内閣府 よいしょ「いざなぎ超え」好景気

いざなぎ景気の時代
好景気 国民の多くが実感
 
いざなぎ超えの好景気  
実感もっているのは お役人だけです
サラリーマン給与 停滞


 
 
2016年 平均年収
国家公務員        678万円 (2018)
地方公務員        633万円
上場企業サラリーマン 602万円
サラリーマン平均    421万円
 
 
いざなぎ超えの好景気 悪い冗談  
予算取り繕う 国債発行
お金 バラマキ政治
「好景気」 数字のお遊び
 
 
●神武景気 (1955年〜1956年) 31ヵ月
   なべ底不況 (1957年〜1958年)
●岩戸景気 (1959年〜1961年) 42ヵ月
   昭和37年不況 (1962年)
オリンピック景気 (1964年)
   昭和40年不況 (1964年〜1965年)
●いざなぎ景気 (1966年〜1970年) 57ヵ月
   石油危機 (オイルショック/1973年〜1974年)
   第二次石油危機 (1978年〜1979年)
   円高不況 (1985年〜1986年)
バブル景気 (1987年〜1991年)
   バブル崩壊 (1991年)
   失われた10年/平成不況 (1991年〜2002年) 
景気回復 (2002年〜2008年) 73ヵ月
 
 
●景気回復、戦後最長73カ月が確定 2002年2月〜2008月2月 2011/10
内閣府は19日午後、大学教授やエコノミストら7人の有識者による景気動向指数研究会(座長・吉川洋東大教授)を開き、これまで暫定的に設定していた景気の「山」と「谷」の判定を、それぞれ2008年2月と09年3月とすることで確定した。
昨年6月までに決定した暫定的な判断では、景気の「山」が07年10月、「谷」は09年3月としていたため、02年2月から始まった景気の拡張期間は73カ月間と戦後最長とされた景気回復の期間がさらに延長された格好となった。08年3月から始まった景気後退期間は13カ月間となった。
同研究会は、景気動向指数に基づいて、鉱工業生産指数などの経済指標で構成される11の指数を用いて算出した長期間の移動平均値となる「ヒストリカルDI」を参考に景気の転換点を判断している。今回、景気拡張期間を変更したのは判断に用いる個々の指数で改訂があったため。
景気動向指数のCI一致指数でみた場合、73カ月間の上昇率は23.7%。バブル景気にわいた1986年12月から51カ月間の上昇率(30.8%)と比べ、長期間で緩やかな成長だった。
一方で、08年3月から13カ月間の下落率は31.5%とバブル崩壊前後である91年3月から32カ月間の下落率(22.4%)と比べても急だった。内閣府内で記者会見した吉川教授は、08年のリーマン・ショックに伴う金融危機の影響について「従来と全く違って、まさにフォール(急落)だった」と語った。
09年4月から現在まで続く足元の景気拡張期について、吉川教授は「水準で言っても、08年のリーマン・ショック前には遠く及ばない」と指摘。東日本大震災を挟んだ見方について、今回の議論の対象ではなかったとしながらも「拡張に若干の変調がみられると複数の委員から指摘があった」と明かした。その上で「注意してみていなければいけない」と語った。ある委員からは「既に踊り場にきているのでは」との指摘もあったという。 
 
 
●景気「いざなぎ」超えと認定、14年増税後も回復継続と判断 2018/12/13
内閣府は13日、景気動向指数のあり方を検証する景気動向指数研究会(座長:吉川洋立正大学教授)を開催し、2012年12月から始まる現在の景気回復が2017年9月時点で、高度成長期に57カ月続いた「いざなぎ景気」を超え戦後2番目の長さとなったと正式に判断した。来年1月まで景気回復が続けば、戦後最長の74カ月となる。
現在の景気回復は安倍晋三政権が始まる直前にスタートしたが、消費税率を引き上げた14年4月以降は景気動向指数が大幅に悪化、景気は悪化局面入りした可能性などが取り沙汰されていた。
今回は景気動向指数を構成する各種指数の動きなどを分析し、同時期に多くの指数が悪化したもののそれらの景気全体への影響が限定的であったことなどから、2012年11月を谷として、2017年8月以前に景気が悪化に転じることはなかったと判断した。
すでに2017年9月に茂木敏充経済再生相が「いざなぎ景気を超えた可能性が高い」との見解を示していたが、正式な認定には景気動向指数を構成する各種経済指標の年間平均などの様々な分析が必要なため、今回が初めての判断となる。 
●景気拡大長さ「いざなぎ」超え 実感ある?成長率1%台 12/13
景気拡大の長さが、高度成長時代に4年9カ月続いた「いざなぎ景気」を上回り、戦後2番目になった。内閣府の景気動向指数研究会(座長=吉川洋・立正大教授)が13日に認定した。
2012年12月に始まった景気の拡大は、足元も続いているとみられる。年明けの19年1月まで続けば、08年2月までの6年1カ月だった戦後最長景気(いざなみ景気)も超える。
景気の山と谷は、生産や雇用など9指標をもとに研究会で有識者らが議論し、内閣府が判定する。月ごとに見るとぶれが大きいため1年ほど後まで含めて分析する。その結果、景気の拡大が、少なくとも昨年9月まで4年10カ月間続いたと今回認定した。
ただ、戦後2番目になったのはあくまで景気拡大の長さで、成長の大きさではない。
東京五輪の後の1965年に始まり、大阪万博があった70年まで続いた「いざなぎ景気」は、年間の成長率が平均10%を超えた。「3C」とも呼ばれるカラーテレビやクーラーといった品が急速に普及し、多くの人が豊かさを実感できた。対して、今の景気拡大の平均の成長率は1%台にとどまり、当時のような好景気は実感しにくい。14年の消費税率8%への増税後は消費が大きく落ち込み、「景気拡大はすでに途切れている」との指摘も出ていた。
今も緩やかな景気の回復は持続しているとみられ、戦後最長を更新する可能性は高いとみられている。ただ。年明け以降も視野に入れると、景気の先行きは不透明だ。米中対立や英国の欧州連合(EU)離脱問題など、海外発の景気変調のリスクは増しており、国内への影響が心配されている。来年10月には10%への消費増税も控えており、日本経済は正念場を迎える。 
●今の景気回復「いざなぎ景気」超え 戦後2番目の長さに 12/13
景気動向を検証する内閣府の研究会が開かれ、平成24年の12月から始まった今の景気回復が高度経済成長期の好景気「いざなぎ景気」を超えて、戦後2番目の長さとなったことが確認されました。
内閣府は、景気の回復や後退の時期を有識者による研究会で判断していて、13日は平成24年12月から始まった今の景気回復について検証を行いました。
そして、景気動向指数などの指標を詳しく分析したところ、今の景気回復が高度経済成長期まっただ中の昭和40年11月から昭和45年7月まで4年9か月続いた「いざなぎ景気」を超えたことが確認されました。
これにより、今の景気回復の期間は戦後2番目の長さに達したことになります。
さらに景気の回復が今月まで続いていることが確認されれば、平成14年2月から平成20年2月までの6年1か月に及んだ戦後最長の景気回復に並ぶことになり、民間のエコノミストや政府内では、雇用や所得の改善などを背景に、来年1月には戦後最長を更新するとの見方が強まっています。
全銀協会長「来年以降も続くかは海外経済がカギ」
今の景気回復が高度経済成長期の好景気「いざなぎ景気」を超えて戦後2番目の長さになったことについて、全国銀行協会の藤原弘治会長は、来年以降も回復が続くかは不透明さを増す海外経済がカギになるという見方を示しました。
全国銀行協会の藤原会長は13日の記者会見で今の景気について、「企業収益が過去最高を更新し、好ましい状態だが、企業は人手不足などの課題を抱えている。さらなる生産性の向上に向けた取り組みを一段と強化していく必要がある」と述べ、日本経済になお課題は残っているという認識を示しました。
そのうえで、「来年は海外の情勢に不確定要素が多く国内の努力だけで景気の拡張が持続するわけではない」として、来年以降も回復が続くかは米中の貿易摩擦などで不透明さを増す海外経済がカギになるという見方を示しました。
一方、国が主導する官民ファンド「産業革新投資機構」で取締役9人が辞任を表明する混乱が起きたことについて、藤原会長は「民間だけではリスクを取るのが難しい案件を手がけることで民間からの投資や融資を喚起する呼び水効果は期待される」と述べ、官民ファンドが果たすべき役割はまだあるという考えを示しました。
石油連盟会長「原油価格落ち着くか見極めたい」
これについて石油元売り各社でつくる石油連盟の月岡隆会長は、13日に開かれた定例の記者会見で、「資源価格は適温な範囲というのがあり、国際的な原油価格が50ドルから60ドルで推移したことが景気回復の大きな要因だったと思う。10月には原油価格が高騰し、産業に悪い影響を与えると心配していた。今はいったん下がっているが、今後も価格が落ち着くのか見極めないといけない」と述べました。
専門家「いざなぎ景気とは個人消費に違い」
今の景気回復について、三菱UFJリサーチ&コンサルティングの小林真一郎主席研究員は、「アメリカを中心に海外の景気拡大に引っ張られる形で日本からの輸出が伸びたことや、企業が業績を回復する中で人手不足を解消するための設備投資を積極的に増やしていることなどがプラスの効果をもたらしている」と分析しています。
また、「いざなぎ景気」を超えたことについては、「今の景気回復は、成長率がほぼ横ばいに近く、だらだらと景気が拡大している状況で、いざなぎ景気とは中身や拡大の勢いが全く違う。決定的に違うのは個人消費で、かつては人々の生活が豊かになっていく中で消費を増やしていく世の中だったが、現在は消費が盛り上がっていない」と指摘しました。
そのうえで、小林主席研究員は「最近は、物価が上がっていることに加え、社会保障の負担が増してきていることもあり、可処分所得が伸びていない状態だ。人々が賃金が上がったと実感することは難しく、消費の意欲を抑える要因になっている」と話しています。
今の景気回復の特徴
今の景気回復は、平成24年12月から始まりました。デフレ脱却を目指した「アベノミクス」と呼ばれる経済政策のスタートとほぼ時を同じくしています。
日銀の大規模な金融緩和を背景にした円安で、自動車メーカーなど、輸出産業を中心に業績の回復が続き、昨年度の企業の業績は過去最高の水準となりました。有効求人倍率もことしに入ってから、昭和49年以来の高い水準となるなど雇用環境も改善しています。
このまま景気回復が来年1月まで続くと、回復の期間は6年2か月に及び、平成14年2月から平成20年2月まで続いた景気回復を超えて、戦後最長を更新することになります。
ただ、景気回復が長く続いている割には、実感が少ないとの声も上がっています。
調査会社によりますと、この景気回復の期間を実質GDP=国内総生産の伸び率で見てみると1年当たりの平均で1.2%、「個人消費」の伸びは平均で0.4%にとどまっています。また、「実質賃金」は物価の上昇もあって、平均で0.5%減少しています。
さらに今後は、アメリカと中国の貿易摩擦の影響や、アメリカの景気回復が息切れする懸念も出ていて、先行きに不透感が増しています。 
 
