天上天下唯我独尊

安倍首相の個人的な世界観
夢の実現でしょうか

耳触りの良い政策提案 詭弁デコレーション答弁
大事な政策 「国難」と称して先送り
首相自身が  「国難」風船を膨らませている 自覚なし


●安倍首相・衆院代表質問での答弁
憲法改正
自衛隊は違憲だと主張する有力な政党も存在する。自衛隊員に、憲法違反かもしれないが何かあれば命を張ってくれと言うのは無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくすことが私たちの世代の責任ではないか。時代の節目にあって、どのような国造りを進めていくのかという議論を深めるべき時に来ている。
現行の9条2項の規定を残した上で、自衛隊の存在を憲法に明記することで、自衛隊の任務や権限に変更が生じることはない。
沖縄の米軍基地問題
沖縄だけが大きな基地負担を背負い、米軍の事件、事故により安全、安心が脅かされるのか。そのような県民の気持ちは真摯(しんし)に受け止めている。(住民の)安全確保は最優先課題として日米で協力して取り組む。
平昌五輪出席
文在寅(ムン・ジェイン)大統領と会談し、北朝鮮に核・ミサイル計画を放棄させるため、あらゆる方法で圧力を最大限まで高めるとの方針からぶれてはならないことを伝えたい。(慰安婦に関する平成27年の)日韓合意について日本政府の考え方を明確に伝えてくる。約束を誠実に履行していくよう働きかける。
対北朝鮮政策
圧力を高めていくと同時に、日米両国の緊密な連携のもとで高度な警戒態勢を維持する。拉致問題は安倍内閣の最重要課題だ。北朝鮮への国際社会の圧力をテコとしつつ、私が司令塔となって北朝鮮に早期解決に向けた決断を迫る。
核ミサイル計画を放棄させるため、国連安全保障理事会決議の完全な履行をはじめ、あらゆる方法で圧力を最大限まで高めていく。日米の緊密連携の下、高度な警戒態勢を維持し、国民の命と平和な暮らしを守り抜く。違法操業する北朝鮮漁船の取り締まりを含め、わが国周辺海域の警戒、警備にも万全を期す。
防衛力強化
長距離巡航ミサイルは、自衛隊機が、相手の脅威の圏外から対処できるようにすることで、隊員の安全を確保しつつわが国を有効に防衛するものだ。
働き方改革
今回史上初めて三六協定(労使協定)でも超えてはならない罰則付きの時間外労働の限度を設ける。長時間労働を是正すればワークライフバランスが改善する。経営者は労働者の働き方に関心を高め、労働生産性向上につながる。
労働基準法制定以来、70年ぶりの大改革だ。高度プロフェッショナル制度の創設は、健康を確保しつつ、誰もが能力を発揮できる柔軟な制度へと改革するもので、一つの法案で示すことが適当だ。
教員の業務負担軽減を図るのは喫緊の課題だ。今後とも教員の長時間勤務の是正に取り組む。
中国の一帯一路構想
インフラの開放性、透明性などの考え方を十分に取り入れることで、地域と世界の平和と繁栄に前向きに貢献していくことを期待している。こうした観点から協力する考えだ。
中国が提唱する現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」についてはインフラの開放性、透明性など国際社会共通の考え方を十分に取り入れることで、地域の平和と繁栄に貢献することを期待する。日本としてはこうした観点から協力していく。
スパコン補助金詐欺
補助金の交付などは所管官庁、実施機関で、法令にのっとって適正に実施されるもので、そのように行われている。(支出根拠となる)行政文書は、法令に従い公開すべきは公開していく。
国税庁長官
佐川宣寿国税庁長官の人事については、ほかの全ての人事と同じく、適材適所の考えに基づき行った。森友学園への国有地売却については今後もしっかり説明していく。
麻生太郎副総理兼財務相 / 佐川氏は引き続き職責を果たしてもらいたい。  
本白根山噴火
噴火で亡くなられた自衛官に心から哀悼の誠をささげる。本白根山に新たな観測機器を設置し、観測態勢を強化するなど対応に万全を期していく。登山者の安全確保の推進など火山防災対策の強化に取り組む。
憲法改正
自衛隊員に、安心して死んでいただくためです。
沖縄の米軍基地問題
米軍に、一応かたちとして注意しておきます。
平昌五輪出席
国際的なお祭りです、参加します。ついでに、文句も言ってきます。
対北朝鮮政策
トランプの意向に従っています。
防衛力強化
北朝鮮に感謝、防衛予算の増額計上ができました。
働き方改革
恰好をつけて、一応言ったまでです。具体策はこれから考えます。
中国の一帯一路構想
土下座外交は日本の伝統です。
スパコン補助金詐欺
補助金は交付に意味があり、後のことは知りません。
国税庁長官
忖度を大事にする役人を、昇進させることは当然です。
長距離巡航ミサイル 首相「憲法上は保有許される」 
安倍首相は25日の衆院本会議での代表質問で、敵基地攻撃も可能な長距離巡航ミサイルを導入することについて「憲法上、保有が許されない兵器との指摘は当たらない」との考えを示した。「専守防衛は憲法の精神にのっとったもので、わが国の防衛の大前提。この点は今後も、いささかの変更もない」とも強調した。
共産党の志位和夫氏が「憲法の趣旨から持つことができないとしてきた、他国に攻撃的な脅威を与える兵器そのものだ」と質問したほか、公明党の井上義久氏も長距離巡航ミサイルを取り上げたことへの答弁。
首相は「自衛隊機が相手の脅威の圏外から対処できるようにすることで、隊員の安全を確保し、わが国を有効に防衛するもの」と導入目的を説明。「敵基地攻撃能力は米国の打撃力に依存しており、日米間の役割分担を変更することは考えていない」と強調した。
政府は2018年度予算案に、自衛隊の戦闘機に搭載する長距離巡航ミサイルの経費を計上している。
首相は、改憲案の国会発議を目指す項目や時期については「国会や国民的な議論の深まりの中で決まってくるものだ」と明言を避け、各党が具体案を持ち寄り議論を進めるよう求めた。  
安倍首相、専守防衛に変更なし=改憲で平和主義堅持 
安倍首相は25日の衆院代表質問で、わが国の安全保障の基本原則について「専守防衛は憲法の精神にのっとったもので、わが国防衛の大前提だ。この点は今後とも、いささかの変更もない」と述べた。公明党の井上義久幹事長への答弁。
井上氏は、政府の長距離巡航ミサイル導入方針について「敵基地攻撃が可能となるのではないかとの指摘がある」とただした。
衆院本会議で代表質問する公明党の井上義久幹事長(手前)。左後方は安倍首相=25日午後、国会内
これに対し首相は「敵基地攻撃は米国の打撃力に依存しており、基本的な役割分担を変更することは考えていない」と説明。その上で「いずれの装備も専守防衛の下、自衛隊の装備の質的向上を図るものだ」と強調した。
民進系衆院会派「無所属の会」の岡田克也代表は憲法改正について、「平和主義をあいまいにしたまま9条の改正を行うことはあり得ない」と主張。首相は「自民党は先の総選挙の公約でも平和主義の基本原理は堅持することを明確に約束している」と述べた。  
首相「改憲、幅広く合意を」 自衛隊任務変更せず
安倍首相の施政方針演説など政府4演説に対する各党代表質問が24日、衆院本会議で始まった。首相は憲法改正について「与野党に関わらず幅広い合意が形成され、国民的な理解も深まっていくことを期待している」と述べ、衆参両院の憲法審査会での議論の前進に改めて期待感を示した。
首相は、自身が憲法9条に自衛隊を明記する案を提起したことについて「自衛隊員に『憲法違反かもしれないが何かあったら命を張ってくれ』というのは無責任だ。そうした議論が行われる余地をなくしていくことが私たち世代の責任ではないか」と述べ、改憲の意義を強調した。また、自衛隊を明記した場合にも「任務や権限に変更が生じることはない」との考えを示した。
立憲民主党の枝野幸男代表は、憲法は国の理想の姿を示すとした首相の憲法観を「特異な認識でまっとうな議論はできない」と批判。希望の党の玉木雄一郎代表は憲法9条に自衛隊を明記する首相案に対し「自衛隊の役割が変わらないなら立法事実がない。立法事実がない9条改憲案には反対だ」と明言した。
