって、戦災によって焼失した戸籍および除籍の副本再製をマイクロフィルムとすることが認められた。これが契機となって、戸籍台帳や除籍簿の副本再製作でのマイクロ写真化が始まり、その後、次第に戸籍事務でのマイクロ写真の利用範囲が広まっていった。  
このころ、証券業界では株式取引の増加によって事務量が増大し、その合理化策が検討されていた。その一環として、有価証券の銘柄番号などを台帳に記入する人手を要する転記業務の分野で、マイクロ写真を活用した事務処理システムが導入されていった。このシステムの導入によって、誤記の防止に役立ったことはもちろん、作業速度は比較にならないほど速くなり、人手、スペース、経費の大幅な節減が実現された。  
このように、マイクロ写真が各分野で活用され、導入され始めたことに伴って、マイクロ写真の市場をさらに広げるために、1956年(昭和31年)1月、複製用のマイクロポジフィルムとして“ミニポジフィルム”を発売した。  
マイクロ写真機材への進出  
マイクロ写真の普及に伴って、需要をさらに拡大するために、また、当社がマイクロ写真市場でさらに地歩を進めるためにも、単にマイクロフィルムを供給するだけでなく、マイクロ写真機器を含めてマイクロ写真を活用するシステムを開発することが課題となってきた。そのためには、自らマイクロ写真機器の商品化を進めることが必要であると考え、1960年(昭和35年)12月、東京マイクロ写真株式会社(現富士マイクログラフィックス株式会社)と業務提携契約を締結、翌1961年(昭和36年)2月には、同社の増資の機会に資本参加した。  
同社は、1954年(昭和29年)3月に設立され、日本におけるマイクロ写真機器国産化の開拓者の道を歩んできたが、これからは、当社のマイクロ写真機器の開発・生産部門として、当社のマイクロ写真事業に大きな役割を担うこととなった。  
マイクロ写真機器の商品化は、まず撮影用カメラから始まった。1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて、小切手、証券、帳票類の撮影用としての卓上型カメラ“ミニコピーカメラD1”、同“D2”と、大型図面を含むあらゆる被写体に対応できる平床式カメラ“ミニコピーカメラL”、同“M”、同“S”を発売した。  
また、マイクロフィルムからの復元機器として、1963年(昭和38年)には、“ミニコピーリーダープリンターQ4”と、引伸機“ミニコピーエンラージャーS”を、1968年(昭和43年)には、同“S2”を、それぞれ発売した。リーダープリンター用ペーパーはクイックシステムを採り入れ、迅速処理でコピーを作ることができた。  
マイクロフィルムからの複写用ぺーパーとしては、1953年(昭和28年)3月に、複写用引伸印画紙“フジグラフペーパーCPC”、同“CPD”を発売した。さらに、1961年(昭和36年)3月、極薄手の“フジグラフペーパーCPE”を、1966年(昭和41年)4月には、透明紙“フジグラフペーパーCPT”を、それぞれ発売した。  
また、自動車、造船、測量など、図面複写用のニーズに応えて、1960年(昭和35年)9月に複写用引伸フィルム“フジグラフプロジェクションフィルム”を、1962年(昭和37年)2月に図面原稿から密着焼付けして直接ポジフィルムをつくる“フジグラフオートポジフィルム”を、同年5月には透明紙“フジグラフオートポジペーパーAPT”などを、それぞれ発売した。図面資料の分野における高解像力、高画質化の要求に対して、新たに、ハレーション防止技術の開発を図り、1966年(昭和41年)6月、“ミニコピーフィルムHR”を市場に送り出した。  
1960年代後半に入ると、マイクロフィルム市場は証券や図面にとどまらず、一般文書の保管・検索の方面へと広がっていった。1967年(昭和42年)4月には、“ミニコピーアパーチュアカード”を、翌5月には、“ミニコピーフィッシュフィルム”を発売した。マイクロ写真機器関係では、1968年(昭和43年)4月、“ミニコピーフィッシュカメラプロセサーS105B”を開発して、オフィス市場向けのマイクロ写真関連製品の整備を図った。“ミニコピーカメラプロセサーS105B”は、国内市場だけでなく、海外市場にも輸出され、高く評価された。  
海外市場へのマイクロフィルムの輸出は、1964年(昭和39年)、マイクロポジフィルムのシャープネスを向上させた改良品を北米市場へ出荷したことに始まる。翌1965年(昭和40年)4月には、高感度タイプの“フジマイクロフィルムネガティブHS”を商品化し、海外市場向けに出荷した。これは、金融機関や証券会社で、輪転カメラ(ロータリーカメラ)で高速撮影するために高感度フィルムが求められていたのに応えたもので、当社の輸出の拡大に大きく貢献した。  
国際マイクロ写真大会への参加  
マイクロ写真の普及に伴って、1958年(昭和33年)10月には、日本マイクロ写真協会(JMA)が設立され、1963年(昭和38年)11月には「第1回マイクロ写真ショー」が開催された。  
また、1965年(昭和40年)11月17日からの3日間、世界マイクロ写真史上特筆すべき「第1回国際マイクロ写真大会」が東京で開催された。主催は、国際マイクロ写真会議(IMC)と日本マイクロ写真協会で、スローガンは“Maketheworldsmallerthroughmicrofilm”(マイクロフィルムによって世界を小さくしよう)だった。会場になった東京赤坂のホテルには、世界各地から専門家が集まり、講演会や研究発表、各種機材の展示、親善パーティーなど多彩な催しが繰り広げられた。  
この大会に積極的に参加し、新製品の展示や技術者の講演、研究発表を行ない、来場者の大きな注目を集めた。  
マイクロ写真システムの発展  
マイクロ写真機器を開発してきた当社は、1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて、当時の営業第二部にマイクロ推進グループを結成し、マイクロ写真システムの用途開発・活用化を進めていった。  
文書管理の分野では、官公庁の文書管理にマイクロ写真システムを導入することに取り組んだ。当時、横浜市役所では、文書保管スペースの縮小、文書管理事務の省力化を検討していたが、当社はこれに協力し、マイクロ写真システムが導入された。横浜市の文書のマイクロ写真化は、官公庁のモデルケースとなり、他の市町村においても普及していった。  
アプリケーションの一つとして、1967年(昭和42年)には、申告納税事務にマイクロ写真システムが採用され、申告手続きの簡素化が図られた。  
図面市場では、検索システムを中心とした研究会が行なわれ、日本能率協会の協力を得て、SIR(StratifiedIndexingandRetrieval)システムが完成した。このシステムは、図面検索用多角的インデックスをコンピューターで作成し、図面そのものをアパーチュアカードにしてコンパクトにファイリングするシステムで、設計業務の能率化に大きく貢献した。  
SIRシステムを推進するために、システム導入の事例を10社例、50社例と構築し、その50社例のアプリケーションを基礎に「マイクロ写真教室」を開催し、普及を図っていった。  
1969年(昭和44年)、当社の本社ビル建設に伴って、一般文書のマイクロ写真化をフィッシュフォーマットで行なったのを機に、図面市場・オフィス市場に対し全面的に「オフィスクリーン作戦」を展開し、各企業へのマイクロ写真システムの導入と普及を図った。  
この当時、社会への貢献の一つの出来事があった。1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて、学園紛争が大きな社会問題となったが、この時、東京大学で保管していたマイクロフィルムがケースから引き出され、大きな損傷を受けた。マイクロフィルムには貴重な資料が記録されており、大学当局から当社に対し復元に協力の依頼があった。フィルムの損傷は大きく、10万mに近いフィルムを1コマずつ点検しながら復元処理をしなければならず、作業は困難を極めたが、当社技術陣の総力をあげた作業によって、ほぼ完全な復元に成功した。 
印刷製版材料の伸長とPS版への進出  

1960年代に入って、印刷製版業界では、オフセット印刷が普及していく。そうした動きに対応して、各種製版用フィルムの整備を進める。1971年(昭和46年)、“フジリスオルソフィルムタイプV”と、同“タイプF”を発売し、製版用フィルム市場に確固たる地盤を築く。また、フィルムの現像処理の安定化や省力化のために、自動現像機や処理システムの開発を進める。一方、刷版材料として新たに登場したPS版の研究に取り組み、米国ポリクローム社との技術提携によって、1965年(昭和40年)、PS版事業に参入する。その後、品質の改良と品種の整備を進め、軽印刷市場から一般印刷市場にまで進出し、カラー印刷の校正刷り用から本機刷り用にと、需要は急増する。 
オフセット印刷の普及  
1960年代に入って、わが国経済の高度成長や産業界の発展によって、印刷物の利用度も高まり、印刷需要が拡大した。その中で、オフセット印刷は刷り上がりがきれいなこと、カラー印刷に適していることなどのために普及しはじめた。  
オフセット印刷機の多色化・高速化が進み、オフセット輪転機もゆきわたり、オフセット印刷の作業効率と品質は飛躍的に向上した。また、写植機の普及や電算写植機の登場、あるいはエレクトロニクス技術を応用したカラースキャナー(電子色分解機)の出現もオフセット印刷の普及に拍車をかけていった。折しも、1963年(昭和38年)4月に「中小企業近代化促進法」が施行され、1964年(昭和39年)4月印刷業が、翌1965年(昭和40年)4月写真製版業が、それぞれ同法の指定業種とされた。これによって、中小企業近代化計画が立てられ、業界では新規設備の導入や経営近代化への優遇措置が講ぜられることとなった。ちょうどこのころから、人手不足が深刻化したことと、活版印刷や鉛版に使用されていた鉛が有害物質としてその取り扱いに厳しい規制が加えられ、また、これらの要因による作業環境の見直しの動きもあって、凸版印刷からオフセット印刷への転換が促進されていった。  
すでに1950年代に“フジリスオルソフィルムタイプN”を発売するとともに、カラー分解用フィルムを発売し、印刷製版用感光材料の分野で一定の基礎を築いていたが、1960年代に入ってからは、オフセット印刷の普及に伴ってリスフィルムの改良と品種の整備を進めるとともに、PS版および機器の開発に積極的に取り組んでいった。  
フジリスフィルム“タイプV”、“タイプF”の商品化  
1960年代に入って、写真製版方式は急速に湿板法からフィルム法に移行していった。各地の印刷製版会社を訪ね、あるいは講習会を開催するなどして、湿板法に対するフィルム法の長所と当社製品の品質上の特長を説明し、フジリスフィルムの普及を図ってきた。折から、日本経済の成長に伴って印刷物の需要も年々増大し、また、カラー印刷の増加などによってフィルム需要は増加の一途をたどり、要求される品質もますますシビアになってきた。  
製版用フィルムの輸入も、1962年(昭和37年)10月にロール状のものが、次いで、1964年(昭和39年)10月にはシート状のものがそれぞれ自由化され、市場の競争もますます激しくなってきた。  
写真製版の際には、写真原稿の画像を非常に細かい網状の点(網点)の集合に置き換えて、この点の大小によって画像の濃淡の調子を再現する、いわゆる網撮影を行なう。この網点の品質が印刷の仕上がり品質に大きく影響する。  
フジリスフィルム発売以来、品質性能の改善に努め、1968年(昭和43年)10月には、網点品質を格段に良化するとともに自動現像機適性をもたせた“フジリスオルソフィルムタイプA”を発売し、1971年(昭和46年)7月に、待望の“フジリスオルソフィルムタイプV”を商品化した。  
この“タイプV”は、従来品より網点品質を格段にレベルアップするとともに、網階調(網点の大小に表現された画像の調子)をはじめ、各種の性能の向上を達成した。また、PETベースを使用して寸度安定性にも優れ、自動現像機による現像処理適性もあり、カラー印刷に求められる厳しい品質要求に応えた製品であった。  
リス型フィルムは、網撮影用のほかにも、網撮影によって得られた網版の返し(例えば、網ネガ版から網ポジ版への密着プリント)や、文字・線画撮影など、製版工程の多様な用途にも使用されるが、それぞれの使用目的に対応して各種のフィルムを整備してきた。すなわち、1961年(昭和36年)1月に、網ネガ版から網ポジ版を作成する返し作業の密着用として“フジリスコンタクトフィルム”を、1963年(昭和38年)3月に、文字・図柄の貼り込み用として“フジリスオルソストリッピングフィルム”をそれぞれ発売した。また、翌1964年(昭和39年)4月には文字・線画撮影用の“フジリスラインフィルム”を、さらに、1967年(昭和42年)9月には、画像を左右反転するためにフィルムの裏側からの撮影用として“フジリスオルソフィルムタイプOクリアバック”を発売した。  
そして、1971年(昭和46年)7月、“タイプV”の商品化と同時に、“フジリスオルソフィルムタイプF”を商品化した。“タイプF”は、網版の返しや黒白原版からの網撮影、あるいは線画撮影用に開発したもので、販売価格も“タイプV”より割安の製品であった。  
“タイプV”、“タイプF”の商品化によって、製版用フィルム市場に確固たる位置を占めるに至った。  
スキャナーフィルムの開発  
カラー写真の製版作業は、まず、カラー原稿をパンクロマチック(全整色性)の写真感光材料を用いて、製版用カメラでシアン版用・マゼンタ版用・黄版用・墨版用の4版に色分解して撮り分ける。この分解撮影のために、1958年(昭和33年)2月“富士三色分解用乾板”を、同年10月“富士製版用パンクロフィルム”をそれぞれ発売し、需要に応えてきた。その後、1964年(昭和39年)7月には、改良品を“富士分解用フィルム”として発売した。  
しかし、新しいカラー分解システムとしてカラースキャナーが開発され、1961年(昭和36年)に日本にも導入された。カラースキャナーは、カラー原稿の色分解と同時に色補正・階調修正などを電子的・機械的に行なう装置で、従来の色分解方式が熟練と経験を要するのに比べて、カラースキャナーは数値的に管理できるため、色分解作業が効率的に行なえるうえに仕上がりが均一で、高品質の色分解原板が得られるなど、画期的なシステムとして脚光を浴びた。  
カラースキャナーは、高速回転するドラムに巻かれたフィルムにスポット光で走査・露光するので、スキャナー用の高照度短露光に適した特別のフィルムを必要とした。カラースキャナーが開発された当初から、このスキャナー用のフィルムの開発に取り組んだ。そして、1967年(昭和42年)10月、高感度パンクロマチックタイプ“富士スキャナーフィルムSC−11”を発売し、同年11月には、オルソクロマチックタイプの“富士スキャナーフィルムSC−21”も発売した。その後も引き続き、各種のスキャナー機の開発に対応して各タイプのスキャナーフィルムを開発していった。  
自動現像機の開発  
湿板法からフィルム法への転換、スキャナーの出現などで製版工程や分解工程の効率化は進んでいったが、大部分の印刷製版工場の現像工程は、依然として手現像で品質管理の面や作業効率化の面でネックとなっていた。  
このネックの解消を目的として米国で自動現像機が開発され、1960年代に入って日本にも導入された。自動現像機は、処理工程を自動化することによって作業効率を大幅に向上させるだけでなく、数値的な管理によって現像のバラツキを少なくし、製版の品質を向上させるものであった。  
当社にとっても、製版用フィルムの普及を図るために、また、写真感光材料本来の性能を十分に発揮させるためにも自動現像機の商品化が必要となってきた。しかし、当面、自動現像機を開発するための時間を確保するために、米国のパコ社から大型の自動現像機“パコロールG”を輸入し、1967年(昭和42年)10月から発売した。それと並行して、製版用フィルム自動現像機の自社開発に取り組み、1970年(昭和45年)3月、コンパクト型の“富士製版フィルムプロセサーFG14−L”を発売、その後、各種の自動現像機を製造販売していった。  
この間、自動現像機に適した各種の現像処理薬品を整備してきたが、1972年(昭和47年)12月には、従来のリス型フィルム用現像液の不安定要素を改良した現像液“SS−1”を発売し、前年に商品化した“フジリスフィルムタイプV”あるいは“タイプF”および機器との組み合わせで、現像処理を安定化する“富士SSシステム”(FujiSuperStabilizationSystem)を完成した。1974年(昭和49年)3月には、迅速処理剤“SS−2”を発売し、このシステムの品質向上と省力化を進めていった。  
PS版の開発  
フジリスフィルムで製版分野に進出した当社は、オフセット印刷のもうひとつの材料である刷版の分野に着目していた。当時、オフセット印刷会社では、刷版は自社で金属板(亜鉛版やアルミ版)に感光液を塗布して用いていた。このようにして作られる版は経時保存性が悪いので、使用直前に感光液を塗布しなければならない不便さがあり、性能も不安定で良い印刷物を作ることは難しかった。ちょうどそのころ、あらかじめ感光剤が塗布されているプレート、すなわちPS版(PresensitizedPlate)が登場し、わが国にも輸入されてきた。  
当社がPS版に進出するに当たって手助けとなったのは、オフセット印刷用のぺーパーマスターの研究であった。従来の孔版印刷、いわゆるガリ版に代わる簡易印刷方式として、そのころ、ぺーパーマスターによる簡易オフセット印刷方式が登場してきた。オフセット印刷用ぺーパーマスターの研究に着手し、その開発に成功。今泉工場で生産を開始し、1959年(昭和34年)2月、“プラノマスター”の商品名で発売した。これは、主として官公庁・銀行・会社などの社内印刷用に使用された。その後、1963年(昭和38年)には、卓上型の小形オフセット印刷機“プラノデュプリケーター”を商品化して、その普及を図っていった。  
一方、その当時、軽印刷業界でもオフセット印刷が導入され始め、ゼロックス製版機からのオフセット印刷や、タイプ清打ち原稿を製版カメラでリスフィルムに撮影し、ジンク版に焼き付けて刷版とするPTO印刷(PhotoTypeOffset印刷)が採用されはじめていた。  
プラノマスターの市場開拓を進めていた当社は、PS版という優れた刷版材料が存在すること、しかも、輸入品は高価であり国産化の要望が強いことを知り、その将来の市場性についての調査を行なった。その結果、PS版は、単に軽印刷の分野にとどまらず、将来、一般印刷の分野でも有望な市場が見込める商品であることが判明した。そこで、PS版の商品化のための研究に取り組み、試作を繰り返した。  
その結果、PS版の商品化について、ほぼ見通しを得るに至ったが、早期発売のためには海外のPS版メーカーと提携するのが得策であると考え、世界の有力メーカーを調査・検討し、技術提携先として米国のポリクローム社を選定し技術提携の可能性について打診した。ポリクローム社は、当社の技術力や販売力を高く評価し、1963年(昭和38年)8月、技術提携契約を締結した。これに基づいて、翌1964年(昭和39年)2月、当社は技術スタッフをポリクローム社に派遣し製造技術の習得に当たった。  
PS版の事業化について、当初は、社内印刷用や軽印刷用のものから商品化することとし、小田原工場内にPS版工場の建設に着手するとともに、1964年(昭和39年)2月、オフセット機材部を設けて、平滑両面コートのスピードコート(SK)・砂目片面コートのグレンコート(GK)をポリクローム社から輸入し、国内販売を開始した。  
その後、PS版工場の建設の進ちょくに伴い、1964年(昭和39年)10月、小田原工場にオフセット材料部を設置した。翌1965年(昭和40年)4月には、新工場が完成し、試運転を経て本稼動を開始した。そして、同年8月、社内印刷用の紙ベース品“プラノマスターOM”・“プラノアイボリー”(ID)・“プラノラピッドコート”(RK)と、アルミ板をべースとする“プラノスピードコート”(SK)・“プラノネガティブグレンコート”(GKN)を、一斉に発売した。  
PS版の整備  
PS版は、アルミ板や紙の支持体の上に、ジアゾなどの感光性化合物と樹脂(バインダー)を主とする感光剤を塗布したものである。当初発売したものは、すべてネガタイプで、ネガ原板から露光し光が当たった感光層部分が光硬化して不溶化され画像部となり、光の当たらなかった部分は現像液で溶解除去され非画像部分を形成する方式のものであった。  
PS版は、オフセット刷版材料としては画期的なものであったが、発売当初は、あまりにも画期的すぎたこと、それに、従来の版材(亜鉛版・アルミ版)が表面の研磨を行なうことによって反復使用できるのに比べ1回しか使用できず、価格面でも割高であったことなどのためその普及は遅々として進まなかった。このため当社は、デモ用の大きなカバンをつくり、それにPS版と各種処理薬品を詰め、営業部員がそのカバンを持って需要見込み先の印刷業界や軽印刷業界の各会社を一軒ずつ訪問し、実際にPS版を使用して版作成の実演を行ないPS版の採用をすすめた。その姿は、当社の創立当時、乾板をカバンにつめて営業写真館を一軒一軒訪問して、当社製品の採用を呼びかけた営業活動をそのまま再現したかの観さえあった。  
PS版には、刷版作成工程の効率化と省力化を実現するという強力なセールスポイントがあった。従来の金属版の研磨や感光剤の塗布に要する費用とPS版の採用によって節約できる費用についての細かなデータを作成し、PS版の採用によって全体としての利益を向上させることができることを説明して、PS版の採用を強く働きかけた。  
このような当社の強力な働きかけによって、PS版の採用に踏み切るところが次第に増加していった。PS版を採用したところでは、作業効率を大幅に向上させるとともに、印刷仕上がりが格段に良化したことなどが評判となり、PS版は、軽印刷分野に徐々に浸透していった。なお、需要先が軽印刷分野に移行したことに伴い、社内印刷用の紙支持体の製品(“プラノマスターOM”など)は、1971年(昭和46年)をもって製造を中止した。  
しかし、軽印刷分野だけでは大きな伸長は望めなかったので、当社はさらに一般印刷市場への進出を計画した。  
一般印刷業界では、カラー印刷のオフセット化が進んでいた。それに伴って、ポジ原板から直接焼き付けるポジタイプのPS版が強く求められていた。ポジタイプのPS版は、光が当たった部分が光分解して現像液で溶解して非画像部分となり、光の当たらなかった部分が画像部となるものである。ポジタイプの開発を進め、1966年(昭和41年)2月、“プラノポジティブグレンコート”(GKP)を発売した。次いで、1968年(昭和43年)4月には“プラノスーパーポジティブグレンコート”(SGP)を発売した。“SGP”は、あらかじめ感光層に樹脂を内蔵させてラッカー盛り工程を不要にし、PS版処理工程を短縮したもので、カラー印刷の校正刷り用として広く採用された。  
引き続き、PS版の耐刷力の向上について研究を進め、新たに、陽極酸化法(表面摩耗を防ぐために、電気的に表面を酸化処理する方法)の技術を開発し、1969年(昭和44年)6月、“プラノネガティブアノダイズドグレンコート”(GAN)を、また、1971年(昭和46年)9月にはポジタイプの“プラノスーパーポジティブアノダイズドグレンコートタイプ392”(GAP392)を、それぞれ発売した。“GAN”と“GAP”は、陽極酸化法による表面処理で耐刷力を大幅に向上させるとともに、プレート表面に無数の小孔を形成することにより、保水性を高め、インキと水とのバランスを安定化させ、印刷仕上がりを改善するとともに刷りやすくした画期的な製品であった。  
“GAN”と“GAP”の商品化によって、PS版は、カラー印刷の本機用(本刷り印刷用)に用いられるようになり、その需要は急激に増大していった。  
一方、生産設備については、1970年(昭和45年)7月には、小田原工場内に2号機を設置して増産に対処したが、それでもなお需要の急激な増大が見込まれたので、新たにPS版専用工場を建設すべく検討を開始した。  
銘板用プレート“アルフォト”の開発  
PS版の製造で培われたアルミニウム加工技術は、写真乳剤技術と結びつくことによって、全く新しい商品を生み出した。1969年(昭和44年)6月に発売した銘板用プレート“アルフォト”がそれである。  
“アルフォト”は、陽極酸化したアルミ板のアルマイト表面の無数の小さな孔に銀塩感光剤を封入したものであり、細かい文字も完全に再現できる高い解像力をもつうえ、温・湿度や光に対して退色や変色することがなく、表面が硬いので傷もつかず、ほぼ半永久的に使用することができる。  
この“アルフォト”の処理は、ネガ原板から文字や図形を密着焼き付けし、現像・定着した後、黒化度と耐久性を増す調色を行ない封孔処理する。ツヤを出したい場合にはさらに研磨し、着色したい場合には着色液で着色することもできる。  
“アルフォト”の用途は、各種銘板をはじめ表札や機械の説明板、屋外の表示案内板など多岐にわたっており、また、画像は冷黒調で、アルミ特有のシャープな質感と格調高い仕上がりができるため、インテリアとして室内装飾にも広く用いられている。  
PETベースの開発 
写真フィルムの支持体として、より優れたフィルムベースを開発するため、新素材のポリ塩化ビニール、ポリスチレン、ポリカーボネート、ポリエチレンテレフタレート(PET)の、フィルムベースヘの適用の研究を進める。そして、ポリカーボネートの試作に成功するが、将来性の見通しを比較検討した結果、その実用化を中止して、PETベースの研究に専念する。1961年(昭和36年)3月、東洋レーヨン株式会社(現東レ株式会社)と技術提携契約を締結、翌1962年(昭和37年)PETベース生産工場を建設し、その後、1967年(昭和42年)には、さらに増設する。この間、リスフィルム、X−レイフィルムと逐次、フィルムベースのPETベース化を実現する。  
フィルムベース用新素材の研究  
戦後、石炭から石油への化学工業の原料転換に伴って、新しい繊維用化学素材が次々と生み出された。それらの中には、フィルムベースとして優れた特性をもつものも少なくなく、世界の写真感光材料メーカーの間で、新素材によるフィルムベースの開発が進められていた。  
当社でも、フィルムベースの不燃化を目指したTACべースの開発に一応の目途がついた1952年(昭和27年)ごろから、寸度安定性や強度など諸特性のより優れたフィルムべースを開発すべく、次世代のフィルムベース素材の研究に着手した。そして、ポリ塩化ビニール、ポリスチレン、ポリカーボネート、そしてポリエチレンテレフタレート(略してPET)と、新素材の出現ごとにフィルムベース素材としての可否を検討していった。  
ポリ塩化ビニールは、コスト的には最も割安だった。しかし、連続ツヤ出しの技術に難点があり、品質的にも耐熱性が劣り、結局、使用を見送った。  
電気絶縁性に優れ、初期の高分子工業の花形であったポリスチレンは、透明で二軸延伸(長さ方向と幅方向とに高温で延伸すること)によって強い透明なフィルムが得られるため、フィルムベースの検討対象となった。最大の特長は、湿度によって寸度の変化がないことで、製版用フィルムの無伸縮ベースとしては好適であった。しかし、85℃以上で急に軟らかくなる性質があるので、耐熱性の点で不十分であった。  
ポリカーボネートは、1956年(昭和31年)、バイエル社が合成に成功したプラスチック材料の一種である。強度・透明性・耐衝撃性・耐熱性・電気絶縁性も十分であり、しかも、現用のベースであるTACベースと全く同じ装置で製膜できる点も極めて有利であった。  
その合成法の研究を進めるとともに、これをフレークにすることなく、反応溶液から直接高品位のポリカーボネートベースとする合成・製膜一貫製造法の開発に取り組んだ。この研究には、1959年(昭和34年)7月、通商産業省から鉱工業技術試験研究補助金1、100万円の交付を受け、翌1960年(昭和35年)2月、小田原工場の構内に研究所分室を設けてパイロットプラントを造り、製造化研究を開始し、ポリカーボネートの試作に成功した。  
一方、この期間、並行してPETの研究も推進しており、フィルムベースとして、いずれを選択するかが経営上重要な問題となった。最も大きな問題は、プラスチックとしての将来性の見通しである。大量生産によるコストダウンは、需要規模の大きい繊維工業用素材となるかどうかに依存している。その点、ポリカーボネートは、繊維用素材としては特に優れた特長をもたないために、量産される機運になく、それに対してPETは、風合い、強さなどの特徴から、繊維素材として大きな需要が見込まれ、量産される機運にあった。PETが写真フィルム工業よりはるかに需要規模が大きい繊維工業に使用されることによって、将来、コスト的に大幅に安くなる見込みがあると判断して、ポリカーボネートの実用化は中止した。このことは、その後、PETが繊維やフィルム工業の素材として著しい発展をみたことを考えると、極めて適切な意思決定であったということができよう。  
PETべースの開発  
ポリエチレンテレフタレート(PET)は、イギリスのICI社が工業化に成功した熱可塑性プラスチックで、1957年(昭和32年)2月、東洋レーヨン株式会社(現東レ株式会社)、帝国人造絹糸株式会社(現帝人株式会社)の2社とICI社との間で技術提携契約が結ばれ、国産化の道が開かれた。その後、PETは、石油化学工業の発展とともに種々の用途が開発され、その生産量も年とともに増大している。主として繊維原料として用いられるほか、電気絶縁用や包装用のフィルム、磁気記録材料用のべースに用いられている。  
1957年(昭和32年)ごろ、デュポン社が製版用フィルムのべースにPETを使用しはじめ、コダック社でもそれに追随するという動きが伝わってきた。このため、当社でもPETべースの研究に拍車をかけた。  
PETべースを使用するフィルムの試作研究は、当初は、デュポン社やICI社のベースを購入して開始した。その後、東洋レーヨンがPETの生産を開始したので、同社のルミラー(PETフィルムの商品名)も購入して試作を続けた。べースのせん孔やテープ接合などの加工技術も完成した。これらの加工技術は、後年、シングル−8フィルムの事業化に際して、有効に活用された。  
これらの試作研究の見通しも立ち、PETべースヘの切り換えに自信を得た当社は、東洋レーヨンからサブライセンスを受けて、PETべースを自社で生産する方針を決定し、1961年(昭和36年)3月、同社と契約を締結した。この結果、東洋レーヨンおよびICI社の日本特許を使用し、写真フィルム用べースならびに磁気記録材料用ベースを製造し得ることとなり、この原材料であるペレットは、東洋レーヨンから供給を受けることとなった。また、PETベースの品質向上を図るために、両社は技術的連絡をより密接にとることにした。  
PETベース工場の建設  
デュポン社に続いて、1960年(昭和35年)、コダック社でもリスフィルムのPETべース品の出荷を開始した。当社もフジリスフィルム用ベースのPET化に全力を注ぎ、1961年(昭和36年)8月からPETベースを使用したフジリスフィルムの出荷を開始した。  
同時に、PETベースの自社生産のために、足柄工場で新工場の建設に入った。1961年(昭和36年)9月に着工し、翌1962年(昭和37年)8月にしゅん工、9月から試運転を開始した。その後、間もなく本格稼動を開始、これによって、リスフィルムの自社生産のPETべースによる一貫生産を実現した。  
一方、1966年(昭和41年)秋、デュポン社は、X−レイフィルムのべースにPETを使用しはじめ、コダック社もこれに追随した。当社でもX−レイフィルムベースをPET化することとした。  
この計画遂行のため、既設工場の製造能力の増強を図る一方、新たにPETベース工場を増設することとし、1967年(昭和42年)7月、建設工事に着手した。新工場は、翌年7月に完成、機械設備の据え付け、試運転を経て、1969年(昭和44年)4月、製造を開始した。この間、X−レイフィルムベースのPETべースヘの切り換えを行ない、新工場の本稼動とともに、1969年(昭和44年)12月までに全面PET化を実現した。  
なお、1965年(昭和40年)に発売したシングル−8フィルムは、発売当初から薄手のPETベースを使用した。 
足柄工場生産体制の増強と生産技術の進展  
写真感光材料の生産能力の増強とコストダウン実現のために、足柄工場は、生産技術の高度化研究と生産設備の増強を進める。とりわけ、カラーフィルムについては、当面の生産能力増加のための設備の増設を進める一方で、多層同時塗布技術などの新しい製造技術研究を推進する。そして、この技術研究の成果を織り込んで新工場(D号機、E号機)を建設し、生産能力を増大する。また、TACベース工場も増設する。他方、黒白部門の生産能力増強のために、事務用印画紙工場、フジリスフィルム加工工場、X−レイフィルム加工工場を建設する。加工技術の面では、35mm判フィルムの巻き込み工程の自動化研究をはじめ、各製品の加工工程の合理化・機械化も進める。 
カラー工場の増設  
開放経済の時代を迎えて、生産部門にとっては、生産能力の増大を図るとともに、国際競争力増強のために、生産の効率化とコストダウンの実現が最も緊急を要する課題であった。  
1958年(昭和33年)に一般用カラーネガフィルムを発売した当初は、カラーフィルムの生産量はまだ少なかったが、次第に増加の傾向を示してきた。足柄工場では、1957年(昭和32年)と1958年(昭和33年)に設置した第2カラー工場の2機(A号機、B号機)の塗布機をフル稼動させたものの、早くも生産能力の不足が予測された。この対応策としてカラー工場の増設を計画し、第2カラー工場の北側に隣接して第3カラー工場(C号機)を建設し、1962年(昭和37年)2月から稼動を開始した。  
この第3カラー工場の完成に伴い、カラーフィルムとカラーぺーパーの生産を、第2カラー工場と第3カラー工場に集中し、第1カラー工場は、改造して研究室として使用することにした。  
フィルムの増産のためには、フィルムベースの生産能力も増大しなければならないので、PETべース工場の建設と並行してTACベースの製帯機も増設し、1962年(昭和37年)5月から稼動を開始した。この増設機には、従来の製帯機の2倍の長さの銅帯を取り付け、製膜スピードを向上し、コストダウンと生産能力の増強を図った。  
1960年代後半に入ると、映画用カラーポジフィルムの輸出も実現し、国内市場におけるカラーフィルム・カラーぺーパーの需要もようやく本格化してきた。これに対して、第3カラー工場塗布機の塗布スピードを速くするなど、稼動中の各生産機の生産能力を増強して増産に対処してきたが、それでも需要増に追い付かなかった。そこで、新たに地元の協力を得て、工場の北東側に用地を求め、ここに、映画用カラーポジフィルムとカラーぺーパーの専用工場を建設する計画を立案した。  
この新工場は、従来のカラーフィルムの工場より建物の規模も大きく、後述する多層同時塗布技術をはじめ、写真乳剤の製造工程や塗布済みフィルムの乾燥工程についても最新技術を採り入れた新鋭設備を装備し、1968年(昭和43年)2月、まず塗布機1機(D号機)を稼動させ、2年後の1970年(昭和45年)1月からは、さらに塗布機(E号機)を増設して生産能力を増大した。  
なお、足柄工場におけるカラーフィルムの生産は、1954年(昭和29年)9月以来、カラー部で担当していたが、1964年(昭和39年)12月、カラー部を廃止して、新たに第5フイルム部と第6フイルム部を新設し、カラー製品の生産体制を一段と整備強化した。  
カラーフィルム生産技術の発展  
写真感光材料の品質とコストの面で国際競争力をつけるために、生産技術研究の面でも多くの研究課題があった。  
この当時、足柄工場では、工場全体に適用する革新的な技術テーマの研究については、プロジェクトチーム制を採用して開発を推進してきた。これらの開発経過を通じて、生産技術に関する基礎的研究をさらに強化する必要性を痛感したので、この研究担当部門として、1963年(昭和38年)10月、新たに工学研究室を設立した。  
写真乳剤製造技術面では、高感度写真乳剤の製造のために、新たに写真乳剤そのものを濃厚につくるいわゆる沈降法の技術を開発し実用化した。この方法は、写真乳剤製造の際、発生した硝酸カリなどの不要の塩を取り除くと同時に写真乳剤を濃縮するという効率のよい製造法で、次第に従来の水洗法に置き換えていった。  
塗布技術に関しては、何といっても、カラーフィルムの大幅なコストダウンを実現するための技術開発が当面の最重点課題であった。カラーフィルムやカラーぺーパーの製造には、光の三原色である赤・緑・青の光を感じる層や、フィルター層・フィルム保護層・ハレーション防止層などミクロン単位のごく薄い層を何層にも重ねて塗布しなければならない。これら各層をいかに効率よく、かつ精密に塗布するかということが、その品質の安定性とコスト引き下げのための技術上の決め手となる。  
この研究の成果として、多くの層を重ねて一度に塗布する多層同時塗布の技術が開発された。この塗布方式は極めて生産性が高いため、塗布の前後の工程も生産性を高めておかないと、工程がアンバランスになってその効果が発揮できない。関連する諸技術、すなわち、振動防止技術・除じん技術・精密連続溶解送液技術・乾燥技術・除湿技術、そしてフィルムの送り出しや巻き取りの際の接合やロールの交換技術なども、並行して開発していった。また、その製造条件を安定に保つための各種の制御技術の開発も進めた。  
これらの新技術は、折から計画中のカラーフィルム新工場(D号機)の建設に織り込まれ、1968年(昭和43年)、D号機の稼動とともにその成果を発揮した。なお、この多層同時塗布技術に関しては、当社独自に開発した技術を基礎として実用化したが、当時、コダック社も優れた方式を開発していたので、1967年(昭和42年)9月、同社と特許実施権許諾の契約を締結し、同社の特許も利用した。  
黒白フィルム、黒白印画紙生産部門の増強  
X−レイフィルムをはじめとする黒白フィルムや黒白印画紙も、引き続いて生産増加を求められた。塗布機をスピードアップし、生産効率をあげ、加工体制を増強して対応してきた。  
印画紙の製造は、戦前からの塗布機2機で製造を行なってきたが、1955年(昭和30年)からは、旧第2フイルム部の塗布機1機を印画紙の製造に転用し、製造能力の増強を図った。  
その後、クイックコピーの商品化に伴い、これら事務用印画紙を効率的に生産するため、従来の写真用印画紙と区分して、新たに事務用印画紙の生産工場の建設を計画した。  
事務用印画紙の販売価格は、一般写真用の印画紙と比較して低価格のため、この工場の建設に際しては特に徹底的にコスト引き下げを追求して設計し、1964年(昭和39年)5月から第4印画紙工場として稼動を開始した。  
1960年代後半に入って、X−レイフィルムのほか、製版用フジリスフィルムの販売増によって、黒白フィルムの生産能力をさらに増強することが必要になった。ここにおいて、X−レイフィルム新工場の建設を企画するとともに、それまでの期間の対応策として、第2カラー工場の塗布機のうち1機(A号機)を改造して、これを黒白フィルムの塗布に充てることとした。これは、カラーフィルム新工場(D号機、E号機)の稼動開始によって、従来のカラーフィルム工場でのカラーフィルム生産能力に、若干ゆとりが生じたことによる。A号機の改造は、1969年(昭和44年)から2次にわたって実施し、この結果、A号機は黒白フィルム塗布機に生まれ変わった。これによって、後述する富士宮工場のX−レイフィルム新工場の稼動までの黒白フィルム生産体制が整備された。  
また、これに先立って、1965年(昭和40年)5月フジリスフィルムの加工工場を、翌1966年(昭和41年)8月にはX−レイフィルム加工工場を、それぞれ建設した。両加工工場とも、この機会にレイアウトを改善し、新鋭加工機械を設置し、加工能力の増強と生産の効率化を図った。  
35mm判フィルム加工工程の自動化  
1960年代後半に入ると、一般写真用フィルムの生産は35mm判フィルムが主流となった。これに伴い、35mm判フィルムの加工技術の向上が重要な課題となってきた。  
それ以前、1950年代半ばごろから、35mm判フィルムの需要が増大してきたので、これに対応するため、1957年(昭和32年)に加工工場を増設したが、このころは、どちらかといえば現場作業者の熟練した技能と人海戦術とによって増産に対応していたのが実情であった。もちろん、加工工程の機械化研究を進めていたが、当時は、そのころ生産量が多かったアマチュア用ロールフィルムの加工工程の機械化を先行して実施した。  
35mm判フィルムの加工作業は、まず、写真乳剤を塗布したロール状の広幅フィルムを35mm幅に裁断し、その後、所定の規格にせん孔し、20枚撮、36枚撮などフィルムの種類に応じて所定の長さに1本ずつ切断する。それをパトローネに巻き込み、キャップをする。ここまでが暗室内の工程である。それをアルミ缶(現在はプラスチックケース)に入れ、小箱に詰めて製品として完成する。  
当初は、まず、それぞれの工程の作業のうち、機械化できるところから機械化しようという考え方で、機械化計画に着手した。  
この工程の中で最も人手を要し、また熟練を必要とする工程が巻き込み工程である。これは、すべて暗室内の手作業で、もっぱら女子オペレーターの作業に依存していた。この工程では、ロールフィルム加工工程で実用化した技術を基にして、巻き込み工程自動化の研究に取り組み、1960年代前半に半自動巻込機を完成させた。  
1960年代半ばになって、明るい作業場でフィルムをパトローネヘ巻き込む機械を実用化することができた。すなわち、それまで巻き込み工程の個々の作業を機械化してきたものを、総合化・システム化したもので、自動巻込機の第1号機であった。  
この自動巻込機は、従来、暗室作業であった切断・巻き込みの工程を、明室作業化した点で画期的なものであった。しかし、技術的に初期段階のものであり、生産スピードも遅く、稼動も不安定で、生産量の大部分はなお暗室での半自動巻込機に依存せざるを得なかった。  
なお、35mm判フィルムの自動巻込機の研究で開発した巻き込み技術は、当時、当社が事業化を進めていたシングル−8フィルムやラピッドフィルムの加工技術ならびに加工設備の研究にも役立ち、これらのフィルムの商品化に大きく寄与した。  
このような加工工程の機械化・自動化は、X−レイフィルムをはじめ各製品の工程についても逐次実施していった。  
1960年代の10年間に、足柄工場は大きくスケールアップした。その生産数量も大きく増加した。しかも、技術革新と合理化の努力を進めた結果、この間の工場の人員の増加は最小限にとどめ、大幅な生産性の向上を実現することができた。足柄工場は、ようやく国際競争に耐え得る工場へと育ってきたのである。  
足柄研究所の拡充と中央研究所の創設 
1960年代に入って、当社の研究部門は、多くの研究課題に挑戦し、研究体制を整備する。特に、カラーフィルムの商品化研究に重点を置き、数々の新製品を開発し、当社の国内カラーフィルム市場における優位性を確立する原動力となる。また、黒白感光材料の研究にも重要な役割を果たすとともに、磁気記録材料、電子写真、感圧紙、PS版など新しい情報記録分野の研究に取り組んでいく。一方、新規分野についての研究開発を目的として、1965年(昭和40年)中央研究所を開設する。中央研究所では、エレクトロニックイメージングに関する研究にも着手し、当社のこの分野の研究の母体となる。また、特許・情報管理を重視し、特許情報検索システム(ITPAIS)に参画する。  
写真感光材料研究体制の整備  
戦後1950年代の間に、当社の技術陣は、戦時中に生じた海外の有力メーカーとの間の技術格差を埋めることに全力をあげた。そして、高感度の黒白感光材料の整備、内型カラー感光材料の商品化、フィルムベースの不燃化を実現した。写真乳剤基礎・感光理論・有機合成・画像解析・現像処理技術ならびに応用写真など、各分野での研究体制も整えていった。  
しかし、1960年代を迎えて、研究部門は、多くの研究課題に挑戦しなければならなかった。来たるべき貿易自由化に備え、当社にとって、写真感光材料の新製品の開発と品質・コスト面での国際競争力を確立することが大きな課題であり、とりわけ、緊急かつ最も重要な課題は、カラー感光材料の新製品を一刻も早く商品化することであった。あわせて、印刷製版用などの産業材料分野の新規黒白感光材料の開発と銀塩感光材料以外の新規事業の開拓という大きな課題にも取り組まなければならなかった。  
これらの強い要請に応えて、写真感光材料の研究に関しては、新しい研究開発体制を発足させた。これまで、当社の写真感光材料に関する研究は、主として原理に関する基礎的研究を研究所が担当し、新製品の商品化研究は足柄工場が担当していたが、この体制を改め、商品化研究の多くを研究所に移管することにした。基礎的研究部門と実際に商品として完成させる部門とを合体させ、総合力の発揮を期待したのである。これ以降、研究所には、これまでの“サイエンティフィック・マインド”に加えて、“マーケティング・マインド”が要求され、商品開発に向かって、次第に体質を変化させていった。  
最も緊急を要するカラー感光材料研究に関しては、外型8mmカラー反転フィルム、内型の一般用カラーネガフィルムおよびカラーぺーパー、内型カラー反転フィルム、映画用カラーネガフィルムとカラーポジフィルムなど、これらの改良・品種整備・新製品の開発といった多くのテーマが山積していた。これらのテーマを遂行するために、新しい研究開発体制の発足と同時に、写真乳剤の研究陣の多くを黒白感光材料の研究からカラー感光材料の研究にシフトし、その開発力の強化を図った。強化されたとはいっても、開発テーマが余りにも多く、当初は、1系列の製品の研究を若手研究者1人で担当するという状況であった。  
当時の内型カプラーは水溶性のものであったが、独自に研究してこれを特長あるものに改良し、この水溶性カプラーを使用して、内型のカラーネガフィルム“N50”や、カラー反転フィルム“R100”などを商品化していった。そして、最も特筆すべきことは、1963年(昭和38年)のカラーネガフィルム“N64”の開発である。このフィルムにはカラードカプラー方式の自動マスク機構(発色色素の吸収の不完全性を自動的に補正する機構)を内蔵していて、“N64”からプリントすると、従来の製品よりも格段と色の鮮やかなプリントが得られるようになった。カラードカプラー自体はコダック社で開発された技術で、同社のオイルプロテクト型カプラーを使用したものは、すでに市販品に実用化されていた。基礎となる要素技術を数年間にわたって先行して開発した後、カラーネガフィルム“N64”の商品化に際して、水溶性カプラーを使用して自動マスク機構を実現したものである。カラーネガフィルム“N64”と、これに続く1965年(昭和40年)、カラーネガフィルム“N100”の開発によって、一般用カラーネガフィルムの分野における当社の地位を不動のものとした。  
写真感光材料新製品研究の進展  
これまでは、カラー感光材料の開発に関して、日本国内において、先行する海外他社の特許制約を受ける程度は比較的少なかったが、このころになると、次第に、海外他社が日本への特許出願を重視してきた。このような状況に対応するためにも、また、積極的に海外に市場を求めるためにも、自らの発想による独自の技術の開発を迫られ、研究力を一段と拡充することが必要になった。  
このため、研究人員を急速に増加し、一つの製品系列の研究を数人の写真乳剤研究者で構成するグループで担当するようにした。同時に、カプラーや感光色素など、カラー感光材料にとって重要な有機化合物群の開発の重要性も認識し、この分野の合成技術者も漸次増強した。  
このような製品開発力の増強の一環として、1965年(昭和40年)7月、研究所3号館を建設した。この建物には、カラー感光材料の写真乳剤研究部門と現像処理研究部門を収容し、カラー感光材料開発用のパイロット塗布機を設置した。このパイロット塗布機は、小幅のフィルムを用いてはいたが、塗布と乾燥のプロセスは、製造用の塗布機をシミュレートできるものであって、この設置によって、少量スケールで製造機と同様の条件で十分に検討した処方を、数少ない現場テストで実際の製造に乗せることができるようになり、その後の写真感光材料の試作研究を著しく効率化させることができた。  
カプラーの内型化は、既述のように、水溶性のものから実用化したが、1950年代後半からオイルプロテクト型のものの研究を進め、1960年代に入って、全製品をオイルプロテクト型に切り換える方針を決定した。これは、  
(1)当社品の輸出のためにはコダック社の現像処理方式に適合させる必要がある  
(2)オイルプロテクト化によって画像の色が鮮やかになり、保存性が改良できるなどの性能向上が図れる  
(3)水溶性カプラーを含有する写真乳剤は高速塗布しにくい  
などの理由による。  
そして、1966年(昭和41年)にカラー反転フィルム“R100”を、1968年(昭和43年)に映画用カラーポジフィルムを、その翌年にカラーペーパーと映画用カラーネガフィルムを、それぞれ切り換え、1971年(昭和46年)には、アマチュア用35mm判カラーネガフィルム“N100”もオイルプロテクト型のものに切り換えた。水溶性カプラーを用いていた当時は、その現像処理処方も、当社固有の組成のものを開発していたが、オイルプロテクト化してからは、コダック社の現像処理条件に当社のカラー感光材料の処理条件が適合するようになり、これに伴って、現像処理処方の研究部門は次第に縮小していった。  
また、この後間もなく、カラー反転フィルムは外型のものは当社のラインアップから姿を消し、内型のものに統一した。これは、限られた研究の力を広範な商品の開発に有効に利用するためにも必要な施策であった。  
これらのカラー感光材料の新製品の開発研究は、研究所が中心となって、足柄工場の協力のもとにチームワークの成果として実を結んだものであった。  
一方、黒白感光材料に目を転じると、この時期は、工業用・業務用の用途のものの拡大が中心であった。特に、国内市場の発展と輸出の増大に応えるための各種の印刷製版用フィルムの開発・改良、マイクロ写真フィルムの改良、医療用X−レイフィルムの数次にわたる改良、事務用迅速複写方式“クイックシステム”の開発などが特筆される。これら黒白感光材料の開発も、研究所と足柄工場との間にそれぞれ役割を分担し、両者のチームワークのもとに実現したものであった。  
写真感光材料の研究と並行して、銀塩写真以外の新規分野への関心を高め、すでに1950年代後半から新規分野の調査研究を進めていた。将来の会社の経営を銀塩感光材料のみに頼る危険性を考え、事業の幅を広げることが必要であると痛感し、1960年代前半には、新規事業の具体化を全社的方針として掲げ、強力に推進した。磁気記録材料、電子写真、感圧紙、PS版のように、その後、当社を支える事業に大きく育った材料の開発は、1950年代末から1960年代前半に、研究所で探索されたものであった。  
これらの開発は、研究が進展し、実用化の段階に進むにつれて比較的初期の段階で、それぞれのテーマごとに担当部門を独立して小田原工場に移管し、短期間で工業化された。  
その後、後述するように、中央研究所の設立に伴い、これら新規分野の探索研究は、中央研究所に移管した。また、この機会に、従来の研究所は、1965年(昭和40年)6月、足柄研究所と名称を変更した。  
数多くの写真感光材料の商品化を達成しつつ技術の構築を図ってきた当社技術陣は、先行していた海外他社の商品との品質レベルの格差が縮まるにつれて、また、新しい商品化のタイミングを他社と競うようになるにつれて、次第に独自の観点に基づく実際的でかつ創造的な要素技術を開発する必要を感じるようになった。足柄研究所は、商品開発を進めつつ、そこで遭遇する特異な現象を解析して技術開発に反映する努力を続けてきたが、さらに、写真感光材料の基幹技術の開発機能の強化を図るために、1970年(昭和45年)2月、研究所4号館を建設した。この建設によって、技術情報調査活動の拡充も可能となり、次の時代の発展のための基礎を築いていった。  
中央研究所の設立とその活動  
技術革新のテンポが速まる中で、当社の事業の幅を拡大するために長期的な観点に立って、これまで経験したことのない新しい分野への探索的な研究を進めることが必要となってきた。  
このような要請から、既存の製品分野での商品化研究とは区分して、新たに、新規分野の探索研究を担当する研究所の設立を計画し、創立30周年記念事業の一環として実現することになった。当初は、足柄工場周辺に用地を求めたが、なかなか適地がみつからず、広く東京郊外一円にその範囲を広げた。その結果、埼玉県北足立郡朝霞町溝沼(現朝霞市)に約3万3、000m2(約1万坪)の用地を取得し、そこに新研究所を建設することに決定した。  
朝霞町は、埼玉県の最南部、東京都と接するところに位置し、池袋駅から東武東上線で30分たらず、豊かな自然に恵まれた閑静な地区で、研究所を建設するには格好の土地であった。  
新研究所の建設は、1964年(昭和39年)6月から開始し、翌1965年(昭和40年)6月に完成した。中央研究所の組織は、2か月前の同年4月から発足した。  
中央研究所では、設立当初から設計工作室を設け、研究者と設計技術者・工作者が一体となって研究するシステムを採用した。試作機も中央研究所内部で製作した。これによって、研究者と設計技術者が一体となって機器を製作するという気風が生まれ、お互いの意見の交流が活発となり、電気技術者・機械設計技術者・工作者・画像処理研究者が一体化して、各種の新しい機器を生み出した。当社における機器の複合化時代の先駆的役割を果たしたといえよう。  
中央研究所発足後の具体的な研究活動は、化学的研究活動の分野では、銀塩感光材料の基本的特性を利用する研究とともに、当社独自の非銀塩写真の研究を行なった。また、光学的物理的研究活動の分野では、各種のイメージングシステム、特に、エレクトロニックイメージングに関する研究にも着手した。  
それまでの当社は、いわば写真感光材料という“材料”を生産・販売することが中心であった。しかし、新しい市場を開発し、商品の付加価値を拡大するためには、材料に機器を組み合わせ、その材料の性能を最高に発揮できるシステムを開発することが必要である。こうした考え方に立って、銀塩写真の分野で、システムとして組み上げるべきテーマの一つとして、高密度記録乾板(超高解像力乾板)を利用した自動検索システム“スマーク”(SMARC)の開発に取り組んだ。  
このシステム的な研究開発の方式をはじめとして、中央研究所の幾多の研究の成果は、事業場間の技術交流によって、社内の他の研究部門や技術部門にも生かされていった。また、中央研究所の研究活動の中で多くの研究者が育成された。この中央研究所で研究を重ね、巣立ち、当社の各部門に展開し、活躍していった応用物理やエレクトロニクス関係の技術者も多かった。  
特許情報管理の重視−ITPAISに参加  
研究開発活動と関連して、特許情報検索システムの整備を進めていった。  
写真感光材料は高度な精密化学の所産であり、世界のメーカーが日々新しい技術の開発にしのぎをけずっている。当社でも、創立以来、新しい素材や新しい技術の開発に注力し、数多くの特許を取得してきた。  
しかし、国際化時代を迎えて、単に国内特許だけではなく、海外の特許にも配慮しなければならなくなってきた。また、新規事業分野への進出に当たっては、それらの分野における特許にも十分配慮しなければならないなど、特許管理の重要性が高まってきた。  
このような情勢に対応するため、1964年(昭和39年)7月、本社に特許部を新設するとともに、1966年(昭和41年)6月には足柄研究所に調査部を設け、特許管理体制の整備・充実を図った。  
これによって、会社の研究開発成果を迅速・的確に特許の出願に結び付け、工業所有権に関する諸手続を適切に処理するとともに、当社関連分野の特許情報の調査業務を充実した。  
すでに1950年代後半には、当社業務の関連分野の科学技術情報を整理してカード化し、必要に応じていつでも取り出せるように、TI(TechnicalInformation)カードシステムを発足させていた。その後、特許も重要な技術情報であるとの認識が高まって、全世界の主要国の特許を網羅的に収集し、その内容を抄録の形でカード化し、インデックスを付して整理し、必要な情報を必要に応じて取り出せるようにし、TIカードシステムを大幅に充実させた。この特許情報検索システムは、映像情報の分野では、世界に類をみないシステムであった。  
その後、コダック社から、世界の主要国の写真化学工業技術に関する特許情報検索システムの構築に協力するように要請を受け、1973年(昭和48年)、これに参加した。このシステムは、ITPAIS(Image Technology Patent Information System)と呼称し、コダック社、アグファ・ゲバルト社および当社の3社が参加した。世界的に競合する有力3社が協力して作り上げた特許情報検索システムとして、画期的なものといえよう。 
印画紙、カラーペーパーの一貫生産 / 富士宮工場の建設  
原紙から印画紙までの一貫生産は、当社創立時からの念願である。そのため、すでに戦前において、その製造のために、今泉工場を設立するが、戦時経済体制のもとでバライタ紙の製造は許されず、他社からの供給を仰ぐ。戦後になって、その悲願達成を目指して研究試作を進め、1963年(昭和38年)、富士宮工場を建設し、バライタ紙とその原紙の製造を開始、印画紙の一貫生産を実現する。また、カラー印画紙用バライタ紙の研究を進め、その自給化を達成する。この間、今泉工場は、高級印刷用紙PHOや写真フィルムの挾み紙など写真用包装材料の製造に当たるが、1968年(昭和43年)、設備を富士宮工場に移設し、その歴史に幕を閉じる。 
今泉工場の発展  
印画紙でも、原紙からの一貫生産を企図して、1939年(昭和14年)5月、今泉工場を設立し、写真用原紙製造のために長網抄紙機を整備した。ところが、折から戦時経済体制への移行が進み、印画紙の支持体としてのバライタ紙の製造については三菱製紙に一元化されることとなり、当社は写真用原紙の製造を断念しなければならなかった。このため、今泉工場は、軍用地図用紙の製造に転換を図り、1942年(昭和17年)5月から地図用紙の本格的製造に入った。また、並行して、ケント紙などの一般用紙の研究を進めた。その後、1944年(昭和19年)9月には、隣接の富士製紙工業株式会社今泉工場の土地、建物を買収し、円網抄紙機1機を増設した。  
戦後は、大蔵省印刷局の指定工場となり、地図用紙に代わって百円紙幣の用紙を製造した。原材料は印刷局から支給されたので、戦後の資材難に悩むことなく、順調に稼動を続けた。その後、紙幣用紙の発注が減少したのに伴って、一般高級洋紙の製造へ移行し、1949年(昭和24年)9月、高級用紙“PHO”の製造を開始した。商品名“PHO”は写真を意味するPhotographyから採ったものである。また、この一般紙の販売をスタートするために、1949年(昭和24年)7月、資本金100万円をもって株式会社大化洋紙店(現富士特殊紙株式会社)を設立し、当社の市販紙製品の販売総代理店とした。  
以降、統計カード用紙、プラノマスターペーパー、名刺用紙、薄模造紙、証券・帳票用紙、タコグラフ記録用紙、電気絶縁紙など、当社の抄紙機の特質を生かした高級紙・特殊紙を開発、次々と特長ある製品を出していった。  
この間にも、今泉工場設立の本来の目的を実現するべく、写真用の原紙の研究を進め、長網抄紙機で試験製造を重ねていた。  
また、これと並行して、写真フィルムと印画紙の包装用紙についての研究も行なってきた。写真感光材料は、その特質から、包装材料、とりわけ製品と直接接触する内装材料については、ちりや異物はもちろん、フィルムや印画紙に悪影響を与える放射線などを有することは絶対避けなければならず、そのため、購入条件には厳しい制約がある。そこで、今泉工場では、これら内装材料用紙の開発を進め、1950年(昭和25年)末から、円網抄紙機を大改造して、写真感光材料との適性のある挟み紙(フィルムの写真乳剤面を保護するために、包装の際、フィルム1枚ずつの間に挿入する紙)の製造に成功、1952年(昭和27年)、足柄工場で使用されはじめた。これを契機として、以降、各種の遮光紙と挟み紙を次々と足柄工場に向けて製造し、当社写真感光材料の品質の向上・安定化に大きく貢献した。  
なお、この写真用の原紙や内装用紙の製造の技術は、同時に生産している市販用紙の品質向上にも大きく役立った。PHOの地合い(繊維の分散している状態)の良さは、写真用原紙の技術が入っているからであり、面の平滑性や不純物が混入していないことなど、これらの写真用包装用紙の製造技術と生産管理の考え方が大きく生かされている。  
バライタ紙自家生産の企画  
写真需要の伸びに伴って、当社の印画紙の生産量は大きく伸長したが、戦後、新たに三菱製紙が印画紙の生産を開始したことも加わって、市場における印画紙の販売競争は、ますます激しくなってきた。激しい競争の中で印画紙事業の拡大を図るためには、コストの引き下げが不可欠の課題であり、このためには、主原料たるバライタ紙のコストをいかにするかが問題であった。また、他社製品に対して特色のある印画紙を生み出すためには、どうしても当社の写真乳剤に合致した特色のあるバライタ紙が必要であった。  
この課題を解決するために、創業当初からの念願であったバライタ紙の自家生産の問題が大きくクローズアップされてきた。  
1960年代に入って、“クイックシステム”を商品化するなど事務用印画紙の分野にも進出し、数量的にも、写真用原紙の生産工場を建設しても生産単位になる見通しがついたので、バライタ紙およびその原紙の製造工場建設の問題の具体的検討を始めた。  
今泉工場では、従来から続けてきた原紙の試作研究を、より一層精力的に推進した。その原紙に硫酸バリウム層を塗布してバライタ紙とする研究は、足柄工場で担当した。それとともに、新工場の建設用地の選定を開始した。  
富士宮に進出を決定  
印画紙用バライタ紙とその原紙製造工場の建設地としては、既存の今泉工場に建設の余地がないため、新たに工場用地を探し求める必要があった。工場の建設地は、印画紙の生産とのつながりから、できるかぎり足柄工場に近いところが望まれた。しかし、バライタ紙用原紙の抄造には大量の水を必要とするうえに、当時、足柄工場は、カラー工場をはじめとする各種工場の建設で敷地がほぼ埋まりつくし、いずれは足柄工場に匹敵する総合工場の建設が日程にのぼってくることが考えられていたために、広く全国にその適地を求めることとした。  
“豊富な良質の水”と“きれいな空気”−新工場に求められる条件は、足柄工場の建設のときに求められた条件と同じであった。しかし、1930年代と比べると、1960年代後半の日本は工業化が進み、求められる条件にかなう工場用地を探すことははるかに困難になっていた。いくつかの候補地を選定し、現地調査を実施した結果、最終的に、静岡県富士宮と四国吉野川流域の二つに絞られた。  
これら二つの候補地について慎重に比較検討を行ない、1961年(昭和36年)秋、富士宮への進出を決定した。四国吉野川流域は、水量や工場環境の点では申し分なかったが、足柄工場と離れすぎており、製品の輸送コストも高くなることが難点であった。  
富士宮は、静岡県の東部、身延線の沿線、麗峰富士山の南西山ろくに広がり、富士登山口として開けた市である。当時は大きな工場もなく、富士宮市は、工場誘致による工業都市への脱皮に熱意を燃やしていた。そこに、当社が水と土地とを求めて現われたのである。こうした市当局の要請と当社の新工場建設の条件とが合致して、静岡県当局も積極的に協力、富士宮への進出が決定したのであった。  
富士宮市との工場誘致契約は、同年12月締結された。この契約に基づき、市当局をはじめ多くの地主の積極的な協力を受けて、富士宮市大中里地区に、工場用地として約33万m2(約10万坪)を、厚生施設用地として約10万m2(約3万坪)の土地を取得した。また、工場用水の水利権の取得および取水使用についても、誘致契約に明記された。  
大中里地区は、富士宮市の北西部、潤井川のほとりに位置し、背後には小高い山が連なっていた。一見、足柄工場とそっくりの地形の工場建設予定地には、水田のほか、多量に湧き出る地下水を利用して養鱒池が散在し、製紙工業や写真感光材料工業には欠かせない水が豊富に存在することを示していた。  
バライタ紙製造工場の建設  
用地の買収交渉と並行して、1961年(昭和36年)3月には、専務取締役竹内喜三郎以下関係者が渡欧し、抄紙機やバライタ塗布機、スーパーカレンダーやエンボシングカレンダーなどの諸機械を購入した。その時、ヴェンツル博士(Dr.Wenzl)とコンサルタント契約を締結して、以後、バライタ紙の製造に関して博士のアドバイスを受けることになった。  
富士宮工場の第1期工事としては、バライタ紙の製造工場と、その原紙の抄紙工場を建設することとし、1962年(昭和37年)12月、起工式を挙行した。  
起工式のあと、工場の建設工事は急ピッチで進められ、翌1963年(昭和38年)秋には、バライタ紙製造工場、抄紙工場、実験研究棟、その他の付属建物が次々と完成した。  
1963年(昭和38年)10月、富士宮工場が正式に発足、翌1964年(昭和39年)4月、まず、バライタ紙製造工場が稼動を開始し、翌5月には原紙抄造工場も本稼動に入った。  
バライタ紙の生産は、薄手光沢印画紙用のバライタ紙の製造から開始し、以降、中厚手品・厚手品と次第に品種を広げ、また、面種も、光沢面に次いで、微粒面・絹目と、逐次増加していった。原紙抄造工場では、事務用印画紙用の原紙(ドキュメント紙)の製造からスタートした。バライタ紙用原紙の製造は難しく、稼動当初の試作は難航した。そのため、当初は原紙を輸入し、輸入厚紙にバライタ塗布を行なったこともあったが、1964年(昭和39年)半ばごろからは、バライタ紙用原紙の製造もできるようになり、ここに多年の念願であったバライタ紙から黒白印画紙までの一貫生産体制が確立した。  
カラーペーパー用バライタ紙の開発  
富士宮工場で黒白写真用のバライタ紙の製造を始めたころ、写真業界では黒白写真の時代からカラー写真の時代へと大きく動きはじめていた。しかし、カラープリント用の印画紙、すなわちカラーぺーパーは、現像処理に数多くの薬品を使用し、また、黒白印画紙よりも現像処理時間が長いため、紙の繊維が薬品におかされないような特殊なバライタ紙を必要とする。カラーぺーパーを生産するために、バライタ紙を輸入して、足柄工場で写真乳剤を塗布して製品化し、市場に供給した。  
しかし、輸入品は高価なうえに、カラー写真の普及に伴ってカラーぺーパー用バライタ紙の使用量の増加が予測されたので、その国産化を目指して研究に着手した。  
カラーぺーパー用バライタ紙の研究は難航した。富士宮工場で問題点を一つ一つ解決して、ほぼ完成段階と考える試作品を作成し、これを足柄工場に送付して試験すると、また新たな問題点が発生する。こういうことを何度か繰り返し、両工場のスタッフが総力をあげて改善に努力した。その結果、ようやく外国品に勝るとも劣らないものをつくり出すことができるようになり、1968年(昭和43年)9月から、カラーぺーパー用バライタ紙の製造を開始し、足柄工場で使用されはじめた。これによって、カラーぺーパーでも原紙から印画紙まで一貫自社生産体制が確立した。  
今泉工場の富士宮工場への移設  
富士宮工場におけるバライタ紙の製造開始後も、今泉工場は従来どおりの稼動を続け“PHO”をはじめとする高級紙や特殊紙、あるいは写真フィルムの挟み紙や写真用包装紙などの製造を行なってきた。とりわけ、“PHO”は、美術印刷用やカレンダー用など高級印刷用紙として多用された。  
しかし、今泉工場は、敷地も狭く増設も不可能なうえに、付近の都市化が進んで用水の確保が難しいなど、事業を継続していくうえでの悪条件が積み重なってきた。  
一方、富士宮工場では、バライタ紙の生産が軌道に乗り、また、1965年(昭和40年)からは、“感圧紙”の生産を開始するなど、製紙工場としての体制が着々と整備されていった。  
そこで当社は、製紙部門を富士宮工場に集中して生産の効率化を図ることとし、1968年(昭和43年)10月、今泉工場を閉鎖した。  