 
 
 
●実感できない「いざなぎ超えの好景気」バブル以降2割下がった給料 12/17
我々はなぜ“いざなぎ超えの好景気”を実感できないのか?
先日、内閣府の景気動向指数研究会が開かれ、2012年12月に始まった今回の景気拡大局面が、少なくとも2017年9月まで、4年10カ月間続いたことが確認されたそうです。これは1965年から4年9カ月続いた「いざなぎ景気」を抜いて、戦後2番目の長さとのことです。つまりは、日本は高度成長期に匹敵するような好景気の時期にあるということだそうです。
しかし、この好景気を実感している人はどのくらいいるでしょうか?ほとんどの人は、好景気を実感していないのではないでしょうか?
また戦後二番目ということは、一番目があるわけですが、この一番長い好景気の時期って、みなさんご存知ですか?これは、実は、2002年から6年1カ月間続いた「いざなみ景気」です。この「いざなみ景気」にも、今回の戦後二番目の景気にも、違和感を抱きませんでしたか?その違和感は、実はあなただけのものではありません。あなただけが、景気の良さを実感していないのではなく、国民のほとんどは実感していないのです。
なぜならば、バブル崩壊から現在まで、サラリーマンの平均収入は20%も下がっているからです。収入が下がっているのに、景気がいいと言われたって、実感がないのは当たり前です。そして、日本で勤労している人のほとんどがサラリーマンですので、国民のほとんどは好景気を実感できていないわけです。
また好景気の長期化のニュースとともに、個人金融資産のニュースにも違和感を持った方が多いのではないでしょうか?日本銀行の統計によると、2017年9月末の時点において、個人金融資産は1,800兆円を超えたそうです。
日本の個人金融資産というのは、バブル期以降激増しているのです。バブル期の1990年の段階では、個人金融資産は1,017兆円でした。が、現在は1,800兆円以上に達しているのです。二十数年の間に、80%も増加しているのです。
個人金融資産が1,800兆円ということは、生まれたばかりの赤ん坊から100歳以上の老人まですべての人が、金融資産を平均で1,400万円以上も持っていることになります。3人家族であれば4,000万円以上、4人家族であれば6,000万円近くの金融資産を持っているということです。しかもこれは不動産などの資産は含まずに、金融資産のみの額です。
でも、ほとんどの人はこう思っているはずです。「うちにはそんなお金はない」と。現在、ほとんどの日本人は、金持ちの生活というより、貧しめの生活をしています。今の日本では平均的な収入のある人でも、子供二人を育てるのは大変です。平均以上の収入があるのに、子供を二人育てられない国というのは、実は世界でもあまりないのです。だから子供のいる世帯のほとんどは、金融資産は微々たるものでしょう。また独身の方も、1,000万円以上の金融資産を持っている人は稀です。では、一体、どこの誰が金融資産を激増させているのでしょうか?今回は、それを分析したいと思います。
激増する億万長者
実は、昨今、日本では億万長者が激増しています。世界的な金融グループであるクレディ・スイスが発表した「2016年グローバル・ウェルス・レポート」によると、100万ドル以上の資産をもっている人々、つまりミリオネアと呼ばれる日本人は282万6,000人でした。前の年よりも74万人近く増加しているそうです。増加率は世界一だったのです。
この激増している億万長者の大半は、実は「大企業の株を大量に持っている人」です。これは、「昨今、株を始めた人」や「株の売買をしている人」ではありません。「かなり以前から、大企業の株をたくさん持っていた人」なのです。次の数字を見てください。これは上場企業の配当金の総額です。
   2005年:4.6兆円
   2007年:7.2兆円
   2009年:5.5兆円
   2012年:7.0兆円
   2015年:10.4兆円
   2017年:12.8兆円
日本の上場企業の配当金は、2009年からのわずか9年間で2倍以上になっているのです。リーマン・ショック前の最高値だった2007年と比べても2倍近くに増えています。つまり、10年前と比べて、配当収入は2倍に増えているということです。これは何を意味するのか、というと配当収入が2倍になっているということです。創業者親族などの大口の株主や、配当だけで生活できるほど株を持っている人は、かなり潤っているはずです。またアベノミクスの影響で、2012年から2018年の間に、日経平均株価は2倍以上になりました。2012年に持っていた株資産は2018年現在では倍に膨れ上がっているということです。
だから、5,000万円程度の株を持っていていた人は、株価が2倍に膨れ上がることで、保有資産が1億円をこえることになります。近年、資産が激増した人でもっとも多いパターンは、このパターンだと見られるのです。
この中には、最近、株を始めたような人はほとんど含まれていないと思われます。というのも、株が上がり始めてから株を買っても、資産はそうは大きくなりません。だから、激増しているミリオネアのほとんどは、昔から株をたくさん(数千万円単位で)持っている人なのです。
では、もとから数千万円単位で上場企業の株を持っていた人というのは、どういう人でしょうか?これは普通に考えて、「元からある程度のお金持ちだった人」ということになります。つまりは、「元からある程度のお金持ちだった人」が、アベノミクスによる株価の上昇でさらにお金持ちになったということです。それが、昨今、激増しているミリオネアの正体なのです。
日本は実は世界一の金持ち国
日本というのは、実は世界一の金持ち国なのです。先にも述べましたように、日本の個人金融資産残高は現在1,800兆円です。一人当たりの金融資産1,000万円を大きく超え、アメリカに次いで世界第2位です。しかも、これは金融資産だけの話であり、これに土地建物などの資産を加えれば、その額は莫大なものです。また日本は、対外準備高も全ヨーロッパの2倍もあり、国民一人当たりにすると断トツの1位です。対外純資産は、約3兆ドルで世界一です。日本は世界一の債権者の国でもあるのです。つまり「日本人は世界一の金持ち」といっていいのです。
なぜ国民の多くは、世界一の金持ち国としての実感がないのでしょうか?その答えは、実は明白です。先ほど述べましたように、日本のサラリーマンの給料が下がっているからです。日本人の平均給与は、この20年間で20ポイントも下がっています。この20年のうちには、戦後一番目と二番目の長さの好景気があったのです。にもかかわらず、サラリーマンの給料は上がるどころか下がっていたのです。安倍首相の財界への呼びかけで、この数年は若干、給料が上がっていますが、この20年で下がった分に比べれば焼け石に水なのです。
そして先進国の中で、この20年間で、給与が下がっているのは、先進国ではほぼ日本だけなのです。この20年のうち、先進国はどこの国でもリーマン・ショックを経験し、同じように不景気を経てきました。でも、OECDの統計によると、先進国はどこの国も、給料は上がっているのです。EUやアメリカでは、20年前に比べて平均収入が30ポイント以上も上がっています。日本だけが20ポイントも給料が下がっているのです。つまり欧米と比べれば、50ポイントも給料の増加率が低いのです。
逆に言えば、日本のサラリーマンは、すぐにでも金持ちになれるということでもあります。今より、給料が50ポイント上がれば、ほとんどのサラリーマンはかなり豊かな、金持ちの気分を味わえるはずです。
しかもそれは決して無理なことではないのです。日本の企業が、他の先進国並みの給料水準にすれば、すぐに達成できることです。そして、日本の企業は、そういう資金的な体力は十二分に持っているのです。企業は内部留保金(貯金)を天文学的に増やし続けています。2017年末の時点で、内部留保金は446兆円にも達しています。この14〜15年で倍以上に膨れ上がっているのです。
446兆円という金がどの程度の金額か、一般の人には想像ができないでしょう。国の税収の8〜9年分にも及ぶのです。
これを見れば、「日本企業はバブル崩壊以降、かなり儲かっており、長い好景気の時期があった」「にもかかわらず、サラリーマンの給料が上がらなかった」「だから、国民のほとんどは好景気を実感していない」ということなのです。この図式は、誰も否定できないはずです。もし否定できるものなら、ちゃんとデータをあげて否定してほしいものです。そして、この図式を見たとき、日本経済がやらなければならないことは明白です。「企業が社員の給料を上げる」ということです。政府には、他の余計な経済対策など一切しなくていいから、この点のみを集中してやって欲しいものです。  
 
