「知る」 アホが凡人になる手立て

アホが凡人になる手立てがあります 
ちょっとでも興味・関心が湧いたことがあったら 
億劫がらずに「知る」努力をすることです 
 
知ったことを理解するなど先の先で結構 
「知る」間口の広さ 来る者拒まず 
とりあえず知りましょう 
 
もちろん一生風に吹かれてアホで終る 本物のアホもいます


地震>鯰>要石>鹿島神宮>巫女>中山太郎著「日本巫女史」にたどり着きました 
足利同郷の民俗学者を68歳で知りました 
話の展開の間口の広さに驚かされました 
(斜め読みで読み終わっていません 多分終らないでしょう)
  
自分の興味・関心の種を大事にしましょう
  
間口は広く枝葉末節なんでも結構 
調べて とりあえず知りましょう 
更に見に行く触りに行く聞きに行くのも一興です 
手に入る情報はとりあえず受け止めましょう
  
幅広く知るだけでも凡人の仲間入りができます
 
敵を知り己を知れば (相手を知り自分を知れば) 
同じ物差しで相手と自分を分析 長所と短所 強み弱点が見えてきます 
知識がないと「物差し」が作れません「分析」ができません 
不完全でも「物差し」で「分析」できれば スタートは十分に凡人です
   
分析結果からの対応・展開には経験・能力が必要になりますが 
これも「知る」ことで救われます 
ただ間違っても「失敗に学ぶ」等の知識は10年先まで放っておいてください
  
「成功に学ぶ」知識を知ってください 
経験・能力を身につける時間が大巾に短縮されます 
どんな分野でも最初は素直に「真似る」ことから始めましょう 
自分のスタイルに進化するかもしれません
 
アホたわけ馬鹿 愚者を呼ぶ最新流行語が「アホ」です(京言葉でした)

