役人の治める 「美しい国」

役人に不都合なこと 公表できません
特定秘密保護法

役人に逆らう人たち 未然に封じ込めます
老婆心 新憲法改定に反対する人たちを 封じ込めるための準備
テロ等組織犯罪準備罪

神民の皆さん 役人の命令指導に従ってください 
「美しい国」の新憲法


 
 

「美しい国へ」安倍語録美しい国「美しい国づくり」企画会議安倍総理の演説
安倍語録批判「美しい国へ」論評論評2論評3(不条理の喪失)論評4
「美しい国」と「普通の国」・・・
神国を目指す
「美しい国」の悪夢
 
 
 
 
霊峰
神体山とは主に神道において神が宿るとされる山岳信仰や神奈備(かむなび・神々が神留まる森林を抱く山)の山をいう。
 
 
 
 
 
現人神
降り積もる 御雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄雄しき 人も斯く在れ  
 
 
 
 
 
 
 
神道
 
 
 
 
 
 
八百万の神 自然万物に神が宿る
 
 
 
  
 
安倍総理の自己満足
安倍政権 政治の優先順位を誤る
時間の無駄遣い 法律できても 税金は増えません
景気・経済とは無縁

 
 
 
「真の経済政策」が急務
日本は就労人口の減少期に入りました GDP600兆円 夢のまた夢
国民一人当りの生産性 世界の中位以下
働く人が減れば GDPも低下します

 
 
 
バラマキ 散財政治
経済拡大は望めないのに 国の借金は増加の一途 異常 奇妙
「財政健全化」お題目 神棚の裏に仕舞い込みました 
安倍総理 お役人 忘れたふり 知らんぷり 後は野となれ山となれ 
 
  
 
神民です 
将来の安寧の絵があれば 目先の苦労を厭いません
「真の経済政策」のお札 神棚の正面に捧げましょう
 
 
 
時間がありません
 
 

 


 
2017/3
 
 
「美しい国へ」 語録 

 

