「稲むらの火」

西日本豪雨 200人以上の犠牲者が出た
想定外の豪雨
個人一人ひとりの勝手な判断
不運

消防隊の判断で全員無事な町もあった
なぜか 「稲むらの火」を思い出した


 
 
 
 
 
 避難用語1
避難
災害対策基本法に定められた措置で、災害時や災害発生の恐れがある場合、市区町村長が発令できる。
避難勧告は、住民や滞在者の生命・身体の保護を目的に、住民に安全な場所への立ち退きを求める。さらに危険が切迫している場合の「命令」にあたるのが避難指示。
いずれも強制力も罰則もない。これより厳しいのが「警戒区域」の設定。市区町村長が強制的に立ち入りを禁じたり、退去を命じたりできる。  
 避難用語2
避難
台風などの災害時にニュースで「避難指示」や「避難勧告」という言葉を耳にしますよね。他にも「避難準備情報」というものもあります。これらはどんな時に発令され、どれが一番、緊急性が高いのでしょうか?この3つの中でもっとも緊急性が高く、強制力が強いのは「避難指示」です。その次が「避難勧告」で、一番弱いのは「避難準備情報」です。
避難準備情報
避難勧告や避難指示を行うことが予想される場合に、それに先立ち発令されます。被害が予想される地域の住民、特に高齢者ら避難に時間がかかる人に早めの避難を呼びかけるものです。
避難勧告
災害による被害が予想され、人的被害が発生する可能性が高まった場合に、発令されます。指定された避難所など安全な場所への避難を勧めるためのものですが、避難を強制するものではありません。
避難指示
状況がさらに悪化し、災害によって人的被害が出る危険性が非常に高まった場合や人的被害が発生した場合に発令されます。避難指示が出た場合は直ちに避難しなければいけません。ただ避難しなかった人に対する罰則規定などはありません。
ちなみに「避難命令」という言葉を聞くこともありますが、日本では法律に基づく「避難命令」はありません。法律で規定されているのは「避難指示」と「避難勧告」のみです。「避難準備情報」は法律による根拠こそありませんが、自治体が地域防災計画に基づき発令します。 
 避難用語3
避難
「避難勧告」「避難指示」「避難命令」の違い
避難勧告
避難勧告は、実際の災害が発生する前に、被害が生じる可能性が予想される地域に対して出されるものです。これは、居住者に立ち退きを勧め促しているもの。あくまで勧告ですから、聞き入れずに避難しなかった場合でもとくに罰則はありません。ただし、もちろん危ない状況なので逃げたほうが良いのは言うまでもありません。
避難指示
避難指示となると、もう少し切迫してきます。避難勧告発令後、さらに状況が悪化し、広範囲で甚大な被害が予測される場合に避難指示が出されます。指示ですから、 「すみやかに避難してください!」というニュアンスになり、「避難勧告」よりも拘束力が強くなります。避難勧告と同様、法的な強制力や罰則はありませんが、具体的な被害が想定される状況なので、ただちに避難する必要があります。
避難命令
避難命令は、3つのうちでいちばん強い通達です。明確な被害が間近に迫っている状況で、避難しなければ人命に大きくかかわる場合に発令されます。命令ですから、従わなかった場合には罰則がともないます。法的強制力とあわせて、救急隊員などには避難地域住民への身柄拘束の権限があたえられます。
ただし、実は現在の日本には「避難命令」という規定は法律上ありません。なので、事実上は「避難指示」が一番強い表現で、あくまで指示をするだけとなります。とはいえ、ゼロかというとそうでもなく、たとえば2010年5月18日の口蹄疫の流行に対して、当時の東国原英夫宮崎県知事が「非常事態宣言」をしたことがあります。他にも、2011年3月11日に起きた東日本大震災で大津波警報が出された茨城県の大洗町は、「緊急避難命令、緊急避難命令」「大至急、高台に避難せよ」といった内容の呼びかけがありました。しかし、これらはあくまで呼びかけであって、法的根拠に基づくものではありません。命令調の表現をすることで、受け取る側の緊急性を認識させるためにこのような表現が使われたわけです。事実、東日本大震災字に4メートルを超える津波に襲われた茨城県大洗町では、津波による死者は1人もなかったそうです。
さらに緊急性が高い「非常事態宣言」
こちらも、日本では現在設定されていないのですが、海外では「避難勧告」「避難指示」「避難命令」のさらに上の警告として「非常事態宣言」があります。
これが発動されると、「不要不急の交通を禁止」し「外出禁止」となり、これを破ると厳しい罰則が科せられます。
日本では現在ないといいましたが、実は過去にはありました。
が、実際に発令されたのは、戦後の1948年に在日朝鮮人と日本共産党が民族教育闘争をして、大規模テロや騒乱事件が起こった際ですね。
これが、日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告されたケースとなります。
海外では政府や自治体が「非常事態宣言」を発令する権限を持っていることも多く、最近では2015年11月に起きたパリ同時多発テロ事件でフランス政府から非常事態宣言が発令されました。
避難準備情報
さて、なんだかどんどん厳しい内容となってしまいましたが、ここでもう少し緩い避難情報にもどりましょう。キケンに対する気象庁のお知らせとしては、危険度の低い順番から、「避難勧告」 → 「避難指示」となるのですが、実は「避難勧告」のもう1段階前に、避難準備情報というものがあります。
これは、避難勧告発令の前段階に、お年寄りや子ども、体の不自由な人など、避難に時間のかかる人たちを優先して避難させるために出されるものとなります。
強制力としては避難勧告とほぼ同等のため、罰則はもうけられていません。

