かどわかし

かどわかし (拐し ・ 勾引かし)
人さらい
誘拐
拉致

犯罪です
北朝鮮 国家犯罪です


 
かどわかし(拐し ・ 勾引かし)
人をだまして連れ去ること。人さらい、誘拐、拉致。

「というと、誘拐(かどわかし)は継母のお滝ではないというように聞えるが、確かにそういった見込みでもあるのか」
「何を言ってやがるんだい、誘拐(かどわかし)め、ぐずぐず言わずに娘をお出しよ、出さないとためにならないよ」
「大菱屋から拐引(かどわかし)を言い立てられたら、あるいは殿様の御身分にかかわるようなことが出来(しゅったい)しないとも限らない。」
「もう面倒だから長い台詞は云わねえ。てめえは備前屋のお絹という娘を殺したろう。物取りか、遺恨か、拐引(かどわかし)か、それを云え」
「中にゃあお前勾引(かどわかし)をしかねねえような奴等が出入(でいり)をすることがあるからの、飛んでもねえ口に乗せられたり」
「山之助は盗賊(どろぼう)……勾引(かどわかし)……と呼んで跣足(はだし)で追掛(おっかけ)ると山之助は典藏に胸をどんと突かれましたから」
「当城も糞もあるものか。へん篦棒(べらぼう)め何が当城だ。当城の奴らはみんな誘拐者(かどわかし)だ!」
「他人の恋女をそそのかしゃア誘拐者(かどわかし)よ!」
「コレ吉兵衛(きちべえ)、御(お)談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七(しち)様、昔は密男(まおとこ)拐帯(かどわかし)も仕(し)てのけたが」
「嘘を吐(つ)けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯(かどわかし)じゃよ、詐偽(さぎ)じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張(ひっぱ)るでな、左様(さよ)思え、はははは。」
「お供も連れられずたったお一人で、悪漢(わる)や誘拐師(かどわかし)がうろついている、夕暮れ時の盛り場などへ、どうしてお越しになったのか? 思案に余ったからであろう! 途方に暮れられたからであろう! ごもっとも様でご同情します! 奇病! 奇病! 何んとも云えない奇病に、取りつかれておいでなされるからだ。……そこで藤兵衛は申し上げます、浅草を出て品川まで」  
  
人さらい
女性や子供をだまし、無理やり連れ去ること。また、その者。

日暮れどきに出現して幼児をさらって行くといわれていた妖怪(ようかい)。夕暮れまで戸外に遊んでいる子供を戒めるのに昔はよく使われた。コトリゾ、カクレババ、フクロカツギ、アブラトリ、カクシンボなどともいい、こうした妖魔が現れて幼児をさらって行くと思念され、タソガレ、マクマクドキなどともいう薄暮には、とくに幼童が襲われると久しく信じられてもいたのである。室町時代の『臥雲(がうん)日件録』などには、「子取尼」なるものが京都に現れて人々を驚かせたという記事も載っている。しかし「ヒトサライ」は、むしろ薄暮に跳梁(ちょうりょう)すると信じられてきた俗信の所産で、「神隠し」の伝承とも相通ずるところであろう。とはいえ、古くから実際に幼児を誘拐して利をむさぼる悪党がなかったわけではない。 

テレビや新聞で子供の行方不明事件を誘拐として報道される以前は、まだ警察の捜査能力も地域の住民のネットワークも限られていました。そのため、古くは「神隠し」として片付けられていました。子供を亡くした(失くした?)親も、そういう解釈の方がいくぶん心が楽になったことでしょう。
「人さらい」の可能性として、江戸から昭和初期にかけての例を挙げます。
・がけ崩れや川に流される、山奥に迷い込んで行き倒れるなどしての事故死
・熊、犬、狼(当時はいました)、蛇等に襲われての死亡
・国内外への人身売買目的の日本人による「人狩り」
・同じく朝鮮人・中国人による「人狩り」(日本海沿岸では「唐の人買い」として言い伝わっています)
・子供を産めない女性が子供欲しさにさらう(これは今でも時々あります)
・被差別的階層の者が外界の遺伝子を求めて(多くは近親者で交配せざるを得ない為)、または外界への復習のためさらう
・性的目的での誘拐
・虐待(虐殺?)目的での誘拐
・身代金目的の誘拐(これはごく最近)
海外への売り先は、朝鮮・中国だけでなく、東南アジアなどもあります。船乗りや鉱山労働者、農奴、売春婦として需要がありました。一部はアメリカやオーストラリアで奴隷となっていたという話もあります。幼い頃に誘拐されて養育されれば、日本語を忘れて中国語や朝鮮語を話すでしょうから、「中国人」「朝鮮人」として売られるケースもあったようです。
 
誘拐
他人を騙して誘い出して連れ去ること。「かどわかし」とも言う。
日本の法律用語としての「誘拐」とは、欺く行為や誘惑を手段として、他人の身柄を自己の実力的支配内に移すことを言う。暴行脅迫を用いた連れ去りを「誘拐」と呼ぶのは本来誤りだが(あらゆる国語辞典で「誘拐」に強制的なニュアンスは見られない)、マスコミにおいては、意思に反して無理矢理連れ去ること(拉致)に関しても「誘拐」という言葉が用いられ、日常用語でもそのような傾向が見られる。
刑法学上、偽計によるものと暴行脅迫によるものを総合した概念は、「拐取」(かいしゅ)である。
誘拐の目的
○労働力の確保
2010年代の中華人民共和国では、行方不明になる子供は年間20万人と推測されるが、多くは犯罪組織に誘拐され、農村部に労働の担い手や後継ぎとして売買されるケースが多いとみられている。
○麻薬組織の活動
2013年にメキシコで誘拐被害に遭った者は10万2,883人。多くは、メキシコ麻薬戦争による対立や麻薬組織の活動による部分が多い。
○婚姻
エチオピアでは誘拐婚が一般的な州があり、2004年以前の調査ではあるもののオロミア州で80%、南部諸民族州で92%、国全体の平均で69%が誘拐による結婚とする統計がある]。
○儀式
2014年にウガンダ国内で発生した誘拐事件は、未遂を含め2,898件が発生。うち病院から新生児が誘拐された事件は236件であり、主に神への供物や悪魔払いに使う目的で誘拐されている]。
略取・誘拐罪
人を略取若しくは誘拐する行為のうち、未成年者に対するもの、又は身代金、国外移送、営利、わいせつ、結婚若しくは生命身体への加害の目的で行うもののことであり、刑法 (日本)ではこれを犯罪としている(同法224条 から 229条)。
略取とは、暴行、脅迫その他強制的手段を用いて、相手方を、その意思に反して従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くことをいう。誘拐とは偽計・誘惑などの間接的な手段を用いて、相手方を従前の生活環境から離脱させ、自己又は第三者の支配下に置くことをいう。略取と誘拐とを併せて講学上「拐取」(かいしゅ)と呼ぶ。
略取の際の暴行や脅迫は、被拐者に加えられた場合でも保護者に加えられた場合でも略取として成立し、同様に、誘拐の際の偽計や誘惑は、被拐者に加えられた場合でも保護者に加えられた場合でも誘拐として成立する。 
  
拉致
ある個人の自由を奪い、別の場所へ強制的に連れ去ること。連れ去り。
オウム真理教による拉致事件や、北朝鮮による日本人や韓国人の拉致問題がマスメディアによって頻繁に報道されるようになって、急速に使われるようになった言葉である。
国際法では『強制失踪』の形態の一つであり、人道に対する罪として扱われる。
具体例
○変質性愛の対象として、小中学生の児童・生徒を連れ去る、あるいは連れ去って、性的暴力の後に殺害、あるいは長期にわたり監禁する。
○身代金目的での誘拐行為。
○親族・奪回・強制改宗屋により、宗教棄教のためという目的により、複数の組織ぐるみの人間と親族により、「基本的人権」「信教の自由」が著しく侵害される。片親による拉致もこれに含まれる。片親による誘拐と表現される場合もある。米司法省、司法プログラム室、少年犯罪•非行防止事務所がこの犯罪に関する詳しい文書を発表している。片親による子供の拉致。
○商取引上の不首尾のため相手を拉致・監禁し、取引の同意を求める、恫喝する。
○政治的な理由で、外交官、ジャーナリストを拉致する。政治的にきわめて不安定で、諸外国の軍隊や国際連合の監視団などが入り込んでいる国では頻発することが少なくない。
○監禁時に猿轡で口を塞がせる事がある。
○裁判所により親権(監護権)を認められなかった片方の親が子供を連れ去る - 殆どの国では誘拐として処罰される。日本では従来は犯罪と見做されていなかったが(家庭裁判所の勧告は受けていた)、2006年3月に福岡地裁が、福岡市で弁護士の男が妻と同居する実娘を拉致した事例に対して、執行猶予付きの有罪判決を出している。
○国際的児童拉致 - 白人の子供を誘拐し、児童ポルノなどに出演させ、最後はオランダなどの売春業者に人身売買するといった手口が知られている。アメリカではこうした例がかなり多発している。
○中南米においては、アルゼンチンやチリの軍政下で反体制派と目された人々を中心に大量の「行方不明者」(デサパレシードス)が生まれ、「強制失踪」などと呼ばれた。
○2006年には、米CIAが“テロリスト関係者の被疑者”と目した、主に中東諸国からの移民の人々をシリア・パナマ・東ヨーロッパなどにある秘密収容所に「取調べ」を口実に法的根拠なく連れ去り収監、自白を取る為に拷問していた事が報道され(しかも多くの国家が関与していた疑いあり)、アムネスティ・インターナショナルや釈放された人物の母国政府が調査に乗り出す事態となっている(ドイツやイタリアでは関与したCIA工作員、協力した自国情報機関員に逮捕状が出た)。アメリカ政府はその事実を認めていない。
歴史上の拉致
歴史的には、戦争時において「人間」を戦利品と看做して略奪の一環として人間の拉致が行われた経緯がある。また、自勢力の経済・技術力の向上のため、あるいは逆に相手側に打撃を与えるために拉致が行われた事がある(例:刀伊の入寇における九州の農民連行、元寇における高麗(韓国)による日本の少年少女の連行や朝鮮出兵における朝鮮人陶工・儒学者の連行、葛根廟事件における中国人による日本人少年少女の強奪など)。戦国大名の分国法にはこうした行為を「乱妨取り(略して「乱取」とも)と呼んで禁じたケースもあるが、これは逆説的に捉えればこうした例が多かったからに他ならない。 
  
神隠し
子供などが突然行方不明になることをいう。村中の人たちが鉦 (かね) や太鼓をたたいて名を呼び,捜し歩いた。天狗,きつね,鬼,隠し神などによって隠されたものと信じられ,永遠に帰らない場合と山中などでぐったりしている姿を発見される場合があった。その場合,はきものがきちんとそろえてあるのも一特徴とされる。古来,民間信仰では,霊界との交流の重要な手段と思われてきた。
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(「かみがくし」とも) 1 子供・娘などが、突然行方不明になること。山の神や天狗(てんぐ)などの仕業と信じられていた。「神隠しにあう」 / 2 服喪中、神棚を白紙で隠すこと。

人がゆくえ不明で見当たらぬとき昔は神隠しにあったと信じた。また天狗(てんぐ),狐(きつね),夜道怪(やどうかい),隠しばあさん,隠れ座頭のしわざともされ,村中総出で鉦(かね)・太鼓をたたき〈もどせ,かえせ〉と叫んで捜す。神隠しにあうのは子どもが多く,山中などで失神状態で発見されたりした。

人が突然行方不明になったとき,神に隠されたと解釈することをいう。子どものことが多いが,成人の場合には妊娠中の女性や病弱あるいは異常心理状態の男女にみられる。さまざまな神霊が神隠しを行うとされるが,天狗にさらわれたとするところが多い。神隠しにあったときは,村中の者が鉦(かね)や太鼓をたたき,隠された者の名を呼び,〈かえせ,もどせ〉と叫んでさがしまわるのが一般的なならわしであった。行方不明の理由は,実際には,家出,誘拐,精神異常,事故死などさまざまであったと考えられる。
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子供などが不意に行方不明になり、探しても容易に見つからなかったり、茫然自失の状態で発見されたとき、それを天狗・迷わし神・隠し神など超自然的なものに隠されたと考えたもの。 「 −にあう」 / 2 服喪中、白紙を張って神棚を隠すこと。

子供などが急にみえなくなることをいう。以前農村などにはよくあったことで、これを天狗(てんぐ)にさらわれたなどといって、村中総出で鉦(かね)・太鼓(たいこ)をたたいて捜した。なかなかみつからないが2、3日してひょっこり帰ってくることがあった。話を聞いてもうろ覚えのことが多い。大人の場合には、すこし愚鈍の男というのがよく神隠しにあう。狐(きつね)にさらわれたといって稲荷(いなり)神社に願ったり、稲荷下げに頼んだりする。稲荷神に願うと狐が罰せられるので、すぐ返してくれるという。天狗は子供が好きだといって、子供を連れて空を飛んだり川を越したりする。神隠しを捜すのに枡(ます)の底をたたいて捜す。天狗はその音がたいへん嫌いだという。沖縄にも神隠しの話がよくあり、物迷いという。モノというのは一種の霊で、それに誘われてあちこちを連れて歩かされる。多く夕方から夜中にかけてのことである。モノに迷わせられると普段歩けないところも通って行く。水面や断崖(だんがい)などを飛ぶとき、屁(へ)をひると落とされるので危険である。モノにさらわれると赤豆飯(あずきめし)を食べさせられるが、それは赤土である。家に戻ってきた後の便をみると、赤土が混じっているという。東北地方などによく大人が急にみえなくなった話がある。女の場合が比較的多く、山男に連れ去られその女房になったという。そういう者は一度だけ村に姿をみせることがあるが、ふたたび姿を隠して行方が知れなくなってしまうという。 
 
 
 
 


2018/5
 
 
●北朝鮮による日本人拉致事件 
1970年代から1980年代にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員や土台人、よど号グループなどにより、17人(北朝鮮側によれば13人)の日本人が、日本、欧州から北朝鮮に拉致された問題である。 
日朝それぞれの政府による認定と認識
日本政府が認定した拉致事案は12件、拉致被害者は17人。北朝鮮政府側は、このうち13人(男性6人、女性7人)について、日本人拉致を公式に認めており、5人が日本に帰国しているが、残り12人については「8人死亡、4人は入境せず」と主張している。日本政府は「全員が生存しているとの前提で対処する」との立場をとっている。
北朝鮮は、長年拉致事件への関与を否定してきたが、2002年(平成14年)、平壌で行われた日朝首脳会談で、金正日が日本人の拉致を認め謝罪し、再発の防止を約束した。しかし、このことに対する賠償などは、未だに行われていない。
2003年(平成15年)6月5日の衆議院本会議において、当時の首相である小泉純一郎は、拉致問題に関して日本の主権の侵害と国民の生命と安全に対して、大きな脅威をもたらすことから、普通はテロと言えると思うと答えている。
2018年(平成30年)現在、日本政府は首相官邸公式ウェブサイトにおいて、「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」としている。
また、日本政府認定の拉致被害者の他に、北朝鮮から拉致された疑いが拭えない「特定失踪者」の解決も、日本政府は取り組むと明言している。 
北朝鮮の活動概要
北朝鮮は、国家樹立当初から武力行使を辞さぬ形で、朝鮮半島を統一することを標榜してきた(詳細は朝鮮統一問題を参照)。この点においては、大韓民国(韓国)も同じ態度のまま(李承晩の北進統一論)であったが、1950年(昭和25年)、北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争に突入した。だが北朝鮮側の事前の予期に反して国連軍が韓国防衛のために派兵し、中国人民解放軍が北朝鮮を支援(介入)したことで、国土の荒廃と南北分断の固定化を招いた。
その後の北朝鮮は、朝鮮戦争からの復興事業を一段落させた後、1960年代に入ると、韓国に対する諜報活動を活発化させた。時には、直接の破壊工作も行ったと言われている。その工作活動は、少なくとも1980年代まで続けられていたことが確認されている。これらについては北朝鮮側からの反論もなされている。
1970年代から1980年代にかけ、日本国内において、不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察による捜査や、亡命北朝鮮工作員や逮捕された土台人の証言などから、北朝鮮工作員による、日本人拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。
それまで主として、韓国国内で活動してきた北朝鮮のスパイ(工作員)らが、この時期以降、韓国当局の手によって数多く摘発されるなど、韓国当局による北朝鮮工作員への警戒が非常に厳しくなったことで、在日韓国・朝鮮人らを抱き込んで、韓国に入国させる形での対韓国工作活動の遂行が困難になってきた。そのため、北朝鮮当局は日本人に成り済まして、工作員を韓国に入国させる手口が有効であると考え、韓国のみならず、世界各国の出入国に便利な日本人のパスポート(旅券)を奪取するため、また同時に、工作員を日本人にしたてるための教育係としての利用、あるいは日本国内での工作活動の利便性を向上させる目的で、複数の日本人を拉致したとの指摘がある。
一方で、特定失踪者問題調査会の調査結果によると、拉致されたもしくは拉致された疑いが濃厚な者(俗に言う1000番台リスト)が失踪前に従事していた職業を詳細に調べた結果「印刷工」「医師」「看護師」「機械技術者」といった、北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野を担う職業に集中していることが判明していること、また、これらの特殊技能を持った拉致被害者に、日本人の配偶者を与え、家族を人質とすることにより、脱北させないようにするために、日本人を拉致した例も、多数あるのではないかとの指摘もある。北朝鮮には、1970年代にはよど号ハイジャック事件で北朝鮮に「亡命」した日本人男性が少なからずおり、「国家の賓客」として扱われていた。
拉致の手口
拉致の実行については、以下のような手口が報じられている。
○福井県や新潟県など日本海沿岸、鹿児島県など東シナ海沿岸に工作員を密かに上陸させ、付近を偶然通りがかった若者を暴力も辞さない方法を用いて拉致する。
○日本国内に潜入している工作員や土台人が目ぼしいターゲットを決めて接近し、言葉巧みに誘い出し、誘拐する。
○日本国外に在留、居留する日本人に「仕事の紹介をする」として、北朝鮮に誘拐する。ただし入国までは本人の同意を取り付けていると考えられる。
○工作員が日本沿岸での工作活動中に目撃されたと思い、目撃者を強引に拉致する。
○工作員の侵入地点と拉致現場が離れているケースもあり、輸送手段としての自動車の調達、潜伏先や監禁場所の手配などの共犯行為には、現地に土地勘のある在日朝鮮人の土台人が関わった可能性を指摘する声もある。
拉致実行の指令
○平壌放送(AM657kHz)内の乱数放送で指令があったとの説が有力(音声による乱数放送(A-3放送)は2000年に廃止。)。
○また、平壌放送以外でも北朝鮮の国営放送、朝鮮中央放送内で、選曲の順番などで工作員に指令を送ったりもしていたと考えられる。
○(参考として、日本側への重要な工作指令は万景峰号船内にて直接、口頭にて指令が伝達される)
拉致被害者の境遇
一部の拉致被害者は、金委員長の別荘でもあり、外国人賓客の宿泊するホテルとしても使われる「招待所」において、特殊工作機関の常時監視のもと、上述の特殊技能を活かした任務や日本語文献の翻訳などに従事させられていたとの指摘がある。脱北者によれば、日本人を含む拉致被害者は、別世界のエリートとして扱われており、彼らとすれ違う際は目を伏せ顔を見ないようにするよう厳しく言われていたという。
餓死する子供が多発している北朝鮮の一般庶民の現状に比べると拉致被害者たちは優遇された生活を送っていたと言われており、招待所ではすしや酢豚などの料理を食べ、外国映画を見る機会もあり、一般住民よりはるかに厚く遇された生活だが、自由な外出は許されなかったという。2002年に帰国した拉致被害者、蓮池薫氏の「招待所にいた時は賄い付きだった」「招待所にいる間は、名所観光をしたり娯楽映画などを見たりした」、曽我ひとみ氏「一般の朝鮮人との接触はない」等の証言がある。
北朝鮮一般市民との接触は、継続的に特殊工作機関による厳重な監視下に置かれ、この時期に限らず常に遮断された状態であった。北朝鮮側は、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議で「死亡」とされた8人の死亡診断書等の資料が捏造であったことを認めた。また、横田めぐみのものとして提供された「遺骨」を鑑定した結果、日本政府は別人のものと判断し、未帰還の多くの拉致被害者は生存していると見ている。拉致被害者はこの他にも多数おり、特定失踪者問題調査会では数百人に及ぶ日本人が拉致されていることを示唆している。
その一方で、生存情報の多くを頼っていた安明進・元北朝鮮工作員が韓国で麻薬密輸・使用で有罪判決を受け、その後姿を見せていないことから、推測や憶測が混じったこれまでの情報の再検証が真相解明の為に不可欠となっている。
北朝鮮側の対応
この一連の拉致事件は長い間謎とされて来た。冷戦末期の1987年に発生した大韓航空機爆破事件の際の工作員金賢姫の証言から疑惑が浮上したが、国会においては1997年までは国交正常化等の議題になった際に懸案として出る程度であった。
1991年(平成3年)以来、日本政府は北朝鮮に対し拉致事件を提起していたが、北朝鮮側は否定し続けた。
日本では1977年に拉致された中学生横田めぐみ等に関する実名報道があってから、国会で取り上げられるなど、報道の頻度が爆発的に増えた。1997年には拉致被害者の救出を求める議員連盟が発足し、政府が7件10人の拉致被害者を認めた。北朝鮮側は「拉致は捏造」と主張し、北朝鮮系の在日朝鮮人の団体である朝鮮総連なども同様の主張をしていた。
2002年(平成14年)9月17日、内閣総理大臣小泉純一郎(当時)らが訪朝し、日朝首脳会談を行った際に、当時の北朝鮮の最高指導者(国防委員長であり、朝鮮労働党中央委員会総書記)である金正日は、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが、「現地請負業者」(土台人とみられる)と共謀して、日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に一時帰国し、間もなく本人たちの意思で日本に残ることとなった。
2004年(平成16年)5月22日、小泉純一郎の2度目の平壌訪問により、先に帰国していた拉致被害者の夫や、子供が日本への帰国を果たした。
しかし、2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮を訪問して実現した日朝首脳会談の席で、金正日国防委員会委員長は「部下が勝手にやったことだ」と北朝鮮が日本人13人を拉致したことを初めて認め謝罪したものの、すでに拉致実行組織を解体、拉致を指揮した者を処分したと伝えたが、拉致の実行犯が現在でも英雄扱いされているなど、実際に処分等は行われていない。北朝鮮は2002年9月17日の日朝首脳会談において、日本人拉致事件は解決していると主張している。
北朝鮮は「日本が解決済みの拉致問題を意図的に歪曲し誇張するのは、日本軍が過去に朝鮮人民に働いた犯罪を覆い隠す為の政略的目的に悪用する為だ」と主張している。一方で「日本が誠意を示せば、何人かは帰す」とも主張している。
北朝鮮は、日本政府が認定した拉致被害者17人のうち、残り12人について「死亡」あるいは「入境せず」として、「拉致問題は解決済み」と説明し、その後の協力を拒んでいるが、日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続けている。
「北朝鮮による日本人拉致事件」については、マスメディア・更に日本政府内でも、すべて「拉致」と総称しているが、刑法学上はすべて「拐取(海外移送目的拐取)」である。北朝鮮による日本人拉致においては、刑法上の「略取」に当たる事案(加害者による暴力行為を手段として、強制力により被害者の身体を拘束の上で移送した事案)と、「誘拐」に当たる事案(偽計を手段として被害者を騙す等によりその同意を得つつ、身柄を加害者の実力的支配内に置いた上で移送した事案)、国外移送時の状況が不明な事案に分けられる。少女拉致事案・アベック拉致事案・母娘拉致事案・鳥取女性拉致容疑事案は「略取」であり、欧州における日本人男女拉致容疑事案は「誘拐」である。宇出津事件・李恩恵拉致事案・辛光洙事件・元飲食店店員拉致容疑事案など土台人を介したものと見られる拉致事案については「誘拐」の可能性が高いが、国外移送から北朝鮮入国に至る状況の詳細は不明である。 
 