首相は沖縄県渡名喜(となき)島(渡名喜村)に米軍ヘリコプターが不時着したことに関して「安全確保は最優先課題として日米で協力して取り組んでいく」と述べ、再発防止に取り組む考えを強調した。その上で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設の必要性にも触れ、「一日も早い全面返還は待ったなしの課題だ」と語った。
学校法人「森友学園」への国有地売却問題では、「手続きは適切だった」との答弁を繰り返した佐川宣寿前財務省理財局長を国税庁長官に起用したことについては「他の全ての人事と同じく適材適所の考え方に基づき行った」と答弁した。
また、草津白根山(群馬、長野県境)の本(もと)白根山で発生した噴火を受け、首相は「今後、火山の監視観測研究体制の充実強化、登山者の安全確保対策の推進など火山防災対策の強化に取り組んでいく」と述べた。  
共産 志位委員長
志位氏は、2013年に続く今回の生活保護削減について、「生活保護を利用していない低所得世帯の生活水準が下がった」ことを理由としているのは、「安倍政権になって貧困は改善した」という宣伝がウソであり、「アベノミクス」が失敗したことを自ら認めるものだと強調しました。
削減幅は子どもの多い世帯ほど大きく、都市部の「夫婦と子ども2人世帯」では13年の削減と合わせ年37万円もの大幅削減になると告発しました。
安倍首相は「生活保護基準を全体として下げるものではない」と事実に反する答弁をしました。
志位氏は、「働き方改革」について、政府が「目玉」とする「高度プロフェッショナル制度」が、一定年収の労働者の残業代を「ゼロ」にし、労働時間規制をなくすものだと指摘。同制度の導入は経団連が主導し、労働団体がこぞって猛反対しているとして、「『働く人の視点・立場に立った改革』などでなく、働かせる側―財界の立場に立った制度だ」として、「働かせ方大改悪」が正体だと告発しました。
同時に、政府案の残業時間の「上限規制」にも大問題があり、月80時間〜100時間など「過労死水準」の残業を容認していると指摘。「残業は週15時間、月45時間、年360時間まで」とした大臣告示の法制化など、「真に働く人の立場に立った労働基準法の抜本改正」こそ行うべきだと迫りました。
沖縄の米軍基地問題では、米軍機事故が続発している異常事態について、危険と隣り合わせの住民の不安を無視し、日本政府が米軍の飛行再開を容認し続けている「米軍追従姿勢」を厳しく批判。普天間基地所属の海兵隊軍用機が沖縄全土で事故を起こしている事実は、「普天間基地を辺野古に移したところで、危険な基地が沖縄にあるかぎり、危険は変わらないことを示している」と指摘し、普天間基地の無条件撤去、辺野古新基地建設の中止、海兵隊の撤退を求めました。安倍首相は、志位氏が示した事実には答えられず、「辺野古に移設すれば安全性が格段に増す」とごまかしに躍起になりました。
首相が年内にも国会発議を狙っている自衛隊明記の9条改憲について、志位氏は、「9条2項(戦力不保持)の空文化=死文化に道を開き、海外での武力行使が無制限になる」と危険性を告発。国民多数が望んでもいない改憲に突き進むのは、「憲法を私物化する態度以外の何ものでもない」と断じました。さらに、政府が長距離巡航ミサイルや戦闘機搭載の「空母」といった「他国に攻撃的な脅威」を与える兵器の保有を狙っていることについて、「首相が自ら述べてきた憲法上の制約を覆す大軍拡を進めようとしている」と批判しました。  
●首相「高度プロフェッショナル制度」関連法案成立に全力 
安倍総理大臣は衆議院本会議で、働き方改革をめぐり、働いた時間ではなく成果で評価するとして労働時間の規制から外す「高度プロフェッショナル制度」は、残業代ゼロ制度との批判は当たらないと強調したうえで、関連法案の成立に全力を傾ける決意を示しました。
この中で、公明党の井上幹事長は、働き方改革に関連し、「教員の長時間勤務の実態も危機的状況にあり、看過することはできない。昨年、公明党は、教職員定数の拡充や学校現場での業務の適正化などの提言を行った。教員の処遇の在り方を検討するなど、教員の働き方改革をさらに進めるべきだ」と指摘しました。
これに対し、安倍総理大臣は「昨年末に、適正な勤務時間管理の実施、業務の効率化などの緊急対策を取りまとめ、必要な経費を平成30年度予算案に盛り込んだ。今後とも、勤務時間の上限の目安を示したガイドラインの検討など、教職員の長時間勤務の是正にしっかり取り組んでいく」と述べました。
衆議院の会派「無所属の会」の代表を務める民進党の岡田元代表は、森友学園の問題について、「なぜ、この問題が発覚して国会でも大きく取り上げられたときに、値引きの妥当性の調査を強く命じなかったのか。国民に対し、あまりにも正直ではなく無責任だ。森友学園に関する政府内のすべての記録を公開し説明責任を果たすべきだ」とただしました。
これに対し、安倍総理大臣は「国民からの厳しい声や批判は真摯(しんし)に受け止めたい。国会で丁寧に説明してきたが、今後ともしっかりと説明していかなければならないと考えている。また、文書の管理・保存は各行政機関が責任を持って行っており、今後、国会の場で財務省など関係省庁からしっかり説明させてもらう」と述べました。
共産党の志位委員長は、働き方改革の関連法案をめぐり、「『高度プロフェッショナル制度』では、一定の年収の労働者は、どんなに働いても残業代はゼロで、労働時間規制もなくなる。過労死を一層ひどくするだけではないか。財界の立場に立った『働かせ方大改悪』にほかならない」と追及しました。
これに対し、安倍総理大臣は「『高度プロフェッショナル制度』は、働く人の健康を確保しつつ、意欲や能力を発揮できる新しい労働制度の選択を可能とするものであり、『残業代ゼロ制度』との批判は当たらない。今回の改革は、長時間労働に対する規制を強化するものであり、関連法案を早期に提出して成立に全力を傾注する」と述べました。
日本維新の会の下地国会議員団政務調査会長は、憲法改正について、「日本維新の会は、自民党が検討する憲法9条改正の発議に先立って『平和安全法制』の改正を求めていく。現在の『平和安全法制』を前提に憲法9条改正の国民投票を行っても、広く国民の理解を得ることは困難だ」と指摘しました。
これに対し、安倍総理大臣は「『平和安全法制』は、国会で200時間を超える充実した審議を経て成立したものであり、政府としてはベストなものと考えている。各党が憲法の具体的な案を国会に持ち寄り、憲法審査会で議論を深め、前に進めていくことを期待する」と述べました。
一方、安倍総理大臣は、防衛力の強化に関連して「専守防衛は憲法の精神にのっとったもので、わが国の防衛の大前提だ。今後ともいささかの変更もない。いわゆる『敵基地攻撃』については、米国の打撃力に依存しており、日米間の基本的な役割分担を変更することは考えていない」と述べました。
また、長距離巡航ミサイルについて、「憲法上、保有が許されないとの指摘は当たらない」と述べたほか、自衛隊が空母を保有することについて、「これまで、政府として空母の保有に向けた具体的な検討を行ってきた事実はない」と述べました。
公明 井上幹事長「方向性は共有できた」
公明党の井上幹事長は記者団に対し、「働き方改革はもちろんだが、生活の中で国民が直面している子育て支援や介護、防災・減災対策といった現実的な課題について、政府と方向性がほぼ共有できた。今後、さらに、予算委員会などで具体的に詰めていきたい」と述べました。
また、井上氏は、憲法改正の質問をしなかったことについて、「改正は国会が発議をするものであり、われわれは衆参両院の憲法調査会で議論を積み重ねながら、国民的なコンセンサスを作るという基本方針を持っているので、あえて代表質問で取り上げる必要はない」と述べました。
無所属の会 岡田代表「見事にほとんど答えなかった」
衆議院の会派「無所属の会」の代表を務める民進党の岡田元代表は国会内で記者団に対し、「見事にほとんど答えなかった。財政健全化の問題について、『消費税の使途変更でプライマリーバランス=基礎的財政収支の黒字化ができなくなった』というのは全くのうそであることが明らかだ。安倍総理大臣に対し、厳しく正面から向き合っていく」と述べました。