 
2011/5 
 
知識 
ピーター・ドラッカーといえば、ウィーン生まれで、現在アメリカのクレアモント大学院の教授を勤める。九十代半ばにして世界最高の経営学者であり、「マネジメント」という考え方そのものを発明し、ビジネス界に最も影響力を持つ思想家でもある。 
そのドラッカーが幾多の著書で一貫して唱えているのが「知識社会」の到来である。七千年前、人類は技能を発見した。その後、技能が道具を生み、才能のない普通の者に優れた仕事をさせ、世代を超えていく進歩を可能にした。技能が労働の分業をもたらし、経済的な成果を可能にしたのである。 
紀元前二千年には、地中海東部の灌漑文明が、社会、政治、経済のための機関と、職業と、つい二百年前までそのまま使い続けることになった道具のほとんどを生み出した。まさに技能の発見が文明をつくり出したのである。そして今日、再び人類は大きな発展を遂げた。仕事に知識を使いはじめたのだ。ドラッカーは、仕事の基盤が知識に移ったと述べている。 
ここで言う知識とは、仕事の基になる専門知識のことである。専門知識の上に成り立つ職業といえば、医師や弁護士や公認会計士やコンピュータ・プログラマーなどがすぐ思い浮かぶが、実は冠婚葬祭業である当社も知識産業であると私は思っている。 
例えば、国家資格である一級葬祭ディレクター。この試験用に使う『葬儀概論』という電話帳のように分厚いテキストを通読してみて驚いた。想像以上に内容が高度で、かつ範囲が広い。仏教の各宗派の教義・作法はもちろん、宗教全般、儀礼全般に医療、法律、税務といった分野まで含まれているのである。これはもう大変な知識産業である。その一級ディレクターの人数および合格率が日本でトップということで、非常に誇りに思っている。 
一級葬祭ディレクターほどの難易度は現在のところないが、ブライダル・プロデューサーにも同じことが言える。さらには、料理、衣装、写真、司会::と当社のあらゆる仕事は高度な専門知識に基づく知識産業であると認識している。ドラッカーも、「いかなる知識も、他の知識より上位にあることはない。知識の位置づけは、それぞれの知識に固有の優位性や劣位性によってではなく、共通の任務に対する貢献によって決定される。『哲学は科学の女王』と言う。だが腎臓結石の除去には、論理学者よりも泌尿器専門医を必要とする」と述べている。 
見 
『論語』をはじめとする中国の四書には、人を見る目の明るさが乱世を生き抜く知恵として重視されると記されている。何をもって相手を見極めるかといえば、主に四つある。 
第一に、人相を見る。第二は、出処進退の退を見る。第三は、応答事例を見る。つまり、言葉のやりとり、態度を観察する。第四は、修己治人。己をおさめ、徳の人であるかどうかを見るということだ。人を見るのは難しい。 
つねに「活眼」というものの重要性を訴えた安岡正篤は、人間は特に目が大切であると言っている。すなわち物が見えなければならない。しかし、単なる肉眼では目先しか見えず、それではすこぶる危険である。私たちは外と同時に内を見る、現在と同時に過去も未来も見る、また現象の奥に本体を見るということを心がけなければならない。 
仏教では「五眼」(ごげん)というものを説いている。肉眼(にくげん)、天眼、慧眼(えげん)、法眼、仏眼の五つだが、とにかく肉眼以上のものを「心眼」としておこう。その心眼で見ると、私たちの生活も宇宙の活動も結局は一つのものであり、マクロコスモスとしての宇宙とミクロコスモスとしての私たちの生活は、大と小の違いこそあれ、その本質においては共に同じである。マクロ、ミクロ、いずれのコスモスもエネルギーの運動であり、変化であると言うことができる。 
そして、私たちの生活を支配しているこのエネルギーの作用には、潜在エネルギーと顕在エネルギーの2種類がある。私たちの体格とか肉づきとかいったものは、現われている顕在エネルギーである。ところが、そのように現われ、明らかに外面に出ているエネルギーはその人が持つ全エネルギーのきわめて一小部分であり、むしろ隠れている潜在エネルギーの方がはるかに強い力、大きな存在だ。 
それはちょうど氷山と同じことで、水面に現われている部分はごく一小部分であって、水面下に潜在している部分の方が、水面上に現われている部分の少なくとも八倍くらいはある。それだけ潜在面とは大きいものであり、私たちの潜在エネルギーも非常に強い力を持っているのである。 