政府認定拉致被害者 
日本政府が認定した拉致被害者は次の17人、久米裕、横田めぐみ、田口八重子、濱本富貴惠、地村保志、蓮池薫、奥土祐木子、市川修一、増元るみ子、曽我ひとみ、曽我ミヨシ、松木薫、石岡亨、有本恵子、原敕晁、田中実、松本京子(肩書・年齢は当時、敬称略、被害者家族の決断により実名報道されている) 。この内5名は日本に帰国。2007年(平成19年)4月12日、警察庁はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供2人(当時長女が6歳と長男が3歳)が1974年(昭和49年)6月中旬に行方不明になった事案について、複数の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した(2児拉致事件)。よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供2人が朝鮮籍であり、日本国民であることを要件とする拉致被害者支援法の認定基準には該当しないため、子供2人は拉致被害者としては認定されていない(2007年10月30日現在)。  
宇出津(うしつ)事件
1977年(昭和52年)9月19日拉致
東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕(1925年(大正14年)2月17日 - 当時52歳)
石川県宇出津海岸付近にて失踪
北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人・李秋吉が「45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、不審船(工作船)で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している。この1件だけで、「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。警視庁公安部と石川県警察は主犯格の金世鎬(キム・セホ)を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。なおこの事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功したことが評価され、1979年に警察庁長官賞を受賞している。この事実は長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。なお、李は起訴猶予処分となり日本への帰化を許され、日本国民・大山秋吉として現在も都内で自営業を営んでいる。  
少女拉致事案
1977年(昭和52年)11月15日拉致
新潟の女子中学生、横田めぐみ(1964年(昭和39年)10月5日 - 当時13歳)
新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪。新潟県警察は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。
北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは1986年に結婚し、1987年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、1994年4月(2002年10月の報告では「1993年3月」としていたが後に訂正)に入院先の病院で自殺、1997年に火葬したとしている。
2004年11月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された(「ニセ遺骨問題」も参照)。遺体は未確認。2006年6月29日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは1994年に自殺した」と述べた。この発言について、彼女の両親である横田滋・横田早紀江夫妻は「予想通りの証言。こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ」とした。また、安倍晋三内閣官房長官(当時)も「発言内容は信憑性がない」とした。
帰国した拉致被害者たちの証言によると、1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で曽我ひとみと同居し、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で拉致被害者田口八重子および工作員女性1名と同居していたとされている。1986年(昭和61年)に平壌へ転居した後、1994年(平成6年)頃までは地村夫妻や蓮池夫妻と同じ地区で暮らしていたとされている。
1997年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本龍太郎政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら1994年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした1997年当時には無く1999年に建設されたものだと複数の脱北者が証言している。また、帰国した地村富貴恵が「(自殺より後の)1994年6月にめぐみさんが隣に引っ越してきた」と証言している。また2011年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として「横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した」とする証言を日本政府に伝えている。さらに週刊朝鮮の報道によって2005年に作成された北朝鮮平壌市民名簿に横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている。なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、1971年の加賀市沖不審船事件同様に不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある。
横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる。また、金正恩の母が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある。  
李恩恵(リ・ウネ)拉致事案
1978年(昭和53年)6月29日頃拉致
東京の飲食店員、田口八重子(1955年(昭和30年)8月10日 - 当時22歳)
帰国した拉致被害者たちの証言によると、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で横田めぐみおよび工作員女性1名と同居していた。1986年(昭和61年)に平壌へ転居し、10月には地村富貴恵と平壌市内の百貨店で会っている。蓮池薫の証言によると、その後田口八重子は敵工地と呼ばれるところに行ったとされている。
1987年11月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮のスパイ(諜報員)金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している。この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、1988年(昭和63年)頃全国各地に「昭和55年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか」というポスターが貼られている。その後埼玉県警察警備部の調べで1991年(平成3年)に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考えた家族からの要請で実名での報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。
日本の警察庁から2人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真10枚ほどが準備された。田口八重子の写真をこの中に混入し、「このなかに教育に当たった女性がいるか」と金賢姫に示した。1枚1枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て、「この人です」と言ったという。李恩恵は拉致された田口八重子であることが確認された。2009年3月、金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した。
地村富貴恵の証言によると、北朝鮮に上陸した際、子供が日本にいるから帰してほしいと訴えたとされている。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込もうと計画していたが、北朝鮮側に工作員になれないと言われ断念したとされている。
北朝鮮側の説明によれば、田口八重子は1984年に日本人拉致被害者(原敕晁 下記9参照)と結婚、1986年(昭和61年)の同男性の病死後、1986年(昭和61年)7月に自動車事故で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。また、李恩恵なる人物の存在を否定している。  
アベック拉致事案(福井県)
1978年(昭和53年)7月7 - 8日拉致
小浜の大工見習い、地村保志(1955年(昭和30年)6月4日 - 当時23歳)、被服店(ブティック)店員、濱本富貴惠(1955年(昭和30年)6月8日 - 当時23歳)
福井県小浜市で拉致。実行犯は北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)である。
2人は1979年(昭和54年)に結婚。1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。2004年(平成16年)5月22日、日朝首脳会談の結果を受け、娘1人と息子2人も日本に帰国を果たした。  
アベック拉致事案(新潟県)
1978年(昭和53年)7月31日拉致
中央大学法学部生、蓮池薫(1957年(昭和32年)9月29日 - 当時20歳)、化粧品会社社員、奥土祐木子(1956年(昭和31年)4月15日 - 当時22歳)
新潟県柏崎市で拉致。「ちょっと出かける。すぐ帰る。」と言って外出したまま消息を絶つ。同様に奥土も外出したまま両名が拉致される。実行犯は北朝鮮工作員、チェ・スンチョルである。
2人は1980年(昭和55年)5月に結婚、1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に地村らと共に日本に帰国。2004年(平成16年)5月、残された子供(1男1女)も日本に帰国を果たした。  
アベック拉致事案(鹿児島県)
1978年(昭和53年)8月12日拉致
電電公社職員、市川修一(1954年(昭和29年)10月27日 - 当時23歳)、鹿児島の事務員、増元るみ子(1953年(昭和28年)11月1日 - 失踪時24歳)
鹿児島県日置郡、吹上浜キャンプ場で拉致。
北朝鮮側の説明によれば、2人は1979年7月(2002年10月の報告では「1979年4月」としていたが後に訂正)に結婚したが、市川は1979年9月に海水浴場で心臓麻痺により死亡。増元も1981年に心臓麻痺のため死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。一方、北朝鮮元工作員・安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、1988年から1991年にかけて「何回も二人を見た」と証言している。  
母娘拉致事案(新潟県)(娘)
1978年(昭和53年)8月12日拉致
佐渡の准看護婦、曽我ひとみ(1959年(昭和34年)5月17日 - 当時19歳)
新潟県真野町(現:佐渡市)において母親と2人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で横田めぐみと同居した後、1980年(昭和55年)8月に元アメリカ兵チャールズ・ジェンキンスと結婚。1983年(昭和58年)6月に長女出産、1985年(昭和60年)7月に次女出産。2002年(平成14年)10月に日本に帰国。夫および2人の娘については、2004年(平成16年)5月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども(2女)は北朝鮮政府の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していたが、同年7月9日、インドネシアのジャカルタにて再会し、7月18日一家4人で日本に帰国。北朝鮮は、曽我ミヨシ(46歳)については、「日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った」と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。  
母娘拉致事案(新潟県)(母)
1978年(昭和53年)8月12日拉致
佐渡の准看護師の母、曽我ミヨシ(1931年(昭和6年)12月28日 - 当時46歳)
曽我ひとみは佐渡で上記の准看護婦と買い物帰りに同時に失踪。北朝鮮拉致認定。北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時46歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定。曽我ミヨシの消息は全く不明。  
欧州における日本人男性拉致容疑事案
(1)1980年(昭和55年)拉致
京都外国語大学大学院生、松木薫(1953年(昭和28年)6月13日 - 当時26歳)
1980年(昭和55年)5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。同年6月にスペインのマドリードにて拉致。松木は、石岡亨と共に「よど号ハイジャック事件」の犯人グループの妻2人(森順子・若林佐喜子)により拉致されたことが警察の調べで判明している。北朝鮮側情報では、1996年8月23日に自動車事故で死亡したとしている。2002年(平成14年)9月に派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。また、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。
(2)1980年(昭和55年)5月頃拉致
日本大学学生、石岡亨(1957年(昭和32年)6月29日 - 当時22歳)
1980年5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ1980年6月スペインにて拉致。1980年4月にスペインの動物園でよど号メンバーの妻2人(森順子・若林佐喜子)と一緒に撮影された写真が存在する。また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループの柴田泰弘や日本赤軍の戸平和夫が使用していたことが確認されている。北朝鮮側によれば、1985年12月に拉致被害者(下記8-3.有本恵子)と結婚、1986年に長女が誕生するが、1988年11月4日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。1995年8月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。
(3)警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを求めている。  
欧州における日本人女性拉致容疑事案
1983年(昭和58年)7月頃拉致
神戸市外国語大学学生、有本恵子(1960年(昭和35年)1月12日 - 当時23歳)
欧州にて失踪。有本の拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻となった八尾恵が、2002年3月12日、「私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と東京地裁で証言している。警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。
北朝鮮側の説明によれば、有本は1985年に石岡と結婚、一児をもうけるも、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。  
辛光洙(シン・グァンス)事件
1980年(昭和55年)6月頃拉致
大阪府鶴橋中華料理店「宝海楼」勤務の調理師、原敕晁(1936年(昭和11年)8月2日 - 当時43歳)
宮崎県青島海岸から拉致された本件については北朝鮮工作員、辛光洙が韓国当局に対し中華料理店勤務、調理師男性の拉致を認める証言をしている。本件に関連し、警視庁公安部は辛光洙を国際手配した。辛光洙は1999年12月31日恩赦により釈放。金大中政権の「非転向長期囚送還」により翌2000年9月2日北朝鮮に送還された。北朝鮮政府は、拉致実行犯は処罰したと説明しているが、一方で辛光洙は拉致実行後に金正日から大きな功績があったとして「国旗勲章1級」を授与され、英雄として北朝鮮の記念切手にもなっている。
北朝鮮側の説明によれば、原敕晁は李恩恵(リ・ウネ)拉致事案の田口八重子と1984年に結婚するも1986年に肝硬変で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は1995年7月遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。北朝鮮側情報では、本人の金儲けと歯科治療の意向を受け、1980年(昭和55年)6月17日 宮崎市青島海岸から連れ去った。警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索を実施後、工作員の辛光洙・共犯者の金吉旭・指示役で工作機関副部長の姜海龍を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。
原には地元長崎市に兄がおり、家族会にも参加しているが、事件がドラマのように取り上げられることを嫌い、メディアに登場することはない。
○在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書に関して
1989年(平成元年)、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯の釈放を求める在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書が、当時の日本社会党、公明党、社会民主連合らの議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。その際、釈放要望対象者の中に辛光洙らの拉致共犯者・実行犯が含まれていた。
その後、2002年(平成14年)9月に金正日が拉致実行を認めたあとで同年10月19日に当時官房副長官の安倍晋三が土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と批判するなど、署名した国会議員は自民党や共産党から非難された。菅直人は「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」 と謝罪した。公明党は、釈放要求の対象は学園浸透スパイ団事件の首謀者とされた徐勝・徐俊植兄弟で、当時の日本国内における拉致問題の認識は「北朝鮮工作員による拉致の疑い」という程度のもので、実行犯の氏名や犯行内容は全く認知されておらず、辛光洙の関与も明らかではなかったと抗弁し、また社民党も、1984年4月25日の衆議院外務委員会において、日本社会党の土井たか子議員が釈放について政府の尽力を求めたことに対し、安倍晋三の父である安倍晋太郎外務大臣(当時)が「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」と答弁したことを指摘し、同罪であると反論した。一方、共産党は、要望書が提出される1年前の1988年(昭和63年)3月26日の参議院予算委員会において、共産党議員が辛光洙事件について質問しており、署名議員も予算委員として出席しており、当時、公明党が主張するように、署名した国会議員らがそうした事実や疑惑を知らなかったこと自体おかしな話であると批判している。また、共産党は自民党に対しては、自公連立友党の公明党議員の署名について言及しないのは二重基準として批判している。  
元飲食店店員拉致容疑事案
1978年(昭和53年)6月頃
元ラーメン店店員、田中実(1949年(昭和24年)7月28日 - 28歳)
兵庫県神戸市灘区出身。1978年(昭和53年)6月、北朝鮮からの指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人土台人によって、成田空港から日本国外に連れ出された後、ヨーロッパ経由で北朝鮮に送り込まれた。1994年(平成6年)6月、在日朝鮮人男性が平壌で田中という拉致被害者と会ったと兵庫県警察に証言したほか、1996年(平成8年)、別の北朝鮮の元工作員が「北朝鮮工作員と『土台人』のラーメン店店主に誘い出され、ウィーンとモスクワ経由で連れて行かれた」と告白している。なお、北朝鮮側は田中が北朝鮮内に入国したことは確認できなかったと主張している。
2018年3月16日に、北朝鮮側が「入国していた」と2014年の日本側との接触の際に伝えられていた事が日本政府関係者から明らかになる。また同時に神戸市の元ラーメン店店員の金田龍光(被害者未認定)の入国も認めていた。拉致被害者認定:2005年(平成17年)4月27日  
女性拉致容疑事案(鳥取県)
1977年(昭和52年)10月頃
会社員、松本京子(1948年(昭和23年)9月7日 - 当時29歳)
1977年(昭和52年)10月29日午後8時頃、自宅近くの編み物教室に向かうため外出。近所の住人が同日夜に男と見られる2人と話している松本を目撃。話しかけたところ2人のうちの1人から殴りかかられた。その直後に、サンダルの片方を残して失踪。北朝鮮側は、入国を確認できなかったと主張している。日本国内の会社の関係者が北朝鮮の貿易会社に電話した際、「キョウコ」と名乗る女性が対応したとの証言がある。また脱北者により北朝鮮では清津市に居住していたとの情報がもたらされているほか、失踪直前に沖合いにて不審船が目撃されていたとの情報もある。2013年(平成25年)5月、ラオスで拘束され北朝鮮に強制送還された脱北者9名の中に松本の子息が含まれている可能性がある、と韓国の一部マスコミが報じたが、脱北を手配した人物に接触した韓国政府当局がこれを否定した。韓国の拉致被害者家族が組織する「拉北者家族会」は、松本は北朝鮮で結婚したが子供はおらず、2011年(平成23年)頃清津から平壌に移されたとの情報を得ていることを公表、国家情報院も同様の見方をとっている。しかしこれらの情報について日本政府は「捜査中」であるとの理由から見解を公表していない。拉致被害者認定:2006年(平成18年)11月20日  
政府が未認定の拉致事件
2児拉致事件
1973年(昭和48年)12月頃
埼玉県上福岡市(現:ふじみ野市)在住の渡辺秀子が拉致され、工作員グループによって活動拠点だった朝鮮総連の金炳植第一副議長が設立した東京都品川区の貿易会社ユニバース・トレイディングの内部で工作員の男に絞め殺されるとともに、6歳の長女・敬美と3歳の長男・剛の2人が拉致され、1974年(昭和49年)6月に北朝鮮に連行されたとされる事件。渡辺秀子殺害についての警察の事情聴取では、ユニバース・トレイディングの関係者によって「箱に入れ石を詰めて捨てた」「遺棄場所は山形と秋田の県境」などの証言がなされていたが遺体発見にはいたっていない。また拉致した際の世話役として当時55歳だった女とその協力者として2人の男がいたこともわかっておりこの3人は現在も日本にいる模様。事件が公になった当時の国家公安委員会委員長は「拉致事件は現在も継続中であり時効は成立しない」としていたが、警察はこの3人の逮捕はしておらず事情聴取なども行っていない。
この事件の被害者の国籍が朝鮮籍であったため政府は拉致認定を見送ったが、捜査を行った警察自身が拉致事件であると断定している。  
 