今泉工場の長網抄紙機、円網抄紙機などの主要施設は富士宮工場に移設し、工場要員も、退職を希望した一部の人を除いて全員が富士宮工場に移り、新しい出発をした。かくして、今泉工場は、1939年(昭和14年)に設立されて以来、30年近くの生涯に幕を閉じた。  
感圧紙の事業化 
1963年(昭和38年)に、ノーカーボン紙“富士フイルム感圧紙”を開発する。その後、“お得意さまを汚さない紙”のキャッチフレーズのもと、市場開拓のために、積極的な営業活動を展開、複写帳票用紙あるいはコンピューターのアウトプット用紙として急成長を遂げる。1965年(昭和40年)には、富士宮工場内に感圧紙工場を建設、また、裁断加工体制も整備する。さらに、1969年(昭和44年)には、専用抄紙機を設置して製造体制を整える。この間、流通業者や印刷会社からなる「富士グリーンサークル」、最終ユーザーからなる「ビジネスインフォメーションサークル」を結成し、“感圧紙”の普及を図り、わが国ノーカーボン紙市場でのトップメーカーに成長する。  
“感圧紙”の開発  
ノーカーボン紙と称される複写用紙は、米国のナショナル・キャッシュ・レジスター社が1954年(昭和29年)に開発に成功したものである。2枚の紙のうち、上の紙の裏面に発色剤をゼラチンで包んだ微小のカプセル(マイクロカプセル)が塗布してあり、下の紙の表面に酸性白土などを塗布して、上から文字や線を書き込むと、その筆圧でカプセルが破壊されて発色剤が浸出し、下の紙に塗られた酸性白土などと反応して文字や線が現われるものである。  
当社でも種々検討の結果、ノーカーボン紙の製造に必要なマイクロカプセルや発色剤の技術は当社の得意とする分野であり、当社独自の技術開発が可能なこと、複写帳票用紙として従来のカーボン挿入式のものや裏カーボン紙に代わって、将来有望な市場が見込めることなどの理由で、1958年(昭和33年)1月、その試作研究に着手した。  
発色剤とその溶剤の合成技術や顕色剤の調液技術、マイクロカプセル化技術などの確立や品質評価法の確立、薄い紙への水性液塗布技術の研究など、多くの研究課題に取り組んだ。そして、ようやく研究完成の見通しが得られたので、1961年(昭和36年)5月、小田原工場にパイロットプラントを設置した。その後、裁断・加工技術にも改良を加えて、翌1962年(昭和37年)11月試作を完了、1963年(昭和38年)4月、“富士フイルム感圧紙”の商品名で販売を開始した。  
販路の開拓−「プル作戦」の展開  
“感圧紙”の試作完成に伴い、1962年(昭和37年)11月、当社は営業担当部門として紙業部を設置した。紙業部は“感圧紙”のほか、今泉工場の高級上質紙の販売をも担当したが、“感圧紙”については全く新しい製品であり、ゼロから出発しなければならなかった。  
当時、“感圧紙”の最大の市場と目されたのは、各種の伝票など、いわゆる帳票市場であった。この分野では、裏カーボン紙が用いられており、裏カーボン紙から“感圧紙”への切り換えを図ることに営業活動の最大のポイントをおいて顧客の開拓を進めていった。  
「お得意さまを汚さない紙」−“感圧紙”の販路の拡大に当たって、当社が打ち出したキャッチフレーズは、この一語であった。  
しかし、紙業界で限られた販売ルートしかもたなかった当社がノーカーボン紙の市場に出ていくには、うたい文句だけではどうにもならなかった。“感圧紙”という新しいマーケットを形成していくには、なによりも当社自身の強力な顧客開拓努力が必要であった。  
こうした市場の状況下で、マーケットの創造を目指して当社が展開したのが「プル作戦」、すなわち顧客引き込み作戦であった。まず最終ユーザーである顧客を説得して、ユーザーから印刷会社に、印刷会社から当社の販売代理店へと注文を出してもらうという作戦である。このため、最終ユーザーである各企業の帳票発注部門や帳票設計者にダイレクトメールを発送したり、講習会を開いたりして、“感圧紙”のメリットを徹底して訴えていった。  
こうした努力が認められ、東京都庁や国鉄などへの大量納入も行なえるようになり、“感圧紙”を採用する顧客が次第に増加してきた。また、この間に、当社製品の販売ルートも徐々に整備・充実していった。この段階に至って、「プル作戦」とともに、紙卸商を通して流通ルートに沿って攻めていく「プッシュ作戦」を併用する方針に切り換え、さらに市場の一層の拡大と市場での地歩の向上を目指した。  
富士宮工場に感圧紙工場を建設  
発売以来の市場開拓努力によって、“感圧紙”の販売量は徐々に増大していった。このため、小田原工場のパイロットプラントだけでは生産が間に合わなくなり、生産能力の増強を求められるに至った。  
すでに、富士宮工場でバライタ紙およびその原紙を製造していたので、紙関係の製造部門をここに集中する方針を立て、感圧紙製造の新工場も富士宮工場の構内に建設することとした。1965年(昭和40年)1月、鉄筋コンクリート平屋建新工場を完成したが、その製造能力は小田原工場のパイロットプラントに比べて調液装置が約10倍のスケール、塗布機も倍幅で約3倍の塗布スピードとなった。  
広幅で塗布した感圧紙をユーザーに供給するためには、さまざまな裁断加工作業が必要となる。そこで、1965年(昭和40年)2月、資本金100万円にて、アヤセ紙工株式会社(現富士テクニス株式会社)を設立し、神奈川県高座郡綾瀬町(現綾瀬市)に工場を建設して、感圧紙の加工作業を開始した。  
また、時を同じくして、紙業界の大手代理店である株式会社岡本と感圧紙の販売代理店契約を締結し、販売体制の基礎を固めた。さらに、1967年(昭和42年)12月には、当社直系の販売代理店である大化洋紙店を充実・強化するとともに、社名を富士特殊紙株式会社と改め、感圧紙販売活動の積極化を図った。  
一方、生産面では、感圧紙の需要の拡大に対応して、富士宮工場に塗布機と抄紙機の増設を計画した。そして、1968年(昭和43年)9月には、第2号塗布機を完成、稼動を開始し、また、感圧紙の原紙の抄造のため、大型高性能の薄紙専用抄紙機を設置し、1969年(昭和44年)4月から、感圧紙原紙の抄造を開始した。これによって、原紙から塗布・加工までの感圧紙の一貫生産体制が確立した。  
「富士グリーンサークル」の結成と新製品の発売  
販売体制の整備と富士宮工場での増産体制の整備によって、“感圧紙”の生産・販売量は年々増大していった。一方、当社の発売とほぼ時期を同じくして、大手製紙メーカーのノーカーボン紙市場への新規参入が相次ぎ、市場では激しい販売競争が展開された。  
こうした状況に対応して、“感圧紙”を取り扱う流通業者や印刷会社の組織化を目的として「富士グリーンサークル」を結成するとともに、最終ユーザーの組織化を目指して「ビジネスインフォメーションサークル」(BIC)を発足させ、“感圧紙”の普及と拡販を図っていった。  
「富士グリーンサークル」は、“感圧紙”を主力に取り扱う代理店・紙卸商・印刷会社と当社との相互理解を図り、相互の繁栄を図ることを目的として、印刷会社を正会員とし、代理店・紙卸商・当社を賛助会員とする組織で、1967年(昭和42年)4月に発足した。「富士グリーンサークル」は、会報を発行し、“感圧紙”の商品知識についてのセミナーや工場の見学会、親ぼく会を開催するなど、積極的な活動を展開した。また、“感圧紙”の拡販のために紙卸商の占める役割が増大してきたので、「富士グリーンサークル」の中に紙卸商の商圏を軸とした核組織を構成することとし、1969年(昭和44年)3月に、紙卸商別グリーンサークルを発足させ、それぞれの紙卸商が中心となってサークルを運営することとした。  
一方、「ビジネスインフォメーションサークル」は、1969年(昭和44年)4月、“感圧紙”を使用する最終ユーザーあるいは潜在ユーザーの組織化と情報提供を目的として発足させたもので、各企業や団体の帳票の管理・購入担当者やコンピューター部門の帳票担当者を対象とし、事務合理化セミナーや工場見学会、機関誌の刊行などの活動を行なった。  
また、この時期、新しい市場として登場してきたのが、コンピューター関係の市場である。  
コンピューターのアウトプット用紙としてのノーカーボン紙の適性が高く評価され、コンピューターの普及に伴ってノーカーボン紙の膨大な市場が形成された。当社も、このコンピューター関係市場に向けて“感圧紙”の使用を積極的にアプローチし、1968年(昭和43年)には、OCR(光学式文字読取装置)用紙とMICR(磁気読取装置)用紙を発売した。また、1967年(昭和42年)には、ブルーに発色する従来の“感圧紙”に加えて、新たに黒色に発色する“富士フイルム感圧紙ブラック”を発売し、“感圧紙”のシェアアップに大きな威力を発揮した。  
さらに、1972年(昭和47年)7月には“富士フイルム感圧紙プレスブルー”および“富士フイルム感圧紙プレスブラック”を発売した。これは、従来の“感圧紙”が上用紙(A紙)、中用紙(B紙)、下用紙(C紙)の組み合わせでコピーをとっていたのに対し、1枚の紙の表面に発色剤と顕色剤が二重に塗布されており、表面に圧力を加えるとカプセルが壊れて発色するようにしたものであった。発色が鮮明で長期保存が可能であり、凸版印刷機やオフセット印刷機での印刷ができるなどの特長を有し、“感圧紙”の用途の拡大に大きな力を発揮した。 
磁気記録材料へのチャレンジ / 最初のビデオテープ国産化  
音声記録用に利用されはじめた磁気テープについて、いち早くビデオテープの可能性に着目し、1954年(昭和29年)から研究に着手、1959年(昭和34年)、NHK技術研究所で、試作品の録画・再生テストに成功する。その後、品質の改良を重ね、1963年(昭和38年)、NHKに正式納入する。また、民間放送局にも、相次いで採用され、品質が優れていることが高く評価される。一方、磁気録音テープの研究も進め、1960年(昭和35年)、オープンリールテープを発売し、1969年(昭和44年)には、カセット時代の到来に対応して“富士カセットテープ”を発売する。この間、コンピューター用磁気テープも発売し、総合磁気記録材料メーカーとしての基盤を確立する。 
放送用ビデオテープ、NHK技術研究所で録画に成功  
1959年(昭和34年)2月5日は、当社の磁気記録材料事業にとっては歴史的な日となった。すなわち、この日、東京砧のNHK技術研究所で、初めて、当社で試作した2インチ(50.8mm)ビデオテープの録画・再生テストに成功した。  
「そのころは、当社ではまだビデオテープレコーダーを持っていなかったので、テープをNHKにもっていって実験してもらいました。テープのパイロットプラントをつくるために受けた工業化試験助成金が850万円なのに、当時、NHK技術研究所にあったわが国で2台目のビデオテープレコーダー(VR−1000)は3千何百万円かのもので、ヘッドだけでも70万円もしていましたので、機械をこわしたら大変です。ビデオテープレコーダーの機械がないので、事前に再生テストをすることができず、機械をこわさないか、ちょっと不安もありました。それで、実験の前日まで、切ったり、巻いたり、箱に入れるなど、徹夜で作業し、まるで宝物でも運ぶように大切に抱きかかえて、NHKへもっていったのです。  
当日、いよいよテストが開始されました。1分間ぐらい録画して巻き返し、さあ画が出るかなと、再生ボタンを押しました。果たして画が出るか出ないか、関係者たちの目は一斉に1台のテレビに注がれました。再生ボタンを押してから画が出るまで数秒あるのですが、それまでの間、画が出るか出ないか、あるいはヘッドが詰まったりしないかと、気が気ではありませんでした。次の瞬間、非常にきれいな画がパッと出てきたのです。すると、NHKの担当者もみな、一斉にオオーッというような感嘆の声をあげました。わずか数分間ではありましたが、NHKのテストパターンがテレビの画面に再現されたのです。早速、研究所長に“画が出ました”と電話で報告しました。」  
ビデオテープの開発に心血を注いできた明石五郎(元常務取締役磁気記録研究所長)は、この時の模様を、このように回想している。  
磁気記録材料の研究に着手  
当社が、研究所において、磁気記録材料の研究に着手したのは、1954年(昭和29年)のことで、NHKがテレビの本放送を開始した翌年だった。当時のテレビ放送は、まだビデオテープが出現していないので、すべて生放送かフィルム番組で放送されていた。研究所長藤澤常務は、「音を記録している録音テープは、結局は電気信号を記録しているのであり、テレビも電気信号で画を出しているのだから、テレビ用の磁気テープができないはずはない」との確信のもとに、その研究を開始した。将来、光学録音方式の映画用サウンドフィルムが磁気録音方式に代替されていくことも予測され、また、映画用フィルム全体がビデオテープの影響を受けるのではないかとの危ぐもあり、その対策としても、磁気記録材料の開発が必要であった。  
磁気を科学的に利用し、磁気記録として実用化に成功したのは、デンマークの科学者プールセン(V.Poulsen)で、彼は、1898年(明治31年)、針金を使った磁気録音機を発明し、現在の磁気記録の基礎を確立した。  
その後、針金に代わって鋼帯が録音体として利用されたが、しばらくして、ドイツで、プラスチックのフィルムベースに酸化鉄を塗布する現在の磁気テープのタイプのものが開発された。一方、米国では、1944年(昭和19年)ごろに、ミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチュアリング社(スリーエム社)が磁気録音テープの開発に着手し、1946年(昭和21年)には、アンペックス社がテープレコーダーの開発に成功した。  
日本でも、戦時中に磁気録音の研究が行なわれていたが、1950年(昭和25年)に、東京通信工業株式会社(現ソニー株式会社)が紙に磁性体を塗布した磁気録音テープを発売した。  
当社の研究は、まず、磁気テープに関する資料集めや磁気録音技術のマスター、磁性体(磁性反応のある材料)の基礎的な研究などから、手探りで始められた。  
実験室で初めて試作した酸化鉄磁性体を紙テープに塗布し、テープレコーダーにかけて録音試験を行なったところ、音量は少なかったけれども一応音が再生できたので、実験の関係者一同大喜びをした。そんなスタートであったのである。  
この基礎的実験を足がかりとして、いよいよ本格的な研究に入っていった。そして、1956年(昭和31年)には、磁性体の製造について一応の見通しを得るに至った。  
この研究の成果は、まず、マグネオストライプ用の磁性体として実用化された。この磁性体は、現像済みの8mmフィルムに録音することができるようにフィルムのエッジに塗り付けるもので、マグネオストライプは、1958年(昭和33年)10月から富士天然色写真株式会社で実用化された。  
折しも、1956年(昭和31年)には、アンペックス社が回転ヘッドを用いた放送用ビデオテープレコーダー(VTR)の実用化に成功、さらに、1959年(昭和34年)には、RCA社とアンペックス社が放送用カラーVTRを発表した。磁気テープによる画像記録の実用化は予想をはるかに上回るスピードで実現されたのであった。  
そこで当社では、磁気記録テープの開発計画をさらに進めて、小田原工場にパイロットプラントを建設することとし、1958年(昭和33年)、通商産業省から850万円の工業化試験補助金を受けて、それを完成した。このパイロットプラントは、かなりの規模をもったもので、ビデオテープをはじめ各種磁気記録テープ類の試作に大きな力を発揮した。  
放送用ビデオテープの品質改善と製造工場の建設  
1959年(昭和34年)2月、NHKで録画・再生に成功したとはいっても、まだやっと映像が再現されたというだけで、とても実用に耐えるものではなく、解決しなければならない点が数々あった。最も重要な問題は、ドロップアウト(ビデオの再生画面に、水平に白いスジなどのノイズが入る現象)をいかに減らすかということであった。このとき、きれいな空気の中でフィルムを塗る技術をはじめとして、当社が写真感光材料メーカーとして長年にわたって培ってきた技術が大いに役立った。製造工程の改善、磁性体やバインダー(磁性体とテープ、あるいは磁性体どうしをつなぎ合わせ、接着させるための素材)の改良などを進めるほか、塗布液ろ過技術・裁断技術・乾燥技術などを応用して、ドロップアウトの削減に全力を傾注した。  
1961年(昭和36年)3月、従来研究所で行なっていた研究・試作業務を小田原工場に移管した。  
1962年(昭和37年)には、ほぼ実用に供し得るビデオテープを製造できるようになり、同年8月、小田原工場に磁気記録テープ製造工場を建設し、本格的な製造を開始した。この工場は、パイロットプラントで確立された技術を基礎に、量産化を目指した工場であり、この工場の稼動によって磁気テープの製造能力は大幅に向上し、特に、製造上最も重要な品質の均一性という点で高い水準を保てるようになった。また、裁断機など加工設備も整備した。これに伴い、翌1963年(昭和38年)10月には、これを小田原工場磁気材料部とした。  
録音テープの発売  
磁気記録テープの開発に当たって、まず、ビデオテープの商品化に最大の努力を傾注してきたが、並行して、録音テープやコンピューター用テープなどの開発も進めてきた。  
当社が磁気記録材料製品として最初に商品化したのは、日本ビクター株式会社の開発した“マグナファックス”用の磁気シートである。“マグナファックス”というのは、円盤式の磁気録音機で、一般のレコード盤の代わりに、磁気円盤(マグネティックディスク)に音声を記録し、専用の磁気ヘッドで再生するもので、1959年(昭和34年)12月、これに使用する磁気シートを同社に供給した。  
一方、放送局などの業務用に使われ出した録音用テープレコーダーは、その後、学校などの視聴覚教育の場で使われはじめ、また、音楽鑑賞用として個人の間にも普及していった。  
当時はまだ、オープンリールのテープで、テープレコーダーと合わせて、主として電器店ルートで販売されていた。磁気録音テープを商品化したものの、電器店のルートにはなんらの足がかりも有していなかった。そこで、1960年(昭和35年)9月、電器店ルートや放送用機器などに販売力をもつ東京芝浦電気株式会社(現株式会社東芝)と製造販売および共同研究について契約を締結し、同年12月“東芝−富士フイルムサウンドテープ(S−100)”の商品名で磁気録音テープを発売した。これは、磁性体にはガンマ酸化第二鉄を、支持体にはセルローストリアセテート(TAC)べースを使った標準テープで、3号(62m巻き)、5号(185m巻き)、7号(370m巻き)の3種類があった。  
その後、べースの厚みを薄くして巻きの長さを50%増とした“S−150”、S/N比(ある信号に雑音がどれだけ混じっているかを示す値、音が澄んで聞こえる度合いを示す)を向上させた高出力テープ“H−100”を発売し、製品ラインを強化していった。  
当社の磁気録音テーブは、その優れた品質を高く評価されて各放送局に採用された。しかし、録音テープの分野では、競争が激しく販売量の増大を図ることは容易ではなかった。それを打開する意味もあって、1965年(昭和40年)9月、東京芝浦電気との契約改訂期に、録音テープについては、東京芝浦電気と競合しない取引先に対しては当社独自の販売活動も行なうことに改め、また、当社独自の商標を表示することにした。  
この契約改訂に基づき、1965年(昭和40年)11月、自社ブランド製品を“富士フイルムサウンドテープ(S−100)”として販売を開始した。同時に、“富士フイルムホワイトテープ(SW−100)”も発売した。これは、諸特性は“S−100”と同じであったが、べース面にメモを筆記できるように、TACべースに酸化チタンを混入してべースを白色化したもので、録音内容の検索や編集の便を図ったものであった。  
1966年(昭和41年)6月には“富士フイルムエンドレステープ”を発売し、ミュージックテープメーカーに供給した。このテープは、ループになっても走行性をそこなわないように、テープのバック側に特殊な潤滑剤を塗布したものであり、当社からは生テープを供給して、ミュージックテープメーカーやプリントメーカーで音入れを行なってユーザーに販売されたが、カーステレオやホームステレオの普及で出荷量も増大し、増産に次ぐ増産で対処した。このため、エンドレステープは、この時期、磁気テープ生産量の大半を占めたほどで、磁気テープ事業の採算向上にも大きく貢献した。  
また、これより先の1960年(昭和35年)12月には、35mm幅の“富士フイルムマグネティックサウンドレコーディンクフィルム”を発売した。これは、映画用フィルムと同じ形状の磁気記録テープで、映画の音声の録音編集用として使用されるもので、かねてから国産化の要請が強かったものであり、翌1961年(昭和36年)には、16mm製品を追加発売した。  
カセットテープの発売と販売体制の整備  
録音テープは、当初はテープをリールに巻いたオープンリールのテープであったが、1962年(昭和37年)、オランダのフィリップス社は、テープをカセットに組み込んだコンパクトカセットシステムを開発した。同社は、それを統一規格のワールドタイプとすべく、特許を無償公開した。このコンパクトカセットは、従来のオープンリールテープに比べるとはるかに小型で、取り扱いも簡単なため、極めて短期間に全世界に広がっていった。日本でも、電機メーカーや音響機器メーカーが、カセットレコーダーやラジオ付きカセットレコーダー(ラジカセ)の製造に乗り出し、カセットテープ時代が訪れた。  
他社に若干遅れたが、1968年(昭和43年)4月、フィリップス社と特許使用に関する契約を締結し、カセットテープの開発に着手した。そして、まず1968年(昭和43年)6月、カセットテープ用として使用される長尺テープの製造を開始し、ミュージックテープメーカーやプリントメーカーに納入した。  
これより先、1968年(昭和43年)9月、東京芝浦電気との契約期間が満了したのを機として、カセットテープを自社ブランドで販売することとし、同じ月に設立された富士オーディオ株式会社を販売特約店として、電器店・楽器店ルートヘの販売と、エンドレステープの納入に当たらせた。  
次いで、1969年(昭和44年)4月、“富士フイルムカセットテープ”を発売した。C−30(45m、30分用)、C−60(90m、60分用)の2種類で、支持体にはポリエチレンテレフタレート(PET)べースを使用した。  
翌1970年(昭和45年)8月には、販売力の強化のため、販売特約店富士オーディオ株式会社に資本参加し(資本金1、000万円に増資)、関西にも同社の営業所を開設した。翌9月には、当社の営業部門として磁気材料部を新設して、販売体制の構築を図った。  
放送用ビデオテープの伸長  
一方、放送用ビデオテープの分野では、1963年(昭和38年)4月、長い間待ち望んでいた“東芝−富士フイルム放送用ビデオテープ”を発売し、NHKへの正式納入を開始した。録音テープの販売で提携関係にある東京芝浦電気を通じて販売することとした。  
1964年(昭和39年)には、民間放送連盟の承認を受け、各テレビ局への納入を開始した。この年には、東京オリンピックの開催と相まって、放送用ビデオテープの需要全体も増大したが、当社では、製造工程の改善などによって得率の向上を図り、需要増に応えた。当社品は、その品質が優れていることが評価されて、それまで独占状態にあった輸入品を圧倒し、放送局におけるビデオテープのシェアを急速に伸ばしていった。  
このころから、テレビ局のカラー放送が増加してきたが、1967年(昭和42年)8月には、解像力、表面性、S/N比を高めたカラー放送用ハイバンド“H700”を発売し、その高性能と品質の均一性により、高いシェアを占めるに至った。  
家庭用ビデオテープの台頭  
放送用として実用化されたビデオテープは、工業用・業務用の分野にも普及するようになった。さらに、1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて、1/2インチ(12.7mm)幅の家庭用ヘリカルスキャン(回転ヘッドの周りをテープが斜めに走行する記録方式)VTRがソニー、次いで松下電器産業、日本ビクターで開発された。  
主として松下電器産業のVTR開発部門とコンタクトし、試作テープを提供、評価を受けて、開発を進め、1966年(昭和41年)には松下電器産業にテープを納入、次いで日本ビクター、東京芝浦電気、三洋電機などと、自社でテープを生産しているソニー以外のほとんどすべてのVTRメーカーにテープを納入するに至った。  
しかし、この時期には、まだVTRは本格的な需要期に入らず、テープの型式も各社ごとに異なり、後に、VHS方式やべータ方式のビデオカセット式VTRが、1977年(昭和52年)ごろに立ち上がるまでは、需要は緩慢な伸びで推移した。  
コンピューター用磁気テープの開発  
コンピューターには、外部記憶装置として磁気テープ(コンピューター用テープ)ないし磁気ディスクが用いられるが、コンピューターが普及しはじめた1960年代当初、日本国内にはコンピューター用磁気テープを製造できるメーカーがなく、海外メーカーの製品が使用されていた。そこで、コンピューター用磁気テープの国産化を目指して、その開発に着手した。  
コンピューター用磁気テープは、感度やS/N比よりもドロップアウトが少なく、丈夫で走行性に優れていることが第一条件である。ビデオテープの開発で培われた技術を活用して、短時日のうちにその開発に成功し、1965年(昭和40年)11月、“富士フイルムメモリーテープ”を発売した。コンピューター用テープにはほんのわずかの欠陥も許されないので、全長を完全検査のうえ出荷したが、優れた製造技術と品質に対する厳重なチェックによって、ユーザーの信頼をかちとり、外国製品を次第に駆逐していった。  
生産体制の拡充  
このようにして磁気記録材料製品の販売伸長を図った結果、サウンドテープ・エンドレステープおよびビデオテープなどが増加の一途をたどり、生産能力に不足をきたしてきたので、1968年(昭和43年)9月、増設計画に着手した。しかし、需要がさらに大幅に増大する見通しから、途中でこの計画を拡大修正して工事を進め、1971年(昭和46年)1月に完成、本稼動を開始した。  
増設した塗布機は、従来の塗布機と比較して、倍幅・倍スピードと約4倍の塗布能力を有するもので、これによって、急増する需要に対応し、当社の磁気記録材料事業はさらに大きく飛躍していくこととなった。  
電子写真へのチャレンジ / 富士ゼロックス社設立とEPM完成 
新しい写真法として電子写真が登場し、実用化の時代を迎える。いち早く電子写真に着目し、研究を開始、1961年(昭和36年)、ランク・ゼロックス社と技術提携契約を結び、翌1962年(昭和37年)2月、合弁会社として富士ゼロックス株式会社を設立する。当初は、製造を当社が、販売を富士ゼロックス社が担当して出発するが、電子複写機“ゼロックス”は予想を上回る急成長を遂げる。1971年(昭和46年)、当社の製造部門である竹松工場を富士ゼロックス社に移管し、富士ゼロックス社は、製造・販売を一体化して、より大きな飛躍を遂げていく。この間、当社は電子写真の用途開発を進め、電子写真罫書き装置“EPM”、鋼板マーキング装置“TM”を完成する。  
電子写真の研究  
従来の写真がハロゲン化銀が光の作用で還元される性質に基づく化学的写真法であるのに対し、光の作用で電気が流れやすくなる物質を利用した電子写真法が、物理的写真法として登場してきた。  
電子写真法は、多数の変形を含むが、発展の初期には、ゼログラフィー方式とエレクトロファックス方式の二つが主体であった。  
この電子写真について、早くから着目した。将来性の高いこの技術は、当社の主力事業たる銀塩写真の分野に、早晩少なからぬ影響を及ぼすことが予測されるので、当社として早急に開発に取り組むべき課題であると考え、技術情報の収集に努め、基礎的な研究に着手した。  
1955年(昭和30年)からゼログラフィー方式について本格的な研究に着手、翌1956年(昭和31年)、初めて電子写真像を得ることに成功した。  
しかし、電子写真の分野は技術的にも高度で、特許の壁も厚く、当社が独自に開発するには相当長期間かかると予測された。そのため、ランク・ゼロックス社にゼログラフィー方式の技術導入の可能性について打診を行なうとともに、RCA社とエレクトロファックスの技術導入交渉も進めた。  
RCA社では、エレクトロファックスの特許を公開しており、他の日本メーカー3社とともに、1957年(昭和32年)4月、特許実施権の許諾を得た。  
そこで当社は、ゼログラフィーについての研究を進める一方で、エレクトロファックスの商品化に取り組み、1960年(昭和35年)5月、エレクトロファックスによる複写装置“フジックス”を発表した。“フジックス”は、自動複写機“100A”、引伸し用ユニット“200A”、等倍複写装置“300B”の3機種からなり、いずれも、帯電・露光・現像・定着を連続して行なう完全自動型の複写装置で、ボタンを押すだけで鮮明な複写が得られる画期的な複写システムであった。“フジックス”は、ビジネスショーに出品して大きな注目を浴び、その発売に大きな期待が寄せられた。  
しかし、並行して進めていたゼログラフィーの研究が大きく進展し、ランク・ゼロックス社と合弁で富士ゼロックス株式会社を設立、ゼロックス事業に進出することになったため、競合を避けるべく“フジックス”の発売は見送った。  
富士ゼロックス株式会社の設立  
ゼログラフィーは、米国のカールソン(C.F.Carlson)が、1938年(昭和13年)、いおう・セレンのような物質の光電導効果を静電荷像形成に結び付ける像形成技術を発明したことに始まる。カールソンのアイデアは、その後、バテル研究財団で具体化され、ハロイド社(後にハロイド・ゼロックス社と改称、現在のゼロックス・コーポレーション)によって事業化された。同社は、1950年(昭和25年)、ゼログラフィーのプロセスを応用して簡易オフセットの刷版をつくるための“ゼロックスモデルA型”複写機を開発し、発売した。  
ゼロックス事業への進出に当たっては、特許の関係から技術を導入するほうが得策であるとの判断から、1957年(昭和32年)9月、極東地域で製造販売権を有するランク・ゼロックス社に対し、日本における製造および販売のライセンス譲渡を申し入れた。これに対し、ランク・ゼロックス社は、まだ技術が未熟でライセンスどころではないが、将来、時期が来たら最初に当社と交渉するとの回答をよこした。  
その後、1958年(昭和33年)1月、ランク・ゼロックス社から、ライセンス交渉を進める時期が来たとの連絡があり、技術提携交渉が具体化していった。  
この間、研究所では、すでに複写装置および処理法の研究に着手していた。さらに、1958年(昭和33年)1月には、研究所小田原分室に感光プレートの試作のため真空蒸着装置を設置して、研究を本格化させた。そして同年11月、ゼログラフィー研究の現況報告書をランク・ゼロックス社に提出すると同時に、セレン感光板・現像剤の試作見本と、プリントサンプルを送付した。  
これによって、当社の技術力が改めて高く評価され、このことが、ランク・ゼロックス社が当社を提携パートナーに選定するための一つの要因となった。  
1959年(昭和34年)6月、事業の多角化戦略を推進するために、本社に開発部を新設し、その多角化戦略の一環として、ゼロックス事業の事業化計画の具体的検討を開始した。  
一方、同年9月、ハロイド・ゼロックス社は、複写機“ゼロックス914”を発表した。“ゼロックス914”は、普通紙にコピーのとれる世界初の完全自動複写機で、新しい複写時代の到来を告げるものとなった。  
その直後の10月、ランク・ゼロックス社の首脳が相次いで来日し、日本におけるゼロックス事業の展開方法について当社と協議を行なった。その結果、同年11月、合弁で新会社を設立し、日本におけるゼロックス事業を行なうという提携の基本方針がまとまり、覚書を取り交わした。  
この基本方針に基づき、合弁事業・技術援助・製造などに関する具体的条件について交渉を重ね、翌1960年(昭和35年)12月、ランク・ゼロックス社との間に合弁会社設立の共同事業契約を調印し、また、ランク・ゼロックス社と、富士ゼロックス株式会社設立発起人代表たる当社との間で、技術援助契約を調印した。  
ランク・ゼロックス社が当社を提携先として選定した理由としては、先に述べた技術力の評価と並んで、当社の経営陣に対する強い信頼があったことがあげられる。技術と品質、そして何よりも信用を重視する当社の経営姿勢とゼロックス事業に対する積極的な熱意が、両者の提携に導いたといえる。  
翌1961年(昭和36年)3月には、小田原工場に電子部電子写真課を設置した。研究所電子写真研究室をここに移管するとともに、電子写真課で電子写真材料の製造を担当することとし、生産設備の建設計画を進め、事業開始に備えた。さらに、同年7月には富士ゼロックス設立準備本部を設置し、準備を急いだ。  
1961年(昭和36年)12月5日、ランク・ゼロックス社との技術提携が政府の認可を得たので、直ちに新会社の設立手続きを進め、翌1962年(昭和37年)2月20日、富士ゼロックス株式会社の創立総会を開催し、同社の誕生をみた。払込資本金は2億円、当社とランク・ゼロックス社が50%ずつを出資し、全く対等の合弁会社であった。役員も、双方同人数に、取締役5名ずつ、監査役1名ずつを選任した。取締役社長に小林節太郎(当社取締役社長)、取締役副社長にT.A.ロウ(Mr.T.A.Low、ランク・ゼロックス社社長)、専務取締役に庄野伸雄(当社取締役開発部長)が、それぞれ選任された。  
ゼロックス事業への進出に当たっては、ランク・ゼロックス社との契約によって、当初は、富士ゼロックス社は販売のみの会社としてスタートし、消耗品(感光ドラム、現像剤など)の生産は当社が、機器の生産は富士写真光機株式会社が、それぞれ担当した。  
富士ゼロックスは、発足以来、積極的な営業活動を展開した。発足当初の主力製品“ゼロックス914”複写機は、この分野の商品としては前例のないレンタルシステムを採用した。営業拠点も逐次全国に拡大し、事業は順調に伸長した。  
竹松工場の建設と移管  
ゼロックス複写機に用いられる感光体であるドラムとトナーなど消耗品の生産は、小田原工場に建設中の設備の完成により、1963年(昭和38年)4月から開始された。同年10月には、電子写真課を電子写真部とし、生産体制の整備を図った。  
しかし、ゼロックス複写機の設置台数は予想をはるかに上回るスピードで増大を続け、小田原工場のドラムその他の消耗品の生産能力が需要に追いつかなくなると見込まれてきた。  
そこで当社は、これら消耗品の増産のため新工場を建設することとし、その建設用地を、足柄工場に近い神奈川県南足柄町(現南足柄市)竹松地区に決定した。新工場は、1968年(昭和43年)1月に完成し、当社竹松工場として稼動を開始した。続いて、第2次工事として、現像剤部門・研究部門・倉庫その他の建設に着工、1970年(昭和45年)3月にしゅん工した。これによって、竹松工場は、ゼロックス複写機に用いられるドラム・トナーなど、ゼロックスの消耗品生産の総合工場となった。  
この間、販売会社である富士ゼロックス社も拡大を続け、1970年(昭和45年)には資本金32億円、従業員2、000名を超える大企業に発展した。そして、「日本でもっとも成功した合弁事業」と賞賛されるまでになった。  
しかし、ちょうどこのころから、乾式コピーの分野に新規参入する企業が相次ぎ、創立以来8年間にわたった独占時代に終わりを告げた。こうした環境の変化に直面して、市場を維持し、成長を続けていくためには、製造および技術開発部門と販売部門とを一体化して、機動的に運営していくことが必要となった。そこで、製造部門たる当社竹松工場および複写機を生産している岩槻光機株式会社(富士写真光機株式会社の子会社)を販売部門(富士ゼロックス社)に統合することになり、1971年(昭和46年)4月、竹松工場を富士ゼロックス社に譲渡した。これに伴い、竹松工場の従業員も富士ゼロックス社に移籍した。  
竹松工場と岩槻光機の移管を受けた富士ゼロックス社は、製造・販売を一体化することによって、機動的・効率的経営を実現し、より大きな飛躍を遂げていった。そして、米国のゼロックス・コーポレーション、英国のランク・ゼロックス社とともに、世界のゼロックス事業網の3大拠点の一つとして、日本市場において盤石の地盤を築くとともに、東南アジア地域にもその事業を拡大していった。  
1983年度には、同社は、資本金100億円、年間売上高は2、489億円の一大企業に発展し、その事業分野は、広く事務機器および関連システム分野にも急速に拡大している。  
“EPM”の事業化  
電子写真の研究は、ゼロックス事業への進出として結実し、富士ゼロックス株式会社という一大企業を生み出した。富士ゼロックス社の設立に伴い、エレクトロファックス方式による“フジックス”の商品化はとりやめたが、富士ゼロックス社の事業と競合しない分野で電子写真技術の応用を図っていった。  
1961年(昭和36年)2月、当社に対し、新三菱重工業株式会社(現三菱重工業株式会社)神戸造船所から、甲南カメラ研究所を通じて、造船業に欠かせない罫書き(ケガキ)作業を写真的な方法で効率化できないかという相談が寄せられた。  
罫書きというのは、鋼板などを加工する際に必要な図形や注意書きなどを鋼板上に書き込む作業である。従来、作業はすべて人手によっており、造船業の工程短縮のためのネックになっていた。  
この相談を受けた当社は、電子写真法を応用してその可能性を追求することとした。  
そこで、材料(感光剤と処理剤)については当社小田原工場、機械は甲南カメラ研究所、実験は新三菱重工業神戸造船所と、三社が協力して研究を進め、1962年(昭和37年)9月、2m×2mの実験装置を完成し、電子写真による罫書き、すなわちElectroPrintMarkingの頭文字をとって“EPM”と命名した。  
“EPM”は、暗所で電荷を与えると感光性をもつ光電導性物質(酸化亜鉛を含んだEPM感光剤)を利用して鋼板上に罫書きを行なうもので、まず、鋼板にEPM感光剤を塗布し、それをEPM装置に送り込んで帯電させ、そこに10分の1の原図を投影し、感光・粉末現像・定着して送り出すという仕組みであった。作業は押しボタン式の簡単な操作で、作業時間は2人の作業員で約10分という画期的なものであった。  
その後、“EPM”を長尺大型鋼板に実用化するための問題点の解決に努め、1965年(昭和40年)8月、三菱重工業神戸造船所に4m×16mの大型EPM装置を納入し、また、同時に、日本鋼管株式会社鶴見造船所にも大型装置を納入した。  
次いで、三菱重工業広島造船所から3号機を受注したのを機に、新方式の開発を進め、鋼板に感光剤を塗布する代わりに、光電導性の微粉末を帯電して鋼板上に均一に散布して露光し、そのあとで不要の粉末を吹き払って画像を形成し定着させるという方式を確立した。  
この方式は、EPM感光剤の塗布乾燥工程がないので、処理時間が短縮できるうえ、光電導性の微粉末と定着剤だけですみ、しかも、光電導性微粉末は吹き払ったあと回収して再使用ができるなど、従来の方式と比べ優れた特長を有していた。この新方式の“EPM”は、1967年(昭和42年)5月に納入を完了したが、新方式の完成によって作業効率は大幅に向上し、ランニングコストも30%減少するなどの大幅な前進がみられた。  
新方式の完成によって、“EPM”は、造船・重機メーカーからの発注が相次ぎ、納入先はわが国の大手造船会社をほぼ網羅するに至った。  
また、“EPM”装置は、造船所の合理化の一環として海外からも注目され、1975年(昭和50年)には、台湾およびインドの造船所に納入された。  
造船業の工程上のネックであった罫書き作業の効率化を実現したEPM装置の開発に対して、日本の造船業の合理化に貢献した功績を認められ、恩賜発明賞・科学技術庁長官奨励賞をはじめ、各界から多くの賞を受けた。1971年(昭和46年)11月には、当社の開発担当者杉一郎をはじめ、三菱重工業、甲南カメラ研究所の各開発担当者に対し紫綬褒章がおくられた。  
鋼板マーキング装置“TM”の開発  
EPMの技術を応用して、新しい用途の開発を進め、静電記録式鋼板マーキング装置“TM”を完成した。  
鋼板マーキングというのは、製鉄所で連続的に生産される鋼板に、その商品の規格・寸法・製造番号・社章など必要な情報を記入する作業である。従来は、あらかじめブリキ製のステンシルで必要項目を作成し、それを組み合わせて塗料を吹きつける方法をとっていたが、この方法は、人手を要する手作業のうえに労働安全衛生上からも好ましくなく、またマーキング内容が限定されるなど、その改善が求められていた。  
そこで当社は、新日本製鐵株式会社と共同で静電記録を応用した鋼板マーキング装置の開発を進め、試作機を完成、同社君津製鐵所で現場実験を行なった。  
この試作機は、装置が小型で設置が容易であるうえ、豊富な情報を同時マーキングでき、高温(400℃)の鋼板にも適用できるなどの優れた性能を示した。“TM”と名付けたこの自動鋼板マーキング装置は、同製鐵所から実用機を受注、1979年(昭和54年)に納入し、次いで翌1980年(昭和55年)には、同社八幡製鐵所にも納入した。 
各種プラスチックフィルム製品の発売とヒートロンの開発
写真フィルムの支持体として開発したプラスチックフィルムの優れた特性を生かして、多方面の用途の開発を進め、セルローストリアセテートを応用した“フジタック”・“セパラックス”・“ミクロフィルター”、PETを素材とした“PTフィルム”、溶融製膜技術を利用した“シーロンフィルム”を発売する。これらの製品は、その優れた特性を生かして、電気絶縁材料、製図用材料、印刷用素材などの産業用分野で、あるいは、電気泳動分析用支持体や、ろ過用フィルターとして、多くの分野で使用されていく。また、光学ガラスの生産技術の応用分野として、透明な結晶性耐熱ガラス“ヒートロン”を開発する。
“フジタック”、“セパラックス”の発売  
当社が写真フィルムの支持体として開発したセルローストリアセテートを主原料とする不燃性TACべースは、美しい表面性とクリアーな透明性に加えて、物理的・化学的・電気絶縁特性に優れている。このプラスチックフィルムを単にフィルムベースとして使用するだけでなく、事業分野の拡大策の一環として、1958年(昭和33年)4月、“フジタック”の商品名で各種用途向けに販売を開始した。  
“フジタック”は、その優れた特性を生かして各種の用途が開発され、電気絶縁材料・装飾材料・製図用材料をはじめ、各分野で幅広く使用された。  
特に、透明性の優れている点を利用して、テレビや映画のアニメーションの原画製作用として使用され、また、デジタル時計、電卓などの液晶表示に使用される偏光膜用プロテクトフィルムとしても活用されており、情報機器端末表示などのディスプレイ市場での用途拡大が見込まれている。  
1964年(昭和39年)12月には、国立遺伝学研究所の協力を得て、病院や検査センターなどで臨床検査用として活用されている電気泳動分析(たん白質の溶液に直流の電圧をかけ、分離分析する方法)に使用されるフィルムとして、TACを素材とする多孔質膜“セパラックス”を開発した。この“セパラックス”を用いる分析法は、血清中のたん白質の異常値を検出して、肝機能障害や骨ずい腫などの診断に役立っている。  
その後、1976年(昭和51年)1月、電気浸透現象の小さい“セパラックスS”を追加発売したが、1978年(昭和53年)6月には、新たに“セパラックスEF”を発売した。これは、検体の微量化・分析精度の向上・精密化の要請に応えて、血清中のたん白を20〜30グループ以上の成分に分けることができるもので、セパラックスの使用範囲をさらに広げていった。  
ろ過用フィルム“ミクロフィルター”の開発  
細菌などの非常に細かい粒子を捕えるため、薄いTACフィルムに無数の微細な孔をもたせ、これでろ過するように開発されたのがメンブレンタイプのフィルターである。  
フィルムベース製造技術を駆使してメンブレンタイプのフィルターの開発に取り組み、TACを用いて、厚さ140ミクロンの多孔質のプラスチックフィルムの開発に成功し、1969年(昭和44年)、“富士フイルムミクロフィルターFMタイプ”として発売した。この“ミクロフィルター”は、まず、生ビールのろ過用に使用されたが、引き続き、ディスクタイプとして、“富士フイルムミクロフィルターFRタイプ”、同“FCタイプ”、同“FPタイプ”を、順次商品レンジに加えた。  
その後、“ミクロフィルター”は、製薬工業・電子工業・醸造業などの除菌ろ過に広く採用されるようになった。そこで当社は、1976年(昭和51年)4月、フィルターをひだ状に折りたたんで、ろ過面積を大きくするとともに、円筒状にしてカートリッジに納めた“富士フイルムミクロフィルターFCCカートリッジ”を発売した。カートリッジタイプとしては、そのほか、電子工業用に、同“FCEカートリッジ”を、前ろ過用として同“FPCカートリッジ”を、また、オートクレーブタイプ(加熱滅菌用)として同“FACカートリッジ”をそれぞれ発売し、多様な用途に応えてきた。  
“PTフィルム”と“シーロンフィルム”  
X−レイフィルムやリスフィルムのべースとして使用されるPETフィルムについても、透明性・耐熱性・耐薬品性・耐水性などの特性に加えて、印刷適性にも優れていることから、産業用としての用途開発を図った。“富士PTフィルム”という商品名で、カレンダー、ポスターやステッカー、レーベル、シール、オーバーヘッドプロジェクター用、ラミネート用などに広く使用され、今後さらに新しい用途開発も期待されている。  
また、PETべースの製造で培った溶融製膜技術を利用して、密封用フィルム“富士フイルムシーロンフィルム”を開発し、1975年(昭和50年)11月、発売した。これは、防じん・防湿に優れた気密性のある薄膜フィルムで、伸張性が大きく、適度の粘着性をもち、しかも55℃からマイナス70℃の範囲の温度で使用でき、水、メタノール、エタノール、アルカリおよび酸に安全であるという優れた性質を有し、試験管やビーカーの密封用として使用されるほか、各種容器の密封、パイプ接続部の漏えい防止、包装用などに広く用いられている。  
結晶性耐熱ガラス“ヒートロン”の開発  
光学ガラスの生産技術の応用分野として、耐熱ガラスに着目した。すでに、1953年(昭和28年)ごろ、米国のコーニング社の耐熱ガラスセラミックス“パイロセラム”についての情報がもたらされていたが、“パイロセラム”が不透明であるのに対し、透明な結晶性耐熱ガラスの商品化を企図した。そして、当社独自の技術によってその開発に成功、1965年(昭和40年)5月、“ヒートロン”の商品名で発売した。  
この間、1964年(昭和39年)6月、1966年(昭和41年)6月と、再度にわたって通商産業省から、それぞれ1、200万円、930万円の産業用新種透明結晶性ガラス工業化試験補助金を受け、自動管引装置を新設し、量産体制を整えた。  
“ヒートロン”は、800℃の高温にも耐えられる耐熱性に加えて、さらに、透明度が高い、赤外線を良く通して熱効率が高い、急熱急冷に強い、薬品に強い、硬度が高い、などの優れた特性をもっており、この特性を生かして、ストーブのほや、フロントガラス、高温炉ののぞき窓、金属被膜抵抗器用の基板などとして幅広い分野に利用された。しかし、利用分野が広い反面、多種少量生産のため、コストは著しく割高となってしまった。  
このため、用途開発と並行して製造技術の改善について研究を重ね、コスト引き下げを図ったが、残念ながら、コストの大幅低減の見通しが得られず、事業として成り立つメドがつかなかった。結局、種々の検討の後、1972年(昭和47年)3月、その製造を中止し、特許実施権およびノウハウ使用権を日本碍子株式会社に譲渡して、この事業を打ち切った。  
売上高1、000億円、資本金100億円を達成
1960年代の10年間、写真需要の拡大とカラー写真の急激な増加によって、写真感光材料事業が大きく伸長する。他方、磁気記録材料、感圧紙、PS版、電子写真などの新規事業に相前後して進出し、事業の多角化が進む。この間、写真感光材料の輸入の自由化が進む中で、輸出の増加とコストの引き下げに努め、1970年度(昭和45年度)の売上高は1、000億円を突破し、利益も向上する。2度にわたり倍額増資を実施、1964年(昭和39年)には、当社資本金は100億円となる。そして、1969年(昭和44年)には、新本社ビルを建設する。また、この年、当社ADRがニューヨークで発行される。翌1970年(昭和45年)には、外貨建転換社債を発行する。
売上高1、000億円へ  
1960年(昭和35年)を迎えた当時の当社の主たる販売品目は、写真フィルム、印画紙、乾板、写真薬品、光学製品、光学ガラスおよび紙であったが、このうち、写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が全売上高の80%強を占めており、次いでカメラなどの光学製品が10%強を占めていた。年間売上高は181億円、輸出比率はわずかに4.2%に過ぎなかった。  
1960年代の10年間、わが国経済は大きく発展したが、当社もめざましい飛躍を成し遂げた。写真需要は拡大し、とりわけカラー写真が急激に伸びてきた。当社の写真感光材料の生産数量も増加し、1970年(昭和45年)までの10年間で、黒白・カラーを合算して、写真フィルムは4倍弱、印画紙は約5倍の伸びとなった。  
このように、銀塩写真感光材料の分野で著しく伸長する一方、新規事業分野も大きく展開していった。磁気記録材料事業・感圧紙事業・PS版事業と、その後大きく育っていった新規事業が、いずれも、この期間に相前後してスタートした。また、電子写真分野で、富士ゼロックス社の事業もスタートした。  
その結果、1970年度(昭和45年度)の当社の総売上高は1、003億円となり、この10年間で、売上高は5.5倍(年率18.6%の伸び)になった。製品別の内訳では、写真フィルムや印画紙などの写真感光材料が、売上高で10年間に4.7倍(年率16.7%)の伸びを示し、依然として当社の主力製品であることに変わりはなかった。しかし、新規事業分野が売上高に寄与しはじめたのに伴い、1970年度(昭和45年度)では、写真感光材料のウエイトは約70%となった。また、輸出比率も、1970年度(昭和45年度)には、13.7%にまでアップした。この間、貿易自由化に対処するため、コスト引き下げと体質改善に努めた結果、1970年(昭和45年)度の税引純利益は、75億7、000万円、利益率7.5%と向上した。  
しかしながら、この1970年(昭和45年)の後半、万国博覧会の閉幕とともに、日本経済はポスト万博不況といわれる景気後退期を迎え、やがて国際経済の大きな変動のもと、低成長期に入り、当社の経営もまた苦難期を迎えることになった。  
資本金100億円へ  
既存事業の拡大と新規事業への進出には、膨大な資金が必要であった。  
そのため、資金の調達と財務体質の強化を目的として、1961年(昭和36年)10月、資本金を倍額増資し、新資本金を50億円とした。この増資資金は、主として、足柄工場におけるカラーフィルム生産能力の増強と、印画紙用原紙の生産のための富士宮工場の建設資金の一部に充当した。  
その後も、カラーフィルム工場の増設やTACフィルムベース工場の増設、PETフィルムベース工場の建設・事務用印画紙工場の建設・磁気記録材料工場の建設・感圧紙工場の建設など、大型の設備投資が相次ぎ、所要資金が急増した。このため、1964年(昭和39年)8月に再び倍額増資を行ない、新資本金を100億円とした。この増資資金は、足柄工場のフィルム生産合理化設備・機器などの研究設備・小田原工場のゼロックス機材増産設備・富士宮工場の感圧紙製造設備などに充当した。  
しかし、この間の所要資金は増資だけではまかないきれず、社債の発行と金融機関からの借入金にもその多くを依存した。社債を含めた借入金総額は、1960年(昭和35年)10月20日現在の約30億円から、1970年(昭和45年)10月20日現在には、割引手形残高も含めて、317億円へと、10年間で10倍に膨張した。  
ADRの発行および外貨建転換社債の発行  
1960年代の日本経済のめざましい発展は世界の注目を集め、日本の株式に対する外国人の投資が年々増大してきた。ところが、外国の投資家に取得された株券は、そのほとんどが日本国内の保管機関に預託されることになるため、外国での日本株式の流通にはなにかと不便が伴っていた。そこで、外国人が取得した株券の見返りに、信用のある外国の銀行が一種の預り証を発行し、それに株券と同じような役割を果たさせる方法が考案された。米国で発行する預り証(預託証券)をADR(AmericanDepositaryReceipts)と称している。  
高成長を続ける優良企業として、外国人投資家の間でも高い人気を得ており、外国人投資家の持株比率は年々増加の傾向にあった。こうした当社株式の人気に目をつけて、米国の有力銀行、モルガン・ギャランティ・トラスト社は、1969年(昭和44年)8月、三井銀行を株券の保管銀行として、当社株式のADRを発行した。  
モルガン銀行の手でADRが発行されたことは、当社の成長性が国際的に高く評価されたことを意味し、海外での知名度を高め、国際企業として大きな第一歩を踏み出した。  
一方、日本経済の国際化の進展に伴って、新しい資金調達手段として外貨建転換社債が登場してきた。当社も、海外での転換社債の発行について検討を重ね、1970年(昭和45年)、証券会社メリル・リンチ社を主幹事として、ヨーロッパで1、500万ドルの転換社債を発行することとした。  
当社株式が海外で人気を博していたこともあり、転換社債の人気も高く、同年12月1日、ニューヨークにおいて、幹事会社との間で引き受け契約の調印を行なった。 
この海外転換社債の発行は、主として、後述する富士宮工場におけるX−レイフィルム工場の建設資金の一部に充当したが、国内での調達に比べ安いコストで資金調達ができただけでなく、海外金融機関や投資家が当社についての認識を深めるうえでも大きな役割を果たした。  
なお、その後、当社株式の価格が上昇したこともあり、転換社債の株式への転換は予想を上回るテンポで進み、1977年(昭和52年)4月に、全額を繰り上げ償還した。  
東京本社ビルの建設と新社歌の制定  
1969年(昭和44年)6月、東京港区西麻布に、地上18階、地下3階、軒高71mの、当時日本で6番目の高さを誇る変形菱形のスマートな高層ビルが出現した。新しい東京本社ビルの誕生である。  
当社の東京事務所は、終戦直後、東京銀座の中島ビルに再開して以来、同ビルを本拠としてきた。しかし、業務の拡大と人員の増加に伴い、同ビルだけでは手狭となり、近隣数か所に事務所を分散し、営業部門の一部は神田地区に移転して業務を遂行してきた。  
当社経営の中枢であり、営業活動の本拠でもある東京事務所が各所に分散していることは非効率でもあり、東京本社の建設についてかねてから検討を重ねてきた。しかし、設備投資について品質第一の考えに立って、これまで研究設備や生産設備の改善・増強のための投資を優先的に実施してきたので、本社ビルにまでは手が回らなかった。  
しかし、国際化時代を迎えて、経営の効率を高め、全社の機能を総合して国際的な企業活動を展開していくためには、それにふさわしい本社事務所が必要である。そこで、かねて取得していた東京西麻布の用地に、創立35周年記念事業の一環として当社ビルを建設することとした。  
東京本社ビルは、芦原義信建築設計事務所の設計と鹿島建設株式会社の施工によって完成したが、写真フィルムの透明感やスマートで軽快というイメージをみごとに表現したデザインの斬新さが評価され、1971年度(昭和46年度)の建築業協会賞受賞の栄に輝いた。  
東京本社ビルの完成により、長い間、諸所に分散していた東京本社各部門および東京営業部門を同ビルに集中した。それを機に、マイクロ写真システムを活用して新しい文書ファイリングシステムを導入するなど、事務の効率化を一段と進めた。  
また、本社ビルの建設と同時に、新しい「富士フイルムの歌」の制定を企画し、1969年(昭和44年)6月、新社歌を制定した。それまでの社歌は1939年(昭和14年)に制定された初代社長淺野修一作詞のものであったが、新しい時代にふさわしい内容のものに改めることとしたものであった。歌詞は社内から募集して、限りなく発展する当社の姿を力強く表現するものとし、明るくさわやかな歌として誕生した。  
馬場遺跡の発掘  
1966年(昭和41年)5月、足柄工場の当社社宅用地(地元で馬場と呼称している地域)で採土工事を行なっていたとき、敷石住居跡の一部と土器片・石器などの遺物が発見された。その後、同年6月から1971年(昭和46年)3月にかけて、4次にわたって発掘調査を行ない、敷石住居跡・竪穴住居跡・配石遺構・破砕石の集積跡および土器・石器などの遺構・遺物を発見した。  
これらの遺構や遺物は、およそ紀元前3000年頃、縄文時代後期の人びとの生活の跡と考えられ、すでにその当時、ここで生活していた人びとがいたことを示す貴重な考古学上の遺跡であった。これらの遺跡は「馬場遺跡」と名付けられたが、発掘調査のあと、これらの遺跡を永久に保存し、後世に伝えるために付近一帯を遺跡公園として保存している。 
“世界の富士フイルム”を目指して / 世界企業への道
カラーフィルムの輸入自由化と関税率の引き下げで幕を開けた1971年(昭和46年)は、ニクソン米大統領の新経済政策の発表、それに伴う円切り上げと、経営環境の一大変動が相次ぐ。当社の業績も、一時的に低迷を余儀なくされる。日本経済、そして写真感光材料業界の“国際化”という新しい事態に対応して、当社は経営陣の若返りを図り、同年6月、小林社長は会長に就任、後任社長に専務取締役平田九州男が就任する。平田社長は、「“国産化”の時代は終わった。これからは、“国際化”という大きな課題に立ち向かうときであり、“世界企業への道”を目指すことこそ当社の歩む道である。」との一大企業戦略を打ち出す。
自由化と関税率の引き下げ  
1970年代になって、写真感光材料の輸入は、完全自由化の時代に入った。  
1971年(昭和46年)1月に、一般用カラーロールフィルムの輸入が自由化されたことにより写真感光材料の輸入は、すべて自由化され、外国製品が自由にわが国に輸入されることになった。また、資本自由化の面でも、1971年(昭和46年)8月に行なわれた第4次資本自由化のときに、写真感光材料製造業は第1類自由化業種に移行し、外資の持株比率が50%を超えない合弁会社の設立が許可されることになった。さらに、翌1972年(昭和47年)7月の日米通商協議では、カラーフィルムとカラー印画紙を除く写真感光材料のバルク輸入と加工包装業の実質100%自由化が合意された。そして、1973年(昭和48年)5月には、最終の第5次資本自由化で、写真感光材料製造業は「一定期間後自由化する業種」として指定され、3年後の1976年(昭和51年)5月には、写真感光材料製造業は第2類自由化業種に移行し、完全に自由化された。  
関税率の引き下げも引き続き、急ピッチで進んでいった。  
1971年(昭和46年)4月、カラー感光材料の関税率は、一般用カラーロールフィルムや8mm映画用カラーフィルムおよびカラー印画紙が40%から26%に、映画用カラーフィルムが30%から23%に、それぞれ引き下げられた。同時に、1973年(昭和48年)4月から1年間は、これらカラー感光材料の関税率はすべて20%の暫定税率にすることに定められた。  
ところが、日米通商交渉での米国の強硬な引き下げ要請に応じて、翌1972年(昭和47年)4月に、関税率の引き下げが繰り上げ実施されることになった。これによって、カラーフィルムの関税率は、従来税率26%のものは23%に、23%のものは20%に、それぞれ引き下げられ、同時に、従来20%であったX−レイフィルムの関税率も18%に引き下げられた。さらに、同年11月には、対外経済調整のために関税率が一律20%カットされることになり、写真感光材料の関税率も一律20%引き下げられた。次いで、1973年(昭和48年)4月からは、すでに定められたとおり、カラーフィルムとカラー印画紙の関税率は一律20%となり、しかも、これに対外経済調整の一律20%カットが適用されたために、実際の関税率は16%に引き下げられた。  
その後、日米貿易摩擦に起因する日米交渉の中で、わが国の輸入を増大させることを目的として、1978年(昭和53年)3月に、いわゆる関税率引き下げの前倒しが実施され、写真感光材料の関税率も第1表の通り引き下げられた。  
また、GATTを舞台として続けられていた多角的貿易交渉(いわゆる東京ラウンド)は、1979年(昭和54年)4月に実質的に妥結したが、この多角的貿易交渉の中で、関税率の一括引き下げは最も重要な課題であった。写真感光材料の関税率は米国の強い引き下げ要求があり、交渉は難航したが、カラー感光材料を大幅に引き下げることにより第2表の通り妥結した。  
この交渉妥結により、関税率は、1980年度(昭和55年度)から引き下げ幅の8分の1ずつを毎年度段階的に引き下げていくことに決められた。この結果、1980年代に入って写真感光材料の関税率は、1980年(昭和55年)4月、1981年(昭和56年)4月と、年次ごとに段階的に引き下げられ、翌1982年(昭和57年)4月には、貿易摩擦による対日批判を緩和するため、一挙に1984年度(昭和59年度)の予定水準まで2年分を繰り上げて引き下げられた。  
さらに、わが国市場の開放対策として関税率の引き下げが検討され、1983年(昭和58年)4月には、写真感光材料については印画紙を除いた他の製品について、東京ラウンドで合意された最終年度の税率まで一挙に繰り上げて適用されることになった。これら関税率の推移は第3表の通りである。  
なお、その後も関税率の引き下げが進められており、1984年(昭和59年)4月には、カラー印画紙は5.8%に、黒白印画紙は7.5%にそれぞれ関税率が引き下げられた。  
小林会長、平田社長の就任  
このように、1970年代に入って当社をめぐる環境が大きく変わってきた中で、1971年(昭和46年)6月18日、当社は経営陣の大幅な若返りを図った。すなわち、社長小林節太郎は代表取締役会長に就任し、専務取締役平田九州男が後任社長に就任した。  
小林会長は、1960年(昭和35年)6月に社長に就任して以来11年間、貿易自由化が進んでいく厳しい環境の中で経営の重責を担ってきた。この間、シングル−8システムやカラーフィルムの開発をリードし、当社が世界市場へ進出する足場を固めるとともに、電子写真、磁気記録材料、PS版、感圧紙などの新規事業を積極的に推進し、当社経営の多角化を進めてきた。  
社長に就任した平田九州男は、1933年(昭和8年)、大日本セルロイドに入社し、1934年(昭和9年)1月、当社創立と同時に当社に入社した。1950年(昭和25年)経理部長となり、1954年(昭和29年)取締役に選任された。その後、1964年(昭和39年)常務取締役に就任、1966年(昭和41年)には営業本部長を委嘱され、1969年(昭和44年)に専務取締役に就任した。そして、ここに新しい時代を迎えて社長に就任し、当社経営の重責を担うことになったのである。  
平田新社長は就任に当たって、従業員に対し、開放経済体制に入った今日、企業の総合力としての国際競争力の強化こそ最大かつ緊急の課題であることを説き、そのために経営効率の一層の向上と企業体質の改善を図ることを求めた。社長就任の翌1972年(昭和47年)にも「フィルムの“国産化”という使命のもとに創立された当社は、今や“国際化”という大きな課題に立ち向かうに至っている」と述べ、当社の今後の方向として、国際社会において世界の人びとの需要と幸福を満たす“世界企業”を目指すことを示し、当社の企業体質をこの目標に応え得る体質へと改善していくことを重ねて要請した。  
トップマネジメント運営体制の強化  
経営環境が激しく変化していく中で、会社の政策をタイミングよく決定し、日常業務を機動的に執行していくためにトップマネジメントの運営体制も強化した。  
1970年(昭和45年)8月に、従来からの常務会とは別に、新たに代表取締役以上を構成員とする経営会議を設け、これをグローバルな見地から経営戦略を策定するための最高審議機関として、日常業務とは区分して経営の基本的政策を討議する場とした。  
1979年(昭和54年)1月には、従来の常務会を業務会議と改め、業務会議で、年度予算や事業計画その他の業務執行上の重要事項を審議することとした。  
その後、経営環境の変動がますます激しくなってきたのに対応して、経営戦略の迅速な策定・推進のために、経営会議と業務会議は、より一層重要な役割を果たしている。  
“ニクソンショック”の襲来と円の切り上げ  
平田新社長就任後2か月もたたない1971年(昭和46年)8月16日、日本経済に一大ショックが襲った。いわゆる“ニクソンショック”である。  
米国ニクソン大統領は、8月15日全米向けのラジオ・テレビを通じて、国内インフレ抑制のために、ドルと金の一時的な交換停止と10%の輸入課徴金の新設を発表した。ドルと金との交換停止は、戦後の自由世界の国際的な経済活動を支えていたドルを基軸通貨とするIMF体制の根幹を揺るがすもので、国際通貨体制を一大混乱に陥れた。  
この事態にあって、日本も8月28日、1ドル360円の固定相場を放棄し、変動相場制に移行した。1949年(昭和24年)4月以来20年以上続いてきた1ドル360円時代に終わりを告げたのである。  
この国際通貨情勢の混乱に対処するため、同年12月、ワシントンのスミソニアン博物館に先進10か国の大蔵大臣が集まって、通貨の多国間の調整のための会議が開催された。その結果、ドルの金に対する切り下げをはじめ、円とマルクの対ドル切り上げなど多国間の通貨調整で合意をみた。円は旧レートの1ドル360円から16.88%切り上げられ、1ドル308円の固定レートが復活した。  
しかし、その後も国際通貨不安は収まらず、1973年(昭和48年)2月にはドルが10%切り下げられ、各国の外国為替市場は混乱し、円は再び変動相場制に移行した。  
写真感光材料の輸入が完全に自由化された直後で、しかも関税率の引き下げが進んでいる中での円の切り上げ、それも16.88%という大幅な切り上げは当社経営にとって重大な意味をもっていた。すなわち、円切り上げは、その分だけ輸入価格の値下げを可能とするものであり、事実、1972年(昭和47年)1月には、海外メーカーは輸入品の値下げを実施した。  
このような国際経済環境の激変の中で、平田新社長の指導のもと、ワールドエンタープライズを目指して新たなチャレンジを開始した。  
業績の低迷、減益決算へ  
厳しい経済環境の中で、当社の業績もまた低迷を余儀なくされた。  
すなわち、1971年度(昭和46年)には、万博需要の終えんに伴って、一般用カラーフィルム自体の売り上げが伸び悩んだうえに、同年1月にはカラーロールフィルムの輸入自由化、同4月からは輸入関税率の大幅引き下げが実施され、国内における競争が激化した。また、経済不況の影響から、X−レイフィルムや印刷製版用フィルム、感圧紙などの売り上げが伸び悩みないし低下を示し、4月期の当社総売上高の対前期伸び率は7.4%と1けた台に低迷した。一方、足柄工場におけるカラーフィルムの新工場や富士宮工場におけるX−レイフィルム工場の建設など、大型の設備投資も相次いだ。借入金の増加に伴う金利負担や償却費の増大に加え、試運転経費や人件費あるいは販売経費の増加もあって、利益は38億2、700万円と対前期2.7%の減益を記録した。これは、1963年(昭和38年)4月期以来、16期8年ぶりの減益であった。  
続く1971年(昭和46年)10月期および1972年(昭和47年)4月期には、カラーフィルム輸入自由化の影響やニクソンショック、円切り上げに加えての関税率引き下げに伴う輸入品の価格攻勢などへの対応を迫られたことなどにより、売上高の対前期伸び率は、それぞれ、1.3%増、2.8%増と微増にとどまった。それに対し、人件費・償却費などの諸経費や金融費用の増加は売上高の伸びを上回ったため、利益は、それぞれ、対前期10.2%減、8.1%減と連続して前期を大幅に下回り、半期べースで3期連続の減益決算を余儀なくされた。  
1972年(昭和47年)10月期には、ようやく経済全体が上向きに転じたことと全社的な合理化や経費の効率的使用などによって、増収・増益基調を回復した。1973年度(昭和48年度)に入ってからも、引き続き販売増とコストダウンの努力の成果が実って、この基調を維持できた。しかし、年度末の10月に第4次中東戦争がぼっ発し、情勢は大きく変わっていった。  
オイルショックの襲来 / 省エネルギー省資源の追求