見かけはもことに弱そうに見えながら、何かやらせるととても精力的な不撓不屈の人もいる。これは顕在エネルギーは貧弱であるけれども、氷山みたいに潜在エネルギーが旺盛なのである。どうも人間は自然の物質よりも複雑で、どちらかというと、見てくれのいい人よりも、見てくれのさほどでない人に潜在エネルギーの旺盛な人が多いようだ。「柳に雪折れなし」などというのも、意味が相通ずるものがある。歴史を見ても、英雄とか哲人とかいわれる人に、案外見てくれのそれほどでない人が多いものだ。人を見るときには、その人間の潜在エネルギーを見る心眼を持たなければならないのである。 
また、和漢の古典を広く学んだ安岡は、「聖賢の智慧」の大切さを唱え続けたが、それは「ものの見方の三原則」として結晶化している。人間は、迷っている者や目先の利かない者に対して、教え助けることもできる。そこで、ものを考えるうえに大切な原則は次の三つであるという。 
第一は、目先にとらわれず、長い目で見る。 
第二は、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的、全面的に観察する。 
第三は、枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。 
とかく人間というものは、手っ取り早く安易にということが先に立って、そのために目先にとらわれたり、一面から判断しなかったり、あるいは枝葉末節にこだわったり、というようなことで、物事の本質を見失いがちである。これでは本当の結論は出てこない。物事というものは、大きな問題、困難な問題ほど、やはり長い目で、多面的に、根本的に見ていくことが大事である。特に人の上に立つリーダーほど、これは心得なければならないことであると安岡は言う。 
よく「後継者に帝王学を授ける」などということが言われるが、それは帝王としての立ち居振る舞いを教えるということではなく、ものの見方、考え方を教えるということである。物事を長期的視野のもとで、多面的・全体的・根本的に観察し、その本質を洞察するように努めたとき、事態にうろたえてしまって、失敗するということはない。部下が上司に求めるものはそれだ。だからこそ人の上に立つ者は、自分の経験の範囲内で処理するのではなく、つねに古典などを読んで聖賢の智慧に触れ、自己研鑽することが大切なのだ。 
リーダーとは見る人である。人を見る。現場を見る。そして、機を見る。その場合、旅というものが重要な意味を持ってくる。 
吉田松陰の学問は見聞という実践であった。黒船の実物を見るべく乗り込もうとしたほどである。松陰は、とにかくその短い生涯にわたってよく旅をした。一般的な事跡を知るぐらいは万巻の書をひもとけば十分理解でき、それ以上のことは必要ないだろう。しかし、松陰はこう考えた。人の欠点は読書するのみで博学な知識をもて遊んでいるばかり、あえて思考を広げることをしないところにある。あちこちを旅して、さまざまなものを見る。心は常にころころと動き、活きているものは必ず「機」つまり発動のはずみがある。機はいろいろなものによって発し、感動してまた動く。発動させるには、まず旅をして、何かを見て、初めて真の利益が得られるのである。 
言葉 
名演説家として知られたウィンストン・チャーチルは「人に与えられたあらゆる能力のなかで、話術ほど重要な能力はない」と言った。欧米人のあいだでは「スピーチは命である」という考え方が徹底している。 
スピーチをするときに一番大切なのは、最初の10秒間であるという。なぜなら、その10秒間で勝負がついてしまうからだ。気が散っている人や、興味を示さない人の心に食い込むのは、このときである。相手を集中させ、興味を引くのは、このときしかないのである。 
箴言で知られるフランスの哲学者ラ・ロシュフーコーは、「話していて愉快になる人があまりにも少なすぎる理由は、みんな相手の話していることよりも、自分の話そうとしていることばかりを考えているから」と言った。 
アメリカ大統領には多数のスピーチ・ライターがついていて演説のための原稿を練り上げ、繰り返し大統領にスピーチの練習をさせる。彼らは知っているのだ。たった5分間のスピーチが世界中の人々に、あるいは全社員にどれだけの影響を与えるかということを。 
そもそも、政治や経営の世界において大切なことは「何を語るか」ではなく、「誰が語るか」である。ソフィアバンク代表の田坂広志氏によれば、経営者の究極の役割とは、力に満ちた言葉、すなわち「言霊」を語ることであるという。社員の心を励ます言葉。マネジャーの胸を打つ言葉。経営幹部の腹に響く言葉。顧客の気持ちを惹きつける言葉。そうした言霊の数々を語ることこそ、経営者の役割なのである。 
