朝貢迫る 金王朝

気違いに刃物 ロケット 核開発
ミサイル  日本の上空もお構いなし  遣り放題
金王朝はどこへ行く

金王朝 世界各国に朝貢を迫る
従わない国は皆殺し 滅亡だ 


 始祖  金日成 (キム・イルソン)
 第二代 金正日 (・ジョンイル)
 第三代 金正恩 (・ジョンウン)
朝貢 (ちょうこう)
1 諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物(みつぎもの)をさし出すこと。来貢。
2 皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。朝貢は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。朝貢には実質的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。朝貢の「朝」は、陰暦の毎月16日の早朝に行われる皇帝との朝礼に、手土産として朝礼に参加することからが由来とされる。
3 高度な文明を誇り、強大な国力を持った国家に対し、その文明の影響を受けながら国家形成を進めた周辺の諸民族の統治者が、その統治権を認めてもらうために、使節を送り、財物や奴隷などを貢ぎ物として差し出すこと。その見返りとして、王号や官職を授与される(冊封体制)。中国の各王朝に対する朝鮮や日本などの東アジア諸国、ベトナムなどの東南アジア諸国、中央アジアの西域諸国などが行ったのがそのような朝貢である。中国の王朝でも力関係が逆転すれば、匈奴帝国や遼、金などの北方民族の遊牧国家に朝貢したこともある。  
 



 

 

 



 


 


 


 
 
 
●金日成

 

 
(キム・イルソン 1912-1994 ) 朝鮮の革命家・独立運動家で、北朝鮮の政治家、軍人。満州において抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、第二次世界大戦後はソビエト連邦の支持の下、北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあり、1948年から1972年までは首相を、1972年から死去するまで国家主席を務めた。また、同国の支配政党である朝鮮労働党の党首(1949年から1966年までは中央委員会委員長、1966年以降は中央委員会総書記)の地位に、結党以来一貫して就いていた。
称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥・朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に神格化され、崇拝されている。彼の死後1998年に改定された憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。現在、遺体は平壌市内の錦繍山太陽宮殿(旧・国家主席宮殿)に安置・保存されている。
出生名は金成柱(キム・ソンジュ)。「ソンジュ」という音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。活動家となって以後は「金一星」(キム・イルソン、김일성)と名乗り、さらに「金日成」(発音は「金一星」と同じ)と改名した。「日成」は、本格的に抗日パルチザン活動に参加した1932年ころから使い始めた号である。同国の公式伝記では、当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。日本ではかつては「きん にっせい」と呼んでいたが、1980年代以降、漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされることが多くなり、近年は「キム・イルソン」と片仮名表記することがとても多くなっている。
 
経歴

 

 
金亨稷の長男として、1912年4月15日、平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に生まれた。母の康盤石はキリスト教徒であり、外祖父の康敦Uはキリスト教長老会の牧師であった。抗日派もしくはそのシンパであったためか、金亨稷は1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)の翌年、金日成を連れて南満洲(中国東北部)に移住した。
金日成は満州の平城の小学校で学んだ後、1926年、満州の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。正義府の幹部には池青天がおり、華成義塾は数年前に現役日本軍将校だった青天や金フ天が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没している。なお、亨稷は正義府に関係していたとされる。
父親が没した後、金日成は吉林の吉林毓文中学校(中国人中学校)に通いながら、共産主義に関係していた小さな組織に参加した。彼はこの非合法組織の運動で逮捕されたため、中学校退学をよぎなくされた。
中国共産党入党
金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満州の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年、中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では、入党しなかったものと推測されている。金日成の中国共産党入党は、1932年とするものと1933年とするものと、二つの記録が中国共産党側の史料に残っている。したがって、これ以降に、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、ということになる。
東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)。
当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。にもかかわらず、金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては、第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている。
抗日パルチザン活動
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円で、金日成が一人突出していたわけではない。
また、この普天堡襲撃は、在満韓人祖国光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている。
その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後の、1940年3月11日には安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満州人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満州警察・前田隊の追うところとなった。その後、前田隊を待ち伏せして襲撃し、前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。この時、前田隊の隊員はその殆どが練度の低い朝鮮人によって構成されていた為、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた。
このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
ソ連への退却
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた。
ソ連に越境した金日成は、スパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後、東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる。
帰国
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。
指導者へ
金日成は、アメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。
1945年10月10日、平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。3月1日、平壌での集会上で手榴弾を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。
このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。
朝鮮戦争
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦のおいて勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満州という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。
9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹))を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した。
10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍及び朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派の朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた。
その後、戦局は38度線付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。1953年2月7日、最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
粛清
反満州派の粛清 / 金日成派は満州派とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満州派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派に比べて延安派とソ連派とは当初友好的であり、金日成と満州派はまず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。さらに満州派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で1961年にソ連とソ朝友好協力相互援助条約、中華人民共和国とは中朝友好協力相互援助条約を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。1967年5月には国内北部で活動していた朴金浮迯b山派なども粛清し、満州派が主導権を握るに至った。この頃までに満州派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清が行われた。
満州派内部の粛清 / 1969年以降、満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が展開され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年に失脚、1993年に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の整理であるとする立場、満州派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。
独裁体制の確立
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満州派=金日成派独裁体制を完成させた。
1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。
12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日、金日成は国家主席に就任した。
新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。
さらに1977年、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国家の公式理念とした。
国家主席として
国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。
1980年10月に第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。
1985年12月、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟。
1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
1991年10月5日に中国を訪問した際にケ小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する。
1991年12月6日咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国やベトナムなど共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まってる)。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。
1992年1月30日に金日成は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、1994年3月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、ジミー・カーター元大統領を特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。
後継者問題
経過は不明ながらも、結果として金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。
金日成及び北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。
北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。
後継者選定については
1. 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
2. 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
3. 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない
というプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。
このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。
金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。
死去
金日成は1994年7月8日午前2時に平安北道香山郡香山官邸(39.971916 N, 126.321648 E)で死去した。ただし、北朝鮮政府の公式発表では平壌の錦繍山議事堂で死去したことになっている。
北朝鮮政府は翌日の7月9日正午に公式発表を行い、死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた。金日成は長く心臓病を患っており、さらに82歳と高齢であったことからも一般に病死は事実と見られている。
この年、息子の金正日が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、ビル・クリントン大統領の密命を帯びたジミー・カーター元大統領の招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるいう彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「米朝枠組み合意」を結ぶことで決着。さらには当時の韓国大統領金泳三との初南北首脳会談の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。
死去前日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で、党官僚の形式主義を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの煙草を吸った後に寝室に入ったとの情報がある。
このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。また韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し北朝鮮は激しく抗議した。同日、金正日は金日成に会っていないことが記録上明らかである。
葬儀は国葬として金正日主導のもと7月11日に首都平壌で執り行われた。当日は北朝鮮全土から大勢の国民が集まり、朝鮮中央テレビでは人々が一斉に泣き崩れている様子が報じられた。その後遺体はエンバーミングが施され錦繍山議事堂(主席宮殿)を改築した錦繍山太陽宮殿に安置されている。
 
 
 
 
 
 
 
評価

 

 
訪朝経験のあるジミー・カーター元米大統領は2009年11月、タイの新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。
脱北した黄長Y元朝鮮労働党書記はフリージャーナリスト・山本皓一とのインタビューにおいて「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である」と証言している。また、黄長Yは金日成は中国式の改革開放に肯定的な柔軟さを持っていたが、金正日は自己保身を優先して経済を低迷させた責任があると証言しており、これは他の記録でも裏付けられている。
日本人女性が見た金日成
金日成が帰国した当時の朝鮮半島には、まだ多くの日本人が残留しており、避難民はソ連軍や朝鮮人から使役と称して強制労働を強いられていた。このころ金日成宅では2人の日本人女性が女中として働いていた。日本人の元女中の回想によると、金日成は、接収した日本人の邸宅に住んでおり、夫人とユーラ(長男。後の正日)・シューラ(次男。万一ともいう)という名の息子と一緒に住んでいた。食事方式はロシア式を採用し、朝食10時、昼食3時、夜食が9時 - 10時だった。金正淑夫人も日本人女中2人に、当時の日本人避難民の平均的な食事からすれば豪華な白米や鶏肉等を食べさせていた。ただし食事以外では金家の生活程度は高くはなく、トイレはチリ紙ではなく新聞紙で用を足し、時にはボール紙で用を足してトイレを故障させることもあったという。
ある日、金日成は2人に『アカハタ』を見せ、野坂参三を立派な男だという手つきをしてみせた。2人は「ついに日本も共産党の国になってしまったのか」と悲しい表情をしてみせた。金日成は「共産党は嫌いですか?」と問うと2人がうなずいたため、驚いた表情をしたあと笑って黙っていた。それから数日後に金日成は2人にマルクスやクロポトキンの本を渡したという。このような金日成であったが、身辺は不安だったらしく自宅へ至る道の要所に警備兵がおり、門前には番兵が立っていた。また枕の下には常に護身用のピストルを潜ませていた。
このころ、金日成の弟である金英柱が自宅に出入りするようになった。ある時、2人のうちの1人の姉が朝鮮人の集団にリンチされ重傷を負った。以前、仲間が姉の訴えで共産党本部によって厳罰に処せられたことへの報復だった。このことを知った英柱は共産党本部から兵を連れ、リンチを行った朝鮮人を捕まえて痛めつけ、牢に入れた。そして、被害者に「朝鮮の人民が迷惑をかけた」と謝ったという。翌日、英柱は2人に「共産党は日本の帝国主義、軍国主義に排撃するのであって、日本人を憎むのではない」と語った。その場にいた金日成は2人に共産党が好きになったかと問うと、2人は少しうなずくと「でも、天皇陛下の方が好き」と答えた。すると金兄弟は笑い出し、それ以後は2人の日本人に再教育するとは言わなくなった。その後、2人が南側から日本へと帰国したいと申し出たため、金日成は南側への通行許可証を渡し、今までの礼を述べた。最後は一家で2人を見送ったという。
別人説
日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身するキム・イルソン将軍伝説があったことには、多くの証言がある。伝説の将軍は、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などといわれていた。平成28年10月、金日成とされた「金顕忠」が旧大日本帝国陸軍士官学校出身だったことが判る卒業生名簿が発見・公表された。抗日運動では「金光瑞」などと名乗ったとされる。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年8月1日に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうということについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した和田春樹も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。
伝説のキム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金フ天が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している。
普天堡(ポチョンポ)の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。
彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている。これに対する和田春樹などによる反論もある。
諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される。
元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである。
また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃され戦死した、若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●金正日

 

 
(キム・ジョンイル 1941-2011 ) 北朝鮮の政治家、軍人。北朝鮮を建国した金日成の長男であり、同国の最高指導者の地位を父より継承した。権力継承後、死去するまで朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党政治局常務委員を務めた。
称号は朝鮮民主主義人民共和国元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(三回受章しており「三重英雄」と称される)。死後、朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を追贈された。
 
経歴

 

 
金正日は1941年2月16日に父親の金日成が逃亡先として滞在していたソビエト連邦(現:ロシア)の極東地方に生まれたとされる。正確な出生地についてはハバロフスク近郊のヴャツコエにある北野営、ウラジオストク近郊のオケアンスカヤにある南野営、ウラジオストク市内の病院といった諸説がある。出生名はユーリイ・イルセノヴィチ・キム(露: Юрий Ирсенович Ким, Jurij Irsenović Kim)。朝鮮式の幼名は有羅(ユーラ、김유라)。「有羅」はロシア人名「ユーリイ」に由来しており、ソビエト連邦出生説の根拠の一つともなっている。
ただし、北朝鮮側の発表では、金日成、金正日を神格化する意図から、金正日の生まれ年を、金日成の生まれ年1912年と30年周期で合わせるため、金正日は1942年2月16日に白頭山で誕生したとされている。1982年2月15日、中央人民委員会より「白頭山密営にて誕生」という公式発表がおこなわれ、白頭山密営は「革命の聖地」とされた。1987年2月には密営の建物(丸太小屋)が建設された。
また、名が「ユーラ」から「ジョンイル」に変わったのは朝鮮半島の解放後のソビエト連邦軍政期とする説、1960年夏頃とする説がある。1980年の第6回党大会にて「金正日」という表記が確認された。「キム・ジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では「金正一」の字があてられていた(当時、朝鮮人が父母の名から字を取ることは稀であり、朝鮮の伝統的な命名ルールではあり得ないこととされている)。
1945年11月25日、父・金日成の側近の1人である趙明禄の護衛により、母・金正淑、弟・修羅(金万一)とともにソ連から海路で朝鮮に帰国。雄基港に上陸後、清津を経由して平壌に移動し、先に帰国していた父のもとに落ち着いた。1946年に妹・金敬姫が生まれたが、1947年に弟を事故で、1949年には母を前置胎盤でそれぞれ亡くしている。幼年期は内向的な性格だった。
朝鮮戦争開始後の1950年9月中旬、北朝鮮軍の形勢が不利になると、曽祖父母や妹と共に平壌から平安北道(現:慈江道)長江郡に疎開するが、国連軍が北上し中朝国境付近に迫ると、満浦経由で中国に脱出、吉林市内の学校に通学した。1952年11月下旬、父の指示により北朝鮮に帰国した。
現在ロシア在住の当時の同級生によると、仲間と一緒に様々な学校でのイベントを主催したり、家でパーティーを開くなど、幼少期に内向的だった性格は次第に社交的になっていったという。
平壌第一初級中学校、南山高級中学校(現在の平壌第1高等中学校)卒業後、1960年9月1日に金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学。在学中の1961年7月22日、朝鮮労働党に入党。1964年3月30日に大学を卒業 した金正日は党中央委員会に勤務し、同年6月には党組織指導部の指導員となる。その後、党中央委員会の指導員、課長、副部長、部長を歴任し、1969年9月に党組織指導部部長に就任。また、党宣伝扇動部副部長や文化芸術部部長を兼任した。この間、北朝鮮独自の立場とされているチュチェ思想の思想整備を担当した黄長Yに師事していたこともある。
権力の掌握
1972年10月、党第5期中央委員会第5回総会で中央委員に選出され、1973年9月の党第5期中央委員会第7回総会で党中央委員会書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出された。さらに、1974年2月13日の朝鮮労働党第5期中央委員会第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、翌2月14日には、金日成の後継者として「推戴」された]。
ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された。1980年には「党中央の明かり」という歌曲が作られ、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。同年10月10日の第6回党大会および党第6期中央委員会第1回総会で党中央委員会政治局常務委員、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に最高人民会議代議員に選出される。
後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟金平一を推す義母金聖愛との間に激しい権力闘争があったと言われている。同じ時期に金日成を称えるプロパガンダが高まっていったことから、父・金日成のカリスマ化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は1992年4月25日に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。
権力の世襲に対する批判に対しては、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」、というのが公式の回答である。
金日成以来、ソ連によって北朝鮮の政権中枢の役割を担わされた満州派(国外パルチザン派)が朝鮮人民軍を権力基盤としてきた一方で、金正日は党官僚の代表や行政官僚の利益代弁者として振舞ったと思われる時期があった。そのため、金日成死亡の少し前から朝鮮人民軍を掌握しようと腐心していたことが公式プロパガンダおよび人事配置からうかがえる。一方で、外交官経験者を比較的重用し始めていることも人事配置からうかがえる。朝鮮労働党大会は1980年の第6回大会以降、金正日の死後の2016年まで実施されなかった。
金正日は1990年5月24日、第9期最高人民会議第1回会議において国防委員会第一副委員長に選出され、軍事を掌握し始めた。さらに翌1991年12月24日の第6期党中央委員会第19回総会において朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」され、1992年4月20日には朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。1972年に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(1972年憲法)では、軍の統帥権は国家主席にあり、朝鮮人民軍最高司令官と国防委員長は国家主席が兼務することが定められており、金正日の最高司令官就任は「超憲法的な措置」であった。しかし1992年4月9日に同憲法が改正されると、最高司令官の規定は削除されるとともに、軍の統帥権は国家主席から国防委員長に委譲された。そして、1993年4月9日の第9期最高人民会議第5回会議において国防委員会委員長に「推戴」され、これにより金正日は軍の統帥権を掌握した。
最高指導者として
1994年7月8日、金日成主席が死去。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。1997年10月8日、金日成の死によって空席となっていた朝鮮労働党中央委員会総書記に「推戴」され、1998年9月の最高人民会議第10期第1回会議において改めて国防委員会委員長に選出された。同会議において、国防委員長は「国家の最高職責」とされた。1997年から2000年にかけて、金正日は最高指導者の地位をより確かなものとするため、張成沢を使って古参幹部とその側近と彼らの親族の大規模な粛清(深化組事件)を行った。
2000年5月に就任後の初外遊で中華人民共和国を訪れて中国共産党総書記の江沢民と会談する。2000年6月には太陽政策を取る韓国の金大中大統領を平壌に迎えて南北首脳会談を行い、会談の結果、南北共同宣言が発表、6.15南北共同宣言が採択された。その直前に現代グループが北朝鮮へ違法な送金を行ったことを黙認しており、会談はこの見返りだったと言われている。以後、民間レベルでの交流事業が本格化し、日本やアメリカも国交正常化交渉へ乗り出す情勢ができた。2000年に南北首脳会談を行ってから、2001年にかけイタリア、イギリス、カナダ等西側諸国との国交を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始めた。
翌2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を境に、2002年にはアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が、北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国を「テロ支援国家」であるとし、「悪の枢軸 (axis of evil)」と呼んで批判するなどの北朝鮮敵視政策が国際的緊張を生んだ。アメリカとの緊張関係は和らぐことなく、「先軍政治」を掲げ、要求が受け入れられないと交渉決裂や武力衝突を辞さない態度をちらつかせるいわゆる“瀬戸際外交”を展開している。
2002年9月17日、小泉純一郎首相との日朝首脳会談の席で金正日は日本人13人を拉致したことを認め、口頭で謝罪した。犯人については、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」とし、関係者はすべて処罰したと述べた。また、2国間の懸案の解決し、国交正常化へ努力することを記した「日朝平壌宣言」を発表した。
2003年、イラク戦争の最中には密かに中華人民共和国の北京を訪問していたという(「STRATFOR」報道、2003年4月11日付=共同通信配信)。同年8月からは北京で六者会合が開催され、北朝鮮も参加する。
2006年7月16日には北朝鮮のミサイル発射をきっかけに国連安保理の全会一致で非難決議がなされた。同年、アメリカの『TIME』誌に「2006年の主要人物26人」の1人に選ばれ、「金総書記は7月4日にミサイルを連射、米ホワイトハウスで開かれたブッシュ大統領の独立記念日パーティーをメチャクチャにし、10月には世界で最も排他的かつ危険な核クラブの首長になった」と紹介された。
2008年10月11日に、2007年2月13日の六者会合での合意文書に基づき、アメリカ合衆国のクリストファー・ヒル国務次官らによって朝鮮民主主義人民共和国の「テロ支援国家」指定は解除された。
2009年4月9日に開かれた最高人民会議で国防委員長に再任され、政権は3期目に突入した。なお、同月の憲法改正により、国防委員長は北朝鮮の最高指導者として位置づけられた。
2010年2月1日、金正日の「私は、人民が未だトウモロコシの飯を食べていることに最も胸が痛む。いま私が行うべきことは、この世で一番立派なわが人民に白米を食べさせ、パンやめん類を十分に食べさせること」という談話が労働新聞に掲載された。2009年末に行われたデノミが失敗し、その結果としての餓死や治安部隊との小競り合いが頻繁に発生しているという情報が日韓にも伝えられた。金正日自身の健康問題も絡み、北朝鮮はいわば「崖っぷち」の状態であると分析するメディアもあった。
2010年5月、中国を訪問した。金正日は六者会合の再開に前向きな姿勢を示し、中国側は「中朝の友情を時代と共に前進、発展させる」という発言をした。これは中国共産党内では関係見直しを意味する決まり文句であり、度重なる北朝鮮の独断での強硬行為に中国側は不信感を募らせていると見られ、距離を置かれる形となった。また、金正日が要望した大規模な経済支援も温家宝国務院総理(首相)に拒否され、金正日がその後の予定を切り上げて早く帰国したという事実も判明、いわば、友人であった中国にも見捨てられた格好となった。同年8月、再び訪中し、吉林省などを訪問した。
2010年9月28日に開催された党代表者会において、党総書記として改めて推戴される。同日、党代表者会の開催を受けて招集された党中央委員会総会で、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長に再選された。また、同年10月9日には来賓の周永康中国共産党中央政治局常務委員とともに後継者に指名した金正恩と親子で並んで朝鮮労働党創建65周年記念行事の軍事パレードなどに出席した。
2011年に入ると、金正日は友好国との外交に力を入れた。同年5月に中国を再度訪問して胡錦濤国家主席らと会談、同年8月にはロシアを訪問してドミトリー・メドベージェフ大統領と会見した。同年10月に中国の李克強国務院副総理が訪朝した際に金正恩を同席させた上で自ら応対して経済技術協力協定を結ぶなど、友好国との関係維持と援助を求めた。
死去
2008年8月に脳卒中で倒れたとされている。その後も数度にわたって中国やロシアを訪れるなど外交活動に臨み、国内では現地指導を重ねていた。しかし2011年12月17日8時30分、心筋梗塞のために死去した。享年70。2日後の12月19日正午、朝鮮中央テレビが特別放送を行い、死去が発表された。朝鮮中央通信は金正日が「地方視察及び指導に向かう列車の中で12月17日午前8時半、過労により息を引き取った」と伝えた。
なお、朝鮮中央通信や労働新聞などが伝えた「訃告」によれば、金正日は心臓や脳血管の病気で長期にわたり治療しており、「(そうした中で現地指導を続け)積もりに積もった精神的・肉体的過労により心筋梗塞が起き、心臓性ショックを併発した」と伝えた。2012年12月25日の朝鮮日報は、北朝鮮消息筋の情報として金正日の急死は北朝鮮北部に建設中の煕川水力発電所ダムで漏水事故が起きていることを聞き、現場へ向かう途中だったと伝えた。また、これ以前より強盛国家建設のための中枢として注力していた石炭を使った新技術による繊維製造業および製鉄が実際は業績が上がっていないにもかかわらず順調との虚偽報告を受けていたことを知り、強度のストレスを受けていたらしい。
死後、後継者となった三男の金正恩によって金正日の偶像化が進められた。金正日の「生誕70周年」(実際は71周年)の誕生日直前である2012年2月14日には朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を追贈され、同年4月11日に開催された第4回党代表者会において「永遠の総書記」と位置づけられた。さらに4月13日に開催された第12期最高人民会議第5回会議において「永遠の国防委員長」とされた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
評価

