「歴史」 に謝罪はありません

理由・原因あっての  「歴史」

「歴史」の断片 ひとつとりあげて
謝罪は意味がありません

良くも悪くも 因果応報が 「歴史」です


太平洋戦争真珠湾攻撃第二次世界大戦にいたるまでの経緯
太平洋戦争の原因1原因2原因3原因4原因5 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本は報いに耐えて70年 
懺悔の心は同じ
寛容と和解 くらいで手をとりあいましょう
 
 
 
安倍首相 所感 12/28

 

オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席の皆さま、そして、すべての、アメリカ国民の皆さま。パールハーバー、真珠湾に、いま私は、日本国総理大臣として立っています。耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江。私のうしろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。あの、慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。そこは、私に、沈黙をうながす場所でした。亡くなった、軍人たちの名が、しるされています。祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった。75年が経ったいまも、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。あの日、日曜の朝の、明るく寛いだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の、幸せを祈る声。一人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や、恋人がいた。成長を楽しみにしている、子どもたちがいたでしょう。それら、すべての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実を思うとき、私は、言葉を失います。その御霊よ、安らかなれー。思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。
オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
昨日、私は、カネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。死者の、勇気を称え、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉」と、当時の階級を刻んであります。
The brave respect the brave.
「勇者は、勇者を敬う」
アンブローズ・ビアスの、詩(うた)は言います。戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の、寛容の心です。戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は、未来へと、命をつなぐことができました。そして米国は、日本が、戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは、平和と繁栄を享受することができました。敵として熾烈に戦った、私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも、覚えています。子や、孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。
オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。
「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。
エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。
あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となりました。それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。明日を拓く、「希望の同盟」です。私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。私が、ここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この、和解の力です。戦争の惨禍は、いまだに世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ、必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と、信頼を育てた日米は、いま、いまこそ、寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく、任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ「希望の同盟」なのです。
私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。
ありがとうございました。 
 
 
 
オバマ大統領 所感 12/28

 

安倍総理、きょうの総理のご出席、そして心のこもった演説は、和解の力、そしてアメリカ国民と日本国民の同盟の強じんさを証明する歴史的なもので、アメリカ国民を代表して感謝申し上げます。
きょう、この日は、戦争による最も深い傷さえも、友情と平和の道につながるのだということを思い起こさせます。ご列席の皆様、米軍関係者、そして、何より、真珠湾攻撃の生存者の方々、及びその大切なみなさまへ。アロハ!
アメリカ国民、特にハワイを故郷とする人たちにとって、この真珠湾は神聖な場所です。未だ嘆き悲しむこの湾に献花するとき、私たちは、永遠の天国へと向かった2400人を超えるアメリカの愛国者たち、父や夫、妻や娘のことを思います。毎年12月7日になると、いつもより少しだけ姿勢を正すオアフの守護者たちに、私たちは敬礼をし、ここで75年前に示された勇姿に思いをはせるのです。
12月のその日、夜が明けると、楽園はこれまでにないほど魅力的でした。真珠湾の水は温かく、現実と思えないほど青く澄み切っていました。水兵たちは食堂で食事をしたり、教会に行く準備をしたり、こぎれいな白いズボンとTシャツで身支度をしたりしていました。
湾には、艦船が整然と停泊していました。カリフォルニア号、メリーランド号、オクラホマ号、テネシー号、ウエストバージニア号、ネバダ号。そして、アリゾナ号の甲板では、海軍の音楽隊が演奏の準備をしていました。
その朝、兵士たちは、肩に記された階級を超えて、それぞれの胸に宿る勇気を示しました。彼らはこの島のあらゆる場所で、訓練弾や古いライフル銃までをも使って、あらゆる手を尽くして防衛に当たりました。あるアフリカ系アメリカ人の食堂の給仕係は、ふだんであれば清掃の役割しか与えられていませんでした。しかし、この日、司令官を安全な場所に連れて行き、そして弾薬がなくなるまで対空砲を撃ち続けたのです。
私たちは、ウエストバージニア号の1級砲撃手であったジム・ダウニングのようなアメリカ人を誇りに思います。真珠湾に駆けつける前、彼の新妻は彼の手に聖書の言葉の一節を握らせました。「永遠なる神はなんじの拠り所、その永遠なる胸に抱かれて」というものです。
ジムは戦艦を守るために戦い、同時に、倒れた人たちの名前を記録しました。家族にその事実を伝えることができるようにするためです。彼は、「人がする当然のことだ」と言いました。
私たちはハリー・パンのようなアメリカ人を記憶しています。彼はホノルル出身の消防士で、荒れ狂う火を前に、最後まで献身的に、燃える戦闘機の消火に取り組みました。彼は戦傷したアメリカの軍人に授与される「パープルハート」勲章を、民間人の消防士として受賞しました。
私たちは、2時間以上にわたって、50口径のマシンガンを撃ち続け、20回以上も負傷し、最高位の軍人の勲章、名誉勲章を受章したジョン・フリン上等兵曹のようなアメリカ人に敬意を表します。
私たちは、戦争がいかに私たちの恒久的な価値観を試すのかということをじっくり考えなければなりません。日系アメリカ人でさえ、戦争中、自由を奪われたのかということを。アメリカ史上、最も勲章を受けた部隊は、日系アメリカ人2世による部隊、442連隊と第100歩兵大隊だったことを。
442連隊には、私の友人であり、ハワイ人としての誇りをもつ、ダニエル・イノウエさんがいました。私が生まれてからのほとんどの間、ハワイ選出の上院議員を務め、ともに上院議員を務めたことを誇らしく思います 。彼は、名誉勲章や一般市民としては最高位となる「自由勲章」の受章者というだけでなく、その時代の最もすぐれた政治家でもありました。
ここ真珠湾での、第2次世界大戦のアメリカの最初の戦いが、国民を目覚めさせました。ここで、多くの点で、アメリカは成熟しました。私の祖父母を含む多くの世代のアメリカ人は、戦争を求めませんでした。しかし、戦争に背を向けることをせず、それぞれの持ち場で役割を果たしました。
そして75年後、真珠湾攻撃の生存者は、時間の経過とともに少なくなっています。この場で私たちが思い出す勇者は、私たち国民の心に永遠に刻まれています。
真珠湾と第2次世界大戦の退役軍人のみなさん、可能な方は、立ち上がるか、手を上げてください。みなさんの功績に感謝しています。
国の本質は、戦争において試されますが、平時において定義されます。先の大戦は、数万ではなく、数千万の命が失われた人類史上、最も恐ろしい出来事の1つです。大平洋で展開された悲惨な戦闘が終わり、アメリカと日本は友情と平和を選びました。過去、数十年にわたり、私たちの同盟は、両国をより繁栄させました。
同盟は、国際秩序を構築し、それによって新たな世界大戦を防ぎ、多くの人々を極度の貧困から救うことができました。
今日、アメリカと日本の同盟は、共通の国益のみならず、共通の価値に基づいて結ばれ、アジア太平洋の平和と安定の礎となっており、世界が前進していく力となっています。
私たちの同盟は、いまだかつてないほど強固なものになりました。よい時も悪い時も、私たちはお互いを支え合ってきました。5年前を思い出してください。津波が日本を襲い、東京電力福島第一原子力発電所が「炉心溶融」、いわゆるメルトダウンとなったとき、アメリカ軍は、われわれの日本の友人を助けました。そして、アメリカと日本は、アジア太平洋地域と世界における安全保障を強化するために協力しています。海賊を後退させ、疾病と戦い、核兵器の拡散を遅らせ、戦争で荒廃した土地での平和を維持しています。
ことし、真珠湾の近くでは、世界最大の海上軍事演習が行われ、日本の自衛隊は世界の20余りの国とともに参加しました。この演習には、アメリカ海軍の軍人を父に、日本人を母に持つハリー・ハリス司令官が率いるアメリカ大平洋艦隊も参加しました。ハリー司令官は横須賀で生まれましたが、彼のテネシーなまりから、それはわからないでしょう。ハリー司令官、あなたの卓越したリーダーシップに感謝します。
そのような意味で、私たちがここにいるのは、それは政府と政府の関係からだけでなく、両国の国民による絆があるからです。安倍総理がここにいることは、国と国、そして人と人との間に何が可能であるかということを気づかせてくれます。戦争は終わらせることができます。最も激しく対立した敵どうしは、最も強い同盟関係を築くこともできます。平和という果実は、戦争による略奪をはるかに上回るものです。これが神聖な真珠湾のゆるぎない真実です。
憎しみの炎が最も強く燃えさかる時も、部族間の争いがあるときも、私たちは内向きになってはいけないということを、この場所は思い起こさせます。自分たちとは異なる人々を、悪者扱いする衝動に抗わなければならなりません。ここでの犠牲や戦争に対する怒りは、われわれの中にある、神聖な輝きを探すことを思い出させてくれます。
これは、日本の友人の言葉を借りれば「オタガイノタメニ」、つまり「相手とともにあって、相手のために尽くす」よう努力することを求めています。これは、ミズーリ号のウィリアム・キャラハン船長による教訓です。彼は、彼の船が攻撃を受けた後も、日本人パイロットの遺体を、アメリカ人の水兵が縫製した日本の国旗で覆い、軍葬儀の礼を行うよう指示しました。そして今度は、何年もあと、真珠湾を再訪した日本人パイロットによる教訓です。彼は、アメリカ海軍のラッパ手と友人となり、軍葬の際に流される曲を演奏してもらうように依頼し、毎月、記念館に、アメリカの犠牲者と日本の犠牲者にそれぞれ1本ずつのバラの花を飾ることになりました。
この教訓は、東京で勉強しているアメリカ人であろうと、全米で勉強している日本の若者であろうと、がんの解明に取り組んだり気候変動と闘ったり、星を探査したりしている日米の科学者であろうと、日々の生活の中で、最も平凡な方法で学ぶことができることを示しています。また、野球のイチロー選手のように、マイアミのスタジアムを明るくし、アメリカ人と日本人が共有する誇りによって元気づけられいます。アメリカ人と日本人は平和と友情で結ばれています。
国として、そして人として、われわれは、私たちが引き継ぐ歴史を選ぶことはできません。しかし、そこからどのような教訓を学び、どのように私たちの未来を描くかということは選ぶことができます。
安倍総理、私は友情の精神に基づき、日本人の人々がいつも私を歓迎してくれたのと同様に、あなたをここに歓迎します。私たちはともに、戦争よりも平和によって多くのことを勝ち得ることができ、報復よりも和解がより多くの報償をもたらすというメッセージを、世界に対して送ることができることを期待します。この静かな港で、私たちは亡くなられた方々に対して敬意を表し、日米両国が友人として勝ち得たすべてことに対して感謝します。
神が戦没者をとこしえの胸に抱え、退役軍人を見守り、皆が私たちのために番をしてくださいますように。私たちに神の御恵みを。ありがとうございます。 
 
首相真珠湾訪問 日米は「和解の力」を実践せよ

 

同盟の国際秩序貢献が問われる
戦後の日米外交の重要な到達点と言えよう。
安倍首相が米ハワイの真珠湾を訪れた。オバマ米大統領とともに、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者らを慰霊した。
今回の訪問は、昨年4月の首相の米議会演説、8月の戦後70年談話、そして今年5月のオバマ氏の広島訪問から連なる日米の戦後処理の歴史的な集大成である。
首相は演説で、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない」という「不戦の誓い」を今後も堅持する考えを改めて表明した。
「寛容の大切さ」訴える
首相が言及したように、日本の戦後70年余の平和国家としての歩みは世界に誇れるものだ。平和は何もしないことでは実現しない。自国の安全と地域の安定を確保する不断の努力を継続したい。
首相は、戦火を交えた日米両国が「深く強く結ばれた同盟国」になった「和解の力」が今、世界の課題解決に必要だと指摘した。日米は「寛容の大切さと和解の力を世界に訴え続けていく任務を帯びている」とも語った。
今回の演説では、米議会演説で触れた「痛切な反省」「深い悔悟」など歴史認識には一切言及しなかった。未来志向に徹したいという首相の意向は適切だ。
演説後、首相と抱き合った高齢の元米兵が「私自身が日米和解の体現者」と語ったように、謝罪のないことを問題視する米側の関係者はほとんどいない。
オバマ氏の広島訪問時の被爆者の反応と同様、70年余を経て成熟した日米関係を象徴している。
「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」は、奇襲攻撃を仕掛けた日本に対する米国の敵意を示す言葉だった。真珠湾が今後、日米の和解の象徴となるのであれば、喜ばしい。
首相は、様々な国際課題に取り組む日米の「希望の同盟」の重要性を強調した。オバマ氏も、「お互いのために」という日本語を引用し、両国の連帯を訴えた。
安保協力を拡大したい
日米同盟は、東西冷戦中は西側陣営の主要な柱として機能した。冷戦終結後も、多くの不安定要因を抱えるアジア太平洋地域の平和と繁栄を支える公共財として、関係国に高く評価されている。
首相の言う「希望の同盟」を実践するには、日米両国が政治、経済両面で、従来以上に緊密に戦略的な対話を重ねる必要がある。韓国、豪州、インドなど友好国とも重層的な協力関係を構築し、課題を処理することも大切だ。
戦没者の慰霊に先立ち、首相とオバマ氏は最後の首脳会談を行い、日米同盟を一層強化する方針を確認した。中国の空母が西太平洋に進出したことについて、「中長期的観点からも注視すべき動向だ」との認識でも一致した。
首相とオバマ氏の4年間の関係は当初、順調ではなく、首相の靖国神社参拝や日露外交を巡って、ぎくしゃくすることもあった。
首相が米軍普天間飛行場の辺野古移設や安全保障関連法の制定などで実績を上げ、両首脳の信頼関係は着実に高まった。
アジアを重視するオバマ政権のリバランス(再均衡)政策と、日本の国際的な役割を拡大する安倍政権の「積極的平和主義」の歯車がかみ合ったことも追い風となった。
アジアでは最近、多くの安全保障上の懸案が深刻化している。
中国は、急速に軍備を増強し、南シナ海の人工島の軍事拠点化など、力による独善的な現状変更を試みている。北朝鮮は、国際社会の制裁や警告を無視して、計5回もの核実験を強行し、多様な弾道ミサイルの発射を繰り返した。
昨年4月に改定した日米防衛協力の指針(ガイドライン)に基づき、自衛隊と米軍による共同の警戒監視活動や合同演習を重ねて、同盟の抑止力の実効性を向上させる努力が求められる。
トランプ氏と対話急げ
来月20日に就任するトランプ次期米大統領のアジア外交の行方が不透明なことも気がかりだ。
トランプ氏は再三、在日米軍経費の日本側負担の増額に言及した。環太平洋経済連携協定(TPP)の離脱表明は、アジアの自由貿易体制を揺るがしている。
安倍首相は、11月中旬の電撃的な非公式会談に続き、来月下旬に正式な会談を調整している。
日米両国には、政治家、官僚、制服組、経済人など各層に、長年かけて築き上げてきたパイプが存在する。これらを土台に、首脳同士が、同盟の意義と新たな方向性について率直に意見交換し、認識を共有することが急務である。 
 
靖国神社参拝

 

稲田防衛相が靖国神社参拝、就任後初「未来志向に立ち」
稲田朋美防衛相は29日午前、東京・九段北の靖国神社に参拝した。参拝後、記者団に対し、安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問に同行したことに触れ、「未来志向に立ってしっかり日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝をした」と述べた。稲田氏の参拝は、8月の防衛相就任後初めて。
稲田氏は「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝した」とし、「防衛大臣 稲田朋美」と記帳したと説明。玉串料を私費で納めたことも明らかにした。毎年の終戦記念日(8月15日)に靖国神社を参拝してきた稲田氏は今年、ソマリア沖で海賊対処にあたる自衛隊部隊の視察を理由に参拝を見送っていた。
8月の防衛相就任を受け、参拝を警戒してきた中国や韓国の反発について、稲田氏は「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵味方であろうとも、祖国のために命を捧げた方々に対して感謝と敬意と追悼の意を表するのは、どの国でも理解をして頂けるものだと考えている」と述べた。
安倍晋三首相は29日午前、神奈川県茅ケ崎市のゴルフ場で、記者団から稲田氏の靖国神社参拝について問われ、「ノーコメント」と答えた。 
稲田防衛相 靖国神社に就任後初の参拝 「どの国でも理解頂ける」 
稲田防衛大臣は29日午前、就任後初めて東京・九段の靖国神社に参拝し、「祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。
稲田防衛大臣は29日午前8時ごろ、東京・九段の靖国神社を訪れ、防衛大臣に就任してから初めて参拝しました。稲田大臣は靖国神社に参拝したあと、記者団に対し、私費で玉串料を納め、「防衛大臣・稲田朋美」と記帳したことを明らかにしたうえで、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と述べました。
そして、稲田大臣は「ことしは原爆を投下した国の大統領が広島を訪問し、きのうは安倍総理大臣が真珠湾に行って慰霊の言葉を述べた。最もしれつに戦った日本とアメリカが、今や最も強い同盟関係にあるなど、未来志向に立って、しっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と述べました。
一方、稲田大臣は、記者団が「中国や韓国の反発も予想されるが」と質問したのに対し、「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵、味方であろうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。
稲田大臣は例年、終戦の日の8月15日などに靖国神社に参拝していますが、ことしの終戦の日は、防衛大臣としての海外視察のため、参拝していませんでした。
首相「ノーコメント」
安倍総理大臣は、稲田防衛大臣が靖国神社に参拝したことについて、29日午前、神奈川県茅ヶ崎市で記者団に対し、「それについてはノーコメント」と述べました。
民進 野田幹事長「自身が内外に説明する責任」
民進党の野田幹事長は党本部で記者団に対し、「安倍総理大臣とオバマ大統領が真珠湾に行き、『不戦の誓い』で共同行動がとれたことは一定の評価をしているが、そこに同行していた方がその直後に参拝というのは、どういう意味なのか。諸外国へ与える影響も含めて、きちんと稲田防衛大臣自身が内外に説明する責任がある」と述べました。
中国外務省報道官「断固として反対」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、中国外務省の華春瑩報道官は29日の記者会見で、「中国は断固として反対する」と述べて非難しました。
そのうえで華報道官は、稲田大臣が安倍総理大臣とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設を訪れたことに触れ、「今回の参拝は、一部の日本人のかたくなで誤った歴史観を表しているだけではなく、真珠湾のいわゆる『和解の旅』をこれ以上ない皮肉なものにし、世の人々の日本の行動や意図に対する警戒を高めただけだ。日本の指導者が国内外の正義の声に耳を傾け、侵略の歴史を直視し、深く反省するよう求める」と述べました。
また、関係者によりますと、29日午後、中国外務省の肖千アジア局長が北京に駐在する日本の伊藤康一公使を呼んで抗議したということです。
韓国外務省報道官「嘆きを禁じえない」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は29日の記者会見で、「日本の責任ある政治家が過去の植民地支配と侵略戦争を美化し、戦争犯罪者を合祀する靖国神社に参拝したことに政府として嘆きを禁じえない」と述べ批判しました。そのうえで、「歴史を正しく直視し、謙虚で誠実な反省を実際の行動で示すことでのみ周辺国と国際社会の信頼をえることができる」と強調しました。
また、これに先立って韓国外務省のチョン・ビョンウォン(鄭炳元)北東アジア局長は、ソウルにある日本大使館の丸山浩平公使を呼び、「日韓関係を改善しようとする努力に逆行する行為で非常に不適切だ」と抗議しました。
一方で、韓国国防省も「韓国政府が未来志向の両国関係を作っていくべきだと強調してきたにもかかわらず、日本の防衛大臣が、靖国神社に参拝したことに深刻な憂慮と遺憾を表明する」との声明を発表しました。 
稲田氏が靖国参拝=防衛相初、対中韓で影響も
稲田朋美防衛相は29日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてで、担当閣僚としては02年8月15日の中谷元・防衛庁長官以来とみられる。中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響しそうだ。
参拝後、稲田氏は記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と説明した。「防衛大臣 稲田朋美」と記帳し、玉串料は私費で支払ったという。
稲田氏は安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問に同行し、28日に帰国したばかり。稲田氏はこのことに触れ、「最もし烈に戦った日本と米国が今や最も強い同盟関係にある。真珠湾訪問も報告してきた」と語った。
自衛隊の統率を含む防衛政策の担当閣僚が靖国神社を参拝したことで、安倍政権の右傾化を警戒する中韓両国を刺激したのは間違いない。特に、北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射など挑発行為を繰り返す中、急務となっている韓国との連携強化に支障を来す恐れもある。
これに関し、稲田氏は「いかなる歴史観に立とうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表するのはどの国でも理解していただけるものだ」と主張した。稲田氏の靖国参拝について、首相は神奈川県茅ケ崎市で「ノーコメントだ」と記者団に述べた。
弁護士出身の稲田氏は保守的な政治信条で知られ、例年8月15日の終戦記念日などに合わせて靖国神社を参拝してきた。就任直後の今年は、アフリカ北東部のジブチでの自衛隊部隊視察を理由に参拝を見送っていた。 
稲田防衛相が靖国神社参拝、真珠湾慰霊の翌日なぜ?
「歴史的」と評された安倍総理の真珠湾訪問の翌日、現地に同行していた稲田防衛大臣が靖国神社を参拝しました。稲田大臣は大臣就任後は靖国神社を参拝せず、慎重な発言を繰り返してきましたが、なぜこの時期に参拝したのでしょうか。
「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということです」(稲田朋美防衛相)
稲田氏は午前8時前に靖国神社を参拝しました。「防衛大臣 稲田朋美」と記帳し、神前に供える「玉串料」は私費で支払ったということです。
「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵、味方であろうとも、祖国のために命をささげた方々に対して感謝と敬意と追悼の意を表するのは、どの国でも理解をしていただけるものだと考えております」(稲田朋美防衛相)
稲田氏は日本時間の28日、安倍総理らとともにハワイのアリゾナ記念館を訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者に慰霊を行いました。
Q.参拝について総理と真珠湾で話した?
「しておりません」(稲田朋美防衛相)
一方、安倍総理は29日、ゴルフを楽しんでいました。稲田氏の靖国参拝については・・・
Q.総理、稲田大臣が靖国参拝しましたが?
「それについてはノーコメント」(安倍首相)
Q.ご報告は受けていますか?
「・・・・・・」
なぜ、このタイミングで稲田氏は参拝に踏み切ったのでしょうか?これまで稲田氏は終戦の日に靖国参拝することを恒例としてきました。しかし、防衛大臣就任直後の今年は、アフリカ・ジブチに派遣されている自衛隊の部隊視察の日程が直前に入り、参拝を見送っていました。
「私は、この靖国の問題というのは心の問題であって、私自身としては安倍内閣の一員として適切に判断していきたいと思っています」(稲田朋美防衛相 8月)
大臣就任後、慎重発言を繰り返してきた稲田氏。野党側からは、防衛大臣として中国や韓国への刺激を避ける必要から公務をあえて入れて参拝を避けたのではと追及されます。
「こうもおっしゃってますよ。いかなる歴史観に立とうとも、国のために命をささげた人々に感謝と敬意を表さなければならない」(民進党 辻元清美衆院議員)
「今までの私の発言、読み上げられたとおりです。その気持ちに今も変わりません」(稲田朋美防衛相)
靖国に関して沈黙を続けてきた稲田氏ですが、関係者によれば、今回の参拝は、ハワイ真珠湾の慰霊から帰国した28日夜から周囲と話し合って決めたということです。
稲田氏の参拝について、野党側は・・・
「きのう、日米のトップがまさに不戦の誓いをした直後の話なので、違ったメッセージとしてアメリカに届かないのか、そこは少し心配しています」(民進党 蓮舫代表)
稲田氏の今回の参拝が今後にどう影響を及ぼすのでしょうか?
「参拝に断固反対する。(参拝は)日本の一部の人間の間違った歴史観を示しただけでなく、“真珠湾の和解の旅”に対する強い皮肉となった」(中国外務省 華春瑩報道官)
中国外務省は真珠湾訪問直後の参拝を受け、日本大使館の公使を呼び出し、直接抗議しました。
また、韓国外務省も「戦争犯罪人を合祀した靖国神社の参拝に怒りと嘆かわしい思いを禁じ得ない」と批判しました。韓国政府は、日本と軍事情報を交換する協定を結んだばかりで、防衛大臣の靖国参拝は他の閣僚とは次元が違うという認識です。
一方、アメリカ国務省は、「歴史問題には癒やしと和解を促進するアプローチが重要だと強調し続ける」とコメントしています。 
真珠湾訪問直後のワケ…稲田防衛相靖国参拝 
稲田防衛相が29日、東京・九段の靖国神社を参拝した。国会記者会館から青山和弘記者が解説する。
Q:なぜこのタイミングで参拝に踏み切ったのか?
靖国神社への参拝に強いこだわりを持つ稲田防衛相だが、防衛相就任直後の今年の8月15日は安倍首相の意向もあって参拝を見送った。しかし稲田防衛相は、その後もどこかの機会で参拝したいと考えていて、官邸関係者は「このタイミングしかなかった」と話している。
真珠湾で犠牲となったアメリカ兵らの慰霊を行った直後で、日本兵の慰霊に靖国神社を訪れることに理解を得やすいとの思惑に加え、年末ということで年が明ければ気分を変えることができるという狙い。
稲田防衛相は事前に安倍首相にも参拝の意向を伝えた模様で、参拝後は周辺に「肩の荷が下りた」と話しているという。
Q:政界の反応はどうか?
官邸には「首相が参拝したわけではないし、靖国参拝はたいした問題にはならない」という見方もあるが、与党内から批判の声もあがっている。
ある防衛相経験者は、「真珠湾で和解を強調した次の日に参拝して日米両方の顔に泥を塗ることになった」と指摘しているほか、自民党幹部は「中国や韓国が言い訳する口実を与えた。防衛相在任中くらい我慢できないのか」と話している。稲田防衛相は年明けの国会で厳しい対応が迫られることになりそうだ。 
稲田朋美防衛相、就任後初の靖国参拝 保守派支持つなぎとめで判断
稲田朋美防衛相は29日、東京・九段北の靖国神社に参拝した。稲田氏の靖国参拝は今年8月の防衛相就任後初めて。「防衛大臣 稲田朋美」と記帳し、玉串料は私費で納めた。参拝後、稲田氏は記者団に「今の平和な日本は戦争で家族とふるさとと国を守るために出撃した人々の命の積み重ねの上にある。忘恩の徒にはなりたくない」と述べた。
稲田氏は26、27両日の安倍晋三首相による米ハワイ・真珠湾訪問に同行し、28日に帰国したばかり。稲田氏は記者団に、首相の真珠湾訪問やオバマ米大統領による5月の被爆地・広島訪問に触れながら「最も熾烈(しれつ)に戦った日本と米国が今や最も強い同盟関係にある。そういうことも報告し、未来志向に立って日本と世界の平和を築きたいという思いで参拝した」とも説明した。
稲田氏は例年、8月15日に参拝してきたが、今年はアフリカ東部ジブチでの自衛隊の活動視察のため参拝を見送った。稲田氏自身は参拝の意向を持っていたが、米国や中韓両国との関係悪化を懸念した首相官邸の難色を配慮したとされている。稲田氏は自民党保守派の若手リーダーと目されてきただけに不満の声が上がっていた。国会審議で靖国参拝をめぐる言行不一致を指摘され涙ぐむ場面もあり、「自衛隊を預かる身として資質に欠ける」(自民党国防族)とも批判された。稲田氏は支持基盤となる保守派の支持をつなぎとめるためにも靖国参拝が必要だと判断したとみられる。 
稲田防衛相の靖国参拝 米「和解への取り組み望む」
稲田防衛大臣が29日、靖国神社に参拝したことについてアメリカ国務省の当局者は「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。
稲田防衛大臣は安倍総理大臣とともにハワイを訪れ、現地時間の今月27日に行われたアメリカのオバマ大統領との、真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊に立ち会ったのに続いて29日、防衛大臣に就任してから初めて靖国神社に参拝しました。
これについてアメリカ国務省の当局者は29日、NHKの取材に対して「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。
一方、アメリカの有力紙ウォール・ストリート・ジャーナルは29日の電子版で「真珠湾での慰霊を終えて帰国したあとに、近隣諸国から『軍国主義の過去を美化する場所』と見られている神社に参拝した」と批判的なトーンで伝えています。 
 
 
 

 
2016/12
 
 
太平洋戦争

 

