「本」の温もり

小説は「本」で読みたいものです 
楽しさのが倍化します 
それでどうしたの・・・筋を追いかけるだけではありません 
気になったり楽しい表現を味わうこともひとつです 
 
読み終わってからも 
あそこはどうだったか・・・パラパラ探すのも楽しいものです 
 
本棚に積読 
背表紙に思い出したりもします 
気の向いた時に取り出し読みます


 
エッセイ 
時間調整の楽しみ 
話題獲得知識を広める 
時代のキーワード探し 
出発は新潮と文春のコラムでしたか
 
山口瞳 
上前淳一郎 
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司馬遼太郎
  
 
  
  
一人の作家にのめり込む 
新田次郎 
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今は出番はありません本棚にうずくまっています
  
  
  
電子書籍 
読書に合理性はいらないような気がします 
電子書籍に興味が湧きません

 


 
2011/1
 
 
●新田次郎
 

 

「折々の栞」 
妻から見た新田次郎の姿
「折々の栞(しおり)」は、新田次郎の妻で文筆家としても有名な藤原てい女史の自伝エッセイである。本書には妻から見た新田次郎の人柄や、作家・新田次郎誕生の経緯、新田次郎と藤原ていの様々なやりとりの様子などが描かれており、新田作品のバックボーンを知る上で非常に意義深い。
さて本書を読みながら、前回まで三浦綾子について扱ってきたので、その比較で考えると、綾子氏とてい氏の生き方・考え方には、いくつかの違いが見受けられるようだ。
三浦綾子との比較
まず気付かされるのは、両者の戦争体験の捉え方の違いである。
三浦綾子氏は、戦時中、小学校の教師として子供達を指導する立場だった。しかし終戦を迎え、これまでの生き方が間違っていた、という深刻な認識を抱く。戦争を行っている日本、その中でごく当たり前のように日本が正しいと信じ、子供達を教育してきた。これまで人生の核心となってきた、その価値観がある日突然崩れてしまったのである。いわば日本人としてのアイデンティティを喪失した綾子氏は、キリスト教に出会い、アイデンティティ再生を経験する。そのため、綾子氏の戦争体験は、旧来の間違った価値観がもたらした過ちとしてネガティブに語られることになる。
てい氏の夫・新田次郎(本名:藤原寛人)氏は、戦前戦後にかけて約三十年、気象庁に勤めるなど、日本を実際に指導すべき知的エリート層に属していた。戦時中、藤原一家は満州に移住し、そこで敗戦を迎える。夫はソ連軍の捕虜となり、残された藤原てい氏と三人の幼い子供は、一年がかりで辛酸を乗り越えて奇跡的に日本への帰還を果たす。この時の経験を綴った「流れる星は生きている」がベストセラーとなり、これに触発された夫も作家となった。作家:藤原ていと新田次郎の誕生である。
これに対し、てい氏は「折々の栞」で、この戦争への考え方を述べている。「あれは敗戦だった。終戦であるはずがない。終戦などという、なぜ美しい言葉でごまかすのか。過去の歴史の冷厳な事実を正確に子供達に教えない限りは将来を誤ると考えて間違いない」(「折々の栞」「生きる」)。この言葉につづいて語られるのは、敗戦後の悲惨な満州体験である。
日本固有の精神を探る試み
終戦は、三浦綾子氏にとっては、古いアイデンティティの終わりを意味しており、そこから新しいアイデンティティの始まりへとつながった。
しかし藤原てい氏にとっては、逆に戦時中とは旧満州国という新天地における、静かな家庭生活であった。敗戦の後、一転して厳しい生き残りの戦いが待っていた。この筆舌を尽くした満州体験こそが、てい氏にとっての戦争体験だった。この経験は、三浦綾子氏のように、戦前の日本が間違っていた、という認識で終わらせられるものではなかったのである。
さて藤原てい氏の人生観が、夫である新田次郎氏との深い理解に支えられていることは言うまでもない。その新田文学は、武田信玄を描いた「風林火山」などに代表されるように、日本の地域に根ざした歴史を再評価しようとする姿勢が強かった。ここは、単純に戦前の日本が間違っていたとするのではなく、日本の精神文化の源流を掘り起こし、良き伝統を回復しようという意図が見られる。
三浦文学の場合、晩年の作品に見られるように、戦前の日本を全否定する可能性を持っていた。戦後の日本復興は、日本人がキリスト教によって再生するというストーリーを描くものであったし、戦前についても、キリスト教的価値観の枠組みにおいてのみ、日本の歴史を限定的に評価するという姿勢だった。
これに対し、藤原ていと新田次郎が残した文学では、そうした戦前戦後の断絶は見られない。戦後の日本復興もまた、戦前との連続性をもって描かれている。新田文学は山岳小説家として知られているが、山とは古来、日本人の信仰の対象であった。新田文学は、山と歴史人物を描くことで、日本固有の精神文化の源流を探ろうと試みていたのである。
作家・藤原てい氏の人生
さて「折々の栞」は新田次郎ではなく、妻の藤原てい氏のエッセイである。本書には夫婦の様々なやりとりや、二人の結婚の経緯、一家が通過した戦争体験=敗戦時の満州体験、作家・新田次郎(藤原寛人)誕生の経緯などが紹介されており、興味深い。
本書によると、てい氏は長野県の貧農の家に生まれた。男勝りの性格で、苦学して女学校を主席で卒業、専攻科へ進むが授業料が払えず退学、せめて本ぐらいはと読書を重ねた。年頃になると親の願いで見合いを繰り返すが、自立心が旺盛で生意気と見られたのか破談を重ね、七人目の見合い相手が気象庁長官の一人息子(養子)、新田次郎だった。
見合いの二週間後に手紙が来たが、まるで天気予報のような内容だったという。彼女は彼女で、山のような岩波文庫を抱えて新田宅に行き、「読んでください」と渡すなど不思議なやり取りを重ねつつ、二ヶ月後に結婚。
ほどなく新田は満州の気象庁に人事となり、首都、新京(現在の長春)で丸二年、平和に暮らす。しかし敗戦で一転、夫は捕虜となり、妻子は命がけで日本へ逃避行となった。
日本で新田と再会するが、彼女は結核と精神異常を煩っており、細々と貧しい療養生活を送る。ある日、往診よりも診てもらいに行く方が診察代を節約できると考え、家を抜け出して這っていこうとすると、新田が追いかけてきた。妻が理由を説明すると、「馬鹿野郎、金が無くて困っていると、いつお前に打ち明けてる」と、バーンと殴りあげられ、夫婦で声をあげて泣いた。その時、新田の気持ちに応えようと決意し、以来めきめきと身体が良くなっていったという。
作家・新田次郎の誕生
さて、その療養中に遺書のような気持ちで書いていた内容が昭和二四年「流れる星は生きている」として出版されてベストセラーとなり、ある時は夫の収入の数倍にも達するようになった。
それ以来夫は無口になり、書斎に閉じこもるようになった。そして昭和二六年のこと、役所から帰るなり「サンデー毎日」をテーブルに叩きつけた。処女作「強力伝」が懸賞小説に一席当選したのである。その後さらに九年間、新田次郎は役所と文筆家を両立させ続け、ようやく二十九年勤めた気象庁を退職した。
その後も新田次郎は「八甲田山死の彷徨」「芙蓉の人」「孤高の人」「風林火山」など名作を残し、六十七歳で急逝。死の数日前まで健康そのもので、一日一時間の散歩など規律正しく暮らしていたという。
「芙蓉の人」にみる、藤原ていの面影
本書「折々の栞」によれば、新田次郎は大変な照れ屋で、女性を描けなかった。他人に「女の人を書きませんね」といわれて、「そうだよ、おれは女房しか知らないもの」と答えていたそうである。その女房がいたって男っぽいので、女の書きようがなかったのではないか(「折々の栞」「新田次郎を探す旅への出発」)、とのことである。
しかしこれは誇張で、たとえば、夫婦で富士山頂での観測記録を打ち立てた野中至・千代子夫妻を描いた「芙蓉の人」では、夫に尽くす妻の姿に、明治期の女性自立問題などを絡めて、見事な女性像というものを描いてみせている。
ただ、この「芙蓉の人」主人公・千代子夫人の姿を見て連想させられるものがある。明治期にあって古い伝統と新しい価値観の狭間で苦労する女性の姿、嫁姑の問題で葛藤し、また夫と家族のために無私になって尽くす女性の姿、など。これらは、「折々の栞」から読みとれる藤原てい氏の人生と人生観にそのまま通じるのだ。
新田次郎は、あとがきで、野中千代子氏を日本の最も偉大な女性の一人、と讃えている。が、実は千代子夫人に自分の妻を重ね合わせていたのではないか、と思われるのである。新田次郎氏はあとがきでは一言もそのことに触れていないが、これも照れ屋のゆえではないだろうか。  
「芙蓉の人」 

 