 

 
国営の朝鮮中央放送で使われる金正日の呼び名は100以上あると言われ、北朝鮮国内のメディアでは、「百戦百勝の鋼鉄の霊将」などと賛美されるが、実際には実戦で指揮を執った経験はない。この称号は金日成を賛美する決まり文句が儀礼化したまま流用されたものといわれている。国民からは「将軍様(장군님:チャングンニム)」と呼ばれ、国内のあらゆる所にその肖像画が掛けられている。
代表的な呼び名として「親愛なる指導者、金正日同志」があるが、二言目からは「金正日同志」「金正日総書記」と略される。また、朝鮮人民軍内部では「最高司令官同志」ともよばれる。その他、かつて使用されたものに「党中央」がある。「党中央」の語は一般的に党中央委員会のことと解釈される語であったため、「党中央」の語が金正日個人を指すと判明するまでに長い時間がかかった。また、北朝鮮の公式文献においても「党中央」の語が機関を指す語から次第に個人を指す語としての様相をみせるまで長い時間がかかっている。
死去時の肩書は、国家においては国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、共和国元帥、最高人民会議代議員、党においては朝鮮労働党総書記、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長であり、権力を一手に集めていた。呼称については国家における最も重要な役職である国防委員長(もしくは委員長)とするのが正式だが、日本のマスメディアだけ党の最高職である総書記としている。
東ドイツ国家人民軍の制服に倣ったとされるカシミアシルク製のスラックスとジャンパーを愛用した。メディアではサングラスを着用する姿がしばしば放映されている。外国の元首と会談する際は中華人民共和国の人民服に似た服を着用することもあった。肖像画には軍服を着用している姿もあるが、実際に軍服姿で公の場に出たことはないようである。金日成はスーツを着用することが多かったが、金正日がスーツを着用することはまずない。
テロを恐れているためか、父・金日成と同様、飛行機嫌いであり、鉄道で繋がっている中華人民共和国やロシアなどの外国を訪問する時は専用の装甲列車 を使う(1965年、父金日成に随行したインドネシア訪問時では飛行機の利用が確認されている)。
朝鮮総連のウェブサイトには「名言録」や「逸話集」などを掲載した金正日総書記特集があり、そのなかでは金正日を偉人と呼んでいる。
統一教会(世界基督教統一神霊協会)の文鮮明と関係があるとされる。1992年に統一教会教祖の文鮮明と会談し、35億ドル(約4400億円)もの援助を約束され、経済協力の関係を築いた。1994年7月に父金日成が死去した直後には、文鮮明の側近の朴普煕と会談した。統一教会の幹部、朴相権が社長を務める韓国の「平和自動車」との合弁会社「平和自動車総会社」を設立して自国の南浦(ナンポ)工業団地で自動車生産を行なったり、国営の「普通江ホテル」の経営を統一教会関係者に行なわせている。
2002年には、文鮮明の80歳を祝って、韓国の要人に対しては極めて異例と言える祝賀メッセージとプレゼントを贈った。このような北朝鮮とのパイプを作った統一教会は系列の「ワシントンタイムズ」社の朱東文(チュ・ドンムン)社長が2006年に訪米した山崎拓と面会し、翌2007年1月10日の山崎の訪朝のルートを用意したとも言われている。しかし、近年、北朝鮮当局は統一教会の幹部をスパイ容疑で逮捕してからは監視対象にしていると言われる。
将来、北朝鮮の体制が崩壊し、仮に国外逃亡を余儀なくされても引き続き贅沢な暮らしを送れるよう、およそ3600億円の隠し資金をヨーロッパの銀行に保有していると言う。これらの資金は核やミサイル技術の売却などで得た資金であるとされる。
表記
金日成、金正日の氏名は通常、印刷物では太字で表記される。北朝鮮の文字コード、KPS 9566には普通のチョソングル(韓国でいうハングル)とは別の位置(4行72列 - 4行77列)に前指導者・金日成(김일성)、現指導者・金正日(김정일)の名前専用に使われるチョソングルが登録され、普通のチョソングルと異なり、常に太字で表記される。
趣味
インターネットに熱心であったとされ、一日数時間、情報収集などに利用していたと伝えられる。
また、平壌中心の高台に「国家映画文献庫」 という映画の文献庫を(事実上個人で)持ち、およそ2万巻のビデオテープを所有すると言われるほどの映画マニア。日本や欧米の映画などを多数鑑賞していると言われている。映画論についての自筆の著書『映画芸術論』は主著のひとつで日本語訳も出版されている(同朋舎)。日本映画では『ゴジラ』の他、『男はつらいよ』のファンで、1985年には東宝の特撮スタッフを招いて『プルガサリ』という怪獣映画をプロデュースしたこともある。また、北朝鮮の映画産業のために韓国の映画監督申相玉とその妻で女優の崔銀姫(韓国語版)を拉致し、上記『プルガサリ』の制作に参加させたこともある。二人は後に再亡命した。
スポーツはバスケットボールを好む。舞踏鑑賞も多くの趣味のひとつ。WUSAのファンで、マデレーン・オルブライトからサッカーボールを贈与されたことがある。
公用車はメルセデス・ベンツ・Sクラスの防弾リムジン仕様車。加えて、2006年にフォルクスワーゲン・フェートンを購入した模様。なお、2000年代の初め頃まではアメリカ製のリンカーン・タウンカーを20年以上公用車として使用していた。オートバイはハーレーダビッドソンを所有。
1994年に会員制の平壌ゴルフ場(パー72、7700ヤード)で、生まれて初めてゴルフをラウンドし、「18ホールで11のホールインワンを記録し、どのホールも最悪で「バーディー」、スコアは38アンダーの34をマークし、世界記録を樹立した」という内容の驚異的な記録を残したとされている が、真偽のほどは不明である。
そのほか、「金正日総書記は平壌ゴルフ場に来たことがない」、「平壌ゴルフ場での最高記録は地元プレイヤーが記録した1オーバーだ」、「この話は北朝鮮の国営メディアが報じた情報とされるが、実際は欧米メディアのでっち上げだ」といった話も出ている。
また、金正日が死去した際には、ツイッター上で、「ゴルフ界の大損失」、「ゴルフ界は偉大な人物を失った」、「金正日の死によって、ゴルフの世界ランキングでは全員が1ランクアップだ」、「金正日の死去は(現世界ランク1位の)ルーク・ドナルドが議論の余地のない世界ナンバーワンになったことを意味する。おめでとう、ルーク。コース上の決着じゃなかったのが、ちょっぴり残念だけど。」などといったネタ的書き込みも見られた。
金正日の料理人であったと自称する日本人藤本健二によれば、グルメであり、フカヒレ料理や、日本食では寿司やすき焼き、鰻丼なども好物であったという。また、日清食品のカップラーメンであるラ王も好物である。マヨネーズはキユーピー、醤油はキッコーマンにこだわった。差し歯が3本あり硬いものは食べなかった。またあまり辛い物は好まなかったが、寿司のわさびは受け入れた。食材は日本など外国から高級なものを取り寄せることも多いが、2006年10月15日に国連で決定された北朝鮮への経済制裁にある贅沢品禁輸措置により入手の困難化が推測される。
かつてはヘビースモーカーで、特にイギリスのロスマンズを愛飲していたが、禁煙したらしい。禁煙を達成するのに20年かかった。金正日の禁煙達成後、北朝鮮国内で禁煙ブームが起きた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
●金正恩

 

 
(キム・ジョンウン 1984- ) 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。同国の第2代最高指導者金正日総書記の三男で後継者。父の死により最高指導者の地位を継承した。現在、朝鮮労働党委員長、朝鮮民主主義人民共和国国務委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官を務める。党内序列は第1位。軍事称号(階級)は朝鮮民主主義人民共和国元帥。  
経歴

 

 
金正恩は北朝鮮の第2代最高指導者である金正日総書記の三男として生まれた。母は北朝鮮帰国事業で北朝鮮に渡った大阪出身の元在日朝鮮人であり、金正日から日本風に「あゆみ」と呼ばれていた高英姫。金正日の長男の金正男は異母兄、次男の金正哲は同母兄となる。祖父は北朝鮮の初代最高指導者である金日成主席。母方の祖父は日本軍協力者の高ギョンテクである。済州島に出自を持つ大阪出身の在日朝鮮人の母親を持ち、幼少期から日本人の専属料理人、藤本健二が作った寿司を好んで食べ、当人自身も東京タワーに興味を持つなど日本文化に囲まれた状況で育った。
1996年9月よりスイスに留学し、ベルンの国際学校で「パク・ウン」という偽名を使用しながら教育を受けた。国際学校には数か月しか在籍せず、隣接する公立小学校でドイツ語を学んだ。在籍していた学校については諸説あり、リーベフェルト市の公立学校で金正恩と知り合いであったと主張する人物の情報もある。1998年9月、ベルンの自宅近くの公立中学校に編入。スイス滞在中は北朝鮮の在スイス大使が目付け役として身辺の管理を行っていたほか、親戚の寄り合いがインターラーケンやレマン湖の別邸で行われることもあった。2000年8月、夏期休暇が終わると公立中学校を退学して帰国した。留学の経験から母国語の朝鮮語以外に英語、中国語、ロシア語、ドイツ語、フランス語など数ヶ国語を話せるとする報道もある。日本語についても漢字の書き取りなどをしていたとされ、来日経験もある。日本については国力差を認識する発言を残している。
2000年以降の動向はスイス時代と共に北朝鮮政府内の秘密事項として公にはされず、現在でも指導者就任から間もないこともあり部分的にしか報道されていない。明確なのは、父と同じく、北朝鮮内における最高の教育機関である金日成総合大学に在学していたことと、軍の教育機関である金日成軍事総合大学(党内の養成機関である金正日政治軍事大学とは異なる)で訓練を受けていたことである。金日成総合大学では情報工学を学び、金日成軍事総合大学では砲兵指揮を専攻したとされている。
北朝鮮では最高指導者の地位が金日成から金正日に世襲されたため、日本・韓国などのメディアでは高齢である金正日が自身の子息を対象にした後継者選択を想定する傾向にあり、その中で日韓のメディアにおいては後継者候補として三男である金正恩の名前も挙げられることがあった。ただし当初は長男の金正男、あるいは軍部の支持を受けていた次男の金正哲の指名が予想される傾向があり、必ずしも最有力と見なされていた訳ではなかった。しかし2009年1月15日、「金正日が金正恩を後継者として指名した」と韓国の聯合ニュースが報道するなど、次第に金正恩後継者説が濃厚になっていった。さらに同年2月15日の聯合ニュースの報道によれば、金正日の健康が悪化した際に義弟の張成沢が金正日に金正恩を後継者にするよう働きかけたという。
2009年6月2日、韓国の東亜日報は、同年5月25日の核実験後に、金正恩が後継者に選ばれたことを在外公館に通知した事実が確認されたと報じた。また金正恩が「国防委員長代行」という職位に就いているという複数の証言もあったが、これは現在に至るまで公式には確認されていない。2010年2月17日、韓国の自由北朝鮮放送が、北朝鮮当局が全国の「ジョンウン」を名乗る人物に対し改名を命令したと報道した 。
後継者指名
2010年9月27日、金正日は金正恩ら6人を10月10日付けで朝鮮人民軍の大将に昇進させる朝鮮人民軍最高司令官命令を発した。そして9月28日に開催された朝鮮労働党代表者会において、金正恩は党中央委員に選出され、同日に開かれた党中央委員会総会で党中央軍事委員会副委員長に選出された。これらの動きにより金正日の後継者としての地位が確定したとみなされている。
同年10月5日、金正恩は金正日の朝鮮人民軍第851軍部隊合同訓練視察に同行した。金正日の現地視察に金正恩が同行したことが公式に報道されたのはこれが初めてである。10月8日、金正日が新設された国立演劇劇場と芸術家の住宅に現地指導に赴いた際にも同行した。10月9日、来賓の中国共産党中央政法委員会書記の周永康とともに平壌で開催された朝鮮労働党創建65周年慶祝中央報告大会に金正日と並んで出席し、マスゲームと芸術公演「アリラン」を鑑賞し、翌日に挙行された朝鮮労働党創建65周年慶祝閲兵式でも金正日、周永康とともに軍事パレードを観閲した。10月25日の中国人民志願軍参戦60周年記念行事のために訪朝した郭伯雄ら中国高位軍事代表団と金正日の会談に同席している。
2011年4月29日、韓国の国家情報院は「金正恩が国家安全保衛部部長に就任した」と発表した。しかし、北朝鮮の報道からは公式に伝えられておらず、確認はとれていない。
金正恩の後継指名と権力世襲について、兄・正男は「金正日自身は(世襲は)社会主義に合わないとして反対をしていたが、北朝鮮体制の安定のために必要だった(ので指名したのではないかと理解している)」という見解を『東京新聞』とのインタビューで明かしている。
権力の継承
2011年12月17日、金正日が死去。12月19日、北朝鮮の公式メディアである朝鮮中央放送によって金正日の訃報が宣告された。これによって1994年から17年間に亘って続いた金正日体制は終焉を迎えた。そして金正恩はこの訃報において「卓越した領導者」と呼称され、金正日の政治的後継者である事が内外に示された。以降、金正日の朝鮮人民軍最高司令官就任記念日にあたる12月24日には朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』は金正恩を「最高司令官」「将軍」と呼称し、翌日には朝鮮中央通信が「革命武力の最高指導者」と呼称、また「不世出の先軍統帥者」とも呼称するなど、軍事指導者であることも示された。
12月20日、錦繍山記念宮殿に安置された金正日の遺体がメディアに公開され、金正恩が涙を流しながら父の遺体の前に立つ場面が報道された。12月28日、平壌市内で行われた父の国葬において、金正恩は軍・党・政府の高官を率いて金正日の霊柩車に付き従い、軍・党・政府から指導者としての支持を得ていることが強調された。
12月29日、金正日中央追悼大会が挙行され、党内序列2位にして対外的な元首の役割を果たしている最高人民会議常任委員長の金永南が追悼の辞で「権力の継承問題は完全に解決した」とし、金正恩を「党・軍・人民の最高指導者」と呼称して金正恩の権力継承を公式に宣言した。
12月30日、朝鮮労働党中央委員会政治局会議において、亡父の後任として朝鮮人民軍最高司令官に推戴され、同職に就任した。
金正日の死によって空席となった朝鮮労働党の最高職である総書記と国家の最高職である国防委員長を継承すると見られていたが、金正恩は両職とも「金正日が永久に就くべき地位」であるとして就任せず、事実上廃止した。2012年4月11日に開催された第4回党代表者会において、金正恩は総書記に代わる党の最高職として新たに設置された第一書記に推戴され、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長にも就任した。そして、4月13日の第12期最高人民会議第5回会議において、「国防委員長」に代わって新設された「国防委員会第一委員長」に就任し、金正恩は正式に党・国家・軍の三権を握る最高指導者となったのである。同年7月17日、党中央委員会などの決定により、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。
指導者として
金正恩は、最高指導者に就任して以降、軍を積極的に視察している。将校や兵と親しく話したり、抱き合ったりするなど、父の正日の時代では有り得なかったほど積極的に軍と接近しようとしている。軍の忠誠心を得ることが狙いと指摘されている。
一方、『朝鮮日報』の報道によれば、金正恩が朝鮮人民軍最高司令官に就任後、粛清された者は2桁に上るとされる。また、その中には金が「髪の毛1本も残すな」と指示した結果、公開処刑の手段として、迫撃砲が用いられた事例もあったという。
また、2010年11月の延坪島砲撃事件を金が指揮していたことが、朝鮮労働党の機関紙である『労働新聞』によって明らかとなった。『労働新聞』は「金正恩領導者の非凡な知略と戦術で敵の挑発は挫折し、延坪島は火の海になった」と伝えている。
権力継承後の2012年1月28日、金は朝鮮労働党幹部を前に、国家による統制経済の行きづまりによる深刻な経済危機から脱却するため、資本主義的手法を取り入れた経済論議を容認する姿勢を示した。同年からの全面導入された社会主義企業責任管理制及び圃田担当責任制といった自由化政策により、経済成長や生活水準の向上が見られる一方、貧富の差の拡大も生じるようになった。
2012年4月15日、平壌で金日成の生誕100周年を記念する軍事パレードが行われ、正恩が観閲を行った。閲兵式上、正恩は演説を行い、正日の政策である先軍政治(軍事優先の政治)の継承と「核抑止力」の保持を強調した。演説の中で「人民生活の向上」を政治の目標とする姿勢を示したが、一方で「民族の尊厳と国の自主権がさらに貴重だ」として核ミサイルの開発を機軸とする「先軍」路線を国民生活より優先する方針を明確にした。なお、正恩の肉声が北朝鮮内外に伝えられたのはこの演説が最初である。父親の正日は国民を前にほとんど演説を行わなかったが、権力継承後「遺訓統治」と称して正日の統治スタイルに従ってきた正恩は、演説に関しては父の例を継承しなかったことになる。正恩の演説は祖父・日成を意識したもので、演説の放映を視聴した人々からは「金日成と似ている」との声が上がった。
4月19日、『労働新聞』は初めて金正恩の公式談話を掲載した。内容は先軍路線の継承と食糧問題の解決を訴えるものであった。
8月3日、金正恩は初の外国要人との会談を中国共産党中央対外連絡部長の王家瑞と行った。
北朝鮮の国民は、正恩に対して、日成、正日よりも信頼を置いていないという。元韓国統一省次官の金錫友(キム・ソクウ)は「金(日成)主席に対する敬意と尊敬を100とすれば、金(正日)総書記は70、金(正恩)第一書記は30程度」という脱北者の話を紹介している。
各国の人権問題を話し合う国連総会第3委員会では「金正恩第1書記の体制でも市民への抑圧のひどさに変わりはない」と指摘し、2012年12月20日の同委員会で北朝鮮の人権弾圧を非難する決議案を採択した。同様の決議は8年連続だが、初めて無投票の全会一致(コンセンサス方式)で採択した。同委員会は「指導者が交代したにもかかわらず、人権状況が悪化した」と指摘している。
2012年から2013年にかけて、人民武力部長、同部第一副部長、朝鮮人民軍総参謀長、人民保安部長、国家安全保衛部第一副部長等の軍上層部の解任を繰り返した。2013年8月には、妻の李雪主が過去に所属していた「銀河水管弦楽団」等の音楽家9名をポルノ映像制作容疑で公開処刑した。そして、同年12月には事実上のナンバー2であった張成沢とその側近たちを処刑した。張成沢処刑時点で、金正日の国葬時に霊柩車を囲んだ金正恩を除く7名の権力中枢人物のうち、張成沢、李英浩、金永春、金正覚、禹東則の5名を粛清するか更迭したことになる。同年7月27日に平壌で中国の李源潮国家副主席を隣席に招いて朝鮮戦争休戦60周年記念行事を行ったばかりであり、中国政府は外交窓口である張を「何の相談もなく」粛清したことに不快感を持ったとされる。
泥酔状態で張の処刑を命じるなど、衝動的で現実を無視した指示が多いとされ、留学先のスイスを真似て街に緑を増やすため住民の貴重な食料供給地である自宅の庭の畑に芝生を敷くように指示したり、食糧不足を解消するため米の代わりに肉を食べるように訓示したと報じられている。2014年2月朝鮮中央通信の報道で、2014年3月に行われる最高人民会議の代議員選挙に向け、「第111号白頭山選挙区」で候補者として登録されたと報じた。2014年3月朝鮮中央通信の報道で、北朝鮮の中央選挙委員会は10日、前日に実施された最高人民会議の代議員選挙で、金正恩第1書記が選出されたと明らかにした。賛成率は100%という。
2014年7月以降は足を引きずって歩く映像が流れた際には足負傷説や肥満・内臓疾患による歩行困難説が海外メディアに報じられている。また同年9月3日から長期間に渡って公の場に姿を見せていないために動静が分からなくなっていた。最高指導者となってから毎回参加していた最高人民会議出席(9月25日)や錦繍山太陽宮殿参拝(10月10日)でも出席・参拝が確認されてなかった。同日夜に朝鮮中央テレビが足を引きずって現地指導する同年7月の映像を流した際に、金について「不自由な体なのに人民のための指導の道を炎のように歩み続ける我が元帥」と表現し、歩行困難を認める言及をしている。10月14日に北朝鮮メディアは日時は不明ながら杖を使いながら視察する記事が報道された。
なお、オランダのライデンで開かれた学術会議で、北朝鮮の元高官でもあった脱北者が証言したところによると、朝鮮労働党組織指導部こそが権力の中心であり、正恩は父の金正日ほどには権力を掌握できておらず、象徴的な指導者に留まっているとされる。このため、権力の座を巡る闘争が起きており、張成沢の粛清も、組織指導部が中心となって行われたとされた。
2015年4月までに、人民武力部長の玄永哲を公開処刑した他、朝鮮人民軍総参謀部作戦局長の辺仁善、国防委員会設計局長の馬園春(マ・ウォンチュン)、朝鮮労働党財政経理部長の韓光相(韓国語版)(ハン・グァンサン)ら15人を粛清したとみられたが、馬と韓はその後復帰が確認されている。韓国の情報機関、国家情報院によれば、金正恩体制下で処刑された幹部の数は70人余りとなった。軍の最高幹部の一人を処刑するほどの恐怖政治が敷かれていることは、恐怖政治以外の方法では体制固めができないことを意味しており、クーデターや暗殺などの可能性が指摘されている。また同年5月に金の山林緑化政策に不満を示したとして副首相の崔英健(チェ・ヨンゴン)が処刑されていたこともその後判明している。
2015年8月30日、統一教会の開祖である文鮮明の3周忌に際し、遺族らに弔電を送ったことが報道された]。
2015年10月10日の朝鮮労働党創建70周年記念式典では中国序列5位の劉雲山と肩を並べて歓談してパレードの終盤では聴衆に向かって手を取り合うなど親密さをアピールし、金は中朝関係を「血潮で以て結ばれた友好」「金日成主席同志と金正日総書記同志が残した最大の外交遺産」であるとし、ミサイル発射を中止した。
2016年5月9日、朝鮮労働党第7次大会において党第一書記に代わって新設された党委員長に就任し、6月29日、最高人民会議において国防委員会第一委員長に代わって新設された国務委員長に就任した。なお、同6月29日の最高人民会議において副首相の金勇進の座る姿勢が悪かったたため反革命分子と見なされ翌7月に処刑されたという。
2017年5月、秘密警察の朝鮮民主主義人民共和国国家保衛省や北朝鮮の国連代表部、対米外交を担当する韓成烈外務次官、朝鮮中央通信などは米国の中央情報局 (CIA) と韓国の国家情報院が金の暗殺を試みたと主張し、暗殺に関与した国家情報院院長の李炳浩やCIA関係者の引き渡しと正式な謝罪を要求した。また、これとは別に金暗殺を推進したとして韓国の朴槿恵前大統領の引き渡しも要求した。  
 