拉致問題の推移
1970年代
以上のように、拉致事件は1970年代を中心に実行された。
北朝鮮工作員の日本国内への侵入は、日本の海上警備を担当する当局の警備能力の低さから、北朝鮮では非常に簡単な任務であったと伝えられている。
領海警備を担当する海上保安庁は、当時、武装工作船への対処能力は持っておらず、また拉致そのものが表面化していなかったため、北朝鮮による隠密領海侵犯や土台人の暗躍はまったくの想定外であった。
一方海上自衛隊は、拉致といった刑事事件的な事案に関与する機関ではなく、当時はソビエト連邦の潜水艦への対処しか想定していない組織であったため、不審船の領海侵犯には無為無策であった。
他国に不法侵入して、他国民を拉致する行為は、国家の主権を侵害する行為であり、国際法上直接侵略とみなされる。その反面、国、政府も拉致を実行された自治体も国土、国民を守る体制、拉致後の拉致被害者奪還に対する対応ができていなかった、主権を守れなかったともみなされる。
警察では拉致の協力者への取り調べや暗号文の解読により北朝鮮による拉致を把握しつつあったが、成田空港管制塔占拠事件の発生により国内の過激派対策に注力せざるを得なくなったため、拉致への対処が遅れたとも言われる。
1980年代
1980年1月7日、産経新聞がマスメディアにて初めて拉致事件の報道をする。タイトルは「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」。記者は産経新聞社会部の阿部雅美。
1980年3月24日、参議院決算委員会において公明党の和泉照雄はアベック失踪事件について質問。この質疑応答においては「北朝鮮」という言葉は出なかったが、北朝鮮による日本人拉致問題に連なる議題が初めて国会で取り上げられる質疑となった。
1988年1月28日、衆議院本会議において民社党の塚本三郎委員長は竹下登首相の施政方針演説に対し代表質問を行う。その中で大韓航空機爆破事件、「李恩恵」(田口八重子)および金賢姫等に言及するとともに1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件について北朝鮮による犯行ではないかと指摘し、真相究明を求める。この塚本の質問は国会において初めて北朝鮮による日本人拉致について取り上げられたものであったが、竹下首相からは明確な答弁を得られなかった。
1988年3月26日、参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦は1978年7月から8月にかけて福井県・新潟県・鹿児島県において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、「李恩恵」および金賢姫等について質問を行う。これに対し国家公安委員会委員長の梶山静六は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であることの見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。
これに続き宇野宗佑外相は「我々の主権が侵されていたという問題」、「全くもって許しがたい人道上の問題」、「強い憤り」、「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。林田悠紀夫法相は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」「判明したならばそこで処置」と、更に城内康光警察庁警備局長は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」、「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。
一方、1988年8月、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員・よど号ハイジャック事件犯人関係者に拉致された石岡亨(北海道札幌市出身)と松木薫(熊本県熊本市出身)それに有本恵子(兵庫県神戸市長田区出身)の消息を伝える石岡本人の手紙がポーランド経由で石岡の家族の元に届く。この手紙によって行方が分からなくなっていた3名が北朝鮮にいることが判明した。しかし、松木については、その手紙に正確に住所が記されていなかったため、家族には時間が経ってから知らされた。石岡・有本家は日頃から北朝鮮とパイプがあることをアピールしていた日本社会党系の政治家に助けを求めることにした。石岡の家族は札幌市の日本社会党北海道連合にも相談したが、「本部に連絡をする。国交がない国なので口外しないように」と言われた。「国交がないから」という言葉は、それ以降も外務省や様々なところで言い訳に使われることとなる。
一方、有本の両親は上京して自由民主党の政治家に助けを求めることを決め、1988年9月、東京都千代田区永田町の衆議院議員会館に自由民主党幹事長の安倍晋太郎を訪ねる。安倍は夫妻の訴えを聞き届け、当時秘書だった次男の安倍晋三に夫妻を外務省と警察庁に案内するよう命じ、夫妻はここに至って事の次第を外務省・警察庁に伝えることができた。以後有本夫妻は安倍父子に連絡するようになり、安倍父子はこの問題に取り組むことになるが、1989年6月、晋太郎は癌を発症し入院。幹事長も退任した。以後入退院を繰り返したが、1991年5月、晋太郎は他界した。後継者となった晋三は亡父の地盤を引き継ぎ、1993年、第40回衆議院議員総選挙に立候補し当選。以後国会議員としてこの問題に取り組むことになった。
梶山の答弁以降、しばらく国会で取り上げられることはなく、警察の捜査の進捗状況や事件の真相も明らかにならないまま一般には半ば忘れられた問題となっていた。
1990年代
○家族会の結成
1996年9月、『金正日の拉致指令』が出版される。著者は石高健次(朝日放送)。元北朝鮮工作員からの証言を元に取材し、日本人拉致事件の情報を公にした。
1997年初頭、元北朝鮮工作員で脱北者の安明進の証言が出て事態が動き出す。同年1月23日、新進党の西村眞悟は衆議院予算委員会に「北朝鮮工作組織による日本人誘拐・拉致に関する質問主意書」を提出し、初めて横田めぐみ拉致事案を取り上げ、政府の認識を問うた。
同月新潟県で「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が発足し、一部の拉致被害者家族が実名公表を決める。これを受け同年2月3日、衆議院予算委員会において西村は大韓航空機爆破事件や文世光事件、金賢姫の著書などに言及しながら横田めぐみ・久米裕・田口八重子・原敕晁らの実名を挙げ、彼らが北朝鮮に拉致されていると明確に指摘した質疑を行い、橋本龍太郎首相、池田行彦外相に政府の見解を質した。大手マスコミもこれを報道し、当時13歳の中学生少女が拉致されていたという事実の指摘は国民に衝撃を与え、北朝鮮による拉致事件が広く国民に認識される契機となった。
このように国内で拉致問題が初めて大きくクローズアップされるなか、3月25日に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が結成され、救出活動を開始することになった。また国会内では議連結成の動きが本格化した。4月15日、自由民主党衆議院議員の中山正暉が会長となり、超党派の議員による「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(旧拉致議連)が設立された。同年5月1日の参議院決算委員会において自民党吉川芳男の質疑に対し、伊達興治警察庁警備局長(当時)が北朝鮮によって横田めぐみが拉致された疑いがあるとした答弁し、政府は「7件10人が北朝鮮に拉致された疑いが濃厚」と発表。メディアが拉致問題を一斉にクローズアップした。拉致問題の報道が本格的になると同時に国民の関心も徐々に高まっていった。 拉致問題解決の署名活動が行われ、1997年8月末には60万人、1年後には100万人を越えた。このうち、福井県では地元の拉致被害者の父地村保らの活動により、県民の半数の署名を集めている。
○拉致議連の混乱
旧拉致議連において当初中山は「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せ、議連も一致してその原則で臨んでいた。しかし中山は1997年11月に平壌を訪問して以降、急遽各方面に拉致事件否定説を発表するなど不可解な行動を見せた。翌1998年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、政府の政策と矛盾する言動を取り始めた。中山の態度豹変に対し、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(以下「救う会」)はもとよりマスコミや当時中大生であった憲政史家倉山満が創設した「中大生(蓮池薫)を救う会」などから疑念と批判の声が上がった。また中山の行動が影響し、旧拉致議連参加議員の中から日朝友好議員連盟にも重複加入する議員が現れるなどしたため、旧拉致議連は活動休止状態に陥った。その後も中山は、2002年3月20日、拉致被害者である有本恵子の母・嘉代子に電話をかけ、「日本人が日本人を連れていったもので、北朝鮮の工作員が関与していないという話の方が有本さんを帰国させやすい」と説明したほか、北朝鮮で会わせることを持ちかけた。会長自らそれまでの方針を勝手に翻し、このような言動を行ったことで家族会の疑念を生むことになった。議連メンバーや救う会関係者、支援者から批判を浴びた中山は「日朝友好議員連盟会長」と「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」の両会長を辞することになった。
旧拉致議連は後任人事について桜井新幹事長と西村眞悟事務局長代理に一任したが、同年4月3日、両名の協議の結果「体制一新が必要」との判断に達し、旧「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」は解散した。これを受けて同月、石破茂を会長、西村を幹事長、平沢勝栄を事務局長とした「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」(新拉致議連)が改めて結成された。同年4月25日の新拉致議連設立総会には衆参国会議員31人と代理30人が参加、家族会・救う会と結束して行動することを確認した。新拉致議連は当時経済産業大臣だった平沼赳夫や内閣官房副長官の安倍晋三らが賛同、第1次小泉内閣もこれを支持するところとなった。また中川昭一・上田清司ら新拉致議連の呼びかけ人に応じた中井洽・古屋圭司ら自由民主党・民主党・自由党・保守党の超党派の議員が発足当初から参加しているが、公明党・社会民主党・日本共産党からの参加はなかった。一方中山は同年5月7日の昼、赤坂プリンスホテルの中華料理店で「救う会」の役員に「有本恵子さんは生きている」と語ったが、9月21日の12時頃、「救う会」の西岡力が秘書を通じて中山にこの発言の根拠を確認したものの回答はなかった。このような中山の言動は被害者家族はもとより国民の不信感を生み、拉致事件の解決が妨害されたとして真摯な説明と謝罪を求める声が議員辞職後の現在も多くあがっている。
 
2000年代(小泉訪朝まで)
2000年4月9日、石原慎太郎東京都知事は「北朝鮮にら致されていた、いたいけなあの少女1人を救うこともできずに、これは政府の責任である」と前置きし「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」と述べた。また石原は2001年9月30日のテレビで「北朝鮮が日本人150人を拉致した」との趣旨の発言を行い、朝鮮総連が「事実無根で悪意に満ちた暴言。発言の根底には、朝鮮民族に対する深い蔑視と差別の思想がある」と反論した。 和田春樹は『世界』2001年1月および2月号に掲載した論文「『日本人拉致疑惑』検証する」において、「横田めぐみさん拉致の情報は、その内容も、発表のされ方も多くの疑問を生むものである。以上の検討からして、横田めぐみさんが拉致されたと断定するだけの根拠は存在しないことが明らかである」と、北朝鮮の日本人拉致について否定的な見解を示した。このため、翌2002年に北朝鮮が拉致問題を認めて以降、『諸君!』、『正論』等からは激しい批判が加えられるに至った。これについて和田は拉致の存在そのものを否定したわけではないと釈明した。
しかし、中には金正日が拉致を認めるまで拉致を捏造と主張する個人や団体が存在した。
例えば、弁護士の土屋公献は2002年までは「拉致問題は存在せず、国交交渉を有利に進めたい日本側の詭弁である」、「日本政府は謝罪と賠償の要求に応じるどころか、政府間交渉で疑惑に過ぎない行方不明者問題や『ミサイル』問題を持ち出して朝鮮側の正当な主張をかわそうとしている。破廉恥な行動と言わざるを得ない。」と、講演で繰り返し主張していた。土屋は後に「裏切られたという思い、強い憤りを感じる。北朝鮮政府の言うことを信じ、大勢の人々に対し様々な講演で拉致は無かったと説明してきたことを、申し訳ないと思っている」と語っている (その他辛淑玉・吉田康彦も拉致を否定した)。
団体では社民党が党のホームページに「韓国安全企画部や産経新聞のデッチ上げの疑惑があり、少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない」と事件の捏造を断定する趣旨の北川広和の論文を載せていた。
一方で北朝鮮に比較的擁護的だった立場の人々、とりわけ多くの在日朝鮮人や一部の保守系政治家、または左翼勢力(主に旧日本社会党、現在の社会民主党)の中には北朝鮮による日本人拉致問題を右翼や政府による捏造と信じて疑わなかった者が多く、一部では朝鮮人差別を原因とした捏造であると信じていた者もいた。社会民主党の月刊誌、月刊社会民主1997年7月号では、拉致事件をデッチ上げとした上で、拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件なのである、としている。
北朝鮮による拉致が公になった後の、日本政府の動きは鈍かった。拉致被害者の兄の蓮池透によれば、被害者の情報を求めに警察庁に訪れても「捜査上の秘密」と何も得られず、また外務省の嘆願に訪れても「誠意をもって取り組む」と単なる言葉のみだけにすぎなかった。また法務省の人権擁護局に至っては「仕事の範囲外」と、まともに相手にしてくれなかった。拉致事件解決の鈍い動きの反面、この時期の日本国政府は、北朝鮮への食糧支援の動きは積極的であった。
こうした状況を打開するため、救う会は政府機関や与党自民党の前で座り込みをする活動を行った。しかし政府は、2000年、田中真紀子等コメ議員たちの援助積極論の力により、北朝鮮への50万トンもの国内米の支援を決定した(費用は1100億円)。なお、このときの畑恵参議院議員は救う会の活動を「暴徒と化している集団」と呼んでいたという。また、野党も、社民党党首土井たか子は「食糧援助と拉致疑惑は切り離すべき」と主張し、民主党の鳩山由紀夫も、同様の演説をした。
2001年(平成13年)9月11日に、アメリカ同時多発テロ事件が発生、10月30日の参議院内閣委員会にて、出された質問「拉致をテロと認識するか?」に対し、福田康夫(内閣官房長官)は「拉致はテロではない」と、拉致事件への消極的な答弁を行った。
この様な拉致事件への消極的な政治対応が一変する事件が起こった。2002年1月に、北朝鮮工作船による九州南西海域工作船事件が発生、さらに、この年のジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領の一般教書演説にて、イラン、イラク、北朝鮮を『悪の枢軸』だと発言した。
2002年4月、衆議院ついで参議院にて、「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」が採択される。4月25日には新拉致議連が発足する。
 
2度の日朝首脳会談
○2002年日朝首脳会談
2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮の平壌を訪問し、国防委員会委員長・金正日と会談した(日朝首脳会談)。元北朝鮮外交官・太永浩によると、小泉首相は拉致を認め被害者を帰国させれば100億ドルを払うとしていた。その席で北朝鮮側は、日本人13人を拉致したことを認め、金正日総書記自らが日本人拉致事件について、「遺憾なことであり率直におわびしたい。私が承知してからは関係者は処分された」と述べ、北朝鮮側としては「実行者は英雄主義に走ってかかた一部の特殊機関の者による行為」とし、関係者はすべて処罰したと説明した。また、「死亡」したとされる8人に関する「死亡診断書」などの情報を提出したが、これらはすべて捏造であったことを日朝実務者協議(2004年11月)で認めた。日朝平壌宣言では「国交正常化の後」、「経済協力を実施」することとなっているが、日本政府は「拉致問題の解決なくして国交正常化はありえない」と繰返し述べている。
○5人の帰国
その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉致被害生存者については、一時帰国を条件に2002年10月15日に帰国が実現した。交渉は外務省アジア大洋州局長の田中均(当時)と国家安全保衛部第一副部長の金詰(キム・チョル)という偽名を名乗る人物(正体は副部長の柳京(リュ・ギョン))の間で行われた。田中局長は「生きている拉致被害者を4人から5人程度出せばいい」と提案、北朝鮮側が了承し、5人の一時帰国が実現した。
5人の帰国後、日本政府は世論や拉致被害者家族会の要望などにより、一時帰国した被害者を「北朝鮮へ帰す」ことを拒否し、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。このため、北朝鮮側は「日本政府に対し約束違反だ」と主張した。このような北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、北朝鮮政府が日程を決めないなどした為に中断した。
○帰国した拉致被害者
地村保志・地村(浜本)富貴恵夫妻
蓮池薫・蓮池(奥土)祐木子夫妻
曽我ひとみ
○小泉訪朝後の世論の大変化
2002年(平成14年)9月17日の小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談(第1回)で、金正日国防委員会委員長が、一連の拉致事案や工作船事案を認めて謝罪した事で、状況は一変する。マスメディアは連日、日本人拉致問題を報道して北朝鮮を激しく糾弾し、国民の多くは対北朝鮮制裁を強く訴えるようになった。大韓民国の東亜日報は、当時の日本国民の激怒ぶりを「憤怒」と報じた。
報道におけるタブーとして有名であった「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国…(以後、北朝鮮と呼称する)」という呼称方法が一斉にマスメディアから姿を消し、単純に「北朝鮮」と呼称する様になった。英語圏に於いては、拉致事案を Kidnap(誘拐)から Abduction(拉致)へと表現を強めた。
日本人拉致問題を「でっちあげ」と言い続けてきた在日本朝鮮人総聯合会は、本国に梯子を外された格好となり、急遽記者会見を開き火消しに奔走したが、時既に遅かった。同時に「拉致事件に怒りを覚えた一部の日本人によってチマチョゴリを着用した女子生徒への嫌がらせ事件(チマチョゴリ切り裂き事件)や朝鮮学校生徒への暴言・暴行がある」と、朝鮮総連は主張したが、日本の警察は、それらの事件について、政治的背景はないと判断した。
在日朝鮮人のショックは、相当な物であった。金時鐘は「植民地統治の強いられた被虐の正当性も、これで吹っ飛んだ気にすらなった」と嘆き、「拉致事件に対置して『過去の清算』を言い立てることがいかに、冒してはならない民族受難を穢すことであるかを、私達は心して知らねばならない」と述べた。
北朝鮮に対して、比較的友好的な立場を採っていた人々は、日本の世論の大転換を目の当たりにして、日本人拉致事件について言及せざるを得ない状況に追い込まれ、また日本人拉致事件を『捏造』『デッチ上げ』と主張していた人々は、事実認識の誤りを撤回して、謝罪を迫られる状況に追い込まれた。なお、アントニオ猪木のようにこの世論の大転換を疑問視する発言をしている者もいる。ただし猪木は後述のSAPIOでの発言にあるように拉致問題の解決自体に否定的なわけではない。
現在、東京都の都営地下鉄各駅では、北朝鮮による東京都での特定失踪者たちの顔写真を、駅構内にポスターとして貼り付け「東京へ返せ」と訴えている。
○2004年日朝首脳会談と拉致被害者家族の「帰国」
2004年(平成16年)5月22日、小泉首相は2度目の平壌訪問、北朝鮮側との会談を行い、22日中に蓮池・地村夫妻の子供たちが、母の祖国日本へ「帰国」した。また、曽我ひとみの家族は、夫が脱走・亡命した元アメリカ兵であり、アメリカ軍による軍法会議訴追の問題があるため、北朝鮮政府側に執拗に北京での面会を求められるもこれを拒否し、2004年7月9日にインドネシアのジャカルタで家族と再会。その後、7月18日家族は日本に帰国を果たした。
○遺骨問題
DNA鑑定の依頼を受けた帝京大学医学部講師、吉井富夫の鑑定により、日本政府は「遺骨」とされた骨は別人のものと判断した。但しこの鑑定では本人のDNAが検出されなかったということだけであって、これを以って別人だと断定出来るのかという声があがった(同時に鑑定を行なった科学警察研究所では「判定不能」)。特に2005年2月2日付けの『ネイチャー』誌で指摘されたことで問題が表面化した。
まず「遺骨は火葬されたものであり、DNAは残っていないはず」というものである。DNAは熱に弱いために、火葬された遺骨からDNAが検出される事自体がおかしいのではという指摘がある。 また、コンタミネーション(試料汚染)の可能性も懸念される。帝京大学が行なったDNA鑑定はネステッドPCRという方式をとっているが、この方式は非常に敏感であり、コンタミネーションに由来しない論拠を示す事が非常に重要である。 さらに、吉井はそれまで火葬遺骨鑑定が未経験で当該鑑定が初めてであったことも指摘されている。日本政府はこれらに対し、火葬した骨の一部が熱に十分さらされなかったためDNAが残存していたと説明した。遺骨は鑑定のために使い果たし、再試は困難であるとされている。
一方、元々朝鮮半島には火葬の習慣はなく、火葬されていること自体が北朝鮮の捏造を裏付けるものである、とする主張もある。前述の通り火葬に際しては、日本のように専用の施設を用いたものではなく、開放された空間で行われた、いわゆる「野焼き」に近いものだと日本国内では推定されているが、北朝鮮政府は専用の施設を使って火葬したと説明している。また、北朝鮮側の説明によれば、いったんは土葬された遺体を、離婚した夫が掘り返して火葬し、その遺骨を(現在の妻と住む)自宅に保管していたとされる。
『ネイチャー』はこの問題、特に時の官房長官・細田博之が「記事は一般論を述べており今回のケースでそうであると特定していない」と発言した事について、3月17日号に論説『政治と真実の対決』を掲載して、「日本の政治家たちは、どんなに不愉快でも科学的に信頼できないことを正視しなければならない。彼らは北朝鮮との闘いにおいて、科学的整合性を犠牲にすべきではない」と反論した。更に別人判定を下した帝京大講師がその後に警視庁科学捜査研究所の法医科長となりインタビューが事実上不可能になった事について、『転職は日本の拉致調査を妨害する』(4月7日号)で日本政府を批判している。
○小泉訪朝後の政治家の動き
新拉致議連は、2002年(平成14年)9月17日の小泉純一郎首相の北朝鮮訪問を経て、参加議員が増え始めた。同年9月30日、会長の石破茂が入閣したため、中川昭一が新会長に就任した。
2002年9月の小泉訪朝後、家族会が東京都知事石原慎太郎に協力要請したことなどがきっかけとなり、救出活動は地方政界にも広がりを見せ、地方議会にも、拉致議連が結成されていった。2003年4月には、新拉致議連結成メンバーの松沢成文が神奈川県知事に、同年8月には上田清司が埼玉県知事となり、国会議員と地方議員・首長が連携した活動が活発化した。同年9月22日、会長の中川が入閣したため代表が空席となったが、平沼赳夫が閣僚から外れたため、同年10月9日、中川・安倍(新たに自民党幹事長に就任)の依頼で平沼が会長に就任した。
2003年11月の第43回衆議院議員総選挙直前の時点で、77名の国会議員が拉致議連に参加。第43回衆議院議員総選挙では、それまで地方議員として救う会などで活動していた大前繁雄(元兵庫県議会議員)が当選し、大前は直ちに事務局次長に就任。更に新たな当選者を加えて、2004年1月には188人に急増、その後も増え続けたが、実際に活動しているのは初期のメンバーが中心であった。加入してもほとんど活動しない議員も多く、2005年8月、拉致被害者家族会会長の横田滋は「拉致議連に入っている国会議員は一部で、実際に活動しているのは数人」と嘆いている。現在までに相当数の超党派議員が拉致議連に参加しているが、2009年8月の第45回衆議院議員総選挙前後の時点では、拉致議連の実際の活動は石破・中川・平沼・安倍・西村・原口一博・松原仁ら新拉致議連初期のメンバーが中心で、家族会が信頼している議員も彼らのみという。拉致議連とは別に、日朝国交正常化交渉の中で事件を解決しようとする超党派議員の動きもある。
青山繁晴が現内閣総理大臣の安倍晋三は小泉訪朝は拉致問題全体で見て「失敗」だったと考えていると主張しており、その理由として「小泉さんの個性でもある一発回答、一発解決、大歓喜の声。そういうものを求めるタイプは、強いと言えば強いけれど、そこが弱さの裏腹になってですね、そういう焦りがあったから。北朝鮮は北朝鮮で小泉さんを通じてお金をほしいものだから、焦って乱暴な回答になった」としており、安倍はこれを反省してこれらを否定する方針に切り替えたと述べている。
拉致問題の解決に関しては後述されている通り、人それぞれに多種多様な思想・方法論が存在している。
○国際社会の動き
北朝鮮側は「拉致したのは13人だけ」、「問題解決の取り決めで、死亡者8人を除く生存者5人を返したので問題はすべて解決済み」と主張している。しかし、日本側は「問題解決の取り決めなどしていない」と主張し、また、北朝鮮から死亡の証拠として出されたものはすべて捏造であるとしている。2004年5月までに、被害者5人とその子どもたち計10人は北朝鮮から帰ってきた。しかし、未だに残りの多くの被害者の消息は不明のままである。日本政府は、細田博之内閣官房長官(当時)が、「迅速かつ誠意ある対応がなければ、厳しい対応をとらざるを得ない」と制裁を示唆したが、未だに「誠意ある迅速な対応」がなされていない。政府見解に従えば、制裁の発動はなされていいと考える世論が著しく強い。北朝鮮の最高指導者が拉致に関し謝罪しているにもかかわらず、被害者情報の不審点や矛盾点に対して全容解明には応じないなどの事から、拉致被害者家族会は国連に対してもこの問題に対する協力を要請している。
来日したアナン国連事務総長(当時)は、2004年2月24日の国会演説で、この問題にも言及し、完全解決を希望し、関係者に同情する旨、述べている。
同2004年、米国議会は、上下両院にて「北朝鮮人権法」(North Korean Human Rights Act of 2004)を成立させた。
この法案に対し、南北統一に向けて北朝鮮を刺激したくない韓国与党は懸念の意を示したが、対照的に拉致被害者の家族で構成される、いわゆる「家族会」は米国政府・大統領に対し謝意と敬意を表明した。
2004年、日本では特定船舶入港禁止法、改正外為法など、いわゆる「北朝鮮経済制裁二法」が成立した。
2005年11月2日、イギリスが主導し、EU・日米など45カ国による共同提案により北朝鮮非難決議案が国連に提出され、同年12月16日に国連総会で賛成88、反対21、棄権60で採択された。中国・ロシアなどは反対。韓国は韓国最大野党ハンナラ党が政府に対して参加を求めたが、棄権した。決議案は外国人拉致のほか、強制収容所の存在や送還された脱北者の扱いについて「組織的な人権侵害」とし、北朝鮮を名指しで非難している。
また、北朝鮮核問題を討議する六者会合にて、北朝鮮人権問題の作業部会の設置を検討している。
日米外相会談においてライス国務長官は拉致問題につき「全面的な支持」を表明し、米政府、デトラニ・六者会合担当特使は、拉致問題の解決が北朝鮮の国際テロ支援国家指定を解除する条件と述べ、国家安全保障会議(NSC)のマイケル・グリーン・アジア上級部長が「拉致を含め、人権問題が協議のなかで大きくなっている」と述べるなど、日米間の連携が見られる。また、米国務省で北朝鮮人権問題を担当するレフコウィッツ大統領特使は、拉致問題解決のため「可能なことはすべてやる」と述べ、全面協力を約束した。しかし、アメリカは北朝鮮に対し、テロ支援国家を解除した。その対応に、拉致被害者家族だけではなく、日本市民からも、アメリカに対して、批判している。
また、拉致問題の存在自体を六者会合や北朝鮮との国交正常化交渉における「障害物」と位置付ける見方が一部で存在している。
北朝鮮と国交のあるベトナムは、拉致問題の解決に協力したいと、日本に支持を表明している。
2017年9月19日、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は、国連一般討論演説において、横田めぐみを念頭に「日本人の当時13歳の少女が拉致された。彼女はスパイの養成に利用された」と述べるとともに、「北朝鮮はすさまじい人権侵害を行っている」と非難した。
  
