「ヒトラー いくら動機正しくてもダメ」

麻生副総理の憧れ 「ヒトラー」

そっと改憲 
独裁政権 判りやすい政治
本音内心は 目指せ「東条英機」


 
 

麻生副総理「ヒトラー、いくら動機正しくてもダメ」 8/29
麻生太郎副総理は29日、横浜市で開いた麻生派研修会の講演で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と発言した。
麻生氏は2013年に憲法改正をめぐり、ナチス政権を引き合いに「手口を学んだらどうか」と発言し、国内外から批判を浴び、撤回している。今回は、政治家のあり方に言及した際の文脈での発言だったが、今後問題になる可能性がある。
[発言] ・・・ 僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。
しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。
そのときに喧々諤々、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。
靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。
何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。
僕は4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、靖国神社に連れて行かれた。それが、初めて靖国神社に参拝した記憶です。それから今日まで、毎年1回、必ず行っていますが、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか。
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪のなかで決めてほしくない。
・・・ ようするに、騒がず慎重に改憲論議を・・・と言いたかったわけでしょうね。歴史の知識は全くテキトーだけど・・・ ま、私がこいつの発言を弁護する必要はないけどね。  
 
 

 

麻生副総理、“ヒトラー発言”を撤回「動機も誤っていたのも明らか」 8/30
麻生太郎副総理兼財務相は30日、派閥の研修会の講演で「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメ」と発言したことについて、「ヒトラーを例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」とのコメントを出した。
麻生氏は「私の発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」とした上で、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨で、悪(あ)しき政治家の例としてヒトラーをあげた」と釈明。「私がヒトラーについて、極めて否定的にとらえていることは、発言の全体から明らかであり、ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである」としている。
麻生氏は29日に横浜市で開いた研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べていた。 
「撤回で済まされぬ妄言」麻生太郎氏のヒトラー発言 8/30
社民党の又市征治幹事長は30日、談話を発表し、「ヒトラーはいくら動機が正しくても駄目だ」と発言し、後に撤回した麻生太郎副総理兼財務相に対し、議員辞職を求めた。「ナチス・ドイツの独裁者をひきあいに政治家の心構えを説くのは言語道断であり、断じて許されない。撤回では済まされない妄言だ」と批判している。全文は以下の通り。
麻生副総理兼財務相の妄言を断固糾弾する(談話) 
社会民主党幹事長 又市征治
1.麻生太郎副総理兼財務相は昨日、自民党麻生派の研修会で講演し、「動機は問わない。結果が大事だ。何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」、「確たる結果を残して初めて、名政治家だったと。人が良いだけでできる仕事ではないと、皆さんもよく分かっている」などと述べた。ナチス・ドイツの独裁者をひきあいに政治家の心構えを説くのは言語道断であり、断じて許されない。麻生氏は本日、「ヒトラーを例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」とのコメントを出したが、撤回ではすまされない妄言である。
2.麻生氏は、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺について、「動機は正しい」というが、アーリア人優位の人種差別主義およびユダヤ人排斥・絶滅政策は正しかったが、その手法が駄目だったとでもいうのか。ドイツやフランス、イスラエルでは、ホロコーストを否定し、ナチスを支持するような一切の発言や表現は法的に規制されている。麻生氏のドイツの「負の歴史」に関する無理解にあきれるばかりである。国際的にも問題を生じさせかねない。
3.また、麻生氏は、「国民に確たる結果を残して初めて名政治家だったと言われる。人がいいだけでやれるような職業じゃない」とも語ったが、ユダヤ人大虐殺や第2次世界大戦を「確たる結果」とし、ヒトラーを「名政治家」だったとするのは全く理解できない。人種差別や大虐殺、戦争は、政治に携わる者として断じてあってはならないことと深く胸に刻む必要がある。
4.麻生氏は2013年にも、憲法改正について、ナチス・ドイツを引き合いに出し、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」などと発言している。麻生氏の度重なる暴言・妄言の背景には、国民の声を無視し暴走を続けるアベ政治そのものの体質がある。社民党は、暴言・妄言を繰り返す麻生氏を断固糾弾するとともに、麻生氏の閣僚および議員の職を辞するよう強く求める。 
小沢一郎が麻生太郎の「ヒトラーは動機が正しくてもダメ」発言を批判 8/30
麻生太郎・副総理兼財務相は8月29日、横浜市で開かれた自民党麻生派の研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。(政治は)結果が大事だ。何百万人も殺したヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べた。
報道によると、麻生氏の発言は政治家の心構えを説く中で出たものだという。先の発言に続き、「国民に確たる結果を残して初めて名政治家だったと言われる。人がいいだけでやれるような職業じゃない」と語った。
政治家にとっては、動機や人柄よりも結果を出すことが重要だと言いたかったのかもしれない。しかし「ヒトラーの動機は正しかった」ともとれる発言に対して、批判が相次いでいる。
「『動機』が邪悪だったからこそ、残虐な『結果』が引き起こされたのでは?」
共産党委員長の志位和夫氏は同日夜、「この発言は一体どういうこと?『動機』が邪悪だったからこそ、『ホロコースト』など恐るべき残虐な『結果』が引き起こされたのでは?そういう世界史のABCの理解もないのか?」とツイッターに投稿。ヒトラーは動機が間違っていたからこそ、恐ろしい結果を招いたのではないかという批判はもっともだ。
自由党代表の小沢一郎氏も、「ヒトラーの動機とは自民族優越主義と反ユダヤ主義」と指摘した上で、「前は憲法改正はナチスの手法に学べと言っていた。こういうセンスで外交なんてできるのか?国際社会で不名誉な地位を占めることだけは避けないといけない」と非難した。
慶應大学の金子勝教授は、「『ナチスの手口をまねろ』のアホウ太郎財務相が、またヒトラーは『動機は正しくても結果は駄目』と発言。これでも政治家でいられる国が日本。3世ボンボン指導者の極右政党が今の自民党であると、メディアが言えない国でもある」と痛烈に批判した。
「ナチスやヒトラーを喩えに使うことの危うさをまだ学習していないことに唖然」
一方、ネットでは、「(この場合の)『動機』は、『虐殺を行った動機』では無くて『政治家になる動機』」と麻生氏を擁護したり、「発言ねじ曲げ」と報道のあり方を批判したりする人も散見される。
しかしジャーナリストの江川紹子さんは、「この方が何を『正しい』と言うつもりか分かりませんが、ナチスやヒトラーを安易に喩えに使うことの危うさすら、まだ学習してないことに、唖然」とツイート。
麻生氏は2013年にも、憲法改正について、「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。手口を学んだらどうか」と発言。国内外から批判を浴び、撤回していた。江川さんは、今回の発言の真意がなんであれ、ナチスやヒトラーを引き合いに出すことの危険を自覚してほしい、と言いたいのだろう。
麻生氏は今日30日、「私の発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」とした上で、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨」「ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らか」と釈明。発言を撤回した。 
麻生太郎氏、ヒトラー発言を撤回「真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」 8/31
麻生太郎副総理兼財務相は30日、「いくら動機が正しくても、何百万人殺しちゃったヒトラーは駄目だ」とした29日の自身の発言を撤回した。ヒトラーの引用について「不適切であり、撤回したい」とのコメントを発表した。その上で「私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」と陳謝し、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨で、悪しき政治家の例としてヒトラーをあげた」と釈明した。
麻生氏は自ら率いる自民党麻生派の研修会で講演した際、政治家の心構えを説く文脈でヒトラーを例示した。これに対し民進党の山井和則国対委員長は30日、国会内で記者団に「大失言だ。猛省を促したい」と述べ、麻生氏を批判した。 
麻生太郎氏の発言が日米経済対話に与える影響 弱みを握られた形 9/1
訪米直前に「動機は正しかった」と、ヒトラーを称賛した麻生副総理。発言は最悪のタイミングだ。アメリカのユダヤ人権団体サイモン・ウィーゼンタール・センターは、「不快であり失望した」とカンカンになっている。
さすがに麻生副総理もヤバイと気づいたのだろう。財務省のホームページ上に、ヒトラー発言を撤回するコメントをわざわざ英語で載せている。来週、ペンス副大統領と「日米経済対話」に向けての事前協議を行う麻生副総理は、完全に弱みを握られた形だ。元外交官の天木直人氏はこう言う。
「もし、アメリカの副大統領が『ミスター麻生とは会いたくない』と会談を拒否したら、麻生発言は世界中で大きなニュースとなり、アメリカの副大統領と会えないとなったら、麻生副総理は辞職せざるを得なくなるでしょう。安倍政権を支えている麻生副総理が引責辞任となれば、安倍内閣も総辞職に追い込まれる可能性が高い。つまり、アメリカは安倍内閣を倒す生殺与奪の権を握ったということです。あのアメリカが、このカードを利用しないはずがない。公式の会談の場では一切触れなくても、非公式の1対1の場面では、ペンス副大統領は<こちらは発言を問題にしてもいいですよ>と恫喝してくるはず。麻生副総理は、日米経済問題で大きな譲歩をせざるを得なくなる可能性が高いと思う」
「ヒトラー称賛」発言をしたことで、麻生副総理が“ポスト安倍”に就く可能性は完全に消えてなくなった。
「麻生副総理がヒトラー発言をするのは、これで2回目です。アメリカ政治にユダヤ系が大きな影響力を持っているのは周知の事実です。トランプ大統領もイスラエルとは良好な関係です。麻生副総理が首相に返り咲くことは許さないはずです」(天木直人氏)
弱みを握られた麻生副総理は、来週のペンス副大統領との会談でとんでもない無理難題を押しつけられることになる。  
 
 

 

麻生財務相に非難の嵐−「ワイマール憲法」発言で 2013/07/31
法の改正のモデルとして日本が戦前ドイツのナチス政権時代に目を向けるべきだと一部の人々に解釈されかねないような発言をしたとして批判を浴びている。ただ、麻生氏の側近たちはそうした意図を否定している。
麻生氏のこの発言の報道を受け、ユダヤ人の人権団体と、日本の旧植民地の韓国から、直ちに批判が起きた。麻生氏は今年これまでにも、靖国神社を参拝して韓国の反感を買っていた。
国内メディアによると、麻生氏は29日の東京での演説で、「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と述べた。この発言については麻生氏の事務所が確認した。
麻生氏の側近たちは、同氏が31日、地元の九州にいて、コメントは取れないと述べた。しかし、麻生氏の発言は文脈を無視して引用されていて、麻生氏はナチス・ドイツを称賛するようなことは何も言っていないと説明した。むしろ、麻生氏は、憲法論議は静かな環境で進めるべきだとの認識を強調したものだと指摘した。
大臣秘書官の1人、村松一郎氏は「ワイマール憲法改正の事例について、反面教師としてとらえた方がいいとの趣旨」と述べた。さらに、「感情的に議論していると、誤った方向に行く。憲法改正は慎重に議論すべきだと言っている。大臣は、ナチス憲法の方がいいと言っているのではない。(憲法改正のやり方でナチスから学ぶ点があると発言が受けとめられているとすれば)大臣の意図とは間逆だ」と続けた。
共同通信も、ワイマール憲法が当時の欧州でいかに最も「進歩的」だったか、しかし、その憲法下でナチス政権が誕生したと麻生氏は言及したと報じた。良い憲法のもとでさえ、こうしたことが起こると述べたと引用された。
麻生氏の意図するところが何だったにせよ、国内メディアで大々的に報じられたことは、時々そうしたケースがあるように、麻生氏の発言が時にとりとめがなく、同じ聴衆の中でも違った解釈につながったり、あるいは、少なくとも困惑したりする人がいることが示されている。
麻生氏は公益財団法人、国家基本問題研究所主催のイベントで演説した。同研究所は改憲を求めている保守派のシンクタンクで、戦時中の戦地での慰安婦の強制連行に日本軍が関与したとの主張を否定して議論を呼んでいる。
麻生氏の発言報道を受け、韓国は直ちに批判した。日韓関係は戦時中の日本の行為やこのところの領土問題をめぐる論争を受けて緊張が高まっている。また、戦後の平和憲法の改正を訴える安倍晋三首相の動向を韓国は慎重に眺めている。
韓国外務省の報道官は30日、記者団に対し、麻生氏の発言が「多くの人々を傷つけることは明らかだ」と表明した。
韓国外務省の公式表明によると、報道官は「過去に日本帝国が侵略した近隣諸国の国民がこうした発言をどのようにみるかは明白だ。日本の政界のリーダーたちは発言や行動に慎重になるべきだと確信している」と述べた。
また、ロサンゼルスに本部を置くユダヤ教の人権団体、サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)は30日に声明を発表し、麻生氏に発言の説明を求めた。
この声明は、SWCの副代表で宗教指導者エイブラハム・クーパー氏の発言を引用し、「ナチス政権のどの「やり方」──民主主義をひそかに無能にするやり方──が学ぶ価値があるのか」と問いかけた。
クーパー氏は「麻生副総理はナチス・ドイツの支配力が素早く世界を地獄に連れ込み、第二次世界大戦の甚大な恐怖に人類を巻き込んだことを忘れたのか。統治をめぐるナチス第三帝国からの唯一の教訓は、権力の地位にある者がどう振る舞うべきではないかということだけだ」と続けた。
日本の政府報道官はコメントを避け、この問題は麻生氏の問題だと述べた。菅義偉官房長官は31日の会見で、麻生氏の発言への認識を問われ、「麻生副総理が答えるべきだ」と述べるにとどまった。
麻生氏は失言や政治的論争と無縁ではない。2001年に経済財政相だった麻生氏は外国特派員クラブで行われた講演で、「日本に外国人が働いていることは良いことだと思う。独断と偏見だが、金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が良い国だと思う」と述べたことがあった。 
「天声人語」 2013/8/1
朝日新聞の麻生発言の詳細を伝える記事を見て思ったことは、麻生氏は、前半では、憲法改正反対に対する反論として、「当時進んでいると思われていたワイマール憲法からヒトラーは出て来た」とワイマール憲法を引用して、いい憲法でも変える必要性を説いているつもりではないでしょうか。
後半は、改正反対の声が大きいことに、「静かに変えたい。ヒトラーがワイマール憲法を変えたように」と、ここでも、ワイマール憲法を引用していますが、この辺りは、自分でも何を言っているのかわからなかったのか、それともホンネが出たのか、と思えます。
つまり、反対、反対とごちゃごちゃ言うな、わしらに任せておけばいいんだ言うような。それが危険ですよね。
言葉が軽いというよりは、考えずにしゃべっているものだから期せずしてホンネが出るというタイプでしょうか。
どちらにしても、彼が日本の副総理なのですから…暗澹たる気持ちになります。
そして、彼の発言以上に心配なのは、かつてナチスがワイマール憲法下で、憲法を変えずして、全権委任法等の法律を制定することによって、実質的に憲法を骨抜き状態にし、不景気に不安をおぼえた民衆につけ入ったことです。
今の日本でも、そのまま起こっている気がします。憲法を変えずして壊憲がすでに起こっています。
憲法9条下の集団自衛権の行使容認の発言もそうですが、
大阪の「君が代」起立斉唱条例など、誰が考えても憲法違反の条例ですが、それがまかり通っていることはその最たるものに思います。 
 
 

 

麻生氏の民主党ナチス発言、鳩山氏「看過できない」 2008/8/5
自民党の麻生太郎幹事長が4日、民主党をナチスに例えたと受け取れる発言をしたことに対し、同党の鳩山由紀夫幹事長は、党として麻生氏に謝罪を求める方針を明らかにした。
日本経済新聞によると、麻生氏は前日、民主党の江田五月参院議長に就任のあいさつをした際、「歴史を見れば政権与党から民心が離れた結果、ナチスのような政党が政権を取った例もある」と述べたという。
ときに舌禍で知られる麻生氏だが、ほかの報道によると「ドイツでもナチスにいっぺん(政権を)やらせてみようと選んで、ああなった」とも述べた。
5日、記者会見した麻生氏は「民主党をナチスに例えたわけではない」と述べ、民主党が第1党を占める参院で、審議が行き詰まる状況を批判したのだと釈明した。
しかし鳩山民主党幹事長は、「許し難い暴言。民主党と国民を冒涜している」と反発、「看過できる問題ではない。党として謝罪を求めたい」と述べた。 
 
 
 

 


 
2017/9
 

 

アドルフ・ヒトラー (1889-1945) 
ドイツの政治家。ドイツ国首相、および国家元首であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党・ナチス党)の指導者でもあり、支持者からはドイツ民族を導く指導者であるとされた。彼の地位は、日本語では総統と呼ばれる。
1933年から1945年にかけて、指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる。しかし冒険的な外交政策はドイツを第二次世界大戦に導くこととなった。この戦争の最中にユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を主導した。敗戦を目の前にした1945年4月30日、自ら命を絶った。
出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州であり、国籍としてはドイツ人ではなくオーストリア人であったが、民族としてはドイツ人である。1932年にブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官に任ぜられてドイツ国籍を取得し、ドイツ国の国民となっている。
第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。
1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。1934年8月、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し、ドイツ国における全ての法源となる存在となり、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。
ヒトラーは人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種(ドイツ語版)と主張していた。またニュルンベルク法や経済方面におけるアーリア化など、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された(生きるに値しない命)。
さらに1937年の官邸秘密会議や我が闘争で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。ヒトラー率いるナチス党によるドイツの統治は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大した。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。幾度か企てられた暗殺計画を生き延びたが、最終的に連合国の反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。ヒトラー本人は包囲されたベルリン市の総統地下壕内で自殺したが、その後生存していたという説も存在している(アドルフ・ヒトラーの死)。
ヒトラー家
ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている。
そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にマリア・アンナ・シックルグルーバーという未婚女性の私生児として1837年に生まれ、アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢での出産で、しかもこれが初産であった。さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている。後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人ヨハン・ゲオルク・ヒードラーと結婚、アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠は示されていない。職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。
暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫ヨーハン・ネーポムク・ヒュットラーに引き取られ、義伯父ネーポムクはアロイスを実子の様に可愛がった。ちなみに兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じHiedlerと記載されている。もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人・スロバキア人などに見られるとも言われる。
1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子である」と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。改姓にあたっては義伯父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそアロイスの実父であったのではないかとする意見もある。それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは親戚付き合いが殆どない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と不思議がっていたという。
ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書かれており、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。ちなみに日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。
父母と兄弟
父アロイスは義伯父の下で小学校(国民学校)を出た後、ウィーンへ靴職人として従弟修行に出向いている。しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった。出世欲の強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の校長職より高い給与も勝ち取っていた。アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている。また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で手紙を書くなど権威主義的な趣向の持ち主であった。
アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、30歳の時にはテレジアという自分と同じような私生児を最初の子として儲けており、生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる。1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと結婚したが、母マリアの様な高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった。代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らずフランツィスカを妻の様に扱って同棲生活を送った。1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた長男をアロイス・ヒトラー・ジュニア(アロイス2世)として正式に認知、続いて結婚後に長女アンゲラ・ヒトラーを儲けた。だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。
クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓はヒュットラーだった。彼女は他でもないアロイスの義伯父であり、実父とも考えられるヨーハン・ネーポムク・ヒュットラーの娘であった。もしアロイスがゲオルグの子であったとすればクララとは従姪の間柄となり、ましてネーポムクの子であれば姪ですらあった。しかも彼女はアロイスより23歳年下と親子ほどの年齢差だった。フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ。
1884年、二番目の妻が病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと三度目の結婚を行った。少なくとも法的には従姪である以上、結婚には教会への請願が必要であったので「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、ローマ教皇庁から受理されている。クララは結婚から5ヶ月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人したヒトラー家の子となった。1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。
後に長男アロイス2世はブリジット・ダウリングという女性と結婚してウィリアム・パトリック・ヒトラーを儲け、また長女アンゲラは父と同じ税務官であったレオ・ラウバルと結婚して三子を儲けたが、その一人がゲリ・ラウバルである。
親族
シックルグルーバー家 / マリア・シックルグルーバーの生涯と出産、そしてアロイスの改姓や母方の一族を避けるという謎の多い行動は「何かを隠している」として噂の対象となった。父アロイスが10歳の時に祖母マリアは亡くなったが、彼女の出産経緯は息子のアロイスだけでなく、孫のヒトラーにも「出自の謎」して付いて回る事になる。顧問弁護士であり、ポーランド総督でもあったハンス・フランクは、1930年に異母兄アロイス2世の子である甥のウィリアム・パトリック・ヒトラーから「ヒトラーがユダヤ人の私生児であるという話に新聞が興味を持っている」と脅しをかけられた事にヒトラーが動揺し、家系調査を行わせていたと証言している。フランクの調査結果は「マリアはグラーツのユダヤ人資産家、フランケンベルガー家に奉公に出ていた時期にアロイスを産んでおり、子息レオポルド・フランケンベルガー(ドイツ語版)から14年間養育費を受け取っていた」として、アロイスの父親がレオポルドであると見られるというものであった。フランクの「フランケンベルガー実父説」は1950年代まで広く信じられていたが、次第に史学上の根拠に欠けると指摘されるようになった。またフランクは「ヒトラーは由緒正しいアーリア系である」と矛盾する証言もしている。1932年にはオーストリアのエンゲルベルト・ドルフース首相がヒトラーの家系を調査させ、「ハイル・シックルグルーバー」という記事を載せた新聞を配布し、攻撃材料としたこともある。またニコラウス・フォン・プレラドヴィッチ(ドイツ語版)はアロイス出生時のグラーツでユダヤ系住民がすでに追放されていたことからこの説を否定し、1998年には歴史学者でヒトラー研究の第一人者であるイアン・カーショーも「政治的な攻撃材料以外のものではない」と結論している。2010年には、ヒトラーの近親者から採取したDNAを分析した結果、西ヨーロッパ系には珍しく、北アフリカのベルベル人やソマリア人、ユダヤ人に一般的に見られる形の染色体があるという調査結果が発表されたと報道されたが、当の記事が報じた研究者からこの報道内容に疑義が呈されている。むしろこの研究の結果、父アロイスがヒトラー家の血を引いていることが確実となった。
ペルツル家 / 父方のシックルグルーバー家と並んでヒトラーの悩みの種であったのが、母方のペルツル家であった。祖母と同名である為、ヒトラー家からは「ハンニおばさん」の渾名で呼ばれていた母の妹ヨハンナ・ペルツルは重度の猫背(くる病)で精神疾患も患っていた。ハンニは妹一家から家事手伝いや甥や姪の面倒を任され、特に姉からは頼りにされていたが、ヒトラー家の家政婦ヘルルからは「頭のいかれたせむし女(ハンニ)」と陰口を叩かれている。ハンニを診察したブラウナウの医師は現代的な呼称で言えば統合失調症に相当する症状が出ているとの診断を下し、ヒトラー家かかりつけの医師エドゥアルド・ブロッホもヒトラー家はヨハンナを周囲から隠していたと証言し、「恐らく軽度の精神薄弱である」と診断している。後年にT4作戦で劣等人種や障碍者と並んで精神患者を抹殺しようとしたナチスやヒトラーにとって、その親族に精神患者が存在したという過去は隠さねばならなかった。ナチ政権下の歴史家達はヒトラー家の顕彰に努めたが、ペルツル家の存在だけは殆ど触れられていない。ちなみにペルツル家以外にも低地オーストリアのヴァルトフィアテル地方(ドイツ語版)にはペルツル家の親族が幾らか点在しているが、一族という概念を嫌うヒトラーからはその存在を殆ど無視されていた。にも関わらず彼ら一族郎党は後年「アドルフ・ヒトラーの血族」として迫害を受ける事になる。 
 