第二次世界大戦の局面の一つで、大日本帝国など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、イギリス帝国、オランダなど)の戦争である。日本側の名称は1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされた。アメリカ西海岸、アラスカからオーストラリアを含む太平洋のほぼ全域から東南アジア、インド洋のアフリカ沿岸までを舞台に、枢軸国と連合国とが戦闘を行ったほか、日本と米英蘭の開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告し、日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。
開戦前史
アメリカの太平洋戦略
アメリカはアメリカ・メキシコ戦争に勝利してカリフォルニア州を獲得し太平洋へ面する広大な領土を手に入れ、ロシアからはアラスカを購入した。太平洋ではハワイ王国併合に続き、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)勝利によりフィリピン、グアム、キューバなどを手に入れると、アメリカ・フィリピン戦争を経てフィリピンを植民地化することにより太平洋への覇権を確立した。日本は日露戦争後の満州における権益へのアメリカ資本の参入について非積極的な態度を示しアメリカの不興を買った。また、第一次世界大戦後、国際連盟からドイツ領であったパラオ・サイパンなどの太平洋の島々の委任統治を委ねられるようになりアメリカ領と接するようになった。アメリカの呼びかけで行われたシベリア出兵では、日本はアメリカ軍の撤兵後も駐留を継続するなどアメリカの利害とずれが生じるようになっていた。日米の軍事的関係については、アメリカの強い働きかけにより日英同盟は解消される一方で、アメリカが日本より優位となる形でワシントン会議に従った軍縮が行われるなど日本は米国に対して条約上劣勢となることが確定した。また、パリ講和会議での日本による人種差別撤廃案のアメリカの反対による廃案化やカリフォルニア州における排日移民法などで人種的な対立が生じるようになった。アメリカによる日本人への人種的な対応が後の太平洋戦争への遠因となっていった。
日露戦争後、アメリカは対日戦略を明確化し、1906年に対日戦争計画「オレンジ計画」を作成し、1938年には「新オレンジ作戦」を策定した。新オレンジ作戦では、開戦した場合日本はまずフィリピン攻撃を行うと予想、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋を西進し、同時に対日海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させ太平洋制海権を掌握した上で日本海軍と艦隊決戦するという戦略が構想された。また1941年3月のレインボー5号作戦では欧州戦線の優先、太平洋戦線防御、日本の経済的弱体化、太平洋海域の海上交通線の封鎖・破壊、日本の南洋諸島占領が主軸となった。
満州国建国と対中華民国開戦、泥沼化へ
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争において、大日本帝国政府と軍部は当初、現地解決や不拡大方針によって事態の収拾を試みた。しかし、大日本帝国憲法の規定である統帥権の独立問題や、五・一五事件、二・二六事件以後から行われるようになった軍部による政治干渉、大紅門事件、蘆溝橋事件とそれに呼応して起きた郎坊事件、広安門事件、通州事件、第二次上海事変などにより在中邦人の中国軍や中国人に虐殺される事件が頻発すると、世論は中国を徹底的に叩くべきという方向に傾く(暴支傭懲)。この結果、政府は軍事行動を主張する陸軍・海軍を抑えきることが難しくなり、情勢は日中両軍による大規模な全面衝突に発展する。日本軍は北京や上海など主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都南京を陥落させた。1937年8月26日に、日本海軍によるものとされる英国大使襲撃事件であるヒューゲッセン事件が起きると、英国新聞は日本に対する怒りを顕わにした。1937年10月、国際連盟は日本を九国条約及び不戦条約の侵犯であると決議し、1937年11月3日にはブリュッセルで九国条約会議が開かれ、英国は自身が首唱し指導した国際議定によって、それまでソ連により行われていた第二次国共合作中の蒋介石への支援に参加した。1937年12月には、パナイ号事件とレディバード号事件も起きた。
1937年11月から翌1938年1月にかけて、中独合作により中華民国と友好関係にあったドイツを仲介者とするトラウトマン和平工作が日中間によって行われたが、12月の南京陥落によって日本側では対中強硬論が政府(内閣総理大臣近衛文麿・外務大臣広田弘毅)と海軍(海軍大臣米内光政)にて台頭。一方、陸軍では陸軍省(陸軍大臣杉山元)こそ政府・海軍と同じく強硬派であったが、多田駿陸軍中将を筆頭とする参謀本部は終始日中和平交渉の継続を強く主張。参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれるなどしたが、政府・海軍および陸軍省の圧力を受け、1月15日に政府は最終的に交渉の打ち切りを決定。翌日16日に近衛内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」との声明を発し(第一次近衛声明)、トラウトマン和平工作は頓挫した。
蒋介石総統率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助を受け(援蒋ルート)、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を攪乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。こうして日中戦争の戦線は伸び長期戦に陥っていた。
劣勢にあった中華民国の指導者の蒋介石は、英米世論を味方につけ、支援を引き出すために、国民党中央宣伝部国際宣伝処を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。その結果、ニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し、真偽織り交ぜた日中戦争を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に英米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになり、中国大陸に権益を持つ国は中国からの撤兵を日本に求めた。
三国同盟の締結
1939年9月、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻したことにより欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年(昭和15年)6月にはフランスが短期間で休戦に追い込まれるなど、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んだイギリスが連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。これを受け、日本の政府・軍部には、独ソ不可侵条約の締結以来沈滞していたドイツと協調し、米英と抵抗するべきという勢力が再び盛り上がりを見せるようになってきた。
日本は重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するため、6月19日にフランス領インドシナ(仏印)政府に圧力をかけ、「援蒋仏印ルート」の遮断を要求した。本国で成立したヴィシー政権との間で9月に協定が結ばれ、紅河以北のインドシナに進駐、中華民国支配地域への攻撃に利用した。これにより日本の対米英関係は緊張した。その後新たにビルマを経由する「援蒋ビルマルート」が作られた。1940年(昭和15年)7月19日の荻窪会談では、盟主である英国が不在の東南アジア植民地に向かう南進論の方針が確認され、戦争相手は英国のみに局限するが、対米戦も準備する必要があるとされた。7月26日には基本国策要綱が閣議決定された。
7月22日、第2次近衛内閣が成立、7月26日には「皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スル」という、「基本国策要綱」を閣議決定した。翌27日には「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。8月1日には松岡洋右外相が談話で「大東亜共栄圏」という用語を初めて用い、その範囲は、日本・満州・中国、フランス領インドシナ、オランダ領東インドも含めるとした。
当初は日独提携に懐疑的であった松岡外相もしだいに三国同盟締結派に接近し、9月27日にドイツ・イタリアとの間で三国条約が締結され、日独伊三国同盟が成立した。松岡らはこの同盟政策を発展させ、日独伊、そしてソ連を加えたユーラシアブロックによって米英を牽制しようとしたが、かえって英米の日本に対する不信感は一層増すこととなった。アメリカは10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。制裁措置は翌年にはさらに強化され、イギリスも追随した。
これを受け日米開戦が論じられるが、政府と軍部の一部には慎重論も強かった。日本軍は対中国・対ソ連に兵力を集中させ身動きできない状況にあったため、米国は日本に対し強硬姿勢を示すようになる。日本と中国は共にアメリカに物資を依存して戦争を行っていた。この時点で日本は石油の6割以上をアメリカから輸入していたため、アメリカなしではそもそも日中戦争の遂行は不可能な状況であった。
12月29日、フランクリン・ルーズベルト大統領は炉辺談話において「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」(en:Arsenal of Democracy) と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法(レンドリース法)を成立させた。1941年3月に開催された米英の軍による協議(通称ABC会議)ではまずドイツとイタリアを打倒することを優先し、日本への対処はその次に行うことが合意された。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にもかかわらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入できない状況にあった。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。
1940年11月23日、タイ王国はフランスに占領されていた旧タイ領回復のためのフランス領南部仏印進行によりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、1941年5月8日に日本の仲介によりタイ王国が失地を回復する形でタイ王国とフランスの間で東京条約が締結される。
日米交渉の本格化
1941年、駐米大使野村吉三郎の下に陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄が渡米、民間人井川忠雄らと共に、アメリカ国務長官コーデル・ハルを交えて秘密交渉による日米関係改善が模索された。日米の軍人と民間人によって策定された「日米諒解案」では、日本軍の中国撤退、アメリカは満州国を承認する、汪兆銘政権を中国政府として認定する、ホノルルにおける日米首脳会談実現などが示唆されていたが、ハルはその内容があまりにも日本に有利であることに反発。諒解案を基礎に交渉する前提として四原則(「全ての国家の領土保全と主権尊重」「他国に対する内政不干渉」「通商上の機会均等を含む平等原則」「平和的手段により変更される場合を除き太平洋の現状維持」)を日本が受け入れることを求めた。しかし野村大使は四原則を日本政府に伝達せず、日本側は諒解案だけをアメリカの公式提案と誤認してしまう。この日米の認識の齟齬が、その後の交渉を混乱させ、破綻に導く大きな要因となった。6月22日に独ソが開戦すると、三国同盟の対米圧力が減少しアメリカはさらなる譲歩を求めるようになる。
開戦を決意(四回の御前会議)
7月2日御前会議
その後も日本政府は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を続けたが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」(対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月7日からは満州での関東軍特種演習に向けて内地から兵員動員が開始される。
アメリカの攻撃計画と在外日本資産凍結
一方、アメリカは、7月18日、アメリカ陸軍長官・海軍長官からルーズベルト大統領に中国からアメリカ人が操縦する150機の爆撃機で9月から10月にかけて東京・大阪・京都・横浜・神戸を奇襲爆撃で焼き払う作戦計画が提出され、大統領による承認がなされる。 7月28日には日本がフランス領インドシナ南部への進駐を実施した(南部仏印進駐)が、アメリカとイギリスは事前に南部仏印進駐反対の意志を表明していたため、アメリカ政府内の対日感情は一挙に悪化した。7月21日には、中国戦線に派兵していたフライングタイガース隊を核とした日本本土への先制攻撃作成 (J.B.No.355) が大統領、海軍長官、陸軍長官らの署名のもと認可された。さらに7月25日には在米日本資産を凍結(ハーバート・フーバー前大統領はドイツと戦争するために日本を戦争に引きずり込もうとするものであったとしている)、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した。この制裁は1940年の日米通商航海条約の破棄から始まり、最初は航空用燃料の停止、北部仏印進駐に伴う鉄類の停止、そして陸軍と外務省による三国同盟締結に伴い、必要物資の3割を占めていたオランダ領東インド(蘭印)との交渉が決裂し、国内物資の困窮が強まっていった。また、1940年から41年にかけて民間会社を通じ、必要物資の開拓を進めたがアメリカ政府の干渉によって契約までこぎ着けない上、仏印への進駐および満州増派に伴う制裁が実施され、物資の供給が完全に絶たれることとなった。当時の日本は事実上アメリカから物資を購入しながら大陸にあった日本の権益を蒋介石軍から守っていた。例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分しかなく、禁輸措置は日本経済に対し破滅的な影響を与える恐れがあった。対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。
9月6日御前会議
陸海軍は石油禁輸について全く想定しておらず、オランダ領東インドとの日蘭会商も再開の見通しが立たなくなった。9月3日、日本では大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衛は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
9月21日、英米ソにより第1回モスクワ会談が開かれた。アメリカはソ連への援助を発言し、10月21日には「大量の軍備品を月末までにソ連に発送する」という旨の公式声明を発表した。また、アメリカは「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」とも主張していた。
戦争の決断を迫られた近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月16日に近衛内閣は総辞職する。後継の東條内閣は18日に成立。
11月5日御前会議
11月1日の大本営政府連絡会議では「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完(まつと)うし大東亜の新秩序を建設するため、此の際、英米蘭戦を決意し」「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す」という内容の帝国国策遂行要領が改めて決定した。その後11月5日御前会議で承認された。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化させた。
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。海軍は、11月26日に真珠湾攻撃部隊をハワイへ向けて出港させた。
ハル・ノートの提示
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意し、来栖三郎特命全権大使および野村大使の手によりコーデル・ハル国務長官に提示して交渉に当たった。11月26日朝、ハル国務長官は両案を拒否し、中国大陸・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む交渉案、いわゆるハル・ノートを来栖特命全権大使、野村大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ここでいう中国大陸が満州を含むかどうかについても議論がある。
日本政府はこのハル・ノートを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになる。後の東京裁判の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルクのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう」と評しており、ラダ・ビノード・パールも後に引用している。アメリカ海軍は同11月26日中にアジアの潜水艦部隊に対して、日米開戦の場合は非武装の商船でも無警告で攻撃してもよいとする無制限潜水艦作戦を発令した。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と明記されており、回答期限も設定されていない。アメリカ側がハル・ノート受諾に関する問い合わせをしたことはなく、その後も交渉継続を行う意志を見せている。
12月1日御前会議
日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。
宣戦布告と開戦
軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」では、「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」とし、戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていた。
マレー作戦
日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。
真珠湾攻撃
続いて日本海軍航空隊によるアメリカ領ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃(真珠湾攻撃)も、日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)に発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始された。
宣戦布告
日本時間12月8日月曜日午前4時20分(ワシントン時間12月7日午後2時20分)に、来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使がコーデル・ハル国務長官に交渉打ち切りを通告する「対米覚書」を手交した。午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に手交することが決まっていたが、タイピングに手間取り、真珠湾攻撃後の手交となった。なお、日本はイギリスに対して12月8日午前7時半、ロバート・クレーギー駐日大使を外務省に呼び、ワシントンでハル国務長官に手渡したのと同文の対米「覚書」の写しを手渡した。同日に、オランダは日本に宣戦布告した。
同12月8日、アメリカとイギリス2国に対して「開戦の詔勅」が発され、宣戦布告がなされた。
なお、すでにアメリカは暗号解読によって、日本による対米交渉打ち切り期限を3日前には予想し、対米覚書に関しても外務省より手渡される30分前には全文解読を済ませており、「真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカの謀略」とする真珠湾攻撃陰謀説もある。また、真珠湾攻撃前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、領海侵犯した国籍不明の小型潜水艇(実際は日本海軍所属の特殊潜航艇)がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワードに攻撃され撃沈される事件(ワード号事件)が発生していて、暗号電報の解読がなくても、アメリカは日本からの攻撃を察知することができたとする見解もある。第31代大統領だったハーバート・フーヴァーも太平洋戦争は対独参戦の口実を欲しがっていたルーズベルト大統領の願望だったと述べている。
12月10日の大本営政府連絡会議で支那事変と「対米英戦争」を合わせた呼称として「大東亜戦争」呼称が確認され、12月12日の閣議決定で戦争名称は「大東亜戦争(英: Great East Asia War)」、戦時分界時期は昭和16年12月8日午前1時30分と決定した。同日内閣情報局は、アジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指す「大東亜新秩序建設」を戦争目的とした。
マレー作戦や真珠湾攻撃などにより、日本がイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて、12月10日に中華民国が日本に対し正式に宣戦布告した。12月11日にはドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、名実ともに世界大戦となった。
日本軍の攻勢
1940年9月以降日本軍は仏印進駐を行っており、日本軍は領土外には、満州国、中国大陸東部、フランス領インドシナに兵力を展開していた。1941年12月8日に日本陸軍がタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラへの陸軍部隊の上陸(マレー作戦)と、同日行われた日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの攻撃開始(フィリピンの戦い (1941-1942年)、イギリス領である香港への攻撃開始(香港の戦い)、12月10日のイギリス海軍東洋艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国で友好関係にあったタイの合意を得る前に日本軍が国境を越えて軍事侵攻したことに最高司令官(大元帥)である昭和天皇の怒りを買った。
なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。
日本陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸は成功し、その後地上と海上の双方でイギリス軍に対する作戦を成功させマレー半島制圧へと進むこととなった。また日本海軍も、真珠湾を拠点とするアメリカ太平洋艦隊に対して戦艦8隻を撃沈破するなどの大戦果を挙げたものの、真珠湾攻撃においては第三次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦(艦載機を含む)を1隻も破壊できなかったことが後の戦局に大きな影響を及ぼすことになる。
当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合国軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
しかしそのような中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた。また、アメリカ政府首脳陣および軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた。
この後日本海軍は、連合国軍の拠点となる当時イギリスの植民地だったマレー半島、同じくアメリカの植民地だったフィリピンなどにおいて、イギリス軍・アメリカ軍の連合国軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域(シンガポールの戦い)、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。中立国ポルトガルが植民地として統治しオーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては当初日本軍は中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。しかし、オランダ軍とオーストラリア軍が中立担保のためとして東ティモールを保障占領したため、日本軍がオランダ領の西ティモールと同時に占領し、ポルトガル政府の黙認の下、マカオとともに事実上の統治下においた。
タイ王国参戦
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイは中立を宣言していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで翌1942年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
対蘭宣戦布告
1942年(昭和17年)1月に日本は対米英戦争と支那事変のみならず、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含むと確認した。同1月、日本が宣戦を保留していたオランダとも開戦。当時はイギリスおよびオランダの植民地であったボルネオ島(カリマンタン島)とジャワ島、オランダの植民地であったスマトラ島にも侵攻を開始した。
1942年の2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第十七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカは本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した(蘭印作戦)。また、この頃、日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領(ビルマの戦い)し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在のミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍機動部隊に攻撃を加え多数の艦艇を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ占領下のフランスへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
この頃イギリス軍は、ヴィシー・フランスが統治し、日本海軍の基地になる危険性のあったインド洋のアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護すべくイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させるなどの戦果をあげている。
第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本軍は足止めされ、戦争資源を消耗していくことになる。
1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。
戦局の転換期
ミッドウェー海戦
4月、日本海軍は、アメリカの海軍機動部隊を制圧するため、機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定するが、その直後に空母ホーネットから発進したB-25による日本本土の空襲(ドーリットル空襲)に衝撃を受ける。6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と重巡洋艦「三隈」を喪失する事態に陥る。艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ここで大本営海軍部は、ミッドウェー海戦における大敗の事実を隠蔽する(大本営発表)。
アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊十五型潜水艦伊号第二十五潜水艦の潜水艦搭載偵察機によりアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空爆し、森林火災を発生させるなどの被害を与えたが(アメリカ本土空襲)、アメリカ政府はこの事実を隠蔽した。この空襲は、2016年現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。また、これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
ガダルカナル島の戦い・ソロモン海戦
ミッドウェー海戦直後の7月に日本軍は最大勢力範囲に達したが、ミッドウェー海戦により日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は一時的に拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に海兵隊2万を上陸させ、日本海軍が建設し完成間近であった飛行場を占領した。日本海軍は日本陸軍に対し同地奪回を懇願し、陸軍は地上部隊を派兵、これにより日本軍と米豪両軍の間で陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦では日本海軍の攻撃で、アメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍の重巡4隻を撃沈して勝利する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかったが、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い混乱し、島を巡る戦況は泥沼化する。
10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊の攻撃により、アメリカ海軍の大型空母ホーネットを撃沈、大型空母エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における可稼動空母が皆無という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給線が延びきったことにより、前線への投入ができず新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。
しかしその後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ軍はガダルカナル島周辺において航空優勢を獲得、日本軍の輸送船を撃破し、補給を妨害し、物資輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。後に一部の司令部よりガダルカナル諸島は「餓島」と皮肉られた。
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となり、2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米豪両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘は両軍拮抗したまま続く。
1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(海軍甲事件)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。
1943年5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。山崎保代大佐以下日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ軍、オーストラリア軍を中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが(ニューギニアの戦い)、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。同年の暮れ頃には、日本軍にとって南太平洋戦線での最大基地であるラバウルは度重なる空襲を受け孤立化し始める。
連合軍の反攻
アメリカ統合参謀本部の作成した「日本撃滅戦略計画」では、「1、封鎖、特に東インド諸島地域の油田およびその他の戦略物資を運ぶ日本側補給路の切断 2、日本の諸都市への継続的な空襲 3、日本本土への上陸」によって日本を撃滅できると想定していた。開戦後に敗北を続けたものの、その後戦力を整えたアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍を中心とした連合国軍は、この年の後半から戦略計画に基づき反攻作戦を本格化させた。
ウォッチタワー作戦
南西太平洋地域軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」に対して、海軍部は一歩ずつ制空権を確保しながらでなければ前進できないとし、1906年の対日戦争計画「オレンジ計画」をなぞろうとした。結局ニミッツ海軍大将の中部太平洋地域軍がマーシャル諸島からマリアナ諸島を経て、マッカーサー陸軍大将の南西太平洋地域軍がソロモン諸島、ニューギニアを経てフィリピンへと太平洋戦域を横断侵攻する「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」が1943年に主軸作戦として発動された。米陸軍主体の南西太平洋方面軍はニューギニア-レイテ島-ルソン島を北上し、米海軍主体の太平洋方面軍は中部太平洋から北上、日本本土と太平洋諸島の補給路(ラバウル-トラック-サイパン-東京)を遮断する戦略であった。日本海軍はこれらの経路は予測していたが同時侵攻作戦をとるとは予想できなかった。
1943年11月、ギルバート諸島のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅(マキンの戦い・タラワの戦い)、同島がアメリカ軍に占領されることになる。
大東亜会議
同11月に日本の東條英機首相は、満州国やタイ、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、中華民国南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示した。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく事実上一国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。
ビルマ戦域
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた(ビルマの戦い)。1944年3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、無謀な作戦により約3万人以上が餓死等で戦死、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍は連合軍へ寝返り、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
大陸打通作戦
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
絶対国防圏とマリアナ・パラオ諸島の戦い
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。 しかし、6月に絶対国防圏を維持するための最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲し、日本海軍機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。アメリカ側は新型レーダー、新型戦闘機F6F、空母15隻を投入し、さらに日本の倍近い艦船を護衛につけた。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより北海道を除く日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、1945年までに約12,000個の機雷が投下され(関門海峡4990、周防灘666、若狭湾611、広島湾534、大阪湾380)、やがて国内海上輸送も麻痺した。1944年11月24日以降、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ陸軍航空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃、本土への空爆が本格化し、翌1945年2月には日本石油横浜製油所、3月には清水の東亜燃料や東京の日本石油、5月には徳山の第3海軍燃料廠、大竹の興亜石油、岩国陸軍燃料廠製油所、宇部の帝国燃料工業人造石油工場などが、6月22日には四日市の第2海軍燃料廠が爆撃をうけ、国内の製油所が壊滅していった。太平洋上の最重要地点であるサイパン島を失った影響は大きく、攻勢のための布石は完全に無力化した。
日本陸軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるという風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。
各地で劣勢が伝えられる中、東條英機首相兼陸相に対する反発は強く、中野正剛などの政治家や陸海軍将校などを中心とした倒閣運動が行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったといわれている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東條内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
日本は前年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを喪失、兵器や物資の増産も捗らなかった。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、車輌・航空機・艦艇への燃料供給すら困難な状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した(レイテ島の戦い)。日本海軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を、米機動部隊をひきつけるための囮として使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)による、レイテ島への上陸部隊を乗せた敵輸送船隊の殲滅を期した。しかし、すでに作戦期日に3日の遅れが生じていたため、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この栗田艦隊の敵前逃亡について、指揮官であった栗田健男は戦後までも、口を噤んで解明をしていない。栗田を軍法会議に掛けることもしなかった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、まだ多くの空母や戦艦が残存していたものの、組織的な作戦能力は喪失した。また、この戦いにおいて初めて特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
戦争末期
1944年8月グアム島をほぼ制圧し終えた頃、アメリカ太平洋艦隊司令部では9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は海軍が全艦隊への補給能力の限界に達していることや日本本土への影響力行使の観点から意味がないと判断していた。このため次の攻撃目標は台湾ではなく海軍部内では沖縄とされ、1944年10月には沖縄で十・十空襲、台湾沖航空戦が展開した。フィリピン方面のレイテ島の戦い、ミンドロ島の戦いで勝利を収め、1945年1月にルソン島に上陸しルソン島の戦い、ミンダナオ島の戦い、ビサヤ諸島の戦い、マニラの戦いを経て、日本は南方の要衝であるフィリピンを失った。これにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。
レイテ攻略により、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり台湾攻略の戦略的な価値は更に下がったが、政治的に国民的英雄となっていた米陸軍のマッカーサーは依然として台湾攻略を主張していたため、攻略方針について統合参謀本部で海軍と陸軍は対立してしまった。しかし、1944年6月の八幡空襲を皮切りにした「日本本土への継続的な爆撃」は中国大陸成都基地からの散発的な空爆に代わって、11月のグアム島やサイパン島・テニアン島の基地整備に伴うB-29爆撃機での日本本土への本格的な攻撃開始により、統合参謀長会議でヘンリー・アーノルド陸軍大将(硫黄島攻略提唱当時)が日本本土への戦略爆撃をより効果的にできるように硫黄島の攻略を唱えたために、ついに海軍側の主張する沖縄上陸とその前提の硫黄島攻略がアメリカ軍全体の基本戦略となった。
連合国の対日戦争終結への模索
ルーズベルト大統領は、日本を含む枢軸国に対して、事前に一切の条件交渉を認めない「無条件降伏」を求める構想を持っており、この方針は1943年のカサブランカ会談で確認されていた。
1944年10月14日、ルーズベルト大統領は日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してソ連による対日参戦を促した。同12月14日にスターリンは武器の提供と樺太(サハリン)南部や千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。翌1945年2月4日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト・チャーチル・スターリンによるヤルタ会談が開かれた。会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについて秘密協定「極東密約」としてまとめられた。 1945年4月にルーズベルトが急死すると、後継となったハリー・S・トルーマンは日本に対して降伏勧告を行う、事実上の「条件付き無条件降伏」案を模索するようになった。
硫黄島の戦い
沖縄上陸に先駆けて1945年2月19日から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。アメリカ海軍の強力な部隊に援護された米海兵隊と、島を要塞化した日本陸海軍守備隊との間で激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した。最終的に日本は東京都の一部硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29護衛のP-51戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、北マリアナ諸島から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。
1945年3月10日には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人の命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、ヘイウッド・ハンセル准将からカーチス・ルメイ少将が第21爆撃集団司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。併せて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、大阪、名古屋、神戸、静岡、など、日本全国の多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭や釜石では製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、イギリス軍も加えて度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。
迎撃する戦闘機も、熟練した操縦者も、度重なる敗北と空襲による生産低下で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま本土の制空権さえも喪失しかかっていた。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策を編み出していた米英軍に対し戦果は上がらなくなった。
この頃、満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、1944年6月に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。1945年3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を駆逐した。
終戦への迷走
5月8日にドイツが連合国に降伏し、イタリア社会共和国も消滅したことで、ついに日本は一国でイギリス、アメリカ、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙することになった。まだ日本との間に不可侵条約を結んだままであったソ連はドイツ敗北で日本侵攻を目指して兵力を極東へ移動させた。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったが、敗北による責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介の可能性を探った。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。
沖縄戦
連合軍は日本上陸の前提として沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う(沖縄戦)。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。日本軍の軍民を総動員した反撃により、連合軍側は予定よりやや遅れたものの6月23日までに戦域の大半を占領するに至り、いよいよ日本本土上陸を目指すことになる。
また、沖縄へ海上特攻隊として向かった戦艦大和以下は米海軍機動部隊の攻撃によって壊滅(坊ノ岬沖海戦)。一方で特攻兵器の「震洋」や回天・海龍などが生産され各地に基地が設営された。作戦用航空機も陸海軍機と併せると1万機以上の航空機が残存し本土決戦用に特攻機とその支援機として温存され、一部を除いて防空戦には参加しなかった。
6月には日本海に米海軍潜水艦9隻が侵入(バーニー作戦)、7月14日には米海軍第38機動部隊(空母4隻、艦載機248機)は青函連絡船を攻撃し11隻が沈没し、北海道は孤立した。同7月の国内石油在庫量は48万kLで、これは開戦直前備蓄量840万kLの5.7%にすぎず、ほぼ底をついた。海軍艦艇は5月以降、機能を停止した。
この頃には、日本軍は本土および本土近海にて制空権・制海権は喪失、日本近海に迫るようになった連合軍艦艇に対して基本的な操縦訓練を終えた搭乗員が操縦する特攻機による特攻が残された主な攻撃手段となり、連合軍艦艇に一定の被害を与えるなどしたものの日本軍の軍事的な敗北は明らかであった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦に合わせ、1945年11月1日に予定された米第6軍(兵力82万、車輌14万、航空機7000)を中心とした九州志布志湾への上陸作戦「オリンピック作戦」と、1946年3月1日には九十九里浜、相模湾からの上陸コロネット作戦が計画された。
終戦
1945年7月26日に米英中の首脳の名において、日本に降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、日本政府はこれを「黙殺」した。アメリカのトルーマン大統領は、本土決戦による犠牲者を減らすためと、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制を目的として、史上初の原子爆弾の使用を決定(日本への原子爆弾投下)。8月6日8時15分に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日11時2分に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人に併せ、その後の放射線被害などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本軍は原爆の開発を試みたが基礎研究の域は出なかった(日本の原子爆弾開発)。
ソ連対日参戦
その直後に、日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を基に、1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した(ソ連対日参戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり大規模な抵抗ができないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州、南樺太(樺太の戦い)、千島列島(占守島の戦い)などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、10万人を超える死者を出した。
降伏
8月9日の御前会議において昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、他面、戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速やかに具体的研究を遂げ、これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結のことを口にした。しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍と違って陸軍は降伏を回避しようとしたので議論は混乱した。しかし鈴木貫太郎首相が天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。8月14日、終戦の詔書が発されポツダム宣言を受諾(日本の降伏)することになった。 しかしその後も米軍による爆撃は続き、グアム島からの第315爆撃団B-29、134機が8月14日午後10時から8月15日午前3時まで日本石油秋田製油所まで爆弾12,000発を投下し、87名の従業員らが爆死した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の陸軍青年将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内省などを襲撃する事件を起こしたが(宮城事件)、これは陸軍自身によって鎮圧された。8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が放送された。
8月16日、大本営は全軍隊に対して、戦闘行為を停止するよう命令を発した。この後鈴木貫太郎内閣は総辞職。玉音放送の後には、海軍において一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗(厚木航空隊事件)した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かうなど、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。少しでも多くの日本領土の占領を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は南樺太・千島列島・満州国への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃で撃沈破されている(三船殉難事件)。
8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のマッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリス、アメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の下、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より6年にわたって続いた第二次世界大戦は終結した。
しかし、ソ連軍は9月4日に歯舞諸島へ上陸した。また、沖縄や南洋諸島においては、局所的な戦闘が散発的に続けられた。海外の日本軍は降伏後に武装解除されるが、日本の南方軍が締結したラングーン協定に基づいて欧米諸国のアジア植民地支配のための治安維持活動を強いられ、元日本軍将兵に多くの犠牲者が出た。その後、多くは引き揚げるが、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争、国共内戦などに多数の元日本軍将兵(残留日本兵)が参加した。
海外在住の日系人
戦前から日本人移民が生粋の自国民の職を奪うとしてアメリカ、オーストラリア、カナダ、ペルー、ブラジルなどをはじめに移民排斥運動が行われていた。このことは、欧米と日本の信頼関係を低下させることに繋がると共に移民者は差別や偏見を受けていた。太平洋戦争が始まるとアメリカやペルー、カナダをはじめとする南北アメリカの13カ国やオーストラリアなどの連合国は、日本人移民のみならず、それらの国の国籍を持つ日系の自国民までも「敵性市民」として財産を没収し、アメリカや自国内の強制収容所に強制収容させた。アメリカの移民日本人1世はこの行為に対し憤慨し日章旗を掲げるなど遺憾の意を示した。その一方でアメリカ育ちの移民日本人2世の若者達の中には祖国への忠誠心を示すために志願、第442連隊戦闘団が組織され欧州戦線の最前線に送られ活躍した。このことは2世が名実共にアメリカ人として認められた一方で1世と2世の激しい対立を生み出し禍根を残した。しかし、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別と偏見は長い間変わることはなかった。 
 
真珠湾攻撃〜ワレ奇襲ニ成功セリ〜 

 