1973年(昭和48年)10月、石油危機が世界各国を直撃、日本経済は、それまでの高度成長から低成長路線への転換を余儀なくされる。石油の消費規制、購入原材料の納入削減によって、生産調整を行なわざるを得ず、また、原材料や燃料の値上げによる大幅なコストアップに悩まされる。これに対し、省エネルギー、省資源、包装合理化などコストダウン活動を強力に推進する。カラーフィルムの輸入自由化と資本自由化、円切り上げによる難局をようやく乗り切ったところへ、この石油危機という一大パンチに見舞われ、1974年度(昭和49年度)から1975年度(昭和50年度)にかけて、2年連続の減益という苦難期を迎える。
石油危機への対応―節約作戦の展開  
1973年(昭和48年)10月にぼっ発した第4次中東戦争を機に、アラブ産油国は石油生産の削減と原油価格の大幅引き上げという石油戦略を発動し、“オイルショック”が世界を襲った。このオイルショック、すなわち第1次石油危機は日本経済に大きな影響を与え、経済活動に大混乱をもたらしたが、当社の経営にも大きな影響を与えた。  
まず、直接的な影響としては、石油や電力の消費規制によって足柄工場をはじめ各工場で正常な生産活動に支障をきたし、そのため生産調整を行なわざるを得なかった。また、購入原材料についても納入削減あるいは納期遅延が相次ぎ、この面からも減産や調整を余儀なくされた。幸い需要先に大きな迷惑をかけるには至らなかったものの、当社としてはその対策に悩まされた。  
しかし、もっと大きな影響は原材料や燃料の値上げに伴う大幅なコストアップであった。フィルムベースをはじめ、各種薬品あるいは包装材料などの多くは石油化学製品であり、原油価格の引き上げはそれらの原材料の値上げとなってはね返ってきた。重油や電力料金の値上げも、そのままそっくり当社のコストアップ要因となるものであった。  
もうひとつ、当社にとってさらに悪いことには、写真感光材料の主原料である銀の価格の高騰という悪条件が重なった。すなわち、1972年(昭和47年)には1kg当たり1万5、000円台から1万8、000円台であった銀の価格は、翌1973年(昭和48年)に入ると、世界的なインフレの進行とそれにからむ国際通貨不安に伴って上昇速度を速め、1974年(昭和49年)には投機的な動きも加わり、同年3月前半には1kg当たり建値で5万8、500円と、これまでの最高値を記録するに至った。わずか2年足らずの間に3倍以上になったのである。  
こうして当社は二重の困難に遭遇したが、すべてのコストアップ分を製品価格に転嫁することはとうてい不可能であり、これらコストアップ要因を可能なかぎり社内で吸収するため全力をあげた。  
足柄工場では、1973年(昭和48年)11月、エネルギー対策委員会と原材料対策委員会を設置して、それらの節約策について検討を行なった。そして、単にエネルギーや原材料にとどまらず、工場全体の活動の見直しを行ない、これまでの仕事のやり方のすべてを洗い直し、無駄を排除して節約できるものはすべて節約しようという運動を展開した。  
また、1974年(昭和49年)1月を特別提案月間として「エネルギー節減」を課題とした提案を募集した。その結果、多くの提案がなされ、実行可能なものから実施に移していった。  
こうした努力の結果、足柄工場では電力使用のピーク時に当たる1月度・2月度に、前年同月比で1割以上の電力使用量の節減を実現することができた。これと同じような運動は、東京本社や他の工場でも積極的に行なわれ、全社的な運動として展開し、それぞれ大きな成果を収めた。  
しかし、オイルショックに伴うコストアップは、それらの節減でカバーするには余りにも大き過ぎた。当社では、より長期的な視野に立って、エネルギー節約や広範囲にわたる省資源対策、あるいは銀使用量の少ない製品の開発などを、きめ細かく、しかも精力的に推進していった。  
省エネルギーの推進  
原油価格の高騰に対処するには、まず第一に重油と電力の使用量を減らすこと、すなわち“省エネルギー”を徹底させることが肝要であり、また工場個々でなく全社を一本化して対策を講じることが効率的でもあった。このため当社は、1974年(昭和49年)11月、全社エネルギー対策推進チームを編成し、省エネルギー活動を強力に推進した。  
まず、日常管理による節減としては、蒸気配管の保温補修や配管の整理統合、室内照明の節電、冷暖房用空調機の運転管理強化などであり、廃熱の再利用としては、蒸気ドレン再利用、廃熱風・廃温水の再使用、発電タービン復水熱のボイラー給水加熱への利用などがある。一方、省エネルギー目的の工程改善では、低露点外気の利用と送風機およびポンプ回転数のダウンと回転数制御などがあり、さらに積極的には、生産性向上を進めることにより、生産量単位当たりの使用エネルギーを節減することとし、設備の改造や製造条件の検討を進めた。  
その結果、製品の生産にかかった単位当たりエネルギー総費用は、1974年度(昭和49年度)に比べ、1975年度(昭和50年度)5%、1976年度(昭和51年度)10%、1977年度(昭和52年度)20%、1978年度(昭和53年度)30%と、年を追うごとに節減の成果があがってきた。  
省資源活動の推進  
省資源活動は、各工場ごとに日常活動として進めてきたが、“オイルショック”の襲来に伴って全社的な活動として強力に推進することとし、1974年(昭和49年)11月、原材料コストダウン推進チームを編成した。  
このチームは、コストダウン実施目標を具体的に金額設定し、各工場や研究部門は、それぞれ下部組織の推進チームをもって次のような活動を積極的に展開した。  
(1)原材料品質の見直しによる過剰品質の排除  
(2)製造処方と工程の改良による低価格代替原料への転換  
(3)工程安定化、原材料節減とロス減少など、原単位アップによる省資源  
(4)くず廃棄物の回収再利用と有効活用  
(5)新製品・改良品の研究開発に当たって、省資源型・低価格原料の導入を重視した商品設計の推進  
その結果、目標を上回る大きな成果をあげることができた。  
包装合理化によるコストダウン  
包装合理化の活動は、すでに1972年(昭和47年)5月以来、営業部門、各工場、生産技術研究所、宣伝部、資材部など関係部門一体となって、包装スペックの改善研究を進める形で実施していたが、1973年(昭和48年)11月、包装合理化センターを編成し、より強力に包装材料のコストダウンを推進することとした。包装合理化センターでは、それぞれ製品ごとに包装形態を見直し、製品包装の合理化を具体的に検討した。その活動内容としては、単に包装材料の合理化にとどまらず、物流実態の把握とその改善にアプローチし、物流費との関連も含めトータル的な見方でコストダウンを推進した。  
また、1977年(昭和52年)6月には外部コンサルタント会社と包装コストダウンに関する契約を結び、4年間にわたって現状分析と改善方向を検討した。その結果、  
(1)紙器材料等の斤量削減、プラスチック材料の軽量化、各種共通包装材料の統合化など省資源に関するもの  
(2)新包装材料、包装加工機、包装形態、成型方式、印刷システムなど、技術革新に関するもの  
(3)加工作業や少量多品種包装材料製造方法など、製造システム改善に関するもの  
について数々の改善が進み、所期の成果が得られたほか、検討段階で習得した合理化手法や入手した各種技術情報なども当社にとって有益なものであった。  
全治3年―オイルショックの影響  
第4次中東戦争に起因する第1次オイルショックの発生は、当社の決算にも大きな影響を与えた。  
すなわち、1973年(昭和48年)末から翌1974年(昭和49年)前半にかけて、重油の数量割当や入荷の不安定に加えて、原材料中に多い石油化学製品が価格高騰のうえに入荷遅延が相次ぐなど、生産計画に支障をきたし各工場ともその調整に苦心した。  
1974年(昭和49年)4月期は、それでも期前半の販売伸長などがあったため売上高は対前期10.7%増となったものの、原材料価格の大幅アップを一部製品の価格改訂ではカバーすることができず、利益は対前期3.3%減と再び減益を記録した。  
さらに、同年10月期には、産業界全般が不況に落ち込む中で、印刷関連製品、マイクロ写真機材、感圧紙などの産業材料用製品の売り上げが減少し、また、主力商品である一般用カラーフィルムも伸び悩んだため、総売上高の伸び率は対前期6.6%増と1けた台にとどまった。これに反し、銀をはじめとする原材料が値上がりを続けたうえ、販売不振による一部生産調整の実施などによって生産コストが上昇し、利益は対前期16.3%減と大幅な減少となった。  
この傾向は、1975年度(昭和50年度)にも持ち越された。この年から当社は年1回決算に移行したが、中間決算では売上高が前年10月期の1.0%増とほぼ横ばいであったのに対し、諸経費・人件費あるいは販売費増などのコストアップ要因が重なり、利益は前年10月期に対して21.0%減と大きく落ち込んだ。  
しかし、同年下半期からは、ようやく一般用カラーフィルムやカラーぺーパーの販売が上向きに転じ、また、産業界向けの分野にも回復の兆しがみえてきたのに加え、輸出が、これまでの努力の成果が実って対前年度30%以上の急激な伸びを示したため、年間の売上高も対前年度9.3%増と増勢を回復、利益も対前年度12.9%減とはなったものの、減益基調に一応の歯止めをかけるに至った。  
さらに、翌1976年度(昭和51年度)には、カラー関係製品の好調持続、印刷製版用製品をはじめとする業務用製品の堅調、また、輸出の対前年度35.7%増という大幅増加などにより、年間売上高は、対前年度18.0%増の2、267億円を記録した。この間、低成長時代に対応する企業体質づくりを進めた効果も現われ、利益は対前年度66.4%増の100億6、500万円と、初めて100億円の大台を突破することができた。  
第1次石油危機の発生以来3年、当社も苦難の時期をひとまずは乗り越え、ようやく石油危機以前の水準を回復することができたのであった。 
アマチュアカラー写真市場の拡大
カラーフィルムの輸入自由化と関税率の引き下げ、ニクソンショックという日本経済の環境条件の激変の中で、写真業界の販売競争はますます激化していく。写真感光材料のトップメーカーとして、写真の総需要の拡大に努めるとともに、販売体制を整備し、シェアアップ作戦を展開する。その一環として、ヤング市場の開拓を目指し、“HaveaNiceDay”キャンペーンをはじめ、各種キャンペーンを展開し、札幌オリンピック、沖縄海洋博に際しても、積極的な活動を展開する。また、「富士マーケティングスクール(FMS)」を開設し、販売店との結びつきを強める。この間、広告宣伝活動も活発に展開する。
アマチュア写真市場の変化と販売体制の整備  
1970年代に入ると、カラー写真は黒白写真に代わってアマチュア写真の主座を占めるようになり、写真といえばカラー写真を指すようになってきた。写真撮影の中でカラー写真の占める比率は、1965年(昭和40年)には10%前後にすぎなかったものが、1970年(昭和45年)には40%を超え、1970年代の半ばには80%近くにまで達した。カメラの世帯普及率も、1965年(昭和40年)に約50%(すなわち2世帯に1台)であったのが、1968年(昭和43年)には60%に、1973年(昭和48年)には70%を超えた。写真人口も増加し、1人で数台のカメラを保有するアマチュアカメラマンも多くなり、写真の撮影の機会も増加した。カラー写真の増加とカメラ普及率の上昇によって、アマチュア写真市場は大きく拡大した。  
しかし、このように写真需要が増加し続ける中で、カラーフィルムの輸入自由化を迎え、販売競争はますます激化していった。  
アマチュア写真の普及とフィルム需要層の拡大に伴い、フィルムは最寄品化し、写真材料専門店だけではなく、スーパーマーケットやコンビニエンスストア、観光地・遊園地・駅の売店などでも売られるようになった。また、カラー写真のDPEの取次窓口も、薬局、タバコ店、クリーニング店、文具店などと広がっていった。カメラが使いやすくなり、フィルムの品質も向上し、写真はますます身近なものとなった。  
しかしながら、1973年(昭和48年)、オイルショックの発生は日本経済に大きな影響を与えたが、写真業界もその影響を免れることができなかった。それまで順調に拡大してきた写真市場にも、ようやく成長鈍化の傾向が現われてきたのである。  
このような情勢の中で、当社は需要の拡大と市場の確保を目指して、アマチュア用感光材料やカメラなどについて地域に密着したよりきめの細かい営業活動を展開するため、1974年(昭和49年)7月、新たに新潟・静岡・金沢・高松に営業所(後に事務所と改称)を開設した。なお、静岡営業所については、その後、経済環境の変化や交通事情の発達によって、静岡地区と首都圏・中部圏との接近が著しくなり、営業所を常設しなくても所期の目的を達成し得るようになったので、1979年(昭和54年)10月、カメラのサービスステーションを残して閉鎖した。  
市場開拓のキャンペーン  
1968年(昭和43年)春から、主として女性を対象として「ファミリーフォトキャンペーン」を実施し大きな成果を収めてきたが、ママさん市場に次いで、写真の総需要拡大のための新しいターゲットとして登場したのが15歳から20代前半ぐらいまでのヤング層の市場であった。この層は総数で2、000万人を超え、総人口の20%を占めており、この若者たちの間に新しい写真需要をつくり出すべく、一大キャンペーンを展開した。  
このキャンペーンは、統一テーマを“HaveANiceDay”とし、さらに「気ままに写そうこの日この時」というサブフレーズをつけて若者たちに写真の楽しさと大切さを訴えるもので、1972年(昭和47年)春からスタートした。  
キャンペーンは、まず、テレビ・新聞・雑誌による告知キャンペーンから始まり、各地の写真材料販売店の店頭でも、店頭宣伝物などで、このキャンペーンを盛り上げた。  
吉田拓郎氏作詞・作曲によるCMソングは、たちまち話題の的になり若者たちに強い印象を与えた。  
ヤング層が、楽しく遊びながら写真を撮る場として、従来の撮影会とは異なった「フジカラーヤングフェスティバル」を企画し、全国各地を縦断して開催した。どこの会場も若者たちの熱気であふれ、盛況を極めた。  
HaveANiceDayキャンペーンと並行して、旅行写真の拡大も図った。  
写真撮影のチャンスは、日常生活、身の回りの至るところにあるが、なかでも旅行はシャッターチャンスが増加する絶好の機会である。国内旅行はもちろん、海外旅行の増加につれ、旅行の写真は写真市場でも最も大きな部分を占めるようになってきた。1973年(昭和48年)“フジカラー想い出パッケージ”をつくり、“フジカラーN100”の小箱の一面に各観光地にちなんだカラー写真を印刷して、それぞれの観光地で販売した。  
この間、1972年(昭和47年)2月に開かれた第11回冬季オリンピック札幌大会、1975年(昭和50年)7月から開催された沖縄国際海洋博覧会のビッグプロジェクトに際しても、写真需要の拡大のための絶好の機会として積極的な販売活動を展開した。  
札幌オリンピックでは、これに先立って開かれた雪まつりと合わせ、各会場に地元の写真材料販売店が設けたフィルム売店に協力して販売促進に努めた結果、当社のグリーンボックスのフィルムが圧倒的なシェアを獲得し、内外に当社のイメージを高揚した。また、大会期間中に大会組織委員会が主催して開催された写真展では、すべて当社のGカラーが用いられた。このほか、フジクイックインダストリアルペーパーを使用して、外国の報道機関向けに電送用写真のクイックサービスを行なって協力したが、これらの努力が認められて、大会終了後、オリンピック組織委員会から感謝状が贈られた。  
沖縄国際海洋博覧会では、三井グループの「三井こども科学館」に出展した。また、プレス用のカラーフィルムや黒白フィルム、印画紙および8mm映画用機材もすべて当社製品が採用された。  
6か月に及んだ会期中、沖縄県で販売する“フジカラーネガフィルム”の小箱には、海洋博のシンボルマークと沖縄にちなんだ図柄を採用し、“想い出パッケージ”として販売した。また、この年は“フジカシングル−8”の発売10周年にも当たるので、その記念行事の意味も含めて「さくら丸」をチャーターして「沖縄海洋博8ミリツアー」を実施した。  
沖縄国際海洋博は、1976年(昭和51年)1月18日、その幕を閉じたが、当社の海洋博への協力が認められて沖縄国際海洋博覧会協会から感謝状が贈られた。  
また、写真需要喚起策の一つとして、1959年(昭和34年)12月から、はがき大の黒白印画紙を“富士ポストカード”の商品名で販売してきたが、カラー写真の普及に伴ってカラー写真のポストカードを望む声が強くなってきた。そこで当社は、ポストカード用のカラーぺーパーをカラーラボに供給し、1978年(昭和53年)11月、全国の主要なフジカラーラボで“フジカラーポストカード”のプリントサービスを開始した。これは、手持ちのカラー写真のネガフィルムを写真材料販売店に持ち込めば、年賀・クリスマス・暑中見舞・結婚・誕生などのイラストカットやあいさつの言葉を組み合わせてプリントし、そのまま郵便はがきとして使えるもので、年賀状や暑中見舞用などのほか、企業PRなどにも利用されている。  
富士マーケティングスクール(FMS)の開設  
1970年代の半ばになって、写真需要に伸び悩みの傾向が現われる一方で、他業界との競争も加わり、あるいは他業種からの写真市場参入もあり、アマチュア用フィルムをはじめとする写真材料の販売窓口も多様化し、市場での販売競争がますます激しくなってきた。これに伴って、販売店の店頭での販売価格競争もますますエスカレートしてきた。このような競争の激化は、結果として販売店の売り上げ伸び率の鈍化と粗利の低下を招いた。販売店の間からは、何とかしてこのような状況から脱却したいとの動きも生じてきた。すなわち、専門店としてユーザーに対する新しい魅力ある店づくりを目指す方向であった。  
このような新しい方向を販売店と一緒に考え、新たな角度から経営を点検し、さらに創意と工夫を盛り込み、将来の経営改善に役立てていただくことを目的として、1978年(昭和53年)9月、「富士マーケティングスクール(FMS)」を発足させた。  
FMSでは、販売店の参加者を経営者から一般社員まで各層別にコース分けするとともに、1回の参加者数も30名前後に絞り、一店ごとに問題点とその改善方向を徹底して考えるという全く新しい方式を採用した。すなわち、一方的に講義するというのではなく、お互いに問題を出し合い、どうすればよいかを共に学ぶ“Co-Study”という考え方でスタートしたのである。  
FMSの中心となったのは、経営者を対象とする小売店経営研究会であった。この研究会は当社が独自に開発した「自店分析システム」を中心に進められた。「自店分析システム」とは、40項目からなる当該店に対するユーザーアンケートを中心に、その店のもっている集客要因の強弱を分析し、グループ協議の場で徹底的に相互啓発し合い、改善すべき点の発見と同時に、伸ばすべき特長を明らかにし、そこから顧客にとって魅力ある店づくりの方向を探り出す方法である。  
FMS参加後、店がより活性化され、売り上げが伸び、収益が改善されたという事例が数多く報告された。また、参加者同士の交流も深まり、お互いに研さんし合うなど、FMSは、販売店と当社、あるいは販売店同士をつなぐ場としても大きな効果をあげていった。  
FMSは販売店の販売力向上を目指すだけでなく、ユーザーの動向を肌で感じている販売店と当社が、共に考え、共に育ち、市場の拡大を図っていくことにも大きな意義がある。  
「フジカラー友の会」発足  
1971年(昭和46年)、九州地区でフジカラーラボを母体として「フジカラー友の会」が発足した。フジカラー友の会は、「心と心のふれあい」、「HappyFamilyFUJICOLOR」を合言葉に、ラボを事務局として各加盟店の顧客を会員とするフジカラー愛好者の会で、フジカラープリントを通じて顧客と写真材料店との結びつきを強め、写真需要の拡大とフジカラーファンづくりを目的としたものであった。  
このフジカラー友の会は大好評で、その後全国に広がっていった。そして、1984年(昭和59年)8月末には、加盟店は1万1、000店を超え、その会員数も400万人を数える大組織に発展した。  
広告・宣伝活動の展開  
カラーフィルム、カメラ、シングル−8、磁気記録テープなど、当社のメイン商品は、最終消費財であるため、商品イメージがユーザーの購入動機に大きく影響する。このため、当社はテレビのCMやポスターに著名タレントを起用して商品のイメージアップを図るなど、積極的な広告・宣伝活動を展開してきた。  
1974年(昭和49年)秋に発売した“フジカラーF−II”の宣伝に当たっては「くっきり・すっきりフジカラーF−II」のキャッチフレーズのもと、全国各地の写真材料販売店の店頭で活発なキャンペーンを展開した。また、年末年始に放映した「お正月を写そう、フジカラーで写そう」のテレビコマーシャルが人気を博した。  
“フジカラーF-II”の誕生とカラーぺーパーのWP化
1971年(昭和46年)、一般用カラーフィルムの輸入自由化によって、市場での競争はますます激しくなる。新しい写真乳剤技術と高度な製造技術とによって、優れた微粒子カラーネガフィルムを開発し、1974年(昭和49年)11月、カラーネガフィルム“フジカラーF-II”を発売する。“F-II”は、当社が開発した新しい写真乳剤技術(IRG技術)と高度な製造技術によって、優れた特性と高度の安定性を有している。他方、カラーぺーパーは、現像処理の迅速化のため、1971年(昭和46年)から、原紙の表裏をポリエチレンでコートしたWP品に切り替える。その後、品質を改良し、“F-II”との組み合わせで、カラープリントの色再現性と保存性とを一段と改善する。
“フジカラーF−II”の誕生  
1971年(昭和46年)1月、一般用カラーロールフィルムの輸入が自由化され、同年4月からは関税率も引き下げられ、これを機に輸入品の値下げが実施されて、日本国内の市場も海外市場と同様の国際競争時代に突入した。  
翌1972年(昭和47年)3月、コダック社は110サイズポケットシステムを開発・発表した。このシステムは、フィルムの画面が35mm判サイズの4分の1という小さい面積で、この小さな面積からカラープリントに拡大しても耐えられるように、シャープネスおよび粒状性を改良した新しいカラーネガフィルム“コダカラーII”が開発された。  
“コダカラーII”は現像処理でも高温迅速処理を可能にし、従来約1時間近くかかっていた現像処理時間は約半分に短縮され、これまでの処理方式は全く変わってしまった。このことは、1971年(昭和46年)4月に発売した“ニュータイプフジカラーN100”によって世界の市場に進出しはじめた当社にとっては、極めて重要な問題であった。  
しかし、コダック社の製品の処理システムの世界市場における普及度から考えて、当社に選択の余地はなかった。当社がカラーフィルムメーカーとして生き残り、引き続き世界市場への供給を目指すためには、品質面で劣らないことはもちろん、コダック社の製品の現像処理システムに合致するフィルムを開発する以外に方法はなかった。  
“コダカラーII”と同様の高温迅速処理ができるようにするために、これまでにない強い膜質が求められ、また、微粒子で鮮やかに発色する写真乳剤を開発しなければならなかった。2年有余にわたって研究に取り組んだ結果、IRGという当社独自の技術を完成し、“フジカラーF−II”の誕生をみることになった。  
IRG技術とは、Inhibitor-ReleasingGrain(現像抑制物質放出型粒子)の頭文字をとって命名したもので、この技術は写真乳剤粒子に現像抑制剤をあらかじめ均一に吸着させておき、光の当たった粒子からは現像中抑制剤が放出され、それによって現像銀が粗大化するのを防ぐというもので、微粒子化のための優れた技術である。このIRG技術と改良カプラーの採用によって、これまでの製品以上にきめ細かく、鮮やかな発色画像が得られるようになった。  
製造面では、フィルムの品質の安定性を高めるために、写真乳剤製造工程および塗布乾燥工程でコンピューターコントロールシステムを駆使し、工程の精密な制御を実現した。また、当社が誇る塗布技術によって、写真乳剤層の薄層化を実現し、より一層シャープな画像を得られるようにした。  
このように、“フジカラーF−II”は長年にわたるカラーフィルム製造技術の基礎のうえに、新たに開発した新技術が加わって誕生をみたのである。  
“フジカラーF−II”の開発を1974年(昭和49年)9月、西独ケルンで開かれた第13回フォトキナで世界に向けて発表した。  
市場への出荷は、同年11月、35mm判フィルム(12枚撮、20枚撮、36枚撮)から開始した。翌年3月には、当社ポケットカメラの発売と同時に、ポケットカメラ用110サイズ“フジカラーF−IIポケットフィルム”(12枚撮、20枚撮)も発売した。  
“フジカラーF−II”は、現像処理システムが、これまで市場に出荷していたカラーネガフィルムと全く異なるため、全国のカラーラボの処理体制を確立し、また、新たに発売する110サイズポケットフィルムの処理体制も十分に整えてから発売を開始したのである。  
優れた微粒子でシャープな画像が得られる“フジカラーF−II”は、好評のうちに内外の市場に受け入れられた。  
WPペーパーの商品化  
カラーネガフィルムは、“フジカラーF−II”の発売で大きく品質を向上させたが、カラー写真のもう一つの素材であるカラーペーパーでも大きな革新があった。  
1958年(昭和33年)初めてカラーペーパーを発売して以来、カラーペーパーは黒白印画紙と同じく、その支持体にはバライタ紙を使用していた。しかし、カラーペーパーの現像処理は最初の発色現像から乾燥工程まで数多くの工程を必要とし、処理時間も長く、その短縮が求められていた。  
1968年(昭和43年)、コダック社は原紙の表裏をプラスチックでコーティングしたRCぺーパーを発売した。RCぺーパーは紙の吸水性が著しく少なくなるので、水洗と乾燥の効率が高く、処理時間を大幅に短縮することができる。  
この動きに対応して、いち早く同等品の開発に入った。国内のポリエチレンメーカーと協力して、カラーぺーパー用の特殊なポリエチレンの開発を進めるとともに、富士宮工場内に小幅の試作研究設備を設置して試作を重ねていった。  
1970年(昭和45年)4月には大幅試作用の中間プラントを完成し、同年5月から本格的な試作研究に入り、年末には試作品が完成した。翌1971年(昭和46年)には中間プラントを全面的に改造し、同年10月から本格製造に入った。  
このポリエチレンをコートした原紙を使用したカラーぺーパーは“水に耐える紙”、すなわちWaterProofPaperであるところから“WP紙”と名付けたが、この分野でも一貫生産体制を確立することができた。  
このWP紙を使用したカラーぺーパーを、まず海外市場向けに出荷し、翌年8月からは国内市場にも導入し、カラーぺーパーをWP紙使用のものに切り換えた。導入当初、処理ステップは従来のカラーぺーパーと同様であったが、1973年(昭和48年)3月には迅速処理を可能としたカラーぺーパーを開発した。  
翌1974年(昭和49年)には、発色効率のよい新しいカプラーを使用し、色再現・色保存性などの性能を改善したニュータイプのカラーぺーパーを発売した。  
そして、ほぼ同時に発売した“フジカラーF−II”との組み合わせで、より一層鮮やかなカラープリントが作成できるようになった。  
またこの時、ユーザーの多様な好みに応じられるように、従来の滑面に加え、絹目、微粒面などの面種も整備した。  
1976年(昭和51年)には、コダック社が処理工程を短縮した二浴処理への切り換えを始めたのに伴い、当社も同年7月、二浴処理に切り換えた。  
二浴処理は、これまでの三浴処理、すなわち発色現像・漂白定着・安定浴の三浴処理から、安定浴を省略したものであったが、安定浴を省略しても色素像の保存性が悪くならないように設計するとともに、性能の全面的な改良を図り、カラーラボの効率化に大きく寄与した。  
なお、黒白印画紙についても、迅速処理のメリットからWP紙に切り換えていった。1977年(昭和52年)6月、引伸用一般紙“フジブロWP”を商品化したのをはじめとして、その後、密着用人像紙“銀嶺WP”、密着用一般紙“利根WP”と、逐次、商品化し、WP紙を整備していった。  
印画紙用の原紙が、カラーペーパーも黒白印画紙もWP紙に切り換えられたことに伴い、富士宮工場では工場建設以来続けてきたバライタ紙の製造を1977年(昭和52年)8月をもって打ち切った。 
高感度フィルム“フジカラーF-II400”の誕生
1976年(昭和51年)9月、当社は世界に先駆けて高感度(ASA400)のカラーネガフィルム“フジカラーF-II400”を発表する。当社が開発した集中核型粒子(CLG)技術・画像制御層(ICL)技術と高度の製造技術によって誕生した“フジカラーF-II400”は、カラーネガフィルムの感度を一挙に4倍に引き上げ、それまでストロボがなければ撮影ができなかったところでも、気軽に美しいカラー写真を写すことができるようにした画期的な新製品である。“F-II400”は、世界中に大きな反響を巻き起こし、“FUJIFILM”の名を一躍国際ブランドに引き上げる。また、黒白フィルムでも、ASA400の高感度品を開発し、需要に応える。
“F−II400”華やかにデビュー  
2年に一度、西ドイツのケルン市で開かれるフォトキナは世界の写真業界最大のフェスティバルで、世界の写真感光材料メーカーやカメラメーカーの新製品発表の場となっている。1976年(昭和51年)9月に開かれた第14回フォトキナにおいて、当社は世界初の高感度一般用カラーネガフィルムASA400の“フジカラーF−II400”を発表した。1974年(昭和49年)6月に発売したASA400の高感度16mmテレビ用カラーリバーサルフィルムに次いで、今回の世界最初のASA400の高感度カラーネガフィルムの開発は、当社の写真工業技術の優秀性を全世界に強く印象づけた。  
これまでは、どちらかといえば海外の先進メーカーが開発した製品の後追いを続けてきた当社にとって、海外の先進メーカーに先んじて、それを上回る製品をつくり出すことができたという意味で、この“フジカラーF−II400”は画期的な新製品であった。  
この新製品の企画に当たっては、まず写真需要の拡大という見地に立って、その感度の目標をどこに置くかということから検討を始めた。  
アマチュアの写真撮影では屋外撮影が圧倒的に多いが、室内撮影もアマチュアの全撮影ショット数の約4分の1を占めている。そして室内撮影の場合、手ぶれや露光不足が少なからず見受けられていた。数々の市場調査データを基にして検討した結果、写真需要拡大のためには、室内撮影をより容易にすることが最も必要であり、そのためには現在普及している大部分のカメラで、ストロボなどの補助光なしに室内で撮影することができる高感度のフィルムを開発する必要があると考えた。しかも屋外撮影に使用しても、夏の海辺でも冬のスキー場でも露光がオーバーにならず適正露光を得られなければならない。つまり、屋内・屋外を問わず使用できる感度が求められる。このような考え方に立って検討した結果、フィルムの感度目標をASA400に設定した。ストロボを使用しないで室内撮影が可能になると、当然ながら、蛍光灯やタングステン光などの光源で撮影される可能性が高くなるので、これらの光源に対する適性も要求された。  
高感度の秘密  
フィルムの感光性の基になっているのは無数のハロゲン化銀微結晶である。この結晶粒子を大きくするほど、わずかの光にも感じる、つまり感度が高くなるが、ある程度以上にこのサイズを大きくしても到達できる感度には限界があった。  
これを解決するために、新たに二つの技術を開発した。その一つは集中核型粒子、すなわちCLG(ConcentratedLatent-imageGrain)技術で、特殊な粒子構造をもったハロゲン化銀粒子をつくり出すことによって高感度を実現することを可能にしたのである。  
もう一つはICL(ImageControllingLayer)という画像制御層技術である。カラーネガフィルムは、赤・緑・青に感ずる三つの層からなるが、これらの各層は、それぞれ高感度層と低感度層の二つの層から成っている。ICL技術は、この高感度層と低感度層の間にICLという新しい乳剤層を加えることによって、高感度層の大きなハロゲン化銀粒子の色素像が低感度層ににじみを起こすのを防ぎ、粒状性を良化させるとともにシャープな画像を得られるようにする技術である。  
このため、“F−II400”の写真乳剤層は、中間層や保護層などを加えると合計14層で形成されたが、当社が開発した塗布技術と足柄工場の新鋭カラー工場の設備によって、この多層塗布が可能となったのである。  
CLG技術やICL技術と、高度の製造技術の組み合わせによって、微粒子でシャープな画像が得られる超高感度フィルム“フジカラーF−II400”が誕生したのである。  
“F-II400”に結集された成果は、長年培われた当社の技術力の成果であるとともに、開発を担当した人びとのチームワークとそれを支えた全社をあげての協力体制の勝利であった。そして、この大きな課題にチャレンジして、それを見事に乗り越えたことは、当社の技術陣にとって大きな誇りになると同時に、大きな自信となったのである。  
“フジカラーF−II400”の発売  
当社が世界に先駆けて開発した高感度カラーネガフィルム“フジカラーF−II400”は、1976年(昭和51年)10月、全国一斉に発売した。そして、同年末からは海外市場へも輸出し、アメリカやヨーロッパ諸国をはじめ、世界各国で発売した。  
発売当初は、すべて35mm判フィルムで、サイズは12枚撮のほかに、新たに24枚撮を加えた。また、この機会に、従来の“フジカラーF−II”についても24枚撮サイズを発売した。  
“フジカラーF−II400”を使用することによって、たとえばストロボを使えない室内でのカラー撮影、ストロボの使いにくいステージ写真などでも、補助光なしにカラー撮影ができるようになった。明るい被写体でも、2絞り絞ることによって被写体の前後のピントの合う範囲が広くなったり、また、同じ絞りで従来の4倍速いシャッターが切れるので、スポーツなどの動きの速い被写体でもブレのない写真がとれるようになった。“フジカラーF−II400”の発売により、ユーザーは使用目的によって“F−II”と“F−II400”を使い分けることが可能となり、カラー写真の撮影の範囲は大幅に拡大されたのであった。  
“フジカラー400”に名称変更  
“フジカラーF−II400”は、発売以後、国内・国外の市場で好調な売れ行きを示した。そこで、1977年(昭和52年)2月には、従来の12枚撮と24枚撮に加えて、36枚撮とブローニーフィルム(6cm×6cmサイズで12枚撮)を追加発売し、需要に応えた。また同年3月には、ポケットカメラ用(110サイズ)フィルム“フジカラーF−II400ポケット”を市場に導入した。  
その後、“フジカラーF−II400”専用の増感現像剤を開発し、1977年(昭和52年)11月からフジカラーラボは、“フジカラーF−II400”を2倍感度のASA800にして撮影しても現像処理によって適正な写真が得られる増感現像処理の受け付けを開始した。この増感現像処理の開発によって“フジカラーF−II400”の撮影範囲はさらに拡大された。  
また、1980年(昭和55年)2月には、“フジカラーF-II400”の名称を“フジカラー400”と改め、新包装に切り換えた。これは“フジカラーF−II”とのイメージ分離を明確にするとともに、高感度カラーをより強く印象づけるためにとった措置であった。  
“フジカラー400”の開発に対し、1977年(昭和52年)5月、科学技術庁長官から技術開発担当者に1977年度(昭和52年度)科学技術功労賞が授与された。  
“ネオパン400”の発売  
“フジカラーF−II400”でカラーネガフィルムの高感度化を実現した当社は、黒白フィルムにおいても高感度微粒子フィルムの開発を進め、1978年(昭和53年)4月、“ネオパン400”を発売した。従来の黒白フィルムの最高感度は“ネオパンSSS”のASA200であったが、“ネオパン400”は、一般写真用の国産黒白フィルムとしては初めてのASA400の高感度フィルムであった。そのうえ、フィルムの粒状は微粒子で、当社独自の均一粒子技術としてUG(UniformGrains)技術を開発して、美しくなめらかな粒状性をもったものとした。これはまた、シャープネスや階調などでも優れた特性を備えていた。また増感現像処理によって、最高ASA3200まで感度をあげることができた。  
“ネオパン400”は、一般撮影にはもちろん、光量の少ない室内撮影や夜間のスナップ、スポーツ、ステージ撮影などに大きな威力を発揮した。  
コンパクトカメラの伸長と35mm一眼レフヘの進出
35mmレンズシャッターカメラと“シングル-8”システムの2本の柱に次いで、プロ用中判カメラも商品化して、総合カメラメーカーとしての戦略を展開してきた当社は、1970年代に入り、35mmレンズシャッターカメラについては、時代の要請に対応したコンパクト化をさらに進めるとともに、撮影日付の写し込み、ストロボ内蔵、自動焦点化などの高機能化を図る。また、新たに一眼レフカメラ分野に参入し、ボディーの小型軽量化と新しい測光方式を確立したTTL一眼レフカメラ“STシリーズ”を発売する。次いで、生活防水機能を有するヘビーデューティカメラ“HDシリーズ”や110カメラ“ポケットフジカ”も発売し、総合カメラメーカーとしての独自の基盤と販売態勢を築いていく。
自動化進むコンパクトシリーズ  
1970年代、本格的なカラー写真時代を迎えて、当社は写真人口の増大、とりわけ女性層やヤング層を対象として写真の普及を図るために、小型軽量で、だれでもどこでもよく撮れるコンパクトカメラの開発を重点的に推進した。  
まず、1971年(昭和46年)4月、シカゴで開かれたPHOTOEXPOにおいて“フジカ35FS”を発表し、同年9月、国内・輸出向けに同時発売した。同機は、ストロボ撮影の場合に撮影距離によって絞りが自動的に調節できるフラッシュオートマチック機構を備えた軽量でコンパクトなEEカメラであった。また、同時に専用ストロボ“フジカストロボS”も発売し、だれでも気軽に室内や夜間のストロボ撮影を楽しむことができるようにした。  
さらに、使いやすさと撮影ミスの減少を図って、翌1972年(昭和47年)から35mmコンパクトカメラ“Gシリーズ”を発売した。まず、同年7月、フィルム送り確認やストロボ準備確認の機能を付加した“フジカGP”を発売、次いで翌1973年(昭和48年)6月には、当社として初の電子シャッターを採用し、4秒から800分の1秒まで完全連動するプログラムシャッター式EEカメラ“フジカGE”とこれに二重像合致式のレンジファインダーとセルフタイマー機能を付加した“フジカGER”を発売した。そして、両機とも電池が消耗するとシャッターが自動的にロックする独自の安全装置など、自動化を進めるとともに、カメラの裏に窓をつけてカメラ内のフィルムの在否とその種類を読み取ることができるようにし、機種の充実を図った。  
カメラのEE化と機能の高度化に次いで、当社は写真のもつ記録性という原点に立って、撮影年月日の写し込み機構の組み込みとストロボ機構の内蔵化の開発を進めた。  
まず、撮影年月日の写し込みができるデート機構を開発し、1975年(昭和50年)11月に、ファインダー上部にこのデート機構を組み込んだ“フジカデート”を発売した。  
次いで、夜間や暗い室内でも手軽にきれいな写真撮影が楽しめるように、ストロボをカメラに内蔵すべく、超小型で信頼性の高いストロボの開発に着手した。  
そして、世界初の高感度カラーネガフィルム“フジカラーF−II400”の発売に合わせて、1976年(昭和51年)9月、“フラッシュフジカ”および“フラッシュフジカデート”の2機種を、まず海外市場向けに発売し、次いで11月から国内にも発売した。両機はストロボをカメラに内蔵するとともに、ASA400の感度も自動的に感応するフィルム感度オートセットシステムを付加し、ユーザーが使用目的によって“F−II”と“F−II400”を使い分けられるようにした。  
その後、1978年(昭和53年)11月にはストロボ内蔵をべースに、フォーカスメモリー(シャッター半押しでピントを合わせるとメモリーが働き、あとは自由な構図でシャッターが切れる)、ビームセンサー(フラッシュ撮影で暗い所の被写体を照射し、オートフォーカスを正確に作動させる)、そしてデート機構を付加したAF(自動焦点)カメラ“フラッシュフジカAFデート”と、翌月にはデート機構を除いた“フラッシュフジカAF”を発売した。  
特に、ビームセンサーは被写体の照射が目に見えるため、オートフォーカス機能の信頼感を高めるものとして好評であった。  
また輸出用としては、このほかにストロボ内蔵の普及機“フラッシュフジカS”を発売したが、これら一連のストロボ内蔵機は、発売後、内外の市場で好評をもって迎えられ、当社コンパクトカメラの評価を高めた。  
ヘビーデューティカメラ“HD−1フジカ”の発売  
写真撮影は室内や庭先など穏やかな条件下ばかりとは限らない。人間の社会生活活動の場も広がり、また、海水浴、スキー、登山などのレジャーの場においても、風雨や砂じんの中での過酷な条件下で撮影される機会も多くなり、これらの悪条件にも耐えられる丈夫なカメラのニーズが高まってきた。これを日常生活における防水機能としてとらえ、機械強度が高く、雨や波しぶきに耐え、防水・防砂、耐腐食性をもった35mmカメラの開発を進め、1979年(昭和54年)6月、“HD−1フジカ”として発売した。  
“HD−1フジカ”はボディーに強化ポリカーボネートを使用して機械強度を高め、特殊合成ゴムによるパッキングや防水リングの使用で防水性を保持し、レンズは前面保護ガラス内に収納して、防砂・防じん性を保った全天候型35mmカメラである。1979年(昭和54年)6月の国内発売に続いて、同年9月からは海外向けにも発売した。  
これに伴い、ストロボも外装には全て耐食材を使用して、海水をかぶってもさびず、また、ぬれても感電しない“HD−1ストロボ”を発売、1979年(昭和54年)12月には、“HD−1”にストロボとセルフタイマーを内蔵させた“HD−Sフジカ”を追加発売した。  
“HD−1フジカ”、“HD−Sフジカ”は、従来は困難であった悪条件下での撮影を可能にし、ヤング層からプロカメラマン、さらに各種作業現場に至るまで幅広い分野で活用されている。  
EBCフジノンレンズの開発  
フジノンレンズは、カメラその他の光学機器製品に使用されてきたが、さらにスタジオ撮影やコマーシャルフォトなどプロ用大判レンズとして販売され、その品質が評価されてきた。  
これらプロ用写真は、肖像写真のほかポスターやカタログ、グラビアなどの印刷製版用として質の高い画質が要求されるため、撮影用レンズでは高次の色収差の補正のほか、レンズに入る光の反射ロスを減少するため、多くの研究がなされてきた。当社はレンズの透過光量を大幅に増加改良するために、レンズ表面の反射防止膜のコーティングに最適な物質と、それを電子ビームコーティングする多層膜蒸着技術を開発し、11層という多層コーティングに成功した。そして、このコーティング処理のレンズを他のレンズと区別して“EBCフジノン”(EBCは、ElectronBeamCoatingの略)と名付けて発売した。  
これによって、従来、コーティングしていないレンズではもちろん、単層コート品でも表面反射によって1%の壁を破れなかった光の損失が、0.2%以下に減少して大幅な色再現性の改良に成功した。  
“EBCフジノン”は、1971年(昭和46年)12月発売の8mmカメラ“フジカシングル−8Z800”の8倍ズームレンズで初めて採用したが、翌1972年(昭和47年)9月には、一眼レフカメラ“フジカST801”用の交換レンズとして発売した。さらに1973年(昭和48年)11月には、中判カメラ用EBCフジノンレンズを開発し、次いで1974年(昭和49年)9月には、プロ用大判レンズとして各種大口径のEBCフジノンレンズを発売し、厳しいプロ写真家の要望に応えるとともに高い評価を得てきている。  
待望の一眼レフカメラ“フジカST701”の発売  
35mmコンパクトカメラが、初心者から一般アマチュア層に愛用されてきたのに対し、TTL式フォーカルプレーン一眼レフカメラは、高級機として当初はプロカメラマンをはじめ一部のアドバンスドアマチュアの間で愛用されていた。その後、一眼レフカメラは、クイックリターンミラー(レンズとフィルム面の中間にあって、シャッターを切れば、はね上がってフィルム面に画像を送り、シャッターが切れた後は、直ちに復元してファインダーに画像を送るミラー)が開発されて、正確な被写体描写ができるようになり、また各種交換レンズを使用して高度な撮影技術が楽しめるところから、次第に一般アマチュア層へも普及していった。  
戦後、カメラ事業に進出して以来、カメラ市場に独自の地歩を固めてきたが、カメラ事業をさらに発展させ、併せて輸出の拡大を図るためにも、35mm一眼レフ市場への参入は不可欠の重要課題であった。したがって、かねてからその研究開発に取り組んでいたが、開発に当たっては、これまで進めてきたカメラのコンパクト化の考え方を一眼レフの分野にも取り入れるべくチャレンジしてきた。  
そして、1970年(昭和45年)7月、待望のフォーカルプレーン一眼レフカメラ“フジカST701”を国内用・輸出用に同時発売した。  
“ST701”は、分光感度のより優れたシリコン受光素子をいち早く採り入れた露出計、明るく見やすいファインダーの開発、そのほか当社独自の新技術をコンパクトなボディーに内蔵したTTL絞り込み測光式の小型軽量一眼レフカメラで、その後の各社の一眼レフカメラの小型化傾向への先駆けとなった。交換レンズには、広角レンズF2.835mm、標準レンズF1.855mm、同F1.450mm、望遠レンズF3.5135mmの4種のレンズを整備した。次いで、翌1971年(昭和46年)、28mmの広角から200mmの望遠まで、7本の交換レンズをシリーズ化し一眼レフ市場への対応を図った。  
“ST701”は、レンズの優秀性に加えて、ボディーのコンパクトなことも好評で、出荷も順調に推移し内外市場におけるフジカブランドの信頼を高めた。  
その後、同機をべースとして性能アップとシステムの充実を主眼として新機種の開発を進め、1972年(昭和47年)9月には“フジカST801”を内外同時に発売した。同機は、露出計をTTL開放測光(レンズの絞りを開放にしたままで測光する)にするとともに、露光調節はシリコン受光素子を使用し、ファインダー内の表示は世界で初めてLED(発光ダイオード)による7点露光表示方式(シャッターを軽く押すとスイッチオンして、ファインダー内の7個のLEDのうちいずれかが発光する方式で、これによって、露光状態を正確に読み取ることができる。)を組み込んだ画期的な精密測定システムであった。また、シャッターは瞬間をキャッチする2000分の1秒の高速まで備え、レンズは当社開発の“EBCフジノン”を装備したコンパクトな一眼レフカメラであった。  
同時に、交換レンズは、超望遠用・望遠用・標準用のほか、広角用・ズーム用の各レンズ計14種を整備し、システムの充実を図った。  
これによって“ST801”は当社一眼レフの主力機となり、輸出はもろん、国内市場にも急速に伸びていった。  
その後、1974年(昭和49年)4月には、“フジカST901”を追加、内外市場に同時発売した。“ST901”は絞り優先カメラであるが、そのほかに、ファインダー内の表示をデジタル化してシャッター速度を数字で表示するため、シャッター優先の使用もできる完全自動露光デジタルAE(AutomaticExposure)一眼レフカメラで、STシリーズの高級化を図ったものであった。  
1973年(昭和48年)末からの第1次オイルショックで世界経済全体がい縮し、海外主要国の消費の抑制で、それまで順調であったわが国のカメラ輸出が鈍化してきた。このような状況の中で、新たな一眼レフ市場開拓のため、機動性と経済性を追求した普及型一眼レフの開発を進めた。そして1976年(昭和51年)3月、TTL絞り込み測光で、フジノンF2.255mm標準レンズ付きの“フジカST605”を開発、まず海外市場に発売後、同年7月から国内にも発売した。  
次いで、1978年(昭和53年)6月に“フジカST605”を開放測光方式とし、ファインダー内にシャッタースピード表示機構を加えた“フジカST605II”を追加発売した。“ST605II”は経済性と性能を追求した、中高校生を含むニューヤング層向けの普及機として“フジカマークII”の愛称を付した。  
この間、高性能一眼レフボディーにズームレンズを標準装備した、大きさも価格も一般一眼レフなみの機動的なカメラの開発に取り組み、1977年(昭和52年)6月、“フジカAZ−1”として輸出用に発売、同年11月、国内用にも発売した。“AZ−1”は、TTL開放測光で、カメラ用では最大のLSIを使用した電子シャッターの高性能AE一眼レフボディーに世界最小のコンパクト設計の焦点距離43〜75mmのズームレンズを標準レンズとした。  
一方、一眼レフカメラが広く一般に普及するにつれて、一眼レフでもストロボ内蔵を望む声が強まってきた。一眼レフにストロボを内蔵させるのは、大きさや重量の点で困難な問題が横たわっていたが、新しい発想から開発を進め、ファインダー内の3点LED露光表示に従って手動で露光を決めるとシャッター速度が連動するプログラム式無段階ミラーシャッターを採用し、1979年(昭和54年)6月、“フジカST−F”を“ストロボ一眼”の愛称で発売した。“ST−F”はストロボを内蔵させたうえ、従来よりもさらに小型軽量化を図り、しかもコンパクト機なみの価格を実現し、コンパクトカメラと一眼レフの接点にある層の掘り起こしを図った。  
110カメラ“ポケットフジカ”の発売  
1972年(昭和47年)3月、コダック社はスチル写真の新しいフォーマットを発表した。手帳を少し厚くしたような箱型の“コダック・ポケット・インスタマチックカメラ”と、専用のカートリッジに収められた“110カートリッジフィルム”で、ワイシャツやズボンのポケットに突込み、手軽に持ち運んで撮影できるので、“ポケットカメラ”の愛称で呼ばれるようになった。  
コダック社は、同年10月、ポケットシステムを日本市場に導入、日本のカメラメーカーも相次いでポケットカメラを発売した。当社も、コダック社の発表と同時に、コダック社とライセンス契約を結び、研究開発に着手した。フィルムの商品化に当たって、高温迅速処理で超微粒子の優れた画質が得られる110カートリッジフィルム“フジカラーF−IIポケット”(12枚撮、20枚撮)を完成した。また、カメラに関しては、薄型のボディーを水平にしてシャッターを押すため、手振れを生じやすかったので、軽く押すだけでシャッターが切れて、手振れによる撮影ミスを減少させるようにした“ポケットフジカ”5機種(“200”、“300”、“400”、“500”、“600”)を完成した。そして、1974年(昭和49年)9月の第13回フォトキナに、この“富士ポケットシステム”を発表した。翌1975年(昭和50年)1月、海外に発売するとともに、同年3月、国内でも発売した。  
“ポケットフジカ200”、同“300”は、固定焦点の初心者向けカメラで、室内・夜間撮影に、前者はマジキューブ(スプリングの力でフラッシュバルブの外型の金属管をたたき、そのショックで管内の点火剤が発火する電源不要のフラッシュキューブ)用シュー付き、後者はストロボ付きとした。また、同“400”は、ゾーンフォーカス(撮影距離を数点に区分し被写体がその区分内にあればピントが合う)による焦点方式を採用した電子シャッター付きのEEカメラで、スタンダードタイプとした。同“500”、“600”は、さらに、プログラム電子シャッター付きの完全EEカメラとし、前者はゾーンフォーカス焦点方式、後者は、さらに距離計を二重像合致連動式としたほか、セルフタイマーを付加した高級機とした。  
“ポケットフジカ”は、当初から普及機から高級機まで一挙に5機種を投入したことと積極的な販売努力によって内外市場で順調に伸びていった。  
その後、1976年(昭和51年)3月と10月に、レバーを左右に動かすだけでロングからアップまで多彩な撮影が楽しめる“350ズーム”と、20mmの広角レンズ付きで、内蔵したクローズアップレンズで40cmの接写も楽しめる“350ワイド”を追加した。  
これら機種の整備を進める一方で、手振れによる撮影ミスをさらに少なくするための対策を検討した。その結果、これまでのボディーを上下から挟んで持つ水平型カメラを改めて、35mmカメラと同様な縦型のカメラを開発し、1977年(昭和52年)3月、“ポケットフジカ450フラッシュ”として発売した。  
自分で写真を撮る人のうち、約75%はストロボをカメラに装着してストロボ撮影するのは難しいと思っているというデータもあるところから、同機はポップアップ式のストロボを内蔵させ、当社が世界に先駆けて開発した超高感度フィルム“フジカラーF−II400ポケット”を同時発売し、その普及を図った。  
これ以降、当社ポケットカメラはすべて縦型にモデルチェンジした。この結果、手振れによる撮影ミスは急激に減少し、ポケットカメラは一層普及していった。  
その後、翌1978年(昭和53年)4月にプログラムシャッター付きの“550オート”を、1979年(昭和54年)4月に自動巻き上げの“ポケットフジカフラッシュAW”を、それぞれ発売し、次いで、同年7月、25〜42mmのズームレンズ付き“フラッシュズーム”、そして1981年(昭和56年)6月には、レンズ前面にレンズプロテクターを付けてケースレスとした“380フラッシュ”と、次々に使いやすさと機能化を進め、ポケットカメラ市場のけん引力となっていった。 
シングル-8の展開
当社が1965年(昭和40年)に開発した新しいホームムービー“シングル-8”システムは、その後、機能の高度化を図り、カメラおよび映写機の新機種を順次市場に投入していく。1970年代に入り、パルスシンクシステムを開発して映像と音声の同調を図り、1970年代後半には、サウンドシステムによる同時録音へと発展する。さらに、自動焦点機構を採用したサウンドオートフォーカス機を発売する。この間、1973年(昭和48年)には、“ハイシングル-8”システムを開発し、従来撮りにくかった夜間撮影も容易にする。また、映写機では、サイレント機、サウンド機のいずれにおいても高機能化と自動化を進め、使いやすさを図っていく。
シングル−8システムの音声同調  
シングル−8システム開発以来、一貫してユーザーに小型映画の楽しさを訴え、8mmムービーの需要の開拓を図ってきた。8mm使用者の大多数は映像のみを映写して楽しんでいたが、8mmムービーの楽しさを広げてさらに需要を拡大するためには、音付きの映写を手軽に楽しめるようにする必要がある。かねてから映像と音声とを同調するシステムの開発を進め、1971年(昭和46年)12月、パルスシンクシステムによる録音同調カメラ“フジカシングル−8Z800”と光学式同時録音カメラ“フジカシングル−8ZS400”の2機種を発売した。  
パルスシンクシステムは、撮影時にフィルム1コマに対し1信号(パルス)をサウンドテープに記録し、この信号によって画面と音とを完全に同調させる新しい録音方式で、“Z800”はパルス発生器を内蔵し、レンズも多層コーティングしてフレアーレスとした“EBCフジノン”の8倍ズームを初めて装備した高級機であった。また“ZS400”は4倍ズームレンズを装備し、撮影時の音声をカメラ内で光に変換してフィルムのサウンドトラックに同時記録し、現像の際に音像化するもので、この方式は8mmシステムとしては初めて実用化に成功した。  
次いで、翌1972年(昭和47年)6月にはスタート同時録音システムを開発し、“フジカシングル−8Z700”を発売した。これは、カメラとカセットレコーダーが同時スイッチで始動するシステムで、7倍の電動ズーム機構を装備した。  
これらのシステムの開発で画面に同調して手軽に音声を入れたいというユーザーニーズに応えていった。  
映写機においても、サイレント方式の“M”シリーズでは、映写機能の多様化と自動化を進める中で、さらに、テープによる音声同調機構の向上を図ってきたが、1972年(昭和47年)7月には、パルスシンクシステムによって映写機速度を制御する“フジカスコープMX70”を発売した。これによって口の動きと音声が完全に一致する「リップシンクロ」も可能になった。  
他方、サウンド方式では、新たに高輝度ハロゲンランプを導入した“SH”シリーズを開発し、1970年(昭和45年)6月、磁気式・光学式録音兼用機の“フジカスコープSH10”を発売した。この“SH10”は、従来よりも約50%も明るい映写機として好評を博したが、引き続き1975年(昭和50年)10月には、同機にFTS並びにパルス方式の同調機能を付加した“フジカスコープサウンドSH30”を発売し、高級サウンド映写機を整備してきた。  
この間、1973年(昭和48年)12月に、サウンドオンサウンド(二重録音)機構によってバック音楽やナレーションのミキシングが簡単に楽しめ、またフィルム装てんをオート化した“フジカスコープサウンドSH7M”を発売し、音楽指向の市場に応えていった。1972年(昭和47年)4月には、明るい部屋でも8mm映写が楽しめるように、いままでの12倍の明るさをもった映写用スクリーン“富士ハイスクリーンフレームタイプ”を発売した。これらの開発で、明るい映像が音声と同調して気軽に楽しめるようになった。  
ハイシングル−8システムの開発  
カラー写真が一般化してきたことに伴って、8mmムービーでもカラーフィルムの感度アップの要望が強まってきた。  
このような要望に応えて開発したのが“フジカハイシングル−8”システムで、1973年(昭和48年)3月、カメラ“フジカシングル−8AX100”およびカラー反転フィルム“フジクロームRT200”を同時発売した。  
“AX100”は、F1.1という明るいレンズと、230度という広いシャッター開角度の効果で、従来のF1.8レンズ付きカメラに対して6倍の明るさを実現した。また、“フジクロームRT200”は、従来の外型タイプから内型タイプに切り換え、品質の安定化とASA200の高感度を実現し、“AX100”との組み合わせで、従来の約24倍の超高感度システムを実現した。これによって、室内や夜間の撮影なども気軽にできるようになり、8mm映画の世界を拡大した。  
ハイシングル−8システムの発売に当たって、当社は「カラスの黒兵衛」をマスコットに採用し「やみ夜のカラスは写りませんが……」のキャッチフレーズで、その特長をアピールし、シングル−8の新しい市場の開拓を図った。  
次いで、翌1974年(昭和49年)4月にはパルス式音声同調機構を付加し、3倍ズーム機構を装備した“フジカシングル−8ZX300”を発売した。さらに翌1975年(昭和50年)4月には5倍ズーム機構を装備した“ZX500”を、同年10月には3倍ズーム機構を装備した普及機“PX300”を、それぞれ発売し、ハイシングル−8シリーズの整備を図った。  
一方、この1975年(昭和50年)はシングル−8システム発売10年目の記念すべき年でもあった。そこで当社は、この発売10周年を記念して、同年2月、広範囲な分野で利用できる超高級システム8mmカメラ“フジカシングル−8ZC1000”および、パルス式音声同調機構装備の普及型映写機“フジカスコープMX50”を発売した。  
“フジカシングル−8ZC1000”は、“EBCフジノンMAZ”のマクロ機構付き10倍ズームレンズを標準装備とし、35mm一眼レフ用の各種レンズの交換も可能とした。また、スローモーション映写用として毎秒72コマの撮影機構も付加して、医学用ファイバースコープや天体望遠鏡などによる特殊撮影にも対応できる超高級システムカメラであった。  
この“ZC1000”の発売によって、普及機から高級機までのシングル−8カメラのラインアップが完成し、多様化するユーザーニーズに応えていった。  
一方“フジカスコープMX50”は、明るいズームレンズを装備するとともに、パルス方式によるリップシンクロ映写が可能な映写機で、フィルム装てんや巻き戻しもフルオート化された普及機とした。  
そして、10周年記念事業の一環として、同1975年(昭和50年)6月から各地域別に8mmフェアを行なった。会場内では、8mmスクールやファミリー撮影会を開催し、そのほか、お楽しみコーナーなども設け、地元のカメラ店およびユーザーと当社の心のふれ合いを深めた。また、8月から「日本の秋、より撮りみ撮り」をキャッチフレーズに、全国8mm撮影ツアーと8mmスクールを開催し、多数の参加者を得て好評を博した。  
さらに、1975年(昭和50年)3月、8mm用カラー反転フィルム“フジカラーR25”を内型タイプに改め、名称も“フジクロームR25”とした。そしてこの内型化に伴い、国内・海外における現像所の増設を行ない、現像処理体制の充実を図った。次いで、翌1976年(昭和51年)12月には、映写のときに録音できるアフレコ用のフィルム“フジクローム25アフレコ”、同“RT200アフレコ”を発売し、システムのラインアップを進めるとともに、8mmムービーの楽しみの倍加を図った。  
サウンドシステムの開発  
8mm映画の映像と音声の同調化の要望に応えて、録音同調のパルスシンクシステムその他を開発してきたが、操作性の点から、より簡単な録音・再生方式の開発が強く求められた。このような要望に応えて、フィルムに磁気録音帯を塗布し、撮影と同時にカメラに内蔵した録音装置によって音も収録する“シングル−8サウンドシステム”を開発した。そして、1976年(昭和51年)4月、サウンドカメラ“フジカシングル−8サウンドAXM100”および同“ZXM300”とサウンド8mmフィルム“フジクロームR25サウンド”および同“RT200サウンド”を同時発売した。  
“AXM100”は固定焦点レンズ付きの普及機、“ZXM300”は2.7倍ズームレンズ付きの高級機で、いずれも、付属のマイクまたは別売のシューティングマイクによって、同時録音が可能な軽量コンパクト機で、名称中の“M”はMagneticSoundを意味した。また、サウンドフィルム2種は、8mmフィルムの両サイドに磁気録音帯を塗布し、一方は録音用に、パーフォレーション側の磁気帯はバランス用とした。このため、サウンドフィルムのマガジンは、従来のものより14mmほど大きくなり、専用のサウンドカメラでなければ使用できない構造となったが、“AXM100”、“ZXM300”は、いずれも、従来のシングル−8フィルムも使用可能な構造とした。  
サウンドシステムの開発によって、カメラによる映像と音声の同時収録が可能となり、8mmムービーの世界に大きな広がりをもたらした。  
シングル−8システム発売以来の積極的な普及販売活動とフィルム、カメラ、映写機の整備によって、8mmムービーの需要は次第に増大し、1977年(昭和52年)には、8mm撮影機、映写機の世帯普及率も10%に達した。  
しかし、このころには、新しい映像システムとしてホームビデオが登場し、記録後すぐ再生できる即時性や、テレビ受像機で見ることができるなどの簡便さによって普及し始めていた。一方、8mmの分野では、サウンド化や高機能化は、高価格化をもたらし、カメラと映写機のセット価格で10万円を超えるものが多くなり、8mm需要の拡大のテンポに頭打ちの傾向が現われてきた。  
これに対して、高価格となった8mmムービーシステムをもう一度原点に戻して、家族や仲間の楽しいコミュニケーションに役立つものとなるように、新たに、カメラと映写機のセットで5万円台の“フジカシングル−8すくすくセット”(“フジカシングル−8P2”、“フジカスコープM17”)を開発し、1978年(昭和53年)9月10日に発売した。発売に際してのキャンペーンとして、第1子で同日生まれの赤ちゃんに抽せんで“フジカシングル−8P2”をプレゼントし、赤ちゃんの成長記録を撮ってもらう「すくすくキャンペーン」を展開した。  
一方、動きの多い被写体が主である8mmカメラの撮影において、期待される機能のトップは、焦点調節の自動化であった。そこで、サウンドカメラに、オートフォーカスならびにマニュアルフォーカスのほかメモリーフォーカス機構を内蔵した3倍ズームの同時録音AFカメラ“フジカシングル−8サウンド300オートフォーカス”を開発し、1978年(昭和53年)12月発売してその要望に応えた。  
このメモリーフォーカス機構は、被写体までの距離が自動的にメモリーされた後は、被写体の前面を移動する人や車などに影響されず、常に被写体にピントが合う焦点調節機構であった。  
その後、1981年(昭和56年)12月には、4倍ズーム機構の同“P400サウンドオートフォーカス”を追加し、AF機の整備を図っていった。  
映写機についても、1978年(昭和53年)7月、磁気式録音再生機(光学式再生も兼用)で、メーントラックのほかサブトラックによる追加録音再生(2トラック)可能の“フジカスコープサウンドSD12”を発売、同年12月、世界で初めて水晶発振回路を組み込んでモーターの完全な定速制御を可能とした光学式、2トラック磁気式録音再生兼用の同“SD20クオーツ”を発売した。次いで、1979年(昭和54年)12月には、磁気式録音機構に日本で初めてマイクロコンピューターを導入し、録音編集を前もって予約したプログラムによって自動的に制御するとともにステレオ再生も可能とした同“SD25ステレオクオーツコンピューター”を発売した。  
さらに、1980年(昭和55年)4月には、フィルムを差し込むだけで自動的にローディングされる全自動映写機“フジカスコープSDオート”、1981年(昭和56年)12月には、スクリーン内蔵のテレビ型自動映写機“フジカスコープオートビジョン”を発売し、高機能化と自動化による使いやすさを進めて、ユーザーの多様な用途に応えていった。  
これらの商品開発と併行して、動く映像の楽しさを訴えて8mmムービーの需要喚起を図ってきたが、1980年(昭和55年)11月には、多数のカメラ販売店、特約店と当社が一体となり、「フジカシングル−8大動楽市」を東京で開催した。多彩な内容の催しとともに、会場内に各カメラ販売店が独自の店舗を開き、シングル−8をはじめとするオールフジカ製品の展示即売会を行なって、業界の話題を集めた。  
8mmムービーの需要は、ここ数年来低下傾向を示しているものの、撮影の便利さ、画質が優れていること、拡大映写ができること、編集が容易であることなどによって、根強く続いている。  
AV市場への進出
映像と音による情報伝達方法が発達し、視聴覚(AV)市場が形成される。すでにこの分野の関連製品を販売してきた当社は、積極的にAV市場へ参入を図っていく。そして、1970年(昭和45年)には、8mmフィルム用テレビ型プロジェクターや、OHP、スライド映写機などを順次発売する。1974年(昭和49年)に、富士映像システム株式会社を設立し、AV事業を積極的に展開する。その後、ビデオシステムの急速な普及に対応するため、1982年(昭和57年)、同社をすでに設立済みの富士マグネテープ株式会社に統合する。この間、次代の映像再生システムとして注目されたEVRシステムについて、米国のCBS社との合弁会社設立の検討をしたが、フィルムの供給のみにとどめる。
AV製品の整備と市場への展開  
写真の普及に加えて、映画やテレビ、テープレコーダーなどの普及によって、これらのメディアを活用した映像と音による情報伝達の方法が急速に発達してきた。これに伴って、視聴覚分野、いわゆるAV(AudioVisualの略)の市場が形成され、拡大されてきた。  
シングル−8システムをはじめ、映画用フィルム、35mm判カラーフィルム、磁気記録材料など、すでにこの分野の関連製品を発売してきたが、これらの製品をシステムとして組み合わせ、また、新たな商品の企画を進め、積極的にAV市場への参入を図った。  
そして、1970年(昭和45年)10月には、自作の8mmフィルムや市販の8mmフィルムを明室でも映写できるテレビ型サウンドプロジェクター“フジックスTM40”をはじめ、オーバーヘッドプロジェクター“フジックスOHP700”、スライド映写機“フジックススライド2000TEF”を発売、その後も関連する機器の開発を進めていった。  
次いで、1972年(昭和47年)6月には、スライド映写機“フジックスSP5000”を発売したが、同機は、カセットプレーヤーを内蔵し、スライドとカセットテープの同調映写ができるようにした新しいテレビ型のスライド映写機で、企業の販売促進用や社内教育用として活用された。  
AVシステムの活用は、AV機器に合ったソフトウエアがあってはじめて効果があがるので、機器の開発と並行して、当社は各種ソフトの開発を進めることとした。ソフトの開発は当社の従来の業務とは異なる分野であり、これを円滑に進め、AV事業の本格的な展開を図るために、1974年(昭和49年)10月、AV関係の販売部門を独立させ、資本金5、000万円全額を出資して富士映像システム株式会社を設立した。  
富士映像システム株式会社設立後の当社のAV事業は、次の三つの分野にわたって展開した。  
(1)学校教育分野  
OHPの普及に伴い、教科書出版会社と提携し、教材用として小中学校の教材のソフトを制作し、またOHPの機種整備を図った。なかでも、1980年(昭和55年)5月に発売した“フジックスOHPEW−1”は、ワンタッチで、1.5倍、2倍の部分拡大投影ができる画期的な機構で好評を博した。  
(2)8mm映画分野  
8mm映画の需要の拡大策の一環として、東映株式会社と提携して内外の名作やドキュメントなどをシリーズ化した“富士フイルム・東映8mm映画劇場”を発売し、家庭で8mm映画を鑑賞する楽しみを広げていった。  
(3)産業教育用分野  
主として販売促進用や企業内教育用にスライド映写機と35mm判カラースライドのソフトを組み合わせ、システムとして販売した。1978年(昭和53年)6月にはスクリーンとTV型の両用の投影可能な映写機“フジックスSPT5000”を、1980年(昭和55年)8月にはズームレンズ付き“フジックスAM6000”を、それぞれ発売した。  
各分野とも、各種展示会等を活用するなど積極的にユーザーの開拓に努め、ソフトの受注制作活動も活発に展開した。  
その間、ビデオシステムの急速な普及によってAV市場におけるソフトの制作もビデオテープによるものが急速に増加してきた。その結果、AV市場への販売も磁気記録テープの営業活動と結びつけることにより、より一層効果が発揮できる情勢となった。このため、富士映像システム株式会社の事業は、磁気記録テープの販売会社である富士マグネテープ株式会社の事業活動の一環として行なうこととし、1982年(昭和57年)5月、富士マグネテープに富士映像システムを統合した。  
EVRシステムの検討  
テレビジョンが家庭で普及し、また視聴覚教育の普及に伴って学校教育でもテレビを利用する学習が行なわれるようになり、テレビ受像機を利用して必要な映像を必要なときに見ることができないかという要望が生まれてきた。このようなニーズに応えて、さまざまなビデオシステムが考案されたが、その一つとして、米国のCBS社は1967年(昭和42年)にEVR(ElectroVideoRecording)システムを発表した。このシステムは、黒白フィルムに収めた映像を特殊なプレーヤーを使用することによってテレビブラウン管上にカラー映像として再現する方式である。CBS社は日本での普及を目指し、プレーヤーの製造・販売の権利を家電メーカー数社に与えるとともに、プロセシングラボについては日本の企業と合弁会社を設立する方針で、合弁の相手として当社に打診してきた。  
EVRシステムでは、マスターフィルムとして電子線で記録する超高解像力のフィルムとプリント用の高解像力フィルムを必要とする。当社は短期間でEVRシステム用のフィルムを完成させるとともに、このシステム関連の事業化についても検討を行なった。しかし、EVRシステムはテレビの録画ができないうえに、ソフトの自作にも適さないため、一般マスマーケット需要の開拓は極めて困難で事業の見通しは暗いとの判断のもとに計画を見送った。  
この間、日本電子株式会社ではNHKと共同でEVR法を改良してEBR(ElectronBeamRecording)法の開発を進めており、当社は同システム用のフィルムを開発して、日本電子およびNHK技術研究所に提供することも行なった。  
EVR用フィルムは事業化するには至らなかったが、その開発過程で培った高密度記録写真乳剤技術や薄層べースヘの塗布技術、さらに真空中での電子線による露光やレーザー利用技術は、その後の当社の写真感光材料や現像薬品の研究に際して、カラーフィルムや黒白フィルムの解像力を測定・解析するために活用され、それらの研究開発力のアップに大きな威力を発揮した。 
プロ用商品の充実
1970年代前半のブライダルブームは、営業写真館におけるカラー写真の普及に拍車をかける。この間、カラー感光材料の品質向上とともに、カラートレーニング、講習会・実験会、機関誌、営業写真コンテストなどを通じ、営業写真館のカラー技術の向上とカラー写真の普及に努める。また、カラー写真時代に対応して、カラー撮影適性を盛り込んだ中判カメラや大判カメラ用レンズの商品化を進める。他方、コマーシャル写真市場でも、品種整備と品質のレベルアップに全力を尽くすとともに、“フジクロームCBプリント”および“フジクロームRPプリント”を開発し、商品化する。1974年(昭和49年)7月には、プロフェッショナル商品部を新設し、営業活動を積極的に進めていく。
営業写真館用カラー感光材料の整備  
営業写真館やプロカメラマンは、高度な撮影技術を駆使し、目的に沿った高品質の写真を制作しなければならない。それだけに、フィルムや印画紙、カメラなどの選択には慎重で、その品質・性能の評価とメーカーに対する注文は厳しいものがあった。  
当社が営業写真館用として、最初にフジカラーシートフィルムを発売したのは、1963年(昭和38年)6月のことで、このころから婚礼写真にカラー写真が使われ始めた。当時は、カラー写真は、営業写真にとってまだ新しい分野であったが、カラー写真の将来性を見込んで、カラーフィルムやカラーぺーパーの品質改良とカラーラボの整備に努めた。  
1972年(昭和47年)をピークとするブライダルブームは、営業写真におけるカラー写真化に大きな影響を与え、婚礼写真だけでなく、その他の需要にもカラー写真化が促進された。すなわち、七五三や成人式などの記念写真をはじめ、ポートレートや家族写真・学校写真、観光地での記念写真にまで及び、1970年代後半には、この分野ではカラー写真が黒白写真を上回ってきた。  
こうした情勢に対処し、営業写真館からのニーズに応え、1972年(昭和47年)3月に“フジカラーNプロフェッショナルタイプS”(短時間露光用、感度ASA100)と“タイプL”(長時間露光用、感度ASA50)を発売した。従来タイプより、“タイプS”は25%、“タイプL”は60%、それぞれ感度アップした。両タイプとも一般用の“ニュータイプフジカラーN100”と同様に、オイルプロテクトカプラーを採用したフィルムで、各種の撮影用光源への適応性を広め、画質や色再現性、ラチチュードなど品質のレベルアップを図った。サイズについては、大名刺判と4×5判のシートフィルム、そしてブローニー判を整備した。  
一方、カラーぺーパーも迅速処理性の優れているWPタイプに切り換える計画の一環として、1974年(昭和49年)6月より“フジカラーぺーパーWPプロフェッショナル”(タイプ07)に切り換えた。このぺーパーの商品化に当たっては、営業写真として最適の階調を再現するために多大の苦心がなされた。また、発色の優れたカプラーを使用したので、赤の色調がよくなり色再現性も向上した。プリントの保存性も大幅に改良された。面種については、従来の光沢滑面に微光沢滑面と半光沢絹目を加えて3種とした。  
次いで、1976年(昭和51年)1月、微粒子タイプの“フジカラーF−IIプロフェッショナルタイプS”(感度ASA100)と従来より60%感度アップした“タイプL”(感度ASA80)を発売した。このフィルムは一般用“フジカラーF−II”で開発したIRG(現像抑制物質放出型粒子)技術を基礎に、さらに改良を加え営業写真館用に開発したフィルムで、粒状性やシャープネスが飛躍的に向上した。また、階調と色再現性を高め、画質を一段とレベルアップさせた。  
さらに、1980年(昭和55年)4月“フジカラー100プロフェッショナルタイプS”(感度ASA100)を、同年9月“フジカラー80プロフェッショナルタイプL”(感度ASA80)を、それぞれ発売した。これらのフィルムは、IRG技術に加えて“フジカラーF−II400”で開発したCLG技術を導入した新しい写真乳剤を使用し、粒状性とシャープネスをさらに高め、併せて、微妙な色の細かい変化を表現する色再現性を向上させ、一段と品質をグレードアップし、営業写真館のニーズと期待に応えた。  
また、新しいタイプのフジカラープロフェッショナルフィルムとのシステム性能の良化を図るため、カラーペーパーについても1980年(昭和55年)7月に新しく“フジカラーぺーパーWPプロフェッショナル”(タイプ08)に切り換えた。ハーフトーン(中間濃度)からシャドウ(画像の黒いところ)までの階調描写を良化し、肌色描写とカラーバランスを整えた。また、ぺーパー感度と乾燥速度をあげ、ラボにおける作業性の向上を図った。  
人像用印画紙“銀嶺”の改良  
1969年(昭和44年)10月に商品化した人像用印画紙“白銀”は、密着・引伸し兼用紙として、中判カメラ普及のタイミングもあって好評を得たが、営業写真でのカラー写真の著しい普及に伴い、黒白印画紙の需要が次第に減少したことから、1977年(昭和52年)に生産を中止し、人像用印画紙は“銀嶺”1種となった。人像用印画紙“銀嶺”は、1940年(昭和15年)に発売して以来、連綿として続き、この間、時代の推移とともに幾度となく品質改良しレベルアップを図ってきた。1978年(昭和53年)11月にはWP紙を使用した“銀嶺WP”に全面的に切り換えた。  
“フジクロームプロフェッショナル”の発売  
プロ用のカラーネガフィルムが主として営業写真館で使われるのに対し、プロ用カラーリバーサルフィルムは商業写真を主として、カラー印刷原稿や学術用・産業用などの業務用写真にも使用される。  
当社は戦後間もなく、1948年(昭和23年)に“フジカラーリバーサルフィルム”(外型、感度ASA10)を発売し、初めてカラー市場に進出したが、プロフェッショナル用として内型反転方式のシートフィルムを発売したのは、それから21年後の1969年(昭和44年)のことであった。当時、印刷製版技術の進歩に支えられ、カラー印刷原稿としてのカラーリバーサルフィルムの需要が急増した。しかし、カラーリバーサルフィルムの市場は、すでに輸入品が豊富な製品ラインで強力な地盤を築いていたので、当社フィルムの入り込む余地は少なく、普及は容易でなかった。そこで当社は、より優れた品質に改良を図るとともに製品ラインの充実を進めていった。  
1972年(昭和47年)12月には、デーライトタイプの“フジクロームプロフェッショナル120タイプD”とタングステンタイプの“フジクロームプロフェッショナル120タイプT”(いずれもブローニーフィルム)を発売した。両タイプとも感度はASA100で、従来タイプより大幅に感度アップした。両タイプとも、鮮明で彩度のよい発色と忠実な色再現性、および優れた印刷適性など、プロ用としての条件を十分に満たしたフィルムであった。また、現像処理のはん用性を高めるため、高温処理適性をもたせ、1966年(昭和41年)にコダック社で採用した高温迅速処理方式にも対応した。  
その後、1978年(昭和53年)10月に、デーライトタイプの“フジクローム100プロフェッショナルタイプD”(感度ASA100)と翌1979年(昭和54年)3月には、タングステンタイプの“フジクローム64プロフェッショナルタイプT”(感度ASA64)をそれぞれ発売した。自然の色の再現性と片寄りのない階調を目標としたフィルムで、特に肌色描写がよく、シャープネスや粒状性、階調を改良した。両タイプとも写真乳剤膜に硬膜処理を施し、現像前の硬膜処理をせずに高温迅速処理することを可能とし、処理の迅速化に大きく寄与した。  
さらに、1980年(昭和55年)4月、超高感度ASA400の“フジクローム400プロフェッショナルタイプD”を発売した。このフィルムは、当社が独自に開発したCLG技術やICL技術、超精密塗布技術と新しく開発したカプラーの組み合わせにより、シャープな解像力と鮮明な発色・ワイドな光源適応性・広いラチチュードなど安定した性能と使いやすさを備え、優れた画質が得られる。舞台・室内・夜景などの撮影や報道写真・スポーツ写真など、高速シャッターや望遠レンズを必要とする撮影に威力を発揮した。  
フジクロームCBプリントの開発  
かねてからカラーリバーサルフィルムからカラープリントを作成する方法の一環として、反転カラープリントの研究を進めてきた。しかし、この分野は市場規模が小さく、量産に適さなかったので既存システムの導入を図ることとし、1968年(昭和43年)2月に、チバクロームを開発したスイスのチバ社(現チバ・ガイギー社の前身の1社)と提携、1970年(昭和45年)3月“フジカラーCBぺーパー”を発売し、“フジカラーチバクロームCBプリント”(後に“フジクロームCBプリント”と改称)として、フジカラーラポでプリント受注業務を開始した。CBプリントは、カラーリバーサルフィルムの画像を直接焼き付けてカラーポジプリントをつくるもので、宣伝・広告・装飾用写真をはじめ、商品見本写真や美術工芸写真などに使用される。画像保存性が優れ、また解像力や色彩度が高い高品質のカラープリントである。このCBプリントは、写真乳剤層に高純度のアゾ系色素を含ませ、現像過程で不要の色素を取り除きカラー画像をつくり出すもので、通常の発色現像法とは全く異なり銀色素漂白法と呼ばれるものである。  
その後、1977年(昭和52年)12月には、撮影(複写)装置と自動現像機を一体化した“フジCBカラーコピーマシン”を開発し、“フジCBカラーコピーシステム”を完成した。このシステムは、コピー材料として“フジCBカラーコピーぺーパー”または“フジCBカラーコピーフィルム”を使用し、一般印刷物やデザイン・イラスト・図面から簡単な操作で短時間(約6分)に鮮明で色再現のよいカラーコピーが得られ、縮小・拡大コピーも可能である。  
次いで、1980年(昭和55年)10月には、印刷におけるレイアウト製版の合理化の一環として“フジクロームCBデュープシステム”を完成させた。このシステムは、カラーリバーサルフィルムから直接品質の良い印刷用の反射原稿(カラープリント)を作るもので、“フジクロームCBぺーパー”と引伸機、専用プロセサー(“フジCBカラープロセサーFCB−1430M”)で構成される。その後、1982年(昭和57年)3月には、マイコン装備の専用引伸機“富士デュープリケーションエンラージャーD570AF”および“富士オートマチックエンラージャーG570AF”を発売した。  
フジクロームRPプリントの開発  
フジカラー製品のラインアップの一環として、1979年(昭和54年)3月、反転カラーぺーパー“フジクロームペーパー”とその処理剤を商品化し、“フジクロームプリントシステム”(後に“フジクロームRPプリントシステム”に改称)を完成し、フジカラーラボでプリント受注業務を開始した。  
“フジクロームRPプリント”は、CBプリントと同様にカラーリバーサルフィルムから直接カラープリントができるシステムで、鮮明な色彩に加えて、解像力や白色度などに優れた特長をもっており、カラープリントの焼き増しや“フォトラマ”からのプリントなど、さらにアマチュア向けにも用途を広げた。  
1982年(昭和57年)5月には“フジクロームペーパーグロッシー”を開発、プリントの品質をレベルアップした。また、同年10月には、展示・贈呈・デザイン用などに適した大型サイズについても、フジカラーラボでプリント受注を開始した。  
中判カメラの整備  
中判カメラは、1968年(昭和43年)12月の“フジカG690”発売以来、大判カメラにない機動性・スナップに適した速写性、大判カメラに匹敵する高画質を備えた重宝さが認識され、営業写真館をはじめ、プロカメラマンやアドバンスドアマチュア層にも次第に普及していった。  
1973年(昭和48年)11月に“G690”をモデルチェンジし、ボディーの軽量化を実現した“フジカGL690”と画面が6cm×7cmの“GM670”を発売した。“GL690”と“GM670”は、ともに中判カメラとしては初めて絞り優先の電子シャッターを内蔵した“EBCフジノンAEF3.5100mm”を装着し、交換レンズも共通にして、65mm、150mm、180mmのほか、超広角の“フジノンSW50mm”を整備した。両カメラとも35mm一眼レフなみの携帯性と操作性を有するカメラとして好評を得た。  
その後、1978年(昭和53年)11月には“フジカGW690プロフェッショナル”を発売した。“GL690”をさらに軽量化し、操作性などの機能を一層高め、アドバンスドアマチュアからプロ写真家のあらゆる需要に対応できるカメラとして評価された。レンズは固定式とし、5群5枚構成の“EBCフジノンF3.590mm”を装着した。  
さらに、1980年(昭和55年)3月には“GW690”の姉妹機として“GSW690”を発売した。超広角レンズの“EBCフジノンF5.665mm”を装備し、画角は76度で、風景やインテリア、スナップなど撮影領域の拡大を実現するプロフェッショナルカメラである。  
大判カメラ用フジノンレンズの充実  
1970年代に入り、営業写真とコマーシャルフォトともに、カラー写真化が一層促進された。これに伴って、当社はカラー撮影に対応したプロフェッショナル用レンズの開発に主眼を置き、製品の整備に努めた。  
フジノンレンズは、多様化される需要に応え、プロ写真家が撮影目的別にレンズを選定しやすいようにレンズの特性、包括角度、焦点距離の組み合わせにより、W(標準レンズ)、SWD(超広角レンズ)、T(テレタイプの長焦点レンズ)、SF(軟描写レンズ)などを整備しシリーズ化した。  
コマーシャルフォト分野の需要増に対応し、従来の営業写真館向けの大判カメラ用に加えて、コマーシャルフォトで多く使用される4×5判(10.2cm×12.7cm)、6cm×9cm判(大名刺判)カメラ用レンズも各種そろえた。  
フジノンレンズの商品化にあたっては、フィルムメーカーならではの自然な色再現とシャープネスの向上を図った。特に、カラーバランスについては、純度の高い光学ガラスを使用し、どのレンズでも均一となるように留意した。また、EBCコーティングの採用により、カラーコントラストとシャープネスの向上を実現した。  
プロフェッショナル用フジノンレンズのEBCコーティングは、1974年(昭和49年)11月、超広角レンズ“フジノンSWD”から採用し、画質の向上を実現した。また、露光時間32秒までの長時間コントロールが可能な電子シャッター付きのフジノンレンズの受注も開始した。  
1978年(昭和53年)には、6群6枚のレンズ構成、周辺までシャープに写る広角レンズ“EBCフジノンW”を発売し、プロフェッショナル用フジノンレンズの名声を不動のものとした。1982年(昭和57年)には、コンパクト設計で軽量化し、携帯性を高め、コマーシャルフォトにおける風景写真用や商品写真用として開発した“EBCフジノンC”を発売した。  
フジノンレンズは、プロフェッショナル用として厳しいユーザーニーズを十分に採り入れ、高品質と高性能化に挑戦し、そのラインアップを拡充してきた。その結果、フジノンレンズはプロ写真家のあらゆる需要に応えられる体制を築いた。  
プロフェッショナル商品部の新設  
創立当初に営業写真館向けに乾板と印画紙を発売して以来、営業写真館やプロカメラマン用の分野に各種の写真感光材料を商品化し、また、大判カメラ用レンズや中判カメラおよびその付属品、引伸機などの光学機械製品も整備して、その充実を図ってきた。この間、当社営業担当者の営業写真館訪問、あるいは機関誌「写真と技術」(後に「スタジオ・メモ」と改題)の定期発行、「富士営業写真コンテスト」の開催、また、カラー写真普及の当初は、社内外の講師による全国各地での講習会・実験会の実施、当社技術サービスセンターにおけるカラートレーニングなどを行ない、これらを通じて営業写真館とのコミュニケーションを深めるとともに技術の向上に貢献し、併せて、当社製品の普及を図ってきた。1971年(昭和46年)からは、当社の呼びかけによって結成された新しい営業写真館の経営研究をテーマとするPGC(パイオニア・グリーン・サークル)の全国活動をバックアップし、また、1979年(昭和54年)からは「ファミリーフォトキャンペーン」を毎年春秋2回開催し営業写真需要の拡大の一助とした。  
一方、コマーシャルフォトの分野では、広告写真家団体による技術研究会・勉強会のタイアップ、機関誌「フォトクリエイター」の発行、フジクロームによる写真展の開催、月例フォトコンテストの開催などを通して、積極的に当社プロ商品の普及に努めてきた。  
1974年(昭和49年)7月にはプロフェッショナル商品部を新設し、プロ商品の営業担当部門とした。  
プロフェッショナル商品部は、営業写真館やコマーシャルフォトをはじめ、医学写真・学術研究・報道・スポーツ・鑑識などの業務用写真の分野、カラーラボや印刷関係など、幅広い需要層を対象として、長年にわたる営業努力により築きあげた信頼と培われた技術や経験を通して商品化を促進し、営業活動を積極的に展開していった。  
カラーラボ機器システムの開発
カラーフィルムの新製品を相次いで発売する一方、その現像・プリント機器の開発体制を整備し、カラーラボの省力化と高品質化を目指して、処理機器、処理システムの開発を進めていく。“5C353”・“FAP4000”・“FAP3500”、そして高速の“FAP7000”などのカラープリンター群、カラーペーパー自動現像機やシネタイプのカラーネガフィルム現像機、そして、再注文プリントシステム、ビリングシステムなど、高性能・高品質の各種ラボ機器、あるいはラボシステムを次々と開発、大規模ラボから小規模ラボまで、ラボの規模や処理内容に対応した機器システムを完成し、カラー写真の品質の向上とラボ経営の効率化に寄与する。
機器開発体制の強化  
1970年代に入って、カラー写真の普及に伴い、カラーラボにおける現像処理やプリント作業量も急速に増大していった。カラーラボ業界の競争も激しくなり、より一層効率的な処理機器および処理システムの開発が求められた。全国的なフジカラーラボの現像・プリント網を整備するとともに、ラボの省力化と現像・プリント品質の向上を実現するための処理機器と処理システムの開発を目的として、1973年(昭和48年)、CL計画(カラーラボ機器システム総合開発計画)推進チームを発足させた。この推進チームには、富士写真光機やフジカラー販売、そしてフジカラーサービスなど関係会社の担当者もメンバーになり、富士フイルムグループが一丸となって開発に取り組む体制とした。  
計画は、2段階に分け、まず第1段階としてカラーラボの規模別に、それぞれの規模に合った同時プリントシステムを開発し、次に第2段階としてカラープリントの再注文ラインやビリングシステム(返送用DP袋への印字および計算処理システム)の自動化を実現することとした。  
この計画の実現を図るために、1973年(昭和48年)12月には機器部を機器開発部と改め、機器開発体制を一層充実させ、翌1974年(昭和49年)6月には富士フイルムグループの機器製造体制の充実・強化を目指して、量産設計段階以降の業務を富士機器工業や富士写真光機などの生産部門に移管し、機器開発部は基礎研究と試作機の開発研究に集中することにした。  
普及判サイズ用カラープリンターの開発  
カラーフィルムの現像・プリントなどの処理工程は、複雑多岐にわたっているが、カラーラボにとっては、作業の大半を占めている35mm判フィルムから普及判サイズにプリントする同時プリント工程の効率化が第一に解決すべき課題であった。そこで当社は、まず、小規模なカラーラボに適したコンパクトなカラープリンターの開発を進めてきた。1970年(昭和45年)5月に“富士カラーロールプリンター3C350”を発売した後も引き続きその高性能化に取り組み、翌1971年(昭和46年)6月には“ニュータイプフジカラーN100”の発売に合わせて、35mm判カラーネガフィルムから普及判サイズにプリントするプリンター“富士カラーロールプリンター5C353”を完成した。  
“5C353”は、“3C350”の1.4倍の能力、すなわち、同一標準濃度のカラーネガフィルムから連続して毎時3、700枚プリントする能力を有し、ネガフィルムの露光が多少、オーバー露光でも、あるいは露光不足であっても、自動的に補正できる補正システムを採り入れた。  
一方、営業写真館のスタジオ撮影用のカラーネガフィルムは、4×5判サイズが中心であるが、観光地での集合写真や出張撮影には当社の中判カメラ“G690”カメラを用いたブローニー判6cm×9cmサイズのカラーネガフィルムも用いられるようになってきた。これらのカラーネガフィルムから大型サイズのプリントを製作するときは、これまで引伸機によって1枚ずつの手焼きプリント作業が行なわれていた。この分野に対してもロールペーパーを使用する自動プリンターの開発を進めていたが、1973年(昭和48年)7月、6cm×9cmサイズまでの大きさのカラーネガフィルムから、Eサイズから2Lサイズまでの各種サイズにプリントすることができる“富士カラーロールプリンター5C690”を開発し、発売した。  
一方、4×5判サイズのカラーネガフィルムからのプリントについては、1978年(昭和53年)10月、本格的な自動プリンター“富士カラーロールプリンター11C450”を発売した。“11C450”はマイクロコンピューターを搭載し、ズームレンズによって、大四切(27.9cm×35.6cm)までの大きさに自由にトリミングしながらプリントできる高性能プリンターで、これまでは熟練を必要とした大型サイズのプリント作業を明室で従来の約3倍のスピードでできるようにし、省力化と品質の安定化に大きな威力を発揮した。  
高性能自動カラープリンターの開発  
1975年(昭和50年)6月、CL計画の第1段階の成果として、同時プリンター“富士オートマチックプリンターFAP4000”とその周辺機器からなるカラーラボシステムをラボシステムショーで発表し、ラボ関係者の注目を集めた。  
“FAP4000”は、撮影条件による露光の過不足や色のかたよりのあるカラーネガフィルムに対しても自動的に補正し、同一標準濃度のカラーネガフィルムから連続して毎時6、000枚のプリントを行なう能力を有する高性能プリンターで、オートスプライサー(現像済みのカラーネガフィルムを長い1本のロールに接合する)、オートノッチャー(各コマの位置をプリンターが正確に読みとるためのノッチを入れる)などの周辺機器とともに1976年(昭和51年)12月に発売した。  
その後、1978年(昭和53年)4月には“富士オートマチックプリンターFAP3500”を発売した。“FAP3500”は、同一標準濃度のカラーネガフィルムから毎時4、200枚プリントする能力を持つとともに、6cm×9cm判サイズ用ユニットを接続すればブローニーサイズのネガフィルムからのプリントも可能となり、後述する再注文プリントシステムと接続すれば再注文プリント用にも使用できるなど、豊富なオプションによって各種の使い方ができる。  
このシステムは、マイクロコンピューターを搭載したことにより一段と性能が向上し、また、コントロール回路のコストダウンが実現できたので、価格も比較的購入しやすい価格に設定することができた。その優れたプリント品質と操作性・信頼性・はん用性によって、発売以来、内外のカラーラボの好評を得、急速に普及していった。  
さらに、1980年(昭和55年)1月には“FAP3500”のプリント速度を約1.5倍アップした“FAP3500H”にタイプチェンジしたが、このタイプも好評を博し、FAP3500シリーズの累計生産台数は1984年(昭和59年)1月までに1、500台を突破した。このことは、この種の製品としては極めて記録的なことであった。  
この間、1978年(昭和53年)11月には、同一標準濃度のカラーネガフィルムから、連続して毎時1万枚プリントする能力をもつ高速プリンター“富士オートマチックプリンターFAP7000”を発売した。  
“FAP7000”の特長は、35mm判カラーフィルムのフルサイズとハーフサイズの自動切り換えキャリアを内蔵し、35mm判フルサイズの画面とハーフサイズの画面を混在して接合した長尺状のカラーネガフィルムのロールを、そのままで連続してプリント作業をすることができるようにしたことにあった。この高速プリンターは、カラーラボのプリント業務の効率化に寄与するとともに、納期の短縮化傾向にも対応し得るもので、特にシネタイププロセサーとの組み合わせによって一層大きな威力を発揮した。  
これら各種機器およびシステムの開発によって、ラボの規模に応じて最も効率的な機器を選定してカラープリントの処理ラインを構成することが可能となった。  
自動現像機の開発  
カラーネガフィルムの現像は、1970年代前半までは、1本1本のフィルムをクリップでハンガーにつるして現像するつり下げ式自動現像機(ハンガー式自動現像機)での処理が主体であったが、かねてから、暗室でフィルムをハンガーにかける作業の改善が要請されていた。この対応策として採用されたのがシネタイプ式の現像方式である。  
撮影済みの35mm判フィルムをつなぎ合わせて長尺のロールフィルムとすることができれば、映画用フィルムと同じように連続処理することができる。未現像のフィルムをあらかじめプレスプライサー(フィルムを1本ずつ接合する接合機)で接合して長尺のロール状とし、長尺のまま連続して現像処理するシネタイプ方式の新しいプロセサーの開発に取り組み、1976年(昭和51年)5月に、明室型シネタイプカラーネガ自動現像機“富士カラーコンティニュアスフィルムプロセサーFNCP300”(毎時300本処理できる)、同年12月に、同“FNCP600”(毎時600本処理できる)を発売した。さらに、1978年(昭和53年)7月には、毎時900本処理できる“FNCP900”を追加発売した。  
この自動現像機はフィルムを長巻きの形で現像し、そのままプリント工程にもっていけるため、現像処理の大幅な省力化を実現するとともに、現像仕上がり品質の均一化が図れるなど、ラボの作業効率を飛躍的に向上させた。  
一方、カラーぺーパーの現像については、1973年(昭和48年)9月に“富士カラーロールペーパープロセサーFRP115”、1975年(昭和50年)4月には“富士カラーぺーパーシートロールプロセサーPSR2040”と同“PSR1240”を発売した。  
これらの機種は、いずれも小量処理用のものであり、その後引き続き、明室で簡単に操作できる大量処理用のカラーぺーパー自動現像機の開発を進めた。そして、1980年(昭和55年)10月、“富士カラーロールペーパープロセサーFPRP400シリーズ”3機種を商品化した。このシリーズは各機ともユニット構造とし、ラボの処理量に合わせて最も適切な機種を選択し、また、能力アップができるようにした。  
これらの機種は、マイクロコンピューターを搭載したことによって、処理ぺーパーの面積を自動的に検出し、正確な処理液補充を行ない、ぺーパー幅や処理数に応じて水洗水量を自動制御するなど、品質の安定化と節水を可能にした。  
再注文プリントシステムの開発  
各種のカラープリンターの開発によって、同時プリント作業の工程の自動化・高速化が実現した。しかし、現像済みのカラーネガフィルムからの再注文、いわゆる焼き増しのプリント作業は、顧客から送付されるフィルムがネガシートに入れられて、カット済みのピース状になっているうえに、焼き増し枚数もまちまちで、技術的な困難から自動化が遅れ、熟練者の作業に頼っていた。  
カラーラボ全体の生産性向上のために、CL計画の第2段階として再注文プリントシステムの開発に取り組み、1980年(昭和55年)7月に“富士シートローラーFSR3500”(ネガシートをプラスチックベースに貼り付けてロール化する装置)、“富士オーダーパンチャーFOP3500”(注文枚数やフィルム画面の補正情報などを紙テープにパンチアウトする装置)、“富士オートネガキャリアSP3500”(“富士オートマチックプリンターFAP3500”に組み込んで、フィルムを自動的にネガシートから引き出してプリントする装置)の3機種からなる“富士リプリントシステム”を発売した。このシステムは、ネガシートをロール化してプリント処理する当社独自の方式であり、従来、熟練者に依存していた再注文プリントの作業内容を簡単にし、大幅な省力化と迅速化、そしてプリント品質の安定化を実現した。  
富士ビリングシステムの開発  
自動カラープリンターや自動カラー現像機などの高性能の機器あるいはシステムを開発してきた当社は、いよいよ、カラープリント生産ラインの最終工程の効率化を目指して、そのシステムの開発に取り組んだ。  
カラーラボでは、ロールペーパーに連続してプリントされたカラー写真を1枚1枚カットし、ネガフィルムと照合して間違いなくプリントされているかをチェックしてから、DP袋(返送袋)に袋詰めを行ない、同時に、そのプリント枚数や料金などを記入して、現像・プリント受付店に返送する。これらの作業の多くは、これまで手作業に依存しており、カラーラボでの作業全体の効率化のネックとなっていた。そこで当社は、これらの各作業の効率化のための機器および処理システムを開発し、1979年(昭和54年)11月に“富士ビリングシステム”として発売した。  
“富士ビリングシステム”は、プリント済みのロールペーパーを1枚ずつカットするぺーパーカッター、カットされたプリントの良否を選別するソーター、そして“富士データプリンターFDP30KI”、およびこのシステムをコントロールする“富士ビリングセンターFBC30K”などで構成されている。  
“FDP30KI”は、DP袋の店コード、袋コードを読み取るOCRリーダー、DP袋上の伝票に処理内容・枚数・金額の印字を行なうプリンター、入出力データを表示するディスプレイユニットおよび専用キーボードから構成されている。  
“富士ビリングシステム”の開発によって、カラーラボでは、ぺーパーカット作業や照合工程部門でのプリント枚数などのDP袋への記入作業が自動化され、大幅に能率が向上した。また、各種のデータを同時にフロッピーディスクに記録できるので、迅速かつ正確な事務処理ができるようになった。  
他方、現像・プリント受付店にとっても、従来自店でDP袋に手書きしていた現像料金やプリント料金がラボで印字されてくることにより、自店の負担が軽減されることになった。  
この“富士ビリングシステム”の完成によって、当社がCL計画で目指したカラーラボ機器システムは一応完成した。  
これらのカラーラボ機器システムの完成は、  
(1)当社のカラーフィルム、カラーぺーパーが本来もっている優れた性能を最大限に引き出すことができるようになった。  
(2)カラーラボの作業を自動化・省力化し、処理コストを引き下げ、カラーラボの経営の効率化に大きく寄与した。  
(3)機器を媒介として、カラーラボと当社の連携が一層緊密となり、当社のカラーフィルムやカラーぺーパーの販売増加に結びついた。  
の三つの点で大きな意義があり、この結果、写真感光材料の品質レベルアップと相まって、カラー写真の普及と当社カラー写真事業の拡大に大きく貢献した。  
海外市場にも導入  
当社のラボ機器は、1971年(昭和46年)に発売した“富士カラーロールプリンター5C353”を1972年(昭和47年)に輸出したのを最初として、各種プリンターやプロセサーが、欧米をはじめ東南アジアなど各地の現像所で広く採用された。1978年(昭和53年)9月に開かれた第15回フォトキナでは、写真感光材料や光学機器製品に加え、当社としては初めてラボ機器の新製品(“富士オートマチックプリンターFAP7000”、同“FAP3500”、大型サイズ用カラープリンター“11C450”)を展示、次いで1980年(昭和55年)の第16回のフォトキナでは、プリンターからプロセサーまでの一貫したカラーラボ機器を展示して、当社の技術力が高く評価された。  
これら各種の処理機器は、その後も、世界各地に導入され、操作性・保守性・性能の良さなどの点で好評を得ている。 
映画用カラーネガフィルムの飛躍的向上とテレビ用高感度フィルムの開発
映画用カラーフィルムは、輸出適性品の完成によって、海外市場にも伸長する。さらに、1977年(昭和52年)、超微粒子で、色再現性に優れ、画質が一層向上した“フジカラーネガティブフィルムA(エース)”を発売する。一方、テレビニュース分野でも、1974年(昭和49年)、世界に先駆けて超高感度の“フジカラーリバーサルTVフィルムRT400”を、また、1978年(昭和53年)には、さらに感度を高めた“RT500”をそれぞれ発売する。これらの新製品は、現像処理適性にも優れ、国内外の映画会社やテレビ局に採用されていく。その後、ビデオカメラを使用するニュース取材のENG化が進行するのに伴い、テレビ用16mmカラーリバーサルフィルムの需要は、減少傾向をたどる。
海外向け映画用フィルムの輸出拡大  
1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて、カラーポジフィルム“タイプ8819”をはじめ、カラーネガフィルム“タイプ8516”など輸出適性品の完成により、映画用フィルムの輸出は急速に拡大していった。  
映画用カラーポジフィルムは、1968年(昭和43年)の輸出適性品の発売以来、輸出も順調に伸長し、米国でも大量に使用されるようになった。しかし、カラーネガフィルムについては、現場での長年の使い慣れなどもあって、なかなか採用されず、初めてアメリカ映画に使用されたのは1973年(昭和48年)のことであった。  
その後、20世紀フォックス社の人気テレビ映画「ペリー・メイスン」(PerryMason)に使用されて弾みがつき、使用作品数も短期間に50本を超えるようになり、使用実績が積み重なるに従って品質的にも評価されるようになった。  
また、英国でも高い評価を得て、次々と採用された。なかでも、1975年(昭和50年)のクリスマス映画として封切られたミュージカル大作「トムジョーンズの華麗な冒険」(TheBawdyAdventuresofTomJones)は、撮影用のカラーネガフィルムとプリント用のカラーポジフィルムともに当社製品が使用され注目された。また、1976年(昭和51年)、BBC放送を通じて放映されたチャールス王子自ら出演のカンタベリー大寺院の紹介映画でも、当社のカラーネガフィルムとカラーポジフィルムが採用され、関心を集めた。  
さらに、1976年(昭和51年)2月にオーストリアのインスブルックで開催された第12回冬季オリンピックの記録映画「ホワイトロック」(WhiteRock)でも、当社の映画用フィルムが採用された。「ホワイトロック」は、翌年2月、わが国でも公開されたが、冬季とはいえ、オリンピックの記録映画に採用されたことによって、当社の映画用カラーネガフィルムおよびカラーポジフィルムは、その真価を世界に認められ、劇映画製作会社をはじめ、テレビ映画製作会社などに広く採用されていった。  
映画用カラーネガフィルム“A(エース)”の開発  
1977年(昭和52年)6月、当社は映画用カラーネガフィルムの新製品“フジカラーネガティブフィルムA(エース)”を発表し、7月に16mm(タイプ8527)を、10月には35mm(タイプ8517)を、それぞれ発売した。  
“A(エース)”の名にふさわしい新時代のカラーネガフィルムが登場したのである。  
“フジカラーネガティブフィルムA(エース)”は、新開発のカプラーや多くの新技術の採用により、粒状性や色再現性など、映画用カラーネガフィルムに要求される諸性能を追求して開発したものであった。露光指数100の感度で超微粒子、優れたシャープネスで画質が一層向上し、特に16mm映画の分野で大きな威力を発揮した。また、現像処理面では40℃を超える高温迅速処理に適応する特性をもたせることが可能となり、現像所の高能率化に寄与した。  
“A(エース)”は、内外の映画会社やテレビ局に採用されて数多くの作品が作られ、また、テレビのコマーシャルフィルムや教育文化映画などにも使用され、まさにA(エース)にふさわしい製品であるとの評価を得た。なかでも、新製品発表の際製作したデモンストレーション映画「風」(THEWIND)は、1977年(昭和52年)、バンコクで開かれた第23回アジア映画祭で、みごと最優秀記録映画賞(AwardforBestShortFilm)に輝いた。  
当社は“A(エース)”の発売を記念し、劇映画をはじめ、テレビ映画・教育文化映画、その他広く映画分野で活躍するカメラマンを対象に、1978年(昭和53年)7月「A(エース)の会」を発足させ、会員からの意見をよりよい製品づくりに反映するとともに広く普及活動を展開していった。  
この間、1974年(昭和49年)4月、当社映画用フィルムの販売特約店を当社創業以来その任にあった長瀬産業株式会社から、新たに設立された報映産業株式会社に移し、販売体制の強化を図った。  
テレビ用“RT400”、“RT500”の開発  
映画用フィルムで国際水準の優秀製品をつくり出した当社は、テレビ用16mmカラーフィルムでも世界最高水準の製品を生み出した。  
テレビ用16mmフィルムとしては、1968年(昭和43年)、ニュース取材用の“フジカラーリバーサルTVフィルムRT100”(タイプ8424)を発売し、NHKをはじめ全国のテレビ局に納入してきたが、その後も高感度化・高性能化のための研究を重ねてきた。そして、1974年(昭和49年)6月に“フジカラーリバーサルTVフィルムRT400”(タイプ8425)を、同年8月には“RT100”の改良品(タイプ8426)を、それぞれ発売した。  
“RT100”と“RT400”は、いずれもテレビニュース撮影用フィルムで、“RT400”はタングステンタイプで露光指数400と、当時のテレビ用16mmカラーフィルムとしては世界最高の感度を誇っていた。このため、国会中継やナイターなど、ライトが使用できない場所でも鮮明な映像が得られるようになった。また改良品“RT100”(タイプ8426)は露光指数100の一般撮影用で、従来の“タイプ8424”を軟調化し、テレビ向けに画質を改良したものであった。両フィルムとも写真乳剤膜に硬膜処理を施すことによって、従来現像前に行なっていた前硬膜処理をせずに高温迅速処理を可能としたので、さらに現像処理の迅速化が可能になるとともに、仕上がりの安定性の向上に大きく寄与した。  
“RT400”は、各テレビ局での使用の結果、シャープネスや粒状性・色再現性などに優れていることが確認され、“RT100”ともども全国のテレビ局に採用された。  
一方、海外でもテレビ用カラーリバーサルフィルム“RT100”と“RT400”は、英国BBC放送にも採用され大きな話題となった。BBC放送は世界で最も権威のある放送局の一つで、使用機材について厳しい規格を設けており、BBC放送に採用されるということは、その製品の高品質と高信頼性が認識されると同時に、欧州各国の放送局の協力組織であるヨーロッパ放送連合(EuropeanBroadcastingUnion)の全メンバーに使用されることを意味していた。それだけに、放送用品を扱う企業にとって、その製品がBBC放送に採用されることは極めて重要なことであった。  
当社の“RT100”と“RT400”は、BBC放送の技術者およびカメラマンによる長期間の念入りなテストの結果、その品質および性能の優秀さが認められたもので、ニュース取材その他で縦横の活躍をした。このBBC放送の採用を契機として、他のヨーロッパ各国の放送局にも次々と採用され、輸出量も急伸していった。  
その後、1978年(昭和53年)12月には“RT400”の感度をさらに高め、露光指数500の新製品16mm“フジカラーリバーサルフィルムRT500”(タイプ8428)を発売した。このフィルムは、超高感度のタングステンタイプで、照明光量の少ない室内撮影や夕景・夜景などの撮影、高速度撮影に適し、また、増感現像特性をもち、露光指数1000に増感現像しても、階調やカラーバランス、シャープネスなどの劣化の少ない優れた画像が得られるようにした。  
また同時に、露光指数125の16mm“フジカラーリバーサルフィルムRT125”(タイプ8427)も発売した。“RT125”は従来の“RT100”に代わるもので、テレビニュースをはじめ、一般記録や工業・学術用に広く採用されている。  
このように、当社はテレビ用のカラーリバーサルフィルムの性能の向上と品種の整備を進めてきたが、この間、テレビ局各社ではニュース取材用にポータブルビデオカメラとVTRを使用するENG(ElectronicNewsGathering)化が急速に進んできた。テレビのニュース取材のENG化は、1970年代の初頭、米国でCBSがポータブルカメラとVTRを議会に持ち込んだことからスタートしたといわれているが、1970年代半ばには、日本のテレビ局もENG方式の導入を開始、現像処理を必要としないなど、取材から放映までの手軽さと迅速さによって急速な普及をみた。このため、テレビ用フィルムの需要は急速に減少していった。  
X-レイフィルム新鋭工場建設とX-レイシステム商品の開発
X-レイフィルムは、その性能向上とX線診断法の進歩に伴って、需要量は増大の一途をたどる。1972年(昭和47年)、富士宮工場内に最新技術によるフィルムベースからの一貫生産工場を建設し、増産体制を整え、国際競争力のある品質とコストの実現を目指す。X-レイフィルムの90秒処理システムの品種を整備し、高感度化のための“富士GRENEXシステム”を、明室処理化の要請に応えて“富士ECシリーズ”をそれぞれ開発する。さらに、核医学、X線CT、超音波などの新しい診断法の登場に伴い、CRT画像を記録する“富士メディカルイメージングシステム”の開発を進めていく。
富士宮工場内にX−レイフィルム新鋭工場の建設  
1970年代に入って、X−レイ診断法や造影撮影法の進歩に伴って、医療用X−レイフィルムは、しゅよう・がんなどの内臓疾患や循環器系の疾病の予防・診断の用途が増大した。また、医療保険制度の充実と国民の健康についての関心の高まりも、X−レイフィルムの需要の伸びに拍車をかけていった。  
X−レイフィルムは、すでに1961年(昭和36年)12月以来輸入が自由化されていたが、輸入関税も1972年(昭和47年)4月以降、数次にわたって税率が引き下げられた。それに伴って、海外の有力メーカーの対日進出が活発化し、市場競争は一段と厳しくなってきた。  
他方、X−レイフィルムの現像処理に自動現像機が普及し、その処理時間も90秒という迅速処理の時代が始まった。当社も、1968年(昭和43年)1月“富士医療用X−レイフィルムRX”を発売し、90秒処理市場に進出した。  
こうしたX−レイフィルムの需要増と90秒処理システムの進展の中で、当社が国内トップシェアを維持し、また、海外市場の開拓を進めていくためには、これまでの足柄工場の生産能力には限界があった。国際競争力のある製造コストを実現し、品質の向上を図るためにも、X−レイフィルムの生産に適した専用工場の建設が強く求められた。しかし、足柄工場には新工場を建設するだけのスペースはなかった。創業以来これまで、写真感光材料の生産は、フィルムベースから一貫して足柄工場に集中してきたが、ここに、将来の長期的展望に立って、足柄工場以外の地にも写真感光材料の生産設備を設けることとし、X−レイフィルム新工場を富士宮工場内に建設することに決定した。  
新工場の建設に当たっては、PETべースの製膜から下塗りまでを行なうフィルムベース工場と写真乳剤製造や塗布乾燥から裁断・加工・包装までを行なうフィルム工場を建設し、フィルムベースからの一貫生産体制を確立することとした。  
新工場の設備投資総額は100億円を超え、当時の資本金を上回る巨額な資金を投入する大規模な投資であった。新設備のうち、X−レイフィルム塗布乾燥設備に対しては、国産新技術振興の観点から日本開発銀行の融資が適用され、また、企業合理化促進法による特別償却対象設備に指定された。  
新工場は、1970年(昭和45年)1月に着工、翌1971年(昭和46年)2月にしゅん工、同年7月に試運転を開始し、翌1972年(昭和47年)2月から本稼動に入った。  
フィルムベース工場には、製膜プラントと下塗プラントをそれぞれ1基設置した。足柄工場の従来の設備に比べ、生産ラインのスピードを増大させるとともに、フィルムベースの幅も飛躍的に広げて、生産能力を大幅に増大した。また、べース厚味の計算制御、自動巻き取り・送り出し、連続調液、全自動貯蔵など最新の装置を採り入れ、省力化とコストダウンを図った。  
フィルム工場も、最新の写真乳剤製造設備や塗布乾燥設備、裁断・加工・包装設備を導入し、写真乳剤の製造から塗布乾燥、出荷までの一貫生産体制を確立した。これら各設備には、フィルム倍幅塗布技術、つる巻型無接触乾燥方式をはじめ、数多くの新技術を採り入れた。また、各工程のコンピューターコントロールや、全自動貯蔵、全自動搬送方式の採用、さらに、各種自動化・機械化などの省力化を徹底的に進め、生産能力を飛躍的に高めるとともに大幅なコストダウンを実現した。  
X−レイフィルム工場の完成によって、富士宮工場は従来からの黒白印画紙およびカラーぺーパー用の原紙と感圧紙の製造に当たる紙業部門に加えて、新たにX−レイフィルム部門が加わり、工場としての内容を充実させた。  
新鋭製造機によって生産されるX−レイフィルムは、その性能の高いことと品質が安定していることで、国内で安定したシェアを占めるとともに、海外にも広く輸出し、その生産量は増大の一途をたどった。そこで、フィルム工場の生産能力を増強するとともに、1980年(昭和55年)には、新たにフィルムベース工場を増築し、ここに最新鋭の機械設備を据え付けた。この新工場では、省エネルギーの点でも画期的な技術革新を施し、また、新下塗技術を開発、実用化して、生産性を倍増させるとともに、従来の有機溶剤を用いる下塗方式を有機溶剤を全く使用しない水溶性の下塗方式に切り換えて、環境保全にも万全を期した。  
90秒処理システムの整備  
富士宮工場でのX−レイフィルムの増産体制の確立と並行して、市場での海外有力メーカーとの品質競争に打ち勝つため、90秒処理システムを整備した。1968年(昭和43年)1月、90秒処理用“富士医療用X−レイフィルムRX”を発売したのに続いて、1970年(昭和45年)3月には軟調タイプでラチチュードが広く胃部撮影用にも適した“RX−L”を、また1972年(昭和47年)11月には“RX”に比べて感度が60%高の超高感度フィルムで血管造影(アンギョーグラフィー)などの連続撮影に適した“RX−S”を発売した。“RX−L”と“RX−S”は自動現像機でも手現像でも、いずれでも現像処理ができるユニバーサルタイプで、この“RX”、“RX−L”、“RX−S”の整備によって、撮影目的に応じて適切なX−レイフィルムを使い分けることができるようになった。  
また、間接撮影用X−レイフィルムも、1972年(昭和47年)6月、90秒処理ができる“富士医療用X−レイフィルムFL−RX”を発売、1974年(昭和49年)2月には、同じくX線イメージ管の出力蛍光像を撮影する“RX−Fspot”などを発売して需要に応えた。  
“富士GRENEXシステム”の開発  
診断能力の向上と人体への被ばく線量軽減のために、X−レイフィルムの高感度化を進めてきたが、さらに一層の高感度化と診断画像の向上が求められた。このニーズに応え、被ばく線量を大幅に軽減するため、希土類蛍光増感紙とグリーン感色性のX−レイフィルムの開発に取り組み、1975年(昭和50年)10月、“富士GRENEXシステム”を完成した。これは“富士GRENEXG4”、同“G8”の増感紙と、それに適したオルソタイプの“富士医療用X−レイフィルムRXO”とからなる新しいX−レイ撮影システムであった。  
希土類蛍光増感紙は、従来のタングステン酸カルシウム系増感紙に比較してX線吸収率が非常によく、また、X線を蛍光に変える変換効率も高い。“G4”と“RXO”の組み合わせによるシステム感度は、現行標準感度の約5倍の威力を発揮し、消化器や頭部、血管造影など鮮鋭度を求められる部位の撮影に用いられた。また、“G8”と“RXO”の組み合わせによるシステム感度は、従来品の10倍の高感度で、妊産婦の撮影を必要とする場合などに用いられ、被ばく線量の軽減に大きく寄与した。  
その後、1981年(昭和56年)5月には微粒子タイプの“富士医療用X−レイフィルムRXO−G”を、翌1982年(昭和57年)11月には軟調でラチチュードの広い同“RXO−L”を、それぞれ発売し、高感度で診断情報の豊かな画像描写性が要求される撮影に適したシステムとして適用範囲を広げた。  
“富士ECシリーズ”の開発と自動現像機の整備  
X−レイフィルムの現像処理は、自動現像機の普及によって、現像・定着・水洗工程の自動化が実現したが、フィルムの取り扱いは依然として暗室処理であり、作業環境の改善や作業効率の向上のために明室処理化を望む声が高まってきた。  
こうした要望に応えて明室処理システムの開発に取り組み、これを“ECシリーズ”と名付け、1972年(昭和47年)から逐次商品化した。“ECシリーズ”は、能率がよく便利という意味のEfficientConvenienceの頭文字をとって命名したもので、明室タイプのX−レイフィルム自動現像機“富士X−レイプロセサーRK”と撮影済みX−レイフィルムの自動現像機への自動挿入装置、各種オートフィーダーを組み合わせたX−レイフィルムの処理システムで、X−レイフィルムの明室処理が可能になった。主として中小規模の病院・医院へこれらのシステムの積極的な販売を展開し、X−レイフィルムのシェアアップを図った。  
そして、1972年(昭和47年)から1974年(昭和49年)にかけて、シリーズの基本となるワンタッチ・ロック機構つきの軽量カセッテ“ECカセッテN”、撮影済みフィルムをカセッテから自動的に自動現像機に送り込む“ECオープナー”、ECカセッテに未感光フィルムを自動的に装てんする装置“ECローダー”など一連の機器を開発して“ECシリーズ”を整備した。また、大病院向けの大量処理モデルと中小規模病院向けの少量処理モデルをシステムとして整備し、これによって、大病院から小規模な医院まで、いろいろな条件にも対応できるシステム製品を整備し、フィルム処理の明室化と能率向上を図った。  
その間、1970年(昭和45年)から1981年(昭和56年)にかけて自動現像機の整備を行ない、大病院向けの“富士X−レイプロセサーRU”、中規模病院向けの同“RN”をはじめ、小規模病院や開業医院向けの同“RK”と“RG”および“RE”など、各使用先に応じた自動現像機を市場に送り、フィルム処理の迅速化に大きく貢献した。  
また、1980年(昭和55年)9月には、ECシリーズを改良しながら、大病院の大量処理用として“富士ECフィルム搬送システム”を開発した。これは、複数の撮影装置と撮影室を接続して、自動現像機までフィルムを高速搬送し、また、自動的に交通整理してフィルム処理の優先順位を選別できるシステムで、これにより、フィルム搬送の効率化が図られるとともに“富士ECシリーズ”のラインアップが完成した。  
一方、海外市場向けには、1972年(昭和47年)からヨーロッパや東南アジア向けに各種自動現像機の販売を開始し、その後引き続いて他の市場への導入拡大を図った。また、ECシリーズもヨーロッパを中心に海外市場での販売を開始した。  
メディカルイメージングシステムの開発  
1960年代後半以降、核医学(RI)やX線CT(コンピュータートモグラフィー)、超音波診断など、新しい診断方法が次々に登場し普及してきた。これらの新診断システムは診断情報をCRT画像としてテレビのブラウン管上に映し出すもので、この画像を観察し、診断するシステムである。  
1970年代後半に入ると、これらCRT画像を記録するために、CRTと撮影用カメラとが一体となった記録方式としてメディカルイメージングシステムが普及しはじめた。いち早くその開発に着手し、1979年(昭和54年)12月、超音波診断画像を記録するカメラとフィルムを完成し“富士メディカルイメージングシステム”として発表した。そして、翌1980年(昭和55年)8月、超音波画像記録用として、1枚のフィルムに1画像を記録する“富士メディカルイメージングカメラシングルフォーマットタイプFSC1010”とフィルム“タイプUS”(10cm×10cm)を発売した。  
次いで、1982年(昭和57年)7月には1枚のフィルム(六切サイズ)に分割撮影できるマルチフォーマッ卜カメラ“FIM2025”(カセットタイプ)や“FIM2025A”(何枚も連続撮影できる自動搬送装置付き)および“FIM2025AH”(高解像力モニターを内蔵した自動搬送装置付き)を発売、翌1983年(昭和58年)3月には廉価な“FIM2025U”を発売した。さらに、同年8月には、大四切サイズ用のカメラ“FIM3035AH”(高解像力モニターを内蔵した自動搬送装置付き)を発売し、超音波診断をはじめ、X線CT、核医学分野への富士イメージングシステムの拡大を図った。それと並行して、CRTイメージング用フィルムとして、それぞれの用途に“MI−US”(“タイプUS”の名称変更。超音波CRT画像記録用)と“MI−NC”(CTから核医学・超音波まで各種CRT画像記録用)を発売、また、1981年(昭和56年)10月、イメージングフィルム専用自動現像機“FPM900”も発売してシステムの充実を図った。  
工業用X−レイフィルム迅速処理システムの開発  
1954年(昭和29年)から1958年(昭和33年)にかけて、使用目的に合わせた工業用X−レイフィルムの品種を整備し、鉄鋼や造船界などの需要に対応していった。  
1960年代後半ごろからは迅速処理の要求が強まり、工業用X−レイフィルム分野にも自動現像機の導入が検討されはじめた。当社では、1969年(昭和44年)8月“パコロールスーパーIX−17”の輸入販売を開始するとともに、当社独自の自動現像機の開発を進め、1975年(昭和50年)9月、現像から乾燥工程まで5分処理可能の“富士スーパーIX−17”を発売した。  
一方、この間、1971年(昭和46年)2月には超微粒子・高鮮鋭度タイプの“富士工業用X−レイフィルムタイプ50”と微粒子・高感度タイプの“タイプ150”を発売し、品種整備を図るとともに現像処理の迅速化の研究を進めた。そして、1977年(昭和52年)10月、“富士工業用X−レイフィルムタイプ50”をはじめ、“80”、“100”、“150”、“400”の各タイプの「5分処理システム」の商品化を実現した。この完成によって、検査工程の時間短縮に寄与することができた。  
その後も、1980年(昭和55年)3月には、車載可能なコンパクト設計で、市場ニーズを先取りした小型自動現像機“富士スーパーIX−14”を、また、1981年(昭和56年)10月には5分処理・省エネルギータイプの大型自動現像機“富士工業用X−レイプロセサーFIP4000”を、それぞれ発売して、フィルムと自動現像機のシステム品質の向上を進め、現像処理の自動化の拡大を推進していった。  
1978年(昭和53年)9月、埼玉県稲荷山古墳で発見された鉄剣に、金で象眼した銘文115文字が刻まれていることが判明、解読され、古代史学者や国語学者の間に大きな波紋を起こしたことが報道された。  
これは、当社の工業用X−レイフィルム“タイプ100”を使用して撮影されたもので、工業用X−レイフィルムが学術研究の分野でも大きな注目を浴びた。 
グラフィックアーツ機材事業の伸長