生涯 

 

幼少期
生い立ち / 1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた。洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている。ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、パッサウ市へ転居している。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである。幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった。1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めている。ヒトラーはランバッハの郊外にあったフィッシュルハムの国民学校(小学校)に通った。1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった。異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった。1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ。ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである。1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のレオンディングにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった。感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。1899年、各地を転々としていたヒトラーは義務教育を終え、小学校の卒業資格を得た。
父との諍い / 母クララとの関係は良好だったが、家父長主義的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした。アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた。これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている。1900年、中等教育(中学校・高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(ドイツ語版)や大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した。周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいと見られている。税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があるが、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている。もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろギムナジウム入学を強制したはずである。よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い。1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、留年となった。1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した。1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳(数え年)で病没する。地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。同年には外国語(フランス語)の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった。退学後、リンツ近郊にあったシュタイアー市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験で国語と数学、後期試験では幾何学で不合格となった。私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている。結局、1905年には試験や授業を受けなくなり、病気療養を理由に2度目の学校も退校している。ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述の小学校のみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。
青年期の挫折
リンツでの日々 / 1905年、実技学校を離れたヒトラーは一旦は寡婦となった母がいるリンツに戻った。アロイスの死後、ヒトラーは母の溺愛と唯一の男子という立場から「小さなアロイス」として専横的に振舞った。共に父からの体罰に怯えていたはずの妹パウラ・ヒトラー(ドイツ語版)にも家父長的に接し、パウラが学校に向かうのを見張り、何か気に食わない行動があれば平手打ちを食らわせた。しかし家の外に広がる社会に対しては消極的で、気まずさもあって昔の友人とも会うのを避けていたが、暫くしてアウグスト・クビツェクという同年代の青年と交流を持つようになった。クビツェクはアロイスと同じく小学校を出てすぐに働きに出ていたため、実技学校を離れたヒトラーにかえって憧憬を抱いており、ヒトラーに付き従ってリンツ郊外などの散策や歌劇場の観覧に出向いていた。他にシュテファニーという女性に熱を上げていて、実際にアカデミーを出て画家になってから結婚を申し込みたいという手紙を送っている。リンツはヒトラーにとって第二の故郷であり、総統就任後も青年期に構想していたリンツの都市改造計画を実施しようと専用の建築官房まで設立していた。クビツェクによれば当時のヒトラーは手入れの行き届いた清潔な格好をしており、黒い帽子や皮手袋、象牙が用いられたステッキなどを身に付けていた。この上流趣味は父を失ってなおヒトラー家が富裕層であったことを意味しており、ヒトラー自身も「パンのために働く仕事」を軽蔑していたという。母クララは息子が何の仕事にも就かないことを心配しており、義兄(姉の夫)のレオ・ラバウルも「アドルフを職に就かせるべきだ」と迫っていた。本来であれば学業を辞めたのなら同年代の青年達と同じく、何か従弟修行や職業訓練を受けさせなければならなかった。だがヒトラーは執拗に母に画家になる夢を語り、意志の弱いクララは息子の夢に理解を示していたが、内心で不安でもあった。クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父が望んだような生き方を選ぶように説得してほしいと頼まれたという。そう話すクララの容貌を「実年齢より老け込んで見えた」と回想しており、息子が芸術家としてどうやって身を立てるのか、肝心な部分が曖昧だった事に不安を覚えていたのだろうと推測している。ある時、ヒトラーは絵だけではなく音楽に興味を向け、クララはピアノを買い与えて軍楽隊出身の家庭教師まで付けているが、数ヶ月もしない内に興味を失って投げ出している。1907年1月、母クララが倒れ、エドゥアルド・ブロッホ医師の診察で重度の乳癌と診断され、ヒトラーとパウラに「殆ど望みはない」ことを告知した。見るからに痩せ細っていくクララにヒトラーは動揺したが何もできず、介護や家事は殆ど叔母ハンニや姉アンゲラ、さらにはまだ小学校に通っていた妹パウラに任せきりだった。
ウィーンへの移住 / 1907年4月、18歳になったヒトラーは法律上で700クローネ相当の遺産分与の権利を得たが、これは当時の郵便局員の収入の一年分であった。父の遺産に加えて遺族年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶことを決めた。同年9月にウィーン美術アカデミーを受験した。当時のウィーン美術アカデミーは大学などの高等教育機関ではなく職業訓練学校であり、年齢制限や学歴などの条件が緩く、実科学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であった。前年の1906年にはヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレが工芸学校を卒業後、16歳で入学している。しかし肝心のヒトラーの試験結果は不合格であった。試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実科学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている。受験人数は113名と少人数で、合格者も28名と4倍程度の倍率で極端に難関という訳ではなかった。試験内容は実技とこれまで製作した作品の審査からなっていたが、前述の通り頭部デッサンの未提出など審査用の作品に不足があると判断されて不合格となった。アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判し、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言されたエピソードも有名である。ウィーンでの美術館巡りでは建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーは実際には建築物を好んでいてこの助言に大いに乗り気になったが、程なく彼は建築家を目指すのは画家よりさらに非現実的な望みであることを知ったと書き残している。
「・・・画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難であることに気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ・・・」
画風については丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しく、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという。ミュンヘン時代の知人の証言ではヒトラーはミュンヘンで生活した頃は名所の風景画を中心に売っていたが本人は現地には行かず、記憶やほかの画家が描いた絵などを参考に描くという独特の手法をとっていた。本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえのことと自負していた節があり、世紀末芸術など新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。従って前述のエゴン・シーレらが自分と違いアカデミーに迎えられたことについて憤りを抱き、後に独裁者となると徹底的に彼らやアカデミーを弾圧下に置いている(頽廃芸術)。芸術に限らず、ヒトラーは自らを認めなかった硬直的な正規教育の課程を憎み、独裁者となってからも晩年まで憎悪を口にしていた。ウィーンに出向いている間、ヒトラーは故郷との連絡をなるべく避け、母やブロッホらに葉書を送る時も当たり障りのない内容に留めて受験結果も伝えなかった。クララは見舞いに来たクビツェクに堰を切ったように息子への怒りや悲しみを嘆き、「あの子は自分の道を歩んでいる、他の人なんかいないみたいにね…あの子が独り立ちしたとしても、私は見られないでしょうね」と諦めた声で呟いたという。1907年10月、ブロッホはクララに正式な余命宣告を行って親族にも告知した。流石にヒトラーもウィーンから実家に戻り、変わり果てた母の姿に呆然とした。一生を通して初めてヒトラーは叔母と妹と家事を手伝う様になり、痛みで苦しみすすり泣く母の傍を片時も離れず、夜もベッドの隣に置いた長椅子で眠った。1907年12月21日、クララ・ヒトラーは47歳で病没し、レオンディングにある父アロイスの墓の隣に葬られた。葬儀が終わった後、ブロッホ医師の下をヒトラーが訪れ、出来うる限りの治療をしてくれた事に心からの感謝を述べた。その様子についてブロッホは「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」と回想している。
後にヒトラーは『我が闘争』の中で以下の様に語っている。「母の墓を前にして立っていたあの日以来、私は一度も泣いた事がない」
放浪生活
1908年2月、妹パウラを異母姉アンゲラの嫁いだラウバル家に預けて再び首都ウィーンに舞い戻ると今度は生活拠点も移し、シュトゥンペル街に下宿先を借りた。程なくして音楽学校に合格したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿先で共同生活を送るようになった。ウィーンの裏通りにある下宿先は月20クローネの2人部屋で、ゆったりとした生活スペースにクビツェクが練習用に借りたグランドピアノと2つのベッドが置かれていた。朝に学校に向かうクビツェクに対してヒトラーは部屋で寝ており、帰ってきたクビツェクがピアノの練習する時間帯になると図書館や公園に出かけていった。時に昔のように2人で美術館や街の散策に出かけると、美術上の知識や持論を延々と語っていた。クビツェクが音楽学校の休暇でリンツに帰った後も滞在を続け、手紙のやり取りをしている。
ヒトラーはすでに父からの遺産分与700クローネはある程度浪費しており、また母親の葬儀費用などで370クローネを支払っているが、母からは父の遺産全額の3000クローネが残されたし、また妹パウラとヒトラーが24歳になるか就業するまでは孤児保護の恩給として月50クローネの受給もオーストリア・ハンガリー政府から認められた。遺産の一部と孤児恩給の半額は妹パウラを引き取った義姉アンゲラに養育費として渡されたが、10代の青年としては十分過ぎる程の遺産と当面の生活費が残されたのである。引き続きウィーンでの放蕩生活を送っていたとしても数年は遊んで暮らせていたはずであり、我が闘争で主張されたような貧困伝説は政治的なプロパガンダでしかない。むしろ遺産を受け取り、労働が可能で、かつ就学もしていない身の上を鑑みればパウラが恩給の全額を受け取る権利があったにも関わらず、妹や後見人に無断で勝手に孤児恩給の申請書を出すなど策を巡らし、学校に通っていた妹から半分恩給を奪い取っている。
1908年末、この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。2度目の試験では実技試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていた。同年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。これは入試に失敗したことを知られたくなかったためと、徴兵忌避のためとであった。ウィーンに戻ったクビツェクの側も特に行方を捜すことはなかった。ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には住所不定の人物として浮浪者収容所に入り、次いでメルデマン街にある独身者用の公営寄宿舎に移り住んだ。経済上のことというよりは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるためであったと見られている(兵役逃れ)。
1911年、姉アンゲラから孤児恩給全額を妹パウラに譲るようにリンツ地区裁判所で訴訟を起こされ、これを受け入れている。この背景には叔母ハンニからヒトラーが可愛がられており、遺産となる財産の殆どをヒトラーの「芸術活動」に援助していたことに、夫ラウバルの死後も妹パウラを養い女子実科中等学校にも通わせていたアンゲラが憤慨したためである。ハンニがヒトラーに与えた財産がどの程度だったのは定かではないが、恐らく2000クローネ程度は援助されていたと見られている。仮に今までの生活で父母の遺産を使い果たし、孤児恩給を失ったとしても、今度は叔母ハンニの財産でまだ数年は「寝て暮らせる」生活であった。また遺産を取り崩しながらの生活ながら自作の絵葉書や風景画を売ることで小額の生活費は稼いでいた。だがこれが仇となって孤児恩給の訴訟に勝てる見込みがなかったため、裁判の前に恩給放棄の署名に応じている。
この頃ヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。その中にはアルテュール・ド・ゴビノーやヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論や反ユダヤ主義なども含まれていた。キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー(ドイツ語版)などにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといわれる。この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。ヒトラーの絵や葉書を買い付けるユダヤ系の画商との夕食会に参加するなど、彼らと親睦も結んでいた。また逆にウィーン移住前からの知り合いであるクビツェクは「リンツにいた頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている。
1913年5月、24歳になったヒトラーは徴兵検査の対象年齢から外れたことで隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、仕立て職人ポップの元で下宿生活を送った。徴兵検査の義務はなくなったが、逆に期間内に徴兵検査を受けなかったことで兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという2つの犯罪を犯した立場となった。事実が発覚して逮捕された場合、1ヶ月から1年の禁固刑と2000クローネの罰金という重罪が科せられることが想定された。ミュンヘン移住からすぐにリンツ警察の通報を受けたミュンヘン警察によって強制送還され、仰天したヒトラーはここで書いた弁明書で初めて自らの貧困を訴える嘘を書き連ねている。1914年1月18日、検査で不適格と判定されたため兵役を免除され、罪も免除された。  
第一次世界大戦

 