 
 
 
●公務員の給与が5年連続で増え続けるワケ 12/19
庶民感覚では納得がいかない給与増
消費増税が迫る中、巨額の借金を抱えて財政難に陥っているハズの「国」の公務員の給与とボーナス(期末、勤勉手当)がまたしても引き上げられた。引き上げは5年連続である。11月28日に給与法改正案が与野党の賛成多数で可決され、成立。8月の人事院勧告にそって、2018年度の月給が平均で655円、率にして0.16%引き上げられるほか、ボーナスも0.05カ月増の年4.45カ月分になることが決まった。
増額分は4月にさかのぼって年明けから支給され、平均年収は3万1000円増の678万3000円になるという。人事院勧告は民間の動向を踏まえて毎年の賃金の増額率を決めている。「民間並み」と言うわけだが、どう考えても庶民感覚では納得がいかない。
本来なら人件費を含む歳出削減を行うべき
「我が国の債務残高はGDPの2倍を超えており、先進国の中で最悪の状況」だと財務省は言う。歳入(収入)よりも歳出(支出)が大きいのが原因で、本来なら、まずは人件費を含む歳出削減を行うのが筋だ。
ところが官僚たちは、自分の給料が毎年上がることについては「当然」だと思っているようだ。来年度予算では一般会計の総額が史上初めて100兆円を突破する見通しで、財政の肥大化が進む。まったく合理化で財政を引き締めようという気配は表れない。
「借金が増えているのは、政治家が悪いのであって、官僚に責任があるわけではない。給料は労働の対価なので、賃上げは当然だ」という声が上がる。
民間企業で働いている人たちからすれば、会社が大赤字になれば「賃上げは当然」などとは決して言えない。会社が潰れてしまえば元も子もないからだ。だが、公務員の場合、国が潰れるとは思っていない。つまり「親方日の丸」体質だから、賃上げは当然と思えるのだろう。
「定年の延長」も事実上決まっている
公務員については、もうひとつ驚くべき「計画」が進んでいる。定年の延長だ。現在60歳の定年を2021年から3年ごとに1歳づつ引き上げ、2033年に65歳にするというもの。人事院が意見として内閣と国会に申し入れているものだが、国民がいまいち関心を払っていないうちに、事実上決まっている。さらに60歳以上の給与については、50歳代後半の水準から3割程度減らすとしている。
民間では高齢者雇用安定法によって、定年後は希望する社員全員について65歳まで働けるようにすることを義務付けた。ただし対応策は3つあり、(1)65歳までの定年延長(2)65歳までの継続雇用(再雇用)制度の導入(3)定年制度の廃止のいずれかが求められている。定年を廃止するケースでは、給与は実力主義に変え、年功序列賃金を見直す場合が多い。
民間の対応で最も多いのが65歳までの継続雇用(再雇用)制度の導入で、定年になっても雇用されるものの、再雇用のためそれまでの条件が白紙になり、給与が激減することになる。
定年延長に合わせて年功序列の見直しを
霞が関が考えている公務員の定年延長は、再雇用ではなく、定年の延長。ただし、それだと年功序列の賃金体系では給与が増え続けてしまうので、50歳代後半の7割にする、というのである。これが「民間並み」の制度見直しなのだろうか。
公務員の定年が伸びるに従って、公務員の人件費総額は増え続けることになる。2018年度予算での公務員の人件費は5兆2477億円。これに国会議員歳費や義務教育費の国庫負担金などを合わせた人件費総額は8兆円を超えている。
人件費が膨らむ問題もあるが、高齢者が官僚組織に居残ることになり、それでなくても高齢化が指摘されている官僚機構での、若手の活躍の場を失わせることになる。本来ならば、定年延長に合わせて年功序列の昇進昇給制度を見直し、若くても重要ポストに抜擢できるようにすべきだろう。
身分保障で守られている国家公務員の世界で抜擢を行うためには、成績を上げられない官僚の「降格」制度を作るしかない。だが、日本の今の制度では、官僚の降格はまず不可能だ。いったん、昇格したら定年まで給料が減らないのが公務員の世界である。
給与水準に「高過ぎる」「安過ぎる」は不毛
国家公務員の給与水準について「高過ぎる」「安過ぎる」といった議論は不毛だ。人事院は公務員の給与を決めるに当たって、「民間企業従業員の給与水準と均衡させること」を基準にしている。だが、しばしば指摘されるように「民間」といっても「企業規模50人以上かつ事業所規模50人以上の事業所」を比較対象にしている。中小零細企業はもともと相手にしていないわけだ。
給与水準は職種や仕事の内容によって大きく差があり、どの数字を使うかでまったく姿が変わる。国税庁の民間給与実態統計調査では2017年の平均給与は432万円ということになっているので、これと比べれば公務員給与は200万円以上も高い、という話になってしまう。
問題は、労働の対価として適正かどうか、という観点でみるべきだろう。中央官庁の官僚は給与に見合った働きをしているか、それだけの時間とコストを費やすべき仕事をやっているか、ということだ。
本当に「税金を使って」やるべき仕事か
中央官庁の場合、幹部官僚にとっての「成果」は新しい仕事を作ること。法律を通して事業を行うわけだが、いったん出来上がった仕事はなかなか見直されない。実際の内容はほぼ同じなのに名前を変えて事業を続けるということはあるが、過去からの事業を廃止するということは滅多にやらない。それをやると、予算と人員が減らされることになるからだ。課長としての能力は「いかに予算を取って来るか」であって、「いかに効率化したか」ではない。よって、中央官庁の仕事はどんどん膨らみ、官僚たちは日々、忙しく働いている。
だが、それが本当に「税金を使って」やるべき仕事なのか、という検証はなかなかされない。
基本的に官僚機構の仕事は「付加価値」を生まない。あるいは付加価値がごく小さいものだ。付加価値を生む事業だったら、さっさと民間に任せればよい。それが規制改革による民営化の原点だ。だが、ともすると、官僚機構は「公益性」の名前の下で、本来は民間ができることまで官僚機構でやろうとする。
産業革新投資機構の問題も根は同じ
経済産業省との対立が表面化した官民ファンド、「産業革新投資機構(JIC)」の問題もそこにある。経産省が「世界レベルの政府系リスクキャピタル投資機関を作る」という理念を打ち出し、それに賛同した日本を代表する金融人、経営者、学者が経営に参画して発足した。
ところが発足から2カ月あまりで、JICの取締役11人中、経産省と財務省の出身者2人を除く民間人9人が一斉に辞意を表明する事態に陥った。
きっかけは給与。成功報酬を含めて1億円を超す報酬体系を決め、世界に通用する人材を雇ったものの、「JICは国の資産を運用する機関で、高額報酬は国民の理解を得られない」という経産省が報酬案を白紙撤回、それに怒った民間取締役が辞表をたたきつけたというわけだ。
参画した社外取締役の経営者たちは、日本政府がリスクマネーを供給してイノベーションを起こす仕組みが作れる、と期待を寄せたようだが、経産省にはしごを外される結果になった。これも、どこまで「官」は口をはさみ手を出すべきなのか、官僚機構の基本的なあり方が定まっていない、ということなのだろう。
国民全体が「国への依存」を強めている
ともかく官僚機構が民間のやるべき分野にまで口を出し、人を送り込み、カネも出す、というのが今の日本。民営化したはずの日本郵政にしても、事故で事実上破たんした東京電力にしても、事実上国が過半の株式を保有する。「国の機関」化が進んでいる。
官僚機構が肥大化し、その人件費が膨らめば、最終的には国民がそれを負担することになる。5年連続で公務員給与が増えても、ほとんど大きな批判も反発も起きなくなった。そんな日本では、国民全体が「国への依存」を強めているように見えてならない。国からのおカネに頼る組織や企業、個人が増えていくということは、「タックスイーター」が増殖していることに他ならない。誰が「タックスぺイヤー」としてこの国の将来を担っていくのか。そろそろ真剣に考える時だろう。 
 