印刷製版業界では、1970年代に入って、カラースキャナー、高速オフセット輪転機、電算写植機が普及し、カラー化、オフセット化、コールドタイプ化が進展する。このような市場動向に対応し、各種の機材と処理システムの開発を進める。各種スキャナーの開発に対応し、スキャナーフィルムの品種を整備し、リスフィルムの新しい現像処理システム“富士フイルムHSLシステム”を開発する。また、各種の写植用感光材料を整備する。一方、新聞印刷市場向けに各種ファクシミリフィルムと処理機器を発売するとともに、新聞全ぺージ出力可能な高感度の赤感性“富士電算写植ペーパーFPPS”などを開発する。
印刷製版業界の変化とグラフィックアーツ部の発足  
1970年代に入って、引き続き印刷需要が増加していく中で、印刷製版分野における技術革新のテンポはますます速くなり、また、印刷製版機材の市場での競争も一段と激しくなってきた。このような業界環境の中にあって、1970年(昭和45年)9月、これまで産業材料部の中にあった印刷製版機材の営業部門を独立させ、グラフィックアーツ部を新設し、各種製版フィルムや刷版材料およびその処理機材などの営業活動の強化を図った。  
印刷製版技術の革新は各分野で進み、次々と新しい技法やシステムが採り入れられていった。  
写真製版の分野では、手作業の多い製版カメラによる色分解工程に代わって、高品質で迅速に色分解版を作成できるカラースキャナーが急速に普及し、商業印刷物や出版分野でのカラー印刷需要の増加と相まって、印刷物のカラー化が進んでいった。  
印刷方式の面では、オフセット印刷方式がますます普及していった。オフセット印刷は、簡単にしかも迅速に刷版を作れるなどの作業性の良さと、高速かつ大量印刷に適し、しかも、生産コストが安いなどの長所があり、PS版の品質向上と高速オフセット輪転機の普及により、印刷方式のオフセット化は急速に進行していった。  
文字印刷の分野については、写真的に植字を行なう写真植字機が普及し、さらに、高速の電算写植機も普及し、コールドタイプ化の方向に進み、文字製版の能率化が実現していった。  
一方で、これらの技術革新に対応し、また一方では、若年労働力の不足や熟練者の減少などの問題に対処するためにも業界の近代化の動きが進展した。印刷製版事業者の大多数は中小企業であるが、1971年(昭和46年)3月、印刷業および写真製版業の中小企業近代化計画が策定され、翌年、構造改善事業がスタートし、新技術の導入と設備の近代化が促進された。  
1973年(昭和48年)秋に発生した石油ショックによって商業印刷物の発注減少などにより印刷製版業の成長率も鈍化し、業界は厳しい環境に置かれたが、近代化への努力は続けられた。第1次構造改善事業が1978年(昭和53年)3月で終了してからも、引き続き近代化計画に取り組み、1980年(昭和55年)からは第2次構造改善事業がスタートした。  
このように、急速な技術革新と業界環境の大きな変革が進む中で、当社のグラフィックアーツ機材関連の事業も、これらに対応しつつ進展していった。  
ダイレクト分解用スキャナーフィルムの開発  
1970年代に入って、カラー原稿の色分解方式は、原稿を連続階調の分解版に撮り分けて、それからそれぞれの網版を作る従来の2工程方式に対して、製版の迅速化と経済性から、1工程で直接に網階調の分解版を作成するダイレクト分解方式が普及してきた。  
この動きに対応して、まず1970年(昭和45年)4月、製版カメラによるダイレクト分解用フィルムとして、直接網分解用の“フジリスパンクロフィルム(HP)”と“フジリスハイスピードオルソフィルム(HO)”を発売した。  
“HP”はパンクロタイプの網分解撮影用フィルム、“HO”は高感度オルソタイプの網分解撮影用フィルムで、いずれも原稿から直接網階調の分解版を作るリス型フィルムである。“HP”を4版に使用する場合でも、HP(シアン版用、墨版用)とHO(マゼンタ版用、イエロー版用)の組み合わせで使用する場合でも、網階調バランスの整った高品質のフィルムであった。  
一方、スキャナーの分野でも、新たに、直接、網階調の分解版を作るダイレクトスキャナーが登場した。このダイレクトスキャナーは、色分解と同時に色補正、階調修正などを高品質かつ効率的にできるため、急速に普及していった。ダイレクトスキャナーの網点形成の方法は、コンタクトスクリーンを使用する方式とコンタクトスクリーンを介在させずに原稿の濃淡を電子的に網点変換する網点発生装置(ドットジェネレーター)による方式との2方式がある。  
1972年(昭和47年)4月、まず、コンタクトスクリーンを使用するオルソタイプの“富士スキャナーフィルムSC−71”を発売、1978年(昭和53年)7月にはドットジェネレーター用オルソタイプ“富士スキャナーフィルムLS−200”を発売した。  
1980年(昭和55年)12月、ヘリウムネオンガスレーザーを露光光源とするコンタクトスクリーン使用の“LS−400”を発売し、その後も、現有の全スキャナー機種に対応して“LS−500”や“LS−600”、“LS−700”などを整備し、ラインアップの充実を図った。  
また、1983年(昭和58年)4月、新たに、新聞製作工程における版下用として赤感性スキャナーぺーパー“富士スキャナーぺーパーPE−100WP”を商品化、また同年12月、発光ダイオードを露光光源として使用するドットジェネレータースキャナー専用の“富士スキャナーフィルムLS−2000”、“富士スキャナーぺーパーLP−2000”を同時に発売し、一層の品種整備の充実を図った。  
良い印刷物を得るには、スキャナー機能を十分に生かしたスキャナー分解条件を設定することが重要であり、単にスキャナーフィルムを販売するだけでなく「より好ましいスキャナー表現を」の理念のもとに、スキャナーに関するセミナーやトレーニングを全国的に実施した。  
また、1983年(昭和58年)4月にはカラー原稿とカラースキャナーの各種処件の印刷見本および解説書などで構成される“富士スキャナーテクニカルキット”を作成し、ユーザーの要望に応えた。  
フジリスフィルムの整備  
かねてから、各種用途に使用できるリスフィルムの商品化とその品質向上を図ってきたが、1970年代には密着返し用フィルムの用途が多様化し、これに伴い、要求される性能も多様化してきた。これに対応して次々と品種の整備を行ない、ユーザーの要望に応えていった。  
1972年(昭和47年)9月、文字・線画原稿撮影用と密着用のエコノミータイプ“フジリスオルソフィルムタイプL”を発売した。  
1972年(昭和47年)12月、レギュラーの感色性で明るいセーフライト(黄緑光)の下で処理可能な密着専用フィルム“フジリスコンタクトフィルムタイプK”を発売した。  
また、1975年(昭和50年)5月には“フジリスハイスピードデュープリケイティングフィルム”を発売した。このリスフィルムは、高コントラストの密着用オルソクロマチックフィルムで、網点および線画原稿から原稿と同じものが複製できるフィルムである。  
海外市場では、他社フィルムメーカーとの競合上“タイプK”より高感度の密着用フィルムが必要となり、1973年(昭和48年)9月、輸出専用として高感度の“フジリスコンタクトフィルムタイプC”を発売した。  
“富士フイルムHSLシステム”の開発  
オフセット印刷、とりわけカラーオフセット印刷の普及に伴って、一層高品質の印刷が求められるようになってきたが、優れた品質の印刷物を得るためには、品質の優れたリスフィルムが必要であると同時に、現像液や現像処理の安定化も不可欠である。  
すでに、リスフィルムと処理薬品、自動現像機の三つの組み合わせで、現像処理を安定させる“SSシステム”を完成して、そうした需要に応えてきた。しかし、“富士SSシステム”は処理中の現像液管理を容易にするなど、リスフィルムの現像処理の安定化を実現するものであったが、休日後には、現像液の感度補正などを適宜行なわなければならないわずらわしさを残していた。  
このような現像液管理のわずらわしさを根本から解決して、長期間安定して高品質を維持するシステムを完成するため、特別チームを編成して新しいリスフィルムの現像システムの開発に取り組んだ。その結果、1977年(昭和52年)12月、画期的な“富士フイルムHSLシステム”を完成し、発売した。  
“HSLシステム”(HighQualitySuperStabilizedLithFilmMethod、高品質超安定リスフィルム現像方式)は、ニュータイプフジリスフィルムと新しい液体タイプの現像剤・現像補充剤、および補充装置“FGコントローラー”から構成されていた。  
HSLシステムの最大の特長は、現像液の疲労を処理疲労(処理枚数の増加に伴う現像液の性能低下)と経時疲労(時間の経過に伴う現像液の性能低下)とに明確に分離して、それぞれに対応して補充液を補充するようにしたことである。それと同時に、従来、粉末状であった現像剤を液体に変え、取り扱いやすくするとともにロングライフ化を図り、母液の交換頻度もそれまでの3分の1程度に減らすなど、作業性・経済性の向上を実現した。また、自動補充装置“FGコントローラー”は、すでに使用している自動現像機に装着するだけで導入できるようにした。  
このように“HSLシステム”は、製版工程で最大のネックとなっていたリスフィルムの現像処理を一段と安定化する画期的なシステムであり、大手印刷会社だけでなく、中堅印刷会社や製版専門会社にも採用され、ユーザーの製版工程の合理化に大きく寄与した。  
“HSLシステム”は、製版工程の高品質化と超安定化を実現し、業界の発展に寄与した優れた新技術であることが認められ、1979年(昭和54年)2月、その開発担当者に対し日本印刷学会技術賞が贈られた。  
写植用印画紙・フィルムの開発  
オフセット印刷の普及に伴って、従来の活字に代わって写真の手法を使って文字を組む写真植字(いわゆる写植)が次第に普及してきた。写真植字は文字盤のネガ文字をレンズを通して拡大・縮小し、印画紙・フィルムに露光(印字)し、印刷原稿とする方式である。活字鋳造に頼らず写植文字を使用する印刷方法はCTS(ColdTypeSystem)化といわれ、活版のように活字を1本ずつ組版することなく、クリーンな作業で製版用原板ができあがる。さらに、コンピューターと結びついた電算写植機の登場によって印字スピードも大幅に向上し、印刷製版業界のCTS化が進んだ。  
写真植字用印画紙としては、早くから、当社の引伸用印画紙(富士ブロマイド紙)が使用されており、1954年(昭和29年)10月には写植用専用印画紙として“富士写植ブロマイド”を発売した。その後、1971年(昭和46年)5月には、クイックシステムの“クイック写植ぺーパー”を、翌1972年(昭和47年)4月には“クイック電算写植ぺーパー”を発売した。また、1974年(昭和49年)6月には印画紙の支持体の表裏をポリエチレンでラミネートした“富士写植ぺーパーWP”を発売、次いで翌年11月には“富士電算写植ぺーパーWP”を追加発売した。  
この“WP”ぺーパーは、従来のバライタ紙に比べ、水洗処理や乾燥時間が短く、自動現像機適性にも優れている。伸縮性が少ないので、寸法精度を必要とする印刷原稿に適する写植ぺーパーであった。  
さらに、工程短縮のため、フィルムに直接印字する需要も生まれた。これに対して、1965年(昭和40年)11月、手動用の“富士写植フィルム”を発売し、1971年(昭和46年)5月には電算写植用の“富士電算写植フィルム”を発売した。  
新聞用ファクシミリフィルムの開発  
新聞紙面を電電公社回線を利用して遠隔地に電送し、受信地で現地印刷をする方法として新聞ファクシミリ(紙面電送)が利用されている。  
日本で初めて新聞紙面電送用としてファクシミリが利用されたのは、1959年(昭和34年)のことであった。この年6月、朝日新聞社は東京・札幌間でファクシミリによる紙面電送を開始、同時にオフセット輪転機を用いて新聞印刷のオフセット化を実現した。  
1959年(昭和34年)6月、高コントラスト・高濃度・高解像力の“富士ファクシミリフィルム”を開発し、朝日新聞社に納入した。  
当初のファクシミリ受信機の光源にはクレーターチューブ(グロー放電管)が用いられていたが、その後、ヘリウム−ネオンレーザーやLED(発光ダイオード)などが次々に開発された。それに伴い、当社は新聞紙面電送受信機に適した受信用フィルムとして、1972年(昭和47年)7月、クレーターチューブ光源用の“富士ファクシミリフィルムXB−100”を、1974年(昭和49年)4月にはヘリウム−ネオンレーザー光源用の“富士ファクシミリフィルムXL−100”と同“XL−100M”を、1981年(昭和56年)12月にはLED光源用の“富士ファクシミリフィルムXE−100M”を、それぞれ発売するとともに、受信機と自動現像機を結ぶフィルムオートキャリアを開発して市場に導入し、受信フィルム処理の完全自動化と明室処理化を実現した。  
新聞印刷CTS化への寄与  
新聞印刷には、従来、鉛版を使用する凸版輪転機が用いられてきたが、短時間に何十万、何百万部という大量部数を印刷する新聞印刷の迅速化と印刷仕上がりの向上のために、各種の新しい方式が開発され、次々と取り入れられてきた。  
新聞社では、コンピューターを用いて紙面レイアウトを行なうCTS(ComputerizedTypesettingSystem、コンピューターと電算写植機を結びつけ、紙面レイアウトするシステム)化とさらに、印刷紙面の向上とカラー紙面の導入を目指したオフセット印刷化が新聞製作の主流となりつつある。  
このような新聞製作システムの技術革新に対応して、次々と新しい製品やシステムを開発していった。  
1975年(昭和50年)から一部の新聞社は、大型コンピューターを用いて、本文や見出し・写真を電子的に編集し、新聞1ぺージをそのまま写真感光材料に出力する方式を開発した。  
このシステムに対応して、当社では、1976年(昭和51年)11月、新聞全ページの出力ができる高感度の赤感性“富士電算写植ぺーパーFPPS”を開発して新聞社に納入した。その後、紙面編集部門から印刷工場へ紙面電送を行なう時のファクシミリフィルムや自動現像機、フィルムオートキャリア装置などの開発とPS版の高速・大量処理技術の確立を行ない、関連する諸機材を納入した。  
フジリスフィルムの海外市場への展開  
フジリスフィルムの米国市場への本格的な輸出は1965年(昭和40年)に開始、続いて、1967年(昭和42年)には欧州地域に対しても輸出を開始した。  
特に、欧州地域に対しては、1967年(昭和42年)5月に西ドイツで開かれた世界最大規模の印刷総合機材展「DRUPA’67」への出展が契機となっているが、この展示会への出展を足がかりに、欧州をはじめとして、中南米など、各国の有力ディストリビューターとの接触が開始され、セールスネットワークの構築が進んだ。  
「DRUPA」への参加は、印刷技術の先進市場として当時すでにカラー印刷の隆盛期にあった欧州市場に当社が本格的に進出する意思表示を行なったものとして特記される。当時の輸出商品は“フジリスオルソフィルムタイプO”と“富士カラーセパレーションフィルム”が主力であった。前者は、当時の市場における主力商品たるコダック社の製品と同等の感度と網階調を有し、ユーザーはこれまでの使用条件を変えることなく採用できることから、徐々に浸透していった。後者は、現地の現像液に対する適性が異なるので、ユーザー個々にデータ出しの技術サービスを行なうなど地道な販売活動を行なったが、やがて色分解の方式がスキャナーに移行するにつれ、スキャナーフィルムヘとその座を譲り、その後の当社スキャナーフィルム大躍進の礎石となった。  
“フジリスオルソフィルムタイプO”は、1971年(昭和46年)から“タイプV”および“タイプF”に切り換え、感度が高いこと、網点品質に優れていることが当時の市場にアピールし、急速にユーザーを獲得していった。その後、海外市場に狙いを合わせた高感度密着用途の“フジリスコンタクトフィルムタイプC”を導入したのをはじめとして、次々と、海外市場動向を踏まえて開発した各種フジリス製品群を投入していった。  
引き続き、“フジリスオルソフィルムタイプL”、“フジリスハイスピードオルソフィルム(HO)”を投入したが、“タイプL”は、その品質と性能の優秀性から多くのユーザーの支持を得、また、“HO”はコンタクトスクリーンを使用するダイレクトスキャナー用フィルムとして最高品質であるとのスキャナーメーカーの高い評価を受けた。  
1978年(昭和53年)には、リスフィルムの超安定現像方式“HSLシステム”および自動現像機“FG25L”を市場に導入したが、これらとの組み合わせによるフジリスフィルム群の高品質な仕上がりと品質の安定性が評価され、フジリスフィルムによる製版用フィルムメーキングシステムは世界市場に確固たる地盤を築くに至った。  
PS版の成長 / マークIIシリーズからマルチグレインヘ
オフセット印刷の替及に伴って、PS版の需要は急速に増大し、PS版の高品質化、高印刷力が強く求められる。このような要請に応えて、次々と新製品を開発し、品質の向上と品種の整備を進める。そして、1978年(昭和53年)には“マークIIシリーズ”を、さらに1981年(昭和56年)にはアルミ板表面の構造を多重砂目構造にした“マルチグレイン”シリーズを発売する。この間、ロングランプレート“LAN”を開発し、多様化するニーズに応えるとともに、PS版自動現像処理システムとして“DCシステム”・“ESシステム”を開発して、PS版処理の省資源化と安定化を実現する。一方、樹脂凸版“富士トレーフ”を国内総発売元として販売する。
PS版の性能向上と品種の整備  
1965年(昭和40年)、オフセット刷版材料としてPS版を商品化して以来、性能の向上と品種の整備を進めてきた。その結果、ネガ版とポジ版の各種製品を発売するとともに、1969年(昭和44年)にはアルミ表面に陽極酸化を施すことによって耐刷力を高めたネガ版“プラノネガティブアノダイズドグレンコート”(GAN)の開発に成功し、PS版は軽印刷分野のほか、一般印刷の分野でも広く利用されるようになった。  
1970年代に入って、カラー印刷の普及に伴ってPS版にもより高度な性能が求められるようになってきた。こうした要請に応え、PS版の性能の向上に努めるとともに、用途に応じた各種PS版の整備を進めていった。  
耐久力の向上と印刷仕上がりを改善するために開発した陽極酸化法による表面処理技術は、1971年(昭和46年)9月に発売した陽極酸化を施したポジ版“プラノスーパーポジティブアノダイズドグレンコートタイプ392”(GAP392)に引続き、同年12月に発売したネガ版“プラノスーパーネガティブアノダイズドグレンコートタイプ392”(GAN392)にも実用化した。“GAP”と“GAN”は、いずれも本機用PS版として採用され、刷りやすさも一層向上し、ツヤとボリューム感のある印刷物が得られるようになった。さらに、陽極酸化層の皮膜は硬いので、紙粉などの異物による砂目の磨耗やキズに強く、安定した条件で印刷でき、高級美術印刷のロングランニーズにも応えることができるようになった。  
また、校正刷りと本機刷りの調子のズレをなくすため、砂目の構造と感光組成物に改良を加え、1971年(昭和46年)9月、校正刷り専用の“プラノスーパーポジティブグレンコートタイプ192”(SGP192)を、翌年4月には校正刷り・本機刷り兼用の“プラノスーパーネガティブグレンコートタイプ192”(SGN192)をそれぞれ発売した。  
これらPS版のラインアップの整備に伴い、1974年(昭和49年)4月には製品名称の頭に付けていた“プラノ”の冠称を廃し、“富士フイルムPS版”に統一した。  
同年11月には、着肉性(インキのつき具合)を改善するとともに、感光層の画像部・非画像部の差をはっきり識別できるようにした焼出し画像型ネガ版“富士フイルムPS版ニュータイプSGN”(N−SGN)を、続いて翌1975年(昭和50年)5月には、陽極酸化処理し耐刷力を高めた“富士フイルムPS版ニュータイプGAN”(N−GAN)を、それぞれ発売した。  
また、オフセット輪転機の普及に伴って、超ロングランのPS版が求められ、同年5月に感光性樹脂のPS版“LAN”を開発し、発売した。“LAN”は30万枚通し耐刷力を有する最高のロングランプレートであった。  
その後、1976年(昭和51年)4月には焼き枠内でのフィルムとPS版の真空密着を高める研究を進め、新製品“GAP−N”を完成した。これは、感光層上にマット状の突起をもたせ、フィルムとPS版の間の空気を早く逃がして密着性をよくすることにより、真空密着時間を短縮し、さらに、画像のボケによる不合格品を減少させたものであり、刷版工程の能率の向上に大きく貢献した。  
マークIIシリーズの開発  
PS版は、オフセット印刷工程の省力化・合理化と印刷物の品質の向上に寄与し、急速な普及をみていった。とりわけ、後述する吉田南工場の完成によって品質も供給能力も整備し、当社のPS版は国内で圧倒的なシェアを占めるに至った。  
しかし、印刷業界では、より優れた印刷物を求めて技術革新が急速に進展し、PS版に対してもさらに高品質化・安定化・処理の省力化などが強く要求された。  
このようなユーザーの要望に応えて、ユーザーニーズを的確に把握し、より優れた商品をつくり出すために努力を重ねていった。そして、その一環として、製版・印刷現場の実態調査を行ない、全工程を徹底的に分析して改善点を洗い出し、新しい商品づくりに生かしていった。  
このようなユーザーニーズの把握から生まれたのが、1978年(昭和53年)4月に発売したPS版の新シリーズ“マークIIシリーズ”である。  
マークIIシリーズとして、当初、はん用ポジタイプの“SGP−II”と陽極酸化処理を施した高級印刷向けの“GAP−II”の二つの商品を発売した。これらのポジタイプの“マークIIシリーズ”は、いずれも特殊表面加工により真空密着時間を短縮するとともに、感度アップによる露光時間の短縮、焼出し画像による露光後の版の見やすさなど、刷版工程の迅速化・能率化をさらに向上させた製品であった。  
翌1979年(昭和54年)3月には、ネガタイプの“SGN−II”、“GAN−II”を発売した。このネガタイプの“マークIIシリーズ”は、着肉性の向上によって刷り出しがスムーズとなり、焼付け時間の短縮によって作業能率と生産性の向上を実現した。  
また、同年には、ポジタイプ校正用の“SGP−KII”、両面使用できる校正用の“FPP−BII”を、1981年(昭和56年)1月には両面使用できる軽印刷用のネガタイプPS版“SSN−II”を追加発売し、マークIIシリーズを完成させた。  
マークIIシリーズは、綿密な調査を経て商品化した製品であっただけに、ユーザーのニーズに適合し、当社のPS版の使用先を拡大するうえで大きな力を発揮した。  
マルチグレインPS版の開発  
印刷・製版工程へのコンピューターの導入が活発になり、品質・工程管理がよりシビアになるにつれて、刷版は製版工程と印刷工程とを結ぶかなめとして、ますますその重要度を強めてきた。それに伴い、刷版材料にもより高度な性能が求められるに至った。  
このニーズに応えるため、当社は日本軽金属株式会社と共同で新しいアルミ表面処理方法の基礎研究を行ない、さらに独自に応用開発を進めて、1981年(昭和56年)3月、新しいPS版マルチグレインシリーズ開発の第1弾として、まず、ポジタイプの“FUJIPS−PLATEFPD”を発売した。  
マルチグレイン方式は、従来は単純な単構造または二層構造であったアルミ板の表面処理(砂目立て)を多層構造(マルチグレイン)とし、それぞれの層に機能・役割を分担させることによって、各機能が有機的に複合し、補い合うように設計したものである。すなわち、“FPD”ではアルミ表面の大波を構成するクレーター、中波を構成するハニカム、微小波を構成するマイクロポアの多層構造とし、クレーターは主として調子再現性と保水性を、ハニカムは耐刷力や汚れにくさ・現像適性を、マイクロポアは刷りやすさ(インクと水のバランス、耐磨耗性)というように、それぞれ主たる機能を分担し、全体として最高の性能を発揮するようにしたものである。したがって、“FPD”は、(1)インキと水のバランスがとりやすく、保水性もよいので汚れにくい(刷りやすい)、(2)ハイライト部の再現性に優れ、また、力強い仕上がりが得られる、(3)どのような印刷条件下でも優れた耐刷力を発揮するなどの特長を有しており、ユーザーの高い評価を得た。  
マルチグレイン方式は、“FPD”に次いで、その後、1983年(昭和58年)6月発売の耐刷力のあるネガタイプの“FND”や1983年(昭和58年)10月発売の高感度ポジタイプPS版“FUJIPS−PLATEFPQ”などに採用し、順次品種を整備していった。  
PS版マルチグレインシリーズは、印刷および関連部門の発展に大きく貢献したことを認められ、1982年(昭和57年)2月、日本印刷学会技術賞を受賞した。  
PS版処理システム“DC”、“ES”システムの開発  
PS版の処理は、当初は手現像してラッカー盛りを行なっていたが、内型タイプのPS版が開発されるに及び、自動現像処理が可能となった。これに伴い、1968年(昭和43年)9月“プラノPSオートプロセサー1000”を発売、その後、PS版の品種の増加につれて、それに合った処理剤や処理機を開発して需要に応えてきた。  
1979年(昭和54年)5月、ポジタイプPS版の現像液の自動補充システム“DCシステム”を完成し、発売した。“DCシステム”は、PS版の処理量と時間経時に応じてPSコントローラーによって現像液を自動的に補充するシステムで、現像液の長期安定化により均一な刷版が得られ、また、現像液の寿命を大幅に伸ばすことによって省資源化を実現した。  
また、PS版の処理には大量の水を必要とする。そこで当社は、PS版と処理剤、そして機器の組み合わせで水洗工程を不要とするPS版処理システムの開発に取り組み、同年6月、処理剤とPSプロセサーEシリーズ(400E、600E、800E)の“ESシステム”を完成した。これは、プロセサーの給排水管を不要にし、廃液の集中処理を可能にしたシステムで、設置スペースも小さくてすみ、省資源化や公害防止にも役立つなど、画期的なPS版処理システムであった。  
PS版のマークIIシリーズと“DCシステム”、“ESシステム”の完成によってPS版の先進システムが確立し、PS版の普及に拍車をかけていった。  
PS版の輸出開始  
PS版の輸出は、1969年(昭和44年)から東南アジア地域に向けて開始したが、1977年(昭和52年)からは欧米地域への輸出も開始した。  
欧州市場では、すでに大きな市場が形成されており、PS版の使われ方も日本市場と共通する部分が多く、特に、日本で高級カラー印刷物に多用されているポジタイプPS版が欧州の主要市場である西ドイツ、フランス、イタリアに広く普及しており、品質的に十分に市場に受け入れられるとの見通しに立ってスタートした。  
当社のPS版は、“ESシステム”が好評を博したのをはじめ、その後、マルチグレインタイプを商品化したことによって、急速に欧州全域に広まっていった。  
北米市場は、日本や欧州と異なり、ネガタイプPS版を主体とする市場である。導入に際して十分な市場調査を行ない、マルチグレインのネガタイプPS版を商品化したうえで、印刷機上での扱いやすさ、刷り上がりの美しさ、およびESシステムによる処理の簡便さをセールスポイントとして本格的な出荷を開始した。  
感光性樹脂凸版“富士トレリーフ”の発売  
平版オフセット印刷と同様に、凸版印刷分野でも新たな動きが出てきた。活字組版や金属凸版は、作業性・公害性の点で問題があり、これらの解決と写真植字の普及に伴うCTS化への移行により、感光性樹脂凸版材が注目されるようになった。  
印刷製版の重要な一分野として、かねてから、凸版印刷用の刷版材料の開発も進めていたが、東レ株式会社がすでに樹脂凸版の製品化を完成していたので、東レ社の当該品をもって凸版印刷市場に参入することとした。そして、1973年(昭和48年)6月、東レ社と提携し、国内販売に関し当社が東レ社の販売総代理店となり、同年10月“富士トレリーフ”の商品名で発売した。  
“富士トレリーフ”は、ポリエステルフィルムまたはスチール支持体の基板の上に、接着兼ハレーション防止層と感光性ナイロン樹脂層を設けたもので、特殊ナイロン樹脂を使用しているため、(1)画像の再現が優れている(高級写真印刷が可能)、(2)耐刷性が優れている(50万枚通し以上が可能)、(3)可とう性をもつなどの特長があった。  
ネガフィルムを密着して水銀灯で露光すると光の当たった部分は溶剤に溶けなくなる。次いで、基板上に凹凸の樹脂層を形成するために光の当たらなかった部分の樹脂は溶剤で洗い流して、右図のように刷版を作成する。  
基板の種類により、3種のタイプがあり、基板がスチールの“CSタイプ”、砂目立てアルミの“GAタイプ”およびポリエステルフィルムの“LFタイプ”があった。“CSタイプ”および“GAタイプ”は、文字や写真の印刷、原色版印刷など、活字組版や金属凸版と同じように使用でき、耐刷性に優れている。“LFタイプ”は、手書き伝票類や差し替えの多い複写伝票類などのビジネスフォーム印刷用である。  
その後、凸版分野での各種用途に応じた品質要求に応えて、1979年(昭和54年)11月、“富士トレリーフ”Pタイプ、Fタイプ、Bタイプの3品種を追加発売した。“Pタイプ”は基板にスチールを使用し、新聞紙型取り用で鉛版に代替しうる強度を備えていた。“Fタイプ”と“Bタイプ”は基板にポリエステルフィルムを使用し、印刷終了後の版の保存にもスペースを取らないので好都合であった。“Fタイプ”は、特に、ベタ刷り部分の多いシールやレーベル類の印刷用に適しており、また、“Bタイプ”はビジネスフォーム用として用紙へのインキ着肉性に適した製品であった。  
これまでの商品は、洗い出しの溶剤にアルコールを使用するタイプであったが、環境面・安全面から、水処理のニーズが高まり、この要望に応え、1980年(昭和55年)6月、水現像タイプの“WF”、翌年1月には“WF−B”を発売し、品種をそろえ、以降、水現像タイプ16品種、アルコール現像タイプ11品種、さらに高性能プロセサーまでのシステムラインアップ化を図り、ユーザーの要望に応えている。 
放送用からホームビデオヘ / ビデオテープの躍進
1970年代に入り、放送用ビデオテープの高性能化を進めるとともに、新たに登場した小型ビデオ用に各種のテープを開発する。その後、ベータ方式・VHS方式のVTRの登場とともに、本格的なビデオ時代を迎え、市場は急速に拡大する。当社は1/2インチビデオカセットテープの開発に取り組み、1978年(昭和53年)からは、“フジビデオカセット”の商品名で、両タイプの自社ブランド品を発売する。その後、新磁性体を使用したより高性能の“フジビデオカセットHG”を発売し、各サイズを整備する。コンピューター用メモリーテープについても、より高品質品を発売し、高い評価を受ける。また、販売体制を強化するため、富士マグネテープ株式会社を発足させる。
放送用ビデオテープの高性能化  
1959年(昭和34年)、国産で初めて放送用2インチビデオテープの録画に成功し、1963年(昭和38年)にNHKに正式納入を開始、翌1964年(昭和39年)から民放各社にも納入してきたが、1967年(昭和42年)にはカラー放送用ハイバンド“東芝−富士フイルム放送用ビデオテープH700”を発売し、国内では圧倒的なシェアを確保するに至った。  
1970年代に入って、カラー放送の普及に伴い放送用ビデオテープに要求される性能も高度なものになっていったが、当社では、次々に新製品を開発し、それらの要求に応えていった。  
すなわち、1971年(昭和46年)2月に、走行適性を改善したバックコート品“東芝−富士フイルム放送用ビデオテープH701”を発売し、各テレビ局から好評をもって迎えられ、次いで1973年(昭和48年)2月には、“東芝−富士フイルム放送用ビデオテープH706”を発売した。“H706”は“H700”や“H701”と互換性をもったハイバンド用テープで、“H701”と同じ磁性体・同じバインダーを使いながら、磁性層やべース厚を薄くして長時間タイプとしたものであった。  
当時、放送用ビデオテープは、ユーザーサイドでコンパクト化の要請が強く、かねてから1インチ幅テープが要請されてきた。このニーズに応えて、1インチ幅テープの開発を進め、1979年(昭和54年)9月、1インチ幅の高密度ビデオテープ“フジビデオテープH621”を発売した。これは、後述するベリドックス磁性体と新バインダーシステムとを組み合わせたもので、あらゆるフォーマットに適合した優れた耐久性や安定した映像、音声特性、ヘッド摩耗の減少、優れた巻き特性を備え、プロフェッショナルユースに高い評価を得ている。  
なお、これら放送用ビデオテープは国内で使用されるだけでなく、世界各地へ輸出し、各国のテレビ局で使用されるようになった。当社品の品質が高く評価されて、海外市場への輸出は順調に伸長し、世界市場に確固たる地位を獲得していった。  
ホームビデオテープの開発  
1964年(昭和39年)ソニーが、翌1965年(昭和40年)松下電器産業と日本ビクターが、相次いで小型のビデオテープレコーダーの開発に成功した。いずれも1/2インチ幅オープンリールテープを使用するもので、今日のビデオ時代の幕開けを告げる画期的な出来事であった。その後、このシステムには電気機器メーカー各社が参入し、各メーカーから各種のシステムが発表され市場で混乱が生じた。そこで、電子機械工業会(現日本電子機械工業会)では、小型ビデオテープレコーダーの規格統一について検討を進め、1972年(昭和47年)10月までに各種の統一規格を制定した。  
この規格内容を具体的に示す標準テープは、同工業会から当社に製作を依頼され、当社は1/2インチVTR用標準テープ3種類を製作、各ハードメーカーやソフトテープラボに配布した。  
VTRの標準テープは、こうして世界で初めて日本で完成し、日本の標準テープが世界の規格となっていったが、これを製作提供した当社の技術力は、わが国だけでなく、国際電気標準会議(IEC)や米国電子機械工業会(EIA)など、VTRに関係する国際機関からも高く評価された。  
ホームビデオテープ用には、1971年(昭和46年)12月、1/2インチ統一規格テープ“富士フイルムビデオテープV601”を発売しハードメーカー各社にも納入した。また、それと時を同じくして優れた性能の“富士フイルム工業用ビデオテープV611”も発売した。  
高性能ビデオカセット“ベリドックス”の開発  
小型ビデオは、当初ハードメーカー各社のシステムが乱立したが、それらの中で次第に主流を占めるようになってきたのは、取り扱いに便利なカセットあるいはカートリッジ型のもので、こうしたすう勢に合わせて、各ハードメーカーと共同でテープの開発を進め、1974年(昭和49年)11月、3/4インチのビデオカセットテープ“フジビデオカセットベリドックス”を発売した。  
当時、ビデオテープには磁性体として二酸化クロム(CrO2)が使われていたが、独自の技術で新しい形の酸化鉄磁性体“ベリドックス”を開発した。この新磁性体を使用して商品化した“フジビデオカセットベリドックス”は、画像の明るさを高め、鮮明度を向上させるとともに耐久性の優れたテープとした。  
このテープは、1975年(昭和50年)、アメリカ最大の放送関係機材展示会NABショー(NationalAssociationBroadcastersShow)で好評を博したほか、関係各方面からも高く評価され、1976年(昭和51年)4月、当社関係者は第8回市村賞奨励賞を受賞した。  
“フジビデオカセット”VHS用とベータ用の発売  
オープンリールからカートリッジ、そしてカセットヘと発展してきたビデオテープは、1970年代後半になって新しい時代を迎えた。すなわち、1975年(昭和50年)から1976年(昭和51年)にかけて、ベータ方式とVHS方式の二つの異なるカセット方式が登場し、各ハードメーカーは、ベータグループとVHSグループの両陣営に分かれて1/2インチVTR市場に進出し、本格的なホームビデオ時代を迎えることになった。  
このような情勢の中で、早期に1/2インチビデオカセットの開発に取り組んだ。日本ビクターの協力要請に応じて、VHS方式のビデオカセットテープを開発し、同社および松下電器産業をはじめとするVHSグループ各社に供給を開始した。  
しかし、OEM(相手先ブランド製品の製作)納入は、ハードを持たない当社の強みではあったが、ビデオテープ市場が急速に拡大していく中で、当社がテープメーカーとして大きく成長していくためには、市場への直接自社ブランド品を出していくことが是非とも必要であった。かくして、VHS・べータ両タイプの製作に関する規格を導入してビデオカセットテープの生産に踏み切り、1978年(昭和53年)9月に、テープメーカーとして初めて“フジビデオカセット”の商品名で両タイプを同時に発売した。発売に当たっては、カセットテープの特長として、(1)画像がシャープ(2)カラーが鮮明(3)優れた耐久性(4)精密なカセットケース(5)デッキとの相性のよさを強調した。  
発売後は、ユーザーの間に好評をもって迎えられ、パッケージについても鮮明・精密・清潔を商品コンセプトとして、白を基調とするすっきりしたデザインを採用しユーザーにアピールした。  
“フジビデオカセットHG”の開発  
ビデオテープレコーダー(VTR)は、1/2インチビデオカセットの出現によって、小型化・簡易化が実現し、新しい映像システムとして急速に普及していった。それに伴ってビデオテープにも、より高性能のもの、より長時間録画可能なものが求められた。  
このような要望に応えてVTRの多様化に対応する高性能ビデオテープの開発を進め、1979年(昭和54年)12月、“フジビデオカセットHG(VHS用)”を発売した。HGは、ハイグレード(HighGrade)の頭文字をとって命名したもので、磁性体として新開発のスーパーファインベリドックス(SuperFineBeridox)を使用し、従来のビデオカセットと互換性を保ちつつノイズを低減させ、画質・音質を向上させるなど、次のような特長を有していた。  
1.鮮明でシャープなカラー画像を再現した  
2.ドロップアウトを大幅低減した  
3.VTRの多様化に対応し、実用性能と耐久性を一段と向上した  
4.画質の生命であるビデオS/N比を従来タイプよりも2dB(デシベル:音の強さの単位)アップし、音声多重VTRに対応して音声も一段とグレードアップした  
この“フジビデオカセットHG(VHS用)”はT−120(120分)、T−60(60分)、T−30(30分)の3種類を発売したが、標準モード(モード:録画・再生スピード)のほかに、3倍モード(T−120で360分)での録画でもシャープなカラー画像の再生が可能で、長時間録画の要望に応えた。  
1981年(昭和56年)11月には、“フジビデオカセットHG(VHS用)”に3倍モード時代に応えてT−100、T−80、T−40、T−20の新サイズを追加発売した。これは、ビデオの長時間化・多機能化・音声多重化、ビデオカメラによる録画の増大など、多様化するユーザーニーズに応えたもので、これによってVHS用HGタイプでは、3倍モードで1時間きざみに好みの長さのテープが選べるようになった。  
また、べータ用としては1982年(昭和57年)6月、“フジビデオカセットHG(べータ用)”を、L−750以下7サイズ発売した。特にL−750は、従来製造が困難とされていたべータタイプでの長時間テープで、テープ機械特性および物理性の改善とカセットケースの精度向上によるテープ走行性の飛躍的向上などによって商品化に成功。3倍モード付きデッキを使用すれば、4時間半のロングプレーを楽しむことができた。また、L−330(3倍モードで2時間)・L−165(3倍モードで1時間)は、ユーザーニーズの多様化に応えたもので、これらの新製品の発売によってフジビデオカセットベータタイプのラインアップが強化された。  
一方、海外市場では、特に長時間テープの要望が強く、1981年(昭和56年)4月に海外向け専用の“フジビデオカセットE−240”(VHS用)を他社に先駆けて発売した。  
“E−240”は「デュロ・バックコート」という新技術を採用してテープエッジの強度を高めたほか、テープの走行安定性・耐久性などの諸特性を向上させ、さらにべース厚10.8ミクロンの薄層化を達成し、PAL方式で4時間録画を可能とした製品で、サッカー試合の録画などの長時間録画のニーズに対応している。  
また、翌1982年(昭和57年)3月には、“フジビデオカセットT−160(VHS用)”を発売した。これはNTSC方式で160分(2時間40分)という長時間録画を可能としたもので、標準テープスピードによるNTSC方式で2時間が限度とされていた録画時間を、薄手テープ化技術によって大幅に上回ることに成功したものであった。  
コンピューター用テープの伸長  
1965年(昭和40年)に国産初のコンピューター用“富士フイルムメモリーテープ”を発売したが、コンピューターの普及に伴って、その生産・販売量は急速に増大していった。とりわけ、当社製品の優秀性が電電公社(現NTT)に認められ、1972年(昭和47年)同公社への納入を開始してからは当社テープを採用するところが急速に増加した。  
1973年(昭和48年)4月には、カセット型式のメモリーテープ“富士フイルムメモリーカセット”を発売し、1981年(昭和56年)7月には、コンピューター用メモリーテープの性能を一段とアップした新製品“富士フイルムメモリーテープST”、同“GT”を発売した。  
“ST”およびより高品質の“GT”は、ユーザーからの要請に応え、新しく開発したPHUバインダーシステム(強固な結合力と柔軟な表面性という相反する特性を向上させた新しいバインダーシステム)と高度な薄層塗布技術によって実現した高品質のテープで、次のような特長を有していた。  
1.安定度が極めて高い  
2.ドロップアウトの増加を防ぐクリーンなテープ  
3.高速走行時や反復走行時の耐久性に優れている  
4.耐候性に優れ、過酷な条件にも耐えられる  
5.テープの性能を左右する初期ドロップアウトを大幅に低減した  
6.国際標準テープに合致する入出力特性をもつ  
“ST”と“GT”は、高密度化・高速化が進むコンピューター用磁気テープとして開発したもので、各種の磁気テープ装置による実用テストを行なってユーザーの評価を確認し、絶対的な信頼のもとに発売した。その結果、多数のコンピューターユーザーに採用されていった。  
販売体制の強化−富士マグネテープ株式会社の発足  
1970年代に入って、カセットテープの急速な伸長とホームビデオテープの発売に伴い、これらの市場に本格的に進出を企図し、販売体制を強化するため、1976年(昭和51年)7月、富士オーディオ株式会社を、当社100%出資会社とし、経営陣も一新して、再スタートした。  
その後、1978年(昭和53年)に“フジビデオカセット”を発売したのに伴って、1979年(昭和54年)12月、富士オーディオ株式会社を富士マグネテープ株式会社(現富士フイルムアクシア)と社名を変更するとともに、オーディオカセットテープやビデオカセットテープの販売を同社に一本化した。  
当社のカセットテープの販売は、当初は、他社に比べて出遅れたことからユーザーになじみも少なく、また、それまで当社が全く販売ルートをもたない電器店・レコード店などの新しいチャネルヘの売り込みであったため、その展開は困難を極め、効率の悪いセールス活動を余儀なくされた。しかし、その後、次第に販売ネットを拡充し、ユーザーの当社テープ品質に対する評価も高まり、また、高品質のビデオテープを発売したことによってディーラーの当社ブランドに対するイメージも一段と良化し、積極的なマーケティング活動とも相まって、販売を拡大していった。
オープンリールからカセットヘ / オーディオテープの新展開
オープンリール方式のオーディオテープは、放送用・業務用の分野で使用され、性能をアップした新製品を導入していく。一方、カセットテープは、1970年代に入って、急速に普及していく。本格的なカセット時代を迎え、FMカセット・FCカセット・FLカセット・FXカセットを相次いで発売、一般用から高級オーディオまで幅広く品種整備を進め、カセットテープ市場で独自の地位を確立する。次いで、1977年(昭和52年)には“フジカセットレンジシリーズ”を、1979年(昭和54年)には、高級音楽テープ用としてメタルテープ“フジカセットスーパーレンジ”をそれぞれ発売し、1980年(昭和55年)には、“ニューフジカセット”シリーズを整備して、ユーザーニーズに応える。
オープンリールテープの新製品  
オーディオテープについては、1960年(昭和35年)に“東芝−富士フイルムサウンドテープ”を発売して以来、業務用あるいは一般用のオープンリールテープを市場に供給してきた。1970年代に入って、一般用テープはカセットテープが主流となったが、放送用・業務用の分野やアドバンスドアマチュアではオープンリールテープが広く使われており、当社も、この市場に向けて性能をアップした新製品を導入していった。  
1970年(昭和45年)1月に発売した、ハイファイテープ“富士フイルムFMサウンドテープ”は、どんなテープレコーダーでも、バイアス電流調整なしでひずみのない音を録音し再生できるテープとして、音楽ファンや音のマニアの要望に応えた製品であった。  
その後、1973年(昭和48年)5月には、マスターレコーディング用の“富士フイルムFBサウンドテープ”を発売した。マスターレコーディングテープは原音の収録に用いられるテープで、一般のテープよりもはるかに厳しい性能と品質が求められるが、高感度磁性体の採用によって全周波数帯域にわたって約2dBの感度アップを実現するとともに、バックコート処理や新バインダーを採用して走行性を安定させ、磁性面の耐久性を大幅に向上させた。  
次いで、1977年(昭和52年)10月には、マスターレコーディングテープの新製品“富士フイルムFBサウンドテープニュータイプ”を発売した。これは、従来からの特長であった原音に忠実な周波数特性と高出力・低歪率に加え、変調ノイズを低減し、ニュータイプのバインダーとバックコートを採用することによって安定走行性と耐久性をさらに向上させたテープであった。  
このように、オープンリールテープの分野でも特に品質的に優れた製品を導入してユーザーのニーズに応えていったが、数量的には限度もあり、現在は製造を中止して精力をカセットテープに集中している。  
カセットテープヘの注力  
一方、急速に伸びてきたカセットテープの市場に対し、1969年(昭和44年)“富士フイルムカセットテープ”を発売して同市場に参入したが、1970年代に入って本格的なカセット時代を迎えた。  
カセットテープの第2弾として、1971年(昭和46年)11月、“富士フイルムFMカセットテープ”を発売した。これは、微粒子磁性体を使用することによってオープンリール級のハイファイステレオ録音を楽しむことのできる高出力ローノイズのカセットテープで、音楽用として好評を博した。  
次いで、1972年(昭和47年)3月に“富士フイルムFCカセットテープ”を、同年11月には“富士フイルムFLカセットテープ”をそれぞれ発売した。“FCカセットテープ”は磁性体に二酸化クロム(CrO2)を採用。カセットテープでありながらオープンリールテープに劣らない周波数特性をもち、ダイナミックレンジ、S/N比も改善して、あらゆる楽器の音声を忠実に再現できるテープとした。また、“FLカセットテープ”は、磁性体に微粒子系の高抗磁力磁性酸化鉄を使用したスーパーローノイズタイプのカセットテープで、一般のカセットレコーダーから高級デッキまでの使用に適した製品とした。  
この間、1971年(昭和46年)6月には、カーステレオ用の8トラックカセット市場への参入を行ない、“富士フイルムステレオ8”を発売した。これは、従来のエンドレステープと同じ素材をカートリッジ化したもので、テープのバックにグラファイトを塗布し走行性の向上を図った製品で、OEMを含めて8トラック市場で圧倒的なシェアを獲得した。  
オーディオ市場への本格参入に伴い、1971年(昭和46年)10月、東京で開催された第20回全日本オーディオフェアに初参加した。当社ブースには、オープンリールテープやカセットテープ、エンドレステープやビデオテープのほか、コンピューター用テープやマグネフィルムなどの当社製品が展示され、来場者の注目を集めた。  
“FXシリーズ”の発売  
1970年代前半、オーディオブームの盛り上がりの中で、カセットテープにも、より高性能のタイプが求められるようになってきた。このような市場のニーズに応えて、当社は1974年(昭和49年)3月、“富士フイルムFXカセットテープ”を発売し、以後、“FXシリーズ”として製品ラインを整備していった。  
“富士フイルムFXカセットテープ”は、磁性体に純粋なガンマヘマタイト(γ−Fe2O3)を採用した最高級カセットテープで、ラジオ付き小型カセットレコーダーから高級デッキまで、どんな機器でも使用できる製品とした。バイアス(テープに鮮明で安定した記録をするため、音の信号と一緒にテープに送り込む高周波電流)はノーマルでありながら、1ランク上のクロームバイアスのテープに匹敵する高性能を発揮し、優れた音楽特性と超ワイドレンジを有し、オープンリールテープと肩を並べるカセットテープてあった。このほか、当社が新しく開発したバインダーシステムや新設計の走行メカニズムを採用し、走行不良による録音不良がなく、初期性能をいつまでも保つことができるなど、優れた特長を有していた。  
“富士フイルムFXカセットテープ”は、当初“C−46”(往復46分録音)、“C−60”(同60分)、“C−90”(同90分)の3種類を発売、パッケージデザインをそれぞれオレンジ・レッド・ブルーと色分けして使い分けができるようにし、さらに往復80分録音できる“C−80”も追加発売した。  
その後、1976年(昭和51年)2月には、“富士フイルムFXJr.カセットテープ”および“富士フイルムFXDuOカセットテープ”を発売し、シリーズの充実を図った。“FXJr.カセットテープ”は、FXカセットテープの高性能を維持しながら価格の割安なテープとし、フォークソングや歌謡曲などを気楽に楽しめるテープとした。一方、“FXDuOカセットテープ”は磁性体(ピュア・フェリックス)を二層コーティングしたFXシリーズの最高級テープで、低音から高音まで迫力のある音を再現できるテープであった。  
“富士フイルムFXJr.カセットテープ”および“富士フイルムFXDuOカセットテープ”の発売で、“富士フイルムFXカセットテープ”と合わせ、音楽用カセットテープ“FXシリーズ”が完成した。  
ここに一般録音用のFLカセットテープとオーディオ用のFXシリーズ、そして高級オーディオ用のFCカセットテープと、当社のカセットテープは一般用から高級音楽用まで製品ラインを整備、カセットテープ市場で独自の地位を確立するに至った。  
“フジカセットレンジ”シリーズの発売  
1977年(昭和52年)10月、当社は新しいカセットテープ“フジカセットレンジ”シリーズを発売した。  
“レンジ”シリーズは、20余年にわたる当社の磁気記録材料製造技術を結集して開発したもので、ノイズレベルを極限に抑え、MOL(ダイナミックレンジを表わす指標で、その数値が大きいほど大きな音でもひずまない)を高めるとともに、同価格帯では他社品の1クラス上のダイナミックレンジを実現した。また、パッケージデザインも、雷(いなずま)の走る中にダイナミックレンジのMOL数値を大きく力強くレイアウトしたざん新なデザインとした。“レンジ2”・“レンジ4”・“レンジ4X”・“レンジ6”と、“フジカセットレンジ”シリーズは一般用から音楽用最高級テープまで4種類からなっていた。  
“レンジ”シリーズの発売に合わせて、当社は「雷作戦」と名付けて活発な販売キャンペーンを展開し、さらに、これまでのカメラ店ルート・電器店ルートのほかに、レコード店ルートの開拓を進めた。  
その後、長時間録音用テープの要望に応え、“レンジ2”・“レンジ4”に、往復2時間録音できる120分タイプを追加発売し、長時間番組の録音などの便を図った。  
メタルテープ“フジカセットスーパーレンジ”の発売  
磁気テープの磁性体には、酸化鉄・二酸化クロム・コバルトフェライトなどが用いられ、それぞれ改良が行なわれて性能のアップが図られてきた。  
しかし、1970年代末には、より優れた性能を発揮するメタルテープが出現し、高級音楽用テープとして、オーディオファンの間で注目された。“夢のテープ”としてその登場が待ち望まれていたメタルテープ、その原理を世界で初めて確立し、特許を取得したのは、実は当社であった。1954年(昭和29年)、研究所において磁気テープの研究に着手したとき、各種磁性体の研究の一環としてメタルテープの研究を行ない、1960年(昭和35年)特許を取得している。  
当社のメタルテープ“フジカセットスーパーレンジ”は、オーディオカセットテープの分野で独自に新開発した超微粒子特殊合金磁性体(メタリックス)を採用することによって、低音域から高音域に及ぶ全域にわたってダイナミックレンジを飛躍的に拡大した画期的なテープで、また、カセットケースも新しい高精度ケースを採用し、1979年(昭和54年)5月に発売した。  
発売当初は、“C−46”と“C−60”の2種類であったが、同年11月には長時間用の“C−90”を発売し、“スーパーレンジ”シリーズのラインアップを完成させた。  
メタルテープ“フジカセットスーパーレンジ”は、最高級音楽用テープとしてオーディオファンの間で人気を博するとともに、オーディオテープメーカーとしての当社のイメージを大きく高めていった。  
“ニューフジカセット”の誕生  
“DR”、“ER”、“UR”、“SR”―より良い音、より良い品質を目指すオーディオの新しいエースとして、1980年(昭和55年)2月、“レンジシリーズ”に代わる新しいカセットテープ“ニューフジカセット”を一斉に発売した。  
システムコンポや高級デッキの普及に伴って、音に対するユーザーの要求も高度になり、音楽の楽しみ方や好みも多様化してきた。このような音楽に対するし好の変化を調査・検討し、ユーザーのニーズに合った新しいカセットテープの開発を進めていった。そして、オーディオカセットの新しいエースとして、“ニューフジカセット”(DR、ER、UR、SR)を誕生させた。  
この“ニューフジカセット”のカセットケースは、使いやすさに工夫を凝らし、窓目盛でテープ残量がわかるようにしたほか、走行性能を向上させた。また、パッケージも、透明プラスチックケースを採用し、DR(赤)、ER(青)、UR(銀)、SR(金)と、カセットの個性をカラーで色分けするなど、現代感覚あふれるデザインとした。  
優れた品質と性能の製品、活発な広告宣伝活動、それにオーディオ教室やユーザー登録制度など地道なサービス活動が相まって、“ニューフジカセット”は、オーディオファンの間で好評を博した。
感圧紙の伸長 / 増産体制の確立と技術輸出
1963年(昭和38年)、“感圧紙”を発売し、ノーカーボン紙市場に進出するが、“感圧紙”は、複写帳票用あるいはコンピューターアウトプット用として需要が急伸、1971年(昭和46年)には、富士宮工場に3号塗布機を増設して、増産体制を確立する。この間、品質の改善を進め、次々と新製品を開発するとともに、「ビューティフル帳票キャンペーン」や「帳票エコノミーキャンペーン」など積極的な普及活動を展開、シェアアップを図る。一方、スペインのサリオ社をはじめ、英国のDRG社など世界各国への技術輸出を行ない、世界的な供給網を形成、また、“感圧紙”の応用製品として、圧力測定フィルム“プレスケール”を開発する。
ノーカーボン紙市場の成長と当社の対応  
ノーカーボン紙は、使用上のメリットが次第にユーザーに認められ、また、コンピューターアウトプット分野での需要も急増し、年間2けたの成長を続け、1970年(昭和45年)には複写帳票の  
当社の“感圧紙”の販売も順調で、急増する需要に供給が追いつかなくなってきたため、1971年(昭和46年)10月、富士宮工場に新鋭塗布機(3号塗布機)を新設し、対応することとした。  
また、このころ複写帳票業界で問題となったノーカーボン紙染料溶解オイルの環境汚染問題も、当社は1971年(昭和46年)3月に、自主的にオイル切り換え対策を完了し、ユーザーに広くアナウンスした。  
販売促進活動として、1973年(昭和48年)3月から“ビューティフル帳票キャンペーン”を開始するとともに、ユーザーニーズに沿った商品開発を図り、同年8月には高濃度無臭のニュータイプ品を発売した。  
しかし、この年起きた石油ショックにより、当社も一部の原料の入手不足をきたして、一時供給が混乱した。一方、市場でも、物不足や値上げ懸念などから仮需要が発生したりして、ユーザーの要望にいかに対応するかに腐心する時期があった。  
こうしたさまざまな出来事の中で、“感圧紙”の販売は、着実に伸長したが、石油ショック後の不況下、ユーザーの節減ムードも高まり、帳票のトータルコストダウンを図る中で、ノーカーボン紙の役割を改めて問い直す動きが生じてきた。このような市場の動きに対応して、当社は「帳票エコノミーキャンペーン」を展開し、その一環として、帳票エコノミー通信講座の開講や帳票エコノミー研究会の発足など、ユーザーニーズにマッチしたマーケティング活動を実施した。品質面では、“感圧紙”の発色色調を明るいブルー(ブリリアントブルー)に改良するとともに、濃度アップした製品を発売して他社品との差別化を推進した。  
1977年(昭和52年)になると、ノーカーボン紙帳票は、複写帳票全体の過半数に達し、当社“感圧紙”の販売も好調に推移した。また、この年「富士フイルム感圧紙帳票コンテスト」を行ない、帳票のフォーマットそのものをいかに合理的に作成するかというソフトウエア分野に踏み込んだきめ細かいマーケット施策を実施し、ユーザーの便を図るとともに帳票の質的水準向上の一助とした。  
一方、普及期に入っていたオフィスコンピューターは、中小規模の会社・商店のノーカーポン紙需要を急激に掘り起こす作用をもたらし、市場は急激に拡大していった。  
従来、紙製品の中で特殊紙扱いを受けてきたノーカーボン紙も、数量の増大により一般紙化してきたが、比較的成長が鈍い一般紙の中で、ノーカーボン紙だけは引き続き高い成長を続けてきた。反面、ノーカーボン紙の一般紙化は、ユーザーのブランドに対する志向を弱めてきたので、当社は1978年(昭和53年)に、ユーザーの“感圧紙”指名化とシェアアップ対策を兼ねて、帳票の隅に“感圧紙”であることを示した「F−KAN」と入れる「F−KANキャンペーン」を実施した。  
一般に、ノーカーボン紙は各国ごとに要求品質や販売チャネルが異なることなどから、当社は海外市場については技術輸出を中心として事業の拡大を図る方針とした。  
この分野における最初のライセンシーは、スペインの特殊紙トップメーカーのサリオ社で、1968年(昭和43年)2月に技術輸出契約を締結。同社に対して欧州主要国への独占販売権を許諾した。これにより、同社は1970年(昭和45年)末に新工場をしゅん工させ、翌年春からスペインでの本格生産を開始。1975年(昭和50年)には2号機を設置して業績の拡大に努め、その後、当社との契約を更新して現在に至っている。  
サリオ社に次いで、英国のDRG(ディッキンソン・ロビンソン・グループ)からライセンス取得の申し入れを受け、1969年(昭和44年)3月、成約に至った。同社は英国屈指の製紙会社であり、円網抄紙機の発明や高級レターぺーパーなどのメーカーとして著名であるが、ノーカーボン紙分野の拡大にも積極的で、1980年(昭和55年)には契約をさらに10年延長。新規設備投資も実施している。  
一方、世界最大のノーカーボン紙市場である米国においても、1972年(昭和47年)8月、ミード社に対して技術輸出契約を締結した。同社は感圧紙事業を重点的に推進し、順調に業績を伸ばして、すでに米国内で高いシェアを獲得している。  
以上のように、当社の“感圧紙”技術輸出は、いずれも各国大手製紙会社に対して行なったが、これは各国市場に適した品質を目標とすることと提携先の確立された販売網を利用することが適当であるとの判断に立つものであった。  
また、これらの会社は技術改良も独自に実施しており、当社の技術開発にも有益な寄与が得られるなどのメリットも出てきている。  
その後、東南アジア地域で、1976年(昭和51年)12月台湾の凱得実業股有限公司、中南米地域では、1981年(昭和56年)2月アルゼンチンのマスウ社、そして1984年(昭和59年)4月には南アフリカのナムパック社とそれぞれ技術輸出契約を結び、ここに当社の“感圧紙”技術から生み出される製品は、世界の主要市場をほぼカバーするに至った。  
また、これら技術輸出によるライセンシーの年間生産量の合計は、当社の生産の2倍以上に達し、当社とライセンシー各社を含めた“感圧紙”グループの総生産量は、世界総需要の4分の1を占めるに至っており、今後さらに順調な伸長が期待されている。  
“プレスケール”の発売  
当社では、“感圧紙”の改良研究を行なう一方、マイクロカプセル技術を応用した他の利用方法についても研究を進め、1977年(昭和52年)4月、圧力測定用フィルム“富士フイルムプレスケール”の開発に成功した。  
“プレスケール”は、発色剤を入れたマイクロカプセルを塗布したAフィルムと顕色剤を塗布したCフィルムをペアで使用するもので、圧力の強いところは濃く、弱いところは薄く発色するようにし、専用の濃度計で色濃度を測定することによって圧力値を求めるようにしたものである。これまで圧力測定には大規模な装置や複雑な計算を必要としていたのに対し、だれでも簡単に圧力測定が可能となり、しかも圧力分布が一目でわかるうえに、そのまま長期保存することもできるというユニークな商品である。  
その後、1978年(昭和53年)9月には、従来の低圧用・高圧用に中圧用を加え、“ニュータイプ富士フイルムプレスケール”を発売した。これによって測定範囲がcm2当たり10kgから700kgまで拡大するとともに、cm2当たり100kgから200kgの範囲の濃度差を大きくして圧力分布をわかりやすくした。さらに翌1979年(昭和54年)7月には超低圧用も加え、圧力測定範囲をcm2当たり5kgから700kgに拡大させた。  
“プレスケール”は、ボルト締め付け部分の圧力測定などのほか、各種の圧力測定に用いられており、その用途は今後さらに大きく広がろうとしている。
国際戦略の展開 / 海外拠点と輸出の拡大
1970年代に入って、世界経済の激動の中で、積極的な海外活動を展開していく。特に、1976年(昭和51年)、世界に先駆けて開発に成功した“フジカラーF-II400”は、当社の技術水準の高さを世界に示し、同時に当社ブランドの国際的地位を大きく高める。また、映画用カラーネガフィルムやテレビ用カラーリバーサルフィルムをはじめとする各種の写真感光材料・光学製品・磁気記録材料製品・その他多くの新製品を海外市場に導入、1980年度(昭和55年度)には、輸出額1、284億円と大きく伸長、輸出比率も32%と、念願の30%を突破する。この間、海外拠点を充実強化するとともに、現地生産体制もスタートさせ、名実ともに“世界の富士フイルム”として、大きく羽ばたいていく。
カラー感光材料の本格的輸出開始と海外ラボ網の整備  
当社がそのメイン商品の一つであるアマチュア用カラーフィルムおよびカラーぺーパーの輸出を本格的に行なうためには、まず、海外でのフィルム現像などの処理面で支障をきたさないことが不可欠な条件である。  
新規に海外市場に参入する当社としては、その参入に当たって、コダック社の製品と処理の互換性をもつ商品で輸出を進めることをその基本戦略としてきた。  
1966年(昭和41年)以降、コダック社の製品と処理の互換性をもつカラーフィルムを逐次商品化し、これによって本格的輸出が可能となった当社は、現地の販売体制とラボ体制の整備を着実に進め、1970年代に入って、いよいよ待望の欧米市場向け本格的輸出を開始した。  
当社海外現地法人あるいは各国代理店によるラボの設立は、一つには当社カラーぺーパーの安定需要先として、もう一つは最高の処理技術によってフジカラーの高品質をユーザーにデモンストレーションすることになるという観点から、当社は積極的にフジカラーラボ網の展開を進めた。すなわち、1970年(昭和45年)西独(デュッセルドルフ)に、1972年(昭和47年)ブラジル(サンパウロ)、インドネシア(ジャカルタ)、ハワイ(ホノルル)に、1973年(昭和48年)台北、そしてアルゼンチン(ブエノスアイレス)に、1974年(昭和49年)フランス(パリ近郊)に、1975年(昭和50年)ブラジル(リオデジャネイロ)に、1979年(昭和54年)、同じくブラジルのポルトアレグレに、このほか、世界の各市場に、次々にフジカラーラボ網を展開していった。これらのラボは当然のことながら、カラーフィルム現像機やカラープリンター、カラーペーパー現像機など当社現像処理機システムを使用するため、他のフォトフィニッシャーに対する当社処理機器システムのデモンストレーションラボの役割も果たし、これら製品の販売にも大きな力となっていった。  
カラー感光材料輸出の伸長  
1974年(昭和49年)9月、フォトキナ’74で、当時好評を博していた“コダカラーII”対抗品として、カラーネガフィルム“フジカラーF−II”を発表し、ユーザーの期待に応えた当社は、2年後の1976年(昭和51年)9月のフォトキナ’76で、世界に先駆けて超高感度カラーネガフィルム“フジカラーF−II400”を発表した。この開発成功は、当社の写真感光材料の技術および品質に対する評価を世界中に一挙に高めた画期的なことであり、フォトキナ’76での話題を独占した。また、翌1977年(昭和52年)3月シカゴで開かれたPMA(PhotoMarketingAssociationInternational)ショーでも、当社ブースは人気の的となった。  
“フジカラーF−II400”の発表は、単にアマチュアカラーフィルムの世界最高感度品の発売というだけにとどまらず、当社が世界写真業界の巨人コダック社に匹敵する技術力をもつ写真感光材料メーカーであるということを世界に強く印象づけ、当社製品全体の信頼とブランドイメージを高めるうえでも大きな出来事であった。また、これを契機として、当社アマチュア用カラーフィルムの輸出はさらに一層の伸長をみた。  
一方、映画用フィルムでは、カラーポジフィルムは、コダック社の現像処理方式に適合した品質もレベルアップした改良品を完成して以来、米国向け輸出も次第に増加し、安定した受注が継続されたのに加えて、東南アジアや欧州向け輸出も順調に推移した。また、カラーネガフィルムについても、1969年(昭和44年)コダック社の製品の処理システムと互換性をもつ製品を完成して輸出を開始した。  
テレビ用カラーリバーサルフィルムの分野では、1974年(昭和49年)当時世界最高感度の“RT400”フィルムを発売して好評を博した。特に、英国BBC放送に採用されてからはヨーロッパ各国への導入が急速に進み、米国をはじめその他の市場に対しても順調に導入された。  
海外拠点の充実  
1970年代は、海外マーケティングの拠点拡充の時代でもあった。すなわち、1970年(昭和45年)ソウル、台北、シンガポール(1978年、現地法人化)、バンコク、ブエノスアイレスにそれぞれ事務所を開設。1972年(昭和47年)ハワイ現地法人(FujiPhotoFilmHawaii、Inc.)設立。1973年(昭和48年)ロンドン事務所開設(1976年、現地法人化)。1979年(昭和54年)モントリオール事務所開設(1980年、現地法人化)。同年マニラ事務所開設。1980年(昭和55年)シドニー事務所開設とワールドワイドに海外マーケティング拠点を拡充した。なお、ブエノスアイレス事務所は、その後、1975年(昭和50年)、その機能をFujiPhotoFilmdoBrasilLtda.に統合した。  
また、ブラジルおよび米国の現地法人は、それぞれの国で支店の開設を進めた。ブラジルでは、1969年(昭和44年)リオデジャネイロに支店を開設した。米国では1971年(昭和46年)ダラスをはじめとして、1973年(昭和48年)ニュージャージー、1974年(昭和49年)ロサンゼルスとシカゴ、1979年(昭和54年)セントルイス(後に、シカゴ支店に併合)、1982年(昭和57年)アトランタと、逐次、拠点の展開を図った。  
一方、海外代理店の数は、1970年代末には全世界で120か国、200社あまりに達し、1960年(昭和35年)の輸出取引国40か国、数十社の時代に比べて隔世の感がある。国別・製品別に設定されているこれら各国の代理店は、当社との密接な連携のもとに“世界の富士フイルム”“技術の富士フイルム”をモットーとし、それぞれの分野でのマーケティング活動を強力に展開している。  
海外生産の開始  
輸出に注力する一方、当社はブラジル・韓国・インドネシアにおいて、当社単独で、あるいは現地企業との合弁で現地生産を開始した。  
○ブラジル  
1958年(昭和33年)現地法人としてスタートしたFujiPhotoFilmdoBrasilLtda.は、その後、インフレの高進や為替問題など数々の困難を乗り越えて着々とその基盤を固め、当社からのブラジルヘの輸出量も増大していった。1970年(昭和45年)には、カラー感光材料の導入も開始し、並行して現地法人自身によるカラーラボ網の整備を進め、サンパウロ・リオデジャネイロ・ポルトアレグレと、相次いで現像所を開設した。しかしながら、一方、現地における外貨不足などに伴う輸入制限強化から、各製品の輸入が次第に難しくなってきたため、現地での生産・加工が強く求められるようになってきた。そこで、当社も現地生産工場の建設を決意、サンパウロ州カサパーバ市に工場用地80万m2(約24万坪)を取得し、1974年(昭和49年)第1期計画として、まず加工工場3、000m2を建設した。当社から輸出したバルクロールの当工場における加工は、1975年(昭和50年)12月から開始された。現在は、カラーフィルムやカラーぺーパーの加工とカラー現像処理薬品の製造を実施しており、ブラジル市場のみならず南米諸国への輸出も行ない、順調に成果をあげてきている。  
○韓国  
1970年代に入って、韓国へのアマチュア向け写真感光材料の製品輸出は、同国の輸入政策上難しくなってきた。このような情勢に対処するため、現地生産を含むさまざまな対策を検討したが、1974年(昭和49年)末、現地代理店によるバルクロールの現地加工に踏み切ることとした。  
1975年(昭和50年)7月、カラーぺーパーおよび35mm判フイルムの加工工場が稼動を開始したが、これによってフォトディーラーやフォトフィニッシャーに対する従来に増してきめの細かい供給サービスが可能となり、現地加工業務は順調に拡大していった。なお、1978年(昭和53年)、当社は資本参加して合弁会社とし、加工設備も増強。1980年(昭和55年)に社名もKoreaFujiFilmCo.、Ltd.に改めた。  
○インドネシア  
写真需要のおう盛なインドネシアでは、同国の輸入政策上の問題や現地での雇用増加対策などから、当社は現地代理店の加工工場建設を支援することとし、必要設備および加工技術を提供した。新加工工場は1979年(昭和54年)10月にしゅん工、1980年(昭和55年)6月からカラーぺーパーや35mm判カラーフィルムなどの出荷を開始した。  
なお、同工場は販売量の増大に伴い、その後さらに生産設備を増強して増産に対処する一方、1982年(昭和57年)8月から、当社の技術援助により35mmカメラの製造を実施している。  
このようにして、輸入政策上あるいは為替問題などで製品輸入の難しい仕向国に対して、現地加工という形をとって市場維持に努める一方、現地製造に関するノウハウを蓄積し、また、プラント輸出の実績を積み重ね、来たるべき海外生産一貫工場(乳剤の仕込から塗布・加工までの生産工場)の建設に向けて着々とその準備を重ねていった。  
光学製品およびその他の製品の輸出  
1970年(昭和45年)以降、特にカラーフィルムとカラーぺーパーの輸出に最大の努力を傾注してきたが、一般カメラやシングル−8関係など光学製品の輸出拡大にも引き続き努力し、また、X−レイフィルムとマイクログラフィックス製品、フジリスフィルムやPS版などの印刷製版関係製品、放送用ビデオテープ・ホームビデオカセットテープ・オーディオテープなどの磁気記録材料製品の輸出にも力を注いでいった。  
光学製品では、1970年(昭和45年)、かねてから待望されていた35mm一眼レフカメラ“フジカST701”を発売し、米国および欧州市場に輸出を開始した。“フジカST701”は海外市場で高い評価を得て順調な売れ行きを示し、FUJICACAMERAのブランドイメージを高めるのに大きな力を発揮した。  
以後、この一眼レフカメラの分野で、“ST801”や“ST901”と高級機化を図り、他方、普及機として“ST605”と“ST−F”を開発、一眼レフのラインアップを充実させた。また、その後、バヨネットマウントを採用したAXシリーズに移行させて高級機分野の強化を図った。  
35mmコンパクトカメラでは、“フジカ35FS”、“フジカGE”、“フラッシュフジカ”シリーズ、“フジカオート5”、“フジカオート7”などのほか、“HD”カメラの導入など、特長あるカメラを次々に発売し、独自の地位を築いていった。  
また“シングル−8”システムでは、普及機から高級機まで幅広い製品構成の充実に努めてユーザーのニーズに応え、サウンド化も進んで、ホームムービー分野でも海外で確固たる地位を占めるに至った。また、“シングル−8”の普及に伴い、シングル−8カラーフィルムの現像サービス体制も拡充していった。  
さらに、110サイズポケットシステムについても、当社は1975年(昭和50年)にポケットカメラおよびフィルムの海外市場への導入を開始し、以後“ポケットフジカフラッシュ”シリーズなど、次々に幅広いレンジの新タイプカメラを市場に送り出していった。  
グラフィックアーツの分野では、1971年(昭和46年)、新製品“フジリスオルソフィルムタイプV”および“タイプF”を発売した。“タイプV”と“タイプF”の品質は海外でも高い評価を得、この分野における当社品の地位を強固なものとした。  
その後も、処理機や処理剤も含めたトータルシステムとして次第に市場を拡大し、印刷製版分野での急速な技術革新に対応した新規製品・新規システムを次々に開発し、この分野の市場ニーズに応えてきている。  
一方、オフセット印刷用のPS版の輸出にも力を入れており、1981年(昭和56年)商品化したマルチグレイン品など、品質面で高い評価を得るに至っている。  
磁気記録材料の分野では、放送用ビデオテープは、その高品質性が好評を博し、米国をはじめ各市場で急速に伸長し市場を拡大していった。また、ホームビデオカセットテープは、市場の急成長とともに輸出量も急伸。その優れた品質は高い評価を得ている。磁気テープ製品の全輸出額に占める割合も次第に大きくなってきた。  
このほか、X−レイフィルムやその処理機、マイクロフィルムおよびマイクロ機器などの輸出も代理店網の拡大、マーケティング活動の強力な推進、そして相次ぐ新製品の導入などによって順調に伸長し、それぞれ重要な輸出商品となっている。  
輸出額1、000億円、輸出比率30%を突破  
1971年(昭和46年)から1980年(昭和55年)に至る期間の輸出額の推移は右図のとおりである。  
1971年度(昭和46年度)は、全般的にはカラー製品および光学製品などが伸びたこともあって順調に推移し、輸出額も186億8、000万円を記録して、日本企業の輸出ランキングでも47位と、初めてベスト50入りを果たした。しかし、この年8月のニクソンショックと米国における輸入課徴金問題および円の変動相場制への移行と円切り上げは、当社の輸出にも強い衝撃を与え、1972年度(昭和47年度)にかけては主要輸出先である米国向けが停滞を余儀なくされ、また全体の輸出にもブレーキがかけられた。  
その後、1973年度(昭和48年度)にかけてカラー製品の輸出増大策などで回復を図ったが、1973年(昭和48年)10月に発生した第1次オイルショックによって輸出環境はさらに悪化した。すなわち、銀価格など全般的な原料価格の上昇により採算性が悪化し、また、世界的規模で不況が進行している中で輸出しなければならない困難さも加わった。このため、1974年度(昭和49年度)には全般に輸出数量は伸び悩んだが、カラー製品、特にカラーぺーパーの輸出伸長などで輸出額のカバーを図った。  
1975年度(昭和50年度)は、カラー製品とX−レイフィルムや映画用フィルムなどが順調に推移した。翌1976年度(昭和51年度)には米国の景気が回復に向かい、世界経済の行方にやや明るさが見えはじめたこととフォトキナでの“フジカラーF−II400”の発表を契機とするカラーフィルム・カラーぺーパーの輸出増大などから、輸出金額は前年度比35.6%増と大幅に増加し、546億円と初めて500億円を突破した。また、輸出地域別では、欧州地域向けの伸長が著しく、1977年度(昭和52年度)には初めて北米向けを上回る輸出額となった。  
しかし、1978年度(昭和53年度)には、前年後半からの急激な円高のために輸出競争力が低下し、輸出金額も676億円と対前年比1.6%の減少を余儀なくされた。さらに1979年度(昭和54年度)には、第2次オイルショックの発生と銀価格の異常な暴騰による対策を迫られ、大幅なコストァップに対する価格改訂の実施など、さまざまな困難な状況を克服しなければならなかった。  
1980年度(昭和55年度)の輸出環境には依然厳しいものがあったが、当社の積極的な輸出努力、現地販売体制の充実整備、新製品の導入、欧州向け輸出の伸長、輸出価格の改訂および円安効果などから、輸出金額は対前年比63%増の1、284億円と、初めて1、000億円の大台を突破。わが国企業全体の輸出ランキングでも35位にランクされ、当社全売上高に占める輸出比率も31.7%と初めて30%台を達成した。  
このようにして、当社は当面の目標であった輸出1、000億円、輸出比率30%を達成し、名実ともに“世界の富士フイルム”へと前進した。
次世代写真感光材料を目指して / 研究体制の充実
写真感光材料の輸入自由化を迎えるに際して、カラー製品の輸出適性を実現しているが、この課題を完成して間もなく、コダック社の製品が高温迅速処理に切り換えられ、当社製品もこの新処理方式に適合するように改良研究を進める。これと並行して、写真感光材料の研究は、高画質化の研究が重要なテーマとなる。1970年代の後半になると、さらに高感度化の研究が推進される。この間、研究の進め方や研究者の意識の改革も進み、研究設備も充実する。分析技術や画質評価技術も大きく進歩し、素材合成部門も強化する。これらが大きく寄与して、“フジカラーF-II400”をはじめ世界に誇る数々の新製品を生み出していく。
1970年代前半の写真感光材料研究  
写真感光材料の輸入が完全に自由化される1970年代を迎えるに当たって、カラーフィルムもカラーぺーパーもコダック社の製品と同一の処理方式で現像できる商品、すなわち、海外市場に輸出できる商品の開発に成功していた。ところが、このころからコダック社は、カラーラボの生産性向上のために現像処理の方式を高温迅速処理の方式に切り換えていった。したがって、コダック社の製品と同一の処理方式で現像できるようにするために当社は、再度、この新しい処理方式に適合し得るように製品の改良を進めなければならなかった。  
写真感光材料研究部門は、この対策に追われたが、ようやく1974年(昭和49年)に至ってカラーネガフィルムは“フジカラーF−II”で、カラーぺーパーも新しい改良品で新方式で処理できるものに切り換えた。  
この対策と並行して、この時期の写真感光材料の開発の主テーマは画質の向上に置かれた。カラーぺーパーでは、前述の高温迅速処理適性を付与するために新たに開発された二当量カプラーが大きな役割を果たした。それまでは、カラーの色素1分子を作るのに銀4原子を必要としたが、二当量カプラーは、その名のとおり、色素1分子を作るのに銀2原子でできる効率のよいカプラーで、この二当量カプラーをはじめ、各種の新型カプラーを使用することによって、色が鮮やかで、かつ、保存性の優れたカラーぺーパーを商品化することができた。  
一方、カラーネガフィルムでは、1974年(昭和49年)にIRG技術に基づいた“フジカラーF−II”が開発された。このIRG技術によって画像の粒子が粗くなることが抑えられ、鮮鋭度が向上した。現在の微粒子カラーネガフィルムは、この技術が原型になって達成されたもので、新技術達成という点で意義深いものであった。  
1970年代に入って、それぞれの専門分野ごとに研究者も数多く育成され、専門領域における研究もより深まっていった。研究テーマが複雑化するにつれ、これらの研究の遂行に当たっては、タスクフォース的運営を採ることが多くなった。それぞれの研究テーマごとに異なった専門分野の研究者によってプロジェクトチームを編成し、研究の効率的遂行を図った。  
このタスクフォース的運営を行なっている中で、従来ややもすると自己の専門分野の研究にのみ関心が集中しがちであった研究者の意識も変革されていった。タスクフォースシステムによる柔軟な組織運営と研究者の意識の変革は、研究の効率を高めるうえで著しい効果をあげた。  
また、この時代には、商品化研究では、その当初の段階から研究所内部で最終商品としての総合評価を進めていくことの重要性が認識され、足柄研究所内に評価部門を新設した。このことも、研究者に商品設計に対する考え方の変化を促す重要なきっかけを与えることになった。  
このような考え方の変化と並んで、研究の進め方や結果の解釈の仕方、研究用の諸設備の充実にも見るべきものがあった。ハロゲン化銀の結晶に対するマイクロ波の吸収度や誘電損失から電導度を測定することが可能になり、その測定値によって、ハロゲン化銀の結晶の性質とそれが写真乳剤にどう影響するかが理解できるようになった。  
分析担当部門でも、単に素材の構造式を追求するだけでなく、なぜそこにそのような構造をもつ化合物が使われているのかというその背後にある技術思想を推定するような分析を行なうようになってきた。これは、物質の形体や分子構造を推定することが可能な各種の機器、たとえばフーリエ変換−NMR(核磁気共鳴装置)やレーザーラマンスペクトル測定装置といった機器が急速に進歩したこと、それを当社の研究部門にタイムリーに採り入れたこともあずかって大いに力があった。  
1973年(昭和48年)には第1次オイルショックに襲われたが、その間でも、次の時代を目指す研究はたゆむことなく続けられた。“フォトラマ”の開発研究のためのNS事業部も、この時期に発足した。  
この増大する研究量に対応するため、1974年(昭和49年)4月には、足柄研究所に5号館を建設し、商品設計部門を整備した。このような努力が実を結んで、1973年(昭和48年)から1974年(昭和49年)にかけて、8mm高感度カラーリバーサルフィルム“RT200”、テレビニュース用16mm同“RT400”、迅速処理用カラーぺーパーなどが次々と巣立っていった。しかし、カラーネガフィルム“フジカラーF−II”の商品化では、他社に比して多少の遅れを生じた。これが研究のマネジメントの進め方に反省の機会を与えるきっかけとなり、この反省が2年後に世界に先駆けて“フジカラーF−II400”を開発する大きな原動力ともなった。  
1970年代後半の写真感光材料研究  
1970年代後半では、画質改良に加えて、高感度化ということが写真感光材料の研究テーマとして重要になってきた。この高感度化の技術は、先に述べたカラーリバーサルフィルム“RT200”や“RT400”の中ですでに培われており、次に商品化した“フジカラーF−II400”は、単に世界初の高感度カラーネガフィルムとして世界の大きな話題になっただけでなく、その中に各種の新技術が盛り込まれた点でも、歴史の一時期を画するものであった。また、世界をリードするものがわれわれにも開発できるのだという自信を技術者に与えた効果も見逃すことはできない。  
一方、この時期は黒白フィルムの分野でも多くの成果をあげた。  
印刷製版用感光材料では、まず、1970年(昭和45年)の初め、スキャナーフィルムの高感度化を実現して、世界で初めてダイレクトスキャナー用のフィルムの開発に成功した。  
また、リスフィルムにおいては、いち早く製品中にごく微量に含まれていた公害要因物質を除去するとともに、リスフィルムの現像処理の安定化を実現するため、フィルムと処理剤・処理機器を総合的に一つのシステムとして一体化した“HSLシステム”を開発し、大きな成果をあげた。  
X−レイフィルムの分野では、被ばく線量を大幅に軽減するために、希土類蛍光増感紙とグリーン感色性X−レイフィルムの開発に取り組み、“富士GRENEXシステム”を完成した。  
また、オイルショックによる原材料価格の異常な高騰に対処するため、使用銀量の少ないX−レイフィルムの開発に取り組んだ。その省銀方法は、銀の代わりに発色効率のよいカプラーを使用し、通常の発色現像で実現しようとするもので、そのための効率のよいカプラーや写真感光乳剤および現像処理方式の探索を進めた。この方法では、青色の画像が得られるので、これを見やすくするためのビュアーの設計と新しいシステムに対する画質評価法の研究も取り上げ、精力的に一つ一つの問題点を解決していった。  
その間に、1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)の両年にわたり、通商産業省から「高感度写真フィルムの省銀化」に関する工業化試験補助金の交付を受け、パイロットプラントを設置し、試作品を完成した。この試作品は、性能的には満足できるものであったが、このシステムではユーザーが新しく現像処理機を設置しなければならないなどの問題もあったので、技術ストックとすることとした。  
一般写真用黒白フィルムでも、国産初の高感度フィルム“ネオパン400”を完成した。  
これらの新製品を開発する際、基礎となったものの一つとして見逃すことができないものは、画質評価法の進歩である。すなわち、コンピューターの進歩普及に歩調を合わせたミクロセンシトメトリー(フィルムの極く小さい部分の感光度その他の写真の特性を測定評価する技術)の精度向上、あるいは、多年にわたる色再現基礎研究(色をどういう数字で表示すれば正確に表すことができるかという研究)の成果が実って、レーザーを用いた精巧なカラーシミュレーターの開発に成功した。このカラーシミュレーターを活用することによって、新フジクロームをはじめとする一連の商品群の開発に際して、基礎的かつ重要な指針を与えることができた。解析技術者や画像設計技術者も商品化プロジェクトに活発に参画するようになり、迅速な商品化に寄与するようになった。  
商品設計における有機素材の役割も、ますます重要になってきた。この分野の研究技術者を充実・強化するとともに、足柄研究所では、設立以来の1号館を撤去して、1977年(昭和52年)12月、その跡に新たに1A号館を建設し、研究体制を充実した。これらの先行投資が、その後の“F−II400”および“A250”を生み出すのに大きく貢献した。このことは、商品設計をするに当たって、合成部門の重要性を認識させる点でも重要な意義をもってきた。  
なお、足柄研究所は、全社の素材合成に関する研究も担当し、他事業場で必要となる素材、たとえば、PS版や感圧紙の改良や新製品の開発に対しても重要な役割を果たしてきた。
生産部門における効率化の推進
1970年代に入るころから、製造現場では、品質の安定性を高めることを目的として、「一定条件製造」という考え方の徹底を図り、効果をあげていく。一方、製造設備の保全に、TPM(全員参加の生産保全活動)を導入、RM活動で培ってきた土壌の上に自主保全活動を展開する。RM活動は、足柄工場から全工場の活動へと広がり、QC活動・TPM活動・コストダウン活動の具体的な展開に当たっても大きな役割を果たす。提案活動も年々活発化する。さらに、生産技術の高度化に対応し、主として現場オペレーターの技術適応力の開発・向上と、再訓練を目的に技術研修を充実させる。また、職場の安全活動も積極的に展開する。
調節をやらない工程管理  
1970年代に入るころから、足柄工場では、調節をやらない工程管理、すなわち「一定条件製造」という考え方の徹底を図ってきた。製造現場での製造に際しては、原材料の規格やその投入条件・製造機械の運転条件は、常に、ごく狭い範囲(管理限界)内に一定に保ち、これらを意識的に変えることは一切行なわない。万一、製造された製品の品質特性が所定の管理限界を超えた場合は、直ちにその工程を止め、異常をもたらした真の原因を突き止め、それを改善してからはじめて稼動を再開する。従来、品質特性が管理限界を超えた場合、ややもすると、そのつど部分的に調整を行なって品質特性を規格内に入れるという方法が安易にとられたこともあった。しかし、真に品質の安定性を確保するためには、この方法では決して十分とはいえなかった。  
一定条件製造というやり方では、稼動の初期には製造ラインが停止することが多く、大きな原材料のロスと稼動損が発生することも少なくない。しかし、技術上・設備上の問題点を忍耐強く克服していけば、一定条件を与えさえすれば均質な製品をいつも安定的につくり続けることのできる工程を実現することが可能となり、製品の品質の信頼性を高めることができる。また、このような管理をすることによって、職場全体に品質意識を厳しく認識させることができ、品質意識の高い従業員が育成されてきた。  
また、品質保証体系の考え方の見直しも行ない、従来、工程の途中で行なっていた抜取検査も次第に無検査化の方向に進んでいった。  
そして、この「一定条件製造」の考え方や「無検査化」の方向は、逐次他の工場にも徹底していった。  
ちょうどこのころから足柄工場の第3フイルム工場の塗布溶解工程を最初として、コンピューターによるプロセス制御が次第に各製造工程に採り入れられてきた。これによって、製造条件をより厳しく設定することが可能となり、このコンピューターによるプロセス制御は、工程の安定化に寄与した。  
一方、IE面では、生産部門での機械化・自動化が急速に進む中で、設備とそれを取り扱う人間とをトータルな観点で考えて効率化を推進することが課題となってきた。従来の作業改善的なIEの考え方に対して、設備技術者と製造現場の関係者がチームを組んで、工程編成・マテリアルハンドリング・レイアウト・生産管理システムなど、工程全体についての効率化に取り組んできたのである。このトータルIEの考え方は、各工場の生産工程に導入され、効果をあげていった。  
また、製造現場第一線の管理者・監督者に対するIE教育を徹底して、日常の作業改善は製造部門自らの手で実施できる体制を築き上げていった。  
TPM活動の導入  
写真感光材料は、顧客が事前に品物の中味を確かめてから購入することはできない、いわば「信頼を売る」商品であり、その生産方式は典型的な装置産業である。その信頼を実現する手段の一つとして、品質を生産工程で設備によって作りこむ必要があり、設備のメンテナンスを重視してきた。そして、設備の自動化・高度化が進むにつれ、設備保全の問題はますます重要な問題となってきた。  
当初のメンテナンス体制は、故障が発生したら補修復元する、いわゆる事後保全体制であったが、1950年代初めに、まず足柄工場に予防保全(PreventiveMaintenance)制度を導入した。これは、各設備ごとにあらかじめ点検や整備の実施項目と周期を決めて標準化しておき、一定時間たつと計画的に設備停止を行ない、点検・整備を実施していくタイムベースの保全システムで、保全要員を保全部門に集中して保全業務に専念させ、製造部門は運転に専念する体制とした。これによって、保全業務の効率化や保全技術の向上が促進されるとともに、生産設備の稼動の効率化を図った。  
また、保全に関するデータをコンピューターに登録し、保全の実施時期がくると自動的に情報がアウトプットされるシステムも導入して保全管理業務の一層の効率化を実現した。  
このように、設備の予防保全体制は、保守や稼動の効率化に効果があった反面、保全は保全担当者に任せきりの風潮を生む一面があった。この問題を解決するために、設備のメンテナンスを単に一部門の問題として扱うことなく工場全体の問題として認識し、工場の全員が参加していく「全員参加の生産保全活動」、すなわちTPM(TotalProductiveMaintenance)活動が叫ばれ導入されてきた。  
また、新設備の計画時から、設計部門で故障が生じない・保全しやすい・信頼性の高い設備の設計・製作をするとともに、予防保全活動のやり方も、タイムベースの保全から、設備が正常に稼動しているときに設備の診断を行ない、故障寸前まで設備を稼動させる予知保全(PredictiveMaintenence)体制をつくりあげた。  
製造現場のオペレーターは点検や小整備など保全の技能を身につけ、日常運転している設備を自分達で主体的にメンテナンスしていく体制をつくりあげた。この結果、保全部門は高度な技術を必要とする保全業務や保全技術の研究に専念できるようになった。  
また、長い間RM活動で培ってきた土壌があり、TPM活動もRM活動と結びついて効果的に展開された。製造現場のオペレーターが身近な課題を取りあげて日常メンテナンス業務の改善に取り組む自主保全活動が盛りあがっていった。1983年(昭和58年)5月に日本プラントメンテナンス協会で発行された記念作文集で、あるオペレーターは「私達のTPM」として次のように発表している。  
「私たちの職場は女子ばかり6人で、フィルムをせん孔する作業をしています。  
数年前、TPMという言葉をはじめて聞いた時、『何のことか、何をするのか』とまったくわかりませんでした。そこで上司の人から何回も説明を聞きました。それは、TPMとはまず『自分たちの設備は自分たちの手で守る事だ』という事でした。これが基本で、自分たちがその気にならないと良い品質、故障の減少は実現しないと……。  
私たちのTPM活動は、まず機械に慣れること、それには今まで関心のなかった機械の裏側の掃除から始まりました。まず掃除の時には整備用の服を着用しました。しかし、最初はこんな事さえみんなの抵抗がありました。『こんなの着るの……ヤダー!!』となかなか思うようにはいきませんでした。でも機械掃除をしていくうちに、作業着を別にしないと製品に油がついたり、ゴミつきがでる等が心配になり『やはり作業着は変えた方が良い』という事が良くわかりました。  
今ではPM日といえば、私たちは進んで整備用の服を着るようになりました。ということは、自分なりにそれだけ機械に関心がもててきたのだと思っています。  
そこで、まず手初めとして整備の人を交え、チェーン・ベルト・グリス等の勉強から入りました。掃除の仕方・注油・始業点検等整備の人の力を借り、完全にできるようになりました。そして掃除だけではものたりず、私たちの手でチェーンやベルト交換などもやろうということになり、自分たちの機械で実践を繰り返してきました。  
その結果、今では自分たちのものになってきています。たとえば、月1回のPM日に、Vベルトのき裂を発見し、これを交換する事ができました。この時、その気になればたとえ女子でも『やればできるものだ』という事を体験の中から学びました。  
TPMは次から次へとやることがあるものだと思います。ひとつできれば、人はその上を望むもので、私たちも次はスイッチ交換、プラグ修理、テーブルタップ作り、カッター交換、電気ドリルなどの使い方もできるのではないかと誰からともなく口走るようになりました。  
そこで、また整備の人に相談したところ、みんながやる気があるのなら協力しましょうといってくれました。それからは実習・実践の繰り返しでした。  
そして今では、私たちの手でできるまでになりました。次にはヒューズ交換と簡単な電気図面を読めるようにしようと計画しています。  
作業をしていても以前は音など気にせずただ動かしていればいい、故障したら整備の人にきてもらい直してもらえばいい、という気持ちの私たちでしたが、今では『自分たちの故障は自分たちで』という気持ちで作業しているせいか、チョットした異音なども聞きわけ、故障がでる前にストップさせ、確認し、わからないところは整備の人に聞き納得して作業しています。(後略)」  
TPM活動は、今や全工場をあげての活動になり、大きな成果をあげている。  
なお、TPM活動の成果の一つとして、日本プラントエンジニア協会(現日本プラントメンテナンス協会)の「PM優秀事業場」の認定を受けることを目標としており、足柄工場が、1964年(昭和39年)、この制度発足の第1回目の表彰を受けたのを皮切りに、小田原工場は1975年(昭和50年)、富士宮工場は1977年(昭和52年)、吉田南工場も1982年(昭和57年)に、それぞれPM優秀事業場賞を受賞した。  
これらの成果のうえに、各工場とも、より一層、生産設備の効率的な稼動や生産管理体制の確立、製品品質の維持向上などを強力に推進している。  
足柄工場における“Q−UP”運動とRM活動の活発化  
1978年(昭和53年)、足柄工場では「Q−UP」運動がスタートした。「Q−UP」というのは、工場全員の意識改革をねらって、日々の仕事の見直しと、その質(Quality)を向上させていこうという運動で、具体的なテーマとして、(1)品質意識の向上(2)ムダの排除(3)会議の効率化という三つの身近なテーマを掲げた。そしてこれらのテーマを中心として、各職場ごとの具体的課題を職場のグループで話し合う、あるいはRMのテーマとして取り上げ、その話し合いやRM活動を通じて日常の仕事への取り組み方の改善を図り、そのテーマの達成を推進していった。  
この「Q−UP」運動を展開していく中で、各職場では率直な話し合いを行なって職場の中の身近な問題を発掘し、その原因を掘り下げて検討し、前向きに解決していく気運が醸成されていった。また、運動の推進の過程で、職場単位を超えた工場全体に共通する課題の解決のために、各職場を横断するチーム活動も盛りあがっていった。  
RM活動は、これまで述べてきたような「QC活動」、「TPM活動」そして「Q−UP」運動の具体的な展開に当たって大きな役割を果たしてきた。この過程を通じて、RM活動自体も次第に工場全体の活動として広がりをみせ、毎年開催されるRM大会も活発になってきた。  
最近のRM大会の事例発表の中で、次のように率直な実情を訴えた報告者もあった。  
「私たちは、あるRMに取り組む際に、メンバー全員で話し合いを持ちました。その中で、『私達の職場で今やっているRMは、本当のRMではない。いつでも上長から問題を提起され、上長のいうなりに進められて、押しつけだと感じている。そんなRM活動だから、活動中でもあまりやっているという感じはないし、そんな活動経過では、達成感や満足感を味わうことなどとうていできない。RMというのは、自分達で問題を見つけ、みんなの力で解決することだと思う。』との意見が出されました。」  
そして、この実情を反省して「自工程の問題点を解決していくためには、メンバーの人達と日ごろからかかわり合いを密にし、(中略)自分のやるべきことを認識し、自分のできることを精一杯努力し、お互いに協力し合い取り組むことが今私達がやらなければならないことだと考えます。」と、決意を述べていた。  
目標を達成したときのすがすがしさを次のように発表している例もあった。  
「本当にやって良かったという気持ちで一杯です。RMは、自主活動。(中略)だからこそ目標が達成できた時には、やりがいが生まれ、満足感が得られるのだ。この“やりがい”、“満足感”が自信につながり、さらに次の目標にチャレンジしてみようという気持ちに結びつくのだと思います。」  
また、あるRMグループのリーダーからは、  
「最初は、自分にRMリーダーが務まるか不安がありましたが、RMを進めていくうえで、色々な人々と知り合い、又、上司やグループメンバー一人一人がバックアップしてくれて、“やってよかったな”という感じです。そして、何かやっているという充実感のようなものを感じました。周りの仲間の目も輝いている感じで、課題を皆で達成することの中に、人間としてのつながりが増し、職場が明るくなるような気がします。」との喜びの言葉が語られた。  
このような反省と努力が積み重ねられて、足柄工場のRM活動は、次第に工場全員の活動として根付いていった。  
今日では、RM活動は、製造作業に直接携わる部門だけではなく、製造作業を支援する協力部門の職場でも、また、男子に負けずに女子のグループでも、身近な一つ一つの問題から具体的な課題を見出して、その解決にチャレンジしている。  
各工場のRM活動と提案活動  
足柄工場で始まったRM活動とTPM活動は、次第に各工場に広がっていった。各工場では、工場ごとの状況や課題に合わせ、独自の目標やスローガンを掲げて推進した。  
小田原工場では、1972年(昭和47年)10月のRM大会を契機として、工場全体の運動へと広がった。「まず参加みんなで出そう知恵と勇気」をスローガンとして開かれたこの大会以後、着実な工場運動として定着した。  
1977年(昭和52年)10月には、Victory(勝利)、Vitality(活力)、Vividness(活気)を合言葉に「3V運動」がスタートした。3V運動は、「従業員全員が、イキイキとした仕事と職場生活により、イキイキとした工場をつくりあげ、それを通じて世界に冠たる商品を送り出す」ことを目標とするTQC活動であった。具体的には、  
1.部・課・係・班ごとにそれぞれの課題を明確にするなど、各グループの組織活性化(タテの展開)  
2.化成品、光学ガラス、磁気記録材料、PS版という四つの事業の中でそれぞれ機能別の小グループを編成し、各部門に共通する諸問題や職場の課題解決に取り組む小集団活動の活発化(ヨコの展開)  
3.工場全体の整理整頓、仲間やお客様にあいさつを工場全体で実行する  
というものであった。  
3V運動の推進によって、小田原工場では、部門ごとの課題や目標がはっきりし、また、従来ともすれば没交渉であった部門間に親近感が生まれ、協力体制が強化された。また、RM活動も工場全体の活動へと広がっていった。  
富士宮工場では、1972年(昭和47年)5月、第1回RM大会を開催した。キャッチフレーズは「輪から輪へ」、すなわち、同工場既存の紙事業と、新しく稼動を開始したX−レイフィルム事業との調和を図り、輪を一回り大きくしていこうということを工場全体のRM活動の一環として位置づけしようとするものであった。  
次いで1976年(昭和51年)9月、TPM−RM活動をスタートさせた。第1次オイルショック以後の低成長期の中で「現有設備の高稼動化」が強く意識され、テーマも「稼動アップ」「ロス減少」「技能レベルアップ」と極めて具体的に取りあげられ、課題中心型のRMへの進展をみた。さらに、1979年(昭和54年)6月には「世界市場で競争できる品質・コスト」を実現させるため、FTC活動(富士宮ファミリー・ターゲット・チャレンジ活動)をスタートさせた。これは、TPM−RM活動で定着した課題中心型RMをさらに「少ないメンバー」で「より高い目標」「より早い納期」を目指すものにレベルアップさせたものであった。  
また、吉田南工場では、1978年(昭和53年)5月、全工場あげて「スクラム400」がスタートした。これは、同工場400人の従業員がスクラムを組んで、「コストダウンと活力ある吉田南工場への変身」という目標に向かって、「今までのやり方を超えた行動を起こすこと」を目指す運動で、全員参加、小集団活動、新しい見方・考え方を基本として「みんなで見直そう」という「MM運動」として展開した。  
さらに、吉田南工場では、1980年(昭和55年)1月から新たに「スクラム’80」をスタートさせた。「スクラム’80」は、「スクラム400」の成果のうえに立って、世界一のPS版工場を目指して発展するための礎を築き上げる運動で、「工場全体を活性化しよう」「一人一人が成長しよう」を合言葉として、全工場運動として推進していった。  
一方、提案活動も年を追うごとに活発化してきた。各工場ともTPM活動やRM活動の活発化によって、職場において、一人一人の仕事に取り組む意識が向上し、従来以上に問題の本質をつかむようになってきた結果、各職場における提案活動への取り組みもまたおう盛になった。  
各自が自分自身の発想を育てるのはもちろんのこと、職場全体でブレーンストーミングを行ないながら、さらに発想の枠を広げ、そこから優れた提案が生まれてきた。  
活発な提案によって、生産性向上と品質の改善、コストダウンといった直接的な効果はもちろん、常に改善を考えながら仕事を進めるという姿勢が醸成された。また、職場における改善事項の話し合いを通じて、職場内のコミュニケーションの良化が図られ、互いに協力し合う職場体質が作り上げられてきた効果も大きかった。  
特に、最近では、職場の課題を一人一人の課題にブレークダウンし、その課題を解決するために多くの提案を出し合って成果を生み出すという活動が各工場で展開されつつある。  
提案内容の充実とともに提案件数も増加し、1983年(昭和58年)には全社の提案件数は、年間10万件を超え、10年前の10倍以上の件数を数えるまでになった。  
技術・技能開発の充実  
1958年(昭和33年)7月、足柄工場に中学卒業の新入社員を対象に3か年の技能訓練を目的として技能者教習所を設立した。同教習所は、その後1962年(昭37年)4月、職業訓練法に基づく高等職業訓練校としての認定を受けた。  
その後、高校進学率の高まりによって中学卒業者の採用が難しくなったのに伴い、1974年(昭和49年)3月をもって、高等職業訓練校としての役割を終了した。  
この間、1972年(昭和47年)9月、生産技術革新の高度化に対応するため、機械設備に関する技能向上と現場作業者の技能適応力の開発・向上・再訓練の機関として、技能開発センターを設置した。  
同センターには設備技能訓練科を設け、同年11月には足柄工場製造現場のオペレーターの再訓練を開始し、以後、全工場を対象として、加工部門のオペレーターにも対象を広げた。また、1974年(昭和49年)4月から工業高校卒業者対象の1年間の技能研修も開講した。  
1976年(昭和51年)3月、技術技能研修の進展と一層の充実のために、新たに鉄筋コンクリート3階建の建物と教育設備を新設、名称も技術研修センターと改めた。教育環境の一新に伴って研修内容も拡充し、単に当社だけでなく、関係会社の従業員も含めて、写真・化学・制御・コンピューター・機械工作などの専門技術研修、製造・加工オペレーターの設備保全・故障対策を目的としたTPM研修、機器サービスエンジニア研修など、多方面にわたる研修の場として、技術・技能レベルの向上に大きな役割を果たしている。  
なお、同センターは、1982年(昭和57年)11月、名称を技術研修所に変更、一層内容の充実に努めている。  
安全活動の徹底  
当社の生産活動は、写真感光材料の製造からくる暗室作業を伴う職場環境が多く、従業員の安全衛生については、創業当初から特に意を用いてきた。戦後は、製品の多様化や設備の大型化・スピードアップ・自動化などに対応して、各工場とも、工場長が率先して安全対策の検討に取り組み、作業環境の改善や安全施設の整備、安全上の諸対策の徹底に努め、安全教育活動に力を注いできた。  
職場の安全衛生は、各職場における日常の安全点検や安全教育はもちろんのこと、従業員自身が、安全とは与えられるものではなく、自らがつくり出すものだとの意識に立つことが何よりも大切である。そのため、安全衛生についても、一人一人の努力で積極的に安全活動を工夫・実施してきた。RM活動を中心として職場全員で考え合うKYT(危険予知訓練)や各工場における安全大会の開催など、多くの安全活動を展開した。  
これらの活動の成果として、各工場とも労働災害休業日数は大幅に減少した。このうち、足柄工場の成果を労働省表彰の無災害記録時間の最近の達成状況で示すと下表のとおりで、第4種無災害記録は、写真感光材料製造業としての無災害最長新記録でもある。
経営効率化の一層の推進 / コンピューターの高度活用と物流合理化
1970年代に入り、これまでより一層、経営の効率化によるコストの低減が強く求められる。社内情報処理システムの統合を進め、管理のルーツとしてコンピューターの高度活用を図り、計画面や情報検索面など、各種業務をコンピュータ化し業務効率を上げる。これに伴い、コンピューターの運用システムを大幅に整備し、コンピューターの容量も逐次増強する。一方、製品の保管・配送など物流業務の合理化・効率化のため、物流管理部門を設け、物流業務専門会社として富士産業株式会社を発足させ、小田原流通センターや輸出流通センターを設置し、生産・販売・物流のトータルシステムの整備を進めていく。
コンピューター活用の推進  
1970年(昭和45年)8月、社内情報処理システムの統合を目的として、東京本社と足柄工場の2か所に分かれていた電子計算機部門を統合し電子計算部を発足させた。これによって、東京本社の電子計算機部門は本社・営業関係を、足柄工場に所在する電子計算機部門は生産・研究関係を、それぞれ担当することとし、機能を明確にして全社的なコンピューターの活用を一元化した。  
1970年代前半、東京本社では、一般管理費集計や全社給与計算のほか、カメラの修理状況などを集計整理する光機製品品質情報システム、製品の出荷データなどを集計する特約店情報収集システム、原料資材・工事・広告宣伝費などの発注・受け入れ・支払い業務を一貫して集中的に管理する購買オンラインシステム、富士フイルムグループ年金計算システム、関係会社販売在庫管理オンラインシステムなどを実施に移し、コンピューターの活用は年とともに大幅に進んだ。  
足柄工場では、標準原価計算・半期・月度生産計画システム・生産情報オンラインシステム・実績原価計算システムなどを、小田原工場および富士宮工場は原材料受け払いシステムをそれぞれ実施に移した。  
また、東京本社のIBM370/158と足柄工場のOUK9700の異機種のコンピューターを結ぶオンラインも1976年(昭和51年)から稼動し、一段と効率化が進んだ。  
1970年代後半に入ると、さらにコンピューター活用のテンポアップと内容の充実を図り、精力的に業務の効率化を進めた。  
東京本社では、製品オンラインシステムを拡充し、会計の実績データをすべてコンピューターで処理するオンラインシステムが完成した。  
この間、コンピューターの大型化とパフォーマンスの向上により、一台のコンピューターで複数の業務を同時並行的に処理することが可能となったが、コンピューターオペレーターの複数業務処理の同時監視という負担増の問題に対しては「自動オペレーションシステム」(AUTO)を開発して対応した。  
一方、工場では、足柄工場で第2次生産情報オンラインシステム、富士宮工場をはじめ各工場に展開した工場部門保全システム、吉田南工場生産情報オンラインシステムが、それぞれスタートし、小田原工場磁気記録材料部門の生産情報オンラインシステムもスタートし、同部門の原価計算システムもコンピューター化された。また、研究用の作業指示オンラインシステムも1977年(昭和52年)から稼動、コンピューター活用の領域が研究面にも展開していった。  
1978年(昭和53年)には、実績面でのコンピューター活用に加えて計画面での活用を図った「総合予算編成システム」(FBPS)が完成。足柄・小田原・富士宮の各工場に加えて、1980年(昭和55年)には吉田南工場へも適用され、全社共通の予算編成システムとして稼動している。また、コンピューターの検索機能やレポーティング機能を生かして、人事情報検索、国内特許出願管理や輸出ドキュメント作成業務のオンラインシステムが相次いで完成した。  
電子計算機部門での部内運用面では、データ入力方法としてカードレスシステムを開発し、使用を開始した。  
1979年(昭和54年)には、足柄工場のコンピューターOUK9700を東京本社のIBM370とソフトの互換性がある富士通M160への切り換えを完了、以後、一方で開発したソフトが双方で使用できるようになり、電子計算機部門の生産性が大幅に向上した。さらに、東京本社のコンピューターをIBM3032に能力アップ、周辺機器としてはゼロックス9700高速プリンターやFUJICOMSYSTEMFUJIFILM5000を設置し、アウトプットレポートの合理化を図った。  
研究部門でもコンピューターの利用領域が広がり、「特許情報検索システム」(ITPAIS検索システムのコンピューター処理)が1980年(昭和55年)に完成した。  
この年、足柄工場では製造工程をすべて網羅した一貫生産情報オンラインシステムが完成した。また、全国での販売実績を即日集計する販売実績日報および月度実績速報システムも完成、稼動を開始した。  
物流合理化の推進  
写真感光材料という有効期限の定められている商品を生産・販売しているので、その保管・管理については、創業当初から常に慎重な注意を払ってきた。1964年(昭和39年)、時代の先端を切って製品オンラインシステムを開発し、製品在庫管理にコンピューターを活用したのも、まさにその現われである。  
その後、事業規模の拡大に伴って物流業務が増加する中で、より一層の効率化を図るため、1971年(昭和46年)から、たかね商事株式会社に、新たに物流業務を担当させることとした。同社は1963年(昭和38年)3月に設立され、従来、東京本社従業員に対する福祉業務を担当していたが、製品の保管・荷役・運送などの物流業務全般を担当する物流業務専門会社として新発足し、翌1972年(昭和47年)2月には富士産業株式会社と改称した。  
また、全社的な見地に立って、流通コストのより一層の効率化を図るためにプロジェクトチームを編成し、物流システムの将来構想の検討を進め、1974年(昭和49年)7月、物流管理部を新設し、物流管理組織の一元化を図った。1977年(昭和52年)7月には足柄・小田原両工場の製品倉庫管理業務を集約・一本化し、小田原流通センターとして発足させ、ここで全社の輸出製品も集中管理することとした。  
1980年代に入って、低成長時代を迎え、物流コストの合理化がますます重要な課題となってきた。生産・販売・物流のトータルシステムを整備して在庫削減の具体策に取り組むとともに、販売物流の面でも、関係会社や特約店も含めて、物流の効率化を進めた。さらに、1982年(昭和57年)12月には横浜地区に輸出流通センターを設け、ここに輸出倉庫機能を集中し、今後の輸出拡大に対応し得る効率的な物流体制を整備した。
無公害企業へのチャレンジ
1960年代から1970年代にかけて、日本経済の高度成長に伴って、排水や排煙などへの規制が強化される。多品種かつ膨大な数の化学物質を開発し使用している当社は、その取り扱いに慎重を期し、特に、公害の防止、よりよい環境をつくり出すことを目指して、公害防止体制を強化する。単に法的規制を守るだけでなく、無公害企業を目指して工場廃水の完全無公害処理や大気汚染防止対策などを積極的に推進し、製品に有害物質が含まれることを排除し、化学物質の安全性確保システムを確立する。また、カラー現像所における廃水処理システムの確立を図るなど、製造から市場における写真処理段階まで、各分野で着実に対策を進める。
環境改善対策要綱の制定と環境改善推進体制の整備  
1950年代後半から1960年代にかけて、日本経済の高度成長とわが国産業の重化学工業化が進むにつれて、そのひずみとして、大気汚染や水質汚濁の問題が深刻な社会問題となり、各企業はこの問題への対応を鋭く迫られるようになってきた。  
これら環境問題に対する認識の高まりは各方面で著しく、排水規制・ばい煙排出規制など、法的規制も次第に明確化され、1967年(昭和42年)8月には公害対策基本法が制定された。この基本法に基づく各種公害規制法令は、公害防止に対する事業者の責任など公害防止の基本を定めるとともに、工場排煙や排水あるいは騒音・悪臭などについて厳しい規制基準を設け、事業者に一定期間内にその基準を達成することを義務づけた。また、都道府県など地方公共団体では、地域の実情に合わせて国の基準を上回る規制値を定め、その遵守を求めるところも現われた。  
化学メーカーとして製造工程や製品に多種多様の化学物質を使用しており、その取り扱いについては慎重を期してきた。  
なかでも、足柄工場では、とりわけ工場廃水の取り扱いに注意し、建設以来、工場内の全廃水を一度沈殿池にプールし、各種の処理を施してから工場外に排出するなど対策をとってきた。それでも、1958年(昭和33年)6月、有害物質が工場外に流出するという事故があり、このため、さらに工場廃水処理施設の改善と管理体制の強化を図った。  
そして、その徹底のため、足柄工場では1965年(昭和40年)4月に公害防止対策委員会を設置し、公害防止関係の諸基準および手続きの制定作業を進めるとともに、1968年(昭和43年)10月には廃水対策推進チームを、翌年2月には一般公害対策推進チームを、それぞれ発足させて、公害対策の充実を目指した。また、1970年(昭和45年)10月には、工場内の対策を一元的に推進するため環境管理担当部門を新設した。  
また、翌1971年(昭和46年)9月に富士宮工場に、同じく12月に小田原工場に、それぞれ環境管理担当部門を設けて、自工場の環境改善対策の立案と推進に当たることとした。  
このように、当面の対策と長期的な環境保全に関する対応を工場を中心として検討してきたが、公害対策の重要性にかんがみ、これを全社的重要課題として取りあげなければならないとの認識にたって、1970年(昭和45年)9月に、社長通達をもって全社的な対策の徹底を指示した。これを具体化するため、同年11月に「全社環境改善対策要綱」を制定し、全社環境改善委員会を発足させた。また、翌1971年(昭和46年)12月には、本社に環境管理部を設置して環境改善対策の全社的な推進に当たることとした。  
こうして、公害防止についても、単に法的規制を守るという受け身の姿勢ではなく、無公害企業を目指して前向きに取り組んでいった。  
各工場の具体的対策  
当社の足柄・小田原・富士宮・吉田南各工場では、それぞれ、その製品の製造工程・処理方法などについて、公害対策面からきめ細かく現状の洗い直しと対策の推進を図っていった。とりわけ廃水処理は、最も留意したところで、各工場とも活性汚泥処理設備を整備して万全を期した。  
足柄工場では、廃水処理については早くから対策が進んでいたが、さらに対策を徹底するため、1970年(昭和45年)4月からは、活性汚泥法で有機物質を取り除いたあと、pHやCOD(化学的酸素要求量)を測定し、安全性を確認してから放流するように改めた。さらに、1973年(昭和48年)には、加圧浮上装置・砂ろ過装置・オゾン処理装置を導入し、総合廃水処理設備を完成。同時に、工場東側に調整池を増設して一般廃水および活性汚泥処理水を一時的に貯留し、そこに多数の錦鯉を放って安全性を確認したうえで構外に排出するようにした。この調整池は日本庭園風につくられ、何万尾という色とりどりの錦鯉が泳ぎ「錦鯉遊園」と名付けられて、工場見学者や従業員などの目を楽しませている。また、ボイラーの排煙対策などについても有効な対策を実施した。  
小田原工場でも、各種の環境対策を推進した。当工場は小田原市のほぼ中心に位置し、環境問題についても、市街地に立地しているという事情から、特に、広範囲に慎重な対応が求められた。そのうえ、当工場は、当時、硝酸銀をはじめとする各種写真薬品やカプラーなど合成薬品・光学ガラス・磁気記録材料・PS版など多品種の製品を生産しており、それぞれの部門によって廃水の水質も異なるので、公害対策にしても部門ごとにその生産工程にマッチした対策を推進しなければならなかった。活性汚泥処理設備も1972年(昭和47年)から稼動を開始し、廃水対策に万全を期した。  
富士宮工場でも、積極的な対策を進めた。当工場では、原紙の抄紙とバライタ紙・感圧紙・X−レイフィルムの製造を行なっており、特に抄紙工程で使用する大量の水と残しの処理ならびにボイラーの排煙などが問題であった。  
富士宮工場は、1970年(昭和45年)2月、富士宮市との間に同市としては第1号の「公害防止協定」を結んだ。工場廃水については、処理施設を整備し、凝集沈殿したあと固形分を分離焼却するようにした。排煙についても、1974年(昭和49年)10月排煙脱硫装置を完成するなど、設備投資の面でも環境改善を重視し、公害防止を推進した。なお、同工場の活性汚泥処理装置も、1972年(昭和47年)から稼動している。  
吉田南工場は、1974年(昭和49年)2月、本稼動に入ったが、取水・排水について、工場建設に際しての地域社会との約束もあり、建設当初から万全を期した対策を実施した。活性汚泥処理設備も、工場本稼働の当初から運転されている。  
このようにして、当社は各工場ごとに、その地域社会に密着したきめ細かい環境対策を実施してきたが、いずれも、公害規制値をクリアーし、かつ、それよりさらに一段と厳しい社内管理値を設けて環境管理の充実・強化を図っている。  
製品の無公害化とカラーラボなどのユーザー対策  
写真感光材料の製造および市場における写真の処理には、数多くの薬品が用いられる関係上、それらの中には公害の原因となる可能性をもった物質も含まれており、ごく微量ながら一部の製品に使用されていたカドミウムや処理薬品中の赤血塩(鉄とシアンの化合物)といった物質の取り扱いが問題となった。  
このカドミウムと赤血塩については、それらが用いられている製品や処理薬品の品質・性能を落とさずに代替品を見つけ出さなければならず、多くの困難を伴った。1972年(昭和47年)から、カドミウムについては、これを除去した新製品の出荷を開始し、逐次切り換えを進めて、これを完成させる一方、赤血塩についても代替処理薬品の切り換えを進めた。  
一方、市場におけるカラーフィルムやカラー印画紙の現像処理段階でも、活性汚泥処理方式の導入による廃水の無公害対策を進め、廃液回収業者による回収処理と合わせて、廃水処理体制を確立してきた。この廃液回収業者による回収処理は、「写真廃液処理システム」として、現像所・テレビ局・新聞社・印刷会社など、それぞれに応じたシステムを開発して、ほとんどすべてのユーザー層をカバーしていった。  
このほか、製品面では“感圧紙”の染料溶解オイル問題があった。当初、ノーカーボン紙染料溶解オイルにごく微量使用されていたPCBについて、その後有害性が指摘されたため、当社ではいち早く代替品の開発を進めた。そして、1971年(昭和46年)からは、PCBを一切使用しない新製品に切り換えた。また、それ以前に製造された旧製品については、すべて回収し、業界で社団法人旧ノーカーボン紙協会を設立して、無公害処理についての調査・対策を進めている。  
廃棄物対策と資源の再生化  
このようにして、当社の公害対策は、製造から市場における写真処理段階にまで及び、それぞれの分野で対策を講じていった。さらに、廃棄物の無公害処理化や資源の再生についても着実に対策を進めた。  
全国のフジカラー系列ラボでは膨大な量の廃プラスチックケースや廃パトローネが発生するが、このうち地元で処理できないものについては、当社指定処理場でこれを受け入れて原料として再生させる「産業廃棄物回収システム」を1974年(昭和49年)から発足させた。また、映画・テレビ関係現像所、カラーラボ・マイクロラボ、X−レイ業界および印刷業界などの廃定着液から銀を回収する「銀リサイクルシステム」を1980年(昭和55年)に全国的に組織化し、貴重資源の回収体制を整えた。  
化学物質の安全性確保  
当社の柱となる技術の一つは、いうまでもなくファインケミカル技術であり、これまでに開発してきた化学物質はおびただしい数にのぼる。これに伴って、これらの素材である化学物質の安全性を確保することは、研究・開発、製造段階における従業員や環境に対して、また、市場の使用段階におけるユーザーに対して、メーカーとしての最も重要な責務であり、当社も、その対応策を着実に進めてきた。  
1974年(昭和49年)4月化学物質審査規制法が施行され、また、1977年(昭和52年)7月の労働安全衛生法改正もあり、新規化学物質については製造前に安全性試験を実施し所管官庁に届出をすることになった。これに対応して、1974年(昭和49年)12月、素材安全性試験室を新設し、必要な安全性試験を開始した。  
また、新素材の開発から商品化までの各段階において、安全性を確認し、有害物質を排除するために「化学物質新規導入確認システム」を整備定着させた。さらに、現用されている千数百種に及ぶ化学物質についてそれぞれ「化学物質障害予防データシート」を完備し、研究・製造現場における従業員の安全指標として活用している。  
さらに、ユーザーに対しては、誤用その他の事故についての処置照会に即応できるよう「緊急応答体制」を整備し、ユーザーの安全確保への努力を続けている。  
有機溶剤健康障害予防システム  
有機溶剤使用職場での従業員の安全衛生対策については、当社は法規基準以上の安全対策を講じている。特に、有機溶剤の低濃度長期間ばく露による健康障害の予防については、使用している全有機溶剤について、より実態に即した自主的予防対策として「作業環境測定」を行ない、その結果を分析して、問題があれば作業環境を改善するための施策を講じた。さらに、1983年(昭和58年)から「健康診断」「個人の作業履歴」を長期にわたって積み重ね、三者を総合的に考察して対策をとってゆくシステムを実施している。
“シルバーショック”当社を襲う / コスト低減の徹底追求