はじめに 
「戦う政治家」「戦わない政治家」
政治家の中には、あまり政策に興味を抱かない人がいる一方、特定の政策については細部までつき詰める人たちもいる。政局になると力を発揮する人もいるし、そうしたことには一切興味を示さない人たちもいる。かつては自民党に「官僚派」と「党人派」という区分けがあったが、現在は「政局派」と「政策派」という分け方ができるかもしれない。その意味では、若手議員のほとんどは、かつてと比べて政策中心にものを考える傾向が強くなっているのではないだろうか。
時代は変わったが、わたしは政治家を見るとき、こんな見方をしている。それは「戦う政治家」と「戦わない政治家」である。
「戦う政治家」とは、ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家のことである。「戦わない政治家」とは、「あなたのいうことは正しい」と同調はするものの、けっして批判の矢面に立とうとしない政治家だ。
わたしが拉致問題について声をあげたとき、「右翼反動」というレッテルが貼られるのを恐れてか、運動に参加したのは、ほんの僅かな議員たちだけであった。事実、その後、わたしたちはマスコミの中傷の渦のなかに身をおかざるをえなかった。「応援しているよ」という議員はたくさんいたが、いっしょに行動する議員は少なかった。「戦う政治家」の数が少ないのは、残念ながら、いつの時代も同じだ。
1939年、ヒトラーとの宥和を進めるチェンバレン首相に対し、野党を代表質問に立ったアーサー・グリーンウッド議員は、首相の答弁にたじろぐことがあった。このとき、与党の保守党席から「アーサー、スピーク・フォー・イングランド(英国のために語れ)」と声が飛んだ。グリーンウッドは、その声に勇気づけられて、対独開戦を政府に迫る歴史的な名演説を行ったという。
初当選して以来、わたしは、つねに「戦う政治家」でありたいと願っている。それは闇雲に戦うことではない。「スピーク・フォー・ジャパン」という国民の声に耳を澄ますことなのである。 
第二章 自立する国家 
わたしが拉致問題を知ったとき
被害者の家族は長い間、孤独な戦いをしいられてきた。日本で声をあげれば、拉致された本人の命が保証されないと脅され、個別にツテをたどって情報を集めるしかなかったのだ。
国に見捨てられたかれらが、悲痛な思いで立ち上がっているのだ。わたしたち政治家は、それにこたえる義務がある。
わたしを拉致問題の解決にかりたてたのは、なによりも日本の主権が侵害され、日本国民の人生が奪われたという事実の重大さであった。
工作員がわが国に侵入し、わが国の国民をさらい、かれらの対南工作に使ったのである。わが国の安全保障にかかわる重大問題だ。
にもかかわらず、外務省の一部の人たちは、拉致問題を日朝国交正常化の障害としかとらえていなかった。相手のつくった土俵の上で、相手に気に入られる相撲をとってみせる――従来から変わらぬ外交手法、とりわけ対中、対北朝鮮外交の常道だった。つねに相手のペースをくずさないように協力して相撲をとれば、それなりの見返りがある。それを成果とするのが戦後の外交であった。
相手の作った土俵では戦えば勝てない
帰国後は、家族による必死の説得が行われた。その結果、五人は「北朝鮮には戻らず、日本で子どもたちの帰国を待つ」という意志を固め、中山恭子内閣官房参与とわたしに、その旨を伝えてきた。
わたしは、「かれらの意志を表に出すべきではない。国家の意志として、五人は戻さない、と表明すべきである。自由な意志決定ができる環境をつくるのは、政府の責任である」と考えていた。
マスコミや政界では、五人をいったん北朝鮮に帰すべきという意見が主流であった。しかし、ここでかれらを北朝鮮に戻してしまえば、将来ふたたび帰国できるという保証はなかった。
十月二十三、二十四日の二日間にわたって、官邸のわたしの部屋で協議をおこなった。さまざまな議論があった。
「本人の意志として発表すべきだ」、あるいは「本人の意志を飛び越えて国家の意志で帰さないといえば、本人の意志を無視するのはおかしい、とマスコミに批判されるだろう。家族が離ればなれになれば、責任問題にもなる」という強い反対もあった。
しかしわたしたちは、彼らは子どもたちを北朝鮮に残しているのだから、彼らの決意を外に出すべきではない、と考えた。
何より被害者が北朝鮮という国と対峙しようとしているとき、彼らの祖国である日本の政府が、国家としての責任を回避することは許されない。
最終的にわたしの判断で、「国家の意志として五人は帰さない」という方針を決めた。ただちに小泉総理の了承を得て、それは政府の決定となった。
日朝平壌宣言にしたがって開かれる日朝国交正常化交渉の日程は、10月29日と決まっていた。政府が「五人を帰さない」という方針を北朝鮮に通告したのは、その五日前のことであった。
その日、ある新聞記者に「安倍さん、はじめて日本が外交の主導権を握りましたね」といわれたのを鮮明に覚えている。たしかにそのとおりだった。
「知と情」論で政府を攻撃したマスコミ
「五人を北朝鮮に戻さない」という政府の決定を、あのときマスコミは、かならずしも支持しなかった。「政府が家族を引き離した」と、こき下ろす新聞もあった。
当時、ある新聞がさかんに書き立てたのが、「知と情」という言葉である。「拉致被害者はかわいそうだから助けてあげたいが、それは情の問題だ。これに対して北朝鮮の核は安全保障上の重大事であって知の問題だ。ここは冷静になって知を優先すべきだ」というのである。
わたしは徹底的に反論した。
「拉致の責任を追及するのは、たんに情にかられてのことではない。大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫が田口八重子さんから日本人化教育を受けたことからもわかるように、拉致は北朝鮮の国際テロの一環として行われたものであって、それはまさしく安全保障上の問題なのである。それを三面記事的な情の問題におとしめるのは意図的な情報操作としか思えない」
マスコミは拉致問題の解明に消極的だった。社説で「拉致は犯罪である」と書きはするが、それは「いちおう拉致問題を批判した」というアリバイのようなものであった。ほんらい別個に考えるべき、かつての日本の朝鮮半島支配の歴史をもちだして、正面からの批判を避けようとするのである。自民党のなかにも、「知と情」論をふりかざす議員がいた。
自由を担保するのは国家
このソ連の日本侵攻について、ロンドン大学教授の森嶋通夫氏と早大客員教授の関嘉彦氏との間でたたかわされた有名な防衛論争がある。「北海道新聞」と「文藝春秋」誌上で展開された議論だが、森嶋氏は、核兵器の時代に通常兵器で武装しても無意味で、どうせ降参するなら武装はゼロでよい、としたうえで、「不幸にして最悪の事態が起れば、白旗と赤旗をもって、平静にソ連軍を迎えるより他ない。三十四年前に米軍を迎えたようにである。そしてソ連の支配下でも、私たちさえしっかりしていれば、日本に適合した社会主義経済を建設することは可能である。アメリカに従属した戦後が、あの時徹底抗戦していたよりずっと幸福であったように、ソ連に従属した新生活も、また核戦争をするよりもずっとよいにきまっている」と述べた。
個人の自由と国家との関係は、自由主義国家においても、ときには緊張関係ともなりうる。しかし、個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう。
この論争がたたかわされてから四半世紀、わたしたちはすでに、ソビエト連邦がどのように消滅し、冷戦がどのように終焉したかを知っている。
「靖国批判」はいつからはじまったか
国家を語るとき、よく出てくるのが靖国参拝問題であり、「A級戦犯」についての議論である。戦後60年をむかえた2005年は、とくにはげしかった。
靖国問題というと、いまでは中国との外交問題であるかのように思われているが、これはそもそもが国内における政教分離の問題であった。いわゆる「津地鎮祭訴訟」の最高裁判決(1977年)で「社会の慣習にしたがった儀礼が目的ならば宗教的活動とみなさない」という合憲の判断が下されて以来、参拝自体は合憲と解釈されているといってよい。首相の靖国参拝をめぐって過去にいくつかの国賠訴訟が提起されているが、いずれも原告敗訴で終わっている。
政府としては、85年に藤波孝生官房長官の国会答弁で「戦没者の追悼を目的として、本殿または社頭で一礼する方式で参拝することは、憲法の規定に違反する疑いはない」という見解を示して以来、参拝は合憲という立場をくずしていない。
中国とのあいだで靖国が外国問題化したのは、85年8月15日、中曾根首相の公式参拝がきっかけである。
中曾根参拝の一週間前の8月7日、朝日新聞が次のような記事を載せた。
「(靖国参拝問題を)中国は厳しい視線で凝視している」
日本の世論がどちらの方を向いているかについて、つねに関心をはらっている中国政府が、この報道に反応しないわけがなかった。参拝前日の8月14日、中国外務省のスポークスマンは、はじめて公式に、首相の靖国神社の参拝に反対の意思を表明した。「(首相の靖国参拝は)アジア各国の人民の感情を傷つける」というわけである。「A級戦犯が合祀されているから」という話がでたのは、このときだ。
「A級戦犯」といういい方自体、正確ではないが、じつは、かれらの御霊が靖国神社に合祀されたのは、それより7年も前の1978年、福田内閣のときなのである。その後、大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘と、三代にわたって総理大臣が参拝しているのに、中国はクレームをつけることはなかった。
1978年に結ばれた日中平和友好条約の一条と三条では、たがいに内政干渉はしない、とうたっている。一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である。また、その国の伝統や文化にのっとった祈り方があるのも、ごく自然なことであろう。
2005年6月、わたしは、訪日中のインドネシアのユドヨノ大統領にお会いしたとき、小泉総理の靖国参拝について、「わが国のために戦い、命を落とした人たちにたいして、尊崇の念をあらわすとともに、その冥福を祈り、恒久平和を願うためです」と説明した。すると大統領は、「国のために戦った兵士のためにお参りするのは当然のことです」と理解を示してくれた。世界の多くの国々が共感できることだからではないだろうか。
「A級戦犯」をめぐる誤解
「A級戦犯」についても誤解がある。「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判=東京裁判で、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」という、戦争の終わったあとにつくられた概念によって裁かれた人たちのことだ。国際法上、事後法によって裁いた裁判は無効だ、とする議論があるが、それはべつにして、指導的立場にいたからA級、と便宜的に呼んだだけのことで、罪の軽重とは関係がない。
「A級戦犯」として起訴された28人のうち、松岡洋右らふたりが判決前に死亡し、大川周明が免訴になったので、判決を受けたのは25人である。このうち死刑判決を受けて刑死したのが東条英機ら7人で、ほか5人が受刑中に亡くなっている。
ところが同じ「A級戦犯」の判決を受けても、のちに赦免されて、国会議員になった人たちもいる。賀屋興宣さんや重光葵さんがそうだ。賀屋さんはのちに法務大臣、重光さんは、日本が国連に加盟したときの外務大臣で、勲一等を叙勲されている。
日本はサンフランシスコ講和条約で極東国際軍事裁判を受諾しているのだから、首相が「A級戦犯」の祀られた靖国神社へ参拝するのは、条約違反だ、という批判がある。ではなぜ、国連の場で、重光外相は糾弾されなかったのか。なぜ、日本政府は勲一等を剥奪しなかったのか。
それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。1951年(昭和26年)、当時の法務総裁(法務大臣)は、「国内法の適用において、これを犯罪者とあつかうことは、いかなる意味でも適当ではない」と答弁している。また、講和条約が発効した52年には、各国の了解も得たうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているのである。「B・C級戦犯」といわれる方たちも同様である。ふつう禁固3年より重い刑に処せられた人の恩給は停止されるが、戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない。また、戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづいて遺族年金も支払われている。 
第三章 ナショナリズムとはなにか 
移民チームでW杯に優勝したフランス
スポーツに託して、自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する――ナショナリズムがストレートにあらわれる典型がサッカーのW杯だ。それほどのサッカーファンでもないわたしも含め、W杯になると多くのにわかファンを誕生させるのは、この大会のもつ特別な魅力のなせるわざだろう。トヨタカップのようなクラブチーム同士の戦いとは違って、各チームは、その国の代表として出場しているからだ。さらに、国を代表するチームであっても、彼らはひとつの民族、同じ人種というわけではない。
わたしは、親善試合を見に行ったとき、会場の盛り上がりに感化されてサッカーの面白さを知った。日本がW杯本戦の出場を逃した93年の“ドーハの悲劇”のときは、ブラジル出身のラモスが、日本人といっしょに涙を流して悔しがった。いまも三都主の活躍にみんなが心から拍手をおくる。日の丸の旗のもとに戦った者は、出身国がどこであろうと仲間であるという意識、それは共同体にたいする帰属意識、というよりほかにいいようがない。
フランスは、第二次世界大戦のあと、労働力が不足して大量の移民を受け入れた。だがその後ナショナリズムの高まりとともに、移民排斥の嵐が吹き荒れた。98年、強豪フランスは、開催国としてW杯に出場するが、このときメンバーの多くが、アルジェリア系のジダンをはじめとする移民と移民二世の選手たちで占められたため、「レインボー(いろいろな人種からなる)チーム」と呼ばれた。しかし、そのチームが優勝を勝ち取ったとき、かれらはもはや移民ではなく、フランス国家の英雄であった。
優勝の夜、人びとは国家「ラ・マルセイエーズ」を歌って熱狂し、百万人以上がつどった凱旋門には「メルシー・レ・ブリュ」(「ブリュ」はフランスチームのシンボルカラーの青)の電光文字が浮かび上がった。サッカーのもたらしたナショナリズムが、移民にたいする反感を乗り越えた瞬間であった。
「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国家
覚えている人もいるだろうが、2004年のアテネオリンピックで、水泳の800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は、笑顔で表彰台にのぼったのに、降りるときには大粒の涙を落としていた。
「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうダメでした」
日本人として、健闘を称えられたことが素直にうれしかったのだ。2005年7月にモントリオールで行われた世界選手権では、同じ種目で残念ながら三位に終わってしまったが、「日の丸をいちばん高いところに掲げて、『君が代』を歌いたかった」と悔しがっていた。
世界中のどこの国の観客もそうだが、自国の選手が表彰台に上がり、国旗が掲揚され、国歌が流れると、ごく自然に荘重な気持ちになるものだ。ところがそうした素直な反応を、若者が示すと、特別な目で見る人たちがいる。ナショナリズムというと、すぐ反応する人たちだ。ようするに「日の丸」「君が代」に、よい思いをもっていないのだ。
かれらにとっては、W杯の日本のサポーターの応援ぶりも、きっと不愉快なことなのにちがいない。ただ、その不愉快さには、まったく根拠がないから、かれらの議論にはなんの説得力もない。そのことはかれらもわかっているから、「プチ・ナショナリズム」などという言葉をつかって、ことさらおとしめるのである。
また、「日の丸」は、かつての軍国主義の象徴であり、「君が代」は、御世を指すといって、拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。これには反論する気にもならないが、かれらは、スポーツの表彰をどんな気持ちでながめているだろうか。
若者たちはよくいうが、「君が代」は、たしかにほかの国の国歌にくらべて、リズムといいテンポといい、戦いのまえにふさわしい歌ではない。しかし日本の選手が活躍したあとに、あの荘重なメロディを聞くと、ある種の力強さを感ずるのは、わたしだけではないはずだ。
歌詞は、ずいぶん格調が高い。「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」という箇所は、自然の悠久の時間と国の悠久の歴史がうまくシンボライズされていて、いかにも日本的で、わたしは好きだ。そこには、自然と調和し、共生することの重要性と、歴史の連続性が凝縮されている。
「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。
「地球市民」は信用できるか
国家、すなわちネーションとは、ラテン語の「ナツィオ」が語源だ。中世のヨーロッパでは、あちこちからイタリアのボローニャにある大学に学生が集まってきた。大学の共通語はラテン語だが、同郷の仲間とつどうときは、自分たちの国の言葉で話した。そして酒を酌み交わしたり、歌を歌ったりしながら、故郷をなつかしんだ。どこで生まれ、どこで育ったのか、同じ民族でその出自を確認しあうのだ。その会合を「ナツィオ」とよんだのである。
では、自分たちが生まれ育った郷土にたいするそうした素朴な愛着は、どこから生まれるのだろうか。すこし考えると、そうした感情とは、郷土が帰属している国の歴史や伝統、そして文化に接触しながらはぐくまれてきたことがわかる。
とすれば、自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは、だれがなんといおうと、本来、ごく自然の感情なのである。
前章でわたしは、パスポートの例をあげて、《わたしたちは、国家を離れて無国籍には存在できないと述べた。しかしそれは、旅行の便宜上のことばかりではない。そこに横たわっている本質的なテーマとは、自分たちはいったい何者なのか、というアイデンティティの確認にほかならない。
外国にすんでいたり、少し長く旅行したことのある人ならわかるだろうが、ただ外国語がうまいというだけでは、外国人は、深く打ち解けたり、心を開いてくれることはしないものだ。伝統のある国ならなおさらである。
心の底から、かれらとコミュニケーションをとろうと思ったら、自分のアイデンティティをまず確認しておかなければならない。なぜなら、かれらは《あなたの大切にしている文化とはなにか》《あなたが誇りに思うことは何か》《あなたは何に帰属していて、何者なのか》――そうした問いをつぎつぎに投げかけてくるはずだからだ。かれらは、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである。
はじめて出会う外国人に、「あなたはどちらから来ましたか」と聞かれて、「わたしは地球市民です」と答えて信用されるだろうか。「自由人です」と答えて、会話がはずむだろうか。
かれらは、その人間の正体、つまり帰属する国を聞いているのであり、もっといえば、その人間の背負っている歴史と伝統と文化について尋ねているのである。
曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷
ここでいう国とは統治機構としてのそれではない。悠久の歴史をもった日本という土地柄である。そこにはわたしたちの慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということは、自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである。
北朝鮮に帰属の権利を奪われた拉致被害者のひとり、曾我ひとみさんが、2002年秋、24年ぶりに故郷の佐渡の土を踏んだとき、記者会見の席で読んだ自作の詩があった。
みなさんは記憶しているだろうか。自らの国を失うとはどういうことか、国とはわたしたちにとって、どういう存在なのか、率直に、そして力強く語りかけてくれたのを。
《みなさん、こんにちは。24年ぶりにふるさとに帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすみませんでした。今、私は夢をみているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。
「おかえりなさい、がんばってきたね」。だから私もうれしそうに、「帰ってきました。ありがとう」と元気に話します。みなさん、本当にどうもありがとうございました――》
「偏狭なナショナリズム」という批判
進歩主義の立場からナショナリズムを批判する人たちは、よく「偏狭なナショナリズム」といういい方をする。ナショナリズムを健全なナショナリズムと偏狭なそれに分けようというのだ。
たとえば、拉致された日本人を取り戻すために、わたしたちが北朝鮮にたいして強い態度に出ると、「それは偏狭なナショナリズムだ」とかれらは批判する。アジア全体の平和を優先するなら、北朝鮮にたいしても融和的に対応すべきだ、という主張である。
かれらのいう「偏狭」とは「排他的」という意味らしいが、そもそもかれらは、ナショナリズムそのものを否定してきたのではなかったのか。というより、かれらがナショナリズムを「偏狭な」と形容するのは、拉致事件をきっかけに日本人が覚醒してしまい、日本のナショナリズムを攻撃してきた旧来の論理が、支持を得られなくなってしまったからではないか。
日本人が日本の国旗、日の丸を掲げるのは、けっして偏狭なナショナリズムなどではない。偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか。 
第七章 教育の再生 
映画「三丁目の夕日」が描いたもの
日本の映画賞を総なめにした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観た。舞台となるのは昭和33年、建設中の東京タワーのそばの下町だ。みんなが貧しいが、地域の人々はあたたかいつながりのなかで、豊かさを手に入れる夢を抱いて生きていく様子が描かれる。
昭和三十三年といえば、テレビでアメリカのホームドラマ「パパは何でも知っている」が放映されていた年である。翌年には「ビーバーちゃん」や「うちのママは世界一」が放映された。わたしもそれらを見て、アメリカの家庭の豊かさに圧倒された一人だった。
広い家と広い庭。室内には電化製品がたくさんあり、冷蔵庫の中にはいつもミルクびんやジュースが入っていて、子どもごころに、「ああ、日本も早くこんな国になればいいなあ」と思ったものだ。
映画の主人公の一家も、テレビが入り、木の冷蔵庫が電気冷蔵庫に変わり・・・・・・物質的な豊かさがつぎつぎと実現していく。ところが、映画は後半、それと矛盾するように、お金では買えないものの素晴らしさを描いていく。
売れない小説家の茶川竜之介が、なけなしのお金でプロポーズの指輪を買おうとするのだが、そのお金で少年に万年筆を買ってしまったため、指輪の箱しか買えなかった。「いつか買うから」といってカラの箱を贈られた女性ヒロミは、箱をあけ、「指輪をつけて」という。そして箱からとりだした見えない指輪を薬指にはめてもらい、静かに涙を流した。
それは彼女にとって、ティファニーやカルティエの指輪に勝るとも劣らぬプレゼントだった――。
東京タワーが戦後復興と物質的豊かさの象徴だとすれば、まぼろしの指輪はお金で買えない価値の象徴である。
この映画は、昭和三十三年という時代を記憶している人たちだけではなく、そんな時代を知るはずのない若い人たちにも絶賛された。いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきたからだった。
「お金以外のもの」のために戦った野球チーム
2006年3月、野球の国別対抗「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)は、多くの日本人をテレビにくぎづけにさせた。決勝戦のときは、たまたま打ち合わせの最中だったが、さすがに私も気になって、ちらちらテレビを見やっていた。九回の裏、キューバ選手のバットが、大塚晶則投手のスライダーに空を切った瞬間には、思わず「よしっ」と声がでてしまった。
チームを率いた王貞治監督は、優勝祝賀会で頭からシャンパンを浴びながら、
「みんなで日の丸を背負って戦って最高の結果を出せた。日本の野球のすごさをわかってもらえたんですから、監督としてこんなうれしいことはない」と、満面の笑みだった。
マリナーズで十億円を超える年俸をもらうというイチロー選手は、試合後のインタビューで「世界一を決める大会だから、参加した。シーズンのこととかはまったく考えていない」といった。そして、「僕の野球人生においてもっとも大きな日。すばらしい仲間といっしょにプレーできて嬉しい・・・・・・ファンの注目度や選手のモチベーションを考えると、すばらしい大会だった」と。
同じ日、敗北を喫したキューバの監督が記者会見で、「優勝に値するチームだ」と日本チームをほめたたえたあと、たしかこんなことをいっていた。
「お金のためではなく、自分の国のために戦うことがどれほど素晴らしいかがわかった大会だった」
社会主義国のキューバでは、選手も監督も公務員である。だから当然といえば当然だが、そのラテン特有の明るい語り口には、自分たちのモチベーションが理解されたという誇らしさがにじみでていた。
再チャレンジの可能な社会へ
わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。この可能性を引きだすことができるのは、わたしたちの勇気と英知と努力だと思う。日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために汗を流すべきではないだろうか。
日本の欠点を語ることに生きがいを求めるのではなく、日本の明日のために何をなすべきかを語り合おうではないか。 
おわりに 
未来は不変のものではなく、みんなの努力によって創り出されていくのだということはわかっていても、一歩前に出ることを躊躇う若者は多い。とすれば、彼らに勇気をあたえ、何をすべきかを示す責任があるのは、ほかならぬ政治家なのではないだろうか。
十九世紀のイギリスの保守政治家、ベンジャミン・ディズレーリは、若い頃に著した小説『ビビアン・グレイ』のなかで、「青年のとまどいは人類の失望をもたらす。願わくは、先達が営々として築いてきたものが無駄にならないように」と言った。
本書は、いわゆる政策提言のための本ではない。わたしが十代、二十代の頃、どんなことを考えていたか、わたしの生まれたこの国に対してどんな感情を抱いていたか、そしていま、政治家としてどう行動すべきなのか、を正直につづったものだ。だから若い人たちに読んでほしいと思って書いた。この国を自信と誇りの持てる国にしたいという気持ちを、少しでも若い世代に伝えたかったからである。
政治は未来のためにある――わたしの政治家としての根っこにある想いを知っていただければ望外の喜びである。 