 
 
 
 
 
人物

 

 
スポーツ好きで分野を問わず全般的にこなす。スイス滞在時代についての記録によればバスケットボールに熱中していて、マイケル・ジョーダンやトニー・クーコッチ、コービー・ブライアントらのファンであったという証言がある。温厚でクラスメートからの人望が厚かったという証言もある。
藤本健二とは金正日の専属料理人時代に遊び相手として付き合っており、カードゲームや10代ながらタバコ、酒を嗜んでいたという。様々な遊びを知る藤本には強い親近感を抱いていたようで、二人きりで政治的にきわどい話をしたり、「ブイ(喫煙を指す。タバコを吸う際に指の形がV字になることから)やろうぜ」という合言葉を作るなど深く付き合っていた。
007シリーズの映画が好きだとも言われている。またスイスの国際学校時代のクラスメートの証言によれば、日本やアメリカの漫画が好きでよく読んでいたという。さらに金正恩とクラスメートが描いたバッグス・バニーのイラストが残されている。
朝鮮人民軍の高級軍人であるが、2011年2月16日に朝鮮中央放送が放送した視察映像では、双眼鏡を上下逆さまに持って覗き込む姿が映っており、実務経験が浅いことが指摘されている。
2014年9月25日、朝鮮中央テレビは金の体調不良を報じた。そして「不自由な体なのに、人民の指導の道を炎のように歩み続けるわが元帥」と賞賛した。韓国の聯合ニュースによれば、金は痛風に罹っており、暴飲暴食が原因という。
髪型は、側頭と後頭を上まで短く刈り上げ、上面の髪はパーマをかけてコテで巻き込むという、かなり手の込んだ個性的なヘアスタイルをしている。称して「覇気ヘア」と言い、以前は「野心ヘア」とも呼んでいた。正面から見ると黒電話の受話器のような輪郭をしているため、国外では「テレホン・ヘッド」と揶揄されることもある。
飛行機嫌いの父親とは正反対であり、2015年2月、政府専用機(IL-62)に搭乗して平壌市内の建設現場を上空から視察した。
核問題を担当し、金正日と会ったこともあるウェンディ・ルース・シャーマン元国務次官は、正恩について「金正日総書記よりも残虐だ。金総書記は我々との交渉に臨もうとしていたが、(正恩第1書記は)そのような気配もない」と指摘している。
ヘビースモーカーであり、最高人民会議が2005年に採択した「たばこ統制法」を無視して、喫煙が禁止されている地下鉄や病院・保健施設、学校等で歩き回りながら喫煙している姿がしばしば報道されている。
名前
金正日の三男の名前については、藤本健二により「キム・ジョンウン」と紹介された。当初、朝鮮語のハングル表記は「김정운」、漢字表記は「金正雲」とされた。
しかしその後、正しいハングル表記は「김정은」ではないかという説が浮上し、2009年10月7日には大韓民国の統一部がハングル表記を変更すると発表した。漢字表記は「金正銀」もしくは「金正恩」ではないかと推測された。これを受け、『朝日新聞』、『東京新聞』、『読売新聞』は、表記を「金ジョンウン」に変更すると発表した。ハングルの "운"(/un/) と "은"(/ɯn/) は、日本語では区別せず双方ともに "ウン" である。
また、『毎日新聞』は、北朝鮮関係者の多くが適切と証言しているとして、「金正銀」という表記を採用していた。韓国でも「誕生日の2009年1月8日前後に金正雲から金正銀に改名した」と報じるメディアがあり、2010年9月28日には中華人民共和国の新華社通信、中国中央電視台も「金正銀」の表記を使用していた。ただし、北朝鮮は中国政府に正式な漢字表記を伝えていないという報道もあった。
2010年10月1日、朝鮮中央通信により、漢字表記を「金正恩」とすると発表され、彼の名前を巡る問題は終息した。
写真
金正日の後継者として登場する以前の金正恩の姿はほとんどメディアに流れる事はなく、各国情報機関においても不明な部分が多い存在であった。彼が公式な地位を得るまでは長年にわたって僅かな写真が存在するのみであった。金正日の息子の存在およびそれを証明する写真は、特に北朝鮮国内では最高機密とされて出回ることがなかったが、2009年1月16日のニュース番組「NEWS ZERO」(日本テレビ系)で、10歳の頃の正恩の写真が公開された。その後2009年6月頃から、JNNや読売新聞がスイスのインターナショナルスクール時代(10代半ば)の正恩の写真を公開して大きな話題になった。なお、JNNが入手した写真は、2010年6月8日に韓国の聯合ニュースが未公開写真を入手したと報じている。 しかし、その後もしばらくは謎に包まれた存在であった。上述の10歳の時の顔写真から26歳の顔を推定した合成写真がアメリカの公開情報センターによって作成されたり、2010年4月20日、毎日新聞に金正恩の近影とされるものが掲載されたが、実際には全くの別人であった事が後に判明するなど混乱も見られた。
2010年9月9日、香港の衛星テレビ局、鳳凰衛視(香港PHX)の番組「時事弁論会」で「北朝鮮は中国の負担になっているか?」というテーマの回が放映された際、同年8月末に父・正日と一緒に訪中した事実とともに、その際の写真が放映された。それによると顔は父親似であるが祖父である金日成の面影もあり(ただし、日成に似せて整形をしたという一部報道もある)、身長は正日より頭一つ分位高い。
2010年9月30日、北朝鮮のメディアが式典に参加する金正恩の姿を映した写真と映像を公開し、初めて公に姿を現した。金が出席した2010年10月10日の軍事パレードは海外メディアにも取材が認められ、彼の映像が西側諸国のカメラによって初めて撮影された。
2012年4月12日、『労働新聞』電子版はスーツを着用した金の写真を配信した。金のスーツ姿が確認されたのはこれが初めてである。  
 
 
 
 
●金正男

 

 
(キム・ジョンナム 1971-2017 ) 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)第2代最高指導者・金正日労働党総書記の長男かつ第3代最高指導者・金正恩労働党委員長の異母兄。北朝鮮の元政治家。  
経歴

 

 
1971年5月10日、北朝鮮の初代最高指導者・金日成の息子である金正日を父に、成尢ヤを母に平壌で生まれる。出生当初、父・正日は正男の存在が外部、とりわけ、尢ヤとの結婚に反対していた祖父の日成に漏れないように努めていた。しかし、後に日成も娘の金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて初孫である正男の存在を認め、党活動に専念する正日に代わって可愛がるようになる。
成長してからはスイスのジュネーヴのインターナショナルスクールなどに留学歴があると言われているが詳細は不明。なお、12歳から14歳まではソビエト連邦・首都モスクワで生活していたという。1995年からは中華人民共和国の北京で暮らし始め、上海の経済発展ぶりを見て北朝鮮の改革開放を志すようになる。
母国語の朝鮮語の他に英語やフランス語(それぞれ2007年2月12日と2007年11月13日にフジテレビのFNNスーパーニュースで記者とのやり取りが報道された)を話し、またロシア語、中国語(広東語)もある程度話せるようである。日本語については、日本人記者の「日本語は分かりますか?」という朝鮮語の質問に、日本語で「日本語ワカリマセン」と答えている。
1988年に17歳で就任したコンピュータ委員会委員長としてソフト産業の振興発展、朝鮮コンピューターセンターの創設と北朝鮮サイバー軍の育成、光ファイバー情報ネットワーク「光明」の構築などを指導したとされる。1995年には朝鮮人民軍の大将となり、その後は秘密警察や武器輸出と秘密資金管理の責任者なども務めたといわれている。2007年8月27日に大韓民国の「朝鮮日報」は、正男が2007年6月帰国し、以前父親の金正日が所属していた党組織指導部に所属していると報道した。
2007年1月30日に在香港の複数の情報筋が、金正男と思われる男が、中華人民共和国の特別行政区であるマカオ入りしたことを明らかにした。アメリカ合衆国の北朝鮮に対する金融制裁により、マカオの金融機関「バンコ・デルタ・アジア (BDA)」にあった約2400万ドルに上る北朝鮮関連口座が凍結されており、中朝関係筋は、北京で同日始まった金融制裁問題に関する米朝専門家会合に関連して、正男がマカオ入りした可能性を指摘している。なお、エレベーター内の取材で「日本の拉致問題」の事を話すとノーコメントだった。
なお、同時に日本や韓国のメディアで、「金正男とその家族がマカオ市内に住居を構え長期間滞在し、マンダリン・オリエンタルホテルなどでヨーロッパの高級ブランド品などのショッピングを楽しんでいる」と報道された。
2011年当時はマカオに滞在して活動していたとされる。金正日の長男という立場でありながら、後継者問題(後述)を巡り、北朝鮮の政治体制を揺るがしかねない批判、あるいは意見を広く西側に向けて発信していたことから、軍部を中心に北朝鮮側にとって疎まれる存在であるとみられた。2011年時点では父親である正日への接触はもちろん、公式非公式問わず北朝鮮への入国や北朝鮮指導部とも接触が報道されたことはない。同年12月17日の正日の死去においても、テレビで初めて知らされたことが伝えられている。しかし正男は直後に「金哲(キム・チョル)」という名義のパスポートを使い、平壌直行便のある北京経由ルートを避けて本国に帰国、正日の霊前との対面を果たし、後継指導者である金正恩を含む家族とともに別れを告げたとみられる。数日後にはマカオに戻った。なお、公式な葬儀への参列は確認されていない。
その後、ロシアメディアなどが、正男の妻や子供は中華人民共和国の支援により、マカオ市内の高級マンションに住み、正男本人は北朝鮮支援によるホテル住まいであることなどが伝えられていたが、北朝鮮本国で金正恩体制が確立された2012年に入り、ホテルの1万5000ドルの宿泊代を払えずに退去し、これは北朝鮮側からの送金停止によるものではないかと伝えられた。さらに、4月22日に、朝鮮労働党書記の金永日が北京市で戴秉国と会談した中で、マカオに住む正男の身柄引き渡しを要求し、中華人民共和国側が拒否したと伝えられた。これは朝鮮半島有事で北朝鮮の体制が危機となれば、金正男を中心とした傀儡政権を据える手段を保持するためと言われている。
 
 
 
 
暗殺
2017年2月13日午前9時頃(日本時間同10時)に、「キム・チョル(Kim Chol)1970年6月10日平壌生まれ」という北朝鮮国籍のパスポートを持つ男性が、クアラルンプール国際空港で出国手続きのため自動チェックイン機を操作している最中に、女2人が突然襲いかかり逃げ去った。直後に襲われた男性は体調不良に陥り、空港内の医務室から病院へ搬送中に急死。翌14日に、マレーシア政府が金正男の死亡を発表し、複数の韓国メディアが、「キム・チョル」名義の偽造パスポートを所有した金正男が女2人に殺害され、実行犯がタクシーで逃走したことを報じた。
マレーシアの華字紙「東方日報」によると、逮捕されたベトナム国籍の女性が「一人がハンカチで顔を押さえ、もう一人が顔にスプレーを吹きかけた」と供述していたという。マレーシア政府が死体の指紋照会を14日に行なったので、韓国側が以前採取した金正男の指紋と死体指紋を照合すると「指紋が同一」として「死亡した人物は金正男氏」と断定。マレーシア警察が24日に解剖して「殺害に使用されたのは致死性があるVXガス」と断定している。
殺害に中心的役割を果たしたのは、毒殺専門たる朝鮮人民軍偵察総局19課と見られていて。このうち北朝鮮籍容疑者4名が搭乗したと見られる高麗航空JS272便がジャカルタ・ドバイ・モスクワ・ウラジオストクを経て、北朝鮮に入国すると思った韓国情報当局が、ロシア連邦政府に抑留要請したが、ロシア政府は受容せず出国を容認している。
マレーシア当局による事件捜査を北朝鮮が批判したことや、使用されたVXガスを運搬したと思われる在マレーシア北朝鮮大使館二等書記官への面会要請拒否などを受け、マレーシア政府は、駐北朝鮮マレーシア特命全権大使の召喚、北朝鮮人のビザなし渡航制度の廃止や、康哲駐マレーシア北朝鮮特命全権大使に対するペルソナ・ノン・グラータ指定といった対抗措置をとった。一方、北朝鮮外務次官の李吉聖と中国外相の王毅等との北京での会談や、2月28日からクアラルンプールに派遣されていた前北朝鮮次席国連大使・李東一国際機構局長からの金正男の遺体引き渡し及び北朝鮮籍容疑者の釈放要請のあと3月3日に当該容疑者は「証拠不十分」として釈放された。就労許可証が期限切れしていてマレーシアが国外追放処分を下した同容疑者は、北京の北朝鮮大使館で会見し「証拠捏造などがあった」とマレーシア政府を批判。
2017年3月30日朝鮮中央通信で、北朝鮮とマレーシアの間で遺体の引渡しや、出国禁止の解除、ビザなし渡航制度の再導入への協議開始などを行うとの共同声明が出されたと伝えられた。翌31日、陸慷中華人民共和国外交部報道局長により、遺体が北朝鮮に到着したことが発表された。また同日北朝鮮籍の被疑者が中国国際航空で帰国し、北朝鮮で事実上の人質となっていたマレーシア人9名もマレーシアに戻った。
金正男は暗殺直前に、アメリカ情報機関の関係者と接触して、アメリカ合衆国連邦政府から資金援助も受けていたという報道もある。
後継者問題
朝鮮の儒教では世襲するのは嫡男であることから後継者候補であるとされてきたが、略奪愛である成尢ヤとの結婚も公には認められていなかったため、正男は事実上の庶長子であり、その存在を金正日はひた隠していた。正日の専属料理人であった藤本健二は「将軍(正日)や軍大将、党幹部らが集まる宴席で彼の姿を見たことはないし、噂話として語られたことは一度も無い」一方「金正哲や金正恩の話は将軍からよく聞きましたし、遊び相手でもありました。きっと彼は長男の存在を隠し通したかったのではないでしょうか」とコメントした。
2007年2月25日に、日本や韓国のメディアで正男が後継者問題について「関心が無く、させられてもやらない」と知人に述べていることが報道された。ニュースでも「色々な所に行って、後継者になったりするのか」、「後継者とは考えられない」という発言があった。
また、正日にロシア語を教えた金賢植(キム・ヒョンシク)によると、「正男は出生当時、出生が極秘にされたことから、後継者になるのは難しい」との見解を示した。ところが、次男の正哲を推す軍部の強硬派である李済剛が失脚し、正男を推す正日の義弟の張成沢が権力を掌握、正男が後継者になる可能性が高まったとの報道もある。その後、2008年9月には正日の重病説が流れたこともあり、一部では後継者問題に再び火がついたという見方をされていた。
2009年6月5日に、西側諸国のメディアで「金正男が滞在先のマカオから中華人民共和国(もしくはアメリカか韓国)に亡命する見込みが強まっている」との報道がなされた 三男の正恩を後継とする体制づくりが急ピッチで進んでいたとされる。だが、6月9日にマカオでテレビ朝日の「報道ステーション」の単独インタビューに応じ、「後継には興味はない。個人的にこの問題に興味がない。政治には興味がない。後継者については報道で知り、事実だと思う。父が正恩を寵愛している。いかなる決断も父がする。父が決断すれば従わなければならない」と語った。なお、この頃から正恩による正男暗殺が企てられたことがあり、正日が正男の暗殺阻止のため、中国政府に正男の身辺擁護を依頼したとも報じられている。
正男は正恩が後継者となるのに反対していた。反対した主な理由は、天安沈没事件と2009年に行われたデノミ施策が正恩指揮の下で行われたため。
2010年9月、正恩への権力世襲について、韓国の民主平和統一諮問会議の李首席副委員長は、正男と親密な関係者から、「正男が『滅びるのに。長続きすると思うか』と述べた」と聞いた。
2010年10月9日、テレビ朝日のインタビューに対し、「1つの家族が3代続いて権力を世襲することに、個人的には反対だ」と述べた上で、正恩が後継者に決定したことについては「ある内部的な事情」が背景にあるとして、「決定には従うべきだろう。(中略)わたしの父(金総書記)が決定したことだと思う。だが、わたしには関係のないことだし、関心もない」と語った。なお、正恩に対しては、北朝鮮人民の生活向上に最善を尽くすことを要望し、必要であれば支援する用意があると述べた。
 
 
 
 
 
 
 
日本への密入国
観光などを目的に偽造パスポートを使い、日本に何度か不法入国していたことを本人が認めている。来日時に「東京ディズニーランド」にも出入りしていたと伝えられているほか、赤坂の韓国バーなどで朝鮮総連の関係者や暴力団関係者と接触していたと伝えるメディアもある。また密輸資金の回収が過去数回の不法来日の目的ではないかとも報じられた。
2001年(平成13年)5月1日に、「金正男と見られる男性」が新東京国際空港で東京入国管理局成田空港支局に拘束されるという事件が発生した。男は妻子を連れており、ドミニカ共和国の偽造パスポートを使用して、中国語名の『胖熊』という偽名で日本入国を図ったところを、入管難民法違反で拘束・収容され、その際に背中に虎の刺青が施されていることが判明。
5月3日に、身柄拘束の事実が報道によって明らかとなったが、外交問題に発展することを恐れたことと、当時北朝鮮にいた日本人観光客の人命を保護するため、日本国政府の判断により国外退去処分(事実上の超法規的措置)とされ、翌4日に、2階席を貸し切り状態にされた全日本空輸 (ANA) のボーイング747-400型機で中華人民共和国の北京首都国際空港に向けて出国させた。なお同社の同路線は通常ボーイング767型機で運航されていることから、金正男とその家族の移送のために、予備機として成田空港にあったボーイング747-400型機に振り替えて運行されたものと思われる。
この際、北京市に移送される際の映像が、世界中のテレビ局で何度もテレビ放映された。この男について、日本及び北朝鮮政府いずれからも、金本人かどうかの正式な発表はないが、韓国政府筋は「金正男本人」であるとした。この男は、「東京ディズニーランドに行きたかった」と語った。
実際、2009年(平成21年)1月24日に北京首都国際空港に現れた金本人が、日本のマスメディアにインタビューを受けた際のやり取りにおいて、2001年に日本に不法入国しようとした理由につき、「日本に興味があったので旅行に行ったが、現在は簡単に行けない。日本はとても清潔で美しい。また、経済的にも非常に発展している国だと思う。」と答え、日本へ入国した過去があることと、2001年5月に新東京国際空港で拘束された「金正男とみられる男性」が、本人であることを事実上認めている。