新田作品の典型
「芙蓉の人」は様々な意味で、新田次郎の最も典型的な代表作だといえる。
明治二八年、野中到は、日本の気象予報を開拓するため、富士山山頂に観測小屋を建て、一人で越冬観測に挑戦する。千代子夫人は、夫への愛情の一念から密かに準備を整え、後を追って山頂に登り、二ヶ月半の観測記録を打ち立てる。この偉業を描いたのが本作である。
さて、新田次郎の文学作品には、互いに関連する幾つかの特徴が挙げられる。
まず、山岳を舞台にした小説が多いことである。しかし新田氏は「自分は山を書きたいのではなく、人間を書きたいのだ」として、この山岳小説家の看板を嫌っていたそうである。山に限らず、新田次郎は、離島や牢の中など、限界状況の中に人物を置いて、そこでおの精神の動きをえぐり出す中で、人間とは何か、生きるとは何かというテーマに対する答えを出そうと試みていた。新田作品の多くにおいて、山などの限界状況は、登場人物の深層心理を映し出し、時として未来をも映し出す、鏡のような存在である。
同時に新田氏は、「日本人とは何か」というアイデンティティ問題にも敏感であり、これが、江戸後期から近代日本期に題材を取った作品が多いことにつながっている。こうした近代日本物では、たとえば「鳥人伝」などのように科学技術や一芸に身を捧げる人物の業績が日本の歴史をどう動かしたか、あるいは「八甲田山」のように一つの事件が近代日本国家が発展していく過程でどのような影響を及ぼしていったか、という問題が扱われることが多い。これは、気象庁勤続三十年という氏自身の出自ともオーバーラップする。
また、「武田信玄」のような歴史物も新田作品の特徴だが、これは先の日本人アイデンティティ問題に対する、新田自身の一つの解答だと位置付けることができる。日本人が日本人足り得ている由縁は何か、と問い尋ねたとき、地域に根ざしたローカルストーリーに目を向け、今の日本の原型を形作った、地域信仰の対象にもなっている有名な歴史人物にこそ、それがある、と答える形になっているわけである。
「女性とは何か」
この「人間とは何か」「日本人とは何か」という、大きな二つの傾向性に関わる形で、「女性とは何か」という問いかけが随所で描かれている。
新田作品によくあるテーゼが、登山家が山と女性を対置して、どちらを取るのか二者択一を迫られる、というものである。この時、山とは過酷な、浪漫や理想を求める生き方の象徴であり、女性とは現世の安定した生活を象徴する。これは初期の中短編「蒼氷」「神々の岩壁」などにみられる。また女性が、山の女神のような、遭難を引き起こす予兆的存在として描かれることもある。
次に、歴史に残るような大事業を成し遂げた人物、その多くは男性なのであるが、これを女性がどのように支えたか、という形で描かれることも多い。
そして本連載として最も注目されるのが、近代社会の確立期に現れてきた、女性の自立問題である。このテーマはいつでも言及されるわけではないが、幾つかの作品で明確に意識されて描かれている。
新田作品の真髄
さて幾つかの新田文学の特徴を挙げたが、「芙蓉の人」の希有な点は、これらの特徴が全て網羅されている点である。新田作品は、ものによっては、新田文学が持つ問題意識のごく一部しか反映されていないことがあるが、この作品だけは、どこからどう読んでも、ほとんど全ての新田作品の特徴を兼ね備えているのである。
なぜそうなったのか。本連載の観点であるが、新田氏が、野中到氏の妻に対する愛情に触れ、これが新田自身の妻に対する愛情と重なった結果として、新田氏自身が心の底に抱いていた、ほぼ全ての問題意識について過不足なく描ききる、という結果をもたらしたのではないか。
なお「芙蓉の人」と同系列(富士山頂での観測という意味で)の作品として、「富士山頂」も、富士山頂に気象レーダーを設置するという大事業を関係者の目から貴重な証言として書き、戦後日本の再興、山という限界状況での心理描写、そして組織運営、信仰問題など様々なテーマを描ききった、傑作である。しかし、読後感から言えば明治女性の感動的な生きざまを描いた本作「芙蓉の人」の方が、数段心に残る。まさに新田作品の真髄を知ることのできる一冊といって間違いない。
本作品の特異性
前回紹介したように、新田作品は、山などの限界状況に人物を置いて、その心の動きを抉ることで「人間とは何か」と描こうとしていた。また、近代や歴史上の日本の発展形成の流れを見つめることで、「日本人とは何か」という問題にも答えを出そうとしていた。これらに関わる形で、男性にとっての女性という問題や、近代自我形成期における女性自立問題なども描かれることが多かった。
明治期、野中到・千代子夫妻の富士山頂滞在記録を描いた「芙蓉の人」は、これらの新田作品の特徴を全て兼ね備えた傑作である。
なぜそうなったのか。
まず富士山頂という場所の特異性がある。山には、美しくも厳しい自然、そこにかけられるロマン、また信仰の対象といった様々な意味がある。また富士山とは日本の象徴であり、野中夫妻が冬期滞在記録を立てたのはちょうど日清戦争から日露戦争に向かう時期だった。それだけにこの壮挙は日本の近代国家確立・科学技術発展上の一大トピックといった意味があった。さらに、封建社会の文化の中で育った女性が突如、伝統的な忌諱を破り富士山に登る。しかしその動機は、充分な設備もなく冬の富士山頂で越冬しようという、自殺行為としか言いようのない行動をとる夫を、何とか支え守りたいという、徹底した無私の愛情によるものであった。
しかし、これらの要素を互いに破綻させず描ききり、作品として成功させているのは、何よりも新田自身の作品執筆に於ける、ある一貫性によっている。
「芙蓉の人」の核心部分
新田氏はあとがきで、この作品の執筆経緯についてこのように説明している。
まず、野中夫妻の偉業を最初に小説化したのは明治二九年の落合直文「高嶺の雪」で、日清戦争直後の民情もあって大変な評判となった。この後、幾つかの戯曲や、千代子夫人の手による「芙蓉日記」などが出版されたが、年月と共にこの壮挙は次第に忘れられていった。昭和二五年に橋本英吉「富士山頂」が書かれ、終戦後の虚脱状態にあった当時の国民を大いに力づけた。ところがこの名作に対して野中到氏自身は、不満を漏らしていたという。
新田次郎が山岳小説「強力伝」を書いて文壇デビューを果たすと、気象庁関係の知己から、いつか野中夫妻について書いてみては、と薦められるようになった。
昭和四〇年頃、石一郎氏が「白い標柱」と題した中篇を発表、新田氏も取材協力などで関わり、野中夫妻を書きたいと思うようになった。
いよいよ連載の準備を始めたころ、野中夫妻の親族から絶版となっていた「芙蓉日記」を借り、琴線に触れるものがあった。
そして、野中到について、息子の厚氏は一つの逸話を語ってくれた。父親の到氏に、富士気象観測の功績に対する褒章の話があったとき、父はあの仕事は一人でやったのではなく妻と二人でやったものだと云い、結局辞退することになったというのである。
このとき新田氏は、到氏が橋本版「富士山頂」について洩らした不満が何であったかに気付いたという。到氏にとっては、いかに名作であっても、妻を描いていなければ意味がなかった。野中千代子の姿を書くことこそが、野中到を書くことになるのだ、ということである。
夫婦の愛を描く
富士山頂での気象観測開発は確かに特異な設定であり、様々な意味を持つ。近代女性の自我確立といったテーマもある。しかし新田は、これらはあくまで一要素と捉え、野中千代子に焦点を当て、夫婦の愛という観点でこの女性を描く、という原点を一貫させている。このことが大きなメッセージ性と感動を実現し、本作品を他作品と別格たらしめている。
新田氏は本書あとがきで、野中千代子こそ、明治期の近代自我確立期にあって、伝統的な女性の素晴らしさを失わず、かつ比類無き業績を残した、最も偉大な日本の女性の一人だと手放しで讃えている。これも新田氏の、野中夫妻の愛に対する礼賛ゆえなのであろう。
新田作品群の特徴
新田次郎作品は、その執筆動機や作品の指向性という意味において、幾つかの明確な特徴を持っている。
その一つ目は、人間の極限下の心理状況を描くという特徴である。新田氏が書いた山岳小説の多くは、絶体絶命の境地でどう気持ちが変化するかということをえぐり出した、心理小説である。新田作品は、山だけでなく遭難、漂流、また孤島での観測など、様々な限界状況を舞台にすることも多い。
二つ目は、日本の歴史を動かしてきた偉人や先輩達の歩みを辿るというものである。江戸後期から近現代日本の確立期まで、様々な先達達が人生を犠牲にして日本の発展を支えてきた。新田氏は気象庁という出自から、日本の発展の為に命を賭けてきた様々な先輩達の姿を、哀愁や親しみを込めて描いている。
三つ目はローカルストーリーともいうべき、地元に伝わる民話や歴史伝記・伝奇を追いかけるという内容である。これは日本人アイデンティティにつながる、新田作品のもっとも核心的な指向性ではないかと思われる。
これらの指向性は互いに深く関連しあっているのだが、すでに初期作品から、これと分かる形で提示されており、一つの作品中に同時に表現されることもよくある。
例えば初期短編集「強力伝」をみると、第一の極限状況に当てはまる短編は「強力伝」(山)、「八甲田山」(山での遭難)、「凍傷」(山での様々な困難)、「おとし穴」(穴の中)、「孤島」(無人島)。第二の近現代発展に当たるのが同じく「強力伝」(富士・白馬の開発)、「八甲田山」(日露戦争準備期の雪中訓練事故)、「凍傷」(富士山頂の気象観測所設立)、「孤島」(鳥島の測候所の生活)。第三のローカルストーリーに当たるのが「山犬物語」(日本狼の絶滅にまつわる伝奇的民話)、となる。互いに重複関連しあっているのがみてとれる。
「芙蓉の人」にみる新田作品の女性像
またこれらに絡んで、新田作品には女性という存在をどう捉えるか、随所に見られる。よくあるテーゼが、登山家が山をとるのか、女性をとるのかといった問いかけであり、この場合、男性(=主人公)が山(=精神世界)をとるか、女性(=現実世界)をとるか、という構図が描かれる。このとき女性とは現実世界での幸せ、安定した社会的地位や財産の象徴として描かれる。中短編「蒼氷」、「神々の岩壁」などが良い例である。
しかし時として新田作品の女性は、山とはまったく矛盾しない、女神や預言者のような存在として描かれることもある。例えば「槍ヶ岳開山」では槍ヶ岳に初登頂した播隆上人が、如来のご来光に亡き妻の面影を見る、という場面が描かれている。これは、女性を聖なるものとして描くか、俗なるものとして描くか、という二面性なのだという説明の仕方も出来るだろう。
「芙蓉の人」におけるパラダイム転換
「芙蓉の人」冒頭で、千代子夫人はねんねこを背負い、幼児をあやしながら、道灌山に立って、夫が登っている富士山を見つめている。これは女性を「俗」と規定して、聖なる山=富士山から切り離そうとする、パッシブ(受け身)な女性像の象徴だといえる。そして当初、夫である野中到氏は妻を「俗」的存在に規定し、いわゆる男だけの仕事として富士観測を捉え、死を覚悟して冬富士に一人で籠もる。ろくな装備も開発されず、冬の富士山登頂自体が不可能とされていた時代、まさに自殺しにいくのである。
しかし物語中盤、千代子夫人は自らも冬の富士山頂に滞在するために、着々と準備を整えていく。夏の間は御殿場に上って、富士山の観測所設立に自ら会計役で携わり、密かに二人分の燃料と食料を山頂に運び上げさせる。夫の目が山に向いている間に、姑から内諾をとりつけ、実家に援助してもらいながら服装を整え、体を鍛練する。そして夫の後を追って登り、病に倒れた夫に代わって気象観測を続行する期間すらあった。それは、冒頭とは一転した、精力的・活動的な姿勢である。やがて夫妻の様子を危惧した親族が危険を冒して山頂に登り、夫妻が遭難直前の状態にあることが報道される。山頂の夫妻を見殺しにするなという世論が一気に高まり、後発隊が組織され、その結果、瀕死の夫妻が無事救出される。
ここに、パラダイム転換が起こっている。彼女の一連の行為は、彼女がいなければ確実に死ぬしかなかった、夫の命を救う。この中で、彼女自身の立場は「俗」から「聖」へ転換されている。また受け身に運命を受け入れる立場から、積極的に運命を変え、切り開くという立場に転換されている。
この転換を起こした強い行動の裏には、明治初期にあたって、いまだに女性の社会的地位が認められていない、これを克服してみせたい、という気概もあっただろう。しかし夫人の業績はそれだけで到底、成し得ることではない。千代子夫人の、夫に対する愛こそが原動力であった。題にある芙蓉とは、富士山の代名詞であり、美女を示す言葉でもあるが、もともと愛の意味もある。なお千代子夫人は50歳過ぎで夫に先立つが、野中到氏はその後ふっつりと、富士観測事業から手を引いてしまう。また叙勲の話があった際も、到氏は妻と一緒に受けたいという理由で断っている。こうした到氏の行動からみても、千代子夫人の行動が愛を動機としたものであったことが伺えるのである。
さて話が少し飛ぶが、真実の愛というものが、「俗」に規定された運命に受け身で従う女性を変身させ、「聖」なる立場から運命を切り開く存在に転換する、というモチーフは、ディズニーの映画などによくみられる。ディズニーの童話のルーツは、中世ヨーロッパに伝わる民話であった。日本の伝承民話にも勿論、そうしたモチーフはみられる。本作品に於ける新田の根本的姿勢に、後年みられるローカルストーリーへの萌芽があったと捉えることも、また可能ではないだろうか。  
「富士山頂」 

 