第1次石油危機をようやく克服したわが国は、1979年(昭和54年)、第2次石油危機に直面する。そして、同年秋には、当社にとって、より一層大きな影響を受ける事態が発生する。すなわち、銀価格の異常な暴騰がそれであり、1980年(昭和55年)1月には、1kg当たり最高34万円台をマークする。コストの中で銀価格が大きなウエートを占めている写真感光材料メーカーにとっては、その存立を脅かされかねない“シルバーショック”と称すべき重大事態となる。こうした厳しい経営環境の中で、写真感光材料製品の省銀化をはじめ、全社を挙げて、さらに徹底したトータルコストダウン作戦を展開していく。
第2次石油危機と銀価格の暴騰  
1973年(昭和48年)10月に発生した第1次石油危機に伴う燃料や原材料の価格上昇に対して、省エネルギー・省資源をはじめとする総合的な対策で可能なかぎり吸収し、同時に、新製品の導入や販売努力などによって乗り切ってきた。しかし、1977年(昭和52年)からは、さらに急激な円高という経営環境の激変に直面し、1979年(昭和54年)には第2次石油危機を迎えた。  
第1次石油危機後1ドル300円前後をつけていた円相場は、1977年(昭和52年)以後、急激に上昇し、1978年(昭和53年)10月には1ドル175円50銭と市場最高値を記録した。  
円相場は、その後修正の動きが出て200円台に戻ったが、1979年(昭和54年)には、今度は原油価格および銀価格の暴騰という当社の経営を根底から揺るがす一大ショックに襲われた。  
原油価格の高騰は、石油関連製品の価格高騰をもたらし、当社もまた、強い影響をこうむらざるを得なかった。第1次石油危機の時にもまして、さらに徹底した省エネルギー・省資源あるいは代替品の開発などを進め、その対応策を講じていった。しかし、原油価格や石油化学製品の価格高騰に加えて当社により一層大きな影響を与えたのが、銀価格の異常な暴騰であった。  
石油や金の価格の急騰に比べて、銀価格の暴騰は、世間ではあまり知られていなかったが、銀を主原料とし、コストの中で銀価格が極めて大きなウエイトを占めている写真感光材料メーカーにとっては、まさに“シルバーショック”と称すべき重大事態であった。  
すなわち、第1次石油危機に伴って、銀価格は、それまでの1kg当たり1万円台から、1974年(昭和49年)3月には、5万7、000円台にまで急騰した。その後騰落を繰り返しながら、1978年(昭和53年)には、円高も加わって、一時は3万4、000円台まで下落した。しかし、イランの政変や原油価格の上昇に伴って、銀価格は再び上向きに転じ、国内建値は、1979年(昭和54年)5月の5万9、000円から半年間で2倍以上に高騰し、10月下旬には13万円台となった。その後、米国での投機も加わって、年末にかけて上昇一途となり、1980年(昭和55年)の新年は、天井知らずに上昇する銀価格に振り回され、いつ価格上昇が止まるのか見通しの立たない不安とその対策に目まぐるしく追われる多忙の中で迎えた。銀購入価格のあまりの高騰に運転資金にも大きな影響が見込まれ、一時的ではあったが、銀行借入に奔走した時期もあった。1月18日にはニューヨーク市場で瞬間最高値1オンス50ドル超を記録、1月第3旬の国内建値も1kg当たり34万6、000円と史上最高値をつけた。1978年(昭和53年)の円高による安値時に比較すると、わずか2年間でちょうど10倍に上昇したことになり、写真感光材料製品はおしなべて大幅な採算割れとなった。  
製品の単位面積当たり銀の使用量の多いX−レイフィルムの場合は、製品の原価中の銀価格だけですら販売価格を上回るという事態となり、生産すればするほど赤字が増える事態となった。しかし、X−レイフィルムの社会的役割の重要性から、生産量の維持に懸命の努力を払い、円滑な供給を図った。  
この銀価格の暴騰に加えて諸原材料価格の大幅な上昇は、当社にとっては、その存立を脅かされかねないショッキングな事態であった。  
諸原材料価格のアップ分については、これまで、極力コストダウンなどの企業努力で吸収を図ってきた。しかし、このような大幅な銀価格の高騰は、企業努力だけではとうてい吸収しきれないので、やむを得ず一部製品価格の改訂を行なった。しかしながら、コストアップ分を価格改訂だけでカバーすることは到底不可能で、全般に採算が悪化する中で、より徹底した経費節減や抜本的なコスト引き下げ対策の促進を迫られたのであった。  
幸い、銀価格は、1980年(昭和55年)1月末をピークとして反落に転じ、同年5月上旬には国内建値1kg当たり11万5、400円になった。この銀価格の反落に伴い、同年5月から7月にかけて、先行きなお見通しの難しい情勢ではあったが、緊急値上げした製品の価格修正を実施した。その後、銀価格は再び反騰し、同年9月には15万円を記録した。以後は徐々に低下し、1981年(昭和56年)1月には10万円前後にまでなったものの、なおシルバーショック発生前の2倍以上の価格水準であった。  
さらに強力なコストダウン活動の展開  
第1次石油危機の峠を越えた1976年度(昭和51年度)を迎えるに当たって、その年度の経営基本方針として、(1)研究開発力の強化による自己技術の確立(2)マネジメントの刷新による活力ある職場環境の育成とならんで(3)として、“国際競争力のある品質・コストの実現”を特に掲げた。このテーマは、従来からも重要項目として絶えず取り上げてきた課題であったが、第1次石油危機で体験した厳しい環境を直視して、この際さらに強力に推進することとしたものである。「当社の今後の成長力と収益力を確保する原動力は、国際競争力のある品質およびコストの実現にある。研究開発力の強化によって、ユーザーメリットの高い高品質商品の開発を推進するとともに、営業・研究・生産部門のみならず、本社を含めた全部門が英知を結集し、経営コスト全体の引き下げに最大限の努力を傾注する」ことを社長から全社に指示した。そして、その具体的内容として、(1)販売力の強化による市場開拓と生産効率化によるコストダウンの推進(2)量販・量産に依存しないコストダウンの強力な推進を掲げ、この基本方針のもと、幅広く、きめ細かくコスト削減対策に取り組んでいった。  
続いて、1979年(昭和54年)1月には、第2次オイルショックと円高に対して、むしろ積極的にこれに立ち向かうべく、全社をあげて挑戦するコストダウン活動を強力に展開した。研究・生産・営業・物流・本社・購買……それぞれの部門によって活動の重点項目は多岐多様にわたった。各部門は、自ら実施し得るコストダウン対策を検討し実行に移すとともに、それぞれの関連部門が協力し合って、全社的なコストダウンを実現していった。  
銀については、写真感光材料製品中の使用銀量の低減が最も効果的なコストダウンの方法であり、特に製品中の含有銀量の多いX−レイフィルムの省銀化を中心として、強力に技術開発を促進した。  
言うまでもなく、工場の生産工程におけるコストダウンの追求は、常時精力的に行なわれており、その成果も積み重ねられている。特に、第1次石油危機を契機として、各工場は、それぞれ具体的な目標を掲げてコストダウンに挑戦した。小集団活動のテーマとしても重点的に取りあげられ、積極的な活動が展開された。  
足柄工場では、職場のRM活動の目標として、できるだけ具体的なテーマを定め、それに向けて職場の全員が取り組むと同時に、関連する工程を受け持つ職場にも協力を求めて互いに意見を出し合って問題解決を図るなど、従来にもまして積極的に目標達成に努めた。また、富士宮工場でも具体的な目標を掲げてテーマに挑戦し、多くの改善策を実施に移して、品質の向上とコストダウンを実現していった。このほか、小田原工場・吉田南工場でも同様に、精力的にコストダウン活動を展開し、それぞれ成果を生んでいった。  
このようにして、写真感光材料製品の省銀化などの直接的な対策や各工場生産工程あるいは間接部門など、全社をあげてのコストダウン活動の展開、そして一部製品価格の改訂などによって、シルバーショックを可能なかぎり吸収あるいは軽減してきた。
1980年代を迎えて
1980年(昭和55年)1月、1980年代の幕開けを迎えて、新しいCIマークを制定し、企業イメージの一新を図って新たな出発をする。そして、“不確実性の時代”あるいは“乱気流の時代”といわれる1980年代に向かい、同年5月30日、平田社長が会長に、大西専務が社長に就任する。大西新社長は“世界の富士フイルム”、“技術の富士フイルム”を目指すことこそ当社発展の道であることを強く訴え、同年10月、全社運動“Vision-50”のキックオフ宣言を行なう。創立50周年を迎える1984年度(昭和59年度)のあるべき姿を描き、これを実現するための具体的目標を掲げた“Vision-50”は、全社的な運動として大きな高まりをみせ、目標実現に向かって力強く進んでいく。
CIマークの制定  
1980年(昭和55年)1月、新しいCIマークを制定し、社内はもとより、広く世界に向かって企業イメージの一新を図った。  
CI(CorporateIdentityの略)とは、企業が自らの意志でそのあり方を確立し、それを、計画的・統一的に社会の人びとに伝えるということであり、よりよい企業イメージの確立に向けて、統一的に使用するCIマークを制定することとした。  
当社のマークは、従来、赤いだ円の中に“富士フイルム”あるいは“FUJIFILM”の文字を白抜きしたものが主に用いられてきた。しかし、日本国内はともかく、海外市場では当社の独自性を示すマークとしての認知は得にくかった。また、FUJIFILMのマークは、フィルムのイメージが強く、そのため、磁気記録材料・感圧紙・カメラ・機器製品など、フィルム以外の製品のマークとしては、そぐわない点も多かった。  
一方、社章・社旗、あるいは名刺・封筒などには、創立以来の社章である「富士山にFujiの文字をデザインした丸いマーク」を使用してきた。また、富士フイルムグループ各社の社章・ブランドマークも、個々に設定されており、まちまちであった。  
このように社内外で使われるマークが幾種類もあることからくる不統一をなくし、当社の事業活動をさらにワールドワイドに展開していくため、企業イメージあるいは企業のパーソナリティーを統一的に、かつ、明確に訴求する新しいCIマークを制定する必要があった。  
CIマークのデザイン制作に当たっては、次の3点を基本とした。  
(1)国際企業にふさわしい国際性のあるマークであること  
(2)総合映像情報機材メーカーとして、幅広い分野で活躍しているイメージのあるマークであること  
(3)成長する企業にふさわしい力強さと開発力を感じさせるマークであること  
このようなポリシーのもとに、CIデザインシステムの検討が進められ、1979年(昭和54年)4月、新しいCIマークおよびグリーンを基調としたデザインシステムの基本方針を決定した。引き続いて、CIマニュアルの作成や商標の登録手続きなど、具体的な作業を進めた。  
こうして、1980年(昭和55年)1月、新しいCIマークを制定し、新CIマーク制定を機に統一されたマークのもと、社内のあらゆる活動を全社的な見地に立って見直し、より一層業務の効率化を進めることとした。社員章・各種製品パッケージ・広告宣伝・事務用品の新CIデザインへの切り換えを進めていった。しかし、新CIマークの社外に向けての本格的なPRは、折悪しく“シルバーショック”のまっただ中でもあり、異常に高騰した銀価格が落着きをとり戻した7月から開始した。  
新聞では、全国有力紙の1ぺージ全面にCIマークを中心とした企業イメージ広告を掲載し、総合映像情報機材メーカーとして、幅広い分野で日々の生活と明るい社会をつくるのに役立っている当社の企業イメージを強く訴えるとともに、すべてのテレビCM・屋外広告ネオン・小売店の店頭看板・セールスカー・物流車両からバレーボールチームのユニホームにいたるまで、新CIマークと新しいデザインにそれぞれ切り換えていった。また、社内では、構内の各種表示板や作業衣・ヘルメットなど、あらゆるものを新CIマークにしてその周知徹底を図り、さらに、富士フイルムグループの各社についても同一形状の社章に統一し、グループの連帯感を高めるとともに、一体となって新CIマークの普及・徹底を進めた。  
また「CI」についての理解を深めるため、1983年(昭和58年)1月、CI制定3周年を記念して、富士フイルムグループに働く全員に対し、CIの主旨に基づき、それぞれの持ち場で、どう考え、どう行動していくかを問う作文募集を行ない、意識高揚を図った。  
平田九州男会長に、大西實社長に就任  
1980年(昭和55年)5月30日、取締役会で、社長平田九州男は代表取締役会長に選ばれ、新社長には専務取締役大西實が就任した。  
平田会長は、1971年(昭和46年)、写真感光材料の輸入が完全に自由化された直後に社長に就任し、以来、ドルショック・オイルショック・シルバーショックという経営環境の激変の中で、世界市場の開拓と企業体質の転換を強力に推進し、当社を“世界の富士フイルム”として世界に通用する国際企業に育てあげてきた。  
社長に就任した大西實は、1925年(大正14年)生まれで当年55歳。1948年(昭和23年)当社入社、福岡出張所長・ニューヨーク事務所長・輸出部長を歴任し、1972年(昭和47年)取締役に選任された。その後、1976年(昭和51年)常務取締役に就任、海外事業本部長・営業第一本部長を委嘱され、1979年(昭和54年)5月専務取締役に就任。国際化が一層進展する1980年代を迎えて、ここに社長に就任したのである。  
大西新社長は、その就任に当たり次のように呼びかけた。  
「私どもが直面している1980年代については“不確実性の時代”あるいは“乱気流の時代”というような言葉がよく使われておりますが、まさにそのとおりで、現在の世界の政治・経済あるいは社会一般の動向は、過去からの連続では想定できない、あるいは予測しえないような不透明かつ不安定な状況の中にあり、今後もこのような状態が続いていくものと考えられます。  
私どもの企業を取り巻く昨年来の環境の推移においても、原油価格の不断の高騰と量的な不安定、これに由来する諸原材料やエネルギー価格の急騰、特に主原料たる銀価格の異常なアップダウン、為替相場の大幅な上下や金利のアップなど、あるいはまた、経済成長率の鈍化・財政の硬直化・欧米景気のスローダウン・欧米との貿易摩擦などからくる諸影響、さらには消費者動向の変化や他産業分野からの映像情報産業への参入などなど、文字どおり狂らん怒とうの時期に直面していると申せましょう。  
このような環境の中で、積極的な企業戦略を展開して80年代を勝ち抜いてゆくために、私ども富士フイルムとしては、次の八つの課題に取り組んでゆくことが必要と考えております。」  
大西社長はそう述べて、次の八つの課題をあげている。  
(1)世界的視野にたった国際市場戦略の展開  
(2)写真需要の拡大  
(3)新事業分野への進出のための企画と開発の推進  
(4)複合商品、複合システムの開発  
(5)節銀・省銀製品とシステムの開発  
(6)全社的な業務効率化の推進  
(7)マーケティング組織の強化と効率化  
(8)企業体質の転換  
そして、これら八つの課題の根幹として、(1)活力と創造力の活用(2)技術革新の推進(3)クリエイティブなマーケティングの展開の三つをあげ、全社一丸となって新しい発展に立ち向かうよう呼びかけた。  
大西新社長は、このような基本方針のもとに、積極的な経営施策を次々に打ち出していった。  
“Vision−50”の展開  
銀価格の異常な高騰が世界の写真業界をゆるがせる中で1980年代を迎えて、当社にとっては、投機の対象ともなる「銀」が経営に及ぼすリスクを弱め、企業体質の強化を図ることは、従来以上に切実かつ緊急を要する課題としてクローズアップされた。  
加えて、世界市場での地位向上を目指す当社としては、品質とコスト競争力の強化を基盤とするグローバルな戦略展開のため、中・長期的なプランを見定める必要があった。また、時あたかも大西新社長が登場し、そして4年後には創立50周年を迎えるという企業の歴史にとって節目ともいうべき時期にあった。  
これらの事情を背景として、1980年(昭和55年)10月に、創立50周年の1984年(昭和59年)を到達時期とする新しい経営目標を策定した。この経営目標は、「Vision−50」(略して、「V−50計画」)と呼称し、企業体質の強化と成長性の確保に重点をおき、当社が進むべき基本方向として次の4項目を掲げた。  
(1)世界市場での地位の向上――“世界の富士フイルム”  
これまで当社成長の中核をなしてきた国内の写真感光材料市場を今後とも当社の柱としていくために、新しいユーザーニーズの発掘に力を注いでいかなければならない。同時に、より一層の成長確保のためには、世界市場で大きく伸長していくことが必要である。このため、“世界の富士フイルム”たるにふさわしい地位を確立すべく、世界的視野に立った積極的なマーケティング戦略を展開する。  
(2)技術革新の強力なる推進――“技術の富士フイルム”  
写真感光材料製品における国際競争に打ち勝つための品質・コストの実現と、写真感光材料以外の事業の強化に引き続き努力する。さらに、成長を支え、次の柱となるべき新規事業の開拓を目指し、今後とも技術革新を強力に推進する。  
(3)変化に耐え、適応できる企業体質づくり  
V−50計画実現のためには、従来の考え方・慣行にこだわることなく、また、日常業務の多忙さの中に埋没することなく、V−50計画の具体的施策に果敢に挑戦する。このため、変化に適応できる企業戦略機能を強化し、社内各部門におけるタテ・ヨコの連携を一層密接にしていく。  
(4)活力ある社内環境づくり  
一人一人が、課題は何かを明らかにし、その解決に向かって意識と行動を集中することこそ、今後の企業発展を支える力である。そこで、V−50計画の目標を実現するため、困難な課題解決に向け、必要な話し合い・行動・相互協力を行ない、全社一体となって“燃える富士フイルム”をつくる。  
そして、この四つの基本的方向をもとに、1984年(昭和59年)にはこんな会社にしたいという到達すべき姿とそのために実現すべき経営各分野の主要目標を数値で示し得るものは数値として設定した。  
また、設定された企業目標を実現するため、この目標を全社に周知させ、各事業場・各部門、さらに各職場の単位までブレークダウンし、従業員一人一人が果たすべき役割を明らかにし、これによって従業員の意識高揚と組織の活性化を図ることもねらいとした。  
「Vision−50」は、1980年(昭和55年)10月21日、大西社長のキックオフ宣言をもって全社活動をスタートした。  
「Vision−50」の経営目標は、その後各年度ごとに遂行状況をチェックし、未達成部分については、その都度ギャップを埋めるための具体的な施策を検討していく仕組みであった。  
部門別の目標展開とその推進のための具体的方法については、各部門の実情に合わせ、それぞれの方法で行なうこととした。このため、すべての部門で必ずしも同一歩調で展開されたわけではないが、各工場では、これまでRM活動や全員参加によるQC活動などで積み重ねてきた成果を土台として、工場ごとのV−50計画がきめ細かく展開された。「V−50大会」を開催して、グループ目標の取り組み状況、問題点や打開策を報告し合うなど、従業員の中にV−50目標へのチャレンジ意識は日を追って高まっていった。  
こうして、1984年(昭和59年)のゴールを目指し、「V−50計画」は全社内に活発に展開されていった。
“フォトラマ”誕生 / フジインスタント写真システムの開発
1981年(昭和56年)10月、インスタント写真システム“フォトラマ”を発表し、全国一斉に発売する。当社が長年にわたって開発を進めてきた“フォトラマ”は、すばらしい画質を実現し、国内外に、世界の写真業界に、大きな反響を巻き起こす。カラーフィルム製造技術と高感度オートポジ写真乳剤、ダイレリーサー、TCLなど新しい技術の結合によって生まれた“フォトラマ”は、コンベンショナル写真に勝るとも劣らない鮮やかで豊かな色の世界をつくり出す。撮影後約60秒で見事なカラー写真ができあがるというすばらしい特長によって、写真の新しい楽しみ方・新しい活用法をつくり出し、写真の世界を広げていく。
“フォトラマ”の発表  
1981年(昭和56年)10月12日、それまで満を持していた当社は、新しい写真システム、フジインスタントフォトシステム“フォトラマ”を発表した。  
「インスタントカラーカメラ−富士フイルム発売」(日本経済新聞)  
「インスタントカメラに進出−富士写が正式発表」(日刊工業新聞)  
「米2社の独占に挑戦」(朝日新聞)  
当社の参入が早くから予想され、期待されていたことから、翌10月13日、各紙は、当社のインスタント写真システムヘの進出を大々的に報じた。  
続いて、東京をはじめ全国10か所で、ディーラー向けの発表会を盛況に開催し、l0月24日、全国一斉に発売した。  
フジインスタントフォトシステム“フォトラマ”の発売に当たって、大西社長は「新しい写真需要の開拓により市場の拡大をめざす」と題して次のように語った。  
「このたび、多年にわたり当社が研究開発を進めてきたフジインスタント写真システムを、“フォトラマ”の愛称で国内販売致します。  
これまでも各種商品の研究開発・戦略的なマーケティングなど、あらゆる施策を講じて、シャッターチャンスの増大・写真領域の拡大に努力してきました。しかしながら、最近の国内写真市場は、カラー化率・カメラの普及率が各々85%を超え、成長のカーブが鈍化してきていることは事実であり、また、デモグラフィック・データ(人口統計学的データ)からも、これまでのような高い成長率は容易に期待し難くなってきています。  
このような状況下にあって、最大の課題は、なんといっても写真市場の拡大・活性化であり、そのための具体的な施策を次々と打ち出していくことが、当社に与えられた責務であると考えております。(中略)  
昨今、消費者の意識の変化は目まぐるしく、そのニーズも、より個性化・多様化の方向へと急速に変化しつつあります。このため、写真市場においても、この多様化するニーズに適合したいろいろの商品開発を進めねばなりません。  
今回、その一つとして、写真に関して従来と異なったエンジョイの仕方、すなわち、家庭での日常行事やパーティーなどの社交行事の場で“写真を撮った時にその場ですぐ見ながらみんなで楽しむ”という消費者ニーズを満足させるべく、富士フイルムの技術の総力を結集して開発した、新しいインスタント写真システムを市場に導入することにしたのであります。  
“フジインスタントフォトシステム”には、新たに開発した高感度オートポジ写真乳剤(普通の白黒写真と同じ現像方法で、光が当たったところが白く、当たらなかっところは黒く現像される写真乳剤)、ダイレリーサー(現像によって色素を放出して画像を形成する色材)など、数々の新技術を駆使することにより、日本人の感覚・感性に十分フィットする高品質な画像を実現するとともに、フジカラーラボ網で、良質の焼増し・引伸しプリントすることもできるフォトラマプリントシステムも確立しております。  
我が国のインスタント写真市場は、欧米市場のそれと比較してみますと、現在まだ極めて小さいものです。しかし、わが国の消費者にインスタント写真のもつ機能や応用の方法、利用の仕方を十分に知ってもらうことにより、そしてまた、上述のように日本人の感覚・感性に合った商品を開発することにより、インスタント写真の持つコンベンショナル写真とは異なった価値が認められ、その市場が大きく伸びることが期待されます。インスタント写真はコンベンショナル写真とは競合するものでなく、互いに補完し合い、新しい写真需要を開拓し、写真市場の拡大に寄与するものであります。また、数々の業務用途へのアプリケーションの可能性をもっているのであります。(中略)  
富士フイルムが長年にわたり構築してきた販売網・サービス網をフル活用し、“フォトラマ”の強力なマーケティングを展開することにより、わが国のインスタント写真市場を大きく育てあげていきたいと考えます。(後略)」  
長年にわたる苦闘−“フォトラマ”の開発  
インスタント写真システムが登場したのは、第2次世界大戦が終わって間もない1947年(昭和22年)のことであった。この年、米国のポラロイド社は、“ポラロイドカメラ”を発表し、翌1948年(昭和23年)に発売した。その後、1963年(昭和38年)には、インスタントカラー写真システム“ポラカラー”を発売し、インスタント写真市場を独占。インスタント写真は“ポラロイド”の名で知られてきた。  
しかし、1976年(昭和51年)になって、コダック社が“インスタントフォトシステム”を発売してインスタント写真市場に参入し、ポラロイド方式とコダック方式の間で激しい競争が繰り広げられた。それに伴って、欧米ではインスタント写真が急速に普及し、1980年(昭和55年)には、その市場規模は、米国ではスチル写真の35%、ヨーロッパでも25%を占めるまでになった。  
日本市場にも、ポラロイドとコダック両社のインスタントカメラが導入されて販売されたが、日本での普及率は5%台にとどまっていた。その大きな理由としては、(1)色に対する不満(2)焼増しができない(3)画質の割にフィルム価格が高い、などで、ユーザーがインスタント写真に必ずしも満足しなかったことがあげられる。  
しかし、インスタントカメラとフィルムの性能が向上するとともに、その特性を生かしてさまざまな用途が開発され、日本でのインスタント写真市場も急速に拡大する傾向を示していた。  
このようなインスタント写真の将来性について早くから予見し、基礎的な調査研究を進めてきた。そして、1973年(昭和48年)2月、NS事業部を発足させ、本格的な開発に取り組むこととし、インスタント写真のための写真乳剤・発色剤・現像処理プロセスの研究など、一つ一つの要素技術の研究を社外はもちろん、社内にも極秘りに進めていった。そして、研究の進展に伴って、1975年(昭和50年)8月には、NS事業部をNS研究所と改め、陣容を強化して研究の完成を急いだ。  
「富士フイルムが出す以上、他社と同水準のものでは意味が無い。後から出すのだから、是非ともそれ以上で、ユーザーニーズに合ったものをつくる」―これが研究陣にとっての目標である。  
インスタント写真は、いわば、フィルムの現像機がカメラ内の一対のローラーという極端に簡略化されたものであるだけに、フィルムの構成は複雑をきわめ、まさにケミストリーの巨大システムともいえるものである。これを開発するための研究開発の規模もまた巨大で、要素技術やその要素を生かすための利用技術、安定生産を実現するための生産技術や評価・検査の技術、また、それらを支援する設備技術、さらに、カメラ関係の技術……、これらの技術開発に大勢の人びとの努力が注ぎこまれた。  
写真の領域を飛躍的に増大させ、ユーザーに新しい大きな満足をもたらしたシステム“フォトラマ”の華々しいデビューの陰には、研究や生産に携わる人達の長年の苦闘の日々があったのである。  
“フォトラマ”フィルムの三つの秘密  
写真を意味する“フォト”と、“パノラマ”の“ラマ”を結びつけて“フォトラマ”と名づけられた当社のインスタント写真システムは、次のようなシステム構成と特長を備えていた。  
〔システム構成〕  
(1)フジインスタントカラーフィルム(1パック10枚入り)  
(2)フジインスタントカメラ2機種(F−50S、F−10)  
(3)専用ストロボ(F−10との組み合わせで使用)  
(4)フォトラマプリント(インスタント写真からの焼増し、引伸し)  
〔主な特長〕  
(1)色が鮮明で、かつ、自然に再現される  
(2)階調が豊富で肌色の微妙な調子も良く表現できる  
(3)画像がシャープ  
(4)撮影後約15秒で画像が現われはじめ、約60秒でまとまる  
(5)初めから自然の色彩の絵で現われてくる  
(6)画像の形成が最良の点で停止する  
(7)全国のフジカラーラボ網を通じて、焼増し・引伸しが手軽にできる  
(8)フォトラマ写真の余白には、どんな筆記具でもメモが書け、また、空になったフィルムパックは、写真立てとして利用できる  
色鮮やかで、階調が豊富、そして画像出現の速い“フォトラマ”―それは、画質に対する要求の厳しい日本人をも満足させる世界に誇る新しいインスタント写真システムであった。それは、当社が長年にわたって培ってきた高度な写真技術をベースに、“フォトラマ”用に新たに開発した次の三つの技術によって完成させたのである。  
(1)高感度オートポジ乳剤  
すでに写真用オートポジ乳剤の工業化を実現していたが、既存技術では感度が低いので、高い撮影感度と高画質が得られるようなオートポジハロゲン化銀乳剤の研究を進め、特殊な素材と高度に制御された結晶製法技術の開発によって、“Hi−SN”(HighratioofSignaltoNoise)型オートポジハロゲン化銀乳剤を完成した。この乳剤は、粒子内部に高度に制御された微細構造でできている感光核を持っており、結晶の形は正八面体をしている。  
(2)ダイレリーサー  
オートポジ乳剤の現像を介して、色素を放出して画像を形成する色材として“o-SR(o-SulfonamidResorcin)”型ダイレリーサーを開発。Hi−SN型オートポジ乳剤との組み合わせによって、迅速に、豊富な階調をもった美しいカラー画像を出現させる。  
(3)TCL(現像プロセスをコントロールするポリマー)の開発  
ハロゲン化銀の現像速度は温度によって変化するが、インスタントフィルムは、さまざまな温度下で撮影・現像されるので、撮影時の温度を察知して最適の時間で現像を打ち切り、現像液のアルカリを自動的に中和させることが必要になる。フォトラマフィルムでは、TCL(TemperatureCompensatingLayer)という特殊なポリマーを開発し、1、000分の1mmの中和タイミング層の中に入れ、このプロセスを制御している。フォトラマフィルムは、25℃の条件で約15秒で画像があらわれ、約1分で現像が終了するようにした。  
“フォトラマ”用のフィルム“フジインスタントカラーフィルムFI−10”の層構成は、右図のとおりで、わずか0.3mmの厚さの中に20層を封じ込めた形となっている。これは、当社が超マイクロフィルムやカラーフィルムの開発で蓄積した薄層塗布・高速多層同時塗布などの技術を応用し、かつ、新しい生産技術を開発して実現したものである。20層の中にはそれぞれ異なる機能を有する100種類あまりの材料が組み込まれ、光と1種類の現像液を与えるだけで、これらの材料が相互に連携を保ちながら、次々と作用して美しいカラー画像をつくり出すようになっている。  
一方、カメラ関係の技術開発もまた重要な課題であった。できるだけ小型軽量で、しかもユーザーにアピールする外観や機動性に加え、「インカメラプロセシング」(カメラ内で現像処理)という、通常のカメラにはないインスタントカメラとして最も重要な機能を高い信頼性をもって常に正確に作動させなければならない。発売当初“フジインスタントカメラF−10”(普及機)および“F−50S”(高級機)の2機種が準備されたが、ユーザーニーズにマッチした独自の設計に加えて、特にカメラの製造面では、徹底したQC活動によって、部品の調達や組立てラインの管理を図り、故障の皆無を期した。こうして、カメラもフィルムも、ともに品質面で高い評価を得たのであった。  
“フォトラマ”は、当社の長年にわたる写真技術の蓄積とそのために特に開発した新技術の組み合わせによって初めて実現しえたのであった。まさに、“技術の富士フイルム”を象徴する商品の一つでもある。“フォトラマ”開発の過程で取得した特許は多くの数にのぼっており、それらの技術は、コンベンショナル写真の分野にも応用され、次代の新しい製品を生み出す一つの力となっている。  
“フォトラマ”の活用  
“フォトラマ”は、発売と同時に「インスタント写真を超えたインスタント写真」、従来のカラープリント写真と比べても見劣りのしないインスタント写真として、大きな反響を巻き起こし、また、強力なキャンペーンによって急速に市場に浸透していった。  
これに加えて、フォトラマの新しい用途開発に取り組み、誕生日やパーティーなど、インスタント写真の従来からの活用法にプラスして、インスタント写真ならではの活用法を開発してその普及を目指した。たとえば、華道では作品の保存に、料理教室では作った料理をフォトラマで撮影して余白にその料理のコツなどをメモしてクッキングカードに、結婚式場では新郎新婦を撮ったフォトラマを色紙にはって寄せ書きを作成するとか、呉服店では試着した着物の柄選びに、ボウリング場やゴルフ場ではフォームの診断に、美容室ではヘアスタイルのフォトカルテに、産婦人科病院では新生児の写真を両親へのプレゼント用になど、多くの活用範囲が広がってきている。特に、土木工事・建築関係での進行状況の撮影とか、自動車事故の場合の破損状況の確認など、いわゆるビジネス・業務用ユースの普及も強力に進めている。  
これら新しい用途開発と合わせて、新機構や新機能を付加したカメラを開発し、市場に投入していった。  
1982年(昭和57年)6月には、自動焦点機構を内蔵した“フジインスタントカメラF−60AF”と、大型ストロボを接続できるX接点ターミナルを装備した“フジインスタントカメラF−51S”を発売した。また、同年12月には、音声で撮影手順を指示する“フジインスタントカメラF−55V”と、オートストロボを内蔵した“F−20S”を発売した。特に、“F−55V”は、音声合成LSIを組み込み、「フィルムカバーヲダシテクダサイ」「ピントヲアワセマショウ」「ストロボヲシヨウシテクダサイ」「フィルムガオワリマシタ」と、撮影の手順およびフィルムが終わったことを音声で指示するもので、ユニークなカメラとして評判になった。  
“フォトラマ”の輸出  
1981年(昭和56年)10月発売当初、“フォトラマ”のわが国での販売は、予想をはるかに上回る好調さでスタートした。このため、生産が間に合わず、やむなく輸出の開始を一時見合わせざるを得なかった。翌1982年(昭和57年)2月になって、まず、東南アジア市場のうち、インドネシア・香港・台湾向けに輸出を開始した。市場での導入状況は良好で、ユーザーにも好評をもって迎えられた。翌1983年(昭和58年)1月からは、さらに、韓国・シンガポール・マレーシア・タイ・フィリピンの5か国を加えて輸出先を拡大し、東南アジア市場で確固たるシェアの獲得を目指すとともに、同年7月にはアフリカおよび中南米諸国にも輸出先を広げた。  
業務用インスタントフォトシステムの開発  
“フォトラマ”の特性を生かして業務用分野での利用拡大を図るため、営業写真分野・顕微鏡写真分野・コンピューターグラフィックスおよび眼底カメラその他医療用の分野などでフォトラマフィルムが利用できるように、業務用機器メーカーを対象とした「フジインスタントパックMS−1(OEM用)」の開発を行ない、1982年(昭和57年)7月から発売した。  
この“MS−1”は、フォトラマフィルムの送り出し機構であるが、応用範囲が広げられるよう単三乾電池またはAC電源も使用でき、リモートコントロールも可能で、耐久性も大幅に向上させたものである。  
“MS−1”自体は、業務用分野の機器メーカー対象にのみ販売しているが、順次、この“MS-1”を装着した“フォトラマ”関連業務用製品が誕生しつつあり、フォトラマフィルムを利用したフォトシステムが、科学・産業・医療分野などに大きく広がりはじめている。営業写真分野では、4×5判カメラ用“フォトラマ”アダプターが数社から発売されて、フォトラマフィルムが利用されており、また、顕微鏡分野では日本光学工業ならびにオリンパス光学の顕微鏡用“フォトラマ”アダプターがそれぞれ発売され、同じくフォトラマフィルムが利用されている。  
一方、コンピューターグラフィックス分野では、カラーイメージレコーダーへの“フォトラマ”アダプターの装着、また、CRT画像の直接撮影用カメラにも“MS−1”が装着され、コンピューターなどのCRT画像からフォトラマによる美しいカラーハードコピーの作成が可能となっている。また、ユニークな応用製品としては、印刷物の写真などの平面的なものから、工業製品やアクセサリーなど立体物まで幅広くコピー可能な小型軽量卓上型カラー複写機が市場で開発された。今後、さらに、“フォトラマ”のもっている優れた特長を生かした応用・利用分野の開発が期待されている。  
当社が長年の歳月をかけて開発したインスタント写真システム“フォトラマ”は、こうして、インスタント写真の限界を超えた新しい写真システムとして、アマチュア写真をはじめ業務用分野にその応用が図られており、写真の世界をさらに広げつつある。  
“フォトラマ”の生産  
“フォトラマ”用フィルムの生産は、足柄工場で、写真乳剤薄層塗布技術・多層同時塗布技術・精密位相制御技術など、当社の最新鋭のシステム生産技術を駆使して行なわれている。  
その生産工程は、溶剤系塗布・乳剤系塗布、乳化・分散・精製、処理液調整の各工程と裁断・ポット充てん・コレーター(多種部材を組み立ててユニットを完成する)・パック詰め・内外装の加工工程と、数多くの複雑な工程から成っており、徹底した自工程品質保証の考え方に立った一貫生産システムをとっている。  
1982年(昭和57年)5月に、より一層スピードアップした高速コレーターの稼動、ポッド充てん機の増設のほか、塗布機・加工機のスピードアップを実施した。1983年(昭和58年)3月には、写真感光材料製造機用として、初の高能力溶剤系塗布機が完成し、本稼動に入り、乳剤系塗布機の広幅化も同時に実施した。また、設備の高稼動およびコストダウンを図るため、製造工程での交互稼動による徹底したジョブローテーションや加工工程での休憩時の無人運転の実施など、生産性向上施策も当初から積極的に取り入れ実施している。  
“フォトラマ”発売後1年を経て、フォトラマ事業も軌道に乗ってきたので、1982年(昭和57年)11月には、NS研究所を発展的に解消、その研究機能は足柄研究所に編入して新たな飛躍を図り、引き続き、事業拡大のための諸計画を推進している。
“フジカラーHR”の発売と多面的販売促進活動の展開
1980年代に入って、アマチュア写真市場は成熟期を迎え、需要の伸びが鈍化する。こうした中で、カラー写真画質の飛躍的向上と撮影領域の拡大を図るべく、新製品の展開を進める。1983年(昭和58年)2月には、ニュータイプのカラーネガフィルム“フジカラーHR”を発売、それに合わせて、“フジカラーHR”と“フジカラーぺーパー”を組み合わせたプリントを“HRプリント”と名付けて写真の品質向上を進めていく。また、ロサンゼルスオリンピックの公式フィルムに採用され、これを機に国内外で積極的な販売キャンペーンを展開する。一方、当社のマーケティング活動の優秀性が認められ、連年、マーケティング優秀メーカー賞の入賞に輝く。
アマチュア写真市場の需要動向の変化  
今日、写真は、日常生活のあらゆる場面に登場してくるようになってきた。ファミリーフォトはもちろんのこと、野鳥を写したり、スポーツを撮ったり、写真を趣味とする人も増え、ジュニア層から高年齢層まで幅広く普及してきた。写真の用途も広がり、ユーザーのショット数(写真撮影コマ数)も年々増加してきた。カメラの世帯普及率も、1977年(昭和52年)に80%を超えた。カラー写真の比率は、1979年(昭和54年)には85%に、1983年(昭和58年)には88%に達し、写真といえばカラー写真のことを指すようになってきた。  
このように年々拡大してきたアマチュア写真市場も、1980年代に入って、日本経済の伸びが低迷する中で需要の拡大のテンポに鈍化の兆しが現われてきた。カメラの国内出荷台数も世帯普及率も、1980年代に入ってからは横ばい傾向を示してきた。  
最近の出生率や婚姻件数の低下や旅行件数の伸び悩みなど、写真需要にとって厳しいデータが示されており、アマチュア写真市場は大きな曲り角にさしかかっている。市場は、これまでの成長期から成熟期に入ってきたと見られるようになった。  
このような市場の変化の中で、写真需要の拡大のために、二つの戦略を打ち出した。一つは、現在写真を撮っているユーザーにさらに写真撮影の機会を増加させることであり、もう一つは、まだ写真を撮っていない人たちを新たに写真人口に参入させることである。このような戦略の下で、積極的なマーケティング活動を展開する一方、次々と新製品を市場に提供していった。  
1981年(昭和56年)に、インスタントフォトシステム“フォトラマ”を発売したのも、インスタントフォトという新システムを提供することによって、写真の新しい楽しみ方や利用の仕方をつくり出すことを目的としたものであったが、既存の写真システムでも、新しいカメラを発売する一方、高性能フィルムを開発し、アマチュア写真市場の拡大とシェアアップ作戦を展開していった。  
新世代カラーネガフィルム“フジカラーHR”の発売  
1983年(昭和58年)1月21日、世界のカラーフィルムの歴史に新しい1ぺージを加えた。この日、新世代カラーネガフィルム“フジカラーHR”を発表、カラーフィルムの新しい時代の幕を開けたのである。  
1958年(昭和33年)にカラーネガフィルム市場に進出して以来4分の1世紀、その性能と品質の向上に努め、カラー写真市場の拡大を図ってきた。その結果、当社のカラーネガフィルムは、国内市場で圧倒的なシェアを占め、経営を支える最大の商品に成長した。この間、1976年(昭和51年)には、当時世界最高感度を誇った“フジカラーF−II400”を発売し、世界市場での当社の地位を向上させた。優れた性能、そして安定した品質の製品を世界の需要家に届ける富士フイルムの名は、世界のすみずみにまで行き届き、“日本の富士フイルム”から“世界の富士フイルム”へと成長してきた。そして、1981年(昭和56年)12月、当社のカラーフィルムは、ロサンゼルスオリンピックの公式記録フィルムとして採用されるまでになった。  
この絶好のタイミングをとらえ、新世代のカラーネガフィルム“フジカラーHR”を開発し、1983年(昭和58年)2月24日から国内外に一斉発売した。当社が開発した新しい写真乳剤技術によって、色再現性・粒状性・シャープネスなどを大幅に向上させたものであった。  
“フジカラーHR”には、二重構造粒子とL−カプラー、そしてスーパーDIRカプラーという三つの新しい技術が盛り込まれていた。  
二重構造粒子というのは、わずか1ミクロン(1、000分の1mm)の写真乳剤粒子を内殻と外殻の二重構造とした画期的な写真乳剤である。光を粒子全体で吸収して高感度を確保するとともに、外殻は光によって発生する電子を確実にとらえ、内殻は粒子の現像をコントロールして画像の粗れを防ぐというように外殻と内殼の役割分担を明確にし、超微粒子の画像を形成するものである。  
また、L−カプラー(ラテックスカプラーの略)は、従来分散していたカプラーを高密度化したもので、写真乳剤層中に高密度のカプラーを組み入れることにより、乳剤層の薄層化を可能にし、光のにじみを減少させ、よりシャープな画像を形成するものである。  
一方、スーパーDIRカプラーは、新タイプの現像抑制剤放出型カプラーで、従来のDIRカプラーに比べ、現像抑制作用の到達距離を格段に長くすることに成功し、高度の画像制御効果を発揮させることが可能となった。  
これらの新技術によって完成された“フジカラーHR”は、次のような特長を有しており、これらを総合して、「新世代の色」「画質2倍にアップ」をうたった。  
○鮮やかな色再現  
従来からのフジカラーの特長である忠実な色再現に加え、スーパーDIRカプラーの採用によって、さらに一段と鮮やかさを向上させた。ネガカラーでは従来再現が難しかった淡い色も十分に描写する。  
○画期的な超微粒子  
二重構造粒子技術によって、高感度で群を抜く超微粒子を実現、肌のきめ細かい再現、衣服の細部の模様まで忠実に描写するなど、高画質のプリントをつくる。  
○シャープな画像  
L−カプラーとスーパーDIRカプラーの採用によって、世界最高水準のイメージシャープネスを実現し、大伸しでもきれ味のよい描写をする。  
○浮き出すような立体感  
高シャープネス・超微粒子に加え、豊かな階調の再現によって、画面に浮き出すような立体感を与え、優れた質感描写をする。  
“フジカラーHR”の発売に当たっては、感度ISO100(ISO感度表示は、国際規格として、わが国では、1981年(昭和56年)5月から順次、従来のASA感度に代えて表示された)の“HR100”とISO400の“HR400”の2種類で、それぞれ35mm判(12枚撮、24枚撮、36枚撮)とポケットカメラ用110サイズ24枚撮(“HR100”は12枚撮も)のラインアップをそろえた。発売を機に、パッケージやパトローネのデザインも一新し、当社のコーポレートカラーであるグリーンと赤のCIマークを基調に、シルバーを配して高品質のイメージを表現、“HR100”は赤、“HR400”は紫のラインを配して、一目で区別できるようにした。  
その後、1983年(昭和58年)4月には、“フジカラーHR100”、同“HR400”のブローニー判フィルム(6cm×6cmサイズで12枚撮)、次いで同年11月、感度ISO200の“フジカラーHR200”の35mm判フィルム(12枚撮、24枚撮、36枚撮)を追加発売した。  
当社の大きな期待を担って登場した“フジカラーHR”は、国内外で好評をもって迎えられた。  
“フジカラーHRプリント”の発売  
一般のカラー写真は、プリントされてはじめて完成する。それだけに、プリント品質の良し悪しは、写真の出来上がりに重要な意味をもっている。ところが、実際には、カラープリントに対する顧客のブランド意識は、カラーフィルムの場合に比べると低いのが実情である。高品質のカラーフィルムとカラーぺーパーを販売するとともに、フジカラーラボを通じてフィルムの性能を十分に引き出す優れたプリン卜仕上げの徹底を図ってきた。そして、このことを最終ユーザーにも徹底させることを目的として各種の施策を推進した。  
1980年(昭和55年)に開始したテレビコマーシャル「それなりに……」シリーズも、フジカラープリントへの認識を深めてもらうことを一つの狙いとして展開したものであった。このCMは、大きな反響を巻き起こし、「それなりに……」は、たちまち流行語となり、同年11月には、テレビCM界のグランプリに当たる全日本CM大賞に選ばれたほか、各種の広告賞を受賞した。  
1982年(昭和57年)2月からは、「フジカラープリントスターマークキャンペーン」を実施した。これは、フジカラープリントの裏面に☆印のマークを付け、それを一定量集めると、自分の好きな写真を大伸しプリントにしてプレゼントするもので、フジカラープリントに対する認識を高めるとともに、大伸し写真のすばらしさを顧客に訴えることを目的としていた。  
“フジカラーHR”を発売した1983年(昭和58年)には、“フジカラーHR”と“フジカラーぺーパー”を組み合わせたプリントを“フジカラーHRプリント”と名付けるとともに、新たに“フジカラーHRプリントGOLD”を販売した。“GOLD”は、普及判サイズの主力であるEサイズよりも少し大きいLサイズ相当(ペーパーサイズ89mm×127mm)で、プリントの白縁をなくし、画面サイズを大きくして、写真の良さを訴求した。  
それに合わせて、同年9月からは、「フジカラーHR超大写真プレゼント」を実施した。これは、期間中、応募者の中から抽選でl0万名を選び、希望の写真を全紙サイズ(ぺーパーサイズ45.7cm×56.0cm)に大伸しし、額縁付きでプレゼントするもので、大伸し写真の普及と写真需要の拡大を図った。  
これと同時に、全国のフジカラーラボを通じて、スライド映写や焼増し時のネガ選定に便利な“フジカラーラッシュ”と大伸しプリントとジグソーパズルが同時に楽しめる“フジカラーパズル”を発売した。  
次いで、翌1984年(昭和59年)1月には、文房具・書籍・名札などに貼れる“フジカラーシールプリント”と新素材(ポリエステル)による光沢度・色のさえ・立体感(質感)を強調した“フジカラーHRクリスタルプリント”を、また、同年2月からは、プリントの余白にメッセージやメモが書ける“フジカラーメモリープリント”を、それぞれフジカラーラボを通じて受注を開始した。これらの数々の施策によって、生活の中での写真の楽しみ方と用途の拡大をユーザーに訴え、写真需要の拡大を図った。  
新しい写真需要拡大策と多面的販売促進策の展開  
また、新しい写真需要の開発のために、積極的なキャンペーンを実施した。  
1980年(昭和55年)3月には、国鉄全240余線区2万キロを踏破しながら旅を楽しもうという「いい旅チャレンジ20000kmキャンペーン」にタイアップするなどして、旅の写真需要を喚起した。  
旅行・ファミリー写真に次いで多いのが、運動会や結婚式・卒業式・入学式などの行事の際に写される写真であるが、近年、スポーツをテーマとした写真も増加してきた。1981年(昭和56年)4月には「写真野球教室」を開講した。これは、プロ野球選手会とタイアップし、自分のフォーム写真を送れば、有名プロ選手から直接、批評・アドバイスを受けるというものであった。  
また、バレーボールの人気が上昇する中で、1981年(昭和56年)からは、バレーボール日本リーグのフォトコンテストを開始した。  
一方、各地で行なわれるビッグイベントは、写真需要拡大の絶好の場であり、当社はこれに積極的に協力していった。  
1981年(昭和56年)3月から9月まで、神戸で「ポートピア’81」が開催された。「新しい海の文化都市の創造」をテーマとする「ポートピア’81」は、関西地区では、10年前の大阪万国博覧会以来のビッグイベントであった。三井グループのパビリオンに共同参加するとともに、会場内では、写真相談所を設置して来場者の相談に応じ、また、地元の写真材料販売店のフィルム売店に協力した。  
1983年(昭和58年)4月には、千葉県浦安に東京ディズニーランドが誕生した。東京ディズニーランドは、米国のディズニーランドにならって、各種の新しい施設を採り入れ、国内の有力企業に各種施設を提供してもらうスポンサーシップを採用した。  
当社は写真の分野で、唯一のオフィシャルスポンサーとして、広告宣伝への利用権、並びに園内での写真機材の販売権を獲得し、“マジックカーペット世界一周”およびカメラ・フィルム・写真用品を販売する「カメラセンター」「ファンタジーランドカメラショップ」の施設を提供することとした。  
“マジックカーペット世界一周”は、全周360度の超大型スクリーンをもつ円形劇場で、9台の35mm映写機を駆使して、世界各国の美しい風景を写し出し、マジックカーペットに乗って世界一周の旅を居ながらにして体験できる楽しい映像アトラクションである。  
東京ディズニーランドは、オープン後、連日多数の入場者が訪れ、にぎわいをみせ、園内は、毎日が撮影会といった状況が続いていた。  
また、1983年(昭和58年)10月に開催された「大阪築城400年まつり」では、大阪城址公園での大撮影会に協賛したほか、世界帆船まつり・大阪城博覧会・御堂筋オープニングパレードなどのイベントを対象としたフォトコンテストを後援した。  
この間、1983年(昭和58年)7月からは、当社カラーフィルムがロサンゼルスオリンピック大会の公式記録フィルムに認定されたことを記念して、国内でも「’84ロサンゼルスオリンピックキャンペーン」を開始した。このキャンペーンでは、“フジカラーHR”の素晴らしさをより多くの人に訴求することを目的に、ロサンゼルスオリンピックのシンボルマークである「スター・イン・モーション」とマスコットの「イーグルサム」をデザインした特製パッケージの“フジカラーHR”を出荷した。  
これら当社の積極的なマーケティング活動は、高く評価され、1977年(昭和52年)からは、連続して、日本能率協会「総合マーケティング優秀メーカー賞」に選定されてきた。この賞の主な選定基準には、トータルマーケティング活動の基盤が確立されていること、経営財務内容が充実していること、企業の社会的責任を全うし、きめ細かい経営姿勢とその対応力をもっていることなどがあげられている。  
1983年度(昭和58年度)の当社の入賞選定理由には、高品質による新製品差別化の強化と国際性を志向したきめ細かいマーケティング戦略の積極性があげられた。これは、写真業界ではもちろん、多くの分野での当社の積極的なマーケティング活動が認められたことによるものである。  
来たる1985年(昭和60年)には、茨城県筑波研究学園都市において国際科学技術博覧会が開催され、三井グループの「滝の劇場・三井館」に共同出展するとともに、会場内に「写真サービスセンター」を開設して、入場者の便宜を図った。  
このような写真映像に関連したイベントに積極的に参加して、ユーザーへの販売サービス活動の推進とブランドイメージアップの展開を図る一方、その後も市場ニーズを的確につかみ、タイミングよく新規商品開発を進め、市場を開拓し、写真業界全体の需要拡大を図っていった。
カメラでも新機種を / 全自動カメラの発売
良い写真を誰でも簡単に撮影できるようにと、35mmレンズシャッターカメラの自動化を追求し、1980年(昭和55年)に“フジカオート5”を、翌1981年(昭和56年)に“フジカオート7”を発売、次いで1983年(昭和58年)には、ドロップインローディング(DIL)機構付きの“フジカオートエース”、“フジカオートメイト”を発売する。また、一眼レフカメラのバヨネットマウント化を図り、“フジカAX”シリーズを発売する。一方、ポケットカメラでは、“ハローキティカメラ”や“ポケットフジカミッキーマウス”などのキャラクター商品を発売する。さらに、1983年(昭和58年)には、ディスクカメラおよびディスクフィルムを海外市場向けに発売する。
全自動カメラ“フジカオート7”の発売  
良い写真をだれでも簡単に撮影できるようにとカメラの開発を進めてきた。そして、ストロボ内蔵や自動焦点カメラの開発に続いて、35mmレンズシャッターカメラをさらに使いやすくするために、シャッターを押す以外のすべての操作を自動化すべく、開発を進めた。  
そして、まず、  
(1)フィルムの簡易自動装てん  
(2)フィルムの自動巻き上げ  
(3)フィルムの自動巻き戻し  
(4)電子シャッター付きの自動露光  
(5)フィルム感度のオートセット  
の5つのオート機構を備えた“フジカオート5”と“フジカオート5デート”を開発し、1980年(昭和55年)11月から国内市場に出荷し、翌月には海外にも“フジカオート5”を発売した。  
両機は、このほかにも、フィルムの確認窓を装備し、ストロボやセルフタイマーを内蔵し、“オート5デート”は、さらに日付写し込み機構を備え、ファミリーカメラとして幅広いニーズに対応した。  
さらに、翌1981年(昭和56年)10月には、全自動カメラ“フジカオート7デート”を発売した。このカメラは、“フジカオート5デート”の機構をべースに、フィルムの自動巻き戻し機構を撮影終了と同時に自動的に巻き戻すオートリターン式に改良するとともに、(1)オートフォーカス(2)オートフラッシュマチック(ストロボ使用時にオートフォーカス信号によって自動的に適正露光が得られる)の2つの機構を付加し、合計7つのオート機構をもったものである。また、翌11月には、デート機構を除いた“フジカオート7”も発売した。翌1982年(昭和57年)2月には“フジカオート7”を海外向けにも発売した。  
これによって、シャッターを押す以外の操作はすべて自動化され、いつでも、どこでも、だれもが美しいカラー写真を簡単に楽しめるようにとの当社の長年の願いが実現し、“フジカオート7”と“フジカオート7デート”は、市場で好評をもって迎えられた。  
DIL機構の開発  
“フジカオート7”によって、カメラの全自動化が実現したが、フィルムを差し込む操作だけはまだ人手によらなければならなかった。そこで、フィルム装てんをより一層簡単にすることを目的として、これまでの発想とは全く異なる自動巻き上げ機能を持つドロップインローディング(DIL)機構を開発した。  
このドロップインローディング機構は、従来のフィルム装てん方式とは全く異なるワンタッチの装てんシステムで、カメラ底部を半分開いて、そこにフィルムをプラスチックケースから取り出したままの状態でポンと落とし込み、そのまま裏ぶたを閉じるだけでフィルムが自動的に巻き上げられて、1コマ目がセットされる機構のシステムである。  
DIL機構を内蔵したドロップインローディングカメラは、1982年(昭和57年)完成し、同年10月開催されたフォトキナ’82に出品し、大きな話題を呼んだ。  
このドロップインローディングカメラ“フジカDL−100”と“フジカDL−20”は、翌1983年(昭和58年)1月から海外市場に出荷を開始した。国内市場には、1983年(昭和58年)3月、まず“フジカDL−20”を、次いで翌4月に“フジカDL−100デート”を、6月に“フジカDL−100”をそれぞれ発売し、“フジカDL−100”および“フジカDL−100デート”には“フジカオートエース”、“フジカDL−20”には“フジカオートメート”と、それぞれ愛称をつけた。  
“フジカDL−100デート”は、赤外線使用のオートフォーカス機構や日付け写し込み機構などを内蔵した全自動高級機として、またフジカDL−20”は、日付け写し込み機構を取り除いたほか、焦点調節機構など一部機構を変えた普及機として、いずれも、フィルム操作は、装てん・巻き上げ・巻き戻しまで全面的に自動化され、これまでフィルム操作を苦手としていたユーザーにも安心して写真撮影が楽しめるカメラとして、幅広い層に好評をもって迎えられた。  
一眼レフ“AXシリーズ”の完成  
当社が1970年(昭和45年)から発売したフジカSTシリーズは、内外の35mm一眼レフカメラ市場で好評を博するとともに、“フジカ”のブランドイメージを高めるのに大きな貢献をした。  
しかし、35mm一眼レフカメラは、エレクトロニクス技術の応用によってますます高性能化する一方、レンズ交換の機動性を高めるために、ねじ込み式のスクリューマウントからワンタッチで着脱できるバヨネットマウントヘの移行が進んでいた。被写体に合わせてレンズを交換し、しかも機動性を特長とする一眼レフにとっては、これは当然の成り行きであった。  
しかし、バヨネット化するためには、交換レンズもすべて切り換えなければならず、単にボディーだけをバヨネット化すればよいというわけにはいかなかった。当社では、慎重な検討を重ねた結果、1979年(昭和54年)8月、まず、輸出専用機“STX−1”をバヨネットマウントとして発売した。続いて、同1979年(昭和54年)9月に“AX−1”と“AX−5”、同年12月に“AX−3”のAXシリーズの3機種を輸出用に発売、翌1980年(昭和55年)3月から“AX−1”などの国内販売も開始し、スクリューマウント式カメラの生産は中止した。  
“AX−1”は、絞り優先のAE機で、初心者にも使いこなせる普及機、“AX−3”は一眼レフ市場の主流となっていたマニュアル測光も可能な絞り優先のAE標準機、“AX−5”は、絞り優先とシャッター優先、絞り・シャッターいずれもカメラまかせのプログラムAE、それに、ストロボAE、マニュアル撮影も可能の5モードAEの最高級機とした。これらのカメラは、いずれも、専用アダプターを使用すれば、従来のスクリューマウントの交換レンズも使用可能とした。  
AXシリーズの発売に合わせ、交換レンズもF2.824mmからF4.5400mmまで多種類を整備し、ズームレンズ・魚眼レンズ・マクロレンズもそろえて“EBCXフジノン”レンズシリーズを発売し、内外の一眼レフ市場での地盤を固めていった。  
特に、品質・価格において激しい競争を続けている海外のカメラ市場にあって一眼レフ市場に遅れて参入した当社が、短時日の間にAXシリーズのバヨネット方式による普及機から高級機までを整備充実したことは、当社の開発力を示すものとして、海外市場でも大きな評価を得ることができた。  
キャラクターカメラ、芽生えカメラの開発  
110サイズポケットカメラに、縦型カメラを開発して、手ぶれによる撮影ミスを激減させ、また、各種の機能を付加した機種を整備して写真需要の拡大に努めてきた。そして、さらに低年齢層の需要拡大を図って、キャラクター商品の開発を進め、1981年(昭和56年)11月、株式会社サンリオと提携して“ハローキティカメラフラッシュAW”を発売した。  
同機は、ストロボとオートワインダー機構を内蔵し、レンズカバーとワインダースイッチ兼用の“ハローキティ”をレンズ前面にセットした固定焦点式カメラで、ボディーを赤と白、白と青のツートンカラーの2種とし、サンリオの販売ルートを通じても普及を図った。  
次いで1983年(昭和58年)4月には、東京ディズニーランドのオープンに合わせて“ポケットフジカミッキーマウス”を発売した。  
同機は、レンズカバーにディズニーキャラクターの人気者ミッキーマウスをデザインし、これをスライドさせてシャッターをきるストロボ内蔵の固定焦点式カメラとした。  
これらキャラクター商品は、人気商品となって、低学年子女のファッションや贈り物用として、ポケットカメラの新しい市場をつくり出していった。  
なお、この間、1982年(昭和57年)5月には、“ポケットフジカオートポップ”を発売した。これは、ストロボが必要な暗さになると自動的に内蔵ストロボがとび出してストロボ撮影を指示するカメラで、オートワインダー機構を備え、ボディーカラーも赤・青・黒の3色をそろえた。  
また、同年12月には、35mmサイズのコンパクトカメラでも、カメラを初めて手にする小中学生用として、ストロボを内蔵した固定焦点式の普及機“フジカPicPAL”を発売した。  
これらの各機種は、一人でも多くの子供たちが気軽に写真に親しめるようにと念願して開発したもので、「芽生えカメラ」としての役割を果たしている。  
ディスクカメラ、ディスクフィルムの開発  
1982年(昭和57年)2月、コダック社は、従来と全く異なった方式の“ディスク写真システム”を発表した。  
この“ディスク写真システム”の特長は、フィルムの形状を今までのロール状から、直径約65mmの1枚の円盤(ディスク)に変えたことにある。このディスクフィルムの円周に沿って、1コマの画面サイズが8mm×10mmという小さい15のフレームを並べ、これを縦横75mm、厚さ7mm、片面に露光窓を有する薄いプラスチックカートリッジに入れ、撮影に際して、カートリッジの中でディスクフィルムが回転して露光されるシステムである。  
このシステムは欧米市場では一部需要層に拡大していくものと判断し、海外市場での当社の事業のチャンスを失わないようにするため、海外市場向けに、ディスクカメラとディスクフィルムを早急に開発することに決定し、直ちに、必要なカメラとフィルムおよび現像機器の開発を進めた。  
カメラの開発に当たっては、ユーザーの使用ミスを減少するため、デザインは通常の35mmカメラと同様に、レンズ部のボディーの中央部に配置し、ファインダーはその上部に、また、ストロボは左手側上部として、撮影時にレンズやストロボ前面を指でふさがないようなレイアウトとした。また、シャッターボタンは、ボディーの右手側上部に配置して手ぶれの減少を図った。  
そして、1983年(昭和58年)7月、“FUJIDISCCAMERA50”と同“70”の2機種を開発し、海外市場で発売した。両機は、いずれも、F2.812.5mmの固定焦点レンズ式で、ビームセンサーによるストロボ自動発光機能を有した。“70”は、さらに、連続ならびに3コマの連写機能およびセルフタイマー機構も付加して機能を充実した。  
一方、ディスクフィルムの開発には二つの課題があった。  
その一つは、これまでの写真乳剤とは比較にならない超微粒子の写真乳剤を開発することである。これまでも写真フィルムの高画質化を目指して研究を進めており、ちょうど“フジカラーHRフィルム”を用意していたので、この技術を基盤としてディスクフィルムの写真乳剤に発展させることができた。  
他の一つは、ディスクシステムのフォーマットに加工する技術と、その生産体制を確立することである。このために専門の推進チームを編成し、加工技術の開発、包装材料用素材の探索や包装材料仕様の決定、設備仕様の決定と設備導入、加工品質の確認、さらに生産開始の体制づくりなどを効率的に実施した。このディスクフィルムの加工の中で、従来見られなかった新技術は、カートリッジのレーベルのバーコード表示にフィルム上のバーコード表示を一致させることである。そのためには、加工工程中で、まず、カートリッジのバーコードを読み取り、それと同じバーコード露光をディスクフィルム上にしなければならない。そのための新規技術開発に成功したことと、薄物のフィルムおよびコアの部材を一体にまとめあげる技術の開発に成功したことの2点をあげることができる、  
そして、スタート以来半年で、これらの新技術の開発に成功し、1982年(昭和57年)10月開催のフォトキナ’82に“FUJICOLORHRDISCFILM”のサンプルを展示し、当社の技術力の高さを全世界に示すことができた。そして、開発を始めてから1年後には生産を開始し、1983年(昭和58年)3月から海外市場に向けて出荷を開始した。開発期間わずか1年というスピードで計画が達成されたことは、当社のこれまでの長年にわたる加工技術の蓄積によるものであった。  
一方、ラボ関係の機器については、1982年(昭和57年)6月に海外代理店のラボ向けにプリンティングキットとフィルム現像処理機を発売し、次いで、翌1983年(昭和58年)4月には大量処理用プロセサーを発売し、処理体制を整備した。  
光学ガラス事業の終結  
1982年(昭和57年)7月、当社は光学ガラス事業を終結した。顧みれば、光学ガラス工場が1940年(昭和15年)、設立間もない小田原工場で稼動を開始して以来、今日まで、単に自社用のみならず、他のカメラメーカー・レンズメーカーなどに光学ガラス製品を広く供給し、当社の歴史の上で数々の業績をあげてきた。  
1952年(昭和27年)にふっ素系の新種ガラスを開発して以来、ランタンなど希元素を使用した新種ガラスの量産化に成功した。これらによって、F1.2クラスの明るいレンズも量産が可能となり、カメラ産業の発展に大きく貢献したことは、わが国光学技術史上に輝く成果であった。  
その後、プレス成形品としては、8mmシネカメラやポケットカメラ、あるいは光学顕微鏡などの分野で、寸法精度の高い10mm以下の小口径レンズの量産化が要望された。業界に先駆けて、小口径品用の高精度量産技術「棒状プレス成形システム」を開発し、そのニーズに応えた。  
また、一方では、大型テレビカメラ用レンズや望遠レンズなどの分野で、当社独自の成形技術で100mmから200mmの大口径レンズ用プレス成形品を開発した。  
その後、わが国のカメラの輸出のウェイトが増加するに伴って、光学ガラスはさらに高屈折率硝種の開発が要望された。これに対して、重ランタンフリント系(LaSF)ガラスの品種を整備するとともに、ほたる石に近い超低分散ガラス(波長による屈折率の差が非常に小さいガラス)のふっ素りん酸ガラスその他の新種ガラスを開発した。また既存の硝種についても、化学的耐久性の改良や着色の減少など、品質の改良を図って市場に提供した。この間、カメラ市場では、競争の激化とともに、光学ガラスのコストダウン要請も強く、とりわけ1973年(昭和48年)にぼっ発した第1次オイルショック以降、この要求はますます強くなってきた。  
組成の改良による高価な希元素類の使用減少や連続溶融、あるいは溶融と同時に成形するダイレクトプレスなどによるコストダウン対策を推進した。しかし、これらの努力にもかかわらず事業採算は悪化し、かつ、その改善の見込みも立ちがたい状況になったので、種々検討の結果、1981年(昭和56年)10月、光学ガラス事業の終結を決断するに至った。事業の終結に当たっては、ユーザーに対して当社に代わる供給先をあっ旋するとともに、移管終了までの必要量を供給し、同時に代替供給先には、当社のノウハウを提供した。  
そして、1982年(昭和57年)7月、当社は42年にわたる光学ガラス事業から撤退した。
プロフェッショナル写真市場向け商品のラインアップ / “ニューフジクローム”発売
プロカメラマンの高度な要求に応えて、プロ用カラーフィルムの整備を進め、1983年(昭和58年)3月、“ニューフジクローム”を開発、デーライトタイプ3種、タングステンタイプ1種を発売し、カラーデュープフィルムの商品化とあわせて、コマーシャルフォトにおけるカメラマンのあらゆる要望に応え得るラインアップを確立する。一方、営業写真の分野では、七五三・婚礼・成人式などの既存需要の拡大に努めるとともに、新規需要の拡大に努める。また、中判カメラの分野では、アドバンスドアマチュアを含む広い需要層を対象に、セミ判スプリングカメラ2機種と6cm×17cm判パノラマカメラを新しく商品化する。
新世代の色−“ニューフジクローム”の発売  
カラーリバーサルフィルムについては、当社では、プロカメラマンの高度な要求に応えられる品質のレベルアップと製品ラインの整備を目指して研究開発を進めた結果、次々と新製品を開発し、1980年(昭和55年)には、高感度タイプの“フジクローム400”を発売した。  
次いで、1983年(昭和58年)3月には、先進技術を結集して開発した“ニューフジクローム”の発売に踏み切った。発売に先立ち、前年の1982年(昭和57年)10月、西独のケルンで開催されたフォトキナ’82に出品した。多様化・高度化するプロフェッショナルのニーズに応えた高画質タイプの“ニューフジクローム”は、人びとの注目の的となった。  
“ニューフジクローム”は、当社が開発した新しい写真乳剤技術を駆使した結果、世界最高水準のシャープネスと粒状性を実現、鮮明で忠実な色再現性、整った階調バランス、繊細な質感とメリハリのある立体感描写など、優れた写真性能を実現した。また、プロ用カラーリバーサルフィルムは、印刷原稿として使われる頻度の高いことを考慮し、特に印刷製版適性をもたせた。同時に、製品ラインも整備し、プロ写真家や映像に関するさまざまな分野のユーザーの要望と期待に応えた。診断・研究など広くカラーリバーサルフィルムを使用する医学写真の厳しい性能要求にも、十分対応した。  
“ニューフジクローム”の製品ラインは、次の4種類である。  
○“フジクローム50プロフェッショナルD”(感度ISO50)  
○“フジクローム100プロフェッショナルD”(感度ISO100)  
○“フジクローム64プロフェッショナルT”(感度ISO64)  
○“フジクロームデュプリケーティングフィルム”  
“ニューフジクローム”は、同年2月に発売した一般用カラーネガフィルム“フジカラーHR”に採用したL−カプラーのほか、新しく開発したUDG技術・SSS技術・AME技術によって完成した新世代のカラーリバーサルフィルムである。  
UDG(UniformlyDevelopingGrain)技術は、新しい増感技術によって、高感度でありながら微粒子で現像性のそろった粒子を形成する技術である。この技術によって、粗い画像の原因となる粒子の粗大化を防止し、きめ細かく粒状の整った画像の形成が可能となる。L−カプラー技術と相まって、繊細な質感描写と力強くメリハリのある画像が得られる。  
SSS(SharpSpectralSensitization)技術は、ハロゲン化銀粒子と増感色素の組み合わせについての技術である。これによって、シャープな分光感度が得られるので、鮮やかでしかも色分離の良い色再現が実現できる。  
AME(AutomaskingEmulsion)技術は、“ニューフジクローム”のために新しく開発した写真乳剤技術で、現像時に赤・緑・青の3層の乳剤間で設計どおり精密にコントロールされた状態のもとで、相互に作用しあうことにより、重層効果(現像により3層相互の影響で色再現性・色分離が変化する効果)を発揮し、さらにSSS技術との相乗作用で、純度の高い色再現が可能になった。  
また、“フジクロームデュプリケーティングフィルム”は、印刷用その他に用いられる当社初の複製専用のカラーフィルムで、撮影用“ニューフジクローム”と同等の高性能を備え、確かな色再現性と描写力で、オリジナルを忠実に再現する。  
“ニューフジクローム”は、パッケージデザインを一新し、グリーンとCIマークを基調に、感度やタイプを明確に表現したシンプルなデザインとした。優れた品質に加えて、積極的な市場開拓努力によって、“ニューフジクローム”はプロフェッショナルユーザーの間に確実に定着してきた。  
中判用カメラ3機種の発売  
当社の中判用カメラは、その独自の携帯性・操作性・機構・フジノンレンズの描写性など、プロ写真家の志向する内容を満たしたカメラとして高く評価され、プロフェッショナル写真の広い領域で活用されている。  
1983年(昭和58年)に入って、フジカプロフェッショナルカメラの製品ラインに、従来からの6cm×9cm判カメラと6cm×7cm判カメラに続いて、新しくセミ判(6cm×4.5cm)カメラ2機種とパノラマカメラ1機種を加えた。  
その一つは、1983年(昭和58年)3月に発売したセミ判スプリングカメラ“フジカGS645プロフェッショナル”で、蛇腹式を採用したために軽量かつコンパクトボディーを実現した。レンズは、新設計の4群5枚構成“EBCフジノンSF3.475mm”を装着し、大伸しにも十分対応できる高画質性と速写性・携帯性を追求したカメラである。  
“GS645”と同時に発売した画面サイズ6cmx17cmのパノラマカメラ“フジカパノラマG617プロフェッショナル”は、小型・軽量化したボディーで、操作性・携帯性に優れ、縦・横撮影に使い分けできるようにボディー側シャッターボタンを2か所に組み込むなど、新機軸を盛り込んだ。レンズは、周辺光量やシャープネスに優れた“EBCフジノンSWF8105mm”を装着した。パノラマサイズの広い画面は、風景写真・建築写真・コマーシャルフォト・航空写真において、新しい局面を開くカメラとして注目される。  
次いで、同年10月には、セミ判ワイドカメラ“フジカGS645Wプロフェッショナル”を発売した。本機は、先に発売した蛇腹式スプリングカメラ“ブジカGS645”のシリーズ機である。レンズは、“EBCフジノンWF5.645mm”を装着した。画角76度のワイドの特長を生かし、風景写真・スナップ写真・集合写真に適したカメラである。  
フジカプロフェッショナルカメラは、プロ写真家だけでなく、アドバンスドアマチュアにも、35mm一眼レフに続く第2のカメラとして期待されたのである。  
営業写真の需要拡大へ  
いわゆる営業写真は、100年以上に及ぶ長い歴史をもち、連綿と今日まで受け継がれてきた業界である。この間、幾多の変遷を経てきたが、戦後のベビーブーム世代が婚期に達した1970年代前半のブライダルブーム期には、営業写真のカラー写真化が急速に進んだ。しかし、1970年代後半には、結婚の対象人口が減少し、また、営業写真の主流をなす七五三・成人式などの人生を彩る大切な行事での記念写真の対象人口についても、横ばいあるいは減少の傾向にある。  
営業写真を取り巻く厳しい環境にあって、営業写真館では、撮影ショット数の増加やサイズの大型化などの営業努力で対応するとともに、記念写真などの既存需要の見直しと若い世代を対象とした新規需要の開拓を図ってきた。これらの対策は、単に販売促進だけに結びつくのではなく、営業写真に対する関心を呼び起こし、将来の営業写真人口の増加に寄与するものである。特に、若い世代を対象とした野外におけるロケーションフォトやスタジオでスナップ的に気軽に写すカジュアルフォト、そして多数のショットから顧客が選ぶプルーフフォトなどの商品メニューは、営業写真の良さを若い層に認識させることに効果があった。  
積極的な業界の動きに対応して、各種製品の開発や品質のレベルアップに努め、市場の拡大を目指し、営業写真館の期待に応えている。  
1983年(昭和58年)に開発した合成プリントで華やかな雰囲気を添える“フジカラードリームフォト”や営業写真館に保存しているネガ原板からのポストカード作成などの販売ツールを紹介し、若い世代への商品メニューの多様化に協力した。また、営業写真の原点というべきファミリーフォトキャンペーンの実施、七五三・成人式など時期に応じたポスターその他宣伝物の配布など、需要者へのアプローチを図っている。  
1981年(昭和56年)に発売したフジインスタント写真システム“フォトラマ”についても、急ぎの写真や婚礼・七五三・成人式その他のサービス写真など、営業面で積極的に活用を図っている写真館が多い。
映画用カラーネガフィルムの高感度化とロングライフ商品開発
テレビ用フィルム“フジカラーリバーサルフィルムRT400”、同“RT500”の開発に成功した当社は、映画用カラーネガフィルムについても、高感度化にチャレンジし、1980年(昭和55年)9月、“フジカラーネガティブフィルムA250”を発売する。“A250”は、当時の映画用カラーネガフィルムとしては世界最高感度で、国内外の作品に数多く使用され、1982年(昭和57年)3月、映画界最高の栄誉である米国アカデミー科学技術賞の受賞に輝く。1983年(昭和58年)4月には、さらに画像保存性を大幅にアップしたロングライフシステム新製品“フジカラーネガティブフィルムA”、“フジカラー高感度ネガティブフィルムAX”、“フジカラーポジティブフィルムLP”を発売する。
映画用カラーネガフィルム“A250”の開発  
“フジカラーネガティブフィルムA(エース)”は、1977年(昭和52年)発売以来、内外の映画製作に広く採用されてきたが、映画用カラーネガフィルムも一般写真用フィルムやテレビ用カラーリバーサルフィルムと同様に、高感度フィルムを求める声が一層強まってきた。1958年(昭和33年)に日本で初めて劇映画に当社のカラーネガフィルムが使用されたときは、露光指数25の低い感度であったが、1980年(昭和55年)9月、世界に先駆けて高感度“フジカラーネガティブフィルムA250”(35mmフィルム・タイプ8518、16mmフィルム・タイプ8528)を発売した。高拡大率を必要とする映画用フィルムの高感度品の開発には、多くの困難を伴ったが、新型カプラーをはじめとする新素材や新技術を開発して、ついに、高感度化を実現したのである。  
その間、感度の上昇のみを追求するだけでなく、粒状性やシャープネスといった画質に大きく影響する要素についても改善を続けてきた。とりわけ、1971年(昭和46年)以降広く使用された“フジカラーネガティブフィルム”の感度は、いずれも露光指数100のフィルムであったが、“A250”は、それらの2.5倍の高感度でありながら、粒状性・シャープネスとも十分実用可能な優れたものであった。高感度フィルムの利用によって、その場の明るさをそのまま利用して撮影することが可能になり、周りの人などに気付かれず、ドキュメンタリータッチでリアルな映像が得られる。  
また、セット撮影でも、レンズの絞り込みによるシャープな画像描写が可能で、動きの激しいアクション撮影も容易になるなど、映像表現の拡大につながる大きな効果があった。  
“A250”は、“フジカラーネガティブフィルムA”と同じ現像処理が可能で、かつ、世界中どこでも現像できるワールドタイプであり、また、さらに感度を優先する場合は、増感現像によって超高感度フィルムとしても使用できるなどの特長をもったものである。  
当社が公式発表に先立ってデモンストレーション映画の製作を開始したときには、映画業界から、早くテストしたいとの要望が出るなど大きな期待が高まった。“A250”発売と同時に、テレビのコマーシャル分野では、多数のCFに使用され、また、NHKでは、海外取材の特別番組「シルクロード」の撮影などにも使用された。  
劇映画分野では、東宝創立50周年記念映画「海峡」をはじめ、松竹の「疑惑」や東映の「誘拐報道」など数多くの作品に採用された。その他、短編文化映画にも使用された。また、海外でも“A250”は高く評価され、米国や西ドイツ、そしてフランスなどの劇映画に幅広く採用され、特に西ドイツ映画超大作「Uボート」は、1982年(昭和57年)1月、日本でも封切られ、大ヒットした作品である。  
米国アカデミー科学技術賞に輝く  
1982年(昭和57年)3月21日、ハリウッドに近いビバリーヒルトンホテルにおいて、1981年度米国アカデミー賞の科学技術部門の授与式が行なわれ、アカデミー会長フェイ・カニン女史(Mrs.FayKanin)から当社大西社長にアカデミー科学技術賞(AcademyAwardofMerit)として金色に輝くオスカー像が授与された。米国映画芸術科学アカデミーは、毎年その年に製作された作品の中から、最優秀映画賞のほか、最優秀監督賞・最優秀主演男優賞・最優秀主演女優賞などを選出するとともに、映画界の発展に貢献した学問や技術に対してアカデミー科学技術賞を贈っている。アカデミー賞は、映画人にとって最高の権威であり栄誉であるのに対し、アカデミー科学技術賞は、映画界に寄与した科学的発明・発見や技術上の業績に贈られる賞である。  
当社が世界に先駆けて開発した“フジカラーネガティブフィルムA250”が最高の栄誉であるアカデミー科学技術賞に選ばれ、オスカー像が贈られたのである。  
「富士フイルムの開発した映画用高感度カラーネガフィルムは、映画監督やカメラマン、そして製作者に新しいレベルの芸術的・技術的・経済的効果をもたらしました。映画製作上大きな前進をもたらしたものといえます……」とアカデミー会長があいさつを述べた。この受賞式の模様は“A250”で撮影され、3月29日最優秀映画賞などの授賞式の会場で映写され、生中継で、テレビカメラがそのスクリーンをクローズアップして全米に放映した。また、翌日のニューヨークタイムスやロサンゼルスタイムス、そしてシカゴトリビューンの三大紙に全ページの広告を行ない、当社の技術を訴え、その信頼性を強調した。  
さらに、“A250”は、1982年(昭和57年)9月、米国テレビ芸術科学アカデミーからエミー賞(技術賞)を受賞し、アカデミー科学技術賞に続いて、高い評価を受けた。  
ロングライフシステム−画像保存性の大幅改良  
1983年(昭和58年)4月、従来の映画用フィルムよりさらに画像の保存性などを大幅に改良し、あわせて、世界の主流現像処方になる無公害の過硫酸塩漂白処理適性をもたせた“フジカラーネガティブフィルムA”(タイプ8511、タイプ8521)と“フジカラー高感度ネガティブフィルムAX”(タイプ8512、タイプ8522)、および“フジカラーポジティブフィルムLP”(タイプ8816、タイプ8826)の3品種(いずれも35mmおよび16mmの両サイズ)をロングライフシステムとして発売した。  
“フジカラーネガティブフィルムA”は、感度も従来の露光指数100から露光指数125にアップし、また、色再現性を改良し、画像保存性を大幅に向上させたもので、超微粒子・シャープネスの良さで内外の映画やテレビのCM撮影など、数々の作品に使用された。  
一方、“フジカラー高感度ネガティブフィルムAX”は、先進の高感度技術により、感度を露光指数320にアップさせ、撮影領域と映像表現の拡大に威力を発揮し、また、暗部の粒状性の改善とシャープネスの向上を図り、しかも“A”と同様、画像保存性を大幅に改良したものである。“フジカラーポジティブフィルムLP”も画像保存性やカラーバランスなどを一層改良したものである。  
これら、画像保存性を大幅に向上したカラーネガフィルムとカラーポジフィルムのロングライフシステムは、映画業界、とりわけ映像製作に携わる監督をはじめ、カメラマンやプロデューサーなどから自己の創造した映像芸術の長期保存を可能にした意義あるものとして歓迎された。また、実際の作品としても次々にクランクインされ、例えば、東宝・キネマ旬報社作品「ヨーロッパ特急」、東映作品「白蛇抄」には全編“AX”が使用され、その他、東宝作品「居酒屋兆治」、松竹作品「迷走地図」などの話題作は、“A”を主体に、“AX”を併用して完成されたものである。  
また、“AX”は、“A”と同様に海外にも輸出され、多数の映画製作に使用されている。
省力化、エレクトロニクス化の進展する印刷製版分野