共産 志位委員長「まともな答弁はない」
共産党の志位委員長は国会内で記者会見し、「聞いていることに対し、ことごとく、まともな答弁はなく、かみ合った答弁は全くなかった。生活保護費を全体として削減することは明らかな事実であるにもかかわらず認めようとしない。事実とたがえた答弁を平気でするのは、まともに議論する姿勢とは言えない。問題が多々あるので、予算委員会で引き続き政府の姿勢をただしていきたい」と述べました。
維新 下地氏「納得できる答弁だった」
日本維新の会の下地国会議員団政務調査会長は国会内で記者団に対し、「憲法改正についても、安倍総理大臣はわが党の前向きな考え方を共有しているような認識で、非常に納得できる答弁だった。ただ、われわれは平和安全法制に反対しているので、9条の改正賛成に導きたいと思うのであれば、われわれの話を丁寧に聞いて論議を進めていくべきだ」と述べました。  
●首相の代表質問答弁 紋切り型では深まらない 
「いずれにしても○○という批判は当たらない」は、衆参両院の代表質問に対する安倍首相の答弁で何度となく使われる言い回しだ。自身に都合のいいデータや政策の趣旨を並べ立てるなどし、揚げ句に野党が指摘する懸念を真っ向否定する。
野党側の質問にももっと工夫が必要だが、ただしたいのが「憲法改正」「働き方改革」「原発」「待機児童」などに集約されるのは仕方がない。問題はそれに対する首相の答弁が紋切り型に終始していることだ。要は繰り返しなのだ。
代表的なのが改憲批判に対して度々口にする「『自衛隊員に憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりにも無責任」との答弁。隊員がかわいそうだと情に訴えるフレーズだ。
首相は9条2項を残した上で、自衛隊の存在を明記しても「任務や権限に変更が生じることはない」と予防線を張る。だが、明記することで「どんどん命を張っていただく」とならないか、懸念はそこにある。
代表質問では、野党の問いをスルーする場面もあった。待機児童解消に関して、民進党の大塚耕平代表が受け皿を32万人分とする現行計画が不十分ではないかと迫ったのに対して、首相は推計方法を説明しただけ。前日にも希望の党の玉木雄一郎代表が89万人分が必要との民間試算を引き合いに追及したが、首相はまともに答えなかった。
財政健全化に関しても、無所属の会の岡田克也代表が、来年10月の消費税増税増収分全てを借金の返済に回しても「目標は達成できない。アベノミクスの失敗だ」とただしたのに対して、首相からは総括するような答弁はなかった。
新たな交渉記録が明るみに出た森友学園問題では、立憲民主党の枝野幸男代表が、理財局長として国会で「廃棄した」と突っぱねてきた現・国税庁長官の佐川宣寿氏の更迭を迫った。これに対して首相はゼロ回答。事態を軽視していると言わざるを得ない。
代表質問では一問一答の委員会のように突っ込んだ議論にならないのは確かだが、安倍首相の答弁は過去の演説や発言の繰り返し、すり替え、肩すかしに終始し、誠実さや真摯(しんし)さあるとは到底言えない。
予算委員会でも同様の答弁が繰り返されるといった傾向は年々、強まっている。野党に攻撃材料を与えない「安全運転」が目に余る。首相の答弁は果たして血の通ったものなのだろうかと言いたくなる。
与党は、昨秋の臨時国会に続き、通常国会でも予算委員会などでの野党の質問時間削減を要求している。与党議員の質問はこれまでもアピールに傾きがちで、野党から「よいしょ」と揶揄(やゆ)される。政策を練り上げる上では疑問符が付く。
予算委員会では野党の突っ込んだ質問、追及は無論、安倍首相が正面から向き合う必要がある。国会審議の形骸化は安倍政権への「飽き」につながることも肝に銘じるべきだ。  

 
2018/1
 
●「天上天下唯我独尊」「唯我独尊」の意味
1 この世で、自分ほど偉いものはいないとうぬぼれること。釈迦しゃかが生まれたときに七歩歩き、一方で天を指し、他方で地を指して唱えたという言葉と伝えられる。この世の中で自分より尊いものはいないという意味。「天上天下てんげ唯我独尊」の略。「唯我」はただ自分のみということ。「独尊」は自分だけが一人尊いということ。  
2 唯我独尊とは、この世に個として存在する「我」より尊い存在はないということで、人間の尊厳をあらわしている言葉。また、この世に自分より優れたものなどないという思い上がりの意味でも使う。  
3 釈迦が誕生したときに、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったという逸話から出てきたものであり、しばしば釈迦を崇める言葉として使われる。
唯我独尊とは、『大唐西域記 』6の中に記録されている、釈迦の誕生当時を伝える文章の中にある
「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽」
という誕生偈と呼ばれる偈文の一節である。これを訳すと
「一切の世界の中で、自らはもっとも尊いものである。今ここに生まれてきたが、これが迷いの世界の最後の生であり、ふたたび迷界に流転しないからである。」
とあり、釈迦がこの世で解脱するから「唯我独尊」と言われるのは、漢訳仏典では他に見られない特徴である。
釈迦の誕生を伝える仏典には様々あるが、代表的な『修行本起経 』には
「天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之」
とあり、欲界色界無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したから、尊いのであると言う。
ところが、パーリ仏典では『西域記 』と同じように、釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という自利の面で尊いとするのかに、仏伝を翻訳した者の釈尊観が現れている。
さらに、「天上天下」という言葉で、仏教の立場を説いているという解釈もある。
「天上」とは、世界の一切の事象をすべて神の意思であるとする、当時の「尊有論」の立場とし、「天下」を、一切の事象は偶然によって支配されていると考える「偶然論」の立場と説明する。この両極端を否定して、釈迦は真実の姿は縁起によって現象するのであると自覚したから尊いのであると説明する。  
4 釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉。釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん、もしくは、てんじょうてんがゆいがどくそん)と言った、という伝説から出てきたものである。しばしば釈迦を、崇める言葉として使われる。
元来、「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。釈迦以前に出世したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばし)が誕生した際に言ったとされる。
しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように讃嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。
『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、
「天上天下 唯吾獨尊 今茲而往 生分已盡」
という一節が記されている。 これを訳すと
世界の中で我のみが尊い。今ここに生まれてきたが再び生きることはない。つまり釈迦がこの世で解脱するから「唯我独尊」であると言う。
釈迦の誕生を伝える仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上などがあるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、
「天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之」
欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いのであると言う。
ところが残存するパーリ仏典は『大唐西域記』と同じように釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という利自の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。
「天上天下唯我独尊」の意味を「全世界で私たち一人一人の人間が一番尊い」と解釈する説もあるが、経典上の根拠が全く無い説である。
天台宗尼僧の露の団姫は、「この広い世界のなかで、私たち人間にしかできない尊い使命がある」と解釈している。  
5 天上天下唯我独尊は、人はみんな、かけがえがなく大切な存在だ、ということ。仏教から来ている言葉で、本当の意味はもう少し(というかかなり)複雑になるのでしょうけれども、 少なくとも日常生活、たとえば子供に「てんじょうてんげゆいがどくそんって何?」とか聞かれるような場合や、一般的にことわざとしてつかう場合なら上記の意味で大丈夫だと思います。
ここでの「我」は、個々の人々という意味です。
わたしたちはよく「彼は勉強がよくできて立派だ」 「あの人はえらい先生だ」 「あいつは何もできないからダメだ」というように、その人の能力や地位などで、えらいとかそうでないとか言いますよね。
しかし、天上天下唯我独尊とは、その人がなにをしているかにかかわらず価値があり、ほかの誰にもかえられない、という意味になります。
これは、「運動オンチで頭も悪く、さっぱりモテない」という人でも、その人の親にとっては、世界中でかけがえのない存在だったりするので、こういうことから、よく分かると思います。

天上天下唯我独尊、あの有名なお釈迦さまの言葉です。
お釈迦さまが生まれたとき、七歩あるいて、両方の手で天と地を指し、「天上天下唯我独尊」と言われた。これは『長阿含経(じょうあごんきょう)(ちょうあごんきょう)』という仏教の話にあります。
ただ、お釈迦さまは仏教の開祖で、 とても立派な方には違いありませんが、それでも生まれてイキナリこんなムツカシイ言葉を言ったのか?となると「本当か?」となるかもしれません。
しかし、この話が本当であろうとも、後の人による作り話だったとしても、この言葉の意味と、お釈迦さまがの教えが、ありがたいものには違いないでしょう。
そして、たとえ作り話だったとしても、それだけのことをしたと伝えられるくらい、お釈迦さまは人々からありがたがられていた、ということにもなりますね。
誤用
さて、この天上天下唯我独尊というのは、ごぞんじの通り、とっても誤用されることの多い言葉でもあります。
それが「この世の中で、ただ自分だけえらい」という意味での使い方。
まあ、天上天下唯我独尊という、漢字だけで見れば、そのようなとらえ方になるのは、 しょうがないというか、むしろ自然なくらいです。由来の話を聞かないかぎり、本当の意味なんて分からないでしょう。
それに、この本当の意味での使い方が、日常生活では意外とやりにくいんですよね。
たとえば「あいつはダメなやつ」と言った友達を注意するために、「天上天下唯我独尊と言うように、人はみんな尊いものだ。ダメなやつなんていないんだよ」なんて言ったら、お前なにモンだよ! となるじゃないですか。ふつうこんな言い方しないですよね。
「みんなそれぞれ良いところがあるんだから、人をバカにしちゃだめだよ」どんなにまじめで説教好きな人でも、だいたいこんな感じじゃないですか。
なので天上天下唯我独尊を、本当の意味での使い方をする場面というのはなかなかないと思います。
いっぽうで誤用での使い方は、じつにやりやすかったりします。
「あいつは自分が一番立派ですぐれていると勘違いしている。まったく天上天下唯我独尊なヤツだから、なにを言っても無駄だよ」
ほら、なんだかイヤな奴をピリッと気の利いた言葉でやっつけたみたいな、かっこいい感じになってしまいます。
このように、この言葉は
○ そもそも漢字の意味がまちがえやすい
○ 誤用したほうがなんだか使いやすい
というダブルの理由で、本当の意味が伝わりにくくなっていると思います。
でもせっかく立派な本当の意味があるのですから、きちんと使いたいもの。
一般の使い方としては、だれかにお説教として言うよりも自分の中で心にとめておく言葉としたほうが、いいかもしれませんね。
読み方
天上天下唯我独尊は、「てんじょうてんげゆいがどくそん」と読みますが、「てんじょうてんがゆいがどくそん」と言うこともあります。ようするに「天下」を「てんげ」か「てんが」と読むかの違いですね。
仏教用語では「てんげ」になり、また、辞書にもこの読み方でのっているので、こちらが一般的な読み方でしょう。 「上下」は「じょうげ」と読むので「てんじょうてんげ」となるほうが自然ですしね。
いっぽうで、たんに「天下」だけだと、「てんか」「てんが」と読むのが一般的です。 「天下統一」は「てんかといういつ」、大阪にある地名の「天下茶屋」は「てんがちゃや」と読みますしね。
なので「天上天下唯我独尊」を、「てんじょうてんがゆいがどくそん」と読むこともあります。
ただし後者の読み方は辞書にも載っていなかったし、パソコンでも変換されなかったので、もしかしたら間違いかもしれません。使うときには注意がいりそうです。
本当の意味
天上天下唯我独尊の本当の意味は、自分という存在はこの世に一人だけ、だから尊いという人間の尊厳を説いた立派なもの。
すでに誤用が広まってしまってますし、「自己中心的」「わがまま」みたいな意味のほうが使いやすく感じるかもしれませんが、本当の意味を知れば、そんな使い方はしにくくなりますね。
きれいごとのように聞こえるかもしれませんが同じようなことを歌った、「世界で一つだけの花」という歌が大ヒットしたり、アドラー心理について書かれた「嫌われる勇気」という本にも「存在しているだけで価値がある」と書かれたり、なによりこのお釈迦さまの教えや、天上天下唯我独尊という言葉が2千年以上も語り継がれているのが、このような考えが大事なことをあらわしているでしょう。
だれかを見下してしまったり、ぎゃくに地位だけでえらいと考えてしまったりなどは、ついついやってしまいがちなものですが、そういうのは、自分にとっても良くない結果につながりやすいです。
また、何かに失敗して落ち込んでしまったときも、この天上天下唯我独尊という言葉は、他人を大事にといましめたり、自分に自信をとりもどすよう、はげましてくれたりと、ふつうのことわざとしても良い言葉だと思います。 
6 釈尊は、生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられている。この言葉の意味するところは、唯だ“私だけが尊い”という意味をあらわしているのではない。
「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このいのちのままに尊いということの発見である。しかも、釈尊は生誕と同時にこの言葉を語られたと伝えられている。これは、釈尊の教えを聞いた人々が「釈尊は、生涯このことを明らかにせんとして歩まれた方である」という感動を表現したものである。
ふだん私たちは、これこれの財産があるからとか、名誉や地位があるからといったことによって、自らを他と比べて立派だと思いこんでしまう。「家柄がいい」とか、身体に障害をもつ人よりも「健常」である自分のほうが上だと無意識裡に考えていることがある。
しかし、この釈尊の言葉は、人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さを教える言葉である。
この言葉はひろく世間に流布しているけれども、その意味が明らかになっていないところに、自他の、世界の、混迷があると言ってもいいかもしれない。この言葉を刺繍したジャンパーを着て、けたたましい音をたててバイクを走らせる青年たちを見たことがある。オレだけがと突っ張って他を顧みることのない青年たちの姿は、けっして、ひとり彼らのみのものではないであろう。権力に頼って独りよがりの「正義」を振りかざす国もある。そして私たちもまた同様の生き様を晒しているのでないか。そういう自身への問いをさそってくれる言葉である。 