同年に勃発した第一次世界大戦では大ドイツ主義から一転して軍に志願したが、ドイツ帝国の兵隊として戦う事を条件として希望した。ヒトラーはドイツ帝国の構成国の一つであるバイエルン王国に請願し、バイエルン王国第16予備歩兵連隊に義勇兵として入営を許された。ヒトラーはバイエルン第16予備歩兵連隊の伝令兵(各部隊との連絡役)として配属された。連隊は主に西部戦線の北仏・ベルギーなどに従軍してソンムやパッシェンデールなど幾つかの会戦に加わっている。
終戦までにヒトラーは伝令兵としての活躍を評価されて2回受勲されている(1914年に二級鉄十字章、1918年に一級鉄十字章)。だが階級はゲフライター(兵長、Gefreiter)留まりであり、2度も勲章を授与されている割には低い階級のままで終戦を迎えている。理由については諸説あるが、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、配下を持つことになる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官フリッツ・ヴィーデマン中尉が証言している。
近年の研究ではそもそもヒトラーの受勲は重要な功績を果たしたという意味をそれほど持たなかったのではないかとする意見も出ている。記録によれば同連隊の伝令任務には後方での連絡役と塹壕間の連絡の2つがあり、ヒトラーは比較的に安全である前者を担当した回数が多いと見られている。そして「危険な任務」と認識されている伝令兵に対する受勲はどちらの任務が主であっても受勲する可能性が高く、むしろ後方任務の方が高級将校との交流から可能性が高いとすら考えられている。代表的なヒトラー伝記の作家であるイアン・カーショーはこの説に一定の支持を与えている。
1916年、ソンムの戦いでヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)。後方勤務との割合の程はともかく、前線への勤務経験もあったようである。またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない。負傷そのものは会戦後に戦傷章を受勲した記録が残っている。
ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦ったことで益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと労いを受けることができた。
大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のマスタードガスによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、野戦病院に搬送されている。一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種のヒステリー)によるものとする説がある。ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった。この日、もしくは次の日にヒトラーは超自然的な幻影を見て視力を回復した。この回復の課程には、治療に当たっていたエドムント・フォルスター(ドイツ語版)博士の催眠術による暗示の可能性があるとされる。
ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする背後からの一突き論を強く信じるようになった。
第一次世界対戦後
第一次世界対戦の敗戦後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるバイエルン州へと戻った。同地では1918年12月にバイエルン革命によってバイエルン・ソビエト共和国が成立しており、バイエルンの陸軍も当初これを支援していた。ヒトラーも1919年2月16日からミュンヘンのレーテに入り、評議会委員となった。また2月26日に暗殺されたクルト・アイスナー共和国首相の国葬パレードに参加した。1919年4月15日のオイゲン・レヴィーネ政権下のバイエルン・ソビエト共和国で大隊の評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している。それから暫くしてバイエルン・ソビエトがバイエルン民族主義の支持を受けてドイツ共和国(ヴァイマル政権)から独立すると、穏当な対応を続けてきた中央政府も遂に鎮圧に乗り出し、ヒトラーは告発委員会に加わった。
中央政府軍の進軍に合わせて右翼の退役軍人による蜂起が起きる中、ヒトラーは共和国軍の情報将校であったカール・マイヤーにスパイとしてスカウトされる。ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた。
1919年7月、ヒトラーは正式に共和国軍の情報提供者の名簿に軍属情報員として登録され、諜報組織の末端となった。彼に割り当てられた任務は革命政権を支持する兵士達への政治宣伝と、その一方で台頭しつつあったドイツ労働者党 (DAP) の調査であった。ところがヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。ドレクスラーの側もヒトラーの演説の才を高く評価し、1919年9月12日に55人目の党員に加えた。ドレクスラーは革命の失敗は資本主義を牛耳るユダヤ教徒出身の革命家による陰謀であり、ユダヤ教徒の排斥なしに社会主義革命はありえないという極左的な民族主義を抱いていた。ドイツ労働者党で出会った人物にオカルト的な秘密結社トゥーレ協会に所属する思想家ディートリヒ・エッカートがいる。
政界進出の模索開始 / ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、いつしか政治活動自体にのめり込んでドイツ労働者党の専従職員になったのは間違いないと見られている 。ヒトラーは政界進出を模索し出した理由として1919年6月のヴェルサイユ条約で1988年まで返済にかかるほどの莫大な賠償金を背負わされたことによる国内産業の衰退と膨大な失業者の解消のための政策も出来ない現状の政治の打破のために本格的に政治家を目指した。ヒトラーが政権獲得する数年前のドイツは世界恐慌による需要激減で、失業率約30%で解雇された労働者を含めて失業者は約560万人もいたなど国民の不満が最高潮だった。政権獲得前年の1932年には国内第二位の銀行が破綻するなど、ドイツの国民総生産は1931年よりも35%減少で1890年代の水準まで衰退していた。政権獲得後のナチス・ドイツの経済政策の3年後の1936年時点で1929年の世界恐慌前の1928年時よりGDPを約15%も上昇・失業者を恐慌直前の約160万人より更に激減・戦後に最も衰退した先進国転落国から世界2位の先進国までドイツ経済を再興など政治家を目指した当初の理由の多くを果たしている。彼は周辺国や国内の政治団体への過激な演説で名前を知られるようになり、ドイツ労働者党でも有力な政治家と目されていった。「Du(お前)」と呼び合う関係であったエルンスト・レーム元陸軍大尉やエッカート、ルドルフ・ヘスらはヒトラー派を形成し、党内を次第に制圧するようになった。1920年2月24日、党内協議により党名を「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP、蔑称ナチス)へと改名する。1921年7月29日、労働者党内で分派闘争が起きると一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターによりドレスクラーは名誉議長として実権を奪われ、代わりにヒトラーが第一議長に指名された。この頃からヒトラーは支持者から「Führer」(指導者)と呼ばれるようになり、次第に党内に定着した。すでにイタリアで一党独裁政治を行うムッソリーニが採用していたローマ式敬礼に倣って、ナチス式敬礼を取り入れたのもこの頃のことである。突撃隊の活動などでミュンヘン政界でも知られる存在となったヒトラーは、エッカート、エルンスト・ハンフシュテングル、マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターらの紹介で、ミュンヘンの社交界でも知られるようになった。ピアノメーカーベヒシュタインのオーナー未亡人であったヘレーネ・ベヒシュタインなどの上流階級婦人が熱心な後援者となり、生活の援助をしたほか、ヒトラーに紳士の立ち振る舞いを身につけさせた。
ミュンヘン一揆 / 党勢を拡大したナチス党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟はイタリアのファシスト党が行ったローマ進軍を真似てベルリン進軍を望むようになった。バイエルン州で独裁権を握っていたバイエルン総督グスタフ・フォン・カールも同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カール総督は中央政府の圧力を受けてやがてベルリン進軍の動きを鈍くした。不満を感じたヒトラーはカール総督にベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いてカールが演説中のビアホール「ビュルガーブロイケラー」を占拠し、カールの身柄を押さえた。ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も駆け付け、ルーデンドルフの説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。しかしヒトラーが「ビュルガーブロイケラー」を空けた隙にカールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。11月9日朝にヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。ヒトラーもルーデンドルフも一次大戦の英雄であるルーデンドルフに対して軍も警察も発砲はしまいという過信があった。しかしバイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。ヒトラーは逃亡を図り、党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。逮捕直前にヒトラーは自殺を試み、ハンフシュテングルの妻ヘレーネによって制止された。収監後、しばらくは虚脱状態となり、絶食した。失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている。逮捕後の裁判はヒトラーの独壇場であり、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった。花束を持った女性支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者も現れた。司法の側もヒトラーに極めて同情的であり、主任検事が起訴状で「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」と評するほどであった。1924年4月1日、ヒトラーは要塞禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受けた。オーストリア国籍を持っていたヒトラーは国外追放されるおそれがあったが、判決では「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」として国外追放は適用されなかった。この間、ヒトラーは禁止されていた党をアルフレート・ローゼンベルクの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者グレゴール・シュトラッサーらとの反目が激しくなった。シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党国家社会主義自由運動を立ち上げて国会議席を獲得し、さらに党をルーデンドルフのドイツ民族自由党と合同させた。これによりローゼンベルク、ヘルマン・エッサーらミュンヘン派、シュトラッサーらの北部派(ナチス左派)の関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることを止めて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する。ルドルフ・ヘスによる口述筆記で執筆されたのが『我が闘争』である。ヒトラーは職員や所長まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。州政府は抵抗したが裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり、12月20日に釈放された。シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。
権力闘争 / 1925年2月27日、禁止が解除されたナチ党は再建された。しかし大規模集会で政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随した。この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ、4月には突撃隊の実力者であったレームを引退させた。私生活ではこの頃オーストリア市民権抹消手続きをとり、移民の許可をとった。また『我が闘争』の執筆作業を行い、7月18日に第一巻が発売された。秋頃には社会主義色の強いシュトラッサーら北部派と、ミュンヘン派の対立が激化した。一時はシュトラッサーの秘書ヨーゼフ・ゲッベルスらが「日和見主義者」ヒトラーの除名を提案するほどであったが、1926年2月24日のバンベルク会議によって「指導者ヒトラー」の指導者原理による党内独裁体制が確立した。一方シュトラッサーは党内役職を与えられて懐柔され、ゲッベルスはヒトラーに信服するようになり、党内左派勢力は大きく減退した。1928年5月20日には、ナチ党として初めての国会議員選挙に挑んだが、黄金の20年代と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまった。この間にヒトラーは『ヒトラー第二の書』(続・我が闘争)と呼ばれる本を執筆したが、出版はされなかった。ヒトラーの財政状況は悪くなく、オーバーザルツベルクに別荘「ベルクホーフ」を買う余裕もできた。また1929年頃には党の公式写真家であったハインリヒ・ホフマンの経営する写真店の店員エヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と知り合い、愛人関係になった。
ナチ党の躍進 / 1929年の世界恐慌によって急速に景気の悪化したドイツでは、街に大量の失業者が溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。さらにヤング案への反発がドイツ社会民主党政府への反感の元となった。同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張し、1930年の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社会民主党の得票率24.5%に次ぐ第2党と第3党に成長し、各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の私闘が激化するようになった。党勢の拡大にもかかわらず待遇が改善されない突撃隊には幹部に対する反感が生まれ、ヒトラーは突撃隊を押さえるためにレームを呼び戻さざるを得なくなった。1931年9月18日には溺愛していた姪のゲリ・ラウバルが自殺したことにヒトラーは大きな衝撃を受けた。一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。しかしこの後菜食を宣言し、肉食を断った。1932年2月25日には党幹部ヴィルヘルム・フリックの手配により、ブラウンシュヴァイク州のベルリン駐在州公使館付参事官となった。これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためのものであった。ドイツ国籍を取得したヒトラーは、大統領選挙に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、ドイツ共産党のエルンスト・テールマン、鉄兜団代表で国家人民党の支持を受けたテオドール・ディスターベルク、作家グスタフ・アドルフ・ヴィンター(ドイツ語版)の5名が立候補した。選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、膨大な量のビラをまき、数百万枚のポスター、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説や当時はまだ新しいメディアだったラジオなどで国民に鮮烈なイメージを残した。第1次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49.6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30.2%)、テールマン498万3341票(得票率13.2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6.8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0.3%)となり、ヒトラーは他の候補と大きく差をつけた2位となっただけでなく、現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者3名による決選投票が行われた。その投票でヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)をそれぞれ獲得し、ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが1次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスとの差が決定的となったことを物語る選挙となった。ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第1党だった社会民主党を抜いて国会の第1党となった。 
首相就任
1932年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(1932年11月ドイツ国会選挙)。この時ベルリンの大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党が主導する大規模な交通ストライキに突撃隊員を参加させた。しかしこのような暴力的手法に訴えるやり方が財界やベルリン市民から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第1党の地位は保持した。
しかしこの選挙で共産党が得票を伸ばしていたことに、保守層は危機感を抱いた。財界や伝統的保守主義者などの富裕層はナチスのイデオロギーにも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチ党は共産党に対抗できる政党とみなされた。ナチ党への献金は増加したが、この段階でも政財界からの政治献金の圧倒的な量は反ナチ勢力に流れており、この時点での党財政の大半は党費収入によるものであった。
一方で事態を打開することができなかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはシュトラッサーらナチス左派を取り込もうとしたが失敗した。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功し1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。
ヒトラー新首相は就任した30日夜にフリック新内相を通じた談話で、(1) 国際社会との平和裏の共存、(2) ワイマール憲法の遵守、(3) 共産党を弾圧しないといった施政方針を表明した。しかし、これらが嘘であることは後述の通りすぐに明らかになった。
独裁政権
内閣発足の2日後に当たる2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(ドイツ国会議事堂放火事件)。ヒトラーとゲーリングは「共産主義者蜂起の始まり」と断定し、直ちに共産主義者の逮捕を始めた。翌28日にヒンデンブルク大統領に憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。この状況下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、単独過半数は獲得できなかった。しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらに社会民主党や諸派の一部議員も逮捕された。これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正することで、ナチ党は憲法改正的法令に必要な3分の2の賛成を獲得できるようになった。
3月21日、新国会が開かれた。この日は「ポツダムの日」と呼ばれ、1871年に帝国宰相ビスマルクが最初の帝国議会を開いた日でもあった。これを記念する式典では、空席の皇帝の座の後ろにかつての皇太子ヴィルヘルムが着席した。元皇太子が見届ける中で、ヒトラーはモーニング姿でヒンデンブルク大統領に頭を下げた。この演出によって、ヒトラーが帝政の正統な後継者であるかのような印象が人々に与えられた。
3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て新国会で全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし他の幹部とは異なった政権構想を持っていた突撃隊ではさらなる第二革命を求める声が高まり、突撃隊参謀長レームらとの対立が高まった。ヒトラーはゲーリングと親衛隊全国指導者ヒムラーらによって作成された粛清計画を承認し、1934年6月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊を初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清した。この時、党草創期からのつきあいがあったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。
1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相 (Führer und Reichskanzler) であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した]。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領 (Reichspräsident) という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。この措置は8月19日に民族投票(ドイツ語版)を行い、89.93%という支持率を得て承認された。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた。
権力掌握以降、ヒトラー崇拝は国民的なものとなった。1935年1月22日には公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられた。民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんどなかった。
国家元首に就任して以降国際的な行動を実行する日はしばしば土曜日を選んだ。週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。1935年3月16日のドイツ再軍備宣言、1936年3月7日のラインラント進駐はどちらも土曜日である。
政治 / ヒトラーは従来合議制であった閣議をほとんど開催せず、書類の回覧によって決裁を行った。また重要な方針については大筋の方針を決めるだけで、詳細は所轄官庁に任せた。この「口頭政治」により、1941年に成立した法律は、回覧による制定法11、総統布告24、総統命令9、国防閣僚評議会命令27に対し、所轄官庁命令が373に達している。このため各官庁とヒトラーの間に立って調整を行う、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースや、後にはマルティン・ボルマンの権力が高まった。一方で親衛隊を含む党、ヒトラーが任命する全権や国家弁務官などが並立したため、それぞれの組織の自立性が高まる一方で、法と行政の統一性は失われた。指導者原理によって組織の指導者はヒトラーに与えられた権力の範囲内で絶大な権力を持つが、権力が相互に重複する相手との衝突や混乱が絶えなかった。これは指導者間の衝突や混乱を唯一調停しえる存在となったヒトラーへの従属をますます強めることとなり、ヒトラーもわざとその闘争を放置することすらあった。ヨアヒム・フェストはヒトラーの支配するドイツを「ヒトラーだけにしか全体を眺望し得ない国家」と評している。個別の政策では、党と国家の一体化を推し進める一方で、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。また同時に行われていたラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチ党の出版社フランツ・エーア出版社(ドイツ語版)に買収され、情報の一元化が進んでいった。1935年3月16日にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄(ドイツ再軍備宣言)、公然と軍備拡張を行った。1936年には非武装地帯とされていたラインラントへの進駐を行った。ヒトラー自身も連合国が対抗措置を採る可能性を完全に払拭し切れていたわけではなかったが、連合国は動かず、一か八かの賭けに勝利したヒトラーの威信はさらに向上した。また同年にはガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックとベルリンオリンピックの二大会がドイツで行われた。ヒトラーはレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが、1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している。またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつてない大規模なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画『オリンピア』は世界で高い評価を得た。オリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の下「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別を基にした迫害を再び強化していく。
外交と生存圏 / ナチス政権下時代の外交政策は、一般にヒトラーの能動的な計画に帰す「ヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い。ヒトラーが時に外交政策に大きくコミットしたことは事実であるが、近年ではヨアヒム・フォン・リッベントロップやドイツ外務省、ゲーリングといった国内諸勢力の影響も研究対象となり、「ドイツの(外交)政策を、ヒトラーと同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カーの指摘も存在する。1922年からヒトラーが訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時のドイツ外務省の方針とは対ソビエト連邦政策を除いて大きく異ならなかった。対英接近策は1935年の英独海軍協定(ドイツ語版)締結となって実を結び、フランスにとっては大きな打撃となった。1936年3月にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。また同年にはスペイン内戦においてフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した。同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった。1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「東方生存圏」獲得のための戦争計画を告げた(ホスバッハ覚書)。計画に批判的であったブロンベルク国防相らは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを就任させ、オーストリア併合にこぎつけた。かつてのオーストリア=ハンガリー帝国皇太子オットー・フォン・ハプスブルクがドイツの侵略計画に対抗する構えをみせたが、ヒトラーはこの動きを押さえつけてオーストリアの内閣を交代させたのである。なお、ヒトラーはハプスブルク家を憎悪しており、オットーがオーストリア政府の頂点に立った場合はただちにオーストリアに侵攻する計画を練っていた。その名も、ハプスブルク家当主オットーの名を冠した「オットー作戦(ドイツ語版)」というものだった。こうしてオーストリア国内の抵抗勢力を封じ込めた後、3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。なお、この時、ヒトラーは、父親の生地を演習地に選び破壊している。オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談を行い、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。さらにこの後、スロバキアなどで独立運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツに応援を依頼するしかなくなり、1939年3月15日総統官邸に赴いたエミール・ハーハ大統領に対し、ヒトラーはすでにドイツ軍が侵攻準備を開始していると恫喝した。ハーハはドイツ軍の介入要請文書に署名することを余儀なくされた。ヒトラーの指示により傀儡国家のスロバキア共和国が成立し、チェコはドイツの保護領「ベーメン・メーレン保護領」となった(チェコスロバキア併合)。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランスは懸念を表明したものの、直接的な軍事対立を避けるために積極策を採らなかった。ヒトラーはこれらの宥和政策を英仏の黙認と捉え、さらなる領土要求を継続することになる。 
第二次世界大戦

 

ヒトラーはさらにポーランドに対して、自由都市ダンツィヒの管理権の放棄と、ダンツィヒと西プロイセンの間にある回廊地帯の自由通行権を要求したが、ポーランドは強く抵抗した。また英仏も次々にポーランドに保障を与える条約を締結した。
しかしヒトラーは夏頃までに交渉が妥結しなければポーランドに軍事作戦を行うこととし、3月31日に完成したポーランド侵攻作戦「白作戦(ドイツ語: Fall Weiß)」の政治条項を自ら手書きで書き込んでいるが、その中でも戦争をポーランド戦だけに局限することを目標としていた。そのためにも英仏の戦争参加を思いとどまらせる方策が必要であり、かねてから敵と公言していたソ連との接触を水面下で開始し、8月23日にドイツはソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせた。
開戦 / 独ソ不可侵条約締結直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークとノルウェーを相次いで占領。5月10日ヒトラーはフェルゼンネスト(岩上の巣)(ドイツ語版)と呼ばれる前線指揮所に移り、そこでベネルクス三国とフランスへの侵攻の指揮をとった。ヒトラーはこれ以降大半を各地の前線指揮所で過ごすことになるが、この指揮所は総統大本営と呼ばれている。ヒトラーは作戦の概要だけではなく細部にも口を出し、ダンケルクの戦いでは疲弊した連合軍の相手は空軍で十分と考え、戦車部隊による攻撃を停止させた。この判断は災いし、ダイナモ作戦によって多くの連合軍将兵の脱出を許すこととなった。しかしフランス侵攻自体は順調に進み、6月6日にはヒトラーも前線に近いベルギー南部のヴォルフスシュルフト(狼の谷)(ドイツ語版)に移った。6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。その後の対英戦ではヒトラーは空軍によって制空権を獲得した後にイギリス上陸を考えていた(アシカ作戦)。しかしバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍は撃退され、イギリスの抗戦意思はゆるがなかった。7月30日、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」として対ソ戦の準備を命じた。一方で8月30日のウィーン裁定とその後のクラヨーヴァ条約でハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日には1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国条約」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化し、枢軸国を形成しつつあった。しかし10月22日に行われたスペインの独裁者フランシスコ・フランコとの会談は不調に終わり、味方に引き込むことはできなかった。1941年にはユーゴスラビア侵攻を行うとともに、ギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカ戦線ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。
独ソ戦 / 同年6月22日、バルバロッサ作戦が発動し、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始した。ヒトラーは「作戦は5ヶ月間で終了する」や「まず10週間」と、独ソ戦の先行きについてはきわめて楽観視していた。6月22日に東プロイセンに置かれた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に移り、1944年11月20日までの大半をここで過ごすことになった。ヴォルフスシャンツェは防空の観点から森の中に置かれたために昼でも薄暗く、不眠症となったヒトラーは深夜まで秘書や側近を相手にして一方的に語るようになった。また8月には胸の痛みを訴えるようになり、冠状動脈硬化症を発症したことを知った主治医のテオドール・モレルは、ヒトラーにも秘密で心臓病薬の投与を始めた。一方戦線は順調に進み、完全な奇襲を受けたソ連軍を各地で撃破した。しかし7月にはヒトラーと軍首脳の間で意見の相違が生まれた。軍首脳はモスクワ攻略を主張したが、ヒトラーはウクライナのドネツ工業地帯やレニングラードの攻略を優先させるよう命令し、モスクワ方面への攻撃を停止させた。ところが8月末にはヒトラーの気が変わり、再度モスクワ進撃を命令した。ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来し、降雪とラスプティツァ(rasputisa、泥濘)が進撃速度と補給を低下させた。そこにソ連軍の反攻が開始され、現場指揮官達の間で一時後退論が高まった。ヒトラーは12月19日に陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥など複数の将官を更迭した上に自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁した。このことで戦線の全面崩壊は免れた。対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月11日に、同7日に行われた日本海軍によるイギリス領マレー半島への侵攻(マレー作戦)と、それに続いて行われたアメリカの準州であるハワイの真珠湾攻撃を受けて、これまで直接対峙することのなかったアメリカへの宣戦布告に踏み切る。これに対しヒトラーは「負けたことのない日本軍の参戦は大きな力を与えてくれる」と喜んだといわれる。1942年中盤に日本軍がイギリス軍をインド洋から放逐したことを受けて、インド洋における通商破壊戦を行うことを目的にUボートや封鎖突破船を派遣し、日本軍占領下のペナンの日本海軍基地を拠点にして日本海軍と共同作戦を行ったほか、ヒトラー自らの指示でUボートを日本海軍に提供した。また日本海軍もドイツ軍からの依頼を受けて潜水艦と特殊潜航艇をヴィシー政権軍とイギリス軍が戦っていたアフリカ南部のマダガスカル島に送り、イギリス海軍艦艇を攻撃し撃沈するなど被害を与えたほか、遣独潜水艦作戦を行うなどいくつかの共同作戦を展開した。なお、これらの共同作戦のうちいくつかにはイタリア軍も参加し、さらに共同作戦自体もドイツの降伏に至るまで続けられることとなるものの、両国の戦況の好転に大きく貢献することはなかった。
守勢転換 / 同年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「ジークフリート」計画を提出した。しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦に当たる部分は自ら書き替え、ヴォロネジとスターリングラードの攻略を主眼とするブラウ作戦(青作戦)を命令した。4月26日にはドイツ国における最後の国会が開催され、ヒトラーは既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があると宣言された。ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、スターリングラードの攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上に第6軍が包囲される事態となった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官のフリードリヒ・パウルス大将を元帥に昇格させ、暗に自決を求めた。しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。またエル・アラメインの戦いやトーチ作戦などでの敗北により、北アフリカ戦線における枢軸国の勢力は一掃された。戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた。1943年にはクルスクで突出したソ連軍を包囲するツィタデレ作戦(城塞作戦)が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。7月5日から開始されたこの攻撃(クルスクの戦い)は激戦となったが、7月13日にヒトラーは作戦の中止を命令した。ヒトラーはシチリア島に連合軍が上陸したことでイタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、その情勢に気を取られていた。またソ連軍に与えた損害を過大評価していたことや、弾道ミサイル(V2ロケット)や電動Uボート(UボートXXI型)などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた。7月25日にイタリアでムッソリーニが失脚、その後9月8日にバドリオ政権が休戦を発表し(イタリアの降伏)、連合国軍はイタリア本土に上陸した。しかし9月12日にオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊によりムッソリーニを救出し(グラン・サッソ襲撃)、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国を成立させた。こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるイタリア戦線が形成された。連合軍によるドイツへの戦略爆撃が激しくなると、ヒトラーはドイツから爆撃機が去るまで眠ろうとしなかった。スターリングラードの敗戦以後は好きな音楽を聴くことも止め、側近に同じような話を連日連夜語るようになった。なおこの頃には日本軍も体勢を立て直したイギリス軍やアメリカ軍に対して各地で劣勢を強いられるようになってきた。このこともあり、ヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。
暗殺未遂事件 / 1944年には、東部ではソ連の3月からの大攻勢(バグラチオン作戦)により中央軍集団が壊滅し、西部ではノルマンディー上陸作戦の成功による第二戦線が確立した。7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将をはじめ4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥も、関わりを疑われて自殺を強要された。ヒトラーが奇跡的に死を免れたことは、彼が特別な能力を持っている証拠であるとされ、国民のヒトラーに対する忠誠心もやや持ち直した。8月になると連合軍がパリに迫った。ヒトラーはパリの破壊を命令したが、守備隊司令官ディートリヒ・フォン・コルティッツ大将は従わず、パリを明け渡した。この際にヒトラーは「パリは燃えているか?」(Brennt Paris?) と部下に何度も質問し、どんな手段を使ってもパリを廃墟にするよう命じたが、実行はされなかった。その後ヴィシー政権や東欧の同盟国は次々に脱落し、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。特にプロイエシュティ油田を抱えるルーマニアの脱落はドイツの石油供給を逼迫させた。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。西部戦線の連合軍がライン川に迫ると、ヒトラーは大きな賭けに出ることを決断し、アルデンヌからアントワープまでドイツ軍を突進させ、連合軍の補給を断つ作戦を自ら立案した。ヒトラーは米英軍に大きな打撃を与えれば、米英は戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独・英・米とソ連による「東西戦争」が発生すると確信していた。ヒトラーは作戦の準備と声帯ポリープの手術のため11月20日にヴォルフスシャンツェからベルリンの総統官邸に移った。12月16日に開始されるドイツ軍の反攻作戦「ラインの守り」のため、ヒトラーは12月11日にフランス国境近くに設置されたアドラーホルスト(ドイツ語版)に移った。「ラインの守り」作戦は当初成功し、連合国軍を一時的に大きく押し戻した。しかし天候が回復すると空軍の支援を受けた連合国軍に圧倒され、戦線に一時的に大きな突出部を作るに留まった。こうしてヒトラーの反攻作戦はドイツ軍最後の予備兵力・資材をいたずらに損耗する結果となった(バルジの戦い)。
敗戦 / 1945年1月からソ連軍はヴィスワ=オーデル攻勢を開始した。これを受けてヒトラーは1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がオーデル川のほとりまで押し込まれた。また3月には米英軍がライン川を突破した。またハンガリー戦線も危機的になり、ハンガリー領内の油田失陥の可能性が高まった。3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗し、戦力を大きく減退させた。ヒトラーは3月頃からラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕に籠もりきりとなり、ほとんど庭に出ることもなくなった。視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった。この頃になると利害が異なる各官庁からの意見調整もままならず、3週間の間に全く方針が異なる総統命令を出す有様であった。3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「ネロ指令」と呼ばれる命令を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のシュペーアに反対された。しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。(中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。」と述べ、国民生活を顧みることはなかった。シュペーアはこの命令を無視し、焦土作戦はほとんど実行されなかった。4月16日にソ連軍はベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した(ベルリンの戦い)。側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、ヒトラーは拒絶した。4月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合に備え、北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった。また、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。この頃になると自らの親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった。ソ連軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりとベルリン市に迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議でヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングの元を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げ、激怒したヒトラーはゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいた。早期の降伏を考えていたシュペーアはゲーリングが降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際に備えて撃墜命令を出している。
自殺
4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。
終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行った。この政治的遺書の中で戦争はユダヤ人に責任があるとしたほか、大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相に宣伝相ゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。個人的遺書では恋人エヴァとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の(ナチズム)運動に値しないことを自ら証明した」と語り、自らの運動が終焉したことを認めた。
遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。ほぼ生涯にわたって独身を通し、死の直前に結婚したので、他の第二次世界大戦指導者と異なり、直系の子孫はいない(報道などに登場する「子孫」は再従兄弟、または異母兄弟の子孫)。
自殺の際ヒトラーは拳銃を用い、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却された。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった。また側近らの証言も曖昧であり、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。このことが「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。
なお日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、外交儀礼に則り鈴木貫太郎首相の名で正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首であるヒトラーの自殺の報に対しては、弔意を示す声明や半旗の掲揚を行わなかった。駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだが、日本政府はこれに対して外務省の儀典課長が式典に参列したのみであった。当時朝日新聞では、訃報に「ヒ総統薨去」の見出しを用い、外務省政務局の『世界情勢ノ動向』においても「『ヒットラー』総統薨去」という表現を用いている。 
 