気象庁が報道する避難情報のレベルの違いについて紹介しました。段階としては、
 1.避難勧告
 2.避難指示
の2パターンとなり、災害や天災の状況が避難勧告よりもヤバイレベルになると、避難指示にグレードアップします。
また、避難勧告が出る前に、事前に「避難準備情報」が報道されることがあります。
いずれにせよ、これら報道が出た場合にはかなり危険な状況になっているので、罰則は無いにせよ、自分の住んでる地域が該当する場合は、早めに行動して自分や家族の身を守るようにしましょう。
また、海外では「避難指示」のさらに上のグレード、「避難命令」や「非常事態宣言」が発令される場合があり、この発令に対して従わないと、罰則を受けることになります。
現在の日本には「非常事態宣言」は無いので、代わりに気象庁からではなく、内閣総理大臣から災害対策基本法に基づく災害緊急事態の布告と、警察法に基づく緊急事態の布告が発令されることがあります。  
 避難用語4
避難指示
対象地域の土地、建物などに被害が発生する恐れのある場合に住民に対して避難を呼びかける指示。
避難準備、避難勧告、避難指示の順で危険性の切迫度が高くなるが、いずれの場合も避難を強制することはできない。
日本においては、災害対策基本法第60条において定められており、市町村長が行う。同条で定められている避難勧告よりも緊急性が高い場合に行われる。
市町村長が避難指示を行えない場合は都道府県知事が代行することができ、また市町村長が指示できない場合や市町村長の要求があった場合には警察官や海上保安官が避難を指示することができる。
平成28年台風第10号における被害を受け、避難勧告よりも緊急性が高い情報ということが伝わりやすいよう、2016年12月26日より「避難指示(緊急)」という名称で運用されている 。
原子力事故の場合は原子力災害対策特別措置法第26条により避難指示が規定されている。
伝達手段 / 防災無線、サイレン、町内会組織や消防団を利用した口頭伝達、自治体などの拡声器を備え付けた広報車による呼びかけなどによる。
避難経路・場所 / 小学校や中学校、高等学校などの教育施設及び公民館と児童館などの集会所といった、公共施設が避難所に指定される。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
行政の出番
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メディアの出番
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
防災意識
 
 
 
 
 
 


2018/8
 
 
 
●「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実
小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。
五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。
この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。
いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。
私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。
もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。
ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、濱口儀兵衛が書いた手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。
「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」
と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。
「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」
というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。
ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。
この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。
いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。
濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。
濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。
その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。
濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。
この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。
儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。
濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。
今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。
今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。 
●濱口儀兵衛の手記 / 「稲むらの火」
七代目・濱口儀兵衛(文政三[1820]年〜明治十八[1885]年)が安政元[1854]年に起きた、安政南海大地震の際に残した逸話とされている、『稲むらの火』(昭和十二[1937]年から昭和二十二[1947]年まで、小学校の国語教科書の教材として使われた)の真実を記したとされる、その七代目の『手記』を紐解いてみたいと思います。

「果たして七つ時頃(午後四時)に至り大震動あり、その激烈なること前日の比にあらず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を覆う。遥かに西南の天を望めば黒白の妖雲片片たるの間、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動静りたれば、直ちに家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に当たりて巨砲の連発するが如き響きをなす、数回。依って歩を海浜に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異変を認めず。只西北の天特に暗黒の色を帯び、恰も長堤を築きたるが如し。僅かに心気の安んずるの遑なく、見る見る天容暗澹、陰々粛殺の気天を襲圧するを覚ゆ。是に於いて心ひそかに唯我独尊の覚悟を定め、壮者を励まし、逃げ後るる者を助け、興に難を避けしむる一刹那、怒濤早くも民屋を襲うと呼ぶ者あり。予も疾走の中左の方広川筋を顧みれば、激浪は既に数町の川上に遡り、右方を見れば人家の崩れ流るる音棲然として膽を寒からしむ。瞬時にして潮流半身を没し、且沈み且浮かび、辛うじて一丘陵に漂着し、背後を眺むれば潮勢に押し流される者あり、或いは流材に身を憑せ命を全うする者あり、悲惨の状見るに忍びず。然れども倉卒の間救助の良策を得ず。一旦八幡境内に退き見れば、幸いに難を避けて茲に集まる老若男女、今や悲鳴の声を揚げて親を尋ね子を探し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し、各自に就き之を慰むるの遑なく、只「我れ助かりて茲にあり、衆みな応に心を安んずべし」と大声に連呼し、去って家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。匆々[そうそう]辞して再び八幡鳥居際に来る頃日全く暮れたり。是に於いて松火を焚き壮者十余人に之を持たしめ、田野の往路を下り、流屋の梁柱散乱の中を越え、行々助命者数名に遇えり。尚進まんとするに流材道を塞ぎ、歩行自由ならず。依って従者に退却を命じ、路傍の稲むらに火を放たしむるもの十余以て漂流者にその身を寄せ安全を得るの地を表示す。この計空しからず、之によりて万死に一生を得たる者少なからず。斯くて一本松に引き取りし頃轟然として激浪来たり。前に火を点ぜし稲むら波に漂い流るるの状観るものをして転た[うたた]天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲来前後四回に及ぶと雖も、蓋し此の時を以て最とす。」と。