2002年12月に、ディズニーランド・パリを訪れるためにフランス政府に入国を申請したが拒否された、とフランス紙に報じられた。
2004年9月25日には、北京国際空港に現れ、居合わせた報道陣の問いに金正男本人だと認めた。渡航理由は不明だが、付き人もなく一人で北京市内のホテルに滞在したという。また同年12月3日、本人と思われる人物が複数の日本の新聞社に年末年始の挨拶の電子メールを送った事が報じられた。これが実際に本人からのものであるならば、先述の9月の北京国際空港での取材時に、渡された名刺に書かれたメールアドレスを見て送ったのだろうと推測されている。 このメール騒動について、北朝鮮問題に詳しい恵谷治は偽者説を、コリアレポートの辺真一は本物か周辺によるメール送信説を述べた。評論家の河信基は「後継者から外され、焦っている」と語った。
尚、中央日報によると、金正男は金正恩によって暗殺されそうになったとする記事がある。
2011年9月、正男の長男である金漢率がボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルにあるインターナショナル・スクールに入学し、Facebookに顔写真が公開されていると報道された。
2011年10月、Facebookのアカウントを取得したと報道された。 2012年1月20日、文藝春秋より「父・金正日と私:金正男独占告白」五味洋治/著 が出版された。2004年に名刺を交換した東京新聞の五味洋治編集委員との150通にわたる電子メールのやりとりと、7時間のロングインタビューによって構成されている。この中で金正男は、北朝鮮の三世代世襲制を批判し、また金正日も生前これを否定したことを語っている。この本の出版時期について金正男は、金正日の喪が明けたあとに考えたいとしていたが、五味によって半ば強行されている。 
 
 

 


 

 

 
2017/9
 
●朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮(通称) 

 

朝鮮半島北部を実効支配する東アジアの共和制国家であり、戦後の冷戦で誕生した分断国家である。最高指導者による事実上独裁体制を取る社会主義共和国。豆満江を挟んで中華人民共和国及びロシア連邦と、鴨緑江を挟んで中華人民共和国と接している。首都は平壌。人口は約2515万人とされる。
北朝鮮の政治は、朝鮮労働党を支配政党とし、他に衛星政党のみが存在するヘゲモニー政党制であり、朝鮮労働党の最高指導者の地位は、金日成・金正日・金正恩と親から子への移譲が続いている。実質的には独裁体制の世襲が北朝鮮の指導者選択として存在する。
地理としては、軍事境界線(38度線)を挟み、同じく朝鮮半島南部を実効支配している朝鮮民族の国家大韓民国(韓国)の統治区域と対峙している。朝鮮民主主義人民共和国の憲法上は、朝鮮半島全体を領土と規定している。南半部を実効支配する韓国も、憲法上は朝鮮半島全体を領土と規定している。
東西冷戦下で誕生した分断国家であり、朝鮮戦争において北朝鮮・中国軍両軍と米軍を中心とした国連軍の間で朝鮮戦争休戦協定が結ばれて以来、南北は現在に至るまで「休戦」中であるが、軍事的対立や小規模な衝突はその後も断続的に発生している。 
国名 

 

正式国名
朝鮮語による公式な名称は、조선민주주의인민공화국。漢字表記は「朝鮮民主主義人民共和國」だが、1948年9月9日の建国から漢字を廃止している同国では、漢字表記はあくまで外国語の扱いである。そのため地名や人名の漢字表記も外国語扱いであり、公式の名簿での漢字は存在しない。「朝鮮」(チョソン)は古代においては現在の遼東半島付近を指す地名であったが、衛氏朝鮮の成立以降は朝鮮半島の一部を指す言葉にもなった。紀元前108年に前漢が衛氏朝鮮を滅ぼした後に設置された楽浪郡の都(現在の平壌)は朝鮮県と呼ばれている。その後長らく「朝鮮」という言葉は用いられなかったが、1392年に成立した李氏朝鮮が国号として用いて以降は半島全体の地域的名称や、そこを統治する国家を示す言葉として用いられるようになった。
国際的な名称
公称の英語表記は「Democratic People's Republic of Korea」、略称は「D.P.R. Korea」、あるいは「DPRK」。フランス語での表記は「République populaire démocratique de Corée」、略称は「Corée du Nord」、あるいは「R.P.D. CORÉE」。 英語で一般的には「朝鮮半島の分断国家である状態」から、単純に「朝鮮北部にある国家」として「North Korea, N.Korea, NK(これに対する意味で、大韓民国はSouth Korea, S.Korea, SK)」で表す。
日本における呼称
日本政府は、1965年に朴正煕政権と締結した日韓基本条約第3条で大韓民国(韓国)を「朝鮮にある唯一の合法的な政府」と認めているため、朝鮮民主主義人民共和国についてはこの取り決めに基づき国家承認を行っておらず、この条項を韓国政府の同意を得て改訂しない限り国家承認を行うことはできない。そのため、日本の行政機関(外務省等)やマスメディアは朝鮮民主主義人民共和国に対し、実効支配地域の名称を用いて北朝鮮(きたちょうせん)と呼んでいる。また、NHKワールド・ラジオ日本における韓国語放送(コリアンサービス)においても、同様に「北朝鮮」(북조선、プクチョソン)という表現を使っている。
これに対し、朝鮮民主主義人民共和国政府や在日本公民団体の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)は、自らを朝鮮の正統国家と主張する立場から、「North Korea」または「北朝鮮」と呼ばれることを嫌って、「朝鮮」と表記してほしいと主張。報道機関に対して抗議やデモ活動を繰り返した。しかし、日本の報道機関には受け入れられなかったため、次に「共和国」と呼んでほしいと提案した。これも日本側には受け入れられず、最終的に、記事の最初に正式国名を一度だけ併称することを条件に、「北朝鮮」と呼ばれることを受け入れるという妥協が成立した。
このような動きを受け、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック以降、長らく日本のマスメディア(特にテレビ)は、報道時に最初に言うときは正式名称と略称を併称し、2度目以降は「北朝鮮」のみを用いるという呼称方法を採用し、双方が妥協する状態となっていた。冒頭での呼称は、テレビ・ラジオなどアナウンスの場合は「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」という発声であり、新聞など文字の場合は「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」という記述であった。また新聞等では、この地域の在留者について「北朝鮮人」ではなく「朝鮮人」と記述されている。
しかし、2000年代に入り「北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律」(拉致被害者支援法)が制定されてからは、マスメディアも冒頭から単に「北朝鮮」と呼ぶのが一般的になっている。背景には、2002年(平成14年)9月17日に行われた小泉純一郎首相(当時)の北朝鮮訪問及び日朝首脳会談、及びそれを契機とする日本人拉致事件に関する世論の関心や北朝鮮当局に対する反感の高まりがある。遅くとも、2003年(平成15年)以降は『北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国』の呼称を採用しているマスメディアは無くなった。文脈が読み取れる場合には、さらに省略して「北」と表現する場合もある。一方で、日本サッカー協会は、「北朝鮮」の表現も使用するが、主に「朝鮮民主主義人民共和国」の表記を使っている。
日本語での伝統的な朝鮮の異称としては高麗(こま、「狛」とも表記)があり、近代以前の日本で「こまひと(高麗人)」といえば朝鮮半島の人々の異称であった。ただし、1990年代以降における「高麗人」の表記は、「ソビエト連邦崩壊後の独立国家共同体(CIS)諸国の国籍を持つ朝鮮民族」を指すことがほとんどである。
韓国における名称
大韓民国では、一般的に北韓(북한、プッカン、KBSワールドラジオにおける日本語放送による読み上げは「ほっかん」、北にある韓国と言う意味)と呼称している。さらに省略して、単に「北」と呼ばれることもある。ハングル中心の韓国では、漢字の使用頻度は高くないが、報道においては、とりわけ北朝鮮を指す一文字として、ハングル表記の「북(プク)」ではなく、漢字の「北」がよく用いられる。
韓国は、建国以来自国や自民族の自称として「韓」を用いてきたため、朝鮮半島を「韓半島」、朝鮮語を「韓国語」と名称するなど、原則的に「朝鮮」という表記を用いない傾向がある。また、「朝鮮の唯一合法的な政府」を自任する韓国政府は、北朝鮮を国家として承認していないため、「朝鮮」や「共和国」などの用語は正式な場では用いられない。1980年代までは、蔑称として「北傀」(북괴、プッケ、朝鮮の北にあるソビエト連邦や中共政権の傀儡政権という意味)が公の場でも使われていた。だが、第六共和国成立後に南北の融和が進んだことや、北朝鮮の政情と合致しなくなったことから、現在ではほぼ使われていない。
なお、韓国では朝鮮の南北について「南韓・北韓」という呼び方が一般的であり、自国のことを「南朝鮮」と呼ぶ者は、ごく一部の民族民主 (NL) 系人士に限られる。また、政治色を無くした「南側・北側」が使われることもある。 
歴史 

 

朝鮮民主主義人民共和国成立以前
前近代における朝鮮の王朝の特徴は、各王朝の存続期間が非常に長いことである。実態が未だ不明確な古朝鮮を除き、新羅、高麗、李氏朝鮮(大韓帝国)といずれの統一王朝も400年以上存続している。覇権を競った高句麗、新羅、百済の三国の争いの後、唐朝と同盟した新羅は663年の白村江の戦いで百済と倭国の連合軍を破り、668年に高句麗王を投降させて三国を統一した。その後、新羅の弱体化により892年に後三国時代が始まった後、918年に建国された高麗が936年に全土を統一した。高麗はモンゴル帝国の侵攻を受け弱体化し、1392年に李氏朝鮮が成立した。李氏朝鮮は19世紀に近代化の波が東アジアへ押し寄せる中で弱体化していった。
19世紀末に至るまで、朝鮮の統一王朝は中国歴代王朝の冊封国であったが、日清戦争の講和条約下関条約で清が朝鮮に対する冊封を取りやめたため、李氏朝鮮は1897年に完全な独立国家として国号を大韓帝国に改称した。しかし、大韓帝国改称後も長年の従属国体制で染みついた事大主義体質や小中華思想を払拭する事はできず、挙げ句には朝鮮半島の植民地化を狙っていたロシア帝国に擦り寄ろうとした(ハーグ密使事件等)。これに危機感を抱いた日本は日露戦争勝利後に朝鮮に対する影響力と支配を強めていき、1910年には韓国は日本との間に韓国併合ニ関スル条約を結んで朝鮮の統治権を日本政府へ譲与して政府を解体し(韓国併合)、朝鮮民族の国家は戦争を経ることなく名実ともに完全に滅亡した。これ以降36年間に渡って朝鮮は日本による統治を受けることとなるが、第二次世界大戦の勃発で日本と連合国が敵対するようになると、連合国の首脳は1943年のカイロ宣言から「朝鮮の独立」を戦争継続の理由の一つに挙げるようになり、1945年9月2日に日本が降伏文書に調印したことで日本の朝鮮統治は正式に終了した。
日本の敗北後、朝鮮は北緯38度線以南をアメリカに、38度線以北をソビエト連邦に占領され、両国軍の軍政統治を受けた。当初、米ソ両国は朝鮮を信託統治する予定だったがその実現方法を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を開始した。その結果、アメリカ軍政によって1948年8月15日に李承晩を首班とする大韓民国が朝鮮半島南部単独で樹立され、朝鮮の分断が決定的となった。これに対抗して朝鮮半島北部でも独立準備が加速し、同年9月9日に金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
1945年8月15日の日本の降伏・玉音放送放送後、朝鮮人は朝鮮建国準備委員会(建準)を設けて行政機能の掌握を図った。建準は9月6日に「朝鮮人民共和国」の建国を宣言し、中央本部を「中央人民委員会」、地方の支部を「人民委員会」とした。朝鮮人民共和国は米ソ両国から政府承認を拒否され、米軍占領地域では人民委員会も解散させられた。だが、ソ連軍は占領地域の人民委員会を存続させ、ソビエト民政庁に人民委員会を協力させる形式で占領行政を担った。ソ連は各地の人民委員会を中央集権化させる形で1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を創設し、ソ連から帰国した抗日パルチザンの金日成を初代委員長に就任させた。朝鮮半島北部では北朝鮮人民委員会の執政下で社会主義化が進み、1946年8月には朝鮮半島北部の共産主義勢力を糾合した北朝鮮労働党が結成され、1947年2月20日には立法機関として北朝鮮人民会議が創設された。その後、北朝鮮人民委員会は独立のために最高人民会議を招集し、1948年9月8日に朝鮮民主主義人民共和国憲法を制定、翌9月9日に人民共和国の樹立を宣言して独立した。1948年12月にソ連軍は朝鮮半島から撤収した。
朝鮮民主主義人民共和国成立後
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国の翌1949年6月30日に北朝鮮労働党は、大韓民国(韓国)の李承晩政権の反共主義政策のために越北した南朝鮮労働党と合併し、朝鮮労働党が結成された。
南北朝鮮の両国は、互いに自らを「朝鮮における唯一の正統な政府」であると主張して対立を深め、武力による南朝鮮の「解放」を目指す朝鮮人民軍が1950年6月25日に南進したことで朝鮮戦争(祖国解放戦争)の勃発に至った。当初分断国家朝鮮両国の武力衝突であった朝鮮戦争は、東西冷戦構造の中で、韓国側に立ったダグラス・マッカーサー元帥率いる「国連軍」の参戦と、「国連軍」の朝鮮半島北上に対抗して北朝鮮側に立った彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍の介入により国際紛争へと拡大した。戦争は朝鮮全土を破壊した上で1953年7月27日の休戦を迎え、38度線に軍事境界線が制定され朝鮮の分断が固定化された。朝鮮半島の分断は停戦状態のまま固定されており、1958年10月に中国軍は撤収するも国連軍(米軍)は駐留を続けており、朝鮮統一問題が北朝鮮の最重要課題となっている。休戦後、北朝鮮は「南朝鮮を解放」するため特殊工作員の対南工作に力を入れ、しばしば韓国の情報機関に摘発されている。また、正規軍同士による武力衝突も散発的に起きており、北朝鮮はしばしば休戦協定の無効化をほのめかす声明を行っているが、協定締結者であるアメリカ(国連軍)と中華人民共和国には受け入れられていない。
北朝鮮は、金日成が1948年9月9日の建国当初から1994年7月8日の死去まで最高指導者の位置を占めた。1950年代から1960年代にかけて、金日成は同国の指導政党である朝鮮労働党から満州派と対立する勢力を順次粛清し、権力を集中させた。まず、1953年の朝鮮戦争休戦直後から、戦争責任を問われて南労党派の党員が相次いで粛清され、1955年に主要人物の朴憲永が死刑となった。次いで、1956年にはソ連のスターリン批判の影響から8月宗派事件が発生し、金日成の追放を企てた延安派とソ連派の党員が相次いで党から姿を消した。最後に、経済政策や金日成の個人崇拝等を巡って満州派と対立した甲山派が1967年に粛清され、朝鮮労働党内から金日成・満州派と対立する勢力が一掃された。
延安派やソ連派の粛清に伴い、金日成は朝鮮戦争後の北朝鮮再建に影響力を持つソ連や中国との関係を悪化させた。だが、満州派は1958年から千里馬運動を展開して国内の生産性向上による問題解決を図った他、1960年代から表面化した中ソ対立の際に中立的な立場をとって双方と軍事同盟条約を結んだことで両国との関係悪化を最小限に抑えた。その後、満州派は甲山派の粛清と同時に党の指導理念として唯一思想体系を導入し、1972年制定の朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法で公式な国家の運営思想として主体思想を明記した。更に、1974年には国民の行動規範として党の唯一思想体系確立の10大原則が制定され、金日成個人崇拝が進められた。
北朝鮮は国内の権力闘争の一方で、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦直後より他の社会主義国から支援を受けながら経済を発展させ、1970年代までは韓国に対し国力で優位を保っていた(朝鮮民主主義人民共和国の経済史#朝鮮戦争の影響と復興)。そのため、東西冷戦期には北朝鮮から韓国に対して連邦制による南北朝鮮統一案が幾度か能動的に提案されている。最初の主な提案は1960年で、四月革命で韓国の李承晩初代大統領が退陣した直後の8月14日に「連邦制統一案」と南北両政府合同による「最高民族委員会」の樹立を提示している。次に提案があったのは、1979年10月26日の朴正煕暗殺事件を受け、翌1980年に5・17非常戒厳令拡大措置によって韓国に全斗煥将軍による軍事政権が樹立された直後で、1980年の10月10日に南北両政府の政治体制の相違を乗り越えた統一案として「高麗民主連邦共和国」創設を提唱している。
しかし1970年代後半から1980年代になると、北朝鮮の社会主義経済は効率性・生産性の欠如が進み(マルクス主義批判#共産主義体制への批判参照)、重工業・軍事産業と比して軽工業が発展しなかったために民需品が不足するなど、経済発展の停滞が深刻化した。これは、経済問題に明るい甲山派が1967年に粛清されて経済政策に精通したテクノクラートが中央から姿を消したこと、唯一思想体系の導入で経済対策の中央集権化や官僚主義化が進んだことによるものといわれ、大安の事業体系や青山里方式(主体農法)といった中央政府の施策を教条主義的に全国へ導入したことで全国的な生産力の劣化や労働者の勤労意欲の減退を招いたとされる。朝鮮労働党も三大革命赤旗獲得運動等で社会の活性化を目指したが経済状況は好転せず、本来は5年に一度の頻度で開くべき朝鮮労働党党大会も1980年の第6次大会以降は開けない状態が長く続いた。それどころか、1989年の東欧革命、及び1991年のソ連崩壊によって東側諸国との従来の経済交流が断絶し、特にソ連からの重油の供給停止が引き金となって、朝鮮民主主義人民共和国は1990年代に入ると今迄の社会状況を維持することすら困難となった。
1990年代半ばになると従来の計画経済は完全に崩壊して国全体の経済制度が破綻状態となり(朝鮮民主主義人民共和国の経済史#社会主義圏の崩壊と金日成の死去)、食糧等の生活物資の配給が止まったことで国内各地では食糧不足が深刻化し、各国の支援にもかかわらず、内陸の農村部を中心に餓死者が出る事態となった。それに伴い、多くの人々が食料を求めて中朝国境を越えて中国へと密入国し、脱北者問題が国際的に注目されるようになった(朝鮮民主主義人民共和国の経済史#大飢餓と深刻な経済難)。
1994年7月8日に建国以来一貫して国政を指導してきた金日成が死去すると、その実子である金正日が1997年に朝鮮労働党総書記へ就任した。本来、朝鮮労働党規約では党中央委員会総会で党中央委員会総書記を選出するとしているが、この際に党中央委員会総会は開催されずに各級党会議での「総書記推戴決議」という形式をとり、朝鮮労働党中央委員会総書記ではなく朝鮮労働党総書記という規約上存在しない役職に就任した。更に1998年には、憲法改正で国家主席制を廃止すると共に、同年の最高人民会議で「国の全般を建設、指揮する国家の最高職責」(事実上の最高指導者)とされた国防委員長に金正日が再任され、金正日国防委員長による新体制が成立した。
1998年当時の北朝鮮は独裁体制のもとで経済が低迷し、冷戦構造の崩壊によって国際的にも孤立した状態となっていた。そのため、北朝鮮政府は経済支援を引き出すために多くの西側諸国との間で国交樹立に向けた外交交渉に取り組み、その結果として1999年以降に相次いで国交を樹立した他、2000年には韓国の金大中大統領との間で南北首脳会談の開催と6.15南北共同宣言採択に成功した。その後、中国の経済協力や韓国の太陽政策などによって、破綻に瀕した北朝鮮経済は一応の安定をみせた。しかし、核兵器開発計画を巡って、アメリカ政府との間では緊張状態が継続した他、日本政府との国交締結交渉は、日本人拉致問題や韓国併合およびその統治に対する賠償などで意見が対立し、締結には至らなかった(日本統治時代の賠償に関しては、日韓基本条約により問題が更に複雑化している。当該項の北朝鮮に関する記述を参照)。
2011年12月17日に金正日国防委員長が死亡し、三男の金正恩を首班とする新体制が発足した。金正恩第一書記体制下では張成沢を粛清し、前代からの国防委員を解任するなど、新たな権力体制構築が行われている。同時に、金正恩体制は北朝鮮経済の改革による経済発展を目指しており、チャンマダンによる市場経済拡大に伴い平壌のような都市部で生活水準の向上等の変化が見られている一方、貧富の差の拡大も指摘される。ただ、核開発問題を理由に採択された国際連合安全保障理事会決議(決議1718など)の経済制裁が有効なこともあり、経済政策の効果は限定的とみられている。韓国銀行による2014年時点のGNI推計値は138.8万韓国ウォンで、経済規模は未だ1970年代の水準で停滞を続けている。
朝鮮民主主義人民共和国の主な歴史観
朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする独自の歴史観を掲げているため、漢四郡の存在を否定し、朝鮮半島北部をおよそ400年間支配した楽浪郡は遼東半島にあったと主張している。また、平壌を中心とした大同江流域の古代文化を「大同江文化」と命名し、世界四大古代文明と肩を並べる「世界五大文明」の中の1つとしている。 
地理
朝鮮半島全域を領土であるとし、そのうちの軍事境界線(38度線)以北およびその属島を統治している(38度線以南は、実際には韓国政府が統治しているが、朝鮮民主主義人民共和国では地域を指す表現としての「南朝鮮:남조선 ナムチョソン」が用いられている)。
なお、大韓民国も同じく朝鮮半島全域を領土であるとしている。韓国では、朝鮮民主主義人民共和国を、自ら統治できない38度線以北の地域をさす意味で「北韓:북한 プッカン」と呼ぶ。
また、1945年の日本統治からの解放後、1948年9月8日制定の朝鮮民主主義人民共和国憲法で定められた首都は、朝鮮半島南部を実効支配していた大韓民国と同じくソウルとなっており、朝鮮民主主義人民共和国の首都機能が存在した平壌は当時「臨時首都」の扱いだった。しかし1972年12月27日に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法により、朝鮮民主主義人民共和国の首都は法的に平壌に変更された。
気候
気候は夏は暑く、冬は寒い顕著な大陸性気候で、ほぼ全域が亜寒帯冬季少雨気候 (Dw) に属する。冬季の平均気温は、南部で-4度〜5度前後。平壌などの北西部から中部にかけては-6〜7度前後。東部沿岸で-4度〜5度前後。蓋馬高原や北部内陸部では-10度以下となり、特に慈江道、両江道、咸鏡北道などの中朝国境の鴨緑江と豆満江上流付近は非常に寒く、1月の平均気温は-15度以下に達する。特に慈江道中江郡の中江鎮は1月の平均気温が-16.5度に達し、1933年1月12日には-43.6℃という国内最低気温を観測し、山岳地帯の白頭山を除けば朝鮮半島最寒の地とされる。夏は、北東部や蓋馬高原で涼しい一方、北西部や南部では比較的暑くなり、8月の平均気温は24度を超す。降水量は夏季に集中し、冬季には少ない。そのため、冬季の寒さは厳しいが、積雪量は少ない。 
政治 