略年表 

 

1889年(0歳) オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。
1895年(6歳) 父アロイスの農業事業のためにバイエルン王国パッサウ地方に移住。
1897年(8歳) 父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。
1900年(11歳) 小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。
1901年(12歳) 二年生への進級試験に失敗、留年。
1903年(14歳) アロイス病没。リンツ実技学校中退。
1904年(15歳) シュタイアー実技学校入学。
1905年(16歳) シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。
1906年(17歳) 遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
1908年(19歳) アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。
1909年(20歳) 住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。
1911年(22歳) 遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
1913年(24歳) オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。
1914年(25歳) 第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。
1918年(29歳) マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵。
1919年(30歳) バイエルン・レーテ軍に参加。革命政権崩壊後、ミュンヘンを占領した政府軍に軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
1920年(31歳) ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
1921年(32歳) 党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する。Führer(フューラー)の呼称がこの頃から始まる。
1923年(34歳) ベニト・ムッソリーニのローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが失敗。警察に逮捕される。
1924年(35歳) 禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。12月20日、仮釈放される。
1926年(37歳) 『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立(バンベルク会議)。
1928年(39歳) ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。
1930年(41歳) ナチ党が第二党に躍進。
1932年(43歳) ドイツ国籍を取得。大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進してさらに影響力を高める。
1933年(44歳) ヒンデンブルク大統領から首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立。
1934年(45歳) 突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。
1936年(47歳) 非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。
1938年(49歳) オーストリアを武力恫喝し、併合する(アンシュルス)。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談でズデーテン地方を獲得。
1939年(50歳) チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。
1940年(51歳) ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。
1941年(52歳) ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。
1943年(54歳) スターリングラードの戦いで大敗。また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。
1944年(55歳) ソ連軍の一大反攻(バグラチオン作戦)により東部戦線が崩壊、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる(ノルマンディー上陸作戦)。7月20日、自身に対する暗殺未遂事件によって負傷。
1945年(56歳) エヴァ・ブラウンと結婚。ベルリン内の総統地下壕内で自殺。 
 
思想 

 

反ユダヤ主義
本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。それはキリスト教社会であったヨーロッパ全体に広がっていた差別意識を発見し政治的に活用した色彩が強く、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような差別意識を身につけたのか判断するのは難しいとしている。
ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師エドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であった。ブロッホは後にユダヤ人迫害が開始された後も「名誉アーリア人」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分が恩義を受けた相手にはユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。このような待遇を受けた人物としては、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官エルンスト・モーリッツ・ヘスや、ヒトラー山荘に勤務した料理人マレーネ・フォン・エクスナーがいる。エルンスト・ヘスはナチ党政権掌握後、ナチス政府に迫害を受けていたが、ヒトラーに迫害の中止を訴え、待遇が改善されている。しかし1941年になると強制収容所に送られた。エクスナー夫人はヒトラーお気に入りの調理人であったが、ボルマンの調査によってユダヤ系の血が入っていたことが発覚し、ヒトラーは彼女を解雇する代わりに彼女と家族に「名誉アーリア人」待遇を与えた。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。
ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏頃に反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている。ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している。それ以降にヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていたが、党勢の拡大とともにヒトラーはアパートを引き払った。
いずれにせよ、入党後の1920年8月23日には『ホーフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。一方でユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンやアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた。
著作
ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたともいわれている。その内容は自らの半生と世界観を語った第1部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第2部「国民社会主義運動」の2つに分かれる。この中でヒトラーは「アーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得」を説いている。
近代ドイツ最大の哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそが全て」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが窺える。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている。またハンス・フランクには「結局私は物書きではなかった」「思想は書くことによって私から逃げ出してしまった」「もしも私が、1924年にやがて首相になることを知っていたら、私はあの本を書かなかっただろう」と語っている。
1928年には、マックス・アマンに口述して執筆した第二の著作が完成した。生前のヒトラーは「ヒトラー第二の書(ドイツ語版)」(続・我が闘争)と呼ばれるこの本の公表を許さなかった。
「現在のドイツでは『わが闘争』は民衆扇動罪による発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにある。保護期間は2015年までであり、以降出版は自由になる。
ヒトラー自身の思想を伝える物は、公の場で行われた演説、政治的文書のほかには関係者による記録が存在する。「ヒトラーのテーブル・トーク」と呼ばれる物は、1941年から1944年にかけてヒトラーが私的な場で語ったものを、マルティン・ボルマンの命令によって記録したものである。このほかにボルマンが書き留めたとされる、1945年2月と4月のヒトラーの談話が存在する(ボルマンメモ(ドイツ語版))。ただしこの文書は、ヒュー・トレヴァー=ローパーやアンドレ・フランソワ=ポンセが支持したものの、ドイツ語版原文が発見されておらず、イアン・カーショーなど複数の歴史家はきわめて疑わしいと考えている。
幹部であったシュペーア、ヘルマン・ラウシュニング(ドイツ語版)、エルンスト・ハンフシュテングル、側近である秘書のトラウデル・ユンゲや護衛兵であったローフス・ミシュなどがヒトラーの言動を記した著書を残している。
宗教観
ヒトラーは表面上こそキリスト教徒であるとしていたが、教会に対してはナチズムに従順な「積極的キリスト教」の立場を望んでいた。またイエス・キリストは処女懐胎のためユダヤ人の血に染まっていないとし、彼の生涯をユダヤ人との戦いと捉え、「キリストが始めたが完成できなかった仕事を、わたしが―アドルフ・ヒトラーが―実現させるのだ」と唱えた。また内々の談話では「聖書がドイツ語に翻訳されたのはドイツ人にとっての不幸」「ローマ帝国が滅んだのはフン族やゲルマン民族のせいではなくキリスト教のせいである」等とキリスト教や聖職者を批判する発言をしていた。ただしヒトラーは無神論者ではなく、自然の中に全能の存在がいると語っていた。
対日本・日本人観
ヒトラーの対日観は常に変化し定まらず、時々の証言は多くの矛盾に満ちている。 ヒトラーが初めて日本を意識したのは日露戦争時の旅順攻略のニュースである。当時ヒトラーは中学校に通っていた。多くのオーストリア人クラスメイトと同様に、ロシアを敗退させた日本にヒトラーは好意的な印象を抱いたと自ら語っている。(同時にロシアの敗北を悲しんだのは、一人だけいたチェコ人クラスメイトであるとも語り残している) その後ヒトラーの日本人に対する見方は批判的なものも見られたが、日独伊三国同盟以降、親日であるハインリヒ・ヒムラーなどの側近達を通して日本を学び、次第に肯定的な発言が増えていった。
ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、これを原文で読んだ井上成美などは、ヒトラーやナチズムの根底には強固な反日主義があるとみて警戒心を募らせた。日本海軍によるマレー作戦と真珠湾攻撃の成功の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行ったが、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している。
ナチズムが最もこだわる人種主義思想からすれば、白人かつ北方人種と考えられていたアングロサクソンの英米を心情的に応援するのは当然であったし、「アジア人によるアジア統治」を唱える大アジア主義や大東亜共栄圏は悪夢でしかなかった(特にインドの脱植民地化には猛反発していた)。つまるところ、日独の同盟は政治的利点による行動であって、思想的には非難すべき行動と見ていたのである。シュペーアによれば有色人種の大国である日本との同盟について、イギリスがロシアとの対抗で結び、日露戦争後に解消された日英同盟を引き合いに出して正当化したという。
ただしナチズムが最も拘ったのは人種思想ではあるものの、ヒトラー個人が拘ったのは、欧州の平定と東方への生存圏の確立、対ソ連戦争であり、欧州以外の土地についてはそれほど感知しなかった。 よってヒトラーは、日本が第二次世界大戦に参戦し英領であるシンガポール攻略へ乗り出したことを「心底ほっとした」と言い、さらに日本の対ソ戦参戦を熱望していた。その一方でシンガポール攻略により欧州列強のアジア植民地すべてが日本のものとなると嘆き悲しみ、「白人国家が連帯してアジアに対応していれば、日本にアジアを取られることはなかっただろう」と不満を述べた。
日本がドイツの最終的な敵国になるとの考えもしばしば口にしており、「近い将来、我々は東洋の覇者(日本)と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。ポーランド侵攻直前にはイギリス大使ネヴィル・ヘンダーソンに対し、大戦争が起きれば各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になると伝えている。ただしフランス降伏後にヒトラーは、将来的にはドイツとイギリスは講和して軍事同盟を組み、アメリカと戦争をするだろうとも語っている。ヒトラーが独ソ戦後にどのような戦争・国際環境を思い描いていたかは不明な点が多い。
日独防共協定成立以降は、ヒトラーと多くの日本人が面会し、いずれもヒトラーが親日的であるという感想を持った。鳩山一郎は「彼の日本に対する憧憬は驚くべきものがある」とし、伍堂卓雄は「彼の日本に対する考え方は絶対的である」と捉え、武者小路公共駐独大使は「ヒトラーの日本贔屓は日露戦争の時からだ」と発言している。1939年にベルリンで開かれた「伯林日本古美術展」では、美術展を公式訪問したヒトラーが雪村の風濤図を含めた数点の美術品に深く興味を示したという報道が日本では行われたが、ドイツではヒトラーが興味を持った作品についてはほとんど報道されなかったことからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであった。ヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている。ボルマンメモの1945年2月13日付の記述では「私は中国人と日本人が我々より劣っていると見做したことはない。彼等は古代文明に属しており、彼等の過去が我々より優れていたと率直に認める。我々が我々の文明を誇れる権利があるように、彼等は過去に誇りを持つ権利がある。彼等が人種としての誇りを強固にすればするほど、私は彼等と容易に協力し合えるだろう」と述べている。
これらの経緯や政治的理由から日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、帝国市民法(ドイツ語版)などヒトラーが裁可した人種差別法で明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている。
第二次世界大戦末期、ヒトラーはボルマンに政治的遺書を作成させた。 その中で日本を、「いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれる。この戦争で我々は日本を高く評価するとともに、ますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう」と記し、さらに「我々は一緒に勝つか、それとも、ともに亡ぶかである」とまで記述している。
このようにヒトラーの対日観は変化し続けながら終わっており、真意が何方にあるのか見極めるのは困難である。
ホロコースト
1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。
政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニングらの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート(ドイツ語版)、ハンス・モムゼン(ドイツ語版)、ラウル・ヒルバーグらの説がある。
しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている。内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている。
党写真家ハインリヒ・ホフマンの娘でヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であったヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(ドイツ語版)の回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。
健康政策
ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙を肺癌と結び付けた。
「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙・禁酒運動を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある。 
 
政治手法 

 

演説
ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた。 ヒトラーは若年の頃から演説をする癖を持っており、親友であったクビツェクもその演説をたびたび聴かされている。第一次世界大戦直後に軍の情報員として働いていたころから初めて多くの人々の前で演説することになり、大きな喝采を得た。ヒトラーは「私は演説することができた」と回顧している。ナチ党の指導者になってからも「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」。またヒトラー自身も『我が闘争』において、「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている。ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった。ミュンヘン一揆後にはバイエルン州などによって演説を禁じられ、アドルフ・ヴァーグナーに演説を代読させることもあった。対比法、平行法を駆使し、修辞的な面でにもヒトラーの演説は1925年頃にすでに完成の域に達していた。
しかしヒトラーの発声術は独学によるものであり、1932年頃には声帯を損傷する恐れもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手パウル・デフリーント(ドイツ語版)の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同じ内容の演説を繰り返すことに辟易していた様を記録に残している。
政権獲得後にはラジオによる演説も行われるようになったが、大衆が飽きるのも早く、1934年頃からヒトラー演説の放送は次第に減少し、娯楽番組が多く流されるようになった。亡命ドイツ社会民主党指導部(ドイツ語版)の通信員も、ヒトラー演説の聴取を義務づけられた大衆が冷たい反応を示している様を記録に残している。
戦局が苦しくなると、ヒトラーの演説は次第に減少し、大規模なラジオ演説は1940年に9回、1941年に7回、1942年に5回、1943年には3回にまで減少した。迫力のある演説も減少し、原稿をただ読み上げるだけの演説が、聴衆の無い会場で収録されたものが放送されるようになった。1945年1月30日に放送された、ドイツ国民にむけた演説が最後のものとなった。
部下の支配
ヒトラーは自身の行動を評価する組織の存在も許さなかったし、制約する規範や法律の制定を認めなかった。また部下が決定を迫ることで自らに圧力をかけることも嫌い、そのような事態が起きればわざと決定を延期することもしばしばあった。軍事に関してもそうであったが、もともと記憶力には優れたものがあったヒトラーは会議の前に統計や文書を暗記し、会議が始まると膨大なデータ量で聞き手をうんざりさせ、早く終わらせたいと思わせて自分があらかじめ考えていた案を呑ませることを行っていた。
ヒトラーと軍事
ヒトラーは軍事力を極めて重視しており、「世の中に武力によらず、経済によって建設された国家など無い」と、軍事力こそが国家の礎であると主張していた。また政権掌握直後には国防軍首脳といち早く協議を行い、突撃隊を押さえ込んで協力体制を構築しようとした。ヒトラーは膨大な資産と、国家の財産から将軍達に個人的な下賜金、土地の供与を行い、彼らの歓心を買おうとした。ヒンデンブルクは所有していたノイデック荘園が2倍の規模になるほどの優遇措置を受け、アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥も広大な荘園の贈与と優遇措置を受けている。一方でブロンベルク罷免事件以降は軍の権力を押さえることにも力を入れるようになった。
ヒトラーは軍事指導に異常な程の熱意を注いだことも、他の独裁者に比べて顕著であった。大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動を採った。またアルデンヌ反攻作戦など自ら作戦を発案するなど、作戦の細部にまで関わった。その中でヒトラーは退却や降伏を徹底して嫌い、精神論に基づいた考えを軍に強要した。同様に自らの直感を重視してラインハルト・ゲーレンのような不利な報告を行う者、戦略的撤退や防御など「退嬰的」な提案をする参謀本部との関係が険悪になった。
そればかりか敗戦が続くのは自らの命令を正確に行わない将軍達の「裏切り」が原因であるとし、側近や軍幹部に当たり散らした。1944年7月20日の暗殺未遂事件は参謀本部を形成する高級軍人達への不信感を決定的なものとした。1945年4月30日という自殺の日になっても、独ソ戦敗因は堕落した参謀本部と将軍にあると語り、官邸内や地下壕内にスパイがいるとして、自らの責任については言及することはなかった。
芸術やメディアの政治利用
当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。
若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、ヴェルナー・フォン・ブラウン、ハンナ・ライチュ、フェルディナント・ポルシェをはじめとした若く才気あふれると認めた人物には大いに援助をした。 
 
人物像 

 