夕刻の午後四時になって、大地震が発生しました。その激しい揺れは昨日をはるかに上回るものでした。瓦は飛ぶし、壁も崩れるし、塀も倒れるし、土埃で空が覆われるし、遥かに西南の方の空を眺めれば、黒と白との妖雲の切れ切れから、黄金の色の発光が生じ、まるでこの世のものでない何かが飛んでいるのではないかと疑われました。
しばらくしてから揺れは収まりましたが、すぐに家族の者たちに避難するようにすすめ、己自身は村内を見回りにいきますと、西南の方の海面から大筒を連続して放つような大音響が数度聞こえてきました。それで浜の方に往き、沖の方を見てみると、潮流に変わりはありませんでしたが、只西北の方の空が暗黒色を帯び、まるで長大な堤防を築いているかのようでした。
ほっとする暇もなく、その内に空の模様はますます暗くなり、陰鬱を極める如き殺気を感じ、災害が近づいていることを直観しました。ここに至って、心の内で己の想いの正しさを確信し、決意を固めて、人々を激励し、逃げ遅れがちな者を援助し、避難しようとした瞬間、早くも、津波が民家を襲っていると叫ぶ者の声が聞こえました。己も全力で走りましたが、左の方の広川の川筋を見てみると、激しい津波はすでに数百メートルも川を遡っており、右の方を見てみると、民家が流されて崩落する音がしており、肝が縮み上がりました。そのとき、潮流が己の半身に及んで、己が身が沈みつつ浮かびつつして流されてしまいましたが、何とかして一つの丘に漂着することができました。
背後を見てみると、津波に押し流されている者や、また流木に身を寄せて、命拾いしつつある者もいて、地獄絵図のような有様は見るに忍びありませんでした。そのような有様ではありましたが、直ちに救出するためのうまい方法は思い浮かびませんでした。そこで、一旦、広八幡宮の境内に避難しました。幸いにしてそこに避難できている老若男女も、今や、悲鳴の声を上げつつ、親を尋ねたり、子を探したり、兄弟も互いに呼び合ったり、その様子はまるで鍋が沸騰しているかのようでした。その人々をなだめる手立てもなく、只々、「わしは何とか助かってここにおります。皆々、安心して下さい」と大きな声で叫び続け、そこを去ってからは、家族の避難した所に行って、身の安全を知らせました。その内、広八幡宮の鳥居の近くにもどった頃には日暮が迫ってきていました。そこで、たいまつをつけて、屈強な者十数名にそれを持たせ、田の中の路を下って、流れついた家の柱などが散らばっている中をこえ、往く道の途中で救助を求めている数名の者に出会いました。さらに浜の方へ進もうとしたが、流木が路を塞いでいました。そこで、歩くこともままならないので、従者たちに退却を命じつつ、路の両側の稲むら十数か所に火をつけて、救助を求めている者たちに、助かるための道標を指し示しました。この火は効果を上げ、このため、九死に一生を得た者は少なくありませんでした。このように処置してから、鳥居近くの一本松に引き上げた頃、大津波が轟をあげつつ、再度、来襲し、稲むらの火を消し去っていくのをみて、一層、大津波の恐ろしさを感じました。大津波の襲来は前後四回に及んだが、このときの二回目の来襲が最大でした。 
大津波(Tunami)の脅威
七代目・濱口儀兵衛が安政南海大地震の発災時に残した逸話をもとに、昭和九[1934]年、当時、小学校五年生の担任だった中井常蔵(明治四十[1907]年〜平成六[1994]年)が、文部省国定国語教科書の教材公募に応募した際に、小泉八雲(嘉永三[1850]年〜明治三十七[1904]年)がこの逸話に基づいて、明治三十[1897]年に書き上げた、「A Living God」(なお、この『生き神様』の中のキーターム・Tunamiが津波を表す英単語となって、日本の大津波の脅威を世界に知らしめることになったという)を児童向けに和訳し、『燃える稲むら』と題し、応募しました。それが小学五年生用の小学国語読本・巻十に『稲むらの火』として掲載され、昭和十二[1937]年から昭和二十二[1947]年までの十年間、小学校の国語教科書の教材として使われたのですが、その真実を深く探っていくためにも、改めて、それを紐解いてみたいと思います。

『これは、たゞ事でない』とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無氣味なものであつた。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下した。村では、豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向氣がつかないもののやうである。村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸附けられてしまつた。風とは反對に沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。
『大變だ。津波がやつて来るに違ひない』と、五兵衛は思つた。此のまゝにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶豫は出未ない。
『よし』と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持つて飛出して来た。そこには、取入るばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。『もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ』と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて、火の手がぱつと上つた。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立つたまゝ、沖の方を眺めてゐた。
日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。『火事だ。荘屋さんの家だ』と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。續いて、老人も女も子供も、若者の後を追ふやうにかけ出した。高臺から見下してゐる五兵衝の目にはそれが蟻の歩みのやうに、もどかしく思はれた。やつと二十人程の若者が、かけ上つて来た。彼等は、すぐ火を消しにかゝらうとする。五兵衛は大声に言つた。『うつちやつておけ。─大變だ。村中の人に来てもらふんだ』。村中の人は、追々集つて来た。五兵衛は、後から後から上つて来る老幼男女を一人々々數へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。其の時、五兵衝は力一ぱいの声で叫んだ。『見ろ。やつて来たぞ』。たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなつた。廣くなつた。非常な速さで押寄せて来た。『津波だ』と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかゝつて来たやうな重さと、百雷の一時に落ちたやうなとゞろきとを以て、陸にぶつかつた。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかつた。人々は、自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高臺では、しばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村を、たゞあきれて見下してゐた。稲むらの火は、風にあふられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと氣がつくと、無言のまゝ五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