7 「唯我独尊」とは、「唯、我、独り尊い」だから、俺一人が偉いのだという意味だと思っている人がほとんどです。実際、辞書で調べてみると、そのように説明されていますので、間違いないだろうと思っています。確かに、一般的な意味はそうなのですが、実は、このお言葉は、お釈迦さまのお言葉なのです。
今日、四大聖人、三大聖人といわれても、必ずお釈迦さまの名前が挙がります。今まで地球上に存在した人の中で、偉人ベスト4、ベスト3に入るということです。そんなお釈迦さまが、果たして、「俺一人が偉いのだ」と、偉ぶったことをおっしゃるでしょうか。
「実るほど 頭の垂れる 稲穂かな」
昔から「実るほど 頭の垂れる 稲穂かな」といわれます。
実るほど、まだ実っていない時は、稲はピーンと立っていますが、実りの秋になりますと、稲穂は、頭を垂れるようになります。人間でも、未熟な時は、自分ほどできる者はないと自惚れますが、いろいろと経験していくと、周りのことも見えてきて、腰の低い人になっていきます。また「下がるほど 人の見上ぐる 藤の花」ともいわれます。藤の花が下がるほど、きれいな花だと、人が見上げるように、人間も、謙虚な人ほど、周りの人たちから立派な人だと敬われます。では、お釈迦さまが「俺一人が偉いのだ」と仰ったのではないとしたら、「唯我独尊」の本当の意味は、どうなるでしょうか。
「唯我独尊」とは
「唯我独尊」の「我」は、お釈迦さまだけのことではなく、我々、すべての人間のことなのです。「唯我独尊」とは、ただ我々人間のみが果たしうる尊い使命、崇高なたった一つの目的を持っている、という意味です。
何の為に生まれてきたのか、何の為に仕事をして生きているのか、苦しくても生きねばならないのはなぜか。人生の目的を教えられたのが、お釈迦さまであり、仏教なのです。ここから仏教の平等思想が出ています。お釈迦さまは2600年前に「万人は平等なり」と仰っています。
お釈迦さまがおられた当時のインドでは、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラといわれる、厳しい社会の階級(カースト制度)がありました。バラモン(僧侶)とクシャトリヤ(王族)は、ほとんど、同等の貴い身分とされていましたが、ヴァイシャは、それらに対して、婚姻はもちろん、交際から職業までも禁じられていました。シュードラにいたっては、直接、それらと言葉も交わすことができないという、虫けら同然にみなされていました。
お釈迦さまが、身分制度を打ち破って、どんな人も尊い目的を果たす為に人間に生まれてきたのだと、すべての人は平等であると仰ったのが「天上天下 唯我独尊」のお言葉なのです。  
自分が他人より優れていると感じる意識や感覚
自らを恃む気持ち ・ 自信 ・ 自尊 ・ 矜持 ・ プライド ・ 自負 ・ 自慢 ・ 誇り ・ 自尊心 ・ 唯我独尊 ・ 優越意識 ・ 優越感 ・ エリート意識 ・ 自分への誇り ・ 自分への名誉 ・ 自負心 ・ 自尊の気持ち ・ 自分を信じる気持ち ・ 自恃の気持ち ・ 気位 ・ 自恃 ・ 自尊の心 ・ 自負の心 ・ 自らを誇る気持ち  
他人のことを気に掛けず、自分のことしか考えてないこと
ミーイズム ・ 自己中 ・ 自己中心主義 ・ ジコチュー ・ 一人よがり ・ 我田引水 ・ 自分中心の考え ・ 我儘 ・ エゴイズム ・ 利己主義 ・ 自分よがり ・ 独善 ・ 身勝手 ・ 手前勝手 ・ 自分勝手 ・ 我執 ・ エゴ ・ 自分だけの狭い考え ・ 自己中心 ・ 我侭 ・ ワガママ ・ 自分本位 ・ 唯我独尊 ・ わがまま ・ エゴイスティック
誕生偈 1
指釋尊誕生時,右手指天、左手指地所說之四句偈。蘊含宇宙以我為最殊勝之意。經典中有關誕生偈之偈文,記載多非一致,長阿含經卷一所記為(大一‧四下):「天上天下,唯我為尊;要度眾生,生、老、病、死。」修行本起經卷上為(大三‧四六三下):「天上天下,唯我為尊;三界皆苦,吾當安之。」大唐西域記卷六所記為(大五一‧九○二上):「天上天下,唯我獨尊;今玆而往,生分已盡。」另如過去現在因果經卷一、普曜經卷二等,雖有與誕生偈意思相當之文句,但非偈頌體。現今一般常用之誕生偈為:「天上天下,唯我獨尊;三界皆苦,我當安之。」〔太子瑞應本起經卷上、佛本行集經卷八、毘奈耶雜事卷二十、善見律毘婆沙卷四〕  
誕生偈 2
釈尊の誕生についての伝説の中に説かれる四方七歩の宣言を誕生偈とよんでいる。いわゆる「天上天下唯我独尊」といわれるものである。
この「天上天下唯我独尊」の偈句中で「唯我独尊」という言葉は、受けとり方によっては全く奇妙な印象を人々にあたえる。というのは、もし釈尊が誕生にあたって、この世界で自分だけがひとり尊いといわれたとすれば、それは釈尊の単なるひとり自慢のように考えられるからである。すなわち、これだけでは、なぜ「独尊」であるかが明らかになっていないからである。その点、「天上天下唯我独尊」だけでは十分ではない。そこで、この偈句の源を尋ねて、この句の本当の意味を明らかにすることは、仏教の精神を明らかにするために大切なことである。
大唐西域記
この偈句の源を尋ねると、まずこの偈句の出典が玄奘の『西域記』六であることが明らかになる。というのは「唯我独尊」という言い方は、他の漢訳の仏伝諸書にはみられないからである。
『西域記』をみれば、そこでは誕生偈が「天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽」といわれている。したがって、世間一般にいわれる「天上天下唯我独尊」は『西域記』六の誕生偈の前半であることがわかる。もし、そうだとすれば「唯我独尊」の独尊はこの偈句の中の「往生分已尽」によるといわねばならない。すなわち、
「一切の世界の中で、自分は一番尊いものである。それはいまここに生まれてきたが、これが迷の世界での最後の生であり、再び迷界に流転しないからである」
ということである。その意味で、いまの独尊は往生分已尽で説明されているわけである。
しかし、このような「往生分已尽」ということで 「唯我独尊」と尊さを説明するという仕方は、他の漢訳仏伝諸書にあまり例をみないことを注意すべきである。
修行本起経
漢訳仏伝の代表的なものの一つである『修行本起経』上には誕生偈が「天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之」とある。この場合「唯我為尊」の理由は「三界皆苦吾当安之」である。すなわち、
「欲色無色の三界、いわば一切の迷界にある衆生は、みな苦に悩んでいる。そこで自分はこの苦の衆生を安んぜんために誕生したのである」
ということから、尊いというのである。
この説き方は明らかに前の『西域記』の説き方と異なっている。いわば『西域記』では、現在この世に生まれたのは仏になり、さとりを開くためであり、それに間違いないから尊いというのであるが、この『修行本起経』では人々の苦を救うという使命感が誕生した釈尊の尊さであるというのである。これらは、明らかに仏伝作者たちの釈尊観の相異を示している。
ところで、漢訳諸書には、この『修行本起経』のような説き方が普通である。すなわち『長阿含経』の中の『大本経』には「天上天下唯我為尊 要度衆生生老病死」とあり、大乗の仏伝とも考えられる『普曜経』巻二には「我当救度天上天下為天人尊 断生死苦三界無上使一切衆生無為常安」といっている。これらはみな、釈尊を人々を救う仏陀として、仏の利他のはたらきを中心としてみているものであり、仏伝作者自身が自己のさとりを課題としながら釈尊をみているといってよいであろう。
ところが『西域記』の説き方でみれば、これは釈尊の尊さを釈尊自身の解脱という点でとらえているといってよいであろう。このような『西域記』の釈尊のとらえ方は、漢訳『長阿含経』の中の『大本経』と相応するパーリの(Mahāpadana suttanta)や『仏本行集経』巻一などにみられる。すなわちパーリ文によれば
「われは世界中で第一人者である。われは世界中で最年長者である。われは世界中で最優秀者である。これは、わが最後の生であり、いまや再び有 (迷界の生)に入ることはない」という。