美しい国 

 

「日本国の安倍内閣が国民と共に目ざす」と宣言した国家像である。『活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 』と定義されている。
2006年7月、小泉内閣でポスト小泉と目され、内閣官房長官を務めていた安倍晋三は、同年9月20日に予定されていた自由民主党総裁選挙への準備運動として、『美しい国へ』を文藝春秋から上梓した。日本国内における売り上げは50万部を超えた。また、海外(米国・中国・韓国・台湾)でも発売が企画された。
また、安倍は9月1日に総裁選挙への出馬を正式に立候補する際にも、「美しい国、日本。」と題した政権構想のパンフレットを発表し、同党所属の国会議員に配布すると共に、一般国民に対しても広く公開した。安倍は総裁に選出され、首相に就任後は自身の基本理念を指す用語として「美しい国」を使用したが、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙敗北後は使用を控えるようになり、参議院選挙後初の国会でもほとんど使用しなかった。首相辞任後は、『美しい国へ』の書籍の売れ行きもほとんどストップしている。
2013年、再度内閣総理大臣となった安倍は、“完全版”と称する『新しい国へ』を、やはり文藝春秋から上梓した。
安倍政権下における推進
安倍内閣成立後、安倍は「『美しい国づくり』プロジェクト」を提唱し、内閣官房に「『美しい国づくり』推進室」を設置した。さらに、有識者を集めた「『美しい国づくり』企画会議」を設置し、座長には平山郁夫、座長代理には山内昌之が就任した。
企画会議は2007年4月3日および5月30日の2回討議を行ったのみで、安倍内閣の総辞職が予想されたため、安倍の指示を待たず同年9月21日付で自主的に解散し、プロジェクトは終了した。会議開催や事務所設置などで費やされた経費は4900万円であった。後任の内閣総理大臣である福田康夫は、経費について質問され「会議をやっただけでそれだけというのはちょっと高すぎる。高すぎるということは無駄だということだ」と指摘した。
2007年12月7日、安倍は自身の政権での「美しい国づくり」を振り返り「美しい国づくりは道半ばだが、礎をつくることはできたと思う。一議員として初心に戻り、新しい国づくりに向けて全力を尽くしてゆきたい」と発言した。
世論調査
内閣府がまとめた世論調査によると、今の日本を「美しい」とする人は過半数を超えている。一方、「美しくない」とする人は43%であった。
また、「日本の美しさとは何か」に関するアンケート調査結果(複数回答可)は以下のとおりであった。
1. 山や森などの「自然」:80.0%
2. 伝統工芸などの「匠(たくみ)の技」:58.5%
3. 田園・里山などの「景観」:52.8%
4. 歌舞伎・祭りなどの「伝統文化」: 50.8%
君が代
安倍の著書『美しい国へ』によれば、「君が代」は「世界でも珍しい非戦闘的な国歌」であるという。
派生
安倍内閣の各政策では「美しい国づくり」を推進しており、その名称等にも反映されていた。
経済財政政策 / 内閣府経済財政諮問会議が取りまとめた『経済財政改革の基本方針2007――「美しい国」へのシナリオ』(いわゆる「骨太の方針2007」)もこれに由来している。この副題は安倍が自ら命名したものだったが、審議の席上では丹羽宇一郎・伊藤隆敏・八代尚宏ら経済財政諮問会議議員から異論が出されたと報道された。内閣府特命担当大臣(経済財政政策)大田弘子が安倍の案を提示したところ、丹羽は「『「美しい国」へのシナリオ』はどうもぴんとこない」、伊藤は「『シナリオ』と言うと、我々の主体的な働きかけの意味合いが弱い」、八代は「伊藤議員が言われたような『成長戦略』という言葉が大事だと思う」との異論が挙がった。同じく議員の尾身幸次、御手洗冨士夫らはこの案に賛意を示した。最終的には安倍の当初案どおり命名されたが、この議論について質問された安倍は「まあ、それは趣味の問題ですね。これは私の骨太の方針ですから私の考え方にしたがって書かせていただきました」と述べている。
環境政策 / 安倍内閣が掲げた環境政策「美しい星50」もこれに由来している。
類似する題名
「美しい国」は、晋友会合唱団によるCD、『美しい国、日本』にも使用されている。
一方、「美しい国」それ自体が、河野洋平が自由民主党総裁を務めた当時、小沢一郎の「普通の国」構想への対抗として打ち出した「美しい国」論を換骨奪胎したものに過ぎず、「パクリ」であるという指摘がジャーナリストの松田賢弥によってなされている。
第1次安倍内閣 (改造)にて内閣官房長官を務めた与謝野馨によれば、第43回衆議院議員総選挙にて与謝野が掲げたマニフェストのタイトルに「美しい国」の概念が含まれていることから、「『美しい国』というのを最初に使った」のは与謝野であると自ら指摘している。
安倍と同じく清和政策研究会に所属する町村信孝は、2005年に『保守の論理――「凛として美しい日本」をつくる』を上梓している。
作家の川端康成は1968年(昭和43年)のノーベル文学賞受賞に際し、「美しい日本の私」というスピーチを行ない、日本人の伝統的な心性や美意識を語った。
評価
安倍の提示する国家像や政治姿勢に反発する民主党の山口壯は弁護士・大山勇一作の回文「憎いし、苦痛! 『美しい国』」を引用し、2006年10月13日衆院本会議にて「美しい国」を逆さ読みして「ニクイシクツウ(憎いし、苦痛)」と揶揄した。格差が拡大し、自殺者が3万人を超す状態が1999年から10年も続き、しかも状況が何ら改善されないなどの社会の現実(交通死亡事故でさえ年間犠牲者が1万人を超えたら大問題になるのにその3倍)、閣僚の相次ぐ失態、年金問題への対応の失敗等々、安倍政権下の政治現実を批判する立場からは「美しい」という言葉と現実社会との隔たりとが逆に意識される結果となっている。
また、自由民主党所属国会議員(当時)の中にも批判的な意見がある(田村公平は「美しい国」について「意味がよく分からない」と評している)。
憲法学者の小林節は同書のなかで「法律による統治」など法学では誤用と見なされる初歩的なミスが多いとして、憲法改正を志す適性に欠けるとして安倍内閣が憲法改正に手を付けることは反対を表明するなど批判している。
小林よしのり・宮台真司は、教育面では愛国心を強調する一方、経済面では支持団体である経団連をはじめとした財界のトップが、「法人税を上げたら企業が海外に逃げる」と言う主張の二重基準ぶりを指摘している。
塩野七生は、「『美しい国』のような客観的な基準になり得ない指針を掲げても、それは自己満足に過ぎない」と批判し、「情緒的な言葉を使うより、具体的な指針を掲げるべき」と述べた。
他の使用例
『美しい国』という題名は、世界基督教統一神霊協会(統一教会、統一協会)の初代日本支部長を務めた久保木修己の遺稿集として、2004年に世界日報社から出版された『美しい国 日本の使命』にも使用されている。なお、安倍晋三の祖父の岸信介や父の安倍晋太郎は国際勝共連合会長の久保木と交遊があった事が指摘されている。
中国や台湾や朝鮮半島などでは、「美国」はアメリカ合衆国を意味する。これは、「アメリカ」「メリケン」の漢字音訳である「亜美利加」「美利堅」の頭文字を取った物である。

「美しい国づくり」企画会議

 

「美しい国づくり」企画会議は、文化・芸能・歴史・産業など各界の有識者の皆さまに集まっていただき、「美しい国づくり」プロジェクトの企画等について審議していただく会議です。平成19(2007)年4月3日に、第1回企画会議が開催されました。
「美しい国づくり」プロジェクト / 「美しい国づくり」プロジェクトは、私たちが本来もっている魅力を引出し、いきいきとした未来につなげようとするものです。「今ある美しいもの」、「失われた、あるいは失われつつある美しいもの」、「これから作り上げるべき美しいもの」について、国民の皆さんが気づき、行動していくきっかけ作りをするものです。
企画会議の審議を通じて頂いたご意見、ご示唆を「美しい国づくり」プロジェクトに生かし、皆さんとともに、「美しい国、日本」を築いてくことを目指します。

「美しい国づくり」プロジェクト
四季折々の風景、伝統が織り成す技や文化、日々の生活の中にある日本の美しさ。私たちの国、日本には、様々な分野で本来持っている良さや「薫り豊かな」もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあります。私たちの国の未来を確固たるものにするため、私たち一人ひとりの「美しい国づくり」へのきっかけを創ろうとするのが、「美しい国づくり」プロジェクトです。
「美しい国」とは?
皆さんにとって、「美しい国」とはどんな国でしょうか?「日本の美しさ」とは何でしょうか? 安倍内閣では、皆さんとともに目指したい、新しい、私たちの国のかたちを、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」 と考え、そして、この私たちの国の理念、目指すべき方向を
1 文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
2 自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国
3 未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
4 世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国
と考えています。
「美しい国、日本」は、私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ、この「美しい国、日本」を、私たち一人ひとりが創り、そして誇りをもって伝えていきたいと考えています。
「美しい国づくり」プロジェクトとは?
私たちの国の、理念、目指すべき方向としての4つの柱にもとづき、私たちの国、日本には、様々な分野で本来持っている良さや『薫り豊かな』もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあること、 をも踏まえながら、私たち日本人一人ひとりの中にある、豊かな未来につなげようとする活力の源と言える日本に対する思いを、引き出すことです。
そして、日本に対する思いを通じて、国民一人ひとりが、日本人ならではの感性、知恵、工夫そして行動を自覚する、きっかけを創ることです。
"日本らしさ"を、毎日の生活や日々の仕事を通して磨きあげていくことで、いきいきとした、豊かな国としての成長につながっていきます。加えて、こうした国の姿や国民の行動を、堂々と世界に発信していきます。
そこで得られた理解や共感は、世界から認められ、愛され、信頼されることにつながり、そのことが、私たち自身の誇りや、自覚を促し、私たちの国の未来を確固たるものにします。
プロジェクトの進め方は?
美しい国づくりプロジェクトでは、私たち日本人の暮らしや仕事の中に息づいている、本来持っている良さや「薫り豊かな」もの、途絶えてはいけないもの、失われつつあるもの、これから創っていくべき美しいものがあることを踏まえながら、皆さんと一緒に、一人ひとりが日本"らしさ"を見つめなおすことから始めていきます。
そして、これからの私たちの成長や活力の"糧"として、日本 "ならでは"の感性、知恵、工夫、そして行動に気づき共有し、そのことを日々の暮らしや仕事の中で磨き上げ、創り出していくことで、「美しい国、日本」を築いていくことを目指しています。
また、こうした私たちの姿や行動を世界に発信することで、世界から理解や共感を得て、愛され、信頼につなげていくことを目指しています。
こうした取り組みを繰り返すことで、私たち自身の誇りや自覚を促し、私たちの国の未来を確固たるものにしていきます。
具体的なプロジェクトの内容は?
「美しい国づくり」プロジェクトでは、以下のような、身近な“私たち視点”で参加できる、皆さん一人ひとりの思いを引き出す企画(推進施策)に取り組んでいきます。
○あらゆる世代の気づきを促す企画
日本の「薫り豊かな」ものや途絶えてはいけないもの、かつては美しかったが美しくなくなってしまったものを見つめ直し、あらゆる世代が日本の「良さ、素晴らしさ」に気がつくこと。
○身近な視点での取り組みを推進する企画
一人ひとりが、「美しい日本づくり、美しい自分探しへの旅」を始め、その思いをきっかけに自らが行動するような身近な視点での取り組みを推進すること。その結果、描き出されたものを「美しい国、日本」として皆で共有し自覚し合うこと。
○世界とも分かりあえ、共感しあうための企画
“諸外国の国民とも理解しあい、認め合う”という視点で、私たちの姿や行動を堂々と発信すること。
これら企画については、「美しい国づくり」企画会議で審議します。これら取り組みを通じて、皆さんと共に思いをめぐらせ、歩み、築いていきます。