ニイタカヤマノボレ1208
日本時間の1941年12月2日、日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六は、北太平洋上を航行中の機動部隊に対し「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」という暗号電を送信した。この暗号は同12月8日に米国ハワイの米軍艦艇、施設、基地を攻撃せよとの命令で、航空母艦(空母)6隻を含む機動部隊はただちに攻撃準備を開始した。
もちろん、開戦は唐突に決まったわけではなく、この段階で日米関係は抜き差しならぬ状況に陥っていた。39年7月、米国は中国での日本の軍事行動が長引いていることを理由に対日経済制裁を発動、鉄鋼や石油など多くの物資を米国からの輸入に依存していた日本経済は大打撃を受けた。40年になると米国は航空機用ガソリン、くず鉄の禁輸も決め、41年11月26日には中国からの完全撤退などを求めた事実上の最後通告「ハル・ノート」を突き付けた。
日本海軍機動部隊は、ハル・ノート提示と同じ日に択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出発。密かにハワイ北方海域へ向かっていた。
空母機動部隊を編成し、米太平洋艦隊の本拠地を航空戦力でたたくというハワイ攻撃作戦は、山本五十六連合艦隊司令長官の発案だったとされる。
当時、各国海軍は艦隊同士の砲撃戦で勝敗を決する戦いを「常道」と考え、航空部隊は補助的戦力としか位置付けていなかった。強力な航空打撃力を備えた空母機動部隊を編成するという発想を持っていたのも日本と米国だけだったが、米国にも日本がいきなりハワイを襲う可能性を考える者はほとんどいなかった。しかも、太平洋艦隊の根拠地であるオアフ島の真珠湾は水深が12〜14メートルしかない。投下後いったん数十メートルの海面下に沈んでから徐々に浮上し、目標に向かう航空魚雷での攻撃は困難と思われていた。
日本海軍は魚雷の沈下を抑える安定装置を開発、これを装着した魚雷を水面からの高度5メートルで投下すれば、真珠湾の水深でも魚雷攻撃が可能であるとの結論に至った。海軍の艦上攻撃機部隊は、超低空を飛行する猛訓練を重ねて搭乗員の技量を高め、世界で初めて浅深度での航空魚雷攻撃を可能にした。
第1次攻撃隊発進
真珠湾攻撃に向かった機動部隊は、南雲忠一中将を指揮官に、大型空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」、戦艦「比叡」「霧島」、巡洋艦「利根」「筑摩」「阿武隈」などを主力とし、空母に搭載された攻撃航空部隊も戦闘機120機、攻撃機144機、爆撃機135機の合計399機という一大戦力だった。
攻撃前日の日本時間12月7日、東京からもたらされた情報によると、オアフ島・真珠湾には米太平洋艦隊の戦艦9隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦19隻が停泊中で、空母2隻は訓練に出ているらしく港内に姿はなかった。この時点で米国は日本の外交電文を解読し、開戦の兆候を感じてはいたものの、ハワイよりフィリピンなど南方方面への攻撃が先だと考えていた。
ハワイに駐留する米陸軍の司令官ウォルター・ショート中将は、日本が航空攻撃を仕掛けてくる可能性を考え、早朝の3時間、レーダー監視を強化する命令を出していた。ただ、その命令もあくまで訓練としての位置付けで、その日もハワイ現地部隊は特に警戒することなく、のんびりとした日曜日(現地時間では12月7日)の朝を迎えようとしていた。
日本時間12月8日午前1時、ハワイ諸島北方約400キロの海域に到達した機動部隊は巡洋艦「利根」「筑摩」から水上機を射出し、オアフ島上空の偵察に向かわせた。
東の空が白み始めた同1時20分に艦隊は風上に転針、同1時30分に空母6隻から第1次攻撃隊183機が発進した。海はかなり荒れており、空母のデッキは最大15度も傾いたが、攻撃隊はわずか15分で全機が離艦を完了した。同3時、偵察機から「真珠湾在泊艦は戦艦10、甲巡(重巡洋艦)1、乙巡(軽巡洋艦)10」という報告がもたらされた。
第1次攻撃隊は、目標の上空を水平飛行しながら爆弾を落とす水平爆撃隊(97式艦上攻撃機)49機、魚雷で艦艇を攻撃する雷撃隊(同)40機、目標に急降下してピンポイント爆撃を行う急降下爆撃隊(99式艦上爆撃機)51機、敵の迎撃戦闘機から味方の攻撃隊を守る制空隊(零式艦上戦闘機)43機で構成されていた。発進後、一気に南下した攻撃隊は、オアフ島最北端のカフク岬を確認すると、部隊ごとに展開し、あらかじめ定められた攻撃目標へ向かった。
これは演習ではない
日本時間12月8日午前3時10分、オアフ島カフク岬に達した第1次攻撃隊の総指揮官・淵田美津雄中佐は、米軍の迎撃がないことを確信。搭乗機から信号拳銃を発射し、各隊に「奇襲」(敵の反撃がない状況で攻撃を仕掛けること)の要領で展開するよう指示した。
同3時19分、淵田中佐は無電で「全軍突撃せよ」を意味するモールス信号のト連送を攻撃隊の各機に発信、続いて同3時22分、機動部隊に向け「奇襲成功」の略語であるトラ連送を送信した。この電文が、後に「われ奇襲に成功せり。トラ、トラ、トラ」として世に知られるようになった。
第1次攻撃隊のうち、まず急降下爆撃隊は二手に分かれ、本隊はオアフ島の中央部を突っ切って島の南部にある真珠湾内のフォード島海軍飛行場とその南東のヒッカム陸軍飛行場へ、別動隊は北部にあるホイラー陸軍飛行場の爆撃に向かった。雷撃隊と水平爆撃隊は米軍の艦艇群を求め真珠湾に向けて飛行したが、その途中、米軍戦闘機が迎撃してくる気配はまったくなかった。
ハワイの米軍が最初に異変を感じたのは、日本時間12月7日午後11時12分(現地時間で12月7日未明)に、掃海艇が真珠湾の湾口で小型潜水艇の潜望鏡を発見した時だった。これは、空母機動部隊とは別にハワイへ送り込まれた日本の特殊潜航艇5隻のうちの1隻で、さらに同8日午前2時15分、駆逐艦が小型潜水艇1隻を撃沈したと報告している。ただ、この情報が米太平洋艦隊のキンメル司令長官に伝わったのは同8日午前3時10分ごろだった。
オアフ島にはレーダー警戒網が設置され、同8日午前2時32分ごろ、レーダー操作員は北方に多数の機影を認めた。しかし、当直将校が訓練中の味方機か本土から飛来予定だったB−17爆撃機だと勝手に判断し、司令部への報告を怠った。
同8日午前3時25分、日本軍急降下爆撃隊の最初の攻撃がヒッカム陸軍飛行場に対して行われた。その3分後、海軍哨戒航空部隊指揮官のべリンジャー少将は、全艦艇に対し「真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない」と伝達したが、もはや手遅れだった。
次々上がる水柱
日本軍第1次攻撃隊で、戦いの火ぶたを切ったのはヒッカム陸軍飛行場を襲った急降下爆撃隊の99式艦上爆撃機だった。
ハワイ攻撃の目的は米太平洋艦隊の撃滅だが、同時に敵飛行場を破壊して味方空母機動部隊に対する反撃の芽をつまなければならない。日本軍機がヒッカム飛行場を執ように攻撃したのは、空母の脅威となる大型爆撃機がそこに配備されていたからだ。
日本時間8日午前3時25分から開始された急降下爆撃は、18発の爆弾を投下、主に格納庫を破壊して同飛行場に壊滅的な打撃を与えた。また、真珠湾内にあるフォード島海軍飛行場にも急降下爆撃隊が現れ、爆撃と銃撃を加えて施設、兵舎、駐機していた航空機を破壊、同飛行場は数十分で無力化された。
急降下爆撃隊がヒッカム飛行場への攻撃を始めてから2分後の日本時間12月8日午前3時27分、97式艦上攻撃機で編成された雷撃隊が、真珠湾に停泊する米艦艇への攻撃を開始した。米軍の記録によると、日本の雷撃隊は南東方向から真珠湾上空に高度50〜100フィート(15〜30メートル)という超低高度で侵入すると、目標に極めて近い位置から魚雷を投下した。
重さ800キロもの航空魚雷を抱いた攻撃機の操縦桿(かん)は重く、超低空ではひとつ間違えば海面に激突してしまう。魚雷を目標近くで投下したのは、真珠湾の水路が狭いからだが、投下した瞬間には目標艦の舷側がすぐ目の前まで迫っている。重い機体を超低空で安定させた上で、魚雷投下直後に急激な引き起こしで目標艦を飛び越えるには、搭乗員に高い技量が求められる。
米軍が真珠湾で魚雷防御策を何も講じていなかったのは条件が悪すぎて攻撃不可能と判断していたためだが、日本海軍は猛訓練で不可能を可能に変えた。実際、雷撃隊のうち誤って目標に突入するような攻撃機は1機もなく、米艦艇群の舷側には次々と大きな水柱が上がった。
迎撃する敵機なし
第1次攻撃隊で行動が最後になったのは、総指揮官・淵田中佐が率いる水平爆撃隊だった。水平爆撃隊49機はオアフ島の西側をぐるりと大回りし、ほぼ真南から真珠湾上空3000メートルに侵入。日本時間12月8日午前3時35分から停泊中の艦船目掛けて800キロ爆弾を次々に投下した。
水平爆撃はいったん決めた爆撃コースをそれると照準が外れてしまうので、爆撃態勢に入ってから敵戦闘機の迎撃を受けると命中精度が著しく低下する。しかし、真珠湾上空に迎撃する米戦闘機の姿はなく、雲のため目標を見失った攻撃機が3度も照準をやり直す余裕まであった。
第1次攻撃隊の迎撃に上がった米戦闘機は4機に過ぎず、いずれも同8日午前3時30分までに日本軍制空隊によって撃墜されていた。地上や艦艇からの対空砲火も散発的で、オアフ島上空の制空権は完全に日本軍が握っていた。
第1次攻撃隊がそれぞれの母艦から飛び立って約1時間後の日本時間12月8日午前2時45分、第2次攻撃隊がオアフ島に向け発進した。指揮官は空母「瑞鶴」飛行隊長の島崎重和少佐で、水平爆撃隊(97式艦上攻撃機)54機、急降下爆撃隊(99式艦上爆撃機)78機、制空隊(零式艦上戦闘機)35機の合計167機で構成されていた。
カフク岬を確認した第2次攻撃隊はオアフ島の東側を通り、水平爆撃隊の一部がカネオヘ海軍飛行場の攻撃に向かったほか、残り全機が真珠湾とヒッカム飛行場を目指した。真珠湾上空で攻撃を開始したのは同午前4時32分からだったが、1次攻撃による火炎や煙で目標が見えづらく、急降下爆撃隊の中には、対空砲火の弾道をたどって、まだ戦闘能力を維持している目標を探すといった無理のある攻撃をしかけたケースもあった。
米軍側も1次攻撃のショックから態勢を立て直しつつあり、第2次攻撃隊は激しい反撃を受けた。未帰還機は、第1次攻撃隊が9機だったのに対し、第2次攻撃隊は20機と倍以上の損害を受けている。
特殊潜航艇帰還せず
ハワイ攻撃には、空母機動部隊のほか、大型潜水艦5隻からなる特別攻撃隊も参加していた。潜水艦はそれぞれ2人乗りの特殊潜航艇1隻を搭載。特殊潜航艇には魚雷2基が備えられ、母艦となる大型潜水艦にオアフ島近くまで運ばれてから発進し、真珠湾に忍び込んで停泊中の米艦艇に肉薄攻撃を敢行することになっていた。
計画では攻撃終了後、米軍の混乱に紛れて脱出、母艦との会合点で搭乗員だけを回収するはずだったが、5隻はいずれも帰還しなかった。ただ、少なくとも2隻が湾内への侵入に成功したことは間違いないとされる。
5隻はさしたる戦果を上げなかったとされていたが、1999年に発表された研究では、当時の写真や米艦艇が受けた被害を詳細に分析すると、戦艦2隻を撃沈した可能性があることが分かった。なお、特殊潜航艇5隻のうち1隻は損傷を受けて座礁、乗組員1人が捕虜となり、戦後に帰還を果たしている。
ハワイ北方海域にとどまっていた日本海軍機動部隊は、日本時間12月8日午前9時22分までに、第1次、第2次攻撃隊の収容を完了した。作戦計画では、2回の攻撃で十分な戦果がなかった場合、帰還した航空部隊に燃料と兵器を補充し、3回目以降の攻撃もあり得るとしていた。
しかし、機動部隊指揮官の南雲中将は、最後まで真珠湾上空に留まって戦果を確認した淵田中佐の報告から、米太平洋艦隊に大打撃を与えたと判断。これ以上の攻撃は必要ないとして艦隊を帰投させることにした。
また、機動部隊の脅威となる米軍の大型爆撃機を完全に無力化したという自信がなかったほか、ハワイ近海にいるはずの米空母2隻の動向がつかめないなどの不確定要素もあった。この決断を優柔不断と批判する向きもあるが、日本にとって虎の子の空母が無事でなければ始めたばかりの戦争が続けられないことも確かだった。
「大戦果」に沸き上がる国民
日本海軍の真珠湾攻撃による米側の主な損害は、戦艦5隻が沈没、戦艦4隻、巡洋艦、駆逐艦各3隻が損傷、飛行場への攻撃で航空機188機が破壊され、戦死・行方不明者も2300人を超えた。日本国内では12月8日早朝に米英と戦争状態に入ったことが公表され、同日夜にはハワイ攻撃により(1)米軍の戦艦2隻撃沈、さらに戦艦2隻大破、巡洋艦約4隻大破(2)ホノルル沖で潜水艦が米空母撃沈との未確認情報あり−といった戦果も発表された。
嶋田繁太郎海軍大臣は12月17日、議会で「米国太平洋艦隊主力の大部はその戦闘力を喪失した」と報告。新聞も「太平洋での米国の攻撃作戦能力は完全に喪失した」と書き立て、国民は戦勝気分に沸き立った。
しかしながら、与えた損害は米国の工業力を持ってすれば数カ月で回復できる程度でしかなく、長い目で見れば太平洋での作戦能力に大きな影響はなかった。
1997年に明らかになった米軍秘密文書によれば、41年の真珠湾攻撃に当時の米国陸海軍の幹部は大きな衝撃を受け、「現状では、日本軍によるハワイ全島占領や米西海岸攻撃も可能」と極めて悲観的な戦況分析をしていた。
スターク海軍作戦部長が同年12月11日付でマーシャル陸軍参謀総長(いずれも当時)に送った書簡によると、同部長は真珠湾攻撃を分析し、「米戦艦と巡洋艦の多くが無力化された今、中部太平洋に強大な海軍力を展開できる日本軍は、攻勢に集中できる」と指摘。この段階で日本軍が海戦を挑むなら、米艦隊全滅の事態も起こり得るとした。
ただ、日本軍自体にハワイ占領や米国本土を狙う発想はなく、資源の確保に向けて南方への進出に全力を挙げていた。ルーズベルト米大統領は対日宣戦布告を議会に求めた演説で、真珠湾攻撃を「屈辱にまみれた日」だとして国民を鼓舞。米軍幹部の悲観論も開戦当初だけだったとされる。 
 
第二次世界大戦にいたるまでの経緯 

 

1783年に、イギリスの植民地から独立を果たしたアメリカ合衆国は、当時のイギリスやロシアに比べて、まだまだ小規模な新興勢力でした。 前項に述べたとおり、ちょうど日本が日露戦争に勝ったのと時を同じくして、アメリカはスペインとの戦争に勝ち、フィリピン、グアム、プエルトリコを侵略し、さらに勢いに乗じてハワイなどの太平洋沖の島々を侵略したあたりでようやく他の欧米諸国の認める「大国」となったのです。つまり、他の列強に肩を並べて「大国」の仲間入りを果たした時期は、アメリカも日本もそれほど代わらなかったわけです。そのため、日露戦争に勝った日本を、アメリカは極度に意識し、警戒しました。それは、東アジアの植民地争い、――主に、このころ勢力が極端に衰えていた清国での領土分割争いにこれから参戦しようとしていたからでもありました。これは、地球上に魅力的な植民地として手つかずの土地が、この頃にはもう清国の領土ぐらいしかなかったということでもありました。
日露戦争後の日本は、「大国」に肩を並べたとはいえ、日露戦争に国力のほとんどを使い果たし、それ以上の領土拡大や、他国との戦争などはおよそ考えられない状態でした。しかし、そんな日本の国内事情とはまったく無関係に、アメリカは必要以上に日本に対して厳しい態度を取りはじめます。まず、日清戦争後のロシアと同様、日本が日露戦争で勝ち取った満州鉄道をはじめとする中国大陸における利益をアメリカにもよこせと言ってきます。その要求があまりにも横暴なものだったので日本は当然拒否しました。すると、アメリカは、イギリスに日英同盟を破棄するようにすすめたり、イギリス、フランスと結託して日本に経済制裁を行ったりするなど、それまでの友好関係もまったく無かったかのような態度に出て日本の孤立化を図ります。日本が明治維新の後、ロシアの脅威にさらされていたときは、日米関係は非常に良好なものでしたが、結局のところ、そのような日露戦争以前の友好関係は、アメリカにとっては東アジアにおける利権争いのための、単なる自己都合にすぎなかったわけです。
そして、アメリカがそのように態度を一変させた原因は他にもありました。それは、「人種差別」です。前項で述べたとおり、日露戦争は、白色人種の国家に有色人種の国家が勝った史上はじめての記念すべき戦争でした。これも前項で述べましたが、その勝利により日本は、他の欧米諸国・白色人種国家と対等に意見を戦わせることが可能な立場になりました。また、日露戦争後、世界中の欧米諸国の植民地では、有色人種の人々が日本の勝利に感動し、狂喜乱舞したことも前に書いたとおりです。そのような有色人種の人々の様子を目の当たりにして、欧米諸国の白人たちがどれほど日本を脅威に思ったかは想像に難しくありません。つまり、有色人種の側から見れば希望に満ちた日本の勝利だったのですが、白色人種の側から見れば、日本が有色人種を率いて反旗を翻してくるのではないかという脅威そのものでしかなかったのです。
その影響からか、日露戦争後しばらく経って、ヨーロッパのメディアで「次は日本とアメリカが戦争をするだろう」という記事が散見されるようになります。もちろん、そこに人種的な対立の意味合いが強くあったことはいうまでもありません。当時の日本人は、それらの報に驚きました。なぜなら、それまでお人好しの日本人はおしなべて、「アメリカはまったくの友好国」だと思いこんでいたからです。
この頃、日本人を恐怖で震撼とさせた一つの事件がありました。1907年3月に、突如アメリカの軍艦16隻が、船体を真っ白に塗り、何の前触れもなく日本の太平洋近海に現われたのです。この事件について、欧米の新聞各紙は、「日米戦争」がはじまるものとして報じましたが、日本はまったく寝耳に水で、黒船来航以来の恐怖を日本国民に与えました。そして、日本側はこのとき戦争になるのを避けるために急遽この「白船来航」を歓迎することとします。 歓迎の式典を大々的に行い、横浜に上陸したこの米軍一行を国を上げたお祭りムードをむりやり装って歓待することで、非常事態を回避したのでした。
このアメリカのあからさまな威嚇行動を受け、日本でもアメリカとの戦争は避けられないものとする意識が芽生えはじめます。そして、欧米諸国の反応からも、人種の違いの壁や、反日感情の高まりを強く感じはじめました。
その後、日本はそのような世界の人種差別的風潮を受けて、1918年に、第一次世界大戦が終結した後のパリ講和会議の席上で「人種平等に関する提案」という人種差別撤廃案を提出します。その提案に対する投票の結果は、賛成17/反対11と賛成多数であったものの、委員長を務めていたアメリカ大統領のウィルソンによる「このような重大な案件は全会一致でなければダメだ」との理不尽な独断で不採決となってしまったのでした。このパリ講和会議の一件について、アメリカの黒人歴史学者のレジナルド・カーニーは著書の『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』のなかで次のように書いています。

第一次世界大戦が終わると、ヨーロッパの戦勝国は世界秩序を元に戻そうと、パリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための一四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった一五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる一五番目の提案であった。(中略)人種平等の実現を目指していた日本と、そうでなかったウィルソン。その差がここにでたと言ってもよいだろう。もし日本のこの一五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。(中略)アメリカ黒人がほかの連盟の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。(中略)「おそらく世界でもっとも有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。(中略)全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は講和会議の席上で、”人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」。「全米一二〇〇万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。――レジナルド・カーニー『20世紀の日本人ーーアメリカ黒人の日本人観1900―1945』

アメリカの「日本いびり」はさらに続きます。アメリカは1922年、ワシントン会議で日本とイギリスの同盟を解消させ、さらに日本は主力軍艦を建造してはならないという条約まで日本に押しつけます。アメリカ国内では、日本からアメリカへ渡った日本人移民への差別が激しくなり、1924年にカリフォルニア州で「排日移民法」という法律ができ、日本からの移民を禁止するという事態にまで及びました。それから、当時清国で王朝が滅び、いくつもの勢力に別れて混沌としていた中国の政治に、日本は口を出すなと言ってきたかと思うと、さらに、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる、いわゆるABCD包囲網と呼ばれる日本への一方的な経済制裁を行ったことで、日本の物資の欠乏は深刻な事態を迎えてしまいます。このような、あからさまに日本を敵視した日本孤立化への動きが、実際に真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦に至る以前、数十年間に渡って行われてきたのです。つまり、「太平洋戦争(第二次世界大戦)」とは、そのようなアメリカの「世界の覇権」への執着と「人種差別」的な意識が日本を追いつめたことで起こった戦争なのですが、そのような事実上の「抗争」は、実際に武力衝突が起こる以前2〜30年間に渡って繰り広げられていたことなのです。
そして、最終的に日本は、自国の完全な孤立化を回避し自国の存続を維持するためには、アジア諸国を欧米の植民地から解放し、それらの国々と一致団結するしか道はないと考えます。日本がアジアを結束させ、指導的な立場に立ち「大東亜共栄圏」をつくることでアジアの独立と団結を一挙に図ろうとしたのです。そしてとうとう「ハル・ノート」という事実上のアメリカ側からの最後通告を拒絶し、「大東亜共栄圏」の実現をめざして、1941年12月8日、ハワイ真珠湾の米軍基地を攻撃し、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)へと突入することになるのです。 
 

 

 
 
太平洋戦争の原因 1

 

帝国主義にならざるをえなかった日本
幕末、世界は帝国主義真っ只中。当時の国は「植民地になる」か「侵略者に立ち向かい独立を死守する」の2つの道しかなかったのです。当時の日本は鎖国状態。周辺のアジアの国が次々に欧米諸国の植民地となっていきました。欧米諸国に比べて遅れていた日本ももちろん植民地のターゲット。特に、アメリカ、イギリス、ロシアが日本にとっての脅威でした。
アメリカ合衆国
幕末、ペリーが黒船に乗って日本にやって来て脅しをかけます。
ペリー/船の燃料補給地として、港を開放して下さい。
アメリカは東アジア、特に清(中国)との貿易をしていたのですが、その中継地として日本は位置的にうってつけ、ということもあり、「下田と箱館の港を開きましょう」という事で『日米和親条約』が結ばれました。その4年後、1858年に『日米修好通商条約』という不平等条約が結ばれました、というか結ばされました。じわりじわりと日本を侵略していくかにみえましたが、アメリカは自国で『南北戦争』(1861〜1865年)が起こってしまったので、そこにかかりきりになり外国に目を向ける余裕がなくなってしまったのです。
イギリス帝国
地球上の陸地の20%以上の面積を植民地化していた大国イギリスも当然日本を狙っていました。しかし、1857年に植民地のインドで起こった『セポイの乱』や、同時期に清で起こった『アロー戦争』〜『太平天国の乱』の鎮圧で兵力、資金、時間を消耗してしまいます。また、1863年に薩摩藩との間で起こった『薩英戦争』で「え!?日本って意外と強いんだ。やるじゃん」とイギリスに思わせるわけです。
そして、日本の武士の存在が脅威であること、地理的に派兵が難しい、などの理由で植民地化ではなく、薩摩藩を裏から支援し、幕府を倒させて傀儡政権を作ろうと目論んでいたふしがあります。しかし、薩摩藩はイギリスとうまく距離をとり、明治維新後も独立した政権を運営しました。
ロシア帝国
ロシアは歴史的にず〜っと南下政策(南方にある土地を獲得)をとっています。理由は「凍らない港が欲しい」、コレだけです。四方を海に囲まれた日本は、もし、ロシアの軍隊が朝鮮半島から船で日本へ侵攻、という事態になれば、当時は飛行機やレーダーがないので、日本のどこから侵入されるかの確認が非常に困難でした。そのため、日本としてはロシアを朝鮮半島で食い止める必要がありました。本来であれば、日本、清、朝鮮が協力して立ち向かえばよかったのですが、この2国は国を近代化させる事に消極的だったんです。いずれ、ロシアと衝突するのはわかっていましたので、日本は清、朝鮮との協力を諦め、欧米と同じく国力増強のために植民地を獲得して国の力を増強させる帝国主義を採りました。
日清・日露戦争
日本はロシアの南下政策を朝鮮半島で食い止めたい、清(中国)はもっと朝鮮への影響力を強めたい(植民地化)したい、という事で衝突、明治27年(1894年)『日清戦争』が勃発。日本は勝利し、清から割譲された土地の一つに『遼東半島』がありました。
中国東北部(満州)を支配していたロシアは、「日本が遼東半島を支配していると、朝鮮半島進出に邪魔」、そして、日本をこれ以上調子づかせないために、ということで、ロシアは、ドイツ、フランスを誘って日本にこう言いました(『三国干渉』)。
ペリー / 割譲された『遼東半島』を清に返しやがれい!
ドラえもんはいませんから、ジャイアンロシアの言うとおりにするしかなかったのです。しかし、その後なんとロシアは『遼東半島』の一部を租借するのです。これはたまったものじゃありません。この時、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』という言葉が流行します。意味は「復讐のために耐え忍ぶこと」。「この恨みは忘れない、いつかロシアをやっつけてやる」と。
その後、ロシアはジリジリと朝鮮半島に南下してくる気配をみせます。
日本としてはこのまま朝鮮半島に侵攻されると防衛上非常にマズい、ということでロシアと交渉するも決裂、明治37年(1904年)『日露戦争』が勃発します。『日英同盟』によるイギリス、戦争当初から「日本を全面支持する」と宣言していたアメリカ、それぞれの協力もあって、何とかロシアに勝利しました。これで、日本は名実ともに大国の仲間入りを果たしますが、欧米諸国はメキメキと力をつけてきた日本を脅威に感じてくるのです。
満州をめぐってアメリカとぎくしゃく
日露戦争に勝利したことで日本は韓国や満州(中国東北部)を手中に収めます。そして、欧米各国からも韓国支配のお墨付きをもらいます。
ウィリアム・タフト / 日本は韓国(朝鮮半島) を支配して下さい。そのかわり、アメリカの植民地であるフィリピンに野心をもたないでくださいね。
桂太郎 / もちろんです。
桂太郎内閣総理大臣と、来日したウィリアム・タフト陸軍長官との間でこのような密約が交わされました(『桂・タフト協定』)。同じような約束事は、イギリス、フランスとの間でも交わされました。
イギリス / 日本は朝鮮半島を支配する、イギリスはインドを支配するってことをお互い容認しましょう。
フランス / フランスはベトナムを支配、日本は朝鮮半島を支配。
このように、「韓国を放置すると、また東アジアが混乱する。韓国は日本が保護すべきだ」という意見は、当時の国際社会では常識でしたので、欧米各国は軒並み賛成しました。
さて、日本は満州の権益を独占したい、と思うようになります。『日清戦争』、『日露戦争』で多大な犠牲のうえに獲得したのですから、独り占めしたい、と考えるのは当然といえば当然ですよね。
しかし、アメリカも中国という巨大市場で一儲けしたい、とず〜っと思っています。元々、アメリカが幕末に日本を開港させた理由の一つに、中国と貿易するための中継地として利用したいから、というのがありました。
日本は、日露戦争に勝利したことで、ロシアが経営していた『南満州鉄道』の利権を得ますが、戦争で国家財政は逼迫していましたので余裕がありません。そこに、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンが現れます。
エドワード・ヘンリー・ハリマン / 1億円出しますから、『南満州鉄道』を共同経営しませんか?
桂太郎 / もちろん。やりましょう!
「お金の面で助かるし、再びロシアが満州に攻めてくるかもしれない。アメリカと友好を保っておけば抑止力になるかもしれない」と言う事で、満鉄の共同経営の提案を桂太郎首相は快諾します(『桂・ハリマン協定』)。しかし、『ポーツマス条約』(『日露戦争』の講和条約)の締結を終えて帰国した小村寿太郎外務大臣がこの話を聞いて猛反対します。
小村寿太郎 / 満州は日本だけが支配すべきです!
結局、小村に押し切られ、共同経営はドタキャンします。この出来事が、アメリカの対日感情を悪化させ、後の日米戦争の一因になったのでは、という論があります。
日本の火事場泥棒
大正3年(1914年)に『第一次世界大戦』が起こり、欧州各国は戦争(欧州方面)に集中するため、アジアにかまっていられなくなります。そこで、日本は「チャ〜ンス!」とばかりに、中国での権益を拡大しようと『対華21か条要求』を中国側に提出します。
これに、イギリスは不快感を露にします。
イギリス / イギリスがもっている中国の権益を日本に奪われやしないか?
イギリス / 『日英同盟』にのっとって、日本に陸軍の応援を依頼したのに断ってきやがった。逆にアメリカは第一次世界大戦に参戦してくれたし、お金も貸してくれた。『日英同盟』やめてアメリカと手を組んだほうが良さそうだな。白人同士だし。
アメリカは『日英同盟』をやっかんでいて、何とか破棄させたろ、と考えていました。イギリスに対してお金を貸していたアメリカは、イギリスに負けられるとお金を回収できなくなるので困る・・・という事で参戦してイギリスを援護、大きな貸しを作りました。そんな状況で、アメリカから「アメリカと日本、どちらを選ぶんだ」と凄まれたら、『日英同盟』を解消、アメリカと手を組む、という事になるのは必然でした。
第二次世界大戦
昭和4年(1929年)、『世界大恐慌』が発生します。植民地を持っている国は自国を守るため『ブロック経済』を展開します。『ブロック経済』とは、例えばイギリスだとアフリカ、インド、オーストラリアといった植民地で『経済ブロック』という勢力圏を設定し、その勢力圏以外からの輸入品に莫大な関税をかけて、実質他国からの製品をしめ出す、という政策です。[関税(かんぜい)は、国内産業の保護を目的として又は財政上の理由から、輸入貨物に対して課される税金。]
『第二次世界大戦』で勝利した『連合国』側は、上記のイギリスの他に、アメリカは南北アメリカ大陸を勢力圏、フランスはベトナムやアフリカなどを勢力圏にして、自国や植民地で石油といった資源を賄う事ができました。
一方、負けた『枢軸国』側は自国で資源を賄えない国でした。
ドイツ:「第一次世界大戦の賠償金をやっと払い終えるわ〜」と思ったところで世界大恐慌が発生。自国だけではどうしようもないので、『経済ブロック』拡大のため中央、東ヨーロッパへ侵攻。
イタリア:「植民地持ってないし、資源もないわ〜」。『経済ブロック』拡大のためエチオピアへ侵攻。
日本:「生糸を輸出や!」→「関税高すぎて輸出できへん・・・」。『経済ブロック』拡大のため中国へ侵攻。
と、他国を侵攻して資源を確保するか、何もせずに餓死するのを待つか、どちらかの選択しかなかったのです。という事で、昭和14年(1939年)『第二次世界大戦』が勃発。
太平洋戦争
当初、ドイツは連戦連勝し、海を隔てたイギリスにも攻撃をしかけます。イギリスのチャーチル首相はアメリカのルーズベルト大統領に助けを求めます。
ウィンストン・チャーチル / 第一次世界大戦に続いて、また助けて〜!
フランクリン・ルーズベルト / アメリカ人の故郷、ヨーロッパをドイツが荒らしているのは見過ごせない。それに、ユダヤ人が我が国で力つけてきている以上、ドイツのユダヤ人虐殺も見過ごせない。
フランクリン・ルーズベルト / ただ、国民を戦場に送らないことを選挙公約にしているからなぁ・・・。 そうだ!日本を挑発して先制攻撃させて、同盟国のドイツを参戦させよう!
そんな中、昭和15年(1940年)に日本がフランス領インドシナへ進駐。アメリカが植民地にしていたフィリピンとインドシナは近く、「このままでは植民地が危ない!日本を止めねば!」とアメリカは思います。また、「日本はインドシナを拠点に、イギリスがアジアで持っている植民地を奪い取ろうとしているんじゃないか?」と世界から受け止められ、イギリスを全面バックアップしているアメリカは激怒、日本への石油輸出をストップし、アメリカにある日本の資産を凍結。後1〜2年で備蓄している石油が無くなる状態となった日本に、アメリカは最後通牒として無理難題な『ハル・ノート』を突きつけます。
そこには中国から撤退するよう書かれていましたが、『日清戦争』、『日露戦争』で多大な犠牲とお金と時間を使って獲得した中国からの撤退は、日本としては当然ありえません。じゃあ、石油が無くなって工場が停止して何千万人も餓死させるのか?それとも、自衛のために戦争するのか?日本は後者を選択、真珠湾を攻撃しました。
という事で、英米のシナリオ通りに日本に先制攻撃させて日米開戦(『太平洋戦争』)、同盟国ドイツもアメリカに宣戦布告しました。
チャーチルは日米開戦の知らせを受け勝利を確信し喜んだ。
まとめ
太平洋戦争の原因は、日本の侵略にアメリカが裁きの鉄槌を下した、なんて事を簡単に言う大人がいまだにいますが、実際はこのようにそれぞれの思惑があったのです。確かに、中国や朝鮮の人にとっては日本は侵略者でした。しかし、欧米各国も同じようにアジア諸国を侵略していました。※当時、アジアで独立国だったのは日本とタイだけでした。
多くの植民地を取って国力を増強しないと、逆に植民地にされる、それが帝国主義時代でした。
アメリカにいたっては、アラスカ、ハワイ、フィリピン、グァムといった太平洋側の領土を持っていましたが、急速に力をつけた日本海軍を脅威に感じ、いつでも日本と戦争できるように『オレンジ計画』を作成していました。[オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、War Plan Orange)とは、戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。]
全ての出来事を書くととんでもない文字数になるので、『日中戦争』や『ABCD包囲網』などといった出来事は省きましたが、この記事を読んで「本当に日本だけが悪かったのか?」、考えていただければと思います。 
 
太平洋戦争の原因 2

 