 
●神武景気
日本の高度経済成長のはじまりの1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称のことである。1955年(昭和30年)に数量景気(すうりょうけいき)とも呼ばれた。
日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。
この好景気によって日本経済は戦前の最高水準を上回るにまで回復し、1956年(昭和31年)の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。また、好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現した。
1956年(昭和31年)末には景気が大幅に後退し、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられたが、この名前は一般的なものとはならなかった。
また、当時は「神武以来(じんむこのかた)の○○」という言葉が流行した(「神武以来の美少年(美輪明宏)」、「神武以来の天才(加藤一二三)」など)。
この好景気が終わると約1年間のなべ底不況に陥っているが、その後には42か月間続く岩戸景気と呼ばれる好景気が発生している。
 
 
●岩戸景気
日本の経済史上で1958年(昭和33年)7月〜1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称である。
神武景気、いざなぎ景気と並び、戦後高度成長時代の好景気の一つ。景気拡大期間が42か月と神武景気の31か月をしのぎ、神武景気を上回る好景気から、神武天皇よりさらに遡って「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられた。
過剰な投機熱による技術革新によって支えられた。設備投資が景気を主導し、順調に発展していた。一社の民間企業の設備投資が、別の会社の設備投資を招き、「投資が投資を呼ぶ」といわれた。特需の役割は神武景気時代より低比重の一方、外国資本の流入が急増(外国資本の純流入額は外貨調達源として12%)し、日本からの資本の流出の増加を大きく上回ったことによって資本取引面の比重が上昇。
前年の1957年(昭和32年)7月より発生していたなべ底不況(デフレーション現象)の景気後退で停滞的傾向の強まった石炭や海運産業等と、景気後退をほとんど受けなかった電気機械・精密機械・自動車など、あるいは受けたが回復の早かったいわゆる成長産業(鉄鋼・化学・石油精製等)との格差が目立ってきた。これは基本的には技術革新による産業構造の変革期である。
1 好景気によって若年サラリーマンや労働者の収入が急激に増加し、国民の間に「中流意識」がひろがっていった。各企業はこの頃から技術・管理・販売部門の拡大に乗りだしたが、いわゆるホワイトカラー層の増加と賃金の大幅な上昇が大企業のサラリーマンを中産層に押しあげていった。中産層は大量消費社会のリード役を果たす。
2 中産層の増大と消費ブームの到来は、生産と消費に介在する流通システムにも大きな変革を促した。大量生産・大量消費の時代には、従来の伝統的な流通チャネルだけでは、もはや適応できなくなった。食料品・繊維製品・台所用品・化粧品・医薬品などの小売市場に、スーパーマーケット、スーパーストアなどの大型店舗が出現、豊富な品ぞろえと大幅な値引き販売で顧客を集め始めた。スーパーを代表とする大型量販店の出現は、「生産者→問屋→小売」という、従来の流通経路に革命的な変化をもたらしたという意味で流通革命と呼ばれた。物情騒然とした状況がつづき、一国の総理大臣が代わっても、日本経済はそんなこととは関わりなしに右肩上がりに突っ走っていった。
昭和34年度
実質経済成長率は前年度比11.1%増
鉱工業生産は25.0%増
民間企業設備投資(実質)は32.6%増加
国民総生産(GNP)前年比17.5%増と戦後最高を記録
昭和35年度
実質経済成長率は12.1%と2年続いて2桁成長。
国民総生産(GNP)前年比14.0%増
後退
投資が活発となり景気は好調となったが、実体経済の成長に伴って、景気はずるずると下降線を引いていった。池田勇人首相内閣により「所得倍増計画」提唱、技術革新と近代化で高度成長が可能になるという理論をもとに主張された。この計画のもとで、経済は予想を大きく上回る成長を遂げたが、1960年度末になると徐々に好景気も末期症状を見せるようになって、それまで安定していた消費者物価が上がり始めた。
岩戸景気の後、短期間(10か月)の不景気(転型期不況、転換型不況、昭和37年不況)を経て、1964年東京オリンピックによる好景気、いわゆる「オリンピック景気」がある。  
 
 
●いざなぎ景気
1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの57か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称。
長らく第二次世界大戦後最長の景気拡大期間とされてきた。しかし、2002年1月を底に続いた景気回復(いわゆるいざなみ景気)が2008年2月までの73か月間続いたことにより、期間については最長記録を更新された。
いざなぎ景気という名称は、神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。「いざなぎ」とは日本神話で、天つ神の命をうけ日本列島をつくったとされる男神「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」から。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は天照大神(あまてらすおおみかみ)・素素戔嗚尊(すさのおのみこと)の父神。
景気の推移
1964年東京オリンピック翌年(1965年)の証券不況(構造不況、昭和40年不況)は、それまでの第二次世界大戦後の不況のように、政策金利の引き下げなどの金融緩和による金融政策だけでは改善せず、政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定し、翌1966年に発行した。これと前後して、景気は回復しはじめ、いざなぎ景気がはじまった。
1970年の八幡製鐵と富士製鐵の合併による新日本製鐵(新日鉄)の誕生など、貿易や資本の自由化への対応のために、国際競争力の強化をめざして規模拡大のための企業の大型合併が多数実現した。トヨタ・カローラや日産・サニーといった低価格の大衆車の発売によってマイカーブームが起こり、東京オリンピック(1964年)を機にカラー放送が本格化したことからカラーテレビの普及率が急速に高まった。
所得水準の向上によって、エアコン(クーラー)の購入も増加し、車 (car)、エアコン (cooler)、カラーテレビ (color TV) が3C(新・三種の神器)と呼ばれ、消費の大幅な伸びも見られた。いざなぎ景気の間に日本経済は大きく拡大し、世界第二の経済大国となった。
これ以前の景気拡大では、国際収支の悪化が起こり、外貨準備の減少を防止するために金融政策の引締めによる景気抑制が必要となるという「国際収支の天井」が景気拡大の制約条件だった。しかし1960年代半ばになると国際収支(経常収支)は黒字基調となって、景気拡大の制約条件ではなくなってきた。1969年9月には公定歩合が6.25%にまで引き上げられているが、同年の経常収支は2119(百万ドル)の黒字であった。いざなぎ景気は、景気過熱による賃金・物価の上昇加速を抑制しようとした金融引締めと設備投資の行き過ぎが引き起こした投資循環によって後退に向ったと考えられている。
神武、岩戸景気を上回る景気である事から、さらに時代を遡って伊邪那岐尊の名をとって「いざなぎ景気」と命名した。2002年2月から回復局面に向かい、2008年2月まで73か月間続いた景気で現状は一番の景気の名称(通称)ではないが、この「いざなぎ景気」を超える長さであることから、伊邪那岐尊の妻である伊邪那美尊の名を取って「いざなみ景気」と命名するマスコミもいる。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