安倍内閣総理大臣の所信表明演説

 

安倍内閣総理大臣は、国会における所信表明演説において、「美しい国づくり」について、以下の通り言及しています。
第165回国会 安倍内閣総理大臣所信表明演説
[ 第165回国会は、平成18年(2006年)9月26日に召集された臨時国会である。会期は12月19日までの84日間。9月20日の自民党総裁選挙において選ばれた安倍晋三総裁による内閣が最初に臨んだ国会である。]
(はじめに)(抄)
私が目指すこの国のかたちは、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、「美しい国、日本」であります。この「美しい国」の姿を、私は次のように考えます。
一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。
二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛とした国であります。
三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。
四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。  
( 中 略 )
(むすび)(抄)
「美しい国、日本」の魅力を世界にアピールすることも重要です。かつて、品質の悪い商品の代名詞であった「メイド・ イン・ジャパン」のイメージの刷新に取り組んだ故盛田昭夫氏は、日本製品の質の高さを米国で臆せず主張し、高品質のブランドとして世界に認知させました。 未来に向けた新しい日本の「カントリー・アイデンティティ」、すなわち、我が国の理念、目指すべき方向、日本らしさを世界に発信していくことが、これから の日本にとって極めて重要なことであります。国家としての対外広報を、我が国の叡智を集めて、戦略的に実施します。
( 中 略 )
私たちの国、日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。その静かな誇りを胸に、今、新たな国創りに向けて、歩み出すときがやってきました。
かつて、アインシュタインは、訪日した際、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」と述べています。二十一世紀の日本を、アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら、魅力あふれる、活力に満ちた国にすることは十分に可能である、日本人には、その力がある、私はそう信じています。
新しい国創りに共にチャレンジしたいと願うすべての国民の皆様に参加していただきたいと思います。年齢、性別、障害の有無にかかわらず、誰もが参加できるような環境をつくることこそ、政治の責任であります。戦前、戦中生まれの鍛えられた世代、国民や国家のために貢献したいとの熱意あふれる若い人たちとともに、日本を、世界の人々が憧れと尊敬を抱き、子どもたちの世代が自信と誇りを持てる「美しい国、日本」とするため、私は、先頭に立って、全身全霊を傾けて挑戦していく覚悟であります。
第166回国会 安倍内閣総理大臣施政方針演説
[ 第166回国会は、2007年1月25日に召集された通常国会である。会期は7月5日までの162日間(延長は12日間)。今国会の焦点は「政治と金」「労働法制の改正」「格差問題の是正」など挙げられる。 また、日程としては4月の統一地方選挙の日程が重なり、会期終了後(7月)には第21回参議院議員通常選挙が行われる。]
(むすび)(抄)
「美しい国、日本」を創っていくためには、我が国の「良さ、素晴らしさ」を再認識することが必要です。未来に向けた 新しい日本の「カントリー・アイデンティティ」、即ち、我が国の理念、目指すべき方向、日本らしさについて、我が国の叡智を集め、日本のみでなく世界中に 分かりやすく理解されるよう、戦略的に内外に発信する新たなプロジェクトを立ち上げます。
( 中 略 )
お年寄りの世話をしている方や中小企業で働く方、看護師、消防士、主婦や、様々な職場、そして各地域で努力しておられる、数えきれない多くの方々が、毎日寡黙にそれぞれの役割を果たすため頑張っています。本来、私たち日本人には限りない可能性、活力があります。それを引き出すことこそ、私の美しい国創りの核心であります。今このときそれぞれの現場で頑張っておられる人々の声に真摯に耳を傾け、その期待に応える政治を行ってまいります。  
 

 

 
 
「安倍晋三語録ナショナリズム」批判

 

移民チームでW杯に優勝したフランス
安倍晋三氏『スポーツに託して、自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する・・・<中略>・・・フランスは、第二次世界大戦のあと、労働力が不足して大量の移民を受け入れた。だがその後ナショナリズムの高まりとともに、移民排斥の嵐が吹き荒れた。98年、強豪フランスは、開催国としてW杯に出場するが、このときメンバーの多くが、アルジェリア系のジダンをはじめとする移民と移民二世の選手たちで占められたため、「レインボー(いろいろな人種からなる)チーム」と呼ばれた。しかし、そのチームが優勝を勝ち取ったとき、かれらはもはや移民ではなく、フランス国家の英雄であった。優勝の夜、人びとは国家「ラ・マルセイエーズ」を歌って熱狂し、百万人以上がつどった凱旋門には「メルシー・レ・ブリュ」(「ブリュ」はフランスチームのシンボルカラーの青)の電光文字が浮かび上がった。サッカーのもたらしたナショナリズムが、移民にたいする反感を乗り越えた瞬間であった。』

混成チームが出来上がった時には越えられなかった人種の壁を「勝利」という要素で越えたということか。では負けていたらどうなったのか。「やはり他の人種がいたから負けたのだ」となったのではないか。また異人種メンバー自身のアイデンティティは果たしてすべて「フランス人」という意識があったのか。そもそもスポーツとナショナリズムを「政治家」が持ち出すこと自体に問題がある。極論或いは過去の問題と言われるかもしれないが、ナチスドイツのスポーツに対する認識は、『国家社会主義は、たとえ生活の一部だろうと、国という総体的な組織の外におくことをゆるさない・・・・・すべての競技選手、スポーツマンは国家に仕え、水準の高い国家社会主義者の身体をつくりあげるため貢献しなければならない・・・・・あらゆるスポーツ団体は、党組織あるいはドイツ労働戦線の指示を受けるべきである・・・・・競技選手、スポーツマンは、国家への奉仕における政治的な原動力の予備課程なのである。』だ。ともかくも政治家がスポーツを口にする時は不純な動機でしかない。
「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国家
安倍晋三氏『「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。』

「天皇陛下万歳!」などと言って国民総動員して挙句の果て原爆落されたあの戦争を「ほんの一時期」という認識しかもっていないことが明らかだ。彼は、平成25年の終戦記念日でこう述べている。『いとしい我が子や妻を思い、残していく父、母に幸多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません。』(平成二十五年八月十五日内閣総理大臣 安倍晋三)片時も忘れないと言いながら、それは「ほんの一時期」だという。言葉のニュアンスではなく言葉を発する動機が矛盾している。また、天皇制が我が国において“歴史的に長大なタペストリー”であるかどうかは、実は歴史学的見地から見れば疑問があるところである。権力構造ではなく民衆レベルで天皇制が根付いたのはおよそ900年前の12世紀頃と言われている。たかだかそんな時間幅である。また「君が代」を国家としたのは『1869年(明治2)ころ,横浜にいたイギリス軍楽隊長J.W.フェントンが国歌の必要を説き,薩摩藩砲兵隊長大山弥助(のちの元帥陸軍大将大山巌)が薩摩琵琶歌《蓬萊山(ほうらいさん)》に入っていた《君が代》を歌詞として選定,フェントンがこれに作曲。』(世界大百科事典第2版)でありたかだか明治以降の付け焼刃の産物である。
「地球市民」は信用できるか
安倍晋三氏『では、自分たちが生まれ育った郷土にたいするそうした素朴な愛着は、どこから生まれるのだろうか。すこし考えると、そうした感情とは、郷土が帰属している国の歴史や伝統、そして文化に接触しながらはぐくまれてきたことがわかる。とすれば、自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは、だれがなんといおうと、本来、ごく自然の感情なのである。』

生まれ育った郷土に対する素朴な愛着とは、国とかそういうものではなくもっと人間的なものではないか。肉親の親愛は国家とか伝統などという社会的2次的構成概念ではないだろう。ふるさとの山、川は国家とは関係ないのである。文字通り安倍晋三が言う「素朴」な感覚とはそのようなものではないか。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」なのである。自らが帰属する場所とは自ら自身でしかない。その自らをはぐくむのは国家などという人為的概念ではなく文字通り“自然”そのものでしかないだろう。郷土愛を国家愛へ結びつけるレトリックである。
「地球市民」は信用できるか
安倍晋三氏『はじめて出会う外国人に、「あなたはどちらから来ましたか」と聞かれて、「わたしは地球市民です」と答えて信用されるだろうか。「自由人です」と答えて、会話がはずむだろうか。かれらは、その人間の正体、つまり帰属する国を聞いているのであり、もっといえば、その人間の背負っている歴史と伝統と文化について尋ねているのである。』

この言葉の前には少し長いがこのような言葉がある。
『外国にすんでいたり、少し長く旅行したことのある人ならわかるだろうが、ただ外国語がうまいというだけでは、外国人は、深く打ち解けたり、心を開いてくれることはしないものだ。伝統のある国ならなおさらである。心の底から、かれらとコミュニケーションをとろうと思ったら、自分のアイデンティティをまず確認しておかなければならない。なぜなら、かれらは《あなたの大切にしている文化とはなにか》《あなたが誇りに思うことは何か》《あなたは何に帰属していて、何者なのか》――そうした問いをつぎつぎに投げかけてくるはずだからだ。かれらは、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである。』
私は海外旅行の経験も少なければ、外国人の友人も数えるほどしかいない。しかし、旅行の経験がなかろうと、友人がなかろうと、どこの国であろうと、深く打ち解け、心を開くことは国家を超えた個人としての存在ではないか。「国家という衣服をまとわないと信用されない」という発想は一体どこからでて来るのか。先述のナチスにおけるスポーツ認識と相通ずるものであることをはからずも露呈している。東京オリンピック開催に向けて「おもてなし」という言葉の意味を滝川クリステルは次のように言った。「おもてなし。それは訪れる人を心から慈しみお迎えするという深い意味があります。先祖代々受け継がれてまいりました。」日本人が外国人に対して心を開くときには必ず相手の国家帰属を問題とするのであれば、このような「おもてなし」は果たして存在するのか。「訪れる人を心から慈しむ」気持ちは国家という概念から生まれるのではなく、人間が本来持っている隣人愛ではないのか。なぜ「地球市民」「自由人」と応えて信用されず話がはずまない、と断言できるのか。「地球市民」とは元首相鳩山由紀夫の言葉であったが、一般的に解釈すれば「世界共通市民」という意味であろう。政敵の言葉であったから反応したのか。ちなみに独立行政法人国際交流基金には「国際交流基金地球市民賞」と言うものがある。また安倍晋三氏自身が国際交流基金において彼の政策である「青少年交流事業」を行っており、また彼の父親であった安倍晋太郎氏提唱の「安倍フェローシップ・プログラム」事業を設置している。まさに安倍親子が活躍する世界交流基金で「地球市民」という言葉は使われているのである。
曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷
安倍晋三氏『ここでいう国とは統治機構としてのそれではない。悠久の歴史をもった日本という土地柄である。そこにはわたしたちの慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということは、自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである。』