「吾れ言を知る」と言った孟子は、その「言」を四つ挙げている。一つは、_辞(ひじ)。偏った言葉。概念的・論理的に自分の都合のいいようにつける理屈。二つ目は、淫辞。淫は物事に執念深く耽溺することで、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすることである。三つ目は、邪辞。よこしまな言葉、よこしまな心からつける理屈。四つ目は、遁辞。逃げ口上である。つまり、これら四つの言葉は、リーダーとして決して言ってはならない言葉なのである。 
では、何を言うべきか。それは、真実である。リーダーは第一線に出て、部下たちが間違った情報に引きずられないように、真実を語らなければならない。部下たちに適切な情報を与えないでおくと、リーダーが望むのとは正反対の方向へ彼らを導くことにもなる。 
そして説得力のあるメッセージは、リーダーへの信頼の上に築かれる。信頼はリーダーに無条件に与えられるわけではない。それはリーダーが自ら勝ち取るものであり、頭を使い、心を込めて、語りかけ、実行してみせることによって手に入れるものなのだ。 
信頼できるリーダーとは、組織の利害の最も良き体現者であることを身をもって示し、自分は部下たちへの奉仕者だと考える。そして、部下たちの成功を願って、彼らが必要とするものを与える。こうした上司は、自らの評価は部下の一人ひとり、あるいは部門全体が成し遂げた成果によって決まると知っている。だから、部下の一人ひとりや部門に対する厚い支援を惜しまないのである。 
信頼できるリーダーのメッセージには説得力があると言われる。この説得力のレベルは、リーダー個人の資質にもよるが、そのリーダーが組織でどれほどの地位を占めているかにもよる。またそれは、組織の健康状態の指標でもある。組織の健康はリーダーの大切な資質の一つである「コミュニケーション力」からつくられるからである。リーダーが人々を引っ張っていく根本は、コミュニケーション力にあるのだ。 
リーダーにふさわしいコミュニケーション力は、組織の価値観や文化に根ざしている。そして、社員、顧客、株主にメディアに至るまで組織に関わる人々にとって意義のあるメッセージから生み出される。それには、組織の理念と使命と変革への意志が込められていなければならない。リーダーのメッセージは、部下とのあいだに信頼関係を打ち立てるために発揮される。その内容には次の四つの要素が備わっている必要がある。 
まず、意義である。人材、生産性、商品など、組織の現在と未来に関わる大きな課題について言及されていること。次に、価値観。組織の理念としてのビジョン、なすべき使命としてのミッション、それに文化が盛り込まれていること。三つ目は、首尾一貫性。言行が一致していること。そして四つ目は、メリハリ。一定の規則をもって語られることだ。 
説得力のあるメッセージは、リーダーシップを発揮することで生み出される。それは、リーダー個人の資質だけでなく、組織の価値観を体現している。その組織がどれだけ開かれているか、まとまりがあるか、透明度が高いかなど、すなわち、組織文化・組織風土のあらわれでもある。 
ドラッカーも言うように、リーダーのコミュニケーション力は、情報を伝えることよりも、ある組織文化のなかでの一体感、親近感を生み出すために役立つ。最後に、リーダーは部下に向けて、さまざまな場で繰り返しメッセージを語り、リーダーが何を期待し、組織が何を望み、それに対して部下は何をすべきかの理解を求めるべきだ。そうすれば、リーダーと部下たちは相互理解に基づいた連帯感をつくり上げ、相互信頼によって一丸となり、組織のゴールをめざすことができる。 
聞く 
松下幸之助は、「部下の話を聞くときに、心掛けないといかんことは、部下の話の内容を評価して良いとか悪いとか言ったらあかん、ということやな。部下が責任者と話をする、提案を持ってきてくれる、その誠意と努力と勇気をほめんといかん」と語っている。 
部下の意見を聞くことがリーダーにとって大事なことは言うまでもないが、中世・近世では「意見」を「異見」と書いた。そして、異見を聞き、率直に自己を反省することができる人物を「人望がある」と評したのである。 
戦国武将のなかでは、武田信玄、徳川家康、黒田長政の三人が意見を聞くことで知られた。 
さらに諫言というものがある。耳に痛い直言である。歴史上の人物はみな、この諫言を聞くか聞かないかで、成功するかしないか、生き残るか滅びるかの岐路に立った。織田信長の育て役の平手政秀が、ヒッピーのような生活をしていた信長を諌め、それでも言うことを聞かないので切腹したのは有名である。 