1.黒幕は誰か?
まずは、第二次世界大戦の本質を、経済面から見ましょう。どうして、そんな回りくどい事するのかって?だって、誤解している人が、物凄く多いんだもん。前提をキチンとさせとかなければ、次へと進めないのです。
第二次大戦の主要交戦国は、以下の手段で戦費を調達していました。
1 枢軸国(日独伊)・・・・・被占領国からの収奪。
2 連合国(アメリカ除く)・・アメリカからの借金。
3 アメリカ・・・・・・・・・自給自足。
ここでクイズです。一番のお金持ちはだあれだ?もちろんアメリカです。アメリカ以外の連合国は、アメリカのおカネが無ければ、戦争開始後2年以内に全て資金ショートしていたのです。そして、アメリカからの融資の内容は、「無利息無期限無制限&おカネのみならず戦車、飛行機、軍艦まで貸しちゃうよん」という、とんでもない内容でした。実質的には寄付ですね。税務調査に見つかったら、アメリカや寄贈先の連合国は、更正くらってたことでしょう(笑)。
じゃあ、なんでアメちゃんは、そんな事したんでっしゃろか。愛と善意のボランティアだったのでしょうか?事は、そう単純ではありません。なぜなら、あの戦争の最大受益者は、実はアメリカだったからです。
最大受益者の行為を疑え。これは、犯罪捜査の基本ですよね。歴史においても、同じ事が言えるのです。
アメリカにとって、あの戦争は、利の厚い「投機」だったのです。そして、当然のように、その果実をたんまりと受け取ったのでした。
ここで、バブル期の日本経済を想起してくだされ。大手銀行は、やたらと企業におカネを貸して、そのおケツを叩いて投資させてたでしょう?与信なんぞ無視して、札付きの悪党にもガンガン貸してたのです。なんで、そんな不可解なことしたのかというと、それでも「儲かる」と考えられていたからです。すなわち、土地さえ担保に取っておけば、借金踏み倒されても、元は余裕で取れると思っていたのです。あのころは、地価と株価が永遠に上がり続けるという怪しげな信仰に、日本中が嵌っていたのでした。
当時のアメリカも、絶対に失敗の無い投機をしているつもりでした。なぜなら、絶対に目減りのしない、永遠に価値が増殖する担保を入手していたからです。その点では、バブルの銀行マンよりは賢明でした。
その担保の名を、「世界経済」といいます。
2.歪んだ世界経済構造
さて、第二次大戦のプロデューサー兼スポンサーが、アメリカであった旨を述べました。
第二次大戦を直接起こしたのは枢軸国なのですが、アメリカは、その地域紛争を意図的に拡大し、長期化させた形跡が濃厚です。その方が、たくさんの利益が得られるからです。その点でも、バブル期の日本の銀行の行動に良く似ているという気がします。
それでは、どうして世界がそんな状況になったのか?どうして、戦争スポンサーの言いなりになったのか?これについて説明する必要があります。
まず、戦前の世界経済では、事実上、自由貿易が禁止されていたことに留意する必要があります。議論を簡単にするために、世界を3つの経済圏に分けて説明します。「西欧」、「アメリカ」、「枢軸」です。
「西欧」は、イギリスとフランスです。彼らは、世界の大半を植民地支配していたため、「世界市場」は事実上、彼らの掌中にありました。彼らは、「世界市場」を囲い込めば、それだけで豊かな経済生活が送れたのです。そして、1929年の世界恐慌に懲りた彼らは、自分達の縄張りをブロック化して(例えば法外な関税障壁を設けた)、他者の市場参入をシャットアウトしたのです。
迷惑したのは、「枢軸」と「アメリカ」です。
一番深刻なダメージを受けたのは、「枢軸」です。なぜならば、彼らは生産資源を自給自足できないので、貿易によって世界からこれらを調達しなければなりませんでした。そして、自由貿易を禁止されたことは、彼らの経済に悲劇的なダメージを与えたのでした。貧乏ながら腕っ節に自信のある彼らは、ついに悲痛な決意をします。周辺の弱小国を苛めて荒稼ぎをし、あわよくばこれらを併合し、自分達の「ブロック」を築こうとしたのです。イタリアはエチオピアとアルバニア、ドイツは東欧とソ連(当時、ソ連は弱小国だと考えられていた)、日本は中国を目指したのです。
「アメリカ」も、悩んでいました。しかし、こちらは贅沢な悩みです。アメリカは、経済恐慌で金融市場にミソをつけちゃいましたが、実体経済は絶好調でした。あのフォードシステムが発明されて、工業生産能力が世界最高水準だったのです。しかし、困ったことに売る場所が無い!というわけです。本国と汎アメリカ(ラテン、南米)はもう飽和状態です。「西欧」は、頑固にアメリカ製品をはじきます。しかたなしに中国市場を狙ったら、日本が立ち塞がりました。
「アメリカ」は、経済発展のために、「西欧」と日本の覇権を排除しなければならなかったのです!
「枢軸」は、当初は慎重に「西欧」と競合しないように侵略していたのですが、外交的手違いが重なって、ドイツが英仏と開戦するという非常事態が起きました。しかも、予想外のことに、ドイツ軍は圧倒的に優勢に戦いを進め、フランスは秒殺され、イギリスは袋叩きにあってそのブロックは壊滅状態になったのです。
これは、「アメリカ」にとって、願ってもない大チャンスです!欧州の戦争に介入すれば、壊滅状態のブロックを横取りできるし、返す刀でアジアに介入すれば、口実を設けて日本を叩きのめし、中国市場を席捲できるからです。
アメリカの経済力と工業生産力は、世界最強でした。戦争に介入しても負ける可能性はありません。近代戦は、おカネで勝負が決まるのですから。
いよいよ、おいしい投機が始まったのです!
3.アメリカの謀略
さてさて、アメリカさんは、戦争がしたくて仕方なかったのですが、一つ大きな問題がありました。それは、アメリカ人の大多数が戦争に乗り気ではなかった点です。
まあ、当たり前ですけどね。外国に、ただでモノやカネをあげられるくらいだったアメリカでは、国民は大して現状に不満はないわけです。また、ルーズヴェルト大統領は、三選を果たしたときの公約で、「アメリカを戦争に巻き込まない」と明言していたのです。民主主義国のアメリカでは、公約違反は許されません。
ルーズヴェルトとその取り巻きは、政治的詐術を企みました。すなわち、「枢軸」を挑発して、向こうから先に攻撃を仕掛けさせようと考えたのです。これなら、国民も納得し、奮起するはずです。
彼らは、最初にドイツを挑発しました。彼らは、あからさまに国際法を侵し、イギリスの商船団をアメリカの軍艦で護衛したのみならず、あろうことかUボートに威嚇射撃まで加えたのでした。
怒り狂ったドイツ海軍の首脳は、アメリカ船への魚雷攻撃を真剣に検討しました。しかし、ヒトラーが彼らを宥めて止めたのです。ヒトラーは、おそらくアメリカの意図を見抜いていたのでしょう。
ドイツが乗ってこないので困ったアメリカは、今度は日本を挑発することにしました。ただ、これはリスクが伴います。というのは、「日独伊三国同盟」は、相互防衛条約だったので、例えば日本がアメリカに事前の承諾無く攻撃を仕掛けた場合、ドイツやイタリアはこれに呼応する義務はないのです。ですから、日本がアメリカに喧嘩を仕掛けたとしても、独伊が中立を決め込めば、アメリカは欧州情勢にはスポンサーとしてしか介入できないわけです。単なるスポンサーでは、「世界市場」に対する浸透力は弱いから、片手落ちとなり、せっかくの大チャンスを生かすことができないわけです。自分たちの力でドイツを倒さなければ、戦後世界を本当の意味で牛耳ることはできませんから。
それでも、アメリカには日本イジメしか選択肢がありませんでした。
そして、日本は、これにまんまと乗せられたのです。
1941年12月。真珠湾攻撃。太平洋戦争の勃発です。
4.日本の事情・・・軍部の暴走
これまでは、アメリカの悪事について書いたのですが、実はアメリカが一方的に悪いわけでもないのです。喧嘩でも何でもそうですが、当事者の双方に問題があるから戦争になるのです。日本だって「困ったチャン」だったのです。
じゃあ、どういう具合に「困ったチャン」だったのか?
そもそも、アメリカはどう言って日本を挑発したのかとゆうと、「中国から撤退しろ!さもないと石油を止めるぞ!」と言ったのです。日本は資源の乏しい島国なので、石油や金属などの戦略物資は、全て「西欧」や「アメリカ」から買っていたのです。止められちゃったら、戦争ができなくなります。
アメリカが日本に勝つのは、実は簡単なことなのでした。兵糧攻めにかければ自滅するからです。ドイツ相手だとこうは行きません。ドイツは、戦争に必要な資源を自己調達できる状態になっていましたから(例えば、石油はルーマニアで採れる)。
つまり、日本という国は、「西欧」や「アメリカ」を相手に戦争してはいけなかったのです。日本人が世界の中で生きていくためには、資源を持つ国々と仲良くして、プラスイメージ(真面目で勤勉、手先が器用!)を常に発信しなければならないのです。今でもそうです。ところが、当時の日本は、世界に向けてマイナスイメージばかり発信していました。世界が日本に対して抱く一般的なイメージは、「血に飢えた凶暴な獣」でした。
どうしてそうなったのか?軍隊が暴走して、手当たり次第に戦争していたからです。その無軌道ぶりは、ナチスより酷いものでした。
例えば、現在の日本で、国土交通省に絶大な権力と無限の予算が与えられたと仮定します。彼らは何をするでしょうか?不急不要の橋やダムや河口堰や高速道路や原発や地方空港を造りまくって、この美しい日本の自然を破壊し尽くし、コンクリートの地獄にしちゃうでしょうね。・・・今でも、そうなりかけてますけどね。あの屋久杉や白神山地だって、ユネスコが介入しなければ、どうなっていたか分からないんでしょう?お役所っていうのは、自分の省益のためなら、日本国や日本国民が不利益を受けてもお構いなしなのです。本質的にそういうものなのです。だからこそ、政治家や国民がしっかりと監視しなければならないのです。
国交省らの暴走を想像しただけで、このような背筋が凍ることになるのですが、あの当時の日本というのは、事もあろうに陸軍省と海軍省が暴走しまくっていたのです。彼らは省益拡大の為に、むやみやたらと戦争をしかけていました。戦争すればするほど、予算がたくさんもらえて権益が増して、省庁の威信が高まるからです。日本の国益や国民生活は、悲劇的なまでに損なわれたのですが、偉いお役人というのは、そんなのどうでも良いのです。
どうして軍隊が暴走しちゃったのか?これは、たいへんに難しいテーマです。もともと日本には、江戸時代以来、官僚が政治にタッチする伝統がありました。いわば、天皇や政治家は、祭り上げられてしまうのです。 私はこれを儒教のせいだと考えています。「士農工商」の「士」というのは、もともと「官僚」のことだからです。
さらに、明治憲法の中に、天皇と総理大臣の政治的役割について、明確な規定が存在しなかったことも、この傾向を助長しました。まあ、その実態については、「終戦工作」のところで詳しく説明しますが、一番マズイのは、国家元首である天皇の政治的地位について、まともな議論が行なわれなかったという点です。象徴的なのは、美濃部達吉先生の「天皇機関説」論争です。「天皇機関説」というのは、実はちっとも特殊な議論ではありません。立憲君主国では、常識的な概念なのです。昭和天皇自身も、「朕は機関で構わぬと思う」と言っていました。それなのに、美濃部先生は弾圧されてしまったのです。先生を潰したのは、貴族院です。「不敬だ!」とかなんとか言って難詰したのです。こうして天皇は、政治機関としての権能を否定されてしまったのです。
総理大臣はどうか?大正時代というのは、総理大臣と官僚勢力との熾烈なバトルの連続でした。しかし、情勢は総理側に常に不利でした。憲法の不備のため、総理が権勢を振るうための法的根拠が薄弱だったからです。
さらに、マスコミが官僚勢力と結託し、常に官僚に都合の良いことばかり民間に吹いていました。・・・まあ、この傾向は現在でも同じですがね!
こうして、官僚を抑えようとした優秀な政治家は、みな失脚させられるか暗殺されてしまいました(山本権兵衛、浜口雄幸、原敬)。私見では、山本権兵衛は、とても有能な政治家だったと思います。彼は贈賄をマスコミにでっちあげられて失脚したのですが(シーメンス事件)、もしも彼の政権が長期化しておれば、昭和日本の悲劇はなかったはずだと思います。 原敬も同様です。
昭和に入ってからも、五・一五事件、二・二六事件と、政治家の暗殺が続発し、命が惜しい政治家は口をつぐむようになりました。
実は、天皇の命も危なかったという説があります。陸軍の中では、文人肌の昭和天皇よりも、武人肌の秩父宮を擁立しようという動きが盛んでした。昭和天皇も、口をつぐむしかなかったのです。
こうして、天皇も政治家も無力となりました。軍人官僚は、いよいよその野望に向けて邁進を始めます。それは、日本の破滅への道程でした。
5.満州事変と日中戦争
さて、いよいよ「満州事変と日中戦争」です。こんな重いテーマをびしばし書いちゃっていいのかなあ、と考える今日この頃でした。
既に述べたように、日本は世界市場から締め出された貧乏国だったので、手近な国を侵略する経済的必要に駆られていました。もちろん、侵略は良くない事ですが、あの時代は、そんな奇麗事が通用しない時代だったのです。ですから、日本の行為にも情状酌量の余地はあると思います。それにしても、やり方があまりにも稚拙だった!
悪者仲間のドイツは、びっくりするくらい巧妙な侵略をしましたね。オーストリア全土、チェコ全土、リトアニアの一部を、ヒトラーは口先だけで征服したのです!これは、世界史上類例を見ない快挙と言って良いでしょう。『孫子』の究極の理想「闘わずして勝つ」を地で行ったのです。ヒトラーは、いろいろと問題のある人物ですが、政治家としての能力は、超一流として誉めてあげるべきでしょう。
日本はどうかと言えば、軍事力で闇雲に突進し、しかもソ連、モンゴル、中国に片端から喧嘩を売っていました。まあ、仕方有りません。暴走したお役所のすることなんて、期待するほうが間違いですから。
念のために言いますが、お役人が悪人だったとは限りませんよ。彼らは、彼らなりに国のためを思って仕事をしていたのかもしれません。しかし、善意の行為が巨悪を招来することだってあるのです。特に、いわゆる「受験エリート」は、視野が狭くて想像力に乏しいですからね 。
さて、侵略の発端は、「満州事変」です。中国東北部が軍閥の混戦で無政府状態になっているのに付けこんで、朝鮮駐留軍がやにわに突撃して占領してしまったのです。これは、中央政府の意向を完全に無視した、出先の暴走でした。これを企画したのは、石原莞璽という中級将校でした。この人は、美化されて過大評価されているようです。まあ、当時の将校以上は、受験勉強のしすぎで独創性に欠ける石頭ばっかりだったので、その中では石原の個性が光るものであったのは確かでしょう。私は、彼の著書「世界最終戦争論」を読んだことがあります。噴飯モノの内容でしたよ。どういうことが書いてあったかというと、「日本は、アメリカと最終決戦を行なってこれを倒し、世界を征服する運命にある!」ってな感じ。なんか、ユダヤ教やキリスト教の終末観に似てるなあ、と思って調べてみたら、石原さんは案の定、日蓮系の新興宗教の信者さんだったのでした!こういう危険人物に、出先軍の指揮を委ねたことが間違いです。
一番いけないのは、石原ら暴走した軍の指導者が罰せられなかった点です。結果オーライとして、暴走の責任が問われることはありませんでした。陸軍省のお偉方は、別に石原が可愛かったわけじゃありません。石原を罰することになれば、彼を任用したキャリアくんにも責任が来るでしょう?それが嫌だから、責任自体を無かったことにしたのです。現在でも、お役所内部の庇い合いやら隠ぺい工作は、恒常的に行なわれているでしょう?あれが大きくなったものだと考えればいいのです。
とにかく、こうして石原は英雄になりました。一介の将校の分際で、政府に無断で外国を侵略した男が英雄になれちゃうわけです。一度認められた例外は、こうして原則へと昇格します。誰もが、第二の石原になろうと夢見たのです。
満州国は、国際連盟から否認されました。まあ、あんな拙劣なやり口では当然ですわな。それでも日本の軍隊は、あの国に居座りつづけ、事もあろうにその国境を押し広げようとして、ソ連、モンゴル、中国に喧嘩をふっかけたのです(それぞれ張鼓峰事件、ノモンハン事件、熱河事変)。いずれも、出先軍が勝手に仕掛けたのです。前2つは、ソ連軍が介入したために日本の野望は挫かれました。大勢の犠牲者が出たのですが、やっぱり身内の庇い合いをして責任を隠蔽しました。内地の日本国民は、終戦まで、ノモンハン事件の存在すら知らされなかったのです。
ノモンハンで生き残った将兵は、口封じのために中国との最前線に送りこまれ、全員戦死しました。なんか、薬害エイズ事件を思い出しますな。
日本という国の本質は、あまり変わっていないようです。
さて、熱河事変は、やがて日中戦争へと発展します。
当時の中国は、ちょうど三国志みたいになっていました。軍閥が割拠して戦国時代になっていたのです。日本が主に戦ったのは、奉天軍閥の張学良です。彼は、日本軍の謀略で父の張作霖を殺されていたので、日本の侵略に対して必死の抵抗を続けたのでした。彼の努力は、中国の勢力を一つに纏めます。すなわち、「第二次国共合作」です。
盧溝橋事件の原因については、諸説ありますけど、事の本質は日本政府がすかさず表明した「不拡大方針」を、出先の軍隊が聞かなかったという点にあります。功名にはやった彼らは、闇雲に中国奥地へと突撃していったのです。日本政府は中国と全面戦争する気は無かったので、もちろん宣戦布告は行ないません。しかし、中国各地では功名争いをする陸軍によって無垢の中国人が惨殺され、海軍の無差別爆撃で焼き殺されていったのです。理由も分からず殺される中国人の苦しみと悲しみは、いかばかりだったでしょうか。
日中戦争の本質については、私が読んだ限り、明確な説明をした専門書は存在しません。戦争の目的も分かりません。
麻薬中毒のイカレポンチが、刃物で通行人に切りつけたって、その動機は究明できないでしょう?
あまり言いたくはないのですが、あのときの日本も、それと同じだったのでしょう。もはや、国家として禁治産者だったのです。
政治家と外務官僚は、必死に戦争を止めようとしました。でも、軍隊が勝手に戦争を拡大してしまうのでは、手の打ちようがありません。国際的信用と国民の経済生活はガタガタです。でも、軍隊はそんなのどうでも良いのです。戦争すればするほど省益に資するからです。
アメリカは、最初は平和的手段で中国市場に参入しようと考えていました。市場に参入できるなら、なにも戦争をする必要はないからです。
しかし、日本がこんな状況では、アメリカの態度も硬化します。人殺しが大好きな野蛮人には、鉄拳制裁あるのみ!という気になったとしても仕方ないといえます。
この情勢に危機感を抱いたのは、近衛内閣の外相、松岡洋右でした。彼は、幼い頃にアメリカで極貧の生活を送った苦労人だったので、受験勉強しかしたことがないバカなキャリアとは格が違いました。彼は、アメリカの謀略を鋭く見抜いており、しかもアメリカと戦っても勝ち目が無いことを知っていました。しかし、彼が取った打開策は、結果的に最悪のものとなったのです。「日独伊三国同盟」の締結は、松岡にとって起死回生の策略でした。西の強国ドイツと手を握れば、アメリカは恐れて仕掛けてこなくなるだろうと考えたのです。松岡は、ドイツの実力を明らかに過大評価していました。アメリカの国力から見れば、ドイツも日本もゴミです。ゴミが2つ集まっても、ゴミゴミにしかならないのです。アメリカにとっては、ゴミを纏めて始末しやすくなって、かえってラッキーな結果となったわけです。
松岡は、真珠湾攻撃の日、自宅で号泣したと言います。彼には、日本の悲惨な末路が見えていたのでしょう。
6.日米の戦力比較
さて、いよいよ戦争になっちゃうのですが、ここで単純にアメリカと日本の戦力を比較してみましょう。ここで戦力というのは、ヒト、モノ、カネの三要素の結合体を指します。
まず、日本全体とアメリカ全体を単純比較すると、次のような比率になるでしょう。
1:20
ただし、アメリカは全戦力の7割を欧州戦線に振り向けていましたから、この比率は次のように修正されます。
1:6
ところが、日本は、既に全戦力の6割を中国戦線に投入していました。残りの4割で新たな戦いをするのですが、その相手はアメリカだけではありません。イギリス、オーストラリア、オランダとも戦わなければならなかったのです。そして、日本は資源獲得の必要上、東南アジア全土に兵力を分散させなければならなかったのです。従って、アメリカ軍に直接ぶつけられるのは、全戦力の2割が良い所だったでしょう。
従って、両軍の戦力比は、最終的に次のようになるのです。
1:30
どう思います?
私がマイク・タイソン(古い?)に喧嘩売ったようなものでしょう?
まともな頭で考えれば、とても勝ち目はありません。
もっとも賢い方法は、アメリカに謝って戦いを回避することでした。
そして、天皇と政治家たち(近衛や広田)は、その方向で閣論を調整しようとしたのです。すなわち、アメリカの要求の受託です。アメリカの要求は、前にも述べたように、「中国から撤退しろ。さもないと石油を売らないぞ」というものです。石油が手に入らない場合、日本は実力で取りに行かなければならないので、戦争になるのです。つまり、「中国から手を引くか、俺と戦争するか、どちらか選べ!」というものだったわけですね。実に分かりやすい要求です。日本が中国から撤退すれば、アメリカはその後釜に入って中国市場を支配しようとするでしょう。日本が戦争の道を選ぶなら、一ひねりに握りつぶして、やっぱり中国市場を奪うでしょう。
日本にとっては、究極の選択です。どちらを選んでも損をするからです。しかし、どちらが有利かと言えば、中国からの撤兵を選んだほうがまだマシなのは言うまでもありません。戦力を温存して、捲土重来を期すことができるからです。
しかし、日本はこのオプションを選ぶことが出来ませんでした。なぜか?もうお分かりですね。軍人キャリアくんが反対したからです。
国会で、連日のようにくだらない議論してるでしょう?数十年前に計画された公共事業なんて、とっとと廃案にすればいいのにねえ。どうしてうまく行かないかというと、キャリアくんが猛反対するからです。彼らにとっては、計画済みの事業は既得権益の一種なのです。だから、筋の通らぬ屁理屈を言って、みんなを煙に巻いて問題を先送りにするというわけです。これが、偉い役人の習性なのです。彼らは、一度広げた風呂敷を、決して自分からは畳もうとしない人種なのです。
日中戦争も、陸軍のキャリアにとっては既得権益なのです。これを畳むことは、省益の縮小を意味するのです。だから、「死んだ兵士に申し訳がたたないから」などと訳のわからぬ屁理屈を言って、断固として撤兵に反対したのでした。死んだ人の事よりも、生きてる人の幸せを考えろよな、まったく。・・・おっと、ついつい私見が。
もっとも、海軍省はアメリカとの戦争に自信がありませんでした。アメリカの実力を知っていたからです。
陸軍省は、アメリカの事をどう考えていたのか?実は、何も考えていなかったのです。どうしてか?お役所というのは縦割りでしょう?陸軍の役目は、ソ連や中国と戦うことだったので、アメリカの事なんぞ眼中に無かったのです。管轄外の事は、知る必要すら感じなかったというわけです。一部の陸軍軍人は、こんなことを吹いてました。「アメリカなんて民主主義国なんだから、国民は弱虫に決まっている!」「大和魂があれば、一人で十人のアメリカ兵を倒せるはずだ!」。要するに、何も知らなかったのです。
天皇と政治家は、海軍省に働きかけて陸軍を説得しようとしました。しかし、海軍省は陸軍省と仲が悪かったし、腰抜け呼ばわりされるのが嫌だったので、グズグズ言って何もしませんでした。縦割りの役所どうしなんて、いつの時代でもそんなもんです。
天皇と政治家の最後の切り札は、東条英機の起用でした。東条は陸軍の人なのですが、律儀で真面目な教養人だったので、天皇や政治家の言う事を良く聞いたのです。東条は、不退転の決意で陸軍省の説得に乗り出しました。しかし、その決意は、厚いお役所の壁に阻まれて画餅となったのです。まあ、橋本龍太郎や青島幸男の末路と一緒ですな。
こうして、日本は自殺的な戦争への道に突入したというわけです!
7.日本海軍の戦略
アメリカとの戦争が始まった場合、その矢面に立つのは海軍です。そこで、海軍の戦略について見ておきましょう。
海軍は、陸軍よりまともだったという説があります。多分、そうでしょう。でも、お役所という点では同じだったわけです。太平洋戦争勃発直前の海軍の戦略は、以下のようなものでした。「日本列島に大挙襲来するアメリカ艦隊を待ち伏せして、東京の沖合いで全滅させる」。
つまり、日本海海戦とまったく同じパターンを狙ったのです。アメリカに資源を止められたらどうなんのか?潜水艦に商船を狙われたらどう対処するのか?そもそも、アメリカ艦隊が大挙襲来しなかった場合はどうするの?想定外事項だらけの穴だらけの戦略だったのです。
どうも、海軍のキャリアには、想像力というものが無かったらしいです。まあ、受験勉強が得意な人は、想像力が無くなる傾向があります。みなさんも、気をつけましょうね。
戦艦大和や武蔵のような、燃費の悪い足の遅い船を造った理由は、戦場が日本近海に限定されると思い込んでいたからです。大和や武蔵が戦争中あまり活躍できなかったのは、偶然ではないのですよ。
ともあれ、日本はアメリカと戦争することになっちゃいました。しかも、資源を取りに行かなければならないので、戦場は日本近海どころじゃありません。東はハワイから、南はニューギニア、西はインドまで、まったく予想しなかった規模の戦場で戦う羽目になりました。海軍は、その戦略を一から十まで、大慌てで組みなおしたのです。
最大の功労者は、やはり山本五十六大将でしょう。彼はその能力を誇張される傾向にありますが、戦略家として非凡であったことは間違いないでしょうね。真珠湾攻撃というのは、従来の常識を越えた革命的な大戦果でした。ただ、その内容が宣戦布告前の奇襲だったため、アメリカ人を大いに怒らせ、かえってその戦意を高めてしまいました。
アメリカ人は今でもそうですが、嘘とか卑怯とかを蛇蠍のように嫌います。クリントンが弾劾されたのは、厚化粧の姉ちゃんにエッチしたからではなくて、法廷で嘘をついたからでした。日本軍の真珠湾が今でも悪く言われるのは、アメリカの損害が大きかったからではなくて、そのやり口が卑怯な騙まし討ちだったからです。みなさん、アメリカ人と付き合うときは、気をつけましょうね。
もともと、山本は、宣戦布告直後に真珠湾を攻撃する予定でした。どうして手違いが起きたかというと、外務省がアホウだったからです。
第一のアホウは、アメリカの大使館員が飲んだくれて職場にいなかった事です。第二のアホウは、緊急の宣戦布告文書だというのに、東京の役人が、日本語で何十ページもあるものを作って送った事です。翻訳が間に合わなくて、真珠湾攻撃前にアメリカ政府に宣戦布告できなかったのです。当時の日本の役人は、バカの生け造りだったのでしょうか?誰か責任とったの?まさかね。身内で庇い合ってうやむやにしちゃいましたよ。
ともあれ、ついに戦争がはじまったのです。
日米の戦力差は1:30です。しかし、短期的にはその差を大きく縮められる可能性がありました。なぜなら、日本海軍は、アメリカ軍に対して戦術的に優位に立っていたからです。すなわち、1主力戦闘機ゼロ戦(零式艦上戦闘機)の性能が世界一だった。2新型魚雷(酸素魚雷)の威力が世界一だった。3航空機乗りの技量が世界一だった。
世界一というのは誇張ではなくて事実です。例えば、インド洋海戦の時の、日本軍爆撃機の爆弾命中率は、95%でした。20発撃って19発命中したのです。スカッドミサイル並みの凄さですねえ。
山本五十六連合艦隊司令長官は、この戦術的優位を生かして、アメリカ軍の出鼻を挫こうと考えたのです。うまくやれば、半年か1年は互角に戦えると考えたのです。その間に、世界情勢が急転し(例えば、ドイツがソ連とイギリスを負かすとか)、アメリカと和平交渉するチャンスが生まれるかもしれないわけです。
長期戦になれば、日本の負けは確実です。数の上で劣るのはもちろん、戦略能力でも大幅にアメリカに劣っているのが実情でした。例えば、戦争や経営でもっとも重視されるのは「情報」です。アメリカは、無線通信やレーダー、さらには暗号解読技術に優れていたのです。さらに重要なのは、ロジスティック(補給兵站)技術です。アメリカの研究は、こちらの面でも世界一進んでいました。
日本の短期的優位は、時間の経過と共に確実に消滅します。ですから山本は焦ったのです。どうして、ワンセットしかない虎の子の艦隊を、休息も取らせずに太平洋からインド洋へと酷使しつづけたのか?文字通り、寸暇を惜しんで軍事成果を挙げつづけなければならなかったからです。この焦りが、ミッドウェー海戦へと発展するのでした。
8.日本に勝ち目はあったのか?
さて、具体的な戦局の話に行く前に、ちょっと寄り道してアメリカやドイツの動向を見ておきましょう。歴史というのは、日本のみならず、月や火星やイスカンダル星まで含んだ広い視野で見渡さないと、本当の事が分からないからです。学校教科書や学者の専門書がイマイチ面白くない理由は、記述の範囲が縦割りになっているからだと思うのですが、どうでしょう。
話は、真珠湾攻撃の時点に遡ります。
アメリカは、大喜びです。日本軍が卑怯な騙まし討ちをしてくれたお陰で、アメリカ国民の戦意は燃え上がり、日本人を再起不能にするまでは戦いを止めるな、という世論が形成されたからです。まあ、マスコミの宣伝も上手だったんですけどね。正義のアメリカVS悪の枢軸というイメージはアメリカ国民の大多数に受け入れられました。アメちゃんは、昔から正義と悪、みたいな分かりやすいスローガンが大好きです。気性がまっすぐなのか?脳細胞が単純なのか?まあ、政治家にとっては、やりやすいっすね。
さらにアメリカを喜ばせたのは、真珠湾攻撃の三日後、ドイツがアメリカに宣戦布告したことです。ヒトラーが、側近の反対を押し切って、独断でこれを決めたのでした。既述のとおり、ドイツが日本に義理立てする必要は、条文の上では無いのです。ヒトラーは、何を考えていたのでしょう?
おそらく、日本軍の実力を過大評価していたのではないでしょうか?良く知られているとおり、ヒトラーは狂信的な人種差別主義者です。彼からみれば、黄色人種の日本など、ゴミみたいな存在のはずです。しかし、だからこそ「日露戦争」での日本の勝利のイメージが、彼の中で大きかったのでしょう。「ロシアを倒した日本なら、アメリカだって倒してくれるさ」と思い込んでしまったのでしょう。
ドイツは、このころ深刻な袋小路に迷い込んでいました。ソ連に対する攻撃が、失敗に終ったからです。そして、最前線のドイツ軍の前には、アメリカ製武器で武装したイギリス軍とソ連軍が、無尽蔵に襲い掛かっていたのでした。ヒトラーは明敏な男でしたから、このまま情勢が推移すればドイツの敗北は必至だと考えたに違いありません。情勢を大きく動かす転機を待望したのです。彼は、真珠湾攻撃の報告を聞いて、こう叫んだといいます。「ついに転機が訪れた!我々は、3000年間一度も負けたことがない同盟軍を手に入れたぞ!」
地球の反対側で、日本の有識者はどう考えていたか?「我々が粘り強く戦っていれば、きっとドイツが情勢を変えてくれるさ!」
要するに、ドイツと日本は互いに過大評価する甘えっ子の関係だったのでした。典型的な成田離婚カップルみたいですな。
ともあれ、アメリカにとっては、ベストの事態になったわけです。日本とドイツを全力で踏み潰し、その過程で「西欧」の市場と中国市場をいただけるからです。ただ、優先順位は「西欧」市場だったので、欧州方面に全戦力の7割を持っていくという偏った配分をしていました。そのせいもあって、真珠湾での大損害は、アメリカ軍の太平洋での戦力を大幅にダウンさせたのです。
ルーズヴェルトは、真珠湾攻撃を知っていたのでしょうか?その可能性は大きいと思います。しかし、まさかあれほどの大損害を受けるとは、予想していなかったでしょう。ルーズヴェルトは、有名な人種差別主義者だったので、日本人の能力をバカにしていたのかもしれませんね。
ともあれ、戦時体制に移行したアメリカ経済は、物凄い勢いで大量の兵器を生産していました。また、若者たちは争って軍隊に志願し、過酷な訓練過程を消化しつつありました。だから、勝利は時間の問題だったのです。
日本は、この戦争に勝つ可能性があったのか?
残念ながら、答えは否です。
まず、アメリカ軍が和平交渉のテーブルに就くはずがありません。なぜなら、戦争を止めなければならない要因が一つも無いからです。
「日露戦争」の敵国ロシアは、貧乏の上に、国民の戦意が最悪のレベルに達しており、戦争の長期化は財政の破綻と市民革命をもたらす事が必至だったので、日本との和平に応じるしかありませんでした。
しかし、アメリカは、これとはまったく逆なのです。おカネも資源も有り余ってます。国民の戦意も強固ですから、ルーズヴェルトが戦争を止めるなんて言い出したら、かえって首が危なくなるでしょうね。しかも、戦争を続ければ続けるほど、西欧やソ連や中国に恩を売ることが出来、戦後世界に影響力を与えられるという情勢でした。
ある宝くじ売り場に、確実に10億円当たるくじがあるとします。みなさんなら、どうしますか?短期的な持ち出しを覚悟で、その店のくじを、全て買おうとするでしょう?アメリカだって同じです。仮に、ミッドウェー海戦で艦隊が全滅したとしても、その損失は確実に時間が埋めてくれるのですから。
でも、どうせ最後は負けたにしても、日本軍の戦いぶりはお粗末極まりないものでした。それは何故か?次章以降で、具体的な戦局について説明します。その過程で、明らかになることでしょう。 
 
太平洋戦争の原因 3

 