みずから「国とは統治機構ではない」と言いながら、彼は「国を守る」という行為を統治機構としての国家の長として行おうとしているのである。慣れ親しんだ自然を守ることと「国を守る」ことを同列視しながら、片方は「統治機構ではない」と言いながら片方で「統治機構」としてそれを行おうとすることの説明をどうするのだろうか。
「偏狭なナショナリズム」という批判
安倍晋三氏『日本人が日本の国旗、日の丸を掲げるのは、けっして偏狭なナショナリズムなどではない。偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか。』

これについては逸話を一つあげたい。時は1987年に起きた「東芝機械ココム違反事件」は当時の東芝がソ連に潜水艦技術を売ったということで、米国では日本の国旗や日本車をハンマーでたたき割るという行為があったにも関わらず、日本政府はこの行為を批判することなく米国に対して謝るのみだった。果たして安倍晋三氏は米国で日の丸が焼かれる事件が起きたら行動を起こすのであろうか。これについては、日本では外国の国旗を焼くと犯罪である。「刑法92条外国国章損壊罪」というものがあるが、2011年に自民党が日本国旗(日の丸)を焼くと罪になるという法案(「国旗損壊罪」)を提出しようとしたことがある。自国の国旗を焼くことについて罪を問うのはあのアメリカでさえも「憲法違反」という判断がされている。結局、国旗を掲げることも焼くことも表裏一体であり、そもそもナショナリズムに偏狭とか排他とか区別すること自体が問題である。「寛大なナショナリズム」などというものは基本的にあり得ない。安倍晋三氏がどのように区別形容しようともナショナリズムとはすべて偏狭であり排他であるのである。
補記
「ナショナリズム」については根本的議論を進めないと安倍晋三氏のような個人的価値観と公共的価値観の区別がつかなくなり、情動的な発想が国家権力機構という装置を通して論理化されていく。これは右翼、左翼に関わらず「支配層が“まとめる”」と言う発想からでて来るものである。しかし、では「公共的価値観」というものが果たしてあるのか、という疑問が残る。『祖国のために死ぬということ:ナショナリズム考』という小論文で慶応大学の萩原能久氏は冒頭に面白い縦話をしているが、なかなか深い命題である。
以下抜粋・・・
「究極の選択:愛する者のために死ぬ?
「あなた、本当に私のことを愛しているのだったら、私のために死ねる?」無邪気なようで世の中でこんなに恐ろしい質問があるだろうか。「できない」と答えたら愛していないと認めたことになるし、「うん、死ねるよ」と答えれば、「それじゃ、今ここで死んでみて」という究極の選択をも飲まなくてはならない。修羅場を恐れない限り、まさに迷惑な異性から求愛された場合の断り方としては切り札的なセリフである。
あなたは愛する者のために死ねるだろうか?わが子や肉親の場合に「私は死ねる」という人でも、「祖国」のためにと聞かれれば、二の足を踏むのが普通だと思う。戦闘的右翼ならば、戦後民主主義のぬるま湯的教育が日本人を骨抜きにしたと怒るところかもしれないが、これを「民主主義」のせいにするのは的外れである。」(慶應義塾大學法學部教授 萩原能久氏)
「愛する人のためには死ねるがなぜ国の為に死ぬことができないか」、当然である。しかし、このような個人の人間としての気持ちを祖国とか国とかという価値観に巧妙にすり替えるレトリックを安倍晋三氏の語録からは見出すことが出来るのである。 

安倍晋三『美しい国へ』 論評 2006/7 

 