体格
身長については中肉中背で、特に高身長ではないが小柄でもなかった。細かい数値では172cmから173cmなどとされている資料がしばしば見受けられるものの、1914年のザルツブルクでの徴兵検査で175cmと記されているため、これが正確な数字であると見られている。「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである(もっとも車については多くのパレード用リムジンと同じように、同乗者より自身を目立たせるために座っていた座席と車の床のかさ上げが行われていた)。遺体検証の際、後述する病の影響で萎縮した体格から「推定163cmほど」と記録されたことが小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。体重は時期によって大きく変わるが、運動不足から1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという。
瞳は青色で髪も幼少時までは金髪であったが、長じるに従い色素が沈着して青年期には黒髪になった。現実のナチス高官は理想的な「アーリア人種」の体格(金髪碧眼かつ大柄で健康的)とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とはヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉られている。
他に口元に小さく髭を蓄えていた事は有名であり、小柄なイメージと相まって「チビのチョビ髭」というイメージがチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』以降定着するようになった(ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は残されていない)。この小さく切り揃えた筆状のヒゲは当世風のヒゲであったものの、エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会った当時、おかしな口髭と思っていたようである(エヴァ・ブラウン#ヒトラーとの出会い)。第二次大戦中に連合国軍はヒトラーに女性ホルモンを摂取させて女性化した彼にヒゲを剃らせてしまおうと計画した(ヒトラー女性化計画)。七三に分けた髪形も特徴的だが、ヒトラーは遺伝的に薄毛で前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。
テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。
健康状態
ヒトラーは体が弱いほうではなかったが、母親ががんで苦しむのを見ていたため、自らもがんで死ぬのではないかという不安にとりつかれていた。父親も脳卒中で亡くなっており、家系的な病気に神経質なほどに気を使っていたが、その不安自体が悪循環に精神の病(不安障害)として体調不良につながっていった。第一次世界大戦時に敵軍が投下した化学兵器に動揺して、ヒステリーによる失明症状を起こして精神科医による治療を受けている。1928年頃、不安による強迫観念から逃れるため、精神科に通院して治療を試みているがうまくいかなかった。衛生面への気遣いも人一倍で、一日に何回も風呂に入っては念入りに体を洗うのが日課だった。
ウィーンを深夜徘徊するなど青年時代からすでに不眠症気味で、乱れた生活を送っていた。夜型であったため、独裁者になってからも会議は深夜に行われることも多く、会議がない時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労したという。ヒトラーが眠りにつくと、なにがあろうと起こすことは許されなかったが、これが災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。
1933年頃になると消化器官の不調に悩まされ、50歳に近づいた1936年頃には胃けいれん、不眠、とめどない放屁に加え、足の湿疹にも悩まされるようになる。持病の治療に悩んでいたヒトラーに恋人であるエヴァ・ブラウンが紹介したのが医師テオドール・モレルであった。モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、次第に副作用が心身をむしばんでいった。モレルの診断や処方する劇薬に他の医師達は懐疑的であり、紹介したエヴァをはじめとする側近達も次第に不信感を強めたが、症状回復を望んでいたヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた。
大戦中の1942年頃からヒトラーは左手が震えるようになった。左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲に漏れたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た小長谷正明などの神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト=ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えは止まらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてしみが付いた。このパーキンソン病は1941年頃から発症し、それがかつての柔軟な外交政策を取った頃と異なり、頑迷で無理な戦争指導につながった側面がある。
1944年頃になると震えに加えて猫背になり、よちよち歩きをするようになった。まだ55歳であったにもかかわらず、衰えた容貌から70代の老人に見えたという。精神的にも戦局の悪化などかんしゃくを起こすようなできごとが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰えはじめ、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代の技術は失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読できなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も著しく衰え、専用の通常より3倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。青年期からの誇大妄想やパラノイアも悪化して、周囲をほとんど信用しなくなった。
健康法 / 一般的な健康法である運動は好まず、色白で汗をかかない姿から不健康な人物という印象を与える事もしばしばだった。本人は運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがあるが、事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していたという。第一次大戦時の負傷や、ミュンヘン一揆での肩の脱臼などで激しいスポーツができなかったという部分もあった。運動嫌いのヒトラーは食事を菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控える事で健康的な生活を試みている。後に宿敵となるスターリンやチャーチルが大酒飲みでヘビースモーカーであったのとは対照的であった。ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、若い時代からヒトラーはあまり酒やタバコに手は出さなかったという。禁煙についてはボルマンが聞いた内容によれば、青年時代には喫煙をしていたが金が底をついた為に辞める決意をし、タバコを川へ捨てたというヒトラー自身の回想が触れられている。母親が煙草嫌いであった事も影響したという見方もある。部下や党高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙を勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。しかし終戦間際の総統地下壕では威厳も薄れ、ヒトラーが近くを通っても皆平然と煙草を吸っていたという。禁酒については上記の父が飲酒している時に脳卒中になった事から避けるようになった。バルジの戦いの初期、軍の攻勢が順調に進んでいることを祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。菜食主義については溺愛しためいのゲリ・ラウバルの自殺後になったともされるが、実際にはレバーのダンプリングを食べることもあり、それほど徹底してはいなかった。伝記作家のロバート・ペインによると、ヒトラーはソーセージが好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であると主張している。一方で戦時中に菜食主義者団体を弾圧したという説については、アメリカベジタリアン協会歴史アドバイザーのリン・ベリーらに否定されている。
対人関係
ヒトラーは対人コミュニケーションにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。
ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、デビッド・ロイド・ジョージといった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。しかしいったん敵となった人物に対しては口をきわめて罵った。たとえば1933年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、フランクリン・ルーズベルト大統領に対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、ホルティ・ミクローシュは65万ライヒスマルクの機関付きヨットの贈与を受けている。
学者や官僚などの高等教育を受けた知的エリートを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていたことが複数の人物から証言されている。青年期に図書館で書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。地政学を提唱した学者のカール・ハウスホーファーは自身の理論を積極的に引用していたヒトラーと面会したが、「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」とする感想を残している。独学で学んだ知識については確かにある程度は博識なものの、独学者にありがちな偏った知識や表面的な理解のみという部分があり、先のハウスホーファーも「地政学を全く理解できていなかった」と指摘している。
こうしたヒトラーを特徴付ける劣等感は学識だけではなく、軍歴においてもそうであった。軍隊生活の最終階級が低かったため、元帥であるヒンデンブルク大統領、現役軍人においてもゲルト・フォン・ルントシュテットやエーリヒ・フォン・マンシュタインら国防軍将官からは「ボヘミアの伍長」としばしば蔑視されていた。逆にヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデル、フェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。
社会階級的にもいわゆる貴族階級やユンカーなどの上流階級を憎み、自身が「プロレタリアート(労働者階級)」であることを演説において強調した。このことは党内で家柄ではなく生物学的な条件で選抜した親衛隊を指導層に置いたり、帝政ドイツ時代の皇帝ヴィルヘルム2世の会見要請にも応じないなどの姿勢に現れている。プロイセン軍時代からの伝統を引き継ぐ国防軍において、ユンカーとの対立は上記の経緯と共に軍上層部との対立を生んだ。戦争中には参謀本部に対する不信をあらわにして何度も参謀総長を更迭した。さらに平民出身者が多数を占める親衛隊の武装部門(武装親衛隊)を巨大化させ、国防軍上層部から党へと軍権力を分散させようとした。大戦末期にはヒトラー暗殺計画の関係者に多くのユンカーが加わり、ヒトラーの側も敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。
ベニート・ムッソリーニ / 同時代の政治家では政界入りを志してから政権獲得まで、イタリアのベニート・ムッソリーニに心酔に近い感情を抱いていたことで知られている。教師出身で豊富な学識から新しい政治思想「ファシズム」を理論化し、政治家としてもイタリアでの独裁権獲得と経済立て直しに成功していたムッソリーニをヒトラーは自らの手本としていた。バイエルン時代には自らが設計した党本部の執務室にフリードリヒ大王の絵画と共に、ムッソリーニの胸像を掲げていたという。同盟国の要人を表彰するべくドイツ鷲勲章(ドイツ鷲騎士団)を自ら創設すると、その最高等級である「ダイヤモンド付ドイツ金鷲大十字勲章」(Grosskreuz des Deutschen Adlerordens in Gold und Brillanten) をムッソリーニのみに授与している。ハンガリーのホルティ・ミクローシュ、ルーマニアのイオン・アントネスク、フィンランドのカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムら他の枢軸国の元首・軍首脳への授与が他の等級に留まっていることとは明らかに対照的である。こうした熱烈なヒトラーからの親愛とは裏腹にムッソリーニの側はヒトラーを「無学な新参者」と見下している向きがあった。「私は二流国の一流指導者だが、彼は一流国の二流指導者だ」と皮肉る発言をし、また北方人種論や反ユダヤ主義などの人種主義にも嫌悪感を抱いていた。初会談の席を設けられた時もヒトラーを「道化者」と酷評しており、むしろヒトラーと敵対するオーストリアのエンゲルベルト・ドルフースの方に好感情を抱いていた。しかし独伊両国が侵略政策で孤立し始めると急速に接近するようになり、ムッソリーニもヒトラーの親愛に応じるようになった。公式に開かれた独伊首脳会談だけで16回も行われ、歴訪についてもムッソリーニがドイツに一回、ヒトラーがイタリアに二回赴いて行っている。その中でもムッソリーニの第一次ドイツ歴訪でのヒトラーの歓待ぶりは良く知られているが、ムッソリーニもヒトラーへの心配りを忘れなかった。ヒトラーの第二次イタリア歴訪ではローマ、ナポリ、フィレンツェなどを周遊したが、最後に訪れたフィレンツェでヒトラーの古典芸術趣味を知っていたムッソリーニが街中の美術館を全て貸し切りにし、公式行事を全て後回しにしてヒトラーと芸術鑑賞をするというサプライズを用意した。ヒトラーの喜びようは尋常ではなく、ミケランジェロの絵画を陶酔した目で眺め、フィレンツェの街並を一望した時には笑いながら「とうとう、とうとう私はベックリンとフォイエルバッハが分かった!」と叫ぶ有様だった。ムッソリーニは想像を超えるヒトラーの上機嫌さはともかく、どの美術館でも最後に必ず「ボリシェヴィキが到来すれば、この世界全てが破壊される」と同じ台詞を口にするのには呆れた様子だった。ミケランジェロの聖家族を見た後にヒトラーが「ボリシェビキが来れば…」と言いつつ振り返ると、ムッソリーニは「全てが破壊される」と苦笑いしながらドイツ語で答えている。第二次世界大戦勃発後は目覚しい圧勝を重ねるドイツに対して、軍事的に従属するイタリアの発言権は弱まっていった。これに従いヒトラーとムッソリーニの間柄も主導権が入れ替わり、クーデターでムッソリーニが失脚すると立場は完全に逆転した。一方でヒトラーの友情や尊敬の念は変わらず、イタリア社会共和国を建国する際、親独的な姿勢から当初予定されていたロベルト・ファリナッチがムッソリーニを批判する発言をしたことに激怒して決定を撤回している。ヒトラーにとってムッソリーニはただの傀儡ではなく紛れもない友であった。ムッソリーニがパルチザンに処刑された報告を聞いた際、ヒトラーは激しい動揺を示している。
クーデンホーフ=カレルギー / パン・ヨーロッパ連合主宰者の日系オーストリア人貴族リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(伯爵、博士)に対しては、「全世界的な雑種のクーデンホーフ」(= Allerweltsbastarden Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)であると1928年執筆(死後の1961年出版)の自著『第二の書(続・我が闘争)(ドイツ語版)』で形容して嫌っていた。クーデンホーフ=カレルギーは根無し草、コスモポリタン(世界人)、エリート主義の混血で、ハプスブルク一味であった過去の失敗を大陸規模でやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギー像であった。クーデンホーフ=カレルギーの側からもヒトラーへの批判があり、その後、表立ってのさまざまな応酬を繰り返してクーデンホーフ=カレルギーを米国亡命に追い込んだ。
女性関係
ヒトラーは死の直前まで結婚しなかった。これについては色々な理由があるが、基本的にはヒトラーが女性に対して紳士であろうと努めていたことに加え、「結婚すれば多くの婦人票を失うことになる」と恐れていた為であるという。ミュンヘン時代の下宿先であるアンネ・ポップ婦人は当時のヒトラーについて彼が夫妻の部屋に入る時は必ずノックし、入室を許可しても「入っていいですか」と重ねて尋ねた。「そんな堅苦しい礼儀はいい」と夫妻が言ってもヒトラーはそれを続け、ヒトラーの顔がやせていることを気にした夫が食べ物を与えようとしても断った。それを見て彼女はヒトラーのことを「これほど礼儀正しい青年はなかなかいない」と感じたと証言している。ヒトラーは身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げたこともなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマクダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。
ただし恋人エヴァの前で「インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい」と語るほど女性の知性を信頼していなかったヒトラーは、女性が政治に関与することは認めていなかった。「女性の部屋にいて、政治的なことに干渉されるのはまっぴらだ」と公言していたこともあり、女性関係がヒトラーの政策に影響を与えることはほとんど無かった。また、ヒトラーには戦場で鼠径部を負傷した際に生殖能力を失っていたという説も根強く存在している。睾丸が一つしかなかったともいわれるが、ヒトラーの主治医らはこれを否定している。しかし実際にヒトラーの睾丸を確認したかは定かではなく、またソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。
女性恐怖症であった事はなく、私生活では男性より女性と会話する事を好み、ジョークや物真似といったくだけた会話も行っていたという。ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人と見なした。青年期の友人であったアウグスト・クビツェクによると、リンツ時代のヒトラーはシュテファニーという背の高い美しい女性に一目惚れしたが、声をかける勇気が無く彼女が決まって散歩をする道を2人で待ち伏せして見つめたり、あわただしい行動をとって関心をひこうとしたにとどまった。この時ヒトラーはなかなか踏み込めない自分に嫌悪感を持ち相当落ち込んでいたようで、クビツェクに「俺は彼女にどう話しかけたらいいんだ」としばしば助言を求めていたという。ヒトラーからアプローチを受けたと称する女性や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード (en) やヴィニフレート・ワーグナーなど噂になった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けていたため、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚の噂が何度も流れている。姪のゲリ・ラウバルには通常の叔父と姪の関係を超えた愛情を注ぎ、近親相姦関係にあったという説も唱えられている。しかしゲリは1931年に自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。
エヴァ・ブラウン / 確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみである。エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月初めのことで、ナチ党専属写真師ハインリヒ・ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。ヒトラーは秘書のクリスタ・シュレーダー(ドイツ語版)に「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった」と語るなど、エヴァとの結婚は考えていなかった。日陰の女として生きるエヴァの心身は疲れ果て、1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密に収まった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後2人の関係はいっそう深まった。しかし彼女は首相として多忙となったヒトラーの愛情を疑い、1935年5月28日にもう一度自殺未遂を行っている。その後エヴァはオーバーザルツベルクのベルクホーフの女主人となり、ヒトラーを待つ生活を続けることになる。1945年に戦局が悪化してベルリンの陥落が間近に迫った時、エヴァはヒトラーの反対を押し切り、ベルリンの総統地下壕にやって来た。ヒトラーは彼女に報いるため4月29日に結婚し、正式な夫婦となった。エヴァは周囲の人々に、とうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。翌日、ヒトラー夫妻は心中した。 
 
趣味 

 

芸術 / ヒトラーは「自分の本質は政治家ではなく芸術家である」と信じており、「(第一次世界大戦がなかったら)ドイツ一のとまでは行かないまでもドイツ有数の建築家になったと思う。」と答えたこともあった。そして気に入った芸術家(特に建築家)に対しては敬意を持って接した。閣僚陣では建築家でもある軍需相アルベルト・シュペーアへの態度が格別で、シュペーアと建築の話をし出すと何時間でも熱中し、その間は政治的決裁は全て後回しにされて側近を困らせた。ナチ党唯一の知識人を自認していた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとの話の中には、芸術の話題を散りばめてヒトラーを楽しませることに心を砕いた。ただし芸術的な感性はかつてウィーン美術アカデミー受験に再三失敗していたことからも明らかなように先進的とは言いがたく、また古典主義者としても洗練されてはいなかった。ナチ政権時代の芸術の多くは映画など近代的な分野での成功が多く、また工業デザインは生産性に適したモダンデザインが採用されており、必ずしもヒトラーの好みが反映されていない分野に集中した。逆にヒトラーが新古典主義様式の復活を謳って推進した絵画や彫刻などは殆ど名が残らなかった。現代における古典主義の再評価の流れにおいてすら、これらの粗悪な模倣品が顧みられることはあまりない。むしろ頽廃芸術展やバウハウスの強制閉鎖などドイツにおける芸術の自由を押し留める行為を繰り広げた。側近達とのピクニックや散歩を好み、戦局がかなり悪化してからもティータイムを取ることを欠かさなかった。
犬 / ヒトラーが愛犬家であったことは有名である。側近に「犬は忠実で主を最後まで裏切らない」と常々語っていた。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、「フクスル」と名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後盗まれたとの説があるが、ヒトラー自身が語るところによると大戦中陣から出たフクスルを追ってヒトラーが飛び出した直後、陣に砲弾が直撃してヒトラーは助かったが、フクスルは死んだという。ヒトラーは後年、犬が命を賭して助けてくれたと語っている。政治家に転身した後も、ヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬の「ブロンディ」である。ブロンディは数匹の子犬を産み、ヒトラーの側近くで飼われ続けたが、自殺前の1945年4月末に自殺用の青酸カリの効能を確認するため薬殺された。
乗用車 / ヒトラーは乗用車愛好家(カーマニア)でもあった。ナチスが弱小政党だった1920年代初頭にナチス党財政の金策に私財を投じて質素な生活を送っていた中で車に執着し、自分の資産で買える範囲として初めて購入した車が天蓋がない中古車であった(ただし、ヒトラー自身が車を運転をすることはなかった)。1933年にヒトラーは首相時代に自動車設計者のフェルディナント・ポルシェがナチスに送った高性能小型大衆車構想に興味を示して、ポルシェと会談を行った。その後に、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と共に、国民車構想計画を打ち出して具現化が進む。しかし、ヒトラーはポルシェに対して国民車について低価格、頑丈性、低燃費、高速性能、空冷など条件を突きつけたことで難航する(もっとも、ヒトラーの条件は価格を除けばポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していた)。しかし1938年には最終プロトタイプが完成し、1939年に工場建設も終了目前になり量産化目前になったが、第二次世界大戦勃発によって軍用車生産が優先となったため、この計画による大衆車生産が中止となった。しかし、この大衆車構想は戦争の中でも工業基盤が残り、最終プロトタイプは1945年に戦争が終了した後でフォルクスワーゲン・ビートルとなってドイツの国民車として浸透した。ビートルは2003年に生産終了となるまで65年の長期にわたって生産させ続ける伝説的大衆車となった。なお、ヒトラーがフォルクスワーゲンの試作車に乗っている写真が存在する。
競馬 / ヒトラーは並外れた競馬好きであった。競馬に熱を入れていたのはナチ党結成から政権を握るまでの間であるものの、彼が最期の直前まで軽種馬の血統改良を行っていたほどだった。ベルリンにあるホッペガルテン競馬場で、ヒトラーは自ら馬主となって、自分の馬を応援する姿がよく見られたという。政権を執ってから多忙になったヒトラーは、競馬場に行くことができなくなった代わりに、サラブレッドの血統改良に乗り出し、ヒトラーは「トラケーネンファーム」という一つの町位の大きさの大牧場を作ると、すぐさま300頭の肌馬(繁殖牝馬)に様々な種牡馬を配合し、サラブレッドの改良に力を注いでいる。この記録は、ヒトラーが残した競馬史における貴重な資料でもある。この試験でヒトラーはドイツに世界的な種牡馬がいないことに悩んだ末、ナチス・ドイツ軍が侵略した国から様々な種牡馬をトラケーネンファームに送り込んだ。この時の最大のターゲットとなったのはフランスで、フランスの至宝的名馬・ファリスをはじめ、多くの名種牡馬をドイツに運び込んだ。その際、ヒトラーはこれら種牡馬を重要美術品と位置付け、ヒトラーはフランスの美術品を彼の居城、ノイシュヴァンシュタイン城に集めたことは有名だが、サラブレッドを芸術品と認めたことも同じ発想からと思われる。1945年4月30日にヒトラーは愛妻・エヴァ・ブラウンとともに心中するが、彼が亡き後にナチス後任者になったカール・デーニッツは、多くの美術品同様に、種牡馬達も美術品と同格に扱い、フランス等に送り返す際に専任将校と小隊を置くほど周知徹底した。そしてヒトラー死後ちょうど50年後の1995年、東京競馬場で行われた第15回ジャパンカップで、ジャパンカップ史上初のドイツ産馬のランドが6番人気ながらジャパンカップを制するのだが、このランドの血統を紐解いていくと、かつてヒトラーのトラケーネンファームでの軽種馬育種であることが証明され、ヒトラーの長年の夢が半世紀を過ぎて競馬界に栄光を残した]。
ディズニー / 政治家になる前、画家を目指していたヒトラーはディズニー作品のファンであったことはあまり知られていない。政治家になった時も国税を遣い、「ディズニーを倒せ」とばかり国営アニメーションスタジオも立ち上げている。2008年2月23日付けの英テレグラフ紙の記事において、ヒトラーが描いたとされるディズニーキャラクターの水彩画4点がノルウェー北部の戦争博物館で発見されたと報じられた。この水彩画は1937年公開の『白雪姫』のキャラクターをスケッチしたもので、同館長はドイツのオークションで300ドルで落札。スケッチの一つには「A.H.」のイニシャルが明記されていた。
巨大な物への関心 / 画家を目指していた頃からヒトラーは、人物画に対して関心を抱かず、建築物を主題とした絵を数多く残している。その傾向は政治家になってもかわらず、建築家出身のシュペーアを寵愛したことからも窺える。また、ヒトラーは巨大な物に対し並々ならぬ執着心があり、首都ベルリンに巨大な建築物と道路の建設を計画したゲルマニア計画だけではなく、V2ロケットやドーラという大型で破壊力のある兵器の開発を求め、将兵が消耗している中、生産性が高く使い勝手の良い兵器を求めていた現場の声を無視していた。
資産
ヒトラーは『我が闘争』などで困窮したことをアピールしているが、第一次世界大戦後には軍や、ナチ党の党首となってからはパトロンの支援もあり、運転手付きの自動車を乗り回すなど、経済状態はかなり良かった。『我が闘争』の出版などで一定の財産ができると、税務当局はヒトラーに納税を促した。しかし、ヒトラーは1924年から1925年にかけては完全な無収入であったと弁明したほか、政治的な経費が掛かるとして、税務署の要求に従わなかった。1933年に首相になった時点でヒトラーが滞納していた額は40万ライヒスマルクに上る。
1933年2月、『フェルキッシャー・ベオバハター』は、ヒトラーが首相の給与を受け取っていないという記事を掲載し、財産より清貧さを求める人物としてアピールした。しかし、1934年の国家元首就任の際には彼の首相としての給与を扱う事務処理が行われており、ヒトラーは国家元首と首相としての給与を受け取るようになった。また、1933年の1年間には『我が闘争』の莫大な印税が発生し、ミュンヘン税務署は所得額の半分を控除して60万ライヒスマルクの納税を求めた。しかしヒトラーとナチ党は納税しようとしなかった。1934年12月、ミュンヘン税務署は総統は非課税となるという措置を行った。1935年には中央の税務当局とも合意が行われ、3月12日にヒトラーの名前は納税者リストから削除された。
ヒトラーの首相兼国家元首としての給与は年額4万5000ライヒスマルク程度であったが、自治体が新婚家庭に贈るために購入するなど、半ば強制的に販売された『我が闘争』の印税は、ヒトラー死亡時の時点の総額で800万ライヒスマルクに及ぶと見られている。その他に帝国郵政が印刷する自らの肖像切手の肖像使用料も受け取っていた。前任者であるヒンデンブルクはこうした使用料を受け取っていなかったが、ヒトラーは額面の1%に当たる金額、多い年には5000万ライヒスマルクを受け取っていた。ゲッベルスはその日記に「ヒトラーが大金を手にするだろう」と記述している。1943年にヒトラーは遺言書を書いているが、その際に処理するべき財産は550万ライヒスマルクに上っていた。さらにかつて大統領が裁量で利用できる基金が存在したが、ヒトラーはこれを会計検査院や国会の審査無しで使用することができた。また財界から拠出された金で設立されたドイツ産業のためのアドルフ・ヒトラー基金(ドイツ語版)も、ヒトラー自身の裁量で自由に使用できる性質の基金であり、事実上ヒトラーの個人財産であった。その総額は700万ライヒスマルクに及ぶ。さらにヒトラー山荘や総統官邸での暮らしは党や政府によって支弁されていた。こうした財産や基金からヒトラーは軍の将軍たちや党内外の有力者に「贈り物」を行い、彼らの忠誠を保とうとしていた。
ヒトラーの死後、財産はバイエルン州が管理することとなった。ヒトラーの妹パウラが相続権を主張し、1960年2月17日に不動産の3分の2を相続する決定が行われたが、まもなくパウラが死去したため、その後もバイエルン州が管理している。 
 