太平洋戦争の原因は欧米の策略にハマった日本政府!?
 真珠湾攻撃前は反戦が蔓延していたアメリカ!今も政府は同じ?
戦後70周年ということで太平洋戦争を改めて振り返ってみると、当時の日本政府は欧米諸国の策略にハメられて戦争を開始した事が分かります。
太平洋戦争が始まる1941年という年は、ヨーロッパでナチス・ドイツが世界を相手にして全面戦争を継続中でした。ナチス・ドイツは第一次世界大戦で奪われた領土を復活させるために、1939年にポーランドへ侵攻します。ポーランドはイギリスやフランスと同盟を締結していたことから、ドイツと連合軍の戦争が始まりました。
最新兵器の戦車を効率的に使ったドイツは僅か1年足らずでポーランドやベルギー、ルクセンブルク、デンマーク、フランスなどを次々に掌握し、イギリスとソ連以外のヨーロッパを制圧します。
そこで、窮地に追い込まれた連合軍の盟主であるイギリスは友好国のアメリカに参戦要請をしていました。しかしながら、アメリカ国民は第一次世界大戦で多数の死者を出した影響などで、ドイツと戦うことを拒否。アメリカのルーズベルト大統領らは参戦に好意的な考えを示していましたが、前から続けていた孤立主義政策もあり、国内の世論は「戦争参加には断固反対」となっていたのです(いわゆるモンロー主義)。
このような情勢で1941年12月7日に日本軍がアメリカに奇襲攻撃を仕掛けてしまいました。同時の新聞記事や文献を見てみると、イギリスの首相であるチャーチル氏は「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床につき、救われた気持で感謝しながら眠りについた」と語っています。
日本はドイツと同盟を締結していたことから、アドルフ・ヒトラーは真珠湾奇襲攻撃を「奇襲とは素晴らしい!」と評価した上でアメリカに宣戦布告しました。
そもそも、日本がアメリカに攻撃した最大の理由は石油資源の禁輸とアメリカからの最後通告「ハル・ノート」だったと言われています。あまり知られていませんが、太平洋戦争前は日本とアメリカはある程度の友好国でした。アメリカには日本人街もあり、日本はアメリカから大量の資源を輸入していたのです。
その輸入資源は日中戦争をキッカケに強制終了となり、更に厳しい条件を要望した「ハル・ノート」をアメリカが日本に通告します。上記でも書いたようにアメリカの国内情勢は反戦感情が主流だったことから、アメリカから日本に攻撃することは出来ませんでした。アメリカはあえて日本を怒らせることで、世界大戦に参戦する口実を作ったと指摘されています。
真珠湾攻撃陰謀説 / 1941年12月8日(現地時間は7日)の大日本帝国海軍の真珠湾攻撃を、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本や、終戦後のアメリカでも唱えられていた。現代では前任者フーヴァーやマッカーサーなどのルーズベルト非難が明らかになっている。
ただ、日本側も間抜けな部分が多く、アメリカから石油資源の7割を輸入していたのに、太平洋戦争の数年前にアメリカが狙っている中国に全面戦争を仕掛けました。日中戦争をキッカケにアメリカと日本の関係は壊れ出し、最終的には太平洋戦争開戦の決断につながります。
日本の軍部が中国支配を強く主張していたというのもありますが、諸外国に利用されるようなスキを作ったのは日本政府です。軍部の暴走を止めることが出来なかったことを含め、未だに適切な判断力が無い状態が続いているように見えます。
仮に日本が中国撤退を決断し、アメリカと大陸権益を二分することに合意していれば、第二次大戦はドイツの勝利に終わっていたかもしれません。ソ連がドイツに粘れたのもアメリカが参戦をキッカケに大量の資源を援助したのと同時に、日本と対峙していた精鋭部隊を欧州に送り込めたからです。
日本が参戦を決定しなければ、アメリカの支援量にも限りがあるでしょうし、連合軍のノルマンディー上陸作戦も無かったと思います。イギリスとソ連は険悪の関係にあったことを考えると、アメリカ抜きで1年以上も戦うことは厳しかったはずです。大日本帝国とナチス・ドイツが存在している現代というのも色々と凄いですが、太平洋戦争は色々な要素や要因が組み合わさったことで発生した戦争だったと言えます。
*太平洋戦争直前の日本は世界三大海軍国の一つで、世界5大国に入るほどの国力がありました。それも開戦の後押しに。 
 
太平洋戦争の原因 4

 

はじめに
歴史に関する基本的態度について
歴史について述べる場合には、その基本的態度や考え方を明確にしておくことが必要ですが、私の基本的立場は以下の通りです。
[マルクス史観について]
マルクス史観には反対します。なぜならマルクス主義を信奉する国では人々は革命の道具にしか過ぎず、自由と人権を抑圧して不幸にするからであり、マルクス主義(正確にはマルクス・レーニン主義)を正当化するために、歴史を歪曲しているからです。当然のことながら「マルクス主義」に忠実であればある程、「マルクス主義」にとって有利な事柄を過大に評価し、その反面不利な事実を無視し、時には歴史を平気でねつ造するという極端な偏向性を示すからです。
歴史を検証すれば明らかな如く、共産党、社民党(旧社会党)などの左翼主義政党がどれ程言葉巧みにその綱領を書き換え偽装してみても、マルクス主義の究極の目的は、手段を選ばない階級闘争による、社会/共産主義革命の実現です。
そのイデオロギーの信奉者が主張し、本に書き、教える歴史とは、真実や公平性とは無縁のものです。彼等にとって最も重要なことは真実よりも、イデオロギーを守ることだからです。
[共産党の仮面]
過去の歴史を見れば昭和20年(1945年)12月1日に開催された第4回共産党大会において、共産党は軍事的、警察的天皇制権力によって強行された強盗侵略戦争によって云々と天皇制を最大級の言葉で非難し、日本共産党行動綱領では真っ先に天皇制の打倒を掲げました。それ以来天皇制は共産主義にとっては容認できないものとして、長年廃止を主張してきました。
ところが平成16年(2004年)1月の第23回共産党大会では、共産党は綱領を変更して天皇制を認めることに決めましたが、結党以来半世紀以上も天皇制打倒を叫んできた連中が、急に共産主義が天皇制と共存できるなどと言ったところで、まともに信じる者は誰もいません。それまでプロレタリア(労働者)独裁を叫んできた連中が、選挙の度に議席を減らす共産主義の退潮を食い止めるために、やむを得ずに「狼」が、一時的に羊の皮を被って偽装したのに過ぎないからです。
[人間は革命の道具、マルクス主義の思想的失格]
ケ小平に率いられた共産主義の中国が、それまでの統制経済政策を放棄して1978年から改革解放、市場経済路線を導入しましたが、その理由は行き詰まった共産主義経済と決別し、資本主義経済への実質的転換を図るためでした。
マルクス主義総本山のソビエト連邦が1991年に崩壊し共産党が解体され、頑迷な北朝鮮が未だに飢餓や貧困にあえぐのは、人々を革命の道具とみなして自由と人権を奪うことに尽きるマルクス主義や、そこから派生した主体(チュチェ)思想の欠陥が露呈したからです。
つまり「マルクス主義」がソ連における70年以上にも及ぶ「社会実験」の結果から、思想的失格を宣告され否定された明白な証拠です。ちなみに
マルクス・レーニン主義を標榜する共産主義の中核理論とは、私有財産を否定した、共有財産制の実現。
1. 労働価値の平等(個人の能力、労働意欲とは無関係な賃金制)。つまり勤務評定に反対する、日教組の主張の原点はここ。
2. 全ての宗教の禁止。
3. 共産党による、一党独裁の政治体制の実現。(中国共産党・北朝鮮労働党)
です。
[イデオロギーの下僕になると]
敗戦後東大教授の大内兵衛(おおうちひょうえ、1888〜1980年)に率いられ、隆盛を極めたマルクス経済学派も今ではさすがに影を潜めましたが、歴史の分野では依然としてマルクス史観がはびこっています。イデオロギーの下僕(げぼく)たちが「マルクス主義」が失格し否定された世界の趨勢、歴史の現実に目を向けようとせず、学派の衰退や彼らの信念の否定、ひいては失職につながる事態を、頑なに拒否し続けているからです。
イデオロギーとは一般人にとって、思考力や判断力を失わせる麻薬のようなものです。イデオロギーに身を託してさえいれば、問題に対する全ての答えを、党の指導部やマルクス主義を信奉する仲間達が教えてくれるので、自分で考え判断する必要が無くなるからです。そこでは教えられた正しい答え(?)を、子供のように無邪気に信じるだけで良いのですから。
[朝鮮戦争の原因について]
ソビエト連邦崩壊の結果、ソ連内部の資料や公文書が公開されましたが、それによれば北朝鮮の金日成が武力による朝鮮半島統一を計画し、スターリンに対して南の解放は短期間で成功すると述べたので、彼が金日成に同意を与えました。その結果、北朝鮮が韓国を侵略し朝鮮戦争を起こした事実が明白になりましたが、ではなぜ金日成は戦争に踏み切ったのでしょうか?。彼は朝鮮半島に戦争が起きても、アメリカは介入しないだろうとする彼の判断をスターリンに述べていました。
その根拠となったのが、昭和25年(1950年)1月にアメリカのアチソン国務長官が上院の外交委員会及び、ナショナル・プレスクラブの演説で明らかにした下記の主旨の演説でした。
朝鮮半島は、我々アメリカの防衛地域から除くこの発言はアメリカにとっては大失敗であり、その結果5ヶ月後の6月25日には朝鮮戦争が起きましたが、金日成にとってもアメリカの参戦や国連軍の派兵は想定外のことでした。彼の計画では李承晩(リ・ショウバン)大統領の下で腐敗堕落し弱体だった韓国を容易に解放(占領)することができ、朝鮮半島を武力により統一できると判断して朝鮮戦争を始めたのでした。
注1 / 歴史のねつ造(その一)
昭和34年(1959年)に発行された岩波新書の「昭和史(新版)」、著者グループ、藤原彰、今井清一、遠山茂樹、における記述によれば、1950年6月23日、在日アメリカ空軍戦闘機部隊は、九州に集結した。そして25日、北朝鮮が侵略したという理由で、韓国軍は38度線を越え進撃した。
つまり朝鮮戦争の原因は、米軍の支援のもとに韓国側が仕掛けたとする大ウソが、歴史書に堂々と書いてありました。左翼主義の歴史学者達がどのような思想信条を持とうともそれは本人の自由ですが、問題はマルクス主義にとって有利になるように、意図的に歴史の真実を歪曲して記述したことの是非です。それは目的の為には手段を選ばない、マルクス主義者の常套手段でした。
注2 / 歴史のねつ造(その二)
当時の社会党(現・社民党)は党の公式文書である「朝鮮をめぐる情勢と、当面する我が党の政策」、[昭和49年(1974年)6月発表]において、朝鮮戦争は、米軍が北朝鮮を侵略したのが原因である。
と明確に規定しました。マルクス主義を信奉する政治家、言論人、歴史学者、教育者達はこれに基づき、ねつ造された歴史を真実とする発言を公式の場で長年繰り返すと共に、虚偽の歴史を本に書き、学校でも日教組の教師達が虚偽の歴史を生徒に教えてきました。
注3 / 歴史のねつ造(その三)
[北朝鮮の代弁者・社民党(旧社会党)]
拉致の問題についても社民党(旧社会党から1996年に名称変更)は平成9年(1997年)以来、5年間も党のホームページに掲載してきた、「食料援助を拒否する日本政府」という下記の拉致否定論文を、小泉、金正日会談で拉致の真相が判明してから17日も経った平成14年10月4日になって、他から指摘を受けてようやく削除しました。
拉致疑惑事件は朝鮮(北)に食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件であり、横田めぐみさんの事件についても、朝鮮(北)には日本人少女を拉致する理由がない。証拠は何一つ無いでっち上げ事件である。
と述べていました。歴史をねつ造するだけでなく社会党(現・社民党)は北朝鮮に対して過去20回も訪朝団を派遣して親密な関係を築きましたが、昭和40年(1965年)に調印成立した日韓基本条約の存在を平成5年(1993年)まで28年間も認めず、しかも朝鮮を代表する国は唯一北朝鮮だけであるとするドグマ(思想上の独断的教義)により、1988年にはソウルでオリンピックが開催されたにもかかわらず、韓国の存在を長年認めませんでした。
北朝鮮の代弁者として拉致事件の存在そのものを長年否定し続け、拉致事件の真相が明らかになった以後も、あろうことか朝鮮労働党との友党関係を未だに保持していますが、これこそ正に社会主義革命を目指す、イデオロギーの権化(ごんげ、特性のかたまり)というべきものです。
その対応を含めて、北朝鮮、中国、ソ連をこれまで熱心に擁護し、地上の天国とまで礼賛し、その宣伝に荷担してきたマルクス主義者達は、歴史の真実が明らかになった後も自らが犯した過去の発言、主張の過ちを訂正、謝罪もせずにいます。そして今も恥じることもなくマスコミ業に従事し、国会議員を務め、歴史について論評し、教科書を書き、学校では児童、生徒に平和教育と称して、マルクス主義に偏った思想教育をしています。
[工作船の引き揚げにも反対]
平成13年12月22日夜、高速で日本の領海から逃走中の北朝鮮工作船が発砲したために、追跡中の巡視船「あまみ」、「きりしま」、「いなさ」が被弾しましたが、このため、巡視船側が反撃したところ、逃げられないと思ったのか同船は自爆して、九州南西の水深90メートルの海底に沈没しました。ところが工作船を引き揚げる件に関して、社民党や左翼主義者たちが反対しましたが、北朝鮮の国益擁護のためのその主張とは工作船を引き揚げれば、北朝鮮との間に修復できない亀裂が生じるということでした。工作船の引き揚げを阻止することにより、日本人の拉致や麻薬の密輸などに使用された明確な物的証拠の隠蔽(いんぺい)を図ろうとしましたが、警備当局の北朝鮮による犯罪の証拠保全のため引き揚げるべしという主張を世論が支持したために、引き揚げられました。その結果工作船の船体構造はもちろん、船体内部に格納し、麻薬運搬、人員の密出入国用に使用した小型連絡艇やロッケット発射器、機関銃、小銃など、1,000点以上の証拠品が押収されました。
注 / 北朝鮮への卑屈な態度
これについては以下のおもしろいエピソードがあります。昭和53年(1978年)の第5次訪朝団の際に、キム・イルソン(金日成)主席との会食で、北朝鮮側の人間が主席の質問にいちいちハシを置き、起立して答える様子を見た社会党の連中が、いつの間にか、主席の質問に同じように起立して答えるようになった・・・というものでした(原彬久著『戦後史のなかの日本社会党』中央新書より)。
つまり20回も訪朝していながら日本の政党人、政治家としての品位に欠ける、卑屈な態度を取り続けることに務めたのでした。社会党の代表団は訪中もしていましたから、そこでも中華人民共和国に対する属国の代表として相応しい(?)態度を取っていたに違いありません。
[賞味期限切れ]
社会党(現社民党)は平成2年(1990年)の衆議院選挙では136議席も獲得しましたが、その後明らかにされた北朝鮮や中国に対する追従一辺倒の姿勢が国民から愛想をつかされ、それ以後は選挙の度に議席を減らし続け、平成15年(2003年)の選挙では議席が三分の一に激減しました。土井党首自身も兵庫7区(西宮)の小選挙区で落選して、比例区でようやく復活しましたが、社民党は僅か6議席しか得られませんでした。
土井党首は平成9年(1997年)10月23日、東京都千代田区の朝鮮会館で開かれた金正日総書記、推戴祝賀宴にも出席していましたが、まさに「朝鮮総連詣で」の典型でした。平成17年9月の選挙でも、棚からボタ餅式に自民党比例区から議席を一つもらったものの、土井センセは落選し、秘書給与をだまし取り詐欺罪で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受けた辻本清美センセも地方区で落選し、比例区でようやく当選しましたが、社民党は7議席しか取れませんでした。
時代の変化にも気が付かず、バカのひとつ覚えのように時代錯誤の護憲念仏や自衛隊反対に「うつつ」を抜かしていては、賞味期限が切れた社民党に対する選挙民の支持を失うのは当然のことです。
[反核運動の本質]
彼等は昔から米国の核実験は「侵略戦争に使用する為」と称して反対してきましたが、ソ連や中国の核実験は「平和を守る為である」として反対しませんでした。放射能自体に侵略や平和の区別などあるはずがなく、危険なレベルの放射能はあくまでも危険なはずですが、ソ連や中国を革命の先輩であり祖国と仰ぐマルクス主義者が唱える平和や反核運動とは、それほど偏向した内容なのです。
毎年8月になると旧社会党(現社民党)、総評系の左翼主義者たちが主催する原水協、(原水爆禁止日本協議会)と、共産党系が主催の原水禁の2派に分かれて、核兵器反対の集会が広島と長崎でおこなわれています。日本に核の脅威を現実に与える左傾した韓国の核開発によるプルトニュム抽出事件や、2005年2月10日に北朝鮮が発表した核兵器保有宣言について、左翼主義政党や反核運動をする連中は、抗議や反対もせずに黙認していました。
これこそ正に西側の核についてだけ反対するという、左翼主義の忠実な下僕(げぼく)に過ぎない反核運動の本質を露呈したものです。
[自虐史観]
自虐史観にも異議があります。個人に長所、短所がある如く、いずれの国の歴史にも光と陰、功と罪の部分が存在します。その人や国を貶(おとし)める目的で、ことさら短所や陰、罪の部分だけに光を当てることは公平な態度とはいえないからです。
まして近隣諸国の「陰や罪の部分」には目を塞いでおきながら、それらの国の主張を事実かどうかの検証もせずに無批判に受け入れてその主張を代弁し、自国(日本)の過去の行為のみを声高に非難する行為は、日本国籍所有者としての態度として理解し難いものです。
愛する人や国を批評する際には根底に、その人や国に対する暖かい気持ちが必要です。「あら探し」という悪意の視点からしか日本の歴史を見ようとせず、しかも歴史について是々非々(良い所は良い、悪い点は悪いと公平率直に判断する)の態度を取ろうとしない人達は、中国、韓国、北朝鮮などの「召使い」か、それらの国の精神的国籍所有者なのかも知れません。
まして国の将来を担う児童、生徒に対して、偏った視点から日本の陰と罪についてのみ教育することは日本人としての誇りを失わせ、日本の国土やそこに住む人達を愛する心の育成を阻害するのは当然です。自虐史観を主張し支持する者達は国際的な常識である自国や自国民を愛する気持ちを否定し、代わりに彼等が憧れ、思いを寄せる中国や朝鮮半島の国の利益を意図することに間違いありません。さらにそれらの国の意向に従い、戦争や植民地支配などの加害責任について世襲制さえ導入しようと主張しているのです。
参考までに植民地支配について謝罪し補償した国は、G−8諸国を初め、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダなどの旧宗主国のうちで、日本以外にありませんが、それが国際社会の常識だからです。国際常識に無知な日本は、韓国などに際限の無い謝罪とカネの支払いを要求され、応じています。
注 / かつて江藤隆美元総務庁長官が朝鮮半島の植民地支配について、日本も悪いことだけでなく、良いことも行ったと発言しました。この発言に対して韓国が強く反発し、その尻馬に乗って日本のマスコミや、自虐史観の支持者も一斉に非難しました。しかし日本の植民地政策を見た場合、「欧米の植民地収奪支配国に比べて格段に優れた統治政策」が存在したことは否定できない事実でした。
[皇国史観]
だからといって皇国史観を採るつもりはありません。日本の長い歴史の中で天皇が自ら政治をおこなった期間は敗戦までせいぜい5百年前後でしたが、その期間を除き天皇は庶民にとっては無縁の存在でした。
皇国史観華やかなりし戦時中でも私達が国史(歴史)の時間に習った天皇、皇后の敷いた善政とは、124人もいた歴代天皇の中で僅か2例だけでした。第16代仁徳天皇が、高殿から見て民の「かまど」から立ちのぼる炊煙が少ないのに気付き、3年間租税を免除した事と、奈良の正倉院に第45代聖武天皇の遺品を納めたことで有名な光明皇后(701〜760年)が、病人の為に悲田院、施薬院を建てて社会事業をおこなったことだけでした。
明治維新以後軍国主義と共に盛んになった皇国主義(史観)は、ともすれば愛国主義と同一視されますが、両者は峻別されなければなりません。
皇国民教育を受けて育ち、敗戦当時は小学校6年生でした私にとって天皇制とは、千数百年以上もの間マッカーサーを含めて時の政治権力者に、その権威を利用されることのみに存在意義・価値があり、国民にとっては有害無益な寄生虫であると思ってきました。
しかし年を取るにつれて考え方も穏やかに変わり、世界に例がない125代(?)も続く天皇制の文化財的価値/生きている文化遺産から、その存在を認めてもよいと思うようになりました。誤解のないように申しますが、象徴天皇の「王制復古」や「親政」を願うつもりなど、毛頭ありません。
注 / 日本書紀、巻11(仁徳天皇)
群臣に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「朕(ちん)、高臺(たかどの)に登りて、遙かに望むに、烟気(けぶり)域(いき)の中に起たず。以為(おも)ふに百姓(おおみたから)既に貧しくして、家に炊(いいかし)く者(ひと)無きか−−−。」・・・(中略)・・・「今より以後(のち)三年(みとせ)に至るまでに、悉(ことごとく)に課役(えつき)を除(や)めて百姓(おおみたから)の苦(たしなみ)を息(いこ)へよ」とのたまふ。
[概略の意味]仁徳天皇が高殿に上って大阪平野を望むと炊事をする煙が見られなかった。人々が貧しくて食事を作る者がいないようなので、今後3年間は税を免除することにしようといわれた。
彼は慈悲深い為政者として歴史書に名を残しましたが、死後はエジプトのクフ(Khufu)王の大ピラミッドや蓁(しん)の始皇帝の墳墓よりも大きい、三重の水濠を持つ世界最大の墳墓である仁徳天皇陵(前方後円墳、長さ486メートル)に葬られました。
この事実から強大な権力を持つ独裁者であったに違いありません。なぜなら巨大な陵墓を作るに要した労働力を、京都大学工学部の高橋逸夫(いつお)氏が計算した例があります。
それによると仮に1立方メートの土を1人が1日に250メートル運ぶとすれば、延べ140万6千の工数(マン・パワー)が陵墓の造営に要したと推定されます。したがって1日千人の労働力を使用しても約4年近くの歳月が必要となります。彼の施した仁政と、人口の少ない四世紀に仁徳陵造りに駆り出された多くの人々の苦しみとを、どのように整合させればよいのか判断に迷います。
愛国心から
普段は自覚しない日本という国や日本人を愛する心は外国との比較において、あるいは外国を訪れて外から日本を見ると、日本という国の良さが改めて分かり、そこから国を愛する心が自然に生まれるものです。敗戦から半世紀以上が経過しましたが、その間、国内外の政治的意図やイデオロギーによって、歪められた歴史や、偏った歴史の見方を改めることが日本の将来にとって必要と考えました。
その観点から古希を迎えた男がこれまで思ったこと、調べたことを、身の程をわきまえずにHPに掲載することにしたものです。
1 他人任せの思考プロセス

 

多くの日本人、特に戦後の教育を受けた若い世代の人達は、太平洋戦争は日本が始めた侵略戦争であったと思っています。しかし奇妙なことにこの認識は自分で調べたうえで、そのように納得したのであればまだしも、自分では考えずに他人や他国(特に戦勝国)の思考に任せ、その解釈を鵜呑みにしたにすぎないのです。
侵略戦争であったとするならば、それがどのような歴史的経緯によって起きたのか、英国のアヘン戦争(1840〜1842年)を初め、欧州列強やロシアによる中国大陸への侵略や、南下政策を採ったロシアによる朝鮮半島への侵略はどのように展開されていたのか。
民主主義の守護神、正義の味方であると占領軍から教え込まれたアメリカの過去の行動は、果たして侵略主義や植民地主義とは無縁であったのか?。オランダ、イギリスがアメリカと共謀して太平洋戦争開始の5ヶ月も前から対日禁輸、対日資産凍結をし、日本を挑発した行為は、アジアにおける白人種による植民地支配体制の維持とは無関係であったのかどうか?。
太平洋戦争について他人や他国が種々の政治的プロパガンダ、思惑をもって発信し、提供した情報だけを信じることは、情報の信頼性や公平性とは無縁であり、正しい認識を構築する上で危険なことです。
それ故に自分自身で何が真実かを見分け、検証する必要があります。
最初に日本を侵略国家と断罪した東京裁判(極東国際軍事裁判、昭和21年5月〜23年11月)それ自体について、以下に指摘する疑問点と事実をどのように考えますか?。まずは先入観を捨ててお読み下さい。
東京裁判の虚構
その1:中立国の裁判排除
正義と文明の名の下に裁くと称した東京裁判においてアメリカなどの戦勝国は、自らの行為についても同時に審理の対象として、その理非曲直(りひきょくちょく、どちらが正しく、どっちらが間違っていたか)を法廷で裁き、法の客観性と、公平性、そして正義を裁判所に求めたのかどうか。
「その答」
ノーです。太平洋戦争にはスイスなどの中立国が存在したにもかかわらず、それらの国の代表者を裁判には参加させませんでした。戦勝国が思い通りの裁判をするためには、中立国による公平な立場からの意見、判断は邪魔な存在となるからでした。
東京裁判が人道に対する罪を裁くと称して、南京虐殺(?)、バターンの死の行進(フィリピン)などを裁きながら、連合軍兵士が戦場において日本兵や日本人捕虜に対して犯した数多くの殺人・残虐行為や、米国が東京大空襲を初めとする60もの都市に対する無差別爆撃や、広島、長崎への原爆投下などの際に数十万人もの非戦闘員を無差別に大量虐殺した戦争犯罪は、決して裁かれませんでした。
更に戦争終了後にもかかわらず、ソ連がポツダム宣言に違反して60万人もの日本兵捕虜を満州(中国東北部)や朝鮮からシベリアに移送し、強制労働に従事させ6万人の死者を出した、裁判当時も進行中の犯罪についても同様でした。
注 / ポツダム宣言第9項日本國軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復歸シ、平和的且生産的ノ生活ヲ營ムノ機會ヲ得シメラルベシ
ハーグ陸戦条約第20条:平和回復の後は、なるべく早く捕虜を返還する。
平和に対する罪を裁くのであれば、
昭和21年(1946年)4月まで有効であった日ソ不可侵条約を一方的に破り、日本がポツダム宣言を受諾し降伏する1週間前の昭和20年(8月8日)に、突如日本に軍事攻撃を開始したソ連の戦争犯罪も、当然裁かれるべきでした。それだけでなく判事席、検事席にいたソ連(現、ロシア)は、第2次大戦の初期に侵略国として国際連盟(現、国連の前身)から除名された国でした。
同じく日本の侵略を裁いた英、仏、蘭(オランダ)も、当時はアジア再侵略の最中でした。イギリスは1765年から昭和22年(1945年)までインドを植民地支配し、マラヤ(マレーシア)・シンガポールを1786年から昭和32年(1957年)まで植民地支配し、第2次大戦中は日本軍によりボルネオ島、シンガポール、マレー半島の植民地から勢力が一掃されたものの、戦争終了後には再び「再侵略」のため舞い戻り、植民地に軍政を敷きました。
4百年間植民地支配を続けたオランダが、インドネシアの独立を目指す人民軍と停戦協定を結んだのは、東京裁判の判決が出た翌年の昭和24年(1949年)のことでした。
フランスが支配していたベトナムではホー・チ・ミン率いる民族解放軍との間で戦争が継続中であり、昭和29年(1954年)の「ディエン・ビエン・フー」の大包囲作戦の結果フランスが大敗するまで、フランスはベトナムの「再侵略」を諦めませんでした。その後釜に座り、ベトナム戦争(1960年〜1975年)を再開したのが米国でした。
なぜ欧米の侵略が裁かれなかったのか?。その理由とは、連合国の犯した戦争犯罪が法廷で裁かれない様に、東京裁判の条例(原語では、Charterつまり憲章)を彼等に都合の良いように定め、日本と日本人のみを裁くことに決めたからです。
東京裁判を分かり易くいえば、JとAが喧嘩をした場合に、JがAのここを殴った、あそこを蹴ったというAの訴えを採り上げ法廷で審理をするが、喧嘩の原因となったAが相手Jを挑発した行為や、Jに加えた残虐な大量殺人の犯行は一切審理しなかったということです。ここのところをしっかりと理解する必要があります。
それらは東京裁判の裁判管轄外であるとの理由で、訴えを却下しました。
この事実をご存じでしたか?。そして東京裁判の在り方についてどのように感じましたか?。もちろんJとは日本であり、Aとはアメリカに代表される連合国のことですが。
注1 / 裁判管轄権
裁判管轄権を一言でいえば、裁判所の持つ裁判権を行使する範囲のことです。あらかじめ喧嘩の一方(日本)のみを裁く裁判所条例を作り、その上でおこなった裁判とは、客観的に見れば著しく公平性を欠く裁判、つまり復讐のための裁判であったということです。
注2 / 復讐の意図
1. 復讐の意図を如実に示す次の証拠もありました。敗戦の年の昭和20年(1945年)12月8日の真珠湾攻撃の記念日を選んで、当時東京の大森にあった戦犯収容所からA級戦犯を巣鴨プリズンに移送し、昭和21年(1946年)4月29日の昭和天皇誕生日に被告たちを起訴しました。
2. フィリピンでバターンの死の行進の指揮官責任を問われた、当時の第14軍司令官の本間雅晴中将には、2月11日の紀元節(現在の建国記念日)に銃殺刑を宣告し、彼が4年前にバターン半島のコレヒドール要塞に立てこもった米国とフィリピン軍に総攻撃を命じた同じ月日時刻である、昭和21年4月3日の午前0時53分に死刑を執行するという念の入れ様でした。
3. 極めつけは昭和23年(1948年)12月23日に、東条首相以下7名のA級戦犯の死刑を執行したことでした。それはいかにも陰湿な欧米人らしく当時の皇太子であり、現天皇の誕生日に狙いを定めて処刑し、日本国民が末ながく祝うべき天皇誕生日を以後何十年にもわたり、戦犯処刑者の血で汚すことを意図した飽くなき復讐の方法でした。
4. これ以外にも敗戦時に東京湾の戦艦ミズーリ艦上でおこなわれた降伏文書の署名式典には、嘉永6年(1853年)にペリー率いる東インド艦隊来航の際に、旗艦に掲げた星条旗をわざわざ米国アナポリスの海軍兵学校から空輸して式場に掲示しました。
徳川幕府がペリー艦隊の4隻の黒船(軍艦)による武力行使も辞さない威嚇に屈服して開港に応じたためペリーが果たせなかった日本征服の夢を、その92年後に祝う為でした。
連合国側の犯した数多くの戦争犯罪は、その後まったく裁かれずに現在に至っていますが、これこそが彼等の唱える正義と文明の正体なのです。
その2:偽証罪の規定
偽証罪の規定が裁判所条例は存在したものの、オーストラリア人のウエッブ裁判長の法廷指揮ではそれが無いのと同じでした。法廷に出廷した419名の証人、779名の宣誓口供書の取り調べに際しては、ただの一度も偽証の疑いを挟んだり、偽証罪を振りかざしたことはありませんでした。
たとえ証人が偽証(ウソの証言)をしても罰せられない裁判とは、敗戦国の被告たちを有罪にするためにはウソの証言でもかまわないとするものであり、裁判の名に値しないほど不公平なものであり、正義とは無縁のものでした。
その3:証拠の採用基準
証拠の採用について東京裁判(極東国際軍事裁判所)の条例第13条(証拠)によれば、「本裁判所は証拠に関する専門技術的規則に、拘束せらるることなし」と規定されていました。つまり証拠の採用については国際的に確立された普遍性のある司法の慣習、ルールに基づくのではなく、戦勝国の裁判官が自分達にとって都合の良いように、勝手に判断するということでした。
その結果、洋の東西を問わず通常の裁判では証拠としての信憑性(しんぴょうせい)、証明力の欠如から、証拠として決して採用されることのない、
1. いわゆる伝聞証拠、
2. 宣誓なしの証言、
3. 反対尋問のために出廷できない人物による供述書、
4. 原本が無い文書のコピー、
5. 全体ではない日記の抜粋、
などが、この裁判では堂々と検察側の証拠として採用されました。
○伝聞証拠とは
証拠となるべき体験を、「直接体験者」自身が公判廷で供述する代わりに、他の方法で公判廷に提出される証拠のことです。分かり易く言えば伝聞とは「ウワサ」や「また聞き(間接的に聞く)」のことです。例えば容疑者AがBに話した内容をBが直接証言するのではなく、Bから聞いた話としてC(あるいはCから聞いたDや、E)が証言することです。
そこにはBとC(あるいはCとDやE)の間での言い違え、聞き違え、誤解に加え、作り話が入る可能性があり、裁判の常識では信憑性に欠けるため証拠とはみなされません。
その4:司法の原則
英米法に限らず近代法治国家における司法の原則である、「なに人も、自分に関係がある事柄について、裁判官になることができない」、とする大原則が守られたのかどうか。
「答」:守られませんでした。戦勝国が国際法規には拘束されず自分達に都合の良いルールを作り敗戦国を裁くという不合理以外に、その運用においても著しく公平性を逸脱していました。フィリピン代表のハラーニョ判事は、バターンの死の行進の生存者でした。
通常の裁判であれば、被害者がその事件の加害者を裁く裁判官には到底なり得ず、裁判官としての欠格理由に該当したため即座に交代させられるべきでしたが、彼は最後まで判事の席に留まりました。
ウエッブ裁判長についてもそれまではオーストラリアがニューギニアで開廷した軍事裁判で、日本人に対する戦争犯罪の訴追の業務に係わっていました。つまり検事の職務に従事していたため戦犯裁判に予断と偏見があり、裁判長としては不適格のため本来忌避されるべき者でした。
それは野球に例えると対戦相手チームの選手を今度は、球審にして相手チームと試合をするようなものでした。
いんちきな裁判のことを英語では、KangarooCourt(カンガルー裁判)といいますが、カンガルーの国からやってきた裁判長の法廷指揮は、決して公平なものではありませんでした。
その5:判決合議の欠如
オランダ代表判事のレーリンクによれば、驚くべきことに、11ヶ国の代表判事が全員集まって判決について討議する機会は一度もなかった。その上判決については7人の判事(米、英、中、ソ、ニュージーランド、フィリピン、カナダ)が内密に判決文を書き、それを既成事実として他の4人(フランス、オランダ、オーストラリア、インド)にその結果を渡したのでした。
フランス代表のベルナール判事によれば、本裁判を構成する11名の裁判官が、判決の一部または全部を口頭で討議するために、会合することを求められたことは一度もなかった。自分が多数判決の終わりに署名したのは裁判所の評議の通例の形式を尊重することを承認したものであって、判決自体を承認したものではない。と述べました。
その6:日本語での法廷通訳の中断
全被告と弁護人の多くが日本人である以上、東京裁判の法廷における発言は、すべてが日本語に通訳されなければなりません。ところがそうではなかったのです。
昭和21年(1946年)5月13日に弁護側が裁判管轄権を争う動議を裁判所に提出しましたが、その動議を巡る論争の中で「原爆投下問題」に関するアメリカ人弁護人の発言内容が、突然日本語に通訳されなくなるという事態が起きました。5月14日にブレークニー弁護人の弁論の途中から日本語への法廷通訳が突然中断されてしまい、日本語の裁判速記録によれば、以下通訳なしと記録されました。
法廷におけるジョージ・山岡弁護人などの弁護人発言、それに対するキーナン主席検事、マンスフィールド検察官らの異議申し立ての応酬はいずれも英語のままで、日本語には通訳されませんでした。そこで清瀬一郎弁護団、副団長が発言台に立ち、法廷でのすべての発言を日本語に通訳するように求めましたが、その後も依然として英語による論争が続き日本語には通訳されませんでした。
午後の法廷で清瀬副団長が再び発言を求め、日本語による通訳がおこなわれなければ公平な裁判とはいえないと抗議しました。裁判長は必要な翻訳は出来るだけ早い機会に提供すると発言しましたが、ブレークニー弁護人による検察側の異議申し立ては、(戦争に)勝った方の殺人は合法的であり、敗けた方の殺人は非合法である、という議論のように思えるという発言が日本語に通訳されたものの、しばらくすると再び日本語への通訳が中断されてしまいました。ブレークニー弁護人が法廷で、発言した内容は、その後東京裁判記録の日本語版からは抹殺されてしまい、日本人の目に触れることはありませんでした。更にウエッブ裁判長が法廷で日本人弁護側に提供を約束した、「法廷通訳が中断した際の英文速記録」を日本語へ翻訳した書類は、裁判終了まで遂に提供されませんでした。
その7:裁判の違法性
東京裁判それ自体の違法性については、太平洋戦争の原因(二)にある、3:パル判事の言葉、の中で詳細に述べています。
ここまで述べた事実から、それでも東京裁判は公正な裁判だったと思いますか?。そこから導き出された結論、すなわち日本を侵略国家と断罪し、正義は連合国側にあるとした判決の正しさを信じますか?。続けてお読み下さい。
自分自身による歴史や事実の検証を抜きにして、戦勝国が東京裁判で振りかざした「彼等流の正義」を無批判に信じ、押しつけられた侵略戦争の罪科、責任をそのまま認めることは、日本人として道理に合わないことです。
それはあたかも非常に高額な代金を支払う際に、相手から言われるままに、請求書の内容のチェックもせずに代金を支払うのと同じことです。個人の立場では決してしない愚かな行為を、日本や日本人全体に大きな不名誉、不利益、負債、をもたらす場合に、なぜ安易にするのですか?。
2 朝鮮半島について