また『仏本行集経』巻一では
「我れ世間において最も殊勝たり、如来仏道を成じ得おわる。一切の世間、諸天及び人、ことごとく皆尊重し恭敬して承事す。……我れ生死を断ず、是れは最後なり、如来仏道を成じえおわる」
などという。これらは明らかに『西域記』と同じ意図を示している。
このように釈尊の見方に仏伝がいろいろとちがった記述をもっていることは注意を要することであると同時に興味あることである。すなわち、『西域記』のような悟りを開いた現実の釈尊の尊さを、悟りを開いた後、常に釈尊自身が話された言葉と思われる「わが生はつきたり、再びこの世に生をうけることなし」の言葉を誕生にまでもちきたって示そうとするものと、『修行本起経』のように仏陀の誕生を衆生救済のためと考え、そこに釈尊の尊さをみようとするものとの間に、さらにその変遷の過程を示すものに『過去現在因果経』を位置せしめることができるごときである。
過去現在因果経
いま『過去現在因果経』をみれば、そこには
「われ一切の天人の中において、最も尊く、最も勝れたり、無量の生死はいまにおいてつきたり、この生において一切の人天を利益せん」
とある。この前の部分はパーリ文や『西域記』の意図を示し、後の一句は利他の立場を示している。このように仏伝を通して仏伝作者たちが抱いていた釈尊への信仰がどのようなものであったかをみることができることは興味あることである。
ところで、釈尊の尊さをいずれの立場からみるとしても、ここに「天上天下唯我為尊」とあることについて、これを仏教の思想と立場という点からみる時、この語には興味ある理解と解釈がなされうる余地があることに気がつく。いま、しばらく、このような点について考えてみよう。
まず、はじめに「天上天下唯我為尊」について二つの見方ができるであろう。一つは内面的に釈尊の自覚そのものとして考えること、二つには外面的にこれを外に対望せしめてみる場合とである。すなわち、この中、はじめの内面的とは、釈尊自身、があらゆる悩みの中から、これを克服しえたよろこびを述べられたことである。自分自身を本当にこの世界随一の世尊(栄光に輝けるもの、幸福者)となりえたことを「為尊」といわれたとみるのである。いわば天の上、天の下、いずれを通じてみても、人間は末成の仏であり、仏陀は已成の人である。そこで末完成の人間に対して、釈尊は完成した人間として完全位にある仏陀であるから、「唯我為尊」なのである。
次に外面的に外に対して、この天上、天下を考える場合、まず、ここで天上と大子が指さしているものは梵天であり、天下と指さしておられるものは物質にばかり目をむけ、肉体的なものにのみこだわり、精神的なものを単に文化の上部構造として無視しようとする唯物思想家である。そこで、この場合「唯我為尊」とは、これらいずれにもかたよることのない釈尊自身の正しい立場を示したものと考えるのである。すなわち、仏陀釈尊の縁起の自覚、それこそが唯我為尊の立場である。
この釈尊の立場に対して、世界のいっさいのできごとを、すべて神の意志によるとする当時の尊祐論〈そんゆうろん〉の立場こそ天上である。また、いっさいを偶然の支配するところと考え、因果を無視して、極端な現実主義に立つ偶然生論や無因無縁論のごときは天下である。これらの極端論を克服して、真実の現実こそ、縁起であると自覚して、真面目に生かされて生きていることの自覚の下に生きる姿、それこそ「為尊」であり「独尊」である。
このように「誕生偈」の中に、われわれは仏教の根本的立場をしるとともに、釈尊観を通して、そこに仏教徒の信仰の変遷の模様をみるのである。  
●お釈迦さまの誕生日は4月8日
4月8日は、仏教を説かれたお釈迦さまの誕生日です。 「花祭り」といい、小さな釈迦像に甘茶をかけているのを見たことのある人もあるでしょう。この日を「花祭り」と祝うのは、お釈迦さまがルンビニーという花園で誕生されたからです。このご生誕にまつわるお言葉から、今回は、私たちの生まれてきた意味を学びましょう。
苦しみの世界を離れて
当時、インド北部で栄えた釈迦族の長・浄飯王と后のマーヤー夫人には、永らく子供が恵まれなかった。ところがある時、待望の世継ぎが授かったのである。月満ち、初産であった夫人は、故郷の隣国へ里帰りした。その帰途にあったルンビニーの花園で、突如、産気づいた夫人は、後の仏陀、釈迦牟尼となるシッダルタ太子を出産される。この時、太子は、東西南北に7歩ずつ歩まれて、右手で天を、左手で大地を指さしてこう宣言されたといわれる。
「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 吾当安此」
(天上にも地上にも、人間〈我〉のみの独尊あり。人生〈三界〉はみな苦なり。吾〈釈迦〉当に此を安んずべし)
いかにお釈迦さまでも、生まれてすぐに歩かれたり、話されたりするはずはありません。この話は何を示唆しているのでしょう。
まず、東西南北に7歩ずつ歩まれたとは、6より1多い「7」に意味があります。私たちの生命は「六道」という迷いの世界を輪廻している、と仏教では教えられています。
   「六道」とは「六界」ともいわれ、次の6つの迷界のことです。
   ○地獄界──最も苦しみの激しい世界
   ○餓鬼界──餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず飲ま
     れもせず、飢えと渇きで苦しむ世界
   ○畜生界──犬や猫、動物の世界。弱肉強食の境界で、常に不安におびえてい
     る世界
   ○修羅界──絶えない争いのために苦しむ闘争の世界
   ○人間界──苦楽相半ばしている、我々の生きている世界
   ○天上界──六道の中では楽しみの多い世界だが、迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある
7歩歩まれたとは、この6つの迷界(苦しみの世界)から1歩、出て離れることを表します。すべての人に、人間に生まれた目的は、この六道を出離して真の幸福になることであることを示されたのです。これが「7歩」の意味です。
「ただ私だけが尊い?」
続けてお釈迦さまは、「天上天下 唯我独尊」と仰います。一般には、「ただ自分(釈迦)だけが偉い」という意味だと思われていますが、そうではありません。
「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」といいます。世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまのような方が、自ら“オレは偉いんだ”などと言われるでしょうか。
これは「唯我独尊」の「我」をどう理解するかで意味が変わってきます。「我」は釈迦だけではなく、私たち人間のこと。釈迦自身を表す「われ」は、この後の四句目「吾当安此」の「吾」ですから、ここでお釈迦さまは、
「ただ我々人間にのみなしうる、たった一つの尊い目的(独尊)がある」と仰っているのです。
我々人間の命に差別はなく、皆、平等に尊いということです。
「人間に生まれてよかった」 ──盲亀と浮木のたとえ
生命の尊厳を、お釈迦さまはこうも仰っています。
   「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。
   この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
   (生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞けてよかった。今、この世で生きる
    目的を果たさなければ、いつの世でできるであろうか。永遠の幸せになるチャン
    スは今しかない)
「人身受け難し、今已に受く」
とは、生まれ難い人間に生まれることができてよかった、という生命の歓喜です。
いかに人間に生まれ難いか。お釈迦さまは『雑阿含経』に、有名な「盲亀浮木の譬喩」で説かれています。
ある時、お釈迦さまが