『これは、ただごとでない』とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見おろした。村では、豊年を祝うよい祭の支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気がつかないもののようである。村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。 『大変だ。津波がやって来るに違いない』と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひとのみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。『よし』と叫んで家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明[たいまつ]を持って飛出して来た。そこには、取入るばかりになっているたくさんの稲束が積んである。『もったいないが、これで村中の命が救えるのだ』と、五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。『火事だ。荘屋さんの家だ』と、村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて、老人も女も子供も、若者の後を追うようにかけ出した。高台から見おろしている五兵衝の目にはそれが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上って来た。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声に言った。『うつちゃっておけ。一大事だ。村中の人に来てもらうんだ』。村中の人は、追々集って来た。五兵衛は、後から後から上って来る老幼男女を一人ひとり数えた。集って来た人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る見くらべた。その時五兵衝は力一杯の声で叫んだ。『見ろ。やって来たぞ』。たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなつた。広くなった。非常な速さで押寄せて来た。『津波だ』と、誰かが叫んだ。海水が絶壁のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何物も見えなかった。人々は自分等の村の上を荒狂って通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見おろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上り、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。 
生き神様「A Living God」
七代目・濱口儀兵衛が安政南海大地震の発災時に残した逸話をもとに、小泉八雲が、明治三十[1897]年に書き上げた、「A Living God」が、後年、中井常蔵によって児童向けに和訳され、『稲むらの火』として、小学国語読本に掲載されたのですが、その逸話をめぐる真実を深く探っていくためにも、改めて、『生き神様』を紐解いてみたいと思います。