新田次郎の出自
新田作品の真骨頂とも言うべき「芙蓉の人」、そして「富士山頂」は、ともに日本近現代の富士山頂の気象研究開発史という得意な題材を扱っている。しかし、これは新田の出自からみて、必然的に生み出されるべき作品でもあったといえる。
新田次郎はもともと文筆家、かつ公職畑の家系であった。新田次郎自身は、気象庁・山岳経験者という出自であり、富士山頂への気象台建設にも実際に携わった立場であった。
妻の藤原てい氏は、ベストセラー「流れる星は生きている」作者である。
叔父・藤原咲平も、気象庁勤務でやはり文筆家。最近「母への詫び状」を出した教師の藤原咲子氏、最近「国家の品格」を出した政治エッセイストとして有名な次男の藤原正彦氏も、やはり公職畑の文筆家である。
つまり、新田次郎の家系は一族を通じて気象庁、公職畑、文筆畑でストイックに日本の発展を支え続けてきた、一種のエリート気風を保ち続けているのだといえる。その代表的日本人としての自覚が、この新田作品を生みだした、と読み解くことができる。特にその端的な例が、「芙蓉の人」「富士山頂」の二作品なのである。
夏目漱石と新田次郎
さて本連載は夏目漱石と森鴎外から始まったが、新田次郎や司馬遼太郎は、現代の漱石・鴎外に例えられることがある。
この夏目漱石の文学において、大きな焦点となったのは、日本人としてのアイデンティティの問題であった。
近代以降、日本の大きなテーマとなってきたのは、どこからどこまでが日本なのか、日本の日本たる所以は何なのか、という問題だった。この問題は特に西欧の帝国主義的な植民地支配が先鋭化する中で大きくなってきた。
すでにその頃、近世以降から西欧の文化的影響を受けないために取ってきた鎖国政策は破綻し、力で対抗するしかない状況になっていた。しかしその為には西欧の文明をある程度受容しなければならない。「和魂洋才」など一言では言えるが、「魂」と「才」の区別はどこからなのか。具体的にはどこからどこまでを受け入れ、どこからを貞操観をもって守っていくか。
夏目漱石は、明治時代、日本のエリートの一人として海外に留学し、この問題に答えを出すことを期待されていた立場にあった。しかし漱石は、留学先でノイローゼのような状態陥り、やむなく帰国する。漱石文学は、この精神の病を癒すなかで執筆されていった、という側面をもっている。まずは猫のような、自然体の、人間社会に対して客体に立った存在から人間や物事を見つめ直すという作業から始まり、前期三部作、後期三部作などを通じて、近現代人が抱えた心の問題をより深く掘り下げ、その解決を求めようとしたのが漱石作品群なのである。
富士山を書く意味
さて新田次郎は山岳小説家として知られているが、実際は山を描くのではなく、限界状況に人物を置いて、そこでの精神の動きをえぐり出す中で、人間とは何か、生きるとは何かというテーマに対する答えを得ようとした作家だと言える。この姿勢は漱石に通じるものをもっている。
そして新田は漱石と同じく、「日本人とは何者か」という日本人アイデンティティ問題に対する深い意識を持っていた。漱石が留学生から東京帝大教授といった日本の知識人の代表的立場であったのと同様、新田の一族も気象庁畑でエリートとして日本を引っ張る立場にあった。このあたりから、漱石作品と新田作品の問題意識に共通するものが表れたというのは、十分考えられる話である。
そして、富士山の気象観測の近現代史を活写した「芙蓉の人」、そして「富士山頂」は、このアイデンティティ問題を最も端的に扱った作品だとみなすことができる。「芙蓉の人」の野中到氏は、新田氏にとっては一世代前の大先輩に当たるが、富士山観測関係者として、直接会って人柄や雰囲気に触れる機会は何度かあったそうである。「富士山頂」は戦後の富士山頂気象レーダー設営という大事業を描き、責任者の一人であった新田は、この戦後の日本復興の象徴とも言える、困難な仕事がどのように果たされていったのかを、見事に描ききっている。
さて新田文学はこの後、ローカルストーリー、つまり地域に根ざした伝統的な精神などを追いかける方向に向かう。これは司馬遼太郎が日本人問題を突き詰めるなかで、「街道を行く」などを通してローカルストーリーにその答えを見出そうとしたのと、非常に似通っている。
新田次郎の場合、本人が長野の出身であったこともあり、晩年は武田信玄・新田義貞など、地元に根ざしたストーリーを追いかけていった。これらが、日本人アイデンティティ問題に対する、新田次郎の解答であったと捉えることができるのである。
企業テキストに使われる新田作品
新田次郎は富士山の近現代開発史を「芙蓉の人」「富士山頂」をはじめ幾つかの作品で描いている。日本の象徴とも言える富士山の戦前戦後開発を描くということは、当然、日本の近現代の発展そのものを象徴、集約させるような意味があったと予想される。現代の我々日本人が誇るべき、日本のあり方を描いている、ということである。
さて、新田次郎が書いた「富士山頂」や「八甲田山 死の彷徨」は、企業経営の勉強会などでテキストとして使われることがあるという。
前者は新田次郎氏が実際に見聞きした出来事に基づいているし、八甲田山も綿密な調査にのっとって書かれている。これらを読めば、責任者がどのような判断ミスを犯したのか、どうすべきだったのか、など具体的に論じやすく、企業や組織が、事故などの危機状況においてどのような対処をすべきか、普段からどのような組織作りを心がけておくべきか、ということがよく分かるのだそうだ。
現在、食品系列や交通産業、土木関連などで不祥事が相次いでいる。確かに、各企業が「富士山頂」などに学んでいれば、このような方向には向かわなかったかも知れない、そう思わせられる内容が新田作品には多い。
誇りある日本人としてのあり方を失わないで欲しい、そういった新田のメッセージを社会がもっと誠実に受け取っていれば、現在の日本はここまで荒れてはいなかったのではないか。
緊張感溢れるストーリー展開
さて本作のストーリーであるが、まず前半は、主人公役といえる葛城章一の眼を通して、富士山頂レーダーの計画が政府から認証され、実際に着工されるまでの様子を描いている。この葛城とは、新田自身の事である。ここに出てくる人物や企業も、ある程度のデフォルメこそあれ、ほぼ全て事実に基づいていると考えて良い。後半は、ブルドーザー主任やヘリ操縦者、技術者、現場の工事監督者、またそれを支える山の男達など、種々多様な人物が、それぞれの立場からそれぞれに課された難題を解決し、これら、どれ一つ欠けても成り立たない貴重なパーツが組み合わさる形で、富士山レーダーという一つの大事業につながっていく。迫真味のあるドラマの積み重ねが圧巻である。
新田の心の軌跡
この大事業を目撃しながら、主人公葛城は次第に、自分が気象庁での仕事を全うした、という気持ちになっていく。これまで葛城は、気象庁にいながら副業として執筆活動をしており、すでに副業でも生活していけるほどの収入を得ていた。しかしこれまで、文筆一筋に向かう踏ん切りが欠けていた。最後に葛城は、数十年勤め上げた官職を去り、小説家として独立する道を選ぶ。これもまた、新田次郎の体験・心境の変化をそのまま表している。こう読み込んでいくと、実は本作は、作家・新田次郎の独立の契機ともなった作品であるということが分かる。
よりマクロに捉えると、日本の技術畑・官庁畑から近代日本を支えてきた藤原(新田)は、富士山頂レーダー建設を持って、戦後近代日本の復興が終わったと感じ、官職を辞した。これ以降、作品のテーマは次第に、日本の「復興」よりも、「武田信玄」など日本の歴史や精神伝統を追い求めるようになった。この興味関心の軌跡から、新田が言いたかった事は明らかであるように思われる。  
「八甲田山死の彷徨」 

 