「この人」の頭の中を覗いてしまったような気がしました。あまりにも思っていた通りで、誠にガッカリさせられました。「この人」というのは、次期総理候補としてほぼ「当確」となっている安倍晋三官房長官のことです。実際に覗いてみたのは、頭の中ではなく、『美しい国へ』(文春新書)という最近出された著書です。この本は、安倍さんという人を知るのに、大変、相応しいものだと思いました。「やっぱりこんな人だったのか」と、改めて失望させられること、請け合いです。どういうつもりで、この本を出したのかは分かりません。こんな本を出すことで、安倍さんの評判が高まるとでも思ったのでしょうか。
安倍さんがダントツで支持を伸ばし、自民党総裁選挙への関心が急激に低下しています。慌てた片山参院幹事長などは、「安倍さんの独走のままの消化試合は、自民党のためによくない。今後の自民党の活力のためにも志がある人は出て、堂々と政策論争をしてもらいたい」と言っています。このような声が出ることを予想してか、安倍さんは新著を出しました。先日、フランスのAFP通信社から取材を受け、「まあ、選挙で言えばマニフェストのようなものでしょう」と答えました。総裁選に向けて政見を明らかにし政策を提言するというのは悪いことではない、とも……。そう答えた手前、早速、本書を手にとってパラパラとめくり、「おわりに」という部分を読んでガックリ来ました。そこには、「本書は、いわゆる政策提言のための本ではない」と書いてあったからです。
この本は、「わたしが十代、二十代の頃、どんなことを考えていたか、私の生まれたこの国に対してどんな感情を抱いていたか、そしていま、政治家としてどう行動すべきなのか、を正直につづったもの」なのだそうです。そんな本を、どうして総裁選の前に出したのでしょうか。なぜ、堂々と、「政策提言のための本」だと書かなかったのでしょうか。そう言えない訳があるからです。この本は、自らの生い立ちや体験、自分の関心のあること、知っていることで成り立っており、「政策提言」のようなものは、ほとんど出てこないからです。すでにここに、安倍さんという人の限界が示されています。総裁選に向けて何か自分を売り出すような本を出したい。だけど、まともに「政策提言」をするような政見はない。さし当たり書けることを掻き集めて、本にして出してしまおう、ということだったのではないでしょうか。
本書を一読してすぐに気がつくのは、経済について何も書かれていないということです。財政や金融問題も出てきません。安倍さんという人は経済のことは何も分からないのだな、ということがよく分かります。このことは、目次からも明瞭です。「わたしの原点」「自立する国家」「ナショナリズムとはなにか」「日米同盟の構図」「日本とアジアそして中国」というのが、第1章から第5章までの構成です。以下、「少子国家の未来」「教育の再生」というのが、第6章と第7章です。
この構成からも明白なように、本書の半分以上は、安全保障、外交、歴史認識、憲法などの問題で占められています。第6章は「少子国家の未来」という表題ですが、中身の大半は年金の問題です。途中で、「メッセージ性の高い少子化対策を打ち出さなければならない」とか、「効果のある経済的な支援を検討していかなければならない」(172〜173頁)などの言葉も出てきますが、具体的な内容は皆無です。何も思いつかなかった、ということでしょう。そもそも、この「少子国家の未来」という章の最初の書き出しが、「2004年(平成16年)の国会は、『年金国会』と呼ばれた」となっています。以下、30頁ほど年金問題についての叙述が続き、その後に出てくるのが介護問題です。「少子国家の未来」においては、年金と介護が重要だと言いたかったのでしょうか。
このように、本書の構成と内容は、極めて独特です。それは、安倍さんの「考えていた」こと、「抱いて」きた「感情」、「政治家としてどう行動すべきなのか」という問いへの回答が独特であるということを物語っています。このように偏った関心と知識しか持っていないのが、安倍さんという人なのです。そのことを、本書は誰にでも分かるように明らかにしてしまいました。こんな本を出して、恥ずかしくないのでしょうか。これが総理候補としての「マニフェスト」だとしたら、哀しくなるほどに貧弱だと言わなければなりません。
以上は、『美しい国へ』を読んだ総括的な感想です。個別の問題についても、引き続き取り上げることにします。
安保改定と歴史認識の問題
引き続き、安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)についての感想を書かせていただきます。総括的な感想は、すでに昨日書きましたので、個別の問題についてのコメントということになります。
まず初めは、日米安全保障条約の改定問題です。よく知られているように、安倍さんは、安保条約を改定した岸元首相のお孫さんです。岸元首相は、戦前回帰的な強権的手法によって歴史的な安保反対運動を引き起こした“功労者”ですが、その孫であるだけに、安倍さんとしてもこの問題については無関心ではなかったようです。第1章「わたしの原点」の第3項目「うさんくさい気がした『安保反対』の理由」で、次のように書いています。
このとき、社会党、共産党の野党、そして多くのマスコミは、日米安保条約の破棄を主張していた。「日米安保の延長は自衛隊の海外派兵を可能にする。すでに日本はアメリカのベトナム侵略の前線基地になっており、日本帝国主義はアメリカと結託して、ふたたびアジア侵略をはじめようとしている」というわけだ。進歩的文化人と呼ばれる学者や評論家の多くも、同じような理由で反対していた。
安倍さんは、このような主張が的はずれだったとはっきりと言っていませんが、「うさんくさい気がした」とは書いています。しかし、イラクへの自衛隊派遣、在日米軍の再編と日米安保のグローバル化などが着々と進行している今日、このような文章を目にすると感慨深いものがあります。ここで主張されているとおりになっているのですから……。ベトナム戦争は「トンキン湾事件」という偽りの理由から始まった侵略戦争であり、安保条約によって日本はその「前線基地」となりました。同じように偽りの理由によって始められたイラクへの侵略戦争に、自衛隊は占領軍の一員として「海外派兵」されたではありませんか。先の訪米によって、小泉首相とブッシュ米大統領によって発表された共同文書「新世紀の日米同盟」は、もはや「極東の範囲」を超えて地球的規模にまで「日米同盟」を拡大しています。小泉首相の靖国問題もあって、中国や韓国などの周辺諸国は「日本帝国主義はアメリカと結託して、ふたたびアジア侵略をはじめようとしている」のではないかとの懸念を強めています。
このような歴史的な経過を振り返ってみれば、「『安保反対』の理由」は「うさんくさい」どころか、誠に正しかったというべきでしょう。安倍さんの属する自民党は、安保改定後の40年以上の歴史を通じて、「日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉」だったことを実証したのではないでしょうか。安倍さんには、このような日米安保をめぐる歴史も「日米同盟」が変質しつつある現実も見えていません。「お祖父さんを弁護したい」という気持ちがあるだけです。「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ」という岸首相の言葉が出てくるすぐ後の項の見出しが「隷属的な条約を対等なものに変えた」となっています。「守ってもらう」ためのものがどうして「対等」なのか、ということにすら気がついていないようです。
次に問題となるのが、過去の歴史の見方と憲法改正の問題です。ここでは、安倍さんの特異な歴史認識の方法が示されています。それは「その時代に生きた国民の視点で、虚心に歴史を見つめ直してみる」ということです。「先の大戦」は、「軍部の独走」によるものであったにしても、「マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか」と問います。だから、軍部だけに責任があるのではなく、「マスコミを含め民意の多く」にも責任があったのだ、と安倍さんは書きません。「こうした国民の反応を、いかにも愚かだったと切って捨てていいものだろうか」「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」と書くのです。
こうして、歴史認識は相対化され、「独走」した軍部やそれを支持した「マスコミを含め民意の多く」の責任が曖昧にされていきます。「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」として、過去の歴史に対する善悪の判断停止を正当化するというのは、侵略戦争を弁護したり美化したりしようとする人々の常套手段です。確かに、歴史には単純ではない側面があります。しかし、だからといって善悪の判断を停止して良いというわけではありません。まして、安倍さんは学者ではなく政治家です。歴史観や歴史認識を曖昧なままにしておくことは許されないでしょう。
とりわけ、安倍さんにとって曖昧なのは、「先の大戦」についての認識です。「それはやむを得なかった」と考えているのでしょうか。それとも「悪かった」と考えているのでしょうか。このように問えば、きっとこう答えるにちがいありません。「歴史というのは、善悪で割り切れるような、そう単純なものではない」、と。しかし、これから日本のトップリーダーになろうという人が、それでは困ります。過去の過ちを過ちとして直視し、その原因を明らかにしたうえで、二度とそのような過ちを繰り返さないように努めることこそ、トップリーダーに求められる態度だからです。「歴史というのは、……そう単純なものではない」などと言って逃げてはなりません。
それなら何故、憲法を変えようと言うのか
いやー、見事な啖呵です。さすがに、小泉首相の後継者と目されるだけのことはあります。これだけ、堂々と居直られると、反論しづらくなります。「さあ、どうだ」と胸を張っている姿が、目に浮かぶようです。
安倍晋三『美しい国へ』の68頁をご覧下さい。69頁にかけて、安倍さんは次のように書いています。
靖国参拝をとらえて「日本は軍国主義の道を歩んでいる」という人がいる。しかし戦後の日本の指導者たち、たとえば小泉首相が、近隣諸国を侵略するような指示をだしたことがあるだろうか。他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとうとしただろうか。核武装をしようとしているだろうか。人権を抑圧しただろうか。自由を制限しただろうか。民主主義を破壊しようとしただろうか。答えは、すべてノーだ。今の日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家であろう。
「靖国参拝をとらえて『日本は軍国主義の道を歩んでいる』という人がいる」というのは、問題の曲解です。確かに、一部にはそういう人もいるかもしれませんが、多くの人は過去の侵略戦争の正当化や美化につながるのではないかと懸念しているのです。「近隣諸国を侵略するような指示」は、「戦後の日本の指導者たち」だけでなく、「戦前の指導者たち」だって出していません。「邦人の保護」などの口実で、明確な意図と指示なしにずるずると侵略戦争を拡大していった戦前の歴史を、安倍さんはご存知ないようです。「軍国主義」は、過去の侵略戦争への反省を忘れたところから芽生えてきます。「靖国参拝」は、そのような可能性を高めるのでしょうか、低めるのでしょうか。
その次の文章を読んで、仰天した人は少なくなかったでしょう。私も驚いた一人です。だって、「他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとうとしただろうか。核武装をしようとしているだろうか」と、書いているんですから。北朝鮮のミサイル発射に刺激されて、「敵基地攻撃能力保有論」を唱えたのは、いったい誰だったでしょうか。安倍さん自身ではありませんか。それはすなわち、北朝鮮にある敵基地を攻撃するための武器を保有するべきだということになるでしょう。つまり、「他国を攻撃するための長距離ミサイルをもとう」ということではないのですか。
「核武装をしようとしているだろうか」と書くに至っては、開いた口がふさがりません。2002年5月13日、早稲田大学で行った講演をお忘れなのでしょうか。このとき、安倍さんは、1ミサイル燃料注入段階で攻撃しても専守防衛、2攻撃は兵士が行くと派兵になるが、ミサイルを撃ち込むのは問題ない。日本はそのためにICBMを持てるし、憲法上問題はない、3小型核兵器なら核保有はもちろん核使用も憲法上認められている。都市攻撃はダメだがミサイル基地の核兵器による先制攻撃は専守防衛だ、というものでした。明らかに「核による先制攻撃論」であり、「ICBMは攻撃兵器だから持てない」という政府見解にも反する発言です。核保有はもちろん核使用も憲法上認められていると発言しておきながら、「核武装をしようとしているだろうか」とは、誠に見事な居直りというほかありません。この発言については、『サンデー毎日』2002年6月2日号の「安倍官房副長官核使用合憲発言」という記事に詳しく出ています。
さらに続けて、「人権を抑圧しただろうか。自由を制限しただろうか。民主主義を破壊しようとしただろうか」と畳みかけています。安倍さんは、「答えは、すべてノーだ」と、書いていますが、「すべてイエスだ」と書くべきでしょう。安倍さんは、日の丸・君が代の強制と処分によって、「内心の自由」などの人権が抑圧されている現状を知らないのでしょうか。NHKの番組への政治介入によって放送の自由を犯したのは、安倍さん自身ではありませんか。ビラまきなどで簡単に逮捕されて有罪とされ、何もやっていなくても目配せだけで逮捕されるような「共謀罪」の新設は、「民主主義を破壊しようと」するものではありませんか。まさに、人権を抑圧し、自由を制限し、民主主義を破壊する政治が横行していると言わざるを得ません。
したがって、「今の日本は、どこからみても軍国主義とは無縁の民主国家であろう」などと、能天気なことは言えません。自衛隊の存在感が増し、「専守防衛」の国是は踏みにじられ、膨大な無駄でしかないMD(ミサイル防衛)構想が具体化され、在日米軍基地の再編によって日米軍事一体化と融合が図られようとしているのが現実です。このような動きは、「軍国主義とは無縁」だなどと言えるのでしょうか。軍国主義が一国の政治における軍事的価値の浸透と増大を意味するのであれば、今の日本はまさにそのような方向に向かっています。安倍さんも認めているように、「拉致事件をきっかけに、日本人が覚醒してしまい」(99頁)、ナショナリズムや軍国イデオロギーも、急速に高まっているではありませんか。これまでの戦後日本は、基本的には「民主国家」だったと私も思いますが、小泉さんや安倍さん自身の手によって、その基盤は、日々、掘り崩されてきています。
安倍さんは、冒頭に掲げた文章に続けて、次のように書いています。
日本の国は、戦後半世紀以上にわたって、自由と民主主義、そして基本的人権を守り、国際平和に貢献してきた。当たり前のようだが、世界は、日本人のそうした行動をしっかりみているのである。日本人自身が作り上げたこの国のかたちに、わたしたちは堂々と胸を張るべきであろう。わたしたちは、こういう国のあり方を、今後もけっして変えるつもりはないのだから。
「わたしたちは、こういう国のあり方を、今後もけっして変えるつもりはない」という言明は重要であり、そのこと自体は歓迎したいと思います。次の首相と目されている方が、戦後日本のあり方を肯定し、それを「今後もけっして変えるつもりはない」というのですから……。それならば、このように問わなければなりません。「この国のかたち」や「こういう国のあり方」を生みだした根本には何があったのですか、と。それは、日本国憲法の賜物ではなかったのですか、と……。それなのに、何故、この憲法を変えなければならないのでしょうか。憲法を変えることによって、「この国のかたち」や「こういう国のあり方」が大きく変容してしまう危険性はないのでしょうか、と……。
「政策提言のための本」に「再チャレンジ」してみたら?
全国行脚を始めたのだそうです。次期総理の座ををほぼ手中にした安倍官房長官のことです。
安倍さんは、岩手県を皮切りに、自民党総裁戦に向けた全国遊説をスタートさせました。今日も、「再チャレンジ支援推進議員連盟」によって地方議員と交流する「東京タウンミーティング」が開かれ、安倍さんも出席しています。できるだけ注目されず、盛り上がらないままに総裁選が終わることを願っている私としては、勝敗が決まっている「できレース」に一喜一憂することはないだろうと思います。しかし、それでも次の日本のトップリーダーを選ぶ選挙です。政策を明らかにし、政権構想が理解されるようにするべきでしょう。その意味では、政策を訴える全国行脚の開始は、悪いことではありません。
この遊説で、安倍さんは自ら提唱する「再チャレンジ(挑戦)」支援政策をアピールする「再チャレンジふれあいトーク」をスタートさせると言います。はて、「再チャレンジ」? そう言えば、『美しい国へ』(文春文庫)のなかでも、何か書いてあったなー、と思って本を開きました。でも、なかなか出てきません。やっと見つけたのは、本文の最後から2頁目の「再チャレンジの可能な社会へ」というところです。
驚きましたね、これは。いくら「政策提言のための本ではない」といっても、これはあまりにもひどい。総裁戦に向けた全国遊説でアピールしようという「再チャレンジ」支援政策が、総裁選目当てに書かれた本の一番最後に出てくるなんて……。しかも、「『再チャレンジ可能な社会』には、人生の各段階で多様な選択肢が用意されていなければならない。再チャレンジを可能にする柔軟で多様な社会の仕組みを構築する必要がある」と書かれているだけで、そのためにどうするのか、が全く触れられていません。
それも当然でしょう。何しろ、このテーマが登場するのは、この本の一番最後の部分なのですから……。これからの安倍政治の柱になる政策であるなら、どうして「再チャレンジ可能な社会」という章を立てなかったのでしょうか。何故、この問題から書き始めなかったのでしょうか。どうして、第7章「教育の再生」の最後に、ちょこっと触れるような低い位置づけにしたのでしょうか。せっかくの目玉政策なのに……。
私は最初に、「こんな本を出して恥ずかしくないのか」と書きましたが、この「恥ずかしい」点の一つがここにあります。中心となる政策を真正面から訴えることができず、その具体的な中身も詳しく書くことができないということが、この本によってはっきりしてしまっているからです。恐らく誰かに、「安倍さん、総裁戦に向けて本でも出したらどうですか」と、誘われたのでしょう。それで気楽に引き受けて書き飛ばしたために、このような本ができあがってしまったにちがいありません。日ごろ考えていることを「正直につづった」ものだから、日ごろ余り考えていないことは書けなかったということではないでしょうか。この本を読めば、安倍さんの頭の中は拉致問題やナショナリズムの問題で一杯になっていて、経済政策や「再チャレンジ政策」などは入り込む余地がないということがよく分かります。
安倍さんにおける「再チャレンジ政策」の位置は、全部で228頁もある『美しい国へ』という本の最後の2頁弱を占める程度のものにすぎません。何のために、このような本を出したのか、どうしても不思議になります。自民党総裁戦に向けてアピールするというのなら、きちんとした「政策提言」の書を出すべきではないでしょうか。安倍さんには、このような著書の執筆に、是非、「再チャレンジ」していただきたいものです。 

『美しい国へ』 統一教会本とソックリ大騒動 2006/9 

 