The story of Hamaguchi Gohei is the story of a like calamity which happened long before the era of Meiji, on another part of the Japanese coast.
He was an old man at the time of the occurrence that made him famous. He was the most influential resident of the village to which he belonged : he had been for many years its muraosa, or headman; and he was not less liked than respected. The people usually called him Ojiisan, which means Grandfather; but, being the richest member of the community, he was sometimes officially referred to as the Choja. He used to advise the smaller farmers about their interests, to arbitrate their disputes, to advance them money at need, and to dispose of their rice for them on the best terms possible.
Hamaguchi's big thatched farmhouse stood at the verge of a small plateau overlooking a bay. The plateau, mostly devoted to rice culture, was hemmed in on three sides by thickly wooded summits. From its outer verge the land sloped down in a huge green concavity, as if scooped out, to the edge of the water; and the whole of this slope, some three quarters of a mile long, was so terraced as to look, when viewed from the open sea, like an enormous flight of green steps, divided in the centre by a narrow white zigzag,−a streak of mountain road. Ninety thatched dwellings and a Shinto temple, composing the village proper, stood along the curve of the bay; and other houses climbed straggling up the slope for some distance on either side of the narrow road leading to the Choja's home.
One autumn evening Hamaguchi Gohei was looking down from the balcony of his house at some preparations for a merry - making in the village below. There had been a very fine rice-crop, and the peasants were going to celebrate their harvest by a dance in the court of the ujigami. The old man could see the festival banners (nobori) fluttering above the roofs of the solitary street, the strings of paper lanterns festooned between bamboo poles, the decorations of the shrine, and the brightly colored gathering of the young people. He had nobody with him that evening but his little grandson, a lad of ten; the rest of the household having gone early to the village. He would have accompanied them had he not been feeling less strong than usual.
The day had been oppressive; and in spite of a rising breeze, there was still in the air that sort of heavy heat which, according to the experience of the Japanese peasant, at certain seasons precedes an earthquake. And presently an earthquake came. It was not strong enough to frighten anybody; but Hamaguchi, who had felt hundreds of shocks in his time, thought it was queer,−a long, slow, spongy motion. Probably it was but the after-tremor of some immense seismic action very far away. The house crackled and rocked gently several times; then all became still again.
As the quaking ceased Hamaguchi's keen old eyes were anxiously turned toward the village. It often happens that the attention of a person gazing fixedly at a particular spot or object is suddenly diverted by the sense of something not knowingly seen at all,−by a mere vague feeling of the unfamiliar in that dim outer circle of unconscious perception which lies beyond the field of clear vision. Thus it chanced that Hamaguchi became aware of something unusual in the offing. He rose to his feet, and looked at the sea. It had darkened quite suddenly, and it was acting strangely.It seemed to be moving against the wind. It was running away from the land.
Within a very little time the whole village had noticed the phenomenon. Apparently no one had felt the previous motion of the ground, but all were evidently astounded by the movement of the water. They were running to the beach, and even beyond the beach, to watch it. No such ebb had been witnessed on that coast within the memory of living man. Things never seen before were
unfamiliar spaces of ribbed sand and reaches of weed-hung rock were left bare even as Hamaguchi gazed. And one of the people below appeared to guess what that monstrous ebb signified.
Hamaguchi Gohei himself had never seen such a thing before; but he remembered things told him in his childhood by his father's father, and he knew all the traditions of the coast. He understood what the sea was going to do. Perhaps he thought of the time needed to send a message to the village, or to get the priests of the Buddhist temple on the hill to sound their big bell. But it would take very much longer to tell what he might have thought than it took him to think. He simply called to his grandson:−" Tada !−quick,−very quick! Light me a torch.."
Taimatsu, or pine-torches, are kept in many coast dwellings for use on stormy nights, and also for use at certain Shinto festivals. The child kindled a torch at once; and the old man hurried with it to the fields, where hundreds of rice-stacks, representing most of his invested capital, stood awaiting transportation. Approaching those nearest the verge of the slope, he began to apply the torch to them,−hurrying from one to another as quickly as his aged limbs could carry him.  The sun-dried stalks caught like tinder; the strengthening sea - breeze blew the blaze landward and presently, rank behind rank, the stacks burst into flame, sending skyward columns of smoke that met and mingled into one enormous cloudy whirl. Tada, astonished and terrified, ran after his grandfather, crying,−
"Ojiisan! why? Ojiisan!−why?"
But Hamaguchi did not answer: he had no time to explain; he was thinking only of the four hundred lives in peril. For a while the child stared wildly at the blazing rice; then burst into tears, and an back to the house, feeling sure that his grandfather had gone mad. Hamaguchi went on firing stack after stack, till he had reached the limit of his field; then he threw down his torch, and. waited. The acolyte of the hill-temple, observing the blaze, set the big bell booming; and the people responded to the double appeal. Hamaguchi watched them hurrying in from the sands and over the beach and up from the village, like a swarming of ants, and, to his anxious eyes, scarcely faster; for the moments seemed terribly long to him. The sun was going down; the wrinkled bed of the bay, and a vast sallow speckled expanse beyond it, lay naked to the last orange glow; and still the sea was fleeing toward the horizon.
Really, however, Hamaguchi did not have very long to wait before the first party of succor arrived,−a score of agile young peasants, who wanted to attack the fire at once. But the Choja, holding out both arms, stopped them.
"Let it barn, lads! " he commanded,−"let it be! I want the whole mura here. There is a great danger,−taihen da!"
The whole village was coming; and Hamaguchi counted. All the young men and boys were soon on the spot, and not a few of the more active women and girls; then came most of the older folk, and mothers with babies at their backs, and even children,−for children could help to pass water; and the elders too feeble to keep up with the first rush could be seen well on their way up the steep ascent. The growing multitude, still knowing nothing, looked alternately, in sorrowful wonder, at the flaming fields and at the impassive face of their Choja. And the sun went down.
"Grandfather is mad,−I am afraid of him!"sobbed Tada, in answer to a number of questions. "He is mad. He set fire to the rice on purpose: I saw him do it!"
"As for the rice," cried Hamaguchi, "the child tells the truth. I set fire to the rice. Are all the people here?"
The Kumi-cho and the heads of families looked about them, and down the hill, and made reply: "All are here, or very soon will be. We cannot understand this thing."
"Kita!" shouted the old man at the top of his voice, pointing to the open. "Say now if I be mad!"
Through the twilight eastward all looked, and saw at the edge of the dusky horizon a long, lean, dim line like the shadowing of a coast where no coast ever was,−a line that thickened as they gazed, that broadened as a coast-line broadens to the eyes of one approaching it, yet incomparably more quickly. For that long darkness was the returning sea, towering like a cliff, and coursing more swiftly than the kite flies .
"Tsunami!" shrieked the people; and then all shrieks and all sounds and all power to hear sounds were annihilated by a nameless shock heavier than any thunder, as the colossal swell smote the shore with a weight that sent a shudder through all the hills, and a foam-burst like a blaze of sheet-lightning. Then for an instant nothing was visible but a storm of spray rushing up the slope like a cloud; and the people scattered back in panic from the mere menace of it. When they looked again, they saw a white horror of sea raving over the place of their homes. It drew back roaring, and tearing out the bowels of the land as it went. Twice, thrice, five times the sea struck and ebbed, but each time with lesser surges; then it returned to its ancient bed and stayed,−still raging, as after a typhoon.
On the plateau for a time there was no word spoken. All stared speechlessly at the desolation beneath,−the ghastliness of hurled rock and naked riven cliff, the bewilderment of scooped-up deep-sea wrack and shingle shot over the empty site of dwelling and temple. The village was not; the greater part of the fields were not; even the terraces had ceased to exist; and of all the homes that had been about the bay there remained nothing recognizable except two straw roofs tossing, madly in the offing. The after - terror of the death escaped and the stupefaction of the general loss kept all lips dumb, until the voice of Harnaguchi was heard again, observing gently,−
"That was why I set fire to the rice."
He, their Choja, now stood among them almost as poor as the poorest; for his wealth was gone−but he had saved four hundred lives by the sacrifice. Little Tada ran to him, and caught his hand, and asked forgiveness for having said naughty things. Whereupon the people woke up to the knowledge of why they were alive, and began to wonder at the simple, unselfish foresight that had saved them; and the headmen prostrated themselves in the dust before Hamaguchi Gohei, and the people after them.
Then the old man wept a little, partly because he was happy, and partly because he was aged and weak and had been sorely tried.
"My house remains," he said, as soon as he could find words, automatically caressing Tada's brown cheeks; "and there is room for many. Also the temple on the hill stands; and there is shelter there for the others."
Then he led the way to his house; and the people cried and shouted. 
The period of distress was long, because in those days there were no means of quick communication between district and district, and the help needed had to be sent from far away. But when better times came, the people did not forget their debt to Hamaguchi Gohei. They could not make him rich; nor would he have suffered them to do so, even had it been possible. Moreover, gifts would never have sufficed as an expression of their reverential feeling towards him; for they believed that the ghost within him was divine. So they declared him a god, and thereafter called him Hamaguchi Daimyojin, thinking they could give him no greater honor;−and truly no greater honor in any country could be given to mortal man. And when they rebuilt the village, they built a temple to the spirit of him, and fixed above the front of it a tablet bearing his name in Chinese text of gold; and they worshiped him there, with prayer and with offerings. How he felt about it I cannot say;−I know only that he continued to live in his old thatched home upon the hill, with his children and his children's children, just as humanly and simply as before, while his soul was being worshiped in the shrine below. A hundred years and more lie has been dead; but his temple, they tell me, still stands, and the people still pray to the ghost of the good old farmer to help them in time of fear or trouble."