2018/12
 
●戦後日本経済の歩み 
 
 
●高度経済成長期
好景気の名称
復興に向かった日本経済は、その後、世界に例のない高度成長成長期に入っていく。1955年から1973年まで、日本の実質経済成長率は年平均10%を超え、欧米の2〜4倍にもなった。それぞれの時期の好景気には呼び名がつけられているが、それらはマスコミがつけたものだ。
1955年からの好景気は「こんなに景気がいいのは神武天皇(初代天皇)以来のことではないか」などという声が出て、神武景気と名づけられた。次の1958年からの好景気は神武景気より景気がよかったので、「神武天皇より前の名前がつけられないか」ということになって、日本神話の「天の岩戸」のエピソード(神武天皇の祖先の天照大神が天の岩戸に隠れた話)から岩戸景気と名づけられた。1965年からの好景気は、岩戸景気より長く続いたので、「天の岩戸」の前にさかのぼったエピソードから名前をつけようと、国造り神話に登場する「いざなぎのみこと」の名前をとって、いざなぎ景気と呼ぶことになった。「いざなぎ」の奥さんの名前が「いざなみ」で、2人の子どもが天照大神(あまてらすおおみのかみ)である。
神武景気の1956年度の経済白書では、『もはや「戦後」ではない』という言葉が使われた。国民1人あたりの消費高が1953年に戦前の水準を突破したことを受けている。
岩戸景気(1958年〜1961年)の頃は、せんい・機械の輸出好調を背景に、工場建設など企業の設備投資がさかんに行われた。神武景気からの好景気を支えたのが民間の設備投資だった。特に、鉄鋼・化学・電力などの素材産業で活発な設備投資が行われた。こうした当時の状況を『投資が投資を呼ぶ』と、1960年の経済白書で表現した。
これらの産業では、「規模の利益」(=生産設備の規模拡大で単位あたりの生産費用が低下し、企業にとって利益が生じること)が追求された。また、石油化学産業では、外国から新しい技術を取り入れ、技術革新を行い、太平洋沿岸の各地に鉄鋼・石油化学などの臨海工業地帯をつくった。そこにコンビナートが作られ、関連産業を集めた「集積の利益」が追求された。
1960年―――池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表する。
国民の所得も増え、この時期、「白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機」が三種の神器として消費ブームを巻き起こした。こうした個人消費も国内需要(内需)を拡大させ、景気を引っ張った。
前半期は、内需に依存した設備投資主導型の経済成長だったので、《好景気になると原材料の輸入が増える。そうなると国際収支が悪化して外貨(ドル)不足となり、日銀が金融引き締めを行う。金融引き締めを行うと景気が落ち込む》というパターンの繰り返しだった。
白黒テレビから流れるCMが人々の消費欲をかき立てた。冷蔵庫が登場する前は、家で飲むビールやジュースはなま温かかった。冷蔵庫で冷やすとおいしいことがわかり、冷蔵庫の普及とともにビールや清涼飲料水が爆発的に売れることになる。こうして消費ブームが起こり、ますます経済は成長していった。
洗濯機が登場する前は、洗濯板で洗っていた。水と洗剤を入れてスイッチを入れれば洗濯してくれるとは画期的なことで、電気がまの登場で早起きをしなくてもすむようになり、家事にかける時間は飛躍的に短くなって、女性の社会進出が進んだ。ただ、当時の脱水はまだ、手でローラーを回して水を抜くものだった。
東京オリンピックの映像は一部カラーで残っている。開会式の日は快晴で青空だった。しかし、この頃の東京の空は晴れても灰色で、PM2.5よりもすごく、排気ガスや工場のけむりが原因で発生したスモッグに覆われていた。東京タワーの上から東京を見下ろすと、街がかすんで見えなかった。そんな東京の街の中でマラソン競技が行われることに対して、非人道的だという非難も出たほどだ。
国際的地位の向上
1952年――日本は、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD/世界銀行)に加盟する。
1955年――日本は、関税と貿易に関する一般協定(GATT)に加盟する。
この時期の日本は、国内産業を保護するため、貿易制限や為替制限(輸入や投資に必要な外貨の両替を制限)を行い、外国資本の日本への対内投資についても強く抑制していた。
日本が国際経済への本格的な復帰を果たすのは、高度成長期に入って、岸内閣が開放経済体制への以降を基本方針としてからである。
1960年、岸内閣は「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定し、日本経済を開放経済体制へ移行させる方針を決めた。
1963年―――日本は、GATT12条国からGATT11条国へ移行する。
※GATT11条国――国際収支を理由とした輸入の数量制限を禁止されている国。数量制限が許されている国のことをGATT12条国という。
1964年―――日本は、IMF14条国からIMF8条国へ移行し、貿易の自由化を行う。
※IMF14条国――国際収支の赤字を理由に、為替の制限が許されている国。
※IMF8条国――国際収支を理由とした為替の制限を禁止するなどの条項。具体的には、外国為替の売買や保有を自由に認められた。
1964年―――経済協力開発機構(OECD)への加盟が認められる。
経済協力開発機構(OECD)は、経済成長の促進、発展途上国への援助などを目的とする先進国の政策調整のための国際機関で、先進国クラブともよばれる。これによって、日本は資本の自由化を義務づけられた。資本の自由化とは、外国からの投資を制限しないということだ。1976年に、農林・水産・皮革・鉱業の4業種を除いて、資本の自由化が完了した。
1965年からのいざなぎ景気の特色は、輸出主導型の経済成長である。設備投資の進んだ重化学工業の分野で国際競争力が強化され、鉄鋼・電気製品の輸出が増大したことにより、国際収支の天井が解消された。経常収支は常に黒字となり、政府も国債を発行して公共投資の拡大をはかる中で、いざなぎ景気は57ヵ月という戦後最長の大型景気となった。
国民生活では、「マイカー、カラーTV、クーラー」の3Cブームが起き、普及していった。
こうして、1967年から段階的に資本の自由化を進め、開放経済体制に入っていった。
1968年―――日本は、GNPが自由主義経済国内でアメリカに次いで第2位となる。
誰もが海外旅行に行けるようになったのは、1964年4月1日からである。ツアー料金はヨーロッパ17日間が約70万円、ハワイ9日間が36万円である。ちなみに大卒初任給が2万円の時代である。
それまでは海外渡航は厳しく制限され、政府関係者や企業の業務、留学などに限られていた。戦後の日本は外貨が不足しがちで、外貨流出を防ぐ必要があったからだ。
自由化後もしばらく、観光渡航は年1回、外貨持ち出しは1人500ドルまでという制限があった。1970年代に入ると、ジャンボ機の就航による割引運賃が導入され、旅行費用が大幅に下がって海外旅行の一般化が進んだ。1990年に出国者数は1000万人を突破し、2012年は1849万人である。
高度経済成長の背景
1)技術革新と設備投資
企業は賃金コストが小さく利潤が大きいので、これを設備の改善と拡大に向けた。各企業が競って欧米諸国から技術を導入し、技術革新や設備投資を行った。この結果、生産性が大幅に向上し、大量生産が行われるようになった。
2)日本人の高い貯蓄率
高い貯蓄率のもとに集められた預金が、銀行を通して企業の資金にまわされ、設備投資資金にあてられた。豊富な資金が間接金融により企業へ供給されたのだ。
3)豊富な労働力
農村から都市へと流れた教育水準の高い勤勉で優秀な労働力を、比較的安い賃金で雇うことができた。また、終身雇用・年功型賃金などの労使慣行に支えられ、特に民間企業で協調的な労使関係が形成されていたことも大きい。
4)国際経済情勢
高度経済成長を原料やエネルギー源の面から支えた原油をはじめ多くの鉱山資源を安く容易に入手できた。また、1ドル=360円という固定相場が維持され、輸出を増加させた。世界的にも好景気で、日本の商品が海外市場に多く輸出された。