諫言の難しさを「人間関係」としてとらえたのは、家康で、「諫言者は、戦場の一番槍よりもむずかしい。その後の人間関係がどうもギクシャクする。正しいことを言ったのだが、言った方が疑心暗鬼になり、主人からにらまれたのではないか、と思うようになる。だから、そういうことを承知のうえで直言する真の諫言者は、一番槍異常の功労者である」と言った。リーダーとは、異見や諫言を聞かなければならないのだ。 
部下に限らず、人の話を聞くときの態度も重要で、絶対にしてはならないのが腕組みと足組みである。人と会話しているときは、その人とコミュニケーションをする姿勢をするのが礼儀である。腕組みは相手とのあいだに柵を設けることであり、自由なコミュニケーションを拒否するという心理的圧力を与える結果になる。そのうえに足まで組んでいれば、さらに相手を遠ざけようとすることになる。満員電車の中で足を組む場合、自分の前に突起物を構築して、それ以上に人が近づいてこないようにする。人が攻めてきても、すぐに蹴ることができる態勢をとっているわけであり、あまりにも自分勝手で利己的と言える。 
恋人同士が向かい合っているときは、お互いのあいだに物理的にも心理的にも障害物がないように極力配慮した環境を整える。もし一方が腕組みをしながら話を聞いていたとすれば、二人の関係を冷めた感情で見つめ直しているのかもしれない。足を組んで相対していたら、何か都合の悪いことが相手に見つかって、ふてくされているのかもしれない。また、自尊心を傷つけられるようなことがあって、開き直っているのかもしれない。 
いずれにしても、相手とのあいだに一定の距離を置くことによって、自分の気持ちを隠し、相手が心の中に入ってくることがないようにしているのだ。人の話を聞く態度としては失礼千万。私は人と接するとき、腕組み、足組みは絶対にしないように心がけている。 
逆に、日との話を聞くときにするように心がけていることが三つある。まず、必ず相手の目をやさしく見つめながら話を聞くこと。次に、相手の話には必ず、あいづちを打つこと。相手をほめる言葉を混ぜると、さらに相手は饒舌になる。そして三つ目は、自分が話すときには意見ではなく、質問のスタイルをとることだ。 
特に、あいづちの力は大きい。あいづちは、次のようにさまざまな力を持っている。話し手に聞いていることを知らせる。話し手が集中できる。話し手を乗せる。話がリズミカルになる。聞き手の関心や興味がどこにあるか、話し手が確認しながら話ができることなどだ。 
あいづち一つで生き抜いている職業もあるほどで、高級クラブのホステスなどがそれに当たる。指名客の多い人気ホステスになるには、若さ、美貌、スタイルなどよりも、愛想、愛嬌、話のうまさなどが求められるが、何よりも、お客の話をきちんと聞くのがうまい「話させ上手」の要素が必要とされる。その武器こそが、あいづちだ。 
銀座の某ナンバーワンなど、お客が話しているとき、なんと1分間に20回のあいづちを打つという。実に3秒に一回である。しかも、「はい」や「ええ」だけではなく、「うん」「うん、うん」「そう」「そぉお」「そうなの」「へえ」「ほんと?」「ほんとう!」「それで」「ねえ、それで、それで」「すごいわねえ」などなど、30種類以上の「あいづちバージョン」を一回ごとに使い分けているというから、すさまじい。 
「聞く」の究極は、相手の本当の欲求や状態を知ることである。聞く技術を駆使して、相手に本当の状況や気持ちを自発的に語らせなければならない。カウンセリングという行為もあるように、人間というものは、話を聞いてくれる人に対してだけ心を開くのである。そして、聞き上手になるための四つの基本とは、受容、傾聴、共感、感情の反射である。 
最後に、カウンセラー業界では常識だそうだが、誰でも聞き上手になれる魔法のキーフレーズがあるそうだ。三つあるのだが、いかなる問題であろうと、この言葉のいずれかを会話に挟めば、相手は自分が理解されていると感じ、どんどん本心を語るというのである。 
その三つの魔法の言葉とは、「それは大変ですね」「それは複雑ですね」「そこの話をもう少し詳しく」。 
嘘だと思われるなら、上司でも部下でも家族でも、ぜひ試していただきたい。 
伝える 
歴史上の人物を見ると、宣伝機関を持っていた者が人気者になることがわかる。日本史においては、源義経は『義経記』を、楠木正成は『太平記』を、織田信長は『信長記』を、そして豊臣秀吉は『太閤記』を持つことによって、後世の人々の心をつかんだ。 