濱口五兵衛の物語は明治より大分前に日本の別の方の海岸地方で起きた同様の震災の話です。五兵衛の名を有名にした大災害が起こったとき、彼は相当の高齢者でした。彼は長年にわたって村の頭、すなわち村長でした。このように彼は村民たちから尊敬されていましたが、加えるに、それに勝っても劣らない位、好感を持たれ慕われてもいました。村民たちは普段は彼のことを「おじいさん」と呼んでいました。なお、この言葉は祖父を意味します。しかし、彼は村内一の大金持でもありましたので、公の場では「長者」と言いならされていました。彼は常々大百姓でない者たちに対して、利益が上がるように助言してあげたり、もめごとの仲裁をしてあげたりしていました。さらに、彼らがお金がいる時には前貸しもしてあげたり、彼らの作米を出来る限り高値で売ってあげたりもしていました。濱口家のわらぶきの豪邸は海辺を見おろす小さな高台の片隅に建っていました。周囲のの土地はほとんど田んぼにあてられ、松の木がうっそうと茂った林で海側を除いた三方は取り囲まれていました。そういう訳で、唯一、海側に開かれている高台の端から海辺に向かって、緩やかな斜面を描きながら、あたかも、刃でえぐられたかのように、緑色の大きなへこみとなって海辺まで達していました。千二百メートルほど続いている、このなだらかな傾斜に刻まれたひな段はそのあまりの美しさに思わず見とれずにはいられないほどでした。また、海辺の方から見上げるとちょうど真ん中で、かつ、細白い、鋸の歯のような山道が通っているところで、二分されているためか、まるで緑色の大きな階段が次から次と連続しているように見えるのです。正確に言うと海辺沿いに建てられた、九十戸のわらぶきの民家と神社とが立ち並んで、主な村落を形づくっており,その他に何戸かの家が、上に述べた斜面をわずかに這い登ったところの豪邸へ通じる細道の両側にまばらに建てられいるのでした。ある秋の日の夕暮、五兵衛は我が家の窓から下の村で行なわれている、お祭りの前準備の様子を眺めていました。たまたま、その年は稲作が大豊作で農民達は氏神様の境内で盛大な踊りを奉納して、豊作を祝そうとしていたのでした。長者には村で唯一の通りに沿った屋根やねの上にはためく、お祭りののぼり、竹の棒と棒との間に吊り下げられたちょうちんの行列、神社の飾りつけ、さらには若者たちが賑やかに参集して来るのが見えました。その夜長者は十歳になる孫の少年と二人きりでした。その他の家族はもう大分前に村祭りの方へと出かけてしまっていました。その夜はことのほか、長者の体の調子がいつもよりすぐれず、そうでなければ、家族の皆々と一緒に長者も出かけていたことでしょう。その日はとても蒸し暑く、海風がわずかに吹き上げてはくるのですが,それでもあたりの空気には重苦しい熱気が盛じられました。日本の百姓は、その経験からして、ある時に至っては地震の前兆となると信じるにたるという程の熱気だったのでした。何と、すると間もなくして地震が起こったのです。それは誰もがびっくりする程の強いものではありませんでしたが、これまでの人生で何百という、数えきれない程の地震を経験してきた長者には、その揺れ方がどうしても奇妙なものに思われました。その不思議さは、長くゆったりした、柔らかでしなうような揺れ方なのでした。恐らくごく遠く離れた所で起こった大きな地震の単なる余震に過ぎないのでしょう。家はきしんで、何度かゆるやかに、揺れ動いたと思うと、再び、すべてが静まりかえったのです。その揺れがおさまると、すぐ長者の年とった鋭い目が心細げに村の方へと向けられました。このことはしばしば生ずることなのですが、人は何か特別な場所や物体にじっと眼をこらしている時、その注意力が突如として、意識して見ているものでない、何かを感じとって、そちらの方に意識が転じられることがあります。つまり、現実のはっきりした視野の範囲を超えて、その外側を取り巻いている、ほの暗い無意識下の知的能力でもって、その未知なるものを、ただぼんやりと推知してしまうと、何故か、注意力がそちらに向けられてしまうのです。このとき長者も、たまたま沖合の異状に気付いたのです。長者は立ち上ると海の方を見ました。海の方はふいに暗くなり、波も奇妙な動き方をしていました。風の向きと反対方向にそれが動いているかのように見えるのでした。何と海面が岸からどんどん沖の方へと引いていくではありませんか。その内すぐに村中の者がこの現象に気づいたのです。その前の地面の揺れは誰も感じなかったようでしたが、この海面の動きには皆が明らかに肝をつぶしているかのように見えました。村民たちは一体何事が起こったのかを見ようとして浜へとかけ出し、さらに浜を超えた場所にまで走り出しました。そのとき生ある者の記憶が及ぶ限りでは、この海辺でこれ程の引き潮が目撃されたことなどはありませんでした。そして、この見たこともないような現象に出会って様々なものが現われ出てしまったのです。いつもは見ることもない波打った砂浜や、そして、下の方にいる村民のうちの一人がその巨大な引き潮が一体何を意味するかに思い当ったかのように見えました。長者たる濱口五兵衛自身これまでにこんなものは見た事がありませんでした。しかし、長者が子供の頃、祖父から聞かされた話を憶えていましたし、この海辺の歴史についてはすべて心得ていました。