5)国内市場の拡大
国民の所得水準が上昇し、家電製品や自動車など耐久消費財を中心に国内市場が拡大した。
6)政府の産業保護・助成政策
政府が道路・鉄道・港湾など生産関連社会資本を整備したり、税制上の企業優遇措置を行うなどした。
高度経済成長がもたらしたもの
1)大都市への人口集中により、過疎・過密の問題、さらには公害問題が発生した。
大都市では住宅事情が悪化し、交通渋滞・騒音・ゴミ問題など生活環境が悪化した。日本のGNPが資本主義国で第2位となったのは1968年だが、四大公害裁判の開始は1967年、公害対策基本法の制定も1967年、環境庁の設置は1971年である。
2)産業構造の高度化
第一次産業の比重が低下し、第2次産業、さらに第3次産業に比重が移った。また、第2次産業の中でも軽工業から重化学工業に比重が移り、第3次産業が拡大し、経済のソフト化・サービス化が進んだ。日本の産業は「重厚長大(ジュウコウチョウダイ)」(製鉄や造船、大型機械、化学工業)から「軽薄短小」(情報、サービス業、電子工業/車や電気製品の組み立てにロボットやオートメーション機構を使ってコストを下げることができる産業も含まれる)へと移ってきた。軽薄短小型産業への移行は、ME(マイクロエレクトロニクス)革命を中心に進められた。
※経済のソフト化・サービス化―――機械や装置をハードと呼ぶのに対して、ハードを利用するための知識がソフトである。モノを作るよりも、知識・サービス(ソフトウェア)の比重が高まり、情報・通信の果たす役割が大きくなっていくこと。
※鉄鋼や石油化学などの素材型産業は、大量の資源やエネルギーを消費し、生産・輸送・貯蔵などのために大きな設備や港湾を必要し、あらゆる面で重厚なので、重厚長大産業といわれた。
※ME(マイクロエレクトロニクス)革命―――集積回路(IC)や大規模集積回路(LSI)を応用した電子技術をMEという。産業用ロボットで生産工程を自動化するFA(ファクトリー・オートメーション)化や、ファクシミリやパソコンによるOA(オフィス・オートメーション)化が推進された。こうしたME技術の進歩とその応用の広がりをME革命という。
産業構造の高度化は、17世紀、イギリスのペティによって示唆され、20世紀にコーリン・クラークが統計的に実証したので、ペティ=クラークの法則と呼ばれている。
ウィリアム・ペティは、農業・工業・商業の順に収益が高くなることを指摘し、コーリン・クラークが一国の経済が発展するにつれて、第一次産業が衰退し、第二次産業、ついで第三次産業の比重が増大することが観測できると実証的に示した。
3)生活スタイルの変化
高度経済成長は、サラリーマンとして雇用される人を増加させ、女性の社会進出をもたらした。子どもの世界では、受験戦争が激しくなった。
「3種の神器」「3Cブーム」など家庭電器製品や乗用車など耐久消費財が普及し、人々の暮らしを大きく変えた。大量消費時代が来ると、人々の価値観も変わり、モノやお金へのこだわりが強まった。
高度経済成長の終焉――安定成長へ
1973年秋――石油危機が発生し、日本経済も混乱する。
石油危機は、1973年10月に起きた第四次中東戦争が原因だ。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が対立するイスラエルを支援する国(欧米や日本)に対して、原油の輸出を減らしたり、原油価格を上げる石油戦略を実施した。これによって、原油価格が世界的に急騰した。
原油の輸入価格が約4倍にはね上がり、日本の国際収支は赤字となった。「列島改造ブーム」でインフレが進行していたところに、原油価格の高騰が油を注ぐ形となり、狂乱物価と呼ばれるほど上がっていった。この時期、卸売物価指数が消費者物価指数よりも高い上昇率になっていた。物価は上昇するが、不景気であり、スタグフレーションに陥った。
Qそこでとった政府の政策は?
狂乱物価を抑えるため(インフレ克服のため)、総需要抑制政策を行った。
(内容)
1財政支出の抑制(公共事業も削減)
2公定歩合の引き上げ(1973年には最高最高水準の9%まで)
(結果)
1狂乱物価(インフレ)はおさまった
21974年の経済成長率は−0.2%と戦後初めてのマイナスを記録したが、その後は3〜5%の安定成長(1974年〜1980年代前半)に移行することになる。
1974年の戦後初のマイナス成長で、政府は2兆円規模の所得税減税を行った。
石油危機の下で、日本経済は不景気であるにもかかわらずインフレが進行するという事態(=スタグフレーション)が起こった。不景気とインフレは今までなかった組み合わせだ。
<政府の不況対策>
・財源不足を補うため、1975年度の補正予算で特例国債(赤字国債)の大幅発行に踏み切る。
他の先進国でも石油ショックの影響は大きく、フランスのジスカールデスタン大統領の提案で、1975年、フランスのランブイエで第一回のサミットが開かれた。
1979年―――第2次石油危機が起こる。
イラン革命(1978〜1979年)による原油輸出の中断が原因で、原油価格は、1978年末〜1980年にかけて2.4倍に上昇した。欧米諸国では、失業率が10%を超える経済危機に直面した。しかし、省資源化の進んでいた日本は比較的、短期間で乗り切ることができた。
Q石油危機によって企業にはどんな変化が起きたか?
1970年代の石油危機という厳しい環境下で、高度経済成長から低成長に移行し、省エネ・省資源が叫ばれると、企業は減量経営を行う一方で、積極的にME(マイクロエレクトロニクス)技術の導入を進めるなど、経営の合理化に努めた。
※減量経営――不況や低成長など経営環境の悪化に対応して、企業体質の軽量化を図ること。経費削減の他、正規従業員の削減、非正規従業員の動員、赤字部門の切り捨てなどが行われる。
※ME(マイクロエレクトロニクス)技術導入で、FA化(工場の自動化)・OA化(事務の機械化)が進む。
重厚長大産業から軽薄短小産業への変化したことで、企業は資本集約型(素材型)から知識集約型産業への脱皮を図ろうとした。
※知識集約型産業―――研究開発従事者比率が高い高付加価値型産業の総称。コンピュータ、IC産業や情報処理サービスなどの知識産業が典型。
日本経済は、この石油危機によって突然ゆきづまったわけではない。高度経済成長が限界に達した背景には、次の点も見逃せない。
1)物価の上昇
高度経済成長で賃金が上昇し、物価も上昇した。
2)国際通貨制度の動揺
1971年のニクソンショックで、日本の高度経済成長を支えたブレトン=ウッズ体制が動揺した。円の切り上げは輸出関連企業を中心に円高不況感を生んだ。
3)公害問題などの環境問題が発生
本当の豊かさとは何かを問う声が広がり始めた。
対外投資の歴史
1951年に、日本の直接投資が再開された。1960年代、韓国・インドネシアなどは独裁体制の下で日本からの援助や外資を積極的に導入して経済開発を進めた。1970年代になると、イランなど中東の石油資源開発型の直接投資が増加した。
1971年のニクソンショックで、日本の輸出環境が悪化したため、繊維など労働集約型の産業を中心に、労働賃金の安い東南アジアへの工場進出が急速に拡大した(=第一次海外進出ブーム)。
1970年代後半には、高まる貿易摩擦を緩和するため、輸出拡大の方針を転換して、先進諸国、特にアメリカへの直接投資が活発化し、現地生産を行うようになった。1985年のプラザ合意以降、急激な円高を背景に、日本企業のグローバリゼーションとあいまって、北米やEC諸国など先進国への直接投資が拡大した。
1985年のプラザ合意以降、日本企業のアメリカ企業買収や不動産への投資が急増したため、アメリカ議会や企業、労働組合などが反発し、日米投資摩擦が起きた。
1980年前半は、アメリカの高金利政策(レーガノミクス)の恩恵にあずかろうと、日本の機関投資家(銀行・生命保険会社など)を中心に、ジャパンマネーによるアメリカ国債などへの証券投資(間接投資)が増大した。
海外に持っている債権(対外資産)が債務(対外負債)を上回っている国を債権国、逆に債務が上回っている国を債務国という。日本の対外純資産は、1985年にイギリスを抜いて世界第一位となった。日本は現在も世界最大の債権国である。一方、アメリカは1980年代後半に債務国へ転落した。
 