 

[植民地化は、犯罪ではなく国際法上合法だった]
太平洋戦争後に多数の植民地が解放され百を超える新国家が誕生しましたが、それにより形成された戦後の新しい考え方を基準にすれば、日本の朝鮮併合、中国侵略は欧米諸国がアジア、アフリカでとった侵略と同様に、植民地主義、侵略主義に基づくものであったことに間違いありません。
しかし朝鮮併合当時の国際法によれば、武力により未開国(UncivilizedCountry)を植民地化する行為は、違法ではありませんでした。歴史に対する正しい評価の方法について、貴方が恥を掻きたくなかったらここをクリック。
平成13年11月にハーバード大学で開かれた国際学術会議において、英国のケンブリッジ大学教授で国際法専門のJ・クロフォードが、自分では生きていけない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは、当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は違法なものではなかった。と日韓併合について合法論を述べましたが、これを多くの国の学者が支持して、反対したのは韓国の学者だけでした。
国際法の保護を受けられるのは文明国(CivilizedCountry)に限る、との合意が欧米列強諸国の間にありました。そしてその見地からすれば日韓併合(1910年)当時の朝鮮は文明国とはみなされてませんでした。
中国最後の王朝である清(しん)国(1616〜1911)も、そして辛亥(しんがい)革命(1911年)により清国を倒した中華民国もその後政権が分裂し、国民党軍と共産党軍による内戦の混乱状態が長期間続いたため、欧米列強からは文明国とはみなされませんでした。
アジアの近代史をみれば欧米列強による侵略に対しては、植民地を持つか植民地にされるかという、いわば喰うかか喰われるかの、二者択一の選択肢しかなかったことは明らかでした。
ロシアはシベリア大陸の開発を続けながら東方に領土を拡大し続けオホーツク海に達すると、次には不凍港(冬になっても凍らずに使用できる港)を求めて南下政策をとり、中国領であった遼東半島(旅順、大連)を支配し、そこに軍港を築き、難攻不落といわれた旅順の要塞を築きました。それだけに留まらず江戸末期の文久元年(1861年)には、ロシアは対馬に上陸してそこに海軍基地を建設しようとしました。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除しました。
さらに明治32年(1899年)に起きた義和団事件を契機にロシア軍は全満州(現中国東北部)を占領し、そして朝鮮半島への進出を図りました。
参考までにウラジオストックの地名の由来であるVLADI、ブラディとは征服する意味であり、VOSTOK、ボストークとは東方のことで、すなわち東方を征服せよという意味です。
当時の李王朝(1392〜1910年)が支配した朝鮮では鉄道施設権、鉱山採掘権までも外国に売り渡し、裁判の結果さえも賄賂で左右されるという腐敗堕落しきった両班(りゃんぱん、特権階級)政治がおこなわれていました。
教育の分野では貴族の子弟を対象とした塾がある程度で、庶民のための近代的な学校教育の制度も存在せず、産業についてはマッチ一箱作る産業さえも無く、輸入に頼る有様でした。(イザベラ、バード著、朝鮮紀行)
前述の如く中国の一部を既に侵略し領土化した大国ロシアが、南下政策に沿って次には朝鮮半島を侵略し領土化する意図が明白でした。
もしそうなればロシアによって日本の脇腹にナイフを突き付けられるという危険な事態になるため、国防上の理由から、日本は明治43年(1910年)に「併合に関する条約」を朝鮮と締結し日本に併合しました。
併合に際しては朝鮮の元首である高宗は賛成し、政府との間に軍事的衝突も起こらず、ロシアも含めて世界の国々からも反対の声も無く、国際社会からすんなり認められました。四百年間属国の地位に満足し、単独では生存が難しい未開の国(李氏朝鮮)を、力のある国(日本)が保護領とし、あるいは植民地化することは当時の国際法上、合法であり当然のこととされました。在日や反日主義者はこの事実を前述した歴史評価の原則に従い認めなければなりません。
注 / 義和団事件
列強の中国侵略に抵抗して1899〜1900年に起きた中国民衆の排外運動のことで、山東省に始まり中国の東北部に波及し、北京の列国大使館区域を包囲するに及び、日本、イギリス、アメリカ、ロシアドイツ、フランス、イタリア、オーストリア軍が出兵し鎮圧しました。しかしロシアはその後も満州(中国東北部)に居座り占領を続けました。
3 地理的、歴史的必然性

 

地理的、歴史的必然性
在日をはじめ一部の人々が、日本の行動を侵略だと声高に非難するのは簡単です。しかしながら、もし朝鮮が1910年に日本に併合されなかったならば、独立国のままで存続できたなどと信じること自体、アジアの歴史に対する彼等の無知の証拠であると言えます。
当時の朝鮮は清(しん)の属国としての地位に甘んじて近代国家と言うにはほど遠く、中国人政治家の袁世凱(えんせいがい)の言葉によれば、万国の中で、最貧弱国の状態でした。狼の群に囲まれた羊の如く、弱肉強食の侵略主義のはびこる19世紀末の国際情勢の下で、朝鮮が独立国のままでいられた可能性など、200パーセント無かったと確信します。
注1 / 最貧弱国
袁世凱(えんせいがい、1859〜1916年)とは北洋軍閥の首領の軍人、政治家であり、辛亥革命(しんがいかくめい、1911年)では革命派と手を結び清(しん)王朝を倒し、中華民国の臨時大統領に就任しました。かつて朝鮮国王を指導、監督しましたが、朝鮮に対する最貧弱国発言はその当時のものです。
朝鮮が頼みとした宗主国でさえも
なぜなら属国であった朝鮮が300年もの間宗主国と仰いだ中国の清(しん)王朝でさえも、アヘン戦争(1840〜1842年)、アロー戦争の結果英国にホンコン島、九龍半島を奪われました。
また不凍港を求めて南下政策を採ったロシアに旅順港、大連港などがある遼東半島の支配を許し、前述のように1899年(明治32年)の義和団事件を契機に、ロシア軍に全満州(中国の東北部)を占領されました。
国家としての威信を失い侵略主義の餌食となった清(しん)王朝は、その後、広州、上海、青島(チンタオ)漢口、天津などの各都市で、欧米侵略主義勢力が治外法権の租界(そかい)を設定することに同意させられました。
どん欲なロシア(ソ連)はその後ポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア共和国)、スロベニア、ウクライナ、そしてフィンランドの一部を収奪するなど、周辺諸国を次々と侵略し、ソビエト連邦に併合した過去の歴史があります。
その侵略の歴史を見る時、その当時ロシアの隣国に位置し、しかも軍事的に無力な朝鮮だけが例外であり、侵略もされずに独立を保てたなどとする主張は、ロシア(ソ連)の侵略性とアジアの歴史に対する無知の極みと言わざるを得ません。
必ずやその領土を奪われ、鉄のカーテンの内側に取り込まれ、平成元年(1989年)のベルリンの壁崩壊まで、79年間も共産主義の圧政下に置かれたことは間違いありません。
注2 / 租界
租界(Concession)とは中国において、列強が設定した中国側の行政権と警察権が及ばない地域のことです。アヘン戦争の結果1842年に英国が清(シン)と南京条約を結び居住貿易権を獲得し、その後上海に上海租界を作ったのが最初です。前述のように英、米、仏、独、露(ソ連)、ポルトガル、イタリア、オーストリア、ベルギーなどの欧米諸国、および日本などが租界を設定し、その数は第1次大戦の頃には28箇所に及びました。複数の国が管理する共同租界と、各国専用の租界がありました。
注3 / アロー号事件
アロー戦争とは清(しん)と英仏連合軍との戦争(1856〜1860年)のことで、広東(かんとん)港に停泊中のイギリス国籍の中国船Arrow号が清官憲の臨検を受けた際に、イギリスは国旗が侮辱されたとする口実を作り、中国に謝罪、賠償金支払いと責任者の処罰を要求しましたが、拒否されると開戦しました。後に清が屈服して天津条約、北京条約を結び講和が成立しました。第2次アヘン戦争とも呼ばれます。
植民地支配を招いた原因、小中華思想
朝鮮人に対して率直な意見を述べれば、李氏朝鮮(りしちょうせん、1392〜1910年)下において、四百年以上もの間、中国の明(みん)、清(しん)両王朝の属国としての地位に甘んじて、ひたすら中国を世界の中心、支配者と崇め奉る反面、身の程をわきまえず他国を夷狄(いてき、野蛮人)とみなす小中華思想を信奉し、古びた儒教の教えに従い世界の趨勢に目を向けずに、腐敗堕落した両班(りゃんぱん、特権階級)政治の下にあったこと。
その結果国家の近代化を怠り、政治的に無知無能、軍事的に無力、経済的に無為無策であったが故に、日本の植民地にならなくても、いずれはどこかの国の植民地や領土にされるという、地理的、歴史的必然性があった。ということです。
韓国や北朝鮮が日本の植民地支配を非難するのは彼等の権利ですが、同時に日本の植民地支配を招いた最大の原因は彼等自身にあった、という歴史的事実を認めなければなりません。
その点についての反省を、彼等自身の口からこれまで聞いたことがありませんが、それこそ歴史の真実に目を向けようとしない朝鮮人の民族的悪癖だと思います。
4 ロシアの侵略性と、日露戦争の受益者中国

 

ボルガ河畔の小国に過ぎなかったロシアが、モンゴルによる250年間の支配から脱したのは1480年のイワン3世の時でした。後を継いだイワン4世が1547年にツァーリ(皇帝)を自称し、東方へ領土拡大主義を実行しました。
以後たったの百年でロシア人はシベリア大陸を横断し、オホーツク海に到達すると、次はベーリング海を越えてアラスカを自国の領土としました。アラスカは現在アメリカの領土でありアメリカ最大の州ですが、クリミア戦争後にカネに困ったロシアから1859年に、720万ドル(1平方キロ当たり僅か5ドル)という破格の安値で購入したものです。
しかし当時のアメリカ国民は国務長官スワードが、巨大な冷蔵庫購入の愚行をしたとして彼を非難しましたが、現在ではアラスカ油田の発見などで彼の先見性に感謝しているはずです。
ロシアは東方ばかりでなく南にも領土を拡大し、千島列島から島伝いに北海道周辺へ、シベリア沿岸から朝鮮半島、満州(中国東北部)、さらにモンゴル、へと侵略して行きました。
フレデリック・シューマンの「ソ連の内政と外交」によれば、1613年にロマノフ王朝が成立して以来、1913年に至る3百年間に領土拡大の速度は、1日平均60平方マイルの割合でした。
当時のロシアは中国東北部をすでに占領し、清(しん)朝から租借した遼東半島の旅順に軍港と堅固な要塞を築き、次に朝鮮半島にまで勢力を伸ばしました。
もし朝鮮半島がロシアの支配下になれば、日本の脇腹にナイフを突きつけられたのと同じ国防上の危機をもたらすため、日本はロシアによる朝鮮半島支配を阻止し、自衛の為にロシアと戦いました。
当時の帝政ロシアは日本の40倍の国土と強力な軍隊を持つ世界有数の大国であり、世界の99パーセントの人々はロシアの勝利を予想していました。
右は当時のフランスの新聞(LePetitParisien)に書かれた風刺画ですが、当時の国際情勢が巧みに描かれていました。リングの上のいかにも強そうな大男のロシア人のレスラーに立ち向かう、小さくて貧弱な日本人レスラー、その試合を見物する世界の人々、そして自国の領土での試合でありながら、見物席には座れない中国人が幕の外から試合の成り行きを覗いていました。
ロシア人のレスラーは既に占領した中国領土に堂々と立ち、日本人のレスラーは日本列島と朝鮮半島に足を置いて迎え撃つ姿勢でした。更にリングの下には白色、黄色と書いてありました。
かつて眠れる獅子といわれた清(しん)国(中国)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて西欧列強により思いのままに侵略され、領土を奪われて眠れる豚とまで酷評されていました。
しかし無能な政府や中国人たちは植民地支配の危機に対して国をあげて有効な対抗措置もとらず、中国の領土で行われ、しかも中国の今後の運命に重大な影響を及ぼす日露戦争の際も、ただ漫然と傍観していただけでした。
中国の二重基準
もし日本がロシアの南下政策に屈して日露戦争(1904〜05年)を戦わなかったならば、あるいは敗戦したならば、ロシアが既に占領していた満州(清を建国した満州族が居住していた中国東北部)や遼東半島、朝鮮半島はロシア領となっていたことは間違いありません。
さらに当時清(しん)国を分割支配する計画が、英、仏、独、ロシアなど列強の間ですでに決められていましたが、日本が国家の命運を賭けた日露戦争に勝利したため、ロシアが不凍港(冬でも凍らない港)を求めてアジアでとった南下政策を阻止し、ロシアの支配から満州を奪回し、列強による清(しん)国に対する分割支配も回避されました。
1854年に創刊され、フランスで最も古く代表的な新聞であるフィガロ(LeFigaro)に掲載された風刺画でも、巨大な熊(ロシア)に対抗する非力な日本の敗戦が、明らかに予想され描かれていました。
日本は世界の人々の予想に反して世界の大国ロシアを見事打ち破りましたが、日本人が流した血と汗の結果、清(中国)はヨーロッパの列強がアフリカ大陸でしたような領土の分割支配を免れることができました。
日露戦争によって清(しん、中国)が国家存亡の危機から救われた事実に対して、中国は口を閉ざしています。
しかも日露戦争が当時ロシアが支配していた中国領土内で起きた戦争であったにもかかわらず、ロシア(ソ連)の中国侵略について、少しも非難をしない二重基準(ダブル・スタンダード)は、理解し難いことです。上記二枚の風刺画を見たうえでも、日露戦争は自衛の為の戦争ではなく、中国、韓国、反日左翼主義者が主張するように、侵略戦争だったと貴方は思いますか?。
韓国の二重基準
同じように行動に一貫性がない、ダブル・スタンダードの得意なのが韓国です。1983年9月にサハリン上空で、大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜されて267名が死亡しましたが、1990年にソ連と国交正常化をした際にはお得意の謝罪要求、賠償要求をしませんでした。
1950年(昭和25年)6月に起きた朝鮮戦争の際には、途中から北朝鮮に加勢する中国義勇軍百万人の参戦により、韓国は戦争初期に次いで、1951年(昭和26年)1月には二度目のソウル陥落という事態になりました。しかし1994年の中韓国交樹立の際には、かつて中国軍に国土を侵略占領されたという過去の屈辱を都合良く忘れて、侵略に対して謝罪も補償も要求しませんでした。
首都の表記法
中国語では韓国の首都ソウルのことを漢城と書きますが、韓国政府は中国との国交正常化交渉の際に首都の表記を、中国語の発音でソウルに近い首烏爾にするように要望しましたが、四百年間も中国の属国であった朝鮮王朝時代から使用してきた名称であるとして、中国に拒否されました。
その結果中国では今もソウルのことを漢城(中国の市街の意味)と呼んでいます。その一方で日本は植民地時代から昭和40年まで55年以上使用していた京城(けいじょう)という呼び名を韓国から言われるがままに止めて、ソウルに変更しました。この主体性の無さ!。
韓国は昔から強者には卑屈な態度をとり続け、日本のような弱腰外交の相手に対してだけは居丈高になり、謝罪や理屈に合わない金銭の支払い要求を延々と続けているのです。
注 / 平成17年10月23日の中国新華社電によれば、中国は韓国の首都ソウルの中国語表記を、現行の「漢城」(ハンチョン)から「首爾」(ショウアル)に変更することに決めました。韓国独立以来60年近く使用してきた名称の変更は、交流が深まる対韓関係に配慮したものでした。この旧宗主国(?)の暖かいご配慮(?)に、韓国人は「随喜(ずいき)の涙」を流して喜んだに違いありません。
5 アメリカの、西進主義に汚れた過去

 

アメリカは以下に述べる彼等の理念なき、征服欲、支配欲、所有欲を正当化するために、西進主義/西部開拓はManifestDestiny(マニフェスト・デスティニィ、神から授けられた明白な使命)であると称し、それがあたかもキリスト教に基づく歴史の原理であるかの如く、正当性を主張しました。
注 / マニフェスト Manifestとはラテン語の「手で殴られた」=「はっきり分かる」から「明白な」の意味であり、選挙の際に政党が発表するイタリア語に由来するManifesto(選挙公約)とは綴りが異なります。
5-1 涙の道
アメリカの植民地主義、侵略主義に汚れた過去について言及すれば、英国からアメリカに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。
先住民族であるインデアンを騙して土地を次々に奪い取り、反抗する者達を容赦なく虐殺しては西へ西へと開拓(先住民の視点からすれば侵略)を進めました。インデアンは嘘をつかない、という言葉がありますが、白人達のアメリカ合衆国や地方政府はインデアンと結んだ条約、協定を300回以上も平然と破り彼等の土地を手に入れました。
第7代のアンドリュー・ジャクソン大統領(1767〜1845年)は野蛮人(インデアン)を東部諸州から一掃すると称して1830年に強制移住法を作り、全インデアンを、北米大陸を南北に流れ平野部を東西に分けるミシシッピー川(セントルイス、メンフィスから、メキシコ湾岸のニューオルリーンズに至る流れ)よりも西側に立ち退かせることにより、彼等の全ての土地を手に入れました。
騎兵隊に追い立てられて先祖伝来の土地を離れた何千、何万ものインデアンが、強制移住のためにミシシッピー川の西側へと歩いた道は、その当時涙の道とも言われました。
ジョージア州から強制移住させられたチェロキー族に例をとると、1万2千人のうち5ヶ月間の旅で4千人(33パーセント)が病気と飢えで死亡しました。
ところが折角移住したミシシッピー川の西側にも肥沃な土地や石油資源があることを政府が知ると、4年後には、さらに西の西経95度に境界を移動させ、1858年にミネソタが州に昇格するのに伴い更に百マイル西方に境界を移動されました。
その後は開拓以外にも西部ではボナンザ(Bonanza、スペイン語のGoodLuckから豊かな鉱脈のこと)を目当てにして原住民の土地を奪い続け、1864年に起きたサンドクリークの虐殺では女性子供を含めてインデアンを一度に368名も虐殺しました。1890年12月にサウス・ダコタ州のインデアン居住地で起きたウーンデッド・ニー(Woundedknee)の虐殺では、女性子供を含む200名のインデアンが第7騎兵隊により虐殺されましたが、写真は3日間放置された遺体を埋めた時の様子です。
米国はインデアンの土地を全て奪い取り、人里離れた狭い地域にインデアン居留地(リザベーション)を作って隔離し、居留地に住むことを条件に食糧を支給し、生活保護を与えて現在に至っています。
部外者が自由に居留地を訪れることは禁止されていますが、先住民としての誇りを奪われ飼い殺し同然の生活に希望を失った彼等の多くは、アルコール依存症になって暮らしています。
5-2 アメリカによる侵略の軌跡
○明治維新の80年前(1776年)に独立したアメリカは、大西洋岸の13州から西部開拓と称して次第に領土を拡大し、当時メキシコ領であったテキサスの土地をメキシコから奪い、自国の領土化を図ったことからメキシコと戦争になりました。その後メキシコ大統領のサンタ・アナ将軍を捕虜にしてテキサスの独立を承認させた上、1848年の講和条約により、更にニューメキシコと、カリフルニアを買収することに同意させました。
なおメキシコとの戦争の際にテイラー将軍率いる米国軍がメキシコ領内に侵攻したのは、米国議会がメキシコに宣戦布告をする48時間も前のことでした。
日本の真珠湾攻撃を宣戦布告なしの、卑劣な攻撃(SneakyAttack)とか騙し討ち(TraitorousAttack)などと米国は非難しましたが、メキシコに対して卑劣な攻撃をして勝利を納めた将軍こそ、後に第12代のアメリカ大統領となった、ザカリー・テイラーでした。米国民は卑劣な男を大統領に選んだのです。
○西部開拓が太平洋岸に到達すると、こんどは海を越えて更に西進し、ハワイの王朝を武力で併合しました(1898年)。
別れの歌として有名なハワイのアロハ・オエ(Aloha`Oe)がありますが、この名曲の作詞、作曲者は、ハワイ王朝最後の女王であったリリウオカラニ(Liluokalani、1838〜1917年)です。
○米国の軍艦ボストンと上陸した164名の海兵隊の威嚇のもとで、ハワイに利権を持つ米国の白人達により組織され、米国への合併を意図した1893年2月のクーデターにより、女王はイオラニ宮殿宮殿に近いワシントン・プレイスに幽閉されました。そして脅迫により無理矢理退位させられた結果、カメハメハ大王を始祖として1795年に始まった立憲君主制のハワイ王朝は消滅し、その領土をアメリカに奪われました。
この哀調と郷愁に満ちた曲を聴くと、20数年の失意のうちに生涯を閉じた女王の悲哀を感じさせられます。
次ぎにアメリカは、
○スペインの無敵艦隊(TheInvincibleArmada)が英国との海戦に敗北した(1588年)のを契機に、海洋における支配権を失い国力が衰退したスペインとの間に、キューバのスペインからの独立をからんで、米西戦争(1899年)を仕掛けて勝利しました。
その結果スペインの植民地であったフィリピン、グアム、ウエーク、サモア、プエルトリコをアメリカ領土とすることに成功し、これによりハワイ以西における西進主義の、アジアに対する拠点作りに成功しました。
○その次には中国に狙いを定めて、すでに欧州諸国により行われていた植民地獲得競争に遅れて来た植民地帝国として参加し、権益を求めて「門戸開放」、「機会均等」、「領土保全」を主張して積極的に進出しました。
そこで日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)を経て、中国に対して精力的に進出していた日本と、権益の獲得、分配をめぐり遂に衝突したのでした。
注 / フィリバスター(Filibuster、不法侵略者)
アメリカの歴史家ネビンズによれば、その間の事情について「国内で(インデアンから)土地の収奪をしたアメリカは、外へ向かってもフィリバスター(不法侵略者)を繰り広げた。1842年のテキサス独立、さらに連邦によるその併合、続いてメキシコ戦争。現在のアリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、ネヴァダはこうして米国の領土となった。さらにメキシコからのカリフォルニアの強奪と、目まぐるしく侵略し領土を拡大した。」と述べました。
6 太平洋戦争の原因

 

戦争の原因は単純な善玉、悪玉論から簡単に決められるものではありません。国連加盟国の数は現在(平成23年現在)194箇国ありますが、そのうちアジア、アフリカだけでも100箇国以上にも及びます。
1. しかし太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼びました)開戦の昭和16年(1941年)当時のアジアにおける独立国は、驚くなかれ日本を除けばタイ国のたった1箇国しか存在しませんでした。
2. さらに第1次世界大戦開始時の大正3年(1914年)当時、地球上の陸地の84パーセントは、人口比率で僅か15パーセントに過ぎない白人国家が支配していました。
貴方はこの事実を知っていましたか?。
日本も弱肉強食の時代に植民地を持つか、朝鮮半島にまで勢力を及ぼし始めたロシアの支配地にされるかの瀬戸際でしたが、朝鮮半島の支配をめぐり、幸運にも日清・日露戦争に勝利し、ロシアの悲願であった冬でも凍らない不凍港を求める南下政策を打破しました。日本も朝鮮・台湾を植民地とし支配し、満州族出身で清(しん)王朝の最後の皇帝であった宣統帝溥儀(ふぎ)を満州(中国東北部)に擁して満州国を設立(昭和7年、1932年)し、その地域を間接支配しました。
広大なアフリカ大陸は植民地帝国主義、侵略主義の欧州7ヶ国(イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、ベルギー)により25以上もの植民地、地域に分割支配され、ここでも独立国は、エチオピア、南ア連邦、リベリアの僅か3箇国にしか過ぎませんでした。(なお南ア連邦については、1941年当時英連邦に所属する自治政府があったので、一応独立国に入れました。)
つまり太平洋戦争開戦(1941年)当時、アジアとアフリカ全土に存在した独立国の数は、前述した日本とタイを含めて僅か5箇国でした。
占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、左翼イデオロギーに偏向した教科書では決して教えない、世界史の真実を貴方は知っていましたか?。
なぜこれほどまでに、独立国が少なかったのでしょうか?。ヨーロッパの帝国主義諸国によりアジアとアフリカが侵略され、植民地化されていたからでした。
もし日露戦争(1904〜05年)に日本が敗れたならば、日本もロシアの領土か植民地にされていた事は間違いありません。私は外国の侵略から日本を守り抜いた明治時代の人々に、心から感謝しております。
侵略主義に汚れた過去を持つ欧米諸国にとって、また日本を貶(おとし)めようとする反日左翼主義者にとって、非常に都合が悪い白人種によるアジア侵略の実態こそが、太平洋戦争の原因とは何かを考え、議論する際の出発点なのです。
さらに付け加えると歴史観の形成に必要なことは、他人やマスコミの発言・新聞・書物に書いてあることを無批判に盲信するのではなく、疑いの眼をもって自分自身で資料を調べ、最も合理的と思われる結論を導き出すことです。
7 戦争を仕掛けたのは日本か米国か

 