だからこそ、長者はこのあと海がどうなるかがわかったのでした。そして、村まで知らせをやったり、または山寺の住職の所に行ってあの大鐘を鳴らしてもらうのには一体どれ位の時間がかかるかなどと長者は考えてみたことでしょう。しかし、そうして己の考えていることを誰かに伝えるには己が今までにこのことを思いつくのに要としたよりもずっと長い時間が必要になるだろうと長者は思いました。そして、孫を呼んで,「ただ。早く、大急ぎだ。松明に火をつけて、おじいさんに持ってきてくれ」と。松明とは松の木をもやしてともすあかりのことですが、多くの海岸地方で嵐の夜に使うため準備しておくものなのです。又、同時にある儀式に用いられたりもするのです。孫の少年がすぐに一本の松明に火をつけると長者はそれを持って田へとびだしました。そこには長者が今までに注ぎこんだ元手の大部分を意味する何百もの稲むらが、納屋に運びこまれるばかりになって並んでいました。長者は斜面の端に一番近い所にある稲むらに近づくと、それに松明で火をつけ始めました。その年老いた手足で精一杯素早く体を動かしながら次から次へと火をつけて走りました。日光で乾燥し切った稲は勢いよく燃えあがりました。勢いを増してきた海風がその炎を手前の田の方へあおりたて、程なく後の列、そのまた後へといった具合に稲むらが次から次へと燃え上がっていきました。何本もの煙の柱が空に立ちのぼり上空で入り混じると一つの巨大でもくもくとした雲の渦となりました。ただは驚ろき、同時に恐ろしくなって祖父のあとを追って走りながら叫びました。「おじいさん。どうして。おじいさん−ねえどうしてそんなことするのですか。」しかし、長者たる五兵衛は答えようとはしませんでした。長者には説明している暇などなかったのです。長者はまだ危険にさらされている四百人に及ぶ人々の命のことだけ考えていたのでした。しばらくの間夢中で燃えあがる稲を見つめていた孫たる少年は急に泣き出すと家にかけもどりました。祖父はきっと気が狂ったのに違いないと思ったのでした。長者たる五兵衛は次々と稲むらに火をつけて行き、田んぼの端まで来ると松明を投げ捨てて待ちました。山寺の小僧がこの火の手を見て寺の大鐘を打ち鳴らしました。こうして村民は高台の炎と鐘という二重の警告に気付きました。むき出しになった砂浜にまで出むいていた村民が浜辺を超えて村から山へと急いで登ってくるのを長者は見ていました。しかし、不安にかられる長者の目に、それはまるで蟻が這うかのようで、とても急いでいるふうにはとても見えませんでした。その間の時間が長者にはひどく長く感じられました。日がまさに沈むところで海辺の波打った砂浜やその向こうに広がる、あちらこちらに岩の突き出た、だだ広く黒々とした海底がむき出しになったまま、オレンジ色の名残りの日の光に輝いていました。そして、海は、一層、水平線の方向へとどんどん逃げ去って行くのでした。しかし、長者は決して実際には最初の救援者の一団が到着するまでにそうは待たされたわけではありませんでした。彼らは二十歳位の若くて機敏な百姓たちで、すぐさま火を消しにかかろうとしました。しかし、長者たる五兵衛は両腕を拡げて、彼らを押し止めました。「お前たち、そのままにしておくんだ」と長者は命じました。「ほっておけ、わしは村中のものに集まってほしいんのだ。大きな危険が追っている。大変なのだ」と。やがて村中の者が集まって来て長者はその人数を数えました。若者や少年たちなど、男たち全員が高台までやってくるのに、そう時間はかかりませんでした。次に来たのは比較的身のこなしの軽い女や少女たちのかなりの数、そして、その後には老人や赤ん坊を背負った母親たち、それに子供たちの姿もありました。子供というのは道すがら小便をがまんしたりするわけにいかなかったのでした。そして、最初に一同が駆け出した途端に、体が弱っていて、ついて行くことの出来なかった年寄り連中が漸く険しい上り坂を登ってくる姿がはっきり見てとれるようになりました。どんどんと数を増す群衆は未だに何も知らないまま悲しみに満ちた驚き顔の中、燃えさかる田んぼと、長者の平然とした顔とをかわるがわる見つめていました。そうこうするうちに日は沈みました。「おじいさんは頭がおかしくなってしまった。俺、おじいさんが、こわいよ」と、ただはすすり泣きながら数多く発せられる質問に答えてそう言いました。「頭が変になってしまった。わざと稲に火をつけてしまった。俺、みていましたから」と。「稲のことなら」と長者は大声で言いました。「その子の言っていることは本当です。わしが稲に火をつけました。みんな集まったかな」と。各組長と各家の家長が囲りを見廻わしたり、ちょっと下の方を見おろしたりしてから答えました。「皆います。すぐに皆集まりますが。それにしてもわしらには一体何事なのかさっぱり判らないのですが」と。「来た」と。人は精一杯の大声を張り上げ、海の方向を指さして叫びました。「わしが狂っているか、どうかはさあ、今言いなさい」と。たそがれの薄明かりを通して村民たちが東の方に眼をやると、ぼんやりとした水平線の端に長くて細い暗い一筋の線が見えました。それはまるであろうはずもない場所に写し出された海岸線の影のようでした。そして、見る見るうちにその線は太くなるし、広くなっていきました。どんどんと海岸線が目の前に追って来るかのようでした。