「現代の漱石・鴎外」
新田は司馬遼太郎と並んで、戦後の夏目漱石・森鴎外のような存在に例えられることがある。
それは、2者が戦後の文壇を牽引する立場にあっただけでなく、文学を通して「日本とは何か」という日本の近代アイデンティティに一つの解答を示し得ていたからである。
明治期、漱石や鴎外は欧米文明をどのようにアレンジ吸収しつつ、日本独自のアイデンティティを残すかという問題に取り組んだ。その過程で、彼らの文学作品群が生み出されていった。このように捉えることができる。
例えば漱石の意識を知る上で、このような講演が残されている。
「……西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の開化は外発的である。ここに内発的というのは内から自然に出てきて発展すると言う意味でちょうど花が咲くようにおのずからつぼみが破れて花弁が外に向かうのをいい、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。……(日本の文化は)鎖港排外の空気で二百年も麻痺したあげく突然の西洋文化の刺激に跳ね上がったくらい強烈な影響は有史以来まだ受けていなかったというのが適当でしょう。日本の開化はあの時から急激に曲折し始めたのです。……これを一言にしていえば、現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。……ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申したとおり私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱にかからない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。」(講談社学術文庫「わたしの個人主義」「現代日本の開化」より)
司馬は、敗戦というアイデンティティの危機に直面した戦後日本にあって、独自の司馬史観を展開。やがて「街道を行く」シリーズでさらに日本という国のかたちを追い求めていった。一方新田は、「富士山頂」など戦前戦後の科学技術発展、そして山岳信仰などに目を向け、日本の精神伝統を追い求めていった。どちらも、漱石の指摘した「宿題」に取り組んでいた。
かなり強引な枠でくくると、民間業の新聞畑による大衆文学というくくりで司馬は漱石の後輩(司馬はもと産経新聞記者、漱石は後年朝日新聞記者となった)、官職の専門職畑というくくりで新田は鴎外の後輩(新田は気象庁職員、鴎外は陸軍軍医だった)に当たる。
司馬と新田の個性
さて「八甲田山死の彷徨」は、映画「八甲田山」の原作にもなった、代表作の一つである。一方、司馬遼太郎の考えを最も示す代表作は日露戦争を描いた「坂の上の雲」とされるが、これに対比するものとして位置づけられる新田次郎の作品を探すと、本書「八甲田山〜」が最も適しているのではないか。
司馬は「坂の上〜」で、まさに坂の上の雲を追いかけるような、楽天的な希望に満ちた近代日本人の姿を描いた。終戦後は、とくに近代日本の維新以降の歴史をネガティブに、自嘲的に捉える風潮があった。この中で司馬は、明治維新が掲げた近代合理精神、その理想主義の健全さを、ともすれば礼賛と言えるほどのポジティブさで再評価し、現代の日本人を勇気づけた。ゆえに彼の作風は歴史修正主義と批判されることもあるが、また根強い支持も受けている。
新田は、本作品「八甲田山〜」で、約二百人の大隊が八甲田山中における軍事訓練中に壊滅するという、未曾有の遭難事件を日露戦争の一部として描き、司馬史観にはない、暗い側面に焦点を当てている。
新田自身の国家観は、実子である藤原正彦の「国家の品格」に示されているとおり、民主主義よりも武士道精神、論理よりも情緒を説くものである。明治維新の理想を大きく評価する司馬とは少々スタンスが違う。が、過去の日本を再評価する姿勢自体は、大枠では司馬と同じポジティブなものといえる。ただし例えば戦争に対する捉え方は、司馬史観と違うものが感じられる。
新田も、大枠では近代合理精神を評価しており、基本姿勢は司馬と似通っている。しかし新田はそこまで礼賛に向かうことはなく、ともすれば湿った筆致に流れがちである。
理由の一つには、近代合理主義というより、もっと根底的な人間性(良い部分と悪い部分の両方)への深い洞察を試みていること。また人間社会よりも上位に、山に象徴される自然界の圧倒的な力を置いていることがある。これらは後年、新田が伝統的な宗教精神に向かうようになったことと軌を一にする。
また本書は、組織論としても見るべきものがある。「八甲田山〜」を読んだ後の者に、この悲惨な遭難事故が天災だったか、人災だったかを聞けば、9割の者は「人災だ」と答えるだろう。本書では、保守的発想、プライド、リーダーの判断力欠如、そして集団心理などが結合した結果、恐ろしい悲劇が生まれる、その典型例が描かれている。本書を敷延させていくと、こうした組織上の欠陥が、やがて日本の敗戦につながったということであろうか。
個人的には正直、本書のような暗さは好きにはなれない。本書は、司馬のように読後感として勇気を与えられるものではない。しかし、反省と智恵を与えられる。そのような一冊である。
短編と長編の違い
「八甲田山死の彷徨」は本一冊の長編であるが、新田はこれ以前、昭和三〇年に短編「八甲田山」を著している(発表時「吹雪の幻影」、初期短編集「強力伝・孤島」などに所収)。しかしこれは、遭難時の様子を描写し、百九十九名の遭難の報を簡単に記して終わるものであった。以来、新田はずっと八甲田山の遭難事件を一冊の本に書きたいと志を抱き続けていたと思われるが、昭和四六年ようやく長編書き下ろしとして本編を発表した。長編は短編と比較して、自然描写や遭難時の詳しい状況が格段にリアルに伝わってくる。それだけでなく、新田は、その雪中行軍が行われるに至った経緯、総難事件に発展した原因などに踏み込んでいる。なぜ長編として書き直さなければならなかったのかが伺い知れる。新田は短編でこの事件を扱った後、「なぜこのような惨事が起こったのか」「詳しい原因は何か」など、いくつかの疑問をずっとあたため続けていたと思われる。
その頃、八甲田山遭難事件は謎に包まれたまま、時代とともに忘れ去られつつあった。が、昭和四五年になって、八甲田山での遭難事件の最後の生き証人である小原忠三郎伍長が亡くなるという出来事がある。これを受けて、独自に取材を続けていた、地元新聞記者の小笠原弧酒(おがさわらこしゅ)氏が「吹雪の惨劇 第一部」を発行。新田次郎も小笠原氏に連絡を取り、その協力を受けて詳しい資料を入手、現地取材を行った上で本書を書き起こした。これがブームを呼び、昭和五二年には映画化。その後テレビドラマ化もなされ、事件の顛末がつまびらかにされ、一気に事件の知名度とともに「人災」であったという評価が広まった。
調査委員会の結論
新田が事件をどのようにとらえていたのか、それは本書「終章」で端的に示されている。
終章でまず新田は、陸軍省が遭難事件の直後に組織した調査委員会について述べている。委員会は調査結果を公式発表しなかったが、特に三つの点を陸軍大臣に具申したという。
第一点は、雪中行軍隊の装備を改良しなければ「緊急事態」に際して重大な問題になるということ。
第二点は、遭難者遺族や生存者に充分な慰労措置をとらなければ「一旦緩急ある場合」の士気にかかわるということ。
第三点は、「非常時」を目前にした今、責任を追及しすぎずに兵力を温存すべきであること。
これら全ての表現が、日露戦争を指していることは明らかであった、と新田は指摘する。
階級ごとの生存者比率
次に生存者比率であるが、八甲田山で雪中行軍を行った二一〇名の階級別隊員数の内訳と生存者数を比較すると、
准士官以上の隊員数一六名中、三名が生存で、生存割合は五人に一人。
下士官の隊員数三八名中、三名が生存で、同割合は一三人に一人。
兵卒の隊員数一五六名中、五名が生存で、同割合は三一人に一人。
全体では二一〇名中、一一名生存で、同割合は一九人に一人。
行軍中は常に階級が上の者を隊列の中において守るよう行動した結果であり、新田はここにも不公平が見られるとしている。
ただし、生存した将校は日露戦争で次々と死傷し、兵卒の方が郷里で療養しながら生きながらえるという状況であった。
「人災」なのか
ちなみに新田の夫人である藤原てい氏は、エッセイの中で、新田次郎の「八甲田山〜」執筆当時の様子を紹介している。執筆中、新田は家族には目もくれず資料を読みふけり、いきなり書斎から出てくると、「オイ!八甲田山の兵卒は、死んだ後、墓ですら階級で区別されているんだぞ!」と怒鳴ってきたという。そこには、遭難、死者の弔いなどにあっては、厳粛に魂を扱うべきである、人を人らしく公正に扱うべきである、という新田の義憤があったことと思う。
物語最後、新田はこのように結んでいる。
「とまれ、この遭難事件は日露戦争を前提として考えねば解決しがたいものであった。装備不良、指揮系統の混乱、未曾有の悪天候などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。……この事件の関係者は一人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。すべては、そのままの体制で日露戦争へと進軍していったのである。」
新田は、この遭難事件を契機に日本軍は雪中装備を全面的に改良することとなった、これがなければ日露戦争での勝利もなかったかもしれない、という観点を何人かの登場人物に述べさせている。
先ほどの義憤をあわせて考えると、新田としては、八甲田山の事件は、何か責任者の判断ミスという次元のミニマムな人災ではなく、国家間の戦争という巨大な意志が、人間を歯車のように扱った結果生じた、マクロな人災(正確には人災と呼び難いが)だった、と言いたかったのだと思われる。  
「槍ヶ岳開山」 

 