「例えば、大海の底に1匹の目の見えない亀がいて、100年に1度、海上に浮かび上がるのだ。その海には、1本の浮木が流れている。その木の真ん中にはひとつ、穴が開いている。目の見えない亀が100年に1度、浮かび上がった時、ちょうどその浮木の穴へ頭を突っ込むことがあるだろうか」
と尋ねられた。阿難という弟子が、
「そんなことは毛頭、考えられません」
と答えると、お釈迦さまは、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが何億兆年よりも永い間には、絶対にない、とは誰も言い切れない。人間に生まれることは、これよりも難しい。有り難いことなのだよ」と仰っています。
私たちが日常、口にする“ありがとう”は、仏教から出た言葉で、本来は“有ることがまれである”の意味です。
「他人から何か施してもらうことは、めったにない、有り難いことである」
ということで、ここから転じて「ありがとう」が感謝の言葉となったのです。
人間に生まれたことはいかに有り難いか、数の上から考えてみましょう。
例えば地球上には、およそ137万種の動物が確認されており、未発見の生物種も含めれば800万種以上ともいわれます。
その中の1種、魚のマンボウだけでも、メスが一度に産む卵の数は3億個。人間とは比較にならぬ個体数が生息しており、全ての動物の総数となれば、計測不可能でしょう。そういうありえないほどの確率で生まれた命ですから、親鸞聖人が大変、尊敬されている平安時代の高僧・源信僧都は、「まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり」と人間に生まれたかけがえのない命を喜んでおられます。
「仏法聞き難し、今已に聞く」
と続くのは、生まれ難い人間に生まれた意味を説く仏教を聞いてこそ、命の尊厳が真に知らされますから、聞き難い仏法が聞けてよかった、の喜びとなります。
どんな人もこの世で最高の幸福になれる
「天上天下 唯我独尊」のあとにお釈迦さまは、
「三界皆苦 吾当安此」と言われています。
「三界」とは、「苦海」「苦界」ともいわれ、私たちが住む世界を、三つに分けて教えられています。
   ○欲界──さまざまな欲望のみで生きている世界
   ○色界──「色」とは物質のこと。分かりやすく言えば、絵画や彫刻、音楽、文学
     などの芸術の世界。やはり苦悩の世界
   ○無色界─物質を超越した精神の世界。いわゆる哲学、思想の世界。三界の中
     では最も高尚だが、「人生の目的」「真の幸福」は明らかにされていない
いずれも苦しみ迷いの世界ですから、「皆苦(皆、苦なり)」と言われます。
「三界は火宅の如し、安きことなし」とも経典に説かれています。
しかし、お釈迦さまは、この三界にいながら、誰もが本当の幸福になれるのだよ、と
「吾当安此(吾当に此を安んずべし)」
と仰います。仏教を聞けば、苦しみの六道を離れ、どんな人も本当の幸せになれることを、ここで断言されているのです。
先の「人身受け難し」のお言葉では、「この身今生に向って度する」と表されています。
「此を」「この身」「今生に」とは、いずれも「この世で」ということであり、「安んず」「度する」が本当の幸福になったこと。生きている今、男女、年齢、貧富の差、人種や民族に関係なく、誰でも絶対の幸福になれる。これが、私たちが人間に生まれてきた本当の意味であり、今がこの幸せになれる最大のチャンスです。仏法を聞けば、「天上天下、この広い大宇宙で、今、私が生まれてきたのは、この幸せになるためであった」と心から喜べる人生が開かれるのですよと、釈迦誕生のエピソードで教えられているのです。  
●唯我独尊な人は謙虚?
「天上天下唯我独尊」というと、よく夜中にバイクを乗り回している元気な若者たちが、 橋の下にスプレーで書いたり、特攻服の背中に書いたりしてますよね。
大変仏縁深い若者だと思います。
それというのも、「天上天下唯我独尊」という言葉は、 世界の三大聖人といわれてもトップにあげられるお釈迦さまのお言葉だからです。
ただ、「唯我独尊」というのは、お釈迦さまのお言葉であることからも分かるように、 「オレが一番偉いんだ」とか、 「オラオラおめーら、虫けらどもめー」という意味ではないので、 若者たちは、何か誤解している可能性もあります。
まず、「天上天下唯我独尊の意味」は、どのように読むのでしょうか?
天上天下唯我独尊の読み方
「天上天下唯我独尊」の読み方は「てんじょうてんがゆいがどくそん」と「てんじょうてんげゆいがどくそん」の
2通りあります。
これはどちらでも構いません。
「上下」の場合は「じょうげ」と読みますから、 「てんじょうてんげゆいがどくそん」とも読みますし、 聞いたときのイメージのしやすさは、 「てんじょうてんがゆいがどくそん」のほうが分かりやすいという人が多いようです。
お釈迦さまはいつ言われたの?
このお言葉は、お釈迦さまがお生まれになられたときのお言葉です。
お釈迦さまがお生まれになられると、東西南北に7歩ずつ歩かれて、 右手で天を、左手で地を指さされ、「天上天下唯我独尊」と言われたと説かれる、非常に有名なお釈迦さまのお言葉です。
あの花祭りのときに甘茶をかける右手で天を、左手で地を指さされた、生まれたばかりのお釈迦さまが言われたお言葉です。
でも、お釈迦さまのお言葉ということは、もし天上天下唯我独尊が「この世でオレが一番偉いんだ」という意味なら、お釈迦さまが言われたことと合わなくなります。
普通、自分で自分を偉いという?
普通、「自分は偉い」と自画自賛する人は、あまり偉い人ではありません。
「実るほど頭をたれる稲穂かな」という歌もあります。
稲も、まだ若くて青いときは、ツクンツクンと天に向かって突っ立っていますが、だんだん秋になって実ってくると、頭が下がってきます。
それと同じように人間でも、まだ若くて青二才といわれるときは、自惚れて頭が高く、反り返って虚勢を張っているものですが、だんだん円熟してくるほど、頭が低く、腰が低くなるということです。
「自分で自分が偉い」という人は、まだそんなに人格を高めているとはいえないのです。
ところがお釈迦さまといえば、世界の四大聖人、三大聖人といわれてもトップにあげられる方です。
こんな、大人なら誰でも知っているようなことが分かられないはずはありません。
「天上天下唯我独尊」は、 「オレがこの世で一番偉いんだ」という意味ではないのです。
天上天下唯我独尊の意味
「天上天下唯我独尊」はどんな意味かといいますと、まず「天上天下」とは、天の上にも天の下にも、ということで、大宇宙広しといえども、ということです。
次に「唯我独尊」ですが、「我」は、オレとか私という意味ではありません。我々とか私たちということです。
なぜそんなことが分かるかというと、このあとお釈迦さまは、「三界皆苦 吾当安此」(三界は皆苦なり。吾まさに此に安んずべし)といわれて、この一節では、ご自分のことを「吾」と言われているからです。
ですから「唯我」とは、ただ、私たち人間だけに、ということです。
人間以外には何があるのかというと、仏教では、私たちは、果てしない遠い過去から、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの迷いの世界「六道」を、生まれ変わり死に変わり、輪廻転生を繰り返していると教えられています。
「唯我」とは、その六道の中で、ただ私たち人間に生まれたときだけ、ということです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命がある、ということです。「使命」とは、「命を使う」と書きますように、「命の使い道」のことで、究極の目的のことです。
「独尊」とは、たった一つの究極の目的があるということですから、「唯我独尊」とは、「私たち人間に生まれなければ果たすことのできないたった一つの究極の目的がある」ということです。
ですから、「天上天下唯我独尊」とは、犬や猫、虫けらに生まれたら果たすことのできない、私たち人間に生まれたときしか果たすことのできない、たった一つの目的がある」という意味です。
だから、「どんなに苦しくても自殺してはいけませんよ、その目的果たすまで、生き抜きなさいよ」とお釈迦さまは教えられています。
唯我独尊の目的とは?