しかし、そのスピードときたら比較しようもない位にすさまじかったのでした。それというのも海面がこの長く暗い線となって戻って来たわけで、絶壁のようにそびえ立ちながら、かのすばしっこい鳶ですら追いつけない位の速さで押し寄せて来たのでした。「津波だ」と。人々は口ぐちに叫びました。しかし、その後すぐに、どんな雷も及ばない程の強烈で言い表わしようもない衝撃で、かつ、どんな叫び声も物音もかき消され、耳まで聞こえなくなった位でした。巨大なうねりが怒濤のように陸に押しよせ、その海水の重みで山々はとどろき、一面、稲光のような白い泡で包まれていました。そして、一瞬、斜面を雲みたいに這い上がってくる嵐のような水煙りの他には何も見えなくなりました。村民たちはこれを見ただけでもう我を忘れて、散り散りになって後ろへとびのきました。再び彼らが下をのぞくと、己たちの家があった場所で群れ狂う白く波立つ恐ろしい海の姿を見ました。やがて、その波は轟音を立てながら沖へと引いていく時にはそのところにあるすべてのものを目茶目茶に破壊しつくしました。海は押し寄せては引くということ、二度、三度。そして、五度も繰り返したのですが、その度ごとに徐々にうねりはおさまり、ついには大昔からの場所に落ち着きましたが、それでもなお台風の後のように波は高かったのでした。高台では、しばらく話声一つしなかったのでした。誰もかれも押し黙ったまま眼下の惨状をじっと見つめていました。彼らは津波で投げとばされた岩やむき出しになっている裂けた岩肌を見てぞっとし、又、根こぎにされた海草や己たちの家と神社がもはやすっかりなくなってしまった場所に散らばる岸の小石にとまどうばかりでした。かっての村の姿はもはやありませんでした。田畑もほとんど全部が消え去り、斜面に刻まれた階段さえも削りとられてあとかたもありませんでした。海辺に沿って立並んでいた家々は何一つそれとわかるものなど残されておらず、ただ沖の方で藁葺の屋根が二つ激しく波間にゆれているばかりでした。死をまぬがれた時にあとから感じるぞっとするような恐ろしさと何もかもすべてを失ってしまったという打ちのめされた思いとで、誰一人口がきけなかったのですが、ついに長者たる濱口五兵衛が再び口を開きました。長者は穏やかな調子でこう言いました。「だからわしは稲むらに火をつけました」と。長者であった、この老人は今や村民たちの間に立ち尽くし、もはや、村で一番の貧乏人と同じ位にこの老人もまた文無しになっていました。財産をすっかりなくしてしまったのだから。しかし、老人はその犠牲によって四百人の命を救ったのでした。小さな、ただという名の少年は祖父のもとに駆け寄り、その手をつかむと先程の暴言の許しを乞いました。この時、漸くのことで己たちがこうして生きていられる理由を悟った村民たちは、彼等の命を救った、五兵衛の素朴で、私利私欲に把われることのない先見の明に感銘を覚え始め、組頭たちが五兵衛の前の地面にひざまづくと他の村民たちもそれにならいました。老人はそれを見て少しばかり涙ぐみました。嬉しかったせいもあるのですが、彼はもはや年老いて体も弱って居り、相当疲れていたのでした。「わしの家は助かった」と。老人はいうべき言葉が見つかるとすぐに言いました。彼は無意識のうちに孫のただの陽にやけた両頬を撫でていました。「かなりの人間がおるだけの余裕があります。それに山寺もちゃんとと残っているし、あそこも他の者たちが身を寄せる避難場所になりましょう」と。そう言って老人が家へ向かうと村民たちからは大変な歓声が湧き起こりました。苦難の日々は長く続きました。その当時は地域と地域の間で簡単に連絡をとり合うすべなどなかったし、なくてはならない救援の手もはるか遠い所から差しのべられるのを待つしかなかったのでした。しかし、漸くのことで少しばかりましな暮らしが出来るようになっても、人々は自分たちが蒙った濱口五兵衛の恩義を忘れはしませんでした。彼らは老人を再び金持ちには出来ませんでしたが、又、五兵衛自身たとえ可能なことでもそんなことで村民を苦しめたりは決してしませんでした。さらに又どんな贈り物をした所で村民たちの老人に対する尊敬の念を表すには十分ではありませんでした。というのも村民たちは五兵衛の内なる霊は神聖なものと信じていたからでした。だから、彼らは老人を神と宣言し、それより以後、彼のことを濱口大明神と呼んだのでした。彼に与える事の出来る名誉に、これ以上のものはないと村民たちは考えたわけですが、事実、どこの国に行っても生きた人間に対してこれ以上の名誉など与えられるべくもありません。やがて、彼らは村を復興させると、五兵衛の御霊を祀る神社を建立し、その正面に金文字で彼の名前を書いた小さな額を掲げました。村民はその神社で祈りや供物と共に彼への礼讃を捧げるのでした。彼自身がこの事について一体どの様に感じていたのか、はわかりません。ただ、知られていることは彼が子供や孫たちと一緒に高台のあの藁葺屋根の豪邸にずっと住みつづけ、又、人間的で素朴な人柄は以前とちっとも変わることはなかったのですが、ただ同時に下の村の神社でその霊があがめられていたという事実だけでした。五兵衛が死んで百年以上にもなりますが,彼を祀った神社は今でもそのまま在って、人々は未だに心配事や困難にぶつかった時、その助けを得んとてこの善良なる老人の御霊に祈りを捧げているということです。