新田作品の典型例
さて新田次郎であるが、一九五一年、三十九歳のとき「強力伝」がサンデー毎日入賞し文壇にデビュー。その後気象庁勤務の傍らで山岳小説、推理小説を書き続ける。一九六四年には測器課長として富士山頂気象レーダー建設の大任を果たし、六六年に退職して文筆一本の生活に入る。書き下ろし長編「槍ヶ岳開山」を著したのは一九六八年のこと。この作品について作者はこう述べている
「ーー昭和四十二年秋から軽井沢の文春の寮に缶詰になって「富士山頂」と「槍ヶ岳開山」に取り掛かった。(中略)「槍ヶ岳開山」は半年遅れて昭和四十三年の六月に書き下ろしとして出版された。この二作を書き上げたことによって、私は、なんとかやれるという確信のようなものを得た。作家として一本立ちできるぞと青空に向かって叫びたい気持ちになった。小説を書き出してから十六年経っていた。」(「小説に書けなかった自伝」「苦しかった二年間」より)
しかし、このコメントがある一方で、それまでの作品と、本二作品の違いは、根本的には認められない。
新田作品は、すでに「強力伝」の頃から、その執筆動機や作品のテーマ選定において、幾つか明確な特徴を持っていた。その一つ目は、人間の極限下の心理状況を描く、心理小説。新田作品は山だけでなく遭難、漂流など、様々な限界状況を舞台にすることが多い。
二つ目は、日本の歴史を動かしてきた偉人や先輩達の歩みを辿る歴史小説。これは新田氏自身が気象庁という、日本の発展をリードするエリート層の出自だったことも切り離せないだろう。
三つ目は、地元に伝わる民話や歴史伝記など、いうならば精神文化の伝統を追求する内容。これは日本人アイデンティティにつながる、新田作品のもっとも核心的な指向性ではないかと思われる。
これらのテーマは互いに深く関連しあい、一作品中に同時に表現されていることもよくある。
富士山頂気象レーダー建設の様子を伝える「富士山頂」も、播隆上人による槍ヶ岳登山道開発を描いた「槍ヶ岳開山」も、ここで挙げた特徴のいずれもを満たす形となっている。では二作品が今までと違った部分は何かというと、畢竟、これまでは断片的にしか扱えなかった、これらのテーマ=小説執筆を通してやりたかったこと、を、より真正面に据えて、書き下ろしの長編=出版社の意向ではなく自ら主導権を握る形、で、書いたという点にあると思われる。
この二作品によって、新田作品のスタイルが明確に確立されたという言い方もできるだろう。
新田次郎と山岳信仰
さて新田次郎の次男にあたる藤原正彦氏は先年ベストセラーとなった「国家の品格」で、日本がアメリカ式の自由競争、個人主義に毒されているとして日本古来の美徳、特に武士道の素晴らしさを訴えている。新田次郎作品も、先ほど挙げたように、日本人の精神的支柱が何かという部分を追い求める志向性が強い。さらに正彦氏自身が、父親から国家観、道徳観の影響を受けていることを述べておられるから、新田作品から武士道的なものを汲み取ることはあながち間違いではあるまい。そこから単純化して見ると、新田次郎が日本人アイデンティティの答えとして武士道を見いだし、やがてライフワークである「武田信玄」「武田勝頼」の執筆へと結実していった、ということになる。
ただし、新田の山岳小説は山岳信仰にも通じる面があり、「槍ヶ岳開山」もその典型と言える。また武田信玄についても様々な民間伝承や民間信仰がある。自然と山を愛した新田は、この辺りの民間に根ざした素朴な精神的伝統に注目し、いわゆる一般的に言われている武士道よりも、もう一歩踏み込んだ部分を持っていたのではないだろうか。詳しくは後に譲る。
播隆上人とフィクション
本作「槍ヶ岳開山」は、播隆上人による槍ヶ岳初登攀と登山道開発を、当時富山で起こった米騒動や浄土宗の信仰などをうまく題材にしつつ描いている。
ちなみに作品中では、播隆上人が富山の農民の子として生まれ、米問屋の丁稚(でっち)から身を起こして番頭になったが、農民一揆に加担して誤って妻を殺してしまい、その贖罪を求めて出家し山に登り続ける、という独自の脚色が加えられている。が、ここらへんは全てフィクションで、その生家は農民というより浄土宗の道場のような家で、幼い頃から仏門に励み、十六歳で和泉国(大阪)の宝泉寺に出家、生涯独身だった。
なお、播隆上人の宗派である浄土宗は、慈悲の象徴である阿弥陀如来を信じてひたすら救いを求め、念仏を唱えることで極楽浄土に行けるという主旨で、カソリックのマリア信仰にも似ている。新田氏は本作品で、この阿弥陀仏の御来迎と、山岳特有のブロッケン現象、また死んだ妻に出会うというモチーフをうまく関連づけて描いている。
「現代の漱石・鴎外」
さて新田次郎と、そして司馬遼太郎とは、現代の夏目漱石と森鴎外と呼ばれることも多い。
いずれも、単なる文学の領域を超えて、日本の近代化にあって精神的支柱を指し示すものと見なされていると言ってよいだろう。
話が多少飛ぶが、夏目漱石研究家としても有名な戦後作家・大岡昇平氏は「小説家夏目漱石」で漱石の「彼岸過ぎまで」に注目し、特に八卦や蛇のおまじないを信じたり、雨の日に客に会わないなどジンクスを信じるという非理性的な、いわばオカルト的な部分に魅力があると論じ、「私はノストラダムスだの、スプーン曲げだのというものは信じないが、それでも大自然の中で深呼吸するときに感じる壮大さとか、そういったものを求めている。それを漱石の作品の中に見出すことができる(「小説家夏目漱石(筑摩書房)」)」と高く評価している。
大岡昇平氏は、コリン・ウィルソンの「オカルト」を引用し、オカルティズムは占いや身の上相談のような次元にとどまるものではなく、広く人間のものの感じ方を支配している心的傾向というべきものだ。それは、卑近な例でいえば大きな自然を見て心が膨らむような、われわれの生命が普段常識で考えている自己をはみだす瞬間を指す。良い文学には往々にしてそうした、合理的な解釈を越えた雰囲気がある。そうした意味で本作品の、変に薄気味の悪い、漱石が漱石を超える瞬間に興味を覚える。このように解説している。
これは、芸術作品のオーソリティとも言うべきものに関わる問題である。芸術における美や素晴らしさの成立根拠を人間的主観の心の在り方のうちに求める、近代主観主義的な捉え方では、芸術を十全に理解することはできないのではないか、という問いかけは、これまで様々な識者からなされてきている。
例えば文学に於ける自然描写。新田作品は、美しく雄大な、時に巨大な力となって人の命を奪う自然を、明らかに人間より上位に置いている。その他数々の有名な作家の作品も、良く読むと随所にそういった自然の描写がでてくる。
大岡説に準じるなら、そもそも芸術とは、人間以上の存在を想定し、人間がこれまで持っていた自分の枠を超える、自己が自己を超える、という要素の上に成り立つのではないか。つまり、読者が作品中に本人以上の何か、すなわち人間以上の存在から与えられる普遍的な権威が宿っていると感じる時に、その作品が単なるノヴェルではなく、精神支柱としての文学作品たり得るのではないか。ということである。
こう考えていくと、新田次郎が富士山をはじめ山岳にこだわったこと、本作「槍ヶ岳開山」で山岳信仰を扱ったこと、そしてやがてライフワークとしての「武田信玄」「武田勝頼」の執筆へと向かったことについて、一つの筋が通るのである。
播隆上人の生涯
近年の研究によれば、本作の主人公である播隆上人は、天明六年(一七八六年)現在の富山県、神通川支流奥の大山町河内に生まれた。生家「中村家」は代々一向宗の宗徒が集まり念仏を唱えていた道場であった。少年時代より勉強家であった上人は十五歳で仏門に入り修行し、十九歳で多年の宿願が叶い出家したが、その後の修行で二十九歳で僧侶となった。
播隆上人について書かれた「開山暁播隆大和上行状略記」によれば、播隆上人は浄土真宗、日蓮宗、浄土宗と転々とするが、俗界同様に私欲を求める各宗派の醜い風潮を嫌い、念仏専修に生きようと寺院内に留まることを諦めた。この為師の許しを得て托鉢に出て深山清浄の地を求め修行し、人跡未踏の山中に入り険しい山を登り、崖の上に坐し苦行修練を極めた。多くの人々がこの姿を見て播隆上人に帰依する様になり、播隆上人もこれに応えて村々で念仏講を結んだ。
やがて、円空上人が百年以上前に開山した笠ヶ岳が今は廃れていることに心を痛め、三十八歳の時、付近の村人の助けを得て登頂、山道を整備し、仏像を安置するなどして参拝用に再興した。このとき上人と村人は阿弥陀如来の御来迎(ブロッケン現象か?)を体験したという。
さらにこの際、東方雲海の向こうに一際高くそびえる槍ヶ岳を見いだし、これこそ自分が登るべき未踏峰であると祈願。辛苦の末、四十三才にして初登攀を果たす。さらに数年かけて美濃、尾張、三河、信州の四州の信者の協力を得て、五十一歳の時、一般人が登るための鉄鎖を完成させるが、国情が不安定なため
藩の許可が下りなかった。五十五歳の時、ようやく念願の「善の鎖」が設置されるが、長年の苦行行脚のため上人の体は衰弱しきっており、その直後に亡くなっている。
「槍ヶ岳開山」における女性像
本作「槍ヶ岳開山」は、過って妻を殺してしまった岩松こと播隆上人が、贖罪を求めて山に登り続け、山で出会った阿弥陀如来の御来迎に妻の姿を見いだす、というストーリー展開になっている。これにはかなり新田次郎の脚色が入っていると言わざるを得ないが、この切り口によって、浄土宗の母性的な「許し」というカラーがより強調される結果となっている。新田作品に於いては、岩松は妻を殺した呵責の念から僧となり、妻の死を思って洞窟で苦行を行い、笠ヶ岳再興の時も、また槍ヶ岳開山の時も御来迎に妻の面影を追い、妻を思って死んでいく。新田作品の播隆上人は、いわゆる衆生済度(しゅじょうさいど)は建前で、真の動機は妻から許しを求め続けるものだった、ということになり、この脚色に反発を覚える読者もある。
さて播隆上人の宗派である浄土宗は、ごく大雑把に言うと、本尊である阿弥陀如来を信じてひたすら救いを求め、念仏を唱えることで極楽浄土に行けるという主旨である。阿弥陀如来はどのような罪深い者でも敢えて救おうとする慈悲の象徴であり、女性の母性の象徴でもある。このあたり、非常にカソリックのマリア信仰にも似たものがある。こう見ていくと、新田の切り口も、この浄土宗の思想を分かりやすく落とし込んだものと見ることは可能だ。
新田の描く如来像は、容易なことで出会えるものではない。苦行を経て命懸けで山頂に登り、よほどの幸運が重ならなければ見られないし、見たと思うとすぐに消えてしまう、まさに幻のようなものである。ゆえに新田が描く播隆上人の生涯も、大変にストイックなものにならざるを得ない。母性の象徴である阿弥陀如来を一つの理想の女性像と言うことが出来るならば、愛する女性を求め、その許しを得ようとして苦行行脚する姿は、浄土宗の求道者の姿勢を、かえって端的に言い表しているのかもしれない。
播隆上人の生涯
本作の主人公となっている播隆上人は、天明六年(一七八六年)越中の山村(現:富山県富山市河内)で出生。十九才で出家し、京都・大阪で修行した後、飛騨高山を中心に修行と布教に励んだ。衆生済度のため山岳信仰の復興を志し、文政六年(一八二三年)に笠ヶ岳登山道を修復。文政十一年(一八二八年)には槍ヶ岳に初登頂を果たしたが、その際、五色に彩られた虹の環の中に阿弥陀如来の姿が出現したという(ブロッケン現象と思われる)。
五回にわたる槍ヶ岳登山の末、彼はあとに続く者の安全を図り、槍ヶ岳の岩壁に鉄の鎖を懸けるため、浄財集めに奔走。当時の鉄は大変な貴重品であったにもかかわらず、信者達からは、包丁、鎌などが寄進され、鉄鎖が完成した。しかし当時、凶作が続いたため松本藩は鉄鎖を懸けることを禁止。信者らの協力を得て、天保十一年(一八四〇年)に、ようやく槍ヶ岳に善の鉄鎖をかけることが出来た。この時すでに播隆は五十五歳の高齢となっており、直後、鉄鎖の懸垂を見届けるかのように大往生した。
読者の反発
新田次郎は、播隆上人が山を復興させた動機が、誤って妻を殺してしまった罪滅ぼしだった、という独自の解釈で、本作を書いている。これは史実と大きくかけ離れた新田のフィクションである。しかし、これに対して一部の読者からは、純粋に宗教的な、崇高な精神で登山道を復興させた上人に対して、妻を殺してしまった贖罪という極めて個人的な動機を重ねてしまうのは、かえって播隆上人を見下しているのではないか、という感想も見られるようだ。
確かに、俗界を避け、深山幽谷での修行を経て、峻厳な山の頂きに極楽浄土への道を見いだそうとした播隆上人の姿勢には、己を律しひたすらに理想を追い求める清廉潔癖な人物というイメージが似合うのかもしれない。
しかしここで、ごく大雑把ではあるが、宗教、特に播隆上人が信仰していた浄土宗というものの性質を今一度考えてみたい。
浄土宗とは?
浄土宗とは、どういった教えなのか。
実は浄土宗は、キリスト教のマリア信仰に似た内容を持つことが知られている。
まず、信仰の土台として、俗世間の様々な煩悩を振り切れない私を認める。私自身は、罪ある存在、許されざるほどの罪人である。このことを自覚した上で、母性的な慈悲の象徴である阿弥陀如来をひたすら信じ求め、念仏を唱えることで、ただただ慈悲の心によって、本来許されるはずもない私が極楽浄土へ行くことを許される。ごく大雑把に言えばこれが、浄土宗の救いの概念だといえる。
マリア信仰も、この阿弥陀如来信仰も、私自身が努力するような次元では罪を克服することができない、という前提から、ひたすら母の慈悲心、愛によって許されようとする、いわゆる他力本願が根本姿勢となっている。
ならば、新田次郎が造型した播隆上人像、妻を殺した自分=許されざる罪を犯した私、が、自分を最も愛しているはずの女性をひたすら探し求め、許しを得ようとする姿勢もまた、浄土宗の教えと本質的な違いはないのではないか。宗教とはもともとそういう部分を持っているのではないか。ということになるのである。
宗教のパーソナル性
前述の読者の反発意見というのは、おそらく播隆上人に、いわゆる修行僧として克己心をもって自然を征服するイメージを重ねているのであろう。
しかし、宗教とは本来、非常にパーソナルなもののはずである。弱い私、罪ある私を認めるからこそ、宗教がある。特に浄土宗はその意味合いが強いと思われる。播隆上人が凡人とはかけ離れた崇高な指導者であった、という見方をするより、もっと個人的な切り口から理解することも可能ではないか。
播隆上人は何のために山に登ったのか。自然と闘い、己と闘って征服するために登ったのか。それとも謙虚に自分の罪や弱さを知り、救いを求める一個人として登ったのか。
筆者としてはもちろん後者と考えているが、これを実感として確かめるべく、いつか自身も槍ヶ岳に登ってみたい。  
 
「劔岳 点の記」 

 