 
●バブル経済と平成不況
プラザ合意
変動相場制へ移行して、為替レートが短期間のうちに、不安定な乱高下を繰り返すようになった。そのため、先進国が協調して為替レートを管理していく重要性が認識され始めた。
1980年代はじめ、日本は対米輸出の急増により、世界最大の貿易黒字国となった。経営の合理化や産業構造の転換を終えた日本は国際競争力を強め、欧米諸国に集中豪雨的と呼ばれる激しい輸出をして、貿易摩擦が深刻化していった。
1981年にアメリカの大統領に就任したレーガン大統領は、アメリカの経済力と軍事力の強化を図ろうとした。それまでのケインズ政策とちがって「小さな政府」を主張したレーガンは、政府支出の抑制、大幅な減税、規制緩和などのレーガノミックスと呼ばれる政策を行った。
しかし、一方で、軍事支出の激増によって財政赤字は拡大し、アメリカは高金利政策をとったのでドル高になり、アメリカの輸出競争力を弱めた。1980年代のアメリカは財政赤字と経常収支の赤字が同時に進行する「双子の赤字」に悩まされ、アメリカ国内では保護主義が台頭し始めた。
保護主義傾向に危機を感じた先進諸国は、会議を開いた。
1985年―――ニューヨークのプラザホテル(セントラルパーク付近)で、G5が開かれる。
※G5―――先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議。5ヵ国とは、日・米・英・仏・西独である。
(内容)ドル高を是正するため、日本・アメリカ・ドイツの通貨当局がドル売りの協調介入(円高ドル安にしようとした)で合意する。
プラザ合意に出席したのは竹下登蔵相(DAIGOの祖父)。竹下は記者たちに渡米がばれないように、成田にゴルフをしに行くといって出かけた。ゴルフプレー中に記者があきらめて帰ったので、急いで成田空港へ行った。そこでは秘書が着替えを持って待っていた。マスコミをだますほど、プラザ合意は秘密裏に行われた。
Qプラザ合意後の影響は?
急激な円高ドル安が進行し、1ドル=240円台だった為替レートは、1年後には1ドル=120円台まで円高となった。
円高を利用した海外直接投資が増大し、資本収支は大幅な赤字となった。この時期、日本企業によるアメリカの企業や不動産の買収が盛んに行われ、日本の直接投資は1999年までは巨額であった。
急激な円高は日本企業を直撃し、円高によって日本製品の国際競争力は低下したので、輸出主導型で成長してきた日本経済は円高不況に陥った(1986年)。
企業の中には円高の影響を回避するために、生産拠点を労働力の安い東アジアに移したり、貿易摩擦を回避するために現地生産を進めた。外国で生産した工業製品の逆輸入やOEM生産(相手先ブランドによる供給)が増加した。これにより、国内では製造業が衰弱化する産業の空洞化が起きた。
エネルギー・原材料に代わり、製品輸入が増大した。特に、アジアNIESからの安価な製品輸入の増大により、日本の貿易構造は大きな変動期を迎えた。
日本政府は、中曽根首相の私的諮問機関の報告書・前川レポート(1986年)で提唱された内需拡大の方針に沿って、公共投資の拡大、輸入の拡大、貿易黒字の縮小をめざす内需主導型経済への転換を進めた。
1987年―――フランスでG7が開かれ、ルーブル合意がなされる。
※G7―――G5の国に、イタリアとカナダが加わる。
(内容)G5諸国は貿易黒字国の協調利下げと、アメリカの利上げを決め、ドル安を止めようとする。
日銀は金融緩和政策に踏みきり、公定歩合を下げ、1987年には過去最低の2.5%とした。こうして為替相場が安定し、この低金利政策(日銀は公定歩合を7回にわたって引き下げる)によって生じた余剰資金が株式や土地投機へと向かい(=財テク)、内需主導型の空前のバブル(1986年〜1991年)が発生した。1987年から景気は再び上向きに転じ、平成景気がスタートした。
平成景気(バブル経済)
日本では、1986年11月から1990年中頃まで平成景気と呼ばれる好景気が続いたが、これが、バブル経済の時期であった。バブルとは、経済が実力以上に泡(バブル)のようにふくらんだ状態をいう。日本の土地や株は本来の価値とかけはなれた価格まで上昇し(資産インフレ)、個人や企業が持つ資産の価値が高まった。人々は高級ブランド品、大型乗用車、ゴルフ会員権、絵画、リゾートマンションなどを買いあさった。しかし、卸売物価や消費者物価は安定していた。その理由は、円高による輸入品の値下がりが影響しているからだ。
※1980年代後半の消費者物価指数は年間5%以下の上昇で推移していた。
バブルまでの流れ/アメリカの貿易赤字が増加→1985年プラザ合意→円高不況→低金利政策(金融緩和政策)公定歩合大幅引き下げ→資金が入りやすく土地や株に投資→バブル
しかし、バブルはいつまでも膨れつづけるわけではない。いつかははじける。
不動産融資総量規制と、湾岸戦争にともなう輸入原油価格の上昇からインフレになることを心配した日本銀行は、公定歩合を引き上げた。
その結果、銀行からお金を借りて土地や株を買う人が少なくなり、株安と地価の下落を生むことになる。
1990年2月―――株価は暴落する。
地価の動向をみると、右グラフのように、1991年3月を境に下がっている。
一度、株が下がると、多くの人が「このまま株が下がり続けたら、もっと大きな損をしてしまう」と考えるようになり、心配した人は、早めに株を売った。
その結果、さらに株価は下がった。つまり、バブル崩壊が起きたのだ。
1989年12月から1992年8月までの株価の低下率は63.3%に達した。
1991年3月から1993年10月まで、バブル崩壊による不況は続いたが、実質経済成長率は、1991年度が2.5%、1992年度が0.4%、1993年度が0.4%で、−にはならなかった。
バブル崩壊までの流れ/バブル(バブル景気・平成景気が1986年末〜1991年初めまで続いた)→不動産融資総量規制、公定歩合の引き上げ、地価税の導入→資金が入りにくくなり、土地や株を買う人が減る(地価・株価の下落)→バブル崩壊
平成不況(バブルの後遺症)
バブル崩壊後、企業はリストラと海外生産・海外進出によって不況乗り切りを図り、実質経済成長率も1995年度は2.8%、1996年度は3.2%と回復傾向にあったが、それは、まだ完全な回復ではなかった。
1993年から政府は「景気てこ入れ政策」として公共投資を行ったが、景気回復効果はなかった。長期の不況は税収を減少させ、公共事業の増大は赤字財政を引き起こし、大量の赤字国債を発行することになった。日本経済の低迷は先進国の中でも際だち、1990年代は「失われた10年」といわれるようになった。
バブルの崩壊は、金融機関からお金を借りて株や土地に投資した企業や個人に多額の損失をもたらした。銀行から資金を借りてまで投資した企業や個人は、借金の返済を迫られるが、担保としていた自分の所有する土地や株を売っても、バブル崩壊で価格が下がっているので(10億の土地が5億になったら、売ってもお金が作れない・・・)、返済するための資金にならない。銀行に借金が返せなくなる。銀行からみれば、回収できなくなったお金――これが不良債権である。積極的に融資を行っていた金融機関の多くは、貸し出し先が倒産したり、経営悪化に陥り、お金を返してもらえなくなりして、巨額の不良債権を抱え込んだ。
バブル崩壊は、地価や株価の下落を引き起こしただけではない。多額の借金だけが残った不安感と、1997年の消費税引き上げも重なり、人々はあまりモノを買わなくなり、個人消費は落ち込んだ。企業の経営は悪化し、不良債権を抱えた企業の中には、銀行などに借金が返せなくなって倒産する会社や、失業者が増えていった。そのため、多くの会社はリストラをやらざるを得なくなった。リストラとは、リストラクチャリング(re-structuring/企業の再構築)のことで、経営の建て直しという意味である。新規卒業者の就職難やリストラによる中高年層の失業が増加し、不景気は長期化した。
こうして、日本経済は、1997年から平成不況と呼ばれる長い不景気の時代に入っていく。
1997年度の経済成長率は−0.7%、1998年度は−1.9%と2年連続マイナス成長を記録した。
※戦後のマイナス成長は、石油ショック後の1974年にもある。
物価は、1990年代後半にデフレーションが発生し、長期にわたって下落した。
完全失業率は、1990年代から景気の拡張期でも上昇傾向にあり、1995年に3%を超えた。2002年には過去最悪の5.4%を記録している。