2000年代(小泉再訪朝後)
○2005年
2005年10月30日23時30分(日本時間)から、特定失踪者問題調査会が、北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」の放送を開始した。
なお、同会によれば放送目的は下記のような内容である。
放送目的
1.拉致被害者に対して日本で救出の努力をしていることを伝える。
2.北朝鮮当局に注意しつつ情報を外部に出してもらうよう伝える。
3.その他 今後の課題だが、北朝鮮の体制崩壊時などには避難場所等の情報を流すこと等にも使うことを想定。
○2006年
2006年3月23日、警視庁公安部は「原敕晁拉致事件」に関連して、大阪市の中華料理店「宝海楼」や「在日本朝鮮大阪府商工会」などに強制捜査を実行した。2004年に大阪府議会の府議らが告発した事に伴う。中華料理店は原が拉致直前まで勤めていたところ。翌日付の産経新聞などによれば、中華料理店経営の在日朝鮮人男性(74歳)は容疑を全面否認しているという。警察は近く、韓国に在住している共犯者男性(78歳)の逮捕状も取り、韓国政府に引渡しを要求する。ちなみに、2002年に日韓犯罪人引渡条約が結ばれている。
2006年4月11日、日本政府は、拉致被害者・横田めぐみ(当時13歳、1977年拉致)の「夫」の可能性があるとしてDNA鑑定を実施していた韓国人拉致被害者5人のうち、金英男(1978年拉致、当時16歳)が一番可能性が濃厚であるとの発表を行った。これを受けて、家族会は韓国拉致被害者家族会と連携する方向に動き始めた。
これに対し、北朝鮮は6月28日、金英男と母親との北朝鮮国内での再会をセッティングした。さらに翌日に金が会見を行い、「自分は拉致されたのでなく漂流中に北朝鮮に救助された」と主張した。これに対し、横田は金が横田めぐみは1994年に自殺したとする従来の北朝鮮側の主張を繰り返したことと、遺骨がDNA鑑定で偽物とされた事について怒りを表明した。この件において日本側の関係者やマスコミは一切排除されており、日韓の分断を狙ったと考えられる。
2006年9月19日、日本は北朝鮮においてミサイルや大量破壊兵器開発に関係していると疑われている15団体・1個人を対象に、国内の金融機関からの預金引き出しや日本国外への送金を許可制として事実上凍結する金融制裁を閣議決定、即日発効した。これはあくまで北朝鮮の核開発疑惑に対する国際的包囲網の一部としての措置であるが、当然拉致問題への影響も考えられる。横田夫妻は「日本の北朝鮮に対する姿勢を示している」として評価するコメントを出した。
2006年9月20日、新たな自由民主党総裁に安倍晋三内閣官房長官が選出され、同月26日に第90代内閣総理大臣に就任した。安倍は父・晋太郎の代から拉致問題に関心が高く、2002年の帰国者5人の残留も安倍の意向が大きかったと言われているだけに、拉致問題解決に対する期待が高まった。安倍首相は早速、拉致問題担当相(塩崎恭久官房長官が兼任)と拉致担当の首相補佐官(中山恭子)を新たに設置し、自ら本部長を務める「拉致問題対策本部」の設置を表明するなど積極的な動きを示したが、相次ぐ国内問題や閣僚の不祥事などで進展のないまま翌年9月26日に首相を辞任した。後継の福田康夫首相は北朝鮮政府との対話による問題解決を表明しているが、官房長官時代の対応から被害者家族の中には福田に不信感を抱く者も多いと言われている 。
2006年10月16日、政府は「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針を改めて確認した今後の方針を公表した。
○2007年
2007年6月29日、韓国の聯合ニュースが金正日総書記が日本人拉致問題についての徹底調査を指示した、と報じた。
2007年10月9日、日本政府は北朝鮮に対し、日本独自の経済制裁を半年間延長する方針を決定。
○2008年
2008年6月11・12日、北京で行われた日朝公式協議において、北朝鮮側は従来の「拉致問題は解決済み」との姿勢を翻し、新たに解決に向けた再調査の実施を表明した。背景には米国が北朝鮮にテロ支援国家指定解除の条件として日朝関係の改善を要求するなどの圧力を掛けた事があると見られるが、調査に日本側がどこまで関与できるのかなど依然不透明な点も多い。
2008年9月1日、福田康夫首相が辞任を表明。9月24日には麻生太郎幹事長が第92代内閣総理大臣に就任した。
2008年10月10日、政府は北朝鮮に対する経済制裁の半年間延長を閣議決定。
2008年11月22日、新拉致議連結成メンバーの1人で埼玉県知事の上田清司は、さいたま市浦和区で開かれた「第6回拉致問題を考える埼玉県民の集い」において、「拉致問題と戦う知事の有志の会」(拉致知事会)を発足させることを明らかにした。同会の結成は宮城県仙台市長梅原克彦の提案によるものである。上田の他東京都知事石原慎太郎、千葉県知事堂本暁子、新潟県知事泉田裕彦、鳥取県知事平井伸治の5人が発起人となり、全国の知事に参加を呼びかける。当初、達増拓也岩手県知事ただ一人が不参加を表明したため、同会の会長に就任した石原は「民主党の党首の小沢(一郎)さんの出身地である岩手の知事を除いてですね……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った。家族会・救う会・特定失踪者問題調査会・拉致議連と連携して活動する方針。
○2009年
2009年2月28日、前航空幕僚長田母神俊雄が名古屋の市民サークル若宮会講塾主催の講演会「拉致問題と国防」において、北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに家族会事務局長増元照明、特定失踪者問題調査会代表荒木和博とともに講演を行い、北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに名古屋市内で講演し「自衛隊を動かしてでも、ぶん殴るぞという姿勢を(北朝鮮に)見せなければ拉致問題は解決しない」と述べた。田母神は記者会見で「『ぶん殴る』とは具体的には何か」と質問されると「自衛隊を使って攻撃してでもやるぞという姿勢を出さないと、北朝鮮は動かない」と答え、軍事オプションを圧力の一環として威嚇することの重要性を訴えた。
2009年2月、民主党代表である小沢一郎は、「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と金銭による解決を示唆し、一部から批判を受けた。民主党はこの発言に対する救う会からの問い合わせに対して、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請したが、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」とする旨を回答した。
2010年代
○2011年
2011年7月6日、拉致問題対策本部本部長を務める菅直人が、拉致事件容疑者親族が所属する「市民の党」の派生政治団体に対し6250万円の献金をしていたことが発覚、拉致家族の抗議や参議院議員山谷えり子の追及を受け、謝罪した(日本人拉致事件容疑者親族の政治団体への献金問題)。菅は詳細について一切明らかにせず、また返金も求めていない。
○2012年
2012年1月9日、民主党の中井洽が中国東北部で北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化交渉担当大使と極秘会談した。金正日が死亡してから初めての会談となる。拉致問題などについて話したと見られるが、詳細は公表されていない。
○2013年
2013年1月16日、拉致被害者の実弟の増元照明が「遺骨の問題からアプローチして、最終的には国交正常化という道筋を、北は策略していると思います。(中略)その策略には安易に乗らないほうがいいと思います」と発言。民主党参議院議員の有田芳生はこれに対し自身のTwitterで「人道問題を安易に「策略」と判断すれば、日朝交渉など進みはしない」などと述べた。同年3月7日、有田は安倍晋三首相に対しこれまでの内閣総理大臣が拉致問題施政方針演説で「日朝平壌宣言」「日朝国交正常化」などといった言葉を使っていたにもかかわらず「第百八十三回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説」(平成二十五年一月二十八日)で、拉致問題の解決に触れた際に「日朝平壌宣言」や「日朝国交正常化」などが使われていないと指摘した。
2013年5月14日、内閣官房参与の飯島勲が、安倍政権の要人として初めて北朝鮮の平壌を訪問。菅義偉内閣官房長官は官邸が主導したことを認めた。飯島は15日に金永日朝鮮労働党書記、16日に平壌で北朝鮮のナンバー2の金永南最高人民会議常任委員長と会談。北朝鮮メディアは表敬訪問と報じたが会談内容は明らかになっていない。この訪朝は日朝対話の再開や拉致問題解決への道筋を探る目的とみられ、賛否両論となった。
安倍晋三首相は10月22日午前の衆院予算委員会で、北朝鮮による拉致問題について「安倍政権の間に解決させたい」と改めて強い決意を示し、「この問題は圧力に重点に置いた対話と圧力の姿勢でしか解決しない。金正恩第1書記に解決をしなければ北朝鮮の未来はないことをしっかり認識させ、真正面から取り組むよう全力を尽くす」と発言した。
○2014年 - 2015年
2014年2月、国連の調査委員会は、北朝鮮による拉致や公開処刑などは人道に対する罪に当たると非難する報告書を公表した。北朝鮮による外国人拉致の被害者は世界で20万人を超えるとした。調査委員会のメンバーは、日本人は少なくとも100人が拉致された可能性を指摘し、日本は拉致被害を最も受けた国の一つとした。
2014年05月29日 北朝鮮当局による拉致被害者と特定失踪者の再調査の約束と、日本側の制裁解除を行う事がストックホルムでの日朝協議により合意され、同年7月に北朝鮮当局による再調査が行われた。しかし、翌年以降も被害者帰国はおろか再調査結果の報告すらなく、北朝鮮政府側は拉致被害者に対しての従来の主張を覆しておらず、日本側は承服しなかった事が複数の日本政府関係者によって明かされている。北朝鮮が再調査に踏み切った理由として、西岡力は経済状況を挙げており、「国内の外貨が枯渇してきたことで日本に触手を伸ばし始めたと考えられます。裏を返せば、日本が続けてきた北朝鮮への経済制裁が一定の効果を得たという事でしょう」と述べている。
参議院議員のアントニオ猪木が、SAPIO2015年2月号のインタビューで「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」とし「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」と宣言した。
○2016年
2016年2月10日、日本政府は北朝鮮による核実験と長距離弾道ミサイルの発射の強行に対して独自の制裁措置を決めた。
2016年2月12日、北朝鮮は日朝合意に基づく日本人に関する包括的な調査を全面的に中止し「特別調査委員会」を解体すると宣言した。
2016年6月9日発売の「週刊文春」に横田夫妻と孫(拉致被害者横田めぐみの娘)とされる人物らの面会写真を公開した。写真は民進党参議院議員の有田芳生が公開したものであり、2014年3月にモンゴルの首都ウランバートルにある迎賓館で撮影されたもので、拉致被害者で現在も消息不明の横田めぐみの孫で、横田夫妻のひ孫に当たる女児も写っている。それについて横田夫妻は「有田氏から写真を見せられ、一部の週刊誌に掲載する写真だと説明された。」と指摘しており、孫から写真を外に出さないでほしいと約束していたため、どこにも提供していないとしている。なお、有田は無断公開を否定し、「写真の選択をいっしょに行い、時間をかけて原稿も見ていただき、求められた加筆と訂正を行ったうえで『週刊文春』の記事になりました」と横田夫妻と正反対の主張をしている。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(「救う会」)は2016年6月9日発売の週刊文春に掲載された有田の署名記事、およびグラビアに対して横田夫妻に確認をとり、「写真は横田家から1枚も何処にも出していません」と連絡を受けている。なお、横田夫妻は 2016年6月8日付けで横田滋・早紀江両名の署名入り「皆様へ」と「マスコミの皆様へ」の2つの手書きコメントを出しており、「皆様へ」には有田の「週刊文春」掲載の写真と署名記事に対する指摘および反論が書かれている。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は有田による入手先不明の写真公開について様々な誤解が広がっていることから、横田夫妻に直接話を聞いた。「救う会」は、有田が公開した写真を横田夫妻の所有だと虚偽をマスコミなどに伝えていたことを確認したとして有田を非難するコメントを出したうえで、有田が公開した写真の実際の入手先は北朝鮮以外には考えられないとの見解を出した。横田夫妻は写真の入手先を有田から聞いてはいないという。同年6月22日に開催された東京・文京区民センター「東京連続集会91」において横田早紀江本人の口から正式に有田とは意見が大きく異なる旨が言及された。有田は「週刊文春」の記事について、横田夫妻と公開する写真を選択し、モンゴルでの詳細を聞き、原稿も細かくチェックしたうえで記事にしたと主張しているが、横田早紀江本人は「その後の経緯は週刊文春と有田さんだけのことで、どんなものが出るかは私たちは全然知りませんでしたし、こういう文章で書いてくださいと有田さんに渡したものでもありませんし、全くノータッチで、写真の公開を了承しました。」と否定している。
2016年6月23日、外務省の金杉憲治アジア大洋州局長が、中国で崔善姫北朝鮮外務省米州局副局長と接触し、拉致被害者の帰国が重要であるとの日本政府の立場を伝達した。
○2017年
2017年9月19日、ニューヨークの国連本部でアメリカのドナルド・トランプ大統領が就任後初めて国連総会の一般討論演説で「13歳の日本人の少女を拉致した」と指摘し横田めぐみを念頭に北朝鮮による日本人拉致事件を非難した。  
被害者家族組織・支援団体
○北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会) - 代表:飯塚繁雄、副代表:有本明弘、浜本七郎(帰国者担当)、事務局長:増元照明、事務局次長:横田拓也。1997年3月結成。
○北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(拉致議連) - 会長:平沼赳夫。
○北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)
○特定失踪者問題調査会 - 2003年(平成15年)10月に、家族会から分離する形で設立。北朝鮮工作員に拉致された疑いが拭い切れない日本国政府未認定の日本人を調査し、しおかぜで北朝鮮に情報を届ける。
○曽我さん母娘を救う会 - 会長:菊地廣至、事務局長:臼木優。  
その他の失踪者
この他、数百人の失踪者について、「特定失踪者問題調査会」が「特定失踪者」として情報収集をおこない、北朝鮮による拉致が疑われる程度に応じ0番台リスト - 1000番台リストなどと分類し発表している。なお、特定失踪者問題調査会とは別に「救う会」は日本国政府認定の17人に加えて、7人を拉致被害者と認定している。
また、寺越武志も北朝鮮による拉致被害者であると各団体から主張されている。
尚、2012年12月28日に、救う会徳島が『行政機関の保有する情報の公開に関する法律』に基づき行った「情報開示請求」により、警察庁が公開した情報によると、2012年11月1日時点で「拉致の可能性が否定されない特定失踪者」として、捜査・調査が行われている対象者数が全国で868人にのぼっている。  
歴代「拉致問題担当大臣」
事件の発生
1977年9月19日 - 宇出津(うしつ)事件。久米裕が石川県宇出津海岸で拉致される。
1977年10月21日 - 女性拉致容疑事案(鳥取県)。松本京子が自宅近くの編み物教室に向かった際に拉致される。
1977年11月15日 - 少女拉致事案。横田めぐみが新潟市において下校途中に拉致される。
1978年6月頃 - 元飲食店店員拉致容疑事案。田中実は出国した後拉致される。
1978年6月頃 - 李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案。田口八重子 が拉致される。
1978年7月7日 - アベック拉致容疑事案(福井県)。地村保志とM本富貴惠が拉致される。
1978年7月31日 - アベック拉致容疑事案(新潟県)。蓮池薫と奥土祐木子が拉致される。
1978年8月12日 - アベック拉致容疑事案(鹿児島県)。市川修一と増元るみ子が拉致される。
1978年8月12日 - 母娘拉致事案(新潟県)。曽我ミヨシ、曽我ひとみの母娘が拉致される。
1980年5月頃 - 欧州における日本人男性拉致容疑事案。石岡亨と松木薫が欧州滞在中に拉致される。
1980年6月中旬 - 辛光洙(シン・グァンス)事件。原敕晁が宮崎県の青島海岸に連れ出され、 拉致される。
1983年7月頃 - 欧州における日本人女性拉致容疑事案。有本恵子が欧州にて失踪。
拉致犯罪の表面化
1987年11月29日 - 大韓航空機爆破事件。12月1日、金賢姫がバーレーン空港で現地警察に逮捕される。
1991年 - 「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると判明する。
1993年5月 - 北朝鮮が中距離弾道ミサイル・ノドンを日本海に発射。
1997年 - 「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」が結成される。
小泉政権
2002年9月17日 - 小泉純一郎首相第1回訪朝、拉致問題について金正日が謝罪。
2002年10月15日 - 拉致被害者5名が帰国。
2002年11月5日 - 内閣官房拉致被害者・家族支援室の発足。
2003年1月 - 北朝鮮が核拡散防止条約(NPT)を脱退。
2003年1月 - 第1回の六カ国協議開催。
2004年5月22日 - 小泉首相第2回訪朝、地村・蓮池夫妻の家族5名が帰国。
2004年7月9日 - インドネシア国ジャカルタにおいて曽我ひとみ一家再会、7月18日曽我一家日本に帰国。
2005年2月 - 北朝鮮が核保有を宣言。
2006年7月5日 - 北朝鮮がミサイル発射、日本政府は経済制裁を含む対応策を発表。
安倍政権
2006年10月 - 北朝鮮が最初の地下核実験。
2007年2月 - 強制失踪に関する国際的な確認と抑止の枠組みとなる強制失踪防止条約に日本が署名。(2009年7月締結、2010年11月発効)
麻生政権
2008年10月 - 米国が北朝鮮のテロ支援国家指定を解除。
2009年3月11日 - 韓国釜山において金賢姫は田口八重子の長男飯塚耕一郎と会い、田口八重子は生きていると伝えた。
2009年4月 - 北朝鮮がテポドン2の改良型とみられるミサイルを日本海に発射。
2009年5月 - 北朝鮮が2度目の地下核実験。
菅政権
2010年11月23日 - 北朝鮮が韓国の大延坪島を砲撃(延坪島砲撃事件)。
野田政権
2011年12月 - 北朝鮮の総書記・金正日が死去。
安倍政権
2013年2月12日 - 北朝鮮が3度目の核実験を実施。
2014年3月 - 横田めぐみの両親がモンゴルで孫と面会。
2014年5月 - スウェーデンのストックホルムで開催された日朝協議で北朝鮮側が拉致被害者を含む日本人の再調査を開始することで合意。
2014年7月 - 北朝鮮が特別調査委員会を立ち上げ、拉致被害者、行方不明者、日本人遺骨問題、残留日本人・日本人配偶者の4分科会を設置。日本は独自制裁の一部解除方針を発表。
2014年10月 - 日本政府代表団が平壌で特別調査委員会幹部と面会して早期の報告を要請。
2015年7月 - 北朝鮮側が日本側に対して報告の延期を通告。