映画化の反響
折しも二〇〇九年七月、新田次郎「劔岳 点の記」の映画版が公開され、話題を読んでいる。
本作は、明治三十九(一九〇六)年に、日本地図の完成を急ぐ陸軍から、最後の空白地点である前人未踏の山、劔岳の測量を命じられた参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎が、地元案内人の宇治長次郎とともに登頂に挑む姿を描いている。映画化は、二〇〇六年に、黒澤組のカメラマンとして有名な、木村大作氏(本作で監督デビュー)によって企画が持ち上がり、三年がかりで完成された。
なお木村監督は、同じく新田原作による「八甲田山」(昭和五十二年映画化)、「聖職の碑(いしぶみ)」(昭和五十三年映画化)でも撮影を担当しており、今回の映画化は木村氏自身の人生の総決算のような意味もあるという。
本映画にはエンターテインメント的な意外性はほぼなく、ひたすら直球勝負で、苦労して挑戦し、達成するという過程を、ある意味淡々とドキュメンタリー的に描ききっている。木村監督は本作撮影において、CGを一切使わず、あるときは一カットをとるだけのために、器材を手で運び、数時間山を登った。それは、「ごまかし」を一切省きたい、という木村監督の想いの現れだったのだという。文字通りの実写によって、まやかしのない本物を残したい、実在のみが与える感動を伝えたい、ということであろう。
その想いが伝わったのか、映画は公開から一ヶ月弱で、すでに観客動員一七〇万を越えたという。特に、撮影協力をした地元富山県では、県内の全ての劇場3館先行上映がなされ、いずれも単独動員新記録を樹立した。
歴史を残すことの意味
さて映画版は、そのドキュメンタリー性を高く評価されているわけであるが、原書においても同様で、失われつつある歴史をつなぎ止めたい、という想いがひしひしと伝わってくるようだ。
物語冒頭、海外の影響で登山ブームが起こる中、民間人の遊びに負けるのは恥だ、という危機感にかられた陸軍が柴崎芳太郎に対し、先んじて剣岳を初登頂するように、との命を下す。艱難辛苦の末、柴崎は登頂を果たす。しかし山頂にはすでに、千年以上も前に登頂者があったことを示す、銅の杖と鉄剣、野営の跡が残されていた。さらに、物理的な問題から、剣岳山頂には三角点としては価値の低い四等三角点しか設置できないことがはっきりすると、上層部はこの業績を看過するようになる。
実は測量時の公式記録である「点の記」が残されるのは三等三角点まである。柴崎氏が残した足跡は、公的記録として残されず、新田の小説化がなければ、そのまま忘れ去られてしまう可能性があった。
本書の最後には、あとがきとして新田自身の取材記が記されている。それによると、新田が取材した人物の中には、インタビューを受けた半年後に他界してしまう方もあった。
つまり新田次郎は、埋もれつつ、忘れられつつある、明治期の先人たちの貴重な業績を、小説としてつなぎ止めたのである。
また取材記においては、かつて信仰対象であった立山が、急速に観光地化しており、数年前は険阻な登山道であったものが、都会の雑踏をかきわけて登るような状態に変貌してしまったことを、新田自身が無念に思う様子が叙述されている。
失われつつあるものを文章としてつなぎ止め、残しておきたい。
それは、現代の我々が何者であるかということを示してくれる、先人たちの偉大な歩み、その貴重な証を、後世に残しておきたい、という思いではなかったか。本書の様々な箇所と、そして「点の記」の題名においても、そのような想いが伝わってくるように思われてならない。
そして映画化においても、やはり、まやかしのない事実そのもの、歴史そのものを残す、という意味で、CGなし、空撮なしの直球勝負は、必然的な条件になったと思われるのだ。
日本登山史の金字塔
本書は、測量官・柴崎芳太郎の劔岳登頂を綴った、新田の代表作である。
当時剣岳は、日本に残る唯一の未踏峰とみなされており、柴崎氏の登頂は日本の近代登山史の一大事件、金字塔であった。
明治維新期、欧米から流入した文化は、登山に対しても大きな影響を与える。特に明治二十年代、ウェストンが日本アルプスの主な山を次々に登頂、これを契機にスポーツ登山が民間に広まった。明治三十八年には小島烏水を中心として日本山岳会が結成。
そのような中、明治四十年夏に柴崎氏の剣岳登頂が果たされたのである。
自然を愛する日本人
しかし、西洋の登山と日本のそれでは、少し事情が違っている。
西洋では、古来山は悪魔の棲む場所と見なされ、近代以前には登山の風習がなかった。
日本人にとっては、山頂は自然に親しみ、神と出会う場所であり、修験者たちが聖地を求めて山に登るということが頻繁に行われていた。
ゆえに明治期、山岳会を中心に登山家たちが日本アルプスを制覇していったのだが、すでに開山された山がほとんどであった。近代の日本登山は、初登頂というより、先人の歩みを歴史的に振り返るという意味合いをもつものとなった。
西洋における山や自然に対しての「悪魔」という位置づけは、文明社会に対して未開の自然が、異物、敵とみなされているということである。親しみというより敵意をもった、征服対象のようなものとみなされて来たことを意味する。日本においては、山や自然は子供が母に対して抱くような情感とともに語られる。
西洋においては、文化や社会全般に、そうした捉え方が反映していると言われる。いきおい、例えば宗教や哲学においても、彼・我をハッキリさせて、とことん理詰めに構築して正しいものを追求し、理論的に合わないものを排除しようとする傾向が強い。日本の場合、一見すると理論的に未分化であり、未開社会であるかのように見えるが、感性や情感を大切にした独特の文化が育まれて来た。行者が深山幽谷に分け入るといえば勇猛果敢なイメージがあるが、案外、母を慕う子供のような素朴な感性もあったのではないか。
二つの宗教登山
一方で、本書では、仏教的な立山信仰と、密教的な登山信仰の対立が描かれていて興味をひかれる。
まず八世紀以降、慈興上人の立山開山を契機に広まったのが、立山曼荼羅に描かれる立山信仰である。そこでは、劔岳は地獄の世界、死の世界とされており、登ってはならない山として扱われている。この立山信仰によって、登山客から収入を得ている部分が大きい地元の山村では、いきおい、剣岳登山に対して感情的反発をせざるを得ず、柴崎の剣岳登頂も難渋する。
一方で柴崎の前には密教の修験道を継ぐ不思議な行者が現れ、立山信仰が確立する以前は、修行の場、神に出会う場として全ての山が登山対象であった。剣岳にも、すでに登頂を果たした先輩がいると伝えられている。登ってはならない山など存在しないはずだ、と勇気づける。
新田はもちろん、後者に共感していただろう。
本書物語では、その行者が残した「雪を背負って登れ」というヒントを解くとともに、剣岳登頂が果たされる。そして偶然なのか、登頂が果たされた時、小島烏水もすぐ傍らでテントを張っており、真っ先に柴崎らの登頂成功を讃える。
すなわち宗教登山と、柴崎らの近代的な学究登山、そして小島らのスポーツ登山、全てが一つにつながるということになる。詳しくは次回に譲りたい。
三つの登山の形
本書「点の記」には、登山というものの幾つかのあり方が拮抗しあって、緊迫感をもたらしている。
まず挙げられるのが、測量などを目的とした、学究的な登山。本書の主人公・柴崎芳太郎は、陸軍の若手ナンバーワンの測量官である。先輩や同僚、そして地元の理解者からの助けを得ながら劔岳登頂を果たしていく様を、丁寧に描いたのが本書である。
二つ目には、スポーツとしての登山。ちょうど本書の舞台になっている、日清・日露戦争前後の明治全盛期には、海外の影響を受けて、いうならば趣味として一般人が山を登るという分野が発達しつつあった。未だ時期尚早とみられていた剣岳登頂は、直接にはこのスポーツ登山に危機感を覚えた陸軍測量部によって命が下されることとなった。
パブリックな測量登山と、パーソナルなスポーツ登山の競争。このライバル的な関係が本書に緊張感をもたらしている。
当時、登山のスペシャリストとして伝統的な登山技術と地元の人脈を独占していたのは測量官の方であった。しかし、測量官はパブリックな存在故に、失敗が許されない。遭難してはならないし、測量器具や、三角点設置のための器材を無事運ばなければならない、という難点も抱えていた。
登頂の命を受けた柴崎は、過去立山・白馬山麓一帯を測量した先輩を訪ね、アドバイスを請う。このとき、先輩の一人が「山岳会? いったい山岳会って何だ」と驚くシーンがある。そして著者新田は柴崎に、「時間と金を使い、危険な目に会っても尚(なお)未知の自然に近づこうという彼らの意気込みは、学者や芸術家が身を挺して真理や美を追求してやまないのと似たところがあります。(中略)私が登らなかったら、彼らはここ二、三年のうちに必ず剣岳の頂上に山岳会の旗を立てるでしょう」と語らせている。
自らも登山家として山を愛した新田は、どちらのあり方が正しいかということではなく、双方に理解・尊敬をもって叙述している。
もう一つ、本書において背景的ながらも重要な位置づけがなされている登山のあり方として、宗教登山があげられる。
物語後半では、柴崎芳太郎が、行者の間で言い伝えられている言葉にヒントを得て、登頂を成し遂げる。すると果たして、山頂には錆びた銅の杖と、鉄剣がすでに安置されていた。ここには、後輩たちが先人の歩みを受け継ぐ中で新しい歴史が作られて行く、という新田のメッセージが込められているのではないか。
アイデンティティへの問いかけ
さてこれら三つの登山のあり方は、もちろんそれぞれ違う観点からの登山である。
宗教においては、極限の自然の中で神に出会うという動機がある。測量登山は、日本地図の作製が直接の動機である。またスポーツ登山にはいわゆる、山に登る楽しさや感動を満喫したい、という動機が強いのではないか。
しかし、例えばスポーツ登山の範疇にあるはずの「孤高の人」などでは、私とは何者か? 私はどこへ向かえばいいのか? という、アイデンティティへのシビアな問いかけがクローズアップされている。また「点の記」で描かれているように、目的は測量のためであっても、やはりいったん山に入れば一人の人間として、自然と対峙し、格闘しなければならない。
本稿では、新田文学について、これまで、藤原てい(新田次郎夫人)のエッセイに始まり、新田次郎の「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「富士山頂」「芙蓉の人」「槍ヶ岳開山」「サウダーデ」などを紹介して来た。今回扱う「点の記」以外にも、「孤高の人」、「栄光の岸壁」、「珊瑚」、「聖職の碑(いしぶみ)」など、まだまだ、山や自然を題材にとった作品、さらに「武田三代」「武田信玄」「武田勝頼」「新田義貞」などのルーツものなど、語るべき作品は多い。あるいはここでさらに藤原正彦「国家の品格」などを加えるべきかもしれない。
……これらは全て、私が私である、そして日本人が日本人たる由縁は何か? そしてどこへ向かえば良いのか? というテーマで貫かれている。そしてこれら作品群には、正しいと信じるもののために精一杯闘いぬいた先人たち、その積み重ねによって歴史が作られるのだ、というメッセージが込められているのでは、ないだろうか。
二〇〇九年今夏、公開された新田次郎「劔岳 点の記」映画版は、全国で大きな反響を呼んでいる。その根底に、不況に喘ぐ中で精神的にも拠り所を求めている現代日本人の、アイデンティティ回帰の思いがある、とみることもできる。  
「孤愁(サウダーデ)」(未完) 

 