有効求人倍率は、2005年12月に約13年ぶりに1.0倍を回復した。しかし、地域間格差は深刻で、愛知県が1.94、東京都が1.42と高いのに対して、沖縄県は0.37、北海道は0.66となっている。(有効求人倍率は、2007年1月の数字)
平成不況の原因
1)消費税の5%への引き上げ(1997年4月)・・・個人消費の落ち込み
2)バブル経済の崩壊・・・不良債権と金融不安。バブル後遺症で金融機関が破たんしていく。不良債権の処理に追われる金融機関の貸し渋りは、企業の資金繰りを圧迫し、景気をさらに悪化させた。
不良債権を処理するってどういうこと?
不良債権を減らすことで、2つの方法がある。
1つは、不良債権は返ってこないものとあきらめて、借金の一部を帳消しにする「債権放棄」である。
貸した先の会社がまだがんばれそうだと銀行が判断した時に選ぶ。ただし、その分は銀行が利益や自己資金で穴埋めするので、必ず損をする。2つめは、貸した先の会社がつぶれてもかまわないと考えたら、担保を売り払って、全額とはいかなくても、貸した金を回収する。それでも足りない分は、やはり銀行が損をしたと認めて、自分のお金で穴埋めをする。どちらの方法でも、銀行は赤字になる。しかし、処理をさぼっていると不良債権はもっと増えるかもしれない。
バブル崩壊以後、銀行の中小企業への貸し出しは減る一方だった。なぜ、銀行は貸し渋りをするのか?国際業務をする都銀の場合、自己資本率が8%を下回ったら、自己資本率の低さによって、リストラ、経営責任の追及、自主廃業、破たん、などを余儀なくされる。この国際規制をBIS規制といい、これをクリアするために、分母にあたる貸出量を減らそうとする。
貸し渋りのやり口は、約束した融資額を一方的に削ったり、これまで必要なかった担保を新たに積ませたり、期限前なのに返済するように迫ったりする。
銀行の貸し渋りは、会社に資金が回りにくくなる。特に、中小企業は資金不足で、従業員の給料が払えなかったり、材料を買う費用がないので生産活動ができなくなったりした。こうして、経営が苦しくなり、倒産する会社が増えた。
失業して収入が減り生活が苦しくなったり、自分たちも失業するのではないかという不安から財布のヒモをきつくする。ますますモノが売れなくなり、景気はさらに悪化するのだ。貸し渋りはさらなる景気の悪化を招く。
金融システムの安定化
1997年11月24日―――山一証券が、自主廃業を決める。
山一証券をはじめ、金融機関の破たんが続いたので、政府は金融機関の安定化を考えた。
1998年2月―――金融システム安定化のため、公的資金(≒税金)投入の制度ができる。
政府は、自己資本比率の低下した銀行に公的資金を注入するとともに、不良債権処理・金融システムの安定化のための条件整備に乗り出した。1998年に金融安定化2法と金融再生法を制定する一方で、金融監督庁が設置され、さらに不良債権処理のために整理回収機構(RCC/日本版RTC)が設置された。
1998年6月―――金融監督庁が発足する。
▽大蔵省から銀行や保険会社などの検査・監督機能を分離・独立させることが目的である。
▽総理府の外局として設置された。
▽2000年7月には金融庁に改組される。さらに、2001年1月の省庁再編で、金融再生委員会の機能もとりこんで、内閣府の外局となった。
金融再生委員会は、金融機関の破綻処理を主要な目的として、総理府内に設置された。
預金者を金融破綻から保護するために、1971年に預金保険機構が発足した。金融機関があらかじめ預金保険機構に保険料を積み立てておき、経営が破綻した場合、預金保険機構が倒産した金融機関の預金者に一定額の払い戻しを行っていた。だから、金融機関の経営が破綻しても、預金保険制度により預金は全額が払い戻され、預金者は保護されていた。
しかし、2003年4月から(定期預金は2002年4月から)1人元本1000万円とその利子しか保護されないことになった。
1998年1月、大蔵省発表によると、不良債権の総額は76兆円にのぼるという。同年3月には、政府は銀行株を税金で買い(公的資金投入)、経営を支えた。
なぜ、金融機関だけが特別扱いされ、公的資金が投入されるのか?
経済のお金の流れは、人間の体の血液にたとえられる。銀行はお金の流れを取り持っている。血液が滞ると体調が狂うように、今の日本経済は、銀行の経営悪化が響いて、お金がスムーズに流れず、不況が深刻化している。銀行の経営破綻は、何千、何万という取引先に影響を与えるだけでなく、日本の金融システムの信頼性を損い、経済をいっそう悪化させる恐れがあるからである。
1998年9月―――金融再生関連法が成立する。
(内容)
破たん前の銀行⇒情報開示を義務化し、公的資金を注入し、健全化を図る。
破たん後の銀行⇒破たんした後、経営陣は退陣し、次の3つから選択する。そして、受け皿となる企業をさがし、売却・合併が行われる。これに失敗した場合、清算され消滅の道をたどる。
1)特別公的管理(一時国有化)する。
2)金融監督庁が金融整理管財人を派遣し、ブリッジバンクへ。
3)日本版RTC(整理回収機構)が不良債権を買い取る。
(注)整理回収機構は、政府から独立した株式会社の形をとっている。
1998年10月23日―――長銀の「破たん」を認定する。
政府は、金融再生関連法に基づき、長銀を特別公的管理(一時国有化)とした。特別公的管理の間に、従業員削減や給与引き下げなどの徹底的なリストラが行われる。
1998年12月―――日債銀が特別公的管理に移行する。
平成不況と不景気からの脱出
バブル崩壊後の不況は、平成不況と呼ばれ、企業倒産件数、完全失業率の高さからいっても大変深刻なものとなった。回収困難な巨額の不良債権が発生し、多くの金融機関が破綻して金融不安が広がった。バブル崩壊後の不況は、通常の景気循環型不況だけでなく、不良債権を抱えた金融機関の業績悪化が重なった複合不況だといわれる。1990年に6.0%あった公定歩合は、2001年には史上最低の0.1%になった。
民間企業は、リストラクチャリング(事業の再構築)を進め、新卒者の採用者数の削減や人員整理を行ったため、失業問題が深刻化した。
また、需要の冷え込み、円高による安い輸入品流入、ディスカウントショップの増加などで、企業主導の価格システムが崩れ、“価格破壊”という値下げ競争が激化した業界もあった。
不景気から脱出するために何をしたか?
1999年に行った政府の景気回復策は次の内容である。
1)所得税・住民税の減税
2)公共事業の拡大
3)地域振興券の配布(目的)需要を拡大すること
4)金融システムの安定化銀行への公的資金投入、破綻した銀行は一次国有化する。
不景気は悪いことばかりではない。不景気になると、できるだけムダなお金を使わないように、仕事の効率を考えたり、節約をしようとする。
例えば、車を作るにしても、以前よりお金をかけないで同じ性能の車を作ったり、より性能がいい車ができたりする。このように不景気の時は、会社は生き延びるために、頭を使ってムダをなくし、仕事の効率をよくしていく。そして、景気が回復した時、不景気の時の体験が生きて、今まで以上に成長する会社になったりするのだ。不景気になって初めて見えてくるものがあるのだ。不景気は、私たちに頭を使い努力するきっかけを与えてくれることもある。ピンチこそチャンスなのである。
景気対策で行われるのが、公共事業である。しかし、高度経済成長の時ほど効果が上がらなくなった。建設会社の数や従業員が増えたため、新たに公共事業に国がお金をつぎ込んでも、すべての会社が潤うわけではない。また、かつては新しく道路を作ることでガソリンスタンドができ、商店が進出し、交通が便利になることで経済発展に効果があったが、今や山の中に新しい道路を建設しているような状態で、経済の波及効果は望めない。
それよりは、インターネットに代表される情報産業が発展するように光ファイバーのネットワーク作りを進める方が効果がある。また、人が利用しない高速道路を作って赤字を増やすのではなく、高齢化社会を迎えて福祉施設を建設した方が国民にとってはるかにプラスになる。高齢化社会に必要な職を増やすことで、失業者を救済することになる。
浪費による景気回復でいいのか?
景気回復のため、政府は消費の拡大を呼びかけている。消費の拡大とは何か?自動車を買い替え、住宅を建て、家庭電化製品を買い、・・・つまりは、ムダ使いをしてほしいということだ。確かに、国民がムダ使いをすれば景気はよくなる。道路に穴をあけ、それを直す・・・こんな工事を国が発注すれば景気はよくなるかもしれない。しかし、国民にとって何のプラスにもならない。景気が回復するためなら浪費はいいことなのか?本当に国民にとって幸せな経済状態とは何か、景気回復策について論ずる時、その哲学が問われている。