2016年1月6日 - 北朝鮮が4度目の核実験を実施し、水爆実験に初めて成功したと発表。
2016年2月7日 - 北朝鮮が人工衛星の打ち上げと称する長距離弾道ミサイルの発射を実施。日本は北朝鮮に対する独自の追加制裁を実施。
2016年9月9日 - 北朝鮮が5度目の核実験を実施。 
横田めぐみさんは偶然に拉致されたのではない 2016/7
 見えてきた日本人拉致の全貌
政府が認定する被害者だけで17人に上る日本人拉致事件の全貌(ぜんぼう)はどこまで分かっているのか。拉致被害者の支援組織「救う会」の西岡力会長とジャーナリストの恵谷治氏が拉致事件の発生現場や被害者証言の検証を通じ、目的に応じて3つのパターンに大別することが見えてきた。かつて偶然に拉致されたとみられていた横田めぐみさん(51)=拉致当時(13)=らも、ある目的のため、北朝鮮工作員に連れ去られたことがうかがえる。
日本人拉致事件が3つのパターンに大別されることは、6月22日に東京都文京区で救う会が開いた集会で明らかにされた。
西岡会長と恵谷氏が示したパターンは、海上遭遇拉致、人定拉致、条件拉致の3つ。海上遭遇拉致は、海上で漁船に見つかった際に工作員が摘発されるのを防ぐため、さらっていくもの。昭和38年5月に石川県志賀町から出漁し、消息を絶った寺越昭二さん=失踪当時(36)=らの事件が該当する。
人定拉致は、拉致する対象者を工作員らがじっくりと選定した上で、北朝鮮に連れ去る。52年に工作員が日本人になりすます目的で、東京の三鷹市役所警備員の久米裕さん(91)=拉致当時(52)=が拉致された事件がこれにあたる。
集会で、西岡会長は「海上遭遇拉致と人定拉致があるということは常識だった。逆にいうと、人定拉致こそが拉致の主流だというように思っていた」という。だが、いろいろ調べていく過程で、「1977(昭和52)年、78年の拉致についていろいろ調べると、もう一つ条件拉致があるのではないかということが分かってきた」と明かした。
これまで昭和52年に拉致された松本京子さん(67)=拉致当時(29)、横田めぐみさんについては、工作員がたまたま目撃され、秘密の暴露を防ぐために拉致した遭遇拉致とみられていた。だが、西岡会長と恵谷氏が調べると、どうやら違っていることが分かってきたという。
例えば、松本さんが連れ去られた際には、拉致現場近くに住む男性が現場近くを通った際に工作員の顔を見ているが、殴られただけで連れ去りはされなかった。この状況を根拠にして、恵谷氏は「偶発的に出会って連れ去られるのは海上でしかない、陸上ではないと判断した」と指摘。横田めぐみさんに関しても、事件と同じ月日の現場を見た上で、「めぐみさんも当初は遭遇拉致ではないかといわれていたが、真っ暗な中で(工作員を)目撃するはずもなく、めぐみさんは『若い女性を連れてこい』という条件拉致だったのではないか」と語った。
若い女性を連れてこいという条件があったのはなぜか。西岡会長は、北朝鮮が当初、女性拉致被害者を工作員にしようとしていたという帰国被害者の証言に注目する。
ただ、工作員として養成することはうまくいかなかった。外国人拉致被害者のケースでは、訓練を受けた後、海外に演習に出かけ、逃亡したこともあった。
大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キムヒョンヒ)元北朝鮮工作員によると、「当時、若い女性を連れてきて洗脳しろという命令が金正日(キムジョンイル)から出ていた、と。しかし、なかなかうまくいかないという状況だったんです」(西岡会長)という。
恵谷氏は「(北朝鮮の)とにかく目的は女性だった。しかし、女性一人であれば、精神的に不安定になり、寂しいとかいろいろな問題があるのでカップルにしろということになった」と説明する。松本さんやめぐみさんが拉致された翌年夏、日本ではアベックが連れ去られる拉致事件が頻発した。
昭和53年夏に起きた日本人拉致事件は未遂も含めて5件に上る。このうち4件の被害者はアベックだが、残る1件については異なっている。
8月12日に新潟県佐渡市で北朝鮮工作員に曽我ひとみさん(57)と母のミヨシさん(84)=拉致当時(46)=が連れ去られた。2人はアベックではない。
しかし、西岡会長が曽我さんに2人の服装を聞いたところ、ミヨシさんはいつもズボンをはいており、曽我さんはその日ワンピースを着ていた。事件が起こったときはすでに薄暗くなっていたうえ、2人は後方から近づいてきた工作員に襲われた。こうした状況から、西岡会長は「後ろから見たら、若いアベックに見えたのではないか」という一つの仮説を挙げ、「そうすると1977(昭和52)年は若い女性が狙われ、78年はアベックが狙われた。ぴったりと条件ということに合う」と話した。
今回、集会で拉致事件の全貌に迫った目的について、西岡会長は「北朝鮮に問題提起したいのは、『あなたたちは1977年、78年に条件拉致をやっていたでしょう。記録を調べてみなさい。われわれがいっていることが正しいということが分かったならば、日本を甘く見てはいけないということが分かるはずだ』という問題提起です」と話す。北朝鮮は拉致についてうそをつき続けているが、真実は徐々に明らかになってきている。 
2018
「日本人拉致、交渉するな」=金正恩氏が「特別指示」か 4/3
韓国の拉致被害者家族でつくる「拉北者家族会」の崔成竜代表は3日までに、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が日本人拉致問題について「取り上げず、対話せず、交渉もするな」という「特別な指示」を関連部署に出したという情報を明らかにした。「昨年、平壌の消息筋から聞いた話だ」と説明した。電話インタビューに応じた。
崔氏は「そのような指示を出したとすれば、拉致問題は安倍晋三首相が(金正恩氏との)首脳同士の対話で解決しなければならないだろう」と述べ、進展には首脳会談の開催が不可欠だという見方を示した。
安倍首相は先に、韓国の文在寅大統領との電話会談で、南北首脳会談で拉致問題を提起するよう要請。また、17日からの訪米では、5月末までに想定される米朝首脳会談で日本人拉致問題の解決を働き掛けるよう、トランプ大統領に直接求める方針。その一方で、日本政府は安倍首相と金正恩氏との首脳会談も模索している。
崔氏は今月27日の南北首脳会談について、「(韓国の)拉致問題を正式には取り上げないだろうとみており、深く憂慮している」と述べた。また、「これまで韓国政府は、拉致問題について『北朝鮮側に不都合だ』という理由で離散家族問題の枠組みで扱ってきた」と指摘。「離散家族ではないので、拉致問題として正式に提起し、生存者の送還など解決を目指すべきだ」と強調した。さらに、日本の拉致被害者家族らと共同声明を出すなど、連携強化を図りたいという考えを示した。 
日本人拉致問題、「根本解決」への希望と不安 5/12
さる4月17日、安倍晋三首相は米フロリダでトランプ大統領に対し、北朝鮮の金正恩委員長との首脳会談で日本人の拉致問題を提起するよう求め、トランプ氏は「取り上げる」と明言した。また、安倍首相は、5月9日、東京で行われた日中韓首脳会議の際にも文在寅韓国大統領と李克強中国首相に支援と協力を呼び掛け、日本の立場に理解を得た。
米国に対しては、これまでブッシュ、オバマ両大統領にも協力を要請してきたが、トランプ氏と金氏の会談は米朝初の首脳会談であり、トランプ氏からの働きかけにより拉致問題が解決に向け前進することが期待される。
しかし、状況は容易でない。日本政府も米国、韓国などを通じて伝言形式で「依頼」するだけでなく、自らなすべきことがある。
改めて拉致問題の主要なポイントを経緯とともに確認しておきたい。
1970年代後半から1980年代初めにかけ、北朝鮮は工作員を使って日本人17名を強制的に、あるいはだまして北朝鮮へ連れ去った。拉致した場所は日本が多かったが、一部は被害者が滞在中、あるいは旅行中の欧州であった。
17名というのは日本政府が北朝鮮により拉致された被害者であると認定した人数であるが、北朝鮮政府は、後に、このうち13名については拉致の事実を認めたが、その他の4名については北朝鮮に入境したことを確認できないとの立場である。
これら17名とは別に、日本政府は北朝鮮が拉致したと確認するに至っていないが、「その可能性を排除できない」と考えている失踪者があり、調査・捜査が続けられている。その数は数百名に上る可能性がある。
また、民間団体である「特定失踪者問題調査会外部リンク」が、家族からの「北朝鮮による拉致かもしれない」との届け出をもとに独自に調査している失踪者があり、これらは「特定失踪者」と呼ばれている。日本政府はこれらについても北朝鮮政府に関連情報の提供を求めている。
北朝鮮は拉致のようなことは行っていないと長らく説明してきた。訪朝した日本人などにそのように言い続けてきたのだ。
2002年9月、小泉純一郎首相が訪朝し、事情が一変した。金正日国防委員長(当時)は、それまで否定していた日本人の拉致を初めて認め、謝罪し、再発の防止を約束した。そして北朝鮮側は、13名のうち5名が生存し、8名はすでに死亡したと説明した。
この5名(地村保志・富貴惠夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻、曽我ひとみ各氏)については、小泉首相訪朝の約1カ月後に帰国が実現した。さらに、これら5名の家族は2004年5月及び7月に帰国・来日が実現した。
北朝鮮が拉致の事実を公式に認めたことは、それまで半信半疑であった日本人に強烈な衝撃を与えた。小泉首相は金正日国防委員長に強く抗議し、調査の実行・継続、安否の確認、再発防止、下手人の処罰を要求した。
日本政府は小泉首相訪朝直後事実調査チームを派遣し、北朝鮮側と協議を開始した。それ以来、日朝両政府は事務レベルで協議を重ねた。
北朝鮮側は、8名の死亡経緯として一定程度の説明を行ったが、日本側としてはその説明は極めて不十分なものであった。特に日本側が問題視したのは次の諸点であった。
「8名の『死因』には不自然死が極端に多いことに加え、これを裏付ける客観的な証拠がまったく提示されていない。被害者の遺骸が一切存在しない。死亡を証明する真正な書類が存在しない」
これに対する北朝鮮側の説明は、内容的に一貫性を欠き、不自然かつ曖昧な点が多く、また、日本側の捜査により判明している事実や帰国した被害者の証言との矛盾が多く、説明全体の信憑性は疑わしいものであった。
日本側からはこれらの問題点を指摘し、あくまで8名の帰国を求めたが、北朝鮮側からはさらなる説明は得られないまま推移した。北朝鮮側は、「日本側は、死んだ被害者を生き返らせろと無理な要求をしている」と日本側を非難したこともあった。
この間、北朝鮮側は横田めぐみ氏と松本薫氏の「遺骨(北朝鮮側の主張のまま)」を日本側に提供した。横田めぐみ氏の「遺骨」について、日本政府はDNA鑑定をした結果、一部から同人のものとは異なるDNAが検出され、提供を受けた「遺骨」は別人のものだったと発表したが、この鑑定については精度に問題があるとの指摘が一部研究者から行われた。
北朝鮮もこの鑑定には問題があると反論し、日本側に「遺骨」の返還要求を行った。
一方、松木薫氏のものと思われるとして提供を受けた「遺骨」については、日本政府は、「法医学的鑑定の結果、別人のものである」ことを確認した。「遺骨」問題について明確に言えることはこれだけである。これ以降変化はなく、そのままの状態が現在も続いている。
結局、10年間近く、事実関係の究明は進展しなかった。また、その間、北朝鮮側は、「拉致問題は終結した」と主張したこともあった。
2014年になって新しい状況が現れた。5月、ストックホルムで行われた日朝政府間協議において、北朝鮮側は拉致被害者及び拉致の可能性を排除できない行方不明者を含むすべての日本人に関する包括的かつ全面的な調査を行う旨を表明し、同年7月、特別調査委員会を立ち上げて調査を開始した。
時間的には前後するが、その年の3月、横田めぐみ氏の両親はモンゴルのウランバートルでめぐみ氏の娘のキム・ヘギョン(キム・ウンギョンともいう)氏及びその子(横田夫妻のひ孫)と面会した。横田夫妻は帰国後の記者会見でその際の喜びを語っている。
そして、同年10月、平壌において、日本政府担当者と北朝鮮特別調査委員会との間で協議が行われた。
この協議において、北朝鮮側は、8名のことも含め、特別調査の結果を日本側に説明した。
日本政府(拉致問題対策本部)も「北朝鮮側から、拉致被害者等についての調査の方針や現状等について詳細を聴取した」と述べている。しかし日本政府は、「同協議では、日本側から拉致問題が最重要課題であること等を繰り返し強調するとともに、調査を迅速に行い、その結果を一刻も早く通報するよう、北朝鮮側に強く求めた」とも言っている。
問題の一つは、北朝鮮側は、この協議以降さらに調査を続ける考えであったか否かであり、その後の経緯を見ると、どうもそうではなかったと思われる。
2016年2月、北朝鮮は、特別調査の全面中止及び特別調査委員会の解体を宣言しているのだ。つまり、北朝鮮側は、2014年10月の説明が最終的だったと考えている節があるのだ。
また、8名についての北朝鮮側の説明を日本側はどのように受け止めたのか。この重要な点について日本政府が我々国民に何も説明していないことも問題だと思う。
日本は拉致問題解決のため北朝鮮と交渉すべきだ
日本政府が拉致問題の解決について各国に協力を求めるのは当然だが、それだけでは足りない。日本自身の解決努力が第一に必要である。
とくに、特別調査の結果を日本政府がどのように受け止めたかは優れて日本の問題であり、第三国に解決を頼む筋合いのことでない。
日本政府は拉致問題について、「対話と圧力」の考えで取り組むことを方針としている(拉致対策本部「拉致問題における今後の対応方針」)。「圧力」の面では、人道支援の凍結、万景峰92号の入港禁止、北朝鮮のミサイル等に関連する資金の移転防止、すべての北朝鮮籍船の入港禁止やすべての品目の輸入禁止等を講じている。
しかし、「対話」の面では、日本政府はその後、核・ミサイルの実験の関係もあり、「圧力」一辺倒になり、北朝鮮と交渉さえできなくなっている。北朝鮮をめぐる情勢が大きく動こうとしている中、そのような現状は一刻も早く打開して「対話」を再開し、みずから拉致問題の解決に当たるべきだ。 
日本の拉致問題提起を非難、北「過去の清算回避」 5/12
北朝鮮国営の朝鮮中央通信は12日、日本人拉致問題について、「既に解決された問題」と主張し、問題の解決を求める日本政府を批判した。
6月12日にシンガポールで開催予定の米朝首脳会談では、トランプ米大統領が安倍首相の要請を受けて日本人拉致問題を提起する方針だ。米朝会談を前に、拉致問題解決を強く主張する日本政府をけん制する狙いがあるとみられる。
同通信は「既に解決された『拉致問題』を再び持ち出すのは、国際社会が歓迎する朝鮮半島の平和の気流を阻もうとする卑劣で愚かな醜態」と非難。日朝関係について「本質は、加害者と被害者の関係だ」と日本の植民地支配に言及した。
また、「日本の過去の罪悪の歴史が、朝鮮人民に与えた損失は日本という国を丸ごとささげても到底賠償できない」とけん制。問題解決を求める日本政府について、「過去の清算を回避するもの」と指摘した。 
●誘拐殺人事件 
1952 大治君誘拐殺人事件
1952年(昭和27年)2月12日、宮城県小牛田町で、高校校長の次男(当時21歳)が、大学入学費欲しさから小学1年の吉田大治ちゃん(6歳)を誘拐し殺害した。3月2日、大治ちゃんが小学校裏通りに絞殺体となって発見された。3月5日、逮捕。懲役15年の判決が下った。 
1955 トニー谷の長男誘拐事件
1955年7月15日午後、人気タレント・トニー谷の長男で小学1年の正美ちゃん(当時6歳)が誘拐された。その後、犯人から身代金を要求する脅迫状や電話が届く。
21日、身代金を受け取りに来た雑誌編集者・宮坂忠彦(当時33歳)はあっさり逮捕され、正美ちゃんも長野の宮坂宅で無事救出された。
トニー谷はお笑いの世界で、当時人気を博していたボードビリアンだった。ソロバンを片手に「あなたのお名前なんてぇの?」と、独特の喋りで一躍人気者となった彼はまさにTV時代の幕開けとなった頃の代表的な1人だった。 (※ボードビル・・・・歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸など。また、それらを取りまぜて演じる寄席の芸。)
1955年7月15日午後、そんなトニーの長男で小学1年の正美ちゃん(当時6歳)が、大田区新井宿の小学校からの下校途中、誘拐された。同級生の目撃証言によると、連れ去ったのは黒い服を着た中年の男だったという。
16日午後、「身代金200万円を出せば正美ちゃんを返す」という脅迫状が速達で届いた。この脅迫状は武蔵野市吉祥寺の郵便局から出されており、その近辺を捜査したが、めぼしい手がかりは得られなかった。
当時は報道協定というものもなく、大スターの子息が誘拐されたという事件は一斉に報じられた。トニー谷は記者会見の席で「正美よ、早く帰ってきておくれ」と呼びかけ、ラジオ放送でも「犯人はこの放送を聞いているだろうか。できるだけのことはするから正美を返してください」と犯人に訴えた。
トニー邸にはマスコミや野次馬などが集まり、心無いイタズラ電話も届くようになった。トニーは心労で寝たきりとなったという。
事件から6日が過ぎ、トニー谷邸にイタズラ電話が殺到していた21日午後8時半頃、「俺は正美ちゃんを拝借中の原靖夫だ。200万円はできたか」という電話が入った。トニーは、この電話をホンモノの犯人からだと直感した。犯人が身代金の受け渡し場所を渋谷東宝映画劇場前に指定すると、トニ-は「俺が行く」と言って髭まで落として変装したが、警視庁捜査1課の刑事が家人に扮して犯人を待つことになった。
夜10時ごろ、受け渡し場所に「トニー谷か」と声をかけてくる男がきた。刑事はまず近くの水屋に連れこみ、「正美ちゃんを預かっているという証拠を見せろ」と言うと、男は手にした風呂敷包みのなかからランドセル、草履袋、教科書などを出して見せた。
「取引はホームで」
真犯人に間違いないと見た刑事は、付近を連れ歩いて共犯がいないことを確認してからハチ公銅像前で逮捕した。
男は長野県更級郡上山田町の雑誌編集者・宮坂忠彦(当時33歳)。地元で「信州業界」という雑誌発行を計画していたが、資金がなく、アメリカで起こったリンドバーグ事件にヒントを得て誘拐を企てたのだった。
宮坂は正美ちゃんを連れ出した後、長野の自宅に直行し、自分の息子と遊ばせていた。 正美ちゃんはまもなく、宮坂宅で寝ていたところを救助された。 
1960 雅樹ちゃん誘拐殺人事件
昭和35年5月16日、東京都・世田谷区で慶応幼稚舎2年・尾関雅樹ちゃん(当時7歳)が登校途中に誘拐された。雅樹ちゃんは、銀座のカバン店会社社長・尾関進さんの長男で裕福な家庭だった。
世田谷の尾関家には、犯人から身代金300万円を要求する電話が度々あったが警察は犯人に翻弄されて空周りした。
誘拐から三日後の19日、杉並区・高井戸の路上に乗り捨ててあった自家用車から、雅樹ちゃんの死体が発見された。司法解剖の結果、ガスによる毒殺であった。
○意外な犯人
当局が、この自家用車の持ち主を調べると尾関家と交際のあった歯科医の本山茂久(当時32歳)であることが判明した。そこで捜査班が本山の自宅(世田谷区・上荻窪)に急行したが、既に本山は逃走していた。
全国規模で本山を指名手配した結果、7月17日大阪市の工場で住込み従業員として働いていた本山を逮捕した。本山は妻との離婚慰謝料やその他借金に困り、雅樹ちゃんを誘拐殺害したことを自供した。昭和42年5月25日最高裁は本山に死刑を言い渡した。 
1963 吉展ちゃん誘拐殺人事件
1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。吉展ちゃん事件とも呼ぶ。
日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から、被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。
捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。
○人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
○警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
○当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
○身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
○犯人からの電話について逆探知をしていなかった。
○当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。
結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。
有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁科学警察研究所の技官鈴木隆雄に録音の声紋鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった。しかしその後、東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定で、「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(1933年1月26日 - 1971年12月23日、事件当時30歳)とよく似ている」とされたことに加え、刑事の地道な捜査により小原のアリバイに不明確な点があることを理由に参考人として事情聴取が行われる。
それまでにも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。小原は、1963年8月、賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受けたが、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。
警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。
○小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
○事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
○脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
○ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
○足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。
小原には、誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施した。3月31日の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から、野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる藁囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明。つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の3月30日であることが分かった。
一方、4月2日の目撃者は、この男性の母親。十二指腸潰瘍を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に小原を目撃したという。裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院。その後、3月28日と4月2日にも通院しているという記録が残っていた。しかし、当日の孫の腹痛は、前夜の節供での草餅の食べ過ぎが原因と判明。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていた。その年の旧暦3月3日は3月27日。したがって、病院に運ばれた日(目撃された日)は、その翌日の3月28日ということになる。さらに、小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍餅(しみもち)を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁によると、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられていたことが分かった。また、その年は米の不作により米の凍餅は作らなかった(芋餅を作った)ことも分かった。また足が不自由であり身代金受け渡し現場から素早く逃げられない問題については、アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが判明した。
大金の金額については、脅迫電話テープの公開直後に(身代金から愛人に渡した残りの金額に相当する)「30枚ほどの一万円札を持っているのを見た」という情報が実弟を名乗る人物からもたらされていたことや、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのに42万円もの金額を支出していたことが明らかになった。
小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、聴取は10日間に限定された。小原は黙秘を続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった。その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた。平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした。しかし、事件との関係は否定し続けたまま拘留期限を迎えることになった。
小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、1965年7月3日に取調べ室に呼ばれた。これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた。追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火を山手線か何かの電車から見た」と述べる形で認めた。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた。それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した。翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。
小原は映画「天国と地獄」の予告編を観たことで犯行を計画したと述べた。被害者が身奇麗だったことから金持ちの子と考え、被害者が持っていた水鉄砲を褒める形で誘拐したが、被害者に足が不自由だと悟られたことから、誘拐直後に殺害していたことが小原の供述から分かった。小原によると、被害者を親に返せば足が不自由なことから自分が犯人と特定されると考えたため殺害に及んだという。身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既に被害者は殺害された後であった。被害者は1965年7月5日未明、小原の供述から三ノ輪橋近くの円通寺(荒川区南千住)の墓地から遺体で発見され、秘密の暴露となった。 
1963 狭山事件
1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県の静かな田園都市狭山市で国を揺り動かす大事件が起きました。当時高校1年生の 中田善枝さんが下校途中行方不明となり、その夕刻20万円を要求する脅迫状が届けられたのです。この日はまた善枝さんの 16歳の誕生日でもありました。警察は誘拐事件と断定し、翌2日夜、身代金受け渡し場所に40人の警察官を配備し ますが、目と鼻の先にいた犯人を取り逃がしてしまいます。3日大掛かりな山狩り捜査を開始、4日農道に埋められている 善枝さんの無惨な死体が発見されます。
昭和38年は東京オリンピックを翌年に控え日本が敗戦国から脱却し先進国に肩を並べようとする高度経済成長期(池田内閣) でした。しかし、日向があれば日影もあり、同年3月には戦後最大の誘拐事件といわれた「吉展ちゃん事件」もおきていました。 対外的なイメージダウンや警察能力に対する不満・・・。狭山での誘拐犯人取り逃がしには国中から批判の声が上がりました。 死体が発見された4日には警察庁長官辞表提出(10日辞任)。遺体が発見されて2日後の5月6日、中田家元作男が謎の自殺 を遂げます。その報告を受けた篠田弘作国家公安委員長は「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンづかまえてやらねば・・」と 歯ぎしりをした(埼玉新聞5/7)ことに、主題は真犯人逮捕ということから世論の攻撃をいかにかわすかということに移項していったことが伺えます。 すなわち「犯人逮捕」はいわば警察のメンツのみならず国家の威信をかけた至上命令となりました。
埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させますが捜査は難航します。警察は被差別部落の青年に的を絞った特命捜査班を組織して狭山の被差別部落(菅原四丁目)に対する 見込み捜査を開始し、同月23日、石川一雄さん(24歳)を軽微な罪状による、いわゆる「別件」によって逮捕します。当時の被差別部落に対する偏見と差別の実態が、事件を報道した東京新聞の見出しに露出しています。
「犯罪の温床―善枝さん殺しの背景―」「善枝さんの死体が四丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に『 犯人はあの区域だ』と断言した」
「石川一雄が犯人だという確信はあるか?」との記者の質問に、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これ(石川さん)が白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」 と苦渋を滲ませました。この発言は、他に犯人として逮捕すべき人間がいないから石川さんを逮捕したという 消去法的・間に合わせ的逮捕であったことを如実に物語っています。狭山事件は差別という悲しい側面とともに、指紋など決定的な物的証拠のないことや当時の警察の能力など・・極めて難しい面をあわせもっていたこともまた否定できません。
石川さんが逮捕されたときの新聞の見出しに「表から出して裏から入れた」とあった。 「別件」逮捕をわかりやすくするために、当時の新聞はそういう表現をしたのではないか。別件の小さな盗みで令状を とって、石川さんを逮捕し、二十三日間を利用して、石川さんを自白させようとした。(「部落解放研究第37回全国集会報告書」p.90・庭山英雄)
6月17日本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄)で再逮捕。石川一雄さんは警察と検察による非合法かつ徹底した暴力的取り調べに執拗に晒されます。「罪を認めなければ一家の稼ぎ手である兄を逮捕するぞ」などといった脅しを受け 「10年で出してやるから・・男の約束だ」という口約束を信じ込まされて、ついには嘘の自白を強要させられます。7月9日浦和地方裁判所に 起訴。1審で石川さんは口約束を信じて犯行を「認め」ます。一審判決は死刑。収監中、石川さんは自分が騙されていたことに気づき、二審冒頭で「お手数をかけて申しわけないが、私は殺っていません。」と真実の叫びを挙げ、犯行を全面否認。以来 当然の事実である「無実」を訴え、司法のありかたをも問い続けます。1974年10月31日 東京高裁は「石川一雄さん無罪」を訴え盛り上がる世論と司法の体面維持のバランスをとるために「無期懲役」の判決を下します(寺尾判決)。弁護団は新証拠をあげて上告、異議申立て、再審請求を提出しますがことごとく 門前払いとなり今に至っています。
石川一雄さんは1994年12月21日に仮出獄となり、31年7ヶ月ぶりに故郷狭山の土を踏みました。老体と病身に鞭打ちながら獄中の息子の無実を訴え続けたご両親はすでに亡くなっていました。
「冤罪の受刑生活解かれども 故郷に立ちてわれは浦島」(石川一雄)
石川一雄さんには決して妥協できない「こだわり」があります・・・それは、「(無実の)見えない手錠」を架けられたままご両親の墓参は出来ないという悲しみの決意です。
その後、支援者であった早智子さんと結婚しました。今日も夫婦二人三脚で全国を行脚し、冤罪狭山事件を訴え続けておられます。 
1964 元俳優による幼児誘拐殺人事件
昭和39年12月21日午前11時55分頃、宮城県仙台市で菅原光太郎さん(当時40歳)が経営する会社に男の声で「白百合幼稚園の者だが、智行君に伝えて欲しい。じつは幼稚園のエミール神父が急に渡米することになったので、休み中だが一緒に記念写真を撮りたいので幼稚園の庭まで来てほしい」と電話があった。この電話を受けた女性社員は会社から菅原さんの自宅に出向き、電話の内容を伝えた。
智行ちゃんは(当時6歳)、菅原家の三男で自宅から200メートル程の距離にある白百合幼稚園に通っていた。この日は、幼稚園は休みであったが、家人は電話の内容を信じて智行ちゃんを見送った。
だが、午後5時になっても智行ちゃんが帰ってこないことに不安を抱いた母親が白百合幼稚園に電話連絡すると、幼稚園からはそのような事実はなく偽電話であったことが判明した。午後5時10分、母親は仙台北署東3番丁派出所に届け出た。
仙台北署は、誘拐事件とみて直ちに非常配備体制を整え約300人の警官が市内の要所、要所で検問を始めた。捜査班は菅原宅に待機し犯人からの電話を待った。
午後5時40分、犯人からの電話があった。母親がでると「500万円を持って市立病院からまっすぐに河北新報社まで進め。目印に白いマフラーをかけ、左手に新聞紙を持って歩いてくれ」と男の声で身代金の要求をしてきた。捜査班は、身代金の引渡し場所を特定してこなかったことから、すれ違いざまに金を強奪したあと逃走するものとみて、警察官の配備を一層強化するよう指示をした。
午後8時10分、犯人から3回目の電話があった。「まだ出かけないのか」という短い内容であったが、母親は捜査班の指示通り犯人のやりとりを引き延ばし逆探知の時間を稼いだ。その結果、犯人がかけてきた電話は菅原家から僅か700メートルの至近距離にある電話ボックスであることが判明した。
警察は、この電話ボックスを中心に955人の警察官を周囲に配置し検挙体制に入った。午後8時30分、母親は20万円を新聞紙に包んで江北新報社から仙台電報局にかけて歩いた。その時、前方から歩道を足早に歩いてきた男が母親と行きかう瞬間、母親が手に持っていた新聞紙の包を強奪し逃走した。その瞬間、周囲を張り込んでいた警察官が男を取り抑さえ現行犯逮捕した。
男は、「幼稚園の前で智行ちゃんが来るのをレンタカーで待ち伏せして誘拐した。車中で泣き叫ぶ智行ちゃんが邪魔になり首を絞めて殺害し、自宅の物置に遺棄した」と自供した。智行ちゃんを殺害してから身代金の要求をしていたことが判った両親は我が子の不憫に泣き崩れた。
○元俳優の光と暗闇
犯人は元俳優で車興吉(当時29歳)であった。車は天津七三郎という芸名で新東宝の二枚目俳優として昭和31年にデビュー。その後、松竹に移籍して松方弘樹の父親である近衛十四郎や田村高広、岩下志麻など大物俳優と共演したこともあった。だが、絶頂期もここまでで次第に仕事がなくなり転落していった。
車は、実家がある仙台に戻り母親と身重の妻と3人暮らしで新たな人生のスタートをきった。だが、一時であれ銀幕の華々しい日々が脳裏に焼きつき、知人から借金しては派手な生活を続けた。更に借金を重ねて会社(ブローカ)を設立したが、僅か3ヶ月で倒産。車の借金は更に増えつづけていった。
そこで車は、裕福な家庭の幼児を誘拐し一獲千金を得ようと計画した。以前、ブローカの仕事で菅原さんの会社を訪問した際、地元では大変な資産家であり事業が順調である菅原家を思い出した車は、菅原さんの子供を誘拐することを計画したのだった。
検察は車を殺人、死体遺棄、営利誘拐で起訴した。この営利誘拐罪は前年の「吉展ちゃん誘拐事件」を教訓として、罰則を強化するため刑法を一部改正して立法化したもので、東北地方では初の適用だった。
昭和40年4月5日、仙台地裁は車に罪一等を減じ無期懲役を言い渡した。裁判長は車の改悛の情を酌量したのだが、これに対して検察側は控訴した。二審の仙台高裁は一審の無期懲役を破棄して車に死刑判決を言い渡した。昭和43年7月最高裁は車の上告を棄却して死刑が確定した。昭和49年7月、仙台拘置所で死刑執行となった。 
1965 新潟デザイナー誘拐殺人事件
新潟県で発生した身代金目的の誘拐殺人事件である。なお事件名の由来は被害者の職業に由来する。また死刑囚になった犯人が獄中で自殺した事例である。
営利誘拐で700万円の身代金は、日本の犯罪史上例のない高額の要求であった。
1965年(昭和40年)1月13日の午後8時半ごろ、新潟市のガソリンスタンド経営者の自宅に警察を名乗る者から、そちらの乗用車が邪魔になっているという電話が掛かってきた。この電話に出たこの家のデザイナーの三女(当時24歳)は、電話では話の要領を得ないとして自宅から300m離れた現場に向かったが、これは誘拐犯の罠であった。午後9時40分頃に、娘を預かっているから明日の朝10時までに700万円用意しろとの脅迫電話がかかってきたことから、誘拐事件と判明した。
翌14日の午前11時50分に犯人から午後1時までに国鉄新潟駅の待合室に金を持ってこいと電話してきた。そこで家族は10万円と新聞紙で札束に偽造した包みを持っていったが、そこには犯人は現れなかった。しかし新潟駅の案内所に家族宛に呼び出し電話がかかってきて、午後1時27分に発車する柏崎駅行きの越後線の列車に乗り、赤い旗のある所で金を投げろと中年の女らしい声で指示する内容であった。この手口は黒澤明監督作品の映画『天国と地獄』(1963年公開)の身代金受渡し方法と同じであった(後にYは「天国と地獄」からヒントを得て、犯行計画を立てたことを自供している。)。家族は指示とおり列車に飛び乗ったが、赤い旗があったのは新潟駅から約1km、信濃川鉄橋の新潟駅側の手前で発見したが、機会を逸して現金を投げることができなかった。
一見すると綿密な犯行計画であったが、駅の直後に赤い旗を置いたように犯人の短気な性格から逮捕されることになった。現金の受渡しに失敗した14日の午後5時27分、被害者の絞殺遺体が新潟市関屋海岸松林の中の広い道路の真中で発見された。
1月15日、司法解剖が行われ、被害者は13日の午後9時から14日の午前9時までの間に殺害されたことが判明し、身代金を受け取ろうとした時点ではすでに殺害されていたことが判明した。
現場は積雪でぬかるんでいたため、タイヤ痕、足跡数個が採取された。不審な車の目撃証言から該当車両を絞り込んでいた。当初、トヨペット、ダットサン、いすゞ、プリンスの4種類の車の情報があり、タイヤ跡、チェーンの長さ、車軸の幅から、プリンス、トヨペットの中型車と断定された。さらに1月18日に誘拐現場近くを午後8時30分頃に誘拐現場と見られる場所を車で通りかかり、若い男女が話しているのを目撃した自動車会社従業員の証言から黒色のプリンス・グロリア・デラックスに捜査範囲は絞られた。該当車両のカシミヤ・グレーのプリンス・グロリアが自動車修理工場で発見され、その工場の経営者の息子Y(当時23歳)を被疑者として逮捕した。被害者は前年8月に犯人から中古のダットサン・ブルーバードを購入していた。