7-1 黄禍論とレインボー計画
日清戦争(1894〜1895年)当時、ドイツ皇帝ウイルヘルム二世(1859〜1941年)は黄色人種(具体的には日本人)の進出によって、今後白色人種に災禍がもたらされるとする黄禍論(YellowPeril)を唱えましたが、これが白人諸国に広がり、白人社会に存在した人種差別意識や有色人種に対する嫌悪感により支持されると共に、警戒感を造成しました。
続く日露戦争(1904〜05年)では、国際社会の99パーセントが大国ロシアの勝利を予想したにもかかわらず、アジアの小国日本が勝利を収めたことが契機となり、アメリカは日本が白人による世界支配体制を脅かし、将来前述した西進主義に大きな障害になるとして仮想敵国とみなすようになりました。
それ以後対日戦争計画(WarPlanOrange、オレンジ計画)を策定しましたが、このオレンジ計画は兵器の発達進歩に合わせて何度も内容が更新されました。
しかし昭和16年(1941年)9月27日に、日、独、伊の三国同盟が成立し三国との戦争が予想される事態になると、米国の戦略は国ごとの戦争計画を一色で表すのを止めにして、新たな戦争計画を「レインボー5」と名付けるようになりました。
それによれば日米開戦の場合に取るべき米国の作戦はアメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入を絶ち、沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるというものでした。
そのための布石として米国はハワイとフィリピンのマニラ(スービック湾)に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図りました。
7-2 戦争を始める意図、動機
戦争の原因を考える場合、両国を取り巻く戦略的環境、つまりどちらの側に戦争を始めようとする意図や動機、があったのかを知ることが重要です。
[主要な輸入国を相手に、戦争ができるのか?]
日米開戦の前年である昭和15年(1940年)当時の貿易統計によれば、日本は主要物資の輸入の大半を米国に依存していました。即ち戦略物資である
○鉄鋼類の輸入量の70パーセント
○石油の輸入量の78パーセント
○工作機械類の輸入量の66パーセント
を米国からの輸入に頼っていました。
常識で考えても産業必需物資の7割もの輸入を依存する相手に対して、日本から戦争を仕掛ける意図や動機があったとは到底考えられません。なぜなら戦争になれば相手からの必需物資の輸入が止まり、たちまち原材料や石油エネルギーが不足して国内産業は行き詰まり、継戦能力を失うのは明白だからです。
注1 / 当時産業の米(必需品の意味)といわれた鉄鋼の生産高は米国が年間7千5百万トン、英国が1千2百万トン、これに対して日本は7百万トンであり、日本のGNP(国民総生産)はアメリカの24分の1でした。
対イラク戦争時の実例から
しかも日本は昭和12年(1937年)以来4年に亘る泥沼の日中戦争を継続中であり、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていました。その状況下で更に米国、英国、オランダなどの大国を相手にして、新たな戦争(太平洋戦争)を始めなければならない動機や必要性など、日本には全くありませんでした。
参考までに現在のイラク情勢を見ても、米国ほどの資源豊富な超軍事大国といえども、対イラク戦争の最中に北朝鮮とも同時に戦争をするという二正面作戦をなるべく避けようとする意図が明白でした。それは敵に勝つ為には攻撃力(兵力)を集中するという戦争の常道から、当然導き出された結論によるものです。太平洋戦争について結論を言えば、戦争の意図や動機があったのは日本ではなく、明らかに米国の側だったということです。
日本の真珠湾攻撃について言及すれば戦争の意図、動機、原因を考える場合に、どちらが先に攻撃を仕掛けたのかは殆ど意味がありません。というのは昔から開戦のきっかけ、口実を作るためには、相手に対する挑発行為、攻撃の偽装工作、意図的な発砲、爆破、暗殺、破壊工作などが、頻繁におこなわれてきたからです。
[ベトナム戦争の実例]
偽装工作の実例を挙げると、米国がベトナム戦争に全面介入するための「きっかけ」となった昭和39年(1964年)8月2日と4日に起きたとされたトンキン湾事件では、北ベトナムの魚雷艇がトンキン湾上の米駆逐艦マドックスに対して、最初に魚雷攻撃をしたとアメリカ軍が公式発表しました。
しかしベトナム戦争終了後に時が経ってから、実はこの攻撃は「まぼろし」の魚雷艇からの攻撃であったことが公表されました。米軍が参戦するための虚偽の口実として、魚雷艇の攻撃を作りあげたのです。
米国の日本に対する挑発行為については、次の(3)と(4)で述べます。
7-3 交戦相手に対する軍事援助
実は日米開戦の9ヶ月も前から米国は昭和16年(1941年)3月11日に施行した武器貸与法により、日中戦争の交戦相手であった中国(蒋介石政権)に航空機、武器弾薬、軍需物資などを供給し続けてきました。
交戦国の一方に対する軍事援助は国際法上、中立国の立場を放棄したものと見なされ、武力攻撃の対象となり得るものです。米国は当然そのことを予想したはずです。
注1 / 武器貸与法とは「米国大統領がそれを防衛することが合衆国の防衛に不可欠と考える国の政府に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給し、処分する権限を大統領に与えるもの」でしたが、法案審議の段階から米国内には戦争行為に該当するという反対意見がありました。さらに米国の西海岸から1万キロも遠く離れた中国本土の防衛が合衆国の防衛に不可欠などと、信じた者は米国には1人もいませんでした。問題はアメリカの国防ではなく、アメリカ資本主義の生産品を売り込むための市場の獲得でした。
注2 / 米国の軍事援助に関する昭和16年(1941年)6月24日付けの日本軍の調査資料によれば、中国の蒋介石政権を支援する3本の補給ルートいわゆる「援蒋ルート」のうち、仏印(現ベトナム)ルートを経由するものが、ガソリン、鉄材、トラックおよび弾薬その他で毎月1万1千トン。ビルマルート経由が武器弾薬、火薬、工作機械など毎月4千トン、南支那(中国南部)ルートが同様な物資を、毎月9千トンで、補給物資の合計は毎月2万4千トンでした。
7-4 戦争挑発計画
ワシントンの海軍情報部極東課長をしていたアーサー・マッカラムが昭和15年(1940年)10月7日に立案し、上司が承認した計画、題名、太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告は、ルーズベルト大統領の最も信頼する顧問に宛てて作成されたものでしたが、それは日本を挑発することにより、米国に対して戦争行為をするように計画したものでした。その背景としては、
1 日露戦争以後急速に高まった黄禍(YellowPeril)の原因である日本の勢力拡大を阻止し、アジア(中国)、太平洋地域における米国の覇権獲得のため、及び白人によるアジアの植民地支配体制の維持を図るため。
2 ヨーロッパで既に始まった第2次大戦においてドイツ軍が勝利を収めれば、米国の安全保障に脅威を与える事態になる。しかも昭和15年(1940年)6月にはドイツがフランスを占領したため、不利な戦況に追い込まれた英国を援助するために、米国は早急にヨーロッパに参戦する必要があった。
3 しかし昭和16年(1941年)1月30日に実施されたギャラップ社の世論調査によれば、米国民の88パーセントは米国の欧州戦争介入に反対でした。(翌日のニューヨーク・タイムズ紙の記事参照)。
そこで日本に対する戦争挑発計画を実施することにより、日本に最初の弾丸(FirstShot)を発射させ戦争状態になれば、その後は米国にとって一石二鳥の状況になることが予想されました。
なぜなら日本と戦争になれば日独伊三国同盟から当然ドイツとも戦争になり、米国は正々堂々とヨーロッパでの戦に参戦できるからでした。日本が真珠湾を攻撃したニュースを聞いたチャーチルは、これでドイツとの戦争に勝てると大喜びしたと伝えられています。
米国はマッカラムの戦争挑発計画に従い昭和16年(1941年)7月25日には、アジアにおける植民地支配体制の維持に障碍となる日本の叩き潰しを図る英国、オランダとも共謀して、自国内の日本資産1億3千万ドルを凍結し、貿易、金融関係を全て断絶する経済封鎖を実施し、フランス、カナダ、ポルトガルも同調しましたが、まさに開戦を意図した挑発行為そのものでした。なおカナダ以外は当時アジアに植民地を持つ国々でした。
注 / 資産凍結とは国が外国などの資産の処分、移動を禁止することで、特に戦時において自国内にある敵国政府、敵国籍の会社、敵国人の資産を接収または管理することをいいますが、米国、英国、オランダ、フランスなどは、開戦前にもかかわらず、この措置を日本に対して取りました。
更に米国の大統領ルーズベルトは8月1日に英国、オランダと協力して石油などの対日輸出禁止の追い打ちを掛けましたが、当時の日本の石油自給率は僅か5パーセントであり、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、日本経済の窒息はもとより、国家としての存亡の危機に見舞われました。
これこそルーズベルトが日本をして先制攻撃をさせる為に仕組んだ筋書きでした。ロンドンにある英国の王立公文書館の資料の中に、チャーチル首相が大西洋上の軍艦でルーズベルト大統領と、昭和16年(1941年)8月10日と11日におこなった大西洋憲章制定に関する秘密会談の内容の一部があります。
それは英国議会の秘密会議におけるルーズベルトとの会談報告ですが、その中でルーズベルトの発言として、如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。
と述べた旨の発言が記録されていました。
さらに次の事実もあります。日本との外交交渉責任者であった国務長官コーデル・ハル(Hull)は、日米外交交渉の決裂を狙って昭和16年(1941年)11月27日に、日本にとっては受諾不可能な条件を故意に要求した10項目からなる、HullNote(ハルの対日覚え書き)を、日本に突きつけましたが、その直後に述べた言葉があります。
私の仕事(対日外交交渉)はこれで終わった。あとは陸軍と海軍に任せよう。
注 / その当時空軍は独立した軍事組織ではなく、陸軍の一部に所属していました。
この米国の態度が引き金となって日本も外交交渉による解決を断念し、その結果石油の枯渇から、座して死を待つよりも、勝算のない戦に挑む、最終決断をしました。そして米国が予想していたフィリピンではなく、ハワイを攻撃しました。
太平洋戦争終了後の昭和21年(1946年)7月に米国上下両院合同調査委員会は、真珠湾攻撃直後から疑惑が持たれていたルーズベルト政権による事前の攻撃情報隠蔽の経緯について、真珠湾攻撃に関する調査報告書を公表しました。
7-5 封印された米英首脳会談の資料
米国では情報公開法の規定により外交関連文書についても、一般には30年経過すれば公開される制度になっています。
しかしワシントンにある国立公文書館の資料のうち、前述した昭和16年(1941年)8月10、11日にカナダ大西洋岸ニューファウンドランド沖のイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウエールズ(開戦直後にマレー沖で日本海軍航空隊により撃沈)艦上でおこなわれた、大西洋憲章制定(8月14日)という表向きの会談とは別に、ルーズベルトとチャーチル両首脳による秘密会談の資料は70年以上経ち今では歴史的資料となっているにもかかわらず、未だに非公開です。
更に開戦に至るまでの米国政府の動きを知る核心部分の資料に関しても、70年以上経過し、すでに過去の歴史的遺物となっているにもかかわらず未だに公開されません。
その理由は資料の公開が合衆国の国益に反するからであって、今後も公開されることは決して無いと思います。この資料こそ日本が太平洋戦争を計画し実行したとする、東京裁判の訴追理由である「平和に対する罪、戦争に対する共同謀議という、えん罪」を晴らすための決定的な証拠なのです。
人種差別主義者であった英国の首相チャーチルと共謀して、アングロサクソンによる世界制覇を目指し、白人による植民地支配体制の現状維持を図り、アジア、太平洋地域での権益拡大を図ったユダヤ系大統領フランクリン・ルーズベルト(1882〜1945年)こそ、太平洋戦争を惹き起こした真犯人であるという歴史の真実を、日本人は決して忘れるべきではありません。
注1 / ルーズベルトという名前には彼以外にも、日露戦争における講和条約の仲介に当たった、26代大統領のセオドア・ルーズベルト(1858〜1919年)がいましたが、別人です。
イギリス陸軍の騎兵中尉としてインド駐留の経験を持つチャーチルについて、主治医のモーガンは1942年に著書で次のように述べています。
注2 / チャーチルは人間の皮膚の色のことしか考えなかった。彼はまさにビクトリア朝(ビクトリア女王在位1837〜1901年)的人間だと私が思うのは、彼がインドや中国のことを話す時だった。「黄色い小人たち」、「細目野郎」、「弁髪(べんぱつ)野郎」というのは、彼が中国人のことを言う時によく口にした言葉であった。
350年もの間ジャワ(現・インドネシア)で植民地支配を続け、有色人種に対する蔑視、差別意識が特に根強いオランダから米国に移民した子孫であるルーズベルトによれば、
注3 / 日本人のような野蛮な人種をなくすために、極東でヨーロッパ人とアジア人種の交配を促進してはどうか、日本人の侵略行動はおそらくその頭蓋骨が白人に比べて未発達であるからだ。
と述べました。(1942年8月6日、駐米イギリス公使、サー・ロナルド・キャンベルとの会談の際の発言から)ルーズベルトの長女の夫であるカーチス・ドールの証言によれば、ルーズベルトは一家の会食の席で家族にこう言いました。
注4 / 私は決して宣戦はしない、私は戦争を作るのだ。そして真珠湾の前日の会食では、明日戦争が起こるとつぶやきました。
7-6 アイゼンハウアーの言葉
米国の国立公文書館は第34代大統領アイゼンハウアー(1890〜1969年)が、昭和30年(1955年)1月17日に当時の上院外交委員長ウオルター・ジョージ民主党上院議員と、執務室で交わした会話の録音の一部を公開しました。
それによれば、第2次大戦を勝利に導いたとされる2代前の大統領フランクリン・ルーズベルトについて、アイゼンハウアー大統領(当時)は、
私は非常に大きい間違いをした、ある大統領の名前を挙げることができる。ルーズベルトは自分の信念や行動しか認めない、極めて自己中心的な人物である。
と彼の謀略政治姿勢や、その人間性を厳しく批評しましたが、アイゼンハウアーが述べた「非常に大きい間違い」とは、言うまでもなく対日戦争を計画し実行したことでした。
7-7 ニューヨーク・タイムズ紙
日本がポツダム宣言を受諾した直後のニューヨーク・タイムス紙は、昭和20年(1945年)8月14日(日本よりも1日、日付が遅くなる)付の紙面で、「太平洋の覇権を我が手に」という大見出しの下に、
我々は初めてペリー(提督)以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸のマーケットは、我々のものになった
という記事を載せました。これによって米国はペリー以来のアジアに対するすべての行動が、当初は日本の征服を図り、次に中国大陸の市場獲得を目指した米国の西進主義にとって、障害となった日本を打倒することにより、アジアにおける覇権獲得を目指していたことが容易に理解できます。
それでも貴方は「アメリカは正義の味方」であり、日本を悪者とする東京裁判史観を信じたいのですか?。
7-8 禁輸に対する対抗措置
太平洋戦争開始直後に日本は陸軍がマレー、スマトラを攻略し、海軍がボルネオ、セレベス、ジャワ(現インドネシア)周辺の制海権を手中に納めたのも英国やオランダが、日本に禁輸した南方資源(石油、ゴム、錫、アルミニウムの原料となるボーキサイトなど)を、国家生存の為に敢えて武力で獲得する為でもありました。
この日本の行為を単純に非難するわけにはいきません、米国も同様な行為を計画しましたから。禁輸(Embargo)とは戦争を惹き起こす非常に危険な行為なのです。
(その一)
昭和48年(1973年)10月6日に、イスラエル軍対エジプト、シリア連合軍が衝突した第4中東戦争が勃発しました。
それは当時イスラエルに武器を供給していた米国対アラブ諸国との対立にまで発展し、OPEC諸国は原油の生産削減とイスラエル支持国への原油割り当て削減を決定しました。同月下旬には原油価格の値上げに端を発して、第1次オイル・ショックが起きました。
その際にアラブ強硬派であったサウジアラビアは、イルラエルを軍事的に支援した米国に対する制裁措置として、自国産原油の対米輸出禁止を計画しました。
それに対して米国のキッシンジャー国務長官(当時)は、「しそういう事態になれば、米国はサウジアラビアの油田地帯に海兵隊を派遣して占領する」と警告したので、サウジアラビアも禁輸を断念せざるを得ませんでした。
(その二)
イタリアのムッソリーニは、昭和10年(1935年)10月3日にエチオピアへの侵略を開始しました。それに対して当時の国際連盟(国際連合の前身)は経済制裁を決議しましたが、ムッソリーニが「禁輸は、イタリアに対する戦争を意味する」と戦争勃発を警告したため、国際連盟(当時)は経済制裁を遂に発動できませんでした。
(その三)
国連創立50周年記念の国連特別総会において、米国から経済封鎖を受けているキューバの支配者フィデロ・カストロは、演説の中で「経済封鎖とは老若男女を死に追いやる残忍な、静かな原爆である。」と述べした。
(その四)
平成15年1月初旬、北朝鮮代表の国連大使は外国記者団との会見の席で、国連安全保障理事会による経済制裁がおこなわれた場合には、北朝鮮に対する宣戦布告とみなす旨の発言をしました。
国家の安全や生存に絶対に必要な物資を確保するためには、いざとなったら国際法などは完全に無視し、敢えて武力行使をおこないそれを入手する。そのためには戦争さえも辞さないのが国際社会の現実であり常識です。
逆に言えば相手に対して戦争を仕掛けるには、相手の必需品について禁輸という手段を取るのが最も効果的だったわけです。日本も昭和16年(1941年)当時、米、英、オランダから石油を初めとする国家生存上の必需品に対する禁輸を受けたため、その考えに従い行動したのでした。
注1 / 英国、ロンドン・ディリー・メール紙の記事
日本が戦争を始めた理由は、フィリピンを初めとする東洋へのアメリカの進出を、いかに日本が恐怖に感じたかを理解しなければ分からないだろう。また1941年(昭和16年)に、アメリカが日本へのいっさいの石油資源の供給を絶った時の日本の感じた深刻さも、無視することはできないであろう。
そう考えてみれば、真珠湾攻撃を一方的に卑劣だと非難することはあたらない。さらに言うならば植民地支配の歴史を持つ西欧の国々(英国、オランダなど)が、他の国(日本)にその植民地支配を謝罪せよという立場にはない。
8 善玉、悪玉論の結論

 

以上述べた歴史上の事実を検証すれば日本が悪玉で米国が正義の味方、善玉であるとする、占領軍から教え込まれた東京裁判史観や、連合国側の民主主義が日本の軍国主義、侵略主義を打ち破ったとする主張が、如何に欺瞞に満ちたものであるかが判明します。
建国以来のアメリカの武力による西方への領土拡大こそが、侵略主義、植民地主義の権化(ごんげ、著しい特性)であることを歴史の事実が証明済みです。
日本と米国との戦争の原因は何であったのか?。そのひとつの答が米国コーネル大学のウオルター・ラフィーバー教授(歴史学)の著書にあります。
太平洋戦争は米国と日本との間で、ほぼ半世紀にわたって生成された問題が爆発したのだった。最も重要な対立点は、日米どちらが中国で重要な役割を果たすかだった。
つまり彼の説にもありますが、資本主義の宿命でもある生産した商品を売り込む為の市場の獲得競争に加え、国内資源の乏しかった日本にとっては、生きる為に海外における資源を確保するという大きな目的もありました。
その一方でアメリカには、アジアにおける経済的勢力拡大という意図があり、軍事的、経済的に急成長を遂げた日本の存在が、西進主義にとって大きな障碍になったことも否定できない事実でした。
つまり客観的に言えばアジアを舞台にした両国による権益(国益)確保のための争い、すなわち経済的帝国主義が、日米戦争の真の原因であったと私は考えます。
[侵略戦争の定義変更と、経済ブロック形成]
見方をかえれば、19世紀末に日本が発展の道を歩み出したとき直面したのは、米、英が支配する世界の経済体制でした。さらに日露戦争、第1次大戦後にさまざまな分野で日本が非常な競争力を見せはじめると、西側はその増大を恐れるようになりました。
それと共に人種的偏見から有色人種国の日本を、白人による植民地支配体制に加盟させない為に、これまで長い間彼等がおこなってきた武力による侵略(例えばホンコン・九龍半島を中国から奪ったイギリスのアヘン戦争(1840〜1842年)、メキシコに戦争を仕掛けメキシコ領のテキサスを強奪した(1846〜1848年)アメリカ、同じくカメハメハ王家の女王を無理矢理退位させてハワイを我が物にした(1898年)など植民地支配についての定義)、つまり
未開国を武力で侵略し、植民地支配をする行為は犯罪ではなく、国際法上も認められる
とする考えを、突然一方的に変更して昭和6年(1931年)の満州事変以後、日本に侵略国のレッテルを貼り非難しました。
それ以前から欧米列国は彼等のアジア植民地支配にとって邪魔になる日本の勢力拡大を阻止するため、共同して日本に対する国際貿易の門戸を閉ざしたことも大きな原因だったと考えます。
例えばアメリカは昭和4年(1929年)の世界恐慌をきっかけに、翌年(1930年)に高率関税を可能にした、ストーム・ホーリー法を制定し、市場確保の為の経済(通商)ブロックを形成しました。
これに対抗するためイギリスはそれまで毎回ロンドンで開催していた帝国経済会議(現イギリス連邦会議)を異例なことにカナダの首都オタワで開催し(オタワ会議)、対外貿易の決済をポンド(英通貨の単位)だけでおこなう経済ブロックを形成しました。
更に英国は、日本製品に対して、ソーシアル・ダンピング(投げ売り)だと非難し、英本国だけでなく植民地に輸入される日本製品にも高額の輸入関税を課し、あるいは輸入品に対する量的制限を一方的に設けて日本製品の流入阻止をはかりました。その後米国やフランスも同様な経済政策をおこないました。
複数の国が共通の目的を達成するために作る政治的経済的連合を経済ブロック(圏)と呼びますが、英国とその植民地を中心とする経済ブロックを、英国通貨の名称であるスターリング(Sterling)からスターリング・ブロックと呼び、フランスとその植民地で作る経済圏をフラン(Franc)・ブロック、米国を中心とした南北米大陸の経済圏をドル・ブロックと称しました。
同一経済ブロックに属する国に対しては互いに貿易上の優遇措置を与えるなどの、輸出入の拡大政策をとり、圏外の国には高い関税障壁を設けて対抗しました。こうした列国の経済ブロックの確立により、日本製品は次第に輸出市場を失いました。
輸出ができなくなっても国内産業に必要な石油、鉄鋼、クズ鉄、羊毛、生ゴムなどの原材料の輸入は依然として必要であり、その為に支払う外貨も当然必要でした。国際経済のブロック化は、前述のように世界大恐慌により、ますます拡大の一途をたどりました。
ここで重要な点はいわゆる日本の侵略行動が原因で、経済ブロックが作られたのではないということです。前述の如く、まず列国が経済的利益を図るために経済ブロックを作ったこと。それによって日本は世界貿易の枠組みから、次第に閉め出されていったこと。
その結果経済ブロックを持たず、列強の経済ブロックにも加盟させてもらえなかった日本は、国の経済的破綻を防ぎ国家生存のため、止むなく軍事力を用いて中国大陸、東南アジアに進出しました。
つまり日本が欧米諸国と同様に、侵略行為をせざるを得なかった経済的原因を作ったのは、他ならぬ欧米諸国であったということです。この事実を日本の歴史家がなぜ指摘しないのか理解に苦しみます。
さらに付け加えると東京裁判で日本を断罪したのは、昭和6年(1931年)の満州事変以後の行動についてでしたが、それ以前の日本をして経済的に疲弊させ、侵略行動をせざるを得ない状況をもたらした、彼等による経済ブロック形成は、巧みに法廷における審理の対象外にしていました。
注 / 昭和10年(1935年)当時の日本の人口は6,600万人でしたが、国内産米の生産高は5,750万石でした。単純に考えても1人最低1石(こく、2.5俵=150キログラム)の米が年間に必要でしたので、850万石の米の不足、つまり850万人分の食料を輸入に頼らざるを得ない状況でした。輸入には外貨が必要でしたが、前述のように世界市場のブロック化により輸出市場から閉め出された日本は、生きる道を求めて欧米諸国の権益を敢えて侵す道を選びました。太平洋戦争の開戦前には、日本のアジア侵略に対抗して、権益保護や植民地支配継続のため、A(アメリカ)、B(ブリテン、英国)、C(チャイナ、中国)、D(ダッチ、オランダ)諸国によるA、B、C、D、包囲陣が形成され、日本の石油輸入は完全に止められ、石油の枯渇から座して死を待つよりも、日本は世界の大国を相手にやむなく戦争する道を選びました。
第2次世界大戦終了後に生まれた侵略主義、植民地支配を悪とする考え方に従えば、それまでアジア、アフリカを侵略し植民地支配をしてきた欧州諸国(イギリス、フランス、ロシア、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、南アフリカ連邦、中華人民共和国、北朝鮮などと同様に、日米両国とも悪玉であったとするのが正しい結論です。 
 
太平洋戦争の原因 5

 

1 米国も認めた、自衛の為の戦争
1−1 戦略爆撃調査団、報告書
アメリカの勝利が決定的となった昭和19年(1944年)11月3日に、ルーズベルト大統領の命令を受けて米国の陸軍長官スチムソンは戦略爆撃調査団を組織して、戦争終了後に日本に対する各種の調査に当たらせることにしました。東京に本部を設置し、名古屋、大阪、広島、長崎にも支部を設け、太平洋の島々、アジア大陸にも移動調査班を置き調査に当たりました。
その目的は、あらゆる角度から戦時中の日本に関する調査をおこなうことで、調査は民事、経済、軍事の三分野からなっていました。民事では更に民間防衛、医療、戦意の3部門に分けられていました。
軍事研究では日本側の将官26名、佐官67名の陸海軍人に対する詳細な尋問がなされ、日本軍の各作戦と戦闘に関する調査をおこない、経済の分野では戦時中の都市経済や戦時生産の状況に関するデータの調査は勿論のこと、米軍の爆撃が与えた被害状況や住民に及ぼした心理面での効果の項目も含まれていました。調査はその年の12月までおこなわれ、108巻の報告書にまとめられました。
調査団長ニッツ(PaulH.Nitze)から昭和21年(1946年)7月にアメリカ大統領に提出された戦略爆撃調査団報告書には、興味深い以下の記述があります。
日本の指導部が国家の存亡にかかわる利益の為にと固く信じて、戦争を始めたことは明らかである。これに対してアメリカは、単に自分達の経済的優位と主義主張を押しつけようとしたのであって、国家の存亡にかかわる安全保障のために戦ったのではないと、アメリカ人は信じていた。
つまり日本は、自衛(国家の存亡にかかわる利益)のために戦争を始めたのだと、アメリカ自身も認めていたのです。
これに対してアメリカは自衛のためではなく、市場獲得を優位にする為と、覇権主義のために戦ったとありました。
1−2 マッカーサーの証言
連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーは、帰国後の昭和26年(1951年)5月3日に米国上院軍事外交合同委員会で証言をおこないましたが、その中で
日本に対し我々が近代産業を支える資源(石油、錫、ゴム、羊毛など)の供給停止をすれば、国内に1千万〜1千2百万の失業者が出る状態になるのを日本は恐れていた。
従って彼等が戦争を始めた動機は、主にSecurity(自国の安全保障=自衛生存)の理由によるものであった。
注 / 原文の表現によれば、Thewarwaslargelydictatedbysecurity.
さらに朝鮮戦争に関連して、日本がこれまでおこなった大陸進出等は、ソ連の南下を抑えるための自衛の戦いであり、日清、日露の戦争もまた同じ理由からだった。
と述べました。
日本が戦った相手の占領軍の最高司令官が、日本は自衛のための戦争をしたのだ。日清、日露戦争もそうだったと言っていましたが、この点をぜひ記憶しておいて下さい。
注1 / 米、英、オランダはアジアに於ける権益の確保、植民地体制の維持を図るため、邪魔な存在である有色人種国の日本を叩きつぶすことを計画しました。日米開戦の4ヶ月前の昭和16年(1941年)7月25日から8月1日にかけて産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産凍結などの経済封鎖をしました。
その結果、日本は石油の枯渇、外貨の支払い不能から、座して窒息死を待つよりも、国家生存の可能性を信じて戦争に打って出ました。
注2 / 朝鮮戦争の原因は、共産主義に後押しされた金日成による韓国侵略でしたが、マッカーサーは北鮮軍や、中国共産党の正規軍と戦いながら、背後にいるソ連の意図を強く意識させられました。
かつてソ連の南下を食い止める為に日本が日清、日露戦争を戦ったように、日本の軍事力解体後は、皮肉なことに今度は米国自身がその地域に侵入を図る共産主義勢力を阻止するために、多数の戦死者を出しながら朝鮮半島で、その後はベトナム、ラオス、カンボジャなどで、共産主義勢力と対決せざるを得ませんでした。
しかも米国が日本と戦争をしてまで強く求めていた中国における権益も、毛沢東による共産主義革命が中国全土を支配した結果、水の泡となりました。
2 人種間の戦争

 