 

政治体制
政治体制はチュチェ思想(主体思想。即ち朝鮮民族の主体主義)に基づく社会主義体制(社会主義人民共和制)をとる。また2009年に改定された憲法序文で、軍事が全てに優先するという先軍思想が、主体思想と共に社会主義体制を建設するための中核思想と定められている。
最高指導者
憲法序文は「朝鮮民主主義人民共和国は偉大な首領金日成同志及び偉大な指導者金正日同志の思想及び領導を具現した主体の社会主義祖国である。」という文章から始まっており、金日成(1948年 - 1994年)、金正日(1994年 - 2011年)、金正恩(2011年 - )という3代世襲の最高指導者への個人崇拝と絶対服従が、北朝鮮の政治体制の基礎となっている。
最高指導者は国家においては朝鮮民主主義人民共和国主席、朝鮮民主主義人民共和国国防委員長、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会第一委員長、朝鮮民主主義人民共和国国務委員長、党においては朝鮮労働党中央委員会委員長、朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮労働党第一書記、朝鮮労働党委員長、軍においては共和国元帥(2017年時点)の階級を保有した朝鮮人民軍最高司令官と、時代によってその役職は変遷するものの、一貫して国家、党、軍の最高の職位を兼職し、事実上の個人独裁体制を敷いてきた。
1994年の金日成の死去によって空位となっていた国家主席職は1998年に事実上廃止され、その後は金日成を「永遠の主席」と憲法で定めた。以降、外国使節の信任状などを取り付ける役割を果たす最高人民会議常任委員会委員長(1998年より金永南が務める)が形式的には元首として取り扱われてきたが、実権は金日成の実子である金正日が朝鮮民主主義人民共和国国防委員長、朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮人民軍最高司令官として、国家、党、軍の権力を一貫して握ってきた。なお、社会主義国での最高権力者の世襲はなく、北朝鮮の体制は特異である。1998年に金正日が国防委員長に推戴される際、国防委員長職は「国家の最高職責」と表現された。2009年の憲法改正により国防委員長の権限がさらに強化され、「国家の最高指導者」と憲法に明記された。
2011年12月17日、金正日は現地指導中の列車の中で心筋梗塞になり、応急処置が行われたが8時30分、69歳で死去し、「永遠の国防委員長」「永遠の総書記」と位置付けられた。金正日の後継者としてはその三男の金正恩が祖父・父に続く三代目の最高指導者に指定され、国家においては国防委員長に代わって設置された国防委員会第一委員長に、党においては党中央委員会総書記に代わって設置された党第一書記に、軍においては共和国元帥に就任した。ついで2016年5月に36年ぶりに開催した党大会で、党第一書記に代わって設置された党委員長に就任し、6月の最高人民会議で、国防委員会第一委員長に代わって設置された国務委員会の委員長に就任した]。
金正恩体制は、以前にも増して金氏による世襲を強調している。2013年12月12日、金正恩の叔父で国防委員会副委員長の張成沢を反逆者であるとして死刑に処したが、特別軍事裁判の判決文では、以下のように述べた。
「歳月は流れ、世代が十回、百回交代しても変化することも替わることもないのが白頭山の血統である。わが党と国家、軍隊と人民はただ、金日成〔ママ〕、金正日、金正恩同志以外には誰も知らない。この天下で、あえて金正恩元帥の唯一的指導を拒否し、元帥の絶対的権威に挑戦し、白頭山の血統と一個人を対置させる者をわが軍隊と人民は絶対に許さず、それが誰であれ、どこに隠れていても一人残らず掃き集めて歴史のしゅん厳な審判台に立たせ、党と革命、祖国と人民の名で無慈悲に懲罰するであろう。」
このように、「白頭山の血統」である金一族の永遠の世襲と、人民に対する絶対性が強調されていることがわかる。
支配政党と立法府と行政府の関係
同憲法第11条には「朝鮮民主主義人民共和国は、朝鮮労働党の指導の下にすべての活動を行う」と規定されており、朝鮮労働党が国家の行政機構より上位に定められている。
公式には朝鮮労働党の他に朝鮮社会民主党や天道教青友党の2政党が存在するが、この2党は朝鮮労働党の指導を認める「衛星政党」であり、野党ではないため、事実上の一党独裁制であるヘゲモニー政党制に分類される。これらの衛星党は外国の政党との政党間外交をおこなうために存在しているとみられ、特に、2000年から2011年まで存在した韓国の左派政党民主労働党は朝鮮社会民主党と交流関係を持っていた。
立法府は一院制の最高人民会議である。定数は687議席。行政府の長は内閣総理であり、最高人民会議から選出される。
支配政党と軍の関係
憲法上は朝鮮労働党が国家の一切を指導すると規定されているが、第2代最高指導者の金正日執権下の1997年に北朝鮮メディアで先軍政治の言葉が初出し、1998年の金正日体制成立5周年記念において当時の金永春人民武力部長が「党と軍の対等性」を主張し、2009年憲法で軍を司る国家機関の国防委員長が「国家の最高指導者」と規定されたことにより、党機関の絶対的な優越が崩れて一党独裁体制が崩壊し、社会主義体制が形骸化したと指摘されており、国防委員長の金正日の個人独裁体制となったと推測する声がある。2010年9月28日の第3回党代表者会で採択された党規約では、「社会主義」や「マルクス・レーニン主義」は残されたものの「共産主義」は削除され、「先軍政治」が新たに明記された。
一方で、表向きは「先軍政治」のスローガンが掲げられながらも、憲法11条では従来どおり「朝鮮民主主義人民共和国は、すべての活動を朝鮮労働党の指導のもとにおこなう。」と定められている。また、一貫して金正日を事実上の部長に頂いた党組織指導部が、党、軍、国家などの各機関に対する思想検閲や人事査定を行ってきており、党組織指導部第一副部長だった張成沢や李済剛が大いに権勢を揮って来た歴史があり、張成沢の粛清劇に党組織指導部第一副部長の超延俊が暗躍したと考えられていることから、党組織指導部こそ北朝鮮の真の権力中枢機関で、軍に対する党の一定の支配は、先軍政治が掲げられて以降も、一貫して行われてきたとの分析もある。
このように金正日時代には軍を司る国家機関の国防委員会が重要な役割を担ってきたが、金正恩が第3代最高指導者に就任してからは、軍事的な決定は国防委員会ではなく党機関の中央軍事委員会で行われることが多くなっており、党の役割が再強化されたといわれている。そして2016年6月、主に軍人で占められていた国防委員会が廃止され、新たに国務委員会が設置されて委員には非軍人の多くが参画することになった。また、最高指導者の金正恩が国家の最高指導者として国防委員長に代わって新設された国務委員長のポストに就任した]。
公職選挙
現行の「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(2016年6月29日付、第13期最高人民会議第4回会議にて改正)」は、第1章(政治)第5条において、「朝鮮民主主義人民共和国における全ての国家機関は、民主主義中央集権制原則によって組織され運営される」と規定され、人民会議の代議員は直接選挙によって選出されることになっており、選出された最高人民会議ないしそれによって任命された内閣・国防委員会からなる中央政府、地方人民会議によって任命された地方政府とも、国民の総意によって委託され運営されることと定められている。
しかし、北朝鮮の体制自体がスターリン存命時代の旧ソ連体制を一部を除きほぼそのまま踏襲したものであることから、対内的には有権者登録作業において世帯や人口を把握する国勢調査的手段として、あるいは朝鮮労働党の施政に対して国民が誠意を持って参加できるかを試し強制的に人心を掌握する手段として、対外的には、他の自由民主主義国に対して国民主権によって政権が運営されているとの政権正統性を誇示するための手段としての、政治的儀礼にすぎないとされている。
代議員選出選挙は、5年に1度、国政選挙である最高人民会議選挙と地方人民会議選挙に分けて行われる。地方人民会議選挙においては、道ないし直轄市、市、郡ないし区域の人民会議の選挙を全て同日に行う統一地方選挙の形をとる。ただし、5年というのは前回の選挙実施日から5年を経過したことを意味し、あくまでも目安であり、実際は任期満了後でも朝鮮労働党中央委員会において候補者決定などの準備を完了しないと選挙は行われない。また、任期満了の直前に最高指導者が死亡し、長期の服喪となった場合や戦争その他の理由により正常な選挙の実施が困難と判断された時は選挙が延期される。
選挙権は数え年17歳以上の者が持つ。選挙区は小選挙区制をとり、選挙区は630程度、最高人民会議の代議員は各選挙区定員1名、地方人民会議では定員総数26,650名程度が設定されている(2003年8月実績)。選挙区は、「第○○○号選挙区」として全て数字で表示されており、選挙区番号の付与も地続きではないため、選挙区名を見るだけでは選挙実務担当者以外どの地域を示しているのかを理解することができないようになっている。出馬する選挙区についての規定は全く無いに等しく、朝鮮労働党中央委員会の恣意的選定によって決定される。例えば、1982年から6期連続当選した金正日は、毎回異なる番号の選挙区から出馬していた。
被選挙権についても、名目上は成人なら誰でも立候補できることになっているが、選挙運営上は朝鮮労働党中央委員会により指名された候補者以外が立候補することはできず、なおかつ朝鮮社会民主党と天道教青友党の候補者は朝鮮労働党の指導的役割に従属する。無所属でも立候補は可能だが、あくまでも朝鮮労働党中央委員会の指名を受けることが必要である。そしてすべての選挙区で1名しか立候補しないため、実態は選挙というよりも当選予定者の信任投票の形となっている。
選挙日が公示されると、まず有権者の登録が行われ、疾病や障害で投票できない、ないしは強制収容所にいるなどの理由がある者は登録除外される。有権者登録が終わると、「全員賛成投票せよ」という主旨のスローガンがメディアや選挙ポスターで啓蒙され、各人民班や社会団体・機関ごとに賛成投票を督励する行事や決意集会が開催される。この際、投票督励のスローガンのみならず、「人民主権の参加で先軍政治を一層輝かせよ」といった類の政治スローガンもしばしば好んで用いられる。
ただ、上記のようなスローガンは活発に叫ばれる一方で、立候補者の略歴や政策・公約などの詳細についてはほとんど広報されず、信任の判断を下そうにも選挙当日まで立候補者の政策どころか誰が立候補しているのかが不明なことさえしばしばあるため、有権者が立候補者の政策を斟酌して投票できるようにするための民主的な選挙活動とは言い難い。
この期間中には、国境や海上はもちろん、各行政区域間の移動証明書の発給が極めて厳しく取り締まられるようになり、事実上の移動制限措置がとられる。
投票日当日には、投票所に入場した者の住民登録を確認して有権者登録者であることを人定され、有権者は投票場に隊列をなして入場し、順に投票用紙を受け取る。この投票用紙はあらかじめ「○○○氏を○○人民会議の代議員として賛成します」と印刷されており、候補者に賛成の場合には何も書かずに投票、反対の場合には×表示を記入してから投票することと規定されている。名目上は秘密投票であり、周囲の視線を遮断した記票所が設けられているが、反対投票を行う時のみ投票用紙に記入を行わなければならず、そしてその記入をするための記票所は列を外れたところに設けられている。元より賛成票を入れるつもりの投票者はわざわざ反対投票の嫌疑をかけられるような記票所に立ち寄ることなく直接投票箱に投函するため、記票所に立ち寄った者は反対者であるとすぐ分かるようになっており、事実上、投票の秘密が保護されない公開投票となっている。また、反対投票を想定していないため、記票所には筆記用具すら用意されていないことも多い。
記票所に立ち寄ってから投票した者は反対投票をしたと見なされ、選挙場退出と同時に反革命分子として国家保衛省に勾引され、重い尋問を受けた上で特別監視対象とされたり、本人はもちろんのこと家族も強制収容所に収容されることもあるため、社会的不利益を被る可能性がある反対票を入れる人はほとんどなく、投票者のほぼ全員が賛成票を投じる。
投票率は毎回99.8か99.9%という高率となっているが、これは投票に参加しない者も反革命分子に分類されて特別監視対象とされるため、これを嫌う有権者は、有権者登録以降に死亡した者や、当日やむを得ない重病や重大な負傷を負った者以外ほぼ全員投票するためである。仮病や虚偽の怪我でないかについては、国家保衛省の確認調査がなされる。このため、事実上、義務投票制となっている。
各選挙区ごとの開票結果については一切公にされることはなく、国営放送の朝鮮中央テレビで全選挙区をまとめて、「99.9%投票参加、100%賛成」といった、おおまかな選挙結果だけが公表され、仮に反対票を投じた者があってもその投票は無効ないしは投票の事実そのものがなかったとみなして、賛成者は100%であったと報道されるのが常である。ただし、最高指導者以外の当選者についても氏名のみが朝鮮中央通信を通じて公表される。
人権問題
多数の国際的人権団体は、北朝鮮の人権は世界で最低レベルと批判している。
アムネスティ・インターナショナルは、表現の自由・集会の自由・移動の自由などへの厳しい規制、死亡や処刑などの結果を含む、当局による任意の拘束・拷問・虐待などを報告している。また20万人の政治犯や家族を収容しているとされる強制収容所を「想像可能な中で最も非人間的な状況」と呼び、その閉鎖を求めている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは北朝鮮の政治的自由や経済的自由への厳しい制約を「世界で最も非人道的」と呼んだ。また、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、北朝鮮の状況について、人権団体が北朝鮮に入って人権状況を評価することが不可能な現状としている。
2005年、国連総会本会議で「北朝鮮の人権状況」決議が採択された。
脱北者と呼ばれる亡命者が存在しており、2002年には瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件が発生した。 
軍事 

 

「先軍政治」を掲げ、周辺諸国からの脅威に備えるため軍備拡充に力を入れている。過去数十年にわたり国防のために朝鮮人民軍に莫大な資源をつぎ込み、世界で5番目に大きい100万人を超える軍隊を有し、国内総生産 (GDP) に占めるその比率が高い。推定軍事費 (CIA) 年間6000億円のうち4000億円強を核兵器・ミサイルに集中配分している。また近年ではサイバー攻撃にも力を入れており、朝鮮人民軍偵察総局を主軸にサイバー司令部を設置し、朝鮮労働党や国防委員会傘下のハッキング専用組織に1700人あまりのサイバー攻撃要員を擁し、関連機関の4200人もサイバー攻撃に動員できるという。一方で、通常兵器は旧式の上、財政難のため、戦闘機や戦車の訓練用燃料すら確保が難しいとされており、兵器の性能、兵の練度ともに大韓民国国軍との差は歴然と考えられている。世界最大規模の特殊部隊とアメリカ陸軍45万の2倍の90万の兵力の歩兵主体の地上軍を持ち、散開・分散が必要な核戦争に特化した構成となっている。
大量破壊兵器については、化学兵器禁止条約に加盟しておらず2500-5000トンの化学兵器を蓄積する化学兵器大国である。停戦ライン地帯の北朝鮮砲兵は毒ガス砲弾や通常砲弾をソウルに撃ち込む能力を有している。1994年に米国が北朝鮮の核兵器生産施設を空爆しようとしたとき、北朝鮮は「(核施設が空爆されたらその報復に)ソウルを火の海にする」と恫喝し、韓国の金大中は訪米して空爆中止を嘆願した。結果として1994年米朝枠組み合意で北朝鮮の核施設は運転停止によって空爆破壊を免れ、2002年に運転を再開し、2003年に核拡散防止条約(NPT)から脱退し、2006年の核実験に至っている。
朝鮮民主主義人民共和国は大韓民国との軍事境界線(38度線)の戦車を旧式のまま放置している一方で、多額の費用を投入して「移動式」弾道弾を買い揃えており、韓国を狙うスカッド改を500基、日本を狙うノドン200基、太平洋まで飛ばすことのできる北極星2号を整備している。アメリカ合衆国とロシアを狙う弾道弾が500基であり、中国と日本を狙う核弾道弾ですら25基なので、500基・200基という数は極めて大規模な国防のボディビルディングである。日本にある在日米軍基地の攻撃機による北朝鮮核攻撃の可能性に対する自衛的抑止力としての配備なら20基あれば充分であり、北朝鮮側の「抑止力・自衛のため」という説明は軍事的には200基を超える対日弾道弾の過剰配備という実態と乖離しており、北朝鮮側の弾道弾過剰配備の真意について透明性が問われている(軍備は際限ない軍拡を避けるため、隣国と一定比率にするのが一般的である。防衛省防衛研究所研究官の武貞秀士のように北朝鮮は日米に核または化学ミサイルを突きつけて牽制しつつ韓国を核恫喝で併合する意図で核武装を進めてきたと観測する専門家もいる)。
加えて、北朝鮮は韓国のPSI参加表明を「宣戦布告」であると非難していることから、弾道弾その他大量破壊兵器および周辺技術を輸出して外貨を稼ぐ思惑もあるとされる。
なお、北朝鮮は少なくとも、現在、日本に向けている200基を越えるノドン弾道弾に、化学兵器弾頭を装着して日本の大都市を攻撃し、大量の死傷者を出す物理的能力を有していると見られている。米国の調査機関ISISの報告書によれば、ノドンに装着可能な粗悪な核弾頭を3発以下既に保有している、つまり東京を核攻撃できる能力を保有している可能性すらあると観測されている。また、核弾頭を量産し、日本を狙うノドン200基を数年で全て核弾頭付きにするのに必要な50MW/200MW大型黒鉛炉を建設中であった。ちなみに同大型黒鉛炉は「2007年合意において、米国と北朝鮮の妥協により無力化・解体対象から除外された」。
北朝鮮は度々ロケット、若しくは弾道ミサイルの発射を行っており、2012年12月には人工衛星を初めて軌道に投入することに成功した。ただし、北朝鮮のロケット発射は国際社会に脅威を与える核開発と弾道ミサイルの開発と表裏一体であると見なされているため、国連安保理決議1718、決議1874、決議2087で制裁対象となっている。 
国際関係 

 