印刷製版業界で技術革新が一段と進行する中で、1979年(昭和54年)11月、明室タイプ密着用フィルム“フジリスUVコンタクトフィルム(KU)”を発売し、その後もホワイトライトシステム用フィルムの品種整備を行なう。1982年(昭和57年)には、迅速リス現像処理“SuperHSLシステム”を、翌年には、明室処理専用の迅速現像処理“FSLシステム”をそれぞれ発売する。この間、明室タイプの“フォトマスクメーキングシステム”を発売し、マスク作業の大幅な合理化を実現する。さらに、PS版の高感度化を進め、“FNH”を開発する。また、1982年(昭和57年)8月、電子写真方式によるダイレクト刷版“ELPシステム”を発売し、軽印刷分野に導入する。
印刷製版システムにおける技術革新  
印刷製版業界では、1980年代に入って、コンピューター化・エレクトロニクス化に伴う技術革新が、次のように急ピッチで進行してきた。  
(1)製版フィルム処理の迅速化と明室化  
製版工程へのエレクトロニクス技術の導入による高能率化に伴って、フィルム処理スピードの迅速化の要請もますます強くなり、また、フィルム取り扱いの明室化が急速に進んできた。  
(2)カラースキャナーの全盛と多様化  
ドットジェネレータータイプのカラースキャナーの普及が進み、スキャナーの機能向上、すなわち、スピードアップや大型化・インテリジェント化などが進展し、また一方、廉価タイプのカラースキャナーやモノクロ専用網かけスキャナーも登場してきた。  
(3)レイアウトスキャナーシステムの登場  
カラー製版工程において最も人手・時間・材料を必要としている工程は、貼込み・合成・修正の作業であり、1970年代の後半から、この工程をすべてコンピューターによる画像処理に置き換えて合理化することを目的として、レイアウトスキャナーシステムが開発されはじめてきた。  
(4)エレクトロニクスの文字組版への活用  
1980年代に入って、ワードプロセサーの入力機としての利用が普及しはじめ、また、小型低価格電算写植機も開発され、電算写植機は急速に増加してきた。また、全ページの組版・レイアウトをコンピューターを用いてトータル的に行なうフルページネーションも登場してきた。  
(5)高感度PS版の導入  
1970年代に入って、電子写真あるいは銀塩写真方式によるダイレクトプレートメーキングシステム、あるいはカメラプレートメーキング、プロジェクションプレートメーキングなど、新しいシステムが種々開発され、軽印刷・社内印刷分野などに実用化されてきた。  
このほかにも、版下(製版に適するように作られた文字・図形などの原稿)作成の自動化や色校正システム、また、水なし平版の商品化など、印刷製版の各分野で急速に技術革新が進んでいる。  
このような情勢の中で、業界では、経営環境の変化と技術革新に対応できる企業体質を推進するために、1980年(昭和55年)から第2次構造改善計画をスタートするとともに、引き続き、自動化・工程合理化・省材料化の方向が進められてきた。  
当社では、この技術革新のテンポと業界の動向に対応して、市場のニーズを的確に盛り込んだ商品開発をタイミングよく進めるため、1982年(昭和57年)11月、印刷システム開発部を新設し、また同時に、グラフィックアーツ部を印刷システム営業部と改め、マーケティング体制の強化を図った。  
製版工程の処理の明室化  
製版工程のうち、撮影・分解工程では、ダイレクトスキャナーや製版カメラの自動露光制御装置によって、効率化・迅速化が進む一方、刷版工程でも、PS版と自動処理化の普及により、工程の標準化・省力化・自動化が進んだ。両工程の中間にある密着返し・貼込みなどの集版工程では、機械化しにくく、手作業が主流であり、そのうえ、一つの版を完成するのに十数回も密着返しを繰り返さなければならないケースも少なくない。そうした複雑で細かい作業を照度の低い所で行なうと、指示書の読み違いやマスクのかけ間違い、そしてゴミ・汚れの見落しなど、ミスの発生機会が多くなるので、白灯下の明るい部屋で作業ができるフィルムの開発が強く要請された。  
この要請に対応して、1979年(昭和54年)11月に、白色光(ホワイトライト)下で作業ができる密着返し用フィルム“フジリスUVコンタクトフィルム(KU)”を発売した。  
“KU”は、紫外線には感光するが可視光にはほとんど感光しないように、可視光を吸収する染料の添加や減感剤などの開発により、可視光域の感度を大幅に低下させ、明室処理を可能にしたものである。  
この“フジリスUVコンタクトフィルム(KU)”を使用する明室処理システムを“ホワイトライトシステム”と名付けた。このホワイトライトシステムは、作業時間の短縮や失敗の減少など、返し作業が明室で行なえる効果が非常に大きく、併せて、間仕切りが不要となり、スペースの有効活用が図れ、作業進行もひと目で確認できるなどの長所が認められ、急速に普及した。  
その後、このホワイトライト用“フジリスUVコンタクトフィルム(KU)”を改良し(名称も“フジリスコンタクトフィルムKU−S”と変更)、また、用途に応じた品種の整備を行なってきた。  
1981年(昭和56年)9月、網版に文字を入れるなどの重ね焼きに適する“フジリスコンタクトフィルムKU−H”を、翌1982年(昭和57年)9月、世界で初めて網階調が変えられる調子可変タイプの同“KU−V”を、さらに同年10月、複製用“フジリスデュープリケーティングフィルムDU”および文字線画修正のはく離用“フジリスストリッピングフィルムSU”を、それぞれ市場に導入した。引き続き、1983年(昭和58年)10月、“KU−S”の性能をグレードアップし、一段と高い作業性を実現する明室フィルム“フジリスコンタクトフィルムKU−L”を、翌1984年(昭和59年)1月には、網ネガ・線画ネガからの版下作成に最適な明室ぺーパー“フジリスコンタクトペーパーKU−100WP”および樹脂版焼付適性のよい“フジリスコンタクトフィルムKU−V100M”を、それぞれ発売し、用途に応じた高品質の写真感光材料を整備して、作業効率の大幅な向上を図った。  
“SuperHSLシステム”の開発  
製版工程の高品質化とフィルム現像処理の安定化を目指して、1977年(昭和52年)、“富士フイルムHSLシステム”を開発したが、その後も引き続いて、現像処理時間を短縮するシステムの研究を進めてきた。そして、“SuperHSLシステム”を開発し、1982年(昭和57年)9月から発売した。  
“SuperHSLシステム”は、品質劣化を起こすことなく、現像処理時間を大幅に短縮することを目標としたもので、新たにAID技術(ActivatedInfectiousDevelopmentTechnique、高活性伝染現像技術)を開発し、この新技術を用いて、伝染現像効果が活発で、なおかつ安定性の高い現像液を商品化して、この課題を解決した。  
このシステムは、これまでのフィルムや現像設備がそのまま使用でき、現像時間は従来よりも40%短縮して60秒とすることができ、製版作業の生産性と作業効率の向上に寄与することができた。  
なお、1982年(昭和57年)11月には、新たにSuperHSLシステム専用で、従来のプロセサーの2倍の処理能力をもつ自動現像機“富士製版フィルムプロセサーFG660”を発売した。これは、マイクロコンピューターを搭載し、リスフィルムのそれぞれの品種に対応して最適な処理が行なえるよう、処理時間や処理温度・乾燥温度、そして補充量などをCRT画面との対話を通して設定でき、現像液を自動的に管理できるようにしたもので、ユーザーのプロセサー管理に多くのメリットをもたらした。  
“FSLシステム”の開発  
密着返し作業の明室化が進む中で、フィルム処理の迅速化・安定化が強く望まれてきた。これらのニーズに応えるため、処理スピードの速い新しい現像処理システムの研究を行ない、1983年(昭和58年)1月、“富士フイルムFSLシステム”を開発し、発売した。  
“FSLシステム”は、新現像処方と特殊な添加剤および画像識別作用を一段と高めるIMD技術(Image Discrimination Technique)を基に開発したもので、明室用コンタクトフィルムを対象とし、キレのよいシャープな仕上がりの高品質を実現し、現像時間も20秒というスピードで安定した処理が可能になった。このシステムは、明室コンタクトフィルム群と新しい現像剤“FSL−1”および自動現像機“FG660F”からなるが、それぞれ既存のシステムとの互換性をもち、既存の自動現像機にFS−1現像剤を入れるだけでも“FSLシステム”として使用できる。  
当社が独自に開発したこの“FSLシステム”は、高画質で極めて迅速かつ安定に処理できる画期的なシステムとして、市場で好評をもって迎えられ、前述した“SuperHSLシステム”とともに、1983年(昭和58年)2月に、日本印刷学会技術賞を受賞した。  
“FSLシステム”とホワイトライトフィルム群との組み合わせによって、密着返し作業は、完全に明室化と迅速化を実現できた。  
フォトマスクメーキングシステムの開発  
密着返しの集版作業は、製版工程の中でも極めて複雑で、多くの人手を要した。特に、画像の合成や文字・レイアウトの多様化などには、マスク版(必要な部分だけを露光し、不要部分を被覆するように切り抜いた型版)を必要とし、かねてから簡易にできるマスク作成システムの要求が強かった。マスク作成作業の合理化実現のため、1981年(昭和56年)5月、明室処理の感光性はく離タイプの“富士フォトマスクメーキングシステム”を開発した。このシステムは、“富士フォトマスクフィルムMA−100”、“富士フォトマスクフィルム用プロセサーFGP600”および“富士フォトマスクフィルム用現像剤PD−1”で構成されている。  
“フォトマスクフィルムMA−100”は、PETベース上にはく離層があり、その上に感光層が塗布されている。版下から作られたネガフィルムと密着し、水銀灯で露光し、現像処理すると、露光された部分が溶解してなくなる。さらに、マスクを必要としない部分があれば、これをはく離することもできるので、短時間のうちに容易にマスク版ができるシステムで、マスク作業の大幅な合理化が実現した。  
高感度PS版“FNH”と軽印刷市場向け“FLPシステム”の開発  
版下から直接刷版をつくるダイレクト刷版では、原稿から直接に必要な大きさに縮小拡大して刷版に焼き付けなければならない。そのために、レンズを通して焼付けをするので、ダイレクト製版で使用される刷版用のPS版は超高感度であることを必要とする。これに応えて開発したのが、1981年(昭和56年)12月に発売したネガタイプ超高感度PS版“FUJIPS−PLATEFNH”である。  
“FNH”は、密着用リスフィルムとほぼ同等の感度、つまり通常のPS版の約1万倍の超高感度を達成したPS版であり、長年蓄積された写真乳剤技術と刷版開発技術により時代の流れを先取りした画期的なプレートである。  
一方、軽印刷の分野でも、近年、ダイレクト製版方式がその製版材料の割安さと取り扱いが容易なため、広く普及してきた。  
この急成長する分野に焦点をあわせ、これまで電子写真罫書き装置“EPM”の開発や中央研究所での基礎研究で培われた電子写真技術を基に、ダイレクト製版システムの開発研究を進めた。そして、VSC技術(VoidSpaceControlTechnique、感光層内空間調整技術)、CDC(ChargeDirectingComplex、複合荷電調合剤)などの新技術を開発し、“富士ダイレクトプレートメーキングシステムELPシステム”を完成し、1982年(昭和57年)7月に、東京晴海で開催された「伸びゆく軽印刷展」で発表し、翌8月から発売した。  
この“ELPシステム”は、富士全自動電子製版機“ELP−280”と直接印刷版となるマスターぺーパー“富士ELPマスター”、処理薬品(トナー・エッチ液・クリーナーなど)で構成される。マスターぺーパーは、耐水加工紙の支持体に酸化亜鉛や樹脂、そして増感色素からなる感光層が塗布されている。  
ELPマスターの感光層は、酸化亜鉛樹脂分散層を用いているが、新しいVSC技術により、高感度で汚れにくい高品質の画像をバランスよく実現することが可能となった。  
ELPトナーについても、従来の湿式現像方式では達成できなかった画質の向上と高耐刷性を実現させるために、CDCを開発し、実用化に成功した。  
これらの新技術により、“ELPシステム”は、ダイレクト刷版用として、従来のマスター以上の高画質と3、000枚以上の耐刷力の特長をもつことができた。  
その後も引き続き、軽印刷業界の高品質化・高付加価値化・高生産性の要求に応える2種類の新製品を開発し、1983年(昭和58年)7月、発表した。  
その一つ、“富士全自動電子製版機ELP404V”は、マイクロコンピューターの内蔵により、数々の自動制御機構を備え、2種のロールマスターを自由に選択できる高速自動変倍製版機であり、同年10月発売した。いま一つは、同年11月に発売した“富士ELPMARKIIマスター”である。“MARKIIマスター”は、支持体にWPペーパーを用いたことが大きな特長で、ELPマスターを大幅に上回る1万枚以上の高耐刷力と優れた寸度安定性・画像再現性を備えた新しいタイプのマスターである。
磁気記録材料事業の大飛躍
急伸するビデオカセットテープ市場に対し、1982年(昭和57年)、“フジビデオカセットスーパーHG”を、また、翌1983年(昭和58年)には、同“スーパーST”を発売し好評を得る。この間、コンパクトビデオカセットテープの発売、放送局のENG・EFP化に対応した専用テープの開発も進める。オーディオテープでは、1983年(昭和58年)に、カーステレオ専用カセットテープを開発、また、コンピューター用テープの高性能化を図る。フロッピーディスク市場に対しても、本格参入を目指し、“FDシリーズ”・“MDシリーズ”を開発する。一方、生産面では、ビデオテープ専用工場を建設して、月産700万巻体制を確立、また、フロッピーディスクの生産体制も整備する。
ビデオカセットテープ“スーパーHG”の誕生  
1970年代後半になって登場したベータ方式とVHS方式の二つのカセット方式1/2インチホームビデオは、新しい映像システムとして急速に普及し、それに伴って、ビデオカセットテープの需要も急増した。1978年(昭和53年)に、ビデオカセットテープの自社ブランドでの販売を開始、翌1979年(昭和54年)には、“フジビデオカセットHG”を発売、VHS、ベータ両タイプのラインアップを整備し、内外市場で確固たる基盤を築いてきた。  
1980年代に入って、ホームビデオは、本格的な普及期を迎えた。1983年(昭和58年)には、その年間生産台数は1、200万台を記録し、カラーテレビをしのぐ大型商品に成長した。それに伴って、ビデオカセットテープの需要も激増し、一時は生産が間に合わない状況を現出した。このため、各メーカーとも一斉に設備を増強し増産体制を整えた。当社も、1980年(昭和55年)、小田原工場のホームビデオテープの生産能力を月産100万巻から150万巻に引き上げたが、それでも生産不足をきたしたので、小田原工場内にビデオテープ専用工場を建設し、増産に対処した。  
この間、製品の性能・品質の向上に努め、1982年(昭和57年)には、S/N比を向上させるとともに、走行性にも優れた第2世代のビデオテープ“フジビデオカセットスーパーHG”を開発した。  
ビデオテープの映像の美しさと映写耐久性を向上させるには、S/N比と走行性をともにアップすることが必要であるが、S/N比を上げるためにテープの平滑性を高めると走行性が落ちるというように、両者は互いに相反する性質であり、このことがテープの性能アップの一つの技術的な壁となっていた。  
この障壁を突破するための研究を進め、「DBコーティング技術」という複合技術を開発し、S/N比・走行性とも優れた第2世代のビデオテープ“フジビデオカセットスーパーHG”を生み出した。このDBコーティング技術の中には、次のような技術が織り込まれている。  
(1)超薄層同時多層塗布技術  
0.3ミクロンから0.7ミクロンの超薄膜層を同時多層塗布する技術  
(2)デュロバック技術  
耐久性・信頼性に優れた専用のバックコート技術  
(3)ニュースーパーファインベリドックス  
スーパーHGのために開発した高密度磁性体  
(4)超平滑ベース  
高S/N比を実現するために特別に開発した超平滑ベース  
(5)超分散配向技術  
超微粒子磁性体を高密度で均一に分散し、規則正しく配列し、さらに集積度をあげながら平滑にする技術  
このような当社ビデオテープ製造技術の粋を集めて誕生した“スーパーHG”は、従来の“HG”をはるかに超える次のような特長を有していた。  
(1)新磁性体採用によるS/N比の向上  
(2)新DBコーティング技術によるカラーS/N比の向上と画質の60%アップ  
(3)VEリーダー(帯電防止リーダーテープ)とデュロバックによるドロップアウトの追放  
(4)当社独自のSDH(スーパーヘビーデューティ)バインダーとデュロバックが生む高耐久性・高信頼性  
(5)オーディオS/N比の音質重視設計  
(6)紙粉の出ない、出し入れ容易な白いポリプロケース  
(7)HGタイプと同価のため、コストパフォーマンスが一段と向上  
“フジビデオカセットスーパーHG(VHS用)”は、1982年(昭和57年)3月、T−120(120分)・T−100(100分)・T−80(80分)・T−60(60分)・T−40(40分)・T−30(30分)・T−20(20分)の7種類を一斉に発売し、3倍モードで1時間ごとの各サイズをそろえて多様なニーズに即応できる態勢を整えた。また、VTRをめぐる新しい動き、すなわち、より高画質を目指した新しいテレビや4ヘッドビデオデッキの登場、あるいはノイズレスビデオの開発、3倍モード録画の一般化に対応でき、3倍モードで見ても、あるいは気候的に厳しい条件下で使用しても、ダビングでも、鮮明な美しい画像が得られる。その意味で“HG”をはるかに超えた“スーパーHG”の名にふさわしいテープであった。  
“スーパーHG”の海外への紹介は、1982年(昭和57年)1月、米国ラスベガスで開催された家電関係では世界最大規模のコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)で行なった。海外市場には“HG”は未導入であったが、この“スーパーHG”で、一気に他社品をしのぐ製品を発表し、大きな反響を呼んだ。  
この“スーパーHG”の輸出も欧米向けを中心に極めて好調に推移し、わが国からのハードの輸出急伸とも相まって、受注量は急増し、しばしば生産が追いつかない状況を現出した。  
なお、ベータタイプの“フジビデオカセットスーパーHG”は、1983年(昭和58年)2月に発売した。  
また、長時間録画に対するニーズが高まったのに対応して、1983年(昭和58年)10月に、長時間ビデオテープ“フジビデオカセットスーパーHGT−160(VHS用)”を、また、翌11月に、同“スーパーHGL−830(ベータ用)”を、それぞれ発売した。録画・再生時間は、3倍モードで、T−160は8時間、L−830は5時間が可能である。  
この新製品は、“スーパーHG”に採用したDBコーティングに加え、今回特に開発した超平滑デュアルテンシライズベースを採用、高品質で耐久性・信頼性により優れたテープとした。  
なお、ビデオテープの高画質化時代の幕開けをつげた“スーパーHG”の開発に対して、日本化学会から、当社の開発担当の技術者に対し1983年度(昭和58年度)化学技術賞が授与された。  
ビデオカセットテープ“スーパーST”シリーズの発売  
現在のビデオテープ需要の大半を占めるスタンダードタイプに対するユーザーの要望が、「画質の良さ」に加えて、「何回も使えて長持ちするテープ」「繰り返し使っても画質がおちないテープ」「トラブルがなく安心して使えるテープ」という耐久性の要求が強くなっていることに応えて、  
(1)耐久性に優れたニューHD(HeavyDuty)バインダー  
(2)タフで滑らかな新開発ST(Smooth&Tough)ベース  
(3)超微粒子で再生減磁が少ないニューファイングレインベリドックス磁性体  
(4)強いテープを保証する独自の下塗層  
などの新技術を駆使した“フジビデオカセットスーパーST”を開発した。1983年(昭和58年)10月から、“スーパーST(VHS用)”は、T−20(標準モード20分)からT−160(同2時間40分)までの6サイズ、“スーパーST(ベータ用)”は、L−125(ベータIIモード30分)からL−750(同3時間)までの7サイズのフルラインアップで、同時に新発売した。なお、ベータタイプについては、同年11月に、業界初の新サイズL−660(ベータIIモード2時間40分、ベータIIIモードで4時間の録画再生可能)を発売し、8サイズとし、ラインアップをさらに強化した。  
“スーパーST”の使用上の主な特長としては、  
(1)耐久性の大幅な向上により、繰り返して録画・再生しても、画質劣化やドロップアウトの増加がほとんどない。  
(2)高速サーチ・静止・スローモーションなど、テープ負担のかかるあらゆるモードで再生しても、常に滑らかな走行を実現し存分に特殊再生が楽しめる。  
(3)気候の変化や寒暖差など、テープにとっては過酷な条件下でも温湿度などに左右されない安定走行が約束される。  
(4)新磁性体とSTベースにより、カラーS/NやビデオS/Nをそれぞれ0.5dBアップし、標準モードはもちろん、長時間モードでも十分美しい画像が再現される。  
などがあり、好評をもって迎えられている。  
コンパクトビデオカセットテープの発売  
家庭用VTRが、新しい映像システムとして急速に普及し、それに伴って、ビデオカメラで自ら撮影し、それを再生して楽しもうという人が増えるにつれて、より小型のコンパクトビデオカセットテープを求める声が強くなってきた。  
このような要望に応えて、VHSグループ各社は、1982年(昭和57年)5月、現行VHS方式と互換性のあるVHSコンパクトビデオカセットの規格を取り決め、発表した。これに基づいて、VHSコンパクトビデオカセットレコーダーに使用するビデオカセットテープを開発し、同年6月、“フジコンパクトビデオカセットスーパーHGTC−20(VHS用)を発売した。  
これは、ビデオカセットを従来の4分の1に小型化し、20分の録画・再生ができるようにしたもので、タバコの箱を一回り大きくした程度の大きさで、ビデオカメラの小型化を可能とし、手軽にポータブル撮影を楽しめるものとして、ビデオの活用範囲を広げていった。  
ENG、EFP向けビデオカセットテープの発売  
テレビ番組の制作やニュースの取材には、従来、16mmテレビ用フィルムが用いられてきた。当社は各種テレビ用フィルムを製造し放送局に納入しているが、フィルムの場合は、撮影後現像処理工程を必要とし、編集にも多少手間がかかるのはやむを得ない。しかし、取材後、寸刻を争ってオンエアするニュースでは、そのスピードが問題となる。このような現場の要請に対応して、ビデオテープがテレビ番組の制作やニュースの取材に用いられはじめ、1970年代半ばごろから急速に普及してきた。  
ビデオテープによるニュース取材、あるいはビデオテープによるテレビドラマの制作システムを、ENG(エレクトロニック・ニューズ・ギャザリング)、あるいはEFP(エレクトロニック・フィールド・プロダクション)という。初期のテープは2インチ幅であり、その後、据置型の3/4インチテープ使用のものや1インチテープのものも開発されたが、カメラや再生装置も大型で、持ち運びには不便なため、その用途も限られていた。しかし、ホームビデオ用に開発された1/2インチビデオカセットならば、カメラも小型化することができ、ニュース取材や屋外での番組の制作も容易になる。  
このような要請に応えて、当社はプロフェッショナルユースのための1/2インチビデオカセットテープの開発に取り組み、1983年(昭和58年)4月、“フジビデオカセットスーパーHGプロフェッショナルタイプH421(VHS用)”と同“H321(ベータ用)”を発売した。  
これら二つの製品は、すでにホームビデオ用に開発していた“スーパーHG”を基礎に、プロのニーズに耐えうるようにドロップアウトの低減や過酷な使用環境下でも走行安定性を損なわないように性能のアップを図ったもので、放送関係者の間で好評を博し、内外の放送局に広く使用されている。  
なお、当社では、このほかに、1982年(昭和57年)4月に3/4インチの“フジビデオカセットH520”を、1983年(昭和58年)7月には“フジビデオカセットH521”を、それぞれ発売し、ENGやスタジオ制作、そして電子編集用に最適なビデオテープとして、プロの厳しい要求に応えている。特に、このテープに採用されているファイングレインベリドックス磁性体とUバインダーは、鮮やかなカラーS/Nを実現して、繰り返しのダビングに威力を発揮しているほか、少ないドロップアウト・少ないヘッド摩耗・少ない転写、そして優れた走行安定性などの特性が好評を博した。  
オーディオカセットテープの整備  
一方、オーディオカセットテープの分野では、“FXシリーズ”、“レンジシリーズ”に次いで、1980年(昭和55年)2月、“ニューフジカセット”(DR、ER、UR、SR)を発売し、市場浸透作戦を進めてきたが、1981年(昭和56年)10月、高級音楽用カセットテープ“フジカセットFR−I”(ノーマルポジション用)、“フジカセットFR−II”(クロームポジション用)を発売した。“FR−I”・“FR−II”は、新開発の高性能磁性体を使用し、新しい製造法と新しい表面処理技術から生まれた高感度(ハイセンシティビティ)カセットテープであった。  
その後、1982年(昭和57年)には、ニューフジカセット“DR”、同“ER”の性能アップを図り、4月に“フジカセットニューER”を、6月に“フジカセットニューDR”をそれぞれ発売した。  
さらに同年7月には、第2世代のメタルカセットテープ“フジカセットFRMETAL”をFRシリーズに加えた。これは、従来、力感・量感といったパワーや高域特性が重視されていたメタルテープのイメージを一新して、高域だけでなく、中域や低域にまでフラットに伸びる周波数特性と全帯域にわたって安定したエネルギーバランスを確保することに成功したテープで、FRシリーズの中で最高のダイナミックレンジを有していた。したがって、スケールの大きな豊潤な原音を忠実に再生し、各楽器の微妙な表現をち密に再現することができ、高級オーディオマニア層に好評をもって迎えられた。  
カーステレオ専用テープ“GT−I”の発売  
世界で初めてのカーステレオ専用オーディオカセットテープ“GT−I”を1983年(昭和58年)7月、発売した。  
自動車というカセットの使用環境からいえば過酷な状況を見直し、車内各部、特に、ダッシュボード上での温度実測データ(夏期90℃近くなる場合があり、最高104℃の実測例もある)をもとに、種々の条件を設定評価して開発された。  
基本設計は、110℃でも耐えられるタフなもので、新開発のHDメカニズム(耐熱ケース、熱収縮率を抑えたHDべース、高温下での磁性層の強度と安定性を向上させたHDバインダーの総称)に先進のサウンド化技術としてM&Mプロセス(テープの長さ方向に、規則正しく、かつ、高い集積度で配向する製造技術)を加え、ヘビーデューティ特性と電磁変換特性との相反する製造条件を克服し、真夏の車内でもケースの変形をなくし、テープ性能の劣化を抑え、優れた音質(特に高域での音の良さ)と走行性を実現し好評を得た。  
また、ケースにも、ノンスリップ機構、AB面の識別機能などを追求した独特の工夫がなされており、その音楽特性と合わせて、カーステレオ以外のユーザーにも広がりをみせている。  
フロッピーディスクヘの本格参入  
レコード盤状のポリエステルベース上に磁気記録材料を塗布したフロッピーディスクは、1970年(昭和45年)、米国のIBM社によってディスク装置が開発され、1972年(昭和47年)、IBM3740データエントリーシステムに採用されてから急速に利用されはじめた。  
テープでは、必要な情報を取り出すのに必要な個所までテープを走行させなければならないのに対し、フロッピーディスクは、円盤上に同心円上で情報が磁気記録として収録されているので、磁気ヘッドが移動することにより必要な情報をより速く取り出すことができる。このため、わが国でも、1974年(昭和49年)ごろから、小型電子計算機・パソコン・ミニコンなどにフロッピーディスクが用いられるようになり、その国産化と低価格での供給が求められた。  
このような要請に応え、1977年(昭和52年)2月、国産初のフロッピーディスク“富士フイルムフロッピーディスクFD3000”を発売した。  
その後、ワードプロセサーなどの登場、パソコン・ミニコンの普及などに伴って、それらの情報記録媒体としてフロッピーディスクが用いられるようになり、需要も急増していった。1982年(昭和57年)5月、フロッピーディスク市場への本格参入を目指し、“富士フイルムフロッピーデディスクMD”シリーズおよび同“FD”シリーズを発売した。  
“MD”シリーズはディスク直径5.25インチ、“FD”シリーズは同8インチで、それぞれフルラインアップを準備し、各種の使用目的に合わせて適切な製品を選べるようにした。  
また、“FD”シリーズには、誤って書き込むのを防止するためのライトプロテクトノッチ付き品をラインアップに加えた。  
“FD”・“MD”シリーズは、耐久性・耐候性・互換性に優れていること、品質性能が安定しエラーがないこと、取り扱いが容易なことなどを目標に開発した。特に、当社独自の技術によるRDバインダーシステム(ReliableandDurableBinderSystem)を採用することにより、タフネスと安定した性能を備えたフロッピーディスクとなり、厳重な出荷検査と厳しい寸法仕様管理を実施し、機能性や取り扱い性能の向上を図っている。  
1983年(昭和58年)、国内市場でのフロッピーディスク需要は、8インチと5.25インチ合わせて2、000万枚を超え、対前年伸び率も50%を上回る成長率を維持していた。  
一方、当社の海外向け販売は、1983年(昭和58年)初めから欧州に輸出開始、また、日本のおよそ10倍の市場規模をもっている米国に対しても、順次当社ブランドによる本格的進出を進め、輸出比率も急速に上昇した。  
その後、新たに登場した小型3.5インチフロッピーディスクシステムも、装置のコンパクト化と相まって、急速に伸長していった。  
次世代高密度ビデオテープ−新技術の開発  
ビデオテープの磁性体は、酸化鉄から二酸化クロムヘ、そしてベリドックス、スーパーファインベリドックスヘと発展してきた。より進んだビデオテープの開発に取り組み、1981年(昭和56年)2月、次世代のビデオテープの二つのタイプ“メタルテープ”と“蒸着テープ”を開発し、発表した。  
メタルビデオテープ“MVタイプ”は、すでにオーディオカセットテープに用いられているメタル磁性体を発展させ、ビデオテープ用のメタル磁性体として新たに開発したもので、これを用いて、高密度記録に適したビデオテープを試作、ハードメーカー各社にサンプルを提供している。  
一方、蒸着ビデオテープ“VVタイプ”は、真空中で強磁性金属の原子を飛ばしてテープ上に固定する真空蒸着法によるビデオテープで、この方法によれば、従来の塗布法では不可能な極めて薄いテープをつくることができ、上述の“MVタイプ”よりも、長時間対応のテープを実現することが可能である。  
当社が開発したこれら二つのタイプは、次世代の高密度ビデオテープあるいは8ミリビデオシステムを実現するうえで欠かせないもので、各ハードメーカーと協力しつつ実用化研究が進められた。  
なお、当社では、製造設備としても十分使える蒸着テープのパイロットプラントを1983年(昭和58年)に完成させ、このプラントによる製品開発を進めた。  
また、より軽量かつ小型コンパクト化が求められている次世代のビデオテープレコーダーとしての8ミリビデオについては、1983年(昭和58年)3月に8mmビデオ懇談会にて事実上合意された規格により、使用される磁気テープについては、メタルテープと蒸着テープが併用されることとなった。信頼性テスト・品質テストならびに量産化に向けて諸準備を進め、1983年(昭和58年)6月に、他社に先駆けて、サブリファレンステープの供給を開始した。  
1984年(昭和59年)秋に西独ケルンで開催されるフォトキナには、新たに開発したカメラ一体型8mmVTR“フジックス−8”と8mmビデオテープ“フジックス−8ビデオカセット”を出展した。  
一方、磁気記録装置の小型軽量化対策の一つとして期待されている「垂直磁化方式」の技術については、真空中スパッター法(被覆させようとする材料、例えばコバルト・クロム合金の板に、荷電したアルゴンイオンを衝突させて、コバルト原子・クロム原子をはじき出し、これをベースに受けて薄層をつくる方法)や塗布法などにより研究開発を進めた。垂直磁化方式では、磁性材料の膜に対して垂直、すなわち厚さ方向に磁化するもので、従来からの磁化方法である面内磁化方式に比較して、10倍・20倍といった高密度記録を達成できるところから、コンピューターやビデオ、そしてフロッピーディスクなど、一層軽量コンパクト化が求められる分野での利用が期待された。  
今後の高密度記録材料の開発には、ハードとメディアのシステムとしての研究が不可欠であり、特に、磁気テープや磁気ディスクと直接コンタクトする磁気ヘッドは大切で、この面の研究も強化している。  
このようにして、新製品の導入や新技術の開発に向けても常に積極的な姿勢で取り組み、磁気記録材料メーカーとして質・量ともに大きく飛躍し、その地位を確立していった。
新規事業分野への進出
1980年代に入って、これまでの当社固有技術および基礎技術を駆使し・それらの技術を組み合わせて新規事業への進出を図る。一つは、血液検査システムである。写真感光材料、皮膜製品およびセパラックスの製造で培った技術を基礎に、リアルタイムの血液検査システム“富士ドライケムシステム”を開発する。また、DNA解析用の電気泳動膜の開発を進める。一方、エレクトロニクス技術の発展に伴い、ICやLSI製造のためのフォトレジスト(感光性耐しょく剤)分野への進出のため、米国フィリップエーハントケミカルコーポレーションと合弁で、富士ハントエレクトロニクステクノロジー株式会社を設立、新工場を建設し、事業展開を図る。
血液検査システム“富士ドライケムシステム”の開発  
先に1964年(昭和39年)、血清たん白質の電気泳動分析用フィルム“セパラックス”を開発し、臨床検査分野に進出したが、さらに進んだ検査システムの研究に取り組んでいった。そして、1980年(昭和55年)l0月、新しいリアルタイム臨床化学検査システム“富士ドライケムシステム”を開発し、技術発表を行なった。  
“富士ドライケムシステム”は、写真フィルム製造で培われた、薄膜を多層同時に塗布する技術やカラー写真の評価技術を応用して開発したもので、検査試薬および血球ろ過機能を多層フィルムにまとめたスライドとアナライザー(精密測定機)とで構成されている。患者から採血した血液(全血)をそのまま用いて、血糖やその他臨床診断に必要な項目をリアルタイムで測定することができる画期的なシステムである。すなわち、従来の分析検査システムでは、患者から採取した血液を静置して血清を分離するか遠心分離するかして、血球成分を取り除き、得た血清や血漿を試料として、大型または専用の自動分析装置を用いて血糖・尿素窒素などの各成分を測定している。しかし、これらの方法では、装置が複雑で高価となり、分析操作に高度の技術が要求されるうえ、検査結果を得るまでに時間がかかるなどの問題点があるため、これらの解決が望まれていた。  
このような要請に応えて、微量の全血を直接試料とし、専門の技術者でなくても、簡便・迅速・正確に測定できる検査システムを目標に、このシステムを開発してきた。採血から検査結果が出るまで6分とほぼリアルタイム方式であるので、診療現場(ベッドサイド)での即時検査・夜間・休祭日の緊急検査などに貢献できるものと期待されている。  
このシステムは、世界で初めての全血を用いて化学分析のできる多層フィルム式臨床化学検査システムとして、発表以来、医療関係者から大きな注目を浴びてきたが、1984年(昭和59年)6月、まず“富士ドライケムシステム(GLU用)”として“富士ドライケムスライド”(GLU−W:全血用・GLU−P:血漿血清用)および“富士ドライケム1000”(グルコースアナライザー)を新発売した。GLU用とは、糖尿病の診断上重要な検査である血液中のぶどう糖を測定するものである。引き続き、さらに多数項目の検査ができるようスライドの品種整備と新型アナライザーの開発に取り組んでおり、糖尿病分野以外の多分野への拡大を目指している。  
遺伝子解析用電気泳動膜の開発  
近年、急速に脚光を浴びてきたバイオテクノロジーを支える重要な技術の一つとして、各研究機関で、組み換えDNAの研究が活発になってきた。  
科学技術庁では、1981年(昭和56年)から、このDNA塩基配列順解析法の研究を科学技術振興調整費の対象となる重要研究課題として取り上げ、推進してきた。そして、その一環として、同年11月、「DNAの塩基配列決定システムの開発」を当社を含む民間企業3社に研究委託した。すでに血清たん白質の電気泳動分析用の“セパラックス”を商品化しており、その技術の優秀性が認められるとともに、当社の保有する製膜技術・素材開発技術・評価分析技術を活用し得るものとして、研究を委託された。具体的な研究課題としては「DNA塩基配列決定用電気泳動膜の開発に関する研究」を担当することになった。  
研究の結果、製造機によって均一のものができるようになり、かつ、製造の度ごとの変動も減少した。データの再現性も良くなったほか、手作りではできなかった薄膜品の製造もできるようになり、また、泳動膜に保護カバーをつけることによって取り扱いが容易なものになった。  
開発過程における試作泳動膜の社外専門家による性能評価は極めて高く、一日も早い商品化を要望されている。  
試作に成功したのに続いて、量産化のための研究を続けており、周辺機器の開発もあわせて行なうことによって、DNA解析システムとしての完成に向かって、努力を続けた。そして、1984年(昭和59年)5月、科学技術庁から、量産化基礎技術が確立したものと認められた。  
引き続き、量産化技術を確立して、バイオサイエンスの研究開発のスピードアップのニーズに応えるとともに、今後、商品化の暁には、これを、当社がこの分野に参入する機会として生かしていく考えである。  
富士ハントエレクトロニクステクノロジー社(現富士フイルムオーリン)の設立  
エレクトロニクス技術のめざましい発展に対応し、エレクトロニクス分野への事業展開について、次の二つの面から進めていくこととしている。  
(1)当社が展開している商品分野に、エレクトロニクス技術を取り入れて一段とレベルアップしていく。  
(2)エレクトロニクス工業の素材・部品などの分野に直接進出していく。  
そして、この第2の面、すなわちエレクトロニクス関連材料分野への直接進出の一環として、米国のフィリップエー・ハントケミカルコーポレーションと提携し、合弁で富士ハントエレクトロニクステクノロジー株式会社を設立し、半導体用フォトレジスト製品の製造販売を行なうこととした。  
フォトレジストというのは、感光性耐しょく剤(露光と現像によって形成された画像が、エッチングメッキあるいは蒸着などに侵されない感光材料)のことで、ICやLSIの製造時に極めて重要な役割を果たす素材の一つである。  
ICやLSIの製造には、主として、シリコン基板上にフォトレジストを塗布し、それに紫外線あるいは電子ビーム・X線などで回路パターンを露光し、現像処理によってフォトレジストパターンを形成し、エッチングメッキあるいは蒸着などを行なうという方法がとられている。この工程を繰り返すことによって、シリコン表面層に非常に微細な多数の電気回路や電気的に必要な領域を形成する。ICの高集積化・小型化が進むに従って、フォトレジストにも、より一層高解像力が求められ、そのほかにも、感度・密着度・耐熱性・耐侵性・金属分を含まないことなど、特殊な性能が求められている。これらの分野は、当社が長年培ってきた写真感光材料製造技術やファインケミカル技術が、そのまま生かせる分野である。  
フォトレジストの製品には、照射された部分のみが現像液によって除去されるポジ型と除去されないネガ型とがあり、関連処理剤として、現像液およびレジストはく離液などがある。ICやLSIの製造のほかに、プリント配線基板や液晶の文字盤、また、微細な金属製品などの製造にも使用され、今後の市場の拡大が見込まれている。  
フィリップエー・ハントケミカルコーポレーションは、米国ニュージャージー州に本拠を置き、1909年(明治42年)創立以来の長い歴史をもち、各種写真用薬品も生産しているが、フォトレジストの分野では、米国のトップメーカーである。そして、世界各国への輸出を進めており、日本市場に対しても合弁方式での進出を図っていた。  
フォトレジストについては、当社もかねてから商品化を企画し、研究開発を進めていた。折からハントケミカルコーポレーションに合弁方式の市場進出計画の意向があることがもたらされ、早期に市場に参入するため、同社との間で交渉を開始した。当社が、写真感光材料の製造についての高い技術力をもっており、品質管理・技術サービス・販売力も優れていることと、この分野へ参入するための強い決意とがハントケミカルコーポレーションとの合意を生むこととなり、この合弁事業契約交渉が成立した。  
そして、1983年(昭和58年)7月、両者で合弁事業契約を締結、これに基づき、当社が51%、ハントケミカルコーポレーションが49%の割合で出資し、資本金4億9、000万円をもって、フォトレジスト製品ならびに関連する製品の製造販売を目的として、富士ハントエレクトロニクステクノロジー株式会社を設立した。新会社の設立後、直ちにハントケミカルコーポレーションと新会社との間に技術譲渡許諾契約を締結、また、当社を含む三者間で、技術実施許諾に関する契約を締結した。  
これによって、新会社は、ハントケミカルコーポレーションから、フォトレジストについて、特許および従来のノウハウを含めて日本国内および環太平洋地域で独占的に製造販売するライセンスを受けた。新会社は、当面、ハントケミカルコーポレーション製品の輸入販売からスタートしたが、事業の本格的な展開を図るために、当社吉田南工場敷地内に製造工場ならびにTEC(テクニカルコミュニケーションセンター)の建設を進め、新工場は、同社静岡工場として、1984年(昭和59年)8月から稼動を開始した。  
農業用葉色測定分野への応用展開  
多年にわたる写真感光材料の技術を基礎として、新規産業分野への進出を検討する中で、カラーフィルム生産に関する測色・測光技術を農業分野に役立てることを企画した。  
稲の成育過程で、その葉の色を測定し、その色濃度によって栄養状態を観察し、その成長の度合いを定量的に診断しようとするものである。  
1976年(昭和51年)ごろから調査を開始し、1980年(昭和55年)4月、葉色測定のものさしともいうべき水稲用葉色票“富士葉色カラースケール”と種々の葉の中の葉緑素含有量を生葉を切り取らないで測定し、数値化できる“富士グリーンメーターGM1”を開発し、販売した。  
これらは、各地の大学の研究や全国の農業試験場で活用されたのをはじめ、全国農業協同組合連合会から各地の農業協同組合を経て、漸次、各地の農家でも使用された。  
その後も引き続き、日本専売公社の依頼によるタバコ用の摘葉判定用や野菜の施肥量の診断用のスケールなどを開発した。1981年(昭和56年)には、水稲用葉色票は、新しい農業技術として農林水産省の推奨を受けた。  
しかしながら、この分野は、市場規模の見通しも難しく、必ずしも当社が直接事業化することに適さない分野であり、本格的な事業化は見送ることとし、1982年(昭和57年)4月をもって、当社としての生産および販売を中止した。
経営効率化の推進
1980年(昭和55年)12月、経営戦略企画の強化と経営システムの改善効率化を一層推進するため、社長室と経営効率推進室を発足させる。1982年(昭和57年)11月には、市場構造の変化や技術革新のテンポの激しさに対応して、商品企画機能とマーケティング機能を強化するために、大幅な組織改正も実施する。また、技術革新時代に対応して、当社にふさわしいオフィスオートメーションの導入を進め、コンピューターの活用範囲もさらに充実強化し、新しいシステムを次々に完成させて、経営管理システムの向上を図っていく。こうして、新しい時代に即応したより効率的な経営を目指して着実な歩みを続けていく。
経営効率施策の推進  
これまでもその時代時代にマッチした効率的な経営のあり方を追求し、対応に努力してきたが、1980年代に入って、経営環境のめまぐるしい変化と事業分野の拡大に対応して、経営管理の効率化がより一層強く求められてきた。  
この対策の一環として、1980年(昭和55年)12月、組織改正を行ない、経営戦略企画の強化を図るべく、新たに社長室を設置するとともに、経営システムの改善と効率化を推進するため、経営効率推進室(後に経営効率推進本部と改称)を発足させた。  
経営効率推進室は、本社事務管理部門に加えて、従来の電子計算部門・物流管理部門も統合し、全社の経営効率の推進・オフィス業務の生産性向上・より効率的な物流システムの確立を目指し、全社的な業務効率化を推進する体制を敷いた。また、富士フイルムグループの結びつきをより強化して、グループとしての発展を図るための関係会社との連携の一元化および当社創立50周年記念事業の企画業務も併せて担当することとした。  
特に、関係会社に対しては、各社ごとに当社との定例的な業務会議を開催して、経営目標の一体化と経営政策の調整を図るとともに、CIを共有するグループの一員としての意識の向上あるいは当社の中・長期計画と連結する経営計画の策定を進めるなど、富士フイルムグループとしての総合力の向上を目指している。  
一方、市場構造の変化や技術革新のテンポの激しさに対応して、1980年代の新たな展開を図るため、商品企画機能とマーケティング機能の見直しを行ない、1982年(昭和57年)11月、組織改正を実施した。  
商品企画機能については、新たに商品開発推進本部を設け、これまで商品ごとに各部門に分かれていた商品企画開発業務を一本化した。同本部内に、システム開発部門・技術情報部門・工業デザイン部門・工業標準部門を置くとともに、商品化企画委員会を設け、ここを商品企画の全社的な審議推進機関とした。  
また、営業部門については、市場の変化に敏速に対応して、総合的・革新的なマーケティング活動を展開し、単に個々の商品だけでなく、システム全体を包含した営業施策を推進するため、国内営業部門について、これまでの営業第一本部・営業第二本部などの組織を改めて、フォトプロダクツ営業本部・情報システム営業部・印刷システム営業部・産業機材営業部・磁気材料営業部をそれぞれ設置した。  
また、資金の調達・運用業務をさらに効率化するとともに、ワールドワイドに資金マーケットとのコミュニケートを図るべく、財務部を設けるなどの組織改正も実施し、全社組織の強化を図った。  
コンピューター活用の推進  
1980年代に入って、コンピューターの活用も、全社の経営効率向上という目的から新たな展開を開始した。  
1981年(昭和56年)には、総合予算編成システムをベースとした販売損益シミュレーターとして「経営マクロモデル」を完成した。そのほか、工場・営業倉庫間の製品配分をコントロールする「自動配分システム」、特許情報を効率的に探し出す「画像工学特許情報検索システム」、ベンゼン核などの図形データを処理する「化合物構造検索システム」などを完成して、コンピューター適用業務に広がりを出した。  
また、コンピューター利用をさらに普及させるべく、社内の各部門で直接コンピューターの利用ができるように、ハード面では分散処理用コンピューターを各工場および東京本社に順次設置、ソフト面ではFOCUS言語を用意した。  
また、問題解決技法として“F−SPAN”(FujiFilmSystematicProblemAnalysisMethodbyNeeds、関係者の衆知を集め、全員のコンセンサスを得ながら、説得力のある解決策を講ずるための問題の整理分析とシステムの設計のための技法)を開発し、多くの職場に適用されて成果をあげている。  
1982年(昭和57年)には、漢字表示による対話型システム「総合人事情報システム」が完成し、稼動を開始した。このシステムの中核である検索ソフトは、「QING」の名称で市販し、優れた操作性とはん用性から好評を得ている。  
また、ラボの品質向上とコストダウンを目的として、開発を進めてきた「FUJITECOM」システムでは、初めてイメージ伝送技術が使われ、コンピューター活用技術の前進が図られた。  
このほか、富士宮工場感圧紙製造オンラインシステムや同在庫削減システム、そして、富士マイクログラフィックス社の部品オンラインシステムなどの合理化システムも次々に完成した。  
なお、コンピューターの活用を通じてシステム全体の改善向上を図るとともに、経営各層に対する情報システムをさらに一段と整備・拡充するために、同年11月、電子計算部をシステム管理部と改めた。  
1983年(昭和58年)になると、将来のオフィスシステム構築の第一歩として「多機能端末」の導入に踏み切ることとし、必要な対策を講じた。他方、東京本社のコンピューターは最新鋭のIBM3081Kにレベルアップし、処理能力を3倍に増強した。  
また、東京・ニューヨーク間に回線を開設、初めて海外とのデータ伝送を開始し、グローバルオンラインネットワークの構築に向けても新たな1ページを開いた。  
アプリケーションの面では、月度生産計画システム・販売計画立案支援システムなど、ディスプレイ画面との対話型システムが一部稼動を開始し、計画立案面でのコンピューター利用が一段と強化された。  
さらに、トータル在庫削減システムでは、その適用範囲をカラーペーパーやリスフィルム、PS版などにも拡大し、それぞれ効果をあげている。  
一方、IE・QC教育については、社内のほか、カラーラボおよび関連会社へも普及させ、富士フイルムグループ全体としてのレベルアップを図っている。  
今後は、事務部門でのオフィスオートメーション化の促進に加えて、製造部門における生産計画や製造作業の一層の効率化を目指すファクトリーオートメーションの推進や研究部門における研究効率の一段の向上を目指すラボラトリーオートメーションの促進を図るなど、従来にもまして革新的な課題に取り組んでいくこととしている。  
事務効率化とオフィスオートメーションの導入  
当社では、オフィス業務の生産性向上について、かねてから、コンピューターの活用により全社的なオンラインシステムの整備を進めるとともに、ファイリングシステムの導入とマイクロ写真システムの活用を進め、日常の事務の進め方をきめ細かく見直し、効率化を図ってきた。  
1980年代に入って、事務・間接部門の生産性向上の一手段として、オフィスオートメーション(OA)がにわかに脚光を浴び、各種のOA機器が開発されてきた。  
各種OA機器のハードとソフトの開発の状況に対応しつつ、事務の見直しを進め、効果のある分野ごとに個別に、当社に適したOAシステムの導入を進めてきた。  
ファクシミリネットワークの整備も進め、1980年(昭和55年)以降、営業部門・工場間・物流管理部門間・特許関係・購買取引先関係などから展開を図り、順次、国内営業関係・海外関係へと広げていった。  
また、事務効率化を推進する全社運動として、1982年(昭和57年)から翌1983年(昭和58年)にかけて、全社あげて「P−50運動」(ぺーパーレスと事務効率化運動)に取り組み、所期の成果を得た。社内会議の一層の効率化も進め、役員会議室へのビデオ会議システムの導入なども図っている。  
なお、東京本社は、オフィス業務におけるコンピューターの活用と総合的な効率化の推進姿勢が評価されて、日経産業新聞創刊10周年記念事業として行なわれた「全国先端事業所百選」に入賞、1983年(昭和58年)10月、表彰を受けた。  
同じくOA化による事務合理化の一環として、1983年(昭和58年)12月からは、主力取引銀行と当社のコンピューターをオンラインで直結し、資金の振り込みや入金情報などの迅速処理をねらいとして「ファームバンキングシステム」の導入を開始し、事務の効率化・省力化を図っている。
技術革新を先取りする研究開発体制 / 新たな研究開発課題
銀塩感光材料の研究開発力をさらに高めるべく体制を強化する一方、エレクトロニックイメージングの研究および新しい商品の応用開発センターとして、1981年(昭和56年)、宮台技術開発センターを設立する。従来の中央研究所は、朝霞研究所と改め、臨床検査分野およびバイオサイエンス関連の開発研究所とする。富士宮研究所では、従来の研究に加えて、新たに非銀塩感光材料の開発に取り組む。磁気記録研究所は、新社屋を建設し、内容を一層充実強化する。そして、各工場研究部門・生産技術開発センターも含めて、全研究部門の連携によって、映像情報の記録と処理を中心とした機材の分野において、新システムや新製品を開発していくことを目指す。
1980年代を迎えた足柄研究所  
銀価格の異常な高騰の中で幕を開けた1980年代を迎えて、写真感光材料研究部門としての足柄研究所の研究開発のテーマには、1970年代から引き続いている  
(1)銀塩感光材料の高感度化・高画質化  
(2)銀塩感光材料の処理の簡易化の2大テーマに加えて、  
(3)銀の使用量をできるだけ少なくする省銀感光材料の開発  
ということが大きく取り上げられた。  
写真感光材料の省銀化の一つの方向は、感度をそのままに保ちながら、より少ない銀量で写真の濃度が出せる方法の研究であり、特に、カラー感光材料では、素材面からカプラーの二当量化の適用範囲をさらに広げていく研究を進めていった。  
各種の写真感光材料の省銀化研究の成果として、銀価格の高騰による製品のコスト高をいくぶんなりとも吸収することができた。  
一方、商品の開発競争はますます激しくなり、競争他社の新技術や新製品攻勢も相次ぎ、これに対抗するために、短期間で数多くの商品化を達成しなければならなくなった。このため、研究課題の重点化および写真乳剤開発研究者の強化を図るとともに、予測しがたい緊急テーマの発生に際しても迅速に対応し得るように、機動力を発揮し得るマネジメント体制をとった。  
また、研究効率化のために設備面でも充実を図った。各実験設備のマイコン化、いわゆるラボラトリーオートメーションによる効率化を図り、また、カラー研究設備の増強のため、1984年(昭和59年)1月、1号館西側に隣接して、新たに研究棟(1B号館)を増設した。  
写真感光材料の技術開発では、1970年代までの海外の先進企業を追いかけ、先進技術に追いつくのに懸命だった時代は過去のものとなり、今や、自ら将来を見越した開発目標を設定して技術開発を進めなければならなくなった。  
1980年代の冒頭、1980年(昭和55年)、新しい映画用カラーネガフィルム“A250”が開発された。この商品は、1970年代に商品化されたテレビ用16mmカラー反転フィルム“RT400”や高感度カラーネガフィルム“F−II400”の開発によって得られた自信に基づいて開発されたもので“F−II400”の開発時を上回る数多くの新技術を取り入れたものであった。  
また、1970年代後半から進めてきた銀塩感光材料の性能向上のための要素技術の開発の成果が着実に実を結び、カラーフィルムの高画質化を実現し、超微粒子カラーネガフィルム“HRシリーズ”を世界に先駆けて商品化することができた。すなわち、“HR100”・“HR200”・“HR400”では、超高画質の点で、また、1984年(昭和59年)3月に発売した“HR1600”は、超高感度・高画質の点で、それぞれ世界最高レベルに到達した。この技術は引き続き、一連のカラーリバーサルフィルム高画質品へと発展していった。  
一方で、銀塩感光材料の処理を簡易化する課題に対しては、その場でカラー写真が出来上がる高画質のインスタントカラーフィルム“フォトラマ”を開発した。この開発によって、高機能性有機化合物(例えば、カラー写真材料中のカプラー・フォトラマフィルムの中の色材など)の素材開発技術・直接反転フィルム用写真乳剤技術・システム設計技術、さらには研究組織運営上のソフト面の充実など、重要な能力を身に付けることができた。これらの新しい技術は、今後の銀塩感光材料の研究の一層の発展のための大きな基盤となろう。  
1980年代に入ってからは、これらのカラー撮影用感光材料だけでなく、印刷製版用分野など、いわゆるアプライドフォトグラフィーの分野においても、数々の新技術や新製品を開発してきた。これらの新製品を生み出した背景には、多くの要素技術の開発や研究方法に関するノウハウの充実があった。これまでの写真乳剤研究は、経験と勘の積み重ねに基づく試行錯誤的要素もあったが、この面でも画期的な新しい時代を迎えたのであった。すなわち、化学反応や物性をより詳細に調べ、現象をより深く理解したうえで写真乳剤の設計ができるようになってきた。例えば、1ミクロンぐらいの大きさのハロゲン化銀結晶の構造が、写真乳剤研究者の考えた通りにできているかどうかを証明することができるようになってきた。また、写真乳剤粒子(ハロゲン化銀粒子)の物性を測定する手段の進歩や新装置の考案によって、感光素子(すなわちハロゲン化銀)や色素、その他の乳剤添加剤の効果のあらわれ方や現像の仕組みを明らかにすることが、着々と進歩してきた。  
銀塩感光材料の展望  
銀を使用する写真感光材料は、発明以来1世紀半を経過し、当社としても半世紀の歴史を積み重ねた。その間に銀塩感光材料固有の力強い特性、すなわち、高感度性・高品質性・高解像力性などと、それを引き出すための各種の高機能性有機化合物の開発、そして、その組み合わせによって、今日では、銀塩感光材料は性能的に非常に高いレベルに達している。さらに銀を中間の手段とする巧妙な化学反応、すなわち、発色現像によって色像を作るカラー写真が考案されて、現在のカラー写真の基礎ができて以来、多くの改良が原材料や製造法に加えられて、現在の精巧なカラー写真システムができ上がった。銀塩感光材料の誕生は古くても、新しい技術がどんどん加わってきて、その可能性が広がっている。例えば、カラーインスタント写真によって現像の煩わしさからは解放されたが、これは“フォトラマ”の中の新しい色材(ダイレリーサー)と直接反転写真乳剤の高感度化によって達成されたものである。このような事実から、われわれは、高機能性有機化合物を開発し、それをハロゲン化銀と組み合わせて、総合力を発展していくことによって、銀塩感光材料が今後も限りなく進歩し、発展していく可能性を有していると信じている。  
これまで培ってきた諸技術を基にし、さらに発展させ、銀塩写真の可能性を徹底的に追求していく。そして、その研究成果として、ユーザー指向に徹したシステム商品を完成し、拡大するイメージング分野の需要に最大限に応えていけるように、今後も、日夜積極的な研究活動を続けていく。  
宮台技術開発センターの設立  
近年、エレクトロニクス技術は、めざましい発展を示し、その応用範囲も急速に拡大しつつある。ここ数年の動向を見ても、当社の事業に関連する分野でも、8ミリビデオや電子スチルカメラのプロトタイプなどが次々と発表された。OAの分野で光ファイルやグラフィックアーツの分野で各種のスキャナー、医療診断の分野でX線CTや超音波診断など、エレクトロニクス技術を採り入れた映像記録システムに電気機器や精密機材メーカーが次々と参入してきた。  
これまでも、機器製品や光学製品の開発に、あるいは生産工程の自動化に、エレクトロニクスの技術を積極的に採り入れてきた。しかし、さらに、新しい時代に向けて発展していくためには、当社がこれまで培ってきた固有技術(ファインケミストリー・塗布技術など)と要素技術(光学技術・磁気記録技術・計測技術など)を土台として、さらにエレクトロニクスの技術を採り入れ、複合化し、新しいニーズに対応し得る新しいシステムの機器や素材を開発していくことが必要である。このような背景のもとに、次の3点を指向して、1981年(昭和56年)7月、宮台技術開発センターを発足させた。すなわち、  
(1)日進月歩のエレクトロニクス技術の導入受入素地を強化すること  
(2)エレクトロニックフォトグラフィー(エレクトロニックイメージングシステム)の商品開発  
(3)当社各部門の基礎研究成果をべースにした新しい応用システム商品・新しい複合商品システムなどの応用開発センターとする  
これまで各種の処理機器などの開発を担当していた機器開発部も統合し、また、新しいX線画像システムや新規イメージングシステムを開発中の関連研究部門のハードシステム関係技術者を結集し、新たに、足柄工場に近い神奈川県開成町宮台地区に建物を建設し、設備を整備した。新設備は、同年11月に完成し、開所式を迎えた。  
宮台技術開発センターは、開設以来、多くの成果をあげてきた。その主なものをあげると、次のようなものがある。  
(1)医療の分野では、FCR(富士コンピューテッドラジオグラフィー)を開発したことが特筆される。また、機器開発部からの引き継いだCTや超音波診断のCRT上におけるディスプレーを1枚のフィルムに数画面同一の調子で、分割撮影できるFIM2025シリーズの開発に成功した。  
(2)グラフィックアーツの分野では、電子写真方式による全自動製版カメラELPの開発に成功し、市場に導入した。  
(3)OA分野では、同じく電子写真方式のリーダープリンター“FMR30AU”の開発を行なった。また、日本語COM“FMIP6000N”および光COM“7000L”を開発した。この“7000L”は完全ドライ明室処理が可能の機器であり、光学技術および磁気材料技術など、当社固有技術にエレクトロニクス技術が複合化されたもので、今後の新製品の研究開発の方向を暗示するものである。  
(4)フォトフィニッシャー用の機器の分野では、超高速プリンター“FAP15K”、大サイズ用プリンター“12C4510”などの高性能機の開発に成功した。  
なお、1983年(昭和58年)には、機器の開発業務のうち、量産試作の業務を製造担当部門である関係会社に移管した。  
今日まで、高度の化学技術を駆使した記録材料(銀塩感光材料・磁気記録材料・印刷材料・感圧紙・感熱紙など)を開発生産し、ユーザーに提供してきた。その中で、当社固有技術を育成し、また、市場動向やユーザーニーズを把握するノウハウを体得して育ってきた。最近の映像情報分野では、要求される特性が多様化している事実を踏まえ、また、ハードそのものが高度にインテリジェント化されてきているという事態にも十分配慮のうえに、当社固有技術にエレクトロニクスのハードとソフトの技術を配して新しいイメージングシステムを開発することが、今後の当社、ことに宮台技術開発センターに課せられた大きな責務である。  
朝霞研究所の発足と展望  
1979年(昭和54年)l1月、中央研究所は朝霞研究所と改称し、その研究テーマを「商品化を前提としたプロジェクト研究」に絞り込むこととした。その後、エレクトロニックイメージングに関する研究開発体制を整備強化するために宮台技術開発センターを発足させ、ここに、新規イメージングシステムの研究開発業務を集中することとしたことに伴って、朝霞研究所の研究開発テーマを「血液検査システム“富士ドライケムシステム”」と「遺伝子解析用電気泳動膜」の二つのテーマに絞って研究開発を進めてきた。  
これは、従来、固有技術として蓄積してきた薄膜多層塗布技術およびファインケミカルスの技術を結合(いわゆるハイブリッド化)して、開発してきたものである。この開発によって、当社とこれまで比較的縁の薄かった分野とコンタクトできる手がかりを得た。今後、生命に関する科学は、社会のあらゆる分野に革命的な影響を与えることを考え、この新分野の知識・技術を蓄積し、整備し、総合情報システムを構築するために遺憾ないよう期していく考えである。  
富士宮研究所の充実  
富士宮研究所は、富士宮工場にX−レイフィルムおよびそのフィルムベース(PETベース)の製造工場を設立したのに伴って、1973年(昭和48年)4月に発足した。フィルムベースを形成する高分子材料の研究を充実させるために、従来、足柄研究所に設けられていた高分子研究室を移したもので、それに、富士宮工場内ですでに活動していたWP紙、つまり“感圧紙”の研究グループを合体して設立されたものである。  
その後、今日まで十数年経過し、その間、富士宮研究所の研究分野は多岐にわたった。PETベースとその下塗材料の研究、感圧紙および印画紙用原紙の品質向上、感圧紙の新しいカプセルの研究などに成果をあげ、また、高分子複合材料の一例として“シーロンフィルム”を、カプセルの応用商品として“プレスケール”を、それぞれ開発した。新しい情報記録紙たる感熱紙の開発も、富士宮研究所の研究成果である。  
その後、1979年(昭和54年)からの銀高騰に伴い、各種の写真感光材料の非銀塩化研究として、フォトポリマー(光によって性質が変化するポリマー)を応用したPS版以外の材料の研究も始め、研究体制を強化した。  
現在では、富士宮研究所は、従来からの高分子研究などを進めるとともに、情報化社会の進展に則した新しい情報記録材料、特に非銀塩材料でOA分野や高密度記録分野などに使用される新規材料の開発を目指して、今後の発展を図っている。  
磁気記録研究所の充実  
小田原工場磁気材料部では、発足当初から新磁性体の研究や新製品の開発を担当する研究室を設けていた。その後、研究室の陣容を充実して、研究開発力を強化し、1977年(昭和52年)には磁気記録研究部として製造部門から独立、さらに1980年(昭和55年)には、磁気記録研究所として、その一層の充実を図った。  
磁気記録研究所は、磁性体やバインダーなどの基礎研究を行なう一方、より高密度記録の達成を目指しての諸研究を推進し、また、ビデオテープの各種VTRの走行適性を評価する設備を充実させるなど、その内容の整備を進めた。新製品の開発についても、好評のビデオカセットテープ“スーパーHG”、同じく“スーパーXG”や耐熱性に優れたオーディオカセットテープ“GT−I”・“GT−II”、フロッピーディスク“スーパーHR”などを次々に生み出して、ユーザーニーズに応えている。  
さらに、研究効率の向上と内容の一段の充実強化を図り、1982年(昭和57年)6月、小田原工場構内に、ざん新な研究設備を備えた研究所の新棟を完成させた。次世代の高密度磁気記録材料としてのメタルビデオテープ(MVタイプ)・蒸着ビデオテープ(VVタイプ)などの開発をはじめとして、技術進歩の著しい磁気記録媒体の研究を強力かつタイムリーに展開し、磁気記録材料事業をさらに拡大させていくため、今後、一層研究開発体制を強化させていくこととしている。  
吉田南工場研究部の活躍  
吉田南工場でのPS版の生産開始に伴って、PS版の研究部門として、1974年(昭和49年)7月、吉田南工場研究室がスタートした。  
PS版は、感光剤とともにその支持体の表面状況によって刷版としての特性が大きく左右されるので、吉田南工場研究室(後に、吉田南工場研究部と改称)の研究テーマは、これらの点を重点として取り上げた。  
そして、これらの研究をもとにして、ユーザーニーズを的確にとらえた版材および処理システムの商品化研究を推進し、マルチグレインシリーズや“DC”・“ES”システムなど、ユーザーの製版作業効率を著しく向上させた各種の新製品を開発した。  
また、当社が培ってきたハロゲン化銀写真乳剤や電子写真感光体の技術を活用して、一連の高感度刷版システムの開発を行ない、“FNH”と“ELP”として、それぞれ商品化を行なった。  
このように、今後も、エレクトロニクス化によって著しく変化する印刷システムの中で、真のニーズがどの点にあるか見極め、高品質かつ印刷しやすい版材と、その刷版システムを実現すべく、日夜努力している。  
革新的な生産技術の開発を目指して  
生産技術研究の面での最大の課題は、われわれを取り巻く周囲の状況の変化を敏感にとらえて、将来の変化を正確に読みとり、前人未踏の新技術の開発にチャレンジして、画期的なコストダウンを達成することにある。その内容は、これまでと大きく変わっていく。今日では、過去に通用していた考え方、すなわち大規模な能力の設備を開発し、それによって、コストパフォーマンスと生産性を向上させるという考え方だけでは、もはや通用しない。  
生産技術の開発に当たっては、今後、次の三つの課題に取り組んでいく。  
(1)FMS(Flexible Manufacturing System)技術の開発  
設備の稼動を落とさず、多品種を効率よく生産できるフレキシブルな機能を有する設備を開発し、ユーザーニーズの多様化に対応できるシステムを作り上げる。  
(2)高性能な設備を安く作る技術の開発  
新設備の設計にあたっては、低コスト設備を目指して、必要最小限の機能に絞ったシンプルな設計とする。  
これによって、減価償却が進んだ既存設備を使いつづけるよりも、新設備への切り換えが有利になるようにして、新しい技術を盛り込んだローコストの新鋭設備を積極的に導入し、設備をリフレッシュしていく。  
(3)FA(Factory Automation)の導入  
生産システムにコンピューターを導入して無人工場を実現し、さらに、生産計画を作成し、生産を指令し、生産の進ちょく状況を管理するファクトリーマネジメントと生産技術との一体化を図る。  
研究開発の課題  
当社の研究部門は、足柄研究所・宮台技術開発センター・朝霞研究所・富士宮研究所・磁気記録研究所・生産技術開発センターをはじめ、各プロジェクト室や各工場内の技術研究部門に分かれているが、各研究部門は、それぞれ自己の担当する技術領域の研究とともに、相互に連携して、それぞれ研究開発を進めてきた。  
創業以来、各種皮膜の上に多様な高純度の化学薬品を何層も薄くかつ均一に塗る技術を開発し蓄積してきたが、ファインケミカルあるいはミクロエンジニアリングの分野でのこの技術を今後も発展させていきたいと考えている。  
もう一方の蓄積技術としては、オプティックス、すなわち光学的技術があり、これのハイレベル化を通じてマイクロ写真機器を含めた各種の光学機器の開発を実現してきた。  
こういう固有技術にエレクトロニクスやメカトロニクスの技術を付加したハイブリッドテクノロジー、また、ファインケミカルからバイオテクノロジーへという方向で、現在各種の具体的な開発目標を掲げて、研究体制づくりを推進している。  
そして、銀塩写真分野の技術の奥行きをさらに掘り下げるとともに、エレクトロニクスを含めた新技術の開発や各種技術の複合化によって、今後とも、映像情報機材分野に幾多の新製品を開発していくこと、また、その生産技術の向上を図っていくことを目指している。
創立50周年を迎える / 新たな半世紀への旅立ち
1980年代に入り、活発な設備投資を実施し、他方、増資や転換社債の発行で資金調達も推進する。この間、新製品の導入などにより、売上高は急増、1983年度(昭和58年度)には5、450億円を記録、自己資本比率も54.6%と改善される。連結売上高も6、336億円を達成、“世界の富士フイルム”に向かって大きく成長する。そして、1984年(昭和59年)1月20目、創立50周年記念日を迎え、新たな半世紀への旅立ちの決意を新たにする。そして、“フジカラーHR1600”・“フォトラマ800システム”・“フジビデオカセットスーパーXG”など、数々の新製品を発売し、また、映画用高感度カラーネガティブフィルム(露光指数500)や“フジックス-8ビデオシステム”を発表し、新たな出発への第一歩を踏み出す。
資本金、184億円に  
1980年代に入って、磁気記録材料の需要拡大に備えた生産設備の増強ならびに研究開発設備の充実を図るため、1981年(昭和56年)12月14日払い込みで2、000万株の一般公募の増資(発行価格1、085円)を行ない、新資本金を167億9、256万円とするとともに、217億円の資金を調達した。  
この結果、財務体質の改善も図られ、1982年度(昭和57年度)期末の自己資本比率は52.9%(前期末は47.1%)となった。  
その後、1982年(昭和57年)11月、1株につき0.1株の割合で無償増資を行ない、新資本金を184億7、181万6、400円とした。  
しかし、公募増資後も、引き続いて生産設備の増強、フォトレジスト事業への進出のための新工場建設、研究開発体制の充実、あるいはオランダ現地生産工場の建設など積極的な企業活動を展開。所要資金も急増したので、その一部に充当するため、1983年(昭和58年)7月、国内で第1回無担保転換社債300億円を発行すると同時に、オランダでダッチギルダー建転換社債1億ギルダー(邦貨換算額83億円)を発行した。なお、オランダにおけるわが国企業の転換社債の発行は、当社が初めてであった。  
1983年(昭和58年)6月14日から17日までの4日間、ロンドン・チューリッヒ・フランクフルト・アムステルダムの各会場に、多くの金融関係者や記者などを招いて説明会を開催した。席上、大西社長(現会長)は、“技術の富士フイルム”“世界の富士フイルム”を目指した当社の基本方針とこれに向けて今後とも引き続き積極的な経営を展開していく旨強調し、当社に対して一層深い理解と高い評価を得た。  
また、国内で発行した第1回無担保転換社債は、同年6月、日本公社債研究所にてAAA(9ランク中第1位、元利支払いの安全性が最高)と格付けされた。  
設備の効率化と生産能力の増大  
1980年代に入って、設備投資についても引き続き積極的に進め、各種製品生産設備の増大あるいは効率化・研究開発設備の充実化を図った。生産設備については、足柄工場のインスタントカラーフィルム製造設備・小田原工場のビデオテープ製造設備・富士宮工場の感圧紙製造設備・吉田南工場のPS版製造設備など、各工場の製造設備の増強を図り、生産能力を拡大した。また、各種工場の合理化・省力化投資も間断なく進め、設備の効率化とコストダウンを図った。オランダの写真感光材料工場の建設も進めた。  
一方、研究関係についても、1981年(昭和56年)、宮台技術開発センター、翌年、磁気記録研究所の新棟も完成したほか、その他の研究所の研究設備も拡充・強化を進めて、研究効率の一層の促進を図っている。  
1980年度(昭和55年度)から1984年度(昭和59年度)の5年間の設備投資額は、累計で、約2、000億円に達した。  
業績の推移  
1980年代の日本経済は低成長の時代に入り、いろいろな分野でこれまでと違った対応を迫られてきている。  
この間、物価は比較的安定して推移し、当社にとって死活の問題であった銀の価格も、みぞうのシルバーショックを過ぎて、ここしばらく小幅な動きにとどまっており、いくぶん愁びを開いた感じではあるが、見通しは依然難しい状況である。こうした環境下にあって、1980年(昭和55年)5月に就任した大西社長のもと、一致団結して、新しい観点から設定した「V−50計画」をはじめとする諸計画の達成にまい進した。また、この間、各分野にわたり新しい技術開発による新製品を次々に導入し、“技術の富士フイルム”の名を高からしめた。  
1981年度(昭和56年度)は、わが国経済は、民間設備投資および輸出はほぼ堅調な動きをみせたが、個人消費は期待ほどの回復がみられず、景気回復の足どりははかばかしくないままに推移した。  
当社関連業界は、景気停滞の影響から、一部製品を除き国内市場の需要が伸び悩み、全般に厳しい販売競争が展開された。この中で、ビデオカセットテープを中心に、磁気記録材料市場は国内外にわたり急速な拡大を続けた。  
このような環境下にあって、引き続き、研究開発の一層の強化による製品ラインの整備充実、積極的な販売施策、輸出の増強および磁気記録材料を中心とした非感光材料製品の拡販を図り、この結果、1981年度(昭和56年度)の業績は、  
売上高4、468億円(対前年度10.4%増)  
うち国内3、024億円(対前年度9.5%増)  
輸出1、444億円(対前年度12.4%増)  
輸出比率32.3%  
を得た。利益については、研究開発費・減価償却費などの増加、円高、特に欧州通貨の下落などがあったが、他方、販売の拡大・合理化の徹底などの企業努力と原材料価格が比較的安定に推移したことなどによって、  
経常利益771億円(対前年度70.2%増)  
当期利益362億円(対前年度129.8%増)  
となり、特に利益面で急回復を果たすことができた。  
なお、当年度の連結売上高は、国内3、516億円(対前年度11.7%増)、海外1、685億円(同11.3%増)、合計で5、201億円(同11.7%増)を計上し、また、損益面では、当期連結純利益492億円(同52.2%増)と、大きく好転した。  
1982年度(昭和57年度)は、わが国経済は、個人消費や民間設備投資ともに低迷し、輸出にもかげりがみえるなど、総じて景気回復はいまだしの感が深く、一方、海外もおしなべて経済の停滞が続き、全般に不況の様相の色濃い状況が続いた。  
当社関連市場も、景気停滞の影響を受けて、全般に需要は伸びず、拡大を続けていた磁気記録材料の販売も期末には伸びが鈍化し、販売競争が激化した。  
このような厳しい経済環境下にあって、新製品の発売や販売促進策の強化、そしてサービス体制の充実など総合的販売諸施策を実施し、  
売上高5、109億円(対前年度14.4%増)  
うち国内3、430億円(対前年度13.4%増)  
輸出1、679億円(対前年度16.3%増)  
輸出比率32.9%  
と、初めて年間売上げ5、000億円の大台を確保することができた。  
利益については、引き続き販売経費・研究開発費・減価償却費などの増加があったものの、販売増や合理化等の企業努力、原材料価格の安定推移と為替の円安傾向などから、  
経常利益966億円(対前年度25.3%増)  
当期利益474億円(対前年度31.2%増)  
と、ほぼ順調な業績をあげることができた。なお、株主への配当金は、1株につき1円増配し、中間配当金と合わせて年8円50銭とした。  
また、当年度の当社連結売上高は5、874億円(対前年度12.9%増)、このうち、国内は3、894億円(同10.7%増)、海外は1、980億円(同17.5%増)を計上した。損益面では、当期連結純利益571億円(同16.0%増)となり、増益基調を維持した。  
1983年度(昭和58年度)は、わが国経済は、依然として個人消費および民間設備投資とも低迷し、輸出についても、後半、米国向けなどにやや明るさが見えてきたものの、全体としては景気は停滞したまま推移した。  
当社の関連市場についても、一般写真製品市場や業務用製品市場とも、需要が伸び悩み、特にカメラの需要は低調であった。また、磁気記録材料製品市場は、従来の大幅な伸びが鈍化し、各社の生産能力の増強に伴い、品質と価格両面での競争がさらに激化した。  
このような厳しい環境下、“フジカラーHRフィルム”シリーズや医療用X線診断システム“富士コンピューテッドラジオグラフィー”をはじめ、数々の新製品を導入し、積極的な販売活動を展開した。  
一般用写真製品部門では“フジカラーHRフィルム”やカラーペーパーの販売増加が光学製品の減少をカバーし、磁気記録材料製品部門では、各種OA機器の普及に伴い、フロッピーディスクの伸長がみられたものの、主力製品である家庭用ビデオテープの激しい価格競争により、全体としての売上高は小幅の増加にとどまった。また、業務用製品部門では、X−レイフィルムおよび印刷製版用材料の需要低迷が続く中で、当社は積極的な販売施策を展開して前年度を上回る実績を保った。  
この結果、1983年度(昭和58年)の業績は、  
売上高5、450億円(対前年度6.7%増)  
うち国内3、554億円(対前年度3.6%増)  
輸出1、896億円(対前年度12.9%増)  
輸出比率34.8%  
を計上した。  
一方、利益は、磁気記録材料の主力製品である家庭用ビデオテープの激しい価格競争による販売価格の低下や研究開発費の増加などの要因により、経常利益は934億円(対前年度3.3%減)にとどまったが、当期利益は491億円(対前年度3.7%増)となった。また、1983年度(昭和58年度)期末の自己資本比率は、54.6%となった。株主への配当金は、創立50周年記念を含めて、中間配当金と合わせて、1株につき1円増配し、年9円50銭とした。  
当年度の連結売上高は6、336億円(対前年度7.9%増)、このうち、国内は4、051億円(同4.0%増)、海外は2、285億円(同15.4%増)を計上した。また、当期連結純利益は585億円(同2.4%増)となり、増益基調を維持した。これは、激しい販売競争、増加する販売経費・研究開発費、およびブラジルにおける通貨の大幅切り下げなどに対して、より徹底した合理化努力と販売の拡大を図った結果、もたらされたものであった。  
創立50周年を迎える  
1984年(昭和59年)1月20日、当社は創立50周年を迎えた。企業の歴史として、50年は必ずしも長い期間ではないが、企業成長の大きな節目として記念すべき日であった。  
創業以来今日まで、社会各方面から当社に寄せられた暖かい支援に感謝し、そして、内にあっては会社の発展を支えてきた幾多の先輩の労苦に思いをいたし、この日から始まる新たな半世紀への旅立ちの決意を役員・従業員ともども、それぞれの胸に刻みこんだ一日であった。  
この時点での当社を取り巻く環境は、大きく変化しつつあった。  
1980年代に入って、当社が現在まで推進してきた写真ならびにその関連分野の市場は、世界的に市場の成熟化が顕著になってきた。成長分野と目されている磁気記録材料分野での競争はますます激しくなっている。また、すべての市場分野において市場ニーズの大きな変化とエレクトロニクス技術をはじめとするハイテクノロジーの急進展が見られ、これが当社事業の各分野に大きな影響を与えている。  
このような環境の変化に対処するために、創立50周年記念日に先立って、1983年(昭和58年)l0月21日、すなわち、1984年度(昭和59年度)の年度始めに当たって、大西社長は、年度の基本方針を「強力な商品戦略の展開による新たな成長への挑戦」の一点に集約して打ち出した。  
「次の半世紀に向けて新たな道を切り開き、生き残ってその発展と繁栄を確保していくためには、他者に先んじた強力な商品戦略の全社的な展開と推進が唯一の道である」と強く訴えた。  
このような背景のもとに迎えた創立50周年の記念日であった。  
50周年を迎えるに当たり、この1年を通じて使用する記念マークを制定した。  
このマークには、「Imaging the Future(未来を映す)」というスローガンが添えられた。未来に向かっての新しい出発の日という当社の50周年を迎える基本姿勢を象徴する言葉であった。  
50周年記念施策についても早くから検討を行なってきたが、単なる祝事やお祭り騒ぎ的な行事に終わらせることなく、実質的な社会還元につなげる主旨で、「富士フイルム・グリーンファンド」の設立と記念映画「サイエンス・グラフィティ−科学と映像の世界」の製作という二つの事業をメインテーマとして絞り込んだ。  
「富士フイルム・グリーンファンド」は、当社の顧客・取引先・関連業界をはじめ、当社に暖かい支援をいただいた社会全般に対する謝意をこめて設立した公益事業助成のための基金で、新しい公益活動の制度として、今後広範な普及が見込まれている公益信託の形態をとっている。活動の対象としては、社会的な関心の大きい自然環境の保護育成、とりわけ環境緑化の推進を取り上げ、1983年(昭和58年)10月、内閣総理大臣の許可を受けて発足した。  
基金規模10億円、これは公益信託としてはわが国最大の規模であり、受託者三井信託銀行により運営されるが、今後の活動には大きな期待が寄せられている。  
一方、「サイエンス・グラフィティ−−科学と映像の世界」は、科学映画の発達史を背景として、映像が科学の進歩に果たした役割を広く理解してもらうことを目的に、これまでわが国で製作された科学映画の代表的シーンと現代のすばらしい映像技術を駆使した場面とを1本の記録映画に編集し、後世に残そうというものである。この映画は、岩波映画製作所とタイアップして製作し、1984年(昭和59年)1月に完成、各地の主要なフィルムライブラリーなどに贈呈した。  
ちなみに、「サイエンス・グラフィティ−科学と映像の世界」は、文部省選定映画に選ばれたほか、第25回科学技術映画祭や日本産業映画コンクールで「グランプリ」に、1984年優秀映像選奨では教養部門の最優秀賞に、それぞれ選定された。  
このほか、創業以来の社史をとりまとめ、「富士フイルム50年のあゆみ」を製作するとともに、海外向けに英文版略史「50YEARSOFFUJIPHOTOFILM」を刊行することとした。また、春木相談役から寄贈された蔵書を収めた「春木文庫」を、足柄本社に開設した。  
1984年(昭和59年)1月20日、社内では、ごく内輪に、創立50周年の式典を事業場単位で挙行した。  
東京本社と足柄工場の式典では、平田会長・大西社長・春木相談役がこもごも壇上に立って式辞を述べた。大西社長は、この日を「新しい創業の出発日」として、次のような言葉で、その式辞を締めくくった。  
「今日の日を、単純に過去を回顧する日とするのではなく、これからの新しい創業の日と受け止めたい。今後の競争は、ますます厳しく多難なものとなろう。創業の歴史が示すように、結局は品質が全てであるが、そのうえに立って、これからの時代を先どりする新しい商品を他社より先に生み出していくことが、今後の激しい競争と変化を生き抜く唯一の道である。  
富士フイルムの栄光ある未来を信じ、21世紀へ向けて、着実な成果を重ねつつ、われわれの進む道を築いていこうではないか。」  
新たな出発に向けて新製品の発売  
創立50周年の記念式典で新たな出発を期した当社は、引き続いて、創立50周年を記念する幾多の新製品を発売した。  
「ロウソク1本の光でカラー写真バッチリ」と新聞やテレビで報道された世界で最高感度のカラーフィルム“フジカラーHR1600”は、まさに、創立50周年を記念するにふさわしい画期的な新製品で、感度ISO1600、これまでの世界フィルムの中での最高感度で、しかも高画質の35mm判カラーネガフィルムである。国内市場には1984年(昭和59年)3月発売、海外市場にも、翌4月から船積みを開始した。  
この新製品の誕生によって、その場にあるわずかな光だけで、その場の雰囲気を生かした自然な写真が撮れるようになった。また、スポーツなどの動きの速い被写体を高速シャッターで瞬間的にとらえる写真、あるいは、被写界深度(被写体の前後のピントの合う範囲)の深い写真が撮れるなど、写真の撮影範囲を飛躍的に広げることができるようになった。  
この“フジカラーHR1600”は、その前年の1983年(昭和58年)に発売した“フジカラーHRシリーズ”を生み出した技術に、さらに発展させた二つの新しい技術を加えて完成したものである。  
その一つは、新型の二重構造粒子(Advanced Double Structure Grains)の開発である。この技術の開発によって、高感度化に必要な機能をハロゲン銀粒子内部に正確に組み込ませることができるようになり、従来の感度の限界を克服することができた。いま一つの新技術は、A−カプラー(Image−AmplifierReleasingCoupler)の開発である。このA−カプラーの開発によって、カラー現像の際に、感光した写真乳剤粒子を効率よく色素像に変換させることを可能にし、粒状を粗くすることなく、高感度の画像をつくり出せるようになった。  
一方、カラーペーパーについても、ニュータイプの“ニューフジカラーペーパータイプ01”を開発し、同年4月から市場導入を開始した。“ニューフジカラーぺーパータイプ01”は、カラープリントの色像保存性を飛躍的にレベルアップしたもので、また、色再現・階調・シャープネスなどのすべての品質も改良され、総合品質において世界最高水準を目指すものである。“フジカラーHRフィルム”と“ニューフジカラーペーパータイプ01”の組み合わせによって、より高品質の美しいカラー写真をユーザーに提供できるようになった。  
また、処理プロセスの面では、ミニラボシステムとして、新たに、“富士ミニラボチャンピオン28”を開発、1984年(昭和59年)6月に発表した。プリント仕上げまでわずか28分のハイスピードで処理できる画期的なシステムで、水洗処理がほとんどいらない現像処理方式(FLRプロセス)を採用している。  
一方、35mm判カラーリバーサルフィルムの分野でも、1984年(昭和59年)3月、ISO400デーライトタイプ“Newフジクローム400プロフェッショナルD”を、翌4月には、新たに超増感処理システム(PZ増感システム)と、この処理システムによって、ISO1600およびISO3200で撮影できる世界最高感度の高画質タイプ“フジクローム1600プロフェッショナルD”を発売した。このフィルムと処理システムは、スポーツ・報道分野でのプロフェッショナル写真家の強いニーズに応え、ロサンゼルスオリンピックを機に開発したもので、ISO1600・ISO3200の超高感度撮影領域において、世界最高水準の高画質を実現した。  
また、“フジクローム1600プロフェッショナルD”用として開発されたPZ増感現像処理は、今までの現像液では現像できなかったような小さな潜像(露光によって写真感光層に作られる目に見えない像)をも現像可能とするもので、大幅な感度の上昇が得られ、新たな超高感度の世界が開かれることになった。  
また、同年9月には、高感度(ISO160)のプロ用カラーネガフィルム“フジカラー160プロフェッショナルS”・同“L”を発売した。  
映画用フィルムの分野では、世界最高感度を有する映画撮影用“フジカラー高感度ネガティブフィルム”(露光指数500)を開発した。  
フジインスタントフォトシステムとしては、1984年(昭和59年)3月、世界最高感度(ISO800)の“フォトラマ800システム”を発売した。  
“フォトラマ”は、発売以来、色の美しい高品質のインスタント写真システムとして好評を得、着実に市場の拡大に寄与してきたが、さらに市場の伸長を目指し、世界初の高感度800システムを開発した。“フジインスタントカラーフィルムFI−800”は、一段となめらかな階調、微粒子でシャープな画像、自然な肌色の描写、濁りのない色再現など、優れた特長をもったフィルムで、かつ、世界で初めてISO800の感度を実現した。  
また、“フジインスタントカメラ800AF”・同“800S”は、MAC方式(Mixed-lightAutomatic-ExposureControl、周囲の光とストロボの光をカメラが最適露光に自動制御するシステム)によるストロボ自動発光で、撮影領域を一段と拡大した。室内・屋外、順光・逆光のいかなる場合でも美しい写真が得られ、また、その優れた操作性ときめ細かい設計が注目されている。  
さらに、1984年(昭和59年)5月には、大型外部ストロボを装着できる“フジインスタントカメラ800X”と接写用の“フジインスタントクローズアップユニット800X”を組み合わせた“フォトラマ800Xキット”を発売した。25cmの接写もできる専用のクローズアップユニットを使うことによって、簡単にシャープで色鮮やかな接写が楽しめるようになり、“フォトラマ”の利用範囲が大きく広がることとなった。  
また、同年6月には、プロ写真分野、産業分野向けに、“フジインスタントカラーフィルムFI−160”〔8.9cm×11.4cm(4×5)〕と“フジインスタントバックMS−45”の組み合わせによる“フォトラマ4×5システム”を発売した。フジインスタントカラーフィルム“FI−160”は、4×5サイズのインスタントフィルムでは世界で初めての自己現像・自動排出方式(モノシートタイプ)を採用したものであり、また、“フジインスタントバックMS−45”は、一般用4×5カメラおよび通常の4×5フィルムホルダーを使っている各種撮影記録装置にそのままワンタッチで装着できる専用バック、フィルムの自動送り出し、撮影とフィルム送り出しの連動など、数々の特長を備えている。  
この“フォトラマ4×5システム”の発売により、営業写真・商品写真やファッション撮影などのコマーシャル写真・コンピューターグラフィックなどCRTカラーハードコピー・顕微鏡写真・複写などの産業分野への応用と、業務用フォトラマの活動領域をさらに大きく広げていった。  
引き続き、ビジネスやプロフェッショナル用インスタント写真システムとして、高品質の「フォトラマFPシステム」を開発、同年9月から発売した。このシステムは、国産としては初のピールアパートタイプ(はく離方式)のインスタントフィルム(カラーフィルム“FP−l00”および黒白フィルム“FP−3000B”)と、証明写真用ストロボ内蔵カメラ(“FP−14”および“FP−12”)、写真入りIDカードが作成できるフォトラマIDカードシステム(ラミネーター・ラミネートフィルムなど)で構成される。従来のフォトラマ製品と合わせて、フジインスタントフォトシステムは、さらに幅広い分野で活用されていった。  
35mmレンズシャッターカメラの分野では、1984年(昭和59年)3月、自動焦点カメラ“フジカオート7”シリーズに精度の高いデジタルクオーツ時計を内蔵した“フジカオート7QD”を発売した。  
さらに、多様化するユーザーのライフスタイルとそのニーズに合わせて、エレクトロニクス技術の粋を駆使して、常に失敗のない写真の実現を目指して、これまでのコンパクトカメラのイメージ・デザイン・機能性のすべてを刷新する新しいコンパクトカメラの商品化を企画した。あらゆる「オート」をフル装備した超軽量ハイテク全自動カメラ“カルディア”と“カルディアデート”、携帯性の優れた新しいファッション感覚の“ルチア”、そして、ヘビーデューティーカメラ“タフガイ”の4機種を整備して、ブランド名も従来の“FUJICA”から“FUJI”に改め、フジコンパクトカメラFACEシリーズ(FACEはFujiAutomaticCameraEvolutionの略)として、同1984年(昭和59年)秋に発売した。  
また、プロフェッショナル用カメラの分野でも、シャープな画質が得られるEBCフジノンW60mmレンズを装着したセミ判の距離計連動式中判カメラ“フジGS645S”を同年10月に発売。  
マイクログラフィックスの分野でも、1984年(昭和59年)4月、かねてから開発を進めてきた画期的な新製品として、コンピューターの出力情報をレーザー走査によって、高速・高密度に記録する“FUJIFILM光COMSYSTEM”を発売した。この“光COMSYSTEM”は、新しい金属薄膜記録材料“フジコムフィルムLD”とレーザービームプリンター“FMIP7000L”から構成されている。  
さらに、同月、本格的なCARシステム“FIRS9600R”システムを発売した。“FIRS9600R”は、カートリッジタイプの16mm幅マイクロフィルムを使用し、約100万ページの画像情報を収容して自動的に出し入れを行なう世界初のオートストッカー(ファイリングボックス)を接続することによって全自動検索ができ、ディスプレイに表示、同時に高品質の普通紙コピーを得ることができる画期的なコンピューターファイリングシステムである。  
また、同月、金融機関向けに、従来の“SR1000”をグレードアップしたロータリーカメラプロセサー“SR2000”を発売した。  
一方、磁気記録材料の分野でも新製品を次々に発売した。  
まず、フロッピーディスクでは、1984年(昭和59年)3月、信頼性・耐久性を一段と向上させた高品質の“富士フイルムフロッピーディスクSuperHR”を発売した。  
これは、低温・低湿から高温・高湿までの極めて広範囲な環境条件下で2、000万パス(ヘッド通過回数を示す、JIS規格では300万パス以上)を超える耐久性と安定した入出力特性を実現し、画期的なスーパーハブリングの採用によるセンターホール補強策など、多様化するユーザーニーズに対応させた製品である。また、1984年(昭和59年)7月には、高密度スーパーファインベリドックス磁性体を使用した5.25インチ高密度ミニフロッピーディスク“MD2HD”および““MD2HDSuperHR”を発売し、1984年(昭和59年)10月には、3.5インチ“マイクロフロッピーディスク”を発売する。  
さらに、ビデオカセットテープでは、これまでの“スーパーHG”の性能を一段と上回る超高画質の“フジビデオカセットスーパーXGH451(VHS用)”と同“H351(ベータ用)”を1984年(昭和59年)4月に発売した。新開発の超微粒子磁性体「スーパーファインベリドックス−II」を採用し、最新技術でテープ化に成功したもので、“スーパーHG”に比べて、さらに画質を40%アップし、HiFi特性も向上させた製品である。  
1984年(昭和59年)6月からは、従来の“スーパーHG”に比べて映像を一段と高品質化した、高性能ビデオテープ“フジビデオカセットニュースーパーHG”(VHS用およびベータ用)および同“スーパーHGHi-Fi”(VHS用およびベータ用)を発売した。“ニュースーパーHG”は、“スーパーHG”に比較して、磁性層の充てん度を20%アップし、また、テープ表面の平滑面を高めたものである、その結果、さらに鮮明なカラー映像を実現し、走行安定性をより高めることができた。また、“スーパーHGHi-Fi”は、この“ニュースーパーHG”の高画質をベースに、特に、Hi-Fiビデオでの音質特性を盛り込んだHi-Fi専用テープとして開発したものである。  
また、同年9月には、“スーパーST”の耐久性を一層充実させ、画質もさらにアップした“フジビデオカセットニュースーパーST”を発売した。  
カセットテープでは、同じく6月から、カーステレオ専用のカセットテープとして、ハイポジションカセットテープ“フジカセットGT−II”(C−46、C−60、C−80、C−90)を発売した。これは、カーステレオの高性能化に伴ない、より高性能のカセットテープが求められ、ハイポジションにも商品化を望む声に応えたもので、先進のサウンド化技術に新開発の「スーパーダイナミックベリドックス」磁性体を採用することにより、完成した。  
オーディオカセット市場は、カーステレオ・ヘッドホンステレオ・ラジカセなどの普及によって、アウトドアでのリスニングチャンスがますます活発化しているが、“GT−I”・“GT−II”のGTシリーズの完成により、さらに多くのニーズに応え、過酷な環境下でも「音楽の感動を表現するメディア」として、多様化するカセットテープ市場で大きなジャンルを切り開いていった。  
印刷製版の分野では、1984年(昭和59年)6月、黒白製版用スキャナー“FUJIMONOCHROSCANNERSCANART30”を発表した。  
すでに、カラー製版分野では、カラースキャナーが普及しているが、雑誌などの定期刊行物に利用されている黒白製版分野では、従来からのカメラによる製版方式が主流を占めており、黒白製版分野でも高品質の仕上がりと操作が簡単に行なえる機器の開発を求める声が強かった。このニーズに応え、かつ明室に設置できる高性能スキャナーとして新たに開発した“FUJIMONOCHROSCANNERSCANART30”は、原稿読取光源に世界初のアルゴン・ヘリウム−ネオンのダブルレーザー方式を採用し、カラープリント原稿からの黒白製版も可能にした平面操作オートローディング方式の画期的なドットジェネレータースキャナーである。  
また、従来のリスフィルム明室処理“FSLシステム”をさらにレベルアップした“FSL−IIシステム”と従来の“SuperHSLシステム”をさらに迅速化する“GSLシステム”を開発し、同時に発表した。  
また、医療用分野向けには、既述したとおり、1984年(昭和59年)6月、“富士ドライケムシステム(GLU用)”を発売した。  
また、アマチュア写真の需要範囲を一層広げるために、電子映像の分野に本格的に進出することとし、二つのシステムを、1984年(昭利59年)10月、西独ケルンで開催されるフォトキナ’84に出展し、来春、国内販売することを発表した。  
その一つは、銀塩写真とエレクトロニクス写真とを接合したシステムで、アマチュア写真が家庭のテレビで見られる「フジックステレビフォトシステム」で、ユーザーの手持ちのカラープリントや撮影されたカラーネガフィルムからビデオフロッピーに録画し、再生機“フジックステレビ・フォトプレーヤー”でテレビに映し出すシステムである。  
もう一つは、カメラ一体型8mmVTR“フジックス−8ビデオシステム”で、このシステムは、カメラ一体型8mmVTR“フジックス−8”と8mmビデオテープ“フジックス−8ビデオカセット”で構成されている。“フジックス−8”は、“フジカシングル−8”のマーケティングで得られた8mmホームムービーのユーザーニーズを十分採り入れて企画したものであり、また、ビデオテープ“フジックス−8ビデオカセット”は、長年にわたるビデオテープの技術の蓄積を生かして開発したタイプA(メタルテープ)とタイプB(蒸着タイプ)の2種類を整備した。  
これらの各分野の新製品の商品化によって、新たな出発に向けて、力強く、その第一歩を踏み出した。
 