逸話 

 

生存説
ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン、北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちの証言がそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977(ドイツ語版)」のハインツ・シェッファー (Heinz Schäffer) 艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に公式に否定した。FBIは、ヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。
それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死亡した」という報道(1992年。フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。その他、東機関(TO諜報機関とも)のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもある。この生存説を主題にした作品の一つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。
俗説の一つに、「晩年のスターリンが『ヒトラーが生存しているのではないか』という噂が立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻した」というエピソードがある。2009年9月29日、アメリカのコネチカット大学の考古学者ニック・ベラントーニ (Nick Bellantoni) が、それまでヒトラーのものであるとされてきた頭蓋骨を鑑定し、頭蓋骨が女性としての特徴を示したためにDNA鑑定を行ったところ、ヒトラーのものではなく非常に若い女性の頭蓋骨であると結論付けられている。また、ヒトラーが自殺した時に座っていたソファーの断片に付着した血痕からDNAを抽出することに成功したが、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、同定に至っていない。ただし同年12月8日に先の報道についてロシア連邦保安庁 (FSB) は現存している顎の骨をコネチカット大学が入手したことはないと否定しているとインタファクス通信で報道された。
子供
ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部サン=カンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説がある。
この説は1978年6月にミュンヘン現代史研究所のヴェルナー・マーザーが発表した。マーザーはその子供を、現地でドイツ兵の私生児として知られていたジャン=マリー・ロレ (Jean-Marie Loret) と推定した。ロレは母親が死ぬ際に父親がヒトラーであると語ったと証言していた。ロレの証言によると、ロレが生まれた時にはヒトラーは目の負傷により後方に送られていたため、ロレの存在は彼に伝えられなかったとしている。また、ロレは第二次世界大戦時には対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、後は経済的支援を受けたと主張していた。
このニュースは世界中で話題となり、日本にもTBSのテレビ番組に出演するためにロレが訪れている。同年TBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子の父親』という書籍も発売されている。
しかし、ロレの叔母はロレの母親の相手であるドイツ兵はヒトラーではないと主張しており、ロレの母親が『ドイツ人の息子』と言っただけであるのに『ヒトラー』と勘違いしたとしている。その他多くの矛盾点も見つかり、マーザーの説を支持する者は少数派となった。1979年にアシャッフェンブルクで開かれた歴史討論会においてこの問題が議論された際、マーザーは当初は静かだったが、突然「ヒトラーに非嫡出子がいたかどうかが問題」だと宣言し、以降の議論において完全に沈黙した。マーザーは経済的な理由でロレとも衝突し、以降ロレに言及することは無くなった。ロレはその後自叙伝を出したが、1985年に死亡した。
2008年になりベルギーのジャーナリストジャン=ポール・ムルダー(オランダ語版)はヒトラーの血縁者のDNA、およびロレのDNAを専門機関に送り比較検査させた。その結果として「ロレはヒトラーの子供ではない」という結論を発表している。
この他に、エヴァ・ブラウンが書き残したとされるタイプ打ちの日記の記述から、1942年の夏にエヴァがドレスデンで男児を出産しており、その男児はこれまで実子がいないとされてきたヒトラーの子供ではないかとする説がある。 

 

ナチス・ドイツ 
アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍に敗北し、ナチス政権とともに滅亡した。
1933年1月30日、ヴァイマル共和政のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領により、ヒトラーはドイツ国首相に任命された。まもなく大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止したうえに、対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹殺し、ヒトラーを中心とする独裁体制を強固にした。一方で政府は組織的かつ協力的な組織ではなく、ヒトラーの情実及び権力を求めて闘争を行う党派の集合体であった。1934年8月2日のヒンデンブルク死後、ヒトラーは首相府及び大統領府並びに両権限を統合した上に個人として国家元首の権能を吸収し、名実ともにドイツの独裁者になった。国家元首となったヒトラーの地位は日本語で総統と呼ばれる。世界恐慌の後、ナチスは経済的安定を回復させ、多額の軍事支出及び混合経済を用いて大量失業を解消した(ナチス・ドイツの経済)。広範囲にわたる公共事業には、高速道路のアウトバーン建設が含まれていた。
人種主義、特に反ユダヤ主義は、同政権の中心的特徴であった。ゲルマン人 (北方人種) は、最も純粋なアーリア人種ひいては支配人種だと考えられた。自由主義者、社会主義者、共産主義者は、殺害、投獄又は国外追放された。キリスト教会もまた多くの指導者が投獄され、抑圧された。教育は人種主義見地により、人口政策、健康に重点が置かれた。女性の就業及び教育機会は奪われた。娯楽及び旅行は歓喜力行団のプログラムにより組織化された。宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは世論操作のため、映画、大規模集会、ヒトラーの洗脳演説を有効活用した。政府は芸術的表現を統制し、特定の芸術形式を奨励し、それ以外は頽廃芸術として禁止又は抑圧した。1936年夏季オリンピックにより国際舞台で、ドイツがナチ党の唱える理想国家である「第三帝国」であるとアピールされた。
ナチス・ドイツは次第に積極的な領土要求を行い、要求が満たされなければ戦争を行うと脅迫した。1938年及び1939年には、オーストリア及びチェコスロバキアを占拠した。ヒトラーはヨシフ・スターリンと条約を結び、1939年9月にポーランドに侵攻し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が勃発した。イタリア王国及び東欧諸国と同盟を結び(枢軸国)、1940年までにドイツはヨーロッパの大部分を制圧し、イギリスを脅かした。ポーランドのドイツ領に併合されなかった地域にはポーランド総督府が設立された。1941年のソビエト連邦へのドイツの侵攻開始後、ドイツとソ連は壮絶な独ソ戦の死闘を繰り広げた。東部占領地域は残忍な勢力下に置かれ、ヒトラーの統治に対する反対勢力は情け容赦なく抑圧された。この戦いの最中、ナチス・ドイツ政権の人種政策は、何百万ものユダヤ人及び好ましくないと見なされた生きるに値しない命を強制収容所及び絶滅収容所へ投獄、殺害したホロコーストにおいて頂点に達した。1943年にドイツは大規模な軍事的敗北を被った。1944年にはドイツへの大規模な爆撃が段階的に増大したことと、連合国軍の反攻によりドイツの勢力圏は縮小の一途をたどった。6月のフランスへの連合国の侵攻後、ドイツは東西の他の連合国によって制圧された。ベルリン攻防戦が行われる最中の1945年4月30日のヒトラーの自殺によってナチス政権は事実上崩壊し、5月8日ドイツ国防軍が署名した降伏文書が発効したことによって、ナチス・ドイツ体制は完全に終焉した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。終戦間際でのヒトラーの敗北への拒絶は、ドイツ国土の大規模な破壊と、さらなる犠牲を産むことになった(ネロ指令)。戦勝した連合国は非ナチ化政策を開始し、多くのナチス指導者の残党を戦争犯罪でニュルンベルク裁判の公判に付した。 
国名
正式な国名は、帝政時代およびヴァイマル共和政時代と同じく「ドイツ国(Deutsches Reich、ドイチェス・ライヒ)」であった。
1938年のオーストリア併合以降、民間などで「大ドイツ国(Großdeutsches Reich、グロースドイチェス・ライヒ)」、「大ドイツ(Großdeutschland)」等の呼称が使われ始め、グロースドイッチュラント師団など軍の部隊名にも用いられた。1943年6月24日には総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが公用文書「Erlass RK 7669 E」の中で初めて「大ドイツ国」の用語を用いた。同年10月24日以降は切手にも大ドイツ国の名称が印刷された。ただし、正式な国号変更は最後まで行われなかった。
「ナチス」という呼称は本来NSDAPの対立者による蔑称であったが、党が政権をとる前から世界に広く知られていた。英語圏では党の政権掌握後のドイツ国を指して「Nazi Germany」という呼称が用いられた。日本においても昭和8年(1933年)10月27日付の『大阪毎日新聞』で「ナチス独政府」という表記が見られ、昭和10年(1935年)4月28日付の『大阪朝日新聞』では「ナチス・ドイツ」の呼称が用いられている。昭和11年(1936年)5月31日付『大阪朝日新聞』の天声人語でも「ナチ・ドイツ」と表記され、戦時中の昭和18年(1943年)1月11日でも「ナチス・ドイツ」という語が用いられた。
またドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国、ドイツ帝国を継承する「理想国家」という意味で、「第三帝国(独: Drittes Reich、英: Third Reich)」という呼称も宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、後年ナチス政府はこの語の使用を禁じた。
現代ドイツにおいてはNazizeit(ナチ時代)、Nazi-Deutschland(ナチ・ドイツ)という用法もあるが、分断時代の西ドイツにおいても、「NASDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった。Nationalsozialismus、もしくはそれを略したNSがナチスの呼称として用いられる。またHitlerdeutschland(ヒトラー・ドイツ)という用法もある。 
 
年表 

 

1923年 ミュンヘン一揆。ナチ党は禁止されたが、後継組織が国会議席を獲得。
1928年 ナチ党として初の国政選挙。12議席を獲得。
1930年 この年の選挙でナチ党は第2党の地位を獲得。
1932年
  3月〜4月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。
  7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第1党となる。
  11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第1党の地位を保持
   する。
1933年
  1月30日 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・
   シュライヒャーに代わってアドルフ・ヒトラーを首相に任命。ナチ党、国家人民党な
   ど保守・右翼勢力の連立によるヒトラー内閣が成立。ナチ党の権力掌握課程(乗
   っ取り)の始まり。
  2月1日 新政府は大統領に要請して国会を解散。選挙戦に突入。
  2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることと
   なる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督
   を強く受けることとなる。強制的同一化の開始。ヘルマン・ゲーリングが無任所相
   兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。
  2月27日 国会議事堂放火事件発生。翌日、ヒトラーは緊急大統領令を布告させ、ワ
   イマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止され、ドイツ
   共産党員、ドイツ社会民主党員らが大量に逮捕される。
  3月5日 国会議員選挙執行。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。同日行わ
   れたプロイセン州議会選挙でもナチ党が躍進。
  3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し州政府を解
   体。この時点ですべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。
  3月12日 大統領令により、新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナ
   チ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。
  3月20日 最初の強制収容所、 ダッハウ強制収容所が設立される。
  3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国
   からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。ポツダムの日
  3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁
   体制が憲法的にも確立された。
  3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律(de)公布。各州
   議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自治権はほぼ
   停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が
   公布。国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州総督)が中央政府
   から各州政府に派遣される。
  4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。
  7月14日「政党新設禁止法」(de)公布。ナチ党以外の政党の存続・結成が禁止される。
  10月21日 ジュネーブ軍縮会議の決裂を理由として国際連盟脱退。
  12月1日「党と国家の統一を保障するための法律」公布。ナチ党と国家の一体化が定
   められる。
1934年
  1月16日 ドイツ・ポーランド不可侵条約を締結。
  1月30日 「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会
   が解散される。
  6月30日 「長いナイフの夜」事件。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど政敵が粛清
   される。
  8月1日 「国家元首に関する法律」(de)が閣議で定められる。
  8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に
   大統領職が統合されるとともに、「(指導者およびドイツ国首相)アドルフ・ヒトラー」個
   人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの
   地位を日本では「総統」と呼ぶ。
  8月19日 ドイツ国の国家元首に関する民族投票(ドイツ語版)。投票率95.7%、うち
   89.9%が賛成票を投じる。
1935年
  1月13日 ザール地方が住民投票によりドイツ領に復帰。
  5月16日 ドイツ再軍備宣言。
  9月15日 「ニュルンベルク法」制定
1936年
  3月7日 ラインラント進駐。
  8月1日 ベルリンオリンピック開幕
1937年
  11月5日 ヒトラーが軍幹部と外相ノイラートを集めた会議で戦争計画を語る。
   (ホスバッハ覚書)
1938年
  1月26日 ブロンベルク国防相を罷免。28日にはフリッチュ陸軍総司令官も罷免され、
   ナチ党による国防軍支配が強固になる(ブロンベルク罷免事件)
  3月13日 オーストリアを併合(アンシュルス)。
  9月29日 ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。
  11月9日 水晶の夜事件。
1939年
  3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、スロバキア共和国を
   チェコスロバキアから独立させる。
  3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護
   領とする(チェコスロバキア併合)。
  3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。
  8月23日 独ソ不可侵条約締結。
  9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。 9月3日にイギリス、4日にフランスが
   ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。
  10月1日までにポーランド全土を制圧。ポーランド総督府を設置。
1940年
  4月9日 ノルウェー、デンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦・ノルウェーの戦い)。デン
   マークは降伏し、保護国下に置かれる。5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィド
   クン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。
  5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始(ナチス・ドイツの
   フランス侵攻、オランダにおける戦い 1940年)。ルクセンブルクは占領併合される。
  5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。
  5月28日 ベルギー降伏。
  6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ、翌22日
   に独仏休戦協定締結。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権としてド
   イツの強い影響下に置かれる。
  9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。
1941年
  4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。
  4月17日 ユーゴスラビア制圧。セルビアを占領下に置き、クロアチアにはクロアチア独
   立国を建国し、保護国とする。
  4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。
  6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。
  12月11日 12月7日に日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに宣戦布告したこ
   とを受け、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。
1942年
  11月10日 連合軍のトーチ作戦に対抗するため、ヴィシー政権統治下のフランス南部
   の占領を開始(アントン作戦)
1943年
  2月2日 スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏
   (スターリングラードの戦い)
  6月24日 公用文書で「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)の国号が用いられ始める。
  7月25日 イタリア王国においてベニト・ムッソリーニが首相を解任、逮捕される。
  9月8日 イタリア王国が連合国に降伏。
  9月15日 グラン・サッソ襲撃により救出したムッソリーニを首班としてイタリア社会共和
   国をイタリア北部に成立させる。
  10月13日 イタリア王国がドイツに宣戦布告。
  10月24日 「大ドイツ国」の国号が切手によって使用され始める。
1944年
  3月8日 マルガレーテI作戦によりハンガリー王国を占領下に置く。
  6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。
  7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデタ
   ーが行われるが失敗に終わる。
  8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告
   (ルーマニア革命 (1944年))。
  9月9日 ブルガリア王国がドイツに宣戦布告。
  9月 西部戦線において連合軍がドイツ国境を越えて侵攻。占領地に連合軍による地
   方政府が樹立されはじめる。
  10月15日 パンツァーファウスト作戦により、ハンガリー王国を矢十字党の支配するハ
   ンガリー国民統一政府として傀儡化する。
1945年
  4月16日 ベルリンの戦い始まる。
  4月30日 ヒトラーが総統官邸地下壕において自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、
   首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。
  5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレン
   スブルク政府が活動を開始。
  5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。
  5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。
  5月8日 ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンのカルルスホルストにおいて、降伏
   文書の批准を行う。
  5月23日 デーニッツをはじめとするフレンスブルク政府閣僚が逮捕される。
  6月5日 ベルリン宣言によりドイツに中央政府が存在しないことが確認され、ドイツ国
   の歴史に終止符が打たれる。統合的な占領行政が開始(連合軍軍政期)。
  7月5日 ドイツの統治を担当する連合国管理理事会設置。 
 
歴史 

 