Yは当時新潟大学付属病院に入院しており、言語障害と半身不随を装い筆談で取り調べに応じていたが、逮捕から2日目の21日に、被害者を新潟市立寄居中学校前で車に乗せ、13日に絞殺し、14日朝、死体遺棄を行ったことを自供した。検査の結果異常がなく、逮捕から4日目の23日午後3時30分より、口頭で自供を始め、単独犯行を認めた。犯行動機には、前年の新潟地震で工場が大きな被害を受け、父親が病気のため経営不振となったことから金目当てで犯行に及んだこと、助手席に乗せた被害者を絞殺したことなどを自供した。
1月25日、Yが犯行のときに使ったゴム長靴が西蒲原郡黒崎村の国道8号脇の田んぼで発見された。 
1969 正寿ちゃん誘拐殺人事件
昭和44年9月10日朝、東京都渋谷区で質店経営の横溝正雄さんの長男で広尾小学校1年生の正寿ちゃん(当時6歳)が登校中、若い男に誘拐された。男は、正寿ちゃんが歩道橋を渡り降りる直前の踊場で後ろから「よう」と声をかけ、振り向いた正寿ちゃんの腹部を殴り、泣き出した正寿ちゃんを抱いて逃走した。この時、正寿ちゃんの学友2人が目撃しており、学校に連絡した。
知らせを聞いた学校では正寿ちゃんの自宅に緊急電話をする。母親の和代さんは付近を捜索したが見当たらず警察に通報。渋谷署では誘拐事件とみて横溝方に電話の逆探知を取り付けて待機した。
同日の夜遅く、犯人から横溝宅に「ガキは預かっている。500万円を用意しろ。警察に知らせると生きちゃいないぜ」と身代金を要求する脅迫電話があった。
この脅迫電話があった直後の午前0時頃、渋谷署の前を行ったり来たりする不審な人物を警邏中の警官が職務質問をした。持っていた紙袋を確認すると正寿ちゃんが履いていたと思われる片方の靴が出てきた。このため、渋谷署は男に対して厳しく追及した結果、正寿ちゃんの誘拐を自供したため、緊急逮捕した。
男は、住所不定で無職の黒岩恒雄(当時19歳)。黒岩は「正寿ちゃんが泣き止まない為、公衆便所で小刀で刺殺後、死体をカバンに入れて渋谷駅の一時預かり所に預けた」と自供した。このため、渋谷署が一時預かり所に急行、正寿ちゃんの遺体を発見した。
○犯行リスト
黒岩は長崎県油町で出生。いじめが原因で高校を中退し家出。パチンコ店、ガソリンスタンドなど職を転々として上京した。黒岩は小さい頃から「グズ、のろまだと言われていじめられた。強くなって相手に復讐してやる」と自分をいじめた50人の名前を記載した(復讐リスト)や200人あまりの女優がリストアップされ、それぞれ人気に応じた身代金額100万円〜1000万円を記載した(誘拐リスト)を作成し持ち歩いていた。
昭和47年、東京地裁は「動機は贅沢で格好が良い生活をしたいというだけで罪も無い正寿ちゃんを殺害したことは同情の余地は無い」として死刑を言い渡した。昭和53年1月、最高裁は黒岩の上告を棄却し死刑が確定した。死刑執行は昭和54年10月であった。 
1974 津川雅彦の長女誘拐事件
1974年に起こった誘拐事件。誘拐された女児の両親が著名な俳優(津川雅彦と朝丘雪路)であったため、注目を集めた。
1974年8月15日午前3時、東京都世田谷区の津川雅彦・朝丘雪路宅2階から長女・真由子(まゆこ・当時生後5ヶ月)が誘拐され、身代金200万円が要求される。犯人は身代金を第一勧業銀行(現:みずほ銀行)の偽名口座に振り込むことを要求、津川は警察の指示に従い当日に150万円を指定の口座に振り込む。
当初、当時のオンラインシステムから得られる情報では取引の行われたCD機を特定できなかったため、警察は第一勧業銀行の全店舗に人員を配置し、取引発生の度に捜査員がATM周辺の顧客を包囲して犯人を捜すという大掛かりな作戦が展開された。しかし、これは本件の容疑者特定にはつながらなかった。
この間、第一勧銀事務センターのSEが、突貫作業でソフトウェアを書き換え、取引CD機が特定できるようにし、第一勧銀と子会社の常陽銀行のオンラインシステムが更新された。
この結果、8月16日正午、第一勧業銀行東京駅南口出張所のCD機から2000円、続いて29万円を引き出されたことが判明。張り込みの刑事が直ちに該当する男性の身柄を確保。男性が所有していた暗証番号とカード番号が一致したことを問い詰めると犯行を自供したため、同日午後5時に逮捕された。
犯人である23歳の男性は、当初、佐川満男・伊東ゆかり夫妻の長女を誘拐する予定だったが、住所がわからなかったため、津川夫妻の長女に変更した。人質は犯人の家である千葉県我孫子市のアパートにおり、同日午後7時15分、41時間ぶりに発見され無事に保護された。
その後の捜査で、犯人は津川の家庭状況や自宅の住所・間取りなどの知識を週刊誌等で得ていたことが判明。裁判では犯人に懲役12年6ヶ月が確定した。
本事件は被害者が有名人の子供ということと、身代金の受け渡しに当時普及したばかりのCD機を利用したものだったことから世間の注目を集めた(人質だった長女は、成人後の1998年に女優としてデビューしている)。
また、当時、『東京新聞』紙面ではこの誘拐事件が「子供が産まれた事を、自分の宣伝に使ったのが悪い」とし津川の自業自得であるかのような論調の記事が大きく掲載された。なお、『東京新聞』はこの件について津川の直接抗議にも関わらず一切謝罪をせず、当時の編集長が津川に対し「私はジャーナリストとしての信念を貫いた」と反論した上、読者投稿欄で「津川の自業自得」とする投稿を多数採り上げて掲載するという行動を取った。津川はこの件も影響して現在までジャーナリズムへの不信感を抱いている。 
1978 日立女子中学生誘拐殺人事件
1978年に茨城県日立市にて発生した、綿引誠(当時39歳)が妻の妹である中学3年生の辛 裕子さん(しん ひろこ、通名:辛島裕子、当時14歳)を誘拐殺害した事件である。
茨城県日立市の鉄工業経営・綿引誠(当時39歳)は韓国の愛人に貢ぐため数十回にわたり訪韓を重ね1395万円の借金を抱えてしまった。そこで一獲千金を得ようと妻の養父方の娘で中学3年生の辛 裕子さん(当時14歳)を誘拐し身代金の奪取を計画した。
1978年(昭和53年)10月16日、下校途中の辛 裕子さんに声をかけ、自分の車に乗せて人通りの少なくなったところでクロロホルムを吸引させ失神させた。
更に綿引は車中で失神している辛 裕子さんに欲情を湧き姦淫をしようと局部をもてあそんだが姦淫そのものは未遂に終わった。その後、辛 裕子さんの頸部と鼻口部の圧迫で窒息死させ付近の草むらに死体を遺棄した。綿引はその一時間後、辛 裕子さん宅に関西弁訛りで身代金3000万円を要求する電話をかけた。
本事件の犯人綿引誠は、韓国で知り合ったキーセンにのめり込み、度々の渡韓を繰り返し、その関係を維持するために、多額の借金をし、その額は、事件当時1395万円にも上っていた。その返済資金や、渡韓資金を得ようとして為したのがこの犯行である。
車内で、クロロホルムを嗅がせ気を失わせたのは、テレビ番組にヒントを得たものであった。のみならず、同女を姦淫しようとしたが果たせず、頸部と鼻腔部を圧迫して死に至らしめた。
綿引は、身代金の札番号から犯行が発覚することを怖れ、韓国で別の銀行券に交換しようと考えていた。計画後、実行に到るまで5ヶ月間という用意周到さであった。
綿引は、被害者殺害後、身代金3000万円を取ろうとして僅か一時間にして身代金要求の電話を掛けている。綿引誠に前科はない。車両運送法違反による罰金刑が一度だけ。川で溺れそうになった少年を救助したことがある。
捜査本部では、辛 裕子さん宅が金融業やパチンコ店を経営する富豪で市内有数の資産家であり、身代金目的の犯行として捜査を続けていたところ、辛 裕子さんが日頃「誠兄ちゃん」と慕っていた綿引に多大な借金があることや犯行日のアリバイがはっきりしていないことなどから事情聴取し犯人と断定。身代金目的拐取、殺人などの容疑で逮捕した。
辛 裕子さんは綿引の妻の実家の娘であり親戚関係にあった。このことから、辛 裕子さんの父親は綿引に数百万円の資金援助をしており相互に親密な関係を維持していた。
また辛 裕子さんは綿引を実の兄のように慕っていた関係でもあった。そのため、辛 裕子さんの親族の心痛は多大で特に母親は事件から4年経った段階でも床に臥す状態であった。 
1980 長野・富山連続誘拐殺人事件(警察庁指定111号)
昭和55年2月23日、富山県富山市の贈答品販売業・宮崎知子(当時34歳)は富山県八尾市で帰宅途中の女子高生3年のNさん(当時18歳)にアルバイトの斡旋と言葉巧みに誘いマイカーである日産フェアレディーZに乗せ岐阜県の山林で絞殺した。
3月5日には長野市で信用金庫の女子職員のTさん(当時20歳)を同様に言葉巧みに誘い出しフェアレディZで誘拐、Tさんの自宅に身代金3000万円を要求する脅迫電話をかけた。が、身代金の授受は無くTさんは誘拐から1ヵ月後の4月2日、長野県下の聖高原で絞殺体で発見された。
警察は富山・長野両県にまたがる連続誘拐・殺人事件として広域重要111号に指定し大掛かりな捜査を開始した。
やがて、誘拐された付近の目撃者の証言で《フェアレディに乗った大きなサングラス(トンボメガネ)の綺麗な女性》がクローズアップされた。
捜査本部が近県のフェアレディZを所有している女性を調査した結果、富山県富山市で贈答品販売店を営む宮崎知子と共同出資者の北野宏(当時28歳)を犯人と断定し3月30日逮捕した。
○動機と男のけじめ
宮崎、北野が経営する贈答品販売業の業績は芳しくなく設立した翌年には業績不振でサラ金に頼った。借金は膨れ上がり窮地に陥った宮崎は営利誘拐を計画し2人の女性を言葉巧みに誘い犯行に及んだ。
フェアレディを乗り回す美人女性と年下の男が仕組んだ誘拐・殺人事件として報道もエスカレートしていった。当時の警察やマスコミは主犯を北野、宮崎が従犯という構図を描いた。取調べでも警察は北野に対して「男のけじめをつけて全て白状しろ」と強要。女に(宮崎)に全ての責任をなすりつけるのは男らしくないと詰め寄った。が、北野は「犯行に関しては一切感知していなかった。宮崎に言われて運転しただけ」と供述を繰り返した。一方、宮崎は真犯人は別人として容疑を一切否認した。
検察は北野が主犯、宮崎が従犯として起訴した。ところが昭和60年3月の公判で宮崎主犯、北野従犯とする冒頭陳述を行う。検察の求刑は宮崎に死刑、北野に無期懲役とした。が、富山地裁は《宮崎の単独犯行》と認定し宮崎に死刑、北野に無罪を言い渡した。続く名古屋高裁でも同様の判決で北野は無罪が確定。平成10年9月4日最高裁は宮埼の上告を棄却して宮崎に死刑が確定した。宮崎は真犯人は別に居るとして再審手続きを行っている。 
1980 司ちゃん誘拐殺人事件
1980(昭和55)年8月2日、山梨・明野村で電気工事店経営の梶原利行(36)は、約150万円の借金返済に迫られて途方に暮れていた。梶原は地元では「ソフトボールのおじちゃん」として子供に慕われていた。この日も山梨・一宮町の運動場でソフトボールの練習を見ながら「借金返済」のことばかりを考えて、子供達の喚声も耳には届かなかった。
その時、運動場で遊んでいた同町に住む大勝和英さんの次男・司ちゃん(2)が目に映った。梶原は発作的に司ちゃんを誘拐し、夕方になって大勝宅に1000万円の身代金を要求する脅迫電話をかけた。
警察は、目撃者の証言などから「ソフトボールのおじちゃん」こと梶原が誘拐犯と断定。山梨県及び隣県へ指名手配を行った。8月15日、指名手配された梶原は東京・浅草で逮捕された。その間、大勝宅への脅迫電話は30回に及んだ。
取調べで梶原は、誘拐から2日後の8月4日、司ちゃんの首を絞めて殺していたことが判明。殺しておきながら、数十回に及ぶ脅迫電話をかけていたことで非難が集中した。
1982(昭和57)年3月3日、甲府地裁は梶原に死刑判決を言い渡した。身代金目的の誘拐殺人事件では戦後8人目の1審死刑判決だった。1審判決後の1983(昭和58)年1月1日、面会の弁護士に「甲府で隠れて暮らす妻子(事件後、離婚)のことが心配で夜も寝られない…」「私が殺した被害者様も、どんなにか家に帰りたかったことだろう…」という後悔と反省の気持ちを吐露している。
1985(昭和60)年3月20日、東京高裁は「最近の量刑の動向からも死刑は慎重にしなければならない」「犯行は残虐、冷酷だが、司ちゃんを見失い誘拐をいったん諦めたこと、身代金の要求も場当たり的で、綿密な計画に基づく行為とは言い難い」として梶原に無期懲役を言い渡した。生きて償う機会を与えられた梶原は同年7月に無期懲役として服役した。 
1980 名古屋女子大生誘拐殺人事件
名古屋市内在住の元寿司店経営の木村修治(当時30歳)は、愛人への仕送り等で多額の借金を抱え、その返済のために競輪と競馬に手を出してさらに借金を抱えて誘拐を計画した。1980年12月2日、「英語の家庭教師をお願いしたい」と金城学院大学3年の女性(当時22)を誘い、自宅近くで誘拐した。映画『天国と地獄』をヒントに誘拐直後に殺害、遺体はビニルシートでくるみ、木曽川へ捨てた。女性の家族に3000万円の身代金を要求したが、受け取りに失敗。翌年1月20日、逮捕。
1980年12月2日、名古屋市港区に住む金城学院大学英文科3年生・戸谷早百合さん(22歳)が、自宅近くの近鉄戸田駅前から行方がわからなくなった。早百合さんは家庭教師をやる旨を「中日新聞」の告知板に投稿しており、1日夜にそれを見た男から依頼の電話があり、駅前で待ち合わせていたらしい。
同日午後8時15分頃、戸谷家に「娘さんを預かっている、これは冗談じゃないぞ」と男の声で電話があった。当時両親は不在で、電話を受けたのは早百合さんの弟・N君だった。
午後9時23分、2度目の電話、父親に「明日3時までに3000万円用意しろ。警察に言うと生きて帰れないぞ」と、逆探知を恐れて手短に身代金の金額と日時を指定してきた。父親はすぐに警察へ通報するが、犯人はその後20回以上にわたって電話をかけ続けてきた。
翌3日午後、「午後6時までに3000万円を持って蟹江インター近くの喫茶店『師崎』に来い」と犯人からの指示。
1000万円をカバンに詰めた父親と捜査員が「師崎」で待っていると、そこに再び電話がかかってきた。「そこを出て、蟹江インターから東名阪高速道路に入り、桑名方面に向かって2つ目の非常電話ボックスに行け」
父親はこの時、「非常電話ボックス」と「電話ボックス」を間違えてしまった。「非常電話ボックス」の中には「ココカラカネヲ シタヘオトセ ゴザイショサービスエリア マデイケ サユリイク」と書かれたメモが入っていたのだが、当然父親がこれに気づくことはなく、犯人との接触はできなかった。
同日午後10時10分、犯人からの電話。「金を持って名古屋市中川区のレストラン『ダック』へN君が1人で金を持参すること」 今度は早百合さんの弟・N君が金を持って「ダック」に向かったが、犯人からの連絡はなかった。
5日午後4時過ぎ、25回目の電話。「愛知県春日井市の中央線春日井駅まで来れば早百合さんを見せる」 父親と捜査員が指定場所に向かうが、早百合さんはいなかった。
6日午後6時23分、28回目の電話。「今日は車が故障したので段取りがつかなかった」 これが犯人からの最後の連絡となった。
12月26日、捜査本部は公開捜査に切り換えると、各メディアが一斉に事件を報道し、犯人の声も公開された。たまたまテレビを見ていた人の通報により、声がそっくりな愛知県内の元寿司職人・木村修治(当時30歳)が浮上する。木村は当初頑なに否定していたが、声紋鑑定が決め手となり、年があけた1月20日に任意同行を求められ、早百合さん殺害を自供した。早百合さんの遺体はなかなか見つからず、木曽川で見つかったのは5月5日のことである。 
1981 山梨主婦誘拐殺人事件
1981年(昭和56年)7月22日、山梨県北巨摩郡武川村で、株に失敗して借金を抱えた甲府林務所職員(当時36歳)が、旧家の三沢教子(58歳)を誘拐し、クロロホルムを嗅がせ布団をかぶせぐるぐる巻きに縛って殺害。身代金5000万円を要求するが、逆探知で逮捕された。1審で、確定的殺意ではなく「未必の故意」による殺人と認定され無期懲役が確定した。 
1984 泰州ちゃん誘拐殺人事件
1984年2月13日に広島県福山市で発生した身代金目的の誘拐事件である。
当時社会問題化していたサラ金(消費者金融)などから、商店の経営のために1200万円という多額の債務を負っていた犯人の男性(当時44歳)は、度重なる取立てから逃れるために身代金目的の誘拐によって金銭を得ようと、自分が指導している少年野球チームのメンバーである福山市議の森田泰元の長男(当時9歳)を小学校から下校途中にバレンタインデーのチョコレートを買ってあげると誘い出し誘拐した。自動車で市内のデパートなどを連れまわしたが、およそ1時間後に家に帰りたいと訴えだした児童を福山市郊外の山中にある県道「福山グリーンライン」に駐車中に殺害し遺体を斜面に遺棄した。車に酔って泣き出した児童を看護するそぶりを見せながら、いきなり首にネクタイを巻きつけ、両手で力いっぱい締め付けて殺害したのである。その後、児童の自宅に身代金を要求する電話をかけ、指定の銀行口座に15万円を振り込ませた。福山八幡宮の駐車場に留めていた乗用車からキャッシュカードを奪取した犯人は身代金を現金で引き出すことに成功し、その後追加して1000万円を振り込むように電話したが逆探知に成功した警察により緊急逮捕された。犯人は逮捕までに奪取した現金を借金の返済にあてていた。
○逮捕後
児童が山中に遺棄された現場にはその後匿名で観音像が設置された。また児童に対しては知っている大人であっても一緒に出かけるときには親に連絡するように学校で教育されるようになった。裁判では、犯人が、信用している児童を騙し誘拐したうえに殺害後に身代金を要求し成功しているなど犯行態度が極めて悪質であるとして一審の広島地方裁判所福山支部は1985年7月17日に死刑を言い渡した。その後、控訴、上告したが1991年6月11日に最高裁で上告が棄却され死刑が確定した。1998年11月19日に広島拘置所において刑が執行された。
被害児の父親である森田泰元は福山市議選に当選し続け、1992年に福山市議会副議長に、1994年9月に福山市議会議長に就任している。なお、現在は引退している。また1993年5月発売の雑誌『諸君!』(1993年6月号、文藝春秋社)に、殺人事件被害者遺族の立場から死刑制度存置を支持する論考を寄稿している。 
1986 裕士ちゃん誘拐殺人事件
1986(昭和61)年5月9日午後、東京・江東区の書店経営・本間守世(もりとし)さん(38)の三男・小学校一年生の裕士(ひろし)ちゃん(6)が、遊びに出たまま行方不明となった。同日の夕方、本間宅に男の声で「子供を誘拐した。1500万円用意しろ」と電話があった。
警視庁捜査一課と深川署は身代金目的誘拐事件と断定し特別捜査本部を設置し捜査を開始した。
同夜10:00過ぎ、犯人の要求に従って同区清澄公園に身代金200万円を持参した母親に埼玉・越谷市の元鉄筋工・須田房雄(45)が接触してきたため、張り込んでいた捜査官に取り押さえられた。
翌日の10日2:00過ぎ、須田は「裕士ちゃんにカブト虫の幼虫を見せて誘拐。その後、石で頭を10回ほど殴り、ひもで首を絞めて殺した」と自供した。捜査本部は須田の供述にもとづいて本間宅近くにある神社境内の排水溝から裕士ちゃんの遺体を発見。捜査本部は須田を身代金目的誘拐、殺人などの容疑で緊急逮捕した。須田は事業資金欲しさから半年前から誘拐を計画していた。
須田は、現在の賃貸家の立退きを求められていたことを機会に、「立ち食いソバ屋」をやろうと考え、その資金に500万円が必要と誘拐を計画した。以前住んでいた江東区の本間宅を思い出し「あの家なら金はある」とみて、昨年の11月と12月に下見をした。犯行当日は二日前から用意した「カブト虫の幼虫」を用意。14:00過ぎ須田は江東区深川二丁目の高速道路下を歩いている裕士ちゃんを発見。案の定、裕士ちゃんは「それなあに」と興味を示した。そこで須田は「カブト虫の幼虫を埋めようよ」と言って神社の境内に誘い出し、カブト虫の幼虫を埋めた後、石で裕士ちゃんを殴打して死亡させた。裕士ちゃんの頭蓋骨は完全に陥没していたという。