それは、お釈迦さまがお生まれになって、「天上天下唯我独尊」といわれるとき、7歩ずつ歩かれたことに関係があります。
7歩とは、6歩+1歩です。「6歩」は、「六道」を表しています。私たちが果てしなく遠い過去から、生まれ変わり死に変わり輪廻転生を繰り返している地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の「六道」です。
その苦しみ迷いの「六道」を出て離れることを6歩+1歩の7歩で表されています。
この六道輪廻から離れることは、仏教を聞かなければできませんが、仏教は人間に生まれたときしか聞けませんので、人間に生まれた目的は、仏教を聞いて果てしない苦しみ迷いの輪廻を離れ、未来永遠の幸せになることなのです。それが本当の生きる意味なのです。
では「天上天下唯我独尊」の次の「三界皆苦 吾当安此」とはどんな意味でしょうか?
どこかに幸せな人はいますか?
「三界皆苦 吾当安此」の「三界皆苦」は「三界は皆苦なり」と読みます。
「三界」とは「欲界」「色界」「無色界」のことで、いずれも迷いの世界です。
「欲界」は、五欲のみで生きている世界です。食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五つの代表的な欲をいいます。食べたい飲みたい楽がしたい、どうすれば楽に儲かるか、人から褒められるかと欲望のままに生きている世界です。
「色界」の「色」とは物質のことで、絵画や彫刻、文学などの芸術に生きる意味を求める世界です。
やはり欲望を満たす快楽は、刹那的で続かないと分かると、芸術を求めたらいいのではないかと思います。ところがこの世は諸行無常の世界です。形あるものはいつかは必ず滅びますので、本当の生きる意味にはなりません。
「無色界」は物質を超越した哲学や思想の精神の世界です。諸行無常の世界では、形あるものは必ず崩れるとすれば、形のない、精神的なことに生きる意味を見いだせるのではないか、と考えますが、哲学や思想の世界にも本当の生きる意味は見つかりません。
三界はみな迷いの世界ですから、「三界は皆苦なり」とは、どんな人の人生も苦しみである、ということです。
お釈迦さまの宣言
次の「吾当安此」は
「吾、まさにここに安んずべし」と読みます。
「吾」とはお釈迦さまのこと、
「此」とは三界のことです。
「三界はみな苦しみの世界だから、ここでは幸せになれない、どこかへ行って幸せになろう」というのではなく、「この釈迦は、この三界にいながら仏のさとりを開こう、そして、苦しみ悩む人々を本当の幸せに導こう」ということです。
これをお釈迦さまはお生まれになられてすぐに言われたと聞くと、「生まれてすぐ歩いたりしゃべったりできるの?」と思う人がありますが、そんなことができるかどうかは別としてお生まれになられたときのこととして説かれたのは、仏教には、そのような「苦しみ悩むすべての人を本当の幸せに導く教えを説くぞ」というお釈迦さまの一大宣言なのです。  
●天上天下唯我独尊から学ぶ (大乗仏教の観点から)
ブッダの最初の教えである誕生偈である
この『天上天下唯我独尊』がどのような状況で生まれた言葉かご存知ですか?
仏教の開祖であるブッダ(ゴータマ・シッダールタ)が生まれた時に発した言葉だといわれています。ではブッダ誕生のエピソードを簡単にご紹介します。
シャーシャ族のマーヤー(摩耶)夫人は、神聖な白象が胎内に宿る夢を見ます。そのマーヤー夫人が臨月になり、出産のために故郷であるデーヴァダッハへ帰る途中、ルンビニー村で休息をとります。
そこには、美しいサーラ(沙羅)の樹がありました。その美しさに思わず枝に手を伸ばしたところマーヤー夫人の右脇からブッダが誕生します。
数多の神や人々から散華供養をうけるなか、ブッダはすっくと立ち上がり、東西南北にそれぞれ七歩ずつ歩いたあとに右手を上に挙げ、左手を下に指しながら『天上天下唯我独尊』に始まる誕生偈(げ)を唱えました。
この誕生偈(げ)は別名『四方七歩の宣言』ともいい、この言葉を理解することはすなわち仏教精神を理解することにつながるといわれています。
誕生偈はブッダの尊さを強調したもの
『天上天下唯我独尊』は唐の僧玄奘(以下三蔵法師)が記した大唐西域記に登場します。
国禁を犯して(当時の法律で国外への旅行が禁止されていた)求法の旅にでた三蔵法師は数多くの経巻を持ち帰ります。それを訳すために当時の皇帝太宗に願い出てそれを聞き入れられますが、その代わりに西方域の詳しい報告書を出すようにと命令を受けます。
それが大唐西域記です。この大唐西域記巻六に
『天上天下唯我独尊 今茲而往生分己尽』
と記されています。
最初の8字のみクローズアップされていますが、本来は16字からなる文章なのです。この後半の8字がほとんど知られていないため、まるでブッダが思い上がったことを生まれてきた時に言ったように感じられてしまうのです。
この16字を簡単に訳すとこのような意味になります。
『この世界の中で、自分が一番尊いものである。なぜなら、これが最後の生であり再び迷いの世界に流転しないからである』
これは、三蔵法師が大乗仏教の観点からブッダをみた言葉です。大乗仏教にはブッダが解脱したことが尊いという考えがあります。解脱とは苦に満ちた輪廻からはずれて悟りの世界へと脱出する、つまり生まれ変わらないということを意味します。
悟りとは涅槃(ニルヴァーナ)ともいい、煩悩がなくなった状態のことを指します。この世で自分が一番偉い! という意味ではなく、煩悩の束縛から解き放たれて輪廻から外れる、ただひとりの存在だから、自分は尊いということなのです。
四方七歩の宣言の真理
『天上天下唯我独尊』は四方七歩の宣言ともいわれています、それはブッダが誕生偈を言われた目的と、四方七歩したことが切り離せないものだからです。
まず四方とは、そのままの意味でいうと東西南北4つの方角を指しますが、もっと広い意味で捉えると全ての場所や空間をいいます。つまり、各方向に歩いたというのはブッダの視野から外れるものや存在はひとつとしてないということです。
すべての存在を分け隔てることなく平等に見つめ、天上天下からはじまる誕生偈(げ)を発することで、人々に安らぎの教えを伝えようと決意したといえます。そう考えると、この言葉はブッダの決意表明と捉えることもできます。
そして、七歩歩いたの意味ですが、ブッダが苦悩に満ちた6つの世界(六道界)を生きながらにして超越しているということを指しています。この四方七歩の宣言からブッダの生まれながらの人知を超えた超越性と一切のものを救う法を教え広めるという固い決意を読み取ることができます。
人間の尊厳を教えるもの
『天上天下唯我独尊』のもうひとつの解釈に『個人としてこの世界に存在する自分=我はそれぞれが唯一無二なのだから皆が特別であり尊いのだ』というものがあります。
私たちは普段、つい自分のことのみ考え、他の人のことを考えずに行動してしまうことがあります。このように自分のことしか考えないことを我執(がしゅう)といい、煩悩の一つとされています。
煩悩は心をこれでもかと痛めつけます、その苦しみを取り除くために毎年大晦日の夜に煩悩の数といわれる108回梵鐘をつく行事が行われるほどです。
自分を尊重するのと同様に他の人を尊重することができたなら日々の苦しみが消え、心が楽になってくるはずです。