2016年9月現在、朝鮮民主主義人民共和国と国交のある国は164か国である。東西冷戦時代には、「朝鮮の正当な国家」として東側諸国が朝鮮民主主義人民共和国を国家承認し、西側諸国が大韓民国を国家承認する傾向が強かった。だが1991年に両国が国際連合へ同時に加盟してからは、ほとんどの国家が双方を国家承認する南北等距離外交をとっており、北朝鮮のみを国家承認しているのはキューバ、シリア、マケドニア共和国の3か国のみとなっている。
国連加盟国192か国の内、26か国(大韓民国、日本、アンドラ、アメリカ合衆国、イスラエル、ウルグアイ、エクアドル、エストニア、エルサルバドル、キリバス、サウジアラビア、サモア独立国、ソロモン諸島、ツバル、トンガ、ハイチ、パナマ、パラオ、パラグアイ、ブータン、フランス、ボリビア、ホンジュラス、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、及びモナコ)は北朝鮮を国家承認していないため国交が無く、4か国(アルゼンチン、イラク、チリ、及びボツワナ)はかつて国交を結んでいたものの、現在は断絶している。また、国際連合総会オブザーバーのうちパレスチナ国とは国交が、欧州連合(EU)とは外交関係がある他、国連非加盟国のサハラ・アラブ民主共和国とも国交がある。その一方で、バチカンとは国交が、EU以外の国連総会オブザーバー団体とは外交関係が無い。
1948年9月9日の建国以来、国境を接する中華人民共和国およびソビエト連邦と密接な関係を維持し、1950年に勃発した朝鮮戦争の際には彭徳懐司令官率いる抗美援朝義勇軍がアメリカ軍のダグラス・マッカーサー元帥率いる国連軍の朝鮮半島北上に対抗して中華人民共和国から派遣され、毛沢東主席の長男毛岸英は朝鮮戦争にて戦死している。1953年7月27日の朝鮮戦争休戦後、1956年にソ連のフルシチョフ第一書記が行ったスターリン批判の朝鮮労働党への波及により、朝鮮労働党内の抗争が発生し、金日成首相を領袖とする朝鮮労働党内の満州派が、それぞれソ連共産党との関係が深かった朝鮮労働党内のソ連派、中国共産党との関係が深かった延安派を粛清したことにより(8月宗派事件)、ソ連及び中国との関係は弱まったものの、その後もソ連及びソ連を後継したロシア、中国との間に一定の関係は存在する。
アメリカ合衆国および日本、そして大韓民国政府に対しては一貫して敵視するプロパガンダが行われ、特にアメリカ合衆国と大韓民国の間では1968年のプエブロ号事件、1969年4月15日のアメリカ海軍EC-121機撃墜事件、1976年8月18日のポプラ事件、2010年3月26日の天安沈没事件、2010年11月23日の延坪島砲撃事件など戦争寸前となるような軍事衝突事件もしばしば発生している。
1990年代初頭にソ連および東欧の社会主義政権が次々と崩壊し、北朝鮮は孤立化を深めた。北朝鮮は社会主義体制の継続を唱え、思想においても「ウリ式社会主義(主体思想の前身)」を喧伝するようになった。1992年4月20日、「社会主義偉業を擁護し前進させよう」という、通称平壌宣言が採択された。この宣言には金日成主席の80歳の誕生日に集まった世界70の政党代表(うち48人は党首)が署名し、その中には旧ソビエト連邦や東欧で新たな社会主義運動を展開している諸政党が含まれた。1993年からは核開発疑惑が取りざたされるようになり、アメリカ・日本・ロシア・中国・韓国との六者会合が持たれ、2000年には朝鮮半島エネルギー開発機構が成立したこともあって緊張は緩和された。しかし北朝鮮はその後も核開発を進めており、2006年には核実験を行ったと発表し、核拡散防止条約体制からの離脱を宣言した。これを受けてアメリカと北朝鮮の関係は一挙に悪化し、2009年には六者会合も中断されている。国連安保理決議第1695号、第825号(1993年)、第1540号(2004年)、第1695号(2006年)、第1718号(2006年)、第1874号・第1887号(2009年)、第2087号・第2094号(2013年)などで北朝鮮の核およびミサイル開発は厳しく非難されており、核・ミサイル開発に関する部品や贅沢品の輸出を禁止するなどの経済制裁が実施されている。北朝鮮の核保有を歓迎する意向を示した国家は存在していないにもかかわらず、北朝鮮は核およびミサイルの開発を継続する意志を示し続けており、北朝鮮と諸外国の関係は改善されない状態が続いている。
一方で複数のテロ事件、不正取引などに関する国家ぐるみの関与が指摘されている。北朝鮮の関与が指摘されるテロ事件には日本人、韓国人、レバノン人(レバノン人女性拉致事件)などを始めとした複数国の国民の拉致問題、当局が否定するものでは大韓航空機爆破事件、ラングーン事件などがある。また厳しい経済状況のため、諸外国に対する兵器や麻薬の密輸、スーパーノートなどの偽札製造で資金を調達しているという疑惑もある。アメリカ財務省金融犯罪捜査当局による2005年の推計では、北朝鮮は年間にして通貨偽造で5億ドル、麻薬取引で1億ドルから2億ドルを得ている可能性があるとしている。2003年にオーストラリア海軍が北朝鮮船舶を強制捜査した際、5000万ドル相当のヘロインが見つかっている。日本や韓国には複数の工作員が派遣されていると見られており、以前は国内でもAMラジオで聞ける「平壌放送」(中波657kHz)にて暗号電文(乱数放送)を使い指令を送っているとされてきたが、2000年に終了。モールス信号や、携帯電話やコンピュータの電子メールを使って指令しているとの説もある。また北朝鮮国内の人権状況については国際連合や諸外国から厳しい目が向けられている。
東西冷戦期には1976年から非同盟運動に参加し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国の民族解放運動に一定の支持を与えており、同じく反米国家であるキューバと良好な関係を築いている他、アフリカ諸国との関係ではセネガルの首都ダカールのアフリカ・ルネサンスの像やナミビアの大統領府、ベナンのベハンジン像、ボツワナの三首長の像などの記念碑的建造物の建設を朝鮮民主主義人民共和国の万寿台海外開発会社が受注している。
南北関係
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)は、互いに自国を朝鮮半島における唯一の国家であると規定しており、1950年の朝鮮戦争勃発と1953年の休戦によって朝鮮半島の南北分断が決定的となった後は、「民族の悲願」とされる統一朝鮮国家の成立は見通しすら立っていない。また両国国家間の問題だけではなく、韓国人拉致(拉北)問題、南北の経済格差や人権問題などもあり、南北統一の実現には高いハードルが残されている。北朝鮮は「ソウルを火の海にする」発言などのように激しく韓国を非難する一方で、時に同一民族であることを強調した宥和姿勢を見せることもある。
朝鮮半島の南北分断後、1960年4月19日の四月革命 (韓国)によって韓国の李承晩大統領が追放された後、同年8月14日に金日成首相は韓国に対して「連邦制統一案」を提案、南北両政府代表による「最高民族委員会」の樹立を提唱した。他方で北朝鮮は韓国に対し「対南工作」を行い、韓国も北朝鮮に対し「北派工作員」の派遣などの諜報活動を繰り広げ、両国間の紛争は1968年の青瓦台襲撃未遂事件や1971年の実尾島事件として表面化した。1972年のニクソン大統領の中国訪問によって米中関係が電撃的に改善すると、朝鮮半島の南北関係も緩和し、同1972年7月4日に北朝鮮の金日成首相と韓国の朴正煕大統領は南北共同声明を発表したが、同年10月の韓国の十月維新による朴正煕大統領の権力強化後、翌1973年8月の金大中事件を契機に北側からの南北対話の意志は途絶えた。
北朝鮮は1948年9月8日制定の朝鮮民主主義人民共和国憲法により、首都を韓国が実効支配するソウルと定めていたが、1972年12月27日の朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法への憲法改正によって、初めて首都を法的にもそれまで首都機能の存在した平壌に定めた。これは近い内の南北統一を断念したものと多くの人から受け止められた。1979年10月26日の朴正煕大統領暗殺後、1980年に韓国で5・17非常戒厳令拡大措置が発令され、陸軍軍人の全斗煥が大統領に就任すると、同1980年10月10日に金日成主席は高麗民主連邦共和国創設と、統一より低い段階での連邦制を再び提示した。
東西冷戦終結直後は南北関係の雪解けが進み、1991年には北朝鮮の金日成主席と韓国の盧泰愚大統領との間で、南北国連同時加盟や南北基本合意書として結実した。
しかし盧泰愚大統領の退任後、1993年2月25日に発足した韓国の金泳三政権は国内保守派からの突き上げを受けた対北強硬に転じたこともあり、両国関係は再び悪化した。金泳三政権期の1996年には江陵浸透事件が発生している。
韓国は1998年2月25日の金大中政権発足の頃からクリントン政権期のアメリカ合衆国に歩調を合わせて(あるいは歩調を合わせざるを得ずに)融和的な政策に転換した。金大中政権は国内から融和的態度を批判されて敵対的言動へとシフトした金泳三時代の反省から、対北朝鮮融和政策を「太陽政策」と呼んで説明し、2000年6月に金大中大統領と金正日国防委員長の両者で初の南北首脳会談が実現し、6.15南北共同宣言が採択された。金大中政権期には南北共同で開城工業地区が創設されている。
金大中政権に続き2003年2月25日に発足した盧武鉉政権下でも「太陽政策」は継続された。しかし北朝鮮による2006年の核実験以降、韓国国内でも北朝鮮への批判が高まり、経済支援は停止された。韓国国民の世論は血縁や兄弟が北朝鮮に住む者も多いことから(離散家族)北朝鮮に同情的だが、核実験後は太陽政策への批判が一時強まった。なお、2006年の核実験後も2007年10月には二度目の南北首脳会談が行われている。
2008年2月25日に発足した李明博政権は太陽政策を改める政策を推進し、軍幹部の失言も相次いだ。こうしたことから北朝鮮の戦闘機が軍事境界線付近に飛来、韓国側もスクランブル発進するなどして、一触即発の状態が続いた。更に、2009年1月17日には、北朝鮮が韓国との「全面対決」を宣言するなど、李明博政権発足以降の南北関係は緊張が高まり、2010年には天安沈没事件、延坪島砲撃事件が発生している。
2013年2月25日に発足した朴槿恵政権も北朝鮮に対しては緊張した姿勢を引き継ぐ一方で、2014年には韓国政府から北朝鮮に対して30億ウォン(約3億円)規模の人道支援実施などで一定の関係を持ったが、2016年には開城工業地区が操業停止されるなど再び緊張状態に戻った。また、北朝鮮と韓国は、対中関係で大きく変化してきており、2014年2月の北朝鮮による核実験の強行によって、建国以来、血盟関係にあった中朝関係は急速に悪化する一方、習近平が北朝鮮首脳との面会に先だって訪韓するなど中韓両国は急速に接近し、北朝鮮政府は中国に派遣する自国の貿易商に中韓関係の情報収集を命じているとされ北朝鮮は警戒を強めているとされている]。
中華人民共和国との関係
1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国建国後、翌1949年10月1日に建国された中華人民共和国とは特に密接な関係が築かれてきた。1949年6月30日に北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成された際、金日成・崔庸健・金策ら中国共産党及び東北抗日聯軍に所属して中国東北部で抗日闘争を戦っていた朝鮮人共産主義者は満州派、朴一禹・方虎山・武亭ら朝鮮独立同盟及び朝鮮義勇軍に所属して中国共産党の本拠地延安で抗日闘争を戦っていた朝鮮人共産主義者は延安派として党内で分かれていた。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発後は、ダグラス・マッカーサー元帥率いる国連軍の朝鮮半島北上に対してソ連軍の半島再派遣に否定的なヨシフ・スターリンは中国の毛沢東を後押しし、彭徳懐司令官率いる中国人民志願軍(義勇軍が名目で中国人民解放軍ではない)が派遣され、彭徳懐司令官と延安派の朴一禹副司令官に率いられた中朝連合軍は一時中朝国境の鴨緑江にまで進軍した国連軍を38度線まで押し戻し、1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定締結に至り、1958年10月26日に中国人民志願軍は朝鮮半島から撤退した。
1953年の朝鮮戦争休戦後、金日成首相率いる朝鮮労働党内の満州派は自派の党内基盤を固める過程で、8月宗派事件で党内の延安派を粛清したことにより一時的に中朝関係は悪化したが、1959年に中国政府内の朴一禹支持者であった彭徳懐が失脚して満州の抗日ゲリラと繋がりのある林彪が国防部長に就任したこともあって、1961年7月11日に軍事同盟である中朝友好協力相互援助条約が締結された。その後、金日成首相は1962年のキューバ危機に際して、ソ連のフルシチョフ第一書記のキューバからのミサイル撤回を非難する中国の論調に同調し、中ソ対立で中国側に立つ姿勢を示したものの、ソ連のフルシチョフ第一書記失脚後にコスイギン外相の訪朝によってソ連との関係が改善し、更に1966年から始まった中国のプロレタリア文化大革命によって紅衛兵ら中国の文革派が金日成首相を「修正主義者」だと批判したことを受けて中朝関係は悪化、この北朝鮮と中ソ両国との関係悪化時であった1967年に金日成首相は独自路線を歩むために「唯一思想体系」の確立を提唱した]。
その後中国と北朝鮮の関係は1969年10月の崔庸健最高人民会議常任委員長の訪中と、1970年の周恩来総理の訪朝によって改善したものの、その後のニクソン大統領の中国訪問によって米中関係が電撃的に改善したことを受けて、1972年7月4日に朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相と大韓民国の朴正煕大統領は南北共同声明を発表し、また、この頃から中ソどちらにも属さない北朝鮮独自の社会主義路線を歩むために「主体思想」が整備され、1972年12月27日に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法第四条では朝鮮労働党の主体思想が国家の活動指針だと規定された。
東西冷戦終結後、中華人民共和国がソ連とともにソウルオリンピックに参加して後に大韓民国と国交を結んだことにより(中韓国交正常化)、北朝鮮の金日成主席はこの中国の「裏切り行為」に対し、日朝交渉、南北交渉に優先してアメリカ合衆国のビル・クリントン政権との交渉に外交目標を一本化し、1993年の北朝鮮の核拡散防止条約(NPT)脱退を経た後、1994年10月21日の米朝枠組み合意に至っている。
1994年7月8日の金日成主席の死後も、中国政府とは中朝友好協力相互援助条約など緊密な関係を維持し、金日成主席死後に政権を把握した金正日国防委員長の訪問回数もロシアに比べれば多く、初外遊先も中国だった。また中国は北朝鮮の独裁体制を配慮し、例えば中国では北朝鮮批判の本を発禁にしており(詳細は中国の人権問題)、脱北者を不法入国者と見なし、強制送還に積極的である。2010年にはBRICsとして目覚しい発展を遂げる中国が北朝鮮に対し、北朝鮮の国家予算7割分を投資する事が決定した。金正恩体制に移行する直前の金正日体制での労働党創建65周年に行われた軍事パレードでも中国共産党の周永康政治局常務委員が金正日・金正恩親子と肩を並べて観閲するなど江沢民・胡錦濤体制の中国とは概ね中朝関係は安定していた。中国の主催する6か国協議に参加しつつ、国連安保理の対北制裁決議に拒否権を行使するどころか賛成してきた伝統的な友好国の中国とロシアへの不満も他国に漏らしていた]。
中国が習近平体制、北朝鮮が金正恩体制となってからも2013年2月に3回目の核実験を強行するも同年7月27日の平壌での朝鮮戦争休戦60周年記念行事では中国国家副主席の李源潮は金正恩第一書記の隣でパレードや中央報告大会を観閲するなど友好関係は続いたが、同年12月の張成沢の粛清は中朝関係に変化を生じさせ、2014年7月に中国の習近平国家主席は最初の訪問先として北朝鮮ではなく韓国を訪問したほか(1992年の中韓国交正常化以来初)、「新鴨緑江大橋」も運用されない状態となっている]。
また、金正日政権時には北朝鮮の党機関紙・労働新聞は中国最高指導者の言葉を真っ先に紹介していたが、2014年9月の政権樹立66周年の記事では掲載日は別ではあるものの、プーチン露大統領の祝電は1面に掲載された一方、中国共産党の習近平総書記の祝電は3面に掲載され金正恩第一書記がシリアのアサド大統領に送った誕生日の祝電よりも後まわしとなった。
2015年2月、北朝鮮はアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加しようと特使を派遣したが中国側の拒否によって失敗に終わった。一方、韓国は同年3月にアジアインフラ投資銀行(AIIB)に創立メンバーとして参加することを決定し、韓国の企画財政省高官はAIIBを通じた北朝鮮でのインフラ開発に期待感を示した]。
2015年8月には金正恩の人民志願軍兵士の墓地への参拝など中国への再接近も目立ってきてた。しかし、同年9月の中国の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では、韓国は大統領の朴槿恵が参加し国家主席である習近平と肩を並べて参観したのに対し、北朝鮮の派遣した朝鮮労働党書記である崔竜海の席は端に近い位置であった。韓国の聯合ニュースはその写真と1954年に金日成と毛沢東が同じ場所で軍事パレードを参観した写真を並べ、「主人公の変化は、半世紀を超える間に韓中関係と中朝関係がどれだけ変化したかを象徴している」と報じた。同年10月の朝鮮労働党創建70年記念パレードでは金正恩と中国序列5位の劉雲山が肩を並べて歓談してパレードの終盤では聴衆に向かって手を取り合うなど親密さをアピールし、金正恩は中朝関係を「血潮で以て結ばれた友好」「金日成主席同志と金正日総書記同志が残した最大の外交遺産」と呼び、北朝鮮側はミサイル発射を中止した。翌年2016年1月に北朝鮮は「水爆実験」とする核実験を実施して金正恩訪中の布石とされた牡丹峰楽団の公演も中止されて中朝関係は再び冷え込み、直後に制作された朝鮮中央テレビの記録映画では2015年の労働党創建70周年の記念行事の模様が含まれていたものの劉の映像は加工され削除されていた。北朝鮮側は2017年4月に核実験を事前通達した際に中国は国境封鎖すると反発したために中止したとされている。同年5月には習近平が自らの一帯一路構想のために開催した中国の一帯一路国際協力サミットフォーラムに招かれた北朝鮮は金英才(キム・ヨンジェ)対外経済相らを派遣したものの、開幕直後にミサイルを発射したことは「祝砲」とも伝えられる一方で中国を苛立たせたとも報じられている。国連の対北経済制裁に中国はロシアとともに賛成を投じ続けており、北朝鮮は中露を「米国に追従した」と批判している。しかし、北朝鮮は経済的には貿易の9割も中国に依存するなど一定の関係を継続している。
なお、中朝間には北朝鮮による中国人拉致問題も存在する。また、2010年代に入ってから、北朝鮮より中国東北部に覚醒剤が流出していることが問題となっている。その他にも2010年には違法に操業する中国漁船と北朝鮮海軍との武力衝突事件が、2012年5月には北朝鮮の武装船が北朝鮮西海上で中国漁船を拉致し、漁民28人に暴行を加え、身代金として120万中国人民元を要求する事件が発生している。
アメリカとの関係
1950年の朝鮮戦争勃発後、アメリカ軍主導の国連軍と中朝連合軍は激戦を経た後、1953年7月27日に朝鮮人民軍の南日大将とアメリカ陸軍のウィリアム・ハリソン・Jr中将の間で朝鮮戦争休戦協定が署名された。しかしながら、アメリカ合衆国(米国)とはその後2013年現在も対立関係にある。北朝鮮のメディアではアメリカを敵国扱いする言動が繰り返されている。
東西冷戦中には1968年にはアメリカ海軍のプエブロ号が北朝鮮によって拿捕されるプエブロ号事件が、翌1969年には朝鮮人民軍空軍によってアメリカ海軍の早期警戒機が撃墜されるアメリカ海軍EC-121機撃墜事件が、1976年8月18日にはアメリカ陸軍将校2名が朝鮮人民軍によって殺害されるポプラ事件が発生しているが、何れもアメリカ合衆国からの報復は行われなかった。
東西冷戦終結後の1992年1月26日にカンター国務次官と金容淳朝鮮労働党書記の間で、初の米朝高官級会談が行われ、同1月30日に朝鮮民主主義人民共和国は1980年代から問題となっていた核開発問題について国際原子力機関(IAEA)と保障措置協定を結んだが、朝鮮民主主義人民共和国はこのIAEAの査察に反発して1993年3月に核拡散防止条約(NPT)からの脱退を宣言し、その後両国間の戦争直前にまで至った米朝交渉を経て朝鮮民主主義人民共和国のNPT脱退宣言は無効化され、1994年6月15日にアメリカ合衆国のジミー・カーター元大統領が訪朝、金日成主席がIAEAの査察受け入れに合意したことによって両国の緊張した関係は一時収束した。
この第一次核危機後、1994年10月21日に金正日国防委員長とビル・クリントン大統領との間で米朝枠組み合意が締結され、以後の国交正常化が目指されたが、ジョージ・W・ブッシュ政権期の2002年1月に北朝鮮はイラク、イランと共に「悪の枢軸」と名指しされ、北朝鮮側もその後積極的な核開発と2003年1月の核拡散防止条約(NPT)からの脱退で米国からの敵視政策に応じ、イラク戦争開戦後で中国が仲介に乗り出した2003年8月以降、この北朝鮮核問題を中心に、中華人民共和国、ロシア、米国、日本、韓国と共に六者会合(六ヶ国協議)が実施され、第5回会合で核施設の無力化で合意したことからジョージ・W・ブッシュ政権末期のクリストファー・ヒル国務次官補により事態の推移が見られ、2008年10月11日に米国から「テロ支援国家」指定を解除された。しかしバラク・オバマ政権に交代後は六者協議を北朝鮮は脱退し、交渉の進展は見られない。
スイス留学中にバスケットボールで帝王学を学んだといわれる金正恩第一書記体制の成立後、2013年2月28日に元NBAのデニス・ロッドマンが訪朝した。
ソ連・ロシアとの関係
ソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)政府は北朝鮮と1961年7月6日に「ソ朝友好協力相互援助条約」を締結して軍事同盟を結んでいたが、8月宗派事件のソ連派粛清や、北朝鮮が反対したソウルオリンピックにソ連は参加して韓国と国交正常化するなど関係が冷え込んだこともあり、1991年のソ連崩壊と冷戦終結の国際情勢の変化もあって、1990年代初頭には両国関係はKGBによる北朝鮮クーデター陰謀事件でほぼ停滞し、経済支援も途絶えただけでなく、ロシアは北朝鮮より韓国を重視するようになった。1996年に相互援助条約は期限切れを迎え、「露朝友好協力条約」の締結交渉に入ったことで両国関係は次第に改善されていった。2000年に新たにロシアと「ロ朝友好善隣協力条約」を締結した。同条約では軍事同盟の条項は削除されたが親密な友好関係は維持されている。ウラジミール・プーチン大統領は「韓国とは安定、北朝鮮には譲歩」を唱え、南北等距離外交を推進している。ロシアは6カ国協議にも参加している。
2014年の北朝鮮の核実験で中朝関係が冷え込むなか、崔竜海・朝鮮労働党書記がロシアを訪問するなどロシアに急接近する姿勢が目立っているとされた。しかし、地対空ミサイル購入交渉などでロシアとの交渉窓口だった玄永哲の粛清や2015年モスクワ対独戦勝記念式典の金正恩の出席中止からロシアとの関係も再び冷え込んだとする見方もある。2013年にはロシア漁船への北朝鮮当局の銃撃事件、2015年や2016年には北朝鮮漁船とロシア国境軍の武力衝突で死傷者も出し、北朝鮮当局のロシア船拿捕が起きている。国際連合安全保障理事会決議1718から国連の対北制裁決議にも賛成しており、新しい制裁決議が可決された2016年には金融取引全面停止、北朝鮮船入港拒否、燃油輸出中止、協力事業中止などの経済制裁も実施しており、北朝鮮から中国とともに「米国に追従した国」「反共和国制裁決議で共謀した国」と非難されている。ただし、万景峰号を使った羅先との定期航路を開設するなど一定の関係は維持している。
日本との関係
日本国政府は、1965年に内閣総理大臣佐藤栄作が、大韓民国の朴正煕大統領との間で批准した日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)により、韓国を「朝鮮半島唯一の国家」としているため、朝鮮民主主義人民共和国を国家として承認していない。従って、正式な外交関係(いわゆる国交)はない。かつてはパスポートに "This passport is valid for all countries and areas except North Korea (Democratic People's Republic of Korea)."(「このパスポートは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を除く全ての国と地域で有効です」の意味)と記載される渡航先適用除外条項があった。日本は外務省の各国・地域情勢ウェブページでも「北朝鮮」と表記し、地域扱いされている。1991年(平成3年)からこの条項は削除されたものの、依然として政治的・軍事的な対立から緊張した関係が続いている。ただし、朝鮮民主主義人民共和国の国際連合加盟に賛成票を投じるなど、事実上の政府(デ・ファクト)として扱うケースも多い。
日本には、多くの特別永住者許可を持つ朝鮮籍(北朝鮮国籍とは異なる)の人々が生活をしており、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)はこれらの人々の団体であると同時に、北朝鮮政府と極めて深い関係にある。朝鮮総連は日本における北朝鮮の利益代表部として扱うよう日本側に要求しているが、日本政府は認めていない。朝鮮総連が行う本国への送金は、北朝鮮が国外で外貨を得る窓口的な役割を担っていた。朝銀信用組合の破綻事件では北朝鮮への違法送金の疑惑が取りざたされている。
2002年(平成14年)9月に小泉純一郎首相は電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし「8人死亡・1人行方不明」とする北朝鮮側の回答は日本政府は受け入れず、北朝鮮が認めた以外にも拉致被害者は存在していると主張している。第1次安倍内閣以降、日本政府は拉致問題において「拉致被害者を全員生存しているとして対応する」方針をとっている。
2005年(平成17年)頃まで貿易関係は存在しており、日本への船舶の入港は年間千数百隻に上っていた。内訳は、日本からの輸入は輸送機器が中心で、日本への輸出は水産物が中心であった。また、同年の12月には北朝鮮人権侵害問題啓発週間が定められた。
2006年(平成18年)10月9日の北朝鮮の核実験やテポドンなどのミサイル発射事件を受けて、安保理による制裁が開始されると、日本政府は「厳重に抗議し、断固として非難する」との声明を発表し、安保理決議による制裁の他、日本独自の制裁も行っている。制裁の一環として、海外危険情報では、通常の治安・政情の程度によって出される勧告とは別枠で、渡航の自粛を勧告している。これにより北朝鮮船籍の船舶の入港は禁じられ、全貨物に輸入割当制が設定され輸出入も停止されている。
2008年(平成20年)5月31日、北朝鮮軍部は「日本の反動勢力は、日本列島がわが革命的武装力の容赦ない打撃圏(攻撃圏)内にあるということをひとときも忘れてはならない」と警告し屈服しない姿勢を改めて鮮明にしている。
2009年(平成21年)6月、アメリカ国際政策センターのセリグ・ハリソンは米下院外交委員会の公聴会で証言し、「国連制裁の結果、事態が悪化した場合、北朝鮮は報復として韓国ではなく日本か在日米軍基地を攻撃するだろう」と予測したとされるが事実かどうか定かではない。
2014年の日朝政府間協議で北朝鮮は同年7月から1年をめどに拉致被害者らの調査を再開するとし、当初、同年秋までに初回の報告をするとしていたが9月に先送りを通告、その後も延期されており報告時期の見通しは立っていない]。
日本教職員組合との関係 / 日本の教員・学校職員による労働組合の連合体である日本教職員組合(日教組)は、支持政党の日本社会党(現在の社会民主党)が朝鮮労働党との関係を強化した1970年代から北朝鮮との連帯を強調した時期があり、訪朝団の派遣や北朝鮮の指導者に対する賛美を行った。
日本との知的財産権関係 / 朝鮮民主主義人民共和国はベルヌ条約に加盟しているものの、日本政府は国家としてみなしていないため、事実上朝鮮民主主義人民共和国の著作物(主にテレビ画像)は日本国内で「使い放題」の状態になっていた。現在では、朝鮮民主主義人民共和国側の主張により、日本各メディアの対応は変化し、衛星テレビ画像などは報道引用のみとしている。
北朝鮮国内で制作された作品(テレビ番組、映画・アニメ作品、音楽等)は2003年(平成15年)4月までは、日本国内では事実上利用が完全フリーだったが、現在はベルヌ条約に加盟したことにより国交がある国、韓国(ベルヌ条約に加えて大韓民国憲法3条の適用)での扱いが厳しくなった。文化庁は『国交のない国に著作権使用料を支払う必要はない』という見解を示している。
しかし、朝鮮総連などによると、非営利目的などで利用する場合などは今まで通り、事実上オンラインでのアップロードも認めるコメントをしている。
なお、北朝鮮の国民の著作物については、2011年(平成23年)12月8日に最高裁は
「一般に、我が国について既に効力が生じている多国間条約に未承認国が事後に加入した場合、条約に基づき締約国が負担する義務が普遍的価値を有する一般国際法上の義務であるときなどは格別、未承認国の加入により未承認国との間に当該条約上の権利義務関係が直ちに生ずると解することができず、我が国は当該未承認国との間における当該条約に基づく権利義務を発生させるか否かを選択できると解するのが相当である」と述べ、
・ ベルヌ条約は普遍的価値を有する一般国際法上の義務を締約国に負担させるものでなく、
・ そして、未承認国である北朝鮮がベルヌ条約に加入した際、同条約が北朝鮮について効力を生じた旨の告示は行われておらず、外務省や文部科学省は北朝鮮の国民の著作物について保護する義務を負わないという見解を示していることから北朝鮮との間に同条約に基づく権利義務は発生しないという立場をとっている。
という諸事情を考慮すれば我が国はベルヌ条約に基づいて北朝鮮の国民の著作物を保護する義務を負うものでなく、北朝鮮の国民の著作物は著作権法上の保護を受ける著作物にはあたらない
旨を判示した(平成21(受)602)。
ただし、その著作物の利用が著作権法が規律の対象とする著作物の利益と異なる法的に保護された利益を侵害する場合は、不法行為を構成し得ることに留意すべきである。
ボツワナとの関係
1974年より北朝鮮はボツワナとの間で国交が結ばれていたが、2014年に公表された朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する国連調査委員会の報告書を受けて、北朝鮮はボツワナから人権を蹂躙しているとの非難を受けると同時に国交の断絶を通告させられた。その後は、両国間においていかなる形態の外交関係も持たれていない。 
経済 