KODAK

米国に本拠を置く世界最大の写真用品(写真フィルム、印画紙、処理剤)メーカーである。  
世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーである。 また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもある。米国法人であるイーストマン・コダック(Eastman Kodak Company )の本社はニューヨーク州ロチェスター、同社の完全子会社で日本法人のコダック株式会社(Kodak Japan, Ltd. )は東京都千代田区に所在する。写真関連製品の分野で高いシェアを占めることで知られるほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っている。  
1880年(明治13年)、ジョージ・イーストマンによって写真乾板製造会社として創業。  
1888年(明治21年)、ジョージ・イーストマンが「コダック」の使用を開始。同時に「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」という触れ込みで市場に参入。  
1892年(明治25年)、「イーストマン・コダック社」を設立。  
1900年(明治33年)、「ブローニー」を1ドルで発売し、大衆に写真を一気に普及させた。  
1989年(平成元年)、日本進出以来、長い間長瀬産業と提携関係にあり、1986年に統合でコダック・ナガセ株式会社(現:コダック株式会社)を設立したが、1989年頃に提携関係を解消している。  
2007年(平成19年)、医療用X線フィルム等のヘルス事業をカナダのオネックスに売却。コダックの旧ヘルス事業はオネックスが設立した子会社ケアストリームヘルスに移管、コダックから引き継いだヘルス関連の製品は引き続きコダックのブランドで販売されている。米イーストマンコダックの映画用カラーフィルムで撮影された作品が、アカデミー賞誕生以来79年連続して最優秀作品賞を受賞している。  
2008年(平成20年)、この年の北京オリンピックを最後に、長年務めたオリンピックのスポンサーから撤退。  
2012年(平成24年)1月3日、ニューヨーク証券取引所から上場基準についての警告を受けたと公式発表。  
2012年(平成24年)1月19日、連邦破産法第11章の適用をニューヨークの裁判所に申請。 
George Eastman
彼は、当時の学業水準から見て自分に「特別な才能はない」と判断し、高校を中途退学しています。貧かく、しかもまだ若年の彼は、未亡人となった母親と2人の姉、しかもその1人は重度の障害者という家族の生活を支える立場に置かれました。  
彼は、14歳にしてキャリアをスタートさせます。最初の職は保険会社の事務所の雑用係で、続いて地方銀行の出納係として働きました。  
彼の名はGeorge Eastman。彼は、金銭的窮地を克服する能力、組織をまとめ経営する才能、そして快活で豊かな発想力をそなえた思考力によって、20代後半にして起業家として成功を収め、Eastman Kodak Companyを米国産業の最前線へと導きました。  
しかし、多国籍企業を設立し、国内で最も重要な事業家の1人として頭角を現すまでには、献身と犠牲を伴いました。たやすく成功を手に入れたわけではありません。  
少年時代  
3人兄弟の末っ子のGeorge Eastmanは、Maria KilbournとGeorge Washington Eastmanの間に、1854年7月12日ニューヨーク州北部にあるUtica(ユーティカ)市から南西に32キロほど離れたWatervilleという村に生まれました。父が生まれ、Georgeが幼少の頃を過ごした昔のEastman家の農場にあった家は、後に、ニューヨーク州Rochester郊外のMumfordにあるGenesee Country Museumに移築されました。  
Georgeが5歳のときに、家族はRochesterへ引っ越しました。その土地で父は、Eastman Commercial Collegeの設立に全力を注ぎましたが、 その後、悲劇が襲います。Georgeの父が突然亡くなり、カレッジの設立は失敗、家族は困窮生活に追い込まれたのです。  
Georgeは14歳までは学業を続けましたが、 家庭の事情から、職を探さざるを得ませんでした。  
彼の最初の仕事は、週給3ドルの保険会社のメッセンジャーボーイでした。1年後、彼は別の保険会社の雑用係になります。その自発的な働きぶりを買われ、ほどなくして保険証券のファイリング責任者になり、さらに証券発行を担当するようになりました。給与は週給5ドルに上がりました。  
しかし、それだけ給与が上がっても、家族を養うには十分な収入ではありませんでした。彼はより給与の高い仕事に就くために、帰宅後、経理の勉強をしました。  
保険会社で働き初めてから5年後の1874年、EastmanはRochester Savings Bankにジュニアクラークとして採用されました。給与は以前の3倍の週給15ドルを超えました。  
素人の試行錯誤  
Eastmanは24歳のとき、Santo Domingoへの休暇旅行を計画しました。同僚から旅の記録を残すことを勧められたEastmanは、湿板が使用されていた当時のさまざまな付属品を含む写真道具一式を購入しました。  
当時のカメラは電子レンジほどの大きさで、重たい三脚も必要でした。その上、彼はテントまで買い求めました。写真乳剤をガラス板に伸ばし、それを露光して撮影した後、板が乾燥する前に現像するためです。薬品、ガラスタンク、重い取枠、水差しも必要でした。すべての道具は「荷馬に載せるほどの積荷だった」と、彼は述懐しています。写真撮影の道具の使い方も、5ドルを払って学びました。  
結局、EastmanはSanto Domingoへの旅行には行きませんでした。しかし、彼は完全に写真の魅力にとりつかれ、複雑な手順を簡単にする方法をなんとか見つけ出そうと努力しました。  
イギリスの雑誌を購読していたEastmanは、写真家が自らゼラチン乳剤を作っているという記事を見つけました。ゼラチン乳剤でコーティングした板は、乾燥した後も感光力があるため、急がずに露光できる、というものです。イギリスの雑誌で知った製法で、Eastmanはゼラチン乳剤を作り始めました。  
昼間は銀行で働き、夜は自宅のキッチンで実験する日々が続きました。彼の母の話では、Eastmanはあまりに疲れて洋服も脱がずにガスレンジ脇の床で毛布にくるまって寝てしまった夜が何度かあったといいます。  
実験を初めてから3年後、Eastmanはある製法で実験を成功させました。1880年までには、乾板製法を発見したばかりか、写真プレートを大量生産する機械の特許も取得しました。彼は、乾板を製造して他の写真家に販売するというビジネスの可能性に早い段階から気づいていたのです。
会社の誕生  
1880年4月、Eastmanは、RochesterのState Streetに建つビルの3階を借り、販売用の乾板製造業を始めました。彼が最初に設備投資したものの1つは、125ドルの中古エンジンでした。  
彼は後年、当時を思い出して次のように語っています。「本当は1馬力のエンジンでも十分だったのですが、 2馬力のエンジンを購入したのは、それに見合うくらい事業が拡大するだろうと見込んだためです。この事業は成功の見込みがあると思い、いちかばちか賭けてみたのです」。  
新しい会社が成長する中で、少なくとも一度は存続を揺るがす大きな危機に直面しました。卸売業者に納めた乾板が不良品だったときです。Eastmanは商品を回収し、良品と交換しました。「不良品の乾板を交換した後は、手元に一銭も残りませんでした。しかし、あとに残ったもののほうがずっと重要でした。それは評判です」。  
後に彼はこう語っています。「徐々にある考えが鮮明に見えてきました。《われわれは、単なる乾板製造者ではない。人々が日常的に写真を撮影できるようにする一大事業に乗り出したのだ》ということです」。これをさらに簡潔に表して、「カメラを鉛筆のように重宝なものにする仕事」とも述べています。  
Eastmanの試みは、ガラスよりも軽く、より柔軟な基板を使用する方向へと向かいました。彼が最初に試したのは、紙に写真乳剤をコーティングし、その紙をロールホルダーに巻き付けるやり方でした。このロールホルダーは、ビューカメラでガラス板のホルダーの代わりに使用されました。  
1885年の初めてのフィルム広告には、「まもなく、屋外でもスタジオ内の撮影でも経済性と利便性の点でガラス製乾板に取って代わる、新しい感光フイルムが発売されます」、という説明がありました。  
ロールホルダーを使ったこの写真システムはすぐに成功を収めました。しかし、乳剤の基板としての紙の使用は完全に満足のいくものではありませんでした。なぜなら、紙の表面のざらつきが現像した写真にも再現されることがよくあったからです。  
Eastmanは解決策として、溶性の純粋なゼラチン層で紙をコーティングし、さらに不溶性の感光性ゼラチンでコーティングする方法を考え出しました。露光と現像後、画像を伝えるゼラチンが紙からはがされ、透明なゼラチンシートに転写され、コロジオンを塗布します。これは、丈夫で柔軟なフィルムを作るためのセルロース溶液です。  
透明なロールフィルムとロールホルダーを完成させたEastmanは、事業の方向を180度転換させ、アマチュア写真家をターゲットとした成功への基盤を確立しました。  
後に彼はこう語っています。「フィルム写真方式の事業を始めたときは、ガラス板を使用していた写真家が皆、フィルムに乗り移ってくるだろうと考えていました。しかし、実際には少数の人しか乗り移ってきませんでした。事業を大きくするには、一般大衆にターゲットを広げる必要があったのです」。  
広告  
Eastmanは、会社にとって、また大衆に対しての広告の重要性を深く信じていました。Kodakが初めて売り出した製品は、Eastman自身が書いたコピーとともに当時の主要新聞紙面や定期刊行物に広告が掲載されました。  
1888年にKodakカメラを発売したときに、Eastmanが生み出した「あなたはシャッターを押すだけ、あとは当社にお任せください」というスローガンは、1年以内に誰もが知るキャッチフレーズとなりました。その後、広告宣伝部長と広告代理店が彼のアイディアを引き継いで、雑誌、新聞、広告用ディスプレイや掲示板などにこのKodakのバナーを掲載しました。  
世界博覧会では展示スペースを獲得し、奇抜な衣装の「コダックガール」が毎年異なるカメラを持って、周囲の写真家たちに愛想良く笑顔を振りまきました。1897年、「Kodak」という単語がLondonのTrafalgar Squareにある電光看板に照らし出されました。この手の看板が広告に使用されたのは、これが初めてでした。  
現在、広告は世界中あらゆる場所に見られ、Eastman自身が生み出した「Kodak」という商標を知らない人はほとんどいないでしょう。  
「Kodak」という名前は1888年に初めて商標登録されました。この名前がどのようにして生まれたかについては、時折、根も葉もない推測が流れることもありますが、 実はEastmanが本当に何もない所から考え出したものなのです。  
彼は次のように説明しています。「名前は私が自分で考え出したものです。《K》という文字は、力強くシャープな感じがして、私の好きな文字でした。そこで、Kで始まりKで終わる名前の組み合わせを幾通りも考えました。《Kodak》という名前はそうして生まれたのです」。黄色をあしらったKodakの派手なトレードドレスもEastmanが選んだものです。今では世界中に知られ、会社の重要な資産の1つになっています。  
Eastmanの創造的な才能のおかげで、今や誰でも手持ちカメラのシャッターを押すだけで写真を撮影できるようになりました。彼はすべての人を写真家にしたのです。  
従業員の恩典  
創造的な才能以外にも、Eastmanは人間的で民主的な資質と優れた先見性を融合させることによって事業を築き上げていきました。彼は、従業員には高い給与を支払うだけでは不十分だと考えていましたが、これはその当時の経営者にしては、はるかに先を行った考え方でした。  
事業を興した当初、Eastmanは「給与に対する配当金」を従業員に与える計画に着手しました。手始めとして1899年には、彼のために働く人それぞれに自身の多額の資金を無条件で分配しました。  
後に彼は「給与配当制度」を確立し、自社株の年間配当に比例して従業員が給与以上の恩恵を受けられるようにしました。給与配当は画期的な制度で、会社の純利益の大部分が分配されました。  
Eastmanは、企業の成功は発明や特許ばかりによるものではなく、従業員の信用や忠誠心のほうがより大きな機動力となっており、収益を共有する形でさらにその力を高められると考えていました。  
1919年、Eastmanは自身の所有する会社の持ち株の3分の1を従業員に分け与えました。これは、当時の金額で1,000万ドルに相当しました。さらにその後、退職金、生命保険、および障害者福利厚生制度などの 福利厚生制度と給与配当制度を設けることによって、従業員の将来はより安定したものになったのです。  
伝記作家のCarl W. Ackermanは1932年に次のように書いています。「 Eastmanはその時代の大物でした。彼が会社の育成にあたって実践した社会哲学は確かに時代を先取りしていましたが、それだけではありません。これが一般的になったのは、それからずっと先のことなのですから」。
財産の寄付  
Eastmanは、写真のパイオニアとしても有名ですが、善事業家としてもよく知られています。他の分野と同様に、慈善事業でも熱意あるアマチュアを取り組みの対象にしました。  
彼が非営利団体への寄付を始めたのは、自分の給与が週給60ドルだった頃で、当時まだ新しく資金難に苦しんでいたMechanics Institute of Rochester(現在のRochester Institute of Technology)に50ドルを寄付していました。  
また、Eastmanが熱烈に支持しているMassachusetts Institute of Technology(MIT)から採用した何人かの卒業生は、後にEastmanの選り抜きの補佐役となっています。MITへの熱意から、徹底した調査の後、多くの寄付を行い、最終的に2,000万ドルもの寄付金を寄せています。この寄付は「Mr. Smith」という匿名で贈られ、何年もの間、ミステリアスな「Mr. Smith」が何者であるかについてさまざまな憶測を呼び、MITの校歌にもその名が入るほどでした。  
Eastmanは歯科医院にも大きな関心を寄せていました。彼は、Rochesterに歯科医院を作るために、計画と250万ドルの資金援助を行っています。その後、子供のための大規模な歯科治療プログラムも開始しました。歯科医院はロンドン、パリ、ローマ、ブリュッセル、ストックホルムにも設立されました。  
なぜ歯科医院への寄付を重視するのかと尋ねられたEastmanは、「他のどの慈善事業制度よりも、自分の投じた資金から大きな成果が得られるから」、と答えたといいます。「大切な子供時代に、歯、鼻、のど、口の治療をきちんと受けた子供たちの多くは、端正な顔立ちで健康に生き生きとした人生を送ることができるのは医学的事実です」。  
Eastmanは音楽を愛し、他の人々にも音楽の美しさと楽しさを味わってもらいたいと思っていました。彼は、Eastman School of Music、劇場、交響楽団を設立して援助しました。「優れた音楽家を雇うことはとても簡単ですが、 お金で音楽を理解する能力を買うことはできません。ただ、音楽に喜びを見いだす人々がたくさんいれば、どんな町でもきっと音楽家を育成できるはずです」とも語っています。彼の計画には大衆を音楽に触れさせる実践的な案が含まれていたので、Rochesterの人々はその後、何十年もにわたって地元の交響楽団を支援することになりました。  
病院や歯科医院への関心は、Eastmanがこの分野への取り組みや研究を行うにつれ、さらに膨らんでいきました。彼は、University of Rochesterに医学部と病院を設ける計画を推進して実現させ、これらはその後、同大の音楽院と同様に全米でも有名な大学として発展しました。Rochesterは、Eastmanの手がけたランドマークであふれ、地域の人々の生活の豊かさに貢献しています。  
彼はまた、アフリカ系アメリカ人の教育に対する憂慮からHampton InstituteとTuskegee Instituteに寄付をしています。1924年のある日、EastmanはUniversity of Rochester、MIT、Hampton、およびTuskegee宛てに3,000万ドルの小切手に署名しました。ペンを置いた彼は、「これで気持ちが楽になった」と言いました。  
彼がこれらの大規模な寄付について語ったことには、「世界のほぼすべての進歩は、教育にかかっています。私が受益者として選んだのは限られた分野の人々ですが、それは特定分野の育成に力を入れたかったからです。資金を広く分配するよりも、特定の分野に寄付することで短期間により直接的な成果が得られるだろうと考えたのです」。  
Eastmanは、大学機関が自信を持って自立経営できるように、なんらかの形で寄付金の受益者を特定することがよくありました。彼が築き上げた大きな富は、人の役に立つより重要な機会を与えてくれたのです。  
余暇  
Eastmanは控えめな性格で、世間の注目を避けるような人でした。写真と同義とされるほどにその名をよく知られた人物が、当時の他の多くの著名なリーダーたちよりも撮影された写真の数が少ないというのは、矛盾しているようにも思えます。しかしそのおかげで彼は、人に気づかれることなくRochesterの街を歩くことができました。  
Eastmanは、「働く時間に何をしたかによって、何を得るかが決まる。余暇に何をするかによって、その人の人間性が決まる」、という人生哲学を生きた人です。苦しい経験で鍛え抜かれ、さまざまなビジネス経験を積んだタフで厳格な彼も、自宅では優しくて愛想が良くアウトドアで余暇を楽しむような人物でした。  
Eastmanは毎年ヨーロッパを訪れ、入念にアートギャラリーを見て回りました。あちこちを自転車で回ることもありました。彼が芸術作品の大作を手に入れられるほどの富を得るまでには、「自宅に飾れるようになるまで決して絵画は買わない」、と語るほどの確かな目を身につけていました。その結果、彼の自宅は一流絵画のプライベートコレクションであふれることになりました。  
パイオニアのビジョン  
彼は謙虚で気取りのない人でした。発明、マーケティング、グローバルな洞察力に長けた慈善家であり、あらゆるものを取り入れる才能においては誰にも負けない人物でした。  
Eastmanは自らの手で1932年3月14日に77歳で命を絶ちました。腰部脊髄の細胞硬化による進行性の身体障害に苦しみ、Eastmanは活動的な生活を送れないことに対するフラストレーションをつのらせ、財産を整理し始めたのでした。  
彼の死後、New York Times紙の社説には「Eastmanは近代教育に多大な影響を与えた」、とありました。「彼はすばらしい才能によって自ら手に入れた富の中から、人類の幸福のために寛大な贈り物をしました。音楽の振興、教育への寄付、科学研究や教育の支援、健康の促進と医療の改善を目的とした活動、恵まれない人々への自立支援、地元の都市を芸術の中心とするための活動、そして、世界中からの賞賛を自国にもたらすという数々の贈り物です」。
基盤の構築    
初期のKodak  
1879年当時、ロンドンは写真とビジネス業界の中心でした。George Eastmanは、印刷板コーティング機の特許を取得するためにロンドンを訪れました。翌年には米国でも特許を取得しました。  
1880年、販売用の乾板製造を開始し、 このベンチャー事業の成功を好感したビジネスマンのHenry A.Strongは、この立ち上がったばかりの未熟な事業に多大な資金を投入しました。  
1881年1月1日、EastmanとStrongはEastman Dry Plate Companyという名前で会社を共同設立しました。その年の後半、Eastmanはこの新会社の事業に専念するために、それまで務めていたRochester Savings Bankを退社します。彼は会社の事業運営をあらゆる方面で意欲的にこなしながら、写真撮影の手軽さを追求するための研究を続けました。  
1883年、Eastmanはロールフィルムを発表し、続いて市販されているほぼすべてのプレートカメラに適応できるロールホルダを発売して業界を驚かせました。1888年にはKODAKカメラを世に送り出し、写真撮影が一般の人々に普及するための基盤を築きました。  
KODAKカメラは、100回分の露光に対応できる十分なフィルムをあらかじめ搭載し、容易に持ち運びができ、手で持ちながらの撮影を可能にしました。価格は25ドルです。露光後は、カメラ本体がRochesterに返却されます。そこでフィルムの現像、写真プリント、新しいフィルムの入れ替えが行われ、この一連のサービス料金は10ドルでした。  
1884年、EastmanとStrongはパートナーシップを解消し、14人の株主を持つ新会社のEastman Dry Plate and Film Companyが設立されます。その後継企業であるEastman Companyが設立されたのは1889年です。  
1892年にはEastman Kodak Companyと社名変更し、同年、Eastman Kodak Company of New Yorkが組織されました。1901年には現在のEastman Kodak Company of New Jerseyが同州の法律に基づき設立されます。  
Eastmanは、次の4つの基本原則に従って事業を築きました。  
低コストで大量生産  
国際販売  
大規模広告  
お客様重視  
Eastmanは、この4つがすべて密接に関連していると考えていました。大量生産は、広域販売が行われない限り実現されません。そして、販売には強力な広告のサポートが必要です。彼は当初から、顧客ニーズと要望を満たすことが会社を成功に導く唯一の道であるとの思想を社内に浸透させました。  
このビジネスの基本原則に次のポリシーが加えられました。  
研究を続けることによって成長と進化を助長する  
従業員が自尊心を持てるよう公平な扱いをする  
ビジネスの確立と拡張のために収益を再投資する  
Kodakの歴史は、これらの基本原則とポリシー展開のおける進化の1つです。  
低コストで大量生産  
Kokak設立当初、Eastmanは写真の道具を多くの人々にできる限り安い価格で提供するという理想を強く抱いていました。その後、急速な事業拡大とともに大規模な生産が必要不可欠になりました。フィルム製造のための精巧な道具とプロセスを生み出すことによって、この若い会社は、高品質の商品を一般大衆の手の届く販売価格に据え置き製造できるようになりました。  
1896年、10万台めのKODAKカメラが製造されました。フィルムと写真印刷用紙は、月に約640キロメートルの速さで生産されていました。当時、KODAKのポケットカメラの販売価格が5ドルでした。この価格に満足していなかったEastmanは、簡単で効率よく操作できて価格が1ドルのカメラ開発に取り組みました。その結果1900年に、のちに人気商品となるBROWNIEカメラ製品ラインの第1号の商品が発表されました。  
世界販売  
Eastmanが1880年に乾板事業を開始する以前、ヨーロッパの人々は写真に大いに関心を寄せていたものの、実際に写真を手がけるのは主に専門家に限られていました。  
Eastmanは、世界にアマチュア写真家市場の潜在性を認識していました。Eastman Dry Plate and Film Companyが米国で設立されてからわずか5年後、ロンドンに営業所が開設されました。それから数年間、特に、KODAKカメラとEastmanによる簡単な撮影手法が紹介されて以来、写真撮影の人気が高まり、多数のアマチュア写真家を輩出しました。  
1889年、米国以外の国々でのKodak製品の販売を手がける、Eastman Photographic Materials Company, LimitedがイギリスのLondonで法人化されました。当初はすべての商品をRochesterで製造していましたが、 ほどなくして海外および国内を合わせた需要が工場のリソースを上回るようになり、  
London郊外のHarrowに新たな工場が建設されたのが1891年のことでした。1900年までには、フランス、ドイツ、イタリア、その他のヨーロッパ諸国における販路が確立されました。日本での販路については検討中で、カナダで設立されたCanadian Kodak Company, Limitedの下では工場建設が進められています。  
現在、Kodakは南北アメリカ、ヨーロッパ、およびアジアに製造拠点があり、Kodak製品は世界中で販売されています。  
写真の持つ影響力の普及
George Eastmanが1889年に初めて透過性商用ロールフィルムを発売したとき、その影響は一般消費者からプロの写真家まで、広範囲に及びました。例えば、これがきっかけとなって発明家のThomas Edisonが1891年に最初の映画撮影用カメラを発明し、Kodakでは1896年に映画用に特殊コーティングされたフィルムの販売を開始しました。  
これはKodakが多くの重要産業において果たした役目の一例に過ぎません。  
映画  
現在、Kodakフィルムは、世界の数多くの映画セットで動画を記録し続けており、世界各地の映画館で上映されるフィルムのプリントに広く使用されています。  
アカデミー賞の誕生以来、オスカー受賞「最優秀作品」はすべてKodak製フィルムで撮影された作品です。Kodak社自体も、優れた科学技術が認められ、これまでに8つのアカデミー賞を受賞しています。  
これは、映画会社でない企業にはこの上ない栄誉です。しかし、映画産業の歴史における技術革新とKodakの関係を考えれば当然のことと言えます。Kodakは業界に次のような影響を与えました。  
1929年、当時新しく登場した「音声付き」映画の製作用に開発された初めてのフィルムを発売。  
映画用フィルムに安全性を考慮したトリアセテートフィルムベース(1948年に発表)を開発した功績により、1949年のアカデミー賞を受賞。この発明により、それまで使用されてきた可燃性の硝酸セルロースを成分とするフィルムベースの安全上の問題が大幅に軽減され、また、フィルムの長期保存性も向上しました。  
Eastmanのカラーネガおよびカラープリントフィルム(1950年に発売)で再びアカデミー賞を獲得。劇場やテレビのカラー映画の普及を後押ししました。  
1989年、Eastman EXRカラーネガフィルム製品に改良型乳剤技術を採用。これらの技術発明によって、露出不足の寛容度が増し、蛍光灯の下でより自然な色が出せるようになり、鮮明度が増すなど、映写技師にクリエイティビティ面での柔軟性を与えました。  
Kodakは、映画撮影フィルムの品質と成果の水準向上に貢献し続けています。2002年には、Kodak Vision2映画撮影フィルムを発売しました。これは、フィルムとデジタルのポストプロダクションシステムの両方で使用できるように作られた初めての製品シリーズで、粒子が細かく、シャドー撮影も細部まで鮮明にでき、トーンとカラーの中間色も増加しました。  
Kodakの子会社Cinesite(シネサイト社)は、昨今の映画製作に欠かせないデジタル特殊効果とその他のポストプロダクションサービスを専門に手がける事業部門です。Cinesiteは、1990年代初期に「白雪姫と7人のこびとたち」をデジタル化して保存して以来、約200本にのぼる映画、テレビ番組、CM、音楽ビデオのデジタル効果を制作しています。2003年にはLaser-Pacific Media Corporation(レーザーパシフィックメディア社)を買収し、Kodakのポストプロダクションサービスをさらに拡充させています。  
将来へ向けても、フィルムが映画の撮影および映写の主要媒体であることに変わりはありません。それでもなお、お客様の要望に応えて、Kodakは高画質デジタルソリューションの開発も行っています。2003年には、劇場スクリーンでプレショー広告を上映するための、Kodakデジタルシネマシステムが発表されました。1年後、Kodakは、主要作品のデジタル映写をサポートするCineServerを発売しました。  
健康関連事業  
ヘルスイメージング産業の開発においてKodakが重要な役割を果たすようになったのは、Wilhelm Roentgenが1895年11月にX線を発見してから1年足らずのことでした。  
1896年にKodakは、X線画像撮影専用に開発された初めてのイメージキャプチャメディアの感光紙を発表しました。1914年までに、お客様の抱える技術的問題を解決するために2人の放射線専門家を雇用し、1929年には技術スタッフが26人に増えました。  
事業の拡大とともに、Kodakはフィルムおよびイメージング技術を健康産業の特殊なニーズに順応させました。例えば、第2次世界大戦の頃、Kodakは原爆開発に携わる人たちの放射線被曝を検出するフィルムを開発しました。その後、数十年間のうちに、心臓病学、歯科医術、マンモグラフィ、腫瘍学(ガン放射線治療)など、さまざまな用途向けの特性を備えた他のフィルムが開発されました。  
その過程では、X線画像や放射線写真の品質とアクセシビリティの両方を改善する画期的プロセスが生み出されてきました。1956年、KodakのX-Omat処理装置でわずか6分で放射線写真を仕上げることができるようになり、それから10年足らずの間にはさらに処理時間が短縮され、わずか90秒になりました。1998年にImation社の医用画像事業を買収したことにより、Kodakは乾式処理フィルムを製品ポートフォリオに加えました。このような乾式システムでは、コンピュータ断層撮影装置(CT)、磁気共鳴画像(MRI)などのデジタル医用画像装置のフィルム画像がプリント可能です。  
ここ数年は、コンピューテッドラジオグラフィーシステム(CR)、デジタルラジオグラフィーシステム(DR)、医療画像情報システム(PACS)などのヘルスイメージング製品が開発されています。PACSは、病院がさまざまな医療用のデジタル画像を保管、管理、閲覧、および共有できるようにするシステムです。このシステムを導入することで、別の場所にいる医師が画像を確認し、診断や治療の経過を調べることができます。  
さらに、Kodakでは生体分子の研究に使用可能なフィルムや画像解析製品を開発しています。  
Kodakは2007年に一般消費者と商業用のイメージング市場に重点を置くことを基本方針として、健康関連事業部を売却しました。この事業部は現在、Onex Corporationの傘下のCarestream Health, Inc.として運営されています。  
ドキュメントイメージング  
George Eastmanが若い頃に銀行の雑用係として働いていたことを考えれば不思議ではありませんが、Kodakの新しい子会社のRecordakでは1928年、銀行のデータ処理を簡略化するマイクロフィルムシステムを初めて発売しました。  
文書をマイクロフィルムに保管するには、大幅に縮小した写真を撮影します。Recordak社は1931年までに、回転ドラムに送り出した文書と同時にフィルムを移動させる方法で、このプロセスを自動化しました。これにより、どんなに長い文書でもフィルム化できるようになりました。  
それから十数年の間に技術が進歩し、マイクロフィルムは保険会社、図書館、政府機関、輸送業者など、多くの書類を取り扱う業界に普及しました。  
第2次世界大戦中は、Kodakと英国法人のKodak Limitedがマイクロフィルム技術を使用して、兵士たちに送る手紙をフィルム化するシステムを生み出しました。当時「Vメール」と呼ばれた「ビクトリーメール」は、軍需物資に必要な輸送スペースを少しでも広く確保するために設計されました。これにより、郵便袋37袋分に相当する手紙を1袋で送ることができました。このシステムが使用された3年間に、5億通を超えるVメールが海外の軍隊に届けられました。  
マイクロ写真技術の成功と電子写真技術の進歩を土台に、Kodakは1975年にコピー機市場に参入し、ビジネス向けイメージング事業における存在感を高めました。その第1号製品となったKodak Ektaprint 100コピー機は、高速で高画質の普通紙コピー機能を搭載していました。Kodakは20年以上にわたったコピー機事業を手がけ、また、デジタル印刷機のNexPressファミリを通じて今も電子写真に携わっています。  
さらに、Kodakは、高性能のマイクロフィルムシステムを開発し、ドキュメントスキャナー製品シリーズを成功させたことによって、文書管理の分野でも影響力も持ち続けています。  
印刷と出版  
Kodakは初期の頃から印刷業界用の原材料を供給してきましたが、印刷業界向けに作られた材料を最初に販売したのは1912年のことでした。その年、George Eastmanは、Londonを拠点とし、商用印刷の写真材料を製造するWratten and Wainwright社を買収しました。  
それから十数年の間に、Kodakは印刷業界でますます知名度を上げました。現在、世界の商用印刷物のページの約40%は、Kodakの技術が関与しています。  
このような成功に至るまでには、業界に多くの画期的出来事がありました。  
1929年にKodakは、ハイコントラストのKodalith材料を発売し、ハーフトーン印刷を容易にしました。それまでのプリンタでは、コロジオン塗布した湿版ガラスプレートを使用しており、コーティングを自力で行う必要がありました。  
1930年代半ば、Kodakの研究者は、印刷用イメージを制作する世界初の電子色分解スキャナーの設計・製造に成功しました。このスキャナーは子会社のTime, Inc.に売却され、最終的にそのうちひとつのバージョンがTime-Lifeマガジンのカラーページ作りに使用されました。  
1950〜60年代には、Kodakは雑誌や書籍にあふれるカラー印刷で重要な役割を果たしました。高画質のカラー印刷システムについて研究し、多数の教育コース、コンファレンス、製品紹介などを通じて、カラー分解、マスキング、および補正方法を業界の人々に紹介しました。  
1960年代に入って植字に電子機器が導入されると、Kodakは初の高速写真植字用用紙およびフィルムを発売しました。その後数年間に、Kodakは新しい世代のグラフィックアートフィルムや印刷プレートを数多く世に送り出し、商用プリンタの品質と利便性を高めました。  
1990年代にKodakは、現代の業界最先端技術である赤外線式(感熱式)デジタル印刷プレートを初めて商品化し、 現在最高の技術水準を持つオフセット印刷の基礎を築きました。Kodakは、印刷機の機械校正を行う前に最終的な出力画質を確認できる、初めてのデジタル中間色製版システム、Kodak Approval Systemも発売しました。  
Kodakは1990年代に2つの共同事業に着手しました。  
1997年、KodakとSun ChemicalはKodak Polychrome Graphics(KPG)を共同設立し、 製版消耗品(印刷プレート、フィルム、プルーフィング製品、薬品)の世界トップの供給業者となりました。  
1998年にはKodakとHeidelberg DruckmachinenがNexPress Solutions LLC(ネクスプレスソリューションLLC)を共同設立し、 オンデマンドで可変データカラープリントの成長市場に向けて、カスタマイズされたカタログやその他の資料の高速高画質プリントを提供しました。  
これらの2社はその後Kodakに統合され、Kodakのグラフィックコミュニケーション事業において重要な役割を引き続き担っています。  
2005年には、世界中の商用プリンタに搭載されている製版やワークフローシステムの最大手サプライヤである、Creo Inc.(クレオ社)も買収しました。  
宇宙開発  
Kodakは40年以上にわたりNASAと協力して、宇宙科学と遠隔探査の任務に携わってきました。John Glennがアメリカ人として初めて地球の軌道を周回したとき、時速28,000Kmの速さで宇宙を旅する様子がKodakのフィルムに記録されました。35年以上を経てGlennが再び宇宙に旅立ったときには、改良されたKodakのデジタルカメラを手にして、歴史的なスペースシャトルのミッションのドキュメントを記録しました。  
Kodakは、他の歴史的瞬間にも関わっています。  
1960年代半ば、NASAは5隻の宇宙船、Lunar Orbiterを打ち上げ、これらの宇宙船が連帯して、Apollo月着陸準備のために月面の99%を撮影しました。各宇宙船は、Kodakが設計と製造を手がけた精巧な写真システムを搭載していました。このシステムは、写真を撮影し、フィルムを処理してスキャンし、Kodakが製造した地上受信機で受信できるように画像を連続ビデオ信号に変換する機能を持っていました。その当時、かつて打ち上げられた宇宙船の中で最も複雑な宇宙衛星搭載機器でした。このシステムでは、月面の地形を分析するために撮影された中解像画像に加え、月面上にあるトランプ用テーブルほどの大きさの物体がはっきり見える、高解像度画像が何枚も撮影されました。  
Kodakの技術は、宇宙飛行士が初めて月の上を歩いた、Apollo 11号でも活用されました。宇宙飛行士は、Kodakが製造した特殊立体カラーカメラを使用して、月面の岩、ちり、および微小粒子の超クローズアップを撮影することができました。このカメラは大きめの靴箱ほどの大きさと形をしており、伸縮型ハンドルに付いた引き金を使って簡単に操作できました。このため、宇宙飛行士は与圧服と分厚いグローブ着用という可動性が限られ、機敏な動作ができず、視界の悪い状況でも、カメラの操作が可能になりました。Neil Armstrongが撮影した月の土壌の写真から、科学者たちが1,000分の2インチより小さい土壌粒子を確認できたほどです。  
Kodakの高解像度イメージセンサーは、NASAのPathfinder宇宙飛行任務において1997年に火星表面を探査したSojourner Roverの「眼」の役割も果たしました。これらのイメージセンサーによってRoverは、火星の荒れた地表で道を見つけ、火星の地面と土壌のカラー画像を撮影できたのです。  
Kodakは、X線観測衛星Chandraの精密光学機器も提供しました。1999年の打ち上げ以来、Chandraはブラックホールや銀河群間の高温ガス雲など、深宇宙における現象の画像を撮影し、天文学者にこれまでにない宇宙の情報を提供し続けています。  
Kodakは、中枢の一般消費者と商業イメージング市場に重点を置くことを基本方針に、2004年、NASAおよび航空宇宙産業に尽くしてきた遠隔探査システム事業をITT Industries, Inc.(ITT工業)に売却しました。Kodakは、農業の穀物管理に使用される赤外線フィルムなど、航空写真にかかわる製品を今も提供し続けています。  
イメージング業界: 将来に向けた転身  
今日、画像を使った情報伝達の進化は、次の段階に移行しつつあります。イメージングサイエンスは情報技術に統合され、画像の撮影と用途において斬新で画期的な方法を生み出しています。これにより、人やビジネスを結ぶ情報伝達手段、およびそれらの作業方式が大きく変化する可能性があります。このような経緯を受けて、Kodakは新しいアイデアと応用方法を考案する態勢を整えています。それらには現在では想像もできないような技術も含まれますが、一部の技術はすでに市場に登場しています。  
画像の撮影  
Eastmanが写真を広く一般大衆の娯楽として普及させた鍵は、ロールフィルムとボックス型の安価なカメラの開発にありました。今日使用されているカメラの多くはデジタルカメラで、当時に比べればはるかに洗練された多機能カメラになっていますが、画像撮影の基本原則は何ら変わりありません。  
カメラ  
前述のような違いはあるものの、すべてのカメラには次の5つの基本的な要素が含まれています。  
レンズ: 光を集め、撮影する画像に焦点を合わせるガラスまたはプラスチック製の要素。  
絞り: レンズを通してカメラに入ってくる光の量を制御する「開口部」。絞り(開口部)には固定型、手動調整型、自動調整型のものがあります。通常、シンプルなカメラの絞りは固定型です。自動調整型のカメラは、感光素子によってさまざまな明るさに応じて開口部が調整されます。高性能カメラの場合は、開口部を手動で調整できます。  
シャッター: カメラに入ってくる光に対するフィルム露光時間を決定する装置。動きの速い被写体を静止画として捉えるには、高速のシャッターを使用します。動画撮影カメラの場合は、1秒当たり24コマ(フレーム)の速さでフィルムが進む間に180度のシャッターが回転します。  
ボディ: カメラのメカニズムが入った遮光性の箱。  
ビューファインダー: 一眼レフカメラのレンズやシンプルなカメラの独立型ファインダーから、撮影する画像の内容を撮影者が確認するためのレンズまたはフレーム。  
デジタルイメージの撮影方式  
デジタルカメラでは、フィルムの化学反応ではなく、電子イメージセンサーを通じて画像が記録されます。イメージセンサーは、次の2つの主要コンポーネントから成る内蔵型の集積回路(IC)です。  
1つはピクセル(画像素子)で、光電変換が行われる独立した小さな素子です。より多くの光源がピクセルに当たると、より多くの電子が集まります。センサー内のピクセル数によって、画像の解像度が決まります。一般消費者向けのカメラの画素数は700〜800万画素です。  
出力回路で各ピクセルから電子が移動し、その信号が電圧に変換されます。ピクセルに当たる光が明るければ明るいほど、電圧は高くなります。次に、この電圧がデジタル数値に変換され、画像がモニターやメモリーカードなどのストレージ機器に伝送されます。  
カメラに搭載されるイメージセンサーでは、ピクセルが格子状に配列されます。この配列設計を使用して、ちょうど1枚のフィルムに露出するように、シャッターが開くと同時に、各素子を撮影された1つの画像として記録することができます。各ピクセルが画像の一部分を記録する働きを持つため、センサー内のピクセル数が多いほど、解像度の高い画像が撮影できます。さらに、ピクセル上にカラーフィルターを配置することによって、カラー画像をセンサーに記録することができます。  
センサーから読み取った画像はカメラのメモリーに格納され、次の新しい画像を撮影できる状態になります。格納された画像は、カメラ背面のディスプレイでプレビューしたり、コンピュータにダウンロードして表示・プリントすることができます。  
センサーの種類  
電子イメージセンサーの設計・製造に30年以上の実績を持つKodakは、イメージセンサー技術で世界をリードしています。現在、Kodakは、人工衛星画像および医療用画像からデジタルカメラやマシンビジョン製品に至るまで、幅広い用途向けに高性能イメージセンサーを供給しています。  
Kodakのセンサーに使われている技術は、4つの一般的カテゴリに分類されます。  
フルフレームCCD画像  
Kodakは、高性能イメージング市場をターゲットとするフルフレームCCD(Charged-Coupled Device)技術の設計・製造でも世界的リーダーとして認められています。フルフレームCCDは、特に優れた画質と撮影感度の点で注目され、このクラスのセンサーは、厳しい条件下でも優れた画像が撮影できます。KodakのフルフレームCCDは、最大3,900万ピクセルの解像度に対応し、プロ用デジタルスチルカメラ、産業用画像処理装置、フィルムデジタル化装置、顕微鏡検査、天文学など、幅広く使用されています。  
インターラインCCD画像  
インターラインCCDイメージセンサーは、機械的シャッターを必要としないため、リアルタイムの高速イメージキャプチャに理想的な装置です。ビデオ解像度から1,100万画素までの製品を揃えたインターラインCCDは、ビデオカメラ、デジタルスチルカメラ、監視カメラ、医療用画像、工業検査などの応用分野で使われています。  
リニアイメージャー  
一度に1つのイメージラインを取り込むリニアCCDでは、アイテム全体をスキャニングするか、アイテムをセンサー下で移動させることによって、イメージを取得します。リニアイメージャーでは高感度、高解像度の画像が撮影でき、デスクトップスキャナー、ドキュメントスキャナー、計量、遠隔探査衛星などに最適です。  
CMOSイメージャー  
CCDに代わるものとして、CMOS(Complimentary Metal Oxide Semiconductor)イメージセンサーがあります。CMOSセンサーは、電気消費量が少なく、オンチップ機能がより高性能です。携帯電話機用カメラ、PDAや一部のデジタルカメラなど、大量生産されるポータブル機器の応用分野に適しています。  
先日Kodakは、現在のセンサーよりも2〜4倍の感光度を持つ新しい技術を発表しました。この技術を採用した初のKodakセンサー製品は、2008年に発売予定です。  
フィルムの働き  
フィルムカメラでは、感光フィルムに画像を露出します。正しく露出されると、写真フィルムで光化学変化が発生します。その後、特殊な現像処理技術により、記録された画像が写真ネガとして再現され、それをもとにプリントします。カラーリバーサルフィルムでは、ポジ画像(陽画)が生成されるため、スライド用に適しています。  
フィルムのつくり: 芸術および科学  
写真フィルムの主要部は、フィルムベース(基剤)と感光乳剤の2つです。  
フィルムベースは透明で柔軟性のあるシートで、表面は乳剤(複数の層)でコーティングされています。ほとんどのカメラフィルムでは酢酸セルロースベースが使用され、X線フィルムやグラフィックアート用フィルムなどのシートフィルムには、ポリエステルのフィルムベースが使われています。  
乳剤は、感光性成分(超純銀から抽出した塩)が浮遊する、極微厚のゼラチン層から成ります。乳剤の成分によって、モノクロかカラーか、正しい露出に必要な光の量(フィルムスピードとして表されます)といったフィルムの特性が決まります。  
初期のKodakでは、フィルムベースは長いガラステーブル上に作られ、乳剤でコーティングしていました。乾燥させた後、コーティングされたシートがテーブルからはがされ、巻き取られていました。  
現在では、連続したロールプロセスとしてフィルムベースの製造とコーティングが特殊な機械によって行われています。ベースとなる液体材料の一定流量が、大きな回転ホイール上に均一層として拡げられます(ベースは1インチの1000分の10単位で計測されます)。ホイールが回転するとベースが乾燥し、ホイールからはがしてシートの形になります。処理しやすいようにベースは長いロールに巻き付けられており、長さが数千メートルに及ぶこともあります。この状態で写真乳剤がベースにコーティングされ、感光プロセスに対応できる状態になります。  
乳剤は感光性なので、その準備のほとんどのステップは、完全またはほぼ完全な暗室で行う必要があります。必要な写真特性に合わせて一回分の乳剤を調整した後、乳剤が大型コーティング機に絞り出されます。連続した操作で、ベースのロールが巻き取られ、乳剤が片面に塗布されます。一般的な乳剤の層は1インチの数千分の1の厚さで、厳しい耐久性基準に合わせて調節する必要があります。一般的なカラーフィルムでは、異なる乳剤と色を出すためのその他の薬品から成る層が17以上が必要です。  
乳剤がベース上で硬化して乾燥した後、フィルムを細長く切ってロール状にし、適宜巻き取られ、おなじみの黄色い箱に梱包されます。  
Kodakフィルムは、厳しい要求水準を満たして製造されています。世界中のどこで購入してもフィルムの性能は一貫しており、スピード、粒子、鮮明度、カラー再現性の点での性能基準を常に設定しています。
画像やページのプリント  
今日では画像を画面で表示・共有することもできますが、画像のプリントに対する需要は依然として高いのが実情です。Kodakのカラーサイエンスや薄層コーティングに関する特殊技術は、写真や文書のプリントで今日一般的に使用されている技術の主要な部分を担っています。  
一般消費者向けプリント  
デジタル時代の一般消費者は、写真のプリントを小売店やオンライン、または自宅でも入手できるようになりました。このように選択肢が広がったため、個人のニーズや創造性に応じたさまざまなプリントが可能になりました。従来のプリントに加えて、フォトブックやコラージュ、カレンダーなど、自分だけの写真商品を注文できるようにもなりました。  
個人向けのオールインワンプリンター(インクジェット技術)  
インクジェット技術は、自宅で写真をプリントする際に一般的に使用されています。写真をプリントするには、デジタル写真のデータや、すでにプリントされている写真をスキャンしてコンピュータに取り込んだデータが開始点となります。複数色のプリントヘッドから粒子状のインクが用紙の表面に噴き付けられて画像が再現されます。プリントヘッドに使用される色は通常、シアン、マゼンタ、イエロー、およびブラックです。プリンターの電子部品は、プリントヘッドの位置と粒子状のインクの噴き付けを制御して、インクの量、噴き付けるタイミング、および噴き付ける位置を適切に調整します。  
Kodakは2007年に革新的なインクジェットプリンターとインク、フォト用紙の発売を開始しました。KODAK EASYSHAREのオールインワンプリンターは、最高品質の色素インクを使って自宅でも写真や文書をくっきりと鮮やかに、しかも低コストで印刷することができます。  
この機種のプリンターには、いくつかの最新技術が採用されています。まず1つは、交換が不要なプリントヘッドです。インクカートリッジを交換しても、プリントヘッドは同じものを引き続き使うことができ、取り付け方も簡単です。また、他のメーカーのプリンターでは染料インクが一般的ですが、Kodakのプリンターでは色素インクを使います。染料インクは色あせが生じますが、Kodakの色素インクはナノ粒子製剤の色素を使っているため、いつまでも色あせせずに鮮やかな色が楽しめます。*  
* 一般家庭において通常の条件で飾ったり、暗い場所で保管した場合。  
小売店や自宅向けのプリンタードック(感熱式プリント技術)  
Kodakの感熱式プリンターは、世界各地の何万店もの小売店に導入されています。これらの小売店では、デジタル式のメモリーカードやその他の電子メディアに保存された画像や、すでにプリントされている写真でも焼き増ししたり引き伸ばしたりすることができます。Kodakの感熱技術は、個人ユーザー向けのKODAK EASYSHAREプリンタードックにも採用されており、 耐久性に優れた10 cm x 15 cm(4" x 6")サイズのプリントを、コンピュータがなくてもデジタルカメラから直接作成できます。  
この感熱処理では、色リボンが特殊コーティングされた用紙上に配置されプリントヘッドによって過熱されます。過熱されると色素がリボンから用紙に転写されて画像が再現されます。  
色リボンには4つの独立したパネルが存在します。このうち3つのパネルにはそれぞれシアン、マゼンタ、イエローの三原色が含まれています。また、4つ目のパネルには、画像の安定性と耐久性を向上させるために透明なコーティング剤が含まれています。実際は、銀塩技術によるプリントと同様、感熱式プリントの品質を長期間にわたって維持するには、適切な環境条件で保管する必要があります。  
感熱式プリントは、インクジェットのように用紙の表面に色素が噴き付けられるのではなく、色素が用紙に浸透するため、乾燥を待つ必要がなく色あせにも強いのが特長です。また、色素がドット単位ではなく連続して用紙に転写されるため、画像の密度の階調が細かくなり、写真らしさが一段と増します。  
小売店またはオンラインでの注文(従来の銀塩技術)  
かつては撮影済みのロールフィルムを同時プリントの店に持っていくと、まもなく色鮮やかな高画質プリントを受け取ることができましたが、 デジタル画像でも同じように銀塩技術を使ったプリントを小売店やオンラインで注文することができます。  
この仕組みは次のようになっています。  
ロールフィルムの場合は、光がネガフィルムを通過すると、画像のポジが特殊用紙に投影されます。デジタル画像やネガをスキャンした電子データの場合は、レーザーとLEDによりフォト用紙に画像を直接プリントできます。フォト用紙には感光性のある銀の結晶と化合物がコーティングされており、化学現像薬を混ぜると色素が形成され画像を再現します。明るい部分や白色の部分は銀が活性化されないので、現像中にプリントから銀が流れ落ちます。  
モノクロプリントの場合は、写真用印画紙に感光性の銀の結晶と化合物が一層だけコーティングされています。カラープリントの場合は、写真用印画紙に異なる色を印画した際に合成される三原色(シアン、マゼンタ、イエロー)が別の層にコーティングされています。  
用紙に画像を露光した後、いくつかの化学溶液を使用して画像を現像し、現像が終わると画像を安定させるための処理を施します。  
KodakのPERFECT TOUCHテクノロジーでは、色の鮮明さ、精細さ、および陰影がより際立つように画像がデジタル補正されてからプリントされます。この技術により、露光が弱かったり逆光であっても、プリントの品質を飛躍的に向上させることができます。  
商用のオフセットプリント  
商用または医療関連のユーザーには、品質、サイズ、費用、および業務に必要な出力形式に応じて、さまざまな選択肢が用意されています。  
大量プリント(商用オフセット技術)  
グラフィックアートでは、出版物に画像をプリントする際にオフセット処理が使用されるのが一般的で、画像は用紙に転写される前に、一連の中間ドラムとローラーにいったん転写されます。  
オフセットプリントでは、最初に印刷版と呼ばれる薄いアルミ板に画像が形成されます。形成されたこの画像はマスターとして保持され、同じ画像を何度も転写するのに使用できるため、オフセットプリントは一度に同じ画像を大量(通常500枚以上)にプリントする場合に向いています。  
印刷版はシリンダの表面に巻き付けられていて、回転しながらインクに接触します。画像に基づき、印刷版の特定の領域が化学的にインクを引き寄せたり弾いたりします。次にインク付着後の印刷版が画像をローラーに転写し、最後に画像を用紙に転写します。  
印刷機では、色ごとに同じ処理が繰り返されます。ほとんどの色は、シアン、マゼンタ、イエロー、およびブラックを一定の順序でプリントすることで発色します。インクはプリントされるときにドットの配置、大きさ、および強度が調整されるため、これらの色を組み合わせることで、ほとんどの色が再現可能です。ただし、特殊な色の場合には、それ以外の色でプリントされることもあります。  
Kodakは、印刷業界向け印刷版の世界最大手です。これには、デジタル式印刷版(コンピュータ内のファイルに画像が書き込まれたもの)と、従来型の写真技術で製作した印刷版の両方を含みます。  
デジタル式可変データ印刷  
最近は、コミュニケーションの手段を個人に合わせてパーソナライズできるようになっています。請求書やクレジットカードの明細書などの文書はすでにパーソナライズが一般化していますが、これが広告やカタログ、書籍などにも広がっています。このような製品には、次のような技術が使用できます。  
連続型インクジェット技術  
連続型インクジェット(CIJ)は、一般消費者向けのインクジェットとは多少異なり、 液体タンクからインク液滴ジェネレータにインクがフィードされます。このジェネレータの下に、孔の開いた印刷版があります。  
この孔にそれぞれ1本ずつある導線によってインクの噴き付けを制御することで、その下の用紙に画像が印刷されていきます。導線にはオンとオフを切り替えて孔を開閉するデータが伝達されます。導線がオフの場合は孔が開いてインクがその下の用紙にインクの粒子が噴き付けられます。噴き付けられなかったインクは、液体タンクに戻ります。この動作が非常に精密に繰り返されます。1分間に300メートル(1000フィート)のCIJ画像を出力するには、CIJプリントヘッドから1秒当たり165,000回インクの粒子が噴き付けられることになります。  
Kodakの製品では、KODAK VERSAMARK印刷システムでCIJ技術が使用されています。VERSAMARK製品には、パーソナライズされた個人向け印刷物を短時間で大量に処理するためのものや、デジタルダイレクトメールや請求書、明細書、プロモーション広告などの製作を目的とした製品もあります。  
電子写真技術  
KodakのNexPressデジタル印刷機製品では、各ページのデータを処理ごとに変更することができるため、 広告の内容をカスタマイズしたり、お客様ごとに異なる情報を印刷することが可能です。  
電子写真技術では、このようなカスタマイゼーションが可能なのです。オフセットプリントでは固定された印刷版を使いますが、電子写真ではその代わりに情報の書き換えが可能な金属製の画像ドラムを使用し、  
レーザーで電荷を発生させて画像を書き込みます。電荷は着色剤の粒子(シアン、マゼンタ、イエロー、およびブラック色素の乾燥粉末)を引き寄せたり弾いたりして、最終的に用紙に転写する画像を作成します。画像を構成する色ごとに個別のレーザー(ドラムステーション)が使用されます。トナー転写の完了後、熱と圧力により用紙の表面にトナーを付着させます。  
画像の撮影
Eastmanが写真を広く一般大衆の娯楽として普及させた鍵は、ロールフィルムとボックス型の安価なカメラの開発にありました。今日使用されているカメラの多くはデジタルカメラで、当時に比べればはるかに洗練された多機能カメラになっていますが、画像撮影の基本原則は何ら変わりありません。  
カメラ  
前述のような違いはあるものの、すべてのカメラには次の5つの基本的な要素が含まれています。  
レンズ: 光を集め、撮影する画像に焦点を合わせるガラスまたはプラスチック製の要素。  
絞り: レンズを通してカメラに入ってくる光の量を制御する「開口部」。絞り(開口部)には固定型、手動調整型、自動調整型のものがあります。通常、シンプルなカメラの絞りは固定型です。自動調整型のカメラは、感光素子によってさまざまな明るさに応じて開口部が調整されます。高性能カメラの場合は、開口部を手動で調整できます。  
シャッター: カメラに入ってくる光に対するフィルム露光時間を決定する装置。動きの速い被写体を静止画として捉えるには、高速のシャッターを使用します。動画撮影カメラの場合は、1秒当たり24コマ(フレーム)の速さでフィルムが進む間に180度のシャッターが回転します。  
ボディ: カメラのメカニズムが入った遮光性の箱。  
ビューファインダー: 一眼レフカメラのレンズやシンプルなカメラの独立型ファインダーから、撮影する画像の内容を撮影者が確認するためのレンズまたはフレーム。  
デジタルイメージの撮影方式  
デジタルカメラでは、フィルムの化学反応ではなく、電子イメージセンサーを通じて画像が記録されます。イメージセンサーは、次の2つの主要コンポーネントから成る内蔵型の集積回路(IC)です。  
1つはピクセル(画像素子)で、光電変換が行われる独立した小さな素子です。より多くの光源がピクセルに当たると、より多くの電子が集まります。センサー内のピクセル数によって、画像の解像度が決まります。一般消費者向けのカメラの画素数は700〜800万画素です。  
出力回路で各ピクセルから電子が移動し、その信号が電圧に変換されます。ピクセルに当たる光が明るければ明るいほど、電圧は高くなります。次に、この電圧がデジタル数値に変換され、画像がモニターやメモリーカードなどのストレージ機器に伝送されます。  
カメラに搭載されるイメージセンサーでは、ピクセルが格子状に配列されます。この配列設計を使用して、ちょうど1枚のフィルムに露出するように、シャッターが開くと同時に、各素子を撮影された1つの画像として記録することができます。各ピクセルが画像の一部分を記録する働きを持つため、センサー内のピクセル数が多いほど、解像度の高い画像が撮影できます。さらに、ピクセル上にカラーフィルターを配置することによって、カラー画像をセンサーに記録することができます。  
センサーから読み取った画像はカメラのメモリーに格納され、次の新しい画像を撮影できる状態になります。格納された画像は、カメラ背面のディスプレイでプレビューしたり、コンピュータにダウンロードして表示・プリントすることができます。  
センサーの種類  
電子イメージセンサーの設計・製造に30年以上の実績を持つKodakは、イメージセンサー技術で世界をリードしています。現在、Kodakは、人工衛星画像および医療用画像からデジタルカメラやマシンビジョン製品に至るまで、幅広い用途向けに高性能イメージセンサーを供給しています。  
Kodakのセンサーに使われている技術は、4つの一般的カテゴリに分類されます。  
フルフレームCCD画像  
Kodakは、高性能イメージング市場をターゲットとするフルフレームCCD(Charged-Coupled Device)技術の設計・製造でも世界的リーダーとして認められています。フルフレームCCDは、特に優れた画質と撮影感度の点で注目され、このクラスのセンサーは、厳しい条件下でも優れた画像が撮影できます。KodakのフルフレームCCDは、最大3,900万ピクセルの解像度に対応し、プロ用デジタルスチルカメラ、産業用画像処理装置、フィルムデジタル化装置、顕微鏡検査、天文学など、幅広く使用されています。  
インターラインCCD画像  
インターラインCCDイメージセンサーは、機械的シャッターを必要としないため、リアルタイムの高速イメージキャプチャに理想的な装置です。ビデオ解像度から1,100万画素までの製品を揃えたインターラインCCDは、ビデオカメラ、デジタルスチルカメラ、監視カメラ、医療用画像、工業検査などの応用分野で使われています。  
リニアイメージャー  
一度に1つのイメージラインを取り込むリニアCCDでは、アイテム全体をスキャニングするか、アイテムをセンサー下で移動させることによって、イメージを取得します。リニアイメージャーでは高感度、高解像度の画像が撮影でき、デスクトップスキャナー、ドキュメントスキャナー、計量、遠隔探査衛星などに最適です。  
CMOSイメージャー  
CCDに代わるものとして、CMOS(Complimentary Metal Oxide Semiconductor)イメージセンサーがあります。CMOSセンサーは、電気消費量が少なく、オンチップ機能がより高性能です。携帯電話機用カメラ、PDAや一部のデジタルカメラなど、大量生産されるポータブル機器の応用分野に適しています。  
先日Kodakは、現在のセンサーよりも2〜4倍の感光度を持つ新しい技術を発表しました。この技術を採用した初のKodakセンサー製品は、2008年に発売予定です。  
フィルムの働き  
フィルムカメラでは、感光フィルムに画像を露出します。正しく露出されると、写真フィルムで光化学変化が発生します。その後、特殊な現像処理技術により、記録された画像が写真ネガとして再現され、それをもとにプリントします。カラーリバーサルフィルムでは、ポジ画像(陽画)が生成されるため、スライド用に適しています。  
フィルムのつくり: 芸術および科学  
写真フィルムの主要部は、フィルムベース(基剤)と感光乳剤の2つです。  
フィルムベースは透明で柔軟性のあるシートで、表面は乳剤(複数の層)でコーティングされています。ほとんどのカメラフィルムでは酢酸セルロースベースが使用され、X線フィルムやグラフィックアート用フィルムなどのシートフィルムには、ポリエステルのフィルムベースが使われています。  
乳剤は、感光性成分(超純銀から抽出した塩)が浮遊する、極微厚のゼラチン層から成ります。乳剤の成分によって、モノクロかカラーか、正しい露出に必要な光の量(フィルムスピードとして表されます)といったフィルムの特性が決まります。  
初期のKodakでは、フィルムベースは長いガラステーブル上に作られ、乳剤でコーティングしていました。乾燥させた後、コーティングされたシートがテーブルからはがされ、巻き取られていました。  
現在では、連続したロールプロセスとしてフィルムベースの製造とコーティングが特殊な機械によって行われています。ベースとなる液体材料の一定流量が、大きな回転ホイール上に均一層として拡げられます(ベースは1インチの1000分の10単位で計測されます)。ホイールが回転するとベースが乾燥し、ホイールからはがしてシートの形になります。処理しやすいようにベースは長いロールに巻き付けられており、長さが数千メートルに及ぶこともあります。この状態で写真乳剤がベースにコーティングされ、感光プロセスに対応できる状態になります。  
乳剤は感光性なので、その準備のほとんどのステップは、完全またはほぼ完全な暗室で行う必要があります。必要な写真特性に合わせて一回分の乳剤を調整した後、乳剤が大型コーティング機に絞り出されます。連続した操作で、ベースのロールが巻き取られ、乳剤が片面に塗布されます。一般的な乳剤の層は1インチの数千分の1の厚さで、厳しい耐久性基準に合わせて調節する必要があります。一般的なカラーフィルムでは、異なる乳剤と色を出すためのその他の薬品から成る層が17以上が必要です。  
乳剤がベース上で硬化して乾燥した後、フィルムを細長く切ってロール状にし、適宜巻き取られ、おなじみの黄色い箱に梱包されます。  
Kodakフィルムは、厳しい要求水準を満たして製造されています。世界中のどこで購入してもフィルムの性能は一貫しており、スピード、粒子、鮮明度、カラー再現性の点での性能基準を常に設定しています。  
History  

1878〜1929  
1878 - George Eastman(ジョージ・イーストマン)は、当時普及していた、かさばって扱いにくい湿板より、ゼラチン乾板の方がはるかに利便性が高いことを非常に早い時期に実証したうちの1人でした。乾板では、カメラマンが簡単に露光と現像を行うことができました。それに対し、湿板では、コーティング、1回で露光、さらに乾燥前に現像を行う必要がありました。  
1879 - 写真用乾板の大量生産を可能にする乳剤コーティング用の機械を発明しました。  
1880 - ニューヨーク州Rochester(ロチェスター)にある建物の屋根裏部屋を借り、乾板の商業生産を開始しました。  
1881 - 1月に、Eastmanと、家族の友人で鞭の製造業者であるHenry A.Strong(ヘンリー・A.ストロング)は、Eastman Dry Plate Company(イーストマン乾板会社)として知られる共同事業組合を設立しました。○ 9月に、Eastmanはそれまでの職業だった銀行員を辞め、専従でこの事業に携わるようになりました。  
1883 - 4階建てのビルへの移転を完了しました。その所在地は、343 State Street, Rochester, NYであり、現在は世界的に展開するKodakの本社になっています。  
1884 - 事業を、共同事業組合から資本金20万米ドルの法人に変更しました。Eastman Dry Plate and Film Company(イーストマン乾板およびフィルム会社)の設立時は、14人の株主がいました。○ EASTMAN Negative Paper(イーストマン印画紙)の商用化が発表されました。○ Eastmanと、知人のWilliam H.Walker(ウィリアム・H.ウォーカー)は、印画紙用のロールホルダーを考案しました。  
1885 - EASTMAN American Film(イーストマンアメリカンフィルム)が発表されました。これは、現在知られている透過性の高い写真用「フィルム」の最初の製品です。○ イギリスのロンドンに、卸売り営業所を開設しました。  
1886 - George Eastmanは、柔軟性と透過性の高いフィルムベースの商用化を推進するために、専従の研究科学者を非常に早い時期に雇用した米国の産業人のうちの1人でした。  
1888 - 「Kodak」という名称が考案され、「You press the button - we do the rest.」(ボタンを押すだけで、残りは当社が引き受けます。)というスローガンとともにKODAKカメラが市場に出荷されました。これは、現在も数百万人のアマチュアカメラマンが理解しているスナップ撮影の始まりです。  
1889 - Eastmanと研究化学者が仕上げた、初の透過性商用フィルムが市場に出荷されました。この柔軟性の高いフィルムにより、Thomas Edison(トーマス・エジソン)の動画カメラが1891年に実現されました。○ 新しい会社、The Eastman Company(イーストマン会社)が設立され、Eastman Dry Plate and Film Companyの資産を継承しました。  
1891 - 日中装填型カメラを市場に出荷しました。これは、カメラマンが暗室を使うことなくフィルムを装填できるようになったことを意味します。○ 写真用フィルムと印画紙の製造部門は、RochesterのKodak Parkにある、新築された4階建てのビルに移転しました。また、米国以外で初の製造プラントが、 イギリスのHarrow(ハロー)に開設されました。  
1892 - 会社の名称をEastman Kodak Company of New York(イーストマンコダックカンパニーオブニューヨーク)に変更しました。  
1893 - 成長を続ける折畳式ロールフィルム装填箱型カメラを製造する目的で、RochesterのState Streetに、6階建てのCamera Works(カメラワークス)を建造しました。  
1895 - Pocket KODAK Camera(KODAKポケットカメラ)を発表しました。このカメラはロールフィルムを採用しました。内蔵の小さなウィンドウからは、露出用の位置調整数字が読み取れました。  
1896 - X線の発見から1年後に、Eastmanは新しいプロセス用の原版と用紙を供給する契約を結びました。○ Kodakは、動画用途に特別にコーティングした最初のフィルムを市場に投入しました。  
1897 - 1891年に開設した支社を拡張し、フランスに完全所有する子会社を設立しました。  
1898 - KodakはFolding Pocket KODAK Camera(KODAK折畳式ポケットカメラ)を市場に投入しました。これは現在では、すべての近代的なロールフィルムカメラの原型であると考えられています。このカメラは、2 1/4" × 3 1/4 "(57.2mm × 82.6mm)のネガを採用しました。その後、数十年にわたって、これは標準的なサイズとなりました。○ Kodakで提案システムが開始されました。これは、会社の事業を改善する提案をした従業員に現金を支払うというものです。  
1899 - 透過性フィルムベースを製造するために連続型輪転処理を開発しました。これは、以前は長いテーブルの上で実施していたものです。○ 「非常に良い仕事」をしたKodakの従業員に対し、Eastmanは自分の個人的な基金からボーナスを支給しました。○ Kodak Canada Limitedが、Toronto(トロント)における流通センターとして組織されました。  
1900 - 有名なBROWNIE Cameras(ブローニーカメラ)の最初の製品が発表されました。この製品は1米ドルで販売され、フィルムは1ロールあたり15セントでした。このとき初めて、事実上すべての人にとって、写真趣味が経済的に手の届くものになりました。  
1901 - Eastman Kodak Company of New Jersey(イーストマンコダックカンパニーオブニュージャージー)が設立されました。これは現在の親会社です。George EastmanがNew Jersey持ち株会社の社長になりました。Henry A.Strongは、Eastmanの当初からのパートナーであり、亡くなる1919年までNew Yorkの会社の経営者という地位にとどまりました。  
1902 - KODAK Developing Machine(KODAK機械開発)は、ロールフィルムの処理を簡略化し、暗室なしでフィルムを現像できるようにしました。  
1903 - KODAK Non-Curling Film(KODAK非カーリングフィルム)の商用化が発表されました。これは、30年近くにわたってアマチュアカメラマンの標準になりました。  
1907 - Kodakの全世界における従業員数が5,000人に達しました。  
1908 - Kodakは世界で初めて、商業的に実用性のある安全なフィルムを発表しました。これは、非常に可燃性の高い硝酸セルロースベースの代わりに、酢酸セルロースベースを使用したものでした。○ オーストラリアで製造プラントが開設されました。Kodak Developing Machineは、アマチュアが暗室なしで自分のフィルムを処理できるようにしました。  
1911 - RochesterにあるKodakのBlair Camera(ブレアカメラ)工場が、Hawk-Eye Works(ホークアイワークス)という名称に変更され、1912年にはその場所に光学設計部門が設立されました。○ Eastmanは従業員のために、手当、事故、および年金に関連する基金を創設しました。○ 事故防止について研究するために、Kodakで初の安全委員会が組織されました。  
1912 - Dr.C.E.Kenneth Mees(C.E. ケネス・ミーズ博士)は、英国人の科学者ですが、George Eastmanによって雇用され、Rochesterで研究ラボを組織して率いるようになりました。これは米国において非常に早い時期に創設された産業研究センターの1つです。○ Kodakの従業員は、最初のWage Dividend(賃金配当)を受け取りました。これは、利益配分プログラムであり、米国では 現在でも続いています。  
1913 - EASTMAN Portrait Film(イーストマンポートレートフィルム)の商用化が発表され、プロフェッショナルカメラマンの間ではガラス板からシートフィルム使用への移行が始まりました。  
1914 - 343 State Street, Rochesterに16階建てのビルが完成しました。その所在地は、現在では世界規模に拡大したKodakの本社になっています。1930年には3つの階が追加されました。  
1917 - 航空カメラを開発し、U.S.Signal Corps(米国シグナルコープ)に所属する航空カメラマンに対して、第1次世界大戦中にトレーニングを実施しました。Eastmanは米国 海軍に対しても、酢酸セルロースを供給しました。これは、航空機の翼をコーティングするため、およびガスマスクでの使用を目的とした破損しないレンズを作成するためでした。  
1920 - フィルムベースとして使用する木製アルコールを製造する目的で、Tennessee Eastman Company(テネシーイーストマンカンパニー)が組織されました。  
1921 - 従業員の貯蓄と住宅購入の貸付を目的として、Eastman Savings and Loan Association(イーストマン貯蓄および貸付協会)が設立されました。これは、1994年に独立したクレジット組織になるまで、Kodakの一部としてとどまっていました。  
1923 - 酢酸セルロールをベースとして安全な16 mmリバーサルフィルムを発表し、アマチュアによる動画を現実的なものにしました。これは最初の16 mm CINE-KODAK Motion Picture Camera(16 mm シネKodak動画カメラ)と、KODASCOPE Projector(コダスコーププロジェクター)です。16 mmによる動画がすぐに一般的になった結果、世界規模でKodakのプロセスラボネットワークが構築されました。  
1925 - Eastmanは、Kodakの取締役会会長になりました。William G.乳剤製造を指揮する目的でEastmanが1894年に雇用したStuber(ウィリアム・G.スティーバー)が、社長に選出されました。  
1927 - Kodakの全世界における従業員数が20,000人に達しました。  
1928 - 16 mm KODACOLOR(コダカラー)フィルム商用化の発表により、カラー動画がアマチュアカメラマンにとって現実的なものになりました。○ 銀行の記録を簡略化する目的で設計された最初のマイクロフィルムが、Recordak Corporation(レコーダック社)によって発表されました。これは、新しく設立された、Kodakの子会社です。○ Kodakの男女従業員のために、退職年金、生命保険、および障害手当が設立されました。  
1929 - 新しい音声付き動画の作成専用に設計された、最初の動画フィルムの商用化を発表しました。
1930〜1959  
1930 - Kodakは、マサチューセッツ州Peabody(ピーボディ)にあるゼラチン製造施設を購入し、Eastman Gelatin Corporation(イーストマンゼラチン社)を設立しました。  
1931 - Tennessee Eastman(テネシーイーストマン)は、織物分野向けに、初の酢酸セルロース製糸の販売を開始しました。○ Kodakは、KODALITH Film and Plates(コダリスフィルムと原版)の商用化を発表しました。これらは、グラフィックアート業界で使用されていたコロジオン湿板に取って代わりました。○ KODAK VERICHROME Film(ベリクロームフィルム)が発表され、1903年以来標準になっていたKODAK NC(Non-Curling)Film(非カーリングフィルム)より広い露光許容度(ラチチュード)とより詳細な微粒子を達成しました。○ Kodakは、ドイツのStuttgart(シュツットガルト)にあるNagel Camera Company(ナーゲルカメラカンパニー)を買収しました。これはKodak A.G.(Kodakドイツ法人)になり、数十年にわたってKodakの機器製造場所として機能しました。Koepenick(ケペニク)にもドイツの施設がもう1つありましたが、第二次世界大戦後のドイツ分割によって失われました。  
1932 - 最初の8 mmアマチュア動画フィルム、カメラ、およびプロジェクターの商用化が発表されました。○ Tennessee Eastmanは、初のプラスチック、つまりEASTMAN TENITE Acetate(イーストマンティーニトアセテート)の製造を開始しました。○ George Eastman(ジョージ イーストマン)は死去し、剰余の全不動産をUniversity of Rochester(ロチェスター大学)に寄贈しました。1949年に、Rochesterにある彼の自宅は独立系の公共博物館として公開されました。The International Museum of Photography at George Eastman House(ジョージ イーストマン邸国際写真博物館)です。  
1933 - KodakとWestern Electric(ウェスタン エレクトリック)は共同で、高速業務用写真を商用化しました。これは、高速カメラを電気式タイマーに同期させたものです。  
1934 - Kodak A.G.(ドイツ)は、最初の35 mm高精度KODAK RETINA Cameras(Kodakレティーナカメラ)の商用化を発表しました。○ KodakとGeneral Mills, Inc.(ジェネラルミルズ社)は、Kodakの初期の研究に基づき、分子蒸留に関する共同研究プログラムを開始しました。1938年までに、Distillation Products, Incorporated(ディスティレーションプロダクツ社: 蒸留製品社)はビタミン濃縮物を製造し、1948年にはKodakはGeneral Millsの事業を買収して合併しました。○ William G.Stuber(ウィリアム・G.ステューバー)は取締役会会長になり、Frank Lovejoy(フランク・ラブジョイ)は社長に就任しました。  
1935 - KODACHROME Film(コダクロームフィルム)の商用化が発表され、最初に商業的成功を収めたアマチュア向けカラーフィルムになりました。これは当初、動画向けに16 mmの形式で供給されました。1936年には、35 mmスライドと8 mm家庭用ムービーが続きました。  
1936 - Kodakは、新しい家庭用ムービーカメラ、16 mm Magazine CINE-KODAK Camera(16 mmマガジンシネKODAKカメラ)の商用化を発表しました。これは、ロールではなくマガジンに収容したフィルムを使用するものでした。1年後に、Kodakは初めての16 mm音声付きフィルムプロジェクターであるSound KODASCOPE Special Projector(サウンドコダスコープスペシャルプロジェクター)の商用化を発表しました。  
1937 - 初のスライドプロジェクターであるKODASLIDE Projector(コダスライドプロジェクター)を発表しました。これは上部ロードモデルであり、一度に1枚のフィルムを取り出すものでした。  
1938 - 光電気による露出制御機能を内蔵した最初のカメラ、Super KODAK Six-20 Camera(スーパーKODAKシックス20カメラ)が開発されました。  
1939 - Kodakは、35 mm KODACHROME Filmに対して、READY-MOUNT Service(マウント対応サービス)を追加しました。この結果、Kodakのプロセスラボからスライドを受け取った直後に、スライドを投射できるようになりました。○ 米国全土にある単科大学および大学を対象に、年間フェローシップ(大学研究員)プログラムを開始しました。  
1941 - 多用途のKODAK EKTRA Camera(KODAKエクトラプログラム)の販売を開始しました。この製品のシャッタースピードの範囲は、1/1000〜1秒です。○ 第二次世界大戦中に、輸送スペースを節約する目的で手紙をマイクロフィルム化するシステムとして、KodakはAirgraph、別名「V-Mail」を開発しました。○ Frank Lovejoyは取締役会会長になり、法務部長だったThomas J.Hargrave(トーマス・J.ハーグレイブ)が社長になりました。  
1942 - 世界初のフルカラーネガフィルムとして、プリント用のKODACOLOR Film(コダカラーフィルム)が発表されました。 ○ KodakのRochesterプラントが、米国 陸軍-海軍から「E」という賞を受けました。これは、戦争に関連して機器とフィルムの製造に大きな実績を残したことが評価されたものです。  
1945 - Perley S.Wilcox(パーリー・S.ウィルコックス)はFrank Lovejoyの後継として、取締役会会長になりました。それ以前のWilcoxは、1920年にTennessee Eastman Company(テネシーイーストマンカンパニー)の編成を指揮していました。  
1946 - KODAK EKTACHROME Transparency Sheet Film(Kodakエクタクローム透過性シートフィルム)を発表しました。これは、新しく市販された薬品キットを使用することにより、カメラマンが自分で処理できる、最初のカラーフィルムでした。○ Kodakの全世界における従業員数が60,000人に達しました。  
1947 - Distillation Product Industries(DPI:蒸留製品工業)で、世界初の合成ビタミンAの商業生産が開始されました。DPIは、1973年にビタミンAの製造を中止しました。○ Kodakは、DuMont Laboratories(デュモン・ラボラトリーズ)およびNBCと共同で、EASTMAN Television Recording Camera(イーストマンTV録画カメラ)を導入しました。これは、TV画面用に画像を録画するものです。  
1948 - 動画業界向けに、可燃性の硝酸セルロースベースのフィルムを置き換える目的で、安全性の高い三酢酸セルロースをベースとしたフィルムを発表しました。これは、2年後に「オスカー」を受賞しました。○ KODAK Continuous Paper Processor(KODAK連続印画紙処理機)によって、スナップ写真の完全自動処理が実現しました。この機械により、1時間あたり2,400枚のスナップ写真を仕上げることが可能になりました。  
1950 - 長期にわたって使用されることになる透過型のKODAK COLORAMA Display(KODAKコロラマディスプレイ)シリーズのうち最初のものを公開しました。これは、高さ547cm、幅1,824cmであり、New York City(ニューヨーク市)のGrand Central Station(グランドセントラル駅)のメインターミナルフロアから見上げることができました。毎日、推定65万人の通勤利用者と旅行者がこの人気のある催し物を目にし、長年にわたって劇的な写真の多くが表示され、広く流通している新聞や雑誌の表紙で取り上げられました。この展示物は、1989年初期のGrand Central Stationの修復工事の際に、永続的に撤去されました。  
1951 - 低価格のBROWNIE 8 mm Movie Camera(ブローニー8 mmムービーカメラ)を発表しました。1952年にはBROWNIE Movie Projector(ブローニームービープロジェクター)が追加され、1955年にはBROWNIE Turret Camera(ブローニーターレットカメラ)が導入されました。○ Recordak Corporation(レコーダック社)は、それまでに達成された中で最高の縮小率である40:1を実現した、新しいBANTAM Microfilmer(バンタムマイクロフィルマー)を発表しました。○ 化学薬品の取引で使用するアルコールとアルデヒドを生産するために、テキサス州Longview(ロングビュー)で、Texas Eastman Company(テキサスイーストマンカンパニー)が操業を開始しました。○ Dr.Albert K.Chapman(アルバート・K.チャップマン博士)がThomas J.Hargraveの後継として社長に就任しました。Hargraveは、Eastman Kodak Companyの取締役会会長になりました。  
1953 - 写真石板(フォトリソグラフィー)の印刷原版の作成用に設計されたKODAK Photo Resist(KODAKフォトレジスト)を発表しました。この事業は、1987年にUnion Carbide Corporation(ユニオンカーバイド社)に売却されました。○ Tennessee EastmanおよびTexas Eastmanが製造した製品を販売する目的で、Eastman Chemical Products, Inc.(イーストマン化学製品社)という新しい子会社が設立されました。  
1954 - 高速白黒フィルムであるKODAK TRI-X Film(トライエックスフィルム)が発表されました。○ Texas Eastmanは、ポリエチレンプラスチックであるEASTMAN TENITEを製造するために新しいプラントを建設しました。○ Kodak Brasileira(Kodakブラジレイラ)は、ブラジルのSao Paulo(サンパウロ)で感光プラントの操業を開始しました。  
1955 - 1954年に合意に達して署名された法律に基づき、Kodakはプロセスのコストを含まないカラーフィルムの販売を開始しました。長期的な結果は、Kodakにとって新しい市場を生み出し、独立系写真仕上げ業者に製品とサービスを提供することになりました。○ 全世界における従業員数が73,000人に達しました。 。  
1956 - 白黒フィルムであるKODAK VERICHROME Pan Film(KODAKベリクロームパンフィルム)が発表され、1931年の投入以来一般的だったKODAK VERICHROME Filmに取って代わりました。○ Tennessee Eastmanは、敷物、織物、および他の家庭用品で使用するためのVEREL Fiber(ベレルファイバー)を導入しました。○ Kodakは、Apparatus and Optical Division(機器光学事業部)を設立しました。この中には、RochesterにあるCamera Works(カメラワークス)とHawk-Eye Works(ホークアイワークス)が所属していました。  
1957 - KODAK BROWNIE STARMATIC Cameras(KODAKブローニースターマティックカメラ)を発表しました。これらのカメラは、やがて7つのモデルによって構成されるようになり、その後5年間で1,000万台以上が販売されました。  
1958 - 初の全自動スライドプロジェクターである、KODAK CAVALCADE Projector(キャバルケイドプロジェクター)が導入されました。○ KODAK X-OMAT Processor(エックスオーマットプロセッサー)が、X線フィルムの処理時間を1時間から6分に短縮しました。 ○ 初の単一レンズ反射カメラであるKODAK RETINA Reflex Camera(KODAKレティーナ反射カメラ)が、 ドイツのStuttgart(シュツットガルト)にあるKodak A.G.によって製造されました。○ Tennessee Eastmanによって開発されたKODAK Polyester Textile Fiber(Kodakポリエステル織物ファイバー)が、衣服で利用できるようになりました。EASTMAN KODEL Fiber(イーストマンコーデルファイバー)を大量生産するためのプラントが1960年に建設されました。  
1959 - KODAK High Speed EKTACHROME Film(KODAK高速エクタクロームフィルム)が、市場最高速のカラーフィルムになりました。○ 完全自動露光制御機能が、2つのKodakスチールカメラと、4つの8 mmムービーカメラで採用されました。○ Kodakの株主数が100,000に達しました。  
1960〜1979  
1960 - KODAK ESTAR Film Base(KODAKイースターフィルムベース)(ポリエステル製フィルムベース)が発表され、KODALITH Graphic Arts Film(コダリスグラフィックアーツフィルム)に対するサイズの安定性が向上しました。○ RECORDAK RELIANT 500 Microfilmer(レコーダックレライアント500マイクロフィルマー)が発表され、1分あたり最大500枚の小切手、または185通の手紙を撮影できるようになりました。○ Dr.Albert K.Chapman(アルバート・K.チャップマン博士)は取締役会副会長になり、William S.Vaughn(ウィリアム・S.ボーン)は社長兼CEO(chief executive officer:最高経営責任者)になりました。  
1961 - Kodakは、大きな成功を収めたKODAK CAROUSEL Projectors(KODAKカルーセルプロジェクター)シリーズのうち最初の製品を導入しました。この製品は、80枚のスライドを収容する円形のトレイを採用しました。○ KODACHROME II Film(コダクロームIIフィルム)が導入されました。これは、長期にわたって使用されてきたKODACHROMEフィルムに対して大きな改善を加えたものでした。  
1962 - 米国での 連結売上が初めて10億米ドルを上回りました。また、全世界における従業員数が75,000人に達しました。 ○ John Glenn(ジョン・グレン)が、地球を周回した米国人初の宇宙飛行士になりました。Kodakのフィルムは、時速28,000 kmで宇宙旅行をしている彼の行動を記録しました。 ○ Dr.Albert K.Chapmanは、取締役会会長になりました。これは、Thomas J.Hargraveが死去したためです。  
1963 - 使いやすいカートリッジロード式のフィルムを採用したKODAK INSTAMATIC Cameras(KODAKインスタマティックカメラ)が発表され、やがてアマチュアの間での写真の人気を新たな水準に高めました。1970年までに、5,000万台のINSTAMATIC Camerasが生産されました。  
1964 - New York World's Fair(ニューヨーク世界博覧会)に出展したKodak Pavilion(Kodakパビリオン)は、その世界博覧会に登場した建物の中で上位10位に入る大きさでした。その「Tower of Photography」(写真タワー)では、それまでに展示されたうちで最大の屋外カラー写真を用意しました。  
1965 - Kodakはスーパー8形式を策定し、新しいカートリッジロード式のKODACHROME II Film(コダクロームIIフィルム)を使用してスーパー8ムービーを投入しました。○ KODAK INSTAMATIC Camerasにより、カメラマンは1回のフラッシュバルブ交換で4回のフラッシュ撮影を実行できるようになりました。○ 新しい自動プロセスシステムにより、X線フィルムの処理時間がわずか90秒に短縮されました。  
1966 - KODAK 2620 Color Printer(KODAK 2620カラープリンター)は、電子メモリーを採用し、1時間あたり2,000〜3,000枚の写真をプリントできました。○ 月のコペルニクスクレーターを大写しにした「The photograph of the century」(世紀の写真)は、Lunar Orbiter II(人工衛星ルナ2号)が、コダックから提供されたデュアルレンズカメラ、フィルム、プロセッサー、および読み出し装置を使用して作成したものでした。○ 全世界のKodakユニットの連結決算は40億米ドルを上回り、Kodakの全世界における従業員数が100,000人に達しました。  
1967 - Camera Works(カメラワークス)プラントが、ニューヨーク州Gates(ゲイツ)町にある242ヘクタールの敷地への移転を開始しました。Elmgrove Plant(エルムグローブプラント)というその敷地は、米国における 機器製造の中心となっていました。その後、2000年に売却されました。それ以降は、事業はKodakの所有する他の場所へ移転されました。○ William S.Chapman(ウィリアム・チャップマン)は取締役会会長に就任し、Dr.Louis K.Eilers(ルイス・K.アイラーズ博士)はその後継として社長に就任しました。  
1968 - KODEL Polyester(コーデルポリエステル)製の繊維と糸の製造用に、サウスカロライナ州Columbia(コロンビア)にあるCarolina Eastman Company(カロライナイーストマンカンパニー)が開設されました。  
1969 - Kodak Colorado Division(Kodakコロラド事業部)の建設が開始されました。これは、コロラド州Windsor(ウィンザー)で、フィルムと用紙の製造を担当するユニットです。○ オルドリンとアームストロングの各宇宙飛行士は月面を歩いたときに、Kodakが製造した非常に特殊なステレオカメラを使用しました。○ Kodakは、TV用途のカラーフィルムの高速プロセスを開発したことにより、「エミー」賞を受けました。○ KODAK EKTAGRAPHIC Slide Projector(KODAKエクタグラフィックスライドプロジェクター)が導入されました。これは、プロフェッショナルのオーディオビデオ市場向けに設計されたKodak初のスライドプロジェクターです。○ 株主数が200,000に達しました。  
1970 - メキシコのGuadalajara(グアダラハラ)に、新しいフィルム製造プラントが開設されました。○ 提案システムが、累計100万件の提案を受け取りました。○ Dr.Louis K.Eilersは取締役会会長に就任し、Gerald B.Zornow(ジェラルド・B.ゾーノー)が社長として任命されました。 ○ 1963年から1970年の間に、5,000万台以上のKODAK INSTAMATIC Camerasが製造されました。  
1971 - KodakはKODAK EKTACHROME 160 Movie Film (Type A)(KODAKエクタクローム160ムービーフィルム(タイプA))と、2つの新しいスーパー8ムービーカメラを導入しました。これらを組み合わせると、「既存の小規模」ムービーを家庭用途で実現できるようになりました。○ Marketing Education Center(マーケティング教育センター)(別称: Riverwood(リバーウッド)サイト)がトレーニング施設として開設され、Kodak製品の使用経験のあるプロフェッショナルに対してさまざまな教育サービスを提供するようになりました。  
1972 - Kodakは、人気のあるINSTAMATIC Cameraをポケットサイズに縮小した、5種類の異なるKODAK Pocket INSTAMATIC Cameras(KODAKポケットインスタマティックカメラ)を発表しました。これらは、新しいKODAK 110 Film Cartridge(KODAK 110フィルムカートリッジ)を使用します。このシリーズは非常に人気があったので、わずか3年で2,500万台以上のカメラが製造されました。○ Walter A.Fallon(ウォルター・A.ファロン)が社長兼CEOになり、Gerald B.Zornowは取締役会会長に選出されました。  
1973 - 家庭向け音声付きムービーを公表しました。2つのスーパー8サウンドムービーカメラと、カートリッジロード式のスーパー8フィルムの導入であり、音声を録音するために磁気ストライプを使用しました。○ 全世界における従業員数が120,000人に達しました。  
1975 - KodakはKODAK EKTAPRINT 100 Copier-Duplicator(KODAKエクタプリント100コピー機-複製機)を導入しました。これはオンボードマイクロコンピュータの採用により高品質のコピーとユーザーの利便性を実現し、即座に産業界から賞賛を受けました。  
1976 - KODAK EKTAPRINT Copier-Duplicatorsシリーズは拡張され、6つの異なるモデルが発表されました。○ 新しいKODAK ORACLE(KODAKオラクル)およびKODAK STARVUE(KODAKスタービュー)という各マイクロフィルム製品が導入され、マイクロフィルム化された画像の高速かつ自動的な取得を実現しました。○ 新しいKODAK Instant Cameras(KODAKインスタントカメラ)と、カラープリントを自分で現像するためのプリントフィルムが発表されました。  
1977 - Eastman Chemicals Division(イーストマン薬品事業部)の最新のメンバーであるArkansas Eastman Company(アーカンサスイーストマンカンパニー)が、有機薬品の商業生産を開始しました。○ Walter A.Fallonは取締役会会長として選出され、Colby H.Chandler(コルビー・H.チャンドラー)は社長に就任しました。  
1978 - Eastman Chemicals Divisionは、飲料ボトルの製造に使用されるEASTMAN KODAPAK Thermoplastic Polyester(イーストマンコダパック熱可塑性ポリエステル)を発表しました。  
1980〜1989  
1980 - 創業100周年を祝いました。○ Kodakは、乾燥化学血清分析を活用するKODAK EKTACHEM 400 Analyzer(KODAK EKTACHEM 400アナライザ)を使用して、医療診断市場に参入することを発表しました。  
1981 - 売上が100億米ドルを上回りました。○ Kodakは、コンピュータベースの出版システムのメーカーであるAtex, Inc.を買収しました。○ KODAK EKTAFLEX PCT Color Printmaking Product(KODAK EKTAFLEX PCTカラー印刷製品)により、家庭内に暗室を持つ熱心なファンはカラーの拡大を簡単に実現できるようになりました。  
1982 - 回転式のフィルムディスクをベースとした「判断不要」のコンパクトカメラシリーズを使用して、「ディスクフォトグラフィー」を開始しました。○ 新しいT-GRAIN Emulsion Technology(T微粒子乳剤テクノロジ)を活用した、KODACOLOR VR 100フィルムが導入されました。これは、銀塩技術と乳剤による大きなブレークスルーを実現しました。○ フロリダ州Orlando(オーランド)近郊にあるWalt Disney World(ウォルト・ディズニー・ワールド)の新しいEPCOT Center(エプコットセンター)の中に、Kodakパビリオンが開設されました。  
1983 - Colby H.Chandler(コルビー・H.チャンドラー)は取締役会議長兼CEO(最高経営責任者)として選出され、Kay R.Whitmore(ケイ・R.ホイットモア)は社長になりました。○ KODAK KAR 4000 Information System(KODAK KAR 4000情報システム)は、コンピュータ支援型のマイクロフィルムイメージの保存検索システムに対して高度な能力を提供することになりました。○ Tennessee Eastman(テネシーイーストマン)は米国内で、石炭から工業用の薬品を製造する専用の 商業プラントの操業を開始しました。○ デスクトップユニットであるKODAK EKTACHEM DT60アナライザにより、医師の事務所で乾燥化学血清分析を実施できるようになりました。  
1984 - KODAVISIONシリーズ2000の8 mmビデオシステムによりビデオ市場に参入しました。また、KODAKビデオテープカセットを、8 mm、ベータ、およびVHSの各形式で導入しました。○ Kodakは、パーソナルコンピュータ(PC)用のフロッピーディスクの全シリーズを発表しました。  
1985 - 2つの新しい画像管理システムを発表しました。 KODAK EKTAPRINT Electronic Publishing System(KEEPS: KODAK EKTAPRINT電子出版システム)と、KODAK Information Management System(KIMS: KODAK情報管理システム)です。○ 写真仕上げ業者用のミニラボシステムが導入され、非常に迅速な写真プリントサービスを一般に提供するようになりました。  
1986 - Kodakは、2つの新しいKODACOLOR VR-G 35フィルムを発表しました。また、新たな2つのKodak VR 35カメラにより、35 mmカメラ市場に再参入しました。○ Kodakは、KODAK ULTRALIFE Lithium Power Cells(KODAK ULTRALIFEリチウム電池)を発表しました。これは世界初の一般向け9 Vのリチウム電池です。また、KODAK SUPRALIFE Batteries(KODAK SUPRALIFE電池)をとおして一般向けのバッテリ市場に参入しました。○ Kodakは、Eastman Pharmaceuticals Division(イーストマン医薬品事業部)を設立し、ヘルスケア事業に新規参入しました。  
1987 - 7種類の製品により、電子スチルビデオ市場に参入しました。これらは、電子スチルビデオの画像を記録、保存、操作、送信、およびプリントするものです。○ ニューヨーク州Rochester(ロチェスター)で、最新の感光プラントの新規建設を開始しました。ここでは、プロフェッショナル用のコーティングカラーフィルムを取り扱います。○ Kodakは、初のレンズ付きフィルム、KODAK FLING Camera(KODAK FLINGカメラ)を発表しました。この中では、110 KODACOLOR Film Cartridge(110コダカラーフィルムカートリッジ)が使用されていました。  
1988 - Sterling Drug Inc.(スターリングドラッグ社)を買収しました。この結果、Kodakが処方薬と大衆薬の分野で利益を上げる参加者となるために必要なインフラストラクチャとマーケティング能力を入手できました。Kodakはその後、1994年に画像以外の健康関連事業を売却しました。○ KodakとFuqua Industries, Inc.(フクア工業社)のジョイントベンチャーとして、Qualex, Inc.(クアレックス社)が設立されました。Qualex, Inc.は、KodakとFuqua Industries, Inc.が所有していた約90の写真プロセスラボの事業を合併しました。○ 写真ジャーナリスト向けに特に製作されたカラーネガフィルムの最初のシリーズが発表されました。Kodak EKTAPRESS GOLDフィルムです。○ KODAK T-MAX P3200フィルムにより、白黒フィルムテクノロジが進歩しました。○ KODAK CREATE-A-PRINT 35 mm Enlargement Center(KODAK CREATE-A-PRINT 35 mm引き伸ばしセンター)により、一般の人々に対してトリミングと指定した部分の引き伸ばしサービスを数分で提供できるようになりました。  
1989 - EASTMAN EXR Color Negative Films(イーストマンEXRカラーネガフィルム)を発表し、動画100周年を祝いました。○ KODAK XL 7700 Digital Continuous Tone Printer(KODAK XL 7700デジタル連続諧調プリンター)が発表されました。この製品は、大型の熱転写式の引き伸ばしプリントを作成できます。○ レンズ付きフィルム、KODAK STRETCH 35 Camera(KODAK STRETCH 35カメラ)が導入されました。これは、パノラマ撮影に対応する、89 mm × 254 mmサイズのプリントを作成できます。○ レンズ付きフィルムであるKODAK WEEKEND 35 Camera(KODAK WEEKEND 35カメラ)は、全天候型カメラで、最深2.4 mでの水中写真撮影が可能です。○ KODAK IMAGELINK Component Series(KODAK IMAGELINKコンポーネントシリーズ)(文書の画像化用)、およびKODAK OPTISTAR製品(コンピュータの出力用)により、マイクログラフィックまたは画像のデジタルキャプチャ用途で選択肢が追加されました。○ KODAK X-OMATIC RAカセットにより、小児科の患者の放射線被曝量が大幅に減りました。レンズ付きフィルム、KODAK FUN SAVER Panoramic 35カメラ
1990〜1999  
1990 - Kay Whitmore(ケイ ホイットモア)は、Kodakの会長兼CEO(最高経営責任者)として選出されました。○Kodakは、TVの画面で画像を再生することを目的とした、自社のPhoto CD(フォトCD、ピクチャーCD)の開発を発表しました。また、コンピュータとコンピュータ周辺機器からなるデジタル環境でカラーを定義するために世界的な標準を提案しました。○ KODAK PREMIER Image Enhancement System(KODAK PREMIER画像拡張システム)が、商業用および工業用の写真ラボを支援し、新たな水準の品質と生産性を達成できるようになりました。これは、銀塩技術と電子技術を組み合わせて、写真をスキャンし、情報をデジタル化し、その情報を写真用フィルムまたは用紙に出力します。○ Kodakは、文書管理システムの新シリーズのうち最初の製品を発表しました。これは、集中複写部門などに対して、高速印刷機能を提供するものです。○ Kodakは、レンズ付きフィルムのリサイクルプログラムを開始しました。また、リサイクルされた板紙のフィルムボックスとして使用を開始しました。  
1991 - Sterling Drug Inc.は、フランスの医薬品業界をリードするSanofi(サノフィ)との合意に達し、両者の間で多数のジョイントベンチャーが設立されました。○ KODAK Professional Digital Camera System(DCS: KODAKプロフェッショナルデジタルカメラシステム)が導入され、写真ジャーナリストは、Kodakが1.3メガピクセルのセンサーを取り付けたNikon F-3カメラを使用して、電子写真を撮影できるようになりました。○ Kodakが出荷した新しいコピー機は、元の文書のコピーをカスタマイズするなど、斬新なデジタル機能を採用しました。○ 1986年にニューヨーク州Rochester(ロチェスター)で最新の感光プラントの新規建設が開始されましたが、 建設が完了しました。これは、プロフェッショナル用途および動画市場用のコーティングカラーフィルムを取り扱います。  
1992 - Kodakは書き込み可能CD(CD-R)事業を開始しました。最初の顧客であるMCIは、企業アカウント向けの電話の請求書の作成に使用しました。○ KODAK FUN SAVER Telephoto 35(KODAKファンセーバー望遠35)カメラが、人気のあるレンズ付きフィルムシリーズに追加されました。○ Kodakは、X-OMAT X線フィルムプロセッサーの10万台目の製品を出荷しました。最初に導入されたのは、1956年のことでした。○ Kodakは、キヤノン、富士、ミノルタ、およびニコンとの間で、Advanced Photographic System(APS)を開発するためのジョイントR&Dプロジェクトを発表しました。○ 新しいデジタル製品、KODAK Professional DCS 200 Digital Camera(KODAKプロフェッショナルDCS 200デジタルカメラ)と、KODAK XLT 7720 Digital Continuous Tone Printer(KODAK XLT 7720デジタル連続諧調プリンター)が追加されました。○ KODAK EKTAPROプロジェクターが、コンピュータに接続できるKodak初のスライドプロジェクターとなりました。○ KodakのINSIGHT Thoracic Imaging System(インサイト胸部イメージングシステム)が、R&D 100 Awardを受賞しました。これは、柔らかい組織のX線画像に対して大きく貢献しました。○ KODACOLORフィルムの50周年を祝いました。  
1993 - Kodakは、20の写真関連の新製品を発表しました。流行の先端を行くコンパクトなCAMEO 35 mmカメラシリーズ、新しいEKTACHROME LUMIEREフィルム、水中用のEKTACHROMEフィルム、およびKODAK FUN SAVER Portrait 35 One-Time Use Camera(KODAKファンセーバーポートレート35レンズ付きフィルム)などです。○ 一連の新しいソフトウェア製品と、携帯用フォトCDプレイヤーに加え、商業用途で使用できるフォトCD形式を発表しました。○ KodakのCINEON Technology(シネオンテクノロジ)を使用して、Kodakの技術者はWalt Disney(ウォルト・ディズニー)による1937年の古典的な「Snow White and the Seven Dwarfs」(白雪姫と7人の小人)をデジタル復元しました。○ George M.C.Fisher(ジョージ・M.C.フィッシャー)は、Motorolaの前CEOですが、Kodakの会長兼CEOになりました。○ 年末に、1920年設立のEastman Chemical Company(蒸留製品事業を含む)は株主によってスピンオフされ、独自の取締役会を持つ独立企業になり、New York Stock Exchange(NYSE:ニューヨーク証券市場)に上場しました。  
1994 - Kodakは30の新製品を発表しました。その中には、KODAK ROYAL GOLDフィルム、および新しいデジタルイメージング製品とサービスが含まれています。デジタル製品の中には、次のものが含まれていました。KODAK Copyprint Station(KODAKコピーライトステーション)は、古いプリントから新しいプリントを作成します。KODAK Digital Enhancement Station 100(KODAKデジタル補正ステーション100)は、一般向けに店舗で「赤目」などの問題を補正するための製品です。KODAK Creation Station(KODAKクリエーションステーション)は、便利な最寄りのセンターで、ネガ、スライド、プリント、およびフォトCDの画像からデジタル画像を作成します。○ Kodakは、画像以外の健康関連事業を売却しました。Sterling Winthrop、L&F製品、およびClinical Diagnostics(臨床診断)の各事業です。この結果、全リソースが中核的なイメージング事業に集中できるようになりました。これらの事業の売却から得られた収益を活用して、借入金を大幅に削減しました。  
1995 - Kodakは、インターネットWebサイトであるkodak.comを発表し、世界中のインターネットユーザーが、Kodakの従業員、製品、サービス、および沿革についての詳細な情報にアクセスできるようにしました。○ 3月には、Kodakは自社のデジタルイメージング事業を次の製品を発表することで推進しました。KODAK DC40 Point-and-Shoot Digital Camera(KODAK DC40簡単撮影デジタルカメラ)や、インクジェットプリンターから高品質のカラー画像を出力できる新しい高品質用紙および透過性フィルムです。○ 9月には、Danka Business Systems PLCが、Kodak製の大量コピー機の販売と保守を米国 およびカナダで行うと発表しました。  
1996 - APSフォーマットが発表されました。フィルムカートリッジの落とし込み(ワンタッチ)装填、撮影が最後まで完了していないフィルムロールの途中交換が可能などの特徴を備え、3つの異なるピクチャーフォーマット(クラシック、グループ、およびパノラマ)が用意されていました。Kodakは、自社の関連製品を網羅するADVANTIX(アドバンティックス)ブランドを公表しました。○ 6月に、急速に成長している一般向けのデジタル市場を対象として、ポケットサイズデジタルカメラシリーズの初の製品を公開しました。○ KodakのTV CMでは「Take Pictures.Further.」(もっとたくさん写真を撮りましょう。)というテーマを採用しました。Kodakブランドの認知度を高めるためのキャンペーンが企画されました。○ Kodakは、10,000台目の医療用レーザープリンター、KODAK EKTASCAN 2180 Laser Printer(KODAK EKTASCAN 2180レーザープリンター)を、ノースカロライナ州のDurham(ダーラム)にあるDuke University Medical Center(デューク大学医療センター)に納入しました。○ Daniel A.Carp(ダニエル・A.カープ)が、Kodakの社長兼CEOとして任命されました。  
1997 - Kodakは、自社のOffice Imaging(オフィスイメージング)事業部のうち、営業、マーケティング、および機器サービスの各事業と、自社の施設管理事業部(以前は「Kodak Imaging Services」(Kodakイメージングサービス)と呼称)を、Danka Business Systems PLCに売却しました。○ Kodakは、COLORSHARP Technology(カラーシャープテクノロジ)を採用した4つの新しいGOLDフィルム(400、200、および100の各感度と、Max 800の感度)を発表しました。○ 2月までに、Kodakは1億台以上のレンズ付きフィルムをリサイクルしました。このプログラムは、1990年に開始されたものです。○ KODAK Picture Network(KODAKピクチャーネットワーク)が発表されました。ユーザーはインターネット経由で、画像の表示、プリントの注文、世界中にいる友人や家族との画像の共有をすることができるようになりました。○ 4月には、KODAK DIGITAL SCIENCE DC120 Zoom Digital Camera(KODAKデジタルサイエンスDC120ズームデジタルカメラ)を公表しました。これは、1,000米ドル以下で購入できる、「簡単撮影」型のメガピクセルデジタルカメラとして初めての製品でした。○ KodakとSun Chemical Corporation(サンケミカル社)は、感光式製品、コンピュータから製版を行う製品、および他のデジタルソリューションをグラフィックアート市場に供給する目的で、Kodak Polychrome Graphics(Kodakポリクロームグラフィックス)というジョイントベンチャーを設立することに合意しました。○ NASA(米航空宇宙局)のMars Rover(マーズローバー: 火星探査機)は、Kodakの高度なイメージセンサーを使用して、周回中に惑星の表面を探索することに成功しました。  
1998 - KODAK PROFESSIONAL PORTRA Color Negative Films(KODAKプロフェッショナルポートラカラーネガフィルム)、およびKODAK PROFESSIONAL SUPRA III Color Paper(KODAKプロフェッショナルスープラIIIカラー用紙)が発表されました。○ America Online(アメリカオンライン)とKodakは、「You've Got Pictures!」(写真が届いています!)サービスを発表しました。これは、AOLのメンバーがオンラインで注文を行い、現像済みの写真が配送されるというものです。○ KodakはImation Corporation(イメーション社)が保有する世界規模の医療用イメージング事業の大半を買収しました。その中には、DRYVIEW Laser Imaging(ドライビューレーザーイメージング)事業も含まれていました。○ 宇宙飛行士であるJohn Glenn(ジョン・グレン)とSTS-95乗組員の他のメンバーは、KODAK PROFESSIONAL DCS 460 Digital Camera(KODAKプロフェッショナルDCS 460デジタルカメラ)を使用して、宇宙旅行中に、高解像度の画像を撮影し、リアルタイムで地球に送信しました。  
1999 - Kodakは、自社のデジタルプリンター、コピー機/複製機、およびローラーアセンブリの各事業をHeidelberger Druckmaschinen AG(ハイデルバーガードゥリュックマシーナン−圧縮機会−社)に売却しました。両社は、1998年に設立されたジョイントベンチャーであるNexPress(ネクスプレス)の拡大も行いました。○ Kodakは、DURALIFE Paper(デュラライフペーパー)を発表しました。これはスナップ写真向けの、革新的な新しい写真用紙です。DURALIFE Paperでは、事実上すべての性能カテゴリで高い基準を設定しました。その中には、引き裂き抵抗、耐久性、鮮やかさと白さ、画像の鮮明さ、およびカーリング(反り返り)への耐性があります。○ KodakのCommercial & Government Systems(商用および官公庁システム)事業部は、地形画像デジタルカメラを導入しました。これには、長さ1 mの分解能で、地表にある物体を表示する能力があります。○ KodakとLexmark International, Inc.(レックスマークインターナショナル社)は提携して、家庭でのデジタル画像の印刷用に、KODAK Personal Picture Maker(KODAKパーソナルピクチャーメーカー)を発表しました。○ Health Imaging(健康関連画像)事業部は、マンモグラフィー(乳房撮影)用のKODAK DRYVIEW 8600 Laser Imaging System(KODAKドライビュー8600レーザーイメージングシステム)と、X線画像撮影用の3つの最新デジタル放射線写真システムを発表しました。○ KodakとSanyo Electric Co.(三洋電機社) は、アクティブマトリックス有機ELディスプレイ(OLED)の商用モデルを世界で初めて公開しました。  
  