”マンネリ”との指摘もある中、漫然と進行する自民党総裁選。9月4日には安倍晋三の総合選挙対策本部が発足したが、選挙前から安倍氏圧勝は揺るがぬ情勢で、どうにも盛り上がらない。ところが、そんな倦怠ムードの中、ネット上で思わぬ騒動が持ち上がった。”震源地”になったのは、いまや一般の人々のみならず、マスコミ関係者までが毎日チェックしている人気ブログ『きっこのブログ』。昨年来、耐震偽装問題やホリエモン騒動でプロの記者顔負けのディープ情報をアップし続け、「正体は誰だ?」と話題になったのは記憶に新しい。この『きっこのブログ』が、9月3日付でとんでもない話題を提供した。
なんと、「安倍氏が7月に出版した著書『美しい国へ』(文芸春秋)は統一教会日本教会の元会長・久保木修己(98年死去)の著書の”丸写し”ではないか」というのだ。統一教会は韓国を発祥とするキリスト教会系新興宗教で、最高指導者は文鮮明氏。日本でも「合同結婚式」や「霊感商法」にまつわる数々のトラブルがあり、90年代にはタレントの桜田淳子や山崎浩子が合同結婚式に参加、その後に山崎が「私はマインドコントロールを受けた」などと発言して大騒ぎになった。仮に、安倍氏が満を持して出版した著書が「統一教会本」の丸写しだとしたら大変なスキャンダルだ。ネットで流布されたこの情報を巡り、首相官邸サイドや、その傘下の情報機関・内閣情報調査室がかなり動揺したという。「内閣の担当者が、官邸版や政治部の記者たちに『誰がネタ元なのか。報じるメディアはあるのか』などと聞きまくっていました。相当にナーバスになっていましたよ」(ある政治部記者)。この騒動の真偽は・・・?
本誌は問題の統一教会元会長・久保木氏の著書を入手した。そのタイトルは『美しい国 日本の使命』(世界日報社)。確かに、これだけ見ると”類似本”と思ってしまう。では、問題の内容はどうか。実際に2冊の本を読んでみると、その目的とするところが異なっている。安倍氏の本は、「政策本ではないと言いつつ、そこに綴られているのは安倍氏の政治姿勢の基本とも言うべきものだ。拉致問題やアジア外交に対する考え、靖国問題や天皇制に対する見解。憲法改正論議へのスタンスや家族観や教育問題などだ。これに対し、久保木氏の著書は、60年代〜70年代に彼が講演などで語った内容をまとめたもの。統一教会の教義に根ざした”人生訓”や社会体制に対する”主張”がほぼすべてである。
つまり、結論を言ってしまうと、安倍氏の著書は、久保木氏の著書の”丸写し”ではない。「きっこのブログ」の著者氏は、他のブログを”ネタ元”に安倍批判をしているようだが、そのネタ元は、安倍・久保木両氏の著書の「各章タイトルを合体させても意味が通る」と主張し、「安倍氏は久保木氏の本を意識して書いたのでは?」と推測しているだけだ(第1章 安倍「私の原点」 久保木『日本と言う美しい国の使命』−など)。どうやら、今回ばかりは「きっこ」氏の”勇み足”だったというべきか。
ただし、両者の著書には、その根底を流れる「思想」「価値観」という部分で似通ったところがあるのも確かである。たとえば、天皇制に対する姿勢だ。久保木氏は「日本の万世一系の天皇、国を愛し天皇を愛する、そのような国体と精神が貫かれてきたのが日本」と天皇を敬愛することが日本人の基本精神で「あるべき姿」だと述べる。一方で安倍氏の方も「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られてきた長大なタペストリー」「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である」という。ほぼ同じと言っていい。また、「教育を再生するためには基本は家族・家庭」という観点も同じだ。「教育は学校だけで行なわれるものであると錯覚している人が多くいますが、本来の教育とは親が子に対して行なうべきもの」(久保木氏)「教育は学校だけで全うできるものではない。何よりも大切なのは、家庭である」(安倍氏)
ちなみに、久保木氏の著書の巻末には経歴紹介の中に「岸伸介元総理をはじめ、各界の有識者から高い評価を得た」というくだりもあった。岸氏は言わずと知れた安倍氏の祖父。さらに、父の晋太郎元外相や小泉首相の”師匠筋”にあたる福田赳夫元首相も統一教会のシンパであったと言われている。安倍氏自身、今年の5月の統一教会合同結婚式に官房長官名で「祝電」を打ったということで大いに物議を醸した。ネット上で安倍氏の著書の”由来”について騒動が起きたのも、そんな背景があったからなのだ。
最高権力の座を争う永田町の暗闘では、ちょっとした”キズ”が命取りになることはよくある。「ブレーン不足」などと取り沙汰されている安倍氏だが、不注意や不用意はいきなりつまずきのモトだ。  

美しい国、日本 / 不条理の喪失 2006/9 

 

「心情と正義のパラドックス」の中で、社会の法制度や規範の脆弱さが民意に跳ね返り、社会全体に広がったとき、社会のヒステリー症状が起き、民意の不安を解消するために心情を背景とした正義が台頭することの危険性についてお話しました。
前回、私が想像力の持つ重要性についてお話したのは、そうした危険性を回避するための力として、目の前に出現した不安要因となっているモラルハザードや旧来の価値観を揺るがす事件、事故に遭遇したとき、現象の向こうにある真実を感知するための感覚、リテラシーが重要だということを理解していただきたかったからです。
人間の想像力が生むリテラシーを獲得するのに、何よりも重要なのは、「教育」です。
では、いま教育に求められている重要な要素は何なのでしょう。
その一つが人間の持つ不条理性への理解だと私は考えています。そのために、ヨーロッパ精神の基本となっているものを例に考えてみましょう。
ヨーロッパの精神形成の核となっているものに、ギリシャ哲学、その思想の形象としてのギリシャ悲劇があります。みなさんもよくご存知の『オイディプス』や『アンティゴーネ』、『王女メディア』といったギリシャ悲劇が描くのは、運命に翻弄される人間の悲劇性です。
そこに描かれているのは、愛や慈善といった人間の善意が人間の力では処し切れない、見えない力、神の気まぐれとも言ってよい運命によって、それらがことごとく裏切れていく姿です。そして、かつて民衆や臣民に尊敬され、愛されていた人物がケガレや軽蔑の対象とされ、自分がこの世に生を受けたことの罪を贖うために、自らケガレや蔑視の対象として人々にその身を晒す、あるいは自決するというものです。
それは、言い換えれば、人間の存在はそれ自体が不条理な存在であり、人がその事実に目覚めたとき、初めて人間としていまここにあることの罪、真実に目覚めるものだという確信です。
たとえば、脳科学の世界で言われるように、脳の機能の基本にあるのは生命維持のための自己防御と自己保全です。人間の脳はそのために、常にエゴイステックにしか世界を感知しません。
脳が認識する世界は常に自分の都合のよいように整合性を計るよう修正や訂正が行われ、それができないものは無意識へと格納されたり、歪曲された記憶として沈殿されます。つまり、厳密に言えば、私たちが他者との関係を形成したり、世界を認識していると思っているものは常に個人的主観によるもので、そこに絶対的な普遍性はないのです。
私はそれを「孤独な脳の集合体としての地球」と呼んでいます。では、孤独な脳の集合体である地球で、私たちがそれでも家族を形成し、地域や職場で人間関係をつむぎ、かつ他の国々や他の民族の人々と生活を共にできるのはなぜでしょう。
それは、ディスコミュニケーションの中でも生きられるための社会システムを築いたり、共同幻想を持つための仕組み、宗教を作り上げてきたからです。
人間の存在は常に主観的でエゴイステックなものであり、愛や善意すらもそこから発しているものである以上、それが他者を傷つけたり、自分をも傷つけるもの足りうる。我々人間は世界を主観的にしか認識していないがゆえに、そうした不条理しか生きられない存在だとすれば、ディスコミュニケーションが決定づれらた世界でどう生きるかを考えよう。
そこに、古代ギリシャに見られるような都市国家や宗教的理念が形成されたのです。簡単に言えば、人間というものへの徹底した不信、絶対的な存在から見たときの人間の脆弱さへの理解がヨーロッパ精神を形成していると言えるのです。
人は人を傷つける存在であり、よりよき縄張りを得るために人を殺し、競争し、格差や差別を生み出し、生き物の命を奪い、それを食べる存在である。この不条理性とどう向き合うかという中で、宗教を基軸とした社会、世界の構築を必要とし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典宗教に見られるような「契約」の概念を誕生させてきたのです。
しかし、国民全体が共有できる宗教的理念を持たず、市民社会の形成を市民の手によって勝ち取って来なかった日本では、近代以降もこの手続きが省略され、心情を背景とした正義が民意を支配し続けてきました。
そのため、第二次世界大戦後も戦争責任を明確にできず、自国の歴史の検証を曖昧にしてしまった結果、靖国問題でも解決の糸口さえ見つけ出せず、心情による正義がどれほど不確かなもので、危険に満ちたものであるかを正しく学習できないでいます。
心情を背景とした正義がどれほど感情に満ち、感情的なものであるがゆえに、人間の不条理を孕み、かつ市民社会の基本である契約の理念を反故にしてしまうものであるかに気づけないでいるのです。
これは、戦後、アメリカの合理主義を背景として、機能性や利便性への追及を豊かさの証明とする道を鵜呑みにして経済成長を推し進める上では有効でした。
不条理の理念を持たなかったゆえに、日本近代が見落としてきた空白、とりわけ、公民や人権といった、手間のかかる「臭い」もの、公民や人権を考える上で不可欠な人間の不条理性に蓋をして突き進むことができたのです。しかし、その結果、人々は物金を第1とする実利主義に疲弊し、先行きの不透明感が生まれるとその反動として、一層、耳ざわりのよい、心情的な言葉、それを背景とした正義を民意が求めてしまう社会を形づくってしまいました。
「美しい国、日本」というフレーズは年配の方なら誰でも気づく、戦前の尋常小学校で習字の見本として綴られ、国語の読み書きの授業にも登場した言葉です。愛国心教育の基本となった言葉です。
人間が本来性として持つ矛盾、生きてあることの不条理性へ目を向けず、日本近代がこの不条理性と向き合うことをせず、心情を背景とした正義によって国家を形成し、宗教的理念の欠如を天皇制によって代替してきたという世界に例のない国が日本です。
そのために、いま市民革命や宗教的理念によって人間の不条理性と向き合ってきた国際社会の中で、日本国としての指針を打ち出すことができず、アメリカ主義といっていい、外交しかできないのです。
これは民意にストレスを生んでいます。経済格差が進むなかで生まれる不満と国際社会で重視されていない自国の立場に苛立ちを生んでいます。
しかし、そのストレスや苛立ちは国政や現政権への不満へ向かわず、国際問題においては対立する他国、国内問題においては、問題を起した団体や人物、事件・事故・犯罪においては犯罪者や事件を起こした側を徹底的に叩くことへと向かっています。こうした問題の根源をみつめることを放棄しているのです。
一見不可思議と思えるこうした現象が生まれるのはマスコミ自らが行う情報操作によるものです。疲れた脳に甘味を与える上でもっとも簡単な方法は、社会問題や社会の真相を抉るような報道やドラマではなく、社会の現実や面倒臭いことを忘れさせてくる娯楽と消費です。
また、政治においては、民意に広がる不安を利用し、かつ、理念なき民意を操作するために、心情を背景としたメッセージが登場します。
「美しい国、日本」。一見誰も批判できない、心情に満ちた善意の言葉、簡潔で耳ざわりのいい言葉は、高度な情報・管理社会で疲弊した脳にとって、実にうれしい甘味料です。
こうして心情を背景とした心地のよい正義の言葉は社会を席巻し、世の中の矛盾や暗部を隠蔽して行きます。
「美しい国、日本」であるためには、これまで日本近代が空白にしている問題を検証し直し、心情を背景とした正義がいかにいかがわしく、それが民意を操作する道具として利用され、多くの社会問題、国際問題の真実を見えなくしているかを広く議論することからしか生まれません。
美しい国とは、人間や社会が不条理に満ちたものと知り、不透明なディスコミュニケーションの社会とどのように向き合うかを含んだ、厳しい理念に満ちたものでなくては存在しない、幻想に過ぎないのです。 

<美しい国>日本 

 

安倍晋三首相と自民党による「日本の大日本帝国化策動」は安倍氏の第一次政権のときから執拗・強引に進められています。今回は、10年前の苦言熟考から再掲載します。
首相の面の皮の厚さは?
安倍首相が<美しい国>作り政策を、国民の大半が望む優先順位をまるで無視して、強引に売り込もうとしているのを見て、長年使ったことがなかった日本語の言い回しを思い出しました。「しゃあしゃあとして」です。  <現代国語例解辞典>(小学館)によると「あつかましくて、恥を恥とも思わないさま」という意味で使われます。
<美しい国><美しい日本>を作っていきたい、作らなければならないと安倍首相が言い始めたとき、当然、首相の頭の中にある今の日本は<美しくない国>であったはずです。だからこそ、<美しい日本>を作らなければならないという思いつきが浮かんだのでしょう。
首相のその認識は、遠からず、適正なものであったと思います。
公共事業で談合を繰り返し、国民が納めた税金を食い物にする企業が国の産業の基幹となっている<美しい国>日本?その談合を主導し、賄賂を受け取る県知事が続出する<美しい国>日本?政治資金規正法の裏をかいて私財を蓄えようとする政治家が後を絶たない<美しい国>日本?その掛け声の大きさとは裏腹に、事実上、いつまでたっても高級官僚の“天下り”の弊害撲滅ができない<美しい国>日本?歴史と伝統を誇っていた食品メイカーが法律・規則を無視しつづけて国民の保健衛生を脅かす<美しい国>日本?一般人はもとより、学校教師から著名大学教授までが未成年女子を相手に“みだらな行為”を繰り返す<美しい国>日本?親が子を虐待し、殺しまでする<美しい国>日本?いじめの横行に学校も教育委員会も、文部科学省も適正に対応できず、子供たちの不幸な死が防げない<美しい国>日本?
なるほど、日本の現状は<美しい国>からはかけ離れていますね。安倍首相の現実認識はかなり正しいと言えないこともないようです。
ですが…。待ってください。 こんな日本にしてきたのは、いったいだれなのでしょう?戦後60年余、短期間の例外を除けば、日本の政治をほぼ常に牛耳ってきたのは自民党(とそれにつながる政党)でしょう?政策決定の主導権を持ちつづけ、現実に政策のほとんどを決定し、実行してきたのもそうでしょう?
安倍首相が「こんな日本にだれがした?」と一言も発しないのは当たり前です。いま自分が率いる(ことになっている)自民党がそうしてきたのですから。
野党の反対・抵抗?ばかを言ってはいけません。それはそれで実に不幸なことですが、戦後政治のどの時期に野党がまともな政策反対者であったことがありますか?どの時期に野党がそれだけの力を持っていましたか?
<美しくない日本>になってしまったことの責任を自民党がほかに転嫁するのを許してはなりません。
自民党の責任に一切触れずに安倍首相が「しゃあしゃあとして」<美しい国>作りを提唱するのをただ聞いていてはいけません。いまの日本がなぜ<美しくない>国になったのかをちゃんと説明することができない安倍首相は、では、どんな日本が<美しい>のかについては、具体的には、ほとんど言及していません。できないのです。抽象的な言葉を情緒的に並べて、国民をやんわりと脅すことしかできないのです。
「さざれいしの いわおとなりて」
明治から昭和にかけて、この歌を誇らしげに歌いながら日本が近隣諸国に対して何をしてきたかとは、ここでは問わないことにしますが、こんな理不尽な歌を“戦後”も長年、強制的に国民に歌わせようとしてきた政党の党首が、ほとんど藪から棒に<美しい日本>などと言い出したとき、胸の奥で何を考えているかを読むのはそれほど難しいことではありません。
気をつけましょう。ぼんやりしているとますます<おかしな国>日本になってしまいますよ。 