 

北朝鮮は厳格な情報統制下にあり、信頼に値する統計も十分には公表されておらず、このことが北朝鮮経済の実態の把握を困難にしている。国外の機関・研究者によるマクロ経済指標推計の試みもあり、毎年公表される韓国銀行(韓銀)によるGDPの推計などがある。韓銀の推計では韓国の物価・付加価値率が用いられている。CIAも韓銀やアンガス・マディソンの推計などを加工するなどして推計値を発表している。李燦雨日本経済研究センター特任研究員が雑誌『エコノミスト』2017年4月11号に載せたグラフによると、各機関による北朝鮮の一人当たりGDP推計値は、CIAが1800ドル、韓国銀行や韓国現代経済研究院が1000ドル、国連が700ドル程度と開きは大きいが、「各機関の予測とも安定的に推移」と紹介している。
『朝鮮日報』系の『月刊朝鮮』元編集長でジャーナリストの趙甲済によると、北朝鮮の実質的な一人当たりのGDPは300ドルという。北朝鮮は経済統計を発表したことがなく、韓国側が非常に古いモデルで推計し、1000ドル程度と過大評価しているという。趙は、「もし北朝鮮住民たちが1人当たり1000ドルの所得を享受するようになれば、地獄から天国に移住したような衝撃を受けるだろう」と述べている。
宮塚利雄は、一人当たりの一か月の平均給与は2500〜3000ウォンであり、実勢レートに換算すると、1ドルに届かず50セント〜60セントとしている。2013年の実勢レートは1ドル6000ウォン程度。
韓銀の推計によれば、GDPの構成では農・林・水産業が23.3%、鉱・工業29.6%、電力・ガス・水道4.5%、建設9.0%、サービス産業が33.6%を占めている(2006年)。また就業人口の36%を第一次産業が占める。また軍需産業が経済活動の大きな割合を占め、資源の偏った配分が経済疲弊の一因となっている。
1990年代以降縮小した農業や鉱工業に対しサービス産業は比較的堅調で、経済に占めるウェイトは拡大したと推計されている。例えば南北交流による観光産業の成長が挙げられる。また配給物資の不足により自由市場など非国営部門の経済活動が活発化した。
資源としては石炭や鉄鉱石、タングステン他の希少金属をはじめとした鉱物資源が比較的豊富である。しかし、採掘する設備が非常に旧式であるほか、電力、水道などの基本的なインフラの状況が非常に悪いため、生産性は高くない。また松茸や魚介類なども豊富で、日本などに輸出して貴重な外貨獲得源になっている。他には、銃などの小火器やミサイルなどの兵器や、極めて精巧な偽札、覚醒剤、偽タバコなどの輸出により、外貨を獲得しているとされる。
1990年代中盤には、慢性的な不況状態にあり、水害による農作物不足も追い討ちをかけ、国民の餓死も多かったと言われている(「苦難の行軍」)。発電所が稼動しないため国内の電力事情が極度に悪く、工場や鉄道が動かないことが多く、生産活動にもかなりの支障を来しているとされていたが、1999年以降は中華人民共和国との経済関係が活発化し、鉄鉱石や石炭鉱山の権利を中華人民共和国の企業に売却するなどの効果が現れ、同年の経済成長率は6.2%と久々にプラス成長に転じ、その後4年間はそれぞれ1.3%、3.7%、1.2%、1.8%の成長を記録する等、経済状況がやや好転したと言われる。2004年以降、電力事情も好転しつつある。しかし核実験に伴う経済制裁のため、2006年後半以降再び経済が悪化し、同年の経済成長率は8年ぶりのマイナス成長となる-1.1%となった。国内にある一部の非国営部門の活発化や海外支援などが存在するものの依然として国民生活は厳しい状態が続いており、1970年代初頭まで北朝鮮がその経済水準を上回っていた韓国との経済格差は、以後逆転拡大する一方である。
1990年代後半から経済改革が行われ、その一環として2002年7月に「経済管理改善措置」と題する賃金と物価の改定が行われた。同時期に、経済における市場的要素を一部許容した。その後、市場的要素が公式的にも非公式的にも広がり始め、その中で比較的順調な軽工業と生産正常化の遅れている重工業といった国営企業間の格差や国民の間での所得格差など、新たな問題が発生している。2009年の朝鮮日報の報道では北朝鮮の対外貿易の80%以上を中国が占めるとされている。
また金日成生誕100周年となる2012年に向けて、「強盛大国の大門を開く」というスローガンを掲げている。この強盛大国とは、軍事、政治においては北朝鮮はすでに一流であるとし、経済の活性化に重点を置くとされる政策である。平壌では2012年を控えて建設ラッシュの様相を呈しており、中国資本が大量に投資している。大学生や軍人なども総動員され、アパートの建設が進められているが、資金や資材が不足している。自力では目標達成が難しいので、中国企業との合弁経営が急増している。平壌では市民生活の向上や大規模な工事が進められている一方、地方では電力や住宅、物資が不足していると報道されている。2013年からは北朝鮮の中国への貿易依存度は90.6%に達してる。
金正恩が政権につくと、金正日政権時代の計画経済を重視した経済政策が転換された。2012年からの社会主義企業責任管理制及び圃田担当責任制の全面導入により市場経済が拡大し、2015年までには生活必需品の8割が市場を通じて取引されるようになったとされる。これらの政策により、国民の生活水準は上がったと見られるものの、金主(トンジュ)と呼ばれる新興富裕層が生まれるなど、貧富の差の拡大が指摘されている。韓国銀行による国内総生産の推計によると、2012年から2014年にかけては毎年1%以上の経済成長を達成したものの、2015年には渇水のため水力発電が不振となり、再びマイナス成長に陥ったとされる。
なお、社会主義経済であることから証券取引所を有しない。アジアで証券取引所がない国は他にブルネイだけである。
農業
農業が経済に大きな割合を占めるが、もともと山がちでやせた土地も多く、農業に適する地域が少ないため、ソ連の援助で得た化学肥料や農薬を大量に利用して食料自給を維持していた。しかしソ連崩壊によるエネルギー不足の影響で農業生産が大幅に減退した。その結果、食糧が乏しくなって各地で飢えが発生し、国外からの食糧支援に大きく依存している。農業では、基本的には青山里方式(チョンサンリ方式)と呼ばれる社会主義的な農業経営管理方式が採用されている。
金正恩政権に代わり2012年から圃田担当責任制が導入されて以降食糧事情の改善が見られ、韓国農村経済研究院の推計によると、毎年2%を超える穀物生産量の増加がみられるとされる。
鉱工業
日本統治時代の朝鮮に於いては、朝鮮半島南部(現:大韓民国)の農業に対して、朝鮮半島北部(現:朝鮮民主主義人民共和国)では鉱工業を促進する政策を取っていたが、日本降伏による1945年の解放以後は設備投資の失敗により老朽化が目立つ。更に外貨不足、質の悪い石炭や送電ロスに起因する電力不足、資材不足により工業の生産能力は非常に低い状態となっている。工業では、基本的には「大安の事業体系」(テアンの事業体系)と呼ばれる社会主義的な工業経営管理方式が採用されている。
大韓民国の金大中政権の太陽政策の結果、2002年より開城市郊外に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の南北共同事業として開城工業地区が開設されている。
通貨
通貨は朝鮮民主主義人民共和国ウォン (KPW)である。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替公式レートは1ドル=141ウォン(1ウォン=約0.87円)だが、闇レートは1米ドル=2500ウォン以上(1ウォン=約0.05円以下)。2009年11月30日には、1982年以来となる5度目のデノミネーションを実施し、実態経済が更に混乱したため、交換レートも更に悪化しつつある。
朝鮮民主主義人民共和国ウォンに対する信用は低く、市場取引においては、アメリカ合衆国ドルや中国の人民元が用いられることが多いとされる。
通信
固定電話に加えて、2017年時点で300万を超える携帯電話の契約者がいる。2008年に国営企業がエジプト企業のオラスコム・テレコムと合弁会社を設立して、3Gモバイル通信網「Koryolink」を構築した。「ピョンヤン」「アリラン」といった政府公認のスマートフォンなどが販売されている。通話や、黙認状態である各地の闇市場の価格についての情報交換などが行われている。北朝鮮は統制国家であるため、インターネットからは遮断されており、国営イントラネットにある28のサイトのみを閲覧できる。通信網の途中における監視だけでなく、携帯端末は北朝鮮製基本ソフト「レッドスター」により無許可ファイルが再生できなかったり、アプリ「トレースビューアー」で画面が当局により撮影されたりする。
中国の携帯電話会社と契約していれば中朝国境地帯で通話・通信が可能だが、違法である。北朝鮮は国境沿いに妨害電波発生装置や監視カメラを設置しているほか、「109常務」という部隊が各地で家宅捜索を行い、中国製携帯電話や短波ラジオ、海外コンテンツを収めた記録媒体がないかをチェックしている。
このほかに、通信機能はないが、DVDやUSBメモリーを再生できる中国製携帯メディアプレーヤー「ノーテル」(ノートパソコン+テレビからの造語)が多数出回っている。2014年に購入・所有が登録制となり、合法化された。USBメモリーなどで帰国する北朝鮮のビジネスマンらが持ち込んだり、海外の反北朝鮮団体が風船・川流しにより送り込んだりする韓国ドラマなどを北朝鮮国民が見るのは、主にこのノーテルでである。 
観光
朝鮮民主主義人民共和国は欧州連合(EU)諸国を含めて162か国前後との間に国交を有し、観光客も幅広く受け入れている。アリラン祭期間は国交の無いアメリカ人観光客も受け入れている。ただしマスメディア関係者はアリラン祭中でも入国できない。朝鮮民主主義人民共和国観光に際しては、事前に朝鮮民主主義人民共和国領事館にビザを申請し、発給を受け、事前に観光コースを決定し、現地では専用のガイドとともに行動することが条件となる。また、観光客が訪問できる都市・地域は限定されているため、必ずしも希望する観光地・コース通りになる訳ではない。既定のコースが現地で変更になることもあるといわれる。外国人が宿泊可能なホテルも限定されている。同様に観光客の自由行動を制限している国家としてはブータンやサウジアラビア等が挙げられるが、北朝鮮はそれら諸国と比較しても制約が厳しいといえる。
商用電源電圧は220V、周波数は60Hzである。通貨はユーロやUSドル、さらに日本円を利用することが可能であり、首都平壌市内のホテルや観光地、中華人民共和国との国境付近の新義州や羅先では中国の人民元もよく通用する。
入国には平壌国際空港、または北京 - 平壌間で運行されるK27/28次列車やモスクワ(ヤロスラフスキー) - 平壌間の寝台国際列車を利用する。入国の際の持ち込み品は、武器や麻薬・爆発物類はもちろん、GPSなどの航法装置、通信装置、ラジオ、望遠レンズ(220mm以上)、撮影済みのフィルム、外国の出版物全てが禁止されている。携帯電話は入国時に税関に預ける事が決められていたが、2013年1月20日、中華人民共和国の中国中央電視台は、北朝鮮で1月から外国人の携帯電話の持ち込みが可能になったと伝えた。全地球測位システム (GPS) やFMラジオ機能を持つスマートフォンも持ち込める。これまでは入国者に税関で携帯電話を預けさせ、出国時に返していた。平壌国際空港では外国人向けに北朝鮮の携帯電話会社のSIMカードの販売も開始され、北朝鮮内で自由に携帯電話サービス(通話サービスのみ)を利用できるようになった。ただし、北朝鮮国内向けのSIMカードとは別回線となっており、国際電話や他の外国人への通話は可能であるが、国内契約者(北朝鮮人)との通話はできない(逆に、国内向けSIMカードでは、国内契約者同士の通話が可能であるが、外国人との通話や国際電話が不可能)]。
出国時の持ち出し禁止品は、現地通貨(朝鮮民主主義人民共和国ウォン)、入国時に申告した額を超過する外貨、重要文化財などである。
大韓民国の現代財閥は1998年より金剛山の観光開発を推進し、2002年に金剛山観光の便宜の為に朝鮮民主主義人民共和国の特別行政区として江原道から独立した金剛山観光地区が設立され、金剛山観光地区は2011年に金剛山国際観光特別区に発展解消した。
日本人向けの観光
朝鮮民主主義人民共和国と日本国の間には正式な国交は存在しない。また、北朝鮮の核実験・ミサイル発射実験を受け、日本国外務省は日本国民に対して渡航の自粛を勧告している(2014年7月4日に解除)。しかしながら、観光や人道支援で北朝鮮を訪問する日本人も僅かながら存在する。北朝鮮側も外貨獲得のため日本人観光客の受入を続けており、日本語を話すガイドも存在している。ただし日本の警察官、自衛隊員、マスメディア関係者は原則として不可。日本国には朝鮮民主主義人民共和国大使館が無いため、北朝鮮旅行を取り扱う旅行会社や代理店にビザを手配してもらうことになる。
日本と北朝鮮の間に直行便は存在しない。2015年現在、平壌国際空港との間に定期便があるのは中華人民共和国(北京市、瀋陽市)・タイ王国(バンコク)・ロシア(ウラジオストク)・マカオである。なお航路では2006年まで貨客船万景峰号が不定期に日本海に面する新潟と元山の間に就航していたが、北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)などの影響により2015年現在は事実上廃止されている。
また、2015年現在全域で衛星携帯電話は利用できない。 
国民 