アグフア・ゲバルト(Agfa-Gevaert)

 

印刷機材、医療機器、マイクロフィルム、ポリエステルなどを製造する企業。元来は写真用品を製造する企業であったが、すでに撤退した。本社はベルギーのモーツェル。なお、1981年から1999年まではドイツの総合化学薬品メーカーであるバイエルの子会社であった。 。  
アグフア  
アグフアは1867年にドイツ・ベルリンで創業した化学薬品メーカーである。名前の由来は「アニリン製造株式会社」(Aktien gesellschaft für Anillinfaktoren )の頭文字を採ったもの。  
1892年に発売された希釈式現像液『ロジナール』が好評で2007年までの実に115年販売されるロングセラーとなった。1925年リーチェルを合併してフィルム式カメラも製造販売した。  
1936年に現在ポジフィルムとして一般的な方式となっている多層発色内式反転フィルムとして世界初の『アグファカラー・ノイ』を発売、世界初のネガカラーフィルムプロセスを開発し、1939年にはネガカラーフィルムプロセスによるアグファカラーネガフィルムを販売するなどカラーフィルム開発にも大きな足跡を残している。  
かつて、同じドイツの同業者であるBASFのOEMでカセットテープを販売しており、磁気媒体部門は後にOEMを受けていたBASFと合併した。  
ゲバルト  
ゲバルト(L. Gevaert & Cie )は1894年にベルギー・アントウェルペンで創業した印画紙メーカーである。少数ながらカメラも製造していた。名前の由来は創業者であるリーベン・ゲバルト(Liven Gevaert )から。オランダ語では「ヘフェールト」と発音する。  
事業統合  
アグフアとゲバルトは1964年に事業統合してアグフア・ゲバルトが誕生し、世界第3位の写真フィルムメーカーとなった。  
写真事業の衰退  
1983年にカメラ事業から撤退した。以後のアグフアブランドのカメラは全てOEM供給を受けている。  
デジタルカメラの普及で販売額が減少し、2004年11月アグフア・ゲバルト幹部社員らが設立した別会社アグフアフォト(Agfa Photo )にフィルム部門を売却、撤退した。アグフアフォトはアグフア・ゲバルトから商標を借り受けてアグフアブランドのフィルムの生産を続行していたが、2005年5月27日に破産申請を行った。  
その後、独Hans O. Mahn & Co. KG社がアグフアブランドのモノクロフィルム・印画紙事業を引き継いだほか、ドイツのLUPUS IMAGING & MEDIAがアグフアフォトブランドのフィルムやメモリカードを発売している。また日本ではSuperHeadzブランドでロモやホルガを販売しているパワーショベルがLUPUS IMAGING & MEDIAと業務提携を締結、日本でのアグフアブランドの日本総代理店となり、35mmフィルムの販売や、本国では生産されていない110/120フィルムを独自に再生産することを発表している。名前だけが「アグファフォト」と残るが、中身はモノクロがドイツのマコ社、ビスタはイタリアのフェラニア社のOEMである。発表後120フィルム発売は白紙になった。  
さらに「アグフアフォト」ブランドのデジタルカメラを日本のエグゼモードが販売している。  
History  

 

1867: AGFA, it all began with color  
Looking at the high-tech products and solutions delivered by Agfa today, it is hard to believe that it all began way back in the 19th century. But it did. In 1867, a color dye factory was established at the Rummelsburger See near Berlin. In 1873, it was registered as the 'Aktien-Gesellschaft für Anilin-Fabrikation', AGFA.  
1894: The birth of 'L. Gevaert & Cie'  
In 1890, the 22-year-old Lieven Gevaert established his own workshop in Antwerp (Belgium), which was mainly used for manufacturing calcium paper for photography. Barely four years later, the businessman Armand Seghers helped to establish the limited stock company 'L. Gevaert & Cie'. The starting capital amounted to just 20,000 Belgian francs (500 Euro).  
1895: The first subsidiary abroad  
L. Gevaert & Cie barely had time to celebrate its first anniversary before announcing the establishment of its first subsidiary abroad. The take-over of the Parisian company 'Blue Star Papers' introduced a new gelatine paper. This new subsidiary further enhanced the success of Gevaert's paper line.  
1904: The Gevaert business flourishes at the beginning of the new century  
Business was booming and the buildings were becoming too small. The factory moved from Antwerp to Mortsel. These premises are still in use today, although the buildings have been substantially extended and modernized. The company's success was shared with the employees, since they were allowed to participate in the company profits. This initiative established Lieven Gevaert as one of the pioneers of employee participation.  
1920: The conversion to a new name: 'Gevaert Photo Producten N.V.'  
The success of Gevaert could not be stopped. In 1920, the group was renamed 'Gevaert Photo Producten N.V.'. While the starting capital in the early years of Gevaert was still moderate, it had now grown to 15 million Belgian francs (375,000 Euro).  
1936: Color photography is ready for the mass market  
In 1916 Agfa began developing materials for color photography. One of the pioneers was Dr. Rudolf Fischer from Berlin. Agfa was the only company that continued to improve color photography throughout the 1920's until, in the 1930's, their efforts finally paid off. In 1936 Agfa introduced 'Agfacolor-Neu', a real sensation throughout the whole photographic world. For the first time a single film, single exposure and single developing process sufficed for general color photography. The film had no less than 278 patents! Two years later, Agfa would bring its color paper and a 16mm color-amateur cine film to the market. Agfa was way ahead of most of the competition.  
1947: X-rays after World War II  
Being also a manufacturer of various types of X-ray films, Gevaert launched a new assortment on the market. These products had higher sensitivity, better contrast, brightness, and wider exposure margins. Once again the medical world enthused over the Gevaert X-ray products.  
1952: Films for scientific and technical purposes  
Gevaert always put a lot of energy into research, resulting in new technologies and new products. In 1952 it came on the market with a number of innovative, highly successful products. One of them was SCIENTIA, a range of plates and films for scientists, researchers, technicians, etc. This range was used in astronomy, nuclear physics, infrared photography, micrography, etc.  
1959: The first fully automatic 35mm camera  
Modern amateur photography also means simple, user-friendly handling. Agfa continued to improve its cameras, and focused on very easy to operate equipment. Functionality was another important factor when Agfa came on the market with the first fully automatic 35mm camera. It was an instant success and during the next three years, Agfa sold a million of these Agfa Optima cameras.  
1964: A historical marriage  
Not only was it the 125th anniversary of photography, but 1964 was also the year of the big merger between Gevaert and Agfa. In early 1964, Agfa AG, a 100% subsidiary of Bayer merged with Gevaert Photo Producten N.V. In doing so, two new operating companies were established on July 1st, and the two partners each held a 50% stake: Gevaert-Agfa N.V. in Mortsel (Belgium) and Agfa-Gevaert AG in Leverkusen (Germany).  
1971: Agfa-Gevaert develops the first European xerographic copier  
Agfa introduced a copier at the Hannover Messe in Germany: the 'Gevafax X-10' is the first European copier, based on xerographic technology, enabling economic photocopying onto plain paper.  
1980 - 1981: The silver crisis  
International speculation on the silver market caused a significant rise in the price of silver, which was now seven times more expensive than in the year before! As silver was one of the most important base materials for the photographic industry, these high prices put Agfa-Gevaert in a difficult financial situation. Bayer delivered additional funds and consequently obtained 100% ownership of the Agfa-Gevaert Group.  
1982: Agfa thinks digital  
When new technologies were introduced to the world, the driving force behind many of them was often Agfa. It is the same story with digital technology. As long ago as 1982, Agfa-Gevaert had already taken a majority share in the Compugraphic Corporation (USA), which provided state-of-the-art typesetting capabilities at an affordable price. When Agfa acquired the company a few years later, it became the worldwide leader in computer controlled photographic setting machines.  
1997: Agfa becomes the no 1 in prepress  
After the acquisition of Hoechst's printing plate and proofing business in 1996 and DuPont's Graphic Arts division in 1997, Agfa became the undisputed number 1 in the graphic prepress industry. More than 40% of all printed matter in the world is now produced using Agfa products and systems.  
1999: Agfa strengthens its position in the healthcare segment  
The acquisition of Sterling Diagnostic Imaging was an integral part of Agfa's strategic goal to be the leading imaging company through superior products, strong technologies and a worldwide recognized brand name. It allowed Agfa to gain a leading market position in conventional medical imaging in the United States.  
1999: Agfa goes public  
On June 1, 1999, Agfa reached another milestone in its history. Agfa shares were introduced to the stock markets of Brussels and Frankfurt.  
2000 - 2001: The digital (r)evolution continues  
The shift towards digital technology is clearly gaining momentum. Agfa has prepared itself for the technology changes and is continuing to follow this growth path for the years to come. Agfa aims to grow in new market segments with its existing portfolio and via strategic acquisitions and alliances. In 2000, Agfa took a majority stake in the Belgian software company Quadrat, which operates in information systems for the radiology department (RIS). One year later, Agfa took a minority interest in MediVision, a developer and manufacturer of digital imaging systems for ophthalmology applications. Also in 2001, Talk Technology, North America's leading supplier of voice-enabled clinical workflow and reporting solutions for healthcare, became part of Agfa.  
2002 - 2005: New developments  
In 2002, Agfa acquired Mitra, one of the most important global suppliers of imaging and information management systems for healthcare. In 2005, Agfa became the largest player in Europe in the fast growing market of healthcare IT solutions through the acquisitions of Symphonie On Line and GWI. These companies are leading providers of information systems for hospitals and the electronic patient record, respectively in France and in Germany. Also in 2005, Agfa acquired Heartlab Inc., a leading American designer and supplier of image and information networks for cardiology, and Med2Rad, the leading developer and supplier of information systems for radiology in Italy.  
As the only company in the graphic arts industry that offers a complete solution, including automated prepress systems, digital workflow systems, film and plates, Agfa also invested in a new plate production factory in China. Furthermore, the company strengthened its market and technology leadership in the graphic markets by acquiring a number of companies: Autologic, a US manufacturer of prepress systems for the newspaper market, Dotrix, a Belgian specialist in digital colour printing solutions for industrial applications, Lastra, an Italian manufacturer of analogue and digital printing plates and ProImage, an Israeli developer of browserbased solutions for digital workflows in printing companies.  
In November 2004, Agfa divested all its photographic activities to the new, independent company AgfaPhoto.  
2006: Three independent business groups  
Since the beginning of 2006, the business groups Graphics and HealthCare are operationally independent. Agfa also created a third group, Materials, around its film manufacturing activities. This group manufactures film and related products on an exclusive basis for Graphics and HealthCare as well as for third parties. It also includes the Agfa Specialty Products department, which supplies a wide variety of film-based products and high-tech solutions to business-to-business customers outside the graphic and healthcare markets.  
The independence of the businesses gives each group the necessary flexibility to successfully implement its growth strategy, to strengthen its competitive positioning and to control its costs in line with the changing market conditions.  
2007 - now  
In all Agfa's markets, the traditional film products continue to lose ground in favor of digital alternatives. Agfa Graphics focuses its R&D efforts on innovative environment-friendly digital printing plates and on industrial inkjet, which is considered to be one of the technologies that will revolutionize the printing industry. In 2010, the business group left the economic crisis behind and continued to strengthen its activities through various acquisitions and partnerships. The acquisition of Gandi Innovations allowed Agfa Graphics to extend its industrial inkjet portfolio. Furthermore, the business group consolidated its positions in the Asian and North-American markets through the establishment of the Agfa Graphics Asia joint-venture and the acquisition of the Harold M. Pitman Company.  
Agfa HealthCare continues to improve and extend its imaging IT and enterprise IT solutions, as well as its range of imaging systems. In 2009, the business group added Direct Radiography to its imaging portfolio. Already an expert in Computed Radiography, Agfa HealthCare is now able to offer hospitals a tailor-made solution for all their digital X-ray needs. Also in 2009, Agfa HealthCare acquired Insight Agents, a European producer of contrast media.  
In order to compensate for the decline in its traditional film markets, Agfa Specialty Products is focusing on the development of innovative products for promising growth markets, such as synthetic paper, durable materials for the production of ID cards and conductive organic materials.
  
小西六写真工業 

 

かつて存在した日本のカメラ、写真用フィルムメーカー。2003年のミノルタとの株式交換により、現在はコニカミノルタホールディングスとなっている。  
1873年写真材料・石版材料を取り扱う小西六兵衛店として設立し、のちに小西六写真工業へと発展、1903年、国産初の印画紙を発売、1940年11月3日には国産初のカラーフィルムであるさくら天然色フヰルム(後のサクラカラーリバーサル)を販売。日本の写真用カメラフィルムのトップブランドの1つとして成長した。また東京都新宿区にある新宿中央公園の区民の森は、1902年に六桜社が設立された場所であり、記念碑として写真工業発祥の地が建てられている。  
戦後の国内シェアは、さくらカラー(後に「サクラカラー」に表記変更)がフジカラーを圧倒する状態が続いた。しかし、1970年代に入ると圧倒的な広告費を投入して知名度を向上させたフジカラーが逆転、サクラカラーはその後、コニカカラー、コニカミノルタカラーフィルムを経て事業撤退するまでの間ついに首位の座を奪いかえすことはできなかった。  
1987年に日本以外でのブランド名であるコニカに統一し、社名もコニカ株式会社に変更。フィルムもサクラカラーからコニカカラーに商標を変更した。この際、コーポレートカラーを赤色(朱色)から青色(コニカブルー)に変更している。  
コニカミノルタ東京サイト日野(旧 日野事業所)の所在地東京都日野市「さくら町」の名はこの場所で上記のさくら天然色フヰルムを生産していたことにちなんで命名されたもの。  
2006年、写真フィルム・使い捨てカメラ・感材(印画紙・薬品)を含めたDPE分野の事業を大日本印刷(DNP)に譲渡して撤退し、コニカブランドのフィルムは事実上消滅した(その後2009年にDNPも生産を打ち切る)。
映画用フイルム  
コニカは銀塩フィルムの最大手として、映画用フィルムの製造も手がけた。  
かつてカラー映画用フィルムはテクニカラー・システムという方式が世界の主流であった。これはプリズム分解式のカメラで3原色ごとに3本のモノクロフィルムを使って撮影し、プリントの段階でカラー化するという、後のテレビカメラに通じる方式だが、フィルムのコストとプリント工程が増加するという欠点もあった。  
これに対し、1942年に小西六はフィルムの記録面を3層にし、1本のフィルムを3工程で現像することによりカラー化する「コニカラー・システム」を開発した。当時にあっては画期的なシステムだったが、時局柄世界に広まることはなかった。しかし日本映画界には歓迎され、映画界と2つの車輪となってシステムの完成に尽力した。  
しかし1951年に富士写真フイルムが1本のフィルム・1工程現像の映画用カラーリバーサルフィルムを発売したことで、コニカラー・システムの優位性は覆されてしまい、以降コダックと富士フイルムの世界を二分する商戦の中で埋没していくことになる。  
家庭用を主体とする8ミリフイルムでは、富士フイルムとの対立から当初コダックのスーパー8陣営についた。「世界で通用するコニカのスーパー8」をキャッチコピーに拡販を狙うが、スーパー8に因縁のある富士フイルムのシングル8の徹底した世界展開により優位性は得られなかった。  
カメラ  
カメラの製造販売にも力を注ぎ、1903年には国産初の商品名を持つカメラ「チェリー手提暗函」を発売。戦前から「ミニマムアイデア」、「パール」シリーズや「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなどの大衆〜上級者向けの高品質カメラを数多く作り名を馳せた。  
戦後は「コニカI」から出発。フィルムメーカーという商品戦略上の理由もあり、基本性能を生かしたまま誰でも扱いやすい製品群が生み出された。一例がフラッシュを内蔵しシャッターを押すだけで誰でも簡単に写真が撮れる「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」であり、日本中の家庭にコンパクトカメラが浸透するきっかけを作った。  
また記録写真用に特化された「現場監督(防塵、防水機構採用)」で知られるコンパクトカメラや、ワインダーを内蔵した一眼レフカメラFS-1等後に主流となる機能・機構を盛り込んだ数多くの名機を世に送り出した。写真愛好家の中では「ヘキサー」「ヘキサノン」レンズのブランド名で馴染みがある。  
2000年代初めからはコンパクトデジタルカメラとしてDigital Revioシリーズ(RevioはもともとAPSカメラの商標名で、のちにデジタルカメラのシリーズが投入されたが、末期にはデジタル機も単に「Revio」として発売された)が投入されたが、フィルム事業にも影響しかねない分野だけに集中的な開発は行われず、後にミノルタと合併した際にはデジタル現場監督と一部の銀塩コンパクトカメラのみを残して先方の商品群に飲まれ、姿を消すこととなった。  
2006年1月19日、コニカミノルタホールディングスは翌2006年3月末に写真フィルムからレンズ・カメラに至る全ての写真関連分野から撤退することを発表した。「α」ブランドを含むデジタル一眼レフカメラについては先に提携を発表していたソニーに譲渡し、同時期をもって長年続いたコニカのカメラ事業は幕を閉じた。  
その他商品  
他の商品としては「U-bix」ブランドの複写機シリーズがあり、1980年代にはマグナックス(Magnax )というオーディオブランドで音楽用カセットテープも手がけ、その後もコニカミノルタへの統合までコニカブランドでカセットテープ・ビデオテープの販売を行っていた。  
ミノルタとの合併  
2003年4月1日に事業子会社を設立し持株会社化した。同年8月には写真機・複写機大手のミノルタを完全子会社化しコニカミノルタホールディングスを発足させた。同年10月1日、ミノルタ株式会社をコニカミノルタホールディングスに合併させて、その事業をコニカミノルタホールディングスの事業子会社に分割した。この結果、写真フィルム事業は以下のように再編された。  
一般用カメラフィルム - コニカミノルタフォトイメージング(コニカミノルタカメラを2004年合併、2006年大日本印刷へ譲渡・解散)  
医療用・印刷用フィルム、機器等 - コニカミノルタエムジー  
複写機 - コニカミノルタビジネステクノロジーズ  
沿革  
1873年(明治6年) 東京麹町の薬種問屋、小西六兵衛店が写真及び石版印刷材料の取扱い開始。  
1879年(明治12年) 東京日本橋に小西本店開業。  
1902年(明治35年) 写真用感光材製造部門として六桜社設立。  
1903年 国産初の商品名を持つカメラ「チェリー手提暗函」を発売。  
1921年(大正10年) 小西本店を改め合資会社小西六本店となる。  
1923年(大正12年) 小西写真専門学校創設。現在の東京工芸大学  
1925年 国産初の127ロールフィルム量産カメラ「パーレット」を発売。  
1928年 ブローニー判を半裁とするセミ判カメラ「セミパール」を発売。  
1936年(昭和11年)12月 小西六写真工業株式会社となる。  
1937年(昭和12年)2月 社名を株式会社小西六と改称し、合資会社小西六本店を吸収合併。  
1940年 国産初のカラーフィルム、「サクラカラーフィルム」を販売。  
1943年(昭和18年)4月 社名を小西六写真工業株式会社と改称。  
1948年 Konicaを冠した最初のカメラ「コニカ I」を発売。  
1949年(昭和24年)5月 - 東京証券取引所に上場。  
1949年 2枚羽根シャッターの豆カメラ「スナッピー」を発売。  
1952年 二眼カメラ「コニフレックス I」を発売。  
1960年 世界初の1/2000秒シャッターを内蔵したコニカ最初の一眼レフカメラ「コニカF」を発売。  
1965年 世界初の自動露出、及びフルサイズ・ハーフサイズ切替可能な一眼レフ「オートレックス」を発売。  
1975年 世界初のストロボ内蔵カメラC35 EF「ピッカリコニカ」を発売。  
1977年 世界初のオートフォーカスカメラC35 AF「ジャスピンコニカ」を発売。  
1979年 世界初のフィルム自動装填・自動巻き上げカメラ「コニカFS-1」を発売。  
1987年(昭和62年)10月21日 コニカ株式会社と改称。ブランドを「コニカ」に統一。  
1988年 工事・建設写真用途の防滴、防塵、防砂、耐ショック設計のカメラ「現場監督」を発売。  
1989年 世界最小、最軽量のコンパクトカメラ「BiG mini」を発売。  
1999年 ライカMマウントに互換する自動露出、自動巻き上げレンジファインダーカメラ「ヘキサーRF」を発売。  
2003年(平成15年)4月1日 純粋持株会社に移行。事業はコニカフォトイメージング株式会社へ。  
2003年(平成15年)6月 社外取締役を過半数、委員長とする監査委員会、指名委員会、報酬委員会で構成される委員会等設置会社へと移行。  
2003年(平成15年)8月5日 ミノルタと株式交換。新たにコニカミノルタホールディングスとしてスタートした。  
  
白黒からカラーへの移行

 

1 初期のカラー技術  
映画の色彩への憧れは、映画の登場後の早い時期に試みられていた。乳化剤の科学的な方法として研究が進められた加法混色や染色、色調による色彩の付加も行われた。始めてのカラー映画はJ・メリエス監督作品1902年「世界月旅行」であるが、このカラーはフィルム上に手で着色されたものである。影絵のような色彩でシーンごとに使用されていた。技術としては、フィルムに作業員が筆を使って着色するため、非常な手間と注意が必要であった。意外にもこの方法は美的な面では問題がなかった。しばらくはこの方法が行われていたが、作業員を雇う賃金やフィルムの値段などの問題により、一般的に広まることはなかった。  
1903年から調整と染色も利用されていた。そのシーンが夜であれば青、火事ならば赤など調整し、染色された。1916年D・W・グリフィス監督制作の「イントレランス」でのシーンでも夜のシーンは青、夜戦シーンは赤、宮廷内は赤褐色のシーンとなっている。これは表現というより、暗示や記号、モチーフといったニュアンスに近い意味で使用されている。当時はこの程度の色彩でも観客を呼び込むことが可能であったし、技術的にも優れたものであった。この映画ではこの頃、フィルムの感度が低いにもかかわらず、絞りを利用してパンフォーカスに近い物を作り上げようとしている。実はグリフィス監督が映画に関る以前は、映画は現在のように芸術として観られることはなく、労働階級の仕事として位置していた。彼自身も監督として仕事を任された映画に対してあまりよい印象はなかったものの、生活上の理由でこれを引き受けた。おかしなもので、その彼が動画を現在の映画とし、新たな範疇の芸術へと高めたのである。  
実は1907年にキネマトグラフを発明したリュミエール兄弟が写真による三色スクリーンのカラーネガを完成させ、多くの写真家が、或いは写真技術家がカラーの写真法を作り出していた。1911年になると映画は、最初の二色法キネマカラーがイギリス人のG・A・スミスとC・アンバーソンによって開発された。二人の最も有名な作品はジョージ5世のインド皇帝としての戴冠式の報道である「デリーの謁見所」である。二色法は加色法や回転法など様々な方法が開発され興行としてその後、長期的に観客を楽しませ、1933年の「蝋人形の館の秘密」などに至っての色彩は弱いものの、現在でも充分に鑑賞に堪えうる作品となっている。  
1926年に、映画の中の表現手段としてトーキーが加わった。このことにより視覚的な効果は、しばし音という聴覚的な表現手段に奪われたと言っても過言ではないだろう。もしトーキーの発明が遅れていたなら、映像技術者は互いにその表現法や演出術を競い合い、もっと早くに発達したであろうし、カラーという表現手段も早くに登場していたかも知れない。  
実は映画より先に商業として画像に色彩を取り入れたのはディズニーのアニメーションであった。  
トーキーアニメーションの技術を完成させることに成功したディズニーは、次の目標を再び視覚へと返した。カラーへと転換を見せる以前にも、作画はベタな黒のコントラストの画調からグレイゾーンの多いものとなり、シャープネスよりソフトネスが目立つようになってきた。白黒映画の撮影文体となる、光やグラデーションを表現しており、これは明らかに色感を意識した画調であったといえる。それ以前にディズニーの技術者による有彩色化のアイデアもったものの、「イントレランス」のように夜のシーンは青、水中のシーンは緑、火事のシーンは赤のフィルムを使おうという程度であった。1932年、テクニクカラー・プロセス・ナンバー・フォアはすべての色を美しく再現する事に成功した。この生みの親であるハーバート・カルマスはまずアニメで自分のカラープロセスの威力を実験しようと考えた。そこで選ばれたのが、当時隆盛をみせ色彩を生かすことの出来るディズニー・アニメーションであった。  
テクニクカラー・プロセスはウォルト・ディズニーにとってはトーキー以上の革命であった。決断の早い彼は進行中の「シリーシンフォニー」シリーズの「花と木」を急遽カラーへと作り直した。しかしこのカラープロセスはコスト高であり、賢いウォルトはテクニクカラーに独占的な使用権を認めさせたのだ。このために他社は劣った色彩を使わざるを得ず、ウォルトは他社との差異をつけることにより利益を確保したのである。  
ここで興味深いのはウォルトの兄ロイは、ミッキー・マウスに関しては安易にカラー化を認めなかったことである。実際にミッキー・マウスが赤いズボンを穿いたのは1935年である。察するに、カラーに対して消極的だったロイは、寵児であるミッキー・マウスに興行的な汚点を残したくなかったのだろう。白黒のミッキー・マウスは安全策であり、確実な保険であった。  
ではカルマスが映画ではなく、アニメに目をつけたのは何故か。当人も明確に語ってはいないが、恐らく、このときのテクニクカラー・プロセスの感度は低いため、充分に光量を取り込むことが出来ず、シャッタースピードも意のままになるアニメが的確な題材と見込んだのであろう。彼とウォルトの予想は的中し、大きな反響を呼ぶと共に興行収入でも成功を修め、その功績としてアカデミー賞にはアニメ部門が新たに設立されることとなった。その後、ディズニーは1937年の「白雪姫」もカラーで制作。こちらもアニメ界を揺るがすほどの成功に至った。  
2 幻想の色彩、戦争の白黒  
この「白雪姫」の成功はカラーによるところが多く、これに対抗したのがMGM制作の「オズの魔法使い」である。対抗というより、ファンタジー物はカラーで成功するという二匹目のドジョウを狙ったMGM社のプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンの下心があったと言ってよいだろう。監督はV・フレミング監督に決定し、彼は後にカラー大作「風と共に去りぬ」も監督することとなる。この「オズの魔法使い」に使用されたフィルムもやはりテクニクカラー・プロセスであるが、これが作品として成功を与えまた、興行収入に対しては失敗の種となった。  
テクニクカラーは、減色混合によるシアン、マゼンタ、イエローをプリズムによって各色彩に分解し、そしてその各色彩にネガを必要とするものであった。つまり、フィルムとプリント、それに現像において白黒フィルムより3倍のコストが掛かるのである。また、当時の技術では現像において青に関して発色が悪いうえ、フィルム感度もまだ低く、それらを補うため大量の照明が必要であった。ゆえにスタジオ内の大量の照明が主演のジュディ・ガーランドに当てられた。映画の中、彼女の足元を見ると八方に広がる影を見ることが出来る。当時はアークライトを必要としており、このライトは燃費が悪いうえ、単一源光では使用出来なかった。後の「風と共にさりぬ」で感度の向上を見せたが、やはりアークライトは必要であった。更に追い討ちをかけるようにこの光源は青味を持っておりフィルムを現像してみると被写体は期待と違った色を出してしまうので、色温度や色彩をコーディネイトする技術者が必要とされた。  
「オズの魔法使い」はヒットこそしたものの、驚愕に至る制作費は277万7000ドルとなり、撮影スケジュールは22週に及んだ。映画製作で最も費用を費やすのは時間である。予想以上の製作費の元金を収得するのにこの映画は20年以上を必要とした。初公開の1939年8月から1942年9月の間に同作品は301万7000ドルの収入をもたらした。205万2333ドルは国内、96万4千ドルは海外での興益である。しかしながらスタジオの予約管理システムのもと、広告料等を計算すると100万ドルは収入から消えていった。カラーファンタジー映画の興行的失敗は目に見えており、MGM社は白昼夢に酔っていたと言える。  
この間にR・マムーリアン監督は1935年に最初のトリクローム大作「虚栄の市」を制作している。以来、「色彩設計」や「色彩の演出」という用語を生み出し、その言葉を最大に生かす映画が作られる一方、逆に制作者はそれに振り回されることとなった。  
同じく1935年には同じフィルム・ベースの上に3層の乳化剤を使用したモノパック・フィルムでカラー撮影が可能な新しいコダクローム方式が発表された。このフィルムはよりシャープで良好な色彩の画像が得られた。1936年にはドイツのアグファ社から多層色内型カラー反転フィルムのアグファカラー・イノが作られた。その後も同社は長編作品に耐えうるフィルムをアグファカラー映画として62本制作した。  
これらは技術的に現在のフィルムの原型であり、テクニクカラー・プロセスのような3本別々にフィルムを使うための巨大なカメラや費用も必要としなかった。だが、テクニクカラー・プロセスによる上映用プリントを作る技術は容易であった。マトリックス(母体)であるフィルムの映像を、ゼラチンを塗ったベースの上に潤滑油で転染するのである。これは水彩画を複製するときに使われるオフセット刷り(凸版印刷)と類似した印刷法である。テクニクカラー社とコダック社との間に協定が結ばれ、前者が焼き付けを行い、後者がモノパック・コダック・フィルム(コダクロームフィルムで後のイーストマンカラーである)で撮影を引き受けた。これはテクニクカラー・プロセスが独占市場となり、それをブランドへと変える協定でもあった。  
1939年にテクニクカラー・プロセスの超大作である「風と共にさりぬ」が「オズの魔法使い」と同監督のフレミング監督によってアメリカで制作された。制作費は432万ドルという当時は勿論、現在でも莫大な金額である。この理由は勿論、フィルムに関する技術費用も多く占めている。テクニクカラー・プロセスの美しさと珍しさはもとより、この作品は世界的映画史上に俳優や技術、ストーリーに至ってその名を残すこととなった。公開当時の北アメリカのみの興行収入は18億350万ドルと驚異的な金額にのぼり、この記録は映画業界収入歴代1位をいまだ誇っている。  
この1939年はスクリーン上だけでなく、アメリカの偉大なるアカデミー賞にも影響を与えた。撮影賞にカラー部門と白黒部門が加わり、特別賞が三色式長編の成功としてテクニクカラー社へ送られた(しかしこのカラーと白黒別の賞は1956年R・ワイズ監督の「傷だらけの栄光」を最後に統一された)。この後、照明やフィルムの編集に関する技術は大いに伸びをみせたのは、この作品に触発され、可能性を見出したからであろう。カラー映画は、一方では技術の進歩、他では監督と美術監督とが実証する大胆さとカラーの豊かさ、同時に白黒映画とは異なる様式を与え、更にそれを際立たせる新たな表現法の一つとなった。  
ではこの年を機に映画界は一機にカラーへと転じたかというとそうでもない。MGM社やフレミング監督の思惑通りにヒットしたカラー映画は、1941年からの第二次世界大戦により邁進的な展開を期待することが困難となった。  
実際に1940年に見られるカラーの割合は10%(その殆どにディズニー・アニメーションが含まれている)、その5年後の1945年は14%となっている。戦後5年を経た1950年でさえ16%にしか満たない。世界的な有事にあって、スポンサーから提供資金を受けにくくなった映画界は、勿論フィルムが3本必要なテクニクカラー・プロセスは嫌ったし、カラーによるセット内の装飾費用はその色合いを気にするため、白黒に比べ余分に見積もらなくてはいけなかった。例えそのセットが完成しても、色彩設定を取り仕切ったカラー助手という映画製作のあらゆる段階、編集に関与介入することが可能な彼等の一声でセットは作り直し、シーンは取り直しということもしばしばあった。更に彼等は被写体である色彩以上の材質やメイキャップ、照明、カットとシーンのつなぎを見る権利を待っていた。このような干渉の最も明瞭な結果は、テクニクカラー・プロセスで制作された映画を画一化させ、それ以上の発展を見せることはなかったことである。  
世界的な戦争も終わり、感度の高いイーストマン・カラーやドイツのアグファ、フランスとベルギーのゲヴァ・カラー、そして良発色の日本のフジカラーとコニ・カラー、さらにソビエトのソヴィカラーが手軽に使われるようになった。しかしこの間に映像の、初期は興行として、後に新たな芸術定義としてカラーの介入を容易に許すことのないフィルム・ノワールが完成していた。  
前記の意味はやはり制作費の問題からである。発展途上のカラー・フィルムでは感度が低く、多くの照明と電力が必要とされた。照明器具の出力容量が大きくなればなるほど、それにあてがわれる制作費は膨らむ一方であったのだ。そこで制作者側としては制作費に気を取られることのないフィルム・ノワールが時代の流れに上手く乗ったのである。  
そして後記の意味においては、そこから始まったこれらの作品が、感度のよくなった白黒フィルムと、それと相性のよいレンズを利用して影と光を操る視覚的に興味深い効果を作り出したのである。1950年代は照明技術によるコントラスト対比と不安定な被写体構成を極めた。これはこの時代の繁栄で、第二次世界大戦からくる減退気分はフィルム・ノワール意味と存在であり助長をもたらした。もし戦争がなければ、あるいは早く終結をみせていたらフィルム・ノワールは40年代初期までに全盛を迎えていたであろう。「マルタの鷹」や「暗黒街のライセンス」、「ローラ殺人事件」がそうであるが、戦後もそのペシミズムは続き、1950年代後半になっても「現金に体を張れ」などの作品が作られた。この年代をみてもカラーは35%弱、白黒は64%強となっている。  
その一方、1950年代ハリウッドにおけるMGM社の明るく健康的なミュージカルコメディー(1952年S・ドーネン監督「雨に歌えば」や1953年V・ミネリ監督「バンド・ワゴン」といった多くの作品が含まれる)や、イギリスではM・パウエルとE・プレスバーガーの共同監督による1946年「天国への階段」や1947年「黒水仙」など色彩効果を最大に生かしたドラマを世界に送り出した。これらは現実の色、または現実に近い色というより、映画という別世界の色であり、1960 年代に入ってもそれを受け取る観客に内在する「色」を誘い出す装置(手段)でしかまだなかった。  
・1951年 カラー番組一般放送 映画館25%減少  
・1956年 アカデミー賞の白黒撮影賞・カラー撮影賞が‘撮影賞’に統一  
・1968年 夜間放送の97%がカラー化 白黒映画用高感度フィルム制作中止  
・1971年 自然光で撮影可能カラーフィルム発表  
3 テレビの脅威  
では映画を色彩の世界に呼び込んだ必然性とはどのようなものだったか。それは上記の間、常に敵視されていたテレビであった。その歴然とした関係は産業と映画制作が盛んなアメリカで確認することが出来る。  
現在日常的にカラーで見ることが出来るテレビもやはり以前は白黒であった。テレビの試みは18世紀前後といわれている。しかし本格的な発展がみられたのは1920年代に入ってからで、それはロシア出身のアメリカ人電子工学者ウラジミール・ツウォルキンが1923年に発明したアイノコスコープが元祖となった。1930年代には様々な放送の実験が行われた。1940年にはカラーテレビも登場したが実際に地上波として普及されることはなく、これらは実験場に限られている。  
この頃、第二次世界大戦中にハリウッドは繁栄を誇り、それが頂点を迎えた1946年に映画は興行収入総額17億ドルに達した。戦争は30年代に実際に成功していた商業テレビの導入を不可能にしたのだが、ハリウッドは後々テレビが自分の存在を追い越すことに対して、危惧することが遅れたのも戦争の功罪である。  
アメリカでも本格的なテレビ放送は第二次世界大戦後である。終戦後、カラー放送は直ちに行われ1951年から一般の放送にこぎつけ、その間の1948年から1952年の間にテレビ・ブームは興った。それまでアメリカでテレビ・セットは25万台しか使用されていなかったが、50年には約400万台となった。52年には1500万台となり、アメリカのテレビ普及率は60%となった。この間にアメリカのNBCテレビ局はカラーテレビに900万ドルの開発費を注ぎ込み、新スタジオの建設を進めた。そしてNBCとCBSはカラー放送方式で相反していたが、方式を統一した。しかし当時はまだカラー受像機の普及率が低く、この年にはカラーは見るべき進歩はなかった。  
その間、1940年代の映画は週に8000万人もの観客を導入していたが、50年代には6000万人と25%ダウンをみせている。40年代には2万館あった映画館も50年代後半には5千館も減少をみせている。かつてカラー作品は大作であり、そのネームバリューからカラーというだけで大作扱いもされてきた。しかしそれはテレビが白黒時代の話であり、50年代の中頃からはカラーテレビの登場により、華やかな映像が一般に供給されていく中、映画も観客の期待で映画界もカラーへと変化せざるを得なかった。小さな家庭用スクリーンに対抗するためワイドスクリーンなど大作主義が拮抗してきたのもこの頃である。  
しかしテレビは映画の努力を鼻で笑うかのように、その人気から更に放送時間を延長していったのだ。だがまだ当時の番組制作能力は低く、フィルム番組でそこを穴埋めしなければ到底無理な状態であった。そこでテレビ局はハリウッド製の劇場映画の流用を思いついたのである。映画会社は当局の敵であるテレビに作品を売るのを潔しとしなかったのだが、独立プロダクションはこの案に飛び付き、倉庫で眠っていた作品を一まとめで商品化した。NBCがカラー放送を始め、劇場映画を有料テレビで見せるなど、映画とテレビの距離は小さなものとなっていた。しかし当時はカラー番組が一般化しつつある中で、依然映画は白黒が主流であった。テレビ界に映画を興業的にいち早く放出したワーナーの作品もテレビ局に譲渡した映画の766作中、カラーは24本しかない。60年に入り、カラー放送が本格的になるとテレビの放送時間は更に長時間化する傾向にあった。1968年にはアメリカのカラーテレビの普及率は早く27%で、夜間番組は97%がカラー化されていた。  
1960年から1970年は映画も白黒からカラーの移行時期である。というのもこの頃、テレビの台頭を表すようにカラー作品の数が白黒作品の数を抜いたのである。50年代は29%であったカラー映画の割合は、60年代には倍の53%となったのである。  
1960年にはテレビの普及率も、アメリカ全家庭の87%を占めるところとなる。ヒッチコック監督はもう少し早い時期にそれが見られると思い、52年以降は色彩映画期と述べている。この時代、ハリウッドはテレビ対策に追われてきたと言える。加えて1962年、アメリカの電話会社AT&Tが商業用通信衛星を打ち上げ、アメリカ国内のテレビや電話、データ通信の中継用として開発。これは翌年63年11月には日本とアメリカ間のテレビ中継が実験されるなど、テレビの勢いは止まるを知ることはなかった。  
当初殆ど動きを見せなかったハリウッドもテレビの存在を無視することが出来なくなってきた。減り始めた映画館の数と観客動員数に、映画業界はテレビに媚を売らねばならなかった。テレビで得られる資金が新たな映画制作の利益となったのである。しかもそれにはカラーテレビに耐えうる作品でならなかった。ゆえに劇場でもカラー作品が増えたのである。ゴールデンタイムである夜間に、今更白黒の作品を登らせるには違和感があり、映画の制作者も局がカラーなら正当な値段で映画を引き取ってくれたので、この頃、映画は全くテレビの傀儡となってしまっていた。
4 良質のカラー作品と再現される白黒作品  
この頃のヒットをみせた映画は1959年W・ワイラー監督の「ベン・ハー」1961年R・ワイズ監督の「ウェスト・サイド物語」、1962年D・リーン監督「アラビアのロレンス」、J・キューカー監督「マイ・フェア・レディ」などいずれもカラー作品であった。  
その後70年代に入りテレビは数年で未放送の作品が少なくなり始め、映画のプロデューサーもテレビ向きではないと思われる題材を取り上げ始めたので、テレビ局は自分達でテレビ用の(劇場未公開)映画を制作するようになったのだ。皮肉なことに波に乗り始めたテレビ局は、今度は映画を自分達の領域から退けたのである。  
カラーに慣らされた観客達に応えるように、カラーの技術も向上をみせた。イーストマン・コダック社が1974年に、より高いシャープネスと粒状性を持ち合わせたフィルムを発表。1980年代には高感度・高解像力フィルムも登場し、極わずかな照明や室内、夜間撮影にも堪えうる撮影が可能となり、更にこの間に赤、青、黄等の各色相に対しても発色の向上をみせ、より一層美しいカラー映画が登場した。W・グロスバード監督の小道具の色彩に至るまで適切に選ばれた1978年「ストレート・タイム」や、コッポラ監督1982年「ワン・フロム・ザ・ハート」は色彩による試みがみられた。観客もテレビ同様、映画をカラーで見ることに慣れた年齢層が増加し、それが時代の需要として表れた結果、白黒フィルム自体も減少傾向をたどったので、それを扱う制作者も必然的に減少をせざるを得なくなった。  
現状はその存在の珍しさから白黒映画は、非凡な一つの映像術として1993年S・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」が大作として制作された。大作のみに止まらず、ミニ・シアターで上映された塚本晋也監督の1989年「鉄男」に触発されて、アメリカのD・アノロフスキー監督による同じく白黒のコントラストが明確な「π」等が制作されている。そしてアメリカのW・アレン監督は好んで白黒撮影を行っている。彼の作品は白黒フィルムを使用している。1979年「マンハッタン」は、電話ボックスや部屋の支柱などの直線を活かして、フレーム内にもう一つのフレームで、意図的ではあるが、観客に気付かせずに絵画的な構図を作っている。色彩の関与と無縁なので、白と黒の作り成す区分された映像はより違和感を覚えずに視覚に捕えられる。また、1992年「影と霧」(図1)は影の効果も好んで使用しており、そこにはフィルム・ノワールの再現やムルナウ監督への憧憬が考えられる。  
白黒映画はその生産上の理由から減少傾向にあるが、制作される作品の内容はそのフィルムと技術を無駄にすることなく評価の高い作品が制作されている。  
5 無彩色と有彩色の意味  
やはり、カラーに対する暗雲が排除された1940年以後も白黒フィルムが闊歩したもう一つの理由は、カラーに対する信用のなさではないか。60年代に入っても、やはり白黒フィルムの感度はカラー・フィルムに優り、レンズとの相性もよかった。しかもカラー映画が物珍しくなくなってきたので、それだけで観客を劇場に呼び込むことは困難になってきた。  
製作者側も、とくに監督が映画の内容からその色彩によるスクリーン上の表現を嫌う傾向にあったのではないか。ワイルダー監督が「カラーはアイスクリーム・パーラーのような映像の中で、台詞を嘘臭くさせた」(H・カゼラク: 「ビリー・ワイルダー自作自伝」, 379頁)と嫌ったように、軽薄になりがちな色彩映画は、その明るさ(彩りの多さ)から華やかなミュージカルやアニメーションに好んで使用されるとともに、カラーは娯楽であり、遍く享受されるものであった。それはそれで時宜に適材適所であるが、ペシミズムや哲学、バイオレンスなど華やかさから距離のある作品に、カラーを介入させることは監督の意図には沿わなかったようだ。そしてもう一つ、この頃の映画にとって、目の上のたんこぶにテレビという存在があった。家庭内でいつでも身近にみられるテレビという一般的な娯楽から、芸術として分離を望んでいた映画制作者達が白黒に固執したのは白黒によって差異をつけ、自身を失わぬようルーツを保守したのかもしれない。いずれにせよ白黒映画の気高さは、カラー映画は勿論、映画界以外にも向けられていた。  
白黒映画は文字通り、白と黒で被写体が表現される。このことは二色カラー・フィルムを意味しているわけでも、二色の色彩について話をしているわけではない。白と黒はコントラストであり、光のある部分とない部分である。1942年L・ビスコンティ監督の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」でみられるベッドの天蓋は殆ど光と影であり、不可思議な造形のドレープの重なりに色彩の介入は考えられない。カラーの驚きと物珍しさから白黒のグラデーションが忘れ去られた時期も一瞬みられらが、カラーが珍しくない1960年前後の映画界をみても1958年S・クレイマー監督「手錠のまゝの脱獄」や1960年ワイルダー監督「アパートの鍵貸します」などの後に残る作品もまた白黒であった。  
白と黒に憧れをいつまでも引きずる内包された意味は何であろう。色彩が存在しないゆえに表現手段は、白または黒の濃度変化であるコントラストとグラデーションに頼るしかない。コントラストとは文字通り対比である明るさ(白)と暗さ(黒)であり、グラデーションはその間を媒体する可変した白と黒であり、その結果の灰色である。例を挙げてみると1930年J・V・スタンバーグ監督「モロッコ」(図2)で霧の掛かったような映像がロー・コントラスト効果であり、1948年W・A・ウェルマン監督の「廃虚の群盗」(図3)が著しいハイ・コントラストとして挙げられる。1940年のヒチコック監督「レベッカ」での室内に掛けられたカーテンから作られるのは美しいグラデーションである。これらの白と黒のみで描かれた映画が成り立ち、美しいと感じるのはコントラストもグラデーションも無彩色の映像の中で白が向かうところは黒であり、その反対は白である。互いに向かうところは絶対である。これは自然界で私達が日常何気に見ている自然光に類似しているので違和感を覚えないのではないか。  
しかしながら有彩色は、例えば赤などは、橙ないしは黄へ向かう色と、紫ないしは青へ向かう色、そしてそれぞれ無彩色へ向かう色がある。これらのグラデーション、またはコントラストは自然界で殆どといって見かけない。夕焼けか深度の変化が著しい海ぐらいである。コントラストやグラデーションという色彩は白黒という変換された表現に優れているのだ。  
だからといって、カラー作品が白黒に劣ると言っているわけではない。1930年代にカラーというマイル・ストーンを通過した映画は揺籃期を過ごし、より美しい映像を求め彷徨を続けた。不透明な色彩から美しく透明感のある、これこそ自然界に存在する生きた色彩と落ち着きを手に入れた。もし「風と共に去りぬ」が白黒であったなら世界でこれほどまでのヒットはみせなかったかもしれない。また、カラーでなければ大作として制作されていないかもしれない。色彩と分離してその存在を語ることの出来ない作品も多々存在する。1965年J・L・ゴダール監督の「気狂いピエロ」(図4)では色彩は原色のままコントラストとして個別に引き立つよう他の色と対照的に配列されている。また、同じ作品では室内のシーンでも被写体によって「イントレランス」のように画面全体を一色に仕上げている。色彩によってモンタージュは作られ、それを主人公達にまとわせることによって画面に躍動を与えた。当時の白黒作品への反抗であり、同じような表現が白黒映画では不可能だという挑戦にも考えられる。  
同じカラーでも相反するように1978年T・マリク監督の「天国の日々」はアメリカ開拓時代を描いたものだが、その演出術は時代を考慮し、原色は少なく自然な配色と自然光の調和を図っている。特に夕暮れのシーンはそのグラデーションを撮影するために一日のうち数分しか撮影出来なかったという。そのシーンは映画史上最も美しい夕焼けとなった。  
映画に意味を持たせて色彩使用することが度々ある。「風と共に去りぬ」で、レッド・バトラーに会いに行く主人公が着ているドレスの色は緑色である。緑は若さと恋愛を象徴する。V・ストラーロ撮影監督は、登場する色彩に意味を付け、ストーリーに反映することを得意としている。同じ緑でも、1987年「ラスト・エンペラー」で見られる外国人教師が乗ってくる自転車の緑は知性を表している。また同映画では黄色は皇帝の象徴であり、温かい乳母という家庭の意味も持ち合わせているという。逆にカラーの中の白黒が1968年F・トリュフォー監督「黒衣の花嫁」である。花婿を殺された主人公はピエール・カルダンがデザインした白か黒、あるいはその二色使いの衣装を着ている。他の色は決して着用しない。白は花嫁ドレスの衣装であり黒は喪服の色であるが、むしろここでは白は亡き花婿への忠誠の思い、そして黒は復讐の誓いの象徴とされている。  
白黒映画は文字通り白と黒しかないのだが、その二つは上記のカラーのような象徴的な使われ方は難しい。そのことがカラー映画に対して、白黒映画の弱点である。1957年I・ベルイマン監督「第七の封印」では主人公が命をかけて死神とチェスを進めるのだが、死神のチェスのコマが黒に決まると「それが一番いいな」と彼は言う。黒は死や悪、絶望といった意味合いが強く、台詞はそこから由来している。ちなみに白は神聖や善、純粋を表す。しかし、1962年R・アルドリッチ監督の「何がジェーンに起ったか?」では怪我をして、妹によって軟禁生活を強いられている姉が、黒い髪の毛で黒い衣装を着ている。逆に妹は金髪に白い衣装を着て姉を冷酷非常に扱い、自由奔放に生活している。一見この衣装合せは逆のように思われるが、姉はその生活ぶりから陰鬱な雰囲気で痛々しくもその衣装が合っている。そして妹は中年も後半であろう年齢にも関らず、少女のような衣装で不気味さと彼女の過去の栄光に固執する狂気がうかがえる。この無彩色の対比は映画の全編を一貫して使用されている。  
しかしながら、ストーリーが明確であれば、白黒であろうと色彩に頼らず物体や色の識別が可能である。ワイルダー監督が言いたかったのは、色彩は個々に語るから色彩が増えるに連れ画面がうるさくなり、内在させて言語に至らない感覚に訴えるものすら表出させてしまうから、ということではないか。もっと具現させればその答えは、ナチスがスペインのゲルニカ市を無差別爆撃した阿鼻叫喚の情景「ゲルニカ」を描いたピカソから引用出来る。彼はこの絵に対して救いを拒否した。残忍性が充満したこの作品に、その他の題材は必要なく「色彩はある種の救いを意味してしまうから」という彼の言葉によって、それは確信することが出来る。言いおおせてしまうより、その鑑賞者に抽象を与え、広がる想像により理解に至らせるのである。  
もし、カラーの出現が30年早くても、トーキーを拒否したチャップリンは決して自身の映画をカラ−にしなかったことは明確である。色はトーキー同様おしゃべりなのである。上記で述べたように、受け手側に理解を求めるがゆえに深淵の入り口を小さくすることの探求の結果、白黒という芸術素材は理由深く、古い白黒映画はもちろん、新たな白黒映画が人々の興味の対照と憧れの理由である。  
  
国産カラーの時代

 

もし1995年までを「映画百年」とするならば、日本が敗戦を迎える1945年はその中間地点にあたり、これを境に日本では、戦前戦中の作品を含む大量の外国映画が雪崩のように公開された。その中に、自国の映画にはなかったカラー映画が含まれるようになるのだが、つまり日本の観客がカラー映画を自然な形で享受するようになったのは、これまでの映画受容史のようやく「後半」ということになる。  
だが映画史の「前半」が色彩から見放されていたわけではない。1895年当時の映画はもちろん白黒のサイレントであったが、それが瞬く間に世界中に広まった時から「映画は色と音とを手に入れなければならない」という宿題は突きつけられていたと言える。とにもかくにも私たちの住んでいる世界に色がついているという事実は、20世紀芸術のトップランナーを約束されながら未だ色彩を持ち得なかった映画にとって、一種の《原罪》とも言えるハンディキャップであった。その「前半」になされた数々の有意義な試みを列挙するのが本稿の役割ではないが、写真芸術の世界では、あえて手彩色にこだわるなり色の導入自体を敗北とする視点なり、いずれにせよ抵抗をもって迎えられたという「天然色」は1、少なくとも映画にとっては素直な渇望の対象として存在したと言えよう。芸術としての映画が何らかの抵抗を示したのは、むしろ音の獲得に際してであった。  
「完全なカラー映画」は、あらゆる映画企業にとって繁栄を約束する道であったが、映画が産業である限り、観客の要求する水準を満たす色彩をきちんと採算の合う経費で生産しなければならないということでもある。日本で最初の本格的な映画会社、日活が設立されてからわずか2年後の1914年に、日本映画に最初に色彩を導入しようとした天然色活動写真株式会社(天活)が創立されたことは、日本映画界の色彩への欲望が見てとれる。天活は、世界ではじめて商業化された色彩映画システム、「キネマカラー」の特許権をイギリスから買い取って数本の劇映画を製作したが、赤橙/青緑という2色のフィルターを使い、残像感覚によって色を認識させるこの原始的なシステムは、通常の2倍のフィルムを消費することもあって採算が合わず、天活は早々にカラー映画から撤退してしまう。  
再び日本映画が色彩を問題にし始めるには、日本自らが映画用フィルムを開発せねばならないという時の要請に動かされる1930年代を経なければならなかった。急速に戦時体制に突入してゆく中で、映画・写真フィルムは避け難くプロパガンダの必需品とみなされ、日本は、100パーセント輸入に頼っていた生フィルムを「純国産フィルム」に切り替えねばならないという至上命題に直面する。  
その矢面に立って1934年に創立されたのが、今もアメリカのコダック社と並んで世界の映画フィルム生産の中心をなす、富士写真フィルム株式会社である。商業使用に耐える品質の白黒フィルムを、海外の手を借りず独自で開発、大量生産しなくてはならなかった困難な時勢をおして、同社が映画用カラー・フィルムの現像実験に着手するのは1943年のことである。1942年に「コニカラー・システム」の研究を開始した写真界の老舗小西六写真工業株式会社(現コニカ)も含めて、この両社がカラー写真/映画の研究に着手したのが戦争中だったことは、注目されていいだろう。もちろん、「コダクローム」や「アグファカラー・ノイ」といった海外のカラー・フィルム開発の趨勢を見据えてであることは言うまでもない。  
当時満州映画協会に在籍していた元俳優岡田桑三の要請により、小西六は「満州国」にもカラー・フィルムの研究者を送り込んでいたという。岡田桑三は、日本初のカラー写真「さくら天然色フィルム」の発明者である西村龍介にかけあった上で計画を立て、1944年7月に「満洲映画協会天然色写真処」を旗揚げしている2。もちろん「満州」で色彩映画のシステムが完成することはなかったが、皮肉にも、そうした時代の研究成果が、戦後の日本映画の動向を多少なりとも決定づけてゆくことになる。  
戦後すぐに公開された外国のカラー映画の大半は、テクニカラー方式によるものだった。レンズを通った光をフィルターで三原色に分解してそれぞれ3本の白黒フィルムに写し、三原色にあたる染料を透明フィルムの上に重ね合わせるこの方式(捺染法)は、染料を自由に選べるため彩度の高い、鮮やかな色を生み出すことができた。その意味で、世界を代表する映画大国日本にとって、製作の場にテクニカラーが導入されなかったという事実は、逆に日本映画の色彩を特徴づけたとも言えるだろう。ハリウッドを拠点に、戦前にはロンドン、戦後になってローマにもラボを建設して、発色フィルムが台頭するまで世界のカラー映画市場を席巻したテクニカラーは、ついに日本映画をマーケットとはしなかった。さらに占領下の日本は外国産カラー・ネガの輸入制限にも苦しめられていたため、独自の道筋でカラー映画を成熟させねばならず、必然的に《国産カラー》の開発競争の時代を迎えることになる。  
その皮切りとなったのが、日本初の「総天然色」による長篇劇映画「カルメン故郷に帰る」(1951年、木下恵介)を送り出して大きな賞賛を浴びた、富士フィルムの「フジカラー」(三層式発色フィルム/外型現像/ポジ・ポジ反転方式)であった。この初代「フジカラー」の最大の特徴は、現在16mmや8mmなどのアマチュア映画でよく使われる反転(リバーサル)方式を劇場用35mmプリントの作成に導入しようとしたことであり、極めて野心的な試みであったと言える。それは採算の問題以上に、《国産カラー》を完成させるという悲願の事業そのものを優先した結果であろう。  
また、画像を三原色に分解し、乳剤を塗って現像するというプロセスを色ごとに3回繰り返すという小西六の「コニカラー」は、長くは続かなかったものの、世界の映画フィルム開発史の中でもとりわけユニークな位置を占めている。正式には、三色分解ネガを直接得ることができる「コニカラー・カメラ」を用いた方式のみが「コニカラー・システム」と呼ばれるため、カメラ開発の前段階において、オリジナルのカラー・ポジを介して三色分解ネガを得る「ポジ・ネガ・ポジ法」を用いた「日輪」(1953年、渡辺邦男)は「コニカラー」として完全なものとは認識されていない。しかし設立3周年を迎えた東映にとって「日輪」は初の「総天然色」作品としてかけがえのない意味を持っており、発色性の改良は今後の課題とされたものの、《国産カラー》の成熟にとって重要な一里塚となった。やがて「コニカラー・システム」の完成は、その初の長篇劇映画「緑はるかに」(1955年、井上梅次)を世に送り出すことになるが、これは前年に製作を再開したばかりの日活にとっても初の「総天然色」作品となっている。登川直樹による当時の批評は、「この映画は最近のコニカラーの水準を示したわけだが、数年前にこれが使われた劇映画を思い出せば、著しい進歩といえる。淡彩なのは国産カラーの短所であるが、淡彩なりに色調はかなり整って来たからだ。まだ実験段階にあるとしても、実用性は大分増して来たと言えよう」3とその途上性を述べている。「数年前にこれが使われた劇映画」とは「日輪」に他ならない。だが、フジカラーとコニカラーの完成によって《国産カラー》という概念が整備され、その新技術が、松竹、東映、日活という大手各社の「初の総天然色作品」に直接リンクしていたこの時代は、まさに日本映画の隆盛がテクノロジーと両輪をなしていたことを証明している。1996年に「緑はるかに」が東映化学工業の技術協力を得て復元され、フィルムセンターで上映されたのは、日本映画が黄金期へと向かうその道程をも復元しようとする試みであった(「緑はるかに」の復元についてはNFCニューズレター第4号をご参照下さい)。また1955年7月以降は、外国映画の輸入プリント数が制限されるようになったため、「コニカラー・システム」を用いて映画を三色分解し、国内で上映用プリントを複製していたという。  
しかし、フジカラーもコニカラーも、やがて経費の問題に直面せざるを得なくなった。フジカラーの外型反転方式は、一本一本の作業料が高くつき、映画館の急増に対応するべく必要とされた大量生産には向いていない。発色剤(カプラー)があらかじめフィルムの乳剤に含まれる(内型)のではなく、現像液からもたらされる外型現像は、作業工程が多いという難点もあった。富士フィルムの資料によれば、「カルメン故郷に帰る」では11本、同じ方式による次の映画「夏子の冒険」(1953年、中村登)でも38本のカラー・プリントが世に出ているに過ぎない4。1951年当時の松竹の直営館・契約館の数は合計1,252館であり5、それを賄うには推定40本前後のプリントを必要とする以上、カラー版だけではプリントの絶対数が不足することになる。それを補うために地方など多くの劇場では、カラー版と同時に撮影された白黒版からのプリントを上映していた6。さらに、プリントが15本程度でも採算が合う方式とされ、「緑はるかに」以来長短約60本の作品を送り出したコニカラーが早々と駆逐された(1959年2月に中止)のも、まさにネガ・ポジ方式の台頭、端的にはイーストマンカラーの大幅なコストダウンによって、市場での競争力を失ったためである。  
その結果、日本のカラー映画を基礎づけたのは、現在私たちが日常的に使っている紙焼き写真でもおなじみの、三層式発色フィルム(ネガ・ポジ方式)となった。テクニカラーに代わる新世代のカラー方式として登場したこのフィルムは、発色剤を含んだ、三原色に当たる三層の乳剤をフィルム上に塗り分け、化学的操作によって発色を促すものである。大量のフィルムにミクロン単位の均一な塗布を施すという高精度の技術に支えられながら、テクニカラーが不得手とされていた「自然な色」の再現を大きな特徴とした。しかも巨大なカメラを必要とするテクニカラーに比べて撮影にかかる手間が少なく、作業費も安価なため、その最大勢力となったコダック社のイーストマンカラーは、アメリカでもやがてテクニカラーに取って代わる勢力となる。  
日本映画界も早速この方式に飛びつき、イーストマンカラーとアグファカラー(ドイツ)という2社のカラー・ネガを輸入してきたが、1950年代後半にアグファ社の日本におけるカラー・ネガ製造の特許期間が終了して、ようやく富士フィルムも製造に乗り出すことが可能になった。それを記念する作品が、「フジカラーネガティブフィルム#8512」を初めて用い、優れた発色で成功を収めた「楢山節考」(1958年、木下恵介)である。フジカラー技術陣にとっては、「カルメン故郷に帰る」に続く、第二の記念碑とも呼び得るだろう。  
それ以来現在まで、この米・独・日の3社7が全世界の映画用カラー・ネガ市場を率いている。ここでそれぞれの製品、とりわけ色彩の柱となるネガ・フィルムが当時の日本映画に与えたインパクトを、いくつかのエピソードから垣間見ることとしたい。  
日本映画でイーストマンカラーを初めて使用した劇映画「地獄門」(1953年、衣笠貞之助)は、翌年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞し、ネガ・ポジ方式の発色フィルムを世界の映画界に知らしめることとなった。それは、「新技術」と「海外展開」というこの時期の大映社長永田雅一の意向に十全に沿うものでもある。その一方で、技術監督であった碧川道夫が断腸の思いで国産フィルムの採用を諦めたと告白している通り、国産カラーの技術者にとっては、海外との厳しい技術競争にさらされることを意味している。国内で「地獄門」が劇場公開されたのは、松竹に続いて東宝がフジカラーを採用し、東映がコニカラーによる「日輪」を公開する直前、《国産カラー》が実らんとするまさにその時期のことであった。  
このイーストマンカラーの上陸が、「地獄門」にとどまらず当時の日本映画に決定的な色彩感覚をもたらしたことは疑い得ない。まず「地獄門」の成功でイーストマンカラーの採用に自信を持った大映は、「千姫」(1954年、木村恵吾)以降、イーストマンカラーによる作品を半ば勝手に「大映カラー」と称し、同社のカラー映画のトレードマークとしている。またミュージカルに秀でた東宝は、その導入の初期からイーストマンカラーによるミュージカル・コメディに挑んでいる。ひばり・チエミ・いずみの三人娘が主演した「ジャンケン娘」(1955年、杉江敏男)は、青・赤・黄の三色を至るところに配して三人娘の描き分けに効果を発揮したが、初期イーストマンカラーの素直な色彩再現は、ハリウッドのミュージカルがテクニカラーの絢爛たる色彩に依存したのとは対照的に、むしろ水彩画を思わせる淡い印象を与える。  
また前述の岡田桑三が1954年に創立した製作会社東京シネマは、いわば「イーストマンカラーの申し子」として日本の科学映画界に現われたと言えるだろう。長瀬産業が輸入を始めたばかりのイーストマンカラーのネガを日本で最初に組織的につかった東京シネマは、社としてのデビュー作「ビール誕生」(1954年、柳沢寿男)にはじまり、「ミクロの世界 結核菌を追って」(1958年、大沼鉄郎・杉山正美)、「マリン・スノー 石油の起源」(1960年、野田真吉・大沼鉄郎)といった顕微鏡映画の傑作を通じて、文化・記録映画界における戦後世代の台頭を鮮やかに印象づけてゆく。同時期にイーストマンやアグファのカラー・ネガを導入した岩波映画製作所や日本映画新社なども含めて、劇場公開用長篇作品の時代を迎えようとしていた文化・記録映画は、この点で先駆的な役割を果たしている。現実のより効果的な「再現」を志すこの分野にとって、こうしたリアルな色の誕生は、当然歓迎されるべきものだろう。「カルメン故郷に帰る」に使用される前の、開発途上とも言える戦後間もなくのフジカラー(三層式外型反転)をまず受け入れたのも、武田薬品工業が企画した医学映画「胃癌の手術」(1947年、名古屋医大製作)であった。  
一方、フジカラーの新技術に積極的に取り組み、二つの「記念碑」を手がけた松竹が、「彼岸花」(1958年)から遺作「秋刀魚の味」(1962年)まで、小津安二郎監督のカラー作品にだけはアグファカラーを採用してきたことはよく知られている。小津組の撮影助手を勤めてきた川又昂キャメラマンによれば、小津監督はイーストマンカラーの赤色を好んだが、青色の強さに不満があり、結局「第三の道」アグファを選択したという。アグファカラーの持ち味とも言える落ち着いた色調は、今や小津作品の世界と不可分である。ここに、実験精神を尊び《国産カラー》を早々と受け入れた木下と、一定の期間をおいて、純粋に発色性の観点から「自らのカラー映画」を選んだ小津の対立を見ることもできよう。  
最後に、日本の国産カラーとして現在も重要な位置を占めているフジカラーのネガについて触れておかなければならない。フジカラーが、初めてその色調を一般に印象づけたのは、おそらく1960年代の東映作品においてであろう。松竹の「楢山節考」以来、発色に格段の進歩を遂げたフジカラーのネガを、東映は組織的に採用するようになった。その時期の同社の映画の多くには、メインタイトルの隅に楕円形の「富士フィルム」マークが配されているが、そこに現われるのは「東映の色」とも呼ばれた微妙に青みがかった色調である8。他の大手各社よりやや遅めのピークを迎え、1960年代になっても「ニュー東映」などの拡大路線を取ることができた東映では、衣装劇をその本質とするカラー時代劇に代わって仁侠映画やアクション映画などの新しいジャンルが登場していたが、その時代の東映作品はカラー・ネガの着実な国産化にも支えられていたのである。また東映は、日本の当時の大手5社で唯一、東映化学工業株式会社という系列の現像所を有しており、外部の現像所での作業を経ないこのシステムが、フィルム採用の面だけでなく現像のレベルにおいても、独自の色調を維持する基盤になったと考えられる。なお東映化学工業の敷地(東京都調布市)は、かつて小西六のもとでコニカラー・システムを開発していた日本色彩映画株式会社が所有していた場所であり、「コニカラー」の時代から「フジカラー・ネガ」の時代へと、国産カラー・システムの世代交代を体現する場所とも言えるのである。  
世界のカラー・フィルム開発史の中でも、富士フィルムと小西六という二つの野心的な製造会社を擁し、なおかつその研究途上に敗戦と占領を経験した日本はとりわけ特殊な発達を遂げ、いわゆる「高度経済成長」と軌を一にした映画の「黄金時代」と微妙なからまり合いを演じてきた。そこに見られるのは、製作の「6社体制」における大手各社間の駆け引きと牽制であり、また松竹の場合には、ネガの採用をめぐる二人の巨匠の無言の対峙でもあった。そこに、東宝を離れてからも、1970年の「どですかでん」を撮るまでカラー映画を拒否し続けた黒澤明の姿を重ねてみるのも示唆的だろう。  
《国産カラー》という命題が日本映画に投げかけた波紋は、絶頂期へ向かっていたその歩みの中心をなしていたと言ってもいい。「物質としての映画史」がはらむ問題体系は、「作品としての映画史」の最前線を形作るものとして、いまだ広大な空間を残している。  
  
ニュース映画の誕生

 

「お茶を飲んでもニュースを見ても 純なあの娘はフランス人形…」  
1937(昭和12)年春先の流行歌「青い背広で」の一節である。テレビのないこの時代、「ニュース」とはニュース映画のことにほかならないが、流行作詞家佐藤惣之助はこれを都会的な恋愛の情景として描いた。1935(昭和10)年の暮れに東京丸ノ内の日本劇場地下に初のニュース映画専門館ができて以来、全国の大都市で、劇映画の「前座」としてではなく、ニュース映画や短篇映画だけを上映する映画興行のスタイルが流行した。そこでは、「朝日世界ニュース」「東日大毎国際ニュース」といった国産のニュース映画や「パラマウントニュース」のような外国ニュース、ポパイやミッキー・マウスなどの外国アニメーション、さらには観光映画などが、70分から80分程度に構成されていた。なかでも国産ニュースは軍事関連のほか、スポーツ情報や街角のトピック、他愛ない三面記事といった内容をかなり含んでいた。当時10銭から20銭とは、デートコースとしても手軽な料金だったのだろう。  
日本で初めて定期的に製作されたニュース映画は、松竹キネマが1930(昭和5)年に開始した「松竹ニュース 眼の新聞」である。すでに関東大震災によって記録映像の威力を思い知らされた映画界ではあったが、劇映画の大手会社が乗り出した「眼の新聞」によって、ニュース映画はようやく軌道に乗るようになった。もっともそのスタート時はまだ無声映画であり、その素朴な編集ぶりを見てもジャンルとしてまだ模索期にあったことが分かる。そののどかな雰囲気が急変するのは、1931(昭和6)年の満州事変からである。  
ニュース映画が広く大衆社会へのインパクトを与え始めるのは、トーキー化が進んだ1934(昭和9)年頃からだろう。松竹に代わって新聞社・通信社がその担い手となってゆくが、戦局報道映画として成長してゆく運命にあった日本のニュース映画は、結局1937(昭和12)年7月に勃発する日中戦争が育てたと言っても過言ではない。戦線の拡大にともなって、しばしばキャメラマンの犠牲も伴いながら、最前線の映像が翌週には日本の映画館に届くようになった。鋭敏な編集感覚やナレーション構成など、プロパガンダとしての文体は急速に洗練されてゆくが、その翌年5月に封切られた「同盟ニュース 第54号」では、徐州での戦闘をついに同時録音で捉え、この分野に新機軸を開くことになる。「純なあの娘」がニュース映画を観ていたのは、劇場の暗闇がこうした戦闘シーンばかりで占められる直前の姿であったようだ。  
1939(昭和14)年の「映画法」の制定を経て、翌年には朝日・東日大毎・同盟・読売の大手4社が統合されて「日本ニュース」に再編され、さらには全映画館におけるニュース映画と文化映画の強制上映が開始された。観客にとってのニュース映画は、「眼の新聞」からたった10年で、「個人」の体験から「民族」の体験へと変貌させられたのである。  
  
天然色活動写真株式会社

 

(略称天活、1914年3月17日 設立 - 1919年 解体) 大正期に存在した映画会社である。無声映画時代に、新技術「キネマカラー」による「カラー映画」を日本で初めて製作、連続的に公開し、また、国産初のアニメ映画を製作・公開したことで知られる。6年間で400本近くの映画作品を量産した。  
1914年(大正3年)3月17日、東京の小林喜三郎の「常盤商会」と大阪の山川吉太郎の「東洋商会」が協力して創立。ふたりは「福宝堂」時代の本社営業部長と大阪支店長だった。日活から引き抜いた金子圭介を社長として本社機構を日本橋に置き、山川は大阪支社長に就任した。東京・日暮里にある東洋商会の「東京日暮里撮影所」を「天然色活動写真日暮里撮影所」(北豊島郡日暮里町元金杉638番)とし、元福宝堂の映画監督吉野二郎を日暮里撮影所長、東洋商会のカメラマン枝正義郎を撮影部長とした。設立1か月足らずの4月3日、吉野が監督し枝正が撮影した設立第一作「義経千本桜」を公開している。1919年末までのわずか5年で、「所長監督」と「技術部長撮影技師」とのタッグで同社で90本近い映画を撮った。  
その名の通り、日本で初めて「カラー映画」を製作したが、最終的には採算が合わず撤退した。沢村四郎五郎、市川莚十郎の人気コンビによる忍術映画などが人気を博した。また、かけだしの阪東妻三郎もおり、円谷英二は、花見で喧嘩があった際に仲裁をしたところ、その場に居合わせた枝正義郎が、その人柄を見込んでスカウトした。  
1916年、大阪郊外の「天然色活動写真小阪撮影所」(現在の東大阪市河内小阪駅付近)を新設、開所した。  
盟友であったはずの小林と山川は必ずしもうまくいかなかった。1914年9月の時点で小林も山川も一度辞職しており、小林は「小林商会」を設立、山川も「山川興行部」を設立し、天活の興行権を東西に分けて委任され、それぞれ独自の「連鎖劇」興行も行った。小林商会は天活から多くの現代劇の俳優を引き抜いた。  
この間、アニメーションの研究が盛んになり、1915年に日活向島撮影所に洋画家北山清太郎が入社したのを皮切りに、1916年に天活は下川凹夫を、小林商会は東京パック社から幸内純一を引き抜き、競争になったが、翌1917年1月、下川監督の「芋川椋三玄関番之巻」を公開し、同作が日本初のアニメ映画となった。  
同年3月には、菊池幽芳原作の「毒草」を天活が川口吉太郎(のちの川口呑舟)監督・脚本、村田正雄主演で製作するや、小林商会はまったく同じ原作をまったく同じタイトルで、天活の俳優部から引き抜いた井上正夫と栗島狭衣をそれぞれ監督と脚本および主演に据え、まったく同じ3月11日に興行をぶつけてくるという珍事件が起きる。浅草では大勝館(天活)と三友館(小林)で、同日2本の異なった「毒草」が同時に上映された。その後、1917年内に小林商会は倒産、山川興行部もなりを潜めた。  
1919年(大正8年)3月27日、「日暮里撮影所」が火災で焼失する。そこで同年、巣鴨に「天然色活動写真巣鴨撮影所」(現在の豊島区西巣鴨4丁目9番1号)を開設した。その後、仮設で復興した「日暮里撮影所」で、カメラマン枝正が初めて脚本を書き、撮影もした初監督作「哀の曲」を、同年10月18日、京橋豊玉館ほかで公開した。また、同年9月からは帰山教正の「映画芸術協会」製作作品を天活が配給もしている。第一作は1920年松竹蒲田撮影所に入社し監督に転向する直前の村田実主演による「深山の乙女」であった。  
同1919年に小林が創立した「国際活映株式会社」(国活)に買収される形で「天活」は消滅した。天活が最後に製作・公開した作品は、翌1920年1月1日に八丁堀大盛館ほかで上映された田村宇一郎監督、大森勝撮影の「呪いの猛火」であった。国活では「日暮里撮影所」を閉鎖、「巣鴨撮影所」を稼動した。田村、大森ともに国活に残ったが、同年中に田村は松竹蒲田へ、大森は帝キネへ移った。  
山川吉太郎は「国活」には参加せず、1920年(大正9年)5月、「大阪支社」と「小阪撮影所」を「帝国キネマ演芸株式会社」(帝キネ)に改組した。  
キネマカラー  
ジョージ・アルバート・スミスによって発明されたカラー映画の技術である。初めて成功したカラー映画の技術であり、1908年から1914年まで商業映画に用いられた。記録時・上映時に赤・緑の2色のフィルターを用いる。
 
富士フイルムHD 新事業はどれも中途半端 倒産コダックの轍を踏まぬか  
「何をやっている会社なのか分からない」と酷評する人もいる。2006年に持株会社になった富士フイルムホールディングス(HD)だ。かつては大先輩の米イーストマン・コダックやドイツのアグフア・ゲバルトと並ぶ写真フィルムメーカーで、日本を代表するエクセレント・カンパニーだった。ところが、銀塩写真フィルムからデジタルの時代に変わるや、同社の存在感は希薄になってしまった。もちろん、率先してデジタルカメラに進出し、医薬品事業に手を出し、ネットソリューション事業に、さらに化粧品にも乗り出したが、どれもこれも中途半端。端から新事業に手を出し、どれが中心事業なのか分からない。液晶パネル向け高機能フィルムを除けば、業界をリードするような事業が育っていない。くしくも1年前にアメリカ国民の間で「ビッグ・イエロー」と親しまれた名門、コダックが倒産したが、同じ轍を踏むのではないか、といらぬ心配もしてしまう。果たして、富士フイルムHDはエクセレント・カンパニーとして生き続けられるだろうか。  
何が目玉事業なのか分からない会社  
富士写真フイルム(現・富士フイルム)全盛時代は、誰もがグリーンの箱に収まった同社のフィルムのお世話になった。写真の色彩は自然に近い鮮やかさを持っていた。だが、デジタルの時代に入ると、同社は色褪せ、存在感が希薄になってしまった。今では銀塩フィルムは医療で使うレントゲン写真くらいである。  
もちろん、富士フイルムもデジタルカメラに参入した。1988年には世界で初めて画像記録をデジタル化したフルデジタルカメラ「DS‐1P」を発売。技術力の高さを示した。しかし、カメラメーカーだけでなく、家電メーカーもデジカメ市場に参入。結局、ニコンやキヤノン、オリンパス、家電メーカーのソニー、パナソニックが抜きん出て、富士フイルムのデジカメは大して人気にもならなかった。  
銀塩写真フィルムに代わって同社を支えるべき事業も試みている。いや、コダックと同様、誰よりも銀塩フィルムからデジタル信号を使う時代に代わることを痛感していたのは当の富士フイルムだった。例えば、医療機器分野で80年代に「デジタルX線画像診断システムFCR」を開発している。しかし、同社の大黒柱であり売り上げの3分の2を占めていた銀塩フィルムの凋落のスピードは速かった。ざっと10年で売り上げが10分の1になった。NHK経営委員会委員長を務めたこともあり、昨年、富士フイルムHDの会長に退いた古森重隆氏が社長に就任した00年がピークだった。  
豪腕ともワンマンとも称される古森氏は社長に就任するや、思い切った方向転換を図った。銀塩フィルムにこだわるのではなく、同社が培った写真技術を応用することで高機能デジタル材料分野や医療機器、医薬品、化粧品などの分野に進出した。そのために二度にわたり合計1万人のリストラを行うとともに、新規事業に思い切った投資を試みている。同時に米ゼロックス社と折半出資だった富士ゼロックス株を買い取り、連結子会社にもした。現在、同社は売り上げを01年3月期の1兆3800億円から現在は2兆2000億円に伸ばしたと強調しているが、その40%は富士ゼロックスを連結に加えたからにほかならない。  
それでも、曲がりなりにも古森氏の経営転換は成功している。代表例が液晶パネルに欠かせない偏光板保護フィルムだ。薄型テレビは液晶が主流になるのか、それともプラズマテレビになるのかまだ分からないときに偏光板保護フィルムの工場を拡大。08年のリーマンショックで世界中の液晶テレビの生産が落ち込み、偏光板保護フィルムの受注が止まったとき、古森氏は九州工場の増設を前倒しして稼動させ、その後の需要急増に応えた。この果敢な挑戦の結果、今、同社の偏光板保護フィルムは世界で80%のシェアを占めている(残りの20%はコニカミノルタ)。売り上げでも高機能材料は全体の20%に達している。銀塩フィルムが売り上げのたった2%にしか届かないのと比較しても素晴らしい数字である。  
画期的な医療機器が見当たらない  
さらに医療機器、医薬品、化粧品、サプリメントへと事業を拡大。医療機器は前述したように80年代からデジタル化に取り組み、デジタルX線画像診断装置を送り出したほか、内視鏡にも進出。損失飛ばし事件が発覚した内視鏡トップメーカーのオリンパスの買収に名乗りを挙げたものの、買収すると世界の内視鏡の90%以上を独占してしまうという危惧から嫌われ、ソニーに奪われてしまった。富士フイルムの内視鏡はレーザー光線を使う最新技術を武器に需要を拡大しているが、しょせんオリンパスに次ぐ2番手でしかない  
しかも、デジタルX線画像診断装置や内視鏡、エコー画像診断装置以外では、画期的な医療機器はまだ生まれていない。MRI(磁気共鳴画像装置)やPET(陽電子放射断層撮影)などの大型医療機器は米GEやドイツのジーメンス、あるいは日立、東芝、島津製作所の牙城には迫れないし、体内埋め込み式の医療機器は外国メーカーやベンチャーの独断場で、画像処理が得意な富士フイルムには踏み込めない。診療所や病院、さらに高度専門医療機関を結ぶネットワーク構築事業にも乗り出したが、ネットワーク構築にはIBMやNTTデータ、NECや富士通などのソフト専門業者が立ちはだかる。  
医薬品に至っては大金を投じてもまだ海のものとも山のものとも分からない状態だ。診断薬の「富士フイルムRI」に加えて、古森氏は08年に1300億円を投じて富山化学工業を買収して新薬に参入し、10年には後発品メーカーの富士フイルムファーマを稼動させた。さらに、米メルクからバイオ医薬品事業部門を買い取り、12年は協和発酵キリンと提携し、協和キリン富士フイルムバイオロジクスを設立、人材不足といわれながらもバイオ後発医薬品にも進出した。  
中核になる富山化学は富士フイルムの資金を得て新薬創出専門に特化。新機序のインフルエンザ治療薬を開発、承認申請中で、まもなく承認される見込みだが、インフルエンザ治療薬は「タミフル」「リレンザ」に続き、第一三共の「イナビル」、塩野義製薬の「ラビアクタ」の計4種類が発売されている。耐性菌に対応できる唯一のインフルエンザ治療薬とはいえ、治療薬が増えただけに、11年のタミフルのように大量に売れるとは思えない。もう一つ、富山化学はリウマチ治療薬「T‐614」も承認申請している。だが、その後に続くパイプラインは抗菌剤、認知症薬程度しか見当たらない。  
撤退した医薬品事業再挑戦の懸念  
実をいえば、富士フイルムの医薬品事業への参入は2度目。古森氏の前任者である大西実社長時代の92年、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進教授と共同で創薬会社、富士免疫製薬(FIP)をアメリカに設立した。大先輩のコダックが医薬品事業に進出していたことに加え、ノーベル賞受賞者との共同事業ということに釣られたものだったといわれている。この事業は5年以内に臨床に進むという約束で研究が始まり、約束どおり臨床に進んだ医薬品を生み出したが、96年、突然、富士フイルムは金が掛かり過ぎると、撤退した。コダックも医薬品事業から撤退したが、富士フイルムもコダックを見習ったかのようだった。  
今、富士フイルムは医薬品、医療機器、化粧品、サプリメント事業で18年には現在の3倍になる1兆円の売り上げを目指している。これは医薬品で相当の成果を上げなければ実現できそうもない。果たして成功するだろうか。  
「富士フイルムの技術者たちは優秀です。写真フィルムの箱にレンズを付けて『写ルンです』を生み出したように独創的な開発力があるし、高機能材料やデジタル画像装置でも抜きん出た技術力を示した。撤退したアメリカのFIPでもエイズ治療薬を4年で臨床実験に漕ぎ着けた。しかし、5年以内に結果が表われる写真と違い、医薬品がモノになるのは万に一つの上、10年、15年かかる。莫大な費用も掛かる。アメリカでは撤退した事業に再度乗り出すのは無駄遣い、といわれている。医薬品メーカーはどこも歯牙にもかけないでしょう」(外資系製薬メーカー幹部)  
写真フィルムは箱のデザインを変えれば誤魔化せるが、医薬品はハイリスク・ハイリターンの世界。成功するまで古森会長と中嶋成博社長は辛抱できるだろうか。  
富士フイルムHDは「化粧品、サプリメントは写真フィルム技術の延長線上のものだ」と言う。確かにフィルムにはナノ技術を駆使したコラーゲン溶液を塗る。その材料と技術を応用して化粧品を開発し、サプリメントにも生かせるだろう。だが、医薬品業界、医療関係者の間では「医薬品は化粧品、サプリメントとはまったく別もの」と考えられている。欧米でも化粧品、サプリメントを一緒に扱う製薬会社はない。その昔、山之内製薬(現・アステラス製薬)がサプリメントのシャクリー社を買収、痛い目に遭ったこともある。日本のエクセレント・カンパニー、富士フイルムが会社を支える分野を育てようと、種々の事業に乗り出すのも無理はないが、後ろ姿を追い続けてきたコダックの二の舞を演じないか一抹の不安に駆られる。( 2013/2/1 )