政権掌握
ナチスはヒトラー内閣成立直前の1932年の二度の国会選挙で最大の得票を得たが、議会においては単独では過半数を獲得することはできなかった。同年11月の選挙でナチスは34議席を失ったが、第1党の地位は保持した。一方ドイツ共産党は11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第1党となった。これに脅威を感じた保守派と財界は以後、ナチスへの協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチスへの献金も再開された。
1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて政権を獲得した。同時にナチス党幹部であるヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。ゲーリングはプロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより多くのナチスの政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として強制収容所に収容された。
非常権限掌握 / ヒトラーは組閣後ただちに総選挙を行ったが、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。選挙では共産党議員も多数当選したが、選挙後に共産党は非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消された。ドイツ中央党など中道政党の賛成も得て全権委任法を制定し、一党独裁体制を確立した。その後、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされ、ナチス党は国家と不可分の一体であるとされた。1934年6月には突撃隊幕僚長エルンスト・レームをはじめとする党内の不満分子やナチス党に対する反対者を非合法手段で逮捕・処刑した(長いナイフの夜)。1934年8月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは従来の首相職に加えて国家元首の機能を吸収し、国民投票によってドイツ国民により賛同された。これ以降のヒトラーは指導者兼首相、日本語では総統と呼ばれる。
支配の強化
1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。一方で、ユダヤ人、ロマのような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。同年には国家の威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。
外交においては“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連を反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。アジアにおいてはリッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から国益の似通う日本へと友好国を切り替えた。1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。
領土拡張政策
1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。
この時ヒトラーが英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した(チェコスロバキア併合)。オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンツィヒ回廊であった。ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。
第二次世界大戦
ヒトラーはダンツィヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結からちょうど1週間後の1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ侵攻した。ヒトラーは、イギリスとフランスは参戦しないだろうと高をくくっていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いてまったく生じなかった。西部戦線におけるこの状態は翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。
1940年の春には、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破し、いっきにフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。
イギリスを除く西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦としてブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北。イギリス本土上陸は中止に追い込まれた。その後は、貧弱な同盟国であるイタリアの救援として北アフリカ戦線、バルカン半島戦線に部隊を派遣。バルカン半島からギリシャにかけての地域を完全に制圧し、北アフリカでも物量に勝るイギリス軍を一時アレクサンドリア近辺まで追い込んだ。
そして、1941年6月22日、突如不可侵条約を破棄しソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連への攻撃は、バトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じていたヒトラーの、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」という考えのもと始められたが、ドイツの「生存圏」Lebensraum を東方に拡張する目的もあった(東方生存圏)。ソ連軍は完全に不意を突かれた形となり、大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もありドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となりヒトラーが当初もくろんだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。ナチスは当初、共産主義の圧制下にあったウクライナやバルト諸国などで一時的に地元住民から歓迎され、ソビエトから離反したロシア解放軍やコサックが味方するなどの効果をもたらした。しかしドイツは占領地において植民地化と搾取を行ったこともあり、これら占領地で発生した独立運動などに関してドイツ軍は武力で抑え込む姿勢に出たため住民感情の反発を招き、パルチザン活動が激化することとなった。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶこの戦争で1,100万人の赤軍兵士のほか、およそ1,400万人の市民が死んだ。
日本軍による真珠湾攻撃の3日後、ヒトラーは対米宣戦布告を行った。1942年夏、ドイツ軍はブラウ作戦を発動しソ連南部に進攻、石油鉱物資源が豊富なカフカス・コーカサス地方のスターリングラードまで進出した。しかしスターリングラード攻防戦は長期化し、冬将軍の再来により補給が途絶えたドイツ軍はソ連軍に包囲され、翌1943年2月、スターリングラードの第6軍は降伏。その後、7月のクルスクの戦いを最後にドイツ軍が東部戦線において攻勢に回ることはなかった。クルスクでの戦いの最中には、イタリアのシチリア島に連合軍が上陸。翌月にはイタリア本土に連合軍が上陸し、9月にはイタリアは連合軍に降伏した。直後にドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを特殊部隊で救出し、イタリア北部を制圧し傀儡のイタリア社会共和国を樹立させた。これにより、イタリア戦線が開始された。
1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ中央軍集団が壊滅。7月にはヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが失敗に終わった。東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニア・ブルガリア・フィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。
各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗。1945年に入ると連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始された。30日にヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となった(フレンスブルク政府)。5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月7日、デーニッツにより権限を授けられた国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードル大将が連合国に対する降伏文書に署名し、翌5月8日に最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が批准文書に署名した。すでにナチス党は事実上崩壊しており、連合国も中央政府の存在を認めなかったため(ベルリン宣言 (1945年))、ナチス・ドイツの政府は実態として消滅しており、フレンスブルク政府も閣僚が逮捕されたことによって終焉を迎えた。 
ナチス・ドイツの思想
ナチズムにおいては「アーリア人種こそが世界を支配するに値する人種である」というアーリア至上主義が用いられ、その中でも容姿端麗で知能が高く、運動神経の優れた者が最もアーリア人種的であるとされた。この思想を肯定する右派の政治結社トゥーレ協会やゲルマン騎士団などが党黎明期より大きな権威を持っていた。 また、頭脳の優れた超人こそが大衆を支配すべきだと信じられ、超人を生み出すために数々の人体実験を行った。
一方、反ユダヤ・反ロスチャイルド主義が強固であり、ウィーンのロスチャイルド家はオーストリア併合の際にナチスの家宅捜索を受け財産を没収され、アメリカへ亡命を余儀なくされることになる。
また、共産主義はユダヤの陰謀であると主張し、東方生存圏の構想へと結びつくことになった。これらがニュルンベルク法やホロコーストに繋がったのである。 
 
政治 

 

ナチス・ドイツの政治は原則的には、ナチ党のイデオロギーである指導者原理によるものであった。一人の指導者に被指導者層が従う、つまり民族の指導者であるナチ党、その指導者であるヒトラーに民族すべてが従うというこの原理は、政治分野だけでなく経済や市民生活全てに適用された。ヒトラーの地位である指導者(Führer)は法律で定義されたものではなく、国家や法の上に立つものであるとされた。このため民族共同体の構成員である国民は、指導者の意思に服従し、忠誠を誓うことが義務であるとされた。
この体制では明文化された法よりもヒトラーの意思に従うことこそが重要であるとされ、合法的であるとされた。一方でヒトラーは下位の指導者に大幅な自由裁量権を認めており、社会ダーウィン主義に基づく権力闘争を是認・奨励していた。このためヒトラーの意思を体現すると称する各指導者同士の権力闘争が頻発し、権力的アナーキーと評される状態となった。
強制的同一化
ナチス時代の特色ある政策の一つは政治や社会全体を均質化しようとするGleichschaltung、「強制的同一化」(強制的同質化)と呼ばれる運動である。
国民啓蒙・宣伝省が設置された日の会見でヨーゼフ・ゲッベルスが「政府と民族全体の強制的同一化の実現」が同省の目的であると述べたように、ドイツ民族にもナチズムに基づく同一化が求められた。そのためナチ党以外の政党、労働組合や私的なクラブは次々に排除され、禁止された。代わりに人々は国家や党の主導によるイベントや集会に動員・参加することが義務づけられ、他の事象に興味を持つ時間を奪われていった。
ナチ党
1933年7月6日までにナチ党以外の既存政党はすべて解散に追い込まれ、ヒトラーが「党が今や国家となったのだ」と言明する事態となった。7月14日には政党新設禁止法が公布され、唯一の政党であるナチ党以外の政党の設立・存続が禁止された。12月1日には「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、党は国家と不可分に結ばれる」ことが法律で定められた(党と国家の統一を保障するための法律)。この法律では党は公法人であるとされたが、1935年4月19日の「統一法施行令」では「共同体」(Gemeinschaft)と定義し直された。しかしこれらの条文も1942年12月12日の「ナチス党の法的地位に関する指導者命令」によって削除された。党と国家の役割を定義する試みはしばしば行われたが、結局のところは両者の境界は曖昧なままであった。この党の状態をマルティン・ボルマンは「ナチス党の地位は法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」としている。
一方でナチ党の世界観において、党は国家と同様、指導者の下にあって、民族指導を実現する一つの手段・装置であるとされたが、党は国家より優位に立つ存在であった。ラインハルト・ヘーン(de)は党は国家より先に立つ第一次的存在であるとし、「国家の存在理由は、官庁・官僚装置を使って、党により与えられた大きな方針を実現し、党の負担を軽減する」存在であると説明している。
統治機構
国内政治の機構もナチズムの影響を強く受けた。ヴァイマル共和政の時代では内閣は合議機関であったが、やがて形式だけのものとなり、権力を持つものは一部の大臣のみとなった。ドイツ帝国以来の官僚機構と並立して党の機関も権力の一部となり、時には優位に立つこともあった。党の地方区分であった大管区は公的なものとなり、大管区指導者は地方の長として大きな権限をふるった。また親衛隊の勢力拡大は大きく、国内の治安権力を掌握した最有力組織の一つとなった。またナチス時代初期の外交分野では、外務省のほか党の外交政策局、さらにリッベントロップの個人事務所(「リッベントロップ事務所」Büro Ribbentrop、後に「リッベントロップ機関」Dienststelle Ribbentrop)が並立し、それぞれ別個の外交活動を行うことさえあった。
またナチ党はヴァイマル共和政下の強い地方自治は阻害要因でしかないと考えており、ヒトラー内閣が成立すると州の自治権は次第に奪われていった。中央政府から国家代理官や国家弁務官が送り込まれ、中央政府の権限が強化される一方で、地方議会は解散に追い込まれ、州政府は形骸化した。またナチ党の地方組織大管区が実質的な地方区分となり、大管区指導者が地方の支配者となった。
対外政策
ヒトラーはドイツ民族を養うためには現状の領土では不可能であると考えており、東ヨーロッパにおける東方生存圏の獲得を主張していた。軍事力の充実もこの目的を達成するためのものであった。1938年11月にはオーストリアとチェコスロバキアに対する侵略政策を軍首脳に明かしている(ホスバッハ覚書)。この思想に基づいてポーランド、チェコスロバキア、ソ連に対する侵略政策を進めた。また、ヒムラーなどはヨーロッパ全土のゲルマン民族を、ドイツ民族の指導の下に統括する大ゲルマン帝国(Großgermanisches Reich)という構想も持っていた。
一方で東アジア外交では、中国をとるか日本をとるかという路線対立が政軍内にあり、日本接近派が主導権を握る1939年頃まで続いた。
経済政策
しばしばナチスは経済分野において高い能力を示したと評されることがあるが、ナチズムがドイツの経済回復に与えた理論的影響はほとんど無かった。ヒトラーは「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである」と言っているように、『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎く、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。またナチ党の経済理論家であったゴットフリート・フェーダーやグレゴール・シュトラッサーは早い段階で失脚しており、影響を与えることはできなかった。
1933年2月1日、ヒトラーは4年以内に「経済再建と失業問題の解決」を実現する「二つの偉大な四カ年計画(ドイツ語: Vierjahresplan)によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。一方でヒトラーは1923年のインフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトをドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)総裁に迎えた。後に経済大臣になったシャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるパーペン、シュライヒャー内閣時代の計画を継承し、公共事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。
一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社にライヒスバンクが保障する手形を発行させる方式で再軍備の資金を調達した。このメフォ手形の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。
一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(ドイツ語: Großraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を施行して軍備拡張政策を実行する。
外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングを指導者とする第二次四カ年計画を開始させ、経済省から独立した四カ年計画庁が経済面において大きな権力をふるうことになった。第二次四カ年計画により、1937年には人員需要が失業者を上回り、ほぼ完全雇用が達成された。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。またシャハトの失脚後にはユダヤ人・ユダヤ系とされた企業から資本・財産を奪うアーリア化の措置が進行している。
第二次世界大戦が勃発すると、軍事支出は当時のヨーロッパでは最高の割合を示すようになり、1944年にはドイツ経済のほとんどを占めるようになった。またフランスなどの占領地からの収奪、捕虜や外国人の強制労働が、ドイツ経済において大きな割合を占めるようになった。しかしこの体制は経済封鎖と占領地失陥によってほころびだし、1945年の敗戦と同時に、戦争経済は崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。
自動車政策
カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップやダイムラー・ベンツ、メッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。
環境政策
ナチス・ドイツの中央集権的な機構により、環境保護・動物保護の政策は大きく進展し、後のドイツ連邦共和国に受け継がれる保護法制が成立した。しかしこれらも軍需が優先され、実態としては不十分なものであった。
農業・食糧政策
1933年9月に食糧農業相にリヒャルト・ヴァルター・ダレが就任して以降、ドイツの農業にも統制の手が入った。9月12日にはライヒ食糧団(de:Reichsnährstand)が結成され、ナチス党の農業全国指導者でもあるダレが農業組合、生産者、加工精製業者、取引業者間の利害調整を行うことになった。9月23日にはライヒ農場世襲法が制定され、農民の所有地を『世襲農地』として認定し、譲渡・負担設定・賃貸を禁止した。またこの中で農民(Bauer)はドイツ国籍を持ち、ドイツ民族もしくは同等の血統を持つことを要求された。これはダレの提唱した『血と土』理論に基づくものであり、農民は世襲農地から離れることが出来なくなった(ナチス・ドイツの農業と農政(de))。
治安政策
1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に党の最有力幹部であるヘルマン・ゲーリングを任じた(のちプロイセン州首相)。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に予備警察官として突撃隊と親衛隊を加えさせた。間もなく国会議事堂放火事件後の緊急大統領令により、「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕する権限が与えられた。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。4月26日には政治警察ゲシュタポが設置され、逮捕された人々を強制収容所へ送るようになった。
1934年4月、ゲーリングはゲシュタポに対する指揮権を親衛隊(SS)のハインリヒ・ヒムラーに譲った。ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒは中央集権化とあわせて各州の警察権力を親衛隊の下で一元化しようとした。ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任じられ、やがて内相をも兼ねることによってドイツ警察・治安行政の支配者となった。ドイツ警察を一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をハイドリヒにそれぞれ委ねた。1938年、保安警察と親衛隊諜報組織SDは統合され、国家保安本部が成立した。国家保安本部には長官ハイドリヒ以下、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)、アルトゥール・ネーベ(クリポ局長)、オットー・オーレンドルフ(SD国内諜報局長)、ヴァルター・シェレンベルク(SD国外諜報局長)など悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。国家保安本部は日夜国民を監視し、親衛隊の支配が全国に浸透していった。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなった。1943年にヒムラーは内相に就任し、完全なドイツ警察の支配者となった。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となり、今まで権限が及ばなかった国防軍内部への支配権も手に入れた。
強制収容所 / 親衛隊はドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させた。政権掌握直後の1933年にははやくもバイエルン州でダッハウ強制収容所が設置され、さらに1936年にはベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはヴァイマール郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されている。その後も続々と収容所が建てられた。第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名である。また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)があった。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあった「政治的敵」を殺害していた部隊である。確かに一面ではパルチザン(ゲリラ)狩りの側面もあったが、国家保安本部への銃殺報告書に「ユダヤ人」などと人種を理由にした項目が設けられているため、一般にはゲリラ掃討部隊とは認められておらず、ホロコーストの一翼を担う部隊であったとされている。
ナチス刑法
ナチス時代の刑法は意思刑法・行為者刑法であり、ドイツ民族の中に存在する具体的秩序に反抗する意思と人格に対して、国家社会主義的(全体主義的)立場から、応報と贖罪を犯罪者に対して要求するものであった。犯罪者は、「民族の直感」から判断されるところの悪い意思を有しているという理由により、反抗的人格を形成したことに対する報復を国家から受ける。後に西ドイツ基本法において罪刑法定主義が明記された理由の一つである。
社会政策
ナチス政権は人種主義を強く打ち出し、アーリア人種の優秀さを強調していた。このため人種、社会、文化的清浄を求めて社会のすべての面の政治的支配を行った。優秀なドイツ人を具現化するためとしてスポーツを推進し、ベルリン・オリンピックを国威高揚に利用した。また禁煙運動にも力を入れた。また芸術面では抽象美術および前衛芸術は博物館から閉め出され、「退廃芸術」として嘲られた。
迫害
ナチスはユダヤ人、ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者や障害者など彼らの価値観で人種を汚す者と考えられた人々の迫害を大規模に行ったことで知られている。
ユダヤ人・ロマ迫害政策 / 政権獲得間もない頃から、公職にあったユダヤ人達はその地位を追われ始めた。またナチ党の突撃隊による1935年9月15日のニュルンベルク党大会の最中、国会でニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「帝国市民法」)を公布した。この中でアーリア人とユダヤ人の間の結婚や性交は禁止され、ユダヤ人の公民権は事実上否定された。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。1935年にニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。また四カ年計画全権となったゲーリングの指導の下、アーリア化と呼ばれるユダヤ人からの経済収奪が実行された。ユダヤ人、ユダヤ経営とされた企業の資産は没収され、ドイツ人達に引き渡された。1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化していった。
障害者への迫害 / 1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4作戦によって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者人種(ドイツ語版)(ドイツ語: Herrenvolk)としての清浄を維持する」とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。
ホロコースト / 大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終的解決策」(ドイツ語: Endlösung der Judenfrage)が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者、身体障害者、スラブ人、政治犯、エホバの証人の信者を系統的に虐殺する計画が立てられ、実行された。また、戦争捕虜や占領国国民を含む1,000万人以上が強制労働に従事させられ、劣悪な環境下に置かれた人々が次々と犠牲になった。これら大戦中に行われた虐待と大量虐殺はホロコースト(ヘブライ語ではショアー (Shoah)) と呼ばれる。ナチスは婉曲的に「最終解決策(Endlösung)」 という用語を使用した。
ナチスとキリスト教
ナチ党はその綱領でキリスト教については「積極的なキリスト教」の立場を求めるとしており、自らのイデオロギーに基づいた存在であることを求めた。このためナチス政権成立後のキリスト教会の対応は、積極的に追従するものから、反発するものまで様々であった。
ナチ党の政権獲得後のドイツでカトリック教会に対するナチスの暴力的行為が問題となっていた。これを終止させるため、ローマ教皇庁は1933年7月20日にドイツ政府とライヒスコンコルダート(政教条約)を締結した。バチカンの首席枢機卿パチェッリ枢機卿とドイツ副首相フランツ・フォン・パーペンが署名したこの条約は、教会が学校と教育について自由を保持するかわりに政治活動を断念するものだった。
ヒトラーは条約批准直前の閣議で、このコンコルダートが党の道徳的公認になるとの発言をしていた。これに対しかつて教会法専門の研究で学位取得し、教皇ピウス10世による教会法大全の起草・編纂を務めたパチェッリは後の7月26日、27日バチカンの日刊紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」での声明で、コンコルダート批准が道徳的同意というヒトラーの見解を断固否定し、教会法大全に基づく教会ヒエラルキーの完全かつ全面的承認および受容を意義とすると激しく反論した。しかしこの事が仇となり、締結後もナチス側の暴力的行為は治まるどころか増す一方で、教会や教会の学校に思想的規制および介入するなど条約を無視した行為が頻発するようになった。教会側はナチズムの有力理論家アルフレート・ローゼンベルクの理論を批判する回勅(ミット・ブレネンダー・ゾルゲ)を出すなど抵抗もしたが、批判的な聖職者は強制収容所に入れられることもあった。
第二次世界大戦直前にパチェッリは教皇ピウス12世として即位した。ピウス12世はナチスによるユダヤ人迫害等の戦争犯罪に対して沈黙したため、終戦後に迫害を「黙認した」として非難され続けた。しかし後の調査により、大戦中に教皇ピウス12世からアメリカ合衆国のルーズベルト大統領宛に、ナチスを非難する極秘の書簡が送られていたという事実があったことや、ドイツのイタリア占領時に多くのユダヤ人の亡命を手助けしたことが明らかになった。このため、ピウス12世はイスラエル政府から諸国民の中の正義の人に認定されている。また、教皇ヨハネ・パウロ2世は後にユダヤ人迫害時のカトリック教会の対応について謝罪の声明を述べている。一方でナチス時代に締結されたライヒスコンコルダートは、現在でもドイツとバチカン間の条約として有効性を保っている。
プロテスタント側は元来プロイセン支持の保守派が多く、大部分がナチスに忠誠を誓った。ドイツ的キリスト者(de:Deutsche Christen)などナチズムとキリスト教を合体させる組織も作られた一方でマルティン・ニーメラー、ディートリヒ・ボンヘッファーをはじめとする牧師等は告白教会という地下組織を作り、密かに反ナチ運動を続けた。 
戦後
ポツダム会議によってドイツ本土は米英仏ソの連合国4ヶ国に分割統治され、ドイツの国境は西に大きく移動され、旧領土の三分の一を失った。多くがポーランド領となり、東プロイセンについては半分はソ連に併合された。チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニアおよびハンガリーといった地域での少数民族であった約1,000万人のドイツ人は追放された。1949年まで連合国による軍政が敷かれた後(連合軍軍政期)、アメリカ合衆国、イギリス、フランスの西側占領地域はドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)となり、東側のソ連占領地域は共産主義国家のドイツ民主共和国になった。
残されたヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判で裁かれることになった。また、独立回復後の西ドイツ政府により非ナチ化裁判が行われ、ナチス党関係者やヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールなどが裁かれた。一方、旧東ドイツでは西ドイツ以上に強い非ナチ化が行われる一方で、国家人民軍においては徹底されず、旧軍時代に親ナチ的態度を示していた者が将官に抜擢される例があった。
また、ナチス式敬礼などナチズムを連想させる行為は民衆扇動罪で逮捕・処罰の対象と規定された。オーストリアでも同様の法律があり、取り締まりの対象になっている。 戦後のドイツでは憲法で「戦う民主主義」を謳っており、民主主義にとっては脅威と見なされる団体・結社に対しては解散を命じることが可能となっている(1952年には元国防軍少将のオットー・エルンスト・レーマーにより設立されたドイツ社会主義帝国党がドイツ共産党と共に活動禁止を言い渡されている)。
ナチス占領下にあった地域でも、ナチス高官の愛人を持っていたココ・シャネルなど、ナチス党関係者と関係のあったドイツの犯罪行為に加担した政治家・芸術家・実業家も戦後罪を問われ、裁判を受けたもの、活動を自粛せざるをえなくなった者などが存在した。しかし逃亡したナチス戦犯もおり、これらはサイモン・ヴィーゼンタールなどのナチ・ハンターによって追求が行われ続けている。
すべての非ファシスト・ヨーロッパ諸国ではナチ党およびファシスト党の元構成員を罰する法律が確立された。また、連合軍占領地域でのナチ党員やドイツ兵の子供に対する統制されない処罰が行われた(参照:ナチの子供)。終戦前に逃亡した者も、国際手配されて最終的に処刑された。 
 