未完の名作
「孤愁(サウダーデ)」は昭和五十四年(一九七九年)毎日新聞に連載された。残念なことに執筆中、急死されたため、未完の絶筆となった作品である。単行本にまとめられたのは一九九九年なので、まださほど世に知られていないようだ。
物語は明治二十六年、ポルトガル領マカオ総督府の海軍士官モラエスが、日本から兵器を調達するため、神戸のフランス領事館へ向かっているところで始まる。折しもその前年、フランス製の砲艦千島がフランスから神戸への廻航中、瀬戸内海で英国商船と衝突、沈没。両国が相手の過失だと主張しあう中で、裁判が行われていた。砲艦に詳しい専門家として、日本側から参考意見の提出を懇願されたモラエスは、高度な数学知識を駆使し、日本側の調査報告をもとに英国商船の衝突瞬間の速度を解明することで、日本とフランス側にとって、決定的に有力な証拠を提出した。
これを伝手に、無事日本から兵器を買い付けたモラエスは、文人として日本の文化・美しさに惹かれていく。やがて縁あって在日ポルトガル領事に任命され、日本とポルトガルの交易活性化に奔走するなか、遊郭の芸者だった、およねという生粋の日本女性と神前結婚する。
その頃、舞子の海水浴場で、日本の女性が腰巻きだけで水遊びをしていたところ、居合わせた外国人の女性が怒りだすという事件が起こった。たまたま近くにいたモラエスは外紙記者にコメントを求められ、日本人は欧米以上に性について厳格なモラルを持っており、海水浴場では逆に混浴の習慣に従っただけである、として日本を強く擁護するやがて日本はロシアと対立を深め、ポルトガル人もロシア人と混同されて面罵されるような出来事が起きる。日露開戦が報じられたところで、物語は中断する。
この後、日本を愛する文人・モラエスが、故国ポルトガルへの熱い想いを抱きながら、亡き妻およねの墓を守りつつ徳島の地で没するまでが描かれるはずだった、と予想される。しかし残念ながら本作は新田氏の急逝によって未完のまま終わってしまった。
親子二代の合作
本作の表題となっている「サウダーデ」について、息子である藤原正彦氏はこう解説する。
……対応する日本語や英語はないが、「愛するものの不在により引き起こされる、胸の疼くようなメランコリックな思いや懐かしさ」と言われている。望郷、会いたいが会えない切なさ、追想などはみなサウダーデである。単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしているのが特色である。
……父がモラエスに入れこんだのは。モラエスの才能に圧倒されたためではない。偉大な才能の作家というだけなら他にいくらもいる。モラエスのサウダーデに圧倒されたのだと私は思う。(「孤愁」解説)
この連載では、たびたび日本人アイデンティティ問題、「日本人の日本人たる所以は何か」という問いかけを切り口に文学を取り上げ、新田もその問題に取り組んだ典型である、と論じてきた。
本作品では、繰り返し繰り返し、モラエス氏に限らず様々な登場人物が、自分の抱えた望郷の念、故人を懐かしむ想いなどを「サウダーデ」だと説明する。そしてサウダーデがポルトガル独自の情感(精神?文化?)だという者、日本の共通の精神であるという者など、様々な捉え方が提示され、日本人アイデンティティとの深いつながりを意識させられる。
さて嬉しいニュースであるが、近年、藤原正彦氏は父の絶筆である本作を未完成で終わらせないために、続編を書くべく準備中だという。あと数年以内に、本作は親子二代の合作、新田文学の総仕上げのようなものとして、生まれ変わるはずなのである。「国家の品格」を書いた正彦氏が新田文学の枠から、この日本人問題にどのような「答え」を提示してくれるのか。非常に興味深いところである。
ポルトガル独自の情感としての「サウダーデ」
本作の表題となっている「サウダーデ」は、韓民族における「恨」、中国人における「悒(ゆう)」、あるいはブルース系音楽におけるソウルのように、ポルトガル独自の情感(文化?)として説明される。そして明治期のアジアを舞台にした本作では、繰り返し繰り返し、主人公に限らず様々な登場人物が、自分の抱えた望郷の念、故人を懐かしむ想いなどを「サウダーデ」だと説明する。
例えば、主人公モラエスは、在日本ポルトガル領事に任命された時、日本公使であるガリヤルド将軍に、本国に帰りたいのではないかと聞かれ、こう答える。
……「感謝しています。私は生涯を日本で暮らしたいと思っています」モラエスははっきり言った。
(孤愁を押さえこむために言ったのではない。自分はポルトガルより日本を愛しているのだ。本当に日本で生涯を暮らそうと思っているのだ)
彼は懸命に自分自身に語り掛けていた。多くのポルトガル人が異郷にあって、彼と同じような立場に立たされたとき、心の奥底にあるものとは反対なことを口にし、そのために生涯を孤愁の中でもがき苦しまねばならないことを知っていながら、彼は敢て日本へ移住することを誓ったのである。(「孤愁」上巻 別離)
また、モラエスの元上司にあたるマカオのカストロ総督は、辞任する際、今後も本国に帰らず、マカオで余生を過ごす決意をモラエスに告げる。
……「このごろは毎日のように故国の夢を見るのだよ。ほら、本国ではアーモンドの白い花が咲くころだろう。畑全体が白い雲の霞んでみえるほどに見事に咲きほこる花の間を蜜蜂が羽音を立てて飛んでいる。あんな風景が見えるのだ。私は孤愁にかかったのだよモラエス君。この孤愁に取り憑かれたポルトガル人は、誰でもそうだが、故国を恋い慕いながら帰ろうとしなくなるのだ。帰ろうと思えば帰れる、だが帰らない、帰るべきでないという気持ちになって行くのだ。孤愁はポルトガルだけにしかない一種の病気だよ」(上巻 ネムの木)
こうした場面では、サウダーデがポルトガル独自の情感として描かれているようだ。
日本人が持つ「サウダーデ」
では、新田が描く「サウダーデ」はポルトガル独自のものなのだろうか。決してそうではない。
例えばモラエス氏が在日本ポルトガル領事に任命されてすぐ、幕末に起きた外国人排斥殺傷事件で連座したが、仲間が切腹した中で偶然、ただ一人生き残ったという日本の老人に出会う。この老人は、三十年前の仲間たちへの墓参りを日課にしており、その気持ちをモラエスにこう説明する。
……「ポルトガル人のあなたに、私が言うのはおかしいですが、ポルトガル人はサウダーデという言葉を多様に使っています。別れた恋人を思うことも、死んだ人のことを思うことも、過去に訪れた景色を思い出すことも、十年前に大儲けをした日のことを懐かしく思い出すのもすべてサウダーデです。そうではありませんか」
「そうですが少々付け加えるとすれば、過去を思い出すのではなく、そうすることによって甘く、悲しい、せつない感情に浸りこむことです」
モラエスは補足した。老人はそれに対して何度か頷いたあとで、
「せつない感情に浸りこむだけではありません。その感情の中に生きることを発見するのがサウダーデじゃあないのでしょうか。私を例にとると、私は今、明らかに三十年前のあの事件をサウダーデとして生かして、その中に生きようとしているのです。墓にお詣りすることは、今や私にとって贖罪行為ではなくして、サウダーデに浸っていることになるのです。ひょっとすると、私は、いや日本人はポルトガル人以上にサウダーデ的かもしれませんよ。唯日本にはサウダーデと同じ気持があっても言葉がないだけです。私はそう考えております」(「孤愁」下巻 外人墓地)
この老人は、作者・新田次郎の代弁者だと考えてよいように思われる。さらに、亡き妻を追慕して墓参りを続けた晩年のモラエスも、この老人の姿に重なる。
また新田自身もモラエスに惚れぬき、技術専門家と文筆家の両面を持った出自に、自らを重ねあわせていたということを、解説で藤原正彦氏が指摘している。
これらから推察されることとして、新田次郎は本作品で、モラエスらポルトガル人がもつサウダーデの本質は、新田自身を含めた日本人が共通して持っている伝統的な情感につながるものだ、と言いたかったと思われるのだ。
本作の執筆動機
新田次郎は本作で、明治期に在日本ポルトガル領事として活躍した、モラエスという実在の人物を描いた。
新田の息子である藤原正彦氏は、表題である「サウダーデ」について、こう説明する。
……対応する日本語や英語はないが、「愛するものの不在により引き起こされる、胸の疼くようなメランコリックな思いや懐かしさ」と言われている。望郷、会いたいが会えない切なさ、追想などはみなサウダーデである。単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしているのが特色である。(「孤愁」解説)
そして正彦氏は、モラエスのサウダーデに心を動かされたことが、本作の大きな執筆動機になっていることを説明している。
……この年(昭和五十四年)の初め頃から、父はモラエスに憑かれたように取り組んでいた。故国ポルトガルへの熱い想いにまみれながら、亡き妻およねの墓を守りつつ徳島の地で没した文人モラエス。この孤高の人モラエスに、父は惚れこみ掘れぬいていた。(中略)……父がモラエスに入れこんだのは、モラエスの才能に圧倒されたためではない。偉大な才能の作家というだけなら他にいくらもいる。モラエスのサウダーデに圧倒されたのだと私は思う。(「孤愁」解説)
モラエスの生き様から伝わってくる、このサウダーデこそが、執筆の最大の動機になっているように思われる。
しかし正彦氏は解説の最後で、新田のもう一つの執筆動機についても示唆している。新田次郎は、技術畑の指導者であり文筆家でもあったモラエスの出自・立場に、自らを重ねていたと考えられるのである。
モラエスは、ポルトガル海軍将校にして、領事職として外交問題解決にあたる一方で、数学者でもあり、文筆家としても有名であった。一方で新田次郎は、気象庁という官職にあって富士山レーダー設置などの大役をこなし、後に文筆の道に進んだ。この二人は非常に似ている。
モラエス像と日本人問題
そしてこれら執筆動機に関連して注目したいのが、「和の心を持った外国人」という切り口である。
物語後半で、典型的なエピソードが一つ目につく。
モラエスが在日本領事となった後、神戸外国人居留地で電気式の街路灯を導入するかどうかをめぐって議論が起こる。反対意見の大きな理由の一つは、電力供給のための架空電線が都市の景観を損ねるというものだった。
専門家としての参考意見を求められたモラエスは、まず妻の日本人女性およねの意見を求め、神戸で電灯が灯るのをみたい、という意見に従い、数学者ならではの詳しい設計を添えて、地中配電方式が可能であると提案する。この案が功を奏し、明治二十三年、神戸電灯が日本初の地中線敷設によって、居留地に電力供給を行い電灯を設置したという。
当時の日本は、明治維新、殖産興業などと言われ、いかにスムーズに、日本の伝統的な文化や価値観を壊さず、欧米にキャッチアップするのかという問題に取り組んでいた。
どのように、日本人の日本人たる所以、日本人らしさを失わず、欧米の文化的植民地にならずに欧米文明を吸収するのか。ありきたりに言えば「和魂洋才」をどのような形で実現するのか、という難題を抱えていた。
文学で言えば、夏目漱石は、ロンドン留学中に神経症になるほど悩み苦しんだ後、未完成ながらも、日本自体の自然な文明力をシンプルに信じようとする境地を持つに至った。あるいは、宮沢賢治のように、法華経的な価値観を中心に据えながら、厳寒の自然に囲まれた貧しい農村を、啓蒙思想を用いて理想の境地に変える、というスタンスもあった。また、戦後の三浦綾子のように、過去の日本を一旦否定して、キリスト教精神に依って立つ姿勢もあった。
この流れの中で見ると、外国の知識人エリートでありながら日本の心を理解し、日本の文化伝統を守ろうとした外国人=モラエスは、確かに一つの解答になり得る。本作のモラエスは、外国由来の技術知識と日本の心が矛盾なく融合したモデルと捉えることが出来、モラエス発案による電灯設置というエピソードは、この和魂洋才の実例とみることができるのでないか、ということなのである。
同時代の「和式外国人」としては、ラフカディオハーンなどもあげられるが、市井の日本人として生きようとした外国人、ということでは、モラエスがより適しているだろう。
サウダーデの意味
本作は、ポルトガル海軍将校、在日総領事にして作家であったモラエス(一八五四〜一九二九)という人物を題材にしている。
本作の表題となっているサウダーデとは、愛するもの失ったものを慕う強い想い情感であり、ポルトガルの民族歌謡であるファドでは、このサウダーデがしばしばテーマとなって歌われている。
モラエスは晩年、妻およねの墓を守って、市井の人として徳島に暮らし、計三〇年間日本に滞在して没した。このことを見ても、このモラエスが抱いていたであろう、故国ポルトガルへの想い、亡くなった妻への想いの強烈さは想像がつく。
改めて、この圧倒的な、一つの昇華された想い、愛情、追慕。このサウダーデという言葉を何と訳すべきか戸惑いを感じさせられる。
サウダーデと武士道精神
さて、モラエス氏が在日本ポルトガル領事に任命されてすぐ、幕末に起きた外国人排斥殺傷事件で連座したが、仲間が切腹した中で偶然、ただ一人生き残ったという日本の老人に出会う。モラエスは老人を夕食に招待しようとしたが、彼は強くそれをこばんで言う。
……「このまま別れたほうがお互いに価値ある一日を送ったことになりませんか」
老人はいささかひねったような言い方をした。
「それは誇張された感傷ではないでしょうか」
モラエスはそのように応じながら、この老人は自分の殻の中だけに閉じこもろうとする、どうしようもないほどの変わり者だと思った。
「感傷でしょうね。しかしポルトガル的に言えばやっぱりサウダーデになるのではないでしょうか。私がパリーで同棲していたポルトガル人の女性をしばしば思い出すのもサウダーデですし、今ここであなたと別れたとすれば、またひとつのそれが増えるわけです。こうして、数多くのサウダーデの中に埋まって私は生きているのです。あなたと夕食を共にし、お互いに名刺などを交換して、これからちょいちょいあのお墓で会いましょうなどということになると、あなたも私もこの上ない俗物に堕ちてしまうことになります。お分かりでしょうか」(「孤愁」下巻 外人墓地)
このエピソードを読むと、「武士は食わねど……」といった言葉が連想される。サウダーデには、武士道精神の誇りにもつながる部分があることに気づかされる。
失ったものを懐かしむ想い、それを外に大げさに表現すれば俗なものになり相対化されてしまう。内に秘めることで、高尚なもの、絶対的なものとして保ち続ける、ということである。
ハーンとモラエス
さて同時代の日本を愛した外国人として、ラフカディオハーンがあげられる。
モラエスは、一八五四年ポルトガル生まれ。一方のハーン(小泉八雲)は、一八五〇年ギリシャ生まれ。二人とも一八九〇年頃に初めて日本を訪れる。日本で生活した数年は、ハーンの十四年に対して、モラエスは三十年以上。ハーンも日本を愛し、日本人を妻に家庭を築き、旧制松江中学や東京帝国大学の教壇に立つなどして活躍したが、モラエスは、在日総領事を辞した後、亡き妻の地元徳島で、ひっそり暮らしたという感が深い。日本的な情緒、武士道の気高さ謙虚さを自ら生活に反映する、という意味では、いささか活躍しすぎの感があるハーンよりも、モラエスの方が相応しいように思われるのである。
またハーンは日本を「死者と共に生きる国」と呼び、その価値観・文化を収拾観察して、「霊の日本」「怪談」などをまとめた。しかしこれはモラエスに比べると、外からの視点、外国人がみた異文化体験としての日本、ということが言える。一方モラエスは、「およねと小春」など、生活圏の中で自らのことを描いた文筆が多く、ハーンと比べれば無名ながら、徳島では教材として使われるなど、根強く支持されている。日本人らしい生き方を選んだ外国人、としては、やはりモラエスこそが相応しいと言えるだろう。
そして本書「サウダーデ」からは、日本の伝統的価値観を尊び、弁護し、勇気づけようとするモラエスの強いメッセージが伝わってくるのである。  
モラエスとハーン 外国人が出会った日本精神 