 

朝鮮は古代より、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した(『魏志東夷伝』)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた(『魏志東夷伝』)」という様に、国を割いてまで秦の亡民の建国を許しているように、多様な経路からの異民族の移住が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の植民地漢四郡が置かれ、漢の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、東北部は高句麗人、渤海人、女真人等ツングース民族の流入が相次ぎ、また、高麗時代初期に異民族が23万8000人余りも帰化した。あるいは契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もあるが、朝鮮民主主義人民共和国は、同じ朝鮮民族の分断国家である大韓民国と同様に、単一民族国家意識が強いのが特徴的である。
韓洪九によると、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)・モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)・日本(文禄・慶長の役)・満州(丁卯胡乱)からの侵入など歴史上大量に人々が流入した事例は数多くあり、韓国(朝鮮)が単一民族というのは「神話」でしかなく、韓国(朝鮮)の姓氏の族譜では、祖先が中国から渡来した帰化姓氏が数多くあり(金光林によると、朝鮮の姓氏の半分は外国人起源であり、大半は中国人に起源に持つ)、少なくとも族譜が編纂された李氏朝鮮時代には、単一民族意識がなかった証左であり、そもそも身分制社会だった近世では、支配層の両班と被支配層の奴婢・賤民が同じ血を分けた単一民族だという意識は成立しえないという。
人口・人権・食糧問題
北朝鮮の人口統計は、政治的要因および統計制度・調査方法の不備から、ある程度の誤差があると考えられている。
北朝鮮政府が人口センサスを実施したのは1993年末に1回のみであったが、2008年10月に国連人口基金の支援下で新たな人口センサスが実施された。これによる暫定集計の結果は、総人口24,051,218人、内男性が11,722,403人、女性が12,328,815人である。米国CIAの『ザ・ワールド・ファクトブック』によれば2011年7月での推定人口は24,457,492人(男性:11,850,436人/女性:12,607,056人)である。平均余命は68.89歳(男性65.03歳、女性72.93歳)、出生率は人口1000人当たり14.51人、合計特殊出生率は2.02人、幼児死亡率は1000人当たり27.11人となっている。WHOの推計では、平均寿命は男性65歳、女性68歳(2005年)となっている。国連の推計では現在の平均寿命が1980年代後半より4歳下回っているとされている。
北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会事務局長の平田隆太郎は、国連機関が報告した北朝鮮の人口は約300万人水増しと推計している。国連人口基金が北朝鮮人口センサスの結果を発表しが、実際に行ったのは北朝鮮当局で、国連人口基金は当局の報告値をそのまま発表した。北朝鮮における人口調査は2回目で、第1回調査は1994年1月3日〜15日に行われ、1993年12月31日現在の人口は2,121.3万人と報告された(以下「1993年調査」)。FAOとWFPは、1995年に初めて北朝鮮に対する食糧支援を実施した際、「1993年調査」の人口を元に独自の人口増加率0.7%を設定して不足食糧を推計し、国際社会に支援を訴えてきた。しかし、国連機関は、「2008年調査」の結果として、北朝鮮当局が想定してきた人口増加率0.85%とほとんど整合する結果になったとの報告を受けた。北朝鮮当局の人口統計の数値は元々多目で、例えば300万人が餓死したとされる1995〜98年の苦難の行軍の時期の人口は、減少しなかったどころかその後の増加をも上回る数値となっている。大量の餓死者を出した90年代後半を過ぎた後の平均寿命が、70年代から80年代にかけて経済が急成長し中進国と呼ばれた韓国の平均寿命と同じというのは違和感があり、「北朝鮮の平均寿命が15年間で約7.6歳低下した。男性が67歳から59.5歳に、女性は74.1歳から66.4歳に下がった。これは韓国より約10歳低く、韓国の80年代の水準」と報告された(「デイリーNK」2011.03.23)北朝鮮が、「食糧難後に国際機関や外国の食糧支援を受け続け作物状況も一部改善、2008年には期待寿命は男性が64.1歳、女性が71.0歳に増加する傾向を見せたが、1993年(男67.0歳、女性74.1歳)の水準を完全に回復する事が出来なかった」が、平均寿命がこれほど急激に回復するというのも考えられないと述べている]。
元BBC記者である英国のジャーナリスト、ジャスパー・ベッカーが、国連などのデータをもとに指摘しているところによると、金日成が死去した直後の1995年、国連が調査した北朝鮮の人口は2,400万人だったが、いまやその人口は1,900万人に減っているという。わずか10年余りの間に500万人も餓死しているという。また、『朝鮮日報』系の『月刊朝鮮』元編集長でジャーナリストの趙甲済が高位級の脱北者から聞いた話として、2005年朝鮮労働党の核心部署が最高人民会議代議員選挙のための人口調査をしたところ、1,800万人という数字が出たという。宮塚利雄は、「十年間で500万人以上の餓死者が出たと言われ、現在は2000万人を切っているとも言われる」と述べている。
1980年代以降、ソビエト連邦など共産圏からの援助が激減しエネルギー不足に陥ったのが契機となり、国内の食糧事情が極度に悪化し、数百万人以上の国民が餓死したと言われる。北朝鮮政府は、食糧危機の原因を水害や旱害などの天災としているが、それは主たる原因ではない。真の原因は、エネルギー不足により肥料生産が減り、肥料や食料の運搬が困難になったことと、各地域の天候や現状は無視して、首都から各地方へ画一的な主体農法を押しつけた、北朝鮮政府の非現実的な食糧生産政策が原因とされる。また、生産された食糧のかなりの部分を、各地の労働党幹部が確保し、一般国民へ食糧が届かないことも、餓死の大きな原因とされる。飢餓を招いた北朝鮮当局の政策の失敗を指摘する意見があり、李榮薫によると、金日成の死亡(1994年)から97年までに金日成の墓のために使われた資金は9億ドル(約970億円)だという。そして、「その金があれば、95年から98年にかけ300万人が死んだとされる大飢餓の人々を救えたはずだ。」と述べている。西沿岸が干ばつに見舞われた1997年6月、ウナ丼の好きな金正日総書記が、人民の食生活向上を狙い、集約化に向き栄養価の高いナマズの養殖発展を指示し、以来力を入れている。 2011年9月に、北朝鮮の水害の際に、米国務省が90万ドルを拠出した救済支援を行ない、それ以上に、アメリカのボランティア災害救済団体のサマリタンズ・パースが120万ドルの援助を追加して災害救済の支援をした。
また刑務所や政治犯収容所などの強制収容施設で多数の人々が殺害されたと言われるが、北朝鮮政府は政治犯収容所の存在を否定している。しかし政治犯収容所の収容者や警備兵などの多数の証言によれば、収容所内で裁判なしに多くの人が日常的に殺害されており公開処刑も行われているといわれる。
餓死と強制収容施設での問題の他、食糧問題と人権問題を原因とする、多数の国民の北朝鮮からの脱出、いわゆる脱北も、人口減の原因である。北朝鮮と接する中国東北部には、北朝鮮から逃れた人々が数十万人以上滞在しているために中華人民共和国は国境地帯の警備を強化している。 2010年3月25日、日本や欧州連合(EU)などが提出した、北朝鮮の人権状況を非難する決議が国連人権理事会で採択された。採択は3年連続で、今回は過去最多の28か国が賛成した。
宗教
・儒教(朝鮮の儒教) - 中国・台湾・日本の一部などと同様に儒教文化圏にある。
・天道教
・キリスト教(天主教、プロテスタント)
・仏教(朝鮮の仏教)
現在、北朝鮮国内における宗教に関することは国外に明らかになっていない。当局は、外国人が訪朝した際に、平安南道、妙香山の普賢寺を見せて「北朝鮮では信教の自由がある」と説明している。また、憲法にも信教の自由が保障されている事が明記されている。このことから無神国家または無宗教国家ではない、とされている。
だが、憲法の中の信教に関する項目が何度も改正されている事実を考えれば、宗教政策が何らかの理由でしばしば変更を強いられていることが伺える。また、諸外国でも、「普賢寺そのものが、あくまで外国人にそう説明するための手段に過ぎず、実際のところ、朝鮮民主主義人民共和国公民にはほぼみな、信教の自由がない」とする見方が主流である。多くの共産主義国と同じように宗教の存在が党の指導思想(北朝鮮の場合は主体思想)と対立するためである。出身成分上、仏教徒およびキリスト教徒は最下層である敵対階層に分類されており、「宗派」という言葉は罵倒語として用いられている。
平壌はかつて日本統治時代にキリスト教徒が多く、「東洋のエルサレム」と呼ばれた。金日成の母方の祖父である康敦Uもプロテスタント長老派の牧師である。解放後から金日成体制が安泰になるまでもキリスト教徒が多く、キリスト教系新宗教も存在していた。現在は、北朝鮮には地下教会の信者が多くおり、他の宗教同様キリスト教に関しても、信教の自由は確立されてはいない。北朝鮮ではキリスト教を弾圧していると言う情報が流れているのも、このためとされている。
北朝鮮の場合は中華人民共和国などの他の「共産国」に比べて、宗教が弾圧された経緯が漏れ伝わってこない。また、その形跡も確認しづらい。金日成自らはかつて美濃部亮吉と対談した際、教会はすべて朝鮮戦争において「アメリカの爆撃で焼けてしまいました」と語り、キリスト教徒も南部へ逃げてしまったと語っている。これが真実ならば、実質北朝鮮では宗教の自由は無いに等しいと考えられる。
仏教徒の団体として朝鮮仏教徒連盟が、天道教徒の団体として朝鮮天道教会中央指導委員会が、キリスト教徒の団体として朝鮮基督教連盟が存在する。
朝鮮民主主義人民共和国には長忠大聖堂のようなカトリック教会の教会堂が存在するものの、聖座(バチカン)とは国交を有していない。
イスラム教については北朝鮮国民のイスラム教徒は確認されていないが、平壌の在朝鮮イラン大使館敷地内に主にイラン大使館員向けのシーア派のモスクが存在する。
教育
北朝鮮の学校教育制度は、満5歳から就学前教育(幼稚園)の1年間、初等教育(小学校)の4年間、中等教育(中学校)6年間の計11年が義務教育であり、中等教育を経た後の高等教育には、2-3年制の高等専門学校、3-4年制の単科大学、4-6年制の総合大学などが存在する。
主な高等教育機関として、金日成総合大学(1946年創立)、金策工業総合大学(1948年創立)、平壌外国語大学(1964年創立)などの名が挙げられる。 
文化 

 

朝鮮民主主義人民共和国の文化は、基本的には同じく朝鮮民族の分断国家である大韓民国と共通しており、民族衣装はチョゴリ、食文化はキムチや平壌冷麺が有名である。朝鮮半島北部は亜寒帯に属し、気候が寒冷であるため、冬季には建物の床下に薪や練炭、石炭の煙を通し暖を取る、昔ながらのオンドルを使用している地域が多い。
1987年より非同盟および発展途上国の平壌映画祭や平壌世界芸術祭が開催されている。プリンセス・テンコーも招待されてマジックを披露した。
文学
建国直後は、旧植民地時代から活躍していた李箕永や、日本語でも創作活動をし、芥川賞候補にもなった金史良らが活躍した。また、詩人の林和なども存在した。
1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定後は、『ケマ高原』を著した黄健などが活躍している。
音楽
朝鮮民主主義人民共和国国内では主に以下の音楽集団が存在する。
国立交響楽団 / 功勲国家合唱団(旧称:朝鮮人民軍功勲国家合唱団、朝鮮人民軍功勲合唱団)。協奏団より合唱部門として分列。 / 朝鮮人民軍協奏団 / 朝鮮人民軍軍楽団(旧称:最高司令部軍楽団) / 普天堡電子楽団(ポチョンボ電子楽団) / 牡丹峰楽団(モランボン楽団) / ワンジェサン軽音楽団 / 万寿台芸術団(旧称:平壌歌舞団) / 血の海歌劇団(ピバダ歌劇団)
ソ連の赤軍合唱団(アレクサンドロフ・アンサンブル他)に範を取った、朝鮮人民軍の正規現役軍人らによる合唱団の功勲国家合唱団、国外にも少なからずファンを持つポチョンボ電子楽団、日本や西側諸国にも演奏旅行経験が有り、2008年にはニューヨークフィルとも共演した国立交響楽団が代表的。演奏歌唱曲では、北朝鮮国内では準国歌扱いとして特に有名な「金日成将軍の歌」や「金正日将軍の歌」他といったプロパガンダ歌曲や、労働歌、革命歌、軍歌、朝鮮民謡などが有名。また、「青い山脈」や「津軽海峡冬景色」(日本語および朝鮮語にて歌唱)といった日本の歌謡曲や、欧米の音楽のカバー(無許可カバーや、演奏歌唱する曲のメロディ自体が盗作な歌曲も有り)を行っていたりもする。ポチョンボ電子楽団や功勲国家合唱団等は演奏CDも出しており、北朝鮮国内の他、日本など国外でも代理店を通して購入可能。上記の楽団以外にも、国立の舞台劇団(民族演舞や抗日闘争を題材としたオペラ・革命歌劇『血の海』等が有名)も多数存在する。
平壌には、作曲家尹伊桑の音楽を研究するために設立された、尹伊桑音楽研究所がある。北朝鮮の楽曲は、鄭律成や金正平など、朝鮮生まれの中国朝鮮族音楽家が中朝両国で活躍したためか、中華人民共和国の革命楽曲文化との共通点が多く見られる。
中学校・高等学校では、朝鮮の民族楽器のほかにシンセサイザーやエレキギターを利用した軽音楽を課外活動として取り入れている。
また1990年代後半より中国東北部の中国朝鮮族を介して大韓民国のK-POPが北朝鮮に流入し、当局の禁止にも関わらず2010年代初頭には韓流は北朝鮮人民の間で人気を博している。
金正恩第一委員長体制の成立後、2012年7月6日に既存の楽団と一線を画する新楽団として牡丹峰楽団が登場した。
映画
朝鮮民主主義人民共和国では映画も盛んに製作、上映されており、平壌市には「朝鮮芸術映画撮影所」が存在する。北朝鮮の映画は政治色の強いプロパガンダ映画がほとんどであるが、1985年には怪獣映画『プルガサリ』が製作、上映されている。また、1987年より非同盟および発展途上国の平壌映画祭が開催されている。
第二代最高指導者であった金正日は映画に造詣が深く、日本でも2000年10月に同朋舎から『人間の証し――『映画芸術論』抄』なる書題で著書が日本語訳刊行されている。
世界遺産
朝鮮民主主義人民共和国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。
紀年法及び暦法
朝鮮民主主義人民共和国は1997年9月9日に、それ以前の西暦のみの使用に替わる新たな紀年法として、西暦1912年を元年とする主体暦の使用を開始した。暦法はグレゴリオ暦(太陽暦)が使用されている。
祝祭日
  1月1日 正月
  2月16日 民族最大の名節 (金正日総書記誕生日)
  4月15日 太陽節 (金日成主席誕生日)
  4月25日 朝鮮人民軍創建記念日
  5月1日 国際労働者節 (所謂「メーデー」)
  7月27日 祖国解放戦争勝利記念日 (1953年の朝鮮戦争休戦記念日)
  8月15日 祖国解放記念日 (日本統治からの解放(光復)を祝う日)
  9月9日 共和国創建記念日 (建国記念日)
  10月10日 朝鮮労働党創建記念日
  12月27日 憲法節
  陰暦1月1日 旧正月 (民族の名節)
  陰暦1月15日 小正月 (民族の名節)
  陰暦5月5日 端午 (民族の名節)
  陰暦8月15日 チュソク(秋夕) (民族の名節)
スポーツ
朝鮮民主主義人民共和国主催の「スポーツの平和の祭典」(別名:「平和のための平壌国際体育・文化祝典」)と呼ばれる国際競技大会が開催されており、日本からアントニオ猪木も参加した。また、数万人で行われるマスゲームは芸術的完成度が高く、観光客を呼び込むため度々行われている。
サッカー
国内では、サッカーが人気のあるスポーツとなっている。サッカー北朝鮮代表はアジア域内では好成績を残しており、イギリスで開催された1966 FIFAワールドカップでは初出場ながら強豪イタリア代表を撃破しベスト8に進出するも、準々決勝でポルトガル代表のエウゼビオ(モザンビーク出身)に逆転され、準決勝進出ならずという結果を残した。この記録は、現在も「ワールドカップ史上最大の番狂わせ」と語り継がれている。その後、北朝鮮代表は長らくFIFAワールドカップからは遠ざかっていたが、2010年に南アフリカ共和国で開催された2010 FIFAワールドカップへ出場、ブラジル代表やコートジボワール代表などと対戦し、ゴールを決めた。
1996年にはキム・ジョンソンがジュビロ磐田に入団し、北朝鮮代表選手としては初のJリーガーとなっている。
武道
朝鮮民族の武道として、テコンドーやシルム(朝鮮相撲)が存在する。柔道では1996年アトランタオリンピック48kg級決勝戦田村亮子(現谷亮子)の連勝記録85連勝を阻んだケー・スンヒ、レスリングでは2012年ロンドンオリンピック55kg級銅メダリスト、ヤン・ギュンイルなどがいる。
その他
その他では卓球や重量挙げが人気のあるスポーツである。1970年代の第34回世界卓球選手権にて中国選手を破り金メダルを獲得したパク・ヨンスン選手は北朝鮮国内では英雄として扱われていた。 
通信とメディア 
朝鮮中央放送によってラジオ、テレビが運営されている。
新聞
朝鮮労働党機関紙の『労働新聞』や政府機関紙の『民主朝鮮』などが存在する。
報道規制
2010年の北朝鮮は、指導者たる金正日の体制を維持するための一つの手段として、指導者が情報を一手に握って管理統制し言論の自由・報道の自由が無い国と看做されている。2006年5月2日にジャーナリスト保護委員会が作成した検閲国家ワースト10のリストでワースト1位となった(詳しくは検閲国家ワースト10のリストを参照)。また国境なき記者団が2007年に発表した世界報道自由ランキングでも169か国中168位と極めて低い順位となっている(2002年 - 2006年の5年間、北朝鮮は連続最下位だった)。
また実際に北朝鮮にあるラジオ、テレビ、新聞は政府の統治下にあるため、同国のマスメディアは政府や朝鮮労働党に都合の悪い情報を国内に対しては一切報道しない。また国外向けにも何らかの形で国民に届き、かつ理解し得る朝鮮語では報道されない。テレビやラジオではニュース番組の生放送すらできず、事前に録画ないしは録音して当局の検閲を通過したもののみが放送される。
外国のラジオ放送やテレビ放送を国民が受信することは法律によって厳しく規制されており、国内で流通しているラジオ受信機は周波数を自由に選択できない。北朝鮮のインターネットも国外のウェブサイト(朝鮮総連などの北朝鮮関連のサイトは除く)への接続を規制しており、同国政府に批判的な内容の情報が国内に流入しないようにしている。
さらに、外国通信社が首都平壌に支局を開設しようとする場合、朝鮮中央通信社と業務提携を結び、記事配信にあたって朝鮮中央通信の指導を受けなければならないとされている。このため、西側諸国の通信社で平壌支局があるのはロイターとAP通信(実際は子会社が運営)、共同通信社に事実上限られており、それらの通信社でも平壌発で報じられるのは北朝鮮当局の発表に基づくものか、自国に有利と判断して朝鮮中央通信の検閲を通過したものに限られる。北朝鮮にとって不利なニュースを配信する場合は東京やソウル、北京などからの発電で報じられることが多い。ただし、例外として2010 FIFAワールドカップのときはマレーシアから電波がそのまま飛ばされたため、資本主義国の広告などもそのまま放送されていた。 
国の象徴 

 

国旗
国旗は、共和国旗(チョソングル:공화국기)と呼ばれる旗である。建国直前まで北朝鮮人民委員会も太極旗を使っていたが、1947年10月20日に朝鮮での信託統治実施を巡る米ソ共同委員会が事実上決裂し、南北朝鮮が別個に新政府の樹立準備を始めたため、新しい国旗が必要になった。そのため、新しい国旗の原案が1948年2月に提示され、修正を経て同年9月8日に共和国旗として制定された。
国花
国花は木蘭である。ただし、より正確に記すとオオヤマレンゲ Magnolia sieboldii ssp. sieboldii であり、園芸樹として一般的なハクモクレン Magnolia heptapeta とは異なる種である。北朝鮮の公式ポータルサイト「ネナラ」によると、オオヤマレンゲは抗日パルチザン時代の金日成と縁のある花で、建国後に金日成から「木に咲く美しい花」という意味の「木欄」と名付けられ、北朝鮮の国花になったという。
また、国花とは別に、北朝鮮には国花以上の政治的な意味を持つ花として指導者の名を冠した金日成花、金正日花という花卉がある。