書物の力というものは偉大だが、考えてみると、孔子、ソクラテス、ブッダ、イエスのいわゆる世界の四大聖人は誰一人として本を書いていないことに気づく。『論語』や『仏典』や『新約聖書』はいずれも彼らの弟子たちがまとめた発言集だし、ソクラテスの言葉もプラトンによって未来に残されたのである。 
メッセージを広く、長く伝えるという点において、いかに後継者の存在が大きいかがよくわかる。 
現代のリーダー、特に企業の経営者の自叙伝やメッセージ集のようなものが書店にたくさん並んでいるが、一読してプロのライターが代筆したとすぐわかるものが多い。いやしくも志を持って業を立てているからには、たとえ稚拙であっても自らペンをとって想いを綴ってほしいと思う。 
私は著書の執筆の他、雑誌や新聞などの連載を数本抱えているが、必ず自分で全部書く。そして、少しでも当社のメッセージを世の方々に伝えたいと思っている。また社員に対しても伝えたいことが山とあるので、毎月の社内報で社員へのメッセージを書いている。 
もちろん、書くことだけがメッセージの伝達ではない。会議や朝礼や全社集会など、経営者はとにかく語ることが仕事である。 
松下幸之助は、次の三点が重要だと言った。すなわち、燃える思いで訴える、繰り返し訴える、なぜ訴えるのかを説明する。この三つの繰り返しをしなければ、リーダーの真意は社員には伝わらないという。なかなか自分の考えが社員に伝わらないと思うなら、自分が十分な努力をしているかどうか、よく考えてみるべきだろう。 
かのアレクサンダー大王は、ロック・スターのごとく群集の感情をどう抑え、どう解き放てばいいかを熟知していたという。彼は壮大なビジョンを人々に与えるのに長けていただけでなく、そのビジョンを達成することが臣民にとって何を意味するのか、わかりやすく説明するのが得意だった。たとえ未来の戦利品であっても、いつ届くとも知れぬステーキの、さしあたって肉が焼ける音だけでも人々に与える必要があることに気づいていたのである。その結果、彼は世界帝国の王となった。 
表現・表情 
リーダーには表現力が求められる。かのユリウス・カエサルは豊かな表現力の持ち主だった。「ローマは一日にしてならず」や「すべての道はローマに通ず」など、ローマ関連の名言は少なくないが、カエサル自身も多くの名言を残している。いわく、ルビコン河をわたる時の「賽は投げられた」とか、元老院に戦闘を報告する最初の言葉である「来た、見た、勝った」とか、暗殺時の「ブルータス、お前もか」とか、カエサルにはコピーライターの才能があったとしか思えない。ドラッカーが「政治家、経営者を問わず、リーダーとは、言葉によって人々を操る者である」と語っているが、その代表格こそカエサルなのだ。 
当世随一のスピーチの名手として知られる永守重信氏は、相手に合わせて表現することが重要だと言う。話の内容、表現方法、話す時の態度も変えていく必要がある。内容については、相手のキャリアに応じて次のようにアレンジするという。まず、一般社員には危機意識30%、夢やロマン70%。主任クラスには危機意識50%、夢やロマン50%。部課長クラスには危機意識70%、夢やロマン30%。そして役員クラスには危機意識90%、夢やロマン10%という具合である。 
一般社員向けには危機感をあおるような内容はできるだけ避けて、夢の持てるテーマを中心に話を進めていく。表現もわかりやすい言葉を選んで、笑顔も絶やさない。 
表現とともに表情が重要である。『孫子』に「軍に将たるの事は、静にして以って幽なり」とある。軍を率いる時の心構え、つまりリーダーの心構えは静であり幽であれ、と言っているのだ。幽とは、計り知れないほど奥が深いという意味である。わかりやすく言うと、味方がピンチに陥った時に動揺を顔に表わすようでは、リーダーの資格はない。組織がピンチになれば、部下は真っ先にリーダーの顔色をうかがう。そんなとき、リーダーがあたふたと動き回ったり、緊張しすぎたりすれば、部下はいっそう動揺する。常に冷静沈着であってこそ、部下の信頼は得られるのだ。 
リーダーに最もふさわしい表情とは、笑顔を置いて他にないだろう。笑顔のもとに人は集まる。笑顔など見せる気にならない時は、無理にでも笑ってみることだ。アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズが言うように、動作は感情に従って起こるように見えるが、実際は、動作と感情は平行するものなのである。だから、快活さを失った場合は、いかにも快活そうにふるまうことが、それを取り戻す最高の方法なのだ。