1986(昭和61)年12月、東京地裁は須田に死刑を言い渡した。1987(昭和62)年1月19日、須田は控訴を取り下げて死刑が確定。1995(平成7)年5月26日、死刑執行。享年53歳。 
1987 功明ちゃん誘拐殺人事件
昭和62年9月14日午後4時50分頃、群馬県高崎市の幼稚園児・荻原功明ちゃん(当時5歳)が「近くの神社に遊びに行く」と言って出かけたまま行方不明になった。心配した荻原さんの両親や近所の住民達が心当たりを捜したが功明ちゃんの行方は杳として分からなかった。
午後6時40分頃、荻原宅に男の声で「子供を預かっている。2000万円よこさなければ子供は殺す」と身代金目当ての脅迫電話があった。驚いた両親は警察に通報した。捜査班が荻原宅に着くと早速、逆探知の準備を整え次の身代金要求の電話にそなえた。
午後7時47分頃、2回目の電話があり同様に2000万円の身代金を要求する内容だった。同8時3分には功明ちゃん自ら電話に出て、父親の問いかけに「元気。これから帰るよ。おまわりさんと一緒」と言った。2回目と3回目の脅迫電話は、いずれも通話時間が短く逆探知は完全にはできなかった。
功明ちゃんが誘拐されてから2日後の16日午前7時50分に4回目の脅迫電話があった。やはり男の声で「今日夕方6時までに1000万円用意しろ」という内容だった。通話時間は27秒で逆探知はある程度可能な時間であったが、捜査班は逆探知体制を前日の15日に解除していたため犯人の居場所は特定できなかった。当時の逆探知には回線制限が必要で長期間の逆探知シフトは出来ない事情があった。
−戦後唯一の誘拐未解決事件に−
捜査班は犯人の要求通りに身代金の用意を始めた。その矢先、功明ちゃんの遺体が近くの川で発見された。司法解剖の結果、死因は窒息死で胃の中には何も無かった。このことから、犯人は14日の午後8時3分に功明ちゃんを電話に出した直後に生きたまま橋の上から投げ落としたものと推定された。
捜査班は、身代金の受け渡し場所を指定しなかったこと、翌日が敬老の日で金融機関が休業することなどを頭にいれず身代金を要求していることなどから、金銭目的ではなく荻原家に対する怨恨や変質者の犯行も視野に入れて捜査を開始した。また、功明ちゃんが「おまわりさんと一緒」と言ったことから当日に非番だった警察官も対象に捜査を行った。
だが、懸命の捜査も報われず犯人の行方は杳として掴めなかった。かろうじて逆探知で特定できたのは群馬県高崎市北西部地域で該当回線は1万本以上ということだけだった。平成14年に時効が成立した。
日本の身代金目的誘拐事件の解決率は97%という(犯罪統計白書)。一方、罪は重く殺害に至れば極刑は免れない。このため犯人には割が合わないリスクの高い犯罪といえるが、誘拐事件は本件以降も後を絶たない。功明ちゃん誘拐事件は戦後唯一の未解決誘拐殺人事件となってしまった。 
1989 比叡山女子大生殺人事件
1989年8月31日、京都に一人旅に訪れていた早稲田大学の女子大生(当時25歳)が、比叡山でテント生活を送っていた当時48歳の男に強盗と強姦の目的で殺害された事件。被害者の女性は過去に痴漢にあった経験から空手を学んでおり二段を持っていた。
女子大生は同年8月26日、千葉県野田市の自宅を出発、京都では南禅寺、六波羅蜜寺、三十三間堂、京都国立博物館、東寺などを訪れた。事件に遭った31日は京都からバスやロープウェイを利用して比叡山延暦寺を訪れた。そこで目撃されたのを最後に行方を絶った。午後2時頃、加害者の男と出会い、午後3時頃に紐で殺害された。9月2日、被害者宅に男から身代金1000万円を要求する脅迫電話がかけられた。電話がかけられたのはこの1回のみであった。9月8日、被害者の両親から相談を受けていた千葉県警、京都府警が公開捜査に乗り出した。9月9日、遺留品であるリュックサックが発見され翌10日、全裸の遺体が発見された。死因は絞殺であった。女子大生を殺害した後、加害者の男は9月4日から大阪市平野区の工場に住み込みで働いていたが、公開捜査となってから、数度に渡り捜査本部に電話をかけてきた。9月12日に大津警察署に出向いた男は警察に厳しく追及されて犯行を自供、翌13日に逮捕された。10月4日、京都地方検察局から強盗殺人罪で起訴され、一審の京都地方裁判所で1990年3月6日に無期懲役が言い渡された。
事件後、『女性の一人歩き危険』という看板が比叡山のあちこちに立てられ、またガイドブックにも同じ趣旨の注意書きが書かれるようになる。
女性は早稲田大学に入学する前、日本大学文理学部中国文学科を卒業。日大在学中に麗澤大学で行われたアグネス・チャンの夏期集中講義を受講していた。1993年、遺族により彼女の日大の卒論が自費出版。アグネス・チャンが序文を書き、国立国会図書館に寄贈されている。 
1991 塗装業者誘拐殺人事件(警察庁指定118号事件)
平成3年5月1日午後8時頃、千葉県市原市の塗装業社長の高崎勇一さん(当時52歳)が3人組みの男に誘拐された。当日午後7時50分頃、高崎さん宅に男の声で「塗装の仕事の依頼をしたい」との電話があった。そこで、高橋さんは男が指定した近くの中学校正門前に行ったところ突然2人の男が現れて高橋さんを無理やり車に連れ込み拉致した。途中、もう1人の男が車に乗り込んできたが、高橋さんは布袋を頭からかぶせられて詳しい状況はわからなかった。
3人組みは高橋さんに「3000万円で殺しを請け負った。命が惜しかったら金を用意しろ」と脅迫。高橋さんは、翌2日の午前8時になって犯人の指示通りに自宅に電話して妻に金を用意するように連絡した。
驚いた妻は、警察に通報すれば夫は殺されると判断し身代金2000万円を用意した。さらに知人の男性2人に、犯人が指示してきた栃木県宇都宮市内のファミリーレストラン駐車場に身代金を運んでもらうよう依頼した。そこで知人の男性は高橋さんの車のトランクに現金2000万円を入れて出発した。
3日午前9時、駐車場に着いた知人の男性は犯人の指示通りに車内に車のキーを置いて1時間その場を離れた。1時間後に戻ると、車内に目隠しされ紐で拘束された高橋さんを発見し無事保護した。
保護された高橋さんは、4日午後9時になって市原署に事件の顛末を通報するとともに被害届けをだした。千葉県警と市原署は営利目的の誘拐事件として捜査を開始した。まず、高橋さんの証言から監禁されていた栃木県那須塩原の貸し別荘の現場検証と聞き込み捜査を行ったところ、5月1日に現場付近で不審な車が駐車していたことを突き止めた。
さらに、貸し別荘の申し込みをした中年男が高橋さんの顔見知りで元塗装業の迫康裕(当時50歳)であることが判明したため、全国に指名手配をした。その結果、同月14日に高岡市のホテルに潜伏していた迫を逮捕した。
公判は、事件の主犯格は迫、岡崎、熊谷昭孝の3人であると認定。3人は「殺人に関して積極的に加わっていない」と主張したが、平成7年1月27日福島地裁は3人に死刑を言い渡した。3人はいずれも控訴したが棄却。平成16年6月25日に最高裁は3人の上告を棄却して死刑が確定した。 
1993 甲府信金女子職員誘拐殺人事件
1993年8月10日、山梨県甲府市で、甲府信用金庫大里支店の職員の内田友紀さん(19歳)が新聞記者を名乗る男に誘拐された。同月17日、内田さんは静岡県富士宮市の川岸で遺体となって発見された。
24日、宮川豊(当時38歳)が逮捕された。
(1993年8月10日午後2:50ごろ) 甲府信用金庫本店に山梨日日新聞社発行の月刊誌「ザやまなし」の記者を名乗る男から電話が入った。「輝いて」という活躍する女性を写真つきで掲載するページで大里支店の新入社員・内田友紀さん(19歳)を紹介したいというものだった。男はこの日のうちに取材したいということで、夕方に大里支店にタクシーを差し向けると話した。電話に対応した幹部の話では「紳士的」「丁寧」という声の印象で、また記者名は名乗らなかったが山梨日日新聞を「山日」と自然に話していたことから、信じてしまった。この電話の男は甲州弁を使用していた。
(午後5:40ごろ) 信金前に停まっていた男のさしむけたタクシーに内田さんが乗りこむ。「ザやまなし」の記者の指定の場所である市内の体育館に向かった。
(午後6:00前) 内田さんが体育館の嘱託職員に「信金の者ですが、体育館で待つように言われたのですが、ここですか」と話していたのを、バドミントンの練習に来ていた女性が最後に目撃。これ以降の足取りがつかめなくなる。
(翌11日午前8:20) 最初の身代金要求電話が、信金大里支店に入る。「職員を預かっている。11時までに4500万円用意しておけ」 この電話に対応したのは支店長の山本紀恭さん(当時43歳)で、すぐに警察に通報した。この後、30分から1時間おきに男から電話が入った。
(午後3:05) 男から6回目の電話があり、甲府市中小河原町の喫茶店「珈琲待夢」に現金を持って来るように、山本支店長に直接指示した。その後、「珈琲待夢」に到着し、待っていた支店長に対し、約4.5km離れた中央自動車道甲府インター近くのガソリンスタンドで待つように伝えた。
(午後5:00前) ガソリンスタンドに着いた支店長に再び男から電話が入る。5分後に同インターから約2km先の中央道上り線の東京から104km地点で現金を投げ捨てるように指示した。この時、内田さんについて「中央道釈迦堂パーキングエリアに停めてある車の中にいる」と男は言った。
(午後5:54) 支店長はワゴン車に積んだ計4500万円の入った2つのバッグを指定の場所に置いた。しかし、男は現れなかった。この日の深夜に内田家に不審な電話が入る。女性の声で「信金のマツモト」と名乗り、友紀さんの在宅を確認するものだった。信金大里支店にはマツモト姓の女性はおらず、旧姓がマツモトの女性が退職していたが無関係とわかった。結局、この電話は友紀さんの友人の母親によるもので、友人が家に帰らないことから、友紀さんと一緒にいるのではないかと電話をかけた。その際、名乗りづらかったため、友紀さんの同僚のマツモトとかたったという。
(17日午前11:30) 富士川左岸でウナギ釣りに来ていた男が、うつぶせとなった内田さんの遺体を発見。すぐに通報した。遺体はノースリーブの短い下着一枚の姿で、首に粘着テープが巻かれていた。司法解剖によると、死因は頚部圧迫によるショック死と判明した。
24日朝になって、甲府市内に住む自動車のセールスマン・宮川豊(当時38歳)が知人を通して「自首したい」と言ってきたため、任意同行され、午後になり逮捕された。  
1997 梶原一騎子女誘拐殺人事件
1997年4月14日、私立醒吾高級中学 (zh) 2年に在学中の暁燕は、通学途中に誘拐された。犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。冰冰はなんとか身代金全額は揃えた。しかし、李登輝総統の政党内におけるライバルで、台湾における嫌日派外省人の巨頭で、なおかつ次期総統を視野に手柄を狙う行政院長連戦の差し金で、警察からマスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道した。このため、引き渡し現場にあらかじめ記者が殺到する事態となり、当然ながら犯人グループは身代金受け取りを断念する。
現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだ。しかし、激昂した犯人グループは、腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を時間をかけて惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。
4月25日に警察が犯人グループのアジトをつきとめて急襲し、4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。
4月28日、暁燕の原形を留めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。直接の死因は窒息だったが、暴行による打撲で肝臓が破裂しており、その内出血で腹腔は大きく膨張し、肋骨もほとんど折れており、両手両足の爪も全て剥がされていた。顔も髪の毛はまばらにされ、両目はえぐり取られ、首を絞められたために舌は伸びきり、両耳の鼓膜は爆竹で破られ、前歯は上下三本しか残っていなかった。これだけではなく、報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、あまつさえ膣と肛門に鉄パイプが2本突き刺され、子宮内には釘が48本も打たれていた。長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。
遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載し、日本の写真週刊誌にも転載された。身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、メディアへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。
時の総統を務めていた李登輝は、犯人らを発見次第問答無用で射殺せよとの命令を発令した。8月19日、台北市内で3人の主犯格と警官800人との銃撃戦が起こり、警官2人が死傷したが、林も6か所に銃弾を受けて自殺。
10月23日、残る高と陳は台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させた後、医師夫妻と女性看護師の3人を射殺して逃亡(看護師は強姦されていた)。
11月17日、高が警官隊に包囲されると、再び銃撃戦を起こすが、逃げ切れずに拳銃で自殺。
11月18日、最後に残る陳は、南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って立て籠もり事件を起こしたが、翌日、民進党の謝長廷の交渉を受けて投降し逮捕された。
1998年1月22日、板橋地方裁判所は陳に対し5件の誘拐・殺人・強盗に対し死刑5回、別の暴行事件などで懲役刑合計59年9ヶ月を言い渡したが、白冰冰はその判決に対し、正義が実証されなかったと納得しなかった。
日本の最高裁判所に当たる高等法院も1999年3月16日に遺族に対し1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)の賠償命令を言い渡した。10月6日に陳の死刑が執行された。 
2018 死体損壊容疑で会社役員ら2人逮捕 愛知県警 4/26
名古屋市の男性(28)が2月に連れ去られた事件で、愛知県警は26日、男性の遺体を傷つけたとして死体損壊の疑いで、仕事上のつながりがあった名古屋市千種区千種、会社役員、野間裕司容疑者(30)と同県稲沢市野崎町、大学生、服部拓哉容疑者(22)を再逮捕し、中署に捜査本部を設置した。
捜査本部によると、男性は名古屋市中区栄、職業不詳、岡田亮祐さん。岡田さんは2月23日に行方が分からなくなり、同市東区のマンションに連れ去られていたことが判明。4月上旬に加害目的誘拐容疑で野間容疑者ら男5人を逮捕していた。
野間容疑者ら2人の再逮捕容疑は2月24〜25日ごろ、稲沢市野崎町で岡田さんの遺体を損壊したとしている。野間容疑者は黙秘し、服部容疑者は「死体という認識はない」と否認しているという。
捜査関係者によると、関係先の捜索で血痕や骨の一部が見つかった。捜査本部は野間容疑者らが岡田さん死亡の経緯についても事情を知っているとみて調べている。
野間容疑者が経営する人材派遣会社に岡田さんが人材を紹介する関係だった。投資話でトラブルになったことがあったという。服部容疑者は人材派遣会社で働いていた。
死体損壊容疑で再逮捕 不明男性の知人ら2人 4/27
名古屋市中区の飲食店に勤務していた男性が外出先から行方不明になっている事件で、愛知県警は26日、男性が死亡したと判断し、遺体を傷つけたとして同市千種区千種2、人材派遣会社実質経営、野間裕司(30)と同県稲沢市野崎町新出、大学4年、服部拓哉(22)の両容疑者を死体損壊容疑で再逮捕した。
男性は名古屋市中区栄4の岡田亮祐(りょうすけ)さん(不明時28歳)。捜査関係者によると、稲沢市で焼かれた骨が見つかり、岡田さんの遺体の一部とみられる。県警は中署に捜査本部を設置し、野間容疑者らが連れ去った岡田さんを暴行して死なせた可能性があるとみて殺人容疑も視野に調べる。
逮捕容疑は共謀して2月24〜25日ごろ、稲沢市野崎町で岡田さんの遺体を損壊したとしている。現場は服部容疑者の実家近く。野間容疑者は黙秘し、服部容疑者は「死体の認識はなかった」と容疑を否認しているという。
両容疑者は他の男3人とともに岡田さんを加害目的で誘拐した疑いで逮捕され、名古屋地検は野間容疑者ら4人を生命・身体加害目的誘拐罪で起訴し、服部容疑者を処分保留とした。起訴内容は2月23日、資金運用を依頼したいと岡田さんを呼び出し、名古屋市東区のマンション一室に連れ込んだとしている。
捜査関係者によると、岡田さんは2月23日、このマンションに男らと入るのが防犯カメラに映っていた。一室は、野間容疑者以外の起訴された3人のうち1人が賃貸契約しており、室内から岡田さんの血痕など暴行の痕跡が見つかった。岡田さんの血痕は他の場所でも発見されている。
岡田さんと野間容疑者は2016年ごろからの知り合いで、野間容疑者の人材派遣会社に岡田さんが人を紹介していた。しかし、投資話などから金銭を巡るトラブルになっていたという。県警は野間容疑者が誘拐などを主導したとみて捜査している。服部容疑者は野間容疑者の会社で働いたことがあった。
安倍昭恵さん″誘拐殺人犯″との記念写真 5/11
4月21日の「桜を見る会」で久々に公の場に現れた昭恵氏。首相に離婚を勧める声も出ているというが……
「野間は政治家のパーティに盛んに参加して写真を撮りまくり、それを見せることで信用を得ていました。大村秀章愛知県知事(58)や河村たかし名古屋市長(69)など、地元の政治家との記念写真だけでなく、なかには安倍昭恵さん(55)とのツーショット写真まであったんです」(野間容疑者の知人)
日本中を引っ掻き回し続けている総理夫人・安倍昭恵氏は、いったいどこまでお騒がせなのか--。
4月上旬、愛知県名古屋市の20代の男性を誘拐したとして、男5人が愛知県警に逮捕された。うち2人は、4月26日に死体損壊の容疑で再逮捕。犯行は、被害者の遺体をドラム缶で焼却するという残虐な手口で行われたと見られている。
「この事件の主犯が、再逮捕された野間裕司(30)という男です。野間は人材派遣会社を経営していますが、これは表向きの顔。実際の生業は、イカサマ賭博を行う『ゴト師』だったようです。地元ではなく、東京や横浜の違法カジノに出入りし、1日で1000万円近くを稼ぐこともあったといいます。その他にも、手下にインターネットカジノをやらせたり、女性を風俗に落とす女衒(ぜげん)のようなこともしていた」(同前)
被害者はネットカジノの売り上げを巡って野間と揉めており、今年2月に拉致されたという。被害者の骨や血痕が手下の自宅などで発見されていることから、県警は最終的に「誘拐殺人」での立件を目指している。
そんな野間容疑者が、手下を集めるために利用していたのが、首相夫人である安倍昭恵氏だ。本誌は、昭恵氏が野間と仲良く撮影したその記念写真を入手。この写真は、昨年9月29日に開催された、被災犬に関する「チャリティーディナー」で撮られたものだ。
これまでにも元暴力団幹部や籠池夫妻など、いわく付きの人物との記念写真が数多く流出してきた昭恵氏だが、今回は"誘拐殺人犯"である。彼女が一向に反省しない理由について、昭恵氏に関する取材を重ねているノンフィクション作家の石井妙子氏はこう分析する。
「昭恵さんは自分を『国母』だと思っているようです。志ある貧しい若者や環境問題に取り組む有志を総理である夫に繋ぐのが、自分の天命だと考えているのです。昭恵さんは首相夫人という極めて公的な立場にある人なわけですから、近づいてくる相手が何者なのか見極める必要があるのではないでしょうか」
昭恵氏は本誌の取材に「チャリティーディナーに出席したのは事実ですが、(野間容疑者とは)一切面識はありません」と文書で回答した。しかし、知らなかったから済む問題ではないということは、これまで何度も指摘されてきた通りなのである。