 

東条英機内閣 
1941年10月〜44年の7月、陸軍大将東条英機が首相・陸将・内相を兼ねた内閣。1941年12月の真珠湾攻撃によって太平洋戦争開戦に踏み切り、日本の敗北を招いた。東条英機は敗戦後、東京国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった。
1941年10月、日米交渉の行き詰まりで辞職した近衛文麿内閣に替わって内閣を組織した。現役の陸軍大将である東条英機が首相、陸軍大臣、内大臣を兼ねていた。後に東条英機は軍需相・参謀総長をも兼務し、政治・戦争指導・軍務のすべてを握る独裁的立場に立った。
太平洋戦争の開戦
成立直後の11月5日に、東条首相は御前会議を招集、11月末までに日米交渉がまとまらなかったら、アメリカとの戦争に踏み切ることを決定し、11月末にアメリカ側の最終提案(ハル=ノート)を受けて、それを拒否することを決意、12月8日の真珠湾攻撃を決行して太平洋戦争(日本では大東亜戦争と称した)を開戦させた。日本軍はハワイに続いてマレー、タイ、シンガポール、フィリピンと連勝を重ね、42年前半まで有利な戦争を展開した。
国内では42年に翼賛選挙を実施して戦争継続体制を強化した。43年には大東亜会議を東京で開催し、アジアの征服地の日本軍政下にある諸国の代表を招集し、アジア解放という戦争目的を大々的に表明した。
しかし、42年のミッドウェー海戦での敗北を境にして、戦局は転換し、連合国軍の反撃が開始され、44年7月にサイパンが陥落して首都圏がアメリカ軍の空爆にさらされるようになると、その独裁的な政治・軍事指導に反発が強まり、辞任に追い込まれた。
東京裁判
東条英機は1941年10月に首相となり、陸将・内相を兼任して、12月8日の太平洋戦争開戦に踏み切った。その後、文相・商工相・軍需相を兼ねて権力の集中を図り、44年には参謀総長も兼任、軍事独裁体制を強めた。この間、大東亜会議を開催し、戦時態勢の強化に努めたが戦局は次第に悪化、44年6月、サイパン島が陥落すると昭和天皇の周辺の重臣から見放され、辞任に追い込まれた。
戦後は自決に失敗した後、A級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け、48年に処刑された。 
大戦時の東条首相
終戦から今年で72年。なぜ日本が無謀な戦争を行ったかの問いに対しては、今もさまざまな研究が続けられている。特に大陸進出・対米戦争を主導し、戦前における最大の政治勢力であった「日本陸軍」の分析は、現代の企業経営などにも通じるヒントがいくつもありそうだ。当時の陸軍トップだった東条英機首相(陸軍大将、1884~1948)に関する最新分析の成果を、戸部良一帝京大教授の「自壊の病理」から探った。
「プロの軍人」として優秀さを発揮
東条首相は太平洋戦争(1941~45)開戦時の首相・陸相・内相を務め、開戦後には軍需相、後には陸軍参謀総長も兼任した。このため戦後はA級戦犯として極東軍事裁判で裁かれ、現在も日本敗戦の悲劇を招いた張本人、無能な独裁者と語られることが圧倒的に多い。しかし今日では無能どころか優秀な実務型指導者だという評価が出てきている。独裁的でもなかった。ただ戸部教授は「逆にリーダーシップと戦略ビジョンが欠けていたことが重大な欠陥だった」と分析する。
東条が極めて優秀な軍務官僚であったことはよく知られている。会議では3つの手帳を使ってメモを作成し、的確な示唆や質問を投げかけ「カミソリ東条」の異名を取った。部下からの報告をよく聞き、全ての文書に目を通して翌朝までに決済したという。週に何度かは陸相官邸で執務し、参謀総長を兼任した時は「大本営の事務が早くなった」との逸話が残ったほどだった。無用の来訪客と夜の宴会は極力避け、毎日夜の12時近くまで仕事を続けた。日曜日の午前中も首相官邸で書類整理するなどしていた。もし対米戦争という非常事態でなければ「東条は十分に政治指導が可能であったかもしれない」。
実務処理だけでなく、軍事面でも首相時代の東条は「客観的・的確で、現役プロ軍人としての識見がよく反映されていた」と戸部教授は評価する。戦場の指揮官としては関東軍参謀長時代、対中戦争初期に通称「東条兵団」を率いてチャハル作戦を戦った。太平洋戦争では現実的・合理的な判断を見せた。米本土への上陸などの完全勝利は不可能と見定めており、目標を米国の戦争継続の意志をくじくことにおいた。
真珠湾攻撃やマレー攻略など初期の連戦連勝後には、資源の確保と戦線の整理を図って「長期不敗態勢」の構築を目指した。さらにガダルカナル戦線での徹底抗戦に疑問を示し、多くの犠牲を出す前にインパール作戦中止の判断に傾いた。ただ示唆や質問の投げかけにとどまり「自ら積極的にリーダーシップを果たすことはなかった」と戸部教授は指摘する。そのため作戦中止の判断が遅れ、戦況の悪化で戦地の犠牲が増えていった。軍事問題は政治から完全に独立しているという「統帥権」が制度的に確立していたためだ。
制度を乗り越えようとする発想なく
英国の歴史家A・テイラー氏は第2次世界大戦の指導者を描いた著作の中でヒトラー総統(独)、ムッソリーニ総統(伊)、チャーチル首相(英)、ルーズベルト大統領(米)、スターリン首相(旧ソ連)を取り上げているのに対し、日本については「戦争指導者不明」としたという。これら5人の中には東条のような現役のプロ軍人はいない。しかもチャーチルやルーズベルトらがしばしば作戦計画の立案や実施に口を出したのに対し(そのための失敗もあった)、第2次世界大戦のリーダーの中で最も軍事問題に精通していたはずの東条は統帥権の制約から指示することができなかった。
「統帥権」と、陸海軍大臣は現役の将官でなければならないとする「軍部大臣現役武官制」を利用して、昭和期に陸軍が強大な政治権力を獲得したことはよく知られている。当時の首相は作戦計画を指導できず、事前の説明すら受けられなかった。この制度に陸軍代表であるはずの東条も縛られることになった。東条自身が開戦時の真珠湾攻撃を事前に知り得たのは、兼任していた陸相が大本営の一員であったからだという。それも1週間前に過ぎなかった。「作戦計画の情報はかろうじて知り得ても立案や指導はできなかった」。
ただ統帥権だけが理由ではないと戸部教授は続ける。統帥権は、もともとは明治の民権運動などの影響を避けるために作られたもので、戦争指導の指針ではなかったからだ。日清戦争では伊藤博文首相や陸奥宗光外相、日露戦争では桂太郎首相が平気で大本営に列席し、作戦にも口を出した。「明治のリーダーたちは制度成立の過程をよく承知していた」と戸部教授。だから統帥権に拘束されず柔軟に対応できた。一方、「東条には制度を乗り越えようとする発想が生まれなかった」としている。昭和期の軍人は統帥権という制度の枠内で育てられ保障されていた面があり、内面的心理からも難しかったかもしれない。
戦力ビジョンの不在がリーダーシップの欠如招く
東条がリーダーシップを発揮できなかったもう一つの要因として「戦略ビジョンの不在」を戸部教授は挙げる。戦争指導には1戦争目的の確立2進軍限界の調整3戦争終結の構想――が急所のエッセンスになるという。東条自身も十分に承知していたが自ら想像し一国の方針とすることはできなかった。1では欧米列強からの「アジア解放」を掲げ東条自身も強い関心を示したが、繰り返し「民主主義の擁護」を唱えるチャーチルやルーズベルトには全く及ばなかった。戸部教授は「『自存自衛』だけでは戦わざるを得ない理由は分かるものの、世界戦争を戦う上では理念的性格が弱かった」としている。進軍限界の調整も、海軍の防衛範囲を越えての積極決戦策を抑えきれなかった。
終戦構想としては「一撃和平」論がある。しかし戸部教授は「一撃を与えれば相手が妥協するという発想自体に問題があった」と指摘する。第2次世界大戦の主要国の中では、国力の全てを傾ける苛烈な総力戦だった第1次世界大戦の実態を、日本だけが経験していない。このため戦争理念の配慮不足や終戦構想への甘い期待などが目立つ。戦略ビジョンをつくり出せなかったのは東条ひとりではなく、日本の指導層全体が経験不足だったといえる。明確なビジョンがなければリーダーシップの発揮も難しい。「東条がいかに有能であっても弱気をいさめる精神論を語り、部下の意見具申を待つ以外に方策がなかった」(戸部教授)。側近だった佐藤賢了・元陸軍軍務局長は戦後「東条さんは決して独裁者でなく、その素質も備えていない。ほんとうの独裁者でも、自己の責任におびえることは確かにあり、そこで神仏に頼ろうとする例は少なくない。東條さんはその頼りを天皇陛下に求めた」と語っている。
戸部教授は日本陸軍の研究を継承して、1980年代の国際政治を分析した共著「国家経営の本質」もまとめている。現代のリーダーシップに必要な要素として1理想的プラグマティズム2歴史的構想力の2つを挙げる。理想を現実の中に求めていくのではなく、まず現実を分析し理想の実現可能性を考える。さらに過去の歴史から未来を構想し、未来に向かう「物語」を創造して国民に語っていくことが重要だと強調している。日本陸軍や太平洋戦争に関する研究は、過去への反省だけではなく具体的な未来の構想につなげていくものとして今後も進展していくだろう。  
東條英機・諸話
東條英機の性格
会議中は記録を欠かさないメモ魔で、秀才型の性格だった。 頑固で信じるものは妄信なほど揺ぎ無く、邪魔するものは排除するという非常に生真面目な人物。しかしその反面、従順な部下や弱者にはとてつもなく優しく、涙もろいという極端な性格だった。
首相任期中のある時、国民に食料配給が行き届いているか、自らゴミ箱をあさって確かめたという。これは反東條派の揶揄の対象になった。
人を見る目がなく、ゴマスリの上手い部下を好んだという。花谷正・牟田口廉也・富永恭次ら史上稀なる愚将(彼らは「東條の腰巾着」と陰口された)を生んだ元凶と言われる。その中でも特に東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称されることがある(三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二 四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄)。
自らの財に関しては清廉潔白で、汚職や金権政治という類の話は一切見えてこない。戦後すぐ、東條を悪役にするために汚職の罪を着せられた事はあるが、これも冤罪である。
息子達は厳しく育てたが、娘に対しては子煩悩だったという。ちなみに次男は三菱航空機名古屋製作所で零戦の設計に携わり、戦後はYS-11開発のリーダーを務めた東條輝雄氏。
ハイカラ な文化人的な一面もあり、当時はマイナーだったシュークリームをいたく気に入っていたと言う。また、大のシャム猫好きでも有名だった。
ヒトラーと並ぶ極悪人とされたが、真実は
あらゆる史料をみても、東條内閣は、平和を達成すべくアメリカとの交渉を進めるよう天皇陛下に命じられて組閣した内閣である。東條首相も全力を尽くしてそれをやろうとした。ところが、アメリカからハル・ノートを突きつけられて、戦争に突入せざるを得なかった。
東條は戦争の途中で更迭された。このことだけでもヒトラーなどとは全く異なる。東條の「独裁」とは、ルーズベルトやチャーチルにも見られた戦時体制の権力集中と大差ないものだった。
開戦を機に、東條が広範にわたる機能をその身に集中させたにもかかわらず、彼には依然として独裁的な権力はなく、彼をその地位に就けた各圧力団体の信任をつなぎとめておかねばならなかった。
東條1人で戦争に導いたようにいわれているが、それは東條が(開戦前)最後の総理であり、陸軍出身だったということから悪者にされただけのことだ。
戦前の首相は、閣僚を任命するが罷免権はない。閣僚全員一致がない場合、内閣は総辞職となる。岸信介1人が首相の罷免を拒否しただけで、東條内閣はあっけなく崩壊した。こんな独裁者などあるはずがない。
もし東條はじめ軍部が独裁者だったら、自分に反対する者を何百何千人と殺しただろう。しかし東條はそんなことはしないで、詰め腹を切らされた。
ある国では英雄として扱われている
戦後日本において、戦犯として扱われている東條氏だが、それとは対照にインドでは“英雄”として称えられている。大東亜戦争の緒戦からインドの独立を唱え、インド独立の闘士であったスバス・チャンドラ・ボースとの会談において意気投合し、彼を非常に高く評価していた。
ビルマ初代首相 バー・モウ 「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった 」
オトポール事件
1938年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、ドイツの迫害から逃れてきたおよそ2万人のユダヤ人難民が、極寒の吹雪の中で立往生し凍死しようとしていた。ユダヤ人たちは、ソ連政府によってビロビジャンに強制入植させられた人たちで、過酷なビロビジャンから逃れ、満州国を経由して上海へ脱出しようと考え、オトポールまで逃れてきたのであるが、ドイツに遠慮した満州国が入国を拒否したため、極寒の中、食糧がつき凍死寸前の難民たちは前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできなかったのである。
当時、満州国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、ハルビンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。 しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。樋口季一郎は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを認めた。この、樋口季一郎少将のユダヤ人救出に 「まさに 八紘一宇(はっこういちう) である」 として許可を出し外務部とドイツを説き伏せたのは、東條英機 関東軍参謀長(当時)。
ドイツ外務省は日本政府に対し、大量のユダヤ人難民を満州国へ入れたことへの強硬な抗議を行った。 この抗議は東京から新京の関東軍司令部にすぐ伝えられたが、東條英機中将(当時)は、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴したのである。救援のための列車を動かしたのは、当時の満鉄総裁 松岡洋右 (戦後、A級戦犯として公判中に病死)の判断であった。日本のシンドラーとして有名になった杉原千畝が「生命のビザ」を6,000枚発行する2年前に、樋口季一郎少将と松岡洋右、東條英機 によってユダヤ難民が救われていた。この流れがあったからこそ杉原千畝はビザの発行ができたわけです。 
なぜ東条英機が戦時の総理大臣になったのか?
まず戦前の総理大臣は、実力者による推薦・合意によって選出されていました。この実力者は伊藤、山縣などの元老です。憲政の常道によって、多数を占めた政党出身の政治家が首相になるようになりましたが、それでも、元老の支持があってこそで、特に首相がテロなどの危機にあうとそれは決定的になります。犬養内閣が5・15事件による首相暗殺で幕を閉じると、それから以降また以前形式への比重が増しました。この時、元老は最後元老と言われる西園寺のみでしたから、(首相専任のみならずですが)その意向は決定的になります。
「(西園寺滞在先)興津はどう言っているか」といった昭和天皇の発言は象徴です。
ところが、期待の近衛が絶望的にだめ、渋々選んだ平沼もだめとなると西園寺も意見がないと言いだす始末でした。こうした中で、総理選出に主導権を握ったのが内大臣の湯浅で、米内内閣成立は彼の主導によるものです。ところが、米内内閣の末期になる頃に湯浅は病を得て、辞任を考えます。この際に選出されたのが木戸幸一でした。
木戸は従来からの西園寺への反感もあったでしょう。就任すると早速総理選出の方法を改めます。即ち事前に元老の意向を確かめていたのを、重臣が協議して意見が一致した者を、内大臣は意見がまとまるように努力し、そうでない場合は内大臣が推薦した人物について承認を求めることにしたのです。
湯浅、西園寺はこの後間もなく死去したのもあって、木戸は決定権を握ることになりました。
事実として以後の首相選出の会議において、重臣間の意見の一致を見たことなどなく、近衛、東条、小磯、鈴木、東久邇宮まで、木戸が主導権を握り続けることになります。
ですから、東条を首相になったのは「昭和天皇と木戸が決めた」というのは基本的に事実としては全く反するわけです。
「第三次近衛内閣では海軍の影響などもあって平和路線を模索していました。」
などという大嘘が見られますが、小説家の阿川は理解していませんが、9月6日の御前会議において、日本はアメリカと戦争をする国策が採用されていました。この時平和路線を模索していたはずの首相も海軍も、何ら具体的行動をとっておらずこれを受け入れています。というより、東条や陸軍が強硬論を唱えて押し切ったわけではなく、9月6日の御前会議で米国と戦争するは、”陸海軍統帥部の一致”した意見で、”近衛内閣の方針”であったのです。どこが平和路線何でしょうか。
ところが、すぐには戦争にはなりませんでした。そうならなかった理由はひとえに昭和天皇が孤立しながら猛烈に、首相(行政府)、陸”海”軍の決定に対して巻き返しを図ったからです。外交が主であることを確認・明記させ、和歌から自身の本意を明らかにしたのです。ところが、この御前会議では一方で「外交が駄目なら戦争をする」というオプションも明文化されてしまいました。1941年秋以降の情勢について、このおおもとの基本的なことを理解できてないと意味がありません。そして、一般的なそれこそ「多数の歴史家が唱えて形成してきた”通説”」とやらはこの基本的なことを理解していません。
元々東条は中国での安易な撤兵や妥協を拒否していました。一方で東条の意見はそれだけです。
9月6日の御前会議決定まで「アメリカと戦争をする」など主張していません。以降の東条が対米強硬論を取るのは、「”陸海軍が一致した”見解が、御前会議で採用された」からです。ですから、近衛の躊躇いは許容できないものでした。だから、東条の主張の根本は「御前会議で決まったこと、不満なら御前会議からやり直せ」でした。
そもそも「統帥部が意見を一致させているものを、陸海軍代表者とはいえ、首相との話で、戦争しないなど大臣が決められない」のです。
それを知っていた海軍大臣は「総理に一任致します」と。
とされる有名な、近衛、及川、東条による会談は有名ですが、この会談も通説を唱える歴史家は全く無知から記述しています。即ち、確かに海軍=及川は対米戦争に躊躇いをしました。ところが、この時の海軍の意見というのは、あくまで及川個人と”海軍省”の意見であって、”海軍軍令部とは意見調整してない”(むしろ独断)なのです。ですから、及川は近衛との事前の打ち合わせと異なり「首相に一任する」としか言えなかったのです。「海軍として対米戦に反対」は嘘になり、また及川にはその発言を担う覚悟もまた軍令部を説得するだけの力量もありませんでした。
「平和路線に傾いていた第三次近衛内閣を東條がぶっ飛ばした」
御前会議で何の抵抗もなく戦争をするという重要国策を採用しておいてこんな理屈はないでしょう。それまでの”前科”もあり、ですから、近衛のふらつきはいつもの躊躇いでしかありませんでした。実際東条がそう言っているのだから、本気で「平和路線を志向していた」なら御前会議からやり直すよう動けばよかったのです。実現の有無はさておいてそうすれば近衛は少しは弁護の余地はありました。
その努力をしてないのですから「近衛は東條に内閣を丸投げした」
は事実でしょう。こうした近衛のふらつきを見限っていたのが、友人だった木戸でした。木戸は8月の近衛とルーズベルト会談の構想の頃から、そうした姿勢になっていました。
近衛が”やはり”乏しい定見と覚悟をつきはてて内閣を放り投げると、重臣会議となります。戦争回避のために皇族内閣の意見すら出ることになりましたが、一致を見ない会議で木戸が推薦という実質選任をしたのが、東条でした。これは周囲も驚く人事で、昭和天皇も同様です。それに対して木戸が「東条は陸軍の抑えが聞く」と言い、昭和天皇の「虎穴に入らざれば虎子を得ずだね」が出るのですが、以上のように昭和天皇発言はあくまで内大臣の決定に対するリアクションでしかありません。そして、一方の木戸は東条の選任に対して「皇族内閣では戦争が始まったら、その汚名をかぶることになる。それなら東条に任せよう」と”腹のうち”を語っています。木戸からしたら、近衛内閣末期の言動からも、既に戦争回避は無理だと思っていたのです。ですから、少なくとも首相専任した木戸個人が東条を選んだ意図ははっきりしていました。
ちなみに木戸のこうした二股膏薬とも言える姿勢は、極東裁判で「天皇の秘書たる立場でありながら不誠実」と厳しく断罪され、また軍部からも怨嗟の声を向けられることになります。それが結果良かったかどうかはさておいて、”アコギ”であったのは間違いないでしょう。