 

新田文学が見いだした「日本人」
本連載では、当初、夏目漱石にはじまり、有島・芥川などを経て近現代の作家を取り上げながら、それぞれの文学作品が、明治開国期以来、日本が課題として来た日本人アイデンティティ問題ーー文化的にボーダーレスな近現代において、何が日本の根拠となるのか、何をもって日本人と規定できるのかーーについて、どのような解答を示し得るかということを探ってきた。
敢えて「女性像」と題名の中に入れたのは、西洋や中国由来のいわゆる大陸文明に対して、自然の豊かな島国に育まれた日本文明は、非常に細やかであり、かつ生命力と包容力に富んだ、母性、女性らしさが特徴だ、と指摘されることが多い。ここから日本としてのアイデンティティが生じているのではないか、と考えたからである。
前回まで新田文学を扱って来たが、概略的にまとめると、本連載のテーマとなっている、日本人問題に対して、新田文学が示し得た解答は、大筋として二つに分けて説明できる。
一つには山岳信仰や民俗信仰につながるローカルストーリー。これは例えば日本においては、平将門であるとか、武田信玄であるとか、地域の英雄・武将の魂が、神社に「神」としてまつられていることが多い。あるいは富士山や槍ヶ岳が霊山として山岳信仰の対象となっている。そうした精神的な伝統であり、そのローカルストーリー探求の集大成として、「槍ヶ岳開山」や「武田信玄」が書かれたと考えられる。
そしてもう一つ。最晩年に書かれた「サウダーデ(未完)」は、ポルトガル海軍将校、在日総領事にして作家であったモラエスを描きながら、明治期前後に文化的帰化を果たした外国からの知識人エリート層が、最も日本の何たるかを理解していたのではないか、という観点を示してくれる。
勿論、この二つは密接な関係をもつものであり、一つの解答の二つの断面とみてもよいだろう。
モラエスのみた日本
さて、モラエスと同時代に日本で活躍した、「怪談」著者で有名なラフカディオ・ハーンは、日本を「死者の国」と呼び、日本人が過去の英雄・先祖たち、その霊魂によって守られ、対話しながら生きていると分析した。ハーンの分析が理性的な、思想面のものとするなら、モラエスはもっと感性的な情感の面から日本を捉えている。
例えばモラエスが一九二五年、徳島に隠棲しながら著した評論「日本精神」を読むと、モラエスは日本の文化的美、とくに女性に代表される、繊細で利他的な美を礼賛していることが分かる。
同評論で、モラエスは、日本人の「愛のあり方」を、こう説明している。
……西洋人は個人としての恋愛の結果、結婚し、やがて子供が生まれる。日本人は「イエ」を存続させる子供を目的として、結婚がなされる。ただし、日本の伝統は束縛ではなく、そこに奉仕精神の美があり、西洋の個人主義的な恋愛観よりも上位に置くべきものである。結果、日本の生き方の方が、より幸せなのだ。……と彼はいう。
またモラエスは、欧米人がいつしかキリスト教文化圏(のみ)に依って立つようになり、キリスト教価値観を広める尖兵のような、文化的侵略性をもってしまったことを「腐敗」と呼んだ。
そして、独自の精神伝統をもった日本こそが、この風潮に対し対抗文化を示し、各国独自の文化伝統の可能性を呼び覚ますような可能性をもった国民なのだ。このようにモラエスは結んでいる。さながらサミュエル・ハンチントン「文明の衝突」の先駆けのような論旨で驚かされる。モラエスは日本の文明の母性的な特性を的確に捉えていたといえるのではないか。
モラエスは晩年、世間とは隔絶された日本の僻地で隠遁生活を過ごしたという。周囲にとっては、その生き方は偏屈な、頑固なものとして目に映っていたようである。しかし、自分らしさを守るということは、周囲の大多数とは違うマイノリティとしての自分自身を守り抜くことにも通じる。価値観や文化が多様化した近現代において、誇りある頑固さを守ることも、案外、重要な意味があるのではないだろうか。
陪審員制度開始について
さて二〇〇九年夏、日本においては陪審員制度の開始が話題となった。
最初の裁判となったのは、五月に東京で起きた殺人事件である。七十二歳の男が、近所の六十六歳の女性とトラブルになり、ナイフで刺し殺したとして東京地方裁判所で裁かれたものであった。これまで数年かかるケースもあった審議を、わずか数日で終わらせた点、また一般に分かりやすいよう、法律用語を会話文に置き換えたりモニターを使う等の工夫がなされた点が、大きな特徴だという。
ここで法律の専門家から評価されたのは、裁判員が「相手が死んでしまうかもしれないと分かっていて、なぜ救急車を呼ばなかったのか」「殺人に使われたナイフは、家族の形見だった。その大切なナイフをなぜ凶行に用いたのか」など、日常的な感性が活かされた質問をしたことで、「我々法律家には思いつかない質問」と被告側の弁護士もコメントしている。
陪審員制度は、実は昭和初期に、すでに存在したものである。
いわゆる大正デモクラシーの流れの中で、原敬を中心に陪審員制度が推し進められ、一九二三年に陪審法が成立。一九二八年以降、約五百件の陪審裁判が行われたが、一九四三年、停止が決定した。停止法案では「施行の停止は戦争の激化によりやむを得ないが、理念としては望ましいものであるから、廃止ではなく停止とし、戦後の再施行を期する」旨が示されており、これに従えば開始というより、再開というべきかも知れない。
ハーンが見いだした共同体モラル
陪審員制度は、外国からの単なる制度的輸入ではないか、という議論、懸念もある。しかし、共同体的な「陪審」のオリジナリティ部分は日本に古来根付いたものであり、根のない輸入品とは断じきれない。本稿ではこのように捉えたい。
例えばハーンは、明治二十六年書かれた「心」「停車場にて」で、独自の共同体モラルをもつ日本の姿を活写している。
熊本の某家に強盗に押し入り、一旦は逮捕されたが捕吏(ほり)を殺して逃亡した凶悪犯が数年後に捕まり、取り調べのため福岡に護送された。停車場にはハーン以外にも大勢の見物人が押し掛け、一騒動起こることさえ予想された。ところがその場で、付き添いの警部が、子供を背負った女性を呼び出した。それは殺された巡査の未亡人と、幼子だった。警部が子供に向かって、この男の素性を説明し、子供がベソをかきながら罪人を見つめると、、、男は顔を歪ませてその場にへたり込み、子供に慈悲を乞うたのであった。
「……あっしゃァ悪い野郎でござんす。(中略)こうやって今、うぬの犯した罪のかどで、これから死にに行くところでござんす。(中略)どうか可哀想な野郎だとおぼしめしなさって、あっしのこたァ、勘弁してやっておくんなせえまし。お願えでござんす。……」
すると、取り囲んでいた群衆は黙って左右に道を譲り、全体がすすり泣きをはじめたのである。
ハーンは、この事件を、まったく東洋的な挿話であり、かつ、実に慈悲に富んだ、正しい裁きと悔悛がある、と、深い感銘を込めて記している。断罪を、誰が、如何になすのか? 公のシステムによる量刑決定は、形にすぎない。それは心によってなされなければならないし、悔悛が伴わなければ意味がない。こうした高度な共同体モラルが、ハーンが見いだした日本精神、その代表例だといって間違いない。
高度なバランス感覚を伴った「心」というのは形にしづらいものであり、いわゆる西洋文明的な「形」の輸入によって容易に崩れやすい。近現代以降、日本の精神伝統が崩壊の危機を迎えているのは事実だろう。しかし、潜在的には日本的な「心」はずっと伝えられているのであり、時と共にまた何らかの「形」として復興していくのではないか。今回の陪審員制度も、良き日本の精神の復興の兆しの一つとして、まずは期待したいと考える次第である。
……ちなみに、日本語は文字の言葉、英語は話す言葉と言われる。英語は日本語より豊富な発音体系を持つが、アルファベット二十四文字による発音表記しかできない。一方、日本語は十八歳まで、数千語の漢字を覚え続ける。話し言葉はすぐに消え去るが、書かれた文字はずっと残される。文字として残された伝統精神は、消えない。日本は伝統を守るには、まことに相応しい国なのである。