「美しい国」とは? 「普通の国」とは 2014/1

 

昨年末の安倍首相の突然の靖国神社参拝に関連して、「彼の本性が表に出ただけの事で、今更『驚いた』とか『失望した』とか言うのはおかしいではないか」と言う人がいる。その通りかもしれない。小泉首相の後を継ぐ形で首相になった時、彼は真っ先に日本を「美しい国」にすると言った。
彼の言う「美しい国」とは、「昔のような」とは言わないまでも、若干は昔の雰囲気を感じさせる「強く誇り高い国」だったと思われる。厳かな靖国神社の玉砂利を踏み、「国の為に戦って死んだ将兵たちの霊」に深く頭を垂れて哀悼の意を表する事が、彼の言う「美しさ」の象徴の一つである事は疑いの余地もない。
しかし、一国の首相が「美しい国」という表現を使う事は、かなり危険な事でもある。「美しい」という言葉が意味するものは、個々の人の主観そのものであって、全国民が「美しさ」について唯一の価値観を共有する事などはあり得ないからだ。かつてヒットラーがやった事は、著しく人道と公正に反した残虐な行為だったが、彼自身と彼の信奉者にとっては、アーリア民族の血の純潔を守る「美しい行為」だったに違いない。誰かにとっての「美しい事」が、多くの人たちにとって「善い事」であるとは限らない。
一国の首相が哲学思想を持つのは当然であり、「自分の哲学思想がなければ首相になって貰っては困る」とまで言ってしまってもよいと思うが、美意識は哲学思想の範疇には入らず、場合によれば「理性」と反対の極にあるものかもしれない。「真・善・美」という言葉があるが、政治家が「真」や「善」を語っても違和感がないのに対し、「美」を語るのには違和感がある。独自の高い美意識を持つ人にとっては、一介の政治家如きにそれを語られる事は、むしろ侮辱かもしれない。
安倍さんが、小泉さん引退後の総裁戦で圧倒的に勝利したのは、小泉路線を引き継ぐ若手のリーダーと目されたからであって、安倍さんの持つ「美意識」故ではない。今回安倍サンの率いる自民党が衆院選で圧勝したのは、恐らくは、
1) 民主党に対する失望感がピークになっていた事
2) 異次元緩和で経済の流れが変わりそうだという期待
3) 外国に侮られない毅然たる態度を取ってくれそうだという期待
の三点が主要因だと思われ、どれか一点だけで勝てた訳ではない(それ以前に、「圧勝」の最大の理由は実は小選挙区制にある。比例区での得票数だけを見るなら、自民党のシェアは27.62%に過ぎず、「大敗」した前回の26.73%と殆ど変わらない)。
何はともあれ、アベノミクスと呼ばれる大胆な経済政策は、現時点では「大成功」と思われているので、安倍内閣に対する支持率は極めて高い。アベノミクスによって「財政破綻」という悪夢のシナリオの可能性が高まった事は否めないが、この事を心配するのは経済の事をよく知っている人たちに限られ、当面は各企業の業績が上がり、従って税収も増え、株価が大幅に上がった為に「少し金持になった」と感じている人も増えているのだから、多くの人たちがこの政策を支持しているのも当然かもしれない。
こういう状況だから、外交については当初は安全運転に徹していた安倍首相も、若干自信を強め、その分だけ若干不用心になったのも否めないだろう。先週の記事でも書いたように、この時点でわざわざ靖国参拝と言うカードを切った事は、中・韓のみならず米国にも冷や水を浴びせた事になるから、安全保障面でも経済面でも何等得るものはなく、やはり「当面の人気に対する過信が招いた気の緩み」と考えるしかない。
(因に、安倍首相は、「中・韓であれ、米国であれ、説明すれば分かってくれる」と言っているが、まさか本気ではないだろう。説明するだけで理解が得られるのなら、これまでに何故やらなかったのか、全く説明がつかない。)
権力を得た人が次第に自分の力を過信するようになるのは、古今東西を問わず当然の事だ。周囲の人たちがお追従を言うのが普通になり、耳に痛い事は言わなくなるからだ。それに加えるに、現在の日本では、ジャーナリズムでは、一時期大きな影響力を持っていた「進歩的文化人」の言論を支えてきた「朝日」に以前から対抗意識を燃やしていた「産経」が、「新しいマーケティング戦略発動の時機到来」とばかりに、このところ「国家主義的な論調」を意識的に看板にしだした。
これに加えるに、「単純で断定的な議論」を好むネットの世界でも、「過去を懐かしむ高齢者」と「民族差別が大好きな若いネトウヨ」が連合軍を組んで、国粋的な議論を盛り上げている。「一般庶民の声なき声を反映する新しいメディア」というネットの側面を無邪気に信じている政治家にとっては、これには大きく勇気づけられている事だろう。「何事にも是々非々の良識派」は、ネット社会ではあまり目立った存在になり得ない。
しかし、ここで深刻な懸念を持たざるを得ないのは、「美しさ」を強調する安倍首相の価値観から言えば、「美しさが感じられる靖国参拝」の方が、プロの政治家にとっては致命的な「外交上の戦術的失点」等よりずっと重要なのだろうという事だ。いや、それどころか、実は靖国参拝などは氷山の一角に過ぎず、安倍首相の「復古主義」は本物で、経済政策に至るまで、祖父の岸信介元首相の若き日からの信念であった「国家社会主義」に近い方向に傾くのではないかという懸念すらある。
「美しい国」の対極にある概念は何かと言えば、もしかしたら「経済至上主義」かもしれない。特に「市場原理主義」等と言えば、数学的な整合性を好む人たちにとっては「美しい」ものであっても、異なった価値観を持つ人たちの目から見ると、個人の欲望を野放しにする「醜いもの」に見えるかもしれない。こういう人たちにとっては、「統制経済」こそが美しく見えるだろう。
本当の恐怖は、国債金利が遂に急速な上昇を始め、「経済破綻」の兆候が見られ始めた時の政府と日銀の対応だ。先の事を心配してみてもどうにもならないが、安倍首相の性格と信条を慮ると、「転ばぬさきの杖」を今から考えておいた方がよいような気がしてならない。世界の経済専門家がその帰趨を興味津々で見守る中で、これだけの大胆な緩和策を取りながら、「出口戦略」については未だ何の言及もないのは少なからず異常だ。 
しかし、そこまで考えるのは考え過ぎで、「美しい国」の対極にあるのは、やはり「自虐史観で汚された国」と考えるのが一般的かもしれない。短絡的にものを見る人たちは、これを「いつも外国の顔色を伺い、おどおどしている国」とも翻訳するだろうから、もし本当にそうなら、そんな国は明らかにあまり「美しい」とは言いえない。
サンフランシスコ平和条約締結後、鳩山一郎、岸信介、緒方竹虎等の戦前からの大物政治家が次々に政界に復帰すると、「間違っても昔には戻りたくない」という強い思いを抱いていた人たちは、当時相当の勢力を誇っていた親中ソ路線の社会党と共同歩調を取るしかなかった。これが、後に「自虐史観」と呼ばれるようになった歴史観や、時に「空想的平和主義」と揶揄される「護憲論」を生んだのだと思う。
しかし、「逆は真ならず」で、それでは「自虐史観」や「護憲論」の対極にある言葉は、安倍流の「美しい国」かと言えば、必ずしもそうではなく、以前に誰かが言い出した「普通の国」がそれに当たると私は思う。「普通の国」とは、「もはや第二次世界大戦の帰趨を意識する事もなく、他国に対し優越感も劣等感も持たず、普通の独立国が普通にやる事をやる国」という意味だ。自衛の為に必要不可欠の軍備を持つ事も、当然この中に入る。私自身も「普通の国」論者だし、日本が「普通の国」になろうとするのを非難する国はあり得ないと思っている。
こう言うと、「そんな事はない。現実に韓国や中国は日本の憲法改正論議を非難し、日本だけは何時までも丸腰でいろと言っているではないか」と反論する人たちが必ずいると思うが、それは「過去の侵略行為をなお正当化しようとしている政治家が権力を握っている状態で、日本が戦力を拡大する事には懸念を持たざるを得ない」という意味であると解釈すべきである。
私自身は「中国の善意を無条件に信じよ」と言われても到底合意するわけにはいかず、従って「海軍力の増強」や「集団自衛権の確立」を強く支持しているが、だからこそ、「何時迄もぐずぐずと過去の侵略行為の正当化の為の屁理屈を並べたり、明らかに『普通の国』ではなかった『軍国主義時代の日本』の精神的支柱であった靖国神社に、これ見よがしに公的に参拝したりして、日本に対する近隣諸国の不要な警戒心を増幅させている人たち」には我慢がならないのだ。
ついでに言うなら、過去に犯した自国の誤りを認め、損害を受けた相手国に謝罪する事が、どうして「自虐的」なのかが、私には全く分からない。それは「普通の国」が普通にするべき、フェアで潔い行為であり、いささかも恥じるべき事ではない。
また、事ある毎に「日本は既に何度も謝罪しているのに、中・韓は何時までも謝罪を要求し続ける。一体何時まで同じ事を繰り返せばよいのか」という人たちも多いが、この人たちには、「何時までも、モグラ叩きのモグラよろしく、機会あるごとに『東京裁判無効論』や『大東亜戦争肯定論』を持ち出し、『靖国参拝』という政治的なデモンストレーションを繰り返しているのは、一体どこの誰なのか」と逆に問いたい。
最後に、安倍首相に提案したい。下記を真剣に検討して欲しい。それが多くの国民が願う「長期安定政権」を維持する為の最良の方策だと思うからだ。
1)「美しい国」等という誤解を受けやすいキャッチフレーズには回帰する事なく、「普通の国」を標榜する事で、より幅広い国民の支持を取り付けて欲しい。
2)移ろいやすい「大衆の人気」を追い続けるのは程々にして、プロの政治家として、今こそ長期的な国益の追求を優先させて欲しい。
3)アベノミクスについては、現状に酔う事なく、手遅れになるのを恐れる人たちを安心させる為に、そろそろ「出口戦略」についてコメントして欲しい。
4)外交については、現状はうまく行っていないと認識し、戦略・戦術の原点に戻り、相手の立場をよく分析し、常に現実的な落としどころを考え、米国と緊密に協議しながら行動して欲しい。その為にも、「歴史認識」については、先ずは米国政府の認識と完全に合致させておいて欲しい。