2−1 白人優越神話の打破
日本が太平洋戦争の37年前に日露戦争で、ロシア帝国を打ち破ったことは、世界にとって予想外の驚くべきことでした。近現代史上初めて白人が有色人種に敗れた事件であり、それが清国、インド、ペルシャ、トルコ、エジプトなどの人たちに自信と希望を与えました。
ネールの言葉
インドのジャワハルラル・ネール(後のインド首相)は
小さな日本が大国ロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができて、どうしてそれがインドに出来ないといえようか。だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドで我々が長い間捕らわれていた劣等感を取り除いてくれた。
と述べました。
またネールの妹のパンデイット夫人は、1945年(昭和20年)にアメリカを訪れた際に、太平洋戦争は本質的には人種戦争だと述べました。
日本を貶(おとし)めようとする内外の歴史家や自虐史観に立つ人たちは、これまで太平洋戦争がもたらしたアジアの民族主義への影響をことさら無視し続け、あるいは過小評価してきました。
日本が一時的にせよアジア全土の植民地から、白人の支配勢力を一掃したことが、植民地住民の間に何世紀もの間受け継がれてきた、白人に対する劣等感と白人支配には絶対に勝てないとする神話を打破し、彼等住民に独立に対する自信を与えました。その結果が戦後のアジアにおけるイギリス、オランダ、フランスなどの白人による植民地支配からの独立をもたらしました。
バーモウの言葉
真実のビルマ(現ミャンマー)の独立宣言は1948年1月4日(イギリスからの独立)ではなく、1943年8月1日(太平洋戦争中)に行われたのであった。真のビルマの解放者はアトリー首相のイギリス労働党政府ではなく、東條大将と大日本帝国政府であった。歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。(バーモウ著ビルマの夜明け)
注 / バーモウ(1893〜1977年)博士は英国からのビルマ独立運動に参加し、ビルマがインドから分離した1937年に初代ビルマ首相となりました。太平洋戦争中はビルマ独立行政府長官となり、戦後は野党のマハーバマ党首をつとめ87才で死亡しました。
トインビーの言葉
文明論を得意とする歴史学者アーノル・トインビーは、
日本人が歴史に残した功績の意義は、西洋人以外の人種(有色人種)の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間信じられてきたような、不敗の神でないことを明らかにしたことである。
と指摘しています。(英国の新聞、オブザーバー、1956年10月28日の記事)
ウェルズの言葉
有名なイギリスの歴史学者のH・ウェルズは終戦直後に、太平洋戦争で日本が果たした世界史的役割について
太平洋戦争は大植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらすと共に、世界連邦の基礎を築いた。と述べていますが、人種における平等の理念は、戦後の国際連合(UnitedNations)発足の基礎となりました。
2-2 米国の裏切り
かつて第1次大戦の後始末の為に大正8年(1919年)2月13日にパリ講和会議が開かれましたが、その席上国連の前身である国際連盟(LeagueofNations)設立の規約委員会において日本が提案した人種差別撤廃条項案が、黒人問題を国内に抱えたアメリカ大統領ウイルソンの反対で否決されました。しかも彼は国際連盟の加盟を拒否してさつさと帰国してしまいました。
太平洋戦争がその後の国際社会に大きな影響を与え、民族主義に芽生えたアジア、アフリカなどの植民地から百を超える国が独立する事態をもたらしました。それまでは自分たちを奴隷の如く卑しめ、王侯貴族のように君臨していた白人支配者とその軍隊が、自分たちと同じ肌の色をした小柄な日本兵との戦闘に敗れ捕虜となった哀れな姿を見て、白人優越の呪縛、コンプレックスから見事解放されたのでした。
2-3 皮膚の色
欧米そしてアジアにおいても長い間、皮膚の色によって人間の価値が決められてきました。日本はその忌まわしい価値観を戦争という実力行使により、有色人種である植民地住民の眼の前で白人種の権威を失墜させ、面目を失わせることにより、その変更を余儀なくさせました。
ガンナー・ミューラーは1942年(昭和17年)に以下のように述べています。
この戦争の一方の側には「有色人種国」の日本がある。この国は自分自身の土俵で白人のアングロ・サクソンの打倒に立ち上がった。教育を受けない黒人でさえも世界の出来事における皮膚の色の図式に、おぼろげながら気づき始めた。
ある黒人の応召兵は、俺が戦死したら以下の言葉を墓石に刻んで欲しい、と遺言して戦地に向かいました。
白人のために、黄色人種と戦って死んだ、1人の黒人ここに眠る
米英が昭和16年(1941年)8月に発表した大西洋憲章には
すべての国民が政体を選択する権利を持ち、主権及び自治を強奪されたものに主権及び自治を返還すること。
という項目があり、あたかも植民地解放を題目に掲げているかの如くにみえますが、実は英国の首相チャーチルはその当時植民地であったインドの主権は今後ともイギリスが保有することを明言し、議会でもその旨の説明をしました。
つまり看板に偽りがあったのです。これに対してインドの指導者マハトマ・ガンジーは、昭和17年(1942年)にルーズベルトと会談した際に、
世界を個人の自由にとって安全なものにするために戦っているという連合国側の宣言は、インドやアフリカが、イギリスによって搾取されているかぎり、またアメリカが国内に黒人問題をかかえているかぎり、空虚に聞こえる。
と英国の偽りの姿勢と米国の人種差別政策を非難しました。
2-4 過酷な人種差別の実態
オランダ人の場合
英国人と共に有色人種蔑視の傾向が特に強いオランダ人によって、350年も続いたジャワ(現、インドネシア)の植民地支配は過酷なもので、現地人(インドネシア人)は家畜よりもひどく扱われ、一握りのオランダ人支配者が数千万人の原住民の生殺与奪の権利を握っていました。
本国ではいち早く廃止されていた死刑や流刑は、誰はばかることなく堂々と実施され、1848年までは家畜のように、体に烙印を押すことさえもおこなわれていました。
19世紀のオランダの植民地政策を代表するものは、世界史の上でもよく知られた強制栽培制度がありました。この栽培制度は1830年からジャワに導入されましたが、その骨子はジャワの農民や小作人に対して、耕作地の20パーセント、もしくは労働時間の20パーセントをオランダの東インド政庁が指定した農作物の栽培に割くように強制するものでした。
政庁が指定した作物とは、当時西ヨーロッパで庶民の日常生活の中に普及し始め、人気のあったコーヒーと砂糖が中心で、他に茶、藍、タバコなどがありました。政庁はこれらの作物を非常に安い価格で独占的に集荷し、農民は政庁以外の第三者に売ることは禁じられていました。
オランダの植民省が懸命にその公表を阻止しようとしたオランダ人検察官、レムレフの報告書によれば、スマトラ島のタバコ農場では、
オランダ人は現地人を米国の黒人奴隷と同じか、それ以下に扱い「ムチ打ち、平手打ち」は当たり前だった。また現地人労働者の生命は軽視され、ごく簡単に殴り殺された。スマトラ島の農場では意図的に米を栽培せず、ビルマ・タイからの輸入米に頼っていたので、島民は米が手に入らず、生きてゆくためには労働者としてオランダ人の農場で働くしか方法がなかった。刑務所で過酷な労役を課せられていた囚人が、元のオランダ人の農場よりも食事の質が良いからと、刑期を終えても出所を拒んだ例もあった。
と報告書にありました。近親者の葬儀でも作業を休むことは許されず、病気になると農場内の鉄格子のはまった病棟に入れられましたが、抜き打ち検査で係官が目にしたその光景とは、
鉄格子から鼻をつく悪臭が外に漂い、数平方メートルの空間に、男2人、女8人、それから24時間前に死んだ死体がひとつ臥していた。飲み水も便所もなく、排泄物は土を掻き寄せて排泄物にかけて、壁の隙間から外に押し出すだけだった。飲み水が欲しい場合には外を通りかかる労働者に頼み、1日1回支給される食物を、水と交換しては手に入れていた。
病気を治す為の病棟どころか逆に、病気になった際の休養や、怠業(?)をさせない為のみせしめとしての懲罰小屋というのがその実態でしたが、現地人が虐待により死亡した場合でも、オランダ人農場主の責任が問われることはありませんでした。
太平洋戦争の際にジャワ(インドネシア)占領に参加した近衛連隊の総山(ふさやま)孝雄氏の記述によれば、
オランダ人は高床の家に住み、現地人は土間に寝た。オランダ人は「より取りみどり」で現地の女性を現地妻としたが、オランダ人から夜に呼ばれ相手をさせられる場合に限り、現地妻は床上に寝るのが許された。オランダ人は統治戦略上、混血の子供にはオランダ国籍を与えたので、母親は裏の土間で寝たが、子供は床上に起居して自分の母親を下女のように叱りながら、こき使っていた。
オランダの植民地統治方法
1.原住民を文盲のまま放置し、土豪(どごう、その土地の有力者)を使用して間接統治をした。
2.キリスト教に改宗した者は、優遇して警察官や軍人に登用した。
3.オランダ人とインドネシア人との混血を中間階級として使用し、民族の分断を図った。
4.社会の流通経済は中国人の華僑にやらせ、経済搾取によるインドネシア人の憎悪の対象を華僑に身代わりさせた。
5.一切の集会や団体行動を禁止した。
6.全国各地で使用されていた320もの部族言語をそのまま使用させ、言語の共通化、標準言語の採用を禁止した。
日本政府の採った朝鮮における植民地政策とは大差がありましたが、これを読んだ朝鮮半島の住民や在日に、ぜひ感想を聞きたいものです。
イギリス人の場合
その当時アジア在住の英国人の家庭で働く現地人達は、その家で飼われている犬よりも粗末な食事を与えられるのが普通でした。
インドの列車ではインド人は英国人と同じ車室(Compartment)に同席できませんでした。同じ等級の切符でも、英国人は1人でも6人掛けの車室を独占し、インド人は1つの車室に10人も詰め込まれました。
空いている車室がない場合、英国人は先客のインド紳士をあたかも犬を逐いはらうように追い出して、自らがこれを独占しました。
英国の大学を卒業し弁護士をしていた若き日のマハトマ・ガンジーが人種差別反対運動を始めたのは、南アフリカ共和国(現、南ア連邦)において1等車の切符を持ちながら白人の車掌から、
お前のようなブラック(南アでは、白人以外は全てブラックと呼んでいました)の乗る場所ではない
と列車から追い出されたのが原因でした。
ガンジーはインドに戻ってからは非暴力主義による反英、反植民地運動を始めましたが、精神面での指導はともかく、実際にはインド独立の為には何の役にも立ちませんでした。
しかも彼の犯した最大の誤ちはインドの工業化を拒否したことで、彼自身による「糸車」を手で回す姿に象徴された家内手工業の普及でした。
彼の無抵抗、非協力、不服従などでは、強欲なイギリスの植民地支配を変えることは不可能で、英国をインドから追い出したのは、後述の力による反英暴動と、全土に広がる武装蜂起の威嚇でした。
非暴力主義者の彼は皮肉にも、昭和59年(1984年)に狂信的なヒンズー教徒により銃で暗殺されました。
ベルギー領、コンゴの場合
1884年末からベルリンで欧州の14ヵ国が参加してアフリカの分割支配に関する協議がおこなわれましたが、それにより植民地支配の権利については早い者勝ちという先占権のルールが確認されて、欧州諸国によるアフリカ分割競争が始まりました。
その結果ベルギーを例に挙げれば、本国の領土の実に78倍もの、広大なコンゴ(旧ザイールと旧コンゴ)を手に入れることができました。
しかも国王のレオポルド二世はこの土地をベルギー国家の植民地にしたのではなく、自分の懐を肥やすために、国王の私領(コンゴ自由国)にして住民を国王が所有する奴隷の状態にして強制労働を課しました。
当時黒い黄金といわれた天然ゴムの原料となるゴムの樹液を求めて、ジャングルに自生するゴムの木から「天然ゴム」の樹液を採取させるのに住民にノルマを課し、あるいはアフリカ象の象牙の獲得にも住民にノルマを課し、ノルマに満たない者、少しでも反抗する者は容赦なく死刑にするなどの残虐行為を続けました。
その結果住民の大量殺害、国外逃亡により15年間でコンゴの人口は2千万から9百万人へと半分以下に減少したと言われています。
私領コンゴでの残酷な支配、飽くなき収奪により世界一の資産家になった国王のレオポルド二世は、世界中から非難を浴びたため、1908年からコンゴの支配形態を国王の私領から、ベルギー国家の植民地に変えざるを得ませんでした。
インドネシアの独立
オランダ軍は進攻してきた日本軍との僅か10日間の戦闘で降伏したために、350年間続いた植民地支配は一旦は終わりを告げました。
しかし太平洋戦争終了後にオランダは再びやって来て植民地支配を復活させようとしたため、インドネシア人との間で独立戦争が始まりました。
戦車、飛行機などの近代兵器を持つ10万のオランダ軍との4年間の独立戦争の末に、インドネシアはようやく勝利を得ましたが、その間に女性子供など80万人がオランダ兵により殺害されました。
インドネシアのスカルノ大統領は、
我々が独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのに、同じ有色人種の我々に同じことが出来ない訳はないと発憤したからである、と述べました。
注 / 敗戦当時インドネシアに駐留していた日本軍兵士の中には、敗戦後の祖国に捕虜として帰るよりも現地残留を望み、インドネシアの独立軍からも戦力増強のため残留を要望されたため、オランダとの独立戦争に参加した者もかなりいました。
敗戦後の混乱の中でその正確な数は不明ですが、残留日本兵の数は1千名とも2千名ともいわれていて、そのうち約6百名が独立戦争で死亡したといわれています。
2-5 インド独立への協力
日本では殆ど知られていませんが、インド独立のきっかけも太平洋戦争にありました。英国の著名な歴史家でありロンドン大学教授のエリック・ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著「過激な世紀」の中で、
インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。
と述べました。
注1 / インパール
インパールとはインドの東北部、アッサム州マニプール土侯国の首府で、昭和19年に当時第15軍司令官の悪名高い牟田口(むたぐち)中将が部下の師団長らの反対を押し切り、ビルマから険しいアラカン山脈を越えてインパールを攻略する無謀な作戦を進めた結果補給が途絶え、万単位の餓死者、戦死者を出して撤退した作戦として有名です。
注2 / インド国民軍
インド国民軍とはインドの英雄スバス・チャンドラ・ボースによる自由インド仮政府の下で結成されたインド解放軍のことで、日本軍のインパール作戦には、2万人のインド国民軍がチャロ・デリー(首都デリーへ)を合い言葉に参加しました。インド国民軍の進軍歌とは
(一番)
征(ゆ)け征けデリーへ、母の大地へ/いざや征かん、いざ祖国目指して
[上記を繰り返す]
進軍の歌ぞ高鳴る/我らの勇士よ靴上げて/見よ翻る独立の旗
注3 / 反英運動
インド国民軍の善戦にもかかわらずインパール作戦そのものは悲惨な敗戦に終わり、戦後英国は国民軍幹部を英国に対する反逆罪で裁こうとしましたが、インド独立運動の愛国者を何故反逆者にするのかという反英運動が広がり大暴動になりました。
反英運動は英国に忠誠を誓ったインド陸軍、海軍にも飛び火し、全インドで独立運動の武装蜂起も予想されたため、英国は200年に及ぶ植民地支配を断念し、昭和22年(1947年)にインドは独立しました。
注4 / 日本がもたらした影響
平成9年(1997年)8月にインド独立50周年の式典が行われましたが、挨拶に立ったラビ・レイ元下院議長は
「このよき日を祝うに当たって、1905年を忘れることはできない。日本が日露戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられて独立運動に立ち上がったからである」
と述べました。独立運動の闘士として知られ、インド法曹界の重鎮でもあるレイキ博士もインパール作戦にふれ、
「太陽が空を輝かし、月光が天地を潤(うるお)し、満天に星がまたたく限り、インド国民は日本の恩義を忘れない」、と日本への感謝の意を表しています。
戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(INA委員会)も日本に感謝を示すために、同じ年に靖国神社に感謝状を奉納しました。
インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国はインドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何10万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。インド国民軍は日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します。
2-6 ミャンマーの不幸
ビルマ(ミャンマー)は英国の侵略に対して最後まで独立を守ろうとして抵抗したために、インドよりもはるかに過酷な統治を受けました。インド人は軍隊に募集され、インド人連隊もありましたが、ビルマではイギリス植民地軍はインド出身のパンジャブ族と少数部族が中心となり、ビルマ族出身者は僅か2.5パーセントに過ぎませんでした。
ビルマ族はイギリス植民地軍とはほとんど無縁の生活を送り、武器の使い方を教えられず、刃物の所持さえ規制されていました。
英国の植民地となった後のビルマ(ミャンマー)は昭和23年(1948年)にイギリスから独立しましたが、その際に誘いを拒否し英国の女王を統合の象徴に頂くイギリス連邦には加盟しませんでした。
英国がどこよりも過酷な植民地支配をおこない、支配の狡猾な手法として長年にわたり分割統治(Divide&Rule)をして、ビルマ族・シャン族・カレン族などの135の部族を互いに反目させてきたからでした。
例えば仏教国にもかかわらず第2の人口勢力を持つカレン族にはキリスト教を布教し、ヒンズー教徒であるインド人をビルマに移住させては一時的にその地方をインドの州にしました。
支配階級の最上位をイギリス人が占め、その下の中間支配層にインド人や中国人華僑を置き、更にその下の郵便局員や巡査などの下級官吏にはビルマの少数部族の者を採用しました。
人口の69パーセントを占めるビルマ族を社会の最下層の労働者や農民に押し込め抑圧する一方で、少数部族に対して優遇政策を採るなど、部族対立、内紛の原因を意図的に作り、ドラゴンの歯(Dragon'sTeeth)を巧みにビルマの民衆の間に埋め込みました。
注 / ドラゴンの歯
もともとはギリシア神話から出た言葉で、テバイの伝説上の王カドモスが退治した竜(りゅう、邪悪の象徴とされる)の歯を地に蒔いたら戦士が生えてきて、お互いに争いを始めました。最後に残った5人を家来にしたというものです。つまり竜の歯とは、将来民族間に「対立や混乱」をもたらす災いの種子のことをいいます。
ミャンマーのウイン・アウン外務大臣は植民地時代を回想して
我々は互いに敵視するよう、それぞれ別な色のペンキを塗られて、殺し合いにかり立てられた闘鶏(とうけい、しゃも)の如く扱われた。
と述懐していました。
2-7 アウンサン将軍とその娘
その当時英国からの独立運動を指導したアウンサン(AungSang)将軍は、昭和15年(1940年)8月と、戦時中の昭和18年(1943年)3月に東京を訪れています。日本の支援によりビルマは同年8月1日にバーモウを首相として臨時政府を樹立して独立を果たし、アウンサンは陸軍大臣となりました。
しかし日本が太平洋戦争の末期に連合軍に対して形勢不利になると、昭和20年(1945年)3月27日に突如、日本に対して敵対行動を取り日本軍を攻撃しました。
彼は政治の主導権争いから昭和22年(1947年)7月19日に、32才で反対派により暗殺されましたが、暗殺者に銃を提供したのはアウンサンの政治方針(イギリス植民地からのビルマの独立)を嫌ったイギリスだといわれています。彼の未亡人キン・チーはその後「インド駐在、ビルマ大使」を務めました。その娘がインドで大学教育を受けイギリスに行き、イギリス人と結婚し、1991年にノーベル平和賞をもらったアウンサン・スー・チーでした。
アウンサン将軍の例を引くまでもなく歴史を見て感じることは、他国民が一筋縄(ひとすじなわ)ではいかずに、日本人にはみられない、したたかさを持つということです。
相手を利用する場合には主義や思想にこだわらず、誰とでも手を結び何でも利用するが、不要となればすぐに離反するだけでなく、自分の利益になると思えば裏切りは当然のことで、「昨日の友は今日の敵」として攻撃することも当たり前です。
冷徹な打算に基づく国際関係においては、日本人が好む信義など、全く存在せず、中国やインドネシアを初めアジア諸国が、日本からあれほど多額のODA経済援助を受けながら、日本の安保理常任理事国入りに反対票を投じた事実からも裏付けられます。
つまり自国の国益確保だけが目的であり、国家間に信義や恩義などは、爪のアカほども存在しない現実を、日本人は胸に刻み込まなければなりません。
アウンサン・スー・チーについて日本ではマスコミの報道から、民主主義の闘士、正義の味方のように思われていますが、別の見方や事実もあります。英国からミャンマーへの帰国後の初演説を、昭和63年(1988年)8月26日に首都ヤンゴン(ラングーン)にある有名なシュエダゴン・パゴダの西側広場でおこないましたが、壇上に並んだ11名の代表者のうち9名は、ビルマ(ミャンマー)では誰もが知っている著名な共産主義者でした。
共産主義と西欧民主主義は共存できるのでしょうか?。彼女を知る人達によれば、彼女は独立運動の著名な将軍の娘として気位が非常に高く、高慢で自己主張をするのみで他人の言葉を聴かない。
その政治姿勢については自分の言うことは全て正しいとして、軍事政権のすることに何でも反対するがその対案が全くない、あるいは一部の政治家のリモコンにすぎないなどの、厳しい見方をする外国のジャーナリストもいます。
この点について彼女自身も、
さまざまな政治色をもったベテラン政治家が数多くいて、私の実際の行動を助けてくれているのは確かである。
と述べていました。
彼女のことに限らず何事につけても一方の面だけから見たり、一つの情報に基づき判断をする、いわゆる素朴な材料論者の手法を採るのではなく、少なくとも表と裏の両面から見ることが、正しい評価をするために必要です。
その観点からすれば、かつて中国には「泥棒やハエがいない」とか、北朝鮮を「地上の楽園」であるとの、虚偽の宣伝に熱心に荷担した日本の多くのマスコミは失格ですが、その行為を反省することもなく今も偏向した情報、正しくない情報を送り続けています。
2-8 日本が果たした役割の再評価
敗戦後57年が経ちその間太平洋戦争についての日本の功罪のうち、罪(?)についてはこれまで内外の歴史家、評論家により十分過ぎるほど議論されてきましたが、その基本姿勢は、勝てば官軍、力は正義なり(Mightisright)の東京裁判史観に沿ったもの、あるいは自虐史観やマルクス主義のイデオロギーに色濃く染まった観点からのものが大部分でした。そして彼等にとって不利になる功の部分については、意図的に無視され続けてきました。
戦争終了後アジアは勿論のことアフリカなど殆どの植民地が白人の過酷な支配から解放され、次々に100を越える植民地が独立の道を歩みましたが、その契機を作ったのは他ならぬ日本であったという歴史の事実、果たした役割の大きさについて、公平に評価しなければなりません。
英国サッセックス大学のクリストファー・ソーン教授は著書「太平洋戦争とは何だったのか」において、
日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国主義の終焉(しゅうえん)を早めた。帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は(西欧人にとって)苦痛に満ちた劇的なものだったが、結局はヨーロッパに各国にとって利益だと考えられるようになった。
と述べ、日本の太平洋戦争(大東亜戦争)において果たした役割を評価しています。同様にあるヨーロッパの歴史家によれば、
太平洋戦争はヨーロッパ人が、アジアで傲慢(ごうまん)に振る舞うことができた時代の終りという、アジアの歴史における大変化をもたらした、
とありました。
無知無能、怠惰、貧困、不潔などと白人支配者から蔑まれ、卑しめられた植民地における有色人種の間から、戦後に民族主義が台頭し、白人支配を打破してアジア、アフリカで多数の植民地が独立しましたが、これは太平洋戦争なくしては決して起こり得なかったことです。
もし日本が日露戦争に勝利せず、太平洋戦争も戦わなかったとしたならば、アジア、アフリカ地域の民族はいまだに欧米列強の植民地支配で虐げられていたに違いありません。
現に日本が戦に敗れると、従来の植民地支配を継続しようとしてイギリス、フランス、オランダ軍がアジア地域に舞い戻り、インドネシアからマレー半島、インド、ベトナムに至るまで独立戦争の戦火が長期間絶えなかった、という事実からもそれはうかがえます。
イギリスの歴史家によれば、アジア、アフリカ諸国の独立は太平洋戦争により、国によっては百年も早く訪れたと述べました。さらに日本は一般的な意味では戦争に敗れましたが、
アジアの全植民地が欧米諸国による支配から解放され、独立を果たした事実を見るとき、前述のクラウゼビッツの戦争論に従えば、日本は疑うことなくアジア人の「植民地からの解放」という戦争目的を達成した。つまり結果的には戦争に勝ったのだ
という見方すらあります。前述の東京裁判のオランダ代表判事を勤めたレーリンクは、著書でつぎの様に述べています。
日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、その後四半世紀(25年)も経たないうちに、昭和35年(1960年)に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。
参考までに国連で植民地主義が悪と見なされるようになったのは、太平洋戦争開戦当時(1941年)、アジアとアフリカの独立国は日本を含めて僅か5箇国しかなく、あとは欧米の植民地でしたが、有色人種国の日本が白人国家に敢然と戦いを挑んだ姿を見て民族主義が台頭し、旧宗主国と独立戦争を戦うことができたからでした。
その結果旧宗主国も戦後の時代の流れに抗しきれず、ほとんどの植民地が独立し、国連に百を超える議席を得たため、それら新興国の発言力が増大したからでした。
3 パル判事の言葉

 

聖書に恥よ!
聖書にはキリストの言葉として「罪なき者、石もて打て」がありますが、東京裁判(極東国際軍事裁判所)において英国をはじめ欧米諸国は、それまで自らがおこなった侵略戦争や、数百年に及ぶアジア・アフカに対する植民地支配とは無関係の如くに振る舞いました。
そして日本を侵略国家と断罪し、アジア侵略の汚名を一身に着せ、日本をスケープゴート(いけにえ)とすることにより、自らの侵略行為、植民地支配責任を覆い隠そうとしたのです。
英語、フランス語、ポルトガル語、スペイン語など世界の言語地図を見れば、どこの国がどこを侵略し、植民地支配をしたのかが一目で分かります。
これまで武力侵略により植民地支配をしてきた連合国には、日本を侵略の罪で裁く資格など全く無く、その恥知らずな行為に対して日本は、聖書に恥よ、と叫ぶべきなのです。
東京裁判を構成する11ヶ国の代表判事の中で、その当時国際法関係の著書があったのは、カルカッタ大学法学部教授を経てカルカッタ大学総長を勤めたインド代表のラダ・ビノード・パル判事だけでした。
判事は英文25万語(日本語の訳文にすると1219頁)に及ぶ判決理由書を書きましたが、その中で判事団では唯1人、日本人被告全員の無罪を判決しました。
その根拠は東京裁判そのものの違法性と起訴の非合理性を指摘したもので、
第2次大戦以前の国際社会では、一国が他国に対して征服支配し(武力により)侵略することは、犯罪ではなかった。犯罪ではなかったが故に、これまで欧米諸国もアジア、アフリカを(武力により)侵略し、植民地化してきたではないか。戦争が犯罪でないのであれば、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁くのか?。戦争に勝ったが故に正義であり、負けたが故に罪悪であるとするのであれば、もはやそこには、正義も法も真理も存在しない。
と述べました。
適用すべき法律の有無
判事の意見を要約すると、本来戦犯裁判に適用すべき法律が国際法上からは存在せず、戦争に対する共同謀議、平和に対する罪、人道に対する罪を、戦争終了後に裁判所条例により新たに制定した東京裁判それ自体が、以下の法の真理、司法の原則に反する違法なもので、起訴すべきではなかったというものでした。
1.国際法優位の原則
事実上米国大統領により指名された、連合国軍最高司令官に過ぎないマッカーサーが制定した東京裁判所条例よりも、国際法が上位の法規範であるのは自明のこと。
2.罪刑法定主義
文明国における法律の大原則として広く採用されている、法に規定が無ければ罪にはならず、法に規定が無ければ刑罰を受けないとする原則。(ラテン語では、Nullumcrimensinelege,nullapoenasinelege.)
3.法の不遡及(ふそきゅう)の原則
実行時に適法であった行為は、その後に作られた法により遡って罰っせられない、とするもの。
談合裁判
戦争末期の昭和20年(1945年)6月に米、英、仏、ソ連(当時)の4ヶ国はロンドンで会議を開き、今後の戦争裁判の方針を決めました。
きたるべき戦犯裁判では連合国の行為は問題とされてはならず、あくまでも枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)の過去の危険を裁くことにするという、いわゆるロンドン協定を結びました。
この事実を見れば自分たちの犯罪行為を棚上げにした彼らに、正義と文明の名の下に他国を裁く資格など全く無く、あるのは敗者に対する復讐心だけなのは明白でした。パル判事は、
戦犯裁判が常に降伏した者の上に加えられる災厄であるとするならば、連合国は法を引用したのでもなければ、適用したのでもない。単に戦勝国の権力を誇示したにすぎないと述べましたが、けだし名言でした。
判事の意見は法律に照らして裁判をするという国際的に普遍性のある司法制度の根幹から導き出されたものです。東条首相を初めとする戦犯に対する復讐心と日本人に対する蔑視、偏見から、刑罰を加えるという政治目的のために司法の原則をねじ曲げて戦犯裁判をおこなう連合国の行為に、パル判事は法と正義を護る立場から反対したのでした。
さらに判事によれば日本が戦争に踏み切ったのは、自分勝手な侵略のためではなく、むしろ独断的な現状(アジアにおける植民地支配)の維持政策をとる欧米諸国によって、挑発されたためであるとしました。
残虐行為に対する政治指導者の責任
非戦闘員の生命と財産の無差別破壊が違法というのであれば、原子爆弾投下の決定こそ、「第1次大戦(1914〜1918年)におけるドイツ皇帝の指令、第2次大戦におけるナチス指導者(アドルフ・ヒットラー)のユダヤ人抹殺指令に近似した唯一のものだ」と述べていました。
何十万人もの非戦闘員を原爆により虐殺した、米国大統領による「残虐行為」の責任の存在を間接的表現ながら指摘したものでした。
注 / 第1次大戦当時、オーストリア、イタリアと3国同盟を結んでいたドイツの皇帝ウイルヘルム2世(在位1888〜1918年)が、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフに送った悪名高い手紙によれば、すべてを炎と剣の、生け贄(にえ)にしなければならない。男、女、子供、老人を殺戮(さつりく)し、1本の木、1軒の家さえ立ったまま残してはならない。と命じました。
判決の締め括り
パル判事が書いた判決理由書の最後は、次の言葉で締め括られています。
時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。
現在では東京裁判の正当性を主張する国際法学者は、国際的にも、国内的にもごく少数にしかに過ぎません。パル判事が予言した如く、時が正義の仮面を引き剥がし、偏見と復讐の素顔、を白日の下にさらしたからであり、厳正中立であるべき法の真理、が政治目的化した東京裁判により歪められた事実を、前述のオランダ代表判事を勤めたレーリンクを初め、世界の国際法学者、研究者達が認めるようになったからです。
外交官の経歴を持ち英国法曹界の長老でもあったハンキー卿は「戦犯裁判の錯誤」と題する著書(昭和27年10月日本語訳出版)の中で、パル判事の日本人戦犯無罪論に100パーセント賛成する考えを述べました。
パル判事は昭和27年(1952年)に国連から、国際法委員会の委員に任命され、その後には委員長の職を勤めましたが、東京裁判の関係者で国連の国際法委員に任命された者は、パル判事ただ1人でした。
彼を除きその職にふさわしい見識と能力の持ち主が、いなかったのかも知れません。
昭和41年(1966年)10月に来日し、国際法の分野での活躍、功績により、天皇陛下から勲1等瑞宝章を授与されましたが、翌年82才で死去しました。
注1 / ローマ法王の発言/征服者が非征服者を裁判することには不当な点がある。そして中立国の裁判官を加える必要がある。と国際刑法学会で演説しました。(シカゴトリビューン紙が昭和28年に報道。)
注2 / 朝鮮戦争(1950〜53)勃発直後の、昭和25年(1950年)10月15日、ハワイと東京の中間にあるウエーキ島でトルーマン大統領(当時)と会談したマッカーサーは、自己の管轄下でおこなわれた東京裁判に言及して、裁判をしたことは誤りであったと述べました。
注3 / 米国の著名な月刊雑誌、フォーチュンの当時の記事(昭和24年4月号)に依れば、法廷に証人として出廷せず、従って宣誓無しに作成された検事側書類を証拠として受理し、検事と弁護人に異なる(大差ある)審理手続きで弁護側に不利を与えた東京裁判は、判決に批判の余地を残した。インドの判事パルは、勝者が決めた定義による裁判は、文明を抹殺するものであると爆弾宣言をしたが、フォーチュン誌が3年前に表明したのと同じ趣旨のものである。国際条約では侵略の定義は定められておらず、(侵略であろうと無かろうと)一切の戦争を犯罪とはしていない。更に個人を罰する規定は存在せず、国連人権宣言第11条(犯罪のあった当時の刑法以上の重き刑罰を科すべからず)の精神に違反するもので、侵略に対する法的制裁は事後法であり、支配者によって創られた罪状である。要するに本裁判は、法の精神に反するものである。と述べられていました。
注4 / レーリンクの発言/昭和58年(1983年)5月に東京で東京裁判国際シンポジウムが催されましたが、東京裁判においてオランダ代表判事を勤めた国際法学者であるレーリンクも出席しました。その際の講演で彼は、侵略戦争は第2次大戦の開戦の段階では、国際法上の犯罪ではなかった。そして侵略戦争の罪は明らかに敗戦国に対してのみ適用されたが、二つの裁判(ニュールンベルクも含めて)とも、その源に(敗戦国に対する)悪意があったことは真実である。それ(裁判)は政治目的のために誤用され、多かれ少なかれ不公平であった。と述べました。
つまりその当時、戦争は犯罪では無かったにもかかわらず、敗戦国に対する復讐という政治目的から、「平和に対する罪、戦争に対する共同謀議」などの罪を事後法により制定し、被告達を極刑に処しました。
裁判の不公平さについては「多かれ少なかれ」の程度ではなく、審理の進め方、証拠の採用などの手続きにおいて、極めて不公平であったというのが実状です。
東京裁判に判事として直接かかわり有罪判決の片棒を担いでおきながら、35年も経ってから今更なにを弁解するのかと言いたくなります。彼は東京裁判当時、パル判事の爪の垢でも煎じて飲むべきでした。
4 米国流の正義とは

 

国際刑事裁判所の設置に反対
平成14年7月1日から、国際刑事裁判所(InternationalCriminalCourt)の設立条約が発効し、これまでに138ヶ国が署名しそのうち76ヶ国が既に条約を批准しました。この裁判所は虐殺や戦争犯罪など非人道的な行為をした(国ではなく)、個人を裁く初めての国際裁判所で、オランダのハーグに常設されました。注目すべき点はこの裁判所が裁くのは前述の「人道に対する罪」だけで、東京裁判で日本人を戦犯として裁いた「平和に対する罪」を裁くことはありません。なぜだと思いますか?。
戦争の原因について一方の国が正しく、他方の国が正しくないなどと、容易に決められないからです。中国の諺に「春秋に義戦なし」つまり、乱世の春秋時代(BC770〜BC403年)に正義の戦いなど存在せず、というのがありましたが、ヨーロッパにも、「正義は国の数だけ存在する」という諺があるからです。
米国は以前からこの裁判所設置には大反対をしてきました。現在米国は130ヶ国に25万5千人の陸海空軍兵士や海兵隊員を派遣していますが、海外での戦闘で米兵が戦犯として裁かれる恐れがあるという理由からです。そのため米国は過去何度もICC設立準備委員会で米兵を訴追対象から除外する規定の設置を求めてきました。そして未だにこの条約の批准を拒否しています。
ベトナム戦争当時の昭和43年(1968年)3月16日、ウィリアム・カーリー中尉に率いられた第11旅団の米兵達が、多数のベトナム民間人女性、子供を虐殺したことで有名となった、ソンミ村事件が起きましたが、たとへ米兵がこのような戦争犯罪を犯しても、起訴をするなという要求です。なんと身勝手でしかも恥知らずな要求でしょうか!。
ベトナムでの虐殺責任者のその後
虐殺事件
事件の詳細はソンミ村を含む、ソンチン地区における住民の大虐殺で、カーリー中尉と彼の部下が合計347名の老人、女性、子供、赤ん坊を、掃討作戦の際に部落の数箇所に集めたうえで銃により虐殺しました。
裁判において女性や子供、赤ん坊を殺害した理由を問われた兵士の1人は、女性はVC(VietnamCommunist、ベトコン=民族解放戦線兵士)の子供を産む、そして子供は成長すればVCになる、だから殺害した。と述べました。
大虐殺でもこの刑罰
内部告発により虐殺命令を下した指揮官のカーリー中尉1人だけが軍事裁判に掛けられて終身刑を宣告されましたが、合衆国退役軍人協会(U.SVeteransAssociation)の強い政治的圧力により、間もなく判決は20年の刑に覆され、さらに10年に減刑されました。裁判中もその後もニクソン大統領から自宅謹慎の特権を与えられ、身柄拘束や収監もされませんでした。
無罪判決
昭和49年(1974年)10月には地元ジョージア州、コロンバスの地方判事ロバート・エリオットが、正当な理由もなく原判決を破棄したため、カーリー中尉は虐殺事件から6年後には晴れて自由の身となりました。
過去に多数の日本軍兵士を不公平な戦犯裁判で死刑にするなど厳しく処罰しておきながら、自国の兵士が戦争犯罪や非人道的行為をした場合には、インチキな裁判で無罪とし、その後も米兵が国際刑事裁判所で裁かれる事には大反対をするのです。
正義の正体
「他国民には厳しく、自国民にはやさしく」、このダブル・スタンダード(二重基準)こそが米国の唱える正義の正体であり、「東京裁判は復讐劇にすぎない」、と喝破したパル判事の正しさを証明するものです。